天の道を往き総てを司る比企谷八幡 (通雨)
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プロローグ

 濃紺の作務衣を着た少年が、早朝の街を歩いていた。

 少年の右手にはステンレス製のボウルが抱えられている。

 ボウルの中では水と豆腐がゆらゆら揺れて、朝日を反射させていた。

 その少年が履いている下駄は、アスファルトの歩道を踏み鳴らし、からころと小気味のいい乾いた木の音を響かせる。

 

 隠れた名店と噂される老舗の豆腐屋にて、最高の絹ごし豆腐を手に入れたこの少年、比企谷八幡は上機嫌で帰路についていた。

 家に帰って、最愛の妹である比企谷小町に、美味しい味噌汁を振る舞うという使命を帯びた八幡の脳裏には、小町の笑顔が浮かんでいる。

 

「むしろ、小町の笑顔しか浮かんでいないまである」

 

 妙な独り言を呟きながら、見通しの悪い交差点を右に曲がった八幡の目に、リードが外れているミニチュアダックス犬が映った。

 対向車線側の歩道を疾走するその犬の後方では、犬の飼い主であろう少女が、外れたリードを握りしめて必死に追いかけている。

 しかし、お世辞にも速いとは言えないそのスピードでは、捕まえられそうに無い。

 

 楽しそうに、自由に走るその犬は、何を思ったのか急に進行方向を変えて車道へと飛び出し、八幡が歩いている側の車道に突っ込んできた。

 運の悪い事に、そこへ一台のリムジンカーが走って来る。

 

 リムジンの運転手はどうやら犬の存在に気づいていない。

 放っておけば、間違いなく犬の命は失われるだろう。

 それを見た後の八幡の行動は早かった。

 リムジンに向かって走りながら、右手のボウルを瞬時に空高く放り投げる。

 走る八幡の下駄がかき鳴らす音は、静かな早朝には場違いな騒音として運転手の耳に届いた。

 そして、その音の発生源である八幡が歩道を飛び出したのを目にした所で、やっと運転手はブレーキを踏んだ。

 

 運転手の男は、背中に冷や汗が流れるのを感じながら、唇を噛み締めた。

 

 犬の飼い主の少女、由比ヶ浜結衣は最悪の場面を想像して、両手で顔を塞いだ。

 

 リムジンの後部座席に乗っていた少女、雪ノ下雪乃は横の窓から外の景色を見ていた所為で、何が起こったのかよくわからなかった。

 雪乃が聴いた衝突音は二回だった。リムジンの前方で一回と、リムジンの上方、雪乃の真上で一回。

 

 彼女はその聡明な頭で直ぐに理解した。どういう当たり方をしたのかまではわからないが、間違いなく交通事故を起こしたのだ。

 

 とにかく被害者の状態を確認しなければと、シートベルトを急いで外して車を降りる。そして恐る恐る車のルーフ部分を見た。

 おそらく、そこには被害者がいるはずだ。彼女はそう思い込んでいた。

 自分の真上で鳴った派手な衝突音は、間違いなく被害者がルーフに乗り上げた時のものだ。

 

 だから今ーー私の目に写る光景は何かの間違いだーーと、雪乃は思った。

 リムジンのルーフの上には、左手に犬を抱えて右手を空に掲げた少年、比企谷八幡が突っ立っている。

 その相貌はまるで、太陽の如く輝いて見えた。

 

「そこは水がかかる。もう少し退がれ」不意に、八幡が雪乃へ声をかける。

 

 しかし、不幸なことに雪乃にはその言葉の意味がわからなかった。

 次の瞬間、八幡が掲げていた右手に、空からステンレス製のボウルが落ちてくる。

 犬を抱える時には両手があいていた方が良いと判断した八幡は、丁度リムジンの真上に落ちてくる様に調節して、ボウルを放り投げていたのだ。

 うまく肩と肘の関節を曲げ動かして、衝撃を柔らげながら片手で受け止めたものの、ボウルに張ってあった水が少し溢れた。

 

 溢れた水は、直ぐ近くにいた雪乃の頭にかかってしまう。

 突然の事態に混乱する彼女は、どう対応していいのかわからず、水で濡れた頭のまま呆然とする。

 彼女の端正な顔立ちと整った肢体、それに烏の濡れ羽色の様な長髪は、普段は見る者を惹き付けるのだろう。

 しかし現在は、その文字通り水の滴る長い髪が、彼女のお嬢様然とした雰囲気とミスマッチを起こして、コミカルな印象を受ける。

 

「退がれと言ったんだが……な」そう言って苦笑する八幡を、睨みつける雪乃。

 

 そんな雪乃の傍に早足で駆け寄ってきた運転手の男は、車の上にいる八幡に「あのう」と声をかけるが、八幡は我関せずといった態度でボウルの中を覗き込んでいる。

 そして、犬の飼い主である結衣もまたリムジンの近くまで寄ってきた。

 肩のあたりまで伸びている髪は彼方此方に跳ね回り、右サイドの上方に纏められたシニョンは解けそうになっている。

 かなり走ったせいか、それとも凄惨な事態を想像して焦ったせいか、息を切らして肩を上下させていた。

「あ、あの、大丈夫……ですか?」結衣は弾む息を抑えながら八幡に問いかける。

 

 すると八幡は、周りに集まってきた三人の顔を一人ずつ見回したあと、空を見上げてこう答えた。

 

「おばあちゃんが言っていた……二兎を追う者は二兎ともとれってな。犬を救い、豆腐も守る。両方できてこその俺だ」

 

 いきなりおばあちゃんのありがたい教えらしきものを語り出した八幡に、雪乃は尚も混乱してしまう。

 答えになっていない八幡の言葉に、頭でも打ったんだろうかと心配になった運転手の男は、「お怪我はしていませんか?」と訊いた。

 それに対して八幡は「失礼なことを言うな。あの程度で怪我などするわけがないだろう」と不遜な態度で答える。

 

「犬を抱えた後、咄嗟にボンネットを蹴り上がり、ルーフに着地した。見ての通り無傷だ」

 

 水は少し溢れたがな、と呟きながらリムジンから飛び降りる八幡。

 

「とはいえ、車には少々傷を付けてしまった。修理費は必要か?」

「修理費など必要ないわ。あなたは被害者なのよ? 本当に怪我はないのかしら」雪乃が疑わしげに訊く。

「失礼なことを言うなと言ったはずだ。この俺が被害者だと? 俺が車程度に被害を受けるはずもない」

 

 八幡の言葉に呆気にとられる雪乃。そんな彼女を放置して八幡は結衣に話しかけた。

 

「この犬の名前はなんだ?」

「あ……サブレです。サブレっていいます」と幾分恐縮しながら結衣は言った。

「サブレの手綱はしっかり握っておけよ。それと、リードは肩がけのタイプを選ぶと良い、逃げ出されることは無くなるはずだ」

 

 八幡は左手に抱えていたサブレを結衣の方へ寄越しながら忠告する。

 

「あ、ありがとうございます! サブレを助けてくれて、本当にありがとうございました!」

 

 サブレを受け取り、頭を下げて感謝の言葉を述べる結衣。

 それに対して八幡は左手を軽くあげて応えたあと、その手を作務衣のポケットに突っ込み、中から透明なビニールで包装されたタオルを取り出した。

 

「これで髪を拭いておけ、新品だから綺麗だ」

 

 そう言って八幡から雪乃に投げ渡されたタオルには『大石豆腐店』と印字されていた。間違いなく粗品である。

 

「待ちなさい、ハンカチくらい持っているわ。あなたから施しを受ける謂れはないのよ」

「人の厚意は素直に受けるものだ」

 

 そして、彼はさっさと帰ろうと踵を返す。

 

「あの、待って、何かお礼をさせてくれませんか?」からんころんと下駄を鳴らしながら去る八幡の背中に、結衣が声をかける。

「礼など必要ない」八幡は振り向きもせず、歩みを止めない。

 

 雪乃は、私には『人の厚意は素直に受けるものだ』と言ったくせに、自分勝手な奴、と内心で呆れていた。

 

「じゃあ、せめて名前だけでも」と食いさがる結衣。

 

 その言葉を横で聴いていた雪乃は、おそらくこの男は名乗らずに去るだろう、と思った。

  先程からこの男は傲岸不遜な態度を崩そうとしない。

 こういうプライドが高そうなタイプは、常に自分が他人の目にどう映るかを気にするはず。

 だから、名を名乗るほどのものじゃないとか何とか言いながら、格好つけて去るはずだ、と予想した。

 雪乃はそういう気障な行いがあまり好きではない。そもそも、タオルを寄越してきたことにだって少し苛ついているのだ。

 名前くらい教えてやれば良いのに、と心の中で勝手な文句を付けていると、予想を裏切る声が聴こえた。

 

「比企谷八幡」

 

 足を止め、ゆっくり振り返り、右手のボウルをわざわざ左手に持ち替え、空いた右手で太陽を指差しながら、八幡は厳かな雰囲気で呟いた。

 

「俺は天の道を往き、総てを司る男……比企谷八幡だ」

 

 何だこの男は、と困惑の視線を向ける雪乃と、ちょっとカッコ良いかも、と憧憬の視線を向ける結衣を置いて、今度こそ八幡は家路に就いた。

 

 

 

 よくある洋風建築の家屋というよりは、まさしく洋館と称した方が相応しいような一軒家が、比企谷八幡の住居だった。

 その洋館のダイニングルームにはシックな黒塗りの高脚テーブルが鎮座していて、その上には二人分の朝食が並んでいた。

 ふっくらと焚かれた白米に湯気が立ち、食欲をそそる。おかずは鰆の塩焼きと玉子焼き、ほうれん草のおひたし、それと味噌汁だ。

 八幡の妹、小町は玉子焼きを箸で一切れ掴み、品定めするように眺めた後に、その小ぶりな口に放り込む。

 ゆっくり咀嚼して味わうと、いつも通りの、自分好みに少し甘く味付けされたそれに、作り手である兄の愛を感じた。

 味噌汁の椀を持ち上げ、箸で豆腐をひとつ摘んで口にすると、さらりと蕩けるような食感が舌の上に広がる。

 そのまま、椀に口をつけて味噌汁を啜ると、思わず感嘆の溜め息が漏れた。

 

「うーん……お兄ちゃん、今日もグーッ!」

 

 満面の笑みでサムズアップしている小町に、対面に座って自身も朝食を取っている八幡は、微笑みながら答えた。

 

「そうだろう。味噌汁は具によって出汁を変えるのがポイントだ」

「お兄ちゃん、小町の為に毎朝味噌汁を作ってくれ……なんてね、今の、小町的にポイントたかーい!」

「言われなくても、俺は毎朝小町の為に味噌汁を作ってるだろう?」

 

 八幡の少しズレた答えに、小町は唇を突き出しながら眉間にシワを寄せる。

 

「もう、お兄ちゃん! 今のは可愛い妹からのプロポーズだったのにぃ。察しが悪いとモテないよ! 小町的にポイントひくいなぁ」

 

 鰆の身を丁寧にはがしながら笑みを浮かべる八幡は、ちょっと拗ねたように怒る妹も愛らしいな、とやはり少しズレたことを考えていた。

 

「別にモテなくても構わない。可愛い妹がいればそれでいい」

「相変わらず心配になるシスコンぶりだね、お兄ちゃん」小町はちょっとだけ引いていた。

 

 朝の忙しい時間帯にも関わらず必要以上にゆっくりと食事をとるこの兄妹であるが、別に今日は休日というわけではない。

 今日、晴れて高校生となる八幡は総武高校の入学式に出席せねばならないし、小町は中学二年の始業式がある。

 そんな二人が朝食に時間をかけているのは、偉大な祖母の教えを遵守しているからだ。

 祖母は、『食』に対して特別なこだわりがある人だ。食べるという事に敬意を持っていると言っても過言では無い。

 特に一日の始まりである朝食は、たとえ遅刻してでも摂らなければならないのである。

 

 朝食を済ませたあとは、手早く身支度を整え、二人で一緒に玄関をくぐり、二人で一つの自転車にまたがる。前に八幡、後ろに小町の二人乗りだ。

 八幡が去年まで通っていた、そして小町が今も通っている中学校は、自転車通学を禁止しているので、去年までは二人とも徒歩で通学していた。

 しかし、今年から八幡が通う総武高校は、自転車通学が認められているので、今日から仲良く二人乗りで通学出来るのだ。

 お兄ちゃんパワーを常にフルチャージしている八幡にとって、妹の足となるのは当然の事だった。

 

「さあ、お兄ちゃん! 事故らないように安全運転で急行おねがいね」

「知らないのか小町。小町を後ろに乗せたお兄ちゃんは無敵だ。車なんか跳ね返すぞ」

「お兄ちゃんは無事でも、小町は無事じゃ済まないよ、それ」

 

 だから安全運転で、と八幡の肩をとんとん叩きながら言う小町。

 当然、八幡は事故など起こす気は毛頭ない。安定したハンドル捌きと力強いペダリングは、妹を送迎する兄の資格充分といったところだ。

 そんなものに資格がいるのかはわからないが。

 

 10分ほど漕いだところで、小町の通う中学校が見えてくる。小町は校門から少し離れたところで「ここで止めて」と言った。

  八幡はブレーキを握りしめて止まると後ろの小町に振り返る。

 

「恥ずかしがらなくても、このまま教室の中まで二人乗りで送っても良いんだぞ」

「いやいや、どんな見せ物、それ。まあ、ある意味? 曲乗りの見せ物っぽいけども」

 

 送ってくれてありがとう、と手を振りながら笑顔で駆けていく小町。

 小町がその手にカバンを持っていないことを、八幡は気づいていたがあえて黙っていた。

 自転車の前かごに置き忘れたカバンを、焦りながら取りに来る小町の可愛らしい姿を想像すると、とても教えることができなかったのだ。

 

 3分後、駆け足で戻って来た小町は、案の定涙目であった。



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奉仕部編1話

 総武高校に勤める美貌の女教師、平塚静は畏まったフリをしながら、ぼうっとした目で体育館の壇上を見つめていた。

 現在、入学式が執り行われているのだが、通り一遍の代わり映えがないその進行に、静は飽き飽きしていた。

 もちろん一教師として新入生達に対する祝福の気持ちがないわけではない。ないわけではないが、だからと言って毎年毎年行われるこの入学式なるものが面白いかどうかは別の話だった。

 プログラムは滞りなく、それでいて面白味もなく進んでいき、続いて新入生代表挨拶の段となった。

 入学式において、最もつまらないのが新入生代表挨拶である、というのが静の持論だった。

 今日は良い日ですね。入学できて嬉しいです。これからも皆で頑張ります。

 たったこれだけの内容を、小難しい形容を用いて、出来るだけ膨らませて話す。それが新入生代表に課せられた使命である。

 もちろん、静はそれを否定しない。誰だって入学早々波風立たせたくはないだろう。

 無難な内容に終始して、誰の記憶にも残らないのが賢いやりかただ。

 

 ただ、そんな風に記憶に残らないのが当たり前である例年の新入生代表たちのなかで、たった一人だけ例外がいた。

 三年前の新入生代表だったとある女子の姿を、静は今でも覚えている。

 その女子は、いや、女子というのは烏滸がましいその女は、人を惹きつける魅力的な相貌と、暖かな笑顔をもって、体育館中の視線を壇上の自分に集めた。

 そして、慈愛の精神を笑顔で語り、青春の重要性を熱弁し、友情の崇高さを訴えつつも、自身の仄暗い本音はただの一言すら洩らさなかった。

 ひん曲がった性根を隠し、万雷の拍手を受けたその女、雪ノ下陽乃の代表挨拶は、平和を訴える弁論大会でも最優秀賞が取れそうな、とても興味深いものだった。

 その後、実際に知り合ってみると、一筋縄ではいかない厄介な性格に辟易とすることもあったが、教師と生徒という立場を越えて友人の様な関係になってしまったのは静にとって一生の不覚だったのかもしれない。

 実は、その雪ノ下陽乃から、自身の『自慢の妹』が入学してくると聞いていた静は、その陽乃の妹にちょっとした期待をしていたのだが……残念ながらその当ては外れたようだった。

 今年の新入生代表はJ組の雪ノ下雪乃ではなく、静が担任を務めるクラスであるA組の生徒だ。

 代表は入学試験の成績によって選出されるので、例年は大抵、偏差値の高いJ組から選ばれるのだが、今年の成績トップは普通科のA組生徒だったのである。

 とりあえず、静は式が始まる前にその生徒に「緊張しなくて良いぞ」と声をかけておいたが、その生徒は不敵に口角を上げるだけだった。

 

 進行役である教頭の呼び出しに応じて、新入生代表、比企谷八幡が壇上に現れた。

J組の列にいた雪乃が目を見開いて驚愕する。早朝に出会ったあの男。高校生だろうとは思っていたが、まさか同級生、しかも同じ総武生とは思わなかった。

 壇上の八幡は右手を掲げて天井を指差した。その時点で雪乃には嫌な予感が過る。

 

「俺の名は、比企谷八幡。天の道を往き、総てを司る男だ……お前達は運が良い、この俺と同じ高校に通える幸運を誇れ」

 

 進学校である総武高らしい統制のとれた生徒たちの間に、初めて騒めきが起きた。

 怪訝な顔をするもの、興味深そうに耳を傾けるもの、隣の生徒に何事かと囁くもの。反応は様々だが生徒達全員が八幡に注目する。

 

「おばあちゃんが言っていた……人が歩むのは人の道、その道を拓くのは天の道ってな……そう、天の道を往く俺が、お前達の歩む道を拓いてやろう」

 

 大仰な物言い、それでいて意味がわからない言葉。

 生徒達の騒めきはさらに大きくなる。

 雪乃は早朝に引き続きまたもや、何だこの男は、と困惑の視線を八幡に向けた。

 この男が新入生代表ということは、自分は入学試験の成績で彼に負けてしまったのか、そう思うと頭痛がしてくる雪乃だった。

 

「何か悩みがあれば俺に相談すると良い、太陽は総てを照らす光だ。助けを求める者に対して、俺という太陽は輝く」

 

 そこまで言い終えると、八幡は壇上を降りていく。

 そしてA組の列に戻ろうとしたところで、担任の平塚静に腕を掴まれ、体育館の外へと連行されていった。

 静は内心で『面白いものは期待したが、ここまで変なのは期待してない!』と毒付いた。

 連行されている最中も、八幡の斜に構えたような自信満々の微笑みは全く曇っていない。

 進行役の教頭はハンカチで汗を拭きながら「なかなか、個性的な挨拶でしたね」と強引に取り繕い、さっさと次のプログラムへ進んだ。

 

 

 

 

 入学式を終えて、生徒達は各々の教室へと戻された。

 結衣が自分のクラスであるA組の教室に着いたとき、八幡は既に彼の席に座っていた。

 他の生徒たちは遠巻きに八幡を観ている。

 

「お前ちょっと話しかけてみろよ」「いやお前が」などと譲り合いをしているクラスメイトたち。

 

 そんな雰囲気の中で話しかけるのは、空気を読む能力に長けた結衣には難しいことだった。

 結局、結衣は八幡に話しかけることが出来ず、その後担任の平塚静があらわれ、クラスメイト全員の簡単な自己紹介や、委員決めなどがあった後にその日は解散となった。

 今なら話しかけられるかも、と結衣は意気込んだが、八幡は静に呼び出されて連れて行かれてしまう。

 おそらく、新入生代表挨拶に関する御説教がまだ残っているのだろう。

 職員室の前で待とうかとも思ったが、中学からの親友である三浦優美子と、今日早速仲良くなった海老名姫菜に、一緒に帰ろうと誘われて断ることもできずにその日は帰ることとなった。

 結衣は一度『礼など必要ない』と断られているものの、やはりサブレを助けてくれたお礼がしたいと考えていた。

 

 

 

 

 

 静粛な教室の中で、シャーペンが解答用紙を走る音だけがやけに大きく響いていた。

 入学式の翌日、総武高校の一年生たちは早速実力テストを受けている。

 入学後実力調査テストと銘打たれたそれは、名目上は生徒たちの実力を把握し、指導要領に役立てる為に行うものとされているが、実際には『高校受験に合格したからってサボってたヤツはすぐバレるんだぞ』という学校側から贈られた、生徒たちの怠慢への牽制である。

 一年A組担任、平塚静は教卓の椅子に座って頬杖をつき、教室全体を眺めていた。

 一応、カンニングする生徒は居ないかと目を光らせてはいるが、このテストで不正行為を働く様な者はまずいないという事を静はよくわかっていた。

 テストは主要五科目分行われるが、実はその点数は成績評価に反映されない。真実、『実力調査』なのである。

 そのことは、事前に説明してあるので生徒たちも把握している。

 進学校だけあって、白紙で提出する様な不届き者はいないが、多少真剣味が足りない者はちらほらいる様だ。

 多分この問題よく考えれば解るんだけどめんどくさいし空欄で良いや。ケアレスミスあるかもだけど見直しは怠いからやめとこ。

 などなど、怠けられるなら怠けたいと思うのは人間のサガである。

 もちろん、そういう一部の者を除いて、大半の生徒たちは全力で解答を埋めていた。

 静は腕時計にチラリと目をやる。残り時間はあと5分ほどだった。

 ほとんどの生徒は既に解答用紙を裏返して、チャイムが鳴るのを待っていた。そんな中で、八幡は今だに忙しなくシャーペンを動かしている。

 静は『おかしい、あいつの入試の成績から考えれば、既に解答を終えているはず』と思ったが、流石にテスト中に指摘はしなかった。

 指摘しない代わりに、教卓からゆっくり立ち上がり、八幡の席へ歩いていく。

 周りの生徒たちは少し訝しそうに静へ目を向けたが、カンニングを疑われては堪らないので直ぐに視線を戻す。

 そして、静が八幡の解答用紙が見える位置まで来た時、彼女は驚きとともに、三年前のとある出来事を思い出した。

 

 

 

 

 

 三年前の春、静は職員室に雪ノ下陽乃を呼び出していた。

 陽乃は何故自分が呼びだされたのかわからないといった様子で、折角の昼休みが短くなってしまう、と多少不満気だ。

 静は傍に立っている陽乃に対して隣りの席の椅子を勧める。

 その席は静より少し年上の、数学科女教師の席だが、彼女は昼休みには職員室にいないことが多かった。

 

「ここ、誰の席ですか?」言いながら椅子を引き寄せ、正面を静の方に向けて陽乃は座った。

「数学の矢畑先生だよ」静も、答えながら体ごと陽乃の方を向く。

「平塚せんせー、わたしまだ呼び出される様なことはして無いですよー」

 

 顎に人差し指を当てコテンと首をかしげる陽乃に、静は呆れた目を向ける。

 

「……『まだ』して無いという言い回しは気になるが、今日呼んだのはコレについて訊くためだよ」

 

 静は机の上に置いてあった国語の実力調査テストの解答用紙を指差して示した。

 

「これ、わたしの解答用紙ですね。やーだ満点じゃん。さっすがわたし!」

「表は問題無いんだがね、問題は裏だ」

 

 静が用紙を裏返すと、そこにはびっしりと、用紙一枚分全て使って何がしかの文章が書かれていた。

 

「題は、ーー太宰治『走れメロス』の世界、檀一雄との逸話に見える欺瞞と作為ーー……なんだこれは?」

「よく書けてるでしょ? せんせ!」

 

 快活な様子で答える陽乃を見て、静は微妙な違和感を覚える。話が通じていないような、通じているけれど無視されているような、微妙な感覚。

 

「君は、太宰が好きなのか?」

「うーん、太宰自体はそんなに好きでも無いですね。でも『走れメロス』には好きな一節があるんですよ」

 

 陽乃はころころと鈴が鳴る様な笑顔で静を見つめながら答える。

 

「ふむ……まあ、それは良いとして、なんでこんな物を書いた?」

 

 静はコツコツ、と人差し指の爪で解答用紙を叩いた。

 陽乃は、うーん、と少し呻る様に悩んだ後、まあ良いか、と呟いた。どうやら、まともに答えてくれるらしい。

 

「……ある種の明示行為、かな」

「明示行為?」

「ええ、ほら、それ」陽乃は解答用紙の右上を指差す。そこには、『+10点』と書き込まれていた。

「加点が欲しかったんだよねぇ。この程度のテストじゃあ、全科目満点とる子がわたし以外にも居そうだからね。高校に入って初めてのテストなんだから、加点で単独首位をとって『わたしが一番なんだぜ』っていうのをはっきりと示しとかないと」

 

 笑顔を消し、感情を見せない様な声音で陽乃はそう述べた。

 

「負けず嫌いなんだな、君は」

「負けず嫌いとは少し違うかな。常に勝ってしまうのがわたしなの」

 

 陽乃の透明な表情の裏にある、歪みのようなものを静は幻視した。品行方正な優等生タイプかと思っていたが、どうやら一癖ある難物らしい。

 

「……『走れメロス』の好きな一節、というのは?」

「それは勿論、冒頭だよ。義憤に駆られて正義に燃えるってカッコ良いじゃない。熱いよねえ」

 

 陽乃のその言葉が本心ではない事を、静は何となく察した。

 

「ああ、うん、私も熱い展開ってヤツは好きだよ。わかった、呼び出して悪かったな。もう戻って良いよ」

「はいはーい、じゃあね、静ちゃん」

「静ちゃん!? そこは『失礼します、平塚先生』だろう!?」

「はーい、失礼します、静ちゃん」そう言って、陽乃は職員室から去って行った。去り際に「静ちゃんのこと、ちょっと気に入っちゃった」と小さな声で呟いていたのを、静ちゃんは聞き逃さなかった。

「全く……なんて奴だ」

 

 途中から敬語も使ってなかったし、若手の女教師だから舐められてるのだろうか、と静は少し不満気に嘆息する。

 そして彼女は、椅子の背もたれに体を預けながら、陽乃の解答用紙に目を走らせた。

 そこに書かれた文章は、『走れメロス』の結末は大勢順応的な作為であり、途中、メロスが友人を見捨てかけた時に吐いた言葉こそが、太宰治の本性本音であると論じていた。

 曰く、ーー正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。ーー

 

「私は未だに愛を理解できているとは言えない身だが、正義も信実も、くだらなくなんか無いと思うよ……雪ノ下」

 

 静は脚を組み、ポケットに手を入れて、小声でそう独り言ちた。

 



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奉仕部編2話

 八幡たちが実力テストを受けてから十日後の昼休み、雪乃は職員室のドアをノックした。失礼します、と一声掛けて入室すると、ドアのすぐ近くの席に座っている静と目が合った。

 

「どうした、雪ノ下。何か用かね」

「いえ、J組の担任の先生に質問がありまして」

「ああ、彼女は出掛けているようだよ。私で良ければ相談に乗るが」

 

 別に相談というわけでは無いのですが、と言いながら、雪乃は静にプリントを手渡した。

 

「これは……先日のテストの総合成績表だな」静は雪乃の成績表を繁々と眺める。

「五教科全科目満点じゃないか、流石……だな」

 

 雪乃は、静が思わず『流石は陽乃の妹だな』と言おうとして、無理やり言葉を飲み込んだことに気付いていたが、とりあえず指摘はしなかった。

 

「点数ではなく、順位の方を見てください」

「順位? ああ、うん、成る程」

 

 成績表の右下に書いてあるクラス内順位は一位となっていたが、学年順位は何故か二位になっていた。

「どういうことでしょうか、ミスプリントか、それとも満点がもう一人いて、同点二位ということですか? それなら普通は同点一位なのでは?」

 

 雪乃は少々不機嫌な様子で静を問い質した。常にトップを目指し努力している彼女は、学年順位とはいえ二位と記されるのは不服らしい。中々にプライドが高い。

 

「あー、先に言っておくが、このテストは実力調査であって、通知表に反映される様な成績とは直接的には関係しない」

「ええ、それで?」訝しげに眼を細める雪乃に、静は思わず顔をそらしてしまう。

「成績に直接関係がないということで、採点が甘くなったというか、面白くて加点してしまったというか……な」

「面白くて加点……ですか?」

「ああ、解答用紙の裏に、テストで問われていない内容の文章を書いた生徒に、ちょっとした加点をしてしまったんだ」

 

 その生徒の点数は500点満点で555点だった、と静は苦笑しながら言った。

 雪乃は溜め息を吐きながら納得する。

 

「そうですか、その加点が無ければ私が単独一位だったというわけですね。ならば構いません」

  

 雪乃はそう言うと、静の手から成績表を取り、職員室をあとにしようとして振り返った。

 

「いや、その生徒は加点無しでも満点だったよ。だから、単独ではなく、同点一位だな」

 

 静の言葉に、雪乃は眉間に僅かに皺を寄せる。

 そして、もう一度静の方を向くと「その生徒、もしや比企谷君ですか?」と訊いた。

「なんだ、知り合いかね。そうだよ、うちのクラスの比企谷だ」

「別に知り合いではありません。彼は入試の成績がトップだったようですから、覚えていただけです」雪乃の機嫌はますます悪くなる。

「その、加点されたテストとはどの教科ですか?」

「全ての教科だよ、五教科全て」

「では、平塚先生の国語では、どの様な内容の文章を書いて加点されたのでしょうか?」

 

 静は、ふむ、と呟くと顎に手を当て考えた。これは生徒の個人情報の様な気がする。しかし、よくよく考えればテストの点数だって個人情報だ。

 ここまで漏らしてしまったんだから、加点の内容も教えて構わないか、と結論する。

 

「江戸川乱歩と横溝正史の関係性についての考察を、二人の著書の内容を交えて書いていたよ」

 

 探偵小説の世界に於いて、日本を代表する様な二人であるが、彼らはほぼ同時期に活動していて、プライベートでも交流があった。

 

「比企谷が書いた文章は、純粋に読み物としてなかなか面白かったよ。10点プラスしてしまった」

「江戸川乱歩と、横溝正史ですか?」

「そう、横溝が乱歩に懐いた、感謝と憧憬と、ほんの少しの嫉妬心について書いてあったな」

 

 静が言った『嫉妬心』という言葉に引っかかるものがあったのか、雪乃は少しだけ暗い顔をする。

 

「……歴史に名を残すような文豪でも、嫉妬などするのでしょうか?」

「所詮は比企谷の考察だから真実はわからんが……嫉妬は人間の原罪であると、私は思うよ」

 

 急に雰囲気の変わった雪乃に呼応する様に、静は顔をうつむき加減にしながら、真剣な表情で答えた。

 

「まあ、それはそれとしてだ。部活の話については考えてくれたかね?」静は話を変えようと努めて明るい声で言った。

「部活、奉仕部ですか。そうですね、もう少し今の生活に慣れたら、お受けしようと考えています」

「そうか! では特別棟の方に部室を用意しておくから、いつでも声をかけてくれ」

 

 雪乃は「わかりました、では失礼します」と言って職員室を出た。

 

 

 

 

 

 放課後のエントランス前の広場は、家に帰るもの、部活に向かうもの、そして部活勧誘のビラ配りをするもの等でごった返していた。

 部活勧誘はアピールが大事だ。運動部は皆、普段の練習では着ない試合用のユニフォームを着て、威勢よく勧誘に勤しんでいる。

 文化系の部も、科学部は白衣を羽織っているし、華道部、茶道部なんかは着物を着こなしている。

 中山百合子はそんな部活勧誘をするものたちの一人だったが、彼女は普通の制服姿であった。

 勧誘用のビラを片手に行き交う生徒に声をかけていくが、芳しい返事をくれるものはいない。

 ビラを受け取ってもくれない人も多いくらいで、百合子は憂鬱そうに溜め息を吐く。

 そんな彼女の背中に、部活へと急ぐ男子が肩に下げていたスポーツバッグが当たった。

 その男子、影山は人混みにも関わらずかなりの速さで走っていたようで、百合子は堪らずたたらを踏み、その手のビラを取り落とした。

 

「きゃっ!」

「あー、悪りぃ」

 

 影山は適当な様子で謝ったものの、百合子が落としたビラを拾おうともせず足早に去ろうとする。

 しかし、横合いから伸びた手が、影山の襟首を掴んでその動きを止めた。

 

「ぐぇっ」影山はひしゃげたカエルのような声で呻いた。

「待て、拾え」

 

 襟首を掴んだ張本人、比企谷八幡の言葉は簡潔だった。

 襟首を掴まれたことは勿論、その無遠慮な言葉にも怒りを感じた影山は、八幡の手を乱暴に振り払う。

 

「何すんだよ! テメエ!」

「お前がぶつかったせいで、この女子がビラを落とした。なら、お前が拾うのが道理だろう?」

「あの、私、自分で拾うから大丈夫です」

 

 百合子は申し訳なさそうにおずおずと言った。影山はかなり苛立っている様子で、今にも喧嘩が始まりそうな雰囲気だ。

 

「駄目だ。この男に拾わせるからお前は一枚も拾うな」

 

 八幡は百合子に向けてそう言い放つ。百合子は「あの、でも」と遠慮がちに呟いた。

 

「俺は二年生にしてサッカー部のエースなんだぞ! 一分一秒だって練習時間は無駄にできないんだ!」

「そうか、ではさっさと拾え」

 

 激昂する影山に対して、八幡は冷静に返す。聞く耳を持つ気はなさそうだ。

 影山の顔が怒りに歪み始めたところで、少し離れたところから影山に駆け寄る者が現れた。

 

「影山先輩、どうかしたんですか?」

「……葉山か」

 

 影山は苛つきを隠そうともせず、突然現れたサッカー部の後輩、葉山隼人を睨みつけた。

 

「比企谷くんも、何かトラブル?」

 

 隼人は、影山と対峙している八幡に話し掛けたが、八幡は特に何も答えない。

 

「葉山、こいつお前のツレか?」

 

 顎先を八幡に向けてしゃくり上げながら、影山が言う。

 

「いや……ツレというか、クラスメイトですけど」

「同じクラスなら、先輩に対しての礼儀くらい教えとけよな!」

 

 お前は最低限の礼儀すら知らないようだがな、と影山に向けて言おうとした八幡だったが、不穏な空気を察した隼人に口を手で塞がれる。

 

「まあまあ、先輩も比企谷くんも落ち着いて」

 

 後輩の執り成しによって多少苛立ちが治まったのか、影山はひとつ舌打ちすると「葉山、そのビラお前が拾っとけ」と言い残して去っていった。

 

「えーっと、まあとにかく、喧嘩はよくないよ。比企谷くん」

 

 八幡の口から手を離し、取り繕うような笑みを見せる隼人。

 

「喧嘩などするつもりはなかった。ただ、あいつのせいで落ちたビラを拾わせようとしただけだ」

 

 八幡はそう言うと、片膝をついてビラを拾い始めた。

 

「あ、ごめんなさい。私が拾うよ」

「俺も手伝うよ」

 

 百合子と隼人も、八幡に続いて拾い始める。かなり勢いよくぶつかられたせいで、ビラはそれなりに散らばっていたが、三人で拾えばすぐに拾い集めることができた。

 

 八幡は集めたビラの一枚を、何とは無しに眺める。そこにはカラフルなレタリング文字で『お化粧に興味はありませんか?byお化粧研究部』と書かれていた。

 

「お化粧研究部?」八幡が百合子に訊く。

「うん、正確にはまだ部じゃないんだけどね。中学からの友達と二人で設立しようとしたんだけど、部の設立には部員が三人以上必要なんだって。けど、なかなか興味を持ってくれる人が居なくて」

 

 総武高校の校則では、部の存続自体は部員数一人で良いとされていたが、設立には部員数三人以上が必要となっていた。

 

「ビラ、拾ってくれてありがとね、比企谷くん」百合子は八幡に、ぺこりと頭を下げて礼を言った。

「あれ、二人は知り合い?」

 

 隼人が訊くと「知り合いでは無いな、俺が一方的に知られているだけだ」と八幡は冷めた表情で答える。

 

「あはは、比企谷くん、有名人だから」

「ああ、確かに、そうだね」

 

 隼人は一年生の間で八幡が『変人』として噂になっていることを思い出した。

 

「ビラ配りだけでは、部員は集まらないかもしれないな」

 

 突然の八幡の言葉に、百合子は「えっ?」と疑問符のついた声を上げ、その顔を八幡の方に向けた。

 

「いやいや、そんなことは無いよ。サッカー部もビラ配りはしてるけど、ビラを見て入部しようと思ったヤツも多いよ」

 

 隼人が百合子を励ますように言うが、八幡はなにかしら思案している様子でビラを見つめていた。

 

「……幽霊部員で良いなら、名前を貸しても良いが」

 

 八幡は百合子には目を向けず、さらっと何でもないことのように言った。

 対して百合子は、驚いた様に目を二、三度ぱちくりと瞬きさせた後、感謝の笑顔を浮かべて答えた。

 

「うーん……申し出はうれしいけど、やっぱり部員はお化粧に興味がある人が良いな。もうちょっと粘ってみるよ」

「そうか。それなら、頑張ると良い」

 

 それまでずっと無表情だった八幡は、そう言って少しだけ微笑むと、その手に持っていた最後の一枚のビラを百合子に返し、自転車置き場の方へ歩み去った。

 

「比企谷くんって、思ってたより優しい人なのかも」

 

 天の道がどうとか言っていた入学式の言葉はよくわからないが、少なくとも悪い人では無さそうだ、百合子は内心でそう思った。

 

「えっと、葉山くん、で良いのかな? 君も、拾ってくれてありがとね」

「ああ、いや、気にしなくて良いよ」

 

 頭を下げながら礼を言う百合子に、片手を軽く振って答えた隼人は

「じゃあ、俺も部活に行くよ」と言って部室に向けて歩き出した。

 隼人は、先輩に対して波風を立てても道理を正そうとした八幡の姿に、かつての雪ノ下雪乃を見た気がしていた。

 

 

 

 四月も終盤となり、そろそろ高校生活にもなれようかという頃。

 その日のA組とB組の四限目は体育の授業だった。体育は男女で分かれるため、2クラス合同での授業になる。

 男子の種目はサッカー。女子はソフトボールだ。

 

 女子側ではアップやキャッチボール、ノックなどを経て、試合が始まっていた。

 現在は結衣が入った先攻のチームが攻撃中である。

 結衣はベンチで自分の打順を待ちながら、サッカーをしている八幡の方へ目を向けていた。

 

「結ぅ衣ぃ! だーれ見てんの?」隣にいる優美子が話しかけてきた。彼女の金髪ゆるふわ愛されカールが春風にふわふわ揺れる。

「え、いや、誰を見てるとかってことはないんだけどさ。男子はサッカーしてるんだなあって思っただけ」

「ふうん、ま、良いけど。あーしはてっきり誰か好きな男子でも見てんのかと思ったんだけど」イマドキの女子高生三浦優美子、恋バナは大好きである。

「す、好きな男子なんかいないよぉ。まだ高校入ってそんな経ってないのに」

「でも、結衣ってば天の道くんのこと良く見つめてるよねぇ?」

 

 入学早々仲良くなった姫菜が、優美子の反対側から結衣を挟むようにして詰め寄る。ナチュラルミディな黒髪に映える、赤いトップリムの眼鏡が陽光でキラリと光った。

 

「天の道くん?」結衣の顔に疑問が浮かぶ。

「比企谷のことだよ。あいつ天の道がどうとか言ってたじゃん。だからみんな、天の道って呼んでるし」

 

 優美子が説明すると、結衣は、そういえば初めて会った時も言ってたなあ、と思い出した。

 

「もしかして、結衣ってばあーいう子が好み?」姫菜がからかい気味に訊く。

「ち、ちがうよ! 好みとか好きとかじゃなくて、恩人だから……ちょっと気になってるっていうか……」言外に八幡の事を見つめていたのは認めてしまう結衣。

「なになにぃ、恩人ってどういうことだし」

「三人共、盛り上がってるとこ水を差すようだけど、攻守交代ですよ」

 『恩人』という気になるワードを聞いてさらに問い詰める優美子だが、そこにチームメイトの和美が声をかけてきた。

 

「えー、和美ぃ、今いいとこなんだけどー?」優美子が口を尖らせながら文句を言う。

 ちなみに和美はとなりのB組の生徒なので、体育の時間くらいしか関わりがない。

 それにもかかわらず名前呼びしているあたり、優美子のコミュニケーション能力の高さが伺える。

 

「私に文句をいわれても困るんだけどね」

「いやいや、かずみん、ナイスタイミングだよ」結衣に至っては名前呼びどころかアダ名呼びである。

「褒められるのもそれはそれで困るね」和美はそう言って守備位置に走り出した。

「しゃーないなぁ、結衣、あとで詳しく訊くかんね」

「私も訊きたいなあ、結衣?」

「うう……」優美子と姫菜から弄られた結衣は、困り顔でグラブを取り、ベンチから飛び出した。

 

 結衣が内野を抜けて外野の守備位置に向かうと、和美が先に着いていた。

 

「結衣さんは、今日はライトでは?」きょとんとした顔で、和美が問う。

「え? こっちライトじゃないの?」

「こっちはレフトですよ」

「センターから見て右手側なのに、レフト?」

「……バッター側から見るんじゃないかな? バッター側から見るとこちらが左側だ」

「成る程! かずみん頭良いねえ」

 

 結衣は野球もソフトボールもあまり知らないらしい。

 

「こらぁ! レフト! なんで二人もいるの!」

「あ、すみませぇん!」

 

 女性の体育教師に怒られて、結衣はライトに向けて慌てて走り出す。

 そんな結衣の姿を、優美子はピッチャーズサークルから苦笑しながら見ていた。



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奉仕部編3話

 ところ変わって男子側、現在サッカーの試合が行われている。

 ボールを保持した八幡は、相手ディフェンスを躱しながら、左サイドをドリブルで駆け上がる。

 数人のディフェンスを置き去りにしたところで、進路をゴールに向けて斜めに変更し、中へと切り込む。

 すると、笑顔が素敵なイケメン、サッカー部の葉山隼人がゴールを背にして立ちはだかった。

 

「前の授業から思ってたけど、サッカー上手いね、比企谷くん。でも、サッカーは一人じゃ出来ないよ」

 

 隼人はサッカー部だけあって、八幡に対して上手く間合いを取りながら守っている。

 こうも下がり気味で守られては、フェイントをかけても意味はない。

 隼人と一対一で対峙している間に、周りにいた隼人のチームメイトが二人、八幡にプレスを掛けてくる。

 

「さあ、三対一だ。どうする? 比企谷くん」

 

 シュートレンジからはまだ少し遠いが、八幡は右脚を大きく引きながら左脚を力強く踏み出し、強引にシュートを撃とうとする。

 対して隼人たち三人のディフェンスはシュートコースを塞ぐように体を動かし、八幡へと間合いを詰める。

 

「かかったな」ぼそっと呟くと、八幡は右脚の軌道を変えてボールを跨ぐ。そして右足の踵で止めたボールを、左足のインサイドで右斜め前に蹴り出した。蹴り終わった脚は右脚を前、左脚を後ろにして交差している。

 

「シュートフェイントからのラボーナ!?」

 

 驚く隼人を置いて、ボールはスペースを走り込んできたサッカー部の戸部に渡る。

 

「天の道くん、ナイスパース!」

 

 オフサイドギリギリを狙った絶妙なパスに、笛は鳴らなかった。

 戸部はそのままフリーでゴールに向かうと、チャージしてきたキーパーを躱してゴールを決めた。

 

「やっベー! マジっべーわ! 天の道くんサッカーうますぎじゃん!」戸部が大袈裟に騒ぎながら八幡に駆け寄り、無理矢理肩を組む。

 

 八幡はうざったそうにしながら、眉根を寄せた。

 

「天の道くんとはなんだ?」八幡が訊くと、戸部は「アダ名っしょー」とテンション高く答えた。

「まあ、お前の走り込みもなかなか良かったぞ。矢部」八幡は戸部の名前を間違えて覚えているようだ。

 

 しかし、当の戸部はあまり気にしてないらしく豪快に笑っている。

 

「やるね、比企谷くん」相手チームである隼人も話しかけてきた。

「比企谷くんの傾向からして、パスはないと思ったんだけど……ちゃんと味方と足並み揃えることも出来るんだね」

「パスが必要な場面なら、パスくらいだす。むしろパスしかしないまであるぞ」

「うん、仲間と共に勝利を目指す。それこそがサッカーには大切なパーフェクトハーモニー、完全調和の精神だよ」

 

 隼人がそこまで言い切ったところで、八幡の顔が不快そうに歪む。

 

「待て、なんだその気色の悪い言葉は。俺はただ、勝利への道を拓いてやっただけだ。完全調和などという妙な精神は持ってない」

「まあまあ、恥ずかしがらなくても良いじゃないか」

「恥ずかしがってなどいない」と八幡が返答すると体育教師のホイッスルの音が響いた。どうやら、試合終了らしい。

「天の道くーん、今日一緒に昼飯食べようぜ!」戸部が馴れ馴れしく八幡の肩を叩きながら言うと 「あ、良いねぇ。そうしようよ比企谷くん」と隼人も賛同する。

「……まあ、一緒に飯を食うくらい、構わないが」

 

 渋々、といった雰囲気だが八幡が了承したところで、男性の体育教師から集合がかかった。

 

 

 

 

 

 昼休み、教室のなかでは各々好きなグループを作り昼食に舌鼓をうっていた。

 

「つまり、結衣はワンちゃんを救けてもらったお礼がしたいと」

 

 姫菜は弁当箱の中からエビフライを摘まみ上げながら、結衣に言葉を向けた。

 少し真剣な表情で頷く結衣。

 

「車の上に乗っかったの? そんなんできんの?」

 

 優美子はその救出劇の内容にどうも納得できない様である。

 

「うん、ホントに車の上にいたんだよ。肝心の瞬間は目ぇ瞑っちゃってて見てないけど」

 

 結衣の言葉に「ふーん」と相槌をうつと、優美子は首を振って教室の中を見渡す。

 すると、少し離れたところに、三人で固まって昼食をとっている八幡、隼人、戸部の姿が見えた。

 

「葉山くんたちと飯くってんね。仲良いのかな?」優美子はちょっと珍しい組み合わせだな、と思いながら呟く。

 

 それを聞いた姫菜は「なにぃ! その組み合わせはノーチェックだったぁ! 掛け算が! 掛け算が捗るぅ!」と急にテンションを上げて叫んだ。

 

「海老名ぁ、趣味に口出しする気は無いけどさぁ、教室ではやめときなぁ」目を少し細めて注意する優美子。姫菜のBL趣味はあまり理解できないらしい。

「はや×はちなの? それとも、はち×はや?とべ→はや×はちなんてのも良いかも。くふふふふ」

 

 怪しい目を光らせて不気味な笑い声を漏らす姫菜にドン引きする優美子と結衣。とりあえずこの子のことは放っとこう、と優美子は結衣の方に顔を向ける。

 

「んでぇ、お礼っつってもどうするつもりなん?」

「うーん、やっぱり食べ物とか定番かなあ」

「そんじゃ……クッキー缶でも買いに行く?」

「……いや、出来れば手作りかなあ、なんて」若干、縮こまりながら言う結衣。

「手作りかあ……おお、じゃあ明後日の家庭科とか丁度良くね?」

 

 優美子が言うと、結衣は次の家庭科の授業内容を思い出す。次の家庭科は調理実習を予定している。

  その調理テーマは『お弁当』となっていて、これは、高校に入学して給食が無くなった生徒たちに対して、偶には自分で弁当を作る習慣を付けよう、という家庭科教師のありがたい配慮である。

 

「確かあれってコンロの台数の関係で三人一組っしょ? 天の道には、料理出来ない奴二人と組ませんの」

「ふんふん、それで?」興味深げに優美子の話を聞く結衣。

「そしたら絶対まともな弁当なんか出来ないじゃん? そこに現れた結衣がお礼っつって自分の弁当と交換してやんの」

「おお! なんかそれデキる女っぽいし!」

「でしょ〜? いやぁ、でも、結衣が料理できる人で助かったし」

 

 三人組なら自分と結衣と姫菜で組もうと思っていた優美子は、安堵した様子だ。

 

「え? あたしお料理とかしたことないよ」結衣は小首を傾げて言った。

「え? 手作りでお礼ってことは料理できるんじゃないの?」優美子も小首を傾げて返す。

「いや、まあレシピ見ながらやればお料理くらい出来るかなあって思って」

 

 結衣は料理を結構軽く考えていた。

 

「あー、レシピ見りゃ簡単な料理くらいならいけるか。海老名もいるし」

「いや、私も料理はあんまり得意じゃないよ」

 

 BL妄想状態から正気に戻った姫菜が言うと、優美子は頭痛を抑えるようにこめかみを揉んだ。

 彼女たちはこの間まで中学生だったのだ。料理をする機会など、余りなかったのである。

 『偶には自分で弁当を作る習慣をつけよう』という家庭科教師の思惑は、彼女たちの様な生徒の為なのかもしれない。

 

「メニューは失敗しないようなもんを選ぼう。そんで、天の道は失敗するようなメンバーと組ませなきゃね」

「とべ→はや×はちで行こうよ! とべ→はや×はちの初めての共同作業だよ!」

 

 姫菜の妄言は置いておくとしても、確かに戸部と隼人は料理とか出来なさそうな気がする。

 ていうか、男子高校生なんて皆料理下手でしょ、と楽観視した優美子はよく通る大きな声で「葉山くーん」と呼びかけた。

 気付いた隼人が優美子の方に顔を向けると、彼女はちょいちょいと手招きしていた。

 隼人は、何か用かな? と優美子たちの方に歩いていく。

 

「どもどもー、悪いね食事中に」

「いや、もう食べ終わったから構わないよ。なに? 三浦さん」

「同級生なんだから呼び捨てで良いよ。なんなら優美子って呼んでくれても良いし」

「うーん、じゃあ優美子って呼ばせて貰おうかな。俺も隼人で良いよ」

「おっけー隼人」

 

 優美子の隣で話を聞いていた結衣は戦慄を覚えた。いくらクラスメイトとはいえ、初めて言葉を交わした異性をいきなり名前呼びというのは、中々ハードルが高い。

 自分なら恥ずかしくて、可愛いアダ名でもつけてお茶を濁すだろうな、と結衣は思った。

 なお、名前呼びとアダ名呼び、どちらがハードルが高いかは意見がわかれるところである。

 

「あんさ、隼人は天の道と仲いいの?」

 

 優美子に問われた隼人は、少し考えるような素ぶりで八幡の方へ目を向ける。

 

「うーん……仲が良い、とは、まだ言えないかな」

 

 これから仲良くなれれば良いなとは思ってるけど、と展望を語る隼人に、我が意を得たりといった顔をする優美子。

 

「じゃあさ」

「とべ→はや×はちで組むべきだよ! これは運命! いや、天命と言っても過言じゃないよ!」

「ちょっと海老名黙れし」

 

 いきなり話に割り込んできた姫菜に、手刀を入れて黙らせる優美子。隼人は突然迫ってきた姫菜に驚いている。

 

「あー、あの、葉山くん。今度の家庭科の調理実習なんだけど、戸部くんと比企谷くんを誘ってくれないかな」結衣は掌を合わせて、遠慮がちに頼んだ。

「比企谷くんを? ああ、まあ良いかな。戸部とは元々組もうと思ってたし。調理実習みたいな共同作業なら比企谷くんとも仲良くなれるかもな」

 

 隼人の『共同作業』という言葉を聞いた瞬間、姫菜は幸せそうな顔で机に突っ伏した。彼女の机の上にあった弁当は優美子がさっと横に避けてやっている。ナイスフォローだ。

 

「んじゃあ、そういうことで頼むし……ちなみにだけど、隼人って料理得意?」優美子が重要なところを訊く。

「料理? あんまり料理とかしないからなぁ。少なくとも得意とは言えないな」

「おっけーおっけー、じゃあ、天の道が他の人に誘われないうちに誘っといてね」

「ああ、わかったよ」

 

 隼人は、優美子たちには何か妙な思惑があるんだろうな、と推測したが、とりあえず詮索はしないことにした。

 八幡と仲良くしたいと思っているのは事実であるし、調理実習のグループに誘うくらい、何も問題は無いと思ったのだ。

 優美子の策は着々と進行していた。しかし、その策が始まる前から破綻している事は知る由もなかった。



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奉仕部編4話

 調理実習当日、家庭科室に移動したA組の生徒達は、各々持ち寄った食材を、ある者は慣れた手つきで、ある者はぎこちなく調理していた。

 結衣、優美子、姫菜の三人はもちろん後者であるが、とりあえず三人で協力して頑張っているようだ。

 

「冷蔵庫の中の卵と、炊飯器の中のご飯は自由に使って良いんだよね?」結衣が優美子に訊く。

「そうそう、卵はゆで卵にしよう。玉子焼きは巻くのがめんどい」

 

 優美子は鍋に水を張り、その中に卵を三つ入れてコンロの火にかけた。

 

「メニューは野菜炒めと、ポテトサラダ、ウィンナー、それにゆで卵ね」野菜を切りながら、姫菜が確認する。

「うーん、ウィンナーはタコさんにしようか。焼くだけだとなんか手抜きっぽいし」

 

 優美子はウィンナーに切れ目を入れ出すが、その包丁捌きは微妙に危なっかしい。

 

「姫菜ぁ、野菜切んのムズイよ〜」結衣が泣き言を漏らす。彼女の前のまな板には、不揃いに切られた野菜が山となっている。

「……まあ、しっかり火ぃ通せば大丈夫でしょ」そう言う姫菜が切った野菜は一応形は整っている。作業ペースは遅めだが。

 

 その後も三人の調理は、綱渡りのごとく進んでいく。

 ゆで卵は茹でる時間が足らなかったのか、半熟卵になってしまった。仕方ない予定変更、かき混ぜてフライパンで焼いてスクランブルエッグだ。

 野菜炒めは油通しした方が良いらしいよ、と余計な知識を発揮した結衣の手腕によって、野菜が油でベチャベチャになる。油通しした方が良いとは知っていても肝心の油通しの方法は知らなかったらしい。

 ポテトサラダはアクセントで入れたみじん切りの生タマネギが二重の意味で涙を誘う。みじん切りは結衣には難易度が高かったらしく、大きさが疎らだし、どうやら水でさらす時間も短すぎて、上手く辛味抜きが出来なかったようだ。

 タコさんウィンナーはギリギリ成功した。そもそもウィンナーは調理しなくても食べられるのだから失敗しようが無いのだが。

 色々と紆余曲折はあったが、料理らしきものは完成した。作った料理を三等分して弁当箱に詰める。白米だけは家庭科教師が用意してくれたのが唯一の救いだ。

「できた……ね」

 

 結衣は自信なさげに優美子と姫菜の顔を見る。

 

「あー、あとは天の道に渡すだけだし。大丈夫大丈夫」

 

 優美子は励ますように言うが、自分たちが作った弁当の出来はわかっている。まあ、食べられない事は無いはずである。

 自分の分の弁当箱をかかえた結衣は、八幡達のグループに向かって歩き出す。ちゃんとお弁当を交換出来るか心配になった優美子と姫菜は、その後ろをそっと付いて行く。

 そして、八幡達の調理台に着いたところで予想外の物を目にした。

 

「やっべー! マジっべーっしょ! 天の道くんマジっべーわ。天の道くんの料理マジうまそーなんだけど」

 

 騒ぐ戸部の視線の先にある数々の料理は、見た目だけでその洗練された味が想像できるような見事なものだった。

 

「あんさぁ、隼人、ちょっと」

「え? えっと、何かな、優美子」

「これ、全部天の道が作ったわけ?」

「ああ、大体そうだね。俺と戸部も少しは手伝ったけど」

 

 隼人は苦笑しながら言う。八幡を見つめて呆然としている結衣の手に、彼女が作ったらしい弁当があることから大方の事情を悟ったらしい。

 

「ひ、比企谷くん!」とりあえず話しかけてみる結衣。

「……サブレの女か」八幡は少し記憶を探るように目を閉じたあと、そう呟いた。

「サブレの女!? そんな、ハムの人みたいな呼び方やだよ! てかあたしのこと覚えてたの?」

「無論だ」

「そ、そっか、覚えてくれてたんだ……話しかけてくれないから忘れられてるのかと思ってたよ」

「特に話しかける用も無いからな」

「あー、そっか、そうだよね」

 結衣は少し俯く。

「ところで、俺に何の用だ?」

「え?」

「用があるから話しかけてきたんだろう?」

 

 そう、結衣には弁当を交換してあげるという用事があったのだ。

 結衣は、その目を八幡が作った料理に向ける。

 

「お、美味しそうだね。その、お料理」

 

 ーーチキンソテーからは爽やかな果実とハーブの香りがする。ソースは何だろう。レモンバジルソース?

 ああ、知ってるよ、レモンとバジルのアレでしょ。

 卵はゆで卵にしたんだね……ゆで卵じゃないの? ジュレで閉じたウフアラコック? へぇ、そっかぁ、うん。アレね、ジュレで閉じるやつね。

 アスパラのベーコン巻きも美味しそう。え、ゴーダチーズが入ってるの? それは剛田牧場と何か関係があったりは……しないね。オランダの有名なやつね、知ってたし。

 他にもいっぱい作ったんだね。あれは何かな、キャロットエテュベ? キャロットかあ、ニンジンだね。

 あれは? プチトマトのトマトファルシ? へぇ、すごいねぇーー

 

 結衣に対して、自分が作った料理を説明していく八幡。その料理の数々は家庭科の授業時間だけで作られたとはとても思えない。

 実際、ジュレで閉じたウフアラコックなどの仕込みが必要な品は、家庭科教師に許可を取って朝から仕込んでおいたものである。

 八幡は料理に関して全く妥協しない完璧主義者なのだ。

 

「おばあちゃんが言っていた、食事は一期一会、毎回毎回を大事にしろってな……だから俺は、たった一回の食事にも手を抜かない」

 

 八幡が発したその言葉を聞いた優美子は、頭をかかえた。どうやら、自分の考えは甘かった様だ。

 折角、料理下手と思われる隼人と戸部と組ませたのに、まさか八幡自身が料理上手だとは想像だにしなかった。

 八幡の料理を見て、結衣は弁当を交換する気を完全に無くしてしまった。そもそも、八幡の作った弁当と自分の弁当を交換などしても、お礼にならない。むしろ嫌がらせである。

 

「それで? お前の用は俺の料理の詳細を聞くことか?」

 

 違う。違うのだが、当初の予定は既に狂っている。結衣は少し悩んだあと、曖昧な笑顔で言った。

 

「あのー……えっと……比企谷くんのこと、ヒッキーって呼んでも、良いかな?」

 

 結衣はとりあえず、可愛いアダ名をつけてお茶を濁すことにしたようだ。

 

 

 

 

 お弁当交換作戦に失敗したその日の放課後、結衣たち三人は教室の片隅で顔を寄せ合い反省会をしていた。

 

「いやぁ、天の道くんがまさか料理男子だったとはねぇ」姫菜は唇を引きつらせて言った。

「手作り料理でお礼は無理っぽいかも」優美子が姫菜の言葉を引き継ぐ様に言うと、結衣の顔が曇った。

「どうした、君達、何か困り事かな?」

 

 浮かない顔の三人に、担任の平塚静が話しかけてきた。

 

「先生、いや、お料理の事でちょっと……」

 

 言葉を濁す結衣に、静は優しい目を向ける。

 

「ふむ、ならば君達にピッタリの相談所を紹介しよう」

「相談所?」

 

 結衣の疑問の声に静は満面の笑みで答えた。

 

「奉仕部といってね。君達のような悩める仔羊の問題を解決する部活があるんだ」

 

 

 

 

 静に紹介された三人は、特別棟のとある部室を訪れた。

 そのドアをノックすると、中から「どうぞ」という声が聞こえてくる。

 結衣たちが中に入ると、文庫本を手にした女子生徒が一人、長机の端の席に座って佇んでいた。

 文庫本のタイトルは『江川蘭子』、結衣は知らないタイトルである。そもそも彼女は、知っている本自体少ないのだが。

 本を閉じて、入り口に顔を向けた女子生徒の相貌を目にした結衣は、記憶の中に引っかかるものがあったのか、驚いて声を上げる。

 

「ああ! あの時の人!」

「貴方は、由比ヶ浜結衣さんね。そちらの二人とは初対面かしら、初めまして、奉仕部部長、雪ノ下雪乃よ」

 

 驚く結衣とは対称的に、雪乃は落ち着き払って挨拶する。

 

「結衣の知り合いなん? あーし、三浦優美子ね。よろしく」

「私、海老名姫菜〜どうぞよろしくね〜」

「三浦さんと海老名さんね。とりあえず、座ったらどうかしら」

 

 教室に置かれた長机の端、窓側の席に座っている雪乃は、部屋の隅に寄せられた椅子を指差してそう言った。

 結衣たち三人は、それぞれ椅子を一つ取ると長机に着く。雪乃の右隣すぐ近くに結衣、結衣の隣に姫菜。反対側、雪乃の左隣に優美子が座る形になった。

 対面側に座るものだと思っていた雪乃は、この子たち、パーソナルスペースが狭いわ、と少し引いていた。

 

「てか、二人はどういう関係なん? 同中じゃなかったよね?」

「あのね、サブレをヒッキーに救けてもらった時の、車に乗ってた人なんだ」優美子の質問に結衣が答える。

「……今、思い返せば、由比ヶ浜さんには正式に謝罪してなかったわね。御免なさい、謝罪が遅れたことも含めて謝らせてちょうだい」

 

 そう言って頭を下げる雪乃。入学式の朝は色々あって混乱していたとはいえ、結衣への対応はおざなりになってしまっていた。

 

「あ、いや、謝らないで雪ノ下さん。運転してたのは雪ノ下さんじゃないし、そもそもあれはサブレを跳び出させちゃった私が悪いんだもん」

 

 だから頭を上げて、と慌てたように結衣が言う。その言葉を聞いて、雪乃は申し訳なさを滲ませながら頭を上げた。

 

「ふーん、じゃあ雪ノ下さんも、ある意味天の道くんに救けられてたんだねぇ。目の前でワンちゃんが死んじゃうなんてトラウマものだもん」

 

 姫菜がそう言うと、雪乃は微妙に表情を歪ませる。八幡に救けられた、というのは彼女にとっては癪らしい。

 

「天の道くん、というのは比企谷くんのことね。私のクラスでも噂になってるわ、変人天の道くんのことは」

「まあ、変わり者なのは事実だねぇ」

 

 姫菜も同意する。実際、比企谷八幡という男はかなりの変人だと思っていた。悪い人ではないとも思うが。

 

「今は天の道のことは置いといて……この奉仕部って、依頼者の相談に乗って、助けてくれる部活だって聞いたんだけど、そこんとこどーなん?」

 

 優美子が訊くと、雪乃は思案気な顔で頷く。

 

「相談に乗るというのも、手助けするというのも、確かにその通りよ。ただ、悩みが解決するかどうかは、依頼者自身の問題だわ。私はただ、依頼者に方向性を示すだけ」

「方向性?」結衣は首を傾げる。

「飢えるものに魚を与えるだけでは、問題は解決しない。魚の獲り方を教えなければ、真の自立は望めない」

 

 雪乃は結衣の目を見据えて言った。

 

「真なるノブレスオブリージュは、与えることではなく導くこと。我が奉仕部の理念は、依頼者の努力を促す事にある。ただ助けるだけじゃ駄目なのよ」

「うーん、ノブレスなんとかはよくわかんないけど、手伝ってくれるって事でいいの?」

 

 雪乃の言葉の意味を余り理解できてなさそうな結衣が、はにかみながら訊く。

 

「まあ、そうね」

「じゃあ、依頼させてもらうね」

 

 雪ノ下さんもあの場面にいたから知ってると思うけど、と前置きした結衣は、これ迄の事を話した。

 サブレを救けてくれた八幡にお礼がしたい事。お礼といえば手作り料理だと思ってお弁当を食べてもらおうと思った事。八幡の方が料理が上手くて敢え無く失敗した事。

 聞き終えた雪乃は、逆に結衣に対して質問した。

 

「それで、あなたはどうしたいの?」

「えっと……やっぱり手作りは無謀なのかなぁって思って、ヒッキーの方がお料理上手だし……お礼ってどうすれば良いかなって、一緒に考えてくれないかな?」

 

 結衣の弱気な上に他人任せの言葉に、雪乃は目を細める。

 この場合の『一緒に考えて』というのは、要するに『あなたの考えを採用させて』という事に他ならない。

 

「手作り料理でお礼がしたいと思ったのなら、そうすれば良いじゃない。無謀かどうかなんてどうでもいいわ」

 

 きつい語調で言い切る雪乃に、結衣は弱々しく反論する。

 

「あー、でも、やっぱりあたしじゃ無理かなって。調理実習で思ったんだけど、あたし才能ないっぽいし……」

 

 結衣は気のせいか、雪乃の周りの空気が冷えていく様に感じた。雪乃の纏う雰囲気が、明らかに不機嫌そうなものに変わっていく。

 

「自分では無理とか、才能が無いとか。言い訳ばかりね。そういうの、不快だわ」雪乃の眉間に皺が寄る。

 

 優美子は、自分は当事者ではないと思って横で聞いているだけだったが、流石に言い過ぎだ、と会話に割り込む。

 

「あんさぁ、雪ノ下さん。それはちょっと酷くない? 結衣は今日、失敗しちゃって落ち込んでんだから」

「未熟ゆえに失敗したのなら、成長すれば良いだけよ」優美子の横槍を返す刀でバッサリ切り捨てる雪乃。

 

 そして、雪乃は結衣に対してさらに鋭い視線を向ける。

 

「物事に全力で立ち向かい、過去を凌駕するという条件を満たしたとき、人は初めて成長するのよ。無謀とか無理とか才能が無いとかいう言葉で誤魔化してるけど、あなたは自信が無いだけだわ」

 

 怯む結衣を気にせず、雪乃は声高に言い募る。

 

「努力しない軟弱者に、自信なんてあるわけ無いものね。自らを菲才だと蔑んで言い訳を作って怠ける前に、まずは全力で努力して、自分で決めつけた限界を超えなさい」

 

 言いたいだけ言いきった雪乃に、優美子と姫菜は怒りを感じたのか、険しい目つきで彼女を見る。

 言っている事は正論かもしないが、相手を追い詰めるような言い方には、優しさや配慮というものを感じない。

「ひ……」

 結衣が思わず洩らした言葉の続きを、姫菜は『酷い』だと想像した。

 

「ヒッキーに、似てるかも」

「へ?」姫菜は予想外の結衣の言葉に、間の抜けた声を出す。

「何を……言うのかしら? 由比ヶ浜さん。ヒッキーって、比企谷くんの事よね?」

「なんか、自信に溢れてるっていうか、建前じゃ無い本音っていうか……とにかく、ヒッキーに似てる感じがした。あたし、空気を読んで言葉を濁しちゃったりするとこあるから、雪ノ下さんみたいな人、憧れる。カッコイイと思う」

 

 本気で尊敬の眼差しを向ける結衣に、動揺する雪乃。急に慌てふためき出した彼女の姿が面白かったのか、優美子と姫菜が噴き出した。

 

「ぷっ、ふふっ、確かに天の道っぽかったし」

「ふっ、ふふふ……おばあちゃんが言っていた、全力で立ち向かったとき、人は初めて成長するってな……なんちゃって」

「に、似てる、海老名めっちゃ似てるし、あははははは」

 

 ついに声をあげて笑い出した優美子に、ぷるぷる震えながら雪乃は

「笑わないで!」と声を荒らげた。

 

「あー、ごめんごめん、ふふっ、いやホント似てたからさー」優美子は笑みを洩らしながら謝る。

「ごめんね、雪ノ下さん。いやー、あの流れで、あれは反則だわ結衣。いきなり『ヒッキーに似てる』だもん。くふっ」

 

 姫菜は顔を俯かせながら言った。表情が見えないように隠しているが、笑っているのはバレバレである。

 

「私のどこがあの変人に似ているというのよ」雪乃は納得いかない様子で、ぶつぶつと呟いている。

 

 一頻り笑った事で険がとれたのか、優美子と姫菜の、雪乃への隔意は消えたようだ。

 場の雰囲気が和んだところで、結衣は真剣な表情で雪乃に話しかける。

 

「雪ノ下さん、お願い。あたしに料理を教えて」

「あーしからもお願いするわ。結衣に料理教えてあげてよ」

「んじゃ、私からもお願い」

 

 結衣が頭を下げて頼むと、優美子と姫菜も一緒に頼み込んだ。

 

「……わかったわ、では、とりあえず帰りましょうか」

「帰っちゃうの? 家庭科室とか借りたりできない?」

 

 いきなり帰ると言い出した雪乃に拍子抜けする結衣。

 

「家庭科の先生にお願いすれば借りる事は出来るでしょうけど、借りるのは比企谷くんに料理を振る舞う時にしましょう。家庭科室をそう何度も私的に使うのはマズイでしょうから」

 

 そう言うと、雪乃はカバンを引っ掴んで部室を出て行こうとする。

 結衣たちもそれに続こうとしたところで、雪乃は振り返って三人に言った。

 

「私の家に招待するわ」

 



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奉仕部編5話

 下校途中、雪乃は結衣たちにどういう料理をどんな風に失敗したのか質問していた。

 

「成る程、大体わかったわ。貴方達が失敗したのは時間管理が甘かったからよ」

「時間管理? キッチンタイマーとか使うの?」

 

 結衣の言葉に首を横に振る雪乃。

 

「別に、タイマーまで用意する必要は無いけれど、そうね、時計を見ながら調理すれば大きな失敗は無くなるわよ」

「そういや、ゆで卵ミスったのは茹でる時間測ってなかったからだねぇ。あと、野菜の油通しは時間が長過ぎたし、タマネギの辛味抜きは短過ぎたね」

 

 姫菜が雪乃の意見に納得するように深く頷く。

 

「熟練の料理人は、目や耳、鼻を使って絶妙なタイミングを判断するものだけれど、由比ヶ浜さんにそれは望めないでしょうね」雪乃ははっきり断言する。

「作る料理は多少のタイミングのズレが気にならないものにしましょう」

 

 顔の横に人差し指を立てて、笑いかけるように言う雪乃に、結衣は「うん?」と疑問の声を上げた。

 

「初心者がいきなり時間を測りながら調理するのは難しいかもしれないわ。だから、時間管理が簡単なものを選択するのよ」

「時間管理が簡単っていうと、何があるのかな?」

 

 料理の経験に乏しい結衣は思いつかないようだ。

 

「最後に煮詰める様な料理は失敗しにくいといわれているわね。例えばカレーとか」

 

 雪乃が言うと、結衣が掌をパチンと合わせて合点する。

 

「そういえば、小学生の頃、野外学習で作ったカレーは失敗しなかった!」

 

 もちろん、そのカレーは結衣が一人で作ったわけでは無いが。

 

「じゃあ、カレーつくんの?」と優美子が雪乃に訊くと、雪乃は首を横に振りながら「いいえ」と答える。

「どうせなら、比企谷くんが好きな食材を使いましょう。由比ヶ浜さん、あの入学式の朝、あの男が持っていたものを覚えているかしら?」

「ヒッキーがもってたもの? えっと、たしか豆腐がどうとか言ってたような……」

「そう、豆腐。おそらく比企谷くんは豆腐好き、少なくとも嫌いでは無いはずだわ。そうでなければ忙しい朝に、わざわざ老舗の豆腐屋で豆腐を買うわけ無いもの」

「老舗の豆腐屋? なんで豆腐もってたからって老舗の豆腐屋で買ったってわかんの?」

 

 疑問を覚えた優美子が問う。

 

「あの時、比企谷くんはこれを持っていたわ。お店で貰ったんでしょうね」

 

 雪乃はそう言いながら、カバンからタオルを取り出す。それはあの朝、八幡から渡された『大石豆腐店』と印字された粗品のタオルだった。

 いつか八幡に突っ返してやろう、と常に持っているらしい。

 

「比企谷くんは、この大石豆腐店で買った豆腐を持っていた。だから、食材はこのお店の豆腐を使う。そして、作る料理は……」

「作る料理は……?」固唾を呑む結衣。

「麻婆豆腐よ!」

 

 高らかに言った雪乃の眼には、八幡への御門違いな闘志が燃えていた。

 この間のテストでは遅れをとったが、料理では負けない。由比ヶ浜さんに美味しい麻婆豆腐を作らせて吠え面かかせてあげる。

 拳を握りしめてそう決意する雪乃は足早に大石豆腐店へと向かった。

 

 

 

 

 

 豆腐を購入したあと、スーパーで他の食材と調味料を揃えた四人は、雪乃の家に到着した。

 玄関のドアを開け、ただいまの一言も言わずに靴を脱ぐ雪乃。

 結衣たち三人は「お邪魔します」と言って上がり込んだが、雪乃以外の人の気配は無かった。

 疑問を持った結衣が「お家の人は?」と訊くと、雪乃は冷めた表情で「いないわ。私、一人暮らしだから」と答えた。

 

「マンションに一人暮らし? リムジンに乗ってたって話で薄々わかってたけど、雪ノ下さんてお金持ち?」

 

 姫菜が部屋の中をキョロキョロと見回しながら、雪乃に訊く。

 

「……親が少しね」

「雪ノ下さん! 早速だけど麻婆豆腐の作り方教えて!」

 

 雪乃が言い淀んでいるのに気付いた結衣が話を変えるように明るい声をだした。

 

「そうね」頷く雪乃は気持ちを切り替えると、優美子と姫菜の方を向く。

「キッチンはそんなに広くないから、悪いんだけど三浦さんと海老名さんは味見役で良いかしら?」

「依頼したのは結衣だから、あーしらはそれで良いよ」

 

 そう言いながら優美子はカバンをリビングの隅に置いた。姫菜と結衣もそれに倣って、その隣に置く。

 

「雪ノ下さん、買ってきたものはどこに置いたら良い?」

 

 ボウルを持っていなかったのでパック詰めしてもらった豆腐と、スーパーの袋を下げながら結衣が訊く。購入代金はもちろん結衣が全額出した。

 

「キッチンに持って行ってちょうだい」

 

 結衣に答えた後、雪乃は一旦寝室に引っ込んだ。

 その後、ラフなネイビーブルーのロンティーとデニムパンツに着替えて出て来た雪乃は、エプロンを結衣に渡す。

 

「どうぞ、由比ヶ浜さん。あなたは制服だから、ちゃんとエプロンをしておかないとね」

「ありがとう」結衣は受け取ってから「雪ノ下さんの分は?」と訊いた。

「私は部屋着に着替えたから、多少汚れても大丈夫よ」

 

 キッチンに入った雪乃はスーパーの袋から豆板醤や甜麺醤などを取り出していく。途中で何故か桃缶も発見したが、お金を出したのは結衣なので気にしないでおく。

 優美子と姫菜は邪魔にならないように、リビングのソファに座って見守っていた。

 

「まずは手を洗ってから、材料の用意よ」

 

 結衣は言われた通りに手を水で流した。特にネイルなどはしていないので念入りに洗う必要はない。

 次いで雪乃も手を洗ったあと、食器棚から小皿を数枚取り出してカウンター台に並べていく。

 ステンレス製ダブルシンクの、小さい方のシンクにまな板を乗せると、包丁が入っている下の収納を開けて結衣に目配せした。

 

「さぁ、包丁を取って。まずは豆腐を切りましょう」

「う、うん」緊張しているのか、結衣の顔は少し強張っていた。

 

 雪乃はパックから豆腐を出してまな板の上にのせる。

 

「豆腐を賽の目切りしてちょうだい」

「さいのめって、四角く切れば良んだよね?」

「そうよ、大きさはある程度適当で良いから、立方体の形に」

 

 結衣はまな板の上に置かれた豆腐をゆっくり切り始めた。

 そういえば、ママは掌の上に豆腐をのせて切ってたなあ、と余計な事を思い出したが、挑戦するのはやめておいた。

 失敗から人は学ぶものである。結衣も調理実習で学んだことはあるのだ。

 

「次は、ニンニクと生姜と長ネギをみじん切り」

「み、みじん切りは苦手で……」

「大丈夫よ、何も手早くする必要は無いの。少しずつ確実にやれば良いわ」

 

 その後も、速度は遅く手際は悪いものの順調に調理を進めていく。

 切った食材と、量を測った調味料を皿に取り分けたところで、フライパンに火を入れて油を引いた。

 

「まずはニンニクと生姜を炒めて。火力は弱火ね」

 

 雪乃の言う通りにニンニクと生姜をフライパンに投入する結衣。焦げないようにフライ返しで混ぜ返していく。その表情は真剣だった。

 

「次は豚挽き肉よ、火を中火にして」

「中火で良いの? 火ぃちゃんと通る?」

「麻婆豆腐は最後に煮詰めるから、ここでは火が通りきって無くても良いの。むしろ焦がしてしまわないように注意して」

 

 肉の赤みがなくなったところで、甜麺醤を混ぜて一旦皿に取り上げる。

 フライパンに油を引きなおし、豆板醤を炒めてから、鶏がらスープを入れた。

 

「スープが煮立ってきたら、さっき炒めた挽き肉を再投入」

「時間測らなくて大丈夫?」

「ここは測らなくて良いわ、挽き肉には既に一度火を通してあるから」

 

 適当にグツグツと煮立ったところで、雪乃は調理具棚からフライパンの蓋を取り出す。

 

「次は豆腐を入れるわよ。豆腐を入れて一煮立ちしたらフライパンに蓋をするの」

 

 結衣が豆腐を入れると、雪乃はフライパンに蓋を被せる。

 

「ここは時間を測ってもらうわ。時計を見て、由比ヶ浜さん。1分たったら蓋をあけるわよ」雪乃がキッチン横の壁掛け時計を指差して言う。

「わかった! 1分だね」

 

 時計の秒針が一周するのを眺めたあと、結衣は蓋をあけた。

 

「ここで長ネギと四川花椒粉を入れて、さらに一煮立ちさせるの」

「あたしホワジャオフンなんて初めて聞いたよ、スーパーってなんでも売ってるね。さすがSUPERだし」

 

 麻婆豆腐のスパイシーな香りが鼻孔をくすぐる。雪乃の指示を聴きながらとはいえ、結衣が作ったとは思えない完成度だった。

 

「最後に、片栗粉でとろみをつけて完成よ。片栗粉を混ぜるときは豆腐を潰さないように気をつけて」

 

 フライ返しで慎重に混ぜ返していく。豆腐が多少崩れたが概ね問題なく麻婆豆腐が完成した。

 

「じゃあ、私はテーブルを拭いておくから、由比ヶ浜さんは麻婆豆腐をそこの小鉢に盛ってちょうだい。四人分ね」

 

 今回つくった量は一人前だが、それを小鉢に四等分したあと、お盆に載せてリビングに持っていくと、既にテーブルに着いて待っていた優美子と姫菜の歓声が上がった。

 雪乃が拭き終えたテーブルにお盆を置き、それぞれの前に麻婆豆腐を配膳する。

 

「やるじゃん、結衣。超美味しそう!」

 

 優美子の賞賛の言葉に、結衣は照れ臭そうにはにかんだ。

 

「さあ、早速食べてみましょうか。レンゲは無いから、ちょっと無粋だけどスプーンで」

 

 テーブルを拭いた布巾をキッチンで軽く洗ったあと、食器棚からスプーンを四つ取り出して来た雪乃は、そう言って三人にスプーンを配った。

 いただきます、という声を上げて四人共に麻婆豆腐を食べ始める。

 花椒粉のピリピリと痺れるような刺激と、豆板醤の強い辛味が鮮烈な印象を与える。

 さらに、豆腐のほのかな甘味と蕩けるような食感が存在を主張して、刺激的で辛いだけではない、複雑な深い味わいを出していた。

 

「すごく美味しいよ! これ、本当に結衣が作ったの?」

 

 姫菜が訊くと、結衣が自身も驚きの含んだ声で答えた。

 

「雪ノ下さんのおかげだよ! こんなに美味しいのが出来るとは思わなかった……」

 

 姫菜と結衣が尊敬を滲ませた目で雪乃を見る。しかし、雪乃は若干浮かない顔で小鉢を覗いていた。

 

「雪ノ下さん、美味しくない、かな? あたしなにか失敗しちゃった?」

 

 結衣が心配そうな声音で訊いた。

 

「いいえ、上手くできていると思うわ。多分、私が自分で作っても同じような出来になるでしょうね」

 

 言葉とは裏腹に雪乃の表情は晴れない。

 

「話を聞く限り、比企谷くんの料理の腕はかなりのもの……この麻婆豆腐では比企谷くんに勝てないかもしれない」

 

 最初は興味深そうな様子で雪乃の言う事を聞いていた優美子だったが、勝てないだのと言い出したあたりでがくりと体を傾けた。

 

「いやいや、勝ち負けの問題じゃないっしょ。料理漫画じゃないんだから」

「あら、お礼するって言うんだから、どうせなら比企谷くんが作る料理より美味しいものを作りたいじゃない」

 

 特に他意は無いという振りをしているが、雪乃の内心には確かな八幡への対抗意識があった。

 負けず嫌いは彼女の性分なのだ。常に勝ちたいのだ。勉学も料理も負けたくないのだ。

 

「でもこれ充分美味しいよ。結衣が作ったとは信じらんないくらい」

 

 姫菜が言うと、結衣は一瞬唇を尖らせたが反論はしなかった。というより、反論できなかった。

 実際、結衣が調理実習で作った料理と比べれば、この麻婆豆腐は天上の料理といえるレベルだろう。

 

「駄目ね。この麻婆豆腐は素材の味を活かす作り方をしたのだけれど、豆腐自体の完成度が高過ぎて、麻婆から独立してしまっているわ」

 

 雪乃はそう言うが、料理素人の優美子には余り意味が理解できなかった。

 優美子としては、豆腐の美味しさも含めて、完成度の高い麻婆豆腐だと思えるのだが、豆腐の完成度が高過ぎるとはどういう事だろうか。

 

「要するに豆腐が目立ち過ぎってこと?」

 

 姫菜が率直に質問すると、雪乃は口元に手を当てながら数瞬、思考する。

 豆腐が目立ち過ぎ、そういう事なのだろうか。いや、この豆腐は名店の一品といえるレベルだが、あくまで豆腐である。

 悪目立ちというほどの苛烈な印象を与えるものではない。

 

「麻婆は美味しい、豆腐も美味しい。けれど、麻婆豆腐として完成されていない」

 

 口惜しそうにそう洩らす雪乃。結衣たち三人もその言葉を聞いて一緒に悩みだす。

 

「麻婆と合わせたのがダメだってんなら、いっそ料理を変えてみたら?」

「例えば何かしら?」

 

 姫菜の提案に、雪乃が問い返す。

 

「えーっと、煮詰める豆腐料理でしょ。例えば……湯豆腐?」

「うーん……湯豆腐も立派な料理だとは思うけれど、お礼に湯豆腐というのは、微妙なところね」

「ダメかぁ」姫菜は嘆息して俯いた。

「じゃあさぁ、いっそ豆腐を普通のやつにしてみたら? スーパーで売ってるようなやつ」

 

 優美子が名案を思いついた、というような表情で言う。

 

「料理のグレードを上げる為に豆腐のグレードを下げるのは本末転倒だと思うわ」

「ダメかぁ」優美子も嘆息して俯いた。

 

 四人とも眉根を寄せて呻くように悩む。麻婆と豆腐、豆腐と麻婆、二つの要素を上手く馴染ませるにはどうすればいいのか。

 と、そこで結衣が何か思いついたように「あっ!」と声をあげた。

 由比ヶ浜結衣、料理は素人だし思考も右往左往しがちだが、意外と発想力はあるのだ。

 

「あのね」と言ってテーブルの中央に顔を寄せる結衣。

 

 誰か部外者が聞いているというわけでもないが、内緒話でもするように他の三人も身を乗り出してテーブルの中央に耳を寄せた。

 そして、結衣は思いついた事を小声で提案した。その表情は少し自信なさげである。

 

「えぇっ! それはちょっと微妙じゃない?」姫菜が驚いて体を引いた。

「あーしもソレはどうかと思うなぁ。カレーに林檎とかは聞いたことあるけどさぁ」優美子もあまり肯定的ではない。

「ダメかぁ」結衣が嘆息して俯く。

 

 しかし、雪乃はただ一人、目を閉じて何かを考えるように佇んでいた。

 

「有りかもしれないわ」

「雪ノ下さん? マジ?」

 

 雪乃の意外な一言に、姫菜が『ウソでしょ?』というように問い掛けた。

 

「ええ、由比ヶ浜さんのアイディアは、この麻婆豆腐の問題を解決するかもしれない」

「本当? 雪ノ下さん」提案した結衣自身も驚いている。

 

 自分の突飛な思いつきが雪乃に認められるとは、自分でも信じられないようだ。

 

「とりあえず、もう一度作ってみましょう」雪乃は席を立ち、キッチンに向かった。

 

 そして、結衣の方へ振り返り「材料は、ちゃんと買っておいたみたいだしね」と言って微笑む。

 言われた結衣も「えへへ」と照れくさそうに笑みを返した。



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奉仕部編6話

 翌日の放課後、A組の教室の片隅には何か重要な事を語り合っているかのような二人の男女の姿があった。

 一人は比企谷八幡、もう一人は海老名姫菜だ。少々興奮気味な姫菜に対して、八幡の方はうんざりとした表情を浮かべている。

 

「俺はさっさと帰りたいんだが」

「まあまあ、もう少し私の話を聞いてよ。このクラスには魅力的な男の子が多いと思うの。例えば葉山くん、イケメンだよね、彼。あと、葉山くんと一緒にいることが多い戸部くんも、ちょっとバカっぽいけど明るい子だし、土屋くんとか陰がある感じがクールだよね。勿論、天の道くんもカッコいいと思うよ」

「……わからないな、それを俺に伝えて何か意味があるのか?」

 

 八幡は目を少し細めて腕を組んだ。

 

「天の道くんは、もっとクラスの男子と仲良くするべきだよ」

 

 姫菜は人差し指を一本立てて、まるで人生の教師であるかの様にアドバイスする。

 

「なるほど、お前は俺に『友人を作れ』と言っているわけだ。孤立している者を見過ごせない性質なのか?」

「いやぁ、そういうわけじゃないんだけどね。天の道くんは孤立や孤独って感じじゃないし」

「なら、どういう事だ」

「ただ、男の子たちには仲良くしていてほしいってだけだよ」

 

 完全に自分の趣味の為に八幡を説き伏せようとしている姫菜だった。

 

「さっきからチラチラと時計を見ている様だが、何かあるのか?」

「あ、バレた? ちょっとね、天の道くんにはこの後ついてきてほしい所がありまして。ただ、理由は訊かないでほしいんだ。やっぱりサプライズの方が楽しいもんね」

 

 迂遠な言葉使いで語る姫菜に、八幡は疑問を覚えたが、とりあえず悪意はなさそうなので黙っておいた。

 その後も、姫菜による『仲良し男子の美学講義』は続いたが、八幡は興味無さげな態度だった。

 大体、葉山は調理実習で組んだアイツだとして、戸部とは誰だ、そんな奴クラスにいたか、と八幡は疑問を浮かべていた。

 調理実習で戸部とも組んだというのに、八幡はいまだに、戸部の苗字を矢部だと思っていた。

 

「海老名!」

 

 楽しそうに語り続ける姫菜に教室の外から声が掛かった。声の主である優美子は、サムズアップとアイコンタクトを姫菜に向けている。

 姫菜はそれに頷きを返すと、八幡の左肩に手を置き「さあ、家庭科室に招待させてもらうよ、天の道くん」と芝居掛かった調子で言った。

 八幡は、いまだ理解が追いついていなかったが、教室を出て行こうとしている姫菜のあとを、仕方なさそうに付いて行った。

 

 

 

 

 ニヤニヤと、含み笑いをもらしながら家庭科室まで歩いてきた優美子と姫菜。

 優美子は家庭科室のドアの前で立ち止まると、一層笑みを深めて「さっ、ドアを開けなよ、天の道」と言った。

 

「実はさっきまでの私の話は、料理が完成するまでの時間稼ぎだったんだよ。私の趣味の話に付き合わせて悪かったねぇ」特に悪びれた様子もなく、姫菜が言う。

「何が何だかわからんが……」

 

 呟きながらドアを開けた八幡の視界には、調理台の一角に立ち、照れ笑いを浮かべる結衣と、腰に片手を当て、したり顔をする雪乃の姿があった。

 

「由比ヶ浜と……豆腐の女か」八幡は、結衣と雪乃の顔を順に見回してそう言った。

 

「豆腐の女!? そんな、ハムの人みたいな呼ばれ方、不快だわ!」

「正確に言えば、豆腐の水が掛かった女だ」

「それならあなたは、豆腐の水を掛けた男じゃない!」

「馬鹿な事を言うな。俺は天の道を往き総てを司る男だ」

 

 豆腐の女呼ばわりされて、苛ついた雪乃は八幡に食ってかかった。

 しかし八幡は変わらず涼しげな表情で意味のわからない言葉を返す。

 結衣は少し焦り気味で雪乃の肩に手を置き「まあまあ、落ち着いて」と抑えた。

 

「……私は、雪ノ下雪乃よ、比企谷くん。奉仕部の部長として、由比ヶ浜さんの依頼を受けたのよ」

「奉仕部の部長?」

「ええ、部長といっても、部員は私一人だけれど。ちなみに顧問は、A組担任の平塚先生よ」

 

 まあ、そんなことは良いわ、と呟いて、雪乃は結衣の背を促すように押した。

 

「あのね、ヒッキー。ヒッキーはお礼なんかいらないって言ってたけど、あたしはずっと、お礼したいと思ってたんだ」

「……サブレの話か?」

「そうだよ、ヒッキーに救けてもらったおかげでサブレは今も元気だよ。だから、恩人のヒッキーに麻婆豆腐をつくったの。あたし、料理苦手なんだけど、雪ノ下さんに習って一生懸命つくったから……食べてほしいな」

 

 結衣は麻婆豆腐を盛った皿を、調理台のテーブル部分に置く。

 八幡は無言で調理台の方へ行くと、テーブルの席に座った。話に否はないらしい。

 

「お、お茶! お茶いれるね」

 

 ペットボトルの烏龍茶を紙コップに注ぐ結衣を横目に、八幡は両掌を合わせた。

 

「いただきます」

「め、召し上がれ」

 

 八幡は結衣からスプーンを受け取ると、徐ろに豆腐を一掬いした。数瞬眺めた後に口にすると、目を閉じてじっくり味わう。

 

「どう、かな?」結衣は恐る恐る味の感想を訊く。

「……美味い」

 

 八幡の答えに、優美子と姫菜が喝采をあげた。結衣に駆け寄りハイタッチする。

 結衣も溢れんばかりの笑顔を見せている。

 

 八幡のスプーンの動きは全く止まらなかった。最後の一口まで一気に食べ終えると、お茶を飲み干して一息つき、「御馳走様」と微笑みながら言った。

 

「豆腐は大石豆腐店の物だな」

「あら、わかるのね」さほど驚いていない様子で雪乃が答えた。

「ヒッキー、あのお豆腐好きなんでしょ?」

「ああ、よくわかったな」

「雪ノ下さんのお陰なんだよ。雪ノ下さんに教えてもらったの」

 

 はにかむ結衣は雪乃に感謝の視線を送る。雪乃はそれにウインクを返すと、鞄からタオル取り出した。

 

「比企谷くん、口元が麻婆で赤くなってるわ。『これで拭いておきなさい。洗ってあるから綺麗よ』」

 

 意味ありげな語調で言いながら、雪乃はタオルを八幡に放り投げた。

 受け取った八幡は得心がいったのか、口角を少し上げてニヤリと笑うと、「俺も『ハンカチくらい持っている、お前から施しを受ける謂れはない』な」と返す。

 

「『人の厚意は素直に受けるもの』でしょう?」

 

 雪乃が放り投げたタオルには大石豆腐店の店名が印字されていた。

 あの日、八幡から渡された粗品のタオルである。『タオルを突っ返す』という目的を達成した雪乃は心底嬉しそうに笑った。

 八幡はタオルの端で口元を拭う。白いタオルがほんの少しだけ赤く染まった。

 

「ふふっ、これで貸し借り無しね」

「別に、俺は貸しだとも思ってなかったがな」

「なーんか意味深なやり取りしてるけど、何の話?」

 

 優美子が訊くと、八幡と雪乃は声を揃えて「なんでもない」と答えた。

 

「それにしても、由比ヶ浜が作った麻婆豆腐は素晴らしい。あの豆腐は美味いが、ともすれば苛烈な刺激の麻婆には馴染まない。料理としては味噌汁などに使うか、そのまま冷奴で食べるのに向いているんだが」

 

 そこで八幡は結衣に目を向けた。

 

「お前の麻婆豆腐は麻婆と豆腐が程良く馴染んでいる。隠し味は果実、桃のペーストか」

「わかるの!? ヒッキー! ほんの一欠片分しか入れてないのに」

「いやぁ、最初に桃を入れるとか言い出した時はどうかと思ったけど、食べてみたら意外と美味しかったんだよねぇ」

 

 姫菜があまり納得いってないような声音で言った。麻婆豆腐に桃という発想が何処と無く悪ふざけのように思えるらしい。

 

「四川麻婆の隠し味に、フルーツジャムを加えると味にまろやかさが出ると聞いた事がある。今回はジャムのかわりにペーストを入れたようだがな」

 

 八幡の祖母は、隠し味の研究に余念がない人だ。当然、その薫陶を受けた八幡も、隠し味には一家言ある。

 

「しかし、この麻婆豆腐の一番の隠し味は桃ではないがな」

「えっ?」

 

 それまでの言葉を突然覆す八幡に、結衣は小さく声を上げて驚く。

 

「おばあちゃんが言っていた……どんな調味料にも食材にも勝るものがある。それは料理をつくる人の愛情だ……ってな」

 

 雪乃は内心、また何か変な事を言い出した、と呆れていた。

 対して優美子は、ちょっと面白い流れになってきたぞ、と瞳をキラキラ輝かせた。イマドキの女子高生三浦優美子、こういう流れは大好きである。

 

「由比ヶ浜が作った料理からは、愛情を感じた」

「えと、あの」顔を真っ赤にして、焦る結衣。

「ほほう」興味深げにメガネの位置を直す姫菜。

「おー」首を振って八幡と結衣の顔を交互に覗き見る優美子。

 

 結衣は自分の心臓がドキドキと脈打つのを感じた。

 ーー愛情……確かに込めたような気がする。でも、それはヒッキーがサブレの恩人だからで、いや、でもヒッキーって結構カッコいいし、いや、でもあたしまだヒッキーのことあんまりよく知らないしーー

 ぐるぐるごちゃごちゃと絡まる思考の糸が、数十手かかる綾取りの様に複雑な図形を象り出したところで、静まり返る家庭科室に八幡の声が響いた。

 

「お前の作った料理は愛情に溢れている。そう、お前の……サブレへの愛情に」

 

 一瞬、時が止まった気がした。

 

 淡い恋バナの香りを感じ取っていた優美子は、肩透かしをくらったようで「なんだ、そういうことか」と呟く。

 

「そ、そうなんだよ。サブレは私の大事な家族だし! ヒッキーはサブレの恩人だし! だから、ヒッキーにどうしてもお礼したかったの!」

「ああ、由比ヶ浜の礼、確かに受け取った」

 

 あたふたしながら畳み掛ける様に言う結衣に、大きく頷いて答える八幡。

 そのさまに、依頼の達成をみた雪乃は、家庭科室の背もたれのない丸椅子に腰かけて、頬杖をついた。その顔に浮かんだ笑みは、そこはかとなく満足気だ。

 

 一方、少し離れて結衣、八幡、雪乃の三人の様子を観察していた姫菜は、この三人の縁に興味を惹かれていた。

 苛烈な赤い麻婆と高貴な白い豆腐の間に、優しい甘みを持つ桃が投入されることで、調度良いバランスが完成したという事に、奇妙で暗喩的な偶然を見た気がした。

 姫菜の心には、この三人の縁はこれからも続いていくのだろうという、根拠のない確信があった。

 いつか、この三人をモデルに漫画を描いてみ

たら、面白いかもしれない。

 密かに、そんなことを考えていた。

 

 

 

 

 

 その日の比企谷家の夕飯には、中華料理が並んでいた。メインは、結衣に作ってもらったものを、八幡の手で完璧に再現した麻婆豆腐だ。

 一度食べただけでレシピを再現できるあたりに、八幡の料理人としての腕前が現れている。

 八幡の対面に座った小町は、兄の顔を観察するようにじっと眺めた。

 

「お兄ちゃん、もしかして、なんか良いことあった?」

 

 訝るような小町の言葉に、八幡は少しだけ眉を上げた。

 

「どうしてそう思うんだ?」

「だって、お兄ちゃん、いつもより口角が2度くらい上がってる気がするよ」

 

 かなり微妙な変化だと思うが、そんなことに気づけるあたり、小町も中々にブラコンである。

 

「……美味しい物を食べさせてもらった。良いことといえば、それくらいだ」

「美味しい物? どっかのお店にでも行ったの? 良いなぁ、今度小町も連れてってよ」

 

 食に妥協の無い八幡が、『美味しい物』と手放しで褒めるくらいだ。それは真実、美味しい食べ物だったのだろう。

 

「どこかの飲食店に行ったわけじゃない。同じクラスの女子に、料理を作ってもらっただけだ」

「おおう……さりげないモテ宣言頂きました。誰々? そのひと」

「なに、別にモテたわけではないし、小町は知らない女だ、気にする事はない。そうだな、サブレの女とでも覚えておけばいい」

「サブレの女? サブレ作ってもらったの?」

「いや、作ってもらったのは麻婆豆腐だ。今日の麻婆豆腐は、その味を再現してあるから、小町も食べてみるといい」

 

 言われた小町は、麻婆豆腐の皿を引き寄せ、レンゲでひと掬いした。

 花椒粉の香りが鼻腔をくすぐる。一口食べてみると、麻婆と豆腐のコントラストの中に、まろやかな淡い甘みを感じる。

 

「確かに美味しい! うーん、隠し味はフルーツジャム、かな?」

「惜しいな、正解は桃のペーストだ」

「あー、そっかあ、まだまだお兄ちゃんやおばあちゃんみたいには、隠し味当てられないなあ」

 

 残念そうにそう言う小町だが、その味覚は常人よりも格段に研ぎ澄まされていた。

 祖母と兄の薫陶の賜物である。

 

「お兄ちゃん、今度小町にも、この麻婆豆腐の作り方教えてよ」

「ああ、勿論。今度な」

 

 美味しい料理を作るには、愛情を持って作るのがポイントだ。小町にはそのあたりも、しっかり教えてあげなければ。比企谷家の者に中途半端な料理を作らせるわけにはいかない。

 八幡は、美味しそうに麻婆豆腐を頬張る小町を眺めながら、そう思った。



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奉仕部編7話

 放課後の家庭科室、調理台のコンロの前には、由比ヶ浜結衣の姿があった。

 どうやら麻婆豆腐を上手く作れたことに味を占めて、料理にハマってしまったらしい。

 やや小振りな鍋の中身は、ぐつぐつと音を立てて煮立っている。

 

「よ〜し、温まったかな?」

 

 コンロの火を止めて、鍋の中身を魔法瓶へと移す。

 

「ゆきのん、喜んでくれるかなあ? 喜んでくれればいいんだけどなあ」

 

 どうやら、世話になった雪乃に料理を振る舞うつもりらしい。

 ちなみに、『ゆきのん』などとあだ名呼びしているが、まだ雪乃にあだ名呼びの許可は貰っていない。

 

 

 

 

 

 ところ変わって、特別棟、奉仕部の部室では、雪ノ下雪乃が一人佇んでいた。

 今日も依頼は無く暇だったので、とりあえずいつも通り読書に勤しむ。

 文庫本のページを四度捲ったところで、ドアをノックする音が響いた。顧問である平塚静はノックもせずに開けるクセがあるので、依頼者である可能性が高い。

 

「どうぞ」とドアの向こうに声をかけると、開いたドアから見知った顔が覗いた。

「やっはろー! ゆきのん!」

 

 何がそんなに楽しいのか、結衣が嬉しそうな顔で部室に入って来た。

 

「や、ゆ、ゆきのん、とは何かしら」

「あだ名だよ。雪ノ下雪乃だから、ゆきのん。あたし、あだ名つけるの得意なんだよ」

「あだ名、というのはわかるけれど……ゆきのんと呼ばれるのは……」

 

 雪乃は不本意そうに呟く。そんな可愛いらしいような、それでいて間の抜けたようなあだ名など、これまでの人生で一度も付けられたことはない。

 

「ゆきのん、今日は暇かな?」

 

 部室の隅から椅子を引き寄せて、長机の端に座る雪乃の隣に腰を下ろす結衣。相変わらずパーソナルスペースが狭い。

 

「ゆきのん呼びで押し通すのね……見ての通り閑古鳥よ。今も、暇つぶしに本を読んでいたわ」

 

 雪乃は、文庫本の背表紙を結衣の方へ向けた。何とは無しに、結衣はそのタイトルを読む。

 

「犬神家の一族? なんか聞いたことあるかも」

「金田一、といえばわかるかしら?」

「あ、知ってる! アイドル主演(堂○剛etc.)でドラマ化されたやつでしょ? ドラマ見たことあるよ」

「ええ、アイドル主演(稲○吾郎)でドラマ化されたこともあるらしいわね。私はドラマは観た事が無いのだけれど」

 

 噛み合っているようで、噛み合わない二人の会話。結衣が言っているのは、金田一は金田一でも孫の方である。

 

「ところで、今日は何の用かしら? 貴女の依頼は達成できたはずよね」

「今日はね、ゆきのんに豆腐のお味噌汁作ってきたんだ。ほら、ヒッキーがあの豆腐はお味噌汁に合うって言ってたでしょ。あのお店の豆腐で作ったんだ」

 

 肩に提げていた鞄を膝の上に置く結衣。

 

「家庭科室借りてあっためてきたから、アツアツだよ」

 

 言いながら、鞄から魔法瓶と紙コップを取り出して机の上に置く。

 

「なぜ、私にお味噌汁を?」

「この間の依頼のお礼。それと、あたし最近お料理にハマっちゃって。ゆきのんに味見してほしいなって思って」

 

 結衣は魔法瓶の口を中蓋ごと開けて、味噌汁を紙コップに注いだ。あっためてきた、という言葉どおり、味噌汁からは熱い湯気が立っている。

 

「ゆきのんに、煮詰める料理は失敗しにくいって習ったでしょ? だからお味噌汁なら、あたしでもつくれるかなって挑戦してみたの」

「由比ヶ浜さん、言いにくいのだけれど、お味噌汁は煮詰めてはいけないのよ」

「ええ! そーなの!?」

 

 味噌汁は煮詰めると、その香りと風味が飛んでしまう。煮立たせる前に火を止めるのが一般的な作り方だろう。

 

「まあ、多少煮詰めただけなら、食べるのに問題は無いでしょうから、ありがたく頂くわ」

 

 雪乃は『礼など必要ない』とは言わない。そう、絶対に言わない。だってそんな事を言ったら、アイツと似てると言われてしまう。

 

「美味しくなかったらごめんね。ゆきのん」

 

 少し意気消沈した様子で、割り箸を渡す結衣。

 雪乃は、微かに笑みを浮かべて「いただきます」と言った。

 

「召し上がれ」

 

 味噌汁は煮詰めてはいけないという事を聞いて自信が無くなったのか、結衣の声は小さかった。

 雪乃は、徐に紙コップを覗き込む。豆腐とわかめに、細いお揚げの入ったオーソドックスな味噌汁だった。

 箸でお揚げを摘み、口に運ぶ。小振りなそれは、雪乃の想像よりも美味だった。

 おそらくこのお揚げも、大石豆腐店で作られたものだろう。あの店は、かなりレベルが高い。

 そっと味噌汁を啜ると、青空の下に広がる草原の様に、爽やかな味がした。

 風味は多少消えてしまっている様だが、何処となく洋風の香りを漂わせるこの味噌汁は、雪乃が味わった事の無い一品だった。

 

「これは、美味しいわ」

「ホント!? ゆきのん!」

「ええ、爽やかで、何処かフルーティーな味。隠し味は……」と言ったところで、雪乃に一瞬いやな予感が過ぎった。

「まさか、由比ヶ浜さん、桃を入れたの?」

「いやいや、確かに桃は好きだけど、お味噌汁には入れないよ」

 

 結衣は右手を顔の前でひらひら振って否定する。

 

「正解はね、トマトだよ。トマトで出汁をとってみたの」

「ト、トマト……」

 

 さすがに桃ではなかったが、トマトで出汁をとったというのでも、雪乃には充分衝撃だった。

 しかし、トマトには昆布などと同じく、植物性旨味成分であるグルタミン酸が含まれているので、変則的には昆布出汁と同じ様な使い方をしても間違いではないのかもしれない。

 トマトと聞いて最初は戸惑ったものの、味自体は素晴らしかったので、雪乃はすぐに食べ終えた。

 

「隠し味にトマト、そういう発想は私には無いものだわ。料理にハマっている、というのは本当の様ね。とても美味しかったわ」

「えへへ」雪乃に褒められたのが余程嬉しかったのか、赤面して照れ笑いを浮かべる結衣。

「それだけ料理に熱心なら、料理研究部とかに入部してはどうかしら?」

「うちの学校に料理研とかは無いよ。放課後の家庭科室はいつも空室だし」

「あら、そうなの? では、由比ヶ浜さんが自分で料理研を立ち上げてみる?」

 

 雪乃にそう言われると、結衣は含み笑いを洩らしながら、雪乃に抱きついた。

 

「ちょ、ちょっと! 由比ヶ浜さん?」

「ゆきのーん、あたしねぇ、入る部活は決定してるんだ」

 

 顔が近い、パーソナルスペース・ゼロ。雪乃は妙に焦る自分を冷静に客観視して、自らを律しようとした。

 しかし、交友経験に乏しいフレンド・ゼロな彼女には、突然の事態への対応は難しかった。

 同性とはいえ、急に抱きつかれたら焦るわよ、と内心で言い訳し、平常なフリをしながら問いかける。

 

「何処に入部するつもり?」

 

 問われた結衣は、少しだけ勿体ぶって間を取ると、満面の笑みで答えた。

 

「奉仕部! ゆきのんと同じ、奉仕部だよ!」

 

 雪乃の表情が、微妙に歪んだ。眉は垂れ下がり、目は少し細まり、唇はへの字気味だ。

 

「あ、あれ? ゆきのんあんまり嬉しそうじゃ無い?」喜んでくれると思っていた結衣は、雪乃の思わぬ反応に焦った。

「もしかして……ゆきのん、あたしのこと嫌いだったり?」

「『嫌い』ではないけれど……『苦手』、かしら」

「『嫌い』と『苦手』って、『昆布』と『トマト』くらいおんなじだかんね!?」

「『昆布』と『トマト』は別物だと思うわ」

 

 雪乃の冷静な返しに、結衣は小さく呻る。

 投げれば返してくれるキャッチボールのような、結衣の楽しい反応に、雪乃の顔に笑みが溢れた。

 

「冗談よ、由比ヶ浜さん。歓迎するわ、ようこそ奉仕部へ」

「じょ、冗談だったの? もぅ!」

「ふふっ、ごめんなさい。じゃあ、入部届けを顧問の平塚先生に提出しないとね」

「入部届け? そっか、わかった。じゃあ、あたし職員室いってくるね」

 

 結衣は、善は急げとばかりに部室から駆け出していった。

 

「全く、騒々しい子ね」

 

 呆れた様にぽつりと零した言葉とは裏腹に、雪乃の心は晴れやかだった。

 

 

 

 失礼します、と一声かけてから職員室に入室した結衣は、キョロキョロと見回して平塚静を探した。

 しかし今は不在なのか、その顔は見当たらない。途方に暮れて出直そうかと思案していると、ドアに近い席に座っていた女教師が座ったまま話しかけてきた。

 

「どうか……したのかしら?」

 

 結衣に声を掛けたのは、1年J組の担任を務めている矢畑里埜だった。年齢は三十と少し、といったところだろうか。

 肩口まで伸びたストレートな黒髪は、やや硬質。前髪は眉にかかる程度に切り揃えられていて、一見して真面目な人なんだろうという印象を受ける。

 結衣は、教師という人種は皆一様に声が大きいものだと思っていたので、里埜の独特な、人を落ち着かせる雰囲気を持った小さな声音は、新鮮に聴こえた。

 

「あの、平塚先生はどこに?」結衣が訊ねる。

「彼女は、何処にいったのかしら。何か用件があるなら……私が承っておくけど?」

「えっと、平塚先生が顧問をしてる部活に入部したくて、入部届けを書きに来たんですけど」

 

 結衣がそう言うと、里埜は無言で席を立ち、職員室の隅にあるプリントラックから、白紙の入部届けを取って結衣に渡した。

 

「どうぞ……書いたら、平塚先生の机の上に置いておけば良いわ。私から、話は通しておくから」

「平塚先生の席ってどこですか?」

 

 結衣が問うと、里埜は右隣の机を人差し指でとんとん、と叩いた。

 結衣は平塚静の席を借りて、早速入部届けを書こうとしたが、筆記具を何も持っていないことに気づく。

 静の物を借りようかとも思ったが、生憎机の上にはペンの類は何も無かった。

 流石に引き出しを開けて借りるのは気がひけるし、と困っていると、横合いから里埜がボールペンを渡してきた。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 里埜にボールペンを借りた結衣は、奉仕部入部希望、1年A組由比ヶ浜結衣と入部届けに記した。

 

「ペン、どうもありがとうございました」結衣は両手で持ってペンを返した。

「いいえ、どう致しまして」

「じゃあ、平塚先生によろしくお願いします」

「ええ、わかったわ」

 

 里埜に言付けた結衣は、失礼しまーすと、少し間延びした声を上げて職員室をあとにした。

 

 

 

 

 

 数分後に、喫煙休憩から戻って来た静は、自身の机の上にある入部届けを見て、少しだけ顔を引き攣らせた。

 

「平塚先生、それは、見ての通り由比ヶ浜さんのものです」

 

 里埜に話し掛けられた静は、引き攣った表情を真顔に戻し、答えた。

 

「ええ、入部届けですね」

「平塚先生が、ボランティア部の顧問とは知りませんでした……それどころか、お恥ずかしながらウチの高校にボランティア部がある事すら存じ上げていませんでした」

 

 里埜は、己の不明を恥じるように数瞬、目を伏せた。

 

「立派な活動だと思います。ボランティア」

「はは、いえいえ、そんなことは」

 

 里埜に褒められた静は、曖昧な態度で謙遜した。実際はボランティア部ではなく奉仕部であり、その活動内容も多少異なるのだが、まあそれは置いておこう。

 褒めてもらっておいて何だが、実は総武高校にボランティア部、もとい奉仕部なる部活動は存在しない。

 だから、里埜が奉仕部のことを知らないのは当たり前のことなのだ。

 

 数週間前、平塚静は、入学直後の雪ノ下雪乃に接触した。

 あの陽乃の妹であるからには、一風変わった女子であろうと予想はしていた。

 しかし、実際に見た雪乃は、ある意味では陽乃の妹らしく、ある意味では陽乃の妹とは思えない、陽乃のパーソナリティとは少し違った、それでいてやはり厄介な女子だった。

 雪ノ下陽乃の性根はひん曲がっているが、雪ノ下雪乃の性根は真っ直ぐだ。

 そこだけを見れば妹の方が好ましい人物に写るが、優秀過ぎる姉を持った不幸だろうか、雪乃は雪乃で、やはり妙な歪みを抱えた女だった。

 姉へのコンプレックス故に焦燥感にも似た高いプライドを持ち、真っ直ぐ過ぎる性格故に世間に溶け込めない。

 静は出会って直ぐに、この子には居場所が必要だ、と思った。だから、奉仕部を作った。

 奉仕部という居場所の中で、他人の悩みを解決していけば、その過程で視野が広がっていくはずだ。

 そうなれば必ず、彼女は良い方向に成長するだろう。

 静の思惑は、真実、雪乃の為を思ってのものだった。

 誤算だったのは、部の設立には部員数三人以上が必要という校則があったことだ。

 雪乃には今はまだ隠していたが、実は奉仕部は部として成立していない。

 だから、結衣に入部届けを提出されても困るのだ。だって奉仕部なんてないんだもの。

 今回入部を申し込んできた結衣を含めても、あと一人人員が必要だ。余りいつまでも愛好会のままで部室を占拠するのも良くあるまい。

 早く部員を確保せねば、と焦る静の胸裡に、そう言えばウチのクラスに変なのが一人居たな、と思い浮かんだ。

 



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奉仕部編8話

 結衣が入部届けを提出してから数日後、西陽眩しい放課後の教室で、机に右手で頬杖をついた八幡は、対面に座る静の顔を見遣った。

 八幡の前の席の椅子を後ろに向け変えて座り、腕を組んで難しい表情をしている静は、八幡の眼を見据えて言う。

 

「君には、謙虚さが足りない」

「俺ほど謙虚な人間も、そうはいないと思うが」

 

 八幡の返答に、静は驚いて瞠目する。

 

「冗談だろう? 例えば君、私のことを何と呼んでいる?」

「平塚」

「ほら! 担任に対して呼び捨て! 普通はな、教師を呼び捨てにする時は、周りに本人がいないかどうか確認するものなんだよ!」

 

 本人の前でなければ呼び捨てにしていいのかという問題もあるが、少なくとも名指しで呼び捨てというのは非常識だろう。

 

「君の様な、傲岸不遜な生徒は初めて見た」

 

 呆れ返った、という様子で左手で額を押さえる静。正確に言えば、彼女の事を静ちゃん呼びしてくる傲岸不遜な女子生徒もいたので、八幡が初めてというわけでもないが。

 

「君には、ある部活動への参加を命じる。そこで、性根を入れ替えるがいい」

 

 静と八幡の視線がぶつかる。眼を逸らしたら負けだ、とばかりに静は瞳をぎらつかせた。

 数秒そうしていると、不意に八幡は目を閉じた。静は、『勝った!』と内心で快哉を叫ぶ。

 

「先日、由比ヶ浜に呼び出されて家庭科室に行った」

 

 目を閉じたまま、突飛なことを言い始めた八幡を、静は怪訝そうに見る。

 

「以前、俺は由比ヶ浜の家族を救けたことがあった。俺としては大した事をしたとは思っていなかったんだが、由比ヶ浜は恩義を感じていたらしい。御礼だと言って麻婆豆腐を作ってくれた」

 

 由比ヶ浜、料理、この二つのキーワード、静は最近聞いたことがあるのを思い出した。

 

「由比ヶ浜は料理が苦手らしくてな。麻婆豆腐の作り方は奉仕部の雪ノ下に習ったそうだ。奉仕部というのは、人助けをする部活らしいな」

 

 そう、料理について悩んでいる結衣に、奉仕部を頼るように勧めたのは自分だ、と静は頷いた。

 

「しかし、この学校に奉仕部などという部は存在しない」断言する八幡。

 

 静は目を大きく見開き、眉を上げた。

 

「な、何故それを……」

「とある部が設立されたのかどうか気になって、この学校にどんな部があるのか調べたことがある。部活動案内を確認したが、その中に奉仕部なる部は無かった。そして、校則では部の存続自体は部員数一人で良いとされているが、設立には三人以上が必要だ。雪ノ下一人では奉仕部を設立することはできない」

 

 ここまで、話を脳裏で整理するかのように目を閉じて話していた八幡が、目を開けて視線を静に投げた。

 

「雪ノ下の話では、奉仕部の顧問は平塚、お前らしいな。おそらく、雪ノ下を勧誘して部を作ろうとしたものの、そこで初めて部の設立に関する校則を知った、といったところか」

 

 全てを見透かしたように語る八幡に対して、静の目は面白いほどに泳ぎ始めた。

 瞬き、きょろきょろ、瞬き、きょろきょろ。

 

「つまり、人数合わせとして俺を奉仕部に入部させたいわけだ」

 

 ここまでで、何か間違いはあるか? と静に訊ねる八幡。

 静はそこまでバレているなら仕方ない、と観念して、思惑を語った。

 

「確かに、君の言う通りだ。君を奉仕部に入部させて、部員数を三人にしようと思っている」

 

 勿論、八幡の性根を入れ替えてやる、という目的もあるが、人数合わせの為というのも大きな目的である。

 

「なんだ、俺が入部すれば三人揃うのか?」

「ああ、先日、由比ヶ浜が入部届けを提出してきた。あと一人で部として申請できる」

 

 八幡は、ふむ、と頷くと机の横に提げていた鞄を引っ掴み、席を立った。

 

「何処に行くつもりだ?」静が訊く。

「分かり切ったことを訊くな」

 

 いまだ座ったままの静の方は見ずに、教室の扉へ歩いていく八幡。

 

「入部してほしいんだろう? とりあえず、奉仕部の部室に行くぞ」

「え!? 入部してくれるのか!」

 

 さっと席を立った静は手早く椅子の向きを戻して、八幡の後を追いかけた。

 

「助けを求めるものに、俺という太陽は輝く」

 

 追いついてきた静に、八幡はそう言った。

 素直じゃないし態度も悪いが、中々どうして良い奴じゃないか、と静は八幡の評価を少しだけ改めた。

 

 

 

 

 奉仕部の部室にて結衣は今、頭を悩ませていた。折角奉仕部に入部したというのに、依頼はまだ一件も来ない。

 聞けば、奉仕部に来た依頼は結衣自身が相談した件のみらしい。

 依頼がないという事は、総武高の生徒に悩みがないという事ともとれるが、流石に一件も依頼が来ないのはちょっとどうなんだろうか。

 もしや、奉仕部はその存在を全く知られていないのではなかろうか。

 雪乃は何やら難しそうな本を読んでいる。また金田一かな? 暇だし、あたしも金田一読んでみようかな? と結衣が考えていたところに、ノックの音が聴こえた。

 

「どうぞ」雪乃が答える。

 

 扉を開けて入ってきたのは、天の道を往き総てを司る男、比企谷八幡その人だった。

 

「ヒッキー!? どしたん? 何か悩みがあるの?」

 

 結衣が驚きながら訊くと、八幡は無言で首を横に振る。

 

「じゃあ、どうして?」

 

 さらに質問する結衣に答えたのは、八幡ではなく、その後ろから部室に入ってきた静だった。

 

「比企谷には奉仕部に入部してもらう事になった」

「え? ヒッキーも入部するの!?」

「平塚先生、そんな話は聞いていませんが」

「まあ、今、初めて言ったからな」

 

 突然の話に目を丸くする結衣と雪乃。対して静は何でもない事のように、さらっと答える。

 肝心の八幡はさっさと部屋の隅から椅子を取ってきて、長机の端、雪乃が座っている場所の対面側に座った。

 

「知っているかもしれんが、この男は教師を教師とも思わんような奴だ。この部に入部させて、その性根を叩き直してやってくれ」

「それは奉仕部への依頼ということですか?」

 

 静の言葉に雪乃が返すと、八幡は天井を指差すように手を挙げた。

 

「……比企谷くん、それは発言の許可を求める挙手かしら?」

 

 だとしたら手の形が可笑しいわよ、と雪乃は内心で突っ込む。

 

「俺の性根を叩き直すだの何だのという妄言は置いておくとして、先に言っておかなければならない事がある」

「何かしら?」促す雪乃。

「俺が入部したら、部長は俺だ」

 

 窓も開いていない部室に、風が吹いた気がした。

 

「何を言っているのかしら? 部長は私よ」

「一番偉いのは俺だ。ならば、俺が部長に就任するのが道理だろう?」

 

 そよぐ風は勢いを増し、吹き荒れる嵐になった。

 雪乃はバンッと掌で机を叩く。そのまま勢いで立ち上がり、八幡に食って掛かる。

 

「あなたねぇ! 後から入部してきていきなり部長だなんて、承諾できるワケないでしょ!」

「後から入部してきて、というのは正確ではないな。奉仕部は、まだ部として成立していない」

 

 胸元のポケットから生徒手帳を取り出した八幡は、部活動に関する校則が書かれたページを開き、長机の上を滑らせて雪乃の方へ渡した。

 受け取った雪乃は、さっと部の設立要項に目を走らせる。結衣も席を立ち、雪乃の隣に並んで生徒手帳を覗き込んだ。

 

「部の設立には三人以上必要? じゃあ、奉仕部って」

「俺が入部して初めて部として成立する」

 

 結衣の疑問の声に対して即座に八幡が答えた。

 

「平塚先生……どういうことです?」八幡の生徒手帳を、長机の上を滑らせて返しつつ、底冷えするような冷気を纏わせ訊ねる雪乃。

「いやあ、まさかなあ、部員の人数が問題になるとはなあ」静は、あらぬ方向に視線を向けながら苦笑で受け流す。

「え〜、雪ノ下も比企谷も部長の座を狙っているのなら、ここはひとつ勝負で決着をつけるしかあるまい」

 

 静の提案に雪乃が訝しげな表情を浮かべる。

 

「勝負……ですか? そんな、投げやりに部長を決定するのは……」

「おや、雪ノ下は勝つ自信が無いのか?」

 

 静の挑発は安っぽかった。八幡は勿論、結衣も、挑発された雪乃自身も、それが勝負に乗せるための軽口であると気付いていた。

 しかし、「勝負の内容は?」と言って、雪乃は受けて立った。

 彼女の負けず嫌いっぷりは半端ではないのだ。静の思惑に気付こうが気付くまいが、引くこと知らぬ勇猛さなのだ。

 静はニヤリと笑って、ポケットから白いハンカチを取り出した。

 

「比企谷、サインペン貸してくれ」

 

 八幡は鞄からペンケースを取り、その中から筆ペンを取って、指で弾いて静に投げた。

 

「筆ペン? サインペン持ってないのか」

「別に、書ければどちらでもいいだろう」

 

 まあいいか、と机にハンカチを広げた静は、それに楷書体でサラサラと『部長』という字を大きく書いた。

 

「今から、この『部長のハンカチ』を学校の何処かに隠す。制限時間内にこのハンカチを手に入れた者が奉仕部の部長となる」

 

 名案を思い付いた、といった様子で、したり顔をする静。

 

「さらに」

 

 静は結衣の方へすたすたと歩み寄ると、ハンカチを彼女に手渡す。

 

「え?」咄嗟に受け取ったが、合点がいかない結衣。

「ハンカチを隠すのは由比ヶ浜だ。君が『選ぶ』んだ……良いね?」

 

 静は結衣の肩に手を置き、『選ぶ』という言葉にアクセントをつけて言った。

 八幡と雪乃は直ぐさま言葉の裏に気付いた。

 そして、結衣も数拍遅れてどういう意味で言われたのか理解した。

 つまり静は、結衣に部長を選ばせる気なのだ。

 八幡か雪乃か、『ハンカチを見つけてほしい方が、探すであろう場所に隠せ』と、そう言っている。

 

「では、私は四十五分後にこの部室に戻ってくる。由比ヶ浜は十五分でハンカチを隠しなさい。雪ノ下と比企谷は残りの三十分でそれを見つけだせ」

 

 静はそう言い残すと、足早に部室を去っていった。

 雪乃と八幡は、ハンカチを手にして緊張した面持ちの結衣を眺めた。

 

「比企谷くん、あなたはこのルールで構わないのね? 随分、私に有利なルールだけれど」

 

 不敵な笑顔を浮かべて結衣の顔を見る雪乃に対して、結衣は曖昧に笑う。

 

「……まあ、良いだろう。由比ヶ浜、さっさと隠してこい」

「う、うん。じゃあ、行ってくるね」

 

 結衣はハンカチを握り締めて、部室を出て行った。

 

「……このルールで本当に良いのね? 八百長みたいで、余りしっくりこないのだけど」

 

 冷静になって椅子に座り直した雪乃は八幡に訊く。

 

「どこが八百長みたいなんだ?」

「だって、由比ヶ浜さんは私の……友達だもの」多分、と八幡には聴こえない小さな声で語尾に付け足した。

「俺は由比ヶ浜の家族の恩人らしいが」

 

 雪乃は、むう、と表情を引き締めた。しかし、ここ数日、由比ヶ浜と自分は二人きりで放課後を過ごしていた。私の有利は揺らがないはず、と結論する。

 

「まあ、この勝負なかなか楽しいじゃないか。おばあちゃんが言っていた……誰にもわからないように隠し味をつけるのは楽しい。だが、それを見つけるのはもっと楽しいってな。隠されたものを見つける勝負、探究心が刺激される、だろう?」

 

 この男のおばあちゃんとやらは何者だろう、と雪乃は少し疑問に思った。

 

「しかし、由比ヶ浜の性格を考慮すると、俺がハンカチを手にする確率は低いかもしれないがな」

「あら、自分が不利だという自覚はあるのね」

「由比ヶ浜はバランスを重んじるタイプだろう? 誰が部長になればバランスが良いか、本能的に理解するはずだ」

 

 その通りだ、この男も偶には良い事を言う、と雪乃は思った。やはり、部長は私。それが道理だ。

 雪乃は読み掛けだった本を再び読み始めた。対して、手持ち無沙汰になった八幡は、とりあえず小町に『今日は遅くなるかもしれない』とメールを送った。

 

 きっかり十五分後、結衣が部室に戻って来た。

 

「隠してきたよ〜」

 

 結衣は多少、伏し目がちな様子だった。それが雪乃は少し気になるが、とりあえずさっさとハンカチを見つけようと思い、「では、探してくるわ」と言って部室を出て行った。

 しかし、八幡は一向に動き出そうとしない。暇潰しなのか、現国の教科書を開いて眺めている。

 

「ヒッキー、探しに行かないの?」

「俺は、無駄な事はしない」結衣の方には目を向けず、教科書を眺めたまま、八幡は答えた。

「無駄って……もしかして、あたしがどこに隠したか、ヒッキーはわかってるの?」

「ああ、隠すところを見ていたからな」

「ふぇっ! う、嘘! 見てたのヒッキー! ヒッキーのエッチ!」

 

 結衣は、自分の体を両腕で抱きしめながら狼狽した。

 しかし、よく考えてみれば、自分がハンカチを隠すところを、八幡が見ているはずはないと気付く。

 八幡は今の今まで雪乃と共に部室にいたのだ。八幡が退室して結衣を追い掛けたとしたら、雪乃が黙っていないはずである。

 

「ヒッキーの嘘つき!」

「そう、嘘だ。しかし、隠し場所はわかった。『俺には触れる事が出来ない場所』だな」

「あ……」

 

 今のやり取りで、八幡はハンカチが何処に隠されたか悟った。

 

「ヒッキー、怒ってる?」結衣が遠慮がちに八幡に訊く。

「何故だ?」

「だって、部長になりたかったんでしょ?」

 

 八幡は教科書から目を離さず、結衣の方へは視線を向けずに答えた。

 

「平塚は、お前に『選べ』と言った。そして、お前は選んだ。ルールについては事前に納得していた。ならば、何も問題はないな」

「……そっか、ありがと、ヒッキー」

 

 結衣は、申し訳なさそうに微笑んだ。



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奉仕部編最終話

 部室を出た雪乃は、まず最初にJ組の教室に向かった。結衣が自分を部長に選んでくれるなら、おそらく隠し場所は自分の机かロッカーの中だと思ったのだ。

 早歩きで教室まで辿り着くと、とりあえず机の中を探る。しかし、ハンカチは見当たらなかった。

 よく考えれば、結衣は自分の机の位置を知らないはずだということに思い当たり、次にロッカーへ向かう。

 ロッカーならば、扉に苗字を書いたシールが貼ってある。クラスメイトではない結衣にも一目瞭然でわかるはず。

 雪乃は、雪ノ下、と書かれたシールが貼られた、自分のロッカーの扉を開いて中を覗いた。

 だが、その整然としているロッカーの中にも、ハンカチは無い。

 クラスの教卓はどうだろうか……無い。掃除用具入れ……無い。黒板のチョーク入れ……無い。

 教室中、いたる所を探したが見つからなかった。

 そうこうしていると、教室に残って自習をしていたクラスメイトたちの一人が話しかけて来た。

 

「どうしたのですか雪ノ下さん。なにか探し物でしょうか?」

 

 話しかけてきたのは、黒縁の眼鏡をかけた大人しい女子だった。雪乃は、たしか根岸さんといったかしら、と彼女の名前を思い出した。

 

「ああ、いえ、ちょっと質問なのだけれど、この教室にA組の子が来なかったかしら? 右サイドにシニョンを作った、由比ヶ浜さんという子」

「その、由比ヶ浜さんという人は知りませんが、違うクラスの子は来てませんね」

「そう……ありがとう。邪魔したわね」

 

 雪乃は根岸に礼を言うと、教室を出た。

 J組の教室では無いなら、女子しか入れない様な場所に隠したのかもしれない。

 まさか、A組の教室に隠したとは、考えたくなかった。

 

 

 

 それから、雪乃は時間ギリギリまで方々を探し回った。

 しかし、ハンカチは一向に見つからない。

 由比ヶ浜さんは、比企谷くんを部長にしたいのか、と思うと自然に眉間に皺が寄る。

 仕方なく、奉仕部の部室に戻る為に廊下を歩いていると、背後から声を掛けられた。

 

「雪ノ下、ハンカチは見つかったかい?」

 

 声を掛けてきたのは静だった。雪乃は振り返り、静の呑気そうな顔を見る。

 

「おや、浮かない顔だね。どうやら、見つからなかったか」

 軽い物言いが少し癪に触るが、図星を指されて不機嫌になる様子を見せるのは嫌だったので、雪乃は気持ちを落ち着ける様に長い息を一つ吐いた。

 静は歩を進めて、立ち止まっていた雪乃に並ぶと、「ま、とりあえず部室に行こうか」と言って雪乃を促した。

 廊下を並んで歩く二人。部室まであと数十歩といったところで、静は徐ろに言った。

 

「人生には、上手くいかないこと、思い通りにいかないことが、幾らでもある。雪ノ下、勿論、君にもだ」

 

 雪乃は僅かに顔を顰めたが、歩みは止めなかった。

 歩みを止めれば、それは敗北を意味する様な気がしていた。何に負けてしまうのかはよくわからないが。

 

「姉は……雪ノ下陽乃は、全てを自分の思い通りにしている。そんな気がします」

 

 それを聞いた静は微笑みながら首を横に振った。

 

「そんな事はないさ、あの娘も普通の人間だ。君と、何も変わらない」静の声音は優しかった。

 

 雪乃は納得がいかない所もあったが、とりあえず反論はしなかった。

 部室に着くと、雪乃はドアをノックした。中から結衣の「どうぞ〜」という間延びした声がする。

 ドアを開けて中に入ると、八幡は雪乃が部室を出て行ったときと同じ場所に座っていた。手には現国の教科書がある。

 八幡は、雪乃と静が部室に入ってきたのを見遣ると、教科書をパタリと閉じた。

 

「明日からは、暇潰しの本を持ってきた方が良さそうだ」

 

 八幡は皮肉気に口角を少しだけ上げた。

 雪乃はさっさと、長机を挟んで八幡の対面にある自分の席に座る。雪乃の右斜め前には、結衣が畏まった様子で膝の上に手を置いて座っている。

 静は、部室の中程まで歩くと、腕を組んで八幡、結衣、雪乃の顔を順に眺めた後、厳かな雰囲気で言った。

 

「さて、私が提示したルールは『ハンカチを手にしたものが部長』ということだったわけだが」

 

 静が八幡の方へ目を遣る。

 

「暇を持て余して教科書を読んでいたという事は、比企谷は早々にハンカチを見つけたのかな?」

 

 言われた八幡は椅子を少し引いて席を立った。くるりと踵を返し、ドアの方へ歩いて行く。

 静は怪訝な表情になってそれを眺めた。

 

「ハンカチがある場所は把握している。しかし、そこは俺には触れる事が出来ない場所だ。残念だが、部長は俺ではない」

 

 八幡は振り返りもせず、そう言い残して部室を出て行った。

 何故八幡が部室を出たのか、雪乃にはわからなかった。

 ハンカチが何処にあるのかわかっている様な口振りであったことから、もしかしたらハンカチを取りに行ったのかとも思ったが、彼は、自分には触れる事が出来ない場所にあると言った。それはどういう事なのか。

 雪乃が悩んでいると、リボンタイを取り、ブラウスのボタンを胸元の当たりまで外す結衣の姿が目に写った。

 

「由比ヶ浜さん? 何を」しているの、と続く言葉は雪乃の口から出る事は無かった。

 

 結衣は右手の人差し指と中指を自らの胸の谷間に突っ込むと、そこから白いハンカチを取り出す。

 そして、そのハンカチを両手でしっかり持ち、顔の前で掲げると、雪乃と静に、ハンカチに書かれた『部長』という字を見せた。

 

「部長のハンカチを持ってるのは、あたし! だから、部長はあたし!」

 

 突然の結衣の部長就任宣言に困惑する雪乃。対して静はお腹を抱えて大声で笑い出した。

 

「あはははは! そ、そう来たか! ぷっ、あははははは」

 

 大笑いする静は放っておいて、結衣は顔の前で掲げたハンカチをそっと下げると、雪乃の顔を眺めた。

 

「あの、ゆきのん、あたしが部長じゃ、ダメかな?」

 

 恐る恐るといった様子で言う結衣に、唖然としていた雪乃は、表情を引き締め直し、目を閉じた。

 

「……成る程、確かに、由比ヶ浜さんが部長になるのが、一番バランスが良いのかもしれないわね」雪乃はそう言って、少しだけ微笑むと、目を開けて結衣に視線を向けた。

「ルールは納得していたわ。四十五分後にハンカチを持っていた人が部長。ならば、今ハンカチを持っている由比ヶ浜さんが部長というのも、ルール通りなのね」

「あたしが……部長で良いの?」

「ええ、由比ヶ浜さん。あなたに部長になってもらうわ」

 

 雪乃の言葉を聞いた結衣は、「ゆきの〜ん!」と叫んで、彼女に抱きついた。

 

「ちょ、ちょっと! 由比ヶ浜さん、とりあえずブラウスのボタンは閉めなさい!」

「仲良き事は美しき哉。とはいえ、外で待っているであろう比企谷が可哀想だ。さっさとボタン閉めなさい」

 

 二人に言われた結衣は笑顔で「は〜い」と応えてボタンを閉めた。

 リボンタイも付け直したところで、静は部室のドアを開けて、八幡を呼んだ。

 八幡が自分の椅子に座ったところで、静は片目を閉じて訊ねた。

 

「比企谷、君はこうなる事を読んでいたのか?」

「まあ、大体はな。着地点としては、こんな所だろう」

 

 静は八幡の事を、個人主義的で他人に興味を抱かないタイプだと思っていたが、意外と周りのことを観ているのだな、と目を瞬かせた。

 結衣は、少し恥ずかしそうに、おずおずと手を挙げた。雪乃、八幡、静の目が、結衣の方に向く。

 

「あの、部長になって早速なんだけど、提案があるの」

 

 結衣は、注目を集めて照れたのか、頬に赤みを帯びている。

 

「ポスター、作ろうよ! 依頼募集のポスター!」

「ポスター?」雪乃が疑問符を浮かべる。

「ほら、依頼、全然こないじゃない? それって、この学校の皆が奉仕部を知らないからだと思うの。ポスター作って部活動案内掲示板で宣伝すれば、依頼も来るんじゃないかなって」

 

 結衣の言葉に、納得する様に数回頷く雪乃。

 雪乃自身も、全く依頼が来ない今の状態は、あまり歓迎していなかった。

 

「ほう……もう少し考え無しかと思っていたが、中々、良い提案をするじゃないか、由比ヶ浜部長」

「ちょ、ヒッキー! バカにすんなし! あたしだって奉仕部の事を色々考えてんだからね!」

 

 八幡の皮肉混じりの感心に、結衣は心外そうに返した。

 

「姫菜がね、漫研に入部したらしいから、ポスターのイラスト描くの手伝ってってお願いしてみるよ。姫菜って、すっごく絵ぇ上手いんだよ」

 

 そう言って、結衣はポケットから取り出した携帯を操作した。

 静も「ポスター作りか、面白そうだな」と言って、部室の隅から椅子を引っ張りだして座った。顧問である自分もポスター作りに参加するつもりらしい。

 

 数分後、画材一式を持って現れた姫菜は、椅子に座っている八幡の肩をポンと叩き「天の道くんも奉仕部に入ったんだねえ」とチェシャ猫の様な笑みを浮かべて言った。

 

「それがどうかしたか?」

「いやいや、別にどうってことはないんだけどね」

 

 八幡の質問を適当にはぐらかして、姫菜は長机の上に画材を並べていく。

 ペンやコピックやポスターカラーなど、描く為の道具は揃っていたが、肝心の紙は無かった。

 

「漫画用のケント紙とかならあるんだけど、ポスターには向かないよねえ。紙どうしよっか?」姫菜が奉仕部の面々を見渡す。

「画用紙で良ければ、職員室にあるぞ」

「そうなんですか? じゃあ、あたし取ってきます。待ってて!」

 

 静の言葉を聴いた結衣は、善は急げと職員室に駆け出していった。

 

「騒々しい奴だ」八幡が呆れた様にポツリと零す。

「まあ、部長になったという事で張り切っているんだろう。可愛らしいじゃないか」

 

 静が言うと、姫菜が驚いて眉を上げた。

 

「結衣が部長なんだ。へえ〜」

 

 驚いた割に、姫菜はそれなりに納得している様で、腕組みしながらうんうんと頷いた。

 

 結衣が職員室から貰ってきた画用紙に、姫菜がささっと当たりを付けて、中央やや下よりに総武高校の制服を着た三頭身のキャラクターを三人描いた。

 真ん中には満面の笑みを浮かべる結衣らしきキャラクター、右には斜に構えた様な八幡、左には腰に片手を当て、したり顔の雪乃が描かれている。

 

「この右にいるちんちくりんが俺か? 八頭身にしてくれないか」

「ん〜、八頭身だと写実的にしないと途端にオタくさくなっちゃうからね。三頭身くらいのデフォルメ絵の方が逆にアーティスティックなんだよ」

 

 八幡の注文を一蹴する姫菜。描いてもらっている立場の八幡は、そう言われると納得せざるを得ない。

 

「私がいないぞ。私も描いてくれ」

「先生も描くの? こういうのは奇数の方が収まりが良いんだけど。ほら、戦隊モノも三人か五人じゃん?」

「戦隊モノなら追加戦士は付き物だろう? 四人目の新たな戦士として顧問がいたって良いじゃないか」

 

 静にそう言われ、左手を顎に当てて思案する姫菜。数瞬悩んで、中央から少し離れて右の方に新たにキャラクターを描き足した。

 脚と腕を組んでパイプ椅子に座り、ニヒルな表情で部員三人を見守るデフォルメ静が描かれると、現実の静も同じポーズと表情を見せた。

 

「んじゃ、あとは背景に学校を連想させる様な小物とか描いていこう」

 

 姫菜が他の四人に言うと、雪乃と結衣がペンを手に取った。

 

「先生とヒッキーは描かないの?」

「あまり大勢で一枚の紙に描くのも難しいだろう? 海老名はまだキャラクターに着色するつもりだろうし」

 

 結衣が訊ねると、静が答えた。姫菜はコピックでキャラクターに色塗りを始めている。

 

「学校を連想させる様なものって、例えばどんなものかな?」

 

 ペンを取って姫菜の右隣を陣取ったものの、何を描けばいいか思いつかない結衣。

 

「何でもいいよ。文房具とか、教科書とか。あ、紙の上の方と右下は空けといてね」

 

 姫菜は左手の人差し指で、上部と右下の空白をさっと指し示した。

 

「依頼者募集の宣伝文句を書くのね?」空白部分に何を書くのかピンときた雪乃が言い当てる。

「そう。それと部員の名前ね」

「私の名前も書くぞ〜。顧問だし」

 

 静は姫菜が描いた絵を余程気に入ったのか、絵と同じポーズのまま呟いた。

 

「姫菜の名前も書こうね。ポスター作成協力って」

 

 結衣が微笑みかけると、姫菜は着色の手を止めずに笑顔で頷いた。

 

 

 

 奉仕部のポスターが完成した次の日、二年D組の女子生徒、岬祐月は、職員室から出てきたところで自身が所属する部活の後輩の姿を見つけた。

 

「アキラ、そんな所で何してるの?」

 

 アキラと呼ばれた後輩は、部活動案内掲示板を眺めていた。岬に声をかけられて驚いた様に振り返る。

 

「まさか、どこか他の部活に転部しようってんじゃないでしょうね」

 

 岬は悲しそうに眉根を寄せた。岬とアキラは同じ中学の出身で、中学生の時から同じ部活の先輩後輩の関係だった。

 そういう事情もあって、岬はアキラに他の後輩以上の親しみを感じていた。

 

「三年が引退したら、一年の貴方も主力になるんだから、辞めないでよ」

 

 アキラは、苦笑しながら首を横に振る。

 

「違いますよ。これ、見てたんです」

 

 岬は、アキラが指差した先に目をやった。可愛らしいキャラクターが描かれたポスターが貼られている。

 ポスターの上部には『あなたの悩み、奉仕部に相談してみませんか? 我々奉仕部は、問題解決へのサポートを致します』と楷書体で書かれていた。おそらく筆ペンで書いたと思わしきその字は、なかなか達筆だ。

 

「貴方、何か悩みがあるの?」

「いやいや、そんなことは無いんですけど。ほら、右下に見覚えのある名前があったんで」

 

 言われてポスターの右下を見ると、

 

 

顧問 平塚静

部長 由比ヶ浜結衣

部員 雪ノ下雪乃

   比企谷八幡

 

ポスター作成協力 海老名姫菜(漫画研究会)

 

 

 と、部員の名前が並んでいた。その中に、岬にも覚えのある名前があった。

 その名前を指差しながら、「この子、私達と同じ中学だった子よね。貴方の友達の」とアキラに訊ねる。

 

「友達ってわけじゃないんですけどね」

「そうなの? 結構仲良さそうにしてたじゃない」

 

 岬の記憶では、友達の様に仲良くしていたと思ったが、アキラは否定する。

 

「面と向かって言われましたから、友達じゃないって」

「そ、それは……なかなか辛辣なのね。あの子」

 

 仮に友達じゃない相手でも、面と向かってそんなことは言えないな、と岬は思った。

 

「協調性とかあんまり無い奴ですから、部活に入るなんてどういう風の吹き回しだろう、と……ああ、でも人助けとかは意外と好きな奴だから、この部活内容なら入部するのもわからないでもないか」

 

「お悩み相談ねぇ」

 

 岬は、ポスターを眺めながらポツリと呟いた。



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お化粧研究部編1話

 世間はゴールデンウィークだと浮かれ気分で騒いでいるが、雪ノ下雪乃には特に予定らしきものは何もなかった。

 連休だからと実家に帰っても面倒な姉に絡まれそうで嫌だったし、共に過ごす友人もあまりいない。

 『あまりいない』というのは、友人が全くいなかった去年などと比べると格段の進歩ではあるのだが、友人を遊びに誘うという様な経験がない雪乃は、結衣に対してどういう風に誘えば良いのか、全く見当がつかなかった。

 とりあえず午前中は勉強でもしておこうかと参考書を開き、すらすらと問題を解いていく。

 参考書のページを何度か捲ったところで、机の上に置いていた携帯が震えた。画面を見れば、結衣からのメールが来ている。

 メールの内容は、遊びの誘いだった。

 500円のケーキセットを食べに行こう、優美子と姫菜も来るよ〜、と可愛らしい絵文字と共に書かれたメールを見て、雪乃の表情が少し綻ぶ。

 メールには、集合場所も時間も書かれていない。電話して訊いてみようか、と携帯を操作していたところに着信がかかった。

 結衣からの着信かと思ったが、表示されたのは面倒な姉の名前だった。

 

「もしもし」雪乃は仕方なく、電話に出る。

「あっ、もしもし雪乃ちゃーん? 暇でしょ、暇だね? 絶対暇だ! というわけでお姉ちゃんとデートしない? 世界の花展のチケットがあるんだけど」

 

 暇だと決めつけている陽乃に一瞬苛つくが、結衣たちと遊びに行くという予定を得た雪乃は、余裕の構えで陽乃に言葉を返した。

 

「何が『というわけ』なのかわからないけれど、友人と出掛ける予定があるから、残念ながら姉さんと遊んでいる暇はないわ」

「嘘!? 雪乃ちゃんにお友達が出来るなんて大事件じゃない!」

「別に、友人くらい大した事ではないわよ」

「ちょっとちょっと、そのお友達お姉ちゃんに紹介しなさいよ」

「嫌よ。友人と遊ぶのに姉同伴だなんて恥ずかしいわ」

「雪乃ちゃんのお姉ちゃんは何処に出しても恥ずかしくないお姉ちゃんだと思うなぁ。ほらほら、お友達と遊ぶんならお姉ちゃんも一緒に」

 

 早口で捲し立てる陽乃には構わず、雪乃は「じゃあ、またね。姉さん」と言って通話をきった。

 親指をささっと走らせ、結衣の番号に電話する。

 ひとつ、ふたつ、とコール音が鳴る度に、なんだか少しだけワクワクしている自分に気がついて、雪乃は友人というのも案外悪くないものだと思った。

 

 

 

 比企谷小町の学業成績は、然程悪いわけではない。別に、連休中に必死になって勉強しなければならない理由はないはずだ。

 しかし、現在小町は家庭教師役の兄の前で、難問に頭を抱えながら勉強していた。

 テーブルの上には八幡が用意した、高さ五十センチ、横幅八十センチのホワイトボードがあり、其処には幾つかの連立方程式が書いてあった。

 ちなみに、これが解けたら次の問題が矢継ぎ早に追加される。

 小町は朝から国語に英語に数学に、と合間に多少休み時間を挟みながら学校と同じ時間配分で勉学に励んでいた。

 当然、教師は全科目八幡である。

 小町がホワイトボードに書かれた連立方程式を全て解いた時、八幡は問題をさっとイレーザーで消し、次の連立方程式をすらすらと書いた。

 

「お、お兄ちゃん、これ解けたら勉強終わりにしない?」

 

 弱々しく提案してきた小町に、八幡はちょっと頑張らせ過ぎたか、と反省する。

 時計に目を向ければ、二時を過ぎている所だった。

 中学校ならまだ五時限目といった所だが、教師一人に対して生徒数十人の授業よりも八幡のマンツーマン指導の方が勉強の密度と疲労度は上だった様だ。

 

「そうだな。今日の勉強は終了で良いか」

「きょ、今日の勉強はって事は、明日も今日と同じくらい勉強するって事?」

「勿論。今年のゴールデンウィークは二日余分に休むからな。二日分勉強しておかないと小町の学習に遅れが出てしまう。あと、宿題もやらないとな」

 

 小町は表情を歪ませながら俯いた。そんな小町を見て八幡は「しょうがないな」と言いながら、ポケットから二枚のチケットを取り出した。

 

「喜べ小町。今年も千葉に世界の花展がやってきたぞ」

 

 八幡の言葉を聴いて、小町はパッと顔を上げ、華やぐ笑顔を見せた。

 

「やったぁ! 行こう行こう、早速行こう!」

 

 一転してテンション最高潮の小町に対して八幡は苦笑しながら「この問題が解けたらな」と、ホワイトボードを指先で示した。

 

 

 

 

 

 世界の花展の会場となったテーマパークには、特設のカフェテラスが設置されていて、その一席には優雅にフラワーティーを飲む雪ノ下陽乃と平塚静の姿があった。

 カフェテラスの周りを取り囲む様に置かれた各種薔薇の鉢植え達が静の鼻腔をくすぐる。

 静の対面に座って上品にティーカップを傾ける陽乃は、カップを厳かに丸テーブルに置くと、微笑みを湛えながら呟く様に言った。

 

「成る程ね。雪乃ちゃんにお友達なんて、どういう風の吹き回しかと思えば、やっぱり静ちゃんが一枚噛んでたか」

「一枚噛んでた、なんて言い方は違うな。私はただ、お前の妹に居場所を作りたかっただけだ」

「でもさぁ、その由比ヶ浜って子が雪乃ちゃんに相談する様に仕向けたのも、比企谷って子が奉仕部に入部したのも、静ちゃんの差し金じゃない」

 

 そう言われれば反論のしようもないが、静としては結衣が奉仕部に入部したのは予想外だったし、八幡は入部はしたものの別に雪乃の友人になったわけではない。

 

「しかし、妹ばかり気にかけていて大丈夫なのか? 折角の連休にかつての恩師と出掛けるとは、大学で友達は出来たか?」

「自分で自分のこと恩師って言ったら台無しだよ、静ちゃん。それに、友達ならいっぱいできたよー。それこそ名前も覚えきれないくらい」

 

 名前も覚えていない相手は友達とは言わないだろう、と静は相変わらずな様子の陽乃に内心でため息をついた。

 テーブルの上で湯気を立てるティーカップを手に取り、音を立てない様に飲む。

 折角、世界の花展なるものに来たのだから、と普段は飲まないフラワーティーなどというお茶を注文してみたが、静の口にはあまり合わなかったようだ。

 気取らずに普通の紅茶にしておけば良かったと少し後悔した。

 陽乃のカップが空なのを見遣って、静もカップを干す。

 

「さて、そろそろ帰るか。花も一通り見たし、誘ってもらっておいて悪いが、私の様な女に花は似合わないしな」

 

 静が自嘲気味にそう言うと、背後から「そんな事はないと思うが」という声が上がった。

 聴き覚えのある声に驚いて、静は振り返る。果たして、視線の先にいたのはやはり八幡だった。

 静の席からは死角になっているテーブル席で、脚を組んで椅子に座っている八幡の対面には、見覚えのない女の子もいる。

 

「おばあちゃんが言っていた、花は全ての女性を輝かせるってな。それは平塚、お前も例外ではない」

 

 気障ったらしく皮肉気な笑みを浮かべて言う八幡。

 静の頬に朱みが差した。

 

「お、おま、お前、比企谷! 先生を名指しで呼び捨てにするなって言ったろ! というか、私が花で輝くのか! 輝いてるのか私!」

 

 静はテンパってよくわからないことを叫ぶ。ふと、八幡と同じテーブルに座る女の子に目を向けた。

 

「比企谷、お前、何故ここにいる? それと、そこにいる女の子は誰だ?」

 

 すわ、恋人とデートか。私は恋人なんかいないのに、と俄かに落ち込む静。

 

「最愛の人と花を見に来たら、たまたまお前がいただけだ」

「や、やはり恋人か……」

 

 眉根を寄せて戦慄する静。

 陽乃は「静ちゃんは相変わらず面白いなぁ」と懐かしげに呟いた。

 

「お兄ちゃん、外でシスコンは止めてって言ってるでしょ」

 

 八幡の最愛の人こと小町は、唇を尖らせながら兄を窘めた。

 

「お兄ちゃん? シスコン? つまり、妹か。ふはははは! ゴールデンウィークに妹とデートとは、寂しい奴だな比企谷!」

 

 静は自分の事は棚に上げて、勝ち誇ったように笑う。

 そんな滑稽な静の姿をもう少し眺めていたいとも思う陽乃だったが、雪乃と同じ奉仕部に所属しているという八幡の事が気になって、口を挟む。

 

「静ちゃーん、そっちの彼、さっき名前が出た比企谷くんなんだね。紹介してよ」

「え、ああ、そうだな」静は頷いて、陽乃を指差し「比企谷、こいつは雪ノ下陽乃。雪ノ下雪乃の姉で、総武高校の卒業生だ。お前の先輩だな」と言った。

「初めまして、比企谷くん。雪乃ちゃんと仲良くしてくれてるらしいね。よろしく」

 

 陽乃がそう言って席を立ち、八幡の方に近づいて握手しようと手を出すと、さっと席から立ち上がった小町がその手を握った。

 

「どうもどうも、比企谷小町と申します。比企谷八幡の妹でーす」

 

 各テーブルに椅子は四脚ずつ備えてある。小町は八幡の隣の余っている椅子を引くと、「どうぞどうぞ」と言って陽乃に座るよう勧めた。

 

「ありがとね、妹ちゃん」陽乃は席に着くと、八幡の相貌を眺めた。

「そちらの大人のお姉さんも、どうぞ」小町は静にも椅子を勧める。

「ああ、これはどうも。あと、私はお兄さんの担任の平塚静だ。気軽に、平塚先生と呼んでくれたまえ」

「は〜い、平塚先生」

 

 静は勧められた椅子に座りながら、八幡の妹とは思えない素直な性根の小町に感心した。

 妹はこんなにいい子なのに、兄はなぜこんなんなのだ、と疑問が過る。

 

「平塚先生、兄がお世話になっております。目上の方にも敬語を使わないような兄ですが、根は優しくていい人なんです。どうぞよろしくお願いします」

 

 頭をさげる小町に、静は感動を覚える。

 

「比企谷の妹という事は、中学生かな? 君のような子には、是非とも総武高校に入学してもらいたいものだ」

「ええ、出来れば兄と同じ高校に入れたら良いなと思ってます。まだ中学二年生なので再来年の話になりますが」

 

 静は、この子が私の生徒だったら良いのになあ、とぼんやりと思った。

 その傍らで、陽乃は半ば睨めつける様な視線で八幡を観察していた。

 不意に、そんな陽乃と八幡の視線が交錯する。数瞬、とも言えないごく短い時間で、両者は相手がどんな人間であるかを悟った。

 

 

 ーー初めて見たーー

 

 

 八幡と陽乃は異口同音に呟いた。

 

「ぷっ、あはははは! 比企谷くん、君、良いねえ、良いよ君!」

 

 降って湧いたように笑う陽乃に、静は困惑する。

 

「陽乃、突然どうした?」

「う〜ん、比企谷くんが中々にナイスな男の子だから、つい笑っちゃっただけ。さ、そろそろ帰ろっか、静ちゃん。お会計お願いね」

 

 陽乃は、さっき座ったばかりだというのに、用は済んだという風に席を立った。

 

「え〜、もう帰っちゃうんですか?」

 

 小町は、もう少し話したいのか、少々顔を曇らせた。そんな小町に陽乃は微笑みかける。

 

「うん、またね、小町ちゃん。比企谷くん、雪乃ちゃんによろしく。あの子とは仲良くしてあげてね」

 

 そう言うと、陽乃はさっさと帰ろうとした。慌てて静が呼び止める。

 

「陽乃、私は奢るなんて一言も言ってないぞ」

「お茶代くらい奢ってよ、恩師〜」

 

 ここぞとばかりに恩師などと言う、調子の良い陽乃に、静は少しだけ顔を引きつらせる。

 

「全く、教師は安月給なんだぞ」

 

 ぶつぶつと文句を言いながらも、静はさっき迄自分達が座っていたテーブルから会計票を取り、レジへと向かった。

 

「雪ノ下姉」八幡が陽乃に話しかける。

「雪ノ下姉なんて呼ばずに、陽乃ちゃん、と呼んでくれて構わないよ」

「じゃあ陽乃」

「おう、遠慮のない子だね」

 

 意外と名前で呼び捨てられた事があまりない陽乃は、ちょっと新鮮な気分になる。

 

「お前、シスコンだろう」

 

 にやり、と笑いながら指摘する八幡。陽乃も呼応するように笑みを向け「君と一緒さ」と、そう言い残して帰って行った。

 

「お兄ちゃん、雪ノ下さんって、少しだけおばあちゃんに似てたね」

「ああ、少しだけな」

「でも、お兄ちゃんにも似てるかも」

「どうかな、少なくとも、雪ノ下妹と小町はあまり似ていないが」

「雪ノ下姉さんは、シスコンなんだね?」

「ああ、かなりのシスコンだ」

 

 兄妹が陽乃の印象を語り合っているところに、会計を済ませた静が戻ってきた。

 

「あれ、陽乃は?」

「もう帰っちゃいましたよ」

 

 小町が応えると、静は「アイツめ、少しくらい待ってくれても良いのに」と不満気に呟く。

 

「じゃあな、二人とも」

「待て平塚、丁度良いから先に言っておくが、ゴールデンウィーク明け、二日ほど欠席する」

「欠席? どういうことだ」

「家庭の事情だ」

 

 静としては、その『家庭の事情』とやらが何なのかも聞いておきたかったが、担任とはいえあまりプライベートを詮索しすぎるのも良くないか、と思いとどまる。

 

「わかった、二日だな。それ以上は休むなよ」

「ああ、ではまたな。平塚」

「うむ、また学校で。あと呼び捨てやめろ」

「平塚先生、さようなら」

「さようなら、小町ちゃん。君は兄のようにならない事を祈るよ」

 

 静は陽乃に追いつこうと、足早にカフェテラスを跡にした。

 

「お兄ちゃん、家庭の事情なんて言って良かったの? ゴールデンウィーク明けって、フランス旅行でしょ?」

「家庭の事情でフランスに行くんだから、何の問題も無い」

 

 八幡はローズティーの入ったカップを傾けた。ほんの少しだけ冷めていた。

 

 

 

 小走りで陽乃に追いついた静は、気になっていた事を質問した。

 

「陽乃、さっき言っていた『初めて見た』とは、どういう意味だ?」

 

 陽乃と八幡が声を合わせて言った内容に、静は合点がいかなかった。

 初対面なのだから『初めて見た』というのも間違いでは無いが、あのタイミングで二人同時に呟くのは、異様な気がした。

 

「ん〜? わかんないの、静ちゃん」

「ああ、わからん」素直にお手上げする静。

 

 そんな静に対して、出来の悪い生徒を窘める様な態度で陽乃は答えた。

 

「比企谷くん、太陽みたいな子だったでしょう?」

「比企谷が、太陽?」

 

 確かに、天の道がなんだと言っているのは聞いたことがあるが、太陽みたい、というのは静にはよくわからない話だった。

 

「あんな太陽みたいな子『初めて見た』」

 

 陽乃は人差し指を空に向け、笑顔を浮かべた。

 

「そういう意味で言ったんだよ、静ちゃん」

 

 そう言われても、静はすんなり納得できなかった。

 しかし、とりあえず、陽乃と八幡は少し似ている、と心の内でそう思った。



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お化粧研究部編2話

 ゴールデンウィークの最終日、春の陽気に誘われて、お気に入りのサマーニットキャップをかぶった中山百合子は、相棒と共に公園に出かけていた。

 その公園は野球場や球技場などが何面もある大きな複合施設で、森林生い繁る散歩道は目的もなく歩いているだけでも晴れやかな気分になるものだ。

 しかし、百合子の気分はイマイチ晴れてはくれなかった。相棒の気分も同様である。

 家の中でダラダラと過ごすのにも飽き飽きしていたが、散歩道をダラダラ歩くのにも飽きてしまった。

 今は、風と共に木洩れ日が揺れるベンチで二人、ダラダラと休んでいた。

 

 木製の白塗りベンチに腰掛けた百合子は、膝の上にのせた相棒の頭を撫でている。

 相棒はその長身痩躯をベンチに横たえ、タイトジーンズを履いた長い脚を放り出していた。

 商売道具が詰まったハードカバーのギターケースはベンチの足元に、そっと置かれている。

 

「ねぇ、カズ?」

「なんだよ、ゴン」

 

 カズと呼ばれた相棒は、目を閉じたまま気だるげに答えた。

「それだよ」

「ん? どれだよ」

 

 百合子の言葉は要領を得ない。それ、と言われても何のことだかカズにはわからなかった。

 

「私のこと、ゴンて呼ぶのやめようよ。私達もう高校生じゃん? ゴンは恥ずかしいって」

「ゴンはゴンだろ? それよりカズって呼ぶのやめてくれないか?」

「えー、何で? カズってあだ名かっこいいじゃん。キングカズみたいで」

「ゴンだってかっこいいだろう。ゴン中山みたいで」

 

 女子高生に対してゴン中山はどうなんだ、と中山百合子はカズの事は棚に上げて思った。

 まあ、当分はゴンでもいいか、と一人納得していると、ベンチから20メートル程離れたところで二人の男がもめているのが目に写った。

 一人は、絵の具を頭からかぶったような発色の赤髪で、ヒョウ柄のパーカーに黒いエナメルのロングパンツという、いかにもチンピラでございといった風体で、太めの体格の男だ。

 そして、もう一人は総武高校のジャージを着た少年だった。明らかに、ジャージ少年がチンピラに因縁をつけられている様子だ。

 

「大変だよ、カズ。総武高の子が、チンピラに絡まれてる」

「女性か?」

 

 カズは閉じていた目をカッと見開いた。視線の先には百合子の細い顎が見える。

 しかし、百合子の「男の子」という返答を受けると、また目を閉じた。

 

「ほっとけ。男なら自分でなんとかするだろ」

 

 ジャージ少年はカツアゲでもされているのか、チンピラに胸倉を掴まれている。

 そこへ、総武高校の制服を着た女子生徒が割って入る。どうやら、見兼ねて救けようとしているらしい。

 

「あ、女の子が仲裁に入った」

「行くぞ! ゴン!」

「おっけー! カズ!」

 

 カズは颯爽と起き上がり、ギターケースを引っ掴んで駆け出した。

 そのすぐ後ろを百合子が追い掛ける。

 チンピラは標的を少年から女子生徒の方に替えたようで、少年は一目散に逃げ出してしまった。よくよく見れば、少年はカズと同じクラスの生徒だった。

 カズは、チンピラも少年も男の風上にも置けない奴だ、と舌打ちする。

 チンピラが女子生徒に殴りかかろうとしたところに間一髪間に合ったカズは、体を割り込ませてギターケースでチンピラの拳を受け止めた。

 

「ちっ! 商売道具で受けてしまった!」

「なんだぁ? テメエ」

 

 突如現れたカズに、チンピラが困惑していると、背後から近付いた百合子がその赤頭に目隠しをする様にサマーニットキャップをかぶせた。

 

「ナイスだ! ゴン!」

 

 カズは言いながら、チンピラの金的を蹴り上げる。

 

「ぶげっ」というくぐもった呻き声を上げ、チンピラは地面に伏せた。

「さあ、今の内に逃げますよ! お嬢さん」

 

 女子生徒を連れて、カズと百合子は公園の出口に向かって走った。

 公園を出て五分ほど走ったところで、此処まで来れば大丈夫だろう、と三人は足を止める。

 

「救けてくれてありがとう。怖かったわ」

 

 女子生徒はホッとした様子で言った。それに対してカズは、気障な笑顔で応じる。

 

「なに、可憐な乙女を救けるのは当然です」

「か、可憐な乙女って……貴方だって女の子じゃない」

 

 『カズ』こと風間和美。総武高校一年B組に所属する、歴とした女子高生だった。

 

 

 

 

 

 昼下がりでお茶には丁度良い時間という事もあって、救けて貰った御礼に御馳走すると言われた和美と百合子は、女子生徒に連れられてカフェに入った。

 彼女の奢りで、ケーキセットを三つ注文する。このカフェのケーキセットは好きなケーキに紅茶かコーヒーが付いて500円と、女子高生のお財布にも優しいリーズナブルな価格だ。

 女子生徒は野球部のマネージャーをしていて、今日は公園の野球場で練習試合があったらしい。

 女子生徒は名前を、岬佑月と名乗った。

 

「岬さん、総武高ですよね? 私達も総武高校なんです。何年生ですか?」百合子が訊ねる。

「二年よ」

「やはり先輩でしたか。貴方の様な美人が同学年にいれば、私の眼に留まらないはずが無い」

 

 髪型はベリーショート、メンズのサマージャケットにタイトジーンズを履いた和美は、ともすれば男装の麗人に見える。

 そんな和美に美人だと褒められれば、悪い気はしない岬だった。

 

「私の方が先輩ってことは、二人共一年生?」

「ええ、一年B組、風間和美です」

「私は中山百合子、一年D組です」

「因みにあだ名はゴンです」和美は百合子を指差して言う。

「因みにあだ名はカズです」返す様に、百合子も和美を指差して言う。

「カズなんてあだ名は嫌だ」

「私だってゴンはヤダよ」

 

 和美と百合子が顔を見合わせて言ったところで、岬が噴き出して笑った。

 

「仲良いのね、二人共」

「ただの腐れ縁ですよ。中学から一緒なので」

 

 和美が言うと、岬は更に笑顔を深めた。

 岬の笑顔を見た和美は、なにやら納得する様に一つ瞬きした。

 

「やはり、美人には笑顔が似合う。特に、岬さんの笑顔は……えー、えっと……その笑顔は……」

 

 調子良く褒めていた和美が言葉を詰まらせると、「ダイヤモンドの様に輝いている」と百合子が続く言葉をフォローした。

 

「そうそう、それそれ」百合子のナイスなフォローに和美は微笑みながら頷く。

 

 そうこうしていると、ウェイトレスが注文した品を運んできた。

 和美はチーズケーキ、百合子と岬はフルーツタルトを頼んでいた。飲み物は三人共紅茶だ。

 

「さあ、遠慮なく食べて。と言っても、ワンコインのケーキセットなんだけど」

「いえいえ、大した事はしてませんから。奢っていただいて、お礼を言わなければならないのはこちらの方です」

 

 和美が遠慮がちに言うと、百合子も同意する様に頷いた。

 和美はケーキの皿に添える様に置かれたフォークを手に取り、チーズケーキを少しだけ切り取って食べた。

 女子高生の割にスイーツはそれほど好きでもない和美だったが、このチーズケーキは結構美味しいと思った。スフレ状に湯煎焼きされたそれはなめらかな口当たりで、甘味と酸味の調和も取れている。

 頬張ったチーズケーキが口の中で蕩けると、クリームチーズの爽やかな香りが、和美の鼻腔を抜けた。

 

「でも、中山さんなんてニットキャップを失くしちゃったじゃない。ニットキャップ代も払うわ」

 

 岬に言われて、フルーツタルトを食べる手を止めた百合子は、自分の頭を触る。確かにニットキャップはかぶっていなかった。

 

「あー! チンピラにかぶせたまんまだ!」

 

 今さら気付いた百合子が慌てた様に言うと、和美は「詰めが甘いな、ゴン」と呆れて呟いた。

 

「本当にごめんね。あのニットキャップ、いくらだった? 三千円で足りるかしら?」

「あ、いえ。岬さんが悪いわけじゃないですから、ケーキ奢って貰っただけで充分ですよ。あのニットも安物ですし」

 

 百合子は片手を顔の前で横に振りながら言った。

 

「でも……」岬は自分の財布の中身を確かめながらさらに言う。

「大丈夫です。あのニットキャップは百合子の誕生日に私がプレゼントした安物ですから。980円だったかな」

 

 和美の言葉を聞いて、百合子は内心で『え、本当に安物だったの!?』と驚いていたが、余計な事は言わないでおいた。

 

「誕生日プレゼントだったなんて……お金で弁償できるものでもないけど、これは取っておいて」

 

 申し訳なさそうにしながら、岬は百合子の前に千円札を置いた。

 百合子は、千円札と岬の顔を交互に見遣った後、困った様に和美に顔を向ける。

 和美は短く吐息をついて、『受け取っておけ』という意味でウインクした。

 

「あと、風間さんのギターは大丈夫だった?」

「ギターですか? ああ、これはギターではないんです」

 

 和美は傍に置いたギターケースを胸の前に持ってきて、岬に中身を見せる様に開けた。

 

「化粧品?」岬が驚きながら首を傾げる。

 

 果たして、ギターケースの中には様々なメイク道具が詰め込まれていた。

 和美はギターケースを膝の上に置き壊れた物が無いか確かめる。

 

「ふむ、壊れた物は無いようです。弁償してもらう必要は無さそうだ」

 

 ギターケースをバタンと閉めて傍に置き直すと、岬に顔を向けて安心させる様に頷いた。

 

「いつも、そんなに大量の化粧道具を持ち歩いてるの?」

 

 岬はベースメイクにパウダーファンデーションくらいしかしない。精々、ペンシルで眉毛を整えるのが精一杯のお洒落だ。

 ちなみに、今日は野球部の練習試合という事もあって思いっきり素っぴんである。

 和美のギターケースの中身は、そんな岬が良く知らないメイク道具が山程あった。

 

「実は、将来の夢がメイクアップアーティストでして」

 

 和美は少しだけ照れながら、ギターケースを眺めて言う。

 

「私達、総武高校にお化粧研究部を創ろうとしてるんです」

「将来の夢の為に、部活で練習しようってわけね」

 

 百合子が最近の目標を言うと、岬が合点した様に頷いて言った。

 

「残念ながら、創部には三人以上必要なので、人員があと一人足りないんですがね」

 

 表情に陰りをみせながら言う和美を眺めて、岬はちょっと困った様に顎に手を当て顔を俯けた。

 

「私が入部してあげられたら良いんだけど、兼部になっちゃうから、余りお化粧研究部の活動には参加できないかもしれないわ。幽霊部員でも、良いかしら?」

 

 申し訳無さそうに言う岬に対して、和美と百合子が同時に首を横に振る。

 

「気持ちは嬉しいですが、岬さんを無理にお誘いはしませんよ。今は、メイクに興味がある帰宅部の子を探してるんです」和美は岬に負担をかけない為にやんわりと断った。

「そうそう、顧問をしてくれる先生は見つかったんで、あとは部員を一人ゲットするだけなんです」百合子も補足する。

 

 岬は、それなら部員勧誘について何か良いアイディアはないだろうか、と尚も考える。

 そんな彼女の脳裡に、ふと先日見たポスターが過ぎった。

 

「奉仕部!」ポンと掌を合わせ、声を上げる岬。

「奉仕部?」疑問符を浮かべる百合子。和美も、よくわからないといった顔をしている。

「ええ、部活動案内掲示板に宣伝ポスターが貼ってあったんだけど、奉仕部っていう、お悩み相談所みたいな事をしてる部活があるの。私と同じ中学出身の後輩が部員にいるんだけどね、それほど親しいわけじゃないから詳しくは知らないけど、結構頼りになる子だと思うわ。相談してみたらどうかしら?」

 

 名案を思いついたという風に、岬は明るく言う。

 

「岬さんの後輩ですか。名前は?」和美が訪ねる。

「比企谷くんっていうんだけど、知ってる?」

 

 岬から出た名前を聞いて、百合子は先日、部員勧誘のビラを拾ってくれた男子の顔を思い出した。

 

 

 

 

 

 ゴールデンウィーク明けの総武高校は、連休終わり独特の何処か気の抜けた雰囲気が漂っていた。

 弛んだ空気に流される様に淡々と授業をこなした結衣は、放課後になると一つ気合いを入れて、職員室に部室の鍵を取りに行く。

 しかし、壁際の鍵掛けには既に、奉仕部の部室の鍵は無かった。

 雪乃の方が先に鍵をとったのだろうと理解した結衣は、足早に部室へと向かう。

 部室のドアをコンコンとノックすると、中から「どうぞ」という聴き慣れた声が返ってくる。

 

「今日はあたしが一番だと思ったのに、ゆきのん早いね」

「ええ、今日こそは依頼があるかもしれないもの」

 

 ポスターを作成したものの、まだ依頼者はやってこない。とはいえ、それはポスター作成後すぐにゴールデンウィークに入ってしまったからであって、ポスターによる宣伝の効果があるかどうかはこれからわかるのだ。

 いつもの様に、雪乃は鞄から本を取り出した。それを見て、結衣も嬉しそうに鞄から本を取り出す。タイトルはハリー・ポッター、ちなみに賢者の石。

 

「ゆきのん、今日はあたしも本持ってきたよ」

「そう、読書は良い習慣だと思うわ」

 

 結衣は照れた様に笑った。

 椅子に座って本のページを開くと、まあ、当然ながら文字ばかり目に写る。

 漫画にしとけば良かったかなあ、と結衣が少し後悔しつつも読み進めていると、部室にノックの音が響いた。

 結衣は驚きと共に、ドアの方へと視線を向ける。ポスターを貼った成果が出た、と彼女は喜んだ。



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お化粧研究部編3話

「ほら、由比ヶ浜さん、どうぞって返事しないと」雪乃は小声で部長である結衣に促す。

「ど、ど、どうぞ!」

「失礼します」

 

 声をかけて部室に入って来たのは、結衣には見覚えのある生徒。合同で体育の授業を受けているB組の、風間和美だった。

 その手には大きなギターケースが下げられている。

 

「失礼しま〜す」

 

 和美の後ろから続く様に入って来た生徒、こちらはよく知らない子だった。とりあえず結衣は面識のある和美に話しかける。

 

「かずみん、奉仕部に用事? 何か悩み事?」

「やあ、結衣さん。君、奉仕部だったんですね」

「うん、一応部長だよ」

 

 どうやら結衣の知り合いらしいと覚った雪乃。

 長机には先日、静や姫菜が座った椅子がそのままになっているので、雪乃は来客の二人に、「どうぞ、座って」と椅子を勧めた。

 

「ああ、ありがとう」

 

 ギターケースを床に下ろし、勧められた椅子に座った和美は「とりあえず自己紹介しておきましょうか、私は風間和美」と言った後、隣に座っている女子を指差し、「こっちは中山百合子、あだ名はゴンです」と続けて紹介した。

 

「ちょっと、カズ!」百合子が眉根を寄せて和美に注意する。

「これはどうもご丁寧に。あたしは奉仕部部長の由比ヶ浜結衣です」そして、結衣は雪乃を指差して、「こっちは雪ノ下雪乃ちゃん。あだ名はゆきのんだよ」と言った。

「ちょっと、由比ヶ浜さん!」雪乃も結衣に注意する。それを見て、百合子は同類をみつけたような気になり微笑んだ。

 

 とにかく仕切りなおそうと、雪乃は一つ咳払いする。

 

「それで、風間さんと中山さん、奉仕部にどういう用かしら?」

「うん、実は私たちは新しい部を創設したいと思っているんだけれど、その件について、知恵を貸してほしいんだ……所で、比企谷くんはいないのかな?」

 

 百合子が部室内を軽く見遣りながら言った。

 雪乃は、あの男はやはり有名なようだ、と嘆息した。間違いなく悪目立ちだが。

 

「そういえば、遅いわね。由比ヶ浜さん、同じクラスよね、何か知らないかしら?」

「ヒッキーなら、今日はお休みだよ」

 

 雪乃が結衣に訊ねると、彼女は即答した。

 

「部活だけじゃなくて、学校自体休んでるんだ。なんか、家庭の事情だって」

「家庭の事情ねえ」雪乃は困惑顔で呟いた。

 

 その事情とやらは、八幡の謎の祖母と何か関係があるのだろうか、雪乃はほんの少しだけ気になった。

 

「まあ、サボり谷くんのことは置いておきましょう。新しい部を創設したいという相談ならば、問題は部員数が一人足りないということね? 顧問の先生は決定しているのかしら?」

 

 奉仕部の創設時になんだかんだ一悶着あった事もあり、雪乃は心得た調子で和美に問いかける。

 

「顧問に関しては、B組の担任の小雀先生が引き受けてくれましたよ。小雀先生は合唱部の顧問でもあるので、兼任となるとほぼ名ばかりの顧問になるかもしれないとの事でしたが、引き受けてくれただけ有難い。しかし、部の創設には三人必要などという校則、よく知ってましたね」

「奉仕部も、色々あったからね」

 

 感心する和美に対して、結衣は感慨深気に頷いて応えた。

 

「話が早くて助かるよ。部員募集の、何かいい手はないかな?」

 

 百合子が訊くと、雪乃はひとつ頷いて応えた。

 

「まずは、貴方達が創設しようとしている部活動を周知させることから始めるべきね」

「部活動の周知、というと?」

 

 和美にはピンとこなかったようだが、結衣はすぐに承知して、雪乃に顔を向けて応えた。

 

「ポスターだね! ポスターを作ろう!」

「ポスターか、うん、それがいいかも。ただ、話が早すぎない? まるで私達の相談内容を予見してたみたいに話が進むんだけども」

 

 トントン拍子に進む会話に、百合子が疑問を浮かべる。

 

「予見していたわけではないわ。奉仕部にも、色々あったのよ」雪乃は感慨深気に呟いた。

 

 閑古鳥が鳴いていた頃よりは、忙しくなりそうだ、と雪乃は思った。

 

「ところで、かずみんたちが創ろうとしてる部って、なに部?」

「由比ヶ浜さん、それは愚問だわ。彼女はギターを持ってきているのよ。大方、軽音部かなにか……音楽系の」雪乃がそこまで言ったところで、和美はその言葉を遮るように、ギターケースを長机の上に乗せた。

 

「いいえ、我々が創ろうとしている部は、音楽系ではありません」

 

 和美はそう言うと、ギターケースを開いてその中身を雪乃たちに見せた。

 

「我々が創設する部は、お化粧研究部です!」

 

 和美の宣言に雪乃は呆然とする。少し話した限りではまともな人かと思ったのに、なんだか少し変な人だった。

 最近周りに個性的すぎるキャラクターが増えている気がする。雪乃は頭痛を堪えるように目を瞑って眉間に指を当てた。

 

 

 

 奉仕部の部室に、和美と百合子が依頼をしにきた時刻、比企谷八幡はフランスに居た。

 

「パリジェンヌ! タカラジェンヌ! ラルクアンシエル!」八幡の傍にいる小町が、何やらテンションを上げて騒いだ。

「小町、ここはブルゴーニュのディジョンだ。パリジェンヌやタカラジェンヌは関係ないし、虹(ラルクアンシエル)も出ていない」

 

 八幡は冷静に小町の間違いを指摘する。対して小町は人差し指を振りながら「ちっちっちっ」としたり顔。

 

「あのね、お兄ちゃん、国内旅行中のパリジェンヌがいるかもしれないし、ベルばらの空気を学ぶ為にフランスを訪れているタカラジェンヌがいるかもしれないでしょ? あと、ラルクアンシエルは適当に言ってみただけだよ」

 

 小町はフランスっぽい言葉を言ってみたかっただけだった。

 ベルばらの空気を学ぶなら、ディジョンではなくベルサイユに行くんじゃないか、と八幡は思ったが、あえて言う事もあるまいと苦笑して頷いた。

 今、八幡と小町の兄妹はフランスの誇る美食の都、ディジョンを散策している。

 15、6世紀ごろ、或いはそれ以前に建築された建物を多く残すその街並みは、重厚な歴史の趣きを小町に感じさせた。

 シュエット通りと呼ばれるストリートを並んで歩く二人は、通りに面して建てられたノートルダム寺院の壁面にある『幸福のフクロウ』の彫刻の前で足を止める。

 

「お兄ちゃん、このフクロウを左手で撫でると幸運を招くらしいよ」

「そうか、なら小町はよく撫でておくと良い」

 

 小町はさっと手を伸ばしてフクロウのお腹を左手で撫でた。

 撫で終わると、八幡の方を向いて「お兄ちゃんは撫でないの?」と訊いた。

 

「俺はフクロウに頼らずとも、常に幸福だ。今だって、妹とフランス観光が出来て幸せだぞ」

 

 八幡は自信に満ち溢れた表情でそう言った。

 

「お兄ちゃんはフランスでもいつも通りだね〜」

 

 相変わらずシスコン全開の八幡に、半ば呆れつつ笑う小町。

 

「でも、お兄ちゃん、本当に学校休んで良かったの?」

 

 学校を休んでフランス観光というのは、小町としては望むところだ。

 しかし、妹に甘い様で、勉学や素行に関しては意外と厳しい所もある八幡にしては、学校を休んで旅行とは珍しい事だった。

 

「本当は、ゴールデンウィークに予約が取れたら良かったんだがな。今日のディナーで行く店は、数年単位で予約がうまっている名店なんだ」

「おばあちゃんオススメのフレンチレストランなんだよね?」

「ああ、昔おばあちゃんが言っていただろう? 本当に美味しい料理は食べた者の人生まで変えるってな。今日食べる料理は、小町の人生を変えるだろう」

 

 いつもながら、祖母も兄も言う事のスケールが大きい。小町は、ちょっと大袈裟なんじゃないかなぁ、と思いながらも、兄が嘘をつかない事はよく知っているので今日のディナーを楽しみに待つ事にした。

 

「お兄ちゃん! 小町、グラスバニーユが食べたい!」

「グラスバニーユなら、ディナーのデザートで食べられるだろうから、楽しみは取っておけ」

 

 小町は、笑顔で「は〜い」と応えた。

 

 

 

 その店はセヴィニエ大通りをダルシー広場に向かって歩く途中にあった。

 外観は、街の景観を損なわぬ様に、周りの建物と合わせた建築様式だった。中世の香りを残したその洋館の前に、八幡と小町が並んで立っている。

 しかし、これはどう見ても、所謂ふつうの一軒家だ。

 看板さえ出ていないので少なくとも小町の目には、とてもレストランには見えなかった。

 

「お兄ちゃん、ここ、本当にレストランなの?」不安げに、兄に訊ねる小町。

「ああ、勿論」

 

 八幡はいつも通りの足取りでドアへ歩んでいく。

 小町は、もしもレストランじゃなかったら不法侵入になるんじゃないかと心配になった。

 八幡がドアを開けると、カランカランと来客を知らせるドアベルの音が鳴り響いた。

 八幡に続いて、慌てて小町が店の中に入ると、多少規模は小さめだが飲食店として最低限の体裁が整った内装が目に映った。

 長方形で四つ脚のダイニングテーブルが四席。キッチンに面したカウンターには丸椅子が六脚並んでいる。

 フランス料理のレストランと聞いていたが、店内の様相はどちらかといえば和食の小料理屋のようだと小町は思った。

 

「いらっしゃいませ。八幡くん、小町さん」

 

 キッチンの中から、落ち着いた低い声が聞こえた。その声の主は八幡と小町の祖母と同年代の紳士だった。

 コック帽の裾からは真っ白な髪が覗いている。

 店内には、その紳士以外の姿はなかった。店員も客も、人っ子一人いない。

 

「お久しぶりです、シェフ」

 

 八幡の言葉遣いを聴いて、小町は耳を疑った。たとえ相手が教師だろうと何だろうと頑なにタメぐちを叩き続けてきた兄が、まさか敬語を使うとは。いつもなら、久しぶりだな、とでも言いそうなものなのに。

 

「本当に、久しぶりですね。二人共、大きくなりました」

 

 好々爺然とした笑顔でシェフは感慨深そうに頷いた。

 小町は、くいくい、と八幡の袖口を引っ張ると小声で八幡に囁いた。

 

「お兄ちゃん、小町、このおじいさんと会ったことあったっけ」

「ああ、小町はまだ小さかったからな。覚えていなくとも無理はないか」

 

 小町が小さかった頃ならば、八幡だって小さかったのではないかと小町は思った。

 

「彼は、人類の宝と言っても過言ではないシェフだ」

「大袈裟ですよ。八幡くん」

 

 シェフはそう言って笑うが、八幡がこと料理に関してお世辞や嘘を言う事はない。

 これは凄い料理が食べられるかもしれないぞ、という期待に小町の胸は膨らんだ。

 

「えっと、覚えてなくて申し訳ありません。シェフは、おばあちゃんのお知り合いなんですよね?」

 

 少々恐縮しながら小町が訊ねると、シェフは懐かしそうに目を細めて頷いた。

 

「ええ、貴方がたのお祖母様には、昔大変お世話になりました。それだけに、学校をわざわざ休ませてしまった事は本当に申し訳なく思っています。本来ならば、私の方から日本に赴いても良かったのですが……」

 

 シェフは眉根を寄せて頭を下げた。その様を見た八幡は珍しく慌てた様子で首を横に振る。

 

「頭を下げていただく必要はありません。こうして店を貸し切っていただいただけでも、多大な感謝を覚えています」

 

 稀に見る、というより人生で初めて見る低姿勢な八幡に、小町は驚愕した。

 こうべを垂れるくらいなら、頭突きをかました方がマシだと本気で思っていそうな兄。そんな彼がここまで敬う相手は、おばあちゃん以外ではこのシェフしかいないだろう。

 

「それに、貴方の様な真の料理人が創り上げる料理を味わう経験も、とても大切な学習の一環だと思います」

「そう言っていただけると、料理人冥利に尽きます。店を貸し切りにしたのは、私も二人とゆっくり話をしたかったからですから、お気になさらず。さあ、立ち話もなんですから、此方へどうぞ」

 

 シェフはそう言って、キッチンに面したカウンター席に片手を向けた。

 八幡と小町が勧められた席に腰を下ろすと、シェフはキッチンの方へ回り込み、蛇口を捻って手を洗い始めた。

 

「あのう、失礼な質問かもしれないんですけど、ひとつ訊いて良いですか?」

「なんでしょう、小町さん」清潔な布巾で手を拭きながら、シェフは小町の方を向く。

「どうしてこのお店、看板が無いんですか? 外観からだと、正直、お店には観えなかったですけど」

 

 小町がそう言うと、隣の八幡が笑い出した。

 

「小町、それはこの店がそれだけ名店だという事だ。わざわざ看板を出して喧伝せずとも、客はこの店の味を求めて世界中からやってくるんだ」

「世界中から? すごーい!」

 

 小町の賞賛に、シェフは少しばかり照れくさそうにした。

 

「世界中からというのは、少々大袈裟かもしれません。ただ、有難い事に、御予約のお客様だけでも経営が成り立っているのは事実です。本当に、感謝すべき事です」シェフは胸に手を当てて微笑んだ。

「むかし、おばあちゃんが言ってました、どうせ食べるなら最初に最高のものを食べなさいって。小町、本格的なフレンチは初めてなので、最高のものを食べられるなんて嬉しいです」

「私の料理が最高かどうかはわかりませんが……腕によりをかける事は御約束します。さて、二人とも、メニューはどう致しましょうか?」

「シェフのお勧めを。貴方の選別ならば、間違いはない。小町も、それで良いか?」

「うん、でも、デザートはグラスバニーユにしてください。小町はグラスバニーユが食べたいです!」

 

 小町が元気にそう言うと、シェフは感心したように頷いた。

 

「グラスバニーユなんて言い方、よくご存知ですね、小町さん。勿論、グラスバニーユの用意もございますよ」

「小町はただ、最近覚えたフランス語を言ってみたいだけですよ」

 

 八幡が言うと、小町は、えへへと笑った。

 因みにグラスバニーユとは、バニラアイスの事である。



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お化粧研究部編4話

 和美と百合子から相談を受けた日は、ポスターの製作のみで放課後は潰れてしまった。

 部活動掲示板に貼るために画用紙を使って描いたものが一枚と、それ以外の場所に貼るためにコピー用紙で描いたものが一枚。

 コピー用紙で描いた方は、勿論コピーして複数箇所に貼るつもりである。

 帰り掛けに職員室で、ポスター掲示の許可は取り付けた。

 翌日は早朝から集まって、手分けしてコピーの方のポスターを貼って回る事となった。

 

 明けて翌日、奉仕部の部室には四人の姿があった。

 

「さて、早朝から集まって貰ったわけだけど、まずはポスターを掲示する場所の戦略を練りましょう」

 

 雪乃は、他の三人の顔を見回して言った。

 

「戦略?」結衣が小首を傾げる。

「ポスターは闇雲に貼っても効果が薄いわ。ターゲットの設定と、掲示場所の優先順位を決めるの」

 

 そう言って雪乃が取り出したのは、校内の見取り図だった。

 

「やはり、メインターゲットは女子よね」雪乃は和美の顔を見ながら言う。

「うん、まあ、そうなるでしょうね。男子でも、冷やかしではなく本気でメイクを覚えたいというなら、拒むつもりはありませんが」

「そう、一応男子でも可ではあるのね。年齢はどう? 貴方達のどちらかが部長を務めるつもりなら、募集する部員は同学年が望ましいと思うけれど」

「部長には、私がなるつもりです。が、二年生や三年生でも、部員になってくれるのならば構わない。とは言え、三年生のこの時期に新しい部活動を始めようなどという人は珍しいでしょうから、メインは一年生で、一応上級生も視野に入れる、と言う方向で」

「なるほど、わかったわ」

 

 雪乃は、シャーペンを取り出し、見取り図に×3、×5などと、数字を書き込んでいく。

 

「ゆきのん、その数字はどう言う意味?」結衣が訊く。

「これは、この場所に貼るポスターの枚数よ。当然、×3なら三枚、×5なら五枚」

「同じ場所に何枚も貼るの? ばらけさせた方が良くない?」百合子の疑問は、和美と結衣も懐いていたようで、雪乃に注目が集まる。

「ポスターなどの掲示物は、同じ場所に同じ物を何枚も貼る事で、視覚的アピール効果が乗数的に伸びていくのよ」

「ああ、そう言えば、電車なんかで同じ中吊り広告が何枚も並んでる事がありますね」

 

 得心がいったのか、和美は頷いて応えた。

 

「さらに、貴方達のメインターゲットを考えれば、重点して掲示すべき場所は、ここよ」

 

 雪乃は見取り図のとある場所を指差した。

 

「……お手洗い?」百合子は気の抜けたような声音をあげ、雪乃を見た。

「個人的には、あまり歓迎できないのだけれど、洗面台を占拠してお化粧をしている子が偶にいるわよね」

「いや、あの、多少の化粧直しは、乙女の嗜みです。確かに、他の利用者に迷惑をかけるのは良くないことだと思いますが……」

 

 和美は自分が責められたかのように慌てて言い訳する。和美自身は洗面台を占拠したような経験は無いが、雪乃に、化粧に対して隔意を持って欲しくないのだ。

 

「まあ、そこの所の是非は今は置いておくとして、そういう、お手洗いで化粧直しをするような子は、お化粧に興味のある子だと思うのよ。だから、優先すべきは一年生がよく利用するお手洗いということになるわね」

「なるほど〜、よく考えてるねぇ。ゆきのん」

「もともと、ポスターというものはその内容に興味を持ってもらいやすい場所に貼るものよ。交通安全ポスターなら運転免許試験場、医療関係なら病院、少年野球のメンバー募集ならバッティングセンター、という風にね。メイク関係なら洗面台付近、というのは順当な発想だわ」

 

 雪乃の分かりやすい説明に、他三人も大きく頷く。

 とりあえず、見取り図にはポスターを貼るべき場所を列挙できた。

 

「あとは、四人の分担を割り振りましょう。ホームルームまで、そう時間は無いから、今からでは貼り終わらないでしょうけど、休み時間も使って手分けすれば、放課後までには終わるでしょう」

 

 雪乃が言うと、結衣が元気に手を挙げた。

 

「昼休みも部室に集まろうよ! 一緒にお弁当食べてから皆でポスター貼りに行こう。かずみんと百合子ちゃんは、それでいい?」

「もともと、依頼したのはこちらですから、私たちに否はありませんよ」

 

 和美の言葉に、百合子もこくこく頷いた。

 

「ゆきのんも、いいかな?」

「……仕様がないわね」

 つれない態度とは裏腹に、雪乃は少し楽しそうに見えた。

 

 

 

 

 四時限目の終礼と共に鞄を掴み、「優美子、今日は一緒にご飯食べられないや。姫菜にも言っといて」と優美子に伝えた結衣は、教室を出ようとしたところで、その優美子に呼び止められた。

 

「ちょっと結衣、どこ行くの?」

 

 優美子は少々不機嫌そうな様子で、唇を尖らせている。

 休み時間の度に結衣が教室を出て行くせいで、今日は全然結衣と話せていない。この上、昼食まで外で食べるというのは、あまり歓迎出来なかった。

 

「あー、ごめん優美子。今日は部室でご飯食べるんだ」

「まーた奉仕部? 放課後はしゃーないにしてもさ、お昼くらい一緒に食べよーよ」

「ごめん、今ね、B組のかずみんとD組の百合子ちゃんの相談受けててさ、お昼も部室に集まる事になってるんだ。あたし部長だから行かないと」

 

 結衣は手刀を切って「ホントごめんね」と言い残すと、さっさと教室を出て行った。

 

「むぅ」残された優美子は、さらに機嫌を損ねた様で、低く唸った。

「優美子〜、ご飯食べよ〜」

 

 弁当箱を引っ掴んだ姫菜が、微笑みながら近寄ってきた。

 

「あれ、結衣は?」姫菜が周囲を見回しながら訊く。

「部活だって」

 

 眉間に深い皺を寄せながら優美子は答えた。

 

「部活なら仕方ないね。二人で食べよっか」

 

 姫菜はぽんぽんと優美子の肩を叩き、空いている椅子を優美子の机に寄せて座った。

 優美子も仕方なく自分の席に着いて弁当箱を取り出す。

 

「ほらほら、機嫌直しなよ。折角のご飯が不味くなるよ」

「……別に、機嫌悪いわけじゃないし」

 

 優美子はそう言うが、明らかに嘘だ。

 

「なんかさぁ、結衣を雪ノ下さんにとられたって感じ?」

 

 姫菜がからかい気味に言うと、優美子は思い切り顔を顰めた。

 

「とるとかとられるとか、そういう事じゃないし。そもそも結衣はあーしのもんじゃないっしょ」

 

 ガキ臭い嫉妬心だと思われるのは御免だ、と優美子は思った。ただ、放課後も部活で遊べないし、昼休みくらいはこっちに合わせてくれてもいいのに、と思っているのも事実だ。

 

「海老名も漫研入っちゃったから、あーし放課後ヒマなんだよね」

 

 ため息を吐きつつ、姫菜に視線を向ける。

 

「じゃあ、優美子も漫研入る? 結構楽しいよ」

「あーし、漫画読むのは嫌いじゃないけど、描くのは無理だし」

 

 でもまあ、漫研じゃないにしても、何かしらの部活に入るのは有りかもなあ、と優美子はほんの少しだけ、そう思った。

 

 

 

 

 奉仕部の部室で、昼食を済ませた四人は顔を突き合わせてポスター掲示の相談をしていた。

 部活動掲示板や、各所お手洗いは勿論のこと、階段の踊り場、廊下など、大抵の目につくところには貼り終えている。

 後は、少々の貼り残しを埋めていくだけだ。

 

「比企谷くんは、今日もお休み?」

 

 不意に、百合子が結衣に訊ねた。

 

「うん、今日も家庭の事情だって」

「そっか、残念」

 

 百合子の言葉が気になったのか、雪乃は彼女の顔を見つめた。

 

「昨日から、やけに比企谷くんの事を気にしている様だけれど、知り合いなのかしら?」

「うーん、知り合いというか、ちょっと話したことがあるというか」

 

 そう断わった百合子は、以前八幡に部員勧誘のビラを拾ってもらった話をした。

 

「あと、岬先輩から話を聞いていたからね。変わり者だけど頼りになるとか」

 

 百合子が言うと、雪乃に疑問が浮かぶ。岬先輩とは誰だろうか。

 

「岬先輩は総武高の二年生で、比企谷くんと同じ中学出身らしいよ」

「中学の時の先輩……ね。中学生の頃から変わり者だったのね、あの男は」

 

 雪乃の脳裡に、今より少し幼い八幡が天の道がどうこう言っている場面が思い浮かんだ。

 

「岬先輩とは、ひょんな事から知り合ってね。奉仕部の事も彼女に教えてもらったんだ」

 

 百合子は、奉仕部に相談しに来た理由を話す。

 

「あれ、じゃあ、二人は奉仕部のポスターを見て来てくれたんじゃないんだ」

 

 結衣は自分のアイディアであるポスターを見て、二人が相談に来たと思っていたので、別ルートから奉仕部の存在を知ったとわかり少しがっかりした。

 そもそも、結衣が今回の相談であるお化粧研究部の部員勧誘に、ポスターを使おうと提案したのも、和美と百合子が相談に来たのはポスターの成果だと思ったからである。

 

「ポスター……あんまり意味ないのかなあ」結衣が困った様に呟く。

「ああ、でも、岬先輩は部活動案内のポスターを見て奉仕部を知ったらしいから、成果はあったんじゃないですか」

 

 和美がフォローすると、「そっか、良かった」と結衣は安堵した。

 

「それじゃあ、残りのポスターを貼りに行きましょうか」

 

 雪乃が席を立つと、他の三人も続いた。

 

 

 

 

 

 授業が終わって放課後、例によって部室には四人の姿があった。

 いまだ部室もないお化粧研究部(仮)の二人は、ポスターの問い合わせ先を放課後の奉仕部の部室に設定していた。

 

「悪いね、間借りさせてもらっちゃって」

 

 少し申し訳なさそうに、百合子が言う。

 

「仕方ないわ。携帯のアドレスを載せるわけにもいかないでしょう? 悪戯が殺到しても困るでしょうから」

 

 別に気にしなくて良い、という風に雪乃は応える。そもそも、依頼を受けた時点で、お化粧研究部設立までは面倒をみるつもりであった。

 今は、入部希望者を待っている状態だ。流石に今日の今日では、希望者は来ないかもしれないが、ここは、気長に待つしかないだろう。

 

「ねえねえ、かずみん」

 

 結衣に声を掛けられ、和美はそちらを向く。

 

「なんです?」

「かずみんはさあ、お化粧研究部を立ち上げたいってくらいなんだから、やっぱりメイクくわしいんだよね? あたし、ママの化粧品借りてちょっと試すくらいしかしたことないから、どんなメイクができるのか、興味あるなあ」

「成る程、私の技術を見てみたい、と。結衣さんがそうおっしゃるなら、貴方のお望みのメイクを施して差し上げましょう」

 

 そう言うと和美は、椅子から立ち上がり結衣の方へ歩いていく。

 そして、その長い指を繊細に動かしながら、結衣の頰に触れた。

 

「ふわっ!」急に頰に触れられた結衣は、少々間の抜けた声を上げた。

 

 まるで、華奢なガラス細工に触れるかのように優しく、丁寧に結衣の顔を撫でる和美。

 雪乃は『似たようなシーン、宝塚歌劇団の舞台で観たことあるわ』と思い出した。

 口元を掌で隠した雪乃は、近くにいた百合子にそっと耳打ちする。

 

「男性のメイクアップアーティストには、同性愛者が多い傾向にあると聞いたことがあるけれど、風間さんはどうなのかしら?」

「いや、カズは髪型がベリショだし、男装っぽい格好することも多いから偶に誤解されるけど、ストレートだよ。あと、男のメイクさんにそっち系の人が多いってのは私も聞いたことあるけど、実際にはわかんないなあ」

 

 雪乃と百合子の視線を無視して、和美は両手で結衣の頰を包み込んだ。

 

「はわわわっ、はわわわっ!」

 

 慌てた結衣の顔に朱みが差す。

 

「素晴らしい……結衣さん、貴方の美しさは、まさにひとつの……ひとつの……えっと……」

「……奇跡」

 

 言葉を詰まらせて悩み始めた和美をフォローしてやる百合子。対して和美は、「そうそう、それそれ!」と調子良く言った。

 

「結衣さん、貴方の奇跡のような美しさならば、どんなメイクをしても映えるでしょう。どのようなメイクがお望みですか? 貴方の天真爛漫な魅力を活かした、可愛らしくフェティッシュなメイク? それとも、隠された一面を引き出すような、大人っぽいセクシーなメイク? ああ、同じ大人っぽいメイクでも、インテリジェンスを押し出すようなメイクもありますよ」

「インテリジェンス? それって、デキる女っぽいメイクってこと?」結衣は小首を傾げる。

「まあ、俗っぽい言い方をすればそうなりますね」

「それ! それが良い! インテリジェンスで!」

 

 デキる女に憧れる結衣は少々はしゃぎながら言った。

 

「わかりました。お嬢様の仰せの通りに」

 

 胸に手を当て畏る和美。その動きはさながら本職の執事、というより、本職のタカラジェンヌっぽい。

 

「やるぞ、ゴン。用意を」

「おっけー、カズ」

 

 百合子は、いつも和美が持ち歩いているギターケースを開いた。

 

「カズ、下地はどれにする?」

「スタンダードで良い」

「ファンデは?」

「今回はリキッドを使う。結衣さんの美しい肌ならば、コンシーラーやコントロールカラーは必要ないな。あと、化粧水は5番、乳液は7番をとってくれ」

 

 百合子は和美の指示通りに、テキパキと化粧品類を取り出す。

 

「さあ、お見せしましょう、結衣さん。私の……アルティメット・メイクアップ」

 

 結衣と雪乃は、和美の背に真っ赤な薔薇が舞うのを幻視した。

 

 クロースアップマジシャンの様な手際の良さでメイクを完成させた和美は、ギターケースから手鏡を取り出して結衣に渡した。

 

「これが……あたし?」

 

 鏡の中の自分を観た結衣は惚けたように呟いた。結衣の要望通りにメイクされたその顔は、いつもの数倍は大人っぽい。

 顔だけ見れば、ともすれば中学生に間違われかねない結衣だったが、今の顔は成人とまでは行かなくとも、大学生程度には見えるだろう。

 

「驚いたわね。由比ヶ浜さんの顔に、知性が伺えるわ」

「ちょっとゆきのん! それ、普段のあたしはバカっぽいってこと!?」

「そうは言ってないわ」言ってはいないだけで、言外に滲ませてはいる雪乃だった。

「ノーズシャドウとハイライトで目鼻立ちをハッキリさせてみました。チークは淡いオレンジ。リップはあまり派手になりすぎないようにピンクベージュを使用しています」

「カズの腕ならもっと派手なフルメイクもできるし、口煩い教師にバレないようなナチュラルメイクもできるんだよ。今回は結衣ちゃんの要望通りに、知的なOL風だね」

 

 百合子は自慢気に胸を反らせる。相棒の腕を見せられて満足らしい。

 

「成る程、これだけの技術があるなら、部活を立ち上げたくなるのもわかるわ」

 

 雪乃は納得して頷く。これは何としても、お化粧研究部を創部させてあげなければならない。

 雪乃は決意を新たにしながら、メイクを施された結衣の顔を眺めた。

 

 



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お化粧研究部編5話

 結局、ポスターを貼り終えた日に、お化粧研究部の入部希望者が現れることは無かった。

 まあ、まだ初日であるし、焦ることはないだろう、と翌日に期待してその日は帰宅した。

 

 そして翌朝、登校してきてすぐに、教室で八幡の姿を見かけた結衣は、徐ろに八幡に話しかける。

 

「ヒッキー久しぶり! ゴールデンウィークに加えて二日も休むなんて、何してたの?」

「家庭の事情で休んだだけだ。気にすることはない」

 

 八幡は特に説明する気は無いらしく、机に頬杖をつきながら適当な様子でそう答えた。

 

「あのね、ヒッキー、今ね、奉仕部に依頼が来てるんだよ。B組のかずみんと、D組の百合子ちゃんから。百合子ちゃんは、ヒッキーの知り合いらしいね」

「百合子? 誰だ、それは」八幡は中山百合子の事は覚えていないようだ。初めて聴いた名前だと首を捻る。

「中山百合子ちゃんだよ。部活勧誘のビラを拾ってもらったって言ってたよ」

「ああ、あいつか」

 

 そういえば、名前は聴いていなかったな、と思い出した。

 

「それって、お化粧研究部の子だよね。結局、創部はできたのかな?」

 

 偶々近くにいて、何とは無しに話を聞いていた隼人が話しかけてきた。

 

「あっ、隼人くん。隼人くんも百合子ちゃんのこと知ってんの?」

 

 いつの間にか結衣は隼人のことを名前呼びしていた。どうやら、初対面から名前を呼び捨てにしていた優美子に影響されたらしい。

 

「俺もビラを拾うのを手伝ったからね。あの子が創部できたのかどうかは、ちょっと気になってたんだ」

「そうなんだ。あのね、百合子ちゃんたちの依頼は、部員募集を手伝ってほしいって相談なんだ。だから、お化粧研究部は、まだできてないんだよ」少し残念そうに結衣は応えた。「でもね、部員募集のポスターを学校中にいっぱい貼ったから、今日にも新入部員が来てくれるかも」

 

 まだお化粧研究部は設立できていないのに新入部員という言い方はおかしいかもしれないが、結衣は希望を持ってそう言った。

 

「いや、無理だろうな。ポスターを貼った程度では、部員は揃わないだろう」

 

 八幡の無遠慮な言葉に、結衣は「えぇっ!?」と驚く。

 

「……そういえば、ビラを拾った時にも同じようなこと言ってたね、比企谷くん。どういうことだい?」

 

 疑問を覚えた隼人が八幡に訊ねる。地道にビラ配りやポスター掲示をすれば、それを見た生徒が入部したいと思ってもおかしくないはず、少なくとも隼人はそう思う。

 

「簡単なことだ。サッカー部ならばサッカーを、野球部ならば野球をする部活だとすぐにわかる。部活名を聞けば、程度の差こそあれ、活動内容は類推できるからな。だが、お化粧研究部とは何をする部活だ?」

「そりゃ、お化粧を研究するんだよ。部員みんなで」何を言っているのか、という様子で結衣が応えた。

「化粧を研究する、といってもその指導をするのは誰だ? そいつの腕は確かなのか? 具体的に、研究とは何をするんだ? 少し考えただけでも疑問は次々と浮かぶ。多少メイクに興味がある奴でも、飛び込んでいくのは勇気がいるだろう。せめて、既に創部されていて、活動実態があれば別だろうがな」

 

 八幡に言われて、結衣は「う〜ん」と考え込む。

 

「じゃあさ、ヒッキー、もしかして奉仕部のポスターも意味なしだったり?」

「いや、あのポスターには俺の名が書いてある。人が太陽を求めるように、悩める者は俺という太陽を求めるだろう」

「おぉ〜」と拍手する結衣と、「ははは……」と少し呆れる隼人が対照的だった。

 

 

 

 

 

 ホームルームが終わって放課後、結衣は鞄を掴むと、跳ねるように八幡の席に駆け寄った。

 

「ヒッキー! 一緒に部室いこ!」

「そう慌てるな、焦っても徳はない。早起きは三文の徳だが、拙速を尊ぶのは雑兵のみだ」

「も〜う、そういうのいいから! さっさと部室いくよ!」

 

 結衣は八幡の制服の肩口を掴むと、強引に引っ張って教室を出て行く。

 その様子を、優美子は面白くなさそうに眺めていた。

 そんな優美子に、姫菜が話しかける。

 

「優美子、私、今日は部活休むからさ、どっか遊びに行かない?」

「……なにそれ、暇人のあーしに同情してるわけ?」

「別に、そんなんじゃないってば。漫研って緩い部活だから、普段の参加は自由なんだよ。今日はどっか遊びに行きたい気分なだけ」

「……まっ、そんなら良いけど。適当にその辺ぶらつくかな……」

 

 少しだけ不機嫌そうな優美子と、飄々とした顔の姫菜は、連れ立って帰って行った。

 

 

 

 職員室で部室の鍵を取り、早足で特別棟の部室へ向かう結衣と八幡。

 浮き足立ったような足取りで先を歩く結衣の後ろを、八幡は数歩遅れて付いていく。

 

「由比ヶ浜」八幡は結衣の背中に話しかけた。

「なぁに? ヒッキー」

「なぜお前は、そんなに浮かれているんだ」

「いやあ、だって百合子ちゃんとかずみんに、ヒッキーを早く会わせたいんだもん。特に百合子ちゃんは、ヒッキーが二日も学校休んでたから残念そうだったよ」

「中山百合子、だったか? 先月、ほんの少し話しただけなんだがな」

「お化粧研究部のビラ、拾ったげたんでしょ? ヒッキーって結構優しいとこあるよね」

 

 結衣は振り返って八幡の顔を見ると、満面の笑みを見せた。

 そんな会話をしているうちに奉仕部の部室へと着いた二人は、各々の席に着く。

 数分程、ゴールデンウィークは何をしていたのかなどと、取り留めのない会話をしていると、部室のドアからノックの音が響いた。

 

「ゆきのんかな? 開いてるよ〜」

 

 果たして、ドアを開けて入ってきたのは雪乃だった。後ろには、和美と百合子の姿も見える。どうやら、偶々廊下で出会って一緒に来たらしい。

 

「やっはろーっ、ゆきのん。かずみんと百合子ちゃんも、やっはろーっ」

「やっはろー、結衣ちゃん」

「やっはろー、です。結衣さん」

 

 百合子と和美はノリ良く合わせて挨拶するが、雪乃は目を逸らして「こんにちは、由比ヶ浜さん。サボり谷くんも、久しぶりね」と言った。

 どうやら、雪乃は由比ヶ浜風挨拶はお気に召さないらしい。現地民と挨拶する時は、現地語で話した方が仲良くなれるのに、勿体ないことである。

 

「今日は、比企谷くんもいるんだね、こんにちは、比企谷くん。あの時は、ビラ拾ってくれてありがとう」

 

 百合子は、ここ二日で奉仕部の部室に馴染んだようで、半ば自分の席と化した椅子に座りながら、比企谷に言う。

 

「礼ならあの時受け取った。気にするな」

「いやいや、感謝してるよ。あと、あの時は名前言いそびれちゃったけど、私、中山百合子、よろしくね」

「初めまして、比企谷くん。私は風間和美です。君のことは岬先輩から聞いていますよ」

 

 和美も自分の席に着きながら言う。すると、八幡は和美の顔を見返した。

 

「岬? なぜここで岬の名前が出るんだ。知り合いなのか?」

「ええ、先日知り合いました。君の中学の時の先輩らしいですね。ご存知ですか? 岬先輩も総武高校なんですよ」

「……先輩といっても、知り合いの知り合い程度の関係だがな。そうか、岬も総武だったか、知らなかったな」

「岬先輩が、比企谷くんによろしく伝えといて、と言っていましたよ」

 

 和美がそう言うと、八幡は何か思い出した様に、雪乃の顔を見た。

 

「なに、比企谷くん。私の顔に何かついているかしら?」

 

 急に顔を向けられて、訝しいものを感じたのか、雪乃が訊ねる。

 八幡は少し皮肉げに微笑むと、「そういえば、陽乃がお前によろしくと言っていた。確かに伝えたぞ」と言った。

 

「姉さんが? ちょっと待ちなさい比企谷くん、何故貴方が姉さんの事を知っているのよ」

 

 陽乃は既に総武高校を卒業している。八幡と接点があるとは思えない。

 

「先日、世界の花展に出かけた所、偶然カフェテラスで茶を飲んでいた陽乃と平塚に出会った」

 

 言われて雪乃は、ゴールデンウィークに姉から電話がかかって来た事を思い出した。確か、世界の花展のチケットがどうだこうだと言っていたはずだ。

 

「あんな太陽みたいな女、初めて見た」

 

 奇しくも八幡は、陽乃が静に言った言葉と同じ事を言う。

 すると、雪乃は何か気に入らなかったのか、呆れた様な笑みをこぼした。

 

「比企谷くん、貴方の洞察力も、その程度なのね。貴方は、あの人の外面に騙されているだけだわ」

 

 雪乃が吐き捨てる様に言うと、八幡は声を立てて笑った。

 

「何がおかしいのよ」不機嫌そうな雪乃。

「……なに、太陽も余りに近過ぎると、眩しくて目を開けていられないのだな、と思っただけだ」

 

 八幡は陽乃を見た瞬間に悟っていた。

 彼女は、その人当たりのいい外面に隠された、仄暗い内面のその更に奥に、眩しく輝く光を持っている。

 八幡が陽乃に光を見たことなど、雪乃は知らない。

 雪乃は、結局陽乃の内面を真に理解できるものなどいないのだな、と思った。

 傍らで二人の会話を聴いていた結衣たち三人は、言っている事はよくわからないが、とりあえず、雪乃とその姉はあまり仲が良くないらしい、と理解した。

 

「ところでさ、ヒッキー、あの話はしなくていいの? ポスターはあんまり意味ないかもって話」

 

 結衣が話を変えるように、八幡に話題を振る。

 

「ポスターの意味がない? なにを言うのよ比企谷くん。確かに、昨日貼ったばかりだから入部希望者はまだ来ていないけれど、宣伝すれば効果はあるはずだわ」

 

 雪乃が少し怒ったように言うと、八幡は厳かな雰囲気でこう言った。

 

「おばあちゃんが言っていた……本当の名店は、看板さえ出していないってな」

「……どういう意味よ、なにを言っているの?」

 

 いつもいつもこの男は、おばあちゃんおばあちゃんと、訳の分からない事を言う。雪乃は自らの眉間に、自然と皺が寄るのを感じた。

 

「名店の料理には、その味には、実績と信頼がある。実績と信頼があれば、宣伝せずとも客は来る、と言う事だ。逆に言えば、実績も信頼もなければ、いくら宣伝しても客が寄り付く事はない」

 

 八幡は、他の四人の顔を見回しながらそう言った。和美はその言葉に一理あると思ったのか、「我々には、実績も信頼もない、ということですか。確かにそうかもしれません」と言って嘆息した。

 

「そもそも、活動実態がないからな。実績以前の問題だ。活動内容はどういったものを考えているんだ? 指導は顧問がするのか?」

「いえ、顧問を引き受けてくれた小雀先生は、合唱部との兼任ですし、彼女はあまりメイクが得意ではないそうです。逆に、部を創設できたら、自分にもメイクを教えて欲しいと頼まれてしまいましたよ。部員への指導は、私が行うつもりです」

 

 和美が答えると、八幡は、「ならば、部員を得るにはお前が信頼されるしかないな」と彼女の目を見て言った。

 

「う〜ん、信頼されるって言っても、具体的にはどうすれば良いのかな。私が言うのもなんだけど、カズのウデは確かだよ。昨日だって結衣ちゃんに、バッチリかっこいいメイクしたげたんだから」

 

 ねえ、結衣ちゃん、と百合子が結衣に向けて言う。

 

「そうそう! かずみんのメイク、スゴイんだよ! 昨日そのメイクのまま家に帰ったら、ママに『その顔だと、知的なお嬢さんにみえるわね』って褒められたんだから!」

 

 母親の言葉は、メイクは褒めているものの、結衣自体は貶している気がしないでもないが、結衣は特に気づいていないので放っておこう。

 

「ならば、その技術を人前で存分に披露する事だな」

「人前で披露ってどうするの?」

 

 八幡に結衣が訊ねる。

 

「デモンストレーションだ。場所はエントランス前の広場が良いだろう」

「デモンストレーション……実演宣伝? 結局、宣伝じゃないの」雪乃は肩を竦めてそう言った。

 

 八幡は机に頬杖をつきながら雪乃を見遣る。

 

「ポスターでの宣伝よりは、実力をアピールできる。腕次第で、信頼を得ることも出来るだろう」

「むう……」特に反論が思いつかないのか、押し黙る雪乃。

 

「デモンストレーション……」和美が天啓を受けたように眉を上げて呟いた。

 

 そして和美は顎に手を遣りながら、考え込むように目を閉じる。

 デモンストレーションを行うならば、モデルが必要だろう。

 パッと目を見開いた和美は、そっと結衣に近寄ってその右肩に手を乗せた。

 そして、百合子もまた、そっと結衣に近寄ってその左肩に手を乗せた。

 八幡は口角を少し上げて笑いながら、結衣の顔を眺めた。

 

「どうやら、モデルは決まったようだな」

「え? え!? ふえぇ!?」

 

 八幡がぼそりと呟くと、結衣は右に左に首を振りながら驚きの声をあげる。

 結衣は慌てた表情で雪乃を見遣り、「ゆきのん、あたしじゃモデルとか無理だよ」と言った。

 思案気に溜息をついた雪乃は、「頑張ってね、部長さん」と結衣に苦笑を向ける。

 

 おそらくだけれど、由比ヶ浜結衣はモデルに向いている。雪ノ下雪乃はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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お化粧研究部編6話

 結衣をメイクモデルに、生徒たちの前で実演をする事は決まった。

 部活に所属していない者の大半は既に帰宅の途についているだろうから、今からでは諸々の準備の時間を考えても間に合わないだろう。

 とりあえず結衣は、エントランス前の広場でデモンストレーションを行う許可を取るために職員室へと向かった。

 広場の使用許可を得るなど、誰に頼めば良いのかわからない結衣は、まずは顧問に訊くべきだろうと考えて、平塚静に相談する。

 

「ーーというわけで、明日エントランス前で、でもんすとれぇしょんをさせて欲しいんですけど」

 

 傍らに立つ結衣が言うと、職員室で自分の席に座っていた静は目を瞬かせて結衣の顔を見遣り、その長い脚を組んだ。

 

「ふむ、なかなか面白い事をするようだな。良いだろう、使用許可なら問題ない。私が申請しておいてあげるよ。滞りなく、ね」

「ホントですか!? 良かった! あたし広場の使用許可申請とかよくわかんないから、どうすれば良いのか心配だったんですよ〜」

 

 安堵して顔を綻ばせた結衣は、胸の前で掌を組んだ。

 静は、「ところで話は変わるが」と断って、結衣の目を見上げるように視線を合わせた。

 

「君は空気を読む能力に長けているようだから、最近の三浦の様子にはとっくに気づいているんだろう?」質問というよりは、確認といった様子で言う静。

 

 結衣は少し戸惑った様に「えっと……」と言って俯いたが、静が言っている事の意味は理解しているようで、「まあ、わかってます」と頷いた。

 

「新しい友人を作ると、旧い友人が蔑ろにされたと感じる事は有りがちだ。特に、放課後の活動という物は高校生の交友関係に於いて大きな役割を持つからな。君が奉仕部に入部した事で、三浦は寂しく思っているのかもしれないよ」

「新しいとか旧いとか、そんな区別をしてるつもりは無いんです。ただ、優美子とゆきのんって、ちょびっと相性悪いかな、なんて」

 

 結衣はゴールデンウィークに、優美子と姫菜、そして雪乃を誘って遊びに出かけた事を話した。

 結衣と姫菜は比較的誰とでも仲良く出来るパーソナリティを持っているが、雪乃と優美子はその個性がぶつかり合って、喧嘩という程ではないが、あまり友好的な雰囲気ではなかったらしい。

 静は、然もありなんと首を縦に振った。

 

「あたしとゆきのんが仲良くなるのは、優美子的には気に入らない事……なのかもしれません」

「友人の友人と仲良く出来るかどうかなんてのは、コミュニケーションの経験がモノを言うからな。君も含めて、君たちはまだまだ未熟な青い果実という事だ」

「はあ……」

 

 結衣は、果実なら未熟で酸っぱい桃よりも、甘い桃が良いなあ、と思った。

 

 

 

 放課後に、お化粧研究部のデモンストレーションを行う当日。その日は朝から、教室の雰囲気は最悪だった。

 数十人いるクラスメイト達の中には、その理由を理解していない者もいたが、原因自体は分かりきっていた。

 今日の三浦優美子は、明らかに機嫌が悪い。

 優美子は高校入学以来、クラスの中心人物として振る舞ってきたし、クラスメイトからも実際そう扱われていた。

 彼女自身の派手な外見と強烈な個性は、人を惹きつける魅力を充分に備えている。

 しかしそれだけに、教室の内側という狭いコミュニティの中では、優美子自身の機嫌で雰囲気が左右されがちになってしまうのだ。

 

 

 

 

 優美子のストレスが頂点に達したのは、本来ならば長閑であるはずの昼休みだった。

 四限の終礼が終わって直ぐに、優美子は結衣の席に近寄る。優美子の背後には、気不味そうに顔を引攣らせた姫菜の姿もあった。

 姫菜は優美子からは見えない様に、両腕でバツ印を作って結衣にサインを送っていた。

 そんな姫菜の様子に結衣は全く気付かずに、「ごめん優美子、今日も用事があるから部室に行くよ」と言った。言ってしまった。

 あちゃー、と姫菜は手のひらで顔を覆う。

 そんな結衣に対して、遂に優美子は声を荒らげた。

 

「あんさぁ! 結衣! 放課後に部活があるのはわかるよ! でも、昼休みくらい教室にいても良いんじゃないの!?」

「いや、その、今日は色々と、準備がありまして、と言うか、あの……」

 

 眉間に皺を寄せて睨む優美子に、しどろもどろになって答える結衣。

 教室の中の空気はピンと張り詰め、クラスメイトの大半はヘビに睨まれたカエルの様に動けず、優美子と結衣を凝視している。

 それ以外の数人の生徒は付き合いきれない、巻き込まれたくないとばかりにさっさと教室を出て行ってしまった。

 我関せずの態度で弁当を食べる用意をしているのは八幡くらいである。弁当箱の蓋を開け、行儀良く両掌を合わせて、「いただきます」と呟いた。

 然程大きな声でも無かったが、誰もが無言の教室では、その声はよく通った。

 当事者である優美子と結衣の二人以外が、空気読めよ天の道、と思ったのは当然の帰結である。

 

「……天の道は、教室で食べるみたいじゃん。結衣も、あーしらと一緒にいても良いんじゃないの?」

 

 優美子は八幡を指差してそう言った。結衣はおっかなびっくり、反論する。

 

「ヒッキーは、『メシくらい静かに食わせろ』って言って、昼休みは手伝ってくれないんだ。でも、あたしはちゃんと、昼休みも部室に行かないといけないから……」

「結衣がいなくても、大丈夫っしょ。雪ノ下さんって優秀らしいじゃん」

 

 優美子の『結衣がいなくても大丈夫』という言葉に、結衣は少し悲しいような、とても悔しいような、上手く形容できない苛立ちを感じた。

 結衣の白い頬にほんの少し赤みがさす。俯き気味だった顔を上げて、優美子の目を正面から見る。

 

「あたし、部長だもん! ゆきのんもヒッキーも、部長になりたいって言ってたのに、あたしが部長になったんだもん! それなのに、約束をすっぽかすなんて、出来ないよ!」

 

 突然の剣幕に、優美子は少々たじろいだ。

 

「あたし、奉仕部の活動、楽しいと思ってる。遣り甲斐も感じてる。なのに優美子は、あたしのこと応援してくれないの?」一転して悲しそうに呟く結衣。

「なっ、応援しないとか、そんなこと言ってないじゃん! あーしが言いたいのはさぁ!」

 

 このままだと平行線で、話が終わりそうも無いな、と思った隼人が二人の間に割って入る。

 

「まあまあ、二人共ちょっと落ち着いて。俺もサッカー部だからわかるけど、部活が忙しい時期ってのはあるもんだよ。それを認めてやるのも、友達ってもんじゃないかな」

 

 調和を重んじる隼人にとって、目の前で行われる喧嘩は放って置けなかった。

 

「ほら、結衣は部室に行く用事があるんだろ? 早く行ってやらないと、雪ノ下さん、待ってるんじゃないか?」

 

 隼人は、とりあえず結衣を遠ざけようと、部室に行くように促した。

 結衣は数瞬、迷うように唇を噛んだが、結局踵を返して教室を出て行った。

 

「優美子っ! お弁当食べよ! 私、お腹空いちゃった」姫菜は殊更明るく振る舞って、優美子の肩を軽く叩いた。

 

 優美子は、不機嫌な気分を隠そうともしなかったが、仕方なく自分の席に戻っていった。

 なんとか丸く収まったかな、と隼人は安堵する。

 八幡は弁当を食べながら、何とは無くそれらの様子を眺めていたが、「メシが、不味くなるな」と誰にも聴こえない声音で言った。

 

 

 

 結衣が奉仕部の部室の扉を開けると、和美も百合子も、そして雪乃も自分の席に座っていた。三人の目の前には、弁当が用意されている。

 

「やっはろーっ」和美と百合子が、声を揃えて結衣に挨拶した。

「ごめんね、みんな。ちょっと遅れちゃった」

 

 無理に笑顔を作ってそう言う結衣。

 百合子は、あれ? 今日はやっはろー言わないんだ、と疑問に思った。

 

「由比ヶ浜さん、なにかあった?」

「えっ? なにかって?」

 

 雪乃が問うと、結衣は瞬きしつつ自分の席に座った。

 

「また、比企谷くんが何かしでかしたんじゃないかしら?」

「あはは、ヒッキーはなんにもしてないよう」

 

 ヒッキー『は』、という微妙な言い回しに、勘のいい雪乃は気付いていたが、結衣自身があまり言いたくなさそうな様子なので、敢えて詮索する事も無いだろうと軽く流した。

 

「それにしても、サボり谷くんは本当に来ないようね。怠慢にも程があるわ」

「いや、まあ、デモンストレーションを提案してくれただけでも感謝してますよ。あとは、我々お化粧研究部員が頑張るだけです」

 

 険のある表情で言う雪乃に対して、和美は取り成すように応えた。

 

「それと、結衣さんにもモデルとして頑張って頂くわけですが、よろしくお願いします、結衣さん」

「あっ、うん。任せといて、精一杯がんばるよ!」

 

 結衣は、やる気を見せるように、両手の拳を握り締めて胸の前で構えた。

 

「それは頼もしい。では、これ台本です」和美は鞄から、A4用紙を取り出して結衣に渡した。

「うっ、がんばるけど、物覚えはあまり良くなくて……」一転して不安そうに冷や汗を流す結衣。

「大丈夫ですよ。結衣さんの台詞は少ないし、台詞を忘れてしまったとしてもアドリブで返してくれて構いません」

 

 和美はそう言うが、自分が何かやらかしたら、それが原因で和美と百合子に迷惑をかける事になるかもしれない。責任重大だぞ、と結衣は気を引き締めた。

 

「さて、台本を読むのは後にして、先にお昼にしましょうか」雪乃が話を区切る様に言うと、百合子が待ってましたと手を打った。

「実はさっきからお腹ペコペコでさぁ」

「食い意地張ってるからな、ゴンは」

「なんだとぉ!」

 

 和美と百合子の掛け合いに、結衣は声を立てて笑った。

 けれど、結衣の表情はほんの少し翳りが見えた。

 

 

 

 昼休みが終わって五限目、教壇には担任であり現代文担当でもある平塚静が立っていた。

 普段の授業と変わることなく、冷静に淡々と講義を進めていく静だったが、内心では余りにもどんよりとしたクラスの空気を心配している。

 元凶であろう、顔を顰めてブスッとしている優美子と、どこか元気のない結衣の顔を交互に盗み見る。

 想定よりもぶつかるのが早かったな、と結構楽観視していた自分の考えを悔いる。

 やはり、この年代の少女というものは、山の天候よりも読みにくい。

 優美子と結衣を職員室に呼び出して、握手させてハイ仲直り、と簡単にはいきそうもない。

 いっそのこと、優美子と雪乃を仲良くさせてみてはどうだろうか……いや、無理があるだろう。二人とも個性が強いタイプだ。

 そういうタイプの人間は長い時間を掛けてぶつかり合って、少しずつ譲り合って、さらに何がしかの利運的きっかけが無ければ、お互い交わらない平行線を辿るだけだろう。

 静は、そういえばこのクラスには、もう一人個性が強いヤツがいるなぁ、と八幡に視線を持っていく。

 八幡は、何を考えているのかよくわからない無表情で、ジッと黒板を見つめていた。

 

「平塚」

 

 視線を感じたからでもないだろうが、八幡が声をあげた。

 

「平塚先生、な。なんだ比企谷」

「誤字があるぞ」八幡は黒板を指差して言った。

「えっ、ウソ、どこだ?」

「語弊の弊は、力ではなく攵だ。右上が力になっている」

「あっ」

 

 慌てて黒板を見ると、確かに八幡の指摘通りだった。静はサッと黒板消しで拭って書き直す。

 静は、「お、お前達が気付くかどうか試したんだ。よく気付いたな、比企谷……アハハ」と有りがちな言い訳をして眉を下げた。

 静自身も、薄暗い曇天の様な教室の情調に影響されて、本調子ではないのかもしれない。

 

 五限の授業が終わったあと、静は八幡に向かってチョイチョイと手を振って、廊下に呼び寄せた。

 意外にも素直に近寄ってきた彼を、静は階段の踊り場まで連れて行く。

 彼女は腕組みをして背中を壁に預けると、八幡に自身の危惧を訊ねた。

 

「由比ヶ浜と三浦、何かあったか?」

「……さあな」八幡は興味無さげに言った。

「さあなって、由比ヶ浜は君の友人だろう? 心配じゃないのか」

「俺に友人はいない」きっぱりと、奇異なことを告げる八幡。その表情には、悲痛さも羞恥もなかった。

「おまっ、比企谷、そんな悲しい事言うなよ。大丈夫だって、由比ヶ浜は君の事、友人だと思ってくれてるって!」

 

 励ますように肩を叩きながら言う静だったが、八幡はうざったそうに目を細めるだけだった。

 

「……昼休み、確かにメシが不味くなるような事はあったな」

「メシが不味くなるような事? なんだ、それは?」静の眉がピクッと動く。

「有り体に言えば、ただの喧嘩だ」

「……喧嘩、か。深刻そうかね?」

 

 生徒たちだけで解決出来そうになければ、自分が介入しなければならないだろう、と静は思った。それも、担任教師の務めである。

 しかし、八幡は何も問題はないとばかりに、首を横に振った。

 

「放課後には解決する。放っておけ」

「放課後に? なんだ、君、仲直りさせる秘策でもあるのか?」

「別に、秘策という程の事でもない。まあ、見てみなければわからない事もある、という事だ。化粧の腕も、友の取組も、な」

 

 静には、八幡の真意はわからなかったが、とりあえず、今日の所は任せてみるか、と頷いた。

 



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お化粧研究部編最終話

 ホームルームが終わって放課後、結衣は優美子に話しかけられる前にさっさと部室に行こうと思い、鞄を持つと急いで教室を出た。

 そんな結衣の姿を遠目に見た姫菜は、仕方ないなあ、と、まだ席に座ったままでいる優美子の方に歩いていく。

 

「優美子ぉ、私、今日も部活休むわぁ。遊びに行こう」

 

 声をかけられた優美子は、半目で見上げながら、傍らに立つ姫菜を睨む。

 

「あーし、今日は遊びに行く様な気分じゃないんだけど?」

「そんなこと言わずにさぁ、ゲーセンとかどう? もしくはカラオケ?」

 

 姫菜の提案にも、優美子は頷かなかった。この心に靄がかかった様な気分は、遊びに行った程度で晴れてくれそうもない。

 別に、結衣を雪乃に盗られるとか、そんな事を考えているわけではない。ない筈だ。

 だけれど少し、ほんの少しだけれど、自分は寂しがっている、そんな気もする、優美子だった。

 

「三浦、ついでに海老名」

「あぁ?」

「私、ついで?」

 

 背後からの呼び掛けに、身体ごと振り向く優美子と姫菜。

 果たして背後にいたのは、奉仕部員、比企谷八幡だった。

 姫菜は、天の道くんから話しかけてくるのは珍しいなあ、と思った。『ついで』呼ばわりされた事は置いておこう。

 

「不機嫌そうだな」八幡は、優美子に向けて言った。

「なに? 喧嘩売ってんの?」

「俺は喧嘩を売ったりしない。おばあちゃんが言っていた、未熟な果物は酸っぱい、未熟者ほど喧嘩をするってな」

 

 昼休みの喧嘩を当てつけに、未熟者扱いされたと思った優美子は、瞬間、頭に血が上った。

 

「あーしが未熟者だって言いたいわけ!? わかったような事言ってんじゃねーし!」

 

 椅子から立ち上がり激昂する優美子に、八幡は特に何の感情も見せる事なく、冷静な口調で語りかける。

 

「未熟者ではないと言うなら、度量を見せてみろ」

「はあ?」低い声音で凄む優美子。

「この後、エントランス前の広場でちょっとした催しがある。主役は風間と中山だが、由比ヶ浜が何をするのか、何に取り組んでいるのか、見届けてやれ。お前が、由比ヶ浜の友達だと言うのならばな」

 

 言いたいことを言い終えた八幡は、教室を出て行った。

 残された優美子と姫菜は、顔を見合わせて困惑する。

 

「エントランス前の広場だって、行ってみる?」姫菜は首を傾げて問う。

「……行かなかったら、度量が足りない未熟者ってこと? ムカつくし、なんか知らないけど、観るだけ観てやるよ」

 

 眉根を寄せて呟く優美子は、ますます拗れそうな雰囲気を醸し出していた。

 しかし、それでも姫菜は根拠も無く、好転の予感を覚えた。

 

 

 

 広場の中程の目立つ場所に二脚の椅子を置いた八幡は、その横に、『お化粧研究部勧誘公演』と書かれた看板を立てた。

 看板は如何にも手作りといった風情だったが、作りは意外としっかりしていた。急造にしては上出来である。

 広場は、部活の予定もなく帰宅を急ぐ者達でごった返していたが、そのうちの数人が八幡の方に目を止めた。

 遠巻きに、「天の道の人だ〜」とか「天の道の人がなんかやってるぞ〜」という声が囁かれる。

 

「さあ! この中に、メイクに興味がある者はいないか!」

 

 然程大声というわけでもないが、八幡の声はよく通った。

 メイク? メイクがどうしたって? という騒めきが広がる。

 ざわざわとした人だかりに向かって、八幡は尚も言う。

 

「今から、お化粧研究部がメイクの実演を兼ねた寸劇を行う。それを観て、もし気に入ったら入部してやってくれ」

 

 八幡は傍らに控えていた結衣と視線を合わせて頷き合うと、椅子の前からサッと避けて、人だかりの中に紛れた。

 

「私がサクラ役とはね。失礼な話だわ」

 

 人だかりの中で騒めきを煽動していた雪乃が、隣に来た八幡に小声で言った。

 

「サクラではなく、モデルがよかったか?」

「……別に、そうは言ってないわ」

 

 二人は、肩を並べて結衣の方へ目を向けた。少々緊張した面持ちの彼女は、一生懸命覚えた台詞を喋っている。

 

「あたし、お化粧に興味はあるのに全然お化粧の仕方がわからないの。ああ、誰か優しい親切な人がお化粧の仕方教えてくれないかなあ」

 

 微妙に辿々しいが、まあ、演技力などには最初から期待していない。要は注目を集めてしまえば良いのだ。

 

「其処の可憐なお嬢様、メイクの事でお悩みならば私たちにご相談ください」

 

 そっと結衣の方へ近寄った和美が、胸に手を当てて言った。隣には化粧道具入りのギターケースを抱えた百合子の姿もある。

 

「あら、あなた達はだぁれ?」誰何する結衣。

「私は花から花へ渡る風。そして隣のコイツは助手のゴン」

「助手はいいとして、ゴンはやめろぉ! ゴンなんてアダ名が広まったらどうしてくれるんだ!」

 

 突如始まった寸劇を観て、目を丸くするギャラリー達だったが、和美にツッコむ百合子のコミカルな様子に、クスクスと笑いの波が広がる。

 

「受けてるわね。持ちネタなのかしら、アレ、初対面の時にもやってたわ」

 

 雪乃はヒソヒソと隣に居る八幡に話し掛ける。

 私もゆきのんというアダ名が広まったら嫌ね、と他人事とは思えない雪乃だった。

 

「この私が、あなたにメイクを施して差し上げましょう。さあ、椅子に座って、私にその顔をお見せ下さい」

 

 結衣が椅子に座ると、百合子はもう一方の椅子にギターケースを置いた。

 ケースを開けば、各種様々な化粧道具が顔を見せる。

 

「お嬢様、メイク前にスキンケアはしていますか?」

「えっと、乳液とかクリームとか塗れば良いんだよね?」

「ええ、その通り。ゴン、乳液の7番」

 

 和美が言うと、百合子はギターケースから指示通りの乳液を取り出して手渡す。

 その手捌きは、機械のように正確だった。

 

「乳液は肌にしっかり馴染ませましょう。ベタベタした状態で化粧下地を始めるのはNGですよ」

 

 乳液をつけた和美の手指が、結衣の顔を撫でる。

 ぷるぷるとした結衣の頰は、和美の塗り込んだ乳液によって瑞々しく潤っている。

 

「程よく馴染んだら、次は下地です」

 

 そう言って和美は、結衣の前髪を上げてヘアピンで留める。百合子は心得た様子でスタンダードクリームの化粧下地を和美に渡す。

 和美は手の甲に少量の化粧下地を乗せ、人差し指と中指、薬指の三本を使って馴染ませると、結衣の両頬、額、鼻、顎にほんの少しずつつけて、顔の中心から外側に向かう様に薄くのばしていく。

 

「化粧下地は薄くするのがコツだよ。下地が厚いと、化粧崩れの原因になっちゃうからね」

 

 百合子は和美にスポンジを渡しながら、ギャラリーに向かって言った。数人の女子生徒たちがふむふむと頷く。

 和美は薄くのばした下地を、スポンジで軽く叩く様にして馴染ませた。スポンジを使って、余分に着いた下地を吸着させているのだ。

 

「下地が終わったら、次はファンデーションですね」手についている下地を拭いながら和美が言う。

「リキッドタイプとか、パウダータイプとかあるんだよね? どう違うの?」

 

 結衣にその手の知識はなかった。彼女の母親はパウダータイプを好むようで、彼女自身もそれを借りて試した事はあるが、正直言って、適当に塗ってみただけである。

 

「パウダーファンデーションの方が扱いやすくて、メイク直しやメイク落としがしやすいって利点があるね。ただ、乾燥肌の人にはパウダーは合わなかったりするし、リキッドファンデーションの方が化粧崩れしにくくて、仕上がりの質も高くなるよ。そのかわり、リキッドは使いこなせる様になるまで比較的時間がかかるかもね」

 

 百合子が説明すると、ギャラリーたちの中にメモを取る者が出だした。

 どうやらこの実演は参考になるぞ、と思ったのかもしれない。

 

「今日はリキッドファンデーションを使います。ところで、お嬢様はコンシーラーを使った事は御座いますか?」

 

 和美が問うと、結衣は首を左右に振った。

 

「そうでしょうね。お嬢様の美しい肌に、コンシーラーは必要ないでしょう」

「そもそもあたしコンシーラーってなんなのか知らないや。何に使うものなの?」

 

 結衣の疑問には、百合子がすかさず答えた。

 

「コンシーラーは肌荒れやシミなんかを隠してくれる、乙女の強い味方だよ。後学のために覚えといた方が良いけど、お肌に自信のあるティーンエイジャーには必要ないかもね」

 

 もしも今の百合子の言葉を、お肌の曲がり角の手前でうろちょろしている女教師が聞けば、「私だってお前らくらいの年齢の頃はそうだったよ!」と叫んだかもしれない。しかし、ギャラリーは皆女子高校生なので安心である。

 

「コンシーラーは、パウダーファンデーションの場合はファンデーションを塗る前に使用するのですが、リキッドファンデーションを使う際はファンデーションを塗った後に使用します。偶に順番を間違えて覚えている方がいるので、注意が必要です」

 

 和美が人差し指を立てて言うと、肌荒れが気になる女子たちがメモを取った。

 

「リキッドファンデーションは、手指やパフ、ブラシなどを使って塗りますが、ナチュラルに仕上げたい方はブラシを使ってみて下さい。因みに私は、ファンデ用のブラシだけで26本持っています」

 

 コレクションを自慢するマニアのような口調で言う和美。ギャラリーの中から「わー、すごーい!」という声が上がった。

 何が凄いのかはよくわからないが、どうやら和美のファンになった女子がちらほら出てきたようだ。

 

「ファンデーションは顔の中心をしっかりと、そして顔の外側に流すように、それでいてムラ無く塗っていきます。目元などの化粧崩れしやすい場所はスポンジでトントンと叩き込むようにすると良いでしょう」

 

 和美は右手でファンデーションを馴染ませながら、百合子に対して左手の甲を差し出した。

 百合子はその甲に、円を描くようにしてフェイスパウダーを塗る。

 フェイスパウダーは付け過ぎてはいけない。

 和美は手の甲のフェイスパウダーをブラシにとった後、指先でブラシを弾く。余分についたパウダーが筆先からサラサラと落ちた。

 

「リキッドの場合は、さらにフェイスパウダーも使います。しかし、付けすぎない様に注意して下さいね。薄く、薄くで良いんですよ」

 

 フェイスパウダーも、ファンデーションのように顔の中心から外側へ流して塗っていく。

 フェイスパウダーは化粧崩れを抑える効果があるので、忘れずに塗るべきだが、付け過ぎてはいけない。厚塗りは厳禁だ。

 

「さて、次はアイブロウに取り掛かりましょう。お嬢様の眉は、完全なナチュラルですか?」和美は言いながら、スクリューブラシで結衣の両眉の毛流れをさっと整える。

「えっと、多少形を整えるくらいはしてるよ。前にペンシル使ってみた事もあるけど、あんまり上手く出来なくて、可笑しな眉になっちゃったなあ」

「ほう、お嬢様はペンシル派ですか」

「え? ペンシル以外にもあるの?」

「ふんわりと、柔らかい印象に仕上げるなら、アイブロウパウダーを使う手もありますし、アイブロウマスカラで眉を立体的に仕上げるのも良いでしょう。でもまあ、今日はペンシルだけを使ってみましょうか」

 

 百合子からアイブロウペンシルを受け取ると、和美は結衣の左眉にペンシルを走らせた。

 

「昔は、ただ塗りつける様に眉を描くアイブロウが流行った時期もあるそうですが、昨今のトレンドはデッサンアイブロウです。一筋一筋毛流れを意識して、塗りつけるのではなく、絵描くように眉を形成するのです」

 

 和美は、まるで美術のデッサンのように結衣の左眉を描きあげた。

 百合子はギターケースから手鏡を取ると、結衣の顔に向ける。

 

「わあ、なんか自然な感じ」結衣が左右の眉を見比べると、確かに左の方がキリッとしているが、濃過ぎるわけではない。

「さあお嬢様、右眉はお嬢様自身の手でどうぞ」和美はそう言うと、結衣の手にペンシルを渡した。

「え? あたしがやるの?」

「ええ、私が描いた左眉を見本にして、描いてみてください」

 

 和美に言われた通り、結衣は百合子の持つ鏡をよく見ながら、眉を描いていく。

 

「まずは眉山から眉尻へ、眉毛を一本ずつ足していくように描きます」

「こ、こんな感じ?」

「そうです。繊細且つ美しく、ですよ。お嬢様」

「えっと、次は眉頭だよね?」

「はい。眉頭は目立たせ過ぎてはいけませんよ。さらりと流すように、が基本です」

 

 結衣は一生懸命頑張った。ここは大事なところだ。

 和美に教えて貰えば自分にもあんなメイクが出来るかもしれない、とギャラリーに思わせなければならない。

 和美と百合子の為に、結衣は真剣な表情で眉を描く。

 他人を照らす為に頑張る。これが八幡の言う『天の道』なのかもしれないな、と結衣は思った。

 

「頑張ってるわね、由比ヶ浜さん」雪乃は隣の八幡に呟いた。その眼差しは、妹を見守る姉の様だった。

「あいつは他人の為に頑張る事が出来る人間だ。その姿は他人の心に、きっと届く」

 

 八幡はそう言いながら、周辺を見廻した。忙しなく、周囲のあちこちに目を向ける。

 

「比企谷くん、どこを見てるのよ」

「……あんな所にいたのか……」八幡は校舎の方を見ながら言った。

「はあ?」

「俺は、少しここから離れる。お前はそのまま、由比ヶ浜を見守ってやれ」

 

 八幡はそう言うと、エントランスに向かって歩き出した。

 雪乃は、いつもいつも勝手な事を、と思いながら八幡の背中を見送った。

 

 

 

 広場が見渡せる二階の廊下の窓辺に、優美子の姿はあった。彼女は、開いた窓の枠に肘を掛けて佇んでいる。傍に姫菜は居なかった。

 エントランス横の階段から二階に上がってきた八幡は、彼女に声を掛けた。

 

「海老名はどうした?」

 

 優美子は振り返りもせずに、「海老名なら、部活に行った」と素っ気なく答える。

 

「結衣見てたら、部活に行きたくなったってさ」

「そうか」

 

 八幡は姫菜の事を、なかなか勘の良いヤツだと思っていた。

 そんな姫菜が優美子を一人残したという事は、優美子の中に蟠りの様なものは殆ど無くなっているのだろう。

 優美子から数歩離れた所の壁に、八幡は背中を預けて凭れかかる。

 

「こっから観てたけど、結衣、頑張ってんじゃん」優美子は呟いた。

 

 結衣を見る優美子の眼差しは、妹を見守る姉の様であったし、娘を見守る母の様でもあった。

 

「ふっ……」八幡は珍しく、不意を突かれた様子で吹き出して笑った。

「なに笑ってんのさ、天の道」

「いや、同じような事を言うんだな、と思っただけだ。気にするな」

 

 怪訝そうに首を捻る優美子。八幡はそれ以上説明する気がない様で、いつもより優しい表情で微笑んでいる。

 優美子には、その表情が意味する所はわからない。しかし、まあ、別段嫌味を感じるものではなかった。そんな事は今の彼女にとってはどうでもいい事だった。

 尚も綺麗にメイクアップされていく結衣を遠くから眺めながら、優美子はただ黙っていた。

 八幡も、何も言わない。

 やがて和美による結衣のメイクが完了すると、優美子は溜息を一つ吐いた。

 

「はあ……あーしも、なんか部活入ろっかな〜」

「奉仕部にでも入るか?」八幡は微笑みを讃えたまま、優美子に言う。

「人助けとか奉仕の精神とか、あーしのキャラじゃないっての。冗談言うなし」

「そうだな、冗談だ」

「からかってんの?」眉根を寄せた優美子は、振り返って八幡を睨みつける。

 

 そんな優美子に対して、八幡は、真面目な表情をみせて言った。

 

「同じ道を往くのは、ただの仲間に過ぎない……別々の道を共に立って往けるのは……友達だ」

 

 数瞬、沈黙が訪れる。

 

「それも……アンタのおばあちゃんの言葉?」

「……いや……俺の言葉だ」

 

 目を丸くして驚いた優美子は、一転、ふわりと笑って、「格好つけてんじゃねーし……」と言い残して去っていった。

 言葉自体は辛辣だったが、そのニュアンスに、嘲りの色はなかった。

 

 

 

 広場の人だかりの中心で、ブティックのショーウィンドウにディスプレイされたマネキンのように、結衣は注目を浴びていた。

 きゃいきゃいと騒がしい女子たちの中心では、少し照れるようにはにかむ結衣と、自慢気な様子を隠しきれない和美と百合子の姿があった。

 人だかりから少し離れた所には、思案気な表情の雪乃がいる。

 デモンストレーションは概ね成功と言って良かったが、想定以上に和美の技術が高過ぎた。

 ギャラリーたちは、半ば和美のファンと化してしまっている。そのせいで、逆に入部希望者が現れないのだ。

 例えるならば、真剣に甲子園を目指しているような強豪の野球部には、冷やかしの素人は入部しにくいといった所だろうか。

 さて、どうすれば入部希望者が現れるだろうか、と雪乃が考えていると、突然現れた優美子が、人だかりに割り込んでその中心へと向かった。

 

「あっ、優美子……」少々気不味そうに、結衣が呟く。

 

 呆然と立つ結衣に、優美子はそっと歩み寄り、ギュっと抱きしめて耳元で囁いた。

 

「昼休み……結衣がいなくても大丈夫なんて言ってごめん。悪かった、間違ってた」

 

 優美子の声は、結衣にだけ届いた。その耳だけではなく、その心にも、しっかり届いた。

 

「……優美子っ」満面の笑みで、優美子の名を呼ぶ結衣。その笑顔は、和美のメイクも手伝って、とても魅力的だった。

 

 優美子は、結衣に対して数秒ほど微笑んだあと、和美の方に顔を向けた。

 

「あんさぁ、和美、あーしにも結衣みたいなメイクやってよ」

「優美子さんに、ですか?」

「そう、そんで、そのメイクが気に入ったらさ、あーしもお化粧研究部に入部する。メイクとか、興味あるし」

 

 優美子が言うと、和美と百合子はお互いの視線を合わせてハイタッチした。

 

「風間流奥義アルティメット・メイクアップ、期待は裏切りませんよ」

「優美子ちゃんって呼んでいい? 入部は決定したも同然だね」

 

 雪乃は、喜ぶ和美と百合子の顔を離れた所から眺めながら、なんとか一件落着したようだ、と思った。

 顔に手をかざして西陽を見上げると、太陽が輝いている。

 太陽はまだまだ、沈みそうもない。

 




風間和美
 元ネタは風間大介。
 お化粧研究部を設立しようとしているという設定から、女の子にした方が自然かなあ、という事で女の子に。
 俺ガイルっぽい名前にしたかったので、フルネームは『かざまかずみ』にしました。
 私服姿は男装の麗人という設定ですが、ビジュアルイメージは男装の麗人というより、女性版の加○和樹さん。

中山百合子
 元ネタはゴンこと高山百合子。
 原作カブトのゴンは記憶喪失なので、『名無しの権兵衛』から来たアダ名ですが、流石に記憶喪失設定にはできなかったので、苗字を中山にして『ゴン中山』からゴンというアダ名になった、という設定にしてみました。
 風間の下の名前を和美にしたので、カズとゴンで名コンビっぽい名前になったなあ、と思っています。

岬祐月
 元ネタはそのまま、岬祐月。
 俺ガイルっぽく、岬ミサなんていう名前にしようかとも思いましたが、原作カブトでも『みさきゆづき』という語呂の良い名前だったので、そのままにしました。
 野球部のマネージャーで、後輩のアキラと仲が良いという設定です。
 八幡にとって中学からの先輩ですが、関係性は『知り合いの知り合い』程度です。


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野球部編1話

 自室のテレビで野球中継のロッテ対オリックス戦を観ながら、加賀美(アキラ)は溜息をついた。

 また、肝心な所が映らない。観たい所が映らない。

 

 野球部に所属している鑑は、現在控え投手の座に甘んじている。

 それは別にいい。自分はまだ入部したばかりの一年生だし、総武高校野球部には、三年生に絶対的エースの先輩がいる。

 正直に言うと、球速だけとってみればエースの先輩に負けているとは思わない。

 しかし、コントロールや変化球の精度に関して言えば鑑の完敗である。

 二番手投手として背番号を貰えるだけでも、御の字だと思っている。

 ただ、それでも出場機会は増やしたいというのが、野球人としてのサガだ。

 先日、顧問でありチームの監督でもある田所先生から、こんな事を言われた。

 

「加賀美、お前バッティング良いし守備のセンスもあるから、ショートもやってみないか? もしかしたらレギュラーになれるかもしれんぞ」

 

 そう言われれば、やはりレギュラーを狙ってみたくなるものだ。

 鑑は早速、ショートの守備に関する勉強を始めた。

 鑑は小学生の頃から野球をしているが、彼のポジションは常にピッチャーだった。

 サブポジションとして、一応外野も守れるが、内野手の経験は殆どない。

 ショートは特に連携が難しい、内野の要とも言えるポジションだ。

 今更、幼い頃に買った野球入門書などを引っ張り出してきて読んだりもしているが、所詮入門書を読むだけでは具体的な動き方などさっぱり想像できなかった。

 だからこそ、プロのプレーを参考にしようと野球中継を観ているのだが、さっきから画面に映っているのは、バッテリーとバッター、それにボールの行方だけだ。

 俺はショートが観たいのに、鑑はそう思いながらまた嘆息した。

 

「アキラーっ! 祐月ちゃん来たわよーっ!」

 

 不意に、母の大声が響いた。それから十数秒後、勝手知ったる他人の家とばかりに鑑の部屋のドアを開いて、岬祐月が入ってきた。

 

「こんばんは。アレ? 野球観てるの? アキラってロッテファンだっけ?」

「こんばんはっす。いや、どっちかって言うとセ・リーグ党ですけど、今中継してるのロッテ戦だけなんで」

 

 鑑の自室にある椅子は、勉強机に備え付けられたもの一つだけだった。

 その椅子には既に鑑が腰掛けているので、岬は適当にベッドに座った。

 

「ショートの守備を観たくて観戦してるんですけど、あんまりショート映らないんですよね」

 

 打球が飛べば別だが、ショートを主に映す野球中継など無いだろう。

 基本的にテレビ観戦者が興味を持っているのは、ピッチャーとバッターの勝負の行方だ。

 

「そっか、田所先生にショートやってみろって言われたんだもんね。プロのプレーを参考にしようってわけだ」

「そうなんですけどね。ショートが映る場面って精々フィールディングくらいなんですよ。牽制の動き方とか、カウントとか状況毎のポジショニングとか、細かいところを観たいんですけど」

 

 テレビ画面には、キャッチャーのサインに対して首を振る、オリックスのピッチャーがアップで映されていた。

 

「だったら、私が教えてあげよっか?」

「えっ? 岬さんが?」

「なに、不満? これでも私、リトルではショートだったんだから」

「いや、岬さんが小学生の時ショートだったのは覚えてますけど、総武のサインプレーとか把握してます?」

 

 岬は小学生の頃、近所の女子リトルチームに所属していた。

 別のチームにいた鑑は、練習試合などで一際大きな声を出して守っている岬を見て、女の子なのに男より威勢がいい人だな、と思っていた。

 

「マネージャーだからって馬鹿にしないでよ。正直、サインプレーならアキラより詳しいわよ。貴方、この間の練習試合でも牽制のサイン見逃して、罰走させられてたでしょ?」

「ああ、ゴールデンウィークの練習試合ですか。岬さん、先に帰っちゃうんだもんなあ。お陰で俺、あのあと田所先生と二人っきりですよ」

「公園ぶらぶらして待っててあげようとは思ってたんだけどね。あの日は色々あったのよ」

「色々ってなんです?」

「色々は色々よ」

 

 岬は、詳しく話すつもりは無いようで、適当にはぐらかして目を逸らしている。

 

「まあ、とりあえず明日から朝練で守備練習ね。みっちり教えてあげるから、覚悟しときなさい」

「えー、朝練で守備やるんすか? 勘弁してくださいよ」

 

 鑑は以前から、自主参加の朝練にも顔を出していた。

 総武高校野球部の朝練の練習内容は、各自の自主性に任されているので、大抵の部員はティーバッティングやフリーバッティングをしている。

 やはり、地味な守備練習よりも、打撃練習の方が楽しいのだ。

 

「ところで、何か用でもあるんですか? こんな時間にウチまで来るなんて」鑑は岬に訊いた。

「なに? 用がなきゃ来ちゃいけないわけ?」

「いや、そういうわけじゃ無いですけど、こんな時間に来るのは珍しいなあ、と」

 

 鑑はそう言って目覚まし時計に目を向ける。既に、八時を大きく過ぎていた。

 今までにも、岬が鑑の家に来たことは何度もあるが、こんなに遅い時間に来たのは初めてだった。

 岬は、「えーっと……」と少し考え込むように呟く。

 そして、「あー、なんて言うか……」だの、「そのー、えっとね……」だのと、言い淀みながら視線を彷徨わせる。

 岬がこんな風に、はっきりしない態度をとるのは珍しい事だった。

 鑑の持つ岬へのイメージは、『男前な女』である。

 

「えっと……あのね」

 

 岬が煮え切らない態度でもごもごと呟いた時、不意に、テレビから快音が響いた。

 

「あっ!」鑑と岬が同時に声を上げて、テレビに目を向ける。

『捉えた当たりっ! 大きい! 大きい!』実況アナウンサーが興奮しながら捲し立てる。

「行けっ! 入れ!」岬は拳を握りしめながら、テレビに向かって言う。

「越えろ!」鑑も、テレビを見ながら言った。

 

 テレビ画面の中の白球は、大きく伸びて外野の頭を越え、レフトスタンドの客席に消えていった。

 

『入ったーっ! スリーランホームラーーン! 6回裏、ロッテに貴重な貴重な先制点が入りました!』

『いやぁ、会心でしたねえ』

 

 白熱する実況に、解説者が冷静に返した。

 

「やったーっ!」鑑と岬は声を揃えて叫んだ。

 

 セ・リーグ党の鑑は勿論、岬も実は然程ロッテファンというわけでは無いが、やはり地元のチームが活躍するというのは嬉しいものだ。

 それに、ホームランは野球の華である。テレビの向こう側の事とはいえ、野球部員として、反応するのは必然だった。

 二人揃って一頻り喜んだ所で、冷静になった鑑が岬に問い掛ける。

 

「ところで岬さん、さっきは何を言いかけてたんですか?」

「えっ、あーっと……やっぱり、アキラに言うのはやめとくわ」

「やめとくんですか」

「ええ、やめとく」男の子にはプライドもあるだろうし……と呟いた岬の声は、鑑の耳には届かなかった。

 

 言いかけたところでやめられると、喉に刺さった小骨のように納まりが悪い。

 しかし、まあ、岬が言いたくないというならば、鑑としても無理に訊きだす訳にもいかない。

 

「ごめんね。今日はもう帰るわ」岬はそう言うと、ベッドから立ち上がった。

「じゃあ、送っていきますよ」

「別にいいわよ。近所なんだから」

「いや、そういうわけにはいかないですよ。こんな時間に岬さん一人で帰すなんて出来ませんて」

「そう? じゃあ、頼もっかな」

 

 岬の言う通り、岬の家と鑑の家は徒歩にして五分も離れていない。

 しかし、夜に女の子が独り歩きするのは、やはり心配である。

 鑑の母親も、岬が「夜分遅くに失礼しました」と言って辞去しようとすると、「アキラ、あんた送っていきなさい」と言って鑑を外に追い出した。

 雲に覆われているのか、今は月明かりもない。

 ぽつんぽつんと疎らに立つ街灯の光だけを頼りに、二人並んで歩く。

 岬は女の子にしては健脚で、歩くのが早い。

 一々歩くペースを合わせなくていいのは楽だなあ、と鑑は常日頃から思っていた。

 もっとも、鑑が常日頃から並んで歩く女子など、岬くらいしかいないのだが。

 

「ねえ、アキラ」

「なんですか?」

 

 岬は、20センチほど身長差のあるアキラの顔を見上げた。

 街灯の光だけでは、鑑の顔はよく見えなかった。鑑は鑑で、岬の顔はよく見えていないだろう。

 

「もし、いま私が悪漢に絡まれたりとかしたらさあ」

「悪漢って、なんか言い方が古くないすか?」少し笑いを含んだ声で鑑は言う。

「茶化すんじゃないわよ。悪漢が駄目なら、不良でもチンピラでもなんでもいいけど、とにかく、私が絡まれたりしたらさあ」

「守りますよ、もちろん」

 

 ピタリと、岬は足を止めた。鑑は一歩だけ岬よりも前に進み、止まっている岬を振り返ってさらに言う。

 

「喧嘩とかした事ないんで、相手をぶっ倒す、とかは無理かもしれませんけど……岬さんの代わりに殴られるくらいの事は出来ます」

 

 岬は一瞬呆けたあと、気を取り直して歩みを再開しながら、「へぇー」と特に気の無いような声音で言った。

 

「格好いいじゃない。アキラのくせに」

「『アキラのくせに』は余計でしょ。格好いいで留めといて下さいよ」

「アキラくんは、いまいち格好つかない奴ってイメージがあるからなあ」

 

 揶揄うように言う岬だったが、内心では鑑の事を信頼していた。

 多分その言葉は、半分本音で、半分照れ隠しなのだろう。

 岬が空を見上げると、既に雲は流れたのか、夜天に月が輝いていた。

 

 

 岬を家まで送り届けたあと、鑑が自宅に帰ると、玄関に弟の亮が待ち構えていた。

 亮は意味深な笑顔を浮かべて、鑑に詰め寄る。

 

「なんだよ亮、ニヤニヤして。気持ち悪いぞ」

「気持ち悪いは酷いなぁ。岬さんとの仲が進展したかどうか気になってさぁ。どうなの? キスくらいした?」

 

 中学生のくせに、最近色気付いてきたなあ、と鑑は苦笑する。

 兄の恋愛事情に興味津々といった様子の亮に、鑑は軽くデコピンを当てた。

 

「いてっ!」

「俺と岬さんは、そんなんじゃねーよ」

「えーっ! でもさあ、岬さんって絶対兄ちゃんの事好きだと思うんだけどな」

「無い無い、俺の事はどうせ、仲の良い後輩くらいにしか思ってねーよ」

 

 もしくは、イジリ甲斐のある後輩だろうか。

 なんだかんだで長い付き合いになるので、気安い関係ではあるが、恋愛には発展しそうもなかった。

 今日だって結局、ショートの守備を教わるという約束をして、一緒に野球中継をちょっと観ただけだ。

 

「でも、兄ちゃんって顔は中々イケてんじゃん。ちょっと素朴系だけど、結構モテるんじゃないの?」

「モテねーよ。そういう意味じゃ、お前もあんまり期待しない方が良いぞ。俺の弟だからな、多分モテない筈だ」

「えーっ!? 兄ちゃんと一緒にしないでくれよ! 岬さんくらいしかいない兄ちゃんと違って、俺は結構モテるよ!」

 

 弟の生意気な発言を聴いて、鑑はもう一度デコピンしてやろうと腕を伸ばす。

 亮はそれをヒョイと避けて、笑いながら自室へと戻っていった。

 それにしても、仲の良い兄弟である。

 

 

 

 夕食を済ませた後、結衣は自分の部屋で漫画を読んでいた。

 その漫画は、姫菜に全巻セットで借りた、姫菜オススメの本である。

 ここ数日、夢中で読み進めたので、既に終わりが近い。

 恋愛漫画が読みたいなあ、と言った結衣に対して姫菜が貸して寄越したのは、何故か野球漫画だった。

 姫菜曰く、「双子の兄弟の恋愛物なんだけど、割と序盤で弟が交通事故で死んじゃう悲恋物だから注意してね」との事だった。

 姫菜によるBL的曲解は結衣には伝わらなかった。

 そして、かなり重大なネタバレをされた事も気にはならなかった。

 姫菜が貸してくれた漫画は、とても有名なタイトルだったので、結衣だって大筋くらいは知っているのだ。

 弟が死んだ後、お兄ちゃんが頑張って甲子園に行く。あと、ヒロインが可愛いらしい……このくらいの情報は知っている。

 この漫画を読み終わったら、次は同じ作者の違う恋愛野球漫画を借りる約束をしている。

 そっちは、「中学生の時チームメイトだったエースとスラッガーが、高校進学によって別々のチームになってしまう悲恋物」らしい。

 姫菜にとって普通のラブコメは、だいたい悲恋になるのかもしれない。

 読み終わるのが名残惜しい様子で、最終巻を読み進める結衣。

 遂に最後のページを読み終わると、コミックスをパタンと閉じた。

 

「結衣は、ポーカーチップじゃないぞ。ユッちゃんのものでもないんだぞ」

 

 突然、妙な独り言を、変わった口調で呟く結衣。

 どうやら漫画のヒロインに影響されて、漫画のセリフを言ってみたくなったらしい。

 尚、『ユッちゃん』が雪乃と優美子のどちらを指すのかは、結衣にしかわからない事である。

 

「ハッちゃん、結衣を甲子園につれてって……いや、ヒッキーは野球よりサッカーの方が上手そうだなあ」

 

 サッカーの全国大会ってどこでやるんだっけ? 両国国技館? と、結衣は見当外れな場所を思い浮かべた。

 



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野球部編2話

 今更なにを言っているんだと思われるかもしれませんが、この回から、かなり設定を改変された俺ガイルキャラが登場します。
 ご了承下さい。


 総武高の生徒達が部活に勤しむ放課後のグラウンド。

 青春を謳歌する彼ら彼女らの放つ熱気が、きらきらと輝いて眩しい。

 

 野球部の活動スペースにあるダイヤモンド、その真ん中に位置するマウンド上には、加賀美鑑の姿があった。

 現在、野球部は内外野に分かれて守備練習を行っている。内野側は状況別のシートノックだ。

 因みにノッカーはマネージャーの岬。彼女はノックバットを構えて、バッターボックスに入っている。

 

「じゃあ、次は弱目のファーストゴロ。ピッチャーがベースカバーに入るようなの頼む」

 

 キャプテンでもある三年生キャッチャーの指示に岬は、『アキラのヤツ、試されてるなあ』、と思いながら頷く。

 鑑がマウンド上でシャドーピッチの動作を見せると、岬はタイミングよくファーストゴロを打った。

 注文通りの打球に対して、ファーストが数歩前に出ながら捕球する。

 

「ファースト! ピッチカバー!  ボールファースト!」

 

 キャプテンは、自身も一塁方向にカバーとして走りながら、ピッチャーとファーストに指示を出す。

 鑑は一塁方向に走りながら、ベースにある程度目測を付けた後、ファーストの先輩にボールを要求した。

 

「はい! こっち!」

 

 鑑の声に応えたファーストが、タイミングを合わせて一塁方向にボールをトスする。

 鑑はきっちりボールを捕球した後、一塁ベースを踏んだ。ただし、左足で。

 

「加賀美ぃ! ファーストベースカバーは右足だろうが! 左足じゃランナーと接触するぞ!」

「あ! ウス!」

 

 キャプテンの叱責に対して、帽子を取りながら答える鑑。

 鑑自身、ベースカバーは右足で、というセオリーは知っている。ちょっと目測を誤り、歩幅が合わなかったのだ。

 岬は鑑のそんな様子を見て、「ちょびっと抜けてるのよねえ」と呟いた。

 

「加賀美、次はショートに入れ」キャプテンは鑑に言う。

「はい!」

 

 鑑は帽子を被りなおして、キャプテンにボールをトスした後、ショートに走って行く。

 守備位置に着くと、正ショートの三年生は「加賀美、来ていきなりで悪いけど、お前守って良いよ」と言って、後ろに下がって片膝をついた。

 

「えっ、良いんですか? ありがとうございます!」

「そこで、ありがとうって言えるのがお前の良いとこだよな。お前多分上手くなるよ」

 

 彼は、一応チームの正ショートではあるが、本職はセカンドだった。

 出来ればショートは鑑に任せて、自分はセカンドに戻りたいというのが、彼の本音だった。

 自分がセカンドに戻ると、現在セカンドのレギュラーを務めている後輩を追い出す形になるが、まだ二年生の彼には自分が引退してから頑張ってもらおうと思っている。

 

「ランナー一塁! ゲッツーシフト!」

 

 キャプテンが叫ぶと、一年生部員がランナーとして一塁に立つ。

 鑑は数メートルほど、二塁ベース寄りに動いた。

 

「加賀美ぃ、ゲッツーシフトっつっても寄り過ぎだ。もうちょい右」正ショートが鑑にアドバイスする。

「えっ? このへんすか?」鑑は言いながら数歩右に動いた。

「おう、そのへん」

 

 鑑が正しい位置に立ったのを見ると、キャプテンは岬に指示を出す。

 

「三遊間、ちょい深めに強いゴロ。加賀美がギリギリ捕れるかどうかっての頼む」

「はい」

 

 頷いた岬は、エースのシャドーピッチに合わせてゴロを打った。

 鑑は打球に対して瞬時に反応し、軽快なスピードで走り寄った後、ダイビングで跳びついて捕球した。

 そして素早く身体を起こすと、崩れた体勢で座ったまま、スナップスローで二塁に送球する。

 送球を受け取ったセカンドは、そのままの勢いでファーストにボールを送った。6-4-3のダブルプレーが完成する。

 

「おー、流石だな加賀美。すげえすげえ」

「ですよねえ」

 

 キャプテンが褒めると、岬が同意した。

 

「加賀美ぃ! 送球にシュートかけるな! 捕りにくいだろうが!」

 

 セカンドの二年生が鑑に文句を言うと、鑑は「すみませぇん!」と言って帽子を取った。

 

「凄いけど、ちょっと抜けてるんだよなあ」

「ですよねえ」

 

 キャプテンが貶すと、岬が同意した。

 

「それにしても岬、お前相変わらずノック上手いな。田所先生より上手いんじゃねーの?」

 

 キャプテンが感心した様子で言う。自分の指示通りの打球を飛ばしてくれる岬は、ノックだけなら自分より上手いと本気で思う。

 

「いえ、田所先生にはまだまだ及びませんよ」

 

 岬はそう言うと、外野に目を向けた。

 外野では現在、田所をノッカーとしてアメリカンノックが行われている。

 ノッカーが打つ前に外野手を走らせ、その外野手がギリギリ追いつける所にフライを上げるアメリカンノックは、ノッカーに高い技術力が要求される。

 岬には、まだそこ迄の技術は無かった。

 しかし、まあ、いつかはアメリカンノックも出来るようになってやる、と岬は思っている。

 

 

 

 ノックが終わると、五分休憩の時間が設けられた。

 鑑はバックネット裏の休憩スペースで、水分を補給しながら座っている。

 すると、エースの先輩が隣に腰掛けてきた。

 

「加賀美、お前ピッチャー用のグラブしか持ってないのか? さっきピッチャー用でショート守ってたろ」

「あ、はい。ピッチャー用しか買わなかったんで」

 

 硬式用グラブは結構高価だ。高校生がそういくつもポンポン買える値段ではない。

 

「そうか、じゃあ、俺のオールラウンダー貸してやるから、次からはそれでショート守れ。俺、予備に一個オールラウンダー持ってるから」エースが鑑に言う。

「えっ? 良いんですか? ありがとうございます!」

「いや、礼なんか言わなくて良い。お前がショートのレギュラーになった方が、打線が強くなりそうだからな。礼ならヒットで返してくれ。ホームランでも良いぞ」

 

 冗談めかして言うが、彼は割と本気で鑑にレギュラーになってほしいと思っていた。

 現在の総武打線はあまり強力とはいえない。

 鑑のようなスラッガーがレギュラーになるのは、エースである彼としても大歓迎だった。

 

「次はブルペンで投げ込みだな。ショートだけじゃなくて、ピッチャーの練習も頑張れよ。俺一人で連投はキツイからな」

「ウス! 頑張ります」

 

 エースの彼は、言いたい事を言い終えるとブルペンの方へ歩み去った。

 休憩時間もそろそろ終わりである。

 鑑は、自分もブルペンに向かおうと立ち上がる。

 しかしそこに丁度、「カ・ガーミン」と、独特の似非ヨーロピアンな節を付けて彼の名を呼ぶ声が聴こえた。

 鑑は声がした方を振り返る。そこに居たのは、同じ中学出身の同級生だった。

 

「剣か……何やってんだ、そんなとこで。また岬さんの追っかけか?」

「誰が追っかけだ! 違う、今日はちょっとカ・ガーミンに相談事があるのだ」

「相談〜? 悪いけど、休憩もう終わりだから。相談なら他の奴にしてくれないか」

「なっ、ちょっとくらい時間を割いてくれても良いだろう!? 親友の頼みが聞けないと言うのか!」

 

 剣と呼ばれた男は、眉を上げて目を見開きながら鑑に詰め寄る。

 しかし鑑は、もう練習に行かなきゃならないから、と軽くあしらった。

 

「友情に勝る財産は無いんだぞ! 親友である俺を蔑ろにするんじゃない!」剣と呼ばれた男は、尚も食い下がる。

「あ〜、じゃあ、奉仕部に行ってみろよ。相談に乗ってくれるらしいぞ」

「奉仕部?」

「ああ、詳しくは、職員室前のポスターを見ろ。お前もよく知ってる名前が書いてあるから」

 

 じゃあな、と手を振って鑑はブルペンに駆けて行く。

 一人残された剣は、納得いかないながらも、とりあえず職員室に向かった。

 

 

 

 放課後の特別棟、その一室である奉仕部の部室には現在、奉仕部員とその顧問に加えて、お化粧研究部の面々が雁首を揃えていた。

 

「いやあ、悪いねえ。今日も間借りしちゃって」百合子が申し訳なさそうに言う。

「大丈夫だよ、ゴンちゃん。むしろ人数いっぱいいた方が楽しいもん」

 

 にこにこと満面の笑みで結衣が答えた。いつの間にか百合子の事をゴンちゃんと呼んでいる。

 百合子もなんだかんだ言ってゴンと呼ばれる事に納得しているようで、結衣にそう呼ばれて満更でもなさそうだ。

 部室の隅では、和美が優美子にメイクを施している。

 和美としても、美形の優美子をメイクアップするのは楽しいようだ。

 

「ふむ、しかし、お化粧研究部の部室申請に一週間もかかるとは、どういうことだろうな? 奉仕部は即日で部室を確保できたんだが」

 

 顎に指を当て首をひねる静。今日は偶々ヒマだったので奉仕部の様子を見にきたらしい。

 

「大方、悪い前例でもあったから申請が通りにくくなったんじゃないか」八幡は、文庫本に目を向けながらそう言った。

「なに? 天の道、あーしらがなんか悪い事したっての?」

 

 優美子が八幡に文句を付けると、「メイク中に動いちゃダメです。優美子さん」と言って和美が注意した。

 

「お前達が悪いとは言ってない」八幡が答えると優美子は、じゃあ悪い前例ってなんだ? と、疑問を覚えた。

「彼女達が悪くないなら、申請が通らない理由は何かしら?」

 

 雪乃がそう問い掛けた時、部室の外の廊下から突然、歌声が聴こえてきた。

 

「ランラララ〜♪ラァラララランラ〜ララ♪」

 

 歌声は段々と部室に近付いてくる。

 

「ラ〜ラッラ♪ラララ♪ラッラララララァ♪」

 

 その伸びやかな高音が部室の前でピタリと止むと、代わりにコンコンというノックの音が響いた。

 

「はい、ど〜ぞ」

 

 結衣が応えると、ドアを開けて入ってきたのは、一年B組担任にして合唱部顧問、並びにお化粧研究部顧問でもある小雀八千代先生だった。因みに担当教科は音楽。

 

「お邪魔しま〜す。あ、平塚先生、こんにちは!」

「はい、どうもこんにちは」

 

 内緒だが、静は少しだけ、この女教師が苦手だった。

 天真爛漫で元気いっぱいなその様子を側から眺めていると、何だか自分とは別人種のような気がしてくる。

 勿論、嫌いではないのだが。

 

「みんな〜! 部室申請通ったよ〜! やったねーっ」

 

 右手でVサインをしながら、左手で鍵を掲げる八千代は、「はい、コレね。場所はこの部室の隣」と言って、ドアから一番近い所にいた百合子に鍵を渡した。

 

「ありがとうございます。やっと申請通ったんですね」鍵を受け取りながら百合子が言った。

「時間かかっちゃってゴメンね。なんかね、同好会のままで部室を占拠してた部活があったらしくてね。部室申請の審査が厳しくなっちゃったみたいなの」

 

 悪気なく言った八千代の言葉に、「やはりそういう事か」と、八幡が頷く。

 心当たりがあった雪乃と結衣は、静の方に顔を向けるが、静はそっぽを向いて誤魔化した。

 

「あっ、三浦さん、風間さんにメイクしてもらってるの? いいなぁ、いいなぁ私もして欲しいなあ」

 

 部室の隅でメイクをされている優美子を目敏く見つけた八千代は、和美と優美子にとてとて駆け寄る。

 

「顧問を引き受けてもらった恩もありますから、小雀先生ならいつでもメイクアップして差し上げますよ」

「小雀先生ってあんま化粧気ないよね。和美にメイクしてもらったらめっちゃ変わるんじゃね?」

 

 和美と優美子が口々にそう言うと、八千代は眉根を寄せて残念そうな様子を見せた。

 

「出来れば今すぐにでもメイクしてもらいたいとこなんだけど、私まだ仕事残ってるんだぁ。すぐ職員室戻んなきゃいけないから、残念だけどメイクはまた今度ね」

 

 八千代はそう言うと、ひらひらと手を振ってドアの方へ歩いて行く。

 ぺこりと頭を下げ、「じゃあ、平塚先生お邪魔しました〜」と言い残して去っていった。

 

「あ〜あ、これでお化粧研究部のみんなはお引っ越しかあ」結衣が残念そうに呟く。

「お引っ越しって言っても隣らしいからね。いつでも遊びに来てよ」

 

 百合子がそう言って微笑むと、和美と優美子も同意するように頷いた。

 

 

 

「ラァララララァラララ♪ララランラァララ♪……あら?」

 

 八千代がご機嫌な様子で歌い上げながら職員室に戻ると、部活動案内掲示板の前に、自身が担任を務めている一年B組の生徒の姿を見つけた。

 どうやら視線から察するに、その生徒は奉仕部のポスターを眺めているらしい。

 小さな声で、「天道……総司……」と呟いている。

 

「材木座くん、そんなところで何してるの?」とりあえず話しかけてみる八千代。

 

 名前を呼ばれた材木座は、くるりと八千代の方に振り向くと、「先生! 俺の事は神代剣と呼んでくれと言った筈だ!」と言って抗議した。

 

「何言ってるの? 材木座くんは材木座くんじゃない。可笑しな材木座くん。アハハハハ!」

 

 八千代は材木座の言を無視して、材木座の事を材木座と呼び続ける。

 

「くっ……まあ良い」

 

 気を取り直した材木座は、破らない様にポスターを丁寧に剥がし、両手で持ってそれを眺めた。

 

「我がライバル天道よ、俺が相談を持ちかけてやる……俺は誰かに相談する事にかけても頂点に立つ男だからな!」

 

 材木座は、芝居掛かった口調で言うと、「ふっふっふ、ふっフハハハハ、ハーッハッハッハッ」と、三段笑いを見せた。

 八千代は、そんな材木座の様子を眺めながら、「何言ってるの材木座くん。アハハハハハハハ!」と音楽教師独特の伸びやかな声で笑う。

 

「フハハハハハハ!」

「アハハハハハハ!」

 

 材木座の芝居掛かった高笑いと、音楽教師の劈くようなソプラノが、ハーモニーとなって職員室前の廊下に響き渡った。



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野球部編3話

 小学生の頃の材木座義輝は、多少の妄想癖はあるものの、基本的には大人しい部類の少年だった。

 教室の隅で、他人の印象には残らない程度の希薄な存在感を放ち、毒にも薬にもならないような人生を歩んでいた。

 そんな彼の人生が一変したのは、中学一年生の春。中学校の入学式の日だ。

 材木座は真新しい制服に身を包み、どこか緊張を隠せない様子で、割り当てられた教室の自分の席にちょこんと座っていた。

 まだ担任教師が姿を見せない事を幸いに、新しいクラスメイトたちは席の近い者たちとのお喋りに興じている。

 しかし材木座は元来人見知り気味で、初対面のクラスメイトに話しかけられるような性格ではなかった。

 同じ小学校出身のクラスメイトもちらほらいたが、その中に材木座が仲良くしていたような面子はいない。

 落ち着かない素振りを見せながら、彼は教室をきょろきょろと見回した。

 すると、教室の中程の席に、自分と同じように誰とも会話せず、大人しく座って文庫本を読んでいる少年を見つけた。

 文庫本には、購入時に書店でかけられるようなカバーがされているので、タイトルは窺い知れないが、材木座はラノベだったらいいなあ、と思った。

 こういう雰囲気の中で一人ライトノベルを読んでいるような少年となら、自分も仲良くできるかもしれない。

 材木座が展望を思い描いていると、教室のドアを開けて男性の担任教師が入室してきた。

 

「あー、初めまして、新入生諸君。私がこのクラスの担任だ。よろしく頼む」

 

 担任教師はそう言って、黒板に大きく自身の名を書いた。

 そして、担当教科や顧問をしている部活などについて話した後、「じゃあ、みんなにも自己紹介してもらおうかな」と教室の生徒達を見回した。

 端の席から順番に、クラスメイト達は適当に自己紹介していく。

 名前を言った後に、入部を希望している部活動や、趣味などを話す。中にはウケを狙ってちょっとした笑い話を披露する者などもいたが、あまり反応は芳しくなかった。

 単純にその生徒の話が面白くなかったのか、それとも入学したての、少し緊張が残る雰囲気の中では笑えるものも笑えなかったのかはわからないが、その様子を見た材木座は、自己紹介ではしゃぐのはやめておこう、と自身を戒めた。

 材木座は、この時の自己紹介で自分が何を言ったのか、今となっては覚えていない。

 もしかしたら、名前だけ言ってすぐに着席したのかもしれない。

 材木座義輝が今でも克明に、鮮明に記憶していることは、クラスの中程の席で文庫本を読んでいた少年の自己紹介だった。

 その少年は、自身の前の席に座るクラスメイトが自己紹介を終えると、それまで我関せずの態度で読んでいた文庫本をパタリと閉じ、洗練された動作で起立すると、突然天井を指差してこう言った。

 

「おばあちゃんが言っていた……俺は天の道を往き、総てを司る男だってな……俺の名は比企谷八幡、覚えておくといい」

 

 クラスメイト達が唖然とするなか、材木座義輝は一人瞠目しながら、比企谷八幡を眺めた。

 そして、強烈に憧れた。よくわからないけれど、何だかカッコイイ、と。

 

 材木座義輝が自身の事を、神に代わって剣を振るう男、神代剣だと名乗る様になったのは、この直後のことである。

 

 

 

 

 材木座は職員室前の部活動案内掲示板から奉仕部のポスターをはがした後、奉仕部の部室へ向かった。

 そして、部室まであと数歩というところで、奉仕部の部室から出てくるお化粧研究部の面々と顔を合わせた。

 

「おや、材木座くん、こんな所で何を?」先頭に立つ和美が訊いた。

「少し奉仕部に用があるのだ。あと、俺の事は神代と呼べと言ったはずだ」

「ああ、なんかそんな事言ってましたね。正直、材木座という名前のあだ名が何故神代になるのかよくわかりませんが」

「俺は神に代わって剣を振るう男だからな。神代剣と呼ばれるのになんの不自然もあるまい」

 

 和美の方を指差して、材木座は宣った。傍らで様子を眺めていた優美子は、珍しい生き物を観る目で材木座を見遣る。

 

「和美ぃ、コイツ知り合い?」

「知り合いというか、クラスメイトですが」

 

 優美子の質問に答えた和美は、「奉仕部に用があると言うなら、我々がここに居るのは邪魔でしょう。さっさと部室に行きましょうか」と言って、隣の部室に歩み去った。

 優美子と百合子もその後に続きながら、ほんの少しだけ材木座を眺めたが、話しかけるのはやめておいた。

 話しかけると、なんだか面倒臭そうな雰囲気が漂っていたからだ。

 お化粧研究部の部員が去った後、改めて部室の前に立った材木座は、ドアを静かにノックした。

 イギリス紳士神代剣は、どこかの女教師と違って、ノックを忘れたりしないのだ。

 

「は〜い、どうぞ〜」

 

 部室の中から結衣の声が聴こえると、材木座はすぐに入室する。

 そして、入ってきた材木座の姿を見た八幡の表情が、不快そうに歪んだ。

 材木座は結衣、雪乃、静の顔を順に見遣った後、最後に八幡にその目を向ける。

 

「くっくっく、フハハハハハ! 天道、貴様こんなところにいたのか! 喜べ、貴様の永遠のライバル、この神代剣が貴様に相談事を持ってきてやったぞ!」

 

 材木座はその手に持った奉仕部のポスターを掲げて言った。

 それに対して最初に反応を示したのは、結衣だった。

 

「あ〜! ポスター剥がしちゃったの!? やめてよ、もう!」

 

 結衣は機敏に席から立ち上がると、材木座に駆け寄ってその手からポスターを取り返す。

 

「む、すまん。天道の名が書いてあったから、つい持ってきてしまった」

 

 頭を下げる材木座。紳士は謝罪の心も持ち合わせているものだ。

 素直に謝られた結衣は、それ以上責めることはせずに、「まあ、謝ってくれるんならいいよ」と言って、ポスターを手にしながら自分の席に座りなおした。

 

「天道……とは、誰のことかしら? まあ、聞かなくても大体わかるけれど」

 

 雪乃が、八幡を横目に見ながら訊いた。八幡は嫌そうに目を逸らしている。こんな彼を見るのも珍しい。

 

「知れたこと。天道……天道総司とはその男のことだ。そいつは、天の道を往き総てを司る男だからな……中学の頃からの、俺のライバルだ」

 

 材木座は八幡を指差しながらそう言った。

 静はそんな彼を興味深そうに観察し、徐ろに口を開いた。

 

「ふむ、どうやら君は私が教科担当をしているクラスの生徒では無いようだが、名前はなんと言うのかね」

「俺は、神に代わって剣を振るう男、人呼んで神代剣だ」

 

 神代くんか、と頷いた静は、「私は平塚静だ。気軽に平塚先生と呼んでくれ」と、一応自身も名乗っておいた。

 それに続いて、雪乃と結衣も自分の名前を教える。一方、知り合いらしい八幡は眉間に皺を寄せながら黙っていた。

 結衣がとりあえず椅子を勧めると、材木座は素直に座った。

 

「しかし、比企谷にも友人がいたんだな。良かった良かった」

 

 先日、『俺に友人はいない』と言った八幡のことを、静は気にかけていた。神代くんはなんだか愉快そうな少年だが、友人がいるのは良い事だと、静は思う。

 しかし八幡は嫌そうに、「やめろ、俺に友人はいない」と突っ撥ねる。

 

「えぇ!? ヒッキーそんな悲しい事言わないでよ! あたしもゆきのんも、ヒッキーのこと友達だと思ってるよ!」

 

 結衣が慌てて言うが、今度は雪乃が、「私はこの男の事を友人とは思っていないわ。私の友人は、由比ヶ浜さんだけよ」と突っ撥ねた。

 

「ゆきのんもそんな悲しい事言わないでよぅ! かずみんもゴンちゃんも、友達だと思ってくれてるよ! 優美子とだってその内仲良くなれるよ〜!」

 

 結衣は最早少し涙目だった。みんな仲良くしてほしいのに、この二人は放っておくとすぐ他人とギスギスする。

 雪乃は、気を取り直すようにひとつ嘆息した。

 

「それで、神代くんの相談事とはなにかしら?」

 

 雪乃が材木座に訊ねると、八幡から待ったが掛かった。

 

「先に断っておくが、コイツの名は神代剣ではない……コイツは自身を、イギリスの名門貴族ディスカビル家の末裔である神代剣だと思い込んでいるが……コイツの本名は材木座義輝だ」

 

 えぇ? 偽名? と、雪乃と結衣は若干引きながら、材木座を見た。

 

「なんでイギリス貴族の末裔なのに苗字は神代なんだ?」静が八幡に訊く。

「知らん。コイツに訊け」八幡もそのへんの設定はよく知らないようだ。

 

 本名を早々にばらされた材木座は、つんとした顔で斜め上に顔を向けていた。

 雪乃は、こほん、と空咳をすると、「それで? 改めて……材木座くんで良いのかしら?」と材木座に訊ねる。

 しかし、材木座は何も答えずに沈黙している。

 

「材木座くん?」

 

 雪乃が再度訊いても、材木座は何も答えない。

 

「……材木座くん?」

 

 材木座は何も答えない。

 

「……神代くん?」

「なんだ?」

 

 雪乃が折れて神代という名で呼ぶと、材木座は即座に返答した。

 雪乃は、頭痛を堪える様に眉間を押さえた。また、新たな変人に出会ってしまった。

 

「まあ良いわ……あなたの相談事とやらはなに? 内容如何によってはお断りさせてもらうけれど、一応聞いておくわ」

 

 できれば断りたいという態度を隠さずに雪乃は言う。

 八幡のせいで、最近変な人と関わる機会が増えている気がする。

 やはり、変人は変人を引き寄せるのね、と雪乃はそう思った。

 雪乃には、自身も結構変わった人間であるという自覚はない。

 

「うむ、実はな、ミサキーヌの元気が無いのだ」

 

 ミサキーヌ? 八幡以外の奉仕部員に疑問符が浮かぶ。

 

「岬か」八幡は呟いた。

「岬さんって、ヒッキーの中学んときからの先輩だよね?」結衣が訊ねると、八幡は首肯する。

「俺の先輩でもあるぞ」材木座は言った。そして、「ミサキーヌの元気を取り戻したい。それが俺の相談事であり、依頼だ」と頭を下げた。

 

 材木座の相談内容は、彼の個性的なキャラクターに比べれば存外まともだった。

 しかし、気になるのは材木座と岬の関係性だ。

 ただの先輩後輩という関係ならば、わざわざ奉仕部に依頼までするというのは解せない。

 

「その、岬先輩とあなたは、どういう関係なの?」雪乃が訊く。

「ミサキーヌは、俺の運命の人だ」

 

 材木座が自信満々で答えると、結衣は「運命の人って事は、恋人?」と首を傾げて呟く。

 しかし、八幡は即座に否定した。

 

「コイツが一方的に惚れているだけだ。岬はおそらく、何とも思っていない」

「違うもん違うもん! ミサキーヌは俺に優しいもん! 俺の事、ちゃんと剣くんて呼んでくれるし!」

 

 材木座は首を左右にぶんぶん振って喚くが、岬が彼の事を『剣くん』と呼ぶのは、単に彼女が材木座の本名を知らないからだ。

 材木座の親友、カ・ガーミンこと加賀美鑑がいつも剣と呼んでいるので、岬は材木座の名前は本当に神代剣なんだと勘違いしている。

 

「だいたいわかったわ」雪乃は訳知り顔で頷くと、材木座を指差し、「岬先輩の元気が無いのは、あなたに運命の人呼ばわりされて困っているからよ! あなたが岬先輩の前から去れば、それで依頼は万事解決する筈だわ!」と、早口で捲し立てた。

 

 雪乃の指摘に、材木座はガツンとショックを受けた様子で、机に突っ伏す。そして、「そうか……ミサキーヌの元気が無い原因は俺だったのか……」と、低く嗄れた声音で呟いた。

 しかし、八幡は彼にしては珍しく、「いや、コイツが岬に惚れたのは昨日今日の話じゃないからな。流石にコイツが原因ではないんじゃないか」と言って、材木座をフォローした。

 それを聞いた材木座はガタンと椅子を蹴ると、八幡の方に近寄ってその体を抱きしめ、「だよなぁ、だよなぁ! 天道お前意外といい奴だなぁ!」と叫ぶ。

 

「やめろ、懐くな。鬱陶しい」八幡は嫌そうに、材木座の顔を左手で抑えた。

 

 傍らで話を聞いていた静は、ふむ、と思案気な表情で頷いた後、口を開いた。

 

「高校生の悩み事といえば、大抵勉学か人間関係だろう? その、岬さんとやらの学業成績はどうなんだ?」

「ミサキーヌは成績優秀だぞ。ちょっとだけ社会科が苦手だが、それでも平均は大きく超えている」八幡に引っぺがされた材木座が答えた。

「待ちなさい、ざい……神代くん。あなた何故岬先輩の成績を把握しているの」雪乃が横から口を挟む。

「直接本人に聞いたに決まってるだろう! そのぐらいの会話はするもん!」

 

 材木座は、ストーカーだと疑われてはたまらないと、弁解する。

 静は、学業成績に問題が無いなら、やはり人間関係か、と考えた。

 女子高生の人間関係って難しいんだよなあ、と静はちらりと結衣の方を見た。

 すると、結衣は意味深な笑顔を見せた後、「わかったかも」と呟いた。

 

「ねえ、神代くん。岬さんって野球部のマネージャーなんでしょ?」

 

 岬が野球部のマネージャーをしている事は、百合子から聞いていた結衣。

 一応、材木座にも確認する。

 

「そうだ。ミサキーヌは中学の頃から野球部のマネージャーをしていた。高校でもそうだ。ミサキーヌは野球が好きだからな」

「ふっふっふ、だったら、あたしの推理に間違いはないよ」結衣はすっと立ち上がり、天井を指差して、「岬さんは今、恋をしているんだよ! そして、相手はピッチャー!」と、断定して言った。

 

 結衣は、最近読破した漫画の影響で、ピッチャーとマネージャーは恋をするものだと思い込んでいた。

 

 

 

 



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野球部編4話

 岬は恋をしている、という結衣の言葉を聴いた瞬間、材木座はがくんと床に這いつくばって項垂れた。

 

「恋……ミサキーヌが、恋……」材木座はぶつぶつと呟いている。

「そうそう、女子高生の悩みといえば、勉強、部活、恋だよ。勉強は問題無し、部活はマネージャーだからレギュラー争いとかは無い。じゃあ、残るは恋しかないし」

 

 結衣が更に言い募ると、材木座は床にうつ伏せになって倒れた。その両眼には涙がキラリと光っている。

 その様子を傍で見ていた静は、ちらりと時計に目をやると、「もうこんな時間か、私は職員室に戻るとするかな。忙しい忙しい」と、わざとらしく呟き、部室を出て行った。

 自らも恋に悩むオトナ女子である静は、他人の恋愛相談になど乗れないのであった。

 

「それで? 由比ヶ浜さんはこう言っているけれど、比企谷くんから見て、岬さんは恋をしている様子なのかしら?」雪乃は八幡に訊く。

「俺から見て、と言われても、俺は最近の岬の様子など全く知らん。この学校に岬がいる事も風間から聞くまで知らなかったからな」

 

 八幡はそう言うと、立ち上がってドアの方へ歩き出した。

 

「とりあえず、グラウンドに行くぞ」

 

 足早に部室をあとにした八幡を、雪乃と結衣、そして涙を拭いた材木座が追いかけた。

 

「全く、まだ依頼を受けるとも言ってないのに」雪乃は追いかけながら、相変わらず自分勝手な行動をとる八幡に対して、文句を零した。

「ヒッキーも、なんだかんだ言って神代くんのこと友達だと思ってるんじゃない? 友達の相談だから張り切ってるんだよ」

「天道……ライバルの俺に手を貸してくれるなんて、やっぱり意外といい奴だなぁ」

 

 結衣と材木座は好意的に解釈してそう言う。 

 しかし雪乃は、あの男はあまり材木座とは関わりたくないから、さっさと解決してしまおうとしているだけなのでは、と思った。

 

 

 

 野球部が使用しているスペースの三塁側には、大きな防球フェンスが設置されている。

 奉仕部の面々に材木座を加えた四人は、そのフェンスの外側から野球部の練習風景を眺めた。

 今は、マシンを使ったケースバッティングの練習をしているらしい。

 常にランナー二塁の状況を敷いている事から、得点圏での打席を想定しているようだ。

 

「ねえ、ヒッキー、岬さんてどの人?」

 

 結衣が八幡に訊ねる。グラウンドを眺めると、野球部の女子マネージャーは三人いる。

 一人はベンチに座り、机に向かって何がしかの書き物をしている。

 あとの二人は、バッティングマシンの周りにいた。一人はマシンにボールを投入し、もう一人は、マシンを守る小型の防球フェンスの前で、グラブを着けて構えていた。

 

「バッティングマシンの前で構えているのが、岬だ」

 

 八幡はそう言って、岬を指差した。

 その時、丁度バッターがピッチャーゴロを打った。

 岬はそのゴロを軽快に捕球すると、二塁ランナーの動向を見て進塁の意志が無い事を確認した後、ファーストに送球した。

 バッターランナーはアウトになって悔しそうにしている。

 

「わあ、すごいすごい! 今、岬さんがアウト取ったんだよね?」結衣は、はしゃぐ様にぱちぱちと手を叩いた。

「そうだ、ミサキーヌは凄いんだぞ」材木座は自分の事の様に自慢気だった。

 

 春先に、女子はソフトボールの授業があった。

 結衣はその授業で、ゴロもフライもあまり上手く捕れなかったので、ピッチャーゴロを軽快に捌く岬をカッコイイと思った。

 雪乃は特に何も言わなかったが、内心では、野球はやった事がないけれど、あの程度なら自分にもできるはず、と対抗心を燃やしていた。

 彼女はいつだって誰にだって、負けたくないのだ。

 

「あれ、ヒッキーどこ行くの?」

 

 突然、八幡が外野の方向に向かって歩き出したので、疑問を覚えた結衣が訊く。

 八幡は振り返って、「ここから岬を見ていてもよくわからんからな。わかっていそうな奴に訊きに行く」と答えた。

 結衣たち三人も八幡の後ろをついて行くと、辿り着いた先には中々立派なピッチングゲージがあった。

 ゲージの中のブルペンでは、ピッチャーが四人、投げ込みをしている。

 八幡は軽い足取りでゲージに歩み寄って行くが、他の三人は少し離れたところで足を止めた。

 体育会系の部活が真面目に練習している場所は、近付き難い雰囲気がある。

 

「……加賀美」八幡はゲージの外から徐ろに、右端で投げ込みをしていたピッチャーに話しかける。

「おう、比企谷か、久しぶりだな」話し掛けられた鑑は、気安い様子で応えた。

「お前、材木座を俺に押し付けたな」

「あ、バレた?」

「当たり前だ。材木座が最初に相談する相手といえば、お前しかいないからな」

「いやあ、俺、練習が忙しくてさ。おまえ奉仕部とかいう部活に入部したらしいし、相談するなら丁度いいと思って」

 

 悪びれずに言う鑑に、八幡は眉根を寄せた。

 

「加賀美! 何くっちゃべってんだ! さっさと投げろ!」

「あ、すみませぇん! わりぃ比企谷、俺、練習あるから」

 

 ブルペンキャッチャーから叱責を受けた鑑は、八幡にそう言った。

 八幡はひとつ嘆息すると、鑑に、「昔、お前を連れて行ったパスタ屋は覚えているな。七時半に、あのパスタ屋に来い」と告げて、踵を返した。

 

「パスタ屋? ああ、わかった。練習終わったら行くよ」鑑は八幡の方は見ずに、キャッチャーのサインに視線を向けて言った。

 

 八幡が自分たちの方へ戻ってきたので、結衣は興味津々な様子で八幡に訊ねる。

 

「あの人、ヒッキーの友達?」

「ただの知り合いだ」

 

 八幡にも結構友達がいるのだと思って嬉しそうにしている結衣に対して、彼は素っ気なく言う。

 

「カ・ガーミンこと、加賀美鑑だ。俺たちと同じ中学の出身だぞ」材木座が、雪乃と結衣に説明する。「当然、カ・ガーミンもミサキーヌの後輩だ」

「それで? その加賀美くんとは、何を話していたの?」

 

 離れたところにいたので具体的なやり取りは聴こえなかった雪乃が、八幡に訊いた。

 

「練習の邪魔をするのも悪いからな。七時半に、俺の家の近所にあるパスタ屋に呼び出した」

 

 八幡の言葉を聞いた瞬間、雪乃は耳を疑った。

 あの、俺さま神さま仏さまな態度を崩さない比企谷八幡が、『練習の邪魔をするのも悪い』などと言ったのだ。

 この男、意外にも友達想いなのかもしれない、と雪乃は少しだけ印象を改めた。

 

「そのパスタ屋さんてどこ? 場所教えてよ」結衣が言った。

「なんだ、お前も来るのか」八幡は冷めた口調で返す。

「えーっ、行くよ、当たり前だし。奉仕部への依頼なんだからさ」

「そうね、乗りかかった船だから、私も行くわ」雪乃も、結衣に同調する。

「俺も行くぞ。俺の依頼なんだからな!」

 

 材木座にまで言われた八幡は仕方なくパスタ屋の場所を教えた。

 そして、今日はもう部室を閉めて、一旦それぞれ家に帰ることにした。

 

 

 

 家に帰って私服に着替えた雪乃と結衣は、七時過ぎにパスタ屋の最寄り駅で待ち合わせた。

 合流したところで、一緒に目的地に向かう。

 正確な住所を八幡から聞いていたので、雪乃は携帯で検索して出てきた地図に従って歩くが、それらしい店が見つからない。

 地図によれば、この辺りのはずなのだが。

 そうして二人で周辺を彷徨っていると、不意に、知らない女の子から話し掛けられた。

 

「あの〜、雪ノ下さんと由比ヶ浜さんですか?」

 

 その女の子は、サテン地の白いブラウスにマキシ丈の黒いロングスカートという少し大人っぽい格好をしていたが、年齢でいえば二人よりも年下に見えた。

 見知らぬ少女に突然話し掛けられた雪乃は、少し警戒しながら答える。

 

「そうですが、貴方は?」

「あ、やっぱりそうだった。雪ノ下さん、お姉さんと似てますね」

「……姉と面識が?」

 

 雪乃が問い掛けると少女は「はい、この間、世界の花展でお会いしました」と言って頷いたのち、背後に振り返って、「お兄ちゃーん、二人共いたよーっ!」と、少し遠くにいた兄を呼びつけた。

 その声に応えて現れたのは、比企谷八幡だった。彼も家で私服に着替えたのか、白いサマージャケットに、黒いデニムパンツを合わせている。

 

「やはり迷っていたのか」

 

 八幡の視線は、雪乃が右手に持っている携帯に注がれていた。

 彼の目はまるで、『地図も読めないのか』と言っているようで、雪乃の癪に触った。

 勿論、八幡にそんな気は一切ないのだが。

 

「ヒッキー、お兄ちゃんって呼ばれてるってことは、この子……」結衣の疑問には、小町が答えた。

「どうもどうも、比企谷八幡の妹、小町で〜す。兄がお世話になっております」

 

 小町は二人と握手を交わしながらそう言った。

 兄とは似ても似つかぬ、人当たりの良い性格の小町に、二人は面食らった。

 

「加賀美と材木座は、店で待っている」

 

 八幡は、路地の奥まったところにある小径に歩いて行った。既に時刻は七時半を少し過ぎている。

 小径を抜けた先には、店頭に観葉植物が並んでいる隠れ家のような店があった。

 飲食店ならば、もっとわかりやすく目立つ場所に店を構えるべきだろうに、わざと見つかりにくい立地を選んだそのパスタ屋は、一見しただけでは飲食店かどうかも判然としなかった。

 店内に入ると八幡の言葉通り、鑑と材木座の姿があった。

 丁度六人がけのテーブルに、二人並んで座っている。

 八幡は鑑の隣に腰掛け、八幡の対面に小町が座ったので、その隣に結衣、雪乃と並んで座った。

 傍から見ると、合コンみたいで嫌だわ、と雪乃は思った。

 鑑は練習終わりにそのまま来たのか高校の制服を着ていたが、雪乃の対面に座っている材木座は胸元と袖口にフリルが付いたゴシック調のシャツを着ている。

 フィギュアスケートの選手が試合で着る分には似合いそうだが、日常で着る様なファッションではない。

 

「まずは自己紹介しときませんか? お兄ちゃんと加賀美さん以外、小町初対面だし」

 

 隅の席から小町が言う。テーブルに着いていきなり自己紹介とは、ますます合コンの様だが、面識の無い人間がいるのは確かなので、とりあえず名前を名乗る雪乃だった。

 雪乃に続いて八幡以外の面々が名乗り終えたところで、八幡はテーブルに備え付けてあるアナログの卓上ベルを鳴らした。

 

「ちょっと、比企谷くん、まだメニューを見てないわ」雪乃が文句を言う。

「この店に来たら、最初に頼むのはカルボナーラだ」八幡は有無を言わさぬ口調で言った。「ドリンクは一通り揃っているから、適当に頼め」

 

 雪乃は、何を勝手な事を言っているのだこの男は、と八幡を睨むが、彼の隣に座る鑑は苦笑を見せた。

 

「懐かしいな。俺がこの店に連れて来られた時も、比企谷は勝手にカルボナーラを二つ頼んだんだ。俺はナポリタンが食いたかったのに。でも、この店のカルボナーラはマジで美味かったよ」

「すみません、雪乃さん。でも確かにここのカルボナーラは絶品ですから、一度食べてみてください」

 

 鑑と小町にそう言われて、渋々雪乃は納得する。ベルの音を聴いて現れたウェイターに、八幡は本当にカルボナーラを六人分注文した。

 そして、各自適当にソフトドリンクを頼む。

 

「ところで比企谷くん、加賀美くんは良いとして、なぜ部外者である貴方の妹さんがいるのかしら」雪乃が八幡を睨め付けながら言う。

「元々、今日は小町とパスタを食べる予定があった。部外者はむしろお前らの方だ」

「ちょっと待ちなさい。加賀美くんをここに呼んだのは貴方でしょうが」

「加賀美を呼んだのは俺だが、それ以外の者は勝手に来ただけだろう?」

「ちょっとヒッキー、これは奉仕部への依頼なんだから、あたし達を部外者扱いするのはやめてよ」

 

 冷めた態度で言う八幡に、結衣が口を尖らせながら注意する。どうやら、お化粧研究部の依頼を解決してから、奉仕部部長としての自覚が芽生えて来たらしい。

 

「あの〜、小町、ここにいない方が良いですか? 小町だけ離れたテーブルで食べてもいいですけど」

「待て小町、お前がいない方が良いなんてことはない。いつ如何なる時も、これは絶対の真実だ」

 

 おずおずと申し出る小町を、八幡は慌てた様子で止めた。

 そんな八幡を見た鑑は、噴き出すように声を立てて笑う。

 

「あはははは、相変わらずシスコンだなぁ、比企谷」

「お兄ちゃん、外でシスコンはやめなさいっていつも言ってるでしょ。恥ずかしいなぁ、もう」

 

 鑑に笑われ、小町に咎められる八幡を見て結衣は、普段の学校生活では見られない彼の新しい一面を垣間見た気がした。

 結衣は、『ヒッキーはシスコン』と、心のメモ帳に記す。

 

「ねえ、神代くん、小町ちゃんが居ても別にいいよね?」結衣は材木座に訊ねた。

「ああ、天道の妹ならば、そう部外者というわけでもあるまい。それに、俺の相談は誰に聞かれても恥ずかしくない相談だからな」

 

 依頼者である材木座が納得するならば、雪乃としても納得するしかない。

 小町も同席する事が決定したところで、鑑はそっと手を挙げた。

 

「あのさ、剣の相談事ってなんなのかな? 俺、まだ聞いてないんだけど」

 

 鑑がそう言うと、奉仕部の部員達は材木座に顔を向けた。

 材木座は、うむ、と呟いたあと鑑に相談内容について説明する。彼の説明は、余計な情報とどうでもいい回り道が多かった。どうやら、親友相手なので興が乗ったらしい。彼はまずミサキーヌの美しさについてから語り出したので、肝心の内容に辿り着くまで数分かかった。

 

「えーっと、つまり、岬さんの元気がないからなんとかしたいって、そういうことか?」

 

 相談内容を把握した鑑に対して、材木座は首肯する。

 この程度の内容を話すのにこんなに時間がかかるとは、自分が話してやればよかった、と雪乃が後悔していたところで、注文していたカルボナーラとドリンクをウェイターが運んできた。

 

「とりあえず、話は後だ。まずは冷める前に食え」微笑しながら、八幡が言う。

 

 各々、「いただきます」と手を合わせた。

 なだらかな平型に盛り付けられたパスタの真ん中には、ポーチドエッグがトッピングされている。

 雪乃はまず、ポーチドエッグを割ってパスタと卵黄を絡めた後、一口食べてみた。

 まろやかでいてコクのある卵黄の甘みと、摩り下ろして振りかけられたペコリーノロマーノチーズの強い塩気が舌の上で溶け合って極彩を放ち、アクセントで加えられた粗挽きの黒コショウの香味が食欲を刺激する。

 アルデンテよりもほんの少し柔らかめに茹でられた太めの麺は、もちもちとした食感だった。

 そしてその麺は、クリーミーなカルボナーラソースの味と良く合っている。おそらく、わざと通常よりも茹で時間を少しだけ長くしているのだろう。

 確かに、他人に勧めるだけの事はある、と雪乃は思った。

 

「美味しいね!」結衣は満面の笑みを浮かべて言った。そして、「ヒッキー、このカルボナーラに入ってるベーコン珍しい味だけど、本場のヤツ?」と、八幡に質問した。

「これは、ベーコンではなくパンチェッタだ。このカルボナーラには、ベーコンよりもパンチェッタの方が合う」

 

 八幡が答えると、最近料理に嵌っている結衣は、「パンチェッタってなに? ベーコンとどう違うの?」と、さらに訊いた。

 その質問には、結衣の隣にいた小町が答えた。

 

「一般的には、塩漬けして燻製された豚肉をベーコン、燻製されてないものをパンチェッタっていうんです。パンチェッタの方が、塩味が強いんですよ」

「へえ〜、小町ちゃんも、お料理詳しいんだね」

「おばあちゃんとお兄ちゃんの受け売りですけどね」

 

 結衣が褒めると、小町は照れるように頬を人差し指で掻いた。

 結衣は絶品のカルボナーラをフォークで一巻きすると、一気に頬張る。

 

「由比ヶ浜、冷める前に食べた方が美味いとはいえ、もう少しゆっくり食べろ。火傷するぞ」呆れたように八幡は言った。

「むかし、おばあちゃんが言ってたもんね、のど元過ぎても、火傷はするって」

 

 小町が言うと、雪乃の耳がピクッと動いた。似ていないと思ったが、やはり兄妹。

 妹の方も、おばあちゃん云々は言うらしい。

 

「久しぶりに食べたけど、やっぱりこの店のカルボナーラ美味いよな」加賀美は、同意を求めるように八幡に言った。

「当然だ。俺の勧める料理に、間違いなどあるものか」

 

 八幡と鑑のやり取りを眺めた結衣は、「二人とも仲良いよね。やっぱりヒッキーにも、友達いるんじゃん」と言った。

 八幡と鑑は同時に、結衣に目を向ける。

 

「……俺に友人はいない。おばあちゃんが言っていた、友情とは」

「友の心が青くさいと書く、だっけ?」

 

 八幡の言葉を、途中から鑑が引き取った。

 

「憶えていたのか」少し驚いた様子で言う八幡。

「あったりまえだろ〜、そんで、その後に、『お前は友人じゃない』って俺に面と向かって言ったんだよな。言われた時は、『なんだコイツは』って思ったもん」鑑が、懐かしそうに言った。

 

 そして、鑑の言葉を横で聞いていただけの雪乃も、『なんだこの男は』と思った。

 

「兄は素直じゃないところがありますから、照れ隠しでそんなこと言ったんだと思います。何だかんだ言って加賀美さんのことは、友達だと思ってるんですよ」

 

 小町が揶揄うように言うと、八幡はそっぽを向いて、「そんなことはない」と呟いた。

 八幡は妹相手だと、いつもの調子ではなくなるようだ。

 雪乃は、『比企谷八幡は妹に弱い』と、心のメモ帳に記した。

 

 

 



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野球部編5話

 カルボナーラを食べ終わったあと、雪乃たちは本題に入る前にデザートを追加注文した。

 卓上に何も並んでいない状態でテーブル席を占拠するのも悪いと思ったのだ。

 各々、イタリアンジェラートやケーキなどを頼む。

 そして、それらをウェイターが運び終えたところで、雪乃が口を開いた。

 

「それで、加賀美くん、岬先輩は本当に元気がない様子なのかしら? 神代くんの勘違いなどではなく」

 

 雪乃は鑑に訊ねる。鑑が考え込むように唸っている隣で、材木座が「勘違いじゃないっ」と喚いているが、雪乃は彼の事は放置した。

 

「岬さんなぁ……確かに、ちょっとだけ元気がないというか、変な感じの日はあったかな」

「変な感じの日?」結衣が首を傾げた。

「突然ウチに来たかと思ったら、すぐに帰っちゃったんだよ。その時、なんていうか、煮え切らない態度っての? 言いたい事がありそうなのに、何も言わなかったんだよな。岬さんにしては珍しかったな」

 

 鑑がそう言うと、結衣と材木座は同時に衝撃を受けたように目を見開いた。

 

「ゆきのん、やっぱりこれは恋の悩みだよ。岬さんは加賀美くんに恋をしてるんだよ。加賀美くんピッチャーみたいだし、距離が近過ぎて中々恋愛に発展しない男女って有りがちだし」結衣は口元を手で隠し、隣の雪乃に小声で囁く。

「確かに、俄かにその可能性が高くなってきたわね。加賀美くんは比企谷くんの知り合いにしてはまともそうだし、異性からも好まれそうな印象を受けるわ」雪乃も口元を手で隠して、結衣にそう応えた。

 

 材木座は、鑑の腕を両手で掴むと、ぶんぶんと振り回した。

 滂沱の涙を流している材木座は、少し錯乱しているようだ。

 

「カ・ガーミン! 何故ミサキーヌがお前の家に行くんだ! 答えろ!」

「いや、岬さんがウチに来ること自体は別に珍しくねえよ!」

「なにぃ!? お前、ミサキーヌとは付き合ってないって言ってたじゃないか!」

「付き合ってなくても、相手の家に行ったりとかするだろ! 部活の仲間なんだし!」

 

 鑑は材木座に振り回されながらも弁明した。

 別に、鑑と岬は付き合ってなどいない。ただ、お互いの家を行き来する程度には仲が良いというだけの事だ。

 

「いや、加賀美くん、それは違うよ。岬さんは加賀美くんに恋愛感情を持ってるんだよ。それで悩んでるから元気がないんだと思うよ」

 

 結衣は右手に掴んだジェラート用スプーンの先を、鑑の方に向けながら言った。

 鑑は訝しげな表情で、結衣を見遣る。

 

「岬さんが俺に? ないない、ありえないって」

 

 鑑は、虫を払うように手を振りながら言う。

 岬は自分の事を、ただの仲の良い後輩としか認識していない、と鑑は思っている。

 

「とりあえず、本人に確かめてみるべきではないかしら」雪乃が言った。

「本人に確かめるって、岬さんに、『俺の事好きですか?』って訊くのか? それ、勘違いだったら自惚れ屋っていうか、かなり間の抜けた話だぞ」鑑は顔を顰める。

「直接的にではなく、それとなく訊けば良いと思うわ」

 

 雪乃は簡単に言うが、それとなくというのも難しいと鑑は思う。

 まあ、確かに、ゴールデンウィークあたりから何となく岬の表情が曇りがちだったのは事実だ。

 普段は、前と変わらない溌剌とした雰囲気なのだが、不意に寂しげな目を見せる時がある。

 そのこと自体は鑑も気になっていたのだが、しかし、岬が自分の事を好きだのなんだのという話は、信じられなかった。

 

「じゃあ、加賀美くんがそれとな〜く岬さんに訊いてみるって事で。これで依頼は解決かなぁ」

 

 結衣は締めくくる様にそう言った。これを切っ掛けに鑑と岬が付き合うようになるかどうかはわからないが、ここから先は、他人が口を挟む様なことでもない。

 

「カ・ガーミン……さっきは取り乱してしまったが、ミサキーヌをよろしく頼む。お前なら、我が友カ・ガーミンならば、ミサキーヌを任せられる」材木座は涙を拭いて言った。

「いや、剣によろしく頼まれても困るんだけど」呆れた様子で、鑑は口角を下げた。

 

 その後、デザートを食べ終えた六人は、会計を済ませて帰ることにした。

 店を出たところで、小町が結衣に話し掛ける。

 

「あのう、もしかして、結衣さんて『サブレの女』じゃないですか?」

 

 結衣が八幡に対して、『ヒッキー』と親しげに呼んでいる事から、小町は敏感に察知していた。

 小町が知っている『サブレの女』に関する情報は、麻婆豆腐を作ってくれたクラスメイトという事だけだ。

 しかし、そもそも親しい人間の少ない兄に対して、気安い雰囲気で接する結衣は、『サブレの女』である可能性が高いと小町は推測した。

 

「サブレの女って! ヒッキー、小町ちゃんにあたしのことなんて言ってるの!?」

 

 結衣はおたおたしながら八幡に詰め寄った。『サブレの女』などという変なあだ名を広められるのは正直言って恥ずかしい。

 小町は、にやりと意味深な笑顔を見せた。

 

「やっぱり結衣さんが、麻婆豆腐をつくってくれたクラスメイトなんですね。あの麻婆豆腐、とっても美味しかったです」小町は結衣に言った。

「え、なんで小町ちゃんがあの麻婆豆腐の味を知ってるの?」結衣は不思議そうに瞬きする。小町に対して麻婆豆腐を作った覚えはない。

「お兄ちゃんが、家で同じ物を作ってくれたんです。あれだけ美味しいレシピを完成させるのは苦労したんじゃないですか?」

「あ〜、レシピは殆どゆきのんに教わったやつだから、あたしはそんなに」

「謙遜することはないわ、由比ヶ浜さん。あの麻婆豆腐を完成させたのは、あなた自身よ」

 

 雪乃は優しく微笑みながら言う。結衣は「え〜、そうかなあ?」と照れくさそうにしつつも、料理を褒められて内心嬉しいようだ。

 

「ねえねえ、お兄ちゃん。結衣さんの事、家まで送ってあげなよ。もう時間も遅いしさ」

 

 小町の言う通り、既に辺りは暗かった。

 

「由比ヶ浜を送るのは構わんが、まずは小町を家まで送ってからだ」

 

 八幡としては、それは絶対だった。小町を夜に一人歩きさせるなど、断固として許可できない。

 

「小町は近所だから別に一人でいいよ」

「駄目だ」

 

 普段は妹に甘い八幡だったが、こういう時には頑固だった。

 

「ヒッキー、家まで送ってくれんの?」

「ああ、先に小町を家に帰すから、一旦家まで付いて来い」

「わかった。ゆきのんはどうするの?」

 

 結衣は、雪乃に顔を向けて言った。

 雪乃は、首を左右に振る。

 

「私は、加賀美くんに送ってもらうわ」

「俺? まあ、別にいいけど」

 

 突然、雪乃にそう言われて、困惑する鑑。しかし、特に問題は無いので頷く。

 そして、一人余ってしまった材木座だったが、彼自身、エスコートする女性は岬だけと心に決めているので、寂しくなどない。

 別れの挨拶をして、それぞれ家路についた。

 

 少し車両の交通量が多い道を、雪乃と鑑が並んで歩く。

 歩道にはガードレールが設置されていたが、鑑は一応車道側を歩いた。

 男子たるもの女性と歩く時には車道側、というのは、警察官である父の教えだ。

 思春期ゆえ、父親に対して時々反抗的な態度を取ってしまう事もある鑑だったが、こういう教えは遵守していた。

 鑑は意識して、普段よりも少しだけ歩く速さを遅くする。

 岬と並んで歩く時の癖で、ついつい普通の速さで歩きそうになるが、普通の女の子は岬さんと違って体力がないもの、というイメージが鑑にはあった。

 そんな彼の内心を雪乃が知れば、彼女はムキになって歩く速度を上げたかもしれない。

 しかし、とりあえず、鑑の考えている事など雪乃は知る由もないので、二人は並んでゆっくり歩いていた。

 

「悪いわね、送ってもらって。最寄り駅までで構わないから」

「ああ、別に気にしなくていいよ」

 

 若干素っ気ない態度で、鑑は応えた。

 よく知らない女の子と、何を話せば良いんだ? 岬さん相手なら、野球の話でもしてれば盛り上がるのに、と彼は少し気まずい思いをしていた。

 この二人に共通した話題といえば、比企谷八幡の事くらいだ。

 比企谷についての話でも振ってみるかな、と鑑が口を開きかけたところで、雪乃の方から先に、「比企谷くんについて、訊きたいことがあるのだけれど」と言われてしまった。

 

「えっと、なに?」鑑は横目で雪乃を見て言った。

「比企谷くんは、なんなのかしら?」

 

 雪乃はどうやら、この質問をする為に鑑に送ってもらう事にしたらしい。

 

「なんなの……って言われてもなあ。ああいう奴としか言えないけど」

「貴方は、比企谷くんと仲が良さそうにみえたわ。少なくとも貴方は、あの男の事を嫌ってはいない」

「まあ、嫌いじゃないよ」

 

 鑑は首肯して言った。表情には、苦笑が浮かんでいる。

 

「あんな風に常に偉そうな態度の男、どうして嫌いにならないのかしら?」

 

 常に偉そう、という点でいえば、雪乃も似たり寄ったりな所があるのだが、彼女はそこは棚上げして言った。

 

「常に偉そう……か、まあそうだよなあ」鑑は笑顔を浮かべて言う。そして、「雪ノ下さんは、偉そうな奴って嫌い?」と逆に質問した。

「そうね……私がどう思うかは置いておくとして、一般的にいえば、好ましくないと思われるでしょうね」

「だろうね。俺も、後輩とかの弱い立場の人にだけ偉そうな奴は嫌いだな」

「だったら、何故比企谷くんの事は嫌いではないと言うの?」

 

 雪乃は、鑑の顔に目を向けた。鑑は、夜空に輝く月を見上げていた。

 

「アイツはさ、『常に』偉そうなんだよ。誰に対しても」

 

 鑑は懐かしそうな様子で、自身の思い出を語り出した。

 

 

 

 中学一年の時、加賀美鑑と比企谷八幡はクラスメイトだった。

 一学期の頃は、特に会話をした覚えもない。その頃の八幡に対する鑑の印象は『なんか偉そうな奴』程度のものだった。

 その印象が改められたのは、夏休みに入ったある日の事だ。

 当時から野球部に所属していた鑑は、練習でへとへとになった帰り道、幾分ぼうっとしながら歩いていた。

 

「アキラ、もっとシャキッとしなさいよ。シャキッと」

 

 鑑の隣には、岬の姿もあった。家が近所という事で、二人は一緒に帰る事が多い。

 フラフラとおぼつかない足取りで歩く鑑に、岬は活を入れる。

 

「今日は一段と暑かったんで……疲れました」

「もう、じゃあカバン持ってあげようか?」

「いや、それは格好悪いんで遠慮しときます」

 

 鑑は左肩からずり落ちそうになっているエナメルバッグの肩紐を、両手でグイッと引っ張って肩にさげ直した。

 鑑たちの通う中学校は、如何なる時も登下校時は制服着用が義務づけられていたので、当然彼は今、制服を着ている。

 ズボンの尻ポケットからは財布が頭を覗かせていた。

 当時鑑は中学生の癖に生意気にも長財布を愛用していたので、制服の小さなポケットには入りきらないようだ。

 体力を使い果たして注意散漫な様子の鑑は、引ったくりからすればカモに見えたのだろう。

 無精髭を生やした学生風の男が、鑑の後方から足音を消してすり寄って来た。

 そして、その男は鑑のポケットから財布を抜くと、一目散に走って逃げた。

 

「あ! 待て、引ったくり!」

 

 驚いた鑑は、力の入らない脚にムチを入れて、走って男を追う。岬も反射的に鑑の後ろから追いかけた。

 ほんの三十メートルほど走ったところで、引ったくりの男は間抜けにも脚をもたつかせて転んだ。

 引ったくりの男は、「痛え、痛えよ」と呻いている。

 鑑は走るのを止め、「財布、返せよ」と言いながら男に歩み寄った。

 男は、大体高校生から大学生程度の年齢に見えた。中学一年生の鑑より、体格もがっしりしている。

 喧嘩になったら分が悪いなあ、と鑑は思った。

 

「近づくんじゃねえよ! 離れろ、ボケ!」男は痛む脚を押して立ち上がると、懐からナイフを取り出して鑑に向けた。

「おいおい、待てよ、落ち着けって! 刃物はヤバイって刃物は!」鑑は慌ててエナメルバッグを体の前に構えて身体を隠し、その背に岬を庇った。

「ねえ、アキラ、財布くらいあげちゃいましょうよ……に、逃げた方がいいわ」岬は鑑の後ろからその肩を掴み、彼の耳元に呟いた。

 

 確かに、財布の中身は精々数千円だ。中学生にとって数千円は痛いが、ナイフを持った男に立ち向かうほど惜しいものでもない。

 鑑はエナメルバッグを構えたまま、少しずつ岬と共に後ろに下がった。

 

「わかった、財布はアンタにやるよ。だから、ナイフはしまってくれ。な?」

 

 鑑はそう言うが、逆上している男に、ナイフをしまう気は無さそうだ。

 男は依然ナイフを右手に持ったまま踵を返して逃げようとした。

 そして、男が振り向いた丁度その時。

 数メートル先の曲がり角から、薄墨色の作務衣を着た少年が現れた。

 少年の左手には、アルミのボウルが抱えられている。

 鑑は少年の顔に見覚えがあった。クラスメイトの比企谷八幡だ。

 

「どけよ、テメエ!」引ったくりの男は、右手のナイフを振り回しながら八幡に凄む。

「危ない! 逃げろ!」

「逃げて!」

 

 鑑と岬の声が重なる中、八幡は、「誰が逃げるか、俺の往く道は俺が決める」と言って左手のボウルを空高く放り投げると、引ったくりの男にハイキックを繰り出した。

 綺麗にコメカミを蹴り抜かれた引ったくりは、地面に再びすっ転ぶ。

 

「おばあちゃんが言っていた……」八幡は右手を空に掲げて呟いた。掲げた右手に、丁度ボウルが落ちてくる。そして、「刃物を握る手で人を幸せにできるのは、料理人だけだってな」と、地面に蹲る引ったくりに向かって告げた。

 

 鑑と岬は、ぽかんとした表情で驚く事しか出来なかった。

 

 

 

 中学生の頃の八幡たちの話を聞いた雪乃は、不満気な表情で第一声に、「刃物を握る手で人を幸せにできるのは、料理人だけじゃないわ」と言った。

 鑑は噴き出すように笑い、「最初の感想が、それ?」と返す。

 そう言われても、雪乃には色々と反論が浮かんでくるのだから仕方なかった。

 例えば、そう、建築関係の現場で働く人などは、刃物を握る手で人を幸せにしている筈だ。『食』も幸せの一要素だが、『住』だって、幸せに関する大切な要素だと、雪乃は思う。

 

「それで、今の話の結論は何なの? 財布を取り返してもらったから感謝してるって事?」

「まあ、それもあるけど……」

 

 鑑は勿体ぶる様に一旦言葉を止める。雪乃は怪訝な表情で鑑の顔を見遣った。

 

「アイツはさ、『常に』偉そうなんだ。普通ならビビっちゃうような、ナイフを振り回す引ったくりが相手でも、偉そうな態度を崩さない。俺はさ、アイツがどこまで偉そうにできるのか、ちょっと興味があるんだ」

 

 鑑の言葉を聴いて、雪乃は考え込むように顔を俯かせた。

 もしも自分が、刃物を持つ相手と対峙したら、と彼女は想像する。

 雪乃は合気道を嗜んでいる。だから、たとえ力で勝る相手であっても取り押さえることはできる筈だ。

 しかし、ナイフというわかりやすい凶器を前に、怯まず冷静に対処出来るだろうか、と自問自答する。

 雪乃は、『できる』と結論付けた。比企谷八幡にできて、自身にできない筈はない、と彼女は思う。

 

 やがて、二人は最寄り駅に着いた。

 駅構内の入り口に立った雪乃は、「ありがとう、ここまででいいわ」と言って鑑にそっと右手を振った。

 鑑も、「ああ、じゃあまた」と右手を上げる。

 

「明日、岬先輩に訊いておいてね。『貴方は俺の事が好きですか?』って」雪乃は少し微笑みながら、冗談めかしてそう言った。

「流石にそれはなあ、まあ、朝練の時にでも、遠回しにそれとなく訊いてみるよ」鑑は軽い口調で請け負い、家に向かって歩き出した。

 

 鑑としては、岬が自分に惚れているなどという話には、まだ納得ができなかった。

 しかし、自分以外に誰か、好きな人がいる可能性はあるなと思った。

 それは、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、嫌かもなあ、と思う鑑だった。

 

 

 



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野球部編6話

 早朝のグラウンドに、岬が打つノックの音が響く。

 朝練に参加している部員の殆どが打撃練習をしている中で、鑑だけは一人ノックを受けていた。

 バッターボックスに入った岬は、傍に置いたボール籠からボールを取り出しては、素早い動作で打っていく。

 ショートの定位置から右に左に振られる様に、間を置かずに連続して飛んでくる打球を、鑑は息を切らして走り回りながら処理する。

 ファーストにはバッティングネットが置かれている。そのネットの捕球ポケットには、鑑が送球したボールが数十球溜まっていた。

 右に飛んできたボールに対して、鑑は走り寄って逆シングルで捕球する。

 脚に溜まった乳酸が、スムーズに送球フォームに移行しようとする鑑の邪魔をした。

 鑑はフッと短く鋭く息を吐き出し、コンパクトなフォームを意識して、ファーストのネットに向かって送球した。

 少し低くなり過ぎた送球はワンバウンドしたものの、無事に捕球ポケットに入ってくれた。

 

「アキラーっ! ボール無くなった、ちょっと休憩!」

 

 岬は大きな声で鑑に向かって言った。それを聴いた鑑は、数瞬だけ膝に手をついて荒く呼吸した後、すぐに背筋を伸ばして深呼吸した。

 全身がポンプにでもなったかの様に、ドクンドクンと鳴る心臓がうるさい。

 しかし、爽やかに吹く春の風は、鑑に強い清涼感を齎した。

 足腰を鍛えられて一石二鳥だからという理由で、岬はやたらとノックのボールを左右交互に振ってくる。

 数十球も受ければ、体力自慢の鑑でもさすがに息が切れた。

 深呼吸を繰り返して呼吸を整えた鑑は、ファーストのネットに向かって走っていく。

 空のボール籠を持ってファーストに歩いて来た岬が、「アキラは休憩してて良いって言ってるのに」と、左手を腰に当てながら言った。

 朝練でこの練習を始めた初日などは、岬の言葉に甘えてボールの回収は彼女に任せていた。

 しかし、鑑の為にノックしてくれている岬にボールを回収させて、自分だけ休憩しているのは、何だか悪いような気がした。

 なので、鑑は出来るだけ素早く呼吸を整え、自分もボールの回収を手伝う事にしている。

 

「じゃあ、アキラはネットに入った分を籠に入れといてね」

 

 岬はそう言うと、送球が逸れて捕球ポケットに入らなかったボールを拾いに行った。

 数十球のうち何球かは、送球が逸れてネットに入らない事もある。

 

「すみませーん」鑑は面目無さそうに後頭部を掻いた。

「うむ、気にしなくてよい。本当に、気にしなくてよいぞ」

 

 岬は茶化すように微笑んで、『気にしなくてよい』と、二度繰り返した。

 鑑は捕球ポケットの前にボール籠を置いて弛んだネットを引っ張り、籠の中にボールをゴロゴロと流し込んだ。

 数球ほど籠に入らず零れたのでそれらのボールを拾っていると、捕球ポケットに入らなかった分のボールを拾っていた岬が戻ってきた。

 

「それにしても、たった数日の練習で内野手投げっぽくなってきたわね」手にしたボールを籠に入れながら、岬は言う。

「そうですかね、とりあえずコンパクトな送球フォームにしようとは思ってるんですけど」

「内野手投げの基本はね、『ボールにもしもし』よ」

「ボールにもしもし?」

「そう」

 

 岬は籠からボールを一つ取り出して右手に持つと、右肘を引きながらボールを右耳の少し後ろに構えた。

 

「ピッチャーはボールを身体の後ろに隠しつつ、大きな軌道を描いて投げるでしょ? 内野手は、出来るだけ小さく短くボールをトップに持っていくの。内野手投げのトップは右利きの場合、右耳の少し後ろね。窮屈に感じるなら頭の後ろ辺りまで引いても良いけど」

 

 岬は弓を引くような動作で身体をしならせると、バッティングネットに向かってボールを投げた。

 

「こんな感じね。ボールを耳の方に向かって素早く引くから、『ボールにもしもし』なのよ。ボールで電話する感じ」

「はあ、成る程。でもなんか、ちっちゃい子供に指導する時みたいな教え方ですね」

「し、仕方ないじゃない。私が教わったのはリトルの時だもの」

 

 岬の顔が、少し朱くなる。『ボールにもしもし』はさすがに子供っぽ過ぎたか、と言ったことを悔やんでいるようだ。

 

「でも、わかりやすいです。俺、野手投げとかあんまり詳しくなかったんで、参考になります」

「アキラは、ピッチャー以外だと外野くらいしか守ったこと無いもんね。野手投げって言っても、内野と外野で違うのよ。外野手投げは一番自然なフォームだから、小中学校の時の監督も指導とかしなかったんじゃないかしら」

 

 軽く鑑のフォームをチェックした後、もうワンセットノックをすると、そろそろ朝練終了の時間になった。

 用具を片付けながら、鑑は若干言いにくそうな様子で、「あの〜」と岬に話しかけた。

 用具入れにボールをしまっていた岬が、鑑の方に振り向く。

 彼女は何も言わずに、微かに首を傾げた。

 

「あの、えっと……」言い淀みつつ、鑑は頰を掻いた。

「なに?」岬は怪訝な表情を見せた。

「なんていうか……え〜っと」

 

 もしかして、俺のこと好きですか? などと、鑑としては的外れな質問は出来そうもなかった。

 尚も「あ〜」とか「え〜」とか唸りながら悩む鑑に痺れを切らしたのか、岬は一歩近付いて言った。

 

「なに? なんか訊きたいことでもあるの?」

 

 岬が一歩近付いて来たことで、二人の距離がほんの数十センチほどになる。

 鑑は顔を逸らしながら、意を決して言う。

 

「あの、もしかして、岬さんて……いま好きな人いますか?」

 

 さすがに、『俺のこと好きですか?』とは言えなかった鑑は、対象を自分に限定せずに訊いた。

 訊ねられた岬は、口を半開きにして驚いたあと、「アキラ、こっち向いて」と言った。

 逸らしていた顔を岬の方に向けると、徐ろに、鑑の額に岬の右手が伸びてきた。

 そして、ばちんっ、とデコピンされる。

 

「いてっ!」

「アキラのくせに、色気づいてんじゃないわよ。今の私にとっては、野球が恋人なの」

 

 岬は、呆れた様子で言った。鑑は、デコピンされて痛む額を撫でながら、ほんのちょっとだけ安堵していたのだが、その感情には自分でも気づくことはなかった。

 

「なんで急にそんなこと訊くのよ」岬が鑑に、逆に質問する。

「いや、なんか最近、岬さんの元気が無いって心配してる奴らが居まして」

「奴『ら』? 誰よその人たち」

 

 鑑は、材木座が奉仕部に相談した内容を詳らかに話した。

 そして、女子高生の悩みといえば恋の悩みであると推測した奉仕部に、岬の好きな人を訊くように言われたのだ、と説明した。

 本当は、岬は鑑の事が好きなのではないか、と訊ねるように言われたのだが、訊かなくて良かったと彼は思った。

 訊いていたら、赤っ恥にも程がある。

 

「剣くん達が……ね」

「あ、もちろん俺も心配してましたよ」

「馬〜鹿、アキラに心配されるほど、おちぶれちゃいないわよ……て、言いたいとこだけど、悩みがあるのは確かなのよね。心配してくれてありがとう、アキラくん」

 

 岬は苦笑しながら、鑑の胸板を軽く叩いた。多分、それは彼女なりの照れ隠しだろう。後輩達に気遣われたことを、気恥ずかしく思っているのかもしれない。

 

「悩みって、なんですか?」鑑は訊いた。

「えっと、大岡くん、なんだけど」

「大岡? そういえば、最近部活来てないですね」

「……あの子、このまま野球辞めちゃうかもしれないわ……」

「なんだ、そんなことですか」

 

 深刻そうな岬とは対象的に、拍子抜けしたような口調で鑑は言った。

 

「そんなこととは何よ、そんなこととは」岬は少し唇を尖らせながら言う。

「いや、途中で部活辞める奴って中学の時も何人か居たじゃないですか。練習についていけなかったり、部活に馴染めなかったり。まだ一年の始めですし、自分の意思で辞める分には自由だと思いますよ。今なら、他の部活に入り直したりもしやすいだろうし」

「まあ、そうなんだけどね……」

 

 鑑の言っている事は、正論だと岬も思う。

 ただ、大岡が部活に来ないのは、自身が理由かもしれないから岬は悩んでいるのだ。

 その理由については、岬の口から言うのは憚られた。

 彼女は校舎の大時計をちらりと見遣り、「そろそろ着替えないと遅刻するわ。じゃあ、また放課後にね」と言い残して、女子更衣室へと向かった。

 鑑は、立ち去る岬の後ろ姿に、「お疲れ様です」と声を掛けた。岬は足を止めずに見返りながら、右手を振った。

 

 

 

 鑑の携帯に、見知らぬアドレスからのメールが届いたのは、三限目が終わった休み時間だった。

 一瞬、迷惑メールかと訝しんだ鑑だったが、件名を見て合点がいった。

 件名には、雪ノ下雪乃、と飾り気のない短文で名前が記されていた。

 携帯を操作してメールを開くと、

 ーーアドレスは、由比ヶ浜さん経由で比企谷くんの妹さんに教えてもらったわ。勝手に訊いてごめんなさい。ーー

 ーー昼休み、J組の教室に来てほしい。不都合があるなら、私がそちらに行っても構わないわーーという絵文字の一つもない素っ気ない文章が書かれていた。

 雪ノ下雪乃の容姿は、学年で一、二を争うレベルの美少女だ。そんな雪乃に自分の教室に訪ねて来られるのは御免被りたかった。

 クラスメイトにからかわれそうだし。

 そう思った鑑は、

 ーーわかった。メシ食い終わったらJ組に行くよーー

 ーーアドレスを勝手に聞いたことは、全然構わないよーーと返信しておいた。

 そして、四限が終わって昼休み、さっさと弁当を食べ終えた鑑は、J組の教室へと赴いた。

 教室の扉を開けて一歩中へ踏み出すと、彼は自分がJ組に行くと返信した事を後悔した。

 J組は女子の比率が高いというのは聞き及んでいたが、昼休みの今は、教室中が女子だらけだ。

 おそらく男子は肩身が狭くて、学食にでも出掛けているのだろう。

 教室中の女子から、ザッと一斉に視線を向けられ、鑑はたじろぐ。

 しかし、彼が視線を集めたのはほんの一瞬で、J 組の女子達はすぐに何事も無かったかのように食事を再開した。

 鑑は教室の中で、周囲を見回す。すると、右後ろ隅の一角で、雪乃がちょいちょいと手招きしているのが目に入った。

 鑑はおっかなびっくり、雪乃の方に歩いていく。

 

「男の子は、食べ終わるのが早いわね。私はまだ食べ終わってないから、少し待っていてもらえるかしら」

「ああ、わかった」

 

 

 雪乃の周囲は空席だった。そこだけ教室から切り離されたようにも見える。

 彼女の周りがいつもそうなのか、今日は鑑が来るという事で特別にそういう状況にしたのかは、彼にはよくわからなかった。

 

「この席、貸してもらえるように頼んでおいたから、座っていいわよ」

 

 雪乃は、自身の前の席を指差してそう言った。

 鑑はその席に、横を向いて座る。無遠慮に、おおっぴらに視線を向けてくる者は居ないが、何だか、注目されているような感覚がした。

 育ちの良さは行儀と作法に出る、行儀と作法は特に食事時に出る、と鑑は聞いた事がある。

 そういう意味では、J組の女子達は育ちの良い者が多いのだろう。

 ただ、それでも、雪乃が急に別クラスの男子を招いた事に興味を惹かれたのか、チラチラと盗み見る様に目を向けてくる女子は何人かいた。

 鑑が落ち着かない様子で教室を眺めていると、真ん中程の席に座っている、髪を三つ編みにして黒縁眼鏡を掛けた大人しそうな女子と目があった。

 その女子は、少しだけ口角を上げて微笑むと、鑑に向かって会釈した。

 お嬢様っぽい仕草だなぁと思いつつ、鑑はとりあえず会釈を返しておいた。

 

「ご馳走様でした」

 

 鑑が居心地の悪い時間を過ごしている間に、雪乃はようやく食事を終えたようだ。

 

「それで、加賀美くん、岬先輩の件はどうだった?」

 

 結衣は、今日は優美子達と教室でご飯を食べているし、八幡は昼休みは全然当てにならない、というわけで雪乃は、一人で鑑の話を聞くことにしたらしい。

 

「ああ、それなんだけどさ」

 

 鑑は、岬の悩みが別に恋の悩みでもなんでもない事、大岡という部員が野球部を辞めそうなのを気にかけている事を雪乃に話した。

 

「つまり、岬先輩はその大岡くんという子に、部活を辞めてほしくないのね」

「まあ、そうなんだろうけど、ちょっとおかしい気がするんだよな」

「何がおかしいと言うの?」

 

 雪乃の疑問に、鑑は腕組みして答えた。

 

「岬さんと大岡って、別にそんなに仲良くないんだよ。多分、会話した事も殆ど無いんじゃないかな」

「あら、マネージャーなら、特に仲が良くない部員でも辞めてほしくないと思うのは自然な事じゃないかしら」

 

 雪乃の反論に、鑑は「それもそうかなぁ、でもなぁ」と煮え切らない様子だ。

 ならば、と雪乃は席を立ち上がり、「大岡くんは何組?」と鑑に訊ねた。

 

「え、B組だけど、行くの? 今から?」

「当然よ、善は急げと言うでしょう」

 

 困惑する鑑を置いて、さっさと教室を出て行く雪乃。

 鑑は彼女の背中を追いかけながら、この子、ちょっとだけ比企谷に似てるかもな、と考えていた。

 彼の内心を雪乃が知れば、立腹しただろうことは言うまでもない。

 

 B組前の廊下に着いた二人は、教室の後ろの扉から室内を眺めた。

 

「どう? 大岡くんはいるかしら」

「え〜っと、ああ、居た。左隅、前から五番目の席」

 

 そこには、友人と談笑しながら席に座っている男子がいた。

 既に食事は済ませたのか、机の上に弁当などは載っていない。

 

「あれ、雪乃ちゃんと加賀美くんじゃん、珍しい組み合わせだね。何してんの?」

 

 不意に、雪乃たちに話しかけてきたのは、お化粧研究部の百合子だった。

 百合子は鑑と同じD組の生徒だが、和美と一緒に昼食を摂る為にB組の教室に来ていたのだ。

 

「雪乃さん、我々に何か用ですか?」和美も、雪乃に訊ねる。

「いいえ、今日は貴方達に用があるわけではなくて」

「カ・ガ〜ミ〜ン!」

 

 雪乃が和美に答えている声を遮って、材木座が教室の中から鑑に向かって飛び出してきた。

 腹に材木座の頭突きを食らう格好になった鑑は、「ぐぅっ!」と声を洩らして呻いた。

 

「ああ、彼に用でしたか」

「いいえ、そういうわけでもないのだけれど」

 

 勘違いして納得する和美に、雪乃は首を左右に振って否定する。

 

「カ・ガーミン! ミサキーヌの元気が無い理由はわかったか! やはり、やはりお前に恋をしていたのか!」

 

 ついさっきまで、材木座は教室の自分の席でシュンとした様子で落ち込んでいたのだが、鑑の姿を見た途端にテンションが最高潮になっていた。

 

「落ち着け剣、岬さんの元気が無い理由は恋の悩みとかじゃなかったよ」

 

 鑑は材木座にも、岬の悩みを話してやる事にした。

 野球部員の大岡が部活を辞めそうなのを気にかけているのだという事を教えてやると、材木座はその場でグルグルとスキップを始めた。

 

「な〜んだ、そうだったのか! ミサキーヌは優しいからな〜、野球部の仲間が部活を辞めてしまいそうな事に心を傷めていたのだな〜」

 

 腰に両手を当てて、ルンルン気分でスキップする材木座。さすがにちょっとウザいなあ、と鑑は思った。

 

「雪乃ちゃん、岬さんって、私たちも知ってる岬さんだよね?」

「ええ、そうよ」百合子の質問に首肯する雪乃。

「大岡くん、というのはウチのクラス(B組)の大岡くんですか?」

「ええ」雪乃は、和美の質問も肯定した。

 

 和美と百合子は顔を見合わせた。そして、タイミングよく同時に頷く。

 

「雪乃さん、ちょっと聞いてほしい話があるのですが」

 

 声を落として真面目な表情で言う和美に、雪乃は耳を傾けた。

 



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野球部編7話

 放課後、奉仕部の部室には結衣しかいなかった。

 結衣が八幡に対して部室に行こうと誘う前に、教室の外で待ち構えていた材木座が、話したいことがあるからと八幡をどこかに連れて行ってしまったのだ。

 仕方ないので、結衣は一人で部室に向かい、大人しく漫画を読んでいた。

 前日に届いた雪乃からのメールには、自分が昼休みに加賀美くんから話を聞いておく、と書いてあった。

 だからおそらく、今日は結果報告が聞けるのだろうと結衣は期待していたのだが、今日は何故か、雪乃も来るのが遅い。

 結衣としては、鑑と岬が付き合う結果になったら良いなあ、と思っていた。

 結衣は岬とは面識が無いし、鑑とは知り合ったばかりだが、年上のお姉さんマネージャーと年下エースのカップルなんて、とても素敵だと思う。

 因みに、結衣は勘違いしているが、鑑はまだエースではない。

 姫菜から借りた野球漫画を読みながら、暇を潰していると、扉をノックする音が聴こえた。

 結衣が応える声の後、部室に入って来たのは雪乃だった。

 そして、彼女の背後には、見知らぬ男子生徒の姿が見える。

 男子生徒は、幾分困惑した様子で部室をきょろきょろと見回している。

 彼自身、何故自分がここに連れて来られたのかわかっていない様子だ。

 

「やっはろーっ! ゆきのん!」結衣は元気に挨拶した。

「こんにちは、由比ヶ浜さん」

 

 雪乃は今日も、つれない態度で普通に挨拶を返した。いや、むしろ、いつもより機嫌が悪そうだ。

 結衣は他人の表情や雰囲気から、その人の機嫌を察知しようとする癖があった。

 

「比企谷くんは?」

「ヒッキーなら、神代くんと一緒にどっか行っちゃった」

 

 雪乃の質問に結衣が答えると、「そう、またサボり……というわけでも無いのかしらね。かみし、材木座くんと一緒なら」と呟きながら、雪乃は長机の端の椅子に腰掛けた。

 

「大岡くん、そこに座ってくれるかしら」雪乃は、普段八幡が座っている椅子を指差した。

「あの、さっきも言ったけど、俺に何の用だ?」大岡は怪訝な表情を隠さずに訊ねる。

「良いから、座りなさい」

 

 雪乃の発した普段よりも低い声音に、結衣はびくっと体を震わせた。自分が言われたわけでも無いのに、背筋が凍る。

 これは、確実に、今日の雪乃はとても機嫌が悪い。

 大岡は少し不貞腐れた様子だったが、それでも逆らう事なく椅子に座った。

 長机の端と端で、雪乃と大岡は視線を合わせる。雪乃の目は、まるで、被疑者を視線で射抜く検察官のようだった。

 何故そんな目で見られるのか、理由がわからない大岡は、ばつが悪そうに目を伏せた。

 

「貴方、最近野球部の練習をサボっているそうね」

「……そうだけど、それがなんか、あんたに関係あるか?」

「別に、それ自体は私には関係がないし、どうでもいいことだわ」

 

 雪乃は、突き放すように冷たい口調で言った。

 結衣は、雪乃と大岡、二人の顔を交互に見遣って不安そうにしている。突然の事態に、事情もよくわからないのだ。

 

「貴方と同じクラスの、風間さんに聞いたのだけれど」

 

 かずみんに、なに聞いたんだろう、と結衣は疑問を覚えた。

 野球部と和美に、どういう関連性があるのか、結衣にはよくわからない。

 

「貴方、悪漢に絡まれているところを岬先輩に助けてもらったのに、標的が自分から岬先輩に移ると、一目散に逃げ出したそうね。岬先輩を置いて」

 

 雪乃の言葉に、結衣は驚いて大岡の方を見た。彼は俯いて、机の一点を見つめている。

 彼がチンピラじみた男に絡まれたのは、ゴールデンウィークの最終日のことだった。

 野球部の練習試合があった帰り道で、カツアゲされそうになった。

 たまたま近くにいた岬が助けに入ってくれたのだが、その後、岬を残して一人逃げ出してしまった事を、彼は強く後悔していた。

 雪乃は机に両肘をつき、眉間の前で指先を合わせて、尖塔のポーズを見せる。

 

「最低ね」

 

 雪乃がポツリと零すと、彼女の視線の先にいる大岡の顔色が、朱く染まる。

 彼は唇を戦慄かせながら、なにか反論しようと逡巡したが、なにも言う事が出来なかった。

 実際、それは事実以外の何物でもないからだ。だから、反論ではなく言い訳を口にした。

 

「……仕方ないだろ、怖かったんだ」

「そう」

 

 雪乃は、なんの感慨もなく、冷淡に返答した。

 雪乃が無愛想な態度を取るのはいつもの事だが、こんなに冷たい表情の彼女を見るのは初めてだと、結衣は動揺する。

 

「岬先輩の窮地は、貴方が逃げ出した後、風間さん達が救ってくれたそうよ。岬先輩は、怪我ひとつ負うことは無かった。良かったわね、安心した?」

「……安心なんか、出来るわけないだろ。俺だって……本当は、逃げたりしたくなかった」

 

 大岡は、肩を落として小さな声で呟いた。少し、目が赤くなっている。

 

「そう、まあ、それはそれでいいわ。岬先輩は貴方が野球部の練習に出てこない事を、とても気に掛けているそうよ。明日からで構わないから、練習に参加しなさい」

 

 きっぱりと言い切る雪乃だったが、横で聞いていた結衣は、それは難しいんじゃないかなぁと思った。

 事情は大体把握できた。岬を置いて逃げた事は、結衣としてもどうかと思う。

 しかし、怖くて逃げてしまう、弱い人間もいるのだという事も、結衣には理解できた。

 そして、その後は気不味くて顔を合わせ辛いということも、想像は容易い。

 

「どうしたの、返事をしなさい」

 

 俯く大岡に対して、さらに苛立たしげに言う雪乃だが、彼は何も言わない。

 雪乃は、察しの悪い人間ではない。大岡の心情だって理解しているはずだ。

 しかし、それでも、岬にこれ以上迷惑をかけるなと要求しているのだ。

 雪乃は強い人間だが、そうであるからこそ、周りの人間にも強くあることを求めるきらいがある。

 結衣は内心で、どうしよう、ヒッキー助けて、と呟いた。

 

 

 

 その頃、野球部の練習スペースではアップのランニングが行われていた。隊列を組んだ部員達が、グラウンドを駆ける。

 先頭を走るキャプテンの、「いーっちにーっいちにーっちにっちに!」という大きな掛け声の後、他の部員達が声を合わせて「は、し、ろ、う、ぜ!」と叫ぶ。

 

「走ろうぜーっ! 走ろうぜーっ!」

 

 ベンチに座っている一年生マネージャー、高鳥が両手をメガホンの様に口元に当てて、野球部員達に向かって声を掛けた。

 岬は、その隣で机に向かってノートを開き、出欠表を書いていた。

 大岡の欄にバツ印を書き込む。そこには、ゴールデンウィーク明けから、ずっとバツ印が並んでいる。

 

「走ろうぜーっ! は、し、ろ、う、ぜーっ!」

「いつも元気が良いわね、高鳥さん」

「えっ? えへへ、それだけが取り柄なんで」

 

 岬に褒められた高鳥は、気恥ずかしそうに照れる。彼女は何気無く、岬の手元にあるノートに視線を移した。

 そして、バツ印が並んでいる箇所を指でトントン叩いて示す。

 

「大岡くん、ずーっと休んでますね。サボり過ぎです」高鳥は眉根を寄せて言った。

「えっと……サボりかどうかはわからないんじゃないかな。何か、事情があるのかもしれないし」岬は曖昧な態度で言葉を濁した。

「いいえ、こんなに続けて休むのはおかしいですよ。怪我でもしてるんだとしても、見学くらいできるはずですし。大岡くんって何組でしたっけ? 明日にでも、あたしがビシッと言ってやりますよ」

 

 目を吊り上げて言う高鳥に、岬は困った様に少し微笑んで、「……こういう事は、微妙な問題だから、時機を見て私から話しておくわ。高鳥さんは、そっとしておいてあげて」と言った。

 大岡の欠席はただのサボりだと思っている高鳥は、岬の態度に若干の違和感を覚えたが、岬がそう言うなら彼女に任せたほうがいいかと納得した。

 

「ところで、話は変わりますけど」高鳥は急に声を潜めて、「岬さんと加賀美くんって、付き合ってるんですか?」と言った。

「……なんで?」

「いやあ、岬さんと加賀美くんってすごく仲が良いじゃないですか」

「アキラは、中学からの後輩だからね。いや、そういえば小学校も一緒だったわ。その頃は、特に知り合いじゃなかったけど」

「えーっ、それだけですかあ? 今も加賀美くん、岬さんに熱い視線送ってますけど」

 

 岬は加賀美の方を見た。高鳥の言う通り、ストレッチをしながら、時折岬の方に視線を向けている。

 明らかに、何か気になることがありそうな様子だ。

 集中力を欠いた練習は怪我の元だ。後で注意してやらなきゃ、と岬は内心で舌打ちする。

 

「バカガミめ、アンタに心配されなくても大丈夫なのよ」心配性の後輩を嗜めるような口調で、岬は呟く。

「え、なんですか?」

 

 岬が発した小さな声は、高鳥には聴き取れなかった。

 岬は、「なんでもないわ」と誤魔化して、ノートをパタリと閉じた。

 

 

 

 八幡と材木座は、野球部のグラウンドが見渡せる防球フェンスの前に居た。

 材木座はフェンスの向こうで熱心に練習する野球部員たちを眺めている。

 対して八幡は、ポケットに手を突っ込み、フェンスには背を向けていた。

 昼休み、大岡について和美が雪乃に話している内容を傍で聞いていた材木座は、八幡にもその話を教えた。

 

「俺は、大岡の行いは許せん! 我が女神たるミサキーヌを置いて逃げるなど、言語道断だ!」

「そうか」

 

 肩を怒らせ声を荒らげる材木座に、八幡は表情を変えずに応えた。

 

「……けど、怖くて逃げ出しちゃう気持ちは、わからないでもないよ……俺も、喧嘩は怖いもん」

 

 一転、か細い消え入りそうな声量で、材木座は呟いた。

 それは、神代剣ではなく、材木座義輝としての言葉だった。

 八幡は、首だけ動かして材木座に顔を向ける。

 

「でも! もしそこに俺がいたら、ミサキーヌの盾となった事は間違いないがな!」

 

 ぶんぶん両手を振り回しながら叫ぶ材木座を見て、八幡は溜め息をついた。

 

「相変わらず、お前は暑苦しいな」呆れた様子で、八幡が言う。

「男は燃えるもの、火薬に火を点けなければ、花火は上がらないのだ」

「……おばあちゃんが言っていた……男はクールであるべき、沸騰したお湯は、蒸発するだけだってな」

 

 材木座が呟いた言葉を、八幡はおばあちゃんの教えを引用して即座に否定する。

 運動部の元気な掛け声がグラウンド中に響き渡るなか、二人の間にだけ静寂が訪れた。

 材木座は、こいつは全く変わらないなと、なんだか嬉しくなった。

 中学一年生の頃、初めて出会った時、あの強烈に憧れた瞬間から、何も変わっていない。

 材木座は、眩しく輝く太陽を見るように目を細めて、八幡に笑顔を向けた。

 その笑顔を見た八幡は、ほんの少しだけ、微かに口角を上げる。

 

「俺は、どうすればいい。ミサキーヌの為に、俺は何ができる?」材木座が、八幡に訊く。

「そうだな……とりあえず、風間に話を聞きに行くか」

 

 八幡はフェンスから離れて、特別棟の方へと歩き出した。彼には、何か考えがあるらしい。

 材木座は、素直にその後ろに続く。

 数分後、特別棟の奉仕部やお化粧研究部の部室がある階の廊下を二人が歩いていた丁度その時、奉仕部の部室から大岡が退室してきた。

 彼は蒼白な顔色で、八幡たちの方へと向かってくる。

 擦れ違う一瞬、八幡は彼の表情を見遣る。その目は、涙に濡れていた。

 大岡は、まるで逃げる様に足早に歩き去って行った。

 

「今の奴が、大岡か?」八幡は材木座に訊ねる。

「そうだ……奉仕部の部室から出てきたという事は、奉仕部の女子達が呼び出したのかもな」

「多分、雪ノ下だろう」

 

 雪乃は、道理の通らない行いを許さない。助けてもらっておいて一人逃げ出すなどという醜態を見せた大岡は、雪乃から叱責を受けたのだろうと八幡は確信していた。

 

「雪ノ下雪乃から諭されたのならば、大岡は野球部に戻るだろうか」希望的観測を持って、材木座は言う。

「無理だろうな。雪ノ下は北風だ」

 

 八幡が言った『北風』という言葉の意味は、材木座にはよくわからなかった。

 首を傾げる材木座を放置して、八幡はお化粧研究部の部室の扉をノックした。

 部室の中から、「はいは〜い!」という元気な声が聴こえたかと思うと、少しだけ扉が開いた。

 妙に濃いメイクをした百合子が、顔を覗かせる。

 

「あれ、比企谷くん? と、えっと、神代くん、だっけ?」

「悪いな、少し用がある、邪魔させてもらうぞ」

「どうぞどうぞ」

 

 八幡が断りを入れると、百合子はさっと扉を全開にして部室に招いた。

 八幡と材木座が入室すると、百合子が椅子を勧めてくれたので、有り難く座らせてもらう。

 奉仕部の部室にもある様な長机の上には、男子には用途もわからない各種様々なメイク道具が並んでいた。

 

「な〜に天の道、あーしらに用とか、メイクでもして欲しいわけ? 今日はタイミング良くV系メイクの練習してたから、あーしがやってあげよっか?」

 

 自身もブラックとピンクのアイシャドウを重ね塗りし、長いつけまつげを揺らしている優美子は、両手の指をにぎにぎと動かしながら八幡に言った。

 しかし、八幡は首を左右に振って応えると、和美に視線を向けた。

 今日は彼女も、ヴィジュアル系風の派手なメイクをして、赤いウィッグを付けていた。

 傍らにギターケースが置かれている事も相まって、ロックバンドのギタリストの様にも見える。

 

「岬の話を聞かせてもらおうか」

「岬? なにそれ」

 

 事情を全く知らない優美子は、八幡の質問に疑問の声を上げた。

 和美は八幡に対してひとつ頷いた後、「優美子さん、岬さんは、うちの高校の先輩です。野球部のマネージャーをしている方で、美人な女性ですよ」と、まずは優美子に説明した。

 和美が岬を『美人な女性』と評したところで、材木座は同意するように首を縦に何度も振った。

 

「彼女と知り合ったのは、ゴールデンウィークの事でしたーー」

 

 和美が話した内容は、材木座から聞いた話と概ね大差は無かったが、伝聞な上に説明下手な材木座から聞くよりもわかりやすく、且つ詳細だった。

 話を聞き終えた八幡は、隣に座っていた材木座の肩に手を置き、「良かったな、出番が出来たぞ、材木座」と言った。

 材木座には、八幡が言ったことの意味は掴めなかった。しかし、出番があるならミサキーヌの為に頑張るだけだ。

 材木座は、「任せろ!」と叫び、意気込んで自らの胸を強く叩く。

 コイツはやはり暑苦しい、八幡は、そう思った。

 



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野球部編8話

 和美の話を聞いて、そのチンピラと材木座の体格が似通っている事を知った八幡は、大岡を野球部に復帰させる方法をお化粧研究部と材木座に説明した。

 そして、「材木座を、大岡に絡んだ悪漢そっくりにメイクしてくれ。大岡が、材木座のことを悪漢本人だと誤認するレベルで頼む」と和美に依頼する。

 八幡から突拍子もない依頼をされて、和美のメイク魂に火がついた。

 和美は幼い頃から色々なジャンルのメイクに挑戦してきたが、別人に変装させる様なメイクを練習した経験はない。

 しかし、風間流の化粧術に限界はないと自負しているし、八幡には創部の時に世話になった。この依頼必ず完遂する、と和美は意気込んだ。

 和美に、「じっとしていてください」と言われた材木座は、しゃちほこばった態度で背すじを伸ばし、大人しく椅子に座っていた。

 その材木座の顔を、和美と百合子が近距離からじろじろと睨め付けている。

 和美も百合子も派手なメイクをしているので、一見すると、強面の女子二人に絡まれる気弱な男子の構図にも思えた。

 優美子と八幡は、席に着いたまま、三人の様子を眺めている。

 

「なんか、奉仕部、めんどくさそうなことやってんね」

 

 優美子は長机に頬杖をつき、和美たちの方に顔を向けたまま、八幡に対して言った。

 奉仕の精神など持ち合わせていない彼女には、奉仕部の活動はあまり楽しそうだと思えなかった。

 といっても、そんな彼女も周囲の人間には、存外優しい一面を見せたりするのだが。

 

「別に、俺は然程面倒でもない。あとは、材木座と岬、それとお前達にかかっている」

「お前達って言われてもねぇ〜、あーしはまだ勉強中だから、和美の手伝いくらいしかできないし」

「そうか? その顔を見る限り、お前の腕も悪くなさそうだがな。自分でメイクしたんだろう? その顔は」

「まあ、そうだけど、メイクってナチュラルなのより派手派手の方が簡単なんだよ。あーしの練習って事で今日はV系メイクにしてみたわけ」

 

 優美子は、彼女にしては珍しく謙遜めいた事を言っているが、褒められて満更でも無さそうだ。

 嬉しそうに笑いながら、「和美と百合子の顔も、あーしがメイクしてやったし。なかなかイケてるっしょ?」と、自分のメイク技術を自慢する。

 その様子を見る限り、彼女がお化粧研究部で過ごす日々を楽しんでいる事はよくわかった。

 

「ところで天の道、B組の大岡って、隼人と仲良い奴だよね?」

「葉山と? そうなのか、俺はよく知らんが」

 

 優美子が訊いてくるが、あまり他人の交友関係に興味の無い八幡には、心当たりがなかった。

 

「確か、体育の時間に仲良くなったっつってた。あーしも、大岡のことはよく知らないけど、顔くらいは知ってる」

「そうか……それで? それがどうかしたか?」

「あいつ、ゴールデンウィーク明けから三日連続でゲーセンに居たよ」

「ゲームセンターに? どこのゲームセンターだ」

 

 思わぬ所から齎された情報に、八幡は食いつく。

 

「それがさ、三日とも違うゲーセンだったんだよね。あーし二日続けて同じ場所行くのあんま好きじゃないからさ」

「三日とも、違う場所で会ったのか」

「会ったっつーか、見かけただけだよ。別に友達でもないから会話とかはしてないし」

 

 優美子の言葉に、八幡は少し考え込む様に沈黙する。

 顎に手を当てて黙っている八幡に、優美子は「なんか参考になった?」と訊いた。

 彼は表情を緩めて、「ああ、参考になった」とだけ、短く答える。

 彼の返答に満足した優美子は、したり顔を見せてニヤリとした。

 先日、結衣と起こした仲違いを直ぐに解消出来たのは、八幡のおかげだと優美子は思っている。

 彼女は余り素直な性格では無いので言葉にはしないが、結構感謝しているのだ。これで、少しは借りを返せたかな、と思った。

 

「神代くんより、もう少しツリ目気味だったよね。アイライナーとアイプチでなんとか出来るかな?」百合子が和美に言った。

「男だからな……あまり濃すぎるメイクだと不自然になってしまうかもしれない」

 

 和美は腕を組んで唸り、真剣な目で、半ば睨むように材木座を見ている。

 

「私、あのチンピラの顔、うろ覚えなんだよねえ」百合子は申し訳なさそうに肩を竦めた。

「私だって、ほんの数秒しか見てないさ。だが、それは大岡くんにも言える筈だ。彼も、完璧に覚えているとは言い難いと思う」

 

 和美は、自らの頭に手を伸ばし、ウィッグを留めている数個のクリップストッパーを丁寧に全て外した。

 そして、自分の頭の上から取ったその赤いウィッグを、材木座の頭に被せた。

 

「あの男は、特徴的な赤髪だった。印象に残りやすい部分を似せれば、大岡くんも誤認するだろう」

「あいつの赤髪はもうちょっと短めで、もっと毒々しい発色だったよ」髪の色はしっかりと覚えていた百合子が言う。

「そうだな、ウィッグのバリエーションならウチに沢山あるから色々被せてみよう。あと、私は使用したことが無いけれど、プリンゲルとスピリッツガムの在庫もウチにあったな。試してみようか」

 

 黙って和美の言葉を聞いていた材木座だったが、内心では、プリンとガムとは、お菓子か何かを貰えるのだろうかと見当違いな事を考えていた。

 プリンゲルは軟質ウレタン樹脂、スピリッツガムは肌用接着剤である。

 変装メイクというより特殊メイクじみてきたが、和美は大真面目だ。百合子も、初めて挑戦するジャンルのメイクに、好奇心を刺激されている。

 

「材木座くん、お時間は大丈夫ですか? 私の家に招きたいのですが」

「時間なら問題ないぞ。それがミサキーヌの為ならば、風間の家だろうと何処だろうと行こう。あと、神代って呼んで」

「和美ん家行くの? あーしも行っていい?」

「ええ、勿論、優美子さんも御招待します。比企谷くんは、どうしますか?」和美は八幡にも話を振るが、彼は、「いや、俺は奉仕部に顔を出しておこう。悪いが、材木座の事は任せる」と言って断り、部室を出ていった。

「カズん家スゴイから比企谷くんも来たらよかったのに」百合子は残念そうに零した。

「スゴイって、なにが?」優美子が訊く。

「カズって、こう見えてめっちゃお嬢なんだよ」

「マジか」

 

 百合子が答えると、優美子は驚いて和美を見るが、彼女はさらりと流して、「我々も出ましょう」と言って、メイク道具を片付け始めた。

 

 

 

 

 お化粧研究部の部室から出てきた八幡は、その足で隣の奉仕部に向かい、いつも自分が座っている席に腰を下ろした。

 八幡は、少し沈んだ様子の結衣と挨拶を交わす。

 彼女の居ずまいを見ただけで、雪乃と大岡の間にどのような会話があったのかを八幡は瞬時に理解した。

 

「遅かったわね、比企谷くん。依頼はもう解決したわよ」

 

 凍りついたような表情を見せて、雪乃が言った。何がそんなに気に入らないのかはわからないが、彼女が何かに怒っているのだという事は容易に察せる。

 

「本当に、解決したと思っているのか?」八幡は、訝しげに訊ねた。

「大岡くんには、明日から野球部の練習に参加するよう厳命しておいたわ。これで、解決よ」

「無理だ。お前から説教された程度で野球部に復帰できるなら、最初からこんな事態にはなっていない。大岡は明日も練習には参加しないだろう」

 

 雪乃は顔を歪めて八幡を睨み、反駁しようとした。

 しかし、視界の端で憂えるように頷いている結衣を見て、彼女は声を詰まらせる。

 本当は、雪乃にも、さっきまでの自分が冷静さを欠いていた事はわかっているのだ。

 あんな風に厳しく言い募っただけでは、人の心は動かせないだろう事も理屈では認識している。

 ただ、感情は別だった。弱い人間の所為で岬のような人が割りを食うなど、雪乃には我慢ならなかった。

 

「大岡くん、泣いてたよ。ゆきのん、あたしはゆきのんの事、ホントは優しい子だってわかってる。でも、厳しくされても立ち上がれる人と、そのまま蹲っちゃう人がいるんだよ。それは、わかってあげた方が良いと思う」

 

 結衣にまでそう言われて、雪乃は僅かにショックを受けた。

 目前の問題に対して蹲っているだけでは、状況は変わらない。立ち上がらなければ、成長は望めない。

 昔からずっと、その両の脚で立ち上がり続けてきた雪乃には、そんなものは甘えだとしか思えなかった。

 

「まあ、そういう意味では、大岡は立ち上がろうとはしているようだ。少なからず、見込みはある」八幡が言った。

 

 そして、八幡は優美子から聞いた、『三日連続で大岡をゲームセンターで見た』という話を二人に教えた。

 

「それは、ゲームに逃避しているという事ではないの?」雪乃は毒突くように言う。

「三浦は、三日とも違うゲームセンターで大岡を見かけたらしい。どういう事かわかるか?」

 

 結衣は、少し悩むと、パッと閃いて掌を打った。

 

「優美子のストーカー!」

「違う」

 

 結衣の的はずれな解答を、八幡は即却下する。彼女は、「あぅ」と呻いて首を竦めた。

 

「違う場所で毎日見かけたという事は、大岡くんは毎日複数箇所のゲームセンターを巡っている? つまり……悪漢を、捜しているのね」

 

 雪乃が辿り着いた答えに、八幡は頷く。

 

「だろうな。ゲームセンターを巡れば目当ての悪漢が見つかるというのは安直な発想だが、おそらく大岡の目的は失ったプライドを取り戻す事だ」

 

 因縁のチンピラを見つけて、大岡が何をどうするつもりなのかまでは、八幡にもわからない。

 しかし、岬を置いて逃げ出したことを、大岡が悔やんでいるのは確からしい。ならば、それを挽回する機会を与えてやればいいと八幡は考えた。

 

「材木座を悪漢に擬態させて、もう一度同じ状況を作る……そこでどういう行動をとるかは、大岡次第だがな」

「あっかんにぎたいって、どうやるの?」結衣が訊いた。

「それに関しては、風間たちに頼んできた。あいつらなら、上手くやってくれるだろう」

「……同じ状況を作っても、どうせまた逃げ出すんじゃないかしら」

 

 雪乃の意見は辛辣だった。八幡は肩を竦めて首を振る。また逃げ出すようなら、あとは正式に野球部を辞めさせるくらいしか道はないだろう。

 八幡は椅子から立ち上がり、部室の扉に向かって歩く。

 

「とはいえ、未だにゲームセンター巡りを続けているのかどうかは俺にもわからん。とりあえず、捜しに行くぞ」

 

 三人は手分けして、ゲームセンターを捜す事にした。

 この地域の少年少女が遊びに行くようなゲームセンターは、デパートなどにある小さなゲームコーナーを除けば、近所に三つある。

 大岡が今もゲームセンターに居るならば、三人で手分けすれば簡単に見つかるだろう。

 雪乃は、『悪漢を捜している』という答えに一度は自分でも辿り着いたものの、正直言って大岡は、ゲームに逃避している可能性も充分にあり得ると思っていた。

 彼女は、自分に割り振られた、映画館やボウリング場、ショッピングモールなどが連なった、大規模な商業施設の中にあるゲームセンターを訪れた。

 本当にいるのだろうかと、半信半疑で捜す彼女だったが、突然その視界に、周囲を見回しながら歩く大岡の姿が飛び込んできた。

 雪乃は、さっと物陰に身を隠し、大岡を観察する。

 彼はゲームに興じる様子もなく、頻りに何かを捜して歩き回っている。どうやら、八幡の推測は当たっていたらしい。

 雪乃は商業施設を出て、結衣と八幡に、大岡を発見したというメールを送る。今日の所は、そこで解散となった。

 

 

 

 

 部活が終わって着替えを済ませた鑑と岬は、完全に日が沈んで暗い構内を、二人並んで歩いていた。

 夜の静寂に包まれた学校は、昼間の活気ある空気とは違って、体が冷えるような寂寞感を覚える。

 鑑は前を向きながら、隣を歩く岬に話し掛けた。

 

「大岡の話、風間に聞きました」

 

 不意に出た和美の名前に、岬は少し驚いた。数回瞬きをしたあと、鑑に顔を向ける。

 

「アキラ、風間さんと友達だったの?」

「いや、今日知り合ったばかりです。偶然、話を聞く事になったんですよ」

「そう……聞いちゃったか」

「聞いちゃいました」

 

 岬としては、あまり広めるべき話題では無いと判断して、鑑にも相談せずに黙っていたのだが、和美に聞いてしまったのなら仕方がない。

 

「他の子に言っちゃ駄目よ。特に、野球部の子たちには。大岡くんが、戻って来づらくなっちゃうから」

「わかってますよ」

 

 大岡、さっさと戻って来いよ、岬さん、別に怒ってないぞ、お前の事心配してるぞ、と鑑は内心で呟いた。

 

「俺がその場にいたら、岬さんのこと、ちゃんと守りましたよ」

「それ、前にも似たようなこと聞いたわ」

「もう一度言いたくなったんです」

「そう……ありがと」

 

 岬は嬉しそうに微笑んだが、それきり、二人の会話が途切れた。無言で歩く二人の間に横たわる沈黙が、数分を数えた頃、突然明るいメロディが流れた。

 自分の携帯の着信音だと気づいた鑑は、ポケットから取り出して着信元を確認する。

 画面には、比企谷小町と表示されていた。何であの子から? と訝しみながら、鑑は電話に出た。

 

「もしもし、何か用? 小町ちゃん」

「気安く小町ちゃんなどと呼ぶな。小町が穢れる」

 

 電話越しの声を聴いて、鑑はヒクッと頰をひきつらせた。

 その男のような低い声音、いや、どう考えても男としか思えない声に、鑑は電話の向こうの人物が誰なのかを悟る。

 

「比企谷か、なんで小町ちゃんの携帯からなんだ」

「お前の電話番号など俺は知らん。あと、小町ちゃんなどと呼ぶな、比企谷さんと呼べ」

 

 そういえば、メールアドレスは教えたけど電話番号は教えてなかったっけ、と思い当たると同時に、兄を比企谷と呼んで妹を比企谷さんと呼んだらややこしいだろうが、と鑑は思った。

 

「で、何の用だよ」

「どうせ隣には岬がいるんだろう、代わってくれ」

「岬さんに? わかった」

 

 鑑は、「比企谷が、岬さんに代わって欲しいって言ってます」と断って携帯を岬に渡した。

 

「もしもし、比企谷くん? 久し振りね」

「ああ、そうだな」

「君にも、心配かけちゃったみたいね」

「別に、俺はただ、依頼を受けたというだけの話だ」

 

 八幡の膠も無い返事に、そうそう、こういう子だった、と岬はクスッと笑みを洩らした。

 

「大岡に、チャンスを与える気はないか?」

「チャンス? どういう事?」

 

 八幡は岬に、詳しい段取りを説明する。彼女は電話越しの会話にも関わらず、何度も深く頷いてその話を聞いていた。

 最後に、「わかった、ありがとう比企谷くん。じゃあね、また明日」と告げて通話を切った岬は、携帯をパタンと閉じて鑑に返した。

 

「比企谷、何の用だったんです?」疑問を覚えた鑑は、岬に訊いた。

「大岡くんの話よ。私、明日は部活休むわ」

「えっ?」

「明日、大岡くんと話してくる。やっぱり、このまま部活辞めちゃうのは、駄目だと思うの」

 

 真剣な表情で言う岬を見て、鑑は苦笑を浮かべて首肯した。

 

 



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野球部編9話

 翌日の放課後、お化粧研究部の部室には、部員たちと材木座、それに加えて岬、雪乃、結衣の姿があった。八幡だけは、大岡を尾行しているのでこの場に居ない。

 先程八幡から、部長である結衣に送られてきたメールによれば、大岡は今、一軒目に立ち寄ったゲームセンターから出て次のゲームセンターへと移動中らしい。

 結衣は、雪乃にも八幡から送られてきたメールを見せた。

 メールを見た彼女は、「結局、私の言葉は、大岡くんには届かなかったのね」と、寂しそうに呟いた。結衣も、隣に座る雪乃にだけ聴こえるような小さな声で「ゆきのん……」と呟く。

 

 そうこうしているうちに、主に和美の手腕によって、材木座の顔がどんどん別人の物へと変わっていく。その様を、椅子に座りながら傍目に見ていた岬は、「上手いのねえ、風間さん」と褒めた。

 その口調は穏やかで、子供が一生懸命描いた絵を褒める母親のようだった。

 メイク開始から大体一時間が経過したところで、和美はその手を止めた。

 

「よし、完成です。どうですか、岬さん。あの成らず者にかなり似せられたと思うのですが」

 

 和美に言われて、岬は椅子から離れて材木座に近寄った。

 岬は、成らず者って言い方、なんだか古い感じだな、風間さんって意外と古風な子なのかも、と本筋から逸れた事を考えながら材木座の顔を観察した。どこから見ても元の材木座の顔とは、似ても似つかない。

 岬に至近距離で観察されている材木座は材木座で、やっぱりミサキーヌは美しいなぁ、などと、バカな事を考えている。

 

「うん、そっくりだわ。確かにこんな顔だった」

「では、早速大岡くんの所に向かいましょう。結衣さん、大岡くんは今どこにいるんですか?」和美が結衣に訊いた。

「えっと、ついさっき届いたヒッキーからのメールには、『今は稲毛海岸駅近くのゲームセンターに居る』って書いてあった」

 

 そのゲームセンターは、昨日雪乃が大岡を見つけた場所とは違うゲームセンターだった。

 結衣の言葉を聞いて、全員そこに向かおうと動き出すが、岬が待ったを掛ける。

 

「ごめんなさい、大人数で動くと目立って大岡くんにバレるかもしれないから、私と剣くんだけで来るようにって比企谷くんに言われてるの。みんなはここに居てくれないかしら」

 

 岬が言うと、雪乃は頷いて、「……そうですね。特に私と由比ヶ浜さんは、行かない方がいいでしょうね」と、暗然とした様子で言った。

 

「とはいえ、私は同行した方がいいでしょう。彼のメイクは、簡単には落ちませんから、事が終わったら私がメイク落とししてあげないと」和美はギターケースから、スピリッツガムの剥がし剤であるリムーバーとメイク落とし用のクレンジングオイルなどを取って鞄にしまった。そして、「ゴンと優美子さんは、ここに居てください。あと、ゴン、私のギターケース、今日はお前に預けるよ」と声を掛ける。言われた二人は素直に頷いた。

「みんな、私のために頑張ってくれてありがとう。お礼は後日ちゃんとするからね」

 

 岬は部室をあとにした。材木座と和美もそれに続く。三人が去って、部室の中は閑散とした空気になった。

 暇を嫌った百合子が、奉仕部の二人に話しかける。

 

「結衣ちゃん雪乃ちゃん、暇だったら、メイクモデルやってくれない?」

「……ごめんなさい、私は奉仕部の部室に戻るわ。新たな依頼が来るかもしれないから」

 

 雪乃は素気無く断り、部室を出ていく。普段とは違う様子を見せる彼女に、百合子と優美子は疑問を覚えた。

 事情を知っている結衣だけは、心配そうに雪乃の背中を見送る。

 

「ゆきのん……」

「結衣も、部室に戻った方がいいんじゃないの」

 

 優美子は、自身の手指の爪を眺めながら、まるで気が無い様子で言った。

 

「えっ?」

「結衣も奉仕部じゃん。雪ノ下さんの傍にいなよ」

「……うん!」

 

 結衣は椅子から立ち上がり、小走りで奉仕部の部室へと向かった。

 百合子は目を細めて、「優美子ちゃんは、名前通りの子だよね」と、優美子の二の腕を人差し指でつつく。

 

「どういう意味?」

「優しくて美人ってこと」

「なんだし、やめろし」

 

 優美子は百合子の手をぺしっと軽く叩いて払った。

 三人目の部員が、こんな子で良かったと、百合子は心から思う。彼女とは、これからもっともっと仲良くなれそうだ。

 

「名前と言えば、私、苗字が中山だからなのか、キングカズみたいな名前の人と縁が深いんだよね」

「キングカズ? サッカーの人?」唐突な話題に、優美子は眉を上げた。

「そうそう、キングカズの苗字も」

「ああ、三浦……」

 

 だからどうしたし、と三浦優美子は思った。

 

 

 

 

 奉仕部の部室で、いつもの席に、二人は黙って座っていた。気まずい沈黙を破るように、結衣が口を開く。

 

「ゆきのん……あのね、あたし、ゆきのんは間違ってないと思う」

 

 なんの話かは、聞かなくてもわかる。大岡を叱責した件だ。間違ってない、などと慰められても、事実大岡は今日も野球部に参加していない。下手なご機嫌取りは御免だと、雪乃は眉をひそめる。

 しかし、結衣は一転して、「けど、ゆきのんは間違えたとも思う」と言った。

 

「由比ヶ浜さん、何が言いたいの? 言葉は整理してから話すべきよ」

「……難しいね……人の心って難しいなって、いつも思うよ。自分は間違ってないってだけじゃ、間違えちゃう事もあるから……」

 

 結衣の言葉は、曖昧で伝わりにくいが、その表情から、その声音から、雪乃を想っている事はわかる。

 

「なんていうか、心って、迷路みたいな物なんじゃないかな」

 

 結衣は懸命に、想いを伝えようとした。雪乃もそれに応えるように、真剣に耳を傾ける。

 

「ゆきのんみたいに、真っ直ぐゴールに進む人は、迷路みたいな人の心の壁と、ぶつかっちゃう事もあるんだと思う。でも、あたし、ゆきのんみたいに真っ直ぐな人、好きだよ」

 

 二人は、ただ見つめあって、瞬きを繰り返した。その間、言葉による会話はなかったが、お互いの気持ちは分かり合えている気がした。不思議な感覚だった。

 そして結衣のことを、不思議な子だと、雪乃は思った。

 いつの間にか、こちらの懐に潜り込んでくる。それは時に強引だけれど、不快ではない。

 雪乃はふと、姉を思い浮かべた。陽乃も、そういう性質を持っている。陽乃の場合は計算で意識的、結衣の場合は天然で無意識という違いはあるが。

 雪乃は俄かに、結衣に姉の話をしてみたくなった。

 

「由比ヶ浜さん……私、姉がいるの」

「お姉さん? そういえば、ヒッキーが言ってたね、ゆきのんのお姉さんに会ったって。はるのさん、だよね」

「ええ、私の姉は、雪ノ下陽乃は、迷路をスラスラと解く事も、時には壁を壊して真っ直ぐ進む事もできる人よ。完璧、といっても過言ではない人」

 

 雪乃の語調からは、尊敬と羨望と叛骨が入り混じった、複雑な感情が読み取れた。

 

「私は、姉に憧れているけれど、反撥もしている。姉のようになりたいと思っているけれど、姉のようにはなりたくないとも思っている……私の心も、迷路のようだわ」

 

 雪乃は昔、その美貌と有能さから周囲の人間に嫉妬され、いじめの対象になった事がある。生来の負けん気と気丈さによって、全て返り討ちにしてきたが、その不器用な姿勢では、他人と上手く折り合いを付けることはできなかった。

 そこが雪乃と陽乃の決定的な違いといえた。

 陽乃ならば同じ状況に追い込まれても、さらりと躱してみせただろう。いや、そもそも同じ状況に追い込まれる事すらなかった。

 けれど雪乃には、姉のようなやり方は出来ない。能力云々の前に、雪乃自身の生まれ持った性根が、本音と建前を使い分ける事を許さなかった。

 彼女は『真っ直ぐ走ることができる』人間なのではない。『真っ直ぐにしか走れない』人間なのだ。

 

「何をやらせても完璧な姉に、勝ちたい。けれど、周囲は、世界は、私を認めてくれない。だから、私は……」

 

 雪乃は、独白するように呟いていたが、はたと気付いて、その言葉を止めた。

 

「私、何を言ってるのかしら、言葉は整理して話すべきね」

 

 自嘲するように言う雪乃に対して、結衣は首を左右に勢いよくぶんぶん振った。そして、椅子を蹴って立ち上がり、雪乃に抱きつく。

 

「あたし、嬉しい! なんか、あたし、ちょっとだけゆきのんの迷路解けた気がする! ゆきのんと、もっと仲良くなれた気がする!」

「由比ヶ浜さん……」

 

 抱きつかれた雪乃は、遠慮がちに、結衣の背中に手を回した。

 

「ゆきのん、困った事とか、悩みとかあったら、あたしに話してよ。あたしじゃ力になれないかもしれないけど、頑張るから、ゆきのんのためなら、何だって手伝うから」

「なら、とりあえず離してくれないかしら。暑苦しいわ」

「ゆきの〜ん!?」

 

 急に突き放されて、結衣は驚き叫ぶ。しかし、雪乃の表情は言葉とは裏腹に、晴れやかだった。

 

「冗談よ」雪乃はそう言って、鞄を掴んで立ち上がった。そして、「今日はもう、部室閉めちゃいましょうか」と、微笑む。

「なんで?」

「昨日ゲームセンターで、クレーンゲームを見かけたのだけれど、景品がパンダのパンさんだったの。あれ、欲しいわ」

「パンさん? ゆきのん、パンさん好きなの?」

「ええ、まあね」

 

 いつも昂然としている雪乃が、可愛い物好きというのは意外だった。しかし、雪乃の新たな一面を知ることができて結衣は嬉しそうだ。

 

「……由比ヶ浜さん、パンさんを取るの……手伝ってくれないかしら」

「もちろん! 手伝うよ!」結衣は華やぐような笑みを浮かべて頷いた。

 

 雪乃には、友人と二人でゲームセンターに遊びに行ったような経験は無いが、悪くない気分だった。

 その後、結衣と協力して取ったパンダのパンさんのぬいぐるみは、翌日から部室の長机の上に、そっと飾られる事となった。

 

 

 

 

 あの不良を見つけて、自分は何をするつもりなんだろうかと、大岡は自問する。喧嘩など出来るはずもない。怖い、というのも勿論理由の一つだが、それ以上に野球部のことが頭にあった。

 大岡はまだ野球部を辞めたわけではない。野球部員が暴力沙汰を起こしたら、連帯責任で部は大会への出場を禁止されるだろう。

 一年生の自分の所為でそんな事態になれば、先輩たちから恨まれるのは自明の理だ。ならば何故、自分はあいつを捜しているんだろうか。彼には答えが出せなかった。

 これは一種の逃避なのかもしれない。岬への申し訳なさから、彼女に会う事を避けているだけなのかもしれない。

 色々なゲームの効果音が折り重なって喧しいゲームセンターの中を彷徨っていた大岡は、ふと、プリクラコーナーの方に目を止めた。

 そいつの髪は、赤い絵の具を適当に塗りたくったような、ケバケバしいカラーリングだった。

 お世辞にもお行儀が良いとは言えないヒョウ柄のパーカーにも見憶えがある。

 見つけた……と、大岡は思った。緊張か、それとも恐怖か、心臓がいつもより早い鼓動を刻む。

 まるで熱に浮かされた時のように、吐息の温度が上がった気がする。

 大岡はもう一度、自分に問いかけた。あいつを見つけて、どうするつもりだった? 俺は、どうすれば良い?

 彼は、何も出来ずに立ち尽くしていた。脚に力が入らず、動く事が出来ない。

 そうやってまごついていると、突如、赤髪のチンピラが、大岡に目を向けて来た。そして、ゆっくり近付いてくる。

 向こうも自分の事を憶えていたのだと、大岡は察した。彼我の距離は十メートル程度、このままジッとしていたら、ほんの数秒で相手は大岡に接触してくるだろう。

 大岡の頭の中が真っ白になった……次の瞬間、またもや彼を混乱させる事態が起こった。

 彼の目前に、女性の背中が現れた。その女性は、両手を広げて大岡を庇うように立っている。

 顔を見なくても、大岡にはその女性が誰であるかわかった。あの日以来、何度も思い出した背中だった。

 あの日大岡は、とるべき行動を間違えた。けれど、今の彼には正解がわかっている。別に不良を倒せなくても良い。怖いなら逃げたって良い。

 ただ、岬を置いて逃げる事だけは、してはいけなかった。

 

「岬先輩! こっち!」

 

 大岡は岬の手を引いて、店の出口へと走った。あの日も自分はこうしたかったんだ。こうするべきだったんだ。

 一歩一歩進むたびに、彼の中にある後悔が少しずつ取り払われていった。

 ただ、大岡よりも岬の方が健脚で、彼が途中で追い抜かれてしまった事は、彼に新たな劣等感のようなものを齎したのだが、それはまあ、気にしなくてもいいことだろう。

 

 大岡と岬が走り去った後、プリクラ機のカーテンの中から、和美と八幡が出てきた。

 和美は、チンピラに擬態した材木座に、「お疲れ様です」と声を掛ける。

 

「女性のエスコートとしては、あの手の引き方は落第ですが、男としてはギリギリ及第点ですかね。少しは根性見せましたね、彼」和美はゲームセンターの出口へと目を向けながら言った。

「あとは、岬が何とかするだろう。俺たちの役目は、これで終わりだ」八幡は言いながら、雪乃と結衣にメールを一斉送信した。

「うむ、ミサキーヌに任せておけば大丈夫だ」材木座は頷いて言った。「ところで風間、このレオパルドパターンの服は、洗って返せば良いのか?」

「ああ、それは差し上げますよ。ウチで扱っていた在庫処分品なので、返して貰っても捨てるだけですから」

「良いのか? では、有り難く頂くとしよう。俺の趣味とは少し違うが、こういう服も一着くらい持っていてもいいからな」

 

 材木座の私服は、大抵ゴシックデザインの、似非イギリス紳士風なものばかりだ。ヒョウ柄は彼のクローゼットに於いては異色だが、彼は人目をひくようなドギツイ柄物も結構好きだった。

 

「さて、せっかくゲームセンターに来たんですし、少し遊んで行きませんか?」和美は、八幡と材木座に提案する。

「ならば、今日のゲーム代は俺が奢ってやろう。今回、天道と風間には世話になったからな。ノブレスオブリージュ、高貴な振る舞いには、高貴な振る舞いで返さねばなるまい」

「おや、材木座くん、太っ腹ですね。じゃあ、ガンシューティングやりましょうよ。私、ガンシューティングには少々うるさいですよ」

 

 和美は少し、はしゃいだ様子でガンシューティングゲームの方へ歩いていった。八幡と材木座も後に続く。

 エイリアン物のガンシューティングゲーム機から、ガンコントローラーを取った和美は、照準を確かめるように腕を伸ばして構える。

 

「スコア競いませんか? 私に勝てたら、ジュースを奢ってあげます」余程自信があるのか、和美は二人の顔を交互に見て言った。

「むう、剣なら得意なのだが、銃はちょっと……」

 

 材木座はとりあえず、財布から二百円取り出してコイン投入口に入れた。そして、もう一方のガンコントローラーを取り、「天道頑張れ」と、八幡にパスした。

 

「相手は比企谷くんですか、負けませんよ」

「MAXコーヒーを奢ってもらおうか。俺も、射撃は得意だ」

 

 OPムービーが終わると、ゲーム画面の中に数体の、不気味な形態をした緑色のエイリアンが現れる。和美と八幡は画面に向かって銃を構えた。



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野球部編最終話

 岬は大岡を連れて、ゲームセンターから少し離れた所にある喫茶店に入った。店内は学校や仕事帰りの若者で賑わっている。

 ここならば、あのチンピラが追ってきても騒ぎは起こせないだろうと、二人は席に着いた。といっても、その正体は材木座なので、そもそも追いかけて来ることはないのだが。

 席に座って安堵した大岡は、深く吐息をつく。ちょっと怖がらせすぎたかしらと、岬は軽い罪悪感を覚えたが、チンピラの正体が材木座だということは黙っておくことにした。

 ウェイトレスが注文を取りに来たので、適当にソフトドリンクを頼む。

 注文したドリンクが運ばれてくるまでの数分間、二人は何も話さなかった。大岡は気不味そうに俯いているだけだし、岬は岬で、話しかけるきっかけを掴めずにいた。

 ウェイトレスがドリンクをテーブルに置いて去ったあと、岬は徐ろに口を開いた。

 

「大岡くんとは、話さないといけないと思ってたの」

「……はい」

「大岡くん、練習休んでゲームセンター通いしてたんでしょう? 一年生の子に聞いたわ」

「……そうですか」

 

 岬が話しかけても、大岡は顔を俯かせたまま、言葉少なに応えるだけだった。

 

「……驚いたわ。あの時のアイツがいたから」

 

 岬の口から、『あの時のアイツ』という言葉を聞いた瞬間、大岡はビクッと体を震わせた。

 これは相当、トラウマになっているらしい。絡まれたことそのものよりも、岬を置いて逃げ出したという事実が彼を苦しめているのだろう。

 

「コーラ、好きなの?」岬はとりあえず、当たり障りのない話題を振ってみた。

「え?」

「コーラ」岬は大岡が注文したコーラを指差して、「好きなのかなって」と言う。

「あ、いや、メニューの一番上に書いてあって、目に付いたんで。嫌いじゃないですけど」

「そう」

 

 岬の質問を受けて、大岡は少しだけ顔を上げて答えたが、会話が止まるとまた俯いてしまった。

 このまま黙っていても仕方ないと判断した岬は、少々強引だが、あの日の話をしようと思った。

 

「ゴールデンウィークの、あの日の事なんだけど」

「……はい」大岡は暗く沈んだ声で言った。

「あの日の大岡くんは、格好悪かったわ」

 

 彼は肩をすぼめて小さくなった。ピンチでエラーをして、相手チームに決勝点を与えてしまった野手のように、つむじを見せて項垂れている。

 

「でも、今日の大岡くんは格好良かったわよ」

 

 大岡は驚いて顔を上げる。自分はただ、岬の手を引いて逃げただけだ。そんな風に褒められるなどとは思いもしなかった。

 彼の視界の先には、優しく微笑む岬の顔があった。

 岬は、顔を上げてくれた大岡と視線を合わせて、もう一度言う。

 

「今日の大岡くんは、格好良かった」

 

 大岡の目に、涙が滲む。許された、気がした。そもそも、岬は怒ってなどいなかったのだが、当の彼自身が自分の事を許せなかったのだ。

 だが、岬に格好良かったと言われた事で、彼は救われた。やっと、自分を許せる心境になった。

 

「野球部、辞めちゃ駄目よ。野球が嫌になったんなら仕方ないけど、そうじゃないんでしょう?」

「はい」大岡は、涙交じりの声で言う。

「もう、そんなに泣かないで。私は気にしてないから、大岡くんも、気にしなくていいんだから」

「はい……ありがとうございます」

 

 泣かないでと言われても、大岡の涙はなかなか止まらなかった。岬は、ポケットからハンカチを取り出して大岡に渡す。

 素直に受け取った大岡は、そのハンカチで涙を拭いた。彼の涙が完全に止まるまで、多少の時間がかかった。

 

「これ、洗って返します」泣くのをやめた大岡は、ハンカチを握りしめて言う。

「あら、別にいいわよ、いま返してくれても」

 

 手を差し出す岬に、大岡は首を横に振る。

 

「ちゃんと洗って、明日の放課後、部活の時間に返します」

 

 大岡は、しっかりと岬の目を見てそう言った。曇りのない眼差しだった。彼の心の中にある暗雲は、既に晴れたのだろう。

 岬も、晴天のように明るい表情で、「じゃあ、そうしてもらおうかな」と応えた。

 

 その後、二人はゴールデンウィークの出来事とは関係ない、他愛もない話をした。

 好きなプロ野球選手は誰か、大岡が希望しているポジションはどこか、中学の頃はどんな選手だったか。

 それはただの雑談だったが、大岡にとっては、穏やかで緩やかな、充実したひと時だった。

 彼は、岬とこんな風に話せる時が来るとは思っていなかった。二度と合わせる顔が無いとすら思っていた。

 一時間ほど話し込んで、話題も尽きた頃に、大岡は会計表を手に取って立ち上がった。

 

「そろそろ、俺、帰ります。色々、ありがとうございました」大岡は頭を下げて、綺麗にお辞儀をした。

「ちょっと待って、お会計は私がするから」岬はさっと動いて、大岡の手から会計表を取った。

「いや、でも、迷惑かけたの俺の方だし……」

「いいから。こういう時、後輩は素直に奢られとくものよ」

 

 大岡は、迷うようなそぶりを見せたが、結局折れて、もう一度岬に頭を下げて店をあとにした。

 一人になった岬は、席を立って雑誌コーナーに向かった。漫画雑誌や週刊誌、新聞など、雑多な読み物が置かれている。

 彼女はその中から、普段は読まないファッション誌を選び、席に戻って読み始めた。

 彼女は、流行の着こなしなどには疎い。部活中は大体すっぴんだし、部活の遠征には制服か、学校指定のジャージで出かける。

 そんな彼女も、ファッションやメイクに全く興味がないわけではなかった。

 風間さんならこういうの詳しいだろうから、訊けば教えてくれるかしらと、岬はちょっと考えた。偶になら、オシャレだってしてみたい。

 数十分ほど、そうして暇つぶしに雑誌を読んでいると、ポケットの中の携帯が震えた。岬は、誰からの着信かも確認せずに通話ボタンを押す。どうせアイツだ。

 

「もしもし、アキラ? 練習終わったの?」

「終わりましたよ。岬さんこそ、大岡との話し合いは終わったんですか?」

 

 果たして、電話をかけてきたのは鑑だった。

 

「ええ、大岡くん、明日は部活に来るって言ってくれたわ」

「そうですか! よかったですね、岬さん」

 

 本当にね、と岬は心から同意する。こんな事で野球を辞めるなんて勿体無い。

 

「今、どこにいるんですか、俺もそっち行っていいですか?」

 

 鑑に訊かれて、店名を見ずに入店してしまった事を思い出した岬は、きょろきょろと周囲を見回す。

 幸いテーブルの隅に、ショップカードが置いてあった。一枚手に取って眺める。青色のカードに赤い文字で、『喫茶Lord』と書いてある。

 

「稲毛海岸駅近くの、Lordっていう喫茶店にいるわ。近くまで来たら、もう一回電話してちょうだい。道順教えるから」

 

 電話の向こうで、「わかりました」と応える鑑に、アンタには奢ってあげないけどね、と岬は内心で呟く。

 

「あっ、ところでアキラ、ちょっと訊きたい事があるんだけど」

「なんです?」

「比企谷くんも風間さんも、剣くんのこと材木座って呼んでたんだけど、なんでそんなあだ名なの?」

「ああ、アイツの本名、材木座義輝っていうんですよ。岬さん、知らなかったんですか」

「えっ!?」

 

 岬の誤解が、三年越しにやっと解けた。

 

 

 

 翌日の放課後、八幡は、奉仕部の部室でパンダのぬいぐるみと向かい合って座っていた。

 パンクロック風のデザインなのか、左目の黒縁が星形になっている。八幡の美的感覚から言えば、あまり可愛いとは思えなかった。

 

「何だ、この目付きの悪い不気味なパンダは」

「不気味ですって!? パンさんの何処が不気味だと言うのよ!」

 

 八幡のパンさん評に、雪乃は即座に噛みついた。彼女は子供の頃からパンさんの大ファンだったのだ。貶されては黙っていられない。

 

「ヒッキー、パンさん知らないの?」

「知らんな」

 

 結衣は、驚いて目を白黒させた。ディスティニーランドの人気キャラクターであるパンダのパンさんを知らない人など、珍しいにも程がある。

 

「ヒッキー、ドラえもんとか、アンパンマンは知ってる?」

「そのくらいは知っている。昔、小町が観ていたからな」

 

 そういうところも、小町ちゃんが基準なんだなぁと、結衣は心のメモ帳から、『ヒッキーはシスコン』という文章を取り出し、『ヒッキーは超シスコン』と書き換えた。

 

「ところで、何故お前がここに居るんだ、材木座」

 

 八幡は、当たり前のような顔をして部室に居座っている材木座に話し掛けた。

 

「お前の依頼は解決したはずだが」

「うむ、確かに大岡は野球部に復帰したようだ。それに関しては感謝している。今日は、ミサキーヌにメールで呼び出されたのだ。放課後、奉仕部に来て欲しいとな」

 

 材木座がそう言うと、部室の外からノックの音と共に、「入っていいかしら」という岬の声が聴こえた。

 結衣はすぐに、「どうぞ〜」と朗らかに応える。

 

「こんにちは」と挨拶をして、岬が入室してきた。ジャージ姿で、両手には紙袋を二つ提げている。「あ、材木座くん、呼び出して悪かったわね」

 

 岬に、『材木座くん』と呼ばれた瞬間、材木座は言葉の弾丸に脳天をぶち抜かれて仰け反った。

 

「ミサキーヌ! 何故だ!? 何故いつものように剣と呼んでくれない!?」瞬時に復帰した材木座は、岬に向かって叫んだ。

「ごめんね材木座くん、私、君の名前は神代剣くんなんだと勘違いしてたわ。本当は、材木座義輝くんっていうのよね。昨日アキラに聞いたの」岬は、申し訳無さそうに眉根を寄せて言うが、材木座としては剣くんと呼ばれるのをとても喜んでいたので、彼女にそんな顔をされても困る。

 

 カ・ガーミンめ、余計な事を、と心の中で鑑を恨みながら、「今まで通り、剣と呼んでほしい。ミサキーヌには、そう呼んでほしいんだ」と材木座は懇願した。

 

「そう? なら、剣くんって呼ばせてもらおうかな。私もそっちの方が慣れてるし」

 

 岬による材木座への呼称が、あっさりと『剣くん』に戻ったところで、岬は紙袋を一つ、八幡に手渡した。

 

「これは何だ?」八幡が訊く。

「Lordっていうお店のクッキーよ。みんなにはお世話になったから、そのお礼」

 

 紙袋の中には、小袋に小分けされたクッキーセットが、四つ入っていた。八幡はそれを紙袋から取り出して、他の三人に配る。

 

「本当に、ありがとうね」岬は深々と頭を下げた。

「顔を上げてください、岬先輩。特に、私は何も出来なかった。あなたにお礼をされる資格はありません」

 

 雪乃は、手元のクッキーセットに目を落としながら岬に言う。

 顔を上げた岬は、頬を緩めた。

 

「誰かが自分の為に頑張ってくれるっていうのは、嬉しいものよ。あなたも、剣くんの依頼を受けて、頑張ってくれたんでしょう?」

 

 岬が問い掛けるように言うと、雪乃は微かに首肯した。

 

「だったら、受け取ってほしいな。そのクッキーは、私の感謝の気持ちだから」

「そう、ですね。『礼など必要ない』と断るなんて、失礼ですものね」

 

 雪乃はちらりと八幡を見た。彼は退屈そうに、パンダのパンさんを見つめている。意外と気に入ったのかもしれない。

 

「じゃあ、私、これで失礼するわ。お化粧研の子たちにも渡さなきゃいけないから」

 

 岬はもう一つの紙袋を掲げると、部室から去っていった。

 材木座は、岬が出ていった扉の方を見ながら、クッキーセットを両手で優しく包み込む。

 

「ああ、ミサキーヌから賜ったこのクッキー、兜率の天の食といっても過言ではない」

「大袈裟な奴だな……なら、俺の分も食べるか?」八幡は良かれと思って、クッキーセットを材木座に差し出した。

「天道、貴様! ミサキーヌのお礼が受け取れんと言うのか! でも一枚ちょうだい!」

「なんだそれは……」

 

 材木座は八幡の手から小袋を受け取り、一枚だけ取って食べた。

 

「お〜いしい〜! 俺の分は家に帰ってゆっくり食〜べよ〜っと! じゃあな奉仕部!」材木座は八幡にクッキーセットを返すと、さっさと帰っていった。

「なんだアイツは……」

 

 材木座の奇行に呆れる八幡だった。

 普段は八幡の方が周囲を呆然とさせる事が多いので、こんな彼を見られるのも、材木座と絡んだ時だけだ。

 部室に残された奉仕部の三人は、早速クッキーを食べ始めた。

 岬がくれたクッキーセットには、オーソドックスなものから変わり種まで、様々な形状と味のクッキーが詰め合わせてあった。

 

「あっ、ゆきのん、これ桃の味がする。良かったらゆきのんの桃のやつとどれか取り換えっこしてくれない? あたし、桃好きなんだぁ」

「良いわよ、ホワイトチョコのと換えてもらおうかしら」

 

 結衣と雪乃は、桃のクリームが入ったラングドシャと、ハート型のチョコサンドクッキーを交換した。

 以前から仲が良かったが、更に一層仲を深めたように見える。

 結衣の態度は然程変わったわけではなさそうだ。しかし、雪乃には、結衣に対して一歩引いた所があった筈だ。

 二人の間にあった見えない壁が一枚、取り払われている。八幡は、そんな風に思った。

 

「お前達、そんなに仲が良かったか?」八幡は訊ねた。

「あら、私達はずっと前から仲が良いのよ」

 

 雪乃が勝ち誇ったような得意顔で八幡に言う。結衣も同意して、「だよねぇ〜」と唄うように言った。

 まあ、仲が良いのは好ましいことかと納得した八幡は、小袋からサブレを一枚取り、一口かじる。さらさらとほぐれる食感と共に、砂糖とバターの甘味が口の中に広がった。

 

「比企谷くん」突然雪乃は、挑戦的な光で瞳を輝かせ、「負けないからね」と呟いた。

「そうそう、負けない負けない」結衣も頷きながら言う。

 

 急に、負けないからねなどと言われて、八幡は、観光客に当惑する動物園のパンダのような顔つきで、二、三度瞬きした。普段見せない彼の表情が愉快に映ったのか、雪乃と結衣は吹き出して笑う。

 楽しそうで羨ましいことだと、八幡は思った。

 

「そういえば由比ヶ浜、サブレは元気か?」

「えっ、元気だけど、なんで?」

「いや……ふと思い出しただけだ」

 

 八幡は右手に摘まんだサブレを、口に放り込んだ。

 

 

 

 その夜、雪ノ下陽乃は、自分の部屋で紅茶を飲みながら、書店で購入した詩集を読んでいた。

 その詩集の表紙には、幻想的で可愛らしい妖精のイラストが描かれている。

 きらきらと光るプリズム模様の薄羽を生やした妖精は、顔だけ見返りながら背中を向けていた。その表情は、微笑を浮かべているとも、悲哀を湛えているともとれる。

 そのイラストに興味を惹かれた陽乃は、ついつい衝動買いしてしまったのだった。

 陽乃は時折微笑み、字面を人差し指でなぞる。その姿はまるで、手指で情景を読み取っているかのようだ。

 

 

 わたしは傘になりたい

 あなたが 雨に晒され 凍えてしまわぬように

 

 わたしは翼になりたい

 あなたを 雲の彼方へ 連れていけるように

 

 わたしは朝になりたい

 あなたに 晦冥の夜が 訪れてしまわぬように

 

 

 陽乃は詩の一節を黙読すると、本をパタリと閉じた。そして、クッキーを一口齧り、紅茶を飲む。

 陽乃がカップを干して、空になったそれをソーサーに置いた丁度その時、テーブルの上にマナーモードで放置していた携帯が震えた。

 振動によって耳障りな音を立てる携帯を手にとり、着信元を確認すると、陽乃は明るい口調で電話に出た。

 

「もっしもーし! 何か報告することでもあるのかい、調査員二号ちゃん」

「私が二号ちゃんということは、一号ちゃんもいるんですか?」

 

 それは、女の声だった。調査員二号ちゃんと呼ばれた女は、暖かみを感じさせない平坦な声音で陽乃に訊ねる。

 

「さてね、わたしはスパイに他のスパイの情報は与えない主義だから、ナイショ」

 

 適当に答える陽乃に、女は電話の向こうで鼻白む。さっさと用件だけ伝えようと、本題に入る。

 

「一昨日の昼休み、妹さんの所に、男子生徒が訪ねてきました」

「男子生徒? 比企谷くんかな?」

「いいえ、一年D組の加賀美鑑くんですよ」

「かがみあきら? 初耳だね」

「奉仕部の活動絡みのようです。盗み聞いた情報を総合しますとーー」

 

 女は陽乃に、今回材木座によって奉仕部に持ち込まれた、岬に関する相談を詳細に話した。

 その内容には、大岡についての情報も含まれている。

 

「成る程ね、その依頼は雪乃ちゃんには荷が重いかな。雪乃ちゃんじゃあ、その大岡って子をお説教して泣かせて、更に話を拗れさせるのが関の山だろうね」

「そうですか……では、あなたならどう対処します?」

「わたしなら、適当に慰めて野球部に復帰させるかな。要は、失ったプライドをどうするかが問題なわけだからね。仕方ないよ、君は悪くないよって、その子の弱さを容認しつつ慰めて、プライドなんて有耶無耶にしてやれば、復帰するでしょ」

 

 まあ、その方法だと、大岡某は岬ちゃんとやらが部活を引退するまで彼女を避け続ける事になるだろうけどね、と陽乃は推察していたが、それは言葉にはしなかった。

 

「ふむ……まるで、あなた達姉妹は童話の北風と太陽のようですね」

 

 女が言うと、陽乃は口元を片手で押さえて大笑いした。陽乃の、けたたましい笑い声が電話越しに聴こえて来たので、女は思わず電話を耳から離して顔を顰めた。

 そんなに面白い事を言っただろうかと、女は電話を見つめて訝しむ。

 数秒そうしていると、笑い声が止んだようなので、もう一度電話を耳に当てる。

 

「確かに雪乃ちゃんは北風だし、わたしが太陽ってのも良いね。太陽は朝だもの」

 

 若干、笑いの余韻が残った声で陽乃が言った。『太陽は朝』というのはどういう表現だろうか? 雪ノ下陽乃は偶に訳の分からない事を言う、と女は首を傾げた。

 

「しかし、お言葉ですが、大岡くんは野球部に復帰したようですよ。あなたの妹さんが、上手くやったのでは?」

「ああ、それは違うよ」

 

 陽乃は一拍置いて、世界の花展で出会った少年の顔を思い浮かべた。

 

「奉仕部にも、太陽が居るのよ」

 

 陽乃の言葉に、女も、自分の周りでも噂になっている、変人天の道くんの事を思い出した。




加賀美鑑
 元ネタは加賀美新。
 野球少年かがみんは、書きたかったキャラの一人。書いてて楽しかったです。
 岬さんのことは先輩として慕っているけれど、今のところ特に恋愛感情はないという設定です。
 名前を鑑にしたのは、読み方を変えると『かがみかがみ』になるから、という安直な発想と、奉仕部編最終話を書いてる頃、特に意味もなく性別型の叙述トリックを書いてみたかったからです。なんの構想もなく書いたので、叙述トリックがストーリーに活かされることはありませんでした。
 思えば、お化粧研究部編2話、風間和美の登場シーンも性別型の叙述トリックのつもりでした。あれは、登場シーンにインパクトが出て良かったんではないかと思います。

材木座義輝
 自分のことを、イギリスの名門貴族ディスカビル家の末裔、神代剣だと思い込んでいるという改変設定。
 原作カブトの坊っちゃまも、自分のことを神代剣だと思い込んでいる……という設定だったので、これはこれでアリかなと思っています。
 ミサキーヌの事が好き。しかし、岬は彼の事を後輩の友達としか思っていない。

調査員二号ちゃん
 雪ノ下陽乃の友人。
 ちなみに、調査員一号ちゃんは平塚静(静自身に自覚はない)です。
 あと、調査員V3もいます。




 どうでもいい裏話になりますが、私は仮面ライダーカブトのテーマ曲の歌詞をかなり意識して書いています。
 そういう意味では、奉仕部編とお化粧研究部編は、「由比ヶ浜結衣の『FULL FORCE』編」です。奉仕部編で彼女が部長になったり、お化粧研究部編で彼女が優美子に反論したりしたのはその影響です。
 野球部編は、「雪ノ下雪乃の『LORD OF THE SPEED』編」でした。
 『LORD OF THE SPEED』は加賀美と天道、もしくは天道と妹について書かれた歌詞なんでしょうが、雪ノ下姉妹をイメージして聴いても面白いんじゃないかと、私は勝手に思っています。


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一年J組編1話

 とある日曜日の夜、比企谷家の食卓に上ったメイン料理は、おでんだった。

 弱火に調節したカセットコンロに乗せられた土鍋からは、白い湯気が舞い上がり、室内に香気を充満させる。

 鰹節と昆布で出汁をとった醤油ベースのつゆは飴色に透き通り、どこか郷愁を感じる香りを小町に齎した。

 おでんの持つ郷土的イメージは、日本人の心に根ざしている。おでんには家族の温もりと、帰るべき場所を想起させる力がある。

 土鍋には牛スジや大根、練り物など定番のおでん種が所狭しと浮かんでいるが、そのなかにひとつだけ異彩を放つものがあった。

 それは、丸ごとゴロッと入れられた、小ぶりの玉ねぎだ。小町はその玉ねぎをおたまですくい、手元のお椀によそう。

 時間をかけて柔らかくなるまで煮込まれたそれは、箸を入れれば面白いようにスルリとほぐれる。

 箸でつまんだ玉ねぎから滴り落ちるつゆをお椀で受けながら、彼女は口からフーフーと息を吹いてそれを少し冷ますと、パクッと頬張った。

 ほろほろと口の中で蕩けるそれは、染み込んでいる出汁のきいたつゆと、玉ねぎ本来の甘味がぴったりと合わさり、これ以上の最適解はないと主張していた。

 箸を一旦置いて目を細め、サムズアップした小町は、「お兄ちゃん、この玉ねぎ、ポ、イ、ン、ト、高すぎ!」とテンション高く言った。

 

「特製、『丸々玉ねぎのおでん』だ。おばあちゃん秘伝のおでんつゆで、じっくり煮込むのがコツだぞ」人差し指を一本立てて八幡は言った。

「んーっ! やっぱりウチのおでんつゆは格別だよね! 見た目だけだとその辺のおでんつゆと変わんないけど」

「秘伝の味だからな。いっぱい食べて大きくなれよ、小町」

「は〜いっ!」

 

 小町は元気に返事をして敬礼のポーズをとった。八幡は優しげな表情で、彼女のお椀に牛スジや練り物をよそう。

 

「今日のおでんのお肉は牛スジなんだね」

「ああ、関西風にしてみた」

 

 関西ではポピュラーな、程よく赤身のついた牛スジ肉を小町は箸で掴む。コラーゲンをたっぷり含んだ牛スジは、まるで天然のゼリーの様にぷるんと柔らかな弾力だった。

 左手に持った茶碗の中の白米に、一旦ちょこんと弾ませてから食べる。粉雪の様に蕩けるスジ肉と、堅くはないがしっかりとした歯ごたえを持つ赤身肉のコントラストが、おでんつゆの味を伴って小町の口中を満たした。

 これはゴハンと一緒に食べるべきだと思った小町は、勢いよく白米を掻き込む。

 そして、左手の茶碗をテーブルに置くと、もぐもぐと咀嚼しながら、八幡に向けて空いた左手でサムズアップした。

 

「美味いか?」

 

 八幡の問い掛けに、小町は親指を立てた左手を、小刻みに揺らして応えた。

 口の中がいっぱいで喋れないが、『ポイント高すぎ!』と、言いたいらしい。

 この兄妹の意思疎通に、言葉は必要ない。八幡は、『それは良かった』という意味で、穏やかに微笑んだ。

 

 

 

 

 翌日月曜日の昼休み、結衣、優美子、姫菜の三人は机を寄せ合って、それぞれ弁当箱の蓋を開けた。

 結衣の弁当箱の中身は、その半分をオムライスが占めていた。

 実はこのオムライスは、結衣自身が作ったものである。といっても、彼女の母親がしっかり横についてアドバイスを飛ばしていたので、一人で作った、とは言い難いのだが。

 薄焼き玉子に包まれたチキンライスは、鶏肉は火が通っていないと怖いと心配した母の提言により、チキンではなく刻んだウィンナーが代用されている鶏無しチキンライスだし、薄焼き玉子はところどころ破れてしまっているが、彼女の料理の腕からすればその出来は上々といえた。

 結衣は弁当用のミニパックのトマトケチャップを切れ目から少しだけちぎり開け、鉛筆を初めて握った子供のような字で、オムライスの上に『ゆ』と書いた。どうやら、『ゆい』と書きたかったらしいが、ケチャップが足りなかったようだ。

 対面に座っている優美子はそれを見て肩をプルプル震わせながら、「『ゆ』って、『ゆ』ってなんだし、銭湯かよ……」と笑っている。

 

「もう、笑わないでよ優美子。しょーがないじゃん、ケチャップ足んなかったんだもん」

 

 結衣は唇を尖らせて言った。ツボにハマったのか、優美子は顔を背けてまだ笑っている。

 結衣は、むう、と唸りながらなんとなく優美子の弁当箱の中身を見た。そこには、何かを包んでいるらしい薄焼き玉子があった。

 

「あれ? 優美子もオムライス?」

「いや、あーしのは多分オムレツ。昨日の晩ゴハンの残りだわ」

 

 笑いを収めた優美子は、今度は一転して少々不満そうに答えた。前日の余り物を弁当に詰め込まれるのは、手抜きのような印象がある。

 勿論、朝早くから弁当を作らされる母親の身になって考えれば、手抜きでもなんでもないのだが。

 余り物だろうがレンジで温めただけの冷凍食品だろうが、それこそ、適当に何か買って食べなさいと渡されたワンコインだろうが、それらには親の愛情が詰まっているのだ。文句を言ってはいけない。

 

「あっ、姫菜のお弁当にもオムっぽい物が」

 

 姫菜の弁当箱の中も覗いた結衣は、そこに見つけた玉子を、オムっぽいという妙な造語を使って形容した。

 

「オムライス?」結衣は姫菜に訊ねた。

「オムレツっしょ。横に白米あるじゃん」

 

 白米とオムライスを一緒に詰め込む事はないだろうと推測した優美子がそう言うと、姫菜は、「そうだねえ、オムレツかなぁ」と呟いて箸で玉子を割いた。

 中には、ソース色をした麺が入っていた。姫菜は一本だけ箸でつまみ、目の高さに持ち上げる。

 

「やきそば?」という結衣の呟きに姫菜は、「やきそばだねぇ」と頷いて答えた。

「じゃあ、オムソバ?」という優美子の呟きにも姫菜は、「オムソバだねぇ」と頷いて答えた。

 

 三人は、お互いに目配せしあうと、突然風船が割れたように声をたてて笑いだした。

 ただ単に、オムレツかと思ったらオムソバだったというそれだけの話なのだが、この年代の少女というものは箸が転げただけでも、周りに友人が居れば笑えるのだ。

 一頻り笑ったところで、昼食を食べ始めた。

 結衣はスプーンでオムライスをひとすくいして、一気に頬張る。我ながら、味は悪くないと思う。ちょっとケチャップが薄い気もするが、それもご愛嬌だ。薄味は上品な味とも言うし。

 

「ところでさ、優美子、なんか前より綺麗になった?」

 

 ニヤついた表情で、姫菜が優美子に言った。眼鏡の奥の瞳は好奇心で輝いている。

 女の子は恋をすると綺麗になるという強ち嘘とも言い切れない都市伝説があるが、最近急に美貌を増している優美子も、もしかしたら好きな人ができたのやもと、姫菜は勘繰っている。

 

「なにそれ、その言い方だと、前はあんまり綺麗じゃなかったように聞こえっけどぉ?」

「いやいや、そうは言ってないよ。前から美人だったけど、もっと美人さんになったなってね」

 

 ジトッとした目で睨む優美子の視線を、姫菜は飄々と受け流す。優美子も本気で怒っているわけではないので、ふっ、と吐息をつくと、上機嫌な様子を見せて言った。

 

「ま、あーしのメイクの腕も、ちょっとは上がったってことかな。毎日和美と百合子に教えてもらってっからね」

「それだけかなあ、もしかして優美子、好きな人とか出来ちゃったり?」姫菜はからかい気味に語尾を上げた。

「……別にそんなんじゃないし」

 

 応えるまでに妙な間が空いた上に、黒目がふらふらと揺れ動いた優美子のおかしな挙動に姫菜は気付いていたが、それ以上追求はしなかった。

 これは少し泳がせた方が、後々楽しいことが起きそうだ。

 

「でも優美子、ホントにメイク上手くなってるよ。前はバリバリ〜って感じだったけど、最近はフワフワ〜って感じするもん」

「バリバリとかフワフワとかよくわかんないんだけど。いや、まあ言いたい事はなんとなく伝わるけどさ」

 

 結衣独特の言語感覚に失笑が洩れる優美子だったが、ニュアンスはわかるし、案外結衣の言葉は的を射ていると思った。

 優美子は現在和美たちに、ナチュラルメイクに於ける引き算の美学を習っている。

 何でもかんでもただ塗りたくるだけなら誰でもできる。しかし、舞台役者やV系のバンギャの様に濃いメイクは、日常生活には馴染まない。

 メイクは顔に色を足す、足し算である。だからこそ、そこからどれだけ足す量を引く事が出来るか、つまり引き算に、ナチュラルメイクの真髄があった。風間流奥義は奥が深い。

 

「食べ終わったら練習がてら、二人もメイクしてやろっか?」

 

 弁当箱の底を、節をつける様に箸でかつかつと叩きながら、優美子は言う。結衣と姫菜は、友達の練習に付き合うのも友情かと、首肯で応えた。

 

 

 

 

 合唱部顧問兼お化粧研究部顧問の小雀八千代は、小学校こそ共学だったものの、そこを卒業してからは中高一貫の女子校に進み、さらにはその後女子大の音楽科に進学した為、人生の大半において男性の目を意識する事がなかった。

 勿論女子校の同輩たちの中にも、ファッションやメイクに敏感な子は相当数居たのだが、彼女自身はあまりそういう事に興味が持てなかったのだ。

 どうせオシャレしたって見てくれるのは周りの女の子たちばかりなのだし、最低限見苦しくない格好さえしていればそれで良いというのが彼女のスタンスだった。

 よって、総武高の音楽教師となってからも彼女が普段行なっているメイクといえば、適当にファンデを塗って、薄めのリップを引いて終了である。

 それでも、可愛らしい童顔と、元々整った目鼻立ちを持っている彼女は、これまで特にメイクの必要性を感じる事はなかった。

 しかし、折角教え子がお化粧研究部という部を創設し、兼任の名ばかりとはいえその顧問となったのだから、少しくらいは化粧の技術を覚えるべきだろう。

 まあ、二十数年の人生で全く研鑽を積んでこなかった技術を直ぐに覚えるというのも土台無理な話だろうから、とりあえず、お化粧研の子達の様子見も兼ねて風間さんに自分の顔をメイクしてもらおう。

 そう思った彼女はその日、放課後になって間もなくお化粧研の部室を訪ねた。

 自分の顔をメイクしてほしいという八千代の頼みを、和美たちは快く引き受けた。そもそも、和美は頼まれなくとも八千代の顔をメイクしてみたいと、前々から思っていたのだ。

 成人した大人だというのにキュートでガーリッシュな八千代は、和美にとってはモデルとして興味深い女性だった。

 和美は八千代に、彼女自身の長所を損なうことなく、それでいて年齢相応にも見えるという大人っぽいメイクを施した。

 大人である八千代に、大人っぽいという表現は些か矛盾しているかもしれないが、それはともかく、和美にメイクされた八千代の顔は、眩しく輝く宝石のように魅力的だった。

 百合子から手渡された手鏡で自分の顔を観た八千代は、和美のメイク技術に感動するとともに、私の顔も捨てたもんじゃ無いなあと驚く。

 その後八千代は和美から、今日のメイクのポイントと、初心者向けの簡易化した再現方法をレクチャーしてもらった。

 これではどちらが顧問かわからないが、それはまあ仕方がない。顧問を引き受ける段階で自分がメイクに疎い事は話していたし、創部できたらメイクについて教えてもらうという約束もしていた。

 これは、その約束を履行しているに過ぎないのだ。

 レクチャーの時間も含めて一時間程お化粧研の部室で過ごした八千代は、和美たちに感謝の礼を述べて別れ、今度は合唱部の部員たちが練習している音楽室へと向かった。

 部活顧問の兼任というのも、なかなか大変である。

 

 

 

 音楽室後方スペースに設けられた段差付きのステージに、三十人弱の部員が並んでいる。

 そのほとんどが女子部員で、男子部員はたったの四人だった。男子たちはとても肩身が狭そうだが、合唱部や吹奏楽部などで男女比率が女子に傾くのは良くあることなので、彼らには頑張ってもらうしかない。

 それにしても、今日の合唱部は、何だか様子がおかしかった。声量自体はよく出ているし、不真面目な練習態度というわけでもないのだが、どこか合唱に集中できていない印象を受ける。

 一曲歌い終わったところで、八千代は注目を集めるように両掌をぱんっと合わせた。

 

「はいはい、どうしたのみんな。声は出てるけど、視線にパワーがないわよ〜。目は口ほどに物を歌うんだからね。気もそぞろ〜みたいな視線じゃ、心に響く合唱にはならないわよ」

 

 八千代は部員みんなの顔を見回しながら言った。すると、部長を務めている女子部員が、そっと片手を挙げる。

 

「あら、なあに?」八千代は部長に問い掛けた。

「あの、おそらく、みんなが集中できてないのは、先生のお顔が原因だと思います」

「えっ! 顔っ!?」

 

 八千代は両手でぺたぺたと顔を触った。別にゴミが付いているという事もなさそうだが、何か変だっただろうか。

 彼女が若干慌てながら顔を調べていると、ステージの部員たちから、「先生なんかキレイーっ」とか、「いつも綺麗だけど、いつもより綺麗ですよっ」という声があがった。

 

「そうです。先生のお顔、いつにも増してお綺麗です」部長はみんなの意をまとめるように言う。

「ああ、なんだそういうことか。あのね、前にみんなにも相談したけど、私お化粧研究部の顧問も兼任する事になったじゃない? 今日は、その子たちにメイクして貰ってからこっちに来たの。いつもと違うように感じるのはそのせいだわ」

 

 合点がいって安堵する八千代を置いて、合唱部の女子部員たちに、騒めきが広がる。合唱部の部員は、本格的なお化粧は高校を卒業してから覚えようという子が大半だった。

 しかし、八千代の顔が『たまにいる美人過ぎる教師』から『滅多に見ない美女』に変貌を遂げているのを見ると、化粧一つでそこまで変わるならば自分もメイクアップしてほしいと思うのが人情だった。

 

「私たちも、お化粧研の子にメイクしてもらうのは可能でしょうか?」また、部長がみんなを代表して言う。

「ん〜、多分大丈夫じゃないかな? わかった、あした部長の風間さんに頼んでみるね。オッケー貰えたら、音楽室に来てもらおっか」

 

 八千代がそう答えると、女子部員たちから歓声が上がった。

 置いてけぼりにされた四人の男子部員たちだったが、その中の一人である合唱部副部長を務めている男子は、他の三人の方を向いて、「俺たちは、練習がんばろうな」とめげずに呟いた。他の三人も、深く頷いて同意してくれた。



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一年J組編2話

 火曜日の朝、八千代はHRが終わってすぐに和美の席へと向かう。和美は実際の年齢より大人っぽく、そして八千代は子供っぽく見える事もあって、机を挟んで話し合う二人は、まるで同年代の少女の様だった。

 放課後に合唱部の女の子たちをメイクアップして欲しいという八千代の依頼を、和美は快く引き受けた。様々な個性を持つ女の子たちをメイクするのは良い練習になるだろう。

 ただ、二十三人もいるという合唱部女子部員たちを和美一人で受け持つというのは少々手間がかかり過ぎる。

 ここは、三人で手分けするべきだ。和美は早速、百合子と優美子にメールを送った。

 中学の頃から一緒に練習してきた百合子は勿論、まだ入部して間もない優美子も、メキメキと実力を上げている。

 彼女自身、元々メイクに興味があったらしく、素養は充分なものがあった。彼女なら、合唱部の面々の期待に応える事もできるはずだ。

 メイクは絵画を描く作業に似ているが、その本質は根本的に異なる。

 絵画を描くならば、白いキャンバスに自由に筆をのせて良いが、メイクには相手というものが存在する。

 言ってみれば、キャンバス自身がどういう絵を描くかを要求してくる様なものだ。

 その顔の個性を引き出し、長所を輝かせ、短所を消す。そして、相手の希望を叶える。それが出来なければ、他人の顔にメイクをする資格はない。

 優美子は、他人の顔にメイクを施した経験は、まだ少ない。和美に百合子、あとは、結衣と姫菜に頼んで練習させてもらった程度。

 色々な『顔』に対して、そのメイク技術を磨くことは大切な経験になるだろう。

 

「そんなに大人数のメイクモデルを見つけてきてくれるだなんて、流石は顧問です。ありがとうございます、先生」

「いやいや、見つけてきたわけじゃなくて、合唱部の子たち自身が希望したことだから。むしろ、引き受けてくれてありがとうね。風間さん」

 

 八千代は右手をひらひらと左右に振って否定する。でも、放課後が楽しみだなと、密かに思っていた。

 女の子が綺麗になるのは、傍で見ている方も楽しいものだ。

 

 

 

 そしてその日の放課後、音楽室には顧問である八千代と、合唱部の女子部員と、和美たち三人の姿があった。

 男子部員は、どうせ今日は全体練習はないだろうからと、四人仲良くカラオケに行ったらしい。

 八千代としては、女子部員たちがメイクされている間も、男子部員には音楽室で練習して欲しかったのだが、いつだって少数派は肩身が狭いものだ。

 男子四人がカラオケに行ってしまうのも仕方がなかった。多分彼らは、カラオケボックスでちゃんと練習するのだろう。

 

 和美たちは、アリの群れの真ん中に落とされた角砂糖の様に、合唱部に囲まれていた。

 特に、『一年B組の風間さんは、凄くメイクが上手いらしい』と評判になっている和美は、有名スターもかくやという歓待を受けていた。

 このままだと収拾がつかないと判断した八千代は生徒たちを一旦落ち着かせる為に、「は〜い、ちゅうもーく!」と、よく通る声を張り上げる。

 

「お化粧研の三人が、手分けしてみんなをメイクしてくれるから、三つのグループに分かれなさい」

 

 八千代にそう言われて合唱部は、和美に三年生、百合子に二年生、優美子の所に一年生が集まるように分かれた。

 年功序列は体育会系のノリだと優美子は思っていたが、合唱部にも上級生優先の空気はあるらしい。

 顧問が兼任しているだけあって、優美子がお化粧研の新入りだということは合唱部の部員たちも把握している。技術的に最も拙い優美子の周りには、下っ端の一年生がハズレくじを引かされる形で集まったのだった。

 優美子も、自分がお化粧研の三人の中で技術的に劣ることは承知している。しかし、元来勝ち気な性格の彼女にとって、ハズレ扱いは我慢ならない。

 ガキくさい癇癪を起こしたりはしないが、ここはメイクの出来栄えで納得させて上級生どもを見返してやると決意する。

 合唱部の一年生たちを引き連れて音楽室後方の机を陣取った優美子は、その子たちの中に一人、顔見知りがいることを見てとった。優美子はその顔見知りの女の子をちょいちょいと手招きする。

 

「アンタ、B組の子だよね。じゃ、まずはアンタからやろっか」

「あ、三浦さん、私のこと覚えててくれたんだ」

「体育で一緒じゃん。ソフトボールとか、同じチームだったよね」

「うん、嬉しいな。私、地味顔だから、あんまり人の印象に残らないんだよね」

 

 自分でも地味というだけあって、その女の子の顔立ちに際立った特徴はない。優美子は、彼女の相貌を正面からじっと見据えた。

 地味顔だから印象に残らないという吐露は、おそらくコンプレックスからくるもの。多分この子は、少々派手なメイクを望んでいる。

 所謂地味顔にナチュラルメイクをしても、ともすればすっぴんと間違われる事がある。どういう風にメイクをしてあげれば喜んでもらえるか、優美子は真剣に考えた。

 よく見ればその女の子の目鼻立ちは平均的ながら整っている。顔の印象を決定付けるのは目だ。

 アイシャドウとアイライナーで目立たせる。しかし、濃くしすぎてはいけない。淑やかな個性を削ることなく、それでいて少し華やかにする。

 額から鼻筋にかけてのTゾーンは、ハイライトとシェーディングで多少彫りを深くしてみよう。野暮ったい眉はほんの少しカットして形を整える。

 やや薄い唇も、無理に厚塗りせずにこのまま活かしてやるべだ。リップカラーは王道のレッド系よりも健康的なローズピンク。

 大体の方針は決まった。優美子はひとつ気合を入れて、「よしっ」と呟くと、愛用のメイクボックスに手を伸ばす。

 プロ仕様のこのメイクボックスは、中身の化粧品も含めて、入部の際に和美に格安で譲ってもらったものだ。

 本来和美は入部祝いとして無償で提供するつもりだったのだが、自分で使う物をタダで貰うのはなんかヤダと断った優美子は、幾ばくかの代金を支払った。

 優美子はボックスの中からスキンケア用のクリームを取り出して、女の子に塗る。その手捌きは結構大雑把な所がある彼女の性格とは相反して、繊細且つ正確だった。

 けれど、くすぐったかったのか合唱部の女子は、ふふっ、と吹き出して笑ってしまう。

 

「あっ、悪り、くすぐったかった? つーか、スキンケアくらい自分でやるよね」

「あー、うん、そうだね」

 

 少し照れくさそうに、合唱部の女子はクリームのついた頰を撫でた。どんな風にメイクしてもらえるのかなと、彼女の胸は高鳴る。

 

 大体二十分ほどで、メイクが完了した。

 優美子はボックスから手鏡を取って彼女に渡す。そっと鏡を除いた彼女は、心から嬉しそうに、華やぐ笑顔を見せた。

 

「わあっ、すごく綺麗っ! 観てよこの顔っ、三浦さんのメイクすごいよっ!」

 

 彼女は他の一年生部員たちを見回しながら興奮気味にそう捲し立てた。

 メイクした顔とはいえ、自分の顔をすごく綺麗だと評するのは自画自賛に聞こえなくもないが、彼女は純粋に、優美子のメイク技術を褒めているだけだ。

 周囲の部員たちもそれはわかっているようで、苦笑しながら、「確かに」とか、「そうだね」と頷いている。

 本当に、とても喜んでいる彼女を見て、優美子の胸の内に、暖かいものが過ぎった。こんなに喜んでくれるなら、頑張ったかいがあるというものだ。

 

「さっ、次は誰だし、ちゃっちゃといくよ」

 

 優美子は右手首を前後にぶらぶら振りながら、一年生部員たちに声を掛ける。元気よく手を挙げて、「次、私っ!」や、「いや、私だってっ!」と順番を取り合う部員たちを見て優美子は、あーしのウデ、悪くないじゃん、と上機嫌になった。

 

 一年生部員たちを順番に次々とメイクアップしていった結果、反応は概ね上々だった。

 あと、メイクしていないのは残りたった一人。そして、その最後の一人が優美子の前の椅子に腰を下ろした。

 

「アンタも一年生? 顔、見た事ないけど」優美子が訊ねる。

「間宮麗奈、一年J組だ。よろしく」

 

 間宮麗奈と名乗った女子は、どこか鉱物のような光沢を放つ長い黒髪を、右手の指でさっと掻き上げてそう言った。

 その様子を見て、優美子の脳裡に既視感じみた対抗意識が生じた。

 間宮とは初対面の筈なのに、この反発心のようなものは何だろうかと、疑問が浮かぶ。

 しかしその疑問は、間宮の顔をよく観察することですぐに氷解した。間宮の容姿は、どこか雪ノ下雪乃に似ているのだ。

 清楚な印象を受けるストレートロングの黒髪は、さらりと背中の方に流されている。

 意志の強そうな瞳は、気位の高い猫を思わせた。

 静謐で上品、けれど、内側から溢れ出る威厳を帯びたような顔。

 正直言って優美子は、こういうタイプの顔立ちは苦手だった。心情的にも、メイク対象としても。

 

「どうした? 私の顔に、何か付いているだろうか」

 

 間宮は自身の顔にそっと触れる。その表情は、石膏像のように殆ど変化を見せない。

 

「ああ、いや、どういうタイプのメイクしようかなってね、迷うし」

「私は、メイクなどした事がない。自分の顔がどう変わるのか、楽しみだ」

 

 楽しみなんだったら、もうちょい笑えっての。優美子は言葉には出さずに突っ込む。

 しかし、よくよく見ても整った顔だ。あまり下手に化粧しても、映えないのではなかろうか。

 

「どんなメイクして欲しい?」ここは素直に本人の希望を聞くべきだろうと、優美子は訊ねる。

「……わからない。任せる」

 

 しかし、間宮には特に希望するメイクは無いらしい。あるいは、こちらのセンスを試しているのかもしれない。

 無愛想で、表情の変化に乏しく、何を考えているのか読みにくい。やっぱりこういうお澄まし系の女は苦手だ。あまり仲良くはなれないだろうなと、優美子は内心で呟く。

 仕方ない、希望するメイクが無いというなら、ここは最近練習しているナチュラルメイクの技術を注ぎ込むしか無いだろう。

 ただし、目だけはナチュラルではなく派手にしてやる。こういう『初めてのお化粧』みたいなイベント事では、普段とは異なる装いにするのが楽しい筈だ。

 そのぱっちり猫目、アイシャドウとマスカラでキラッキラにしてやるよ。優美子の闘志に火がついた。

 優美子はとりあえず、スキンケアクリームを間宮に渡す。

 

「これを塗れば良いのか、塗り方は?」

「肌に馴染ませるように塗り込んで、ベタベタしなくなったらOK。あーしのメイクテク見せてやっから、覚悟しなよ」

「……覚悟が必要なのか?」

「……いや、それは言葉の綾だし」

 

 優美子はメイクボックスから、ヘアバンドを取って間宮に着けさせると、下地を開始する。

 下地が塗り終わったら、次はファンデだ。優美子は一瞬、パウダーにするかリキッドにするか迷ったが、今日のところはパウダーで良いだろう。

 化粧落としもしやすいし、そもそもこの女はファンデ必要なのかって程、肌が綺麗だ。

 雪国に降り積もった新雪のように白い肌に、ファンデを厚塗りする必要は無い。薄く、薄くを意識する。和美たちに習った『引き算の美学』だ。

 アイブロウはパウダーのブラックを選択する。左手で柔らかく額を押さえたところで、優美子は手を止めた。

 

「ちょっと、眉間に皺寄ってっけど? もうちょい自然な顔にしてよ、アイブロウがズレるし」

「む、悪い」

 

 悪いと謝りながらも、間宮の眉間には神経質そうな、不愉快さを表すような皺が寄ったままだ。

 優美子は、実はこの女、メイクされたく無いんじゃないかと疑う。

 

「間宮はいっつも顰めっ面だからねぇ。せっかく美人なんだから、もっと笑えばいいのに」

 

 最初にメイクしたB組の女子が、間宮に言った。少々揶揄うような声音に、間宮は「悪かったな」と応える。

 間宮は、ふう、と吐息をつくと、表情をフラットに戻して目を閉じた。

 眉間の皺も消えたので、優美子はメイクを再開する。こいつ、眉の形も格好良いなと、優美子はちょっと羨ましく思った。パウダーでふんわりと立体的に仕上げると、キツ目の印象だった眉が、僅かに柔和になった。

 

「んじゃ、アイメイクいくよ」

「ああ」

 

 頷く間宮を前に、優美子は気合いを入れ直す。ここが正念場、クライマックスだ。

 マットなラメなしアイシャドウをアイホールに乗せていく。カラーは奇抜になり過ぎず、けれど目立つ様に自然なピンクベージュを使用した。

 アイライナーはシックなブラックで、やや大袈裟に、目尻へと流す様に。しかし、ベタ塗りはしない。

 睫毛は元々長いようだから、つけまは無し。ビューラーを軽く当ててカールさせたらマスカラでボリュームアップしてゴージャス感を出す。

 苦心したが、大体満足のいく出来になった。

 あとは、リップだけだ。

 

「アンタの肌、ブルーベースだから、結構ドぎつい赤リップも似合うと思うよ。あーしはあんまり使わないけど、深めのダークレッドとかね」

「ブルーベース、というのはよく分からないが、任せる」

 

 因みに、ブルーベースとはピンクがかった白肌の事だ。

 優美子自身は黄みがかったイエローベース系の肌なので、明るい色や、キラキラしたゴールドなどが似合う。

 深紅のリップは、一応持ってはいるが自分で使用したことは無かった。真新しいダークレッドカラーのスティックタイプリップをブラシに取って、丁寧に塗っていく。

 唇の縁通りに口角から真ん中へ、縁を塗ったらムラが出来無いよう内側も均等に。

 全てのメイクが完了したところで、優美子は間宮に手鏡を渡した。かなり納得の出来映えだった。

 優美子は自信満々に、間宮の反応を窺う。

 しかし、優美子の期待とは裏腹に、間宮は特に何の反応も見せなかった。表情は透明なまま、いっそ冷淡な程で、愛想の欠片もない。

 優美子の目は、間宮の顔に『不満』の二文字を読み取った。

 

「これがメイクか……ありがとう」

 

 間宮は冷ややかな声音で淡々とそう言った。優美子は頰を引きつらせて、「どう、いたしまして」と言うのが精一杯だった。

 

 

 

 

 合唱部の面々へのメイクを終えて、特別棟の部室へと帰り着いた優美子たち。

 長机の椅子に腰掛けた優美子は、第一声に「ムカつくーっ!」と叫んだ。

 和美と百合子は抑える様に手を振って、まあまあ、となだめる。

 

「メイクにも、好みというものはありますから、その、間宮さんという方の趣味と、優美子さんのメイクが噛み合わなかったのでしょう」

 

 和美はフォローするようにそう言うが、優美子の機嫌は下降したままだった。

 

「アイツ、なんの希望も言わずに、あーしに任せるっつったんだよ。頑張ってメイクしてやったのにさぁ、なんだよあの態度」

「優美子ちゃん、気持ちはわかるけど、相手を責めるのはお門違いだよ。相手の期待に応えられなかったんなら、もっと練習しなきゃね」

 

 百合子にも言われて、優美子は「むう」と唸って黙り込んだ。

  そうだ、練習が足りなかったんだ。ああいうタイプの顔をメイクするのは初めてだった。同じようなタイプの顔をメイクして練習すれば、次は絶対不満そうな顔なんかさせない。

 優美子は壁越しに、隣の奉仕部の部室を睨んだ。

 

 

 

 一方、奉仕部の部室には、優美子が先程叫んだ、「ムカつくーっ!」という大声が届いていた。

 突然の怒声に驚いた雪乃と結衣は、お化粧研究部の部室がある方の壁に顔を向けている。

 八幡だけは無関心な態度で、手元の文庫本に目を落としていた。

 

「荒れてるわね、三浦さん」若干呆れたような、冷ややかな口調で雪乃が言った。

「ん〜、なんか嫌な事でもあったかな?」

 

 気遣わしげな結衣の言葉に、雪乃は、ふっ、と吐息を洩らす。

 

「嫌な事があったからと、癇癪を起こすのは幼い行いよ。感情はコントロールするべきだわ」肩を竦めて言う雪乃。

 

 隣に座る結衣は、でも、ゆきのんも意外と感情が表に出やすいとこあるよねと思ったが、角が立つので言わない。

 

「お前も、感情がコントロールできていない節があるが」

 

 結衣が気を遣って口を噤んだ内容を、代わりに八幡が言った。

 案の定、雪乃は八幡を睨みつける。雪乃の瞳には吹き荒れる熱風のような迫力があったが、その視線を受けた八幡は、くっくっと小刻みに笑った。

 

 

 

 

 

 



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一年J組編3話

 翌日の放課後、一年A組の教室後方では、優美子と結衣が何がしか話し合っていた。

 八幡がそちらの方へ目を向けると、結衣は『先に行ってて』と言う様に右手で手刀を切る。

 八幡は目礼で応えて、教室を出た。鞄の中には、昨日購入した読みかけの本が入っている。さっさと部室に行って読もうと、八幡は足を急がせた。

 

 

 

 

 雪乃が部室に訪れると、室内には既に八幡がいた。最早定位置になった椅子に座っている。手元にはハードカバーの本があった。

 何気なくそのタイトルを見た雪乃は、驚きに目を瞠る。八幡が読んでいたのは『パンダのパンさん』だった。イラストは日本人に馴染み深いディスティニー版だ。

 パンダのパンさんを知らないなんて、どんな人生を歩んできたらそんな事になるのかと耳を疑ったが、どうやらこの男、意外と興味を惹かれていたらしい。

 雪乃は少しだけ、自分の心が浮き立っているように感じた。自分の好きな物を他人も興味を持つというのは、中々嬉しい事だ。雪乃だって、それは例外ではない。

 パンさんの話、してみたい。この男はパンさんを読んでどう思っただろう。『パンダのパンさん』に込められた、作者の寓話的教訓には気付いているだろうか。

 もしも気付いていないとしたら、私が詳しく解説してあげない事もないわ。

 何らかの愛好家特有の、語りたがりな習性を、雪乃も持っていた。

 心の乱れを悟られぬよう、努めて冷静に普段通りを心掛けて彼女は自分の席に着く。

 いきなり本の話を振るのは不自然だろうか、そもそも自分はいつもこの男にどんな話題を振っていたかしらと、雪乃は思い悩む。

 そういえば、まだ挨拶をしていなかった事を思い出す。

 

「こんにちは、比企谷くん」

「ああ」

 

 八幡は、視線を本から上げもせずにそう応えた。『ああ』とは何よ『ああ』とはっ、と雪乃は少しムっとするが、思えばこの男が無礼で素っ気ないのはいつもの事だ。

 平常心を装って雪乃は更に話し掛ける。

 

「由比ヶ浜さんの姿が無いようだけれど、彼女はどうしたのかしら?」

「……教室で三浦と何か話をしていたが、そのうち来るんじゃないか」

「そう」

 

 八幡は、本のページをパラリと一枚めくる。雪乃の座っている場所からは、ページの進み具合はよく見えないが、一編くらいは読み終わっているのではないだろうか。

 雪乃は机の上にちょこんと座っているパンさんのぬいぐるみーーUFOキャッチャーの景品ーーを手に取り、パンさんの顔を八幡の方へ向けた。

 

「比企谷くんも、パンさんに興味があるのね」雪乃はぬいぐるみの左腕を、クイクイッと挨拶する様に動かした。

「……お前も由比ヶ浜も、このパンダを知らないというだけで、まるで俺に常識が無いかのような態度だったからな。後学の為に読んでおこうかと思っただけだ」ちらりと視線を上げて、八幡は言った。

 

 常識が無いのはその通りじゃないの、あとパンさんの事をパンダって呼ばないでほしいわ。パンさん、もしくはミスター・パンダと呼んでほしい。雪乃は少々不満だったが、とりあえず、どこまで読んだのか気になるので訊ねてみた。

 

「『竹のおはなし』は読み終わったかしら?」

「ああ、もう読んだ」

「そう、では、あなたは『竹のおはなし』をどんな風に解釈したの?」

 

 挑戦的に語尾を上げて問う雪乃。

 八幡は目を瞑り、本をパタンと閉じる。一拍間を置いて、口を開いた。

 

「……パンダは進化の過程に於いて、竹を主な食料として選んだ。それによって、他の動物を狙って駆けずり回る苦労をする事はなくなった。しかし、栄養価の低い竹から充分な栄養を摂取して生きていくには、一日中竹を食べ続けなければならなくなった」

 

 八幡は一旦言葉を切って、雪乃を見遣る。彼女にしては珍しく、ニヤニヤと妙な笑みを浮かべていた。

 

「このパンダは冒頭で、獲物を追い回して疲弊する虎を眺めて、竹を食料とする自分に優越感を得ているが、一方で、忙しなく竹を食べ続けなければならない自分に不平も覚えている。何事にもメリットとデメリットがある、という教訓と受け取ったが、違うのか?」

 

 八幡が自身の解釈を語り終えたところで、雪乃の笑みが深くなる。

 

「甘い、甘過ぎるわ。比企谷くん」

 

 やれやれ、といった様子で雪乃は首を左右に振った。今日の彼女は、なんだかテンションが高い。

 

「確かに、そういう教訓も含まれてはいるけれど、パンさんは竹を食べ続けなければならないという苦労も、他の動物と共存していく上で必要な事と捉えているのよ。他者との共存に於いて、多少の不平不満は仕方のない事。折り合いをつけなければならない、という教訓ね」

「……成る程、そこまでは余り読み取れなかったな」

 

 八幡は閉じていた本を冒頭からめくり直し、パラパラと文字を追った。

 雪乃は椅子から立ち上がって八幡の方へ歩み寄ると、彼の肩に手を置いた。

 

「なんだ?」八幡は上目遣いに、雪乃を見上げる。

「読み直しても無駄よ。比企谷くん」

 

 どういう意味だ、と八幡は首を傾げる。解釈を聞いてから読み直せば、少なくとも意図を読み取れないという事は無いと思うが。

 

「貴方が読んでいるのは、ディスティニー版の翻訳でしょう。『パンダのパンさん』、原題は『ハロー、ミスター・パンダ』というのだけれど、元々児童書であるというのに、ディスティニー版は更に子供向けに改訂されているのよ。その翻訳だと、『竹のおはなし』から他者との共存に関する内容は削られているわ」

「雪ノ下、お前、分かっていながら質問してきたのか」

 

 八幡がやや険しい表情で言う。

 対して雪乃は、してやったり、という笑顔で首肯した。

 

「読みたければ、原書を貸してあげてもいいわよ。比企谷くん」

「……そのうち、機会があれば借りよう」

 

 八幡から一本とって上機嫌な雪乃が自分の席に座り直した丁度その時、部室にノックの音が響いた。

 由比ヶ浜さんね、と当たりを付けた雪乃が「どうぞ」と応えると、果たして扉を開けたのは結衣だった。しかし、意外な事に彼女の後ろには、優美子の姿もあった。

 

「やっはろーっ、ゆきのん、ヒッキー。依頼もってきたよーっ」

 

 相変わらず元気な結衣は、優美子の手を引いて入室してくる。

 今日も金髪をふわふわと揺らしている優美子だったが、その表情からは不機嫌さが溢れていた。

 依頼を持ってきたと言うからには、相談者は優美子なのだろう。まずは椅子に座るよう勧めると、彼女はガタンと大袈裟な音を立てて着席した。

 その全身から、その態度から、ヒステリックな感情が読み取れる。優美子のそういう所を、雪乃はあまり好ましく思えなかった。

 

「不平不満には、折り合いを付けなければいけないのよ、三浦さん。感情を軽々しく発露するべきではないわ」

「うっさいな、初っ端から説教かよ」

「説教は、される方に原因があるものだわ」

「大人ぶってんじゃねーし」

「子供っぽいよりはマシではないかしら?」

 

 早速、口喧嘩を始める雪乃と優美子。結衣が慌てて執りなして事なきを得たが、一触即発の空気は拭えなかった。

 

「えっと、優美子、ほら相談、相談」結衣はさっさと依頼の話に移行しようと促す。

 

 優美子は剥れた様子を隠すことは無かったが、とりあえず相談内容について話し始めた。

 彼女は昨日の合唱部からの依頼で起こった出来事の一部始終を話し終えると、一息つく。

 

「その間宮さんって子、J組なんだ。ゆきのんとおんなじクラスだね。どんな子?」結衣が雪乃に訊ねた。

「活発ではないけれど、陰気なわけではないわね。聡明で大人しいけれど、芯は強そう、という印象だわ」

 

 雪乃がそう答えると、優美子は、「アンタに似てるよ。顔のタイプもね」と、腕組みをして気難しそうに言った。

 

「それで? 貴方が不機嫌な理由はわかったけれど、私たちにどうしてほしいと言うのかしら。聞いた限りでは、練習あるのみ、としか言えないのだけれど」

「わあってるよ、そんな事は。間宮の期待に応えらんなかったのは、あーしのウデが悪い。だから……」

 

 優美子はそこまで言うと、机に置いていたメイクボックスから、スキンケアクリームを取り出した。

 そして、それを掌に少量塗布すると急に立ち上がり、雪乃に向かって半ば襲いかかるかのように、彼女の顔に手を伸ばした。

 突然、優美子の両手が自身の顔に向かって来たので、雪乃は咄嗟に優美子の両手首を掴んで止めた。

 

「急に、何をするのよっ!」焦るように雪乃は叫ぶ。

「練習させろっ! アンタの顔で練習して、今度こそ間宮にぎゃふんと言わせてやるしっ!」

 

 優美子は、雪乃の気勢を上回る声で叫び返した。二人はぎゃーぎゃーと喧しく騒ぎながら、グイグイと押し合っている。

 八幡はそんな二人に目もくれず、ハードカバーを読み進めた。彼は、どうせ結衣が止めるだろうと思っていたのだ。しかし、意に反して彼女は特に動こうとしない。

 

「止めなくていいのか?」気になった八幡は、結衣に言った。

「ん〜、このまま二人とも、仲良くなっちゃえばいいのになぁって思って」

「……ああ、そうだな。共存の為には、多少の不平不満は折り合いを付けなければならない。雪ノ下が練習に付き合えば、共存の道もあるだろう」

 

 八幡は、先程雪乃と交わしたやり取りを、ほんの少しだけ根に持っていた。泰然とした様子を崩さない彼にも、結構子供っぽい所はあるのだ。

 とはいえ、周りで余りにも喧しくされては落ち着いて本も読んでいられないので、八幡は仕方なく優美子に話し掛けた。

 

「三浦」

「ああっ? なんだし天の道」

「その間宮とかいう女、確かに不満だと、そう言ったのか?」

 

 優美子は雪乃と押し合った体勢のまま、数瞬悩む。思えば、言葉にして不満だと言ったわけではない。だが、相手の感情なんて顔を見ればある程度わかる。

 

「言ってないけど、顔見りゃわかるっての」

「どうかな……おばあちゃんが、昔言ってた……つゆの味は、目で見ただけではわからないってな」

「はあ?」優美子は怪訝な顔で八幡を睨んだ。

「外見からの情報だけで、相手の想いの総てを理解する事は出来ない、ということだ。間宮が、本当に不満に思っていたとは限らない」

 

 外見のみで、本質を見抜く事は出来ない。表情だけでは、真実の感情を読み取る事は出来ない。

 本当は、間宮も充分喜んでいたのかもしれない。特に、活発ではなく大人しいタイプなら、感情の発露は苦手な可能性もある。

 

「化粧に関しては、俺は門外漢だ。しかし、前にも言ったが、お前の腕は悪くないと思うぞ」

 

 八幡は、優美子の方に顔を向けながら言う。一先ず優美子は、雪乃と押し合うのはやめた。雪乃は未だ警戒して、彼女の手首を掴んだままではあるが。

 事態が膠着したところで、不意に、ノックの音も無く部室の扉が開いた。

 

「済まない、こちらに優美子さんは……ああ、優美子さん、ここに居たんですね」

 

 胸を撫で下ろす和美、その隣に百合子もいる。そして、そんな二人の背後には、長身の和美の陰に隠れるように、間宮の姿があった。

 

「優美子ちゃんが断りもなく部室に来ないなんて初めてだからさ。もしかしたら、間宮さんの所に行ったんじゃないかと思って、音楽室に探しに行ったんだけど」

 

 百合子はそこで言葉を区切り、背後の間宮に振り返った。間宮は部室に歩み入ると、謝罪するように少し頭を下げた。

 

「三浦……悪かった。二人に聞いたよ、君には不快な思いをさせてしまった」申し訳なさそうに、間宮は言う。

「……別に、謝ってもらわなくてもいーし。アンタの期待に応えられなかったあーしが悪いんだよ」

 

 優美子が不機嫌だったのは、自身の未熟を許せなかったからだ。

 間宮の不満そうな態度に腹を立てたのも事実だが、結局のところ、そういう態度を取らせてしまった己の技術不足にこそ、彼女は機嫌を損ねていた。

 

「違うんだ……私は、嬉しかった。君にメイクしてもらった顔は、自分で言うのもなんだが、華やかで、輝いて見えた。ただ、私は感情を表に出すのが苦手なんだ。度々、他人から誤解される」

 

 自分のコンプレックスを吐露する様に、間宮は零した。

 

「……そーなん?」きょとんとした顔で、優美子は訊いた。

「そうだ」

「あーしのメイク、アンタの期待に応えられた?」

「ああ、いや、むしろ期待以上だった。ありがとう、三浦」

 

 間宮は、注意深く観察しなければわからない程度に、ほんの少しだけ口角を上げた。

 眉間には皺がより、眉尻が下がっているので皮肉げな表情にも見えるが、彼女の言葉を信じるならば、これは彼女なりの感謝の笑顔なのだろう。

 優美子は両腕をグイっと引っ張り、雪乃に手首を離すよう促す。雪乃はうっかり掴んだままになっていた両手を開放した。

 優美子は軽快な足取りで間宮に歩み寄ると、スキンケアクリームの付いている両掌を間宮の頰にそっと押し当てた。

 

「また、メイクさせてよ。アンタの顔、練習になるし」

 

 サラサラとしたクリームを間宮の頰に塗りながら優美子が言うと、間宮はくすぐったそうにしながら先程よりも綺麗な笑顔で、「ああ、勿論」と応えた。

 

「一件落着、かな? あたしたち何にもしてないけど」

 

 結衣は口許を掌で隠し、隣に座る八幡の耳に小声で囁いた。八幡は、「そうだな。本人たちが納得できたなら、それで良いんじゃないか」と、結衣だけに聴こえる声音で囁き返す。彼は、やっとゆっくり本が読めると思った。

 

「でもさ、間宮さん、ヒッキーの言った通り本当に不満に思ってたわけじゃなかったんだね〜。卵は食べてみなければ、中身が何かわからないって事かな」

 

 唐突に、自分も上手い例え話がしたくなった結衣は、八幡にそう言った。

 八幡は本から目を離し、結衣の顔をまじまじと眺める。

 

「卵の中身は卵だ。食べなくてもわかるだろう」

 

 卵の中身が卵では無いとしたら、それは最早卵ではない。何を言っているんだ、大丈夫か、と、不審なものを見るような目で結衣に視線を向ける八幡。

 

「いや、あのね、オムライスかと思ったらオムレツで、オムレツかと思ったらオムソバだったことがあってね。そんでね」

 

 わたわたと手を振りながら、結衣は真意を説明する。懸命に言葉を重ねる結衣はコミカルで、八幡は思わず、鼻からふっと息を洩らした。

 

「ああ、大体わかった」

 

 八幡は微笑みながら、手元の本に視線を戻した。

 冒頭から読み返していた『パンダのパンさん』は、『竹のおはなし』の最後のページが開かれていた。

 



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一年J組編4話

 その夜、小町はゲームに勤しんでいた。薄型テレビの大画面には、コロコロと可愛らしくデフォルメされた二頭身のキャラクターが映っている。

 そのキャラクターは、紅白にカラーリングされた野球のユニフォームを着ていた。

 メッセージウインドウには、[よーし、今日は料理を作るぞ!]と表示されているが、ユニフォーム姿で料理に取り掛かるつもりらしい。

 まあ、ゲームなのであまり細かい事を気にしてはいけない。

 プレイヤーである小町によって『比企谷』と名付けられたそのキャラクターは、どんな料理を作るか迷っているらしく、メッセージウインドウの上に、選択肢が出た。

 選択肢に表示されたメニューは上から、麻婆豆腐、カルボナーラ、雑巾の天ぷら、だった。

 雑巾の天ぷらとは、如何にも悪ふざけとしか思えないメニューだが、選んだ選択肢によってキャラクターのパラメータが上下したりするので、一概にハズレとは言い切れない。

 こういう悪ふざけみたいな選択肢が意外と正解で、パラメータがグンとアップしたりもするのだ。

 小町が唇を尖らせて悩んでいると、台所で洗い物を済ませた八幡が、リビングに現れた。

 

「小町、もう少しテレビから離れた方がいい。おばあちゃんが言っていただろう? ゲームをプレイする時は部屋を明るくし、出来るだけテレビから離れるようにってな。また、プレイする時は健康の為、一時間ごとに十五分程度の休憩を取ることも大切だ」

「は〜い」

 

 小町は素直に、テレビから離れて二人掛けのソファに座った。八幡も、その隣に腰を下ろす。

 

「ねえねえお兄ちゃん、料理のメニュー、どれが良いと思う?」小町はテレビ画面を指差して八幡に訊ねた。

「ん? 野球ゲームをしているんじゃ無かったのか?」

「野球ゲームなんだけどね、キャラを育てるモードがあるんだよ。選んだ選択肢によって能力が上がったりするの」

 

 成る程、と八幡はテレビを真剣な目で見つめた。小町の質問には、最高の回答を用意しなければならない。

 彼はいつだって、妹の期待に応えたいのだ。なんなら、妹の期待に応えるために先に生まれて来たまである。

 

「麻婆豆腐、カルボナーラ、雑巾の天ぷらか……雑巾の天ぷらとは、深いな」

「え、深いかな?」小町にはよく分からない。

「ああ、何故わざわざ雑巾を天ぷらにするんだ。一体どの様な含蓄が隠されているのか……よし、雑巾の天ぷらを選んでみよう」

「雑巾の天ぷらだね、よ〜し」

 

 コントローラーのボタンをかちかちと押して、小町は雑巾の天ぷらを選択する。メッセージウインドウに[うわーっ! マズい、最悪だっ!]というセリフが出た。

 さらに、体力が下がった、筋力ポイントが下がった、敏捷ポイントが下がった、やる気が下がった、と立て続けにバッドステータスがウインドウに表示されていく。

 

「お兄ちゃん?」小町は目を細め、冷ややかな視線を八幡に向けた。

「……済まない、小町……俺の所為で……」

 

 八幡は急に蒼白な顔になって、小町に謝罪した。小町は慌てて、「いやいや、そこまで落ち込まなくていいよお兄ちゃん」と慰める。

 仲の良い兄妹の団欒は、今日も平常通りだ。

 

 

 

 奉仕部の部室で優美子と間宮による一悶着があった翌日の朝、雪乃は常の習慣通り、少し早めに登校を終えた。

 品行方正な生徒である雪乃は、朝は余裕を持って登校する。始業時間ギリギリに滑り込むようなマネはしない。

 爽やかで清涼な朝の空気は、清々しい気分を齎してくれる。J組の教室には窓から暖かな日差しが舞い込んで、心地良い一日の始まりを予感させた。

 まだ登校して来ている人数も少なく生徒も疎らな教室の中で、雪乃は廊下側後方にある自分の席に着き、鞄の中から教科書やノートを取り出して机の中にしまい込んだ。

 彼女は、大抵の教材はきちんと持ち帰る。机の中に置きっ放しにするような事はしない。

 そもそも、雪乃には教科書を置きっ放しにするような発想がなかった。

 対して、由比ヶ浜結衣は雪乃とは正反対に、大抵の教材を机の中に放置している。入りきらなかった分はロッカーの中にある。結衣には、教科書を持ち歩くという発想がなかった。置き勉は忘れ物をしなくて済む、合理的で効率的な行為だと、結衣は思っている。

 ただ、定期テストの成績で痛い目を見ることになるのだが、それは仕方のない事だろう。

 

 一時限目の授業はリーディングだったので、暇を持て余した雪乃は、何ともなく英語の教科書に目を通していた。

 既に今日の授業分の予習は終えているので、先行して次の単元を読み込む。帰国子女である雪乃にとっては特に難しい内容では無かった。

 かたん、と、ひとつ前の席の椅子が引かれる。そこに、昨日起きた騒動の元凶だった間宮麗奈が腰を下ろした。

 

「おはよう」椅子に横坐りし、視線を雪乃の方に遣ることもなく、間宮は挨拶した。雪乃も教科書に目を向けたまま、「ええ、おはよう」と無味乾燥な応答を返す。

 

「英語、教えようか? 昔、海外に住んでいたから、英語は得意だ。ただ、アメリカンではなく、クイーンズだが」

 

 雪乃が熱心に英語の教科書を読んでいるように見えたのか、間宮はそう言った。二人が所属するJ組ーー国際教養科ーーは、英語を中心とする語学教育や、異文化理解に関する教育が強化されている。

 必然、帰国子女の割合は他クラスよりも高くなる。

 

「有難いけれど、遠慮しておくわ。私も英語は不得手では無いの。これは、手持ち無沙汰に読んでいただけ」

「そうか」

 

 適当に断る雪乃に、間宮は特に気を悪くした様子もなかった。しかし、何故か席を立とうとしない。ここは、彼女の席では無いというのに。

 

「勿論知っているとは思うけれど、その席は貴方の席では無いわよ」

「勿論分かっている。高鳥の席だろう? 彼女はいつも始業時間間際に来るようだから、もう少しここに居ても、迷惑にはならないはずだ」

 

 雪乃はきょとんとした顔になり、教科書を閉じて机の隅に置いた。

 左手で頬杖をつき、間宮に顔を近づける。パチパチと瞬きして、その相貌を観察した。

 

「高鳥さんがいつも始業間際に来るなんて、よく知っているわね。貴方、もっと他人に興味がない人だと思っていたわ」

「よく、誤解される」

 

 間宮は少しだけ口角を上げた。やはり皮肉な笑みに見えるが、もしかしたら照れているのかもしれない。表情からは感情が読みにくかった。

 

「それで、私に何か用かしら?」

 

 用でもなければ、自分に話し掛けてくる事などないだろうと雪乃は思った。

 総武高校に入学し、同じクラスになってから二ヶ月近いというのに、彼女たちが会話を交わしたのはこれが初めての事だったのだ。

 

「三浦の、連絡先を教えてくれないか。聞くのを忘れてしまったんだ」

 

 どうやら間宮は、誤解しているようだ。雪乃と優美子は連絡を取り合う様な仲ではない。電話番号はもちろん、メールアドレスだって知らない。

 

「生憎だけれど、三浦さんの連絡先は知らないわね」

「……そうなのか? 仲が良さそうに見えたが」

「どこが?」

 

 低い声音で、雪乃は訊ねた。ああいう粗暴な輩と、同類だと思われては困る。

 

「昨日、仲良く手を繋いでいただろう」

「あれは、三浦さんの粗野な暴挙を止めていただけよ。断じて仲良くなどないわ」

 

 昨日、奉仕部の部室で優美子の手首を雪乃が掴んで止めていた様子を見て、間宮は二人を仲の良い友人だと思ったらしい。

 冗談ではない。そんな誤解をするのはやめてほしい。

 

「粗野、か。三浦は、気の良いヤツだと思うがな」

 

 間宮は得心のいかない顔で零した。あの後、お化粧研の部室でもう一度メイクしてくれた優美子からは、朗らかな印象を受けた。

 他人の印象は、プリズムの様に、眺める角度によってその色彩を変えるのかもしれない。

 雪乃にとっては粗野に映る優美子も、間宮にとっては明朗で活発な少女に見えるのだろう。

 

「とにかく、連絡先なら直接自分で訊いてきてちょうだい」

「そうか、わかった。そうしよう」

 

 優美子の連絡先に関してはそれで納得したようだが、相変わらず、間宮は席を立とうとしなかった。

 それどころか、今度は雪乃の方に顔を向けて、何かを見極める様に真っ直ぐ眺めている。

 

「なにかしら? まだ何か用?」訝しく思った雪乃が訊ねる。

「雪ノ下には、姉がいるか?」

 

 穏やかな表情で、間宮はそう訊ね返した。突飛な話題転換、しかも、少々苦手な姉の話題。

 雪乃は面食らってぽかんとしながら、間宮を見遣る。

 

「いるけれど、それがどうかした?」

「やはりな、雪ノ下という苗字は珍しいし、君の顔は、陽乃さんによく似ている。同じクラスになった時から、そうではないかと思っていた」

 

 

 

 

 間宮と陽乃が出会ったのは、間宮がまだ中学生の頃だ。

 間宮の祖母は、とある音大の学長を務めていた。その音大の創立七十周年の記念式典にて、間宮は、名の通ったピアニストでもある祖母のラフマニノフにのせて、ヴォカリーズを歌う事になったのだ。

 幼い頃から声楽を学んでいた間宮ではあったが、大学の記念式典に中学生がのこのこ参加して、しかも舞台に立って歌を披露するなど、顰蹙を買うとしか思えない。

 一旦は断った間宮だったが、孫馬鹿な所がある祖母は、どうしても一緒に舞台に立ってほしいという。

 結局断りきれず、仕方なく了承したものの、いざ始まった式典の最中、間宮は常に緊張し通しだった。

 音大の記念式典だけあって、プログラムには学生オーケストラの演奏は勿論、卒業生であるプロの音楽家による記念演奏まで含まれている。

 そんな中、間宮の出番は演目としては大トリに位置していた。孫に華々しい舞台を用意したかった祖母の計らいだろう。

 音楽で日々の糧を得ているプロの後に、アマチュアの、しかも中学生の自分が歌うなど、文字通り拍子抜けされるに決まっている。

 間宮は自分が祖母の添え物である事は承知しているが、今からでも、祖母のピアノ独演に変更できないだろうかと、本気で悩んでいた。

 ただ、緊張すら顔に出ないタチなので、周囲の大人たちは間宮を堂々とした、肝の座った少女だと誤解していたのだが。

 冗談ではない。そんな誤解をするのはやめてほしい。

 式典が催されているコンサートホールの最前列に、間宮は背筋を伸ばして座っていた。固くひき結んだ両手は膝の上に乗せている。

 そんな、不安に縮こまる間宮の手の甲を、隣に座っていた少女がとんとん、と軽く叩いた。

 間宮は驚いて、その少女の方へ顔を向ける。

 

「キミ、間宮麗奈ちゃんだよね。学長のお孫さんの」

 

 自分よりも少し年上に見える少女に、間宮はこくりと頷く。

 

「やっぱり。パンフに顔載ってたから、直ぐわかっちゃった」

 

 少女はそう言って、式典で配られたパンフレットをヒラヒラと振った。間宮は緊張で目を通していなかったが、パンフレットに自分の顔まで載せていたとは、これでは逃げられない。ピアノ独演に急遽変更などできないではないか。

 

「わたし、雪ノ下陽乃っていうの。高校生だよ、よろしくね」

 

 他者を和ませる笑顔を見せて雪ノ下陽乃と名乗った少女は、間宮の膝の上から手を取り、陽気に握手した。

 陽乃は握り締めた手指から間宮の怖気付いた感情を読み取ってしまった様で、笑みを深めて間宮の耳に顔を近づけると、「緊張してるでしょう?」と蠱惑的に囁いた。

 外見からは感情を理解され難い間宮は、初見の人間に内心を悟られる事など今までなかった。それだけに、狼狽して言葉に詰まる。

 

「緊張をほぐす方法、教えてあげよっか。ねえ、目、瞑ってみて」

 

 間宮は、初対面の他人を直ぐに信頼する様な迂闊な性格ではなかったが、何故かその時は、言われた通りに目を瞑った。

 陽乃には、不思議な魅力があった。出会って間もない相手にも、深い信頼を得られる不思議な魅力が。

 しかし、突如、陽乃は間宮の額に向けて思いっきり中指を弾く。所謂、デコピンだった。

 ワイングラスのように華奢な指のくせに、そのデコピンはかなりの威力だった。間宮の額に激痛が走る。

 怒りと共に目を見開いた間宮の視界に、陽乃の笑顔が映った。いたずら好きの子供が見せる意地悪な笑みだった。

 

「やーい、怒った? 怒っちゃったかな?」陽乃は揶揄い気味に語尾を上げた。

 

 信頼して目を閉じたというのに、どういうつもりだと、間宮の頭に血が昇る。

 思わず怒り心頭に発した間宮は、ホールの最前列だというのに立ち上がろうとしたが、その両肩を陽乃の両手にそっと押さえられて、何故か身動ぎひとつできなかった。

 触るなと言わんばかりに、間宮は両肩に置かれた両手を払う。そして、未だ馬鹿にしたような笑顔を浮かべる雪ノ下陽乃の胸ぐらを掴み、その顔を睨んだ。

 しかし、陽乃は泰然とした様子を崩さずに、穏やかに間宮に語りかけた。

 

「麗奈ちゃんは知ってるかな? 神経の興奮状態において、『怒り』は『緊張』を上回るんだよ。『怒り』を覚えたキミは、もう『緊張』していない筈だよ」

 

 言われて、間宮はハッと気づく。確かに、胸を締め付けるように煩く鼓動を鳴らしていた心臓は、だんだんと落ち着いたリズムに戻っていった。

 陽乃の言う通り、既に緊張から解放された間宮は、陽乃の胸ぐらに掛けた手をゆっくりと外す。確かに、怒りの感情を覚えると共に、緊張感は無くなっていたらしい。

 間宮が感じていた緊張は、陽乃がデコピンによって齎した怒りで上書きされたのだ。

 

「大丈夫だよ、麗奈ちゃん。ここには音楽の道を志す人間しかいないんだから、キミみたいな中学生がいくら拙い歌を披露しても、みんな寛容に受け入れてくれるよ。『わたし』が『保証』してあげる」

 

 陽乃が発する穏やかな声音は、間宮に安心感を与える。

 ただの女子高生でしかない『陽乃』の『保証』は、間宮に絶対的な安堵と、微睡みのような心地を感じさせた。

 

「キミの綺麗な歌声、わたしに聴かせて……ね? お願い」

 

 間宮はその後、祖母のピアノ演奏を霞ませるような、見事な歌声をホールに響かせた。

 

 

 

 

 

「記念式典で私が緊張せずに歌い上げられたのは、陽乃さんのおかげだ。陽乃さんには、感謝している」

 

 間宮が語った思い出話は、確かに美談的だったが、雪乃は彼女に悟られない程度に、僅かに顔を顰めた。

 陽乃はいけしゃあしゃあと、『ここには音楽の道を志す人間しかいない』と述べたらしいが、それを言った陽乃自身が、音楽の道を志す人間ではない。

 彼女はおそらく、父の仕事の関係で、その記念式典に出席したのだろう。

 声楽などカケラの興味もないくせに、間宮を騙くらかしたのだ。

 わざわざ間宮を失望させる真実をこの場で告げるような事はしないが、雪乃の中の陽乃へ対する心象が、また一つ下がった。

 

「……ところで雪ノ下、君にはもうひとり姉か、もしくは妹がいるのか?」

「……いいえ、私たちは二人姉妹よ」

 

 間宮の妙な質問に、雪乃は怪訝な表情で答えた。そして、「何故そんな事を訊くのかしら?」と、訊き返す。

 間宮は顎に手を当て、ふむと頷くと、教室の天井を見上げながら口を開いた。

 

「式典の後、陽乃さんに訊いたんだ。なぜ私を助けるような事をしてくれたのか、とな」

 

 間宮は教室の天井の更に先、空の太陽を見上げる遠い目をして、雪乃に言った。

 

「あの時の私は、陽乃さんには怯えて縮こまっているように見えたらしい。その姿が、自分の妹と重なって、可哀想になったと言っていた。雪ノ下、正直言って君は、怯えて縮こまるタイプとは思えないんだが……」

 

 そこで言葉を切った間宮と、雪乃の視線が交錯する。

 

「陽乃さんの言っていた妹とは、君のことなのか?」

 

 間宮の黒い瞳を、雪乃はじっと見返した。透明で、感情を見透かせない瞳だった。

 

「いや、答えたくないなら、別に答えなくていい」間宮はついと、目を逸らす。

 

 雪乃が何も言わずにいると、数秒の間を置いて、校内中に響き渡るチャイムの音が鳴った。

 雪乃の斜め後ろのドアが、ガラリと勢いよく開く。

 

「セーフ! 今日もセーッフ!」

 

 ドアを開いたのは、高鳥蓮華だった。彼女は、どういうわけか自身の席に座っている間宮に、明るく話し掛ける。

 

「あれー? 間宮さん、なんであたしの席に座ってるの?」

「……悪い。勝手に借りていた」

「いや、別に全然構わないんだけどね」

 

 間宮は高鳥蓮華に会釈すると、自身の席に戻っていった。蓮華はそそくさと席に着き、ふう、と一息つく。

 

「おはよ! 雪ノ下さん!」

「ええ、おはよう」

 

 蓮華の元気な挨拶に、雪乃は平坦な声で返答した。そこには少し、動揺の色があった。



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一年J組編5話

 金曜日の放課後、奉仕部の部室で、部員の三人は揃って本を読んでいた。

 結衣が読んでいるのは八幡に借りたディスティニー版『パンダのパンさん』だ。児童向けの読みやすい内容なので、普段は漫画ばかり読んでいる結衣も、スラスラと読み進めている。

 そして、雪乃と八幡の手元には『パンダのパンさん』の原書である『ハロー、ミスター・パンダ』があった。これは勿論、二冊とも雪乃が家から持ってきたものである。

 雪乃によるパンさん布教活動は、奉仕部限定で着実に進行していた。

 彼女は、既に何度も読み返して、諳んじることも出来る英文に目を落としながら、これまでの奉仕部での活動を思い返していた。

 奉仕部に舞い込んできた依頼はこれまで四つ。

 結衣に料理を教えてほしいと頼まれたもの、和美と百合子の創部手伝い、材木座による野球部騒動、そして、おとといの優美子の一件。

 その内、雪乃が解決したといえるものは結衣の依頼だけだ。

 優美子の相談など、手首を掴んで押し合っていたら勝手に落着してしまった。あの場面を間宮に目撃されたのは、殊のほか不覚である。

 次の依頼は自分が解決する。雪乃は密かにそう決意している。だがしかし、依頼が来ない事には解決のしようもない。

 総武高の生徒に悩み事がないのは良いことだとも思うが、依頼を求める身にとっては痛し痒しというものだ。

 今日も部室では、閑古鳥だけが大盛況だ。

 静まり返った部屋の中に、本のページを捲る音だけが時折聴こえる。

 穏やかで、落ち着いた時間だった。

 こういうのも、たまには悪くないなと結衣は思っていたが、図書室のように静謐な空間は、突然入室してきた平塚静によって破られた。

 彼女がノックもせずに部室に入ってくるのはいつもの事なので、雪乃も結衣も特に注意することなく挨拶する。

 静は片手を上げて応えた後、短く吐息をついた。

 

「なんだ君達、本ばっかり読んで。いつからここは文芸部になったんだ?」

 

 ややオーバーに肩を竦めて言う静。そう言われても、依頼者が来ない限り奉仕部の活動はできないのだから仕方がない。

 

「先生、何か御用でしょうか?」

 

 雪乃が訊ねると、静は「ああ」と軽く頷き、「来週の木曜から、中間テストがあるだろう?」と、部員の顔を見回しながら言った。

 雪乃と結衣は、手元の本から顔を上げて静を見遣るが、八幡の目は相変わらず『ハロー、ミスター・パンダ』の英文を追っていた。教師が話しているというのに、失礼な奴だ。

 

「明日から全部活テスト休みに入る。君たちは元々休日は活動していないから土日は関係ないが、月曜から部室は使えないよ。何か必要品を部室に置いているなら、今日持って帰っておくように」

 

 部室には、特に私物の類は置いていない。強いて言うならば、パンさんのぬいぐるみくらいだろうか。

 テスト休み期間中ずっとここに置いておくのも可哀想なので、今日は家に連れて帰ろうと、雪乃は思った。

 

 

 

 

 一年J組、高鳥蓮華。得意なスポーツは何かと訊かれれば、数瞬迷った後、野球かソフトボールと答える。

 蓮華は小学生の頃、近所のリトルリーグチームに入っていた。女の子にしては肩が強く、サウスポーな事もあってポジションはピッチャーだった。一段高いマウンドから投げ下ろすと、味方チームも相手チームも、皆が自分に注目してくれているようで気分が良かった。

 小学校を卒業して中学生になると、彼女はソフトボール部に入部した。そこでも、希望ポジションはピッチャーだった。

 ソフトボールのピッチャー独特の、腕を一回転させて投げるウインドミル投法は習得に結構な時間を要した。

 練習を始めたばかりの一年生の頃は、腕を一回転させた後にその腕を腰に当てるブラッシングと呼ばれる動作が安定せず、左腰の辺りにしょっちゅう青アザをつくっていた。必要以上に強くブラッシングする癖があった為だ。

 しかしそれも、二年生に進級してエース番号を貰えるようになった時には修整できた。みっともないアザをつくるような事もなくなった。

 市内大会も突破できない弱いチームではあったけれど、蓮華はエースとしてソフトボールを思いっきり楽しんだ。

 また、蓮華に得意な教科は何かと訊ねれば、彼女は迷いなく英語と答える。

 彼女は小学生の頃、リトルリーグと並行して英会話スクールにも通っていた。

 そのスクールは小難しい文法や構文をいちいち教えてくれるような学習形態では無かったが、英語に慣れ親しむという学習方針は蓮華の性分に合っていた。

 生徒のみんなで楽しくワイワイ遊びながら英語を学ぶ。

 勿論テキストを読み込んだりする時間もあるが、テキストの内容はエンターテイメント性に富んだ物語調の英文ばかりだったので、読めば読むほど続きが気になるものだった。

 このテキストは本当に為になった。ケンタとジュディが益もない挨拶や自己紹介を交わすような内容だったら、三日で飽きていただろう。

 中学へ上がる時に、部活で忙しくなるからとその英会話スクールは辞めてしまったが、中学一年生で習う英語は彼女にとって楽勝にも程があった。

 大抵のテストは、多少のスペルミスや勘違いはあるものの満点に近い成績で、英語科の教師にもよく褒められた。

 英語の授業中、それなりにネイティブじみた発音で英文を朗読した時などはクラスメイトにからかわれたりもしたが、元来明るい性格である彼女は、照れくさそうに笑って済ませた。

 高鳥蓮華は英語が得意な人という印象は、教師やクラスメイトの間で広まっていったし、また、蓮華自身もそうあろうと努力した。

 何においてもそうだが、得意だという認識は、人を成長させる。

 その後も、彼女の英語力は順調に伸びていく。そして、三年生になると、担任教師から総武高校の国際教養科に進学してはどうかと勧められた。

 総武高校といえば、地元では進学校として名が通っているし、国際教養科は語学教育に力を入れているらしい。

 蓮華の成績なら少し頑張れば入学できる筈だからという教師のお墨付きもある事だし、ちょっと目指してみるかと、彼女はさらに気合を入れて勉学に励んだ。

 受験勉強真っ只中の中学三年の秋頃、どういう校風か気になったのと、勉強の息抜きも兼ねて、総武高校の文化祭に顔を出してみた。

 総武高文化祭は大盛況で、蓮華の中学で開催されたお座なりなものとはレベルが格段に違っていた。

 これが高校生か、これが総武高校か、とカルチャーショックを受けた気分だった。

 特に、度々壇上や、イベントのど真ん中に登場しては喝采を浴びる三年生らしき綺麗な女子の笑顔が印象的だった。

 その女子が仲間を引き連れてバンド演奏を披露した時などは、観客は最高潮の盛り上がりをみせた。

 楽しそうだな、と羨ましくなった。自分もあんな風になれたらな、と憧れた。

 文化祭を観に行ったことで、一層深く進学への意欲を固めた蓮華は、見事総武高校国際教養科に合格した。

 しかし、予想外だったのは、総武高校にソフトボール部が存在しなかったことだ。

 高校でもソフトボールは続けようかなと、薄ぼんやりと思っていたのだが、まあ、無いものは仕方がない。

 リサーチが少し甘かった自身が悪いのだし、仮に、入学前にソフトボール部が無いことを把握していたとしても、自分は総武高校に進学していたと思う。

 実を言うとソフトボールよりも野球の方が好きだし、野球部のマネージャーなんかにもちょっと興味があったので、蓮華は入学後すぐにマネージャーとして野球部に入部した。

 そんな彼女の将来の夢は、英語科の教師になって、野球部かソフトボール部の監督になることである。

 監督といえば、格好良くノックをするイメージがある。目下のところの目標は、岬のように華麗で精密なノックを習得することだ。

 だからその日、田所先生が練習に来ないと聞いた蓮華は、内野のノッカーに立候補した。

 

「はい! は〜い! 内野のノッカーあたしがやります。やらせてください!」

 

 元気に左手を挙げて、蓮華はキャプテンにうったえた。

 田所先生が来ない日に内外野わかれて守備練習する時は、大抵岬が外野のノッカーを、キャプテンが内野のノッカーを担当する。

 何かやる気満々だし、任せてみてもいいかと判断したキャプテンは、蓮華にノックバットを手渡した。

 内野の守備陣がポジションについたところで、蓮華は徐ろに左手でバットを構えて右手でボールを持った。そして、左打ち側のバッターボックスに入る。

 

「あれ、高鳥って左打ちなのか?」キャプテンが訊く。

「はい、左打ちっていうか、左利きですよ」

 

 鉛筆は右ですけど、と呟く蓮華にキャプテンは、ふぅんと返す。左利きの左打ちなら、ボールは左手で持った方がいいんじゃないかと思ったが、利き腕では無い方の手でボールをトスするノッカーも結構いるので、指摘はしなかった。

 

「じゃあ、とりあえずサードゴロ頼む」

「はーい!」

 

 キャッチャーのポジションについたキャプテンの注文に、蓮華は元気よく返事をして、ボールを宙に投げた。

 ふわっと落ちてくるボールが腰あたりの高さに来た所で、バットを振るう。

 ビュン、と中々鋭い音を立ててバットは空を切った……そう、空を切った。紛れも無い空振りだった。

 ホームベースの前をころころと転がるボールに、部員たちの視線が集まる。

 ノッカーの代わりにバッターランナーとして走るために待機していた一年生部員は、ずるっとずっこける様に一歩踏み出して止まった。

 

「あー、ランナー走れ」キャプテンはボソッと呟く。

「えっ?」空振りなのに、と一年生部員は疑問の表情だった。

「振り逃げっ! ランナー走れ!」

「あっはい!」

 

 キャプテンが叫ぶと、ようやくランナーは走り出す。キャプテンは一呼吸置いた後、軽快にステップして右手でボールを掴み、ファーストに送球した。

 アウトーっ! ナイキャッチーっ! という声が内野陣から掛かる。

 

「す、すみません」

「ああ、ドンマイドンマイ。次はサードゴロな」

 

 キャプテンはミットを上下に振って、気にするなと宥める。

 蓮華は次こそはと気を逸らせてボールをトスするが、気持ちが入り過ぎたのか空回りしたのか、振るったバットはボールの芯を外した。

 勢いの全くないゴロがサード方向に転がった。まるで、セーフティバントのような打球だった。

 スイング自体は鋭かったので意表を突かれた形になったが、サードは直ぐにチャージして素手でボールを拾い、ジャンピングスローでファーストに送球する。しかし、ランナーの足の方が勝り、結局セーフになった。

 定位置に戻ったサードは周りの部員たちから、「一歩目遅いんじゃないの〜!」などと野次られている。

 蓮華を野次る声はひとつもなかった。一年生だし、マネージャーだし、という事でみんなが気を遣っているのは明らかだった。

 もしも田所先生が同じような失敗をしたら、みんなは冗談混じりに野次っただろう。

 優しさが、なんだか悲しかった。

 

「すみません、キャプテン」

「ああ、うん。やっぱり俺がノッカーやるわ」

 

 蓮華は意気消沈しながらキャプテンにバットを渡した。そして、ランナーの順番を待っている一年生部員たちの最後尾に並ぶ。

 マネージャーである彼女はランナーをする必要は無いのだが、意気込んでノッカーに立候補したというのに醜態を晒してしまった今日は、思いっきり走りたかったのだ。

 

 

 

 

 練習が終わった後、マネージャー用の女子更衣室から出た蓮華は、はぁ、と溜息をついた。

 リトルとソフト、合わせて六年程の経験があるのでノックくらいできると思っていたが、振り返ってみれば、蓮華の打順はいつも八番か九番だった。

 そう、バッティングは下手だったのだ。しかし、それも仕方ない。彼女のポジションはピッチャーだったのだから。

 ピッチャーは野手がティーバッティングやトスバッティングをしている時間にも、走り込みや投げ込みに時間を取られる。

 バッティング練習をする機会がどうしたって野手より少なくなる。世の中にはエースで四番なんて輩もいるが、そういう人はチームでも頭抜けた才能を持っているものだ。

 高鳥蓮華に、バッティングの才能は無かった。

 こんな事では、野球部かソフトボール部の監督になるという夢は叶えられそうにない。ノックもできない監督なんて、生徒がついてこないだろう。

 肩を落としながら、更衣室の鍵を締める。鍵の管理は持ち回り制で、今日、金曜日は蓮華の当番だった。

 鍵を返却するために、重い足取りで職員室に向かう。すると、こちらも鍵を返却しにきたのか、クラスメイトの雪ノ下雪乃とその友達らしき女子が職員室から退室してきた。

 

「あ、雪ノ下さん。部活終わり?」

「ええ、そちらも部活終わりみたいね」

 

 教室での蓮華の席は雪乃の一つ前なので、二人は雑談を交わす程度の仲にはなっている。

 

「お友達?」という結衣の問い掛けに、雪乃は「クラスメイトの高鳥さんよ」と答えた。

「どうも初めまして、奉仕部部長の由比ヶ浜結衣です」

「はぁ、これはどうもご丁寧に。野球部マネージャーの高鳥蓮華です」

 

 人懐っこい笑顔を浮かべて、結衣は蓮華と握手する。結衣には、大方の人間と初対面から親しくできる社交性があった。

 

「雪ノ下さんも奉仕部なの?」

 

 そういえば、自分が野球とソフトボールをやっていたことや、今は野球部のマネージャーだということは話したけど、雪ノ下さんの部活の話はしたことなかったなと、蓮華は思い出した。

 

「そうよ」

「奉仕部って、なにする部活?」

 

 蓮華の質問に、雪乃は職員室前の部活動案内掲示板を指差した。

 指し示した先には、奉仕部のポスターが貼ってある。

 ポスターの上部に書かれた、『あなたの悩み、奉仕部に相談してみませんか? 我々奉仕部は、問題解決へのサポートを致します』という文言に、蓮華は眉を上げる。

 

「あの、悩み相談って、どんな悩みでもいいの?」

「内容によっては断らせてもらうかもしれないけれど、相談するのは自由よ」

 

 雪乃の柔らかい微笑みは、蓮華の目には頼もしく映った。

 更衣室の鍵を返した後、家へと帰る道すがら、奉仕部の二人に今日あった事を説明する。

 

「要するに、ノックの練習に付き合えば良いのかしら?」

 

 雪乃がまとめるように言うと、蓮華は首を何度も縦に振った。

 

「いいわよ、丁度明日は土曜日だから、何処かの公園のグラウンドででも練習しましょうか」

「え、いいの? 中間テストが終わってからでもいいんだけど」

「構わないわ。勿論、高鳥さんが良ければだけれど」

「あたしは大丈夫。ありがとう、雪ノ下さん」

 

 雪乃と蓮華は、テスト前だからといって焦って勉強しなければならない学力ではなかった。普段から家庭学習は欠かさない。

 

「あたしも大丈夫だよ」結衣も頷いて言った。

 

 結衣は勿論大丈夫な学力ではなかったが、彼女は元々、土日に勉強する気などなかった。教科書類は、教室の机とロッカーに突っ込んだままである。

 多分、中間テストで痛い目に合うのだろう。

 

「ヒッキーにも、あたしから連絡しとくね」

「ヒッキー?」

「A組の比企谷くんのこと。彼も奉仕部の部員なのよ」

 

 雪乃の言葉に、蓮華は「ああ、天の道の人」と呟いた。変人天の道くんは、J組でも噂になっている。

 テスト前なのにノックの練習に付き合ってくれるなんて、奉仕部はなんて優しい人たちなんだろう、蓮華には二人が女神様にみえた。

 

 

 

 

 



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一年J組編6話

 夜の九時ごろ、自分の部屋でくつろいでいた加賀美鑑の携帯電話に、比企谷小町からの着信が入った。いや、正確には、『比企谷小町の携帯』からの着信が入った、というべきだろうか。

 鑑には電話の向こうの人物が誰であるか予想がついていた。着信ボタンを押して、「もしもし、比企谷さん?」と言ってみる。

 

「感心だな。そうだ、それでいい。小町のことは比企谷さんと呼べ」

 

 予想通りの声が聴こえた。鑑は苦笑を零し、八幡に問う。

 

「なんだよ、何か用か?」

「お前には、岬の件で貸しが一つあったな」

 

 確かに、岬に関するごたごたでは世話になったが、貸し一つ、という言い方は気になる。

 無理難題を吹っかける気じゃないだろうな、と警戒した。

 

「明日、高鳥蓮華のノック練習に付き合うことになった。お前も来い」

 

 ーーというわけで翌日土曜日の昼下がり、鑑は自転車に乗って比企谷の家に訪れた。

 グラブを多めに持ってこいだの、ノックのコツを復習しておけだの、細かい注文をつけられたが、特に無理難題というわけでもない。

 むしろ、鑑にとっては渡りに船だった。元々、テスト休み中もちょっとくらい身体を動かしておこうと思っていたのだ。

 休みの日にわざわざノックを受けられるなら、幸いというところだ。ただ、昨日の蓮華の技術を思い出すと、大丈夫かな、と少し不安になるが。

 

「うぃーっす、来たぞ比企谷」

「こんにちはっ! 加賀美さん」

 

 時間通りに現れた鑑を、比企谷兄妹が出迎えてくれる。既に準備万端の様子で、家の前に並んで立っていた。

 八幡は作務衣を、小町はお洒落なジャージを着ている。傍らには自転車が一台だけあった。多分二人乗りするつもりなのだろう。

 

「小町ちゃんも一緒に行くの?」

「はい、小町も偶には運動しないと」

「加賀美、お前、小町のことは比企谷さんと呼べと、何度言ったらわかるんだ」

 

 例によって相変わらず、八幡は小町の呼び方にうるさい。

 

「こら! お兄ちゃん、お友達にそんなこと言ったらダメだよ。大体、小町と加賀美さんの仲なんだから、名前で呼ぶくらい良いじゃない」

 

 小町に注意されて、八幡は不服そうにしながらも押し黙る。本当に、妹には弱い奴だ。

 鑑はククッと短く笑いながら、じゃあ行こうか、とペダルを漕いだ。

 

 

 

 

 蓮華に相談を受けた金曜の夜、雪乃は自宅に帰ると、パソコンの前に座り調べ物を始めた。

 検索エンジンにワードを入力する。内容は、『ノック』『野球』だ。しかし、出てきたサイトはノックの受け手側、守備の技術に関する情報ばかりで、ノッカーの技術に触れているものはなかった。

 ならばと、『コーチ』というワードを追加してみる。丁度よく、少年野球のコーチがノックについて解説しているサイトを見つけた。

 そのサイトの解説によれば、右利きの場合は右手でボールをトスした方が安定しやすいらしい。

 雪乃は胸の前で両腕を交差させ、右手でボールを投げる手振りをしてみる。少し窮屈に感じるが、利き手の方がトスしやすいのは当たり前なのでこれで良いのだろう。

 そして、トスしたあとはその流れのまま右手もバットをグリップ。両手でしっかり握ったら素早くトップを作ってスイングを開始する。

 トップを作る、というのは少々意味がわからなかったが、他のサイトも回ってみたところ、つまりスイングの開始点の形をとる、ということらしい。

 雪乃は立ち上がって、部屋の隅に置いてあったテニスラケットとテニスボールをケースから取り出した。長い間放置していたせいでガットが多少緩んでいるが、バットの代わりに持ってみるだけなので問題ない。

 ラケットを左手で持ち、右肩の前で構える。そして、ボールを右手でトスした。

 トスした後は、さっと右手をグリップに。視線をボールに集中させて、脚、腰、肩、腕の順で連動させながら少しだけ力を込める。

 部屋の中でボールを打つ気はない。イメージトレーニングをしてみただけだ。ボールは緩やかに跳ねて足元を転がった。

 成る程、形は違うが、野球のノックというものはテニスのサーブと感覚が近い。これなら、自分にも指導できる。雪乃はそう思った。

 

 公園の最寄り駅で待ち合わせた雪乃と結衣は、二人仲良くグラウンドへと向かった。二人とも、動きやすいジャージを着ている。

 休日にお出かけというのが楽しいのか、結衣は上機嫌でにこにこと微笑んでいる。

 約束した集合時間まであと十五分ほどというところでグラウンドに着いた。

 かなり広い長方形のグラウンドは、長い辺は二百メートル程、短い辺でも百メートル近くはありそうだった。野球の試合でも同時に二試合は出来る。

 実際、対角に二つ、野球用の高いバックネットがあった。そのうちの一つは、小学生くらいの野球チームが使用している。

 蓮華は雪乃たちが来る前から既に到着していたようで、ウォーミングアップなのかグラウンドの空いている側でひとり走っていた。

 彼我の距離は五十メートル程。結衣はよく響く大きな声で、「蓮華ちゃ〜ん!」と叫んだ。

 それに気付いた蓮華も「あ、結衣ちゃ〜ん!」と叫び返して手を振った。

 雪乃は結衣の隣で驚愕に目を見開く。昨日の今日で、既にお互い名前呼びしている! 仲良くなるの早すぎないかしらと、珍しい生き物を見る目を結衣に向けた。

 

「由比ヶ浜さん、高鳥さんのこと、もう名前で呼んでいるのね」

「え、うん。昨日の夜メールしてるときにね。同級生だし名前呼びでいいよねって」

 

 ならば、自分も名前で呼んだ方が良いのだろうかと、雪乃は少しだけ思った。

 結衣さん、蓮華さん……いや、やめておこう。胸中で呟くだけでもちょっと気恥ずかしい。

 雪乃が悟られない程度に頰を朱く染めていると、蓮華はランニングのスピードを上げて二人の方へと走り寄ってきた。

 息を整えるように長い吐息をついた後、「来てくれてありがとう」と雪乃と結衣に笑顔を向けて来る。

 

「約束したんだから来るのは当たり前だよ」

 

 結衣は言いながら、蓮華と視線を交わした。二人とも、えへへっ、と笑い合っている。

 この二人、波長が合うのかもしれない。

 

「ところで結衣ちゃん、グラブ一個しか持って来てないんだけど本当にそれでよかったの?」

 

 しかも左利き用だし、と蓮華は少し心配そうに言った。

 グラウンドの隅にある木製のベンチにはバットとグラブ、そして白いビニール袋に入れられた十球ほどのボールが置いてあった。

 バットとグラブは蓮華がリトルリーグの時に使っていた少年硬式用。ボールは百円均一ショップで購入してきたサイン用である。

 サイン用なので試合などでは使えないが、本物の硬式球をいくつも揃えようとしたら高校生の小遣いでは厳しい。ノック練習程度ならサイン用で充分だろう。

 

「だいじょぶだいじょぶ。なんかヒッキーに訊いたら当てがあるって言ってたから。左利き用のグローブはあたしが使わせてもらうね」

 

 結衣はベンチにとてとてっと駆け寄ってグラブを拾い上げた。長年使いこんだ道具独特の哀愁の様な物を感じて、すぐに着ける気にはなれなかった。これには多分、蓮華の想いがこもっている。

 

「着けていい? 蓮華ちゃん」

「うん、どうぞどうぞ」

 

 蓮華に確認してから、そっと右手に装着した。ソフトボールの授業で使った安物で管理も適当なグラブとは違って、とても使いやすそうだった。

 結衣にはグラブの綺麗な形状など分からないが、それでも、このグラブは最適な形に癖付いていると思った。

 

「結衣ちゃん右利きなんだよね? 左用でいいの?」

「うん。ソフトの授業の時から左用使ってみたかったんだぁ。利き手じゃない方の手でボール捕るの怖かったし」

 

 成る程、そういうものかと蓮華は納得した。自分などは何かをキャッチするとき、咄嗟に利き手ではない手を使ってしまうが、野球やソフトの経験が無い人は利き手にグラブを着けた方が捕りやすいのかもしれない。

 

「でもそれじゃ、ボール投げらんないね」蓮華は欠点を指摘する。

「あたし、キャッチャーやるよ」

「キャッチャー?」

「ボール受けて、ノックする人に渡す人ってキャッチャーって言うんじゃないの?」

 

 ボールバックの送球受ける人ってなんていうんだろう、蓮華は今更ながら疑問に思った。まあ、キャッチャーが担当する事もあるからキャッチャーでいいのか。

 

「わかった。じゃあ結衣ちゃんはキャッチャーお願いね」

「うん!」

 

 結衣は元気いっぱいに頷いた。

 

「私も、ちょっとバットを借りていいかしら」

「いいよ。振ってみる?」

「ええ」

 

 雪乃は少年硬式用のバットを手に取ってみる。重さは七百グラムあまり。テニスラケットの二倍以上の重量だが、そこまで重くは感じなかった。重心がヘッドよりもミドル寄りにあるからだろう。

 雪乃は昨日インターネットで仕入れた知識と、今までのスポーツ経験で得た身体の操作技術を駆使しながら、数回バットを振った。

 テニス経験者がバットを振るとスイング軌道に妙なクセがあったりするものだが、彼女のフォームは綺麗なレベルスイングだった。まるで素人とは思えない。

 

「うわぁ、上手いね、雪ノ下さん。野球かソフトやってたの?」

「いいえ、体育の授業くらいでしかやった事ないわ」

「へぇ〜、それでそんだけ振れるなら才能あるよ、絶対」

 

 感心しながら驚く蓮華だったが、結衣はそんな彼女を見て少しだけ懸念を覚えた。

 その後、雪乃はボールも借りて、防球フェンスに向かってノックを打ってみる。

 要点は、ボールのトスを安定させること、スムーズなハンドリングで素早くトップを作ること、ボールが落ちてくるリズムを掴むこと、この三つだ。

 やはり、野球というよりも、テニスのサーブと感覚が同じだ。数球の試し打ちでコツを覚え、ビニール袋の中にあったボールを全て打ち切る頃にはだいたい狙った場所に打球が飛ぶようになった。

 どんどん上達していく雪乃。しかし、彼女が上手くなればなるほど結衣は心配そうな目を向ける。

 

「すごい! ホントに、めちゃくちゃ上手いよ雪ノ下さん」

 

 蓮華は、パチパチと拍手しながらはしゃいだ。屈託無く手放しで褒める彼女の様子に、どうやら大丈夫そうかな、と結衣は僅かに安堵する。

 地面に散らばったボールを三人でビニール袋に集めると、雪乃は一球だけ取ってバットと共に蓮華に差し出す。

 

「さあ、それじゃあボールとバットを持って構えてみて、高鳥さん」

「あ、うん」

 

 蓮華は素直に受け取って左手にバットを、右手にボールを持って構えた。

 

「ボールとバットを持つ手、逆にした方が良いんじゃないかしら」

「えっ、逆?」

「高鳥さんは左利きなのよね? だったら、利き手の左手でボールをトスした方が、投げる球が安定すると思うわ」

 

 言われてみれば、蓮華が知っているノックが上手い人は、みんな利き手でボールをトスしている。蓮華は早速、持ち手を替えてみた。

 

「ミートポイントは、身体の少々前あたり。私にトスしてみて」雪乃は蓮華の前で片膝をついた。「バットは降らないでよ。トスするだけ」

 

 蓮華は、わかってるよ、と頷く。この距離でバットを振ったら、雪乃に当たってしまう。

 蓮華は何度も雪乃に向けてふんわりとトスする。ボールの放物線は一定で、ブレがない。

 

「安定してるわね。では、今度はボールをトスした後に素早くトップを作ってちょうだい」

 

 雪乃の指示を聴いて、蓮華は重心を左足寄りに移した。

 トップを作るという言葉はリトルの時もソフトの時も、何度も監督やコーチから聴いた。

 野球の場合は、最初はフラットに構えてテイクバックの後にトップを作り、ソフトボールの場合は、最初から重心を後ろ寄りにして予めトップを作った体勢で構えておく。

 そういう差異があったせいで、ソフトに転向してすぐはテイクバックのクセが抜けなくて苦労した。

 蓮華はあまり器用ではない。何度も地道な練習を繰り返して、少しずつ正しいフォームを覚えていくタイプなのだ。

 ノックにおいては、ソフトボールのバッティングフォームのような、ノーステップ打法が良いかもしれない。

 

 蓮華が、ボールをトスしてから素早くトップを作る練習を繰り返していると、小町と鑑を引き連れた八幡がグラウンドに現れた。

 

「ヒッキー、小町ちゃんと加賀美くんも連れてきたの?」

「結衣さん、やっはろーっ」

「あ、うん。小町ちゃんやっはろー」

 

 みんな、適当に挨拶を交わし合う。特に、初対面の小町と蓮華は自己紹介も忘れない。

 八幡も蓮華とは初対面だが、彼は特に名乗ったりはしなかった。蓮華も、彼のことは一方的に噂で聞いて知っている。

 

「加賀美は、グラブ係及び指導係として連れてきた」

「指導係はいいとして、グラブ係ってなんだよ」

 

 そう言いつつ、鑑はスポーツバッグからグラブを取り出した。リトルで使っていた少年硬式用、現在使っているもの、先輩に借りたものの計三つだ。

 

「ちょっと待って、せっかく来てもらった加賀美くんには悪いけれど、指導は私がするわ」

 

 雪乃は、蓮華への指導は自分がするつもりだった。そもそも、今回の相談は自分が解決したいと思っている。

 俄かに勢い込む彼女に八幡は、お前に出来るのか、と視線だけで問い掛けた。

 雪乃は無言で、瞬きだけで、勿論よ、と応える。

 

 八幡は別に、雪乃の指導力やノックの技術を疑っているわけではなかった。

 蓮華と雪乃、どちらのノックが上手いのか、それは八幡にはわからない。ともすれば、雪乃の方が上手いのかもしれない。

 問題なのは、雪乃は野球に関して素人だということだ。たとえ技術的に優る相手だとしても、素人にあれこれと指導されるなど経験者には我慢ならないだろう。

 

「素人のお前に、教えられるとは思えないがな」

「あら、いつ私が野球をしたことが無いなんて言ったかしら?」

「なんだ、野球経験があるのか?」

「ないわ」

 

 当然、雪乃は野球をしたことはなかった。ソフトボールは体育の授業でやったが。

 

「う〜ん、加賀美くんがバッティング上手いのは知ってるけど、あたしは雪ノ下さんに教えてもらいたいかな」

 

 結論を出すように蓮華が声をあげた。八幡は僅かに驚いて、彼女の方を見遣る。

 

「奉仕部に相談したのはあたしだから、やっぱり奉仕部の雪ノ下さんに教わるのがスジかなって、ね。加賀美くんは、今度部活の時間にでも教えてよ」

 

 鑑は、頷いて応えた。

 相談者である蓮華自身がそう言うなら、八幡に否はない。

 話がまとまったところで、結衣は手を挙げて言った。

 

「はい、じゃあウォーミングアップしとこうよ。ケガとか怖いし」

「高鳥さんは、もうアップは済ませたんじゃないかしら?」雪乃が訊いた。

「みんなが来る前にランニングはしてたけど、もう一回走っとこうかな」

 

 整列して走ろうよ、という結衣の言葉に、いや、部活でも無いのに整列して走るのはちょっと、と皆が断る。

 結局、各々の走りやすいスピードで、それぞれ適当に走りだした。

 数分後、八幡と鑑は何故か中距離走のように大きなストライドで、競いながら先頭を走っていた。

 

「言ったろ、高鳥は、素直な奴だから、俺が来なくても、大丈夫、だって」結構なスピードで走っているので、鑑は少し息を切らせながら言った。

「ああ、そうらしいな」

「でも、まあ、テスト休み中に、ノック、受けられるのは、ラッキー、だけど!」

「加賀美、うるさい。黙って走れ」

 

 ランニングの後、ストレッチをしてから、ノック練習が始まった。

 



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34話

 ノッカーの基本は、真正面に打球を転がせるようになること。真正面にさえ打てれば、あとは身体の向きを変えるだけでどこにでも狙って打てるようになる。

 というわけで、ノックを受ける八幡と鑑はおおよそセカンドベースの辺りに並んで立っていた。ひとり一球ずつ、順番にノックを受けるつもりらしい。

 そして、後方のセンターには、鑑がリトルリーグで使っていたグラブを付けた小町が、球拾いとして控えている。

 

「やるべき事はわかっているな。加賀美」八幡は、自分の前で腰を落として構えている鑑に向かって言った。

「ああ、エラーなんかしねーよ。俺、野球だったらお前より上手いんだぜ」

「ちがう、適時エラーをするのがお前の使命だ。小町が退屈しないように、正面に来た打球は偶にトンネルしろ。ただし、小町を無駄に走らせない為に、大きく逸れたボールはダイビングしてでも捕れ」

 

 比企谷八幡は、いつだって妹優先だった。

 

「……お前もわざとエラーするのか?」眉根を寄せて鑑が問う。

「小町に無様な姿を見せるわけにはいかないからな。俺は全力で守る」

「ずるいぞ比企谷。お前もわざとエラーするんだったら、俺もエラーしてやる」

「……わかった。数球に一球、小町の為にボールを見送る。それでいいな」

 

 二人の間では、妙な取り決めが行われていた。

 

 

 バッターボックスには、まず雪乃が入った。先に、手本を見せるつもりらしい。

 

「よく見ていてね、高鳥さん」雪乃の言葉に、蓮華はこくりと頷く。

 

 雪乃は右手でトスしたボールを、タイミングよくバットで捉えた。

 それなりに勢いのあるゴロが、鑑の正面に転がっていく。

 彼は数歩ほど前にダッシュし、腰を落としてボールをキャッチすると、結衣に向けて山なりの送球を放った。

 時速にして百キロも出ていない緩いボールだったが、彼女は「きゃーっ!」と叫んで避けてしまった。

 避けられたボールはてんてんと転がり、バックネットに当たって跳ね返ったところで止まる。

 

「加賀美くーんっ! もっとゆっくり投げてよ〜」結衣は新しいボールを雪乃に渡したあと、捕り損ねたボールを拾いに行く。

「あー、ごめーん」鑑は後頭部を掻きながら、少しだけ頭を下げた。

 

 次のノックの受け手は八幡だ。

 雪乃は、すうっと短く息を吸い込んで気合いを入れ直し、トスしたボールに向けて先程よりも鋭くバットを振り抜いた。

 ボールとバットの真芯がジャストミートして、猛烈な速度のゴロが八幡を襲う。それはまるで、テニスでいうところのフラットサーブのような打球だった。

 しかし、彼は特に慌てることなく、すんなりと捕球した。そして、スムーズなフォームのサイドスローで送球する。

 ワンバウンドして届いたボールは、結衣のグラブに収まった。彼女は「おー、捕れた捕れたっ!」と喜んでいる。

 対照的に雪乃は、少し不満そうな顔をしていた。

 別に、結衣がはしゃいでいるのが煩わしいわけではない。多分、八幡がエラーするところを見てみたかっただけだ。

 

「雪ノ下さん、なんか今の打球、妙な感情がこもってるようにみえたけど……」蓮華が訊く。

「これといって、他意はないわ」誤魔化すように、雪乃は首を左右に軽く振った。

 

 それから十球程度見本としてノックしたあと、ノッカーを蓮華と交代する。

 左打席に立ち、大体このへんかな、とボールをノックしやすい位置に左手でトスアップ。

 ホームベースの少し前あたりに上がったボールは、ミートポイントとしては最適だったが、残念ながら空振りしてしまった。

 

「あっ……」

「大丈夫よ、焦らないで」転がったボールを、雪乃が拾って手渡す。

「ごめん、雪ノ下さん」

「謝らないでいいわ。最初からなんでも上手にできる人なんていないもの」

 

 そういう割には、雪ノ下さんは上手だけどなあ、と蓮華は思ったが、他人と自分の才能を比べても仕方ないので、彼女はめげずにもう一度トライした。

 ふわっと、ボールを宙に放る。

 トスは安定しているのだ。あとは、ボールを上手くミートするだけ。

 大振りせず、出来るだけコンパクトに振り抜く。シャープなスイングから繰り出された打球は、鋭いゴロとなって飛んでいった……ショートの定位置あたりに。

 受け手である鑑は反射的に打球方向へ走りだし、そのままスピードに乗ってボールに跳び込んだ。

 豪快なダイビングで精一杯身体を伸ばした結果、ボールはグラブのウェブぎりぎりに引っ掛かり、なんとかキャッチできた。

 

「ご、ごめーん、加賀美くーんっ!」

「おー、気にすんなーっ。今の打球は良かったぞーっ」

 

 申し訳なさそうにする蓮華に、鑑はグラブを振って応えた。彼としては、間一髪追いつくかどうかという打球の方が良い練習になるので望むところだ。

 

「なるほど、高鳥さんは、リズムに合わせて身体を動かすのが苦手なようね」

「うっ、それ、ソフトのコーチにも言われたなあ」

 

 蓮華には、リズム感があまりなかった。

 トスしたボールが落ちてくるのに合わせてバットを振るという動作が苦手なのだ。

 一般に、リズム感がない人は日常でのちょっとした運動でも、ドジを踏む事が多い傾向にあるという。彼女はドジだった。

 また、リズム感は、視覚から得た他人の身体の動きを、自分の身体で体現する能力に深く関わっている。

 スポーツの上達は、熟練者の動きを模倣することに始まる。彼女は他人の真似をするのが下手だった。

 しかし、それはスポーツにおいて、致命的な問題ではない。リズム感がないから、他人の真似をするのが下手だから、といっても、全然上達しないわけではないのだ。

 むしろ、コツを掴むのが遅い人の方が、一度コツを掴んだら忘れないものだ。

 長い時間をかけて、苦労して修正したフォームは、たとえ時間が経っても大きく崩れたりしない。

 実際、蓮華のバッティングフォームは、クセのない綺麗なスイングだ。

 あとは、トスしたボールにバットを当てるリズムを掴むだけ。上達法はたったひとつ。

 

「練習あるのみよ。高鳥さん」

「わかったっ! 頑張る!」

 

 めげない蓮華は、真面目に、一生懸命練習に取り組んだ。

 ひた向きな彼女の姿勢に、雪乃の指導にも熱が入る。

 ただ言葉で指摘するだけではなく、実際にノックを打ってみせて手本を示した。

 ざっくり十球交代で、順番にノッカーを代わる。蓮華は、自分が打つときは勿論、雪乃が打つときにも、早くコツを掴もうと真剣な様子だ。

 

 雪乃はノックを打ちながら、昔を、小学生の頃のことを思い返していた。

 ある時、勉強を教えてほしいと言ってきたクラスメイトがいた。快く引き受けて、問題の考え方や、解法を教えてあげれば、喜んでくれた。何故こんなこともわからないのかしら、とは思わなかった。

 また、スポーツを教えてほしいと頼まれたこともある。正しいフォームや、それを習得するための練習法を教えてあげれば、やはり喜んでくれた。何故こんなこともできないのかしら、とは思わなかった。

 でも、クラスメイトたちが喜んでくれたのは、最初の内だけだった……いや、もしかしたら最初から、心の底では喜んでなどいなかったのかもしれない。

 いつしかクラスメイトたちは、雪乃を除け者にするようになった。

 雪ノ下さんはなんでも出来るから、雪ノ下さんは私たちとは違うからと、露骨な嫉妬の感情を向けてくる。

 別に、それに対して心を傷めるようなことはなかった。

 ただ、わからないのならわかるまで頑張ればいいのに、できないのならできるようになるまで努力すればいいのにと、不思議に思った。

 自身を高めようと励むことなく、こちらを貶めることに全力を注ぐ者たちが、只管不思議で、只管煩わしかった。

 

 出来ない人間は、出来る人間を排除することで、自己を満たそうとする。

 それは仕方のないことなのかもしれない。世間なんて、所詮そんなものなのかもしれない。

 けれど雪乃には、それを認めることはできなかった。

 世間が、世界がそんなものだというなら、自分の手で世界を変える……そんな希望を懐いた。

 

 雪乃はちらりと、結衣を見遣った。

 彼女は少し逸れた送球に対して、必死に腕を伸ばして跳び付く。

 無事にグラブに収まったボールを見て、結衣は笑顔を見せた。その顔を見て雪乃の頰も、自然と綻ぶ。

 思えば、あの、たった一人しかいなかった頃の奉仕部に持ち込まれた相談こそが、何にも替え難い確信を与えてくれたのだった。

 ほんのひと月と少し前、奉仕部の部室で、自分には料理の才能がないと嘆く結衣に、雪乃は辛辣な言葉で言い募った。

 

 ──自らを菲才だと蔑んで言い訳を作って怠ける前に、まずは全力で努力して、自分で決めつけた限界を超えなさい──

 

 結衣へ向けた言葉は、もしかしたら、小学生の頃のクラスメイトたちに言いたかった事なのかもしれない。

 いや、正直言ってよく覚えていないが、クラスメイトたちにも、似た様な趣旨の事を言っていた様な気もする。

 努力すればいいだけではないか、と言われたものは皆、粗方同じ反応を返す。

 才能がある人には、才能がない人の気持ちはわからない。雪ノ下さんには、頑張れない人の気持ちはわからない。

 時に多少のニュアンスは変われども、言っている事はほぼ画一的で、結局は怠慢の言い訳に過ぎなかった。

 雪乃は、どうせ結衣も、あの頃のクラスメイトたちと同じような反応をするはずだと、自分らしくない諦めの感情を覚えていた。

 建て前を言い繕ってなあなあで済ませるくらいなら、本音を語って嫌われた方がマシ。

 強がりではなく、心底そう思っている雪乃に対して、結衣の返答は意外なものだった。

 

 ──雪ノ下さんみたいな人、憧れる。カッコイイと思う──

 

 認めてもらえた、そんな気がした。そのとき雪乃がどんなに嬉しかったか、結衣はおそらく、全然わかっていない。

 内心を洩らせばいつだって、周囲と自分の間には、彼我を隔てる溝が出来た。

 そんな溝を飛び越えて……いや、そもそも溝なんて最初から作らず、こちらに歩み寄ってくる結衣。

 彼女との遭逢は、建て前で付き合わなくともわかってくれる人はいる、という新しい認識を齎した。

 

 雪ノ下雪乃は、他人への観察眼には自信があった。多分、高鳥蓮華も、わかってくれる人だと思う。

 雪乃と蓮華は、席替えで前後の席に座ることになってから、頻繁に会話を交わすようになった。

 日々のコミュニケーションの中で、蓮華のパーソナリティはほぼ掴めている。明るく陽気で、朗らかな彼女は、結衣と似通った気質を持っているのだ。

 こちらが真剣に指導すれば、きっと嫌がらずに応えてくれる。雪乃は、そう確信していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっ、ちょっと待ってゆきのんっ!」

 

 

 

 

 

 



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