島村卯月として (千智)
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『シンデレラ』にはなれない。

 0.

 きっと、あの頃の私は。

 ただ、何もかもを諦めていただけでした。

 

 

 ☆

 

 

 1.

 転生、という言葉がある。

 俗に言う生まれ変わりのことで、近頃の界隈では記憶を持ったまま、というのが枕言葉としてよく用いられている。

 またその転生にも種類あり、生まれ直した時から自覚しているタイプと成長した後にひょんなきっかけで思い出すタイプとあって、細分化すればまだまだあるが、本題には関係がないのでこの辺でやめておこう。

 さて。では、なぜ私がいきなりこんな話をしたかといえば、その理由は単純明快。私も生まれた時から前世を自覚していた人間であるためだ。

 とはいったものの、私は前世が何の変哲もない社会人で且つ男性であったのでこれといった特別な知識は有していなかったし、死因もろくに覚えていない。しかし、今世の未来を考えるには、その中にあった知識だけで十分だった。

 

 テレビ画面の向こうには、眩いほどのライトに照らされて、しかしそれに負けない程に個々人が煌めいているアイドル達が映っている。どうやら、つい最近行われたライブの一部のようだった。

 彼女たちは今となっては日本では知らない人などいない程のトップアイドルだ。そしてそのセンターに立つ彼女、彼女のその名前を、その顔を、性格も、声も、歌も。今ほど人気が出るより前、それこそ生まれたその瞬間から私は知っていた。

 『天海春香』──そして、彼女の周りに立つのは765プロダクションのアイドル達。天海春香と同じく、名前なんて簡単に諳んじることが出来る。

 つまりこの世界はアイドルマスターの世界で、きっとその先の別の物語にも繋がっているのだろう。

 何故なら私は、今世の私の名前は『島村卯月』であるのだから。

 

 

 2.

 『島村卯月』。

 アイドルマスター シンデレラガールズにおける属性の一つであるキュートの顔。

 誕生日は4月24日で血液型はO型、利き手は右で趣味は友達との長電話。

 『頑張ります!』が口癖で努力家。アイドルになる前にはアイドルを目指して養成所に通っていた。

 アニメではメインに抜擢され、終盤につれて人気も更に上昇、放送終了後には見事五代目シンデレラガールに輝き、今やシンデレラガールズを代表するアイドルと言っても過言ではない立場にいる。

 

 ……今の私とは似ても似つかない境遇である。

 当然誕生日や血液型、利き手は同じで外見も同じだけれど、それ以外は全く異なると言ってもいい。

 そもそもとして、私は『アイドルを目指さない』選択肢をとったのだから。

 

 思うに、『島村卯月』を彼女足らしめる要素は三つある。

 一つ、自らを表現することのできる表情。

 二つ、純粋なまでにアイドルを憧れることのできる心。

 三つ、不安や苦悩、葛藤を飲み込んで進むことのできる精神。

 

 まず私は前世では男だった故にお姫様の様なアイドルに強い憧れなんて持ちようなどなかったし、出来れば不安や苦悩とは無縁でいたい、低きに流れる性格をしていた。性格に関しては今も同じだ。

 そんな私がアイドルなんて無理に決まっている。ならば前世と同じ職に就いた方が仕事が分かっている分まだマシというものだ。

 故に、私はそれこそ『普通の女の子』として生きていくことに決めたのだ。

 

 

 3.

「あっ! そういえば、きいてきいて! うちのお母さんがさ、コンサートのチケット貰ったんだって!」

 

 昼休み、お弁当の時間中。今日一緒に食べている三人のうち一人が不意に話を切り出してきた。

 昨日のドラマがどうだった。あの芸能人がかっこいい。そんな毒にも薬にもならない話題の中降ってわいた新話題に誰かがまた相槌を打つ。

 

「うん、それで?」

「知り合いから用事が入ったからってもらったらしいんだけど、興味があるなら友達と行ってもいいよって! っていっても、二枚しかないんだけど……誰か一緒に行かない?」

「へぇー、いつ? っていうか誰の?」

「誰って言われたら少し困るんだけど……ほら、なんていったっけ。美嘉ちゃん……城ヶ崎美嘉とかの……」

「えっ、それってもしかしてウィンターフェス!? 346の!」

「あっ、そう! それ!」

 

 隣からおぉ、と感嘆する声が漏れる。

 当然かもしれない。346プロダクションもとい美城プロダクションと言えば、有名芸能人も多数在籍している大御所である。近年満を持して参入したアイドル部門も、短期間で高垣楓や城ヶ崎美嘉といった実力のあるアイドルを輩出し、近頃は私たちのような高校生の間でもよく話題にあがることがあった。

 そんなプロダクションのライブ。きっと近頃名前の上がるアイドルが多く参加するに違いない。

 

「うーん、ごめん私はパス。アイドルとかあんまり興味ないしねー」

「わっ、私は行きたい! あっ、でも……確か来週? だよね?」

「うん、確か来週の日曜日」

「あー……ごめん、私無理だ……もーちょっと早ければ……いやいや早くても無理だったかも……?」

「えー、何? もしかして彼氏とデートとか?」

「えっ!? ちっ……違うよ!?」

「じゃあなんなのさー、言ってみなよほらほらー」

 

 私はお弁当を食べながら、そんな光景にクスリと笑う。

 彼女に彼氏(幼馴染らしい)がいるというのはもはや公然の事実で、事あるごとにからかわれている。

 前世でも彼女のいる友人はからかいと言う名の嫉妬攻撃を一身に受けていたし、男女でこの辺はあまり変わらない。

 

「んー……じゃあ、卯月はどう?」

「えっ、わっ、私!?」

「うん卯月ってアイドルは興味ない? それとも予定あったりとかする?」

「うーん……予定はなかった……と思うんだけど」

 

 興味は当然、ないと言ったら嘘になる。

 これでもアイドルマスターのファンだった私にとって、346オールスターなんてシンデレラガールズのライブそのものだ。私の担当だったアイドルはまだデビューしていないけれど。

 しかし、やはり一抹の不安が即答を避けさせた。

 

「……うん、帰ったら念のため予定の方をちょっとお母さんに聞いてみるね」

「本当!?」

「うん、予定が大丈夫だったらすぐに連絡する……って、皆もう昼休み終わっちゃうよ、早くお弁当食べちゃわないと」

 

 私がそういうやいなや、三人とも時計を見ると慌ててお弁当をかきこみ始める。

 私はそんな彼女達に少しばかり苦笑しながら、お弁当の蓋を閉じた。

 

 

 4.

「お母さーん、ただいまー」

 

 鍵を開けて家に入ると、お母さんがパタパタと居間の方から駆け足で出てきた。

 私のお母さんは、自分で言うのもなんだけど美人で、人当たりが良い。本来の島村卯月はこんなお母さんの人の良さを存分に受け継いで成長してきたのだろう。

 

「お帰りなさい」

「ただいまー……っていっても、すぐにまた出かけるね」

「いつもの?」

「そう! あと、今日もお弁当美味しかったよ!」

「あら、そう? ありがとう!」

 

 鞄の中から空になったお弁当箱を渡すと同時にお礼を言う。するとお母さんは頬に手をあてて顔を綻ばせた。

 前世の私だったら絶対に放っておかない可愛さである。

 そんなお母さんへの想いを振り切って、制服と鞄を置きに部屋へと向かう。

 

 私の部屋は、割とシンプルな部屋である。

 カーテンやら家財道具やらはお母さんに任せた(というか部屋を貰った時からそうなっていた)のでかわいらしいが、ベッドや机は少しばかりお高いだけで普通だ。

 自分で揃えたので女の子しているのはベッドの上にあるぬいぐるみぐらいだろうか。前世から寝る時には何かを抱いていなければ寝つきが悪い性格だったのでその辺りは沢山揃えてある。

 あとは本の量が少し多いぐらいのものだ。こちらは別に、女の子らしくはないけれども。

 

「ふぅうっ……っとと、早く着替えないと」

 

 鞄を机の横に引っ掛けて、思わずベッドに腰掛けるが慌てて立ち上がる。

 私の座右の銘は有言実行。そのぐらい刷り込ませないとサボり癖のある私はすぐに休んでしまう。

 制服はまとめて壁に掛け、クローゼットを開けると一番前に並んでいたジャージを引っ張りだす。

 ピンク色のジャージは毎日お母さんが洗濯してくれて、私のクローゼットに戻してくれている。本当にありがたい。まだ洗剤の香りがする、気がする。

 

 いそいそと着替え、次は準備運動。首、肩、腕、手、腰……と、上から順番に足まで関節を伸ばしていく。

 最後に髪をポニーテールに結び直し、準備完了だ。

 私は部屋を出るとそのまま玄関に向かい、今度はローファーではなく運動靴を履く。

 とんとん、と爪先を床で叩いて足を靴に押し込んだのち、扉に手をかけて居間にいるであろう母親に声をかける。

 

「それじゃあ、いってきまーす!」

「はーい、気をつけてねー!」

 

 遠くから聞こえてくる声を見送りに、私は駆け足で家を飛び出した。

 目指すは付近では一番大きな公園。行うのはランニングだ。

 

 

 5.

「ふーんふんふーん……あっ、こんにちは!」

「こんにちは、島村ちゃん」

「こんちはー!」

 

 鼻歌を歌いつつ移動がてらウォームアップ。途中、近所の顔見知りな親子にすれ違ったので、立ち止まって挨拶。

 こういうちょっとしたやりとりが近所付き合いでは重要だとお母さんをみていてよく知っている。

 

「今日もランニング? 毎日偉いわね」

「いえいえ日課ですから、大丈夫です!」

 

 向こうももう私がランニングに行く途中であると気がついているので、手短にすませつつ、最後にもう近くですが気をつけて帰ってくださいねと言って子供の方には小さく手を振る。

 にぱっ、と笑みを浮かべて母親と手を繋いでいない方の手をぶんぶんと振る姿を見ると、思わずこちらも笑みが零れ落ちた。

 

 さて。今の人が言っていた通り、私は中学生の頃から放課後に毎日ランニングをしている。

 それは体力はあって損するものではないと知っているためであるし、この体型を維持するための適度な運動としてでもある。

 また、先ほども言ったサボり癖も一因だ。無理矢理にでも習慣をつけておかないと後が怖い。

 折角恵まれた環境で恵まれた容姿を持っているのだから、それを維持することぐらいは『普通』の範疇であるだろう。

 ……あんな大きい一軒家に住んでいて、更に高校もどちらかと言えばお嬢様系の学校で。普通とはなんぞや、と言いたくなることはしばしばあるけれども。

 

 それから少しして、無事に公園に到着する。

 いつもは公園内のコースを五周、少し休んでから更に五周。大体一周が一キロであるので、大体十キロほど走ることになる。

 始めた当初は一周ちょっとで限界だったが、今はここまで引き伸ばせた。いや、この程度まで、とつけるべきだろうか。

 別にフルマラソンとかに挑んでみる気はないけれど、私だとハーフマラソンでも走りきれるかどうかが心配だ。

 

 いつものスタート位置が近づき 、公園の時計に目を向けると時刻は十一時五十七分を指し示していた。それなら目標時間は十二時何分かな……とまで考え。

 

「えっ!?」

 

 思わず二度見した。

 しかしやはり時計は十二時前を指し示しており、私の大体の帰宅時間である四時半前後でない。どうやら電池切れで止まってしまっているようだった。

 しかしながら昨日まではちゃんと動いていたというのに……まぁ、いつだって止まってしまうのは突然だ。今回は仕方がない、タイムは気にしない方向で行こう。

 そんなことを考えつつぴょんぴょんと跳ねて靴がキチンと足にフィットしていることを認めたのを最後に、よしっ、と気合を入れて私は地面を蹴った。

 

 

 6.

「はぁーっ、すぅーっ、はぁーっ……」

 

 五周を終えた私は、十数秒だけその場で膝に手をつくが、すぐに頭を上げて足を動かす。まだ走るためにクールダウンとまではいかないが、息を整えるまでは身体を動かすのが普通だろう。

 身体から蒸気が立ち上がっている感じがする。吐く息がとても白く、口の中の唾が粘っこい。

 小さな風が吹くと、それがまた心地よさを感じさせる。

 

 なんだかんだ言ったけれど、実のところ私はランニングは嫌いではなく、むしろ好きな部類に入る。

 特に身体一つあればどこでだってすることのできる運動であるし、何より取り立てて何も考えなくてもいいところが好みだ。

 走っているその瞬間だけ、何もかもを忘れて自由になれる。

 ……逆にいうと終わった時に再び、先延ばしにしていた問題に触れなければならないのだが。

 息が整ってきたので木陰に腰を下ろし、若干ぼんやりとした頭で考える。

 

「……コンサート、かぁ」

 

 思い出すのは今日の昼休みのこと。

 お母さんに聞くまでもなく予定はないし、コンサートに行くと言えば返事一つで許しをくれるだろう。

 しかし勿論、私にとっての問題はそこではない。

 

 何度も言っている通り私には前世の記憶があり、そしてアイドルマスターについてもそれなりに知っている。且つ、プロデューサー……つまりファンでもあったのだ。

 そんな私が何故コンサート、それも応援していたアイドルが出るというのに即答をしなかったのか。その答えは単純だ。

 私がアイドルという存在を避けていた。ただそれだけのこと。

 それに対して何故、と問われたなら。これに関しては心配症という他ないが、私は『島村卯月』を警戒したのだ。

 

 『島村卯月』はアイドルに憧れ。

 『島村卯月』は舞台に立ちたいと願い。

 『島村卯月』は遂にシンデレラへと相成った。

 

 幼い頃の夢を叶えてしまうほどの強い憧憬が、もし私の中に残っていたなら──?

 今の私は生まれた瞬間から私であったために、そんなことはないというのはわかっている。

 しかし、もし仮に私がアイドルに憧れを持ってしまったら? そしてもし罷り間違ってアニメのシンデレラプロジェクトにスカウトされてしまったら?

 考えるだけでも恐ろしい。

 そう考えてしまう私はやはりどう考えてもアイドルなんてできないし、するべきでない。『普通』であることが一番だ。

 

 閑話休題。

 そういうわけで家にいる時についていたテレビやドラマで見知った名前が出演しているのはみるけれど、アイドル活動はあまり見ないようにしていたわけだ。

 しかし、今はもう高校一年生の冬である。

 『島村卯月』がアイドルになったのは十七歳の高校二年生。彼女はなんでも卒にこなせる才能を持つわけではなく、アニメでは長い間養成所で燻っていた様子が見られていた。アイドルになれたのはその努力が実ったともとれる。

 

(だったら……もう、大丈夫かな?)

 

 今からアイドルを目指すのは難しい。

 出来なくはないかもしれないが、私にそこまでの忍耐力や無駄になるかもしれない努力をする勇気はないのだ。

 もし仮に、私の中の『島村卯月』がアイドルになりたいと囁いてきたとしても、もう手遅れであると納得してくれるであろう。

 

「よしっ……それなら、帰ってすぐに連絡しなくちゃ」

 

 その瞬間一際強い風が吹き、止んだと同時にぶるっと身体が一度震えた。

 今は冬、雪などは降っていないとはいえ流石に少し休憩しすぎたかもしれない。健康を保つための運動で風邪でもひいたりしたら目も当てられない。

 一息に跳ね起きて見えるところの草を弾き落とし、念のため脚の筋をゆっくりと数十秒ずつ伸ばしてからランニングを再開する。

 つい癖で時計をちらりと見てしまったが、走る前から変わらず、時刻は十二時前を指し示していた。

 

 

 7.

 コンサートに行くことは許容した。

 これから再びプロデューサーとして影から彼女達を応援するのだ……なんていうのはいいんだけど。

 

「あのー……どうしてこんなことになっているのでしょうか?」

「なんで敬語?」

「な、なんとなく?」

 

 私は今、カラオケボックスにいた。

 それも昨日昼食を食べた三人だけでなく、本日部活がないクラスメイト全員で、だ。

 なんでもない日なのにちょっとした打ち上げみたいになっている。

 

「なんでもないってことはないでしょ?」

「そうそう、卯月ちゃんのカラオケ記念日だもん」

「それは……そう、だけど」

 

 そうなのだ。実は私、今世では初カラオケである。

 今まで色々な人と遊んではいたが、カラオケだけは徹底的に回避していた。

 そりゃあ知っている歌はある。でもそれの悉くはアニソン……こちらではアイドルソングだし、それでアイドルファンとでも思われでもしたら堪らない。

 だから今まで避けていたのだが……どうしてこうなった。

 

 話の流れはこうだ。

 返事をした翌日、放課後にその彼女にカラオケに誘われた。

 どうしてかと聞くと、当然コンサートの曲の予習であると答えられる。CDもいいのだが、折角二人で行くのだから一緒にしようと思い立ったらしい。

 それを断るためについ『カラオケには行ったことがない』と答えると皆に戦慄が走って、緊急学級会議が行われたのだ。

 議題は『島村卯月とカラオケに行った人がいるかどうか』。無論結果は私は行った覚えはないので誰もいないである。

 そうしたら何故か、予定が空いている人全員で一緒に行く羽目になった。

 曰く、『カラオケを一緒にしたこともないなんて友達とは呼べない!』らしい。いやいや、確かにカラオケだけは避けていたけれどゲーセンだとかボーリングだとかショッピングやアドベンチャー施設に遊びに行ったりもしているのだけれど。

 ……まぁ、皆が皆私に構っているわけではなし、大騒ぎする口実に使われただけかもしれないけれど。

 

 つらつらと思い出して苦笑をしていると、また一つ歌が終わる。

 『場が温まったから、次は卯月!』とデンモクを押し付けられたが、未だに曲を決めかねている。

 346プロ、つまりシンデレラガールズの歌で好きなのは『流れ星キセキ』に『Yes! Party Time!!』、『Near to You』がパッと思い浮かぶけれど後者二つはともかく、『流れ星キセキ』なんてあるわけもない。

 というか、それぞれのアイドルに知らない曲がちらほらあるんだけど? 確かに個別曲が一つ二つしかないわけがないんだけど……そんなところをリアルに即しなくても!

 全体曲も『とどけ!アイドル』や『輝く世界の魔法』などの数曲しかなくて、しかも歌われた後である。

 同じ曲を歌ってはいけないというわけではないが、そういう流れでもなければ結構度胸がいるものだ。『おねシン』? あれは一番最後に歌うものだ。

 

「卯月ー? 早く選ばないとこっちで勝手に選んじゃうよー?」

「えっ、ちょっ、ちょっと待って!?」

 

 もうどうにでもなーれ!

 私は目に付いた見覚えのある曲を入力する。すると待ってましたとばかり次の曲名がでかでかと画面に表示された。

 

「島村卯月、歌います!」

 

 宣言と同時に、緩やかに流れ出るような旋律。

 透き通っているようなメロディー。

 これこそは六代目シンデレラガールの歌である、『こいかぜ』だ。

 

 

 8.

 『こいかぜ』で我慢の箍が外れた私は続いて『アップルパイ・プリンセス』、『Naked Romance』を続け様に歌った。特に『Naked Romance』は振り付けつき。

 ライブDVDやデレステのMVを何度も見返した私に隙はなかった。意外と覚えているものだ。

 その後からはてんやわんやの入り混じり。ソロ曲なのに二人で歌ったり、 笑いながらマイクを譲り合ったり奪いあったり。

 

「──♪」

 

 気分良く、鼻歌なんか歌ってしまったり。お風呂なので良く音が反響した。

 島村家のお風呂は広い。

 ああやって夢中になって楽しんでいると、ちゃんと自分が女の子をできているようで本当に安心する。

 

「……えへへ」

 

 先ほどまでのことを思い出して、思わず笑いが零れ落ちる。

 ……うん。こうして、私は生きていければいい。

 普通に学校に通って、普通に勉強をして、普通に友達と遊んで。

 普通に進学して、普通に就職して、普通に恋──は、色んな意味で少し難しいかもしれないけれど。

 それでもこのままでいい、このままがいい。

 

 湯船から身体をあげて、そのまま風呂椅子に腰掛ける。

 湯気で曇った鏡にボディーソープを軽く塗り、洗い流す。

 

「…………」

 

 鏡に映る私は、私のことをただじっと見つめていた。

 

 

 9.

 夢だ。

 はっきりとわかる。これは夢だ。

 

 私とテレビ。それ以外に何もない空間にて、私は画面に映るそれをじっと見ている。

 紡がれる舞台の演目は、『アイドルマスター シンデレラガールズ』。

 少女達が魔法にかけられ、シンデレラに登りつめる正しくシンデレラストーリーの物語。

 

 最終話。

 画面に映る少女達はみんながみんなキラキラと眩しく輝いている。

 それは、いつかに誰かが夢見たもの。

 それは、誰もがいつかと夢見たもの。

 

 眩しいお城。

 素敵なドレス。

 優しい王子さま。

 

 現れたのは王子様ではなく魔法使いであったけれど。

 それでも、少女達は遂に『シンデレラガールズ』になったのだ。

 夢を、願いを叶えることができたのだ。

 

『…………』

 

 私は暗闇の中、ただ見ている。

 『島村卯月』の笑顔を、ただ見ている。

 

 

 10.

 時は巡って、ウィンターフェスティバル当日。

 開演五分前で既に会場のボルテージは高く、始まった瞬間に天元突破してしまうのではと思う程だ。

 そんな中、私はといえば。

 

「っ、はぁ、はぁ……ふぅ〜……間に合ったぁ……」

 

 冷や汗を垂らしつつ、安堵の溜息を吐いた。

 四方八方は白い壁に囲まれ、右の壁にはロール状になった紙が取り付けられている。

 そして私が座っているのはドーナツ状に穴の開いた椅子のようなものであり……

 もうお分りいただけただろうか。そう、トイレである。

 

 待ち合わせの駅に少し早く到着してしまったので、付近の意識高い系喫茶でなんとなくフローズンラテを頼んでしまったのが運の尽き。

 そもそも雪も降っているのにフローズンとか何考えてるのって意見もあるだろうけれどそれは気分で選んだのだから何も言わないでほしい。

 半分ぐらいをゆっくりと飲んだあたりで連絡が入って、残りを一息に飲み干したのだ。

 恐らくそれが原因で腹が冷えてしまい、席についてから少ししてからお腹の具合が悪くなっていった。

 だが開演直前、入口付近のトイレは並んでいる人は少ないにせよ満員状態。

 そのため私はその時は波が引いていたために他のトイレを回ろうなんていう阿呆な考えをしてしまい、探している途中に大きな波が来て(女の子的に)死にかけることになってしまったのだった。

 その直後に見つけたトイレが偶然一つ空いていたからよかったものの、空いていなければビッグウェーブに耐えきるしか道はなかったので本当に安心したのだ。

 

 と、リラックスモードでトイレの紙を手繰り寄せようとしたところでトイレの中まで聞こえていたホール内の歓声がいつの間にか聞こえなくなっていることに気がつく。

 もしやと思い携帯の時間を見てみると、四時ジャスト。開演直後で、恐らく諸注意をしているであろうタイミングだ。

 急いで紙で後始末をして手を洗い通路に飛び出るも、辺りを歩いている人などスタッフさん含め一人も見当たらなかった。

 これは本格的にやばいと思い、通路を駆ける。先ほども言っていた通り、私の席に近い入口付近のトイレは混んでいたため少し遠くまで来てしまったのだ。

 少し走ると、遠くに納品が遅れたのか花を並べているスタッフさんが目に入る。通路を塞ぐようにしているがすり抜けるようにすれば抜けられるだろう。

 そう思い少しスピードを上げると、突如として曲がり角の向こうから人影が飛び出して来た。

 いや、向こうにとっては私が飛び出して来たのだろうけれども。

 

「うわっ!?」

「きゃっ!?」

 

 私はとりあえず飛び出して来た彼女を咄嗟に受け止め、きれずに私の進行方向へと弾いてしまう。私はそのまま尻餅をついた。

 その先には背を向けて花を運んでいるスタッフさんがいて──

 

「あっ、危ない!」

 

 

 11.

「っ、っ……!」

「っ…………あー、びっくりした」

 

 私が弾いてしまった女の子は頑張って耐えようとしたのか、背筋をピンと伸ばしたまま斜めに立っていた。

 というのも、スタッフさんが彼女の肩を両手で掴んで抑えきったためだ。恐らく私達のぶつかった音と声でこちらに注目が向いたためになんとか受け止めきれたのだろう。花も倒れていなかった。

 スタッフさんはふぅ、と溜息を一つ吐いて彼女の身体をぐっと押すと、彼女は一歩二歩進んだ後にくるりと振り返って頭を下げる。

 

「っとと、すっ、すいません!」

 

 それを見た私も慌てて立ち上がって、彼女の隣に並んで頭を下げた。

 

「わっ、私が、ごめんなさい! 急いでて、スタッフさんの横をすり抜けれると思ってて! いや、そうじゃなくて、ええと、とっ、とにかく、ごめんなさいっ!」

「すいませんでしたっ!」

「本当に、ごめんなさいっ!」

「いやっ! 私の方が階段を登りきったばかりで周りが見えてなかったから! すいませんでした!」

「いえっ! 私の方こそ急いでで角から人が出てくるなんて思ってなくて! ごめんなさい!」

「いやいや、私の方が──」

「いえいえ、私の方が──」

 

 呼応するように隣の娘から謝罪の言葉が飛び出たのに対して再び私も謝罪する。

 ガランとしているエントランスホールにただ私達の謝罪だけが響く。

 そこに一つの咳払い。間違いなく一番迷惑を被ったスタッフさんのもので、私達は途端に口を噤んだ。

 

「……あー、二人とも、一体何の勝負してるの?」

「勝負なんて!」

「私はただ、本当に自分が悪いって!」

「わかった、わかったから。とりあえず顔を上げて──」

 

 と、同時。

 『わぁああああああああああ!!』と割れるような歓声がホールより通路に漏れて来た。

 私と隣の彼女は思わず顔を上げてしまい、顔を見合わせる。

 キョトンとしたような、しまった、とでもいいたげな様々な感情が混じった表情。おそらく私も、同じような表情をしているに違いない。

 するとスタッフさんが私達の顔を見てか、我慢できないとでも言うように吹き出した。

 

「ぷっ、ふ、ふふ……二人とも、なんて顔をしてるの……ふふっ」

「だっ、だって……」

「ライブに間に合わなかったから……」

 

 もしかしたら、まだ時間がかかるかもしれない。

 そう思うとこんな顔になってしまうのも当然であった。

 スタッフさんは(おもむろ)に帽子を脱ぐと、額の汗を拭った。その時にようやく気がついたが、髪の長い女性の方だった。急いでいた所為もあって、全く気がついていなかった。

 

「いいよ、わかった。花も無事だし、私もちゃんと周りを見てたら二人に注意喚起も出来たから」

「えっ、と? それじゃあ!」

「うん、行きなよ。ライブ、楽しみにしてたんでしょ?」

「あ……ありがとうございます!」

「ありがとうございます!」

 

 ほっとした感情と、遂にという期待感。

 二つ、いやそれ以上の感情が組み合わさり、私達は自然に笑顔を浮かべて再び顔を見合わせて、向かい合わせで手を握っていた。

 明るい、向日葵に似た花咲く笑顔。嬉しさが伝わってくるようなそれを見て、私もまた一層笑みが深まったことを自覚する。

 そんな私達を見てか、スタッフさんも嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 

 その瞬間、私の心に疑念が湧き上がる。

 『どこかで、こんな光景を、見たような』────?

 

 そんな私の疑念を晴らすように、スタッフさんがぱんぱんと手を叩いて私達を現実へと引き戻す。

 

「ほらほら、行くなら早くしないと。一曲目から聴かないとライブも楽しめ──」

「──少し、待っていただけますか」

 

 

 11.57

 スタッフさんの声を遮ったのは、階段下から聞こえていた低い声だった。

 私達が下を向くと、肩にスタッフの腕章をつけたスーツ姿の厳つい顔をした男性がこちらを見ていた。

 私達が彼を見たことを確認すると、彼はゆっくりと階段を登って私達に近づいてくる。

 

「け、警備員……かな?」

「で、でしょうか……?」

 

 違う。

 口ではそう言っていても、記憶はそうではないと言っている。

 聞き覚えのある低い声に、黒のスーツ、見るものを威圧する強面の顔。

 

 ほぼ間違いない。

 しかし間違いであってほしい。

 だが、その願いはきっと届かない。

 

 

 11.58

「……何ですか。ここに飾る花なら、無事にあるので、今から飾るところなんですが」

 

 スタッフさんが上まで上って来た彼の前に怖じけずに立ちはだかる。

 私たちを庇うように立つあたり、本当に先程のことは既にけりがついた、ということなのだろう。

 しかし、彼は首を軽く横に振った。

 

「いえ、そういうことではありません」

「じゃあ、どういうこと……ですか」

「それは、……まずはこちらを受け取っていただければ、と」

 

 彼はスーツの内側に手を入れて、何かを探る。

 しかし目的のものはなかったようで、右手を自らの首に当てながら少し頭を下げた。

 

「……申し訳ありません。名刺を、と思ったのですが丁度切らしていたようで」

 

 少し頭を下げる動作にだけでも隣の女の子が驚き、私の服を掴んだ。やはり慣れていないと怖いものなのだろうか。

 だがかく言う私も、身体を動かしてまで驚かないだけで堅っ苦しい雰囲気に身体が固まってしまっているし、仕方がないことかもしれない。

 そんな私達の様子を見てとったのか、スタッフさんが手早く向こう用事を済ませようと語気を強める。

 

「……それで、何の用なんですか。この二人はライブを聴きに来てるんだから、早くしてよ……してください」

 

 その言葉に、彼は『渋谷凜』、『本田未央』、そして──『島村卯月』を一瞥する。

 何かを逡巡するかのように目を瞑り、そして開く。

 その瞳には、何かしらの決意が宿っているようにも見えた。

 

「皆さん──」

 

 

 11.59

 私は、『アイドルを目指さない』選択肢を選んだ。

 

 私にはアイドルになる理由がない。

 私にはアイドルになれる実力がない。

 私にはアイドルになりたい動機がない。

 

 そして何より。

 私はアイドルの『島村卯月』にはなれない。

 

 それは前世がある故に。

 それは男であったが故に。

 それは純粋無垢でないが故に。

 私という異物を内包している以上、どう努力しても、どう足掻いても私は『島村卯月』にはなれない。

 

 しかし、同時に私は島村卯月である。

 前世を覚えていても、基準となる価値観が男性のものだとしても、『島村卯月』の皮を纏っている存在である。

 

 だから、私は。

 アイドルになれなくても、『島村卯月』になれなくても。

 

 それでも。

 それでも。

 それでも────

 

 

 0.

 

「アイドルに、興味はありませんか」

 

 それでも────私は、島村卯月(普通の女の子)として生きていく。



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夢見る少女の魔法の言葉(1/2)

 0.

 夢なんて知らなくて。

 憧れなんて解らなくて。

 そんな私が今さら、なんて。

 

 

 ☆

 

 

 1.

 『運命的な出会い』。

 きっと彼女ら三人と、彼女らを見出したプロデューサーの遭遇はそう形容することこそが相応しかったに違いない。

 物語の都合上といってしまえばそれまでではあるが、それを差し引いた場合にはどれだけの奇跡が積み重なっているのか。

 

 例えば、『本田未央』が遅刻せずにライブ会場に到着していたら。

 例えば、『渋谷凛』の花の搬入が少しでもズレていたら。

 例えば、『島村卯月』が設営のスタッフをしていなかったら。

 そして、例えばプロデューサーがたまたまその場に居合わせなかったなら。

 彼女らの出会いはなく、そして誰の願いも叶うことがなかったかもしれない。

 少なくとも彼女達が同時期にアイドルとなり、『new generations』なるユニットが組まれることはなかったであろう。

 となれば、やはり彼女らの出会いは偶然で片付けてよいものではなく、運命的、奇跡的という他ないだろう。

 

 

 ────果たして、本当にそうだろうか。

 

 

 ここに、一人の少女がいる。そもそも少女なのかという問題があるが、現在の生物学的な性別上は女性であるために少女としておく。

 彼女は『島村卯月』の皮を被った偽物だ。

 アイドルに理想を抱けず、養成所にも通わず、そして設営のスタッフもしていなかった。

 そして何より、本物の『島村卯月』だった場合の世界を知っている異分子である。

 

 そんな彼女が、いやそんな彼女でもそうなってしまった。

 本物でない存在が、本来でない行動をとって。それでも出会ってしまった。

 これは運命的だろうか。

 これは奇跡的だろうか。

 否。設定を変えたのにそれが起こってしまったなら、それは必然だ。

 

 必然という名の、呪いだ。

 

 

 2.

 足が重い。息が苦しい。

 それでも必死に腕を振って、無理矢理に身体を前へ前へと動かす。

 最後の力を振り絞り、スピードを落とさないように保ちつつ、見えないラインを飛び越える。

 

(ゴール!)

 

 本日のランニング、終了!

 たったったっ、と慣性で数歩歩いてから立ち止まる。大きく息を吸い込んでは、また吐き出した。

 一度空を見上げては、喉に絡みつく息苦しさに前屈みになって地面を眺めた。吸い込んだ空気の冷たさが私の身体が熱くなっていることを実感させる。

 そのまま息を整えていると横からすっ、と真っ白なタオルが差し出された。

 

「お疲れ様でした、島村さん」

「はぁ、どうも、はぁ、ありがとう、はぁ、……ざいます」

 

 タオルを受け取って、なんとか顔を見ながらお礼を言う。

 やっぱり強面で、心構えもしていないところにいきなり現れたら驚くけれどよくよく見ればどことなく愛嬌がある……ようにも見える。ぴにゃこら太に似ている、というのもなんとなくわかる。

 ……そういえばぴにゃこら太の声って私と同じだけれど一体どういう扱いになっているのだろうか、少し気になる。もしかしたら島村卯月本人が着ぐるみの中やっていたとか……? いや流石にそれはないか……

 っとと、いけない。酸素不足で何か考えると、変な方向に考えが逸れていってしまう。

 タオルで汗を一通り拭き終えると、今度はスポーツドリンクのペットボトルを差し出してくる。

 

「こちらもどうぞ」

「あっ……いえ、ありがとうございます、いただきます」

 

 受け取って、すぐに蓋を開けてとりあえず一口。ここまでがマナーのようなものである。

 しかし渇いていた喉は一口と言わずにもっと寄越せと騒ぎだし、結果的にペットボトルの半分ほど飲み干してしまった。

 

「ぷはっ、はぁ、ふぅ……」

「……落ち着きましたか?」

「あっ、はい。でも、クールダウンするので歩きながらでもいいでしょうか?」

「勿論です」

 

 いいつつ、先ほどのコースをゆっくりと歩き始める。

 なんというか、スーツ姿の男性とジャージ服で歩くのはなんとなくもにょるけれど。

 それを気にしないふりをして、腕を十字にしてストレッチも同時に行う。

 

「……しかし、前から思っていましたが。少なめとはいえそれなりの量を走っているのですね」

「えっ!? ああ、はい! いつもなので大丈夫です!」

 

 藪から棒に声をかけられ、変な返事になってしまう。

 彼は無口に見えて存外にお喋りらしい。言葉も自分の中で定まっていることはしっかりハキハキと喋る。

 そういえば、常務とポエムバトルもしていたっけ。

 

「何か、運動でもやっていらしたのでしょうか?」

「いえ、中学生の頃からずっと走っているだけです」

「……? 部活動などもしていなかったのですか?」

「はい、まぁ……特にやりたいこともなかったので……」

「…………」

 

 ……なんで私は彼に対してこんなことを話しているのだろうか。

 まぁ聞かれたから答えたまでなんだけれど……正直に話すこともなかった?

 いや、でも……この人は素直に話した方が諦めてくれるような気もする。

 自分が思ったような『島村卯月(シンデレラ)』でないとわかってくれたなら、きっと自ずと勧誘もやめてくれるだろう。

 沈黙が漂う気不味い雰囲気の中、私はまた一度、額から垂れる汗を拭った。

 

 

 3.

 私のランニングに彼が付き合うようになったのはほんのつい最近のことだ。

 

 去るウィンターフェスの日。

 先に結果からいえば、私は逃げたのだ。それはもう、一目散に。

 

 私はぶつかってしまった女の子……『本田未央』、迷惑をかけてしまったスタッフさん……『渋谷凛』と共にスカウトをされた。

 

「アイ、ドル?」

「はい」

 

 そう呟いたのは誰だったか。その呟きにも彼は愚直に答えた。

 あまりにも唐突でまだ思考が現実に追いついていない『本田未央』と、別の意味で行動不能に陥った私の代わりに困惑しつつも口を開いたのは『渋谷凛』だった。

 

「……誰が?」

「あなた方三人が、です」

 

 その言葉に流石の『渋谷凛』……暫定的に渋谷さんとして。渋谷さんも戸惑っている様子で、困ったようにこちらに顔を向けた。

 アニメのように都心のど真ん中でスカウトされた胡散臭いのならまだしも、スタッフの腕章を付けた仕事の関係者に対してどのような対応をすればいいのか迷っているのだろう。スカウトの声がかけられたのが自分だけでないというのも関係しているかもしれない。

 相手がどのくらいの立場にいるのかがわからない。スカウトをしてくるのだからそれなりということはわかるけれどもそれまでだ。名刺を貰えていればよかったが忘れてしまったのか本当に切らしたのかがわからないが、貰えなかったのが痛い。

 というかそもそもプロデューサーってどの程度の権限を持っているのだろうか。デレステではもう自由気ままに勧誘していたようなイメージがあるが、そんなに勝手に人を雇うようなことをしても平気なのだろうか……?

 

 ……なんてどうでもいいようなことを考えていたのを覚えている。兎にも角にも、私だって混乱していたのだ。現実から目を背けていたと言ってもいい。

 だって、そうだ。いくらここで『島村卯月』が『渋谷凛』、『本田未央』と邂逅することがプロデューサーにスカウトされる切っ掛けとなっていたとはいえ、原作と異なりこの場でスカウトされるなんて誰が想像できるだろう。

 そんな私が正気を取り戻したのは、奇しくもそんな状況に追い込んだ彼の言葉によってだった。

 

「……そちらのお二方は此度のフェスに参加していらっしゃるようで。もしよろしければ、終了後にまた改めてお話を……」

「ちょっ……待って、待ってください!」

 

 これ以上言わせてはいけない。咄嗟にそう思った私は声を絞り出して、注意を引き付けた。

 思った通り、私が割り込んだことによって彼は私を見て言葉を取りやめ、ついでに私の服を掴んでいた『本田未央』……本田さんも、突然の私の声に驚いて服を離す。

 これをチャンスと見た私は勢いで息を吸い混んで、頭を下げつつ言葉を走らせる。

 

「わっ、私! そういうのは大丈夫です! 大丈夫……大丈夫ですので! ごめんなさいっ!!」

「っ、まっ────」

 

 言い切って、私は背を向けて走り出した。呼び止めるような声を聞いたような気がしたが、振り返ることなどしなかった。

 理由は、語るまでもないだろう。

 

 

 4.

 そうして、私は一曲目の『お願い!シンデレラ』にこそ間に合わなかったものの、二曲目が始まる前には席に着くことに成功した。

 そしてそこからは先ほどあったことなんて忘れるかのように、友人と共にライブに熱中である。

 二階席からではあったが、アイドルたちは遠目に見てもとても可愛く、そして美しく輝いていて。まさしく二次元(理想)が画面を飛び出してきたかのような……というのは流石にメタすぎるだろうか。

 だが、それぐらい感激したというのはわかってほしい。スクリーンの向こうにしか有りえなかった存在が、まさしく目と鼻の先にいたのだから、その興奮は筆舌に尽くしがたいものであったのだ。

 ……そんな魔法も、ライブが終わってしまえばすぐさま解けてしまうものであったが。

 

「……はぁ〜」

 

 もしかしたら彼が待ち伏せているかもと思い気を張りながら会場を抜け、駅を渡り、家についてベッドに倒れこんでようやく一息。

 ……よくよく考えたなら、彼もスタッフの一人。運営だったか手伝いであったかは覚えていないが、自らの仕事を放り投げてまでアイドル候補を追いかけるような真似はしないだろう。この頃の彼はそこまで器用ではなかったはずであるし。

 物語後半の彼ならば或いは……とまで思考を巡らせて、考えても栓無きことだとだと気付く。

 ホールから出る際に発見されなかった時点で、もはや私には何の関係もない。

 アニメではアイドル養成所に通っていたから見つけることができたのであって、ただの一般人を見つけるなんて偶然に頼る他ないのだから。

 だからきっと、彼と二度と会うことはないのだろう。

 

「…………」

『アイドルに、興味はありませんか』

 

 照明の眩しさに、私は眼の上に腕を重ねる。思い出すのは、やはりその言葉。

 アイドル──スポットライトに照らされ、可愛いドレスを身に纏い、歌い、踊る。そして煌びやかに輝く存在。

 きっと女の子ならば、誰もが夢を見るものなのであろう。

 本来の『島村卯月』も同様に、その言葉に一も二もなく頷いていたに違いない。

 そのことに、少しだけ申し訳なく思う。

 私は私でしかなく、彼が理想とした彼女のようになることはできないから。

 

「……寝よう」

 

 私は怠惰にベッドに転がったまま服を脱ぎ捨て、そして掛け布団に包まり潜りこむ。

 少しばかり寒いけれども、今ばかりは気にしないことにする。寧ろその冷たさが逆に心地良い。

 布団の中で丸くなって、暗闇の中で暫くぼうっと自らの手を眺めた後にゆっくりと瞼を閉じた。

 微睡みの中で、あの時の彼の表情と戯言が浮かんでは消えていった。

 

 

 5.

 ちょっとした非日常があっても、時計の針は止まらない。

 何があっても、私達の本分は学業である。結果の前にはそれまでの過程など意味をなさず、理由など言い訳でしかない。

 詰まる所、スカウトされるなんてことがつい最近あったとしても一月先に迫った期末試験の方が私にとっては急務ということだ。

 人生二周目というアドバンテージは勉強にこそある。だが、レベルが上がるにつれてその優位も段々となくなってきているのもまた事実。

 自慢ではないが私の通う高校は中々に優秀である。そして私は中学の頃からそれなりの優等生で通っていて、今もそうである。

 本来の私はかなり怠惰だというのは言ったはずだ。しかし何もせずに成績を落とすわけにはいかないわけで、同じく『勉強についていけない!』となっているクラスメイトと共にこの時期には勉強会をしていたりしている。

 その結果……まぁ、当然のことなのだが。

 

(もうこんな時間かぁ)

 

 街灯に照らされる時計をちらりと見て、思う。呟いている余裕などない。

 家に帰った時間が六時半過ぎ、今の時間が七時。大人にとってはこれからが本番である時間帯とはいえ、高校生にとっては十二分に遅い時間だ。周囲も木の影は真っ暗で何も見えない。

 そんな時間に何をしているのかと言えば、ご存知日課のランニングである。

 何か用事があった時やあまりにも遅くなった時はしないこともあるけれど、そういう日はなるべく体育がある日にしてある。もし運動をしない日だったなら、少し無理をしてでもランニングすることはしばしばだ。

 一日休んだら取り戻すのに二日かかる……ではないけれど。私の場合は一日休んだら二日も変わらず、二日も三日も同じ、三日も……とずるずると休んでしまうのが目に見えている。その先に待っているのは体重の増加だ。

 ……いや、本当に。ダイエットは自分との戦いというのがよくわかるし、前世では太らない体質の人が心底羨ましかったものだ。

 

「はっ、はっ、ふぅー、はっ、はっ、ふぅー」

 

 道路を走る車の音と、自分の足音。それから息遣いだけが響く。

 もうすぐ五周目の終わりが見えてきた。いつもなら少し休憩して更にもう五周するのだが、今日はそのまま六周目に突入する。

 理由は単純にもう夜も遅いためだ。お母さんにも走ってきてからご飯を食べると言ったら『あら、今から? 大丈夫?』と心配もされたし、あんまり迷惑をかけるのは不本意ではない。だから休憩なしの六周だ。

 その最後の周も半分を過ぎた頃、それは一気にきた。

 

「……っ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 呼吸のサイクルが更に短くなり、息を深く吸い込む余裕がなくなる。

 ここからが辛い。残り半周のためまだ我慢できるが、いつもは八周か九周目でこれが来るため残りは気合のみで走るのだ。その日のノルマを達成することしか考えない。

 重くなってきた腕を振り、意識的に足を持ち上げる。でないと足が地面すれすれを飛ぶようにして走ってしまう。

 そうして見えてきたゴールに向かって足を進めるが、最後にスピードを上げたりはしない。自分のペースを最後まで、だ。

 ズダン、と最後の一歩を踏み込んで徐々にスピードを下げる。汗を拭いながら乱れた呼吸を整えつつ、ここでようやく冬の夜の冷たさを思い出した。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……つかれたぁー」

 

 意識せず、口から感情が溢れる。

 いつもより多く走ると当然その分体力の消費があり、加えて息の消費も激しいような気もする。慣れを超えるからそうなのだろうか、それともそう思い込むことによる精神的なものに起因するのだろうか。

 コースを歩きで辿っていると途中にあるベンチが目に入った。こんな時間だ、座る人もなく当然の如く空いている。

 軽く手ではらってから座り、周囲の目も気にせず脚を放り投げた。と言っても、今日は珍しく他の人を見ていないのだが。

 そこでようやく一息つくが、放り投げた脚が疲れを訴えて休むだけでは嫌だと駄々をこねる。仕方がなしに脚を引き寄せて親指や手全体を用いて軽くマッサージを行った。

 硬なったふくらはぎを揉みほぐすようにしていると段々と心地よくなってきて、思わず眼を閉じる。息もほぼ完全に整い、リラックスモードである。

 これが終わったら帰ろうと考えつつ、もう片足をやるために体勢を少し変えた瞬間。

 

「……少々、よろしいでしょうか」

 

 その声が、真上から降ってきた。

 

「はぁっ、はいっ!? なんで、しょ、う……か…………」

 

 突然かけられた声に、私は弾かれたように顔を上げる。夢見心地だった思考は驚きで完全に覚醒していた。

 そして私はその人の顔を見て、段々と声が尻すぼみに消えていくのを自覚する。

 それも当然だろう。座っている私が彼を見上げると街灯の逆光で表情がよく見えず、どう見ても不審者に見える点が一つ。

 そして。

 

「……間違っていたのなら、申し訳ありません」

 

 言いつつも、確信を抱いているような強い口調の男性。

 その彼はこの場にいるはずもなく、私はもう二度と会うことすらないだろうと思っていた人物であるが故に。

 

「この間のライブで、お声をかけさせていただいた方……ですよね」

「ぴっ……」

 

 ……であるが故に。

 私のこの反応は、きっとしょうがないものだ。

 

「ぴっ……ぴっ…………!」

「…………?」

 

 『ぴにゃぁ』、と。

 恐ろしく情けない悲鳴が私の口から漏れた。

 

 

 6.

「346プロダクション、シンデレラプロジェクト、プロデューサー……」

 

 既に知っている情報を、目を凝らして目の前の小さな紙から読み上げる。

 私が妙な悲鳴をあげている隙にサッと差し出されたものだ。眼前に出されたそれを振り払って逃げる勇気は私にはなかった。

 ちなみに名前は書いてない。名刺の内部に不自然な空白があるので、認識できないといった方が正しいのか。どうなってるんだこれ。

 

「はい。ライブの際には……その、すぐに立ち去ってしまわれたので。今回はお話を聞いていただければ、と思います」

「うぅ……」

 

 嫌だ、といって突っぱねることは簡単だ。

 しかし、彼の勧誘のしつこさは折り紙つきである。『渋谷凜』のスカウトや、どうやったのかはわからないが『双葉杏』を連れてきた手腕は伊達じゃない。

 と、そこで思う。

 

「あ、あのー……」

「如何しましたか?」

「いっ、いえ。その……どうして私の場所がわかったのかなって……」

 

 そう、いくら彼とてエスパーではないのだ。

 なんの情報も残していない私の目の前に現れる……流石に都合が良すぎはしないだろうか?

 真顔で『プロデューサー力です』とでも言われれば誤魔化されもしてやろうが、この生真面目にそんな冗談を言うセンスはあるまい。

 となれば。

 

「もしかして、ライブの時にストー……」

「いえ、この辺りに用事があったので。偶然、あなたをお見かけしたものですので、改めてお話を聞いていただこうかと」

「そ、そうなんですかー」

「はい」

 

 食い気味に言われ、適当な相槌を打つ。

 流石にストーカーと言われるのは不本意だったか。見た目だけで通報されるのに実績も重ねたら名実ともに犯罪者である。

 そうして沈黙が落ちる。

 気不味さが場を支配して、街灯の音がパチパチと聞こえた。

 風が頬を撫で、身体が一度ぶるっと震える。

 

「あ、あのー……」

「はい、なんでしょうか」

「わ、私……お母さんが心配するので、そろそろ帰りたいなって……思って……」

 

 そう言うと、彼は考えるような素振りを見せる。手を首にやってはいないので、困っているわけではなさそうだ。

 しかし彼の無表情は割と迫力があって、性格が温和であると知っていてもその顔を見ていると自然に背筋が伸びる気がする。

 

「……そうですね。もう遅い時間ですので、お話はまた後日ということで……」

「はっ、はい! それじゃあ、」

「お一人では万が一のことがあっては大変ですので、お送りします」

 

 被せられ、立ち上がりながら言った私の『失礼します』という言葉がかき消される。

 動きながらだったので彼の言葉を繰り返すのに数秒、理解するのに更に数秒。

 やっとそれを飲み混んで、私は慌てて手を振って答える。

 

「いえいえそんな! すぐ近くなので、大丈夫です!」

「しかし……」

「大丈夫ですから!」

「…………」

 

 念を押すと、今度こそ彼は困ったように手を首元に当てる。

 『このまま押せばうまく逃げ切れるかな?』と思うと同時、彼が頭を下げながら口を開く。

 

「申し訳ありません」

「えっ……いっ、いえ! 別に謝るほどのことでは……」

「いえ、そうではなく。誤解を招くような言い方をしてしまったことに対してです」

 

 すると彼は顔を上げて、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。

 その鋭い目力に、私は少しばかりたじろぐ。

 

「私が、心配なのです。ですから、どうか送らせてはいただけませんか?」

「────」

 

 状況を考えるならば、ここは断るのが普通だ。

 一度会ったことのある、肩書きはついさっき知ったが本物か偽物かもわからない強面の怪しい男。ここから家までの道を一人で歩くリスクと、そんな男に送られるリスク。どちらが大きいか、と問われたら当然決まっている。

 だが、私は彼のことを知っている。

 プロデューサーとして酷く有能で、そしてとても不器用で。言葉足らずなことが多く、しかし直向きな性格でここぞというところでは真摯に向き合ってくれる。

 そして何より。

 くだらない嘘をつくような人間ではないことを、私はよく知っている。

 

「…………だけ」

「……は、い? なんでしょうか」

 

 まぁ、だから。

 

「送ってもらうだけ、ですから」

 

 少しばかし、絆されてしまっただけだ。

 本当に、それだけ。

 

 

 7.

『あなたは……失礼。差し支えなければ、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか』

『……島村卯月、と言います』

『島村さん、とお呼びしても?』

『はい、大丈夫です』

 

『島村さんは、いつもあの公園で走っているのですか?』

『そう、ですね。今日は遅かったので、いつもより短めでした』

『いつもはどの程度を?』

『途中に休憩を挟んで十周です。でも期末試験の勉強で遅くなるので、暫くは今日と同じぐらい……ですね』

『……なるほど』

 

『……この辺りで大丈夫です。送っていただいて、ありがとうございました』

『いえ……では、また』

 

 帰り道がてら、確かそんな会話をしたのを覚えている。

 私が送ってもらうだけと言ったのが効いたのか、それともそれ以前に自分が言ったお話はまた後日という言葉を覚えていたのか。アイドルにならないかという話題は終ぞ振ってくることはなかった。

 これからの勧誘的に私の家を知りたいという気持ちがあったには違いないだろうが、それ以上に本当に私のことを心配してくれていたのだろう。しかし言葉足らずで、やはり彼は不器用だ。

 

 そう思った翌日のこと。私は彼のスカウトに対する情熱を身を以て思い知った。

 前日と同じように六時過ぎに家に帰り、その後にランニングに出かけた先には、夜の保護色である黒のスーツに身を包んでベンチに佇む彼の姿があったのだ。

 

昨日(さくじつ)のお話をお聞きして、このような時間に一人は危険と思ったものですから』

 

 とは彼の弁である。

 しかしその日は他のランナーさんもいて、彼らからベンチに座って約五分に一度通りすぎる女子高生(私)を眺める怪しい男として視線を集めていた。事案不可避である、もし関係のない立場なら私が通報したかもしれない。

 三日目にはやはり通報されたのか警察が駆けつけてきて、ランニング途中で息を切らした私が間に入るというハプニングもあったが、それ以外は概ね何事もなく終わった。

 

 そう、何事もなかったのだ。

 すわスカウトかと思った二日目も、今日もなのかと感じた三日目も、彼はアイドルについて口に出すことはなかった。

 それどころかタオルや飲み物の差し入れをしてくれる。これが他の人であったら警戒もするし、彼が相手でも私は一度は遠慮したけれど、純然たる厚意であったために受け取るしかなかった。

 本当に迷惑であるなら断ることもできるが、全く迷惑でない上にありがたいし、彼の心の内を思うとそれは難しかった。

 

 そして話は冒頭に戻り、本日で四日目である。

 クールダウンを終えた後、先の三日間と同じように世間話(基本的に彼から質問してきて、私が答える形になるが)を交わす。

 一日目の時に比べたら、随分と私の態度も柔らかくなったのではないだろうか。慣れた、とも言えるけれど。

 

「それじゃあ、今日もお付き合いいただいて、ありがとうございました!」

「いえ、私は……そんな」

 

 なるべく愛想よく、丁寧に頭を下げる。

 すると彼は言葉に詰まり、首に手を当てた。一応最終的にはスカウト目的ということもあって、少し疚しい思いでもあったのだろう。

 思わず笑みが(こぼ)れる。何故だろうか、彼が困っているのは少し面白い。

 気がつくと彼は私を少し呆けたような表情で見ていた。

 

「あっ、ごっ、ごめんなさい! 別にそういうつもりじゃなくて! じゃあどういうつもりなんだって言われたら困るんですけれども!」

「いえ、気にしていません」

 

 そう言った彼の口元は、笑っているのか少しばかり吊り上っているようにも見える。

 その反応に安堵した私は、今一度頭を下げた。

 

「では改めて、今日もありがとうございました。それでは……」

「島村さん」

「はい? なんでしょう」

「明日は、いつ頃ランニングをするのでしょうか」

「? 明日も、この時間だと思いますけど……」

「……明日は土曜日です」

 

 その言葉に、私は『あっ』と口を覆う。

 そうだ、その通り。明日は土曜日で、世間的に休日とされる。そうでない場合もあるが、私の学校は例に漏れなかった。

 そして、そのことを聞いてくるということは。

 

「……ランニングの後で良いので、お時間を頂きたいと考えていました。可能でしょうか?」

 

 私の表情は一気に曇ったか、或いは凍ったかしたと思う。

 今日までに彼が勧誘らしいことをしたのは、最初の日の名刺渡しぐらいだ。他の世間話で私がどんな人間かという情報収集はしていたとはいえ、アイドルについては噯気(おくび)にも出さなかった。

 しかし、それは腰を据えて話す時間がなかっただけで。

 きっと初日の時から時間さえあれば、勧誘しているプロジェクトの概要等について話すつもりであったに違いない。

 ……何れ、こうなるであろうということはわかっていた。私から言うか、彼が察するかの違いであっただけで。

 

「私は……」

「お話を、聞いていただければ、と」

 

 私が思い当たっていることを肯定するように、彼は付け加える。

 その真っ直ぐに見つめてくる彼から視線を逸らして、私は視線を地面へと向けた。

 

「……無理です、私には」

「そんなことは……いえ。何故、そう思われるのでしょうか?」

「それは……それ、は…………」

「…………」

「…………っ、ごめん、なさい……」

 

 沈黙が、重い。

 私は何かを言おうと口を開きかけるが、何も言葉が出てこず、そのまま口を閉じた。

 でも、だって。しょうがないじゃないか。

 『私は『島村卯月』でありません、だからあなたの理想(アイドル)にはなれません』、だなんて。一体誰が理解できるだろう?

 そんな誰も納得できないような、言い訳ですらない言い分は言えるわけがなかった。

 

「……島村さんの、お気持ちはわかりました」

 

 私がどうしても答えないと見たのか、彼は方向を転換する。しかし、その声には未だ諦めが含まれていない。

 それを証明するかのように、彼は言葉を紡いだ。

 

「ですが……しかし、せめて一度。一度だけで良いので、きちんとお話をさせてください」

「…………」

 

 私は答えない、否、答えられない。

 散々彼の好意に甘えた挙句、一方的に理由も言わずに断っておいて今更、どうして彼に口出しすることができようか。

 彼は答えずとも立ち去らない私の行動から是と判断したのか、再び口を開く。

 

「……明日の昼過ぎ、午後の一時頃に私はあの公園に向かいます。島村さん、どうかご一考を、よろしくお願いします」

 

 深く頭を下げたような気配がして、それから影が離れていく。

 暫くしてから顔をあげると、やはり彼の姿はもうどこにもない。

 夢であった、と思いたいがきっと机の上に置きっぱなしである彼の名刺がそれを許してはくれないだろう。

 

 ふと私は夜空を見上げた。

 しかし期待外れに空は曇っていて、星どころか月すらその姿を見せることはない。

 それは、まるで私自身を暗喩しているかのようで。

 

「……どうして、私なんだろう」

 

 ふと口をついて出たその疑問は、冬の夜空に混じり溶けて。

 空は一層、陰りを増したような気がした。

 

 

 8.

 気がつけば、私は部屋の真中(まんなか)に立っていた。それも私の部屋ではない。

 ベッドの上の掛け布団は乱雑に散らかって、テレビには少しばかり埃が被り、テーブルの上はお菓子が乱雑に重なっている。ゴミは辛うじて袋にまとまっているが、出し忘れが多いのか二袋ほど並んで置いてあった。

 綺麗なものといえば床と、クローゼットの中ぐらいのものであろう。

 私はベッドに腰掛け、掛け布団の下から幼い頃から使っていたぬいぐるみを引っ張り出すとそれを抱きしめる。

 ここは前世の私の部屋で、つまるところこれは夢なのであろう。

 

「…………」

 

 そのまま私は、横向きにベッドに倒れた。

 今の私のベッドとは違う、安っぽい感じのベッド。下に収納スペースがあるだけで実質布団と変わらない。

 しかし、懐かしい。

 ……たまに、こういう夢を見るのだ。そうして、私が俺であったことを思い返す。

 

 一つ、話をしよう。

 島村卯月となる前の私の話。私ではなく、俺の話。

 

 俺は前世では、うだつの上がらない人間だった。

 殊更不幸であったとは言わない。親にはきちんと大学卒業まで面倒を見てもらえたし、結婚こそしなかったものの人並みの恋愛もした。特に問題もなく就職も叶った。

 その後どうして俺が死んだのかというのはまぁ、置いておこう。その瞬間をあまり鮮明に思い出せない上にここでは特に関係のない話である。

 兎に角、少しばかり早死にしたのを除けば世の中の人が想像するような平々凡々を体現したような人生。そういったのを送った男だった。

 ただその想像と異なるとすれば、それは画面の向こうの彼女達に出会ってしまったことであろう。

 

 俺は生粋のプロデューサーというわけではなかった。アーケード時代なんて知らないし、ネットに転がっている画像でゲームの存在を知っていても手を出しはしない。シンデレラガールズのサービスが始まった直後に始めたわけでもない。

 ただネットサーフィンをしていた時に偶然見てしまったのだ、後の担当になる彼女を。正直に言って、ある種の一目惚れであったのではないかと思う。そう言った経験をしたプロデューサー諸君は多いのではないだろうか。

 そこからは急転直下だ。蛍光色の事務員からの誘惑には打ち勝っていたものの、ガチャチケットでたまにSRを引いてはトレードに出し、イベントでは担当が上位報酬になった時のためにドリンクを貯めに貯めた。

 後少しのところでドリンクが切れて2000位にはいれなくて涙を飲んだことも、その直後に10%チケットでお迎えできて狂喜乱舞したこともある。

 

 だが、それだけだった。俺は彼女にしか興味がなく、彼女を愛でられればよかったので他のアイドルになど見向きもしなかったのだ。

 勿論、ゲームをやっているうちに少しずつ名前と外見は覚えていく。しかしキャラクター性などはネタにされていること以上は知らず、精々がイベント時のストーリーで知るだけだった。

 二周年記念のムービーは出来こそ感心したものの担当がいなかったために落胆したし、アニメ化決定の報を聞いた時もどうせ担当は出ないけど念のため見ておくか、程度の興味であった。

 

 そこから、二度目の急転直下。

 個人的にアニメの出来は素晴らしいものであると思った。放送開始時は一歩引いて見ていたけれど、一期が終わる頃には既にのめりこんでいた。いや、厳密に言えば一話の時点で引き込まれていたのだと思う。

 シンデレラプロジェクトの半数が名前を言えなかった俺が、アニメにもまだ出ていない、声の付いていないアイドルまで覚え始めたと言えばその心境の変わりようがわかるのではないだろうか。他のアニメで飛ばしていた劇中歌シーンも、特に苦もなく見ることができていた。

 

 そうして二期が始まり、出番こそ少なかったが担当の喋っている姿を見て満足したところで島村卯月にスポットライトが当たる。

 ……正直に言って俺は当時、島村卯月よりも渋谷凛の方が好みであった。ビジュアル面ではクール系が好きであったし、良くも悪くも俺の中の島村卯月の印象は普通であったのだ。

 しかしあの心からの慟哭を、『S(mile)ING!』を、そしてプロデューサーが信じた『笑顔』を見て、果てしない衝撃を受けたのは決して俺だけではないだろう。

 その日から俺にとって彼女は担当と同等か、ともすればそれ以上の存在として位置づけられた。こんな話をするとミーハーと思われても仕方がないかもしれないが、彼女の物語にはそれ程の魅力があったのだ。

 敬遠していた無印のアニメやゲームをやり始めたのも、それからのことであった。

 きっと俺が真の意味でアイマスのファンに、プロデューサーになったのはこの瞬間からであったのかもしれない。

 

 ぐるり、と景色が暗転する。

 前世の私の部屋から、淡い桃色に色付いた公園へ。

 横たわっていた体勢すらもいつの間にやらベンチに腰掛け、やや低い視界であった。

 

 春風が吹き抜けて、花弁(はなびら)を舞いあげる。

 そうして再び降り注ぐそれの中心に私──否『島村卯月』が、私のすぐ隣から飛び出す。

 その見覚えのある光景を見て、ああ、と思い出す。それは何度も見返したシーンの一つ。

 強烈以上に鮮烈に刻みこまれた、彼女達の始まりの記録。

 彼女は桜が舞い散る公園で、私の記憶通りに花弁ではなく花冠(かかん)を拾い上げる。

 

『私は、きっとこれから、夢を叶えられるんだなって!』

 

 そうして彼女はこちらを向いて、言う。

 この世の善性を集めたかのような。希望を、未来を信じている満面の笑顔で。

 

『それが、嬉しくてっ!』

 

 その動作。

 その表情。

 その音吐。

 

 一瞬一瞬、その全てが芸術的で。

 たった十秒ほどの時間で脳を、魂を揺さぶられる。

 

 これこそがアイドル。

 これこそが『島村卯月』。

 私ではない、私ではなれない、本物の彼女。

 

 同じ姿で、同じ声で、同じ顔で。

 しかしそのどれもが私よりも輝いていて。

 否応無しに、彼女との違いを理解させられる。

 私にこんな事はできない。こんな風に、誰かの心を動かすことなんてできない。

 わかっている、わかっているとも。

 ……わかっているのだ。

 なのに。

 

 

 やはり、最後には彼の言葉が浮かんで、消えた。

 

 

 



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夢見る少女の魔法の言葉(2/2)

 9.

 自宅から最寄りの駅まで十分、そこから電車を一つ乗り継いで更に二十分。

 計三十分の道のりを経て辿りつくのは若者の街である渋谷だ。かくいう私も、友達と遊ぶ時には通学定期範囲ということもあってよくうって出ている。

 その渋谷駅から歩いて十五分の所に、それはあった。

 

 『Tokyo Art School』と銘打たれた建物はその名の通り芸能系の塾、或いは予備校だ。声優やダンサー、俳優、役者といった職業を目指すための訓練所、とも言える。当然アイドルも例外ではない。

 ……少し語ってみたが、要は『島村卯月』が通っていた養成所である。第一話で同期は彼女以外辞めていったと言っていた時には『大丈夫なのか、この養成所』などと思っていたが、アイドルだけではなく別部門もあるなら納得できる。

 また、単純にダンスなどの習い場としても機能しているようだ。近年の教育事情から察するに、この小・中学生のライト層が最も利益に貢献しているのではないだろうか。

 

 そのビルから出てきた私は最後に下から見上げ、数秒してからその場を立ち去る。

 さて。なぜ私が態々渋谷に来てまでこんなところにきたのかといえば、なんてことはない。『なんとなく』である。

 強いていえば、その時が来るまでじっとしていられなかった。ただそれだけだ。

 携帯を見ると、時刻はまだ十一時を少し回ったところだ。今から帰ってもまだ少し早い。

 彼が来るまでランニングをするという手もあるが、それは何か違うような気がした。

 

「そういえば」

 

 ふと思い浮かんだ。

 携帯にその断片的な情報を打ち込み同時に現在地も表示すると、すぐに目的の場所は見つかった。ついでにとそちらの方へ足を向ける。

 少しばかり迷ったが、その場所はすぐに見つかる。都会のコンクリートに囲まれたオアシスである公園だ。

 とは言っても、いつも走っている公園より圧倒的に狭いが、遊具中心のどちらかといえば子供の遊び場であるから用途が違う。これでいいのであろう。

 入り口から公園内をぐるりと見渡すと公園の端の方に、丁度空いているベンチが一つ。目の前に立って公園をぐるり見渡してみると、なんとなく見覚えのある光景な気がした。

 それもそうだ、と独りごちる。なにせここは、『島村卯月』と『渋谷凛』が一話で話し合い、七話では『本田未央』が謝罪のために訪れ、そして二十三話では彼女達全員が集まったあの公園である。今まで実際に見たことはなかったとはいえ、既視感を感じない方がおかしい。

 一瞬だけ昨日見た夢の光景を幻視するが、それは瞬きの間に掻き消え、花どころか葉すらつけていない木がそこにある。

 

 途中の自販機で購入した温かいココアを手で弄びつつ、そのベンチの向かって左側に座る。日は出ているけれどまだ寒く、マフラーに口周りを埋める。

 しかし子供達は寒さを感じさせず、元気よく遊具で遊んでいる。こう言った騒がしい声が嫌いな人も勿論いるだろうけれども、私は嫌いではない。むしろコンクリートと鉄の馬に囲まれた都会ではほんの少しの清涼剤であろう。

 そんな風に思いつつ、私はココアを一口含んで、ほっと息を吐く。

 白い吐息が空気に溶けて、消える。

 

 手持ち無沙汰になった私は、先ほど貰った養成所のパンフレットを取り出して膝の上に置く。

 養成所で話を聞いてても思ったが、実際にこうして見てみると結構な額である。『島村卯月』がいつから通っていたのかは知らないが、少なくとも中学ぐらいからと考えたなら本当に結構な料金を払っていたのではないだろうか。

 他の同期が辞めていった、というのも頷ける話だ。お金の問題だけでなく心の問題も関与すれば、尚更。

 数枚しかないパンフレットの最後には、その養成所から無事にデビュー(と言っても、アイドルではなく声優のようであったが)した人の言葉が載っていた。

 『諦めないで頑張ってよかった』、『好きなことを仕事にできて本当に嬉しい』、『夢はいつか叶う』。

 そんな耳触りのいい言葉を並べ、入学を誘っているのだろう。いや、きっとこの人物の本心でもあるのだろうが。

 

「……それでも、叶わない人はいるんだよ」

 

 考えていたのがそのまま声に出てしまう。いけない、少し感傷的になってしまってるようだ。クールダウンしよう。

 少し温くなったココアの方に手を伸ばして、口に運ぶ。

 ほぅ、と白い息が再び空気に溶けた。

 そのまま容器を両手の中でコロコロと転がす。まだほんのりと温かい容器は、若干ながら私の冷たくなった手を温めた。

 時間は……まだ、十二時前だ。けれど少し寒くなって来たし、そろそろいい時間ではないだろうか。

 そう考えてパンフレットをしまおうと手を伸ばすと同時、木の枝が擦れる乾いた音と共に風が横から私を殴り抜けた。

 咄嗟に髪の方を庇ってしまうが、当然パンフレットの方は手からすり抜けていく。

 

「あっ……」

 

 しかし面積の広いそれなりに重い紙だ。地面を数回バウンドして、それから横滑りしてから止まる。

 小さく溜息を吐いたあと、鞄を持って拾いに行く。正直言って使い道はないけれど、ポイ捨てするのは人としてアウトだ。

 そう思った矢先、そのパンフレットを一本の手が拾い上げた。無論手が宙に浮いているわけではなく、身体に繋がっているが、パンフレットしか目に入っていなかった私には手だけが突然現れたに等しかったのだ。

 一度意識すると、その人の全体像が見えてくる。パンツルックに青い系統のコート、黒い長髪と、その中にちらりとピアスが目に入る。けれど不良といった感じよりは、どちらかといえばクールなオシャレさを連想させた。

 連れている、そのヨークシャーテリア……だったか、その犬もそれに関与しているかもしれない。

 彼女は拾い上げたパンフレットについた砂埃を叩き落とし、私を見て、『これ』と突き出してきた。

 その声に、その外見に、それからその雰囲気。

 あの時と服装は違えど、間違いない、間違えようもない。

 

「あなたの……だよね?」

 

 彼女の名前は、『渋谷凛』。

 ここで『島村卯月』の笑顔に心を動かされ、アイドルの世界へ羽ばたいていくその人だった。

 

 

 10.

 正直なところ、予想をしていなかったといえば嘘になる。

 養成所の帰り道に彼女の家である花屋があるのは描写されていたし、この公園は彼女が散歩でもアイドルになった後の自主トレでも用いていた、所謂お気に入りの場所というものなのだろう。そんな場所にいれば、偶然遭遇しても不思議ではない。

 少なくとも、あんな場所(私の家の近く)で彼と再会するよりはずっと自然である。

 

 しかし、私は彼女に後ろ暗い感情がある。

 ……予想をしていた上でこんなところに寄っておいて説得力がないとは思うが、彼女とはあまり会いたくなかった、というのが本当のところだ。

 正確にいうならば、『会いたかったが、会いたくなかった』。そんな相手。

 

「……あの?」

「あっ、はい! すいませんっ!」

 

 呼びかけられて正気に返る。

 そうして慌てて受け取ろうとするが、うまく掴めずに取りこぼしてしまった。

 すると当然、パンフレットはそのまま地面へと一直線だ。そして小さく砂を巻き上げた。

 

「ごっ、ごめんなさいっ」

「ああ、いや、こっちこそ。ちゃんと掴む前に手を放しちゃったから」

 

 慌ててしゃがみこみ、パンフレットを手にする。

 表はなんてことないが、裏を返すとやはり細かな砂埃がついてしまっていた。私はそれを叩くようにして砂をほろった。

 すると何を勘違いしたのか、視界の端に映っていた彼女が小犬らしい舌ったらずの鳴き声をあげた。

 

「あっ、こらハナコ」

「……。大丈夫ですよ?」

 

 渋谷さんが諌めるような声をあげて屈むような姿勢を見せるが、私はそれを抑えた。

 犬の感情表現には多少覚えがあるし、前足を伸ばしてお尻を上げながら尻尾を振るその動作も記憶にある。

 私は広げた手の平を下から差し出して、何もないことをアピール。同時に指先をちょいちょいと動かして誘いをいれる。すると彼女の目が一瞬輝いたような気がして、私の指先に鼻を近づけた。私はそのまま下に手を潜り込ませ、顎をくすぐるようにして撫でた。

 眼を閉じて気持ち良さそうな顔をするのがわかる。そのまま数歩前に出て首をさすりつけてきたのでご所望通りに顎から首、そこから頭の輪郭をなぞるようにして耳の後ろまで辿り、今度は優しく頭を撫でる。

 

「人懐っこい子ですねー」

「……え? あっ、ああ、うん。そうだね」

 

 ちょっと心配になるぐらいである。このまま撫で続けてお腹でも見せられたら困るので、この程度でやめておく。

 舌を出した可愛らしい顔で私を見つめてくるが、我慢だ。

 そして私は立ち上がって、渋谷さんへと軽く頭を下げる。

 

「改めて、お手数をおかけしました」

「いや、私がしたのってそれを拾っただけだからそんな頭下げなくても……結局落としちゃったし」

「いえいえ、私が落としただけですから気にしないでください」

 

 事実、渋谷さんは何も悪くないのだし。

 そう思っていると、うーん、と渋谷さんは悩みながら少し躊躇いがちに、その言葉を口にする。

 

「ねぇ、どこかで私と会ったことある?」

「え」

 

 ギクリとした。不意打ちだ。

 咄嗟の反応として、顔に向けていなかった視線を更にズラすのが精一杯だったが、それが全てを語っている。

 

「えっと……えっーと……」

 

 いや、そもそもとして私は彼女を認めたその瞬間から顔を見ないようにしていた。それで勘付かれてしまったのならば、それはもうどうしようもないだろう。

 数秒の間をおいて、私は観念して言葉を選びつつ返す。

 

「……多分……し……ライブのスタッフさん……ですよね?」

「うん、スタッフというか、親の手伝いで搬入をしてただけなんだけどね。私の家、花屋だから……っていうより、やっぱりそうだったんだ。すごい偶然……家はこの辺りなの?」

「いっ、いえそんなわけでは……世田谷の辺りで……その、渋谷は通学路の途中で……」

 

 彼女の声色には責めるようなものは見られない。

 しかし、まぁ……してしまったことはしてしまったこと、バレた以上はキチンとけじめをつけなければならない。

 

「……あの時は、その……ごめんなさい。お二人を置いて逃げてしまって……」

「えっ……ああ、いいよ別に。あんなのにいきなり迫られたら誰だって怖いって」

「あ、あはは……」

 

 あんなの、とは当然彼のことであろう。

 確かに初見は厳ついという部分に目が行きがちであるが、よくよく見れば愛嬌もある……というのは置いておいて。

 ぱっと見堅気には見えないというその印象はやはり共通認識なんだなと苦笑する。

 

「…………」

「…………」

 

 会話が途切れる。それもまた当然。

 私は一方的に彼女のことを知ってはいるが、彼女からしてみればあの時一緒に勧誘され(そして逃げ)た名前も何も知らない人間と家の付近で偶然出会っただけの話だ。

 しかし、ただだんまりとしているだけでは終わらない。なので私は最後にもう一度謝ってから立ち去ろうと口を開き、

 

「あのっ……」

「あなたは……」

 

 そして閉じた。渋谷さんもまた同様に。

 再び、私達を沈黙が支配する。聞こえてくるのは、公園で遊ぶ子供達の声とたまに外を走る車のエンジン音ぐらいのものだ。

 気不味さに冷や汗をかきつつ口を開くように見せかけ、彼女に反応がない故にそのまま声を出す。

 

「ど……どうぞ……?」

「え……いいの?」

「ええ、まぁ……私のは、大したことじゃないですので……」

「そう……? それじゃあ、遠慮なく……ええと……絵、描いてるの?」

「……はい?」

 

 予想外な質問が飛んできて、聞き返してしまう。

 え……絵? 私が?

 全く自慢にならないが、前世でも今世でも見苦しい絵を描くことに定評のある私だ。画伯とかそういうのじゃなく、単純に下手な絵である。アニメ調の模写であるならまだ見れるものではあるのだが。

 まぁそれにしたって渋谷さんはそのことを知らないはずであるし、分かれという方が無茶ではあるが……なんで絵?

 そんな疑問が前面に出ていたのか、彼女は少し恥ずかしそうに目を逸らしながら続ける。

 

「いや……さっきのパンフレット、アートスクールって書いてあったから。そういう学校目指してるのかなって」

「え、あ……」

 

 一瞬だけ彼女の視線のいったパンフレットに、私の視線も向かう。『Tokyo Art School』、和訳すれば『東京芸術学校』。確かに名前だけ見れば芸術系の学校に見える。

 彼女にしてみれば気不味さを除去するために出した話題の一環であったのだろう、それに気がついた私は合点がいったというように頷いてみせた。

 

「あー……これは、そういうのじゃないんです。学校じゃなくて塾、芸術よりも芸能って感じで」

「芸能?」

「はい。ダンスとか、歌とか……テレビや舞台とかに出たい人が通うような場所なんです。例えば……」

「……アイドル、みたいな?」

 

 私の言葉を引き継いで、渋谷さんから言葉が出た。

 その答えが彼女自身の口から出るということは、少なからず意識はしているということなのだろう。私が声をかけられているのだから、彼女がかけられていない理由がない。

 そしてそれは正しいため、私は曖昧に笑って頷く。すると、渋谷さんの目が少し驚きに見開かれたような気がした。

 

「はい……でも私は通ってるわけじゃなくて、今日はただ見学に行っただけなんですけど……」

「ふーん、そんなのあったんだ……この辺り、なんだよね?」

「そう、ですね。ここからなら、駅よりも近いです」

「へぇ……」

 

 渋谷さんは興味があるなしが半々のようで、再びちらりと私の持つパンフレットを見た。

 あげてしまってもいいのだが、二度も落としたのを渡すのは正直どうかと思うので口には出さない。見せて欲しいと言うのならそのまま譲るけれど渋谷さんが今さっき知り合ったばかりの人にそんなことを言うわけはないだろう。

 自身の返事で会話が途切れてしまったことを察したのか、渋谷さんは咳払いをする。

 

「んんっ……それで、あなたは?」

「へっ?」

「いや、私が先だったから……あなたも何か言いかけてたでしょ」

 

 渋谷さんの問いかけに一瞬だけ心臓が脈打つが、その後の言葉でなんとか冷静さを取り戻す。

 

「ああ、ええと──」

 

 口をついて出そうになった質問を、寸前で飲み込む。

 特に考えてはいなかったが、渋谷さんに聞きたいことは当然ある、あった。だが、それを聞くわけには絶対にいかないのだ。

 故に私は、彼女に対して苦笑いを浮かべつつこう答える、否、こう答えるしかない。

 

「──忘れちゃいました」

 

 あはは、と苦笑する。

 それに対して渋谷さんは何かもどかしそうな表情を浮かべる。それが何を意味しているのかはわからないが、私は少し困った風にしながら目を逸らした。

 

 ────『あなたは、アイドルになるんですか』、なんて。

 そんなことを、どうして私が聞くことができるだろう。

 どうして、私自身が切り捨てた道を勧めることができるだろう。

 

 そもそもとして。

 劇中、自分には何もないと言う『島村卯月』に対して、『渋谷凛』はあの時の姿が眩しかったから、あの笑顔があったからと漏らすシーンがある。回想として一話のあの輝くほどの笑顔も挿入されていたはずだ。

 その事から察するに、やはり彼女がアイドルとなる道を選んだのは『島村卯月』あってのものであったと言える。

 私が彼女に抱いている後ろ暗い感情の正体。それが、これである。

 私が島村卯月となってしまったことで起きた弊害。心焦がれる程憧れを抱く存在をそこに認められないことによる変動。それが渋谷凛という少女の未来だ。

 故に。その原因となってしまった私に言える事はない。できることは、ただその罪を背負って生きることのみだ。

 

「……あんたがそれでいいなら、別にいいけど」

 

 そんな私に対して、渋谷さんは含むことがあるような口調で答える。

 私の心中が見抜かれた、なんていうことはありえないけれど。それでも、忘れたというのが嘘だということぐらいは分かったのだろう。

 つい、と彼女へ視線を戻すと、彼女はハナコちゃんを抱き上げて、私と視線を合わせた。

 

「……それじゃあ、私はハナコ……この子の散歩中だから」

「あっ、はい! その、あの時は、本当にごめんなさいでした!」

「いいって、気にしないでよ、本当。それじゃあね」

 

 言って、渋谷さんは公園をぐるりと回るつもりなのだろう。最後に軽く黙礼をしながら私とすれ違う。

 答えは決まっているにせよ、私も私で用事がある。そうして数歩踏み出し、渋谷さんを振り返る。

 彼女の背がゆっくりと遠ざかっていく。きっと物理的な距離だけではなく、それ以外の距離もずっと、遠く離れていく。

 

 結局、私と彼女は自己紹介すらしなかった。

 彼女にとって私は、きっとその程度の存在ということなのだろう。その有り様に、言動に左右されることすらない路傍の存在。

 ここで別れてしまったら、もう二度と会うことなどない、そんな間柄。

 

 私は遠ざかる背中に手を伸ばしかけ、そして、それに気がついて手を下げる。

 誤魔化し、逃げて。踏み込んだ質問一つしない私が、彼女を呼び止めて一体何を話すというのか。

 ……一体何を、語れるというのだろうか。

 

「──それで」

 

 そんな私に問いかけるように。

 彼の言葉が、私の心にするりと滑り込んできた。

 

「それで、よろしいのでしょうか」

 

 

 11.

「それで、よろしいのでしょうか。……島村さん」

 

 弾かれたように私は振り返り、彼の姿を認める。

 代わり映えしないスーツに冬用のコートを着込み、いつも……というほど顔を合わせてはいないけれど。それでも、より険しい表情がそこにはあった。

 それが、どうしようもなく私を責めているような気がして。やはり、彼から視線を逸らしてしまう。

 

「あ……え、えっと……いっ、どうして、ここに……?」

 

 吃りながらも私はそう問いかける。彼からの質問から目を逸らすように。

 そんな私の苦し紛れの問いかけにも、彼は愚直にも答えた。

 

「……島村さんには言っていませんでしたが、本日は私だけではなく、二人で待ち合わせに向かう……その予定でした。その……会わせたい方が、いましたので」

 

 言いつつ、彼の視線が私の向こうを一瞥した。

 私が何も知らない少女であったなら『誰でしょう?』と小首を傾げながら訊くのであろうが、私にはおそらく彼女──渋谷さんであると推測できる。

 

「そ、う。だったん、ですね」

 

 アイドルを夢見ていた少女と、そんな彼女に憧れた少女。

 元々を考えれば、彼のその判断はある種慧眼であったと言えるだろう。今回は、二人ともアイドルの道など考えてもいないのだから、愚の骨頂であるとしか言いようがないが。

 それとも、何か考えでもあったのだろうか。

 その考えに関して考え始める前に、彼からの質問が飛んでくる。

 

「……お二人は、お知り合い……だったのですか?」

「いえ、ライブの時以来で……今会ったのも、偶然で……その、本当に」

「……なるほど。では、島村さんはなぜこちらに?」

 

 私はその質問には沈黙をもって答え、代わりに持っていたパンフレットを口元まで持ってくる。

 それを見た彼に理解の色が浮かんだことを確認して、それから私は苦笑しながら口を開いた。

 

「何か、手がかりになるかなって。そう思ったんです」

 

 でも、と続けて。

 

「やっぱり……私はアイドルにはなれません」

「……それは、どうしてそうお考えになられたのでしょうか」

 

 彼の言葉に、思い返す。

 公園に来る前に立ち寄ったスクールのことを。

 くたびれ果てた、何者もいないレッスンルームを。

 例えるなら。言うならば、あの場所は──

 

「──夢のあと、だったんです」

 

 兵どもの、ではないけれど。

 汗と努力と、それから涙。そういった感情が染み込んだ部屋。歓喜と悲観、どちらが多かったのかなんて、比べるだけ意味のないことだろう。

 『いつか、きっと、私も』。そこにいた誰もが、最初はそんな想いを抱いていたに違いない。

 そんな場所を見て、あったであろう光景を夢想して。

 

「私には無理だなって。そう思いました」

「……なぜ、そうお思いに?」

「だって、そうだと思うんです。案内してくれた人が言ってました、今は私ぐらいの子はいないって。つまりそれって」

 

 私ぐらいになるとみんな辞めていく、ということだ。

 その場にいなかった私にはどれだけの想いで、どれだけ努力したのかはわからない。

 しかし生半可なものではなかった、ということだけはわかる。誰もが本気で、夢を追いかけていたというのはわかる。

 だが、それだけ努力を重ねても、階段を登っていけるのは一握り。その中に、おそらく私は入れない。

 

「だからやっぱり、私は無理だろうなって」

「……島村さん。今一度、答えを聞かせてください」

 

 ──本当に、それでよろしいのでしょうか。

 私の独白をただ聞いていた彼は、再び私に同じ問いを投げかけた。

 

「私には……その。今の話を聞く限り、意志が無いように感じられました」

「……意志」

「……はい。島村さんは……そう。諦めようとしている。自身に言い聞かせようとしている。私には、そのように見えます」

 

 とす、とナイフが刺さる。

 世界が歪む。思考が乱れる。

 否定しなくては。その強迫観念に追われ、言葉を絞り出す。

 

「っ、……そんな、ことは」

「あります」

 

 すべてを言い切るより先に、彼は断言する。そして次なる質問を私にぶつけてきた。

 私にとっては致命傷となりえる、その質問を。

 

「島村さん、あなたは──」

 

 『一体、何に怯えているのですか』。

 その質問に、私の呼吸は止まった。

 

 

 12.

 喉を奪われた。頭を砕かれた。心臓を抉られた。

 そのぐらいの、精神的負傷。

 

 怯えないわけがない。

 恐れないわけがない。

 諦めないわけがない。

 

 私にとって『シンデレラガールズ』、殊更アニメ版は、私の私生活を大きく変えてくれたと言ってもいい、久しく夢中になれる何かであった。

 二期でそれぞれが成長を果たしたシンデレラ達。その後での『M@GIC』はもはや、感無量だ。終わった後暫くの間は虚無感で心がいっぱいだったほどである。

 最も大きく心が揺れたのはやはり彼女についてであるが、『シンデレラガールズ』そのものの物語も私は愛していたし、今でも愛している。

 

 私が仮にアイドルになったとして、そこに未来はあるのだろうか。星はそこに輝けるのだろうか。

 『シンデレラガールズ』を誕生させることができるのだろうか。

 否。できるわけがない。何せ私は『島村卯月』でなく、そして特別なものを持たない、ただの凡人であるのだから。

 

 私はあの物語を愛しているものとして、怖い。

 私が本物でないからこそ起こってしまうことの全てが、恐ろしくてたまらない。

 

 私に『渋谷凛』の心を動かすことなどできない。そうなれば、もしかしたら13人でシンデレラプロジェクトが始まるかもしれないし、他の補充要員を加える可能性もある。そこから先は、もう既に知らない世界だ。

 それならば。自身がアイドルになりえない、凡人であることを理解している人間がその場にいなくても変わらないだろう。むしろ途中で自身がドロップアウトしてしまう可能性がなくなる分、ならないほうがいいまである。

 故に私は諦めた。そして万が一にもアイドルになろうなんて思わないようにアイドルを遠ざけた。

 

 それを断片的ながらも見抜かれるなんて、思ってもみなかった。

 流石に彼は一プロジェクトを一任されるほどの実力を持つ、一流のプロデューサーなのであろう。慧眼にもほどがある。

 ただ一点を除いては。

 

「……どうして」

「……」

「どうして、私、なんですか?」

 

 ずるいとわかっていながらも、昨日聞けなかったその質問を投げかけずにはいられない。

 星の数ほど、ではないけれど。アイドルになれる素質のある人間はこの世界に沢山いる。『島村卯月』レベルとは言わずとも、346プロダクションに未だ所属していない原作アイドルはまだ多々いるだろう。

 それなのに、『島村卯月』ではない、彼女にあるものを持っていない島村卯月()を彼は選んだ。その理由こそを、知りたい。

 

 少し、ほんの少しの間をおいて。

 私の問いに、彼は短く答えた。

 

「……『笑顔』、です」

 

 合わせて、心臓が一つ呼応する。

 ああ、嗚呼(ああ)。やはり、それなのか。

 よりにもよって、それを理由にするのか。

 私が一番持っていないと自覚しているものを、貴方はあるというのか。

 

 私は彼のその答えに自嘲(じちょう)して、小さく首を横に振る。

 

「私に、そんなものはありません。……いえ、そもそも。私は、何も持っていないんです」

 

 思い出すのは、私の知るアイドル達。

 この世界では既に活躍している無印アイドルマスター陣を始めとして、DS、ミリオンライブの彼女たち。

 もう既に一角の存在となっている、或いはこれからなるであろうシンデレラガールズ、シャイニーカラーズ。番外として、SideM。

 最後に、この世界には存在しない一人の女の子。

 

「私にとって、アイドルは特別な存在なんです」

 

 喜んで怒って、泣いて笑って。彼女達(アイドル)私達(プロデューサー)に、様々な感情を届けてくれた。

 それは、普通の人間では決して起こすことのできないこと。

 故に、特別。

 

「自分の中にある特別な『なにか』を他の人に分け与えることのできる……そういうものなんだって」

 

 それは、例えば感動的な歌唱力である。

 それは、例えば圧倒的なビジュアルである。

 それは、例えば情熱的なパフォーマンスである。

 

 

 それは、例えば──あらゆる人々を魅了する、無敵の笑顔である。

 

 

 彼女達それぞれの『なにか』をそれらに乗せることで、見ている者達に夢や希望、憧れや想いを、或いはそれらのかけらを届ける。

 その『なにか』は人によって変わるものだけれど。それでも、基本的にはその『なにか』に対して人一倍情熱を持ち合わせていることがほとんどだ。

 最低、その二つ。『なにか』と、それを送り届ける『手段』。それがなければアイドルとして不適格であると私は考える。

 

「でも……私には、夢がないんです」

 

 心と身体がちぐはぐで。

 そんな私にできることはそう多くはなかった。

 故に私は、夢を見なかった。

 

「何かに対する憧れ、なんていうのも持ってなくて」

 

 前世を持つ私は夢よりも現実を知っている。

 特別な才能を持たない一端の凡人は分を弁えるべきだ。

 だからこそ私は、憧れなんて持ってない。

 

「将来何になるか、なんて考えてもなくて……だから私は、普通に卒業して、普通に進学して、普通に就職して、それから……普通に結婚なんかしたりして。私は、きっと普通(そんな風)に生きていくんだなって、ずっと思ってて」

 

 『笑顔』なんてもっての外、特別な『なにか』など何一つ持っていない。夢や憧れなど欠片もない。

 そんな私が一体どうしてアイドルになれるだろう。夢と希望に満ち溢れた『島村卯月(アイドル)』になることができるのだろう。

 なれるわけがない。

 だからこそ私は、『島村卯月(アイドル)』になることができないのなら、せめて『島村卯月(普通の女の子)』として生きようと。それが最低限の礼儀であると。

 ずっと前から、そう決めていた。決めていたのだ。

 だというのに。

 

「そんな私が、今更、アイドルなんて────」

 

 それから先の想いは、言葉にならずに溶けた。

 言わずもがな、である。いや、言葉にすらしたくなかったのかもしれない。

 胸の奥が、きゅっと締め付けられる。それから目を逸らすように、私は地面を向いていた瞳を閉じた。

 

「……たとえ空が(かげ)っていたとしても、そこに星は確かにあるように。島村さん自身が信じられなくとも、私は今でも、あなたの輝きを信じています」

 

 頭上から彼が語りかけてくる。

 しかし、私はそれに答えられない。私が言うべきことは全て言った、アイドルにはならない、なれるべくもない。

 仮になれる、なれたのだとしても。全てが、何もかもが、もう手遅れで。

 それこそ、今更──

 

「──今更なんて、ないんです」

 

 その言葉に、私は目を開く。

 視界の端に彼の革靴とそこから伸びるスーツが映る。

 それを辿るように少し顔を上げると、屈みこんで私に視点を合わせた彼の顔と向き合うことになった。

 

 また、一つ。彼の言葉に答えるように、心臓が鼓動した。

 彼の眼は、真っ直ぐに私を見据えているようで。

 

「どうか、今一度。自分自身を信じてあげてください。あなたの中にこそある可能性を、煌めきを」

 

 『笑顔』を、と。

 彼はそう締めくくると、身体を持ち上げて数歩下がった。

 

 私にないものを、彼はあるという。

 私は手遅れだと言うのに、彼はこれからだと言う。

 私は『島村卯月』ではないのに、彼は『島村卯月』になれると言う。

 

 それは、きっとどれだけ素敵なことだろう。

 それは、どれだけ素晴らしい夢なのだろう。

 

「……なれるん、でしょうか」

 

 知らず。

 そんな問いが口から()れた。

 

「私は、私でも……『島村卯月(アイドル)』に……なれるんでしょうか」

「──なれます。少なくとも私は、そう確信しています」

 

 『ですが』。

 彼はそう続けて。

 

「決めるのは、あなたです」

 

 それに対する答えを返せない。

 唇が震える。心臓が短く、激しく刻む。きちんと立てているのかさえわからない。

 砕けるのではないか、と思うほどに歯をかみしめて。まるで一世一代の告白をするかのような勇気を込めて。

 それでようやく、私は口を開くことができた。

 

「そうだったら、いいな……なれるんだったら、うれしいな」

 

 背に視線を感じる。

 私は振り返らない、振り返れない。しかし、その視線の主はわかる。

 『渋谷凛』だ。

 きっと、今の渋谷さんの眼を通して、私を『渋谷凛』が見ている。

 『こっちの私を置いて、あんただけそっちにいくの?』、と。その視線で語りかけてくる。

 

 否、これは幻想だ。今の渋谷さんも、元の『渋谷凛』もそんなことは言わない。そう選ぶのならと、ただ見守るだけだろう。

 だからこれは、私の被害妄想である。

 そしてそれは。私の妄想であるからこそ、無視できないもの。

 

 私は彼を見る。

 彼もまた、こちらを見ていた。

 

 彼の言葉を信じたい。私は彼女になれるのだという言葉を信じて、その手を掴み取りたい。

 『シンデレラガールズ』を壊さなくてもいいようにしたい、なかったことにしたくない。

 その想いは、きっと誰よりも強いものだ。おそらくは、『島村卯月』すら超えうるものだ。

 けれど。

 

「……時間を、ください」

 

 しかし、それでも。

 

「少し……考えさせて、ください」

 

 やはり私は、一歩を踏み出すことなどできなかった。

 自分を信じることなんて、できなかった。




ごめんなさい、サブタイトル詐欺です。
まだ、続きます。


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