『FE覚醒短編集』 (OKAMEPON)
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【ルフルキ(ルフレ♂×ルキナ)】
『望月に仰ぐ白虹』


□□□□

 

 

 

 

 ギムレーと相討ちにイーリスの神軍師ルフレがこの世から消えてもう直ぐ二年になろうとしていた時。

 彼の人は、再びこの世界に戻ってきた。

 

 消えたルフレを今も尚探し続けていた仲間達は、皆彼の生還を喜び、その中には時間を隔てた未来からやって来ていたルキナの姿もあった。

 ルフレ生還の報に、イーリス国内に居た者達は勿論の事ながら、フェリアにペレジアそして遠く海を隔てたヴァルム大陸に居た者達も、ルフレが滞在するイーリス王城へと駆け付けた。

 

 そして彼の生還を祝う宴は、ルフレ本人の意向もあり、嘗ての仲間達だけの内輪で、然れども賑やかに執り行われたのであった。

 

 

 

 

 

□□□□

 

 

 

 

 

 二年に近い時の隔たりを感じさせない程に、皆がルフレへと向ける態度は何一つ変わりなかった。

 その事に感謝しつつも、皆に揉みくちゃにされた上に幾人かにはどつかれた事については、一言二言申し上げたくはなるが。

 顔付きなどに二年の時の流れを感じさせる仲間達の顔を思い起こしながら、ルフレは苦笑を浮かべる。

 

 細やかなれど賑やかな宴が終わると、ルフレは有無を言う暇すら無く、嘗て使用していた王城の一室へと放り込まれた。

 どうやら、また勝手にフラリと消えるのではないかと危惧されているらしい。

 そんな事は無いのだが…………しかしそう思わせてしまう行動を自分は取ったのだから、ルフレはその扱いも甘んじて受け入れる事にする。

 

 二年もの月日が経っていると言うのに、部屋はルフレが使っていた時の状態そのままで。

 マメに掃除がなされていた事を示す様に、床や調度品は疎か、あちこちに積まれた本には一つの埃も落ちてはいなかった。

 

 ルフレは何時か帰ってくるのだと、クロム達が強く信じ続けていたからこそ、この部屋はそのままの状態に保たれていたのだろう。

 

 そんな気遣いに感謝の念を抱きながら、何時もの様に椅子に座って書類を確認していると。

 

 

「あの、ルフレさんはまだ起きてますか?」

 

 

 扉を控え目に叩く音と、何処か遠慮する様なルキナの声が聞こえた。

 ルフレが席を立って扉を開けた其処に居たのは、やはりルキナである。

 

 

「こんな時間にどうしたんだい?」

 

 

 ルキナはルフレの恋人であるのだから、部屋を訪れる事に別段問題は無い。

 だがこんな夜も更けゆく時間に、しかも何処か遠慮する様にしている理由は一体何なのだろうか。

 

 ルフレはルキナを部屋へと通し、取り敢えず椅子に座るようにと勧めた。

 それに素直に従ったルキナは、ルフレと向かい合う様に座る。

 何時もルフレを真っ直ぐ見詰めてくる強い意志を秘めたその眼差しは、何故か今は何処か不安そうに揺れていた。

 

 

 

 

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 ルフレとルキナは恋人同士だった。

 だが、正式な婚約はまだ交わしていないし、二年前ルフレはルキナの目の前で消滅して、つい先日クロムに発見されて目覚めるまでの間は死んでいたも同然であったのだ。

 

 目覚めた時、あの日から二年もの月日が経っているのだとクロムに告げられて、目の前が真っ暗になりそうになったのをルフレはよく覚えている。

 二年もの時が流れていれば、ルキナが自分に見切りを付けて他に愛する人を見付けている可能性は十分にあるのだから。

 例え二年前は確かに想いが通じあっていたのだとしても、時の流れとは残酷なものである。

 二年前のあの日から何も変わらぬ自分と、あの日から二年の月日を重ねたルキナ。

 双方の想いが今も重なると言う保証など、何処にも無かった。

 

 二年前のあの日。

 ギムレーを自ら討った事で自分の身体も崩壊していく中で、ルフレはただただルキナの幸せを願っていた。

 自分の事など忘れ、ルフレ以外に人生を共に歩める人を見付けて幸せになって欲しいと。

 逃れ得ぬ己の死を前にして願ったそれは、紛れもなくルフレの本心ではあったのだが。

 時間のズレは生じたとは言ってもこうやって奇跡的に戻って来れた時、『今度こそルキナを自分の手で幸せにしたい』という欲が生まれてしまったのだ。

 独占欲にも繋がるその身勝手で傲慢な欲をルフレは否定はしない。

 だけれどもルキナの幸せを願う気持ちは確かなのだから、もし彼女が自分の他に伴侶を見付けているのだとすればその幸せを自分が壊してはいけないのだと、ルフレは己に固く命じていた。

 それが何れ程、己の胸を深く切り裂く様な痛みを伴う選択なのだとしても。

 

 そんな悲壮な決意に心を苛まれていたルフレに、クロムは思わずルフレが己が耳を疑う様な事を告げた。

 

『ルキナも、お前をずっと探して待っている』、と。

 

 この二年間、跡形も無くこの世から消滅したルフレを探し続けてルキナは各地を旅していた。

 何時見付かるとも……そもそも生きて帰ってくるのかすらも不確かな恋人の事を、決して諦める事無く、ルフレは必ず帰ってくるのだと信じて、探し続けていたのだ。

 ルキナは父親であるクロムの居るイーリスを拠点としていたらしいが、少しでもそれらしい人物の噂を聞き付けると直ぐ様そこへ飛んで行き、そして淡い期待を裏切られた哀しみで憔悴した様に帰ってくるのを、この二年で幾度と無く繰り返していたのだと言う。

 そうルフレに語ったクロムの目には、その時の事を思い返したのか、遣りきれない想いが浮かんでいた。

 

 愛しいルキナにその様な行動を取らせていた事に、彼女をそこまで自身に縛り付けてしまった事への後悔と、そうやって彼女を悲しませ続けてしまった事への自己嫌悪と。

 そしてそれらと同等かそれ以上に強く、隠しきれない程の歓喜の念をルフレは感じた。

 

 狂おしい程に愛している相手が、二年の時の流れの中でも変わらずに己を想ってくれていたのだ。

 それがルキナを苦しめていたとは分かっていながらも、それを喜ばずにはいられなかった。

 殆と身勝手な事ではあるが。

 

 

 その後クロム達に連れられて王城に戻ったルフレを出迎えたのは、不安と期待とを綯い交ぜにした表情でクロム達の帰りを待っていたルキナであった。

 後から聞いた話では、どうやら王城に戻る際に立ち寄った街で、クロムはルキナ宛に緊急の知らせを飛ばしていたそうだ。

 それも、国家レベルでの緊急時にしか使わない様な超高速便で。

 ルキナがその知らせを受け取った時はイーリス王都からは少しばかり離れた場所に居たそうだが、直ぐ様王都へと取って返したのだとか。

 

 ルフレの姿をその目に映した瞬間、ルキナはルフレの胸に飛び込む様な勢いで、ルフレに抱き付いてきた。

 ルフレの存在を確かめる様に、縋り付くかの如く強く抱き締めてくるルキナの身体を、ルフレもまた抱き締め返した。

 俯きながら身を震わせて涙声でただただルフレの名を呼び続けるルキナに、溢れんばかりの愛しさが込み上げてきて、その頬へと手を添えた。

 その手に頬を擦り寄せる様にして顔を上げてルフレを見詰めてくるその目は、吸い込まれそうな深い青藍に薄く涙を浮かべていた。

 

 

「ルフレさん、……ですよね?

 本当に、本物のルフレさんなんですよね?」

 

 

 確かめる様に問い掛けるその声は、溢れ出そうな感情に震えていた。

 ルフレもまた、抑えきれぬ想いに声を震わせながら答えた。

 

 

「そうだよ、ルキナ……。

 ……ただいま」

 

 

 二年越しの奇跡で漸く叶ったその言葉に、双方ともに人目を憚らずに涙を溢しながら抱き合ったのだった。

 

 

 

 

□□□□

 

 

 

 

 その後は色々と大変であった。

 ひっきりなしに王城へと押し掛けてくる仲間達の事もその一つであったが、何よりも。

 ルフレはまるであの日からそのまま其処に飛ばされてきたかの様に、ギムレーとの死闘の中で負った傷も、何もかもがそのままの状態であったからだ。

 王城に帰るまでに、実際の距離から算出される本来の行程よりも時間が掛かったのもそれが原因であった。

 癒しの杖が惜しみ無く使われた為、傷はもう跡形も無い。

 だが、疲労といった目には見えない部分は如何ともし難く、暫しの療養を余儀無くされたのであった。

 その間に各地に散っていた仲間達がルフレに会うべくイーリスに集い、そして先の通りに宴となったのだった。

 

 フェリア王であるバジーリオにフラヴィアや、ヴァルム大陸の貴族であるヴィオールやサイリ、そして基本的に有事以外はミラの大樹の上にある神殿で眠っているチキまでもがやって来たのも偏にルフレの人望が成せる事だったのだろうか。

 まあ、ルフレと再会した仲間達全員から漏れ無く、あの日のルフレの選択を非難されたのではあるが。

 

 そんなこんなな事情もあり、こうやってルキナとゆっくりと向き合うのは、王城で再会して以来の事である。

 お茶か何かでも出してあげたい所ではあるが、生憎この部屋には宴の席で貰った酒と、水差しに入った酔い醒まし用の水位しか飲み物は無い。

 一旦城の厨房に何か貰いに行こうかと思ってルフレは席を立とうとするが、それをルキナは押し止めた。

 不安そうに揺れるその瞳に映っているのが確かに己である事に気付いたルフレは、彼女の不安の原因が自身にある事を悟ってしまい、内心で嘆息する。

 

 

「こうやって二人っきりになれるのは数日振りだね。

 さて、何かあったのかな?」

 

 

 ルキナが話しやすくなる様に、ルフレは努めて柔らかな笑みを浮かべて訊ねた。

 ルフレは自身の観察力に自信があるし、他人の心中を大まかながらも推測する事だって簡単に出来る。

 だけど、決してその心が読める訳では無い。

 故にルキナを思い悩ませているのが自分だとは分かっても、具体的にどの部分で不安にさせているのかは、分からなかった。

 その訳としては、心当たりが多過ぎる、と言うのがあるが。

 だからこそ、話して貰わなければ彼女の不安を解消させてあげる事も出来やしない。

 

 

「何か、と言う訳では無いのですが……。

 ……何時も、夢に見てしまうんです。

 ……ルフレさんが、消えてしまったあの日を。

 どうしてあの時私は、ルフレさんを止められなかったんだろう、と。

 ……一度は未来の為にあなたを殺そうとしておきながら、あの日の事ばかりを……」

 

 

 ……二年前のあの日のルフレの選択が、今もルキナを苦しめていた様だ。

 ルフレが還ってきても尚、……いや寧ろなのだろうか、ルキナは自分を責めていた。

 ルフレがギムレーと相討ちになる事を選んだ事だけでなく、以前クロムの死を……絶望の未来を回避する為に恋人であったルフレに剣を向けた事も。

 責任感が強く、何かと自責の念にかられ勝ちなルキナらしいと言えばそうなのかもしれないが。

 

 

「あのね、ルキナ。

 前にも何度も言ったけど、あの時僕に剣を向けたルキナの選択は、何も間違ってなんかいないんだ。

 実際、君の居た未来でクロムを殺してしまったのは“僕”だったんだから。

 君は、未来を変える為にここに来た。

 そんな君が、絶望の未来を回避する為に行動する事は、何も間違ってなんかいないんだよ。

 そして僕は、そんな君を支えると言っただろう?

 だから、もうあの事で自分を責めないであげて欲しい」

 

 

 俯いてしまったルキナの肩に手を置いて、ルフレはそう優しく諭した。

 

 

「それに、ギムレーを消滅させる事を選んだのは僕自身だ。

 そこに、君が責任を感じる必要なんて、無いんだ」

 

 

 だが、ルキナはその言葉にはフルフルと首を横に振る。

 そして、益々思い詰めた様な顔になってしまった。

 

 

「……違うんです、ルフレさん。

 ……私が、貴方に、あの選択をさせてしまった……。

 私が、貴方に剣を向けたから、貴方は自分を責めてしまった。

 ギムレーを滅ぼす為に、自分の身を犠牲にする様な選択をさせてしまった……。

 私の所為です、……私の、所為なんです……」

 

 

 ポロポロと涙を溢しながら、ルキナは懺悔するかの様にそう吐露する。

 

 ……ルフレが消えてしまってから二年もの間、ルキナはこんな想いを抱えていたのだろうか。

 恐らくはクロムや未来からルキナと共にやって来た仲間達はちゃんと諭していたのだろうけれど。

 それでも、ルキナは自分を責める事を止めなかったのだろう。

 

 ルフレは、あの日の選択を後悔はしていない。

 それが、仲間を何れ程哀しませたのだとしても、ルキナを何れ程苛んでしまったのだとしても、だ。

 ギムレーは何としてでも自分と相討ちに消滅させねばならなかった。

 そうしなければ、クロム達が戦ってきた意味も、ルキナが過去に跳躍してまで未来を変えようとした意味も、全て無くなってしまうからだ。

 

 だから、悔いる事があるとするならば、せめてもっとルキナと話しておくべきであった、と言う事であった。

 

 ギムレーをルフレ自らが討たねばならない理由を説明したとしても、クロム達に話せばきっと反対されていただろう。

 クロムがルフレに先んじて封印を決行していたかもしれない。

 なので、クロム達に正直に話すと言う選択はルフレには無く、騙し討ちの様にギムレーを討つしか無かった。

 

 だが、せめてルキナにはちゃんと話しておくべきだったのだ。

 理由をちゃんと話した上で説得すれば、きっとルキナならルフレの選択を受け入れてくれただろう。

 ……少なくとも、こんな風に自身を責め続ける事は、無かったのではないだろうか。

 

 

「違う、違うんだ、ルキナ。

 君の所為なんかじゃ、無い。

 あれは、僕自身の問題だったんだ。

 僕が“ギムレーの器”であったからこそ、僕はギムレーと相討ちにならなければ、ならなかったんだ。

 だからルキナ、そんな風に自分を責めちゃ駄目だよ」

 

 

 愛する人が自分の事で自らを苛み続ける姿を見るのは、ルフレにとっては耐え難い事であった。

 ルキナの頬を伝って零れ落ちる涙を、ルフレは右手でそっと拭う。

 その手の甲に呪いの様に刻まれていた“邪痕”は、今は跡形も無く消え失せていた。

 

 

「二年前のあの時、ギムレーは二体居たんだ。

 ルキナ達を追って過去へやって来たあのギムレーと、僕の中で覚醒の時を待っていたギムレーが、ね。

 僕の中に居たギムレーも、ナーガの封印は既に解かれてしまっていたから、復活してしまうのももう時間の問題だったんだ。

 あのギムレーを封印しても、僕の中のギムレーは封印されない。

 僕ごと封印しても、千年経てば再び甦ってしまう。

 しかも、今度は二体もね」

 

 

 一体だけでも、世界を破滅へと導いてしまったのだ。

 二体ものギムレーが甦ってしまえば、どうなってしまうのかなど火を見るよりも明らかだった。

 例えそれが千年の後に訪れる終焉なのだとしても、それを未来の人々に押し付ける事は出来ない。

 故に、封印は選べなかったのだ。

 

 だが、ルフレのその言葉に、ルキナは顔を青褪めさせた。

 

 

「私が、過去に来てしまったから……」

 

 

 身を戦慄かせて再び自身を責めようとしたルキナの肩を、ルフレは強く抱き寄せる。

 そして、抑えきれない感情に語気を僅かばかり荒くした。

 

 

「違う!

 ルキナが居なければ、未来は変わらなかった。

 僕はクロムを殺して、そしてギムレーになってしまってたんだ。

 それに、未来を変えようと君が過去に来なければ……。

 僕は君に出逢う事も出来なかったんだ。

 だからお願いだ、ルキナ。

 ……過去に来た事を、どんな理由であっても後悔だけはしないでくれ……」

 

 

 ルキナが過去へと跳躍した経緯は決して歓迎などは出来ないし、その未来を変える為にクロムもルフレも……仲間達皆が戦ったのだ。

 だが、そこにルキナの苦しみが……絶望に満ちた未来があったのだとしても、ルキナがこうやって過去へとやって来なければ、ルフレはルキナと出逢う事も無かった。

 手放しでは喜べない出逢いではあったのだしても、それをルキナに後悔して欲しくは、無い。

 

 ルキナは暫し俯いたまま、ルフレに抱き締められていた。

 やがて、ぽつりぽつりと言葉を溢す。

 

 

「怖いんです……。

 ルフレさんが、また……あの時の様に消えてしまうんじゃないかと思うと……。

 不安で、仕方がないんです……」

 

 

 あの日身体が消えゆく中で最後に見た時の様に、ルキナの目には、恐怖と後悔と哀しみと……言葉に出来ない様な感情が綯い交ぜに浮かんでいる。

 

 あの日、ルフレはそんな目をしていたルキナに何も言葉を遺せないまま消えてしまった。

 自分で選んだ結末であったとは言え、……彼女にそんな顔をさせたくは無かったが故に、それは消える間際に強い未練となったが。

 それでも、その時には既にどうにもならない程に身体の崩壊が進んでいたルフレには、もうルキナに想いを伝える術は無かった。

 

 だけれども、今は違う。

 ルフレは確かな実体を伴ってここに居るし、想いを伝える術だってちゃんとある。

 

 

「……消えないよ」

 

 

 ルフレはルキナを抱き締めていた手を離し、心なしか冷たくなっているルキナの手を、自分の体温で暖めるかの様に両手でそっと包んだ。

 強張っているその指先を、優しく撫でる様にして解きほぐす。

 そして、ルキナを安心させる様に微笑んだ。

 

 

「ルキナが僕を呼んでくれるのなら、僕はもう絶対に消える事は無い。

 例え何があったって、君の所に必ず帰ってくる」

 

 

 二年の時が過ぎてしまったとは言え、こうやってルフレがこの世界に戻ってこれた様に。

 

 

「あの時……。

 ギムレーを道連れに僕が消滅した後、僕は“何も無い場所”に居たんだ」

 

「何も……無い……?」

 

 

 鸚鵡返しにしてきたその言葉に、ルフレは一つ頷いた。

 

 

「そう、“何も無い”んだ。

 光も音も匂いも、身体も、時間さえも……何も無い場所。

 もしかしたらあれが死後の世界ってモノなのかもしれないね……。

 そんな場所に“僕”の意識は在った」

 

 

 時間の感覚なども何も無かった其処では、自分と言うモノは極めて希釈な“何か”でしかなく。

 それを意識が在ると言って良いのかは分からないが、そうとしか表現のしようがないのだ。

 

 

「ずっと微睡んでいる様な感じで、ハッキリとした意識は殆ど無かった。

 そもそも、自分が誰なのかすらも定かじゃ無かったんだ。

『帰りたい』とは何と無く感じていたんだけど、それが何処へなのかとかは全然分からなくて……。

 だから、ただぼんやりと微睡むしか無かった」

 

 

 でも、とルフレは続ける。

 

 

「どれ位微睡みの中で揺蕩っていたのか分からないけど、ある時、ふと声が聞こえたんだ」

 

 

 “声”と言う部分に、ルキナは僅かに肩を震わせた。

 

 

「声、ですか……?」

 

「そう、声。

『帰って来て下さい、消えないで下さい。

 ……私を置いて逝かないで下さい、ルフレさん』……ってね」

 

 

 微睡みに沈む中でも遠くから響いてきた様なその声を、ルフレは今でも思い出せる。

 それは、決して大きな声では無かったが、ルフレを微睡みから醒ますには十分だった。

 

 

「それって……!」

 

「あれは間違いなくルキナの声だった。

 そして、その声を認識した途端、微睡みから醒める事が出来たんだ。

『そうだ、僕はルフレだ。

 ルキナが呼んでる、早く其処に行かないと』ってね」

 

 

 微睡みから醒めたルフレの心にあったのは、ただただルキナの事だけであった。

 それは、消える直前に抱いた未練故の事であったのかもしれないし、どうしようもなく彼女を愛していたからなのかもしれない。

 

 

「でも、僕はその場所から動く事が出来なかった。

 ……身体も無く意識だけの存在だったからね。

 僕を呼び続けている君の所に早く行きたくて、でも動けなくて……。

 そんなもどかしい想いを抱いていたら、急に背中を蹴られたんだ」

 

「せ、背中を……?」

 

 

 唐突に出てきたそんな表現に、ルキナは少し目を丸くした。

 ルフレにもその気持ちは分かる。

 ルフレも、その瞬間は呆気にとられていたのだから。

 

 

「その時の僕は意識しかない存在だったんだけどね。

 誰かに背中を蹴られたと言うか、押されたと言うか……。

 まあ、それによってその場所から弾き出されたんだ。

 そして、気付いたら身体の感覚があった」

 

 

 身体の感覚が何も無かったのに、背を蹴られた様な気がすると言うのも不思議な話である。

 が、ルフレにはそうとしか表現は出来ない。

 それに、大事なのは押された事ではなく、その後の事であった。

 

 

「何が起きたか分からなかったけど、そのチャンスを逃す訳にはいかなかったからね。

 ルキナの声を頼りに、光が全く無い世界を必死に走った。

 走る内に、次第にルキナ以外にもクロムやリズ達が僕を呼ぶ声も聞こえ始めて……。

 そして、気付いたら僕はクロムと初めて出会ったあの草原に倒れていた」

 

 

 ルキナの居る場所では無く其処に出た理由は分からないが。

 

 

「ルキナが、僕をこの世界に繋ぎ止めてくれたんだ。

 皆が……君が僕を呼び続けてくれたから、僕はこうやって戻ってこれた。

 僕の事を呼び続けてくれて、僕を探し続けてくれて、ありがとう、ルキナ……」

 

 

 精一杯の感謝の想いを込めてルフレは言葉を紡ぐ。

 そしてルキナの手を包んだまま、ずっと前から……二年前だって心の奥に封じていたけれど本当は伝えたかった言葉を、今やっと贈る。

 

 

「こんなにも長く待たせてしまって、ごめん。

 一度は君を傷付ける様な形で消えてしまって、本当にすまないと思っている。

 だけど、君が赦してくれるのならば。

 どうか、僕がルキナと一緒に人生を歩む事を、許してくれないだろうか」

 

「ルフレ……さん」

 

 

 今にも泣きそうな顔をするルキナに、ルフレは言わなければならない事を更に続けた。

 

 

「僕は一度は完全にこの世界から消滅した身だ。

 でも、ギムレーと共に消滅した筈なのに僕は今ここに居る。

 僕はもう“ギムレーの器”ではないけれど、今の僕が“何者”であるのかは僕自身にも分からない」

 

 

 ルフレの肉体は、二年前のあの日に一度完全に消滅している。

 だからこそ、今ここに実体を伴って存在している“自分”が一体何であるのか、それはルフレ自身にも分からない。

 “人間”とは、最早呼べない存在になっているのだとしても、何もおかしくはない。

 ルキナとこうしてまた出逢えたのだから戻ってきた事を悔いたりはしないが、ルキナと人生を歩んでいく資格が今の自分にあるのかは、分からなかった。

 故にその判断をルフレはルキナへと委ねる。

 

 

「そんな僕でも、君を愛する資格はあるだろうか?」

 

 

 ルフレがそう訊ねると。

 ルキナは再びその目に涙を浮かべた。

 だが、その表情は穏やかで、月明かりに光る雫は何処までも透き通っている。

 宝石の様な輝きを映しながら頬を伝う様にして、涙はポタリポタリと、ルキナの手をそっと包むルフレの手へと滴り落ちていった。

 ルフレの言葉に、ルキナは緩やかに頷きながら声を震わせて答える。

 

 

「そんなの、……あるに決まってるじゃないですか。

 ルフレさんが何者であったとしても、私はルフレの事が好きなんです。

 私は、何時かはここを離れなければなりませんが……。

 それでも、叶うのならば、ずっと……ずっと貴方と一緒に居たい」

 

 

 二年もの間探し続けていた。

 時の流れが周りを少しづつ変えていく中でも、ルフレを変わらずに想っていた。

 見付かるのかなんて分からなかったが、それでも諦める事など出来なかった。

 ただただ……あの日消えてしまったルフレに、もう一度逢いたかった。

 ただその想いを胸に、ルキナはこの二年を過ごしていた。

 

 それは、ルキナが確かにルフレを愛していたが故に。

 

 

 ルフレが何時か戻ってきたとしても、本来はこの時間に居るべきではないルキナは、そう遠くはない未来にここを去る必要があるだろう。

 その時には、クロムの軍師であるルフレとは別れなければならないのかもしれない。

 何時か来るであろう別れの日を思う事は、胸を切り裂く様な痛みをルキナに与えた。

 

 それでも、ルキナはルフレを想う心を止められなかったのだ。

 それは奇しくもルフレがそうであった様に。

 

 

「ありがとう、ルキナ……。

 君が何処に行くのだとしても、僕はもう君から離れない。

 ずっと側に居る、ずっと君を支え続ける。

 そう、約束するよ」

 

 

 ルフレはルキナの唇にそっと触れるだけの口付けをする。

 そして指先を絡め、誓いを立てた。

 それに応える様に、頬を赤らめながらもルキナもルフレに口付けを返し、ルフレの鼓動を確かめる様にその胸元へと耳を当てる。

 

 

「ルフレさん、ずっとずっと……年を取るまでずっと一緒にいて下さい。

 もう、何処にも行かないで下さい……」

 

 

 それを愛し気に見詰めたルフレは、ルキナの腰に左手を回して抱き締め、そして再びその唇にキスを落とした。

 

 

「ああ、約束する。

 二人で、一緒に歳を重ねていこう。

 お爺さんとお婆さんになっても、僕はずっと側に居る。

 愛してるよ、ルキナ」

 

 

 ルフレの深い愛情と優しさが伝わってくる様なキスに、蕩けそうな程に幸せそうな笑みを溢しながら、ルキナは自分の左手を、空いてるルフレの右手と繋いだ。

 

 

「私も、愛しています。

 ルフレさんの事を、心から……。

 貴方は、私にとって世界で一番大切な人なんです」

 

 

 指先を絡める様に繋がれたその手から伝わる互いの体温に浮かされたかの様に、熱を帯びた視線が絡み合う。

 そして、互いを求め合う様に何度もキスを交わした。

 次第に激しさを増していくそのキスの応酬は止まる事を知らない。

 

 

 そんな恋人達の様子を、窓の外から射し込む月光だけが照らしていた。

 

 

 

 

□□□□

 

 

 

 

 ギムレーはこの世から消滅した。

 もう二度と、ルキナが経験した様な絶望の未来は訪れないのだろう。

 

 だけれども、それで全てが終わった訳では無い。

 争いの種は今日も何処かで蒔かれているのだし、何時かまた戦火が世界を覆ってしまうのかもしれない。

 悲劇が、嘆きが、大切な者達を襲うのかもしれない。

 

 未来は未知数だ。

 この先に何が起きるのか、何が待ち受けているのか。

 それはもう、未来からやって来たルキナにも分からない事だ。

 

 

 それでも、もう逢う事も叶わぬ筈の二人が再びこうして出逢えた様に。

 繋いだこの手を離さずにいれば、きっとどんな事だって乗り越えてゆける。

 何が起きるのか分からない未来を、二人一緒に歩んでゆける。

 

 

 それは、二人にとって何よりもの幸いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【Fin】

 

 

 

□□□□



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『譲れないもの、一つ』

◇◇◇◇

 

 

 

 

 それは春の盛りのとある日の事。

 聖竜ナーガの加護を受けるこのイーリス聖王国の王都は、何時も以上の活気に満ちていた。

 今日は、この国の第一王女ルキナの誕生日であるのだ。

 

 世界を滅亡に陥れようとしていた邪竜ギムレーが、初代聖王と同じくナーガの加護をその身に受けた当代聖王クロムと、彼が率いる勇壮なる仲間達によって討ち滅ぼされて早数年。

 当時はまだ物心も付いていなかった幼児であったルキナ王女は、偉大なる父と優しい母に見守られながら健やかに成長していたのであった。

 ギムレーの脅威も去った今、イーリス聖王国は末永く栄えていくのであろう、と民は皆心からそう思っている。

 

 が、そんな人々の想いや祝福とは裏腹に、イーリス城ではとある大騒動が巻き起こっていたのであった……。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

「ルフレさん、わたし、ルフレさんのお嫁さんになりたいです!」

 

 

 イーリスが誇る軍師ルフレは、その言葉に一瞬とは言えまるで刻が停まったかの様に硬直した。

 その驚愕の程を雄弁に表すかの如く琥珀色の瞳は大きく見開かれる。

 だが、そこは神軍師とまで讃えられた者の矜持なのか何なのか、一瞬後にはルフレの頭脳は再起動を果たし、現状を整理し打開するべくフル回転を始めた。

 

 

 そう今日は、ルキナの誕生日で。

 だからそのお祝いをしようと、イーリス城に妻であるルキナと一緒にやって来て。

 小さなルキナに贈り物と祝辞を述べた。

 すると、その直後に。

 小さなルキナがルフレの手を、まだ小さなその手で掴んで。

 そして、こう言ったのだ。

 

『ルフレさんのお嫁さんになりたい』、と。

 

 

 そこまで理解して、ルフレは心中で思わず呻いてしまった。

 どう返すべきなのか、と考えるより何よりも。

 小さなルキナの発言で同じく硬直してしまった周囲の、特に、俯いてしまったクロムと、ルフレの横に立つルキナが、その心中で何を考えているのか…………ルフレにとっては想像するだに恐ろしい。

 

 ルフレを見上げる小さなルキナのその瞳は、最愛の人と同じ色で輝いていて。

 まだ幼さが際立つ柔らかな頬は、熟れた林檎の様に赤い。

 ルフレが見詰め返すと、小さなルキナは照れた様に一瞬目を逸らすが、ルフレの手を掴むその手は離そうとはしないし、再びモジモジとしながらルフレを見上げてきた。

 

 微笑ましく可愛らしい幼い恋にルフレも笑みを浮かべたくなるが、それはその恋の相手が自分でなければの話だ。

 ルフレは既に愛する人が居る身であり、例えそれが少し時を隔てた同一人物であると言えるのだとしても、『そういう意味』で愛しているのは小さなルキナではなく、ルキナただ一人である。

 

 勿論、ルフレにとっては小さなルキナも大切な存在だ。

 その小さな手には幸せが溢れていて欲しいし、その未来には沢山の希望が輝いていて欲しい。

 そしてその名前の由来となった古い女神の様に、彼女もまた誰かに幸せや希望と言った“光”を与えられる様になって欲しい。

 何時か彼女が大人になったその時には、ルフレやクロムがそうであった様に、心から愛し合える人と幸せになって欲しい。

 

 が、ルフレにとって小さなルキナは、ただただ見守る様にその幸福を願い祈り守るべき存在であるのだ。

 そこに“愛”はあるけれど、ルキナに向ける“愛”とは全く別のものであり両者が同一のものになる事は有り得ない。

 何もかもを捨ててでもたった一人の幸せを願う様な、己の全てを焦がす程の苦しさすら伴う様な、激情とすら呼べるであろうそれが、小さなルキナに向く事は無い。

 

 結局ルフレには、この小さなルキナの気持ちを受け止める事は出来ても応えられないのだ。

 初恋を叶えてあげられない心苦しさはあるけれど、不可能な事は不可能なのである。

 

 だから、と。

 ルフレが口を開こうとした時だった。

 

 

「……さんぞ」

 

 

 深く、地の底から響く様な声がルフレの耳に刺さる。

 クロムだ。

 

 クロムは、ルフレが何れ程ルキナの事を愛しているのか知っている。

 だからこそ、万が一など起こり得ぬとは頭では解っているのだろう。

 が、それとこれとは話が別であるのもまた親心と言うものか。

 ルフレは覚悟を決めた。

 

 

「許さんぞ、ルフレ!

『お父様のお嫁さんになりたいです』とすら言って貰えてないのに、お前が先に言われる等と!」

 

「ってえぇっ!!?

 気にするのは其処なのかい?!」

 

 

 ルフレが予想していたものとは斜め上な方向に飛んだ話に、思わず大声を上げてしまう。

 

 

「黙れルフレ!

 お前に娘を持つ親の気持ちが分かって堪るか!

 ルフレと俺のどっちが好きかルキナに訊いたら、『る、ルフレさん……です』と頬を赤らめて答えられた俺の気持ちが!」

 

 

 そう言うなり、その時を思い出してしまったのかクロムは一気に落ち込む。

 茸でも生えてきそうなクロムの沈みっぷりに、責が無いとは言えルフレは罪悪感を抱いた。

 

 

「わ、分からないけど、取り敢えずごめん……」

 

 

 ルフレがそう謝る傍らでルキナが身をフルフルと震わせ、小さなルキナに掴まれていない方のルフレの手をグッと掴んだ。

 そして。

 

 

「る、ルフレさんは私のです!

 貴女にはあげられません!」

 

 

 ギュウッと、ルフレの腕を引きながらそう宣言する。

 

 

「うぅ……。

 ルキナお姉さんは、ルフレさんのおくさんであってお嫁さんじゃないじゃないですか!

 だから、わたしはルフレさんのお嫁さんになります!」

 

 

 ルキナの言葉に一瞬だけ怯んだ小さなルキナも、負けじとルフレのローブの袖口を掴みグイグイと幼いながらに手加減を知らない全力の力で引っ張る。

 どうやら、まだ幼いルキナは、“お嫁さん”と“奥さん”は別物だと認識しているらしい。

 

 

「だ、ダメです!

 ルフレさんのお嫁さんも奥さんも私だけです!」

 

 

 普段の落ち着いた態度などかなぐり捨てて、ルキナはルフレを離すまいとしがみつく。

 

 

「二人とも落ち着──」

 

「イヤです!

 だってルフレさんのことが大好きなんです!」

 

「私の方が、ルフレさんの事が大好きです!」

 

 

 取り敢えず落ち着いて貰おうとした言葉は、二人の言い合いに遮られた。

 二人とも、わたしが私の方がと主張しながらルフレを引っ張るのを止めない。

 

 最早こうなってしまっては渦中のルフレに成す術は無い。

 ふと目を向けた窓の外を鳥達が軽やかに飛び回っている。

 

(ああ、良い天気だな……)

 

 その場にフレデリクやリズ達が駆け付けてくるまで、ルフレはそうやって現実逃避していたのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

「すみません、ルフレさん……」

 

 

 騒ぎに何とか収拾が着いた後、ルフレとルキナは何と無く気まずい状態で家に帰った。

 ルフレとしてもどう切り出して良いものなのか分からず、つい沈黙に沈んでしまう。

 そんな中で、ルキナが述べたのは謝罪であった。

 

 

「ルキナ、別に謝る事でも無いよ」

 

「でも……。

 本当ならば、あそこは微笑ましく小さな私を見守るべきだったんです。

 だって、あの小さな私にとっての『ルフレさん』は、貴方だけなんですから……。

 なのに、私は……小さな私の細やかな初恋一つ、冷静に受け止められなかったんです」

 

 

 ルキナは自分の薬指に輝く指輪を見詰める。

 ルフレが愛を誓ったその証は、ただ一人、ルキナの為だけにそこに存在している。

 

 

「ルフレさんの気持ちは、分かっています。

 あの私に向ける想いは、慈しみとか……そんな感じのものである事も、分かってるんです。

 でも……、ほんの少しだけでも、あの私にルフレさんが盗られてしまうと思うと、とても冷静ではいられなくて……」

 

 

 ギュッと固く握り締めたルキナのその手を、ルフレはそっと包んだ。

 女性的な柔らかさの少ない、剣士の手だ。

 あの小さなルキナのものとは、とても遠い場所にある手だ。

 だけれども。

 絶望の未来で、そして未来を変える為にやって来たこの過去でも、ずっと戦い続けてきた事を雄弁に語るこの手が、ルフレは何よりも好きだ。

 

 

「良いんだよ、ルキナ。

 確かにちょっと驚いたけど、それでも、君にそこまで想われるのは悪い気はしない」

 

 

 ルフレだって、もしも……。

 そう、例えば。

 ルキナが居た未来の己がここに現れて、そしてルキナに求愛したら。

 きっと冷静では居られない。

 何がなんでもルキナを離さないだろう。

 例え、ルキナの心が揺るぎなく己に向いているのだと確信していたとしても。

 

 時間を隔てた同一人物であろうと何だろうと、譲れないものはあるのだ。

 

 

「……私は……、あの私からルフレさんを奪ってしまったんです。

 ……本当ならば、ルフレさんがあの私に使うべきだった時間を、向けるべき笑顔を、私は独り占めにしてしまった」

 

 

 その美しい瞳に深い苦悩が映る。

 ……ルキナは、何時もそうだ。

 両親が大好きで甘えたくて、それなのに。

 最早自分と同じ道を歩かないであろう過去の自分を想って、踏み込めない。

 今ここに生きている両親は、小さなルキナのものなのだから、と。

 その愛を僅かでも自分が奪ってはいけないのだ、と。

 そう言って、身を引いてしまう。

 

 ギムレーとの戦いが終わった後だって、そうだった。

 最早自分が両親の傍に居られる『理由』は無いと、何処かに身を潜める様に旅立とうとしてしまっていた。

 だからルフレは。

 ルキナが……いや、ずっと戦い続けてきたルキナ達が。

 その心の底に押し込めた望みを殺さないで済む様に、全力を尽くした。

 それが正しいとか間違ってるとかは、どうでも良い。

 ただただ、愛しい人の笑顔が曇る事だけは防ぎたかったのだ。

 

 

「僕が選んだのは君だ、君だけだ。

 奪うとか以前に、僕のこの想いは最初から最後まで君だけのものだよ」

 

「ルフレさん……」

 

 

 潤んだ瞳で見上げてくる最愛の人の唇に、ルフレは一つ口付けを落とした。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 ルフレが選んだのはルキナだけだと言うのはこの上無く正しい。

 が、それだけでは無い。

 ルキナがルフレを選び、望んだからこそ。

 ルフレはこの世界に居るのだから。

 

 

 

 ……ルフレはルキナを愛していた。

 仲間たちから距離をおくルキナを心配して、何かと気に掛ける様にしたのが始まりだったかもしれない。

 理由が何であるにしろ、ルキナと接する内にルフレの心の内には知らない想いが芽生え、それはゆっくりと成長し、やがて実を結ぶ。

 だが程無くしてルフレは自分が未来で何をするのかを知ってしまった。

 

 未来でクロムを裏切って殺した者。

 絶望の未来を作り出した張本人。

 それが、自分であった。

 きっと、自らの意志では無かったのだろう。

 でもそれは、何の言い訳にもならない。

 

 未来の禍根を断つ為に、と。

 ルキナが己にその剣を向けてきた時に、その目が苦悩に歪み哀しみに潤み、そして剣を持つ手がその心の葛藤を語る様に震えているのを見た時に。

 ルフレは想いを伝えるべきでなかったのかもしれない、と後悔した。

 もし想いを伝えていなかったら、ルフレの心の内に秘めておけば。

 今ルキナをここまで苦しめなかったのではないか、と。

 されども時は戻ることなく、やり直す事も出来ぬままに無情にも過ぎて行く。

 

 無抵抗に殺されるか、それとも抵抗するか。

 選べと迫るルキナに、ルフレは何も返せなかった。

 

 ルキナに剣を向けるなど、有り得ない。

 命を粗末にするつもりは無いけれど、それでも。

 泣きながら剣を向ける最愛の人の願いがそれであるのなら、その命を捧げる事に躊躇いは無かった。

 だがしかし、無抵抗に殺されたとして、その後ルキナが幸せになれるのかと考えた時に。

 ……恐らくそうはならないであろう、と結論に至ってしまった。

 この愛しい人は、災いの芽を摘んだだけだと割り切れる様な性格ではない。

 例え合意の上の殺害であったにしろ、ルキナは一生恋人殺しの罪を背負い自責の念に苛まれながら過ごしてしまう。

 ……ルキナの幸せを何よりも願うルフレとしては、それを看過する事は出来なかった。

 

 結局、ルキナが剣を取り落とし、クロムが乱入した事でその場は有耶無耶になったのだけれども。

 ルキナとルフレの間には、蟠りが生まれてしまった。

 一度は殺そうとした相手だからかルキナはルフレを避ける様になり、ルフレもまたそれを解消する術を思い付けないまま、ルフレは己に隠された更なる謎、“己が何者であるのか”と言う答えを知ってしまった。

 

 未来で甦り、世界を破滅に陥れた邪竜ギムレー。

 それが、自分だった。

 何れ未来の己が成り果てるのは、ルキナの仇であり、仲間たち皆の敵であった。

 

 それを知ってしまった時の絶望は、筆舌に尽くし難い。

 

 自分には、ルキナを愛する資格など無かった。

 ルキナを愛するなど、己には許されていなかったのだ。

 それでも。

 赦されざる想いだろうとも。

 ルキナを愛しく想う気持ちは止まる事を知らず、その心を焦がし続けた。

 

 ただ一つだけ、ルフレにも救いは残されていた。

 この命を使えば、今再び蘇ろうとしているギムレーも、この時間のギムレーも、どちらも葬り去る事が出来る。

 その可能性を示された時、ルフレの道は定まった。

 

 この身が消滅しようとも構わない。

 ルフレと共に生きる未来を望み、犠牲を拒むクロムを裏切る事になろうとも、構わない。

 

 ギムレーに止めを刺した時にルフレの心にあった想いは、ただ一人、ルキナのその未来と幸せであった。

 

 

『どうか幸せに。

 どうか君の未来に沢山の希望と幸せがありますように。

 ……また何時か何処かで君に出逢えるのなら、今度こそ僕が君を幸せに──』

 

 

 ルフレは、消え行くその手を掴もうと必死に手を伸ばすルキナに心からの笑顔を浮かべた。

 最後に紡いだ言葉は、ルキナに届いたのだろうか?

 それを確かめる術など無く、ルフレはこの世から消滅した。

 

 

 そう、消滅した筈だったのだ。

 

 

 だが、二年程の時が過ぎた頃。

 ルフレは再びこの世界に戻ってきた。

 

 

 それを最初に発見したのはクロムとリズであった。

 何時かの出逢いを焼き直したかの様に、草原に倒れたルフレを助け起こしてくれたその姿は、何時かのあの日よりも少し歳を重ねていて。

 

 状況が上手く飲み込めず記憶も混濁状態にあったルフレを伴って王城に帰還したクロム達を出迎えたのは、ルキナであった。

 

 ルキナの姿を目に留めた瞬間、溢れんばかりの愛しさが込み上げてきて。

 混濁していたルフレの記憶は、急速に整理されていった。

 そしてその勢いに突き動かされるままに、胸に飛び込んで来たルキナを抱き止めて。

 そして、後になって思い返せば恥ずかしくなる位に、ボロボロと涙を溢して、ルキナに縋り付く様にその身体を抱き締めていた。

 

「お帰りなさい」とか「ただいま」だとか、そう言う言葉も交わした気もするが、その時の記憶は今となっては定かではなく。

 それでも、ルキナの体温を確かに感じられた事がどうしようも無い程に嬉しくて、その愛しい声が自分の名前を呼ぶ事が嬉しくて、世界で一番大切な相手が自分を見詰めてくれている事が堪らなく嬉しかった事は、ちゃんと覚えている。

 

 

 二年間、ルキナはルフレを待ってくれていた。

 帰ってくるとすら約束しなかったルフレを、『人としての心が勝れば、或いは』と言うナーガの希望的観測の様な言葉を頼りに。

 帰ってくる、必ず帰ってくるのだ、と。

 信じて、ルキナは待っていた。

 帰って来た時に直ぐにルフレを見付けられる様に、と。

 ギムレーとの戦いの後も悩みながらイーリス城に留まり、同じくルフレの帰還を信じていたクロムと一緒にルフレを探しながら。

 

 

 ルフレが帰って来る事が出来たのは、そうやって信じて待っていてくれた人が居るからだ。

 ルキナが信じてくれたから、ギムレーの心に勝てたのだろう。

 ナーガが何も語らぬ以上真実を知る者は無いが、ルフレはそう確信していた。

 

 

 その後少ししてから、ルフレはルキナと正式に式を挙げた。

 身内だけの、細やかなものであったけれども。

 あの戦いを共に駆け抜けた仲間たちは皆集まって、ルフレとルキナを祝福してくれた。

 

 夫婦になってからも、本当に色々な事があった。

 ルキナや彼女と同じく未来からやって来た子供達が身を隠さずとも済む様な工作や根回しを、彼等の親と協力して敢行したりしたのもその一つだ。

 やった事がルキナにバレた時には少し悶着したものだが、今となってはそれも良い思い出である。

 何にせよ、未来から来た子供たちは今や誰もが皆好きな様に己の道を歩いていた。

 頻繁では無いものの時折王城に顔を出すルキナを、小さなルキナが『ルキナお姉さん』と慕う様になったのもこの頃だ。

 

 

 こんな泣きたい程の幸せをルフレにくれたのは、ルキナだ。

 ルキナが居てくれたから、…………ギムレーと同一であると言っても過言では無いルフレを、それでも愛しているのだと望んでくれたら、ルフレはここに居られる。

 

 だからこそ、ルフレはあの日の言葉通りに、ルキナを己の全てを賭けて幸せにすると誓ったのだ。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

「ね、ルフレさん。

 私の初恋は、ルフレさんだったんですよ」

 

 

 ポツリと、抱き締めた腕の中でルキナが呟いた。

 

 

「それは、……もう一人の僕の事?」

 

「はい。

 ……あの未来の、ルフレさんです」

 

 

 未来のルフレ。ギムレーと成り果てた己。

 過去にまでルキナを追い掛けてきた彼は、過去跳躍によって失った竜の力を再び取り戻し、この時間でギムレーとして復活した。

 

 彼を許す事は、出来ない。

 そこに“ルフレ”の意志が無かったにせよ、ルキナを苦しめその未来に絶望を落とした事は許せない。

 だけど、きっと……。

 

 

「……きっと、あの僕もルキナの事が大切だったんだね……。

 僕が、小さなルキナを大切にしているのと同じで。

 ……同じ僕だからね、何と無く分かるよ」

 

「そう、でした。

 あのルフレさんは、私にとても優しくしてくれて……。

 きっと、……憧れみたいなものだったんです。

 でも、本当にあのルフレさんの事が大好きだったんです」

 

 

 ルキナは、彼とのまだ幸せだったであろう頃の記憶に想いを馳せる様に目を閉じた。

 ルキナにそう想われていると言うだけで、少しだけあの自分の事を羨んでしまう。

 でも、ルキナの心の片隅に居る事を赦されるのは、後悔と絶望の中に沈み果ててしまったあの自分にとっては確かな救いになるだろうから。

 ルフレは少しだけ、あの自分に譲ってあげるのだ。

 

 でも、ルキナの初恋があの自分だろうと、ルキナの心はルフレのものだ。

 それだけは、誰にも譲れない。

 ルキナが過去から未来に至る全てで出会う人の中で誰よりも、ルフレがルキナを愛している自信がある。

 そして、あのルフレでは叶わなかったであろう事、ルキナを誰よりも幸せに出来る。

 

 

「ルキナ、お誕生日おめでとう。

 生まれてきてくれて、僕に出会ってくれて、僕を愛してくれて有り難う。

 愛しているよ、ずっと、誰よりも」

 

 

 

 

 

 

 

 

【Fin】

 

 

 

◇◇◇◇



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『現の狭間、悪夢の終わり』【上】

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 私は『あの人』の事を憎んでいた。

 

 お父様に誰よりも信頼されていた筈なのに、その信頼を裏切ってお父様を殺した「裏切者」。

 世界を絶望に落とした張本人であろう『あの人』を。

 私は、ずっとずっと恨んでいた。

 

 必ず帰ってくると、あの日私に約束した『あの人』は。

 同じく戦いに赴いたお父様と共に、二度とは私の元へ帰ってくる事は無くて。

 ……『あの人』が裏切者であったのだとは、お父様の仲間達は誰も言わなかった。

 だけれども。

 私が『あの人』の名を出す度に、誰もが皆が哀しそうに目を伏せ、「どうか君だけはあの人の事を憎まないであげてくれ」と、そう言うのだ。

 

 だからこそ、ああ、『あの人』が、と。

『あの人』がお父様を殺したのだと。

 そう私は確信して。

 絶望しか無い未来を変える為に過去へと跳んだ時に。

 その機会が来たら、未来の悲劇を変える為に、過去の『あの人』を殺すつもり……であった。

 

 

 だけれども。

 過去のお父様に自らの正体を明かし、そしてそれを受け入れて貰って軍に合流して、過去の『あの人』を見定めている内に、私の中に迷いが生じた。

 

 知れば知る程に、接すれば接する程に。

 …………何時かはこの過去のお父様も裏切るのであろう『その人』は……ルフレさんは。

 そんな事は絶対に有り得ないとも断言出来る程にお父様と強い絆で結ばれているのが、誰に言われずとも理解してしまった。

 もし裏切りを強要されそうになったら、お父様を害する位ならば、彼は迷わずに自害するであろう事も。

 ……それはきっと、この「過去」だけではなく、あの「未来」でだって、そうだったのだろう。

 だからこそ、「どうして?」と思わざるを得なかった。

 どうしてここまで強い絆で結ばれているのに。

 何故、あの「未来」は、私の世界は。あの様な絶望に満ちた終焉を迎えなければならなかったのか、と。

 

 私には、分からなかった。

 分からないからこそ、私はルフレさんを観察した。

 観察して、交流する内に、彼の心に触れる内に。

 私はいつの間にか、ルフレさんを想い慕い恋い焦がれる様になり、そして。何時か「終わりの時」が来ると分かっていながらも、ルフレさんと結ばれた。

 

 ……それでも、疑問の答えは見付からないままだった。

 

 あの未来の『ルフレ』さんは何を思っていたのだろう。

 何を願っていたのだろう……。

 ……そして、何故。お父様を裏切ったのだろう。

 

『ルフレ』さんとお父様の間にも、確かな絆があった。

 だから、その裏切りは、何かの誤解なのではないかと。

 憎しみを向けるべき相手では無いのではないのか、と。

 そう思い悩むけれども、私の答えは出ないままだった。

 

 

 

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

 

 

 

 くらいくらいやみのなかで。

 わたしは、ひざをかかえてなきじゃくっていました。

 

 やみはとてもふかく、わたしがないているこえいがいにはものおとひとつしません。

 どれだけないても、どれだけさけんでも。

 だれのこえもしない、だれのけはいもしない。

 だれも、たすけにきてくれない。

 ふかいふかいやみのなかで、わたしはひとりぼっち。

 

 じぶんのすがたもみえないやみのなかでは、じぶんがこのくらやみのなかにとけてしまったようにもおもえてしまい、とてもとてもこころぼそくなります。

 

 

 ── ここは、どこなのでしょう……

 ── ……わたしは、だれなのでしょう……

 

 

 どうしてじぶんがここにいるのか、そして『わたし』がだれなのか、わたしにはなにもわかりませんでした。

 なにもわからないわたしには、このやみのなかからぬけだしたくても、どこへいけばいいのかがわかりません。

 ひとすじのひかりすらもないやみのなかがこわくて、どうしたらいいのかもわからないまま、わたしはひとりぼっちのこころぼそさとふあんにひざをかかえなきじゃくるしかありませんでした。

 

 どれくらいそうしていたのでしょうか。

 

 ふと、とおくから。ちいさなちいさなひかりが、ゆっくりとこちらにちかづいてきていました。

 あわててだれかを、いっしょうけんめいにさがしているようにウロウロとさまようそのひかりにきづいてほしくて、わたしはいっしょうけんめいにこえをあげます。

 すると、やっとさがしていたものをみつけたように、そのひかりはまっすぐにわたしにちかづいてきました。

 

 

「ああ、良かった……どうにか間に合ったんだね……」

 

 

 よるいろのローブをきて、まぶかにフードをかぶったそのひとのかおは、わたしにはよくはみえません。

 だけれども、わたしをきづかうそのやさしいこえは、とてもとても……なつかしいきがするこえでした。

 とおくからでもみえていたひかりは、そのひとがひだりてにもっていた、ちいさなランプのひかりでした。

 

 

「ごめんね、遅くなってしまって……。

 ……大丈夫? 立てるかい?」

 

 

 そういって、そっとわたしにみぎてをさしだしてくるそのひとを、……わたしはしりません。

 それにそもそも、わたしは『わたし』がだれなのかがわかりません、そのひとがさがしていたのは、ほんとうにわたしだったのでしょうか? 

 だから、わたしは、そのてをつかまずに。

 そのひとにたずねました。

 

『あなたはだれですか?』『わたしはだれですか?』と。

 

 そうたずねると、だれかもしらないそのひとは、とてもあせったようなそぶりをみせます。

 

 

「まさか、もう名前まで奪われてしまっているなんて。

 もっと早くに僕が君を見付けられていれば……。

 ううん、今ならまだ、間に合う筈だ……」

 

 

 そういって、そのひとはフードをふかくかぶったまま、わたしにめせんをあわせるようにみをかがめました。

 

 

「君の名前は、『ルキナ』だ。

 その名前をしっかりと持ち続けるんだ。

 ……いいかい。このままこの闇の中に居続けては、君の心は遠からずこの闇の中に溶けて消えてしまうよ……。

 こんな場所にずっと独りぼっちなのは、寂しいだろ? 

 でも、大丈夫だよ。出口まで僕が案内するからね。

 だからね。ほら、行こう?」

 

 

 そのひとがおしえてくれた『ルキナ』というなまえは、とてもしっくりとわたしになじみます。

 

 そうです、わたしは『ルキナ』です。

 

 どうして、たいせつななまえなのに、ぜんぜんおもいだせなかったのでしょう。

 それに、やっとなまえをおもいだしたわたしは、なくしてしまったものがなまえだけではないことにもきづいてしまいました。

 

 むねのうちにふくらむふあんからそのひとをみあげると、そのひとはだいじょうぶだよ、とやさしくあたまをなでてくれます。

 

 

「君の大切なモノは、ほんの少しの間、闇の中で見えなくされてしまっているだけだよ。

 ここを抜け出せば、全て取り戻せる。

 ……大丈夫。僕が君を守るよ。今度こそ、必ず」

 

 

 そういってあらためてそのひとがさしだしてきたみぎてを、わたしはしっかりとつかみました。

 わたしのちいさなてを、そのひとはそっとつよすぎないようにやさしくにぎりかえしてくれます。

 

 わたしは、そのてをしっているきがしました。

 そのやさしさを、そのあたたかさを。

 わたしは、しっていたはずなのです。

 でも、やっぱりなにもおもいだせません。

 

 

「うん、じゃあ行こうか」

 

 

 フードのしたで、そのひとはわたしにそっとやさしくほほえんでくれました。

 

 ゆるくわたしのてをひいて。わたしのちいさなほはばにあわせるようにして。

 そうやってわたしのてをやさしくひく、そのてを。

 けっしてわたしをおいていかないようにとゆっくりすすむ、そのおおきなせなかを。

 わたしは、なぜだかとてもなつかしいとかんじます。

 それなのに、わたしはそのひとをおもいだせません。

 

 そうして、ランプのあかりだけをたよりに、わたしと、だれなのかもわからないそのひとは。

 くらいくらいやみのなかを、そのどこかにあるでぐちをめざしてあるきはじめました。

 

 

 

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

 

 

 

 稀代の名軍師だと、神軍師だのと謳われていても、自分は愛する人を助ける事一つ満足に出来ないのだ……。

 

 防げなかった自責の念と、何も出来ない無力感に苛まれ、ルフレは幾度目になるとも知れぬ溜め息を溢す。

 憔悴しきったルフレの傍らのベッドには、こんこんと眠り続けるルキナの姿があった。

 その姿はただ眠っているだけの様でもあるけれど……。

 だが、声をかけようが揺さぶろうが微動だにしないその眠りは、尋常のモノでは無かった。

 

 瞼を閉じれば、そこに焼き付いてしまったかの様に、戦いの最中に敵の呪術を受けたルキナが崩れ落ちる様にその場に倒れる光景がルフレの脳裏に甦る。

 

 あの時、あの瞬間。

 ルフレは少しルキナから離れた場所で前衛の兵達の指揮を取っていた。だからこそ、間に合わなかったのだ。

 何て事は無い戦いだと思っていた。

 ペレジアから流れてきたと思われる呪術師の攻撃は些か厄介ではあったが、傭兵崩れの野盗の襲撃など大した脅威では無く、実際戦いはルフレ達に優勢に進んでいて。

 そこに油断が無かったとは、言えない。

 

 ルキナから少し離れた場所にいた呪術師が何かを仕掛けたのが遠目に見えた次の瞬間に。

 ファルシオンを手に盗賊達を薙ぎ払っていたルキナが、糸を断ち切られた操り人形の様に動きを止めて。

 そして、力を喪った様にその場に倒れた……。

 

 その光景を目にした次の瞬間には、自身を囲んでいた敵を反撃すら瞬く間に全て斬り伏せて、ルフレはルキナに駆け寄って、その状態を確認した。

 息はあり外傷は何処にも無い筈なのに、抱き起こしても何の反応も返さないルキナに嫌な予感が広がって。

 ルキナに何かを仕掛けた術者を殺さず、咄嗟に生け捕ったのは、軍師としての勘の様な判断力故であった。

 

 そして一連の戦闘が終わった後、ルキナを呪術的に診てくれていたサーリャとヘンリーが。

 術者が所持していた道具とルキナの症状から割り出したルキナに掛けられた呪術の正体が、解除法の存在しない危険極まりない「禁呪」であるのだとルフレに告げた。

 

 例え術者を殺そうともその「禁呪」は解けず、外部から無理に干渉しようものなら、「禁呪」に囚われた者の魂は無惨にも砕かれ、二度と目覚める事は無いのだと……。

 

「禁呪」を解く方法は、ただ一つ。

「禁呪」の齎した闇の眠りに囚われた当人が、「禁呪」を破り目覚めるしかない。

 しかし、「禁呪」の闇によって少しずつ少しずつ記憶や名を奪われ……そして遠からず魂ごと闇に呑まれる中で、自力で「禁呪」を破る事は、熟練の呪術師であっても至難の業であるとも……ルフレは告げられた。

 

 そして。

 呪術自体にそう強い耐性がある訳では無いルキナでは、特に困難を極めるであろうとも……。

 

 ……それを、ルフレは、言葉も無く受け入れるしか……出来無かった。

 ……呪術に関してルフレよりもずっと才と知識を持つ二人が、手の施し様が無いのだと首を振るのだ。

 ……呪術の深奥に触れた事すらない自分には、きっと何も出来ないのであろう事はルフレにも分かっていた。

 

 だが、それでも。何もしない訳にはいかず。

 ほんの少しだけでも、きっと眠りの中で戦っているであろうルキナの力になりたくて。

 深い深い悪意の闇に囚われたルキナの孤独な魂に、少しでも寄り添っていたくて。

 

 眠り続けるルキナが静かに寝かされたベッドの傍らで。

 死んだ様に眠り続けるルキナの手を、必死に祈る様にルフレは握り続けている。

 

 

 ……だが、そんなルフレの必死の願いも虚しく。

 ルキナが目覚める気配は、一向に無いのであった。

 

 

 

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

 

 

 

 まっ暗なやみの中を、わたしたちはどれくらい歩きつづけていたのでしょうか。それは分かりません。

 わたしの手を引きみちびいてくれるその人は、歩きながら色々なことをわたしにはなしてくれました。

 

 それは、とおいむかしだれかからきいた事がある気がするおとぎ話だったり、だれかのお話だったりしました。

 わたしの手を引く、だれなのか分からないその人は、わたしのことについてもたくさん話してくれます。

 わたしがうまれた日のこと、はじめてわたしがその人とであった日のこと……。

 本当にたくさんたくさん話してくれました。

 わたしはやっぱりその人を知っている気がします。

 でも、どんなにがんばっても、思い出せないのです。

 

 その人がそうやって話してくれるたびに、虫くいだらけだった思い出がゆっくりとうまっていきました。

 それなのに、どうしても。

 その人のことだけはずっとモヤがかかったままです。

 知っている気がする人、でも知らない人。

 ……そんなふしぎな人。

 この暗やみの中で出会った時よりも、わたしのせたけはうんとのびて、めせんは近くなったのに、それでもその人のフードの下の顔は分からないままでした。

 

 

「あの」

 

 

 そうよびかけると、その人は足を止めずふりむきます。

 

 

「どうかしたのかい、ルキナ? 

 疲れたのならおぶろうか?」

 

 

 やさしくたずねてくるその人に、つかれたわけじゃないのだと首をよこにふりました。

 少しだけ「おんぶ」と言う言葉には心ひかれましたけれど、まだまだじぶんの足であるいていけます。

 言いたかったのは、そうじゃないのです。

 

 

「あの、あなたのことを、なんてよんだらいいですか?」

 

 

 その人のことを思い出せないわたしには、その人をなんてよべばいいのかわかりません。

 でも、よぶ名前もないのはとてもふべんですし、なによりとてもさみしいです。

 だから、わたしはそうたずねました。

 すると、その人は少しかんがえるようにだまって……。

 

 

「うーん……。じゃあ、『おじさん』でどうかな?」

 

 

 とこたえてくれました。

 

 

「『おじさん』?」

 

 

 なんどかつぶやいて、そのことばをたしかめてみます。

 まだなにも思い出せませんが、なぜだかそのよびかたはとてもしっくりきました。

『おじさん』とよびかけると、『おじさん』はうれしそうにそっとほほえみました。

 でも、そのえがおは少しだけさみしそうです。

 さみしいの? とたずねても、『おじさん』はやさしく首をよこにふるだけでした。

『おじさん』とのきおくをまだなにも思い出せないわたしには、なんでさみしそうにするのかはわかりません。

 わたしがきおくをとりもどしたら、『おじさん』がさみしそうにしなくてもすむのでしょうか? 

 そうだったらいいな、とわたしはおもいました。

 そうしてなのかは分からないけれど、『おじさん』のそのさみしそうなえがおを見ていると、むねが少しチクチクといたむような気がするのです。

 どうしてなのでしょう……。

 

 そのこたえはわからないまま、わたしは『おじさん』の手をしっかりとにぎりなおして、歩きつづけます。

 

 そんなわたしに『おじさん』は微笑んで。

 そして、やさしく手をにぎりなおして。

 暗いやみの中を、みちびいてくれるのでした。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 闇の中を歩き続ける内に、少しずつ少しずつ記憶が埋まってゆき、それと共に私は大きくなっていきます。

 最初はうんと見上げなければならない程の『おじさん』との背丈の開きも、少しずつ縮まっていきました。

 

 それでも、何れ程記憶が埋まっても、『おじさん』の事は何も思い出せないままです。

 お父様の事も、お母様の事も、仲間たちの事も、もうすっかり思い出せたのに。

 絶対に私は『おじさん』の事を知っている筈なのに。

 どうしても、『おじさん』の事と、どうして私がこんな場所にいるのかはまだ一向に思い出せないままでした。

 

 闇の中を『おじさん』の手と、その左手で小さな輝きを灯し続けるランプだけろ頼りに歩いていく内に、ふと後ろから誰かの声が聞こえた気がしました。

 私の名前を呼ぶその声に振り向こうとすると。

 

 

「駄目だよ。

 来た道は絶対に振り返っちゃいけない。

 何があっても、何に呼ばれても……。

 振り返ったら最後、この闇に永遠に囚われてしまう。

 ……ここはね、そう言う「決まり」の場所なんだ。

 ……でも、終わりの無い闇なんて、無い。

 進み続けていれば、必ず終わりに辿り着ける。

 だから、大丈夫。僕が必ず君をそこに連れて行くから」

 

 

『おじさん』は、その声から私を引き離すかの様に、繋いだ手を強く引いて。そしてとても真剣な雰囲気で、だけれども優しい声音で、私を諭しました。

 

 

「出口に少し近付いてきたからね、あっちも必死なんだ。

 きっと有りとあらゆる手段で、君をここに引き留めようとしてくる筈だ。

 でも、何があっても絶対に振り向いちゃいけないよ。

 僕を、……僕が握るこの手だけを、今は信じるんだ。

 大丈夫、僕が絶対に君をここから出してあげるからね。

 君には、帰る場所があるんだから」

 

 

 おじさんの言葉に嘘はありませんでした。

 だから私はそれに頷き、背後から囁く様に私の名前を呼び続ける声に耳を塞ぎます。

 何時までも何時までも私の名前を壊れた様に繰り返し囁いていたその声は、私たちに置き去りにされた様に次第に遠ざかって行き、やがては消えてしまいました。

 

 

 ……それからどれだけ歩き続けたのでしょう。

 また、私は名前を呼ばれました。

 今度は過ぎ去った後ろからではなく、前の方からです。

 懐かしく大好きな声によく似たその声に、思わず前を向いて深い闇に目を凝らすと、そこには。

 

 

 大好きな、ずっと逢いたかった「お父様」がいました。

 

 

「お父様」は、にこやかに笑って手を振りながら、「こっちにおいで、ルキナ」と優しく私を呼んでいます。

 思わず、『おじさん』の手を離して駆け寄ろうとした私を、手を離そうとした瞬間に『おじさん』の手が痛い程の力で掴み直して、それを押し留めました。

 

 

「……僕達の前に、よりにもよってクロムの姿を模して現れるなんて、……悪趣味極まりないね。

『その姿』なら、僕を揺さぶれるとでも思ったのかい?」

 

 

 静かに……でも心から激しく怒っている様に。

 だけど、それ以上にとても哀しそうに。

『おじさん』は唸る様に「お父様」を睨みました。

 

 

「ただの【呪い】のクセに、クロムの姿を取るなんて。

 そして、それでこの僕の前に現れるだなんて。

 ……良い度胸をしているね。不愉快だ、消えてくれ」

 

 

 そう言って少し足を止めた『おじさん』は、左手に持っていたランプを「お父様」に向けて振る様に翳しました。

 すると、まるで雪が溶ける様に、確かにそこに居た筈の「お父様」の姿は掻き消えてしまいます。

 そして何かの断末魔の様な声が、闇の中に響きました。

 それは「お父様」の声とは似ても似つかないもので。

 ……ああ、あの「お父様」は、紛い物だったのだと。

 そう私が理解するのには十分な程醜悪なモノでした。

 

 

「例え本物と似ても似つかない醜悪な紛い物でも、クロムの姿をしたモノを消すなんて……最悪な気分だ。

 ……もう、僕のクロムは……。

 ……いや、何でもない、じゃあ行こうか、ルキナ」

 

 

 苦しそうに、哀しそうに、今にも死んでしまいそうな程辛そうにそう呟いた『おじさん』を放っておけなくて。

 私は空いた右手でその背中を、そっと撫でました。

 本当は頭を撫でてあげたかったのだけれど、私では背が全然足りなくて手が頭に届かなかったのです。

 

 

「大丈夫ですよ、『おじさん』。

 きっとお父様は許してくれますから」

 

 

 例え全く同じ姿をしていたのだとしても、自分の偽物を消した事をお父様が咎める事は絶対に無いでしょう。

 そんな当然の事を思ってかけた言葉だったのに。

 どうしてだか『おじさん』はフードの下で今にも泣き出しそうに顔を歪めた気がしました。

 そして、私の手を握るその手が、小さく震えます。

 

 

「……赦して、くれるのかな……。

 ううん、あの時だって、クロムは……」

 

 

 泣かないで欲しかったのに、『おじさん』はポロポロと涙をこぼしてしまいました。

 フードから見えるその頬を伝って、『おじさん』の流した涙の雫は後から後から零れ落ちてゆきます。

 大人の人が泣いている所を余り見た事が無くて、どうしたら『おじさん』が泣き止んでくれるのか分からない私は、何も出来ずにおろおろするしかありませんでした。

 

 

「『おじさん』、大丈夫ですか?」

 

「……ごめんね、心配かけちゃったかな。

 うん、僕は大丈夫だよ。

 少し哀しくて……そして嬉しかっただけだから……」

 

 

 私を安心させる様に『おじさん』は微笑みます。

 でもその笑顔はとてもとても寂しそうで。

 それを見ていると、私の胸はまた苦しくなりました。

 視界は潤み、ポタポタと涙の雫が頬を伝って行きます。

 

『おじさん』が哀しんでいるのが、とても辛いのです。

『おじさん』は私の事を沢山知っているのだから、絶対に私は『おじさん』の事をよく知っている筈なのに。

 それなのに思い出せない事が、とても悲しいのです。

 そして、そんな『おじさん』が寂しくて哀しい気持ちなのに、何も出来ない自分がとても悔しいのです。

 私が黙ったままポロポロと涙を溢していると、『おじさん』は途端に狼狽えてしまいました。

 

 

「ごめんね、僕の所為……だよね……。

 駄目だな、君を哀しませたくなんて無いのに……」

 

 

 違うんです、と言いたくて。

 でもきっと言葉だけじゃ、ちゃんと伝わらないから。

 私は『おじさん』の手をギュッと握りました。

 

 するとおじさんは、驚いた様に少しだけ息を詰めて。

 私を安心させる様に、優しくフワリと微笑みます。

 そして。そっと優しく私の手を握り返して。

 何処かとても懐かしい声で、とても懐かしくて優しい歌をそっと歌い始めました。

『誰か』と一緒によく歌っていた筈のその歌を、私も『おじさん』につられる様にして思わず口ずみます。

 二人で歌う内に、涙はいつの間にか止まっていました。

 そして、『おじさん』と私は歌を口ずさみながら、また手を引いて引かれながら歩き出しました。

 

 前も見えない暗い闇の中を歩きながらでも、そうやって歌を歌うとどうしてだか気持ちが前向きになれます。

 思い出せないけれど何時か何処かで、私は『おじさん』とこうやって歌っていた事があったのでしょうか? 

 

 それは分かりませんが、でもきっと。

 その思い出は私にとってとても大切なものだったのだろうと思いました。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 深い闇の中を手を取って一緒に歌いながら歩いていく内に、更に私と『おじさん』の背丈の差は縮まります。

 二人で歌っていたからなのか、それとも歌う事で闇を怖いと思う気持ちが薄れてきたからか、「お父様」の偽者が現れた後に他の人の偽者が現れた事はありません。

 ……あれから闇の中を進む内に、更に沢山の記憶が戻ってきました。そして。思い出してしまったのです。

 

 ……もう、お父様もお母様も、生きてはいない事を。

 そして、邪竜ギムレーが復活し、この世界が絶望に包まれてしまった事を。私は、全て思い出しました。

 それでも、『おじさん』の事だけは何も思い出せません。

 私の心は、『おじさん』の事を懐かしいと感じています。

『おじさん』の手の温もりを、『おじさん』の優しい声を私は心の何処かで必ず知っています。でも。

 

 ほんの少しだけ、心の片隅で思ってしまったのです。

『おじさん』は、「本当に」私の記憶の中に居たのか? と。……そんな疑念を、懐いてしまいました。

 一瞬の疑念から、私はどんどん不安になっていきます。

 

 

『何れだけ歩いてきても、未だに何処にも出口なんて見えないでしょう? 本当に出口なんてあるのかしら? 

 本当に、『おじさん』は出口に案内しているのかしら?』

 

 

 耳元で誰かの囁き声が聞こえた気がします。

 確かに、もう随分と歩いている筈なのに、出口は遠目にも何処にも見えません。

 

 闇の中で孤独に震えるしかなかった私に手を差し伸べてくれたから、私は『おじさん』の手を取りました。

 出口まで案内してあげると言うその言葉を信じて、一緒に歩き続けました。

 

 でも、もし。

『おじさん』が、私の味方では無いとしたら。

 私を闇の中に閉じ込めようとしているのだとしたら。

 

 

『あんなにそっくりな「お父様」の偽物が居るのよ? 

『おじさん』だって、あなたの記憶の中の誰かを装った偽者なんじゃないかしら?』

 

 

 でも、『おじさん』は、「お父様」の偽物を追い払って私を守ってくれたのです。だから──

 

 

『それがあなたに信頼させる為の演技だとしたら?』

 

 

 その囁きに、息が詰まりました。

 何時しか私は歌を口ずさむのを止めてしまっています。

 そして、『おじさん』もまた、歌うのを止めていました。

 ランプの光だけが微かに揺れる闇の中に沈黙が落ちて。

 それでも『おじさん』は私の手を掴んだまま何処かを目指して歩き続けています。

 

 

『どうして『おじさん』はこんな闇の中でも迷わずに進んでいるのかしら? 

 出口を知っているのかしら? 

 本当は、出口に向かっていないのだとしたら? 

 あなたは、このままその手を繋いでて良いのかしら?』

 

 

 囁く声が止む気配は全くありません。

 その囁きは、じわりじわりと私の胸の内を、不安と疑念の色へと染めていきそうになります。

 

 思わず、『おじさん』の右手を掴んでいる自分の左手に目を落としてしまいました。

 私の手が痛くない様に、でも絶対に離さない様な絶妙な力加減で、『おじさん』の手は私の手を握っています。

 少しだけ私は、『おじさん』の手を握り返す力を緩めてしまいました。まだ、話す事は、出来ないけれど……。

『おじさん』は少しだけその手を気に掛ける素振りを見せながらも、何も言いませんでした。

 

 

『今なら逃げられるわ。

 その手を離して、来た道を戻れば良いの。

 そうしたら、ここから出られるのよ』

 

 

 耳元で囁く声は何処か急かす様にそう言います。

 どんどんと膨れ上がる不安に、私は『おじさん』と繋いだ手を、離してしまいそうになりました。

 するりと、手が離れそうになったその時──

 

 

 

「ルキナ」

 

 

 

『おじさん』は、静かに私の名前を呼びました。

 立ち止まらずに、だけど、歩みが遅くなった私に歩調を合わせる様にゆっくりと歩きながら。

 

 

「……きっと今頃、君には……君をここに留める為に、色々な『声』が聞こえているんだろう。

 きっと恐らく……『僕を信じてはいけない』とか、『この手を離して逃げろ』とか、『来た道を戻れ』とか、ね」

 

 

『おじさん』のその言葉に、私の耳元で囁いていた声が慌てる様にたじろぐ気配を感じます。

 それに気付いているのかいないのか、『おじさん』は静かに、私の手を掴んだまま、言葉を続けました。

 

 

「……僕を信じきれない気持ちは、分かるよ。

 僕も、絶対に信じてくれなんて、言えない……。

 君との約束を破ってしまった僕に、そんな資格は無い」

 

 

 だけど、と。

 確かな優しさと決意が響く声で、おじさんは続けます。

 

 

「僕は君をここから逃がしてみせる。

 この闇の中から、君が生きるべき世界へと……君を待つ人が居る世界へと、必ず帰して見せる。

 例え、君が僕を信じていないのだとしても。

 何があっても絶対に。今度こそ……。

 僕は、君を守って見せる」

 

 

『おじさん』はそう言って、私に振り向きました。

 振り向いたその瞬間、フードの下に、一瞬だけ『おじさん』の目が見えました。

『おじさん』の黄金色の瞳は、ランプの光でユラユラと揺らめきながら輝いています。

 そして、真っ直ぐに私を見詰めました。

 

 

「だから君を惑わそうとするその『声』に、耳を傾けて……心を開いては、駄目だ。

 その声は、君を捕らえ心を食らおうとする罠だから」

 

 

 そしておじさんは私の背後を強く睨み付けました。

 

 

「【呪い】如きに、ルキナの心は、魂は喰わせやしないよ。

 この子には帰るべき場所がある、待っている人がいる。

 そして、果たしたい『使命』も、あるんだ。

 さあ、いい加減ルキナを惑わせるのは止めて貰おうか」

 

 

 そう言って『おじさん』は。「お父様」の偽物を消した時の様に闇に向かってランプを翳します。

 

 すると、あれ程までにしつこく耳元で囁いていた声は、悲鳴を上げながら急速に遠ざかっていきました。

 声が完全に聞こえなくなっても、『おじさん』はランプを油断なく翳し続けます。

 そして暫し暗闇を睨んだ後に、一つ溜め息を溢して、『おじさん』は再び前を向きました。

 

 

「追い払えはしたけど、完全には消せなかったみたいだ。

 きっとまた、何処かで何か仕掛けてくるつもりだろう。

 だから、絶対に油断してはいけないよ。

 アレは君をこの闇の中に縛り付けて、君のその魂を喰らってしまうつもりなんだ」

 

 

 おじさんの言葉に、私は確りと頷きます。

 

 あの声が遠くに消えた途端に、あの囁きに耳を傾けていた時の自分の異常な行動をやっと実感出来たからです。

 あんなにも妖しい囁き声の言葉を、どうして信じようとなんてしていたのでしょう。

 そしてそれと同時に、『おじさん』に対して酷く申し訳無くなりました。

 

『おじさん』との記憶を思い出せないのは、決して『おじさん』の所為ではありません。

 なのに私はあの囁き声に唆されていたとは言え、ここまで導いてくれていた人を拒絶しようとしていたのです。

 見捨てられたって、文句は言えない行動でした。

 ごめんなさいと謝る私に、『おじさん』はゆるゆると首を横に振ります。

 

 

「そんな事で君が僕に謝らなくっても良いんだよ……。

 僕は、……僕の為にも、君を助けたいだけなんだ。

 これは僕の我が儘でもあるんだから、君が気にしなくても良い事なんだよ」

 

 

 そう言って寂しそうに微笑んだおじさんは、一瞬だけ私を通して誰かを見ていました。

 

 どうして、と。思わずそう訊ねたくて。

 でもその疑問は、言葉として口から出ていく事は決してありませんでした。

 

『おじさん』が、どうしてそこまでして一生懸命に私を助けようとてくれるのか。

 ……どうしてそんなにも寂しそうな顔をするのか。

 おじさんの事をまだ思い出せない私には分かりません。

 だけど。

 おじさんが深い深い哀しみを抱えながらも、それでも私の為に微笑んでくれているのは分かります。

 

 きっとその理由を訊ねる事は、『おじさん』の哀しみに満ちた心をより深く傷付けてしまうのでしょう。

 そう私は直感で理解してしまって。だからこそそれ以上は何も言えなくなってしまったのです。

 

 そして、そのままずっと。

 私とおじさんは手を繋いで歩き続けました。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 とてもとても長い間歩いてきた気がします。

 独り泣いていた私に『おじさん』が手を差し伸べてくれたあの場所から、随分と遠くまで歩き続けました。

 そして諦めずに歩き続けた先に、無限に広がっている様に思えた暗闇の終わりが見えたのです。

 淡く……でも消えない程度の確かさで、深い闇の中でもその一画に光が射し込んでいるのが見えます。

 

 

「やっと見えてきたね、あれが出口だ。

 あそこが、この闇が終わる場所だよ」

 

 

『おじさん』もホッとした様に、ランプを持つ手でその光を指差しました。

 そしてそのまま光へと向かって歩き続けます。

 

 

「あそこに行けば、ここから出られるのですか?」

 

「ああ、そうだよ。

 彼処に辿り着けば、この闇は『終わり』を向かえる。

 君は帰れるんだ。君の居るべき世界に」

 

 

「君は」、と言う言葉に、私は思わず『おじさん』を見詰めました。『おじさん』は、どうするのでしょう。

「君は」と言う事は、『おじさん』はあそこからはこの闇の中から出られないのでしょうか。

 そうなれば、おじさんはどうするのでしょう。

 この闇の中で、一人また別の出口を探して歩き続けるのでしょうか……それとも……。

 

 

「……僕は、もうそろそろお別れだ。

 あの出口は、君だけの為のものだからね……。

 僕は、そもそも彼処には近付けないんだ」

 

 

 私がジッと見ていたからか、『おじさん』は優しくそう言って再び光を指さしました。

 最初は遠目に一筋の光にしか見えなかった其処は、今は篝火に照らされた様に明るく私を待っています。

 でも、『おじさん』は、彼処からこの闇を抜け出せるのは私だけだと言いました。

 ……『おじさん』は、どうするのでしょう。

 

 そう思っていると、おじさんはふと足を止め、私もそれに釣られて立ち止まりました。

 出口の光までは、まだほんの少しだけ距離があります。

 

 

「……さて、僕とはここでお別れだ。

 大丈夫、ここまで来れば、もう心配はいらない。

 あの光に向かって、真っ直ぐに走れば良いだけだよ」

 

 

 そう言って、『おじさん』は。

 ずっと、この闇の中ではほんの一時も離さず繋いでいた手をそっと解いて。

 私の手と繋いでいた右手で、『おじさん』は優しく私の頭を撫でました。

 

 

「『おじさん』は……」

 

 

 どうするのかと、そう言いかけると。

『おじさん』はその言葉を抑える様に微笑みました。

 

 

「僕の事は、心配しなくても大丈夫だよ。

 ……この【呪い】の闇から抜け出しても、この先も君の身にはきっと色々な事が起きるだろう。

 その中には、辛い事や悲しい事も、きっと……。

 でも、それでも。

 君ならきっと、どんな事だって乗り越えられる。

 僕は、君の事を、よく知っているからね……」

 

 

 そう語る『おじさん』の目はとても優しくて。

 そしてお別れを少し惜しみながらも、それ以上に私を祝福する様に、大丈夫だよ、と私の頬に手を当てました。

 

 

「あの光の先には、君を待っている人達がいる。

 君を誰よりも大切に思ってくれている人がいる。

『君達』なら、きっと……。

 僕じゃ辿り着けなかった未来にだって、行ける筈だよ。

 少なくとも、僕はそう信じている」

 

 

 そして、『おじさん』はそっと私を抱き締めて、ポンポンと背中を優しく撫でました。

 背を撫でるその手の温もりはとても懐かしくて、でもどうしてだか泣きそうな程に胸を締め付けて。

 私は『おじさん』の身体を強く抱き締めます。

 

 

「僕は、何時だって……どんなに時が過ぎ去ろうとも、どんなに遠くに居ても、見えなくても触れられなくても。

 君の『幸せ』を、心から願っている。

 さあ、だからもう、行くんだ。

 何があっても、何が君を引き留めても。

 絶対に立ち止まらずに振り向かずに、あの光を目指して、この闇を抜け出すんだ」

 

 

 そう言って『おじさん』は、私の背中を光の方へと優しく押し出し、その勢いで私は光の方へと向かって一歩踏み出してしまいました。

『おじさん』が優しく見守る気配を背後に感じます。

 

 思わず『おじさん』へと振り返ってしまいたくなる衝動に駆られましたが、そこは必死に耐えました。

 そして、光へと向かって真っ直ぐに走り出します。

 それが、『おじさん』の願いなのだから。

 痕少しで光に指先が届きそうになった時でした。

「おーい」と、背後から『おじさん』の声が聞こえます。

 

 

「待って、ルキナ。

 伝えておきたい事がまだあったんだ。

 だから少しだけ戻ってきてくれないかな?」

 

 

 その声に、一瞬立ち止まり戻るべきかと考えました。

 でも、『おじさん』は確かに言ったのです。

 

『何があっても、何が君を引き留めても。

 絶対に立ち止まらずに振り向かずに行きなさい』、と。

 

 そう言った『おじさん』本人が、何かを本当に言い忘れていても私を引き留める筈は無いのです。

 そう、だからその声はきっと私を逃がすまいとした『何か』の罠だったのでしょう。

 そう判断した私は、その声を無視して進みます。

 するとその声は『おじさん』を装うのをかなぐり捨てて、私を引き留めようとしました。

 

 

「イクナイクナイクナイクナイクナアアアァァァァ!!」

 

 

 背後から必死に追い掛けてくるその言葉は呪詛そのものでしたが、最早そんな言葉には私は臆しません。

 

『おじさん』は、「大丈夫だ」と、私に言いました。

 あの光の先に、私が帰るべき場所が、私を待っている人が居るのだと、言ってくれました。

『おじさん』が私の未来を祈ってくれているのだから、信じてくれているのだから。

 私は、あの光の先に行かないといけないのです。

 

 

 そして一歩、光へと足を踏み入れた途端に。

 

 

 断末魔の絶叫を上げて追い縋る声は消滅しました。

 そして、視界一杯に拡がり、全身を包み込むかの様な光の眩しさに目を閉じていると。

 

 

 次第に薄れゆく意識の中で。

 優しい優しい声が、最後に聞こえた気がしました。

 

 

 

 

「さようなら、僕の……『小さなお姫様』。

 どうか君の未来が、幸せに満ち溢れています様に──」

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 ルキナの姿が光の中へと消えると共に、彼女を捕らえていたこの【呪い】の闇が罅割れ、急速に消滅していく。

 それを見届けた僕は、安堵から溜め息を溢した。

 

 ……程無くして、僕もこの闇と共に消えるのだろう。

 避け得ぬ絶対の自身の消滅を前にして……。

 僕はこの上無く満ち足りていた。

 

 瞼を閉じれば、自分の記憶の中の小さなそれから、大きく成長したルキナの姿が彩鮮やかに目に浮かぶ。

 力強く未来へと駆け出していったその姿が、眩いばかりにこの目に焼き付いている。

 

 僕は、あの子の未来を、守れたのだ。

 漸く、あの日破ってしまった「約束」を、今度こそ果たしてあげられたのだ。

 それ以上に価値がある事など、この世にあるだろうか。

 大切だった愛していた筈の何もかもを喪い、それどころか自ら壊してしまった僕でも、ルキナの未来を守り、明日へと繋ぐ事が出来たのだ。

 これ以上に嬉しい事はなく、そこに後悔も未練も一片たりとも存在しない。

 ただただ筆舌に尽くし難い程の充足感と、そして愛しい幼子が力強く未来へと生きようとするその姿に溢れんばかりの祝福を手向ける想いに満ちていた。

 

 

 願わくは。

 彼女が目指すその未来に、希望の光が輝き続けるよう。

 

 

 薄れ行き崩壊してゆく闇の中、僕は心から祈った。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『現の狭間、悪夢の終わり』【下】

読み易さの向上の為、分割しました。内容は変わって無いです。


◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 クロムをこの手で殺しギムレーと成り果てても、『僕』の魂は「完全には」消えなかった。

 ……消える事すらも許されなかったとも言える。

 

 だけれども、そこに救いなどは欠片も無くて。

 何も出来ず、ギムレーが僕が守りたかった全てを壊していくのを、ただ見ている事しか出来なかった。

 僕の姿で、僕の声で、僕の身体で。

 ギムレーは僕が愛していた全てを壊していく。

 それなのに、『僕』は何も出来ないのだ。

 

 ……仲間達が、ギムレーに囚われた『僕』の心と魂を解放しようと戦いを挑んでくるのを、止められなかった。

 逃げてくれと、例え遠くない未来に滅びがこの世の全てを覆うのだとしても、今日死ぬ必要なんて無いのだと。

 愛する者、守るべき者が居るのだから、どうか自分の命を守る事を考えてくれと。そう何度吼えて訴えても。

 ギムレーの内に囚われた魂の言葉など届く筈も無くて。

『僕』は、仲間達が成す術も無くギムレーの圧倒的な力の前に蟻の様に磨り潰されていく姿を、仲間達の遺骸をその魂の尊厳まで貶めようとするギムレーの蛮行を。

 何も出来ず、絶望に沈みながら、ギムレーの目を通して見ている事しか、出来なかった。

『僕』には、何も……何一つとして出来なかったのだ。

 

 ……それは、この世に生れ落ちた事自体……存在その物が罪であった僕への、罰だったのだろうか。

 

 地獄の責め苦の中で魂を砕き心を壊して、完全に狂ってギムレーと真実同化してしまえたのなら、いっそそれは救いであり安寧であったかもしれないが。

 存外図太い『僕』はその地獄を耐え抜いてしまった。

 怨嗟を絶望を慟哭を悲哀を、見届ける事しか出来ず。

 どうか誰かギムレーを──『僕』を殺してくれと祈り願いながら、ギムレーが全てを嘲笑う様に命を吹き散らして行くのを、その身の毛もよだつ様な悍ましい凶行を、その全てを、見せ付けられ続けてきた。

 それでも、狂ってしまえなかった。

 

 変えられない絶望に、止められない破滅に、終わらない地獄の責め苦に。次第に少しずつ少しずつ……「諦め」の様な感情がこの心を蝕んでいったけれど。

 どれ程苦しくても、耐え難くとも。

 それでも『僕』は、ギムレーの中で、何も出来ずただ見ているだけしか出来なくても、『僕』として在り続けた。

 それは決して『希望』でも何でもない。

 ただの「罰」でしかなかったけれども……。

 

 そして、ルキナを追って過去へ跳躍したギムレーと共にこの過去へとやって来て。

 この時間に本来居たかつての僕──『ルフレ』へとギムレーの記憶や心が混ざり合い流れ込み融け合うのと同時に、『僕』の魂の欠片もルフレへと流れ込んだ。

 ……流れ込んだと言っても、欠片でしかない『僕』は。

 ギムレーの内に囚われ続けていた時から何も変わらず、『ルフレ』に何か干渉する事も出来ずにその内からただ見ている事しか出来なかった訳なのだが。

 まあ、何であれ、『僕』は『ルフレ』と共に在った。

 

 誰よりも近くで『ルフレ』と共に「世界」を見てきた。

『ルフレ』の想いを感じながら、『ルフレ』の目を通して『世界』を……まだ滅びが訪れていない「世界」を見る事は、何も出来ない無価値で無意味な状態であっても、ギムレーの狂った破壊衝動と憎悪と歪んだ嗜虐の心を感じながら滅び行く世界を見続けるよりは、余程良かった。

 少なくとも、この『ルフレ』が『僕』の様な結末を辿らない事を、心から願い祈る事が出来る程度には。

 その願いは、『ルフレ』の前にルキナが現れてからも、そして『ルフレ』とルキナが互いに惹かれ合い結ばれてからも、変わらなかった。

 

『僕』からすれば、『僕』にとっての『小さなお姫様』と『ルフレ』が結ばれるのは内心複雑なモノがあるが。

 二人は確かに互いに想い合っているのだし、そもそも最早『ルフレ』と『僕』は違う人生を歩んだ他人である。

『僕』がその未来に苦言を呈する筋合いは無い。

 ルキナを幸せにしてくれるのなら、それで良いのだ。

 少なくとも『ルフレ』には、ルキナを幸せにする覚悟があるし、ルキナの為に我が身を捧げる覚悟もあった。

 誰よりも近くで見ていたのだから、全部知っている。

 

 まあ……恋愛事は『僕』には遠い感情や出来事であった為、誰かを『愛』した時に、「ルフレ」と言う存在は此処まで変わるのかと思うと、何だか不思議な感じになる。

『ルフレ』には過去の記憶が無いからこそ、新たに感じた「想い」や芽生えた「勘定」を、それが全てこの世で唯一無二の宝物の様に感じているのかもしれない。

 少々むず痒く感じる事はあるが……『ルフレ』がルキナを心から思っている事は間違いない。

 そして、……『ルフレ』と共に過ごしている時のルキナは、本当に幸せそうであった。

『絶望の未来』と成り果ててしまったあの世界では、クロム達を亡くし戦い続けるしか無かったルキナが、ああも幸せそうに微笑む事は出来なかったであろう。

 それを奪ってしまった『僕』が願う資格は無いけれど。

 散々『僕』の所為で幸せを奪われ続けてきたルキナが、この「世界」でやっと新たに手に入れる事が出来たその『幸せ』を、『僕』は心から祝福していた。

 

 僕と同じ存在である『ルフレ』との愛には、この先幾つもの障害が待ち受けているのは分かっていた。

 そこに『愛』があるからこその絶望もあるだろう。

 だが、『僕』には存在しなかったけれども、その絶望に終わらせる「選択肢」は……『ルフレ』には存在する。

 ……僕がその選択肢に気付けたのだ、その時が来れば、『ルフレ』も必ずその選択肢に気付けるだろう。

 その後は、『ルフレ』が仲間と繋いだ絆が、そこに在る願いが、その「選択」の結末を決める筈だ。

『ルフレ』の内からずっとその旅路を見守ってきたからこそ、『僕』は『ルフレ』とルキナならばその選択の先の結末をも乗り越えられると確信していた。

 

 だが、その矢先に、ルキナが【禁呪】に囚われたのだ。

 幾つもの生命を弄び喰らい合わせ縒り上げた歪な呪物を核とした、呪術自体が意思を持ち対象を喰らおうとする悪質極まりない【禁呪】に、ルキナは囚われた。

 このままでは、ルキナの魂が【禁呪】に跡形もなく食い尽くされてしまうのが『僕』には分かってしまった。

 だが、見ている事しか出来ぬ欠片でしかない『僕』に出来る事など……と。ルキナの手を握り締めながら自身の無力に打ち拉がれる『ルフレ』の成す内から、術も無い状況に絶望していたその時だった。

 

『ルフレ』が何も出来ずともせめて何かをしてやりたい一心でルキナの手を握り続けた其処に、【禁呪】に囚われたルキナの心の中へと繋がる細く儚い路が生まれていた事に、『僕』は気付いた。

 互いを真に愛し合い想い合う『ルフレ』とルキナの『想い』と絆が繋いだその路は……。

 魂の状態である『僕』になら往く事が出来る……だがしかし、その先に行けば二度と戻れない路だった。

 ルキナの心を【禁呪】から解放しても、『僕』は【禁呪】が創り出している闇の領域諸共消滅するしかない。

 

 だが、ルキナを助ける術が其処にあるのならば。

『僕』がそれを躊躇う理由なんて、何処にも無かった。

 

 元より『僕』は既に死んだ者、存在しない者だ。

 ここまでおめおめと、見ている事しか出来ぬ欠片として『ルフレ』の中に存在し続けてしまったのは、きっと今日この日にルキナを助ける為だったのだろうと。

 そう確信して、そして存在の意味を見付けて。

『僕』は、二度と帰れぬ路へと飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 思えばそこには、ルキナへの……そしてクロム達皆への、贖罪の気持ちが多分に含まれていたのだろう。

『僕』は赦されざる大罪を犯し、皆の命も何もかも……そして、ルキナの幸せな未来も全てを奪ってしまった。

 だからこそ、と言う想いがあった。

 大切なあの日の幼子を、今度こそ守るのだ、と。

 あの日交わした、『必ず、クロム達と一緒に帰る』と言う約束は、終ぞ果たす事は叶わなかったが。

『何処に居てもルキナを守る』のだと。

 あの時に交わしたもう一つの約束を、今こそ果たすべきなのだと、そう強く信じた。

 そして『僕』は自らの魂を燃やして灯したランプを掲げ、闇の何処かに囚われたルキナを探し始めたのだった。

 

 だが、【禁呪】の闇はあまりにも深く。

 ルキナと『ルフレ』の繋がりが【禁呪】に穴を空けた、この闇が終わる場所の方向は分かっても。

 深い闇の何処かに囚われている筈のルキナの位置は、全く分からないままだった。

 異物が侵入してきた事に「【禁呪】の意志」は警戒を強めているが、魂で灯された輝きに触れる事は叶わず、自らが作った心の闇の中から観察するだけだ。

 何処かに在る「【禁呪】の意志」そのものを殺せば、ルキナをこの闇から解放してやれるのかもしれないが、その場合、【禁呪】に捕らえたままのルキナの魂も道連れにされてしまう可能性もある。

 それに、この闇の中ではそれを闇雲に探し回る事も、また難しくそれならばルキナを探す方が先だ。

 

 ルキナの姿を探し続け、何れ程闇の中を彷徨い続けていたのだろうか。

 ふと、誰かの泣き叫ぶ様に助けを求める声が聞こえた。

 それは懐かしさすら感じる幼子の声で……。

「私に気付いて!!」と、全身で訴えている様なその声に慌ててその声の方向へと駆けて行くと。其処には。

 

 幼い……三歳にも満たない様な幼子の姿をした。

 ルキナが、膝を抱えて心細さに泣いていたのだった。

 

 この【禁呪】の闇の中では、次第に記憶が削り取られ、それに応じて魂が自分の姿を見失っていく。

 そして終には自らが「何者」であったのかも見失い、完全に【禁呪】の闇に喰われて消えるのだ。

 今のルキナには、多くてもこの姿をしていた頃と、同じ位の記憶しか残されていない。……そして。

 事態は、僕が思っていたよりも遥かに深刻であった。

 ルキナは最早、自分の名前すらも喪いかけていたのだ。

 

 ……「名前」とは、自分の根幹を成す柱だ。

 それを奪われると言う事は、その存在の全てを奪われる事にも等しい。故に、名前を奪われるのは想定していた事態の中でも最悪に近い事であった。

 だが、幸いにもまだ手遅れではなかった様で。

『僕』がその名前を告げると、直ぐにルキナは自身の「名前」を取り戻してくれた。

 どうやら「名前」が奪われてからそう時間は経っていなかったらしく、他者からの働きかけが有れば、それを自分の「名前」だと認識する事は出来たらしい。

 

 とは言え、「名前」をどうにか取り返したのだとしても、この事態が深刻である事には変わりがない。

 一刻も早くこの闇の中から解放してあげなくては、再びルキナは闇に囚われてしまう。

 だから『僕』は、ルキナのその手を取って、彼女を導く様に、この闇の終わりへと歩き出したのだった。

 

 そして歩き続けながら、削り取られ欠け落ちてしまったその記憶の欠損を取り戻し、少しでもルキナが【禁呪】の闇を振り払える様にするべく、『僕』は様々な事をルキナに語って聞かせ続けた。

 それは『僕』とルキナとの思い出話であったり、かつてルキナに語って聞かせたお伽噺や英雄譚であったりと。

 とにかく、ルキナの記憶の欠損を埋められそうなモノを、片端から語り続けたのだ。

 その甲斐あってか、少しずつだがルキナの記憶は埋まり始め、それに伴ってルキナの姿は成長し始める。

 まだよちよち歩きしか出来なさそうな姿から、少しずつ少しずつ……本来の魂の姿へと戻り始めていく。

 ……だが、何れ程ルキナに、『僕』との思い出話を聞かせようとも、『僕』に関する記憶だけはルキナは一向に思い出せないままであったのだった。

 恐らくは、僕がルキナを救出しに来た事を察知した【禁呪】の意思が、『僕』に関する記憶だけは取り戻させまいと抵抗しているのであろう。

 …………それに対して思う所が無い訳でも無いが。

『僕』が自分の意思ではなかったとはいえ、ルキナにしてしまった仕打ちを思うと、僕との思い出など……このまま忘れ去る方が、ルキナには幸せなのかもしれない。

 それに……『僕』がルキナに語ってあげられる彼女との思い出は、あの日……最悪の結末に終わった戦いに赴く前に、ルキナと約束を交わした時までの分しか無い。

 ルキナの記憶の中で、『僕』が占める部分などそう多くはないだろうから、……『僕』との思い出など、あっても無くても良いのかもしれない。

 

 思い出話を呼び水としてルキナの記憶が戻り始めると、まるで本のページを高速で繰っているかの様に。

 ルキナは、五つにも満たなかった幼子から、七歳頃のやんちゃな盛りだった頃の姿へと成長した。

 そして、『僕』が「ルフレ」として見届ける事が出来ていた限界の十歳頃の姿へと近付いていく。

 それに安堵しながら『僕』は、絶対にルキナの手を離さない様にと柔らかくもしっかりと握り締めて、遥か彼方の闇の途切れる場所を目指して歩き続けていた。

 

 ずっと歩き通しだったからか、ルキナはふと何かを言いた気に、「あの……」と声を掛けてきた。

 そう言えば、ルキナがまだ幼かった頃は、歩き疲れたルキナを負ぶって歩いた事が幾度もあったな……と思い出し、歩き疲れたのかとルキナに訊ねた。

 だが、ルキナはそうじゃないと小さな首を横に振る。

 そして、『僕』を「何」と呼べば良いのか、と……。

 そう『僕』に訊ねてきたのだ。

 

『僕』は思わず返答に詰まってしまった。

 ルキナにとっての『ルフレ』は、もう『僕』じゃないし、そもそも今更そう名乗る資格なんて『僕』にはない。

 だから。

 

「『おじさん』で、どうかな?」と。

 そう提案してみた。

 

 昔、ルキナがうんと小さかった頃に。

『僕』はルキナに『ルフレおじさん』と呼ばれていた。

 少し大きくなってからは、『ルフレさん』になったけど。

『おじさん』と呼ばれる度に、「まだそんな歳じゃないんだけどなぁ……」なんて言いながらも、それでも悪い気なんてしなくて……。

『おじさん、おじさん』と呼びながら僕にじゃれついてくるルキナを、僕は目一杯可愛がっていたのだ……。

 もう戻れない幸せな時間の、欠片の様なモノだった。

 その名を提案した事に、他意は無いけれども……。

 

『僕』に関する記憶は思い出せなくとも、『おじさん』と言う呼び名はルキナにとってはしっくりとくるモノであった様で。何度も確かめる様に『おじさん』と呼ぶルキナに、幸せだったあの頃の思い出の中のルキナの姿が重なって、それが小さな棘の様に僕の胸を刺す。

 ……だけど、もうどうしたって戻れない過去に、何時までも足を取られる訳にはいかない。

 だから『僕』はその痛みを押し殺して、ルキナの手を引いて歩き続けるのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 歩き続ける内にルキナは十歳頃の姿に成長していった。

 そしてふと、何かを気にする様に、ルキナは来た道へと意識を向けていた。

 

 ……この【禁呪】の質が悪い所は、一度抜け出そうとその終わりに向けて歩き始めたら、絶対に来た道を戻っても振り返ってもいけない事だ。

 立ち止まるだけならまだ何とかなるが、それでも。

 立ち止まる時間が長ければ長い程に、再びルキナが闇に絡め取られる危険性が増していく。

 故に、一度歩き始めたのならば、前だけを見て歩き続けなければならない。

 

 だが【禁呪】は、そう易々とはそれを許しはしない。

 あの手この手で、獲物を逃すまいと、ルキナを引き留め元の道を辿らせようとしたり、闇の終わる場所とは異なる方向へと拐かそうとしたりしてくるだろう。

 そう、例えば。

 後ろからその名を呼んだり、とか。

 

『僕』はあくまでもこの【禁呪】にとっては異分子であり、その標的としては対象外である。

 明確に標的を定めているからこそ強力な効果を齎す呪術は、その標的外に対しての鑑賞力は高くない。

 更には不本意ながらも『僕』はギムレーでもあるので、【禁呪】だろうとも人の手による呪術に害される事は殆どと言っても良い程に無いのである。

 だから【禁呪】は、何れ程『僕』の存在が邪魔であっても、『僕』に直接干渉して妨害する事は出来ないのだ。

 

 だが、ルキナは違う。

 ルキナは、こう言っては何だが、呪術に対しては元々かなり無防備でありそれへの耐性も無い。

 意志の力は並々ならぬものがあるのだけれど、単純に心が強いからと言って呪術を無効化出来る訳では無い。

 それに、今のルキナは、その記憶の多くを【禁呪】に奪われたままの状態である。

 どうしたって、優位性は【禁呪】の方にあった。

『僕』がこうして守っている以上は直接的に危害を与えてくる様な事は無いだろうが、ルキナ自身が足を止める様に間接的に誘導する位の事はやっているだろう。

 

『僕』には何も聴こえないが、ルキナの耳には自分を呼ぶ誰かの声が聴こえているのかもしれない。

 だから、「決して振り返ってはいけないよ」、と『僕』はルキナを諭した。

 この状況の異質さを肌で感じているからか、ルキナはそれに迷わずに頷き、『僕』には聴こえない何かの声を振り払う様にギュッと握る手に力をこめてくる。

 それに応える様に手を握り返して、『僕』達は先を急ぐ。

 

 まだ道程は遠いが、それでも着実に『僕』達はこの闇が綻ぶ場所へと近付いてきていた。

 だが──

 

 

 

「ルキナ」

 

 

 

『僕』の耳にもハッキリと聴こえた、その声は。

 ……もう二度と聴く事が出来ない筈の、「半身」の様に大切な友の……クロムの、その声だった。

 目指す方向とは全く逆方向の闇の中に佇むその人影は、限り無く『僕』の記憶の中のクロムの姿に似ていた。

 

 だが、何処まで似ていようともそれは、当然の事ながら本物のクロムではない。 

 本物のクロムならばこんな場所でその様な顔をしたりはしない、本物のクロムならばルキナを闇に捉える様に誘ったりなどしない。

 ……これは、どこまでも醜悪な、紛い物でしかない。

 

 クロムの姿をした「紛い物」は、笑って手招きしながらルキナを呼び、「おいで、さあおいで」とばかりに誘う。

 その姿に、吐き気を催す程の嫌悪感と怒りを覚えた。

 

 よりにもよって、クロムの姿を取って、ルキナの魂を喰らおうとするのか、と。

『僕』の逆鱗に触れる様なその行為に、『僕』は躊躇なくクロムの姿をした「紛い物」を跡形も無く消してやろうと、手にしていたランプを掲げた。

 悪夢の中で人の魂と心を啜るしか能の無い様な【禁呪】が作り出した「紛い物」が、ギムレーの魂の欠片で灯された光に抗える筈はなくて。

 仕留める事こそ出来なかったものの、「紛い物」はクロムの皮を放り捨てて絶叫を上げてその場から逃げ出した。

 

 ……醜悪な「紛い物」であったとは言え、クロムの姿をした存在をこの手で消してしまったのは、心底堪える。

 あの時の悪夢の様な現実がフラッシュバックし、消える事なく胸の内を焦がし続けている絶望と後悔が勢いよく燃え盛ろうとするのだ。

 

 哀しみに沈む『僕』を気遣ってか、ルキナは『僕』の背をそっと擦って。そして、「大丈夫です」と。

「お父様はきっと許してくれるから」、と。

 ルキナは、そう言った。

 

 …………ルキナが、『僕』の後悔や絶望を汲んでそう言った訳ではないのだろうとは分かっている。

 だけれど。

 ルキナのその言葉に、『僕』は僅かに救われた。

 

 ……そう、あの時だって、クロムは。

 僕に殺されたと言うのに、「お前の所為じゃない」と、そして僕だけでも逃げろ……と、そう言ってくれていた。

 それでも『僕』は僕を赦せる筈なんてなくて。

 クロムだって本当は赦していない筈なのだと、僕を憎んでいる筈だろうと、『僕』は自分を責め続けていたのだ。

 ……でもそれは、クロムに対する何よりもの裏切りでもあったのだと、そう気付いてしまう。だから。

 もう取り返しの付かない過去が、やり直したいのにやり直せず、謝りたいのにもう謝るべきその相手は何処にも居ない現実が、その何もかもが辛くて悲しくても。

 それでも、クロムが願ったのなら。

 

 ……『僕』は、自分を許さなくてはならないのだ。

 

 それはとても優しくて、……それでいて何よりも残酷な「願い」であった。

 ……『僕』は誰にも赦されたくなど無かったのだから。

 それでも……それでも……。赦さねばならないのだ。

 堪えきれずに、『僕』は泣いてしまう。

 今はルキナを導かねばならないのに、それでも気持ちが溢れてしまって涙が止まらない。

 そして『僕』が泣いていたからか、ルキナまでしゃくりあげる様に涙を溢し始めてしまった。

 

 ポロポロとルキナの頬を伝う雫にどうしていいのか分からず狼狽えながらも、ごめんねと謝ると。

 違うのだと首を横に振って、ルキナは僕の手を握る。

 その姿に、ふと昔の記憶が甦った。

 

 何時だったかなんてハッキリとはもう覚えていない、昔々のとある日の事だった。

 クロムの代わりに幼いルキナの面倒を見ていると、何故かルキナが突然泣き出してしまって。

 何が原因なのか分からなかった僕は、あたふたと狼狽えてあの手この手であやそうとしたけれど中々ルキナは泣き止んでくれなくて。

 でも、万策尽きた僕が苦し紛れに覚えたての子守唄を歌うと、途端に泣き止んで笑顔になってくれたのだ。

 それから、偶にルキナは僕に歌をせがむ様になった。

 オリヴィエを始めとして、僕よりもっと歌が上手い人なんて沢山いたと思うのだけれど。

 何故か、ルキナは僕の歌う声が好きだったらしい。

 だから時々、二人で歌ったりもしていた。

 ……きっと、ルキナはもう覚えていないだろうけれど。

 

 そんな懐かしくて愛しい「幸せ」な過去を思い出した『僕』は、昔ルキナとよく一緒に歌っていた元気が出る歌を口ずさんでみた。

 するとルキナも、記憶の片隅にその歌が残っていたからなのか、『僕』につられる様に歌い始め、ポロポロと溢れていた涙も何時しか止まる。

 

 昔と変わらないその姿に、『僕』は少し微笑んで。

 手を繋ぎ二人で歌いながら、「終わり」を目指し始めた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 もうそろそろこの闇の「終わり」を告げる光が見えてきそうになった頃には。

 ルキナはすっかり大きくなり、剣を手に取り世界を救う為に戦い続けていたあの頃の姿になっていた。

 

 ふと、何処か怯えを滲ませた目で、ルキナの手を繋ぐ『僕』の右手を見詰め、そして。

 僅かに繋ぐ力を緩め、終にはその手を離そうとする。

 迷いを表す様に小さくなったルキナの歩幅に合わせて、『僕』は歩くペースを落として。

 恐らくは、再び【禁呪】の誘いに魂を絡め取られそうになっているルキナに、静かに語りかけ。

 そしてルキナへと振り返って、『僕』の目には見えなくともそこに居るのであろう【禁呪】の意思を睨み付ける。

 途端に何かの気配がたじろぐのを感じたが、大切なルキナを害しようとするソレを、逃がしてやる様な慈悲を、生憎『僕』は最初から持ち合わせてはいない。

 だから躊躇無く、ランプの光でその闇を祓った。

 すると、その光に畏れをなした様に闇の中で何かが必死に僕から遠ざかる。

 本当は追い掛けて徹底的に潰してやりたい所だけれど、そんな些末な事に拘ってルキナを助け出す本来の目的を見失う訳にはいかない。

 だから、今度こそどんな誘いからも守れるよう、ルキナの手をしっかりと繋ぎ直して、『僕』はまた歩き始めた。

 

 暫しの沈黙の後、ルキナはポツポツと謝ってくる。

 

 どうやら、【禁呪】の囁きに耳を傾け、そして『僕』の真意を疑ってしまった事を気に病んでいるらしい。

 だが……そんな事はルキナが気にする必要は無いのだ。

【禁呪】の標的になっているルキナは、特にこの闇の中では容易にその悪意に絡め取られてしまうし、それを防ぐ事は難しく、それらは最初から分かっていた事だ。

 

 故に、「気にしなくても良い」、と『僕』は言ったのだけれども、ルキナの気持ちは晴れなかった様だ。

 

 折角自分を助けに来てくれたのに疑うなんて、と。

 そう落ち込むルキナの姿に、胸が痛くなる。

 

 ……『僕』がこうやって助けに来たのは勿論ルキナの為であるけれど、自身の贖罪の為と言うのも大きい。

 

 ……『僕』はクロムを殺してしまった。

 そして、ルキナが本来ならば生きるべき世界を……そして本当ならば待っていた筈の輝かしい未来を絶望に陥れ破壊してしまった……。

 だからこそこうしてギムレーからは解放されたのなら、せめてルキナだけでも……守り抜かねばならないのだ。

 だけれども、『僕』がどんなに励まそうとしてもルキナの表情が晴れる事は無かったのだった……。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 歩き続けた果てに、漸く闇の終わりの光が見えてきた。

 ルキナが彼処まで辿り着ければ、この【禁呪】は完全に破られ、ルキナは目覚める事が出来る。

 

 ただ……。彼処には、『僕』は近付けない。

 ギムレーでもある『僕』が彼処に近付いてしまった時に何が起きるのか未知数だからであるし、あれはそもそもルキナの為だけの帰り道だ。

 そこに、『異物』である自分が割り込めば、ルキナを害する結果になってしまいかねず。

 それでは本末転倒だからだ。

 

 ここまで来てしまえば、あの光に向かって走れば良いだけなのではあるけれど。

『僕』と離れた途端に、【禁呪】の意思は、最後の悪あがきとして、再びルキナに干渉しようとするのだろう。

 ルキナは、それを無事に振り払えるのであろうか。

 それだけが、どうしても気掛かりだった。

 だが……後はもう、ルキナが自分の力でその干渉を打ち払ってくれるのを信じるしかない。

 

 ……そして。

 ルキナの手を離さなければならない瞬間がやって来た。

 ……ずっと繋いでいたその手を離すのは少し寂しくて。

 でも、大きく成長したルキナと、……ギムレーとしてではなく、『僕』自身として……向かい合えたのは。

 本当に……本当に、幸せな事だった。

『僕』の心の中に居た、あの日の幼いルキナが、あの日よりもずっと、戦い続け歳を重ね続けてきた、気高く美しい女性の姿に書き換わる。

 

 ……僕は……ずっとずっとルキナの事を、見守っていてあげたかった。

 クロムと共に、愛され慈しまれながら、少しずつ少しずつ、日々成長してゆくその姿を見守っていたかった。

 だがそれは……叶わなかったのだ。

 他ならぬ僕自身の所為で。

 クロムも、愛娘の成長を見届けたかったであろう。

 皆も……我が子の成長を見守っていきたかっただろう。

 そして子供達も……親子との幸せな時間を、もっともっと望んでいた、必要だった。

 だが……それを全て、他ならぬ僕がこの手で壊した。

 僕が、その幸せを、奪ってしまった……。

 

 ……どれ程嘆いても、悔やんでも、決して晴れぬ絶望の闇の中でのた打ち回り叫んでも……。

 ……その事実を変える事は誰にも出来ない。

 ……そんな罪深い『僕』が、こんな幸せを感じても良いのだろうか、赦されるのだろうか、と。そう思うけど。

 それでも、この心が暖かな想いに満たされてゆくことは止める事など出来よう筈も無かった。

 

 そして、この暖かな心は、全て『祝福』へと変わる。

 

 ……『僕』はもう、ルキナと『ルフレ』が歩む未来を見守る事は出来ないけれど。それでも。

『僕』は心から信じている。願っている。

 愛し合い想い合う二人が、何時までも幸せである事を。

 その未来にどんな困難や苦難が待っていても、時に嵐に吹き飛ばされて離れ離れになってしまうのだとしても。

 それでも、何もかもを共に手を取り合って乗り越えていく事を、最後には共に幸せに笑っていられる事を。

 そして、『僕』が辿り着けなかった……クロム達と……仲間達と笑っていられる未来に二人が辿り着ける事を。

『僕』は信じているのだ。だからこそ、願い祈る。

 

 そして。別れの時が来た。

 これ以上の感傷は、これからの未来には不要だろう。

 だから……。

『僕』は、光へと向かってルキナのその背を押した。

 背を押されたルキナは一瞬躊躇うが、それでも振り返らずに光へと走って行く。

 光の中へと消え行こうとするその背中に、別れを告げながら『僕』は手を振った。

 

 

 

「さようなら、僕の……『小さなお姫様』。

 どうか君の未来が、幸せに満ち溢れています様に──」

 

 

 

 きっとその言葉は届いていないけれども。

 それでも良いのだ。

 

 闇は砕けて行き、それと共に僕も消えていく。

 それでも、怖いとは、少しも思わない。

 

 最後に、ルキナを守れたのだ。

 守りたかった子供を守り抜く事が出来て、そして成長したその姿をこの手で抱き締める事が出来た。

 

 本来は生まれるべきでは無かった、存在自体が罪であった『僕』には過ぎた、「幸せ」で価値ある最期だ。

 だから、悔いも未練も何処にも無い。

 

 

 

 ── どうか、君が幸せであります様に……

 

 

 

 そう願いながら、『僕』は目を──

 

 

 

 

 

 

■□■□■□

 

 

 

 

 

 

 

 ……ふと、目が覚めた。

 

 まだぼんやりとした視界に映るのは、見慣れた天幕で。

 背中に感じるのは行軍用の質素なベッドの硬さだ。

 

 

 ── 私は、一体……どうして、ここに居るのだろう? 

 

 

 状況が呑み込めず、直前の記憶を手繰ろうとする。

 

 

 ── 確か、私は敵と戦っていて、そして……

 

 

 ……そこから先の記憶は無かった。

 

 ……何があったのかは思い出せないが、目覚める直前まで見ていた夢は、今もハッキリと覚えていた。

 

 それは、長い……長い長い「悪夢」の様な夢であった。

 闇の中で独りぼっちの夢、……そしてそこに「誰か」が助けに来てくれた夢。

 あの夢の中でずっと手を繋いでくれていたのは、一体「誰」だったのだろうか……。

 

 ぼんやりとしたまま、ベッドから起き上がろうとして。

 そしてそこで、自分の左手を……まるで祈りを捧げる様に固く握る手がある事に気が付いた。

 

 ふと横を向くと、ルキナと手を繋いだままベッドに倒れかかる様にして眠る愛しい恋人の姿があって。

 見慣れた軍師としての格好のまま、目元に深い隈を浮かばせて、絶対に離さないとでも言外に主張するかの様にルキナの手を抱え込むようにして眠るそのルフレの姿に、訳が分からないまま一瞬混乱する。

 

 眠りに落ちているルフレの表情などからは、恋人同士の甘い雰囲気は欠片も無くて。

 戸惑いながらも軽く揺すっても、余程疲れが溜まっていたのか、何かに苦悩する様な表情を浮かべたままルフレは目を覚まさない。

 

 そしてふと、ルキナは。

 自身の左手を握るルフレのその手が、あの夢の闇の中で、ルキナを導く様にずっと繋いでくれていた「あの人」の手と殆ど同じであると気が付いた。

 

 ……いや、違う。

 あの夢の中の手は、『ルフレ』のものではあるけれど。

 今ルキナと手を繋ぎ眠るルフレのものではなくて──

 

 記憶の片隅に押し込められていた「何か」が、音を立てて開こうとしていく。そして。

 

 

 ── さようなら、僕の……『小さなお姫様』……

 

 

 目覚める間際に耳に届いた、今もこの心に残響の様に残るその呼び方に、最後の鍵が音を立てて外れる。

 そして、ルキナの記憶が急速に溢れかえった。

 

 昔、そう……お父様がまだ生きていた、ルキナもまだまだ幼かった頃に。

『小さなお姫様』、と。

 時々ルキナの事をそう呼ぶ人がいた。

 そしてルキナは、幼い当時はその人の事を、こう呼んでいたのだ。

 

 

 

『ルフレ「おじさん」』と。

 

 

 

「あっ──」

 

 

 ルキナの中で、急速に全てが繋がる。

『ルフレ「おじさん」』との思い出が、色鮮やかに甦る。

 

 歩き疲れた時に何時も負ぶってくれた大きな背中も。

 迷子にならぬよう一緒に繋いでくれた大きなその手も。

 大好きだった優しい歌声も、ルキナの名前を呼ぶその声も、ルキナに微笑むその優しい眼差しも、全部──

 

 

「あっ……あぁっっ……」

 

 

 あの終わりがない闇に閉ざされた夢の中、助けに来てくれたのは、その手を繋いで導いてくれていたのは……。

 

 

 

「『ルフレ……おじさん』……」

 

 

 

 あんなにも大好きだった、でも……疑って憎んでいた、遠い「未来」に喪ってしまった人だった。

 

 どうして、彼が助けに来てくれたのだろう。

 そもそも、あの『ルフレおじさん』は、本当に彼その人だったのだろうか。

 悪夢に魘されるルキナが無意識の内に作り出していた、幻だったのじゃないだろうか。

 

 そんな事も頭の片隅には浮かぶが。

 彼が、本物だろうとルキナの心が見せた幻だろうと。

 そんな事はもうルキナにはどうでも良かった。

 何故ならば。

 繋いだ手も、優しい声も。

 全て、記憶の中のあの人のままだったのだ。

 あの……包み込む様な優しさも。全て……。

 紛れもなく、あの人のモノであった……。

 

 だからこそ、大切だった記憶が溢れだす。

『ルフレおじさん』の事が大好きだったと言う……あの頃の気持ちが、痛い程色鮮やかに甦ってしまう。

 

 もう居ない人だ。もう二度と逢えない人だ。

 何時かの遠い「未来」で、お父様を裏切った人だ。

 

 それでも。

 ……ルキナの事を、心からの暖かな慈愛で包み込んでいてくれた……優しい人だった。

 記憶の棚から溢れ出してきた「思い出」はどれもこれも、温かなものばかりで……。

 確かにあの人に、愛されていたのだと、幸せを願って貰っていたのだと、そう改めて理解する。

 そう想うと、溢れ落ちる涙は止まらなかった。

 幸せだった思い出は確かにあって。

 愛されていた瞬間は確かにそこにあって。

 大好きだった思いは、確かに「思い出」の中にあった。

 

 もうあの人は何処にも居ない。

 

 ルキナの愛する恋人もルフレではあるけれど、彼は『ルフレおじさん』では無い。

 変わった「過去」の何処にも、もう居ないのだ……。

 

 それが、無性に哀しくて。

 ルキナは、大切だったあの人を想い偲ぶ様に。

 静かに涙を溢し続けるのだった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『小さな幸せを君に』

◇◇◇◇

 

 

 

 

「今年こそ、サンタさんの正体を掴んでみせますよー!」

 

 

 そんな事を元気よく宣言して夜を徹して見張っていようと気を張っていた愛娘は、まだ幼いが故に睡魔には克てぬのか、くぅくぅと安らかな寝息を立てていて。

 絨毯の上に寝転がりながら、むにゃむにゃと楽しそうに笑いながら寝言で何事かを呟いていた。

 そんなマークの姿に、こっそりと部屋に忍び入ったルフレとルキナは顔を見合わせて微笑んだ。

 

 そして、風邪を引いてはいけないから、と。

 少々揺り動かした程度では起きない程によく眠っている事を確認したルフレは、絨毯に寝転がっていたマークを優しく抱き抱えて、そっとベッドへと移す。

 そこに空かさずルキナがその上に暖かな毛布を掛けた。

 そして、忘れてはいけない、と。

 二人は各々手に持っていた愛娘への贈り物を、幸せそうに眠るマークの枕元にそっと置く。

 きっと、明日の朝目覚めた時。

 枕元に贈り物がある事に驚きながらも喜び、そして今年もまた「サンタさん」の正体を見破る事が出来なかった事を悔しがるのだろう。

 その光景が目に浮かぶ様で、マークの部屋を後にしたルフレとルキナは二人してこっそりと笑う。

 

 

「ふふ……懐かしいですね。

 私も昔、「サンタさん」を捕まえようとして、夜更かししようとした事があったんですよ」

 

 

 小さな愛娘の姿にかつての己の姿を重ねたルキナは、過去を懐かしむ様に笑った。

 

 

「何だか簡単に想像出来るな……。

 で、その時はクロムを捕まえてやれたのかな?」

 

 

 ルフレの言葉に、ルキナはゆっくりと首を横に振った。

 どうやら、かつての彼女もまた眠気に負けてしまってその正体を掴めず仕舞いであった様だ。

 

 

「……結局、「サンタさん」の正体を暴く前に、お父様は帰らぬ人になってしまいました……。

 その年の冬には「サンタさん」が来なかったので、……その時に気付いてしまいましたね……。

 それに、お父様が亡くなられてからは世界の情勢は坂を転がり落ちる様に悪くなっていってしまって……」

 

 

 冬祭りも、それから程無くしてなくなったのだと。

 そうルキナは静かに零した。

 それに何も返せず、ルフレは目を伏せる。

 

 

「そっか……」

 

「『ルフレおじさん』にお願いして、サンタさんを捕まえる為の策を練って貰った事もあったんですよ?

 ふふ……今思えば、あの時困った顔をして笑っていた理由がよく分かります……」

 

 

 ルキナはそう言って、『ルフレ』を。

 彼女達の「未来」を絶望で塗り潰し、その幸せを踏み躙った災厄の邪竜と化してしまった、……ルフレにも有り得たであろう結末へ至ってしまった『彼』の事を。

 優しく、温かなモノを懐かしむ様に語る。

 

 ルキナの「未来」は絶望に沈み果て、それ故に彼女は時を越えてこの「過去」へとやって来たのだけれども。

 でも、そんな絶望に沈み果ててしまった「未来」にも、『幸せ』に満ち足りていた時間は確かにあったのだ。

 ……そんな『幸せ』の欠片達は、遠い「思い出」に変わっても、ルキナの心の内で優しく彼女を見守っている。

 

 ………きっと。ルキナと『ルフレ』の間には、沢山の『幸せ』の記憶が、温かな「思い出」があったのだろう。

 違う結末へ至ったけれど、同じ『自分』だからこそ。

 ルフレが小さな「ルキナ」を大切にする様に、『ルフレ』も、ルキナの事を大切にしていたのだろうと感じていた。

 ……だからこそ。決して望まぬままに、ルキナの『幸せ』を奪う邪竜と化してしまった『ルフレ』の。

……その後悔や罪悪感や絶望は、何れ程のモノであったのだろうか、とルフレはそう思ってしまう。

 ルフレが自らの身と引き換えに邪竜を討ち滅ぼした時に、『ルフレ』もまた解放されたのであろうか…………。

 もし、そうであるのならば、願わくは『彼』に安らかな眠りが訪れていて欲しい、と。ルフレは切にそう願う。

 

『ルフレ』がルキナに残した沢山の『幸せ』の欠片は、今も彼女を見守り、心に優しい輝きを灯し続けている。

『ルフレ』が為してしまった事は、赦される行為では無いし『彼』自身が己を赦せないだろう。だけれども。

 ルキナの、『幸せ』な思い出の中で眠る位ならば。

 滅びた世界の全てが、そして『彼』自身が、その安らかな「終わり」を赦さないのだとしても。

 せめてもの手向けとして、赦されて良いと思うのだ。

 

 ……もうルキナは、小さな『幸せ』を贈られる側から、それを贈る側へとなってしまったけども。

 それでも、こうやって愛娘に『幸せ』を贈るルキナは、とても満ち足りた様に『幸せ』そうであるのだ。

 それはきっと、『ルフレ』達から確かに愛されて、その両手一杯に『幸せ』を贈られていたが故なのだ。

 そんなルキナを愛しく想いながら、ルフレはこっそりと隠し持っていた、彼女への贈り物を手渡す。

 

 

「ルフレさん……!」

 

 

 驚きと喜びで、何度も視線を手の中の贈り物とルフレの顔との間を行き来させるルキナに、サプライズが成功した喜びと共にルフレは優しく微笑んだ。

 

 

「もう僕の正体はバレちゃってるけど、「サンタさん」から『良い子』への贈り物さ。

 受け取ってくれたら嬉しいな」

 

 

 すると、ルキナは手の中のそれを大切に抱き締めるかの様に胸元に当てる。

 

 

「もう、私は子供じゃないんですよ……?

 でも、有難うございます。私の、素敵なサンタさん」

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇



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『何時かまた逢えると信じて』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 目を閉じればその目蓋の裏に、今でも何時だってあの人の姿を鮮やかに思い描く事が出来る。

 意志の焔が揺らめく様に秘められたその眼差しも、戦場で共に戦った時の頼もしいその背中も、名を呼ぶその声音も、手を触れ合わせた時のその温もりも、抱き締められた時にふと感じた紙とインクの匂いも。

 共に過ごした一瞬一瞬を、その時に感じた全てを。

 ルキナは何一つとして忘れてはいない。

 

 優しい……とても優しい人だった。

 仲間想いで、お人好しで、少し飄々としている所もあったけど、春の陽溜まりの様に温かな心を持った人で。

 ルキナでは到底想像仕切れない出来ない程に頭が良い人で、きっとその目にはルキナとは全く違う様にこの世界が見えていたのかもしれないけれど。

 ルキナでもハッキリ断言出来る程に、彼はこの世界を、そこに生きる人々を、仲間を……愛していた。

 だからこそ軍師と言う務めを、仲間達の力になる為に、仲間達を死なせない為に。

誰よりも重くその責任を受け止めて全うしていた。

 ルキナに限らず彼と共に戦った誰もが、彼の策に助けられ、時には命を救われていた。

 彼は何時だって、『僕が出来るのは策を示す事だけで、それを完成させてくれたのは皆の力なんだよ』とそう謙遜するかの様に笑って言っていたけれど。

 彼と同じ状況で同じかそれ以上の結果を導ける策を示せる人など、例え歴史を紐解いてみても片手でも足る程にすら居ないだろうとルキナは思っていた。

 

 もし、あの『絶望の未来』にも、彼の様な軍師が……否、彼その人が居てくれたなら。

 過去に遡ってまで未来を変えなくても……あの「未来」の人々を見棄てなくても良かったのではないかと……。

 そんな益体も無い『もしも』を考えさせてしまう程に、ルキナは軍師としての彼に全幅の信頼を置いていた。

 ……未来の『彼』が父を裏切り殺して絶望の未来を招いたのではないかと疑っていても。

 それでも尚、彼は無意識にですらも心を寄せてしまう程に信頼に値する人だったのだ。

 

 彼の様な人が自分の傍に居てくれたのなら、もし彼が選んだのが父ではなくて自分だったのなら。

 何時しかそんな、詮無い「もしも」の事すらも、ルキナは考える様になってしまっていて。

 何時かこの手で殺さなくてはならなくなるかもしれないのに、その覚悟はとうの昔に固めてしまっているのに。

 それでも…………ルキナは彼の事を、愛してしまった。

 

 だからこそ彼の想いを、ルキナへと向けられたそれを。

 ルキナが拒む事なんて出来る訳が無かった。

 『何時か貴方を殺すかも知れないのに、それでも「愛している」と言えるのですか?』と。

 そう喉元まで出掛かった言葉を呑み込んで。

 ……ルキナは、彼と結ばれたのだ。

 

 勿論、ルキナは彼が裏切る未来など望んでいなかった。

 自分の思い過ごしならばと、ただの考え過ぎなのだと。

 そう思っていたけれども。しかし。

 もしその時が来たら、その必要に迫られてしまえば。

 きっと、ルキナは、彼をこの手に掛けていただろう。

 ルキナのファルシオンが彼の胸を貫く瞬間を悪夢に見て、飛び起きてしまった事は一度や二度では無かった。

 

 愛しているからこそ共に過ごす時間は何よりも愛しく、それ以上にルキナの抱えた『使命』がその心を呵責する。

 それでも離れ難いと思ってしまったのは、想い結ばれる事で彼を自分に繋ぎ止めたかったのは。

……ルキナの心が弱かったからなのだろうか。

 彼ならばルキナ自身ですら分からないその答えを教えてくれるのかもしれないが、それは今となっては最早叶わない事であった。

 

 …………彼のその底知れぬ智慧は、きっとルキナの苦悩も見透してしまっていたのだろう。

 だからこそ、彼はルキナに無償の愛を捧げると共に、何時だって何度だって刷り込む様にルキナを諭していた。

『ルキナが何を選んでも僕はそれを受け入れる』、『ルキナが守りたいものの為ならば、僕は何でも捧げる』、と。

 彼が何処まで見ていたのかはルキナには分からないが。

 それでも彼は、何時かルキナの手に依って死ぬ事すら覚悟していたのではないかと……そう思ってしまう。

 

 彼自身の意志ではどうにも出来ない裏切りの可能性が示唆された時、ルキナは迷いながらも彼に剣を向けた。

 しかし、僅かにでも切っ先を動かせば喉を掻き切られると言う状態でも、彼の眼差しはどうしようもない穏やかな優しさだけが映されていて。

「いいよ」と。一言だけ優しくそう言って。

 彼は少し寂し気に微笑んだのだ。

 

 彼からすれば、起きてもいない事で糾弾される事も、それによって死を望まれる事など、理不尽極まりなく暴挙以外の何物でも無い事である筈なのに。

 全て理解して納得済みだとでも言うようなその眼差しに、ルキナの決意は揺らいでしまった。

 

 ここで彼を殺せばあの『絶望の未来』を確実に回避出来るのなら、躊躇わずに殺すべきだ。

 それは分かっている。

 その為に、ルキナが守るべきだったあの『未来』の人々を見捨ててまで過去にやって来たのだ。

 それも、分かっている。全部、全部分かっている。

 ルキナの目的の為ならば、ここで彼を殺し確実に未来を変えるべきなのだと言う事位、理解しているのだ。

 

 だけど……。そんな理屈がとてもちっぽけなモノに思えてしまう程に、ルキナは彼を喪いたくなかった。

 彼が二度とルキナの名を呼んでくれなくなる事が。

 繋ぐ手のその先を永遠に喪う事が。

 彼と共に生きる未来が喪われる事が。

 あの『絶望の未来』以上に……何時しかルキナにとっては受け入れ難い事になってしまっていた。

 

 結局ルキナは彼を殺す事が出来ず、その直後に乱入してきた父によってその場は有耶無耶になった。

 ……きっとあのまま父が割り込んでこなくても、ルキナが彼を殺せる筈など無かっただろうけれども。

 ……殺されかけたと言うのにも関わらずに、彼は決してルキナを責める事なんて無くて。

 寧ろルキナの心を労る様に優しく接してくれていた。

 きっと、彼が覚悟を決めてしまった決定的な瞬間はあの時だったのだろう……とルキナは思っている。

 

 その時にルキナが彼の心中を察していれば、彼の心を慮っていれば、何かが変わったのかもしれないけれど。

 その時のルキナは己の行動を責める事に手一杯で、他に目を向けている余裕は無かった。

 何かを「してしまった」後の後悔よりも、何かを「しなかった」後の後悔の方が耐え難いとよく言う様に。

 ルキナは、今となっては最早どうする事も出来ない過去を、何もしなかったあの時の自分を責めるしかない。

 

 『邪竜ギムレー』の復活の為に全ての戦乱を陰から操っていたファウダーは倒れたが、その直後にルキナと同じく過去へと渡った『未来のギムレー』が現れ、本来の過去のギムレーに代わり竜の力を取り戻して復活を遂げて。

 それに対抗すべく父が「覚醒の儀」を果たしたその時。

 きっと、……彼は自らの「命」の使い方を、あの結末を選び取る事を、決めてしまったのだろう。

 彼にその「命」の使い道を示してしまった神竜ナーガの思惑は、ルキナとしては考えたくはない。

 

 何にせよ、彼は自ら選び取り、その結末を受け入れた。

 そしてそれを直前まで誰にも悟らせずに事を進めて。

 そして己の存在を対価として、『邪竜ギムレー』を未来永劫に渡ってこの世から完全に消滅させた。

 

 確かに「未来」は変わった。

 『邪竜ギムレー』が甦る事は最早有り得ず、故に『邪竜』の手による滅びが訪れる事もない。

 ルキナの果て無き戦いの目的は、果たされた。

 ただその素晴らしい未来を勝ち取る為の「代償」が、誰よりも愛していた彼の存在全てであった事だけが。

 ルキナにとっては、……否、彼を想う人々にとっては。

 どうしても受け入れられない事であった……。

 

 存在すらも赦されぬとばかりに、彼はその身体の一欠片すらもこの世に遺す事を赦されず、彼を構成していた全ては世界に溶ける様に消え去った。

 彼の縁となるのは、ルキナ達に遺された記憶だけで。

 それすら、優しくも残酷で平等な、時の流れの中で薄れ行くものなのだろう。

 時は待たず、止まる事も戻る事も無く。悲しみや絶望に寄り添う事も無く、ただただ静かに残酷に流れ行く。

 そして、何時か全てを「過去」へと変えて行く。

 それに抗う事は、誰にも出来はしない。

 

 

 

「ルフレさん──」

 

 

 

 それでも、彼の姿を思い描き続ける事が出来るのなら。

 そしてそれを忘れずに居られるのならば。

 何時か、例えそれが遠い未来になるのだとしても。

 もう一度、彼に逢えるかもしれないと。

 また逢いたいと、そう願いながら。

 

 ルキナは、彼が守った世界を。

 彼だけが居ない未来を、歩いて行くのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『ヒュプノスの子守唄』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 ルキナにとって眠りとは、『死』と隣合わせの……限りなく『死』に近付く恐ろしい行為であった。

 死と絶望に支配された未来では、どうしても無防備になってしまう眠りは、最も『死』と近い状態だったのだ。

 一体、幾千幾万の命が『死』への恐怖を押し殺し震え眠ったまま、『死』への旅路を逝ってしまったのだろうか。

 ルキナが把握し切れる事では無いが、その数は最早数えきれるモノではない事位は容易に想像が付く。。

 未来への希望などとうに喪っていても、それでも誰もが明日を望んで、苦しい生を必死に足掻いて。

 そして命を繋げる事も叶わず、散っていったのだ。

 

 だからこそ、ルキナは眠る事が何よりも怖かった。

 目を閉じてまた目覚められる保証など何処にも無い世界では、転た寝でも『死』を覚悟しなくてはならなくて。

 ファルシオンを継ぐ者として「世界を救う」と言うその身も心も圧し潰さんばかりに重い『使命』を、一身に背負わざるを得なかったルキナにとっては。

 眠りの中で何も出来ないまま……何も成せないままに殺される可能性が、何よりも恐ろしく。

 心の奥深く刻まれたその恐怖は、例えあの「未来」とは程遠い過去に来ても、早々拭えるものでも無くて。

 戦いに備えて身体を休める為に眠らなくては、と言う思いで、何時でも飛び起きれる程に浅い睡眠を無理矢理取る事が精一杯であった。

 それは、あの「未来」を変えなくてはならないと言う強い責任感と、それを独りで成さねばならないと言う孤独からより一層悪化の一途を辿っていたのだろう。

 あの「未来」への分岐点となったであろう『エメリナの死』を防ぐ事に失敗し、『過去は変えられないのでは?』と過去へと遡る等と人の身には過ぎた禁忌にすら触れた自分の行為の正当性すら見失いかけ。

 そうやって思い悩んだ挙げ句の果てに、過去を不用意に変えてしまいかねないからと自重していた筈の、「過去」の父達との積極的な関与を決意した辺りで、ルキナを苛む眠りへの恐怖は頂点に達しつつあった。

 ろくに眠る事すら出来ぬままにずっと気を張り詰め続けていたルキナの身体は、悲鳴を上げ始めていたのだ。

 

 それに真っ先に気付いたのは、ルキナ本人ではなくて。

 何故か「父」の軍師であるルフレであったのは、ルキナにとって今でも不思議でならない事だ。

 皮肉な事にあの「未来」での生活のお陰で無理や無茶を通す事に慣れていたルキナの身体は、ちょっとやそっとの事では不調の影響などおくびにも見せる事はなく、だから他人がそれを見抜くのは極めて困難であろうに。

 それを一目で見抜きその深刻な状態に顔を青褪めさせた時のルフレの顔を、ルキナは今でも忘れられない。

 ルキナが「父」達と合流してからの二週間程の間はヴァルム大陸への遠征の準備に忙しく戦闘の類いも無かったからか、ルキナは心配性のルフレに医務室に担ぎ込まれ、暫しの絶対安静を余儀無くされたのであった。

 当時のルフレはイーリスの軍師として遠征の準備に掛かりきりになる程に忙しかった筈なのに、それでも折りを見て医務室にまでお見舞いに来てくれていたのは、今思えば当時のルキナを相当心配していたからなのだろう。

 突然現れて「未来」からやって来た親友の一人娘であると主張するルキナの事を、当時のルフレがどう思っていたのかは分からないし、きっと今訊いても何かとはぐらかされてしまうだけかもしれないけれど。

 それでも、ルキナを心から心配してくれていたのが嫌でも分かるルフレのその心遣いが、ルキナにとってはとても眩しいモノであったのは確かな事だ。

 

 あの「未来」では誰もがその日その日を生き延びるのに精一杯で、誰も彼もの心から「優しさ」や「気遣い」と言った心の「余裕」は、大なり小なり喪われていた。

 ファルシオンを継ぐ者として人々の希望とされていたルキナには、仲間達も民もきっと皆精一杯に心を尽くしてくれていたのだろうけれど……。

 それでも、ただただ純粋に心配されると言うのは、今はもう遠い幼い記憶の中にしかない。

 

 ……父を裏切り殺したかもしれないその人は、とてもとても……優しい人だった。

 そんな人を「裏切者」の候補として疑わなくてはならない事に、場合によっては父を殺す前に彼を殺さなくてはならない事に、心が痛まなかった訳ではない。

 それでも、この世界の行く末をあんな「絶望の未来」にする事だけは絶対にしてはいけないのだから、と。

 その為に、「過去改変」という人が侵してはならぬ「禁忌」に手を掛け過去にまで遡って来たのだから、と。

 今更こんな所で躊躇っている余裕など無いのだと。

 ルフレ一人の存在と、この世界の全て。そのどちらが「重い」ものであるのかなんて迷う必要は無いのだと。

 彼が「裏切者」で父を殺そうとするならば、「世界」を救う為に、殺してでもそれを防がねばならないのだ、と。

 チクチクと良心を痛ませる自分にそう言い聞かせながら、ルキナはルフレを監視し続けていた。

 

 それでも、ずっと監視し続けていても、ルフレは裏切る素振りなど寸毫程も見せる事はなくて。

 それ処か、疑心の眼差しを以て見詰めるルキナの目にですら、ルフレがどうしようもなく優しくお人好しで仲間想いな好青年にしか見えなかったのだ。

 

 勿論、軍師としての抜け目の無さや強かさは確りと備えていたし、底を見通せない部分もある。

 しかしそう言った部分を含めても、やはり。

 ルフレは何処までも『善い人』だったのだ。

 この人が、本当に父を裏切ったりするのだろうか?

 この世に「絶対」など存在しないと理解しながらも、ルキナですらそう思わざるを得なかった。

 

 若しかしたら、ルフレ自身の意志ではなく、例えば絶対に斬り捨てられない誰かを「人質」に取られた結果の裏切りだったのでは……?

 或いは、呪術か何か……そう言った対象の意思を奪う何らかの手段の結果の裏切りだったのでは……?と。

 そう、ルキナは考え始める様になった。

 それはきっと、 ルキナがルフレを……彼の優しさやその心を疑いたくは無かったからなのだろう。

 それ程までに、彼は優しい人だったのだ。

 

 あの「未来」で「裏切った」事実があるのだとしても、もしそれが「ルフレ」の意志ではなかったのなら。

 そこに至ってしまった原因を取り除けば、ルフレを殺さずとも「未来」を変えられるのではないか、と。

 何時しかそう考える様になってしまっていた。

 …………恐らくその時には、ルキナにとってルフレは、例え「世界」の為であるのだとしても切り捨てたくはない……切り捨てられない人になっていたのだろう。

 有り体に言えばきっと。

 その時には、ルキナはルフレに恋をしていたのだ。

 

 ルフレは仲間の誰にでも優しかったけれども。

 ルキナが仲間として合流した時の状態が原因なのか。

 ルフレは、ルキナには一際心を配っている様であった。

 直ぐに無茶をするとでも思われていたのかもしれない。

 戦いの時も野営地での一時も、何かとルキナを気遣ってくれるルフレに、ルキナも次第に絆されていったのだ。

 

 未来には花と呼べる様なモノはもう殆ど残されていなかったと言えば、恐らく近くの草原で彼が態々摘んできたのであろう細やかな花束を渡され。

「未来」では食料事情が悪化した為劣悪な食事環境だったと人伝に聞いたのか、細やかながら何かとちょっとしたお菓子の類いをルキナに頻繁に差し入れてきて。

 そんな風にまめまめしく気遣ってくるルフレを、そもそもルキナが嫌いになれる訳が無かったのだろう。

 

 何時しかその胸に芽吹いていた小さな芽は、ルフレと関わる内に少しずつ成長し、やがて大輪の花を咲かせた。

 ルフレから彼がその心に秘めていた想いを告白され、想い結ばれたのも丁度その頃の事だ。

 

 恋人として同じ天幕で夜を共にする様になった時も、ルフレは不眠気味のルキナを心配してばかりであった。

 安心して眠れる様にと、安眠に効く香を贈ってくれたり添い寝をしてくれたり時には子守唄を歌ったり……。

 何だか幼子を寝かし付けているかの様で、子守唄やらはちょっと気恥ずかしかったけれども。

 眠りに沈むその時も心から愛する人が傍にいてくれる事は、その優しさが包み込む様に守ってくれている事は、ルキナの中の眠りへの恐怖を少しずつ解く様に和らげていってくれたのだった。

 

 夜眠る時に、ルフレの温もりを感じていられる事がどんなに安心出来る事なのか。

 眠りの先に明日は来るのだと、目覚めは来るのだと。

 そう確信させてくれるその声がその温もりを感じていられる事が、何れ程得難い「幸せ」であるのか。

 眠りに怯えずに済む事の「素晴らしさ」を。

 ……ルフレはきっと何も知らないだろう。

 

 でもそれでも良い。それで良いのだ。

 あの恐ろしさを、ルフレは知らなくても良い。

 あの「未来」は、あの絶望は。

 この世界には絶対に訪れさせてはならないのだから。

 だから、ルフレは一生そんな恐怖は知らなくても良い。

 その為にも、ルキナがこうしてここにいるのだから。

 

 そう決意を固め直して。

 また「明日」。目覚めたその時に。

「おはよう」と、愛しい人に言う為に。

 ルキナは微笑んで目を閉じるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『幸せの食卓』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 目の前にはホカホカと湯気を立てる鍋。

 その中身は、トロトロ……はちょっとほんの少し僅かに通り過ぎてドロッとしたシチュー。

 若干不揃いで切り口もガタガタしている数々の食材は、煮込み過ぎてしまったのか幾つかは溶けてしまっている様であった。

 焦げない様に定期的に鍋を掻き混ぜていたからか、前とは違って焦げ付く様な匂いは今のところ漂ってはいない。

 

 

(見た目は……ちょっと微妙だけど、材料的にはあってる筈だし、多分大丈夫……!)

 

 

 そう決意したルフレは、えいっとばかりに一思いに味見の為に椀にシチューを取る。

 息を吹きかけながら冷ましたそれを逸る思いで口にしたルフレは、一口目で『よしっ!』とその場で思わずガッツポーズをしたが、続く二口目で微妙な顔になり、三口目で項垂れた。

 

 

(何だろう……この……食べられない訳じゃないけど、絶妙に美味しくない……!)

 

 

 口にした者悉くに『鋼の味』と表されていた当初に比べればその出来栄えは雲泥の差なのかもしれないが、如何せんそれは幾らなんでも比べる対象が悪過ぎる。

 ルフレ程度の腕前とて、流石にプライドと言うモノはあるのだ。

 美味しいか美味しくないで問えば、百人中百人が微妙そうな顔をして『美味しくない』と答えるであろう何とも言えない不味さとも言えない“何か”がそのシチューにはあった。……いや、逆に“何か”が無いからそんな味なのかもしれないが。

 食えなくはないし、飲み込めないなんて事もない。

 食べたからと言って腹を壊したりする事もないのだろう。

 が、しかし。

 単純に、ただただ明確に、簡潔に言って、『美味しくない』のだ。

 どんな修辞句を使ったとしても、ルフレの頭の中の辞書を引っくり返してみても、『美味しくない』以外の言葉が出てこない。

 いっそ感動するレベルで『美味しくない』。

『不味い』のよりはまだマシなのかもしれないが、この味を好き好んで食べる人は居やしないだろう。

 

 

(何でだ……一体何が悪かったんだ……)

 

 

『鋼の味』料理人として散々自警団内で名を馳せてきたルフレは、こう言っては何だが自分の料理の腕前が人に褒められる様な代物では無い事位は理解していた。

 まあ、その自己認識と周囲からの認識との間にズレがあったのかどうかに関しては、そう頻繁では無いとは言えルフレが全くの善意で手料理を振る舞おうとした事があった事を鑑みて察して頂きたい。

 一体何れ程の罪の無い食材達が、『鋼の味』なんて言うそもそも料理に対して用いられるべきでは無い冒涜的な烙印を捺されてきたのかは最早数える事すら出来ないだろう。

 いや別にルフレとて、態々『鋼の味』の料理を錬成しようとしてきた訳では断じて無いのだ。

 ルフレなりに味付けはちゃんと気を付けてきたつもりだったし、美味しくなる様に色々工夫したりもした。

 が、悉く失敗し『鋼の味』になってしまっていただけなのだ。

 それはそれで残酷な話である。

 無論、犠牲になった食材にとってだ。

 

 何処かで質の悪い呪術か何かでも掛けられていたのではないかと疑ってサーリャやヘンリーに相談した事もあるが、呪術的な“異常”は別段見当たらないと二人ともに太鼓判を押されてしまった。

 味覚・嗅覚に異常があるでもなく、その他に何らかの異常がある訳でもない。

 ただただ、ルフレは料理を作るのが致命的に下手くそなのだった。

 

 しかしルフレはそこでへこたれて諦める様な性格ではなく。

 身体的に異常があるから料理が出来ないのではないのなら、練習すれば必ず上手くなる筈だろうと、逆に前向きに考えられる程度には負けず嫌いであり、だからこそ、料理の手習い本などを読み漁っては、こうして空いた時間には料理の修行に勤しんでいた。

 その成果は0では無い様で、当初は悉く『鋼の味』だった料理も、何とかその域は脱する事が出来てきた。

 が、しかし。

『普通』の味ですらまだ遠い目標であり、更にその先の『美味しい』ともなれば、一体何れ程遥かなる高みになるのか見当も付かない。

 それでも──

 

 

(出来るなら、心から『美味しい』と思って貰える料理を、食べさせてあげたいからね)

 

 

 彼女を想い、優しい微笑みを浮かべたルフレは……。

 直後、この『美味しくない』料理を自分で片付けなければならない事を思い返し。

 ややその笑みを引攣らせるのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 そもそもどうしてイーリスの軍師たるルフレが不得手な料理の腕前をこうも熱心に磨いているのかと言えば、それには甘酸っぱい動機があるからだ。

 

 ルフレにとって“半身”の様な存在であるクロムの娘であり、時空を跳び越えてこの時間へとやって来た『未来』からの異邦人たるルキナ。

 仲間として共に闘い共に時を過ごす内に何時しかルフレとルキナは互いに惹かれ合い、そして恋人として結ばれた。

 戦時中であり互いに複雑な事情を抱えている事もあって将来を誓いあった訳ではまだないけれど。

 それでも……何時か何の憂いもなくその隣に居られる様になった時には、改めてそれを誓いたいと何時も想っている程には、大切で特別な相手だ。

 

 そんなルフレの愛しい恋人であるルキナだが、彼女が本来在るべきだった時間……ルフレから見た場合の『未来』は、そこからやって来た者達全員から“絶望の未来”と呼び表される程に悲惨な状況であったらしい。

 その有り様を直接目にした訳ではないルフレにはルキナ達から断片的に伝わってきた情報を元に想像するしか無いのだが、それでも人々の生活どころか文明自体が最早壊滅的な程に打撃を受けていたであろう事は想像に難くなかった。

 

 日々の糧にすら困窮し、次の年の為の種籾すらをも食べざるを得ない人々。

 餓えに苦しむあまり、土を掘り返して木の根までしゃぶって餓えを誤魔化す事が常態化する日々。

 野ネズミや昆虫に至るまで、動くもの食べられるものならば何でも口にしなくては命を繋ぐ事すら難しい食事情。

 そんな未来では、王族や貴族ですらも決して余裕のある食事が出来る筈もなく。

 この時代で民達が粗食と呼ぶそれよりも遥かに粗末な食料を口にするだけで精一杯であったと言う。

 ……それでも、食料にありつけるだけ恵まれていたそうなのだが。

 

 そんな『未来』からやって来た子供達は、この時代に辿り着いた当初は誰もが栄養失調ギリギリの状態であったらしい。

 ……イーリス軍に合流するまでの期間に多少その状態は改善されたそうなのだが、それでもほぼ放浪生活に等しい生活を送っていた者達が大半である彼等が、この時代で言う所の“普通”の食事にありつけた事は殆ど無かった様だ。

 それでも“絶望の未来”で食べていたモノに比べればずっと贅沢な食事だったと、誰もが口を揃えて言っていたのが、ルフレとしては何とも居た堪れなくなる話である。

 

 ルフレは別段食に贅を凝らす事に執念を燃やす様な質ではなく、聖王直属の軍師と言う立場を考えれば、日々の食事は寧ろ質素な位だ。

 好き嫌い等は基本的には存在せず、一般的には嫌煙される熊肉だってペロリと平らげてしまえる。

 粗食と呼ばれる様な食事だって別段苦でも何でもない。

 ……が、そもそも『食料がない』と言う飢餓状態に陥った事が、ルフレの記憶にある限り……クロムに拾われてからは一度も無いのだ。

 それは、とてもとても恵まれた事なのだろうと……ルキナ達が置かれていた状況の話を聞く度にルフレは思っている。

 餓えに苦しんだ事の無いルフレには、ルキナ達が経験してきたその過酷さを本当の意味で理解する事は出来ないだろうけれど。

 それでも、そんな過酷な現実に苦しんできたルキナの為に出来る事は、力になれる事はある筈だと、そうルフレは信じていた。

 

 それはやはり第一には、この世界をそんな“絶望の未来”にはさせないと言うのが一番だろう。

 その為にルキナ達は“過去”へとやって来たのだし、ルフレ達も戦っているのだから。

 未来に於いて甦ってしまったと言う“邪竜ギムレー”の復活の阻止や、クロムの死の阻止、世界各地に散らばっていると思われる“宝玉”を集めて“炎の紋章”を完成させる事。

 その為にやらなくてはならない事は山積みであるし、それらに関してルフレが力になれる事は沢山あると自負している。

 

 が、それはそれこれはこれとして。

 折角、日々の食事に事欠かなくても済む時代へとやって来たのだ。

 ならば、ルキナに食事に関しての細やかな楽しみを味わって貰ったって罰は当たらないだろう、とルフレは思う。

 

 街の食堂とかで奢ったりするのもルフレとしては吝かではないのだが、行軍続きの日々だとやはりどうしたって外食するよりも野営地で自炊する事の方が多くなる訳で。

 野営地での料理が不味い訳ではないのだが、大人数相手に作るが故にどうしても大味な味付けになってしまうのだ。

 個々の味の好みに合わせていられない、と言うのが実情である。

 だからこそ、ルキナに『美味しい』料理を味わって貰おうとするのなら、恋人としてルフレ自らルキナの為に手料理を振る舞うのが一番手っ取り早いのである。……ルフレの料理の腕前が壊滅的な一点だけを除けば……の話にはなるが。

 

 料理や絵画などの一部の事を除けば案外何でもそれなり以上に卒なくこなせる上に、ルフレはかなりの負けず嫌いであり、ちょっぴり自信家であった。

 だから苦手な料理にしたって、特訓すれば必ずや上達する筈であると思い込んでいたし、自分ならやれる筈だとかなり強気に思っていた。

 今はちょっぴり()残念な料理の腕前でも、遠からずの内に必ずやルキナの舌を満足させてやれる料理が作れる様になる筈だ、と。

 それが何れだけ無謀な事なのか考えもせずに、“ルキナに、『美味しい』と思って貰える手料理を振る舞う”と言う目標を立ててしまったのだ。

 更には、折角なのだから内密に事を進めてルキナへのサプライズにしようと、誰かに教えを乞おうとせずに独学でやろうと決めてしまったのだった。

 

 流石に、失敗作をせっせと自分で消費している内にその目標が何れだけ遠くにあるモノなのかは、嫌と言う程想い知ったのだけれど。

 それでも、ルキナに『美味しい』と言って貰える料理を作る、と言う目標だけは変える訳にはいかなかった。

 だからこそ、こうして暇を見付けてはルキナ達から隠れるようにしてこそこそと料理の修行を怠らない様にしているのだ。

 

 

 ──全ては、ルキナの笑顔の為に。

 

 

 ルフレの想像の中のその笑顔が現実のモノになる日が一日も早く来る事を願って。

 ルフレは今日もまた一人、反省会代わりに失敗した手料理を平らげるのであった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 ルキナの目の前にあるのは、コトコトと音を立てて煮込まれたナスとベーコンのトマトスープ煮込みの鍋。

 蓋を取ると、ふんわりと辺りにトマトの良い匂いが漂ってくる。

 スープと具材をほんの少し小皿に二つ取り分けたルキナは、その一つを横に立っているフレデリクへと手渡した。

 

 

「えっ……と、味付けはこんな感じで大丈夫でしょうか?」

 

「ふむ……。ええ、とても上手に出来上がっていますね。

 流石はルキナ様、元々料理の基礎は出来ておられる様でしたが、感動してしまう程に上達が早いです。

 この調子でいくと、私から教えられる様な事はもうそろそろ無くなってしまいそうですね」

 

 

 スープの味見をしたフレデリクにそう評価されたルキナは、嬉しさのあまりに思わずと言った様に笑みを綻ばせる。

 

 

「本当ですか……!? 良かった……。

 お料理の基礎は、“未来”でフレデリクさんから教わっていたんです」

 

「おや、そうでしたか。

 こうしてまだルキナ様に教えられる事が出来て、私も師匠として冥利に尽きますね」

 

 

 そう言って穏やかに微笑んだフレデリクのその表情は、ルキナの覚えている彼よりも年若いがそれでも記憶の中の微笑みと寸分違わず同じであった。

 記憶の中の彼と重なるその姿に、どうしても少しばかり感傷的な気分になるのをルキナは止められない。

 

 ……今は遠い“未来”で、ルキナは今よりも少し年老いたフレデリクから料理を学んだ事があった。

 と言っても彼から学んだのは一般的な意味での“料理”とは違って、所謂野戦料理とかサバイバル料理とかだったけれど。

 例え王族であっても十分な食料を得られるとも限らないあの未来では、いざと言う時に食べられるものを食べられる様に自力で調理する術を身に付けておく必要があったのだ。

 だからルキナは、蛇やネズミと言った、凡そこの時代では食料とされる事がまず無いであろうモノの調理方法などに熟達している。

 ただどうしても腹を少しでも満たす事や少しでも栄養を摂る事を第一にしてしまう為に味は二の次三の次になってしまって。

 普通に食べられるものが溢れているこの時代では、ルキナが培ってきたあのサバイバル料理はとてもじゃないが食べられたモノではないだろう。

 

 食材を切ったりちょっと煮込んだり炒めたりと言った基礎の部分は全く問題は無いけれど、所謂味付けの部分に於いてはルキナは全く自信が無かった。

 自分一人が食べるだけなら別に雑な味のサバイバル料理モドキでもルキナ自身は気にしないし、軍で料理当番が回ってきた時には大抵料理上手な誰かも一緒なのでその人に味付けは任せてしまえば良い。

 

 だが、そんなルキナの料理の腕前が許容されるのは、独り身の時か行軍中の様な共同生活を送っている時だけである。

 将来的に生涯を共にしたいと思える様な相手と想い結ばれた今、料理の問題は早急に何とかしなくてはならない問題であった。

 極限サバイバル料理を愛する人に食べさせようとは、流石に幾ら何でもルキナにはこれっぽっちも思えないからだ。

 ルフレは好き嫌いせず殆ど何でもペロリと食べてしまうが、それでもソワレやデジェルが作った料理には顔を引き攣らせる辺り、何でも食べられると言う訳ではない。

 勿論、ルキナが作る極限サバイバル料理も無理だろう。

 デジェルの料理に比べれば食べられるだけマシかもしれないが、味に関しては全く以てアウトである。

 作る料理が尽く『鋼の味』になるルフレの料理とどっちがマシか……と言うレベルなのだから。

 

 そんな訳で、ルキナは急遽料理修行を始める事にしたのだ。

 指南役としてフレデリクを選んだのは、“未来”でそうであったからと言うのも大いに関係しているが、そもそも彼は料理を作るのが極めて上手い。

 更には、物事を教えると言う事にも馴れている。

 先生として仰ぐには、実に理想的なのだ。

 そんなフレデリクの指導を受けていたにも関わらずルキナの手料理が極限サバイバル料理になってしまったのは単純に未来の食料事情の問題があったからであり、食料問題がなければ順当に普通に料理上手になれていたのではないだろうか?

 ……まあ、その場合は「王家の方に料理など……」とか言ってそもそも教えてくれなかったのかもしれないが。

 

 そんなこんなで料理指導を快く引き受けてくれたフレデリクによって、ルキナの料理の腕前は日に日に上達していった。

 最大の懸念材料であった味付けも、時々失敗するものの段々コツが掴めてきた様だ。

 この調子でいけば、そう遠くない内に一人でもちゃんと作れる様になるだろう。

 そうしたら、何時か。

 

 

(ルフレさんに、私の料理を食べて貰いたいですね……)

 

 

 その時を想って、ルキナは柔らかな微笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 ルキナがそれに気付いたのは、本当に些細な偶然によってであった。

 行軍の合間にルフレは何時もの様に自分の天幕に籠って策を練っていた筈だったのだが、ちょっとした用事でルキナがルフレの天幕を訪ねた時にはもぬけの殻だったのだ。

 ルフレには、考えが煮詰まってくると野営地の近くをフラフラ散歩する癖があるから、それで不在なのだろうか?とルキナはその時は大して気にも留めなかったのだが。

 先に他の用事を片付けようとルフレの天幕を後にして炊事場の近くを通り掛かった時、何か悩んでいる様な……そんな表情をしたルフレとすれ違った。

 左手に持った手帳に視線を落としながら口元に右手をあてて考え込みながらスタスタと歩いていくルフレは、ルキナとすれ違った事にすら気が付いてなかった。

 人一倍気配に敏感なルフレが、ルキナが近くにいる事にすら気が付かないと言うのは初めての事で。

 それに驚いてしまったルキナは、ルフレに声を掛ける事すら忘れてその場に立ち竦んでしまった。

 

 すれ違ったのに気付かれなかったと言う程度の事で、それ自体は取り立てて気にする様な事では無いのだろうけれど。

 だが、あのルフレが……と言う点が、訳もなくルキナの心に不安の影を落とした。

 

 何か深刻な悩みでも抱えているのではないか、と。

 そしてそれを隠しているのではないか、と。

 

 考えすぎなのかもしれないが、どうしてもその想いを払拭する事が出来ず、ルキナは少しばかりの後ろめたさを感じながらもルフレの様子を探る事にした。

 

 ルキナがよりルフレを観察する様になっても、基本的にルフレは何時もと変わらない様であった。

 相変わらず忙しそうに軍師としての仕事に追われているし、恋人としてルキナと接する時の様子も前と変わりはない。

 ただ。

 数日に一回程度の頻度で、ルフレの姿を見掛けない時がある事に気が付いた。

 何処かで散歩しているのか、はたまた誰かと話し込んでいるのかと思っていたが、仲間たちや父に訊いてみてもその時間帯にルフレが何をしているのか知っている人は一人も居なかった。

 フレデリクには少しだけ思い当たる節があった様なのだが、「気にしなくても大丈夫」とだけしか答えてくれず、結局ルフレが何をしているのかは分からずじまいである。

 

 フレデリクが「大丈夫」と言うからには、ルフレは何か危険な事をしている訳ではないのだろうけれど……。

 だからと言ってそれで安心出来るのかと言われればそれとこれとは話が別だ。

 なら直接ルフレに訊くのが早いのであろうけれど、それはそれで本当にそうしていいのか悩んでしまう。

 もしルフレがルキナに対して隠そうとしている事ならば、正面切って訊いた所ではぐらかされてしまうだろうし、二度とルキナに悟られない様により隠密に事を進めようとしてしまうだろう。

 なら、動かぬ証拠を握った上で問い質すべきなのでは……?

 

 悶々とルキナは悩むが、良い解決法方はこれっぽっちも浮かんでくる事は無かった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

(ルキナ、どうしたんだろう……?)

 

 

 今日も今日とて料理の修行に打ち込みながら、ルフレは悩まし気に溜め息を吐いた。

 

 どうにもここ最近、ルキナの様子がおかしいのだ。

 何処と無くよそよそしかったり、折を見てはチラチラとルフレを伺い見てきたりする。

 どうかしたのかと訊ねてみても、どうにも要領を得ない返事ばかりが返ってきて。

 何かしてしまっただろうかと心当たりを探ってみるも、特にはその様なものは無い。

 ここ最近は中々料理の腕が上がらず壁に行き当たっていた為にそれで悩んでいた事も多いが、それをルキナの前で出した事など無い筈だし……。

 うーん……と思い悩むしかない。

 

 そんな悩みが生まれた一方で肝心の料理の腕の方はと言うと、味付けを少し変えてみた所良い感じになってきたので、『美味しくない』料理だったのが『普通』の料理、そして時々は『割と美味しい』料理まで作れる様になっていた。

 調理の手順自体もかなり手慣れたものになってきていて。

 当初の様に生煮えだったり生焼けだったり、逆に煮崩れやら焦がしてしまう事はもう無い。

『美味しい』まで後一歩何かが足りない様ではあるけれど、その一歩……何かの切っ掛けさえ掴めれば、きっと『美味しい』料理が作れる様になる筈だとルフレは確信していた。

 

 今は何だか様子がおかしいルキナも、『美味しい』料理をご馳走したり一緒に時間を過ごす内に、きっと元通りになるだろう。

 そう思う事で悩みを振り払おうとしたルフレは、ふと炊事場の出入り口に誰かが立っている事に気が付いた。

 

 

(ふぁっ!? あ、えーっと、あれは……!)

 

 

 料理をしている現場を隠蔽しようと焦ったルフレが誤って野菜かごをひっくり返しかけたりと、慌てふためいてしっちゃかめっちゃかになりかけているのを、炊事場にやってきたフレデリクは心なしか冷ややかな目で見やり、深い溜め息を吐いた。

 

 

「……何をなさっているんですか? ルフレさん……」

 

「あー、フレデリク? いや、これはね、その……。

 えーっと、何と無く小腹が空いて料理がしたくなってね!

 それだけ! ほんと、特に他に理由はないよ!」

 

 

 フレデリクに見られてしまった事に動揺を隠せないまま、ルフレは滅茶苦茶な言い訳をし始める。

 言ってる当人にも既に意味が分かってない。

 冷静に考えれば、ルキナにバレさえしなければ良いので、別にフレデリクに料理修行を見られた所で別に困る様な事では無い。

 しかし、フレデリクの不意打ちの様な登場によって絶賛混乱中のルフレには、そんな単純な事すら頭からすっぽ抜けてしまっていた。

 頭の中は(どうしようどうしよう)と焦るばかりだ。

 ルフレの混乱っぷりはフレデリクにも伝わったのだろう。

 フレデリクは片手で軽く額を抑える様にして、深い深い溜め息を吐いた。

 

 

「はぁ……。

 別に態々誤魔化そうとなんてしなくても、私は前々からルフレさんが料理の修行をしている事を知っていますよ……。

 それがルキナ様の為のものである事も、存じ上げてます」

 

「えっ!?」

 

「私は料理当番として炊事場に出入りする機会も多いですから。

 まあ……でも、殆どの方は気付いていないでしょうし、ルキナ様は何も知りません」

 

 

 フレデリクはそう言った後で、「知らないからこそ問題なんですけどね……」とボソリと呟く。

 だが混乱を極めていたルフレの耳には、その呟きは届かなかった。

 

 

「あ、えーっと、それなら良いんだけど……。

 所で、何でフレデリクは炊事場に?」

 

 

 夕食を作り始めるにはまだ早すぎるし、そもそも今日はフレデリクは料理当番では無かった筈だから料理の仕込みをしに来たと言う訳でもないだろう。

 

 料理当番でもなければフレデリクが炊事場にやって来る理由など皆目見当も付かないルフレは、思わず首を傾げてしまう。

 

 

「そうですね……。

 正直見ていられなくなった……とでも申し上げるべきでしょうか」

 

「?」

 

 

 フレデリクの発言の意図が掴めず困惑するルフレに、フレデリクは一つ咳払いをした。

 

 

「ルキナ様の為に料理の腕を磨こうと言うルフレさんの心掛けは確かに立派なものですし、その努力も認めます。

 しかしこの調子で独力で修行を続けようとしても、ルフレさんが満足のいく料理を作れるのは当分先の事になるでしょうね。

 それはルキナ様にとっても、あまり宜しくはありません……」

 

 

 何故そこでルキナの名前が出るのだろう。

 困惑のままにルフレはフレデリクに訊ねる。

 

 

「何でそれがルキナにとって良くないんだい?」

 

「ルキナ様はルフレさんが何をしているのかは知りませんが、“何か”をしている事には気付いておられます。

 それが結果として、ルキナ様のお心を乱しているのです」

 

「そ、それはどういう……」

 

「ルフレさんが料理について悩まれているのを目にしたルキナ様は、ルフレさんが何か困っているのではないかと、何か良くない事に巻き込まれているのではないかと、心配しておられるのです。

 何か知っているのでは?と私に尋ねられた事もあります」

 

 

 その時は誤魔化しておきましたが……と語るフレデリクも、心なしか困っている様であった。

 

 イーリス王家に仕える騎士である事を誰よりも誇りに思い、そう在らんとしているフレデリクにとって、例えそれがルキナを想うルフレの気持ちを汲んだ結果であるとは言え、“未来”のではあるがクロムの嫡子たるルキナに真実を告げられないのは心苦しいのだろう。

 

 

「ですので、一刻も早くルフレさんが満足のいく料理を作れるよう、私が指導したいと思います」

 

「え、ええー!?」

 

 

 唐突なその申し出にルフレとしては困惑するしかない。

 何故突然、と言うのもあるが、折角ここまで自分だけで頑張ってこれたのだから最後まで……と言う思いもある。

 しかし、そんなルフレの考えは、戦場に立っている時の様な真剣な顔をしたフレデリクの無言の威圧感の前に粉砕された。

 

 

「良いですか?ルフレさん。

 ルキナ様に美味しい料理を食べさせてあげたいと言うその想いはご立派ですが、その為にルキナ様を心配させては本末転倒も良い所です。

 ルフレさんにとって大事なのは『美味しい』料理を作れる様になる事であって、独力で上達すると言う事では無い筈。

 使えるモノは何でも使って、さっさと料理上手になるべきだと思いませんか?」

 

 

 そうでしょう?と有無を言わせないフレデリクに、ルフレはこくこくと頷くしかない。

 お分かり頂けて何よりです、とニッコリと微笑むフレデリクのその表情に、ルフレは背筋を冷や汗が流れ落ちるのを自覚する。

 この忠実なる騎士がこうやって微笑んだ時にはロクな事がない。

 鬼のように厳しい訓練や、お説教が待っているのだ。

 今回の場合は訓練の方であろうけれど。

 

 そして、ルフレの嫌な予想はこれ以上に無い程に的中し、フレデリクによる地獄の責め苦の様に恐ろしく厳しい料理指導が始まったのであった。

 

 唯一の救いは、フレデリクの指導を受ける様になってから、一刻も早くこの指導を終わらせたい一心によって、恐ろしい早さで料理の腕前が上達した事であろう……。

 こうして、フレデリクの助力()と、ルフレの汗と涙によって漸く、ルフレが「これならば!」と満足のいく料理が作れる様になったのであった……。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 動かぬ証拠を掴もうと、ルフレを尾行しようとして失敗してはや十数回。

 ルキナが思っていた以上に、ルフレは強敵であった。

 一軍を預かる軍師としては頼もしくもあり、しかしその頼もしさが今は逆に仇となっている。

 

 一体ルフレは何をしていると言うのだろうか……?

 まさかと思うが、浮気とか……?

 

 それは無いとは思いつつも、抱いた不安が完全に消え去る事は無い。

 悶々としつつルフレを観察する日々が続いたとある日。

 ルキナは、ルフレから呼び出しを受けた。

 

 何だろう、と少し不安を抱きながらもルフレに言われた通りに食堂に行くと、そこには。

 テーブルにこれでもかと並べられた沢山の料理が待ち構えていた。

 

 

「ルキナ!そこに座ってね。

 あ……ちょっと待ってて、この皿で最後だから」

 

 

 ルキナの姿を見付けてパアッと顔を輝かせたルフレはルキナに着席する様に促しつつ、肉料理が盛ってある皿を持ってテーブルの方へとやって来る。

 

 

「あの……ルフレさん、これは一体……」

 

「まあまあそれは気にせずに、取り敢えず食べてみてくれると嬉しいな」

 

 

 ルキナの前に手に持っていた皿を置いたルフレは、そのままルキナの目の前の椅子に座り、何処か期待する様な目でルキナを見詰めてくる。

 困惑しつつも促されるままに、一口食べてみる。

 

 

「……! 美味しいです……!」

 

 

 たった一口食べただけでも、その料理がとても美味しい事は分かった。

 しかもただ美味しいだけではない。

 作った人が、食べてくれる人の事を心から想って作ったのだろう……そんな“想い”としか表現しようがない何かをしっかりと感じられる味だった。

 

 

「『美味しい』?本当に?」

 

 

 ルキナの言葉に目を輝かせて身を乗り出してきたルフレに頷くと。

 ルフレは喜びを露にして拳を握りそれを胸の前に掲げる。

 

 

「良かったー!

 上手くなった自信はあったけど、ルキナの好みに合うのか不安だったんだ……!

 ああ、長かった……!!」

 

 

 思わず、と言った風に涙ぐんで喜ぶルフレに呆気に取られたルキナは、もしかして……?とふと気付く。

 

 

「あの、このお料理って、ルフレさんが……?」

 

 

『鋼の味』で有名なルフレがまさか……と若干思いつつもルキナが訊ねると。

 ルフレは少し照れた様に頬を赤くして頷いた。

 

 

「その……。

 “絶望の未来”でずっと頑張ってきたルキナに、『美味しい』料理を食べて貰いたくってね……。

 結構頑張って練習したんだ。

 フレデリクにしごかれた甲斐があって良かったよ」

 

 

 フレデリクの名前に、ここ暫くのルフレの謎の行動の理由に漸く合点がいったルキナは、次の瞬間顔を仄かに朱に染める。

 何度フレデリクに尋ねてもはぐらかされたり歯切れが悪かったりしたのは、ルフレがルキナの為に必死に料理の腕前を磨いていた事を知っていたからなのだろう。

 ルキナに喜んで貰おうと頑張っているルフレのその気持ちに水をさすまいとしていたに違いない。

 

 そこまで理解したルキナは、思わず嬉しいやら恥ずかしいやらで頬が熱くなってしまう。

 

『鋼の味』料理人だったルフレがここまで美味しい料理を作れる様になるまでの苦労はかなりのものであっただろうし、時にそれで悩んでいた筈だ。

 それを穿って見てしまった上に“浮気”すら疑った事が恥ずかしく。

 そしてそれ以上に、ただでさえ忙しい筈なのに、それでも少なくない時間を割いてまでルキナの為に料理の腕を磨いてくれたのが堪らなく嬉しくて。

 

 もうどんな顔をして良いのやら分からず、ルキナは顔を覆ってしまう。

 嬉し過ぎて、ちょっと他人には見せられない顔になってしまっているかもしれない。

 

 ルキナの事を想いルキナを喜ばせようと一生懸命になって、そしてその目論見が成功して大喜びしているルフレが、どうして良いのか分からない位に愛しくて。

 ただでさえ好きで好きで堪らないのに、更に深みに嵌まってしまう様に、ルフレの事がもっと好きになってしまう。

 

 大好きな人が自分の事を想って作ってくれる料理の美味しさは、今までのルキナの人生の中で味わってきたモノなんて足元にも及ばない程だった。

 嬉し過ぎて心の器から溢れた想いは、柔らかく温かな涙となってルキナの頬を伝い落ちて行く。

 

 

「えっ!?

 どうしたんだい?!

 やっぱり美味しくなくて、さっきのはお世辞だったとか……。

 味見はちゃんとしてた筈なんだけど……!」

 

 

 ポロポロとルキナが涙を溢しているのを見たルフレは、狼狽えながら慌てて自分も一口料理を食べては、「味は……だ、大丈夫だよね……?」と呟く。

 そんなルフレに、ルキナはふるふると首を横に振った。

 

 

「いえ、違うんです。

 お料理は美味しいし、ルフレさんの気持ちが嬉しくて……。

 それで嬉しさで気持ちが一杯になったら、涙が勝手に……」

 

 

 所謂“嬉し泣き”なのだと伝えると、ホッとしたようにルフレは胸を撫で下ろした。

 

 

「よかった……てっきり味見していた僕の味覚がおかしかったのかと……」

 

 

 そうやって安堵した様に息を吐くルフレの様子が何だか面白くて。

 ルキナは思わず笑い声を溢してしまう。

 

 

「えぇー……今のは笑う所かい?

 結構本気で焦ったんだけど」

 

「いえ、ふふっ。

 可笑しいとか、そんな事は無いんですけど……ふふっ」

 

 

 笑いのツボに入ってしまったのか、中々笑いが収まらない。

 一頻り笑うルキナを見ていたルフレは、少し迷った様な素振りを見せながらも、少しばつが悪そうな顔をする。

 

 

「僕がこっそり料理の修行をしようとしていた所為で、何だかルキナに要らない心配させちゃっていたみたいだったから……。

 それのお詫びも兼ねて作った料理だったんだよ。

 だからこそ、失敗したのかと思って焦ったんだけど……。

 でも、ルキナにそんなに喜んで貰えて本当に良かった。

 今まで心配かけさせちゃってごめんね」

 

 

 そう言って頭を下げるルフレに、ルキナは慌ててそれを止める。

 

 

「い、いえ!

 私が早とちりしてしまっただけなんです。

 ルフレさんの所為では……」

 

「折角だからルキナを驚かせようって僕が詰まらない意地を張っちゃったから所為だから、間違いなく僕の所為だよ。

 フレデリクにもそれで怒られちゃったし……。

 本当にごめん」

 

 

 そう言ってまた頭を下げようとするルフレに、ルキナは「私もそうなのでおあいこです」とそれを止めた。

 

 

「私だって、その……。

 ルフレさんに美味しい料理を作ろうと思って、こっそりフレデリクさんから教わっていましたし……。

 ルフレさんの気持ちは分かります。

 だから、この件はここで終わりにしましょう。

 ほら、ルフレさんも一緒に食べましょう?」

 

 ルキナがそう言うと、ルフレは少し驚いた様に瞬いて、そして柔らかな微笑みを浮かべる。

 

 

「そっか。うん、そうだね。

 じゃあ、僕も食べるとするよ。

 ……今度は、ルキナが作った料理を食べさせて欲しいな。

 駄目かい?」

 

「いえ、喜んで」

 

 

 二人して微笑みあって、美味しい料理に舌鼓を打った。

 ゆったりと穏やかに流れたそんな幸せな時間はルキナにとって一生涯の宝物の様な幸せな思い出となり、その先の未来で幾度となく思い返す事になる。

 

 

 なお、ルフレが張り切って作りすぎた料理は、途中で乱入してきた仲間達にもお裾分けされた事によって、全て綺麗に片付けられたのであった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 それから遠い未来の何処かの書物には。

 神軍師と讃えられた軍師ルフレは料理も得手としていて、彼の最愛の妻と共に二人で仲良く料理を作りあっていたのだと記されている。

 仲睦まじい二人のそんな幸せな食卓は、二人が死で別たれるまでずっと続いていたのだそうだ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『恋情に酔う』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「ルフレさん? 聞いてるんですか?」

 

 

 ルフレの腕に身体を密着させる様に迫り、そう宣うルキナの眼は完全に据わっていた。

 その吐息には酒精特有の匂いが漂い、思わずルフレは息を呑んでしまう。

 逃がさないとばかりにルフレの頬を固定する様に掴むその手は、酔っている事を雄弁に示す様に常よりも熱い。

 ルキナの傍には、気付けば何時の間にか空になった酒瓶が数個も転がっている。

 それらの酒の銘柄を見て、ルキナが何れ程の量の酒精をその身に取り込んだのかをザッと換算したルフレは、その恐ろしさに冷や汗が止まらない。

 何時も一緒に飲んでいた時は、戦時中で物資に制限があった事もあって、酔う事は無い程度の酒量だったのだ。

 故にルフレはルキナの限界を知らないし、万が一酔った場合にどうなるのかも知らなかった。

 

 ルフレ自身は所謂『ザル』だの『ワク』だの『うわばみ』だのと呼ばれる体質であるらしく、何れだけ飲んでもちょっと身体が温まってくる程度で全く酔わないのだ。

 外交の場など酒を飲み飲まされる場に於いては有益ながらも、酒宴が開かれた際は酔い潰れた仲間達の介抱を必然的に行う事になり酔っ払いどもの面倒をみないといけなくなるこの体質は、ルフレとしては痛し痒しである。

 また、その体質故に、一緒に飲んでいる人がルフレのペースに釣られて酒量のセーブを忘れてしまうと言う困った弊害もあった。

 ルキナがここまで酒を飲んでしまったのは、ルフレの責任が大いにある……と言うか九割方はルフレの所為だ。

 ルフレの体質による弊害もその原因の一つではあるが、もっと根本的な事を言えば、そもそもこの酒宴がルフレの生還を祝って開かれたものだからである。

 

 

 凡そ二年前の事。

 時を越えてまでこの世界にやって来ていた『ギムレー』を、ルフレは自らの存在と引き換えに討ち果たした。

 この世界から完全に消滅したルフレが生還出来る確率は、何れ程多く見積もっても一割にも満たず……もっと率直に言えば「絶望的」だったのだけれども。

 それでも、『また会いたい』のだと『皆と生きていたい』のだと。完全に消え去るその直前まで強く願い続けていたからなのか、クロム達もまた、『会いたい』と『帰ってこい』と願っていてくれたからなのか。

 ルフレは、紛れも無く「ルフレ」として。

再びこの世界で生きる事を許された。

 それは幾千万の願いと祈りが降り積もり折り重なりあって、漸く叶った「奇跡」なのだろう。

 そして、「あの日」から凡そ二年の時を飛び越えて。

 ルフレは再びクロム達と巡り会えたのだ。

 

 

 そして、ルフレの生還を祝う為の仲間内での宴がこうして開かれた訳なのだけれども……。

 宴が和気藹々とした雰囲気だったのは当初の内だけで。

 今となってはすっかり、酒瓶が各所で乱れ飛ぶは、空気だけで酔う人は酔ってしまいそうな程に酒の匂いが漂っているわの、酒乱どもの狂宴の場と化していた。

 まあ、寒冷地であるが故に酒豪が勢揃いしているフェリア勢が、フェリア特産の強い酒を大量に振る舞い始めた辺りでこうなるのは目に見えていたのだけれども。

 豪胆な事で知られるフラヴィアとバジーリオの両フェリア王がクロムとロンクーとグレゴを巻き込んで酒樽を開けて酒豪勝負を繰り広げているのはともかくとして。

 普段は恥ずかしがり屋で所作も淑やかなオリヴィエでさえ、ケロリとした涼しい顔で次から次へと強い酒を呑み干していっては酒、瓶を空にしているのだ。

 その傍には飲み潰れた男どもが死屍累々の有り様で横たわっているのだから、最早ちょっとしたホラーである。

 

 飲み慣れているガイアは度数が高い酒には手を付けず、ルフレとしては甘ったる過ぎて想像するだけでも胸焼けしそうになるのだが、甘い砂糖菓子を酒のつまみとしながら果実酒などの甘い酒を程好いペースで飲んでいた。

 酔った勢いで上半身裸になって、ドニが愛用する鍋を奪いそれを被って踊り始めたヴェイクは、今やすっかり酔い潰れて酒瓶を抱きながら眠っていて。それを囃し立てていたドニとリヒトとソールも仲良く眠っている。

 ヴィオールは恐らく酔ってはいないのだろうけれど、彼の場合酔っていても突然倒れる様にして眠るまでは言動はあまり変わらないので実際の所はあまり分からない。

 リベラはやたら神に祈っているが、彼の場合は平常運転が既にそれなので、ルフレの目から見ても何処まで酔っているのかはほぼ分からないのが実情である。

 ヘンリーは笑っていたかと思うと、パタリと眠ってしまっているのだが、その寝顔はとても幸せそうであった。

 リズとマリアベルは微酔いで会話にに花を咲かせていて至って平和であるのだが。その横でブレディとノワールが泣きながら酒を飲んでいる為中々に混沌としている。

 泣きながら何事かを愚痴っているティアモと、それに頷きながら何処からか取り出したペガサスの羽でティアモに羽占いをしてあげているスミアは恐らく完全に酔っ払っていて。更にその横では、酔っているセレナに無理矢理呑まされたロランが静かに酔い潰れて眠っていた。

 酔ってきているのか、当初は良い鍛練の方法について意見を交わしていたソワレとデジェルは、いつの間にか料理の話題に花を咲かせているが、その内容はどう考えても料理の話には思えないのが空恐ろしい話である。

 泣きながら愚痴っていたアズールに巻き込まれる様にしてハイペースで酒を飲んでいたジェロームは今は船を漕いでいて、シャンブレーは横で潰れる様に眠っている。

 ウードは、酔ったシンシアと共に正義の味方として百八の必殺技を編み出さんと騒いでいて、それに巻き込まれた素面のンンが呆れながらも二人に付き合っていた。

 少し離れた場所ではサーリャが一人静かに酒を飲んでいて、更にそこから離れた場所ではミリエルが酔っ払いどもの痴態を静かに観察している。

 少し酒を飲んだだけで寝てしまったチキの面倒を見ていたサイリもまた、疲れた様にその横で目を閉じていて。

 実年齢はともかく幼さ故に酒の類いは禁止されているノノは、酔っ払いどもと共にはしゃぎ疲れて眠っていた。

 喧騒は好きではないベルベットは、酔っ払いどもが騒ぎ始める前に宴を抜け出しているのでここには居ない。

 酔ったりなんだりして眠っている者達が部屋の隅へと運ばれて風邪を引かぬ様に毛布まで掛けられているのは、酔った勢いで乱痴気騒ぎを繰り広げている足元不如意な連中に踏まれたりしない様にと、セルジュやフレデリクやカラム辺りが気を遣ったのだろう。

 なお、カラムはその疲れからか壁際に凭れ掛かる様にしてひっそりと眠っているのだが、相変わらずに存在感が薄く、その内に誰かが足を引っ掛けそうである。

 

 そんな酔っ払いどもの狂宴の中、宴の主役でもあるルフレは、当初の内は入れ替わり立ち替わりやって来てはお祝いと称しては酒を飲み交わしていく仲間達に付き合ってかなりの量を飲んでいた。

 そして仲間達が乱痴気騒ぎを繰り広げ始めた辺りから、恋人であるルキナと二人でのんびりと飲んでいたのだ。

 が、ルフレもまた浮かれていたのだろう。

 自分の体質の事をすっかり忘れて、何も気にせずにルキナと飲んでしまっていたのだ。

 ルフレとしては「のんびり」であっても傍目から見れば、強い酒を途切れる事なく次々に飲んでいた様にしか見えなかっただろう。

 そして、そのルフレのペースに釣られてか、ルキナもまた次々に酒を飲んでいて。

 気が付けば、完全に酔っ払ってしまっているルキナの姿が、そこにあったのだ。

 

 

「ルフレさんは、酷い人です……。

 私の事を好きだって言ってくれたのに……。

 なのに、何も言わずに、私を置いて行くなんて……。

 この二年間、どんなにルフレさんが居ない事が辛かったか、寂しかったのか……。

 どうしてあの時、ルフレさんを止められなかったのか……、どんなに私が後悔していたのか……。

 ルフレさんは、全っ然分かってないんです!」

 

 

 酔ったルキナの言葉は所々呂律が回っていないけれど、それでも間違いなくその言葉はルキナが抱えていた……ルフレの選択が与えてしまった心の傷なのだと、そう誰よりも理解してしまったから。

 

 

「ルキナ……僕は……」

 

 

 ポツリと溢したその言葉の先が、続く筈も無かった。

 そこまでルフレは厚顔無恥にはなれない。

更には。

 ルフレは、ルキナを哀しませてしまったのだと自覚しても尚、自分の選択を後悔している訳ではなかった。

 あの時はあの選択が最善であったと今でも胸を張って言えるし、誰に何を言われようともそれは揺るがない。

 仲間たちを哀しませようとも苦しませようとも……。

ルフレの選択を止められなかった後悔を、ずっと抱かせる事になろうとも。

 自覚しているのだからこそ尚の事質が悪いのだと、ルフレ自身も分かっているけれど。

 それでも、軍師として……一人の人間として、そして……愛する人が居る身であるからこそ。

 自らに絡み付いている世の破滅への因縁を、この手で断ち切れるのなら……それを迷う事は出来なかったのだ。

 

 だが、例えあの選択が間違いではなかったとそう思っているのだとしても。ルフレがルキナを置いて逝ってしまったのは紛れもない事実だ。

 生きて帰れる見込みなど無いに等しい事を分かっていて、それなのにルキナには何も言えなかった。

 死を覚悟していたのなら、せめてルキナの手を離してあげるべきだったのかもしれないけれど。

 それなのにルキナの手を自分以外が取る事に我慢出来なくて……。それが尚ルキナを苦しめてしまうのを分かっていながらも、ルフレはギムレーを討つその瞬間までルキナの横に居たのだ。

 

 だからルキナは、ルフレが消えていくその光景を、そして自分がそれに対して何も出来ない無力を、誰よりも近くで味わう事になってしまった。

 それが何れ程ルキナを苦しめてしまったのかと想像するだけで、ルフレも胸が苦しくなる。

 

 ……だけれども。

 ルキナを苦しめてしまった事に胸を痛めるのと同時に、ルキナのその苦しみが自分への愛の証である様に感じ……仄暗い喜びを感じてしまっている部分もあった。

 それはきっと余りにも醜い独占欲だった。

 ……それをルキナに言う事は、絶対に出来ないけれど。

 

 

「ルフレさんは私が何れだけルフレさんの事を好きなのか、全然分かってないんです!

 だからあんな事が出来るんです!

 残酷で、薄情で、自分勝手で……!

 だから──」

 

 

 

 ルフレを詰る様に言い募っていたルキナは、そこで唐突に言葉を切った。

 それにどうかしたのかと一瞬訝しんだルフレの後頭部を、躊躇なくルキナは鷲掴みにしてくる。

 そして、何が起こったのかと固まってしまったルフレの頭を、自分に抱き寄せる様にして。

 ルキナはルフレに深い口付けを交わした。

 

 何一つとして心の準備なんて出来ていなかったが故に、強く情熱的なその口付けは剰りにも苦しくて。

 ルフレは思わず抵抗しようともがくが、酔ったルキナは父親譲りの強靭な腕力を発揮して、そんなルフレの抵抗を力尽くで抑え込んでしまう。

 蹂躙され尽くした果てにやっと解放されたルフレは、思わず咳き込んでしまう程に息を荒げてしまっていた。

 そんなルフレを満足そうに見やったルキナは、再度ルフレの顔を掴む。

 

 

「これは酷くて自分勝手なルフレさんへの罰なんです。

 私がどれだけルフレさんの事が大好きなのか、ルフレさんが大事なのか、ルフレさんを愛しているのか……。

 骨身に沁みるまで、分からせてあげます……!」

 

 

 そう言って、再びまた口付けを交わす。

 今度は先程の蹂躙する様なものとは違って、何処か優しく……去れども、ルフレを逃がさないとばかりに何度も何度も激しくルフレを求めてきた。

 先程とは違って僅かばかりの心の準備が出来ていたルフレは、ルキナが求めるがままにそれに応じる。

 

 そして幾度となく及んだ口付けに満足したのか、やっとルキナが手を離した事にルフレが安堵した次の瞬間。

 ルキナはルフレにキスの嵐を降らせてくる。

 額に頬に瞼に首筋に、と。情事の際でも滅多にない程に情熱的なそのキスの乱舞に、ルフレとしては驚きの剰りに思考が停止してされるがままになるしかない。

 

 酔ったルキナがキス魔になる事を知っていれば、ここまで酔う前に絶対に飲酒を止めていたものを……! と、

ルフレは今更過ぎる後悔をするしかない。

 だが今更後悔した所でどうしようもなく、何度も言う様にルキナがこうなっているのはルフレの所為である。

 甘んじてこのキスの嵐を受け入れるしか無い。

 無い、……のだけれども。

 

 キスの合間に自分を見詰めてくるルキナの潤んだ瞳が、熱い吐息が、伝わる熱情が、抑えきれぬ感情に震えるその手が。その何れもこれもが愛しくて、堪らないのだ。

 こんな宴の席でもなければ即座に押し倒してしまいたくなる位に、今のルキナはルフレの劣情を激しく煽った。

 

 が、そもそもここは宴の席であり、酔い潰れて寝落ちしている者も多く居るとは言え、人の目があるのだ。

 ここでルフレが理性の箍を緩める訳にはいかない。

 ルフレとしては節度を持ったお付き合いでありたい。

 何よりも、フェリア王達に挟まれて酒を飲まされながらも時々こちらに視線を向けるのを忘れないクロムのその無言の圧力を、ルフレとしては流石に無視出来ない。

 ここでルフレがルキナに流されて無体を働けば、即座にファルシオンが飛んで来るだろう。

 奇跡的に生きて帰って来れたのである。

 流石にルフレとて、命は惜しむ。

 

 

「ずっと、待ってたんです、私、ずっと……ずっと……。

 ルフレさんは、帰ってくるって、私を置いていったり、しないって。信じて、探して……。

 だけど時々、どうしても怖くて、我慢出来なくて……。

 もう帰って来ないんじゃないかって、思ってしまって。

 そんな事を考えていたから、ルフレさんは、帰ってこないんじゃないかって、もっと怖くなって……」

 

 

 遂には浮かべた涙をポロポロと溢し始めたルキナを、ルフレはそっと優しく抱き締めた。

 

 

「違うよ、ルキナの所為じゃない。

 ルキナは何一つとして悪くなんてない。

 ……ルキナが僕を望んでくれたからこそ、僕は帰ってこれたんだ。全部、君のお陰だよ。

 だからほら、泣かないで……」

 

 

 溢れ落ちるその涙をそっと指先で拭う様にして、ルフレはルキナに微笑みかける。

 ルフレが帰還する迄に要した月日が、その奇跡を果たすのに、短かったのか長かったのかは、もう分からない。

 どちらにせよ奇跡であるのは間違いないけれども。

しかしその奇跡が果たされる時までに二年に近い歳月を要したのもまた事実である。

 待つ人にとってその月日は決して短くなんてなくて。

 その分だけ、ルフレはルキナを苦しめ続けてきた。

 

 見切りを付ける事が出来なかったルキナは、帰ってくるかさえも不明な待ち人をどんな想いで待っていたのか。

 そして二年も待たせておいて漸く帰って来たルフレが。

 それでも愛していると、そう言って貰える事が、そう想って貰える事が、何れ程の得難い奇跡である事か……。

 

 

「ルフレさん……。

 もう二度と、私を置いて行ったりしないで下さい……。

 何処にも、行かないで下さい……。

 私はもう、貴方を喪う事には、耐えられない……」

 

「……うん、分かった、約束する。

 ……僕はもう、君を離さない……独りにはさせない。

 ずっと傍にいるよ……」

 

 

 涙混じりに訴えるルキナに、ルフレは静かに頷いた。

 

 何れ「死」が互いを別つのだとしても。

 それでも、せめてその時までは。

 そして、何時か「死」に引き裂かれるのだとしても、魂だけでもその傍に。

 

 ルフレの返事に漸く安心したのか、ルキナはルフレを抱き締めて目を閉じ、安らかな寝息を立て始める。

 自分に身を預ける様にして眠る愛しい人の額に、ルフレは優しく口付けを落として。

 ルキナを寝かせるべく、そのままルキナを抱き抱える様にして宴の場を後にするのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『雪路を行けば』

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 雪を孕んだ風が、辺り一面に広がる雪原を雪煙を巻き上げながら強く吹き抜けて行く。

 草木は厚い雪の下で息を潜める様に眠りに就いて、雪解けと共に訪れる春を待ちわびているのだろうか。

 冬籠もりしているのか或いは雪に同化する保護色に守られているのかは、動物達の姿も滅多と見掛けない。

 

 そんな、厳しい冬の景色が目の前に広がっていた。

 

 こんな寒さの中では、道を行く人々の姿すら疎らで。

 街と街を繋ぐ大きな街道であるにも関わらず、見渡す限りではルフレとルキナの他に道行く人は居ない。

 天気はまだ持ちそうだが、冬の天気は崩れるのが早い。

 吹雪になる前に、早い内に宿に着く方が良いであろう。

 

 

「ルキナ、大丈夫かい?」

 

 

 横を共に歩くルキナを気遣い、ルフレは声を掛ける。

 雪が積もった道では無理に馬を使うよりは徒歩の方が早いから……と、ここまで歩いてきたけれども。

 それでも雪路を行くのは堪えるものだ。

 慣れていてもいなくても、辛いものは辛い。

 イーリスの軍師として行軍に付き従っていた時に、ルフレは何度か雪中行軍の経験があったけれども。

 ルキナがクロムとルフレと共に行動する様になってからは幸いにもそんな経験は無くて。

 だからこそ、雪路を行くのに慣れていないルキナが無理をしていないかが心配であった。

 

 彼女がやって来た「未来」は『絶望の未来』と呼び表される程に過酷なモノであったらしいけれども。

 だからと言って、比較的温順な土地が多いイーリスを拠点として活動していたのであろうルキナに、雪中行軍の経験が豊富であるとはとてもではないが思えない。

『絶望の未来』での事を思い出したくは無いからか、ルキナがその「未来」での経験を口にする事はあまり無いから、全てはルフレの憶測でしかないのだけれども。

 

 しかし、もしルキナが雪路に不慣れであったのなら、酷な事を強いてしまっただろうか、とそう考えてしまう。

 ……どの道、戻ってしまうには来た道は遠く、このまま次の街へと進むしかないのだが。

 

 辺り一面を雪に覆い尽くされた景色を静かに見詰めていたルキナは、ルフレの言葉に暫くは無言を返していた。

 だが、ふとその眼差しが、何処か『遠く』を、ここではない『何処か』へと、焦点を結ぶ。

 そして、目に見えない程の微かな皹割れから僅かに水が滴り落ちる様に、ポツポツと呟き始めた。

 

 

「……あの「未来」では……。

 空は何時も分厚い雲に閉ざされ、陽の光は遮られ……。

 世界には、夕暮れの不気味な赤い空か、月や星の光一つ無い底無しの暗闇か、そのどちらかだけでした……。

 日の光が減った事で作物は多くが枯れ果て。

 僅かな実りも、痩せ衰えた貧しいもので……。

 多くの人々が飢えの苦しみの中で命を落としました」

 

 

 「未来」からやって来た子供達の多くは、ルキナ達王族だけでなく貴族や騎士の家系の者が多かった。

 この世界では基本的に特権階級であり飢えとはほぼ無縁の筈であろうそんな彼等ですら、「未来」では充分に食べる事は出来なかった……とルフレは聞いた事があった。

 そんな「未来」では、多くの民が酷い上の中で何も出来ずに餓死していただろう事は、それを実際に見た訳ではないルフレにすらも容易に想像が付いた。

 

 幸いにも、記憶喪失の行き倒れなんて状態でクロムに拾われた身であったルフレではあるが。

クロム達にはとても良くして貰っていて、行軍中に食糧が少し寂しくなった事は幾度かあったものの、ルフレが餓えに苦しんだ事は一度も無かった。

 それはとても恵まれている事であって……。

 

 だからこそ尚の事。

恵まれていなくてはならない子供達の「未来」がそんな有り様であった事が、ルフレには哀しくて仕方無い。

 「どうして」、と。きっと誰よりも彼ら自身がそう思ったであろうそんな事を、考えてしまう。

 

 

「中でも一番過酷な状況に陥ったのは、フェリアでした。

 春になっても融ける事がない雪と氷に閉ざされて……。

 皆、村や街に閉じ込められたまま、飢えと寒さの中でただただ死んでいったと……。

 決死の覚悟で雪と氷と死の坩堝の中から、何とかイーリスまで逃げ出してきた者達から、聞きました。

 ……勿論、イーリスからフェリアへと何度か救援部隊を送りましたが、誰一人として帰って来ず……。

 そうこうしている内にイーリスも他国の民を気遣える様な状況では無くなってしまって、それっきりでした」

 

 ポツポツと、ルキナはそう言葉を続ける。

『遠く』を見詰めるルキナの目は、もう何のの感情にも揺れてはいない。だけれども……哀しみすら枯れ果てた後の様な、そんな感情の残滓がそこに沈んでいた。

 

 剰りに多くのモノを喪ってきたルキナのその目は、何れ程の苦しみや哀しみをそこに刻んできたのだろうか。

 窺い知る事など到底不可能な地獄が、そこにはあった。

 

 

「私は……。

 あの「未来」では、結局、私は何も守れませんでした。

 何も……何一つとして。出来なかったんです。

 ギムレーを討って世界を救う事も、人々を救う事も。

 イーリスの民を守る事すら、私には出来なかった……」

 

 

 「それはルキナの所為では無い」と、そんな言葉を掛けて慰めるのは……きっと簡単なのだろう。

 だがそれは、ほんの一時ルキナの心を温める事は出来たとしても、結局何の解決にもなりはしない……そんな無責任で卑怯な言葉でもある。

 その「未来」を見てきた訳でもそこで生き抜いた訳でもないルフレのそう言った言葉が、本当の意味で、ルキナの心に響く事はないだろう。

 気休めに、虚しく表面的な部分を撫でるだけだ。

 

 ルキナがほんの少しでも無責任な性格であったのなら、或いは理不尽でしかない境遇に怒りを覚えて運命や神へ怨嗟を吐ける様な性格であるのならば。

 また少し話は違うのかもしれないけれども。

 だが、そうではないのだ。

 ルキナの性格をよく分かっているからこそ、ルフレはそんな気休めを口に出来ない。

 

 過去を「無かった事」には決して出来ない。

 それは、例え神の如き存在であったとしても、だ。

 「過去」へと跳躍し「未来」を変えたのだとしても。

 そこに居るルキナ自身にはその「未来」を確かに辿って来たと言う経験があるのだから。

 例えどんなにその「過去」を変えたくても。

 そうまでして変えた「未来」に生きるのは、自分ではなくて……何も知らない真っ新な「自分」だ。

 

 神らぬ身の、正確には『神』とやらに成り果てる事を拒否した「成りそこない」のルフレには、『「過去」を変えて、その「未来」を変える』と言う事が、正確にはどう「世界」の作用するのかはよく分からない。

 古き「未来」は「無かった事」になるのか。

 それとも数多ある『異界』の一つとして枝分かれし、決して交わらぬ「異世」となるのか。

 目の前に居るこの愛しい人は、異なる「未来」からの異邦人たるルキナは、「世界」にとってどう扱われるのか。

 

 神の如き軍師と讃えられようとも。

 その策が神を称する存在すらをも討ったのだとしても。

 「分からない事」は、世界に溢れかえっている。

 元より、「世界」の真理を探求するのはミリエルの様な学者達の生業であって、軍師の役割ではないのだが。

 

 しかし、「世界の真理」とやらは分からぬ神ならぬ「成りそこない」のルフレでも、確かに分かる事はある。

 ルキナが世界にとって『異物』であるのだとしても。

 時の輪から外れた歪な存在だと、何時か「世界」から弾き出される未来が待っていたとしても……。

 それでも、ルフレが愛しているのはこのルキナなのだ。

 イーリスの城で両親から惜しみ無い愛情を受けて育っていくのであろう、愛しい無垢なる幼子ではない。

 

 無論、あの幼い『ルキナ』もルフレにとっては掛替えの無い存在であるのは確かだけれども。

 ルキナか『ルキナ』か……そのどちらかを選ばねばならぬのなら、ルフレが迷う事はない。

 世界がルキナを拒絶すると言うのならその時は、例えこの身が「時の漂流者」となろうとも、ルフレもまたルキナと共にこの「世界」を去るだけの事だ。

 

 消滅の定めを覆して再びルキナと巡り会えた時に。

 もう二度とその手を離さないと。

 もう二度とその傍を離れないと。

 死が互いを別つその時まで共に生きようと。

 ルフレは確かに、そう心に決めたのだから。

 想いが重かろうと身勝手であろうと、ルフレはルキナに関しては何一つとして譲ってやるつもりはないのだ。

 

 ……だからこそ、ルフレは自分ではどうしてやる事も出来ない「過去」がルキナを苛んでいるのを見る度に。

 自分の無力さに打ち拉がれ、何処にも行き場の無い哀しみと……それ以上の静かな怒りを感じるのだ。

 それは、愛しい人が剰りにも理不尽な運命や苦しみを押し付けられた事に対する怒りや哀しみであると同時に。

 その理不尽を押し付けた最たる元凶が、「未来」の『自分』自身である事への……。

 決して望まぬそんな「運命」を押し付けられ、それに押し潰された憐れな『ルフレ』への、同情の様などうしようもない絶望を孕んだ怒りでもあり。

 そして何よりも。

 そこにはルキナの絶望が前提にあると言うのにも関わらず、こうしてルキナと自分が出会えた事に、限り無い喜びを感じてしまう事への昏く淀んだ哀しみであった。

 

 全く我が事ながら剰りにも業が深いな、とルフレはルキナに悟られぬ様に心中で溜め息を溢す。

 こんな、自分ですらも何処か歪だと思える感情を『愛』なんて表現して良いのかは分からないけれど、生憎とルフレにはそれ以外に上手い言葉が見付からないのだ。

『愛』とは全く便利な言葉である。

 

 しかしルフレが何れ程の『愛』を捧げていようと、ルキナに対してどうしてやる事も出来ない事は多い。

 過酷と言う言葉ですら言い表せない程の惨状であった『絶望の未来』が、ルキナの心に刻み付けた傷痕は剰りにも多く……そして底が見通せない程に深かった。

 その心に刻まれた数多の癒える事の無い傷痕は、多感な年頃をそんな状況下で生き抜けた事に対する「代償」、とも言えるのかもしれないけれども……。

 

 ルキナとて、常日頃からそれについて考え、そこに囚われている訳ではないのだろうけれども。

 それでも、その傷痕は折に触れてルキナを苛むのだ。

 そして、『絶望の未来』の記憶を呼び起こすモノは、この世界にも何処にだって転がっていて。

 戦場から遠く離れ、剣を手に命をやり取りする事が非日常になってからは特に、ルキナがその心の傷痕に苛まれる頻度が増えている様にルフレには思える。

 それは、きっと一瞬先以外の事も考える余裕が生まれてきてしまった事への弊害、でもあるのだろう……。

 

 心の傷痕は、肉体的な傷とは違って、誰の目にも見えないのが厄介である。

 見えぬからこそ、その傷がちゃんと治ったのかは当人を含めて誰にも分からないし、傷痕から流れ出るその苦しみを他者が理解する事は難しい。

 その原因を取り除くと言う事も、「過去」を変える事は誰にも出来ない以上は不可能だ。

 

 ……そうではあるけれども。

 「過去」を変える事は出来なくても。

ルキナが生きているのは最早どうする事も出来ぬ「過去」ではなく、ルフレと共に生きていく「今」だ。

 その傷痕が完全に癒える日は一生涯訪れないとしても。

 

 ルフレと共に積み重ねていく日々の記憶が少しずつ真綿でくるむ様にその痛みを和らげていけるのなら。

 その苦しみを、その傷痕を、微睡む様な暖かで幸せな記憶が、優しく雪が降り積もる様に癒していけるのなら。

 共に生きて過ごすこれからの時間全てが、その傷痕を「昔」に変えてくれるのなら。

 今は激しくその心を苛む苦しみも、何時かは少しの苦味を伴う静かな哀しみに変わるだろう。

 ルフレは、そう信じている。

 だからこそ。

 

 

「ルキナ、ほら、手を出して」

 

 

 ルフレに言われるがままに差し出されたルキナのその手を、ルフレは優しくそっと包む。

 雪風に曝されていたその手は、温もりをすっかり喪った様に冷えきっていて。

 反対に、コートのポケットに忍ばせていた温石のお陰でルフレの手は少しばかり温かった。

 

 

「あの、私の手、冷たくないですか?」

 

 

 気遣う様なルキナのそんな言葉に、ルフレはそっと微笑んで、「そうだね」と小さく頷いた。

 

 

「でも、こうやって手を繋いでいた方が温かいだろう?

 それに僕としては、こうしてルキナの温もりをしっかりと感じていたいからね」

 

 

 そう答えると、気恥ずかしかったのか。

 途端にルキナはその頬を赤く染めて、少し顔を背けて。

 繋いだその手は、僅かに熱を宿した。

 

 そんなルキナの様子を微笑ましく見詰めながら。

 ルフレは、寄り添う様に歩幅を合わせて、並んで歩く。

 

 雪風の向こうには、人々の営みの輝きその物の様な、街の灯りが幽かに見えていた。

 

 きっともう直ぐ辿り着けるであろう。

 二人の長い旅も、後僅かだ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『太陽は昇る』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 深々とした静けさが、帳を下ろした様に世闇に沈んだ世界を優しく包んでいる。

 誰もが皆、夜の中の眠りの世界に誘われ、その先に訪れる新たな夜明けを待っているのだろう。

 世界を照らすのは、月明かりと星明かりばかりで。

 それと僅かばかりの篝火が、夜闇を薄れさせている。

 

 そんな静かな世界で、ルキナは自らに与えられている天幕を脱け出して、独り夜空を見上げていた。

 地に根付いて生きる人々にとって今夜は、「年の瀬」と言う特別な日、特別な夜ではあるけれども。

 空に輝く星々は、そんな事は知らぬとばかりに何時もと何一つ変わりはしない輝きを地へと投げ掛けている。

 

 あの「未来」でも、星の輝きは変わらなかった。

 きっとそれは、昼も夜も空があの厚い雲に覆われ続けて日の光も月と星の光が夜空から消えてしまっていても。

 地に生きる人々の目には見えずとも、雲の向こうにあったであろう星の輝きは変わっていなかったのだろう。

 変わる事の無い夜空を見上げていると、何時も胸に巣食い続けている焦燥や恐怖や苦悩は少しだけ軽くなる。

 ルキナの抱える苦悩も絶望も。

 その何もかもが、ちっぽけなモノの様に思えて。

 ルキナが何をしようと、何処に居ようと、この星々の輝きは変わらないのだと思うと。それが何故だか少しばかり、「救い」の様にも思えてしまうのだ。

 

 勿論、ルキナは星とて不滅の存在では無い事も、変わりがない様に見える夜空でも千年二千年と言う人間の感覚で言えば途方も無く永遠にも等しい時の中で見れば、少しずつでも変わっていってしまう事も知っている。

 それでも星達の瞬きは、永遠どころか百年を生きる事すら稀である人の身からすれば、不滅の存在の様に感じてしまうのもまた、動かし難い事実なのである。

 

 満天の星空にただただ魅入られた様に見上げ続けているルキナの横に、ふと新たに誰かが座る。

 思わず星空から目を離して横を見ると、恋人であるルフレが優しく微笑みながら手にしたマグを手渡してきた。

 

 

「こんな時間まで夜更かしかい?

 明日も行軍があるんだし、あんまり感心しないね」

 

 

 そんな言葉を言いながらも、ルフレのその声音にルキナを咎めようとする意図はなく。

 ルフレが手渡してきたそのマグは、柔らかな甘い香りと共に、温かな湯気を立てていた。

 

 

「ルフレさんこそ。

 こんな時間まで夜更かしをしているじゃないですか」

 

 

 少し揶揄う様にルキナがそう返すと、ルフレは少し肩を竦めて微笑む。

 

 

「明日の行軍路とか、今後の策を練っていたからね……。

 で、流石にそろそろ寝ようかと思ったら、とっくに寝ている時間だろうに、天幕には君が居ないときた。

 全く……今夜はとても冷えるのに、そんな格好で長いこと外に居たら風邪を引いてしまうよ?」

 

 

 そう言うなり、ルフレはルキナの手をそっと撫でる様に、その温かな指先で軽く触れた。

 

 

「ほら、こんなに手が冷たくなっているし……。

 夜空を見上げるのも良いけれど、ルキナはもう少し自分の身体を気遣ってあげて欲しいね」

 

 

 そう苦笑いして、ルフレは懐に持っていた毛布を広げてルキナの肩に掛け、一人分にしてはかなり余るその端を自分の肩へと掛けた。

 自然と密着する身体の服越しに伝わるその温もりに、ルキナは心の寄る辺を見付けたかの様な安堵を感じて、ルフレとより身体が接する様に寄り添う。

 

 

「そんなお小言を言いながら、ルフレさんも星が見たいのですか?」

 

「そうだね。折角こんなに星が綺麗な夜なんだから。

 これを見ずに、眠ってしまうのも少しばかり勿体無い。

 それに……もうそろそろ日が昇る時間だからね」

 

 

 そう言って、ルフレは自分のマグの中身を一口飲んだ。

 ルキナもそれに促される様に、自分の分を一口。

 

 その途端に口の中に広がるのは、ミルクと蜂蜜の優しい甘さと、それに絡み合う様にすっかり冷えた身体を芯から温めてくれる生姜の仄かな辛さに似た味であった。

 きっとルキナが夜空を見ている事に気が付いたルフレが、ルキナの為に態々用意してくれたのだろう。

 毛布と共に感じるその温もりは、身体だけではなく、胸の奥からも湧き上がって来る。

 

 愛しい恋人と、こうして穏やかで静かな時を共に過ごせる事に、言葉で表しきれずに溢れ落ちてしまう程の、「幸せ」な想いを感じてしまう。

 

 今が戦時中であって、ルキナかルフレのそのどちらかが戦場に倒れる可能性は何時だってあるのだとしても。

 それでも、共に過ごせる時は、こんなにも愛しくて。

 それ故に、僅かな苦味と、どうしようもない息苦しさにも似た感情の奔流を感じてしまう。

 

 何時か、この人は父を裏切り殺そうとするのだろうか。

 何時か、この人を殺さなくてはならないのだろうか。

 何時か、「その時」が来たら、……来てしまったら。

 自分は、この人を……殺す事が出来るのだろうか。

 

 共に過ごす日々は、共に過ごす時間は、その記憶は。

 こんなにも愛しいのに、こんなにも大切なのに。

 それを……この温もりを、自ら喪う様なその選択を。

 ……自分は、選ぶ事が出来るのだろうか。

 

 分からない。それは、ルキナには分かり様が無い事だ。

 ルキナに出来るのは、そんな未来が絶対に来ない様にと願うだけ。ルキナの抱えている疑念が、全てルキナの気の所為で終わる事を祈るだけだ。

 

 ルキナの胸の中に、静かに苦悩と葛藤の陰りが忍び寄ろうとしたその時。

 

 

「ルキナ」

 

 

 優しく囁く様にルフレに名を呼ばれ、そしてその肩をそっと抱き寄せられた。

 

 

「大丈夫、大丈夫だよ、ルキナ。

 どんな夜だって、必ず明けるんだ。

 ルキナのどんな苦しみも、悩みも、絶望も。

 終わる時は、終わらせられる時は、必ず来る。

 だからこそ僕らは、少しでも「望む終わり方」が出来る様に……精一杯努力するんだ。

 その為なら、君の為なら、僕は何だってする、何だって出来る、……してみせるから」

 

 

 ゆっくりと、ルキナに言い聞かせる様にそう語るルフレの表情は、月明かりを横切る様に雲が流れていった為深い影が落ちていて、ルキナにはよくは見えなかった。

 ただ、その声音に込められたその熱に、ルキナはもどかしくもまだ何も返せなくて。

 それでも溢れた想いは浅い吐息の様に零れ落ちていく。

 

 そのまま不意にキスをされそうな程の近くで見詰め合い続けていたが二人だが、月明かりを遮っていた雲が途切れると同時にルフレの気配が少し緩む。

 そして、茶目っ気を滲ませながら、ルフレは微笑んだ。

 

 

「僕は一応これでもクロムの軍師として、策を考える頭だけは誰にも負けないと自負しているからね。

 ルキナの為の策なら、どんな戦局だって引っくり返せる様な最高のモノを考え付いてみせるさ」

 

 

 僕の軍師としての力は信頼してるだろう? と、そう続けたルフレの言葉に、思わず知らず知らずの内に強張っていた肩の力は抜けて、ルキナは苦笑する様に頷いた。

 

 

「そうですね……。何時も頼りにしていますよ? 

 軍師としての、貴方の策の力は」

 

「それは光栄至極に存じますね、僕のお姫様」

 

 

 そう言って、二人して顔を見合わせて少し笑う。

 ふと見上げた夜空の端が少し白み始めてきた事に気が付いて、ルキナはふとそこを指差した。

 

 

「もう日が登りますね」

 

「そうだね、新しい年の初めての日の出をこうして一緒に見られるなんて、中々幸先が良い様な気がするよね」

 

 

 夜の闇は少しずつ白い輝きに追いやられる様に星明かりと共に去り、夜明け前に現れる何処までも透き通る様な蒼が天を彩っていく。

 

 

「良い一年になると良いですね」

 

「そうだね、きっと、そう出来る筈だよ」

 

 

 どちらからと言う訳でもなく、互いに手を握りあった。

 ルフレの右手とルキナの左手の指先が絡み合う様に繋がれ、二人は鳥の番の様にその身を寄せ合う。

 

 何時かルキナには、この手を離さなければならぬ日が来るのかもしれない。

 何時か、この温もりを自らの手で喪わなくてはならぬ時が来るのかもしれない。

 そうやって、ルキナは自分が抱え続けていた苦悩に答えを出して終わらせてしまうのかもしれない。

 だけれども。

 そうではない道も、そうでは無い終わり方も、きっと何処かにある筈だ。あるのだと、信じたい。

 

 明けぬ夜は無く、必ず何時か太陽は昇る。

 

 ならば、何時かこの「夜」の終わりが、素敵なものになる事を、……そう出来ると信じて。

 精一杯に足掻いてみせよう。

 

 そう決意を新たに、ルキナは世界を優しく照らし出す日の輝きを、その眩しさに目を細めながら。

 ルフレと共に、見詰めるのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『どうか私とワルツを』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 煌びやかな衣装を身に纏った男女が、ダンスホールの中央で音楽を供にしてダンスを踊っている。

 国内有数の演奏家達が奏でるワルツは聴いているだけでも耳に心地よく、そして踊っている時もその妨げにはならぬものであった。

 しかし、そうやって楽しげに踊る人々を横目に、ルフレは少し気疲れした様な面持ちで躍りの舞台となっている広間の中央から離れた、やや人気の無い壁際の所で振る舞われたグラスワインを口にしていた。

 

 正式にこの舞踏会に招かれた身であるルフレであるが、そもそもこのような場は不得手であった。

 軍師として、戦士として、或いは内政に携わる宰相として、ルフレが非凡な才を持ち合わせていたのは確かではあるのだけれども。

 所謂貴族的なマナーなどはさっぱりであり、貴族の嗜みなどは全くルフレの得手とする範疇にはない。

 そうは言っても、国の上層部に居るものとして最低限の付き合わなければならない慣習と言うのはどうしてもあって、一応フレデリクやマリアベルと言った仲間達やクロムの手を借りて、舞踏会における社交ダンスの作法などの……所謂“貴族的な”物事についても多少の心得はあるのだけれども。

 だが、それでもそう言った事柄に関してあまり気乗りしないのは確かであり、この様な舞踏会などは、ルフレにとってはただただ居心地の悪いものであった。

 

 ルフレは軍師として現聖王であるクロムによって登用され、戦争が終わった今では宰相としてこの国に仕える身ではあるのだが。

 元々はろくに出自も辿れぬ記憶喪失の行き倒れであり、家柄やら血筋やらその格やらにやたらと価値を見出だしているイーリスの貴族達からは、『何処の馬の骨とも知れぬぽっと出の若造』程度にしか思われず、どちらかと言えば嫌煙されていた。

 君主であるクロム自身が重用している臣下であり、出自が不明な点以外は取り立てて瑕疵も無かった為、そう表立っては排斥されてはいなかったのだけれども。

 後にその本来の出自が明らかにはなったのだけれども、その系譜が長年血を血で洗う戦争を繰り返してきた隣国の……それもこの世で最もこの国にとっては忌むべき古い血筋に列なる者であった事もあって、それは絶対の秘密とされていた。

 因みに、実父が前ペレジア王であった事を考えるとルフレにもペレジアの王位継承権があるのかも知れないが、ルフレとしてはもうこれ以上の厄介事は望んではいないし、それが何処の国のものであろうとも王位など欲しくはないので、その事に関しては絶対に口を噤む事に決めている。

 なので対外的には、ルフレは未だに出自不明・経歴不明の謎の男のままであった。

 まあ、そんな訳で貴族の多くからはあまり好まれていない事もあって、こう言った舞踏会に招かれる様な事は殆ど無かったのだけれども。

 しかし、ルフレがまだ若くしてイーリスの宰相となった事で、貴族達としてもルフレの存在は無視出来なくなったのだろう。

 やたらと、舞踏会だの茶会だのに招待される様になったのだ。

 その思惑もありありと分かってしまうだけに、正直全く嬉しくない。

 

 何だかんだと理由を付けては舞踏会の類いは断ってきたルフレであるのだが、しかし断り続けると言うのもやはり角が立ってしまう。

 そんな折りに、国内有数の有力貴族が主催するこの舞踏会に招かれて、流石にこの辺りで一度顔を見せておくべきなのだろうと観念したルフレは渋々と舞踏会に出席したのだ。

 

 しかしながら、いざ舞踏会に出席しても、やはり自分はこういった場には合わないと言う事を痛感するだけであった。

 宰相となってからも神軍師としてクロムから与えられた衣装に少しばかり装飾の類いを着けたものを公的な場でも着続けてきたルフレにとって、舞踏会の為の衣装は堅苦しくてしょうがない。

 華やかに踊る男女の裏で、ドロドロとした権謀術数が渦巻いているのも、ルフレとしては気疲れするだけである。

 料理や酒にしても、貴族がその権勢を誇示するかの様に用意された豪勢なだけの料理と言うのは、根が貧乏性なのか基本的に質素な生活を好むルフレとしてはあまり合わない。

 しかも、ルフレは誰よりも愛する妻が居る身だ。

 例え社交ダンスでペアとして踊った相手とどうこうなる様なモノでは無い事を重々承知の上で、ルキナ以外の女性と踊ろうなどとは欠片も思えないのだ。

 益々、何の為にこの場に居るのかが分からない。

 適当な所で挨拶を済ませたらさっさと帰ってしまおうか……なんて思ってしまう。

 と言うか、早く帰りたい。

 

 居たくもないし特に長居する理由もない貴族達の舞踏会と、愛しい妻が待っている家。

 どちらに居たいのかなど、一々考えるまでもなく明白な事である。

 ここにルキナも居るのならば、まだ多少はこの気持ちも上向きになるのかも知れないが……。

 

 しかし、ルフレの妻であるルキナがこう言った場に出るのには、些か障りがあった。

 異なる“未来”から時を越えて渡ってきたが故に、その歳こそ違えどもこの世界には同一人物である未だ幼い“ルキナ”は既に存在していて。

 更には、聖王家に連なる事を雄弁に示す様に、その左の瞳に聖痕が刻まれている。

 場所が場所だけにそれを完全に隠し通すのは難しく。

 ルキナにとって確かに父の血を継ぐ何よりもの証であり、誇りそのものでもあるそれは、逆に時の異邦人となったルキナの未来を戒めるモノにもなってしまっていた。

 余人に、幼い“ルキナ”と同一人物だと知られるのは最悪の事態であるけれども、そうでなくとも聖王家に列なる者であると悟られるのもかなりの危険を孕んでいる。

 ルキナは幼い“自身”の未来によりにもよって己れの存在で陰を落とす事を決して望まず、故にルキナの存在はその正体を知る者達にとってのトップシークレットであった。

 だからこそ、そう言ったルキナの事情を知らぬ者ばかりが集まる、こう言った場にルキナが赴く事は出来ない。

 例え、宰相夫人と言う立場があるのだとしても、だ。

 

 共に戦場を駆け抜けた仲間達との集まりにならルキナも何の憂いもなく集まれるし、彼女が何よりも認めてほしいクロム達両親からは娘として認めて貰えている上に、幼い“ルキナ”からは姉の様に慕われている。

 そう思うと、決してルキナは不幸な訳ではないのだろうし、ルキナ自身は今の生活に不満を抱く様子もなく幸せそうに過ごしてくれている。

 ギムレーを討ち滅ぼし世界を救うと言う使命を見事果たして、そうして勝ち取った世界で想いを通わせあったルフレと共に生きる事が出来て。

 それはきっと、ルフレがそう望んでいた様に、ルキナにとっても最善の未来であるのだろう。

 

 だから、ルキナの現状に僅かながらも心の奥に棘の様な鬱屈とした感情を抱いてしまっているのは、まさに身勝手な“傲慢さ”であると言えるのはルフレは何より自覚していた。

 

 しかし、どうしても考えてしまう。

 

 ギムレーが甦らなければ、ルキナにとっての父の半身である“ルフレ”がギムレーへと成り果てる事が無ければ。

 ルキナには、もっと別の“幸せ”があったのではないのだろうか、と。

 こんな人目を忍ぶ様な生き方をせずとも、もっと誰の目を憚る事もなく思うがままに生きられたのではないか、と。

 そちらの方が、もっとルキナにとっては“幸せ”な生き方であったのではないか、と。

 …………もしそうだとしても、その“幸せ”の中には今ここに居るルフレは存在しないのであるけれども……。

 だが、例え自分がその“幸せ”の中に居られないのだとしても、ルキナがより幸せで在れるのなら、とも考えてしまうのだ。

 ルフレは決して、ルキナの手を離す事など出来ないと分かっているのに。

 ……きっと、こんな考えを懐いている事を知られれば、ルキナには呆れられてしまうのだろう。

 

 小さく溜め息を吐いたルフレは、手にしていたグラスを給仕の者に返して、広間の中程へと進み出るのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 雲一つ無い夜空に、月が天高く輝く頃。

 やっと舞踏会から解放されたルフレが着替える事もなくそのままに真っ直ぐと家へ帰り着くと、直ぐ様ルキナが出迎えてくれた。

 愛しいルキナの顔を見て、気疲れから少しささくれ立っていたルフレの心も和らぐ。

 

 

「お帰りなさい、ルフレさん」

 

「ただいま、ルキナ。

 ごめんね、もっと早くに帰って来られたら良かったんだけれど」

 

 

 ルフレの姿を見掛けると、ひっきりなしに様々な貴族達がやって来るのだ。

 現聖王の側近中の側近で最も聖王からの信頼の厚いルフレと繋ぎを得る事で、聖王からの覚えをめでたくしようと言う魂胆なのは明白であった。

 それの所為で、思いの外抜け出すのに手間取ってしまった。

 これだから、貴族達の社交の場とやらは、必要なのだろうとは理解しつつも好きにはなれない。

 

 

「いえ、気にしてませんよ。

 ルフレさんが、そうして少しでも早く帰ろうと思ってくれただけで、私には十分ですから」

 

「そう思ってくれるなら助かるけど……。

 でも僕としては、君に寂しい思いをさせてしまうかもしれないのはやっぱり嫌だな……」

 

 

 ルフレの家は、家と言うよりは屋敷と言った方が良いのだろう。

 ルフレもルキナも、本当はもっと小じんまりとした家にしようと思っていたのだけれども、仮にも一国の宰相夫婦が住むのだからと周囲に言われ、あれよあれよと言う間に王都の一等地にちょっとした屋敷が建ってしまっていた。

 まあクロムなどは、いっそルキナ共々王城に住めば良いじゃないか……なんて空恐ろしい事を言ってたので、そうなるよりはずっとマシなのだけれども。

 宰相と言う地位にある者が住まうには質素で小じんまりとした屋敷であるのだけれども、二人だけの家として考えると広過ぎる。

 クロムは、その内に信頼の置ける王城務めの使用人の中から何人か推薦しようか?などと言っているけれども。

 少なくとも今はまだルフレとルキナの二人しか住んでは居ない。

 二人にも広過ぎる屋敷の中で、ルフレの帰りを一人待つルキナが寂しさを感じる事は無いとは言えないだろう。

 

 しかしそう言うと、ルキナは何やら楽し気に小さな笑い声を溢した。

 

 

「ふふふ……っ。

 ルフレさんたら、心配性なんですね。

 でも大丈夫。

 こうしてルフレさんを待っている時間も、寂しくなんてないんですよ?

 だって、ルフレさんは必ずここに帰ってきてくれるんだって、分かっていますから」

 

 

 かつて愛しい恋人と、生きて再び巡り逢えるかも不確かな、そんな別離を経験せざるを得なかったルキナのその言葉は、決して余人には計り知る事の出来ない重みを持っていた。

 ギムレーを自ら討ち共に消滅したルフレが、再びこの世に還ってくる時まで、そしてその腕の中に確かにその温もりを感じられるまで。

 ルキナの心を支配していた哀しみや後悔、苦しみや寂しさに比べれば。

 ほんの一時帰ってこない程度なら、何ともないものなのであろう。

 そんな苦しみを愛しい人に与えてしまった罪は、こうして戻ってこれた今でも、決してルフレの心の奥底から消え去ることは無い。

 

 

「それは…………」

 

「……でも、そうですね……。

 実は、ほんのちょっとだけ。

 舞踏会で踊るルフレさんの姿をもっと近くで見られたらな……と、そう思います」

 

 

 ルフレの言葉を優しく遮る様に、ルキナは微笑んだ。

 その言葉に、ルフレは数度目を瞬かせた。

 

 

「……僕は、そんなにダンスは上手くないよ?」

 

「あら?

 フレデリクさん達は、『筋は悪くない』とおっしゃってましたよ?」

 

 

 ルキナにそう言われ、ルフレは内心フレデリク達に少し文句を言いつつも、困った様に苦笑いした。

 ルフレは、舞踏会だのは好きではない。

 が、物覚えが良く、戦士として戦場を駆け抜けられる程鍛えているが故に体幹のバランス感覚などの運動能力も良く。

 ちゃんと基本さえきっちりと仕込まれれば、社交ダンスも直ぐ様覚えてしまった。

 上手くないと言っているのは、単純に踊る気がないからである。

 

 

「え、えーっと……」

 

「……ちょっとした冗談ですよ。

 そもそも、私は“舞踏会”とかには出られませんし」

 

 

 返答に窮したルフレを見て少しまた微笑んで、ルキナはそう言った。

 その表情に、寂しさとかは浮かんではいないが……。

 しかしそこには、何処か穏やかな諦めに似た色があった。

 

 それは、ルフレと共にこの世界で生きる事を選んだ以上は、何度でも何度でも、ルキナの心に現れる色なのだろう。

 時の異邦人となったその時から、ルキナにはその覚悟はあった。

 だからこそ、ルキナはギムレーを討った後はひっそりとイーリスから遠く離れた何処かへと身を隠し、祖国に想いを馳せながら静かに生きるつもりであったのだろう。

 誰からの称賛を受ける事もなく、ギムレーを討って世界を救った事だけを唯一の報酬として、“存在しない者”として、生きていこうと。

 そうはしなかったのは、偏にルフレと思い結ばれると言うイレギュラーが起きたからだ。

 ルフレがそう望んだからこそ、ルキナは数多のリスクを承知の上でこうしてその傍で共に生きてくれている。

 ルフレは、その覚悟と想いに応えるべく、ルキナを必ずや“幸せ”にしてみせると心に固く誓っていた。

 そう、決してルキナは“不幸せ”な訳ではないのだろう。

 “幸せ”だと、そう語るルキナのその表情に、その言葉に、嘘はない。

 だが、こうしてルフレと共に過ごすと言う事は、もう自分には決して手に入らないモノを見せ付けられる事でもあって。

 ……それは、疲れきった旅人の前にご馳走を用意して、その上でそれを食べる事を禁じる様な……そんな残酷な事なのではないかと、ルフレはそうも思ってしまう。

 

 堪らずに、ルフレはルキナの身体を優しく抱き締めた。

 ルキナは少し驚いた様にその手を彷徨わせたが、やがて「仕方の無い人ですね」とでも言いたげな優しい顔で、ルフレの背中へと手を回して優しく擦る。

 

 

「ルキナ……すまない……」

 

「ルフレさん、あの、本当に気にしないで良いんですよ?

 私には、こうしてルフレさんと過ごせる日々があるだけで、もうこれ以上なんて無い程に幸せなんですから」

 

 

 そう言って微笑むルキナは、本当に幸せそうで。

 それはきっと嘘なんかではないのだろう。

 だけれども、ルフレはルキナに何一つとして、それが本当にちっぽけなモノであるのだとしても、“幸せ”を諦めてなど欲しくはなかった。

 もうこれ以上無い程に“幸せ”を奪われ続け、人の身には過ぎたモノを背負わされ続けてきたのだ。

 それをルキナに強いてしまった根本的な原因が成り果ててしまったもう一人の“ルフレ”自身である事も相俟って、ルフレは誰よりも強くルキナの“幸せ”に貪欲であった。

 

 が、無理に舞踏会にルキナを連れ出しても、結局それはルキナ自身に本当の意味では“幸せ”を与える事が出来ない事も、ルフレはよく理解している。

 だから──

 

 

「……ねえ、ルキナ。

 ここにはワルツを奏でる楽団なんて居ないけれど。

 もし君が良ければ、僕とここで踊ってくれないかい?」

 

 

 舞踏会で踊る姿を見せる事は出来ないけれど。

 ルフレが踊る姿なら、幾らでも見せてあげられる。

 別に、舞踏会のホールでしか踊ってはいけないなんて決まりはないのだから。

 尤も、相手が居なくては始まらないのだけれど。

 

 しかしルフレがそう言うと、途端にルキナは戸惑い慌て出す。

 

 

「えっ、あの……!?

 その……私は……。

 服はドレスじゃないですし、それに……。

 こう言うのは何なのですが、ダンスには慣れていないんですよ」

 

 

 だから、と続けようとしたその唇を、優しく人差し指を当てて閉ざした。

 

 

「別に、良いじゃないか。

 ドレスじゃなきゃ踊ってはいけないなんて決まりはないよ?

 それに、誰が見ている訳でもないんだ。

 ルキナがステップを間違えたって、気にする人なんて誰も居やしない。

 大丈夫、僕がちゃんとリードするから。ね?」

 

 

 そう言うと、反論する言葉が思い付かなかったのか、ルキナは頬を赤く染めながら頷いた。

 

 その手を恭しく取って、ルフレは屋敷の庭へと出る。

 折角の綺麗な月夜なのだ。

 月の光の下で踊ると言うのも、中々にロマンチックで良いのではないだろうか?

 

 楽団の奏でるワルツの代わりに、口ずさむ様な恋の歌を。

 豪奢なダンスホールの代わりに、月灯りに銀に照らし出された庭を。

 

 それはきっと、細やかな“幸せ”に満たされた一時になるであろう。

 

 

 

 

「お姫様、どうか私と一曲踊って頂けますか?」

 

「……ええ、喜んで」

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『恋物語も今は遠く』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 暖かな陽射しが優しく大地を照らす昼下がり。

 今日の分のお勉強を早速終わらせたルキナは、何時もの様に王城内を探検に出掛けた。

 幾度かの改修を経つつもイーリスの千年もの歴史を刻み続けてきた王城は広大で。

 外周部分にある大庭園や城下町と城とを隔てる城壁の辺りまでを含めると、大人の足でも一日掛けてでも到底回りきる事は出来ない。

 齢にして六つを数えようとする遊び盛りの年頃のルキナにとっては、そんな王城は格好の遊び場であり未知に溢れた冒険の舞台であった。

 従兄弟のウードや友達が王城に遊びに来ている時は中庭などでごっこ遊びをしたりするのだけれども、彼等は何時も王城に居る訳でもなくて。

 目ぼしい遊び相手が居ない時のルキナの「お楽しみ」は城内探検である。

 勿論、「危ない」と大人達に止められている場所には近付かない様にと約束して、だ。

 ルキナは自分の「好奇心」よりも「約束」を守れる『良い子』なので、大好きなお父様とお母様も、ルキナの小さな冒険を微笑ましく見守っていてくれるのであった。

 

 お気に入りのポシェットに可愛いハンカチと美味しいクッキーを入れて、今日もまたルキナは探索に出掛ける。

 今日は西の塔を探検しようか、それとも広い広い裏庭を冒険しに行こうか。

 どれもこれも、考えるだけでワクワクしてしまう。

 湧き上がる好奇心から軽く跳ねる様に、ルキナは王城の長く広い立派な廊下を駆けていく。

 廊下にパタパタと響く小さな足音は、小さなお姫様の冒険を微笑ましく見守る周りの大人達の頬を優しく緩ませているのであった。

 

 ルキナがあちらこちらを探検しながら歩いていると、曲がり角の所に見覚えのある蒼い後ろ髪が揺れて消えた。

 

 大好きなその人の名前を呼んで一目散に駆け寄ろうと初めは思ったルキナであったが。

 どうにもちょっとした悪戯心が擽られてしまった。

 見失わないようにしつつも足音を出来るだけ立てない様に用心して、曲がり角の向こうに消えたその人を追う。

 曲がり角の向こう、その先を少し行った所。

 そこにある一つの部屋の扉前に、そのドアノブへ軽く手を掛けながらもそのまま扉を開ける事もなくそこに佇んでいるその人を見付ける。

 

 何時もはどんなにルキナが頑張って忍び寄ろうとしても、目敏くルキナの接近を見破ってしまうのだけれども。

 何故か今は何か考え事をしている様で、ルキナの存在にまだ気が付いてはいなさそうであった。

 これをチャンスと捉えたルキナは、ある程度までそろそろと気配を殺して近寄ってから、一気に床を蹴ってその人の腰に抱き着く様にして飛び掛かる。

 

 

「ルキナおねーさま!」

 

「えっ、ええっ!?」

 

 

 ギュッと思いっきり抱き着いて、ルキナが名を呼ぶと。

 『ルキナお姉さま』はルキナの突然の襲来に驚いた様に目を白黒させて、ルキナを抱き止めてくれた。

 

 

「えへへ、おひさしぶりです、ルキナおねーさま!」

 

 

 久し振りに会えた事が嬉しくて、ルキナがニコニコと笑ってその顔を見上げると。

 ルキナよりもうんと背の高い『ルキナお姉さま』は、静かに微笑んでルキナの頭を優しく撫でてくれる。

 

 

「お久し振りです、ルキナ。

 また大きくなりましたね」

 

「はい!

 はやくルキナおねーさまみたいにおおきくなれるように、まいにちいっぱいたべて、いっぱいねてますから!

 お父さまもお母さまも、ルキナがいっぱいおおきくなってくれてうれしいって、いつもいってくれます!」

 

「そんなに焦って大きくなろうとなんて思わなくても、あなたもきっと立派に大きくなれますよ」

 

 

 同じ名前と同じ髪色の『ルキナお姉さま』は、ルキナにとって憧れのお姉さんであった。

 優しくて、ルキナの事を沢山分かってくれる。

 ルキナにとっては、まさに理想の『姉』の様であった。

 自分同じ名前で同じ髪色だと言うのも、ルキナにとってはとても親しみを覚える要素であった。

 幼い頃から知っているだけに、ルキナにとっては『ルキナお姉さま』が自分と共通するものを多く持っている事は何ら違和感を抱く様なものでもない。

 

 何時もは何処かを旅しているらしく、『ルキナお姉さま』が王城に居るのは季節の変わり目のほんの一時で。

 だが、会う度に様々なお話をしてくれたり遊び相手になってくれたりする『ルキナお姉さま』は、ルキナにとっては何時も待ち焦がれている相手であった。

 今も、嬉しくて嬉しくて、思わずはしゃいでしまう心をルキナは抑えきれずにいる。

 

 

「わたし、ルキナおねーさまのおはなしを、またたくさんききたいです!

 だからこんどこそ、もっとたくさんおはなししたりあそんだりしてくださいね!」

 

「……私はあまりここに長居は出来ませんが……。

 いえ、大丈夫ですよ、そんなに直ぐに居なくなったりする訳でもありませんから。

 ですから、そんな顔をしないで下さい、ね?」

 

 

 折角会えた『ルキナお姉さま』が何処かに行ってしまうのかと、引き留めようとしたルキナが目を潤ませると。

 『ルキナお姉さま』は少し慌てて、その言葉から生まれた不安をを打ち消す様に、ルキナの頭を優しく撫でる。

 それにすっかり機嫌を直したルキナは、『ルキナお姉さま』が手を掛けている扉を指差して訊ねた。

 

 

「ルキナおねーさまはここでなにをしていたのですか?

 ここは、お父さまがだいじにしているおへやですよ?

 ルキナおねーさまも、ここになにかごようじですか?」

 

 

 その部屋がお父様にとっては特別に大切な場所であるのだと言う事はルキナもよく知っていた。

 だけれども、その部屋は今は何かに使っていると言う訳ではなさそうで。

 ルキナにとっては机にも床にも沢山の本が置いてあると言うだけの部屋だ。

 

 しかし時折、この部屋に入ってから少しして出てきたお父様が、少し寂しそうな顔をしているのがルキナの心に何時も引っ掛かっていた。

 ただ、その理由をお父様に直接訊ねた事は無い。

 何故だか、その「寂しさ」の理由には、あまり触れない方が良い様な気がしたのだ。

 

 ルキナの問い掛けに『ルキナお姉さま』は、まるでこの部屋から出てきた時のお父様の様な……いやそれよりももっと寂しそうな顔をする。

 

 

「ここは…………私にとっても、大切な部屋でしたので。

 つい、ここに来てしまったんですよね。でも──」

 

「わあ! ルキナおねーさまにとってもたいせつなおへやだったんですね!

 ルキナおねーさまなら、このおへやにはいっても、ぜったいだいじょうぶです!

 お父さまだって、ルキナおねーさまの「たいせつ」なら、ぜったいゆるしてくれますから!」

 

 

 善は急げとばかりに、ルキナは『ルキナお姉さま』の手を引っ張ってその部屋へと入る。

 

 相変わらず、その部屋の中は本だらけであった。

 しかもそこにある本の何れもがルキナが好む様な物語の絵本やらとは全く違い、分厚くてルキナには重た過ぎるし、何が書いてあるのかもルキナには全く分からない。

 ルキナにはよく分からない事が沢山書かれている紙も沢山散らばっていて。

 ルキナはこの部屋に入る度に、「ここはどうしてこんなにも散らかっているのだろう?」と思ってしまうのだ。

 ルキナだって、オモチャはちゃんと遊んだらオモチャ箱に戻して「お片付け」するのに。

 この部屋を使っていた人が居たのなら、その人はよっぽど「お片付け」が出来ない人だったのか、或いは「お片付け」が間に合わない程に「散らかしやさん」だったのだろう、とルキナは内心勝手に思っていた。

 

 だが、そんなルキナの反応とは対照的に『ルキナお姉さま』は、部屋に入るなり酷く懐かしそうな眼差しで、あらゆる所に散乱した本や紙を見詰めていた。

 床に落ちていた紙を拾ってそこに書かれている文字を宝物に触れる様に優しくその指先でなぞっては、寂しさを湛えた眼差しをそっと伏せる。

 

 この部屋を使っていた人が、お父様や『ルキナお姉さま』にとって、とても大切な人だったのだろうか? と。

 ルキナは幼い心ながら、ふと考える。

 

 一体その人は誰なのだろう。

 この部屋に入るのは殆どお父様だけなので、きっと今は王城に居ない人なのだろうけれど。

 お父様や『ルキナお姉さま』にとってそんなに大切な人なら、どうして今ここに居ないのだろう。

 ルキナは幼い心ながらに、そう考えていた。

 

 

「ここのおへやをつかっていたのは、お父さまとルキナおねーさまのおともだちだったんですか?」

 

 

 幼い子供特有の、ルキナの何の裏心も無い問い掛けは、『ルキナお姉さま』の眼差しに静かな翳りを落とした。

 しかし、感情の細かい機微や含みを察するにはまだまだ幼いルキナはそれには気付けなくて。

 問い掛けたのに黙ってしまった『ルキナお姉さま』の顔を、心配したルキナは覗き込む様に見上げる。

 すると、覗き込んでくるルキナと目があった『ルキナお姉さま』は、ゆるりとその瞼を一度閉ざし何かを呟いたかの様に僅かにその唇を震わせた。

 が、再び目を開けてルキナへと向ける眼差しには、先程とはまた別の静かな哀しみが溶け込んでいて。

 

 

「……そう、ですね。

 ええ、とても……とても大切な人でした。

 私にとって、誰よりも特別な……」

 

 

 その少ない言葉に秘められた深く強い想いには、幼いルキナはまだ気付けない。

 ただ、そんなに『とても大切な人』が今は居ないのは、『ルキナお姉さま』が可哀想だと、そう幼心に感じた。

 

 どうしてその人は、ここに居ないのだろう。

 『ルキナお姉さま』も、そしてきっとこの部屋を幾度となく訪れているお父様も、きっとその『とても大切な人』にここに居て欲しいと思っているのに。

 ……そんな事を、ルキナはぼんやりと考えていた。

 

 まだ幼く「死」などその世界に存在しないルキナには、『ルキナお姉さま』の力無い微笑みの影に沈んでいる「死」の別離の気配など、理解出来よう筈も無くて。

 もしかしてケンカして家出してしまったのか?

 それとも迷子になっているのだろうか?と。

 そんな想像しか出来なかった。

 

 だが、『ルキナお姉さま』がルキナの問い掛けの所為で悲しんでいる事は何となく伝わって。

 大好きな『ルキナお姉さま』を傷付けてしまったと思ったルキナは、慌てて別の話題に変えようとする。

 

 

「あの、ルキナおねーさま!

 いつもみたいに『おはなし』をきかせてください!

 わたし、いっつもたのしみにしてるんです!」

 

 

 『ルキナお姉さま』が語って聞かせてくれる、遠い国の景色だったり異国の昔話などの『お話』は、ルキナにとってのお楽しみの一つであった。

 会う度に『お話』をせがんでは、『ルキナお姉さま』を苦笑させてしまう程である。

 

 

「……ふふっ、良いですよ。

 丁度良いから、ここに座りましょうか」

 

 

 ルキナのおねだりに優しく微笑んだ『ルキナお姉さま』は、そう言って部屋にあった椅子を引いた。

 もう使われていない部屋ではあるけれど、小まめに掃除されているらしく埃っぽさなどは全く無くて。

部屋に散らばる本はともかくとして、椅子などの調度は綺麗な状態に保たれている。

 

 ルキナは『ルキナお姉さま』に用意して貰った椅子に座って足をぶらぶらさせながら『お話』を待った。

 

 

「さて、どんな『お話』が良いですか?」

 

「おひめさまとかおうじさまとかがでてきて、わるいものをやっつけたりする『おはなし』がいいです!」

 

 

 最近では伝説の英雄やらの『お話』を特に好んでいるルキナがそうリクエストを出すと。

 『ルキナお姉さま』「は暫し考える様な顔をして、そして「それなら」と呟いた。

 

 

 

「そうですね、では……。

 とある「お姫様」の『お話』をするとしましょう」

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 それは遠い昔……。或いは、少しだけ「未来」の事。

 

 ある所に一人の「お姫様」が居ました。

 神様に見守られた豊かで平和な国に産まれ、優しい王様とお妃様に愛されて、「お姫様」はとてもとても幸せな毎日を過ごしていました。

 

 でも、そんな幸せもある日突然終わってしまいます。

 突然現れたとてもとても強くて恐ろしい『悪い竜』が、その国に襲いかかったのです。

 

 優しく勇敢な王様は、国や「お姫様」を守る為に『悪い竜』と戦い……そして二度とは帰って来ませんでした。

 そして、「お姫様」を守る為にお妃様も『悪い竜』の手下達と戦い……二度と帰らぬ人となったのです。

 ……そうして、王様もお妃様も喪ってしまった「お姫様」は、何時しか独りぼっちになってしまいました。

 

『悪い竜』は「お姫様」から家族を奪っただけではなく、沢山の人々から沢山の大切なモノを奪っていきました。

 王様の他にも沢山の勇敢な人々が『悪い竜』と戦いましたが、誰も……誰一人として帰って来ませんでした。

 誰一人として『悪い竜』を倒せる者はなくて、『悪い竜』はますます沢山の人達を苦しめました。

 お姫様の国だけではなく、砂漠の国も氷の国も、海の向こうにある沢山の国まで。

『悪い竜』は沢山の国を滅茶苦茶にしました。

『悪い竜』は世界中で暴れ回り、そしてそれだけ沢山の人々を苦しめたのです。

 苦しんだ人々は神様に助けを求めましたが、神様でも『悪い竜』は倒せませんでした……。

 

 それでも独りぼっちになってしまった「お姫様」だけは、『悪い竜』を倒す事を諦められませんでした。

 王様から受け継いだ伝説の剣を手に、来る日も来る日も『悪い竜』やその手下達と戦い続けていたのです。

 でも……『悪い竜』はあまりにも強くて、「お姫様」が何れだけ頑張っても全く歯が立ちませんでした。

 

 どんなに勝ち目が無くても戦い続ける「お姫様」の下に、ある日神様からの声が届きます。

 

 神様でも倒せない『悪い竜』を倒すには、『悪い竜』が現れる時よりも前に時間を遡って『悪い竜』が現れるのを防ぐ他に無い、と。

 そして、「お姫様」に過去に行って『悪い竜』が現れない様にしてほしいと、神様は「お姫様」に頼みました。

 

 過去を変えてしまう事に最初は「お姫様」も躊躇いましたが、『悪い竜』を倒すにはもうそれしか無い事と。

 大好きな王様とお妃様を助けられるかもしれない事を考えて、神様の言う通りにする事にしました。

 そして「お姫様」は、神様の力によって『悪い竜』が表れるよりも「過去」へと向かったのでした。

 

 

 「過去」にやって来て『悪い竜』が現れるのを防ごうとしていた「お姫様」が出会ったのは、「お姫様」が産まれたばかりの王様と、王様のお友達の「王子様」でした。

 王様に「王子様」なんてお友達が居た事を知らなかった「お姫様」はビックリしてしまいましたが、王様と「王子様」はとてもとても仲良しなお友達だったのです。

 

 「過去」を変えてしまう事に怯えながらも、「お姫様」は二人に「未来」で何が起きたのか、このままでは「未来」がどうなってしまうのかを語りました。

 それはまるで嘘の様な本当の話でしたが、王様と「王子様」は「未来」から来た「お姫様」の言う事を信じて、『悪い竜』が現れない様にしようと約束してくれました。

 

 でも、「未来」からやって来た「お姫様」にも、どうして『悪い竜』が現れる事になったのかは分かりません。

 だから、「お姫様」と王様と「王子様」は、旅をして『悪い竜』がどうして現れたのかを調べる事にしました。

 

 山を越えて、雪の国を越えて、果てない砂漠を越えて、大海原を越えて……。

 西へ東へ北へ南へ。

 「お姫様」達は、世界中の色々な所を冒険しました。

 

 そうして一緒に沢山の冒険をする内に、「お姫様」は優しい「王子様」の事が大好きになり恋をしました。

 でも、「お姫様」は本当なら未来に生きるべき人です。

 本当ならそこには居ない筈の「お姫様」が「王子様」と結ばれて良いのか、そんな事が許されるのか……。

「お姫様に」は分かりませんでした。

 だから、「お姫様」は中々「王子様」にその想いを告白出来ないまま、ずっと一緒に旅をしました。

 そして──

 

 「お姫様」達は、長い長い冒険の末に、『悪い竜』がどうして現れたのかを突き止める事が出来ました。

 そして、『悪い竜』が現れるのを防ぐ方法と同時に。

 ……『悪い竜』を「本当に」倒す方法も。

 

『悪い竜』が現れるのを防ぐ方法を選んでも、「お姫様」がやって来た「未来」の様にはなりません。

でもその平和はずっと続く訳ではありませんでした。

 「お姫様」の孫の更にその孫の……もっとずっと遠い子孫の時代の事になりますが、その時には再び『悪い竜』が現れようとしてしまうのです。

 ……それは、『悪い竜』が現れる「時」を遠い未来へと先延ばしにする事しか出来ない方法でした。

 

 でも、「お姫様」はそれでも良かったのです。

 何時か、「お姫様」の遠い子孫が『悪い竜』によって苦しむ事になるのかもしれなくても……。

 

 何故なら、『悪い竜』を本当に倒す為には。

 「王子様」の命が、必要だったからです……。

 

 「王子様」が『悪い竜』を倒せば、『悪い竜』はもう二度と現れなくなります。でも、それと同時に。

「王子様」も、この世から消えてしまうのです。

 

 それを知った「王子様」は、自分の命と引き換えに『悪い竜』を滅ぼそうとします。

 

 「お姫様」も王様も、「王子様」を止めました。

 大好きな「王子様」の命と、遠い未来の誰かの笑顔。

 どちらも大切なその二つを秤に掛けて、「お姫様」も王様も「王子様」の命を選びました。

 でも、自分を引き止める「お姫様」と王様に、「王子様」は静かに微笑んで首を横に振ります。

 

 

「どうして?」

 

 

 「お姫様」は「王子様」に訊ねました。

「王子様」が『悪い竜』を倒してしまったら、『悪い竜』と一緒に「王子様」は消えてしまうのに。

 すると、「王子様」は優しく答えました。

 

 

「僕の大切な人の為にこの命が役に立てるのなら……。

 それは僕にとって、とても「幸せ」な事なのです。

 僕が『悪い竜』を倒す事で、「お姫様」と王様が幸せになれるなら、そして二人の子孫が幸せになれるなら。

 僕にとっては、それで良いのです」

 

 

 「王子様」は、自分の命を差し出す覚悟をもう決めてしまっていました。

 「お姫様」は、「王子様」のそんな決意を変えさせようと、胸に秘めていた想いを打ち明けました。

 

 

「王子様、どうか死なないで下さい。

 私は、「王子様」を愛しているんです。

『悪い竜』を倒せなくても、王子様が居てくれるだけで私は「幸せ」なのです。

 だから──」

 

 

 でも、「お姫様」の告白も、「王子様」を引き止める事は出来ませんでした。

 

 

「お姫様、僕もあなたの事を愛しています。

 だから、僕は『悪い竜』を倒さねばならないのです」

 

 

 そう言って、王子様は『悪い竜』を倒しました。

『悪い竜』はこの世から消え去り、それと同時に「王子様」の姿も消えてしまいます。

 …………その後には、「王子様」を喪った「お姫様」と王様だけが残されました。

 

 

 『悪い竜』が消えた後も「お姫様」は未来に帰らず。

 何時か「王子様」が帰ってきてくれるかもしれないと。

 そう願いながら、「お姫様」は「王子様」を探して、今も何処かでずっと旅を続けています。

 

 

 

 ……おしまい。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 『ルキナお姉さま』が話してくれたのは、「めでたしめでたし」では終わらなかった何とも不思議なお話だった。

 

 ルキナはまだ幼い頭をうんうんと悩ませながら、その『お話』について一生懸命に考える。だが……。

 どうしても「王子様」の行動には納得がいかなかった。

 だって、あまりにも「お姫様」が可哀想ではないか。

 

 

「「おひめさま」は「おうじさま」にあえたんですか?」

 

「……さあ、どうなのでしょう。

 お姫様の「その後」は、私にも分からないので……」

 

「じゃあ、じゃあ……「おひめさま」は「おうじさま」をずっとずっとさがしているんですか?」

 

 

 ルキナにはまだ、「死」と言うものはよく分からない。

 だが、それがとても遠くに行ってしまい、もう会えなくなる事だと言うのは、何と無く分かる。

 

 「お姫様」は、「死」んでしまった「王子様」の事をずっとずっと探しているのだろうか?

 何時か会えると信じて、ずっと待ち続けるのだろうか。

 ……それはあまりにも哀しい事なのではないだろうか。

 未来に帰る事も出来ず、ずっと……。

 それは、ずっとずっと頑張り続けてきた「お姫様」に対する仕打ちとしては、剰りにも残酷で哀しいモノである様にルキナには思えた。

 

 

「……きっと、そうなんでしょうね。

 「お姫様」には、「王子様」の事を忘れたりする事なんて、決して出来ませんから……。

 きっと、ずっと……ずっと探し続けるのでしょう」

 

 

 囁く様にそう答えた『ルキナお姉さま』のその横顔は、何処か哀し気であった。

 『ルキナお姉さま』がどうしてそんな顔をするのか、ルキナにはまだよく分からなかった。

 可哀想な「お姫様」に心を痛めているかもしれないし、それとはもっと違う理由なのかもしれない。

 

 

「どうして「おひめさま」は「おうじさま」をわすれられないんですか?

 どうして、「おうじさま」は「おひめさま」をかなしませるとわかっていて、そんなことをしたんですか?」

 

 

 どうしても我慢出来ずに、ルキナはそう訊ねる。

 すると、『ルキナお姉さま』は「そうですね……」と何処か遠くを見詰めながら答えた。

 

 

「それは、『愛』しているからですよ。

 「お姫様」は『愛』しているから、忘れられない。

 「王子様」は『愛』していたから、「お姫様」を悲しませると分かっていても、そうしてしまった……」

 

「……わたしには、わかりません。

 「おひめさま」にも「おうじさま」にも『あい』があったのに、どうしてしあわせになれなかったんでしょう」

 

 

 愛しあう二人が幸せになり『めでたしめでたし』で終わるお話は沢山ある。

 ルキナにはまだ『愛』はよく分からないものであるけれど、それでも『愛』と言うモノが素晴らしいものである事は幼心にも理解は出来ていた。

 だからこそ、ルキナは納得出来ないのだ。

 愛し合っていたのなら、どうしてそんな哀しい結末になってしまったのか、と。

 何故、『めでたしめでたし』で終われなかったのか、と。

 「王子様」が自分で『悪い竜』を倒すのを諦めていれば、この「お話」は『めでたしめでたし』で終われたのではないのかと、ルキナはそう思ってしまう。

 

 

「……『愛』があるだけでは、どうしようもない事もこの世にはあるのですよ。

 ただ、「王子様」も「お姫様」も……どちらもお互いの事を心から想っていたのは確かだと思います」

 

 

 『ルキナお姉さま』はそう言うけれど、ルキナにはやっぱり納得は出来なかった。

 相手を想っていたのだとしても、それで「幸せ」になれなければ、「王子様」も「お姫様」も可哀想であった。

 そんな「結末」、「お姫様」も「王子様」も望んでなんていなかったであろうに……。

 だからこそ、幼心に「やりきれなさ」を感じる。

 

 

「でも、……でも……。

 それでも、「おひめさま」がかわいそうです……。

 だって、それじゃ「おひめさま」が「しあわせ」になれないです……。

 「おうじさま」だって……」

 

「……そう、ですね。

 でも、「お姫様」にとっては、「王子様」に出逢えた事、「王子様」に恋をした事、「王子様」を愛した事、そして。

 ……「王子様」に愛されていた事……。

 それだけでも、とても「幸せ」な事だったんですよ。

 だから、決して「幸せ」な結末ではないのだとしても、それは「不幸せ」な結末じゃないんです……。

 だって、「お姫様」は「王子様」の事を想いながら、ずっと探し続ける事が出来るのですから……」

 

 

 『ルキナお姉さま』の言葉は、ルキナには難しかった。

 お姫様の気持ちも。

 そしてそう、お姫様の事を語る『ルキナお姉さま』の気持ちも。

 ルキナには理解出来ない。

 

 

「「おひめさま」は、「おうじさま」をずっとさがしつづけるのがつらくないんですか?」

 

「……辛くない、苦しくないと、哀しくない……と。

 そう言えば、確かに嘘になるのでしょう。

 それでも……「王子様」を忘れてしまう事の方が、「王子様」を諦めてしまう事の方が。

 ずっとずっと……「お姫様」には辛い事なんですよ」

 

 

 それが、『愛』と言うモノなのだろうか。

 ならばやっぱりルキナには『愛』と言うモノを理解する事はまだまだ難しいのだろう。

 でも、今のルキナにだって分かる事はある。

 

 

「「おひめさま」がどうなったのかはルキナおねーさまにもわからないんですよね?」

 

「ええ、私もそこまでしか知らないのです」

 

「なら、「おひめさま」は「おうじさま」にあえます!

 わたしは、そうしんじます!

 だって、お父さまがいってました。

『けつまつがわからないなら、それがかなしいおわりであるとはかぎらない』って! だから、ぜったいに。

 ルキナおねーさまもしらない「そのあとのおはなし」で、「おひめさま」は「おうじさま」にあえます。

 わたしは、そうしんじます」

 

 

 ルキナはそう言って胸を張った。

 

 「お姫様」と「王子様」の「お話の続き」を誰も知らないなら。ルキナたちが勝手に二人が『めでたしめでたし』で終われる様な「続き」を信じても良いのだ。

 誰も「続き」を知らないのなら、哀しい終わりの後に「幸せ」が待っている可能性だってちゃんとある筈だ。

 だから、それを信じればいいのだ、と。

 可哀想な終わり方をする「お話」を読んでくれる度に、お父様はそうルキナに教えてくれた。

 だからルキナは、自分が考えた『めでたしめでたし』になる「お話の続き」をルキナに語る。

 

 

「「おうじさま」をさがしつづけた「おひめさま」は、ながいたびのあとでようやく「おうじさま」をみつけます。

 そうしたら、「おひめさま」は「おうじさま」のほっぺををひっぱたいてあげるのです!」

 

「……ひっぱたく、のですか?」

 

 

 シュッシュッと空を切る様に平手を振ったルキナに、『ルキナお姉さま』は目を丸くした。

 

 

「ええ、お母さまがまえにいってました。

『かってなことをしておんなのこをかなしませるようなおとこのひとは、いっぱつひっぱたいてあげなさい』、と。

 だって、「おうじさま」は「おひめさま」をかなしませるとわかっててそんなことをしたんですから!

「おひめさま」は「おうじさま」のことをいっぱつひっぱたいてあげればいいんです!」

 

「な、成る程……。一発、ひっぱたく……。

 ふふ、考えた事も無かったですね……。

 でも、それも良いのかもしれません」

 

 

 何処か穏やかな顔で微笑んだ『ルキナお姉さま』に、「そうでしょ?」とルキナは胸を張って頷く。

 

 

「それから、「おひめさま」は「おうじさま」をギューッとだきしめて、いっぱいいっぱいキスをします!

 そして、ふたりはしあわせにくらしました!

 ほら、『めでたしめでたし』でおわったでしょう?」

 

 

 ルキナがそう語り終えると、『ルキナお姉さま』は柔らかく微笑んでルキナの頭をうんと優しく撫でてくれた。

 

 

「ええ、そうですね。きっと、……そうなるのでしょう。

 私も、そう信じます」

 

 

 そう言いながら、『ルキナお姉さま』は少し泣きそうな顔で……でも嬉しそうに微笑むのであった。

 

 

 その後、何時もの様に数日程王城に留まっていた『ルキナお姉さま』は、またフラりと何処かに旅へ出掛けた。

 『ルキナお姉さま』がどうして旅に出ているのかは、ルキナにはまだよくは分からない。

 前にお父様に訊ねた時には、「とても大切な人」を探しているのだと教えて貰った。

 ……何時かは、ルキナが「続き」を考えた「お姫様」の様に、『ルキナお姉さま』の旅も終わるのだろうか?

 そうだったら良いな、とルキナは心から思った。

 

 

 『ルキナお姉さま』が旅立ったその日の夜。

 ルキナは少し不思議な夢を見た。

 それは、「お姫様」と「王子様」の夢だった。

 

 夢の中では「お姫様」は『ルキナお姉さま』で、「王子様」はルキナの全然知らない男の人で。

 そして、二人はとても幸せそうにしていた。

『めでたしめでたし』でおわったその夢が、「お話の続き」の「本当」になったら良いな、と。

 ルキナはそう思いながらそっと微笑むのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『星海の下で優しい嘘を』

◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 見上げた空に輝くのは、天の宝石箱が引っくり返されたかの様に色取りどりの煌めきを放つ様々な星々たち。

 そして、その無数の星々の輝きを優しく包み込む様な柔らかな光を月は地に投げ掛けている。

 

 星が煌めき、月が輝く。

 

 それは、自分達がよく知る夜空と何も変わらないのに。

 それでも、ここが自分達の世界とは全く異なる『異界』である事を示す様に、夜空を彩る星々の多くは見慣れぬものであり、そこに付けられた名も、準えられた星座も、ルフレにとっては何れも全く聞き覚えのないものだ。

 

 それもそうか、とルフレはぼんやりと考える。

この世界は、辿ってきた歴史からしてルフレ達が生きてきたあの世界とは、全く違うのだから。

 

 歴史が違えば文化や文明、そしてそれらが違えば時に思想や価値観もまた異なる。

 それを考えれば、全く異なる歴史を辿っている筈のこの世界が、ルフレ達の世界と文化的な部分にも共通項が多く、更には文明的にはほぼ同程度であると言うのも中々に不思議な話であるのだろう。

 それは、ルフレ達の世界が『ナーガ』や『ギムレー』と言った強大な【竜】たちの影響を受けていた様に、この世界でも神の如し強大な【竜】達がその歴史に大きく影響を与えているからなのだろうか?

 それはルフレにも分からないし、ルフレ達をこの世界に招いた召喚師などは「ある程度似た様な世界を選んで扉を繋いでいるのかもしれない」と言っていたが、それが「真実」なのかも定かではない。

 

 しかし、世界が何れ程異なろうとも、見上げた夜空が美しい事は何も変わらず。そして。

無数の人々が今この瞬間も、その生を全うすべく日々の営みを続けているのもまた変わらないのだろう。

 ……そして人の世に争いが絶える事が無いのも、また。

 異界であるこの地を襲う絶え間ない戦火の波を思い、ルフレの眼差しに陰りが宿った。

 

 

「どうかしましたか? ルフレさん」

 

 

 物思いに耽ている内に、恐らく無意識にでも溜め息か何かを吐いてしまったのだろう。

 横を歩いていたルキナが、僅かに首を傾げ、ルフレを見上げつつそう訊ねてきた。

 

 さらりと肩に流れる僅かに癖が付いた深蒼の髪が揺れ、その身の上の何よりもの証となる瞳の聖痕は月明かりに照らされて薄く瞳とは異なる色を浮かび上がらせている。

 ルフレにとっては、この世の誰よりも美しく、そしてこの世の誰よりも愛しい人であり。

 そんなルキナとこうして共に時間を過ごせるのは、何にも代え難い幸せであり、奇跡であった。

 

 この世界には、数多の異界数多の可能性から、異界の同一人物が招かれる事があり、ルフレもルキナもその例に漏れず、異世の自分がこの世界に同時に存在している。

 彼女等も間違いなく『ルキナ』その人であり、それは疑いようもない。だが。

 ルフレにとっての『ルキナ』は。目の前に居る唯一人。

 ……恋人として想い結ばれているルキナなのである。

 それは、この先幾人の『ルキナ』がこの世界に招かれようとも、絶対に変わる事は無い。

 

 そんな愛しい恋人の左手の指先に、軽く自身の右手の指先を絡めながら、ルフレは少し微笑んで答えた。

 

 

「いや、何でもないよ。

 取り留めの無い考え事さ。気にしなくても良い。

 ……それよりも、こうして二人っきりで夜に外を出歩くのは、随分と久し振りだね」

 

 

 ルフレの言葉に、ルキナも「そうですね」と小さく頷き、ルキナからも指先を絡めてきた。

 

 ルフレもルキナも、この世界に招かれた数多の『英雄』達の中ではかなりの古株である。

 戦力も戦術眼も……何もかもが足りていなかった初期の特務機関の要となり戦い続けてきた。

 ルフレなど、戦士として戦場を駆ける傍らで、召喚師を交えて、異界で軍師として名を馳せた者達と共に日夜戦術の議論を行ってもいた程だ。

 そんな特務機関の黎明期では、各地の戦場に十分な戦力を送る事さえ難しくて。

 規模が小さい戦闘ならば、ルフレとルキナの二人だけで戦場に立った事すらも何度もある程であった。

 今は戦力も充実しそんなギリギリの状態で戦う必要もなくなった為に、そんな事はほぼ起こらないのだが。

 

 が、今回は久々に二人だけでの出撃であった。

 と、言っても戦闘になるのかはまだ分からない。

 とある地域周辺で、少し不審な動きをする者が目撃されたとの情報が寄せられ、それの確認に来たのだ。

 今回のルフレ達の目的は、基本的には平常の警邏の延長線上にあり、万が一の場合にも斥候の役目を果たせば良いだけなので、少しは気楽な道行である。

 

 エンブラ帝国とは一時的にとは言え停戦状態で、ムスペルからの侵攻は阻んだばかり。

 それでも何かと争いの種が絶える事なく見付かるのは、「争い」が人の本質に根差すが故の事であるのだろうか。

 

 平和が一番である筈なのに、どうしてこうも中々上手くはいかないのだろう。

 軍師として戦いの中に身を置き続けてきたルフレにとっても、それはきっと永遠に解決し無い疑問である。

 異なる世界、異なる可能性。

 数多の可能性が交差するこの世界でも、恒久的な平和が実現した世界を観測する事は出来ていない様であった。

 そもそも、『生きる』と言う事と「何かを奪い戦う事」はとても近しい所に存在するのだから、そこに異なる意思を持ち生きる他者が居る限りは、真の意味で「争い」が無くなる事はないのだろう。

 

 きっと誰もが、自分の大切な物を守りたいだけなのだ。

 ルフレが、ルキナを守り支えたいと願うのと同じ様に。

 或いは、クロム達の力になりたいと願う様に。

 

 「守りたい」と言う思いは同じでも、『大切なモノ』が各々異なるから、きっと「争い」は尽きる事が無い。

 『大切なモノ』があるからこそ戦い、『大切なモノ』を喪ったからこそ憎悪にその身と心を焦がして……時に破滅の狂気へとその魂を堕とす。

 それは、人の「業」と言うものなのだろうか。

 

 ……それでもきっと、それこそが争いの種だと知りつつも、人は何かを愛さずには、何かを大切に想わずにはいられない生き物なのだろう。

 ルフレが、ルキナが何時か自分を殺すであろう事を見越しつつも、その眼差しに惹かれてしまった様に。

 自らの宿縁を知り、ルキナを想うのなら尚の事結ばれるべきではない運命と知りながらも、ルキナを愛さずにはいられなかった様に。

 生きる事とは……愛する事とは。

 実に不条理で不合理で、……それでいて失い難い『価値』があるのだと、ルフレは思っている。

 それは、例え世界を跨いだとしても、変わる事はない。

 愛する人が居るから、守りたいものがあるから。

 そして、愛しいそれらに再び巡り逢わせてくれたこの世界を守りたいから……ルフレは戦えるのだ。

 

 アスク王国やそれに留まらずこの世界全体を呑み込もうとする戦乱の日々に、未だ終わりは見えず。

 故に、この世界に『英雄』として招かれたルフレ達の戦いの日々にもまた、終わりは見えない。

 それでも、何時かはこの戦乱の世にも夜明けが訪れる事を信じて、そしてその助けとなるべく、この世界に招かれた数多の異界の人々がその力を貸している。

 終らぬ夜なんて無い様に、それが何れだけ長く続いたのだとしても何時か必ず「夜明け」は来るのだ。

 

 ……例え、その「夜明け」の先に自分の生きる場所は無いのだとしても、ルフレは「夜明け」を望んでいた。

 ルキナと共にその「夜明け」を見届けて……。

 そして元の世界へと帰るルキナを見送ろうと、心に決めている。

 

 そう、ルフレは、きっと恐らくは。

 元居たあの愛しい世界には、帰る事が出来ない。

 例え帰る事が出来たとしても……そこで「生きていく」事は出来ないのだろう。

 

 何故ならば。

 元居たあの世界でルフレは、『邪竜』を永劫の未来まで完全に消滅させる為に、共に消える事を選んでいて。

 ここにいる自分はきっと、消える間際に見ている泡沫の夢の様なものなのだろうと、ルフレは思っている。

 

 実際、本来在るべき世界では既に死んだ筈の存在ですら、この世界には招かれたりもしているのだ。

 自分もきっとそうなのだろう、とルフレは悟っていた。

 だからこの戦いが終わっても、ルフレはルキナ達と同じ場所には還れないのだろう。

 こうして二人で過ごせるのは、数多の可能性が交差し共存出来るこの世界の中でだけだ。

 ……それでも、構わなかった。

 

 元より、二度と再会は叶わないと覚悟していたのだ。

 例えそれがほんの一時の儚い夢なのだとしても、

 こうしてまたルキナと出会えて、共に時を過ごせて。

 ……同じ空の下に、居る事が出来る。

 ……それは、この身には余る程の、十分過ぎる程の『奇跡』であり限り無い「幸せ」であった。

 だから──

 

 

「ねえ、ルフレさん」

 

 

 ルフレの思考を遮る様に、ルキナは囁く様な微かに振るえる声で、ルフレを呼んだ。

 直ぐ様思考の海から浮き上がって、ルフレはどうかしたのか? と思いを込めてルキナを見詰める。

 

 

「……私を置いて何処かに行ったりしないで下さいね。

 もう二度と……貴方を喪いたくないんです……。

 『あの日』から、ずっと……貴方を探していました。

 ずっと、ずっと……探し続けていたんです。

 そしてやっと、貴方を見付ける事が出来た……。

 だから……もう何処にも行かないで下さい。

 この世界での戦いが終わったら、今度こそ一緒に……」

 

 

 絡めあったその指先に、僅かに力が籠った。

 そこにあるルキナの不安を読み取って、絡めた指先を一旦解いて、優しく包む様にその手を握り直す。

 

 

「大丈夫だよ、ルキナ。

 僕は、もう何処にも行ったりしないさ。

 ずっと……君の傍に居るから」

 

 

 元居たあの世界に帰ったその時に、ルフレが「存在」出来なくなったとしても、ならばその魂だけでも。 

 ずっとずっと……その傍に居よう。見守り続けよう。

 何時か、ルキナが命の旅路を終わらせるその日まで。

 触れ合う事は叶わないのだとしても、ずっと……。

 

 それが叶わない『嘘』だと理解しながらも、ルフレは最後の瞬間までルキナにその『嘘』を吐き続けるだろう。

 『嘘』であったとしても言葉にし続ければ、ほんの少しでも叶うような……そんな気がするから。

 

 ルキナが安心した様にその目元を緩ませた事に、チクりとした胸の痛みを覚えながら。

 ルフレは、優しく微笑むのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇



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『黄泉比良坂で振り返れば』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「ほら、ルキナ……このお面を被っておこう。

 もし、王女様がここにいるってなったら、皆ビックリしちゃうからね」

 

 

 そう言って狐のお面を被った『     』が差し出してきたのは、猫のお面でした。

 それを受け取って言われるがままに被った私は、わくわくして待ちきれなくて、『     』を急かします。

 お城でのお勉強にちょっと飽きていた私は、お城の外で開かれているお祭りにどうしても行ってみたくなって、仲良しの『     』に我が儘を言ってしまったのです。

 私の我が儘に『     』は少し困っていましたけど、私が何度もせがんでいると終には根負けした様に苦笑いして、絶対に自分から離れない事を条件に、こっそりと街に連れ出してくれました。

 お城の中に居ても楽しげな声が聞こえてきたそのお祭りは、道行く人の多くが色んな仮装をしていて、とても不思議な感じがしました。

 私や『   』の様に動物や何かの生き物を模したお面を被っている人、耳や角の飾りを着けている人……。

 そこは確かに私も知っている王都の筈なのに、まるで知らない国に迷い混んでしまった様な気すらしました。

 

 

「今日はね、『あの世』と『この世』の境が無くなって、死んだ人が家族の元に帰ってくる日なんだって。

 だけど、そうやって『この世』に帰ってくるのは、良いお化けばかりじゃあない。子供を拐っていってしまうような、こわーいお化けも沢山帰ってくる」

 

 

 わざと少し脅かす様に言った『   』さんに、小さな私は彼の思惑通りにふるふると震えてしまいました。

 そんな私を見た『     』は、小さく微笑んで優しく頭を撫でてくれました。

 

 

「だから、そんな怖いお化けに拐われたりしない様に、『私もお化けなんですよー』とお化け達に教えてあげる為に、このお祭りの間はこうやってお面を被ったり、お化けの仮装をするんだよ。だから、お城に帰るまでしっかりとこのお面を被っていれば大丈夫さ」

 

 

 そう言って、『     』はお祭りの為に色取りどりに飾り付けられた街を一緒に歩きながら、沢山の説明をしてくれました。お祭りの間はお化けに扮した子供達が家を尋ねて回ってお菓子を貰えると言う事、そうしてお菓子をくれるお家は軒先にお化けの顔の様に彫られたカボチャやカブが置いてある事。

 お祭りの屋台で売られていたお菓子などを時々買って食べ歩きながら、私と『     』はお祭りを目一杯に楽しんで、お城に帰ったのでした……。

 

 あのお祭りが何の祭りだったのか、今となってはそれはもう思い出せないくなってしまいました。

 あの日の記憶は薄れ擦り切れ、『     』と何を話たのかすらもう朧気で。あの日『     』から貰ったあのお面は、大切にしていた筈なのに失くしてしまって。

『       』の顔も声も、もう忘れてしまい、誰だったのか……どんな人だったのかももう分かりません。

 それでも、その人と一緒に過ごしたその時間がとても幸せなものであった事だけは、今も私の心の片隅に、大切な『思い出』として残されているのです……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

「ハロウィン、ですか……?」

 

 

 世界の命運を賭けた邪竜との戦いも、邪竜の完全なる消滅と言うこの上ない人間側の勝利で幕を閉じた。

 ヴァルム帝国との戦争が終結して間を置かずして甦った邪竜によって齎された災厄の爪痕も、各地の復興により少しずつ癒え始めていて。

 邪竜討滅の最大の功労者であるイーリスの軍師ルフレも無事に生還したと言う事もあって、各地の……特にイーリスの戦後の復興は益々順調に進んでいた。

 

 本来ならばこの世界に居るべきではないのだから、ギムレーの討伐を見届けた後はひっそりと身を隠してこの世界から去るつもりであったルキナであるが。

 恋人であるルフレが邪竜消滅の為にその身を捧げて生死不明となってしまったが故に、彼が生還する所を見届けるまでは……とそう思ってしまい。

 そして彼が帰ってきてからもそのままズルズルとこの世界に留まる事になってしまっていた。

 ルキナが何時かこの世界を去ろうとしていたのはルフレにとってはお見通しであった様で、戦後復興を手伝うと言う名目で各地に駆り出されている内に、この世界にとっては異物である筈の自分に何時の間にやら確りとした居場所ができてしまっていたのだ。

 それでも……と悩むルキナに、ルフレは「ルキナがこの世界を去ると言うのなら、僕はそれに付いていくから」とまで言い放ってきたのだ。

 ルフレはこの世界の『父』に、この国に、この世界にとって掛替えの無い人であり、それを自分の一存で奪ってしまう訳にはいかない……とルキナは思ってしまった。

 ……そのルフレの言葉を体の良い『言い訳』にして、ルキナはこの世界に留まり続ける事を選んだのだ。

 

 ……本来ならばこの世界にとって異分子であるルキナは、此処に居るべきではない。

 有り得べからざる、もう一人の王女、聖王の血統の証をその瞳に刻むもう一人の神剣を継ぐ者。

 それは何時か、折角邪竜の脅威を退けて平和を手にしたこの世界に禍をもたらしてしまうかもしれない。

 そうでなくとも、この世界の本来の『ルキナ』に対してどんな悪影響があるか…………。

 そう、思っていた。

 

 だから、身を隠し異界へ去ろうとしていたのだけれど。

 ……それでも、決して拭いきれない未練があるのだ。

 この世界は、ルキナにとって理想そのものなのだから。

 

 父が生きている。母が生きている。

 世界は救われ、この世には命が咲き誇っている。

 ……ルキナ達が何れ程あの『絶望の未来』で足掻いても決して手に出来なかった全てが、ここにあるのだ。

 見捨てる事しか出来なかった『未来』。救われた『過去』。

 そこにある残酷な差に、心が痛む事はあるけれども。

「憧れ」が、求め続けていたそれが、そして……愛しい人が居るこの世界に……未練が無い訳なんて無い。

 願わくば、叶う事ならば。ずっとこの世界に居たいと……そう心の奥底の願いを殺す事なんて出来なかった。

 ルフレは、ルキナが抱いていたそんな未練を、しっかりと見抜いていたのかもしれない。

 だからこそ、ルキナに優しく都合のいい『言い訳』を用意してくれたのかも、しれない。

 ……きっとルフレに訊ねた所で、「僕はルキナの傍に居たいだけだよ」なんて、そう言うだけだろうけども。

 

 そんな事情もあり、ルキナはこの世界に留まりながらルフレと忙しくも幸せな日々を送っていた訳なのだけど。

 突然ルフレの口から出てきた「ハロウィン」なる言葉に、ルキナは思わず首を傾げてしまった。

 

 

「そう、ハロウィンのお祭り。

 丁度今日の夜からなんだよね。

 ルキナはハロウィンを知っているかい?」

 

「……いいえ……」

 

 

 ハロウィン……。

 ルキナの記憶の中にはそんな名前の祭りは無かった。

 ……もしかしたら有ったのかも知れないけれど……、ギムレーが甦った『絶望の未来』では、そもそもお祭りなんて行う様な余裕が人々には無くなっていたのだ。

 幸せだった幼い頃の記憶は、『絶望の未来』で戦い続ける内に擦りきれて何時の間にか朧気になってしまった。

 そこにあった筈の楽しく幸せな記憶の多くは、記憶の奥底に沈みきってしまっている。

 忘れたにしろ知らないにしろ、今ルフレに言われたそのお祭りに何一つとしてピンとは来ないのは確かだ。

 

 

「……そっか。

 まあ、ハロウィンは結構庶民的なお祭りだからね。

 ルキナがあまり知らなくても不思議じゃないんだけど。

 それで、ハロウィンのお祭りと言うのは、……うーん……何て説明すれば良いかな……。

 一種の収穫祭みたいなものなんだけど、みんな仮装をするのが特徴の一つなんだ」

 

 

「仮装?」

 

 

 仮装と言われても、そう言うモノには縁遠いルキナとしては、そう言われてもあまりパッとは思い付かない。

 ある意味、かつての装い……『絶望の未来』に於いて尚、希望の象徴であり最高の英雄とされていた高祖マルスを模した服装も、一種の仮装であるのかもしれないが。

 

 

「仮装と言っても、お面を被るだけとか、本格的にお化けとかの格好をしたりとか、本当に色々なんだけどね。

 まあ、そんな感じでみんなで仮装してお祝いする。

 それで、これが普通の収穫祭とは違うのは、このお祭りの時には死者の魂も一緒にお祭りを楽しんでいる……って言われてるんだよ。

 ……まあ、僕には幽霊とかは見えないから、それが本当かどうなのかは分からないんだけどね。

 死者の世界と生者の世界が交差するお祭りだから死者達に誘われない様にだとか魔除けだとか、仮装する様になった理由は諸説あるんだけど、何せ古くからあるお祭りらしくてその理由は僕にも分からないんだ。

 取り敢えず、皆で仮装して楽しむお祭りだって思っておけば良いんじゃないかな」

 

「成る程、ハロウィンについては分かりましたけど……」

 

 

 何故それを今ルキナに言ってきたのだろうか? 

 ルフレの意図が掴めず、ルキナは戸惑うしかない。

 そんなルキナに、ルフレはふふっと小さく微笑んだ。

 

 

「なに、折角のお祭りなんだから、二人で一緒に楽しむのはどうかなと思ってね。

 二人でのんびりと時間を過ごすのも良いけれど、そう言ったお祭りに参加するのも良いものじゃないかな。

 ……戦争中はお祭りに行く様な時間も余裕も無かったし、その後も復興やら何やらで忙しかったからね。

 あまりお祭りに行ける機会が今まで無かったから、折角だからルキナと一緒にお祭りを楽しみたいんだ。

 ルキナは……お祭りは嫌いかい?」

 

「い、いえ……お祭りは好きですよ。

 その、世界が平和である事を肌で感じられますし……。

 ただ、……私もあまりお祭りとかに行った事がなくて、……どんな風に楽しめば良いのかよく分からないんです」

 

 

 王族であるルキナは、幼い頃は殆どの時間を王城で過ごし、滅多な事では外には出られなかった。

 そしてギムレーが甦ってからは、お祭りなんてそもそも無くなってしまっていて……。

 結局、あの『未来』でルキナがお祭りに行けたのは、幼い頃にお忍びで行ったほんの一度だけだ。

 あの時のお祭りは、一体どんなものだっただろうか。

 その記憶は擦り切れて薄れ、詳しくは思い出せない。

 それでも、……幼い自分にとってとても『幸せ』な時間を過ごせた事だけはうっすらと記憶の中にある。

 

 

「そっか……。なら、尚の事一緒に楽しみたいな。

 ルキナにとって、お祭りで過ごす時間が楽しいものである様に……そんな楽しい思い出で一杯になる様に」

 

「私も、ルフレさんと一緒にお祭りを楽しみたいです。

 沢山の思い出を、一緒に作っていきたいんです」

 

 

 大切な人と共に時を過ごせるなら、それは絶対に幸せな時間となり、「幸せな思い出」になるだろう。

 きっときっと、二人の手が皺だらけになる様な、そんな遠い未来の何時かでも、擦り切れ色褪せても尚温かな「思い出」になる筈だから。

 人々の幸せそうな姿を見て、「平和」なその光景を見て。

 この「平和」を、この世界を。守れたその喜びを噛みしめる様に……そんな時間を過ごせるだろうから。

 それは、こうして考えるだけでも、とても素敵な事だ。

 

 

 

 夕刻に街で落ち合う約束を交わしたルキナは、期待から少し逸る思いでその場を後にするのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 ルフレと約束した時間にはまだ大分早いけれど、ルキナは一足先に街へと向かっていた。

 道行く人々の多くは、仮面を被ったり或いは何かしらの仮装をしていたりと、確かにルフレが言っていた通りだった。

 

 ルキナはと言うと、どんな仮装をして良いのか分からずに、結局は何時も通りの服装でお祭りに参加していた。

 かつて身に付けていた英雄王を模した衣装を身に纏えば良かったのかもしれないが、ルキナとしてはあれには『仮装』と言うにはあまりにも重たい意味があり、……あまりこういった楽しく華やかな場には相応しい様には思えなかった。

 

 何とも不思議な雰囲気を与える飾り付けにあちこちを彩られた街並みは、まるで知らない世界に迷い込んでしまった様な印象をルキナに与え、それを魅入られた様に見て歩く。

 非日常感に包まれたお祭りの独特の熱気が辺りを支配し、人々を何処か幻想的な世界へと誘っていた。

 通りに立ち並ぶ屋台で売られている食べ物や飾りなどはどれもルキナにとっては目新しいもので。

 物珍しいそれらに誘われる様に、ルキナは屋台を辿るようにしてそのまま道を進んでいった。

 

 ふと周りを見ると手に持った籠にお菓子を溢れんばかりに詰めた子供達が、楽しそうに辺りを走り回っている。

 どの子供もみんな各々に仮装して、家々を訪ね回る様にして街中を練り歩いている様だ。

 これもハロウィンの祭りの行事なのだろうか? 

 お菓子を貰っては嬉しそうに笑い声をあげている子供達を微笑ましく見守りながら、ルキナはそう思った。

 大人たちはこれには参加していない様だから、子供達の為の行事なのかもしれない。

 

 …………ふと、ルキナの脳裏に甘いお菓子が大好きな盗賊の顔が浮かんだが……。

 まあ幾らお菓子に目がない彼とていい歳をした大人なのだ。

 子供達に混じってお菓子を貰おうとはしていないだろう。

 

 そんな事を考えながらルキナは、ルフレと約束した時間までの間に祭りの雰囲気を肌で感じようと街を見て回る。

 

 パレードか何かがあるのか、人が密集していて通り辛い場所があったので、そこを迂回するべく、ルキナは目に入った少し細い路地へと入ってそこを抜けようとする。

 

 黄色とオレンジの色鮮やかな花びらがまるで道を形作る様に撒かれたその路地へとルキナが足を踏み入れたその時。

 少し冷たく緩やかな風が辺りを吹き抜け、街の通りに飾り付けられた飾り達を静かに揺らしていく。

 

 その風に何かしらの反応を示す人はなく。

 

 そして……。

 細い路地へと入っていったルキナの姿がその場から忽然と消え去った事に、誰一人として気付く事はなかった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 細い路地を抜けて通りへと出ると、先程の通りよりも更に派手に飾り付けられた街並みがルキナの目に飛び込んでくる。

 道行く人々は誰もがその顔を隠す様に仮面をしているのが異世界に来てしまったかの様な非日常感を醸し出していた。

 

 先程の通りとは異なり子供達の数は少なく、お菓子を手に走り回る姿は見られない。

 その変わり、大人達が皆仮面をしているのであった。

 どうやら立ち並ぶ屋台が売っている品々も、先程の通りにあったものとはまた別のモノらしい。

 様々な食べ物から装飾品の類まで、普段は目にしない様な多種多様なモノを売っているが、何故か値札は無い。

 その何れもに、ルキナは何故か強く心を惹かれて。

 屋台を一つ一つじっくりと眺めながら通りを歩いていく。

 

 道行く人々や屋台の店主達が、仮面の奥からルキナを見詰める眼差しは何処か少し異質ではあったけれど。

 きっと、ルキナだけ仮面を被ったり何らかの仮装をしていないからだろう、と。そう結論付けたルキナは、その視線に不快感や不安を抱く事はなかった。

 

 ルフレと合流したら、普段はしない食べ歩きと言うものをしてみるのもいいかもしれない、とルキナは思う。

 そして、その為にも目ぼしいものは無いかと見て回る。

 

 美味しそうな豆やトマトをふんだんに使ったスープ。

 この時期だと言うのに、瑞々しさで輝いている様にも見える橘や檸檬などの柑橘類やよく熟したザクロの実で作ったジュースやお菓子。

 芳しい香りを放っているのは桃だろうか? 

 街を彩るのは、見事な程に真っ赤なリコリスや白雪の様な百合や鮮やかなオレンジの花弁を揺らすマリーゴールドの花だ。

 

 街灯が明るく照らす夜道は、何故か薄ぼんやりと緑色の輝きに揺れている様で。

 見慣れた街並みである筈なのに全く違う世界であるかの様にも思えてくる何処か幻想的なその光景に魅せられながら。

 人の波に押し流される様にしてルキナはふらりふらりと通りの奥へ奥へと進んでいった。……そうする内にいつの間にか見慣れぬ場所にまで辿り着いてしまっていて。

 辺りを見回しても、そこが何処なのか全く分からなかった。

 道行く人々の誰も彼もが仮面を被っている為に知り合いが居るのかどうかも分からず、帰り道を見失った事に気付いたルキナが途方に暮れていると。

 近くに居た屋台の店主が明るい調子で声を掛けてくる。

 

 

「やあ、お嬢さん。ここは初めてかい? 

 なら、これを一つオマケしてあげるよ」

 

 

 そう言ってその店主が差し出してきたのはチョコレート菓子の様なものであった。鷺を象ったものなのだろうか? 

 今にも飛び立ちそうな躍動感に溢れたその鷺のチョコレートは、甘く美味しそうな匂いを漂わせている。

 

 

「今日獲ってきたばかりだからね、絶対に美味しいさ。

 さあ、一思いに食べてしまうと良いよ。

 あんまり手に持っておくと、その内逃げ出しちゃうからね」

 

 

 手の中のチョコレートがまるで生きているかの様に言う店主の言葉に少し驚いたが、そう言う売り文句なのだろう。

 早く食べる様にと店主は勧めてくるが、折角なのだからルフレと一緒に食べたくて、ルキナは店主の言葉には曖昧な微笑みを返した。それに、今はチョコレートよりも、ルフレとの待ち合わせの方が大切である。

 このまま道を見失ったままでは待ち合わせに遅れてしまう。

 それでは、ルキナの為に折角忙しい中で時間を空けてくれたルフレに申し訳ない。

 

 何処かルキナにも分かる通りに出られる様に、この店主に道を尋ねてみようと、ルキナは此方をニコニコとしたままジッと見てくる店主へと声を掛けようとした。

 

 

「あの、すいません、道を──」

 

 

「ルキナっ!!」

 

 

 しかし、道を尋ねようとしたその言葉は、聞き馴染んだ声が自分の名を呼んだ事で遮られた。

 そして、人の波に逆らう様に人ごみを押し退けて、見慣れたコート姿の男がルキナの方へと急いでやって来る。

 

 

「ルフレさん!」

 

 

 まだ待ち合わせには時間はあるかと思っていたけれど、約束の時間に待ち合わせた場所に居なかったから、態々探しに来てくれたのだろうか? 

 服装は何時も見慣れているそれそのままであったが、何故かルフレは狐を象ったお面を身に付けてその顔を隠している。

 そして、狐の面で顔を隠したまま、ルフレは慌てた様にその懐から猫のお面を取り出してルキナへと差し出してきた。

 

 

「ルキナ、急いでこのお面を付けて顔を隠すんだ」

 

 

 かなり焦った様にそう急かすルフレに言われるままに、お面を受け取ったルキナはそれで顔を隠す。

 猫のお面は何故かルキナにピッタリで、……初めて見る物の筈なのに何処か懐かしい感じがした。

 

 

「どうしたんですか? 急にお面なんて……」

 

「詳しい説明はまた後でするから……。

 とにかく、今はここを離れよう。

 こんな奥まで来てしまったのはかなり不味いからね……」

 

 

 そう言って有無を言わさずにルキナの手を掴んだルフレは、人の流れに逆らう様にして通りを進み始める。

 通り過ぎる人々の視線が訝しむ様にルフレとルキナに突き刺さるが、ルフレはそれを一切気に留めようとはせず、何処かを目指して歩いていた。

 

 通り過ぎる屋台の食べ物がルキナを誘うように美味しそうな匂いを放っていて、折角だから何かルフレと一緒に食べたいのだけれども、ルフレは全く足を止めようとはしなかった。

 何時もなら、気を遣い過ぎる位にルキナの買い物に付き合おうとしてくれるのに。

 何故か、今日のルフレはルフレらしくない。

 しかし繋いだ手の温かさや大きさは間違いなく彼のモノで。

 その背中は何時も戦場でルキナを守ってきた彼のものだ。

 

 途中で細い路地に入ったり裏道の様な場所を通ったりと、ルキナが通った記憶は全くない道を辿っていくと、いつの間にか先程とは違う場所に来ていたが、何故かその空気は先程までの場所とは『何か』が違っていた。

 

 相変わらず道行く人々は全員仮面を被っているし、屋台が軒を連ねている事には変わりないのだけれども。

 それでも、先程まで居たあの見知らぬ場所と比べると、明らかに『雰囲気』や『空気』としか言えない何かが違うのだ。

 

 そこに辿り着き漸く足を止めたルフレは辺りを見回して、ホッと息を吐くように胸の辺りを撫で下ろした。

 そしてルキナへと振り返り、お面で顔を隠したまま、ルキナの頭を安心させる様に優しく撫でる。

 その手の温もりは……何故か泣き出してしまいそうな程の『懐かしさ』に溢れていた。

 その『懐かしさ』に戸惑うルキナに、ルフレは言う。

 

 

「ごめんね、何も説明せずに連れ回してしまって。

 でも、さっきのあの場所は本当に危険な場所だったんだ。

 ……特に、ルキナみたいな人にとっては、ね。

 でも、取り敢えずここまで来れば、道を間違えさえしなければ、何とか元の場所に帰れる筈だから……。

 大丈夫、必ず『僕』が帰してあげるから。

 君は、まだこんな場所に来ちゃいけないよ。

 念の為に聞くけれど、ここではまだ何も口にしてないよね?」

 

 

 ルフレのその言葉の端々に違和感を覚え、……しかし恐ろしさや警戒心と言ったものも感じ無い。

 だからこそ、その言葉の真意はよく分からないけど。

 酷く真剣な声音でそう訊ねたルフレに、ルキナは頷いた。

 折角のお祭りなのだからルフレと一緒に回りながら食べ歩きをしたかったし、何れだけ屋台に並ぶ品々に心惹かれても何も買ってないし食べてもいない。

 屋台の店主からチョコレートは貰ったが、それはまだルキナのポケットにしまわれている。

 しかし何故、ルフレはそんな事を訊ねるのだろうか? 

 

 

「……何も食べてないなら何よりだ……。

 もし一口でも『こちら側』のモノを食べてしまっていたら、ルキナもこっちに引き摺りこまれてしまっていたからね。

 貰ったチョコレートは僕が預かっておこう。

 これは、君は食べてはいけないものだから」

 

 

 そう言って、お面の下で安心した様に微笑んだルフレは、まるで幼い子供を褒める様な感じでルキナの頭を撫でた。

 ルフレには今までそんな事をされた事がないルキナは、思わず戸惑ってしまう。

 それに、ルフレの言葉が気に掛かる。

『こちら側』とは、一体どう言う事なのか……。

 

 ルキナが何の事情も呑み込めていない事を察したのだろう。

 ルフレは、「ああ……」と小さく呟いた。

 そして、辺りを見回して何かを確認し、ルキナだけに聞こえる様に囁き声の様な小声で話す。

 

 

「いいかいルキナ、よく聞いてくれ。

 ここは、君が本来居るべき世界じゃない。

 一言で言えば『彼岸』……『死者の世界』だ。

 君は、本来そう有り得る事では無いのだけれど、生者でありながら『死者の世界』に迷い込んでしまっているんだよ」

 

 

 到底信じられないその言葉に、ルキナは思わず驚愕の声を上げそうになるが、その口をルフレに素早く押さえこまれその声はくぐもったものとなり辺りに響く事は無かった。

 

 

「しっ、静かに……。

 ここに居る殆どの死者は、君が生者だとは気付いてない。

 今日は生者と死者の世界が交わる祭りの日だからね……。

 両者の境は随分と曖昧になっているものなんだ。

 それでも、死者たちが生者の世界の祭りに誘われ出ていく事はあっても、本来命ある存在がこちらに来る事は無い。

 だからこそ、誰もここに居る君が生者だとは思っていないだろうけれど……。それでも、念には念を入れた方が良い。

 隙あらば生者をこっちに引きずり込もうとするような……所謂『悪霊』みたいな連中だって少なくは無いからね」

 

 

 そして、「例えば」と言いながら。先程ルフレに預けたチョコレートをその手の中で転がして、それをポケットに入れた。

 

 

「無理矢理君にこちらの世界のモノを食べさせようとしたり。

 ……或いは、もっと奥にまで無理やり連れて行って、強引に生者の世界との繋がりを断ち切ろうとして、二度と帰れない様にしようとしてくる者も居ないとは限らないんだ」

 

「あの……あなたは一体……」

 

 

 ルフレだと思っていたけれども。

 しかし、その言葉が正しいならば彼は『死者』である。

 当然ながら、ルフレでは無い筈だ。

 ルキナの問いに、彼は少し寂しそうに笑った。

 

 

「僕は『ルフレ』ではあるけれど君の恋人のルフレではない。

 ……もう、僕の事は忘れてしまっているんだろうね……」

 

 

 狐のお面を少しだけずらしてそう微笑んだ彼のその表情に、強烈な既視感を覚えて。

 そして、記憶の片隅に静かに埋もれていたその『名前』が呼び起こされる。

 

 

 

「……『ルフレおじさん』……?」

 

 

「はは……懐かしい呼び方だね……覚えててくれたのかい? 

 ……まだ、僕の事をそう呼んでくれるんだね。

 ……有難う、ルキナ」

 

 

 記憶の中のその人と、目の前に居る彼の姿が重なる。

 遠い昔はうんと見上げていたその背は、あれからルキナが歳を重ねてきた結果、もう随分と近くなっていて。

 それなのに、彼は記憶の中の姿と何も変わらない。

 

 

「どうして、『ルフレおじさん』が此処に……」

 

「どうして、なのかは僕にも良くは分からないんだ。

 あの『未来』で僕はギムレーに覚醒させられて……、僕はギムレーの意志に乗っ取られた状態で、何も出来ないまま、『僕』が世界を滅ぼしていくのを見ているしかなかった。

 君を追い掛けてギムレーがこうしてこの世界に辿り着いた時も、……僕は何も出来なかった。この世界のルフレがギムレーを殺してくれた事で、僕は漸くギムレーから解放されて……その魂ごと消滅する筈だったんだけれど。

 この世界のルフレが、世界に還った影響からか、僕の魂もこうしてこの世界の『死者の世界』に流れ着いていた。

 それからは、この『世界』から君達を見守っていたんだ。

 この世界の『死者の世界』には、クロムや皆は居ないから、皆の分まで僕が君達を見守らなくちゃと思ってね」

 

 

 優しくそう語る『ルフレおじさん』のその横顔は、何処か寂しそうであった。それもそうか。

 この世界の『死者の世界』には、『ルフレおじさん』の……ルキナ達にとって本当の両親達であるクロム達は居ない。

 彼は、この『死者の世界』で独りなのだ。

 それは……とても哀しい事である様にルキナには思える。

 しかし、『ルフレおじさん』はそっと首を横に振った。

 

 

「クロム達に逢えないのは……確かに少し寂しいけれど。

 元々……僕自身の意志では無かったとは言え、あの世界を滅ぼしてしまったのは『僕』だから……。

 僕は、皆とは同じ場所には逝けなかっただろうね。

 地獄の炎に焼かれるか、魂が消滅するか、それしかない。

 ……でも、こうしてこの世界の『死者の世界』に流れ着いた事で、ルキナや皆の子供達を見守る事が出来る……。 

 僕はもう死者だから、生者の君達には何もしてあげられないけれど……。それでも、見守っている事なら出来るし、こうしてルキナを助けに来る事だって出来た。

 贖罪なんかにはならないし、そのつもりも無いけれど……こうして、君達を見守る事が出来るだけでも、僕にとっては本当に幸せな事なんだよ」

 

 

 そっと幸せそうに微笑んだ『ルフレおじさん』は、ルキナの思い出の中にあるままの温かな優しい人のままで。

 ……どうしてこの人が『ギムレー』として世界を滅ぼさねばならなかったのかと、……神の悪意や理不尽としか言い様の無いその運命が余りにも苦しい。

 

 ルキナにとって最愛の人であるルフレも辿り得たその運命は、余りにも残酷なものであった。

 世界を恨み憎み破壊したいと願う者など、彼じゃなくとも、世界には幾らでも居たであろうに……。

 その血を引き『器』たる資格があると言うそれだけで。

 この優しい人は全てを奪われ、……そしてその優しい心を穢され尽くし、何もかもを自らの手で全てを壊してしまった。

 

 きっと、父であるクロムは……いや、『ルフレおじさん』と共に戦った仲間たちの誰もが、『ルフレおじさん』を恨んだりはしなかっただろう。

 悪いのは『ルフレおじさん』ではなく、その身体を乗っ取ったギムレーであり……そしてギムレーを蘇らせたファウダー達なのだと、きっと死の間際でもそう思っていただろう。

 ……それでもそれはきっと、『ルフレおじさん』にとっては何の救いにもならなかったのかもしれないけれど。

 

 

「『ルフレおじさん』……私は……」

 

 

 何か……彼に何か伝えなくてはと、そう思い口を開くが。

 結局何も言う事など出来なかった。ルキナが思い付く様な慰めの言葉など、きっと意味は無いだろうから……。

 

 

「……さて、こうしてこのままここで立ち止まって長居するのも、生者である君にはあまり良くは無いからね。

 君が彼方に帰れる内に、早く行かないと」

 

 

 そう言ってルキナを導く様に『ルフレおじさん』が歩き出したのに釣られて、置いて行かれる事は無いのだろうけれど、ルキナもまた歩き出す。

 

 

「本来この世界には生者は来ないけれど、何事も例外と言うモノはあるんだ。もう余命幾許も無い様な……そんな死にかけた状態の人とか、或いは何らかの要因によってこちら側に惹かれ易くなっている人は、この世界に迷い込む事はある。

 特に今日は二つの世界が交わる日だからね……。

 

 

 そう言った人たちは特に迷い込みやすい」

 歩きながら『ルフレおじさん』はルキナに説明をしてくれる。

 それは、もうこうしてルキナが『死者の世界』に迷い込まない様にする為なのだろう。

 

 

「私が『こちら側に惹かれ易くなっている』……って。

 一体どう言う事なんですか?」

 

「ああ、それは……ルキナは、本来はこの世界に生きている存在ではないだろう? あ、いや。だからと言って取り立てて大きな問題がある訳ではないんだけどね。

 ただ、どうしても元からこの世界に居た存在と比べると、世界との結びつき……『生者の世界』での存在の確かさと言うのは少し薄くなってしまうものなんだ」

 

 

 何となく分かるので、ルキナはそんなものなのかと頷いた。

 時を遡り、本来在るべき時の流れからは外れて……。そんな風に『時の異邦人』となった事への弊害の一つや二つは元より覚悟していた事なのだ。

 ルキナ達は何時か、『世界を救う』為にでも時を捻じ曲げてしまったその「報い」を受けるかもしれないと思っていた。

 

 

「だから、何かの拍子に『死者の世界』に惹かれ易くなっているし、『生者の世界』との繋がりも切れやすくなってる。

 僕が君を見付けたあの場所は『死者の世界』でも随分と深い場所でね……奥に進んでいたら、ルキナは『生者の世界』との繋がりを喪って死者の仲間入りをしてしまっていたよ。

 それに、まだ口にはしていなかったとは言えこの世界の食べ物を手にしていたのはとても危険な事なんだ。

『死者の世界』のものを口にすれば、『死者の世界』から帰れなくなるからね……。そう言う「決まり」なんだ。

 まあ、何にせよ間に合って良かったよ」

 

「そうなんですね……有難うございます、『ルフレおじさん』」

 

「いや、礼なんて良いんだよ。

 こうして君の力になれたんだから僕にはそれで十分さ。

 でも、有難う、ルキナ」

 

 

 そう嬉しそうに微笑んだ『ルフレおじさん』の柔らかな表情が、ルキナの胸をどうしようもなく締め付ける。

 こうして『ルフレおじさん』と話している内に、擦り切れ忘れてしまった彼との思い出が色鮮やかに蘇って。

 ……そしてルキナは、幼い自分が何れ程『ルフレおじさん』に愛され大切にされてきていたのかを思い出したのだ。

『ルフレおじさん』との思い出は、どれも温かくて優しくて……幸せに溢れたものであった。

 あんなにも大好きだったのに、あんなにも大切だったのに。

 どうして自分は今まで『ルフレおじさん』の事を忘れてしまっていたのだろうか。

 

 確かに、あの『絶望の未来』では、幸せな記憶や優しい思い出は抱えて生きていくのは余りにも過酷過ぎて……。

 過去の事に心を囚われたままでは、その日を生きる事すら出来なかった。絶望の底なし沼に心を囚われてしまうから。

 だからこそ、思い出さない様に記憶に鍵を掛けたり、或いは擦り切れたそれらを心の奥底に沈めたのだけれど。

 それでも、声も顔も何もかもを忘れる様にして思い出さなかったのは、酷い裏切りである様にも思えるのだ。

 愛されていたのに、大切にされていたのに。

 ……しかし。

 

 

「……良いんだよ、ルキナ。

 僕の事なんか、忘れてしまって良かったんだ。

 どんな事情があれ、僕は君にとっての怨敵だったんだ。

 それに……君にとっての『ルフレ』は、もう僕じゃないだろう……?  ……こうして君が『死者の世界』に迷い込む事が無ければ、僕の事なんて思い出さずに済んだだろうに。

 君は、こんな過去の幻影なんかに囚われなくていい。

 僕の事を忘れていたのは、君にとってそうするのが一番良かったからなんだと思うよ」

 

 

『ルフレおじさん』は本心から思っている様な声音で言う。

 ……確かに、もうルキナにとって『ルフレ』と言う存在は『ルフレおじさん』の事を指すのではなくて。

 この世で一番大切で愛しい彼の事であった。

 ……それでも、本当にそれで良いのだろうかと思うのだ。

 

 ルキナが悩み落ち込んでいるのを察したのか、『ルフレおじさん』はふと優しく微笑んで、その話題を変える。

 

 

「……『死者の世界』の祭りでこうして仮面とかを被ったりするのは、互いを誰だか分からない様にする……という名目で、互いの柵を忘れる為なんだ。……例え死んでいても、どうしても生きていた時の様々な柵は残っているからね。

 せめて祭りの間だけは、憎しみ合う様な関係でもそれを忘れて共に過ごそう……と言う意味が込められているんだ。

 あとはまあ……そんな訳で祭りの時は、何かの仮面を付けてないとどうしても目立つからね。

 少しでも、ルキナが生者だとバレない様にするには、こうしてお面を付けているのが一番なんだ」

 

 

 成る程、『ルフレおじさん』が渡してきたこのお面にはそんな意味があったのか……とそう思うのとほぼ同時に、どうしてこのお面に『懐かしさ』を感じたのかを思い出す。

 そう、これは……。

 

 

「このお面……昔『ルフレおじさん』にお祭りに連れて行って貰った時に、頂いたものと同じ……」

 

「……よく覚えているね、そうだよ。

 懐かしいね……あの時も、ハロウィンのお祭りだった。

 クロムが居て、皆が居て……僕は、まだ自分の『運命』と言うものを知らなかった……そんな幸せな時間だった……」

 

 

 遠い目で何処かを見詰めて、『ルフレおじさん』は呟く。

 そこに映っているのは、『ルフレおじさん』にとっても『幸せ』だった時間なのだろうか……。

 

 

「……誰に謝って済む事でもない事も、……決して取り返す事もやり直す事も出来ない事である事も……それは痛い程に誰よりも分かっているけれど。……それでも、あの日々に戻れるなら……と、何度も思ってしまうんだ……」

 

「そう、ですね……」

 

 

 それが叶うならば、どんなに良いだろう。

 父が居て、母が居て、そして『ルフレおじさん』も居て。

 あの『幸せ』な時間がずっとずっと続いていたならば、と。

 どうあっても叶わない……そんな夢を幾度思っただろう。

 だが、そうやって夢を見る一方で。

 もうそこへは決して帰れない自分を認識してしまう。

 ……その『幸せ』の中には、『ルフレ』はいないのだ。

 

 

「……そうだね、ルキナには未来が……何処までも繋がっていく明日があるからね……過去に囚われてはいけないよ。

 過去に縛られるのは死者だけで十分だ。

 ここにいる僕は、ただの過去の残像に過ぎないから、君は僕なんかに囚われるべきじゃない。僕の事は、忘れなさい。

 ……それに。……その身に新たな命を宿せば、君がこうして『死者の世界』に惹かれる事はきっと無いだろうし。

 こうして出逢うのもこれが最初で最後になるだろうからね」

 

 

「新たなる命」と言う言葉に、ルキナの頬に朱が差した。

 思い当たるモノは沢山あるし、まあルフレとはそう言う関係なのだ……。彼との間に新たな命を授かる事は十分有り得る。

 だが、流石にそれを言われるのは気恥ずかしいのだ。

 しかも、ルフレと「同じ人」である『ルフレおじさん』に。

 思わず口籠るルキナに、『ルフレおじさん』は、心の底から楽しそうな笑い声を上げる。

 

 

「ふふ……良いじゃないか。

 誰か愛する人を見付け、そして命の環を繋げていく。

 それは、生きている者だけの特権だよ。存分に味わうと良い。

 沢山笑って、沢山泣いて、色々なものを見て、精一杯生きて……誰よりも幸せになって……。沢山の人達に、君を大切に想ってくれるくれる……愛してくれる人達に囲まれて。

 そして、その人生を、『幸せ』だったと心から感じて。

 君が『死者の世界』にやって来るのは、きっとそんな旅路の果てになるのだと……僕は信じているよ」

 

 

 そう言って『ルフレおじさん』は立ち止まった。

 その目の前には、細い道がある。

 何故か、その先には『生者の世界』……ルフレが居るルキナの生きるべき世界があるのだと、そう直感が囁いた。

 

 

「さあ、ルキナ、この先が君の世界だ。

 僕が見送れるのはここまでだからね。

 後は、決して振り返らず行きなさい」

 

 

『ルフレおじさん』の言葉にルキナは頷き歩き出す。

 そして、あと僅かで道を抜けようとしたその時、背後から『ルフレおじさん』の心から零れ出た様な声が聞こえた。

 

 

 

「ルキナ、君は今『幸せ』かい? 

 ……僕は、少しでも君の『幸せ』になれていたかい?」

 

「はい……!」

 

 

 

 きっと、本当はずっと訊きたかったけれど……最後まで面と向かっては訊けなかったのだろうその言葉に。

 ルキナは有りっ丈の想いを込めて、力強く頷いた。

 それが、もう生きている限りは出逢う事の無い大切な人への、せめてもの餞になると、信じて。

 

 その想いは、きっと届いた筈だ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 ふと気が付くと、ルキナは見慣れた道に立っていた。

 周りには仮装した子供たちが走り回り、見慣れた王都の街並みがそこに在る。

 一瞬前までの、自分が何をしていたのか思い出せない。

 しかし、ふと頭に手をやると、何時の間にやら猫を模したお面がそこにあった。

 どうしてだか、そのお面を見ていると、胸に様々な感情が沸き起こり、苦しくなってくる。

 しかし苦しい位なのに何故だかとてもそれは温かくて。

 涙まで、零れ落ちてしまった。

 

 どうしてだか、とてもとても懐かしい……大切だった人の事を思い出す。

 

 

「『ルフレおじさん』……」

 

 

 ルキナの頬を伝い落ちる涙の雫を、緩やかで優しい風がそっと拭う様に浚って行くのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『何時かの未来から、明日の君へ』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 少し息が苦しくて、ルキナはそっと目を開けた。

 独りぼっちの部屋が、酷く寂しい。

 

 

「お父さま……お母さま……」

 

 

 小さく咳き込みながら、ルキナは小さな涙を零す。

 

 このまま、もしかしてずっと独りぼっちになってしまうのではないだろうか、独りぼっちのまま死んでしまうのでは、と。

 幼い心にそんな恐ろしさが忍び寄った。

 小さな体を呑み込んでしまった不安は、布団を被っても尚振り払えない冷たさで、ルキナの心を凍えさせていく。

 

 ……普通の風邪であった筈だった。

 まだ幼い故に身体がまだ丈夫ではないルキナは季節の変わり目などに時折風邪を引く事がある。

 だがそれは、何時もは少ししたら治るものだった。

 だけれども今回の風は少し拗らせてしまったのか、随分と熱が長引いてしまっていた。

 侍医達は、ただの風邪が少し長引いただけだと皆言って。

 熱冷ましの薬を飲まされた後に、大人しく眠る様に言った。

 その言いつけを守って、ルキナは大人しく部屋で寝ていた。

 だけれども、熱で体中が火照っている為にあまり寝付けなくて、こうしてぼんやりと起きてしまうのだ。

 すると途端にいつもはなんて事は無い筈なのに、急に独りの部屋が寒々しく感じてしまう。

 

 父の大きな手が恋しかった。母の優しい手が恋しかった。

 両親に、この手を握っていて欲しかった。

 そうすればきっと、この不安は何処かに消えるから。

 だけど、お仕事で忙しい二人にそんな我儘は言えなかった。

 ルキナは、「えらい子」だから、「いい子」だから……。

 両親を困らせてしまうと分かっているからこそ、ルキナはそれを口には出来なかったのだ。

 ……それでも、寂しくて。

 今にも涙がポロポロと零れそうになったその時。

 

 溢れそうな涙を、誰かの優しい指先が、そっと拭った。

 そして、ルキナの頭を誰かがそっと撫でる。

 そのひんやりとした手は、ルキナの熱を優しく冷ましてくれているかの様だった。

 ルキナ以外はこの部屋に誰も居ない筈なのに、そんな指先を感じた事に驚いたのだけれども。

 だけれども熱で朦朧とした頭では上手く考えられなくて。

 ゆっくりと火照った身体が冷まされていく心地よさに、うとうとと安らかな眠りの淵に沈んでいくのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 熱もすっかり下がったルキナは、晴れてベッドから抜け出す事を侍医達からも許された。

 侍医達も驚く事に、一晩ですっかり治ったらしいのだ。

 お勉強や剣のお稽古も再開され、すっかりルキナの日常が戻って来ていた、

 そして、今日の分のお勉強が終わったルキナが、広い城内の探検をしていると。

 中庭で仲良く立ち話している男女が目に入った。

 

 

「あ、ルフレさん! ルキナお姉さま!」

 

「おや」「あら」

 

 

 それが大好きなルキナお姉さまとルフレさんだと分かった瞬間、ルキナはルキナお姉さまに向かって駆け出して、飛び込む様に抱き着いた。

 ルキナお姉さまはそんなルキナの身体を、何時もの様に確りと抱き留めてくれる。

 

 

「風邪を引いていたそうですがもうすっかり治った様ですね。

 元気そうで何よりです」

 

「はい、ルキナはすっかり元気です! 

 ルキナお姉さまにおひさしぶりに会えて、うれしいです!」

 

 

 城にまで来る事は珍しいルキナに、こうして元気になった直後に会えるとは、今日のルキナはとても幸運だった。

 同じ名前を持つ彼女を、ルキナは歳の離れた実の姉の様に慕っていて、会えた時には何時も相手をして貰っていた。

 前は何かを探してよく旅に出ていた様だけれど、今はイーリスの王都にずっと住んでいるらしい。

 

 そんなルキナとルキナおねえさまのやり取りを、ニコニコと優しい顔で見守っているのは、ルフレさんだ。

 ルキナが生まれるよりも前からお父さまのお友達で、ルキナがまだ物心も付かない様な頃に在った大きな戦いで一時行方が分からなくなっていたらしいのだけれども、一年程前にイーリスに帰って来たらしい。

 今はこの城で、宰相見習いとしてその補佐をしているのだと以前お父様がルキナに説明していたけれど、そもそもルキナには宰相もその補佐の意味もまだよく分かっていない。

 ただ、お父様にとってとても大切なお友達で、そしてルキナお姉さまにとっても大切な人なのだと言う事がルキナにとっては何よりも大事な事だった。

 ルフレさんは、ルキナにもとても優しいし、無暗矢鱈に子ども扱いしてくる事もなく相手をしてくれるので大好きだ。

 ルフレさんはルキナお姉さまと結婚しているらしく、だから今までは色々な所を旅していたルキナお姉さまがイーリスで暮らす様になったらしい。

 旅をした先での話を聞くのもルキナは好きであったが、王都に住んだ事で前よりもずっと頻繫にルキナお姉さまに会えるようになった事の方が嬉しかった。

 

 ルキナが二人に相手して貰っていると、ふと少し離れた所でルキナ達をひっそりと見守っている人影に気が付いた。

 フードを深く被っているから、その顔はここからではあまり分からなくて……だけれどもその服装は何処となくルフレさんのモノに似ている気がした。

 もしかして知り合いなのだろうか? 

 

 

「あの、ルフレさん。

 あそこにいる人は、ルフレさんのお知り合いの人ですか?」

 

 

 その人を指しながら訊ねると。ルフレさんは。

 その指先の先を見て、周りを見て、そして首を傾げた。

 

 

「あそこ……? 

 少なくともこの周りには僕達しかいないと思うけど。

 そっちの方向に誰か居るのかな? 

 ルキナは目が良いんだね」

 

 

 ルフレはそんな事を言うが、この距離でそんな事を言うなんて有り得るのだろうか? 

 困惑してルキナお姉さまを見るけれど、ルキナお姉さまも不思議そうな顔をしている。

 

 

「だってほら、あの、あそこに、あの赤い花がさいている木の下、黄色い花の花だんのところにいるじゃないですか!」

 

 

 ルキナはそこを指すがどうやら二人には分からないらしい。

 そして、指さされたその人影はと言うと、驚いた様に辺りを見回して自分しかそこに居ない事に気付いたのか、慌ててその場から消えようとする。

 そして、その時ルキナは気付いてしまった。

 木の下に立っていた時は花壇に隠れて見えていなかったが。

 その人影は、「足元が浮いていた」のだ。

 そして、人影は壁を通り抜ける様にしてその場から消えた。

 それを見たルキナは驚きの余りプルプルと震える。

 

 

 

「ゆうれいさんだったんだ!!」

 

 

 

 初めて『幽霊』を見た興奮に沸き立つルキナを、ルフレさんとルキナお姉さまは戸惑う様に見ているのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 イーリス聖王国は実に千年以上もの歴史を誇る国だ。

 今のこの王城は何度目かの遷都の後に幾度も補修を重ねたもので、流石に千年の歴史がある訳ではないけれど。

 それでも、とても長い歴史のあるお城である事は間違いない。

 そして、往々にしてそう言った歴史ある場所には、『幽霊』などと言ったこの世の常識では説明出来ない存在や不思議な現象の数々の噂があるのである。

 そしてこのイーリス城もその例に漏れず、実に多様な伝説や噂が存在した。

 好奇心旺盛なルキナは、幽霊なりそう言った不可思議な現象なりを見てみたいと常々思っていたのだけれども、中々そう上手くはいかなくて。まだ幽霊を見た事が無かったし、そういった不可思議な現象にも遭遇した事は無かった。

 だからこそ、初めて遭遇した幽霊に興味津々になるのも当然の事であったのだ。

 

 初めて中庭で幽霊を見かけた直後から、ルキナは再びあの幽霊を見付けるべくあの手この手で幽霊を探し始めた。

 だが、何せとても広い城なのだ。

 普通に探すだけでもとても骨が折れるのである。

 それでも、ルキナは全く諦めなかった。

 来る日も来る日も幽霊を探し続けて、それが城内でちょっとした噂になり始めた頃に、ルキナは再びあの幽霊に巡り逢う機会を得たのであった。

 

 

 それは幽霊を探し始めて二週間程経った頃。

 ルキナは、その日も幽霊を探して城の中を探検していた。

 そして、初めて見た時には中庭の木の下に居たのだから、あの幽霊は木が好きなのかもしれないと思い立ち、ルキナは中庭でなく城の裏庭の方へと向かう。

 あまり人気の無い裏庭は何時も静かで、幽霊が好みそうな感じがする環境が整っていた。

 

 

「ゆうれいさーん、どこですかー?」

 

 

 しかし裏庭を回ってみても、幽霊の姿は無くて。

 だがそこでルキナは、子供特有の自由な発想で、幽霊は木の上の方に居るのではないかと思い立って、樹を登り始める。

 だが余り慣れていない事もあって、その動きは覚束ない。

 そして、手を掛ける場所を見誤ってしまったルキナは、バランスを崩してしまい、更には間の悪い事にそれに驚いた拍子にルキナは木から両手を離してしまう。

 

 

 ── おちちゃう! 

 

 

 反射的にルキナが目を瞑った瞬間。

 

 

 

『危ない、「ルキナ」!!』

 

 

 

 聞き覚えのある様な声がして、背中から落下したルキナの身体は、途中でふわりとした何かに抱き抱えられる様に、その落ちる速度を落として、ゆっくりと地面に背中から降りた。

 全く痛みの無い感覚に驚いたルキナが目を開けると。

 ルフレさん……によく似た誰かがとても心配そうな顔でルキナを覗き込んでいて。

 そしてその人は、ルキナが目を開けると、ほっとした様に胸を撫でおろしていた。

 

 

『良かった……間に合って……』

 

「……あなたは、『ゆうれいさん』ですか? 

 わたしを、たすけてくれたんですか?」

 

 

 ルキナがそう言葉を投げ掛けると、その人は驚いた様に目を丸くして、何度も何度もルキナの眼の前で手を動かす。

 ルキナの視線が自分の手を追い掛けている事を確認して。

 そして、その人は小さな溜息を吐いた。

 

 

『まさか本当に僕の姿が見えているなんて……。

 前までは君も確かに見えていなかった筈なのだと思うのだけれど、どうして突然君だけが見えたんだろう。

 今まで僕の姿が見えた人なんて誰も居なかったのに……。

 あ、えっと、僕が「幽霊さん」かどうかって事だよね? 

 ……どうなんだろうね……。

 正直な所、僕自身今の自分の状態をあまり理解していないんだ……。気付いたら、こうなっていたからね……。

 でもまあ多分、「幽霊」ってのは間違っていないと思うよ』

 

 

『幽霊さん』は、そう言った後で一つ咳払いをして。

 優しそうな顔から、少し子供を叱る様な顔をする。

 

 

『それはそうと、危ないじゃないか! 

 慣れても無いのにこんな木に登ろうとしたらダメだよ! 

 今回は僕が間に合ったから良かったものの……本来なら大怪我してたかもしれないんだからね! 

 いいかい、命と身体は大事にしなきゃダメだよ。

 もし「ルキナ」が怪我をしたら、お父さんもお母さんも悲しむだろう? 二人を悲しませてはいけないよ。

 だから、こんな事もうしちゃダメだからね。約束だよ』

 

 

 分かったかい? と言った『幽霊さん』にルキナが素直に頷くと、『幽霊さん』は優しく微笑んで右手の小指を差し出す。

 指切りをして約束しようと、ルキナも小指を伸ばすが……その指先は触れ合う事無く幽霊さんの手をすり抜けた。

 それに一瞬、ハッとした様に哀しそうな顔をした『幽霊さん』は、次の瞬間には何事も無かった様に指を引っ込める。

 

 

『駄目だね……つい、クセで……。

 今の僕は、誰かに触れたりするのは難しいんだった……』

 

「でも、さっきおちそうになったわたしをたすけてくれたのはゆうれいさんなんでしょう?」

 

『一応ね。ちょっとしたものなら動かせるし、物凄く頑張れば少しの間だけは触れられる。

 それでも、僕は落ちてくる君の身体をちゃんと受け止める事は出来なくて、落ちる速度をケガしない程度に緩めるのが精一杯だったんだ。難儀なモノだね。

 昔は、ちゃんと受け止めてあげられたのに……』

 

 

 そう言って、『幽霊さん』は少し悲しそうな顔をした。

 ルキナにはどうして彼がそんな顔をするのかは分からない。

 でも、その悲しくて寂し気な表情を見ていると、どうしてだかルキナの胸はキュッとなるのだ。

 それは、ルキナの生来の優しさ故であるのかもしれないし、……或いは彼に何か感じるモノが有ったのかもしれない。

 何であれ、ルキナは幽霊である彼に対して、「この人を放ってはおけない」と、そう感じたのだ。

 それは、彼が自分を助けてくれたからだとか、或いは彼が「幽霊」故に興味があるからなどの理由では無かった。

 ルキナにとっては、寂しさに苦しんでいる人に手を差し伸べる事には特別な理由など必要のないモノであったのだ。

 

 

「あのね、ゆうれいさん。

 ゆうれいさんはルキナとお友だちになってくれますか?」

 

『お友達……? 僕と、君が……?』

 

「はい! お父さまがいつも言ってるんです。

 さみしいとないている人がいたら、その人とお友だちになってあげられるような、『やさしさ』をもちなさい、って。

 だからゆうれいさん。ルキナとお友だちになりましょう! 

 そうしたら、ゆうれいさんはさみしくないです!」

 

 

 ルキナの言葉に驚いた様に目を瞬かせた『幽霊さん』に、ルキナはそう胸を張って言う。

 父からはよくそう言われて育ってきたのだ。

『幽霊さん』がどうしてそんなに寂しくて哀しい顔をしているのかは分からないけれど、ルキナが「お友だち」になれば少なくとも彼は一人ぼっちではなくなる。

 

 一人でいる事は寂しい事だ。そして、誰にも見て貰えない……誰にも気付いて貰えない事は、とても寂しい事だ。

 そう、父はよくルキナに言っていた。

 ならば、一人ぼっちで誰にも見付けて貰えなかった『幽霊さん』は、とても寂しいのだろう。

 でも、ルキナは『幽霊さん』の姿を見付ける事が出来るし、こうしてお話をする事も出来る。

 触れる事は出来なくても、出来る事はある。

 ならば、彼はもう独りではない。

 ルキナは、幼いながらもそう考え、彼の返事を待った。

 

 

『……お父様……そうか、君のお父さんがそう言ったのか。

 ……やっぱり、変わらないんだね、クロムは。

 こうして、分かたれた「未来」でも。

 ………………。

 小さなお姫様、どうか、僕とお友だちになってくれますか?』

 

 

 とても懐かしそうな、そしてほんの少し悲しそうな顔で、『幽霊さん』はそう言った。

 

 

「はい、もちろんです! 

 ルキナとゆうれいさんは、もうお友だちです!」

 

 

 こうして、ルキナに不思議なお友だちが出来たのだった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

『幽霊さん』とお友だちになったルキナは、それから色々な事を彼に尋ねた。

 彼の名前、どうして幽霊になってイーリス城にいるのか、本当にルキナにしか彼の姿は見えていないのかなど。

 まさに質問攻めと言っても良い程に様々な事を尋ねたのだが、彼はその全てにちゃんと答えてくれた訳では無かった。

 ルキナにしか幽霊さんの姿が見えず、その声も聞こえていないと言うのは直ぐにルキナにも分かったのだけれども。

 名前に関しては、何度訊ねても教えてはくれなかった。

『幽霊さん』で良いと、そう答えるばかりで。

 更には、どうしてルフレさんに似ているのか尋ねても、はぐらかされるばかりであった。

 どうして幽霊としてイーリス城を彷徨っているのかと言う部分も曖昧にしか答えてはくれなかった。

 

 

『僕は昔、ある人との「約束」を守ってあげられなかった。

 沢山の「約束」を破って、沢山傷付けて、あの子の大切なモノを何一つとして守ってあげられなくて……。

 だからなのかな、今もこんな姿で彷徨っているのは。

 罪滅ぼしになんてなりはしないだろうけれど……。

 それでもせめて、見守る事位はしたいんだ』

 

 

 そう言う幽霊さんの言葉の大半は、本人に詳しく説明する気が無い事もあってまだ幼いルキナには殆ど分からなかった。

 だけれども、彼がその事について酷く苦しんでいる上に悔いている事は、何となく分かった。

『幽霊さん』が守れなかった「約束」とは何なのだろう。

 そして、その約束をした人とは誰だったのだろう。

 そうルキナが訊ねてみても。

 

 

『もう、君には何の関係も無い事だよ。気にしなくて良い。

 ……もう、「未来」は分かたれたんだ。

 あの「約束」もまた、もう何処にも無い。

 君の未来は、沢山の「幸せ」に満ちているのだから……』

 

 

 そう言って『幽霊さん』は少し寂しそうに笑って。

 手を伸ばした所で彼の手は何にも触れられはしないのに、ルキナの頭を優しく撫でる様にその手を動かすのだ。

 ……その寂しさは、きっとルキナが傍に居ても、決して消える事は無いモノなのだろう。

 それが何となく、直感的に分かってしまうから。

 ルキナは、彼が答えようとしない事、答えたがらない事、そして答える彼が寂しそうにする事は、もう尋ねない事にした。

 父と母はよく、友達だからと言って相手の秘密や秘密にしておきたい事を全部暴こうとするのはいけない事だと言っていたし、ルキナも『幽霊さん』を悲しませたい訳では無い。

 

 ルキナの知りたい事を全て教えてくれた訳では無いけれども、『幽霊さん』はとても沢山の事を知っていて。

 ルキナに様々な事を語って聞かせてくれた。

 それは、ルキナお姉さまやルフレさんが話してくれた様なこの王城の外に在る世界の事だけでなくて、お勉強の事からルキナも知らなかった様な童話まで、実に様々で。

 こんなにも沢山の事を知っている『幽霊さん』は一体何者なのだろうと言う気持ちがむくむくと湧いてはきたが、それはきっと答えたくない事だろうからルキナは訊いていない。

 

『幽霊さん』はとても優しいお友だちであった。

 王女であるルキナは、基本的に城の外に出る事は出来ない。

 友達は他にも居るけれど、彼等は城に毎日居る訳では無い。

 そして、父や母は基本的に忙しくて一緒に過ごせる時間はとても限られているし、それはルキナにとって親しい大人であるルフレさんやルキナお姉さまも同様であった。

 だから、ルキナは先生達に師事して何かを学んでいる時以外は、大抵一人で過ごしていたのだ。

 だが、『幽霊さん』と友達になってからは大きく変わった。

『幽霊さん』はルキナが呼べば大抵何時でも逢いに来てくれるし、ルキナと一緒に時間を過ごしてくれる。

 一人でお城を探検するよりも『幽霊さん』と一緒に探検する方がずっと楽しいし、一人で本を読むよりも『幽霊さん』に語り聞かせて貰う方がルキナは好きだった。

 そして、一人で中々寝付けない夜には、『幽霊さん』がお伽噺や童話などを語り聞かせてくれたり、ルキナが眠れるまで子守歌を歌ってくれる事もあった。

『幽霊さん』はそう言った読み聞かせの為の物語や子守唄を、父よりも沢山知っていて。

 それは、彼が幽霊では無かった昔に、そうやって誰かに語り聞かせ、子守唄を歌っていたからなのだろうかと少し思う。

 ルキナを優しい眠りへと誘う時の彼のその表情は、慈愛に満ちた……しかし同時に何処か切なさも入り混じっていた。

 彼の優しさに、「ありがとう」と、そう感謝する度に。

 彼は、嬉しそうな、何故か少しだけ救われた様な顔をする。

 ……だけれども。そうしてルキナの夜は寂しくなくなったけど、彼にとっては果たしてそうなのかは分からなかった。

 ……幽霊は、眠らない。眠る必要が無いから、眠れない。

『幽霊さん』が何時ねているのか気になったルキナがそう訊ねた時にそう教えてくれた。

 その時は、夜も眠らずにずっと過ごせるのは悪い事じゃないんだろうなとルキナは思ってしまったのだけれども。

 彼は、誰もが寝静まった世界で、誰に触れる事も出来ないまま、ずっとずっと起きていなくてはならないのだ。

 ルキナが安らかな眠りに就いた後の彼は、独りぼっちだ。

 それはとても寂しい事なのではないかと、ルキナは思う。

 だけど、ルキナがそう言うと、『幽霊さん』は優しく笑ってそれを否定するのだ。

 

 

『僕にとっては、こうして平和な世界で、皆が安心した様に眠っている姿を見れるのは、とても幸せな事なんだよ。

 確かに、自分は殆ど何にも干渉出来ないし、誰にも気付いて貰えない、誰も彼もが僕の前をただ通り過ぎていくけれど。

 それはもう良い、僕にとっては寂しい事じゃないんだよ』

 

 

 ……と、そう微笑む。

 でも、ルキナがその言葉に頷く事は出来そうに無かった。

 もし自分が『幽霊さん』の様に誰からも……それこそ父や母にもその存在を気付かれず、そこに居ないかの様に振舞われたら……それはとっても辛い事だと思うのだ。

 ルキナは、自分なら、「誰か私に気付いて!」と声を張り上げるだろうし、その声が届かないならあの手この手で自分の存在を主張しようとするだろう。

 だけれども、彼はそう言う事はしようとすら思っていない様だった。やろうと思えば、何かモノを動かしたりして「そこに『何か』が居る」事は主張出来るのに。

 彼はそう言う事に自分の力を使おうとはしない。

 自分の姿が見えない人々に気付かれない様に、ほんの少し手助けをしているだけだった。

 あの日ルキナが彼に気付いて居なければ、彼はずっと独りで、生きている人たちの事を静かに見守っていたのだろうか。

 誰にも気付かれずに、誰にも気付かせずに、ずっと。

 それは、本当に寂しくない事なのだろうか。

 ルキナには考えても中々分からなかった。

『幽霊さん』とルキナの考え方や感じ方は違うのかもしれなくても、もし少しでも寂しいと感じているなら、お友だちであるからこそ、それを見過ごす事は出来ないのだ。

 でも、現実的にはルキナの他には、本当に誰も『幽霊さん』の事が見えないしその声は聞こえない。

 何度ルキナが『幽霊さん』がそこに居るのだと主張しても信じて貰えなかったし、今では『幽霊さん』はルキナの子供に特有な『想像上のお友だち』と言う事になっていた。

 そこに、彼は確かに居るのに。

 

 ルキナにはこんなにもハッキリと彼の事が見えるし聞こえるのに、どうして他の誰もがそう出来ないのだろう。

 どうして、ルキナだけしか彼を見付けられないのだろう。

 それが不思議でしょうがなかったし、それは彼自身にとってもそうだった様なので、その原因は分からなかった。

 

 そんな風に不思議な事は沢山あったけれど、ルキナが『幽霊さん』と楽しい日々を過ごす様になって、一月が過ぎ二月が過ぎ……そしてあっという間に半年近くが過ぎて行った。

 そして、ルキナの誕生日が近付こうとしていたその時に。

 別れが、突然に訪れたのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 それは、そろそろルキナの誕生日が近付いてきた夜の事。

 ルキナは何時もの様に『幽霊さん』と話をしていた。

 そして、そろそろ眠る時間だからと、ルキナが部屋に帰ろうとしたその時。

 横に居た『幽霊さん』の姿が、ルキナの視界から消えた。

 

 

「ゆうれいさん? どこですか?」

 

 

 ルキナは一瞬、『幽霊さん』が少し悪戯して何処かに隠れてしまったのだろうかと思った。

 だけれども、どれ程呼んでも探しても『幽霊さん』の姿は見付けられなくて。

 ルキナが思わず涙ぐんでしまうと、急に再び『幽霊さん』が姿を現した。だがその様子は何だかおかしい。

 

 

「ゆうれいさん! どこにいっていたのですか! 

 さがしていたのですよ!」

 

『いや、僕は……ずっと君の傍に居たよ。

 何度も声を掛けていたし、君のすぐ横に居た……。

 君が、僕の姿が見えなくなっていたんだ……』

 

 

 他の人達と、同じ様に。と。

『幽霊さん』はそう言って、寂しそうに微笑んだ。

 

 

『……もしかしたら、君がこうして僕の姿が見える様になっていたのは、本当に一時の偶然で……。

 ……君にとって、本来在るべき状態に、戻ろうとしているのかもしれないね』

 

 

 仕方ないね、とでも言いた気な彼に、ルキナは思わず食って掛かった。

 

 

「それじゃあ、またゆうれいさんが一人ぼっちになってしまうじゃないですか! 

 それなのにどうしてそんな風にわらっているんですか!」

 

 

 ルキナが『幽霊さん』を見付けられなくなると言う事は、また『幽霊さん』が独りぼっちになってしまうと言う事だ。

 話しかけても、目の前に居ても。

 ルキナは彼に気付けないし、だからこそ彼を「存在しないモノ」として扱うのだろう。

 そこに居ると言う前提で話してみても、彼の言葉が聴こえない以上はそれはただのルキナの独り言にしかならない。

 それは、……それはとても哀しい事だと思うのだ。

 とても辛くて苦しい事だと思うのだ。

 こうして友達になった筈のルキナから、そんな風に扱われる事は、他の人達に気付いて貰えない事以上に、彼にとっては苦しい事では無いかと、ルキナには思うのだ。

 それに、もしかしたら目の前に『幽霊さん』が居て、声も届かず姿も見付けて貰えない事に寂しそうな表情をしているのではないかと思うと、ルキナの胸は騒めき続けるだろう。

 その姿が見えないからこそ、その声が届かないからこそ。

 ルキナの想像の中での彼は、寂しそうな顔を浮かべ続ける。

 それは、とても辛い事だ。

 彼にとっても、そして何よりルキナにとっても。

 だからこそそれを、仕方無い事だと、そう諦める様に笑う事なんてルキナには出来ないのだ。

 

 だけれども、ルキナのそんな言葉に『幽霊さん』は少しだけ嬉しそうな顔で微笑んで、優しく諭す様に言う。

 

 

『……有難う、そう言ってくれて、嬉しいよ。

 ……でもね、……僕は、これで良いと思っているんだ。

 ……他の誰とも共有出来ないモノを見る事は、君にとってそう良い事では無い。

 僕はもうどうあっても「生きているモノ」にはなれない。

 ただそこに存在するだけの、ただの幻影の様なモノだ。

 ……そんなモノに関わり過ぎる事も、そしてそれに心を預け過ぎる事も、……君の「未来」に良い事では無いさ』

 

 

 他の人達と同じ様に、『幽霊』など見えない世界で生きられるなら、それが一番なのだと、『幽霊さん』は言う。

 ルキナには、彼の言っている意味もその意図も、全く分からなかった。彼がルキナの事を想って言っているのは分かったけれど、どうしてそんな事を言うのかは理解出来ない。

 それは幼さ故とも言えるし、……或いはそこまで自分の心を殺してでも誰かの事を考える経験はまだ無いからであった。

 

 彼を見付けられなくなるなんて納得出来る訳ないと、そうルキナは思っていたのだけれども、現実は非常なモノで。

 それからも、『幽霊さん』の姿を見失う事は増え、その頻度が増していく中でとうとう『幽霊さん』の姿が見えている時間の方がずっと少なくなっていって。

 傍に居る筈なのに、その姿は見えないし、声も聞こえない。

 それなのに、彼はそれを仕方ないと微笑むのだ。

 それが、ルキナにはとても悲しかった。

 

 

 そして、ルキナの誕生日がやって来たのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルキナの誕生日のその日。

 両親だけでなく城中の皆が、ルキナの誕生日を盛大にお祝いしてくれていた。

 ルキナお姉さまは少し体調が良くないのか来れなかったけれど、その分のお祝いの贈り物をルフレさんが持ってきてくれて、ルキナはとても幸せな気持ちだった。

 何時もは忙しい両親も、この日ばかりは公務を手早く切り上げてルキナの為にずっと一緒に過ごしてくれて。

 寂しさなんて、ちっとも感じられない位の、そんな素敵な時間を過ごしていた。

 そして、もう眠る時間だからと、自分の部屋に帰った時。

 今日一日、一度も『幽霊さん』の姿を見かけていなかった事に気付いたルキナは、大慌てで彼の事を探した。

 

 もし、もうルキナが彼を見る力を喪ってしまったのなら、もう二度と逢えないのだろうか、お別れすら言えないままもう二度と彼の事を見付けられないのか、と。

 

 そう哀しく思い、直前までの皆に祝って貰えてとても幸せだった気持ちも萎んでしまい、泣き出しそうになったその時。

 ふわりと、ルキナの目の前に小さな花束が差し出された。

 驚いてルキナが見上げると、そこには『幽霊さん』が微笑む様な優しい顔で、小さな花束を差し出してきていた。

 

 

 

『お誕生日おめでとう、ルキナ』

 

 

 

 そう言って微笑む『幽霊さん』は何時も通りなのに。

 その姿は、ルキナの眼には何処か透ける様に不明瞭に見えてしまっていた。

 ……恐らくは、これがこうして彼の姿を目に映せる最後の時間なのだろうと、ルキナは誰に言われずともそう悟った。

 

 ルキナは、彼から花束を受け取って、それを抱き締める。

 これが、ルキナにとってはお別れになってしまう事が哀しくて、素敵な花束は何も心の慰めにならなかった。

 

 そんなルキナに、『幽霊さん』は少し苦笑して、優しくその指先でルキナの涙を拭った。

 ひんやりとした温もりの無いそれは生きている存在のモノでは無いけれども、確かにそれはルキナに触れた。

 それに驚いたルキナが彼を見上げると。

 彼は安心した様に微笑む。

 そして、優しくそっと包む様にルキナを抱き締めた。

 彼の腕は、手は、ルキナの身体をすり抜けず其処に在る。

 

 

『前に言っただろう? 物凄く頑張れば触れられるって。

 あまり長い間は触れていられないけどね』

 

 

 ルキナがあんまりにも驚くものだから、彼は少し楽しそうにそう説明した。

 生者のそれとは異なる……だけれども、確かに其処に感じるその感覚をどう言い表せば良いのかルキナには分からない。

 そして……その指先に、ルキナは確かに覚えが在った。

 それは……あの風邪を引いたあの日の……。

 

 

「あの……もしかしてゆうれいさんは、前にもこうしてルキナにふれてくれたことがありませんか?」

 

『前……? それは、ああ……そうか、あの君が風邪を引いていた日に……。

 そうだね、前にもこうして君に触れた事があるよ。

 熱が出ていて、とても苦しそうだったからね……。

 少しでも、熱を下げてあげようとそう思って。

 ああ……もしかして。あの時の影響で、君に僕の姿が見える様になったのかもしれないね……』

 

「とてもさみしくてこわかったあのとき、ゆうれいさんのゆびがまるでルキナをはげましてくれているようで……。

 とてもうれしかったんです。ありがとうございます」

 

 

 やっとお礼を言えた事を嬉しく思っていると、『幽霊さん』は少し泣きそうな顔をした。

 でもそれは、哀しい時の涙ではなくて、嬉しい時の涙の顔なのだろうと、ルキナには分かる。

 

 

『そうか……少しでも、そうやって君の助けになれたなら。

 僕にとってはそれ以上に嬉しい事は無いよ……。

 有難う、ルキナ……』

 

 

 お礼を言っているのはルキナの方なのに、何故か『幽霊さん』はそうルキナに感謝する。

 

 

『……僕はね、本当に本当に……沢山の酷い事をしてしまったんだ。……僕の望みじゃなかったとしても。

 僕を信じてくれた人たちを、誰も助けられなかった。

 僕はとても無力で、……無価値で……。

 こうして解放されても、「幽霊」である僕に出来る事なんて殆どなくて、精々があの子達を見守る程度だった……。

 それでも良いと思っていたし、こんな僕なんかが誰かの助けになれるだなんて傲慢な事は欠片も考えられなかった。

 ……でも、少しでも。

 僕は君に何かをあげられていたと……そう思っていても、良いのだろうか……。僕は、ほんの少しでも。

 ……君に、「幸せ」をあげられていたのかな?』

 

 

 そんな事を言ってくる『幽霊さん』に、ルキナは少しムッとなって、胸を張って答える。

 

 

「そんなの、あたり前じゃないですか! 

 ルキナは、ゆうれいさんとすごすじかんが、とてもとてもたのしかったんです! 

 ゆうれいさんがずっといっしょにいてくれたから、ルキナはぜんぜんさみしくなかったんです! 

 ゆうれいさんは、ルキナにいっぱい「しあわせ」をくれていました! それが分かってないゆうれいさんは、ちょっとおばかさんだとルキナはおもいます!」

 

 

 楽しくない筈など無かった、幸せで無かった筈など無い。

 幽霊さんは、そんな事も分からないのだろうか。

 

 すると、『幽霊さん』は嬉しそうに、救われた様に。

 ルキナには触れない涙を零した。

 

 

『そうか…………そうか……。

 有難う、ルキナ。本当に……。

 …………ねえルキナ、一つ、「約束」をしないかい?』

 

 

 そう言って『幽霊さん』はその右手の小指を伸ばす。

「約束」? とルキナが首を傾げていると。

 

 

『……これから、ルフレさんとルキナお姉さまのところに子供が生まれるんだけれど……出来れば、ルキナにはその子と仲良くしてあげて欲しい。

 そして、僕からはそんなルキナに、こうして花束を贈り続ける事を「約束」するよ……。

 姿が見えなくても、声が聴こえなくても。

 そこに、僕はきっと居るから。その証に。

 ……「約束」しても、良いかな……?』

 

「とうぜんです! ルキナお姉さまとルフレさんの赤ちゃんはルキナにとってきっと妹や弟のようなものですから! 

 だから、花たばの「やくそく」、わすれないでくださいね」

 

 

 ルキナは、彼の指先に自身の指先を絡めた。

 前は出来なかった指切りは、確かに結ばれて。

 それに、『幽霊さん』は心から嬉しそうに微笑んで。

 

 そして、ルキナの見ている世界から、まるで空気の中に溶けていくかの様に、彼の姿は消えていく。

 もう彼の姿は見えない、そして声も聞こえない。

 

 だけれども、ルキナの指先には、確かに彼との「約束」が残されているのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 あの日以来、ルキナは『幽霊さん』の姿が見えなくなった。

 声を掛けても全く何の返事も聞こえないし。

 呼び掛けても、そこに居るのかすら分からなくて。

 だけれども、今でも月の初めや何かお祝い事がある時には。

 ルキナの部屋の窓辺の小さな花瓶には、何時の間にか差出人不明の小さな花束が欠かさず活けられているのだ。

 それを、ルキナは何時も幸せな眼差しで見詰めている。

 

 ルキナの誕生日から少しして、ルフレさんとルキナお姉さまとの間に小さな女の子が生まれた。

『マーク』と名付けられたその子を、ルキナは妹の様に可愛がって、色々とお世話をしていた。

 今はまだ言葉も覚束無い程に幼いマークだけれど、そう遠くない内に沢山お話出来る様になる。

 その時には、ルキナのとっておきの。

『不思議なお友だち』の話を、してあげようと思うのだ。

 

 その日を心待ちにしながら、ルキナは窓辺の花束に微笑みかけるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『その面影に探して』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 身に付いた『経験』と言うモノは、そうそう簡単に消える物ではないらしい。

 特に、幼い頃から身に沁みついた『経験』と言うモノは、どれ程意識していてもふとした瞬間に出てしまうモノであると言う。

 立ち居振る舞いや僅かな言葉の訛りに留まらず、武器を振るう時の動きや食事中の所作に至るまで。

『意識』の制御からすら時に離れてでも表れてしまうそれらは、その者の『生い立ち』がそこに出てしまっているとも言えるのかもしれない。

 

『自分自身』の「記憶」が、その「名前」以外の一切を喪ってしまった僕にすら、その身に沁みついていた『経験』と言うモノは消えていなかったらしい。

 一口に「記憶喪失」と言っても、『経験』に関する「記憶」も全て消えてしまった訳では無い様である。

 まあ……そう言う「記憶」まで完全に消えてしまっていたならば、生まれたての赤子同然の真っ新な白痴の状態になってしまう訳なので、そうでは無かったのは間違いなく「不幸中の幸い」なのだろうけれど。

 

 博識なミリエルの蔵書によると、『記憶』には、大きく分けて三つあると言う。

 一つは、『自分』の経験やそこで感じたモノを元に刻まれる「記憶」……。

 自分がどうやって生きてきて、どんなことを体験してきて、どう言う人間であったのか……、と言う部分を司る「記憶」であるらしい。

 二つ目は、今自分が何をしていたのか、何をしようとしているのか、と言う極めて短期的な「記憶」。

 そして三つ目は、得た『経験』などに関する「記憶」。

 それは、言語や文字などに関した知識や、その意味の知識などに留まらず、所謂「身に沁みついている」と言うやつもこれに該当するのだとか。

 この「記憶」は、一部欠ける事は時折有るらしいが、その全てが一切合切喪われる事はそう無いらしい。

 

 まあそんな訳で、「記憶」の何もかもが喪われたと言う訳では無いらしく、ならばその残った部分……。

 自分の無意識の立ち居振る舞いなどの中に、喪われた『自分』のその半生を辿る何かしらの手掛かりがあるのではないかと思ったのだけれども……。

 残念ながら、それもそう上手くはいかなかった。

 

 自警団の仲間達には、様々な階級の出自の者が居るし、更にはイーリス国内だけではなくフェリアやぺレジアなどからやって来た者も居て、そんな彼等の力を借りながら、僕は自らの喪われた「過去」を探そうとはしてみたのだけれど……結果は芳しくなかったのだ。

 

 育ってきた環境を反映しやすいと言う「言葉」に関しては、恐らくは生粋のイーリスの生まれでは無いのだろう……と言う事位しか分からなかった。

 ぺレジア的な僅かな発音の違いがある気がするらしいと言うのだが、逆にフェリア的なモノもあるにはあるらしく、記憶を喪う前の僕は各地を転々とする様な生活をしていたのかもしれない。

 育ってきた階級的な言葉の特徴を探してみても、貴族階級や騎士階級で育った訳では無さそうではあるが……一般的な平民に多い訛りも無いらしい。

 強いて言えば、裕福な商人階級のモノか……高位の宗教家などの、「教養」がしっかりと身に付いている者が、身の回りに居た可能性があるらしい。

 父母か……或いは育ての親などが、そんな人物であったのだろうか……? 

 しかし残念ながら、それ以上の事は分からなかった。

 

 武術に関しても、イーリスで一般的に知られている流派の流れは殆ど見受けられず、また武術が盛んなフェリアにある流派ともやはり違うらしく。

 完全に我流であるのか、それとも流派としては規模が小さいモノなのか、或いは様々な流派を取り込み過ぎて原型が無くなったのかは分からないらしい。

 立ち居振る舞いに関しても、それなりに確りとした「教養」ある者に躾けられた痕跡しか分からなかった。

 

 そんな風に、殆ど分からない……と言う事位しか言えないものばかりであったのだけれども。

 唯一、食事時の所作だけは、僅かながらも特徴と言えるものが見受けられるらしい。

 

 食事時の所作……所謂「テーブルマナー」などに留まらず、肉の切り方や料理を食べる時の順番に至るまでのそれらは、大人になってからの矯正は難しいが故に、ある意味「言葉」以上に克明にその育ちを映し出すのだと言う。

 だからこそ、イーリスでは、時に身なり以上にその食事の所作と言うモノは大切にされているものであるらしく。

 イーリスに伝わる古事の中にも、その大切さを伝えるモノは多く残されている。

 身なりは取り繕う事は出来るが、そう言った所作は決してその身分や育ちを偽れないのだと言う。

 

 そう言われれば確かに、と思い当たる事は多い。

 

 例えば。

 訓練中に物を壊す常習犯であり少し力加減が下手と言うかやや不器用な気はあるが、クロムのその食事の所作はそれはもう綺麗なモノである。

 仲間達と共に語り合いながら賑やかに食べているその時ですら、その所作には洗練された美しさが宿っていて。

 ……確かに、その身分が高貴なモノである事を、言葉以上に雄弁に主張しているモノであった。

 同じ王族であるリズは勿論の事、大貴族の娘であるマリアベルや、古い貴族の家系であるリヒト、代々騎士の家系であると言うフレデリクやソワレの所作は、他の者達とは確かに違っていた。

 それが無理をして作った感じが無い……極自然体のモノであるからこそ、それがまさに「骨身にまで染み付いた」ものである事が窺えるのだ。

 そして、クロム達に限らず、食事の時の所作……特に無意識的な部分のそれは、確かにその者の生きて来た環境をそこに垣間見る窓であった。

 

 ルフレのそれは、仲間達の指摘した所によると。

 基礎的な食事時のマナーは完璧である為、恐らくはルフレを育てた者はそれをしっかりとルフレに躾けられる程度の「教養」があった事。

 そして、何でも食べる程好き嫌いと言うモノは殆ど無いがより好物のモノは最後の方に食べようとする所などから、恐らく料理を取り合う様な兄弟は居なかったであろうと推測されていた。

 また、よく飢えに苦しめられていた者特有の……飢餓感に似た必死さは無い為、十分な食事量を摂れる環境下に居たのだろうとも言われたのだ。

 

 成る程、指摘されたそれらは、振り返ってみれば「確かに」と納得がいくものが多い。

 ……まあ、それが分かった所で、自分の「過去」に直接繋がる訳でもないのだが……。

 しかし、少なくとも自分の事を確りと育ててくれていた「誰か」が居たのだと言う確かな事実は、少しばかりそれに救われた様な気持ちになる。

 

 ……その「誰か」を思い出してあげられない一抹の寂しさは、今も感じてしまうのだけれども。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 数多の犠牲者を出したぺレジアとの戦争も漸く終結し、イーリスと言う国は、その新たな旗頭となったクロムの下で、復興への道を歩み始めていた。

 王都まで陥落してしまったイーリスに残された戦禍の爪痕は深く、その復興は一朝一夕に成るものではないが、それでも……戦争が終わった事を喜び復興を始める人々のその顔には、確かな「希望」が在った。

 そこには新たなる時代が到来しつつある事への「期待」があると共に、何よりも戦争が終わった事に対する「安堵」と言うモノが大きく影響していた。

 

 元々、先王エメリナの統治下で「平和」である事に慣れ過ぎて「戦事」を忌避していた人々にとって、唐突とも言えるタイミングで始まり、あれよあれよと言う間に国土が蹂躙されてしまった事は、心理的にも肉体的にもその他様々な面からも、負担が大きい事であったのだろう。

 戦争の最中に、虜囚として敵国に身柄を拘束されていた先王エメリナが非業の死を遂げると言う一幕もあって。

 イーリスの民からは慕われていた……少なくとも表層上は彼女が作り上げた「平和」を享受していた人々は。

 彼女の非業の死を心から悼み哀しみ、各所の神竜教の教会でその魂の死後の安寧を祈っていたと言う。

 

 戦争が終わった今は、その遺骸の捜索を行うと共に、改めて国中が先王エメリナの喪に服している状態であった。

 正式な国葬は先だって行われたのだが、ぺレジアの地でその身を自ら投げた彼女の遺骸は未だ回収出来ていない。

 彼女が身を投げた崖下やその付近を幾ら捜索しても、衣服の残骸一つ骨の欠片一つすら見付からないのだ。

 遺体が散逸するには幾ら何でも早過ぎるし、野の獣が荒らしたにしろそれならもう少し痕跡があるだろう。

 ……彼女のその死を憐れんだ心あるぺレジアの民が、その遺骸を何処かにひっそりと埋葬してくれたのかもしれないが、却ってその行方は掴めなくなってしまっていた。

 王都の一画にある歴代の王族たちが眠る墓地には、当然ながら彼女の遺骸は無く。愛用していた装身具などがその代わりとして棺に納められている。

 

 ……そこに彼女の骸が無いのであれば、その「魂」とでも言うべきそれは、一体何処で眠っているのであろう? 

 民達が弔いその魂の安寧を祈る為に訪れているその遺骸無き墓の下に眠っているのであろうか。

 それとも、その命に自ら幕を降ろしてしまったあの砂塵舞う荒涼とした地に眠るのだろうか。

 或いは、この世の何処かを彷徨い続けているのだろうか。

 

 そんな事をルフレはぼんやりと考えてしまうが、死者の「魂」を見る目は持たず、また死後の世界と言うモノを覗き見た事も無いが故に果たしてそれがどの様なモノであるのかなど知る術は無く、どれもただの想像でしかない。

 ……ただ。ルフレとしても彼女には、せめて死後の世界では安らかに苦痛なく在って欲しいと思うのだ。

 

 あの日、ルフレ達は彼女を助ける事が出来なかった。

 予期出来なかった屍兵の乱入が有ったとは言え、処刑場にまで辿り着いていたと言うのに……ルフレ達の手は、後僅かの所で届かなかったのだ。

 そしてその救出の作戦を立案したのは、ルフレだった。

 ルフレの失策が、結果として彼女の命を奪ったのだ。

 クロムは己の無力を嘆いたが……しかし、本当にその責を最も負わねばならないのは、ルフレであるのだろう。

 その後の……戦争終結に至るまでの、まさに「弔い合戦」とでも言うべき戦いを勝利に導きイーリス陣営の勝利に終わらせた事で、最低限の責任は果たせたかと思うが。

 ……しかしだからと言って、あの日の悔悟を……クロムの慟哭を、リズの悲嘆を、仲間達の絶望を。

 それらの全てを忘れる事など、出来はしなかった。

 だから……。

 

 

 日が暮れ始めた今の時刻に王都の外れにあるその一画を訪れる人は少なく、そこが歴代の王族たちが眠る墓地であるだけに、今この場に居る人影はルフレのものだけだ。

 聖王エメリナが人々に慕われていた事を示す様に、遺骸の無い棺の上に立つ墓標の前には一日も絶える事無く、主に王都の民達から慰霊の花が捧げられていた。

 クロムとリズは公務の合間などを縫って毎日欠かさずここを訪れている。……尤も、こんな物寂しい黄昏時ではなく、暖かな陽射しが射し込む昼中の事ではあるが。

 

 だがルフレは……敢えてこの時間に墓地を訪れる様にしていた。

 それは……彼女の死に対してある種の「気不味さ」と言うモノを今も感じているからかもしれない。

 陽が沈みゆき、強い西日によって何もかもの輪郭が曖昧に見えるこの黄昏時ならば。

 誰にその表情を見られたとしてもきっと良くは見えないだろうし……だからこそ自分も気にしなくて良い。

 

 別に、誰かにそれを咎められたと言う事は無かった。

 お前の所為だと詰られた事も無い。

 ただただ……ルフレ自身がその後悔から、「合わせる顔が無い」と言う状態に近い心境になっていたのだ。

「誰に」、なのかはルフレ自身にもよく分かっていない。

 エメリナ様になのか、クロムになのか……或いはもっと別の「何か」に、なのか。それは分からなかった。

 何にせよ、ルフレは毎日では無いが、それなりに頻回にこの墓地を訪れていたのだった。

 

 目の前の、最高の品質の大理石を加工し磨き上げられて作られた、新しいが故に一点の曇りも欠けも摩耗も無いその墓石の下に、その人の身体は無い。

 そこにその魂が眠っているのかすらも分からない。

 それでも、ルフレはそこに花を手向け、暫し瞑目する。

 

 ……あの日、彼女を救出する事が出来ていたのなら。

 屍兵が現れていなければ……或いはルフレがその出現をも見越したより最善の策を示せていれば、あの状況下にあっても逆転出来る様な切り札があったのなら……。

 一体、どうなっていたのだろうか。

 こうして骸の無い墓に眠る事は無かったのだろうか。

 今もクロム達と共に、この国を導いていたのだろうか。

 ……クロムは、『家族』を喪わずに済んだのだろうか。

 幾ら考えても、それは分からない。

 結局それは、もうどうする事も出来ない「たられば」の話にしかならないのだから。

 ルフレ達が、彼女の犠牲の上に生き延びて、そして勝利を掴み取った事だけが「事実」なのだから。

 

 ……それでも考えてしまうのは、それが。

「過去」の記憶の一切を喪っていたルフレにとって、「初めて」の……取り返しなど付かない「失敗」だからか。

 だからこそ。それが、そしてその結果が、何よりも重くその心にのしかかるのだろうか……。

 

 どんな原因があったにせよ、ルフレは。

 この国にとって大切な存在であり……何よりも。

 唯一無二の友にして恩人であるクロムのそのたった一人の姉……大切な『家族』だったその人を、守れなかった。

 

 エメリナ様を喪ったクロムは、哀しみに沈み絶望の泥濘に足を取られたけれど……そうやって足を止めていたのはほんの少しの間で、彼はルフレを始めとする仲間達にその背を支えられたとはいえ、自らの足で再び歩き出した。

 ……だけれども、哀しみが癒えたと言う訳では無い。

 何よりも大切だった……守りたかった『家族』を。

 特に、幼い時に両親を喪ったクロムは、言葉も覚束無かった程幼かったリズを抱えて、エメリナ様と共に身を寄せ合って生きてきたのだ。それを喪った悲しみは深い。

 親代わり……と言うのは少し違うだろうが、単に血の繋がった『姉』と言う以上の想いがそこに在ったのだろう。

 フレデリクなどの忠実な臣下の存在も在っただろうが、宮中の魑魅魍魎とした者どもの浅ましく愚かな面を見つつも、それでもクロムが真っ直ぐな青年に育ったのは。

 やはり、エメリナ様の存在が大きかったと思うのだ。

 クロムにとって、エメリナ様の存在は自分にとっての「指標」の様な……そんなものだったのだろう。

 

 だからこそ、クロムの中には。

 その心にも、彼自身が気付いて居ないだろう様々所にも、エメリナ様の存在の名残が、今も沢山遺されている。

 ルフレがエメリナ様と顔を合わせた事は、ほんの数回しか無いのだけれども。

 きっと恐らく……無意識の所作の中にも、その影響は在ったと思うのだ。

 無論、男女の差はあるので何から何まで……なんて事は当然無いだろうけれど。

 リズとクロムを見ていても、『家族』としての繋がりを感じる……無意識での共通する所作があるのだから。

 それはきっと、エメリナ様ともあったのだろう。

 

 志半ばにして無念の死を迎えたエメリナ様の意志を、彼女が理想として描いていたそれを少しでも実現させるべく、クロムはその為の道を模索しながら歩き出している。

 ……そしてそうやってエメリナ様の描いていた軌跡を追っていくからこそ、彼女を喪ったその哀しみは折に触れてクロムの心に打ち寄せる波の様に蘇るのだ。

 何時しかそれらの喪失の哀しみも、何か別の感情へと昇華していくのかもしれないけれども……。

 少なくとも今はまだ。クロムは深い哀しみの中に居る。

 そしてそれが分かってしまうからこそ、それはルフレの心を苛む様に、重くのしかかるのだ。

 

「自分の所為だ」と、そう責める自分が居る。

「お前の所為だ」と、そう詰る自分の姿の幻影が居る。

 それは、大切な友の深い哀しみを、どうやっても晴らし切る事など出来ぬ自身の無力への絶望なのだろうか。

 

 己を責め苛む事もまた一つの「逃避」であるのかもしれないが……しかしその幻影に「違う」と叫ぶ事もやはりまた別の「逃避」にしかならない気がするのだ。

 だから、ルフレはどうすれば良いのか分からないまま、それでもどうしてだかこの墓の前に来てしまうのだ。

 しかし何時までもこうして墓の前に居る訳にもいかず。

 その魂の安寧の祈りと共に……言葉になど決して出来ぬ懺悔を終えたルフレは、そろそろ帰ろうかと立ち上がる。

 そして、その時ふと。

 少し離れた墓所の入り口近くの樹の陰に、誰かが隠れる様に佇んでいるのに気付いた。

 

 強い西日の所為で、その顔ははっきりとは分からない。

 でも、その長い髪やその格好は、見覚えがある。

 誰だっただろうかと記憶を探るまでも無く、ルフレの記憶はその人を導き出した。

 

 

「そんな所に佇んで、どうしたんだい。マルス……」

 

 

 そう声を掛けると、ルフレに気付かれているとは思っていなかったのか、その肩を驚きと共に微かに跳ねさせる。

 

 マルス。今も伝承としてこの世界に残されている、遥か古の偉大なる英雄王。……その名を名乗る存在。女性だ。

 彼女と邂逅したのはほんの三回だが、しかしマルスは二度もルフレ達を助けてくれた。

 初めて出逢ったその時には屍兵の襲撃からリズたちを守ってくれたし……、そして三度目の邂逅では、暗殺者の魔の手が迫っていたエメリナ様を助けてくれた。

 名前と性別以外が一切不詳で、最初に出逢った時には仮面でその顔を隠し性別も偽っていた事を考えると「マルス」の名前も本来のモノではないのかも知れない……そんな正体不明な彼女であるが。クロムは……そしてルフレは、彼女に深い感謝の気持ちを懐いていた。

 彼女が居なければ、あの日リズ達の命は無かったかもしれないし、そしてエメリナ様は暗殺されていただろう。

『「未来」を知る者』と、彼女は自身をそう称していた。

 それが一体どう言う事なのか、そして「未来」とやらを知る彼女は一体何者なのかと、そんな疑問は尽きないが。

 しかしそこにどの様な事情や思惑が隠されているのだとしても、助けられた事実だけは絶対に変わらない。

 だから、クロムもルフレも彼女にお礼がしたくて、その行方を捜してはみたのだけれど……彼女の痕跡は全く何処にも見付からなかったのだ。

 だから、エメリナ様の暗殺を阻止しに来てくれた時に逢ったきりになっていたのだが……。

 

 そんな彼女は、戸惑う様にこちらを見ている様だった。

 よく見れば、その手には小さな花束がある。

 ああ、彼女もなのか、と。

 そうぼんやりと理解したルフレは彼女を手招いた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

『絶望の未来』を変える為に、時を遡って。

 だけれども、果たして自分は「未来」を変える事が出来ているのだろうかと……そう不安で仕方が無くなる。

 

「自分自身」の存在の可否すらも賭けてでも『絶望の未来』は変えねばならぬと……そこに至る事の無い様に「過去」は変えねばならないと……そう覚悟していたのに。

 だからこそ、『絶望の未来』へと至った大きな原因の一つ……「歴史の分岐点」だと考えた『聖王エメリナの暗殺』を阻止しようとしたのだが……。

 結果として『暗殺』は阻止する事に成功したが、聖王エメリナを生き延びさせる事は……出来なかった。

 その死期を、ほんの数ヶ月遅らせただけだった。

 異国の処刑場で自ら死を選ぶか、或いは何も出来ぬまま『暗殺』されたかの違いはあるが……。

 それを「救えた」などと決して言えはしないであろう。

 

 あの処刑場を遠く離れた場所でその事の成り行きを見守っていたルキナは、「未来」を変える事など、どうやっても誰にも出来はしないのではないかと絶望していた。

 何かを変えようとしても、それを赦さぬとばかりに揺り戻し、「歴史」の帳尻を合わせようとするのでは、と。

 そう思ってしまう、そう考えてしまう。

 それはルキナにとっては『絶望』そのものであった。

 

 もしそうであるとしたら、一体自分は何の為に、自分が在るべき世界を見捨てる様に時を遡ったと言うのか。

 自分が本当に果たさなければならなかった『使命』を半ば投げ捨てて。

 恐らくもう一握にも満たぬ程にしか残ってはいなかったであろうが、それでもあの地獄の中で生きようと足掻いている人は僅かにでも居たであろうに。

 そんな人々を見捨てて、父と母たちが命を賭して守ろうとしていた世界を見殺しにして。

 そんな大罪に手を染めて、足掻いた結果示されたのが、『過去を変える事は出来ない』と言う残酷な現実なのか。

 

 いや、変わらないだけなら、まだ良い方だ。

 ルキナが過去に干渉した結果、聖王エメリナは『暗殺』ではなく『自害』と言う形でその生涯を終えた。

 彼女がぺレジア軍の手に囚われてから、あのぺレジアの処刑台に見せ物の様に引き摺り出されてゆくまでの間に、何れ程苛烈な扱いを受けていたのか……。

 それは遠目にであったが故にその痕跡をこの目で確かめる事は出来なかったが、だが……ぺレジアと言う国のイーリスに対する積年の恨みのその深さを思えば、彼女が「無事」であったとは到底思えない。

 何も出来ぬまま……だが酷い地獄を見る事も無く『暗殺』される事と。

 王都が陥落し民や自らを守護する騎士たちの無惨な最期を見せ付けられ……そして苛烈な辱めを受け……そしてその最期は異国の地でその民達から壮絶な憎悪と罵声を浴びせられて……そして『家族』を守る為にその命を自ら擲つ事と。

 その何方かがより「マシ」な最期であったかと言えば、それはきっと……──

 

『聖王エメリナの暗殺』と言う「過去」を変えてしまったからこそ、時の流れはその帳尻を合わせる為に、彼女にあの様な酷な『死』を用意したのだろうか。

 時の揺り戻しが、より悲惨な結末へと……その「歴史」の歪みを正してしまったのだろうか……? 

 だとすれば、ルキナが彼女の『暗殺』を防いだ「意味」とは、一体何だったのだろう。

 

 その『最期』は、確かに変わった。

 そしてそれに付随するかの様に変わった「過去」もある。

 だが、それが「良い」変化であるかなど分からない。

 聖王エメリナがより悲惨な結末を辿る事になった様に。

 一見「良い方向」に変わった様に見える「過去」が、本当にそうであるのか……より凄惨な「未来」へとその帳尻を合わせる為の変化にしかならないのではないかと。

 そう考えると、その恐ろしさに身動きも取れなくなりそうな程に、「恐怖」を覚えるのだ。

 

 ルキナは「未来」から来た……「未来」を知る者だ。

 だが、ルキナは「事実」として起こった出来事を知っているに過ぎない。

 そしてそれはルキナが「過去」に干渉する事によって容易に揺らぎ、また別の何かを引き起こす。

 それなのに、ルキナは変化したが故に起こる事は見通せない。

 ルキナは占者ではなく、また未来を見通す「予知」の力を持つ訳でも、並外れた先見性を持つ訳でも無いのだ。

 だからこそ、自らの干渉が引き起こした「揺らぎ」が齎すかもしれない「災禍」が恐ろしい。

 

「世界」を救う為にと……それを企図した行いの結果が、より最悪な「未来」へと繋がってしまったら、と。

 例えば、父が……より悲惨な死に方をする事になったり、或いは自分が知るあの『絶望の未来』よりももっと凄惨な地獄を招く要因になってしまったら、と。

 それを考えれば考える程に、足が竦む、心が竦む。

 

 だからこそ……ルキナは干渉する事を恐れた。

 自分が意図していなかった些細な「何か」が及ぼした変化が、より最悪な未来を招いてしまうのではないかと。

 本来はここに在るべきではないルキナが、存在する事、そして関わる事。ほんの些細な……生きている限りはそれを防ぐ事など出来ない小さな「変化」すら恐ろしくて。

 だが、そうであると同時に。目を閉じる度に心を苛むあの『絶望の未来』が、「過去」を変えなくてはならない……「未来」を変えなくてはならないのだと急き立てる。

 

 そう、「未来」は変えなければならない……あんな『絶望の未来』にしてはいけない……その為に、ルキナは今此処に居る、自分の「未来」を見捨てて……此処に居るのだ。

 あんな何の希望も無い「死」以外の救いの無い生き地獄だけが人の世の至るべき果てなんかではないのだと。

 何時か人の世に終わりが来る事は避けられないのだとしても、あんな終わりであって良い筈は無いのだと。

 そう足掻く為に、こんな所にまで来てしまった。

 

 だけれども……そもそもルキナは「過去」についてそう詳しい訳でも無かった。無論、王族として「歴史」についての教養は最低限はある。だが……。

 ルキナが変えねばならぬ「過去」。それはルキナがそれを学んでいた時点では「歴史」と呼ぶにはまだ早い出来事であり、そうであるが故にルキナが学んだ「歴史」などそう役立つものではない。

 過去が地続きである以上、「歴史」を学んだ事自体が全て無駄であると言う訳でも無いが。

 

 幼いルキナが幼い視点で見て来た「過去」。

 父から時折話聞かせて貰った「過去」。

『絶望の未来』へと世界が転げ落ちていく中で大人たちの話から知った「過去」。

 ……ルキナの知るそれは、酷く客観性に乏しく。

「出来事」と言うよりは「物語」と言う方が正しい程度には、主観や恣意的な解釈が差し挟まったモノだ。

 ある一つのモノも別の側面から見れば全く違う様に見えてくる様に。

「出来事」と言うモノはその「真実」を明らかにする為には多面的に見なくてはならない。

 少なくとも、一側面の……それも狭い視野の中で見えたそれだけで判断していては、「因果」の糸を正しく見つけ出す事は出来ないモノであるのだ。

 

 そう、例えば。

 ルキナは、ぺレジアと言う国が……そこの民がイーリスに深い怨恨を懐いていた事は「知識」として知っていた。

 しかし、その実際が何れ程のモノであったのかなど、全く以て知らなかったし、想像もしていなかった。

 イーリスの王女であるルキナの周りに居た、サーリャやヘンリーと言ったぺレジアの人達はイーリスに対してそんな恨みを懐いている様に全く見えなかったし、実際そうだからこそ父に協力してイーリスの側に付いて共に戦ってくれていたのだけれども。

 しかしルキナは、そんな自分の知る小さな世界でしか考えていなかった。

 

 だからこそ……あの砂漠の処刑場で感じた、全てを呑み込み渦巻いて押し流さんとばかりの……まるで地獄の釜を直接覗いているかの様な、決して絶える事など無い「怨嗟」や「憎悪」など知らなかった。

 何の武器も持たぬ民間人ですら、女も男も老いも若きも関係無く「殺気」に満ちた視線を、処刑台の上の無力な女性に向けていたのだ。

 それはまさに、その場に居るだけで「何か」に呑み込まれそうな、そんな恐ろしい程の強く深い感情の嵐だった。

 

 それ程の憎悪が、イーリスに向けられていたなどと……ルキナは露程も知らなかった。

 ……誰も教えなかったから。

 

 優しい周りの大人たちは、ルキナにそんな事を何一つ教えなかった。

 ルキナが子供だから、「過去」の事だから。

 ……しかし、知っておくべきだったのだ、ルキナは知らなくてはならない事だったのだ。

「過去」を変えようなどと、そう思いそれを実行してしまうのなら、尚更に。

 

 だがそうではなかった、ルキナは「無知」であった。

「無知」である事自体は罪では無いのだろう。

 だが、「無知」のままに何かを成そうとして……そしてそれが最悪な結果に繋がった時。「無知」は、何よりも重い罪である。

 それを罪だと認められる程度には、ルキナは自分を省みる心も、そしてそれを咎める良心も持ち合わせている。

 

「過去」とは単純な「事象」の羅列ではない。

 そこにはそこで生きる人が居て、各々に何かを思い行動している。

 人が歴史を作る以上、どんな結果にもそこには人々の心や感情と言ったモノも関わるのだ。

 ぺレジアの人々の怨恨が戦争を引き起こした様に。

 国と言う大きな群体が動く以上、そこにあるのは感情ばかりでは無くある種の損得や合理性もあるだろうが。

 しかし、民の憎悪が、イーリスへの報復を願うその想いが、戦争に強く結び付いているのは間違いないだろう。

 そして、そう言った強い「感情」や複雑な因果の糸が絡まり合っているのなら、一つの「事象」に単純に干渉した程度でその最終的な結果が変わる事は無いのだ。

 

 もし、本当に『聖王エメリナの死』を回避しようとするのならば、一度の『暗殺』を防いだ程度で干渉を止めるべきでは無かったのだし、どうにかして彼女を守るなり或いは囚われた彼女を救い出すなりするべきだった。

 だが、ルキナはそれをしなかった。

「過去」に干渉し過ぎてはいけないのだと、「過去」への影響は最低限に留めなくてはならないのだと。

 そんな今更な……偽善にすらならない様な建前で。

 一番変えなくてはならない『父の死』と『邪竜ギムレーの復活』を阻止する事に注力するべきなのだと……。

 

 結局の所、ルキナは無意識にでも恐れていたのだろう。

 自分が「過去」を変えた事によって、『父の死』や『邪竜ギムレーの復活』が回避不可能なモノになる事を……。

 

 そもそも、『父の死』も『邪竜ギムレー』の復活も、「結果」としてのそれのみしか殆ど知らず、一体そこに何が在ってその結果に至ったのか、全く分かっていないのだ。

 だからこそ、恐れたのだ。

 ルキナが知る「過去」から大きくズレ過ぎた結果、ルキナが対処出来る様な事象では無くなってしまう事を。

 それ故に……『聖王エメリナの死』が「歴史の分岐点」だとそう考えながらも、『暗殺の阻止』と言う中途半端な干渉で留めてしまったのだ。

 

 それは彼女を「見殺し」にした事と何が違うのだろう。

「見殺し」処か、より酷な地獄へと突き落としただけ。

 ならルキナの行動に何の意味があった? 

 分からない。何れ程考えてもその答えは出なかった。

 

 それでも、ルキナは人目を忍んで彼女の墓前に赴いた。

 彼女に謝りたいのか……それすらも分からない。

 そもそも、ルキナは彼女の事をあまり知らない。

 産まれる前に既に故人であった彼女の事は、王城に飾られた絵画と父やリズ叔母様の話伝にしか知らない。

 父達は、優しく聡明な人であったと、彼女をそう語り。

 そして彼女の身を襲った悲劇を、哀しみと共に語った。

 血の繋がった伯母ではあるが、実感と言うモノは薄い。

 そしてだからこそ、彼女を心から思い偲び悼んでいるのかと言われれば……恐らくはそうではないのだろう。

 思い偲べる様な思い出は無いのだから。……ただ。

 自分の干渉が原因であの様な最期を迎えさせてしまった事に対しては……悔悟ともつかない感情を懐いている。

 ……ただそれは、エメリナ伯母様に対しての感情なのか、それとも……父やリズ叔母様の心により深い絶望と後悔を懐かせてしまった事への感情なのか……分からない。

 それでも、やはりその墓前に赴くべきだと思ったのだ。

 

 人目を忍ぶ為に、人の気配も絶える黄昏時を狙って、決して父などに出逢わない様に注意しながら、ルキナは彼女が眠る墓所を訪れた。

 ……かつての「未来」では、そこに父やリズ叔母様も眠っていたのだ。だから、王家の墓所はかつて知ったる場所でもあった。

 

 だが、誰も居ないと思っていた墓所には、先客が居た。

 

 黄昏時の中でも目に付くその特徴的なローブの後ろ姿は、イーリスの軍師であり……父の『半身』として共に幾度も難局を切り抜けてきた……そして切り抜けていく、未来では「神軍師」と讃えられていた、ルフレその人だ。

 こんな人気の無い時間に態々墓前を訪れる様な人だとは思っていなかったので、思いもよらずルキナは動揺し、咄嗟に墓所の入り口近くに在った樹の陰に隠れてしまう。

 このまま彼がここを去るのを待つか……と思っていたのだが。立ち上がりこちらに振り返った彼に気付かれた。

 そして、名指しで声を掛けられてしまっては立ち去るのも不自然であって、仕方なくルキナは彼の前に姿を現す。

 黄昏時の全ての輪郭が曖昧になる光の中では、目の前に居ても彼の表情は今一つ判別し難い。

 

 

「マルスも、エメリナ様に……?」

 

 

 ルキナの手の中にある白百合の小さな花束を見た彼は、そう訊ねてきた。

 こんな場所に来てそれを偽る意味も無いので素直にそれに頷き、その墓前に花を手向ける。

 用事は済ませたと、踵を返して去ろうとしたその時。

 

 ルフレが、何故かルキナを呼び止めた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 ……どうしてこんな事になっているのだろう。

 何度目かも分からない、自問自答をルキナは繰り返す。

 

 目の前のテーブルには、大衆的な料理の皿が所狭しと並べられていて。賑やかな店内は程好く喧騒に溢れていてルキナ達の存在を気に留めている者は居なさそうだ。

 

 

「全部僕が奢るから、遠慮無く食べて大丈夫だよ」

 

 

 そう言いながら、目の前の彼……ルフレは、スープを掬っていた。

 それに促される様に、状況に未だ戸惑いながらもルキナは料理に手を付ける。

 

 肉や野菜の切れ端を煮込んで味付けしたスープだ。

 具材も味もその日その日によって変わる、よくある大衆的な料理であった。

 決して豪勢ではないが、中々これも美味しいものだ。

 少なくとも、「未来」で白湯と大差無い様なスープを啜る事にすら困窮していたルキナにとっては、十分以上に満足出来るものであるし……これに「質素」や「粗末」と付ける者も居る事が、この時代の豊かさを象徴している。

 だがルキナは、料理の事以上にこの状況に困惑していた。

 

 エメリナ伯母様の墓所の前で出会ったルフレは、その場を立ち去ろうとしていたルキナを呼び止めて。

 そして、「お礼」をしたいのだと、そう言ってきた。

 だが、この時代の人間に深く関わる事を避けていたルキナはそれをやんわりと断ろうとしたのだが……。その時。

 タイミング悪く、少し腹が鳴ってしまったのだ。

 思えば最近あまり確りとは食べられていなかった……。

 そして、それを耳聡く聞き逃さなかったルフレにあれよあれよと丸め込まれる様にして、王都の一画にある大衆的な食事処に連れて来られたのだ。

 

 その顔立から想像出来ない程、ルフレの押しは強かった。

 まあこうして来てしまった以上は、何も食べないと言うのも角が立つし、誰も得はしない。

 だからルキナは観念した様にルフレに勧められるがままに料理を口にする。

 

 ……思えば。命の危険など無い状況で、こうしてゆっくりと誰かと食事をするのは随分と久方振りであった。

『絶望の未来』と化したあの「未来」では、食事など何の楽しみも希望も無いただの栄養補給でありそれにすら事欠いていたし……そして過去に遡ってからも、基本的にずっと独りで行動していた為、こうした時間を過ごすのは実に久しい事で……もしかしたら初めてかもしれない。

 思えば、比較的平和だった幼き日々でも、基本的に一緒に食事をしていたのは父や母と言った家族だけであるし。

 貴族達の晩餐会などに招かれた時には、ゆっくりとなんてあまり食べる事は出来なかった……。

 そう考えると、一対一で誰かとゆっくり食事をするのはほぼ初めての事で。その相手が時を越えた先の……「過去」のルフレであると言うのも不思議な感じがする。

 

 あの「未来」での彼……今も記憶の奥底に朧気に残る『ルフレおじさん』は、幼いルキナにお菓子をくれたり、遊んでくれたり、勉強を教えてくれたりと、とても親切だったのだけれども……でも『ルフレおじさん』と一緒に食事をした事は無かった様な気がする。

 いや……もしかしたらあったのかもしれないが……。

 何せもう随分と昔の事で記憶は大分曖昧になっている。

 まあ少なくとも、父が死に世界が『絶望の未来』に堕ちてからは、誰かとこうして食事した事は無かった。

 まあ……悪い感じではない。寛ぐと言うのも難しいが。

 

 ルキナは、自分の皿に手を付けながら、ルフレの様子を観察する様に窺う。

 

 イーリスの軍師、父の『半身』……。

 ルキナがルフレに関して知る事は、実はそう多くない。

 優しくして貰った覚えはあるが、彼の過去は知らない。

 どう言った経緯で父と出逢ったのか、そして共に戦う様になったのか、彼がそれまでどうやって生きていたのか。

 例え彼自身や人伝に聞いていたのだとしても、何分それを全て覚えているには、あの日々のルキナは幼過ぎたのだ。

 

 だが……今のルキナにとってそれはとても重要な事だ。

 あの「未来」で、『父の死』に関わっていた可能性が最も高い人物であるからだ。

 ……まあ、ここに居る彼にとってその未来は遥か先の事であり、今の彼を問い質したり或いは監視して付け回しても意味はないかもしれないが。

 だが、彼自身の「過去」を知る事は、彼の行動やその思惑を推し量る事にも役立つであろう。だから……。

 

 

「あなたは……どう言った経緯で、……クロム、様と出逢ったのですか?」

 

 

 そう、ルフレに対して切り出してみた。……仕方ない事ではあるが、父の事を「クロム様」と呼ぶのは慣れない。

 ルキナに問われたルフレは、一瞬キョトンとした様な顔をして……そしてどう説明するべきか迷う様に少し唸る。

 何か複雑な事情でもあるのだろうかと、ルキナは少し驚き……そして「期待」した。

 

 

「僕は記憶喪失でね……クロムに拾われるよりも前の記憶が全く無いんだ。自分の事で覚えていたのは、名前位で。

 えっと……覚えているかな? 僕と君が初めて顔を合わせた日。……まあ暗い夜の森だったし、僕の顔なんて覚えてないかもしれないけど……。

 あの日、僕はクロムに拾われたんだ。

 そして成行きで街を襲っていた賊と戦う事になって……それが切っ掛けで自警団に軍師として入ったんだ。

 ちょっと信じ難いかな?」

 

「記憶が……無いんですか?」

 

 

 果たして、「未来」の彼もそうだったのだろうか……。

 朧気な記憶を思い返してみてもそんな素振りは無かったが……目の前の彼も、言われなければ分からない。

 

 

「そうは見えないって? よく言われるんだよね、それ。

 でも本当だよ。

 僕が一体何処の誰で、どうやって生きて来たのか……何も分からないんだ。

 親の顔も住んでいた村や町やら……何処の国の人間なのかも、何も分からない。

 持っていた物からも、何か辿れる様なモノは無くて。

 身元不詳の記憶喪失の行き倒れ、だったんだよね……。

 今も、何にも手掛かりは無し、記憶も戻らずって所」

 

 

 彼の話すそれは……到底笑い話になど出来はしないだろう、深刻なモノだと思うのだけれども。

 彼はあっけらかんとした様子でそれを話した。

 

 

「記憶が無くて、不安になりませんか……?」

 

 

 依って立つモノが無い、家族の顔も名前も分からない。

 それは、酷く恐ろしい事なのでは無いだろうか。

 少なくとも、ルキナにとってそれは想像するだけで怖気立つ程に恐ろしい事だ。

 記憶を失くし、父の事も母の事も世界の事も使命の事も、何もかも忘れて。ただ目的も無く世界を彷徨う。

 そうなった時そこに居るのは「ルキナ」なのだろうか? 

 分からない……。だが、そうなる事だけは避けたい。

 ルキナの思いとは裏腹に、ルフレは少し肩を竦めた。

 

 

「不安……か。

 幸か不幸か、不安に思う為の記憶の欠片すら何も残ってなくてね……本当に、綺麗さっぱりと。

 だからなのか、正直『何も』思えないんだ。

 それまでの「僕」がどんな生き方をしてこようと、今の僕はクロムの『半身』で……その軍師なんだから。

 それだけはハッキリしているんだ。……でも少しだけ。

 もし、「僕」がクロムの害になる存在だとしたら……」

 

 

 だがルフレは、それ以上は続きを言わなかった。

 そして、その手にあったパンを半分に千切る。

 

 もっと追及するべきかと、ルキナはそう一瞬考えたが。

 しかし、記憶喪失であると言う事が本当で……そしてそうであるが故に今ここに彼が、そしてあの「未来」の『ルフレおじさん』が居たのだとしたら。

 怪物が潜む藪を荒らしてそれを呼び覚ましてしまう事になるかもしれない。

 だから、それ以上深入りは出来なかった。

 そしてそうやって黙ってしまったルキナに、ルフレは。

 

 

「……僕は、ずっと君にお礼を言いたかったんだ」

 

 

 と、そう静かに切り出した。

 お礼……? とそう鸚鵡返しにすると。彼は頷いて。

 

 

「君のお陰で、あの日僕達はエメリナ様を暗殺者から守る事が出来たんだ……。

 それを僕からもお礼を言いたくて」

 

「エメリナ、様の……。ですが、結局……」

 

 

 その『死』の運命を変える事は出来なかったのだ、と。

 より悲惨な最期を辿らせてしまったのだと。

 そう悔悟の気持ちを隠し切れず、ルキナが思わず目を伏せると。

 ルフレは、感情の読み取り辛い穏やかな声音で訊ねる。

 

 

「あの未来は知らなかったと。そう言いたいのかい?」

 

 

「未来」を知っているのだと、そう言っておきながら。あの様な未来を防げなかったのか、と。

 そう咎められている様な気がして、ルキナは思わず唇を噛んだ。しかし。

 

 

「……君は、「神様」にでもなったつもりかい? 

 君が言う『「未来」を知る者』と言う言葉の意味は、……まあそう深くは訊ねないけど。

 君は、神様じゃない。

 この世に起こる全て、その未来を見通す事なんて、誰にも出来ないんだ。

 未来を自分の好きな様にする事もね。

 君はあの日確かにエメリナ様を救ってくれた、暗殺を防いでくれた……それで十分じゃないか。

 君が変えてくれた未来で、エメリナ様を死なせてしまったのは、君の責任なんかじゃない……僕達の、……僕の責任さ。

 その責任まで、自分の所為だと思い込んで背負い込もうとするのは、自罰的どころか、逆に傲慢な事じゃないかな? 

 この世に起こる「全て」が君の責任なんて事は無いよ」

 

 

 口調こそルキナを突き放す様に、多少厳しくとも。

 その声音には、確かな優しさと思い遣りが在った。

 

 

「それは……。私は、そんなつもりで言った訳では……」

 

「……マルス、君が一体何の為にエメリナ様の暗殺を防いでくれたのか……君が一体「何」を知っているのか……。

 僕はそれを知らないし、君が望まない詮索もしない。

 ただ……君は君が成し遂げた事を認めるべきだと思う。

 ……君があの日エメリナ様の命を救ってくれたから、短い時間ではあったけど、クロム達はエメリナ様と過ごす事が出来た、話す事が出来た……。

 それは、途方も無い『価値』がある事だと……そう思わないかな? 

 君はそれを守ったんだ。

 だから、己の成した事を否定してはいけないよ」

 

 

 そうルキナを諭すルフレの眼差しは、優しかった。

 それは、記憶に朧気に残る『ルフレおじさん』の様で。

 どうしてなのか、その優しさに少し胸が痛くなる。

 

 

「……エメリナ様を助けられなかったのは僕の落ち度だ。

 本来なら、策を提示した僕が背負うべき責だった……。

 でも、クロム達は優しいから……僕を責めてくれない」

 

 

 ポツリと、そう呟く様なルフレのその言葉に。

「そんな事は無い」と、そう言いそうになったが。

 しかしルフレ自身は、んな言葉を欠片も望んでいない。

 それが、分かってしまう。分かってしまったから……。

 ルキナは何も言わず、食事を再開する。

 暫し、二人とも無言のままであった。だが。

 

 

「やっぱり、……似てるな……」

 

「えっ……? その、何がでしょうか……」

 

 

 唐突なその独り言に、思わずルキナは戸惑う。

 恐らくは意識していなかった言葉だったのだろう。

 それを指摘されたルフレは、少し焦った様な顔をした。

 

 

「あ、えっと……。

 何だか変な話に聞こえるのかも知れないけど……似ているなって、そう思って。

 その、君とクロムの食事の時の所作が……似ていて。

 テーブルマナー的なモノだけじゃなくて、何と言うのか……無意識のクセ? みたいなものが……。

 ううん、クロムだけじゃない……リズとも、似ている。

 あ、あくまで印象の話だからね!」

 

 

 詮索するつもりじゃないし気を悪くしたりしないでね、と念を押すルフレの言葉が半ば耳に入って来なくなる程に、ルフレのその言葉にルキナは動揺を隠せなかった。

 

 似ている……。それは、親子だからだろうか。

 思いもよらなかった所に隠しきれなかった痕跡を見付けてしまい、思わず呻いてしまいそうになる。

 そして、それと同時に、かつても似た様な事を指摘された様な気がして……ルキナは無意識に記憶の棚を探した。

 

 

 

 

『ルキナの食べ方は、クロムに似ている所があるね。

 やっぱり親子なんだなぁ……。癖がそっくりだ』

 

 

 そう言って優しく笑ったその人に父は嬉しそうに笑った。

 

 

『おお、そうか? 俺としては、俺よりもリズや……姉さんに似ていると思うのだが……。

 しかしそう言われるのも中々嬉しいものだな』

 

 

 なぁ、ルキナ。と。父はそう優しく頭を撫でてくれた。

「姉さん」と言う部分は、少し寂しそうに口にして。

 

 

『そっか……じゃあ、ルキナの中には、クロムだけじゃなくて、リズやエメリナ様との「繋がり」もあるんだね。

 ……「家族」って、良いモノだね……』

 

 

 沁々と言った彼に、父は頷き言い聞かせる様に言う。

 

 

『ああそうだ、良いモノだぞ? 

 だからお前も、誰か大切な人を見付けると良い。お前には「家族」が必要なんだ』

 

『またその話かい? ……いや、僕は良いよ。

 僕は、君達や……皆と居るだけで十分幸せなんだから』

 

 

 彼は優しく微笑んで、ルキナに温かな眼差しを向けた。

 

 

 

 ……それはもう随分と昔の事で。その記憶の場面も朧気になってしまっていて、大分ぼやけてしまっているが。

 それでも父と彼のその言葉は記憶の片隅に残っていた。

 優しい記憶だった……「幸せ」な時間だった。

 満ち足りていた幼き日々の……その欠片。

 それに思いもよらぬタイミングで触れてしまった事で、ルキナ自身にも判別し難い感情が込み上げる。

「懐かしさ」とも、或いは「哀しみ」とも異なるそれに、ルキナは思わず深く息を吐いた。

 

 

「そう……ですか。私が、……クロム、様と……」

 

 

 今はもう亡き……そしてこの世界では『親子』ではない……限りなく近い「他人」にしかなれぬ父と。

 それでも、そこに「面影」があると言うのなら。そう言ったカタチで、受け継がれたモノがあると言う事は。

 それは微かであっても確かな「繋がり」であり。

 父と、リズ叔母様やエメリナ伯母様の縁であった。

 そしてそれは、ルキナにとって一つの救いでもある。

 

 気分を害してしまったのではないかと……ルキナの様子をそっと窺うルフレを、ルキナは見詰め返す。

 その姿に、その眼差しに、その言葉に、遠い「未来」の彼……『ルフレおじさん』の面影を確かに感じた。

 同一人物だから当然と言えるのかもしれないけれど。

 

 こうしてルキナと出逢い……そしてそれに付随する様にして「今」が変わってしまった彼が、あの『ルフレおじさん』と同じ様になるのかはルキナには分からなかった。

 それでも、きっとあの人の面影は必ず在るのだろう。

 

 ルフレがそれを意図したのかは分からないが……彼の言葉は、確かにルキナの心を僅かながらに救った。

 その心を苛む荊は僅かに緩み……そして、その枷を自らに課してしまった、行き過ぎる余りに傲慢にもなりつつあった自らを呵責する心は鎮められていた。

 

 ……ルキナは、「神様」にはなれない。残念ながら。

 時を遡り「過去」を変えようとしているのだとしても。

 神ならぬ人でしかないルキナには、思うがまま望むがままに、その全ての行く末を操る事など出来はしない。

 それは分かっている筈であった。

 

 しかし……実際に自分の行いが思いもよらぬ形で跳ね返った時に、ルキナはそれを「仕方の無い事」とは諦められなかった。

 だが、この世の全ての事象がルキナを中心に廻っている訳では無く、この世に生きる無数の人々の選択や行動が積み重なった流れによって起こる。

 ルキナに出来るのは、ほんの僅か、流れの中に石を投げ入れる事だけなのだろう。

 

 だからと言って無責任になる訳にもいかないが、……この世の全てを背負える程ルキナの器は大きくは無いのだ。

 自分に背負える範囲でその選択に責任を持って生きると言う事もまた、身の程を知り「善く」生きると言う事だ。

 人の身には過ぎた願いを抱えてしまったが故に、ルキナは何時しかそれを見失っていたのかもしれない。

 それをルフレの言葉によって気付かされ、何時しか自ら己を呪う様に掛けてしまっていた「呪詛」は薄れてゆく。

 

 

「……有難う、ございます」

 

「えっと、どういたしまして……?」

 

 

 礼を言われたルフレは戸惑う様に首を傾げる。

 元々ルキナへの「お礼」のつもりだった為、何故自分がそれを言われているのか心当たりが無かったのだろうか。

 だが、ルキナは感謝の言葉を伝えたかった。

 きっと彼は自分の言葉でルキナが何れ程救われたのか知らないのだろう。……人生などそんなモノなのかもしれない。

 

 誰もが、誰かの何かを大なり小なり変えていく。

 それ故に生まれる絶望もあれば、それによって救われる事もあるのだろう。

 

 ……何時か、またこうして彼と出逢い時を過ごす事はあるのだろうか? 

 それは分からないけれども。

 

 その時には……彼ともっと言葉を交わしてみたい。

 そんな「もしも」を思って、ルキナはその場を後にした。

 

 その「もしも」がもう少し先で叶う事を、まだルキナは……そしてルフレも知らないのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『何時かきっと、星空の下で』【上】

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 それはもう今となっては遠い遠い昔の話。

 記憶の底に朧気に残る、幼き日々の事。

 まるで自身の原風景であるかの様に、ルキナの心の奥深くに静かに刻まれてる「幸せ」の記憶……。

 

 父が居て、母が居て、……両親から無償の愛を目一杯に一身に受けて……全てが満ち足りていた。

 何も欠ける事など無く、この世界はずっと永遠に続いていくのだと、そう無邪気に信じていたあの頃。

 そこには、『あの人』も、確かに其処に居た。

 

 優しい人、穏やかな人。何時も見守ってくれていた人。

 忙しい両親と同じか、もしくはそれ以上に忙しい人だったのだけれども……『あの人』はとても優しかった。

 本を呼んで欲しいとねだれば、何時だって優しく微笑んで膝に乗せて、柔らかな声で読み聞かせてくれた。

 おままごとに付き合って欲しいとねだれば、どんな役だって笑って引き受けてくれた。

 木登りをして降りれなくなった時も助けてくれた。

 危ない事をしそうな時は、決して無理には止めなかったけれど、何時だって目を離さずに見守ってくれていた。

 両親と同じ位、きっと『あの人』からは沢山の「愛」や「幸せ」を溢れそうな程に受け取っていた。

 そしてその何れもが、今でもキラキラと温かな輝きと共に記憶の片隅で煌めいていて……それにどうしてだか胸が締め付けられる様な想いを……郷愁とも望郷ともつかない、鼻の奥がツンとなる様な想いを感じるのだ……。

 

 

 記憶の片隅の中から、今でも時折思い出す歌がある。

 それは『あの人』が時折、寝付けなくなってしまった夜に、そっと口遊む様に歌ってくれた子守唄。

 

 かつて幼き頃の彼が母親に歌って貰っていたのだと言うその子守唄は、母や父が歌ってくれるそれとはまた違ったモノだったけれど。幼子の眠りを見守る為の優しいその歌がとても好きで、それを聴きながら眠ると、どんな夜でも、とても優しくて温かな夢を見る事が出来た。

 その子守唄を歌ってくれた『あの人』は、もう居ない。

 

 それでも、時々思い出し、途切れ途切れに口ずさむ。

『あの人』の事を忘れない様に、その姿を思い描きながら。

 それは小さな小さな、「幸せ」の欠片だった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 父が戦いに赴いた先で何者かに殺され、そしてそれと前後する様に……伝承の中の存在であった筈の、千年前に初代聖王によって討たれた筈の『邪竜ギムレー』がこの世に再び姿を現して、世界は急速に崩壊を始めていた。

 

 空は何時も分厚い雲に覆われて不気味な茜色に染まり、地は蠢く屍達によって蹂躙され汚されていく……。

 邪竜ギムレーが蘇ってから、人々は「死」と言う安息すら容易には得る事が叶わず、荼毘に付されなければ、魂を邪竜に縛られ屍兵として永遠に彷徨う事になる。

 草木は次々と枯れ落ち、僅かに光が射し込む場所で細々とその枝葉を広げるがその僅かな実りは飢えた人々によって食い荒らされ新たな実りには結び付かない。

 故に食料は枯渇し、誰もが餓えて野鼠や虫に至るまで口にしようとするが、そうして喰われる側の生き物たちも食料が無い為その数を減らす一方で、負の連鎖が続く。

 場合によっては飢え死んだ同胞を喰って凌ごうとする者も居る程だが、痩せ衰えた人肉などその栄養は乏しい。

 無数に現れ地を穢す屍兵達に襲われ、飢えと渇きの中で斃れ、或いは人間同士での醜い争いの中で命を落とす。

「死」がまた新たな「死」を呼び、誰もその連鎖を止める事は出来ず、「死」だけが際限なく膨れ上がっていく。

 芽吹いた命は無惨にも踏み荒らされ貪り食われ、後に残るのはただただ悲嘆と絶望と諦念のみ。

 今日を凌ぐ為の糧にすら困窮し、食い扶持を減らす為の子減らし姥捨ても珍しくは無く、明日への「希望」など何処にも無い日々。怨嗟と慟哭ばかりが響く世で人々の祈りが神に届く事は無く、世の終焉だけが其処に在る。

 それは「生き地獄」と呼ぶにも生温い、絶望の奈落の底の世界であった。死して尚も逃れ得ぬ無明の末世の果てだ。

 

 ……そんな世界の中で、この世に唯一残された「希望」。

 それは、この世で唯一『邪竜ギムレー』を討ち得る神竜の牙。数千年の歴史の中でも幾多の竜殺しの伝説を残してきた唯一無二の神器──神剣ファルシオン。

 そして……それを手にする資格ある者として「神剣に選ばれた」先代聖王クロムの遺児……ルキナ王女。

 父亡き今となっては、ファルシオンを振るう事が出来る存在はルキナしか居なかった。

 その『使命』は誰にも代替する事が出来ず、……ルキナが命を落とした時点で全ての『可能性』が潰えるのだ。

 

「代わり」が存在しないと言う事は、酷く恐ろしい。

 食料事情も劣悪で、医療も崩壊している為疫病が猛威を奮い、そして屍兵ばかりがこの世に増え満ちて行く。

 こんな世界では、『ギムレー』に対峙するしない以前に何を切っ掛けに命を落としても可笑しくないのに。

 しかし、ルキナにその様な『死』は赦されていない。

『ギムレー』との戦いの……その中で訪れる『死』だけが、私にとって辛うじて赦された『死』だった。

『死』だけが無限に連鎖するこの世界で、『死』すら赦されない……少なくともそれを受け入れる事を自分が背負う「全て」が赦さない事は、想像以上の重圧をルキナへと与え、その心を擦り減らしていた。

 

 生き残る為に、自分以外の全てを犠牲にしなければならない。

 つい先程まで共に戦い同じ釜の飯を食べた戦友に、『死』が不可避である撤退戦の殿を命じなくてはならないし。

 餓え渇き餓死する寸前の民の姿を目にしながらも、白湯と見紛う程に薄い粥を啜らなくてはならない。

 ルキナは、自分以外の人々の手で「生かされて」いるのだ。

 他の多くを犠牲にして。そして、だからこそ。

 その『対価』を、誰もが無意識に、或いはハッキリと言葉にして要求してくるのであった。

 

『世界を救ってくれ』

『邪竜ギムレーを討ち滅ぼしてくれ』

『私たちを救ってくれ』

 

 ……誰も彼もがルキナを『最後の希望』だと言う。

 そこに「期待」し、それを当然の「対価」とする。

 無数の「祈り」が、「願い」が、ただ一人に向けられる。

 ……神竜ナーガは、人々の祈りに応えない。

『神竜の巫女』や、或いは『竜』の血を継ぐ者達を介して言葉を届ける事はあっても。現実的に何かしらの直接的な干渉をする訳ではない。……正確には、出来ない。

 彼の神竜が人の世に大きく干渉出来るのは、『覚醒の儀』を通してのみで……証を示さなければそれすら叶わない。

 僅かなその存在の残り香とも言える気配で、辛うじてその加護が厚い土地への邪竜の侵攻を抑えてはいるが、それとて……もうそう長くは持たないのだろう。

 

 人々が生きていける場所は、日々狭まってゆく一方で。

 神竜の領域とも言える筈の『虹の降る山』にすら、屍兵は姿を現しそこを少しずつ穢してゆくのだ……。

 一年後、二年後……果たしてこの世に、人々は生き残っているのだろうか。命はまだ残されているのだろうか? 

 明日の事など考えている余裕も何も無い状況でも、ルキナはふとそんな事を考えてしまう。そして……。

 一か月後ですら、人々が存在するこの世が続いている想像が全く付かない事に愕然とするのだ。

 

 一か月処か……もし邪竜が何かの気紛れを起こして直接襲撃して来たならば、どんなに防備を固めた城塞都市であろうと一瞬で灰すら残らぬ焦土に変わる。

 既に幾つもの都市がそうやって邪竜の炎の中で溶け去ったのだ。「次」が何時来ても、そしてそれが何処であっても何も可笑しくはない。もし万が一にもイーリス王都が邪竜の襲撃に遭えば……その時点で全てが終わる。

 滅び行きつつあるこの世界で、人々にとっての最後の拠り処であり人々が「文明的」な生活を営む為の拠点である王都が陥落……或いは消滅すれば。「最後の希望」の象徴の消滅以上に人々に与える影響は大き過ぎる。

 もし万が一にもそんな事になれば、人類は生存者の半数以上を一度に喪うばかりか、備蓄食料などの様々な物資の大半を喪う事になる。

 既に様々な物資が慢性的に枯渇している状況でそうなればどうなってしまうのかなど火を見るよりも明らかで。

 しかし、邪竜の襲撃は最も警戒し避けねばならぬ事ではあるが、邪竜が「その気」になった時点でそれを防ぐ術などない。

 ただただ、邪竜がその様な「気紛れ」を起こさない様にと、神竜に……或いは邪竜に、祈る事しか出来ない。

 ……「気紛れ」。そう、結局、この世界の全てが邪竜の「気紛れ」によるものでしかないのだ。

 人々が絶望と飢餓に苦しみながらもまだ辛うじて生きていけるのは、邪竜がまだ「本気」で人類を根絶させようとはしていないからでしかない。全てが邪竜のその掌の上にある。

 

 ……唯一邪竜に対抗出来る「筈」である神竜は人の世への直接的な干渉は出来ず、代わりに人の身で神竜の力を揮う事が出来る筈の……神剣に選ばれた者であるルキナはと言うと、その力を得る為に必要な『覚醒の儀』を執り行う事すら出来ていない。

『儀式』に挑む為の「証」たる『炎の紋章』が、この手に存在しないからだ。

 かつての動乱の中で失われた『炎の台座』と五つの『宝玉』の行方は未だ誰も掴めず。それを探している間にも、刻一刻とこの世の終焉は近付いてゆく。

 この世に滅びを蔓延らせたその根源たる邪竜は、遥かなる高みから人々が絶望しながらも必死に足掻き生きるその姿を嘲笑いながら見下しているのだろうか……? 

 自分がその気になれば一瞬で掻き消える「最後の希望」に縋り続け絶望の中に死ぬ人々の姿は、邪竜にとっては最上の娯楽なのだろうか……? 

 ……どうであるにせよ、ルキナがやらねばならぬ事は変わらなかった。邪竜を討つ、世界を救う。

 それが、己の成すべき全てなのだから。……だけれども。

 

 

 多大な犠牲を払いながらも、何とか『炎の台座』と四つの『宝玉』を取り戻す事が出来た。

 しかし、最後の一つの『宝玉』……最も早い段階でほぼ全ての文献からその行方の手掛かりが喪われてしまった『黒炎』だけは、取り戻す事が叶わなかった。

 そもそも『黒炎』の行方が途絶えたのは数百年も前の事で……例え『宝玉』が神竜より与えられた神宝であるのだとしても、本当にこの世にまだ現存しているのかすら定かではないのである。だが、宝玉の揃わぬ『炎の紋章』では『覚醒の儀』を行う事は叶わず、このままではファルシオンに力を取り戻す事も出来ない。何処に存在するかも分からぬ『黒炎』を求めて、また宛も無い『宝玉』探索の為に人員を割くべきなのか、そもそも現時点で自分たちにその様な余力は残っているのか……その難しい判断を迫られる事になった。

 不完全な『炎の紋章』でも何らかの力を神竜から借り受けられるのではないかと言う意見や、完全な『炎の紋章』でなくては無意味だとする意見が真っ向からぶつかり合って、その収拾は中々付きそうにも無い。

 もう既に「人類」の側は限界が近いのだ。このままでは全員が何も出来ないまま総倒れになってしまう。

 しかしだからと言って闇雲に不完全な『覚醒の儀』を敢行しても、事態が好転するのかは分からない。

 ……だが、ルキナが決断に迷っていたその間に。

 恐れていた決定的な「破滅」が、襲来したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 世界が、燃えている。

 こんな絶望の世界でも、必死に生きていた人々の営みが、命が、跡形も無く熔ける様に消えていく。

 屍達の怨嗟すら全てを焼き尽しながら、天をも呑み込まんばかりにとばかりに劫火が全てを喰らい尽くす。

 命在る者も、無き者も、何もかもが等しく焔に消えた。

 

 何の前触れもなく突然に王都に押し寄せてきた屍兵の大群を前に、ルキナ達は必死に抗った。

 だが、圧倒的な数の暴力を前にして、兵達は傷付き倒れて行き、そして屍兵となって甦っては敵となって味方であった者達を喰らい、「死」が無尽に伝播してゆく地獄には誰も抗う事が出来なかった。ルキナは剣を手にそんな絶望と暴力と「死」しかない地獄の中を必死に駆け回って、少しでも屍兵を減らそうと、一人でも多くの無辜の人々を救おうとして戦い続けていたのだけれど。

 そんな足掻きすら、全ては無為なものだとばかりに。

 

『それ』は、突然現れたのだ。

 

 まず、世界に「終末」を告げるかの様な轟音が轟いた。

 それと同時に身体が床から完全に浮き上がる程の振動と、無防備な身体を吹き飛ばす強烈な衝撃に襲われて。

 感覚の何もかもが滅茶苦茶になって、立ち上がる事すら儘ならぬ中で、建造物が崩壊してゆく音だけが響く。

 

 ただの一息で跡形もない程に崩落した城の壁の大穴から覗いたのは。頭部だけでもイーリス王城と王都を丸呑みにしても尚余りある程に巨大な……その頭部の全貌を把握する事すら困難な、巨大な異形の怪物……。

 伝説に伝え聞く『邪竜ギムレー』それそのものだった。

 

 

「『邪竜、ギムレー』……」

 

 

 世界を滅ぼさんとするその邪竜の姿をルキナが直接その目で見るのは、これが初めてであった。だからこそ。

 剰りにも強大なその存在には、人の身で抗う事など不可能な存在である事を、誰に説明されるでも無く理解してしまう。

 己に知性がある事を呪う程、克明に理解して、しまった。

 これは、『絶望』そのものだ、と。抗えない、勝てない、と。

 自分は、ここで邪竜に殺される。何も成せないまま、無数の人々から託された『希望』に何一つ応えられないままに。

 

 それを理解して。そして、そうであるにも関わらずに。

 ルキナは、ファルシオンを邪竜に向けて構えた。

 そんな抵抗には何の意味も無いのは理解していた。

 神竜の力が宿らぬファルシオンでは、『邪竜ギムレー』を討つ事どころか、恐らく傷一つ付ける事が出来ないのだから。

 彼我の差は圧倒的で、ルキナなど羽虫以下の存在なのだろう。

 

 だが、それでも。

 最期の瞬間まで『最後の希望』で在り続ける為に。

 命尽きるその瞬間まで抗わなくてはならなかった。

 

 

「来るなら、来い! 

 私は、『希望』は、お前なんかに屈したりはしないっ!!」

 

 

 そう啖呵を切った直後に、丸呑みにせんとばかりに、ギムレーの巨大な顎が視界一杯に迫ってきた。

 逃げる事など出来ない、逃げる場所などない。

「死」が、ルキナを喰い尽くそうと迫る。だからこそ。

 臆しそうになる心を必死に律しながら、膝の震えを理性だけで抑えつけ。迫り来る「死」を真っ直ぐに見据えていた。

 

 だが、人など容易く丸呑みに出来る筈のその顎は。

 その身体を呑み込むその寸前に、それを「何か」が必死に押し留めようとした様に、ほんの一瞬だけ静止する。

 

 

 そしてその刹那にも等しい一瞬で、また別の「何か」が自分の身体を強く引き寄せるのを感じて。

 ルキナの意識は、闇の中に途絶えた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 再び意識が戻った時には、目の前に迫っていた筈の邪竜の姿は何処にも無くて。全く見覚えの無い場所に立っていた。

 周囲には、仲間達がルキナと同じく、何が起きたのか理解しきれない様な表情で周りを見回している。

 

 

「ここは……」

 

 

 一体、何処なのだろう、と。

 そう無意識に心から言葉が零れ落ちた。

 

 その疑問に答えたのは、予想外の存在であった。

 

 

『ここは、私の領域です。

 人の子に、『虹の降る山』と呼ばれる場所……。

 私が、貴女達をここに招きました』

 

 

 フワリと。中空から突如現れたその存在は──

 

 

「神竜、ナーガ……」

 

 

 ファルシオンを人に与えし存在。初代聖王に、『ギムレー』を討つ為にナーガの力を与えた者。そして、ルキナもまた、その力を得ようとしていた者の一人である。

 だが、ルキナは『覚醒の儀』をまだ不完全なものですら行ってはいない。なのに、何故……。

 そんな疑問に答えたのも、やはりナーガであった。

 

 

『もう、時間が無いのです……。『覚醒の儀』を行っていない為、私がこの世界に対し出来る事は限られている。

 それでも、『希望』を潰えさせる訳にはいかなかった。

 干渉するまでに時間が掛かってしまいましたが、……何とか間に合った様ですね……』

 

「王都は、王城は……。

 彼処に居た人達は、どうなったんですか……?」

 

 

 恐る恐ると、ナーガに訊ねたのはウードだ。

 寸前まで戦い続けていた事を示す様に、その身体には幾つもの生傷が刻まれている。

 ナーガはその問いに、何処か茫洋としている様にも見える目を、憂う様に伏せた。

 

 

『ギムレーがあの場に現れた以上は、最早誰も生き残ってはいないでしょう……』

 

 

 そして、ルキナを含めた十二人を、この場に連れてくるのが精一杯であったのだと、ナーガは語った。

 たった十二人。それだけしか、生き残らなかったのだ。

 

 その場に居る誰もが、ナーガが語るその事実を茫然と聞く事しか出来なかった。そして。

 ナーガは、私に『炎の紋章』を持っているかを尋ねる。『黒炎』が納まるべき場所は空白のままだが、不完全な『炎の紋章』は肌身離さず所持している。

 それを差し出すと、ナーガは『希望はまだ繋がった……』と溜め息の様な言葉を溢した。

 こんな状況で、何の『希望』があると言うのだろうか。

 そう訝るルキナに。

 

 ナーガは、【時を越え、「過去」を変える】と言う……人が決して踏み入れてはならない「神の領域」の……。

 或る意味では「この世界」に生きる全ての「命」への冒涜とも言える『禁忌』を……ルキナへと提示した。

 

 最早この世界は終焉を迎える。誰も彼もが死に絶える。

 だが、時を越えて「過去」に向かい、この滅びの原因を、『ギムレー』の復活を阻止出来れば。世界を、滅びの運命から救う事が出来る「かもしれない」と、ナーガは語った。

 

 ……「かもしれない」。そう、その結果がどうなるのかは、ナーガですら知り得ぬ事であったのだ。

「過去」を変えれば、本当にこの「未来」は変わるのか。

 もし「未来」を変えられたとして、ならば変わる前の「未来」から来たルキナ達の存在はその時どうなるのだろう。

「過去」が変わり「未来」が変わった瞬間に、存在が「無かった事」にされて、完全に消滅するのだろうか。

 既に絵が描かれているキャンバスを塗り潰してその上からまた新たに別の絵を描く様に、変わった後の「未来」の自分の中と混ざるのだろうか。

 それとも、時の迷い人として、過去にも未来にも居られずに彷徨う事になるのだろうか……。

 だが、もしそうであるのだとしたら、『ルキナ達の干渉によって変わった未来』はどうなるのだ? 因果の糸は、どうなる? 

 それか、この「未来」とは全く別の「未来」が新たに生まれるだけで、この「未来」は「過去」から切り離された様に、滅び果てたこの状態のままになるのだろうか……? 

 そして……「過去」と「未来」がどうなるにせよ。

 時の流れを遡り「過去」へと向かうと言う事は。

 本来ルキナ達が守らねばならぬ、救わねばならぬ……両親たちから託されたこの世界を見棄て、未だ滅びの手の及ばぬ「過去」へと敗走する事と、何が違うのだろうか。

 もし本当に「未来」を変える事が出来るのだとしても、そしてそれで救われる人々が無数に存在するのだろとしても。

 ルキナが「本当の」『使命』を放棄する事に変わらない。

 そして、「過去」が変わり「未来」が本当に変わるのなら。

 この滅びへと至った世界に生きていた人々の存在は、全て「無かった事」になるのだ。それは、有史以来の大虐殺を行う事とほぼ同義であるのではないだろうか。

 いや、ただ殺すだけではない。生きていたその証すら……命ある全てが等しく持つ筈の、「そこに自分が存在した足跡」を残す権利すら有無を言わさずに剥奪するのだ。

 そんな、神をも恐れぬ程の「大罪」を犯す事が、本当にただの人間でしかないルキナに赦されて良い事なのだろうか。

 

 そして、そもそもの話【時を超え、「過去」へと遡る】と言っても、本当に目指す「過去」に辿り着けるかさえ未知数だ。

 時の扉を渡り「過去」へと跳んだ人間など、どんな記録にも伝承にも存在せず。故にそれが本当に可能なのか分からない。

 ナーガが出来るのは、あくまでも「過去」へと繋がる時の扉を開く事だけ。具体的に何処の「過去」へと辿り着くのかは「運」に左右されるのだという。

「未来」にも「過去」にも「現在」にも……何処の時間にも辿り着けないまま、何処でもない「時間の狭間」を未来永劫に渡り彷徨い続ける事になる可能性だってあると言う。

 運良くそれは回避出来たとしても、辿り着いたそこは、目的の『過去』ではない、もっと遥かな「過去」か……又は遠い遠い「未来」なのかもしれない、とも。

 

 それは分の悪い賭けなんて話ではなかった。

 もうこれしか取れる手立てが無いのだとしても、その選択をして良いとは到底思えない。……それなのに。

 ルキナは、ナーガのその提案を受け入れてしまった。

 

 何が起こるのか、分からない。何が出来るのか、分からない。

 それでもそこに、こんな絶望しかない世界の終焉を回避出来る可能性が僅かにでもあるのなら。ルキナは……。

 

 そして、共に過去へと向かう事を選択した仲間達と共に。

 最後の餞別にと、ナーガからその力を不完全ながらも蘇らせて貰ったファルシオンを手にして。

 ルキナは、ナーガが開いた時の扉を潜ったのだった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『何時かきっと、星空の下で』【中】

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 時の扉を潜ったルキナは。

 底の無い穴を無限に落ちて行くかの様な、激しい濁流の中に押し流されていく様な、或いは無限に自分の感覚が引き伸ばされていくかの様な……そんな異常な感覚に翻弄された。

 時の扉の先、無限に交差し渦を巻く時の流れの中で、ルキナは、ただただ何処かへと辿り着く事を待つ事しか出来なくて。

 目指すそこ……世界の滅びを回避する為に変えなければならない「過去」に辿り着けるよう、必死にナーガに祈って。

 時の濁流の中に翻弄される小さな木の葉の様に、ルキナは成す術も無く何処かへと押し流されていく。そんな時間が、永劫に等しい一瞬、或いは刹那の永遠に続いた。

 そして──

 

 時の流れの先に、突如ルキナは放り出された。

 中空に開かれた時の扉から落ちる様に放り出されたが、咄嗟に受け身を取って扉の下に広がっていた地面へと着地する。

 ルキナを放り出した時の扉は、まるで幻であったかの様に跡形も無く消え失せて。もうそこに戻る術はない。

 着地した直後に、状況を把握しようとルキナは周囲を見回す。

 森か、林の中なのか。周囲にはあの世界にはもう存在しない程青々とした木々が立ち並び、人が近くにいる気配もない。

 恐らくは、ルキナが時の扉を潜って現れたその姿を目にした者は居ない。過去への干渉は最低限に留めるべきなので、余計な騒ぎの元になりそうな事は避けられた事は良い事だ。

 問題は、ここが『何処』で今が『何時』なのかと言う事だ。

 見上げた空は、雲が少ないよく晴れた青空で。昼時なのか、太陽は中天に輝いている。……時の扉を潜る前の「世界」では、有り得ない光景だ。ギムレーが蘇ってからは、世界は何時も分厚い雲に覆われた不気味な夕焼けの様な空だけだった。

 ならば……少なくともここは、ギムレーが復活するよりも前の世界……であるのだろう。きっと、「過去」に遡る事自体には成功したのだ。この時点で少なくとも「最悪」は回避した。

 

 しかし、ギムレーが復活するよりも「前」であろう事は間違いなさそうでも、「今」が何れ程「前」なのかは分からない。

 あの「未来」から何百何千年と遡ってしまっていても、それはそれで変えなければならない「過去」に辿り着けないのだ。

 だから、今は何より、今が一体『何時』なのか……そして今ルキナが居る場所が『何処』なのかを調べる必要がある。

 

 とにかく一旦、近くに村や町がないかを探してみなくては。

 そうルキナが考え、どちらに歩き出そうか考え始めたその時。

 ルキナの鼻は、嗅ぎ慣れた……人などの大きな『生き物』と、そして建造物などが燃える臭いを嗅ぎ取った。

 近くの村で火事でも起きているのだろうかと、そう判断したルキナは、咄嗟にその臭いが漂ってくる方向へと駆け出す。

「過去」に深く干渉するべきではないなどと言う考えは、駆け出したその時のルキナの頭からはすっかり抜け落ちていた。

 

 ルキナは、世界を救うと言う『使命』がある。その為には切り捨てなければならないものも多くある。

 だけれども、全てを切り捨てて何もしないままに何もかもを見殺しにする様な行為は、ルキナの矜持が赦さなかった。

『最後の希望』を背負う者の責務としても、一人の人間として培ってきた倫理観や良心としても、それを肯定出来ない。

 だからこそルキナは走った。

 もしかしたら救えるかもしれない誰かを救う為に、自分に出来るかもしれない事をする為に。

 

 だが、しかし。ルキナが駆け付けたそこに在ったのは。

 

 

 ルキナの想像を遥かに超えた。あの「世界」のそれと同じか……それ以上の、『地獄』であった。

 

 

 人が、燃えている。家が、村が、そこに在った数多の営みが、全て燃え尽き灰になろうとしている。

 それは、ルキナの想像にもあった。だが、違ったのだ。

 そこに在ったのは。『殺戮』としか呼べない狂気であった。

 人が燃えている、生きながらに燃やされている。

 まるで家畜を追い込む様に一つの建物に追い立てられて、外から油を撒かれ、その末期の悲鳴ごと燃やされている。

 積み上がった死体は、肥溜めの中に投げ捨てられて。

 命乞いをした者も、乳飲み子を抱えた女も、足腰立たぬ老爺も、その命に一切区別を付けず、全て等しく。そんな武器も持たぬただの村人たちを、まるで流れ作業であるかの様に淡々と殺していく者達が居る。だがそれは賊ではなかった。

 その装備は、「正規」の軍のものであり。そして。

 そんな彼らが掲げている旗は、ルキナがよく知る。

【イーリス聖王国】の象徴たる、聖痕を象ったもの。

 彼らが、その名を騙る紛い物でもない限り、あの「未来」に広がっていた地獄絵図にも等しいそれを生み出しているのは。

 ルキナにとっての祖国である、イーリスなのだ。

 

 それを認識したルキナは、思いもよらぬそれに動揺し、正常に判断出来なくなる。どうすればいいのか、この状況でどうするべきなのか。混乱した思考は無意味に廻り続ける。

 しかし、そんなルキナの視界の中で。

 幼い少女が、兵士たちに追い立てられていた。

 少女は必死に逃げていたが、大人の足に敵う筈も無く。

 終にはその足を縺れさせてしまい、転んでしまう。

 そんな、何の武器も持たない、何の抵抗も出来ない、何の罪もないであろう幼い少女に向かって。

 兵士は、血と油にぎらついた剣を振り下ろそうとする。

 何れ程の人をここで切ったのかは分からないが、一人や二人ではないだろう人の命を吸ったその剣の切れ味はそう鋭くはないだろうけれども。剣で殴るだけでも、人間などあっさり殺せてしまうのだ。況してや、こんな幼い子供なら尚更に。

 

 その光景を目にした瞬間。ルキナは考えるよりも先にその場を飛び出して、無慈悲に振り下ろされたその剣をファルシオンで受け止める。決して折れぬ神竜の牙は見事その凶刃を止め、そしてルキナは勢いをつけてその剣を振り払った。

 

 

「何故だ! 何故この様な殺戮を行う! 

 この者達は、武器など持たぬただの村人だろう! 

 それを、何故!!」

 

 

 そう叫んだルキナに、兵士は僅かに怪訝そうな顔をして。

 いっそ淡々とした、感情の伴わない声音で答えた。

 

 

「何故……? この者たちが、【ペレジア】の民だからだ。

 邪竜を奉じる邪教の民を鏖殺する。それが我らが使命。

 この世界を遍く神竜の威光で照らす為の『聖戦』だ。

 妙な格好をしているが、ペレジア人ではないのだろう? 

 何故そこのペレジア人を庇うんだ」

 

 

『聖戦』。その言葉に、ルキナは幽かに聞き覚えがあった。

 ルキナが生まれるよりも……二十年近く昔に起こった、ペレジアとイーリスの戦争。……否、イーリスによる大虐殺。

 誰もがそれについて口を閉ざし、そして当時を語る文献はルキナの目に届く場所からは隠されていた為詳しくは知らない。

 だが、とても言葉には出来ぬ程の悍ましい行いがあったのだと……そう僅かに耳にした事がある出来事だった。

 ルキナにとっては、三十年以上も昔の事である筈のそれ。

 ルキナは、三十年以上もの時間を跳び越えて、『聖戦』のその只中にあった時代に辿り着いてしまったのだ。

 その事実を理解してしまった衝撃と同時に、話に伝え聞いてぼんやりと想像していた「聖戦」とは比べ物にならぬ程の凄惨たる「現実」に、ルキナは言葉も無くして打ちのめされる。

 

「ペレジア人」だから。

 ……そんな理由で。たったそれだけの理由で。

 何の抵抗らしい抵抗も出来なかっただろう、無辜の民を、ここまで惨殺出来るのかと。ここまで惨い行いを平然と出来てしまえるのかと。「命」を、踏み躙ってしまえるのかと。

 賊たちの略奪の為の殺戮よりも、一層酸鼻極まる……相手を「人」とすら認めぬ様な虐殺を行えるのか、と。

 しかもそれを、ルキナにとっては祖国であり守るべき国であり、そして「希望」や「正義」の象徴の様にすら思っていたイーリスが。その旗を掲げて行っているのである。

 余りの「現実」に、ルキナは思わず眩暈すら感じた。

 

 ルキナは、『聖戦』と言う「過去」があった事は知っていた。

 だが、それは知っていただけで。そこにどんな地獄が、どんな凄惨な殺戮があったのかなど、露とも考えた事が無かった。

 そこに思考を及ばせた事など無かったし、そんな事を考えている余裕などあの「未来」である筈も無く。

 幼い頃に、ペレジアからの深い怨恨から始まったと言う、ルキナが生まれる少し前程に起こった戦争の話を聞いた時になど、「武力を持たぬイーリスに、何と非道な事をするのだろう!」などと幼いながらに憤った事すらあった。

 憤って、しまったのだ。……ルキナは、自らの国の「正義」を、幼心に無邪気に信じてしまっていた。ルキナの周りにいた両親やその仲間達は皆「善い人」だったから……。

 それを責める事は出来ないのであろう。だが、それは余りも「傲慢」に過ぎる事であり、無知であるが故の恥だった。

 

 ルキナは、愚かではなかった。だからこそ、自分にとっては遠い「昔」、そして今ここに存在する自分にとっては「今」。

 イーリスと言う国が、何れ程の「地獄」をこの世に作り出してしまったのかを、理解してしまった。

 この村の、この凄惨な光景を、ペレジア全土で作り出すのだ。……これからも。

 一体幾百万幾千万の人々の骸を、積み上げたのか……積み上げるのか。その悍ましさにルキナは思わず吐き気すら覚える。

 

 あの「未来」でも、夥しい程の人々の骸が積み上げられた。

 誰もが「希望」も「気力」も何もかも喪い、「死」の群れに貪り食われていった……。だが、しかし。

 屍兵は、人間では無い。元は人の死体であっても、そこに生前の意思や人格は殆どと言ってもいい程に反映されない。

 肉の器だけが動くモノ、醜悪な人間の紛い物だ。だからこそ、あの「未来」は「死」だけが膨れ上がる地獄と化した。

 その結末を変える為に、ルキナは過去へと遡ったのだ。

 

 だが……だが。目の前に広がるそれもまた、最悪の地獄だ。

 少なくとも「今」こうしてイーリス軍に虐殺されていくペレジアの人々にとっては、この現実はルキナが経験したあの「未来」と何の遜色も無い「地獄」だろう。

 一体、彼らが何をしたと言うのだ。この様に殺され、人間としての扱いすらされずその「死」すらも貶められるかの様な。

 それに見合う様な罪など、何も犯してはいないだろうに。

 ただただ、「ペレジアの民」であると言う、それだけで。

 そして、たったそれだけで。イーリス軍は、無抵抗の無辜の民であっても、塵の様な扱いでその命を刈ってしまえる。

 それは、そんな事が、赦されて良い筈などある訳が……。

 

 ルキナの経験した事の無い、考えた事も想像した事すらも無い、そのケダモノ以下の所業が生み出す、この世の地獄。

 それを目の前にしたルキナは、思考が凍り付いてしまう。

 そんなルキナへと、兵士は剣を振り上げようとする。

 防がねば、とそう思考する一方で。その身体は指先まで鉄に固められたかの様に重たく、思う様に動かせず。

 思考だけが無意味に加速した世界の中で、振り下ろされた切っ先が自身に迫ってくる瞬間を見詰めるしか出来なくて。

 

 だが、ルキナの意識の外から突如轟く様な雷鳴と共に走った閃光が、ルキナの目前に迫った凶刃を直前で吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「──っ!? 何が……」

 

 

 剣を弾き飛ばされた兵士が状況を把握しようと周囲に目を向けようとした瞬間に再び走った先程よりも強烈な閃光が、今度は兵士の身体を大きく吹き飛ばす。

 吹き飛ばされた兵士はそのまま地に叩き付けられる様に転がっていき、近くにあった家の壁にぶつかり動かなくなった。

 

 一体、何が。と。ルキナもまた状況を把握出来ずに居たが。

 

 

「その子を抱えてこっちに来なさい! 騒ぎに直ぐ様イーリス軍が集まってくるわ!! 死にたくなければ、早く!!」

 

 

 混乱したルキナの思考を一喝する様な凛とした声に、ルキナは現状を把握し直す。そうだ、今はこの子を守らなくては。

 兵士から庇ったばかりの幼い少女は恐怖でその身を震わせていたが。その身体を抱き締めて背を撫でてやればルキナへとしがみつく様に抱き着いてきたので、そのまま抱き抱えて、先程の声が聞こえてきた方へとルキナは駆け出した。

「こっちよ」、と誘導する声を今は信じて、ルキナは少女を抱えたまま森の中を駆ける。

 

 何れ程森の中を走ったのだろうか。気が付くと、ルキナは森の中を流れる川の岸辺に辿り着いていた。

 そこには、あの村から逃げ延びたのだろうと思われる十数人程の非武装の人々が、着の身着の侭と言って良い様な格好で、力無く座り込んだり、或いは呆然とした表情で村があった方向を見ていたりとしている。その異様な雰囲気に、ルキナは思わずたじろぐが。ふと、腕の中の少女が喜びの声を上げた。

 すると、一組の男女がルキナの方へと……その腕の中の少女へと駆け寄ってくる。どうやら、少女の両親であるらしい。

 彼等はルキナへと涙を流しながら何度も何度も感謝の言葉を述べて、娘をその手に抱き締めて滂沱の涙を流す。

 ルキナは少女の名も知らないが……しかし、こうして一つの『家族』を助ける事が出来た事には、僅かながらも安堵した。

 だが、そう言えば先程ルキナ達を導いた声は一体、とルキナが周囲を見回すと。少し離れた場所に居た、不思議な意匠のコートを纏った女性が目に付いた。

 周囲の人々が呆然としたり或いは騒然としながら混乱している中で、その女性は静かにそこに立ってルキナを見ている。

 まるでルキナを見定めようとしている様なその目に、ルキナは思わず仮面を被っている事も忘れ目を逸らしそうになる。

 

 

「……あの子を助けてくれてありがとう。

 所で、あなたは誰かしら? この辺りでは見ない顔だけど」

 

 

 女性のその声は、間違いなくルキナ達をここまで導いてくれた声であった。ルキナは一瞬、どう答えるべきかと迷った。

 

 

「僕は……偶然あの場に通り掛かった旅の者だ。

 それと、僕の方こそ、あなたに助けて貰った。ありがとう」

 

「…………そう。まあ、私も偶然の様なものだけどね。

 村が突然襲撃されて、一旦逃げ延びたはいいけど、途中までは一緒だった筈のあの子が何処かで逸れてしまった様だったから、助けに戻った所だったわ。あなた、運が良かったわね。

 それで? あなたはこれからどうするのかしら」

 

 

 そう問われ、ルキナは言葉に詰まる。

 これから、自分がどうするのか。どうすればいいのか。

 それが何も、見えてこないのだ。

 

『ギムレー』の復活を阻止し、「未来」を変える『使命』はある。

 だが、当初の自分が想定していた、「未来」を変える為に干渉する出来事は、未だ遠い未来の事になる。

 干渉する予定の事象の一つである『聖王エメリナの暗殺』は、今から少なくとも十五年以上は後の事になる。

 ここが『聖戦』の只中の時代であるのなら、そもそも今代の聖王はエメリナではなく……ルキナにとっては祖父に当たる人物だ。

 ……ルキナは、「過去」の出来事に関してそう詳しくはない。

 両親や周囲の人々からの伝聞でしか知らぬ事も多く、そしてそうやって伝え聞いた事の大半は、「今」から十五年以上後に起こる「ペレジア戦争」の前後以降の事ばかりで……。

 更にその後に起こる「ヴァルム戦争」が終結して少ししてから『ギムレー』が蘇ったと言う事もあって、あの「未来」を回避する為に干渉しなければならない事は、「ペレジア戦争」や「ヴァルム戦争」の辺りにあるのではないかと考えていた。

 それもあって、そこから更に十五年以上も過去に跳んでしまった今、どうすれば良いのか分からなくなっていたのだ。

 

 十五年以上潜伏して、「その時」を待つ……と言う事も一つの手ではあるのだろう。

 だが、十五年と言う月日は、ルキナにとっては余りにも長過ぎる。

 思いもよらぬ形で変えてしまった小さな「過去」が、より大きな変化を巻き起こして、自分が知る「十五年後の過去」とは全く違う「過去」に変えてしまうかもしれない。

 その危険性は、「過去」に居る時間が長ければ長い程大きく、そしてより深刻な問題になるだろう。

 ……それに、十五年後の自分は、果たして十全に戦える状態を保てているのかどうかと言う問題もある。

 ……あの「未来」を知り、「命」と言うモノの儚さも知るが故の懸念だ。

『使命』を果たす為には五体満足かつ万全の状態である事が望ましく、だがそれを十五年も維持し続ける事は困難である。

 十五年……それは待つ事が全く不可能な時間ではないが、だが待ち続ける事はとても難しい時間であった。

 更に問題があるとすれば、十五年後に辿り着いたからと言ってそれで終わりではない。

 更にその後も、変えなければならないかもしれない「過去」は沢山ある。

 そこまで自分がファルシオンを振るい続けられるのかは、全くの未知数であった。

 ……可能ならば、今直ぐにでも十五年後の「未来」へと再び時を渡ってしまいたい。

 だが、過去へ遡る事もそうではあるけれども、未来へと向かって一息に時を跳び越える事もまた、ただの人に過ぎぬこの身には不可能な事である。

 神竜の力を借りる事が出来るなら、とは思うのだけれども。

 この時代の神竜に呼び掛ける為のモノを、ルキナは何一つとして持たない。

 あの不完全な『炎の紋章』は、時の扉を開く為の「要」として使われた為、あの「未来」に置いてきた。

 この手にあるのは、僅かに神竜の力を与えられたファルシオンだけなのだが……果たしてそれで彼の神竜がルキナの呼びかけに答えてくれる事などあるのだろうか。

 あの「未来」が不可逆の破綻を来すまで、ルキナや人々の祈りや願いに応える事も言葉を届ける事も無かったのに……? 

 この時代の神竜がルキナに対して「特別に配慮」したりその力をルキナの為に揮ってくれるなどと、夢見がちで甘い考えは、あの「未来」を生き抜く中でとうに消え失せていた。

 だからこそ、現状ルキナの取れる選択肢は「十五年以上の歳月を待つ」と言うそれしかないのであるけれども……。

 なら、それを選ぶにしたって、それまでの十五年以上の歳月をどうやって生きていくのかと言う問題はある。

 寝て起きたら十五年経っているなんて事は無くて、生きていく以上は何らかの手段で稼いだりして自分でどうにかしてその日の糊口を凌がなくてはならないのだ。

 何処でどうやってどんな風に生活基盤を築くのか。

 十五年を待つのだとしても、その問題は大きかった。

 更にはこの『聖戦』の真っ只中と言う時代も状況も最悪だ。

『聖戦』の所為で、人心は荒れに荒れたと……そうルキナは聞いている。そして、その所為で伯母が味わった苦しみも。

 そんな世界で、どうしていけば良いのか。道は見えない。

 だからこそ、「これからどうするのか」と言う問い掛けに、何も答えられなかった。

 

 黙り込んでしまったルキナを見て、女性は小さく溜息を吐く。

 

 

「……あなたがどうするにせよ、この辺りに留まり続ける事は危険ね。

 ……ここも、そう時間を置かずしてイーリス軍に見付かるわ。

 ……あなたはその恰好からしてペレジア人には見えないけれど。あいつ等は、ペレジア人だろうとそうじゃなかろうと、お構い無しに皆殺しにしようとしてくるわよ」

 

 

「イーリス軍」の事をそう語る彼女に、ルキナは思わず俯いてしまった。

 ……この時代の「イーリス軍」とルキナに直接の関係はないけれども、それでもルキナにとって自国の軍だ。

 イーリス軍による虐殺が揺るぎ無い事実である事もあって、その被害者である彼女たちへとルキナは顔向け出来ない。

 そこまで恥知らずには、なれなかった。

 

 

「僕は…………。

 ……そう言うあなたは、これからどうするんだい?」

 

 

 結局答えられないまま、ルキナは彼女にそう尋ねる。

 ……彼女たちが住んでいたのであろう村は、もう火の海の中に沈み、跡形も無い。あそこに暮らす事は不可能だ。

 ならば村を離れ、何処かへ逃げるしかないのだろうけれども。

 しかし、突然に自らの生活の場を放棄しなくてはならなくても、それを受け入れられるのかはまた別の問題だ。

 ……あの「未来」でも、屍兵の襲撃に遭って廃墟同然となっても、住み慣れた村を離れられなかった者は少なくなかった。

 ルキナに問われた彼女は、周囲の村人たちを見回して、そしてその行く末を憂う様にその瞳を曇らせる。

 

 

「そう、ね……。私達は、ここを離れるわ。

 こんな国境に近い辺境の村にまでイーリス軍が押し寄せているのだもの……。もう、ペレジア国内に安全な場所は何処にも無いでしょうね。フェリアに逃げるのが、一番でしょう。

 ……他の人達がどうするかは、私が決める事ではないけど。

 ……私は、この子を守らなきゃいけない。

 だから、ここで死ぬわけにはいかないわ」

 

 

「私達」とそう女性が口にした事でルキナは、女性のコートの陰に隠れる様に小さな影がその背後に居る事に気が付いた。

 ルキナが先程助けた名も知らぬ少女程の大きさの小さな影は、そっとコートの陰からルキナを窺う様に覗いている。

 その白銀に近い不思議な色合いの髪色に、その金と琥珀を混ぜた様な色合いの瞳に。ルキナは強烈な既視感を覚えた。

 

 

「おかあさん……」

 

 

 不安そうにそう零す幼子の頭を女性は愛情を感じる優しい手付きで撫でてやり、幼子はそれに安堵した様に微笑む。

 

 

「大丈夫よ、ルフレ。お母さんが必ずあなたを守るから……」

 

 

 愛しい存在を見詰める慈愛と母性愛に溢れた「母親」の目をする女性のその姿に、そして彼女に絶対の信頼を預ける様な……そんな幼い少年の姿に。ルキナは動揺を隠せなかった。

 

 ……『ルフレ』。

 ルキナは、その名前をよく知っていた。

 遠く幼いあの日々の記憶、優しくて大好きだった『あの人』。

 

 ここがあの「未来」から三十年程度過去である以上、この世界の何処かには父や『あの人』が存在するのは当然で。

 だが、まさかこんな場所で、幼き日の『あの人』に出逢う事になるとは全く思ってもみなかったのだ。

 当然ながら、目の前の幼子はルキナの事など知る筈も無く。

 見上げてくる無垢なその幼い瞳は、『あの人』のそれと色は同じでも、そこに映す心は全く異なるもので。

 それがむず痒い様な落ち着かない様な……何とも言えない感覚を与える。

 ここでこうしてルキナが『ルフレ』に出逢うだなんて一体何れ程の影響を「未来」に与えてしまうのか考えるだけで落ち着かなくなるし、またそれ以上に奇妙なモノを感じるのだ。

 今のルキナは仮面で表情を隠し、そしてその装いも、言葉遣いも……本来の『ルキナ』のそれとは違うのだけれども……。

 

 

「えっと……あなたはだれですか?」

 

 

 ルキナが仮面の奥から自分を見ている事に気付いたのか。

 幼いルフレは、小さくその首を傾げて、舌足らずながらもしっかりとした言葉遣いでルキナに問う。

 

 

「僕は、……僕は『マルス』だ」

 

「『マルス』? まえにおかあさんがおはなししてくれたおはなしのえいゆうさんとおんなじなまえだ!」

 

「あ、あぁ……そうだね」

 

 

 同じも何も、その偽名はその英雄王から取ったのだが。

 だが幼いルフレにとっては、憧れの英雄と同じ名前であると事は、いたくその心の琴線に触れる事であったらしい。

 キラキラとした眼差しがルキナに向けられる。

 そう言えば、幼い日の自分も、『あの人』にお話を読み聞かせて貰った後にはよくこんな顔をしていたなと。

 ふと、胸の奥がツンとなる様な懐かしさすら感じた。

 

 

「マルスは、さっきあのこをたすけてくれたんでしょ? 

 すごい! ほんとうの『えいゆうさん』なんだね!」

 

 

 ……『本当の、英雄』。

 ……元々は、あの絶望に満ちた未来での「願掛け」の様な……己の心を支える為の「お呪い」の様なものから始まった、『英雄王マルス』のを模した装いと振る舞いだった。だからそう見えるのは、寧ろ意図通りで。

 だけれども。ルフレの幼い瞳に残酷なまでに真っ直ぐ射抜かれてしまったルキナは、何も言えなくなった。

 

 ……ルキナは、それには成れなかった者だ。

 結局自分の力では世界を救う事も出来なくて、だからこうやって「過去」にやって来て『過去改変』だなんて禁忌に手を染めようとしている。いや、染めてしまった。

 自分は、この幼い『あの人』に、そんな眼差しで見詰められるに足る存在ではないのだ。それでも。

 その輝いた瞳を前にして、それを否定する事も出来なかった。

 だからこそ、ただただどうしようもなく居た堪れなくなる。

 

 ……「過去」に来てからずっと、想定外の事や衝撃的な事が多過ぎて、心が疲れてきてしまったのかもしれない。

 考えねばならぬ事、成さねばならぬ事。

 良い解決の糸口など見えぬままに、ただただそれらはグルグルと頭の中を無意味に回り続けて、ルキナを疲弊させるのだ。

 そんなルキナの様子を黙って見ていたルフレの「母」は、小さくまた溜息を吐いて、ルキナに言葉を掛ける。

 

 

「何か色々と訳アリの様だけれど……。何処にも行く宛が無いのなら、私達と一緒にフェリアに行くのはどう? 

 ……ペレジアを旅するのも、今のイーリスに向かうのも。どちらもとても無謀な事だもの。

 あなた、色々と怪しいけれど、見ず知らずの子供を助ける為に飛び出す様な『良い人』みたいだしね。

 ここで見捨てるのも寝覚めが悪いわ」

 

「フェリアに……?」

 

 

 確かに、今が『聖戦』の只中であると言うのなら、この大陸で一番安全なのはフェリアであるのだろう。

 あの国は元々難民などが各地から流入する国だ。

 そう言う者達がフェリアで生き延びるには、腕っぷしの強さも大事になるが。……まあルキナの剣の腕なら傭兵としても何とかやっていけなくもないだろう。

 今後どうするのかはまだ何も見通しが立っていない状態であるが、ならばこそフェリアに向かうのは良い選択と言える。

 

 

「僕があなた達と一緒に行っても大丈夫なのかい?」

 

「単純に、『幼い子供を連れた母親』よりは、『幼い子供も居る家族』とかの方が安全なのよね、色々と。

 フェリアの東の王都に辿り着くまでで良いから、良かったらどうかしら? まあ無理にとは言わないけれどね」

 

 

 成る程。元々が蛮族蔓延る流刑の地であったフェリアはその気風は今でも受け継がれていて何かと血気盛んな者が多く、食い扶持にあぶれた傭兵達が山賊や盗賊に変わって人々を襲う様になる事も珍しくはないと言う。

 ならば確かに母子連れよりは、同行者は一人でも多い方が良いのであろう。

 まあその肝心の同行者に、こんな会ったばかりの何の素性も分からぬ怪しい人物を選ぶのは本当に大丈夫なのかと思うが。

 彼女が「良い」と言うのなら、どうせ行く宛など何も無いルキナがそれに大きく反対する理由も無かった。

 

 

「そうか……あなたがそれで良いのなら……」

 

「交渉成立ね。私はロビン。この子は息子のルフレよ」

 

 

 そう言って、ロビンはルキナに微笑むのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『何時かきっと、星空の下で』【下】

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 ロビン達と共にルキナはフェリアを目指して北へと発った。

 

 ……あの場に逃げ延びていた者の中には、ルキナ達と同じ様にフェリアを目指そうとする者も居たが、その大半はペレジアに留まって縁者を頼って他の村や町へと向かうか、或いはただの焼け跡でしかない自分たちの村に帰り家族を弔うか……と言う者が大半であった。

 ルキナが助けた少女とその両親の一家も、縁者を頼って少し離れた町の方へと向かうらしい。

 …………『聖戦』で、ペレジア中の村や町が被害に遭ったと聞いた事があったルキナの本音としては、それを止めてフェリアに向かう様にと説得したかった。が、出来なかった。

 例え命を守る為でも、自らの生活基盤の大半や縁故などの人との繋がりも捨てて新天地に行こうなんて行動に移せるものが多くはない事を、ルキナはあの「未来」でよく知っている。

 ルキナが彼らに提示出来る言葉の中に、ペレジアに残ろうとする彼らを説得出来る様なものなんてない。残念ながら。

 だから、ルキナに出来るのは、せめて命助かった彼らが、『聖戦』の終結まで無事で居られる様にと祈る事だけだった。

 間違いなく「イーリス」の人間である自分がこんな事を祈っているだなんて知られたら、逆に恨まれるだろうけれど……。

 ……つい何時もの癖で神竜への祈りの言葉を口にしそうになって、ルキナは慌てて口を噤んだ。

 かの神竜が今この瞬間に、自らの名を「大義」に掲げられて行われている大虐殺に対して何を考え感じているのかなど、人に過ぎないルキナには分かる筈も無いけれど。

 少なくとも、今こうして狂った悍ましい「大義」の下にその命も尊厳も蹂躙されているペレジアの人々にとって彼の「神」の名は憎悪の対象にしかならないであろうから。

 かと言って、彼らの「神」であるあの邪竜に祈りを捧げる事など到底出来る筈も無くて。

 結局ルキナはどこぞの誰とも知れぬ「何か」へと、その祈りを捧げた。

 

 そうやってロビン達と共にフェリアに向けて出立したのだが……道中に立ち寄ったペレジアの村や町の状況は、想像していた以上に酷いモノであった。

 イーリス軍による蹂躙の被害をまだ直接には受けていない町や村でも、被害に遭った他の村や町から逃げ延びてきていた人々が流れ込んだ事で様々な物資に困窮し始めていたのだ。

 食料は勿論の事ながら、衣服や生活用品に至るまで……。

 元々耕作に適さぬ土地ばかりのペレジアでは、イーリスなどの肥沃な土地を多く持つ国からの輸入に食料供給を頼っている部分が多かったのだと言う。

 イーリスと戦争している以上イーリスから食料を輸入する事など出来ず、更にはイーリス軍がペレジア国内の通商網を徹底的に破壊してしまった為に物資の輸送が停滞し。

 そうやってカツカツになっていた場所に他所の村や町から人々が逃げ込んでくるのである。堪ったものではない。

 分け与え共に苦難を乗り越える……なんて綺麗事は、「分け合っても我慢すれば何とか凌げる」なら成り立つのであって。

 餓死するかもしれない様な程に困窮している状況でそんな事を実行出来る者は居ない。食料を巡って醜い争いが起きているのをルキナはフェリアに入るまでにも幾度も見てきた。

 が、それを「醜い」などと感じる権利など、端からルキナには存在しないのだ。……そんな争いを起こさなければ生きていけない状況に追い込んだのは、「イーリス」なのだから。

 

 イーリス軍は、ペレジアの軍人も民間人も等しく蹂躙し虐殺して、今やペレジアの国土全体を呑み込もうとしていた。

 ペレジア人の「根絶やし」が目的であるその侵攻は狂気に満ちていて、本来ならばイーリスにとっては攻め入る必要など殆ど無い筈のペレジアの北西部……ペレジアがフェリアと国境を接している辺りの町や村をも蹂躙していた。

 そこにはペレジア人がフェリアに逃げ込まない様に、と言う意図があるのかもしれない。

 だが、ペレジア軍もただ民を虐殺させる事など赦してなるものかとばかりに、消耗しながらも何とか奮戦し、一人でも多くの無辜の民がフェリアへと逃げられる様に手を尽くしているのだと言う。恐らくそう遠くない内にその抵抗ごとイーリスは踏み潰してしまうのだろうけれども……。

 

 ……ルキナとしては、こんな狂った大虐殺など、何があってもそこに正当性など存在しないとそう声を上げたいし、叶うのならば今代の聖王に直訴してでもこの『聖戦』を止めたいとも思う。

 だが、ルキナの声には何の力も無い。

 イーリス城に侵入したとしても、そこで囚われて処刑されて終わりだろう。

「未来」から来たのだと訴えたとしても、そんなものはただの狂人の狂言にしかならない。

 ルキナには止められない、変えられない。何も。

 ただただ……「イーリス」の狂気に踏み潰された夥しい犠牲者たちに、心の中で謝る事しか出来なかった。

 そして、そんな謝罪には、何の価値もありはしないのだ。

 

 …………この狂気が、巡り巡ってイーリスを襲う事になるのだろう。この狂気が育てた憎悪と怨恨が、十数年後に再び戦争を引き起こす事になる。そしてきっと……邪竜ギムレーの復活にすら、これが関与しているのかもしれない。

 ペレジアの人々の中には、邪竜ギムレーの復活を願っていた者が大勢居たと言う話を聞いた時。ルキナはそれを「信じられない」としか感じなかった。ペレジアの人々は狂っていたのだろうかと、そんな事すら考えた。

 …………だけれども、今ならば、少し分かるのだ。

 あの「未来」で、絶望に曳き潰されてゆく人々が縋りつく様に神竜への信仰を高め祈り続け「救済」を願った様に。

 イーリスに抗い様の無い暴力で蹂躙され尽くし何もかもを喪ったペレジアの人々が、自らの神に縋りついた事を誰が責められるというのだろう。

 どうかあの悪鬼どもを誅してくれ、どうかあの悪魔たちをこの世から消し去ってくれ、と。

 そんな破滅的な……しかし、心が在る以上はどうしても抱いてしまう憎悪や怨恨と共に願う事を、誰が責められるのか。

 ……そんな人々の願いであんな「未来」になってしまうのなら、ルキナは何としてでも止めなくてはならないのだけれど。

 しかし、もう今のルキナには、この「過去」に辿り着く前の様には、考えられなくなってしまった。

 

 本当に正しい「正義」なんて、この世にはない。

 人々を救う、世界を救う、と。ルキナが願い抱いた『使命』ですら、それの根本が絶望と怨嗟に血塗られた因果の応酬の果てに在ったモノでしかないのなら。

 その願いですら、きっと全くの「正しさ」ではないのだろう。

 その様に考え方、モノの捉え方が変わった事が、果たして良い事なのかは分からないけれども……。

 少なくとも、ルキナは「盲目」ではなくなった。

 

 そしてだからこそ、ルキナ自身の傲慢を以てして、やはり『使命』を果たしたいと強く願うのだ。

 ……苦しみ絶望し何もかも失って慟哭する人々の最後に待つものが、あんな「未来」だなんて、認めたくないから。

 ペレジアの民にもイーリスの民にも、どんな国の民にだって。

 あんな「未来」は、経験して欲しくないのだから。

 

 イーリスが残した無惨な爪痕を見詰める事になった旅であるが、それでもルキナの心が罪悪感ともつかぬ暗く重い感情に押し潰されずに済んでいるのは、やはり同行者の……特に幼いルフレのお陰であった。

 

 幼いルフレと他愛もない様な事を話したり、何かをする時間は、とても心が安らぐのだ。……遠い記憶の『あの人』にとってもそうであったのだろうか? 

 幼い自分に対してとても優しかった『彼』の事を思い出しながら、ふとルキナは考える。

『あの人』も、ルキナと過ごしていた時間の中に、こんな暖かな安らぎを感じていたのであろうか、と。

 その答えは、きっともう一生分からないだろうけれど。

 それでも、少しでもそうであったら良いな、と。

 ルキナはそう思うのだ。

 

 ルフレは、こんな幼い時に『聖戦』だなんて狂気に触れてしまったと言うのに、必要以上にそれに怯える事も無く、母を純粋に信じてその言葉に従っていた。

 ルフレも、そしてロビンも。ルキナが自身に関して何も語る事が出来ないのと同じ様に、二人も自身の事に関してルキナに話してくれる事は殆ど無かったけれども。

 断片的に伝わってくる情報を繋ぎ合わせていくと。

 ルフレ達親子は、元々は「過去」に遡った直後のルキナがその惨事を目撃する事になったあの村の人間では無いらしく。

 ペレジアの各地を転々としていた所で、たまたま少し長めに逗留していただけであったらしい。

 そんな中で、イーリス軍の襲撃に遭った、と言う訳だ。

 そんな事情もあったからこそ、「ペレジアを離れてフェリアへと向かう」と言う決断が出来たのかもしれない。

 何にせよそう言う事情もあるから、まだ幼いルフレも旅暮らしにはそこまで不自由を感じていないのだそうだ。

 ……だが、何故二人がそんな旅から旅への根無し草に近い様な生活を続けているのか。その理由は訊けなかった。

 それとなく訊いてみても、ロビンにははぐらかされてしまう。

 ルフレはルフレで、幼いからなのか分かっていない様だった。

 まあ、ルキナも自分の素性など、答えられない部分が多過ぎるのでそう深くまでは探れないのだが。

 共に旅をするようになって、ルフレはルキナの事を「マルス」として大層慕ってくれるようになった。

 事ある毎に「マルス、マルス」と笑いかけてくれるこの幼子に、ルキナが庇護欲の様な……それとはまた少し違う様な暖かな感情を抱く様になったのは、ある意味では必然であったのかもしれない。……まるで、あの頃とは丸っきり逆になった様な関係には、やはり不思議なモノを感じるけれど。

 戦う事ばかりしか出来なかったルキナが、幼いルフレに与えてやれるものは本当に少ないのだけれども。

 それでもかつて『彼』から……ルフレにとっては遠い未来の『彼自身』から教えて貰った事を、思い出して反芻する様にしながらルキナはルフレへと与えていく。

 それは、かつて『彼』に読み聞かせて貰った物語であったり、或いは夜空を見上げながら星々を指差して貰いながら教えて貰った物語であったり、小さな役立つ知恵など。

 そう言ったものを、ルキナはルフレへと「返して」いた。

 そんなルキナを、ロビンは何時も静かに見守っている。

 ルフレと触れ合い語り合うルキナを、見詰める彼女が一体何を考えているのかはルキナには分からない。

 分からないと言えば、どうしてそもそもこうして旅に誘われたのかも分からないのだ。

 行く宛も何もなかったルキナにとっては好都合な……「都合が良過ぎる」それの意図を、ルキナは今も理解しかねている。

「母と幼い子の二人旅よりは」と言うその言葉は一見筋が通っているが、そもそもの話その同行者がルキナである必要などないのだ。そこであの時に敢えて何処の誰とも知れぬ不審なルキナを選ぶ理由など全く思い付かない。

 だが、その答えは今も分かりそうにも無かった。

 

 そんな風にその意図は分からないけれど、ロビンと旅する事自体には不満など特には無いのだ。

 寧ろ、「親子」だからなのか、未来での『ルフレ』と彼女は少し似ていて、それが懐かしくもあり安心感がある。

『ルフレ』が、戦術など以外にも万の事に精通している程賢かったのは、ロビン譲りであったのかもしれないと思う程に、ロビンのその頭脳は卓越しているのであった。

 ロビンの過去が気になる程だけども、それを答えてくれる事はなくて。それでも不満などなく、ルキナは旅をしていた。

 

 立ち寄ったフェリアの村で一晩の宿を得たルキナ達は、久方振りのベッドで眠れる夜を有難く満喫しようとしていた。

 しかし……うとうととし始めたルフレだが、それでも中々寝付けないらしく、ぐずる様に少し機嫌を損ねてしまう。

 そんなルフレに、ルキナはかつて『彼』が度々自分に歌ってくれていたあの子守唄を、口遊む様にルフレに向けて歌った。

 

 

「あ……それ、おかあさんがうたってくれるうただ……。

 マルスのうたも、じょうずだね……」

 

 聞き馴染んでいた大好きな歌だったからなのか、ルフレは途端に機嫌を直して嬉しそうに微笑んだ。

 そして先程までの寝付の悪さが嘘であった様に、目を閉じたかと思うと安らかな寝息を立て始める。

 まるでかつての幼い頃のルキナ自身の姿の様に感じて、微笑ましく思っていると。

 ふと、ロビンが真剣な目を自分に向けている事に気付いた。

 どうかしたのだろうか、とルキナがそう思った次の瞬間。

 

 

「マルス……。

 あなた、もしかして、「未来」を知っているの?」

 

 

 その静かな問いに、ルキナは絶句するしかなかった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「すまない、あなたが何を言っているのか……」

 

 

 聞き間違いか、或いは何かの気紛れなのだろうか、と。

 ロビンの問い掛けに、ルキナは動揺を隠せないままだった。

 何故、一体どうして。と言う疑問符ばかりが頭を過る。

 そんなルキナにロビンは静かに言葉を連ねてゆく。

 

 

「……さっきあなたが歌ったあの歌はね。私がルフレの為に作った歌なのよ。私とルフレだけしか知らない筈の歌。

 ねえ、マルス。あなたは一体『何時何処で』知ったのかしら?」

 

「それ、は…………。そう、あの、前にルフレが歌って……!」

 

「あら、あの子はまだそんなに上手には歌えないわよ。

 それでどうやって、ルフレの歌声を手本にして、あの歌を歌えるようになるのかしら?」

 

 

 ロビンの追求に、ルキナは言葉に窮してしまう。

 元々、こう言う類の言い訳をするのは苦手なのだ。

 そんなルキナに、ロビンは重く溜息を吐いた。

 そして、幸せそうに眠るルフレの顔を見遣る。

 

 

「……別に、あなたを取って食おうだなんて欠片も思っていないから、そんなに思い詰めた顔はしないで。

 ……私はあなたと、「これから」の話をしたいの。

 あなたにとっても、きっとそれは悪い事ではないと思うわ」

 

「…………僕が話せる事なんて、何も無いよ」

 

 

 ここでルキナが知る「未来」を聞き出す事で、ロビンは自分の思う様に「未来」を変えようとしているのではないか、と。

 そう一瞬考えたルキナは、決して口を割らない事を明言した。

 そもそも、ルキナが知る「未来」は酷く限定的なモノであるのだけれども……。

 

 そんなルキナに、ロビンはゆるゆるとその首を横に振る。

 

 

「別に、多分あなたが危惧しているのだろう事なんて、私は全く考えていないわよ。いえ、正確には。

 一つだけ、どうしても変えたい「未来」はある。

 でもそれは恐らく、あなたにとっても悪い事ではないわ」

 

 

 そんな事を言われても、「はいそうですか」と頷ける訳なんてなくて。ルキナはロビンを警戒する。

 そんなルキナに、ロビンは小さく溜息を吐いた。

 

 

「そう……訊き方が悪くて警戒させちゃったのかしら……。

 なら、今から私が勝手に独り言を喋るから、気にしないでね」

 

 

 そう言って、ロビンは思考を整理する様に一度少し目を閉じて、そしてゆるりと再びその目を開く。

 

 

「そうね……マルス。あなたは……きっと、恐らくだけど。

『邪竜ギムレー』が蘇った「未来」を知っているのよね? 

 ……そしてギムレーの復活を、何らかの方法で止めるか……或いはギムレーを倒す為にここに居る。

 ……違うかしら?」

 

「それは……!」

 

 

 ロビンは、ルキナの素性や過去など何も知らない筈なのに。

 それは予想だなんて言葉では到底考えられない程の精度でルキナの過去を言い当てていく。

 それに思わず戦慄したルキナは、ロビンのその言葉を遮ろうとするが、だがそれは上手くはいかない。

 

 

「それとそうね……あなたの本当の名前が何なのかまでは分からないけれど。あなたの本当の素性……それは、イーリスの聖王家の一員ね。

 あなたが手にしているその剣。

 ……それはイーリスに伝わる神剣、ファルシオンよね? 

 それを手にしている……そしてそれを振るう事が出来る。

 その時点であなたが聖王の血筋の人間である事は分かっていたの。……あなたと出会った時点でね。

 でも、ファルシオンはその使い手を剣自身が選ぶ剣。

 今代の聖王も、……その前の代もそのまた前の代も。

 記録にある限りは、ここ数代以上はその使い手に選ばれた者は居ないの。

 ……今代聖王の長男はもしかしたらその資格があるんじゃないかって言われているけれど……まだ剣を握るには幼過ぎるもの。少なくとも、あなたじゃないわね。

 じゃあ、あなたは誰? って考えて、合理的に導き出されたのは、『マルスは未来の聖王家の人間』って結論よ。

 どう言う経緯で未来の聖王家とルフレが関わる様になるのかは分からないけれどね……。

 さて、何か言いたい事はあるかしら?」

 

 

 信じ難い言葉の羅列に、何か否定しなくてはとルキナは言葉を探すが、良い「何か」などこの状況では何も考え付かない。

 何を言っても、あっさりと論破されそうですらある。

 

 

「あなたは……一体何を目的に……」

 

「私の目的? ……それはね、きっとあなたと同じよ、マルス。

 私もね、『邪竜ギムレー』の復活だけは何としてでも阻止したいの。……本当に、ただそれだけなのよ……」

 

 

 そう言ってロビンは微笑むけど。

 その底の見えない得体の知れなさに、ルキナは反応に困る。

 

 

「あなたの居た「未来」……。

 これは完全に想像になるのだけれど、ギムレーによって壊滅させられたのでしょう? 

 そして、あなたはそこでギムレーに勝てなかった……。

 そのファルシオンに宿る不完全な力を見るに、『炎の紋章』を完成させられなかったのかしら? 

 まあ原因が何であれ、あなたは勝てなかった。

 だから過去に来た。……きっと神竜の力でね。

 さて、ここまでに何か矛盾したものはあったかしら?」

 

 

 ……ここまで見透かされてしまっていては、誤魔化す事も出来なくて。ルキナは項垂れるように頷いた。

 ファルシオンに宿った不完全な神竜の力すら見透かすなんて……一体ロビンは何者なのか。

 

 

「……はい、ロビンさんの言う通り、僕……私は、凡そ三十年後の「未来」からやって来た人間です。

 ギムレーの復活を阻止してあの『絶望の未来』を変える為に。

 …………ルフレさんは、私が幼い時にとても良くしてくれた人で……あの歌も、その時に。大好きな子守唄だ、と」

 

 

 ここまでロビンに見破られていてはもう「マルス」を装い続ける意味も無いので、ルキナは本来の自分の話し方に戻した。

 それに、ロビンは驚く事も無く耳を傾ける。

 

 

「そう……ルフレは、あの歌の事をそんな風に……。

 ……それとね、マルス。

 これはあまり根拠に乏しい勘の様なものなのだけれど……。

「今」は、あなたが「過去」を変える為に本来目指していた時間とは異なるものではないかしら。

 目指していたそこよりも「未来」……いいえ違いそうね。

 あなたの場合は、「過去」かしら? 

 そうやってここに辿り着いたのではない?」

 

 

 どうしてそこまで、とルキナはもう驚く事すら儘ならない。

 もしかしてロビンは人の心を文字通り「読める」のではないかとも思ってしまう。何もかもを丸裸にされて見透かされている気分になってしまった。

 

 

「どうして、それを……」

 

「殆ど勘のようなものだけれど……。

 あなた、全然『聖戦』の事、知らなかったんでしょう? 

 もし、「過去」を変えて未来をどうにかしようとしているなら、それに関わる「過去」の事も調べる筈だもの。

 だから、『聖戦』の惨状にあんなにも動揺しきっていたのは、全くの想定外の状況だったからじゃないかと思ったの。

 それで? 本当は「どの位」の過去に行くつもりだったの?」

 

「それは……今から凡そ、十五年後の「未来」の時間でした。

 ですが、もうそこには……」

 

 

 ただ十五年間待ち続けるしかそこに辿り着く術はないのだと。そう言ったルキナに、ロビンは「待って」と制止した。

 

 

「待ってマルス。

 諦めるのにはまだ早いかもしれない。

 ……もしかしたら、辿り着けるかもしれないわ。

 ……あなたが辿り着くべきだった、十五年後の「未来」に」

 

 

 ルキナを制止したロビンが示したのは、フェリア東部と西部の境界からさらに北に行った、周囲の山々も含めてそこに人里など存在しない、秘境のような場所にあると言う、人の口の端に上る事すら稀な、『時の遺跡』なる場所であった。

 

 

「『時の遺跡』はかつて……英雄王マルスたちの時代よりも更に遥かな昔。

 この地に人々が殆ど居なかった時代に、強大な力を持つ竜たちが時に関わる祭儀などを行い、「時の扉」を開いたとされている場所なの。

 そこならばもしかしたら、あなたを辿り着くべき時間にまで飛ばせるのではないかしら?」

 

「そんな遺跡がフェリアに……。

 ですが、ナーガ様のお力無しに再び『時の扉』を開く事は難しいのではないでしょうか」

 

 

 今この手には、あの時の様な、宝玉の欠けた不完全な『炎の紋章』すら存在しないのだ。

 それでは、神竜に助力を乞う事は難しい。

 ルキナがそう諦めそうになった時。

 

 

「いいえ、そうとは限らないわ」

 

 

 と、ロビンがそれを否定した。

 

 

「過去へと時の流れを遡らせる事はとても難しいものよ。

 でも、未来へと送る事に関してはそこまで難しくないわ。

 その為の扉ならほんの数十秒だけなら私でも開けるはず」

 

「ロビンさん……、どうしてそこまでして私に……」

 

「どうして……。

 それは、『邪竜ギムレー』の復活を阻止する事が、ルフレの幸せを守る事に繋がるからよ。

 私は、ルフレを守ってあげたいの……。ただそれだけ……」

 

 

 そう言って微笑んだロビンに「母」の深い愛情を見たルキナは、かつて喪った両親の姿が重なって思わず胸が痛くなる。

 その心を抑えながら。

 ルキナは、ロビンの提案に乗るのであった。

 

 

 

 そして、ルキナ達はフェリアの北へと向かった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 国土の大半が一年の大半を雪と氷が支配するフェリアにおいて北部や北端は融けぬ氷の支配する領域であり、幾ら逞しいフェリアの人々でもそこに住むことは出来なかった。

 その為、人の手が全く入らない森や山などが多数存在し、またそこには遥かなる古の時代に栄えていたという『竜』たちの文明の名残が、遺跡の形で今も残されているのだと言う。

 

 そんなフェリア北部への旅は過酷なモノであったが、幼いルフレは何も言わずに母とルキナに付いて来てくれている。

 最近は、何かを感じ取っているのか、前よりも益々ルキナの傍に居る時間が増えていた。まるで、ルキナを「今」に繋ぎ止めようとしているかの様に……。

 だが、ルキナはその手を振り払って行かねばならない。

 そして、進み続けていれば何時か旅にも必ず終わりは訪れる様に……ルキナ達は、雪原を掻き分け、樹氷の森を幾つも抜けて……漸く。

 『時の遺跡』へと、辿り着いた。

 

 雪と氷に閉ざされていたその遺跡は。

 人の出入りなど殆ど無かったのか、何処も綺麗なモノで。

 何千年と昔の古の時代から存在していた筈のそれは、経年劣化を何一つとして感じさせない美しさがあった。

『竜』たちが使っていた時代から何一つ変わっていないと言われても、全く違和感がない程だ。

 険しい環境の中にあったからこそ盗掘などの被害に遭う事も無かったのが大きいのだろう。

 そんな遺跡の最奥に、かつての祭祀場……『竜』達が「時の扉」を開いていたと言う場所は在った。

 

 

「さて、準備はいいかしら、マルス」

 

「はい、覚悟は出来ています」

 

 

 ロビンが早速『時の扉』を開こうとしたその時だった。

 

 

「やだ!! いっちゃやだよ……。

 マルス、いかないで……。

 ぼく、いいこにするから。

 わがままももういわないし、マルスをこまらせるようなことはもうしないから……! 

 でも、だからいかないで…………。

 マルスがいなくなるのさみしいよ、……やだよう……」

 

 

 それまで黙って二人のやり取りを見守っていたルフレが、突然泣き叫びながらルキナにしがみついてきた。

 

「やだ、いかないで」と繰り返しながら涙を流すルフレに、ルキナも……そしてロビンも。どうしていいのか分からず、狼狽えた。

 ルフレはそもそも普段から我儘など言わないし、ロビンやルキナを困らせる様な事も言わない。

 そんなルフレが、ルキナを困らせる事を分かった上で、初めてと言ってもいい程の我儘を言っているのだ。

 それを無碍にする事なんてルキナには出来そうに無かった。

 だが、それでもルキナはこの扉の先に行かねばならないのだ。

 

 再び『時の扉』を潜って未来を目指したとしても、辿り着いたそこが目指していた場所や時間であるとは限らない。

 それは、分かってる。

 しかし、十五年の歳月を待ち続けるのならば、少しでも時を跳び越えて、目指していたあの「過去」に辿り着く事を優先するべきだとルキナは思った。だが……。

 

 

「ルフレ……僕は、行かなければならないんだ」

 

「やだ! マルス、いっちゃったらもうあえないんでしょ? 

 せっかくともだちになったのに……やだ……」

 

 

 泣き続けるルフレの姿に、ふとルキナは懐かしさを感じた。

 あれは……確か、父と『彼』が共に戦場に出ていこうとしていた時の事だったか。

 お城での「おるすばん」を余儀なくされる事になっていたルキナは、城を発とうとする二人にしがみついて泣き喚いたのだ。……丁度、今のルフレの様に。

 あの時の二人も、こんな気持ちだったのだろうか……。

 

 

「ルフレ……大丈夫。

 君には、これから本当に色々な事が起こると思うけれど……君は全部それを乗り越えられる。

 君は色々なモノを見て、沢山学んで経験して……そしてとても凄い事を幾つも成し遂げる人になるんだ。

 ……そして、そんな君には、特別に大切な仲間が……君の『半身』とも呼べる人が、必ず君の前に現れるよ。

 僕はそれをよく知っているんだ…………」

 

 

 父クロムとルフレは、少しだけ「未来」が変わったこの世界でもきっと出逢い、互いを『半身』と認め合うのだろう。

 

 

「はんしん……?」

 

「そう、『半身』。君にとって本当に特別で大切な人だ」

 

「それはマルスじゃないの……?」

 

「僕、ではないね。……でも、もしかしたら、何時か何処かで、僕ともまた出逢う事はあるかもしれない」

 

 

「過去」を変える為に父やその周りの身に降りかかる事などへと干渉してゆくその何処かで、きっとルキナはルフレに出逢うのだろう。

 その可能性はとても高い。

 それに、きっとこの未来でも父の娘として生まれてくる「ルキナ」が居る筈だ。

 

 

「ほんとう……? じゃあ、『やくそく』して」

 

「『約束』? 何をかな」

 

 

 ルフレが何を求めるのか見当が付かず、ルキナは首を傾げた。

 すると、幼いながらにルフレは酷く真剣な面持ちでルキナを見上げて、その小さな右手の小指の先をルキナへと差し出す。

 そうそれは、かつてのあの日の幼いルキナを鏡に映した様に。

 

 

「またあったときには、マルスのうたをまたきかせて! 

 それが『やくそく』! 

『やくそく』してくれるなら、しんじるから。

『ばいばい』じゃなくて、『またね』なんだって、ぼく、ずっとしんじてまっているから……だから……」

 

「僕の歌を……? そうかい、分かったよ。

 また逢った時は、君の為に歌ってあげるよ」

 

 

 そう言いながら、ルキナはルフレの小指の指先へと自身の小指の先を絡めて『約束』を交わしたのであった。

 すると、ルキナの服を握り閉める事を止め、ルフレはルキナから手を離した。

 まだその目は潤んでいるけれども……。

 それでも、しっかりとルキナを見送る事に決めたようで、ギュッと唇を噛みながらもルフレは前を向いていた。

 そしてルキナは、黙って見守ってくれたロビンに礼を言う。

 

 

「もう大丈夫かしら?」

 

「はい、お願いします……!」

 

 

「…………未来の『あの子』の事、どうか……赦してあげてね……」

 

 

『時の扉』を潜りきる直前に、最後にロビンが何かを言っていた気がするが、それは上手く聞き取れなくて。

 

 そして、ルキナは再び自分の目の前に開かれた『時の扉』を潜って。……今度は、未来へと飛び立つのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 二度目の時の川の旅は、どうにか無事に目的としていた「過去」にまで辿り着けた。

 

 そして数回程「過去」に干渉してみたのだが、その成果は全く芳しくなく……。

 それもあって、最終的にルキナは、名や姿を偽る事無く事情を説明して父と共に戦う様になった。

 

 そしてそんな父の傍には、あの「未来」でもそうであった様に、ルフレがその『半身』として在って、互いを支えていた。

 しかし……そんなルフレには、「過去」の記憶のその一切が存在しないのだと言う。

 

 クロムに拾われるよりも前の事を全て喪失してしまったルフレの中には、「マルス」と共に過ごした日々の記憶や『約束』どころか、母であるロビンとの思い出すら存在しないのだ。

 ルフレの記憶がすっかり抜け落ちていたお陰で、再会した時などにその正体を看破される事も無かったのだけれども。

 ……しかし、この寂しさに似た感情は一体何なのか。

 それは、ルキナには分からない。

 

 十五年前に跳んで、『聖戦』の残虐性を少し垣間見て。

 そして幼い日のルフレとそして母のロビンと共に過ごし旅をした事は、ルキナは誰にも話していない。

 このまま、あの日々は……彼と過ごした時間は、ルキナの記憶の中だけのモノになってしまうのだろうか? 

 それは分からないけれど……。もしそうであるならばそれは、ルキナにとっては少しばかり寂しい事の様に思えた。

 

 

 そして、当人がそれを忘れてしまっている以上はその『約束』を履行する必要は無いのだけれども。

 今でも時折、ルキナは独りの時などに、あの歌を口遊む様に歌う事がよくある。

 もう今は遠い『彼』や、あの日々の事を、忘れない様に。

 それはルキナにとって静かで穏やかな時間の一つであった。

 

 手を伸ばせば星々を手に掴めてしまいそうな程の満天の星空を見上げ、ルキナはまた口遊む様にあの歌を歌っていた。

 すると、誰も聞いていなかった筈の場に、小さな拍手の音が辺りに響く。

 

 一体誰が? と。ルキナが周りを見渡すと。

 そこに居たのはルフレだった。

 

 

「歌が凄く上手だね、ルキナは。

 思わずこっそり聴いちゃったよ」

 

 

 そう言いながら何故だか嬉しそうに笑って、そして同時に。

 何故か少し不思議そうな顔をした。

 

 

「でも何でなんだろう……記憶には無いんだけれど、何故だかさっきルキナが歌っていたあの歌……何だか懐かしいなって思うんだ。

 記憶を喪う前の僕がよく聴いていたのかな?」

 

「それは……」

 

 

 言うべきなのだろうか。

 もう記憶にない、戻るかも分からないあの日々の事を。

 あの日の『約束』を……。

 ……だが、結局ルキナは口を閉ざす事に決めた。

 

 

「この歌は昔、未来の『ルフレ』さんが、幼い私によく歌ってくれた歌だったんです」

 

「そうだったんだ。ルキナにとって思い出の歌なんだね。

『未来』の僕には、記憶はあったのかな……。

 僕が懐かしさを感じるのもそれが原因だったりしてね」

 

 

 そう言いながらルフレは、ふと自分が何故か静かに涙を零している事に気が付いた。

 その涙に全く心当りが無いのか、ルフレはその涙を拭いながらも不思議そうな顔をして首を傾げる。

 

 

「あれ、不思議だな……何で僕は泣いているんだろう。

 全然悲しくなんてないし、寧ろ何だか物凄く嬉しいのに。

 何でだろうね……僕にも全然分からないんだけど……。

 ……有難う、ルキナ。「約束」を守ってくれて…………。

 あれ、『約束』……? 何のだろう……。

 でも何でなのかな……。どうしてかは分からないんだけれど。

 僕は君に、ちゃんとお礼を言いたいんだ……」 

 

 

 そう言いながら嬉しそうに微笑んだその表情に。

 幼い日の彼の面影が、そこに重なったのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『それは優しくて残酷な』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

『嘘』は吐いてはいけないと、昔からそう繰り返し教えられてきた。

 それは自分に限らず多くの人々の心に刻まれている、『共通理解』なのではないだろうか。

 

 しかしそうと知りながらも、人は『嘘』を吐く生き物だ。

 そもそも、『事実と異なる事を述べる』事全てが『嘘』であるならば、本人がそれを意図した訳ではなくとも『嘘』になってしまう事など幾らでもある。

 人の記憶など何処までも曖昧なもので、それを意識するしないに関わらず、幾らでも自分の中で書き換わっていってしまうものなのだ。

 形あるものを残していてすらその齟齬は容易に発生し、この世を『嘘』だらけにしていく。

 またそうでなくても、人と言う生き物はこの世界を誰もがそう感じる『絶対の正しさ』で捉える事は出来なくて。

 同じモノを見ている筈であっても、どれ程親しく互いを理解していると思い込んでいても、その捉え方が重なる事は決してない。

 誰もが皆、自分だけの「世界」を見ながら生きている。

 だからこそ、その「世界」ではそれが真実であったとしても他者にとっては『嘘』にしかならない事など、この世には幾らでもあるのだ。

 

 しかしそれでも人は、『嘘』をいけない事だと言い、『嘘』は人を傷付けるのだと言う。

 成程確かにそれはそうである。

 例え一時の場を凌ぐ為に、壊れそうな程に傷付いた心を慰める為に、時には必要な『嘘』と言うものはあるけれども。

 結局それが『嘘』でしかないのなら、『嘘』が剥がされ『真実』がその目の前に現れた時に、より傷付く人はきっと居る。

 

 それでも人は『嘘』を吐く。

 自分を守る為、誰かを守る為、何かを守る為に。

 世界は、『嘘偽り』に満ちているのだ。

 

 

 ……ある意味で、今この世で最も『嘘』を吐き続けているのは他ならぬ自分であるのだろうと、ルキナは常々思っている。

 ルキナ自身は、『嘘』は嫌いだしそれを意図して吐く時はどうしても後ろめたさは拭えない。

 だが、ルキナは。

 時を超えて辿り着いたこの世界で、ひたすらに『嘘』を吐き続けていた。

 名を偽り、姿を偽り、身分を偽り、その心中すらも偽り続けている。

 勿論、父クロムへと語った目的はそしてその身の上は、間違いなく全て事実であり『真実』ではあるのだけれども。

 そんな父にすら、未だにルキナは『嘘』を吐き続けている。

 

 未来で『父』を殺した人物の事は分からない、とルキナは答えた。

 だがそれは少し違う。

 誰が殺したのかと言う確証は、未だ得られてはいないけれども。状況証拠やその他の事実を積み重ねて浮かび上がる人物が一人だけ居るのだ。

 だが、その名を父に告げる事は叶わない。

 ……告げる事は出来なくはないが、父がそれを信じるとは思えないし……告げた事自体が何か良くない未来を招く恐れもあった。

 だからこそ、ルキナは何も告げず誰にも言わず。

 ただただその人物を監視し続けていたのだ。

 何時か、彼が『父』を殺した「その人」である証拠を掴む為に、その凶行を何としてでも止める為に。

 

 だが、その監視は意外な形で失敗に終わった。

 その対象である彼が、自分から何かとルキナの方へと関わる様になってきたからだ。

 監視している事を悟らせる訳にはいかなかったルキナは、そうやって近付いてくる彼を拒絶出来なかった。

 やんわりと避ける様にしたつもりでも、妙なところで押しの強さを見せる彼によって距離を詰められてしまって。

 気が付けば、共に過ごす時間ばかりが増えてしまっていた。

 ある意味ではより監視しやすくなったとも言えるが、監視対象に近付き過ぎる事は決して良い事ではない。

 感情で動いてしまう人間は、相手を知れば知る程「冷静な」判断と言うものは出来なくなっていくものだからだ。

 

 事実、ルキナはもう以前の様な冷徹さを以て彼を見る事は出来ない。

 その側に居て、共に過ごして。

 彼がどの様な人間であるのか知れば知る程に、迷いが生じる。

 父クロムへと絶対の信頼を預け、また絶対の信頼を得ているその姿を、『嘘』であるとは思えなくなっていく。

 父がここまで信頼している人物なのだから、こんなにも真っ直ぐな人なのだから、と。

 この世界が『偽り』だらけで、『嘘』と『真実』を一度も間違えずに判断し続ける事など人間には決して出来はしない事を。

 例え敬愛する父であっても、『間違える』事は……『嘘』に『騙される』事はあるのだと言う現実を分かっていても、尚。

 

 だからこそ苦しい。

 ルキナが知る事実を、恐らくは『真実』である筈のそれを、『嘘』だと……そう思い込みたくなってしまう自分の心が。

 二人に『嘘』を吐き続けているその事が。

 どうしようもなく、苦しいのだ。

 

 

 …………彼は、ルフレは。

 ルキナの事を、「大切な人だから」と、そう言うけれど。

 その「大切な人」である筈のルキナが、彼の事を疑い……そして何時か必要に迫られれば殺そうとしてすらいる事を知っているのだろうか……? 

 ……いや、知る筈はない。

 知っていて尚その言葉を吐けるのならば、それはもう狂人の様なものなのだろうから。

 

 ……だからこそどうしようもなく、苦しいのだ。

「大切な人」だと、彼から言って貰えた時に……紛れもない「喜び」を感じてしまうこの心が。

 彼から贈られた花束に涙を零してしまう程の歓喜に打ち震えてしまう事が。

 彼から、想いを告げられて……そしてそれを喜びと共に受け入れてしまいそうになる自分自身の全てが。

 

 …………どんなに愛していても惹かれていても「特別」であっても。

 世界がその天秤に載せられた時には、……必ず世界を選び取ってしまうのだと……彼を殺してでも世界を守ろうとしてしまうのだと、自分自身を何よりも分かってしまっているから。

 

 ここで彼の想いを拒絶する事が。

 百年の恋すら冷める様な罵倒を浴びせてでも、彼の気持ちに応えずに……そしてその想いを彼自らが断ち切れる様にする事こそが。

 彼にとっての本当の『幸い』に繋がるだろうと、分かっているのに。

 

 この『恋』の結末が、互いに傷付き果てるものにしかならないその未来を……その目に映しながら。

 それでもルキナは、一時のまやかしでしかない……彼にとっては『嘘』の『幸せ』にしかならないそれを、選んでしまう。

 

 

 

「有難う……ございます、ルフレさん……。

 私も、貴方の事を大切に想っています……。

 好きです……貴方の事が、大好きです……。

 この先の未来に何が訪れるのだとしても、……今だけは……このまま……」

 

 

 

 優しく甘いその言葉は何時か、ルフレにとっては何処までも残酷な『嘘』になってしまうのだろう。

「愛している」と言って尚、その命を奪う選択肢を消す事の出来ないルキナは、何処までも残酷な『嘘吐き』だ。

 

 それでも、今は……今この瞬間だけでも。

 確かに『偽り』では無いこの想いを抱き締める事を、赦して欲しい……。

 

 誰に届く訳でも無い赦しを乞う想いを抱えて。

 ルフレの腕の中でルキナはそっと目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『貴方の心に一番近い場所』

白い薔薇=『永遠の愛』
白いガーベラ=『希望』


◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 今日は、大切な人に感謝や愛情を伝える『愛の祭り』。

 国中が色とりどりの花に飾られ、道行く人々は花束を手に大切な誰かの下へと急ぐ。

 誰もが、今日と言う日が明日も続いていく事を……愛しい人が今日も明日も傍に居てくれる事を疑わない。

 そんな希望と言うには少し普遍的で、しかしそれが「絶対」では無い事をよく知る者からすれば何よりも愛しいと思う感情に彩られた表情をしている。

 

 こんな平和で愛しい時間を過ごす事が出来る日が訪れるなんて、かつては想像も出来なかった。

 ……かつて、と言うべきか。或いは此処とは別の『未来』で、と言うべきか。

 時を越えて辿り着いたこの世界をどう扱うべきか、この世界で数年は過ごした今でもまだ答えは見付からない。

 本当に自分が生きたあの終末の世界の『過去』なのか、それとも限り無く良く似た『異界』でしかないのか。

 そして、自分達の影響やそれによって人々が新たに選択した事が積み重なって『過去』が変わり、この世界が辿るべき未来も変わり……。自分達が生きていたあの『未来』の様な終末が未来永劫に訪れなくなったこの世界は、果たして『未来』からやって来た自分達をどう扱うのかもまだ分からないままだ。

 答えの出ないまま、そして果たしてこの世界に自分達が存在していても良いのかすら分からないまま。

 それでも、こうしてこの世界の時の流れの中に生きている。

 もうこの世界の未来は自分達のそれには繋がる事は無いのに。自分達とこの世界を真に繋げるものも無いのに。

 それでもこうして此処に留まってしまうのは、他に行く場所など無いし、そして自分達が見捨ててしまったあの終末の『未来』に還る方法もまたこの世の何処にも存在しないからなのだろう。

 ……ただ、その方法が何処にも存在しない事を、何処か安堵するかの様に感じている自分も居る事に、ルキナは既に気付いていた。

 

 ……もし、あの『未来』に還る方法があるのならば。自分は何をしてでも還らなければならない。

 あの世界が終末を迎え、例えギムレーが消え去っても最早何の希望も無い荒野でしかないのだとしても。

 しかし、あの世界の「未来」を託されたのは間違いなく自分であり、そしてそんな終末の世に、例え一握程度でも生き延びている人々が居るのであれば、その命に対して責任を負わなければならない。

 ……例え、その様な義務など無いのだとしても、確かに邪竜を討ち果たしその使命を全うした自分が「自由」であるのだとしても。それでも、一度背負ったものを半ばで放棄してしまった事には変わらず、それを果たす事が出来るのなら、自分はあの世界に戻らなければならない。

 

 だが、それは叶わない。

 あの『未来』が今も何処か遠い時の彼方や世界の壁を隔てた何処かに存在するのだとしても、神ならぬこの身には其処に辿り着く事は叶わず、そして神竜の力を借りたとしてもそれは叶わない。

 ……それは、何処までも都合の良い「言い訳」、自己弁護でしかないのかもしれない。

「帰ろうと思っても還る事は叶わないのだから」、と。「自分は精一杯その方法を探したから」、と。

 まるで、何かに対して言い訳を連ねているかの様だ。

 言い訳をしている相手は、置き去りにして見捨てて行ったあの『未来』その物なのか、あの『未来』を託して志半ばに斃れて行った父たちなのか、或いは過去の自分自身なのかは分からないけれど。

 ……そんな言い訳を連ねてしまう程に、自分は「この世界に留まる理由」を……「この世界で生きていても良い理由」を探していた。

 何故ならば、この世界には……。

 

 ふとテラスの下を見ると、何時もの見慣れた衣装を祭りの為の少し華やかなそれに変えた姿が目に映る。

 文字通りの救国の……それどころか「世界」すら救った英雄である二人のその装いに、人々は喜びと共に敬愛や感謝の声を上げる。

 当代の聖王であり邪竜ギムレーの討伐を果たしたクロムと、そしてその傍らに在って常にクロムを支え続け幾多の戦乱の中でイーリスに勝利を齎し続け邪竜ギムレーを討ち果たす為にその身すら擲った神軍師ルフレ。

 二人の英雄は、イーリスにとっての誇りそのものであった。

 

 まあ……ルフレとクロムが邪竜ギムレーを討ち滅ぼしたのは確かな事実ではあるがその裏に在った様々な事情などを知る者は極僅かであり、そしてギムレーとの決戦の後に暫しの間ルフレが行方不明になっていたその本当の理由を知る者もまた少ない。

 人々が知るのは、華々しくそして勇壮な伝記の様な英雄譚だ。……世の英雄譚や伝説など総じてそんなものであるのかもしれないが。

 まあ、その裏にあった事情を知った所で幸せになれる者は居ないので、何時かは時の流れの中に永遠に葬り去られるべき事なのであろうけれども。

 

 この世界に於ける自分の立場は極めて微妙で、戦時中は一種の客将の様な扱いではあったのだが、しかし戦時の混乱も治まった今となってはそう言った扱いも難しく。と、思いきや戦乱のどさくさに紛れて何やら身分らしきものが時を越えてこの世界にやって来た自分達全員に用意されていたのは、用意周到と言うべきか或いは強かと言うべきか。

 そんな所に気を回す位ならば、自分が生きて帰る為の策を優先して練れば良かったのに、なんて思ってしまう程だ。

 

 一応の身分は存在し、そしてそれはこの世界で生きていく為には十分過ぎるものであるのだけれど。

 しかし、やはり本来の……『未来』での人間関係そのままで生きる事は出来なかった。

 それは、仕方の無い事だ。

 この世界の「父」には、「父」にとっての『本当の娘』である「小さなルキナ」が既に居るのだし、そして彼女と自分は「同じ」であっても重なる事は無い。きっと、この先も永遠に。それが何よりも「小さなルキナ」にとっての福音である事は分かってはいても、中々どうして感情の全てを納得させ切るには難しい部分はあった。

 とは言え、自分としても、本当の父はやはりもう既にこの世の何処にも存在しない。あの終末の世界で志半ばに斃れたその人だけが、本当の意味での『父』であった。何処までも似通っていて、「同じ」と言っても良いのだとしても。それでも辿った道は完全には重ならず、そしてその未来が大きく変わったのであれば、やはり「違う」のであろう。

 大切に想う人である事には変わらなくても、「親子」としての親愛や情はあっても。

 しかしどうしても完全には重なり切れないそれは、「時を越える」と言う禁忌を冒してしまった者達への一種の罰であるのかもしれない。

 

 ……この世界で生きていく事が、全く苦しくないと言えば「噓」になる。

 自分達のあの『未来』ではどうしても掴み事の出来なかった平和や幸せを、何の疑問も懐かず受け取り続ける事が出来るこの世界とあの世界の差を思って、考えても仕方が無いのだし寧ろその為に戦ってきたのは分かっていても、本当に時々であっても無性に苦しくなる。……同時に、本当に自分はこの世界に生きているのかとすら思ってしまう。

 今こうして平和な祭りを眺めている自分は、使命を果たして世界を救う事が出来た自分は。

 あの『絶望の未来』の自分の願望が見せた、泡沫の夢の様な儚い幻想なのではないかとも思う。

 あの『絶望の未来』での経験は余りにも過酷であると同時に鮮烈過ぎて、ふとした拍子に自分が今も何処かあの世界に居る様な気すらしてしまうのだ。

 ……それはとても贅沢な悩みなのだろう。

 本当にあの世界に居るのなら、そもそも何かを夢に見るような心の余裕すら存在する筈ないのだから。

 実際に、戦う事しか出来なかったあの日々の中、夢らしきものを見た事は一度も無い。

 何時来るとも分からぬ屍兵やギムレーの襲撃に脅えた様に神経を尖らせて、眠るよりは一時的に気を失う様な睡眠を取る事が精一杯だったのだから。

 要は、今が満ち足りて『幸せ』であるからこそ過ぎる不安……「自分がこんなにも『幸せ』になって良いのか」と自分を咎めてしまう自罰的な感傷でしかない。

 

 そう、今はとても『幸せ』だ。

「明日」が来る事を何の不安に思う必要も無く。

 花々を愛で誰かを愛する心を持つ余裕があって。

 そして、大切な人たちに感謝や愛を伝えられる。

 ……それ以上の『幸せ』が、人々の心を本質的な部分で満たしうるものがあるだろうか?

 人が本当に『幸せ』を感じる為に必要なものは、贅を尽くした奢侈な生活などではなくて。

 大切な人が手を繋ぐ事の出来る距離に居てくれる事と、そしてその人と互いに想いを伝えあえる事なのだから。

 

 自分はそう言った『幸せ』を、一度はあの『未来』の中で喪った。

 そして、この世界にやって来て……また喪った。

 各々、「喪ったもの」に違いはあれども。

 心の中の一番大切な場所に居た存在を二度も喪った事は確かであった。

 

『奇跡』としか呼べない可能性の果てに、彼は……ルフレは再びこの世界に帰って来て、そしてもう一度共に生きる事が出来る様になったのだけれど。

 一度失ってしまったからこそ、どうしても不安になる。また失うのではないかと、ほんの少し手を離しただけで、もう二度とその手を掴む事は叶わなくなるのでは無いか、と。

 それは些か偏執的とも言える程のもので。自分はここまで過剰に執着する質であっただろうかと、自分でも驚く程だ。

 ……自分らしくなくても、それでも。

 もう二度とこの手を離せないと、そう思う。

 

 

「ルキナ、こんな所に居たんだね。

 折角の『愛の祭り』なんだし、僕と一緒に見て回らないかい?」

 

 そっと、自然な足取りで挨拶回りが終わったのだろうルフレが近付いてくる。

 様々な人達に花束を渡してきたのだろうか?

 その服の袖には花弁が幾つか付いていた。

 

「あら、お父様とは一緒じゃなくて良いんですか?

 ……じゃあ、ルフレさんと一緒に色々と見て回りたいです」

 

 服の裾に付いていたその花弁を摘んで除けながらそう言うと。

 そこに花弁が付いていたには気付いていなかった様で、少し恥ずかしそうにルフレははにかむ。

 

「取ってくれてありがとう、ルキナ。

 クロムはリズたちと過ごしているからね。僕はちょっとお先に抜けてきたんだ。

 だって、少しでも君と一緒に過ごしたかったから」

 

 そんな事を言うルフレに、「素敵な口説き文句ですね」と微笑むと。ルフレは照れる事無く、「だって僕にとって一番大切な人は君だからね」と答える。

 そして、ルフレはその胸に飾っていた白い薔薇の花を、優しくその手に掬った髪に飾ってくる。

 白いガーベラで出来た花飾りの中に紛れたその白い薔薇の花は、何だか最初からそこに居たかの様な顔をしていた。

 

「うん、ルキナにとても似合うね。

 とても素敵だ。何時も綺麗だけど、やはりこうして花で飾った姿もとても美しいよ」

 

 そう言って微笑んだルフレに、今度はこちらからお返しに、と花籠の中に沢山入っている白いガーベラの花をその左胸に飾る。

 

「ルフレさんもとてもお似合いですよ」

 

 自分が贈った花が、その心臓に一番近い場所を飾っている事に、どうしようもなく安心感の様なものを感じてしまう。

 

 そして、二人で手を重ねる様に繋ぎあって。

 勝ち取った平和な時間を確かめに行くのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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【ギムルキ(ギムレー×ルキナ)】
『縛る事すらも愛だから』


◆◆◆◆

 

 

 

 

「あぁ……ルキナ、今日も君は美しいね」

 

 

 うっとりとした声で、彼はルキナの髪を掬い上げてそこに口付けた。

 ルキナはそれに抵抗しようとするも、身を縛る鎖が身動きを許さない。

 身を捩った所で、硬質な音を立てるばかりで。

 この場から逃れる事も出来ないのだ。

 

 

「……無駄だよ。

 その鎖は僕の力で作ってあるモノだ。

 君がナーガの力を継ぐ者であったとしても破る事は出来ない」

 

 

 彼の手が優しくルキナの頬を撫でる。

 その手付きはあまりにも優しく慈愛に満ちていて。

 錯覚しそうになるが。

 

 

「……愛しているなどと口では言うのに、私をこうやって縛るのですね」

 

 

 そう彼を睨み付けながら敵意を籠めて唸ると。

 とんでもないとでも言いたそうに彼は両手を広げる。

 

 

「まさか。

 愛しているさ、ルキナ。

 愛しているからこそ、僕はこうやって君をここに留め置くんだよ。

 僕はもう、世界なんてどうでも良いんだ。

 君がこうしてここに居てくれるのなら、それだけで良い……」

 

「……世界を滅ぼそうとしているあなたが、それを言うんですか?」

 

 

 ルキナは知っている。

 彼がもたらした絶望を、悲劇を。

 人々の営みを踏み躙り、死と絶望を撒き散らすその姿を。

 命が紙屑の様に吹き散らされていくその恐ろしさを。

 ルキナは、よく知っている。

 

 だが彼は、そんなルキナの敵意など意にも介していないかの様に、軽く肩を竦めるだけであった。

 

 

「おや、いけないのかい?

 確かに僕は世界を滅亡に追いやった。

 だけども──」

 

 

 彼の紅い瞳がルキナを射抜く。

 

 その目に僅かに怯んでしまったルキナを愛し気に見詰めて、彼はその頬に手を当てる。

 

 

「僕が居ようと居まいと、人は醜く愚かしい戦を幾度も繰返し、憎悪の連鎖を育てていただろう?

 そう遠くない未来の何処かで、それこそ国と国どころか世界全体で、お互いを滅ぼし尽くす戦を起こしていたよ」

 

 

 滅びに向かうのが幾分か早かっただけの事だよ、と。

 彼は邪気の欠片も無い様な笑顔でルキナに語った。

 

 

「僕は君達の感性からすれば、確かに邪悪なのかもしれない。

 壊す事や殺す事に何の躊躇いも感じないし、そもそも、僕からすればニンゲンなんて皆等しくどうでも良い、虫けらみたいなものだからね」

 

 

 でも、と。

 彼はそう呟きながら動けないルキナを抱き締める。

 

 

「僕は君の事がどうやら好きになってしまったらしい。

 ……最初は、目障りで忌々しいナーガの力を継ぐ子供だから、精々絶望の淵に叩き落としてから殺そうかと思っていたんだけどね……」

 

 

 憎い相手なのに、世界を滅ぼそうとしている敵なのに。

 ルキナを抱き締める彼の身体は温かく、ゆっくりと髪を撫でてくるその手は何処までも優しかった。

 少しでも気を抜けば。

 彼がギムレーだと言う事も。

 そしてルキナの自由を奪ってここに縛り付けている事も。

 何もかもを忘れてしまいそうになる。

 

 

「君を見て、君に関わる内に、堪らなく愛しくなったんだ。

 本来なら憎たらしく感じる筈なのにね?

 矮小なる人の身で僕に挑もうとしてくるその姿ですら、この心が震える程に愛しいんだよ」

 

 

 ギムレーは、善良な旅人を装ってルキナに接触してきた。

 愚かだったルキナは、彼を信頼し、共に闘い……。

 そして、囚われたのだ。

 

 

「君は、ニンゲンどもから勝手に背負わされた身勝手な『願い』を叶えようと足掻き続けていた。

『助けて』、『救って』、『ギムレーを倒して』……。

 ただ願うだけならば、ただ期待するだけならば、とても簡単だね。

 君一人に、全てを任せてしまえばそれでお仕舞い。

 後は自分が押し付けた願いが、勝手に叶うのを待つだけなのだから」

 

 

 ルキナを優しく抱き締めながら、ギムレーはゾッとする程に冷たい声で吐き捨てる。

 

 

「全く、身勝手だよねニンゲンって奴等は。

 君が何れ程のモノを犠牲にして、何れ程足掻き続けているのか見向きもしないで。

 誰も彼も、『苦しい』『辛い』『死にたくない』と。

 誰も期待した先の筈の君を見ていない」

 

 

 まあ、それもそうなのかな、とギムレーは呟く。

 

 

「だって、彼等からしたら、願いを託す先が君であるかどうかなんてどうでも良いんだからね。

 彼等にとって大切なのは、君が受け継いだ『ファルシオン』だ。

 君に『願い』を託すニンゲンにとったら、君と言う存在は『“ファルシオン”の担い手』以外の価値は無い。

 酷い話だね?

 君は君の人格も想いも願いも、何もかもを顧みられないままに、身勝手に押し付けられた『願い』に縛られて戦わされ続けているんだから」

 

 

 あぁ、可哀想に。

 そんな事を宣いながらギムレーは、幼子をあやす様に抱き締めたままルキナの背を擦る。

 

 

「君に勝手に『願い』を押し付けたニンゲンどもの中で。

 何れ程のニンゲンが、僕を倒す為に戦っていたんだい?

 何れ程のニンゲンが、人々を守ろうと屍兵と戦っていたんだい?

 君が見てきた中には、何もかもを諦めて何もしないクセに『期待』だけは押し付けてくる奴等や、こんな状況でもニンゲン同士で殺しあっていた奴等は居なかったかい?」

 

 

 否とは、言えなかった。

 彼の言う人々に、ルキナは大いに心当たりがあったからだ。

 彼等には戦う力が無いのだから仕方がないのだと、生きていく為に相争う者が居るのは仕方がないのだと。

 ギムレーを倒しさえすれば、全ては上手くいき、世界は良くなるのだと。

 そう自分に言い聞かせていたのだけれど。

 

 

「君が傷付き戦わなくてはならなかったのは、確かに僕の所為だ。

 だけど、君に戦う事を強いていたのは。

 それは他ならぬ君が守ろうとしていた者達だ。

 誰も彼もが、君に『戦え』と。

『ギムレーを倒して世界に平和をもたらしてくれ』と。

 君の意志が何処にあるのかなんて気にも掛けずに、君を戦場に追いやった」

 

 

 彼の紅い瞳に強い苛立ちが浮かぶ。

 そして、ルキナを安心させる様に、また抱き締め直す。

 

 

「僕を封じた所で、人々はまた新たな戦を始めるだけさ。

 そして、また君は戦場へと追いやられるだろう。

 今度は人と人との戦に、ね。

 例え傷付き果てようとも、君はニンゲンどもから顧みられる事は無い」

 

 

 だけど、と。

 彼は優しくルキナを見詰めた。

 

 

「僕は君を絶対に傷付けない。

 君を傷付ける全てから、君を守るよ。

 ここに居れば、君はもう身勝手な『期待』や『希望』を背負わされて戦う必要なんか無いんだ」

 

 

 真っ直ぐなその眼差しに、偽りがある様にはルキナは思えない。

 彼は、ギムレーであるのに。

 

 だが、騙されてはいけない。

 流されてはいけない。

 

 愛していると、守ると、ルキナに繰り返しそう囁くこの邪竜は。

 ルキナの自由を奪い、ここに閉じ込めているのだ。

 彼の愛とやらが真実であるのだとしても、それは籠の中の鳥を愛でているだけに過ぎないのだ。

 

 

「あなたの言う愛なんて、所詮は籠の鳥を愛でているだけなんでしょう?

 こうやって私から自由を奪っているのがその証拠です。

 そんなものは、愛ではないです!」

 

 

 そう言ってやっても。

 彼は一向に堪えた様子も無く微笑む。

 まるで、子供の癇癪を見守っているかの様な眼差しだった。

 

 

「こうでもしないと、君はあの身勝手なニンゲン達の元に戻ろうとすんだろう?

 君は剰りにも長い間『希望』とやらの枷に縛られ続けていたからね。

『希望』の虜囚になっていても、それでもその生き方を止められないんだろう?

 まあ勿論、君がどうやったってここからは逃げられないけれど。

 でも、『希望』に縛られる為に君がここから逃げ出そうとする姿を見せ付けられてしまっては……。

 僕はきっと、君を縛ろうとするもの全てを壊してしまうよ。

 君に『希望』を押し付けるニンゲンを全て滅ぼせば、君はもうそれに縛られる事も無いのだから」

 

 

 今度は強く、少し息苦しさすら感じる程の力で彼は抱き締めてくる。

 

 

「でもそれはきっと、君の望む所では無いんだろう?

 僕はニンゲンの気持ちなんて分からないけれど、他でも無い君の心だからね。

 それ位は分かっているつもりさ。

 だから、これはお互いの為なんだよ」

 

 

 それとも、と。

 凍て付く様な冷酷さを孕んだ眼差しが、ルキナを見据えた。

 

 

「君が守ろうとしたモノを。

 ……そうだね……例えば、共に戦っていた仲間達を。

 殺してその死体を君に見せれば、君は諦めてくれるのかい?

 それとも、ここに独り閉じ込められるのが嫌であると言うのなら。

 彼等を殺して屍兵にして連れてくれば良いのかな?」

 

「それだけは……っ!!」

 

 

 その光景を想像してしまい、ルキナは悲鳴を上げて彼を翻意させようとする。

 そんなルキナを見詰め、大丈夫だよ、と彼は優しく頭を撫でた。

 

 

「君が逃げないと約束するのなら、その鎖だって外そう。

 君が望むのなら。

 ……僕から離れると言う願い以外なら、全て叶えてあげるよ。

 僕は君を大切にするし、傷一つ付けたりはしない。

 勿論、無闇に哀しませたりなんかもしたくは無い。

 ニンゲンが絶望する顔を見るのは愉しいけれど、君には絶望するよりは笑っていて欲しいんだ。

 僕は、君を幸せにしたい。

 ただそれだけなんだ」

 

 

 そう言ってルキナの唇に、彼は触れるだけの優しい口付けを残した。

 

 ルキナの自由をこうして奪っている事以外は、彼はとても優しくて。

 決して無体などは働こうとはしないし、嘘も吐かない。

 

 

 逃げられないこの絶望の中で。

 その終わりが来る事を望みながらも。

 

 何処か心の奥底には、この時間がずっと続けば良いと思う自分が居る事に。

 ルキナはまだ、気付かない振りをしている。

 

 

 

 

 

 

【Fin】

 

 

 

 

◆◆◆◆



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『Wunderkammer』

◆◆◆◆

 

 

 

 

 数多の伝承・神話に語られる神器などと讃えられた武具の数々。

 それらは遥か昔に時の川の流れの中へと姿を消し、もう今となっては人々が語り継いできた物語の中にのみその姿を残すばかりであったが……。

 

 

「中々壮観だとは思わないかい?

 如何なる神話や伝承の中であっても、ここまで『神器』とやらが一所に集まった事は無かっただろうね」

 

 

 広い部屋の壁一面に飾られた武具の数々を……。

 その何れもが神話に語られる人智を超えた力を持つ武器達を見回しながら、彼は『彼女』に語り掛ける。

 だが、『彼女』からの返事は無い。

 それに些か興を殺がれながらも、それも当然か、と彼は肩を竦めた。

 

 丁重に飾られた神器達の中で一際異質であり、だがその何れよりも大切に大切に扱われている『彼女』。

 豪奢な椅子に座らされ、決して逃げられぬ様に鎖で拘束された『彼女』には。

 人とは思えぬ様な美しさが、そこに宿っていた。

 

 だが。

 そこに『彼女』の意識は無い。

 

 彼の力によって深く深く眠りに就かされたその意識は、決して浮かび上がる事は無く。

 故にこそ、この人形の様な扱いも甘んじて受けているのだ。

 

 彼への敵意と恐怖と……そして何者にも負けぬ程の強い意志に輝いていたその瞳は、今は虚ろに彼を映すばかりで。

 凜としていながらも隠しきれぬ恐怖に震えていたその声を、もう聴く事が出来ない。

 

 ……『彼女』をここに連れてくる為にはそうするしか無かったのだが。

 どうしてか、『詰まらないな』と。

 彼らしからぬ思いが沸き起こる。

 

 そもそも。

 人が竜や神などを討つ為に使ったとされた武具の数々に興味を抱き、それを収集する様になったのがこの部屋を作った始まりであるが。

 あくまでも主目的は『神器』であり、その担い手ではないのだ。

 現に、担い手までもをこの部屋に連れてきたのは、『彼女』が最初で最後であった。

 

 彼らしからぬ行動に、彼自身ですら自分が何をしたいのかは分からなかった。

 この部屋に飾った『彼女』の姿を彼は存外に気に入ったので、それは些事であるのだが。

 

 

「数多の異界をも渡りながら集めるのは中々大変だったんだけど……。

 悪くはないね。

 少なくとも、世界を滅ぼす片手間の暇潰し程度にはなったんだから」

 

 

 ヒトが滅び去り後に残されるのは、彼等が争い続けてきたその歴史を見届けてきた『神器』だけ、と言うのも中々皮肉が利いている様で……。

 彼は昏い笑みを浮かべる。

 

 

「ねえ、君はどう思う?

 ニンゲンどもから『希望』とやらの何もかもを託された、最後の聖王は、何を想うんだい?」

 

 

 返事など決して無いのだと分かりながらも、彼は『彼女』に語り掛けるのを止めない。

 憎々しいナーガの眷族の末裔をこうやって自らの手に収めた事に、昏い喜びを感じて。

 だけど、『彼女』の目が自分を映さない事に、『彼女』の声を聴けない事に、一抹の寂しさを感じて。

 

 

「……何時か、君以外のニンゲンを滅ぼし尽くしたその時は、君に心を返そう。

 その時、君がどう絶望するのか……とても楽しみだな」

 

 

 その時を思い浮かべて、彼は嗤う。

 絶望に満ちた目に自分の姿が映る瞬間を、全て喪った事を知った『彼女』の悲哀と絶望に満ちた声を聴くその時を。

 想像して……、とてもとても待ち遠しく感じた。

 

 

「その時を、楽しみにしているよ。

 僕のルキナ……」

 

 

 

 

 

 

 

【Fin】

 

 

 

 

◆◆◆◆



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『その喪失は天佑と成るか』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 時の流れとは、過去から未来へと一方向に、戻る事も止まる事もなく、誰にも等しく訪れるモノではあるけれど。

 同じ時の長さであっても、そこにある重みは決して同じではない。

 同じく人であっても幼子と老境に差し掛かった者とでは、その一日の体感の長さが同じとは限らない様に。

 ヒトと、そうでない者とでは同じ時を歩めるとは限らないものであろう。

 長く生きても数十年……百年には届かぬ程度にしか生きられぬヒトと、幾千年も生き続ける竜。

 その両者が、時に対する価値観やその他の感性で共感し得るかどうかで言えば、決して容易な事ではない。

 種の違い……寿命の違いが、決して埋められない深い溝となって両者の間に横たわっているのだから。

 

 

 

◇◇

 

 

 

 数多の異なる世界異なる時間から、後の世で“英雄”と呼び表される様な存在を呼び出し戦力としているアスク王国の特務機関。

 ルキナからしてみれば、二千年もの遥か彼方の過去の伝説の英雄であり遠い遠い祖先でもあるマルスや、異界より伝わりし神話や伝承の数多の英雄が一同に会しているこの場所は、些か居心地が悪いモノであった。

 ルキナもこの世界に呼ばれたと言う事は、未来ではルキナもまた“英雄”とされているのかもしれないけれど。

 それはルキナからしてみれば遥か彼方の未来の事であろうし、それにそもそも……ルキナ自身は“英雄”と呼ばれる様な偉業を成した訳では無いと……そう思っていた。

 ルキナは本来自分が在るべきであった時間の人々を見捨てて過去へと渡り、人の身には過ぎた禁忌であろう過去改変を成して未来を変えようとしていた。

 ルキナのその行為が“絶望の未来”を回避する為の一助になったのは確かであろうけれども。

 直接的に人々を率いてギムレーと対峙したのは父であるクロムだし、ギムレーを真の意味で討滅せしめたのは……その身を以て彼の竜を討った父の軍師であるルフレであった。

 真の意味で“英雄”と呼べるのは恐らく彼等や彼等に率いられた仲間達であって。

 本来は有り得べからざる存在であったルキナではない。

 

 幾万幾億もの無限にも等しい可能性の世界の中には、“絶望の未来”とすら呼ばれたあの未来でも邪竜を討ち果たせた“ルキナ”が居るのかもしれないが。

 少なくとも今ここに居る自分はそうでは無い。

 恐らく本来ならば歴史書に残るかどうかすらも怪しい自分が此所に居る事が、ルキナにとっては不可解かつ何処か落ち着かないのだ。

 まあ、ここに居る人々の殆どが、歴史に名を綺羅星の如く列ねる“英雄”達なのだとしても、それは彼等にとっては遠い未来の話で。

 ここに呼ばれた時点での彼等にとっても、少し不思議な称号であるのかもしれないが。

 

 幾多の可能性、幾多の時間が交錯するこの世界では、実に不可思議な事が多く起こる。

 例えば、異なる可能性を辿った“自分”自身に出逢ったり、もう逢えぬ筈の大切な人に出会えたり、と。

 それは一つの奇跡と言えるのかもしれないし、居るのかどうかは知らないが、神の粋な計らいとでも言えるのかも知れない。

 

 ルキナでも知っている伝承で非業の死を遂げた者が仲間と楽し気に語らっていたり、幼くして両親と死に別れた者が若かりし頃の両親と出逢えたり、と。

 この世界の出来事が、元の世界に帰還した時にどの様な扱いになるのかはルキナには分からない。

 泡沫の幻であったかの様に記憶の中にすら残れないのか、朧気な夢の様に記憶の奥底に眠るのか。

 いや、そもそもここに存在する自分がルキナが認識している“自分”であるとも限らない……言うなれば水面に写った月影の様なモノなのかもしれないが。

 …………。

 何にせよ、有り得ない筈の、それでも何時か何処かで誰かが願った様な、微睡みの中で見た幸せな夢の様なこの時間が、無意味である事はきっと無いのだろう。

 

 

 そしてそんな事を考えながら歩いている内に、ルキナは人気の無い裏庭へと辿り着いて居た。

 この季節ではこの時間帯では日が当たらない場所も多く、やや薄暗い場所も多い為にあまり寄り付く者も居ないこの裏庭は、ここ最近はずっとある存在がたむろする様になっていた。

 今日もその姿を認め、半ば無意識にもルキナの身体は強張る。

 

 異なる可能性を辿った“英雄”。

 同じ存在でも、“違う”者。

 そう言った存在が呼ばれると言うのならば、確かに『彼』はこの世界に呼ばれ得る存在ではあるのだろう。

 例えその本質が“英雄”とは程遠い者なのだとしても、だ。

 

 軍師ルフレが辿り得た可能性の果て。

 “ルフレ”であって、ルフレではない者。

 世界を滅ぼした邪竜、ギムレー。

 ルキナにとっては忘れる事など出来ぬ怨敵であり、どうしようもない恐怖を抱いてしまう相手でもある。

 

 何の因果か、この世界に呼び出された邪竜は、自身の記憶をほぼ全てと言って良い程に喪っていた。

 彼に残されていたのは、“ギムレー”と言う名前と、自分が邪竜であると言う意識だけ。

 ルキナが居た未来を滅ぼした記憶も、ある意味自分自身である“ルフレ”の事についての記憶すら欠落していた。

 ……まあ、“今ここに居る”ギムレーが、ルキナの居た未来を滅ぼしたその張本人であるのかどうかに関しては、彼に一切の記憶が無いが故に確かめる術など無いのだけれども。

 

 ギムレーが呼び出された当初は、ルキナは彼を全力で警戒し、何かあれば即座にファルシオンで斬り捨てられる様にしていたが。

 全ての記憶を欠落させてしまったが故に、ギムレーはそんなルキナの憎悪に……率直に言えば困惑していた。

 口を開けば何かと物騒な物言いをするギムレーだが、契約の軛は逃れられないのか、彼の力が味方へ牙を剥く事は無く。

 協調性はほぼ無いとは言え、彼もまた“ルフレ”である為なのか大局を判断する能力には長けていて、決して仲間と協力出来ないと言う訳でもない。

 ルキナはこの特務機関に呼ばれた“英雄”としては古株の部類であり、だからこそ新たに呼ばれた“英雄”がここに馴染めるまで手助けする事が多くあった。

 ギムレーの事は敵視していたルキナであったが、その癖がどうしても抜けなかったのか、不本意ながらギムレーを手助けする事が幾度かあって、それが切欠でギムレーの手綱を握っておく様にと皆から任される様になってしまっていた。

 …………万が一の事があってもファルシオンで対抗出来るルキナは、確かにギムレーを監視する者としては適任なのかもしれないが……。

 

 そんな感じに嫌々ながらもギムレーと接する機会の増えたルキナであったが、接する時間が増えれば否応なしに新たに気付く事は多い。

 例えば、“記憶が無い”と言う事が、ギムレーにとっては当初ルキナが思っていた以上に深刻な状態であると言う事。

 例えば、ふとした拍子に酷く寂しげな……それでいて虚ろな表情を見せる事。

 そして……ほんの時折ではあるが、明らかに“ギムレー”ではない者の……具体的には“ルフレ”の影が垣間見得るのだ。

 

 知れば知る程に、接すれば接する程に。

 ルキナは、このギムレーが、“ギムレー”と名乗るこの存在が、よく分からなくなっていった。

 彼に宿る力は間違いなく邪竜のそれであるし、“ルフレ”と“ギムレー”が分けて語る事が出来ない存在である様に、彼は確かに“ギムレー”なのだろう。

 しかし、果たして全ての記憶を喪った後に残されたその心が、ルキナが対峙したあの邪竜と同じであるのだろうかと、そう迷わずにはいられない。

 あの絶望の未来で屍兵を操り人々の抗いを嘲笑いながら全てを灰塵に沈めたあの邪竜と、契約の軛があるとは言えこうして数多のヒトと共に闘うこのギムレーで、どうしても重ならない部分が目についてしまう。

 …………だからと言って、彼の存在を素直に肯定してやる事はルキナにはやはり難しいのだけれども。

 

 

 ギムレーは全体的にやや薄暗い裏庭の中でも、特に薄暗い木陰に座り、膝の上に本を広げてそれを読み耽っていた。

 その横顔は、どうしても見慣れた“ルフレ”のそれに見えてしまう。

 その幻影を頭を振って追い払い、ルキナは少し離れた所からギムレーに声を掛けた。

 

 

「珍しいですね、あなたが呪術の本以外を読んでいるなんて」

 

 

 喪った記憶を取り戻そうとしてか、ギムレーは頻繁に様々な呪術的な儀式を試していた。

 その成果は一向に上がっていないが、諦めが付かないのかそれとも“何か”が彼を駆り立てているのか、異界の呪術の本を読み漁っては試行錯誤を繰り返し続けているのであった。

 しかし、今ギムレーが手にしているのは表紙の感じからして呪術関係の本では無いのだろう。

 どちらかと言えば、神話や伝承の類いを纏めた本の様に思える。

 

 

「……ああ、君か。

 偶にはこう言うのも悪くは無い。

 それに、視点を変える事で見えるモノもあるからね」

 

 

 ルキナを見上げて、逆行で眩しかったのか赤々と染まった目を眇めながらギムレーはそう答えた。

 読書はもう切り上げるつもりなのか、ギムレーは読んでいた本を閉じるとそれを小脇に抱えて立ち上がる。

 

 ルキナとギムレーでこうやって応答が出来る事自体、元の世界では有り得ない事であったし、ギムレーが召喚されてきた当初では、ルキナと彼の間でこんなやり取りが成立するなど有り得なかったであろう。

 何だかんだと言って、ギムレーが召喚されてもうそこそこの月日が経っている。

 それだけ、不本意であろうとも共に過ごした時間があると言う事だ。

 

 

「そう言えば、ここであなたに出会ってもう半年近くになるんですね」

 

 

 何となくそう溢すと、ギムレーは「それで?」と言いたげにルキナを見詰める。

 

 

「ここに僕が呼び出されたのは194日前で、君に初めて斬りかかられかけたのは191日前だけど。

 そんな事に何の意味があるんだい?」

 

 

 ルキナですら詳しくは覚えていなかった日数までギムレーがさらっと答えた事にルキナは内心驚きながらギムレーを見やった。

 

 

「いえ、その、半年とか一年と言う時間の流れは一つの区切りになるものですから……。

 特別な事があった日を記念日として、毎年その日にお祝いしたりとか……」

 

「記念日……?

 人間は不可解な事をするんだね。

 同じ日付であったとしても、その“特別な日”は最初の一度だけだろう?」

 

「ええ、まあ、確かにそうですね。

 しかし驚きました……召喚された時の事もハッキリ覚えているんですね」

 

 

 記念日と言う概念がギムレーの中に無いのはまあ分からなくも無いけれど。

 時間感覚が人以上に長く竜にとっては一年も数年でも大差ないだろうに、竜であるギムレーが召喚されてきた時を態々経過日数までをも覚えているのは意外に過ぎた。

 

 

「……記憶が殆ど無い僕にとっては、あの日から今日までの記憶が今の所は僕の全てだ。

 一日だって忘れた事など無いに決まっているだろう。

 ……嘘だと疑っているのかい?

 それなら……。

 君と直接顔を合わせたのは召喚の翌日、君と初めて言葉を交わしたのは191日前でその時の言葉は『何が目的でここに?』だった、君と初めて共に戦場に出たのは176日前でその時は君が討ち漏らした重装兵を僕が代わりに止めを差した、それから──」

 

「も、もう良いです!

 分かりました、分かりましたから!」

 

 

 放っておくと延々と続けそうなギムレーにルキナは慌てて待ったをかけた。

 ルキナですら最早朧気になっている事をこうも鮮明に挙げられていくと、確かにギムレーは全て覚えているのだろうとルキナも納得する。

 

 

「竜にとって一日一日に大した重みは無いのかと……正直そんな風に思っていました」

 

「……確かに、百年も生きられない君たち人間と、竜とでは時間の感覚は同じではない。

 でもだからと言って、竜にとっての一日一日の時間に価値が無いなんて証明にはならない。

 僕は、自分が過ごした時間の事はもう絶対に忘れないよ」

 

 

 既に記憶を喪っているからだろうか。

 ギムレーは、記憶に対しては人一倍執着を見せている節があった。

 その強い思いをこうして垣間見て、そしてギムレーが喪ったのであろう記憶を思って。

 死と絶望を振り撒き世界を破滅させたその記憶が戻る事が、ルキナやここに集った者達やこの地に住まう人々にとって、そして何よりもギムレー自身にとって、良い事なのだろうか……とそう詮無い事を考えてしまう。

 もしその記憶が戻ってしまえば、今こうして言葉を交わしている“彼”が消えてしまう様な気がして。

 

 ルキナはそっと、“彼”に喪われた記憶が戻る事が無い様にと、誰とも知れぬ神に祈るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『常世の橘はこの手の中に』

ほんのりと『幸せの食卓』(ルフルキ)と同じ世界線上のif世界です。


◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 鶏肉と香味野菜から取った出汁をベースにした、トマトと人参の卵スープ。

 キャベツとレタスのサラダには、玉葱をたっぷり加えたポテトサラダを添えて。

 メインは、デミグラスソースをたっぷり掛けたチーズ入りのハンバーグ。

 デザートには、桃の糖蜜漬け。

 

 ルキナの目の前に並べられた数々の料理は、こんな世界では王公貴族でも到底手が届かない様なそんな貴重な新鮮な食材で作られていた。

 

 料理を見たルキナの眼差しが、苦悩に歪む。

 遣りきれない哀しみや絶望、そして幾許かの諦めが綯い混ぜになった底無しの嘆きが、ルキナの表情を彩った。

 

 

「ルキナ、どうしたんだい?

 食欲が無いのかい?」

 

 

 心配そうに眉を寄せた“彼”の左手が、そっとルキナの頬に触れる。

 触れる指先は何処までも優しく、まるで壊れ物に触れるかの様であった。

 

 

「熱とかは無さそうだけど……。

 体調が悪いんだったら、ちゃんと言ってね?

 薬でも何でも用意するから」

 

 

 紅いその目に浮かぶのは、紛れも無いルキナへの気遣いで。

 だからこそ尚の事、ルキナの胸を締め付ける。

 ああ、どうして、と。

 

 

「…………いえ、体調には問題はありません」

 

「そうかい? なら良かった……。

 君にもしもの事があったらと思うと、僕は……。

 ……体調に問題がないなら、ちゃんと食べた方が良いよ?

 お腹だって空いてるだろう?」

 

 

 優しい言葉を掛けてくる“彼”は、昔と何一つ変わらない様でいて。

 だけれども、もう二度と戻れない程に歪み壊れ果てていた。

 それを誰よりも分かっているからこそ、どうしようもなく苦しい。

 

 

「今日も腕によりを掛けて作ったんだよ。

 ほら、どれもルキナが好きな料理だろう?

 味には自信があるんだよ、喜んで貰えたら嬉しいな」

 

 

 ニコニコと“彼”はそう優しく微笑む。

 

 “彼”は、ルキナが料理に手を付けるまではずっとこうだ。

 ニコニコと優しく微笑みながらも、決して視線を逸らす事は無いし、ルキナが食べるのを見届けるまではそこを動く事はない。

 枷で縛られたりしている訳ではないけれど、ルキナがこの場を逃げ出す事は不可能だった。

 

 それをよく理解しているから。

 ルキナは大人しく並べられた料理へと手を付ける。

 確かに料理は何れも美味しくて。

 優しくて、変わらない……『彼』の料理の味そのままだった。

 それが、より一層辛くて。

 何もかも壊れてしまった筈なのに、それでも『彼』の様に振る舞う“彼”の真意が掴めなくて。

 そして何よりも。

 

 最早自分が愛していた『彼』ではない事を分かっていながらも、『彼』の様に振る舞う“彼”を、憎悪しながらも……それでも確かに幾許かの愛しさすらも感じてしまっている自分自身を許せなくて。

 ルキナは、拷問でも受けているかの様に、吐き出したい衝動を抑えて無理矢理に出された料理を口にする。

 

 かつて『彼』──ルフレが、ルキナの為に一生懸命になって磨いた料理の腕前を遺憾無く発揮した料理は、何れもルキナの為だけにルキナ好みの味付けになっていて。

 だからこそ、もう戻れない幸せだった時間の思い出が、ルキナの胸を鋭い切っ先で掻き毟った様に、心に激しい痛みを与えるのだ。

 

 運命を変える事が出来ずに“ギムレー”として覚醒させられ世界を滅ぼす邪竜へ成り果ててしまった“彼”が、どうしてこうやって幼子がままごとをするかの様に、かつて『ルフレ』としてルキナと過ごしていた時間を焼き直す様に演じようとしているのか。

 その理由をルキナが知る訳など無くて。

 

 それなのに。

 これが、“ギムレー”の演技だと、狂った邪竜の戯れなのだと、そう理解しながらも。

 それでも、“ギムレー”が見せる、何処か歪な『ルフレ』の姿に、ルキナの心は囚われてしまっている。

 

 ルキナの心も、既に歪に軋み始めているのかもしれない。

 

 目の前の“ギムレー”は、『ルフレ』ではないのだと頭では分かっていても。

 心は、“ギムレー”が見せる『ルフレ』の幻影を追い掛けてしまう。

 “彼”は世界を絶望に落とし人々を滅ぼさんとしている邪竜であると、そう分かっている筈なのに。

 誰よりも愛した『彼』がそこに居る様な錯覚すら感じているのだ。

 

 もう戻れない『ルフレ』との幸せだった日々に心を囚われ想い焦がれながら、“ギムレー”の虜囚として、彼のままごとの様な戯れに付き合わされる。

 それが、今のルキナの生活の全てであった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 今日もルキナが無事に料理を食べてくれた事に、そして料理に違和感を感じなかった事に、“ギムレー”は安堵する様に息を吐いた。

 そして無意識の内に、ローブの下に隠された自身の右腕を掴む。

 

 ローブの下、“ギムレー”の右腕の肘から少し先の腕の肉は、抉られた様に無くなっていた。

 この程度の損傷ならば何もせずともその内に治るものではあるけれど、それまでは“痛み”をどうしても感じてしまう。

 だが、その“痛み”に“ギムレー”は愛しさすら感じていた。

 

 “ギムレー”がこうして傷を負っているのは、何者かの攻撃を受けたと言う訳ではない。

 “ギムレー”自らが、その部位の肉を削ぎ、血を流したのだ。

 …………ルキナに己の血肉を与える、ただその為だけに。

 

 ルキナに作った料理には、必ず毎食一皿は“ギムレー”の血肉が混ぜられている。

 今日のメニューなら、スープに血が、ハンバーグには肉だ。

 

 初めの内は、違和感を持たれない様に、スープなどに血をほんの少し混ぜるだけであったが、最近は血に留まらず肉も混ぜる様になっていて。

 少しずつ混ぜ続けた事が効を奏して、ルキナの身体はゆっくりゆっくりと時間を掛けて、ギムレーの血肉を受け付ける様になっていった。

 

 元々、ルキナ達聖王家には、薄いとは言えナーガの血の因子が代々流れている。

 竜の力を受け入れる土台は、元々備わっていたのだ。

 故に、ルキナを壊さない様に慎重に血肉をゆっくりと与えていけば、ギムレーの眷族としてヒトを外れた存在にさせる事は難しくはなかった。

 

 今のルキナは、“竜”と呼ぶにはまだ遠いが、既にヒトと呼ぶのは難しい存在になっている。

 恐らくまだ本人にその自覚は無いが。

 このまま“ギムレー”が血肉を与え続けていれば、眷族と言う枠組みすら越えて“ギムレー”と同じく“竜”になれる日もそう遠くはない筈だ。

 

 その日を想い、“ギムレー”は隠しきれぬ喜びに身を震わせて微笑みを浮かべる。

 

 聖王の末裔、最後のファルシオンの担い手、ギムレーにとっては、憎くて疎ましい存在。

 だけれども。

 誰よりも愛しく、何にも代え難い程に大切で、この命よりも大事な存在。

 それが、“ギムレー”にとってのルキナだ。

 

 どうしてギムレーたる自身がこうまでルキナに執着しているのか、どうして破滅と絶望の邪竜である筈の自分がルキナへと狂おしい程の愛情を抱いているのか。

 それは、“ギムレー”がギムレーとして覚醒する前、『ルフレ』と言う名のヒトとして生きていた時に、ルキナと深く結ばれたからなのかもしれない。

 

 今の自分が『ルフレ』なのかギムレーなのか、“ギムレー”には最早判別が付かない。

『ルフレ』にとって大切であったから、“ギムレー”もルキナをこうも愛しく想っているのか。

 それとも、『ルフレ』の存在とはまた別に、“ギムレー”自身がルキナを愛しく想ったのか。

 そこを区別する術はなく意味もない。

 

 “ギムレー”にとって、ルキナは何よりも愛しく決して手離す事など出来ぬ存在であると言う事実だけが、大切な事であった。

 

 狂おしく愛しく大切な存在ではあるけれど、ルキナはヒトで。

 そして“ギムレー”は“竜”であった。

 そこは変わらない、変えられない。

 ヒトと“竜”では、共に生き続ける事は出来ない。

 

 何時か、ルキナは自分を置いて逝ってしまう。

 ヒトと“竜”の間にある『寿命差』と言う名の絶対の壁が、時の軛が、“ギムレー”から何時かルキナを奪ってしまう。

 後に遺されるのは、永遠に埋まらぬ欠落を独り抱えて生き続ける“ギムレー”だけだ。

 

 それを“ギムレー”が受け入れられる筈なんて無くて。

 だからこそ、その壁を壊してしまおうと、“ギムレー”は決めた。

 

 ギムレーとして覚醒してしまった以上、最早“ギムレー”はヒトとしては生きられない。

 ならば、ルキナを“竜”にするしかない。

 例えその選択が、ルキナを未来永劫に渡って苦しめる事になるのだとしても。

 

 そうして“ギムレー”の血肉を知らぬ内に与えられ続けたルキナは、“ギムレー”の思惑通りヒトを外れ“竜”へと近付いていって。

 ルキナが日々自分に近付いている事を確認しては、“ギムレー”は歓喜に打ち震えていた。

 

 だが、そうやってルキナが“竜”に成ってゆく喜びを抱きながらも、不意に胸がざわつくのだ。

 

 それはルキナの為に自分の血肉を混ぜて料理を作っている時や、ルキナがそうやって作った料理を口にした瞬間に訪れる。

 強い後悔の様な、深い悲哀の様な、そんな名状し難い感情が“ギムレー”の心を吹き荒れるのだ。

 作った料理を破棄したり、ルキナが料理を口にするのを止めようとしたりしたくなる衝動。

 それらはルキナに血肉を与えようとし始めた時に、何よりも強く表れていた。

 最近はその頻度も大分少なくなったが、それでも時折抗い難い程の強い衝動が芽生えてしまう。

 

 それは、『ルフレ』の罪悪感からなのだろうか?

 時にこの頬を濡らす滴は、『ルフレ』の心の懺悔なのだろうか?

 

 分からない。

 “ギムレー”には、最早理解しようが無い事だ。

 

 それに、ルキナも“ギムレー”も、もう後戻りなんて出来る筈がない。

 ルキナは既にヒトではなくなり、そして戻る術など無いのだから。

 ルキナには、“ギムレー”の側へと来るしか、最早道がない。

 それなのに今更悔いてどうなると言うのだろう。

 

 ルキナが“竜”に成れば、“ギムレー”はずっとルキナと共に居られる。

 この手が触れても、その柔肌をこの爪が引き裂いてしまう事も無くなる。

 口付けを交わしても、この牙がその唇を噛み切ってしまう事も無くなる。

 きっと『前の』様に、ルキナと触れ合える様になるのだ。

 

 ルキナが望むのなら、忌々しいヒトどもも、少しは残してやっても良い。

 ルキナが望むのなら、何処へだって連れていこう。

 

 

 だから、どうか。

 永劫に等しい時の中を、ずっと傍で。

 共に──

 

 

 そう祈る様に願いながら。

 “ギムレー”は、ルキナが“竜”と成る日を待ち望むのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆



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『その眠りは偽りの幸福であれども』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 まるで時間すらも死んでいるかの様な、そんな停滞と静寂に満ちた空間に存在するのはたった二人だけ。

 ……いや、正確には、一人……と言うべきなのだろうか。

 

 まるで棺の様にすら見える豪奢なベッドに横たわる女は、死んでいるかの様に身動ぎ一つしない。

 ただ、近付けばほんの微かにだか掠れる様な吐息の音が聞こえてくるので息はしている事は分かる。

 剰りにも深い深い眠りに就かされた彼女は、眠りに就いたその瞬間から……文字通り何一つとして変わり無くそこに在った。

 時の流れから切り離されている彼女は、彼女を眠らせた存在が死にでもしない限りはずっとそのままそこで変わらず眠り続けるのだ。

 何百年でも、何千年でも。

 

 全てから取り残される彼女が何時か目覚める日は来るのだろうか?

 そして、それは果たして彼女にとって幸せな事なのだろうか?

 その答えは、誰にも分からない。

 

 

「ルキナ……」

 

 

 眠る彼女の耳元で吐息の様に囁かれた小さな呟きは、彼女の瞼一つ震わせる事は無い。

 

 それに安堵すると共にどうしようもない哀しみを覚えたギムレーは、苦悩に満ちた深い溜め息を吐いた。

 

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 

 数奇なる運命で出逢ったギムレー……いや、ルフレとルキナは、何時しか恋仲となり、そして共に待ち受けていた絶望の運命を乗り越えた……筈だった。

 

 ……何が間違っていたのだろうか、と最早どうする事も出来ない今になっても、飽きる事なくそう何度も思ってしまう。

 

 運命を変えた筈だった。

 ギムレーは封印された筈だった。

 だけれども。

 

 封印された筈のギムレーは、ルフレの内で力を蓄え続け、そしてその内からルフレを食いつくした。

 そこに残ったのは、ギムレーへと変質してしまったルフレだけだ。

 

 ルフレや他の誰もが思っていた以上に、『器』とギムレーは極めて強い繋がりがあったのかもしれない。

『器』が生存していれば、封印すらも食い破ってしまえる程に……。

 

 

 ルフレが、ルキナと共に生きる未来なんて望まなければ。

 この命を惜しまずに、世界の為に捧げていれば。

 この命を以て、ギムレーを諸共に消滅させていれば。

 こんな“未来”には、ならなかったのかもしれない……。

 

 

 ギムレーとして変質してしまったルフレは、ルフレとしての意識は完全には壊される事は無かったが、自分の意思ではどうする事も出来ぬ程の破壊衝動に蝕まれ、望まぬ破滅を世界へと振り撒き始めてしまった。

 あんなにも守りたかった世界を、平和を、自分の手で壊していく恐怖。

 大切な仲間たちを、この手で殺していく絶望。

 自分自身の意思とは全く解離してしまっている様なその行動は、それによってルフレを絶望の淵へと沈め苛み続ける。

 ルフレとしての意識が絶望すればする程、ギムレーとしての力は益々強大になっていくのだから、全く以て笑えない話だ。

 

 ルフレは、死にたかった。

 誰かに自分を止めてほしかった。

 ルフレ自身では、ルフレの意識では、ギムレーを自死させる事は出来ない。

 それどころか、自らの死を願えば願う程に、ルフレ自身の思いとは裏腹に世界へと死を撒き散らしていく。

 ならばこんな自意識など消えてしまえば良いと思っても、それすらも叶わない。

 終わりなんて何処にも見えない絶望の泥濘に沈んだルフレの意思は、這い上がろうと足掻く事すら許されていなかった。

 

 だから、もし自分を止められるものがあるとすればそれは真に神竜の力を宿したファルシオンだけだ。

 それはあくまでも『封印』と言う形になるのだろうけれども、この世で唯一今のルフレを止める事が出来る。

 だからこそ、ルフレはその身をファルシオンが貫く日を夢に見続けているのだ。

 

 ……この世界には、ファルシオンを振るう事が出来る担い手は『二人』居る。

 

 一人は、ギムレーの手によって殺されたルフレにとっては何よりも大切な友であり半身であった父クロムからファルシオンを受け継いだ『ルキナ』。

 そしてもう一人は……遠い“未来”から未来を変える為にやって来ていた、ルフレにとって誰よりも愛しい人であるルキナ。

 

『ルキナ』はまだ少し幼く、何時か“覚醒の儀”を果たしてこの身にファルシオンを突き立てにやって来る日が来るのだとしても、それはまだまだ先の事になるだろう。

 ならば……、と、そうなるのだけれども。

 

 ルフレが誰よりも愛しているルキナは、今は決して覚めぬ眠りに囚われている。

 ルキナを眠りに捕らえたのは、他の誰でもない……ルフレだった。

 

 ルフレがギムレーと化した際に、真っ先にその破壊の矛先が向きそうになったのは他の誰でもない……ルキナであった。

 ギムレーの意識によって歪んで壊れた……最早“愛”とは言えない執着によって、良くてギムレーの眷族に、最悪の場合は殺して屍兵にして、心身共に自分のモノにしようとしたギムレーを、残されたルフレの意識が必死に止めたのだ。

 ギムレーとしての意識がルキナに危害を加える前に、ルキナをギムレーが存在する限り解けぬ永遠の眠りに引きずり込んだ事で、ルフレはルキナを守った。

 ギムレーが望んだ形ではなくともルキナを手に入れた事に満たされたギムレーとしての意識はそれ以上ルキナに手を出す事はなく。

 それで本当に正しかったのかは、今となってはルフレには分からないが、とにかくルキナの身や心を壊す事だけは阻止する事に成功したのだ。

 

 

 今のルキナは、ずっと“幸せ”な夢を見ている。

 

 ルキナが生きたかった未来、生きたかった世界……。

 

 父であるクロムが居て、母がいて、仲間達が居て、……そして愛するルフレが共に居る。

 そんな暖かく細やかで幸せな夢を、終わる事がない夢を見ているのだ。

 

 この世界ではもう二度と叶わぬその夢を、“幸せ”を見続けているルキナは、きっと“不幸”ではないのだと……そう信じたい。

 それが『虚像の幸福』なのだろうと言う事は、ルキナを眠りに就かせたルフレ自身が誰よりもよく理解している。

 万が一目が覚めた所で、ルキナを待っているのは最早どうする事も出来ない絶望的な現実だけなのだから。

 ルキナが何時か目覚めて現実を突き付けられる日が来てしまうのならば、そんな『虚像の幸福』はルキナを苦しめる猛毒にしかならない。

 

 ああ……だけれども。

 

 何時かギムレーとしてルフレが『ルキナ』に討たれて、ルキナが偽りの幸せから解放される日が来てほしいと……そう願う一方で。

 その未来が。

 ルキナが愛した全てが喪われ、ルフレすらも居ないその世界が、果たしてルキナにとって幸せな未来なのか、それは分からない。

 絶望だけしかない未来しかルキナに残されていないと言うのなら……このまま永遠に“幸せ”な眠りの中に囚われていた方が良いのではないだろうか。

 

 目覚めなければ、それが偽りであると言う事にも気付かないのならば。

 目覚める事が“幸せ”であるとは限らない。

『虚像の幸福』に沈む事こそが、ルキナにとって唯一の“幸せ”になるのなら……。

 

 

「ルキナ……僕は──」

 

 

 最早ルキナにも、ギムレーと化したルフレにも、本当の“幸い”なんて残されてはいないのだろうけれど。

 それでも、ルフレが存在する限りは、ルキナの偽りの“幸せ”を守り続けよう。

 

 眠り姫が目覚める日が来る事が無いようにと願いながら、ルフレはルキナの唇へと、永遠の愛を誓う様に、そっと口付けを落とすのであった……。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『時の輪環、砂塵の城』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 地表を舐める様に劫火が全てを呑み込んでゆく。

 そこにあった生命を、営みを、歴史を、その一切を焼き尽くして。

 屍達の怨嗟すら一握にも満たぬ灰へと変えながら、天をも焼き尽くさんとばかりに火柱を上げて世界の全てを焦がしゆくその炎を、『僕』はぼんやりと眺めていた。

 

 ここがどんな土地だったのか、全てが灰塵に帰した今となっては何も分からない。

 足元の様々なモノの燃え滓が混ざった土塊を掻き取ってみても、そこにはただただ数多の生命が炎に蹂躙された痕跡しか見付からなかった。

 肉が焼け爛れ骨までをも焼き尽くされた臭気に混じって、血や鉄などの臭い、そして材木や何かよく分からないモノが燃えた臭いも漂っていて、それらが混じって言葉には表現し難い独特の臭気となっている。

 

 ここで、何か大きな戦いでも起きていたのだろうか……?

 

 ぼんやりとした頭で考えてみても、何も分からない。

 見渡す限り広がる焦土には、動く者は『僕』を除いて他には無く。

 残り滓を丁寧に咀嚼するかの様な焔がチラチラと視界の端に揺れるだけだ。

 

 “何か”。

 とても大切な“何か”を、探していた気がする。

 とても大切な“誰か”を喪ってしまった気がする。

 その“何か”を、“誰か”を、喪ってしまったからこそ。

『僕』のこの胸には、何にも埋め難い虚ろが広がっているのだ。

 

『僕』は、“何を”喪ってしまったのだろう。

 “誰”を喪ってしまったのだろう……。

 

 生けとし生けるモノ全てを喰らわんとする業火の熱をその肌で感じながら、不確かな程にぼやけている“記憶”の海を探ろうと、『僕』はそっと目を閉じた。

 

 その途端に瞼の裏を過ったのは、深く澄み切った……夜明けの蒼。

 この手に触れたのは、温かな掌の幻。

 耳に聞こえたのは、“誰か”が僕を呼ぶ声……。

 微かに見えたその姿を離さないように捕まえて、『僕』は再び目を開けた。

 

 そう、そうだ。

『僕』が喪ったのは──

 

 

「ルキナ……」

 

 

 ポツリと溢れ落ちたその名前を、漸く見付けたその名前を。

 もう二度と無くさない様に、見失わない様に、離さない様に。

『僕』は何度も何度も呟く。

 

 そう、そうだ。

 ルキナ……、ルキナだ。

 僕の大切な人、大切な宝物。

 愛しい愛しい、お姫様。

 決して無くしてはいけなかった存在。

 

 どうして、思い出せなかったのだろう。

 どうして、喪ってしまったのだろう。

 

 一度その名を思い出せば、その姿も、その眼差しも、その温もりも、その声も、こんなにも色鮮やかに思い描けるのに。

 どうして、『僕』は……。

 

 いや、今はそんな事を考えている暇はない。

 

 ルキナの姿が、何処にも見えないのだ。

 この世界の果てまで続いている様な焦土の何処かに、ルキナは居るのだろうか?

 分からない、だけど。

 

 ルキナを、見付けなくてはならない。

 そして、ルキナを助けなくては、ルキナを守らなくてはならないのだ。

 それが、『僕』の望みであり、『僕』がここに居る意味なのだから。

 

 愛しい人、愛しい子。

 僕の大切な宝物。

 守ってあげなくては。

 もう『僕』だけがあの子を守ってあげられるのだから。

 

 気を抜けば再びあやふやになりそうな思考を頭を振って切り換えた『僕』は、ルキナの姿を探して焦土を彷徨い始めた。

 

 日が沈み、夜が明け、再び地平へと日が沈む。

 幾度夜が明けたのだろう、幾度日が沈んだのだろう。

 それは一々数えていないし、『僕』にとってはどうでも良い事だった。

 燃える様な赤か光一つ無い漆黒か、そのどちらかしかない空の下。

 何処までも何処までも続く焦土を、生命あるモノ全てが滅んだ大地を、踏み締めて。

 ルキナの姿を探しながら『僕』は彷徨い続けた。

 

 時折燃え残った亡骸が見付かるけれど、その何れもがルキナとは似ても似つかぬ者達で。

 だから、ルキナは死んでなんていないだろうと、『僕』は思った。

 

 しかし、一体ルキナは何処へ行ってしまったのだろう。

 そして、一体どうしてこの世界はこうなってしまっているのだろう。

 

 果ての無い焦土を歩きながら、滅び去った世界を彷徨いながら、『僕』はぼんやりと考え続けた。

 業火の海の中に立っていたあの時よりも前の事に関しては、『僕』の記憶は酷く曖昧であった。

 確かなのは、『僕』が『ルフレ』であると言う事、ルキナの事、彼女を愛していると言う事、彼女を守らなければならないと言う事だけで。

 でも、そんな曖昧な記憶の中でも、世界がこんな姿になる前があったと思うのだ。

 

 大事なモノがあった気がする。

 大切な人が居た気がする。

 守りたいモノがあった気がする。

 

 だけれども、『僕』はそれを思い出せない。

 どうしてそれらを喪ってしまったのか、そしてどうして世界が滅びてしまっているのか。

『僕』には、何一つとして分からない。

 

 いや、一つだけ。

 触れればゾワリと背筋が粟立つ様な……そんな嫌悪感とも恐怖とも憎悪ともつかぬ感情が沸き立つ『名』が、『僕』の曖昧な記憶の中にも異質な存在感を放ちながら沈んでいた。

 

 邪竜、『ギムレー』。

 

 それが、この世界を滅ぼしたのだろうか?

『僕』から、ルキナを奪ったのだろうか?

 その存在の所為で、『僕』は…………。

 

『ギムレー』、そう、きっとそれが、『僕』からルキナを奪っていったのだ。

『ギムレー』に囚われたルキナを救う。

『ギムレー』の手から、ルキナを守る。

 愛する人を、愛しい存在を、取り戻す。

 それこそが、『僕』が生きる意味なのだ。

 

 

 しかし『ギムレー』の力は強大で、しかも世界を滅ぼし尽くしたソレが今何処に居るのか、『僕』には知り様がない。

 この世界にまだ居るのか、或いは何処かへと去ったのか。

 それすらも分からないのだ。

『ギムレー』に囚われたルキナが何処に居るのかすら……。

 

 だが。

 ならば。

 

 “やり直して”しまえば、良いのだ。

 時を巻き戻し、『ギムレー』が『僕』からルキナを奪っていったこの“未来”を、『僕』がルキナを喪うこの“結末”を、“変えて”しまえば良い。

 

 

 過去に戻り、ルキナを“取り戻す”のだ。

 

 

 そうすればきっと『僕』は、喪った全てを“取り戻す”事が出来る筈なのだから。

 過去は“変えられる”、未来は“変えられる”、結末は“変えられる”。

 全ての禍罪は祓われ、その罪業を“無かった事”に出来る筈なのだから。

 そして、新しく“やり直した”その先で、きっと『僕』はルキナと共に居られる筈なのだから。

 

 

 

「大丈夫だよ、ルキナ。

 必ず『僕』が助けるから。

 だから──」

 

 

 

 さあ、“やり直そう”。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 “戻った”そこは、あの果てない焦土だけが広がる滅びた地とは全く異なる……生命溢れる大地が広がる世界だった。

 

 微風に揺れる木の葉が奏でるざわめき、眠る生き物達の吐息と鼓動の音。

 見上げた夜空には、月の輝きと天を多い尽くす程一面に輝く星々の光。

 

 自分の吐息と大地を踏み締め行く音しか存在しなかったあの“未来”とは、何もかもが違い過ぎて戸惑ってしまう程だ。

 星が唄う様に瞬く夜空が、『僕』の曖昧な記憶の中に存在してあるのか無いのかは分からないけれど。

 見上げている内に、どうしてか泣きそうになる程に懐かしく愛しくも思えてくる。

 

 大丈夫。

 ちゃんと“やり直せば”。

 あんな“未来”にはならない。

 あんな“結末”にはならない。

 全て“取り戻せる”。

 何も喪わずに済む。

 愛しいモノを、大切な人達を、輝かしい宝物たちを。

『僕』はまた、もう一度……。

 

 そう、“やり直し”さえすれば。

『僕』はルキナを喪わない。

 大切なあの手を離さずに居られる。

 愛しいあの子を傷付ける全てから、守ってあげられる。

 共に生きる事が、出来る筈だから。

 

 “取り戻そう”、『僕』の大切な全てを。

『ギムレー』に奪われた、愛しいモノ達を。

 

 全ての“過ち”を起きる前に正して、全てを“無かった事”にして。

 時の因果律を捻じ曲げて、“悲劇”も“惨劇”も刻まれた“罪禍”も、その全てを時の狭間へと押し込めて隠してしまおう。

 何も起こらず何も喪わない“未来”で、この手が喪った誰もが望んでいた“未来”で、それを塗り潰してしまおう。

 そうすればきっと、赦される。

 この手は、きっとあの子の手を取る事が出来る。

 愛しい温もりは、再びこの腕の中に帰ってくるのだ。

 

『あの日』喪った全てが、きっと──

 

 

「……『あの日』……?」

 

 

 思考の端に過ったその言葉を、『僕』はそっと掬い上げた。

 

『あの日』。

 それが何なのかは『僕』には分からない。

 きっと『僕』にとってはとても重要な事で、そして同時にとても恐ろしい事でもあった。

 それが何なのかは分からないのに、『変えなくてはならない』と、そんな思いを『僕』の心は訴えるのだ。

 “変えなくてはならない”もの、“無かった事”にしなくてはならない事。

 それが、『あの日』なのだろうか?

 それを“変える”事が出来れば、『僕』はルキナを。

『ギムレー』に囚われている愛しい人を、“取り戻す”事が出来るのだろうか……。

 

 ならば、変えてみせよう。

 あの笑顔を、もう一度“取り戻す”為に。

『ギムレー』に奪われてしまった“幸い”を、あの子にもう一度届ける為に。

『僕』は、その為ならば、何だってしてあげられる。

 

 曖昧な記憶を辿って、“変える”べき過去を『僕』は探してゆく。

 それがどんなに困難な事であっても、因果の糸を解く様に断ち切る様に、あの滅びへの流れを変えてみせよう。

 蝶の羽ばたきが滅びを導くのなら、その蝶を握り潰してでも。

 如何なる代償を支払うのだとしても、愛しいその温もりより、愛しいその笑顔よりも大切なモノなんて、ありはしないのだから。

 絶対に、“取り戻して”みせる。

 

 ルキナ……君が望む全てを、『僕』は叶えてあげよう。

 君が守りたいものを、『僕』が守ろう。

『僕』にたった一つ残っている、何よりも愛しい宝物。

 君の“幸い”が、『僕』の望みだから……。

 

 

「『僕』は今度こそ、君を守り抜く。

 もう絶対に、離しはしない……」

 

 

 祈りを捧げる様に、誓いを立て。

 この道の先に、ルキナと共に生きる“未来”があると、固く信じて。

 過去を“変えて”全ての“過ち”を正すべく、『僕』の最後の永い旅路が始まった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 過去を“変える”。

 それは決して容易い事では無い。

 一つの事象を変えても、その根本的な部分を変えない限りは同じ結末に収束する事もある、

 逆に、ほんの些細な変化が、予期しない未来へと繋がってしまう事もある。

 過去を“変えて”望む未来へと思うがままに導くのは、神の見えざる手でも不可能に近い事であろう。

 だが、それでも『僕』には構わない。

 何度だって何度だって。

 それが幾百幾千万にも及ぶ試行になるのだとしても。

 “やり直し”続けてみせよう。

 望む“未来”に、至るその時まで。

『僕』は諦めないし、諦める事は許されていない。

 ……『僕』にはもう、それしか出来る事は無いのだから。

 

『僕』の目指す“未来”。

 それは、『ギムレー』に奪われた“全て”を喪わずにすむ世界。

 愛しいルキナを、この手でもう一度抱き締める事が出来る“未来”だ。

 そこに至る為に必要な事、“変え”なくてはならない事。

 それは何においても、『ギムレー』が甦る事を防ぐ事だろう。

 

『ギムレー』が甦らなければ、甦らせようと望む者が居なければ。

 きっと、『僕』は“何も”喪わずにすんだ。

 ルキナが『ギムレー』に囚われる事も無かった。

『僕』は、『ギムレー』に“全て”を奪われたのだ。

 大切な宝物を、愛しいと感じていた“全て”を。

『ギムレー』さえ、居なければ。

『僕』はきっと……ずっと……一緒に……。

 …………。

 

『ギムレー』が甦る事を阻止する為には、先ず第一に何故『ギムレー』が甦ってしまったのかを見出ださなくてはならない。

『僕』の記憶は未だ曖昧な部分は多いが、それでも“時を戻った”事により甦ってきた記憶も沢山ある。

『僕』が『ルフレ』である事以外にも、軍師である事も思い出せてきた。

 そして、『ギムレー』が甦るのを阻止しようとしていた事も……。

 

 結果として、かつての僕はそれに失敗し、剰りにも多くの大切なモノを喪い、ルキナまで……『僕』にたった一つ遺されていた愛しい宝物すら奪われたのだ。

 でも、もう二度と同じ“過ち”は繰り返さない、繰り返してはならない。

 かつての僕とは違って、『僕』には知識がある。

『ギムレー』の復活に必要なモノ、『ギムレー』を甦らせる為に暗躍している者達。

 かつての僕では知り得なかったであろうそれらの知識を以て因果の糸を解き明かしていけば、必ず『ギムレー』の復活を阻止する事が……それを“無かった事”に出来る筈だ。

 

 “未来”は変えられる、“結末”は変えられる。

 そうすれば、何もかも“取り戻せる”のだ。

 “やり直す”事は、出来るのだ。

『僕』はそう信じる、信じ続ける。

 だからこそ、この心が求めるがままに足掻くのだ。

 

『ギムレー』の復活の阻止の為に成さねばならない事、それはやはりギムレーを甦らせようと暗躍する者達の排除だろう。

 奴等さえ排除しておけば、態々『ギムレー』なんてものを甦らせようなどと試みる者など居る筈もない。

 一人残らず始末すれば、きっと“未来”は変わる筈だ。

 だが、未だ曖昧な『僕』の記憶は、誰が『ギムレー』を甦らせようとしていた者なのか、『僕』が排除するべき敵なのか、その答えを示せない。

 何と無く思い出せるのは、薄暗い祭壇の様な場所だけだ。

 それが何処なのかすら、『僕』にはまだ分からない。

 その朧気な記憶を辿る様にして、僕は“戻った”世界を彷徨い始めた。

 

 

 記憶が朧気な『僕』は、『ギムレー』を甦らせようとしている者達の手懸かりを掴む為、ペレジアへと向かった。

 ペレジアには、『ギムレー』を神と信仰するギムレー教がある。

 朧気な記憶の中にもその名前はあったので、恐らくは『ギムレー』が甦った事とギムレー教には何らかの関係がある筈だ。

 しかしだからと言って、ギムレーを信仰している者全てが、実体としての『ギムレー』の復活……神ならば降臨とでも言うべきか、それを望んでいるとも思えない。

 神はあくまでも偶像であり、祈る先、縋る先だ。

 神は必要な時にそこに在れば良いのであって、多くの信徒にとってはギムレーが竜として実在していようとただの偶像だろうとどちらでも良いモノでしかない。

 結局『神』なんて座は、人にとって都合の良い道具に与える称号の一つでしかないだろう。

 

 しかし、ギムレー教の中枢……ギムレー教団と呼ばれる者達はそれとはまた違うのだろう。

『ギムレー』への生け贄と称して人を拐っては殺したり、『ギムレー』にその身を捧げる事を誉れとするなど、それは信仰の枠を越えて妄執と化している。

 彼等ならば。

 例え破滅と絶望を与えるとされる邪竜であるのだとしても、『ギムレー』を甦らせる事に躊躇いなど無いだろう。

 きっと、そう、恐らくは。

『ギムレー』を甦らせたのは彼等だ。

 具体的に誰が『ギムレー』を甦らせたのかまではまだ思い出せないけれど。

 しかし、首謀者を潰した所でまた同じ愚を犯そうとする者達が出てくる可能性があるなら。

 ギムレー教団の者を、一人残らず始末すれば……、“未来”を変えられるのではないだろうか……?

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 もう何十人目なのかは分からないギムレー教団員だった男の燃え滓を踏み越えて、『僕』はギムレー教団が秘密裏に隠していた生け贄を捧げる為の祭壇の一つを、二度と使えない様に徹底的に破壊する。

 既に何度もやってきたが故に、最早作業の様なモノだ。

 そこには何の感情も伴いはしない。

 

 どうやら、ギムレー教団はペレジア国内の至る所に『ギムレー』に生け贄を捧げたりする為の祭壇を設けているらしい。

 潰した祭壇は既に10は下らない筈なのだけれど、それはほんの一部にしか過ぎないのだろう。

 祭壇に居る連中は、ギムレー教団の信徒であるから遠慮は要らない。

 元より『ギムレー』の為だと嘯いて、何の罪もない者達を生け贄とする様な連中なのだ。

 居なくなった方が、一般のペレジアの民にとっても有り難いだろう。

 燃え尽きる最後まで『ギムレー』に縋るその姿はいっそ滑稽にすら思えるけれど、それはそれで筋金入りの信仰心とも言えるのかもしれない。

 

 嗅ぎ慣れた血の臭いと肉が燃える臭いが充満する屠殺場を後にし、次の目的地を探す。

 また何処かの祭壇を破壊するのも良いけれど、折角だからギムレー教団が孤児を使って呪術の実験をしていると言う施設でも潰しておくか……。

 

 

 ペレジアの街に出ると、何処もかしこも妙に物々しい。

 どうやら、大きな戦争が起きようとしているそうなのだ。

『ギムレー』が甦ろうとしている今、人と人同士で相争っている暇なんて無いだろうに……。

 まあ、多くの人々は、『ギムレー』を甦らせようなんてしている動きがある事には気付いていないだろうから仕方ないだろうけれども。

 

 ……かつての時も同じく戦争が起きていたのだろうか?

 どうにも曖昧な記憶の中、確かに僕は何かと戦っていた気がするが……一体それが何を相手にしていたのかは分からない。

 ペレジアが戦争を仕掛けようとしている国は……何だっただろうか。

 聞いた事があると思うのだけれど、どうにもそれは記憶の中ではボヤけてしまっているのだ。

 

 まあ、分からないモノは気にしていても仕方がない。

 今大切な事は、『ギムレー』の復活を“無かった事”にする事なのだから。

 そして、大切なルキナを助け出す事なのだから。

 それ以外に大事な事なんて、ありはしない。

 

 

 ……しかし、どうにも気にかかる事があるのだ。

 ギムレー教団の連中は、誰も彼もが死ぬ間際に「お許し下さい、ギムレー様」やら「ギムレー様、お怒りをお鎮め下さい」やら「お慈悲を……」などと縋ろうとしてくるのだ。

 命乞いにしては、どうにも奇妙な気がする。

 

 ……まさかとは思うが、『ギムレー』が、この世界に既に居るのだろうか?

 復活はまだ先の事である筈だけれども。

 ああ、でも、もしかして。

『僕』が時を“巻き戻して”ここに居る様に、あの“未来”に居た『ギムレー』もまた、時を飛び越えてここにやって来ているのだとすれば……。

 それは有り得ない事ではない筈だ。

 何故なら、時を越える事が出来るのは、『僕』自身がその身を以て証明しているのだから。

 

『ギムレー』がその身を潜めている理由はまだ分からない。

 何かの時期を待っているのかもしれないし、何か別の理由があるのかもしれない。

 何にせよ、もしあの“未来”に居た『ギムレー』がこの世界に居るのなら、殺さなくてはならない。

 そして、奪われたルキナを“取り戻す”のだ。

 あの“未来”に居た『ギムレー』ならば、捕らえたルキナをこの世界に連れてきていない筈は無いのだから。

 

『ギムレー』の復活を阻止して“未来”を変える事。

 “未来”の『ギムレー』に囚われたルキナを助け出す事。

 そして、“未来”から来た『ギムレー』を殺す事。

 

 成さねばならない事がまた増えたが、構わない。

 その全てを果たせば、『僕』は今度こそルキナと共に生きられるのだから……。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 しかし、何れ程探しても、“未来”の『ギムレー』の姿もルキナの姿も見えなかった。

 いつの間にか始まっていた戦争は詳しくは知らないがペレジアの敗北に終わっていたらしく、それ故にか『ギムレー』に縋ろうとするペレジアの民は更に増えた様な気がする。

『僕』としては彼等は別にどうでも良いのだが、万が一にも『ギムレー』を甦らせようなどと動きを見せれば、躊躇なく排除する事が出来るだろう。

 

 数多のギムレー教団員の骸を積み上げながら、『僕』は『ギムレー』を探し続けた。

 幾ら『ギムレー』にとっては信徒だろうと何だろうと有象無象の虫けらに過ぎないのだとしても、自分の中の手駒を潰されていくのをただ黙っている筈も無いと思ったのだけれども。

 しかし、『ギムレー』は一向に『僕』の前に姿を見せる事は無かった。

 早くルキナを『ギムレー』の魔の手から助けなくてはならないのに……。

 ギムレー教団から放たれているのであろう羽虫の様な追っ手を一々潰さなくてはならないのも面倒である。

『僕』には、そんなものに関わっている暇なんて無いのに……。

 

 ルキナ、『僕』の大切な宝物。

 一体君は何処に居るのだろう。

 直ぐに助けに行くよ、だから『僕』を呼んで。

 愛しいその声で、“昔”の様に『僕』の名前を。

 何処に居ても、時間を飛び越えてだって直ぐに飛んでいくよ。

 君を苦しめる全ては、『僕』が滅ぼしてあげる。

 君の望みは、何だって叶えてあげる。

 

 謳う様に、何処に居るのかも分からない愛しい人へと何度だって愛を囁く。

 だけれども、『ギムレー』に囚われているあの子にその声が届く筈なんてなくて、返事が返ってくる事もない。

 

 だから。

 もうあの子の温もりなんて幻としてすらも残っていない指先に、確かに交わした約束を抱き締めて。

 守ると誓ったその言葉を、その想いを、決して喪わない様に。

『僕』は決して諦めずにルキナを探し続けていた。

 

 千を越える夜を越えて、ペレジアを越えて様々な国を大陸をも、『僕』は『ギムレー』とルキナの姿を求めて探し回った。

 このところ、行く先々で『僕』を襲おうとする人が増えた気がする。

 ギムレー教団の者達も必死なのだろう。

 このまま『僕』が彼等を排除し続けていれば、『ギムレー』の復活と言う彼等の宿願を果たせなくなるのだから。

 

 この国にやって来てから幾度目とも分からない襲撃者達を骸に変えて、『僕』は無意識に溜め息を吐いた。

 

 ……一体幾千幾万の屍を積み上げれば、『僕』は“未来”を変えられるのだろう。

 ルキナを、“取り戻せる”のだろう。

 

 守ってあげなくてはならないのに。

 あの子は、『僕』に遺されたたった一つの宝物なのに。

 

 いっそ世界を平らかにしてしまえば、あの子を見付けられるのだろうか。

 そうすれば、“もう一度”あの子を抱き締めてあげられるのだろうか。

 一体何れ程の祈りを重ねれば、『僕』はもう一度あの温かな場所に帰れるのだろうか。

 ……『僕』はただ、『ギムレー』に奪われた“全て”を取り戻したいだけなのに……。

 それすらも赦さないと言うのなら、こんな世界──

 

 

「…………」

 

 

 一瞬『僕』の頭を過ったその考えを、『僕』はそれ以上は考えない様にと振り払う。

 この世界は、愛しいルキナが生きる世界だ。

 守らなくてはならない。

 そう、『僕』はルキナが“幸せ”に生きられる世界を守るのだ。

『僕』は『    』じゃない。

『僕』は、世界を滅ぼしたりなんて……。

 

 

 きっと、襲撃者達を排除したばかりだから、こんなにも荒々しい考えになってしまうのだろう。

 ギムレー教団の者達を殺した直後は、どうにも破壊的な思考に寄ってしまいがちになる。

 かつての僕もそうだったのだろうか……?

 曖昧な記憶の中に、その答えはない。

 

 気を鎮める為に、『僕』は久方ぶりに立ち止まって天を仰いだ。

 

 地平線の向こうへと傾き始めた陽の光は、大地を血で染めた様な赤に彩っていく。

 黄昏時が近付く頃合いの涼やかさを含んだ風が、血の臭いを吹き散らしていった。

 

 大丈夫。

『僕』は間違えない。

 “やり直す”、“やり直せる”筈だ。

 だから──

 

 

 その時。

 再び『僕』の周りを取り囲む者達が現れた。

 何時になく大人数で、しっかりとした武装に身を包んでいる。

 しかしこの程度、『僕』とっては如何程でも無い。

 何時もの様に、殺せば終わりだ。

 

 だが。

 

 

「そこまでだよ」

 

 

 聞き覚えがある様な、何処か緊張した硬い声がその場に響き。

 襲撃者達の輪へ割って入る様に、見覚えがある……『僕』が身に纏うそれと同じローブを纏った男が現れた。

 そして、その後ろには──

 

 

「っ! ルキナ……!!」

 

 

 

 誰よりも愛しい『僕』の宝物が。

『ギムレー』に囚われている筈の、愛しいあの子が。

 そこに、居た。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 甦ったギムレーによって滅び行こうとしている“絶望の未来”を変える為、私は過去へと跳んだ。

 聖王エメリナの暗殺の阻止に始まり、“絶望の未来”に繋がったと思われる要所要所の出来事に最低限の介入をしつつ、私は“今”を変えていった。

 ……結局、聖王エメリナは戦後間も無くして病に倒れ、不帰の人となってしまったのだが……。

 ……それでも、私が介入して変わった彼女の未来に、意味はあったのだと……そう信じたい。

 そして、エメリナの生死が変わったからなのか、私が知っているよりも早くにペレジアとの戦争は終結し、次にヴァルム帝国との戦争が始まるまでにかなりの猶予が生まれた。

 これで何処まで未来が変わるのかは分からないが、泥沼の戦争の果てに両国が疲弊しきった所でギムレーが甦る“未来”からは少しでも遠くなったのではないだろうか……。

 

 そうやって、“今”を変える事には概ね成功し、私が知っている“過去”よりも大分状況は改善されていた。

 だが、そうやってまた新たに“今”に介入するタイミングを伺っているその最中。

 私は、酷く気掛かりな噂話を聞いてしまった。

 

【怪物】が、出ると言うのだ。

 その【怪物】は、主にギムレー教団の者を標的として、様々な土地で殺戮を繰り返しているらしい。

 “主に”と言った様に、ギムレー教団以外にもかなりの犠牲者が出ている。

 犠牲者はとてもではないが人の手によって死んだとは思えない程の凄惨な姿で見付かるのだと言う。

 その姿を見掛けた者は誰一人として生き残っていないから、噂が憶測を呼び、恐ろしい異形の【怪物】が人々を殺して回っているのだと……ペレジアのみならず各地の人々の口に上る様になっていった。

 

 私は……そんな【怪物】の話など、かつて聞いた事は無かった。

 ここまで噂になっていれば、それが幼い頃だとしても一度は耳に入っていた筈なのに……。

 私が“過去”に来てしまったから、“何か”が変わってしまったのだろうか。

 そして、もしその【怪物】が……私の予期しない方向へと未来を動かしてしまったら、私は“絶望の未来”を変えると言うこの使命を果たす事が出来るのであろうか……。

 

 悩みに悩んだ結果、私は“過去”の父と合流した。

 “過去”の人と深く接触して未来を変えてしまうリスクよりも、“何か”が起きた時に直ぐ様対処出来るメリットを選んだのだ。

 

 そして、父とその仲間達と行動を共にする事になって暫くして。

 ヴァルム帝国との戦争の為に渡ったヴァルム大陸で、そこで神竜の巫女として祀られている悠久の時を生きている神竜族チキと出逢い、驚愕の事実を知らされた。

 

『ギムレー』が、既にこの世界に居る、と。

 

 と、それは言っても千年前に封じられたギムレーではない。

 その『ギムレー』は、こことは別の時間からやって来た……恐らくは私が居たあの“未来”からやって来たギムレーであるのだと言う。

 何故、あの『ギムレー』が“過去”にやって来たのか……それは分からない。

 私を追ってきたのかもしれないし、更なる破壊を求めているのかもしれない。

 ただ……何故か“過去”へとやって来たその『ギムレー』は、世界を滅ぼそうと暴威を奮っている訳ではない様だ。

 各地で殺戮を繰り返して【怪物】と呼ばれているとは言え……あの“未来”で彼の邪竜が成した破壊に比べれば児戯にも等しい。

 ただ、だからと言ってその脅威が薄れたと言う訳ではない。

 各地で殺戮を繰り返しているのは、魂を喰らって力を蓄える為であるのかもしれないからだ。

 ギムレー教団の者達が標的になっているのは些か腑に落ちないが、元々ギムレーに身を捧げる事を至上の誉れとする様な狂信者達だ。

 ギムレー教団の者達が自ら『ギムレー』へとその身も魂も捧げている可能性も高い。

 

『ギムレー』が既にこの世界に居ると言うのなら、最早一刻の猶予も無かった。

 ヴァルム帝国との戦争を終結させるなり、私達は各地に散らばっていた宝玉を託され、“炎の紋章”を完成させた。

 そして、“覚醒の儀”を執り行い、ファルシオンを完成させたのだ。

 

 その頃には既に、『ギムレー』を討たんと挑んだ様々な者達が数多く殺されるなど、『ギムレー』による被害は到底無視出来ない程にまで膨れ上がっていて。

 何時またあの“絶望の未来”の様な滅びをもたらすのか、それは最早時間の問題と言っても良い程にまで事態は切迫していた。

 

 最早一刻の猶予も無いと、私達は『ギムレー』を討つ為の討伐隊を組織し、『ギムレー』を捜索し始めた。

 あの邪竜の巨体は隠してあるのか、『ギムレー』の行方は中々掴む事が出来ず、時折『ギムレー』による被害だとされる惨殺死体が発見されるも、中々その足取りを掴む事は出来ず、先回りする事も出来ないままであった。

 

 そんな中、私達はある奇妙な旅人の話を聞いた。

 “誰か”を探している様子で、ふらりふらりと村や街を訪れては、いつの間にか去っている。

 しかし、その旅人が村や街を訪れると、その前後でその近くに【怪物】による被害者が発見されるのだ。

 父の軍師であり、私の恋人であるルフレさんと似た……と言うよりも同じローブを纏っているらしいその旅人は、何時しか行商人などの噂話を通じて【死神】と呼ばれる様になったらしい。

 その【死神】と呼ばれる旅人と、【怪物】……もとい『ギムレー』は、同じ存在なのではないだろうか?

 そう考えた私達は、その旅人の足取りを追う事にした。

 

 そして、終に見付けたのだ。

 

 ルフレさんと、紅い眼を除けばそっくり同じ顔をした、『ギムレー』の姿を。

 だが……やっと対峙した『ギムレー』は、何故か酷く驚いた様な顔をして、私を見詰めているのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 探し求め続けていた愛しい人が突然に目の前に現れて、『僕』は一瞬困惑してしまう。

 

 ずっとずっと、君を探していた。

 その手をもう一度掴みたくて、もう一度君と共に生きたくて。

 君を、今度こそ守ってあげたくて……。

 

 愛しさが込み上げてきて、息が詰まってしまいそうだ。

 

 

「ルキナ……良かった……やっと、君を……」

 

 

『僕』の記憶の中に残る姿よりも、幾分か大きくなっているけれど。

『僕』がルキナを、愛しい宝物を、見間違える筈はない。

 愛しい子、愛しい人、たった一つ『僕』の手に残った宝物。

 もう大丈夫。

『僕』が君を守ろう。

 この命の限り、ずっと、ずっとずっと……何時までも。

 もう恐がらなくて良い。

 恐いものは、君を傷付けるものは、『僕』が全て壊してあげる。

 だから──

 

 

 しかし、ルキナへと伸ばした手は、険しい眼差しのローブの男によって遮られた。

 そのまま男はルキナを庇う様に、一歩前に進み出る。

 

『僕』と全く同じ顔、同じ服装の、『僕』ではない“誰か”。

 その姿を見ていると、胸が不吉を訴える様に騒めく。

 ルキナを『僕』から隠すように、敵意の籠った眼差しで射抜いてくる男。

 

『僕』は、彼を知らない。

 知らないが……誰よりも知っている様な気すらもする。

『僕』からルキナを奪った存在、ルキナを捕らえる者。

 ああ……そうか、この男が……。

 

 

「ルキナを、返せ」

 

 

 ともすれば有無を言わさず殺しそうになる程の激情をギリギリの所で抑えながら、そう『僕』が訴えると。

 男──『ギムレー』は益々その眼差しに敵意を漲らせる。

 

 

「返せ……?

 何を言っているんだ……。

 ルキナはお前のモノじゃないだろうに」

 

 

 訝る様な『ギムレー』のその声音に、『僕』は怒りを抑える事も忘れて声を枯らさんとばかりに叫んだ。

 

 

「お前がっ……!

 お前が『僕』から奪ったんだっ……!

 全部、全部……っ。

 お前が……『ギムレー』が居なければっ、『僕』は……っ!

 “何も”喪わなかったのに……。

『僕』にはもう……ルキナしか居ないのに……っ!

 そのルキナすら、お前が奪ったんだろう……!?」

 

 

 守ると、『僕』はルキナに約束したのに。

『僕』は守れなかった。

 守って……あげられなかったのだ。

 

 怒りと哀しみで視界が紅く染まった様にすら思える。

 

 ああ……それなのに。

『僕』の“何もかも”を奪っていったと言うのに。

『ギムレー』は、何一つ心当たりが無いとでも言いた気に困惑していた。

 

 “何もかも”。

 そう、『僕』は“何もかも”を奪われたのだ。

『僕』にも、大切なモノが沢山あったのに、愛していたモノがあんなにも沢山あったのに。

 “何もかも”……っ!

 ルキナの“幸せ”だって、笑顔だって、『ギムレー』によって奪われたのだ。

 到底、赦せる筈もない。

 その存在の全てを否定して、殺してやる。

 その為に『僕』は……。

『ギムレー』を消し去る為に、こうやって“やり直した”と言うのに……!

『ギムレー』にとっては、『僕』から“何を”奪ったのかなど、取るに足らぬ事でしかなく、記憶の片隅にも残っていないのだ。

 

 やはりコイツは存在してはいけない。

 消し去ってやる。殺してやる。

 完膚無きまでに叩き潰して、絶望に染め上げて殺してやる。

 

 グルグルと『僕』の中に渦巻く怒りは止まる事を知らず、魔力の奔流となって漏れ出てしまっている。

 

 大丈夫。

『僕』なら、コイツを殺せる。

 コイツを殺せば、『僕』はやっとルキナを取り戻せるのだ。

 

 

「死ね……っ!」

 

 

 跡形も残す事なく消し飛ばしてやろうと、極限まで凝縮させた力を解き放とうとしたその時。

 

 

 

「な、何を言っているんですか……!?

 ギムレーは、あなたの事でしょう!?」

 

 

 

 ルキナの悲鳴の様な、そんな困惑と怒りに満ちた言葉が、『僕』の動きを止めた。

 

 

「ルキナ……?」

 

「私からお父様達を奪ったのも!

 私達の世界を滅茶苦茶に壊して……あんな“未来”にしたのも!

 全部っ、あなたがっ……!!!」

 

 

 その心を締め付ける様な叫びは、まるでルキナの魂の慟哭の様で。

『僕』は、痺れた様に動けなくなる。

 

 ルキナの言っている言葉のその意味が、分からない。

『ギムレー』? 『僕』が……?

 

 

「私から全てを奪って……!

 それでもまだ、足りないと言うんですか……!?

 こんな所まで私を追いかけてきて……。

 やっと出会えた大切な人を……!

 ルフレさんを、私からまた奪うつもりなんですか……!?」

 

「ち、違っ……。

『僕』は、ただ……君を……」

 

 

 そう、『僕』はただ……守りたかっただけなのだ。

『僕』の大切な人を、大切な愛し子を。

 今となっては遠くの昔に、幼いあの子と約束した通りに。

 もう『僕』には、ルキナしか……ルキナしか守れるものはないのだから。

 

 

「もうこれ以上私から奪わないでください……!

 お父様も、お母様も、リズ叔母様も、ウード達も……っ!

 みんなあなたに殺された!

 お父様の仲間も、私の仲間達も、誰も彼もみんな殺して……!

 幾億の民の骸を積み上げて……!

 国も世界も未来も滅ぼして……!

 これ以上何を望むんですか?

 一つの世界を滅ぼしただけでは満たされず、過去も何もかもを滅ぼそうとしているんですかっ?!」

 

「違う……!

『僕』は、『僕』はただ……“やり直そう”と。

『ギムレー』を、“無かった事”にして、そうすれば……。

 そう、そうだ……。

 ……『僕』は。『僕』はっ、『ギムレー』なんかじゃないっ!

『僕』は『ルフレ』だ!」

 

 

 そう、“やり直せば”良い。

 そうすれば“全て”は“無かった事”に出来る。

 全ては、誰もが望んだ通りの“未来”になるのだ。

 全ての罪は犯される前に消え去る。

 喪われたモノは、何事もなくそこに戻り。

 全ては、満たされる筈なのだ。

 

 夢幻に縋る様に、『僕』は必死にその想いにしがみついた。

 もう『僕』にはそれしか残されていない。

 もうそれしか償う方法なんてない。

 何もかも、“無かった事”にするしか。

 

 

 しかし、『僕』の最後の寄る辺たるその虚構は、妄執は。

 誰よりも愛しい人によって、無惨にも打ち砕かれる。

 

 

「あなたはルフレさんなんかじゃない!

 ルフレさんは、私が愛する人は、ここにいるただ一人です!

 あなたは、私から全てを奪っていった、ギムレーだっ!!!」

 

 

 そのルキナの魂の叫びは。

『僕』の目を覆っていた全ての虚構を剥ぎ取った。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 ずっと、一緒に居たかった。

 僕も皆と共に生きていけるのだと、何の疑いもなく信じていた。

 

 僕とクロム達が出会ったのは、大きな戦乱が多くの国を呑み込もうとしていた……そんな動乱の時代で。

 哀しみも苦しみも、僕らは沢山味わってきた。

 沢山の絶望や悲劇に抗って、大切な仲間達の為に共に戦場を往く内に何時しか神軍師だなんて讃えられる様になっていったけど。

 僕と皆の日々は、変わったりはしなかった。

 

 何時だって僕の隣にはクロムが居て。

 戦いが終わる度に、疲れきっているけれど生き延びた喜びをその顔に浮かべた仲間達と祝杯をあげて。

 何時か全ての戦乱を終わらせた時の未来を、きっと来る筈の何時かを、一緒に語り明かした。

 

 戦争と戦争の間にあった短く細やかな何よりも尊い平和な時には、クロムや皆には子供が産まれていた。

 仲間達の子供と言う事もあって、どの子もみんな僕にとっては可愛い子達で。

 小さな彼らを抱き上げる度に、この小さな命を守りたいと、そう思っていた。

 彼らが生きる世界が、未来が。

 少しでも平和なものである様にと、幸せなものである様にと。

 それを願って、僕たちは戦っていたのだ。

 僕は軍師として、彼らから親を取り上げて戦へと駆り出してしまう酷い大人だったかもしれないけれど。

 それでも、一人も欠ける事なく子供達のもとへと帰れる様に、必死に自分が持てる全てを使って、策を示し続けてきた。

 

 大切だった。

 愛していた。

 

 仲間達を、彼等が作り上げていた“幸せ”を、命の繋がりを。

 掛替えの無い、愛しい宝物達を。

 僕は……守りたかったのだ。

 

 中でも特別に大切だったのは、やはりクロムと……その愛娘であるルキナだった。

 僕の半身、何よりも大切な……生涯の親友。

 クロムと共に過ごす時間が一番多かったからこそ、僕は子供達の中ではルキナと一番時を過ごしていた。

 

 怖い夢を見たと怯える幼いルキナに寄り添う日もあった。

 勉強に飽きたルキナのままごとに付き合って遊んだ日々もあった。

 戦禍の足音が再び近付いてくる事を敏感に感じ取って不安がるルキナと、僕が守ってあげると……そう約束を交わした事もあった。

 

 大事な親友の愛娘と言う事もあって、僕は一等ルキナを大切にしていて。

 まるでもう一人の父親の様だ、なんてクロムにからかわれた事もあった。

 

 共に生きていたかった。

 何時か逃れ得ぬ死が僕らを別つのだとしても、それはまだまだ先の事であると、そう無邪気に信じていたし、別たれた後もずっと心は繋がっていられると信じていた。

 僕は人と共に……彼らと共に生きていける存在なのだと、そう……何の疑いもなく信じていたのだ。

 

 だけれども。

 

 産まれながらに僕がこの身に背負っていた宿業は。

 そして、滅びを望む狂った妄執の連鎖は。

 そんな細やかな僕の願いを、祈りを、赦しはしなかったのだ。

 

 

 最悪の形でクロムを裏切り、その命を奪ってしまった僕は。

 その絶望を食い荒らされる様にして、ギムレーへと成り果ててしまった。

 いや、僕は産まれながらにしてギムレーであったのだからその言い方は正しくないか。

 何時かは辿り着く終わりが、その瞬間にやって来てしまった。

 そう言う事だったのかもしれない。

 

 僕は、人と共に生きていける存在ではなかった。

 それはきっと、最初から。

 

 夢を見なければ、僕が自分の成れ果てる先を知っていれば。

 そうすれば、こんな結末を迎えてしまう前に、クロム達から離れられたのではないかと。

 僕は何度も何度も……最早どうする事も出来ないのだと理解していながらも、尽きる事の無い後悔と絶望に苛まれ続けていた。

 

 だけれども、ギムレーへと成り果ててしまった僕は止まらない。

 僕としての意思なんて無関係に、殺戮と破壊を世界に振り撒き続けていた。

 

 クロムを殺した。

 仲間達を殺した。

 仲間達の子供達を殺した。

 沢山の民を殺した。

 国を滅ぼした。

 大地を滅ぼした。

 生きとし生ける全てを滅ぼし、焼き払った。

 

 僕の嘆きを、絶望を、後悔を。

 嘲笑う様に。

 僕が愛していた全てを、守りたかった全てを。

 その何もかもを。

 ギムレーと成り果てた僕は、蹂躙して壊し尽くしていった。

 

 何もかもを壊し尽くして。

 壊せるモノなんて、最早何もない。

 観測する存在が自分を除いて居なくなったから、時の流れすらも不確かになった滅びの大地。

 そんな終焉の最果てにまで、ギムレーと化した僕は終に辿り着いてしまった。

 

 そして。

 何もかもを壊し尽くしたギムレーは。

 際限の無い破壊衝動の化身である人格は。

 まるで満足したかの様に暫しの眠りに就いたのだ。

 

 後に残されたのは。

 最早償う事も出来ず、償う相手も全て殺し尽くしてしまった……。

 そんな……最早どうする事も出来ぬ罪業を背負った、『僕』の人格だった。

 

 背負うには重過ぎる罪禍に、僕の心がもたらす呵責に。

 そして、何もかもを喪った……壊してしまった世界に唯一人取り残された事実に耐えきれなくなった『僕』は。

 ……狂ってしまったのだ。

 

 自分を『ルフレ』だと、ギムレーとして成り果てる前だと誤認して。

 自分の咎も、自分がもたらした災禍も何もかもを、『ギムレー』に押し付けて。

 

 狂って狂って、狂い果てた『僕』は。

 唯一、『僕』がまだ喪っていない可能性があったもの。

 たった一人だけ残された、守りたかったモノ。

 僕が殺してしまったクロムの愛娘であり、僕にとっても大切な宝物であったルキナへと、狂った執着を向けたのだ。

 

 ナーガを食い滅ぼす直前。

 最早死に絶えたこの世界……いや、この時間軸から、ナーガがルキナを時の方舟に乗せて何処かへ逃がしたのを確かに『僕』は見たのだ。

 

 きっとルキナは生きている。

 そこが何処なのかは分からないけれど、きっと時の流れが行き着いた先で、きっとルキナは生きているのだと。

 そう『僕』は信じたのだけれど。

 

 しかし、狂い果てていた『僕』は、ルキナは『ギムレー』によって連れ去られたからここには居ないのだと、そんな風に狂った考えに支配されていた。

 ……ルキナは、ギムレーである『僕』から逃がす為に、過去へと送られたと言うのに……。

 

 取り戻さなくては、と。

 狂った『僕』は執拗にルキナを求めた。

 ……もうルキナしか、『僕』には残されていないから。

 だから、かつて交わした「守る」と言う約束に固執した。

 守らなくてはならないのだと、そう思い込む様になったのだ。

 

 そして、“取り戻す”為に。

 狂った『僕』は、“やり直す”事を、考え付いたのだ。

 

 過去に遡って、自分がギムレーへと成り果てる結末を変える事が出来れば、自分が犯した罪の何もかもを“無かった事”に出来るのではないかと、喪った……自分が壊してしまった全てを取り戻せるのではないかと。

 

 …………犯した罪を“無かった事”にする方法なんて、有りはしない。

 例え過去に戻った所で、『僕』がギムレーである事実は、ギムレーと成り果てて大切なモノを全て壊してしまった事実は、絶対に消えない。

 やり直した所で、また別の時の流れが生まれるだけ。

 “過去”のルフレがギムレーと成り果てる結末がなくなるのだとしても、今ここに居る『僕』は何一つとして変えられないのだ。

 ……本質的な意味では、“やり直す”事なんて、不可能なのだ。

 それは、ギムレーの神の如き力を以てしても。

 

 だけれども、既に壊れていた『僕』は、それを無意識の内には理解しつつも、その不都合な事実からは目を反らした。

 夢想と言う名の虚構で真実を覆い、虚無の中に溺れて目隠する事を選んだのだ。

 

 だけれども、本当は分かっていた。

 例え“過去”を変えた所で、僕の大切なモノは、何一つとして帰って来ない事を。

 だから、『僕』は、ルキナだけに固執し続けたのだ。

 それしかもう、残っていない事を。

 “やり直して”、そしてまたもう一度取り戻せるかもしれないのは、ルキナだけだと……誰よりも本当は理解していたから。

 だから、“やり直す”のだと、“取り戻す”のだと散々嘯いていても、『僕』は一度もクロムや仲間達の事は考えようとはしてこなかった。

 イーリスと言う国の事すらも、無意識の内に思考の端に過らない様にさせて。

 

 ………………。

 それでも、“やり直す”事しか、最早『僕』には縋れるモノは無かったのだ。

 全てが死に絶えた世界に取り残される事も耐えられず、犯した罪の重さにも耐えられなかった、剰りにも愚かで弱い『僕』には、もう……それだけしか……。

 

 だから、『僕』は“やり直す”為に、“過去”へと跳んだのだ。

 流れ着いたそこにルキナも居たのは、偶然と言うには出来すぎている気はするけれど、少なくともそれは『僕』の意図した事では無かったのは確かだ。

 

 そして『僕』は……“やり直す”為に、ギムレーへと成り果てた結末を“無かった事”にする為に、ファウダー達が率いるギムレー教団の者達を完膚無きまでに鏖殺する事にしたのだ。

 ……何れ程自分を『ルフレ』だと錯覚していようとも、『僕』はもうルフレではなくギムレーだ。

 だからこそ、ルフレとしては有り得ない様な手段を、何の疑問も感じる事なく選ぶ事が出来てしまう。

 

 きっと『僕』が殺してしまった人達の中には、ギムレーの復活とは無関係だった人も大勢居ただろう。

 襲ってきた人達だって、ギムレー教団の刺客なんかではなく、ただ単に大切な人の仇を取ろうとしていたのかもしれない。

 それどころか、そもそもギムレー教団とは関わりもない人達も、沢山殺してしまっていたのかもしれない。

 ……だけれども。

 自分の都合の良い幻影しか見えてなかった『僕』には、彼等が等しく『ギムレー』を甦らせ様としている敵にしか見えなかったのだ。

 だから、何の躊躇いもなく殺せた。

 ……いや、判っていたとしても、きっと『僕』は殺す事に躊躇いなんて持てなかっただろう。

 

 今だって。

 ルキナやクロム達を殺す事は出来ないけれど、それ以外なら……きっと何も感じる事もなく殺せてしまう。

 ……やはり『僕』は、ルフレではありえない。

 人と共に生きていける筈などない、ギムレーだ。

 

 

 “過去”は変えられない。

 “やり直す”事なんて出来はしない。

 喪ったモノを“取り戻す”術なんて、何処にもない。

『僕』がみんなに償う方法なんて、無い。

 ……『僕』は、ギムレーでしかないのだ。

 

 

 その事実を。

 目を反らし続けてきた真実を。

『僕』はやっと、認めた。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

「そう、か……」

 

 

 漸く虚構の夢から醒めた『僕』が永い永い沈黙の後にやっと溢したのは、その一言だった。

 

 さっきまであれ程に荒れ狂っていた感情は、凪いだ様に静まり。

 この胸を満たすのは、諦念の様な……静かな静かな哀しみだった。

 

 最早ルキナの言葉を否定しようなんて思わない。

 それが紛れもなく真実であるのだと、理解しているから。

 夢を見る時間は終わった。

 ただ、それだけだ。

 

 後に残ったのは、哀しみと絶望と後悔と罪悪感だけ。

 それでも、それらは激しく荒れ狂う様なモノではなく、深い深い淵に沈み行く様な……そんな静かで底の無い感情である。

 

 

 ふと、ルキナの手に握られているファルシオンに目をやった。

 神竜の力が溢れんばかりに輝いているその刀身は、“覚醒の儀”を果たして真の力を解放されている状態である事を示している。

 あのファルシオンに貫かれれば、死ねはしなくとも『僕』は眠れる事が出来る。

 だけれども……。

 

 例えもうルキナの記憶の中に僕が居ないのだとしても。

 それでも、ルキナ自らがその手を汚す必要なんて無い。

『僕』はギムレーでしかないけれど、見た目はルフレと同じだ。

 ルフレと同じ姿の『僕』を討つ事は、ルキナにとっては少なからぬ負担になるのではないだろうか。

 

 例えそれが狂った妄執であったのだとしても。

『僕』がルキナを想う気持ちに偽りは欠片も無いし、守りたいと想う気持ちは、“幸せ”にしてあげたいと願った心は、本物だ。

 それだけは、嘘偽りの虚構の夢に溺れていた『僕』であっても、胸を張って言える。

 

 

 だからこそ、ルキナの手を煩わせるつもりは無い。

 

 

『僕』は改めて“ルフレ”を見た。

 この“過去”の……まだギムレーへと成り果てていない“自分”。

 彼もまたルフレである以上は、『僕』と同じ様な末路を辿る可能性は無いとは言い切れないかも知れないが……。

 暴走した『僕』の凶行によるものとは言え、最早ギムレー教団が滅びたこの世界では、態々ギムレーを甦らせようとする者も、そしてルフレがギムレーの器である事を知る者も最早居ないであろう。

 用心するに越した事は無いだろうけれども、きっとこの“ルフレ”なら大丈夫だろう、とも思う。

 目覚さえしなければ、ルフレはルフレとして……人として、人と共に生きていける。

 

『僕』には出来なかったその生が羨ましくないとは言えないけれど、妬ましさとかは感じられない。

 自分にももしかしたらそんな道があったのかもしれないな……と、そんな穏やかな気持ちで居られる。

 寧ろ、この“ルフレ”がルフレとして生き、そして人として死ぬ。

 それこそが、ギムレーになるしかなかった『僕』の運命に対する意趣返しになるのではないだろうか。

 ルキナに寄り添う様にして立つ“ルフレ”に、羨ましさと共に微笑ましさを感じた。

 

 

 そして『僕』はもう一度ルキナを見詰める。

 

 もう幼い子供ではなくなったルキナは、誰かに守られるだけの存在ではなくなった。

 凛とした美しさを持って成長したルキナの姿に、思わず目を細めてしまう。

 

『あの日』から時を止めてしまった『僕』と、成長を続けてきたルキナ。

 その差は剰りにも眩しくて、そして幾許かの寂しさを感じる。

 願わくば、ずっとその傍でその成長を見守っていきたかったのだけれど。

 ……それは最早今となってはどうする事も出来ぬ、夢物語であろう。

 

 あの愛しい幼子は、もう自分で歩いていける。

 守りたいものを見付け、共に生きていきたい人を見付けた。

 ルキナを守るのは、最早『僕』の役目などではない。

 ルキナと人生を共に生きるのであろう、“ルフレ”の役目だ。

 

 

 自分の結末を見定めた『僕』は、最後に、と天を仰いだ。

 あの滅びた“未来”のそれとは似ても似つかぬ程の、穏やかで美しい黄昏の空がそこには広がっていて。

『僕』には些か不相応な程である。

 それでも、悪くはない。

 

 

「…………ルキナ、今更どう謝っても赦されるではないけれど、……済まなかった。

 君の未来が、今度こそ“幸せ”なものである事を、心から願ってる……。

 ……幸せに、ね」

 

 

 それが償いになるとは思わないけれど。

 それでもこれが、『僕』に出来る精一杯だった。

 

 

 世界を滅ぼし、偽りの夢に溺れた愚かな悪い竜は死んだ。

 それで良い。

 そこにどんな想いがあったのかなんて、何の意味もない。

 “めでたしめでたし”で締められた物語の先で、ルキナ達が幸せに生きてくれるのなら、『僕』には他には何も要らないのだ。

 

 

 これで、やっと眠れるのだ。

 この魂に行き着ける場所なんて無いだろうけれども。

 それならそれで良い。

 

 

 ギムレーの力でこの身を焼き滅ぼした『僕』が最後に見たのは。

 懐かしく愛しい親友が、微笑んで手を差し伸べてくれる……そんな優しい幻だった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『Fluquor』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 もしも、何時か共には生きられぬ日が来るのだとしても。

 もしも、抗い難い運命の大嵐が互いを別つのだとしても。

 

 それでも、僕は最後まで貴女と共に生きていきたいと、そう心から思っていた。

 

 

 時の輪を歪めてまでここに居る事に酷く罪悪感を抱いていた貴女を。

 既に全てが滅び行こうとしていたとは言え、自分達が守り導くべきであった国を、人々を、見捨てて逃げ出したのだと己を責め続けていた貴女を。

 救えなかった全てを抱え込み、癒えぬ傷痕をその心に刻み続ける貴女を。

 それで尚、世界を救う事を己が使命とし、その為に文字通り全てを擲つ覚悟を……己を迷う事なく救世の“道具”として扱ってしまう……そんな強くて、だけど何処か酷く脆くも見えた貴女を。

 

 僕は、支えたいと思った。

 その苦難に満ちた旅路を優しく照らす篝火となりたいと、そう願って。

 貴女の使命の果て、宿願を果たすその瞬間を、そしてそこから先もずっと続いていく筈の貴女の未来を、共に生きたいと、共に歩みたいと……、願わくば貴女が新たに歩み始める“希望”に満ちた旅路を支え導く一本の杖でありたいと、そう祈った。

 

 世界は美しい。

 貴女が守った世界は、未来は、生命の輝きは、この先も連綿と続き行く命の繋がりは、こんなにも愛しいのだと。

 貴女は、貴女が守った世界を生きる権利があるのだと。

 そう貴女に──ルキナに伝えていきたかった。

 

 その心に深く深く刻み付けられた傷が消える事は無いのだとしても。

 優しい記憶で、幸せな記憶で、そっとその傷を覆う様に包み込んであげたかった。

 

そして。

剰りにも喪う事に慣れ過ぎていたルキナは、求める事を、与えられる事を、とても恐がっていたから……。

 怖がらなくて良いのだと、怯えなくて良いのだと、少しずつでも教えてあげたかった。

 

 だって、記憶も何もかもを喪って空っぽで目覚めた僕にだって、この世界は……僕が出逢った人々は、繋いだ絆は、僕に沢山のモノを与えてくれたのだから。

 喜びも悲しみも、誰かを愛しいと思う心も、何もかも。

 

 世界は時に理不尽で、変わらないモノなんて何処にもなくて、形あるモノは何時か喪われる。

 それはきっとどんな所に行っても、それこそ世界の果てでだって変わらない事なんだろうけど。

 それでも決して、喪うばかりじゃなかった。

 泣いてしまいそうな程に温かく愛しい宝物を、沢山与えてもくれるのだ。

 俯いて立ち止まっているだけでは掴めなくても、少しでも前を見てその手を伸ばしてみれば、その手が掴めるモノは必ずある。

 それを喪うまだ遠い“何時か”に怯えて、俯いて目を閉じ耳を塞いでしまっては、その手には何も残らない。

 喪う事は、それが愛しく大切であればある程に辛く哀しくその心に棘を残すけれど。

 心に残されたその棘が与える痛みすら、その宝物を何れ程愛しく大切にしていた事への証なのだ。

 喪っても、一度手に入れたその宝物は、忘れてしまわない限りは、本当の意味で喪う事はない。

 優しく愛しい“記憶”として、心を照らし導き続けてくれるのだから。

 

 だから大丈夫なのだと。

 ルキナが守ったこの世界は、ルキナから大切なモノを奪うだけの……残酷で理不尽なだけの世界ではないのだと。

 ゆっくりとでも良い、少しずつでも良い。

 暖かな陽溜まりで微睡む様な、そんな優しい時間を重ねながら。

 ルキナの心が、悴む程の厳しい冬を乗り越えて緩やかに芽吹くその時を共に待ちながら。

 その未来には“幸い”が溢れている事を、教えてあげたかったのだ。

 

 大切で愛しい人の“幸い”を、僕は心から願っていた。

 その為ならば、この身を捧げる事に躊躇いはない程に。

 そう。

 僕が願うのは、何時だってルキナの“幸せ”だ。

 何を天秤に載せられたとしても、僕は絶対にそれだけは守り抜く。

 

 元より“幸せ”と言うモノの定義は難しい。

 それを決める尺度は個々人に委ねられ、絶対の価値観なんてこの世に有りはしないのだから。

 けれども少なくとも、破滅しか無い道を切り捨てられぬ情愛を枷として共に歩く様な事は、“幸せ”とは言えないと……僕はそう思っている。

 

 互いに目を塞ぎ自分達以外の全てを切り捨てて破滅の底無し沼に沈み行くそれは、当人たちにとっては幸せの形の一つかもしれなくても。

 それでも僕は、ルキナにはそんな道を歩んで欲しくはないのだ。

 ルキナを破滅へと引きずり込む枷になってしまう位ならば、僕との記憶なんて無くなってしまっても良い。

 僕の事は、忘れてしまったって良いのだ。

 

 傷付き果てて尚も戦い続けてきたルキナの最後の憩いが破滅への道行きだなんて……そんな事……僕は絶対に認めたくはない。

 そう、ルキナの“幸せ”の為ならば、僕は自分の細やかな願いなんて、簡単に切り捨ててしまえる。

 

 だからこそ、僕は──。

 

 

 

 

「待って……!

 待って下さい、ルフレさん……!

 行かないで……!

 きっと、まだ何とか出来る方法は……!

 私達が共に生きていける道は、ある筈です……!」

 

 

 必死に僕へ向かって手を伸ばすルキナへと、僕は振り返る。

 

 左右で僅かに色が違う美しい蒼碧の瞳は、途切れる事無く頬を濡らす涙によって潤んでいて。

 振り絞る様に放たれた言葉は、嗚咽交じりに少し枯れている。

 哀しみに、絶望に、後悔に歪んだその表情は痛ましくて。

 それでも尚、諦めずに足掻こうとするその心は、何処までも気高く美しく……愛しい。

 だけれども。

 

 僕のこの胸を締めるルキナへの愛しさの中に、異物が混じる様にドス黒く凶悪な衝動が渦巻いていく。

 それは紅茶にミルクを注いでかき混ぜた様に、不可分な程に混ざりあっていって。

 今の僕は、ルキナの事を愛しく守りたいと思う気持ちと全く矛盾する事無く、ルキナを壊したいと感じるのだ。

 

 ルキナを壊してしまいたい。

 壊れるその瞬間を、たった一度だけしか味わえないそれを、僕が独り占めにして味わいつくしたい。

 ああ、愛しい、愛しい人……。

 その血の最後の一滴、その肉の一欠片、骨の断片に至るまで、何一つ残す事無く食べてしまいたい。

 そして、ルキナと真実一つになりたい。

 愛しくて、壊したくて、大切で、何もかもを僕のものにしたくなる。

 

 凶悪過ぎる衝動をどうにか抑え込もうと……ルキナへと向けない様に抗い続けている内に、自分でも、苦しくて死にたくなる位に理解してしまった。

 

 ギムレーとして目覚めてしまった僕は、必ずルキナを壊してしまう。

 

 ルキナは諦めずに僕と共に生きようと、そう望んでくれているけれど。

 その手を取ってしまったが最期、僕がルキナを食らい尽くしてしまうのは、最早想像すら必要ない。

 

 ……その手を取れたら、何れ程良かっただろう。

 その手を繋いで、共に在れたら。

 何時か誰しもに平等に訪れる別れの日まで、その隣を歩いていけるなら……。

 

 ああ、でも、もう駄目だ。

 伸ばされたその手に躊躇うその一瞬ですら、破壊衝動はルキナを食らおうと暴れ狂うのだ。

 

 邪竜は、人とは共には生きられない。

 何れ程人を愛しく思っていても。

 いや、だからこそだ。

 人を愛すればこそそれを壊してしまうからこそ、共に居てはならないのだ。

 

 

「……僕はもう、戻れない。

 僕は、ギムレーだ。

 人の世に滅びをもたらす者、人に願われし絶望。

 そして……君の敵だ。

 共になんて、生きられない。

 それは、誰よりも分かっているんだろう?」

 

 

 ルキナが伸ばしたその手を、そっと振り払う。

 

 最早、同じ時を生きる事は叶わないのだと、そう言外に告げて。

 

 だからどうか、この手を振り払ってあげられる内に。

 君を手離してあげられる内に。

 どうか、僕を諦めて欲しい。

 

 絶望の檻に、虚無の泥濘に、沈み消えるのは僕一人で十分だ。

 

 

「さようなら、ルキナ。

 次に会う時は、きっと君に殺される時だ……。

 ……その日を、楽しみにしているよ……」

 

 

 願わくば、僕の死が、何時か何処かで君の“幸せ”に繋がります様に。

 そして、僕の居ない君の未来が、“幸せ”に彩られています様に。

 

 追い縋ろうとするルキナと、そこに残してしまった未練から逃げる様に、僕は背の翼を翻したのだった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『千夜一夜のアルファルド』【上】

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

「ねえ、こんな話を知っているかい?」

 

 

 そう前置きをした邪竜が愉し気に目を細めて語り出したのは、もう今は無きとある古の王国に伝わりし伝承。

 

 曰く、無実の咎で投獄された聖職者が、獄中の世話係を任されていた生まれつき盲目の少女の為に説法を続けていた所、光映さぬ筈のその少女の瞳が世界を映す様になったと。

 少女の目に光を与える奇跡を成したその聖職者は、その心の潔白を以て見事無実を証明して見せたのだとか。

 

 

「そこで、だ」

 

 

 本当かどうかすら定かではないその伝承を語った邪竜は、その右手の人差し指を立てて嗤う。

 

 

「一つ、“賭け”をしてみないかい?」

 

 

 “賭け”、と言う邪竜のその言葉に。

 重く頑丈な鎖で身動き一つ取れぬ様にその身を拘束されたルキナは、邪竜の意図が読めず困惑する。

 

 

「生まれつき盲目の少女に光を与えたと言うこの聖職者の伝承に準えて。

 僕は君にチャンスをあげよう」

 

 

 捕らえた蝶の羽を毟る幼子の様な無邪気な残酷さすら感じさせる笑みを浮かべ、その眼には底無しの邪悪さを滲ませて。

 舞台の上の演者であるかの様に大仰な仕草と共に、邪竜は朗々と提案した。

 

 

「君は一晩毎に、僕に話を聞かせる権利を得る。

 ああ、別に説法をしろって言っている訳じゃないよ?

 君の好きな事を好きな様に話せばいい。

 僕は君がどんな話をするのだとしても、それにちゃんと耳を傾けよう」

 

 

 そして、「そうすれば」と、ニィィッと口元を歪めて邪竜は嗤う。

 

 

「もしかしたら君は、伝承の聖職者が盲目の少女に光を与えた様に、僕に……そうだね君達が言う所の“良心”とか? まあ、そんな“心”を与える事が出来るのかもしれない。

 そうこれは、囚われの身となり最早僕に抗う術など何処にも無い君に唯一残された、『世界を救える“かもしれない”方法』だ」

 

 

 ただし、と。

 邪竜はルキナの身を縛る鎖の内の一本を強く引き、首回りを鎖に引かれて息苦しさに喘ぐルキナのその耳元へと、全てを嘲笑う様に囁いた。

 

 

「君が語った話を『詰まらない』と思ったら、僕は語り終えた君を殺す。

 君は僕に話をする権利を得る代わりに、自らの命を賭ける必要がある訳だ。

 ああ、もう一つ。

 君はこの“賭け”を好きなタイミングで降りる事が出来るよ。

 そしてこの“賭け”を降りたって、僕は君を殺すつもりは無い」

 

 

 そこで鎖から手を離した邪竜は、喉元を解放されて反射的に咳き込む様に息をするルキナのその顎に手を当てて、強引ながらも優しく上を向かせる。

 

 

「僕の手元から解放するつもりは無いけれど、衣食住に何一つ不自由ない……例えるならば王公貴族の様な生活を送らせてあげるよ。

 ある程度までなら、外を出歩かせてあげても良い位さ」

 

 

 愉快そうにそう言いながら紅い目を細めて、邪竜は自らの手に落ちた聖王の末裔を見定めた。

 

 抗うのかそれとも従属するのか。

 どちらにしろ、最早圧倒的な勝者である邪竜にとってはただの余興に過ぎない。

 

 ルキナが自分の命惜しさに全てを投げ棄てて親の仇であり不倶戴天の存在である邪竜に隷属する事を選ぶと言うのなら、そこまでして生き延びようとする人間の本質の浅ましさを存分に嗤うであろうし。

 最早どうにもならぬと言うのにも関わらず自らの命を投げ棄てる様な真似をしてまで有り得ないと自分でも分かっているであろう“可能性”に縋ると言うのなら、その盲目的な愚かさをいっそ憐れさを覚えながら嘲るだけだ。

 

 そんな邪竜の意図は、その言葉の端々から、そしてその表情や所作の一つ一つから、ルキナにも読み取れた。

 元より隠そうとなんて思ってすらもいないのだ。

 邪竜にとっては、自分など最早遊び甲斐のある玩具程度の存在でしかない事は、誰よりもルキナ自身が分かっていた。

 それでも。いや、だからこそ……。

 

 

「さて。

 自らの命をチップに僕を『改心』させる僅かな可能性に賭けるか。

 それとも、自由以外の全てが揃った余生を送るか……。

 好きな方を選ぶと良い。

 さあ、最後の聖王たる君は、何を選ぶんだい?」

 

 

 矮小なヒトが足掻く様を嗤う邪竜に、ルキナは──

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「さて、ルキナ。

 最後にもう一度確認するよ?

 本当に君はこの“賭け”に挑戦するんだね?

 この“賭け”は、君が死ぬか、それとも君が心折られて諦めるか、或いは……僕が『改心』するかしか終わらせる方法は無い。

 老婆心ながら、一度挑戦して心折られて諦める位なら、最初から諦めてしまう方が楽だと思うよ?」

 

 

 心にも思っていないだろうにそんな事を言いながら、邪竜は愉しくて愉しくて堪らないとばかりに歪んだ笑みを浮かべている。

 ここで怖じ気付いて“賭け”から降りるのも、僅かな可能性に縋って“賭け”に乗り続けるのも、邪竜からすればどちらであってもルキナを思う存分に甚振る事が出来るので心底どちらでも良いのであろう。

 

 

「このまま“賭け”に挑戦せず、自由以外は不自由無き虜囚として過ごした所で、別段誰も君を責めたりはしないさ。

 そもそも、君がここに囚われているのは、君たちが僕に負けたからなんだから。

 既に最後の希望は潰えた。

 それが、人間達の認識だよ。

 誰もが君は死んだと思ってる。

 だから、誰も助けになんて来ない。

 そんな人間たちに義理立てする必要なんて、あるのかな?」

 

 

 優しさの様でいて猛毒でしかない言葉をルキナの耳へと注ぎながら、邪竜はルキナの一挙一動を見詰めていた。

 

 さあ、どうする?と。

 再度そう訊ねてくる邪竜に、ルキナは。

 

 

「あなたの“賭け”に乗りましょう。

 私は、必ずあなたの心を変えて見せる……!」

 

 

 諦めてたまるかと、そう意志を顕に吠える。

 その態度に邪竜は僅かに口元を歪めて嘲笑うかの様な表情を見せた。

 

 

「ふーん? 何が君をそうやって駆り立てているのだろうね。

 全く、人間って生き物は僕にはよく分からないなぁ……。

 まあどうでもいいや。

 じゃあ、君は“賭け”に挑戦するって事で良いんだね。

 精々僕を退屈させないように、頑張って」

 

 

 思っても無いだろう言葉だけの応援を口にして、邪竜は椅子に座る。

 そしてルキナが言葉を発するのを、ただただ待ち続けた。

 

 

 ……邪竜との“賭け”に乗る事を選んでから、ルキナは家具など生活に必要なモノが全て揃えられた広い部屋を与えられ、身を縛っていた鎖は既に解かれていた。

 ……が、そこに逃げ出せる様な隙はなく。

 普通の扉の様にしか見えないその入り口は、恐らく強力な呪いが掛けられている様で、ルキナが全力で壊そうとしても小揺るぎすらしなかった。

 逃げ出したくても逃げ出せる道など何処にも無く。

 救助は元より期待出来ない。

 故に、その可能性が無きに等しいのだと理解しながらも、世界を救う使命の為にも、ルキナは勝ち目の殆ど無いその“賭け”に乗るしかない。

 

 諦めるなど、論外だ。

 例えルキナの話に退屈したギムレーに殺されるのだとしても。

 最期のその瞬間までは、諦めず足掻き続けなくてはならない。

 それこそが、亡き父より国を……そして世界の命運を託された者としての責務なのだから。

 

 しかし、そもそもの問題で。

 何かを語ろうにも、何を語るべきなのかルキナには分からない。

 ルキナは王族としての教育を曲がりなりに受けてはきたが、その中に吟遊詩人の如く何かを語る為の術などは勿論無くて。

 況してや、世界が絶望に沈んでからは剣のみをその手に握り締めて戦い続けてきたのだ。

 

 物語を語る才能も、綴る才能も、ルキナには無いに等しい。

 縦しんば僅かながら才能の片鱗があるのだとしても、それを伸ばそうとしてきた事など今まで一度もないのだから、「さあ話せ」と言われた所で何を話して良いのやら分からないのが実情である。

 従兄弟のウードならばそう言うのが得意そうではあるのだけれども、その極意などルキナは知りはしないし、付け焼き刃で彼の真似をした所で無理がある。

 

 それに、物語る為の才能の有り無し以上に困難な問題であるのは、ルキナは語る言葉で邪竜を『改心』させなければならないのだ。

 この人智を越えた存在である邪竜に、何を話せば良いと言うのだろう。

 そもそも、言葉を尽くすだけでその心を変える事など出来るのであろうか……?

 

 何れ程考えた所で、分からない。分かる筈など無かった。

 ルキナは今まで剣を手に取り、その力で道を切り拓いてきたのだ。

 人は所詮、自分が知る範囲の物事でしか判断出来ぬ生き物である。

 

 故にこそ、諦めて隷属する事など出来ないと、どんなに“有り得ない”可能性であるのだとしてもそれに賭けるしか無いと判断して、自分の命をチップとして差し出しはしたものの。

 勝つ為の策などある筈もなく、当然の如くギムレーを『改心』させる為の筋道など見えよう筈もない。

 それどころか、殺されない為の最低条件である『退屈させない』ですら、こなせるかどうかすらも怪しい。

 

 それでも、やらなくてはならない。

 ルキナは死ぬ為にこの“賭け”に乗った訳ではないのだから。

 

 

「では──」

 

 

 ルキナは必死に。

 死なない為に。

 そして、世界を救う為に。

 

 何処か辿々しくも、物語を語り始めるのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

「──でした」

 

 

 一通り語り終えたルキナは、自身に向き合う様にして椅子に座っている邪竜の反応を伺い見た。

 邪竜は、何の反応も示さない。

 退屈そうに欠伸を溢す……なんて事も無かったが、さりとて身を乗り出すように聞くなんて事も無く。

 この邪竜がどう思っているのかが、ルキナには全く読めなかった。

 

 

「成る程、それで終わりかい?」

 

 

 物語の締めの言葉から僅かな沈黙の後、深く腰掛けていた椅子から立ち上がった邪竜は、一歩一歩とゆっくりとルキナに近寄ってきた。

 

 ルキナを殺すつもり、なのだろう。

 やはり、話を聞くなどと宣ってはいたが、所詮は邪竜の戯れに過ぎず、最初からこんな“賭け”をまともに成立させるつもりなんて無かったのだろう。

 飽きるまでの暇潰しの玩具。

 生殺与奪の全てを邪竜に握られている今、ルキナの存在価値などその程度のモノでしかない。

 最初から嫌と言う程に分かっていたが、それでもと一縷の希望を懐いていただけに、この様な結末に終わるのが無念でならない。

 それでも、最後までこの魂だけでも邪竜に屈する事は無かった事で、人間としてのせめてもの矜持を守れたと……そう思っても許されるだろうか……?

 

 一瞬後に訪れるのであろう避けようの無い死を覚悟して僅かに身を強張らせたルキナを見て、邪竜は怪訝そうに僅かに眉根を寄せる。

 

 

「……?

 ああ、僕が話を聞いて無いって思っているのかい?

 そんな事はないさ、ちゃんと耳を傾けていたとも。

 何なら君が語った物語を一言一句違えずに諳じてみせようか?」

 

 

 想定外の邪竜のその言葉に、ルキナは一瞬呆気に取られた。

 そんなルキナの表情を見て、邪竜はその目に愉悦に満ちた嗜虐的な光を浮かべる。

 

 

「……まあ、でも。

 詰まらないとは言わないでおいてあげるけど、君の言葉は僕には全く響かなかったよ。

 僕を『改心』させたいんだろう?

 なら、もっと頑張らないとね。

 君は人々の『最後の希望』なんだからさ。

 そうじゃないと、世界を救えないよ?

 じゃあ、また明日の夜に」

 

 

 そう口元を歪めて言い残すと、ギムレーは部屋から去っていった。

 

 ギムレーが完全に去った事。

 そしてまだ自分が生きている事。

 

 その二つを認識したルキナは、用意されていたベッドへと力無く倒れ込んだ。

 何もかもが荒廃しきったこの絶望の世界では有り得ない程に柔らかなベッドは、ルキナの身体を優しく包み込んでくれて。

 そして、堪らず顔を覆ったその両手は、カタカタと小さく震えている。

 

 ルキナは、怖かったのだ。

 

 剣を手に取り戦場を駆け抜けるならば、ルキナは幾らでも先陣を切って道を切り拓ける。

 どんな強敵にだって、立ち向かえる。

 だが、今のルキナの手にファルシオンは無く。

 そして、共に駆ける仲間も、ここには居ない。

 

 ルキナは独り、身を守る為の武器すら持たず、己の身一つで、己の言葉だけを武器として、戦わねばならないのだ。

 それは、戦場で命のやり取りをする時のそれとは全く違う戦いであり。

 自身の生殺与奪も何もかもが邪竜の手の内にあるのだ。

 何時気紛れに殺されたとしても、おかしくはない。

 

 言葉を以て物語を語ると言う慣れぬ行為に、そして何時でも自身を如何なる理由でも殺せる相手を前に身一つで立たねばならぬ状況に、そして、そんな状態であろうとも世界を救わなければならないのだと言う重責に。

 

 ルキナの身体は抑えられぬ恐怖に震えていたのだ。

 

 この“賭け”は、何時まで続くのだろう。

 邪竜の『改心』など、果たして可能なのだろうか?

 

 諦めて虜囚に甘んじる事など、それはルキナの魂の矜持が許さない。

 それならば、詰まらなかったと殺される方が遥かにマシである。

 だが、あの邪竜を『改心』させる事が出来ないのなら、この地獄の責め苦の様な時間がルキナが死ぬまで続くのである。

 

 どうすれば良い?

 どうすれば世界を救えるのだ?

 

 何を己に問うた所で、答えなど返ってくる筈もなく。

 消耗しきったルキナは、半ば気を失う様にして眠りに落ちていったのだった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

「さて、ルキナ。

 今夜も改めて訊くけれど、“賭け”を諦めるつもりは無いんだね?」

 

 

 底意地の悪い笑み浮かべながら、邪竜はそう尋ねてくる。

 この問答はもう幾度となく繰り返され、そしてその度にルキナは“賭け”の続行を選び続けてきた。

 

 “賭け”が始まったその日から、もう幾度の夜が過ぎたのだろうか。

 この部屋に囚われてる内に既に時間の感覚など消え失せた。

 一日の終わりの感覚はこうして夜毎に部屋を訪れる邪竜がいる為にまだ保たれているが、もう曜日などの感覚は分からない。

 ただ少なくとも、もう一週間は過ぎてしまっていた。

 

 しかし、未だに邪竜の態度に変化などは無く。

 世界を救う最後の手段に一縷の望みを懐いて、今夜もまた、ルキナは自分の命と世界の命運が掛かった“賭け”に挑むのであった。

 

 

「ええ、勿論です。

 私は諦めたりなどしません……!」

 

「こんな状況に置かれていてもまだ諦められないと言うのも、中々哀れな話だと僕は思うけどなあ……」

 

 

 心にも思っていないであろう事を宣いながら、邪竜は椅子に座ってルキナに向き合う。

 

 

「そこまでして、世界を救いたいのかい?」

 

「……当たり前です!」

 

 

 この邪竜から世界を救うのが、今は亡き父からファルシオンを継いだ自分の使命である。

 世界を救う為にルキナは今まで戦ってきたのだ。

 例えファルシオンを奪われようとも、例え囚われの身となろうとも、例えその命を邪竜に握られているのだとしても。

 その程度で諦められる程に、ルキナの覚悟は、決意は、軽いモノではない。

 邪竜はそんなルキナに嘲笑う様な歪みきった笑みを向けた。

 

 

「ふーん、そうかい?

 なら、頑張って世界を救ってみなよ」

 

 

 言葉だけの励ましを送った邪竜は妖しく輝く紅い瞳に愉悦の感情を浮かべ、囁く様な声音でルキナに語り掛ける。

 

 

「ああ、そうだ。

 僕は今日、イーリスの北の街道の外れにある小さな村を消してきたんだよ。

 君は知っているかい? まあ、どっちでも良いけど。

 えっと、住んでいたのは600人位かなぁ……。

 取り敢えず、まず歯向かってきた大人達を殺してね。

 そいつらを屍兵にして、その子供や親を殺させたんだ」

 

 

 “賭け”を始めてから数回目から、邪竜は嬉々として、身の毛もよだつ様な所業をルキナに話す様になっていた。

 今日はどこぞの村や街を滅ぼした、今日は何人殺した、こうやって殺してやった……、と。

 ルキナが“賭け”の続行を選ぶと、ルキナが物語を語り始める前には必ずそうやってルキナの心を痛め付けようとして。

 そして、最後には決まって……。

 

 

「さあ、ルキナ。

 早く僕を『改心』させてみなよ。

 そうじゃないと、君は人が滅び去った世界にたった一人生き残ってしまう事になるよ?

 ああでも、そうなった君がどう絶望するのかはとても興味があるなぁ……。

 それが嫌ならば、精々頑張ってみるんだね。

 世界を、救いたいんだろ?」

 

 

 そう言って、ルキナを煽るのだ。

 そう言われる度に、そうやってニヤニヤとルキナを煽る様に嘲笑う邪竜の胸にファルシオンを突き立ててやりたくなるが。

 しかし捕らえられた時に既にファルシオンは取り上げられ、その行方はルキナには分からない。

 神竜の牙であるそれは、如何に邪竜と言えども容易くは壊せないだろうが。

 破壊されてはいないにしろ、少なくとも人の手の内にある事は無いだろう。

 

 覚醒の儀式を行える者はおらず、ファルシオンは人々の手にはあらず、最早人類は邪竜に抗する術を全て失った。

 だからこそ、こんな成功する見込みの低い“賭け”にルキナが挑むしかないのだ。

 

 成功すれば世界は救われ、失敗した所でルキナが殺されるだけで世界の状況がこれ以上悪くなる事もない。

 元より世界の為に差し出すと決めた命だ。

 それで世界が救われる可能性を得られるかもしれないならば、この命を賭けるのだとしても惜しくは無い。

 

 が、そんなルキナの想いを、当然の様に邪竜は見透かしていて。

 ルキナの心を揺さぶろうと、あの手この手で邪竜は言葉を弄してルキナを甚振るのだ。

 邪竜にとっては、ルキナはただの玩具に過ぎないのだろう。

 まあ、こうして毎夜ごとに飽きもせず訪れている所を見るに、それなりに気に入っている玩具なのかもしれないが……。

 

 邪竜は、ルキナが何をしようと、何を語ろうと、自分が『改心』される事など有り得ないと……そう思っているだろうし、だからこそこんな暇潰しの様な“賭け”を続けさせているのだろう。

 それは、ルキナも痛い程に理解している。

 

 だがそれでも、何れ程その可能性が低くとも。

 邪竜は“賭け”の約束通りに必ずルキナの言葉には耳を傾けてはいる。

 例え理解し得ない程に、彼我の溝は深いのだとしても。

 言葉が届くのならば、ルキナの言葉が邪竜の“何か”を動かすその可能性は、零では無いのだと。

 そんな幽かな期待こそが邪竜の思う壺なのだとしても、そんな淡い希望に縋るしか、最早ルキナには世界を救う為に邪竜に抗う術が残されていなかった。

 

 

「では、今日のお話は──」

 

 

 だからこそ、ルキナはこの物語に命を賭けるのだ。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 神話や伝承、数々の英雄譚、お伽噺……。

 ルキナが知っている物語とは、結局幼い頃に読み聞かされてきたそれらの範疇を出る事は無い。

 小説などを読むよりも剣を手に取り稽古を付ける事ばかりを優先していたのだから当然か……。

 ウードやシンシアの様に、新しく物語を考える才など無いのだ。

 だから、何処かで聞いた様な物語ばかりを語ってしまう。

 それは不味い、と思いながらもそれしか方法がなくて。

 だがやはり、そんな物語では邪竜の気を惹く事すら出来ないのであった。

 

 ルキナが語り終えた後に、詰まらないとは言わないものの、それでも興味なんて抱いてなさそうで。

 詰まらないと言ってルキナを殺さないのは、諦めずに足掻くその姿を見て楽しむ為なのだろう……とルキナは分かっていた。

 が、それはあくまでもルキナが諦めず足掻き続けているからこそだ。

 “賭け”の最中に少しでも諦めを抱いてしまえば、直ぐ様邪竜はルキナを殺すだろう。

 

 だからこそ、生きて可能性を少しでも繋げる為に。

 ルキナは、諦める訳にはいかなかった。

 だが、こうやってズルズルと話を続けていてもやはり意味はない。

 意味はないと思ってて語る物語など、詰まらないし、それ以上にそれはルキナの心を疲弊させて行く。

 

 だが、どうすれば良いのか……。

 ルキナには、分からなかった。

 

 一回の物語で邪竜を『改心』させる事など不可能だ、とルキナは悟って。

 何よりも先ず優先しないといけないのは、ルキナが語る物語に邪竜の気を惹く事であった。

 気を惹けさえすれば、『改心』させられる可能性は少なくとも上がる、筈である。

 しかし、語る才能の無いルキナは、それを手探りで探すしかない。

 邪竜の気を惹ける話題や物語を見付け出せるか、或いはルキナの心に諦めが忍び寄った所を飽きられて殺されるか……。

 そのどちらが早いか、の問題になっていた。

 

 今夜もまた、ルキナは一つの物語を語り終える。

 遠い昔に聞いた昔話をアレンジしたそれは、やはり邪竜の興味は惹けなくて。

 

 

「まあ、最初に比べれば、語り方はマシにはなっているんじゃない?

 でも、やっぱり今夜の物語も、僕は何にも感じなかったな。

 早く僕を『改心』させないと、世界が滅んじゃうよ?

 ほらほら、それが嫌ならもっと頑張らないとね。

 じゃあ、明日の夜に、また」

 

 

 何時もの様にそう言い残して、邪竜は部屋を立ち去るのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『千夜一夜のアルファルド』【中】

読み易さの向上の為分割しました。内容は変わっていません。


◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

「これは……あまり参考にはならなさそうですね……」

 

 

 一つ溜め息を吐いたルキナは読んでいた本を閉じ、それを本棚へと戻した。

 

 何度目かの夜が過ぎた辺りから、剰りにも拙いルキナの語りに思う所でもあったのか、邪竜はルキナに図書館を与えていた。

 それだけではなく、ルキナがあの部屋から出歩く自由もある程度は与えていて。

 しかし、部屋から出歩ける様になったからと言って、ルキナが逃げ出せる様な隙は何処にも無かった。

 だからこそ、ルキナは未だに虜囚の身のままだ。

 

 邪竜の方からルキナに接触してくるのは、夜毎の“賭け”の時だけで。

 それ以外の時間は邪竜はルキナの自由にさせていた。

 毎日好きな時間に入浴をする自由が与えられているし、食事は食べる食べないに関わらず三食欠かさず運ばれてくる。

 食事の内容も、世界が滅びに向かい始めてからルキナが口にしていたモノとは比較にもならない程にしっかりとしたモノであった。

 邪竜の戯れでしかない事は分かっているが、腹が減っては戦は出来ぬとよく言うし、ちゃんと衣食住を保証してくれている事に関しては有り難くはある。

 

 そして邪竜が戯れに与えている日中の自由な時間の殆どを、ルキナは与えられた図書館で過ごしていた。

 かつてのイーリス王城にあった図書館にも引けを取らない程の蔵書を誇るその図書館には、世界各地の神話や民間伝承などの物語の本も納められていて。

 そう言った知識に乏しかったルキナにとってはそれらの本はとても参考になるのだけれども、もしあの邪竜がここの蔵書に目を通していたのなら、ここにある本の内容に似たモノを語った所で意味は無いのだろうとも思う。

 

 どうすれば良いのか、何を話せばあの邪竜の気を引けるのか、と。

 そればかりを考えているのに、何一つとして良い考えが思い付かない。

 ……いや、そもそもの話、ルキナは邪竜について殆ど良く知らないのだ。

 

 邪竜ギムレー。

 千年前に初代聖王に討たれ、そして再び現代に甦り世界を滅ぼさんとする存在。

 神竜ナーガとは相容れない存在。

 

 ……ルキナは、それ位しかあの邪竜について知らなかった。

 敵として奴を討とうとしていた時はそれ以上の情報など必要無かったし、そもそもあの邪竜自身について知れる機会などほぼ無かったのだ。

 だが今は、ルキナはあの邪竜を『改心』させなくてはならない。

 ならば、あの邪竜の内面も知る必要があるのではないだろうか……?

 

 邪竜について調べようと図書館中の書物を探し回ったが、驚く程にあの邪竜についての記述は存在しなかった。

 千年以上前から確かに存在していた筈なのに。

 ギムレー教に関する本を読み解いても、殆どと言って良い程にあの邪竜に関して何も書かれていないのだ。

 どう言った“神”であるのかとは記載されていても、その人格の部分については何も触れられてはいない。

 

 “千年前に現れて世界を破滅の淵に追いやり、初代聖王に討たれた。”と言うイーリスにも伝えられている以上の記述が、何処にも無かった。

 いっそ不自然な程である。

 

 しかし、あの邪竜を知る為の手掛かりすらも無いと言うのは、かなり厄介な事であった。

 しかも、そうこうする内に窓の外の陽は傾き始めていて、“賭け”の時間まであまり猶予はない。

 

 何時もの様に、何かの物語を語って聞かせるべきなのだろうか。

 だが、そんな事を続けていても徒に時間が過ぎていくだけである。

 ともすれば、戯れに飽きた邪竜が今夜でルキナを殺すかもしれないのだ。

 何時までも期限があると考えているのは危険だ。

 

 どうすれば……と焦るルキナの頭に、一つの無謀な賭けの様な……しかし、もしかしたら現状を少しでも打開出来るかもしれない案が閃いた。

 その案を果たして実行して良いのだろうか……、と悩んでいる内に。

 今宵の“賭け”の時間が訪れてしまったのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 すっかり“賭け”の間の定位置となった椅子に腰掛けた邪竜は、相変わらずの嗜虐的な眼差しでルキナを見据えている。

 良くも悪くも邪竜からそんな視線を受ける事に慣れてしまったルキナが、その視線で動揺する事は最早無い。

 何時もの様に向かいの椅子に腰掛けて、邪竜の開始の合図を待つ。

 

 

「さて、ルキナ。

 今夜も改めて訊くけれど、“賭け”を諦めるつもりは無いんだね?」

 

 

 何時も通りの形式的な質問にルキナは勿論だと頷く。

 その返答に満足そうに嗤った邪竜は開始の合図を出そうとするが、ルキナはそれに待ったを掛けた。

 

 

「ん? どうしたんだい?

 ここに来てやっぱり“賭け”を降りるつもりかい?」

 

「いいえ、“賭け”は今夜も続行します。

 ですが、一つだけ質問を」

 

 

 そう答えたルキナに、邪竜は何時もよりも愉しそうに目を細める。

 

 

「へぇ、珍しいね。

 うん、質問を許そう。

 それで、何を聞きたいんだい?」

 

「あなたは“賭け”の最初に言いましたよね。

 “私の好きな事を好きな様に話せばいい。私が何を話してもあなたはそれに耳を傾ける”、と。

 今日は何時もと少し趣向を変えて対話形式で話そうと思うのですが、それは“賭け”の対象として成立させられますか?」

 

 

 ルキナのその言葉は邪竜にとっては予想外であったのか、邪竜は紅いその瞳を軽く見開いて幾度か瞬いた。

 

 僅かに驚いた様な邪竜のその表情に、ルキナもまた意表を突かれる。

 常に超然として在るこの存在も、この様な表情をするのかと。

 まるで人間の様なその反応を見て、ルキナの心に小さな細波が生まれた。

 

 そんなルキナの心中を知ってか知らずしてか、邪竜は一瞬後にはまた何時もの様に邪悪そのものの様な表情を浮かべ、先程のあの反応はまるで幻であったかの様に振る舞う。

 それでも、ルキナの心に生まれた小さな波紋は、静かに静かに胸の奥へと広がっていく。

 

 

「対話?

 ふーん……僕と話したい事でもあるのかい?

 まあ、良いよ。

 僕との会話も、“賭け”の中に入れてあげよう。

 ああ勿論……君との会話を詰まらないと感じたら君を殺すけれど、それでも良いんだね?」

 

「ええ、構いません」

 

 

 それは元より承知の上だ、それで今更臆する様な事はない。

 それよりも、ルキナにとっては一かばちかの提案であったが、ルキナは邪竜の反応に確かな手応えを感じていた。

 

 邪竜は人間とは違う感性を持っているのかもしれないが、その精神構造の何もかもが違うと言う訳でもないのではないだろうか。

 不意を突かれれば驚きもするし、何か愉快に感じる事があれば嗤いもする。

 邪竜の内面をルキナが正しく理解出来るのかは未知数ではあるが、それでも全く理解しようが無い程に心の在り様が違っている訳でも無いのだろうとルキナは踏んでいた。

 ならば、ルキナが彼の邪竜を理解しようと歩み寄る事を努める事を躊躇わなければ、僅かであろうともその内面を理解出来る可能性は生まれる筈だ。

 

 世界を滅ぼす絶対的な悪。

 聖王の血に連なる者としてルキナが討ち滅ぼさねばならぬ存在。

 敬愛していた父の敵。

 

 ルキナが邪竜に抗う為の意志の力を支え続けてきたそれらの認識は、邪竜を理解しようと歩み寄ろうとした今、逆にそれを阻む柵となってしまう。

 だから今はそれらを一旦忘れよう。

 相手を理解しようと歩み寄る為には、先入観などは不要だ。

 心から言葉を交わし、それらの中から相手の心の欠片を探すべきなのだから。

 

 相手は千年以上も存在し続けた、強大な竜だ。

 ファルシオンを持たぬルキナなど、一捻りで如何様にも殺してしまえる。

 だが、恐れるな、怯むな。

 絶対的な存在に相対する恐怖に怯み震えてしまうのなら、その感情には鍵を掛け心の奥底に沈めてみせよう。

 

 今のルキナに必要なのは、相手を理解しようと想う心。

 そしてその為の言葉だ。

 その覚悟は既に決まっている。

 

 ルキナは大きく息を一つ吸い、鼓動を鎮める様にゆっくりと吐き出す。

 そして、邪竜を……ギムレーを、しかと見据えた。

 

 

「それでは──」

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 ルキナがギムレーに対して知っている事は少ない。

 

 終わりの見えぬ戦いの日々に明け暮れている時は、それでも良かったし寧ろそんな事について一々考えている余裕もなかった。

 神竜ナーガより与えられたファルシオンの真の力を以てすれば彼の存在を討てるのだと……、その事実だけで十分であったからだ。

 知りたい事があるとすれば、ギムレーの弱点などと言った、ギムレーを討つ為の情報であって。

 ギムレーは何処から来たのか、何故世界を滅ぼそうとしているのか……等と言った、ギムレー自身の内面に触れる様な事を知りたいと思った事は一度も無かったし、そんな事は考えた所で無駄な事だとも割り切っていた。

 例え世界を滅ぼそうとする事にギムレーが何らかの確固たる理由や事情を抱えているのだとしても、だからと言ってルキナ達人間が唯々諾々と滅ぼされてやって良い理由にはならないのだから。

 ギムレーは人間達に何らかの要求をした訳でもなく、ただただ人々や世界を絶望の淵に引きずり込み滅ぼそうとしているのだ。

 そんな相手の事情を斟酌するなど無駄な行為であり、交渉して落とし所を探す事など実質的に不可能な事である。

 だからこそ、ギムレーにも“心”があるだなんて事を考えてみようと、その内面を知ろうとなんて考えた事は、一度たりとも無かった。

 

 だが、こうしてギムレーに捕らえられ、“賭け”の相手となってからは……。

 考える時間だけは幾らでもあった事もあって、ルキナはかつての自分なら考える事すら馬鹿馬鹿しいと切って捨てていたであろう事を考える様になっていった。

 

 彼は何処から来たのか、何者なのか、何を望んでいるのか……。

 

 イーリスの国教であるナーガ教からすれば、ギムレーは滅びの化身であり災厄その物だ。

 だが、ペレジアの国教であったギムレー教にとっては彼の存在は“神”である。

 万物を産み出したる存在と言う訳ではなくとも。

 その力を破壊にばかり使うのだとしても。

 人智を超越した力を持ち、討たれても再び甦り、人では幾ら束になろうとも神竜ナーガの力添え無くしては到底及ばぬ彼の竜はまさしく“神”と呼んでも良いのだろう。

 

 しかし、そもそも何故、ギムレーは“神”と成ったのか。

 

 基本的に人間は滅ぼす対象程度にしか見ていない彼の竜が、自らを“神”と信仰する様に人々に要求するとは考えにくい。

 恐らくは、人々の方からギムレーを“神”へと祀りあげたのだろう。

 荒ぶるギムレーを祀る事で鎮めると言う……そう言う信仰から始まった宗教であったのかもしれないし、或いは圧倒的なその破壊の力に魅せられたのかもしれないし、もしかしたら単純に依る辺がそこにしか無かったのかもしれない。

 それは、今となっては確かめる事は出来ない事なのかもしれないが。

 

 ギムレー教を忌み嫌いペレジアを敵国と定め続けていたイーリスで生まれ育ったルキナには、その信仰の出発点が何だったのかなど知る機会などある筈も無かった。

 宗教同士の諍いが国同士の不和を作ったのか、国同士の不和があるからこそ両者の宗教が互いを不倶戴天の敵と目しあっていたのか、それに関してはルキナにも分からないが……。

 何にせよ、ギムレーが聖王に討たれてから甦るまでの千年の間に、ペレジアとイーリスが血生臭い戦争を幾度となく繰り返してきたのは事実である。

 両国の溝は深く、文化的・宗教的には二つの国は断絶していると言っても過言では無かったのかもしれない。

 だからこそルキナにペレジアの内情や文化的背景を教えてくれる人などおらず、ギムレー教は邪竜なぞを奉っている狂人の宗教だと言う程度の認識でしかなかった。

 いや、今でも正直に言うと、何れ程説明されようともそこにどんな事情があろうとも、現に甦ったギムレーによって世界の全てが蹂躙され今にも滅びようとしている中では、ギムレー教の存在を好意的に肯定する事はルキナには不可能だろう。

 ギムレーを奉る事にどんな意味があり教徒達がどんな意味を見出だしていたのであろうが、甦ったギムレーはイーリスもペレジアも見境無しに蹂躙し滅ぼしていっているのだから、どんなに好意的に見てもギムレー教は世界全てを巻き込んで無理心中をしようとしていた様にしか思えない。

 

 そもそも、ギムレーを甦らせてどうしようとしていたと言うのだ。

 イーリスに対する復讐の為だとしても、その代償が自分達をも含めた生きとし生ける者達全ての滅びとはあまりにも大き過ぎるのではないだろうか。

 いや、そんな馬鹿げた……自分達にすら何の利益にもならない様な代償を払ってでも、その復讐を成し遂げたかったのだろうか?

 千年の間にイーリスとペレジアが積み重ねてきた怨嗟と憎悪は、それ程までにペレジアの人々の心を蝕み続けてきたのだろうか。

 或いは、甦ったギムレーが彼を奉り信仰し続けてきた自分達を救ってくれるとでも思っていたのだろうか?

 人々が制御出来る様な存在だとでも錯覚していたのだろうか?

 あんな破壊と絶望の化身の様な存在に対して……?

 

 考えた所で、ギムレーに隷属する事を誓い生かされている極一部の信徒以外はギムレー教自体はほぼ壊滅してしまった今となっては、最早そんな事情は調べ様がない事だ。

 どんな目的を、どんな事情を抱えていたにせよ、ギムレー教の手によってギムレーが甦った事だけが、確かな事実である。

 事実と“真実”は決して同じではないけれども。

 全知の神ならぬルキナには結局自分が見た主観的な事実しか認知しようが無いのだから、最早自分の手には届かぬ“真実”を探して妄想を繰り返しても無益でしかない。

 それは分かっている。けれども……。

 

 千年の眠りから甦った時、ギムレーは何を思ったのだろう。

 千年前と変わらぬ破壊への欲望なのか、人々への悪意なのか、それとも…………。

 いや、そもそも何故ギムレーは世界を滅ぼそうとするのだろうか。

 各地の神話や伝承を紐解けば、竜や神と言った強大な存在が人々に禍を成した事は数多くあった。

 しかし、結局はそう言った行為の裏には何かしらの目的があったのだ。

 少なくともギムレーの様に、全てを根刮ぎ破壊して滅ぼそうなどとする様な者は彼を除いては存在しない。

 ギムレーのやっている事は、最終的には自分以外の世界中の全てを文字通り灰塵に帰す行為である。

 だが、そんな事をして一体何になると言うのだ。

 それで何が得られるのだ。

 それではまるで、“破壊する事”こそがギムレーの目的であり動機であり全てであるかの様ではないか。

 もしそうだとするのならば、ギムレーはまさしく狂った竜であり狂った“神”であるのだろう。

 自分以外の何もかもが消え去った世界など、望む意味などあるのだろうか。

 

 何れ程考えようとも、分からない。

 そう、それは結局の所ルキナが自分一人で考えて結論を出せる様なものでもないのだから。

 相手を理解する為には、先ずはその相手の内面に触れようとしてみる事が必要である。

 言葉であれ何であれ、全ては相手に関わろうとする事から始まるものなのだ。

 何れ程言葉を交わそうとも、何れ程の時を過ごそうとも、ギムレーを理解出来ない事は当然有り得る。

 だが、理解出来ない事と、理解しようともしない事は全く別の問題であるのだ。

 

 だからこそ、ルキナは言葉を一つ一つ慎重に紡いで、ギムレーへと言の葉を投げ掛けていく。

 

 

 貴方は何者なのか、何を望み、何を目指しているのか……。

 

 ギムレーと言う“存在”そのものを、理解する為に。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 捕らえた聖王の末裔……忌々しきナーガの力を秘めし者。

 最早全ての趨勢は決し、人々がギムレーに抗い敵う可能性など潰えたと言うのにも関わらず、ナーガの牙──ファルシオンを扱えると言うただそれだけで人間どもに“希望”の象徴として奉りあげられた……ギムレーですら愉悦と同時に一片の“憐れみ”の様なモノを感じてしまう様な、そんな人々の“希望”の生け贄。

 

 そんなルキナを、殺さずに捕らえた事には別に然したる理由は無かった。

 ただ……その場で食い殺してしまうよりも、思う存分嬲って絶望を味わせてから殺す方が愉しいだろうと思ったのと。

 ちょっとした退屈しのぎにはなるだろうと、考えていた。

 

『退屈』……。

 そう、ギムレーは知性ある者達が時に陥る、心の死へと至る病の様な感情を覚えつつあった。

 尽きぬ破壊衝動のままに、身の内に絶える事無く燃え続ける憎悪のままに、嗜虐に愉悦を感じる心の有り様のままに、決して満たされる事なき心の虚が求めるままに……世界を滅びへと導いてきたギムレーではあるが。

 ……最早、人もナーガですらもギムレーに抗う事など出来ぬ今となっては、全てギムレーの思うがまま描いたままに世界が滅びていく。

 それは、ギムレーにとっては望み続けていたものである筈なのに……。

 ナーガや聖王に阻まれ千年前に滅ぼしきれなかった世界を、漸く滅ぼせる時が来たと言うのに。

 ふと気が付けば、虚しさの様な、『退屈』としか表現しようが無い感情を抱いてしまう。

 破壊衝動のままに人々を虫けらの様に蹂躙すれば一時はその気も紛れるし、人々が絶望と怨嗟の中に死に行くのを見れば愉悦を感じるのだけれども。

 しかし、その気持ちすらも直ぐ様褪せて、後には虚しさの様なモノだけが残る。

 満たされぬ心の虚はますます広がり、何時かは『退屈』以外の感情が死んでしまう様な予感すらギムレーは感じていた。

 人間如きに産み出され忌まれたその時より抱き続けた憎悪も破壊衝動すらも、底が割れた砂時計の様に、心の虚の中へと静かに消えて薄れ行く様ですらあるのだ。

 それは、最早ギムレーにとってこの世の全てが滅び迄の予定調和の出来事でしかなくなったが故なのだろうか?

 

 この世に産み出されて幾千の時を経、そしてこれから先も永劫に近い時を生き続ける事も出来るギムレーにとっては、何時しか芽生えてしまった『退屈』と言う心の病は何よりもの大敵であった。

 この虚は、何時かギムレーの心を殺し、そしてギムレー自身すらも殺すのだろう。

 世界を等しく絶望の泥濘へと沈め、生きとし生けるモノ全てに平らかに滅びを与え、何も無くなった永久の静寂世界で……ただ独りとなれば、この虚に心を喰われたギムレーは自らの生にも何にも意味を見出だせずに、死を選んでしまう可能性がある。

 

 世界に対する憎悪と破壊衝動が、ギムレーの根源でありその全てであるからこそ……それを向ける先を喪えば、遠からずギムレーもまた……。

 数多ある異界と数多ある可能性、限り無く無限に等しい数程に存在するそれら全てに対して憎悪や破壊衝動を向け、異界へと侵攻する道もまたあるのかも知れないが……。

 それでも、一度懐いてしまった虚は決して消えはしない。

 全ての異界を滅ぼそうが滅ぼせまいが……どの道ギムレーには己の虚に喰われる未来しか最早残ってはいなかった。

 後は、それが早いか遅いかだけの違いである。

 

 それは理解していても、それでもギムレーは己の生には執着があった。

 例え自分を含めたこの世の全てを呪っていても、だ。

 だからこそ、『退屈』がその執着すらも塗り潰してしまう事を、ギムレーは恐れていた。

 

 そんな中で自らの手の内に捕らえたルキナは『退屈』を紛らわすには格好の獲物であった。

 だからこそ、何時もの様にただ殺すのではなくて、戯れの様な“賭け”を吹っ掛けて生かしてあるのだ。

 

 ギムレー自身、ルキナが何を話そうがそれで自分の“心”が変わる事など無く況してや『改心』されるなど有り得無いと高を括っていた。

 だが、『改心』される事は無いのだとしても、ほんの一時でもこの『退屈』が紛れるならば、それだけでも“賭け”を続ける意味があるし、ルキナを生かしておく価値はある。

 実際、ルキナとの“賭け”は、ギムレーにとってはここ最近の唯一の“楽しみ”になっていた。

 勿論、ルキナが語る物語がギムレーに感銘を与えているとかそんな事は無い。

 約束通りその言葉にはちゃんと耳を傾けてはいるものの、その語る内容自体にはギムレーとしては大して興味を惹かれないのだから、彼女のやっている事は無駄骨も良いところである。

 だが、ルキナの語る言葉自体には特には意味も価値も見出だせなくても。

 不可能に近い事であると自身も理解しながらもそれでも抱いた矜持か意地故にか決して諦められないその姿が、生殺与奪の全てをギムレーに握られている事の恐怖を押し殺してギムレーに相対するその姿が、だが一夜毎に生き延びられた喜びに微かに身を震わせてしまうその姿が。

 ギムレーにとっては何よりも面白く、見ているだけで『退屈』を忘れられるのだ。

 それは、ギムレーが久しく忘れていた“楽しい”と言う感情であった。

 だからこそ、“賭け”の度に『詰まらなかったら殺す』とは口では言っているものの、例え何れ程退屈な話をされたのだとしてもギムレーにはルキナを殺すつもりなどは微塵もありはしなかった。

 ルキナを殺してしまえば、また『退屈』に殺される日々が来る事をギムレーはよく理解しているのだから。

 思えば、ギムレーはギムレーなりにルキナを気に入っているのだろう。

 ……それがルキナにとって“良い事”であるのかはまた別の話にはなるが。

 

 だからこそ、ルキナが今夜の“賭け”でギムレーとの対話を望んだ事には、然しものギムレーも驚いた。

 そして、ギムレーは自身が“驚いた”と言う事に、より大きく心を動かされたのだ。

 ルキナと“賭け”を始めてから、ギムレーは『退屈』から解放され、“楽しい”と言う気持ちを久々に味わう事が出来ていた。

 だが、それに加えて『驚き』すらをも味わえるなんて……。

 

 久しく忘れていた『驚き』と言う感情に、思わずギムレーの心は弾む。

 ルキナとの“賭け”は確かにギムレーにとっては“楽しい”ものであり、退屈から逃れられる大切な時間ではあったけれども。

 しかし、それがギムレーにとってはある種の“予定調和”の様なモノであり、心を擽る様な真新しさはそこには無かったのだ。

 それはそれで悪くはなかったが、やはり生には細やかであってもある程度の『驚き』はあった方が良い。

 “予定調和”なぞ、『退屈』を招くだけなのだから。

 

 故に、ギムレーは俄然と“ルキナ”自身に対しての興味が湧いた。

 それまでも、ルキナが気に入らなかったとかそんな訳ではなかった無かったけれども。

 あくまでも『退屈』を紛らわせてくれるからこそ、ギムレーはルキナに価値を見出だしていた。

 例えばそれが“ルキナ”でなかったとしても、同じ様にギムレーの『退屈』を紛らわせてくれるのなら、同等の価値をギムレーはそれに見出だすであろう。

 ……尤も、今のこの世界でルキナを上回る獲物は、ギムレーでさえもそう簡単には思い付けないけれども。

 だけれども、今は違う。

 “ルキナ”自身に対して、ギムレーは初めて興味と共に価値を感じ始めていた。

 

 何故、突然ギムレーとの“対話”なぞを望んだのか。

 親の仇であり世界を滅ぼす仇敵である筈なのに。

 決して相容れぬのだと、ギムレーを“邪竜”として切り捨ててきていた筈なのに。

 

 何故、ギムレーを揺るぐ事無く真っ直ぐに見据えてくるのか。

 ギムレーの気紛れ一つで何時でも殺されるのだと知っている筈なのに。

 ルキナにとってギムレーは“死”そのものの様なものである筈なのに。

 

 後から後から、ルキナに対して疑問が湧き上がってくる。

 そもそも、ギムレーとてルキナに関してそう詳しい訳でもない。

 特に、その内面なんて、知ろうとも思った事すらない。

 

 虫けら一人一人の心の内など、一々知る事に意味はなく。

 圧倒的な滅びを見せ付けて、人々が絶望に沈みさえすればそれで満足だしそれ以上の事を求めようと思った事もない。

 元より人々自身がギムレーに求めた“邪竜”の役割自体が『破滅と絶望』の装置であるのだし、それもあってギムレーは人を識ろうとは思わなかったのだ。

 

 人間など、所詮は動く肉袋に過ぎず。

 心などと目に見えぬものを語るにしても、誰も彼もが他者を妬み恨み蔑み傷付け奪い合う事しか考えぬ浅ましい本性をその内に抱え込んでいる。

 その癖に自らの欲望に高尚な理由を付けて正当化したがり、その高尚な理由の下に同族の幾万の屍を積み上げようとも厭わない。

 宗教の違い、住む場所の違い、育ちの違い、肌の違い、文化の違い、文明の違い……。

 そんな、ギムレーからすれば僅かとしか言い様がない些末な『差違』を口実に、他者を排撃し命を奪う。

 そして他者を殺したその手で、『差違』を拒んだその口で、“命の尊さ”とやらを唱えるのだ。

 まさに、滑稽で愚かとしか言いようが無いであろう。

 ギムレーがもたらす破壊など、人間どもが無数に積み重ねてきた悍ましい怨嗟の渦に比べれば、ほんの些細なものでしかないのかもしれない。

 ギムレーが封じられていた千年の間も、飽きもせず変わりもせず只管に憎悪を重ね続けていたのだ。

 それのお陰でギムレーは再び蘇る事が出来たのだが……。

 人間の愚かしさを知っているが故に、千年前に忌々しい聖王に封じられた時にも必ずやそうなるだろうとは思ってはいたが、流石にナーガの封印が解ける千年後に間を置かずして蘇る事が出来た時には、喜びや解放感とか以上に、剰りにも愚かしい人間の有り様に然しものギムレーも呆れてしまったものである。

 

 愚鈍で、脆弱で、力ある者に縋り利用する事しか出来ぬ生き物。

 無力で、傲慢で、卑劣で、身勝手で、悍ましい。

 ギムレーにとっては人間など等しく無価値であった。

 そして、そんな無価値な人間どもの手によって、ギムレー自身が望んだ訳でもないのに歪な存在として造り出され、排斥され、忘れ去られるかの様に封じられ続けてきたのが、身勝手な人間どもに勝手に“邪竜”としての役割を押し付けられ望まれ期待されてきた事が。

 ギムレーにとっては何よりも耐え難く、この身を絶えず駆け巡り続ける破壊衝動を燃え上がらせる。

 

 “人間”は結局の所、自らがそう望んだからこそ絶望の内に滅びるのだ。

 例えギムレーの手により息絶えた者自身がそれを望んだのではないのだとしても。

 同じ世界に生きる誰かが、過去生きた誰かが、憎悪と滅びの連鎖を育て続けギムレーを再びこの世に招いたのだから。

 それは即ち、“人間”と言う意志の総体が、“ギムレー”と言う滅びを望んだ事と同義であろう。

 いっその事ギムレーは何一つとして手出しをせずに、人間どもが勝手に滅びへの道をひた走って死滅するその時を観測して、大いに嘲笑ってやるのも一興ではあったのかもしれないが。

 身の内で暴れ狂う破壊衝動と憎悪がそれでは治まらなかっただろう。

 故にギムレーは、世界を滅ぼすのだ。

 

 しかし、人間に価値を見出だせないギムレーであったが、ルキナには初めて“価値”を感じた。

 “知りたい”と言う、知性ある生き物のみが持ち得る衝動をルキナに対して抱き始めていたのだ。

 人間と言う“群体”には相変わらず興味も関心も湧かないけれど、“ルキナ”と言う人間の“一個体”には紛れもなくギムレーは興味を抱いていた。

 それは、ギムレーと言う存在がこの世に生まれ落ちて初めて得た衝動でもあって。

 故に、ギムレーは些かその衝動を持て余しかけてもいた。

 だが、その衝動は、『退屈』で色褪せたギムレーの世界に、初めて落とされた鮮やかな色彩であり、幾ら持て余し気味であるとは言えども、それをギムレーが厭う筈も無くて。

 だからこそルキナのその望みは、ギムレーにとっても渡りに船であったのだ。

 

 

 奇しくも互いに相手を“知る”為に対話を望んでいた事を、当の本人達は知る由もない事であった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『千夜一夜のアルファルド』【下】

読み易さの向上の為分割しました。内容は変わってないです。


◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 “ギムレー”と言う存在そのものを、その内面を、理解する為に始めた“対話”。

 それは結論から言うと、実に奇妙な意識の変化をルキナへともたらした。

 たかだか一度だけの“対話”でギムレーを理解しきれたなどと言う訳では勿論無い。

 互いに言葉を交わした所で、ルキナが触れる事が出来たギムレーの内面などほんの一部のほんの表層的な部分にしか過ぎないのだろう。

 そんなほんの一部分ですら、理解しきれたとは到底言い難い。

 だがそれは……。

 何れ程言葉を交わそうとも、何れ程その心の深い所にまで触れようとも。

 ルキナはギムレーでは無い以上、人と竜の差違とはまた別の所で、本当の意味では理解など出来るモノでも無いのだろう。

 しかし、例え完全に理解する事など出来ないのだとしても、理解しようと歩み寄った事自体には大きな意味があったとルキナは確信している。

 

 “対話”の中で触れる事が出来たほんの小さな一欠片が、漣の様にギムレーに対するルキナの認識を変えていったのを肌で感じた。

 

 絶望と破滅の化身の様な存在であり、人々を絶望させる事に愉悦を感じる、人間とは決して相容れぬ、まさにこの世の『悪』そのものであるかの様な者。

 ……その認識は、大きく間違っている訳ではないだろうが、しかしギムレーと言う存在はそれだけが全てと言う訳でもやはりなくて。

 彼の竜の行動の根底には、ある種の憎悪があった。

 人と言う種そのものへの途方もない憎悪とそれと不可分の破壊衝動。

 何故そんなものを人間に対して抱いているのかは、ルキナには想像も出来ないし、出来たところでそれに共感する事など出来はしないであろう。

 

 だが、『憎悪』と言う感情がその行為の根底にあると言う点に於いては、ギムレーにも“人間的”な面があるとも言える。

 人間もまた、怒りや憎しみで他者を攻撃したりする生き物なのだから。

 ならば、その憎悪を晴らす事が出来れば……少しでも薄めさせる事が出来れば、ギムレーがこれ以上人を滅ぼそうとする事はなくなるのではないか?とも思う。

 その為には、もっとギムレーを理解する必要はあるのだろうが……。

 

 もっとその心を理解しようと……、そう自然に考えられる程度には、ルキナはギムレーを知る事に躊躇いや戸惑いを既に抱いてはいなかった。

 ギムレーが今この瞬間にも世界へと絶望を撒き散らし、人々を滅びの淵へと追いやっている事実には何一つとして変わりは無いのに。

 ルキナの父や母、仲間達の親や、数多の臣下達、そして無数の民達の敵である事実は決して変わらないと言うのに。

 

 ギムレーの心を理解して『改心』させて世界を救う目的があるとは言え、“知りたい”と言う思いがそれらの厳然たる事実を凌駕する程の衝動を与えていたのだ。

 その事に、まだルキナ自身は気付いてはいない。

 

 

 

 

 

 そして、“対話”によって意識に変化をもたらされたのはルキナに限った事ではなかった。

 ギムレーの意識にも、小さくとも確実に明確な変革が起こっていたのだ。

 

 ルキナが“対話”なぞを望んだ意図はギムレーとて理解している。

 ギムレーの心を知る事で、『改心』の糸口を探そうと言うのだろう。

 だが、それらは剰りにも無駄な事である。

 何をしようがギムレーの抱く人間への憎悪は最早消える事など無いのだし、それ故に破壊衝動を抑える事も無いのだから。

 ギムレーを形作るそれらすら変えたいと望むのならば、それこそギムレーが産み出されたその時から変えなくてはどうしようもないだろう。

 ルキナ一人が何をした所で、ギムレーが人間から受けてきた仕打ちが“無かった事”にはなる事は無いのだから。

 ギムレーが発端であったのか人間が発端であったのか、そんな事は卵が先なのか鶏が先なのかを考える事よりも無駄な事ではあるのだけれども。

 少なくともギムレーにとって人間達の所業は、ギムレーが人間を……そしてこの世界全てを憎悪し破壊する理由に足るものであるのだから。

 

 しかしそれと同時に、ルキナと言葉を重ねる事を“悪くない”と感じている事にもギムレーは気が付いた。

 言葉を重ねる内に見えてくるルキナの内面に触れる事は不愉快では無く、寧ろその心を知っていくのは“楽しい”事であった。

 ルキナは、ギムレーが憎悪する人間であると言うのにも関わらず、だ。

 “人間”は相変わらず忌々しく滅ぼしたいとしか思えないが、ルキナに対してはそれは全く感じない。

 それどころか、今までよりもより一層“興味”を感じている。

 人が“好奇心”と呼ぶそれらを、よりにもよって人間であるルキナに対して抱いた事を、ギムレーは不思議と嫌悪も何もなく純粋に受け止めていた。

 

 ルキナを“知る”事で感じた“喜び”は、この“喜び”を知る前の自分の心は死んでいたも同然であるとすら思ってしまう程の、人間を絶望させている時の一時の快楽などとは比べ物にならぬ“質”の“喜び”だったのだから。

 産み出されたその瞬間より決して満たされぬ心の虚が、ほんの僅かにも埋まった様にすら感じたのだ。

 それを、『ルキナは憎悪の対象である人間である』なんて詰まらない意地で喪ってしまうのは、剰りにも愚かしい事である様にギムレーは思った。

 

『もっと、ルキナの事を“知りたい”』

 

 そう考えるギムレーの心には、最早『退屈』などと言う感情は欠片も残ってはいなかった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 ルキナが初めてギムレーの心を知る為に言葉を交わしてから、また幾つもの夜が過ぎた。

 あれから、夜毎の“賭け”はギムレーとの“対話”が主になっていて。

 不思議とギムレーの方もそれに乗り気であった事もあって、かつての自分では考えられない程の言葉を既にギムレーと交わしている。

 だからと言ってギムレーを理解しきれた訳ではないのだけれども。

 それでも、少しずつでもその心に歩み寄れているのではないだろうか。

 

 そんな事を思いながら、ルキナはまた何時もの様に図書館で時間を過ごしていた。

 

 今は“物語”を語って聞かせている訳では無いのでここに入り浸る必要もないのかもしれないが、ギムレーの心を理解したその時には『改心』の為にも語る為の“物語”は必要であろう。

 だからこそ、ルキナはこうして様々な物語に目を通している。

 ルキナが一生を掛けても読みきれないであろう程の蔵書の山は、まだまだ手付かずの領域の方が遥かに多い程だ。

 本を読むのは嫌いではないルキナにとっては、ギムレーに語る為の“物語”を探す為とは言え、こうやって過ごす時間は決して悪くはないものであった。

 

 “物語”は、自由だ。

 例え、ルキナ自身はギムレーに囚われこの城に閉じ込められているのだとしても。

 本を読み“物語”に没頭している時は、ルキナは何にだってなれるし何処へだって行ける。

 ルキナ自身だって訪れた事も無い国にだって行けるし、見た事も無いものを文章を通して目にする事が出来る。

 聖王の末裔でもファルシオンの継承者でも“最後の希望”でも無い、“誰か”になれる。

 

 それは空想に耽ているのと本質的には変わりはないのだろうけれども。

 囚われの身となって以来、ギムレー以外に関わる者が誰一人として居らず、そして夜毎の“賭け”以外には世界の為に出来る事は何も無いルキナにとっては、そんな空想に細やかな“楽しみ”を見出だすしか、ギムレーの虜囚としての孤独な戦いを乗り切る術は無いのだ。

 それは、“物語”の世界に思考を傾ける事で少しでも恐怖から意識を逸らそうとする、ルキナの無意識の防衛本能であるのかもしれない。

 

 言葉を交わす事で少しずつでもギムレーの心へと歩み寄っているのだとしても、それはルキナから見たらの話であって、ギムレー自身がルキナをどう見ているのかは分からない。

 直ぐ様殺される程に不興を買っている様には感じないが、しかしふと気紛れを起こしてルキナを殺そうとする事は無いのだと断言出来る程ではないし、そうしないと言える程にギムレーを理解出来ている訳でもない。

 故に、ルキナの命が何時まで持つのかはルキナ自身では判断しようが無く、生殺与奪の全てはギムレーに握られていて。

 それなのに、世界の滅びを止められるのかどうかはそんなルキナがギムレーを『改心』出来るかにかかっているのだと言っても最早過言ではないのだ。

 ルキナが失敗すれば、最早後は無い。

 

 聖王の血に連なる者の中でルキナの他にファルシオンを扱える者は居らず、そもそもそのファルシオンが今何処にあるのかはそれをルキナから奪ったギムレー以外は誰も知らない。

 既に文明も文化も維持出来ない程にまで徹底的に人間は追い詰められていて。

 ギムレーが甦る前と比べれば、もうほんの一握りしか人間は生き残ってはいないのだ。

 そんな生き残っている僅かな人間達も、日々命を落としていって。

 後数年もしない内に、人間を含めた全ての生き物は息絶えるであろう。

 これが人々に残された、正真正銘“最後のチャンス”なのである。

 それを誰よりも理解しているからこそ、ルキナに課せられたモノは何よりも重たい。

 

 しかし、その重みを抱え続け、ギムレーに生殺与奪の全てを握られ続け、それらの現実を意識し続けてはルキナの精神は早々に限界を迎えてしまう。

 だからこそルキナにとって、図書館で“物語”に触れてそこに思いを馳せる時間は、それらの恐怖から一時的にでも逃避させ、摩耗した心を癒す大切な時間になっていた。

 

 

 

 また一つの“物語”を読み終えたルキナは、その余韻を味わう様にゆっくりと本を閉じて、書架に戻そうと席を立とうとする。

 が、その時。

 ルキナと向かい合う様にして、誰かが座っているのに漸く気付く。

 慌ててルキナが顔を上げたそこには、ギムレーがその紅い瞳でルキナを見詰めていた。

 

 まだ“賭け”の刻限には早いと言うのに、何故。

 

 思いもよらぬ事態に、ルキナは椅子を蹴飛ばす様にして身構える。

 ギムレー相手に何も持たぬルキナが抵抗出来る訳はないけれども、それでも。

 しかし、そうやって警戒を露に身構えるルキナに対して、ギムレーは何の反応も返さない。

 その紅い瞳には、何時もの嘲笑う様なそれとは違う感情が浮かんでいた。

 

 

「そう構えずとも、何もしないさ。

 それとも君は、僕はここに居てはいけないとでも言うつもりかい?」

 

「そ、それは……」

 

 

 確かに、この城はギムレーのものであり、主であるギムレーが何時何処に居ようともそれは咎める様な事でも何でもない。

 が、そもそもギムレーは日中の殆どをこの城の外で過ごしていたのだ。

 外に出て、人々へと破滅をもたらす為に。

 それが、何故一体急に……。

 まさか──、とルキナが顔色を変えると。

 

 

「……ああ、成る程それを心配しているのか。

 なら、安心すると良いよ。

 人間どもはまだ多少は生き残っているみたいだからね。

 僕としては忌々しい事に、まだ世界は滅びきってはいないんだ。

 ……尤も、今のこの現状を滅びていないとは到底言えないだろうけれども」

 

 

 どうやら、最悪の予想は外れた様だ。

 しかしだからと言って、この世界の現状が決して好転している訳ではないのだろうが……。

 城に閉じ込められているルキナは、外の世界が今どうなっているのかを知る術など無い。

 しかしルキナが知っている状態から確実により滅びへと近付いているのだろう。

 ……最早、ルキナがギムレーを『改心』させる事に成功した所で、人間の絶滅を避けられないかもしれない程に。

 

 

「なら、何故……」

 

「ちょっとした気紛れ……と言った所かな。

 最早人間がどうこうした所で、この状況は引っくり返せない。

 数多の異界に居るナーガの同位体どもも最早この世界は見棄てたみたいだからね……、奴等の余計な干渉によって何かのイレギュラーが起こる可能性すら無い。

 滅びが確定されたのは僕としては望む所ではあるのだけれども、何の希望も気力も無い人間どもを戯れに殺したって詰まらない。

 それなら、こうしてここで時間を潰した方がマシさ」

 

 

 詰まらない、とそう語ったギムレーの表情は、本当に退屈しきっているかの様な……そんな何処か虚無感を漂わせるものであった。

 そこにある虚ろな“何か”に思わずルキナも飲み込まれそうになっていると、真っ直ぐにルキナを見詰めているギムレーの眼差しに引き戻された。

 その事に気が付いているのかいないのか、ギムレーはルキナが抱えている本を指差した。

 

 

「面白かったのかい?」

 

 

 何故そんな事を?と戸惑いつつも、ルキナにとっては中々に面白い本であったので、小さく頷いて返す。

 すると、ギムレーは「ふぅん」と呟いた。

 その意図が全く掴めずルキナは困惑するが、ギムレーはそれ以上はルキナに訊ねる事もなく、その他に何をするでもなく、そのまま図書館を後にする。

 

 その後には、本を手に困惑するルキナだけが残されたのだった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 ルキナがギムレーと図書館で初めて遭遇したあの日から、ギムレーは毎日の様に“賭け”の時間外にも何の前触れもなしにルキナの元へと訪れる様になった。

 図書館で本を読んでいる時に現れては、面白かったかと訊ねて。

 食事をしている時に現れては、美味しかったかと訊ねて。

 それらに何の意図があるのかは全くルキナには分からないが、そうやって訊ねてくるギムレーは不思議と何処か“楽しそう”であった。

 当初こそギムレーのそんな行動に戸惑っていたルキナだが、それが数回も続いた頃からは「そんなもの」として割り切ってはいる。

 しかしそれでも慣れると言う事はなく、ギムレーが来る度にその身は僅かながらも強張ってしまうのだが。

 

 それらの行動を気紛れと称しているギムレーだが、果たして一体何処までが本当なのやら……。

 

 その理由を考えた所で、ルキナに分かる訳でもなく。

 “楽しそう”にしている限りは少なくとも直ぐ様ルキナにどうこうしてくる事は無いのだろうと、そう思う事にしている。

 

 しかし、ギムレーがそんな行動を見せる様になってから、夜毎の“賭け”の時の“対話”にも変化が生じていた。

 ギムレーは少しずつだが、自身の過去の事を断片的にでも語ってくれる様になったのだ。

 何故かそれと同時に、ルキナも過去の事を答えさせられているのだが。

 まあ、生殺与奪の全てを握られているルキナとしては、今更ギムレー相手に隠さねばならぬ過去などはない。

 強いて言えば、過去の事を答える時に……幸せだった頃の事を思い出しては胸が痛む程度である。

 しかしその胸の痛みを対価としてギムレーの過去を聞き出せるのならば、それは決して悪いものではない。

 

 断片的に語られたギムレーの過去は、多くは人間への憎悪や怒りに満ちているものであった。

 しかし、ギムレー当人は決してそうと語った訳ではないのだが、その過去はある意味では『ギムレーが人間の都合に振り回された』ものでもある。

 現に、人々が望んだからこそギムレーは蘇り、世界は滅びへと向かっているのだから。

 確かに千年前の折に復活の為の種を蒔いたのはギムレーなのだろうけれども。

 しかしその種を育て続け、ギムレーを蘇らせたのは紛れもなく人間達である。

 果たしてそうして甦った事がギムレーにとって本当に望んでいた事なのだろうか?と、ルキナはほんの僅かだが感じてしまった。

 

 ルキナはギムレーではない。

 だから、本当の意味ではギムレーの心情など理解は出来ない。

 

 しかし、少なくとも……。

 もしも、ルキナがギムレーの様に、『悪であれ』と望まれ続け、人々から忌まれるのと同時に“憎悪”に身を焦がす人々からは世界を滅ぼす事を望まれ続け、そしてそんな人々の破滅的な願いによって引き摺り出されたのなら……。

 もしそうならば、と少しだけ考えてしまう。

 

 ルキナとギムレーでは経験してきた物事が全く違う以上は、その心の在り方もやはり違う。

 それは竜と人と言う違いよりも大きなものであるのだろう。

 

 経験が、記憶が、心を作り、人格を作り、価値観を与え、認知を生む。

 愛された事が一度もなく、愛に触れた事も無い者が、“愛”を理解出来ない様に。

 負の感情しか与えられなかった者が、その心を大きく歪ませてしまう様に。

 人でもそうなのだ。

 それが、同じく知性を持つ竜でも同様の事が起こらないと、どうして言えようか。

 

 確かに、経験とは無関係に生まれつきで決まる性質もあるだろう。

 何れ程愛情深い親の元に産まれていてもそれが“合わない”子と言うのは稀にであれども存在するし、どんな育ち方をしていてもそれこそ人の心など最初から持ち合わせていないかの様な自己愛の怪物の様な心を持ってしまう者もいる。

 王族として過去の事柄を学び、様々な人物の歴史に触れた事のあるルキナとしては、“人間”と言う生き物が“全くの善なる者”であると言う訳でもない事をよく知っていた。

 ギムレーが元々そんな歪な“心”を持つ存在であると、それを否定する事も肯定する事も出来ないけれども。

 しかし、例え歪な“心”を持つ者であったのだとしても、邪悪な者とはならなかった人間だって数多く居た様に。

 生まれながらにそんな“心”を持っていたとしても、その後の経験でやはり変わり得るものなのだ。

 だからもし、ギムレーが生まれてから経験してきた何かが一つでも違っていれば、今の様に人々を滅ぼし世界を滅ぼす事を目的とする様な事も無かったのかもしれない。

 それらは“もしも”でしかないのだけれども……。

 

 ……ルキナはギムレーとは違う。

 

 ルキナは両親や周囲の人々から目一杯に愛情を受けて育った。

 王族としての責任と言うものは勿論あったけれども、誰かから忌まれた経験など勿論無くて。

 両親を喪い、人々の旗頭としてギムレーと戦わなくてはならなくなっても、人々からは『希望の象徴』としての在り方を望まれてきた。

 ……他者に忌み嫌われ排斥され、『世界を滅ぼす悪』としての在り方を望まれてきた訳ではない。

 

 ギムレーに、誰か“大切な者”は居なかったのか?と訊ねた事がある。

 それが人であれ竜であれ、或いは何か別の生き物であれ、ギムレーにとって自分以外に何らかの“価値のある存在”は居なかったのか、と。

 その答えは、“否”であった。

 ギムレーがこの世に産まれ落ちて以来、何一つとしてそんな者は居なかった、と。

 

 ……それは、ある意味でとても孤独な事なのではないだろうか。

 

 “竜”と言ってもルキナが知る竜は、ンンと、その母親であるノノと、そして神竜の巫女であるチキ位なのだけれども。

 しかし彼女等は皆、誰もが自分の他にも大切な者を抱えていた。

 それはもう今は居ない友であったり恩人であったり、或いは家族であったりと、それは様々だったけれども。

 “竜”であろうとも、誰かを愛する事があるのは、人間と全く変わらない筈である。

 例えそれが、人間などとは比べ物にならない程の強大無比な存在である“邪竜”ギムレーであったのだとしても、きっと。

 

 ならば、ギムレーにはそんな存在が一切居ないと言う事は、つまり彼が誰かを“愛”そうとは到底思えない様な経験しかしてこなかったと言う事なのだろうか。

 それは、あまりにも…………。

 

 ルキナはふと胸に生まれた感情に、我が事ながら動揺した。

 

 それは、憐れみと言う訳でもない、同情と言う訳でもない。

 “憐憫”の情などを懐くにしては、ギムレーは剰りにも強大過ぎて。

 “同情”などは懐けない程に、その所業は“人間”にとっては剰りにも“悪しき”ものであった。

 だが、何処か哀しみにも似たそれは、もどかしくもルキナの胸の内に消える事なく澱の様に静かに沈んでいく。

 

 ギムレーを『改心』させたいと言う思いは変わらない。

 世界を救うと言う目的を見失った訳でもない。

 だけれども……、それらとはまた違う“何か”が、確かにルキナの心に芽生え始めていた。

 

 

(私は……)

 

 

 その時、ルキナの目の前に何かが置かれる。

 思考に耽るあまり完全に意識の外にあったが故に、驚いてとっさにそれに意識を向けると、それは小さな花束であった。

 何て事は無い花束なのだろうけれども、しかしそれはこの滅び行く世界ではもう何処にも存在しない筈のもので。

 驚いて顔を上げると、そこには予想した通りに、こちらをその紅い瞳で見ているギムレーの姿があった。

 この世界でこんなものを用意する事が出来るとすれば、それは確かにギムレーだけなのだろうけれども。

 しかし、その動機はルキナには全く分からない。

 何時もの気紛れなのかもしれないが、それにしたって一々こんなものを用意するなんて……。

 

 

「君はこう言うものが好きなんだろう?

 それで、どう感じたんだい?」

 

「えっ?」

 

 

 ギムレーの意図が掴めず困惑している中で突然に投げ掛けられたそんな言葉に、益々ルキナは混迷を極める。

 好き?いや、確かに花の類いは嫌いではない。

 かつて世界がまだ平和で、花が普通に存在した頃は、よく花を贈られたものだった。

 確かに、ギムレーにその事を話した事はある。

 しかし、何故?

 

 

「…………そうか」

 

 

 ルキナが混乱の剰りに何も言えずにいると、ギムレーはそのまま去っていく。

 その後ろ姿は、何処と無く寂しそうにも見えた。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 ギムレーから謎の花束を渡されてから、ギムレーがルキナの元に訪れる際に何かを手渡してくる事がある様になった。

 それは毎回ではないのだけれども、それでも決してただの気紛れとは言えない回数で。

 所謂、“贈り物”に該当するのだろう。

 が、その意図が分からないルキナには困惑する事しか出来ない。

 

 ギムレーの感性が、ルキナや普通の人間の感性とは異なるモノである事は理解していた。

 ルキナ達が心地よく感じるモノは、ギムレーにとっては何の代わり映えもしないものである事が殆どで。

 それらを不快にこそ感じずとも、ギムレーはまるで独りだけ色の無い世界に生きているかの様ですらあって。

 恐らくは、ルキナに贈ってきた数々のモノは、ギムレー自身には何の価値もないものなのだろう。

 とは言っても、貰ったモノを捨てるなんて事も出来なくて、何だかんだと手元に置いているのだけれども。

 だからこそ、何故そんなモノを態々贈ってくるのかが分からない。

 

 ギムレーが持ってくるものは、何れもルキナが自分の過去を話した時に出てきたものであったり、或いはルキナが“面白い”と答えた“物語”に因んだものであった。

 そして、何かを渡す度にルキナの反応を観察する様にじっと見詰めては、ギムレーは何も言わずに去っていくのだ。

 それに何の意味があるのか、何を意図しているのか、ルキナにはさっぱり分からないが……。

 “対話”を通して多少なりともギムレーを理解出来つつある様にルキナは思っていたのだが、こう言った行動の理由が全く理解出来ない事からその自信も揺らぎつつあった。

 

 しかし、理解は出来ないながらも、決してその行為に嫌悪を抱いている訳ではない。

 ただただ“何故?”と感じ、同時にその心を知りたいとも思う。

 

 ギムレーがその様な変化を見せている事が、果たして“良い先触れ”であるのかはルキナには分からないが……。

 それが、良き変化である事を願うばかりだ。

 

 

 そして今夜もまた、二人の“賭け”は続くのであった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 少しずつルキナを知るにつれ、ギムレーの心には明確な変化が生じていた。

 それは、ある意味では『改心』とも言えるのかもしれない。

 しかしそれは、ルキナが望んでいた様なものとは全く違っていたのだが……。

 

 ギムレーはルキナに明確な“執着”を抱いた。

 ルキナを知りたいと言う想いは何処までも尽きる事はなく。

 ルキナが居る限り、ギムレーの心に最早『退屈』が訪れる事などなくて。

 何時までも何時までもルキナをその傍に止め置こうと思うようになった。

 ただそれはあくまでも“ルキナ”に対しての事であり、それ以外の人間に対しては寧ろより害意を剥き出す様になっていった。

 この世からルキナ以外の全ての人間が消え去れば、ルキナは否応なしにギムレーと共に居るしか無くなるだろう、と。

 

 “独占欲”にも似たその感情は、底無しの泥濘の様にルキナを絡め取ろうとしていた。

 ……当のルキナは、幸福な事なのかはさておき、それをまだ知らないのだが。

 

 執着のままに、ギムレーはルキナの全てを欲した。

 ルキナが語る彼女の過去の中で、ルキナが感じていた喜びすらをも、自らが与えるものとして欲する様になったのだ。

 ルキナが感じた怒りや嘆き、憎悪と言った感情は、そのほぼ全てがギムレーの所業が端を発するモノであり、詰まるところそれらはギムレーがルキナに与えた感情である。

 しかし、喜びなどはそうではない。

 それが、ギムレーとしてはどうしようもなく見逃せない事であった。

 だからこそ、ルキナへの贈り物を始めたのだ。

 ルキナを喜ばせたいと言えば聞こえは良いが、その根底にあるのは剰りにも強い執着である。

 

 もしギムレーのその心を覗ける者がここに居るのならば、そうやってギムレーを突き動かすその感情を“愛”だと言ったのかもしれない。

 しかし、“愛”された事の無いギムレーは“愛”を未だ知らなかった。

 だから、ルキナへと抱くその感情がそうであるとは思いもしない。

 

 

 最早世界はギムレーが何もせずとも滅ぶ。

 人は死に絶え、命あるモノは等しく滅び、世界に残るのはギムレーとルキナだけだ。

 だが、それで良い。それが良い。

 

 世界がとうに滅びた事を知らぬルキナと二人、何時までも何時までも“賭け”を続けよう。

 ギムレーの力を使えば、ルキナ一人程度なら永劫に近い時を生かし続ける事も可能なのだ。

 ギムレーが望みさえすれば、何時までも“楽しい”時間は終わりはしない。

 

 何時かは、ルキナも世界がとうに滅び去っている事に気付くのだろうか?

 気付きながらも無意識に目を反らすのだろうか?

 それとも、ギムレーへと憎しみの目を向けるのだろうか?

 或いは、全てに絶望するだろうか?

 

 それはその時にならなくては分からないが。

 どうなった所で、結局ルキナには既にギムレーしか居ないのだ。

 孤独には耐えられぬ人間である以上は、ルキナは何れ程の時間を要しようとも必ずや最後にはギムレーを選ぶだろう。

 

 

 

 ルキナの全てを手に入れる日が一日でも早く来る事を願いながら、ギムレーは今夜もまた“賭け”を楽しむのであった。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆



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『魂の慟哭』※

カニバリズム要素が含まれます。ご注意ください。


◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「君達人間は事有る毎に、やれ『人の誇り』だの、『人の矜持』だのと嘯いては、無意味に戦い無意味に死ぬ。

 どうせ絶望の内に死ぬ事に変わらないのなら、さっさと諦めるなりして、自らの首を掻き切って死んだ方が、屍兵どもに嬲られ生きながらにして食い散らかされるよりは、余程楽な死に方だと僕は思うけれどもね。

 じゃあそうやって戦うなら何かに『希望』を見出すなりしているのかと思えば別段そう言う訳でもなく、唯々無意味に無価値に命を散らし、骸の山を築き上げていく。

 全く以て不可思議でしょうがないよ。

 君達にとって『ヒト』である事は、そしてそこにある誇りだの矜持だのと……僕からすれば何の意味も無く役にも立たぬ曖昧な概念如きには、その個体としての生存や安寧を投げ捨ててまで貫き通す価値があるものなのだろうか? 

 それは、人々の『最後の希望』……人間どもの無責任な『願望』の矛先たる君にとってもそうなのかな?」

 

 

 そう言いながら、くつくつと喉の奥を鳴らす様にして。

 目の前の男──邪竜ギムレーは、囚われ鎖に戒められ身動きすらままならぬルキナを、蔑む様に見下ろした。

 

 本来は命溢れ希望に満ちていた筈のこの世界を、死と絶望と恐怖だけが支配する荒廃した、命果て行く世界へと変えてしまった全ての元凶。

 この世を嫌悪し、命を憎悪し、希望を唾棄し、死と絶望と滅びのみを『是』とする、狂い果てた邪悪なる、神にも比肩する力を持つ神話の化け物の如き竜。

 伝説の中より再びこの世に甦ったその竜は、こうして見るとまるでヒトの様にも見える。

 だが、この姿は所詮は仮初めのものでしかなく。

 邪竜の本性とも呼ぶべき竜としての姿は、連なる山々すらもその翼の端にすら届かぬ、まさに見上げた天を覆い尽くす程に巨大な異形の怪物の様な竜だ。

 ルキナがその姿を直接目にした事があるのはただ一度だけだが、成る程あの強大な姿からすれば、人など本当に塵の様な大きさにしか映らぬであろう。

 ヒトが、足元を這う蟻を気にも留めずに踏み潰し、そして踏み潰した事すら気付かぬ様に。

 この邪竜からすれば、自らの行為でヒトが幾ら死に絶えようが、それはヒトの感覚の尺度で当て嵌めるならば、精々蟻を列を踏んでしまった程度のものでしかないのかもしれない。

 尤も、ヒトは蟻の存在に対して何も気を払わぬからこそ、道理の分からぬ無邪気で残酷な幼子でもなければ一々蟻の巣に熱湯を掛けて無闇に蟻達を虐殺しようなぞとはしないけれども、この邪竜は寧ろ……人々を絶望の内に死に至らしめる事こそを喜びとし目的としているのだ。

 その本質は邪悪にして、ヒト……否この世のありとあらゆる命にとっては、決して相容れる筈も無い、そんな滅びと死の化身の如きもの。

 父である聖王クロムの死とほぼ時を同じくしてこの世に蘇ったこの邪竜と、ルキナ達人間は戦い続けてきた。

 ……とは言え実際の所は、邪竜が戯れの様に世界に解き放ち、命巡る大地を蹂躙しながら蠢き人々を襲う怪物……ヒトの屍の成れの果てである屍兵達の侵攻を何とか押し留めるだけでも既に精一杯で。

 時折姿を見せては戯れの様に人々を蹂躙し鏖殺していく邪竜の侵攻によって、人々の生存圏は削り取られていき……もう今となっては、かつてと比べればほんの一握りしか残っていない僅かな土地に、辛うじて生き延びている人々が身を寄せ合いながら生きているのみだ。

 食料も何もかも足りないこの世界では、人々は徐々に戦う力もその術も喪っていって……。

 この世で唯一邪竜を討ち倒す力を持つ神竜の牙──神剣ファルシオンを振るう事の出来るルキナを『希望』の旗頭としてどうにか物資を搔き集められているイーリス軍程度しか、最早この世界には組織だった戦力は存在しない。 

 点在する村や町は、各自で傭兵を雇うなりしてどうにか屍兵の襲撃に対処しているのが現状である。

 

 ギムレーを討つには神竜の真なる力をファルシオンに蘇らせる必要があるが、その『覚醒の儀』の為に必要な『炎の紋章』──それを構成する『炎の台座』と五つの『宝玉』。

 そのどれもが、聖王クロムの時代よりも随分と前からイーリスより散逸してしまっていて。

 唯一イーリスが保有していた『炎の台座』と『白炎』も、かつて先々代聖王エメリナが暗殺された際の混乱の最中に何者かによって奪われてしまっていてそれ以降杳としてその行方は知れないままとなっている。

 ただでさえ世界各地に散ってしまっていたそれを探し出すのは難しい事であったと言うのに、更には世界がこうなってしまっていては記録を辿って捜索する事すら儘ならない。

『宝玉』探索へと旅立った仲間達はその消息すら知れず、そして刻一刻と人々は滅びゆこうとしていた。

 仲間達が目的を達してイーリスへと帰還するのが先か、或いはイーリスが陥ちてこの世全ての命が滅び去るのが先か。

 最終防衛線の維持すらままならぬ程に、人々は追い詰められていた。

 

 そもそもの話、もし邪竜が屍兵を主戦力とした人々を長く苦しめる為の戦いを止めて、自らが表に出てその圧倒的な力を思うがままに奮い始めれば、半月も耐える事無くこの世から邪竜以外の命ある者は全て消し飛ばされてしまうだろう。

 皮肉にも、邪竜の暇潰しの様な戯れによって、人々は辛うじて生かされていると言っても良かった。

 

 人々が邪竜に敵う余地があるとするならばその慢心を突いて一気に攻勢を掛ける事ではあるけれど、最早世界の滅びすら暇潰し程度にしか思っていない邪竜であっても、人々の動向には常に目を光らせていて。

 万が一にも自分を脅かす事が無い様にとしている為、邪竜に気取られずそれを準備する事はほぼ不可能だろう。

『炎の紋章』を完成させたとして、儀式を行う為の『虹の降る山』に向かうまでに邪竜本人に襲撃されればルキナ達が生き延びる術はなく、またそうでなくても『虹の降る山』を落とすなりして儀式を妨害する手段は幾らでもある。

 

 結局、この戦いは圧倒的なまでに邪竜の勝利に終わる様になっているのだ。

 答えの見えきった戯れは詰まらないとばかりに、邪竜は幾つかはわざと穴を残してはいるけれども。

 しかしその穴すら、全て邪竜の掌の上である。

 

 そんな状態でどうやって邪竜を討ち倒せと言うのだろうか。

 人々は『最後の希望』としてルキナを縋るけれども、ルキナの方こそ『希望』とやらを指し示して欲しかった。

『神の奇跡』とやらを愚直に信じ祈り続けられる程にルキナは愚鈍でも純粋でもなく、しかし幾千億の可能性の果てからたった一つの『希望』を見付け出せる程に卓越した天賦の頭脳を持ち合わせている訳でもない。

 

『希望』を託されながらも、それに最も見放され絶望し押し潰されているのが他でもないルキナであった。

 

 奇跡的に邪竜を討ち倒した処で、ここまで徹底的に文明も環境も破壊され尽くした人類に、果たして復興することなど可能なのだろうかと……そうも頭の片隅で思ってしまう。

 無論そんな事、口が裂けても言葉に出来る筈がない。

 この世で一番、他でもないルキナだけは決して口にしてはならぬ言葉だからだ。

 しかし現実とは何処までも非情であり、如何に目を反らしていようとも、最早不可逆な状態にまで人の世が滅びてしまっているのには変わらない。

 

 だが……邪竜を討った先にあるのが、ヒトの世の果てなき黄昏となるのだとしても、このまま何もかもを邪竜に滅ぼさせる訳にはいかない。

 例え種が上手く芽吹かない事は分かっていたとしても、その種すら邪竜によって消し飛ばされていては、何も生まれず何も残せないのだ。

 だからこそルキナは剣を手に、終わりの見えない……救いを差し伸べる手など無く、託された願いと祈りを胸にファルシオンのみを支えとしなければならない……そんな戦いを続けてきた。

 

 しかし、一体何の戯れであったのか。

 それとも、何とも無慈悲な程の偶然であったのか。

 

 ルキナ達が屍兵の討伐に赴いたその地に、ギムレーが現れたのだ。

 それまでルキナが居る地には意図しているのか否かは不明だが、ギムレーが直接に侵攻をかける事はなく。

 それを、ルキナを『最後の希望』と担ぐ人々は『神竜の加護』だなんて言っていたけれども……。

 それはきっと……いや恐らく、全く以て違うのだろうとルキナは半ば確信している。

 結局の所、邪竜にとっては全ては戯れでしかなかったのだ。

 世界を滅ぼす事も、そして自らに対抗する旗頭として……まるで人身御供であるかの様に祀り上げられた無力な少女が人々の『希望』によって磨り潰されながら戦い続けている事ですら、邪竜にとっての退屈凌ぎでしかなかった。

 ヒトの苦しみや絶望の感情を何よりもの愉悦とする邪竜にとって、ルキナはさぞ愉しい観察対象であったのだろう。

 邪竜から見たルキナは、戦う理由も意志も力も覚悟も持ちながら……それでいて恐らくはこの世の誰よりも『希望』を持っていない者だっただろうから。

 

 しかしその戯れにも厭きたのか何なのか。

 邪竜はルキナ達を襲い、そしてあっさりと……それはもうあまりにも呆気なさ過ぎてともすれば乾いた笑いが込み上げてしまいかねない程に、最早比べる意味すらない程のその力の格差に絶望すら感じる暇すら与えられる事もなく、滅び行くこの世界では間違いなく最強の……精鋭中の精鋭だった筈のイーリス軍本隊が、邪竜のただの一息で文字通り灰塵に帰してしまった。

 

 ルキナが彼等と同じ運命を辿る事が無かったのは、邪竜の気紛れの様な偶然の結果でしかなくて。

 そこに、『神の加護』やら『奇跡』やらの様なものが介在する余地は欠片程も存在し得なかった。

 しかし、あの場で死ななかった事が果たして喜ぶべき事であるのかは、ルキナには分からない。

 こうして、邪竜の手に囚われたルキナの手には当然の如くファルシオンは無い。

 邪竜が何れ程退屈に飽いているのだとしても、わざわざ一度自らの手に堕ちたルキナを解放し、その手にファルシオンを与える程の酔狂はしないだろうし、そんな事を期待出来る程ルキナは楽観的でも無い。

 現にルキナの手足は軽い見た目からは考えられぬ程に頑丈な枷によって戒められ、鎖で壁と床に縫い留められている。

 この状態から邪竜の目を掻い潜って逃げ出すのは、全く以て不可能な事であり、最早ルキナには何も打てる手は無い。

 

 ここで邪竜に戯れ同然に嬲り殺されるか、或いは自らの手に堕ちたルキナに飽いた邪竜から放逐され水も食料も得られぬまま餓死するか……或いは何かの気紛れで虜囚の身として監禁されながらも辛うじて生かされるか……。 

 まぁ、その程度の未来しかないだろう。

 ならばこそ、せめて。

 最早何も出来ないのだとしても、それならば最後まで、この『意志』を、『ヒトとしての誇り』を持ち続け、せめてその心と魂だけは邪竜に屈しなかったのだと……。

 その事をせめての誉れとしてこの命を終えようと、そう思っていたのだけれども。

 

 しかし死への覚悟は、邪竜の問いかける様なその言葉によって僅かに水を差された。

 邪竜の問いかけに、ルキナは半ば反射的に言葉を探す。

 ここで何を答えようが答えまいがルキナのこの状況が好転すると言う事は無い。

 ヒトを絶望に突き落とす事を何よりもの悦びとするこの邪竜との問答など、本来するべきでは無いのだけれども。

 それでも答えようとしてしまったのは、まだ諦めたくないと……そう思う心の深層が突き動かしたからであろうか。

 

 

「『誇り』があるから、人は最後まで人として生きていける。

 それさえ失くしてしまったら、生ける屍と同じです……」

 

「ふぅん? ヒトとして生きるも、『誇り』とやらを喪いただの動く肉塊同然に生きるも、僕からすれば大差が無いものであるとしか思えないけれども……。

 どうやら君達にはそうではないのだね。

 虫けらの『誇り』なんて、僕が僅かに息を吹きかけるだけでも消し飛んでいくようなものだろうにね。

 いや逆に虫けら同然だからこそ、そんなものに縋らないと自分達として在る自信すら持てないのかもしれないか……。

 成る程哀れな程に脆く醜いと言うのも、色々大変なんだね。

 しかしまあ、『誇り』と君達は皆そう口にするけれども、それはあまりにも実体のない……ともすれば一個体毎にその定義は違うモノの様に僕には思えるのだけれども。

 ならば君にとっての『誇り』とやらは、君がヒトとして生きる為のそれは、一体何なんだい?」

 

 

 邪竜はその紅い瞳に好奇心の様な輝きを混ぜ込み、そしてルキナのその心を見透かすかの様に問い掛ける。

 

 ルキナにとっての『誇り』とは、ヒトである事のその根源とでも言うべきものとは……。

 父と母、そして仲間達、ルキナにとって大切な人達の顔が思い浮かび、そして彼らと過ごした大切な時間……幸せだった日々の事が思い起こされる。

 しかしそれは、ルキナの『誇り』を……その根源を支えるものであれど、それそのものと言われればやはり違う。

 自分である事の証、『それ』を以て自らであると胸を張れるもの……それは……。

 

 

「私にとっての『誇り』とは……。

 私自身のこの『心』……『魂』です。

 そこに『心』が、『魂』があるからこそ、ヒトはヒトとして生きていける……、それこそが、ヒトの根源だから」

 

 

 ルキナがそう答えると、邪竜は一瞬呆気に取られたように目を僅かに見開いて沈黙し。

 そしてその直後に、全てを嘲笑い貶める様な……そんな哄笑を上げて、身を捩る様にして腹を抱えた。

 この世の全てを蔑む様なその哄笑は、止まる所を知らない。

 

 

「成る程! 『心』と『魂』! そうきたか! 

 いやはや、やはり君と言う存在は退屈しないね。

 ああ……、別に君のその答えを貶しているつもりは毛頭ないので気に障ったらすまないね。

 成る程それで? 

 君にとって、ヒトをヒト足らしめるのは、『魂』であり『心』であると言う訳だ」

 

 

 爆笑していた邪竜は何とか笑いを抑えて、その口元を歪めながらそう言う。

 そして、禍々しいと感じる程に歪な笑みを浮かべて。

 ルキナを戒めていた鎖を手に取る。

 

 

「ならば君のその主張に則れば、『心』と『魂』さえ君の物であるならば、君はヒトであるという事になるね? 

 果たしてそうであるのか……一つ証明させてあげよう」

 

 

 邪竜の手が、ルキナの目を覆い隠す様に当てられ、邪竜の力によってなのか、ルキナは急速に意識を喪う。

 途切れ行く意識に最後まで残っていたのは、まるでそこに焼き付いてしまったかの様な邪竜の歪んだ笑みであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 意識はゆっくりと浮上するが、完全に覚醒に至る前に何かの力で留め置かれたかの様に、その意識はぼんやりとしたままで、自分の身体である筈のそれは上手く動かせないまま。

 そんな中で、邪竜の声だけが響く。

 

 

「少し、面白い趣向を思い付いてね。

 あぁ……安心すると良い、僕は君の姿形を変えただけだ。

 君の思考、君の『心』、君の『魂』……君の『根源』たるそれらは紛れもなく君自身のものさ。

 それだけは、誓って真実であるとも。

 さて……君の主義主張に則るのであれば、その『心』と『魂』は紛れもなく君自身のものである今の君は、『ヒト』に他ならない……と言う事になるけれども……。

 果たして今の君が本当に正しく『ヒト』であるのと言えるのか……確かめて来ると良い」

 

 

 そこで言葉を切った邪竜は、嗜虐的な昏い光にその瞳を紅く輝かせ、まるで三日月の様にその口元を歪に歪めた。

 そして、再び身動き出来ぬままのルキナへとその手を翳す。

 途端にルキナの身を包んだ余りに眩しい光に、未だ覚醒途中のルキナは思わずその目を閉ざす。

 邪竜の嘲笑は次第に遠くなっていき、そして──

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 再びルキナが目を開けると、辺りの景色は一変していた。

 見上げたそこにあったのは薄暗い天井では無く、分厚い雲によって薄暗く夕焼けよりも不気味に赤く染まった空だった。

 辺りを見回しても、ルキナには全く見覚えの無い荒涼とした、砂漠と荒野の境の様な景色が広がるばかりである。

 そこには、あの邪竜の姿など、影も形も見えはしない。

 何処までも何処までも……ともすれば距離感が狂ってしまいそうになる程に延々と、命無き荒野が広がり続けている。

 

 ここは……一体何処なのだろうか。

 少なくとも、つい先程までルキナが囚われていた邪竜の居城では無い事だけは確かなのだろう。

 先程の強烈な光は、転移魔法のものだったのだろうか。

 そうであるのだとしても、何故……? 

 困惑しながらもルキナは咄嗟に立ち上がろうとして、だがそれは上手く行かずにルキナは両手を地に着けてしまう。

 何度やってもそれは変わらず、ルキナはどう頑張っても上手く立てなくなっていた。

 自らの身を戒めていた枷や鎖の感触はもう無いのに。

 

 何故? と、そう思い自らの身を振り返ったそこには。

 ある筈の、足や背は見えず。

 

 代わりにそこにあったのは。

 硬く冷たい……黒みがかった蒼い鱗に覆われている、大地を踏み締める事に特化した……ルキナ本来の引き締まりながらもほっそりとしている筈のそれとは似ても似つかない、怪物染みた後ろ足と。

 骨格からして全く違う背から長く続く、しなやかで強靭な鱗に覆われた尾で。

 

 事態を何も呑み込めず狼狽える様にして動いたその途端に、奇妙な……少なくとも前は絶対に存在しなかった感覚と共に、バサッと何かかが広がる音がして地には大きな影が落ちた。

 混乱しながら見回して目に入ったのは、飛竜のそれよりも大きく頑丈そうな、蒼の皮膜と鱗に覆われた翼であった。

 自らのものである筈のないその翼は、しかしながらルキナの意志に従って羽ばたく。

 翼が起こした風を感じながら混乱の中に目を落としたその手は、とてもでは無いが手とは呼べぬ……骨格からして元の形を止めぬ程に変形しその指の大半が鋭い鉤爪に覆われたそれは、竜の前足としか表現しようがないものであった。

 そして、その前足も、ルキナの意のままに動いてしまう。

 ここに来ては、この前足も、尾も翼も、それはルキナ自身の身体のものなのだと、認めざるを得なかった。

 

 だがそれでも全てを受け入れる事など出来なくて。

 変形に伴って関節の可動域が狭まったのか自由に回す事が出来ぬその前足を、恐る恐る顔の方へと動かす。

 すると、本来ならば絶対に触れる筈の無い程の前方で、口先に手が触れたような感覚が走る。

 最早恐慌状態になりながらも、ルキナはそのままその前足を滑らせていくと、太く硬いものが額から側頭部辺りからかけて生えていて、それは随分と長く後ろまで伸びている様で。

 

 混乱と恐怖のまま「何がどうなっているのっ⁉」と叫んだ、……叫んだつもりであった。

 だが、己の喉から出てきたのは、まるで飛竜の咆哮の様な……少なくともヒトの言葉とは全く以て掛け離れたもので。

 

 咄嗟に喉に前足の様な手を当てるが、そこに反ってきたのは嫌に長い……まるで蛇が鎌首を擡げているかの様な長さの、整然と並ぶ硬い鱗に覆われた首で。

 首に何かが触れていると言う感覚は反って来るのに、そこに触れるその手も触れられているその首も。

 到底己のものであるとは到底思えない触感だった。

 

 ヒトとは全く違う『何か』に、この身は変じている……。

 それをはっきりと自覚せざるを得なくなった時、ルキナの理性の糸は切れた。

 半狂乱になって叫び、目に見える範囲の鱗を掻き毟る。

 しかし、何れ程叫ぼうと何を言おうとしても、その喉から出るのはただの獣の咆哮で。

 鱗を掻き毟った処で、身を引き裂く様な痛みと共に、確かにそれが自らの身から生えている事を強く認識させるだけにしかならなかった。

 地を踏み締める事に特化した四肢では、後足だけで立ち上がる事すら儘ならず、関節の可動域の関係上無理をしてもほんの僅かな間しか前足を地から離せない。

 一体今の自分はどうなってしまっているのだろう。

 こんな荒野に姿見がある筈もなく、ルキナにはただ、自分の身がヒトとは掛け離れた姿の……鱗に覆われた、飛竜ともマムクートのそれとも言い難い『竜』の様な何かに変じている事しか分からない。

 

 自分の変貌を受け入れる事が出来ず、狂った様に吼え壊れた様に自らの身体を傷付け、のたうち回る様にして暴れていたルキナではあったけれども。

 何れ程自らの身を傷付けようとも、寧ろその痛みはそれが現実である事を鮮明に示すばかりで。

 獣の咆哮にしかならぬ叫びは、何時しか力無い譫言の様な呻き声と鳴き声になっていった。

 

 ヒトの姿を奪われ、屍兵ですらない怪物に変えられて。

 何処であるのかすら分からぬ荒野に放逐され。

 まさに、最早どうにもならぬ絶望と諦めばかりがこの身を支配するけれども。

 このまま何もせず死を選ぶと言う事も出来なくて。

 行く宛など何も無いままに、ルキナはのろのろと何処かへと歩き出し始める。

 

 これからどうなるのかと言う不安と恐怖に心を圧し潰されそうになりながらルキナは独り荒野を行くのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 日が沈みそして、決して晴れる事なき曇天であるけれど、再び夜明けが訪れた頃。

 宛も無く歩き続けていたルキナの前に、荒野の終わりを告げる様に小さな泉が現れた。

 付近に住む人々の水源として用いられているのか、泉の端にはそこから水を引く為の設備が備え付けられていて。

 泉から続く水路は、やや遠方の方に小さく見える村へと続いている様であった。

 

 一昼夜、何も飲まず何も食べずに歩き続けていたルキナは、既にそろそろ限界であった。

『竜』へと変えられていても、生きている以上はヒトであった頃と全く変わり無く喉は乾くし腹は減るものなのだ。

 こんなご時世ではとても貴重な澄んだ水を湛えたその泉を目にした時、喉の渇きが限界に達していたルキナは思わず無我夢中で泉へと駆け寄ってしまった。

 しかし、泉の畔に辿り着いた時、その水面に映る恐ろしい『竜』の姿にルキナは雷に撃たれたかの様に硬直してしまう。

 

 そこに映るのは、『竜』としか言えぬ生き物であった。

 飛竜達とも……そしてマムクート達とも異なるが、その全体的な特徴を挙げていくならばやはり『竜』としか言えないのだろう。

 ヒトの面影など、何処にもない。

 よくよく見てみれば、その瞳の色だけはかつてのルキナと同じ色をしていたけれど、それ以外には、この『竜』とヒトであるルキナとに重なる部分は何一つとしていない。

 

 自分の身体が全く別のものへと変貌している事はもう理解していたが、こうして改めてそれを突き付けられると、絶望感だけがこの胸を支配する。

 別に、ヒトとしての自分を絶世の美女だとか何だとかと思っていた訳ではないけれど。

 当然の様に、ヒトとしての自分に愛着があったし、何か別の生き物になってみたいだのと夢想した事すらも無い。

 この様な、化け物やケダモノとしか呼べぬ姿へと無理矢理に変えられる事など、想定した事すら全く無かったのだ。

 

 そもそもヒトが全く別の存在へと変わってしまうなど……。

 ヒトと竜の二つの姿を持つマムクートと言う存在を知ってはいるが、彼等はそもそも生まれながらにそう言う風に在るのが当然の存在なのだ。

 ルキナは、聖王家と言う特殊な家系の血を引いてはいるけれどもあくまでも普通の人間であり、当然ながらヒト以外の姿に成れる筈もない。

 

 しかし邪竜はあっさりとルキナの姿を捩じ曲げて、この様な姿に変えてしまった。

 ルキナの姿を元に戻す事が出来るのは、当然ながら邪竜だけであろう。

 だが、あの邪竜がルキナを態々元の姿に戻そうとするなど、到底考えられる事ではない。

 ルキナが元の……ヒトの姿に戻る事は、絶望的と言っても過言ではなかった。

 

 ……それとも、或いは。

 邪竜と同程度の力を持つとされる、神竜ナーガならば。

 

 そう思い浮かぶけれども。

 しかし『炎の紋章』も無しに彼の竜へと呼び掛けた所でその声に応えてくれるのだろうか、と半ば諦めた心の声がその考えに水を差す。

 

 ギムレーが甦り、そして世界が絶望に沈み行く中で。

 一体何れ程の人々が神竜へと祈りを捧げた事だろう。

 ルキナも、幾度と無く神竜へ祈りを捧げている。

 しかし、何れ程祈ろうとも、神竜がその声に、その祈りに、応える事はなかった。

 聖王の末裔であるルキナですら神竜の声らしきものを聴いた事すらない。

 況してや、直接的に何かしらの救いの手が神竜から差し伸べられる事なんて、一度たりともなかった。

 神竜がこの世界を既に見棄ててしまったのか、或いは見守りはしているものの何らかの要因から手を出す事が出来ていないのかは、ルキナには分からない。

 何れにせよ、『炎の紋章』を携えて『覚醒の儀』を行わない限りは、彼の竜へとこの声を、その望みを、直接的に届けるのは叶わないだろう。

 

 竜へと変えられたルキナが、例え『虹の降る山』の祭壇へと行きその窮状を言葉にならぬ鳴き声で何れ程訴えた所で。

『炎の紋章』を持たぬ限りは、彼の神竜が応えてくれる事は無いと考えた方が良い。

 

 ならば『炎の紋章』を手に出来れば、となるが。

 そんな簡単に手に入るものであるならば、とっくの昔にファルシオンは本来の力を取り戻せていたであろう。

 竜へと変えられ、言葉もヒトとしての何もかもを奪われたルキナでは、『宝玉』に関する僅かな手懸かりすら得る事すら不可能に近い。

 そして、『宝玉』探索へと向かった仲間達が見事それを成し遂げてくれるのを待った所で、この姿のルキナを彼等がルキナだと気付いてくれる可能性は限り無く低いであろう。

 ルキナですら、この竜の身が自分自身の姿であるのだと未だに信じられない位なのだから。

 そうであるならルキナが『炎の紋章』を手にするには、仲間達から完成したそれを奪うしかないのではあるけれども。

 それだけは、ルキナには出来なかった。

 そんな事をすれば、本当にこの身ならずこの心までもが怪物のそれに変じてしまいそうで。

 何より、仲間達がやっとの思いで完成させた『炎の紋章』を手放す筈もないので、奪おうとするならば間違いなく殺し合いになってしまう。

 故に、そればかりはどうしてもルキナには出来ないのだ。

 

 しかし、ならば一体どうすれば良いと言うのだろう。

 

 その身がどの様な怪物へと堕とされたとしても、命あるならばこの世界を救う為に戦うべきであるのかもしれない。

 しかし、邪竜の手に堕ちた時よりこの手からファルシオンは喪われていて。

 縦しんば目の前にファルシオンがあったとしても、最早手とは呼べぬこの竜の前足では物を掴む事は儘ならない。

 この前足に出来るのは、地を踏み締め駆ける事と、獲物をその鋭い鉤爪で引き裂く事位であろう。

 ヒトらしい指先を喪ったこの手には、最早世界を救う力は無かった。

 仮にこの竜の身で単身邪竜に挑んだとしても、それはただの自殺にしかならぬであろう。

 ヒトであった頃よりもこの身は遥かに大きく、そして頑丈にはなっているのだろうけれども。

 例えヒトの身体など容易く一呑みにする事が出来る程の大きさであっても、あの邪竜と比べればそれは砂粒が蟻程度の大きさになった程度の差にしかならない。

 

 元の姿に戻りたいと言う願望はあるけれども、それを叶える術はルキナの手には無く。

 まさに八方塞がりと言っても良い状況であった。

 

 しかし、そうやってどうにも出来ぬ現実と先の見えぬ現状に何れ程絶望しても、喉の渇きが無くなると言う事も無い。

 生きるとはそう言う事であるし、故に目の前に飲める水があると言う状況で、餓え乾いて死ぬ事を選ぶつもりもないのにその欲求を無視すると言う事もルキナには出来なかった。

 だがいざ水を飲もうとして、そこでどうすれば良いのかルキナは困ってしまう。

 片前足だけで水を掬おうとしても上手くは出来ないし、尾を使ってバランスを取って両方とも前足を使える様にした処でやはり水を掬えない。

 そもそも手首を自由に回せない為、無理に前足で水を掬おうとしてもその殆どが零れてしまう。

 どうやってみても結果として獣と同様に直接水面に口を付けて飲むしかなく、しかもそれですら口が慣れぬ形状に変化しているが故に今一つ上手くいかなかった。

 

 不格好ながらも何とか水を飲めた為、耐え難い渇きからは解放されて。

 一昼夜歩き通しであった事もあり、どうにも疲れが出てきてしまったルキナは、その場で横になる。

 丸くなる様にして横になると楽である事に気付いたルキナは、獣同然のその姿勢に抵抗感を覚えつつも丸くなった。

 そして、うとうとと目を閉じかけたその時。

 

 何やら騒がしくなり、怒号すら聞こえてくる。

 すわ誰かが屍兵に襲われでもしているのかと、ルキナは慌てて飛び起きて辺りを見回す。

 しかし屍兵の姿など何処にも無くて。

 その変わり、近場の村の村人だろうか? 

 十人程の男達が手に武器を持ってこちらに駆けて来てくる。

 そして泉へと辿り着いた男たちは、手に武器を持ったまま、殺気立った様子でルキナを取り囲んだ。

 一体何事かと、一瞬ルキナは戸惑うが、直ぐ様今の自分の姿がヒトのそれでは無く、誰がどう見ても竜にしか見えぬ事に思い至り、今の自分は事情を何も知らぬ者にとっては、貴重な水源に居座る凶暴そうな獣にしか見えぬ事に気付く。

 勿論ルキナには幾ら武器を向けられているとは言え、村人達に何らかの害を加えるつもりは毛頭ない。

 しかし、そんな事が村人達に分かる筈も無く。

 彼等にとってルキナは、困惑した様に辺りを見回しながらも凶悪そうな唸り声を零す怪物でしかない。

 これで、竜と化したルキナの大きさがそこらの獣と大差ない程度ならまだ良かったかもしれないが、今のルキナの大きさは飛竜の成竜よりも大きく、大人の男であろうと一呑みに出来てしまいそうな程である。

 ただでさえ日々困窮していく生活の中で、この水源を喪う事は村人たちにとっては死活問題であり、故に彼らは決死の覚悟でルキナを討伐しようと武器を握っていた。

 

 

『待って下さい、私はここに長居するつもりなど無いのです。

 ほんの少しだけ休んでいただけで……』

 

 

 何とかこちらに敵意は無い事を伝えようとしても、ヒトの言葉を喪ったルキナの喉から零れるのは凶暴そうな唸り声でしかなくて、何れ程何とかして意思疎通を図ろうと努めても、それは余計に村人達に恐怖の感情を与えるだけであった。

 

 そして終には。

 

 村人達がルキナに向けて槍を突き出し、弓を引き絞り矢を放ってくる。

 殺意を持ったそれらは、ルキナの身体を隙間なく覆う硬い鱗によって尽く阻まれ、鱗に掠り傷を付ける事すらない。

 しかし、肉体的には何のダメージにもなってはいないとは言え、本来は同族であり守るべき対象である筈の人々から武器を向けられ、更には殺傷しようと敵意を向けられた事は、ルキナの心には浅からぬ傷を付けた。

 理屈では、その反応も仕方ない事であるのは理解している。

 しかし、感情と言うものは、時に理屈や合理的な理解と言うモノではどうにもならぬものであるのだ。

 だが心が如何に傷付いたからと言って、反撃して自分へと今も攻撃を加える村人達を傷付けるつもりは無い。

 彼等の武器が自分には何ら傷を与えぬものであるのだとしても、自分の爪は彼等の命を容易く奪ってしまう。

 それ程までに、今のルキナと村人たちとの間には圧倒的な力の差があった。

 全く攻撃してこないルキナに、村人たちは益々勢い付いて攻撃を加えてくる。

 その鱗に弾かれた槍の一撃が、比較的柔らかな翼ですら傷つけられなかった一本の矢が、ルキナの心の柔らかい部分に爪を立ててそこを抉るかの様だった。

 このままでは、もしかしたら何かの弾みで彼等を傷付けてしまいかねなかった。

 そうしてしまえば、もう二度と歯止めが利かぬであろう。

 

 だからこそ、ルキナは。

 この場から離れる為に、咄嗟に使った事など一度も無い翼を大きく広げた。

 飛び方など知る筈も無いのだけれども。

 本能的な何かなのか、翼が大きく羽ばたくと共に身体は浮き上がり、地上はグングンと遠くなる。

 

 空を翔ける翼があろうが、ルキナには行く場所も無い。

 この姿では、何処に行っても人々に追われる事になる。

 自分がルキナであると証明する術はなく、誰もそれをルキナに問い掛ける事も無いのでそもそもその機会すらない。

 ルキナが戦い続け守ってきた人の世界にはルキナの生きる場所は無く、ルキナを受け入れる人も居ない。

 その事が、どうしようもなく辛くて。

 

 空を翔けながらルキナは涙を零し続けるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 何処に行っても、ルキナの姿を見た人々の行動は、怯えて悲鳴を上げながら逃げ出すか、或いは武器を手にルキナを追い立てるか……そのどちらかでしかなかった。

 何れ程ルキナが、決して人々の害になる様な行為はしていないのだとしても。

 異形であると……凶暴そうな見た目の竜であるからと言うただそれだけで、人々はルキナを恐れ殺そうと追い立てる。

 そんな事がもう幾度も続いていて。

 ルキナはもう、人里には極力近寄らない様にしていた。

 どうせ、誰にも自分がルキナであると分からないのだし、何れ程ルキナが友好的な態度であっても人々はルキナを恐れ疎みそして害獣の様に扱う。

 

 無論、それが仕方の無い事であると、ルキナ自身誰よりも分かっているのだ。

 ルキナとて、人里近くにこの様な大きな竜が現れたとなれば、その竜が何れ程無害そうに見える竜であっても、もしもの事を考えて駆除する様に命じていたであろうから。

 それを、いざ自分がその立場になった時に、理不尽であると怒るのは幾ら何でも虫が良過ぎる話である。

 

 だからこそルキナは、人と関わる事を諦めた。

 住処など無く、宛なく彷徨っては、漸く辿り着いた水場の近くで力尽きた様に眠る……その繰り返しであった。

 しかし、ルキナには人と関われなくなった事、人に忌避される様になった事以上に深刻な問題が発生していた。

 ……食料が、殆ど無いのだ。

 

 邪竜の力によって常に空は厚い雲に覆われ、陽の光は十分には地上に届かず。

 それによって多くの植物が枯れ果て、新たに芽吹く事すら儘ならない。

 その結果として食料が大幅に減った事と、餓えた人々によって狩られた事で野の獣たちもその多くが姿を消していた。

 一日に腹の足しにもならぬ痩せ衰えた野鼠を数匹捕まえられれば良い方で、何日も水以外は何も口に出来ない日も多い。

 時折、運が極めて良ければ猪や鹿や熊と言った大物を狩る事が出来るので、それで何とか空腹を誤魔化していた。

 しかしルキナが慢性的に酷い飢餓状態にある事には変わらず、大物を狩れる事など滅多としてない。

 ルキナがヒトであった時も、食糧事情は酷い物であったし、思う存分食べる事が出来た事なんて、例え王族であるルキナですら世界が絶望に沈む前の……まだ父も母も健在だった幼い頃の事でしか無い。

 

 だからこそ、空腹と言うモノにはもう慣れていると思っていたのだけれど、『空腹』と『飢餓』は全くの別物であるのだと、ルキナは身に沁みて理解した。

 

 そもそも、ルキナは人々にとって『最後の希望』であり、食糧を初めとした諸々にはかなり融通されていたのだ。

 融通されていたとしても食料が足る事は一度も無かったのではあるが、それは今のこの世界では有り得ない贅沢である。

 しかし、竜の身となったルキナは日々の糧を得るには自力で獲物を狩らねばならないのだ。

 ルキナが邪竜によって竜に変えられて、既にもう三月……一々日にちを数える事はしていないのでもしかしたらもっと時間が経っているのかもしれないけれど、まあ何にせよそれなりの時間が経った今、ルキナはこの竜の身を生来竜であったかの様に動かす事が出来ていた。

 飛竜にも負けない速さで空を翔ける事が出来るし、まるでマムクートたちの様にブレスを吐く事も出来る。

 だけれども、幾らルキナがこの身体に慣れた処で、獲物となる獣の数自体が圧倒的に不足している中では、何かを狩ろうにもどうする事も出来ないのであった。

 だからこそ、ルキナは常に飢え続け、時折獲物にあり付けた時には、その骨まで齧り尽くす勢いで食べてしまうのだ。

 まさに獣のよう……としか言えぬ食事風景ではあろうけれども、とにかく少しでも腹を満たす事の方が重要で。

 そもそも手が使えぬ時点でヒトらしい食べ方など出来ない。

 そして、……ルキナは『餓え』を恐れていた。

 飢餓が酷く続いた時、時折ルキナの意識は飛んでしまう。

 まるでただの凶暴な竜である様に、目に付くもの全てに襲い掛かってしまいそうになっているのだ。

 尤も、そんな酷い飢餓状態に在る時は、目に付く場所には何の生き物も居ない事が多いのだけれども。

 

 そう言えば、初めて獲物を狩ってそれを貪った時も、ルキナは酷い飢餓に襲われていた。

 あれは……何度となく人里近くに近付いては、人に追われてその場から逃げると言う事を繰り返していた時の事。

 竜に変じてから何も口にしていなかったと言う事で、ルキナはもう限界を迎えていた。

 何か獣を狩ると言う発想すら頭からすっかり抜けていて。

 何より、野の獣の血肉をそのまま貪り食うなど、『ヒト』の行いでは無いと、役に立たぬ常識が咎めていたのが大きい。

 あのままでは極度の飢餓で意識を喪って死んでいた可能性も高かったと、後になって思う程度には酷い有様であった。

 そんな中、人に追われて辿り着いた山奥で、ルキナはもう一歩も動けなくなっていて。

 飢餓の中で朦朧とした意識の中、ぼんやりとした意識の片隅で、野兎が近くで跳ねたのを目にした。

 

 その瞬間の記憶は、ルキナには無い。

 

 気が付けば、ルキナの口の中には鉄臭い血肉の匂いが噎せ返る程に充満していて。

 そしてその足元には、周囲に撒き散らされた血の付いた兎の毛と、肉と骨を噛み砕かれ無惨な姿に変わり果てた野兎の成れの果てが転がっていた。

 自分が兎を捕らえ、そのまま貪り食ったのだと理解したのは、我に返ったその一瞬後の事で。

 余りにも獣染みたその行いに恐ろしくなり、とうとうこの心まで獣に成り果てたのかと震え上がったけれども。

 

 結局その後も飢餓には耐えられず、獲物を狩ってそれを貪る事には、もう何の忌避感も懐けなくなってしまっていた。

 時折それを思い返して、今の自分は随分と変わり果ててしまったものだと自己嫌悪に陥りそうになるけれど。

 かと言って飢餓の中で死ぬ勇気は無い。

 ……もし極限の飢餓の中で自我を喪ったら、今のルキナは人里を襲って人を喰らってしまうかもしれないと、その最悪を恐れてしまっているからだ。

 

 だからこそ、少ない獲物を狩りながら、どうにか致命的な極限の飢餓状態に陥る事だけは避けようとしていたのであるけれども……。

 しかし、ルキナではどうにも出来ぬ獲物不足と言う現状は、確実にルキナを追い詰めていて。

 最早破綻は目前へと迫っているのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 もう二週間近くも、野鼠一匹すら見付けられない状況が続いていた。

 今居る一帯がもう野の獣達が死滅してしまった後なのかもしれないけれど。

 何にせよ久しく何も口にしていないが故に限界であった。

 飛ぶ事すらままならず、休み休みでないともう長距離を飛ぶ事が出来なくなっていた。

 朦朧とした意識の中、獲物を求めてルキナは、決して近付かぬようにと避けていた人里へと近付いて行ってしまう。

 竜の優れた視力が、その人里で飼われている牛や豚といった家畜たちを捉てしまった。

 途端に湧き上がる食欲に、辛うじて理性の声はそれを押し留めようとする。

 あれは、あの里の人々にとっての大切な家畜であり食料なのだ、それを襲うなど、『ヒト』として断じてしてはならないのだ、と……ルキナのヒトとしての理性の部分はそう訴え、何とか人里から離れさせようとするけれども。

 最早本能的な……『竜』の部分には、そんな制止は何の意味も効力も持たぬものであった。

 このままでは、飢えて死ぬのだ、と。

 自らの生存を優先しようとする本能に、理性は逆らえない。

 そして──

 

 

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 ………………

 …………

 ……

 

 

 

 ルキナが再び気が付いた時には。

 辺りは屠殺場よりも凄惨な血の宴の様相を呈していた。

 貪り食われた牛や豚の血塗れの蹄や角が転がり、鶏のものであろう羽毛が辺りに散乱している。

 家畜たちの放牧地を襲い、そこに隣接していた鶏など家禽たちの飼育小屋をその前足と尾で破壊して。

 そこに居た家畜を、理性を喪ったルキナは襲い貪り食っていたのだ。

 ふと周囲に目を向けると、家畜を食われ怒り狂いながらも恐怖から腰を抜かす村人や、理性を喪い血肉に狂ったかの様なルキナの有様に、追い払おうにも恐怖が先に立って武器を構えてはいるもののその場から動けなくなっている村人たちの姿があった。

 

 あれ程までにルキナの身を蝕み苦しめていた酷い飢餓感はもう何処にも無くて。

 それどころか、腹が満たされた時の得も言われぬ充足感を感じてしまっている。

 

 自分の行いを自覚したルキナは、その惨い行為と、理性すら無くした獣としての自分に恐怖を感じ、言葉にならぬと分かっている筈なのに、恐ろしい怪物を見る目で自分を見詰める村人たちに、何かを言おうとして……結局やはりそれは言葉にはならない。

 そして、村人の一人が手にしていた棒を取り落としてルキナに背を向けて逃げ出したのを切っ掛けとして、次々と村人たちは我先にとその場を逃げ出した。

 到底敵いようがない外敵を前にした時、多くの人は立ち向かうのではなくその脅威から逃げ出そうとするものなのだ。

 ルキナがヒトを襲い食い殺す……少なくともそう言う存在であると、村人達は判断したのである。

 逃げ出す寸前の人々のその目が、人では到底敵う筈の無い悍ましい化け物を見る様な、そしてどうにもならぬ絶望から神に縋ろうとするかの様な、そんな恐怖と絶望に彩られたその眼差しが、ルキナの心に深く突き刺さり、心を削り取る。

 

 違う! 私は怪物なんかじゃない……! 

 

 と、叫び返したくても、その声が言葉として届く事は無い。

 最早彼等にとって自分は、家畜たちを惨殺し貪り食う、血に飢えた残虐で凶暴な……人では到底敵わない怪物なのだ。

 それを理解して、そして……彼等のそんな認識通り、餓えれば理性すら無くす怪物へと堕ちてしまった事を自覚して、ルキナは声を上げて泣いた。

 しかしその泣き声すら、人々に恐怖を与える唸り声と咆哮にしかならない。

 

 その場に留まる事も出来なくて、ルキナは逃げる様にして翼を広げて飛び立つ。

 

 そして、人の居ない場所を目指してやっと辿り着いた山奥で、そこにあった洞窟へと身を隠す様にして、ルキナは身体を丸める様に横になった。

 

 今はただ、眠ってしまいたかった。

 眠れば、余計な事を考えずに、これ以上絶望する事も、人々を怯えさせる事も無い筈だから。

 

 しかし夢の中ですら、ルキナはもうヒトではない、人々から忌み嫌われ追われる怪物でしかなかったのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 家畜を狙ってとは言え人里を襲ってしまってから、ルキナの中で何かの箍が外れてしまった様な感覚があった。

 理性以上に、竜の本能が強く出る瞬間が明らかに増えて。

 段々と、『ヒト』としての……変わらぬ筈であった心が変質していってしまっているのを、感じている。

 それでも、ルキナには何も出来ない。

 

 一度、『虹の降る山』まで飛んで行った事があった。

 しかし、祭壇へと赴いても、そしてそこでどんなに声を上げても、神竜がルキナの声に応えてくれる事はなくて。

 失意のままに、ルキナは『虹の降る山』を去り、それ以来、一度たりとも近付こうとはしていなかった。

 

 縋る先など、ルキナには無くて。

 次第に自分が壊れていくのを、この心までもがヒトならざる獣へと堕ちて行く事を自覚しながら、その恐ろしさに震える事しか……それ以外にルキナに出来る事は無かった。

 人々がルキナを見るその眼差しが……恐ろしい怪物に怯えその脅威から逃れる為に神に縋らんとするその目が、ルキナの脳裏に焼き付き、そしてその心を追い詰めていく。

 いっそ自ら命を絶ってしまえば良いのかもしれないが、それだけはどうしても躊躇ってしまう。

『最後の希望』であるルキナを生かす為に、その命を散らしていった臣下達の事が、どうしても脳裏に過るのだ。

 最早ルキナ自身は、彼等がその未来を託していった『最後の希望』としては在れないのだけれども。

 しかし、彼等に託されたものをそのまま投げ棄てる様に、死を選んでしまって良いものなのかと。

 託されてきものをルキナもまた誰かに託すまで、自分には死を選ぶ事は許されないのではないかと、そう思ってしまう。

 もしくは、ただ単純に『死にたくない』と言う生き物の本能的な欲求によるものであるのかもしれない。

 何にせよ、このまま心まで獣に堕ちるのを防ぐ為であれど、自ら命を絶つ事はルキナには出来なかった。

 死ぬにしても、自害ではなくせめて邪竜に立ち向かって死ねれば……とも思うものの、邪竜が何処に居るのかなどルキナには分かる筈も無く、邪竜が気紛れにルキナの前に姿を現しでもしない限り、ルキナには奴と戦う事すら出来ない。

 そうして、死ぬ事も出来ずに、ルキナは次第に竜としての自分に呑み込まれて行ってしまっていた。

 

 一度家畜を襲ってしまったからか、飢餓状態が続くとルキナは自分の理性では止める事すら叶わずに、人里を襲っては家畜を食い荒らしてしまう。

 まだヒトを喰った事は無い事だけは唯一の救いではあるけれども、それでも獣同然に家畜を食い荒らす自分を、ルキナは何よりも嫌悪し悍ましいとすら思ってしまっていた。

 何時だってルキナが気付いた時には、家畜たちの血肉を貪った後の凄惨な状態で。

 ヒトとしての理性が完全に途切れていたのか、ルキナには家畜たちを襲いそれらを生きながらに貪り食っていた間の記憶は全く無く、思い出す事すら出来ない。

『自分』と言う意識が断絶していくその恐怖、そしてその断絶の間に、どんな凶行に及んでいるのかすら分からぬ事への強い忌避感と嫌悪感。

 ヒトの姿を喪い、言葉も文字も……ヒトとしての能力を凡そ喪い、それどころか今度は『心』まで喪いつつある。

 それを止める手立てすらない事に絶望し……そして、もし何らかの奇跡が起こってヒトの姿に戻れた処で、果たしてその自分は正しく元の『ヒト』のままで居られるのだろうか、と……そう恐ろしい事を考えてしまう。

 人里を襲い家畜たちを食い殺した事実とその経験や記憶は、例え元の姿に戻ろうと、烙印の様に消えないものであろう。

 その変化は身体を変えられた事よりも深刻なものであった。

 

 

 そんな絶望に心を侵されながら、空腹のまま人里離れた山奥でルキナが何時もの様に水辺で休息を取っていると。

 急に辺りが騒がしくなった。

 何事かと耳を欹てていると、それが武装した人々の立てる音である事に気が付く。

 

 貧相な装備の村人とは違い、しっかりとした武具に身を固めた彼らは、間違いなくイーリス軍の者達であった。

 ルキナが邪竜に囚われた際に本隊の多くが犠牲になったとは言え、各地に展開していた分隊は無事であったであろうし、そんな邪竜の襲撃からの生き残りの者であるのだろう。

 

 

「居たぞ! 報告に上がっていた竜だ!」

 

 

 そんな声と共に、無数の矢がルキナに降り注ぐ。

 彼らの狙いはルキナだ。

 ルキナが襲ってきた人里への被害は、かつかつの食料生産で何とか凌いでいた人類全体に打撃を与えていたのだろう。

 そうやって追われる事になるのも、当然の事であった。

 

 戦う事を避けようと、ルキナは飛び立とうとするけれど。

 翼を鋭い刃で鱗ごと切り裂かれ、ルキナは悲鳴を上げる。

 竜の硬い鱗を切り裂く事に特化した『ドラゴンキラー』の一撃は、今までどんな攻撃も通さなかったルキナの鱗をも切り裂いたのであった。

 それでも何とか逃げ出そうとするも、再び雨の様に矢が降り注ぎ、ルキナが飛び立つのを阻止してくる。

 訓練だった兵士たちの動きには無駄がなく、ルキナを狩る為の準備は既に入念になされていたのであろう。

 まだ人を攻撃しない理性は残っているルキナには、余りにも分が悪い状況であった。

 次第に鱗は砕かれ、矢傷が付き始め、辺りにはルキナの血が飛び散っていく。

 致命傷などにはまだまだ程遠いが、しかし抵抗せず逃げられないルキナが狩られるのも時間の問題であろう。

 

 ここが、自分の命の終わりなのだろうか。

 こんな竜の姿に変えられて、怪物の様に人々に恐れられ忌避されて、そしてこうして獣の様に人々に狩られる……。

 父や人々に託されてきた、『世界を救う』と言う使命を、何一つとして成し遂げる事の出来ぬままに。

 ならば、自分が生きた意味とは一体何だったのだろう。

 こんな結末になるのなら、どうしてヒトならざる竜の身に堕とされてまで、足掻く様に生きてきてしまったのだろう。

 答えなど無く、その疑問に意味も価値もありはしない。

 それでも、そう思わずには居られなかった。

 

 そうして、『生きなければ』とこの場から逃げ出そうとする本能の声に耳を塞ぎ、何もかも……自分の『生』すら諦めようとした、その時であった。

 偶然に、ルキナの鉤爪が兵士の足を掠め、その脛の辺りを大きく切り裂いてしまう。

 大怪我ではあるが、命には何の問題も無い様な傷であって。

 しかし何故か、ルキナの視線は、そこから流れ出る紅い雫に釘付けになり、そして自らの鉤爪に残る、野の獣とは違うモノを切り裂いた感覚に痺れていく。

 無意識の内に息が荒くなり、強い興奮状態にあるかの様に視界が歪んで見えた。

 急に、空腹感が強くなる。

 それはまるで、ルキナが理性を喪い人里を襲ってしまう直前のそれと同じで。

 しかしそれが危険な状態であると分かっている筈なのに、ルキナの思考は痺れたように、その抗い難い衝動を抵抗なく受け入れようとしてしまう。

 それを止める『理性』の手綱は、血の匂いに酔ってしまったかの様に上手く働かなくなっていた。

 

 

 目の前の『獲物』たちは、硬い鎧でその身を守っているものの、ルキナの鉤爪や牙の前では丸裸も同然で、その下にある柔らかな肉の味を想像すると思わず涎が溢れそうになる。

 野の獣よりも愚鈍そうなこの生き物は、ルキナにとっては格好の『獲物』であった。

 

 先ずは、煩わしい刃物を振り回す個体のその胴を、ルキナは軽く前足で薙ぐ。

 たったそれだけで、胴を覆っていた鉄板諸共にその身体は半分に引き裂かれ、その個体は一瞬で絶命した。

 すかさず肉塊と化したその身体へと喰らい付き、そのまま鎧ごと噛み砕いて咀嚼する。

 食べられない鎧の部分などはその辺りに適当に吐き出して、その場にいる他の個体を逃がさぬよう狩り始めた。

 先程までは無抵抗だったルキナが突如自分達を圧倒的な力で蹂躙し始めた事に、兵士たちは一瞬理解と判断が遅れた。

 そんな隙をルキナが逃す筈も無く、その鋭い鉤爪で切り裂かれ、鞭よりもしなやかで巨木すら一撃で圧し折る尾の一撃で跳ね飛ばされて全身の骨を砕かれ、咬み付かれ生きながらにして貪り喰われ、或いは骨まで瞬く間に焼き尽くされる程の高熱のブレスで身を焼かれて。

 兵士たちは殺戮の宴の肴と変わり果てる。

 

 ヒトの血肉に狂い酔ったルキナのその眼に、既に理性の光は無く、例えヒトであろうと最早『獲物』としか捉えない。

 最早、完全に獣に堕ちたと言っても過言ではないだろう。

 その内『ヒト』としての理性が戻る事はあるのかもしれないが、その時その『ヒトとしての心』が自身の凶行を受け止める事が出来るのかは……誰にも分からない。

 

 十数人居た兵士たちは、一人残らずルキナによって狩られ、ルキナは彼らの血肉を喜びと共に貪り尽くす。

 熊よりは柔らかく、猪などよりも食いでがあるこの『獲物』はルキナにとってはまさにご馳走であった。

 その血の一滴までも丁寧に舐め取り、骨もその髄まで啜る。

 

 空腹を満たされたルキナは、一つ大きな欠伸を零して、その場で丸くなって眠る。

 もう、ルキナが『悪い夢』を見る事は無かった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「いやはや、やっぱり、君は面白い存在だね、ルキナ。

 ここまで嗤ったのは、蘇ってきて初めての事だとも。

 腹が攀じ切れるとは、まさにこう言う事を言うのだろうね」

 

 

 自分以外には命ある者無き自らの居城にて、ギムレーは腹を抱えて大爆笑していた。

 いっそ声が枯れ腹が引き攣れてしまう程の愉悦を覚えたのは、蘇ってからどころかギムレーがこの世に生み出されて以来の事であるかもしれない。

 

 ルキナを捕らえ、ある『戯れ』を思い付き実行したその時は、ギムレーとてまさかここまで愉快なものを見る事が出来るとは思っていなかった。

 ルキナと言うその存在が……そしてその人生が、ギムレーにとって良い玩具であるのは確かなのだけれども。

 あの場であの『戯れ』を思い付いたのは、単純にあの場で潔く死にたがっていたルキナの思惑通りに彼女を殺すのは、どうにも面白くなかったからである。

『ヒト』の根源は『心』だの『魂』だのと綺麗事を垂れ流すそのおめでたい心に、本当の絶望と言うモノを……そして人間の心の脆さと醜さを刻み込んでみたくなったのだ。

 ヒトは、結局の所その容貌で呆気ない程にその心は左右されていくものなのだ。

 何れ程高潔な心と魂を持っていようとも、その容貌が『ヒト』にとって醜かったり、あるいは怪物然としたものであるならば、それだけでその者は間違いなく醜悪な『怪物』の様に扱われるだろう。

 その者の『心』やら『魂』など、ヒトには見えないし故にヒトが他者のそれを真に理解する事は無い。

 目に見える形で一度壁を作られ拒絶されてしまえば、そこを乗り越える事など不可能な事である。

 別に、ただ単に絶望させる為ならば、ルキナを『竜』の姿にする必要は特には無かったのだろう。

 それこそ、同じ『ヒト』の姿であっても元の姿の面影など何一つとして存在しない程の……『ヒト』の感性に従えば『醜い』とされる様な外見に変える事だってギムレーには容易い。

 または、野に生きる熊やら狼やら狐へと変えてしまう事も、ギムレーの力を以てすれば容易い。

 しかし、ギムレーは敢えてそうはしなかった。

 ヒトでも獣でもなく『竜』……それもマムクート達の様な『理性』があり言葉を交わせる様な化身としてのそれではなく、言葉すら奪った獣同然の『竜』へとルキナを堕としたのは、彼女に最大限の苦痛と地獄を味合わせる為であったのだ。

 他者と同じヒトの世に居場所を持てる『醜いヒト』の姿や、ヒトに狩られるかも知れぬ様な普通の獣では、結局の所ルキナには本当の絶望を味合わせる事は出来ない。

 人々の『最後の希望』でありその使命を胸にギムレーに抗い続けてきたルキナであるからこそ、自らが獣として血肉に狂い、本来は庇護し救うべきであった対象である筈の『同朋』をその手にかけ、その血肉を貪り食う事になれば、その絶望は、その他の方法では決して与えられない程に深く暗く狂い果てる程のものになり、当にルキナの末路に相応しいものだ。

 

 だからこそギムレーは、外界には『竜』と化したルキナを養い切れる程の……『ヒト』以外の食料は無い事を何よりも理解した上で、ルキナを放逐し……そしてその様子を遠視の魔法でずっと観察し続けてきた。

 

 ルキナの忍耐力はギムレーの想定以上で、幾度飢餓に襲われていても最後の一線だけは中々踏み越えないその姿には驚きすら感じたものだが、それももう終わりだ。

 獣の本能に呑み込まれても尚最後まで抗っていたその姿は実にギムレーにとって良い退屈凌ぎになったが、最早その『理性』も不可逆に擦り切れている。

 最後の一線を越え、『同朋』を殺し尽くしてはその血肉を貪り始める姿には、大いに笑わせて貰った。

 果たしてルキナに『理性』が戻り、自らの行いに絶望する瞬間があるのかは分からないが……。

 ここまで楽しませて貰った礼として、『理性』を取り戻させてやった上で、本能を抑えられずとも発狂出来ない様にしてやるのも良いかもしれないな、とギムレーは思い至る。

 まあ、折角この手に堕ちたお気に入りの玩具なのだ。

 このまま野に放しているのも悪くは無いが、そろそろ手元に戻すのも良いであろう。

 食料は思う存分人肉でも何でも用意してやれるし、ルキナの言葉なき声が通じるのはこの世で唯一ギムレーだけである。

 何れ程憎悪し厭おうとも、その言葉が通じるのがギムレーしかいないと悟れば、元より壊れかけてはいるが、『ヒト』であるが故に所詮『孤独』には耐えられぬルキナの心が完全に折れるのは時間の問題となるであろう。

 その後は、かつての仲間たちと殺し合わせるのも良いだろう、息絶える直前に彼等に目の前の『竜』が何者であるのか明かしてやるのはさぞかし楽しいだろう。

 何なら、『竜』として獣同然に飼うのではなく、伴侶として迎えて可愛がってやっても良い。

 今の『竜』となったルキナになら、邪竜の力に溢れた子供を孕ませる事もそう難しくはない筈だ。

 この世界は最早ギムレーの手に堕ちたが、異界にはまだまだギムレーが滅ぼすべき世界が広がっている。

 それらの世界に侵略していく為にも、自らの血と力を受け継ぐ子供と言う優秀な手駒はあった方が良い。

 十数もの邪竜達に侵略され、瞬く間に滅びていく世界と言うものを想像するだけで心が躍るかのようだ。

 何もかも壊し滅ぼし尽くしたら、自分達以外は何も存在しない静寂の世界で、『家族』で過ごすのも悪くは無い。

 

 

 

「ああ……こんなにも『楽しみ』と言う感情を覚えたのは何時以来だろう。

 全く、君は僕でさえ飽きない位に面白いね、ルキナ」

 

 

 

 何時、ルキナを手元に戻そうか。

 理性を取り戻し絶望したその時が良いだろうか。

 ああ……それとも。

 

 そんな事を考えながら、ギムレーはその口元を歪める。

 

 

 そんなギムレーの思惑を何も知らぬルキナは、人々の血肉と骨の欠片が散らばる凄惨な地で、腹を満たされてスヤスヤと安らかに眠っているのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆



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『死すら今は遠く』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 全てを思うが儘に滅ぼして。かつてあの小さな瓶の中で募らせ続けていた世界への憎悪で何もかもを焼き払ったギムレーは、終わりの見えない空虚な『退屈』の中に居た。

 僅かに生かしている虫ケラ共を戯れに嬲り殺しにしても、かつて程その気が晴れる訳では無く。『退屈』は何処までも続く。

 

 それは、最早喪う様な『希望』すら何も持たない虫ケラ共は、何をした所で絶望すらしなくなったからなのだろうか。

 或いは、破壊するだけのその行動に、何時しか「虚しさ」を感じてしまったが故であるからなのだろうか。

 何にせよ、生きながらに屍兵へと堕ちたかの様に何の反応も無い虫ケラ共は、ギムレーにとって、最早玩具としての『価値』すら存在しなかった。息をする肉塊と同じだ。

 予てから虫ケラ共だと見下してはいたが、最早こうなってしまっては見下す『意味』すらも無かった。

 寧ろ、こんなモノを滅ぼし壊す事に自分は愉しみを見出していたのだろうかとすら思う。

 ギムレーが滅ぼしたいとかつて望んだのは、こんな肉塊でしかない様な泥人形では無かった筈だ。

 

 望み通り、虫ケラ共が蠢き神竜が支配する世を滅ぼし切ったと言うのに。その果てには空虚な『退屈』しかなかった。

 ギムレーに恭順し己の尊厳の全てを放棄する事で生き延びた僅かな虫ケラを除いてその大多数が死に絶えて。

 そして目障りだった神竜も、そしてそちら側に属する竜どもも、その悉くを鏖殺して。

 そうして破壊と滅びによって平らかになった静寂の世界は、ギムレーにとってすら余りにも『退屈』な世界であった。

 これでは目覚めていたとしても、神竜の「封印」の眠りの中で眠りに就いていた千年と大差無い程だ。

 

『退屈』だけが何処までも降り積もる様であったが、そんな中でも僅かながらギムレーに愉悦を与える者は存在した。

 かつて『聖王』として虫ケラ共を守る為にギムレーに戦いを挑んだ、神竜の眷属の末裔。ルキナと言う名の人間は、ギムレーに敗れた際にその虜囚となっている。

 最早『人の世』は滅び去ったと言うのにそれでもまだ諦めてはいない彼女は、何処までも愚かであると同時に今のギムレーにとって唯一甚振り甲斐のある存在であった。

 

 一気にその心も魂も穢し尽くして、永劫の苦しみと絶望の闇の中に叩き落としたくはあるけれど。

 最早ギムレーに残された数少ない娯楽だ。

 それを徒に消費する訳にはいかなかった。

 彼女を一息に壊した所で、一時の充足感の代償にその後に永劫に等しい『退屈』に蝕まれるだけである。

 ギムレーは十分にそれを理解していた。

 だから、ギムレーは彼女を殊更に丁重に扱い、そしてギムレーとしては有り得ない程に配慮しながらゆっくりと嬲っていた。

 それでも常人ならば耐え切れずとうに発狂し壊れているだろうけれども。彼女はそれを耐え切り、そして有る筈も無い『希望』を未だに信じている。その様が滑稽で仕方が無いが……同時にそうやってギムレーに対しての反抗の意思を保ち続けているその精神性はギムレーにとっては心地好いものだった。

 そんな、恐らく彼女にとっては地獄以外の何物でもない……だがギムレーにとっては唯一の退屈凌ぎの時間は、ギムレーがそれを終わらせようとしない限りはずっと続くのだろうと。

 ギムレーは心の何処かでそう思っていた。

 しかし…………。

 

 ギムレーが何時もの様に彼女を幽閉している場所へ訪れると。

 彼女は、口元を押さえながら激しく咳き込んでいた。

 彼女を幽閉している環境は、人間にとってそう過酷なものでは無い筈であるけれども。人間はギムレーから見ると儚く脆い存在だ。風邪でも拗らせたのだろうかと、そう思っていると。

 激しく咳き込んだ時に、抑えた手の隙間から血が零れ落ちた。

 これには流石に驚き、ギムレーは抵抗するルキナを押さえ付ける様にして、その身体の状態を確かめる。

 そして、その結果に驚いて、ギムレーは思わず息を飲んだ。

 

 ルキナは、死病に侵されていたのだ。

 それも、もう取り返しのつかない程に、その身体の中はもう弱りきっていて、あちこちにガタが来ている状態であった。

 

 先程吐き出した血は、壊死して崩壊してゆく肺腑から溢れ出てきたものだった。ここまで病状が進行する前には、既に重い症状がその身を蝕んでいた筈だが……。彼女は、それをギムレーには悟らせまいと隠し通していたのだろうか。

 虫ケラの身体の事など全く以てギムレーには興味の無い事であっただけに、その意識の隙を突かれたのかもしれない。

 

 驚くと同時に、何故彼女がこの様な死病に侵されているのかと、ギムレーは疑問に思った。

 今はこうしてギムレーの虜囚の身ではあるけれども、ギムレーは断じて彼女が病魔に侵される様な環境下には置いていない。

 ならばこの病は、ギムレーに囚われるよりも前、『聖王』として人々を率いてた頃にその身を侵していたのだろうか……? 

 

 思えば、ギムレーが蘇り世界を滅ぼし行くその中では、虫ケラ共の生活環境は劣悪の一言では足りない程のものであったし、その様な状況では衛生なんて概念も半ば意味を喪っていた。

 故に、本来なら王族としてこの様な病に侵される環境には居ない筈の彼女が、死病にその身を食い荒らされたのだろう。

 恐らくは、ギムレーと対峙したその時には、病は彼女の身体を蝕んでいたに違いない。

 ……そしてきっと、彼女は己の身を蝕むそれが、「死に至る不治の病」である事も知っていた。

 

 避ける事の出来ない己の「死」を見詰めながら、彼女は死そのものにも等しいギムレーと対峙していたのだろうか? 

 最早人の手では如何な名医であったとしても手の施しようが無い状態にまで至ってしまうまで、ギムレーには病の存在を悟らせなかったその胆力と精神力には、ギムレーも唸るしかない。

 このままでは、早晩彼女は死ぬだろう。

 息をする事も儘ならないまま、身の内を病魔に食われ尽くすしかない。だけれども。

 

 人の手にはどうする事も出来ない状態であるのだとしても。

 どの様な秘薬を用いても、或いは呪術を用いても、最早命の砂時計を引っくり返せないのだとしても。

 ギムレーにならば、ルキナを死なせずに済む方法があった。

 ただの虫ケラ相手であるならば放置し、藻掻き苦しみながら息絶えるのを観察して愉しむだろうが。

 しかしルキナは現状唯一の、『退屈』凌ぎの道具なのだ。

 それを喪うのはギムレーとしては余りにも痛い。

 だからギムレーは、ルキナに己の血と僅かながらも力を与えてその身を「ヒト」に在らざる邪竜の眷属に変えようと、そう決めた。そうすれば、ヒトの身を蝕む病どころか、寿命と言う時の軛すらも最早意味をなさず、ルキナを永遠に愉しめるのだ。

 それは素晴らしい名案である様にギムレーには思えた。

 そして、躊躇う事無くそれを実行しようと、抵抗を続けるルキナを押さえ付けて無理矢理己の血を与えようとする。

 

 だがここに来てルキナはかつて無い程に激しい抵抗をみせた。

 

 

「僕の血を受け入れなければ、君は死ぬよ? 

 今の君が生き長らえる術は、僕の血を受け入れる以外に在りはしないのに。それでどうして抵抗するんだい? 

 存在しない希望に縋って、応える筈も無い神に祈りながら。

 正気を喪う程の苦しみの中で、溺れる様に死んでいく事を、君は態々選ぶと言うのかい?」

 

 

 思わずそう問いかけてしまう程に、それはギムレーには俄かには信じ難い事だった。

「死」すらも恐れずに戦う様な者は確かに存在する。だが、想像を絶する程の苦痛を恐れずそれを受け入れる者は居ない。

 口では何とでも言えるが、絶え間ない苦痛を前にすれば、どんな聖人だって忽ち愚者に成り下がるのだから。

 だから彼女も、苦痛から逃れる為ならばそれを選ぶと思っていた。そしてそれは生き物として当然の本能なのだ。

 既に意識を保つ事すら難しい程の激痛に苛まれている筈だ。

 幾らギムレーへの反抗の意思を保ち続けているとは言え、生存と苦痛からの解放を天秤に載せてもそれを選ぶのだろうか

 だがしかし、ルキナはあくまでもそれを跳ね除けた。

 痛みからの解放を選ばず、あくまでもギムレーに抗い続けるのだ、と。そう苦しみに喘ぎながらも宣言する。

 

 

「例え……死が避けられないのだとしても……。

 それでも、私はあなたには屈しません。

 ……「死」は何れ誰にでも訪れるもの。私の「死」は、こう言う形であったと言うだけなのだから……。それに。

 死の恐怖や苦しみから逃れる為に、「人」では無い「何か」に変わり果てるのは、私の矜恃に反します」

 

 

 苦しみに苛まれながらも、凛とした様子でそう答えた姿に。

 ギムレーは、一つの「答え」を得た。

 他の虫ケラ共は滅ぼす『価値』すら無くなったと言うのに、どうして彼女だけはそうならなかったのだろうかと言う、ずっと考え続けていた疑問のその「答え」を。

 ギムレーは、苦しみながらも抗うその姿に、漸く見出した。

 

 ルキナの意志を捻じ曲げ蹂躙する事は、ギムレーには容易い。

 しかし、そうしてまで蹂躙し尽くした後で。

 そこに残るのは、果たしてギムレーにとって『価値』がある存在なのだろうか……? 

 他の虫ケラ共と同様に、壊れてしまうのではないだろうか? 

 果たしてそれは、ギムレーの望みであるのだろうか? 

 

 熟考し、暫し悩んだ末にギムレーは──

 

 

 己の手首を軽く噛み切って傷口から溢れた血を口に含んだ。

 そして、ルキナの腕を掴んで抵抗を押さえ付ける様に押し倒し、強引にその唇を奪う。最後の抵抗にと固く閉ざされた柔らかなその唇を、ギムレーは無理矢理その舌で抉じ開けて。

 抗うルキナの舌を舌で押さえ付け、己の舌ごとギムレーの舌を噛み切ろうとする動きを、顎を押さえ付ける事で阻んで。

 そうして、ルキナの口の中にギムレーは己の血を流し込んだ。

 ルキナの喉がそれを嚥下しゆっくりと動いた事を確認して、漸くギムレーはルキナを解放する。

 

 ルキナは激しく咳き込み、飲み込んでしまったそれをどうにか吐き出そうとするけれども。しかし、それはもう不可能だ。

 既に壊れかけていた身体は、ギムレーの血を拒絶出来ない。

 激しく咳き込んでいたルキナは、次第にその咳が治まっていく事に、愕然とした表情を見せる。そして、己の胸に手を当てて。最早そこが痛む事が無い事に絶望した。

 

 そこに確かに存在した筈の「死」が消失した事を。

 その「死」の形が最早今の己からは遠ざかってしまった事を。

 その全てを……それが意味する事を悟ったが故にルキナは、最早不可逆に変わり果てた己を自覚し、絶望したのだ。

 

 

「どうしてこんな……──」

 

 

 だがそれ以上の言葉を続ける事が出来ず、ルキナはそのまま言葉を喪う。何故、どうして、と。

 その表情は何よりも雄弁にその心中を語っていた。

 ルキナからすれば、どんな事情があれどもギムレーが己の命を救う様な方向に行動した事が信じられないのだろう。

 更には、己が「ヒト」から外れた存在になってしまった事も。

 その何れもが、ルキナには受け入れ難い事であった。

 

 茫然とするその眼が、ギムレーの眷属と化した事を示す様に、紅く染まっていく。右目はギムレーと同様の鮮やかな紅に。

 神竜の証が刻まれた左目は紅と蒼が混ざった様な紫に。

 変化は目だけでは無く、その身体の中身も全て変わって行く。

 変化してゆくその負荷に耐え切れず、ルキナは気を喪った様に寝台に倒れた。そうして気を喪っていても変化は止まらない。

 恐らく、再び目覚めた時には、「ヒト」からは全く異なる存在へと変化を終えているのだろう。

 その時彼女が何を思うのか……どの心がどう変わるのかは、ギムレーにも分からない事だ。

 

 力尽きて気を喪い眠るルキナを一瞥し、ギムレーは僅かに口の端から垂れた血の雫を拭った。

 ルキナの命をこの様な形で繋ぎ止めようとしたのは、決して憐れみなどと言った様な感情からではない。

 この先命ある限り、永遠にギムレーに付き纏うのであろう『退屈』を、少しでも拭う為だ。ルキナはその為の道具でしかない。

 

 ただ…………。彼女とならば、永遠に等しい長き時を共に過ごす事は出来るだろうと。

 そう、僅かにでも思うのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『黄昏の夢の中』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「幸せ」と言うものには様々な形が在るのだろうけれど、今の自分は間違いなく「幸せ」であると、そうルキナはそれを疑う事も無く思っていた。

 

 誰よりも大切で愛しい夫と過ごす、慎ましくも穏やかに満ち足りた日々……。昨日と同じ様な今日が過ぎ、そして今日と同じ様な明日が来るのだと、そう信じられる毎日。

 絶望も、悲嘆も、憤怒も、何もかもが今は遠い。

 愛し愛されて、己の心の隙間や傷を過不足なく満たして、そうやって過ごせる日々を、「幸せ」と呼ばずして何と呼ぶのだろうか。それに──……

 

 ルキナは、少しずつ膨らんできている己の胎を、幸福に満ちた眼差しと共にゆっくりと撫でた。

 新たな命が宿ったそこは、不思議と少し暖かく感じる。

 まだ、外界からの刺激に明らかな反応を返せる程には育っていないからか、今はまだ少し膨らんだ胎だけがその存在の証拠であるけれど、もう少しすれば内側から胎を蹴ってきたりして何らかの反応を示す様になるのだろうか……? 

 かつては自分もその様にして産まれたのだとは知っているが、何せそんな頃の記憶は存在しない為に実感などは無い。

 胎の中の子がこの世に生まれ落ちてくるまでにはまだ暫しの月日が必要であるが……、ルキナの心は既に母となる事への喜びと我が子への愛おしさが溢れていた。

 この世で最も愛しい人との間に、望んで産まれる我が子であるのだ。愛しくない訳など無い。

 

 最近のルキナは、まだ少し気が早いのかもしれないが、産まれてくる我が子の為に服を編む事に精を出していた。

 産まれてくる我が子は、どんな子だろう。

 ルキナに似るのか、それとも『ルフレ』に似るのか。

 どちらに似ていても可愛い事には変わらないが、『ルフレ』に似ていると良いな、と。ルキナはそう思っている。

 その為か、服を編む時に使っている毛糸も、『ルフレ』の髪色に似合うモノを自然と選んでしまっていた。

『ルフレ』も、産まれてくる我が子に贈るには、どんな名前が良いのか毎日悩んでいる。その様子が、堪らなく愛しい。

 ああ、本当に……抱えきれるのか心配になる程に、「幸せ」な日々の中に居るのだと、そうルキナは何時も思う。

 

 服を編み込みながら、ルキナはふと窓の外を見た。

 そこにあるのは、何時もの様に穏やかな夕暮れ時の空だ。

 そう、何時もと、同じ……。

 

 そう言えば、最後に青空を見たのは何時だっただろうか? 

 随分と久しくそれを見ていない様な気がして、ルキナは何気なく己の記憶を探ろうとした。

 そう、確かあれは……──

 

 

 何かが意識の端に触れそうになったその時。

 背後から、何かがそっと優しくルキナの目を覆った。

 暖かくも少し硬いそれを、ルキナはよく知っている。

 

 

「もう、『ルフレ』さん。また悪戯ですか?」

 

「ふふ、ルキナには直ぐにバレてしまうなぁ……。

 ……ただ今、ルキナ。今帰ったよ」

 

「お帰りなさい、『ルフレ』さん」

 

 

 紅い瞳に優しさを滲ませた表情で『ルフレ』はそう言って、挨拶代わりのキスをする。ベッドでのそれとは違って唇を優しく触れ合わせるだけのキスは、ただただ柔らかくて温かい。

 愛しい人が帰って来てくれた事への喜びと、こうして愛されている事が伝わってくるこの挨拶のキスが、ルキナはとても大好きだった。だからもう一度、とおねだりをしてしまう。

 ……さっきまで、自分は何を考えていたのだろうか? 

 何かを思い出そうとしていた様な気はするのだが、それは今は朧気にすらも思い出せないものなので、きっと大した事では無いのだろう。なら、それ以上はどうでも良い事だ。

 

 

「『ルフレ』さん、もうお夕飯の支度は出来ていますよ。

 今日も腕によりをかけて作ったんです」

 

「ルキナの料理は何時も美味しいからね。楽しみだ」

 

 

 そう言って『ルフレ』は嬉しそうに微笑んだ。

 ルキナとしても、自分の手料理が愛する人の舌と腹を満たせているのはとても満足がいく事であるし、やりがいがある。

 元々、そう言った手料理の類は手慰み程度であったが嗜んでいたのだ。並程度以上のものは作れる自負はあったが、やはりこうしてそれを喜んで食べてくれる人が居ると言うのはとても張り合いのある事で、最近では以前よりもずっと料理の腕は上がったと、ルキナはそう思っていた。

 

 

「そう言えばルキナ、何か足りないモノとか欲しいモノはあるかい? あるのなら手に入れてくるよ」

 

 

『ルフレ』にそう言われ、ルキナは少し考える。

 が、食料や衣服などに特に不足を感じる事は無く、その他の細かな消耗品の類も今は特に困ってはいない。

 だから、ルキナはゆっくりと首を横に振った。

 

 

「いいえ、『ルフレ』さん。そのお気持ちだけで大丈夫ですよ。

 それに私は……こうして『ルフレ』さんと過ごす時間があれば、それで十分ですから……」

 

「僕と過ごす時間、か……。僕としてはこれ以上に無く嬉しい言葉だけど、君はもっと『欲』を持って良いと思うよ。

 絢爛豪華なドレスも、煌びやかな宝飾品の類も、この世に二つと無い様な至宝でも。君が望むのなら何だって、僕は手に入れて君に贈るのに……」

 

 

『ルフレ』の言葉に、ルキナは再び首を横に振る。

 それだけで、ルキナにとっては十分なのだ。

 かつて何もかもを喪ったからこそ、この「幸せ」がどれ程得難く愛しいものであるのかを、よく知っているのだから。

 例え、この世の全てを手に入れる程の財があっても、金貨の山と等価の豪華絢爛な贅を尽くした衣装の山を何れ程築いても、国が一つ傾く程の宝飾品を幾つも幾つも身に付けても。

 それでも、それらはこの「幸せ」に何一つ叶わない。

 財やそれによって得られる物理的な幸福では贖えないのだ。

 もっともっとと、貪欲に願い続ける事も人の良くの本質の一つであるのかもしれないけれど。しかしそうやって手にしたものは、虚しく儚い。それもまたルキナはよく知っている。

 

 だからこそ、そんなものよりも、ルキナはただ愛しい人と過ごす時間の方がずっと大切なのだ。

 愛しい人がこの世に生きている事、そしてその人に出逢えた事、互いに愛情を向け合えている事、そして同じ時間を共に歩む事が出来る事……。その全てが、何にも代え難い奇跡であり、何よりも愛しい宝物なのだ。……そして。

 ルキナが願う様な「細やかな幸せ」と言うものが、幾重にも連なる程の困難と幸運の上にしか成り立たないものである事も、それが如何に儚いものであるかも知っている。

 だからこそ、それを望む事こそが、ルキナにとっては最も欲が深い事であった。

「幸せ」に満ち足りた日々が今日も明日も続いていく事を、互いに同じ様に歳を重ねながら一生を添い遂げる事を、新たな命にそんな「幸せ」な世界を繋ぎ託してゆく事を。

 それを望む事は、そして過不足無く手にする事は、きっとこの世の全てを手に入れる事よりも難しい事なのだから。

 ルキナは自分は無欲なのではなく、寧ろその逆でこの世の誰よりも己が欲深い人間なのだと思っていた。

 そんなルキナに、少し苦笑する様な顔をしながら『ルフレ』は優しくそっと触れる様にして、その頬を撫でる。

 その手に己の気持ちを委ねる様に、ルキナは少しだけ己の身を預ける様にして摺り寄せる様にして愛しさを伝える。

 この手の温かさをこんなにも近くに感じられる事が自分にとっては何よりも「幸せ」なのだと、『ルフレ』に伝わる様に。

 

『ルフレ』は益々優しい顔をしてルキナを見詰めた。

 

 

「……そうか、君がそう願うのなら、僕はそれで構わないよ。

 君の傍に居る。これからも、ずっと……」

 

 

 そして『ルフレ』は、ルキナの腹に指先を当て……そこに芽吹いた命を祝福する様に、そっと優しく触れる様に撫でる。

 愛と祝福に満ちた誕生を今か今かと待っているその命が、ルキナも……そして『ルフレ』も、待ち遠しいのだ。

 

 

「ええ、『ルフレ』さん。ずっと……ずっと一緒です。

 あなたと、そしてこの子と。二人が傍に居る事が、私にとっては何よりの「幸せ」なんですから……」

 

 

「幸せ」で、……「幸せ」で。

 何一つとして欠ける事の無い穏やかな幸福に包まれて。

 もうこれ以上なんて、望む必要は無い、求める必要は無い。

 

 ……だけれども、時折。ほんの僅かに瞬く程の間。

「何か」を、忘れている様な気がする。

「何か」を、思い出さなくてはならない様な気がする。

 ……大切だった「何か」が、欠けている様な気がするのだ。

 それが一体「何」であるのかは分からない。

 それについて考えようとする度に、思考は靄がかった様に混迷の霧の中に迷い込んでしまう。

 そして何時も、「幸せ」を思い出して……それっきりだ。

 

 思考の海から戻って来たルキナは、ふと静かに己の方を見詰めていた『ルフレ』と目が合う。

 その紅い眼を見詰めていると、「何か」を思い出しそうで……しかし同時にそれは決して届かない気がする。

 そんなルキナの様子を見た『ルフレ』は、ルキナの眦の辺りを指先でそっと触れて、優しくルキナの目を閉ざした。

 瞼の裏の闇の中で、『ルフレ』の指先の温かさだけが伝わる。

 

 ああ、「幸せ」だ。……これこそが、「幸せ」なのだ。

 

『ルフレ』の手にその目を閉ざされたまま、ルキナはそっと満ち足りた幸せな笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 千年の封印の眠りの中から、邪竜ギムレーとしての本性を取り戻してこの世に再び蘇って世界を滅びへと導いて。

 ……いや、時を越え過去を変える事でそれを阻もうとした聖王の末裔を追って時を越え、「覚醒」を再演したのだったか。

 …………同じ「邪竜ギムレー」であるとは言え、異なる時間の存在と溶け合った為か、時折僅かに記憶の混濁が起こる。

 大した問題では無いので放置しているが……。

 何はともあれ今ここに居るギムレーは、世界を滅ぼし尽くし、目障りな神竜やそれに与する者共も根こそぎ滅ぼした。

 神竜の手駒としてギムレーに逆らってきた者達は、一族郎党を老若男女問わずに根絶やしにするか、極一部を生かしたまま捕らえて生き地獄を味合わせながら殺した。

 殺してくれと絶叫しながら乞う彼等のその声を一笑に付して、かつては共に戦った者なのだからと、邪竜としての本来の自分を完全に取り戻したギムレーに対して、かつて人間として……「ギムレーの器」として生きていた時の『ルフレ』の面影やその心の幻影を見ていた者達が絶望しながら死んでいく様は胸がすく程に愉快であった。……彼等は全員息絶えたので、もうあの愉しみを味わえない事だけが甚だ残念である。

 

 そんな中、そうやって生かしたまま捕らえていた虜囚の一人……今となってはこの世に生きる最後の「人」となった者が、今とは異なる『絶望の未来』から過去を変える為に時を渡って来た聖王の末裔……神竜にとっても特別な駒であった「未来のルキナ王女」だ。

 彼女が時を渡って迄成そうとした使命を考えれば余りにも愚かしい事ではあるが、時を越えた先で彼女は人間として生きていた時のギムレー……『ルフレ』と恋に落ちてそして結ばれていた。だからこそ、彼女を最も絶望させる手段として、ギムレーは彼女を徹底的に凌辱した。

 

 ギムレーには『愛』などと言う感情は無い。

 そもそも、個として存在が己一つで完結しているギムレーにとっては、生殖の為の行為など全く意味を成さない。

 やろうと思えば相手を犯し凌辱する事は容易いが、その好意自体に感じるモノは何も無い。

 だから、ルキナを凌辱する際も、ギムレーにとってはただの手段に過ぎず、その行為自体に何も感じるモノは無かった。

 とは言え、それはあくまでもギムレーにとっては……と言う事で、ルキナの方は凌辱される事に対して随分と感情を激しく動かし、同時に行為によって生理的に得てしまう快楽により一層深い絶望を抱いていた様であった。

 愛した男の声と姿で、愛した男ではない……愛した男の全てを食い潰しその尊厳を破壊し己の過去も未来も何もかもを奪った悍ましい人外の化け物に、己の身体の全てを掌握され良い様に扱われる。それが彼女に齎した、激しい感情の坩堝の様な混ざり切って濁り腐った感情は、ギムレーにとって何よりも愉しく、酔ってしまいそうな程に甘美なものであった。

 

 殺してくれと乞われても、ギムレーはそれを嘲笑った。

 ただ死ぬよりも……或いは肉体的に苦痛を与えられるより辛い地獄であるのだとしても、ルキナが囚われたそれは命を奪う様なそれでは無く、心と魂を腐敗させる類いのものだ。

 そこから抜け出す術など、生きている以上は否応無しに何時かは訪れる老衰による死しかないだろう。

 とは言え、快楽に完全に心を堕とされて、ギムレーが望む様な反応を見せなくなったのなら、飽いたギムレーによって縊り殺される可能性はあっただろうけれど。

 しかし、ルキナの心は決して快楽に溺れる事は無かった。

 荒々しい獣に組み敷かれる様に手荒く抱かれ苦痛すら伴った激しい快楽を与えられても、或いはかつての『ルフレ』がそうしていた様に優しく抱かれ甘い睦言を囁かれながら優しい快楽に沈められても。それでも決して屈しなかった。

 そして、一月、半年、一年……と、時間だけが過ぎて。

 世界を滅ぼし切ってしまったが為に、何時しかギムレーの愉しみは、ルキナが何時屈するのかだけになっていた。

 どんなに乱暴に扱っても中々壊れない玩具は、ギムレーにとってもお気に入りのものになっていたのだ。

 

 そして、それはある日突然、何の前触れも無しに……もしかしたら何かその予兆はあったのかもしれないけれどギムレーがそれに気付く事が出来なかった内に、ルキナは壊れた。

 

 ギムレーの事を、『ルフレ』だと。己にとって何よりも愛しい恋人であるのだと、そう錯覚する様になったのだ。

 

 人非ざる存在の証である尾や翼をその目に晒したとしても、ルキナの目はそれを映している筈でも、それを認識しない。

 ……全く認識していない訳では無く、尾や翼に触れない様に動いたりはするので意識に上らせる事が出来なくなっただけであるのだろうけれど。

 壊れてしまったルキナの、その目に映る世界はまるで彼女が望んでいた優しい夢の様な世界になっていたのだ。

 人の営みが絶え果てただ朽ち行くだけの家や建造物の姿も、そこを意志も無くただ徘徊する屍兵達の群れの姿も、何も。

 彼女の優しい世界を壊してしまう様なものは、映らない。

 ……ルキナは、完全に壊れてしまっていた。

 最初の内は、何時か正気に戻った時にその醜態を振り返ったルキナがどう絶望するのだろうか、と。

 ギムレーは面白がって、ルキナが見ている「優しい世界」に沿って、かつての『ルフレ』の様な演技をしてやっていた。

 愛する男と、憎悪している邪竜の区別すら付かない彼女の痴態を嘲笑い、脆い人間の心を憐れんでやりながら。

 

 だけれども。

 何時か終わらせる為に、終わる時を見る為に始めた「茶番」であると言うのに。何時しかギムレーは矛盾を抱えていた。

 ルキナが、少しでも「真実」に目を向けそうになっていたら、それから意識を逸らさせてしまう様になっていたのだ。

 

 何故? どうして? と。

 ギムレー自身が己の行動を信じられない。

 

 それでも、「ルフレさん」と、彼女に呼ばれる度に、その温かく穏やかな笑顔がギムレーだけに向けられる度に、腕の中に感じる温もりがギムレーに対してその心の全てを明け渡してくる度に、ギムレーとの間に芽生えた命を愛おしい眼差しで見詰める姿を見る度に。

 胸の辺りがざわついて……同時に苦しくなる程に少しだけ温かくなる。その理由が、ギムレーには分からないのに。

 ……きっと、もうルキナしか居ないからなのだ、と。

 たった一つ残った玩具に執着しているだけなのだろうと、ギムレーはそう己に言い聞かせている。

 そう、それだけだ、それだけの筈なのだ。

 何時かルキナが死ぬその時まで、愚かな「茶番」を演じて、そしてその最期に「真実」を明かして、その絶望を見届ける為であるのだ。その筈だ。

 それ以外のものを、人間に対してギムレーが抱く筈が、抱ける筈が無いのだから……。

 

 ルキナの中に新たに宿った命の、その小さな輝きを感じながら、ギムレーはそっと目を伏せる。

 

 何もかもが既に終わってしまったこの世界の、その片隅で紡がれる壊れたルキナの見ている「優しい夢」が、このまま彼女が死ぬまで醒める事が無い様に。

 ギムレーは、そっとルキナの目を閉ざし続けるのであった、

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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【クロルフ(クロム×ルフレ♀)】
『朝虹は雨、夕虹は晴れ』


□□□□

 

 

 

 

 

 眼下に見える王都は先の戦の爪痕も少しずつ薄れ、目に見えて復興が進んでいた。

 街の人々の顔も明るく活気に満ちていて、皆が希望へと歩みだそうとしている。

 

 イーリスとペレジアの戦が終わってから半年。

 それ程の時間が、過ぎ行こうとしていた。

 

 

 

「あれから半年、なのですね……」

 

 

 王城の一画に与えられた執務室から街を見下ろしたルフレは、一人呟く。

 その左手の薬指にはめられた指環を愛し気に見詰め、そして、ふと溜め息を吐いた。

 

 ギャンレルを討って戦争が終結した半年前。

 ルフレはクロムと正式な婚約を交わした。

 一国の王子……いや聖王代理が、何処ぞの者とも知れぬ軍師を妻とする事に一部の者は難色を示してはいたが。

 ルフレ自身の多大なる功績と、そして何よりクロム自身が深く彼女を愛していた事により大過無く婚約は成立したのであった。

 ルフレがその薬指にはめているのは、婚約した証としてクロムから贈られた指環である。

 国の重鎮達は既に皆クロムとルフレの婚約を知っているが、まだ民達には婚約を発表していない。

 戦争終結時は戦時中に亡くなった先王エメリナの喪に服していたし、何より復興や戦後処理に忙しくてそれ所では無かったからである。

 戦後処理もある程度終わり、国も落ち着き始めるであろう半年後を目処に、大々的に婚約を発表し、その後に結婚式を挙げる予定であった。

 

 

 ルフレは、基本的に公私は分ける人間だ。

 それはクロムもそうであり、そして戦後直後は二人とも各々に対応しなければならない案件だらけであった。

 その結果として、日々政務で顔を合わせるにも関わらず、恋人らしい何かは全く無く、ただただ事務的な会話が続くばかり。

 自由な時間は殆ど無く、偶にあるそれもクロムとルフレで全く予定が噛み合わない。

 

 …………。

 ……そう、恋人同士になり、婚約までしていると言うのに……。

 

 

 未だにクロムとルフレは“恋人らしい”何かをした事が無いのだ。

 

 

 その事実に気付いた時、思わず愕然としたし、何とかせねばならないとルフレは決意した。

 が、しかし。

 

 更に根本的な部分に於いて、ルフレは記憶喪失であり、所謂“恋人らしい”行動とか行為とかに関しては何も知らないと言って良い程に疎い。

 その知識を蓄える前に軍略についての知識ばかりを最優先にしてきたのだから然もありなんである。

 クロムの軍師としては軍略に秀でているのは必要な事であるし、その知識を蓄えてきた事をルフレも後悔はしていない。

 が、クロムの恋人としては大問題だ。

 何処に軍略について語り合う恋人などが居ると言うのか、縦しんば居たとしても、流石にそれは無い。

 要するに、恋人が居るのにも関わらず恋愛経験値0なのだ。

 もうすぐ結婚しようかと言う状況なのに、これは不味い、不味過ぎる。

 

 それからと言うものの、ルフレは空いた時間に仲間内で既に恋人が居る者達から聞き取りを行った。

 勿論、質問した相手が恋人と居る時にどんな行動を取ったのか、どんな行動を取られたのか、その時どういう感じであったのか、その後の進展について等を徹底的に調べたのだ。

 必要なのは確実性かつ身のある情報だからだ。

 恋もまた戦の一つ。

 情報を収集・精査し、計略を巡らせなければならないのには変わらない。

 そう、クロムと“恋人らしい何か”を積み上げていくと言う重要な作戦なのだ。

 軍師として失敗は許されない。

 

 その考えに至ってる段階で色々と間違っているのだが、悲しい事にルフレは己が間違っているとは気付けていなかった。

 ルフレが下手に色々と優秀であるだけに、周りもまさかこんな感じに拗らせているとは思わず、誰も止めたりしようとはしなかったからだ。

 斯くして些か暴走気味にルフレは情報を集め続け、そして一つの結論に達した。

 

 

【二人きりになって、キスをしたり、物を贈ったり、お互いに想いを伝えあったりすれば良いのだ】と。

 

 

 聞き取りを行った相手とその恋人達の付き合い方はまさに人各々、カップル毎に違ってはいたが、概ね【二人きりになる】・【キスをする】・【物を贈る】・【好きだと想いを伝える】・【指環を贈る】と言うのは共通していた。

 指環は既にクロムから貰っているので、それ以外をやれば、恐らくは“恋人らしい”何かにはなる筈だ。

 

 

「何としてでも、クロムさんと誰もが認める“恋人”になってみせますとも!」

 

 

 大雑把に言えば間違ってはいないが、やはり何かを盛大に誤解したまま、ルフレは気合いを入れようと拳を握るのであった……。

 

 

 

 

 

 

■■■■

 

 

 

 

 

 

 一方、ルフレが何か間違った方向性へ走り出そうとしているその頃。

 自分の執務室からルフレと同様に街を見下ろしていたクロムもまた、ルフレと同様に深い溜め息を吐いていた。

 

 クロムもまた、婚約してから今に至るまで、全くと言って良い程に恋人らしい何かをルフレにしてあげられていない事を悩んでいたのだ。

 

 クロムは別にルフレの様に記憶喪失と言う訳でも、恋愛的な知識が皆無と言う訳でも無い。

 無いのだが、実はルフレに出会うまで、家族以外の人間に愛情の類いの感情を向けた事が無かった。

 クロムに好意を寄せる貴族のお嬢様方は数知れず居たのだが、クロムとしては彼女らにさっぱり興味が無かったのだ。

 クロムにとっては、大好きな姉エメリナと大切な妹のリズを守る為に強くなる事の方が余程大切な事であった。

 要するに、クロムはクロムで実際の経験値は0である。

 

 恋人になったからと言って、どうすれば良いのか知識はあっても中々それが行動に結び付けられない。

 そして追い討ちをかける様に、ルフレと過ごせる私的な時間がほぼ無い。

 

 

 クロムもまた、悩みに悩んでいた。

 

 

 クロムはルフレを愛している。

 あの日草原で行き倒れている記憶喪失のルフレを拾ったあの時から、きっとルフレの事が好きであった。

 所謂一目惚れに近かった。

 “運命”の様な何かを感じた。

 それは自警団の軍師と軍主として共に戦場を駆け抜けて行く内に、信頼を伴った好意へと深まってゆき。

 最愛の家族であったエメリナを喪った時、途方に暮れていたクロムを引っ張り上げてくれたその時に、何にも替え難い愛情へと変わっていた。

 

 が、しかし、そんな思いを一向にルフレに伝えられていないんじゃないかと、クロムは悩んでいた。

 悲しいかな、二人とも真面目であるが故に、軍議やらの会議やその他の政務で顔を合わせる事は多々あるのだが、その時に恋人同士の甘い会話など無い、皆無だ。

 戦争が終結したその時に、戦場の跡地で最初に想いを伝えて婚約して……、それっきりなのである。

 

 ヴェイグやガイアなどからは、「無いわー……」と言う目で見られている。

 リズからは「もっと二人で過ごさないと!」と小言を喰らう。

 フレデリクからは、「応援しております」の一言のみだ。

 解せぬ。

 

 

 クロムは悩んでいた。

 

 

 もうすぐ、クロムとルフレが出会ってから一年が経つ、……つまりルフレの誕生日まで後僅かと言う事になる。

 自分に関する何もかもを忘れていたルフレは、記憶が戻るまでの間、暫定的にクロムに拾われた日を自分の誕生日としているのだ。

 

 愛する恋人の誕生日。

 ここで何もしない訳にはいかないのだ。

 

 ルフレに「好きだ、愛している」と伝えるのは勿論だが、それ以上に彼女を喜ばせたい。

 しかし、どうすれば良いのだろう。

 ルフレが喜ぶ“何か”と言うのは中々の難敵であった。

 ルフレに喜んで貰えそうな物を挙げていくと、稀少な戦術書だの、質の良い武器だの、恋人に贈る物としては何だか間違っている気がするモノばかりだ。

 

 花とか装飾品だとかも贈れば喜んで貰えるだろうけれども、やはり戦術書等を贈った方が相対的に喜んでは貰える。

 ……物を贈る作戦は一先ず置いておこう。

 

 では、贈り物では無く、ちょっと二人で出掛けてみるとかはどうだろうか。

 あまり遠出は出来ないだろうが、王都に程近い場所ならば…………。

 

 

 幾つかの候補地の中からより条件の良い場所を選ぶ為、クロムは早速仲間達と作戦会議に取り掛かるのであった。

 

 

 

 

 

 

□□□□

 

 

 

 

 

 

 ルフレは自室のベッドの上に腰掛け、真剣な面持ちで手元の紙面を眺めていた。

 

『クロムと“恋人らしい”事をしよう作戦』の、戦略案を纏めたモノである。

 そこには、ありとあらゆる角度から分析されたクロムの趣味嗜好、ルフレのアクションに対して予測される反応などが記されていた。

 まさに稀代の軍師だからこそ為せる事であろう。

 

 

「クロムさんはあまり婉曲的な表現は好みません。

 つまり、気持ちは出来る限りストレートに伝えなくては……」

 

 

 ルフレは脳内でその時をシュミレーションする。

 

 

 ……

 …………

 ………………

 

 

『クロムさん、私……あなたに出会ったあの日から、ずっと……クロムさんの事が好きです、あなたの事が大好きなんです』

 

『ああ、俺もだルフレ。

 俺はお前を絶対に離さない。

 守ってみせる』

 

 

 ………………

 …………

 ……

 

 

「く、クロムさん……!」

 

 

 自分の想像の中のクロムの言葉に、ルフレは頬を赤らめた。

 そして、胸の高まりが抑えきれなくなり、キュッと胸に手をあてる。

 

 

「お、想いを伝えるだけではダメですよね……!

 つ、つまりこの後に、き、キスをする訳なのですが……」

 

 

 ルフレは再び想像する。

 

 お互いに頬を赤く染めて、ルフレが思わず目を閉じてしまった所に、唇に柔らかな感触が…………!

 

 

「~~~!!!」

 

 

 堪えきれずにルフレは顔を手で覆ってゴロゴロとベッドを転がった。

 

 

(ダメです、これは自分にとっては刺激が強過ぎます……っ!

 だって、まだろくに手を繋いだ事すら無いんですよ。

 は、裸を覗かれて覗いてしまった事なら有りますが、あれは事故の様なモノですし……!

 き、キスとか……私にはちょっと早過ぎる(?)のではないですか……っ!?

 い、いえ……待って、落ち着いて、冷静に考えて……!

 もう既に私たちは婚約して、結婚式すら近付いてきてる状況なんですよ……!

 寧ろ、き、キス位はしないとダメでしょう……!)

 

 

 最早パニック状態である。

 恋愛経験値がほぼ皆無のルフレにとっては、すべからく刺激が強過ぎる事だ。

 寧ろよく婚約出来たなと言う話になってしまうが、あれはギャンレルを討って戦争が終結したその場の勢いと言うヤツだ。

 あの後もルフレは自分の天幕に戻ってからは、貰ったばかりの指環を抱いてベッドでゴロゴロとのたうち回っていた。

 実は、指環をはめる際に顔を赤らめずに済む様になったのは、つい最近なのである。

 

 仕事の時は仕事と割り切れるから良いのだが、いざ、となるともうダメだ。

 クロムと顔を合わせるだけでも顔が真っ赤になってしまうだろう。

 

 

「と、とにかくですね、クロムさんと二人きりにならなくては……!」

 

 

 キスとかの事は一旦頭の片隅に追いやって、ルフレはクロムと二人きりになる為の策を練り始めたのであった。

 

 

 

 

 

 

□□□□

 

 

 

 

 

 

 それから数日後。

 何だかよく分からないのだが、ルフレの元に舞い込み続ける仕事の都合が良い感じに少し減り、ルフレが色々と画策した結果もあってか、クロムとルフレの休みが重なる事となった。

 

 これはもう、ここで決行するしかない。

 そう心に決めたルフレは、クロムと王都から少し離れた所にある湖へと出掛けるべく、約束の時間よりも大分前から彼を待っていた。

 

 昨晩から期待と不安で一杯で、あまりよくは眠れなかったのだが全く問題は無い。

 仕事の時以外で久方振りに見るクロムの顔を見た瞬間に、疲れなど吹き飛んでしまうだろうからだ。

 クロムの笑顔一つで、どんなに疲れてしんどい状態であっても忽ちの内にそんなモノは消え去ってしまう。

 ドキドキと高鳴る胸の鼓動で、逆に死んでしまいそうになるのだ。

 

 日々の政務やら軍議でクロムの顔なんて見慣れている筈なのに、いざ恋人と意識をすると、途端にどうして良いのかが分からない。

 戦闘の作戦の事とかならスラスラと考え付き、どんな戦況だってひっくり返してみせる程の冴えを見せる頭脳も、恋愛事に関してはポンコツも良い所であった。

 ティアモが何故か良い笑顔で貸してくれた『恋愛必勝法』と言う題の本は、ページに穴が空くんじゃないかと言う程に読み込んでスラスラと諳じる事が出来る程であるが、幾ら知識を付けようとも根本的な部分の解決には至っていなかった。

 しかし、ルフレ自身はそれに気付いていない。

 策を練り知識を積み上げた事で自信に満ち溢れていた。

 

 

(さあ、何時でもかかってきて下さい!)

 

 

 そう内心で気合いを入れたルフレであったが……。

 

 

「すまんルフレ、待たせたか?」

 

「ふぇっ……!」

 

 

 不意打ちの様に聞こえてきたクロムの優しい声に、思わず肩が大きく跳ねた。

 車軸に油をさし忘れた車輪の様にがたつきつつ、声がした方向に顔を向けると。

 

 

「…………っ!」

 

 

 一瞬息が止まってしまう。

 そこに居たのは何時もと同じ格好をしたクロムだったのだが、ルフレの目には光り輝いているかの如き煌めきを纏っている様に見えていた。

 恋とは正に盲目である。

 

 見慣れている筈のクロムの姿を、いざ恋人として意識すると、とてもでは無いが直視出来ない。

 

 何時でもかかってこい? 無理だ、もう降参だ。

 数秒前の自分の決意を躊躇う事無く翻し、ルフレは内心で白旗を揚げる。

 

 

「お、おい、ルフレ……?

 大丈夫か……?」

 

 

 固まってしまったかの様なルフレを心配そうに見詰めながら、クロムは戸惑ってしまったかの様に狼狽える。

 クロムとて、まさかルフレがクロムの顔を見ただけで、クロムの事で頭が一杯になってしまうとは思ってもいない。

 

 

「…………。

 ……!

 えっ、は、はい!

 全然問題無いですよ!

 私は何時も通りですし……!」

 

 

 クロムが自分の目を覗きこんでいる事に気が付いて、漸くルフレに正常な思考が戻る。

 正確には正常に戻ったのではなく、過剰な負荷によって一旦思考を放り投げた様なものなのだが。

 とにもかくにも、受け答え出来る程度には思考の余地が生まれたのであった。

 

 

「そ、そうか。

 あー、その、今日はちょっと出掛けたい所があってだな。

 ルフレにも、出来れば一緒に来て欲しい訳なのだが……」

 

 

 照れた様に、クロムが頬を僅かに赤く染めながらそうルフレを誘うと……。

 

 

「そっ、そうなんですか!!

 奇遇ですね、私も今日クロムさんと出掛けたい所があったのですよっ!

 えーっとですね……」

 

 

 よく熟れた林檎の様に頬を赤くしながら、ルフレは一息にそう言う。

 そして、王都近くにある景勝地として名高い湖畔の名を上げた。

 すると。

 

 

「まさに奇遇だな。

 丁度俺もそこに誘うつもりだったんだ」

 

 

 驚いた様にクロムが言う。

 どうやらお互いに、良い雰囲気になれる場所を探そうとして被った様だ。

 その辺り、クロムとルフレは思考回路が似ているのかもしれない。

 

 が、既に一杯一杯なルフレはそんな所に思考が行き着かず、とにかくクロムを連れてそこに行かなくてはと言う事しか頭の中に無い。

 

 

「そ、そうなんですか!

 では、行きましょう!」

 

 

 クロムが少し押され気味になる勢いでルフレはそう言って、馬を出して一路目的地の湖畔を目指すのであった。

 

 

 

 

 

■■■■

 

 

 

 

 

 景勝地としてそこそこ有名な湖畔なのだが、周辺にクロムとルフレ以外の人影は無い。

 

 落ち着いてきたとは言え、まだ先の戦の復興の最中であるのだ。

 行楽に割く余裕は、まだ一般の民には無い。

 それにまだ、先王エメリナの喪に自主的に服している者も多いのである。

 そんな諸々の事情もあって、湖畔は穏やかな静寂に包まれているのであった。

 

 

 

 

「……!」

 

 

 緩やかに吹き渡る風に穏やかに水面を揺らしながら陽光を反射してキラキラと光る湖を見て、ルフレは目を大きく見開いて驚嘆の声を上げる。

 

 自分の思い出に関する記憶を喪っているルフレにとっては、クロムと出会ってから見たモノが世界の全てだ。

 イーリスにフェリアそしてペレジアと、実に様々な場所をクロムと共に巡ってきたルフレであるが。

 その大半は戦場であり、少なくともこの様に態々景色を見る為だけに何処かを訪れた事は無い。

 故に、こんなにも綺麗な湖を見るのは初めての事であったのだ。

 それを考えて、クロムはここに連れてくる事を選んだ。

 その目論見はどうやら成功した様である。

 

 

 

「良い場所だな」

 

 

 ルフレが何処かはしゃぐ様にしているのを見て、クロムもまた気持ちが弾んでいた。

 キラキラとした目で碧に染まる湖を見るルフレにそう声を掛けると。

 

 

「……!

 く、クロムさん……!

 は、はい! 凄く素敵な湖ですね!」

 

 

 頬を赤らめながらルフレはブンブンと音が鳴りそうな勢いで頷いた。

 そんな恋人の様子に、クロムも思わず体温が上がってしまいそうになる。

 

 こうやって二人だけの時間を過ごすのは何時ぶりだろう。

 ギャンレルを倒した後、まだ戦の余韻が残る戦場でルフレにクロムが思いの丈を伝えて以来であるのではないだろうか。

 

 軍師と軍主と言う関係ではなく、ただのクロムとルフレとして……恋人として過ごすのは、もしかしたら初めての事であるのかもしれない。

 

 ルフレのその長く艶やかで指通りの良さそうな髪は風で静かに揺れていて。

 赤く染まった頬は、思わず触れたくなる程に魅惑的で。

 緊張しているのか固く握られたその手には、クロムが贈った指環が輝いていて。

 吸い込まれてしまいそうなその瞳には、クロムだけが映っていた。

 

 何も言わず、何も言えず。

 二人してお互いに見惚れてしまっていた。

 見詰めあうだけで、止まっている様にも感じられる時間は放たれた矢の如く進んでしまう。

 

 ポチャン、と。

 魚か何かでも跳ねたのか、湖面に何かが落ちた音がして。

 そこで漸く二人は全く同時にお互いから視線を外した。

 

 クロムは思わず手で口元を覆う。

 頬の熱さと遜色無い程に、手も熱くなっている。

 二度三度と、深く息を吸い込んでは吐き出して、何とか気持ちを落ち着かせようとした。

 

 

 こんな事ではいけない。

 目的を思い出せ。

 何の為に、仲間達に協力して貰ってまで、今日この日にルフレをここに連れてきたんだ?

 

 

 自問自答して漸く冷静になったクロムは、未だに顔を逸らしているルフレに向き合った。

 

 

 

 

 

 

□□□□

 

 

 

 

 

 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。

 このままじゃ、駄目だ。

 

 熱に浮かされた様に空回りしそうになる頭脳を、どうにか元通りにしようとルフレは足掻く。

 だが、頬の熱が引かない。

 いや、引く訳などはないのだ。

 何故ならその熱はルフレの身体の奥深く、心の内側から湧き出しているのだから。

 

 クロムの目に映し出されている自分を見て。

 クロムが自分だけを見詰めている事を認識して。

 

 どうして良いのかルフレ自身にも分からない程に心が荒れ狂うかの様に高鳴ってしまう。

 

 “恋人らしい”事をしようと。

 クロムの恋人として、誰に対しても憚る事の無い程になろうとしているのに。

 

 ただ見詰められていると言うそれだけで、触れ合える程近くにクロムが居ると言うただそれだけで。

 既にルフレは満たされ切ってしまっていた。

 これ以上なんて、望もうとすら思えない程に。

 

 しかしそれでは駄目だ。

 それはルフレが満たされているだけに過ぎない。

 恋とは、愛とは、与えられるだけでなく与えて初めて成立するものであるのだから。

 

 ルフレはクロムから実に多くのモノを与えられてきた。

 クロムが居たからこそ、あの日クロムが拾ってくれたからこそ、今のルフレがある。

 だが、ルフレはクロムに何れ程の事を返してあげられているのだろうか。

 策を練り戦局を幾度も塗り替えて勝利をクロムに捧げてはきた。

 だが、それでは足りない。

 彼から与えられたモノには、到底釣り合わない。

 

 言葉では到底伝えきれそうにないこの想いを、幸せを、ルフレはクロムに返したい、伝えたいのだ。

 

 だから。

 

 

「あのっですね、……おっお昼にしませんか?

 今日はお弁当を作ってきたんです!」

 

 

 途中でつっかえそうになりながら、ルフレは勇気を振り絞ってそうクロムを誘った。

 

 恋人の手作り弁当。

 それは『恋愛必勝法』曰く、恋人に好意を伝えるのにもってこいの品、であるらしい。

 相手の好物などをバランス良く入れる事で、より相手からの好感度が高まるのだとか。

 その真偽は今確かめるしか無いのだが。

 

 ルフレが差し出した弁当箱を、クロムはまるで宝物を手にしているかの様に大切そうに受け取る。

 

 

「そ、そうなのか……。

 では、頂こう」

 

 

 クロムも何処か緊張した面持ちで、ルフレが手渡した弁当箱を開けた。

 そして中身を見た瞬間、驚いた様に息を呑んだ。

 

 

「これは……」

 

 

 弁当は、クロムの好物を中心として、色鮮やかに美しく盛り付けられていた。

 その何れもに、ルフレの想いが籠められている。

 ルフレは頬を赤く染めながらチラチラとクロムの反応を伺った。

 

 クロムの目は弁当に釘付けであり、余程驚いたのか微動だにせずに視線に圧力があるのなら穴が空いているんじゃないだろうかと言う程の熱視線を注いでいる。

 

 反応は上々……いや、想定以上であった。

 自分の想いの結晶にクロムがこれ程迄に心を奪われていると言う事が、何よりもルフレにとっては嬉しい事である。

 

 

 

 弁当を開けた状態でクロムが固まって暫しの時が経ち、凍り付いた時が緩やかに動き出して、漸く二人は緊張でガチガチに固まりそうになりながらも弁当を食べ始めた。

 

 クロムは恋人の手作り弁当と言う剰りにも眩しすぎる代物に戦きながら。

 ルフレは散々味見をしながら作った弁当がちゃんとクロム好みの味になっているか、不安に襲われながら。

 

 恐る恐るおかずを一口食べたクロムは、ハッとなったかの様に目を大きく見開いた。

 そして……。

 

 

「旨い……!

 本当に旨いな、これは……!」

 

 

 クロムはそう絶賛して、勢い付いた様に弁当を食べ始める。

 その様子に、ルフレはホッと胸を撫で下ろした。

 

 どうやら、フレデリク達に試食に付き合って貰ったのは無駄にはならなかった様だ。

 当初のルフレの料理の味は、曰く『鋼の味』であったらしく、到底人に勧められる味では無かったのである。

 マトモな味に仕上げる事が出来る様になったその陰には、幾人もの尊い犠牲があったのである。熊肉料理を食べて卒倒したフレデリクとか。

 

 

 自分も弁当を食べつつ、ルフレはそっとクロムの顔を見詰める。

 クロムの側に居てこうやって時間を過ごせると言うただそれだけの事が、ルフレを満たしていった。

 幸福とはこんな時間の事を言うのでは無いだろうか……、とすら思ってしまう程に。

 

 

 あの日出会ったその時から、クロムはルフレにとっての世界の全てであった。

 記憶も自分を支える何もかもを喪ったルフレにとって、唯一確かなモノが、クロムの存在であったのだ。

 

 自分が誰なのかも分からないのに、クロムの名前だけは覚えていた。

 その名前を呼ぶ度に、胸の何処かが締め付けられそうになる様な心の動きも感じていた。

 

 それは、あの日から時折見る断片的な悪夢の所為であったのだろうか。

 如何な自分の事とは言えども、そこに関しては分からないが……。

 とにもかくにも、クロムこそが、世界と自分とを結ぶ縁であったのである。

 

 

 ふと、もしクロムを喪ってしまえば自分はどうなってしまうのか、と考えてしまう事がある。

 戦場に立つ以上、ルフレがどんなに策を巡らせたとしても、クロムを喪ってしまう可能性は完全には払拭出来ない。

 そんな“もしも”を考えてしまう度に、ルフレの身体は恐怖に凍り付き、足元が無限の奈落へと変じてしまったかの様にすら錯覚してしまう。

 考えるだけでそれなのだ。

 きっと……クロムを本当に喪ってしまったその時は。

 ルフレは最早ルフレではいられないだろう。

 別の、恐ろしくおぞましい何かに変じてしまうのではないだろうか……。

 確たる根拠は無いが、ルフレはそう心の何処かで感じていた。

 

 が、今はペレジアとの戦も終わり、クロム自らが戦場に立つ事は当分の間は無いであろう。

 それはルフレにとっては、何よりもの幸いであった。

 

 

 

 

 

 

■■■■

 

 

 

 

 

 

 ルフレが作ってくれた弁当は、クロムが今までの人生で食べたどんな料理よりも美味しかった。

 貴族達に招かれた宴会での贅を凝らした料理など、ルフレが手ずから作ってくれた料理の足元にも及ばないとすら思う。

 

 腹が満たされたからなのか、肩にやたら力が入っていたルフレも何処かリラックスしていた。

 そんなルフレと、クロムはポツポツと他愛の無い会話を交わしていく。

 クロムは愛想が良い方では無い為気の利いた会話をするのは苦手であるが、ルフレ相手だとまるで普段の愛想の無さが嘘であるかの様に後から後から話したい事が沢山出てくるのだ。

 

 ルフレは、ルフレと出会う前のクロムがどんな事をしていたのかを聞きたがった。

 思えば、ルフレに対してクロムが己の過去を語った事は今までは殆ど無かったのだ。

 それは記憶を喪っているが故に語れる過去を持たぬルフレに無意識の内に遠慮していたからなのかもしれないし、はたまた己の過去を語る時に避けては通れぬ愛しの姉の事を語る事を避けていたからなのかもしれない。

 しかし、ルフレ当人がクロムの過去を聞きたがっているのだし、半年以上の時が経った事でエメリナとの事も幾分か穏やかで少しばかり苦味を伴う懐かしさで思い出す事が出来る様になっていた。

 そんなクロムの思い出を、ルフレはとても熱心に聞いていて、ちょっとした失敗談や楽しい思い出には笑顔を浮かべ、辛い思い出には共感する様に悲しそうな表情を浮かべる。

 それはまるでルフレがクロムと人生を分かち合うとしているかの様で。

 クロムはそれに堪らなく愛しさが込み上げてくるのであった。

 

 沸き上がってきた衝動のまま、クロムはそっとルフレの髪を掬う。

 指通りの良い長い髪は、サラサラと手の中から零れ落ちてゆくかの様で。

 それにそっとクロムは口付けを落とす。

 フワリと、甘く爽やかな香りがクロムの鼻腔を擽った。

 

 

「く、くくく、クロムさん……っ!?

 な、何を……!!??」

 

 

 途端にルフレは顔を耳まで真っ赤に染め上げてクロムから距離を取ろうとした。

 逃げようとするその手を取って、クロム自身もまた顔を赤く染めながら訊ねる。

 

 

「その、ダメ、か……?」

 

 

 

 

 

 

□□□□

 

 

 

 

 

 

 ルフレは混乱の極みに在った。

 普通に話をしていた筈なのに、気付いたら髪にキスされていたのだ。

 手を繋ぐ事すらろくにした事が無い初な生娘である。

 許容量を越えた事態に混乱するのも致し方無い。

 

 

(だ、ダメじゃ無いですけど……。

 でも、その……。

 突然だったからビックリしたと言いますか、心の準備が出来て無かったと言いますか……。

 髪じゃなくて唇が良かったと言うか……、って私は何を……!

 と言いますか、今クロムさんに手を握られていますよね!?

 クロムさんの手は大きいなぁ……、暖かくてずっと握っていて欲しいです……。

 いえいえ、今はそれ処では……!!

 クロムさんにキスされたんですよ、私は!

 これは『手作り弁当作戦』が成功したと言う事ですよね???

 いや、でも、それは、えーっと……)

 

 

 混乱して支離滅裂な思考のまま、ルフレはその場でオロオロとする。

 所謂“恋人”らしい事を望んでいたルフレにとっては今の状況は願ってもないモノである筈だが、流れに身を任せる等と言う発想をする余裕は今のルフレには無かった。

 然りとて握られた手を振り解く事などは出来ず、逃げる事は出来ないルフレはその場で固まるしか無い。

 何か言おうとしても、口から漏れるのは緊張に震える熱い吐息のみ。

 音に成らぬ吐息を一つ二つと溢したルフレは、自分の目を真っ直ぐに見詰めてくるクロムの視線に耐えかねたかの様に、俯いてクロムの視線から逃れようとする。

 

 これからどうすれば良いのかなんて分からない。

 綿密に立てていた筈の計画も、全て頭から吹き飛んでしまっていた。

 戦局を変える? 無理だ、策なんて何一つとして思い浮かばない。

 軍師失格レベルの失態であるが、クロムを相手取るにはルフレでは分が悪いのだ。

 何せ、ルフレ唯一の弱点がクロムなのだから。

 

 

 何も出来ないままオロオロとしていると、そっとクロムの手がルフレの頬を撫でた。

 自然と俯いていた顔が上がり、クロムと視線が絡み合う。

 暑いと感じる程の熱はクロムからのものだろうか、それともルフレからのものだろうか。

 それはルフレには分からないが。

 二人とも、お互いの熱に浮かされた様にただただ見詰めあっていた。

 優しさの中に何処か情熱的な激しさを孕んだその目を見ているだけで、ルフレは酔っているかの様な錯覚を覚える。

 

 好きだ、この人の事が大好きだ。

 この世界で一番、自分の世界の中で一番、クロムを愛している。

 ……そんな想いは心から溢れて、言葉としてルフレの口から零れ落ちようとしていた。

 

 

「クロム……さん」

 

 

 掠れそうな声でルフレが名を呼ぶと。

 

 

「どうした? ルフレ」

 

 

 熱に浮かされながらも優しい声でクロムが訊ねてくる。

 それだけの事で胸が一杯になりそうになるが、喉元まで言葉と言う形になって現れようとしている想いは止まらない。それどころかますますそれを助長する。

 

 

「私は……クロムさんの事が、好きです。

 誰よりも、愛してます」

 

 

 だから──と続けようとして、ルフレはその続きの言葉を見失ってしまった。

 何を……何を言おうとしたのだろう。

 まだこの気持ちを伝え足りない。

 だけど、どんな言葉に託せば伝えられると言うのだろうか。

 伝え切れないのに、気持ちばかりが溢れてきて泣きそうになる。

 

 

 そんなルフレを見詰め、クロムは力強く……だけど痛みを与えない程度の絶妙な力加減でルフレを抱き寄せた。

 クロムの鍛え上げられた逞しい胸板に頭を押し付けられたルフレは、ただでさえ余裕が無いのにますます顔が赤くなる。

 これ以上鼓動が早くなったら自分は死んでしまうんじゃないだろうか、なんて思ってしまう程に。

 

 

「俺も……ルフレの事が、好きだ。

 お前と出会ったあの日から、ずっと。

 どんな時だって、誰よりも側に居たのはお前だ。

 ずっと側に居て欲しいと、誰よりも思ったのもお前だけなんだ」

 

 

 真っ直ぐなその言葉は、ルフレだけに向けられている。

 この人のこんな顔を知っているのは自分だけなのだろうと思うと、それが堪らなく嬉しい。

 

 

「ずっと、側に居ます。

 だってそう、約束したんですから……」

 

 

 自分の指にはめられた指輪を見詰めてルフレは言った。

 死が二人を別つまで共に居ると言う約束をする為の誓いの証。

 いや、死で別たれようとも、この絆は消えたりはしないだろう。

 

 クロムもまた、婚約指輪を見詰めて頷いた。

 

 

「ああ、そうだな。

 これからも、ずっと一緒だ。

 お前と出会ってからの一年は、嬉しい事もあったが辛く苦しい事も多かったな……。

 でもどんな時だって、思い返せば全部お前と過ごした掛け替えの無い時間だったんだ」

 

 

 辛かった事……。

 その最たるモノは、最愛の姉であったエメリナ様に関する事だろう。

 自らの策が及ばなかったが故に避けられなかった彼女の死は、ルフレにとっても辛く苦しいモノであった。

 姉の死に傷付き果てた最愛の人の姿は、思い返すだけでルフレの胸に切り裂く様な痛みを与える。

 

 

「クロムさん……」

 

 

 そんな悲劇ですら、ルフレと過ごした時間であったのだと、掛け替えの無い時間だったのだと言い切ったクロムに、その心にルフレは泣きそうになる。

 

 

「俺はもう何一つとして大切なものを失わせたりしない。

 まだ未熟な俺一人では成し遂げられなくても、お前が側に居てくれるのなら……」

 

「二人一緒なら半人前じゃない……、だって私達はお互いに半身なのだから……。

 ……ですよね」

 

 

 それは、姉の死に打ち拉がれていたクロムに、かつて自分が贈った言葉。

 クロムだけではなく、自分自身に向けた言葉でもあったそれは、二人を結ぶ大切な言葉であった。

 

 ルフレが継いだ言葉にクロムは嬉しそうに頷いてから、何故か苦笑を浮かべる。

 

 

「ああ、そうだ。

 ……今日はルフレの誕生日なのだから、お前に色々とあげるつもりだったが……。

 これじゃ俺が貰ってばかりだな」

 

「たん、じょうび……?」

 

「気付いてなかったのか?

 今日で、俺とお前が出会ってから丁度一年だ」

 

 

 クロムにそう言われ、そう言えば記憶が無いが故に自分の誕生日が分からないルフレは、クロムと出会った日を誕生日と言う事にしていたのだと思い出した。

 今日で、あの日から丁度一年。

 それ程の時間を共に過ごしていたのかと思うと、長かった様な短かった様な、そんな不思議な気持ちになる。

 まあ、時間の長さなど、その内容に比べれば些末な事なのではあるが。

 

 

「そう、だったんですね……。

 でも、私はもうクロムさんから沢山の贈り物を貰ってますから、そんなの気にしなくても良いんですよ?

 それに、こうやって一緒に過ごせる事が、何よりもの贈り物ですから」

 

 

 それはルフレの本心からの言葉である。

 物では無く、クロムと過ごす時間が……その思い出が、ルフレにとっては最高の宝物なのだから。

 

 ここに来て漸くルフレは気付いていた。

 “恋人らしさ”なんて拘る必要など無かったのだ。

 こうやってただ一緒に過ごすと言うそれだけで、二人ともこんなに満ち足りていられるのなら。

 それだけで十分だったのだ。

 

 

 

 

 

 クロムとルフレの視線が再び絡み合った。

 今度はルフレも逃げようとはしない。

 

 どちらからと言う事も無く、お互いが同時にキスをした。

 唇と唇が触れあうその感触は、どんな媚薬よりもお互いを熱くさせる。

 再びクロムがルフレにキスを落とした。

 髪にも瞼にも額にも鼻先にも唇にも……。

 お互いのキスの応酬は止まる事無く続いていく。

 

 

 日が沈みゆくまで、二人はそうやって過ごしたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【Fin】

 

 

 

 

□□□□



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『お伽噺の果てに』

ゴールデンカムイ
呪術廻戦
ドラゴンクエスト ダイの大冒険
ひぐらしのなく頃に
無能のナナ


◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 クロムが最後に見た光景は。

 この世の全てよりも愛しい妻──ルフレが、この世の全てに絶望した様な顔で自身を掻き抱くその姿であった。

 壊れた様にクロムの名を呼び、「ごめんなさい」「私の所為で」と自身への呵責で今にも壊れてしまいそうなルフレに。

 クロムは最期の力を振り絞って、自身の血で汚れてしまった手で、ルフレの頬を撫でた。

 

『お前の所為じゃない』

『お前だけでも、逃げろ』

 

 脇腹に走る激痛と共に薄れ行く意識の中で、必死に紡いだその言葉は。

 果たしてルフレに届いたのだろうか……。

 

 届いていれば良いのだけれども、と思う反面。

 届いていたとしても、ルフレは自身を責め立てて追い詰めてしまうだろう。

 それが良く分かっているから、もうそれを慰め支える事すら出来なくなるであろう自身の不甲斐なさが、何よりも歯痒かった。

 

 自分の死を感じる中でも、クロムの心の内を何よりも占めていたのは。

 志半ばに倒れる後悔でも、後に遺す事になる仲間達の事でも、城に置いてきたルフレとの愛しい子供たちの事でも無く。

 ただ一人、クロムの命よりも大切な宝物である、ルフレの事であった。

 

 ルフレは、どうなるのだろうか。

 操られて、自身の意思とは無関係に、望まぬままクロムを殺させられてしまった、誰よりも優しく愛しい人は……。

 

 愛しい人が自ら死を願いそれを成そうとする事だけは無い様にと。

 そうクロムは、死の淵に沈み行く中で、誰にとは無く祈ったが。

 果たしてその祈りは、誰かの元へ届いただろうか……。

 

 そんな心残りばかりを遺しながら。

 何よりも愛しい温かさに抱かれたまま、クロムの意識は闇の中へと沈んでいったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 ……………………。

 ……………………。

 ……………………。

 

 深い微睡みの淵に揺蕩う中で。

 ふと、誰かに名を呼ばれた気がする。

 その声は、大切な彼女のもので。

 

 

「るふ……れ……?」

 

 

 深い深い眠りの淵より浮かび上がったかの様に朧気な意識の中で、クロムはぼんやりとその名前を紡いだ。

 

 その途端に身体を縋り付く様に強く抱き締められ、それと同時に意識が大分ハッキリとしてくる。

 

 

「くろ……っ!

 クロムっ、さん……っ!!」

 

 

 感極まった様に、愛しい人の声がクロムを呼び。

 温かな雫が、後から後からクロムの頬に降り注いで来る。

 その温かな雨の温もりが冷えきっていた様にも感じる身体に移ったかの様に、頬を中心としてじんわりと温もりが広がる。

 縋りついてくるその温かさは、クロムにとって何よりも愛しい温もりで。

 この温もりを抱きながら眠るのが、クロムは何よりも好きだった。

 

 

「泣いて……いるのか……?」

 

 

 何処か重たく感じる右手を持ち上げて、まだボヤけた視界の中で、きっとその頬があるであろう辺りを撫でる。

 手を温かな雫が濡らし、そして頬を撫でるクロムのその手に重ねる様に、小さな愛らしい手が重なった。

 

 

「良かった……。

 良かった、です……。

 もう、間に合わなかったのか、と……。

 もう、二度と………………逢えないのか、と」

 

 

 嗚咽を溢しながら、ルフレはクロムの手に愛し気にその頬を擦り寄せる。

 その仕草に堪らない程の愛しさを感じたクロムは。

 まだ重たく感じる身体を起こして、空いていた左手でルフレの身体を抱き寄せた。

 腕の中に感じる温もりは、確かにルフレがそこに居る事を証明していているかの様で……。

 ここが、死に行くクロムが今際に見た夢では無い事を、何よりも雄弁に語っていた。

 

 何処かボヤけていた視界が、ゆっくりと晴れてゆく。

 愛しいルフレの顔は、泣きじゃくりながらクロムの胸板に顔を押し付けている為、ハッキリとは見えない。

 言葉を喪ったかの様に嗚咽を溢しながら縋り付くルフレを、優しくあやす様に抱き締めてその背中を擦りながら。

 クロムは一体自分の身に何が起きたのかを整理しようと努めた。

 

 

 数多の動乱を陰から操っていたその首謀者にして、邪竜ギムレーを復活させんとしていたギムレー教団の教主ファウダー。

 その存在を突き止めたクロム達は、全ての争いに決着を着けるべく、奴との決戦に挑んだ。

 仲間達から二人だけ分断されたクロムとルフレは、それでも尚ファウダーとの死闘を辛くも制し、全てを終わらせられた……その、筈だったのだ。

 

 だが……クロムとルフレは確かに奴に止めを刺したのだが、その直後にルフレがクロムに致命傷を負わせた。

 操られているかの様に茫洋としていたルフレのその眼は、クロムが冷たい床に倒れるのと同時に、意志の輝きを取り戻し……そして、直後に絶望に沈んだ。

 自身を責め、そしてクロムの名前と謝罪を譫言の様に繰り返すルフレのその声は、意識が薄れゆくクロムの耳朶にも確かに届いていた。

 聴いているだけでクロムの魂までをも悲痛に染め上げて切り裂いてしまいそうなその声は、今思い返してしまっただけでも、胸を鋭利な刃で掻き毟ったかの様な酷い痛みを呼び起こす。

 

 そんな絶望に墜ちたルフレの心を、僅かにでも救いたくて。

 

 ルフレの所為ではないのだ、と。

 だから自分を責めないで欲しい、と。

 愛しているのだ、と。

 そして、生きていて欲しいのだ、と。

 

 そんな願いと想いを込めて、クロムは最期の力を振り絞って、ルフレに言葉を伝えて……。

 そしてその後の記憶は、一切無い……。

 ……一体あの後で、どうなったのだろうか。

 そして、何故。

 あの状況下にあって、自分は未だに生きているのだろう……。

 

 

 ……何れ程考えても、何も分からなかった。

 目覚めるまでの記憶が一切無いクロムは、今の状況が殆ど分からない。

 

 それでも、クロムにも分かる事はある。

 死んだと思っていた自分が生きている事と、ルフレが今泣きじゃくっている事だ。

 今は何を捨て置いても、愛しいルフレの涙を止めなくてはならない。

 きっと、ルフレのこの涙は、自分を想っての涙なのだろうから……。

 

 

「ほら、ルフレ。

 俺は生きているから。

 だから、もう泣くな……」

 

 

 そう言いながら抱き締めたその背を優しく擦ってやるも、ルフレは一向に泣き止まない。

 それ処か、より一層激しく嗚咽を漏らす。

 

 

「ごめんなさい、クロムさん……。

 私が……私の所為で……。

 私が、クロムさんを…………」

 

 

 ルフレは譫言の様にそう繰り返すばかりで。

 その内に涙で海ができてしまうのではないかと心配になる程に、ポロポロと涙を溢し続けている。

 クロムはそんなルフレを何とか泣き止ませようとして、優しくその前髪を掻き上げてからルフレの柔らかな額に口付けを落とした。

 

 途端に呆気に取られた様にルフレは泣き止み、反射的にクロムを見上げる。

 その時、漸くクロムは目覚めてから初めて、ルフレの顔をハッキリと見た。

 

 琥珀と黄金の間の様な、宝石よりも美しいその瞳は。

 泣き過ぎて充血していると言う訳では無く、鮮血で染め上げたかの様に、紅く紅く染まっていた。

 

 

「ルフレ……?

 その目は……」

 

 

 一体どうしたのか、と。

 そう問い掛けると。

 

 ルフレは一度首を傾げてから、「あっ……」と小さく呟き、慌てた様にクロムから顔を背ける。

 そして、クロムを突き放すかの様にその胸を押し退け、クロムの腕の中からスルリと抜け出してしまった。

 それはまるで、『もう自分にはクロムに合わせる顔が無いのだ』とでも言わんばかりの仕草で。

 クロムの心に言い様の無い不安の陰が落ちる。

 そして、ルフレは顔を俯かせたまま、ポツポツと語り始めた。

 

 

「……ファウダーに操られて、クロムさんを襲った後……。

 私は……“ギムレー”として目覚めたんです……。

 今ここに居る私は、貴方の妻の『ルフレ』であり……そして同時に、“ギムレー”でもあります」

 

 

 と、俄には信じ難い事を言う。

 ……その声音には冗談を言っている様子など、一切無く。

 それでもクロムは、そう易々と受け入れる事など出来ず、無意識の内にも問い返してしまう。

 

 

「一体、どう言う……」

 

「私には、クロムさんの軍師として共に戦い、妻として貴方と過ごした『ルフレ』の記憶が確かにあり、それは間違いなく地続きで私です」

 

 

 だけど、とそこで一度言葉を区切った『ルフレ』は。

 何処か躊躇いながらクロムを見詰めた。

 その目は、不安と……そして“何か”への怯えと、そして諦念が浮かんでいた。

 

 

「それと同時に、私は“ギムレー”なんです。

 世界を滅ぼす邪竜、人々の敵、神竜ナーガとは相容れぬ存在……。

 それが、今の『私』なんです……」

 

「何を……言って……」

 

 

 茫然とするクロムの言葉には答えずに、ルフレは滔々と続けた。

 

 

「“ギムレー”として甦った『私』は、世界を滅ぼすべく、沢山の人を殺しました、沢山の国や村を滅ぼしました……。

 沢山沢山…………誰からも決して赦されないであろう事を、貴方からも赦されてはならない事を、してきました……」

 

 

 深く深くルフレは溜め息を吐き、顔を覆ってその身を震わせる。

 滔々と語る声は悲痛の色に満ちて……。

 それでもルフレは話し続けた。

 

 

「ルフレなら、そんな事は絶対にしなかったでしょう。

 でも、『私』は“ギムレー”でもあるんです。

 ……『私』は、もう……。

 人を殺す事も、その心と魂を踏み躙り壊す事も、その死を弄ぶ事も、人々を絶望の淵に追いやる事ですらも……。

 もう……その何れもに何の痛みも感じられないんです……。

 それ処か……、『楽しい』、とすら……」

 

 

『ルフレ』は……、いや、彼女をルフレと見るべきなのかは分からないが、兎に角、目の前の『彼女』は。

 懺悔するかの様にクロムに語った。

 

 

「クロムさんの事が大切で、こんなにも愛しいのに……。

 ルキナとマークの事が、自分の命よりも大切なのに……。

 それ、なのに……。

 愛しいと、『ルフレ』が想うのと同時に、『ナーガの血族は殺さなくてはならない』、『憎き聖王を殺せ』……と、“ギムレー”に急き立てられ続けて……。

 もう、私は……ルキナやマークにも、会えないんです。

 もし、会えば、……きっと私は、二人をこの手で殺してしまう……。

 私の所為で苦しめ続けている二人に……会って謝る事すら……出来ないんです……」

 

「……お前は、それを自分で止められないのか……?」

 

 

 己は“ギムレー”なのだと、そう語る『彼女』は。

 そう言いながらもクロムの目には愛しいルフレにしか見えず。

 そして、悲痛な表情でクロムに懺悔する『彼女』が、その悪行全てを自らの意志で行っているとは信じ難かった。

 だからこそ、もし“ギムレー”としての意志に『ルフレ』の意志が勝るのならば、それを止める事が出来るのではないのか、と。

 ……そう、クロムは思ったのだが。

 

 だが、クロムの言葉に『彼女』は静かに首を横に振る。

 

 

「出来ません……。

 言ったでしょう?

 私は確かに貴方の『ルフレ』でもありますが、同時に“ギムレー”なんです……。

 二つの意識は不可分に混ざりあい、最早別つ事など……例え神であっても不可能でしょう……。

『私』が今こうやって貴方の『ルフレ』の様に話す事が出来ているのは、それは愛する貴方の前だから……。

 もし今、少しでも貴方から離れてしまえば。

『私』は躊躇無く貴方を殺そうとするでしょう……。

 それだけは、もう……嫌なんです。

 貴方を喪う事は、もう……耐えられない……。

 二度もこの手で、貴方を殺してしまうのだけは……」

 

「なら、どうして俺を助けたんだ?

 お前が何もしなければ、俺はあのまま死んでいたのだろう?」

 

 

 あの時死の淵に沈んだクロムを助けたのは、『彼女』に他ならないのだろう。

 だが、そもそもの話をすれば、聖王の血を憎み我が子ですら殺そうとしてしまう“ギムレー”からすれば、態々死に瀕したクロムを助ける義理など無いのだ。

 それでもクロムを助けた、その理由は……。

 

 そうクロムが問うた瞬間。

『彼女』はその紅い瞳に激情を浮かべてクロムを射抜く。

 

 

「そんなの、クロムさんが私にとって一番大切な人だからに決まっているでしょう?!」

 

 

 ルフレは叫ぶ。

 

 

「私は、貴方に生きていて欲しかった!

 貴方を死なせたくなかった!

 何をしても、何と引き換えになるのだとしても、どんな手を使ってでも!!

 死の淵に沈んだ貴方を取り戻す為ならば、何だって……!

 “ギムレー”として甦っても、それでもこの想いは、クロムさんへの心は、無くなったりなんかしなかったんです……!

 ヒトとしての『ルフレ』の心は、もう歪に壊れてしまったけれど。

 それでも、この想いだけは、絶対に歪まなかった……!

 貴方が生きていれば良い、貴方が傍に居てくれるなら、もう一度貴方に逢えるのならそれだけで……。

 だから、だから私は……!」

 

 

 その先は言葉にならず嗚咽として消えた。

 再び泣きじゃくる彼女に、どうするべきなのか一瞬迷ったが。

 クロムは彼女を抱き寄せ、強く強く抱き締める。

 もう、二度と離さないと。

 そんな願いと誓いを籠めて……。

 

 

『彼女』は“ギムレー”であるのかもしれない。

 クロムが倒すべき、仇敵であるのかもしれない。

 だが。

 

 それでも、愛しい妻でもあるのだ。

 何を引き換えにしてでも守ると、決して喪ったりしないと心に固く誓った、何よりも愛しい人なのだ。

 

 愛しい人が涙を溢すなら、クロムは何度だってその涙を拭おう。

 “ギムレー”へと成り果てているのだとしても、そんな事は何一つとして関係無い。

 クロムの、ルフレへの愛は、微塵も揺るぎはしないのだから……。

 

 そうやってあやしていると次第に落ち着いてきたのか、嗚咽は小さくなり、そして。

 

 

「貴方に謝らなくてはならない事が、まだ……あるんです……。

 私は、貴方の命を助ける為に……。

 取り返しが付かない事を、してしまいました。

 許してくれ、とは到底言えません……」

 

 

 と、再びクロムに懺悔した。

 

 

「…………そうか」

 

 

 思いの外、クロムはその告白にそこまでの衝撃は受けなかった。

 ……あの時、クロムは確かに自分の命が喪われて行くのを自覚していた。

 死の淵に沈んだ己を引き戻す術が、尋常の業では無いのであろう事位は分かる。

 更に言えば、『彼女』は“ギムレー”であるのだ。

 その方法の仔細はクロム分からずとも、所謂“邪法”と呼ばれるモノなのであろう事は想像に難くない。

 

 

「……私は、貴方に、“ギムレー”の血を与えました。

 竜の血は、人に人を超えた力を与えます。

 ……それしか、そんな方法しか……。

 死の淵に沈んでしまったクロムさんを引き戻す術が、『私』には無かったんです……。

 ……ごめんなさい。

『私』は、結果的に、貴方をギムレーの眷族にしてしまった……。

 それ処か、貴方を引き戻す為に必要だった血が多過ぎて……。

 貴方はもう…………ヒトとしては、生きられなくなってしまった……」

 

 

 自分の意志とは無関係にギムレーの眷族にされたと聞き、最早ヒトでは無くなったと知り、衝撃が無かった訳では無い。

 だけれど。

 

 クロムは、断罪される瞬間を待つかの様に身を震わせる『彼女』を責め立てるつもりにはなれなかった。

 

 もし自分が『彼女』と同じ立場であったなら。

 愛しい人を救う術が、そんな禁断の方法しか無いのなら。

 クロムも、何れ程迷ってたとしても、それを選ぶだろうから……。

 

 

「『私』は、貴方をナーガの元へは戻れない存在にしてしまった……。

 貴方が『私』を赦さないのなら……それで良いんです。

『私』を殺すと言うのならば……。

 それがクロムさんの意志であるなら、『私』は受け入れます。

 ファルシオンが今のクロムさんに応えてくれるのかは分かりませんし、それにもう……ルキナに引き継がれてしまいましたからここには無いんです。

 でも、“ギムレー”の力を強く与えられたクロムさんになら……。

 そして、『私』がそれを自ら受け入れるなら……。

 きっと、『私』を殺す事が、出来ます……。

 殺せなくても、再び深い眠りに就かざるを得ない程の深手を負わせる事は、可能な筈です……」

 

 

 そして、『彼女』は。

 寂しさと哀しさが混ざった……だけれども優しい笑顔を浮かべる。

 

 

「……最後に、少しだけでも、生きている貴方と話せて、貴方の鼓動を……体温を確かに感じられて、貴方の腕に抱かれて、『私』はそれでもう十分なのです……。

 これ以上は、何も望みません……。

 貴方が目覚めるのを待ち続けた数年間が、今、報われたんですから……」

 

 

 そう言って、彼女はクロムからの断罪を待つかの様に目を閉じる。

 その身体は、僅かに震えている。

 

 ……口ではそう言って、実際にその決意は本物であろうけれども。

 それでも、怖いのだ。

 クロムに赦されない事が、そしてクロムから拒絶される事が……。

 怖くて怖くて、仕方が無い……。

 それなのに、『彼女』はクロムの意志であるならば、それを全てを受け入れるのだと言う。

 

 そんな『彼女』の姿を見て、クロムの心は決まった。

 

 

「…………俺が傍に居れば。

 お前は『ルフレ』で居られるのか?」

 

 

 静かに問い掛けるその言葉に、彼女は驚いた様に目を開け、そして戸惑いながらも頷いた。

 

 

「はい……。

 ギムレーの血が貴方に馴染んで、そして再び貴方が目覚めるまでの数年間……。

 私はずっと、“ギムレー”として世界に滅びをもたらしてました」

 

 

 だけど、と。

 ルフレは呟く。

 

 

「眠り続けるクロムさんの傍に居る時だけは。

 貴方の目覚めをその傍らで待つその時間だけは……。

 私は『ルフレ』でした。

 貴方の妻であり、貴方を誰よりも愛している『ルフレ』として、居られた……」

 

 

 その血を吐く様なその声に、クロムは『彼女』の苦悩を見た。

 

 “ギムレー”として振り撒いていた絶望を、奪った命を、そしてそれに何の苦しみも感じられない事への恐怖を。

 それら全てを噛み締めながら、『彼女』は何時かクロムが目覚める日を……そして自分がクロムの手により断罪される日を、ただ待っていたのだ。

 

 ……そこに何れ程の苦しみがあったのか、クロムでは想像も出来ない。

 

 そんな『彼女』を……いや、『ルフレ』を。

 クロムが断罪出来る筈など無かった。

 況してや、その手に掛ける事など、不可能だ。

 

『ルフレ』は、“ギムレー”だ。

 それは最早、どうする事も出来ない事実なのかもしれない。

 だけれど。

 

 

「なあ、『ルフレ』。

 お前は世界を滅ぼしたいのか?」

 

 

 そう訊ねると。

『ルフレ』は静かに首を横に振る。

 

 

「もう、『私』にはそれを“嫌だ”とは、思えません……。

 でも、『私』は……。

 世界を滅ぼしたいなんて、思わないです……。

 思う訳が、無いじゃないですか……。

 だって、この世界は……。

 私が貴方に出会えた世界で、ルキナやマーク……私達の大切な子供達が生きる世界なんですよ……?」

 

 

『ルフレ』としての意志が確かにそうであるのなら。

 クロムが選ぶべき道はもう決まった。

 

 

「そうか。

 なら、俺がずっとお前の傍に居よう。

 それならば、お前が世界を滅ぼす事も無いのだろう?」

 

 

 その言葉に。

『ルフレ』は大きく目を見開いて。

 そして、ボロボロと涙を溢した。

 

 

「それは……!

 でも、それだと、クロムさんが……」

 

「俺達は夫婦だ。

 お前の業は、俺も背負うさ。

 それに、俺はもうお前を離したくは無い。

 この命がある限り、ずっと……」

 

 

 その言葉に、『ルフレ』はいよいよクロムに泣き縋った。

 今まで流せなかった分の涙も全て流すかの様に、ずっと。

 

 

『ルフレ』は、最早クロムはヒトとしては生きられない、と言った。

 それはきっと邪竜である『ルフレ』もまた、同じなのだろう。

 時の楔すら、今の自分達に何れ程の意味があるものなのかも分からない。

 気が遠くなる程の永い永い時を、生きねばならないのかもしれない。

 それでも。

 この身この命が在る限りは、もう二度と『ルフレ』を独りにはしないと、クロムは誓う。

 

 

 

 ……何時か、“ギムレー”を断罪する者が現れるのかもしれない。

 そしてそれは、ファルシオンを継いだ二人の愛娘であるのかもしれないし、その血を継ぐ誰かであるのかもしれない。

 もし、その時が訪れたなら……。

 きっと『ルフレ』もクロムも、それを受け入れるのであろう。

 だけれども。

 

 何時か訪れるのかもしれない、《その時》までは。

 

 クロムは『ルフレ』の手を離さないし、ずっと傍で守り続けるだろう。

 

 永い永い旅路の果てに、何時か終わりが訪れるその日まで。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 神話の時代より甦り世界を絶望に陥れた邪竜は、ある時を境にその姿を見せなくなった。

 

 ある者は誰かが彼の邪竜を倒したのだろうと言い。

 またある者は、邪竜は異界へと去ったのだとも言った。

 

 真実が何処にあるのか、それは誰にも分からない。

 

 邪竜が身を潜めた結果滅びを免れた人々は、神剣を継ぐ王女を旗印に再び復興を遂げるのであった。

 時の流れが傷付き荒れ果てた世界を癒し、人々はかつての暮らしに戻っていく。

 

 そうして、人々は何時しか邪竜やそれがもたらした絶望の事を忘れつつあった。

 絶望の世界を知らぬ子供達が生まれ、そしてその子供達が大人になってその子供を得る頃には、もう邪竜の事が人々の口の端に上る事すらも無くなっていく。

 そして何時の日にか、甦った邪竜や滅びかけた世界の事実すらも、お伽噺の彼方へと消えてしまうのだろう。

 

 

 姿を消した邪竜が何処へ行ったのかは誰にも分からないが。

 邪竜が姿を消した辺りの時期から、男女二人の旅人の物語が各地に残されている。

 

 ある時を境にその足跡も途切れるが。

 仲睦まじく寄り添い合う二人が、何時の時も決して離れる事が無かったのだけはどの物語にも共通している。

 彼等の旅路が何処へ向かうものであったのか、そこに辿り着けたのかは、誰にも分からない事ではあるが。

 

 きっと最期まで共に在ったのだろうと、彼等に関するどの書物でも語られているのであった。

 

 

 

 

 

 

【Fin】

 

 

 

◆◆◆◆



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『春を告げる』

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 それはヴァルム帝国との戦が始まって半ばが経った頃の事。

 何とかフェリアに侵入してきていたヴァルム軍を排除し、周辺海域の制海権を取り戻して程無い時期。

 第二波第三波と押し寄せてくるヴァルム帝国への対処を話し合う為にフェリアへと招かれていた時の事。

 

 

 

 

「これが新節祭なのね……初めて見るわ……」

 

「ああ、フェリアの伝統的な祭りで、雪解けの始まり……春の訪れを盛大に祝うんだ」

 

 

 まだヴァルム帝国との争乱は完全に終息した訳では無いとは言え、一先ずの危難は去ったのだ。

 民の心を前向きにする為にも、今年の新節祭は例年よりも一層盛大な祭りとなっていた。

 王都には所狭しとばかりに屋台が立ち並び、街全体が華やかな飾りに彩られていて。

 元より血気盛んな者達が多いフェリアであるが、平時のそれとはまた違った祭事特有の熱気が王都全体を覆っている。

 

 フェリア両王との話し合いも終わり、少しばかり生まれた自由な時間を利用して、クロムはルフレを街へと連れ出していた。

 クロムと出会う前は、イーリスとペレジアとの国境付近を転々と旅していたのだと言うルフレは、クロムと出逢うまではフェリアに足を踏み入れた事も無く、それ故にルフレは新節祭の事は風の噂でしか知らないのであった。

 クロムとて、こうして直に新節祭を見るのは初めてである。

 

 

「素敵なお祭りね。

 ルキナとマークにも見せてあげたかったわ」

 

 

 イーリス城に残してきた幼い娘と産まれたばかりの息子達の事を想い、ルフレは一つ溜め息を吐く。

 幼い彼等にはこの時期のフェリアの気候は堪えるであろうとの事で置いて行かざるを得なかったのだ。

 ヴァルム帝国との事で軍師としても王妃としても多忙を極めている為にあまりルキナとマークに時間を割いてやれていない事をルフレが悲しんでいる事をよく知っているクロムは、「そうだな」と言う意を込めて軽くその肩を叩いた。

 

 

「なに、ヴァルム帝国の事を何とかしたら、幾らでもその時間は作れるさ。

 その時は何度だって、二人を連れて新節祭に来よう。

 だからその為にも、この局面を乗り越えないとな」

 

「そうね、クロム。

 ルキナとマークの為にも、あたし達が頑張らなきゃ」

 

 

 気合いを入れるかの様に拳を握ったルフレに、その意気だとクロムは微笑む。

 そして。

 

 

「ルフレ、手を出してくれないか?」

 

 

 そう言ってクロムは、少し不思議そうに首を傾げながらも両手を差し出してきたルフレの手に、祭の屋台でこっそり購入した装飾品をのせる。

 

 

「これって……」

 

「新節祭の縁起物をあしらったペンダント……らしい。

 この小さな黄色い花は福寿草で、こっちの赤くて丸い実は南天と言う花の実なんだそうだ。

 えーっと……どちらも『幸せ』とか『希望』とか、そんな意味がある花だとか」

 

 

 花言葉の類にはとんと疎いクロムであるので、ルフレへの説明が店主の売り文句をそのままなぞった様なモノになってしまっているが、ルフレはあまり気にした様子も無く、驚いた様に目を丸くしたかと思うとキラキラと目を輝かせる。

 

 

「素敵な縁起物ね。

 ふふっ、有り難うクロム、とっても嬉しいわ!」

 

 

 早速そのペンダントを身に付けて、ルフレは嬉しさでキラキラと輝いた笑みを浮かべる。

 ここ最近はずっとヴァルム帝国の事に懸かりっきりだったルフレを労う為にと思っていたのだが、クロムが思っていたよりもずっと喜んで貰えた様だ。

 

 

「ねっ、クロム。

 次は、ルキナとマークも一緒に、四人で来ましょうね」

 

 

 上機嫌にそう言ったルフレに、クロムは勿論だと頷く。

 

 

 

 

 

 

 それは、遠い遠い何処かの未来での。

 果たされる事は無かった、『約束』の思い出だ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 ギムレーと共に消滅したルフレがクロムの元へと帰還して数ヶ月程が経った頃。

 クロムとルフレはフェリアの新節祭へと招かれた。

 ルフレが帰還した時にフェリアの両王はイーリスに態々訪ねに来てくれていたのだが、改めてフェリアでそのお祝いをしたいとの事である。

 元よりフェリアは友好国であるのだし、クロムの代になってからの結び付きは非常に強い。

 ギムレーを相手に共に戦った仲間でもある。

 だからこそ、クロム達は快くそれを了承し、フェリアへと旅立ったのであった。

 

 春を告げる祭である新節祭ではあるが、雪と氷の大地であるフェリアの完全な雪解けはもう暫し先の事であり、二人が招かれたフェリアは相変わらず雪がそこらかしこに降り積もっている状態であった。

 それでも、雪の下に埋もれた若芽は少しずつ綻ぶその時を今か今かと待ち侘び、厳しい寒さも少しずつ和らいでいるのも確かである。

 数日間にも渡る新節祭は国を挙げてのお祭り騒ぎになるらしく、二人が滞在する事になる東のフェリア王都も街中がお祭りの飾付け一色に染まっていた。

 

 フェリアの新節祭の事は話には聞いていたが、実際に目にするのは初めてであるクロムも物珍しい景色に目を見張る。

 そして、クロムと出逢ったあの日よりも前の記憶を全て喪い、未だそれは戻らぬままであるルフレにとっては、見聞きするのも初めての光景であったが故に、窓の外からフェリアの街並みを眺めるその目はキラキラと好奇心の輝きに煌めいていた。

 

 

「そんなに新節祭が気になるのなら、明日は街中をお忍びで歩いてみるか?」

 

「良いの、クロム!?

 うん、なら是非とも! 行きましょ!

 それなら、折角だしルキナとマークとも一緒に行っても良いかしら?」

 

 

 人々の笑顔が溢れるお祭り事が大好きなこの最愛の妻は、クロムの申し出にそれはもう喜びに満ち溢れた顔で何度も頷く。

 そして、今宵の宴に共に招かれている、“未来”よりやって来た子供達の名前も出した。

 “大きな”ルキナにしろマークにしろ、ルフレが彼女らと共に過ごせたのは基本的に戦時中であり、こう言ったお祭りの様に楽しい催し事を共に子供たちと経験する事はルフレには未だ出来ていなかったのだ。

 それをルフレが寂しく思っていた事はクロムも知っているので、「勿論だ」と頷く。

 

 

「ふふっ、イーリス以外の国でのお祭りは初めてね。

 四人で屋台とか沢山巡るわよ……!

 熊肉の干し肉とかがあったら、フレデリクへのお土産にでもしてしまおうかしら……」

 

 

 楽しそうにお祭りを巡る計画を立てるルフレが可愛くて、クロムは思わずその頭をくしゃくしゃと撫でた。

 それによって少しルフレの髪が乱れるが、そんな事に構わずにルフレは幸せそうに微笑みクロムを見上げる。

 愛しいこの人が奇跡を起こして消滅の定めを覆し、自分の元へと還ってきてくれた事がクロムには堪らなく幸せな事であった。

 

 ルフレを喪ったあの日。

 覚悟を決め、その運命を受け入れ、それでも一縷の望みを賭けながらルフレは自ら邪竜を討った。

 それを止めきれなかった事をクロムは誰よりも後悔し、少しずつ解ける様に世界から消えていくその姿を目の当たりにして、そしてそれを自分ではどうする事も出来ぬ現実に直面して、置いて逝かれるのだと絶望に沈みそうになってしまって。

 

 だが、それでも。

 

 “また逢いたい”と、そう言って泣きそうな顔をしながらも何処か凜としたその眼差しに。

 “待っていて欲しい”と言外に伝えてきたその微笑みに。

 クロムは、ルフレが還ってくるその日を待ち続ける事を決めた。

 

 ルフレの居ない日々が何れ程苦痛に満ちた虚しい毎日であったのだとしても。

 誰にも埋める事など出来ない空虚さが常に心を苛んでいても。

 誰よりも愛しい筈なのに、少しずつ少しずつその声やその微笑んだ時の表情を思い出せなくなっていく事が、ルフレが“過去”へと変わっていってしまう事が耐え難い程に恐ろしくても。

 

 それでもクロムは、ルフレを信じ、ルフレの姿を探しながらも待ち続けた。

 

 ルフレが還ってくるのに要した時間が、長いモノであったのか将又短いモノであったのかは分からない。

 一度完全に世界から消滅し、それで戻ってきた存在の前例などクロムは知らないのだから比較する対象も居ないのだが。

 …………何にせよ。

 一日一日が永遠の様に長く感じられる日々をクロムが過ごしていたのだとしても。

 ルフレは、確かに還ってきてくれたのだ。

 記憶を喪うなどの代償も無く、時間だけを対価にして戻ってこれたのならばそれに越した事は無いのだろう。

 ならば、クロムにとってはそれだけで充分であった。

 

 ルフレが還ってきてからは、只管ルフレが其処に居る実感を得ようとするかの様に愛し、二度と離してなるものかとばかりに、クロムはルフレと睦み合う日々を過ごしていた。

 その様子を見ていたマークが「そろそろこっちの僕も産まれそうですね!」なんてとんでもない発言をぶちかましたりしつつも、クロムは幸せな日々を送っていた。

 

 世界を救った英雄と讃えられてきたクロムは、ルフレが戻ってきた事で、漸く世界を救ったその報酬を……幸せな日々を手にしたのだ。

 

 

「ルフレ、そのドレス……よく似合っているぞ」

 

「あら、そう?

 クロムにそう言って貰えると、とても嬉しいわ」

 

 

 少し乱してしまったルフレのその髪をそっと整え直しながら、クロムはそうルフレの姿を褒める。

 新節祭の宴に出席する為に、今のルフレは何時ものあのコートは脱いで、ドレス姿になっていた。

 

 戦場を駆ける軍師としての姿ばかりが印象に残りがちであり、実際にドレスの様な華やかな衣装で自身を飾り立てる事にはトンと執着が無く普段はあの軍師のコート姿で過ごす事の多いルフレではあるが。

 それでも、王妃としてドレス姿になる事は幾度となくあった。

 あまり華美な衣装はルフレはどちらかと言うと嫌がるので、上質ではあるがやや質素なドレスが多くはあるのだが。

 それでも、決して地味さなどは何処にも無く。

 寧ろその質素さがルフレ自身の美しさを際立たせていた。

 基本的に身形に頓着しないのに、それでもそんなルフレがどんな貴婦人よりも美しく感じてしまうのは惚れた欲目と言うヤツなのだろうか。

 

 何時もは装飾品の類いは殆ど身に着けようとはしない(曰くジャラジャラしているのは性に合わないらしい)ルフレだが、今日は少しだけ違う。

 ルキナから貰ったティアラを、装飾品として身に着けているのだ。

 

 かつて古の英雄王『マルス』の名を名乗り、言い伝えられているその姿に似せた衣装を身に纏っていたルキナは、戦争も終わりギムレーを討った後で、漸く肩の荷を下ろせたかの様にあの男装を解いていた。

 あまり目立つのはよく無いからと、そうルキナは言っていたし実際にその意図も大いにあったのだろうけれども。

 それでも、普通の少女の様な格好をして街を歩くルキナの姿が何処か軽やかに見えたのはクロムの気の所為では無かったのだろう。

 そして、“マルス”の装いを止めたルキナは、着けていたティアラを還ってきたルフレに託していた。

 それは、幾度もの激戦をルキナと共に潜り抜けてきたそれが、ルフレを守る御守りになると思ったのかもしれないし、或いは……。

 “大きな”ルキナと言う……時を越えてやって来た娘が、確かに其処に居たのだと、そう思う縁として欲しいと思っての行動だったのかもしれない。

 ルキナが、クロムやルフレからの愛情に狂おしい程に餓えながらも、それでもこの時代に既に産まれている……最早自分とは同じ道を歩まないであろう“ルキナ”の事を想って、クロム達から距離を置こうとしている事には、クロムも気付いていた。

 その様な遠慮などせずとも、クロムが大切な家族に向ける愛情が偏る様な事など無いのであるけれども。

『自分は此所に居るべきではない』と、そうルキナが心に抱えている想いは、クロムが幾ら言葉で諭し行動で示しても、中々払拭する事が出来ぬモノであるのであった。

 その点、記憶の多くを喪っているが故に天真爛漫なマークは、目一杯ルフレに甘えているのであるが……。

 

 何にせよ、ルキナから託されたそれを、ルフレは殊の外大切にしていた。

 物を欲しがる質では無いもののクロムや仲間たちから贈られた物は全て大切にしているルフレであるのだがそれを差し引いても、そのティアラだけは特別に身に着けこそはせずとも肌身離さず持ち歩いているのをクロムは知っている。

 それは、“もう一人の娘”からの贈り物であるからなのだろうか?

 何にせよ、その大切なティアラをルフレが今宵の宴に身に着ける事を選んだのは確かである。

 飾り気が少なく、女性が身に着けるにしては些か素っ気ない程に質素なそのティアラであるが、元より華美さは好まぬルフレには、とてもよく似合っていた。

 クロムの方により似ていると様々な人から言われるとは言え、髪色こそ違うものの、こうして見るとやはりルキナとルフレは親子なのだなと、そう沁々とクロムは感じる。

 

 

「さて、そろそろ宴が始まる頃合いだな。

 ルキナとマークも待っているだろう。

 さあ行くぞ、ルフレ」

 

 

 そう言ってルフレの手を優しく取り、二人は客室を後にしたのであった……。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 新節祭の宴はとても豪勢なモノで、クロムとルフレは久方ぶりに会えたフェリアの仲間達との歓談を楽しんだり、ルキナとマークと共に親子の時間を過ごしたりもしていた。

 が、祝いだと称してバジーリオが次々に酒樽を運び込んできた辺りで、比較的穏やかだった賑やかさは最早喧騒と表現するべきモノへと代わり、呑めや歌えやの大宴会へと変貌してしまって。

 終いには、バジーリオとフラヴィアに乗せられて酒飲み勝負を挑む事になりかけたルフレを止めたりする羽目になった。

 ルフレは酒に非常に強く、酔っても微酔い止まりで酔い潰される事など殆ど無いのだが……。

 一定量を超えると、まあ、その、色々と積極的になるのだ。

 そんな妻の姿を余人の目がある所で晒す訳にはいかず、クロムは酒豪どもの饗宴からは早々に引き揚げて客室へと退出したのであった。

 

 

 そんな宴から一夜が明けて。

 

 

 昨日の約束通りに、クロムとルフレはルキナとマークを連れてフェリアの街へと繰り出した。

 ルフレとマークは勿論の事ながら、ルキナも新節祭一色に染まったフェリアの街並みを何処かはしゃぐ様に見て回っていて。

 三人で楽しそうに屋台を見て回る姿を、クロムは見守りながら歩いていた。

 

 

「母さん、見て見て!

 新節祭の時限定のお菓子だって!」

 

「へー、このお祭り限定のお菓子なんてあるのね。

 綺麗だし、とても美味しそうね……。

 折角だからガイアにお土産として買っておいてあげようかな?」

 

「きっとガイアさんも喜んで下さいますね!

 あっ、お母様、あっちはこの時期だけの特別な飾りだそうですよ!

 あれを新節祭の間飾っておくと、その一年が幸せに過ごせるらしいです」

 

 

 わいわいと賑やかしく三人はあれを見て!これを見て!と屋台を練り歩いていく。

 その姿は、外見的な年齢差が然程無い為に親子と言うよりは仲の良い姉弟の様に傍目からは見えているのであろう。

 が、何にせよ、見るからに家族仲が良さげなルフレ達の姿に、屋台の主人達も皆微笑ましくその姿を見守っていた。

 

 ふと、装飾品の類いを取り扱っている屋台がクロムの目に入った。

 そして、本当に何と無くだが飾ってある装飾品の一つに目を留めてそれを手に取る。

 

 

「おや、福寿草のペンダントに興味があるのかい?」

 

 

 クロムが手にした装飾品を見て、店番をしていた老婆が声を掛けてくる。

 

 

「福寿草?」

 

「福寿草は春を告げる花さ。

 丁度新節祭の頃から咲き始めるから、縁起物として春節祭でも飾られたりする。

 ほら、色んな所で福寿草の鉢植えがあっただろう?」

 

 

 言われてみれば、この黄色い花を街の色々な所で見掛けた気がする。

 縁起物だから、こうしてその意匠の装飾品が新節祭で売られているのだろう。

 

 

「福寿草にはね、『永久の幸福』や『幸福を招く』や『祝福』や『希望』と言う花言葉があってね。

 贈り物としても縁起が良いってされているのさ。

 冬の厳しい寒さを耐え、雪解けの始まりと共に雪の中からその黄色い花を咲かせてくれるからねぇ……。

 このフェリアでは特におめでたい花って扱いなんだよ。

 特にほら、そのペンダントをよく見ると、福寿草以外にももう一つ意匠が施されているだろう?」

 

 

 そう言われてよく見てみると、黄色い花の意匠の他に、何やら赤い玉の様な粒の様な何かがある。

 

 

「そいつは南天って言う花の実さ。

 丁度この時期に実を結ぶから、福寿草と並んで縁起が良いモノとされているんだ。

 こっちの花言葉は『私の愛は増すばかり』、『幸せ』、『良い家庭』って所だねぇ……。

『難を転じて福と成す』って意味もあるんだ。

 どうだい? 家族や恋人に贈ってやると喜ばれると思うよ?」

 

 

 老婆に上手く乗せられた気もするが、クロムはルフレへの贈り物としてそれを購入する。

 ルフレが苦手とする程の派手さや華美さは無い為、きっと気に入ってくれるであろう。

 一通り祭りを見て回った後にでも渡そうと、そう思ってクロムはペンダントを懐にしまったのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 一通り祭を見て回ったクロム達は、一旦街中の広場にある噴水前で休憩する事にした。

 親子で楽しい時間を過ごせたからか、ルフレもルキナもマークもとても嬉しそうだ。

 

 

「……未来では、お母様達とこうやってお祭りを楽しめた事は無かったんです」

 

 

 噴水前のベンチに座りながら、ルキナがふと溢す。

 

 

「そうだったの?」

 

「ええ、未来では……ペレジアとの戦争が長引いてしまいましたし、その戦争が終わっても二年と経たない内に今度はヴァルム帝国と……。

 そして、ギムレーが復活してしまってからは、そもそもお祭りなんて無くなってしまいましたからね……。

 だからこうやって、お父様とお母様とお祭りを楽しめて……とても嬉しいんです」

 

 

 ルキナの言葉に一度目を伏せたルフレは、ルキナの手を取って真っ直ぐにその目を見詰めた。

 

 

「きっと未来のあたしも、こうしてルキナとマークと一緒にお祭りを楽しみたかったんだと思うわ……。

 その代わり……だなんて言えないけど、それでも。

 あたしもルキナとマークと一緒にこの時間を過ごせて、とても嬉しいの。

 ね、ルキナ。

 これからも、何度だって一緒にお祭りに行きましょ。

 お祭りじゃなくったって良い、何気無い時間を、あなたと一緒に過ごしたいわ。

 ……未来のあたしがルキナやマークにしてあげたくても出来なかった事を、少しでもしてあげたいの」

 

 

 ルフレも、ルキナがこの時間の“自分”に……クロムとルフレの実の娘であるルキナに遠慮して距離を置こうとしている事に心を痛めていた。

 特に、ルフレにはギムレーがルキナを追って過去に跳んで来た時に、ギムレーへと変じてしまった“未来”の自分の心と記憶が混ざっている。

 だから、この大きなルキナに向ける愛情の一部には、“未来”のルフレの心が混ざっているのかもしれない。

 

 ……だが、ルフレのその言葉に、ルキナは嬉しそうに微笑みながらもそっと首を横に振る。

 

 

「……そのお気持ちだけで、私には十分なんです。

 お母様には、この時間の“ルキナ”が居るでしょう?

 その“ルキナ”に、その時間は使ってあげて下さい」

 

「ルキナ……」

 

 

 ルキナの心を変えられない事に、ルフレは僅かに落ち込む。

 折角のお祭りだったのに、そうやって水を差してしまった事に気不味くなったのだろうか。

 ルキナは立ち上がり、「先に帰っていますね」、とその場を後にした。

 マークはチラチラとルキナが去って行った方向とルフレとを見やり、ルキナを放ってはおけぬと判断した様で、ルキナを追い掛けていく。

 その場には、ルフレとクロムだけが残された。

 

 

「あたし、失敗しちゃったのかしら……」

 

 

 ポツンと呟いたルフレの頭を、クロムは少し乱暴に撫でてやる。

 

 

「そんな事は無いさ。

 ルフレの想いは、確かにルキナに届いている。

 ただ、それでも中々“心”と言うモノは変えられないんだ」

 

 

 何かもっと大きな切っ掛けが必要……なのだろう。

 それが何なのかは、クロムにもルフレにも分からないが。

 

 落ち込んでしまったルフレを何とか励ましてやりたくて、クロムは先程屋台で購入したペンダントをルフレに渡す。

 包みを解いて出て来たペンダントに、ルフレは目を丸くした。

 

 

「クロム、これって──」

 

「さっきの屋台で買っておいたんだ。

 春を告げる縁起物だそうだ。

 えっと、何だったか……『幸せ』とかの花言葉とやらがあるらしい」

 

 

 クロムの説明を聞いているのかいないのか、ルフレはジッとそのペンダントを見詰める。

 そしてフラりと一瞬その身体が揺れたかと思うと、急にキョロキョロと辺りを見回し始めた。

 

 

「えっ、あれっ……。

 ここは……あたしは……、何で……?

 えっ、クロム……?」

 

 

 戸惑う様に辺りを見回していたルフレは、傍らに立つクロムに目を向けると、酷く驚いた様に目を見開く。

 そして、今にも泣きそうに顔を歪め、ひしと抱き付いてきた。

 

 

「クロム……、クロム……!

 ごめんなさい、あたしは……、あたしの所為で……」

 

「落ち着けルフレ、一体どうしたんだ……?」

 

 

 何処か自分の知るルフレでは無い様に感じるその反応に戸惑いつつも、クロムはルフレを抱き締めて宥めようとする。

 

 

「あたしの所為でクロムが……。

 ルキナとマークもあんな目に遭わせて……。

 あたしの…………、いえ、違っ……」

 

 

 混乱しているとしか思えないルフレであったが、ふと頭が痛むのか頭を押さえてきつく目を瞑った。

 そして。

 

 再び目を開けたその姿を見て、クロムは不思議な違和感を感じる。

 限り無くよく似ているのに何かが決定的に違っているかの様で……。

 

 

「ルフレ?」

 

「……“クロム”、今目の前に居るあたしは、あなたの“ルフレ”じゃない……。

 ルキナとマークの母親の方の『ルフレ』……と言えば分かる?」

 

 

『ルフレ』はそう言って、クロムから身を離した。

 真っ直ぐにクロムを見詰めてくるその眼差しは、確かにルフレのそれと同じであったが、纏う雰囲気は何処か異なる。

 

 

「一体何を……」

 

「……ルキナを追って過去にやって来た時にこの“ルフレ”と混ざった『ルフレ』の心と記憶。

 ギムレーを消滅させても尚、それは“ルフレ”の中から消える事が無かったの……。

 普段は“ルフレ”の心の奥底の無意識の海の中に沈んでいるけれど、“何か”を切っ掛けに浮かび上がる事がある……。

 それが、今あなたの目の前に居る『あたし』よ」

 

 

 そう言いながら、ルフレは手の中にあるペンダントをギュっと握り締めた。

 

 

「切っ掛けは、“これ”と、この新節祭と言う場所そのものね……。

 後はルキナとマークの存在も、かしら……」

 

「……お前がルキナ達の母親の方の……“未来”の『ルフレ』なんだとして。

 なら、俺のルフレはどうなっているんだ?」

 

 

 まさかとは思うが、『ルフレ』の存在に上書きされてしまったのだとしたら……。

 そう思うと、身体が凍り付きそうな程の恐怖にクロムは襲われる。

 が、それは無いとでも言いた気に『ルフレ』は首を横に振った。

 

 

「大丈夫よ、安心して……。

『あたし』の記憶と心が一時的に強く表に出ているから、“ルフレ”は眠った様な状態になっているだけよ。

『あたし』がこうして出てくるなんてイレギュラー中のイレギュラーなんだし、本当に一時的なモノ。

 どんなに長くても、夕暮れまでには『あたし』は再び“ルフレ”の無意識の海に還るし、そうしたら“ルフレ”はちゃんと戻ってくるから……」

 

 

 夕暮れまでと言う事は、この『ルフレ』がこうして居られるのもあと二時間も無いのだろう。

 ルフレが無事であると言う事は喜ばしい事であるのだが、ルフレの無事が保証された途端に、今度はこの『ルフレ』の事が気掛かりになる。

 

 

「ルフレが戻ったら、お前はどうなるんだ?」

 

「無意識の海の中にまた沈むだけよ。

 多分、こうやって『あたし』が表に出る事なんてもう二度と無いだろうから、そこは安心してね。

 ……まさかとは思うけど、『あたし』の事を心配しているの?」

 

「勿論そうに決まっているだろう。

 例え俺のルフレでは無いのだとしても、それでもお前も【ルフレ】なんだ」

 

 

 例え自分が愛しているルフレとは違うのだとしても、遠い未来では“クロム”を殺してギムレーへと成り果ててしまっていたのだとしても、それでも。

 彼女もまた【ルフレ】と言う存在である事には変わらないのだ。

 故にクロムが『ルフレ』の事も案じる事に何の不思議があると言うのだろうか。

 クロムの言葉に『ルフレ』は目を見張り……そして泣き笑いの様な複雑な表情を浮かべた。

 

 

「……クロムらしいわね。

 有り難う、『あたし』の“クロム”じゃないのだとしても、そう言って貰えるのは嬉しいわ。

 でもね、『あたし』に気を遣わなくてもいいのよ。

『あたし』はギムレーに完全に呑み込まれ、ギムレーと共に消滅した身……既に死んだ存在よ。

 この『あたし』は、“ルフレ”が見ている泡沫の夢の様なモノだもの」

 

「ならば、せめて……。

 お前に何かしてやれる事は無いのか?

 俺に出来る事ならば、何だってしてやる」

 

 

 後二時間程度ではしてやれる事など限られているだろうが、それでもせめてこの『ルフレ』に何かをしてやりたかった。

 自分の存在を“泡沫の夢”だと言って微笑むその姿には、自分の愛しいルフレではないのだと分かっていても、胸を締め付けられる様な苦しさを覚えてしまう。

 

 

「……有り難う、“クロム”。

 なら、一つだけ我が儘を言っても良い?

 ルキナとマークと……話がしたいの。

 ギムレーになって世界を滅ぼした母親となんて、あの子達は話をしたくないかもしれないけれど……」

 

 

 どうしても伝えたかった事があるのだと、俯いてそうポツリと溢した『ルフレ』に、クロムは。

 

 

「そんな筈は無い……!

 ルキナは……マークも……、何時だってお前の事を想っていた。

 確かに、お前はギムレーとなり世界を滅ぼしたのかもしれない。

 だがそれはお前自身の意志では無かったのだし、何よりも。

 ルキナとマークにとっての“母親”は、お前なんだ。

 俺とルフレはあの子達の“家族”にはなれても、本当の親にはなれないんだ……」

 

 

 その手を取ってクロムは『ルフレ』を立ち上がらせた。

 

 

「そうと決まればルキナ達の後を追うぞ!

 さあ、行こう!」

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 先に帰ると言いながら、ルキナはフェリア城には向かわずに一人街を彷徨い歩き、気付けば郊外の小さな森の中へと迷い込んでいた。

 帰り道は分かるから問題は無いのだが、今は少し一人になって気持ちを落ち着けたかった。

 森を宛もなく彷徨い歩いている内に、小さな泉を見付けた。

 その畔に座り込んで、ルキナは静かな水面を見詰める。

 

 

「……やはり、傷付けてしまったのでしょうか……」

 

 

 誰に向けた訳でもなく、ルキナは呟いた。

 

 ルフレの気持ちは、嬉しかった。

 それは本当だ。

 そして、彼女が向けてくれる愛情を疑っている訳でもない。

 だけれども。

 

 ルキナは、本来在るべき時を捩曲げてまで、未来を変える為に過去にやって来た存在だ。

 既にこの時間に在るべき姿の“自分”は存在している。

 故にこそ、『自分は本来ここに居るべきではない』と言う想いはルキナの心から拭い去られる事は無い。

 どうしたって、ルキナはこの時間にとっては異物だ。

 本来在り得るべからざる存在がどんな影響を及ぼすかは未知数であり、だからこそ、干渉するのは最小限にしようと思っていたのだ……。

 それでも、どうしての両親の温もりを求めてしまう気持ちには蓋が出来なくて、居るべきでは無い関わるべきではないと自分を律しようとする気持ちと板挟みになって、時々どうしたら良いのかが分からなくなる。

 

 ギムレーと戦っている間は、まだ良かった。

 そんな考えに思考を取られている暇など無かったのだし、一つの目的に邁進する事で他の迷いを振り払えていた。

 だが、ギムレーが未来永劫完全に消滅し、もう二度とあの様な未来が訪れる事は無い事が確定した時に、ルキナ達がやって来た“未来”と完全に異なる未来が確定した後に。

 再びルキナはその迷いに囚われてしまった。

 いや、ルフレが消滅していた時は、そんな事を考えている余裕はそんなには無かった。

 寧ろ、ルキナが未来を変えようとした事で、結果的に未来を変える為にルフレがその身を擲ってしまった事を……。

 この時間の物心すら付いていない“ルキナ”から母親を奪ってしまった事、そしてこの時間に於ける“マーク”の存在が無かった事になってしまったかもしれない事に負い目を感じていた。

 だから、ここに居るべきかどうかと迷う事はあまり無かったのだけれども。

 ルフレが、再びこの世界に還ってきた時に、ルキナは再びその迷いと向き合わなければならなくなったのだ。

 

 

「どうしたら、良いのでしょうね……」

 

 

 理屈で言うのであれば、この時間の“両親”が愛するべきなのはこの時間の我が子である。

 ルキナにかまける事で、本来のこの時間の“ルキナ”がなおざりにされるなどあってはならない。

 が、クロムもルフレも、本来の我が子では無いルキナの事も目一杯に大切にしようとしてくれていて……。

 そして、離れて行こうとしてしまうルキナを、引き止めようとしてくれる。

 

 その愛情を素直に受け取って、二人と一緒に過ごしたいと思う気持ちは確かにある。

 マークの様に、素直に甘えられたら……とも思う。

 だが……、どうしても最後の一歩を踏み出せない。

 そんなどっち付かずの態度が、余計に二人を悩ませてしまっているのにも気が付いていた。

 

 二人の傍に居たいのなら、ハッキリとそんな態度を取るべきだし。

 反対にやはり関わるべきではないと思うのなら、それこそ置き去りにした“未来”に帰る方法を探すなり、異界を繋ぐ門を潜ってこの時間から立ち去るべきなのだろう。

 しかし、ルキナはどちらも選びきれなかった。

 

 

 本来の両親である“ルフレ”と“クロム”は、ルキナにとってはある日突然居なくなってしまったにも等しい人達であった。

 二人が還らぬ人となった戦いの後でルキナの元に戻ってきたのは、満身創痍のフレデリクが何とか死守して持ち帰ってくれたファルシオンだけで。

 二人の遺体は回収出来ず、“ルフレ”に至っては遺品すらも持ち帰る事が出来なかった。

 “ルフレ”がギムレーへと成り果てさせられてしまった事を考えると、それも仕方が無い事であったのかもしれないが。

 遺品も何も無かった為、ルキナには“ルフレ”が死んだ事を何処か実感出来なかった。

 実際には、その時の“ルフレ”は死んではおらず……寧ろ死よりも惨い状態に置かれていたのであるけれども。

 

 何にせよ、ぽっかりとそこに見えない穴が空いてしまった様な、そんな空虚な気持ちを抱えるしか無かったのだ。

 若しかしたら生きているのではないだろうか、なんて淡い期待を抱きつつ。

 だけれども、“クロム”の死の真相が、“クロム”が誰よりも信頼していた人に裏切り殺されたからだと……そんな噂を耳にして。

 そして、“クロム”が誰よりも信頼していた人は間違いなく“ルフレ”だろうと、ならば“父”を殺したのは“母”なのだろうか、とそんな疑念を懐いてしまって。

 どうしたら良いのか分からないまま、“ルフレ”に対する何処か空虚な気持ちを抱えてルキナは過去へとやって来た。

 そこでこの時間の二人と出逢い、そして自分を追ってこの時間にやって来た“ルフレ”と対峙して。

 そして、ルフレが“ルフレ”と共に消えるその瞬間を目の当たりにしていたと言うのに。

 

 それでも、何処か“母”との別れを実感出来ないままであったのだ。

 それもまたルキナの心を縛り、迷い悩み一歩も進めぬこの状況を作り出すのに一役買っているのであろう。

 

 幾度目かも分からぬ溜め息を吐いていると。

 

 

「ルキナさーん!」

 

 

 大声で名前を呼ばれ、そして誰かが急いで駆けてくる足音も聞こえる。

 振り返ったそこに居たのは、やはりマークであった。

 余程急いできたのだろう。

 泉の畔にまでやって来たマークは、肩で息をする。

 

 

「良かったー、こんな所に居たんですね!

 ルキナさんの足が速すぎて見失ってしまった時は、どうしようかと思いました。

 ふぅ、見付けられて良かったです。

 そろそろ夕暮れ時になりますし、暗くなる前に帰りませんか?」

 

 

 にこにことそうマークは屈託もなく笑う。

 ルキナは、それにどう返すべきか迷って、黙ってしまった。

 

 ルキナの大切な弟……本当の意味でのたった一人ルキナに残された家族は、時を越えた影響からなのか、その記憶の殆どを喪っていた。

 元々明るく快活な性格ではあったのだけれど、あの絶望しかない未来の記憶を喪った弟は、果たして同一人物なのかルキナですらも確信出来ない程に明るく天真爛漫になっていて。

 だからこそ、ルキナは当初はその距離感を測りかねていた。

 それは、この時間で再会して数年経った今でも、何処か戸惑いはある。

 それでも大切な弟である事には変わらないのだが。

 

 

「そう、ですね……」

 

「さっきの事を悩んでいるんですか?

 でも多分、母さんも父さんもそこまで気にしてないと思いますよ。

 心配はしているかもしれませんけどね。

 だからほら、早く帰って二人を安心させてあげないと……」

 

 

 確かにマークの言った通り、もう陽は大分傾いているし、もうそろそろ夕暮れになるだろう。

 この時期の夕暮れは早く短い。

 そして夜になれば、フェリアの寒さが容赦なく襲ってくる。

 こんな所で時間を潰していないで、もう帰った方が良いのは確かである。

 

 それでも、ルキナはそんな気持ちにはなれなかった。

 このままここに独りで居たいとすら……。

 

 そんなルキナの気持ちを汲んだのだろうか。

 マークはルキナの横にそっと座った。

 そしてそのまま何を言う事もなく、ルキナに寄り添う。

 

 

 ゆっくりと陽は山間に姿を隠そうとし初め、世界は燃える様な橙色に染まって行く。

 

 

 流石に日が暮れたら帰らないといけないな……と、夕焼け空を見ながらぼんやりとルキナが思っていると。

 

 

「ルキナっ!! マークっ!!」

 

 

 今のルキナにとって、一番顔を合わせるのが気まずいその人の。

 “ルフレ”の声が、ルキナ達を呼んだ。

 

 

「母さん? それに父さんも、どうしたの?」

 

 

 振り返ったマークが少し驚いた様な声を上げる。

 気まずくても無視する訳になんていかなくてルキナも振り返ると、其処には確かにルフレとクロムが居た。

 しかし、何時もならぴったりと寄り添っているのに、クロムは“ルフレ”から少し離れて“ルフレ”の様子を見守っている。

 “ルフレ”は、何故か戸惑い躊躇う様な足取りでルキナ達に向かってくるが。

 あと十歩程度の距離で、その足を止めてしまう。

 

 

「……っ」

 

 

 呼び掛けようとして、しかし何かに躊躇った“ルフレ”は、途中で言葉を呑み込んでしまう。

 らしからぬその姿にルキナが首を傾げていると。

 

 何かに気が付いたのか、ハッとした様な顔でマークが“ルフレ”に問い掛ける。

 

 

「……“母さん”?

 ねぇ、もしかして、“母さん”なの?」

 

「……ええそうよ、マーク……」

 

 

 “ルフレ”が頷いた瞬間。

 マークは弾かれた様に立ち上がり、地を蹴って一気にその距離を詰めて“ルフレ”の胸に飛び込んだ。

 

 

「“母さん”! “母さん”……!!

 会いたかった、ずっと……ずっと……会いたかった……!」

 

「ごめん、ごめんね、マーク……。

 あたしの所為で、未来があんな風になってしまって……。

 ルキナもマークも、まだまだ幼かったのに……あたしは……。

 あなた達には、本当に辛い想いを……」

 

「良いんです。

 そんなの、もうどうだって良いんです……!

 もう一度“母さん”に会えただけで、僕は……!!」

 

 

 マークは脇目も振らずに泣きじゃくり、“ルフレ”へと縋り付く。

 その様子にルキナは一瞬唖然としてしまうが、ふと、目の前の“ルフレ”がルフレでは無い事に気が付いた。

 まさか、と……。

 そんな事は有り得ないと思いながら、ルキナはその場に立ち竦む。

 そんなルキナに目をやって、躊躇いがちに“ルフレ”はルキナの名を呼んだ。

 だが、ルキナは、戸惑いと混乱からその場を動けない。

 その様子を見た“ルフレ”は、少し哀しそうに微笑んだ。

 

 

「ごめんなさい、ルキナ……。

 ……あたしを赦せないのは、当然よね。

 あなたには、本当に酷い事をしてしまったんだもの……。

 それでも、あなたとマークに、どうしても伝えたい事があるのよ」

 

 

 縋りついたまま泣きじゃくるマークの頭を優しく撫でながら、“ルフレ”はそう言う。

 その微笑みに、その撫でる手の動きに。

 ルキナは、大好きだった……だがもう二度と会えない『その人』の姿を其処に見る。

 “お母様”、と思わずルキナの口からその言葉が溢れた。

 それに“ルフレ”は少し驚いた様な顔をして、そしてルキナの心をギュッと締め付ける様な優しい顔をする。

 

 

「まだあたしの事を“お母様”なんて呼んでくれるのね……。

 あたしは母親としては最低な人間だったと思うけど、それでも……嬉しいわ……。

 ね、ルキナ。

 あなたのお母さんとして、どうしても伝えたかった事があるの。

 聞いてくれるかしら?」

 

 

 何も言えないままルキナが黙っていると、“ルフレ”はそれを了承と受け取ったのだろうか、静かに話始めた。

 

 

「ルキナ、マーク……。

 どうか、幸せになりなさい。

 あたしは……あなた達に苦難ばかりを課してしまった最低な親だったけど……。

 それでも、あなた達はあたしの……あたしとクロムの、一番の宝物なのよ。

 それは、あなた達が何処にいてもどんな事をしていても、例え時間を飛び越えていても、絶対に変わらないわ。

 あたしは、そして“クロム”も……あなた達の“幸せ”を願っている。

 だからね、あなた達は自分の好きな様に生きなさい。

 あなた達を縛るモノなんて、もう何処にもない。

 あなた達は何処にだって行けるし、何処でだって生きていく自由がある。

 この時間に留まるも、あの時間に帰るも……あなた達の自由よ。

 何処に行くも、何をするも、何を選ぶも。

 全て、自分自身の心に従って生きなさい」

 

 

 泣きじゃくりながら頷くマークを愛しそうに見てから、“ルフレ”はルキナを真っ直ぐに見詰める。

 

 

「ルキナ、あなたは“自分は此所に居るべきではない”と思っているのかもしれない。

 この時間には既に別の自分が産まれているんだし、そう思う気持ちが分からない訳では無いわ。

 でもね、母親として一つだけ言わせて。

『そんな事は、絶対に無い』。

 そこに居たいと、少しでもあなたがそう思うのならば、そこはあなたにとっては確かに居るべき場所なのよ。

 自分が何処に居るべきなのかは、他人に言われて決めるモノでも、理屈で決めるモノでも無く、自分自身が決めるモノなのだから」

 

 

 その言葉に、その微笑みに。

 ルキナは堪えきれなくなり駆け出す。

 そしてマークと同じように、“ルフレ”にしがみついた。

 

 

「“お母様”……!

 私、私は……!」

 

「ルキナは頑張り屋さんで、自分の事よりも皆の気持ちを何時も考えているものね……。

 だから、この時間の“ルキナ”の気持ちや、“クロム”や“あたし”の事を考えている内に、どんどんと分からなくなってきちゃったのよ。

 でもね、あなただってもっと自分の気持ちに従って生きても良いのよ。

 この時間の“あたし”も、クロムも。

 二人ともルキナの事を大切に思っているんだから。

 だから、ね?」

 

 

 ボロボロと涙を溢しながら、ルキナは頷く。

 よしよしと、そうルキナの背を撫でるその手は、遠い記憶の中の“その人”のものと全く同じであった。

 

 

「……もう、こうしていられる時間も終わりね……。

 ルキナ、マーク……。

 愛しているわ、ずっと……永遠に。

 何時でも何処でも、あたしはあなた達を見守っているから……」

 

 

 優しくそう言って笑いかけ、“ルフレ”はルキナとマークの髪を掻き混ぜる様にして頭を撫でる。

 そして、“ルフレ”は二人の頬に優しく口付けを落とした直後に。

 急に脱力した様に目を閉じてその身体をフラつかせた。

 

 慌ててその身体を支えると、目を開けたルフレは少し混乱しながら辺りを見回す。

 

 

「あれっ?

 えーっと、ここは……?

 えっ?

 何でルキナもマークもそんな泣き腫らした顔をしてる訳……?

 どう言う状況……??」

 

「大丈夫か?」

 

 

 困惑するルフレに、少し離れた場所で“ルフレ”とルキナ達を見守っていたクロムが近寄って声を掛けた。

 混乱しつつも泣きじゃくったままのルキナとマークを抱き締めたままだったルフレは、クロムの姿に安堵した様に息を吐く。

 

 

「あっ、クロム……。

 あなたからペンダントを貰った辺りから、どうにも記憶がハッキリしてなくて……。

 えっと、何だかよく分からないんだけど……」

 

 

 そんな二人のやり取りに、もう“お母様”は居ないのだと、そう悟り。

 ルキナは益々涙を溢してルフレにしがみつく。

 

 

 

(“お母様”……私は、此処に居ても良いのですか……?)

 

 

 

 自らの心に問い掛けたそれに答える人は勿論居ないが。

 それでも、「勿論よ」と“ルフレ”が笑って頷いてくれた様な気がして。

 そして愛しい“母”との別れを、今度こそ実感して。

 ルキナは天を仰いで慟哭するのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

【Fin】

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『聖なる夜の子供達に』

◇◇◇◇

 

 

 

 幾ら比較的穏やかな気候であるイーリスであっても、真冬の時期は雪が積もる程度の寒さには晒される。

 日暮れが早まり夜は長く。

 暖炉には絶えず火が点され、民の日々の食卓には保存の効く食材が多く並べられる。

 一年の大半が雪と氷に覆われるフェリアに比べればずっとマシではあるのだけれども。

 それでも冬は厳しい季節だ。

 そして、そんな季節であるからこそ。

 一年で最も夜が長い一週間程の期間を、『冬祭り』として人々は楽しんでいた。

 

 街中が色鮮やかに飾り付けられ、『冬祭り』の期間はその時期ならではの様々な料理が食卓に並ぶ。

 そんな中でも子供達の専らの関心の的は、冬至の夜に現れるとされる『サンタクロース』だ。

 赤衣を纏った彼は、子供達に贈り物をするとされている。

 そんな民間信仰とも言えるその存在は、随分と長い事……それこそ初代聖王の時代辺りから確認する事が出来るらしい。

 何にせよ、子供達にとっては『冬祭り』とは、素敵なプレゼントを貰える素敵な伝統行事なのであった。

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

「わぁっ!

 ルキナさん、見て下さい!

 街中が物凄く賑やかですよ。

 僕、こんなの初めて見ました!」

 

 

 そう言いながら、マークは興奮した様に辺りを見回した。

 そんなマークの様子を微笑ましく思いながら、ルキナもまた飾り付けられた街を歩く。

 

 弟であるマークと共に久し振りに帰って来た王都は、何時も以上に活気に満ちていた。

 市場が降り積もる雪に負けぬ程の活気に満ち溢れ、街の至る所が飾り付けられているのを見て、ルキナは漸く今は『冬祭り』の時期なのだと思い至る。

 

 ルキナがかつて居た最早遠い未来でも、勿論『冬祭り』と言う風習はあった。

 ……あったのだが、それもギムレーが復活するまでの事だ。

 ギムレーに支配された世界では、人々は日々の暮らしにすら困窮する様になり。

 祭り事なんて、とてもではないが催す余力は何処にも無かった。

 だから、ルキナにとっての『冬祭り』の記憶は、父と母と共に過ごせた幼いあの日々の最中で途切れている。

 

 それに関して今更ルキナが思う所は無い。

 未来は変わり、あの絶望が世界を支配する事は未来永劫無くなった。

 邪竜を道連れに自らも消滅した過去の母も、人の心が成した奇跡によって生還している。

 次の春には、この時間の弟も生まれるであろう。

 世界は、紛う事無く救われたのだ。

 

 本来は此所に居るべきではないルキナの事も大切な娘であると宣言し事実大切にしてくれる両親が居て、未来で共に過ごしていた記憶は喪われてしまったもののたった一人残された大切な弟も居る。

 本来は干渉するべきでは無いのかもしれないが、この時間の“ルキナ”も自分を姉の様に慕ってくれている。

 置き去りにせざるを得なかった遠い未来を想う事が無い訳では無いのだけれど。

 それでも、ルキナは今この時間を生きているのであった。

 

 

 ふと、行き交う人々の中に、仲の良さそうな親子の姿を見付ける。

 それは、母親に手を繋がれ父親に見守られながら幼子が嬉しそうに歩いている、何て事はない光景で。

 しかし、その幼子の手に抱えられた愛らしい人形が目についた。

 赤い服を纏い帽子を被り、そして優しそうな目をしたその人形は。

 冬至の夜に子供達のもとを訪れると言う、サンタクロースを模したモノである。

 親子はルキナの視線に気付く事無くそのまま通り過ぎて行った。

 

 

 サンタクロース……、か。

 

 ルキナはそう心の内で呟く。

 その名前は、最早ルキナにとっては遠く懐かしく……そして何処か苦い。

 幼いあの日々で、ルキナはその存在を確かに信じていたし、冬祭りが来る度にサンタクロースからの贈り物を心待ちにしていた。

 贈り物を届けにやって来た所に出会してみたいと思い、夜更かししてみようとした事もあった。

 ……まあ、その時は睡魔に呆気なく負けて失敗してしまったけれども。

 マークが物心付いてからは二人して、拙いながらも母の真似事をするかの様に策を練ってみた事もあった。

 しかし、結局その尻尾を捕まえる事は終ぞ果たせぬままで。

『冬祭り』が無くなってしまった未来では、勿論サンタクロースもまた消えてしまったのだった……。

 

 だからこそ、未来から過去へとやって来た時のルキナにとってのサンタクロースは……。

 もう還る事の出来ないあの日々の、残響の様なモノであったのだ。

 しかし、今のルキナにとってのサンタクロースは。

 小さな子供達が無邪気にサンタクロースに思いを馳せる事が出来る様な世界を、未来を、この手で守れたのだと言うその象徴でもあった。

 ……その正体を掴めず終いであるのが、少しばかり心残りではあるけれど。

 

 そんなもう叶わぬかつての想いに、少しばかりの感傷を残しつつ。

 ルキナはマークと共に王城へと向かうのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 久し振りに帰って来た王城は、王都と同様に冬祭り色に飾られていた。

 

 半年程振りに会う父と母は二人を喜んで歓迎して旅の話を聞きたがり、小さな“ルキナ”は椅子に座るルキナの膝の上に乗り楽しそうに笑う。

 そんな『幸せ』な時間が、ルキナには掛替えもなく愛しい。

 

 

「きょうのよるは、サンタさんがいい子におくりものをとどけてくれる日なんだそうです。

 ルキナお姉さまは、サンタさんにあったことがありますか?」

 

 

 膝上の小さな“ルキナ”は、そう言いながらキラキラと目を輝かせながらルキナを見上げてくる。

 そんな幼児の純粋な眼差しに優しく微笑み返しながら、ルキナは「いいえ」と首を横に振った。

 

 

「私も、直接お会いした事は無いのです。

 何時も、いつの間にか枕元に贈り物が届けられていて……。

 出来れば、会ってみたかったですね……」

 

 

 すると、小さな“ルキナ”は胸を張って答える。

 

 

「だいじょーぶです!

 だって、ルキナお姉さまはいい子ですから。

 お父さまとお母さまはいつもそういってます。

 だからきっと、サンタさんはルキナお姉さまにもおくりものをとどけにきてくれるはずです」

 

 

 心からそう信じているのだろう。

 小さな“ルキナ”の目はキラキラと輝き続けている。

 そんな、自分にもかつてあったのであろう輝きが眩しくて、そしてその輝きを小さな“ルキナ”にはずっと持ってて欲しくて。

 ルキナは優しく小さな“ルキナ”の頭を撫でた。

 

 

「ふふっ、そうだったら、良いですね」

 

 

 ルキナは別段サンタクロースからの贈り物が欲しい訳ではない。

 だが、もしサンタクロースがルキナの欲しいモノをくれると言うのならば、願わくは。

 

 この小さな“自分”の。

 自分にも有り得たのかもしれない『幸せ』な日々が、ずっとずっと続いて欲しい。

 何時か彼女が大きくなって広い世界を自ら学んでいくその日まで。

 小さな“ルキナ”の優しい世界が、壊されてしまわない様に。

 大好きな家族と死に別れる事が無い様に。

 長い戦いの末に勝ち取った平和が、少しでも長く続いて欲しいのだ。

 

 ……尤も、それは誰かから与えられるのではなくて、ルキナ達が自ら努力し維持していかなくてはならないモノであるのだけれど。

 

 そう思いながら、ルキナは“家族”との優しい『幸せ』な一時を過ごすのであった……。

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 冬祭りの期間だけの料理を“家族”皆で楽しみ、サンタクロースを待ちきれない様にソワソワする小さな“ルキナ”と一緒に本を読んだりしてルキナとマークは時間を過ごしていた。

 何時かの遠いあの日々のルキナの様に、サンタクロースに会いたいのだと張り切っていた小さな“ルキナ”であったが。

 夜が少しずつ深まる中、眠りの波が寄せては返すのかうつらうつらとしてきてしまう。

 そんな小さな“ルキナ”をベッドに寝かせると、直ぐ様眠りの淵に誘われ、安らかな寝息を立て始めた。

 恐らくこの様子では、明日の朝まではちょっとやそっとでは起きないだろう。

 幸せそうに眠る小さな“ルキナ”の頭を優しく撫でてから、ルキナとマークは小さな“ルキナ”の部屋を後にするのであった。

 

 

「サンタクロース、か。

 僕も昔は会いたがっていたんでしょうか」

 

 

 小さな“ルキナ”の様子を思い返しながら、マークは優しく微笑みながらそう溢す。

 ルキナは、そんなマークに勿論だと頷いた。

 

 

「ええ、私と二人で、サンタクロースを捕まえようとしていた事もあったんですよ。

 罠を仕掛けてみたりとか、色々してみたのですが。

 結局、一度も会えず終いでした」

 

 

 マークと二人で、ああでもないこうでもないと頭を捻りながら、『サンタクロース捕獲作戦』を練っていた遠いあの日々は、今でも鮮明に思い出せる。

 どんな罠を仕掛けても、引っ掛かった形跡すらも無く。

 だけど翌朝には必ず枕元に贈り物が置かれているのだ。

 その度に、作戦が失敗した悔しさと、それ以上の喜びを感じていたモノだった。

 ……何時か、小さな“ルキナ”も。

 小さな“マーク”と一緒に、そうやってサンタクロースを捕まえようとするのだろうか。

 そんな幸せで楽しい日々を重ねるのだろうか。

 

 マークには、遠い未来で過ごしていた日々の記憶が無い。

『幸せ』だった幼いあの日々も、そして絶望に沈んだ世界での辛く苦しい日々も。

 平等に、マークは喪ってしまった。

 それは、ある意味では悲劇でもあり救いでもあるのだろう。

 マークの記憶喪失を知った当初は、ルキナは強い衝撃を受けたのであったが。

 心の整理が付いてからは、それで良かったのかもしれないとすら思う。

 記憶を喪おうと何だろうと、マークがルキナの大切な弟である事には変わり無く。

 内面的な部分も、記憶を喪う前とそう大きくは変わらなかったからだ。

 喪ったモノを嘆くよりは、新しく積み上げる方が余程建設的である。

 

 ルキナの言葉に、「そうなんですね」とマークは嬉しそうに返す。

 

 

「小さかった頃の事とは言え、母さんみたいな軍師を志していたであろう僕の策を破るとは……。

 サンタクロースは相当な策士だったんでしょうね!

 是非とも直接お会いしてみたかったです」

 

 

 何だかそんなズレた感想を述べるマークに、昔と変わらないなと微笑ましく思う。

 あの頃も、何時も作戦が失敗したは次こそはと燃えていたのであった。

 そんな二人を、両親が優しく見守ってくれていた事も、ルキナは覚えている。

 

 

「さて、私達もそろそろ眠りましょうか……」

 

 

 何だか今夜は、幸せな夢を見られる気がするのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 ルキナは、夢を見ていた。

 とてもとても『幸せ』な夢であった。

 目覚めてしまえば、消えてしまう。

 儚くて、朧気で、そしてだからこそ泣きたくなる位に『幸せ』で愛しい夢であった。

 夢の中で、優しい手と力強い手がルキナを撫でる。

 大好きなその手が離れていくその時に、いかないでくれと、ルキナは懇願した。

 行かないで、逝ってしまわないで、お願い、と。

 すると二人はルキナを、優しく力強く抱き締める。

 

 

『何時までも俺達はお前たちを見守っている、遠く離れても、ずっとだ』

 

『貴女とマークは、私達の一番の宝物なんです。ずっと、永遠に』

 

『『だからどうか、幸せに──』』

 

 

 その言葉に背を押される様にして、ルキナは夢から醒めるのであった…………。

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 幸せな夢を見ていた気がする。

 内容は、もう朧気で思い出せないけれど。

 それでも、とてもとても幸せであった事が、胸の奥には残っている。

 そんな温かな幸せに満たされながら起き上がると、ふと枕元に見慣れぬモノを見付けた。

 少なくとも眠る前にはこんなモノは無かったと思うのだけれども。

 何だろう、とルキナはそれを手に取る。

 それは、両手に乗る位の大きさの箱であった。

 

 箱を開けると、その中には。

 深い蒼に輝く宝石をあしらった綺麗なペンダントが、一つ。

 

 余程腕の良い宝石細工師が手掛けたのであろう。

 精緻な細工が施されたそれは、決して豪奢さや無駄な華美さは一切無く。

 一目見ただけでは何処か質素にすら感じてしまう程なのに、見れば見る程そこに惜しみ無く高度な技術が注ぎ込まれているのが理解出来る。

 何処までも純粋に宝石自身が持つ美しさを引き出したそのペンダントが、並々ならぬ価値を持つモノである事をルキナは即座に理解した。

 

 そして、ペンダントの下には、一枚のメッセージカードが挟まれていた。

 

 

『良い子のあなたへ、サンタクロースからの贈り物です』

 

 

 そのメッセージを、何度も噛み砕いて、そしてボロボロと涙を溢す。

 

 筆跡は多少は誤魔化してはいたが、それでも。

 大好きで大切なその人の字を、ルキナが見間違える筈は無かった。

 其処にある『愛』を、『想い』を。

 確かに受け取って、ルキナは泣いた。

 

 幼いあの日々の思い出が繰り返し甦ってゆく。

 サンタクロースを捕まえられなかったのだと悔しがる二人に両親が優しく微笑んでいた事も、全部。

 大切で幸せだったあの日々は、もう戻ってこないけれど。

 それでも。

 “両親”は、子供達を大切に慈しんでくれている。

 それは、未来でも過去でも、時を越えても変わらなかった。

 

 

 きっと今頃、小さな“ルキナ”やマークの元にも“サンタクロース”からの贈り物が届けられていているのだろう。

 目覚めて枕元の贈り物に気が付いた二人は、どんな風に喜ぶのだろうか。

 

 

 喜びと幸せを胸に、ルキナは部屋を出て“両親”の部屋を目指す。

 伝えたい想いが、沢山沢山あるのだ。

 “両親”は驚くだろうか、それとも喜ぶのだろうか。

 それを思うのも楽しくて。

 ルキナは駆け出すのであった。

 

 

 

 

 

【Fin】

 

 

 

 

 

◇◇◇◇



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『Raison d'etre』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 私は、『生きていても良い理由』が欲しかった。

 邪竜の血の末裔、ギムレーの器。

 私の生は、産まれ落ちたその瞬間から、呪われていると言っても過言ではなかったのだろう。

 

 世界を滅ぼす邪悪。

 絶望と破滅の竜。

 

 そんなモノを信仰する理由なんて、私には理解出来ないけれど。

 ギムレーを神として信奉するギムレー教団は、その復活の為に文字通り全てを捧げてきた。

 何時か神竜ナーガによって施された封印が緩んだ時に、ギムレーの復活の為の肉体を用意せんとして。

 千年の時を掛けて邪竜の血を濃く受け継いだ血族を更に醸成して、私を産み出した。

 血族間で従兄妹や兄妹、時には親と子で、血と血を掛け合わせ続けてきたその一族は、とうに狂っていたのだろう。……狂っていたのはその一族に限らず、ギムレー教団と言う集団全体の事なのだろうけれど。

 

 悍ましい近親間姦の果ての産物。

 血族の到達点にして終着点。

 それが、私だった。

 

 何れはギムレーに成り果てるのが、私の運命。

 それが、私が産み落とされた“理由”。

 ある意味では、それが私の『存在価値』とも言えるのかもしれない。

 しかし、そこに私の自身の意志は無い。

 

 物心付いてからずっとギムレー教団で囲われていれば、私にも別の価値観が芽生えていたのかもしれないが。

 少なくとも、今ここに居る私自身は、ギムレーとなる運命を受け入れたいとは欠片も思っていない。

 そうなったのは、母の影響があるからだろう。

 

 私を産み落とした母は、……母自身もギムレー教団の一員であったにも関わらずに、まだ乳飲み子であった産まれて間もない私を連れて、教団を出奔した。

 母が何を思ってそうしたのかは、既に母が死んだ今となっては最早分からないけれど。

 教団を出奔した母は、女手一つで苦労しながら私を“普通”に育ててくれた。

 ……教団の影に怯え、時に各地を転々としなければならない生活を“普通”と言って良いのかは分からないが。

 少なくとも、来るべき復活の時に備えて、“ギムレーの器”を調整しようとしていた訳ではないのは確かだった。

 

 母は……とても優しい人だった。

 自らの人生そのものに等しかった信仰を捨ててまでも、自らが産んだ赤子を選んでしまう程に。

 そして、その結果、若くてして命を落とす事になった。

 

 ……私は母に生かされた。

 だから、死ぬ訳にはいかない。

 けれど……。

 

 私が“ギムレーの器”であると言う事実からは、何をしても逃げる事は出来ないし、変えられないのだ。

 何れ世界を滅ぼす存在。

 そんなモノが“生きていても良い理由”なんて、何処にあるのだろうか…………。

 

 私は、この世界に滅んで欲しいなんて思った事は無い。

 確かに、世界には理不尽や暴力や絶望が溢れかえっている。

 信教の違い、貧富の差、憎悪や怒り……。

 世界には至る所に争いの種が有り、大なり小なり人と人は争い続け、時に戦争と言う形で多くの命を互いに貪り合う。

 人々が抱く欺瞞や悪意は様々な形となって他者を脅かし続け、時に悲劇を産んでいる。

 だけど。

 手放しに美しいと、素晴らしい世界だとは言えない“世界”であっても。

 何もかもを壊してしまいたいなんて、そんな事を思った事は一度だって無かった。

 

 でも、もしも。

 私が“ギムレー”として甦ってしまえば。

 そして、伝承に語られる様に、ギムレーが絶望と滅びの邪竜なのだとすれば。

 私は、何時かこの世界を壊してしまうのだろう。

 沢山の命が、一生懸命に生きているこの世界を。

 美しさだけではないけれど、それでも人々の意志が煌めくこの世界を。

 そして。

 クロム達に出逢えた、この大切な世界を。

 私は、何時かこの手で壊してしまう……。

 それだけは、どうしても耐え難い程に嫌だった。

 

 何時か壊してしまう位なら、いっそその前に死んでしまう方が良いのだろう。

 “ギムレーの器”なんて、ギムレー教団以外にとっては存在しない方が良い。

 私が死んだ所で、誰にとって困るものでもない。

 ……いや、流石にそれは言い過ぎか。

 クロムは……優し過ぎる彼は、きっと私が死ねば哀しむだろうから。

 でもそれは、私が“ギムレーの器”だと知らないならば……と言う前提になるだろうけれど。

 

 幾らクロムが優しくて仲間想いなのだとしても。

 彼はイーリスの聖王家の人間で、私は邪竜の血族だ。

 

 もし私の出自を知ってしまえば、クロムであっても私と言う存在を忌避するしかないだろう。

 私とクロムが何処まで共に居られるのかは分からないが、この身に流れる血によって何時か共に居られなくなる日が来るのだろう。

 何時かこの身が邪竜へと成り果てるのが運命であると言うのならば。

 そうなってしまう前に、彼の持つ聖剣でこの身を貫いて欲しいと、そう切に願っている。

 

 だけど、そうやって“死”を想う一方で、私は『死にたくない』とも思うのだ。

 私の為に命を賭した母の“命の価値”に報いる為にも。

 そして、大切なクロム達と少しでも多く共に時間を過ごす為にも。

 

 何時か『終わり』が来てしまう事は分かっていながらも、それでも、その『終わり』がずっと先の事であれば良いと、そう淡い願いを抱いて。

 何時か共に生きられなくなる日が来る事を理解しながらも、クロム達の傍を離れる事が出来ない。

 だからこそ、クロムに私の真実を打ち明ける事も出来ないままだ。

 

 だけれど、その状態は剰りにも苦しい。

 何時かこの苦しさが、全てを呑み込んでしまいそうで……それが私には恐ろしい。

 

『生きていてはいけない理由』は沢山あって、『死んではいけない理由』は少しだけある。

 だけれども、どうしても。

『生きていても良い理由』だけは、私には分からないのだ。

 

 何時か世界を滅ぼしてしまうかもしれなくても。

 何時か大切な人を殺してしまうかもしれなくても。

 誰にも望まれてはならない存在に成り果てる運命なのだとしても。

 それでも『生きていても良い理由』なんて、あるのだろうか?

 私が抱く『死にたくない』と言う想いを、肯定しても良い理由なんて……。

 

 “死”を想い『死にたくない』と思う度に。

 決まって脳裏にはクロムの姿が過る。

 そしてその度に、息が出来ない程に苦しくなるのだ。

 

 何時かクロムを殺してしまう位なら、私は今すぐにでも死んでしまいたい。

 だけど、それと同時に、それ以上に。

 クロムの傍に居られなくなる事が苦しいのだ。

 

 だから、『死ななくてはならない理由』を誤魔化す為に。

 自分はこんなにもクロムの役に立てているのだから……と、クロムに必要とされているのだから……と、自分に言い訳をする為に。

 私は、自分が出来る精一杯の事を、自分が出来る有りとあらゆる事で、クロムを支えようとした。

 

 クロム。

 クロム、クロム、クロム──

 

 何時しか私の世界の中心にクロムが居て、眩しくて手なんて届きそうにない太陽の様な彼の傍に少しでも近付きたくて、精一杯に足掻いていた。

 

 もしも、と時々私は考えてしまう。

 もしクロムが『私が生きていても良い理由』をくれるのなら、と。

 私の全てを受け入れた上で、それで尚、「生きろ」と望んでくれるのなら……。

 私はきっと、初めてこの命を……“私”と言う存在を、肯定出来る気がするのだ。

 

 そんな日は来ないであろう事を理解しながらも、そんな夢を見ずには居られない。

 今少しの間だけでも良いのだ。

 優しい夢を見させて欲しい。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 ルフレはそっと微笑みを浮かべ、中庭の木に凭れかる様にして目を閉じた。

 

 ルフレの姿を探して中庭へとやって来たクロムのその手の中に、一つの指輪が輝いている事を、ルフレはまだ知らない。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆



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『心蝕の忘却』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 ああ、消えていく、消えていってしまう。

 それは、瞬き一つの内に、浅く荒い息を吐き出すだけで、思考を巡らせ続けるこの一瞬の内にも。

 穢い泥で塗り潰されていくかの様に、消える消えてしまう。

 それが恐ろしくて、剰りの恐怖に涙を溢して。

 止めて! 止めてっっ!! と、誰にと言う訳でもなく悲鳴を上げながら、何者かの慈悲を乞うかの様に叫び続けるけれど。

 それは、容赦なくルフレを内側から食らい尽くそうとしていく。

 頭の中に響く嗤い声が酷く耳障りで、耳を掻き毟って壊してしまいたくなる。

 ルフレには、もう自分が泣いているのか悲鳴を上げているのかが分からなかった。

 自分が壊されていく恐怖と内側から作り替えられていく苦痛にのたうちながら、ルフレの脳裏には走馬灯の様に思い出が蘇っていた。

 

 

 

『ギムレーの器』。

 それが、ルフレと言う存在が産み出された理由の全てであった。

 古い古い狂った竜がこの世に甦る為の道具。

 その魂を収める為の肉の塊。

 それが、ルフレだ。

 ルフレの意志も、記憶も、感情も、思考も、経験も。

『ルフレ』と言う存在を形作る全てが、ギムレーの為のモノであった。

 ギムレーが甦れば、ルフレは『ルフレ』ではなくなる。

 破壊と絶望だけを望む狂った竜へ、ルフレは成り果てる。

 だから……ルフレの母は幼いルフレを連れて逃げ出したのだ。

 母を喪って独りになってからも、ルフレはギムレーに怯えて逃げ続けていた。

 何時か自分の全てを喰ってしまう存在、何時か自分が成り果てる存在。

 想像するだけでもそれは剰りにも恐ろしくて。

 だから、何時か自分を喰らうのであろうギムレーに対抗する術を求めて、ルフレはかつてギムレーを討った聖王伝説が色濃く残るイーリスへと渡ったのだ。

 そしてそこで、誰よりも愛しいクロムや掛替え仲間たちとの、決して忘れられない出逢いを果たした。

 動乱の世を共に駆け抜けていく内に、次第にルフレの心の内にギムレーへの恐怖よりもずっと大きく温かな感情が芽生えていった。

 クロムと結ばれて、そしてルキナとマークと言う、何よりも大切な宝物を授かって。

 ルフレは初めて“幸せ”を手に入れた。

 例え世界が戦乱に満ちていても、ほんの一時の平和ですらも直ぐに壊されてしまう様な時代であっても。

 それでも、愛する人が居て、愛しい子供達が居て、大切な仲間達が居て。

 ルフレは、紛れもなく“幸せ”であったのだ。

 だけれども──

 

 

 

 耐え難い苦しみの中で息を吐いたつもりが、口から大量の血を吐き出してしまう。

 人から“竜”へ。

 内側から作り替えられていく最中、その変化に耐えきれず傷付いた臓物が悲鳴を上げているのだ。

 剰りの激痛に正気を喪ったかの様な叫び声を上げながら、ルフレは床を掻き毟る。

 爪が割れ血が流れ出しても、それを遥かに上回る痛みが全てを掻き消していく。

 自らが流した血に塗れ、死が何よりも甘美な“救い”に思える苦痛の中でのたうち回り、苦痛に歪んだ悲鳴を上げ続けていた。

 全身に真っ赤に焼けた鉄でも押し付けられているかの様な痛みが走り続けていて。

 終わりの無い苦しみの中で幾度も正気を喪いかけるけど、その度に痛みによって意識が引き摺り戻される。

 狂う事も出来ない地獄の中で、時間だけが痛みにより無限に等しく引き延ばされて。

 その身が人でなくなっていく悍ましさを、そして肉体の変容と同時に“心”そのものが造り変えられていく恐怖を、『ルフレ』と言う存在の全てが『ギムレー』に塗り潰され消え去るその時まで終わる事の無い地獄の中で感じさせられていた。

 

 最早苦痛に歪む視界に映るルフレの手は、かつて幾度と無くクロムと繋ぎ、愛しい子供達を抱いてきた、柔らかな人の手では無くて。

 触れるモノ全てを切り裂き破壊する様な鋭い爪と、誰の手の温かさも感じられない様な冷たく硬い鱗に覆われた、人ならざる者のソレに変貌している。

 もう二度と誰かの手を取る事など出来ないであろうその手を、絶望の中で紅く紅く染まっていく目でルフレは呆然と眺めていた。

 

 自分が自分では無くなっていく。

 その肉体も、そして“心”も。

 

 このまま『ギムレー』に何もかもを塗り潰されてしまえば、『ルフレ』が愛した全てを壊してしまう。

 だから、ちっぽけな『ルフレ』の意志を何とか一欠片だけでも残そうと、愛しいもの達を思い起こそうとするけれども。

 それですらままならない。

 いや、大切な人の、愛しい人々の顔は思い出せる。

 だが、それが端から真っ黒なインクをぶち撒けたかの様に消されてくのだ。

 

 ついさっきまでそこに在ったその人が、思い出せない。

 どんな顔だったのか、どんな名前だったのか、どんな人であったのか、どんな声だったのか、どんなに大切な思い出がそこに在ったのか。

 その何もかもが、真っ黒に真っ黒に塗り潰されていく。

 

 忘れたくない。嫌だ、奪わないで。

 そんな悲鳴の様な叫びは、何処にも届かない。

 神には、邪竜の祈りなど届かないのだ。

 

 喪いたくない一心で、ルフレは“まだ思い出せる”人達の名前を床に刻んでいく。

 インクとなるものは、既に大量に零れ落ちている。

 既に血塗れの異形の指先で、床を抉る様にそこに名前を刻む。

 奪わないで、これだけは無くしたくない、お願い……。

 血が混じった涙が頬を滴り落ちていくのも構わずに、ルフレは潰れかけた喉で必死に名前を呼んだ。

 

 

「クロム」

「ルキナ」

「マーク」

「リズ」

「フレデリク」

「ソール」

「ソワレ」

「ヴィオール」

「スミア」

「ミリエル」

「スミア」

「ヴェイク」

「カラム」

「リヒト」

「マリアベル」

「ドニ」

「ロンクー」

「ベルベット」

「ガイア」

「ティアモ」

「グレゴ」

「ノノ」

「リベラ」

「サーリャ」

「オリヴィエ」

「セルジュ」

「ヘンリー」

「アンナ」

「チ──」

 

 

 誰かの名前を呼ぼうとして、だがその続きは言葉にならなかった。

 今、自分が誰の名前を呼ぼうとしたのか、それは誰なのか、何もルフレには分からない。

 床に刻まれた、真っ黒に塗り潰された記憶の中にあったのだろう名前を見ても、それが誰なのか思い出せない。

 

 

「チ、キ……?」

 

 

 誰なのだろう。

 分からない。

 顔も、名前も、思い出も。

 何もかもが奪われてしまった。

 だけれども。

 その名前が、自分にとってとても大切な“何か”であった事だけは分かる。

 胸に穿たれた虚ろが、悲鳴をあげた。

 

 大切な“何か”をまた奪われてしまった事に呆然としたその一瞬の内に、再び黒い“絶望”の侵食は加速する。

 

 もう名前を呼べない人がいる。

 忘れたくないと、そう心の悲鳴が残した痕を見ても、何も思い出せない人がいる。

 何もかもが塗り潰されていく。

『ルフレ』と言う人間を形作ってきた記憶を、出会いを、心を向けていた全てを。

『ギムレー』は極上の贄を味わおうとするかの様に、嘲笑い弄びながら壊そうとしている。

 

 

「この記憶だけは、この名前だけは、お願い消さないで……」

 

 

 残された僅かな名前を、そこに縋り付く様に、ルフレは口にしていく。

 大切な人達。

 大切な仲間達。

 愛しい人、愛しい宝物。

 どうか、どうか──

 

 だが、頭の中に響き続ける哄笑は止む処か、無駄な努力を続けようとする哀れな虫けらを嬲る様に、より一層全てを押し潰さんばかりに鳴り響き続ける。

 一瞬でも意識が逸れれば、容赦なく記憶は喰らい尽くされる。

 恐ろしい事に、それが喰われてしまった事に気付けるのは、床に刻まれた思い出せない“誰か”の名前を見付けた時だけだ。

 それですら、その“名前”には何も感じられない。

 でも、きっと。

 床を埋め尽くす様に夥しい程に刻まれたそれは、『ルフレ』にとって喪いたくない“誰か”であった筈である事だけは分かる。

 

 それは、既に“終わり”が見えてしまっている事が何よりも耐え難く何よりも恐ろしい“絶望”であった。

 

 

「フレ、デリク……。リズ……」

 

 

 “誰”なのかも分からない人。

 それでもきっと、大切な“何か”だったのだろう人。

 床一面に刻まれている彼等の“名前”は、最早それだけのものでしかない。

 彼等が目の前に居ても、今のルフレにはそれが誰なのか分からないだろう。

 ……尤も、今のルフレを『ルフレ』と呼ぶ事が出来るのか、と言う問題もあるが。

 

 

 

 

「ルキナ、マーク……。

 私の、……大切な……。

 クロム……私は……」

 

 

 ルキナ、マーク、クロム……。

 そう壊れた様に呟き続ける“彼女”は、最早何者でもない“何か”であった。

『ルフレ』と言う名前すら喪い、“彼女”を形作ってきた記憶すらも全て奪われ。

 心の中には、最早“虚ろ”しか残されてはいない。

 そしてその“虚ろ”にはゆっくりと、『ギムレー』の絶望と滅びへの意志が流し込まれていっていた。

 

 床一面を埋め尽くす勢いで血を交えて刻まれた数多の名前達の意味は、もう“彼女”には分からない。

 そこにそうやってその“名前”を残そうとした意図すら、最早“彼女”の中からは喪われてしまっている。

 まるで最後まで縋り続けたかの様に、一際多く刻まれている『クロム』と言う名前ですら、最早何の意味も持たない。

 それでも、何の意味もない筈の名前を見詰める“彼女”のその紅い瞳からは無意識の内に止め処無く涙が零れ落ち、その唇はその名前を紡ぎ続けているのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『空虚なる静寂』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ボロ切れを纏う趣味など無いが、同時に己の身に纏うモノにそう頓着する事の無いギムレーがそれに気付いたのは、本当にただの偶然であった。

 自身が身に纏っているローブの胸ポケットにふと手を当てたその時、何かの小さな膨らみに気が付いたのだ。

 はて、そんな場所に「何か」を入れていただろうかと。

 ポケットの中からそれを取り出して中を確かめると。

 

 そこに、在ったのは。

 銀の鎖に通された、曇りなく銀に輝く指輪であった。

 

 豪奢な煌びやかさはそれ程無いが、指輪の表層に細かく彫り込まれた繊細な意匠は、女性が身に付ける事を意識したもので、指輪の質は最高級に等しい。

 華美に過ぎないからこそ、気品が何処までも引き立てられているその指輪に、ギムレーは僅かに目を眇める。

 

 喪う事の無い様にと大切に鎖に通されたそれは、ギムレーにとっては最早何の意味も持たないものだ。

 意味も、価値も、等しく何も感じない。

 まだ、こんな所に残っていたのかと。

 指輪を手の中で転がす様に弄びながらギムレーは、その指輪が何であったのかを思い出した。

 

 それは……、かつて自分がまだ『ルフレ』と……そう呼ばれていた……「人間」であった頃に。想い結ばれていた相手から永遠の愛の誓いと共に贈られた誓いの証であった。

 安らかなる時も、病める時も。如何なる苦難の中にあろうとも、共に苦楽を分かち合い、死が互いを分かつまで共に在ろうと。

 そんな誓いと「契約」の証であった。

 

 ……だが、その「契約」など、もう何の意味も無い。

 邪竜であるギムレーにとっても、或いは『ルフレ』であった自分にとっても。「契約」を交わした相手はもうこの世の何処にも存在しないのだから。

 故に、その様な愚かな「契約」などにギムレーを縛る力など無いし、その「契約」の残骸に感じるモノも無い。

 ギムレーとして「覚醒」する運命から『ルフレ』を守る力も無く、ギムレーの中に『ルフレ』の心を留める為の縁にすらもならないものでしかないのだ。

 全く、馬鹿馬鹿しい限りである。

 人間達は口を開けば直ぐ様「愛」だの「絆」だのと飽きもせずに喚きたてると言うのに。

 実際はその「愛」とやらには何の力も無いのである。

「愛」を誓っていようとも、運命を変える事は叶わず、『ルフレ』はギムレーへと覚醒してしまった。

 人間どもの言う「愛」にどんな苦難も乗り越える力が本当にあるのだとすれば、それを成し得なかったのならそこに在ったモノは紛い物であったのだろうか……?

 ……まあ所詮「愛」など、脆弱で愚鈍な虫ケラ共が、互いに拒絶し合うしかないその本性を誤魔化す為の虚言であり妄想でしか無いのだけれど。

 

 手の中で弄ぶ様に指輪を転がしながら、ギムレーは、「契約」を交わした相手──聖王の末裔であったあの男の事を、久方振りに思い浮かべる。

 ファルシオンに選ばれた、この世で数少ないギムレーを傷付け得る手段を持っていた男。

 尤も、『ギムレーの器』である事を知りながら『ルフレ』に「愛」を誓う愚かな行為に逸った挙句の果てに。

『愛』を誓ったその相手のその運命を変える事も出来ないままに、ギムレーと対峙するどころか、愛した『ルフレ』の手によってその命を摘み取られた哀れな道化。

 クロム、と。そう呼ばれていたその男の事は、ギムレーがふと思い出せる程度にはその記憶の底に存在した。

 

 とは言え、別にクロムの事を想起した所で、ギムレーにとっては大した感慨は抱けない。

『ルフレ』であった時の記憶は何一つ欠ける事無く全て存在しているが故に、『ルフレ』として生きた時間の記憶も、クロムと出逢い共に戦い愛し合った記憶も、そして子を成し育てた記憶も、その全てを鮮明に思い出せる。

 しかし、そのどれもがギムレーにとってはただの記憶でしかなく、自身の「経験」としては幾分か歪んでいた。

 何れ程想起しても、そこには何の感情も伴わない。

 ギムレーにとって『ルフレ』の記憶など、ただただ事実の確認になるだけで、無味乾燥なものでしかなかった。

『ルフレ』からギムレーへと覚醒した際に、その心が人のそれから竜のモノへと羽化したその時に、その在り方と言うモノがまるっきり変化してしまったのだろう。

 

 いや、記憶だけではない。

 ありとあらゆる事象、ありとあらゆる存在に対しての感じ方捉え方と言うモノも、かつて『ルフレ』であった時のそれとは全く異なるモノへと変わっていた。

『ルフレ』にとって掛け替えの無い程に「価値」の在ったモノのその殆どがギムレーにとっては最早無価値なモノであり、或いは蔑み唾棄すべきモノである。

 ギムレーとして覚醒したから、感情の揺らぎと言うモノは殆ど消え失せた。

 虫ケラの様に些事に心を囚われる様な事は無く、ギムレーには憎悪も悲嘆も無いが喜びの感情も薄い。

 群れる事でしか生きられず、それで尚相争い何かに縋るしか能の無い虫ケラ共は不快な存在ではあるが。憎悪や怒りと言った激しい感情を抱いているかと言えばそうでも無い。

 ただ単に目障りだから消すと言う程度である。

 生理的な嫌悪感に近いモノは在るかも知れないが……己の身を焦がし狂わせる様な感情では無いのは確かだ。

 そもそも、その存在の次元からして、ギムレーと虫ケラ共は全く対等では無い。

 人間共が幾ら蟻を踏み潰しても構うどころか心を痛めなどしない様に、ギムレーにとっても虫ケラ共を駆逐する理由に不快感以外に大した意味は無いのだ。

 まあ、蟻とは違い曲がりなりにもギムレーと同じ様に「言葉」解しはする。

 だが、だからどうと言う事も無い。

 虫ケラに何かしら「対等性」を見出す程では無いのだ。

 ……しかし、憎悪も悲嘆も存在しないが喜びも薄いが故に、ギムレーにとってこの世界とは何処までも退屈で平坦極まりないものであった。

 藻掻き苦しみ醜く命乞いする虫ケラ共を踏み潰す瞬間は少し楽しくはある。

 しかしそれは余りにも刹那的で、暇潰し程度の意味しかない。

 世界の全てを等しく滅ぼし平らかにしたとしても、後には退屈だけが残るだろう。

 だが……その未来は確実に見えてはいるが、それでもギムレーは人間共を……この世に生きる全ての存在を滅ぼし尽くし世界を平らかにする事を止めはしない。

 結局、それしかギムレーには無いのだ。

 滅ぼす事以外にやりたい事も無く、自分の気が少しでも紛れるものが虫ケラ共の絶望や破滅位しかない。

 それは、心の死と言う断崖に向かって、踊る様な足取りで向かっていく様なものであった。

 

 …………かつて、ギムレーが『ルフレ』であった時は。

『ルフレ』にとってこの世界は、喜びにも哀しみにも怒りにも……まるで色取り取りの宝石の様に輝く感情たちによって彩られたものだった。

『ギムレーの器』として産まれ落ちた事への諦念や、それに伴う虚無感も確かに存在してはいたが。

 だがそれ以上に、母親や……クロムや我が子達など、『ルフレ』にとって「特別」な人間達が存在したし。

 そして、彼らと共に過ごした時間は、関り合い折り重ねる様に積み重ねていった記憶は……『ルフレ』にとってはそのどれもが掛け替えのないモノであった。

 怒りや悲しみや絶望ですら……今のギムレーが感じる虚無感にも似たそれに比べれば、何もかもが輝いて。

 喜びも、そしてそこに在った心が揺れ動くその心地好さも、その何もかもが、鮮明であった。

 今のギムレーが虫ケラ共の絶望に感じる刹那的な愉悦など、色褪せて思えてしまう程に。

 ……それ程までに、『ルフレ』にとってその記憶が大切なモノであった事は覚えているのだ。

 しかし、ギムレーがそれを想起しても、そこにはもう何も無い。何も心は動かない。

 クロムの笑顔を、その言葉を、その背中を、その温もりを、共に過ごした時間を、彼を想っていた時間を。

 その全てを鮮明に覚えているのに。

 それでも、最早ギムレーにとってその男は、ただの虫ケラどもと同じ「人間」でしかなかった。

『ルフレ』であった時には確かに感じていた筈の溢れんばかりの愛しさは、それがただの泡沫の幻であったかの様に、その名残すら感じられない。

 ……有象無象の虫ケラとしてではなく、「個」として認めているだけまだ多少は「特別視」しているのかも知れないけれども……。

 ただそれにしたって、『ルフレ』にとっての「特別」であったからなのか、それとも。聖王の末裔でありファルシオンを扱う者と言う……ギムレーにも完全には無視出来ない要素故なのか。

 その何方が故であるのかも分からなかった。

 ただ、動かざる事実として、ギムレーは彼を愛してなどいないし、そして彼はもうこの世には居ない。

『ルフレ』で在った時の己が、その手で殺したのだから。

 だが……『ルフレ』にとっては、この世の全てをそして自分自身を呪い怨む程の絶望その物であったそれも、ギムレーにとってはただ人間と殺したと言う事実にしか感じられない。

 クロムを殺した絶望の中で程無くして『ルフレ』がギムレーとして覚醒した瞬間に、身を引き裂き己が身を呪ったその激情は、何の感情も伴わない「事実」に変わってしまった。

 ……それが『ルフレ』にとって「救い」であったのか、或いはただ絶望の深淵へと沈むだけであったのかは、もう『ルフレ』では無いが故にギムレーには分からない。

 その気になれば屍兵として造り直す事も出来たクロムのその亡骸をその場に捨て置いたのは、ただ単純にクロムと言う存在にもう興味を持てなくなったからだろうとは思う。

 もし『ルフレ』の執着がギムレーに残っていたのなら、彼を屍兵にして己の傍に置き続けていたのだろうか……?

 下らない人形遊びに精を出す自分と言うモノを想像してはみたが……今一つ現実感は無い。薄気味悪くはあるが。

 

 もしまだ彼が生きていて、己の目の前に現れたとして。

 その時自分はどう思うのだろうか、何を感じるのだろうか、と。

 ギムレーはふと、益体も無い事である筈のそれを、考えた。

 それは何の意味も無い「もしも」……下らない「仮定」の事ではあるけれど。

 どうせ何をする事も無く退屈しているのだから、そんな戯れも悪くは無かった。

 

『ルフレ』としての感情が蘇り、ギムレーではなく『ルフレ』として彼に接するのであろうか?

 そして、『ルフレ』として生きようと足掻くのだろうか?

 

 ぼんやりと想像はしてみるが、どれも現実味が無い。

 そもそも、どうして己が『ルフレ』であると振舞う様に仮定してしまうのだろう?

 自分は『ルフレ』では無くギムレーであると言うのに。

 

 …………そもそも仮定してみるまでも無く、恐らくは何も感じられないのだろう。

 愛も無く、憎しみも無く。

 ただ、虫ケラの中の一人としか感じないのか、或いはクロムと認識した上で何も感じないのかは違うかもしれないが。

 どちらにせよそこに感情は無い。『愛』は無い。

 

 ……クロムは、そんな自分を見てどう感じるのだろう。

 どう接しようとするだろう。どう言葉を掛けるだろう。

 人の世を滅ぼそうとする邪竜として殺そうとしてくるのか。

 或いは愛した女の紛い物として憎悪するのか。

 それとも…………──

 

 ふと頭を過った愚かな「想像」に、ギムレーは無意識の内に自嘲する様にその口の端を歪めた。

 もしそうだとしたら、だったら何だと言うのだろう。

 

 ギムレーはもう『ルフレ』では無い。人間では無い。

 例え記憶の中の通りに振舞って「人間」を演じたとしても、もう『ルフレ』では無いのだ。

 万が一、心から望みそれを演じたとしても、何も感じないただの空虚な紛い物にしかならない。

 ギムレーと「人間」が交わる瞬間は、未来永劫訪れないのだ。

 

 例え目の前にかつて愛した男が居ても、或いは己の血を分け腹を痛めて産み落とした「我が子達」が居ても。

 それでも彼らが「人間」である以上、共に生きる事など出来ないし、そんな事をギムレーである己は望まない。

 例え手を伸ばされたとしても、その手を取る事など在りはしない。

 そんな事をする意味など無いのだから。

 彼等がギムレーの側へと堕ちてくる事はありはしないだろうから、共に生きる事はどうあっても不可能だ。

 

 ただそれでも、そんな愚かな事を僅かにでも頭の端に過らせてしまうのは。

 ギムレーにとってはただの虫ケラ……愚かで無力な「人間」であったのだとしても。

『ルフレ』として生きた時間の事を、忘れられないからだろう。

 もう、存在もその心の在り方も、世界の捉え方も。

その何もかもが変わったと言うのに。

 かつては輝いていた、温かなモノだと感じられた「記憶」の欠片が、もうそれを感じられなくなっていても、かつては『ルフレ』であったギムレーを捕らえている。

 そしてそれは、僅かにであっても、「苦み」の様な「何か」を、ギムレーであるこの胸の奥に落としてゆく。

 忘れてしまえば、或いはもう二度と思い出さなければ。

 その「苦み」が胸の奥に現れる事は無いのだろう。

 ただ……もう何の意味も無い「記憶」でしかない筈のそれを、ギムレーはどうしてか己の内から消しきれない。

 

 ギムレーは手の中の指輪を、静かに見詰める。

 これを破壊する事は、ギムレーにとっては余りにも容易い。

 僅かな欠片すら遺さず、消し去る事も出来る。

 捨て去る事も、壊す事も。ほんの一瞬あれば事足りる。

 そしてこれは、ギムレーには何の意味も無いモノでしかない。

 だから──

 

 ギムレーは、指輪を破壊しようと手を握った。

 手の中で指輪が軋む音がする。

 後僅かにでも力を籠めれば砕け散る。

 だけれども。指輪が砕ける寸前で、ギムレーはそれ以上力を籠める事を止めた。  

 そして、溜息と共にそれを元々在った胸のポケットへと仕舞い直す。

 

 ギムレーにとって何の意味も持たないモノだ。

 持ち続けても何がある訳でも無く、価値も無い。

 そして、持つ価値が無いのと同時に。

 捨てる意味も、或いは壊す価値も無いモノなのだ。

 こうして持っていても、どうせ直ぐに持っている事すら忘れてしまうだろうモノなのだから。

 壊さなくたって、何も変わらない。

 

 

 ギムレーはまた一つ、空虚な溜息を吐く。

 そして、退屈から暫し逃れようとするかの様に。

 静かにその瞼を閉じるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『ヨルムンガンドの腹の中』※

カニバリズム要素があります。


◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 大きな大きな竜は、国を呑み込み、山々を呑み込み、大地を呑み込み、海を呑み干し、世界の全てを喰らった。

 だが、翼を持たなかった竜は、空を喰らい尽くす事も、そして太陽や月や星を喰らう事も叶わない。

 それ以外の全てを喰ったと言うのに、空を喰らう事を望んだ竜は、空は喰う事が叶わぬが故に餓え乾き。

 そして、終には餓えて死んだと言う。

 

 

 かつてイーリス城の書庫で読んだ物語の一節を、ルフレはふとした折に思い返す。

 膨大な蔵書を誇る書庫の書物の中、何気なしに手に取った、各地の様々な民話などを纏めた一冊の本。

 何処の地域の民話かも分からぬその物語が、どうしてだか心に残っていた。

 足る事を知らなかった竜の愚かしさを伝えているのか、それとも何もかもを手に入れる事など誰にも出来はしない事を伝えているのか……。

 その意図すらも今一つ分からぬ物語なのに。

 それでもどうしてだか、空を仰いで涙を流す竜の挿絵が、心に残ってしまっていた。

 空を喰らえぬ悲しみの涙なのか、それと別の感情の涙なのか。

 ルフレはその竜ではないから、その理由など分からないが。

 それでも不思議と、心を掴まれていた。

 

 もしその竜が翼を持っていたらどうなっていたのだろう。

 空を喰らい、太陽を喰らい、月を喰らい、星を喰らい……。

 そうやって全てを喰らい尽くして、それでやっと満たされていたのだろうか……?

 それとも、もっと別の……「今の自分には喰らえない何か」を求めて餓え続けていたのだろうか。

 ぼんやりとそんな事を考える事はあるのだけれど、だが元々何を言いたいのかも分からぬ話だ。その答えなど分る筈も無い。

 ルフレはその竜ではないのだ、その望みなど分る筈が無い。

 それでも考えてしまうのは、どうしてなのだろうか……。

 

 ルフレは、今の自分が満たされている事をよく分かっている。

 

 全ての記憶を失った状態で目覚めたルフレは、そんな状態であっても出逢いに恵まれ、そして今や愛する人と結ばれてその人との間に愛しい新たな命すら授かっている。

 世界は未だ戦乱の中に在り、ルフレ達が求める平和は遠い。

 その為に戦い、血を流しながらも前に進んでいるけれど。

 だがルフレ個人としては、既に『幸せ』に満たされている。

 もっともっと、と……。

 あの物語の竜の様に餓え続ける必要など何処にも無い程に。

 そう、ルフレは満たされている、幸せなのだ。

 愛する人が居て、愛しい我が子が居て……。

 

 

 満たされている、筈なのだ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「何か」をずっと求めていた。

「何か」が、ずっとずっと欲しかった。

 しかし同時に、決してそれを求めてはならぬ事も知っていた。

 一体「何」を求めているのか、「何」を求めてはいけないのか。

 その答えは自分でも分からないけれど。

 それでもずっと、その「何か」を求め続けるこの心は餓え乾いて泣いていた。

 あの物語の挿絵の竜の様に。手に入れてはならないそれを見ながら、ルフレの心は少しずつ餓えていた。

 でも、それを求めてはならない。

 それを己の腹の内に収めようなどと求めてはいけない。

 それは取り返しのつかぬ事だ。

 

 

 ── ……一体自分は何を求めていると言うのだろう。

 

 

 ぼんやりとした思考の中でルフレは考える。

 その正体も分からぬと言うのに、「欲しい」と突き動かす衝動と、それを抑え込む相反する衝動がある。

 意味が分からず、何と無く収まりが悪いモノを感じるのだ。

 

 

 ━━ 教えてあげましょうか……? 

 

 

 くすくすと、嘲笑う様な、憐れむ様な。

 そんな笑い声を含ませた声が、何処からか響いた。

 

 

 ── 教える……? 何を……? 

 

 

 ぼんやりとした思考は、正しく世界を認識せず、何の不信感も抱かずに、その「声」に問う。

 

 

 ━━ あなたが欲しているモノを。餓えて辛いのでしょう? 

 

 

「餓え」。

「声」のその言葉が耳に響いた途端、それまでは全くと言って良い程に意識していなかった「飢餓感」が、激しくルフレの身を揺さぶった。

 思考を溶かし、理性を麻痺させ。そうやってルフレの「人間性」を容易く破壊してしまう程の耐え難い「餓え」。

 余りの苦しさに、ルフレは自制する事など頭から消し飛ばして、「声」に「それ」を求める。

 

 

 ━━ 分かっていましたよ。あなたがそれを選ぶ事は……

 

 

『私』と「あなた」は『同じ』なのだから、と。「声」は嗤う。

 だがその言葉の意味を斟酌する余裕などルフレには最早無い。

 一刻も早くこの「餓え」をどうにかする事の方が先であった。

 

 そんなルフレの前に、「何か」が差し出される。

 蠱惑的なまでに香しい匂いの「それ」は、抗い難い程の魅力に溢れ、その匂いはルフレの理性を麻痺させてしまう。

 

「これ」を自分は求めていたのだと。獣の本能の様な部分で、ルフレはそれを理解した。してしまった。

 

 

 ━━ ほら、あなたが求めていたのはこれでしょう? 

 ━━ これはあなたのモノですから……。存分に味わいなさい

 

 

「声」の言葉を聞き届ける程の間も待てず。

 ルフレは差し出されたその「何か」へ貪り喰らう様に食らい付いた。

 

 途端に口内を満たす、新鮮さを高らかに謳うかの様に芳醇な香りと、そして心の奥深くまで満たす様な温かさ、舌の上で溶けて落ちそうな脂と程よく歯応えの良い噛み応えのある塊。

 噛み千切り、咀嚼して、呑み込んで。

 その一連の動作を、尽きぬ飢餓感に背を押される様に無我夢中で繰り返す。

 

 もっと、もっと、もっともっともっと……!! 

 

 喰えども喰えども、不思議とその飢餓感は尽きない。

 いや、一度は満たされるのだ。だが、その次の瞬間には、更なる飢餓感に襲われる。

 一部では到底足りない。

 全て……文字通りこの「全て」を喰らい尽くさなければ、決して満たされない。

 だから、ルフレはそれを喰らう。

 それが「何」であるのかを考える余裕など無いままに。

 ただ己の心が求めるままに貪った。

 

 抵抗を押さえ付ける様に、それを強く掴んで。

 硬さのあるそれを歯で引き裂き噛み千切りながら。

 溢れ出た熱いそれを一滴たりとも零さない様に。

 噛み千切るには難しい硬い部位は、顎全体を使って噛み砕く。

 口の中が切れ血が流れ出るが、そんな痛みではルフレは自分を止められない。

 

 食べて、食べて食べて食べて……。

 そうして、漸く耐え難い飢餓感に僅かに終わりが見えた時。

 その時、漸くルフレは、必死に自分の名を呼ぶ声に気付いた。

 その声は、苦悶に歪んだ様に、何処か歪なもので。

 だが、その声をルフレが聞き間違える事など無い。

 この世の誰よりも愛している人の声なのだから。

 

 

 

「えっ…………?」

 

 

 

 それを認識した時、漸く。ぼんやりとしてふわふわと定まらなかった思考が、まるで空が晴れ渡る様に明瞭になる。

 

 そうして、ルフレは「現実」を正しく認識した。

 

 

 口の中一杯に広がる鉄臭く生温かい血と脂の味。

 歯に挟まる硬い欠片は、無理矢理噛み砕かれた骨の成れ果て。

 一瞬前まで無我夢中で貪り食っていたのは、人間の腕……それも、その上腕に見慣れた痣が刻まれたものだ。

 そして、自分の目の前には……──

 

 

「あ……ああああああぁぁぁぁっっっっ!!!」

 

 

 手に持っていた腕の残骸を取り落とし、ルフレは変わり果てた姿の彼に縋り付く。

 鎖に縛られ、逃げ出さぬ様にその足の腱を切られ、そうやって壁に縛り付けられている彼の。クロムのその右肩から先は、無理矢理引き千切られたかの様な無惨な有様になっていた。

 その断面から覗く、半ばから叩き折られた様な骨の断片が余りにも痛々しい。

 歴戦の猛者でも意識など保っていられないだろう有様であるのに、クロムは痛みに耐える様にその額に脂汗を流し苦悶の声を零しながらも意識を保っていた。

 

 

「ああ……、ああ、そんな……。

 クロムさん、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 私、あなたを…………」

 

 

 先程までの胡乱な状態だった自分が、一体「何」を口にしていたのかなど、考えるまでも無く分かる、分かってしまう。

 だが……。その悍ましさに吐き気すら覚え、どうにかそれを吐き戻そうとしてえずくのに、それを腹の内から喪う事を拒絶するかの様に一向に吐き出せない。

 

 

「ルフ、レ……。良かった、……正気に……戻ったんだな……。

 ……いいんだ。それは、お前の、所為じゃない……」

 

 

 クロムの腕を貪り食ったのは間違いなくルフレである筈なのに、クロムは耐え難い痛みに声を震わせながらもそう言う。

 その優しさに益々罪悪感は募り、ルフレは絶望を深める。

 だが、とにかくクロムをこの戒めから解放させなければ、と。

 ルフレがその鎖に手を掛けようとしたその時。

 その手は、何か巨大な力に押し留められた。

 

 

『あらあら、目が覚めてしまったんですね。

 まあ、良いでしょう。それもまた一興ですから……』

 

 

 その声が聞こえた事で漸く、ルフレは自分の背後に何者かが居る事に気付いた。

 聞き覚えがある……と言うよりも、余りにもよく知っているその声に、ルフレは信じられない思いでその背後を振り返る。

 

 

「あな……たは…………」

 

 

 ギムレー教団の最高司祭……否、『邪竜ギムレー』。

 異なる未来を辿った、もう一人の『ルフレ』自身。

 それがどうして、と。一瞬呆気にとられる。

 が、直ぐ様この惨状が『邪竜ギムレー』によって齎されたものだと気付く。

 

 だが、一体何故、どうして……。

 

 

『ふふ……「どうして」、と。そんな事を言いたそうな顔ですね。

 単純な話です。あなたは私で、私はあなた……。

 私もあなたも『邪竜ギムレー』である事には変わりません。

 私がそうであった様にあなたもまた、欲したもの全てを己の腹の内に収めなければ満たされない……。

 満たされない限り永遠に餓え続ける、哀れなケモノ……。

 自らが満たされていると己を欺いていても餓えは収まらず、

 何時か何もかもを喰らい尽くしてしまう。

 まあ、端的に言えば、憐れみから……でしょうかね』

 

 

 意味の分からぬ狂った「憐れみ」によってこの様な惨劇が引き起こされたのかと……ルフレを操ってクロムを喰わせるなどと言った蛮行を引き起こしたのかと。

 それを理解したルフレは、眩暈すら覚える程の激しい怒りに支配された。

 例え人間の存在など地を這う蟻程度にしか感じぬ程に絶大な力を持つのだとしても、人の意志など如何様にも捻じ曲げてしまえるのだとしても。

 だが、ここまで『人』の心も尊厳もその何もかもを壊し弄ぶ事など、赦してなるものか、と。

 

 邪竜が戯れにこの様な事をしなければ、ルフレはこの様な背徳的な『欲望』を知る事など一生無かっただろうに……。

 

 

『ふふ……もう、あなたも気付いてしまったのでしょう? 

 その欲望が満たされる歓びを、理性など何の意味も持たない程の快楽と愉悦を……!』

 

 

 歪んだ笑みと共に、『ギムレー』はルフレが取り落としたクロムの右腕を手に取り、それをルフレへと押し付ける。

 

 ルフレの理性は僅かに抵抗し、それを拒絶せんと顔を背けようとする。

 だが本能は抑えきれず、その口の端から涎が零れ落ちる。

 

 浅ましい獣の欲。悍ましい化け物の性。

 望んではならない、欲してはならない。それなのに……。

 クロムの腕が、極上の供物の様にすら思えてしまう。

 目の前に突き付けられたそれに、餓えた本能を抑えきれない。

 

 だが、それは最愛の人の腕だ。

 それを喰らうなど、それは人間の所業ではない。悍ましい化け物のそれだ。

 

 人間としての矜持と理性と倫理観の全てが、己の本能を殺そうと抑えにかかる。

 だが、ルフレの内に眠っていた、化け物としての……『ギムレー』としてのそれは、際限無い欲望をその身の内で荒れ狂う程に訴える。

 

 相反する理性と本能に板挟みになったルフレは、終には絶望と共にクロムの腕を手に取った。

 その途端、クロムの表情は絶望に染まり、『ギムレー』は満ち足りた様な笑みを浮かべる。

 

 

『ああ……。あなたはそうすると分かっていましたよ……』

 

 

 ルフレは、「ルフレ」自身の意志で、クロムの腕に齧り付いた。

 その肉が、その血が、その骨が、クロムの全てが、自分の腹の内に納まり、そしてこの身と一つになってゆくそれを感じる。

 悍ましくも絶頂する様な快楽に、ルフレはその身を震わせた。

 腕を喰らい尽くしたルフレは、そのままクロムに噛み付く。

 クロムの悲鳴も、絶望と共にルフレを制止するその声も、死の間際の懇願も、その全てを喰らい尽くしていく。

 

 何時しか、クロムの身体は動く事を止めていた。

 だがそれすら何の意にも介さずに、ルフレはクロムを喰らってゆく。

 それを、『ギムレー』は愉快そうに笑って見守っていた。

 

 

 クロムの何もかもを喰らい尽くした後、そこに居るのは最早ルフレではないのだろう。

 愛していた筈の男を喰らい尽くした悍ましい怪物がその後どうなるのかなど語るまでも無い。

 ただ……満たされ切ったその笑みは、きっと壊れ果てた彼女にとっては、漸く手にした『幸せ』への本心からのものだろう。

 

 

 満たされていた筈の竜は、何時しか空をも喰らう事を望み、そして翼を持っていたが故に愛していた空すらも喰らった。

 何もかもを喰らい尽くした竜は、満たされた心のまま、愛するモノを何もかも喪った世界を躊躇う事も無く滅ぼしてしまうのだ。

 ……それでも、愛する空と真実一つになった竜は、きっと永遠に満たさ続けているのだろう。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『甘やかな幸せ』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ふと気が付けば、ルフレの姿を目にする時間が増えた様な気がする。

 軍主と軍師と言う立場である以上、共に過ごす時間は少なくは無いけれど。それにしても、ふとした瞬間にその姿を視界に収める事が多いのではないだろうか。

 そうしてルフレの姿を見ているとふとした瞬間に互いに目が合って、それに何処と無く落ち着かないものを感じてつい視線を逸らしてしまう。しかしそれは居心地が悪いと言った様な不愉快な感情からでは無く、フワフワと浮ついた感覚によるものだ。どうしてルフレに対してその様な感覚を抱くのか、クロムにはよく分からない。

 ルフレの事は当然互いに深く信頼しているし、リズや姉とはまた少し違うが、身内も同然の様な大切な存在だ。

 性別こそ異なるが、その様な垣根など越えた気心の置けない「親友」だと、そう思っている。

 それ以外では無い筈なのだけれど。それなのにどうしてか、ルフレを前にすると不思議と何処か浮ついてしまうのだ。無論、戦場に立てば、何よりも信頼出来る相手として互いに背を預け合えるのだけれど。

 ……まあ、何処と無く落ち着きが悪いのは気になるが、今の所大きな問題になっている訳では無い。

 なら、それで良いのではないだろうか。

 今一々考え込んで悩んでも仕方の無い事なのかもしれないし、何れ時間が解決する事なのかもしれない。

 

 そんな事を考えつつ、クロムは自警団の仲間たちの休憩室へと顔を出した。

 何時もは誰かしらが寛いでいる事が多いが、どうやら今は偶々誰も居ないらしい。

 何か備品などが足りなかったり或いは設備が老朽化などで壊れて困ってやしないだろうか、と。そう思って中を軽く見回してみるが、特にそれと言った感じは無くて。自警団の皆が思い思いに私物やらを持ち込んでいる休憩室は何とも混沌としつつも賑やかさがある。

 その時ふと、休憩室の真ん中のテーブルの上に、ちょっとしたお菓子が置かれている事に気が付いた。

 皆の憩いの為に保存のきく甘味を休憩室に持ち込む者は少なくは無く、これもそう言った誰かの気遣いによるものなのだろう。小さな焼き菓子からは、砂糖と蜂蜜にバターの香りが絡まった、何とも甘やかな香りがする。

 その焼き菓子を見て、そう言えば、と。クロムはルフレの事を思い浮かべた。

 

 策を練るなどして日々その頭を酷使するルフレは、それが故なのか甘いものが好きで。

 リズなどからお菓子を貰った時にはそうはもう美味しそうに食べているし、少々乱雑と言って良い程に散らばったその机には、お菓子を置いておく為のスペースだけはどんな時にも確保されている。

 リズなどにお茶会に招かれた時の様子を見ているに、紅茶の好みも少し甘めのものが好きであるし、紅茶を楽しむと言うよりは共に供されるお茶菓子を楽しんでいる事の方が多い。

 そう言う諸々の事を思い出して。今度ルフレに何か菓子を差し入れしてみようか、と。クロムは思い立った。

 ルフレ本人に何かを贈ろうとしても、大抵の場合はやんわりと断られるし、欲しいモノを聞いたとして返って来るのは大概が戦術書である。まあ、ルフレが戦術書を欲しているのは間違いなく本心からなのだとは思うのだが、何と言うのか……それを求める動機としては、クロムの役に立ちたいと言う、そんな健気さと向上心からのものが大いにある。だからそう言うのでは無くてもっと気軽に、ルフレだけの為にルフレだけが喜ぶものを何かあげられないかと、最近そう考える事が多くて。

 菓子はそれにうってつけなのでは? と。クロムはそう考えたのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 最近、クロムと目が合う事が多くなった気がする。記憶を喪った状態で彼に拾われてからずっと、軍師としてその傍に立ち共に戦い続けていたので、共に過ごす時間は間違いなく元々一番多いのだけど。

 それにしても、互いに視線が交じり合う瞬間が増えたと言うか、クロムの存在をより強く意識する事が増えた様な気がするのだ。まあ、それで何かが困っていると言う訳では無いのだけれど。

 

 自警団の過去の戦いの情報を纏めている内にそれなりの時間が過ぎたらしく、気分転換がてらにルフレは自警団のアジトを後にして街に出て散策する事にした。

 イーリス城の眼下に広がる王都は、イーリスの中でも最も栄えていると言う事もあって何時も活気に満ちている。人の流れも、物の流れも、まるで流れ行く川の様に絶えず何処かへ流れていく。そう言った人の営みの流れを見る時間が、ルフレはとても好きであった。

 別に何か目的がある訳では無く、人の流れに沿う様に大通りを露店などを冷やかす様に眺めつつ散策を続けていると。通りにある菓子を扱う店に入っていく見慣れた背中を見付けた。

 一応服装や髪形を多少変えるなどして変装してはいるが、あの後姿は間違いなくクロムだ。

 幾度と無く戦場で見てきたその背中をルフレが見間違える事は無い。

 ……しかし、何故クロムが態々変装してまでこんな場所に居るのだろう。

 クロムは、菓子などの甘いものを好んでいる訳では無かった様に思うし、第一甘味なんて態々買いに来なくても望めば直ぐに手に入るだろう、城の料理人たちは皆イーリスでも有数の腕の持ち主であるのだしクロムが望んだとあれば挙ってその腕を奮ってくれるであろうに。

 不思議に思って、通りに面した窓からこっそりとその姿を伺うと。何やら焼き菓子の類を幾つか買って、包んで貰っている様だ。可愛らしい小さなリボンを付けて貰っている所を見るに、誰かへの贈り物なのだろうか? 

 リズやエメリナ様への贈り物だろうか、と。そう思う反面。

 もし、別の誰かへの贈り物だったら? と。そんな考えがふと頭を過った。

 

 ……別に、クロムが誰に何を贈った所で、何の問題になる訳でも無く彼の自由なのだし、そんな事をルフレが一々詮索すべきでは無い。まあ、こうして態々変装して迄買いに出ているのを見るに、その相手はクロムにとって特別な相手であるのだろう。そんな相手が居る様な気配は無かったとは思うのだが、憎からず思っている相手であるのかもしれない。それが誰であろうと、それはクロム個人の自由だ。……彼が王族である事を考えるとそんな簡単に言ってしまって良い事では無いのかもしれないけれど、少なくともルフレがどうこう言う様な事では無い。

 それなのに、胸の奥に引っ掛かる様な……少しザラついたものを感じてしまうのは、どうしてなのだろうか。

 ……自分に関する一切の記憶を喪ってクロムに拾われたルフレにとっては、クロムは生まれたての雛にとっての親鳥の様な存在であり、その興味の対象が自分以外の存在にまるっきり持っていかれるのが不愉快なのであろうか……? しかし、別にクロムがリズの事を大切にしていようとエメリナ様へと姉弟としての強い親愛の情を抱いていようと、フレデリクの事を深く信頼していようと自警団の誰にどんな感情を向けていようと、それで胸の奥がざわついた様な事なんて一度たりとも無かった筈なのに。どうして今になってそんな感情を抱くのか。

 自分自身の感情の動きが理解出来ず、ルフレは困惑した。

 そして、モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、クロムに見付からない様にと足早にその場を去って自警団のアジトへと向かう。

 自警団の軍師としてルフレに与えられた部屋は、決して広い訳では無いがルフレにとっては十分過ぎる程のもので。そして何よりも、自分自身に与えられた居場所として落ち着く場所であった。しかし、自室に帰って来ても、胸の奥のモヤモヤしたものは一向に晴れない。

 また何か仕事を片付けて気を紛らわそうか、と考えるも、それも何処と無く億劫で。

 ベッドに身を投げ出して寝転がる様にして、ぼんやりと天井を見上げていた。

 窓から射し込む陽射しが、少しばかり傾いた頃。

 少し遠慮がちに扉を叩く音がする。

 

 

「ルフレ、今少し時間は空いているか?」

 

 

 思いがけず聞こえて来たクロムの声に、ルフレは驚いてベッドから跳び起きて慌ててその居住まいを正す。

 少し乱れてしまった髪は手櫛で急いで直して、ローブの裾が乱れてないか確認して。

 そして、瞬時に部屋を見回して何か見苦しい状態になっているものが無いかと確認した。

 ……特に問題は無い。机の上の本の山が少し崩れているが、それは何時もの事である。

 

 手早く準備を整え、ルフレは急ぎ足で扉の前に立つ。突然の訪問に驚いているのか、脈が速くなっているのを感じる。が、それを悟られない様に、と大きく深呼吸して誤魔化した。

 

 

「はい、大丈夫ですよ。どうかしましたか? クロムさん」

 

 

 声を掛けつつ扉を開けると、そこには何やらソワソワと落ち着かない様子のクロムが立っていて。

 頻りに、何かを気にしていた。

 

 

「あ、ああ……そうか、それは丁度良かった。

 ……その、良かったら、これを貰って欲しい」

 

 

 そう言って、クロムは視線を彷徨わせつつ、何かをルフレへと差し出してきた。

 その包みに掛けられた小さなリボンには、遠目ではあったが見覚えがある。

 先程、クロムが自ら買い求めに出掛けていたあの菓子店のものだ。

 

 一体どうしてこれを自分に……? 

 思いもよらぬそれに驚いてクロムを見上げると。

 何を勘違いしたのか、クロムは少し慌てた様に何時もよりもやや早口で説明する。

 

 

「リズに訊いて、美味しい菓子だと評判らしいから、買ってみたんだ。

 その……ルフレは甘いものが好きだろう? 

 何時もお前には助けられているからな、何か贈り物をしたくて、それで……」

 

 

 そんなクロムの様子を見ていると、先程まで胸の奥でモヤモヤと漂っていた魚の小骨の様に引っ掛かる感情は、すっかり何処かに消えてしまって。それとは全く正反対の、フワフワと落ち着かない様な、でもとても温かくて幸せな気持ちが溢れ出す。

 クロムから受け取ったその包みをそっと開けると、中には美味しそうな焼き菓子が幾つも入っていて。

 だが、何よりもルフレの為に態々クロムが変装してまで買い求めに行ってくれた事が嬉しい。

 

 菓子の入った包みを大切に胸に抱きながら、ルフレは幸せな思いと共に提案する。

 

 

「ありがとうございます、クロムさん。とても嬉しいです。

 良かったら、一緒に食べませんか?」

 

 

 ゆっくりと頷いたクロムのその頬は、仄かに赤色に染まっていたのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『影の輪郭』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 今が『幸せ』だと、そう感じる度に。

 少しばかりそこに、不安にも似た恐怖の様な「何か」も感じてしまう。

「それ」は、満たされる程に、『幸せ』である程に。

 心の奥底に焦げ付いた「何か」が、急き立てる様に、或いは責め立てる様に、己の心に爪を立てる様にその痛みと苦しみを訴えてくるのだ。

 忘れるな、絶対に忘れるな、と。

 

 だが分からない。一体に何を忘れてはいけないのかを。

 そして、自分が何を忘れてしまったのかを……。

 ルフレには、何も分からなかった。

 

 ルフレには己の過去に関する記憶が無い。

 一度、何もかもを忘れてしまっていた。

 恐らくは、忘れたくなど無かった事も、忘れてはならなかった事も、その何もかもを等しく忘れてしまった。

 ルフレの心を責め立てるその苦しみは、ルフレが喪ったその過去に起因しているのだろうか。

 大切であった筈のモノを喪った事への呵責が、ルフレ自身には知覚出来ない心の虚ろが。確かにそこに存在していたモノを、その残響を、訴えているのだろうか、それを思い出そうと藻掻いているのだろうか。

 ……だけれども、分からないのだ。

 ルフレには、何も思い出せない。

 苦しくても、辛くても、思い出したいと思っても。

 何を喪ったのかすら分からない。

 そして、だからこそ、ルフレは恐ろしいのだ。

 今この瞬間の『幸せ』すら……。

 こんなにも喪い難く愛しい日々を、絆を、その記憶を、それすらも。

 何時か。自分は、喪ってしまうのではないかと。

 一度、何もかもを喪ってしまった様に。

 今の『自分』を形作るモノを、何時か自分は何もかも再び喪ってしまうのではないかと。そんな不安に苛まれてしまう。

 

 それは考え過ぎであるのかもしれない。

 記憶を全て喪うなんて事は、そう起こる訳では無いだろう。

 ……それでも、一度既に喪っていると言う事実は……そしてかつての己の欠片を未だ何も思い出せないと言う事実は。

 ルフレの心に不安の種を植え付け、そして澱の様に心の奥底に堆積する恐怖と焦燥を掻き立てていく。

 忘れたくない。忘れたくなんてない、忘れてはいけない。

 だけれども、忘れてしまうかもしれない。

 ある日突然、何かを切欠として、今の『自分』とは違う「自分」になってしまうかもしれない。

 ルフレにとって、「自分」と言うモノの絶対性とは、容易く揺らぐ不確かなものでしかなかった。だからこそ恐ろしい。

 満たされた日々を、愛しい人を。

 自分にとって喪い難い何もかもを、喪ってしまうかもしれないその可能性が。

 ……恐ろしくて、仕方ないのだ。

 

 ルフレは、クロムの腕に抱かれながら、何時か訪れるかもしれない「喪失」への恐怖に、僅かにその眼差しを揺らした。

 ほんの一瞬、ルフレの表層に現れただけのその感情を、クロムは見逃さずに、ルフレの身体を優しく抱き締めながら、囁く様にルフレに訊ねる。

 

 

「どうした、ルフレ。何か不安な事でもあるのか?」

 

 

 心の奥に静かに響く様な、その優しい声に。

 そしてその厚い胸板から伝わるその体温に。

 ルフレの恐怖は僅かに揺らぎ、そして同時に満たされているからこそ、その胸の内の焦燥はより強くなった。

 ただの杞憂でしかないのだろうその「不安」を打ち明けるべきだろうかと、ルフレは僅かに逡巡した。

 しかし結局は、クロムの温もりに促される様にルフレはそれを打ち明ける。

 考え過ぎだと、そう笑い飛ばしてくれるのかもしれない。

 或いは。そんな事は無いと優しく抱き締めて、ルフレの不安も焦燥も何もかもを甘く溶かしてくれるのかもしれない。

 

 だけれども、クロムの反応はルフレが想像していたどの様なモノとも異なっていた。

 

 

「忘れない」

 

 

 何時になく真剣な眼差しでルフレを見詰め、クロムは誓う様に……祈る様に、そうルフレへと囁く。

 

 

「例えこの目が見えなくなったとしても、俺はお前の声を絶対に忘れない。

 世界から音を喪ったとしても、俺はお前の匂いを忘れない。

 匂いすら奪われても、お前の温もりを、お前の肌の柔らかさを、この髪の指通りを、俺は絶対に忘れない。

 お前が何を忘れても、何度喪っても、俺だけは絶対に。

 何が在っても、お前だけは幾万幾億の中からでも必ず見付けて見せる。

 此処に居るお前を、何度だって何が在ったって。

 何処に居てでも見付けて見せる。何度だって何度だって……。

 だからルフレ、俺の中にお前の事をもっと刻み付けてくれ。

 俺の指を噛む強さでお前なんだと……そう何があっても間違え無い程に深く深く……。

 お前の全てを、俺に刻んでくれ」

 

 

 ルフレを抱き締める力が、より一層強くなる。

 ルフレの首筋を優しく噛む、鈍く甘いその痛みが、クロムの想いを強く強くルフレへと伝えていく。

 

 ……クロムが『ルフレ』の何もかもを覚えていても、何を喪っても僅かに残るのだろう『ルフレ』の欠片を絶対に探し出せるのだとしても。

 それでも、ルフレが失い難い何かを喪わないと言う保証がある訳では無い。この世に絶対など無い。

 

 ……だけれども、クロムの中に確かに『ルフレ』が存在し続けるのならば。

『ルフレ』の「影」がそこに遺るのならば。

 何時か何もかもを喪うのだとしても、それでもきっと、遺るモノがあるのだろうと、そう信じたい。

「自分」が「何」に成り果てるのだとしても、きっと。

 クロムだけは『ルフレ』を見付けてくれるのなら。

 それは、間違いなく「救い」なのだと、そう思いたい。

 

 クロムがそっとルフレの頬へ寄せた指先を、ルフレは優しく噛んで、その誓いを返した。

 何があってもクロムが自分を忘れない様に、その心の奥深くに、彼の全てに、己の全てを刻む様に。

 

 何時か、それが恐怖の何もかもを越えていく事を信じて。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『恋願えば』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 己を無欲だと思った事は無いが、強欲だと思った事も無い。

 望めば多くのモノを手に出来る立場であるからこそ、その我欲はなるべく律しなければならないと言う思いがあった。

 それなのに……──

 

 

 自警団の団長と戦術家として、戦乱の中で半ば済し崩しに自警団が国軍の中核を担う様になってからは軍主と軍師として。

 その立場や関係性は多少変わりはしたけれど、それでもあの日記憶の無い真っ新な彼女と出逢った時から、クロムとルフレの関係に大きな変化は無い。

 恐らくルフレにとって最も多くの時間を共に過ごしているのはクロムであるのだろうし、その分クロムはルフレの事を知っている……筈だ。

 とは言え多くの時間を共に過ごしているのだとしても、それで相手の全てを知る事など当然出来はしない。

 クロムの知らない側面、知らない表情、知らない感情。

 そんなものは幾らでもあるのだし、どんな関係性であるにしても相手の全てを知る事も手に入れる事も出来ない。

 それはルフレに限った話では無く、自警団の仲間達やフレデリク、リズや姉だってそうだ。それが当然なのだ。

 

 そんな事、一々考えるまでも無く知っている、分かっている。

 それなのにどうしてだか、ルフレに関してだけは、クロムですら知らない彼女を他人が知っている事に対して、胸の内に靄がかった様な居心地の悪さにも似た何かを感じてしまうのだ。

 そんな事は物心付いてから初めてで、どうすれば良いのかも分からなくて、自分の感情である筈なのに持て余してしまう。

 

 軍議の合間にフレデリクと話し合う時のその真剣な眼差しに。

 斥候として情報を持ち帰ったガイアに向けるその表情に。

 ヴィオールと共に盤上で戦略を競い合わせている時の、自分の知啓を振り絞り競い合わせる悦びが零れた不敵な微笑みに。

 リヒトと過ごしている時に見せる年端の行かぬ子供を見守るまるで慈母であるかの様に優しい表情に。

 ソールと過ごす時に見せる気心知れた友への穏やかな表情に。

 クロムではない相手に、その相手だけに見せているのであろう表情を、その感情を、クロムが知らなかったルフレの一面を僅かに垣間見た時に。言葉では表現し尽くせない強い衝動を。

 嫉妬とも、或いは焦燥とも似て非なる情動を抱いてしまう。

 自分が知らない一面が在る事は当然だと分かっていて。

 軍主と軍師、「半身」にも等しい友であるのだとしても、違う存在である以上は相手の全てを理解する事なんて叶わず、相手の全てを自分のものにするなんて神であっても叶わない事だ。

 それなのに、ルフレの全てを己のものにしたいと言う衝動は。

 他人には見せるのに自分は知らない一面がある事に身を焼く様な感情のうねりは。どんなに己を律しようと努めても鎮まる事がないばかりか、益々燃え盛る炎の様に胸の内を焦がすのだ。

 

 ルフレに抱くこの想いは「恋情」の類であるのだろうか? 

 だが、自分でも醜いとすら思う様な、この傲慢で強欲で道理を弁えない様な自分勝手な感情は、「恋」と言う言葉には似つかわしくない様に思えてしまう。

「恋」とは、もっと優しく温かなものなのではないだろうか。

 そのイメージは、クロムが未だ「恋」と言うものをロクに知らないが故の幻想であるのかも知れないけれども。

 ただそれが何であれ、ルフレに対して荒々しく衝動的なまでの強い感情を抱いている事だけは確かである。

 ただ……自分の内に在る感情の存在を理解していても、それをどうすれば良いのかの答えはクロム自身にもまだ分からない。

 今の時点で、互いの関係性はこの様な感情を向け合う様なものではない。大切な仲間であり「半身」であるけれども。

 しかしそれは、恋人などと言った関係性とは全く違うものだ。

 

 ならば、この想いを伝えれば良いのだろうか? 

 その上で、ルフレからの恋情を乞えば良いのだろうか? 

 ……しかし、クロムがルフレに対して「恋」にも似た何かの感情を抱いているのだとしても、ルフレがクロムに対してその様な感情を抱いているのかは分からない。

 ……「好意」は、間違いなくあるだろう。ただ……好意的な感情の全てが「恋情」と同じである訳は無く、ルフレの抱くそれが、恋愛感情などとは程遠い感情である可能性は当然ある。

 寧ろ「恋心」と言う意味でなら、クロムでは無く他の仲間達へ向けている好意の方が当てはまるのかもしれない。

 

 思い返してみれば。

 ガイアとルフレは何かにつけて交流しているし、ルフレが砂糖菓子を報酬にガイアに何事か頼んでいる姿は幾度も見ている。

 フレデリクとルフレは同じくクロムの傍に居る者として共に過ごしている時間はかなり長いし、そうでなくても個人的な付き合いもかなり多い方であろう。

 共に盤上遊戯を愉しむ仲であるヴィオールとはかなりの接戦を繰り広げており、そうやって対等に盤を挟める相手との交流をルフレは間違いなく楽しみにしている。

 そして彼等だけに留まらず、交流関係の広いルフレは老若男女問わずに仲間達全員と親しく付き合っている。

 

 クロムの目から見てルフレが明らかに誰かに「恋」をしている様な風には見えないが、そもそもルフレの場合誰かにそう言った想いを寄せていてもそれを余人には悟らせないであろう。

 ルフレが本気で自分の想いを隠している場合はそれに気付ける自信はクロムには無い。……そして、ルフレが自分以外の誰かに対し想いを寄せていても、それを止める権利もまた、無い。

 それを分かっていても、ルフレが自分以外の誰かに笑顔を向けている様を見ていると、心を許し語り合う姿を見ていると、どうしようもなく胸が騒めくのだ。

 それが苦しいとすら感じるのに、それでいて尚、そうしたルフレの姿を目で追ってしまう。

 己の想いを自覚してからは、そんな矛盾を抱え続けていた。

 

 しかしだからと言って、ルフレの意志を無視する様に自分の想いを告げて迫る事は、クロムには出来なかった。

 

 クロムが思いを告げたとしたら、ルフレがそれを無碍に扱う事は無いだろう。クロムに対しその様な感情を抱いてなくても。

 ……だが、そうやってクロムの想いが受け入れられるとして、そこにあるのは、果たしてクロムが望むものなのだろうか? 

 自らの立場などを利用して強要する事と何が違うのだろうか。

 ……一歩間違えればそれは、クロムが本当に欲していたものを永遠に失う結果になるだろうし、もしそうなった時には元の関係性に戻る事も叶わない。

 自分らしからぬ臆病さではあるけれども、その可能性を考えるとどうしても衝動のままに想いを告げる事は出来なかった。

 しかし、胸に抱えた想いは心の奥底に閉じ込める事も難しく。

 ルフレの姿を目にするだけで、息をする事も儘ならない様な苦しさすら覚えてしまう。

 何かの切欠があれば容易く決壊してしまいそうな想いは、既に限界まで張り詰めていて。「その時」を待ち侘びていた。

 

 そして「その時」は、突然訪れたのであった。

 

 

 

 ルフレは何時も忙しそうに、彼方此方を動き回っている。

 策を練るだけでなく、訓練に参加したり、或いは兵站の管理にも携わったりと、常に何かをしているのだ。

 過労を心配する程であるのだが、クロムが幾ら言っても、ルフレはそれとなく流してしまう。

 そんなに必死になって働き続けては何時か倒れてしまうのではないかと思うのだが……。

 今は戦時中なのだから、と。ルフレは足りない人手を補う為にと人の何倍も働き詰めになっている。

 それをどうしたら止めてやれるのか、クロムには分からない。

 実際、ルフレの働きに助けられているのだ。ルフレに頼っている自覚はあるだけに、それを強くは止めきれなかった。

 

 今も、ルフレは沢山の魔道書の在庫を抱えて歩いていた。

 前が見えなくなる程の大量の本にルフレの足元はふらついていて、その危なっかしさに、クロムは思わずルフレの身体を抱える様にして支える。

 

 

「あっ……と。有難うございます、クロムさん」

 

「大丈夫か? そんな足元が見えない程物を持つのは危ない。

 他の人の手を借りるか、もっと小分けにして運んでくれ」

 

「心配させちゃってすみません。でも、皆忙しそうですし……。

 それに。これ位ならへっちゃらですよ。

 私、こう見えて結構力持ちなんです」

 

 

 ほら見てくださいこの力こぶ、と。そう言ってルフレは柔らかな二の腕を晒し、力こぶを作って見せるが……そう自信満々に言い切るには少し頼り無い。

 それよりも、突然ルフレに二の腕を晒された事に、クロムは思わず焦ってしまう。

 

 

「分かったから分かったから。

 そうやって異性の前で気軽に腕を出すんじゃない。

 俺ならまだしも、変な気を起こす奴が居たらどうするんだ」

 

 

 そう言ってもルフレは今一つピンとは来ていない様で、少し首を傾げてクロムに訊ね返してくる。

 

 

「変な気……? 何ですか、それ。

 クロムさんには起きないんですか?」

 

 

 クロムの気も知らずにそんな事を宣うルフレに、クロムは思わず深い溜息を吐いた。

 今まで考えてこなかったが、よくよく考えればルフレはクロムに出逢うまでの記憶が無い。だからこそ、クロムにとっては当然在るのだろうと考えていた、男女の恋愛のそれと言うのか……そう言った知識の諸々が欠けているのかも知れない。

 ……恐らく、ルフレには本当に、「恋愛感情」に似たそれや、それに関する駆け引きなどの意識は無い。知らないのだ。

 知らないからこそ、ルフレは余りにも無防備過ぎるのだ。

 これでは、勘違いする者が出て来てもおかしくはない。

 そして、クロム自身、意識せずには居られなかった。

 

 

「あるに決まっているだろう」

 

 

 別に、脅かす気など無かった。

 ただ、少しでもこれを切欠にルフレが自分を意識すれば、と。

 そんな打算は、無意識の内に在ったのかもしれない。

 

 クロムは、ルフレを抱き留めた腕に力を込めて、その身体を引き寄せて。口付けすら出来てしまいそうに顔と顔を近付けて、ルフレの目を真っ直ぐに覗き込む。

 その視線からクロムの胸の奥に滾る熱がルフレに伝わっていく様にすら感じた。

 

 ルフレは、何が起きたのか分からないと言いた気に、戸惑いと共に困惑した様な顔でクロムを見ていたが。

 次第にその頬は上気する様に紅く染まり、呼吸は早くなる。

 だが、固まってしまったかの様にクロムから視線は離さない。

 

 

「く、クロムさん……?」

 

 

 僅かに震える声は隠しきれない同様に上擦っていて。

 その反応が可愛くて、思わず口付けしてしまおうかと、……そんな考えがクロムの脳裏を過ったが、これ以上ルフレを一気に追い詰めるのも良い結果にならない気がして自重する。

 だからクロムは名残惜しくも抱き締めていた腕を解いて、ルフレを離した。

 すると途端に、ルフレは焦った様にクロムから距離を取る。

 

 

「ほら、こうなっても困るだろう? 

 だから、これからは気を付けるんだぞ」

 

 

 そう言ってやると、ルフレは過剰な程に頷いて、そして顔を真っ赤にしてその場を逃げ出した。

 耳まで紅く染まったそれを見るに、ルフレにクロムを意識させる事が出来たのだろうか? 

 それは、分からないが。

 

 ルフレに自分のこの想いを伝えられる機会がある事を確信し、クロムは自然と笑みを浮かべる。

 それは、獲物を見定めそれを狙う、猛獣の様に何処か荒々しい笑みであった。

 

 

 その後、どうなったのかは語るまでも無い事だ。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『竜は少女の夢を見るか?』【上】

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 人は、本質的に自分と「異なるモノ」や、自分では「理解出来ないモノ」を拒絶する生き物だ。

「許容」出来る範囲を超えた時、その【差異】を持つ存在を自分たちの社会から排除し排斥しようとする。

 貧富の差、文化の差、宗教の差、種族の差……。

 人の歴史とは、拒絶と其処から生じた断絶による争いに今も昔も満ち溢れている。

 同じ集団に属していたとしてもほんの些細な切欠で拒絶される側になる事などこの世に数多く存在する。

 そしてそれはその集団が大きくなればなる程、拒絶の強さは際限なく大きくなっていくものだ。

 個人と個人では互いを理解し尊重し合える関係であっても、集団に帰属した途端に偏見に囚われ集合無意識的な憎悪によって他者を拒絶する。何とも愚かしく、だが集団を維持する為に常に付き纏うものが偏見と拒絶だ。

 個人個人の間に在る感情や情愛など、その大きなうねりの中では本当にちっぽけなもので。拒絶の悪意に逆らい切る程の力も無く踏み潰されてしまう事は珍しく無い。

 

 ……ただ、それでも。そんな拒絶の壁を越える事が出来るものがあるのだとすれば、それはきっと……──

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 絶え間無く襲い来る激しい痛みを伴った強烈な違和感に苛まれた、微かな呻き声と共に喘ぐ様な荒い息が、静寂に満ちた暗い夜の森に満ちる。

 痛みと恐怖に耐えきれずに地に倒れ込んでしまったルフレは、痛みからか霞む視界の中で。耐え難い苦しみから地を掻き毟っていた自身の指先が、鉄でも切り裂けてしまえそうな程に鋭く、そして大きい……人間では有り得ない様な形に変化して行くのを見てしまった。

 爪の変化と平行する様に、指先の皮膚を引き裂く様にして黒い鱗が飛び出して、指先から手の甲へ、そして手首へと瞬きよりも凄まじい速さで、人間としての己の手を侵食するかの様に生えていく。

 訳も分からぬ事態に直面しその恐怖から堪らず上げた悲鳴は、身体中が乱暴に掻き混ぜられ無理矢理に変えられていくかの様な悍ましさと息をする事すらままならない程の激烈な苦痛の中で無意識の内に荒げていた吐息に

 殺されて、何処にも届かない。……何かに届いていたのだとしても、それはきっと邪悪な「何か」なのだろう。

 その身を侵食し恐ろしい何かに変貌させていく元凶の様なその黒く硬い鱗を必死に毟り取ろうとするが、確かに己の身体から生えているそれは、引き千切る度に激しい痛みを伴いその傷口からは血が溢れてしまう。

 その痛みを無視してでも鱗を毟り続けるが、毟り取るその速さよりも遥かに速く鱗は身体を侵食していく。

 そして毟られた部分にも直ぐに鱗が生え直り、それどころか鱗に覆われた腕は次第にその形状すら人間らしい形から逸脱していき、鱗を毟る事も儘ならなくなる。

 変わり果てて行く手首の辺りから二の腕に掛けて、暗い虹色をした鳥の様な羽根と共に翼が形成され、手は鉤爪を備えた怪物的な形状へと変化していく。

 そして、その変貌は腕だけに留まらず、服の下をも侵食し、その身体の全てを造り変えようとしていた。

 背中を食い破る様に一際大きな翼がそこに生え、足は固い靴を引き裂く様にして腕に起きたそれと同様に怪物的な変貌を遂げていく。

 人間の姿を失っていく自身に恐怖しても、最早その変化はルフレの意思ではどうにもならないものであった。

「止めて、あたしを化け物にしないで」と、そう悲鳴の様に懇願する声を上げても、何も変わらない。

 ……予兆は、無かった訳ではなかった。

 それはきっと、未来からやって来たギムレー……いやもう一人の『ルフレ』が、『竜の祭壇』で邪竜ギムレーとしての力を取り戻し再臨した直後から始まってはいた。

 元より、ルフレと『ルフレ』は「同じ」存在であり、一度不可分な程に強く混ざり合った事で、その繋がりは単純な「過去」と「未来」の同一人物と言うそれだけには収まらないものにまで変化していたのだ。

 だからこそ、『ルフレ』が過去に戻った際に喪っていたギムレーとしての力を取り戻してそれを発揮したあの時。

 ルフレは確かに、自分の中の何かが変わった様な……何かの箍が壊れた様な気配を感じていた。

 だが、その時はそれに気を取られている様な余裕など無くて、己の失態で奪われてしまった『炎の紋章』をギムレー再臨の混乱の中で奪い返すだけで精一杯だった。

 そしてその晩改めて自分の身体を確かめた時は、時折身体が奇妙に微かに痛むだけで他には何も無かったのだ。

 しかし二晩目に姿見に映ったその姿は、妙に歯が鋭くなりまるで獣の牙の様な歯も生えていた。

 更には、元々それなり以上に敏感だった目や耳や鼻が更に研ぎ澄まされて。

 その時点で何かおかしいとは思っていたのだけれども。

 復活したギムレーに対抗する為の『覚醒の儀』への準備を押し進める事を優先して、誰にも言い出せなかった。

 ……尤も、誰に相談していた所でどうにかなるものであったのかはルフレには分からない事ではあるが。

 

 とにかく、ギムレーが復活して三日が経った夜半。

 眠る前に明日の行軍路を練っている最中、突如今までに感じた事もない様な身体の異常を感じ取り、思わず姿見で確かめたそこには。

 人間には存在しない筈の角が両側の米神から生え、真っ赤な瞳を爛々と輝かせている自身の姿があった。

 その角が、ギムレーのそれとよく似ている事に瞬時に気付いてしまったルフレは、咄嗟に天幕を抜け出して夜の森へと身を潜めたのだ。

 

 夜半にルフレの天幕を訪れる者などそう多くは居ないが、不意に誰かが来ないとも限らない。こんな異質に変わった自身の姿を余人の目に晒す訳にはいかなかった。

 ただでさえギムレーが復活してしまい、軍内部には緊張と動揺が拡がっているのだ。

 これからギムレーとの戦いを控えている状況では、これ以上士気を下げる訳にはいかず、自身がその要因になるなど到底容認出来る事では無かった。

 ルフレとて、何が起きているのか……これから先自身がどうなるのかなんてさっぱり分からず、恐怖と混乱の渦中にあったが、それでも軍師としての直観と判断から、何処かに身を隠すべきだと判断したのであった。

 

 

 少しでも野営地から離れる為に誰も居ない暗い森の中を彷徨う内にも、これ以上何も起こらないでくれと祈る事しか出来ないルフレの無力を嘲笑うかの様に。

 身体の変化は、無情にもルフレを襲い続けた。

 恐怖と絶望にも近い混乱の中で刻一刻とルフレは人間の形を喪い、終には異形の存在へと変わり果てて……。

 月明かりに照らされて暗い森に落ちた影は、その異形の姿があの邪竜のそれと極めて似ているものである事を、まざまざとルフレに見せ付けるのであった。

 

 どうして、と。

 声にはならない悲鳴をルフレは上げた。

 確かに、ルフレは「邪竜の器」としてこの世に生を受けた存在であり、ギムレーへと成り果て得る者だ。

 だが、ギムレーの『覚醒の儀』は行われてはいない以上、今ここに居るルフレはギムレーにはならない筈だ。

 しかし現実としてルフレの肉体は、あの邪竜に近しい恐ろしい異形の竜の姿へと変わり果ててしまった。

 ノノやチキと言ったマムクート達が化身する竜の姿とは似ても似つかぬその姿は、あの復活したギムレーの姿を見た者達の恐怖を煽るだけのものでしかない。

 

 大きさはアレとは比べ物にならぬ程に小さいとは言え、マムクートが化身した竜以上の大きさはあり、人間など容易く一呑みにしてしまえるだろう。

 恐らくあの邪竜と同様に三対に増えたのだろう眼は、光に乏しい中でも十分以上の視野をルフレに与えている。

 喉の奥に渦巻く様に凝る膨大な魔力は、ルフレが普段戦場で用いている最も強い魔法がまるで子供が練習で使うモノであるかの様に錯覚させる程に膨大で。

 それを破壊の意志の下に解き放てば、村や小さな町の一つや二つ、瞬く程の間も置かずして灰燼に帰すだろう。

 それは、人間とは余りにも似つかぬ「化け物」だった。

 こんな「化け物」の姿を見て、誰がそれを『ルフレ』だと気付いてくれるのか。そこに在る意識が『ルフレ』のモノだと気付いてくれるのだろうか。

 いや万が一『ルフレ』だと気付いたとして、それで今のルフレを受け入れてくれる事なんて有り得ないだろう。

「化け物」だと謗られルフレであると気付かれる事も無いままに攻撃される事も辛いが、『ルフレ』が変わり果てた存在だと理解された上で、人とは相容れぬ「化け物」だと拒絶される方が、ルフレにはより耐えられない。

 身体がこの様な「化け物」へと成り果てていても尚、その心は何も変わらず自身のままである事は間違いなくこんな異常事態の中では幸いな事であるのだけれども。

 そこにルフレとしての心と思考があるからこそ、より悪い方へ悪い方へと思考が傾きそこに囚われてしまう。

 

 ……もし、もしも。

 誰よりも愛しい彼に、その剣を向けられでもしたら。

 自分は、壊れ狂い果ててしまうのではないか、と。

 それは想像するだけでも耐えられない程に恐ろしい事ではあったが。それと同時に、そうなっても仕方が無い事なのだと、何処か諦めすらルフレは抱いていた。

 こんなギムレー擬きの姿に変わり果てた存在が、人々に受け入れられる筈なんて無いのだから。

 

 訳も分からない事態に混乱し、変わり果てた己を呪い、そしてどうする事も出来ないまま絶望に沈んだルフレは、ふと何者かが近付いて来ている事に気が付いた。

 こんな夜半の森で誰が近付いてきているのかはまだ遠い為に流石に分からないが、こんな異形の姿を誰の目であっても晒す訳にはいかないと言う判断は付く。

 音を立てぬ様に注意して三対の翼をぎこちなく動かし、夜の木々の暗がりへとルフレは身を潜める。

 このまま見つかりません様に、と。そう祈るが、幾ら暗がりに身を潜めていてもこの身体の大きさでは完全に身を隠す事は出来ず、気付かれる可能性は十分に有る。

 恐る恐る木々の間からこっそりと顔を出して、誰が近付いてこようとしているのか窺おうとしたその時だった。

 

 

 

「ルフレ、そこに居るんだろう?」

 

 

 

 誰よりも愛しくて、そして今は誰よりも顔を合わせたくない彼の──クロムの声が、夜の森に響く。

 

 

『──っ!!』

 

 

 恐れていた最悪の事態の可能性が瞬時に脳裏を過り、思わず小さな悲鳴を上げかけたが何とかそれを噛み殺す。

 だが、クロムはそれを聞き逃してはくれなかった。

 ……クロムは、こう言う時に限って何時も以上に鋭い。

 

 

「何でそんな所に隠れているんだ? 

 今夜は冷える、早く天幕へ戻ろう」

 

 

 そんな優しい言葉と共にルフレの方へと近付いて来ようとするクロムに、思わずルフレは叫んだ。

 

 

『ダメ、こっちに来ないで!!』

 

 

 その声は間違いなくルフレ自身の声であったが、同時に何処と無く恐ろしい唸り声の様な異音も混ざっている。

 本来の声すらも喪ったのかと、絶望が更に重なった。

 思いもよらぬルフレの鋭い声に、射竦められたかの様にクロムは一瞬立ち止まりかけるが。

 直ぐ様、ルフレの身に尋常ならざる何かがあったのではないかと、ルフレの元へと駆け付けようとする。

 そんなクロムの行動に、ルフレは思わずその場を逃げ出そうとするが、如何せん慣れぬ異形の身だ。

 咄嗟に翼を動かそうとするがどうにも上手くいかない。

 

 

「ルフレ──」

 

『こっちに来ないで! 

 お願い、あたしを見ないで!!』

 

 

 そうルフレは吼えるが、最早既に手遅れで。

 クロムは、ルフレの姿をまざまざと見てしまった。

 

 木々の合間から僅かに零れる月明かりに照らされたその姿は、どう見てもクロムのよく知るルフレではなくて。

 ギムレーによく似た……しかしそれに比べればずっと小型の、竜としか言えない異形の存在が、そこに居た。

 クロムは一瞬、驚愕の余りに言葉を喪う。

 驚愕の余りに思考が鈍くなりながらも、クロムの思考の中で冷静な部分は目の前の存在を観察する。

 

 大きさは間違いなくギムレーよりも小さく、竜の姿に化身した際のチキやノノと同じか少し大きい位だ。

 あの邪竜と違って角は少し短く、禍々しい気配は無い。

 そして何よりも。赤々と光る目一杯に涙を浮かべたその異形の存在は、クロムの姿に怯える様に震えていて。

『こっちに来ないで、見ないで、……嫌わないで』と、紛れも無くルフレの声で泣いていた。

 

 予想すらしていなかったその光景にクロムは衝撃を受けた様に立ち尽くし、そんなクロムの姿にルフレはますます拒絶される恐怖に怯える。

 

 

「ルフレ、なのか……?」

 

 

 そう絞り出す様に訊ねるクロムに、ルフレは違う、と必死に首を横に振った。

 

 

『違う、あたしは……あたしは……』

 

 

 ルフレは咄嗟に否定したものの、しかしそれ以上の言葉は続かない。元より混乱している為、どうすれば良いのかなんて皆目見当も付かなかった。途方に暮れた様に言葉を喪って、獣の様に小さく唸る事しか出来ない。

 怖くて怖くて、仕方が無かった。

 本心で言えば、クロムに縋り付いて泣き喚きたい。

 それでも、そんな事は出来ない。それも分かっている。

 

 そんなルフレの姿に。

 クロムとて何が起きているのかは理解しきれてはいないものの、目の前のこの異形の存在が『ルフレ』であるのだとそう直感で判断し、そして恐れる事なく近付いた。

 

 

「ルフレ……」

 

 

 硬い鱗に覆われたその長い首にそっと触れても、『ルフレ』であろう異形はクロムを攻撃しようとはしない。

 それどころか益々怯えた様に身を引こうとする。

 その反応に目の前の異形が『ルフレ』であると確信し、クロムは逃がさないとばかりに異形の身体を抱き締めた。

 優しく擦る様に、その首筋をゆっくりと撫でてやる。

 

 

「大丈夫だ、ルフレ。

 どんな姿でも、お前はお前だ。

 俺の一番大切な、ルフレなんだ。

 だからほら、……もう泣くな」

 

 

 そう言ってあやす様に声を掛けると。

 訳も分からない事態に怯え、異形となった自身に怯え、そしてクロムに拒絶される事に怯えていたルフレは。

 漸く少しだけ落ち着きを取り戻したかの様に、その身を恐怖に震わせる事を止めて。

 クロムに身も心も全て預けるかの様に、異形のそれと化している頭を擦り寄せた。

 

 その途端、異形の姿は解ける様に消える。

 そして、クロムは力強く抱き締め返された。

 

 

「クロム、あたし……あたし……。

 怖かった、の……。

 突然、あんな姿になって。

 嫌われるって。クロムや皆から、化け物だって言われると思って。怖くて……でもどうにも出来なくて……」

 

「そうか。

 ……だが大丈夫だ、ルフレ。

 お前がどんな姿になっても、俺はお前を愛している。

 何があっても、お前がお前である限り……。

 だから、もう泣くな……。

 俺は、此処に居る。ずっとお前の傍に居るから……」

 

 

 竜の姿が消えたそこに居るのは、確かにルフレだった。

 だが、頭には小ぶりながらも角が生え、その背からは大きな翼が生えている上に、剥き出しになった腕と足からも翼の様に羽が生え、……そして尾も生えている。

 人間と竜を混ぜ合わせて人型にした様なその姿は、見る者によっては『化け物』として映るのかもしれない。

 だが、クロムにとってはどんな姿であっても、それが愛しいルフレの姿である事には微塵も変わりは無かった。

 ルフレが何者であっても、この想いは変わりはしない。

 ギムレーの器であっても、人としての姿を喪っても。

 何があっても、絶対に。

 

 

「あんな、ギムレーみたいな『化け物』の姿になっても。

 それでも、あたしの事を愛してくれるの……?」

 

「ああ、勿論だ」

 

 

 例えもしあの姿のままであったとしても、ルフレを愛し続ける自信と覚悟がクロムにはあった。

 そして、『人』の枠組みから外れてしまったルフレを、人々の心無い悪意から守り通す覚悟も。

 何をしてでも愛し守り続ける覚悟を、目の前の存在がルフレだと確信した瞬間にはもう抱いていた。

 ……この先、様々な困難が押し寄せる事になるだろう。

 ルフレ程冴え渡る頭脳を持っていなくても、その程度の事はクロムにも分かる。それでも、尚。

 

 

 

「大丈夫だ、ルフレ。

 俺は絶対にお前を守ってみせる。

 何があっても、何をしてでも……」

 

 

 

 そう言い切ったクロムに、最も恐れていた絶望からは解放されたルフレは。生まれたばかりの赤子の様に泣きじゃくりながら、そっとしがみつくのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 泣きじゃくる内に緊張の糸が切れたのか、自身を襲った異常な事態への恐怖と混乱によって既に精神的に一杯一杯だったルフレは、クロムに縋り付く様な状態のままその腕の中で眠りに落ちてしまった。

 その為、クロムはそんなルフレの姿が人目に晒されない様に、身に付けていたマントを外してルフレにかけてその姿を隠してやり、優しく抱き抱えて人目が無い事を確認しながら自分達の天幕へと急ぎ戻る。

 不寝番など以外にはもう天幕の外を彷徨く様な者など殆ど居ない時間帯であった事も幸いして、誰の目にも留まらずにクロムはルフレを天幕に連れ帰る事に成功した。

 そしてルフレをベッドへと優しく横たわらせ、改めてルフレの姿を観察する。

 

 インナーの背を破る様な形で生えた翼はルフレの寝息に合わせて微かに震えていて、クロムが触れてみたところ鳥や天馬が持つ翼と限り無くよく似た質感であった。

 卓上のランプの明かりに鈍く暗い虹色の輝きを返すその翼は、その大きさこそ違えども、紛れもなくギムレーの持つ翼とほぼ同じものであろう。

 何時ものコートは脱いでいる為に露出した前腕から上肢にかけては風切り羽と思われる羽などが生えていて、それはまるで腕が翼へと変異しかけている所を途中で止めてしまったかの様な異質な見た目になっていた。

 足も腕とほぼ同様の状態である。

 その腰からは竜の尾が生え、リラックスしているからなのか力なくベッドの上に投げ出されていた。

 頭に生えた角は、ギムレーのそれと形はよく似ているのだがその大きさは短く小振りで、コートのフードを被っていれば誰にも分からない程度である。

 背の翼を優しく撫でてみると、フワフワとした質感が軽く抵抗する様に押し返してくるのと共に、擽ったがっている様な声が、眠っているルフレの口から零れた。

 尻尾も、間違いなくルフレの身体から生えている。

 

 クロムの服の裾を強く握ったまま何処か不安そうな表情で寝息を立てるルフレのその頭を優しく撫でてやり、クロムもベッドに腰掛けた。

 そして現状を整理し直して一つ溜め息を溢す。

 

 何がどうなってこうなったのか、クロムにもルフレ自身にも分からないのだ。

 ギムレーの様な異形の姿からは戻れたとは言えるが、人と竜が混ざった様な現在のルフレの姿も余人の目に触れさせる訳にはいかない。

 

 ルフレは、拒絶され嫌われる事を極度に恐れていた。

 ……それは無理も無い話である。

 クロムにとっては、竜の姿だろうと混ざった姿だろうと、それは全て等しくルフレであるのだし、どの様に姿が変わったとしてもそれで拒絶する事など有り得ない。

 しかし、それを他人に強要出来無い事は分かっている。

 ルフレのこの姿が人目に晒されれば、怯えて逃げる者や、拒絶しルフレを害そうとする者も出てくるだろう。

 それは、既に望まぬ変異に苦しめられ混乱するルフレの心を、更に深く傷付けてしまう。

 故に、この事は極力隠し通さねばならない。

 とは言え、このままクロムとルフレの間だけで抱え続けていける様な問題でも無かった。

 この事態に対応し何らかの解決手段を講じる為の知識が無いクロムとルフレだけではどうしようもないのだ。

 この事態には何らかの呪術の影響がある場合も考えられるし、もっと何か別の要因があるのかもしれない。

 一度、信頼出来る専門家の力を借りるべきであった。

 呪術に関する知識と才が豊富であり口も固くこの姿のルフレを見ても拒絶する事は無いであろうサーリャと、神竜ナーガの巫女としてその声を聴く事も出来る上に竜に化身するマムクートであるチキ。

 少なくともこの二人の協力は仰ぐべきである。

 

 しかし既に夜も更けて来た頃合いだ。

 彼女等はもう既に眠ってしまっているであり、幾ら異常事態とは言え彼女らを叩き起こすのは忍びない。

 そして何より、クロムも疲労からか目蓋が重たかった。

 

 

 明日の朝、彼女等の助力を仰ごうと改めて決めたクロムは、ルフレを抱き締めて眠りに就くのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 天幕の隙間から射し込む光と、朝を賑やかに彩る鳥の囀りによって、ルフレは目を覚ました。

 

 寝起きでまだぼんやりとした頭で軽く辺りを見回すと、クロムの寝顔が真横にあって。

 クロムの寝顔など、妻であるルフレにとっては最早見慣れたものであるのだが、つい何時も見惚れてしまう。

 クロムに抱き締められたまま眠りに落ちていた事に気付いたルフレは、まだ眠っているクロムを起こさない様にとこっそりその腕の中から脱け出そうとするのだが、クロムはかなり確りとルフレを抱き締めている様なので、ちょっとやそっとでは中々脱け出せない。

 悪戦苦闘しているその最中、ふとした瞬間に耳元で鳥が羽ばたく様な音と共に背中に奇妙な違和感を感じた。

 不思議に感じて背中の方へと視線をやったそこには。

 

 暗い虹色の光沢を持つ羽が生えた翼が広がっていた。

 

 

「────!?」

 

 

 その有り得ない光景に一気に意識が覚醒したルフレは、昨晩の自身を襲った異変を思い出す。

 そうだ、確か自分は異形の身へと変じて、それで──

 

 慌てて、ルフレは今の自分の状態を確認する。

 腕と足からは背中の翼にあるものと同じ様な羽が生え、腰からは自分の意思で動かせる尾が生えている。

 頭に手をやると、恐らくは角であろう硬く尖った何かが米神の辺りから生えていた。

 最後に、と。恐る恐る顔へとやった手は、何時もの人間の顔を触った時と同じ感触を返す。

 顔は異形と化していなかった事にはホッとしたものの、今の自分の姿は既に人間とは呼べないモノである。

 竜と人間とを無理矢理に混ぜた様なその姿は、やはり異形のものであると言えるのだろう。

 

 こんな姿を人目に晒す訳にはいかなかった。

 だが、どうすれば良いのか分からないまま、それでも取り敢えずクロムの腕の中から抜けようとしていると。

 

 

「ルフレ……?」

 

 

 ごそごそ腕の中でルフレが動いていたからか、クロムが目を醒ましてしまった。咄嗟に異形の身を隠そうとしても、クロムの腕の拘束がある為身動きは取れない。

 その為、ルフレには怯えた様に身を縮こまらせる位しか出来る事は無かった。

 だが、そんなルフレを見たクロムは苦笑して、抱き抱える様にルフレを抱き締め直した。

 背の翼をその手が優しく撫でる様に触れるのを感じ、ルフレは何処か擽ったい様な感覚に身震いする。

 

 

「大丈夫だ、大丈夫だからな、ルフレ。

 お前は恐がらなくて良いんだ」

 

「クロム、でも、あたし……。

 こんな……化け物みたいな……」

 

「化け物? そんなものが何処にいる。

 俺の目の前にいるのは、紛れもなく愛しいルフレだ。

 多少見た目が変わったって、それは変わらないだろ?」

 

 

 そう言いながらルフレを宥める様に撫でるその手は、何処までも優しくルフレへの愛に満ちていた。

 温かなクロムの手が、余りにも心地好くて。

 その手に縋って、この胸を渦巻く恐怖も何もかもを投げ出してしまいたくはあるけれど。

 

 こんな異形の姿の存在が、ここに居て良い訳が無い。

 

 ルフレが拒絶され迫害されるのは、致し方無い事だ。

 だが、事はルフレだけの問題に止まらないだろう。

 ルフレの夫であるクロムにも累が及ぶであろうし、ともすれば二人の愛娘である小さなルキナにまで人々の拒絶の悪意が及ぶかもしれない。

 ……クロムはイーリスの正統なる聖王であるのだし、ルキナもまた聖痕を宿した正統なる聖王家の者だ。

 ……それでも、拒絶や悪意の影響は少なく無いものであり、その未来に何かしらの翳りを落としかねない。

 そして、その可能性を看過出来る程、ルフレは妻として母として、身勝手な訳でも無責任な訳でも無い。

 だから幾らクロムがルフレを受け入れるのだとしても、このままその傍に居続ける事は出来ないのだ。

 しかし、このまま静かに何処かに身を隠す……と言う事もやはり不可能に近い事だ。

 聖王たるクロムの妻であるルフレが勝手に失踪するなど大問題であるのだし、今はギムレーを討伐する為にも軍師としてのルフレの力は必要不可欠であろうから。

 王妃としても、そして軍師としても。己の責を途中で無責任に投げ出す事なんて、ルフレには出来なかった。

 元の姿に戻る方法が何処かにあるのなら、何としてでもその方法を探したいが、今の状況では悠長な事は言ってられないしやってる余裕も無い。

 当面の間はこの異形の身を隠してどうにか誤魔化すより他に方法は無いであろう。

 

 幸い、背中の翼はそう大きなものではないから折り畳んでしまえばコートの中に隠してしまえるだろうし、念の為に包帯で身体に固定しておけば咄嗟に翼を広げてしまう様な事も起こらない。

 腕や足の羽も、包帯を巻けば誤魔化せるであろう。

 尾はズボンの中に入れておけば、コートを着ていればある程度は後ろ姿を誤魔化せる筈だ。

 角は、フードを目深に被っておけば十分に隠せる。

 不安要素は多々あるものの、何とか『人間』の姿を装えなくはない姿である事だけは不幸中の幸いと言える。

 何時までもそれで誤魔化す事は出来ないだろうが、ギムレーを討伐するまでの暫しの間を凌げればそれで良い。

 ギムレーを無事討った後は……それはその時にならなければ分からない事だ。

 ……このままの状態で王城に帰る事は出来ない。

 だが、あそこには大切な娘であるルキナがルフレ達の帰りを待っている。……ルキナの為を思えば、この様な異形の身のままではずっと一緒には居られないのだろうけれど。それでも……例え我が子を思うが故であったとしても、その顔を一度も見せずに失踪するなど、それはルキナにとって心の傷になりかねない。

 例え記憶には朧気にも残らないだろう程に幼いのだとしても、その経験が消え去る訳では無いのだから。

 だから、せめて。今だけでも、『人間』であると誤魔化し続けなければならない。

 

 そうして何とか『人間』の姿を取り繕ったルフレは、今日の行軍についての軍議を行うべく、クロムと共に天幕を後にするのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 参加していた者達に異常を察知される事無く、他の問題が噴出する事も無く。恙無く軍議を終えた後、ルフレとクロムはサーリャとチキを自分達の天幕へと呼んだ。

 そして、大まかな事情を説明した後で、ルフレは異形と化した自身の姿を二人の目に晒した。

 クロム以外に自身の異形の姿を見せるのは、彼女等が決してそれを拒絶する事は無い事は承知の上でも、やはりどうしても緊張するし、その心には怯えもあった。

 とは言え、流石に驚かれはしたものの、二人とも『人』とは言い難くなったルフレを拒絶する様な事は無くて。

 しかし、ルフレの身に直接触れて様々な事を調べ終えた二人は、揃って浮かない顔をする。

 

 

「先ず最初に言っておくと、これは呪術に依るものでは無いわ……。『人』の姿を歪めてしまう呪術はあるけれど、その痕跡はルフレには見当たらないもの……。

 だから少なくとも、何かによって「歪められた」からその姿になった……と言う訳では無いと思うわ……」

 

 

 サーリャはそう言って、チキへと目をやった。

 それに頷いたチキが、言葉を選ぶ様にして話し始める。

 

 

「今のルフレは、ギムレーに近付いているのだと思う。

 勿論、『ギムレーの覚醒の儀』は行っていないから、あなたがギムレーそのものに成っている訳ではないわ。

 だけど、ギムレーの方へと引き摺られてはいる。

 恐らくそれは、ルフレとあのギムレーが、時間を異にした同一存在だから……と言う事以上に、二人が深く混ざり合い強く繋がっているからだと、思うわ……。

 だから多分だけど、力を取り戻したあのギムレーに引き摺られて、ルフレは『人』から外れてしまった……。

『竜』の姿になったのも、今の姿も、そう言う事……」

 

 

 ギムレーそのものではなくとも、ギムレーに近い存在。

 ……それは、『化け物』である事とどう違うのか。

 自分がその様な存在に変わり果てていた事への衝撃に、ルフレは言葉を喪った様に息を詰まらせる。

 顔を蒼褪めさせ俯く様にして黙り込んでしまったルフレを気遣わし気に見ながら、クロムは二人に尋ねた。

 

 

「あのギムレーが原因だと言うのなら、あいつを討てばルフレは元に戻るのか?」

 

 

 サーリャはチキへと目をやり、チキもサーリャへと視線を返す。そこで二人の間でどの様なやり取りがあったのかはルフレ達には分からないが……。

 二人ともゆっくりとではあるが揃って首を横に振り、少し言い淀む様な調子でサーリャが答える。

 

 

「……多分、無理ね。

 今の姿の状態で魂と肉体の両方が安定しているわ……。

 もし肉体の状態と魂の状態が乖離して歪みが生じているなら、変化した原因を絶てば戻るかもしれないけど。

 ……ルフレには、それが無い……」

 

「じゃあ、マムクートの皆みたいに、竜石に力と姿を封じる事は……?」

 

 

 何とか気を持ち直したルフレは、チキに訊ねた。

 この異形の姿を竜石に封じられるならば、力を解放さえしなければ『人』を装えるであろう、と。だが……。

 

 

「それも……多分無理だと思う。

 ギムレーの力は強過ぎて竜石の形で封じる事は困難で、無理に竜石を作ってそこに封じようとしても、逆に肉体と魂を歪めてしまうだけの結果になるわ……。

 下手すると、『竜』の姿のまま戻れなくなったり、或いはもっと歪んだ形で姿が定着するかもしれない……」

 

 

 元の『人』の姿に戻る事は不可能だと、一縷の希望すら絶たれたルフレは、衝撃を隠せないままに項垂れる。

 そんなルフレの姿に胸を痛めたチキは、気休めであろうと分かっていながらも何とか言葉を探しながら紡いだ。

 

 

「……ナーガに逢ってみれば、何か助言を貰えるかもしれないわ……。『覚醒の儀』の為にナーガには逢う必要があるから、その時に私からも訊いてみるから。

 ……ただ、何とか出来る保証は、無いのだけれど……。

 ……ルフレの様な状態になった人の事は今まで聞いた事も無いから……正直どうしてあげれば良いのか、私にも分からないの……。力になれず、ごめんなさい……」

 

 

 チキはそう言って、静かに目を伏せる。

 

 

「……謝らなくても良いのよ、チキ。

 あたしとクロムだけだったら、何が起こってこうなったのかすら、きっと分からないままだったもの……。

 原因が少しでも分かっただけ、有り難いわ……」

 

 

 苦しんでいる仲間の力になれない無力を噛み締めているチキに、ルフレは弱々しくも微笑む。

 三千年生きていようと、分からないものは分からない。

 前例が無いと言うのなら尚更の事。

 逆に前例が無いと言うのなら、絶対に戻れないと言う保証も無いと言う事だろう、と。ルフレは自分を励ます。

 それは空元気の様なものではあったけれど、そう考える事で幾分か心は上向きになるし、諦念を振り払えた。

 そんなルフレの様子を見て、静かに何かを考えていたサーリャが、ポツポツと提案する。

 

 

「……ルフレの姿を元に戻す事は出来ないけれど……、その姿を人の目から隠す事に役立つ呪いなら……。 

 私にも出来るわ……」

 

「……!」

 

 

 そんな事が可能なのだろうか、とルフレがサーリャを見詰めると、彼女は静かに確りと頷く。

 そして、但し、と付け加えた。

 

 

「何か隠し事をしている事に、違和感を持たれない様にする……と言うのが正しいわね……。

 流石に角や翼が剥き出しでは誤魔化せないけど、多少の違和感なら感じさせない様にする位なら……。

 それなら、ルフレにも負担は無いし、他の人に何か害がある訳でも無い……。それで良いのなら……」

 

「有り難う、サーリャ……。

 それがあれば、少しは安心出来るわ……。

 お願いしても良いかしら?」

 

「任せて、ルフレ。

 お守りとして渡しておくから、肌身離さず身に付けて。

 今から準備するから、今夜には渡せると思うわ……」

 

 

 そして、ルフレの姿を隠す為の『呪い』の準備をするべく、サーリャは先に天幕を後にする。

 それを見送ったチキもそろそろ自分も退出しようと席を立つが、懸念事項を付け加える様に振り返る。

 

 

「今はその状態で安定しているけれど、何かの切欠があればまた『竜』の姿になるかもしれない。

 その切欠が「何」になるのかは分からないけれど……、もしそうなった時の為にも、少なくとも暫くの間はクロムからはあまり離れない方が良いと思うの。

 クロムは、絶対にルフレを拒絶したりしない、何があっても、どんな姿でも、あなたを受け止めてくれる。

 クロムが居てくれれば、ルフレはきっと大丈夫よ……。

 だからどうか、クロムもルフレを守ってあげてね」

 

 

 少し憂える様な表情を浮かべながらも、チキは優しくそう言って、天幕を後にした。

 

 二人を見送ったまま立ち尽くしているルフレの背中を、クロムはそっと抱き締めるのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 既に日は暮れて、夕食を終えた仲間達は思い思いに時間を潰した後で自分達の天幕へと戻っていく。

 あと数刻の内に、不寝番以外は皆眠りに就くであろう。

 

 何とか、自ら明かした二人を除いた他の誰にも異形の身を見抜かれる事無く、今日をやり過ごす事が出来た。

 その事に安堵し、ルフレは天幕に戻ってコートを脱ぐ。

 そして包帯を少し解いて翼を広げて解放感に包まれた。

 隠す為とは言え、翼を畳んだ状態で更に包帯で拘束するのはかなり窮屈なのである。

 本来人間には存在しない部位であるのだが今は紛れもなくルフレの身体の一部であり、あまり乱暴な扱いをするとそれは全て自分に返って来るのだ。

 この窮屈さに慣れるしかないのだろうけれど……。

 何とも言えない気持ちになりながら、ルフレは改めて背中の翼を検分する。

 ルフレの身体の大きさに対してはかなり小さいので、隠すのは楽であるがこの翼で空を飛ぶ事は難しそうだ。

 精々、高所から落ちた際に落下の衝撃を和らげる位の役割しか持てないであろう。

 実用性があるのかどうかで言えば、かなり微妙である。

 尤も、この翼が生えてから飛ぼうなんて一度も考えた事もないし、飛べなくても全く構わないのではあるが。

 

 尾もズボンから出して自由にしたい所ではあるが、コートを羽織れば取り敢えず隠せる翼とは違う為、急な来客に備えて外に人の気配が絶えるまでは我慢すべきだ。

 天幕に備え付けてある姿見で改めて確認したルフレのその姿は、やはり『人』と呼ぶには異質過ぎる。

 服などで隠して誤魔化しは効くのは幸いではあるが、それでも何時までも隠し通すのはやはり難しいであろう。

 王妃である以上公の場に出る事は避けては通れないだろうし、今はある程度は体型を誤魔化せるコート姿だからまだしも、正装だと角も翼も尾も曝け出してしまう。

 

 このまま元の姿に戻る方法も見付からず、姿だけでも『人』のそれに戻す方法も無いのであれば。

 ギムレーの討伐を区切りとして自分は表舞台から引くべきであろう……と、ルフレは考えていた。

 戦いの中で見目を激しく損なう程の傷を負ったとか、戦いで負った傷の療養の為だとかを装えば、公の場に顔を出さなくても良い口実にはなるだろう。

 だが、王宮の中に居る以上は、内奥に引き籠っていたとしても人の目に全く付かないと言うのも難しい。

 この事については、何処かで一度クロムと話し合う必要があるのだろうとルフレが考えていると。ふと。

 天幕の外から誰かが自分を呼んでいる事に気が付いた。

 

 サーリャかと一瞬思ったが、どうやらルキナの様だ。

 一体何の用だろうと思いながらも、ルフレは慌てて翼を畳んでコートを羽織り、フードを目深に被り直す。

 何とか『人』の姿を装い直したルフレは、姿見で違和感が無いかを念の為に確認してから、天幕の入り口を開けてルキナを招き入れた。

 

 

「こんな時間にどうしたの、ルキナ?」

 

 

 ルキナはルフレに似たのか中々鋭い部分があり、変に誤魔化すと逆に違和感を持たれてしまうので、それに注意しつつ努めて平常を装って、ルフレは用件を訊ねる。

 そんなルフレを前に何処か言い難そうにしながらも、ルキナは真っ直ぐにルフレを見る。

 

 

「今日のお母様は、少し様子がおかしい様に感じて……。

 いえ、私の気の所為だと言うのなら……何も無いのならそれが一番良いのですが……。

 もし何かあったらと思うと、どうしても心配で……」

 

 

 湧き上がる不安を抑える様に己の手を握りながら。

 ルキナは、心からルフレを案じてくれる。

 どうやら僅かながらも異変を悟られてしまったらしい。

 しかし、大切な娘であるルキナと言えども……いや逆に他らなぬルキナだからこそ。

 ルフレの身に起きた異変を知らせる事は出来なかった。

 

 今こうして目の前に居るルキナは、ギムレーによって滅ぼされた未来からやって来たのだ。

 ギムレーに対する恐怖や憎悪は、その未来を知らない者達とは比べ物にならない程に強いであろう。

 一度は激しい葛藤の末に、ギムレーの復活を阻止する為に母親であるルフレに剣を向けた事までもあった。

 他ならぬ実の母親こそが、己の世界を滅ぼし尽くし、そしてこの過去の世界でも滅びの未来へと導く為に暗躍したギムレーなのだと知った後は、激しく苦悩して。

 そして、目の前の母親は何れギムレーへと成り果て得る『ギムレーの器』であると知り、葛藤を抱え。

 それでも、どうにかそれを乗り越えて。己の実の母親であるギムレーを討ち滅ぼす事で、邪竜に囚われたその魂への手向けとする事を誓って、前に進んでいるのだ。

 そんな状況で、目の前に居る「母」までもが、ギムレーその物では無くともそれに近い『竜』へと変わり果て、そして『人』では無い『化け物』の姿になったと知れば。

 その心に再び絶望を与えてしまうかもしれないし、ギムレーへの恐怖や憎悪を蘇らせる事になるかもしれない。

 ならば徒にルキナの心を乱す必要なんて無いだろう。

 その為、ルキナに事情を明かすと言う選択肢は、ルフレにとっては最初から殆ど考えてはいなかった。

 

 

「特に何も無いから、きっと気の所為ね。

 でも、心配してくれて有り難う。

 ふふ……ルキナの様な親孝行な娘を持てて、あたしも幸せ者ね。とても嬉しいわ」

 

 

 よしよしとその頭を撫でてやると、少し気恥ずかしそうにしながらもルキナは嬉しそうに微笑む。その表情が愛しくて、堪らずルフレはルキナを抱き締めた。

 こう言った親子の触れ合いを得る機会をルキナは幼くして喪ってしまった為なのか、そう言った親からの愛に餓えながらも、ルキナはそれを前にすると戸惑った様な反応をしてしまうし、ルフレ達が城に残してきたルキナに遠慮するかの様にそれを避けようとしてしまう。

 親としては目の前のルキナも、城に残してきたルキナも、どちらも愛しい我が娘であり、『ルキナ』なのだけど。

 そうは中々納得出来ない気持ちも、理解出来ない訳では無い。だからこそ、ルフレはルキナを抱き締めるのだ。

 急に抱き締められ驚き慌てるルキナに柔らかく笑いかけて、ポンポンと背を撫でてから解放した。

 

 

「えっと、何も無かったのなら、良かったです……。

 でも、もし何かあったら、私にも言って下さいね。

 私、お母様の力になりたいんです」

 

 

 そのルキナの微笑みに、ルフレは真実を話した方が良いのではと一瞬考えるが……直ぐにそれを否定した。

 この純粋に親を想う眼差しが、仇を見る憎悪に染まる瞬間に……今のルフレには耐えられそうにない。

 だからこそ、このままずっと黙っていよう、と。

 ……しかし。

 

 

「あれ? お母様のその目……何だか少し……。

 何時もより、赤い様な……」

 

 

 ルフレの目の色は、元々赤味の強い紅鳶色であったのだが、今は鮮血で染め抜いたかの様な赤に変じ、その瞳孔はよく見ると『竜』の様な獣の目に変わっている。

 元の色が色だけに、近くにいても余程注意して見ていなければ分からない程度の差ではあるのだが……。

 

 心配そうな顔をしたルキナが、ルフレの目を覗き込む様に一気に距離を詰めてきた為に、急な事で気が動転したルフレは慌てて後退さろうとする。だが……。

 慌てた弾みに、ルフレは背中の翼を広げてしまった。

 

 

「えっ──」

 

 

 広げてしまった翼によってコートが異常な形に膨らんだのを見て、ルキナは呆気に取られた様な顔をする。

 その顔を、呆然とルフレを見るその表情を見た瞬間。

 何かの箍が外れた様な感覚が身体の奥から突き上がり、昨晩と同じあの異常な感覚が全身を駆け巡る。

 そして──

 

 

「な……」

 

 

 絶句した様に見上げてくるルキナが、嫌に小さく見え。

 慌てて辺りを見回した時に目に入った姿見には、ギムレーそっくりの『竜』が狼狽えている姿が映されていた。

 

 再び完全に『竜』の姿になってしまった事をルフレは咄嗟に理解したが、ルキナが無意識に腰に提げたファルシオンの柄へと手を伸ばす光景を見て固まってしまう。

 その光景に、そして恐らくは数瞬後に訪れるであろう未来を予測して、ルフレの心は恐怖と混乱で騒めく。

 

 

『待って、違う、違うの、ルキナ。

 これは、その──』

 

 

 何か言わねばならないと、そう思うのだが。

 混乱し動揺した今のルフレの頭では、適切な言葉などろくなものはこれっぽっちも浮かんでこない。

 

 違う、私は。ギムレーじゃない。違う。『化け物』。

 違う。騙すつもりなんて。違う。違う違う違う──

 

 互いに混乱し、それは場に混沌とした狂気を齎して。

 その混沌は、ルキナがファルシオンを半ば鞘から抜き放った瞬間に、破局へと転がり落ちる様に弾ける。

 天幕の中を照らすランプの光に白銀に輝くその刀身を目にした瞬間、ルフレの中で恐怖に似た衝動が荒れ狂い。

 喉の奥に凝る様に渦巻いた力の渦が、危険な程に熱を持った様にも感じる。だが、駄目だ。それだけは、駄目。

 数瞬先の恐ろしい未来を直感し、思わずルフレはそれを拒絶する様に固く己の瞼を閉ざす。

 ファルシオンの刀身が己の身を斬り裂く瞬間を覚悟して、その絶望に身を震わせたその時。

 荒々しい足音が響き、それが中に飛び込んで来た。

 

 

「ルフレ! 大丈夫かっ!?」

 

 

 息を切らして天幕へ駆け込んで来たクロムは、混沌とした状況には目もくれず、再び『竜』の姿となっていたルフレの頭部を力強く抱き締めた。

 大丈夫、大丈夫だから、と。

 力強くも優しく言い聞かせる様に呟くクロムの声に、ルフレを支配していた恐怖や動揺は少しずつ静まって、クロムへ己の全て委ねる様にそっと頭を摺り寄せる。

 

 突然状況の事に呆気に取られていたルキナであったが、父の危険な状況に気付き焦った様に声を上げて。

 

 

「お父様っ!? 危険です、離れて下さい……!」

 

「大丈夫だルキナ、こいつはルフレだ。

 何も危なくなんてない!」

 

「ですが、その姿はどう見ても……!」

 

「確かに見た目はそうかも知れない。

 だが、その心はルフレなんだ。だから、ルキナ。

 ファルシオンから、その手を離してくれ」

 

 

 クロムの言葉に、何処か躊躇う様にしながらも、ルキナがファルシオンを鞘に納める音が響く。

 その音にルフレが目を開けると、明らかに此方に怯えている様なルキナの表情が目に映った。

 そこに浮かぶ怯えと恐怖に、再びルフレの心は騒めく。

 娘に拒絶される恐怖が、胸の内に広がっていく。

 だが、その恐怖を取り除くかの様にクロムの手がルフレの首筋を撫で、それによって幾許かは闇が晴れる。

 何があろうとも自分を離さないでくれる心の拠り所が確かにそこにあると言う実感が、深い翳りに沈みかけたルフレの心を繋ぎ止めてくれていた。

 

 

「お母様……なのですか……?」

 

 

 あの邪竜を想起させる異形の『竜』へと変じたルフレを恐れてか、何処か躊躇いと怯えを含ませながら、恐る恐るとルキナは緊張で掠れる様な声音で訊ねてきた。

 その表情に、ルフレの胸の奥は鈍く痛むけれど。

 しかし、隠そうとして何も話さなかったのはルフレだ。

 何も知らないルキナに突然こんな姿を見せた方が悪い。

 だから、ルフレは胸の痛みを振り払う様にそっと頷く。

 

 

『ええ、そうよ。

 見た目は、こんなだけど……。

 あたしは、ルフレよ。

 ギムレーなんかじゃないわ……』

 

 

 身体は『人』のそれとかけ離れてしまっていても、心は『ルフレ』として培ってきたそれそのままだ。

 ……そうであると、ルフレそう信じている。

 いや、そうと信じるしかもう自分を保てない、と言うのが正しいのかもしれないが。

 

 その言葉に、そしてルフレを離さないクロムの姿に。

 迷う様にその瞳に躊躇いの色を浮かべていたルキナが、一歩前へと進んで、『竜』となったルフレの顔を、その目を覗き込む様に間近で見詰める。

 そして、何も言わずに静かに目を合わせ続けた。

 

 暫しの沈黙の後、ルキナは『竜』となったルフレの頭へと抱き付く様に縋り付く。その身体は震えているが、それは恐怖に依るものでは無くて。もっと複雑な感情が荒れ狂う様に渦巻いているからなのだろう。

 

 

「ごめんなさい、お母様……。

 お母様の目は、確かに私の知っている……大好きな私のお母様のままで……。なのに、私は……。

 一度ならず二度も、お母様に剣を向けようと……」

 

『……良いの。そんな事はもう良いのよ、ルキナ。

 あなたは何も悪くない……。

 あなたを恐がらせてしまうかもと……あなたに嫌われてしまうかもしれないと。そんな事を恐れて、あなたに何も言おうとしなかったあたしが悪いの。

 最初から説明していれば……。こんな姿を突然見せてしまった事が悪いの……だから気にしないで』

 

 

 そうルキナへと打ち明けた事で、ルフレの心に荒波の様に打ち寄せていた恐怖が鎮まっていくのを感じる。

 感情のうねりが凪いでゆくのとほぼ同時に、『竜』の姿は解ける様にして消え、ルフレは元の姿に戻った。

『化け物』のそれではあれど手と腕を取り戻した事を、何処か心が麻痺した様にぼんやりと受け止めながらも。

 ルフレは、改めてルキナを抱き締めた。

 すると、ルキナは抱き縋る様に抱き締め返してくる。

 

 

「お母様…………私は……私は……──」

 

「ルキナ……。良いの、もう、良いの……」

 

 

『異形』へと変じていたとは言え、母親に剣を向けた事への後悔に涙を流すルキナは、娘に拒絶されずに済んだ安堵から無意識にポロポロ涙を溢しているルフレを見て、ますます罪悪感に胸が押し潰されそうになる。

 そんなルキナを慰める様に、クロムはその頭を撫でた。

 そして、ルフレごとルキナを抱き締める。

 

 

「大丈夫だ。ルフレはギムレーじゃない、何があってもギムレーにはならない。そんな事、俺がさせない。

 どんな姿でもルフレはルフレだ。

 だからほら、二人ともそう泣くな……」

 

 

 あやす様にそう語りかけるクロムの言葉に、ルキナもルフレも互いに涙を零しながら頷く。

 ルフレの身に起こった異常を解決する術は未だ無いが、それでも。娘が母を拒絶し殺害しようとする様な未来は確実に回避された事は確かであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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【クロム&ルフレ男】
『冒涜の聖餐』※


クロム←ルフレ(男)要素(BL)が含まれます。
カニバリズム要素が含まれます。


◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

『それ』を自覚した瞬間から、ルフレの「絶望」は始まった。

『それ』が叶う可能性などこの世には欠片も有りはしない事を、当人からハッキリと突き付けられてしまったからだ。

 

 何もそれはルフレが「諦める」事で更なる苦しみから逃避しようなどと……そんな後ろ向きで臆病な考えで、『それ』を諦めたと言う訳ではない。ただただ何処までも残酷に。

 ルフレでは彼と「その様な」関係性にはなれない事を、鮮やかなまでに示されてしまったからであった。

 

 彼女を見詰めるクロムのその眼差しは、甘やかな雰囲気すら纏っている様に優しく、心から彼女を『愛して』いる事を、誰もに知らしめる程のものであった。

 愛して、そして愛されて。それはとても「幸せ」な……この世の誰もに祝福されるべき「男女」の姿であった。

 跡継ぎを作る必要があり、時に心の伴わない婚姻も為さねばならない「王族」と言う立場を鑑みれば。そうやって互いを愛し慈しみ尊重し合える相手を見付ける事が出来たのは、そして互いに思い結ばれる事が出来たのは。紛れも無く「幸せ」な事で……。相手を想えばこそ、祝福するべき事だった。

 その瞬間に胸を引き裂かれる程の絶望を知ったとしても。

 

 どうして、その瞬間に自覚してしまったのだろうか。

 きっと最初から叶う筈の無い願いであるのならば、この命が果てるその時まで気付きたくなど無かった。

 何も知らないまま、何も気付かないまま。ただ『半身』として、誰よりも互いを信頼する友として在れれば良かったのに。

 そうでなくとも、若い頃のほろ苦い望みとして『それ』を呑み込める程に、もっともっと未来の……互いに歳を重ねてから、ふと思い出話に花を咲かせる様に気付ければ良かった。

 

 なのにどうして、その瞬間だったのだろう。

 叶う可能性など無い事を、いやそんな願いを抱いている事すら知られる訳にはいかない事を……それを嫌と言う程理解し呑み込んで……それでも殺しきる事も出来なくて絶望するしかない様な、あんな瞬間に。どうして。

 

 苦しくて苦しくて、だからこそ、「もしも」だなんて馬鹿馬鹿しい考えも思い至ってしまう。

 もしも、もっと早くにこの願いに……この気持ちに気付けていたのならば。彼はこの思いを受け入れてくれたのではないかと、彼があの優しい眼差しを向けるのは他ならぬ自分だったのではないかと。……そんな事を考えてしまう。

 ……そんな事、考えたところでもう何の意味も無い。

 事実として、彼が選んだのはルフレではなく彼女なのだ。

 そもそも、もっと早くにこの思いを自覚していたとして、それで彼がルフレに向ける感情や親愛の質が変わったのかと言うとそうはならないだろう。

 彼にとってルフレは親友よりも更に深く強い繋がりを持つ『半身』……、掛け替えの無い友人でしかない。

 その関係性は何にも代え難く尊いモノではあるけれど。

 しかしルフレが求めているのはそうではなかったのだ。

 

 彼が「半身」だと「親友」だと、そうルフレへとその強い信頼の眼差しを向ける度に、その温かな信頼がルフレの心を苛み傷付ける。彼が与えてくれたその「居場所」が、何にも掛け替えのないものであるからこそ、「それとは違うもの」を……決して手に入る事の無い『それ』を望み欲する事の罪深さが、ルフレを苛み続けるのだ。

 

 その望みを殺してしまえるのなら、手放せたら、心の奥底の感情の墓場に捨ててしまえるのならば、こんなに苦しむ事なんて無いのだろうけれども。

 しかし残酷な事に、『それ』を欲している事を誰にも悟られぬ様に偽りで覆い隠し、クロムの「善き友」としてその傍に居続ける事ならば出来るのに。

 どうしてだか、彼に抱いてしまったその「想い」を殺せない、捨てられない。間違っていると、叶わないと、無価値だと、そう理解しているのに……。

 決して取り除けぬ程、心の底の奥深くからクロムを『愛して』しまったこの心を。彼に、自分を『愛して欲しい』と願ってしまうその身勝手な欲求を。……ルフレはどうしても殺せなかったのだ。

 ……幾度と無く抑え込もうとしても、逆にそうしようとすればする程、クロムを求める心は際限無く醜い程に肥大し続けてしまう。

 

 ならばいっその事全てを捨てて、その醜く浅ましい『愛欲』に溺れてしまえば良かったのかもしれない。

 『それ』以外では決して埋められない渇望を満たす為に、何もかもを……今自分が手にしている『幸せ』も、彼の幸せも笑顔も……その何もかもを滅茶苦茶に壊して。クロムが自分だけを見て、そして他ならぬルフレだけを『愛する』様に。

 そうやって形振り構わずに、その情念に魂まで燃やされ尽くして地獄に堕ちて行く様に……それすらも歓びとして、それだけに全てを賭ける事が出来るなら……。

 そうやって生きられるなら、それはそれで一つの救いであるのだろう。だが、ルフレはそうはなれなかった。

 そう言った純粋なまでに狂気的な愚かさに、全てを賭ける勇気も度胸も……ルフレには無かったのだ。

 

 ルフレにとってクロムこそが誰よりも大切なたった一人、己の存在価値の全てであるのだとしても。

 それ以外の全て……共に戦った仲間達もまた、ルフレにとって大切な存在であったのだ。……そう、クロムの横で幸せに満ち溢れた微笑みを浮かべている彼女だって。……クロムに『選ばれた』その人だって。ルフレにとっては、大切な仲間であったのだ。彼女を裏切り傷付け苦しめる様な事を、心から躊躇するに十分な程には……親しみを抱いていた。

 それに、ルフレがそんな愚かな道を選んで傷付けるのは何も彼女だけではない。

 ルフレやクロムを取り巻く仲間達の多くを傷付けるだろうし。そして、何よりも。

 ルフレにとって何よりも大切なクロムを、最も傷付けてしまうだろう……。そして、そうやって誰も彼もを傷付けたその先にルフレが望むものがあるとも思えない。

 

 だからこそ、ルフレは何も言わない、動かない。

 

 叶う事の無いその願いを心の奥深くに沈めて。

 殺せない感情に必死に蓋をしながら、自分の心そのものを欺く様に偽りの仮面を被って。そうやって、何も変わらない自分を演じていた。……終わりの見えない苦しみを抱えて。

 そして、そうやって。ルフレはクロムの傍に居続けた。

 ルフレの心など何も知らずルフレに笑いかけるクロムに、必死に笑顔を返しながら。そして……──

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

「おお、ルフレ。

 良かったら今日もルキナの顔を見て行ってやってくれないか?

 誰に似たのか、ルキナはお前の事が大好きだからなぁ……。

 お前に抱いて貰うと機嫌がいいんだ」

 

 

 ニコニコと、微笑みながらそう言うクロムにルフレは「勿論」と微笑み返した。

春に生まれたばかりの、クロムと彼女との子供。まだ頸も据わらぬ無垢なる赤子。

 『ルキナ』、と。両親からの愛情と願いを込めてそう名付けられた愛らしい小さな命は、どうしてなのかは分からないがルフレの事を気に入っている様だった。

 

 ふぎゃふぎゃと泣いている彼女をルフレが抱き抱えて揺らしてやれば、すやすやと安心した様に眠りだす。

 クロムに似たその髪色も、その左眼に聖痕の刻まれた深蒼の瞳も……。その全てが愛おしい、小さな命。

 ルフレとしても、ルキナの事を心から愛しいと感じているし、彼女の温かな身体を抱き上げる時、そこにあるのは確かに『愛情』だと。ルフレもそう思っている。

 その内から胸を焼き焦がす想いから、目を塞ぐ様にして。

 

 クロムに促されて、ルフレは揺り籠の中で眠っているルキナの顔をそっと覗く。安らかにすやすやと眠る彼女は、何に苦しむ事も無い幸せの中に居るかの様であった。

 優しく愛情深い両親から惜しみ無い愛情を注がれ、聖痕を受け継ぐ王女としてその将来は半ば保証されている。

 どうかその未来に『幸せ』と『希望』が満ち溢れていて欲しいと、ルフレもそう心から願う。

 

 小さな小さなその手に、そっと自身の指先を触れさせると。ルキナの小さな手は、まるで握り締める様にルフレの指先を包む。その手の温もりに、その小さな掌の柔らかさに、ルフレは自然とその目元を緩ませた。

 ルキナを起こさぬ様、その小さな手から指先を離す。

 こうして安らかに眠っているのだから、わざわざ起こしてまで抱く事は無い。

 まだ薄いが柔らかなその髪をそっと撫でて、ルフレはルキナの傍を離れた。

 

 

「すまんな、眠っている所だった様だ」

 

「いや、今のルキナは寝るのが仕事さ。

 それに、こうやって幸せそうに眠っている姿を見ると、幸せな気持ちになるよ」

 

 

 ルフレのその言葉に、嘘は無い。

 愛されている赤子の姿を見る事は幸せな気持ちにさせるものであるのだし、それがクロムの子であるならば尚更だ。

 

 ただ……。愛しさが溢れ出している眼差しでルキナを見詰めるクロムのその姿に、ルフレの心の奥深く。永遠に閉ざした扉の向こうで暴れる物がある。

 ルフレの願いは叶わない事を何よりも雄弁に訴えかけるその存在は、ルフレの心をどうしようも無く搔き乱すのだ。

 それでも、ルキナを傷付けるなど、頭の片隅を過る事は無いし、無垢な信頼にも似たそれをルフレに向ける彼女を邪険に扱う事も厭う事も出来なかった。

 この苦しみを胸の内に押し込めていれば、ルフレ以外は誰も傷付かない、誰もが笑っていられる。それを誰よりも分かっているからこそ、ルフレは何も知らぬ顔で微笑み続ける。

 

 その時ふと、ルフレの腹の虫が小さく鳴った。

 小さなそれを耳聡く聴き付けたクロムは、少し揶揄う様な笑みを浮かべる。

 

 

「昼時にはまだ少し早いと思うが、もう腹が減ったのか?」

 

「あはは……何だか最近、凄くお腹が空くんだよね」

 

 

 最近……ルキナが産まれる少し前辺りから、ルフレは自分でも気付く程に腹の減りが早くなった。

 ただ、思い返してみれば、クロムへの『想い』を自覚して……そしてそれを押し込めた頃から、よく食べる様になっていた気がする。

 まあ、よく食べる様になった所で、それまでのルフレが多忙を極めた所為で食事を抜く事も多かった事を考えると、寧ろ健康的になっているのかもしれない。

 

 

「良い傾向なんじゃないか?

 前からお前は細過ぎると思っていたんだ。

 しっかり食べて身体を作った方が良いぞ?」

 

「いやいや、僕はこう見えて結構筋肉付いてるからね?

 着痩せしているだけだよ? 

 クロムだって知っているだろう?」

 

 

 そうルフレが言い返すと、分かってる分かっているとクロムは楽しそうに笑う。そしてそれにつられる様に、ルフレも笑みを零し、ルキナを起こさぬ様に小さな声で笑い合う。

 

 

 それは、とても……とても『幸せ』な日々だった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 ── 一体どれ程の時間が経ったのだろう……。

 

 

 鉄格子の外から漏れる様に届く、壁に設けられた灯りの小さな頼りない光以外に光源の無い、薄暗い部屋。

 その冷たい石畳の上に手足を戒められた状態でルフレは転がされていた。

 ここに閉じ込められた最初の内こそどうにかしてここから逃げ出そうと足掻いてはみたのだが、手足を戒める枷を壊す事もそこから逃れる事も出来ず。誰かがここを開ける事があるのならその隙を狙おうとしても、そもそもルフレがここに閉じ込められた状態で目覚めてからはここに訪れる者など誰も居ない。

 時間の流れを計るものが何も無い中で、時間の経過を示すのは、咽の渇きと次第に強くなっていく空腹感だけ。

 空腹感は次第に飢餓感とも呼べるものになり、耐え難い程にルフレの身と思考を蝕んでいく。

 そんな苦しみの中でも、ルフレが考え続けるのは、ただ一人の事だった。

 

 

『炎の紋章』を完成させる為に『黒炎』を求めペレジアを訪れて。そしてペレジア国王との謁見に臨んだ……筈だった。

 

 しかし、謁見の間に向かったその後の記憶が無い。

 気付けばルフレはここに閉じ込められていたのだ。

 

 ……今回の『黒炎』の件がペレジアの罠である事は当然ルフレ達は想定し、その為の備えも警戒もしていたのだが。

 それでも、防げなかったのだろうか。

 周囲には誰の気配も無く。あの場にルフレも共に居たクロムがどうなったのか、それを知る術は無い。

 どうか、彼だけは無事であってくれれば良いのだけれど。

 彼がもし囚われの身となっているのならば何をしてでも助け出したいしそうせねばならぬが、しかしルフレ自身こうして囚われ何も出来ずただ助けを待つしか無い身だ。

 

 果たして、助けは来るのだろうか。

 来たとして、ルフレの命がある内に間に合うだろうか。

 耐え難い飢餓の中でそんな事をぼんやりと思うが、ルフレにとっては自分の命など然程重要な事では無い。

 クロムが生きてくれさえいればそれで良いのだから。

 

 ……自分がこのまま命を落としたら、クロムは悲しんでくれるのだろうか。……クロムを悲しませる事はルフレの望みでは無いが、そうだったら良いな、と。そうも思ってしまう。

 

 ぼんやりとした思考の中で、ルフレが自分の命の終わりを静かに見詰めていると。

 急に、扉が軋む音と共に部屋に光が差し込んだ。

 

 薄暗がりに慣れたルフレの目にその光は眩しくて、思わず目を眇めてしまう。

 だから、部屋に入ってきて鉄格子の鍵を外してそれを開けたその者が一体どんな者なのか、ルフレには分からなかった。

 ぼんやりとした人影が動いている事しか分からない。

 

 その何者かは、鉄格子を開けたばかりか、ルフレの手足を戒めていた枷を外す。

 だが、既に飢餓と渇きに衰弱していたルフレは逃げ出そうと抵抗する事も難しく。ただされるがままになるしかなかった。

 

 

 

「いやはやすまないね、少し準備に手間取ってしまったんだ。

 ただまあ……『空腹は最高のスパイス』だと、君たちは

よく言うだろう?

 これからの特別な晩餐の為に、最高の状態だね」

 

 

 何処かで聞き覚えがあるその声をぼんやりと聞きながら。

 既に限界であったルフレの意識は、闇に閉ざされていった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 鼻腔を擽る香しい匂いに釣り上げられる様に、ルフレの意識は深い水底から浮かび上がった。

 

 まだぼんやりとした視界に飛び込んできたのは、温かな湯気を昇らせているスープで。

 それは抗い難い程の香しい匂いでルフレの意識を支配する。

 その匂いに意識を抉じ開けられていく様に、ルフレは一気に覚醒した。そして状況を把握しようと周囲を見回す。

 すると、目の前のテーブル一杯に、所狭しと料理の皿が並べられている事に気付いた。

 そして、自分が豪奢な椅子に戒められる事も無く座らされている事にも。

 

 状況が飲み込めきれず、戸惑ったままにルフレがテーブルの正面を向くと、そこには。

 自分とその赤い瞳以外は殆ど同じ顔をした……かつて初めて邂逅した際には、ギムレー教団の最高司祭だと名乗っていた男が座っていた。そこに座る事が当然である様に、主として悠然と座り、ルフレへと底の見えぬ表情を浮かべている。

 それは、妖艶な微笑みにも、或いは憐みであるかの様にもルフレは感じ取ってしまう。

 

 ここは一体何処なのだろう。そして、目の前のこの男の目的は何なのだろう……。

 そんな事も思考の端には浮かぶのだが、それ以上にルフレの意識を支配するのは目の前に並べられた料理であった。

 身を蝕む飢餓感以上に、何故だか分らない程に抗えない『何か』を感じてしまうのだ。

 それは、ずっとずっと求め続け満たされぬが故に自身を苛み続けていたモノが目の前に与えられているかの様で。

 

 

「これらの料理は君の為だけに用意したモノなんだ。

 手荒に扱ってしまった詫びという訳ではないのだけれど、心行くまで味わって欲しい。

『食材』も、君の為の特別なモノなんだ。

 きっと、君も満足してくれると思う。

 勿論毒なんて入れてはいないよ。

 さあ、食べると良いさ」

 

 

 彼のその言葉に背を押される様にふらふらと、ルフレは目の前にあったスープの皿を手に取りそれを掬って、恐る恐ると一口食べる。

 その途端、餓え乾いていた全てが一瞬で満たされる様な、天にも昇る様な心地に満たされた。

 それに突き動かされる様に夢中でスープを飲み干していく。

 野菜と肉を贅沢に煮込み、隠し味なのか僅かに血を入れていスープは、出汁の旨味が滲み出ている。

 スープは瞬く間に飲み干してしまったが、極限に近い程の飢餓に蝕まれていたルフレの手はまだ止まらない。

 貪りつく様な必死さで、ルフレはテーブルの上に並べられていた料理を口にしていく。

 肉を使った料理が多いのだが、一体『何』の肉であるのかは分からない。

 だが、今まで口にした事も無い程にルフレの心を虜にする程に極上の味であった。

 一口噛み締める毎に、餓え乾いていた全てが満たされていく。身も、そして絶えず餓え乾き続けていた心の奥底まで。

 滴り落ちる肉汁一滴に至るまで、その全てがルフレを満たしていった。

 

 そして、ルフレが耐え難い苦しみから漸く解放されて人心地が付いたその時には。テーブルの上に所狭しと並べられていた皿はその殆どが空になっていた。

 それと同時に、拍手を鳴らす音がルフレを夢心地から現実へと引き戻す。

 

 

「いやはや、良い食べっぷりだったね。

 見ている僕の方も、昔を思い出して満たされる様な気分になったよ。

 ふふふ……最高に旨い肉だっただろう?」

 

 

 最高司祭の男のその言葉に、戸惑いつつも頷く。

 一体『何』の肉であるのかは分からないけれども。

 今までに食べてきたどんな料理も霞む程に「旨い」料理であったのは間違いないのだから。

 

 

「そうかい、それは良かった。

 僕と同じく、君もまた餓え乾いているだろう事は容易に想像が付いたからね。その為に、君をこうしてここに招いた。

 僕は既にもう『満たされた』のだから、君からその権利を奪う事は忍びなくてね。今の君は、もう満たされた筈だよ。

 『望んでいた者』の全てを、その身に受け入れたのだから」

 

 

 表面上は「慈愛」の様なその表情の向こうに何故か想像を絶する『狂気』の気配を感じて、ルフレは思わず息を呑む。

 そして、意図せず震えてしまう声で問うた。

 

 

「お前の言葉の意味が、僕には分からない。

 お前は何者だ、一体僕に何をしようとしているんだ?

 クロムは何処なんだ?」

 

 

 こんな所に招いて、料理を振舞うだけだとは到底思えず。

その意図やクロムの安否を問おうとしたのだけれども。

 最高司祭は、ルフレと同じ顔でキョトンとした表情を浮かべて、不思議そうに少し首を傾げた。

 

 

「言葉通り、君に食べて貰う為にここに招いたんだよ。

 僕が食べて満たされたのに、君は食べられずに餓え続けるだなんて、不公平だろう?

 僕たちは『同じ』存在なのに。

 それに、クロムは此処に居るじゃないか?」

 

 

 そう言って、最高司祭は。ルフレを指さした。

 

 

「え……? なにを、言って……」

 

 

 振り返っても、そこにクロムなど居ない。

 戸惑って辺りを見回しても、何処にもクロムの姿は無い。

 そんなルフレの姿に、最高司祭は再び首を傾げた。

 

「『何を?』も何も……たった今、君が食べただろう?」

 

「食べ、た……?」

 

 

 意味が分からず、茫然とそう呟くと。

 最高司祭は、ああと得心した様に呟き、指を鳴らす。

 すると、その手の上に、『何か』が現れた。

 ──それは。

 

 

 

「くろむ……」

 

 

 茫然と、信じられないと、嘘だと言ってくれと。

 混乱と絶望と。

 そんなそれらが全て綯い混ぜになったまま、ルフレは力無く呟いた。

 

 最高司祭の手の上に現れたのは。

 クロムの、首であった。

 

 だが、当然その下にあるべき身体は、何処にも無い。

 まるで眠っているだけであるかの様な表情で。

 だが、そこにあるのは首から上だけであった。

 

 最高司祭の手の上に血が滴り落ちてはこないのを見るに、切り離されてから時間が経っているのだろう。

 誰にもどうする事も出来ぬ、不可逆の『死』がそこにあった。

 

 どれ程目の前の光景を否定したくても、残酷なまでにその首は『クロムの死』を突き付ける。

 世界の全てが色を喪って崩壊していく様にすら感じる。

 それでも残酷な事に、例えクロムを喪ったのだとしても世界が終わったりはしなかった。

 

 クロムを喪い、それでも自分が命永らえている現実を受け入れたくなくて。

 発作的に、ルフレはテーブルの上にあったナイフを掴んでそれを己の首に突き立てようとするけれど。

 その切っ先が僅かにルフレの首元に当たった所で、ルフレの手は目に見えぬ手に押さえつけられたかの様に止まってしまう。

 

 

「おっと、危ない危ない……。

 そんな風に命を落としたら、折角君と一つになったクロムも浮かばれないだろう?

 やっと求めていたクロムと一つになれたんだ。

その幸せをもっと噛み締めるべきだろう?」

 

「ひと、つ……?」

 

「そうとも。

 君のクロムは、君に喰われて、君の血に、君の肉になる。

 君のその血の一滴に至るまで、クロムが存在するんだ。

 もう誰も、何事も、君とクロムを引き離せない。

 君の望みは、叶っただろう?」

 

 

 漸く。認めたくなかった現実の全てを理解し受け入れたルフレは、思わず自分の腹の中の『それ』を、全て吐き戻そうとするけれど。

 それは目に見えぬ力によって阻まれてしまった。

 ルフレが自由になるのは、言葉を発する舌と喉だけで。

 だからこそ、必死にルフレは言葉を紡ぐ。

 

 

「お前は誰だ!?

 どうして……どうしてこんな事を!!」

 

 

 そう問い直すと、最高司祭は壊れた様な笑みを浮かべた。

 

 

「僕は君だ。……正確には、未来の君自身だ。

 邪竜ギムレーとして目覚め、そして時を越えてこの過去へとやって来た『ルフレ』自身だよ。

 尤も、僕が過去へと跳んだ影響なのか、それともあの娘の影響なのか、少し過去が変わった様だから、君と僕では少し違うのかもしれないけれどね。

 それでも、僕たちが『同じ』存在である事に変わらないさ。

 だからこそ、僕には分かるんだよ。

 君が、クロムへの叶わぬ『想い』を抱いてどれ程餓え乾き苦しんでいるのかと言う事を、ね。

 ……僕もかつてはそうだった」

 

 

 だけれども、と。

 最高司祭……否、邪竜ギムレーと。

 ……未来のルフレ自身だと名乗った男は。恍惚とした様に、その身を抱き締めた。

 ぞっとする程に妖艶なその表情に、ルフレは息を呑む。

 

 

「だけれども、僕はクロムの全てを手に入れたんだ。

 その肉も、血も、骨の一欠けらも、そしてあの美しい魂も。

 その全てを喰らって、僕たちは一つになった。

 今の僕の身体の全てに、クロムが居る。

この血の一滴に至るまで、全身で彼を感じられるんだ。

 それまでの苦しみも絶望も、決して癒えぬ心の渇きすら、クロムがこの身に溶け込んだ瞬間に全てが満たされた。

ああ……! あの瞬間の感動は、何度思い出しても決して褪せぬ最高のものだった……!

 もしかして、君と僕が混ざった時に、その記憶の一部が君に流れ込んでいるんじゃないかな?」

 

 

 ギムレーのその言葉と共に、ルフレの頭はずきりと痛む。

 そしてまるで『思い出す』かの様に、あの「悪夢」を……。

 ルフレが自らの手でクロムの命を奪ってしまった、記憶を失ったルフレがたった一つ持っていたその『記憶』が、まるで本のページを高速で繰っていく様に想起される。

 

 腕の中で物言わぬ骸となったクロムの姿。完全に零れ落ち、二度と元に戻す事の叶わぬ彼の命の欠片。空に溶け行こうとする彼の美しい魂…………。

 そして、『ルフレ』は。自身の腕の中の彼を……──

 

 

 それを『思い出した』瞬間。

 ルフレは目の前で満ち足りた様に微笑む邪竜に、言葉ではどうやっても表現し切れない程の、強烈な嫌悪感と忌避感を感じ。そして、今の自分が邪竜と大差無い畜生以下まで堕ちてしまった事にも絶望する。

 

 それを自身が意図したかどうかは異なるが。

 ルフレもまた、クロムを喰らったのだ。

 その肉を、最愛の人の命を、喰った。

 殺した。ルフレが、殺してしまった。

 

 だが、最も度し難く嫌悪と絶望を抱くのは。

 そうやってクロムの肉を喰らってしまったと言うのに。

 心の何処か、自身でも決して理解しえないその心の海の何処かで眠っていた『怪物』は。肥大し続け狂ってしまった、彼への執着心から生まれた自分の姿をした『化け物』は。

 こんな形でクロムを手に入れた事に、得も言われぬ「歓喜」の念を抱いているのだ。

 

 これで真実クロムは自分ただ一人のモノであるのだと。

 この世の誰も、何も、自分とクロムを引き離せないのだと。

 

 ああ、それは何と醜く悍ましい……──

 

 

「どうして……こんな事を……。

 何だって僕に……クロムを……。

 こんな事、僕は……」

 

 

 自身の悍ましい『怪物性』を認識してしまったが故に、力無くルフレはそう呟く。

 自身にその様な悍ましい一面があった事は、この際否定は出来ないのだけれども。

 それでも、こんな事を望んだ事など、ルフレは一度も無かった。決して無かったのだ。

 ルフレが望んでいたのは、欲しかったのは。

 クロムと自分が愛し合い共に生きる様な、そんな未来で。

 決して、こんな形でクロムと一つになる事では無かった。

 

 そして何よりも。

 ルフレが望んでいたのはクロムの幸せなのだ。

こんな事にクロムの幸せなど、ある筈は無いだろう。

 こんな絶望に狂った果てにある壊れた『幸せ』など……。

 

 そんなルフレに、邪竜はいっそ慈悲深い神であるかの様に慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべ。そしてその手の中にあるクロムの首を優しく撫でて、それをルフレの手に渡す。

 まるでこの世の悪徳を煮詰めた悪夢の様な光景だと、ルフレはそれに悍ましさを抑えきれず心の中で吐き気を催した。

 

 

「『僕』がギムレーに覚醒すると言う未来を変えさせない為に過去へと跳んだのだけれども。

 強大な存在が時空を超えるには中々大変でね。

 その時に、少しばかり力を喪ってしまった。

 だからこそ、ギムレーとして覚醒した君と溶け合って、より強大なる存在として蘇ろうと思った訳だ。

 そしてその為に、「同じ」未来へと収束する様に少しだけ世界に干渉した。

 ただまあ……僕の時と違って君をこうして招いたのはね。

『勿体無い』と、そう思ったからさ」

 

「勿体無い……」

 

 

 狂人……。否、その言葉通りであるのならば既に、目の前のこの存在は『人』ではないのだからそう表現するべきではないのかもしれないけれども。とにかく狂ったこの存在の言葉に一々耳を傾けるべきではないのかもしれない。

 だが、ルフレはもう、疲れてしまっていた。

 クロムをこの様な形で喪い。だがクロムの命を奪ったのであろう邪竜に対して憎悪の炎を燃やす事も、「クロムを喰らって満たされてしまった」自身の『怪物性』が故に踏み切る事が出来ず。

 ……有り体に言えば、生きる理由を喪っていた。

 もう何も考えず、ただ眠ってしまいたい。

 眠る様に死ねるなら、もう何も望みたくなかった。

 

 

「僕の時は、何の調理もせずに食べる事しか出来なかったからね。勿論、それでも極上の幸福ではあったのだけれど。

 しかし、より美味しく食べる為のその機会も手段もあるのに、ただ喰らうだけだと言うのは勿体無い。いや、クロムに対して余りにも失礼な事じゃないかな?

 だからこそ、こうして最上の状態でクロムを喰らうべきだと思ったのさ」

 

 

 最高だっただろう? と。そう言外に訊ねてくる邪竜に、ルフレは何も言い返せなかった。

 狂い切った彼には、何を言っても通じないだろうし。

 そして、何をどう言おうと、邪竜を翻意させようと。

 クロムが生き返るなんて事は、決して無い。

全てがもう、終わってしまった後なのだから。

 

 かつてはルフレであったのだという彼がここまで狂ってしまったのは、邪竜として覚醒してしまったからなのか、それともクロムを喰らうという凶行を成してしまったからなのか。

 それは分からないけれど。

 

 ……恐らくは、ルフレもそう遠くない内に、彼と同じ深淵まで狂い果てるのだろう。

 クロムへの罪悪感に、自身の悍ましさに、それでも満たされてしまった罪業に、心の全てを狂わせながら。

 

  その予感を感じながらも、ルフレはもうそれに抗おうなんて意思を持てなかった。

 この胸に残っているのは、クロムへの懺悔の念だけだ。

 

 

「『炎の紋章』は既に完成しているのだし、『覚醒の儀』は何時でも行える。

 だから、今は暫し眠ると良い。

 目覚めた時には、きっと世界が違って見える筈さ。

 最愛の人と一つになった喜びを噛み締めてから、僕と一つになろうじゃないか」

 

 

 邪竜のその言葉と共に、邪竜の何らかの力によってか、ルフレは抗い難い程の眠気に襲われる。堪らず閉ざされてゆく瞼の向こうで、邪竜は満ち足りた様に微笑んでいた。

 

 クロムの首を抱えたまま、ルフレは眠りの世界に誘われる。

 その心に最後まで浮かんでいたのは、最愛の人の姿だった。

 

 ……何時か、狂い果てた先で。こうして彼の姿を思い描く事も叶わなくなるのだろうか。

 …………ならばせめて、それが少しでも遠い未来になる事を願う事は、赦されるだろうか。

 

 そんな事を最後に想って。

 ルフレの意識は完全に闇に閉ざされるのであった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『幸せの箱庭』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 どうして、こんな事になってしまったのだろう……。

 

 僅かな光も届かぬ深い闇の中の様な、幼子の虫籠の中の様な、狂った神の箱庭の様な。そんな閉ざされた狭い世界の中で。

 ルフレは苦しみと共に、幾度目とも分からない溜め息を吐く。

 だが、その溜め息は何処にも届かない。それを聞き届け得る者が居るとすれば、ただ一人だけであるのだが。

 しかし、ルフレの苦しみが彼の心に届く事は無いのだろう。

 身動きの邪魔にはならぬ様に……だが逃げ出す事の出来ぬ様に自身の腕を縛る鎖も、逃げられぬ様に潰された足の腱も。

 そうやってルフレをこの場所に縛り付けているのは。

 他ならぬ彼──クロムなのだから。

 

 

 ルフレは、かつて一度この世界から完全に消滅した。

 邪竜ギムレーの器として、邪竜へと覚醒しこの世界を滅ぼす事を運命付けられていたルフレではあったが、それを拒絶し。

 そして、その運命を変える為……そしてこの世界からギムレーの脅威を取り除く為に、ルフレは己の命を擲った。

 己の存在を代償にしたルフレではあったけれど。

 しかし、紡がれた絆の導きと……そしてルフレ自身の願いと祈りが実を結び、再びこの世界で生きて行く事を赦された。

 世界に還り付いて、そして再びクロムと巡り合って。

 それで、やっと今度こそ、皆と……クロム達と共にこの生を全う出来るのだと、そう思っていたのに。

 だが、そんなルフレの想いは、この箱庭の中で閉ざされた。

 

 どうして? と。もう数え切れない程幾度も投げ掛け続けているその問いに、クロムは何も返してはくれない。

 

『もう何処にも行かない、ずっと君の傍に居る、だからこんな事をしなくても良い』

 

 そんな心からの言葉すら、彼の心には何も響かなかった様だ。

 

 ギムレーと共に消滅して、だが再びこの世界で生きる事が赦されて……。だからこそ、今度こそ……。

 もう二度と彼の手を離さない様に、もう二度と交わした約束を違わぬ様に、そう生きようと。愛する人々と共に、この命のある限り生きようと、そう、思っていたのに。だけれども。

 クロムは、ルフレを己だけが知る秘密の場所に閉じ込めた。

 何処にも行けぬ様に、誰にも逢えぬ様に。

 

 ルフレが生きてこの世界に戻ってきた事を、きっとクロム以外の仲間たちは誰も知らないのだろう。

 閉ざされたこの場所を知るのは、クロムだけである。

 ルフレですら、此処が何処であるのか知る由は無い。

 日々クロムが訪ねに来れる事を考えると、王都の何処かではあると思うのだけれども……。しかし、何らかの魔法による仕掛けで距離的な制約を無視出来るのならばそうとも限らない。

 

 助けを求める事も出来ず、逃げ出す事も出来ず。

 クロムの気が変わって解放してくれる事を祈るしか無い。

 それは、虜囚の身である事とどう違うのだろうか。

 

 ただ、外界から隔絶されているとは言えここは牢獄ではない。

 寧ろ、王侯貴族の住まいであるかの様に、不快さの無い洗練された贅を尽くされた上質な部屋を幾つも与えられていた。

 ……ただそこに出口は何処にも無いだけで。

 食に困る事も、衣服に困る事も、寝床に困る事も無く。

 クロムはルフレの為だけに立派な図書室を用意してくれていた為に、書物などに困る事も無い。他人を必要としない娯楽の類ならば、頼めば直ぐ様に用意してくれるのだろう。

 それを贅沢な生活であると、羨む者も居るのかもしれない。

 

 だが、ルフレの手は身の回りの事に困らぬ程度の細く長い鎖で繋がれ、そして足の腱は彼の手によって潰された。歩く事に支障は来さないが、歪に塞がったその傷が完全に治る事は恐らく有り得ず、きっともう二度とかつての様には走れないだろう。

 窓は全て僅かな隙間しか開かぬ様に設計され、クロムが持つ鍵でしか開かぬ重い扉に閉ざされて。

 そして、万が一にもルフレが自分を害する事の無いようにと、刃物やガラスや陶器などは全て身の回りから排除されている。

 ルフレはありとあらゆる逃走手段を奪われていた。

 

 顔を合わせる度に、ルフレはクロムに言う。

 

「僕は君を裏切ったりしない。

 もう二度と君の傍を離れない、君との約束を破らない。

 だから、こんな事はしなくても良いんだ」、と。

 

 だが、そう言う度に、クロムの表情は『無』になるのだ。

 ルフレの言葉は、クロムの心に届かない。

 

 

『僕達は「半身」だろう? 

 こんな事をしなくても、僕はずっと君の傍に居る』

 

 

 何度も何度も、ルフレはクロムにそう言葉を掛けてきた。

 だがそれでも、何も……何一つとして届かないのだ。

 どんな言葉も、虚しい程にクロムの心の表層を静かに撫でていくだけに過ぎなかった。

 しかし、クロムはルフレから『自由』を奪っただけ、その『鳥籠』に閉じ込めただけで、それ以外の物を奪う事はしなかった。

 寧ろ、それ以外の全てを、彼は与えてくれた。

 

 かつての様に、語り合い、笑い合う。

 その時の彼は、以前と何も変わらない様に見えるのに。

 それでもクロムは、ルフレに『自由』だけは与えない。

 クロムがルフレを憎く思っているからこんな事をしている訳では無い事が、ルフレには肌で分かってしまう。

 だからこそ、ルフレはどうすれば良いのかが分からない。

 どうしたらこんな事を止めてくれるのか。その答えがどうしても分からない。その手掛かりになりそうなものすら、彼は何もルフレに示さないのだ。

 だからルフレは何も出来ないまま、届かないと分かっている言葉を虚しく紡ぐ事しか出来ない。

 

 ルフレも、こんな風に閉じ込められていても、それでクロムを憎んだり彼に怒りを覚えたりしている訳でも無い。

『自由』を奪われても、傷付けられ戒められていても。

 それでも、クロムが何より大切な友である事には変わらない。

 ただただ、『どうして?』と。

 そればかりが頭の中をグルグルと巡るのだ。

 

 ルフレは、クロムが理由も無くこんな事をする人では無い事をよく知っている。そして、クロムが「狂って」しまったからこんな事をしているのでは無いだろうとも思っている。

 心を壊してしまった人特有の危うさにも似た違和感は、クロムからは欠片も感じないからだ。それは、ルフレをこうして閉じ込め始めた最初の頃から何も変わらない。

 だからこそ、「これ」はクロムにとっては、狂気に駆られての蛮行ではなく、何かしらの「理由」や「願い」に基いた行いであるのだろうと、ルフレは考えている。

 

 ……ただ。ルフレには、クロムのその行動の背景にあるものが、全く分からないのだ。何一つ見当も付かない。

 自分ならば、クロムの心を縛る「何か」を解決出来るのではないだろうか……クロムと二人でなら乗り越える事が出来るのではないだろうかと、そんな事も思うのだけれども。

 ただ、「それ」が一体何であるのか、クロムが語ってくれない以上ルフレにはどうする事も出来ない。

 そもそも、こうやってクロム以外とは関われない現状では、ルフレに出来る事などそう無いのかもしれないけれども。

 それでも、自分はクロムの「半身」であるのだと言う、矜持にも似た自負が、その責任感が、この現状を良しと出来ない。

 クロムだけに「何か」を背負わせる事など、出来ないのだ。

 クロムが、彼一人では解決し切れない「何か」を背負っているのであれば、そしてその為にこの様な……きっとクロムとしても本意では無いだろう筈の事をしているのであれば。

 ならば、ルフレは共にそれを背負いたいのだ。

 二人で力を合わせたとしても乗り越えられない程のものであるのだとしても、その重荷を分かち合う事ならば出来るから。

 

 だからルフレは言葉を尽くす。

 今は届かないのだとしても、何時かはきっとその心に届く筈であるのだと……。クロムの心を頑なにさせている「何か」を融かす事が出来るのでは無いだろうか、そして共にその「何か」を背負い、そしてそれに向き合い乗り越えていけるのでは、と。

 それを願って、それを信じて。

 届かない言葉を、そうと知りながら紡ぎ続けるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 何時もの様に執務を切り上げたクロムは、誰かに後を付けられていないかをよく確認してから隠し通路に入った。

 

 イーリス城には、緊急時の為の隠し通路や脱出路が幾つも存在し、その正確な数を知る者は王族の中でも一握りしかいない程である。下手に迷い込めば脱出不可能になり時にそこで命を落とす者も居ると言われている程で、その存在を知る者ですらこうした隠し通路に入ろうとする者はほぼ居ない。

 その為、比較的小まめに点検し整備される隠し通路はともかく、知る人が極端に限られている道や最早忘れ去られてしまった道は、埃に塗れていたり時に塞がっていたりする事もある。

 恐らくは、この城が建造された当初や或いは幾度かあった大幅改修の際に作られた隠し通路の内、「生きている」ものは極僅かしか無いのだろう。そんな隠し通路の中で恐らくは忘れ去られていたモノの部類の一つであろうその道をクロムが見つけたのは、偶然によるものであった。

 恐らくは数代以上前の聖王家の者が人目には曝せない誰かを匿う為に使われていたのだろうその道は、王都の外れにある森の中の古い屋敷へと繋がっている。

 それを見付けた幼い日のクロムにとっては、そこは秘密の遊び場であった。……とは言え、姉を守れる様な強さを欲して剣を振り鍛錬する事に夢中になっていた幼い日のクロムがその屋敷を訪れる事は殆どと言って良い程に無かったのだけれども。

 

 そんな忘れ去られた屋敷を、ギムレーとの戦いを終えて戦後処理に忙殺されるその傍らで、クロムは密やかに修繕させた。

 何時か、誰よりも大切な友……己の「半身」であるルフレが再びこの世に還って来た時に、そこに匿う為に。

 

 ……千年の時の彼方から再び蘇りこの世を滅ぼさんとしていたギムレーとの戦いがルフレの献身によって終ったその後で。

 大切な仲間を目の前で喪い国に帰って来たクロム達を待っていたのは、ある意味では余りにも残酷な現実であった。

 恐らくは、あの戦いの場か……或いは、クロムが「覚醒の儀」を遂げた時の戦いに居た末端の兵達から、ある一つの「噂」が流れ出し、それは何時しかイーリス中に拡まってしまっていた。

 

『希代の軍師ルフレは、邪竜ギムレーに所縁の者である』、と。

 それどころか、ギムレー教団の最高司祭として振舞っていたギムレーの姿を見た事がある者が居たのか、ルフレこそがギムレーを蘇らせこの世を滅ぼしかけたのだと宣う者さえ居た。

 ルフレは彼の存在を危ぶんだクロム達によって処断されたのだと、そんな事実無根の「噂」すら存在するらしい。

 ルフレとギムレーに関する「噂」は無数に存在し、中には全く相反するモノも多く存在したが、しかしそれらの「噂」はイーリスの民に一つの「事実」を植え付けるには十分だった。

 

 最早、今のイーリスにルフレが帰って来る居場所は無い。

 ルフレは、邪竜の側の存在であるのだと。それはもう、多くの民にとって覆す事の出来ない「事実」となってしまっている。

 それがルフレ自身の「真実」とは全く異なるのだとしても。

 民の心に一度根付いてしまった「事実」を変える事は並大抵の事では叶わず、クロムや仲間たちはどうにかしようと動き続けてはいるがその成果は一向に挙がらない。

 

 その「事実」が全くの虚構であるならばどうにか出来たのかもしれないが、残念ながら一部には事実が含まれているのだ。

 ルフレが、ペレジアの古い血脈により「ギムレーの器」として生み出された存在であった事も。そして……有り得た「未来」では、邪竜へと堕とされた彼によって世界は滅びた事も。

 

 大衆の人々が最も信じ受け入れてしまうのは、真実ではなく事実を含んだ「噂」だ。そしてそれは扇情的であればある程、然も公然の「事実」であるかの様に流布してしまう。

 救国の英雄がその実「悪」であったなど、まさに当てはまる。

 此度のギムレー復活でイーリスが直接被った被害はそれ程多くは無い。蘇ったギムレーが世界を滅ぼす為に本格的に動き出す前にそれを止める事が叶ったが故である。だが……。

 

 あの日蘇ったギムレーを、ペレジアの民達だけではなく、イーリスやフェリアの民の多くが目撃していた。

 幾つもの山々を連ねてもその翼の端にすら届かないだろう程の、生き物としての存在の根本からして人とは全く異なる存在。

「神」と崇められ畏怖される事すら当然だと、そうだれもが一目で理解せざるを得ない程の、強大無比なその姿。

 それを目にしたイーリスの民が、過剰な程に邪竜ギムレーを畏れ拒み、それに連なる者達を排斥しようとする事は、それはもう理屈がどうであれ仕方の無い事でしかないのだろう。

 

 実際、ギムレーが復活した時から今に至るまで、イーリス国内での神竜信仰は些か苛烈なまでに高まっていた。

 そして、ギムレー教に対する忌避感も……かつての「聖戦」の頃以上に高まり、それは留まる事を知らない。

 そんな中で、その様な「噂」が出回ってしまったのだ。

 クロム達が事態に気付いた時には、もうどうする事も出来ない程までにその「噂」は「事実」となって拡がっていた。

 最早収拾不可能な状況を目の当たりにして、世間に蔓延る「噂」を消し去り世論を覆す方では無く、クロムの心はルフレを如何に民衆の敵意から守れば良いのかに傾いて行った。

 そして、ルフレを守る為には彼を世の人々から遠ざけ隔離するしかない、と。そう結論付けたのだった。

 

 そして、彼の為の「幸せの箱庭」として、クロムは自分以外の者は殆ど知り得ない隠し屋敷を選んだ。

 代々王家に仕え口も堅く信頼の置ける職人達に用途を知らせずに屋敷を改装させて、そして自分以外の誰も立ち入る事が無い様に屋敷の入り口を潰した上で、隠し通路に繋がる隠し扉には複製する事も力技で破る事も難しい特殊な鍵を取り付けた。

 そうして、ルフレの為の「箱庭」の準備が整ったその矢先に、ルフレは再びクロムの目の前に現れたのだ。

 

 再会を喜ぶ事もそこそこに、クロムは誰の目にも付かない様に誰にも気取られぬ様にしながら、細心の注意を以てルフレを「箱庭」へと連れ込み、そこに閉じ込めた。

 

 世界の現状など全く知らないルフレはそれに酷く驚いて、考え直す様に何度もクロムに訴えかけ、そしてどうにかしてこの場から逃げ出そうとする様になった。

 事情を説明してやれれば良かったのかもしれないが、クロムには出来なかった。「何故?」と何度も問うルフレに、もうこの国に……それどころかこの世界に、お前の存在が許される場所は無いのだなどと……そんな事をどうして口に出来ようか。

 そんな真実を知れば、ルフレは酷く心を痛め、そして己の存在を責めるのだろう。こうして帰って来た事にすら、罪悪感を抱いてしまうのかもしれない。そしてそうなった時にルフレが何を選んでしまうのか……それを考えたくは無い。

 

 もう二度と、喪いたくないのだ。

 大切な人を、大切なものを、もう、二度と。

 

 クロムは、何よりも大切な家族であった姉を守れなかった。

 まだほんの子供であった時分から「聖王」として生きる事を余儀なくされて、姉個人の「幸せ」と言うモノを殆ど奪われて、その上で自国の民とペレジアの民の憎悪に一人向き合い背負わねばならなかった、その人を。クロムは目の前で喪った。

 そして、今も尚クロムの脳裏から離れる事の無い姉の姿が、ルフレのそれと重なってしまうのだ。

 

 本人の望みや意志とは無関係の場所で定められたものに縛られて、そして本人に責は無い筈の憎悪や恐怖を向けられて。

 そして、「滅びるべき悪」として排除する対象にされて。

 そんな現実を前にすれば、そしてそれを知ったルフレが傷付き悲惨な未来を辿るしかないのであれば。

 ルフレに恨まれる事など、クロムにとっては如何程でも無い。

 恨まれても、憎まれるのだとしても。それでもルフレを守れるならばそれで良かった。その為にこの手でルフレを傷付ける事になるのだとしても、それでルフレがこれ以上残酷な程に愚かな世界に絶望せずに済むのであれば、それで良い。

 

 だからクロムは、ルフレの自由を鎖で縛り、そして万が一にも逃げ出さない様にその足を潰した。

 

 きっと憎まれるのだろうと、そう思っていたのだけれど。

 しかしルフレは何も変わらなかった。

 ルフレにとっては甚だ理不尽であろう筈の仕打ちを受けてすら、ルフレがクロムに向ける感情も信頼も、何も変わらなくて。

 だからこそ、守らなければならないと、より一層思うのだ。

 

 ルフレが「真実」を知る事は何があっても起こらない様に。

 これ以上、大切な人が絶望せずに済む様に。

 その為ならば、クロムは幾らでも非道な行いが出来る。

 このルフレの「幸せの箱庭」を守る為ならば、何だって。

 

 そこに在る「幸せ」は歪んでいるだろうが、こんな世界ではそんな「幸せ」しか守ってやれないのだから……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『千重波の彼方』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 初めて海を見たのは何時だっただろうか、と。

 ルフレは己の記憶の戸棚を探しながら、寄せては返す白波の連なりをぼんやりと眺めていた。

 

 終わりの見えない泥沼の様であったペレジアとの戦争が漸く終結を迎えたと思ったら、今度はこの海の向こうからヴァルム帝国がこの大陸に押し寄せてくる事になった。

 ペレジアとの長きに渡る戦いで既に疲弊しているイーリスは元より、イーリスに助力してくれていたフェリアもそれなり以上に消耗しているし、況してや敗戦国となったペレジアに至っては国土の防衛すら覚束無いだろう。

 そして、ペレジアが陥落すればそこを足掛かりとしてフェリアやイーリスも間違いなく攻め込まれてしまう。

 敵の敵は味方……とまではいかなくとも、海の彼方の侵略者から自分たちの身を守る為に手を取る事は出来る。

 その為、その裏に様々な思惑が蠢きつつも、三国の同盟は何とか成立し、大陸中が一丸となって侵略者に対抗する事になった。……のは良いのだが、三国が手を組んだとしても、強大な侵略者に抗するには物資も人員も潤沢とは言い難い。

 一先ずヴァルム帝国側の海に面した港町などに防衛線を張る事が急務であり、その為ルフレ達は駆り出されていた。

 

 先遣隊をどうにか撃退した後、第二波第三波と押し寄せてくるにはまだ時間的な猶予があるらしく、未だヴァルム帝国の艦隊は姿を見せていない。

 その為か、港町の人々にも緊張感は漂いつつも何処かまだ非現実的に感じているかの様な……何処と無く他人事であるにも近い雰囲気が漂っている。この町が先遣隊の被害に遭った訳では無いから尚の事そうなのであろう。

 兵達が忙しなく防備を整えている姿を何処か遠巻きに見る町の人々の姿には、戦事に巻き込まれる事への不安に近いものが浮かんでいる様であった。

 ……先遣隊による被害やヴァルム大陸に於けるかの帝国のやり口を伝え聞くに、万が一ヴァルム帝国軍の侵入を許せば待っているのは略奪と虐殺の嵐だ。降伏する間も無いだろう。

 だからこそ、何としてでも上陸を許す訳にはいかない。

 

 町や周辺の地形図を手に、ルフレはヴァルム帝国軍を迎撃する為の布陣を考える。考え付いた防衛の布陣を、今度は仮想のヴァルム帝国軍側に立って攻め込んで。そうやって何度も何度も滅ぼしながら、防衛の布陣に修正を加えていく。

 許容出来る損耗の程度、防衛を担う部隊の指揮官の特徴、救援が到着するまでの期間、この地域の気候の特色……。

 様々な情報を基に、ルフレは策を組み上げていく。

 そうやって盤面を整え駒を配置するかの様に策を練っていく事は、ルフレにとっては自分と言う救い難い存在がこの世に存在する為の「価値」にも等しい事であった。

 より正確に言えば、そうやって策を練り献上する事でクロム達の役に立つ事が、であるのだけれども。

 

 クロムの事を脳裏に過らせたルフレは、あの眩しいばかりに蒼い後姿を無意識の内に探し、そして見付けた。

 そんなルフレの視線に気付いていない様子のクロムは、何時も以上に固い表情で町の防衛の為に様々な指示を飛ばしている最中である様だった。

 ペレジアとの戦争の終結と同時に正式に「聖王」として即位したと言うのに、クロムはこうして態々最前線になるだろう場所にまでやって来ていた。それは、「聖王」が直々に訪れる事で少しでも民の不安を和らげ、同時に防衛を担う兵達の士気を高める為であるのだろう。

 実際、その効果は目に見える程に出ている様だ。

 

 ……愛らしい娘が産まれたばかりであると言うのに、終わりの見えない戦乱は、クロムが「父親」として在れる時間の多くを奪い去ってしまっている。産まれたばかりの娘を、彼はまだほんの数度程度しか抱いてやれていない。

 

 本当は、もっと「家族」としての時間を過ごさせてあげたいのに。時代の流れがそれを許さず、そしてその激しい流れに抗し切る様な力はルフレには無くて、私人としてのクロムの時間が犠牲になっていく事を、「半身」なのに止められない。

 

 ……同じ人同士で殺し合う事を望む人など決して多くは無い筈なのに、それでも血で血を洗う争いは絶える事無くこの世に満ちている。平和の望みながら、その手で命を奪うのだ。

 それは何とも矛盾に満ちている様で……、しかし人に限らずこの世の命は皆争いながら生き抜いているものなのだ。

 この世に命がある限り争いが絶える事は無く、この世に人が栄える限り戦争が根絶される事は無いのかもしれない。

 

 ……クロムが望む様な……志半ばに凶刃に斃れた先王エメリナが望んでいた様な、武器を手に取るのではなく言葉で問題解決を図る世界と言う「理想」は、何処までも遠い。

 利害の衝突、根深い怨恨……。人が争う理由など数限りなく、この度のヴァルム帝国の侵略の様に、此方側に何か明確な瑕疵がある訳では無くとも戦禍に巻き込まれる事はある。

 人は、武器を手に襲い掛かって来る者を前にして、手にした武器を投げ捨てる事は出来ない。そして、一度振り上げてしまった武器を静かに下ろす事はとても難しく、結果として新たな怨恨が生まれてしまう。

 

 ルフレは静かに目を伏せて、小さく息を吐いた。

 

 ルフレは、『軍師』だ。

 策を練ってそれを献じ、己の仕える陣営に可能な限り望ましい形の勝利を齎す為の存在である。恒久的な平和が実現すれば真っ先に不要になるであろう、……この戦乱の混迷の渦中にある世界でならば存在する意味がある者だ。

『平和』を願い戦乱を疎んで少しでも早く戦乱の世を終わらせるべく働き続けるのは、『軍師』としてはある意味では緩慢な「自殺」の様なものであるのかもしれない。

 実際、『軍師』としての役割以外に、どうすれば自分がクロム達の役に立てるのか、ルフレには分からなかった。

 

 騎士として国の治安の維持に努めるのも、或いは官吏となって内政を手助けするのも。そのどちらも、ルフレ自身の事情を鑑みると後ろめたさを感じてしまう。

 ……こうしてイーリス自体に直接的に干渉する事は無い『軍師』として、そしてクロムを支える「半身」として彼の傍に居る事にすら、時折どうしようもなく後ろめたくなるのに。

 

 己の右手……人目に触れぬ様に隠し続けているその手の甲に刻まれた「烙印」を捨て去る事が出来るのなら……。

 ……だが、そんな事は不可能だ。

『ルフレ』と言う存在がこの世に生まれ落ちた瞬間から、その宿命は己の根幹に存在するのだから。

 ……例えルフレ自身はそれを決して望まないのだとしても、己の意志を越えた場所で定まったそれにどうすれば抗えるのか、……その方法を探し続けていても未だ見付からなかった。

 

 ……何時かこの「烙印」が、その宿命が、全てを呑み込んでしまったその時には。何もかもを壊してしまうのだろうか。

 この世界を、この世に生きる人々とその営みを、そして。

 ……何よりも大切な仲間である、クロム達を。

 自分にとって大切なモノもそうでは無いモノも、何もかも見境なく破壊し尽くしてしまうのだろうか。この世にただ独りきりになるまで。

 ……それは想像するだけでも、怖気立つ程に恐ろしい事だ。

 

 死に別れる間際に母から己に隠された秘密を明かされたその時からルフレの心を苛んでいた「恐怖」は、クロム達と出逢ってから益々強くなる一方であった。

 己の手の中にあるモノを、愛しいと……大切であると、そう思えば思う程、何時か己が堕ち果てるその先が恐ろしい。

 どうして自分なのだろうと、そう何度も己の運命を呪った事もある。こんな存在ならば、初めから生まれなければよかった、もっと早くに死んでしまえば良かったのに、と。

 ……それでも……。

 決死の思いで足手纏いでしかない筈の赤子のルフレを抱えて暗い闇を煮詰めた地獄の底の様な場所から連れ出して、そしてどうにか独りで生きていけるまで育ててくれた母が。

「何があっても、最後まで生きて」と、そう望んでいたから。

 そして……。

 仲間達皆が、クロムが、必要としてくれるから。

 クロム達と過ごす時間が、何よりも大切だから。

 

 生きているべきではない存在だと、存在してはならない者だと、そう分かっていても。

「生きなくてはならない」と、そう思ってしまう。

 クロム達を思うのなら離れるべきだと分かっていても。

 此処で生きていたいと、そう願ってしまうのだ。

 

 何時かその選択の、その願いの「報い」を受ける時が来てしまうのかもしれなくても。

 それが少しでも遠い未来になる様に、その未来を少しでも良い方向に変えられる様に。

 出口の見えない闇の中で、ルフレは藻掻き続けている。

 

 再びルフレは小さく息を吐いた。

 思考の海に沈んで暫しの時が過ぎていた様だが、誰もそれに気付いてはいなかった様で、周囲の光景も何も変わらない。

 忙しなく動く人々も、静かに波打つ海も、何も変化は無い。

 ヴァルム帝国の艦隊が確実にこの地に迫って来ている筈であるのだが、広い海原の水平線にはその様なものの影も形も無く、海は何時もの様に静かに波を寄せるだけだ。

 ……何処までも果てなど無い様に見える海からすれば、ヴァルム帝国の艦隊も、そしてこうしてそれを迎撃する為に血眼になっているイーリス軍たちも、この地に生きる人々の営みも、その何もかもがちっぽけなモノであるのだろう。

 ……伝承に伝え聞く、隔絶した巨大さを誇る邪竜ギムレーでさえも、海原の広大さには敵わないのだろう。

 ルフレが抱え続けている宿命ですら……。

 

 ……こうして海を見ていると、物心付いて初めて海を見た時の事を思い出してきた。

 あの時は確か……幼心に「こわい」と。そう感じていた。

 この世の何もかもを呑み込んでしまっても何も変わらずに波打つだけであろうと、幼心にもそう感じた海の広大さが、まだ幼かったルフレにはとても恐ろしく思えたのだ。

 ……そして母は、海を前に尻込みするルフレを、優しく抱き締めてあやしてくれていた。その手を、今でも覚えている。

 そんな幼い日の記憶を思い出して、そこにあった母の姿のその懐かしさに思わず目を細める。

 こうして在りし日の母の姿を明瞭に思い描くのも、随分と久方振りの事であった。

 

 

「どうしたルフレ、遠い目をしているが。

 何か気になる事でもあったのか?」

 

 

 その時不意に背後からクロムに声を掛けられて、ルフレは驚きつつもゆっくりと振り返る。

 何時の間にやら兵達に粗方指示を出し終えていた様だ。

 

 

「ああ、いや……。

 海を見ていたら少し懐かしい記憶を思い出してね……。

 初めて海を見た時の事を考えていたんだ」

 

「そうか。……それは、お前の母親との思い出なのか?」

 

 

 その声音には、ルフレの気持ちをそっと慮るものがあった。

 クロムには、自身の過去を詳しく教えた事は無い。

 ただ……共に暮らしていた母は、もうこの世には居ないのだとだけ、一度話した事はある。

 その為なのかクロムは、ルフレが母との記憶に触れている時には、少し不器用な程に優しく気を遣ってくれるのだ。

 ……母を喪ってから暫くの間は思い出すだけで中々抜けない棘が刺さったかの様に心は鈍く痛みを覚えていたのだが、クロムと出逢った頃には既に、ただただ穏やかな懐かしさばかりが心の奥を優しく撫でる様になっていたのだけど。

 そんなクロムの優しい気遣いに、無意識に口の端を緩めながらルフレはそっと頷いた。

 クロムは「そうか」、と静かに頷く。

 暫しの沈黙が落ちて、二人で静かに海を見ていた。

 寄せては返す波と、時折陽光を強く反射して眩しく輝く水面を、互いに何も言わないまま眺める。ただそれだけの事であるのに、静けさの中に波音だけが聞こえる一時が、ルフレにとっては酷く心地好いものであった。

 互いに言葉は無いが、耳に届く波音の様に穏やかにクロムの思い遣りなどが伝わって来る様にすら感じる。

 こんな時間だけが何時までも続けば良いのに、と。

 そんな叶わない想いすら抱いてしまう程に……。

 

 

「なあ、ルフレ」

 

 

 静寂を破る様に、ふとクロムが言葉を零す。

 どうかしたのか、と。傍に立つクロムを僅かに見上げると。

 クロムは、どうしてだか優しい目をしていた。

 

 

「何時か……ヴァルムとの戦争が終わったら。

 また、こうして一緒に海を見に行かないか。

 今度は戦争の為では無く、ただ海を見る為だけに」

 

 

 クロムの言葉に、少し驚いたもののルフレは緩やかに頷く。

 

 

「ああ、そうだね……。その時は、僕達だけじゃなくて、今は城でお留守番をしているルキナも連れて行ってあげようよ。

 きっと、ルキナにとっても大切な思い出になるだろうから」

 

 

 自分にとって、かつて母と海を見た思い出が、遠く昔の事であっても今も鮮明に思い出せる様に。

 何時か両親と共に初めて見る海はきっと……あの愛らしい幼子にとって特別な思い出になるのだろう。

 ルフレにとってその光景は容易に想像が付くものであった。

 そんなルフレに、クロムは柔らかな笑みを浮かべる。

 

 

「ああ、そうだな。それが良いだろう。

 皆で一緒に、何時かきっと……」

 

 

 ……それは「約束」と言うには少し儚い、だけれども互いにとって大切な「何時か」への願いだ。

 何時か、……そうきっと何時か。

 終わりの無い戦いの日々の中に在ってもきっと何時かは僅かにでも訪れるだろう、そんな「何時か」に。

 大切な人と、またこうして海を見たいと。

 そう、ルフレは願ったのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 寄せては返す波の音に耳を傾けながら、ギムレーはぼんやりと波打つ水面を見ていた。

 

 厚い雲が空を覆い尽くし陽の光を遮る薄暗い世界でも、夕暮れ時には空全体が燃え尽きていくかの様に鮮烈な紅色が世界を染め上げる。命在る者が尽く滅び去っても、太陽も月も星も……それらは何一つ変わらず雲の彼方で輝き、空を吹き渡る風も渦巻き波打つ海も……それらも何も変わらない。

 ギムレー本来の姿と比較しても比べ物にならぬ程に広大な海にとっては、ギムレーが世界を滅ぼした事すらも些末事であるのかもしれない。……単なる水溜りに意志など無いが。

 

 ……どうしてこんな場所で態々海を眺めているのだろうと。

 そう不思議に思うのだけれども、何故だかギムレーは波打ち際の砂辺に座り込む様にして膝を抱えながら海を見ていた。

 別に面白味も何も無い、静かに波が打ち寄せるだけの光景でしかない。それなのに、ギムレーはそこから動かなかった。

 

 ……この世の命の尽くを滅ぼし尽くした今となっては、別に何処に居ようとも退屈なだけだ。

 永遠に終わりの無い退屈に心を蝕まれたまま無為に眠りに就くのも、こうして何もしないまま海を眺めているのも。

 どちらもそう変わりがある事では無い。

 こうして思考する事すら、無為なものでしかなかった。

 

 心の内に底無しに溢れていた破壊衝動や憎悪や憤怒も、それを向ける対象を全て喪った今となっては行き場を失くしたも同然であり、半ば枯れ果てている。

 目の前で波打つ海を枯らし果て、空を吹き渡る風を殺し、遥かなる宙の果てに輝く星々をも破壊する事を求めても良いのかもしれないが……。しかしそれ以上にただ虚しさが募る。

 異界から適当に人々を連れて来て嬲る様にその絶望を愉しむのも一つの手ではあるのだろうが……。しかしそれを考え付いた所で実行しようと動く事も無かった。

 ただただ静かに、終わった世界でギムレーは海を見ていた。

 

 何かをしたかった様な気がするが、それは一体何であったのだろうか。遠い昔に何かを「約束」していた様な気もするがそれは一体どんなものであったのだろうか。

 何も分からないし、もし思い出した所で既に既にこの世界にはギムレーしか存在しない。もう、何もかもが終わってしまった事だ。

 

 ギムレーは、孤独に海を眺め続けるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 陽が沈み行く空は燃える様な紅に染まり、その色を映した様に波打つ水面もまるで燃えているかの様である。

 昼日中の照り付ける様な陽の光と、眩いばかりに輝く海は全く以て己の好みとは掛け離れているが、夕暮れ時のこの海は少しばかり気に入っていた。それを口にする事は無いが。

 

 どうして態々こんな場所にまで連れて来られなければならなかったのかとそう不満を隠せずにいたが、まあこれはこれで悪くは無い。もしかしたら、喪ってしまった記憶を取り戻す事に僅かながらでも繋がるのかもしれないのだから。

 

 この地に招かれたその時に、時空を超えた影響からなのか、己が邪竜ギムレーであると言う認識以外に自分自身に繋がる一切の記憶と共に竜としての力の大半を喪ってしまっていた。

 儀式を行ってみたりするなどして喪った記憶を取り戻そうとしているがその努力は一向に報われず、未だ『ギムレー』であると言う自覚と僅かばかりこの身に残された竜の力だけが、今の自分の全てである。

 世界を滅ぼす者、人々を絶望させる者、人の祈りによって憎悪と絶望を齎す者……。それが、『邪竜ギムレー』である。

 異世界の伝承が異界の英雄譚として伝わるこの地でも、『邪竜ギムレー』と言う存在は絶対的な「悪」。英雄によって滅ぼされるべき「邪悪」であると伝えられていた。

 異界の伝承はこの地に招かれた英雄にとっては『未来の予言』にも等しくなる事も多いので、その未来の部分の情報は閲覧出来ない様にはなっているのだが、己が本来居たのだろう世界と近しい異界から招かれている者達の姿や彼等がこの地に招かれる事になった英雄譚を聞くに、どうやら彼等の世界で『邪竜ギムレー』は英雄となった彼等の手によって滅ぼされている様だ。……それなのに己の『器』、かつて「人間」として生きていたのであろう頃の『自分自身』も、この地に招かれているのには少しばかり違和感があるが……。

 まあ、『邪竜ギムレー』という存在が英雄譚の中で求められている役割が「悪役」であると言う事には変わらないだろう。

 英雄譚の中で『邪竜ギムレー』が滅ぼされていると言う事には大した感慨は無かった。

 何せ、「同じ様な」と条件を付けたとしても、可能性の数だけ異界は存在すると言っても過言では無いのだ。

 限り無く無限に近い程に存在する異界の幾つかで『邪竜ギムレー』が滅ぶのだとしても、それは大した問題では無い。

 精々、その様に人間の手によって討ち取られて滅ぼされるべき「悪」として名を残した間抜けが居たと言うだけだ。

 慢心でも何でもなく、真に力を取り戻した『邪竜ギムレー』が人間の様な小さな羽虫に負ける筈は無いと言う事実がある。

 まあ……異界に無数に存在する神竜ナーガが余計な手出しを出してきたり、無価値な憐憫による干渉をしてきたりして多少は手こずる事はあるのかもしれないけれども。

 何にせよ、人間に負けた『邪竜ギムレー』は、余程驕り高ぶって力を出し惜しみするなどして、無様に負けたのだろう。

 ……愚かな事だ。相手が人間であれ神竜であれ異界の神々であれ、「滅ぼす」と決めたのであれば過度な驕りは無用な危機を招くだけであると言うのに。

 ある意味で「自分自身」であるのかもしれないけれど、無様な末期を異界にまで轟かせる事になった愚か者とは、存在の根源が同じであると言うだけでしかないだろう。

 この地に招かれたのは、ただ単に同じ『邪竜ギムレー』だからであるのだろうと、そう思っている。

 まさか、記憶にないだけで既にその様に無様な真似を晒していたのだろうか……? ……流石にそれは違うと思いたい。

 

 記憶を喪う以前がどうであったのかは、それを完全に喪失している以上は考えるだけ無意味な事だ。

 そして、記憶があろうと無かろうと、人間どもにとっては『邪竜ギムレー』と言う存在である事には変わらない。

 その為、こうしてこの世界に招かれてはいるものの、英雄としてこの地に招かれた他の者達からは距離を置かれている。

 同じ異界から招かれ、『邪竜ギムレー』と言う存在がどういうモノであるのかをよく知っている者達からは当然として。

 それ以外の異界から招かれた者達の大多数からも。

 時折、ギムレーが招かれた異界とは全く異なる異界からも、ギムレーと同じ様に「倒されるべき悪」として伝承されているのだろう者達も招かれているが……。そう言った者達とも然して交流がある訳では無い。

 まあ、元々他者と関わり合いになりたいとは思っていない為、それはそれで気楽なので良いのだが。

 契約で縛られている為やろうと思っても出来はしないが、本来の力を顕せばこの地に集った英雄たちも根こそぎ纏めて滅ぼしてしまえるだけの力があり、元居た世界ではそれを実際に成し遂げた存在でも在るのだ。

 一般的な感覚をしていれば、間違っても関わり合いになりたくは無い存在だろうし、己を正義であると思う輩にとっては許し難い存在であるのだろう。

 故に、こうして独りで過ごす時間が多かった。

 纏わり付かれたとしても、破壊衝動が沸き立つだけなので、遠巻きにされている方が気が楽である。

 そう、その筈なのだけれども……。

 

 砂浜を踏み締め近付いてくる足音を捉え、面倒くさいと思いつつもそちらに目を向ける。

 そこには、やはりと言うか。

 想像していた通りの者の姿が在った。

 

 そちらを態々向いてやった事に気が付いたその者は、嬉しそうにその口の端を緩め、優し気にその眼差しを和らげる。

 その様を見ているとどうしてだか胸の奥がざわついた様に騒ぐが、何故かそれを嫌だとは思えない。

 

 

「ここに居たのか、少し捜したぞ」

 

 

 そう言って笑うその顔にこちらに阿る様なものはなく、ただただその言葉通りの感情を伝えてくる。

 その所為なのか、無碍に突き放す事も少し憚られた。

 

 

「聖王の末裔が僕に何の用なんだい?」

 

 

 とは言え、愛想良く対応してやる気も無くて、少しばかり棘を混ぜた様な反応にはなるのだけれど。

 それでも、それに気を悪くした様な様子も無く、彼はほんの少しで触れ合えそうな程の近くまでやって来る。

 毎度の事ながら、調子が狂ってしまいそうだ。

 

 かつて『邪竜ギムレー』を封じた者の末裔であり、そして伝承によっては恐らく『邪竜ギムレー』を討ち滅ぼした事になっている者──聖王クロム。

『邪竜ギムレー』と「同じ」異界からやって来た者達の一人であり、『邪竜ギムレー』と対峙した者の一人でもある。

 当然、『邪竜ギムレー』がどう言う存在であるのかはよく知っている筈であるのだろうけれども。

 不思議な事に、この男だけは妙に親し気に接してくるのだ。

 

 聖王クロムはその英雄譚に於ける知名度の高さ故なのか、この世界には異なる可能性や時間から招かれた同一存在が互いに反発する事も無く同時に複数存在している。

 今目の前に居るのも、数居る「聖王クロム」の内の一人だ。

「聖王クロム」全員が『邪竜ギムレー』に対して親し気に接してくるのなら、まあそう言うものなのかもしれないと受け入れていたかもしれないが、別にその様な事も無く。

 明確に敵意を持たれている訳では無くても、その他の殆どの「聖王クロム」は積極的に『邪竜ギムレー』に関わろうとはせず、寧ろ「人間」であった頃のギムレー……ルフレと言う名であった頃の者達と深く関わり合っている様であった。

 それなのにこの男は『邪竜ギムレー』に関わろうとする。

 余程の変人であった可能性から彼を招いたのだろうか。

 全く理解に苦しむ事である。

 現に今も──

 

 

「用と言う程のものでは無いのだが……。

 お前と海を見たくてな。それで、捜していた」

 

「僕と海を? ……本当に、変な奴だな、君は。

 世界を滅ぼす『邪竜ギムレー』と海が見たいだなんて、酔狂にも程があるんじゃないかい? 

 大体、僕に構わなくたって君には君の『ルフレ』が居るんだろう? 

 他の「君」の様に、君の『ルフレ』と時間を過ごせば良いだけの話じゃないか。

 海が見たいのならそう言ってやれば『ルフレ』は喜んで付き合ってくれるんじゃないのかい?」

 

 

 全く以て理解出来ない。何故態々『邪竜ギムレー』に付き纏ってくるのだ。世界を滅ぼした邪竜に、何を期待している。

 いっそ気味が悪い程に理解出来ない相手ではあるのだけれども、しかし完全に拒絶し切るのも何故だか出来なかった。

 

 

「……いや、俺はお前と時間を過ごしたいんだ。

 この世界だからこそ、お前と。

 ……『約束』、したからな」

 

「『約束』? 残念ながら僕には全く心当たりが無いね。

 第一、僕に記憶が在ったとしても、よりにもよって聖王の末裔である君相手に『約束』なんか交わす筈が無いだろう。

 全く……僕を誰と重ねているのかは知らないけれど、無意味な代償行為は止めた方が良いと思うよ。

 虚しいだけだし、そもそも『邪竜ギムレー』を相手にやる事じゃない。

 契約に縛られているからやらないけど、元の世界だったら君なんてとっくの昔に喰い殺しているだろうからね」

 

 

 別に他意は無い言葉であった。

 それなのに、それを聞いた彼は、何処か哀しそうな……少しばかり苦しそうな表情をする。

 何でそんな顔をするのか分からず困惑し、そして自分が困惑したと言う事自体に狼狽えた。

『邪竜ギムレー』にとって、人間の一人や二人傷付こうが絶望しようがどうでも良い事である筈なのに、何故。と。

 ……そう考えるのに胸の奥が苦しくなり、何処か遠くの消え去ってしまった過去の残滓が苦みの様に胸の内を支配する。

 その何もかもに訳も分からず困惑していると、彼は少し寂しそうに「そうか」と、微笑んだ。

 その微笑みに、益々胸の内は搔き乱される。

 

 止めてくれ、そんな優しい顔をしないでくれ。

 自分には、そんな資格は無い。

 君を■■■しまった僕には、もう──

 

 意味の分からない激情が、悲しみと苦しみと絶望の感情の奔流となって駆け巡るが、そもそもどうしてそんな感情を抱くのかすら分からない。中身の無い感情だけが其処に在った。

 無意識の内に、息が浅く早くなる。

 視界の端に、暗く絶望的な赤が飛び散った様な気がした。

 

 感情の濁流に吞み込まれそうになっていたその最中。

 不意に、硬い指先がそっと頬に触れてきた。

 

 驚いて見上げると、少しばかり背の高い彼が、心配そうな眼差しで見詰めていて。頬に触れていた手は、そっと下ろされたと思うと、今度はこちらの手を優しく掴んで来る。

 

 

「……少し、歩こうか」

 

 

 荒くなっていた息が収まってきた事を確認して安堵したのか、彼はその目を優しく細めて。そしてその手を優しく掴んだまま波打ち際を歩き出した。

 振り払おうと思えば容易く振り払える程度の強さだ。

 それでも、何故だかその手を振り払おうとは思えなかった。

 

 彼に手を引かれながら、波打ち際を歩いていく。

 夕暮れ時の光に染まった砂は、血に染まった様に紅く。

 強い西日に照らされた世界は、其処に在る何もかもの輪郭が融ける様にあやふやになっている。

 そんな中で、濡れた砂を踏み締めていく音と、波が打ち寄せる音だけが耳に強く響いていた。

 

 波打ち際を進む内に、足元は何時しか水に濡れていて。

 しかし不思議とそれは不快では無かった。

 彼に手を引かれ、黙ってそれに従いながら歩いていく。

 理解出来ない現状だが……どうしてか、悪くは無い。

 既に大分傾いていた陽は、もう水平線の彼方へと半ば没し、辺りは薄暗がりに包まれ始めている。

 一体何処まで連れて行く気なのだろうかと。

 彼の意図を図りかねながらもそう考えていると。

 

 

「此処だな」

 

 

 不意に彼が立ち止まり、それにぶつからぬ様に立ち止まる。

 一見、何の変哲も無い海辺でしかないのだが……。

 益々彼の意図を図りかねて首を傾げていると。

 彼は優しく笑って、海の彼方を指さした。

 その指先につられて、其方を見ると。

 

 今まさに波の彼方へと沈み行こうとする陽光の、その最期の輝きが、海全体を紅く燃やしている所であった。

 

 ……人間達の言う「美しい」だとか「綺麗」だとか言う感傷は理解出来ないものではあるけれど。恐らく人間達が「美しい」と言うのだろうこの景色を、悪くないと、そう感じる。

 

 

「……まあ、悪くは無いんじゃないかな」

 

 

 そう答えると、彼は嬉しさに寂しさを浮かべて微笑む、

 

 

「……そうか、なら良かった。

 …………なあ、ギムレー。……また、何時か。

 こうして一緒に海を見に行かないか。

 もっと色んな海を、お前と一緒に見たいんだ」

 

 

 今度こそ、と。そう彼が小さく呟いた意味は分からないが。

 まあ、その程度の事なら付き合ってやらなくもないか、と。

 そう考えたギムレーは僅かに肩を竦めて頷いた。

 

 

「まあ、考えておくよ。何時か、ね」

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『箒星の行先』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 喪う事はほんの一瞬あれば事足りる。

 しかし、それによって刻まれた心の傷は、それを癒す事に気が遠くなる程の時間が掛かるし、その傷口を目で見る事は誰にも出来ないが故に、果たしてその傷が本当に癒えているのかは誰にも分からない。その本人であってすら。

 そして、その傷はふとした切っ掛けであっても再び残酷な程の痛みを与え、心を苛み苦しめるのだ。

 それはきっと、その傷が本当に癒えるまでは、命ある限り永遠に続くのだろう。

 

 しかし、何時までも喪失の痛みに蹲り、常に変わり行く現実を拒絶し二度と戻る事の無い過去に縋り続ける事は出来ない。

 生きて行く限りは、誰もが何れ歩き出さねばならないのだ。

 生命ある者は何時か死への旅路を逝き、形あるモノは何時かは喪われてしまう、そんな残酷な世界だからこそ、その苦しみや絶望は誰しもが抱えるものだから。

 それを乗り越えるのか、或いは見ないフリ考えないフリをするのか、或いは逃げ出すのか……。

 それは人各々であるのだろうが、何にせよ人は「大切なものを喪った苦しみ」に折り合いを付けて生きていかねばならない。

 

 喪ったそれが何れ程大切なモノだったとしても、それを「過去」にして、「思い出」にして、人は生きて行く。

 それが何れ程辛くても。生きるとは、そう言う事だ。

 

 同じ喪失に対し、哀しみや苦しみを分かち合う人が居れば。

 或いは、その絶望や悲嘆や憤怒と言った己の心を苛む全てを、打ち明けて縋り付ける相手が居るのならば。

 その苦しみが和らぐ為に必要な時間は、少し短くなる。

 喪った苦しみや絶望……その心の傷を、新たに大切な「何か」を得る事で癒していく事も出来るだろう。

 

 だが……そうやって少しずつ癒えたと思っていた傷は。

 そうやって新たに得た大切なものを、心を支えていたものを、再び喪ったその時には。より一層深くより激しく、その心を絶望と後悔の闇の中に閉ざしてしまうのだ。

 

 

 

 世界の輪郭が……この世とあの世の間すら曖昧になる様な、世界の全てが燃える様なの夕暮れの中。

 千年の妄執の果てに、時の流れすらも歪めてまでこの世に再び蘇った邪竜ギムレーとの、この世に生きる全ての生命ある者達の命運を賭けた決戦のその果てに。

 神竜に選ばれて邪竜ギムレーを封じる力を手にした筈だった、当代の聖王となったクロムは……。

 この世で最も大切な友であるルフレを、目の前で喪った。

 

 しかもルフレは、邪竜による攻撃によってその命を散らした訳では無い。……そうであれば、どれ程まだマシだったか。

彼は…………この世から『邪竜ギムレー』の存在そのものを消し去ると言う……その為だけに。

 自らの命を代償として、この世から消え果てたのだ。

 

 クロムの手に唯一遺されたのは、彼のローブだけ。

 激戦の痕が色濃く刻まれたその布切れ以外は、ルフレがこの世に存在した証は何一つとして残されなかった。

 この世にその存在の欠片を遺す事は赦さぬとばかりに。

 彼の全ては、まるで散り行く花弁の様に……美しくも残酷な欠片になって……夕暮れの淡い輪郭の中に溶ける様に消えた。

 

 もう、その名を呼んでも、彼が応える事は無い。

 その姿を求めて世界中を捜し回ったとしても、もうこの世の何処にも……ルフレは居ない。

 あの微笑みも、あの声も、あの匂いも、あの手も、あの温もりも、もう……何処にも……。

 屍に泣き縋り魂呼ばう事すらも、出来ない。

 それは、まさしく絶望そのものであった。

 

 かつて、最愛の姉を、砂海の絶望の中で喪ったあの日。

無力で愚かな自分の思い上がりの結果の無謀が、姉に自死を選ばせてしまったあの時の。世界の全てが壊れてしまった様な絶望よりも、尚一層深い絶望がクロムを苛む。

 あの日心に深く大きく刻まれた傷が、抉られる様に激しい痛みを訴える。生きながらにして心が膿み爛れ腐れ落ちてゆくのではないかと錯覚する程の、苦しみと哀しみが胸を引き裂く。

 

 姉を喪ったクロムの手を引いてくれたのは、崩れ行きそうだった心を支えてくれたのは、『半身』として傍に居てくれたのは。

半身であるルフレだった。だが、そのルフレは、もう居ない。

 微笑みながら、骨の欠片一つ、髪の一筋すら遺さず、この世から消えてしまった。それを前に、クロムは何も出来なかった。

 クロムはルフレを永遠に喪った、喪ってしまったのだ……。

 

 例え千年の後に訪れるかもしれない破滅を完全に回避出来るのだとしても、そうやって救われた世界にルフレが居なければ、クロムにとってその世界で幸せになれる筈など無いのに。

 クロムは、この世の誰よりも信頼し確かな「絆」で結ばれていると信じていた友にとっての、世界よりも自分を選ぶ為の「未練」には、成れなかったのだ。

 それは、その事実は……クロムの心を強く苛む。

 

 邪竜ギムレーと心中など絶対にしようと思えない程に、より強い「絆」でその身も心も奪ってしまえていたのなら。

 千年後の未来なんてどうでも良い、自分が「ギムレーの器」でもどうでも良い、ただクロムと生きていたいと。

 そう心から思わせられる、「未練」になれていたのなら。

 ルフレは今も自分の隣で微笑んでいたのではないかと。

 そう、思ってしまう、考えてしまう。

 もう何を悔いても、何も変わらないと言うのに。

 それでも、ルフレの形をした心の欠落が、クロムにその苦しみを忘れさせてなどくれない。

 

 きっとその後悔は、絶望は。

 この先、クロムがその命を終えるその時まで、抱え続けなくてはならないのだろう。

 

 …………だけれども。もし、もしも。

 幾万の「奇跡」を重ねても到底叶わないだろう、そんな「もしも」が……叶うのならば。

 この世界で再びルフレと巡り逢える様な「奇跡」が、もう一度あの手を掴む事が叶うのならば。

 そして、それを信じる事が、許されるのならば。

 信じよう、信じ続けよう。

 例え、その「奇跡」を信じる者が、この世でクロム唯一人だけになったとしても。

 それが叶う事を疑わず、諦めず。

 この命が果てるその時まで、信じ続けよう。

 そして、その為にも。もう一度巡り逢えたその時にルフレが帰って来る為の場所を、守らなければならない。

 だから──

 

 ルフレの遺したローブを、強く抱き締めて。

 クロムは、立ち上がった。

 その目は、苦しみと哀しみに彩られた絶望を湛えつつも、それでも「何時か」の為に、前を向いている。

 

 

 

「ルフレ……俺は──」

 

 

 

 誰よりも大切な「半身」へと、永久に変らぬ「絆」を誓って。

 クロムは、「未来」へと歩き出すのであった。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 



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『Lux aeterna』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 聖王クロムに仕えてイーリスを支える軍師ルフレの正体は、神竜教の怨敵である邪竜教の、その祭神であり世界を滅ぼす邪竜ギムレーの「器」であるのだと。

 極限られた身内の間で秘されていた筈のその真実が明るみに出てしまったのは、一体誰の所為であるのだろうか。

 ……それはもう、今となっては分からない。

 人の噂に戸口を立てる事は出来ないと言うだけの事であっただけなのかもしれないし、或いはもっと悍ましい思惑が背後で蠢いていたのかもしれない。……しかしもう、その事に関して犯人捜しをした所で、ルフレの真実が広く民の間に広まってしまった事を「無かった事」には出来ない。既に、誰かを口止めしてどうにか出来る事態を越えてしまっていた。

 

 ……ヒトは、「恐怖」に対してとても脆弱な生き物だ。

 死を恐れ、脅威を恐れ、未知を恐れ、異常を恐れ、理解出来ぬモノを恐れ、「恐怖」自体を恐れ。

 そして身を寄せ合って「恐怖」に牙を剥く……。

 それがヒトと言う、弱く愚かな生き物の常であった。

 

 ルフレは、クロムと共に幾度も戦を勝利へと導きイーリスを救い、そして終にはギムレーの脅威から世界を救った。

 その功績は民も広く知るところであり、故にルフレは「救世の英雄」として人々から讃えられていた。

 ……そんな「英雄」が、その実得体の知れない「ギムレーの器」なる「化け物」であったのだ。

「ギムレーの器」と言う存在が一体どう言うモノであるのか、ルフレと言う人間はどう言う為人であるのか……。

 それを良く知らない……「英雄」である彼しか知らぬ、多くの民にとって『ルフレ』と言う存在がどの様に映ったのか。

 幾度も繰り返されて来た人の世の愚行を鑑みれば、その遣る瀬無いまでに悲しい現実に向き合わねばならないだろう。

 ……ならばこの結末は、ヒトと言う生き物が弱く愚かである以上は、避け様の無い事であったのかもしれない。

 

「ギムレーの器」などと言う「化け物」など殺してしまえと。「真実」を知った誰かがそう言った。

『ルフレ』は「英雄」などではなく、人々を騙し世界を滅ぼそうとした「化け物」なのだと。……そう信じた者が居た。

 

 ……一体、誰が「悪」なのであろうか。

 どんな悪意が、この結末を導いたと言うのか。

 ……誰も「悪」では無いのか、それとも誰もが「悪」なのか。

 

「そう生まれついてしまった」と言う、ただそれだけで。

 まだ何もしていない……これから先もこの世に「悪」を成す意思など無く、それどころか己が身を擲ってでもこの世界を救おうとした者を、排斥し拒絶する事しか出来ないこの世界とそこに生きる人々の何が「正しい」と言うのだろう。

 ……少なくともそれは、クロムが信じていた「正義」からは最も程遠い所にあるものであった。

 だが、そうであるのならば。最も愚かで間違っているのは、他ならぬクロム自身であるのかもしれない。

 

 

 処刑台へと罪人の様に曳かれて行く半身を絶望と共に見詰めながら、……クロムは何も出来なかった。

 何時もと変わらずに腰に佩いたファルシオンを、今日ばかりはこの世の何よりも重く感じる。

『竜』を殺しかつて二度に渡って『邪竜』を討ったこの剣を、……「聖王」としての自身の証であるそれを、悍ましい呪いの枷の様に感じたのは、生まれて初めての事であった。

 そして、この先一生……今日感じているこの剣の重さを、何をしても忘れる事は出来ないだろう。

 だがそれこそが、無力なクロムに科される罰である。

 罪を犯し、罰を背負い……それでも命ある限り許される事など無い罪人として、今日この日から生きねばならぬのだ。

 

 イーリス聖王国の王子としてこの世に生を受けたクロムは、自身が王族として生きる事に疑問や反発を感じた事は無かった。

 最愛の姉や妹が王族であるが故の理不尽な目に遭っている時には怒りを覚えたりもしたが、しかしだからと言って王族としての責務を放棄する事など考えた事も無かったし、当然一度たりともそんな事をした覚えは無い。

 志半ばにこの世を去った姉の跡を継ぎ聖王となってからは、より一層「王」としての責務を果たそうとしてきた。

 ……それなのに、その先で待っていたのがこんな結果であるのかと。クロムは今、この世の全てを呪っていた。

 

 大衆がルフレへの疑念とその危険性から、彼を排斥しようとし始めた時、クロムは当然憤った。

 クロムにとっては、半身の様に大切な友を排斥するなど、何があろうとも到底受け入れられない事であったからだ。

 クロムはルフレと言う一人の人間の事をとても良く知っているのだし、「ギムレーの器」であろうとどんな生まれであろうと何だろうと、ルフレはルフレであり……それ以外の何にもならない事を良く理解している事も大いにあった。

 ルフレが己の出生の事を深く悩んでいる事は知っていたし、故にこそ誰よりも誠実に「善く」在ろうとするその生き方には親愛の情を越えた尊敬の念すら抱いてもいた。

 故に、ルフレが「ギムレーの器」であると知った後も、……異なる可能性の先を辿った「未来」では「邪竜ギムレー」へと堕とされてしまった彼が世界を滅ぼした事を知った後も。

 それでも、クロムは『ルフレ』を信じ続け、決してその手を離す事は無かった。何があっても離すつもりなど無かった。

 ……ルフレがその身を捧げてまで「邪竜ギムレー」を完全に滅ぼしこの世から一度消えてしまった時には、我が身を引き裂かれたかの様な哀しみを抱き、彼ともう一度巡り逢える「奇跡」を固く信じて。……そして、奇跡の果てにもう一度その手を取る事が出来た時には、この先何があろうとも二度とこの手を離さないと固く心に誓った。

 ……それなのに。

「聖王」としての責務は、その誓いを守る事をクロム自身に赦してはくれなかったのだ。

 

 ルフレを処刑すべきとの声が何処からともなく上がった時には、当然クロムはそれに反論した。

 ルフレが如何に「善い」存在であるのか、世界にとって害になどならない存在なのか、ルフレと言う存在がどれ程この国にとって有益な存在であるのか……。

 クロムが出来る全てで、ルフレを排除しようとする者達を説き伏せようとした。力の限りルフレを守ろうとしたのだ。

 貴族的な利害関係によってルフレを排除しようとしている者達には、それ相応の処罰を与えたり或いは懐柔しようとしたりもした。綺麗とは言い難い手段だって躊躇わなかった。

 クロムやルフレと共に幾度も戦った仲間達も、クロムに味方し力になってくれた。……しかし。

 国を動かす貴族たちの間だけでは無く、民達の間にまでそう言ったルフレへの害意が広まってしまった時。

 最早「クロム」と言う一人の人間の感情と考えだけで状況を変える事など出来なくなっていた。

 

 幾らクロムが「王」であっても、国とはそこに生きる「民」が居らねば成り立たず、故に全ての大衆が一つの方向を向いてしまった時にその流れを押し留める事など出来ない。

 そして事はイーリス一国だけの問題には留まらず、様々な国との新たな争いの火種にまで発展してしまった。

「邪竜ギムレー」と言う存在の影響が、それ程までに大きいモノであったからこその悲劇である。最早「世界」その物が、ルフレの存在を排除しようとしていたに等しかった。

 

 ……その結果、クロムは「王」であるからこそ、選択せねばならなくなってしまった。それが、自分の心とは真逆の、赦し難い決断であるのだとしても、だ。

 

 ……自分が「王」でなければ、自分達以外の「世界」の全てが敵になってしまったのだとしても、ルフレの手を取って何処かに逃げてしまえたのだろうか。

 自分が、かつて「邪竜ギムレー」を討った「聖王」に連なる血筋の王でなければ、もっと他に手はあったのだろうか。

 もし、もしも……──

 最早今となっては意味も無くただただ虚しい現実逃避にしかならない仮定ばかりがクロムの思考を満たす。

 

 どうして、と。何度思った事だろうか。

 やり直したい、と。何度願っただろうか。

 

 ……だが、かつて世界の滅びを回避する為に「時の扉」を開いて過去を変えた筈の神竜は、正統なる「聖王」である筈のクロムの嘆きに応える事は無かった。

「邪竜ギムレー」が滅びた今となっては、神竜の庇護下に在る者では無い「邪竜ギムレーの器」がどうなろうが知った事では無いのかもしれない。……実に合理的だ。反吐が出る。

 

 最早クロムの前に選択肢など残されてはいなかった。

 足掻いて抗って……それでも何も変えられず、クロム達の足掻きを嘲笑うかの様に、全ては「最悪」へと突き進んだ。

 

 大衆は言った。

『邪竜ギムレーを殺せ』、と。『「邪竜ギムレーの器」を滅ぼす為には、「聖王」の振るうファルシオンが必要なのだ』、と。『「聖王」は「邪竜ギムレーの器」を討ち滅ぼし、世界を救わねばならないのだ』、と。

 

 クロムは……「聖王」としての責務に縛られた愚かな男は。

 その大衆の意志に、逆らう事が出来なかった。

 

 

 

 処刑台へと曳かれるルフレのその眼に、恐怖や絶望は無い。

 ただただ何処までも静かに己の命の終わりを見詰めていた。

 

 その結末が避けられぬものになってしまった時、クロムは絶望と悲嘆の涙を流しながら何度も何度もルフレに己の愚かしさ無力を謝罪した。

 償う事など何をしても出来ぬそれを、懺悔する様に、或いは彼からの罰を望む様に。

 ……だがルフレは、一度としてクロムを責めなかった。

 そして、恐怖を見せる事も己の命を惜しむ様な事も、何も。

 

 ……もしルフレが、「生きたい」と。「死にたくない」と。

 ……そうただ一言だけでも言ってくれたのなら。或いはクロムの行いを詰ったのであれば。恐怖を訴えてくれたなら。

 その瞬間に、クロムは何もかもを捨てる事を覚悟して、ルフレの手を取ってこの世の果てにだって逃げただろう。

 何を引き換えにしてでも、何の未来も無い逃避行なのだとしても、それでも絶対にその手を離したりはしなかった。

 今度こそ、もう二度と。「聖王」ではない、ただの一人の人間としてのクロムは、それを心から望んでいたし、願っていた。

 

 だけれども、ルフレはそれを選ばせてはくれなかった。

 ……いや、結局の所それを選べなかったのは、クロム自身の「弱さ」故に他ならない。

 ルフレは、狂気と愚かさと悪意無き邪悪が蔓延る中で、最後まで清廉であり続けた。……その運命が不可避になった時にも、ルフレは決してそれから逃げる事は無かったのだ。

 ……その清冽なまでの美しい覚悟は、クロムにとっては何処までも哀しく絶望に満ちたものであった。

 

 

「クロム」

 

 

 ルフレは、静かに己の横に立つ男の名を呼んだ。

 それはまるで、友に話しかける時の何時もの調子のままで。

 その事に、クロムはどうしようもなく動揺して、何も言えなくなってしまった。

 何か言葉を交わせる時間は、これが最後であると言うのに。

 

 

「……君の所為じゃ無い。何も、君に罪なんて一つも無い。

 だからね、これで良かったんだ。君は、正しい。

 ……でもね、君の気持は本当に嬉しかった。

 僕と、そして君が背負う全てとを、その秤の上に載せてくれたんだから。それだけで、僕にとっては十分なんだ。

 ……だからね、もう良い。もう、良いんだ。

 ……これ以上、君自身を苛むのは止めてくれ」

 

 

 穏やかで優しい声音で語られたルフレのその言葉に、クロムの胸にどうしようも無く激しい衝動が押し寄せた。

 それなのに、「こんな結末、間違っている!」と、そう叫ぶ魂の絶叫を、「聖王」としての鎖が絡め取って殺してしまう。

 結局、この期に及んでもクロムは何も出来ないままだった。

 声を上げる事も、ルフレを逃がす事も、……何も出来ない。

 今この場に於いて、クロムはただの舞台装置でしかないのだ。

 それでも、クロムは心の奥から絞り出す様に呻いた。

 

 

「……赦せる訳が、無いだろう。

 何もかも、俺自身も、……お前を奪った全てを。

 俺は、生きている限り決して赦す事など出来ない。

 お前の屍の上に立つものを、俺は……」

 

「……それでも、君は赦さなきゃいけない」

 

 

 怨嗟の様に零れたその言葉を遮る様に、何処までも静かなルフレの声がクロムの耳に響く。

 何を、と。クロムがルフレを見ると。ルフレは何処までも優しい……慈愛に満ちた様な眼差しで、クロムを見ていた。

 

 

「僕は、今日ここで死ぬ。

 でも、君はその事について何も責めてはいけない。

 君自身にも、そして君が背負うものにも。何にも、僕の命の罪を背負わせたりはしない。全部、僕が持っていく。

 ……今は、君は自分を苛むのかもしれない。明日も明後日も来年も……君が君自身を赦せる時は、直ぐには訪れないのかもしれない。それでも、何時かは必ず赦さなきゃいけない。

 ……それが、今日ここで君に殺される為の、唯一つの条件だ」

 

 

 ルフレの、余りにも優しく……そして何よりも残酷なその言葉に、クロムはルフレの目をそれ以上見ていられなかった。

 

 

「お前は……何処までも残酷なやつだな……。

 それを、俺に求めるのか……」

 

「そうだよ、だって僕は『邪竜ギムレーの器』だからね。

『聖王』には容赦なんてしないのさ」

 

 

 こんな時なのにそんな笑えない冗談を口にするルフレのその声音に、死への恐怖など欠片も無かった。

 それが、哀しくて苦しくて仕方が無いのに、どうしてだか涙はもうクロムの頬を濡らす事は無い。

 そんなモノは、もう枯れ果ててしまったのかもしれないし、「聖王」としてこれから先も被り続けなければならない仮面の奥でだけ静かに流れ続けているのかもしれない。

 

 

「……そうか。なら、仕方無いな……。

 ……なあ、ルフレ。……怖くは、無いのか」

 

 

 何かの期待を込めながら、クロムが最後にそう訊ねる。

 しかしその期待は、やはり叶う事は無い。

 

 

「最後に君を見て死ねるんだ。怖くは無いさ。

 ……ねえ、クロム。

 もしもさ、「あの世」ってものが何処かにあるのなら。

 何時か、そこでまた、一緒に話そう。

 下らない事も、楽しい事も、沢山……。

 だから、その時の為の土産話を沢山持ってきて欲しいんだ。

 色んなモノを見て、色んな人と話して、沢山……抱えきれない程沢山……。だからね……。

 ……ああ、駄目だ、これ以上は言葉が出て来ないや……」

 

 

 ポツリと、名残惜しそうにそう呟いて。

 ルフレは、全てを受け入れる様に静かにその眼を閉じる。

 跪き、刃を受け入れる様にその頭を下げて。

 その白い項が、クロムの前に曝け出される。

 

「化け物」の処刑の瞬間を待ち侘びている民衆の熱狂は、最高潮を迎えようとしていた。

 彼等にとっては、目の前で今から起こる惨劇は、「英雄」が「化け物」を討ち滅ぼす英雄譚の一幕でしか無いのだ。

 彼等には、クロムにとってルフレが唯一無二の友である事も、そして彼の献身によってこの世界が救われた事も、等しく意味を持たず興味など無いのだろう。……大衆とはそう言うモノだ。

 

 誰も、「悪人」では無いのだ。きっと。

 普通に生きて、家族を大事にして、誰かに親切に出来る。

 クロム達が守るべき、善良さを持つ普通の人々なのだ。

 ……だが、彼等は余りにも無垢な邪悪その物であった。

 

 何処までも悍ましい怪物の唸りにしか聞こえない大衆の怒号も、何時かは赦し受け入れねばならないのだろうか……。

「その時」と言うものを、今のクロムには想像が出来ない。

 この心を蝕む「呪い」が解ける日など、来ないだろう。

 ルフレを奪った全てへの憎悪が消える日は、生涯訪れない。

 

 ……それでも、何時かは赦さねばならないのだ。

 それが、ただそれだけが、ルフレの願いであるのだから。

 友の最期の望みを、何時かは叶えなければならない。

 

 鞘から抜き放ち振り上げたファルシオンは、それを握るクロムの心の内の絶望や憎悪など知らぬとばかりに、何時もと変わらぬ輝きを放っている。

 ……ファルシオンには、担い手が望まないものは斬らないと言う力が有るが、恐らくそれが働く事は無い。

 神威の力宿る牙は、人々がそうであれと望む様に、「化け物」の命を絶つのだろう。……そんな事に、何の意味も無いのに。

 

 

 

「……また、何時か……──」

 

 

 

 最後にクロムの耳だけに届いたその声を、クロムは命の旅路を終えるその時まで、片時も忘れる事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『祝祭の夜』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 祭りの空気に浮かされた人間共のはしゃいだ様な声は平素のそれよりもギムレーの心を逆撫でする様に騒めかせる。

 祭りは、嫌いだ。人間共の感謝の声など、聞きたくも無い。

 神への祈りも、実りへの感謝も、共に不愉快極まりない。

 祭りの為に街中に菓子の甘い香りが漂っているのも反吐が出そうだ。収穫に浮かれる人間共のその顔を、恐怖と絶望に塗り潰してやりたくなる。……契約によりその様な事は出来ないが。

 

 苛立ちと共に、ギムレーは不快感から溜息を吐く。

 本来ならば、ギムレーがこの様な場に姿を現す事など無かっただろう。祭りの喧騒を追い払う様に、自室で静かに寝ているか或いは記憶を取り戻す為の儀式に精を出しているか。その何方かであった筈なのに。……己をこの地に招いた召喚士によってこの様なふざけた祭りに無理矢理参加させられている。

 下らなさのあまり、召喚士を喰い殺してやろうかと一瞬本気で思ったが、それは契約の力によって不可能な事だった。

 この地に於いては、「神」ですら招かれて存在しているならば己を招いた召喚士との契約に縛られる。召喚士本人がそれを何処まで認識しているのかは知らないが、それはある意味ではこの世の理を超越した力に等しい程の強制力である。

 ギムレーですら、それには抗い切れない。

 この地に招かれた際に時空を強制的に超えた影響で喪ってしまった力や記憶を取り戻せれば或いはこの忌まわしい支配の鎖を噛み千切ってしまえるのかもしれないが……しかしどれ程儀式を重ねても未だ喪われたそれらを取り戻せる気配すらない。

 

 この世のならざる者達の姿を模した仮装を身に纏い街を練り歩く人間共と同様に、ギムレーの今の姿は祝祭の夜に相応しい装いにされていた。召喚士に逆らう事は出来ないので渋々参加する事になった祭りではあるが、身に纏う衣装まで押し付けられるのであれば堪ったものでは無い為、衣装だけはある程度自分の好みが許せる範囲のものである。……そもそも「人間」とは全く異なる存在であるギムレーに態々仮装など必要なのだろうかとすら本気で思うものの、ギムレー同様にこの地に招かれた人ならざる者達……「竜」や「神」と言った者達も、何やらそれぞれに思い思いに仮装して祭りに浮かれる人々の波の中に紛れているので、それは些末な疑問であるのかもしれない。

 

 人間共から菓子を奪う祭りだとは聞いたが、祭りに浮かれる他の竜達に雑じって菓子を集める気にはならなかった。

 その為、ギムレーは独り街の喧騒から逃れるかの様に、人気の無い鐘楼に登り、眼下に星海の様に広がる祭りの灯りに照らされた街を見下ろしていた。

 

 さっさと城に戻って引き籠りたくはあるのだが、城も祭りの熱気に浮かされた様にあちこちが飾り付けられているし雰囲気が何時もとは違うので落ち着かない。それに、城の中に引き籠っていても態々邪竜なんぞに関わろうとしてくる鬱陶しい変わり者の英雄どもに絡まれたりするかもしれない。

 ならば、こうして遥かな高みから人間共の愚かな営みを見下ろしている方がマシだ。ギムレーにとっても、そして……。

 

 見下ろした街の灯りには手を伸ばした所で届きはしない。

 この位の距離で見下ろすのなら、まだギムレーは己の破壊的な衝動にも似た騒めきを抑えている事が出来た。

 漏れ聞こえる喜びの声に苛立ちはするが、出来もしないのに態々破壊を撒き散らしに行こうとする程の衝動には至らず。

 ギムレーからすれば収穫されるべき獲物でしかない虫ケラの如き存在達は、彼等を容易く根絶やしに出来てしまう強大な存在がそんな事を考えながら自分達を睥睨している事など露とも知らずに祭りに浮かれている。何とも、おめでたい事だ。

 どうせ実行出来やしないのだが、想像の中で街を破壊し祭りの場を混沌と恐怖に陥れる様を想像して退屈を紛らわせようとするが、だが何と無くその様な気になれず。やる事も無いままに、仮装に付いている獣の尻尾を模した飾りを指先で弄びながらぼんやりと街の光を見下ろしていた。

 行き交う人の波と、街の至る所に揺れる灯りを見ていると。消え果てた筈の記憶の底に擦り切れながらも消えない染みの様に残った何かが疼く様に……ぼんやりと「何か」が浮かぶ様な気がする。

 

 ── なあ、■■■……

 

 誰かが、『誰か』を呼んでいる声が、微かに心の奥に響く。

 愛しい程に懐かしい様な、そしてそれ以上に胸を締め付ける程の哀しみと絶望と後悔の様な……。その声が、一体誰のものであるのか、そして一体誰を呼んでいるのかは分からない。

 だが、壊れ果ててしまった筈の記憶の中に尚も残るそれは、余程忘れたくないものであったのか、それとも忘れてはいけないものであったのか……。……今となっては何も分からない。

 

 ── 来年も、その次も。またこうやって収穫祭を祝おう。

 ── 祭りを祝える平和な時間を、今度こそ守ろう。

 ── 姉さんが願っていた平和を、……俺たちの手で。

 

 静かな声が心の奥から零れ落ちてくるかの様に聞こえる。

 誰なのだろう。呼び掛けてくるその人の事を、思い出せない。

 思い出さなければならないのに、思い出せない。

 思い出したいのに、思い出せない。

 忘れる事など赦されないのに……。それでも喪ってしまった。

 その忘却は罪であるのか、罰であるのか、或いは悪意のある救いであったのか……。……それすらも分からない。

 

「……──」

 

 記憶の残滓に魘された様に微かに誰かの名を形作ろうとしたその唇は、しかし何の音を発する事も無く、溜息の様な囁きとして消えて行く。何かを掴み掛けて、それすらも見失った迷子の様にギムレーはふと途方に暮れた様に眼差しを揺らす。

 そして、誰も訪れる事の無い鐘楼の上で膝を抱える様にして、自分にとっては遠い世界の様である祭りの夜を見下ろした。

 

 

「こんな所で何をしているんだ?」

 

 独りだけの世界であった筈の所に、ふと闖入者が現れた。

 普段は誰かが近くに来れば直ぐに分かるのだが、どうやら深く考え込んでいたからなのだろうか。気付けなかったらしい。

 背後に現れたその姿を一瞥し、そして予想通りであったその人の姿に溜息を吐く。

 

「何だって良いだろう、そんな事。

 それに、君こそ何をしにこんな場所に来たんだ?」

 

 本来ならば、不倶戴天の存在である筈の……決して相容れぬ相手であるのに。やたらとギムレーに関わってこようとする変わり者どもの筆頭が其処に居た。

 祭りに合わせて何時もの服装とは違う装いに身を包んではいるが、彼が彼である事をギムレーが見間違う筈は無い。

 この世界には異なる世界から招かれた、彼と「同じ」存在が同時に複数存在しているのだとしても。ギムレーが彼を見失う事は有り得なかった。その理由を、ギムレー自身は知らないが。

 

 イーリス聖王国の王、かつてギムレーを封じた者の末裔にして、千年の時を越えて蘇ったギムレーを再び討つ役目を与えられた英雄。討たれ滅ぼされる存在としてしか人々の物語には必要とされないギムレーとは正反対の、人々の「希望」の象徴である英雄たるその存在。『クロム』の名を持つ男。

 ……「ギムレーの器」であった『ルフレ』にとって、無二の親友であり戦友であった存在。……そして、ギムレーにとってはその復活の際に真っ先に捧げられる贄でもあった者。

 こうしてギムレーなぞに関わる以上は、此処に居る彼はその運命を回避出来た世界から招かれているのだろうけれども。

 しかし何にせよ、彼が『ギムレー』と相容れる筈の無い者である事は明らかである。それなのに、彼はギムレーに関わり続けてくるのだ。その心に一体何を抱えているのかは知らないが。

 

「……こうして仮装する位なら許してやったけどね。下らない祭りに参加する気は無いんだ。馬鹿馬鹿しい……。

 邪竜たる僕が、一体何の『収穫』を祝うって言うんだい? 

 祭りに浮かれる人間共を皆殺しにして贄にして良いと言うのなら、まあ気が向いたら参加してやらなくは無いけどね」

 

「だが、こうして大人しく此処に居ると言う事は、お前にはそんな事をする気は無いんだろう?」

 

 何か……ギムレーの心の奥底を見通す様な静かな目で、クロムはそう訊ねる。確かにその通りではあるが、素直に頷いてやるのは何と無く癪に障った。

 

「契約に縛られて出来ないだけだよ。本来の力と記憶があれば、祭りに浮かれたこんな国なんて一瞬で滅ぼしてやるさ。

 僕が君たちと慣れ合うつもりだとか、そんな愚かな妄想を抱いているなら、痛い目を見る事になるよ?」

 

「だが今はそんなつもりは無いんだろう? なら、それで良い。

 こうして、お前と祭りの時間を過ごせるなら。それだけで」

 

 信じられないが本心からそう思っているらしい。

 やはりこの男は何処かおかしいのではないだろうか。

 そう言えば、他の『クロム』達より少し気配が薄い気がする。

 だからこそ、急に背後に近付かれても分からない時があるのだろう。他の『クロム』達とこのクロムがどうして違うのかは分からないが……まあそんな事ギムレーの知った事では無い。

 

「ああ、そうだ。お前に渡したいものがあるんだ」

 

 そう言って、クロムは小脇に抱えていた紙袋の中身をゴソゴソと漁る。ふと、その紙袋から何やら甘い香りがする事にギムレーは気付いた。だが、街に漂うそれと似た匂いであると言うのに、不快感は然程無くて。それが何だか不思議であった。

 

「ほら、これ。街中で見掛けて、少し懐かしくなってな。

 ……お前もきっと好きだろうと思って、買ってみたんだ」

 

 そう言いながらクロムが手渡してきたのは棒付きの飴だった。

 円盤状の飴はそこそこ大きくて、噛み砕くにしてもこの人間の姿では流石に一口では難しいかも知れない。

 幾つも手渡された飴はどれも色とりどりで……。

 何処と無く、かつてこれと同じ様なものを見掛けた事がある様な気がする。何故か、何処と無く懐かしい様な……。

 ……しかし邪竜たるギムレーが人間の菓子なぞを記憶の端に留めている筈も無いので、きっと気のせいなのだろう。

 

「何だい? 僕に対する貢物かい? 

 人間に何を貢がれたって、僕が君たちの願いを叶えてやるだなんて馬鹿馬鹿しくて気持ちの悪い考えは捨てた方が良いよ。

 まあ、そんな事も分からずに僕を『神』と崇め讃えて居た者も居るのだけれど……君も彼等と同類なのかな?」

 

「まさか。お前にもこの祭りを楽しんで欲しいだけだ。

 本当に、ただそれだけだ」

 

 クロムの目を覗き込み、その心の奥にどんな醜い願望や期待を宿しているのかと見透かそうとしてみても、そこにあるのは凪いだ様に穏やかな感情だけだった。

 邪竜を飼い馴らして御してやろうだとか、そう言った思惑は無いらしい。本当に、理解出来ない位に変わった人間だ。

 

「成程。僕が人間どもの祭りを楽しむなんて有り得ないけど、祭りに参加しろって命令だったからね。

 仮装するだけで終わらせるつもりだったけど、この祭りは菓子を奪う事も目的なのだったら、こうして菓子を手にしなくては祭りに参加したとは見做されなかったかもしれない。

 そう言う意味では、こうして君が菓子を献上してくれたのは悪くは無いね。まあ、受け取ってあげるよ」

 

 そう言いながら、ギムレーは手にした飴の一つを豪快に齧る。

 鋭い牙によって、硬い筈の飴は容易く半分に砕けた。

 砂糖の塊であるが故に甘ったるさが口いっぱいに広がるが、どうしてだか不快感は無い。寧ろ、泣きたくなる程に懐かしい様な感覚すら抱く。……その理由は、ギムレーには分からない。

 

「どうだ? 気に入ったか?」

 

「……腹いせに君を喰い殺すのは止めておいてあげる程度には」

 

 パリパリと噛み砕いた飴を舌で転がしながら味わいつつそう返してやると。クロムは、何故だか優しい眼差しを向ける。

 その眼差しは、何処と無くギムレーの心を騒めかせるが、それは不思議と不快では無い。どうしてなのだろうか。

 

 

「……そうか。そう言う所は、変わらないんだな。

 ……────」

 

 

 クロムは微かに誰かの名を呟いたが、それが一体誰の名であったのかは、ギムレーには分からないままであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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【その他】
『何時かのその日までは』(ウドルフ)


◇◇◇◇

 

 

 

 それは、とても静かな夜であった。

 

 自らに与えられた天幕をひっそりと抜け出して。

『虹の降る山の麓』にある宿営地の中でも特に人気の無い所へと移動したルフレは、手近な所に転がっていた資材の丸太に腰掛けて独り夜空を見上げる。

 

 何時もならば眠っているか、夜を徹して策を練るなり軍師としての仕事を片付けるなり……或いは恋人と共に時を過ごしている様な時間ではあるのだが。

 今夜ばかりは、ルフレは独りになりたかったのだ。

 

 横になっても眠れず、何かをしようにも手には何もつかず、誰かと顔を合わせるのも辛かった。

 

 見上げた夜空は何処までも澄みきっていて、満天に拡がる星々は遥かなる高みから人の営みを見守っている。

 幾千年も前から其処に在ったのであろう星は変わらず人々を照らしてはいるのだけれども。

 

 もし、このまま。

 このままギムレーが野放しになっていれば、奴が完全に力を取り戻し世界を蹂躙し始めれば、或いは今ここに居るルフレ自身がギムレーへと成り果ててしまえば……。

 遠く……それでいて今のルフレ達の世界も辿り着き得る“未来”よりやって来た《子供達》が、ルフレの半身であり何よりも大切な友であるクロムの娘のルキナが、何時か語っていた様に。

 空は日の光すら閉ざす厚い雲に覆われ、星々は人々が見上げる夜空から喪われてしまうのであろう。

 

 それを思い、そしてその“未来”よりやって来た愛しい人を想い。

 ルフレは胸を押し潰される様な思いで息を吐いた。

 

 

 “未来”よりルキナや《子供達》を追って来たギムレー……否、未来のルフレ自身は、“過去”にやって来た当初は竜の力を喪ってはいたものの、この時間軸で竜の力を取り込み再びギムレーとして甦った。

 それに対抗する為に、クロムは“覚醒の儀”を果たしてファルシオンに神竜ナーガの力を宿らせたのではあるが。

 ……ナーガの力では、ギムレーを滅する事は出来ないのだ。

 

 勿論何も出来ないと言う訳ではなく、かつての聖王がそうした様にギムレーを封じて奴から千年の時を奪う事は可能だ。

 が、それは同時に、千年後にギムレーは再び甦る事を示している。

 ……千年経とうとも、ギムレーの器が“ギムレーの覚醒の儀”を受ける事がなければギムレーは復活しないのではあるが。

 それは幾ら何でも楽観的な観測に過ぎるであろう。

 人の妄執と言うモノは恐ろしい。

 特に、宗教……所謂“信仰”に関わるモノだとそれは尚更に顕著だ。

 その信仰の内実の善悪に関わらず、狂信の行き着く先などロクでも無いのは確かであろう。

 

 記憶を喪っていても、いや喪ったからこそ特定の“信仰”を持たずに忌憚の無い目で世界を見ているからか、ルフレはその事をよく理解していた。

 

 妄執は千年の後に必ずギムレーの器を産み出すであろう。

 その為ならば、恐らくどんな手を使ってでも。

 

 ギムレーの器であるルフレが子を成さないのだとしても、ギムレーの血を継ぐ者はルフレだけでは無い。

 薄く血を継ぐ者も勘定に入れるなら、相当数居るであろう。

 例え濃い血筋の者を全員始末したとしても、狂信者達が生き残ったギムレーの血族を《交配》させて千年掛けて血を濃くしていくであろう事は想像に難くない。

 ……千年後の禍を防ぐ為にギムレーの血を継ぐ者を一人残らず殺す事は、対応策としては現実的では無いのだ。

 それと同時に、ギムレー教と言う信仰をこの世から消し去る事も、恐らくは不可能であろう。

 信仰対象であるギムレーが虚像であるのならまだしも、ギムレーは現実に存在し強大な力を持っている。

 例えギムレー教を根絶させた所で、ギムレーの力に目を付ける輩はほぼ確実に生まれるであろう。

 ギムレーに関する有りとあらゆる文献を抹消し、過去を捏造したとしても。

 その者がギムレーの力で何をしようとするのかはさておき、強大な力と言うのは其処にあるだけで確実に人を狂わせてしまうのだ。

 ギムレーの存在を知る者がギムレーを復活させようとする可能性は、ギムレーが存在する以上は絶対に0には出来ない。

 

 ギムレー復活を完全に防げないのなら、復活しても再び封じられる様に対抗策を練るしかない。

 千年前の聖王達も、それを願って今のクロムの代までファルシオンや炎の紋章を託したのだろうから。

 だがそれも……現実的な考えであるとはルフレにはあまり思えなかった。

 

 千年の時は、人の世には永過ぎるのだ。

 現に、当初はクロム達もファルシオンや炎の紋章の意味を正しくは理解していなかった。

 チキに出会えなければ、覚醒の儀すら正しくは行えなかったであろう。

 イーリス聖王国と言う、管理された血統と伝統を保ててもその有り様なのである。

 この先千年、イーリスと言う国が存在し続ける保証なんて何処にも無いし、正直な所を述べるとイーリスは千年後には存在しない可能性が高いであろう。

 聖王の血筋は残っていても、知識が正しく伝達される可能性はかなり低い。

 永遠に続くモノなんて何処にも無い以上は、それは厳然たる事実である。

 千年後の未来にはギムレーに対抗する術が一つもない……なんて可能性は当然の様に有り得てしまうのだ。

 

 そしてそれ以上に。

 もし奇跡的にギムレーへの対策が正しく千年後に伝わっていたとしても、千年後の人々には今のクロムとルフレ達以上に勝機が残されてはいないだろうから。

 

 ギムレー復活の可能性をチキから示唆されてからと言うもの、ルフレは折りを見てギムレーに関する文献などを只管読み漁っていた。

 そして復活したギムレーを見て、強烈な違和感に襲われたのだ。

 千年前のギムレーを記した文献の記述よりも、復活したギムレーが明らかに巨大なのであった。

 実際に千年前のギムレーを目にしていたチキに確認を取って、ルフレは確証を得た。

 ギムレーは、“成長”しているのだ。

 千年前よりもより強大な力を蓄えているであろうギムレーが、千年後に何処まで成長するのかはルフレには分からないが。

 少なくとも、今よりも強大な力を持っていると考えた方が良い。

 そんな存在に、千年後の人々が果たして対抗出来るのであろうか?

 

 ルフレは軍師である以上、希望的観測による楽観視をする事は出来ない。

 だからこそ、ギムレーは今消滅させねばならぬのだと、そう固く決意している。

 

 

 ナーガは言った。

『神竜の力ではギムレーを滅する事は出来ない、その方法が分からない』、『もしギムレーが消滅するとすれば、それはギムレー自身が死を望んだ時だ』と。

 

 あのギムレーが自死を選ぶ可能性は無い。

 故に本来ならば、ギムレーがその方法で消滅する可能性は有り得ない事ではあるが。

 

 しかし、今この時間軸には、ギムレーは“一人”ではない。

 “過去”と“未来”の関係にある同一個体が──ルフレが、ここに居る。

 

 ルフレは“ルフレ”と言う人間であると同時に、“ギムレー”だ。

 ギムレーの覚醒の儀を行ってない以上は正確にはギムレーでは無いのであろうが、“未来”のギムレーがこの“過去”にやって来た際にそこに元々居たルフレと記憶と心が混ざり合うなんて現象が発生する以上は、同一存在と言っても差し支えは無いだろう。

 ルフレの肉体にルフレ自身の魂とギムレーの魂の両方が宿っているのか、或いは今ルフレが“自分”だと認識しているこの心や人格や魂がギムレーのものと同一なのかはルフレの知る所では無いし知りたくも無いが。

 何にせよ、ルフレが“ギムレー”であるのは確かである。

 

 ならば。

 ルフレがギムレーを、“未来”よりやって来て竜の力を取り戻して復活したあの存在を殺せば。

 それは、 “ギムレー”がギムレーを殺す……つまりは自死に相当する事にはならないだろうか?

 …………そんな事をすれば、恐らくは“ギムレー”であるルフレもギムレーと同じ結末を辿る事になるのだが。

 それでもその方法ならば、ギムレーを完全に消滅させる事が出来るのならば。

 

 

「あたしは……」

 

「おい、ルフレ?」

 

 

 独り言を呟いた瞬間、背後から声を掛けられてルフレは驚きのあまりに変な悲鳴を上げてその場に飛び上がった。

 慌てて振り返った其処に立っていたのは、ルフレの肩を叩こうとして中途半端に手を伸ばしたまま唖然として固まっているウードの姿があった。

 何時もならば誰が近付いてきているのかなんて見えずとも分かってしまうだけに、ここまで不意に接近されていた事なんて殆ど無くて。

 だからこそ、ルフレは思わず軽くパニックになってしまっていた。

 

 

「う、ウード!?

 どうしたのよ、こんな夜中に」

 

「ど、どうしたって……。

 いや、ルフレがこんな夜中に天幕を抜け出して、しかも中々帰ってこないから心配で……。

 その、何かクロムさんが“覚醒の儀”を終えてから、ずっと何か悩んでたみたいだし、何かあったのかなって」

 

 

 普段の言い回しを忘れ去った様にそう述べるウードに、ルフレは思わず息を吐いてしまった。

 悩んでたのは事実だがそれはなるべく隠してはいたのだけれども。

 存外察しが良いウードには、効果は無かったらしい。

 悔しい反面、ウードがそうやって気付いてくれた事が嬉しくもあった。

 

 

「心配してくれたのね。

 えっと、まあ、有り難う」

 

「ふっ……当然の事だ、我が最愛の妻よ。

 我が闇の力を秘めし魔眼に見抜けぬモノは無いのだからな。

 その智慧に輝かし眼を煙らせる程の邪悪なる者共の──」

 

「……その話長くなる?」

 

 

 相変わらずなその言い回しに肩の力が抜けたのは少し有り難くはあるのだけれども、流石に何時までもそれに付き合いたい気分ではない。

 だから何時もの調子に戻ってしまったウードに思わずそう言うと、ウードは慌てて一つ咳払いして神妙な顔付きになった。

 

 

「えっと、だな……。

 その、何かあったのか?

 俺じゃ力になれない事かも知れないけどさ、もしそうでも、ルフレが悩んでるなら一緒に悩んでやりたいんだ。

 だから、話してくれよ」

 

 

 変な言い回しばかりするけれど、何時だってこう言う時のウードは純粋な眼差しを真っ直ぐにルフレに向けてくる。

 その真っ直ぐな眼差しと優しさは、自分の胸の内に想いを抱え込んでばかりのルフレの心の扉の鍵を緩めてしまうのだ。

 

 本来ならば、言うつもりなんて無かった。

 最期の最期まで胸の内に秘めて、そしてそのまま逝くつもりであった。

 だけれども、本当は──

 

 

「……そう、ね。

 じゃあ、少しだけ……聞いて貰っても、良いかな」

 

 

 ギムレーと相討ちになろうとしている事は、流石に話せない。

 話せば、止められるだろうから。

 例え“未来”を絶望に沈めたギムレーを完全に滅する事が出来るのだとしても、きっとこの愛しい人はそれよりもルフレの命を望んでしまうだろうから。

 そして、もし明確に言葉としてそれを望まれてしまっては……きっとルフレはもう、ギムレーを殺せなくなってしまうだろうから。

 

 死にたくないと言う気持ちはある。

 ウードとずっと一緒に居たいと、人生を最期まで共にしたいと言う気持ちはある。

 千年後の事は千年後の人々に任せてしまえば良いのだと、そう訴えかける気持ちもある。

 だけども。

 

 聖王の血を継ぐ血筋である彼を、ギムレーの血筋の忌まわしい宿命に巻き込みたくなんて無かった。

 もし二人の間に子供が産まれた時に、その子やその子孫達が悍ましい宿命に巻き込まれてしまうであろう事なんて耐えられなかった。

 ……そして例えギムレーを封じても、ルフレの中にまだ“ギムレー”は居る。

 億が一の可能性であったとしても、“ギムレー”へと成り果ててしまったルフレがウードを手に掛ける未来を否定出来ない事に耐えられなかった。

 

 だからこそルフレは、世界の為にも、クロム達の為にも、ウードの為にも、自分の為にも。

 ギムレーを、この手で討たねばならないのだ。

 

 

 だからルフレは、本心を押し殺してウードに語り始める。

 

 

「……ほら、あたしって“ギムレーの器”でしょ。

 ギムレーは“あたし”だし、あたしは“ギムレー”……。

 ウード達の未来を無茶苦茶にしてしまったのは、あの“あたし”だった……。

 全部、“あたし”の所為だった。

 そう、思うとね……」

 

「それは……。

 でも、ここに居るルフレは、あんな邪竜じゃない。

 クロムさんや皆の為に必死になって頑張ってるのは、ギムレーなんかじゃない、ルフレだ。

 俺が好きになったのは、愛しているのは、今目の前にいるのは、間違いなくルフレと言う名前の一人の人間だ」

 

 

 ルフレの肩に手を置いて。

 ウードは真っ直ぐにルフレを見詰めてくる。

 

 その気持ちが痛い程に嬉しくて、全てを話せない苦しみに胸を押し潰されそうになる。

 本心の全てを洗いざらい吐き出して楽になりたい衝動を何とか踏み留まりながら、それでも抑えきれない情動にルフレの視界は滲む。

 そのまま何も言わずにウードの胸に身を預けると、肩に置いていた手を背に回して、ウードは抱き抱える様にルフレを抱き締めてくれた。

 そして、小さく「大丈夫だ」とそう囁いてくれる。

 その優しさが尚更ルフレの胸を引き裂いて、涙の滴はハラハラと頬を零れ落ちていった。

 

 

 思う所が無い訳では無いだろうけれども。

 それでも、ルフレの真実が明らかになった後も、クロム達は……“未来”からやって来た“子供”達も、誰一人としてルフレを拒絶する事は無かった。

 それはとても得難い幸運であり、自身の真実に打ちのめされていたルフレにとって確かな救いになっていた。

 もし、絆を結んだ彼等から、『お前は“ギムレー”である』と、人であるルフレとしての存在を否定され拒絶されていれば。

 きっとルフレは、正気を保てなかっただろうから。

 

 ……だが、ルフレの罪として糾弾される事は無いのであっても、あの“ルフレ”が成した事は赦されざる事でありそれはルフレの罪でもある。

 あれは、未来を変える為の切っ掛けを与えられ無かったルフレの辿る結末その物であるのだから。

 ルキナが過去に来なければ、ウード達に出逢えなければ。

 ああなっていたのは、今ここに居るルフレも同じである。

 

 あの“ルフレ”は、切っ掛けすらも存在しなかったルフレの可能性の一つは、“ルフレ”として存在していた時に何を思っていたのだろうか。

 記憶喪失にはなっていなかったらしいから、自身の悍ましい運命を知っていたのだろうか?

 知っていて、それでもクロム達の傍に居たのだろうか?

 

 クロムに出会うまでの記憶を喪ってしまっているルフレには、“ルフレ”が何を思っていたのかは分かりようが無い事だ。

 最早、あのギムレーが“ルフレ”として生きていた時の姿を知る者なんて“子供”達の中でも僅かにしか居ない。

 

 それでも、ウード達から聞いた断片的な記憶の限りでは、少なくとも“ルフレ”もギムレーになる事なんて、世界を滅ぼす事なんて望んでは居なかったのだろう。

 半身の友を支えて仲間達の子供を喜びを以て見守る事を選んでいたであろう彼女が、ああ成り果ててしまったのは、その望みとは全く異なるモノであったであろう事は想像に難くない。

 あの“ルフレ”もまた、最悪の加害者であると同時に千年の妄執の被害者であるのだ。

 終わらせてやるのも一つの救いになるであろう、と少なくともルフレはそう思っている。

 

 

 ギムレーに関わる全ての因縁をこの手で終わらせる事こそが、ルフレの手に残された『たった一つの冴えた方法』だ。

 その先に待つのが自身の終焉であるのだとしても、ルフレにそれ以外の道は選べない。

 

 

 それでも、せめてその瞬間までは。

 こうしてウードの優しさに縋っていても、赦されるだろうか?

 

 

 その優しさを、その手を、手離し置いて逝かねばならぬ瞬間がそう遠くは無い事を理解しながらも。

 満天の星空の下、ルフレはウードに身を委ねるのであった。

 

 

 

 

◇◇◇◇



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