五代雄介の幻想郷旅行記 (楓@ハガル)
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第一話 決戦の後

クロスオーバーの場合、原作はどちらになるのでしょうか? 問題があるのならば編集いたします。


 雪原に立つ、二つの影。一つは黒い異形。もう一つは白い異形。しんしんと降りしきる雪の中、対峙する。

 

 双方、示し合わせたように同時に歩み寄る。互いを値踏みするように。推し量るように。

 

 おもむろに、白が手を掲げた。すると黒の身体が業炎に包まれた。わずかに身じろぎをした黒も、その熱で足元の雪を溶かしつつ、それでも歩みを止めぬまま手を掲げた。まるで鏡写しのように、白の体も余す所なく業火が舐め上げる。

 

 互いに怯まず、歩む。内側から焼かれる痛み、苦しみに、異なる感情を抱きつつ、歩む。しかしそれは表情からは決して読み取れず。黒の赤い瞳も、白の黒い瞳も、何も語らぬまま。

 

 等しい力を持つ異形たちは気付いたのだろう。炎では致命とはならぬ。であるならば。雄叫びを上げ、駆け出す。その拳でもって、敵を叩き伏せんと。

 

 異形の力は凄まじい。一撃が入るたびに、空気が震え、大地が唸る。強固な皮膚も抉れ、裂け、白い大地にどす黒い赤飛沫が走る。それでもなお、拳打の応酬は勢いを緩めない。

 

 黒の、巨岩さえやすやすと砕く拳が、白の腰──鬼の如き形相を象ったバックルを破壊した。それまでいくら傷を受けようとも平然とした様子だった白が、苦痛を訴えるように身悶えする。その隙を逃がすまいと黒はさらなる追い打ちを加えたが、白も仕返しとばかりに黒の銀色のバックルに拳を叩き込んだ。打撃を受けた箇所を中心に瞬く間にバックルは罅に覆われ、黒が苦悶の声を漏らす。

 

 どちらも致命傷を受け、それでもなお拳を振るう。やがて異形は姿を変え、人の姿となった。黒の異形は、黒い衣服の青年に。白の異形は、白い衣服の青年に。顔を腫らし、血を流し、それでも止まらずに。

 

 黒い青年は、泣いていた。全身の痛みよりなお心を苦しめる、暴力への苦痛に。

 白い青年は、笑っていた。全身の痛みよりなお心を昂ぶらす、暴力への歓喜に。

 

 嗚咽と狂笑。相反する感情がこだまする。等しい力を持つ者同士が、一つの思いに衝き動かされる。

 存在を許してはならない。ここで打ち倒さなければならない。

 

 

 落涙と共に放たれた拳が、無邪気な笑顔を捉えた。

 

 歓声と共に放たれた拳が、悲壮な泣き顔を捉えた。

 

 

 口から鮮血を撒き散らし、声も途切れ、二人は雪に沈んだ。そのままどちらも身じろぎ一つせず、そのさまはまるで絵画のよう。

 凄絶と言う言葉も生温い殺し合いは、ここに幕を閉じた。周囲の生き物はとうの昔に逃げ去り、見る者など影さえ見当たらない。

 

 ただ一つ、一対の瞳を除いて。

 

 死んだように動かない黒い青年の周囲に、変化が生じた。ほんの些細なものながらも、その変化はあまりに異質。

 青年の頭上、そして足元。その雪面に、不釣り合いに赤い、撒き散らされた血よりなお赤い何かが現れた。否、色だけでなく、その形も不釣り合い。それは可愛らしいリボン。ただでさえ不自然だが、ここがつい先程まで命を奪い合う場であった事も加味すれば、尋常ではない異質さ。

 続いて生じた変化は、輪を掛けて異質であった。二つのリボンを結ぶように黒線が引かれ、それに沿って刃物を通したかのように、ぱっくりと開いたのだ。開いた口の奥に見えるのは、先に現れた可愛らしいリボンとは対極的な、不気味な目、目、目。覗き込む者を見据え、あるいは睨めつけるような視線が無数に存在していた。

 青年の身体は、落ちた。夥しい数の視線の中へ。つい先程まで雪原であったとは思えぬ程、あっさりと、極自然に、それが当然と言わんばかりに。

 

 青年を飲み込んだ口は、音もなく閉じた。始めから存在していなかったように、黒い青年の形に潰れた雪面と、白い青年の亡骸、そして──

 

「……! 五代ぃっ!」

 

──黒い青年を呼ぶ、遠い声を遺して。

 

* * *

 

 月の灯が微かに照らす、鬱蒼とした森の中。黒い青年は目を覚ました。

 

「ここは……?」

 

誰に問いかけるでもない、特に意味のない独り言を零しつつ、地べたに横たえていた身体を起こそうとし、

 

「っつ……!」

 

全身を襲う激痛に、再び五体を投げ出した。顔を歪ませながらも、どうにか動く首を巡らせて辺りを見渡し、そこで自分が見覚えのない場所にいるのだと知った。

 標も何もない森。こんな風景に見覚えがあるとすれば、それはここを縄張りとする動物だけであり、他の者にしてみると単なる森のどこかでしかない。彼にとっての見覚えとは、最後に見た風景。あの山中の雪原である。

 青年は、自分は長野県の九郎ヶ岳にいたはずだ、と思い返した。白い青年──"未確認生命体第0号"──に告げられた、思い出の、あの場所。拳を握る決意をもって自ら身を投じた、多くの人々の命が失われた事件の引き金となった、あの場所。

 しかし目を覚ましてみると、そこは肌寒さこそ感じるものの、雪など欠片さえも見当たらない森。当然ながら、そんな場所まで移動した覚えなどない。彼の記憶は、最後の一撃からぷっつりと途切れているのだから。

 では誰かがここまで運んだのだろうか、とも考えてみたが、あの場にいたのは自分と第0号だけ。離れた場所に全幅の信頼を置く人がいたが、大の大人一人を担いでここまで景色ががらりと変わる場所まで移動したとは考えにくい。そもそもあの人の性格を考えれば、こんな場所に置き去りにせずに病院に運ぶはず。幾度も世話になった、掛かりつけの医者の元へ。

 

 他にも疑問は尽きない。第0号はどうなったのか。あの人……"一条薫"はどうしているか。別れを告げて来た人々はどうしているか。そして──自分は今、どのような状態なのか。

 濁流のように押し寄せる疑問。しかしそれは、不意に聞こえた物音によって中断された。何かが歩く足音。重なり具合からして、恐らくは複数の何か。しかもこちらへと近付いている。

 それだけならば、あるいは誰かが来たのだろうとも推測出来るが、彼の心は警戒の一色に染まった。人間にしては足音が大きい。そしてこの暗闇の中、一向に灯りが見えない。こんな足元さえ見づらい所を照明なしで歩くなど、自殺行為でしかないと言うのに。

 まさか夜行性の獣か、傷だらけの己の身体から流れる血の匂いに惹かれて来たか、と思ったのも束の間。

 

「ちっ、男か」

 

「ガキならウマいんだがな、大人だと硬くていけねぇ」

 

獣と言う可能性は、そのやり取りでたちまちに消えた。痛みも忘れて反射的に飛び起き、声のした方向を見て、青年は己が目を疑った。

 人間よりも二周りも三周りも大きい、毛むくじゃらの体躯。涎に塗れた牙が月光を不快に反射し、真っ赤な舌が覗く大きな口。人どころか、巨大な獣でさえも八つ裂きにしてしまえそうな重厚な爪。

 目に見える全ての情報が、こいつらはただの獣ではないと知らせている。そして先の言葉が、自然の埒外でさえあると物語っている。

 

「まさか、未確認……!?」

 

青年の頭に浮かんだのは、これまでに死闘を繰り広げて来た怪人たち。人ならざる容姿と力を持ち、人とは決して相容れない独特の価値観の元、罪なき人々を惨殺する未確認生命体。

 高い実力を持つ個体は人語を解するが、それ程の力を持たない個体は聞いた事のない言語を使用する。その法則が当て嵌まるのであれば、目の前の化物たちは相応の実力を持っているはず。

 

「ん? オメェ、外から来たのか」

 

化物の一体が言った。外から来た、とはどう言う意味か、と問い返したかったが、それどころではない。化物たちは無遠慮に、青年との距離を縮めようとしている。青年も合わせるように後退りするが、化物たちは彼を包囲せんと左右に広がりつつある。

 

「見た事のねぇ服だ。運が悪かったな」

 

「大人しく食われてくれや」

 

 やがて青年は、背中で木の幹を叩いた。これ以上の後退は出来ない。完全に化物たちに囲まれ、後は襲われるのを待つのみ。

 

 否。青年の心は、それを良しとしない。この化物たちを放っておけば、再び惨劇が起きてしまう。それは絶対に避けなければならない。

 青年は瞳を閉じた。ここがどこかなど、今は些細な問題。彼の心にあるのはただ一つ。

 

 

炎の中の誓い。

 

これ以上誰かの涙は見たくない。

 

みんなに笑顔でいて欲しい。

 

 

 両掌を広げ、その親指と人差し指で円を描き、腰の前に据えた。目をかっと見開き、己の力の中枢たる石をイメージし、

 

「ぐっ……!」

 

これまでに経験した事のない激痛が、全身を走った。身体を起こそうとした時の比ではない。長く戦いに身を投じた青年をして、膝を突きかねない程。並大抵の者であればそれだけで戦意を失い、大人しく眼前の化物に食われる道を選んだであろう。

 しかし、青年は膝を折らなかった。砕けんばかりに歯を食いしばり、誓いを両の足に込め、己を支える礎とした。思いはただ一つ。

 

 

みんなの笑顔を守る為に。

 

 

 その思いに、力の源は応えた。描いた円の中に赤い輝きが宿り、彼の腰を一周するように銀色が走る。歪みのように見えるそれは、瞬く間に確かな形を得て、顕現した。

 現れたその姿は、あまりにも痛々しいものだった。余す所なく罅が走り、欠けている。触れればあっと言う間に崩れ落ちてしまいそうな程。

 無理もない。顕現した力、ベルトは一度第0号の攻撃によって傷を負い、それも癒えぬままに再び必殺の攻撃を受けた事で大きく破損しているのだ。本来の力を発揮出来るかなど、火を見るより明らか。

 それでも青年は、引き締めた顔を崩さなかった。戦える。目の前に迫る理不尽を討ち倒す為の力は、悲しみを隠す仮面は、まだ残っている。

 未だ身体を苛む痛みに耐え、握り締めた左拳を左腰に添え、同時に薬指と小指を曲げた右掌を左前方に突き出した。

 

「お? 何だ、命乞いか?」

 

「新手の大道芸人かもな。芸を見せるから、命ばかりはお助けを、ってな!」

 

「けけけっ、ワシらを楽しませてくれたなら、考えてやってもいいぞ!」

 

下卑た笑い声と共に化物たちが青年をからかう。だがその程度では、彼の心は揺れない。心の奥に据えた覚悟は、決して揺るがない。

 ゆっくりと、青年の右手が動く。一文字を書くように、左から右へ。

 

「変──」

 

簡潔な言葉。鎧を纏い、人外の力を振るう異形へと姿を変える、戦の狼煙となる言葉。悲しみを胸に秘め、ただ人々を守る戦士となる為の言葉。青年がその言葉を言い切ろうとした、その瞬間。

 

「そこまでですわ、木っ端妖怪のみなさま方」

 

まるでこの場にそぐわない鈴を転がしたような声が響き、正面の化物の上半身が文字通り消え失せた。




ソフトランディングしてますよ。


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第二話 重い荷物

重い話を書くつもりは毛頭ありません。五代君がゆっくりのんびり、幻想郷を旅するお話でございます。
五代君の調子が落ち着くまでは少しばかり駆け足更新で。


 青年の右手は、一の字を書き切ったところで止まった。目の前の光景に唖然とし、続く動作へ移れなかったのだ。

 上半身を失った化物──妖怪だったものは、その場で二、三歩たたらを踏み、ごろんと倒れた。断面からは赤黒い血が流れ出し、ぬらりと光る血溜まりを作り上げている。

 

「あら大変。地面が汚れてしまいましたわ」

 

慌てたような、わざとらしい声。すると今度は、横たわっていた下半身が忽然と、跡形もなくなった。いや、それだけではない。いかな技術か、はたまた魔法か。土に染み込みつつあった血さえも、元から何もなかったかのように消えてしまったのだ。

 

「……テメェ、"八雲紫"……!」

 

青年を囲んでいた妖怪の一体が、忌々しげに吐き捨てた。自分を食おうとしている妖怪にとって、その八雲紫とやらは敵なのだろうか。新たな疑問が湧いたが、青年は構えを解かず、事の成り行きを見守る事にした。敵の敵は味方、とはよく言ったものだが、必ずしもそうとは限らないのだ。

 

「可憐な乙女に向かってテメェだなんて、酷過ぎません?」

 

敵意を剥き出しにする妖怪に対する返事にしては、随分と暢気な様子。未だ姿の見えない八雲紫は、さらに続けた。

 

「外来人を食べる、私もそれは否定しません。ですがこちらの殿方は、私の客人ですの。ちょっとした手違いで、私から離れた場所に降ろしてしまいまして」

 

「けっ、相変わらず胡散臭ぇ……」

 

「やだ。ミステリアスな美少女だなんて、照れちゃいますわ」「言ってねぇよ」

 

のらりくらりとした話術ゆえなのか、それとも歴然とした実力差ゆえなのか。青年には、妖怪たちは口調は荒いままなれど、腰が引けているように感じられた。名前を知られている事と言い、この八雲紫なる人物は、近辺の有力者なのだろうか? そこまで考えて、有力者の意味が己の知るものとはまるで違っている事に気付き、内心で首を傾げたが。

 

「無益な殺生は私も好みませんの。彼から手を引いてくれるのなら、こちらも手出しはしません。いかがかしら?」

 

「……わぁった、ワシらも命は惜しい」

 

八雲紫の問い掛けに答えた妖怪から、すっと敵意が消えたのを青年は感じ取った。周囲の妖怪も同様に、包囲を緩めた。とりあえず、この妖怪たちから食われると言う当面の危機は回避出来たようだ。

 ここで青年は、構えを解いた。まだ八雲紫の真意は掴めていないが、客人と言うからには危害を加えるつもりはないのだろう、と判断したのだ。いささか迂闊に思えるが、この青年、実は人一倍お人好しなのである。

 

「命拾いしたな、兄ちゃん」

 

「あーあ、久々に人間にありつけると思ったのによぉ」

 

あっけらかんとそう言ってのけた妖怪たちは、めいめい森の奥へと消え行こうとする。その背中に、

 

「あ、あの!」

 

青年は思わず声を掛けていた。

 

「あん、まだ何か用か? それともさっきの続きを見せてくれるってのか?」

 

煩わしそうに振り向いた妖怪に、青年は問うた。消えた──消された仲間の事は何とも思っていないのか。

 青年はそれも不思議に感じていたのだ。自分を食おうとしていた相手ではあるが、妖怪たちはその仲間に対して一言も、今こうして立ち去る間際にも言及していない。それは少しばかり、薄情ではないだろうか、と。

 それを聞いた妖怪たちは、一斉に笑った。

 

「仲間だと? ワシらはテメェの血の匂いに寄って来たはぐれ者だ。仲間だなんて思っちゃいねぇ」

 

「テメェと同じさ。運が悪かった、それだけよ」

 

「話は終わりか? じゃあな、兄ちゃん。せいぜい、他の妖怪に食われねぇよう気を付けな」

 

口々に言い、今度こそ妖怪たちは姿を消した。ただ一人残された青年は、呆気に取られてその後ろ姿を見送るのみ。

 

 暗い森の中、再び一人きりとなった青年。八雲紫は、相変わらず姿を見せない。客人と宣ってなお姿を見せないとは、と心中でまたも首を傾げながら、彼はある一点へと向き直った。そこには何もない。否、八雲紫によって完膚なきまでに消し尽くされた妖怪の亡骸が、確かにそこにあった。青年は静かに目を閉じて直立。そしてゆっくりと両の掌を合わせ、頭を垂れた。

 

「それは貴方なりの挑発?」

 

どこからともなく、八雲紫の声が聞こえる。皮肉やからかいではなく、単に何をしているのか分からない、と言うニュアンスを感じた青年は、そっと顔を上げて、頬を掻いた。

 

「誰も弔ってくれないのが可哀想に思えたんです。もしかしたら、彼らみたいに話し合いで争いを避けられたかも知れないから」

 

 人を襲う妖怪。その点だけを見れば彼らは未確認生命体と変わらない。殺すか食うかの違いはあるが、それよりも決定的に違うものを青年は感じ取っていた。彼らには、意思疎通の余地がある。無論、今回は八雲紫なる人物の仲介があってこそだったが、それでも青年は心から安堵した。人ならざる脅威を相手にして、暴力だけが解決の手段ではない事に。会話によって争いを避けられた事に。

 

「……そう。だったら、私の手助けは余計だったかしら?」

 

「いえ、ありがとうございました。貴女がいなかったら、俺はまた暴力で解決するところでしたし」

 

現に青年は、鎧を纏う寸前だった。手段はどうであれ、別の解決策を示してくれた八雲紫には、感謝の念を抱かずにはいられない。意地の悪い問いであったが、青年の心底からの感謝に、

 

「……ふぅん。なるほど、ね」

 

八雲紫は、こう短く返した。

 

「ところで、ヤクモユカリさんでしたっけ。一体どこにいるんですか?」

 

 いつまでも隠れたままの八雲紫に、ここで青年は、話をするなら相対したい、と言外に伝えた。すると、

 

「振り向いてごらんなさい?」

 

背後からはっきりとした声で、どうにもずれた返答が返って来た。青年の周囲には誰もおらず、彼女の声もあちこちから聞こえている風であったのに。しかし生来素直な性格の青年は、特に疑問も抱かず言われた通りに振り向き、

 

「初めまして、"五代雄介"さん」

 

絶世の美少女と目が合った。世界を股にかける冒険家である青年──五代雄介をして、これまでに見た事がないと言わしめる程の。

 年端も行かぬ少女のようなあどけなさと魔性の美女のような妖艶さを併せ持つ美貌。下ろし立てのように美しい紫色のドレスに包まれた肉感的な肢体。気品を感じさせる佇まい。この少女に微笑みかけられて、籠絡されぬ男などいまい。

 だが、それも時と場合。相対した五代はまさにそれどころではなかった。身に起きた出来事が何一つ判明せぬまま会った事もない少女に名を呼ばれ、混乱が頂点に達したのだ。その結果、

 

「……あの、何で俺の名前知ってるんですか?」

 

色気もクソもない疑問が、口を衝いて出た。

 世間一般に美女と言われる女性ならば、この応答に大なり小なりこめかみをひくつかせるだろう。貴女の美しさなどどうでも良い、と言われているも同然であるからして。しかしこの八雲紫、力だけでなく器も大きいらしい。あるいは、五代の疑問を始めから予期していたのか。

 

「貴方を見ていたからですわ。そうですね、こうお呼びしましょうか──今代の戦士クウガ」

 

事もなげに答えた。五代のもう一つの名前を呼びながら。頭を殴られたかのように、五代の身体が揺らいだ。よろめく身体をどうにか踏ん張って支え、必死に頭を整理しようとする五代に、八雲紫はさらに畳み掛ける。

 

「ベルトを身に着けた時。赤いクウガになった時。金の力に目覚めた時──あぁ、あの時は随分と肝を冷やしましたわ。それに、凄まじき戦士になった時。私はずぅっと、貴方を見ていましたのよ?」

 

一つ整理しようとする間に、混乱の種が次から次へと舞い込んで来る。いつしか五代は呆然としたまま、八雲紫の謳うような口上を聞くばかりとなっていた。

 五代が戦士クウガである事。これは極一部の、限られた者しか知らない。口元を扇子で隠し、くすくすと笑っている少女は、なぜかそれを知っている。それだけではない。ベルトを身に着けてから今日に至るまで、己の身に起きた事を全て見ていたと言う。

 この少女は、一体何者なのか。ここに至り、五代の心は再び警戒の色を強めた。が、

 

「……ごめんなさい、お遊びが過ぎました」

 

それも束の間。八雲紫は扇子をしまい、ぺこりと頭を下げた。

 

「客人はからかうものではないのですけれど、貴方のように純粋な方を見ていると、つい、ね」

 

素直に謝る姿を見て、五代の警戒も鳴りを潜める。どうにも先程から調子を崩され通しだ、と五代は感じていた。元々口が達者ではないが、この八雲紫は弁舌に関して、己よりも遥か高みにいるように思える。そんな相手にからかわれては、振り回されるのも宜なるかな。

 

「だけど、見ていたのは本当よ? 私にとっても、『ここ』にとっても、あの未確認生命体は無視出来ない脅威でしたもの」

 

「……そうだ、ここはどこなんですか? 俺は九郎ヶ岳にいたはずなんです」

 

 ようやく、五代は当初の疑問を解決する機会を得た。この口振り、客人として招いたと言う事実から、八雲紫はこの問いに答えられるはず。身を乗り出し、詰め寄るような形となったが、五代の背景を考えれば無理もない話である。もしも何も解決していないのなら、第0号が生きているのなら、ここで時間を費やしている暇はない。

 

「教えるのはやぶさかではありませんわ。だけど『ここ』は、そう簡単に教えられる程単純なものではありませんの。ですので申し訳ありませんが、そちらは後回し。貴方も時間が惜しいでしょう?」

 

蠱惑的な光を湛えた紫色の瞳が、五代を見つめる。

 

「代わりに、貴方が一番聞きたい事を教えて差し上げます。損はさせませんわ」

 

優雅な所作で振り返り、音もなく三歩程歩く。振り返り際に月光さえもくすむ金色の髪が靡き、ふわりと甘い匂いが五代の鼻をくすぐった。

 

 

 そして再び振り返った八雲紫は、無邪気な笑顔を浮かべて、

 

「貴方は、みんなの笑顔を守り抜きました」

 

親指を立てた拳を勢い良く突き出し、

 

「お疲れ様でした、そしてありがとうございました。戦士クウガ……」

 

五代の肩に掛かっていた重い荷物を、そっと降ろした。

 

「……いえ、心優しき人間、五代雄介さん」




ゆかりんをそのまま登場させるか、逆さまで登場させるかで一時間悩みました。


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第三話 幻想郷

駆け足更新(すっ転ばないとは言っていない)
説明だらけになってしまいました。


 蛍雪の功、と言う言葉がある。ある男は瓶に集めた蛍を灯りとし、またある男は窓際に積もった雪に反射した月光を灯りとして勉学に励み大成した、と言う故事成語である。苦学は報われると言う意味だが、夜の平原を歩く五代は、これを別の観点から噛み締めていた。

 

「これだけ月が明るいと、文字も読みやすいなぁ」

 

世界各地を冒険して来た五代であるが、月明かりとはこんなにも明るいものだったのか、と独り言を隠せなかった。

 彼の手元にあるのは、掌大の紙片。表面には何やら丸っこい字で『夢を追う少女 2000のスキマを持つ少女』とやや小さい字が並び、中央を突き抜けるように大きな、これまた丸い字で『八雲紫』と書かれている。さらに左端には、八雲紫がサムズアップしているデフォルメイラストが。

 

「こんな細かいところまで見られてたなんて……」

 

八雲紫に手渡されたこの紙片は、言い回しこそ変えてあるものの、五代が出会った人々に手渡していた物と同じ。すなわち名刺である。

 

──八雲紫ですっ、よろしくね!

 

と、語尾にハートマークでも付きそうな調子の自己紹介を添えて。やや膨れたポケットに入れっぱなしだった名刺入れから己の名刺を取り出して比較してみたが、なるほど、実に見事に真似てある。2000のスキマとは何なのか、と言う新たな疑問も浮かんだが。

 受け取った際、一度驚きはしたものの、五代は嬉しく思っていた。妹が勤める保育園の子供たちと、八雲紫が重なったのだ。形はどうであれ自分の戦いを見守っていてくれて、労いと感謝の言葉を伝えてくれた相手が、こうして自分を模した物を作ってくれた事に。それゆえに五代には、この名刺が子供たちのくれたお守りに等しい、尊い物に感じられた。

 

 二枚の名刺をそっとしまい、五代はゆったりとした足取りで歩く。すると、集中する対象がなくなったからだろうか。己を睨め付けるいくつもの視線に晒されている事に気付いた。木立の陰から、草葉の陰から、夜空から。好意的なものではない、それは多少なりとも気の抜けた五代でも分かる事であった。あるいは緑のクウガの力が普段の彼にまで影響を及ぼしているのかも知れないが、当人でさえも知る由はない。

 夜道を、血の匂いを漂わせる人間が歩く。八雲紫曰く、『ここ』に生きる人間でこんな酔狂な事をする者はいない。仮にいたとしても、その事実だけが人々に伝わる事になる。つまりは無事に帰れないらしい。

 しかし、いずれの視線も、ただ五代を見つめるだけで、それ以上の事を起こすつもりはないようだ。否、起こせないと言うのが正しいか。五代は己の背中に意識を向け、ほっ、と一息ついた。

 彼の背中には、一枚の護符が貼り付けられている。八雲紫が別れ際にくれたもので、妖怪よけの加護が込められているそうな。なんでも、『ここ』の中心人物である"博麗の巫女"なる人物の逸品らしく、その効果は折り紙付きとの事。糊付けされたわけでもなく、ただ背中を叩くように当てられただけでくっついてしまったのだから、それだけでも外の世界の神社で売られている護符とは次元が違う代物だと言う事が伺える。

 

 妖怪、外の世界、そして護符。この短時間で随分と順応したものだ、とひとりごちる五代。そもそも冒険家に順応性は必要不可欠であるし、これまで超常の力を持つ未確認生命体と戦って来たのだから今更ではあるが、それにしても今回は度を越しているように感じられた。

 顔を上げて、行く先を見やる。八雲紫に伝えられた目的地には、まだ着きそうにない。ならばこの、外とは違う夜景をゆっくりと楽しみながら、彼女とのいきさつを反芻する事としよう。

 

 

 

 五代が八雲紫に連れて来られた──と言うにはいささかの語弊があるが──『ここ』は、『幻想郷』と言う一種の隔離地域だそうだ。詳細な場所までは教えてくれなかったが、日本国内のどこかであり、文化様式も日本のそれと概ね違いはない。

 隔離地域と言われてまず思い付くのは、ウィルス蔓延などの原因で人の出入りを制限された地域。内側に脅威を抑え込んで外を守る為のもの。だがこの幻想郷は、どちらかと言えば逆の目的で作られており、外から内側のものを守る為に作られたのだとか。

 神々は人々の信仰によって、妖怪は人々の畏怖によって存在が確立される。例えば水害は水の神の怒り、やまびこはやまびこ妖怪のイタズラ。ついでに神隠しはスキマ妖怪の仕業らしい。しかし人間の科学技術が発達し、神や妖怪の起こしたものとされて来た事象が科学的に解明されるようになると、人々は神々に対する信仰も、妖怪に対する畏怖も失った。こうなるとどれだけ強大な力を持っていようと、もはや消え去るのみ。

 そんな彼らへの救いの手となったのが、この幻想郷。博麗の巫女が管理する結界が内外の出入りを完全に遮断し、外側の非常識──すなわち神々や妖怪の存在を常識とする。また八雲紫による結界の作用で、外で今まさに消えんとする存在──幻想も勝手に内側へ引き寄せられるのだとか。

 まるで神話やおとぎ話の駆け込み寺のようだ。そんな感想を五代が漏らすと、八雲紫はころころと笑い、あながち間違っていませんわ、と答えた。外側の常識に否定された者たちが、拠り所を求めて行き着く世界、彼らに残された最後の楽園、それが幻想郷なのだと言う。和洋中、津々浦々取り揃えておりますわ、とは彼女の談である。

 

 一通りの話を終えた八雲紫は、五代に二つの贈り物をした。一つは博麗の巫女謹製の護符、もう一つはやや大きめの手帳と色鉛筆のセット。護符は先述の通りの代物だが、手帳はいずれのページも真っ更。罫線やカレンダーが載っているわけでもない。どちらかと言えば自由帳の類になるだろうか。

 これは一体何なのだろうか、と、己の背に護符を貼ってくれたばかりの八雲紫に視線で訴えると、彼女はわざとらしく頬に手を添えて身体をくねらせた。

 

──そんなに見つめられたら、ゆかりん照れちゃいますわ、きゃっ。

 

名刺の時と同じ調子である。あぁ、なるほどなぁ、と、あの妖怪による八雲紫評が少し分かった気がする五代であった。

 何とも言いがたいくねくね踊りからキリッと復帰した八雲紫は、これからのお供にどうぞ、と手帳を指差した。日記をつけるも良し、風景を描き残すも良し、ご自由になさって下さい、と。そう言う事か。得心行った五代は、八雲紫の優しげな笑顔の意味を噛み締めながら、一式をポケットにしまった。

 八雲紫はこう言っているのだ。どんな冒険家でも到達し得ない、この不思議な幻想の世界を歩いてみませんか。貴方の荷物は降ろされたのだから。

 

──幻想郷の笑顔を守ってくれた貴方への、妖怪の賢者からのささやかなお礼です。受け取って下さるかしら?

 

慈しみを感じる賢者の笑みに、五代はゆっくりと頷いた。

 

 さて、旅と言ってもどうしたものか。必要な道具は当然なく、ポケットに入っているのは子供たちのお守りと名刺入れ、もらい物の手帳セット、それとわずかな金子(きんす)の入った財布のみ。筋金入りの冒険野郎たる五代であっても、いささか心許ない。そんな彼の不安を察したのか、八雲紫はすっと木々の間に進み出て、まず最初に行って欲しい場所がある、と告げた。それはどこかと尋ねると、彼女は、行けば分かると含み笑い。

 そのまま八雲紫に先導される形で、およそ十分は歩いたろうか。石のもたらす治癒力により全身の傷や痛みはあらかた癒えたものの、さすがに堪えて顔を顰めた頃、木立が途切れ、一面の平原に出迎えられた。葉陰に隠れていた月や星もすっかり顔を見せ、辺りは本当に夜なのかと思う程に明るい。これも外で失われた幻想なのかと考えると、不思議としっくりと来る。痛みも忘れて夜空の花形を大地から眺めつつ、五代はこれから始まる旅に心を踊らせた。

 ひとしきり夜空を満喫した五代に、八雲紫はここを真っ直ぐ歩いて行きなさい、と伝えた。やがて竹林と小屋が見えるはず。その小屋を訪ねてみなさい、と添えて。

 

 

 

 そして現在に至る。夜道歩きの慰みにはなったろうか。興味を失ったか、諦めたか、視線の主たちはどこかへ行ったようだ。身体の痛みもほぼ感じなくなり、気付けばいつもの歩調となっていた。ベルトを身に着けて以来、この石には助けられ通しである。

 

「ん、もう少しみたいだ……って、何だこれ……」

 

遠目に見えていた件の竹林は、近付くにつれてその全容を顕にした。見上げんばかりに伸びた竹が密集し、立ち込める霧も相まって恐ろしさを感じる程に暗い。懐中電灯などの光源があったとして、どれだけ先を照らせるか分かったものではない。仮に昼間だったとしても、踏み入るには相応の勇気を要するであろう。歴戦の勇士にして稀代の冒険家である五代をして一歩を躊躇わせる、異様な雰囲気を醸し出していた。

 こんな所に八雲紫は入れと言うのか。彼女は己をどこへ導こうと言うのか。そんな悩みと頭を抱えて右往左往していたが、ふと竹の向こうに、薄ぼんやりと光が見えた。じっくりと目を凝らして見てみると、おぼろげながら建物が見える。現代人である五代からすると過去への郷愁を感じさせる古めかしい外観だが、この幻想郷と言う異世界にはこれ以上なく合っているように見える、茅葺き屋根の小屋。その障子張りの窓から、優しい灯りが洩れ出ている。竹林はこんな様子だが、どうやらこの家は廃墟などではなく、誰かが住んでいるらしい。となるとこれが、八雲紫が訪ねるよう言った物だろう。

 意を決して進み入り、戸口の前に立つ。静けさの中にかすかに響く物音が、人の存在を確信させた。

 

「すみません、どなたかいませんか?」

 

戸を軽く叩きながら呼び掛けると、いっそう物音は大きくなった。そして、

 

「はいはい、こんな時間に誰よ……」

 

その呼び掛けに応じる声。戸越しゆえにくぐもってはいるが、若い女性のようだ。他の声は聞こえず、こんな夜更けに男が戸口を叩いたのに応対しようとするとは、もしやこの女性は一人暮らしなのだろうか、こんな不気味な所で。

 などと考察をしている間に、戸が無造作に開かれた。

 

「急患かしら? 準備するから少し……」

 

現れたのは、これまた美少女であった。上質な白磁を思わせる肌に真紅の瞳。スレンダーな体に纏ったシャツと真っ赤なもんぺ、艷やかな銀髪をポニーテールにまとめた格好は活発な印象を与える。そんな少女の、少しばかり不機嫌そうな色を見せる顔が、五代の顔を、続いて身体を見た途端、真っ青になった。

 

「あの、夜分遅くにごめんなさい。ここに行きなさいと言われまして……、って、あれ?」

 

努めて穏やかに話を進めようとした五代の手首を、少女はがっしと掴んだ。

 

「急患んんんんっっ!!」

 

「えっ、ちょっ!?」

 

そしてやにわに叫んだかと思うと、少女は駆け出した──五代の手を掴んだまま。

 

* * *

 

 時は少し遡り、場所は森の出口付近。遠く見える五代に手を振る八雲紫の背後に、彼を幻想郷へ引きずり込んだ空間、スキマが現れた。その中から飛び出し、音もなく彼女の左後方に着地した美女が、恭しく礼をする。

 

「お帰りなさい、"藍"。首尾はどう?」

 

「ただいま戻りました。各地の有力者への根回し、全て滞りなく」

 

「ありがとう。関東医大病院と城南大学は?」

 

「はっ。"椿秀一"医師所持の五代雄介に関するカルテ他資料、"沢渡桜子"院生所持の九郎ヶ岳遺跡調査資料、いずれも全て収集し、すでに永遠亭へ運んでおります」

 

「手抜かりは、ないわね?」

 

「抜かるなと主に命じられたならば、抜かりなく事を進めるが式の務め」

 

「ふふっ、そうよね。お疲れ様、藍」

 

「もったいなきお言葉、望外の喜びでございます」

 

音もなく吹いた一迅の風が、藍と呼ばれた美女の金色の九尾を揺らした。

 

* * *

 

「あら? コピー機の電源が入ったままだわ。昨日使ったっけ……。……ま、いっか」




ここらではっきりさせておきます。
変身はありません。戦闘もありません。


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第四話 竹林の屋敷

東方を知ったきっかけはブロントさんだったりします。


「で、重傷者を引っ張ってここまで全力疾走した、と」

 

「……ハイ、そうです」

 

「全く……。貴女にしては迂闊だったわね。彼が何ともないから良かったものの」

 

「返す言葉もございません……」

 

 

 

 銀髪の少女に半ば引きずられるように放り込まれたのは、竹林の奥深く。暗く不気味な、未確認生命体が潜んでいても納得してしまうような闇の深奥には似つかわしくない、立派な邸宅だった。門のみならず連なる壁まで磨き上げられ、雑草一本生えていない佇まいは、酷く場違いな印象を受ける。

 少女は門前に着くなり、門戸を殴りつけた。否、拳を握って小指側の側面でもって叩いたのだが、華奢な少女がやったとは思えない程、盛大な音が鳴り響いたのだ。これには五代も驚き、掴まれた手首の痛みも忘れて彼女をなだめようとした。しかし少女は聞く耳を持たず、「急患! 急患んん!」と喚きながらひたすらに戸を叩き続ける。

 

「あぁもう、うっさい! 急患は分かったから止めなさいよ!」

 

 やがて、少女を止められそうにないと悟り、急患と言う事はここは病院か何かなのだろうか、と現実逃避にも似た考察を五代が始めた頃。少女の乱暴な呼びつけに業を煮やしたらしい住人の声があがった。これまた若い女の子の声で。

 

「夜も遅いんだから、少しは静かになさい!」

 

きぃ、と、大きさの割りには控えめな音を立てて、門戸が開かれた。外観だけでなく、細かな部分も余念なく手入れしている事が窺えた。

 さて、美人は三日で飽きるがブスは三日で慣れる、と世俗では言われている。五代も聞き及んだ事はあるが、案外当てにならないな、としみじみと感じていた。ある種の予感めいたものはあったが。

 わずかに開いた門の隙間からまず覗いたのは、よれた兎の耳。五代も各地で兎を見て来たが、かように耳がよれた兎など知らない。そして間を置かず出て来たのは、やはり見目麗しい少女の、不機嫌そうな顔。真っ赤な瞳を浮かべる目は半眼、小ぶりな口はへの字を描き、先の応答同様に抗議の意を示していた。

 幻想郷に来て、外見は人間の女性に酷似している者に会うのはこれで三度目だが、そのいずれもが、きらびやかな衣装を着てステージに立っていてもおかしくない、それどころか頂点に立てるであろう(すこぶ)る付きの美少女。しかしその間隔が短過ぎて、美醜の感覚が麻痺してしまったのだ。早い話が、美人に三人で慣れたのである。

 

「何を悠長に……! この人、大怪我してるのよ! 見なさい、全身血塗れで──」

 

 銀髪の少女が食って掛かったが、兎耳の少女は五代を一瞥すると、落ち着いた様子で門を大きく開いた。

 

「落ち着きなさいっての。私が見たところでは、怪我は『してた』ようだけど」

 

「……は? してた?」

 

「衣服の血も口元の血も乾いてるし、あんたの家からここまで連れて来た割りには平然としてるし。まぁ、一応師匠に診てもらった方が良いかも」

 

相変わらず門戸に首から下を隠したままの少女は、そう言ってから引っ込んだ。が、すぐにまた顔を出して、薄紫の髪を揺らしながら、

 

「妖怪よけの護符を剥がしてから中に案内してちょうだい。師匠は大丈夫だけど、私が手伝えないから」

 

と告げた。

 

 どこか納得が行かない風の銀髪の少女に護符を剥がしてもらい、二人揃って門をくぐると、外観に負けず劣らず、美しく整えられた中庭と古き良き日本家屋が鎮座していた。外の世界ではまずお目にかかれない風景に、五代の胸が高鳴る。鬱蒼とした竹林の奥に佇む美麗な邸宅。まるで物語のようではないか。

 門から屋敷へと続く石造りの小道を歩いていると、中庭へ繋がる道が敷かれており、その先は池に掛かる豪奢な橋。日本庭園を売りにしている施設でも、ここまで手の込んだものはそうあるまい。五代は好奇心に身を任せ、軽い足取りで脇道へ進んだ。

 

「あっ、ちょっと、どこ行くの? 子供じゃないんだから、ちゃんと付いて来なさいよ!」

 

見かねた少女に窘められたが、その程度で昂ぶる冒険野郎が止まる道理はない。砂利敷を踏まぬよう小走りに橋の中程まで行き、そこから池を見下ろして、

 

「……うわっ」

 

水面に映った顔にぎょっとした。口元が、己の吐いた血でべっとりと汚れているのだ。慌てて衣服を検めると、生地が黒いゆえに今まで気付かなかったが、こちらも血塗れ。ここに至ってようやく、五代は銀髪の少女が取り乱した理由と、兎耳の少女の言葉の意味を理解した。

 

「気は済んだ? それじゃ、行くよ」

 

遊んでいる最中に調子に乗って失敗した子供のような恥ずかしさを覚え、五代はせめて口元だけは、と袖でごしごしと拭い、すごすごと少女の後に従うのだった。

 

 

 

 銀髪の少女に案内されたのは、屋敷内の一室。内装は畳張りを始めとしてまさしく和室だが、片隅に置かれた骨格標本や、色とりどりの液体入りのビンが並んだ棚など、どうにもちぐはぐである。

 そんな部屋のど真ん中に、五代は通された。部屋の奥の座卓には、半分が赤色、もう半分が青色、さらに腰の辺りで左右の色が反転している奇抜な服を着た人物が座っている。五代たちに背を向けているが、長い三つ編みと体付きからして、女性のようだ。

 

「ようこそ、五代雄介さん。そこに座って、楽にしてて下さい」

 

凛とした中に柔らかさを感じる、よく通る声だった。自分の名を知っている事に驚きはしたが、ぎこちなくもいそいそと、用意された座布団に座る五代。楽にしてと言われたのに正座しているのは、室内のちぐはぐさから来る落ち着かなさゆえか、それとも緊張の表れか。

 

「えっと、それじゃ、私は帰るから」

 

「待ちなさい、"妹紅"」

 

怪我人は預けた、後はよろしくとばかりに退出しようとした銀髪の少女を、三つ編みの女性は妹紅と呼び止めた。

 

「"優曇華"から粗方は聞いたわ。だけど、少しお話ししましょう?」

 

ゆっくりと振り向いた女性は、おぞけが走る程の美貌の持ち主。だが恐らく、そのおぞけの大半は、額に浮かんだ青筋が原因であろう。表情は満面の笑みなのだが、直視出来ない。まともに眺めれば、その者も彼女に捕捉されよう。

 

「どうして座布団を二枚用意したか、分かるかしら?」

 

「……あー、えーっと、この人が二枚使うから?」

 

後退る妹紅が茶目っ気たっぷりに冗談を言うも、女性は表情を笑顔のまま崩さず、座布団を指差した。

 

「座りなさい」

 

「……ハイ」

 

詰んだ。そう思ったかは定かではないが、妹紅は指し示されるまま、暗い目をして座布団に正座した。

 

「師匠、着替えの準備が出来ました」

 

その時、見計らったように戸の向こうから兎耳の少女の声がした。話の流れからすると、この少女が優曇華なのだろう、と一人納得し、その名前を噛み締める五代。それがいけなかった。ぐぅ、と気の抜けた音が、彼の腹から響いた。

 第0号との決戦前からあまり食事が喉を通らず、結局ここに来るまでろくに飲み食いしていない。八雲紫からの感謝と、病院と言うある種の安全地帯にある事で安堵した五代の身体は、今だとばかりに燃料を要求し始めたのだ。優曇華、読みは『うどんげ』。日本の代表的ファストフードであるうどんを連想した五代雄介、どこへ行こうと骨の髄まで日本人である。

 

「昨日から何も食べてなくて、ごめんなさい……」

 

顔を真っ赤にして縮こまった五代に、女性は一旦青筋を収めて、

 

「ふふ、それじゃあ、後で何か用意しましょう。優曇華、診察は私が執り行うから、準備をお願いね」

 

と、整った顔によく似合う柔和な笑顔をようやく見せた。

 

 そして、妹紅は冒頭の説教へ。

 

 五代は女性に促されて部屋を辞し、優曇華に脱衣所へ通された。

 

「衣服はこちらで洗いますので、そこの桶に放り込んでおいて下さい。衣紋掛けの着物に着替えたら、師匠の部屋へどうぞ」

 

やけに素っ気なく事務的な口振りに思えたが、こんな夜更けなのだから当然か、と考え直し、

 

「遅い時間にすみません、うどんさん」

 

と素直に謝罪した。しかしつい今しがた連想した食べ物と間違える片手落ち。脱衣所から離れようとした優曇華、これにはたまらず見事にずっこけた。

 

「"鈴仙・優曇華院・イナバ"です!」

 

「えっ、あれっ?」

 

五代の中では、もう彼女はうどんだと紐付けされてしまっている。ゆえに、どれだけ本名を叫ぼうと、いっそうの混乱を招くばかりであった。

 ようやく五代の誤解を解き、ついでに自分の事は優曇華でもイナバでもなく鈴仙と呼んで欲しい旨を伝えた優曇華もとい鈴仙は、今度こそはとその場を離れた。

 

「怒らせちゃったな……。あ、俺の名前、ちゃんと伝えてなかったな」

 

ポケットの中身を取り出し、着物と言うよりは外の世界で健康診断や手術の際に着る病院着のような衣服に袖を通しながら、お互いに知り合う機会を逸してしまった事を悔やむ五代。だがそんな事で挫ける男ではない。言葉を交わした相手の笑顔を引き出せないまま、おめおめと引き下がる男ではない。

 

「もう一度、後でちゃんと謝ろう!」

 

決意を新たに着替え終えた五代は、八雲紫の手帳の最初のページに、

 

『鈴仙・うどんげいん・イナバ 鈴仙さん』

 

と記した。誤解を解く過程で漢字まで聞いたが、結局優曇華院が書けずに平仮名で誤魔化したのはご愛嬌である。

 

 素っ気なく、終いにはぷりぷりと怒って立ち去ったように見えた鈴仙だが、実際のところ、彼女は全くと言って良い程怒っていない。彼女自身、名前を気に入っているが長いと言う自覚はあり、外来人の、しかも日本人にとっては覚えにくいだろうとも分かっている。ゆえに、師匠のみが呼ぶ優曇華でなければ、特に何と呼ばれようと気にしないのだ。さすがにうどん呼ばわりは一言物申さずにいられなかったが。

 さらに鈴仙はやや人間に対して苦手意識を持っており、生来の臆病な性格も相俟って、かような態度をとる事が珍しくない。その辺りを理解している患者の面々には微笑ましい目で見守られているが、当の本人には知る由もない。

 要は、誤解するポイントが代わっただけである。それを五代が知るのは、後ほんの少しだけ先のお話。

 

 風通しの良い裾に気を取られながら、裸足でぺたぺたと来た道を引き返し、失礼します、と声掛けしたところ、反対側からゆっくりと開けられた。開けたのは妹紅。五代の姿を認めると、水飲み鳥もかくやと言う勢いで頭を下げた。

 

「ごめんなさいっ!」

 

「あぁ、えぇっと、どうしたの?」

 

突然の事に固まる五代に、妹紅の言葉はさらに投げられる。

 

「貴方が大怪我してるように見えて、それで何かもう頭がぐちゃぐちゃになって、無理やり引っ張って来ちゃってごめんなさいっ!」

 

「この子、普段は患者さんを案内する仕事を受けてくれてるんです」

 

後ろで困ったような笑顔を浮かべつつ補足してくれた女性のお陰で、五代もやっといきさつを理解した。

 妹紅は、自分が女性の治療を必要とするような大怪我を負っていると勘違いし、矢も盾もたまらず飛び出したのだ。それも日が暮れた夜更けともなれば、焦りは尋常ではなくなるだろう。だが蓋を開けてみれば五代は掠り傷一つ負っておらず──完治していただけだが──、ただ重傷者を引っ張り出した結果だけが残った、と。

 

「この子、どうしても面と向かって謝りたいそうで……」

 

頭を下げたままの妹紅。五代はすっと腰を落とし、視線の高さを合わせて、

 

「ありがとう、妹紅ちゃん」

 

にこりと笑った。礼の言葉など想像していなかったのだろう、妹紅は驚いたように顔を跳ね上げた。

 

「君が心配してくれてたのは、凄く伝わってたよ。それに、俺の方こそごめん。こんな夜遅くに血塗れの男が来たら、そりゃびっくりするよね」

 

もっとしっかり伝えれば良かった。そう反省を述べつつ頭を撫でると、妹紅は再び俯き、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返した。

 

「まるで隣近所のお兄さんと女の子ね。どっちが歳上なのか分かりゃしない。……聖なる泉、枯れてなんていないじゃないの」

 

呆れたように、二人に聞こえないように呟いた女性。しかし、その頬は優しく緩んでいた。




永夜抄の女言葉もこたんが好きです。


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第五話 八意永琳

伏線なんて張りません。私の頭が追い付きません。


 調子を取り戻した妹紅を玄関先まで見送り、唖然とした様子の五代と、何も変わったところのない女性は部屋に戻った。ただの見送りでどうしてこうなったか。

 今日はもう帰る、とさっさと部屋を出て行った妹紅。それを追い掛け、こんな時間に帰るのか、あんな暗く不気味な竹林の中を、と五代は目を剥いた。だが、それを制したのは他ならぬ妹紅自身だった。竹林の妖怪に負けるようなら、始めからこんな仕事は受けない、と。女性も横から口添えした。曰く、貴方が思っている程、この子は華奢でも何でもありませんよ。幻想郷で当てにならないものの一つは、外見ですわ。

 両者に嘘を言っているような気配はなく、しかし外での常識が未だに五代の思考に枷として絡み付いている。

 なかなか納得しない彼に、じゃあこうやって帰れば納得してくれるかな、と妹紅は地を蹴った。軽い跳躍だが、すぐさま訪れた異常な光景に、五代はただただ驚いた。妹紅が、宙に浮いているのだ。羽根が生えているわけでも、どこかからワイヤーで吊っているわけでもないのに。

 未確認生命体にも、第3号や第14号のように空を飛ぶ者はいたが、いずれもが羽根による飛行である。翻って彼女は、そう言った生物的な器官など何もないのに浮遊している。

 口をぱくぱくさせるばかりの五代を尻目に妹紅は、

 

「明日また来るよ、今日のお詫びの品を持ってね!」

 

と笑いながらぐんぐんと高度を上げ、そのまま星空へと飛んで行ってしまった。

 

「ほら、見た目は当てにならないでしょう? さ、中に戻りましょう。今日も冷えますからね」

 

さも当たり前のように言い、何事もなかったかのように踵を返した女性を見ながら、五代は口をあんぐりと開け、改めて幻想郷の常識を思い知るのだった。深く考える事を放棄した、とも言うが。

 

 女性は座卓の前に、五代は先程の座布団に座り相対する。そこで女性が何かに気付いたようで、ぽん、と手を打った。

 

「そうだ、まだ名乗っていませんでしたね。私は"八意永琳"。ここ『永遠亭』で、お医者さんのような事をやっています」

 

どうぞよろしくお願いします、とお辞儀をした八意永琳に、五代もつられて頭を下げつつ、病院着のポケットに手を突っ込んだ。手持ちの品を置きっ放しにするのも座りが悪く、脱衣所を出る際についでに持って来ていたのだ。

 

「知ってるみたいですけど、俺、五代雄介って言います」

 

例え己の名前を知っていようと、相手が名乗ったのならば名乗り返すのが礼儀。ポケットの名刺入れから一枚引き抜き、名前を伝えながら渡した。するとどうした事だろう。表面を見た途端、八意永琳は口元を上品な仕草で隠し、笑った。何かおかしな事を書いていただろうか、と首を傾げると、彼女は座卓の引き出しから紙片を取り出し、今しがた五代が渡した名刺と並べて見せた。

 

「貴方も受け取ったんですね、これ」

 

見比べるまでもなかった。どちらも同じ、八雲紫の名刺。そう言えばここに来がけに、自分の物とまとめて名刺入れにしまったんだった。それに思い当たった五代は、慌てて自分の名刺を抜いて、仕切り直すように名乗りながら、八雲紫の名刺と交換した。

 

「……なるほど。八雲紫は、あなたの名刺を真似したんですね。あのはしゃぎようも納得ですわ」

 

ややげんなりした顔で、合点が行ったように何度も頷く八意永琳。八雲紫と彼女の間に、この名刺を巡って一体何があったのだろうか。

 

 閑話休題。五代が、どうして自分の名を知っていたのかと問うと、八意永琳は再び座卓に手を伸ばした。

 

「八雲紫から──正確には彼女の式から頼まれたんです。これから五代雄介と言う外来人が来るから、診察して欲しい、と。これを持ってね」

 

式とは何だろうか、と思う間もなく、

 

「ん? これ……えっ!?」

 

差し出された二枚の紙を見て五代は驚きの声を隠せなかった。一枚目は関東医大病院の医師、椿秀一の書いたカルテ。もう一枚は城南大学考古学研究室所属の院生、沢渡桜子の調査資料。どちらも、ここにあるはずのない物だった。

 

「これ、椿さんの……、こっちは桜子さんの……! ど、どうしてここに!?」

 

「安心して下さい、これは原本のコピーですし、ここの外には決して漏らしません。……ここからは、診察しながら話しましょう。時間も惜しいですし、ね」

 

そう言いながら立ち上がった八意永琳は、五代に病院着の上を開けるよう促した。

 

 触診を受けながらの話は、これと言って五代を警戒させるようなものではなかった。八雲紫が式とやらを通して頼んだのは二点。彼の健康状態のチェック、そしてカルテと調査資料、永遠亭の機器による診察結果を踏まえた上での、戦士クウガについての考察。

 

「うん、外傷はほぼ完全に塞がってますね。明日には傷跡もきれいになくなっているでしょう。血塗れの服が嘘みたい」

 

「驚かないんですね、鈴仙さんもそうでしたけど」

 

「……まぁ、色々あるんですよ。とりあえず触診した限りでは健康そのものですね」

 

含みのある物言いをした八意永琳は、紙束を抱えて部屋の戸を指した。

 

「さ、次は精密検査です。隣の部屋に行きましょうか」

 

精密検査と言われても、五代にはピンと来ない。病院らしき施設なのは間違いないが、小さな個人診療所程度の設備さえあるようには思えない。そもそも建物自体が日本家屋なのだから、その思考に至るのも当然と言えよう。目の前の才女を、自他共に五代のかかりつけ医と認める椿秀一と比べるつもりなど毛頭ないが、少なくとも機器類に関しては、自分の腹の中に埋まった石を調べられるような物があるのだろうか、と生粋の現代人たる彼が疑問に思うのも無理からぬ事。

 そんな五代の疑問を察したのだろうか。八意永琳はウィンクを一つして見せ、

 

「心配いりませんわ、ここは幻想郷ですので」

 

と、以前の彼なら意味が分からない、今の彼には少しばかりの期待を抱かせる一言を送ってくれた。

 

 

 

 すっと開かれた襖の奥は、何と言うかもう混沌としていた。内装は永遠亭に相応しい和風だが、その中に鎮座しているのは厳つく巨大な機械の群れ。外観から察するにいずれも医療機器のようだが、どこかで見た事があるようで、やはりないような妙な感覚を覚える。

 

「驚きましたか?」

 

そんな物を目の当たりにした五代の顔を盗み見たのだろう、先に立つ八意永琳は笑いを堪えながら続けた。

 

「もしかしたら、昔の映画で見たようなデザインかも知れませんね」

 

遠回しのヒントのつもりだったのだろう。だがそれで五代は答えを導き出した。

 昔のSF映画で病院や宇宙船に置いてあるような医療機器、まさにそんな姿をしているのだ。いわゆるレトロフューチャーである。

 

「外の人々が未来に夢を見ていた時代、多くの機械が映画に登場しました。ですが科学の発展でそれらは否定され、幻想となりました」

 

八意永琳の指が、医療機器の一つをつつ、と撫ぜた。

 

「ここは幻想郷、忘れられた幻想の吹き溜まり。外の世界で失われた物が、何らかの形で流れ着くのも珍しくないんですよ?」

 

例えば、誰も寄り付かぬ不毛の原野に。例えば、往来の最中に。例えば、誰かの脳に。

 

「貴方が忘れた幼少の頃の何かも、もしかしたら流れ着いているかも知れませんね。それを探す旅と言うのも、なかなか乙ではありませんか?」

 

美しい声で流れるように紡がれる幻想語りに、五代は聞き惚れていた。

 

 八意永琳がぱん、と手を打った事で我に返った五代は、指示されるがままに一通りの医療機器に寝そべり、大人しく検査を受けた。映画で見た検査を受けられる、と彼の胸はいささか高鳴っていたが、何と言う事はない。関東医大病院で受けた検査と、主観的には何も変わらないのだ。ただ横になり、じっと待って、そうすると八意永琳の「はい、終わりです。次はあちらの機械にお願いします」と言う声が掛かって、の繰り返し。診察台に身体を枷でガチガチに拘束された時にはさすがに焦ったが、そちらも特に痛みなどを伴うものではなかった。身じろぎ一つするな、と言う事らしい。

 

 診察が終わると、別室へ通された。ちゃぶ台と布団のみの、生活感のない和室。ただ、ちゃぶ台に用意されているほかほかの軽食だけが、人の滞在を許しているように感じられた。

 

「入院患者用の部屋ですので、あまり物がないんです。入用の物があれば仰って下さい」

 

八意永琳の心遣いが身に沁みるが、着の身着のままで来たようなもの、これと言って必要な物は特にない。それに、入院患者用の部屋だけあって清潔に保たれているこの部屋は、旅の途中でまれに利用する場末の旅館よりも、遥かに居心地が良さそうだ。空腹を満たす食事が用意されているのも素晴らしい。

 だがそんな待遇とは裏腹に、五代の顔色は優れない。実際には医療機器をはしごする内に、徐々に青くなっていた。五代が心配しているのは……、

 

「いえ、ここまでしてもらっただけでも十分ですよ。だけど俺、お金が……」

 

所持金である。診察を受け、大量の医療機器を利用し、さらに食事付きの一泊。医療保険の充実した日本であっても、ここまでの医療を受けると、請求書を見た途端に顎が外れるだろう。ましてや五代の財布は、そんな額を払える程膨れてはいない。

 そんな五代を見て八意永琳は、あぁ、伝えていませんでしたね、と前置きし、

 

「お金は必要ありませんよ。それに匹敵する報酬は頂いていますし」

 

と、検査前より分厚くなった紙束を揺らした。

 

「人類の祖先、彼らが生み出した戦士クウガ、そして今代の戦士クウガ。貴方をきっかけにそれだけの知識を頂いておいて、さらに上乗せするわけには行きませんもの」

 

だから安心してお休み下さい、と言い残し、八意永琳は襖を閉じた。

 どうにも納得が行かない。彼女は知識が報酬と言い切ったが、それで済ませられるような厚遇ではない。普通の人間ならば、何か裏があるに違いない、そう思うだろう。

 だがここにいるのは筋金入りのお人好し、善意の権化、五代雄介である。

 

「よし、明日は早起きだな!」

 

そう決意し、ちゃぶ台に乗せられたおにぎりを頬張る五代であった。




五大老には地の文も逆らえませぬ。ゆえにゆかりんもえーりんもフルネーム。


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第六話 何見て跳ねる

ほのぼのした場面でこそ輝く技、それらを大事に書きたいですね。


 翌日。幻想郷で迎えた初めての朝は、日の出よりも早かった。まだ暗い部屋の中、半身を起こして大きく伸びをした五代は、あくびを噛み殺しながら布団を抜け出て、枕元に畳まれていた着物に着替えた。サイズはものの見事にピッタリであり、鈴仙の、入院患者への対応能力の高さが窺えた。

 障子をそろりそろりと開け、ぼんやりと白む東の空を眺めながら縁側を当てもなく歩く。抜き足差し足忍び足。

 

 そうして彷徨う事しばし、行く先から水音がした。蛇口のような文明的な音ではなく、逆に川のような自然のものでもない。耳を澄まして出処を探ると、その音はどうやら正面、通路の先に見える薄暗い部屋からのようだ。

 足音を殺して近寄り中を覗いてみると、まず目に入ったのは広い土間。壁際には竈が配され、その傍には七輪も置いてある。奥には勝手口が開いており、夜とはまた違う顔の竹林が見えた。随分と古いが永遠亭の様式にはよく合うそこは、台所だった。

 そして水音の正体は、勝手口の脇にいた。大きな水瓶から柄杓で水を掬い飲む八意永琳である。あまり行儀が良いとは言えないが、背筋を伸ばし、柄杓から流した水を空いた手で受けてからこくこくと飲む姿は、不思議な魅力を漂わせていた。

 八意永琳が五代の視線に気付いたのは、手ぬぐいで満足げに弧を描いた口元を拭いていた時だった。

 

「あら、見られちゃいました?」

 

「……えぇ、途中からですけど」

 

「もう、フォローになってないですよ」

 

優曇華たちには内緒ですからね、と立てた人差し指を唇に当てた彼女は、昨日までの才女然とした雰囲気が嘘のように立ち消え、あどけない幼子のような可愛らしさに溢れていた。

 

「貴方もいかがですか? よく冷えてて、美味しいですよ」

 

差し出された湯呑みを受け取りながら、美人と言うのはどんな表情も絵になるんだなぁ、とどこかずれた感想を抱く五代であった。

 

 少し遅い朝の挨拶を交わしてから、えらく早起きなんですね、と五代が聞くと、八意永琳は徹夜したんです、とさらりと返した。

 

「貴方の検査結果と椿医師のカルテ、それに桜子女史の調査資料を読んでたら、つい熱が入っちゃいまして。お陰で昼までにはまとまりそうですわ」

 

楽しそうに語る八意永琳。昨日の報酬の話は本気だったらしい。でなければこんな表情は作れまい。

 ちらと見えた棚に『塩』と札を貼られた壺を見付け、許可を得て分けてもらった五代に、今度は八意永琳が問うた。

 

「貴方も人の事は言えないじゃないですか。いつもこんなに早起きなんですか?」

 

掌に乗った少量の塩を舐め取った五代は、

 

「いや、仕事を探してるんです」

 

としょっぱさに眉を顰めながら答えた。起き抜けの塩分補給、大事である。

 

「診察代はもらったって言ってましたけど、何だか申し訳なくて……。ここって病院みたいだから、朝早くに起きたら、何か手伝える事があるかなって」

 

そう言い切った五代の真っ直ぐな目を見ながら、八意永琳は考える。遠慮したところで、この男は絶対に引かない。一度決めたらてこでも動かない、そんな目をしている。であるならば、客人だから怪我人だから、となあなあで済ますよりも、彼の意を酌んで何か任せた方が良いのではないか。

 そうですねと一言置いてから、五代に相応しい仕事は何かないものか思案。すると竈が目に付き、男性にやってもらいたい仕事に思い当たった。

 

「それじゃ、これをお願いしますわ」

 

言いながら、八意永琳は勝手口に立て掛けてあった物を掴み、五代に渡してから外を指差した。

 

 

 

 すこんっ、と気持ちの良い音が鳴り響き、真っ二つになった薪が地に転がった。額に浮かんだ汗を拭いながら台所裏手に併設された薪小屋に積み上げ、新しい生木を薪割り台に乗せる。斧を振り上げ、それ目掛けて振り下ろすと、また小気味よい音が竹林の間に響き渡った。

 労働への充足感を覚えながら空を見ると、いつの間にやら太陽はすっかり顔を出しており、小屋に積んだ薪の本数もだいぶ増えた。自分でも驚く程、この慣れない仕事に夢中になっていたらしい。

 きれいに割ると言うのは、これが見かけの単調さとは裏腹になかなか難しい。八意永琳は多少雑になっても使えるから問題ない、気にしないでと言っていたが、そこは中途半端を嫌う五代雄介。一回振り下ろすごとに薪の割れ目を確認し、己の姿勢を思い返し、次はきれいに割ろうと意気込む。そうして回を重ねる内に動作が洗練され、終いには美しい割れ目を見るに至ったのである。

 斧と一緒に受け取った竹水筒の水で喉を潤し、さて次だ、と生木の山へ向き直ったところ、何かが彼の足に当たった。見下ろした先にあったのは、子供が使うにしても小さい鞠、それが三つ転がっている。子供の入院患者でもいるのだろうか。一つ拾い上げて眺めてみると、いくらか修繕した跡があり、大事に使われているのが見て取れた。

 他の鞠も拾い上げ、持ち主を探そうかと一歩踏み出すと、がさりと近くの茂みが音を立て、そこから何かが飛び出した。探し人かと思い声を掛けようとしたが、その正体を見て、思わず口を噤んだ。

 現れたのは、白毛の可愛らしい兎であった。地べたにちょこんと座り、じっと五代を見つめている。否、視線を注ぐ先は、彼の手にある鞠。もしかすると、この兎が持ち主なのだろうか。

 兎に向けてそっと転がそうとした五代だが、ふと思い立って右手に二個、左手に一個に分けて持ち直した。そして右手に持った一個を中空へ放り、左手の一個、右手の一個もほんの少しずつタイミングをずらして放り上げた。弧を描く鞠は、五代の手に受け取られてはまた放られ、受け取られてはまた放られ。紅色の鞠は抜けるような青空に映え、描く軌道はさながら紅葉に染まる秋の山々のようで。

 兎も始めこそ小首を傾げて五代を眺めていたが、いつしか意思を持つがごとく彼の手を離れては収まる三つの鞠を、きらきらとした目で見ていた。

 やがて兎は、五代から目を逸らさぬまま茂みに向けて手招きをした。するとどうした事だろう。次から次へと白毛の兎たちが現れ、五代の面前に並んで座り込んだではないか。どの兎もこの兎も、一様に目が輝いており、その様はまるでサーカスを見る子供のよう。

 観客が増えれば、演者にも熱が入ると言うもの。背中越しに投げて正面で受けてみたり、膝を上げてその下を潜らせるように投げてみたり、全ての鞠が手元を離れた瞬間にくるりと一回転して何食わぬ顔で続けてみたり。そんな五代の技が成功するたび、兎たちは喜びを表すように、その場でぴょんぴょんと跳ねて見せた。

 夢のような時間は、五代が彼らに向かって次々と鞠を放り投げる事で終演を迎えた。危なげなく受け止めた兎たちに、満足げな息を一つついてから一礼し、それから手を振ると、彼らもまたひときわ大きく跳ねて応え、ぶんぶんと手を振って茂みの中へと消えて行った。

 

「兎を相手にジャグリングってのも、なかなかないよなぁ……」

 

兎が手を振り返した事こそ、なかなかないどころかあり得ないのだが、彼らが喜んでくれた事で程良く気分の高揚した五代は、そんな細かいところは気にしないのであった。

 

 不思議な舞台を終え、良い気分で薪割りを再開しようと斧に手を伸ばすと、

 

「見てましたよ、五代さん」

 

勝手口から声を掛けられた。戸口に背中を預けた鈴仙である。

 

「鈴仙さんも見てたんだ。あの子たちと一緒に見れば良かったのに」

 

「そう言うわけには行きませんよ。一応、私はあの子たちの上司ですし、仕事もありますし」

 

そう言いながら鈴仙は、万能ねぎの束を掲げて見せた。朝食の準備なのだろう。それにしても、あの兎たちの上司とはどう言う事か。兎の挨拶もスルーした五代も、こちらは気になったようで、尋ねてみた。

 

「そのままの意味ですよ、あんまり言う事聞いてくれませんけどね。あんなに大人しくしてるの、私も初めて見たくらいなんですよ?」

 

割りとはしゃいでいたように見えたが、だとすると普段はどれだけやんちゃなのやら。

 後は刻むだけだから、とねぎの束を台所に戻して外に出て来た鈴仙は、朝の空気を存分に吸いながら背筋を伸ばした。

 

「そうだ、鈴仙さん」

 

「ん、どうかしました?」

 

「昨日はごめんなさい。だけど名前、しっかり覚えましたから!」

 

天上へ伸ばした手を下ろした鈴仙に、袖から取り出した手帳のページを見せながら謝る五代。書かれていた平仮名混じりの己の名前に、彼女は思わず吹き出した。

 

「もう。何か書く物はない?」

 

五代が色鉛筆のセットを差し出すと、鈴仙はその中から赤色をつまみ上げ、うどんげいんの下に漢字で優曇華院と書き添えてから、

 

「これで完璧っと。謝るような事じゃないわ。私の知ってる人間は、いちいちこんな事で悩んだりしないもの」

 

と笑って見せた。どこか不器用なところがあるが、真っ直ぐで誠実な人間。五代への評価を上書きした鈴仙は、態度を軟化させていた。朝食の準備が一段落し、事実上のオフになったのも理由の一つだろう。

 鈴仙の笑顔に安心した五代は、八意永琳相手にやらかした失敗を繰り返さぬよう、表面をしっかりと確認してから昨日渡しそびれていた名刺を差し出した。

 

「2000の技って、また随分と凄いのね。さっきのジャグリングも、その一つなの?」

 

鈴仙の問いに、まさか兎相手に披露する日が来るとは思わなかったけど、と笑いながら頷く五代。まぁ、外の世界じゃあり得ないかもね、と、鈴仙もまた笑った。

 そこで鈴仙は、はたと気付いた。己の人見知りは熟知している。なのにどうして、初対面同然の相手にこんなにも舌が回るのだろうか。こんなにも笑顔を見せられるのだろうか。いつも師に諭される悪癖(調子乗り)が表面化したか? それとも、あの光景に感化されたか?

 しかし、悪い気はしない。この語らいの場は、居心地の悪さを感じない。調子に乗っている? ならばそれも結構。こうして穏やかな時間を送れているのだから。

 乗ったついでだ。私も一枚噛ませてもらおう。鈴仙は右手を鉄砲のような形に握り、

 

「ねぇ、五代さん。幻想郷流のジャグリングって、興味ないかしら?」

 

人差し指の先に、紫色の小さな光弾を作り上げた。そしてわずかにそれを見つめてから、五代に向けて放り投げたのだ。

 

「わっ、何これ!?」

 

新たに見せられた常識外れもそうだが、投げ渡されたそれを受け取った五代は、その感触にもまた驚いた。いかにも物をすり抜けそうに見える掌大の光弾は、しっかりと握る事が出来るし、大きさ相応の確かな重量も感じられるのだ。

 

「まだまだあるわよ、っと!」

 

さらに一つ、二つ、と光弾を生み出し、見ては投げ寄越す鈴仙。五代も二つ目は空いた左手で受けたが、三つ目はそうも行かず、右手の一つ目を中空へ放り投げてから掴み取った。

 

「ほらほら、一つ目が落っこちちゃう!」

 

「おっとっとぉ!?」

 

三つの光弾。それで鈴仙の意図するところを理解した五代は、戸惑いながらも左手の光弾を放り投げた。そうして交互に手元に収まった光弾を放り投げていると、紫色の尾が連峰を描く。薄っすらと五代の顔を照らす山々は、彼をして美しい、もっと見ていたいと思わせる程。

 

「仕上げよ、空に思いっ切り投げて!」

 

仕上げとはいかなるものか。これ以上のものを鈴仙は見せてくれると言うのか。好奇心に突き動かされ、手に取った先からぶん投げる。光弾は重力を無視したように、青空目掛けてぐんぐんと高度を上げ──兎耳をぴんと張った鈴仙がそれらに人差し指を向けた。指先には弾丸を模した光弾が浮かび、

 

「ばーんっ!」

 

可愛らしい掛け声と共に上空の光弾に吸い込まれるように飛翔し──

 

 

 季節外れの、大輪の花が咲いた。

 

 

冬色の青の中で、その紫はなお鮮やかであり、

 

「あらあら。優曇華ったら、随分懐いたみたいね」

 

知性を司る華の心を惹き寄せ、

 

「あれは鈴仙の『弾幕』かしら? 丁度良いわ。これ、雄介の朝ごはんに出してもらおっと!」

 

烈火のごとき華を招き入れた。




うどんげっしょーで一番可愛いのはイナバたち、異論は認めませぬ。


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第七話 青空の朝食会

開幕ジャブ(飯テロ)入れときますね。


 本日の朝食は豆腐の味噌汁に香の物、それと妹紅が持ち込んだたけのこの煮物とたけのこご飯のおにぎり。

 味噌汁は丁寧に取っただしの旨味と白味噌の上品な味わいが見事な調和を奏でており、淡白な豆腐がそれらをうまく引き立てている。むしろ雑多に具を入れては魅力を削ぎ落としてしまうであろう。丁寧に切られたねぎも風味が良く、食欲を刺激して止まない。

 食卓に彩りを添える香の物はあっさり風味。だがこれが寝起きには実に嬉しい。味だけでなく食感も素材を十二分に活かしており、噛むたびにぽりぽりと小気味良い音が楽しめる。これだけでもご飯三杯は容易く胃袋に収められる程の一品である。

 主菜となるのは妹紅の作ったたけのこの煮物。じっくり煮込んだたけのこは柔らかい中に特有の歯ごたえを残しており、香の物とはまた違う噛む楽しさを与えてくれる。煮汁もしっかりと染み込んでおり、それでいてたけのこ本来の味を損なっていない、優しい味わいである。

 そしてたけのこご飯のおにぎり。たけのことだし汁の旨味を存分に吸った米は、白米からさらなる高みへ至ったかのよう。細かく刻んだたけのこも、食感の違う米と競合せずにむしろ引き立て合っている。これを食するのに箸など無粋。箸を置く一手間をかけ手掴みでかぶり付くのが、一つ一つ丁寧に握った妹紅への最大の礼儀だろう。

 なお余談だが、永遠亭内部から、

 

「悔しいけど、美味しいのよねぇ……」

 

とため息混じりの雅な声が漏れ出たそうな。

 

 そして、台所裏。生木を横倒しにして作った青空食堂に、五代、鈴仙、妹紅の三人が車座になっている。膝には朝食の載った盆。平素であれば鈴仙も亭内で食べるのだが、今日ばかりは八意永琳に断りを入れ、ここに集った次第である。

 薪割りで身体を動かした五代は、美味い美味いと言いながら次から次へと口に運んでいる。良い食いっぷりとは他者の食欲を大変に掻き立てるもので、鈴仙と妹紅も互いの品を褒め合いながら、舌鼓を打っていた。

 場所も素晴らしい。青空とは料理の味を何倍にも高める天然の調味料。また昨夜は不気味な印象しか持てなかった竹林も、日が昇るとまた違う一面を披露している。青々と茂った竹に霧が薄く掛かった風景は、さながら名のある絵師が描いた一枚の絵画のよう。美味しい食事に晴れ渡った空、美しい景色。これ程の贅沢が他にあろうか。

 

 程良い満腹感は、和やかな会話を助けてくれる。器をすっかり空にした三人は、食後の茶をすすりすすり、手始めに妹紅が見た紫の花を話題に上せた。

 

「へぇ、2000の技ね。じゃああれは、雄介の石なごと鈴仙の弾幕の合体技みたいなものだったのね」

 

食後に五代の渡した名刺を眺めながら、妹紅が興味深げに言う。

 

「石なご……って、何よ?」

 

「お手玉の古い呼び方だね。平安時代の頃じゃなかったかな」

 

聞き慣れない単語に疑問を呈した鈴仙に、五代が答えた。ジャグリングを習得する傍らにその歴史、ひいては日本での変遷についても調べていたのだ。さらに遡ると、古くはかの聖人・聖徳太子も興じていたそうな。

 

「だけどびっくりしたなぁ。あんな光の玉、触れると思わないもん!」

 

「普通は弾に触ったら撃墜扱いだからね。鈴仙、どうやったの?」

 

「波長をちょちょいと弄ったのよ。触れるように、ついでに質量を持つように」

 

あの光弾は、『スペルカードルール』と言う幻想郷独自の決闘方式で使われる物。ここの事情に疎い五代に、鈴仙が説明した。

 美しさと思いの力に重点を置いた、人間が神々や妖怪と対等に競い合う為の取り決め。幻想郷だからこそ成立する、後腐れのない決闘(遊戯)。無論危険がないわけではないが、このルールのお陰で最後の垣根が取り払われたと言える。すなわち、人と人ならざる者の共存ではなく、共生である。

 それは、外の世界では成せなかった結果。人間は未確認生命体と相容れる事能わず、多くの命が失われた。五代も、彼が最も嫌う暴力でしか相対出来なかった。そう考えると、五代にはこの幻想郷がひどく眩しく、尊いものに思えた。八雲紫が己を招き入れた理由が、欠片ながら分かった気がする。

 なお五代は気付いていないが、すでに妖怪との共生の一端に触れていたりする。鈴仙は月の妖怪兎であり、そんな彼女と互いに技を以て接したのだから。

 

 そんな五代の、寂寥と憧憬がないまぜになった思考を中断させたのは、

 

「ねぇ、雄介」

 

妹紅の声と、目の前いっぱいに広がった彼の名刺だった。ごめんごめん、と謝ってからどうしたのか尋ねると、

 

「一番最初に覚えた技って何なの?」

 

2000の技を持つ男、を指差しながら聞かれた。

 一番最初の技。今も昔も、五代雄介を支える礎となった技。忘れようはずもない。

 

「これだよ」

 

そう簡潔に答え、にこりと笑い親指を立てて見せた。

 

「これ、って、笑う事?」

 

こくりと頷いて感慨深げにその手を包み、幼少の頃の思い出と再会の記憶を重ね合わせながら、その中で微笑む恩師の言葉を諳んじる。

 

──古代ローマで満足出来る、納得出来る仕事をした者にだけ許された仕草。これが相応しい男になれ。

 

──いつでも誰かの笑顔の為に頑張れるって、素敵な事だと思わないか。先生は……、先生は、そう思う。

 

この言葉がなければ、最初の技がなければ、己はクウガとして戦えなかっただろう。黒い身体に黒い瞳の異形、幾度となく幻視した凄まじき戦士と成り果てていただろう。そも、クウガとなる事さえなかったかも知れない。そんな、彼の人生に多大な影響を与えた金言なのである。

 

「何か納得しちゃった。雄介の笑顔って、安心するんだもん」

 

私にも出来るかな、と頬をぐにぐに引っ張る妹紅。鈴仙も、五代が妹紅に気を取られた隙に、こっそりと人差し指で頬肉を持ち上げた。

 

「出来るよ。だってさ──」

 

表情を気にする二人に言い聞かせるように、遠い恩師に届くように、ぐっと仰ぎ見て、

 

「──誰だって、この青空みたいな笑顔が好きなんだから」

 

五代の声は、混じり気のない澄み切った青の中へ溶け込んだ。いつまでも変わらずそこにある青に、妹紅と鈴仙も釣られるように目を引かれ、そしてただ見上げていた。

 

 それから少しの時が流れた頃。人里を訪れる薬売りと『迷いの竹林』の案内人に、幾ばくかの変化があったそうな。最初はどうにもぎこちなかったが、それも日を追うごとに人懐こさを感じる魅力に満ちていったと言う。人々が何かあったのかと尋ねるも、彼女らは照れ臭そうに、ある外来人の受け売りだと笑うのみだった。

 

 

 

 和やかな空気のまま朝食会はお開きとなり、鈴仙は八意永琳の手伝い、妹紅は自宅へと戻った。腰をぱきぱきと鳴らしながら立ち上がった五代は、生木の山を見やり、続いてまだ空きのある薪小屋に視線を移してから、薪割り斧を担いだ。美味しい朝食で英気を養った今なら、会心の薪割りが出来そうな気がする。新たな技の習得も近いかも、などと考えながら、目指せ薪割り職人とばかりに格好つけて生木を台に立てる。

 正面に立ち、斧を振り上げて目を閉じる。心静かに、穏やかに、凪を感じながら深呼吸。気分は剣豪である。そして目をかっと見開き、えいやの掛け声と共に振り下ろさんとした、まさにその瞬間。勝手口からの視線を感じ、腕をぴたりと止めた。首を回し、腕越しに勝手口へ目をやり、思わず斧を取り落とした。

 

「あら危ない。お怪我はないかしら?」

 

 早くも美人に慣れていた五代だが、そんな彼でも目を見張る程の美少女が立っていたのだ。暗い台所を背にしているのに──あるいはそれが彼女をより引き立てているのか、輝きを放っているかのような錯覚を覚えてしまう。烏の濡れ羽色の髪、気怠げに開かれた琥珀色の瞳、黄金律を思わせる整った顔立ち。総じて、例えようのない美貌。絶世の美女と言う言葉すらも陳腐。

 そして何より、この少女を見ていると、なぜだかやけに懐かしい、どこかで見たような記憶がふつふつと湧いてくる。ありきたりなナンパのセリフではなく、もっと古い記憶を、それこそ幼い頃の思い出を呼び覚まされるような、何とも懐かしい感覚。

 

「私にもやらせてくれない?」

 

腕を振り上げた姿勢のままで固まった五代に、少女は気軽に言いながら斧に手を伸ばした。言うまでもなく齢二十にも達していなさそうな少女が扱える代物ではなく、五代は止めようとした。が、どうした事だろう。少女は眉一つ動かさず、片手で斧を持ち上げてしまったではないか。

 

「これを割れば良いのよね? カンタン、カンタンっと!」

 

口を挟む暇もなく、斧は振り上げられ、生木に叩き付けられた。しかし割れず、

 

「……えっ?」

 

「加減、間違えちゃったかしら」

 

バラバラに砕け散った。割れたのでも、飛んで行ったのでもなく、粉砕されたのだ。馬鹿力などと言う次元の話ではない。最早常識の埒外である。いまさら常識を語るのも妙な話ではあるが。

 目の前の光景に色々と脳の処理限界を突破された五代は、少女から斧を返してもらい、台上の残骸を軽く払い落としてから新しい生木を据え、

 

「えっと、こんな感じでやってみよっか!」

 

すこんっと割って見せて手本を示すしかなかった。




食事だけで1000字近く使うとは思いませんでした。
石名取玉で遊ぶ太子様……。良いですね、とてもとても良い。


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第八話 かぐや姫

なるべくクウガ原作内の台詞は『発言』させないようにしとります。あの時、あの瞬間に言ったからこそ輝いている、今もみなさんの記憶に残っているんだと思いますゆえ。


 先の手本をなぞるように生木を割る少女。それらを薪小屋に運びながら、五代は内心で舌を巻いていた。自分なんかより、この少女はずっと飲み込みが早い。二度三度真似をしただけで、目に見えて薪の断面はきれいになった。一連の動作も流麗かつ優雅であり、とても薪割りをしているとは思えない。

 少女の身体能力もその一助になっているのだろう、と五代は考察する。片手で斧を振り下ろして生木を破砕した腕力はもちろんとして、それなり以上に回数をこなした今も、彼女は汗一つかいていない。そもそも着ている服が、和風のドレスとでも言おうか、きらびやかながらも動きにくそうな代物であり、こんな作業にはお世辞にも向かない。それでいて、この結果である。

 

「なかなか楽しいわね、これ。永琳にお願いして、今度から私がやらせてもらおうかしら」

 

「ん? じゃあ君は、ここに住んでるの?」

 

八意永琳との親しい関係を匂わせる言葉に五代が尋ねると、でないと台所の勝手口から出て来ないでしょう? と、ころころと笑った。そして斧を地に置き、

 

「私は"蓬莱山輝夜"。よろしくね、五代雄介さん」

 

雅やかな仕草で名乗った。指の先にまで至る優美さは、言葉を尽くしても尽くし足りないとさえ思わせる程。

 例によって名刺を手渡して名乗り返す五代、その頭は奇妙な符合を感じていた。竹林、その奥の屋敷、美貌、そして無意識の内に姫と付けそうになる名前(かぐや)──いや、そんなまさか。あれは童話、おとぎ話ではないか。物語の登場人物と出会うなど、例え摩訶不思議な幻想郷と言えど、出来ようはずがない。以前に五代自身、幻想郷を神話やおとぎ話の駆け込み寺と評したが、あくまでも例えである。どうにも引っ掛かるものを感じながらも、五代はそれらを頭の隅へと追いやった。

 

 薪割りは続く。八意永琳は良くしてくれているか、朝ご飯はどうだったか、と取り留めのない話を交えながら、輝夜が薪を割り、五代がそれを運び。気品の極みと言える外見とは裏腹に、輝夜は気さくな性格のようで、話が弾む。合間の生木が真っ二つになる快音すらも、二人の談笑への相槌のよう。

 その最中、ふと輝夜が斧を降ろした。さすがに疲れたか、ならば代わろうかと五代が近寄るが、彼女は相変わらず息一つ乱しておらず、ひと雫たりとも汗を流していない。単調な作業ゆえさすがに飽きが来たか、と考えるのも束の間、

 

「ありがとう、五代雄介さん」

 

輝夜は感謝の言葉を述べた。

 

「えっと、俺、何かしたっけ?」

 

「私に、普通の事をさせてくれました」

 

ぽつりと言った輝夜に、五代は戸惑うばかり。どうしてそれが彼女からの感謝に繋がるのか。それに、普通の事とは何だろうか。

 

「ずっと、飾り箱の中に押し込められてたようなものだったからね。気が遠くなるくらい永い時間を、ずぅっと」

 

気が遠くなるくらい永い時間。そう言う輝夜は、どこからどう見ても五代より若い。何かしらのずれ、違和感を覚えながらも、五代は耳を傾ける。

 

「貴方は多くのヒントを得ている。だけど貴方の中の常識が、それを否定してる。もう一つ、ヒントをあげましょう──」

 

己の内を見透かされてたじろぐ五代に、輝夜は囁いた。

 

「──蓬莱の玉の枝」

 

頭の隅にやった符合が、たちまちその言葉に引き寄せられた。竹林、屋敷、美貌、名前、そして蓬莱の玉の枝。これらが意味するものを、五代は他に知らない。童話だおとぎ話だと言う常識は、あっと言う間に崩れ去った。

 

「かぐや姫……?」

 

絞り出すようにその名を呼ぶと、輝夜はぺろりと唇を舐め、

 

「えぇ、多くの男たちを魅了した"なよ竹のかぐや姫"、それが私。こう見えて、貴方よりずっと年上なのよ?」

 

年相応に見える笑みを浮かべた。

 

 輝夜の話を聞くに、竹取物語は真実をぼかした、もしくは間違えた口伝で書かれた物のようだ。

 結論から言ってしまうと、満月の晩、かぐや姫は月に帰っていない。月よりの使者は来たものの、彼らを出し抜いて地球に残ったらしいのだ。事実は小説よりも奇なり、とでも言おうか。その事実がぶっ飛んでいるが。

 使者の一人たる八意永琳と共に隠遁生活を送っていたが、隠れ住むと言う性質上、双方合意の上での軟禁状態のようなもの。その後、とある事件──幻想郷では『異変』と言うらしい──をきっかけに外へ出るようになったが、永遠亭でのヒエラルキーは相変わらず最上段。ゆえに何か亭内の仕事をしたくともやらせてもらえず、どうにも悶々とする日々だったそうな。

 

「永琳も鈴仙も、それから"てゐ"も、姫様の手を煩わせる事じゃありませんので、の一点張り。ちょっとは手伝わせてくれてもいいじゃない、ねぇ?」

 

おそらくは住人であろう、どこか古風ながらも覚えやすい名前が出たが、そちらは一旦置いておこう。

 姫様と呼ばれるような人物など、世界広しと言えどそういるものではない。両手、否、下手すれば片手の指で足りるであろう。会話の機会なぞまずあり得ないが、イメージとしては絵に描いたような深窓の令嬢、または典型的なわがまま娘と言う者が多いのではないだろうか。

 翻ってこの輝夜は、そのどちらにも当てはまらない。五代はそんな印象を受けた。前者のような大人しさはなく、かと言って後者のような傍若無人ぶりも感じられない。口調はのんびりとした様子だが、本気で、心から、八意永琳たちを手伝いたいと思っているのが伝わるのだ。いくら身体能力が優れていると言っても、そうでなければ、単純作業の薪割りをここまで続けられないだろう。

 

「それで、お願い上手の五代雄介さんに、なよ竹のかぐや姫からお願いがあるの」

 

お願い上手と言われても五代は首をひねるしかないが、その後に続いた言葉に、半ば本能的に身構えた。

 かぐや姫からのお願い。そう言われて連想するのは、五人の求婚者に出された難題である。ある者は大怪我をし、またある者は大恥をかき、そして誰一人突破出来なかったとされる、札付きの無理難題。

 本人さえ気付かぬ内に、重心が後ろに傾き、一歩後退る。そんな五代の様子を見て、輝夜は破顔した。

 

「あはは、そんなに怯えなくても大丈夫よ! 一緒に永琳にお願いして欲しいだけだから」

 

「……お願い? あっ、もしかして」

 

「そう、まずは足掛かりを築かないとね」

 

輝夜が言うには、五代がこうして薪割りをしている事自体、永遠亭が開かれて以来の珍事らしい。

 八意永琳は、それが治療費の対価であっても、入院患者らに労働など絶対にやらせない。そもそも、治療費の支払いに期限がないのだからして、労働の意味がまるでないのだ。傷病者は身体を治す事に専念しろ、とはかの才女の談である。

 輝夜にしてみれば、八雲紫の式から聞いたわずかな情報しか知らない入院患者が、ぱっかんぱっかん薪割りに勤しんでいるのだから、さぞや驚いた事だろう。八意永琳をよく知るからこそ、稀代のお願い上手に見えたようだ。

 五代の協力を得られると踏んで意気込む輝夜。しかし当の五代は、

 

「俺も協力するけど、まずは輝夜ちゃんがしっかりお願いして、それでも駄目だったら、かな」

 

と条件付けた。まず二人がかりで頼んで首を縦に振らせられるか、と言う問題もある。だが、仮にそれで上手く行ったとしても、輝夜が本当に願ったものではなくなるだろう。今後の足掛かりにするとしても、五代雄介と言う大前提が常に付きまとうのだから。

 

「さっき会ったばっかりの俺だって、輝夜ちゃんが本気なのは分かったんだからさ。ずっと一緒に暮らしてる先生が知らないわけないよ」

 

だが、輝夜にとってはそう単純な話ではない。なにせ文字通りの意味で年季が違うのだ。断られた経験は数知れず。本気で頼んだところで、何が変わると言うのか。

 

「大丈夫!」

 

不意に、声が響いた。爽やかな笑顔で親指を立てた好青年が、じっと輝夜を見つめている。

 

「自分が思ってる事、考えてる事、全部先生にぶつけてみよう。そうしたら、きっと聞いてくれるよ!」

 

緻密な計画など露程も感じられない、まさしく感情論。それで全てが上手く行くのであれば、苦労する者などこの世からいなくなる。

 しかし、輝夜は戸惑っていた。この込み上げるものは何だろうか。五代の言葉を聞いた途端に、ふつふつと己の内の何かが沸き立つ感覚。不快感などでは断じてない。むしろ自分を後押ししてくれる、追い風のような何か。

 そして気付いた。これは、五代からの激励なのだと。事を成そうとする己への、彼からの応援なのだと。大丈夫。その言葉が、輝夜の心を奮い立たせたのだ。

 

「……分かった、やってみる」

 

輝夜の心から、仮定が消えた。必ず、八意永琳に己の心の中を伝え切る。そして、首を縦に振らせてみせる。気怠げに開かれていた目は、いつしかその心中を表すようにしっかりと見開かれていた。

 

「もし俺からも頼んで、それでも駄目だったとしても、諦めないで。輝夜ちゃんの本気は、しっかり先生に届いてるから」

 

「大丈夫よ、五代雄介さん……いえ、雄介さん──」

 

続いた五代の言葉を遮り、腰よりも長い髪を優雅にかき上げた。流れる黒髪は陽光を受けて玉虫色に光る。そして、

 

「──私はかぐや姫。お願いは、きっちり聞き入れさせるわ」

 

太陽の下、月光のように柔和な笑顔で、親指を立てて見せた。

 

 鏡合わせのように互いに親指を立てて微笑む二人。その光景も、輝夜がぷっと吹き出した事で崩れた。

 

「もう年なのかしらね。貴方が初めての殿方よ? 私のお願いに、二つ返事で頷かなかったのは」

 

意地悪そうな笑みを浮かべて詰め寄る輝夜に、五代は頬を掻きながら、

 

「それじゃ、輝夜ちゃんが納得しないと思ったから……」

 

と苦笑い。

 

「それもそうね。でも、伝説に傷が付いちゃった」

 

いよいよ笑みを強める輝夜。あぁ、これは何かせびられるのだろうか、とおとぎ話随一のおねだり姫を前におろおろする五代だったが、彼女はもう一度、立てた親指をぐいっと突き付け、

 

「詫び料代わりにこれ、もらっとくわね。これで貸し借りなしだから、私たちだけの秘密よ?」

 

内緒の契約を交わした。かぐや姫の新たな伝説を、青空だけに聞かせながら。

 

 

 

 それから小一時間程薪割りを続け、お天道様がそろそろ登り切るかと言う頃。現れた途端にあからさまにぎょっとした顔を見せた白兎に招かれ、とある一室に入った。中央の大きな卓には湯気を立ち昇らせる料理が並び、二人の腹の虫を誘惑する。時計を気にしていなかったが、どうやら昼時らしい。

 

「五代さん、お疲れ様でした」

 

その一角に着いた八意永琳が、顔を上げて労いの言葉を掛けた。彼女の前には数枚の紙が重なっており、文面には『五代雄介』、『戦士クウガ』と言った語句がちらほら見受けられ、五代についての考察をまとめた物であろうと窺える。

 

「あら、姫様も……って、何ですか、それ?」

 

五代の隣に立つ輝夜にも声掛けした八意永琳は、しかし彼女が小脇に抱えた物を見て、手にした筆を取り落とした。べちょり、と机上に黒い泉が広がる。

 

「見て見て、永琳! 私だって、これくらい出来るのよ!」

 

嬉しそうに輝夜が差し出したのは、真っ二つになった薪。最後に割った物であり、見事な断面を覗かせている。

 

「まぁ、上手に出来たのですね! ……って、そうではなく」

 

一度は褒めた八意永琳だが、気を取り直したように、なぜ貴女が薪割りなんかしているのか、と問い質した。姫様呼ばわりしている事から、やはり輝夜は永遠亭の最上位、やんごとない立場にあるのだと再認識した五代。しかし同時に、この才女の言いようにどこか違和感を覚える。わざとらしいと言うか、芝居がかっていると言うか。

 薪を抱え直した輝夜は、八意永琳の口上を黙って聞いていたが、一段落したと見るや、反撃に出た。

 

「私だってね、ただ貴女たちを見ているだけなのは嫌なの。手伝いたいのよ、ここの住人の一人としてね。そんな考えも押し込めるの?」

 

「姫様のやる事ではないと申しているんです。貴女はここの主なのですよ?」

 

「主も住人である事は変わらないわ、そうでしょう?」

 

譲らぬ構えで、八意永琳と相対する輝夜。瞳は一切揺らがず、ただ一点──八意永琳の目を見据えている。配膳していた鈴仙など、そのただならぬ空気に当てられ、手を止めてどちらともなく視線をふらふらさせている。

 約束通りに事の行く末を見守っていた五代の喉がごくりと鳴り、静寂の支配する食卓に響く。するとそれが合図だったかのように、八意永琳はひときわ大きなため息をついた。

 

「炊事に風呂炊き、それに医療器具の消毒……。薪を絶やすわけには行きません。それは分かりますね?」

 

「当たり前じゃない。貴女たちの仕事を何年見て来たと思ってるのよ」

 

「やるからには、投げ出してもらっては困ります。それも分かりますね?」

 

「くどいわ。そんな半端な気持ちじゃ……、え?」

 

言葉を止め、輝夜は目を見開いた。対する八意永琳は、肩を竦めてもう一度ため息をつき、

 

「細かい部分は、優曇華やてゐとすり合わせて下さい。……負けましたよ、姫様」

 

降参するように両手を挙げ、笑った。

 

「ほ、本当に……? やった、永琳ありがとう!」

 

薪をその場に落っことし、念願のおもちゃを買い与えられた子供のような満面の笑みで、輝夜は八意永琳に抱き付いた。受け止めた彼女は眉尻を下げながらも笑みを崩さず、

 

「優曇華、配膳の続きをお願い。薪割りの件もそのつもりでね。それと姫様、これから食事ですので、まずはその薪を戻しましょう」

 

と、てきぱきと指示を出していた。

 

 鈴仙があたふたと台所に戻り、輝夜は薪を抱えて退出。部屋からの出がけに親指を立てて見せた輝夜を見送る五代に、八意永琳はすっと近寄り、

 

「伝説、塗り替えちゃいましたね」

 

と耳打ちした。伝説とはもしや。慌てる五代に、八意永琳はくすくすと笑って見せた。

 

「大丈夫ですよ、あれはお二人だけの秘密なんですから。そうでしょう?」

 

どうやら他言する気はないらしい。内心で胸を撫で下ろした五代は、輝夜に薪割りさせた件を怒っているか、と恐る恐る尋ねたが、丁度良いきっかけでしたよ、と返された。

 

「姫様がやきもきしていたのは、私も気付いていましたからね。むしろ感謝してるんですよ?」

 

それよりも、と豊満な胸を張る八意永琳。

 

「私の演技力、なかなかのものだったでしょう? あっさり認めてしまったら、姫様も察してしまうでしょうしね、ふふふっ」

 

彼女の得意げな顔を眺めながら、あぁ、この何でも卒なくこなしてしまいそうな才女であっても、苦手な事はあるんだなぁ、などと考え、それをおくびにも出せない五代であった。




互いに干渉させ過ぎないように、互いに空気にならないように。
クロスオーバーって本当に難しい(2敗)。


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第九話 碑文の先

書いてる内に、調べて初めて知る事ってありますよね。レントゲン写真貼る、光るアレとか。


 駆け足で戻って来た輝夜、準備を終えた鈴仙、そして初の顔合わせとなる少女を交えての昼食を終えて、各自が己の仕事を全うしようと席を立った。輝夜はもう少し薪割りを続けるらしく、ではそれに付き合おうと五代が腰を浮かせると、

 

「五代雄介さん……、あぁもう、五代さんって呼んじゃいましょうか。診察室へご足労願えますか?」

 

紙束を抱える八意永琳に肩を叩かれた。昨夜言っていた考察とやらがまとまったようだ。

 

「時間は取らせませんよ。少しお話しするだけですから」

 

自分を見やる視線に気付いたようで、輝夜も、一人でも大丈夫だから行ってらっしゃいな、と五代を促した。五代としても、八意永琳の見解は気になる。ならばお言葉に甘えさせてもらおうと、彼女の後に付き従った。

 後に、調子に乗って薪小屋に入り切らない量を割ってしまった輝夜に泣き付かれるのだが、それは今語る事ではないだろう。薪割りと薪運びを分担した弊害と言える、かも知れない。

 

 

 

 診察室に入ってまず五代の目に付いたのは、外の世界の病院でよく見掛ける、レントゲン写真を貼る台だった。たっぷり体験した検査機器同様、いかにも近未来的な意匠が施されており、見知った物でも男心をくすぐられる。

 童心に返ったように目を輝かせる彼を微笑ましく見守る八意永琳であったが、そろそろ始めましょうか、と座布団に座らせた。

 

「まず五代さん本人についてですが、健康と言って良いでしょう。怪我もすっかり治っていますし、他の傷病も見当たりません」

 

肉体面には問題なし、と五代に笑い掛ける八意永琳。医師のお墨付きとあって、彼の顔に心底からの安堵の色が出た。しかし、

 

「体力面も、薪割りを買って出て下さった上に姫様に指導出来る程ですし、問題ありませんね」

 

次の一言で表情が固まった。どこか含みのあるような言い草に、芋づる式に輝夜との秘密まで連想してしまったのだ。とことん嘘のつけない、ポーカーフェイスの苦手な男である。

 

「では次に、貴方も気になっているお腹の中について。だけどその前に、まずはこれを見てもらいましょうか」

 

 ひとしきりほくそ笑んでから先程よりも改まった口調になった八意永琳が、紙束から硬質の用紙らしき物を二枚抜き出し、件の台に貼った。一枚は五代も見覚えのある、関東医大病院で撮られたレントゲン写真。そしてもう一枚は、関東医大病院のそれとは違い、くっきりと鮮明に、しかも全身が写し出されている物。これが幻想となった未来技術の力か、と驚くのも束の間。腹の辺りに注目し、五代は息を呑んだ。

 はっきりと写っているからこそ、分かる。五代の中にあるベルトは、昨夜顕現した姿そのままにボロボロだった。

 

「もう少し取り乱すかと思いましたけど、落ち着いてますね」

 

「えぇ、まぁ。昨日実際に見ましたから」

 

「それはまた、随分な無茶を……」

 

八意永琳によると、ベルトの破損は外観通り相当なものらしい。無理にベルト内部の石の力を引き出そうとすると、全身に行き渡った神経状組織を通じて、五代の身体に凄まじい過負荷が掛かる、との見立てだそうだ。事実、昨晩変身しようとした際に、五代であっても膝を折りかねない激痛に襲われたのだから、この見立ては正しいと言えよう。

 

「少しずつですが、ベルトの自己修復作用が観測出来ました。ですけど完了するまでは、絶対に戦士クウガに……えぇっと……」

 

そこで八意永琳が言い淀んだ。決して悪い事柄を言おうとしてのものではなく、何か適切な表現が思い浮かばなかったからだろう。そんな彼女を眺めながら、初めて白いクウガになった時は、

 

──変わった!?

 

と自分の変化に驚いたなぁ、と思い出を漁っていた五代は、

 

「変身ですか? 俺はいつも変身って言ってクウガになってますよ」

 

と身振りを交えて助け舟を出した。顎に手をやり、しばし変身、変身と繰り返した八意永琳。そして一つ頷いて、

 

「うん、変身。戦士クウガに変身しないで下さいね」

 

彼の動作を真似しながらこう繋いだ。余程しっくりと来たのか、変身、うん、変身ね、とやけに嬉しそうだ。あまりにも頭脳明晰であるがゆえに、少しばかり感性が独特なのかも知れない。

 

「……それじゃ今、コイツは一生懸命頑張ってくれてるんですね。俺が呼んだ時は、もっと頑張ってくれたんですね」

 

下腹部の、丁度石が埋まっている辺りをゆっくりと撫でながら、五代は感慨深げにありがとうと呟いた。

 

「頑張っている、ですか。確かに、そう言えるかも知れませんね」

 

どれだけ優れた機器を用いても、彼女の優れた頭脳を以ってしても、石に自我、あるいはそれに類するものがあるかまでは分からない。だが、幻想郷に生きる者として五代の言い分に、共に戦った半身とも言えるそれを労う姿勢に思うところがあったのだろう。八意永琳は同意と共に、頬を緩ませた。

 

 五代の体調、ベルト及び石の状況から、考察は最後の項に移る。彼の今後である。

 

「沢渡桜子女史の資料と、今の五代さん、それに八雲紫の式から伝え聞いたお話から、私の見解を述べます」

 

背筋をすっと伸ばした八意永琳。誘われるように五代の背筋もピンと張り詰める。診察室にはしばしの沈黙が訪れ、風に揺れる竹葉の葉音だけが、さらさらと流れた。

 八意永琳が動いた。上品な所作で座卓に向き直り、引き出しを開けると、その奥に資料をしまい込んでしまったのだ。まるで、今後見る必要はないと言わんばかりに。

 

「えっ、しまっちゃって良いんですか?」

 

これから大事な話だと言うのに予想外の動きを見せた彼女に、五代が堪らず尋ねたが、当の本人はきょとんとして、

 

「だって、この先は五代さんが紡ぐんですから」

 

あっけらかんと言ってのけた。

 

 八意永琳が言うには、五代は碑文の内容を完全に逸脱しているらしい。凄まじき戦士へ至る鍵である聖なる泉とは、すなわち石が求める清らかな心。碑文に記された通りであれば、戦士クウガは清らかな心を失い、破壊衝動の権化となって世界に死をもたらす存在となっているはず。しかし今の彼は、それが涸れ果てたようには見えない。妹紅を慰めたところで、彼女はすでに確信していたのだ。

 

「貴方の笑顔は、古代の人々さえも予想出来ない力で、他ならぬ貴方自身を守っていたんです。以上から、私の結論は──」

 

みんなの笑顔を守る為に心を闇に染め、真の異形と成り果てる事を覚悟して。異形の力を以って異形を討ち果たし、かけがえのない友人に己を討たせ幕引きとする事を覚悟して。最期の地へ赴く前に言葉を交わした人々、戦いの最中に出会った人々と共に、様々な記憶が頭を過る。そんな五代の手をそっと包んだ八意永琳は、

 

「──もう何も恐れる必要はありません。貴方のこれからの旅路が、幸溢れ笑顔に満ちたものになる事を、心よりお祈り申し上げます」

 

慈母のごとき笑みを浮かべ、囁きかけた。

 

「そっか……。そっかぁ……」

 

言葉もなく、ゆっくりと大の字に倒れる五代。染み一つない天井を見上げる双眸から、一筋の涙が零れ落ち、畳に染みを一つ作った。それは、笑顔と仮面で隠し続けた、誰にも悟らせまいと心の奥底にしまっていた悲しみの奔流。全てを終え、守り抜いた彼の涙を、誰が責められようか。遠く、誰も己を知らぬ地でようやく悲哀を洗い流す姿を、誰が責められようか。

 八意永琳は、小さく嗚咽する五代を、優しい眼差しで見守るのみであった。

 

* * *

 

 ひとしきり涙を流した五代は、おもむろに起き上がって目をごしごしとこすり、八意永琳から顔を背けて洗面所の場所を尋ねた。照れてるのかしら、などと無粋な事は言わずに素直に場所を教えると、彼は考察への心よりの感謝と、輝夜の様子を見に行く旨を言い残し、そそくさと診察室から退出した。

 これももう必要ないわね、とひとりごちてレントゲン写真その他、五代に関する資料を引き出しに収める。するとその背中に、

 

「感謝致します、八意永琳」

 

虚空からの声掛け。五代が出て行き、八意永琳の他に誰もいないはずの診察室。しかし彼女はいささかの動揺も見せず、

 

「貴女から感謝されるとは思わなかったわ、八雲紫」

 

振り返った。果たしてそこにいたのは、八意永琳が名を呼んだその人、八雲紫であった。スキマから上半身のみを覗かせ、縁に器用に肘を立てている。傍から見れば物憂げな貴婦人のようだ。

 

「私だってお礼くらい言えますのよ?」

 

八雲紫が不満げに口を尖らせるが、意に介す様子もなく足を崩した。先程までの柔らかく、そしてどこか凛とした雰囲気は鳴りを潜め、溢れんばかりの気怠さを隠そうともしていない。

 

「そうじゃないわ、言っても分からないと思うけど」

 

「小馬鹿にされた気がしますが、気分が良いので追求はしませんわ」

 

対する八雲紫はころころと表情を変え、結局は上機嫌なのが誰の目にも明らかな笑顔に収まった。

 

「貴女の目に、彼はどう映りましたの?」

 

襖を眺めながら、五代を追うように遠い目をしながら、八雲紫が問う。

 

「どうって……。医者としての見解は先の通り」

 

頬杖をついて、五代の残した染みを眺めながら八意永琳が答える。

 

「私個人としては、彼が貴女の結界に引き寄せられてなかったのが不思議、ってとこかしら」

 

「消え行く幻想のよう、と?」

 

「あんなに誠実で真っ直ぐな人間、とっくに絶滅したと思ってたもの」

 

「あら、それは違いましてよ。だって五代雄介さんを支えていた外の方々は、みんな温かくて、強くて、優しい人ばかりでしたもの」

 

気品を感じさせる笑みで己の言に異を唱えられ、その真意を察したのだろう。八意永琳はふっと笑った。

 

「夜にまた来なさい。酒とおつまみを用意して待っておくわ」

 

「まぁ、弟子ではなく貴女が準備するの?」

 

「あの子を交えるわけでもないのに、準備させるなんて悪いでしょう? 師匠ってのは難儀なものでね、まず己が知ってから、弟子に伝えたくなる性分なのよ」

 

「ふふ、実に貴女らしいことで。ならば私も、秘蔵の酒と肴を用意して参りましょう。月の酒よりももっと美味しいとびきりの銘酒と、お酒が進む取っておきの肴を、ね」

 

 その日の晩。八雲紫は、客として改めて永遠亭を訪ね、夜が明けるまで八意永琳の自室で過ごした。妖怪の賢者と月の頭脳。因縁浅からぬ両者の対峙に鈴仙は思い煩い、こっそりと部屋の様子を窺う。

 だが、そこで彼女が見たのは、酒を酌み交わす二人の美女。穏やかな笑顔で、八雲紫の話に己の師が聞き入る。これまでに一度たりとも見た事のない、和やかな酒宴。

 これ以上の詮索は野暮か。そう考え至った鈴仙は、音もなく部屋の前を離れ、どこか温かい気持ちのままに床に就くのだった。




心配の種は(作者の妄想及びご都合主義で)取り除いて行くスタイル。


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第十話 兎の恩返し

五代君の絵心ってどんなものなんでしょうね。


 冷水で顔を洗い、姿見で目元を確認した五代。洗っては覗き込み、また洗っては覗き込み。それを何度か繰り返し、ようやく満足してから勝手口から出てみると、

 

「雄介さん、どうしよう……」

 

斧を片手に途方に暮れる輝夜がいた。彼女の周囲には割れた薪があちこちに転がっており、何よりも雄弁に状況を伝えている。ちらと見た薪小屋は、薪が隙間なくぎっしり。夢中になって薪割りを続け、はたと思い出して小屋へ運んだものの手遅れだった、と言ったところか。要は、割り過ぎたのだ。

 

「こっちから先に使うってのは……、やっぱり無理よねぇ」

 

転がっている薪を指差す輝夜に、五代は眉を八の字にして頭を振った。割ったばかりの生木は水分が多く、十分に乾燥させなければ燃料としての用を成さない。割りました、はい燃やしましょうとは行かず、その為の薪小屋なのである。

 

「あら、お二人ともどうしたんですか?」

 

 どうにも上手い処理法が思い付かず立ち尽くす二人に、声が掛けられた。純白のシーツの山を抱えた鈴仙である。干していたそれらを取り込んだ帰りのようだ。太陽の光を存分に浴びたシーツは、さぞ暖かく、良い触り心地であろう。その中に顔を埋めてみたいものだ。

 それはともかくとして、まずは目の前の問題を片付けねばなるまい。幸い、鈴仙は八意永琳から炊事その他を任せられている。相談する相手としては適役だ。

 

「ひぃふぅみぃ……、なるほどね。五代さん、悪いけど転がってる薪を全部集めておいてもらえない? これ片付けてから、また来るから」

 

事情を説明すると、鈴仙は薪を数えてから少し考え、五代に指示を出して亭内へ駆け戻った。特に悩む素振りを見せなかった事から、恐らく確かな対処法に見当が付いたのだろう。であるならば、彼女の言う通りに行動するのが最善。五代は一も二もなく薪を拾い始めた。そして、任されたからにはと責任感が湧いたのか、輝夜も五代に倣って薪に手を伸ばした。

 

 集めた薪がそれなりの高さまで積み上げられた頃、鈴仙が戻って来た。だが何かしらの対処を講じようとしている割りに、その手には何も持っていない。

 

「鈴仙さん、こんな感じで良い?」

 

そう聞く五代に向けて大きく頷き、危ないから少し下がって、と言った鈴仙は、特に何かするわけでもなく、ただじっと薪の山を見つめた。下がってくれと言われた手前、見守る事しか出来ない五代だが、隣に立つ輝夜は、あぁ、そういう事かと納得顔。

 そうして鈴仙が視線を送り始めてから待つ事しばし。薪に変化が表れた。表面から霧状の何かが吹き出したのだ。一体何事だ、と五代が思う間に、霧は濃さを増し、そして周囲の空気に溶け込んで行く。

 

「超音波を発して、内部の水分を飛ばしてるのよ。あの子は、そう言う能力を持ってるからね」

 

目を丸くする五代に、輝夜から説明が入った。そう言えば、今朝に鈴仙自身が、波長を操ってどうのこうのと言っていた事を思い出す。さらに、妹紅は種も仕掛けもなく空を飛び、輝夜は人間離れした身体能力を有する。ここでは、そう言う能力のようなものが一般的なんだな、と二日目にして理解する五代。良い具合に感覚が麻痺した、とも言う。美醜の感覚が麻痺し、摩訶不思議な現象に麻痺し、次は一体何が麻痺するのだろうか。

 

「これで良し、と。それじゃ、ぱぱっと運んじゃいましょう。五代さんはこれを、あっちの焚口に。姫様はこっちを台所の竈に。私は残ったのを処置室に持って行きます」

 

「分かったわ。ありがとう、鈴仙」

 

 気付くと、薪はすっかり仕上がっていたようだ。鈴仙が山を小分けにしつつ、各自に運び先を指定する。輝夜にも当たり前のように指示を飛ばしている辺り、薪割りに関しては今後も任せよう、と指導しているのだろう。それが分かるからこそ、輝夜も元気に返事をして、薪を抱えたのだった。

 

 壁沿いに歩き、角を曲がってまた少し進んだ所で、件の焚口が見付かった。壁の足元にぽっかりと開いており、その直上、丁度五代の目線の高さには木の格子が嵌め込まれた窓。言わずもがな、古き良き日本の風呂である。外の世界でも殊更に珍しい様式に、またも五代の心は高鳴った。

 

「まぁ、外じゃあボタン一つでピンポンパンだしね。夜になったらゆっくり楽しむと良いわ」

 

「ああ言う機械がいっぱいあるんだから、お風呂も外と同じか、もっと凄いのかと思ってたよ」

 

いつの間にやら背後に立っていた鈴仙。彼女の勧めに率直な感想を伝えると、意外にもこの様式は、八意永琳の趣味だと返って来た。近辺の文化に合わせるのも目的ではあるが、それ以上にかの才女は、アナログな方式を好む面もあるのだとか。

 

「一苦労するお風呂程気持ちの良い物はない、って仰ってたわね。私たちが入る時は、師匠が火の番をして下さるし」

 

この、やけに低い場所にある焚口。ここに向かって竹筒なり何なりで空気を送り、窓越しに湯加減を尋ねる八意永琳を幻視し、何とも言えぬ和やかさを感じる五代だった。

 

 

 

 薪割りも終わり、他に何かやれる事はないか、と鈴仙に相談してみたが、特にないと言う。そも昼食が終わった今は午後の診療の時間であり、今しがた五代と輝夜の相談に乗れたのもたまたま時間が空いていたからだそうな。

 こうして引き止めている間に患者が来ては事だ。五代は仕事の邪魔をした事を侘び、風呂場裏から離れた。諸々の事情から長居するのは懸命ではない場所である事も確かである。

 

 縁日を回る浴衣客のように、袖に手を突っ込んで庭先に出てみる。陽光の下では宵闇とはまた違う趣があり、思わずため息をついてしまう程の景観であった。

 池に鯉でもいないかと歩を進めようとして、ふと思い至る。やや大振りな袖をあさり、取り出したるは手帳と色鉛筆セット。

 八雲紫は、日記なり絵を描くなりお好きにどうぞ、と言っていた。ならばせっかくだ。この立派な邸宅を、このページに収めてみようか。

 庭の隅の手頃な岩に腰掛け、永遠亭全体を眺める。あの美しい門や壁も描きたかったが、そうすると屋敷の大半が隠れてしまう。もちろん、この庭も。ゆえに涙を呑んで、と言っては大袈裟だが、内側のみを描くに留まった。それに時間があるのなら、次のページに門を描いても良いかも知れない。

 絵描きがやるように、片目を瞑って鉛筆越しに永遠亭を見つめ、描く。少し描いては鉛筆を立て、また描く。時折消しゴムをこすりつけ、鼻歌を風に乗せ、手帳片手に大きく背伸びして。

 しばらく筆を走らせた五代は、描き上げたものを見直して大きく頷いた。まだ下描きでしかないが、旅の片手間に描く絵としては十分過ぎる程の出来栄え。後は着色するのみである。

 と、ここで五代は空を見上げ、続いて門を見やった。日は多少傾いているが、まだまだ明るい。日没までには幾分か余裕がありそうだ。しかし微妙な頃合いでもある。このまま下描きに色を塗っていたら、その間に日が暮れてしまうだろう。門を描く時間は作れない。

 

「……よしっ」

 

 下描きのついでに色を頭に入れて、仕上げは後にしよう。記憶を探りながら夜を楽しむのも悪くない。

 そうと決めたら五代の行動は速い。手帳と色鉛筆セットを袖にしまい、岩から飛び降りて門前に駆け寄った。

 

 到着した五代がまず目を付けたのは、永遠亭をぐるりと囲む白壁。いざこうして目の当たりにすると、壁が声を発しているような気がする。ここを登ってくれと。だが、土足でこのぴかぴかに手入れされた白壁に足を掛けるのは気が咎める。ここは城南大学ではないのだ。

 門戸はぴたりと閉じているが、昨晩に鈴仙が苦もなく開けていたのを思い出した。となれば、出入りするならやはりここからだろう。閂も見当たらないので、開ける分には不自由なさそうだ。未知の近未来的な鍵が掛かっている可能性はあるが。

 別段悪い事をしているわけでもないのに、こそこそと辺りを見回してから門に手を掛ける五代。気分はちょっとした探検隊である。そしてそっと力を込めると、何ら抵抗なく門は開き、

 

「妖怪よけの護符もないのに、一人でどこに行こうってんだい?」

 

突然掛けられた声に、肩が大きく跳ねた。慌てふためいて周囲に目をやるが、人影らしきものは見えない。

 

「上だよ、上。待ってなよ、すぐ降りるからさ」

 

言われたままに上──門の屋根を見上げると、昼食時に見た少女が胡座をかいている。そんな所に座ってたら危ない、と注意しようとしたが、それよりも先に少女は勢い良く跳び、五代の目の前にひらりと着地した。大人でも少しは躊躇するであろう高さから、である。

 

「さて、まずお互いの名前を知るところから始めようか。って言っても、あんたの名前は知ってるんだけどね、五代雄介さん」

 

名前を呼ばれた事にはもう驚かない。それよりも五代は、少女への違和感で心を埋め尽くされていた。

 外見は小学生くらいの女の子と言っても良い。背丈の低い身体に桃色のワンピースをまとい、首には人参を象った可愛らしいネックレス。肩程の黒髪に真っ白な兎耳が良く映え、裸足のままなのも、田舎のわんぱくな女の子と聞かされれば納得が行く。

 だが。五代にはこの少女が、見た目相応の年齢には見えなかった。口調だけなら少しばかりおませな女の子と言えようが、やけに堂々とした態度、兎のような真紅の瞳の油断ならない輝き。無垢ではなく老獪と言う表現がしっくり来る。

 

「あー、そんなに緊張しなさんな。取って食おうってわけじゃないんだからさ。あたしゃ"因幡てゐ"、よろしく」

 

そんな五代の思考を察したのか、てゐは己の名を名乗りながら、彼に右手を差し出した。先程までの雰囲気は、嘘のように鳴りを潜めている。気を抜いたわけではないが、五代雄介、差し出された右手を無視出来るような男ではない。小さな手をしっかりと握り返し、名刺を渡した。

 

「今朝はありがとうね、あの子たちから話は聞いたよ」

 

はて、と五代は首を傾げた。礼を言われるような事をしただろうか。あの子たちとは、どの子たちだろうか。起床してから昼までの行動を、てゐを眺めながら思い返し、その頭の兎耳に視線を定めて、そこで思い出した。

 

「あの子たちって、あの白い兎?」

 

「そう、大当たり。あたしの直属の部下で、鈴仙があたしの上司、ってとこかね」

 

聞けば、あの兎たちは五代のジャグリングをたいそう気に入り、嬉々としててゐに話したらしい。建物の立地上、外部からの刺激が少ない永遠亭において外の娯楽は珍しく、兎たちを楽しませてくれた礼ついでに挨拶でも、と声を掛けたそうな。

 

「それにしても、何だって外に出ようとしたのさ? 竹林の雑魚妖怪共も、返り討ちにされるのを理解してるから中には入って来ないけど、一歩でも門を越えたら襲われるよ?」

 

怪物映画などではありきたりな、両手を掲げる化物の仕草をしながら問うてゐに、五代は正直に事情を話した。日が暮れる前に門の絵を描きたかった、と。すると彼女は、露骨な呆れ顔を示した。

 

「……外の人間は呑気なのが多いけど、あんたもなかなか大したタマだねぇ……」

 

尤もな指摘に、さしもの五代も乾いた笑いを浮かべるしかなかった。

 

「まぁ丁度良いや。あの子たちのお礼、ここでしようか」

 

 そう言ったてゐの右手が、ぼんやりと輝きを放った。淡く、暖かそうな光。手をかざすだけで心まで温もれそうな、優しい光。

 

「あたしゃ人間を幸福にする力を持っててね」

 

てゐの手から光が離れ、ふわふわと不規則に上下しながら五代へと飛び、その胸に吸い込まれた。胸に宿った暖かさが五体へと行き渡ったような感覚を覚え、思わず、おぉ、と感嘆の声が漏れる。

 

「その力が続く限り、雑魚妖怪に出会す事はないよ。ま、どれくらい続くかは分かんないから、やりたい事があるなら早めに済ますこったね」

 

五代が己の手足を矯めつ眇めつしている間に、てゐは踵を返し、永遠亭へ戻ろうとしていた。

 

「素敵なお礼をありがとう!」

 

その背中に感謝の声を投げ掛けると、てゐは片手をひらひら見せながら、これで貸し借りなしだよ、と嘯いた。

 

 てゐが去った後、五代は半開きの門から滑るように外へ抜け出し、小道の脇に鎮座する岩に座り込んで筆を取った。力を行使した本人でさえ効果時間が分からないのならば、急ぐに越した事はない。

 それでも、頭に叩き込むように門と壁を凝視し、さらさらと下描きを仕上げていく。その姿はまるで一端の画家のようで、五代の真剣さを言外に物語っていた。

 夕暮れ時、方々で烏がかぁかぁと合唱会を始めた頃、五代は手帳をぱたんと閉じ、足早に門の内へと戻った。妖怪が怖いわけでも、てゐの力が切れるのが怖いのでもない。記憶を褪せさせないように、と言う別種の焦りから来ているのだろう。それが証拠に、夕日に照らされた彼の顔は、実に満ち足りたものだった。

 

* * *

 

「意外だったよ」

 

 五代と別れたてゐは、玄関先に立つ妹紅に呼び止められていた。絵描きに集中していた五代は気付かなかったが、その間に人里からやって来た患者を案内していたのだ。今は、診療が終わるまで待機中である。

 

「意外って、何がよ」

 

「あんたの事だから、てっきり雄介にちょっかい掛けるかと思ってた」

 

「……まぁ、あいつがそこらの外来人だったら、罠にご招待もしたさ」

 

「ふぅん、随分と買ってるじゃない。私もだけどね」

 

そう言ってけらけらと笑う妹紅。対峙するてゐも釣られたように、しかしどこか真剣な目付きで笑った。

 

「あたしにとってはね、あいつは特別なんだよ。そりゃうちの子たちを楽しませてくれたし、何か悪戯するのに気が引けちまうくらい眩しいやつってのもあるけど」

 

「へぇ、悪戯兎の特別ねぇ。なに、惚れたの?」

 

あらあらまあまあ、と口元を抑えながらにやつく妹紅の頭を、下世話なのよと一発はたき、てゐは呟いた。

 

「あいつは、葦原中国(あしはらのなかつくに)を命懸けで守り抜いたんだ。そんな人間を貶めたら、大国主様に合わす顔がなくなっちまうよ」




五代とてゐをどう絡ませるか。博麗神社の参拝客を増やす方法より悩んだのではないかと思います。
暖かくなったり寒くなったり、体調を崩しやすい季節です。みなさま、お気を付け下さいませ(一敗)。


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第十一話 旅立ち

BD/DVD版は湯気が晴れます。特に意味はありませんが。
EPISODE20と言いハイパーバトルビデオと言い、五代君は昭和なネタが似合うイメージ。昭和生まれですもんね。


 当たり前の話ではあるが、夕食も昼食と同じ部屋。しかし昼とは違い、五代は永遠亭に住む全員と何かしらの交流を持っている。ゆえに、より賑やかな団欒となった。

 輝夜が嫌いな食べ物をこっそり五代の皿に移すと、八意永琳が目ざとく見付けて窘める。そんな二人を宥めながら、彼は輝夜から分けられたおかずを口に放り込み、その隣に座るてゐは、得意げな顔で同じ品をむしゃむしゃ。鈴仙に至ってはいつもの事だと涼しげな顔で、これも美味しいよ、と五代に大皿の料理を取り分ける。

 この場にいる者は、誰一人として血の繋がりはない。思い思いの場所に寄り集まって、鈴仙の作ったご飯を食べている兎たちも──つがいはいるかも知れないが──そうだ。身も蓋もない言い方をしてしまうと、赤の他人同士の集まりである。

 だが、温かい。互いを大切に思う心が、信頼する心が、ひしひしと伝わる。血の繋がらない誰か一人が欠けても、全員が悩み、苦しむだろう。みな一様に涙を流すだろう。それは、家族と言って差し支えないのではないだろうか。

 そして、その中に迎え入れられた五代は、何とも言えぬ面映さと喜びを感じていた。自分が守りたくて、守り抜いたものに囲まれる。己は、あの日の誓いを果たせたのだ。これほどの幸せがあろうか。

 騒がしくも笑顔に溢れた食卓。遠い記憶を想起しながらも、幸せと共に鈴仙が取ってくれた料理をゆっくりと噛み締める五代だった。

 

 食後の茶飲み話のついでに、本日の入浴順が決まった。鈴仙の進言により、一番風呂は薪焚きの風呂を楽しみにしていた五代。そして湯を沸かすのは、何と本人の申し出で八意永琳となった。確かに、鈴仙たちが湯に浸かる時には彼女が火の番をする、とは聞いていたが、己の時にもそうならば話は別である。昨日から世話になり通しなのもあり、その申し訳なさから、自分で沸かしてから入ると伝えたが、

 

「それで火傷するくらい熱くなっちゃったらどうするんです? 大丈夫、このお風呂の事は私が一番知ってますから」

 

得意顔で胸を叩く八意永琳に言いくるめられる結果に終わった。

 

 

 

 昨日とは別の脱衣所で着物を脱ぎ、手ぬぐい片手に浴室へと入ると、五右衛門風呂と洗い場のみのごくシンプルな内装に迎えられた。室内は湯気に程良く満たされており、天井から吊るされた白熱電球の懐かしい光を、ぼんやりと隅々まで広げている。様式そのものは古いが、湯気越しでもやはり、しっかりと手入れされているのが分かる。女性ばかりの所帯だけあって、みんなきれいな風呂が大好きらしい。

 手桶で湯を汲んでいそいそと身体の埃を流し、待望の風呂釜に入ると、縁から湯が勢い良く溢れ、洗い場の床を叩いた。

 

「後から注ぎ足しますから、お気になさらず」

 

例の格子窓から八意永琳の声が聞こえたが、そう言われてもやはり気にはなる。一度流れ出た湯は仕方ないとして、ならばせめてこれ以上無駄にならぬようにと、五代はゆっくり風呂釜に背中を預け、なるべく動かないよう努めた。

 

「お湯加減はいかがですか?」

 

「丁度良いですよ、すっごく気持ち良い!」

 

 八意永琳に応えた五代の顔は、それはもう心地良さそうに、往年の定番曲を歌い出しそうに緩んでいた。湯加減、湯気に霞んで見える風呂場の内装、そしてほのかな木の香り。全てが極上である。さすがはかの才女がこだわった空間、と言おうか。妥協と言う妥協がまるで見当たらない。あら捜しをするつもりも毛頭ないが。

 

 そっと掬った湯で顔を洗い、ふぅ、と一息ついた五代。薪が爆ぜる音を聞きながら、さてこれからどうしたものか、と思案する。

 あまり長居するのは八意永琳たちに申し訳ない。ここは病院であり、己のように医者のお墨付きを頂いた者は本来無縁の場所。そもそも入院、否、間借りしている部屋は患者用の物だ。急な入院患者が来た場合は多大な迷惑となろう。可能であれば、明日にも発つべきか。

 しかし障害となるのは、先立つ物、すなわち金子である。食事や宿泊先を確保する為には、旅以前に生きていく為には絶対に必要となる。だが財布の中身を何度思い浮かべても、たった民宿一泊分のお金すら入っていた記憶はない。

 だが、それがどうした、と五代は頭を振った。お金がないのならば、働けば良い。人間が住む場所ならば、必ず仕事がある。欲を言えば住み込みが望ましいが、汗水垂らして働けば、朝昼晩と食べるだけの資金は稼げるはず。今までもそうして来たではないか。悩む必要などない。

 

「あの──」

 

「──出立は明日、ですか?」

 

 どこか人間が多く住む所はないか、と尋ねようとした矢先に、八意永琳の声。頭の中を見透かされたとしか思えない発言に五代は驚き、またも湯船の湯を散らした。

 

「お、俺、喋ってましたか!?」

 

一旦深呼吸してから問い返すと、彼女はくすくすと笑って否定した。

 

「それなりに長い時間、色んな患者さんを見て来ましたからね。たった一息からでも、様々な感情や思惑が読み取れるものですよ?」

 

聞かれていたか、と妙な気恥ずかしさに襲われ、鼻先まで湯に浸かってぶくぶくと泡を作る五代。そんな彼に八意永琳は、お風呂から上がったら少し話しましょう、先に戻ってますね、と言い、焚口を離れた。

 

 

 

 用意されていた浴衣をぽかぽか火照った身体に引っ掛け、手ぬぐいでほんのり首に浮いた汗を拭きながら診察室の襖を叩く。どうぞと招じ入れた八意永琳の手には、大きな紙が握られている。

 

「こちらを渡しておきましょう。旅のお供に加えてあげて下さい」

 

そう言って八意永琳が差し出した紙は、一目見た限りでは鳥瞰図のよう。だが至る所に四角で囲んだ名前が書かれている。よくよく見てみると下端に永遠亭の名前も。となると、これは幻想郷の地図なのだろう。なるほど、旅のお供に相応しい。

 

「本当に明日ですか? まだ逗留なさっても構わないのですけれど」

 

「だってほら、もうこんなに元気だし!」

 

力こぶを作って見せて、殊更に明るく、自分はもう何ともないんだと強調する五代。無論、その診断を下した八意永琳は分かっている。そして彼の考えまでも分かっているからこそ、

 

「……それも、貴方らしさなんでしょうね」

 

ほんの少しだけ俯いて呟いた。

 

 八意永琳に促され、手渡された地図を二人の間に広げた。改めて見てみると、外の世界のそれのように正確なものではない。縮尺も示されていないのだ。建物や山の位置も、大まかに記されている程度だろう。だがその曖昧さが、五代の冒険心に火を点けた。大まか上等、これぞ冒険、だからこそ辿り着いた時の達成感もひとしおなのである。

 

「えっと、ここが永遠亭です。それで、迷いの竹林を抜けたこの辺りに、妹紅の家。大体の位置関係は分かりますか?」

 

順番に指差しながらの説明を聞くが、五代の頭に残っているのは妹紅の家だけである。何せ、有無を言わさず引っ張り出されたのだから。

 しかし地図の永遠亭周辺を見ているうちに、彼は二つの発見をした。あくまでも地図上では竹林にほど近い、森らしき緑色の区画と、建物の集合体らしき一角。それぞれ『魔法の森』、人里と書かれている。位置を考えると、昨日の自分の動きが多少見えて来た。恐らく八雲紫に連れて来られたのが魔法の森なのだろう。そこを二人で歩き出て、地図の上を北と見るならば南下し、妹紅の家に辿り着いたと言う事か。そして、昨日とあまり変わらぬ距離を歩けば人里、すなわち人々の営みの地。

 

「その様子だと、行き先は決まりましたか?」

 

知らず視線が釘付けになっていたのに気付いたのだろう。八意永琳の問い掛けに、五代は人里を指した。

 

「ここを起点にしようかなって。宿屋さんとか仕事とかあると良いんですけど」

 

「宿屋、ですか……」

 

唇に指を当てて考える八意永琳。だが、これが全く思い浮かばない。

 それもそのはず。人間が住んでいるのは、事実上人里しかないのだ。旅行客や行商人が訪れる事はなく、よって宿泊施設その物が必要ない。仕事であれば売り子や給仕、立ちん坊と探せばあるだろう。しかしそちらも、泊まり込みと言う都合の良いものがあるかと問われれば、さすがの彼女も口を閉ざさざるを得ない。

 

「……あ、そうだわ」

 

何かを閃いたらしい八意永琳が座卓へと向かった。引き出しから白紙を取り出し、さらさらと筆を走らせる。さすがに書き物を覗き込む趣味などないゆえ、五代も座したまま待っていたが、さほど間を置かずに彼へ便箋を手渡した。表面には、"上白沢慧音"様、と書かれている。

 

「うえしろさわ……?」

 

「かみしらさわけいね、ですね。明日妹紅の家に寄って、彼女に渡して下さい。そして内容に同意出来るならば名前を連ねて欲しい、と伝えてもらえますか?」

 

貴方にとって悪い話ではありませんよ、とウィンクして言う八意永琳。五代としては断る理由もなく、また彼女を信頼しているゆえ、素直に了承した。恐らくは宿の代わりとなる物、空家あるいは空き室の斡旋か何かだろうと当たりをつけて。

 

 座卓上の水差しから注いだ冷水を勧められ、風呂上がりの喉を潤す五代に、八意永琳は咳払いを一つしてから、最後になりますがと前置きしてこう告げた。

 

「貴方は明日から、幻想郷の各地を渡り歩きます。きっと多くの人と出会い、多くの物事を見聞きするでしょう。どうか、楽しんで来て下さい」

 

五代は自身の代わりに汗をかいたグラスを握り、子を見送る母親のように穏やかな目をした八意永琳に、

 

「はい、たくさん楽しんで来ます! 土産話、期待してて下さい!」

 

と、再会の約束をするのだった。

 

 

 

 充てがわれた部屋に戻り、訪ねて来た鈴仙、てゐ、輝夜と共に茶菓子などつつきながら下描きに色を塗った翌日。

 またも日の出前に起きた五代は、起き抜けの運動がてらに風呂掃除に精を出した。間借りの身で栄えある一番風呂など頂いたのだから、このくらいしなければ勘定が合わぬ、との考えからだ。冬の朝の冷たい水を目覚まし代わりに、風呂釜、湯桶、壁、床と磨き上げ、仕上げに白熱電球を拭き上げると、きれいになった風呂場同様に清らかな心持ちになる。

 日の出頃には風呂掃除を終え、次は亭内を清掃する白兎たちに混ざり込んだ。身軽さと兎特有の脚力で縦横無尽に雑巾掛けする彼らに負けじと、五代も全力疾走。競争の様相を呈している床掃除は、これが白兎たちもたいそう気に入ったらしく、普段よりぴかぴかになった亭内に、八意永琳たちは目を丸くしていた。やり切った男の顔で親指を立て合う五代と白兎たちを尻目に。

 

 そして、炊きたてのご飯を主食とした朝食後の永遠亭門前。ずらりと並ぶ住人たちの前に、五代はここに来た時の服に袖を通して立っていた。

 白兎たちがぴょんぴょんと跳ね、手を振る中、

 

「これ、お昼のお弁当だよ。気を付けてね、五代さん」

 

鈴仙から竹皮で包んだおにぎりを受け取り、

 

「次に来る時には、また別のお仕事を勝ち取っておくからね、雄介さん!」

 

輝夜からサムズアップを受け取り、

 

「駄目押しに幸運をもういっちょ。竹林は道に迷いやすいけど、なぁに、あたしの幸運があればちょろいもんさ」

 

てゐから竹林を抜け出す幸せの光を受け取り、

 

「少ないですけれど、路銀の足しにして下さい」

 

「えっ?」

 

八意永琳から一枚の紙幣を受け取り、思わず素っ頓狂な声を上げた。大黒様の描かれた一円札、外の世界ではとうの昔に使われなくなった──八雲紫の結界に引き寄せられた大変貴重な代物だが、そんな事はどうでも良い。ここまで世話になっておいて、その上でお金までもらう謂れなどない、と言う事である。さすがにこれは受け取れないと返そうとした五代、しかし八意永琳はその手をそっと包んで握り込ませた。

 

「診療代のお釣り、薪割りの手間賃、姫様の家庭教師代。それで納得出来ないなら、ここからなかなか外に出られない私に、幻想郷中のお話を聞かせてくれるお仕事の報酬として。それでいかがでしょう?」

 

どうあっても五代に持たせたいようだが、彼女の本音でもある。外の世界の住人である五代の冒険譚を、彼の目から見た幻想郷を、またここに帰って聞かせて欲しいのだ。その期待は瞳を通して五代に伝わり、だから彼は大人しく、その手をポケットに収めた。

 

 

「これじゃ足りないってくらい、いっぱい色んなものを見て来ます」

 

「あらあら、それじゃ鈴仙にご馳走をお願いしないといけませんね」

 

互いに笑い、

 

「それじゃ、行って来ます!」

 

「行ってらっしゃい!」

 

一時の別れを交わし、五代は彼女たちに背を向け、胸に妖怪よけの護符を貼り、気合を入れるように一つどん、と叩いて歩き始めた。




インディジョーンズ最後の聖戦の、聖杯の在り処を示す地図にわくわくした幼少の頃。


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第十二話 人間の里へ

原作の五代君が眩し過ぎて困る。


 日中でもなお薄暗く、そして冬の気温とはまた別の寒気を感じる竹林を進む五代。足を取られないよう注意を払いながら、一歩ずつ、一歩ずつ。

 見知らぬ地で、自分で決めた場所へ向けて、誰の案内も指示もなく歩く。長い戦いの中で遠ざかっていた感覚、感情が蘇り、心が喜ぶ。その喜びに呼応するように、足取りもまた軽くなる。歩けば心が高揚し、心が高揚すれば歩くのが楽しくなる。一種の永久機関のよう。

 気持ちが楽しくなれば、この不気味な竹林の風景さえも風情あるものに見えるのだから不思議である。一昨日はあれだけ怯えていたのにな、と内心で苦笑し、同時に自分でも思っていた以上に旅に、冒険に飢えていたんだろうな、と考察する。無論、無駄な足踏みなど──無駄な寄り道などしたつもりは一切ない。むしろ寄り道は旅の醍醐味であり、そこでしか得られない思い出、体験も多々ある。辛い事もあるが、無駄と一蹴出来る寄り道なんてものは、はなから存在しないのだ。

 

「……一条さん。俺、行って来ます。また、冒険に行って来ます」

 

竹葉の隙間から見える青空を仰ぎながら、そう呟いた。

 

 湿った地面を跳び越え、子供のようにわざと通り抜けにくそうな場所を掻き分けながら進み、ようやくと言うか、とうとうと言うか、五代は妹紅の自宅に行き着いた。が、その向こう、竹林の外から漏れ出る光を認めた途端、泥が跳ねるのも構わずに駆け出した。

 竹林を抜けた五代の目に飛び込んで来たのは、まさに日本の原風景だった。空はどこまでも青く高く澄み渡り、山々は泰然自若の言葉に相応しくその姿を誇り、草花は風に揺られさらさらと靡く。その風に乗って、どこか懐かしい、ここが日本であると間違いなく感じ取れる薫りが、彼の感情を揺さぶった。

 まさしく、幻想。今を生きる人々が心のどこかに置き忘れた、日本人の心に産まれながらに刻まれた、魂の故郷。神々や妖怪が確かに存在し、人間が自然と共に生きた時代への帰郷と言おうか。冒険家たる五代にとって、これ程の境地へ至るのは僥倖の極みである。

 吹き渡るそよ風に、大地から伝わる息吹に、五代は心の凪ぐまま、時間を忘れてその身を晒した。

 

 今の五代にとって時を知る術と言えば、太陽の傾き具合。それさえも気に留めぬまま眼前の絶景の虜となっていたのだから、どれだけの時が経ったかなど分かるはずもなく。実のところ、彼が我に返るまでたっぷり半刻は過ぎていた。

 

「おっと、忘れるところだった」

 

自身の(ねぐら)のかかった案件を忘れるのはいささかどうかとも思うが、それだけ心を奪われていた証左とも言えよう。ともかく、まずは八意永琳からの便箋を渡さねば。ポケットを探って便箋を引っ張り出し、五代は妹紅宅の玄関を叩いた。

 

「はいはい、どちら様?」

 

未だ日が昇り切っていないからだろう。応対する妹紅の声は、一昨日深夜に比べてだいぶ落ち着いている。戸口を開けた妹紅は、五代を見るなりぱっと顔を綻ばせた。

 

「一人で永遠亭からここまで来たの? 連絡寄越してくれたら迎えに行ったのに」

 

「うん、てゐさんから幸運の力ってやつをもらってね。でも、一人で歩いてみるのも楽しかったよ!」

 

「さん、って……」

 

明らかに幼子に見えるてゐだが、醸し出す雰囲気ゆえにちゃん付けに抵抗を感じる五代であった。

 

 妹紅の自宅は、永遠亭に比べると──あちらが別格とも言えるが──至って質素な、これぞ日本家屋と言う趣だった。台所を兼ねる土間を上がるとそこは居間であり、その中央にはやかんが吊るされた囲炉裏。鉄鍋を吊るして汁物を炊き、魚を刺した串を立てれば、さぞや風情ある食卓となろう。壁には雨具の蓑笠(みのかさ)が予備か患者用か三つ掛けられ、隣に箪笥が二つ、使い古された座卓が並んでいる。部屋の隅の行灯は消されているが、夜になるとろうそくの火を灯し、部屋をやんわりと照らすのだろう。物は少ないが、確かに人の息遣いを感じられる良い家だと五代は感じた。

 

「身体はもう良いの?」

 

「すっかり元気! 先生からも太鼓判だよ」

 

やかんの湯で茶を入れる妹紅が、我が事のように笑みを浮かべた。どうぞと差し出された湯呑みには茶柱が立ち、これからの旅の幸運を示してくれているかのよう。

 

「それで、遠路はるばるどうしたの?」

 

人間にとってはだけど、と尋ねる妹紅に、五代は先生から預かって来た、と便箋を手渡した。

 

「慧音宛て? それを何で私に?」

 

「俺も中身は知らないけど、読んで同意出来るなら名前を書いてくれ、って言ってた」

 

ふぅん、と封を切る妹紅を横目に、ふぅふぅと茶を冷ましながら少しばかり考える。下の名前で呼んだと言う事は、上白沢慧音なる人物は八意永琳だけでなく、妹紅とも縁の深い人なのだろう。しかも己の宿泊事情に関して相談を受けるのならば、地主や大家とも考えられる。となれば、かの人は相当な金持ち、本来の意味での有力者ではなかろうか。知らず、五代の肩が強張る。

 

「……なるほど。そりゃ私の同意も欲しくなるわね」

 

そんな五代の緊張に気付かず、便箋の中身を読み進めた妹紅はうんうんと頷き、座卓の上に転がっていた短い鉛筆で名前を連ねた。

 

「雄介一人で持って行っても揉め事の種になりそうだし、私も人里まで一緒に……って、どうしたの?」

 

便箋を返そうと向き直ったところで、五代の様子を見て取った妹紅が問うた。それに五代が正直に答えると、ぷっと吹き出し、それから腹を抱えての大笑い。

 

「あっはっは! 慧音が人里のお大尽なら、私は竹林の大地主だよ!」

 

何が何だか分からない、と目を瞬かせる五代に、まぁ会えば分かるよ、と妹紅は立ち上がり、玄関の引き戸をがらりと開けた。

 

 

 

 未だ肩の力が抜けない五代と、ちらちらと彼へ振り返りながら励ます妹紅。そんな珍妙なさまで道中を行くと、やがて二人の目の先に、高く茶色い壁で囲われた何かが現れた。中央は門のようになっており、遠目でも脇に一人ずつ、計二名の誰かが立っているように見える。

 

 近寄るに連れて、それらの全容がはっきりと見えるようになった。壁の茶色は年季の入った木製ゆえであり、どちらかと言えば塀である。所々に古い補修の跡が見受けられ、長年雨風に晒された事で、年代物ならではの味を感じる。

 門はやたらと立派な構えで、五代も国内の旅先でこのような様式の物をいくらか見た覚えがある。開け放たれた門も分厚く、これを開閉あるいは叩き割るのは、容易ではなかろう。

 そして門の両脇に立つ二人は、簡素な鎧と槍を装備し、帯刀している門番。鎧の上からでも分かる鍛え上げられた肉体と、引き締まった顔。蟻の子一匹通さないと言う気迫を立ち上らせるその姿は、実に頼もしい。しかし妹紅と、彼女に先導される五代を認めると、

 

「おぉ、藤原の姉さんかい。外の人を案内してくれたのか? ようこそ、人間の里へ!」

 

「藤原さんに会えるたぁツイてるな、兄ちゃん! ほれ、はよ中に入れ!」

 

厳つい顔を朗らかに崩し、里の中へと招き入れられた。てっきり門番二人で槍を交差させて「何者だ、名を名乗れ」などとお決まりな展開になるかと思っていた五代、これにはいささか拍子抜けしたようだ。それでもとりあえず、気軽に門番に手を振る妹紅の後を、どこか親鳥に従う雛鳥のようにおっかなびっくりひょこひょこと付いて行く。

 

 里を見た五代の感想は、ここは日光辺りの映画村か何かだろうか、これに尽きた。木造の平屋が軒を連ね、店らしき建物の軒先には立派な看板。舗装されていない道を行き交う人々の足音が声と重なり、外の世界とはまた違う喧騒を耳に届ける。そして、この里に住まう人々はみな着物を着ており、服装では五代や妹紅がやや浮いてしまっている。まるで時代劇の世界。縁台に掛けて団子と茶に舌鼓を打つ姿、祭りでもないのに屋台で物を売り買いする姿など、観光地でしか見た事がない。

 だがこれが、この人間の里の日常なのだと言うのは分かる。世界中を旅し、多くの人を見て来た五代だからこそ分かる。誰かを演じているような不自然さは微塵もなく、誰もがあるがままに振る舞っている。その風景が、ここの当たり前なのだ。

 そうして興味深げに視線を巡らせながら往来を歩き、時折店や住宅から漂う美味そうな香りに心惹かれる事しばし。ここだよ、と妹紅が足を止めたのは、垣根で仕切られた広大な敷地に乗っかった、大きな平屋建ての建造物前。入口の横には『寺子屋』と書かれた表札が掛けられている。

 

「寺子屋? じゃあここ、学校なの?」

 

「そう。それで慧音はここの先生ってわけ。お昼休みの時間だし、丁度良かったね」

 

なるほど、いかな理由があろうと授業の邪魔をするわけには行かない。耳を澄ますと、入口の奥からかすかに子供たちの騒ぐ声と思しきものが聞こえる。授業の後のご飯となると、その美味しさは格別。五代にもそんな記憶がある。

 だが待って欲しい。授業中の乱入は論外だが、昼休みならば大丈夫と言えるのか。むしろ待望の食事を邪魔されて、気を悪くするのではなかろうか。例え八意永琳と妹紅の名を書いた手紙らしき物があっても、宿の話は立ち消えになるのではないか。

 

「おーい、いつまで突っ立ってるの?」

 

しかし、あぁ、しかし。五代の心配をよそに、妹紅はすでに寺子屋の敷居を跨ぎ、彼を呼んでいる。事ここに至ったならば、もはや腹を括る他あるまい。意を決し、五代は寺子屋の敷地へと歩を進めた。

 

 

 

 建物の中に入ると、子供たちの声がいっそうよく聞こえる。賑やかな声が建物に反響し、本来以上の人数が騒いでいるようにも思えた。そんな中にあって、五代の口は緩やかな弧を描く。どんな国でも、どんな時代でも、子供たちの元気な声とは実に良いもので、彼にとってこの上ない清涼剤となる。

 

「さっきまでびくびくしてたのに、良い顔になったじゃない」

 

ちらと五代の顔を盗み見た妹紅が、彼の笑顔を見付けてにやりと笑った。その言葉で己が笑んでいる事に気付いた五代は、頬の辺りを擦りながら、

 

「そんなつもりはなかったけどなぁ。でもさ、子供の楽しそうな声って、何かこっちまで楽しくならない?」

 

それでも表情はそのままで。

 

「まぁ、ね。分からなくはないわ」

 

ふっと笑って前を向き、すたすたと先を急ぐ妹紅。

 

「私もここに来ると、良い気分になるの」

 

慌てて後を追う五代にそれだけ告げた彼女の声は、言葉通りに弾んでいた。

 

 妹紅がとある襖の前で立ち止まった。恐らくここが教室なのだろう。と言うのも、子供たちの声が襖の向こうから響いているのだ。教室ではなく食堂かも知れないが、寺子屋と生徒用の食堂とは、どうにも五代の頭の中では繋がらない。小学校のように教室で和気藹々と食べる姿ばかりが浮かぶ。

 何を食べているんだろう、家から持って来たお弁当か、はたまた屋台か何かで買って来た店屋物か、まさかの給食か。などと子供たちのお昼ご飯に思いを馳せている五代の隣で、

 

「慧音、いる?」

 

気さくに声を張り上げた妹紅。良く通るその声は子供たちの騒ぎ声にも妨げられずに届いたようで、

 

「あぁ、妹紅か。今行くよ」

 

負けじと、凛とした声が返って来た。聞き惚れそうな声色だが、口調その他が教師らしさに満ち溢れ、本人でさえ制御出来ない無意識下で、己は真面目一徹であると言外に主張していた。妹紅宅での緊張がぶり返し、五代の心臓が早鐘を打つ。

 

「こんな時間に珍しいな。一体何の用……」

 

 すっと襖が開き、声の主──上白沢慧音が姿を現した。所々に空色の混じった銀髪は腰程まで伸び、藤色の瞳は理知的に輝いている。胸元のやや開いたワンピースは襟の形も相まってどことなく優等生然とした印象を与え、博士帽に似た帽子も知的な雰囲気を醸し出す。学問に身を捧げたと言われても納得し得る出で立ちである。

 そんな、妹紅よりも頭半分程背の低い慧音の瞳が五代を捉え、その途端に言葉が途切れた。腕を組み、目を細めて、五代を頭のてっぺんから爪先に至るまで、じっくりと観察する。さながら獲物を品定めする肉食動物だ。

 

「あの、初めまして。五代雄介って言います!」

 

だが、五代も負けてはいられない。第一印象は可能な限り良いものに。それも円満な人間関係を築く秘訣なのだ。小学校低学年の子供のように大きな声で自己紹介し、名刺を差し出した。

 対する慧音は、模範的な動きで名刺を受け取る。そしてその中央を走る名前に目を留め、そこでようやっと穏やかに笑った。

 

「そうか、貴方が五代雄介さんでしたか。私はてっきり、妹紅が婚姻の挨拶周りに来たのかと思いましたよ」

 

突拍子のない慧音の勘違い告白に、五代と妹紅は揃ってこける。図らずもその様は、夫婦のように息がぴったりであった。




ここらでもう一つ、はっきりさせておきます。
恋愛要素もありません。


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第十三話 お守りの歴史

げんそうきぉれしき。

※2018/05/10
画竜点睛を欠くとはまさにこの事。タイトル忘れてました。申し訳ありません。


 場所を移そうか、と弁当を抱えた慧音に通されたのは、本棚がところ狭しと並ぶ一室だった。彼女が言うには、授業に必要な資料を保管してある部屋であり、同時に寺子屋での自室だそうな。紐で綴られた本や色褪せた巻物が収められた本棚からは、図書館最奥の古書コーナーのような独特の匂いが漂い、ある種の秘密基地のような雰囲気に満ちている。本棚に遮られて日当たりがあまりよろしくないのも、その印象を助長していると言えるだろう。

 

「不躾に睨んでしまって申し訳ない。妹紅と契る相手がどんな輩なのか、見定めてやりたかったのです」

 

「そんな理由だったんですか? 俺はてっきり、部外者だからと思ってました」

 

「そんな理由で睨んだりはしませんよ。誰しも学ぶ権利はあります。学問を修めに来た可能性がある以上は、無下にしません」

 

どうやらこの慧音と言う女性は、五代が勝手に想像していた以上に懐が深く、融通の利く人物らしい。内心でほっと胸を撫で下ろす。

 安心したところで、慧音が五代の持ち物を指差し、昼食は食べたのかと問うた。小脇に抱えた竹皮包み、鈴仙のおにぎりである。昼食時、それなりに長い距離を歩き、緊張がほぐれた今、食事を意識した途端に猛烈な空腹感が五代を襲った。

 

「腹が減っては話も出来ないでしょう。食卓とは言いがたい場ですが、良ければどうぞ召し上がって下さい」

 

ふわりと笑いながらおかずを箸でつまむ慧音を見て、じゃあ遠慮なくと包みを広げる。

 受け取った時から、自分一人の弁当にしては大きくないか、とは思っていたが、いざ広げてみると、その疑問の答えが分かった。おにぎりが四つ、卵焼きが八切れ、鶏肉のつみれ団子が六つ、それに永遠亭自家製の香の物。それらが隙間なく、みっちりと詰まっていたのだ。これだけ入っていれば、包みが大きくなるのも納得である。

 ふと隣に座る妹紅を見る。何も持っていない。特に準備をする事もなく五代を案内してくれたのだから、当然と言えば当然か。

 

「あぁ、私は気にしないで良いよ。後でお蕎麦屋さんにでも行くから」

 

視線に気付いた妹紅は、手をぶんぶんと振った。顔色を窺うに、本当に遠慮なく食べろと言っているようだ。

 あぁ、そうか。この『成人男性が食べるにしても多い弁当』は、そう言う事だったのか。鈴仙の思惑を悟った五代は、彼女への感謝と共におにぎりを一つつまみ上げ、それから広げた弁当を妹紅へ寄せた。

 

「俺一人じゃ、こんなにたくさん食べ切れないよ。それに、みんなで食べる方が美味しいしさ!」

 

おかずで手が汚れないようにと添えられた楊枝も、丁度二本。自分の考えは間違っていなかったと確信し、戸惑う妹紅の顔を見ながら大げさな動きでおにぎりにかぶり付く。

 

「むぐ……」

 

さも美味そうに口を動かす五代を見て、妹紅が唸った。包みから開放されて溢れ出た食欲をそそる香りに、鼻がくすぐられる。そも、見た目からして彼女の意思を突き崩さんとしているのが明白である。具が分かるようおにぎりにちょこんと乗せられた梅干しの果肉と青菜、彩り豊かな香の物が、実に鮮やかに華を添えている。

 

「はははっ、妹紅、お前の負けだよ。うちの生徒たちだって、昼ご飯前でもそんな顔はしないぞ?」

 

そんな様子が余程可笑しかったのか、慧音はけらけらと笑い、そして当の妹紅は顔を真っ赤にして、

 

「分かったわよ! あーあ、久し振りにお蕎麦食べたかったのになぁ!」

 

楊枝でつみれ団子を突き刺した。

 

「くくっ、相変わらず言い訳が下手だな。竹林の火事騒ぎよりはマシだが」「何か言った!?」

 

昔の話を蒸し返されて妹紅が食って掛かったが、何でもないさ、とそれ以上の言葉をおかずと共に飲み込む慧音だった。

 

 話は茶でも飲みながら、と慧音が席を立ち、部屋には五代と妹紅だけが残された。五代は所在なさげにあちこちを見渡し、妹紅は本棚から適当な冊子を持って来て広げる。

 ぺらり、ぺらり。無音の室内に、紙の音だけがこだました。速読でもしているのか、はたまた流し読みなのか、ページをめくる速度はやけに速い。ちら、と横目で見てみると、並んでいるのは日本の古文書にありがちな、いわゆるくずし字。とてもではないが現代日本に生き、くずし字の読み書きを習ったわけでもない五代に読める代物ではない。

 

「その本、何が書いてあるの?」

 

読めないならば、読める者に聞くのが道理。内容を尋ねてみると、幻想郷の歴史について書かれた本だそうだ。それどころかこの部屋にある冊子や巻物は、そのほとんどが同様の物らしい。神々への信仰や妖怪への畏怖を、幻想郷で生きる為の基本を教えるのも、寺子屋の役割なのだと。

 

「正しい歴史を知る事こそ、信仰や畏怖を根付かせる基本ですからね。付け焼き刃では歪みが生じ、そこから破綻してしまう。何事も基礎が大事なのです」

 

 人生しかり、建物しかり、と戻って来た慧音が妹紅の話を補足した。手には湯気立つ湯呑みが三つ乗った盆。それらを渡すと、自身も元の座布団に座り、背筋を伸ばした。

 

「では、お話の続きと参りましょうか。改めまして、上白沢慧音です、お見知りおき下さい」

 

そう前置きした慧音がまず語ったのは、彼女が五代の名前を知っていた理由。とは言っても、八意永琳同様に八雲紫の式から話を通されていたから、との事。

 

「外の世界から来た五代雄介と言う男に頼られたら、どうか良くしてやってくれ、と。あぁも真摯に頼み事をする彼女は、今までに見た事がない」

 

「って事は、他の連中にも直談判に行ってるかも知れないわね。この近くだと『霧の湖』の洋館とか、魔法使いの寺とか」

 

はて、と五代は二人の会話に耳を傾けながら、内心で首を傾げた。霧の湖の洋館、こちらはまだ分かる。むしろ容易にその情景が想像出来る。だが魔法使いの寺とは何ぞや。寺と言えばお坊さん、僧侶ではなかろうか、と。

 

「私としても、困っている人を助けるにやぶさかではありません。それに貴方の人となりは、よく伝わりました、何かあれば力になりましょう」

 

胸に手を当てて微笑む慧音に、五代は一旦魔法使いの寺を頭の隅に追いやり、ポケットを探った。中身は知らないが、これを渡してくれと頼まれている。その時、便箋と一緒に入れていたお守りが、ポケットからこぼれ落ちた。慌てて掬い上げるように手を伸ばし間一髪、床に落とす前に掴む事に成功。安堵のため息をついた。

 

「おや、それは?」

 

「妹が働いてる保育園の子たちが作ってくれたんです。旅先で怪我とか病気とかしないでね、って」

 

束になったお守りを広げると、一つ一つに書かれた、拙くも一生懸命な文字がちらちらと垣間見える。親指で少しずらしては現れる一言を見つめる彼の顔は、照れなど欠片も感じられない満面の笑みで、その笑顔を眺める者も、思わず釣られてしまいそうで。

 

「私にも見せてもらって良いですか?」

 

「はい、どうぞどうぞ!」

 

その一人たる慧音の手に、五代はそっとお守りを乗せた。

 

 さて、大事に扱われた物には魂が宿る、と古来より言われている。いわゆる付喪神であり、外の世界においては幻想として打ち捨てられた概念だ。しかし幻想が常識となる幻想郷では、物に込められた想いは積み重なり、物を構成する一つの要素として確かに存在する。人と共にあり、人と共に歩む。それはもはや、物が紡いだ特有の歴史と言って相違ないだろう。

 上白沢慧音──ワーハクタクの妖怪には歴史を食べる能力と作り出す能力が備わっている。ゆえにハクタクと言う妖怪は時の権力者に重用されたのだが、それはすなわち歴史を見る事に繋がる。見えぬものは選び取る事叶わず。お守りに触れた瞬間、慧音は見た。ワーハクタクだからこそ、子供を見守る教育者だからこそ理解出来る歴史を。

 

 

 お守りを夢中で作り、無垢な瞳で先生がそれらを一つに括る手を見つめるあどけない子供たちの姿。

 

 その先生からお守りを手渡され、心底から喜ぶ五代の姿。

 

 自分と同じ視点に立ってくれる五代を慕い、愛し、触れ合う子供たちの姿。

 

 お守りを身に着けて、みんなの笑顔の為に異形の戦士となり命懸けで戦う五代の姿。

 

 青空を探しに行って来る、雨雲の向こうにはいつも青空が広がっているから、と子供たちに別れを告げる五代と、彼を信じて見送る子供たちの姿。

 

 

 互いの愛情が奔流となって、慧音を飲み込んだ。どこまでも温かく、どこまでも澄んだ歴史。これ程までに優しさに満ち溢れた歴史に、己は触れた事があっただろうか。

 何が、人となりがよく伝わった、か。見誤ったとまでは言わない。ただ浅い部分だけを見て、分かったつもりでいただけだ。

 

「……ありがとうございます、お返しします」

 

絞り出すように言い、慧音はお守りを返した。彼女と付き合いの長い妹紅は、それで察したのだろう。

 

「今初めて、慧音の能力が羨ましいと思ったわ」

 

妹紅の視線の先、伏せられた慧音の目は、確かに感情を吐露していた。

 

 

 

 本来の目的である便箋を渡すと、慧音は中身にさっと目を通すや否や立ち上がり、こちらへどうぞ、と先達した。その肝心の中身を詳しく知らない五代は言われるがままに従うしかなく、さらに後に続く妹紅も、慧音に任せとけば大丈夫よ、と頷くのみ。

 子供たちの喧騒から遠ざかりながら廊下を歩いていると、入れ替わるようにぎしぎし、きゅっきゅっとやけに派手な床鳴りが響き渡る。鶯張りと言うやつだ。

 

「"稗田家"のお屋敷を改装した際に、せっかくだからと残したんですよ。……あぁ、ここです」

 

三人分の足が奏でる調子外れな旋律を楽しんでいた五代を、慧音は廊下最奥の部屋まで案内した。

 部屋の広さは四畳半と言ったところ。中央に茶びつの乗ったちゃぶ台、壁際には箪笥と座卓。南に面しているようで日の光が暖かく、障子の足元に置かれた鉄瓶と七輪を照らしている。

 

「少々手狭ですが、こちらの部屋をご提供します。何日でも、ご自由にお使い下さい」

 

「こちらの部屋、って……。ここ、誰かが住んでるんじゃないんですか?」

 

埃一つ落ちていない部屋は、人の生活の残り香が感じられる。ここを使えと言う事は、つまり誰かと一緒に住めと言う事か。しかも彼女曰く、何日でも。

 その疑問に、慧音は小さく笑って答えた。この部屋は寺子屋が開校された十年程前に、まだ仕事に不慣れだった彼女が泊まる為に設えられた、宿直室のようなものらしい。今では使う事もなくなったが、それでも世話になった部屋ゆえに愛着が湧き、定期的に清掃しているのだとか。

 

「障子から出た庭先に井戸がありますので、喉が乾いた時にはそちらを利用して下さい。食事はご自分で用意して頂く事になりますが……」

 

見ず知らずの男にこんな上等な部屋を貸してもらえるのに、その上で食事の世話までしてもらっては勘定が合わない。五代はまず部屋を貸与してくれた点に感謝の言葉を述べ、それから八意永琳からもらった一円札を広げて見せて、食事はどうにかする事、この紙幣の価値が分からないから仕事を探したい事を告げた。

 

「それでしたら、私よりも長老に相談した方が良いかも知れません。あの方も八雲紫の式との話し合いにおいででしたので」

 

寺子屋から長老宅への道順を、口頭で説明する慧音。初めての土地ではあるが、旅人たる五代からすればそれだけ説明を受ければ十分。加えて人里でも特に大きな邸宅だと添えられれば、迷う事なく向かえよう。妹紅に案内された道順を反芻しながら照らし合わせた彼の脳内には、すでに大まかな順路が出来上がっていた。

 

 その他、部屋に関しての細々とした話を聞いていると、ぼーん、と柱時計の鐘の音が一度鳴り響いた。同時に慧音が来た道を振り返る。どうやら昼休みは終わりらしい。

 

「……おっと。済みませんがそろそろ午後の授業が始まります。茶葉と炭は後で用意しておきましょう」

 

「私も家に戻るわ。長老の家まで案内してあげたいけど、ちょっと長居し過ぎちゃったし」

 

「いえ、後は自分でどうにかしますよ。妹紅ちゃんも、案内してくれてありがとう!」

 

二人に礼を伝えた五代は、仕事を探すなら早い方が良いと促され、足早にその場を辞した。鶯張りの廊下を、音楽を奏でるように調子良く踏みながら。

 

* * *

 

 当たり前のように、何の感慨も抱いていないように、二人が歩く。もんぺのポケットに手を突っ込んだ妹紅と、背筋をぴんと伸ばした慧音。傍から見れば不良と優等生のようだ。

 

「本当は、な」

 

「ん?」

 

ぽつりと言った慧音に、妹紅が耳を傾ける。

 

「五代さんの宿は、長老と相談するつもりだったんだ。空いた家か、外の人間を受け入れてくれる家を」

 

「外の人間が来るんなら想定するわね。まさか野宿させるなんて出来ないし」

 

慧音の足が、ぴたりと止まった。そこは中庭に面した縁側であり、さんさんと日が差している。そのおかげで冬の空気に晒されていても暖かい。

 

「でも、あのお守りを渡された瞬間、気が変わったよ。せめて羽を伸ばせる場を提供したい、とね」

 

「へぇ、やっぱり何か見えたんだ。何が見えたの?」

 

教えてよ、と肘で突っつく妹紅に、手を翳して空を見上げていた慧音は、ワーハクタクの私だけの秘密だよ、とにやりと笑った。

 

「この何気ない青空が、こんなにも愛おしくなる歴史さ」




書いてるうちにふと気付きました。
五代君、けーねが寝た布団に入る事になりますね。


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第十四話 人の交わり

男臭くなりました。


 頭に描いた地図通りに歩き、特に迷う事もなく長老宅へ着いた五代を、家の人々は和やかに迎え入れた。そのまま客間へと通され、出された茶で口を湿らせ待つ事しばし。家紋付きの立派な着物を着た老人が現れた。深い皺がいくつも刻まれた顔は、荒波に揉まれた歴戦の古兵のごとし。天を衝かんばかりに正された姿勢からは、老いの衰えなどまるで感じない。

 五代の対面まで歩いた老人は、袴の前を払って悠然と座った。背筋は揺らがず、視線の鋭さも相まって抜き身の日本刀のよう。醸し出す雰囲気にあてられてしまった五代だが、

 

「ようこそおいでなさった、外の旅人さん。わしがここの長老です」

 

老人──長老は、一転してふにゃりとした顔で彼に歓迎の意を示した。

 

 勧められるままに茶菓子を頬張り、口を動かす五代。彼を見る長老の目は穏やかで──孫を見守る翁のようで、先程までの鋭さはどこへやら。

 

「八雲の式殿が随分と丁寧に頭を下げなさる、とは思うておりましたが」

 

緊張の余韻で若干噛みつつの自己紹介と共に受け取った名刺を眺めながら、長老は語る。

 妖怪退治を生業とし、いつの間にやら今代の長老となるまで半世紀超。八雲紫の式と言葉を交わした事は幾度もあったが、今回程丁寧に何かを頼まれた事はなかった。いつも毅然とし、種族特有の威厳や自信に満ち溢れていた式が、こうも深々と頭を垂れる事があったろうか、と。

 

「わしも人を見る目はそれなりに養って来たつもりでしてな。式殿の態度の理由が分かった気がしますよ。物を美味そうに食う人間に、悪い者はおりません」

 

手前勝手な持論ですがな、と笑う長老に、五代は気恥ずかしさを覚え、肩を縮こまらせた。

 

 訪ねて来たからには困った事があったのだろう、何でも言って下さい、と問うた長老へ、五代は仕事を探している旨を伝えた。旅人さんならば日雇いが良かろう、しかし何かあったろうか。腕を組んで独り言を交えながら長老が思考する。対する五代は、どんな仕事でも構いません、と頭を下げる。

 そうしてしばし考えた後。長老はぽん、と手を打った。

 

「そう言えば、小太郎さんとこが人手が足りんとぼやいておったな。よしよし、少しばかり大変な仕事じゃが、よろしいかな?」

 

長老の弾んだ声に、五代はがばっと顔を上げ、

 

「全然大丈夫です、ありがとうございます!」

 

明るい顔で再び頭を下げた。

 

 

 

 長老の案内で向かった先は、大きな倉が目を引く屋敷だった。何でも、ここは人里の食事処などに野菜を卸す業者、いわゆる青物問屋なのだそうな。無論、人里の中で物流が完結している為、外の世界よりも規模は小さいが。

 

「百姓がそのまま売っても良いのじゃが、なかなか昔の慣習から離れられませんでな。まぁ、感傷のようなものです」

 

そう言って笑う長老と、よく笑うお爺さんだなぁと感心する五代を出迎えたのは、ねじり鉢巻と前掛けが良く似合う大柄な男性。

 

「おぉ、長老さんじゃねぇですか。今日はどんなご用件で?」

 

ちらちらと五代を伺う大男に、長老は人手を紹介しに来たと告げた。

 

「小太郎さん、こちらは外の世界から来た、五代雄介さんじゃ。日雇いの仕事を探しておるそうでのぅ」

 

「外の、ねぇ……」

 

呟きにしては大きな声を出した大男改め小太郎は、腕を組んで五代を頭のてっぺんから爪先まで眺める。長老の言と、彼の体格や出で立ちからして、なかなかに骨の折れそうな仕事らしい。

 

「……仕事ってのは、注文のあった店への野菜の配達だ。お客さん方の商売に支障が出ちゃいけねぇから、急がなきゃならん」

 

言外に、お前に出来るのか、と彼は尋ねている。そう感じ取った五代は、力強く頷いた。元よりどんな仕事でも構わないと言った身。それに力仕事なら、外の世界での旅のさなかに何度も経験している。半端な仕事をしない彼は、そうやって現地の人々の信頼を得て、交流を結んで来たのだ。むしろ得意分野でさえある。

 

「……よし、分かった。それじゃ付いて来な」

 

渋々と言った様子で、小太郎は背を向けた。ひとまず面接は合格のようだ。後は、働きで示すのみ。頑張って下され、と励ましの声を送ってくれた長老に礼を述べ、五代は上着を脱いで腰に巻き、彼の後を追うのだった。

 

 

 

 さすがに大八車一台で全ての配達をこなすわけではない。しかし八百屋、食事処、さらには屋台と、配達先は多く、出先と倉を何度も往復しなければならぬ。

 それでも五代は、弱音一つ吐かずに精を出した。終始笑顔を絶やさず、大八車を後ろから支えながら車力(しゃりき)を元気付け、それでいて働きぶりはベテランの小太郎をして唸らせる程。額に輝く爽やかな汗は労働の証。そこには彼に疑われた男の面影など、一片たりとも見られない。一人の仕事人である。

 

「よっし、今日はここまでだ! 五代の兄ちゃん、ご苦労さん!」

 

「はいっ、お疲れ様でした!」

 

 夕刻、太陽が空をすっかり橙色に染め上げた頃。帰りを促す烏よりもなお大きな声が、とある食事処の店先で響いた。その威勢の良さに、本日のお勤めを終えて帰路に着く人々も思わず振り返る。

 

「いやぁ、随分な優男が来やがったと思ったが、なかなかどうして根性があるじゃねぇか。おかげで、かかぁの顔見る前に一杯引っ掛けられるってもんだ!」

 

「あはは。奥さんに怒られないよう、ほどほどにしておいた方が良いですよ、小太郎さん」

 

「ばっきゃろ。かかぁの顔が美人に見えるように、酒飲んで帰るんじゃねぇか」

 

大八車を引いて帰る車力に手を振りながら、小太郎は豪快に笑った。

 五代の働きを、そこらの若い衆より遥かに良かったと評価した小太郎は、前掛けの衣嚢(いのう)から小銭をじゃらじゃらと取り出し、裸で済まねぇが、と五代の手に乗せた。

 

「お前さんが来てくれて助かったぜ。色付けといたから、これで何か美味いもんでも食って来な」

 

「こんなにたくさん……、ありがとうございますっ!」

 

未だにこの小銭一枚一枚の価値は分からない。しかし山と積まれたそれの重みは、労働の対価として十分以上のものだと五代には感じられた。

 

「うちは万年人手不足なんだ。仕事に困ったら、おてんとさんが昇り切った頃にまた来いよ!」

 

そいつを巻いてな、と指差したのは、仕事を始める前に渡された青物問屋の前掛け。新品だった物が、埃で薄っすらと汚れ、散々動いてしわしわになっている。作業着の汚れは仕事人の誇り、とも言う。まさしく今日のお勤めの結晶である。白抜きの大きな丸の中に堂々と書かれた青の一文字。やや茶色くなったその字が妙に誇らしくて、

 

「大事に使います、今日はありがとうございましたっ!」

 

小銭の山を胸に抱き、腰を曲げて大きく一礼した。

 

 

 

 頂いた給金を衣嚢に突っ込み、上着を肩に背負って暗くなった道を歩く五代。特にあてもなく、と言うわけではない。見知らぬ土地ながら、確たる目的地があるのだ。少し赤らんだ顔を綻ばせ、人の営みを眺めつつ。

 ここで、少し時を巻き戻してみよう。

 

 

 

 長老宅へ戻り、仕事を紹介してくれた彼へ再度の礼を済ませ、そこでふと思った。食事より先に風呂を済ませて、さっぱりしてしまおうと。あの宿直室に住まうにあたり、さすがに風呂はないが、大通りに湯屋、いわゆる銭湯があると慧音が説明していた。そこで一日の汗を流すとしよう。

 程なくして見付けた青い暖簾をくぐり、番台の老婆の前に小銭を広げて入浴料を支払い、前掛けと衣服を脱いでいざ浴場へ。

 仕事終わりの時間ゆえか、木張りの浴場は人でごった返していた。その間を縫うように浴槽へ向かい、掛湯をしてから浸かる。

 

「くぅぅぅ……っ!」

 

掛湯した時点で分かったが、湯温はかなり高い。その熱さに思わず唸り声を上げるも、疲れた身体には非常に心地よい。先に入っていた客たちは、どこか初々しい様子の五代を微笑ましく見ている。

 

「良いもんだろ、兄ちゃん。俺っちなんか、ヒマさえありゃ浸かりに来んだ」

 

その内の一人、白髪混じりの翁が同意を求めるように話し掛けて来た。聞けばこの翁、子が家業の商売を継ぎ、気ままな隠居生活を送っているらしい。外の世界であればまだ現役で働いていそうな外見であり、幻想郷が昔の文化を色濃く残している事が窺えた。

 商売人ならではの翁の話術と、屈託のない五代の性格で、話の輪はどんどん広がる。気付けば湯船に浸かる全員が身の上話に花を咲かせていた。洗い場で身体を洗っていた者たちも、混ぜろ混ぜろと加わる。大工、農家、商人、そして外の旅人。身上はばらばらだが、今は全員がこの湯屋の客であり、この風呂を楽しむ仲間である。

 

「あっ、そうだ。せっかくだから聞きたい事があるんですよ」

 

「おぅ、何でも聞いてくんな。俺っちが何でも教えてやらぁ」

 

 すっかり上機嫌な仲間たちに、五代はこの辺りで美味い物を出す店はないか尋ねた。自分の足で探し歩くのも面白いが、地元の美味を一番知っているのはやはりそこに住む人々なのだ。

 

「そうさなぁ、この通りの蕎麦屋かねぇ。あすこは客も多いし、何より美味ぇんだ」

 

「向かいの団子屋もまぁ悪くねぇし勧めてぇが、晩飯なんだろ? じゃあちっとなぁ……」

 

「あっちの角っこの……えぇと、名前何つったっけか。横文字ってのは難しくていけねぇや、がはは!」

 

「『かふぇー』とかってのか? ありゃ昼間しかやってねぇよ。ここの向かいの食事処なんてどうだ?」

 

「おめぇら、晩飯ならやっぱ居酒屋だろ。焼き鳥食いながらこう、酒をきゅっと。かぁっ、堪んねぇ!」

 

次から次に、あぁだこうだと案が出る。そのたびに五代の頭には食べ物の姿が浮かんでは消え、また浮かんでは消え。労働を終えた身にこれは堪えたようで、よだれが垂れそうになったのを慌ててぬぐった。

 

「……焼き鳥で思い出したわ。ヤツメウナギの屋台があるじゃねぇか」

 

 そんな中、一人が湯を叩いた。何しやがんだ、と両隣の男たちが跳ねた湯から顔を背けたが、構わずに続ける。

 

「川端にな、ヤツメウナギの蒲焼きってのを出す屋台があんだ。五代の兄ちゃん、食った事あるか?」

 

「名前は聞いた事あるけど、食べた事はないなぁ。ウナギの親戚みたいな感じですか?」

 

「いや、俺も知らねぇけどよ。でも食った事がねぇってんなら、行ってみるのも良いんじゃねぇかい」

 

「目が良くなる、とか何とか噂で聞いたな。いっぺん食ってみたが、なかなかクセになる味だったぜ。酒はあるのに焼き鳥がねぇってのは寂しかったがな!」

 

「それだよ。あの屋台やってる嬢ちゃん、焼き鳥が嫌いなんだとさ。小耳に挟んだだけだから、理由までは知らねぇけど」

 

食べた事のない、クセになる味。五代の耳がぴくりと動いた。そう言われては、食べずにはいられない。彼には食に関しても冒険野郎な一面があるのだ。でなければ世界を旅する事など出来ない。未知の味を楽しむのもまた、旅の醍醐味なのだからして。

 

「おっ、乗り気になったか。湯屋を出て真っ直ぐ左に行きゃ、橋にぶつかるからよ。渡らねぇで右に曲がりゃすぐだ」

 

「今度会った時で良いから、感想聞かせてくれや」

 

「食いモンの話なら、酒を浮かべてやりてぇなぁ。おい誰か、婆さんに預けとけよ!」

 

「てめぇで持って来いよ、ありがたく飲んでやっから!」

 

何気ない話で、湯屋を揺らさんばかりの笑い声が轟く。ひとしきり一緒に笑った五代は、上気した顔をぺしっと叩き、一足先に湯船から上がった。

 

 

 

 そして時は戻り、人里の夜道。住居から漏れる灯りに目を細め、ささやかに吹く冬風に頬を冷まし、どこぞの酒場から聞こえる喧騒を聞き。

 川に差し掛かり、教わった通りに右を見てみると、あった。小さな屋台が、柳の下にぽつんと。小さく揺れる赤提灯は、まるで腹を空かした虫を呼び集めるかのように、誘蛾の光を湛えている。空腹を覚える五代が、その光に抗える道理などない。

 誘われるように、あるいはのぼせた頭でふらふらと屋台に進み寄り、八目鰻と書かれた暖簾をくぐる。

 

「やってますか?」

 

「……んぐっ? あぁ、いらっしゃい!」

 

途端におでんの芳しい湯気と、濃厚なタレの香りに襲われ、その向こうでおでんつゆの味見をする桃髪の美少女と目が合った。




戦闘はないけど銭湯はあります。

ギリギリで男率100%は免れました。90%超えですけど。
東方Projectとのクロスオーバーとは一体。


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第十五話 川端の赤提灯

東方Projectと仮面ライダークウガのクロスオーバーを思い付き、次の瞬間に浮かんだ疑問。
五代君、お酒飲めるんですかね。

※2018/05/29
またやらかしました……。誠に申し訳ありません。


 開店したばかりでまだ炭火が熾っていないらしく、目玉たるヤツメウナギの蒲焼きはしばしお預け。いささか残念に思った五代だが、逆に考えれば、後の楽しみが出来たと言える。

 

「じゃあ、おでんを三つか四つ、適当に!」

 

「はいはい、何にしましょうかね」

 

卓を越えんばかりに身を乗り出しての、元気一杯な注文。それに苦笑した若女将が、湯毛を立ち昇らせるおでんを見ながら考える。

 

「おつゆの染みた大根とぉ、きれいな茶色の煮卵とぉ……」

 

即興で歌いながら菜箸を動かす若女将。いささか単純な歌詞ではあるが、その歌声が妙に心地良くて、頬杖をついて聞き入る五代。目を閉じると、瞼の裏に美味そうな具がありありと浮かぶ。肉体労働を終え、その汗を熱い風呂で流した彼には耐えがたい仕打ちである。

 

「はい、お待ちどうさま!」

 

 そろそろ腹が限界を迎え、今まさに獣の咆哮が鳴り響かんとしていたその時。ことり、と五代の前におでんの盛られた器が置かれた。マニキュアだろうか、緑色の爪が一瞬ながら目に映り、それが今の今まで扱っていた野菜を連想させさらに食欲が刺激される。

 

「おでんのお供に、これはいかが?」

 

早速目の前の箸立てに手を伸ばした五代に、若女将は口元で何かを傾ける仕草をした。幼く見える外見からは想像しがたいやけに堂に入った動作は、その手が持つであろう何かを容易に幻視させる。

 

「それはまた、今度来た時に。まだちょっと、お金の使い方がいまいち分からないから」

 

要は、彼女は酒を勧めているのだ。屋台なのだから当然ではある。五代も酒が飲めないわけではなく、そのちょっとした贅沢の為に少しばかり仕事を頑張った事もある。酒豪が謙遜して言うのではない、本当の意味での嗜む程度。ワインとチーズしかり、ビールとソーセージしかり。

 しかし、旅先に着いてすぐ、なんて文字通りの酔狂な真似はしない。現地の貨幣価値を理解しておかなければ、すぐに財布に寒風が吹く事になる。ゆえに、まずは働きながら嗜好品なしの生活を送り、お金の価値を知るのだ。長い旅の経験からさほど時間は要しないものの、それも美味い酒、その土地ならではの味を楽しむ為。じっと我慢の五代であった。

 自ら勧めると言う事は、よほど酒に合うおでんなのだろう。大根、玉子、ちくわぶ、昆布、いずれも実に美味そうだ。だからこそ、次の来店までに幻想郷における金銭感覚を養わなければ。表面上は控えめながら、五代は鉄の意思で若女将の誘いを断った。

 

 熱々の大根を口に放り込み、あちち、などと言いながらその味を堪能する。なかなか分厚く切ってあるが、しっかりと煮込まれたであろうそれは何の抵抗もなく箸が芯まで通り、そしてだしの利いたつゆが奥の奥まで染み込んでいる。外の世界でこんな大根を出されたら、間違いなくその屋台は当たりと言えよう。これは、他の具も期待出来そうだ。

 はたと卓の隅に置かれた練りからしの壺に気付き、嬉々として皿の縁に盛る五代。そんな彼を、若女将は訝しげに見ていた。開いたヤツメウナギを一口大に切り分け、串に刺しながら。無論、これだけにこにこしながら食べてもらえるならば本望である。いっその事、自分もこの串を放り出しておでんを盛り、隣に座って食べたいくらいだ。

 

「ねぇ、お客さん。貴方、外から来たんでしょ?」

 

「ふぇ? んぐんぐ……、そうですよぉ。あぁ、このからしがまた……!」

 

口に含んでいた昆布を飲み込み、肯定。ぎゅっと目を瞑っておでんとからし独特の辛味の調和を楽しむ五代に、若女将はこう続けた。

 

「外の世界の屋台では、みんな仮装してるの?」

 

「仮装? いやいや、そんな事は……」

 

わけの分からない事を聞かれ、半笑いで否定しようとした五代は、そこでようやく若女将の全身を視界に捉えた。

 素朴な着物の上に純白の割烹着を着込み、揃いの色の三角巾が桃色の髪に良く映える。人懐こそうな笑顔は、まさしくこの屋台の看板と言えるだろう。屋台を切り盛りするにはいささか若く見えるが、早々と独り立ちしたのかも知れない、と想像し──背中に生える紫と白の翼と、耳元の小さな羽に目を見開いた。

 

「……えっ、あれっ? それ、仮装……?」

 

「もしかして、気付いてなかった? 私、妖怪なのよ」

 

言葉を失った五代に、若女将は舌なめずりしつつ翼を揺らして見せた。ゆらゆらと揺れるそれは、形こそ鳥の翼のように見えるが、毒々しい紫色からどことなく羽蟲のような──蛾のような印象も受ける。

 常人ならば驚くところなのだろう。人によっては、かの有名な怪談『(むじな)』がごとく椅子から転げ落ち、他の誰かを求めて逃げ去るかも知れない。

 しかし、ここにいるのは笑顔のエキスパート、五代雄介である。さすがに驚きはしたが、すぐに気を取り直し、

 

「お風呂でのぼせてたのと、お腹が減ってたからかな。全然気付きませんでしたよ」

 

さらりと言ってのけた。これには逆に若女将が驚き、外には妖怪なんていないでしょう、食べさせられて太らされて襲われちゃうかも知れないよ、とまくし立てた。どう言う原理か、緑色の爪は数倍の長さまで伸び、お前を切り裂いてやるぞと、提灯の柔らかな灯りを反射している。ところが五代はからしをお代わりし、

 

「だって、人を襲うような笑顔じゃなかったですし。お客さんが来て嬉しいって顔でした」

 

己も笑顔を見せた。

 笑顔にも質がある。安堵、歓喜、悲壮、嗜虐その他諸々。笑顔を第一の技とし、みんなの笑顔を追い求めた彼に、見分けが付かないわけがないのだ。平然と宣って玉子を半分に割り始めた五代に、若女将は、

 

「……ぷっ。あはは、お客さん面白いね!」

 

破顔一笑、舌と爪を引っ込めた。

 

 タレをたっぷり付けたヤツメウナギが、じゅうじゅうと炭火で炙られる。皿を空にした五代は、蒲焼きを待つ間の手慰み代わりに、若女将に問うた。どうして人間の里で、妖怪が屋台をやっているのか、と。無論、単純な疑問ゆえである。

 

「最初はね、狡っからい悪巧みだったのよ。夜雀って妖怪、聞いた事ある?」

 

串を返し、刷毛でタレを塗りながら若女将が語る。

 若女将は夜雀の妖怪であり、人間を鳥目にする能力を持っている。鳥の妖怪として焼き鳥が許せなかった彼女は、その能力とヤツメウナギに着目し、焼き鳥を撲滅せんと屋台を始めたそうな。

 

「ヤツメウナギは鳥目によく効くの。だから、人間をこっそりと鳥目にしてヤツメウナギを食べさせて。それで焼き鳥を幻想郷から一掃しながら一儲け、ってわけ」

 

幼い外見でなかなかえげつない事を考えるものだ。だが五代は口を挟まず、彼女の話に聞き入る。まだ、あの笑顔とは繋がらない。

 

「お店をやるのに、まずは寺子屋に入って読み書きそろばんを習ってね。ついでに面白くない歴史のお勉強も──まぁ、それはいっか。それで妖怪仲間とガラクタから屋台を作って、お金を出し合って材料とか道具とか準備して……」

 

楽しかったなぁ、わくわくしたなぁ、と遠い目をしながら呟く若女将。それでも手の動きに迷いがない辺り、四年や五年程度では利かない経験を感じさせる。

 

「でね、だんだんとお客さんが増えて、友達にもお金を上乗せして返し終わって。その頃だったかな」

 

 ある日、客の波が引いて一息つこうかとした時。良い具合に『出来上がった』三人組の男たちが暖簾をくぐった。噂に聞く、妖怪が焼くヤツメウナギとやらを食べてみようじゃないか、と酒の勢いに任せて訪れたらしい。やたらと陽気な彼らに、じゃあ味わってもらおうじゃないの、と三人前を焼いて提供すると、その味をいたく気に入ったようで、それから事あるごとに顔を出すようになった、と。

 

「鳥目にした人間は、治るとそれきりって人ばっかりでね。初めての常連さんよ。いつも酔っ払ってうちに来て、ヤツメウナギとお酒を注文するの」

 

こんな風にね、と話を区切った若女将は、卓にヤツメウナギの蒲焼きを乗せた皿と、徳利を置いた。頼んだ覚えのない酒に驚いた五代だが、若女将は笑わせてくれたお客さんにお礼だよ、とウィンクを一つ。

 

「常連さんを増やす、えーっと……、あれよ。『せんこーとーし』ってやつ!」

 

初めての常連が好んだ味を覚えて、また来て欲しい、常連になって欲しいと言う事か。であるならば、ありがたく頂戴しよう。五代は一緒に置かれたお猪口に酒を注ぎ、蒲焼きを一口。

 ウナギと思って口にすると、まず食感の違いに驚くだろう。まるでふわふわとしておらず、ぐっと身が締まり弾力に富んでいる。どちらかと言えば肉を食べている感覚に近い。噛み締めるたびにほのかな鉄臭さと魚臭さが口中に漂うが、それも濃厚なタレの味と香りと合わさり、えも言われぬ独特の風味となる。確かにこれは、癖が強い。だが、好ましい味だ。

 それらをまとめて燗つけされた酒で胃袋へと流し込むと、今度は腹の底から熱がこみ上げ、味覚が爽やかな風に吹かれたような清涼感に満たされる。

 

「美味しい……!」

 

「でしょ? ヤツメウナギに合うお酒探すの、それなりに苦労したんだから!」

 

これはもう止まらない。むしろ、その三人組が来るまで常連がつかなかった事が不思議な程だ。

 夢中で蒲焼きを楽しむ五代を眺めながら、若女将は続けた。

 

「その常連さんたちね、いつも新しい話で馬鹿みたいに笑って、下手くそな歌で盛り上がるんだ。他のお客さんも巻き込んで、夏場なんかはそこの川に飛び込んだり」

 

彼女は料理上手なだけでなく、話し上手でもあるようだ。くすくすと笑いながら愛おしげに語る情景は、その場にいなかった五代でもありありと目に浮かぶ。歓声と共に響く水飛沫の音までも聞こえて来そうだ。

 

「私はいつも、愛想笑いで適当に相槌を打ってたんだけど、いつだったか、気まぐれで一緒に歌ったのよ。そしたらそれが、何だかすごく楽しくなっちゃって」

 

それをきっかけに、彼女の姿勢は一変したそうだ。おでんを見繕っていた時の歌も、客に自分から話し掛けるのも、その日から始めた、と。

 

「ろくでもない考えで始めたけど、今は凄く楽しい。お客さんが来てくれるのも、ヤツメウナギを食べて笑ってくれるのも。だから、もう人間を鳥目にするのもやめちゃった」

 

そう言い切った若女将の顔は、とても晴れ晴れとしていて。それが最初の笑顔に繋がった五代は、彼女がとても眩しくて。

 

「女将さん、これ」

 

徳利を、若女将に差し向けた。

 人間を鳥目にし、さらにそれを商売に利用する。お世辞にも褒められた行為ではない。だがその根底にあるのは夜雀として生まれた彼女の(さが)であり、五代には非難する権利も、裁く権利もない。

 五代は、嬉しいのだ。始まりまで遡る事は出来ない。である以上は、今こそが大事。若女将が人間と触れ合い楽しさを見出した事が、彼女の満面の笑顔が絶品のヤツメウナギにも勝る看板である事が、無性に嬉しいのだ。人ならざる者が人と共にある。それは五代にとって、掛け替えのない宝に等しい。

 

「俺、また来ます。この屋台、凄く気に入りました!」

 

「あら、ありがとう! 私の商才も捨てたもんじゃないわね。それじゃ、ご返杯」

 

据え付けの棚から取り出したお猪口で五代の酒を受けた若女将は、それを一旦置いて徳利を受け取り、彼の盃に酌む。それから互いに掲げてふふと笑い、

 

「最初の常連さんに」

 

「新しい常連さんに」

 

「乾杯」

 

お猪口を軽く打ち合わせた。

 

 

 

 ほろ酔い気分で屋台を出た五代。顔色は素面と変わりなく、一合の日本酒程度で千鳥足になる程酒に弱いわけではないらしい。そもそもそこまで酔っ払った事もなさそうではあるが。

 もう少し長居すれば最初の常連さんと会えたのかな、どんな人たちなんだろうな、などと考えながら歩くうちに、寺子屋に到着。玄関先にはマッチと、真新しい蝋燭が立てられた簡素な燭台が置かれている。夜間はこれを灯りにして歩けと言う事だろう。マッチはそのまま、宿直室の七輪や行灯の着火にも使える。

 

 燐の香りを楽しみながら蝋燭に火を灯し、静まり返った寺子屋内をそろりそろりと歩く。別段深い意味はない。夜の校舎と言う絶妙なロケーションが、五代を忍者モドキへと変身させたのだ。元が立派な屋敷だけあって、怪談話とは無縁な雰囲気ではあるが。早い話が、気分的なものである。

 昼間の記憶を頼りに廊下を歩いていると、ある一室の襖の隙間から光が漏れ出ているのに気付いた。記憶を掘り起こしてみると、そこは昼食を食べた部屋、資料置き場兼慧音の自室。と言う事は、こんな時間まで残って仕事をしているのだろうか。己も仕事をこなして来たとは言え、風呂と夕飯に加えて酒まで嗜んで来た事が急に恥ずかしくなった五代は、せめて一言挨拶しようと部屋へ歩み寄った。

 

「先生、ただいま戻りました」

 

 小さく咳払いをしてから、ややかしこまった口調で声掛けすると、室内からどうぞとの返し。失礼しますと断ってから襖をそっと開けると、行灯の光の中、座卓で何やら書き物をしている慧音の姿が目に入った。

 

「こんな遅くまでお疲れ様です。何か手伝える事はありませんか?」

 

さすがに調べ物や書き物は無理だが、彼女の周囲に山積みされている書物の整理くらいは出来る。そう踏んで助力を申し出たが、

 

「いや、丁度終わるところですよ。今後の授業予定が少し変わるので、内容を再確認していただけですから」

 

慧音は首をこきこきと鳴らしてから振り返り、ふんわりと笑った。

 

「夕飯はもうお済みで? まだでしたら、良いお店を紹介しますよ」

 

「ごめんなさい、もう食べて来ちゃいました」

 

美人のお誘いであれば、多少無理をしてでも乗るのが男と言うものであるが、そこは嘘をつけない五代雄介。正直に答えてしまった。

 

「ん、この香り……。もしかして、川端の屋台へ?」

 

「先生凄い、正解です! でも何で……?」

 

見事に言い当てられて驚く五代だったが、それに対しての慧音の答えは至って単純。蒲焼きのタレとあの酒の匂いがほんのり漂っていたからだそうな。そう聞いた途端、シャツの裾を軽くめくって匂いを確かめる五代。なるほど、言われてみれば確かに。

 

「私もあの屋台はよく行くんですよ。しかし、となると話は早いな……」

 

一人でうんうんと頷く五代、そして対する慧音もまた、顎に手をやって何やら頷いている。傍から見れば何とも奇妙な光景である。

 

「五代さん、折り入って相談があります。子供たちに好かれる貴方に」

 

ぽんと膝を打ち、慧音は五代にぐっと寄った。夜も更けた今、相談に乗って彼女の帰りがさらに遅くなっては不味いのではなかろうか、と逡巡したが、早い方が良いと押し切られ、居住まいを正す。

 

 そして、慧音の話を聞いた瞬間、五代は一気に酔いから覚めた。

 

「明日一日、私の代わりに授業をして頂けませんか?」




東方Projectと言えばお酒。少しばかり五代君をそちらの設定に寄せました。みすちーは二次創作のキャラ像からさらにマイルドに。

そして、おかみすちーと言えば前掛け、と仰る方が多いと存じます。そんな方々に私は声を大にして申し上げたい。
私は割烹着姿のおかみすちーに惚れた、と。


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第十六話 特別授業

ビックリマークがえらい多くなりました。後にも先にも多分このお話がぶっちぎり最多です。


 極まった余談ではあるが、人間の里にて店を構えるカフェは、さほど認知度が高くなかった。緑茶派が多いゆえにコーヒー自体があまり人々に受け入れられていないのである。

 しかし、外の世界から『モーニング』の文化が流れ着いた最近では、それがやや変わりつつある。トーストとゆで卵を食べ、コーヒーを啜りながら新聞──手描きのイラストではなく写真の載った、里の雰囲気からは少しばかり違和感を感じる物──を読む。このスタイルが粋でいなせな老若男女を引き寄せたのだ。五代と湯屋で語り合った男たちは、どちらかと言えば緑茶を好む、昔気質の者が多かったらしい。

 まぁ、サービス開始初期は砂糖とミルクの消費量が凄まじかったようだが。

 

 閑話休題。久々の焼き立てパンを堪能し、熱いコーヒーで少々寝不足気味の目を覚ました五代は今、寺子屋の教室前にいる。

 昨晩、一日教師の話を持ち掛けられた際に慧音に言われたのは、たった一つ。好きなようにやって欲しい、ただそれだけだ。内容は問わず、思うままに子供たちと過ごすところを見せて欲しい、と。その熱意に圧倒され、五代は半ば押し切られるようなかたちで一日教師の話を承諾したのだった。

 素人に対し指針もなしに好きなようにやれとは、何とも難しい注文。妹と共に保育園の子供たちを世話した経験はあるが、教師として教壇に立て、となると話は違う。

 読み書きや歴史は早々に諦めた。まず己が教科書や資料を読めない。小学生時代に授業で多少ながら扱ったそろばんならばどうかと考えたが、こちらも人に教えられるレベルとはとても言えない。ぱらぱらとめくった手引書も挿絵以外は見事にくずし字なので、小脇に抱えて自分が臨時教師であると知らしめる以外に使えたものではない。まさにないない尽くし。

 だが経緯はどうあれ、一度やると決めたからには全力。己が教えられる事を教え、楽しかったと思ってもらえるような授業をやってみせる。経験のなさからの妥協など一切考えない。子供騙しなども端から頭にない。子供たちに対しても、自分に対しても、そして教育者として一日を任せた慧音に対しても、それはあまりに失礼。

 こっそりと、襖をほんの少し開けて教室内の様子を窺う。服装は着物や洋服などばらばらだが、全員が並んだ座卓に正座し、慧音の入室を待っている。その中に、見知った顔を見付けた。昨晩世話になった、屋台の若女将である。少しばかり五代の心に安堵が訪れた。

 

「ところで五代さん、念の為に確認したいのですが」

 

「はい、何ですか?」

 

五代の斜め後方、二、三歩程の距離を取って立つ慧音が尋ねる。本当に、教材はそれだけで良いのか、と。彼の手元にあるのは、大きな紙と色鉛筆のセットのみ。読み書きそろばん、あるいは歴史を教えるのに十分とは決して言えない。しかし五代は、空いた手で親指を立てて見せ、

 

「大丈夫です!」

 

理屈では表せない安心感をもたらす笑顔を浮かべた。

 

 

 

 襖を開けて、まず慧音が入室。それに続いて五代も教室へと入った。見た事のない男性の登場に、一名を除いた全員がざわめく。

 

「彼の事が気になるのは分かるが、朝の挨拶からだ。日直は誰だったかな?」

 

慧音の凛々しい一声で、後列中程の位置に座っている少年が号令を発する。起立、礼、着席。頭を下げると同時に一斉に発した朝の挨拶が、教室を震わせた。元気一杯である。

 

「さて、まずは彼に自己紹介をしてもらおう。五代先生、よろしくお願いします」

 

すっと教壇の中央を譲られ、そこに収まった五代。内心で先生と呼ばれて気恥ずかしさを覚える彼に、生徒全員の視線が集中した。子供の視線と言うのは、これがなかなか迫力がある。否、迫力ではなく清らかさとでも言おうか。子供の目は己を写す鏡。邪な者が晒されれば、たちまち萎縮してしまう。

 

「初めまして! 外の世界から来た、五代雄介って言います。今日は、先生に代わって授業をする事になりました。よろしくね!」

 

尤も、五代には関係のない話。相手が子供だからと驕らず、一言一言に心を込め、先の挨拶に負けじと大きな声を張り上げて頭を下げる。それに釣られて、生徒たちも元気良く、よろしくお願いします、と返した。

 

「早速授業を……って言いたいんだけど、最初はみんなの名前を覚えないとね。先生、出席簿とかありますか?」

 

「座席表ならこちらに。みんな、五代先生に負けるなよ?」

 

簡素な木板に貼られた座席表を渡しながら、慧音が生徒たちを焚き付けた。心なしか、全員が体を前に傾けたような気がする。これは楽しい事になるな、と予感した五代は、座席表と生徒たち顔をちらちら見比べながら、ほんのわずか身構えた。

 

「それじゃあ一番前の子たちから。"チルノ"ちゃん!」「あたいがチルノだぁ!」

 

「"大妖精(だいようせい)"ちゃん! ……で、合ってるよね?」「は、はい、大妖精ですっ!」

 

「"リグル・ナイトバグ"ちゃん!」「私はちゃんと、ここに座ってるからね!」

 

「"ミスティア・ローレライ"ちゃん!」「はーいっ。昨日は毎度でしたぁ!」

 

「"ルーミア"ちゃん!」「はぁい。随分眩しい先生が来たね」

 

最前列に座る子らはいずれもなかなかに特徴的な名前──外見も翼が生えていたり髪の色が奇抜だったりと個性的である──であったが、打って変わって以降の子らは、どこか懐かしさを感じる名前ばかり。"茂吉"、"正三"、"清"、"きぬ"、"とよ"、"うめ"。

 それでも、総勢十一人の生徒たちに共通しているものがある。名前を呼ばれると、ぱっと手を上げて大きな声で返事をするのだ。打てば響く、と言う言葉がぴったりであり、まるでプロ野球選手のキャッチボール。どうやらこの子供たちは物怖じしない、おおらかな性格の持ち主ばかりのようだ。

 出席確認を終えた五代を、十一対の瞳が捉える。この先生はどんな授業をするんだろう、どんなお話をしてくれるんだろう。そんな、幼い子供ならではの期待がひしひしと伝わる視線だ。それを真正面から受けた五代は一つ頷いて、

 

「まずは机の上の教科書をしまって、机を全部端っこに寄せちゃおう!」

 

慧音を含む全員の目を丸くさせた。

 

 五代と慧音も手伝い、座卓が全て教室の脇に寄せられ、中央には全員が集まってなお余る空間が出来あがった。何を始める気だ、と目を瞬かせる慧音をよそに、五代はその真ん中に陣取って、手にした紙を広げる。

 

「よぉし。それじゃみんな、こっちに集合っ!」

 

恐らくこんな授業──座卓を使わない授業は初めてなのだろう。生徒たちはわくわくとした様子で彼の元に集まった。

 

「おー? これって里の地図か?」

 

「そう! 今朝急いで描いた割りには、なかなか上手く描けてるでしょ?」

 

ふんわりとした水色の髪の少女、チルノの疑問に、五代は胸を張って答えた。

 一日教師を頼まれて夜遅くまで考え抜いた五代は、朝早くに出勤した慧音に、人間の里の地図を用意してもらったのだ。それを同じく頼んだ大きめの白紙に描き、こうして持ち込んだ、と。里を俯瞰したようないわゆる白地図であり、建物と道路だけが描かれている。

 夜更かしし、慧音を待つ為に太陽が顔を出すより前に起き、それから大急ぎで地図を描き写し、朝食で短い休息。それでも五代の顔に疲労の色はない。彼もこの授業が楽しみだったのだ。

 

「今日はこの地図を使って、歴史を勉強します!」

 

「この地図で? もしかして宝探しとか!?」

 

子供らしい清の発想に頬を緩めた五代は、ほんのりザラザラする彼の丸刈り頭を軽く撫でつつ、色鉛筆セットから赤色を取り出した。

 

「宝探しってのも間違ってないかな。みんなが見付けた宝物を探すんだからね」

 

みんなが見付けたお宝。この物言いがどうにもしっくり来ずその場の全員が首をひねる。

 

「歴史って言うのは、なにも昔の偉い人や文化を勉強するだけじゃない。泣いて、笑って、怒って、楽しんで。そうやって、誰だって自分だけの歴史を作って生きてる。もちろん俺もそうだし、みんなもそう」

 

人であれ動物であれ神であれ妖怪であれ、それに例外はない。幻想郷においては、物ですらも歴史を有する。それは誰あろう慧音が、身を以て理解している。

 

「みんながこの里で過ごして来た歴史。その中で見付けた大好きな物や場所は、いつまでもきらきら光って、心に残るんだよ。それって、凄く素敵な宝物じゃないかな」

 

「せんせー、そう言うのって、大人になっても忘れないの?」

 

とよが手を挙げて放った質問。彼女の顔には、いささかの不安が見て取れた。大人になったら昔の事を忘れるんじゃないか、と。友達との思い出も忘れてしまうんじゃないか、と。大人になる事への不安。しかし五代は自信を持って、大きく頷く。

 

「俺ね、外の世界では色んな所を旅して来たんだ。日本だけじゃなくて、海を渡って他の国にも。色んな人に会って、色んな風景を見て。どれもこれも忘れられない思い出だけど──」

 

とんとん、と自分の胸の辺りを叩いて、

 

「──子供の頃の思い出は、ここに大切にしまってあるんだ。だから絶対に忘れない。みんなもいつか、きっと分かると思う」

 

とよの瞳を見つめ、そして一人一人と視線を合わせながら、優しく、安心させるように笑った。

 

「今日の授業は、みんなの宝物を教えて欲しいんだ。大好きな物、場所、人。昨日ここに来たばっかりの俺にね」

 

授業って言えるのかな、と頬を掻きながら苦笑する五代。しかし生徒たちを見渡すと、みな一様に白地図へ視線を落としている。隣同士で相談したり、腕を組んでいたり。

 ふと、五代の背中にぐっと重みが掛かった。おっとと、と軽い衝撃に踏ん張ると、顔の真横に手が。

 

「ゆーすけ! あたいと大ちゃんのお気に入りはここだ!」

 

「チルノちゃんか、どこどこ?」

 

新雪を彷彿とさせる真っ白な指を追うと、そこは湯屋のある大通り。あぁ、あの辺か、と頭の中にその風景を思い出しながら、五代は赤丸を描いた。

 

「えっとね、えっとね、ここは……」「チルノちゃん、ちょっと待って!」

 

そのまま自分のお気に入りを語ろうとするチルノに、五代から待ったが掛かる。少し不満げな顔を横目に見ながら、彼はこう説明した。それは後のお楽しみ、今は我慢してね、と。

 

「チルノちゃん、雄介先生の言う事聞こう? それと、ちゃんと先生って付けようね?」

 

「むぅ、大ちゃんが言うなら……。でも、ゆーすけはゆーすけだよ、あたいはゆーすけって呼ぶからな!」

 

「もう、チルノちゃんったら……。雄介先生、ごめんなさい」

 

「大丈夫、俺は気にしないから! さぁ、チルノちゃんと大妖精ちゃんみたいに、友達と一緒でも良いよ!」

 

渋々了承したやんちゃっ子のチルノに礼を言って、五代は生徒たちを振り返った。すると堰を切ったように、子供たちが前のめりになって、地図のあちこちを指差す。

 

「俺はここ!」「清君はここだね、ここは何があるんだろう?」

 

「オイラはここだなぁ」「茂吉君のお気に入りはここ、と。ここは広場だったかな?」

 

「私たちはここがお気に入りなの、雄介先生!」「きぬちゃん、とよちゃん、うめちゃんはここか。建物じゃないんだね、楽しみだ!」

 

「僕はね、僕はね、ここがお気に入りなんだ!」「正三君のお気に入り、まーる描ーいてっと!」

 

「色々あるけど、私たちはやっぱりここね」「ルーミアちゃん、リグルちゃん、女将さ……ミスティアちゃんはここ、って小太郎さんのとこか!」

 

次から次へと、白地図に赤い丸と名前が書き込まれて行く。驚く事に、五代はとっくに座席表を手放している。なのにすでに生徒全員の顔と名前が一致しているのだ。見慣れぬ漢字はさて置くとして、彼は並外れた記憶力の持ち主。ましてや子供の笑顔となれば、即座に覚えられぬわけがない。

 

 さて、全員のお気に入りを聞き、みなの前には赤丸が六つ描かれた白地図。しかしそこが何なのか、何があるのかは、示した当人しか分からない。これから何が始まるんだろう、とわくわくする生徒たちに、五代はこう告げた。

 

「それじゃあみんな、お弁当を持って玄関前に集合!」

 

「……はい?」

 

慧音が思わず声を漏らした。ただでさえ自分とは違う授業だった事、そこからさらに寺子屋の外に出ると言われ、頭の中の疑問符が溢れ返ったらしい。

 だが、生徒たちは違った。慧音とは別の先生、いつもと違う授業、そして授業中に寺子屋の外へ出る非日常的体験。高揚した気分は上限を軽く突破し、

 

「最強のあたいが一番乗りだ!」

 

「あっ、ずりぃぞチルノ! 俺が一番だっての!」

 

まず最初に、チルノと清が駆け出した。触発された残りの生徒たちも、跳ねるように後を追う。ややのんびり気質と見える茂吉を殿(しんがり)とした一行は、弁当の包みを引っ提げてあっと言う間に教室から姿を消してしまった。

 

 残された五代は、白地図を折り畳んで背伸びを一つ。ポケットを探ってちゃりちゃりと音を立て、それから未だに二の句の継げない慧音を見やった。

 

「俺が通ってた小学校の裏に、カブトムシがよく捕まえられる林があったんですよ」

 

「カブトムシ……ですか?」

 

何の話か分からない風の慧音から視線を外し、子供たちが出て行った襖を見ながら、昔を懐かしむように続ける。

 

「自分だけのものにしたらカブトムシ王になれるけど、それじゃ楽しくないな、って。だから友達みんな誘って教えたんです。みんなで虫網と虫カゴ持って、麦わら帽子被って……」

 

「その林が、五代さんのお気に入りだったんですね」

 

優しい声に、小さく笑んで頷く。

 

「誰にも見つからない秘密の場所だったり、路地裏でひっそりやってる駄菓子屋だったり。子供ってみんな、絶対一つはお気に入りの場所があるんですよ。それで、秘密にしてても誰かに伝えたいって思ってる」

 

「それを生徒たちに教え合わせる、と?」

 

「自分の好きな事を伝えるって、難しいけど凄く大事な事だと思うんです。それで友達が増えたり、また別のお気に入りが出来たり。その楽しさを、子供たちに教えたいなって」

 

もう知ってるかもなぁ、と笑う五代。そんな彼に慧音はすっと歩み寄り、地図を広げ直すよう促して、

 

「……少なくとも私は、知りませんでした」

 

赤鉛筆を受け取って、里全体を囲む大きな丸を描いた。

 

「私は教えられませんでした。今日は私も、貴方の生徒ですね。……さて、私も弁当を取って来ないと」

 

子供っぽく笑って赤鉛筆を返し、襖から出て行く慧音。気負いとは違う、柔らかい何かが肩にそっと乗せられたような錯覚。五代はこみ上げてくる感情に任せて、頑張るぞ、と小さく、だがしっかりとした声で呟いた。

 

 外は快晴。日はまだ昇り切っていないが、柔らかな光が里に満ちている。絶好の遠足日和。

 その中に、黒がひとひら紛れ込み、空へ溶けた。




これは授業と言えるのか。
そして平均文字数がガスガス増える不思議。


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第十七話 キミのお気に入り

別に前回がビックリマーク最多じゃなかった。


 本日の日直を務める正三と、優等生のような雰囲気の大妖精が最前列に立ってまとめる事で、生徒たちはめいめいおしゃべりをしながらも整列していた。そこへ五代と慧音が現れると、ぴたりと静かになるが、それでもそわそわとした空気は隠し切れていない。

 五代もその気持ちはよく分かる。遠足出発前、行先に思いを馳せ、弁当と持ち込んだおやつの味に心中で舌なめずりし、昼食後に友達と何をして遊ぼうかと考える。その思いを今、彼と生徒たちは時間を超えて共有しているのだ。

 だが、今の五代は臨時とは言え教師である。わくわくしているのは同じだが、出発に際し、注意すべき事を伝えなければならない。

 

「これから、みんなに教えてもらったお気に入りの場所を一つ一つ見て行って、そこの何が大好きなのか、他の子たちに発表してもらいます!」「はーい!」

 

「ちゃんと先生の後に付いて来てね。それと、発表してる時はおしゃべりしないで、ちゃんと聞いてあげましょう!」「分かりましたぁ!」

 

注意と言うよりはお願いのようである。しかし生徒たちは、手を上げながら元気よく返事を返した。この様子ならば、特に心配はいらなさそうだ。

 

「よぉし、それじゃ出発進行!」「おー!」

 

掛け声と共に握り拳を掲げ、一同は寺子屋の門を潜った。子供たちから見えないのを良い事に、慧音が最後尾でひっそりと真似をしていた点には、あえて触れずに。

 

 

 

 地図を広げた五代を先頭に、二列縦隊で道を行く。その様はさながら、カルガモの親子のようだ。道行く人々は、こんな昼間に見慣れぬ男を先頭に歩く寺子屋の生徒に首を捻り、後ろの慧音を見てどこか得心行ったように笑う。中には、「行ってらっしゃい」と手を振る者も。

 

「雄介先生、この道順はもしかして?」

 

行き先に気付いた、緑色の髪から触覚が伸びるボーイッシュな少女──リグルが問うた。

 

「正解っ。最初はリグルちゃんたちのお気に入りからだよ!」

 

「わぁ、やっぱり! みすちー、ルーミア、どうしよ!?」

 

返答を聞き、途端に色めき立つ三人。まさか自分たちが一番手だとは思っていなかったらしい。誰かの発表を聞き、それを参考にしようと思っていたのかも知れない。

 順番に関しては特に考えていたわけではない。二箇所は頃合いを見て向かうつもりだが、その他は寺子屋から近い順である。

 そんなリグルたちに、五代から声が掛かった。

 

「こう言うのは、聞く側には結構伝わるんだよ。こう、目力って言うのかな。それと声の調子とか、身振りとか。自分が好きなものなんだ、思い切ってぶつければ良いんだよ」

 

一旦足を止め、拳を握って説く五代の姿に、生徒全員が聞き入る。それはまさに、彼が自分の思いを伝えようと懸命になっている姿そのものであり、だからこそ説得力に溢れている。

 

「ですよね、先生?」

 

「あー、今日は私も生徒なんですが……。まぁ、言霊はみんな知っているな? 言葉には力が宿る。自分がその場所をどう思っているか、それを思い返しながら話せば、きっと大丈夫だ」

 

同意を求められていささか動揺した慧音だが、五代とはまた違う方向の、幻想郷らしさと教師らしさを感じる助け舟を出した。慌てていたリグルたちも、二つの助言に落ち着きを取り戻したようだ。これも彼女たちを安心させようと言う言霊であろう。

 

 そうこうしている間に、一行は青物問屋前に到着した。門の奥では小太郎をはじめ、むくつけき男たちが大八車に野菜を慌ただしく積み込んでいる。これから出荷らしい。

 

「ん? おぉ、五代の兄ちゃんじゃねぇか! 暇なら稼いで……って、今日はえらい大所帯だな」

 

額から流れる汗を拭いながら、五代に気付いた小太郎が駆け寄って来た。が、彼の後ろに続く行列を見て、目を丸くする。

 

「ごめんなさい、今日は寺子屋の授業で来たんです。ミスティアちゃんたちのお気に入りの場所がここみたいで」

 

「へぇ、ミスティアってぇと、川端の屋台の嬢ちゃんか。上得意さんのお気に入りたぁ嬉しいねぇ」

 

満更でもなさそうに笑う小太郎に、五代は本日の授業の趣旨を伝え、出来れば邪魔にならない場所で作業を見学させてもらえないか、と持ち掛けた。

 

「おぅ、構わねぇよ。入って右でも左でも、好きな方から見てってくれや」

 

門前で話を聞いただけでは、ミスティアたちが何を気に入っているのかは伝わりにくいだろう。そう考えての提案を、小太郎は快く承諾した。一同揃って礼を言い、門を潜って敷地内へ。作業中の男たちが手を振りながら挨拶すると、生徒たちも特に何かを言われるまでもなく、腹の底からの返事を返した。

 作業の場から少し離れた位置に全員が腰掛け、その前にミスティア、リグル、ルーミアが立つ。小太郎を含めた男たち全員の作業の手が、心持ち緩んだように見えた。

 

「えっと、ここにはみすちーが屋台を始める時に、ルーミアと野菜の配達をお願いしに来たの! それでね──」

 

リグルがここを知ったきっかけを話し、

 

「妖怪が屋台をやる、なんて鼻で笑われるかと思ったよ。でもここの旦那さんは、面白そうだから一枚噛ませろ、って乗り気でね。小太郎おじさんってば──」

 

ルーミアが小太郎の人となりを語り、

 

「おかげですっごく美味しい野菜が届くんだよ。八百屋さんも他のお店も、野菜が新鮮で美味しいのは、こことお百姓さんたちのおかげ! みんなもたくさん食べようね!」

 

ミスティアが品物の質を称える。緊張が見え隠れしているが、それでも堂々とした発表。そんな彼女たちへ、一拍の静寂の後、万雷の拍手が送られた。五代や生徒たちだけでは到底出し得ない音。それはいつの間にやら作業の手を止めて聞き入っていた、青物問屋の小太郎たちのものであった。

 

「ありがとうよ、嬢ちゃんたち! 次の注文はちょいとおまけしてやらぁ!」

 

鼻を擦った小太郎がそう言うと、男たちから歓声が上がった。自分たちが取り扱っている物が評価され、上司がそれに応えた。仕事人として誇りを持つからこその、感情の表れであろう。

 その只中にあった三人は、気恥ずかしさから顔を真っ赤に染め、小太郎たちにぺこりと一礼して生徒たちの中に混ざった。多勢から注目される事に慣れていないのかも知れない。

 

「それじゃ、みんなでお礼を言おうか。ありがとうございました!」「ありがとうございましたぁ!」

 

彼女らの代わりに前に出た五代が深々とお辞儀をし、生徒たちも真似をするように礼を述べた。

 

「おぅ、こちらこそありがとな! オメェらも野菜をたくさん食って、元気に育てよ!」

 

小太郎を筆頭に、男たちも口々に感謝を伝える。その声を背中に受けながら、一団は青物問屋を後にした。

 

 

 

 お気に入り巡りの行脚は続く。

 きぬ、とよ、うめのお気に入りは、青物問屋からほど近いとある建物の角。やけに手入れされた箱が積まれたそこは、三人がいつも見に来る人形劇の会場だそうだ。

 

「人形使いのお姉さんが、毎週決まった日にここに来るの!」

 

「お人形さんたちが生きてるみたいに歌ったり踊ったり、それがとっても可愛いんだ!」

 

「私もあのお姉さんみたいな美人になりたいなぁ……。雄介先生も、会ったらきっと惚れちゃうよ!」

 

女の子特有の賑やかな様子での発表に一同が聞き入り、その背後、やや離れた位置で、

 

「あら、今日は誰か別の演目でもやってるのかしら? だけどそれにしては……」

 

太陽の光を集めたような金髪の美少女が遠巻きに彼らを見つめ。

 

 続く清のお気に入りは、川に架かる橋のたもと。道が交差してやや広くなっているそこは、彼曰く、激戦区なのだそうだ。

 

「山の神社の姉ちゃんとか、近くの寺のお坊さんとか、妙に男前な姉ちゃんとかが、いつもここで勧誘やっててさ。たまにかち合った時なんか、自分たちの良いとこをムキになって言い合って、それがおもしれぇんだ!」

 

男前の姉ちゃんはともかくとして、神社の関係者と寺の僧侶となると、ここは信徒集めの場となっているらしい。

 

「さてと、今日も……って、人がいっぱい。……あれ? あの人、どこかで見たような?」

 

「貴女方も来ていたのですね。今日は、そんな雰囲気ではないようで」

 

「アレをやっている前に出るのは得策ではない、か。日を改めよう」

 

おどけて物真似をする清を見て、新緑の髪色の美少女、網代笠を被った美女、紫のマントを羽織った美女が苦笑混じりに引き下がり。

 

 午前最後を飾ったのは、中央通りから少し外れた所にある、草花の茂る広場。ここをお気に入りとする茂吉は、前に出るなりごろんと寝転がった。

 

「ここに寝転ぶと、空がきれいに見えんだ。オイラ、ヤな事があるといっつもここに来て、空を眺めるのが好きなんだぁ」

 

百聞は一件に如かず。全員で横になってみると、なるほど、周囲に建物がないお陰で、眼前には一点の曇りもない青空のみが広がる。こうしていると、大地を背負って空を見下ろしているかのように錯覚しそうである。人の営みの中でこの絶景は、なかなか見付けられるものではない。五代も、慧音も、そして生徒たちも、一様に感嘆の声を漏らし、ただ空に見入っていた。

 

 

 

 午前最後とは、ここを一旦の区切りとする事。すなわち昼食の時間である。中央通りへひとっ走りし、屋台で軽食を買った五代が広場へ戻ると、生徒たちは車座になって彼の帰りを待っていた。否、一箇所のみが空き、その両隣に胡座をかいた清と正三が、ここに座りなよと手招きしている。その言葉に甘えて割って入り、全員でいただきます、と手を合わせた。

 食事を外で食べる事はままあれど、級友全員と一緒に、と言うのはなかったらしく、各々の顔にそんな色が見て取れる。五代もどこか安心した顔で竹皮包みからおにぎりをつまみ、頬張った。屋台の主人が握ったであろうそれは、適度な硬さで口の中で良く解れる。具の梅干しも柔らかく漬かっており、米との食感の違いが楽しい。誤って種を噛んで、口を抑えてぷるぷる震える姿を晒したのもご愛嬌。むしろ生徒たちにさらなる笑いを提供出来た、と怪我の功名精神を発揮する五代だった。

 

 それぞれのお気に入りで話に花が咲いた昼食を終え、自由時間。広場から出ないようにと注意を受けた生徒たちは、おしゃべりを続けたり、だるまさんがころんだに興じたりと、思い思いに食後の余韻を楽しんでいる。その広場の片隅で、五代は手帳を開いていた。ちらちらと子供たちを見ながら筆を走らせる彼の姿に首を傾げ、慧音がその隣に座って覗き込む。

 

「あの子たちの絵、ですか?」

 

口角を少し和らげて頷いた五代の絵は、まだ下描きながら実に躍動感に溢れるものだった。忙しなく動き回る子供たちを見事に捉えている。

 

「初めて先生になった記念に、って。それと、幻想郷を旅した記念にも」

 

一度筆を止めた五代がページを戻す。先日描いた永遠亭に、慧音は思わずほぅ、と唸った。

 

「旅の記録ですか。私は旅などした記憶がないので分かりませんが、そうやって振り返るのも楽しいのでしょうね」

 

「そうなんです! 眺めてると、そこを歩いた記憶がぶわぁって」

 

記憶と五感。その二つで思い出に浸る感覚は、経験した者にしか分からない。そう言えば、自分はこの閉じた楽園を歩いた事がないな、と、楽しげな五代を見つめながら不思議な衝動に駆られる慧音だった。

 

* * *

 

 そんな二人と生徒たちを見つめる、無機質な目が一つ。ふふ、と笑うと、たちまち姿を消してしまった。後に残るは、黒い残滓。それもまた解れるように消え失せ、空の青のみが広がった。




遠足のおやつをうまい棒とか○○さん太郎尽くしにするのは鉄板。


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第十八話 境界の神社

あくびって書くとリアルにあくびするのって、これも釣られてるんでしょうかね。


 午後の部を終え、ほくほく顔で寺子屋へと戻った一行。人里をぐるりと回って来たわりには、随分と元気が有り余っているように見えるが、それには無限とさえ思える子供らしい活力とはまた別に、わけがある。

 

 正三のお気に入りは中央通りの洋菓子店。その軒先で、そこの菓子がどれだけ美味いのかを語る正三。それが思いの外伝わったようで、生徒全員の目が彼ではなく店内に陳列された菓子に向かってしまった。

 そこで五代は、少々予定外だったが躊躇う事なく切り札を切った。八意永琳から受け取った一円札である。この一円で生徒全員と、やはりちらちら菓子を見ていた慧音に、焼き菓子を振る舞ったのだ。

 五代には、この金を自分の為に使うつもりなどなかった。そも旅先で誰かから路銀を恵んでもらった事などなく、あくまでも自分で稼いでいたのだからして。それに、この金で誰かの笑顔が見られるなら、それこそ八意永琳への最高の土産話となる。

 そしてそれは、チルノと大妖精のお気に入りである団子屋も同様。感情に任せたチルノの演説をフォローする大妖精であったが、やはり生徒たちの目は中で売られている団子に釘付け。そんな様子に気付いた五代は、二人の発表が終わってすぐに店内へ入り、今度こそ予定通りに人数分の三色団子を買ったのだった。

 外に並べられた縁台に腰掛け、和気藹々と団子を頬張る子供たちを眺め、己も舌鼓を打ちながら八意永琳への感謝を心中で呟く五代。ほのぼのとした非日常が、そこにはあった。

 

 玄関先に慧音と並び立ち、臨時教師としての本日最後のお勤め。生徒たちの見送りである。

 

「慧音先生、雄介先生、さよーなら!」「今度はいつ、雄介先生の授業があるの!?」「またね、先生!」

 

鞄を提げて手を振りつつ、二人に別れを告げて帰路に着く子供たち。その姿を見送る五代の胸には、形容しがたい満足感が宿っていた。

 最後に、間延びした声で挨拶した茂吉を見送って伸びをする。中途半端をしたつもりはないが、あぁして次を期待してくれている以上は、その機会があればより良い授業をしたくなる。今日の夜は、下描きに色を塗りながら一日を振り返ってみるとしよう。一日の締め括りを、五代はそう決めた。

 次をより良く、そしてまた次をさらに良く。それは、どことなく旅に似ている。次に行く時は別の所を周ろう、食べ損ねたあれを食べよう。そうして見聞を深め、楽しむものだ。であるならば、根っからの冒険野郎である五代が燃えるのも必然であろう。教師に限る事ではなく、まさに彼の歩んで来た道程そのもの。中途半端を嫌う彼だからこそ、なのだ。

 

「こうなるとは思っていましたが、見事に好かれましたね。これは、また五代さんの授業を入れないと顰蹙を買うな」

 

「俺はいつでも大丈夫ですよ。小太郎さんからも好きな時に来てくれ、って言われてますし」

 

いつも暇してるようなものですよ、と添えてあくびを一つ。睡眠不足気味なのか、さすがの五代もいささか辛そうだ。しかし、瞳は変わらぬ輝きを放っている事から、今眠るのはもったいない、まだ日が高いのだから、と心躍らせているのが窺える。

 そう、冬ではあるが日没にはかなりの時間がある。少しばかり遠出しても日帰り出来そうな頃合いだ。

 

「そう言えば五代さん、滞在はいつ頃までの予定ですか? まさか一両日中と言う事はないでしょうけれど……」

 

人里か、外かと考えていると、慧音からの質問。だが明確な答えは返せない。五代自身も、ここへ招いた八雲紫も、特に滞在期間を定めていないのだ。それに、彼はどうやって外の世界へ帰るのかも知らない。招かれた以上は帰れるはずだが。

 

「ふむ。いつ帰るにしても、面通しくらいはしておいた方が良いかも知れませんね。あの子は少々、面倒臭がりやですので」

 

はて、あの子とは誰だろう。外への帰還に関係する人物ならば、気にならぬはずはない。尋ねてみると、慧音は東に見える山を指差した。

 

「『博麗神社』に住む博麗の巫女ですよ。外の世界へ帰るには、彼女か八雲紫に頼む必要があります。ここからさほど離れていませんし、行ってみるのも良いかなと」

 

本命は博麗の巫女であり八雲紫は保険的な意味合いが強いですが、とは彼女の談。幻想郷へ連れて来た八雲紫こそ本命ではなかろうか、と思う五代だったが、己より付き合いが長いであろう慧音が言うのならば、当てにするべきは博麗の巫女か。

 行くならば少し待ってくれれば自分が同行する、あるいは長老に頼んで護衛を付けてもらうと良い、との提案。博麗の巫女の元へ行くのは相応の危険が伴うらしい。里の外となると、それは妖怪なのだろう。だが彼には、強い味方が付いている。

 

「その巫女さんが作ってくれた護符があります。夜に出歩いても大丈夫な優れ物なんですよ!」

 

現在宿直室のちゃぶ台に置いてある護符。これさえあれば夜道でも妖怪に襲われない、と身をもって体験した逸品である。どうやら慧音は巫女に絶大な信頼を寄せているようで、それならば安心だ、と頷いた。

 

「獣道が続きますが、迷わぬように立て札が立っています。決して脇道に逸れず、書かれた通りに進んで下さいね」

 

はい、と子供たちに負けないくらい元気に返事をしてから宿直室に戻る五代。彼の背を眺めつつ、慧音は、

 

「もう少し派手に、授業予定を変更しても良いかも知れないなぁ」

 

と、薄く笑みながら呟いた。

 

 

 

 ぼんやりと輝く護符を胸に貼り、田舎道を行く。里を出てすぐの所に、やけに立派な寺が門を構えていたが、これが恐らくは魔法使いの寺なのだろう。今日は博麗の巫女に会うのが目的ゆえ、心惹かれたものの中へは入らない。次の機会のお楽しみである。

 やがて道は、慧音の言った通りの獣道に差し掛かり、その脇には『この先、博麗神社』と書かれた立て札がある。文化の香りは仄かな安心感を与えるもの。地図を開き、多分この辺りだろうと言う場所に看板の絵を描き加え、道なき道へと進み行く。

 鬱蒼と木が茂る道は薄暗く、立て札があってもやや不安を掻き立てられる。しかしそれ以上に、五代はうきうきしていた。落ちていた手頃な長さの枝を握り、時に杖代わりにし、時に草むらを払うと、子供の頃を、宝探しの冒険を思い出す。大層な宝など求めない。幼い冒険心を満たす事こそが何よりの宝。それは、大人になった今でも変わらないのだ。

 

 さすがに蠍や毒蜘蛛などは出なかったが、往年のとある探検隊を思い出しながら辿り着いたのは、少々苔の目立つ長い石階段。脇には『この上、博麗神社』との案内が。

 地図を眺め歩く内に気付いたが、どうもこの石階段、幻想郷の東端にありながらその境界に面しているらしい。つまり人間の里からは、山を迂回しなければならない。やけに参拝客泣かせだなと思いながらも、五代は一段飛ばしで駆け上がった。その理由を考えるよりも、登った先が気になるのだ。

 

 石階段を登り切った五代を迎えたのは、朱塗りの立派な鳥居。ふと思い出して中央を避けて潜ると、澄んだ空気の向こうにこぢんまりとした本殿が見えた。鳥居もそうだが、建立間もないように見受けられる。改築でもしたのだろうか。

 そして、鳥居から本殿へと続く石畳に、竹箒を持つ人影。艷やかな黒髪を赤く大きなリボンで一括りにし、紅白の装束をまとっている。洋風な仕立てと、大きく露出した肩と腋が目立つが、その色と場所からして、恐らくこの少女が博麗の巫女なのだろう。

 手水舎の冷たい水でうろ覚えの作法に従って手と口を清め、ぴっぴっと手を払って巫女へと近付く。巫女は特に気にする様子もなく、石畳を掃いている。どこか異世界のような雰囲気──異世界(幻想郷)である事に違いはないが──の中、竹箒と木々のざわめきが境内に響く。

 

「あの──」

 

「──ここは神社で、私は巫女。神社に来たなら、最初にする事は決まってるでしょ?」

 

彼女の背中に声掛けすると、ぴしゃりと窘められた。道理である。神社とは神を祀る神聖な場。その神を二の次として人に話し掛けるなど言語道断、まさに神をも恐れぬ所業と言えよう。なるほど確かに、と納得した五代は、その背に頭を下げてからしずしずと本殿へ歩み寄った。

 旅の癖か、財布から五百円玉を賽銭箱に放り込み、しまったと内心で焦る。外の世界の硬貨を入れてしまった。しかし入れてしまった物は仕方がない。改めて昨日の稼ぎから適当な小銭を数枚つまみ出して投げ入れ、本坪鈴を鳴らし二拝二拍手一拝。幻想郷での旅の安全、そして多くの出会いを祈り、頭を上げ、そこではたと気付いた。周囲から箒の音が消えている。

 

「良く出来ました。外の人間も、案外作法を知ってるのね。驚いたわ」

 

背後からの声に振り向くと、称賛の言葉とは裏腹に、可愛らしい顔を仏頂面にした巫女が立っていた。竹箒を肩に担いだ姿がやけに似合う。

 

「私に用があるんでしょ? 付いて来なさいな。お茶くらいは出してあげるから」

 

竹箒を無造作に柱に立て掛け、くいくいと本殿裏を指差す。先導する彼女に従い、隣の高床式倉庫との間を抜けると、正面に縁側のある小さな建物が。社務所であろうか。

 奥へ引っ込んだ巫女を、縁側に腰掛けて待つ。石階段を駆け上がった身体に、木々の隙間から届く風が心地良い。時折雲に隠れる日差しと若干の寝不足も相まって、油断するとそのまま寝入ってしまいそうだ。

 

「寝ちゃ駄目よ。ここ、私の家なんだから」

 

うつらうつらとした様子を察したのか、盆を運んで来た巫女が釘を刺した。社務所ではなかったらしい。

 手つきはいささか雑ながら、巫女の入れた適温の茶は季節外れの新緑を想起させ、口に含むと爽やかな苦味が鼻腔まで突き抜けた。

 

「わぁ、このお茶、美味しい……!」

 

「……お客さん用の高級茶葉だもの。どう入れても美味しいわよ」

 

五代の素直な感想に、巫女は少しそっぽを向いて湯呑みに口を付ける。真っ向正面から褒められるのに慣れていないような、年頃の少女らしい羞恥心が垣間見えた。

 

 茶で人心地ついたところで、巫女は"博麗霊夢"と名乗り、五代から受け取った名刺を眺めながら語る。

 

「本当なら紫のやつ、冬眠してる頃だしね。送り返すのも滞在するのも別に構わないわ。私に面倒を掛けないなら、って条件付きだけど」

 

聞けば以前、外の世界の少女が異変を起こしたらしい。また、そもそも巫女は異変の解決を生業としており、何か起これば駆り出されるのだそうな。ジト目を送る霊夢に、しかし五代は笑って答えた。

 

「俺はここを旅するだけだから、迷惑を掛けるつもりはないよ。外でだって、旅先で問題なんて起こした事はないし」

 

郷に入っては郷に従え。現地の人々といざこざを起こせば、本人も楽しめないのだ。であるならば、その地の文化に倣い、一人の住民として暮らしを謳歌する。五代自身が争いを好まぬ性格であり、みんなと楽しむ事を是とするからこその信条である。笑顔のまま湯呑みを傾ける彼に毒気を抜かれた霊夢は、これだけ聞き分けの良いやつばっかりならねぇ、と誰にともなく呟いた。

 

 二杯目の茶を啜りながら、同じく二杯目を飲む五代の横顔をちらと盗み見る霊夢。

 例によって、彼女も八雲紫から話を通されていた。が、慧音とはかなり内容が異なる。異形の姿となって数十体もの化物を倒して来た外の世界の戦士、異変解決屋のような男がやって来る、と言うものだ。本人に関する情報があまりにも少ない。先のつっけんどんな対応も、本心もあるが、どんな野蛮な輩が来るのだろうかと言う警戒心の表れと言える。

 だが蓋を開けてみればどうだ。素直に言う事を聞き、縁側でうとうとして隙を晒し、にこにこ顔で茶に夢中になる素朴な男。そして彼女自身の、特に異変に関しては外れた試しのない勘すらも働かない。むしろ普段とは違い、ゆったりとした昼下がりを満喫出来そうな気さえする。

 

「こんなにゆっくりしたのは、こっちに来て初めてかな?」

 

ふと、五代が呟いた。

 

「永遠亭ってとこでも、里に着いてからも、何だかんだで色々動き回ってたからなぁ」

 

掃除、薪割り、野菜の運搬、そして臨時教師。いずれも彼自身が選んだ仕事であり、充実していた。普段の旅でもこんな調子である。だがやはり、こうして出先でゆったりと時の流れに身を任せるのもまた、乙なもの。空の湯呑みを置いて、ふわぁ、と背伸び。

 

「ん? あぁ、大丈夫大丈夫。寝ちゃったりはしないから!」

 

ようやく霊夢の視線に気付き、取繕うように立ち上がって、その場で軽くストレッチを始めた五代。すると霊夢は湯呑みと急須を畳間のちゃぶ台に運んで、

 

「日が落ちる前には起こすわ。私は掃除の続きをやって来るから」

 

ぽんぽん、と畳を叩いた。先程とは正反対の言いように困惑する五代だが、霊夢は彼の上着を掴んでぐいぐいと引っ張る。華奢な見た目に反してそれなりに力が強いようで、姿勢を崩しながらもどたどたと付いて行き、終いには引き倒されるように畳に寝っ転がされた。

 

「起きて外にいなかったら、本殿に来なさいな」

 

見上げた先で、霊夢はそう言い残して縁側に繋がる障子を閉めた。横になった五代は、言葉もなく呆然と見送るのみ。

 肘を枕にして考える。ここの主たる霊夢に、言外に寝ても良いと言われた。先程は寝てはいけない、と言われていたのに、全く正反対の変わりよう。気まぐれなのか、それともあまりに眠たそうな己への同情か。しかし、わけもなく心地良さを感じる。この神社にも、あの妙に素っ気ない巫女にも。

 考えたところで答えが出るわけもなく。数えてもいなかったあくびをきっかけとして、五代は甘えてしまおう、と思考を切り替えた。ごろりと仰向けになって、目を瞑る。そうしていると、疲労が重石となったか、彼の意識は藺草(いぐさ)の香りに包まれた微睡みへと落ちて行った。

 

 

 

 宣言通り、霊夢は五代を日没前に揺すり起こした。山のあちこちから烏が帰りを促す中、彼女は紐で括られた紙束を差し出した。妖怪よけの護符である。この尋常ならざる護符も永遠の物ではないらしく、貼り付かなくなったらこれを使え、との事。

 

「お賽銭を頂いた以上は、巫女として出来る事はしてあげないとね。それに、私の護符を持った人間が食われたら、ただでさえ少ない参拝客が余計に来なくなるもの」

 

相変わらずのぶっきらぼうな口調であったが、特に気にする事もなく礼を述べて受け取る五代。また来ても良いかと尋ねると、

 

「お賽銭を入れてくれるなら。それと、今度からはちゃんと寝てから来なさいよ」

 

やはり無愛想に返された。

 幾分調子の良い身体で、軽快に石階段を降りる。何とはなしに長く伸びる己の影を見やり、次いで足を止めて振り返ると、山の稜線にそろそろ夕日が隠れようとしていた。空を走る藍色と橙色の境界が美しい。

 

「……あぁ、そっか」

 

そこで、五代は気付いた。何があんなに心地良かったのか。

 博麗霊夢。彼女は、まるで空なのだ。媚びや厭いを感じない、何にも縛られない自由を感じ取ったのだ。時に雨空や雷空のように厳しく、時に曇り空のように曖昧で。だからこそ、碧空のようにさっぱりとした、あの不器用な優しさが沁みたのだ。

 

「寝ちゃうのはもったいなかったかな……。次にお邪魔した時は、もっと色々話そう!」

 

己が目指したものの体現。五代は地図を取り出し、博麗神社に赤丸を描き込んだ。

 

 

 

 そして、夜。行灯の光に照らされながら昼間の下描きに色を塗り、本日の特別授業を振り返ったところで、寺子屋の柱時計が、十一回鳴り響いた。

 

「ん、もうこんな時間か」

 

昼寝をしたからか、あまり眠気はないが、かと言って夜更かしをすれば二の舞い。明日は青物問屋を訪ねるつもりなのだ。寝不足はよろしくない。

 庭の井戸で喉を潤し、行灯の火を消して布団へ入る。しかし天井の木目を視線でなぞり、睡魔を呼び込もうとしてはみたものの、なかなか寝付けない。まぁそれならそれで、目を瞑っていればいずれは夢の中だろう、と瞳を閉じた、その時。

 

 鶯張りの廊下が、みしりと鳴った。




フジ井のジーサンバーサンみたいに、霊夢と縁側に並んでお茶を啜りたい。


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第十九話 妖精に誘われて

てゆーか飛べばいいじゃん(ラーメンズ並感)。


 さて、鶯張りの廊下とは本来、過日のように調子良く踏んで音を楽しむ物ではない。敵の侵入を城や館の者に知らせる、伝統的な警報装置なのだ。

 もうすぐ日付の変わる、人里も灯りのついている建物の方が珍しい時間。せっかくだから、と言う曖昧な理由で残されていたそれは本来の役割を果たし、五代の五感を研ぎ澄まさせた。まさか物盗りが忍び込んだのか、と布団を抜け出して行灯に火を灯すと、

 

「"ルナ"、何やってるの!?」

 

「だって、こんな音が鳴るなんて知らなかったもん!」

 

「こら、ばかルナ、ゆーすけに聞こえちゃったらどうすんだ!」

 

「あぁ、これ多分、全部聞こえてるよ。ルナの能力、解除されちゃってるもの。それに布団から出てるし……」

 

襖の向こうから、何とも可愛らしい声がいくつも聞こえて来た。やいのやいのと騒ぐ声には、聞き覚えのあるものも。ここへ来た理由は分からないが、物騒な輩でないのは確かなようだ。

 笑いを堪えながらこっそりと襖を引き、頭をひょっこりと出して外の様子を窺うも、果たして廊下は暗闇が続くのみであった。先程まで間違いなく複数の誰かがいたのに、である。

 だが、そろそろ五代にも分かって来た事がある。ここが幻想郷である以上、外の世界で培った己のちっぽけな常識などかなぐり捨ててしまった方が、答えに辿り着きやすいのだ。

 

「あれれ? おかしいなぁ、声はしたのに誰もいないぞ?」

 

わざとらしく声を張り上げてみたが、やはりと言うべきか、何の反応もない。しかし、何となく感じられる。この廊下には、誰かが潜んでいる。

 

「眠れないから、お茶でも飲もうかなぁ。これだけ寒いんだし、入れたてのお茶は身体が温まって、いつもよりうんと美味しいだろうなぁ」

 

聞こえよがしにそう言って頭を引っ込める。すると、どたどたといくつもの足音が鳴り、小柄な少女たちが転がり込んで来た。

 

「寒いよぅ、お茶ちょーだいっ!」

 

そう言ったのは、稲穂のような金髪と白く透き通る羽根、口元にちらと見える八重歯が特徴的な少女。その後ろには、見慣れない二人の少女と一緒にチルノと大妖精の姿も。これはまた、随分な大所帯だ。

 

「あはは、やっぱり誰かいたんだ。待っててね、すぐにお湯を沸かすから」

 

互いに身を寄せて震える少女たちに、五代は火鉢の脇を指し示して庭先へと出たのだった。

 

 鉄瓶と七輪で湯を沸かし、入れた茶を勧める。来客は見越していなかったのか、茶びつの中の湯呑みは二つしかなく、一つを回し飲みする形となった。もう一つはチルノの要望で、キンキンに冷えた井戸水を注いである。背中の氷のごとき美しい羽根から想像は付いていたが、熱い物は苦手らしい。

 茶と火鉢でようやく温まったところで、初対面の三人が名乗った。"サニーミルク"、"ルナチャイルド"、"スターサファイア"と、空に輝く星々を連想させるこの少女──妖精たちは、チルノの要望でここに来たそうな。

 

「コイツが、あなたにお気に入りを教えたいんだって」

 

サニーミルクがチルノを指差し、

 

「それで、単にお邪魔するのは面白くないから協力してくれって頼まれちゃって」

 

縦巻きの金髪が眩しいルナチャイルドがのんびりと経緯を話し、

 

「ルナはともかく、私とサニーは眠いから嫌って言ったんだけど、どうしてもって聞いてくれなかったの」

 

長い黒髪に青いリボンが目立つスターサファイアが抗議の声を上げた。三名とも、割りと言いたい放題である。それに対し、昼間には負けん気の強い性格が察せられていたチルノが黙っているはずもなく。

 

「あ、あんたたちだって、人間に悪戯するなら、ってノリノリだったじゃんか!」

 

「何よ、ショーコはあるの!?」

 

「大ちゃんが聞いてたもん!」

 

睨み合うチルノとサニーミルク。名前を出された大妖精はおろおろと目を泳がせている。

 これは収集が付きそうにないな、と割って入り、がるるる、と野犬か何かのように威嚇し合う二人をどうにか宥めた五代。見た目通りに非力なようで、さしたる苦労もなかったことにひとまず安堵。

 

「あの、雄介先生、怒ってませんか……?」

 

ふぅ、と息をついた五代に、大妖精が恐る恐るといった様子で尋ねた。

 

「えっ、何が?」

 

「夜中に起こされて、しかもこんなに騒いで……」

 

俯き加減な彼女の口から出る言葉は、穴の空いた風船のように小さくなって行く。そして、

 

「……ごめんなさいっ!」

 

終いには頭をぐっと下げて、謝ってしまった。心の中を吐露する目をぎゅっと閉じ、五代の次の言葉──彼女の想像に従うならば怒りの言葉をただ待っている。

 そんな大妖精の頭に、五代はそっと手を乗せ、優しく撫ぜた。ごつごつとした掌の柔らかな感触に驚き、目を見開く。

 

「俺さ、すっごくわくわくしたんだ。可愛い声はしたのに誰もいない。これが妖精の悪戯か! って。外じゃ絶対に体験出来ないもん」

 

外の世界ならば怪談話もいいところである。しかし、騒ぎの中にチルノの声を認めた五代には、新しい何かを教えてくれる呼び声となったのだ。怒る理由などどこにあろうか。

 やんわりと笑む五代と、潤んだ瞳でしゃくり上げながらも不器用に笑う大妖精。そんな光景を目の当たりにしたチルノとサニーミルクは、責任を押し付け合う己たちの姿に恥じ入ったのか、互いに謝罪の言葉を交わしつつ空の湯呑みに口を付けた。

 

 改めて話を聞いてみると、チルノは昼間の授業で馳走になった焼き菓子と団子の礼に、お気に入りの場所を教えたかったそうだ。当然そんな打算はなかったが、その真心を拒否するのも申し訳なく感じ、黙って続きを聞く。

 

「けーねも言ってたんだ。誰かに優しくしてもらったら、ちゃんと仕返し……じゃなくてお返しをしなさいって」

 

だが、妖精とは悪戯を好むもの。氷精たるチルノとて例外ではなく、その為に隠れんぼにおいて無敗を誇るらしいサニーミルクたち三妖精に話を持ち掛け、驚かせてやろうと考えたのだ。結果は五代本人ではなく鶯張りの廊下に完敗したわけだが。

 

「……だけど、迷惑掛けちゃってごめんなさい。寝てるのを邪魔しちゃって、ごめんなさい」

 

しゅんとして謝るチルノ。誘われた身ではあるものの、その姿に思うところがあったようで、三妖精もバラバラに頭を下げた。

 そんな彼女たちを静かに見守っていた五代は、膝を一つ叩いて立ち上がり、衣紋掛けの上着をするりと羽織った。そして赤々と熾る火鉢の炭に灰を被せ、行灯の火をふっと吹き消す。何だ何だと辺りを見回す妖精たちに、

 

「このお誘いを断ったら、凄くもったいない気がするんだ。さっきも言ったけど、妖精のお誘いなんて外じゃ絶対にないからさ!」

 

彼はこう言った。語るまでもないが、今この瞬間を最も楽しんでいるのは、五代に他ならない。時間など関係なく、例え布団の中で微睡んでいようと、深い眠りについていようと、こんな未知の体験を彼が逃すはずがないのだ。無論、迷惑だなどと考えようはずもない。

 

「チルノちゃんのお気に入り、俺に教えてよ!」

 

 障子から優しく降り注ぐ月光の中、五代の手が妖精たちに差し伸べられる。その手に、彼女たちははにかんだような笑顔で小さな手を伸ばした。

 

 

 

 月と星の明かりを受けながら、六人があぜ道を行く。だが傍目にはその姿はまるで見えず、砂利を踏む足音さえも聞こえない。右手の指を三妖精に、左手の指をチルノと大妖精に握られて歩く五代の姿は、もし第三者から見えるのであればさぞメルヘンチックだったろう。妖精たちは先程と打って変わってにこやかに笑いながら、五代と目線を合わせるくらいの高さで飛んでいるのだから、なおさらである。

 彼らの姿が見えないのには、わけがある。先に述べられた隠れんぼにおいて無敗の能力があってこそ、なのだ。サニーミルクの力が姿を、ルナチャイルドの力があらゆる音を隠す。人里の門番たちは、堂々と門を潜る彼らに目もくれず、妖精たちの笑い声にも無反応だった。そして、こうしてあぜ道を歩く最中にあっても、あちこちに姿を見せる妖怪たちが人間である五代に全く気付かない。先日は遠巻きに見られていたのに、である。なるほど、無敗と言うのも頷ける。

 それでも互いの姿は見えるし、楽しげな歌声も聞こえるのだから不思議な力だ。門に差し掛かった頃こそ、己の無計画さに緊張し、里を出ようとする言い訳を必死に考えていた五代であったが、今では妖精たちの歌に聞き入りながら、知っている歌ならば一緒に歌う程度の余裕が出来ていた。

 

 あぜ道はやがて空を隠すように生い茂った木々の中へと入り、しかしさほど歩かぬ内に抜けられた。その先に広がっていたのは、光を放つ湖。否、実際には月光を湖面が反射しているのだが、凪いでいる為か、はたまた空気が澄んでいる為か、まるでその奥底に月を収めているかのように輝いているのだ。その光景に、五代は思わず感嘆の声を上げた。

 

「うわぁ……。何これ、凄く綺麗だ……!」

 

「えへへ、ここがあたいのお気に入りの、霧の湖だよっ!」

 

鼻をこすりながら、チルノが得意気に語る。対する五代は感動に包まれながらも、ここが霧の湖とやらか、と昨日の慧音との会話を思い出していた。改めて見渡してみると、名前の割りに霧は見受けられないが、湖の真ん中には大きな島があり、そこに件の洋館……いや、もはや古城と言っても良さそうな立派な西洋風建築物が鎮座している。灯りは見えないが、話の通りならば誰かが住んでいるのだろう。こんな美しい湖に囲まれているとは、何とも贅沢な立地である。

 畔に駆け寄って覗き込んでみると、水底までがくっきりと見える程に透き通っている。そっと両の手を差し入れ、掬った水を一啜り。手が痺れてしまいそうなくらいに冷たい水は、しかし春の日差しを想起させる柔らかな口当たり。人里から歩いて適度に火照った身体には、何よりの贅沢であった。

 

 夢中になってもう一口、また一口と喉を潤す五代の隣を、宙に浮かんだチルノがすっと通り過ぎ、湖面上で静止した。腕を組み不敵に笑う姿は、ここの主かと思える風格を感じる。

 

「ゆーすけにはトクベツに、あたいの最強の力を見せたげる!」

 

危ないから、と言われるがままに手を湖から抜いたのを見たチルノは、一つ頷いてから掌を湖面に当てた。心なしか、周囲が冷えたような気がする。そして、

 

「ふんっ!」

 

掛け声と共に、その冷気が一段と増した。薄っすらと霧が立ち込め、びきびきと甲高い音が湖面を覆う。五代が驚き目を見開く僅かな間に、広大な湖が凍ってしまったのだ。

 

「うん、今日もあたいってばゼッコーチョー!」

 

満足げに笑って見せたチルノが、ふわりと着地した。その様子を見ていたサニーミルクたちも、きゃいきゃいと躍り出る。

 改めて湖面を見てみると、変わらず湖底が綺麗に見通せた。しかしノックのように叩いてみると、確かにかちかちに凍りついている。薄氷と言っても良いその氷は、おっかなびっくり足を乗せた五代を、大地と変わらぬ硬さで支えた。

 常識ではとても考えられないが、チルノはこの湖を、妖精たちや五代が乗っても割れない強度で凍らせたのだ。しかも、水面に立っていると錯覚しそうな薄さで。

 

「ほら、ゆーすけもおいでよ!」

 

「夜はまだこれからだよ!」

 

宿直室とは逆に、まごつく五代へとチルノとサニーミルクの手が差し出された。その隣では大妖精とルナチャイルドが笑顔で手招きしている。ふと背中に力が掛かり、振り向くと、スターサファイアがうんしょうんしょと彼の背中を押していた。

 

「……ははっ。そうだね、考えるより楽しまなきゃ損だ!」

 

チルノが湖を凍らせた事、その氷が目を見張る程薄い事。そんな事は些事に過ぎない。ここでしか出来ない体験が彼を誘っているのだ。考える時間さえ惜しい。その場でくるりと振り返り、転びそうになったスターサファイアの手を取ると、五代は弾む胸に身を任せ、妖精たちの前に滑り寄った。

 

 

 

 それなりに嗜みがあっても、靴のままでのスケートはさすがに経験がなかった。だが、そこは要領の良い五代雄介。すぐにコツを掴んだようで、むしろしょっちゅう転ぶルナチャイルドの手を引いて、一緒に滑る程度にはすぐに上達した。そんな彼を大妖精とスターサファイアが一緒に引き、後ろからチルノとサニーミルクが押す、ちょっとした電車ごっこのような姿も。

 ただ滑るだけながら、スケートは意外と体力を使う。だが不思議と五代は疲労を感じなかった。この非常識な空間で子供のように無邪気な彼女たちと遊ぶうちに、彼もまた童心に帰っていたからだろうか。あるいは疲労を上書きしてしまう程に充実しているからだろうか。その姿は、無尽蔵な元気を持つ子供にさも似たりであった。

 横一列で手を繋ぎ、ゆったりと滑る。そろそろ天頂を過ぎたように見える月は、しかし変わらぬ青さ、柔らかさで辺りを照らしている。ありきたりな感想しか思い浮かばない程に興奮した五代は、己の手を取る妖精たちと目を合わせて笑み、彼女たちも釣られるようにはしゃいだ。その様は児童向けの絵本のよう。

 

 と、夢見心地であったその時。

 

「……ん?」

 

五代の右手が、わずかに引っ張られた。しかしそれも一瞬で、直後にはその違和感もたち消えた。

 

「大妖精ちゃん、どうかし……」

 

右手側にはチルノと大妖精がいる。右端の大妖精が躓いたのだろうか、と声掛けしようとした五代は、彼女を見て、さらにその『向こう側』を見て言葉を失った。

 

 大妖精の隣に、銀髪の美少女がいたのだ。

 

「こんばんは、五代雄介さん。私、"十六夜咲夜"と申します」

 

十六夜咲夜と名乗る少女は、風に髪を踊らせながらさも当然のように名乗り、五代たち六名は、驚愕のあまりその場で盛大に尻餅をついた。




男率90%からさほど間を置かずにロリ(見た目)率90%。咲夜さんがいなかったら危なかった。

わかさぎ姫? 五代に驚いて潜ってるんじゃないですかね。


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第二十話 闇より昏く、赤より紅く

かりちゅまが好きです。


 十六夜咲夜と名乗った少女は、転んだ一同に引き倒される事もなく氷上に立ち、瀟洒に一礼して見せた。その所作は、まだ二十歳にも満たないであろう幼さの残る外見とは裏腹に、見惚れる程に洗練されている。

 服装は、紺のワンピースにエプロンを合わせた、いわゆるメイド服。もみあげを三つ編みに結ったリボンと襟元のリボンタイの緑がやけに映える。しかしその着こなしも、彼女の現実離れした美しさの引き立て役でしかない。

 

「失礼。あまりにも楽しそうでしたので、つい輪に入ってしまいましたわ。お怪我はありませんか?」

 

薄く柔らかく笑って差し伸べられた彼女の手を取って立ち上がり、次いでチルノたちを助け起こす五代。幸い誰も怪我はしていなかったようで、お気遣いありがとうございます、と頭をぽりぽり掻きながら返した。

 それにしても、と改めて咲夜を見やる。深夜の凍てついた湖に、メイド服姿の美少女。自分たちもたいがいだが、あまりにもこの場にそぐわない印象を受ける。こんな格好で、なおかつ厳しく教えられたであろう身のこなし。さぞ立派な屋敷に勤めているのだろう。

 

「あの、私の顔に何か?」

 

「いや、そう言うわけじゃなくて──」

 

小首を傾げた咲夜の疑問を否定した五代の視線は、自然、その顔の向こうを捉えた。

 

 夜の闇にあってなお映える、荘厳な館。館を囲む壁は高く、何人たりとも通さないと言う空気が遠目にも伝わる。その壁をぼんやりと照らしているのは外では珍しい、異国情緒を匂わせるガス灯だろうか。どこか懐かしい、文明開化の薫りが漂っている。

 しかし、何よりも彼の目を引いた物。それは真紅。煉瓦よりも紅く、炎よりも紅く、そして薔薇よりも紅く──その館は、まるで鮮血を塗りたくったかのように、いっそ美しい程に紅かった。

 

 状況証拠としては十全。五代は、咲夜がどこから現れたのかを察した。人気のない湖に、あの立派な館。そうならばこの少女の瀟洒な立ち居振る舞いも、納得が行く。そしてその予想は、彼にある閃きをもたらした。彼女がここを訪れた理由である。真夜中、遮る物のない湖の真ん中、冬の寒々とした空気。

 気付いてしまえば、そこは素直が売りの五代雄介。次の瞬間には背筋をピンと伸ばし、大きく息を吸って反動を付けるように軽く背中側に反り──

 

「あぁ、なるほど。謝る必要はありませんよ」

 

咲夜に、機先を制された。

 

「なにせ当館は、これからが日常なのですから。主もテラスでお茶を飲みながら、あなた方を眺めておいででした」

 

「あ……、えっと、騒がしいからって事じゃなく……?」

 

「今しがた申し上げた通り、当館の主は今もこちらを見ております。注意するつもりで寄越した私が一緒に遊んでいたならば、どんな仕置をされるか。怖くて恐ろしくて、夜も寝られませんわ」

 

まぁ夜は寝ないんですけどね、それに逃げますけどね、と口元に手を添えて笑う咲夜。

 

「じゃあ、何で来たのさ?」

 

 叱りに来たのではないと分かったからだろうか。チルノがずいっと割って入り、咲夜を指差した。本音では、気持ちよく遊んでいたところを邪魔されて、少しばかりおかんむりなのだろう。口調には、若干の棘が感じられる。

 

「おっと、そうでしたそうでした。私とした事が、ついうっかり」

 

それを受け、咲夜はわざとらしく、おどけた調子で言った。突然列に加わった事と言い先の仕置のくだりと言い、どこか飄々とした印象である。

 しかし、

 

「主より、貴方を当館へお連れするように、と言付かっております。お邪魔してしまったようで大変心苦しいのですが、ご同道願えませんか?」

 

姿勢を改めた咲夜は、いささか以上に真面目に、五代に頭を下げた。

 

「……お連れするって、ゆーすけを連れて行くって事か?」

 

その問いに、咲夜がこくりと頷き──途端、身震い程度では収まらぬ寒気が周囲を覆った。冬である事を踏まえても異常なその冷気は、同時に足元の湖を、彼女を中心に白く深く、荒々しく無造作に凍らせる。大気は内に孕む水を絞り出され、月光のベールを作り上げた。これにはさすがの五代も堪らず、彼の背に隠れていた大妖精たちを抱え上げ、チルノから大きく距離を取った。

 

「ゆーすけは今、あたいたちと遊んでるんだ。連れてくなら、あたいとしょーぶしろ!」

 

それは、氷精(チルノ)の怒気。五代は与り知らぬ事だが、妖精とは自然そのもの。妖精の怒りとはすなわち自然の怒りとも言い換えられる。そんな妖精の中でも、チルノはとりわけ強い力を有しており、生半可な人間であれば、彼女に挑むのは荒れ狂う氷雪に挑むも同義なのだ。

 だが、しかし。それを真っ向から受けたにも関わらず。咲夜は涼しげな顔をいささかたりとも崩さず、身震い一つせぬまま立ちはだかった。

 

「貴女の言い分もごもっとも。だけど私も、一応"お嬢様"から仰せつかってるのよ。納得してくれれば、私も楽なんだけれど……」

 

かたや拳を握り締めて相手を睨み。かたや腕を組んで優雅に見下ろし。美しいダイヤモンドダストも、その煌めきが鋭利な刃物を連想させる。まさに、一触即発。

 

 そこへ。

 

「ごめんなさい」

 

五代は凍て付く空気を纏うチルノにも、抜き身の鋭刃を思わせる咲夜にも怯まず、その間に立ち、褐の女中へ今度こそ深々と頭を下げた。

 

「チルノちゃんたちは、お礼をしたいって、お気に入りを教えたいって一心で、俺を誘ってくれたんです。それなのに、誘われた俺が一抜けするなんて、何かこう、違うじゃないですか」

 

もちろん俺も楽しんでますけどね、と付け加えつつ悪戯っ子のような笑みを見せる。そこでようやく、彼女も五代が自分たちを選んでくれたと理解したのだろう。子供らしい、感情を剥き出しにしたしかめっ面が、ようやく綻んだ。

 咲夜を見つめるのは、慈愛と悲哀に満ちた瞳。これが本当に、平和な外の世界からやって来た年若いお人好しに出来る目なのか。

 

「その、明日じゃ駄目ですか?」

 

 内心たじろいだ咲夜をよそに、事もなげに続けようとする五代。咲夜は平静を装いながらも思考を巡らせた。

 あんな目をした者が相手では、力ずくで連れて行くのは不可能──そもそも不本意ではあるが。かと言って、この見た目に反して梃子でも動きそうにない男を置いて帰れば、主の意向に反する。

 

「明日なら何も予定はないし、朝から来れます。だからご主人には申し訳ないですけど、少し待ってもらって……」

 

考え込む咲夜に、どうにか勘弁してもらえないかと頼み込む五代。すっかり怒りを収めたチルノを筆頭に、妖精たちも彼の後ろで懇願の表情を浮かべている。

 折れては面子が立たない。しかし折れざるを得ない現状。先に一応などと嘯いてはみたものの、主よりの仰せとあらば結果は出さねばならぬ。折れるか、否か。従者の身としては、軽々しくその場で決めて良い事ではない。

 

 無粋なやり方であったかも知れない。もっと他の手段を考えるべきだったか。そんな後悔の念を抱く咲夜。そんな葛藤を、

 

「咲夜、何を手間取っているのかしら?」

 

空より降り掛かる言葉が、空気ごと切り裂いた。その声は幼児を連想させる可愛らしさと、全ての命を平伏させるに足る静かなる威厳に満ちていた。その声に釣られ視線を向けると──

 

 夜闇の中で輝きを放つ、桃色のワンピースドレス。合わせの色のナイトキャップを乗せた、青みを帯びた銀髪。夜空が溢れ出しているかのごとき漆黒の翼。そして、最高級のルビー(ピジョン・ブラッド)も霞む、妖しく光る紅い瞳。

 

 幼子と言っても良い容姿であるのに。寺子屋の子供たちと変わらぬ年にしか見えないのに。空に浮かび場を睥睨するその少女は、おとぎ話として、あるいは伝承として語り伝えられる歴戦の王のような、威風堂々たる佇まい。

 そのままゆっくりと、音もなく氷上へ降り立つ少女。五代を見据える瞳はなおも人外の光を灯し、彼を値踏みしているかのよう。背丈は五代の方が遥かに高いのだが、逆に自分が見下されているような、そんなあり得ない錯覚を覚える。

 ごくり、と誰かが唾を飲む音が聞こえた。それ程の静寂の中、

 

「お初にお目に掛かるわ、ミスタ・ゴダイ。私がその子の主、"レミリア・スカーレット"。無礼はなかったかしら?」

 

かの館の、そして咲夜の主たるレミリアは、鷹揚に名乗りを上げた。言葉の端々、立ち居振る舞いからは隠しようのない王者の風格が滲み出ている。並び立つ者なき絶対的な強者のオーラは、どれだけ動物的な勘が鈍った者であっても、奥底に燻る動物的本能でもって感じ取るであろう。咲夜もただ静かに、レミリアの後方に控えて微動だにしない。

 だが、その王に真っ向から相対する者がここに一人。並大抵の生物であればすぐさま傅くような、頗る付きの化物に相対する者がここに一人。

 

「無礼なんてとんでもない! あ、もう名前は知ってるみたいですけど、五代雄介です」

 

そう、五代雄介である。彼は何ら臆する事もなく平然とポケットから名刺入れを取り出し、当たり前のようにその中の一枚を手渡し、受け取ったレミリアは一瞥して頷き、斜め後ろに立つ咲夜へと渡す。

 

「咲夜が驚かせていたみたいだから、気を悪くしたかと思ってね。貴方の懐の大きさに、主として礼を言わせてもらうわ」

 

「あら、お言葉ですがお嬢様。私としましては、友好的な会話の取っ掛かりとして手品を披露しただけですわ」

 

「それで客人が怪我したら世話ないでしょうに」

 

呆れた顔で肩を竦めるレミリア。なるほど、見咎められても逃げると言っていたが、咲夜は忠誠心こそ確かなものの、主に仕えるメイドとしてはどこか一風変わった、掴みどころのない人物らしい。

 

「それにしても、人間にしては肝が座ってるわね。それなりに驚かす気はあったのだけど」

 

 まじまじと五代を見るレミリアだが、彼も、まぁ色々ありましたから、と苦笑いを浮かべながら返した。空を飛ぶのも、背中から生える翼も、ただならぬ雰囲気を醸し出す幼子も、残念ながら五代はすでに経験しているのだ。尤も、外の世界で超常的な一年を過ごした事も大いに関係しているが。

 

「さて、それじゃあ本題に入りましょうか」

 

 僅かに見えた落胆を咳払いで誤魔化したレミリアが、改めて五代に問うた。

 

「私の耳には、貴方は私からの招待を断ったように聞こえたのだけれど、それで間違いないかしら?」

 

「えっ、聞いてたんですか!?」

 

思わず聞き返した五代へ、レミリアは満足げに口元を歪め、館を指差した。どうやらこの妖しい少女には、一連の会話が聞こえていたらしい。しかも、遠く見ゆるあの館のテラスから。どれだけ地獄耳なのか。緑のクウガも真っ青である。

 

 閑話休題。使用人たる咲夜ではなく、五代を招待した本人であるレミリア直々の誘い。しかもこの少女、先述の通り、並々ならぬ貫禄を隠そうともしない。かような大人物からのお誘いとなれば、跪いて従わざるを得ない。そんな錯覚さえ抱かせる。

 事ここに至れば、さすがのこの頑固者も付いて来るだろう。ようやく面倒な仕事が終わった、と内心で胸を撫で下ろした咲夜だったが、

 

「間違いないです。今日は、チルノちゃんたちと遊ぶって決めてますから」

 

 五代の返答は変わらない。眼前に立つ者が誰であっても、彼は答えを曲げるつもりはなかった。一度交わした約束を違えるには、素性や立場は彼にとってあまりにも軽過ぎるのだ。

 はっきりと否を突き付けられたレミリア。これには咲夜も目を見開き、主の動向を窺う。この気位の高い主がへそを曲げでもしたら、あるいは逃げられないかも知れない、と。

 

「そう、分かったわ」

 

そんな心配をよそに、彼女の主はあっさりと、五代の言葉を受け入れた。

 

「せっかくのお誘いなのに、ごめんなさい。聞こえてたかも知れないですけど、明日は朝一番に来ますから!」

 

「いえ、日が沈む頃が良いわね。その時間はまだ寝てるの」

 

そして、あれよあれよと翌日の段取りが決まって行く。五代がお土産を持参すると言えば、ならば咲夜に良い茶葉を用意させるとレミリアが返し。レミリアが食事を用意するが好き嫌いはあるかと問えば、出された物なら何でも食べますと五代が答え。あまりにとんとん拍子に話が進むものだから、

 

「あの、お嬢様?」

 

さすがに咲夜が疑問を口にした。明日でも構わないのか、と。対するレミリアは半身で振り向き、

 

「貴女の主は、そんなに不寛容かしら?」

 

こう問い返した。

 

「確かに、館へ招待するよう命じたわ。だけど先約があるなら、それを尊重するのも貴族の努め。そこまで狭量になった覚えはないわよ」

 

主にそう言われては、もう面と向かって言い返す言葉はない。わずかな不満の色を残し、咲夜は押し黙った。

 

 

 

 門番には話を通しておく、と言い残し、レミリアは咲夜を引き連れて飛び去った。外の世界ではなかなかに聞き慣れない単語だが、よくよく考えてみれば名前が違うだけで、守衛さんのような感じか、と一人納得する五代。

 

「あの、本当に良かったんですか?」

 

遠い二つの背中へ手を振る彼に、大妖精が恐る恐る尋ねた。聞けば、レミリアは過去に異変を起こし、解決屋たる霊夢と大立ち回りを演じたらしい。結果として敗北はしたものの、未だにその影響力は大きく、人里の人間たちからは畏れ敬われているそうな。そんな相手からの誘いを断ってしまって大丈夫なのか、と。

 不安そうな大妖精に、五代は膝を折って目線を合わせ、心配してくれてありがとう、と頭を撫ぜる。

 

「俺ね、お話しが出来るって、凄く大事だと思うんだ。それにみんなも、友達を作る時には、まず話す事から始めるでしょ?」

 

だから、大丈夫。親指を立てると共に会心の笑みで締め括った。

 妖精よりも遥かに年少ではあるが、五代の人生は波乱に満ちたものであった。そのさなかでも自分より家族の、みんなの笑顔を追い求めた彼の心の地盤。断じて生易しくなどなかった歩みを支えた、揺るがぬ心根から生まれる底抜けの笑顔。

 大妖精もまた笑顔で頷き、チルノも三妖精も真似をし合う。笑顔と共に生きた彼の周りに笑顔が花開くのも、必然であろう。

 

 

 

 レミリアと別れてから小一時間程経った頃。事前に眠気を訴えていたスターサファイアから、

 

「そろそろ限界……」

 

との意思表明があり、そこで月夜のスケートはお開きとなった。行きと同様に、三妖精の力で無事に寺子屋まで戻り、その玄関先にて解散。

 

「ゆーすけ、また遊ぼ!」

 

「うん、またね!」

 

互いに手を振り、一時のお別れと再会を約束。去り行く背中を見送りながら、どこか懐かしさを感じる五代だった。

 不思議なもので、大人になるとなかなか「また遊ぼうね」とは口にしなくなるものである。大人とは、自由と共にその手の束縛を得るもの。それでも彼は、妹とその人柄故に、そう告げる機会に恵まれていた方ではあるが。

 チルノたちの真似をして、忍び足で鶯張りを渡って──やはり完敗であった──宿直室へ。上着を衣紋掛けに掛けて布団に潜り込むと、途端に泥沼に足を取られたように、意識が暗闇に溶け込んだ。眠気を誘うには丁度良い運動だったようだ。

 

「お休みなさい……」

 

かすかに聞こえるみみずくの合唱の中、誰にともなく呟いた五代は、長い一日を終えた。

 

* * *

 

 レミリアは月を背負い、悠々と飛ぶ。やや後ろを追従する咲夜が、その背中に不満げな声を発した。

 

「『視えて』いましたね?」

 

「何がかしら?」

 

「五代雄介さんをお連れする事は出来ない。そう視えていたのでしょう?」

 

口を尖らせる咲夜に、レミリアはくつくつと笑った。

 

「えぇ、そうよ。だかららち(・・)を開けに、私が来たんじゃない」

 

レミリアは語る。五代は絶対に咲夜の誘いに乗らないと分かり切っていた。しかし敢えて向かわせた、と。

 

「何百年も生きた私にとって、たった一晩なんて刹那でしかない。だけどその一晩の慰みを求めるのは、決して贅沢ではないでしょう?」

 

「つまり私は、お嬢様の我儘に付き合わされたのですね。はぁ、勤め先を間違えたかしら」

 

わざとらしい溜め息。特に珍しい事でもないのか、はたまた我儘に付き合わされる心当たりがあるのか。

 

「昨日のお茶の仕返しよ。何あれ、死ぬかと思ったわ。ドレスも汚しちゃったし」

 

「外の世界の皇帝が、不老不死を求めて飲んだ秘薬だそうです。お嬢様に相応しいかと」

 

「劇薬じゃないの。それに私は生まれた時から不老不死(ノスフェラトゥ)だってのよ」

 

どうやら後者だったようだ。しかし劇薬を飲まされてもこの程度で済ませる辺り、こちらこそ珍しい事ではないらしい。

 

「だけどそれならいっその事、無理矢理にでも連れて来ても良かったかも……」

 

顎に手をやり、咲夜が呟いた。

 

「お嬢様が視たものをぶっ壊すのも、面白いかも知れませんね」

 

不本意だが出来なくもない手札。しかしその提案を、

 

「あら、それは無理ね」

 

「っ!?」

 

不意に咲夜の眼前に現れたレミリアが、あっさりと切り捨てた。背の翼が大きく広がり、二人をそっと月から包み隠す。

 

「私は、瀟洒な貴女がそんな無粋な手を嫌う事を知っている。そして貴女は、私がそんな無粋な手を嫌う事を知っている。でしょ?」

 

白磁の指が、つつ、と咲夜の頬をなぞる。幼い顔付きにそぐわない蠱惑的な笑みが、侍女の心を捉えた。

 

「……本当に、仕える主を間違えたかしら」

 

「今日はポーカーフェイスが下手ね。明日、ミスタ・ゴダイに八つ当たりしちゃ駄目よ?」

 

咲夜の頬に差した紅。それを知るは、闇に浮かぶ真紅の瞳のみ。




でもカリスマの方がも〜っと好きです。

出された物は何でも食べます。なお紅魔館。


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第二十一話 記念日と記念碑

紅魔館へ行く繋ぎなので、少しあっさり味。


 翌日早朝。目を覚ました五代は、鶏の鳴き声よりも先に己の腹の唸り声を聞いた。起床一番、苦笑である。昨晩の運動もあり、今朝は特に身体が燃料を欲しているようだ。であれば、その欲に従おう。手がかじかむ程冷たい井戸水で顔を洗い、五代は颯爽と人里へ繰り出した。

 

 カフェの開き戸を押すと、からんからん、と来客を知らせる鐘が鳴った。隙間からはまずコーヒーの香りが漏れ出し、次いでこんがりと焼けたトーストの匂いが鼻腔を突き抜ける。空きっ腹にこれは堪らない。早く注文して、さくさくふんわりのトーストにかぶり付きたい。そんなはやる気持ちを抑えつつ、さらにぐっと押し開けて入店すると、店内の一部の客が横目で五代を見やった。

 ここまでは昨日と同じ。つい新たな来客を見てしまうのは、誰しも経験があるだろう。それは待ち人を待っている時であったり、ほんの気まぐれであったり。

 しかし、この日は違った。一度目を逸らした客が、ぐりんっと首ごと向き直り、五代を凝視したのだ。お手本のような二度見である。釣られるように他の客や店員も、次々に五代に目を向けた。わずか数秒の間に、彼は店中の視線を釘付けにしてしまったのだ。

 何が何だかさっぱりだが、腹の虫は待ってはくれぬ。軽い混乱に見舞われはしたものの、ほんの少しの逡巡の後、五代はどうもどうも、と困ったような笑みで頭を下げつつ、テーブルの合間を縫って空いた席に座った。

 

 さて。給仕の女性にモーニングとトーストを一枚余分に注文した五代。水を口に含んだり、品書きを眺めたりはしているが、その間も店内の眼差しは容赦なく彼を貫いている。昨日も多少注目を浴びてはいたが、ここまで露骨ではなかった。

 はて、何か注目を浴びるような事をしたろうか、と考えを巡らせていると、

 

「お待たせしました」

 

先程の女性が朝食を運んで来た。音を立てぬように置かれた皿とカップからは、耐えがたい誘惑が漂う。今すぐにでも平らげてしまいたいところだが、五代はぐっと我慢して、給仕に尋ねた。

 

「あの、何か俺、すっごい見られてるんですけど……」

 

もしかしたら原因を知っているかも知れない。そう思っての問いだったが、答えは別の方向から返って来た。

 

「お兄さん、今朝の新聞を読んでないのかい?」

 

通路を挟んで反対側の席に座っていた、羽織がよく似合う温和な顔付きの男性である。

 

「私はもう読み終わったから、読んでみると良いよ」

 

そう言いながら手渡された、一枚の大きな紙。右上には大きく、『文々。(ぶんぶんまる)新聞号外』との表記。どうやらこの男性が言うように、これは幻想郷の新聞のようだ。そしてその一面を飾っているのは……

 

「これ、俺じゃないですか!?」

 

昨日感じた違和感の正体──印刷されたあまりにも精巧な写真に写っているのは、五代と寺子屋の子供たちだった。

 

「この新聞にしては珍しく、随分と良い印象の記事だよ。そんな外の人間が入って来たんだ、みんな驚きもするさ」

 

普段がどんな内容なのかも興味を引くが、そう言われると、どのように書かれているのか気になるのが人の性。紙面に踊るのは相変わらずのくずし字なので、恥を忍んで読み上げてもらう事に。

 

『人間の里に突如現れた、かの八雲紫と縁のある外の人間、五代雄介氏。彼女に呼ばれたとあっては、さぞや人間離れした、異変を起こしかねない凄まじい人間なのだろうと、記者は突撃取材を試みた。

だがどうした事だろう。そこにいたのは、どこにでもいそうな普通の男性であった。それどころか、寺子屋の上白沢氏に代わって授業を行い、早速子供たちと打ち解けているではないか。

これは彼の人柄によるものなのだろうか、はたまた人ならざる能力ゆえの光景なのだろうか。記者は引き続き、五代氏への取材を続ける』

 

記事に添えられている写真は二枚。和菓子屋の軒先で団子に舌鼓を打つ一行と、自由時間を満喫する子供たちを見守る五代と慧音。当然ながら、こんな『遠足の記念写真』に心当たりなどない。

 

「あの『烏天狗』の嬢様、とにかくしつこいからねぇ。今回はこうでも、妙な記事を書かれないように気を付けて……」

 

この新聞の普段を知っている様子の男性は、少しばかりの同情を声に乗せて五代の肩を叩き、そこで彼の表情に気付いた。瞳を閉じた顔が満足げに、幸せそうに緩んでいるのだ。

 

「ど、どうしたんだい、お兄さん?」

 

繰り返すが、男性は普段の新聞を知っている。それゆえに五代の今後を心配して声掛けしたのだが、

 

「そっかぁ、とうとう俺も新聞に載っちゃったかぁ……!」

 

当の五代はどこ吹く風。写真の出処など考えるでもなく、しみじみと喜びを噛み締めるのであった。

 実のところ、五代は外の世界で新聞に乗った事がある。それどころか常連と言っても過言ではない。各紙で引っ張りだこ、一日でスクラップブックが数枚埋まる程である。

 ただし、それは五代雄介としてではなく、戦士クウガ──未確認生命体第4号(正体不明の異形)として。命を賭して暴力を振るう、本来の彼からすれば対極にある姿が、新聞で世間に広まっていた。否、彼の性格を考えれば、誰かが流す涙を放っておけない彼ならば、その結果もやむなしと言えるかも知れないが。

 だからこそ、五代は喜んだ。クウガとしてではなく己自身として、笑顔の溢れる記事を書いてくれた事に。そして同時に、この新聞を書いた名も知らぬ烏天狗の嬢様へ、心からの感謝を捧げた。

 

「この新聞、どこで買えるんですか!?」

 

 五代の中でこの新聞は、瞬く間に記念碑にまで昇華していた。そして今日は、この記念碑が世に(まろ)び出た記念日である。この日に俺が買わずしてどうする、いかなる平和的手段を用いてでも手に入れねばならぬ、と。外の世界では新聞はさして高価な物ではないが、朝食代と合わせて手持ちで足りるだろうか。

 

「あ、あぁ、さっきも言った通り、私はもう読み終えたからね。持って帰って構わないよ」

 

ポケットに手を突っ込んで小銭を探る五代に少し気圧されながらも、男性は笑った。

 

「えっ、良いんですか!? いやでも、それじゃ悪いし……」

 

新聞と男性をちらちらと、交互に見比べながら考える五代。しかしすぐに男性に顔を向け、まだ時間はあるか、と聞いた。

 

「ん? まぁ、急ぎの仕事があるわけではないからね」

 

店の奥に置かれた柱時計を見やる男性。すると五代は顔をぱっと明るくさせて給仕の女性を呼び、コーヒーを一杯、追加で頼んだ。

 

「お礼にご馳走させて下さい。ただでもらうのも申し訳ないですから」

 

目を瞬かせる男性。しかしそのわずかな間に、五代の注文はマスターに届けられていた。今更断りを入れるのも店に迷惑、そして五代の礼を無下にするのも忍びない。そう考えたかどうかは定かではないが、男性は参ったなと笑いながら、己の席に戻った。

 男性はしばし待ち、コーヒーを受け取る。隣席で新聞を眺めながらトーストを美味そうに頬張る五代に頭を下げると、彼は人懐こい笑顔で親指を立てた。その仕草と表情に、男性もまたぎこちないながらも、親指を立てて笑った。

 

 

 

 満腹になった腹を擦りながら、背中に視線を感じつつカフェを出る。昼からは青物問屋に顔を出そう、などと予定を考えながら歩いていると、行く先にとある一団が見えた。寺子屋の子供たちである。登校中に道が一緒になるのか、それともどこかで待ち合わせているのか。数えてみると十一名、全員いるようだ。

 小走りで追い掛けて先制攻撃、大きな声で挨拶をすると、

 

「あっ、雄介先生だ!」

 

「おはようございまぁす!」

 

一斉に挨拶が返って来た。今日も元気一杯である。表情から察するに、慧音の寺子屋は子供たちからも大変好評のようだ。友達と会える、と言うのも理由の一つではあろうが。

 そのまま五代を中心に据え、寺子屋への道を歩む。話題の中心は、やはり彼だ。外の世界の旅人、と言う珍しい人物である事から、外の世界について話して欲しいとせがまれる。

 しかし五代は、そのお願いをやんわりと断り、代わりに昨日の旅路──すなわち博麗神社を訪問した事を話した。話す事が多過ぎて、寺子屋に着くまでにとても語り尽くせない、と言うのもあるが、慧音の話によれば、また特別授業が開かれるかも知れないのだ。その時のお楽しみ、と言うやつである。

 とは言うものの、危険だから里の外には出るな、と言い含められている子供たちにとっては、これが馬鹿に出来ない冒険譚になる。道なき道を進む懐かしい緊張、古ぼけた石階段を見付けた安堵と躁急、それを駆け上がって博麗神社に辿り着いた達成感とわずかばかりの寂寥。旅の話を方々で聞かせているからだろうか、五代の話術は聞く者を楽しませ、引き込む力があった。平和な人里しか知らない子供たちはもちろん、チルノたちまでもが聞き入り、次の展開にわくわくしていた。

 

 そうして話しているうちに、一行は寺子屋に到着。ちょうど霊夢に話し掛けようとしたところだった為、そこで打ち切られた事に、当然ながら子供たちからは不満の声が上がる。

 

「ごめんごめん。でも良かったぁ、つまんないかなって思ったからさ」

 

「うぅん、雄介先生のお話、面白いもん!」

 

とよの声に全員が頷く。

 

「そっか! だったら早いとこ、またどこかに行かなきゃなぁ」

 

予定は一つ、それも今晩に入っている。しかし今日のようにまた登校中の子供たちに会うならば、話の種は多い方が良い。連れ立って寺子屋の玄関を潜って次の話を約束し、五代は子供たちと別れた。

 

 

 

 午前の暇な時間をレミリアへの土産探しに費やし、午後からは小太郎の青物問屋を手伝って路銀を稼ぎ、湯屋で汗を流し。それから一度宿直室へ戻った五代は、妖怪よけの護符を胸に貼り付ける。昨夜は三妖精のおかげで難なく霧の湖へ行けたが、今日は違う。記憶を頼りに一人で赴かなければならないのだ。これがなければ話にならぬ。

 

「忘れ物は……って、忘れるような物は持って来てないか」

 

ポケットには全財産と名刺入れ、手帳、色鉛筆セット、畳んだ地図、そしてお守り。彼の旅の共としては十分過ぎる。

 障子は茜に彩られ、その様を眺める五代の心に一抹の理由なき焦燥をもたらした。しかし、すぐに頭を振って思い直す。夕日とは、幼き日々のようなお別れの時間(さようなら)ではないのだ。

 

「よし、行くかぁ!」

 

土産の包みを手に、五代は寺子屋を、人里を後にする。門番たちには、霧の湖に建つ館へ行って来る、博麗神社の護符があるから大丈夫、と告げて。

 

 地図を広げ、昨夜の記憶を頼りに歩く。あちらこちらから聞こえる烏の鳴き声も、今の五代には、気を付けて行けよ、と言っているかのよう。時に細く伸びる己の影を横目に眺め、時に揺らめく夕陽に目を細め、あぜ道をひた歩く。道連れのいない道程の手慰み代わりに、小石を蹴りながら。

 やがて差し掛かった林道は、打って変わって薄い霧に覆われていた。地図が濡れて滲んでしまっては敵わない、とポケットに収めて一歩踏み入り、しばし様子を見る。濃さは踏み締められた道を見誤る程でも、斜陽を遮る程でもないらしい。しかし、蹴り飛ばした小石は見失いそうだ。いささか残念に思いながら、だがそれならば、風に揺れる木々の合奏に耳を傾けるのもまた良い、と考え直す。歩みの楽しみ方は一つではないのだからして。

 

「あれっ、これ、俺の足跡だ」

 

そして、通る者が少ないのか、足元に注意を払いながら進むと意外な発見もある。

 

 体感で木々のトンネルを半ばまで進んだ頃。霧越しに見える空は、藍色が埋め尽くさんと徐々に、しかし確かに広がっている。少し急いだ方が良いか、と足を速めると、五代を包み隠していた霧が晴れ始めた。先程までは木の輪郭がぼんやりと見える程度だったのが、樹皮の迷路まではっきりと見えるようになる。そしてその事に気付く頃には、霧は彼に道を譲るかのように、木々の合間を縫ってすっかり引き下がってしまった。

 あるいは名前通りの霧の湖が見られるかも知れない、と考えていた五代、これには歩みを止め、少々残念そうな顔を見せた。だがすぐに気持ちを切り替え、再び館へと向かう。今日だけではない、また日を改めて来れば良いのだ、と。

 

 

 

 林道を抜けると、そこは凪いだ湖畔。星々をあるがままに映す水面は、さながら舞台。湖を囲む木々は、その美しい姿に見惚れる観客。そろそろ顔を出すであろう月は、演目の主役と言ったところか。

 しかし、その舞台の主役は星でも月でもない。静かに佇む、かの紅の館。ガス灯に照らされた威容は、真打ちと言う言葉さえ生温く感じられる。そこにあって然るべき、否、全てはあの館を求めて集ったのだ、と言われても納得し得る。

 ごくり、と唾を飲み込み、湖に沿って館を目指す。視線は館に定めたまま。そうして差し掛かったのは、やはり紅色の煉瓦が並ぶ紅い橋。桁の描くアーチは素人目に見ても乱れがなく、それ自体が芸術品のようにも思える。

 わずかばかり、果たして渡って良いものか、と悩む五代。しかし袂には件の門番どころか、人っ子一人見当たらない。であるならば。

 

「……渡っちゃえ!」

 

胸を張り、久方振りに思える煉瓦の足触りを堪能しながら湖を渡った。それでも少しばかり早足なのは、ご愛嬌である。

 

 橋を渡り切り、わざとらしく腕で額を拭いながら、ふぅ、と息を吐いた五代を迎えたのは、閉ざされた巨大な門。人里とは比べ物にならないその重厚な門戸は、招かれざる客全てを追い返さんとする、招かれた者でも館に相応しい客人か見定めようとする威圧を放っている。大の大人が全力を出そうと、一寸たりとも動きそうにない。

 そして、その門の脇に立つのは──

 

「話、通ってるのかなぁ……」

 

──鼻提灯を膨らませる、赤毛の少女だった。




またの名を紅魔館RTA。ちょっと違うか。


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第二十二話 企む従者

作品中のどこかで、クウガEDのように青空の下で鞄を枕にしてのんびり寝かせてあげたい。


 ぷかぷか。しおしお。

 

「くぅ……、すぅ……」

 

腕組みして門の脇に背を預け、鼻提灯を膨らませ萎ませ。幸せそうに弧を描く口からは一筋の涎。この赤毛の少女もレミリアや咲夜に引けを取らぬ美少女──いっそ、この館の採用条件には美貌が含まれている、と言われても納得する程──なのだが、いかんせんそのだらしない寝顔が、ものの見事に台無しにしている。否、それでも可愛らしいと形容出来るのが、彼女の地の美しさを言外に表していると言えよう。

 チャイナドレスと洋服を組み合わせたような緑の衣装と、『龍』と彫られた星型の金バッジを付けた人民帽似の帽子。一見して出身が分かってしまう出で立ちだ。そして、スリットから覗く健康的な足。五代は一目見て理解した。あぁ、やはりこの少女こそこの館の門番なのだ、と。

 多くの人々を世界各地で見て来た観察眼ゆえか、一年で培われた戦士の観察眼ゆえか。無駄な肉が一切付いていない、しなやかで強靭な、拳法家として理想的な足だ、と見て取ったのだ。動きやすそうな衣装は少女の五体に何ら制限を掛けず、その足から繰り出される蹴りを受ければ一溜まりもなかろう。

 だが、しかし。現状、この少女が門番として機能しているかと問われれば、五代も頷けない。だからこその先の呟きなのだ。

 閉ざされた門に、居眠り中の門番。招待された身ではあるが、勝手に入ってしまって良いものだろうか。少女の真似と言うわけではないが、五代も腕を組んで考える。

 ここで待っていても仕方がない。それは重々承知しているが、さりとてこの少女の寝顔は、どうにも起こすのは忍びない。むしろ罪悪感さえ湧く。

 

「どうしよっかなぁ……」

 

さすがに壁の声を頼りに登るわけにも行かず、考えあぐねた末にひとりごちる五代。

 

「どうしましょうねぇ」

 

すると、背後から声が。

 

「何か、起こしちゃうのも悪い気がするんですよ」

 

「あら、お仕事をサボってるのに、ですか?」

 

「いやぁ、門番さんの寝顔を見てると……」

 

「まぁ、分からなくはないですけどね」

 

思わぬところで意見が合い、二人してくすくすと笑う。笑い声が耳に障ったのか、少女の眉間に小さな皺が寄った。

 そこで、はたと気付く。自分は今、誰と話し、誰と笑い合った? 

 

「こんばんは、五代雄介さん」

 

改まった挨拶に振り向くと、ぷに、と頬に何か細い物が当たった。視線を下ろしてみれば、己の頬に刺さる華奢な指。その向こうには、満足そうな笑顔を浮かべる銀髪の侍女。ありきたりな悪戯が成功して嬉しいようだ。

 

「あっ、咲夜さん。出掛けてたんですか?」

 

背後にいたと言う事は、つまりそう言う事なのだろう。そう当たりを付けて尋ねたが、咲夜は首を横に振った。

 

「昨日に引き続きの、手品でございます。あまり驚かれなかったようで少々残念ですが、最後の一発は効いたみたいですね」

 

口を尖らせる咲夜に、五代は苦笑いを返す他なかった。続いてしまったのだから仕方がない。

 

 未だに居眠りを続ける少女を尻目に、咲夜は門の前に立った。

 

「改めまして、ようこそ『紅魔館』へおいで下さいました。中へご案内しましょう」

 

見ていて気持ちの良くなるお辞儀に、つい五代も、いえいえこちらこそ、と頭を下げる。どちらから、と言うわけでもなく姿勢を正すと、次いで咲夜は門戸に手を掛けた。どう見ても彼女一人では開けられそうにない、重そうな門である。手伝いますよ、と足を伸ばしたところ、ぎぃ、と軋む音が響いた。さほど力を入れている様子もないのに、門はその半身を開いてゆき、やがて人一人が通るには十分過ぎるほどの隙間が開いた。

 

「これも、もしかして手品だったりします?」

 

「ご想像にお任せしますわ」

 

曖昧に濁した咲夜はするりと内に入り、手でもって五代を中へと招じ入れた。

 実際にはこの門、咲夜でも容易に開けられる程度には軽い。あくまでも見た目が重そう、と言うだけなのだ。だが、咲夜は誤魔化す。五代が良い具合に勘違いしてくれているから。レミリアから「八つ当たりはしないように」と言い含められてはいるものの、このくらいなら可愛いものだろう、と内心で舌を出していた。

 そんな胸の内を素知らぬ顔で隠し、咲夜は五代の前を行く。やはり、どこか変わり者である。

 

 そして肝心の五代は、門を潜り抜けた先に広がる庭園に舌を巻いていた。

 庭園は十字に伸びる石畳の道で、四つに分かれている。その中央の噴水からこんこんと湧く清水は、湖から引いているのだろうか。波打つ水面は、星が泳いでいるかのごとし。分かたれたそれぞれの空間は、天国を思わせる花畑。庭師の腕が良いようで、どの花も寒空の下、生き生きと咲き乱れている。設えられた席にて開かれる茶会は、さぞや優雅なものとなろう。

 その奥に控えるは、主の居城。不思議なもので、門の内へ踏み入ると印象が変わる。さながら子を育む母親か、あるいは黙して見守る父親か。この紅い構えに、そんな庇護者のような感覚を覚える。

 王の宮殿、はたまた王に傅く諸侯の屋敷。和の空気を感じる幻想郷にあって、しかし紅魔館は異質ながらも確かな幻想に彩られていた。

 

「旅人と伺いましたが、外の世界のお屋敷と比べ、当館はいかがでしょうか?」

 

「いや、すっごいですよ! 人が住んでる所なんて見られませんし!」

 

先立つ咲夜に聞かれた五代は、興奮したように褒め称えた。なにせ、外の世界でこのような屋敷は二つに分類されるのだから。すなわち、観光地か、本物の高貴な身分の者が住むか、である。前者はよく手入れが行き届いてはいるが人の息吹が感じられず、後者はそもそも中を拝む事すら叶わない。翻って紅魔館、現に誰かが住んでいる豪奢な屋敷へ立ち入った五代の感動は、いかばかりのものか。

 

「あそこでお茶とか飲んだら、きっとすっごく美味しいんだろうなぁ」

 

それは、ある種の憧れなのだろう。華やかなる貴族の生活を垣間見た五代は、その姿に思いを馳せ、

 

「庭師に労いの言葉を贈っておきましょう」

 

手で口元を隠して上品に笑った咲夜は、門へと視線を送った。

 さて、そんなこんなであちらに目を引かれ、こちらに心を惹かれ。ふと気付いて東を眺めると、月が半分ほど顔を覗かせる頃合い、月の出。いよいよ紅魔館内へ足を踏み入れる時がやって来た。今一度己を見下ろし、どこか服装におかしな所はないか、と確認を始める五代。そんな彼を、かしこまる必要はありませんよ、と笑って制した咲夜が、黒檀色の扉を開けた。

 

 

 

 先に通された五代を迎えたのは、外装に負けず劣らずの紅い内装、恐らくは値千金の調度品、蝋燭の火で七色に輝くシャンデリア。いずれもこの館に相応しい一級の品々であろう。

 だがそれよりもなお五代を惹き付けたのは、百花繚乱の花園、否、花園を連想させる少女たちであった。扉から正面の大階段へ伸びる絨毯に並んだ彼女たちは、咲夜と揃いのメイド服に身を包み、背中には各々違う形の透き通った翼。チルノよりも大妖精や三妖精に似たその翼は、彼女たちが妖精である事を如実に物語っている。よくよく見てみると、それぞれが花弁を模したような形状である事が見て取れた。

 そして、そんな妖精たちから流れ来る芳しい香り。それこそが、五代を惹き付けたものの正体。ほのかで甘く、優しい匂い。淡くて瑞々しい、柔らかな匂い。それはまるで、花。見る者全てを和ませ、笑顔にしてしまう力を持つ、自然の癒やしそのもの。

 

「ようこそ、こだいゆーすけ様!」

 

そよ風に揺られる花々にも似た、可愛らしい声。名前を間違えられているが、当の五代はすっかり頬を緩ませ、お邪魔します、と元気良く返した。

 

「全く、ちゃんと教えたのに……。貴女たち、ご苦労様。後は私が案内するから、お仕事に戻ってちょうだい」

 

顔を覆ってため息をついた咲夜の一声で、妖精たちはぱたぱたと翼を羽ばたかせながら、めいめいあちこちへと散らばる。扉の向こうへ姿を消す者、二階へと飛んで行く者。そのいずれもが、五代へと手を振って「ばいばい」と声掛けするものだから、彼もあっちを向きこっちを向き、手を振りつつ「またね」と返す。随分と忙しい別れの挨拶である。

 咲夜の談によると、紅魔館では無数の妖精をメイドとして雇っているらしい。そして先ほどの子らは、庭園の花々から現れた花の妖精だそうな。それで五代も合点がいった。彼の感じた印象は間違っていなかったようだ。

 

「まぁ妖精の例に漏れず、あんな風にちょっと抜けてるんですけどね。お陰で仕事が山積みなんです」

 

そんな咲夜は、妖精メイドの長、すなわちメイド長の役職を仰せつかっている。先のため息も苦労の表れなのだろう。しかし、そんな愚痴の裏に潜む一つの感情を、五代は感じ取った。ただ、それを口に出すのは無粋極まりない。ゆえに彼は、微笑ましく思いながら並び歩くのみだった。

 

 しずしずと歩く咲夜に従い、辿り着いた先は玄関ホール右手の扉。振り返ってみると、大階段を挟んだ反対側にも、鏡写しのように同じ扉がある。外観から察するに、この扉の先は回廊なのだろう。ぐるりと一回りし、あちら側の扉に出る、と。

 

「お嬢様より、ご滞在の間は館内を自由に歩いて良い、と言付かっております。ですが──」

 

そのあちら側を顧みていた五代は、ノブを捻る音で意識を正面に向け、絶句した。

 

「──この扉より先は、十分にお気を付け下さい」

 

扉の向こうにあったのは、予想通りの廊下。柱に設えられた燭台の蝋燭が揺らめき、紅い道を影で彩る。紅魔館の名に恥じぬ、徹底した紅へのこだわり。だが、彼の言葉を奪ったのは、そんな瑣末事ではない。

 延々と、どこまでも続く廊下。それは五代の予測を裏切るかのように、頭に思い描いていた距離を突き抜け、遥か彼方まで伸びている。曲がり角などまるで見えない。錯覚を疑って目をこすり、頬を何度か叩いてもう一度、またもう一度と見直すが、やはり結果は同じ。

 誰しも経験があろう。大きな建物に入り、予想以上に広い、あるいは狭いと感じた事が。大抵は壁や部屋などが理由だが、これは構造で語る次元の話ではない。

 

「貴方の考える通り、この回廊は館を一周し、あちらの扉に繋がっております。ですが試そうとすれば、貴方の考える以上の広さに途方に暮れるでしょう」

 

黙り込んでしまった五代に気を良くしたのか、咲夜はさらに畳み掛ける。八つ当たりと言うよりも、もはや驚いた彼の反応が楽しいのかも知れない。年相応の少女らしい、可愛らしい期待さえ入り混じっているのだろう。確かに、害のないドッキリはなかなかに癖になる。

 この廊下を見せたのも、言ってしまえば気まぐれである。自由に歩いて良い、とレミリアからお達しはあったが、さすがに勝手気ままにそこらの扉を開けて徘徊はしないだろう。無論、仮に五代がまかり間違って足を踏み入れ、あまつさえずんずん突き進んで進退窮まったとしても、咲夜ならば容易に救助は可能であるし、レミリアの客人である以上は助けぬ理由はない。ゆえに本気で忠告するつもりはない。

 だが、いささか侮りが過ぎたか。ここにいるのは生粋の冒険家、育ての親への連絡なし(思い付き)で海を渡り国境を越える弾丸野郎、五代雄介である。

 

「えっと、どこか知らない所に行っちゃう、って事はないんですよね?」

 

「えぇ、四度角を曲がればこのホールへ戻りますわ」

 

知らない所でも一向に構わない男だが。

 

「レミリアさんが、ここを自由に歩いて良いって言ったんですよね?」

 

「お嬢様のお言葉です。私に捻じ曲げる資格はございません」

 

律儀に確認を取るのも彼らしい。

 

「じゃあ、十分に準備してれば、こっちに行っても良いんですよね?」

 

「そうですね、準備を入念に……はい?」

 

予想だにしない発言だったのだろう。今度は咲夜が驚く番に回った。

 

「いやぁ、こんな不思議な場所、外じゃ歩く機会ないですから記念にって。あっ、大丈夫ですよ、散らかしたり汚したりはしませんから!」

 

「いえ、そうではなくてですね……」

 

期待に満ちた表情を向ける五代に、さしもの彼女も理解が追い付かない様子。

 例えば世界一の長さ、または高さを誇る吊橋。大まかには、袂に書かれた数字を読んで感心し満足する者と、実際に渡ってみて実感する者の二つに大別出来よう。そして五代は紛う事なき後者である。歴史に名を残す偉大な冒険家たちもそうであろう。自らの足で歩き、自らの目で見なければ気が済まない、興味を燃料としてエンジンを回し、時にはブレーキから完全に足を離し、全力でアクセルを踏み込む人々。彼にしてみればこんな摩訶不思議な光景を見せ付けられて、大人しくしていろ、と言う方が無茶と言うもの。

 

「あの、迷惑ならやめときますけど……」

 

とは言え、固まってしまった咲夜を見て、さすがの五代もたたらを踏んだようだ。様子を窺うように、腰を曲げて彼女の瞳を覗き込む。不安な表情は断られる事を恐れるよりも、それ以上に、黙り込んでしまった咲夜への気遣いが表れていた。

 悪戯心を見せたつもりが、思わぬ反撃を食らう形となった咲夜。思い返すまでもなく、昨晩も予想を裏切られ通しだったではないか。ここに至り、彼女は理解した。自分は、五代雄介と言う人間を見誤っていた。そう簡単に図れるほど、この男は浅くない。と言うよりも、時折レミリアをからかって楽しむ自分を軽くぶっちぎっている。

 ならば、せめて。

 

「こほん、失礼しました。廊下から入れる部屋は使う予定のない空き部屋ですので、お休みの時にはご自由にどうぞ。お食事含め、御用の際はベッド脇のハンドベルを鳴らして頂ければ、すぐに参りますよ」

 

今は、引こう。鍛え上げられた表情筋をフルに動かし、平静を装って対応した。ここで醜態を晒し続けるのは、彼女の矜持に反する。内心はさて置き。

 咲夜からの事実上の許可に、喜びながらもどこか遠慮の色を見せる五代。さすがに寝食の世話までしてもらうのは申し訳ない、どこかに寝袋や保存食を売っている店はないだろうか、と思案しているようだ。そんな彼とは裏腹に、営業スマイルの裏で次の作戦をあぁでもない、こうでもない、と練る咲夜。実に対照的である。

 五代雄介対十六夜咲夜。今宵、勝利(驚かし)の女神は五代に微笑んだ。




気付いてみれば、もう一年ですか。長かったような、短かったような。


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第二十三話 妹君はお年頃

オリジナル2000の技、とかタグに付けた方が良いのでしょうか。


 かたや回廊踏破の段取りを、かたや次のドッキリを考えるちぐはぐな二人。そんな二人が次に向かった先は、観音開きの扉前。

 

「ささやかながら、晩餐を用意しております。お嬢様をお呼び致しますので、こちらでどうぞお寛ぎ下さい」

 

晩餐と言う事は、この部屋は食堂だろうか。原理は不明ながら、あり得ないほどに広い館である。五代の頭の中には、やたらに奥行きのある豪華な部屋に、これまた会話をするのも一苦労な長大な食卓が鎮座している光景が想起された。あるいは、レミリアを呼んで来るのであれば客間かも知れない。映画などでありがちな、紳士淑女がふかふかのソファに腰を沈め、嗜好品を喫しながら上品に談笑する、いわゆる上流階級の社交場。いずれにせよ彼にとってはそうそう縁のない、しかし庭園で開かれるであろう茶会のように、大なり小なり憧憬を抱く非現実的な空間である。そんな場にこれから足を踏み入れる緊張から、ノブに手を掛けた咲夜の後ろで今度こそはとこそこそと佇まいを直したのも、致し方ないと言えよう。

 

 音もなく開かれた扉の向こうに、五代はいささか拍子抜けし、そしてどこか不思議な温もりと安心を感じた。絨毯敷きの部屋の中央に居座っているのは、純白のテーブルクロスが掛けられた小振りな円卓と、質素ながらも小洒落た椅子。横に目を向ければ飾り気のないソファが置かれており、その上には繕った跡のある熊のぬいぐるみと、装丁の擦り切れた本。天井の控え目なシャンデリアは室内をやんわりと照らし、玄関ホールとはまた違う空間を作り出していた。

 部屋の奥の暖炉では、ぱちぱちと薪が熾っている。刹那、部屋の温もりはそれが原因だろうか、と考えたが、すぐに違うと感じ取った。素朴なのだ。客を呼び、もてなすには、この部屋はあまりにも慎ましく、気取りがない。ソファも先述の紳士淑女よりも、ぬいぐるみと戯れたり静かに本を読む子供の姿が連想される。そう、まるで一家団欒の為に作られたかのように。

 

「ごめんなさいね、手狭な部屋で」

 

「あっ、お邪魔してます、レミリアさん!」

 

 数歩入って室内を眺め回す五代の背に、尊大な声掛け。確認するまでもないが、振り返らぬわけにも行くまい。体ごと向き直ると、果たしてそこにはこの館の主、レミリアの姿があった。

 

「私がいなくても、ドロワは履き替えられましたか?」

 

「手伝ってもらった記憶が一切ないのだけれど」

 

「これは失礼を」

 

男性たる五代には、どうにも口を挟みづらいやりとりである。しかし主と従者の関係にありながら、この程度の軽口は日常茶飯事である事は窺えた。彼は与り知らぬ事だが、茶に劇薬を盛ると言う暴挙に比べれば可愛いものでもある。

 そんな主従を、何とも言えぬ表情で眺めていた五代。ここでふと、開け放たれた扉の向こう、咲夜に説教するレミリアの背後に、何者かの気配を感じ取った。いや、見て取った、と表す方が正しいか。彼女の後ろで、何かがちらちらと揺れているのだ。一見してそれが何なのかはさっぱりと分からない。ただ見たままを述べるならば、枝のように折れ曲がる黒い何かに、空色や橙色の宝石のような何かが垂れ下がっている。何とも形容しがたい、不思議な代物である。

 ではなぜ五代は、その物体から誰かの気配を感じ取れたのか。答えは至って単純。その揺れ動くさまが、今まさにぱたぱたと動くレミリアの翼のそれに似ているのだ。控え目ながらも、羽ばたきと認識出来る程度には。

 そして、ようやく咲夜への口撃を終えたレミリアは、五代の視線が己と女中ではなく、その後ろへ向けられている事に気付いた。小さく咳払いし、出て来なさいな、と促す。

 

「ごめんなさいね。滅多に会わない『人間』だから、少し気後れしてるみたいなのよ」

 

男だからかしら、との呟きは、一際大きく弾けた薪の音にかき消された。

 レミリアから軽く背中を押されるようにして五代の前に進み出たのは、赤いベストとスカートが目に眩しい金髪の美少女。伏し目がちながらもちらちらと彼の様子を窺うその瞳は、レミリア同様に真紅。背中から伸びた先ほどの何かは、こうして二人が並び立つと、形こそ大きく違えども翼なのだ、と不思議と納得してしまう。一部しか見えていなかった色とりどりの宝石も、こうして全体が見えた今は、雨上がりにぼんやりと浮かぶ虹のような、淡く優しい景色を彷彿とさせた。

 

「……えっと、"フランドール・スカーレット"です」

 

それだけ言い、フランドールはとてとてと五代の脇を通り過ぎ、ソファでぬいぐるみ遊びに興じ始めた。一見、どうにも愛想のない態度にも見える。しかしこの場にいる一同は、その本心を何となくながら察していた。

 要は、久し振りに親戚に会う子供である。どう接すれば良いのか分からない、さりとて自分から何かしらの行動をはっきりと起こすのも気恥ずかしい。ゆえに、相手の興味をそそらせるのだ。変わった仕草で自分に関心を持たせようとする、幼い知恵。しかしそれを察したとて、反応は様々。レミリアは不愉快げに眉を吊り上げ、咲夜は主の雷を想起し苦笑い。

 そして、今まさに素っ気ない態度を取られた五代はと言うと。何事もなかったかのようにフランドールの傍へ歩み寄り、屈み込んだ。

 

「初めまして、フランドールちゃん。俺、五代雄介って言うんだ」

 

基本の基本、今更語るまでもない、初対面の挨拶である。しかし、フランドールはさも聞こえていないような様子で、ぬいぐるみの腕を上げ下げ、振り振り。いよいよもってレミリアの眉が危険な角度を描いた。

 すると、

 

「フランドールちゃん、ボクも紹介して欲しいな」

 

誰一人として聞き覚えのない『五人目の声』が、室内に響いた。

 

「だ、誰!?」

 

フランドールはぬいぐるみを取り落として立ち上がり、館の主従はすわ侵入者かと腰を落とした。どうにも手慣れた印象の二人はさて置き、フランドールは不安そうに辺りを見渡している。しかし、新たな人影などどこにもない。そんな中、五代は落ち着いた様子でぬいぐるみを手に取り、フランドールの前に掲げて見せた。

 

「ボクだよ、ボク。フランドールちゃんのお友達だよ」

 

くいくいと五代がぬいぐるみの手を動かすと、また例の声。

 

「もしかして……、ベティちゃん?」

 

「そっか、君の名前はベティちゃんって言うんだ!」

 

混乱の渦中にあったフランドールが、普通ならばあり得ない答えを見出し、そこから紡がれた言葉──熊の名前を五代が引き継いだ。そしてそのまま、彼とベティはちょっとした寸劇を披露する。互いの自己紹介に始まり、五代がここへ来た理由、館へ入ってから見て来たもの、出会った人たち。ベティは軽い相槌や感想を述べるに留まったが、彼らの掛け合いにはおおよそ違和感と言うものがまるでない。至って普通の、やけに気の合う者同士の会話が、そこに繰り広げられた。

 五代が習得した2000の技。その中の一つに『腹話術』がある。保育園の子供たちと打ち解けるきっかけになれば、と修得を決めたのだが、そこはやはり彼である。暇な時間を見付けては練習を繰り返すうち、いつの間にか数通りの声を、口を僅かたりとも動かさぬままはっきり発声出来るようになっていたのだ。さすがにその道のプロには遠く及ばないが、当初の目的を考えれば十分過ぎる程の練度。もちろん、手元の人形との会話を演ずるなど、お茶の子さいさいである。

 ぽかんと口を開けて五代とベティを眺めていたフランドールは、次第にその紅い瞳をきらきらと輝かせ、食い入るように見入っていた。そんな微笑ましい姿の向こうで、

 

「……ちょっと、"パチェ"が何かやったの? あのぬいぐるみが喋れるなんて、私聞いてないんだけど」

 

あぁ、何と言う事か。あのレミリアまでもが、あの威厳に満ちた主までもが、五代の演技に完全に騙されているではないか。咲夜に耳打ちしながらも、翼をぴこぴこと動かしながら、しきりに五代を見やっている。どことなく犬の尻尾を思い起こさせるその動きは、彼女の期待を代弁しているのだろうか。

 

「えぇ、今朝早くに。こうなる事を見越しておいでだったのでしょう。さすがはお嬢様の親友ですわ」

 

そして咲夜は、相変わらずの澄まし顔である。それだけではなく、見覚えのない魔道書を開いておられました、だの、聞き覚えのない呪文でした、だのと、それこそ見覚えも聞き覚えもあろうはずもない嘘を次から次に並べ立てる。後が怖いだろうに、こと己の主をからかう場面においては、彼女はブレーキの利きが極端に悪くなるらしい。それで逃げる時はアクセル全開なのだから、何ともたちの悪い話だ。

 

 一時の、スカーレット姉妹にとって夢のような時間は、ベティの可愛らしい一礼で閉幕と相成った。夢の内容は姉と妹で差があろうが。

 

「えっと、俺の2000の技の一つの、腹話術でした!」

 

「技? じゃあ、お兄さんがベティちゃんの真似してたの!?」

 

凄い凄い、全然気付かなかった! とはしゃぐフランドールに、五代は鼻を掻いて照れ臭そうに笑いつつ、ベティを返した。よほど五代によるベティ像が気に入ったのか、フランドールは受け取った友達を愛おしそうに胸に掻き抱く。どうやら、フランドールは被った猫をすっかり脱ぎ捨てたようだ。

 一方、従者に剥ぎ取られたかたちとなったレミリアは堪ったものではない。五代の技の冴えを腹の底では評価し、また翼を期待に揺らす姿を見られたわけでもない。だがそれでも腹の虫が収まらないのも事実。

 

「……咲夜?」

 

眉尻はまなじりごと再び吊り上がり、瞳は爛々と輝き、口は三日月を思わせる弧を描く。その紅い三日月からは、八雲紫が言うところの木っ端妖怪共ならば血相を変えて逃げ出す、重苦しい声。しかし、

 

「ちっ、逃げられたか」

 

嬉々として主の化けの皮を剥ぎ取った咲夜は、とっくにその場から逃げていた。昨夜の言は嘘ではなかったらしい。

 

 

 

 未だ憤懣遣る方ない様子のレミリア、だがいつまでもへそを曲げているわけにもいかない。一つ大きく咳払いをし、二人を食卓へ促した。今度はフランドールも大人しく従い、先に一礼して下座に腰掛けた五代の隣に着席。ここで五代は、色々と重なって渡しそびれていた土産を差し出した。

 

「あら、ありがとう。後でお茶請けに出させるわ。この焼き菓子、紅茶にとても合うのよ」

 

口では「俺も楽しみにしてます」と応えた五代、しかし内心では首を傾げていた。この土産の中身は、人里の洋菓子店で買った焼き菓子。昨日の特別授業の折に正三が紹介した店で、五代が振る舞った物だ。土産のチョイスとしては、外の世界では大して珍しくもない。

 問題は、レミリアが土産の包みを開きもせずに言い当てた事。明治時代の文化を色濃く残す幻想郷では、包装紙と言う物が全く存在しないようで、この焼き菓子も鈴仙の持たせたおにぎり同様に竹皮で包んである。すなわち、何が入っているのか分からないのだ。

 

「ねぇお兄さん、さっきの腹話術、だっけ。もう一回やって?」

 

咲夜の手品がそうであったように、考えても仕方のない事だ。あるいは自分が気付かなかっただけで、竹皮に焼印か何かがあったのかも知れない。そう自分に言い聞かせながら、ベティと共にじゃれつくフランドールに向き合う五代。

 

「咲夜、聞こえているでしょう? 夕餉の準備をなさい」

 

だが思考の逃げ道も、今度は咲夜の種無し手品──眼前に突如として現れた豪勢な晩餐で塞がれてしまった。




五代君、自分の技を全部順番に覚えてるけど、適当な数字を当ててもし公式と被ったらアレなので誤魔化しました。


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第二十四話 晩餐と歓談

飯テロは辛いですよね、拙作が飯テロになってるかどうかはさて置き。
書いてる方も辛いんです。


「……いやぁ、びっくりしたなぁ、もう」

 

 往年のギャグが、思わず五代の口を衝いて出た。夢でも見ているのではないか、否、夢である方がまだ説得力がある。そう考えて己の頬をつねってみたが、ほどほどに痛い。この、レミリアの呼び掛けに呼応して現れた夕食は、手品由来に違いはなさそうだが触れる事も味わう事も出来るらしい。

 

「肉体労働を終えたばかり、とお嬢様より伺いましたので、少々多めに。お代わりのご所望は、いつでもお申し付け下さい」

 

同じくいつの間にやら五代の背後に控えていた咲夜が、静かに、瀟洒に、しかし隠し切れない得意顔で一礼。ちょうど対面のレミリアがこめかみをひくつかせているが、構う素振りもなく並べられた料理の献立を諳んじる。

 

「本日のおゆはん……こほん、夕飯ですが、サラダ、ポトフ、チキンソテー、バゲットでございます──」

 

 冬場には珍しいほどに瑞々しいトマトが、スライスされてたっぷりと乗せられたサラダ。ドレッシングなどは掛かっていないようだが、そこに新鮮なトマトの甘みを楽しんでもらおう、と言う粋な心遣いを感じる。輪切りにされてなお分かる形の不揃いさも、昔ながらの手法で栽培された天然物の証。太陽の味とも言い換えられよう。

 湯気立つポトフの真ん中には、これまたきれいに皮を剥いたトマトが鎮座していた。スープの旨味をこれでもかと吸い込んだかのように、今にもはち切れそうだ。そのまま切り分けて口に運ぶも良し、スープに溶いて飲んでも良しと、想像力と食欲を掻き立てられる。共に彩るじゃがいもや人参も良いほくほく具合で、トマトやスープから染み出た旨味を存分に蓄えている事だろう。

 チキンソテーは狐色に焼き上げられた皮が目に眩しい。見て分かるぱりぱり具合は、楽しい食感と独特の甘みをもたらしてくれる事請け合いである。これだけ見事に焼いてあるのならば、肉もジューシーで、切った途端に肉汁が溢れる未来が容易に想像出来る。付け合せの野菜も彩りを豊かにしているが、その中でもソテーを囲むように垂らされたトマトソースの赤が、ひときわ目を引いた。

 こんがり焼き立てのバゲットも、ポトフやチキンソテーに負けじと香ばしい香りを立ち昇らせている。クープを見ればバゲットの出来、ひいてはその職人の腕が分かるが、この開き具合、エッジの利きは本場フランスであってもなかなか見られない。味や食感にも期待が出来そうだ。添えられた小皿に乗るバターも、その上でとろける瞬間を今か今かと待ち受けているかのような印象を受ける。

 そして、それらを乗せた皿やカトラリー、ワイングラスの美しさと来たら。どれもこれも目立った傷が見当たらず、ナイフに至ってはそのまま鏡として使えそうなほどに磨き上げられている。よほど大事に使われているのだろう。

 

 ここは高級洋食店だったろうか、と錯覚してしまいそうな出来栄えである。あるのだが……

 

「──本日も大変寒うございますので、芯より温まる物をご用意させて頂きました」

 

……やけに、赤色が多いようにも感じられた。紅魔館であるがゆえ、だろうか。

 

「手前味噌ではございますが、バゲットはポトフに浸して食べると大変美味しゅうございます。ぜひご賞味下さい」

 

そう言われてしまうと、試してみたくなるもの。早速手を合わせ──

 

「あれ、レミリアさんとフランドールちゃんのは……」

 

料理から顔を上げたそこで、スカーレット姉妹の前に並ぶ皿が、自分のそれより少ない事に気付いた。見たところ、小ぶりなクッペと具が少なめのポトフのみ。脇のシンプルなカットグラスに注がれているのは、色からするとトマトジュースであろうか。

 

「ん? あぁ、私たちはこれで良いのよ。元々少食だし、貴方だって朝からたくさんは食べられないでしょう?」

 

そんな五代の様子に気付いたレミリアが、グラスを軽く振りながら答えた。そう言われてみると確かに昨夜、昼間はまだ寝ている、と言っていた事を思い出す。フランドールも両の手でグラスを包み、そう言う事だよ、と同調した。なるほど、朝からこの量は、小柄な姉妹には少々つらいものがあろう。

 では改めて頂きますの挨拶を、と姿勢を正したところ、今度は咲夜が隣に立った。

 

「乾杯をするのに、お客様のグラスが空では格好が付きませんわ」

 

そう言いつつ差し出したのは、恐らくは赤ワインと思しき液体の入った緑色の瓶。と言うのも、ラベルも何も貼られていないので、見た目以上の判断材料がないのだ。

 コルクを抜き、その香りを軽く嗅いでからグラスへと注ぐ。己よりも明らかに年若く見えると言うのに、抜栓から始まった一連の所作は、五代に一流のソムリエを思わせた。

 

「当家にて育てた葡萄から醸造しておりますので、銘は特にございません。ですが、外の世界の逸品にも負けぬ味と自負しております」

 

音もなく注がれたワインは、見る者の瞳をその深淵へと(いざな)うかのように深く、暗く、そして紅い。

 

「さぁ、宴を始めましょう。今日の善き日に、この出会いに、乾杯」

 

「乾杯!」「かんぱーい!」

 

 レミリアが音頭を取り、互いのグラスが静かに、そして高らかに打ち鳴らされた。

 

 

 

 晩餐はつつがなく、和やかに進んだ。途中、お代わりを頼んだ五代を咲夜が驚かす、といった小さなハプニングはあったものの、特にレミリアは怒る事もなく、若く可愛らしい従者のささやかな計画は実を結んだ、と言えるだろう。

 そのお代わりも、実際には量が足りないのではなく、端的に言ってしまえば隣に座るフランドールが原因だった。どうにもクッペとポトフだけでは物足りないようで、五代の前に並ぶ料理に興味津々な様子。ここまで変わるとは思わなかったな、と思いつつ、切り分けた鶏肉やポトフの具を軽く掲げて見せると、彼女は満面の笑みでこくこくと頷き、差し出された料理にかぶり付く。こんな調子でいわゆる『あーん』を続けるのだから、成人男性たる彼が腹の虫を抑えられぬのも宜なるかな。

 存分に腹を満たし、ワインを堪能し、満足げに一息つく五代。少し食べ過ぎたかな、と腹をさすると、そのさまがおかしかったのか、フランドールがけらけらと笑う。

 

「ふふ、何だか年寄りみたいよ、それ」

 

釣られてしまったのか、レミリアも口元を手で隠し、ころころと微笑む。

 

「そうかなぁ……?」

 

ふと、自分の動作を育ての親──オリエンタルな味と香りの店、ポレポレの店主"飾玉三郎"に当てはめてみる。

 

「……いや、そうかも!」

 

するとそれが妙に違和感なくはまり込んでしまい、五代も吹き出すように笑った。

 

 ひとしきり笑い、気付くと目の前の皿は全て取り下げられ、代わりにソーサーに乗ったティーカップが鎮座している。さすがに五代もそろそろ慣れて来たと見え、この金細工が美しいカップに注がれる琥珀色に思いを馳せていた。そんな彼にいささか不満を抱いたようだが、さすがと言うべきか。おくびにも出さず、咲夜はティーポットを傾けた。

 

「ご歓談のお供にどうぞ。こちらもワインと同じく、当家で栽培した茶葉を使用しております」

 

「葡萄だけじゃなくて紅茶の葉っぱもですか!? 本格的だなぁ……」

 

「全て、お嬢様のお申し付けによるもの。尤も、当家の庭師がいなければ実現しなかったでしょう」

 

「へぇ、あの花畑のお世話をしてる人が……」

 

「ワインも茶葉も、外から取り寄せるのは面倒だしね。あのスキマ妖怪にわざわざ借りを作る事もないし」

 

晩餐のワインは、世界各地を冒険する五代ですら味わった事のない、芳醇かつ濃厚な味わいであった。これがまたチキンソテーに良く合い、箸が進んだものである。箸と表現するのも少々おかしくはあるが。

 続くレミリアの話によると、どうやらワインや紅茶はあまり幻想郷に普及していないらしい。酒と言えば清酒を呷り、喫茶と言えば緑茶を啜る。そう言う日本文化が、人間の里を中心に広く残っているのだと。無論あくまでも主流であり、酒なら何でも飲む者たちもいれば、紅魔館のように自分で好きな酒を作る者もいる。喫茶にしても嗜好による事は、人里のカフェがまさにその体現と言える。

 

「だから、自給自足してるってわけ。まぁ宴会での評判は良いわよ。霊夢なんか瓶から直接呷ったりもするし」

 

「えっ、それって博麗神社の霊夢ちゃんですか!?」

 

「あらお兄さん、知らなかった? 霊夢ってものすごいザル(・・)なのよ?」

 

これまた驚いた事に、あの青空巫女は凄まじい酒豪なのだそうだ。海外であれば霊夢くらいの年齢で酒を飲んで良い国もあるし、ましてここは異世界。そこは別段不思議な話ではない。ただ、あの少女が浴びるように酒を飲む姿を想像するのは、五代には少しばかり難易度が高かった。

 

「だいたい咲夜も、評判良いんだからあんな嘘をつく必要ないじゃないの。何か不満なのかしら?」

 

そう言いながら口を尖らせるレミリア。嘘、と言うフレーズが気になった五代は、先程の咲夜の言を反芻する。自家製である事は主のお墨付き。味も己の舌で確かめた。となると……。

 

「お姉様、それは」

 

「銘がない、なんて嘘をつく必要はないでしょう? 私がちゃんと付けたのに」

 

どうやらあのワイン、銘がしっかりとあるようだ。しかも、レミリアが直々に付けたものが。

 となると、これはちょっとした謎である。いくら飄々とした咲夜であっても、わざわざ主の付けた銘をないものとして扱うのは、失礼に当たるのではないだろうか。

 

「あっ、そうだお姉様! 私、もう一度お兄さんの腹話術が見たいの! お姉様も……」

 

なぜか、フランドールが話を逸らそうと必死になっている。ベティを胸元で踊らせている様子から、恐らくはそれも本心なのだろう。しかしそれよりも、もっと大事な事を隠そうとしているようにも。

 だが、そんなささやかな主張は、レミリアには届かなかった。紅茶で舌を潤し、

 

「あのワインには、私が『スカーレット・ボール』と銘を打ったのよ。何を隠す必要があるの?」

 

かの逸品の銘を、高らかに謳った。五代の視界の端では、フランドールが頭を抱えた。

 

「スカーレット・ボール……ですか?」

 

「えぇ、この国で昔から作られていたワインに肖ってね。その国の文化を尊重するのも、貴族の心得よ」

 

この国(日本)で昔から作られていたワインとなると、有名な銘柄が一つ。スカーレット(緋色)、そしてボール()。かちり、と五代の頭の中でパズルがはまった。

 

「……あぁ、ポートワイン!」

 

ぽん、と手を打った五代に、レミリアは我が意を得たりとばかりに頷いた。

 高貴で優雅なスカーレット家で作る、気品溢れる極上のワイン。それに相応しい銘に思考を巡らせて幾数日。たまたま立ち寄った道具屋で、古ぼけたワインのブリキ看板を見付けたそうな。

 

「ビビっと来たわね。これしかないって」

 

「……来ちゃった、の間違いでしょ。だから咲夜も言わなかったのにぃ……」

 

したり顔のレミリアとは対象的に、とうとうフランドールはテーブルに突っ伏してしまった。すっかり隠れてしまった頬は、林檎のように赤い。どうやら妹君は、姉君の付けた銘がお気に召さないようだ。だから、先程から何とかして話題を変えようとしていたのだろう。客人に聞かせるような名前ではない、と。そしてそれは、「銘はございません」と堂々と偽った咲夜も同様だったらしい。冗談や揶揄を一切挟まぬ問答無用の無視振りから、彼女も本気で触れたくないのだと言う意志が窺える。

 現状、レミリアが提示した銘に対する意見は反対が二票。しかもやんわりとしたものではなく、はっきりとした拒絶に近いものである。この事実から、紅魔館の主は他者と比較し、いささか独特なネーミングセンスの持ち主であると言えるだろう。

 しかし、フランドールも咲夜も知らなかった。

 

「良い名前だと思いますよ! おしゃれだし、シャレも利いてて!」「はぁ!?」

 

満面の笑みを浮かべて親指を立てる客人も、いささか独特なネーミングセンス(ミレニアム特別ヴァージョン)の持ち主である事を。

 

「でしょ!? この良さが分かるなんて、さすが私が見込んだ人間なだけはあるわね!」

 

興奮したように身を乗り出してまくし立てたレミリアも、鷹揚に頷いて見せた。奇妙なコンビ結成の瞬間である。

 

「……あぁ、お兄さんも『そっち側』なのね……」

 

そしてこの場で唯一の反対派になってしまったフランドールはと言うと、五代の賞賛に跳ね起き、そのまま呆れたように頬杖をついて、明後日の方向を眺め呟くしかなかった。

 

 

 

 さて、思いもよらぬ親睦が深まり、また思いもよらぬ溝が開いてしまったところで、五代には気になる点が一つ。

 

「レミリアさん、一つ気になって仕方ない事があるんですけど……」

 

「あら、何かしら? 今の私は機嫌が良いから、大抵の事は答えてあげるわよ」

 

先程よりもうきうきした心情が垣間見える仕草──主にぴこぴこ動く翼──で紅茶を含むレミリアに、五代はこう問うた。

 

「俺、何でここにお呼ばれしたんです?」

 

昨日からの一連のやり取りを思い返してみると、この疑問も当然であると言えよう。そも遠目に見ていただけの彼を、なぜレミリアは招待しようなどと考え至ったのか。咲夜が参上し、レミリアまでもが降臨し彼を誘った理由は、しかし全く語られぬままなのだ。

 あるいは八雲紫が絡んでいるのかも知れないが、先の言をそのまま取るならば、レミリアはかの妖怪の賢者とそれなりの距離を取っているはずであり、五代を招待する理由としては薄い。

 端的に言ってしまうと、五代とレミリアには接点が全くと言って良いほどに存在しない。ゆえにこの厚遇も、どうにも内心では疑問符を拭い去れなかった。

 ところがこの疑問に、レミリアも首を傾げてしまった。

 

「質問の意味が分からないわね。人間とはこうするものではないの? 気に入った誰かを自宅に招くのは、そんなに不思議な事なの?」

 

それでようやく、五代にも招かれた理由が理解出来た。しかし心底から納得したかと問われれば、もちろん出来ようはずもない。今度は過程がごっそりと抜け落ちているのだからして。それをそのまま聞いてみると、ようやくレミリアも合点が行ったらしい。

 

 

 

 艶のある笑みを浮かべ、

 

「あぁ、そう言う事ね」

 

密やかに覗く犬歯を一舐めし、

 

「簡単な話よ」

 

こう答えた。

 

「一目『視て』、貴方を気に入ったから」




金のゴウラム合体ビートチェイサーボディーアタックも入れたかった。


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第二十五話 酒は飲んでも飲まれるな

それでも私は、酒を飲める人が羨ましい。


──一目『視て』、貴方を気に入ったから

 

 普通であれば、こんな言葉を掛け値なしの美少女から面と向かって言われれば、男女問わず彼女の虜となろう。しかし五代は、レミリアの妖艶な笑みの向こうに別のものを垣間見た。笑顔が好きで、多くの笑顔を見て、多くの笑顔を守った彼だからこそ気付いた、と言うべきか。

 簡単に表すならば、憧れだろうか。ガラスのショーケースの向こうに、喉から手が出るほど欲しかった物が見えた時の、あの顔。友好や恋愛を超越した、運命の巡り合わせを確信した者が浮かべる笑み。決して単純なものではない、どこまでも深くにあり、そしてあまりにもその入り口が狭いがゆえに諦めかけた者がついに浮かべる表情。そんな、『何かに飢えた者』が浮かべる笑顔であった。

 しかし、気付いたところで五代に心当たりがあるかと言われれば、実のところこれがさっぱりなのだ。己は単にチルノたちと遊んでいただけであり、レミリアの琴線に触れるような事をした覚えはない。

 まさか、自分たちに混ざって遊びたかったのだろうか、とも考えたが、それはどうにも違うように思える。価値観は人それぞれ、一概に決められようはずもないが。

 ゆえに、五代はそれらをいったん胸の奥底にしまい、

 

「よく分かんないですけど、気に入ってもらえたなら俺も嬉しいです!」

 

と、素直に謝辞を述べた。理由はどうあれ、自分と言う一個人を気に入られたのなら、やはり嬉しいものであるからして。いくら考えても分からないものは仕方ない、面と向かって話して、少しずつでもお互いを分かり合えば良い。ここではそう言った、五代にとっての切なる願いが叶うのだから。

 

 五代の言葉を満足げに受け取ったレミリアは、残った紅茶を飲み干し、席を立った。

 

「ごめんなさいね、招待しておいて不躾だけれど、これからちょっとお仕事なの。お話の続きは、また後で」

 

紅魔館の主であるレミリアは、同時に幻想郷における有力者の一人でもある。続く彼女の言によると、その影響力は館内部に留まらず、結界の内側広くに及ぶそうな。ゆえにその仕事も、例えば有力者を集めた会合であったり、縄張りで『おいた』をした妖怪への『おしおき』であったりと多岐に渡るのだと。一見優雅で自由な生活を謳歌しているように見えるが、しかしなかなかに忙しない日々を送っているらしい。

 

「面倒だけれど、ここで生きて行くって決めたからには、ちゃんとやる事はやらなきゃね」

 

眉を八の字に傾けて苦笑するレミリアだが、その表情から言葉通りの感情を探すのは、どうにも無理のようだ。であるならば、

 

「俺の事は気にしないで、お仕事頑張って下さい!」

 

掛けるべき言葉は、簡潔なこの一言である。

 

「私も応援してるよ、お姉様!」

 

足をぷらぷらさせながら、フランドールも手をひらひら。妹君も姉君の仕事を応援しているようだが、

 

「貴女もよ、フラン。私の妹として、スカーレット家の一員として、やるべき事はちゃんとなさいな」

 

そうは問屋が卸さなかった。仕事の供として、直々のご指名だ。

 

「えぇ……。どうせ書類に目を通したり、判子捺したりするだけでしょ? 見ててもつまんないんだもん。それよりも、お兄さんの案内(ホステス)をする方が大事だと思うなぁ」

 

「つまんない、って言ったわね? その認識を改めないと、案内なんて百年早いわ。ほら、行くわよ」

 

「たった百年なの? ならあっという間じゃない!」

 

フランドールもフランドールで、やはり言葉と感情は一致しないらしい。口では不満を述べていても、どこか楽しそうである。あるいは、姉と何かをやる事自体が楽しいのだろうか。まだ幼い弟や妹となると、兄や姉の真似をするのが楽しかったりするものであるが、それが当てはまるのかどうかはさて置き、フランドールもニコニコ顔でレミリアに付き従った。

 

「えっと、フランドールちゃんも頑張ってね!」

 

どうにも「たった百年」というフレーズが気になった五代であったが、仕事があると言うのに足を止めさせる必要もない、と思い直し、改めて二人を見送った。

 

 途端にしんと静まり返った室内。飲みかけの紅茶を前に天井を見上げ、五代はここまでの会話、そしてもてなしを思い返す。ただ、咲夜の種なし手品はもはや考える隙さえない。だからそれは頭の片隅に追いやる。かの従者の得意げな顔が、ちらと見えたような気がした。

 レミリアは土産の中身を的確に言い当て、咲夜は自身が肉体労働の後だと気遣いを見せた。後者は確か、お嬢様から伺った、と言っていた事から、これもレミリアによるものと見て間違いなかろう。同時に、これらに咲夜の介入は一切ないと証明されたようなものだ。彼女が種なし手品を使ったと言われた方が、よほど説得力がある。

 どうにも、見えない、見えるはずのないものを見られているように感じ、据わりの悪さを覚える五代。だが、これらをすっと理解し、納得し得るだけの糸口が見えない。そもそも、その糸口の存在さえ不確かなように思える。

 

「こりゃ飲みすぎたかな?」

 

 加えて、今の五代は頭の回転が絶妙に鈍くなっている。心地よい酒精にもたれ掛かっているがゆえに、論理的な回答と言うものを導き出せそうにない。これは、少しばかり酔いを覚ます必要があろう。

 ちょっと歩くかぁ、と誰にともなく呟き、紅茶をぐいと干してからゆっくりと席を立ってドアへと向かう。こう言う時は、思い立ったが吉日とばかりに慌ててはいけない。それを五代はよく知っている。旅先の酒場で盃を交わした友人たちが、足をもつれさせてすっ転ぶ姿を何度も見ているし、そしてそれは彼とて例外ではなかったのだ。

 

 

 

 ノブをひねり、少しだけ戸を開けると、ひゅう、と外の冷気が五代の頬を叩いた。酒で上気した顔には何とも言えぬ、人によっては天の恵みとも言える独特の快感。館内を照らす蝋燭は、やはり明かり以上には働かないようだ。日頃ここで過ごす者には大なり小なり辛いものがあろうが、今の彼にはありがたい話である。

 上着の前を開け、玄関ホールへと出た。床一面に敷かれた上質の絨毯は五代の足音をすっかり消し、時折上着が立てる小さな摩擦音だけがやけに響く。どう言い表せば良いか分からぬ寂寥感を抱いたが、同時に腹の奥から湧いて出た期待がせめぎ合う。

 何せ館内を自由に歩いて良い、と主からのお墨付きがあるのだ。一階に、そして大階段を昇った二階にも扉がいくつもあり、その向こうには何があるのか、想像を巡らすだけでも気分が高揚する。まぁ、回廊に繋がる扉は後日のお楽しみではあるのだが。

 

「って言っても、あてがあるわけじゃないしなぁ……。あ、そうだ」

 

 とは言え、やはり当面の目標と言うものは欲しいわけで。単にぶらぶら歩くのも楽しいが、あまり自由が過ぎるのも考えもの。そこで五代はポケットを探り、色鉛筆セットから適当な色を一本取り出した。その先端を鼻歌交じりに足元に立て、出来る限りそっと手を離す。山道などで迷った際に、道端で拾った枝に行き先を託すあれである。

 

「えっと、そっちには……」

 

倒れた色鉛筆は絨毯に抱き止められながら、ある一方へと尻を向けた。見やった先には、天辺と左右を燭台に飾られた扉。大仰な構えではあるものの、これと言った案内のような物は掲げられていない。改めて、ここが観光地でも何でもない、住人にとっては当たり前の家である事が窺えた。

 磨りガラスや飾り窓のない至ってシンプルな両開きの扉を、じわりじわり、そろそろと開ける。まず五代を迎えたのは、ホールよりも一層冷えた空気の一団。軽く身震いしつつもさらに押し開けると、薄闇を照らす燭台が覗いた。そして、無機質な煉瓦に囲まれた螺旋階段が大きな口を開けている。どうやら地下へと続く階段のようだ。

 

「地下かぁ。でもこれだけ立派なお屋敷なら、そりゃあるよなぁ」

 

腕を組んで、一人うんうんと頷く五代。と、ここである事を閃いた。

 

「もしかして、これってワインセラー?」

 

今も彼の頭を惑わす酒精。それらがたっぷりと詰め込まれた樽が、この先に並んでいるのではないか。館の住人や客人、そして主の口を潤す日を待ち、静かに眠っているのではないか。

 無論、五代も諸外国で見た経験は一度や二度ではない。ひんやりとした空間にずらりと並ぶ酒樽、独特の葡萄と木の香り、そこはまさにワインの畑。薄闇の中、樽の焼印を眺めながら歩くのも、これまた酒の楽しみ方の一つなのだ。 

 過去の記憶の一つ一つが、肌と鼻を刺激しながら蘇り、それらはすぐさま五代の欲求を滾らせる。見てみたい。あのワインをただ飲むだけなど、あまりにももったいない。そして、こうなった彼はもう止まらない、明確なルールや理由でもなければ止められない。ほど良い酩酊も、背中をぐいぐいと押していた。

 

「おじゃましまぁす、っと」

 

酔いは人を饒舌にするが、それは一人きりの場でも変わらないらしい。その独り言を最後に、玄関ホールに再び、痛いほどの静寂が訪れた。

 

* * *

 

 その少女、名を"小悪魔"と言う。実際にはきちんとした名前があるのだが、ある時を境に誰からも呼ばれなくなってしまった──正しくは、彼女の名を知る者たちから離れ、名を知らぬ者たちに囲まれたから、である。ゆえに、彼女と言う個を定義する名前は小悪魔となった。

 尤も、それが嫌かと聞かれれば否を唱える程度には、自身も気に入ってはいる。種族(悪魔)としての特性から怠惰を是とする小悪魔にとって、今の立場は気楽であり、自身の性格にこれ以上なく合致している為だ。先輩たちのように名前が売れてしまえば、面倒が増えてしまう。今の生活が続くなら、無名の悪魔として知名度は低いまま。加えて雇い主は寿命が底知れないと来た。まさに理想の職場である。

 

「……つってもまぁ、退屈な毎日もそれはそれで嫌なんですけどねぇ」

 

重苦しい本を何冊も抱え、書棚の間をふわふわと飛びながらひとりごちる。小悪魔に与えられた仕事は、雇い主の身の回りの世話。代わり映えのしない日々であり、その中にはこのような力仕事も含まれる。場合によっては荒事(弾幕ごっこ)さえも。当初こそ目新しい戦いに心躍ったものだが、それが頻繁に繰り広げられ、しかも『半ば出来レースに近い結果』に終わるのでは、早々に飽きてしまうのも無理からぬ事。

 しかし刹那的な快楽を求める小悪魔にとっては、これはこれで言うほど嫌な日常ではない。今この瞬間が楽なら、それに越した事はない、とは彼女の談。先の独り言、悩みと言うには何と贅沢な事か。

 

「さてと、さっさと戻しちゃいましょう。まだまだ残ってますし」

 

早く終わらせたらたくさん休憩出来る、とほくそ笑み、片手と書棚で手持ちを支えつつ、器用に本を収める小悪魔。自身の数倍では利かない高さの書棚が並んでいるが、彼女にとっては見慣れた風景、動き慣れた職場でしかない。決められた場所に決められた本をしまう単純作業であるがゆえに、淀みもない。

 そうして、抱えていた本を半分ほど片付けた頃。

 

「……ん?」

 

小悪魔は顔を上げ、入り口へと目を向けた。書棚に遮られているために、何かが見えたわけでも聞こえたわけでもない。雇い主が仕掛けた感知魔法が、彼女に来訪者を報せたのだ。そしてこの魔法は、住人に対しては反応しない。すなわち、

 

「まぁた来やがったですね。昼間に散々暴れてくれたのに……」

 

侵入者(赤の他人)である。とは言え、残りの本を放り投げて速やかにお出迎え(・・・・)するのも、彼女にしてみれば面倒な話。そもそも雇い主から「侵入者は即座に排除しろ」などと言う命令も受けていない。一瞬、その目に剣呑な光が宿ったが、すぐに霧散した。

 

「むしろ泳がせろ、ですもんねぇ。現場を押さえたいんでしょうけど、前科なんて両手の指でもまるで足りないじゃないですか」

 

そうぼやきながら視線を書棚に戻し、作業を再開する。手持ちの本を全てしまう頃には、丁度良い塩梅だろう。繰り返しになるが、こうして小悪魔がのんびり仕事に精を出しているのは、他ならぬ雇い主からの指示である。断じてサボタージュを決め込んでいるわけではない。

 

「ま、痛いのは嫌ですし、後回しにしたいですし」

 

……本人の意思が多分に含まれており、またそれが指示と上手く噛み合ったからでもあるが。

 

 やがて作業も終わり、整然と並んだ本の背を一通り見回してから、腰に手をやって満足げに頷いた。その姿は、傍から見れば敏腕美人司書である。中身は先述の通りだが、悪魔は外見も大切なのだ。

 

「……さて、それじゃ行きましょうかね」

 

一転、真剣とも悲壮とも感じられる表情を浮かべ、小悪魔は地を蹴った。そのまま子供の背丈ほどの高度を保ち、侵入者目指して書棚の間を縫い進む。

 辺りは濃厚な紙の匂いに包まれているが、しかし小悪魔の嗅覚は妨げられない。人の匂いや欲の匂いに敏感でないのなら、悪魔として失格である。くんくんと嗅ぎ回る彼女は、確証を得ているかのように一方向へ飛ぶ。しかし、次第にその表情は曇りを帯びて行った。

 

「おかしいですね、"白黒魔法使い"とは違う匂いがする。と言うか、初めて嗅ぐ匂い……」

 

鼻腔を刺激するのは、記憶にない匂い。誰かがいるのははっきりしているが、それが誰なのかは全く見当が付かない。しかし、相手が誰であろうと雇い主の指示には従わねばならない。雇われ悪魔の悲しい現実だ。

 不意打ちしてから適当に戦って、タイミングを見計らって雇い主にバトンタッチしてしまおう。そう作戦とも言えない小賢しい考えを巡らせつつ、小悪魔は匂いの元へ辿り着いた。正確には、書棚を一つ挟んだ反対側に。侵入者が動く気配はない。と言うよりも、彼女が移動を始めてから、一歩も動いていないようだ。

 この辺はそんなに珍しい本が収められているわけでもないのに、と内心で首を傾げつつも、少しばかり高度を上げ、息を殺して機を伺う。そして勢い良く飛び出し──

 

「さぁ侵入者さん、私と勝負……って、あれぇっ!?」

 

──白目を剥いて倒れている人間に、小悪魔は素っ頓狂な声を上げた。




諸説あるでしょうけれど、私はロングヘアのこぁが好きです。腰くらいまでの長さならなお良し。


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第二十六話 人外の図書室

前回投稿から約四年……。
随分と期間が空いてしまいましたが、本投稿をご覧の方々、覚えておいででしょうか。
大変お待たせしてしまって申し訳ない、と言うのは自惚れが過ぎるかと思いますが、ようやく時間に目処が立ちましたので、再開させて頂きたく思います。
二十五話以前からお読み頂いていた方も、本投稿で初めて知ったと言う方も、幻想郷を訪れた五代くんの冒険あるいは旅行の記録をお楽しみ頂ければ幸いです。


 五代は夢を見ていた。漆黒の虹が掛かる極彩色の空を、灰色の草原から見上げる夢。人影はただの一つもなく、時折大きく真っ赤な不定形の影が走る、あまりにも現実離れした夢。

 夢とは、得てしてこういうものである。(うつつ)から乖離すればする程、その境を曖昧にする。さらにたちの悪い事に、身の危険を感じる程の悪夢ならば、もはやその境などあってないようなもの。眼前に現れた恐怖の象徴は、不条理とも言える真実味を帯び襲い来る。そして夢中の不条理に反し、当人は救国の英雄でもなければ歴戦の勇士でもなく、抗う術など当然持ち合わせようはずもない。

 そうしてただひたすらに逃げ続け、ようやく眠りから開放された者の反応は、人によってさまざま。跳ねるように起きる者、静かに目を見開く者、寝床から転げ落ちる者。誰しも経験があろう。子供であれば恐ろしい悪夢から開放されて安堵し、布団に描かれた異世界地図でさらなる絶望を味わうのも、ある種のお約束と言えようか。

 翻って五代は、恐怖など一つも覚えなかった。それが当たり前であるかのように、静かな心持ちで受け入れていた。それは彼の性格ゆえか、はたまた尋常ならざる非常識に身を晒し続けた結果か。青空を仰げないこの不可思議な世界を、いささか残念に感じてはいたようだが。

 

 人によっては紛れもない悪夢からの目覚めは、さほど不愉快なものではなかった。二日酔いに似た鈍い頭痛に眉を顰めながら上体を起こし、軽く辺りを見やる。意識するまでもなく目に入った、遥か高い天井まで届く書棚。それがずらりと、規則正しく並んでいる。そこで五代は、ようやく記憶との一致を見た。

 

 

 

 ワインセラーを期待して長い螺旋階段を降りた先は、重厚な木の扉。燭台の明かりに煌々と照らされたその扉からは、不思議と人の侵入を厭い、拒むかのような意思を感じる。扉に刻み込まれた、さすがの五代も現実には見た事のない、所謂幻獣と呼ばれる怪物の彫刻が醸し出しているのか。それとも咲夜の手品の一種なのか。はたまた未だ邂逅していない、この館の誰かが仕掛けを施したのか。

 冷え切った螺旋階段の奥底で、しかし五代の思考は未だ心地良い酩酊状態にあった。少なくとも、物言わぬ扉の圧力を以てしても伸ばした手を引っ込めようとしない程度には。特に意を決した様子もなく、いっそ長旅からポレポレへ帰って来たような気軽な心持ちで、彼は扉の奥へと侵入を果たした。

 

 扉をくぐった五代を迎えたのは、先述の書棚。どこから見ても、到底人間が使う事を想定しているとは考えられない。と言うのも、この部屋の天井は外の世界で例えればビルの4〜5階程度と、やけに高いのだ。そこまで達した書棚など、どこの誰がまとまに使えると言うのか。

 見上げれば、最上段まで隙間なく本が収められ。見渡せば、そんな書棚が際限なく続き。見下ろせば、収め切れなかったであろう本が床に無造作に積み上げられている。どこを見ても本、本、本。無類の本好きであっても目を回しそうだ。

 そこまで考えて、五代は思い当たる。この館の当主であるレミリアが、そもそも人間でなはいのだ。人間を対象としていない部屋を作り、蔵書を収めていたところで、何ら疑問を差し挟む必要などないのではないか。レールで動かせる梯子や脚立の類も見当たらないが、背中の翼で空を飛べるレミリアならば、最上段の本であっても容易に取り出せるだろう。

 

「これ全部読み終わってるんだとしたら凄いなぁ……。仕事も忙しいみたいだし、俺、本当にお呼ばれして良かったのかな?」

 

腕組みして一人思い悩む五代。本人の預かり知らぬところで、彼のレミリア評に『人並み外れた読書家』が追加された瞬間だった。

 

 さて、思い悩んだところで物事は始まらぬ。書棚の間を、五代は背表紙を眺めつつ歩き始めた。床に積まれた本を蹴飛ばさぬよう、足元に注意を払いつつ。そうしていると、城南大学の書庫もこんな雰囲気だったな、と在学時代を思い出す。

 貴重な絶版の本や稀覯本を日焼けから守る、適度な照度。鼻腔に届く、新書を扱う書店よりは多少埃臭く、古書店街に並ぶ店よりは遥かにカビ臭さを感じない香り。山程の紙が存在する部屋の光源に蝋燭が使われているのは、少々心配だが。

 

「それにしても……」

 

思いがけない懐かしさを感じつつ、流し読みのように背表紙に書かれたタイトルを読もうとする五代だが、ある事に気付いた。

 彼にも読める言語で書かれている物もあれば、見覚えはあるが読み書きは出来ない言語で書かれている物もあり、果ては見た事すらない言語──どちらかと言えば記号のように見える何かが書かれている物と、あまりにも統一性がないのだ。少なくとも和書や洋書と言った具合に、言語で整理されているわけではないらしい。

 そして読める言語で書かれている本だが、いずれもなかなか個性的なタイトルが付けられている。

 

「『魔法理論応用』に『基底世界を構築する魔術式』、『魔法理論による星間航行』……。合ってるかは分かんないけど、魔法の本?」

 

その場で足を止め、しばし思案する。人が空を飛んだり、妖怪や妖精が当たり前のように人と共存したり、そもそも己は外界と隔離された結界の内側にいるのだ。今更魔法について書かれているであろう本程度では驚きもしない。

 それよりも彼の思考を埋めたのは、この蔵書量。恐らくは魔法の本が収められた書棚なのだろうが、これだけの数の書物が書き記されているくらいには、幻想郷において魔法と言うものは当たり前の概念らしい。と言うよりは、大昔には世界の至る所にあった魔法が時を経て科学に追いやられ、消え行く瀬戸際に幻想郷へ至った。世界中に存在した魔法が幻想郷に集約された、と言った方が正しいか。

 

「考えてみれば、赤以外のクウガの時に武器を作れるのも、魔法みたいなもんなのかな……」

 

一条薫から託された二台のバイク(トライチェイサー、ビートチェイサー)のグリップや彼の拳銃、果ては海辺に流れ着いた流木さえも、青、緑、紫のクウガであれば未確認生命体に通用する武器に作り変えられる。傍から見れば、魔法と言われても納得は得られるだろう。原理などは当の五代も知らないが。

 

「……って事は、もしかして俺も魔法使い!?」

 

なんてね、と良い具合にアルコールに浸かった頭で導き出した結論を軽く蹴飛ばし、再び書庫探索に戻る。

 

 そうして、一つ二つの書棚を脇目に歩いていると。

 

「……ん?」

 

視界の右端が、やけに歪んでいるのに気付いた。酒精に目がやられたか、と一瞬考えた五代だが、すぐに否定する。冒険の旅で己の酒の許容量は十分に理解しているつもりだ。目の焦点が定まらない程の量は飲んでいない。そも、歪んでいるのは視界の右端のみであり、そんな経験は潰れる程飲んだ時でもした事がない。……であるならば。

 季節外れにも程がある、夏の日の陽炎にも似た歪み。その正体は自己に起因する物ではない。それを確かめるべく、五代は首を右へと向けた。

 視界の歪みは、視界が右へ向くに連れて大きく、強くなっていた。改めて原因は己ではないと確信し、そのまま歪みの正体を探る。今まさに自分が通り過ぎようとした書棚に、その原因があるのは明らかだ。

 視線を動かす内に、五代の視界は完全に歪み切ってしまった。真横を向けばそこにあるのは書棚。頭では分かっているのだが、眼前にあるそれが書棚とは到底思えない程に。こうなっては最早、目隠しをされているも同然だ。加えてどうした事だろうか、まるで頭を思い切り振り回されたように、足元が覚束なくなってしまった。体がぐらぐらと揺れ動き、その場に立っている事すらままならない。

 これは不味い、どうにかしなければ、しかしどうすれば良いのか。俄に混乱した頭で、辛うじて書棚から顔を背けようとした五代だが、すぐさま新しい怪現象が立ちはだかった。視線が、書棚から外せない。何かが、彼をこの場から逃してくれない。

 

「な、何だこれ、一体何が……!?」

 

出鱈目に作られた弥次郎兵衛(やじろべえ)のように、体がぐらついている。己の発した声も、ぐわんぐわんと波打っているように聞こえる。いよいよもって危険だ、と感じたその時、視線がある一点に吸い込まれた。

 随分と古びた茶色の背表紙、刻まれているのはアラブ圏で使われている言語。奇妙な事に、その本だけが歪む事なく、はっきりと視認出来る。そして意識を集中させていると、体のぐらつきが治まるのだ。さりとて再び視線を外すと、体は再びバランスを失ってしまう。

 まさかとは思うが、この本が己に起きた一連の異常の原因なのだろうか。両の足をしっかりと地につけ、件の本をじっと見やる五代。無視は、許してくれないようだ。

 波間にふと漂って来た一枚の板、濁流の岸辺にちらと見えた藁。そんな生易しいものでないことは明白である。とは言え、一歩を踏み出さねば解決しない事もまた自明。

 一か八か。意を決した五代は、ただ一つの拠り所、あるいは蟻地獄の大顎へとその手を伸ばした。

 

 書棚から取り出したそれは、見た限りではアラビア語で記された皮装丁の本でしかなかった。手触りもわずかに漂う香りも、怪しいものはない。それでも、視線を外せばやはり先述の異常に見舞われる。読め、と言う事なのだろうか。どうであれ、他に選択肢はなさそうだ。

 

「単なる絵本とかなら、まだ良いんだけどな……」

 

えぇい、ままよ、とばかりに表紙をめくる五代。そして──

 

──形容し難く、悍ましい情報の奔流に、彼の脳は襲われた。

 

 

 

 事の成り行きを思い出した五代は、改めて周囲を見渡した。視界の歪みも、荒波に揉まれる船のようなぐらつきも起きていない。自身の状態を鑑みるに、このまま起き上がってしまっても問題はなさそうだ。

 

「うーん、あれは何だったんだろう?」

 

不可思議な夢を見たのは覚えている。内容すらも鮮明に。しかし、本を開いた瞬間に己の頭に流れ込んで来た、過去に培って来た常識を覆すかのような未知の情報群は、これが綺麗サッパリ抜けているようなのだ。

 そもそも中身読んだっけ? などと呟きながら、脳内を右から左へ駆け抜けて行った何かに疑問を呈するが、記憶にないものはいくら探ったところで掴める訳もなく。首を傾げてみても、耳からころころと残滓が転げ落ちる訳でもない。

 ただ、同時にこうも思う。覚えていないのならば、再び読み返せば良いのではないか、と。それに、もし忘却の彼方へ消えた知識が、己の胸を打つ感動的な文学作品だったならば、むしろ何も覚えていないのはこの上ない僥倖なのではないか。

 ……あの夢の内容を鑑みるに、むしろ読み返してもろくな事にならないと思われるが、そこはポジティブの権化、五代雄介である。書棚を助けにして立ち上がり、さて例の本を探すぞと意気込んだところで──

 

「あれ、やっと起きたですね」

 

──頭上からの声に、はたと視線を上げた。

 果たして五代に声を掛けたのは、背中の蝙蝠のような翼をぱたぱたとはためかせる何者か。声の質からすると恐らくは女性。しかもかなり年若い少女ではないかと、五代は見立てを付けた。

 

「少し待って下さいね。後三冊で終わりますんで」

 

特に五代へ視線を向けるでもなく、少女は左の腕で分厚い書籍を抱きかかえ、残る右手でこれまた読み応えのありそうな書物を書棚へ収めている。次いでふわふわと別の書棚へ移動し、また本を収める。

 そんな様子を眺める五代は、とっくの昔に『人の背中に翼が生えている』と言う普通ならあり得ない事柄が、幻想郷(ここ)なら特に珍しい事ではない、と認識が改まっている為、

 

「あぁなるほど、梯子も脚立もいらない訳だ」

 

と呑気に納得し、独り言を口にしていた。俺も羽根生えてたら便利かもなぁ、などと付け加えつつ。

 

 

 

 仕事を終えたらしい少女が、ゆっくりと五代の前に降り立った。腰まで届くワインレッドのロングヘアに、アクセントで両のこめかみ辺りに添えられた蝙蝠の翼を模した黒い髪飾り──いや、時折微かに動くところを見るに、これは髪飾りではなく彼女自身から生えていると見て間違いないだろう。真っ白なブラウスに黒のベストとロングスカート、そして襟元の赤い紐ネクタイが、ロケーションも相まって司書然とした印象を与える。しかしやや気怠げな目付きと表情は、いかにもフィクション作品に登場する古書店の雇われ店員のような、大雑把そうな雰囲気を醸し出していた。

 

「放っておいてアレですけど、目が覚めたんなら良かったです」

 

開口一番の放置宣言。だがいまいち自分の身に何が起きたのか把握し切れていない五代は、そんな事は露ほども気にせずに、己に何が起こっていたのかを尋ねた。

 

「見付けた時は白目剥いてたですけど、すぐにすやぁっと安眠に入ってたです。(うな)されていた訳でもないですし、お召し物も暖かそうなのでとりあえず大丈夫かなと」

 

白目を剥いていた、とは穏やかではないが、今の自分に別段の変調が起きているわけではない。それに、この図書室は燭台の蝋燭のみが光源という寒々しい印象とは裏腹に、過ごしやすい室温が保たれている。その上で、吹雪に見舞われた九郎ヶ岳をバイク(ビートチェイサー)で走っても平気な程度には分厚いジャケットまで着込んでいるのだ。ここで多少眠りこけていたとしても、風邪などを引くような事にはならないだろう。

 こんな風に? とおどけたように己の思い描く白目を剥いた表情を作ってみせると、少女は口元に手を当てて小さく笑った。

 

「まぁ、たちの悪い魔道書に引っ掛かったですよ、貴方は」

 

たちの悪い魔道書とは。魔法の本ですら初めて見た五代だが、その中でもたちの良い悪いがあるらしい。だが確かに、その場を離れるのを許してくれなかったあの本は、たちが悪いと言われれば納得してしまえる。

 

 少女曰く、あの本は大昔に駆け出しの魔法使いが書き記した物なんだとか。

 

「魔道書と言えば聞こえは良いですけど、実際は落書き帳とか雑記帳みたいなもんですね」

 

魔法使いになって世界の構造、有り様が全く違って見えた著者が、感情のままに己が知り得たものを書き殴っただけの、本来の魔道書の定義からすれば数段格が落ちる代物らしい。ただ、内容は基本を押さえており、またこの本にかけた衝動と情熱は本物である為に、多少は力を持った魔道書として存在しているそうな。

 

「ま、その力を無闇矢鱈に垂れ流してるもんだから、たちの悪い魔道書って言われてるですよ」

 

駆け出しの魔法使いが時折抱く『真実を世界に知らしめたい』と言う怨念にも似た情念。これがどうやら悪い方向に働いているらしい。近くに来た人間を無差別に、五代が体験したような状況に陥れて足止めし、自身を開くよう誘導する。そして被害者の識字能力を完全に無視して、脳内に全てを叩き込むのだ。それが例え、そもそも言語能力が未だ備わっていない赤子であっても。

 被害者にとっての救いは、一瞬で叩き込まれる情報量に脳がオーバーフローを起こして気絶はするものの、それ以外に害はないし普通の人間なら記憶にすら残らない事。その最中に魔法使いが垣間見た世界の一端を夢に見る場合もあるが、それで正気を失って狂気の世界へ誘われる訳でもない事。

 

「言ってしまえば、毒にも薬にもならない無価値な本ですね。一応は魔道書として分類されるんで、とりあえずここの蔵書として保管してるですけど」

 

「そっかぁ、ちょっと残念だなぁ……」

 

一通りの説明を聞いた上で、なおも落胆した様子の五代。なぜ落ち込んでいるのかと少女が問うてみると、彼は、

 

「だってさ、もしかしたらすっごく感動的な文学作品だったかも知れない、って思ってたから。それなら中身を忘れてたのは逆に幸せだったんじゃないかって!」

 

やや消沈しながらも力説してみせた。少女は乾いた笑みで曖昧に同意するしかなかったが、内心では、あぁ、この人間は外の人間の中でも頗る付きの呑気人間なんだな、と図らずもてゐと同じ感想を抱いていた。

 

 

 

 互いに簡単な自己紹介を済ませ、五代がいつものように名刺を渡したところで、"小悪魔(少女)"から提案があった。魔道書を読んだ事で五代自身にも彼女にも分からない異常が出ているかも知れないから、専門家に診てもらってはどうか、と。

 

「お嬢様の客人に何かあったら、それこそ大問題ですし」

 

また、気付けと言うのは土台無理な話なのだが、この図書室に施された侵入者感知魔法に、彼は引っ掛かっている。その顛末を伝える為にも、一緒にその専門家の所へ来て欲しいのだそうだ。話の流れから察するに、その専門家と言うのはこの図書館の主なのだろう。

 

「さっさと"パチュリー"様に引き継げば休憩出来るですし……」

 

ボソリと呟いた小悪魔の言葉は、五代の耳までは届いていなかった。

 

 書棚の間を、小悪魔の先導で進む五代。彼女の背を追いながら、横目で書棚を見やるが、いずれの書物も読める範囲では魔法だの魔術だのと言った単語が背表紙に書かれている。全て見た訳ではないが、あるいはこの図書室は先のような魔道書で埋め尽くされているのかも知れない。

 かと思っていると、次の書棚は恋愛や友情を想起させる単語が散りばめられた書籍が並び、また別の書棚は料理のレシピ集としか考えられないタイトルがずらり。

 

「何か、色んな本があるなぁ……」

 

素直な感想を口にすると、小悪魔が不満気な声色で返した。

 

「そうなんです。ただでさえ馬鹿げた量の本があるのに、外の世界から消えた本が手当たり次第に届くですよ。整理するこっちの身にもなれってんです」

 

それは確かにそうだね、と笑みと共に同意を示しながら、五代の興味はこの図書室に引かれていた。

 これだけ規格外に広い図書室に収められた、外の世界からは消え失せた貴重な書物。歴史的に重要な資料も恐らくは存在するであろう。であればその中に、超古代の時代に関する記録が流れ着いているのではないか?

 これまでかの時代や戦士クウガに関する情報は、そのほとんどが沢渡桜子が解析した碑文から(もたら)されたもの。紙媒体の書物として残っているとは考え難いが、それこそ広く知られる四大文明のように、石版などの形で残っている可能性はゼロではないのではないか。

 もしも、本当に残っているとしたら。沢渡桜子だけでなく八意永琳にとっても有力な資料となろう。件の専門家に頼んで、内容を書き写させてもらえたりはしないだろうか?

 

 淡い期待を胸に、引き続き小悪魔に付き従う五代。それゆえに自然と、先程よりも視線をあちらこちらに向ける頻度が高くなったのだが、そんな中にあってもそろそろとある疑念が首をもたげて来た。

 

「あのさ、……えっと、どう呼べば良いのかな」

 

「私ですか? 小悪魔でもこあでもお好きにどうぞですよ」

 

これと言ってこだわりはないらしいので、己より背が低く外見も年若い少女に見える事を鑑み、小悪魔ちゃんと呼ぶ事に決め、その上で疑問を投げ掛けた。

 

「小悪魔ちゃん、さっきから右に曲がったり左に曲がったりしてるけど、もしかしてここって迷路みたいになってる?」

 

小悪魔は、ただ真っ直ぐに書棚の間を進んではいなかった。書棚の列が途切れた所で、右へ進んだり左へ曲がったりそのまま直進したりしているのだ。専門家とやらの居場所へ向かっているにしては、あまりに不自然な動き。

 もし五代の発言通りに迷路のような構造なのだとしたら、恐ろしい話である。あの場で件の魔道書に遭遇せず、小悪魔に会う事もなかったとしたら、己はこの広大な図書室で遭難していた可能性すらあるのだ。それはそれで冒険心をくすぐられるが、何の準備もなく、食料その他を調達出来るあてもないとなると、さすがの彼もいささか尻込みしてしまう。

 心中で不安を覚えた五代の問いに、小悪魔はけらけらと笑って答えた。

 

「まさか。そんな造りだったら最初にパチュリー様が迷子になっちゃうですよ」

 

 彼女が言うには、この図書室には先の魔道書よりも遥かに危険で、狡猾な魔道書が点在しているらしい。それこそ足止めなどと回りくどい真似をせずに、近寄る者を問答無用で洗脳してしまう物や、触れてすらいないのに正気を失わせてしまうような物など、そこかしこに深淵への入口が開いているようなものなんだとか。

 

「見たところ、五代さんは普通の人間みたいですからね。だから回り道して、そう言う本格的にヤバい魔道書を避けてたです」

 

どうやら、単なる迷路以上に恐ろしい場所だったらしい。小悪魔がいなければ、遭難以上の大惨事になっていた事は想像に難くない。斯様な状況にあっては、迂闊に余所見をして彼女の背中を見失うのは命の危機に直結しかねない。

 ほんの僅か、気持ち程度に小悪魔との距離を詰めた五代は、ひとまず超古代の手掛かり探しを頭の隅に追いやり、彼女の追従に専念するのであった。




本来のプロットでは、この話中でパチェと出会う予定でしたが、ちょっとそれでは文章量が凄まじい事になってしまうと判断し、その前段階を書くに留めました。

最後に、四年の月日が空いてしまった事、重ね重ね申し訳なく思っております。
大変身勝手ではございますが、これからも五代くんの旅路にお付き合い頂けると嬉しいです。


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