私と先輩が結婚すべき理由 (おかぴ1129)
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本編
1. それは突然だった


登場人物紹介

渡部正嗣:ダメ社員 仕事に対する興味ゼロ
 設楽薫:渡部の後輩にして、すでに係長に出世した仏頂面 笑わない


 運命の交差点ってのは、いつも唐突に訪れるもの……のはずなのだが、今回ばかりは面食らった。

 

「おーう来たぞー」

「お待ちしてました先輩」

 

 俺は、後輩にして教え子……そして今では俺以上に出世したうちの会社の稼ぎ頭、設楽薫に突然呼び出しを受け、居酒屋『チンジュフショクドウ』へと入店していた。

 

「なんだ。俺たちだけか」

「他に人がいた方が良かったですか?」

「いや、そういうわけじゃないけどな」

 

 俺より先に予約していた個室に入り、すでに待機していた設楽は、いつもの仏頂面に長くてキレイなストレートの黒髪を携え、俺の到着を待っていたようだ。しかしこの女、いつものごとく愛想がないな……。俺は着ていたコートを脱ぎハンガーにかけたあと、設楽薫の向かいの席へと腰掛けた。

 

 掘りごたつ形式のこの個室は、くつろごうと思えばもっとだら~んとくつろげるのだが……呼び出された理由を聞かないことには、心からくつろぐことなんて出来ないしな……。

 

 少し落ち着いたところで、こっそり設楽を見る。いつもの仏頂面でメニューを眺めるその佇まいは、すでに係長の威厳たっぷりだ。もっともこいつは、入社時からその仏頂面のおかげで、威厳だけは無駄に兼ね備えてやがったが。おかげでツヤッツヤの黒髪ストレートで顔立ちも猫顔の美人のくせに、未だに男の影がない。スキがないからなぁこいつは……黒のスーツなんぞを着込むから、余計に男が寄ってくるスキがない。

 

「先輩は何を飲みますか?」

「俺か? 俺はー……」

「カシスオレンジですかいつものごとく」

「そうだな。設楽は?」

「私は黒霧島を」

「お前も相変わらずの焼酎党か」

「出身が鹿児島ですから」

「初耳なんだが。前に関西の方とか言ってなかったっけか?」

「嘘ですから」

「意味のない嘘をつくな」

「まっこて渡部先輩は厳しかもんじゃー」

「エセ鹿児島弁はやめろ」

「すいません」

 

 いつものごとく意味のないやり取りをしながら、俺はテーブル隅っこの店員呼び出しボタンを押した。周囲の喧騒に紛れて『ぴんぽーん』という呼び鈴が鳴り、ほどなくして女性店員が来訪。俺はカシスオレンジと黒霧島のロックを注文した。

 

「ご注文は以上ですか?」

「あと厚焼き玉子とシーザーサラダと刺し身の盛り合わせを一つずつ」

「かしこまりましたー!」

 

 俺のオーダーを聞いた店員は、目の前の仏頂面女、設楽に比べると何億倍も清々しい接客スマイルを俺たちに振りまいた後、個室からそそくさと出ていった。

 

「先輩」

「んー?」

「なんでロックってわかったんですか」

「お前いっつもロックだろ」

 

 何も知らんやつが聞いたら、さぞやキツイ言い方に聞こえるであろう、設楽の冷静なツッコミは流す。

 

 しばらく待ったところで、カシスオレンジと黒霧島が、先程の女性店員の手によって届けられた。

 

「……先輩」

「なんだ」

 

 女性店員は俺の方に黒霧島を置き、そしてカシオレを設楽の方に置きやがった。男だって酒の味が苦手なやつだっているし、女だって焼酎をロックで飲むやつだっているっつーの。

 

「なんで言わなかったんですか」

「何をだよ」

「『あ! あのぉおお! ぼく甘党なんでー、カシオレはこっちに下さぁあい!!』とか言えばよかったじゃないですか」

「お前、先輩の俺にちょいちょい失礼だよなぁ」

「失礼とはまた失礼な……しかしとりあえず謝っておきます」

 

 この設楽という女は、眉一つ動かさずにこういう軽口を叩く。目がぱっちりした猫顔にしてキレイな黒髪のストレート……化粧はかなりすっきりめで、『美人』といっても差し支えないこの女は、こうやっていつもいつも俺を仏頂面でからかっては煙に巻く……。

 

 心が全くこもってない設楽からの謝罪を聞き流しながら、俺達は互いに酒を交換しあったあと、申し訳程度の乾杯を行って、ついでに持ってこられたお通しのもずく酢に箸をつけた。

 

「……んで、なんだよ」

 

 カシオレに口をつけたあと、俺はここに俺を呼び出した理由を、相変わらずの仏頂面で黒霧島をぐびっと飲んでいる設楽に問いかけた。

 

「なんだよ……とは?」

「俺を呼び出した理由だよ。呼び出したからには何か理由があるだろ」

「……」

 

 押し黙る。……ここで言い辛そうにもじもじしたり顔を赤らめたりすれば、まだ可愛げもあるものなんだが……

 

「……」

「……」

 

 なんつーか……ともすれば『睨んでる』と思われてもおかしくないような仏頂面でこっちをじーっと見てくるもんだから、怖いったらありゃしない……いや、言い辛いことを何か抱えてるってのはなんとなく分かるんだが……眉一つ動かさず、目をそらさずに、こっちをじーっと見つめるもんだからなぁ……。なんつーか、責められてるような気がしないでもない……。

 

「……渡部先輩」

「おう」

「私達、知り合って何年か分かりますか」

「んー……」

 

 こいつが中途採用で入社してからだから……あれか。そろそろ三年ぐらいになるか?

 

「三年ぐらいかなぁ」

「正解です」

 

 ホッ……よかった。

 

「そうです。もう知り合って三年なんですよ」

「だなぁ。そして知らんうちにお前が先輩を追い抜いて出世街道まっしぐらの道に入って、もう二年か」

「ですね……長かった……」

 

 そう相槌を打って、目を細めて俺の頭の上あたりを眺める設楽の目には、一体何が映っていることやら……

 

 でもそれと、俺をここに呼び出した理由に、一体何の関係があるというのか。しかも差し向かいだぞ。これは何か重大な事件でも起こったのか?

 

 思い当たるフシが、実はないわけではない。

 

 こいつは、ここ数日ずっと妙だった。本人は『別に忙しくない』と言っていたが、一日中自分の席でパソコンのキーボードを叩きまくり、時々頭を捻っては画面を睨みつけ、またガシガシとキーを叩く……

 

 こいつは一度、やたらめったらに難しく責任重大な仕事を抱えたことがあった。その時のこいつの忙しさは、満足に昼飯を食べる時間もないほどだった。あの時は見事に失敗してしまったのだが……ここ最近の設楽は、その時に匹敵する真剣な仏頂面で、パソコンをにらみ続ける毎日だ。

 

「なぁ設楽」

「はい」

「そろそろ理由を話してくれ。意味もなくここに呼び出したわけではないだろう」

「はい」

「なら話してみろ。悩み事なら、相談に乗るから」

「……」

「ここ最近のお前が忙しいのは知ってるが……そのことか?」

 

 すでに上長と化していた設楽に、余計な先輩風を吹かせてみる。こいつはすでに俺よりも責任重大な仕事を任されているわけだから、今更俺が力になれることなんてないというのに……まぁなんつーか、先輩の意地ってやつかな?

 

 俺の無意味な先輩風を全身に受けた設楽は、眉一つ動かさず、自分の黒霧島に口をつけ、そしてグラスを静かに置いた。

 

「先輩」

「おう。なんだ」

「単刀直入に言います」

「おう」

「私の面倒を見て下さい」

 

 面倒を見て下さい? 面倒? どういうことだ? 俺は最初、この仏頂面女の言っていることが、まったく理解出来なかった。

 

「面倒?」

「はい。先輩に私の面倒を見ていただきたく」

 

 面倒を見る……仕事仲間からそんなこと言われたら、普通は『私の仕事の面倒を見て下さい』って言われてると思うよなぁ? 特に後輩の設楽なら、何か自分の手に負えない仕事を任されてしまったから、先輩にして指導社員だった俺に、面倒を見てほしいと思ってる……そう思うのは、至極自然な考え方だよなぁ。社内での役職云々は置いといてさ。

 

「えーと……設楽」

「はい」

「面倒を見ろ、と」

「はい」

「誰が?」

「ゆー」

「誰の?」

「みー」

「俺が? お前の? 面倒を?」

「あーはん。おーいえー」

 

 これは冗談だよな。仏頂面で顔色一つ変えず、いちいちエセ帰国子女的英語で俺に返事をするあたり、冗談だと受け取っていいよな。すでに係長の設楽を、ヒラの俺が面倒見られるわけないよな。

 

「おい設楽」

「はい」

「冗談はその仏頂面だけにしろ」

「それハラスメントですよ先輩」

「うるせー。俺がお前の面倒を見るって一体なんだよ。すでにお前は俺より出世してるじゃねーか設楽係長さん?」

「お褒めいただき光栄です」

「そんなお前を、俺がどうやって面倒見るってんだよ。むしろお前が俺の面倒を見ろよ」

「バカな。先輩は要介護系先輩だったのですか。ただ仕事に対してルーズなだけではなかったのですか」

「うっせ。お前うっせ」

「ちなみに私は要介護系係長ですよ先輩」

「さりげなく“実は私は弱い”アピールをぶっこんでくるんじゃない」

 

 仏頂面の設楽との軽口の応酬は、いつものことだからまぁいいとして……頭をボリボリとかき、俺は設楽を問い詰める。

 

「……そんなに難しいのか?」

「何がですか?」

「お前がここ最近、必死に何かを頑張っているのは知ってる。そのことで頭を悩ませてるんだろう?」

 

 そうだ。ここ最近のこいつは、ずっと険しい仏頂面だ。俺の知らない、何か難しい仕事に苦しめられているに違いない。

 

「違いますが。というか、別に忙しくなどありませんが」

 

 違うのか!? つーか忙しくないのか!? んじゃここ最近の設楽は、一体何をやっているんだ!?

 

「先輩。仕事のことではないのです」

「マジか」

「ええ。えらくマジです」

 

 気を取り直し、改めて設楽の話を聞いてみると……仕事上の面倒ではないというのは、どうやら嘘ではないようだ。では、俺に一体何をさせようというのか……

 

「先輩に面倒を見ていただきたいのは、プライベートのことです」

「まっっっっっっったく話が見えてこないぞ」

 

 次のセリフを吐いた時の設楽の表情は、いつもと変わらない仏頂面のはずなのだが……

 

「では先輩」

「あん?」

「平べったく言い直します」

「おう」

 

 その時の設楽の仏頂面を、俺は生涯、忘れることはないだろう。

 

「私の夫になって下さい」

「? おっと?」

「つまり、私と結婚して下さい。プロポーズというやつです」

「プロポーズ……」

 

 その時、俺は『プロポーズって……あのプロポーズで、合ってるんだよな?』と、ひどくとぼけたことしか、考えられなくなっていた。

 

 



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2. 仏頂面の新人

 俺……渡部正嗣(わたべまさつぐ)は、この会社でも指折りのダメ社員だ。

 

 この会社は中小企業の企画会社で、俺もここに入社してもう五年ほど経つ。にも関わらず、相変わらずミスは多いし仕事量も数をこなせない。おかげで上長からはダメ社員のレッテルを貼られ、最近ではロクに仕事も回してくれない。

 

「おい渡部。これ、パワポにまとめといてくれ」

「はい。了解です」

「いつ頃までに終わりそうだ?」

「明日までにはなんとか」

 

 かろうじて、他の社員から頼まれるパワポ作成が、俺の数少ない仕事だった。

 

 だからといって、別に実力不足を歯がゆく思うとか、もっと仕事が出来るようになりたいとかは思わなかった。要はあれだ。仕事に対する向上心ってやつがなかった。

 

 ……いや別の言い方をすれば、興味が仕事に向かなかった。俺の興味といえばもっぱら、今晩の晩飯は何を作ろうかとか、今度の休みの日は家の掃除をしようとか、明日は晴れだから、出社前に洗濯済ませたいなぁとか、そういうことの方に気が向いていた。

 

 仕事なんて適当にやっときゃいいんだよ。生活に困らないレベルで、程々にこなしときゃいいんだ。それよりも、明日うちに届く生ハム10キログラムの塊の方が俺には大切だ。明日からはしばらく生ハム三昧だ。考えただけでもよだれが垂れるぜこんちくしょう……

 

 そんなことを考えながら、今日も適当に一日を切り抜けることしか考えてなかった俺に、課長からある指令がくだされた。

 

「おい渡部。ちょっとこっちこい」

「はい」

 

 俺がパワポの作成に実力の半分ほどをやっとこ振り絞っていた時、課長に呼ばれ、俺は重い腰を持ち上げて課長の席へと移動した。課長の席には、見慣れない女が一人、こっちに背を向けて、姿勢良く立っている。背がスラーッと高くて黒のスーツ姿がよく似合う、パンツ姿がよく映える女だ。下ろせば肩の下ぐらいまでありそうな長い黒髪を、キレイにポニーテールにしてやがる。元剣道部かなにかか? 偏見だが。

 

「渡部。紹介する。今回中途でうちに入った設楽薫さんだ」

「設楽です。はじめまして」

「あ、はい。はじめまして。渡部です」

 

 その『設楽薫』と紹介された、猫顔の美人といっても差し支えない女は、やたらと無愛想な顔で、俺の顔をじーっと見てきやがった。

 

「……」

「……」

「……なんすか?」

「なんすか……とは?」

「いや、俺の顔をじーっと見てくるから」

「いえ。特には」

「はぁ……」

 

 確かに顔は美人なわけだが、こんな愛想もクソもない仏頂面で顔をじっと見られると気持ち悪い……この女が一体何を考えてるのかさっぱり分からん……たまにいるんだよなぁ……こういう、何考えるのかよくわかんないやつが……こいつの指導係になるやつが気の毒だ……

 

「自己紹介は済んだな」

 

 俺が極めて他人事のようにこの仏頂面女のことを眺めていたら……

 

「では渡部。お前が設楽の指導係だ」

 

 と、課長のやつが中々に物騒なことを言い出しやがった。

 

「はあ!? 俺が指導係ですか!?」

「そうだ」

「なんで俺なんすか!?」

「だってお前、どうせヒマだろ」

「う……」

 

 クソッ……確かに俺は今、確かに同僚のパワポ作成の手伝いという至極どうでも良さそうな仕事以外は特になく、今では社内ニートになりつつある……悔しいが、何も言い返せん……ッ。

 

「お前以外のやつは自分の仕事で忙しい。指導係になれそうなのはお前しかいない」

「……」

「頼んだぞ。この設楽の社員としての成功は、お前の双肩にかかっているからな」

 

 と御年五十過ぎの課長が、えらく熱のこもった声で俺に指導係の指令を下してきたのだが……

 

 しかし納得がいかん。本来、後輩の指導というのは、俺のようなダメ社員の仕事ではなく、もっと上の立場のヤツや将来有望なヤツがやる、責任重大な仕事のはずだ。

 

 教育ってのは、つまり先行投資だ。ここをおろそかにする会社に未来はない。俺のようなダメ社員にまかせていい仕事では、断じてないはずだ……。

 

「あの」

「お、おう」

 

 俺が心の中で毒づき、自分にはこの子の指導係という大役は荷が重すぎるということの理由を必死に探していたら……俺の隣の新入社員、仏頂面の設楽薫とかいうこの女が、また俺のことをジッと見ていた。

 

「というわけで渡部先輩」

「お、おう」

「ご指導ご鞭撻、どうかよろしくお願い致します」

「お、おう」

 

 丁寧な挨拶と共にこいつはぺこりと頭を下げるが……この女の仏頂面、有無を言わさない迫力があるな……ぶすっとした顔で見つめられると……いや、睨まれると、なんかこっちは何も言えなくなってくる……

 

 こうして、俺と仏頂面女の設楽は最初の挨拶を交わしたのだが……ぶっちゃけ、オレの心は複雑だ。『面倒な仕事が増えた』『俺の静かな社内生活が終わった……』そうとしか思えない。出来るだけ仕事に割く体力的リソースは少なく行きたい……成功なぞいらない。ただ静かに、生きていけるだけの収入さえ入れば、俺は何もいらない……そう思っていたのに。

 

「挨拶代わりに握手しましょうよ握手」

「お、おう」

 

 仏頂面から差し出された、白く細い手を握る。華奢な手だが、中々の握力で俺の手を握り返してきやがる……ああめんどくさい……早く家に帰りたいのに……そう思い顔を歪ませる俺。そんな俺の目を、俺より少し背が低いこの仏頂面女の設楽は、その印象的な真っ直ぐな眼差しで、じーっと見つめていた。

 

 ……あと余談だが、握手してる最中、こいつはまったく微笑まなかった。眉間に皺が寄っているようにすら見えた。

 

 



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3. 理由を説明されたが……

「だいたいさ。なんで俺なんだよ……」

「私の夫になるのがそんなに嫌ですか」

「理由が分からん。大体お前……指導してた頃から、俺と話す時はずっと……」

「ずっと……なんでしょうか」

「……いや、何でもない」

 

 青天の霹靂ってのは、きっとこういう事を言うんだろうなぁ……快晴の日に雷なんて、そら鳴るはずないもんなぁ……そらびっくりするわ。一体誰だよこの言葉考えたの。うまいこと考えやがって。今の俺のシチュエーションにぴったりじゃねーか。

 

 まさかこの万年仏頂面女から、『結婚して下さい』と逆プロポーズされることになろうとは……夢にも思ってなかった。

 

 でも、ここで疑問が生まれる。この仏頂面女は、俺と話をする時は終始ぶすーっと愛想のない顔をしてた。恋愛感情のようなものを感じたことは一度もない。少なくとも、好意のようなものをこいつから感じたことは、どう思い出しても一度もなかった。

 

 だからというわけではないが、俺は設楽のことを格別丁重に扱った覚えはない。適当にあしらい、適当に指導し、適当に付き合ってきた。

 

 ……そんな俺と、なぜこいつは結婚しようとする? 何かきっかけでもあったのか?

 

「私と先輩は、ベストマッチだと思うんです」

 

 俺の疑問に答える気になったのか何なのか……相も変わらずの仏頂面で、設楽は俺の質問にそう答えていた。答えながら、自分の仕事用バッグをごそごそ弄りだしたのがとても気になる……なんだか片手間で俺の質問に答えているように見えて、不愉快な気持ちになる……

 

「ベストマッチって……俺とお前ってそんなに仕事でいいコンビだったっけ?」

「いえ、仕事のことではありません。言ってみれば、相性というやつでしょうか……」

「どこがだよ……お前の言ってることがさっぱり分からない……」

 

 しばらくごそごそと自分のバッグをまさぐっていた設楽が、俺の目の前に出したもの……それは、iPadだ。

 

「……それで何するつもりだよ」

「ええ。私と先輩がベストマッチだと思う理由を、これから説明しようかと……」

 

 そう言いながら、設楽がiPadをすいーっすいーっとキレイな右手で操作していく。そして俺に見せてくれたその画面には……

 

――私と先輩が結婚すべき理由

 

 そんなふざけたタイトルが表示されていた。

 

「では始めさせていただきます」

「お、おう……」

 

 仏頂面の設楽の雰囲気に飲まれ、俺はそのパワポのふざけきったタイトルに突っ込む気力を失ってしまった……

 

「そもそもなぜ私と先輩がベストマッチなのかというと……」

「……」

 

 そのパワポは非常に作り込まれていて、要点はわかりやすく、図表やグラフなどのビジュアルにも力が入れられている。さすが、師匠の俺を差し置いてパワポ職人としてキャリアをスタートさせた設楽だけのことはある。この完成度のパワポを使ったプレゼンを前にすれば、大抵のクライアントは設楽に口説き落とされるだろう。

 

 ……だが、今回だけは話が別だ。

 

「先輩は仕事においては優柔不断で、決断力がありません」

「おい」

「こちらの棒グラフをご覧ください。先輩は業務においてはお世辞にも効率がいいとはいえず、勤務成績も限りなくケツに近いブービーといえます」

「ふざけんな」

「私が係長に出世したことで再び課内のパワポ職人の地位に返り咲きましたが、もはや名声は過去のものとなり……」

「さてはお前、俺を口説き落とす気がないな?」

「バカな。私は先輩との結婚を、より確実なものにしようと……」

「どこにクライアントをけなすプレゼンをするアホがいるんだよ」

 

 こんなプレゼン、誰が聞いても気分が悪いだけだろう。パワポの出来が良すぎるだけに、聞いていて非常に腹立たしい。オレの心がささくれ立っていく。

 

 そしてプレゼン内容は、次第に俺の女の好みの話へとシフトしていき……

 

「正直、ここが一番の懸案事項なのですが……」

「なんだよ」

「調査した結果、先輩の女の子の趣味は、いわゆるたぬき系の顔だと思います」

「だなぁ。まぁ付き合いも長くなってきたしな。それぐらいは分かるだろ」

「対して私は猫顔だ」

「だなぁ」

「……我慢していただきたい」

「クライアントに我慢を強いるプレゼンは初めて聞いた」

「私との結婚生活のため、そこは妥協して猫顔で我慢していただく必要が……」

「妥協だの我慢だの……そこまでクライアントに不利益を平然と押し付けるか」

「次に、先輩の女性の胸の好みですが」

「いきなり話が飛ぶな」

「俗に “おっぱい”と呼ばれているものですが、分かりますか」

「いちいち言い直さなくても分かる」

「先輩は、言うほど女性のおっぱいにこだわりがないと見えます」

「おっぱいは好きだが、好きな子のおっぱいが好きなおっぱいだな。そういう意味では確かにこだわりはない」

 

 設楽の視線が、自分の胸元に落ちた。つられて俺も、不本意だが設楽の胸元に向いてしまう……。

 

「……察していただきたい」

「何をだよ」

「……」

「……」

「察していただきたいっ」

「だから何をだよ」

 

 ここで設楽が次のスライドに行こうとしたところで、さっきもドリンクを持ってきてくれた女性店員の手によって、注文していた厚焼き玉子とサラダと刺し身の盛り合わせが届いた。

 

「おまたせしましたー。こちらお刺身の盛り合わせでーす」

「……」

「……」

 

 さすがに恥ずかしいのだろう。『先輩と私の関係性からみる相性』というスライドを映したiPadはそのままながら、設楽は口をつぐんでじっとしていた。……と思いきや。

 

「こちらは厚焼き玉子でーす。あとこちらが……」

「私と先輩の年収予測推移グラフになりますが……」

「店員と会話をシンクロさせるな。度胸の無駄遣いはやめろ」

 

 そんなこんなで、意味不明かつ無駄に腹立たしいパワポによる、こちらの逆鱗を逆撫でしようという意図しか感じられないプレゼンを、俺は右手を上げて強制的にストップさせた。

 

「おい設楽」

「はい」

 

 なぜこいつは、プレゼンでプロポーズを行おうと思ったのか。それがいまいち見えてこない。

 

 そらぁたしかにこいつはパワポ作成が得意だし? 思いの丈を言葉にするのに、得意な何かに頼りたいと思う気持ちは分からんでもない。

 

 だけどさ。プロポーズって、もっとロマンチックなものなんじゃないの? こんなさ。ビジネスライクなものではなくて……

 

――せんぱい……好きです……

 

――設楽……い、いけない……ッ! 俺は……俺達は……ッ!!

 

 ……これだ。プロポーズって、本来こういう、ロマンチックなものなんじゃないの? もっとこう、愛に溢れた、感動の涙をさそう、一世一代の転機で、人生で一番ステキな時間になるはずのものじゃないの?

 

 それが何なの? 藪からスティックにいきなり仏頂面で『結婚して下さい』と言われ、『あなたは仕事が出来ませーん』と罵られ、しかもそれをご丁寧にパワポで視覚化までされて……こんな前代未聞でビジネスライクで不愉快なプロポーズ、ダメなんじゃないの? お前、これでいいの? むしろ俺を笑い者にしたかったの?

 

「お前さ」

「なんでしょうか」

「なんでわざわざパワポでプロポーズしようと思ったんだ?」

「……」

「……ふざけてるのか?」

「私はふざけてなどいません」

「なら何なんだ。俺にはお前が仏頂面でふざけてるようにしか見えないんだが」

 

 『流石にやりすぎたか……』と反省したのか、はたまたへそを曲げたのか……それは表情からは読み取れない。だけど少し真剣味がこもった俺の声を聞いた設楽は、ふざけきったパワポが映っているiPadの画面を切った。

 

「……お気に召しませんでしたか」

 

 設楽がiPadをしまいながら、ポソリとそうつぶやいた。その声に俺の良心が少々傷んだが、それでもついさっきまで、魅惑の意味不明パワポで俺を弄んだその罪は消えない。

 

「そら半分冗談とはいえ、自分のことをけなされまくったパワポを作られてへらへら笑ってられるヤツなんか、どえむ以外にはいないだろう」

「私は至極真剣なのですが」

「なおさらタチが悪いわ」

「せっかくここ数日、寝る間も惜しんで作ったのに……家でも会社でも作り込んだのに……」

「ここ数日難しそうな仏頂面で机にかじりついてたのはそれが理由だったのか……部下を預かる身でなに遊んでたんだよ」

「遊んでるつもりなどありません。私は真剣に作っていました」

「仕事中にやるなよ。仕事に集中しろ集中」

「仕事と人生の充実の二者択一なら、私はためらいなく人生の充実を取ります」

 

 あんなに真剣な眼差しで終始せわしなく仕事に励んでいるから、一体どんな難しい仕事を任されたのかと心配してたのに……俺の心配を返せよこんちくしょう。

 

 だが、そんな俺の心の中の抗議なんぞどこ吹く風で、ごそごそとiPadをしまう設楽の横顔は……

 

「……」

 

 なんというか……いつもの仏頂面だったのだが……なんだかとても、寂しそうに見えた。

 

 iPadをしまい終わり、設楽は黒霧島を一口飲むと、厚焼き玉子に箸をつけた。ふわふわの厚焼き玉子を注意深く箸で持ち上げ、一切れをまるまる口に運び……

 

「ふぇんはい、おいひいれふよこの卵焼き」

「いきなり機嫌直すなよ! しんみりした俺の気持ちを返せ!!」

 

 といつもの調子に戻りやがった。なんだよ……罪悪感に苛まれた俺の純心をどうしてくれ……

 

「……パワポは、先輩が教えてくれて、先輩が認めてくれた、私の強みです」

「?」

 

 唐突に、設楽が真面目に話し始めたのだが……

 

「だから先輩にプロポーズしようと決めた時、パワポを使おうと思いました」

「……」

「先輩が認めてくれた私のパワポで、先輩に思いの丈を打ち明ける……それはダメなことでしょうか」

 

 そんないじらしいことを俺に告白する設楽の顔は……真剣というよりも、やっぱりいつもの仏頂面だった。

 

 ……俺は後輩の設楽に、少し悪いことをしてしまったようだ。顔つきはいつもの仏頂面だが、それが勢いのないちょっと沈んだ仏頂面なのが、その証拠だ。そろそろ長い付き合いになる俺には分かる。声に勢いもないし。

 

「おい設楽」

「はい」

「前言撤回だ。さっきのパワポ、とりあえず最後まで見せろ」

 

 そこまで言われたのなら仕方がない。気に入らないのは変わらないが、義理で一応、すべて見てやる。

 

「おっ。私の気持ちを受け入れて、結婚するつもりになってくれましたか」

「ちゃうわ。とりあえず最後まで見てやるだけだ」

「ちくしょう」

 

 そう言いながら、再びiPadをバッグから取り出す設楽。

 

 その顔を観察していたら、設楽の鼻が、ぷくっと膨らんでいた。 

 

 



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4. 天才というものは、意外といる

 設楽薫(しだらかおる)。2月15日生まれ。年齢は俺より三歳年下の24歳。文系の大学を出たらしいが、細かい事は聞いてないからよく分からない。生まれは兵庫だそうだが、小さい頃に関東に引っ越したそうで、その頃の記憶はあまりない。食べ物の好き嫌い無し。

 

 文章を書くのが得意で、師事していた教授から『本を書いてみたらどうだ?』と言われたこともあったそうだが……設楽本人にそんな気はまったくなく、普通に就職の道を選んだとのこと。

 

 大学卒業後は拾ってくれる企業もなく、ブラブラと適当に過ごしつつ就活していたそうだが、今回、晴れてうちの会社での採用が決定した。本来なら経験者以外お断りのはずだったうちで採用になったのは、経験以上の設楽のポテンシャルに、採用担当が何か光るものを感じた……とのことだ。

 

 

 そんな設楽が入社して、2週間ほどが経過した。基本的な業務知識も伝え終わり、実際の業務にそろそろ移ってもらおうか……この設楽に何をやってもらおうか……そんなことを考えながら、同僚から頼まれた資料作成をパワポで行っていたときのことだ。

 

「先輩」

「んー?」

「それは何をやっているんですか」

 

 資料を作成している俺の隣では、新入社員というみんなの中でも一番身分が低いペーペーでありながら、その仏頂面で威圧感と大物感だけは一人前の設楽が、今日も変わらない仏頂面で、俺のパワポ作成を眺めていた。

 

 画面をジッと見つめるこいつの眼差しは、それだけで人を殺しそうなほど険しい。

 

「これか? 設楽はパワポを知らないのか」

「パソコンとは縁遠い生活を送っていたもので。“ぱわぽ”とは?」

 

 最近の大学生は、卒論を書くのにスマホを使うって言うし、こいつもそんなクチなのかねぇ……。

 

「オフィススイートの一つで、プレゼンの時の映像を作ったり、こうやって資料を作成したりする時に使うソフトだ」

「ほう」

「仕事をする上でエクセルと同じぐらい必須なソフトだ。使い方を覚えておいて損はない」

 

 そう言って先輩風を吹かせながら、俺は資料作成の作業に戻ったのだが……

 

「……」

「これを……こうして……」

「……」

「ここから……あ、これが……よいしょ……」

 

 俺の隣で設楽がじーっと画面を凝視しているもんだから、やりづらくて仕方ない。自分の作業を他人にジッと見つめられながらやるってのは、なんだか監視されてるようで気持ち悪い……。

 

「……なんだよ」

「気にせず続けて下さい」

「そんな風に仏頂面で見られてたら落ち着いて出来んだろ」

「先輩、それセクハラですよ」

「どこがセクハラやねん。誰がいつお前に性的嫌がらせを働いた?」

「……不適切でした。すみません」

「わかればよろしい」

 

 口だけは謝罪の言葉を吐くが、その後も設楽はパワポの画面をひたすらじーっと見つめ続けている。その眼差しに、謝罪の意識はまったく感じられない。

 

 ……そういや、そろそろ実践的なことを教えるべきだし、こいつにちょっとパワポの資料作成を手伝ってみてもらおうか。パワポなら、社内パワポ職人の称号を得ている俺なら、少しはマシなことを教えられるし。

 

「なぁ設楽」

「はい」

「これ、ちょっとやってみるか?」

 

 設楽が、非常に素早く俺の方を向いた。いつもの振り返るスピードの三倍ぐらいの速さだ。おかげでこいつのポニーテールが、『ファサッ』と結構な音を立てていた。顔は相変わらず仏頂面だが。

 

「よろしいのですか」

「よろしいも何も、そろそろ実践的なことも教えないとと思ってさ」

「ぜひ、ご教授お願い致します」

 

 そういう設楽の仏頂面に俺は違和感を覚えたのだが……特に鼻のあたり……なんだか少し大きさが変わった気が……まあ気のせいだろう。よしんば違和感があったとしても、こいつの仏頂面は変わらん。

 

 

 こうして、俺と設楽のパワポ教室がスタートした。……といっても、操作方法は自分で覚えてもらう方法を取った。

 

「とりあえず、お前に2時間ほど時間をやるから、パワポを好きにいじり倒してみろ」

「承知しました」

「分からないことは教えるが、まずはパワポの画面のどこにどんな機能があるのかを体で覚えるところから始めるぞ」

「承知しました」

 

 こうして2時間ほど、設楽に俺のパワポをいじらせる。その間俺は、溜まっている資料の下書きを整理し、必要な画像やデータをネット上で探す作業に勤しんだ。

 

「先輩先輩」

「んー?」

「文章を入れたい時はこのテキストボックスを使えばいいですか」

「んー」

 

 そうしてその2時間のうちに、設楽はどんどんとパワポの機能を把握していった。

 

 そろそろ次の工程に移ろうかと思い、俺が設楽の画面を覗いた時、こいつは『簡単! 誰でも美味しく作れる佛跳牆(ファッテューチョン)の作り方』というよく分からないオリジナル資料を作り上げて、一人でスライドショーを上映していた。

 

「……」

「……」

「……何か?」

 

 仏頂面で、俺に冷たい視線を浴びせてくる設楽。その向こう側のモニターでは、バイクに乗った僧侶の手書きのイラストが、『ていーん』とどこかで聞いたことのある効果音とともに、ジャンプして塀を飛び越えている様子が、ただただ虚しくリピート再生されている。その様は、キノコの王国の姫君のために亀の大魔王と戦う、配管工の兄弟のゲームを思い起こさせた。

 

 ……気を持ち直す。

 

「……いや、設楽は料理をするのか」

「いえまったく」

「なのに佛跳牆の作り方の資料を作ったのか」

「はい」

「……」

「……」

「……何か?」

「いや……そろそろ次のフェーズに移る」

「承知しました」

 

 次のフェーズは、実際の資料作成の流れを教える。……といっても、俺流のやり方なのだが。

 

 俺は課長に会議室使用の許可をもらい、設楽と2人で会議室に入った。実際の資料作成の流れ(俺流)を前面のホワイトボードに俺が書き込み、そして口頭で具体的に説明していく。

 

「まず最初は、実際の紙にこれから作ろうとしてる資料を手書きするところからスタートだ」

「はい」

 

 俺のバワポ作成の流れはこんな感じだ。とにかくまずキーワードをひたすら紙に書いていく。次にそのキーワードの中でも関連性が高いものをつなぎ合わせ、一枚のスライドに書き込むべきキーワードをまとめていく。

 

「そして次はそのキーワードの羅列を一枚の紙に図式化して描き、最後はその通りにパワポで清書だ」

「はい」

「パワポで清書するまでの間に、出来るだけたくさん人に見せるといい。そして意見を聞いて、ブラッシュアップをしていくんだ」

「分かりました」

 

 そうして講義が終わったら、最後に実践だ。俺達は一度事務所の自分の席に戻り、最後に設楽に課題を出す。

 

「じゃあ実践だ。今日の勤務時間一杯使って、資料を一つ作ってみろ」

「取り上げる題材は何ですか?」

「なんでもいい」

「……佛跳牆でいいですか」

「お前のその佛跳牆に対するこだわりは何なんだ」

「特にこだわりはありませんが」

「んじゃなんで佛跳牆なんだよ」

「占星術の本によると、今日の私のラッキーアイテムは佛跳牆らしいので」

「なんだその個性の出し方を間違えた占いの本は。お前は占いに興味があるのか」

「『佛跳牆さえ準備すれば、愛しの彼も塀を飛び越えてあなたの元へ!!』て書いてありました」

「そこまでスイーツな内容なのに、なんでラッキーアイテムのチョイスが佛跳牆なんだよ。しかも地味に佛跳牆の由来を知ってるヤツが書いたなその文句」

「由来は常識では……?」

「お前の常識は世間の非常識だと認識した方がいい。佛跳牆の由来など常識ではない」

 

 そうして設楽に、先程俺がレクチャーした手順を尊守させた上で、佛跳牆に関する資料を作成させてみることにする。そうして、時折設楽からの質問に答えたり、設楽の仏頂面に身の危険を感じたりしながら3時間ほど経過した、定時に近い午後6時前……

 

「先輩、完成しました」

「おーう。じゃあ見てみるな」

 

 設楽謹製、『本当に美味しい、素人でも作れる佛跳牆』の資料が完成した。

 

「やっぱり佛跳牆なのか」

「やはり今日の私はこれで行きたいと思いまして」

 

 設楽が作ったパワポは、今日の午前中までパワポ未経験なやつが作った資料だとは思えないほどの出来だ。端的でわかりやすく、長すぎない説明文……わかりやすくまとめられ説得力を補強する、データに適したグラフの数々……過剰すぎず、かといって簡素すぎない装飾……

 

「設楽」

「はい」

「お前、資料作成の経験あるだろ」

「ズブの素人ですが。この“ぱわぽ”とやらも、今日生まれて初めて触りましたが」

「嘘つけ。なんだこの見事な資料は。こんなん素人が作れるわけがないだろうが」

「失礼な。私が経歴詐称したとでも言いたいのですか先輩は」

 

 実に見事な資料だった。この資料を見れば、十人中十人が『これは素晴らしい資料だ』と称賛するだろう。一人ぐらいは何事にも逆張りの天邪鬼が出てきてケチをつけるかもしれないが……それぐらい、この資料の出来は完璧だ。

 

 非常に惜しい。この資料で佛跳牆の作り方に関するプレゼンを行えば、それを聞いた観衆は即座に佛跳牆の虜となり、家に帰って素人ながらも佛跳牆の調理にチャレンジし、その妙味を堪能することになるだろう。佛跳牆のプレゼンなんて前代未聞の機会など、そうそう訪れないであろうことが非常に悔やまれる。

 

「お前すげーな。文句のつけようがないぞ」

「ありがとうございます。やはりラッキーアイテムが効いたようですね」

「いや、そうじゃなくてこれはお前の実力だ」

 

 素直に褒めよう。初見でこの資料を作り上げた設楽の吸収力と応用力は凄まじい。天才というのは、意外と身近なところに隠れているもんなんだなぁ……と感心する。

 

「よし。これから俺の資料作成の仕事はお前にも手伝ってもらう」

「よろしいんですか」

「むしろ俺が頼みたい。この職場での数少ない俺の仕事が、みんなのパワポ資料作成だ。そこで俺の力にお前の力が合わされば、まさに百人力だ」

「ありがとうございます。粉骨砕身がんばります」

 

 こうして、設楽は二代目社内パワポ職人として華々しいデビューを飾ることになった。

 

 そしてこのパワポ教室の際に設楽が見せた才能の片鱗は、後に『最年少出世』『社内最強の稼ぎ頭』『もはや渡部なぞ不要』と呼ばれるほど、設楽を成長させていく。

 

 ……そして俺は、そんな設楽のステップアップに瞬く間に取り残されていくことになる。気がついたら、設楽は俺よりも上のポジション……主任に昇格し、さらにその後、係長に君臨していた。

 

 だが、社内でのポジションなぞ俺はどうでもいい。仕事で認められていくことよりも、今日家に届く、横浜中華街有名店プロデュースの吊るし焼豚の味の方が、俺は気がかりだった。 

 

 



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5. 高みへ上り詰める女

「……以上が、私と先輩がベストマッチだと思う理由です」

「……」

「感激して言葉も出ませんか」

「困惑してるだけだ」

 

 設楽が作成したパワポによるプレゼン『私と先輩が結婚すべき理由』が終了した。仏頂面の設楽はそのままiPadの画面を切り、もそもそと自分のバッグへとしまっている。

 

 俺は困惑していた。今のパワポを簡単に要約すると、『私と先輩は、互いの短所を長所で補い合える』という一言に尽きる。

 

 その点は確かに説得力がある。こいつは社内一の稼ぎ頭で、今まさに収入もうなぎのぼり。今では俺の上長だし、今後はそれ以上のポストにも就くだろう。

 

 対して俺は、万年ヒラのダメ社員。仕事よりも私生活に重点を置き、仕事での立身出世なぞ考えない。収入も恐らく低成長か、もしくは今のまま退職まで増えることなど無いだろう。パワポ職人の地位も確立してはいるが、それも今後どうなるかわからない。

 

 一方で、俺は炊事洗濯に代表される家事全般が得意な方だ。趣味は料理……とまでは行かないが、三食自分で料理を作って済ませているし、洗濯も嫌いではない。裁縫だって自分でこなす。

 

 対して設楽は、家事全般が苦手だ。料理だって全然やらないし、自分の部屋は散らかり放題。洗濯だって自分一人じゃ全然ダメで、俺に『柔軟剤と洗剤って、違うものなんですか?』と聞いてくるぐらい、知識も経験もなければ、仕事での応用力と吸収力も発揮されない。むしろ今までよく生きてこれたなと感心するぐらい、こいつは家事能力が低い。

 

 仕事は得意だが絶望的なまでに家事ができない設楽と、家事は得意だが仕事に対してまったく興味が沸かない俺……確かに互いの欠点をカバーできる、ベストマッチな二人といえなくはないが……

 

「なぁ設楽」

「はい」

 

 そもそも、なんで俺なんだ? こいつほどの立場で美人なヤツやつなら、黙ってればもっと年収高くてイケメンな男をいくらでも捕まえられるだろうに。そうすれば、専業主婦として愛する旦那と幸せな生活を満喫出来るだろう。俺と結婚するよりも何倍もいい人生を歩めるはずだ。

 

 なぁ設楽? お前と俺じゃ、どう考えても釣り合わないだろう。自分の幸せというものを、もうちょっとよく考えたほうがいいんじゃないか?

 

「なんで俺なんだ?」

「なんで……?」

「俺とお前じゃ、釣り合わんだろう。お前は会社一の稼ぎ頭で、将来の重役が約束された立場だ」

「はぁ」

「対して俺はダメ社員だ。一応、社内パワポ職人の立場はお前の出世で復権したが……それでも社内ニートにかなり近い」

「そうですね」

「そこは否定しろよお世辞でいいから」

「そんなことないですよ先輩」

「今更否定すんなよわざとらしい」

「ダブルバインドです」

「うるせーよ」

 

 残り少ないカシスオレンジを煽り、店員の呼び出しボタンを押す。やってきた店員に空のグラスを渡して、おかわりのカシオレを注文した。

 

「……俺とお前じゃ、釣り合わないだろう」

 

 ポツリと口をついて出た本音。これは本当だ。設楽は、俺にとっては高嶺の花だ。それは、純然たる事実。

 

 こいつと俺とじゃ、生きている世界が違う。能力もこいつのほうが上だし、こいつには……こいつには、俺なんかにうつつを抜かしてるヒマがあるのなら、もっといい男を捕まえてほしい。こいつなら出来るはずだ。その仏頂面さえなんとかすれば。

 

「釣り合わないですか……」

 

 設楽の口から出る、ちょっとだけ沈んだ声。こいつはこいつなりに俺のことを思ってくれていることは伝わったが……そもそも俺と設楽じゃ、身分が違いすぎるんだよ。今は辛くとも、それがいずれ、こいつにも分かるはずだ……なんて俺がしんみりと考えていたら、である。

 

「これでも努力したのですが……」

 

 と、設楽がさらにしょぼくれた。いや仏頂面なのは変わらないが、こいつともう長い付き合いになりつつある俺には分かる。こいつは今、しょぼくれている。

 

 しょぼくれること自体は問題ではない。失恋すれば、人は、大なり小なりしょぼくれるだろう。だからそこは問題ないのだが……

 

 こいつは今、『これでも努力したのですが』と言った。この物言いはなんだ? これじゃまるで、身分が高いのは俺の方で、設楽のほうが分不相応みたいではないか。

 

 この疑念は、次の設楽の言葉で、確信へと変わった。

 

「……どこまで出世すれば、先輩にふさわしい女になれるでしょうか?」

「……ほわっつ?」

 

 今、このアホは何て言った?

 

「課長になればよいでしょうか。部長ですか? 専務ですか?」

「ちょっと待て」

「社長になればいいですか。それとも法人の代表ではなく、代議士とか国会議員とかでないと、先輩にふさわしい女になれないでしょうか」

「待てと言っている」

「やはり総理大臣か……家に戻ったら早速次の選挙で立候補するべく……」

「止まれ。まず止まって落ち着け」

 

 暴走する設楽をなんとか止める。こいつは何か勘違いをしている。なぜ俺と釣り合うためにそんな高みまで上り詰めねばならんのか。

 

 会社内に限って言えば、設楽はすでに俺よりも格上の存在になる。上長だし、仕事もよく出来る。俺の部下だった時は二代目パワポ職人でしかなかった設楽も、今では部下に指示を出し、複数のプロジェクトを同時に展開する、いわゆるデキる女だ。俺みたいな万年平社員と比べること自体、失礼この上ないわけなのだが……

 

「お前さ」

「はい」

「出世しないと、俺と釣り合わないと思ってんの?」

「もちろんです」

 

 なんだこの過剰な持ち上げっぷりは。設楽から見れば、俺は専務や社長……はてや国会議員や総理大臣レベルの存在だとでも言うのか。そこまで上り詰めなければ肩を並べることが出来ないと思っているとは……設楽の中で俺の存在はどれだけ過大評価されているのか……。

 

「お前はさ。どれだけ俺を過大評価してるんだよ」

「過大評価しているつもりはありませんが」

「だったら分かるだろ? 俺は万年ヒラのだめしゃい……」

「私の運命の人です」

 

 仏頂面のまま、眉をピクリと動かし、設楽はそう答えた。グラスの黒霧島がなくなりつつあったので、店員を呼んでおかわりを頼むことにする。設楽はおかわりの黒霧島が届くと、再びぐびっと黒霧島を煽っていた。

 

「……ふぅ」

「相変わらず強いなお前」

「先輩は相変わらず弱いですね。顔が真っ赤です」

「どれだけ飲んでも顔の色温度が全く上がらないお前の方が強すぎるんだよ」

「胸がときめきましたか。私のこの比類なき強さに」

「うるさいよ」

 

 軽口を遮り、俺は刺身の盛り合わせから、大きなホタテを口に運んだ。大ぶりで味も悪くない。

 

「……で、お前は自分が俺と釣り合ってないと、本気で思ってるのか」

「はい」

「どこまで上り詰めれば納得するんだよ」

 

 設楽が再び黒霧島に口をつけた。こいつは中々に飲むスピードが早い。黒霧島はもう半分近くまで減っている。

 

 『ふぅ』とため息をついた後、設楽はまっすぐに俺の顔を見て、至極真剣に答えた。

 

「無論、先輩が私に嫁ぐまでです」

「おい」

「先輩が私に振り向いてくれるまで、社長だろうが国会議員だろうが総理大臣だろうが……上り詰めてみせます」

「……もし大統領じゃなきゃ釣り合わないと俺が言ったら?」

「次回のスーパー・チューズデー、楽しみに待っていて下さい」

「もし俺が、アメリカじゃなくて日本の大統領じゃなきゃ嫌だって言ったら?」

「数年後、憲法改正を経て日本は議院内閣制から大統領制へと移行するでしょう。初代プレジデントになるのは、無論、この私です」

 

 言ってることは荒唐無稽なのだが……仏頂面でまっすぐこっちを見ながら言われると、『こいつならやりかねん』という危機感を抱いてしまう。その説得力が、こいつにはある。

 

「……信じられませんか」

 

 シーザーサラダのドレッシングを、ほんの少しだけ唇のはしっこにくっつけて、設楽が無愛想にそう口走る。へそを曲げることを危惧したのだが、そういうわけではなさそうだ。

 

「逆に聞くけど、なんでそこまで上り詰めようとするんだよ。俺なんかどこにでもいる平社員なんだから、そこまでしなくてもいいだろうに」

 

 つい本音を口にした。もし、こいつと本当に結ばれるのなら、頑張らなければならないのは設楽じゃなく、むしろ俺の方で……。

 

 そんな心の中での葛藤を見透かされているのか何なのかよくわからないが、設楽の顔はやはりいつもの仏頂面だ。

 

 だが。

 

「……先輩」

「あん?」

「好きな人のために全力で頑張るというのは、滑稽なことなのでしょうか?」

 

 こういうことを素直に聞いてこられると、反応に困る……。

 

「……滑稽ではないな」

「なら……」

 

 こちらをまっすぐ見つめてくる設楽を、俺は見つめ返すことが出来なくなった。俺は設楽から視線を外し、新しい料理を注文するべくメニューを眺めることにする。設楽は何かもそもそ動いている。この真剣な空気に、耐えられなくなってきたのか……

 

「もぐ……やっぱこの卵焼き……もぐもぐ……冷めるとあまり……もぐもぐっ……美味しくない……です……もぐもぐ……ね」

「口の中にものを入れながら話をするんじゃない。いきなり話をそらすな」

 

 くそっ……やっぱこいつは、遊んでるようにしか見えん……こいつ、本気で俺と結婚したいと思ってるのか? いくら仏頂面で軽口を叩くのが常とは言え、さすがに真剣味が薄れてきたぞ……。

 

 そうやって、おれが心の中で設楽の軽口に毒づいていたら……。

 

「……やっぱり私は、先輩の卵焼きがいちばん好きです」

「……」

「なんせ……とても……とても美味しい、卵焼きですから」

 

 こいつの真剣味ってのは、正直良くわからん。軽口を叩き続けるし、この仏頂面も本気なのか何なのか、いまいち分かりづらい。

 

 だが、設楽から『先輩の卵焼きが好きです』と言われたその瞬間、俺の胸は、確かに高鳴っていた。

 

 



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6. 好きなものを山ほど食えるぞ

 戦慄の佛跳牆(ファッテューチョン)プレゼンから半年ほど過ぎた、ある日のことである。この日も俺は午前中は資料作成で暇をつぶし、午後は午後で同じく資料作成でヒマを潰すつもりだった。

 

 一方で、この頃になると非凡な才能を見せつけていた設楽は、俺からパワポ職人の座を奪い去り、今では社内で必要な資料のほぼすべてを手がけるようになっていた。その結果、会社全体の成績が目に見えて向上しているという話だ。

 

 営業のやつらが持っていく会社概要の資料を、設楽が新たに作り直した結果、会社全体の売上が5割増でアップした。先日行われた大企業のコンペでは、設楽が作ったプレゼン資料で見事採用を勝ち取ったとも聞く。……とにかく最近、設楽の評価がうなぎのぼりだ。

 

 おかげで設楽は、暇で時間つぶしに勤しむ俺の隣の席で、とても充実した忙しい日々を送っているようだ。今日も今日とて、今から昼休みだと言うのに、まだ午前中の仕事が終わらないらしく、忙しそうにパソコンのキーボードを叩いている。

 

「おい設楽」

「はい」

「昼飯だぞ」

「分かっています。このテキスト打ち終わったら、お昼にします」

 

 俺は自分の弁当の包みを開きながら、隣でパチパチとせわしなくキーボードを叩く設楽にも声をかけてやった。最近のこいつ、ホント忙しそうだからなぁ。手伝おうかと思って声をかけても……

 

――大丈夫です 私におまかせ下さい

 

 と、手伝わせてくれないし……

 

 まぁあれか。こいつはすでにひよっこから若鳥へと成長したのだろう。親鳥である俺の胸元から大きな翼で飛び立った、将来を嘱望された若鳥……それが設楽だ。親としてはいささか残念ではあるが、これからぜひとも俺の代わりに頑張っていただきたい。

 

 ほどなくして、設楽は目標のテキストをすべて打ち終わったのか、パソコンのキーボードを自分の目の前からどかして、机の上にコロッケパンとカレーパンを一つずつ、自分のバッグの中から取り出した。この包みは……会社の前のコンビニで買ったやつか。

 

「また今日も惣菜パンか」

「はい」

「自分で作ったりはしないのか?」

「料理しませんので」

 

 恐ろしいほど無愛想な仏頂面でコロッケパンの包装を開き、それを咥えた設楽は、次にバッグの中から大きめの保温タイプのタンブラーを出していた。中には何か冷たい飲み物でも入っているのだろうか。設楽のことだから、ブラックコーヒーとか入ってそうだよな……実際こいつ、ブラックコーヒーがよく似合うし。

 

「なんですか先輩」

「いや、そのタンブラーの中身は何かなぁと思って」

「みかんジュースですが」

 

 意外だ……でもこいつのことだ。ジュースといってもただのジュースではなく、有機栽培された国産みかんだけで作った、100%の濃縮果汁還元とかではない、しぼりたてジュースみたいな……

 

「いえ、みかんジュースとは名ばかりの無果汁飲料『フレッシュみかん聖歌隊』ですが」

「俺が思った以上にお前はジャンクな人間なようだ。なんだその個性以外のすべてを切り捨てた名前のジュースは」

「初耳ですか?」

「初耳だ」

 

 意外だ……なんかこいつから常に意識高い系のオーラが発せられているように見えていたから、そんなジャンクな感じのものを好むとは……

 

「別に好きではありませんが」

「なぜ好きでもないものをわざわざタンブラーに移し替えて持ってくるのか……」

 

 なんだか頭が痛くなってきた……こいつと話をする時はいつもこんな感じだ。仏頂面で思考が読みづらいから、こいつが次に何を言ってくるのか、全く想像がつかん……おかげで普通の人との会話の何倍も疲れる……予想外の言葉が返ってくるから、楽しいといえば楽しいが。

 

 そんな風に設楽との会話に頭を抱えつつ弁当の蓋を開けたら……何か気になることがあるのか何なのか、設楽が俺の弁当を覗き込んできていることに気付いた。

 

「……先輩」

「……お、ああ、どうした?」

「先輩はいつもお弁当なんですね」

「ああ。そだな。外出することもあるが、基本的には弁当だ」

「作ってくれる方がいらっしゃるのですか。ご家族とか」

 

 まぁ、普通はそう思うよなぁ……俺の弁当を見たやつは、十人中十人がそう質問してくる。そして『自分で作ってる』と答えると、質問者はもれなく全員、『そうなんですか!?』とびっくりするんだ。

 

 こいつだって例外ではないはずだ。きっと俺の答えを聞いたら、『そうなんですか!?』と驚きの声をあげるだろう。

 

「いや、俺が作った」

「へー」

 

 ……ほう。やるなこいつ。自分から質問しといて、ここまで興味ゼロな返事を返してくるとは。

 

「いや私、料理に関してはホント何も知らないので」

「にしてももうちょっと言い方ってのがあるだろう」

「すみません」

「いや責めてるわけじゃないけどな」

「いお……もっきゅもっきゅ……気をふへ……もっきゅもっきゅ……ごぎゅっ……ます」

「ものを食いながら反省の弁を述べるな」

 

 口では謝罪をするが反省の雰囲気ゼロな設楽は、再び口いっぱいにコロッケパンを頬張りつつも、俺の弁当から視線を外さない。返事こそ興味ゼロだったが、本当は俺の弁当に興味津々なのか?

 

 もう少し弁当談義を続けてみるか。俺は弁当の中のぶりの照焼を頬張りつつ、設楽に問いかける。

 

「お前は、たまには弁当作ったりしないのか?」

「さっきも言いましたが、料理しませんので」

「そうか。……だけどな。自分で作る弁当はいいぞー。自分が好きなものを好きなだけ入れられるからな」

 

 これは本当。事実、おれが弁当を作る理由の半分はそれだ。

 

 たとえば『今日は唐揚げがいっぱい食べたいなぁ』と思った時は、近所のコンビニで唐揚げ弁当を買うよりも、自分で山のように大量に唐揚げを作ってそれを弁当にしたほうが、心の満足度が違う。市販のものよりも、唐揚げが大量に食べられるからだ。

 

 そんな話を若干熱がこもった声で俺が説明していたら。

 

「だとしたら……先輩は卵焼きが大好物なんですか?」

 

 と、突然変化球な質問をしてきやがった。確かに卵焼きは大好物だが、なぜそれがわかったというのか。

 

「なぜなら、先輩のお弁当には、毎日卵焼きが欠かさず入っているからです」

 

 そういって、今度はカレーパンの包装を開けながら、設楽がまっすぐ俺の方を見る。その猫目な設楽の瞳は、ブレることなく俺をジッと見つめていた。

 

 ……こいつ、意外なことに、俺の弁当の中身を毎日チェックしていたのか……? 確かに俺の弁当には、毎日欠かさず卵焼きを入れているし、俺は卵焼きが大好物だ。だし巻きや醤油……時には甘い卵焼きを入れることもあるが、基本はしょっぱい系を入れることが多い。

 

「そうだな。卵焼きは好きだな」

「ほー」

 

 ……またか。また興味ゼロな返事か。包装から出したカレーパンを無表情で頬張るこいつが、段々腹立たしく思えてきた。何か話題を振ってくるからこっちは誠実に答えているというのに……なんなんだこの興味ゼロさ加減は。

 

「もっきゅもっきゅ……先輩」

「なんだよ」

 

 と思いきや、こいつはいつもの仏頂面のその裏で、実は俺の卵焼きに対して、この上ない興味と情熱を抱いていたらしい。それは、こいつの次の一言で理解できた。

 

「その、先輩自慢の卵焼き」

「おう」

「一ついただいても、よろしいですか」

 

 設楽と隣り同士の席になり、こいつと昼飯を食べる機会も決して少なくないが、そんなことを言われたのは始めてだ。なんだか新鮮だ。こいつの口から『卵焼きが食べたい』の意思表示を受けるとは。

 

「いいぞ。ほれ食べろ」

 

 そんなに食べたいのなら、食べさせない理由はない。俺は弁当箱を設楽に差し出し、その中で黄色に輝く卵焼きを一つ取るよう、設楽に促した。

 

「あーんってやってくれないんですか」

「お前は俺にあーんってやってほしいのか」

「全力で拒否させていただきますが」

「だったら最初から言うな」

 

 そんなお決まりの軽口の叩き合いのあと、設楽は俺の弁当箱から自慢の卵焼きを一つつまみ、口の中のカレーパンを飲み込んだ後、

 

「では……いただきます」

「めしあがれ」

「あーん……」

 

 俺の卵焼きを口に放り込み、丁寧に味わっていた。

 

「んー……」

「どうだ」

「……」

 

 しばらくの間の後、設楽から聞かされた感想は。

 

「……」

「……」

「……めちゃくちゃ美味しいです」

 

 と、最上級の賛辞だった。

 

 ただ、その賛辞を俺に送っている設楽自身が、最高に無愛想な仏頂面のため、その賛辞のありがたみも嬉しさも、九割近く失われていた。

 

「……お前、本気でうまいと思ってる?」

「私は常に本気ですが」

 

 俺の疑念に対し弁明をする設楽の鼻が、ほんの少し、ピクッと動いた気がした。

 

 



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7. ボタンの違和感には鈍感

 正直な所、俺は困り果てていた。

 

「うーん……」

「なにか?」

 

 こいつはいつもの仏頂面でそう問うが、言われた側としてはたまったものではない。誰が俺の立場でもきっと困り果てるだろう。

 

 正直な所、こいつに『結婚して下さい』と言われて、『ふざけんなコノヤロー』と思うアホはいないだろう。俺だってそうだ。確かにいろいろな意味で難のある女だが、こいつは付き合っていて退屈しない。『結婚して下さい』と言われれば、悪い気はしない。

 

 ……だが。

 

「……」

「さては先輩」

「……?」

「ついに私に輿入れする覚悟が……」

「だまれ」

「ひどい」

 

 こいつと俺では釣り合わない……それはこいつも分かっているはずだ。こんな底辺会社員の俺にかまっている暇があるなら……もっとマシな結婚相手を探せばいいはずだ。おれよりいい男なんて、世の中にはごまんといる。それなのに、俺に拘る理由は一体何だ……?

 

 設楽が黒霧島をぐびっと煽ったその瞬間、こいつが今来ているスーツの上着の、左の袖口が目に入った。

 

「……そのスーツ」

「?」

「ボタン、まだ換えてないのか」

 

 設楽のスーツの左手の袖口には、ボタンが3つついている。そのうちの2つは紺色のもので、黒色のスーツによく合うものだが……うち一つは、以前に俺が緊急避難でつけてやった、真っ赤なボタンだ。大きさも、他の2つに比べると、ちょっとだけ大きく、そしてポップだ。

 

「ああ、このボタンですか」

「休みの日にでも付け替えろって言っただろ」

「私はお裁縫なぞ出来ないと言ったはずですが……」

「だとしても、店に持っていくとか色々解決策があるだろうが……」

「これ、実は意外と客先で評判が良いんです。『おしゃれですね』って言ってくれるんです」

「ホントか?」

「冷や汗混じりですが」

「……」

 

 目に浮かぶ……きっとこいつの話し相手は、仏頂面のこいつの迫力に押されて、苦し紛れに『おしゃれですね』って言ってるんだろう……。

 

 こいつの仏頂面は、相手に『私は不愉快です』というメッセージを無意識のうちに送りつける。だから相手はなんとか設楽のご機嫌を取らなきゃいけない……と謎の焦燥感にとらわれて、なんとか会話の突破口を見つけようとするんだろうなぁ……。

 

 ……よし。ここは乗りかかった船だ。今なら紺色のボタンも在庫があるはずだ。ボタンをもっとスーツに合うものと交換してやろう。

 

「……設楽、上着こっちによこせ」

「なぜですか」

「元々は俺がそのボタンしか持ってなかったのが原因だ。だから……」

「おっ。ついに私の上着につけるための、柴犬『ワタベ』のアップリケを作ったのですか」

「作ってないしつけるつもりもない。そもそも犬は飼ってない。ちゃんとそのスーツに合うボタンをつけてやるから」

「でも残念ながら袖口にアップリケをつけるのは私はどうかと思います。キチンとTPOをわきまえて……」

「だからつけるのはボタンだと何度説明すれば……」

「……ハッ。でも裏地なら、存分に先輩作のアップリケをつけていただく十分なスペースが」

「離れろ! まずアップリケから離れろ!! 今なら紺色のボタンあるから、付けなおしてやるってんだよッ!!」

 

 暴走する設楽をなんとか制止し、俺はボタンを取り替える有用性を説いたのだが、設楽はいまいち納得しない。仏頂面で煽る黒霧島がなくなった。設楽は店員呼び出しボタンを押して、その仏頂面で俺を見つめる。

 

「……先輩」

「なんだよ。いいから早く脱げって」

「やーん」

「仏頂面でかわいいことを棒読みで言っても何の可愛げもないぞ」

「ちくしょう」

「早くこっちに上着よこせよ」

「いやです」

「なんでだ……みっともないだろ。そんなボタン……」

「みっともないって何ですか。これは私が選んだボタンです」

 

 仏頂面から繰り出される設楽からの突然の抗議に、俺は何も言い返せなくなった。

 

「これは、先輩がつけてくれたボタンだから、取り替えたくありません」

「……」

「このスーツに何色が合うかなんて正直、関係ありません」

「……」

「このスーツに合うか合わないかより、先輩がつけてくれたボタンかどうかのほうが、私には大切です」

「……」

「……そしてアップリケはいつつけてくれるんですか」

「だからアップリケから離れろ。どれだけアップリケをつけてほしいんだよ」

「先輩のアップリケならさぞ可愛いだろうと、あの日から胸がドキドキして夜も眠れません」

「え……」

「嘘ですが」

「……」

 

 ……呆れすぎて。

 



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8. 犬好きへの偏見

 設楽が入社して一年ほど経過した、ある日のことだった。この頃になると設楽はすでに俺の元を離れ、数人の部下を任されるまでに出世。もはや指導社員だった俺よりも立場上、上になった。つまり俺は、設楽から見て格下になるわけだ。

 

 おかげで設楽も、最近はスーツ姿が増えてきた。キリッとした猫顔の美人がスーツでパリッと決めている……まさにキャリアウーマンという様相だ。キリッとした設楽には、タイトなパンツスーツがよく似合う。

 

 今日も設楽は、黒のスーツでパリッと決めていた。こんな美人が上司なら、そらぁたしかに部下のやつらもやる気がでるだろうなぁ。こいつ、黙ってればホントに美人だからさ。

 

「……先輩」

「おう設楽」

「そろそろお昼ごはん食べませんか」

「……お、そうだな」

 

 だが、立場上俺よりも出世した今でも、相変わらず設楽は俺に話しかけてくる。昼飯だって、時々自分の部下と一緒に外食することはあるが、基本的には、こうしてわざわざ俺の席までやってきて、俺と一緒に昼飯を食べるわけだ。

 

「しかし設楽よ」

「はい」

「お前、もう俺と席離れたし、無理して俺と一緒に昼飯食わなくていいんだぞ」

「なぜ」

「なぜってお前……」

 

 自作の弁当の包みを開く俺を、相も変わらない仏頂面で見つめる設楽が手に持っているのは、ピロシキと焼きそばパン。そして何の飲み物が入ってるのか分からないタンブラーが一つ……。

 

「だってお前、もう部下もいるだろ?」

「おかげさまで」

「だったら俺と食べる必要ないだろう。部下と一緒に親睦を深めるとか、外で顧客と飯を食べるとか、色々あるだろう?」

「いや特には。その手のことはすべて勤務時間内に済ませてますので」

「そ、そうか……」

 

 焼きそばパンの包装を開きながら、俺の心遣いを見事に拒否する設楽は、やっぱりいつもの仏頂面だ。

 

 俺の今日の弁当はというと……なぜか突然食べたくなった、白身魚のフライとブロッコリー。そして……。

 

「よしっ」

「? どうした設楽?」

「今日も卵焼きは入ってますね」

「当たり前だ」

「……では、今日も私は、先輩の卵焼きにありつけるということですね」

「……」

 

 大好物の卵焼き。今日の味付けは出汁で、万能ねぎをいれて作ってみた。

 

 そうだ。こいつは俺の弁当の卵焼きを失敬して以来、卵焼きを必ず強奪するようになっていた。本人曰く……

 

『私に“食べて下さい”と言ってくる卵焼きの方が重罪です』

『私は卵焼きを食べているのではありません。卵焼きの毒牙にかかり、食べざるを得ない状況に陥っているのです。いわば私は被害者です』

 

 と、仏頂面でよく分からない弁明をしていた。

 

 以前は問答無用で俺の卵焼きを拝借していく設楽に腹も立ったが、今ではその分も見越して卵焼きを焼くようになった。おかげで卵の消費スピードが早い早い……以前までは卵一日一個だったのが、今では一日二個だからな。以前の倍だ。

 

 今日も今日とて、設楽は焼きそばパンを口いっぱいに頬張りながら、俺の卵焼きをジッと見つめ、強奪のタイミングを計っているようだ。猫顔なだけに、その様はネコ科の猛獣を思わせる。猛獣が目を光らせて狙っているのが卵焼き……一体何の冗談だ。

 

「……先輩」

「なんだよ」

「卵焼き」

「好きなタイミングでとれよ……お前の分も計算に入れてるからさ」

 

 もっきゅもっきゅと焼きそばパンを頬張る設楽の鼻が、ピクリと動いた気がした。

 

「ではいただきます」

「はいどうぞ」

 

 俺の返事を聞く前に、設楽は俺の弁当から卵焼きを強奪し、急いで口の中の焼きそばパンを飲み込んで、その卵焼きを口に放り込んでいた。

 

「……今日もめちゃくちゃ美味しいですよ先輩」

「ぶすーっとした顔で言われても、説得力がなぁ……」

「失礼な……上長に対する態度ではありません」

「うるさいよ。それ言うならお前も入社時の態度はとてもじゃないが先輩に対する態度じゃなかったぞ」

 

 そんな軽口を叩きながら、互いに自分の昼飯を食らう。今日の設楽のタンブラーの中味はどうやらけっこう酸っぱい飲み物のようで、飲む度にほんの少し身体をブルッと震わせていた。

 

 そうして、俺がもうすぐ卵焼き以外を食べ終わろうかという頃。

 

「では、もう一ついただきます」

「はいどうぞ」

 

 設楽が右手にピロシキを持ち、そして左手で俺の卵焼きをつまみ上げた時に、俺は設楽の異変に気付いた。

 

「……」

「……設楽」

「はい」

「お前……上着の袖、どこかにひっかけただろ」

「……」

 

 設楽の動きが止まる。設楽のスーツの左腕の袖……あるべきボタンが取れて、糸がほつれてしまっていた。

 

「……なぜ見抜いたのですか」

 

 少しだけ眉間にしわを寄せ、いつもより若干険しい仏頂面で、設楽が俺を睨む。だってそらぁお前……右手の袖にはボタンが3つついてるのに、左手の袖にはボタンが2つしかついてなかったら……誰だって気付くだろう。

 

「そら気付くわ。ボタンが一個なくなってりゃ」

「私のこと、常日頃から監視していたのですか」

「人聞きの悪いこと言うな。糸だってほつれてるし」

 

 卵焼きが入った口をもごもごと動かしながら、設楽が険しい顔で自分の袖口を見る。

 

「……あら、たしかにボタンが一個飛んでますね」

「引っ掛けたのは気付いてたのに、ボタンが無くなってたのは気づかなかったのか……」

「はい」

「鈍感っつーか何つーか……」

 

 しかしボタンが取れる時って、結構な衝撃があるよなぁ……それに気付かないってどんだけ急いでたんだ? 気付く余裕もなかったのか?

 

 まぁいい。気付いたのなら、あとは取れたボタンを付け直せばいいだけだ。

 

「まぁ分かってよかったじゃないか。食べ終わったら付けなおせよ」

「どうやって?」

「どうやって……ってお前……スーツなら、換えのボタンがあるだろう?」

「ありませんが」

「それをソーイングセットで……」

「持ってませんが」

 

 マジか……こういうことを言うとジェンダーフリーな人に文句を言われそうだが、女なら誰でも突発的アクシデントに対応出来るよう、ソーイングセットを持っているものだとばかり思っていた……。

 

 ……まぁいい。幸い俺は、常にソーイングセットを持ち歩いている。もしもの時のための、俺のスーツ用のボタンもいくつかあったはずだ。なら、それを使えば……

 

 見てしまった以上、仕方がない。設楽のスーツのボタンを付け替える覚悟をした俺は、最後に残った卵焼きを箸で取り上げ……

 

「設楽、口開けろ」

「はぁ」

 

 俺を睨みつけるような眼差しの設楽の、そのあんぐりと開いた口の中に放り込んでやった。

 

「な……もぐもぐ……なんてことを……」

 

 字面自体は困惑した感じだが、設楽本人はいたっていつもの仏頂面だ。俺はそんなことには目もくれず、空になった弁当箱をちゃっちゃと片付け、自分のバッグの中から、柴犬のシールが貼られたソーイングセットを取り出した。

 

「設楽、ちょっと脱げ」

「先輩……なんと卑猥な」

「なんでだよ」

「社内で後輩の女子に『脱げ』などと……私に露出の趣味はありませんが」

「ボタン付けてやるからさっさと上着を脱げよ」

「ホントですか」

「ホントだよ。いいから早く上着を脱いでこっちによこせよ」

 

 俺の言葉に従うように、今度はピロシキの残りを口の中に放り込んだ後、設楽は上着を脱いで俺に渡してきた。渡す時に……

 

「もっきゅもっきゅ……ではふぇんふぁい……もっきゅ……よおふぃふ……もっきゅ……おねふぁい……ふぃまふ」

 

 とよく分からない言語で何かを言われた時は、正直言って、殺意が芽生えた。

 

 今日、設楽が来ているスーツは黒色のものだ。俺のスーツも黒色だったから、ボタンの色は大丈夫。ただ、どうしても大きさや細かい形状で差異が出てきてしまうが……手のひら大の柴犬ソーイングセットを開き、中に入っているボタンの在庫を確認したのだが……

 

「……う」

「どうしました?」

「しまった。お前のスーツに合うボタンがない」

「そうですか」

 

 俺は使った覚えがないが……俺のスーツ用に取っておいた紺色のボタンがいつの間にかなくなっていた。その代わりあるのが、このソーイングセットにセットでついてきた、真っ赤でちょっと大きな、ポップなデザインのボタンだ。

 

「……では先輩、その真っ赤なボタンでお願いします」

 

 ……ほわっつ? こいつ、マジで言ってるの?

 

「本気か? どう考えても浮くぞ?」

「ダメですか」

「ダメだろどう考えてもー」

 

 俺は血迷った判断を下そうとしている設楽の暴挙を水際で食い止めようと、必死に紺色のスーツに真っ赤なボタンは合わないことを伝えたのだが……それらは、すべて設楽の耳には届いておらず、馬の耳に念仏だったようだ。……いや、こいつは猫顔だから、猫に小判的な。

 

「……先輩」

「お、おう」

「構いません。付けて下さい」

「……いいのか……あとで後悔しても知らないからな……?」

「その後悔こそが、より私を成長させるでしょう」

 

 と、最後には必要以上に意識が高い言葉で煽られ、俺は渋々、どう考えてもスーツから浮くであろう真っ赤でポップなボタンを、設楽の黒色のスーツに縫い付けてやった。

 

「……マジかよ……浮くだろ……」

「……」

「えーと……よっ……」

 

 そして、俺がボタンをつけてる最中、設楽は、その一部始終をジッと見つめていた。……てわけではなく……

 

「おい設楽、つけてやったぞ」

「……」

「ボタンはお前にやるから、休みの日にでも、店でちゃんとしたボタンにかえてもらえ……って、設楽?」

「……あ、出来ましたか。ありがとうございます」

「何を熱心に見てたんだよ」

 

 熱心……というか、いつもの仏頂面が見守るもの……それは、柴犬のシールが貼られた、俺のソーイングセットだ。

 

「……犬がお好きなんですか」

「まぁ、好きだな」

 

 唐突な設楽の質問。まただよ……また会話のキャッチボールが明後日の方向を向き始めたよ……一体何なのよ……ボタン付けと犬が好きかどうかって、言うほど関係ないだろう……いや実際犬は好きだけど。つーか動物全般、好きだけど。

 

「犬がお好きということは、犬を飼ってらっしゃるんですか」

「好きだが、飼ってはいない。うちのアパートはペット禁止だ」

「では、ご自宅には愛しの柴犬『ワタベ』がいて、家に帰るなり『わたべぇぇええええん! ただいまぁぁあああん!』とか猫なで声で話しかけてじゃれついたりは……」

「ないな」

「『ワタベぇぇええ……ワタベぇぇえええ……ワタ……オフ……あー……』といった具合の、はたから見れば変態以外の何者でもない怪しい声を上げながら、愛しの愛犬『ワタベ』といちゃついたりは……」

「お前のその犬好きへの偏見は一体どこから仕入れてきたんだ」

「さっき私の上着にボタンをつけるときも、実はボタンではなく、手作りの愛犬『ワタベ』アップリケを付けたくて付けたくて仕方なかったけど、後輩である私の手前、TPOをわきまえて泣く泣くボタンをつけることにしたとか……」

「だからお前のその偏見は一体何なんだ。つーかそこまで犬が好きなわけじゃないし、犬アップリケなんて作ってもねーよ」

「そうですか。残念です」

「大体なんで犬の名前が俺の名字なんだよ」

 

 設楽の妄想を一つ一つ確実に潰した後、俺はソーイングセットの蓋を閉じた。それにしてもこいつ……この犬好きに対する必要以上な偏見は何なんだ。昔の知り合いに病的なまでの犬好きがいるとかか……?

 

 頭にはてなマークを浮かべる俺とは対象的に、設楽は俺から受け取った上着を羽織ったあと、真っ赤なボタンがついた袖口を仏頂面で眺めつつ……

 

「……」

「……?」

 

 鼻をピクッと動かしていた。 

 



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9. 私が生まれた理由

 ボタン談義とアップリケストリームがひとしきり終わり、俺と設楽は新しく届いた酒と軟骨の唐揚げとおぼろ豆腐、そしてホッケの塩焼きに舌鼓をうっていた。

 

「ホッケうまっ」

「おいしいですね」

 

 こうやって普通に飯を食ってる時は、ごく普通の仏頂面女なんだがなぁ……

 

「……いつからだよ」

 

 今日、この非常識極まりないプロポーズが始まってからずっと、心の中で渦巻いていた疑問が、ホッケを口に運んだ時に、フと口から出た。

 

「何がですか?」

「俺のことを……そのー……」

「結婚相手として、意識したこと……ですか?」

 

 仏頂面だが少し言葉を詰まらせて、設楽が俺に確認する。その険しい仏頂面のせいで、質問してるのは俺の方なのに、なんだか俺のほうが追い込まれている気が……今は、しない。

 

「……おう」

「……」

「……なんだよ。言えないのか?」

「……」

 

 珍しい……この仏頂面女が言葉に詰まっている……軟骨の唐揚げを一つ口に放り込み、仏頂面のままコリコリとそれを咀嚼して飲み込んだ後、設楽は珍しく、俺からそっぽを向いた状態で、ポソリと口ずさんだ。

 

「……以前から、です」

 

 ……こいつ、キッカケをしっかり覚えてるな? でも口に出すのが恥ずかしくて、こうやってごまかしてるな?

 

「ほう。以前からか」

「はい……以前から、です」

「それは、将来の旦那になるかもしれない俺にも、言うことは出来んものなのか」

「!?」

 

 おっ。設楽の眉毛がピクッと動いたぞ。この困惑のプロポーズが始まってから今まで、はじめて設楽が狼狽している。今日やっと会話の主導権を握れたみたいで気持ちがいい。

 

 しばらく考えた後、設楽は黒霧島をグビッと煽った。もうけっこう飲んでいるはずなのに、こいつの仏頂面はまったく崩れない。それどころか、ほっぺたすら赤くならない。こいつのアルコール摂取限界量は底なしか。

 

 テーブルに勢い良くタンッとグラスを置いた設楽は、若干据わった眼差しで俺を見つめたあと、ぷいっと横を向き、

 

「……お弁当、作ってくれたときです」

 

 と、ちょっとだけ口を尖らせて答えてくれた。

 

 ……しかし、それは一体いつの話だ。最近も俺と設楽はよく昼飯を一緒に食っているが、いつの頃からか、俺がこいつの弁当も一緒に作ることが多くなった。こいつは一体、いつの弁当の事を言っている。ほぼ毎日こいつの弁当を作っている身の俺は、いちいち全部の弁当のエピソードなんか覚えてない。そんな特別なエピソードのある弁当なんか、あったっけ?

 

「……すまん設楽」

「はい」

「いつの弁当のことだ。思い返そうにもまったく記憶にない」

 

 俺の質問を、おぼろ豆腐を受け皿に取りながら設楽は聞いていた。こいつの視線が、俺の目の前にある醤油差しに向いた気がして、俺は無言で醤油差しを設楽に差し出す。

 

「ありがとうございます」

 

 醤油差しを受け取った設楽は、おぼろ豆腐にそれをかけた後にそのまま俺に返し、俺もそれを受け取って、元あった場所へと戻した。

 

「……はじめて、作ってきてくれたときです」

 

 幾分、設楽の仏頂面に余裕が戻ったようだ。いつもの仏頂面に戻った設楽がそう答えてくれた。

 

 言われて思い出した。あれか。あの、2人で屋上の喫煙所で食べた時の、あの弁当か。

 

「はい。あのときです」

「あの時は確か……」

「はい。私が仕事で失敗をしでかして、お昼休みに屋上に行ったときのことです」

 

 そういやそんなこともあったなぁ……その頃から、こいつは俺に狙いを定めていたのか。

 

「あの時、私は確信しました」

「何をだよ」

 

 果たして、設楽は一体その時に何を確信したのか……設楽は俺に問い詰められると、目を細め、俺の頭のてっぺんよりちょい上辺りを眺めながら、まるで遠い昔に別れた知り合いを思い出すかのような口調でつぶやいた。

 

「『あぁ……私は、この人にお世話されるために生まれてきたんだなー……』って」

「えらく壮大な勘違いだなー……それにしょぼい。自分が生まれた理由が、そんなにしょぼくていいのかお前は」

 

 初めて聞いたぞ……こんなダメ社員に世話されるのが運命だなんて……つーかなんだその盛大な勘違いは……。思い込みもここまで来ると清々しい。

 

「つまり、私が先輩を相手に選んだのは、いわゆる責任でもあるのです」

「せき……にん……?」

「ええ。あなたにお世話される星の下に生まれたのだから、その運命に従い、あなたにお世話してもらうことが、私なりの、先輩への責任のとり方です」

「その、気持ちいいほど全てが間違っている責任の取り方、どこかでもう一度考え直した方がいいと思うぞ」

 

 はて……責任のとり方って、そんなんだっけ? 俺、間違えてないよね? 設楽のほうが間違えてるよね? 俺はこの時ほど、人生相談をネット上のSNSで不特定多数に行いたがる、ネット民の気持ちを理解した瞬間はなかった。 

 



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10. いつもより、ちょっとだけ大きい

「……申し訳ございませんでした」

 

 珍しいこともあるもんだ。あの社内随一の稼ぎ頭にして稀代の仏頂面女の設楽が、ハゲ部長に頭を深々と下げている。

 

「……いや、今回の案件はキミでも難しいとは思っていたが……」

「……」

「まぁこればかりは仕方ないな。また明日からがんばってくれ」

「……本当に、申し訳ございませんでした」

 

 ぽそぽそとそんな会話が聞こえ、設楽は再び深々と頭を下げる。設楽もどうして事務所で……みんなの前で頭を下げるかね……謝罪なら、みんなの目のないところでやらなきゃ、皆に注目されるだろうに……

 

「では私はこれから出かけるから。キミも昼飯でも食べるといい」

「はい」

 

 部長は頭皮を必要以上に輝かせて俺達の網膜にダメージを与えつつ、右手をしゅたっと上げて事務所を出ていった。

 

「……」

 

 後に残された設楽は、いつもの仏頂面で自分の席に戻り……

 

「……ふぅ」

 

 と、ため息をついていた。外面だけ見ればいつもの仏頂面だが……俺には分かる。ヤツの仏頂面に、いつもの勢いがない。目が死んでいる。

 

「係長、そろそろ飯にでも行きませんか?」

「……すみません。みなさんで行ってきて下さい」

 

 気を利かせたのだろうか。設楽の後輩にして部下の好青年が、設楽をランチに誘っていたが……あの仏頂面はそれを断っていた。

 

「……分かりました」

 

 あの後輩の子も不憫だ。設楽のことを気遣ってランチに誘ったのに……あの仏頂面の迫力に押されて負けたか。すぐに退散し、仲間内でランチに出かけたようだ。

 

「……」

 

 事務所内の社員一同が次々とランチに出かける中、俺は自分の弁当をカバンから取り出す。

 

「……」

 

 設楽の様子を伺うと……いつの間にやら姿を消していた。俺は、再度自分のカバンの中を覗いた。

 

 実は……俺のバッグの中には、弁当箱がもう一つ、入っていた。

 

 

 数週間前から設楽は、ある大きな案件を抱えていた。

 

 俺は興味が全く沸かないので詳しい話は聞いてない。だが設楽いわく、『もし受注することができれば、むこう10年は売上に困らないレベル』の案件なのだそうだが……とにかく、設楽が取り組んでいた案件は、そんなとんでもない大チャンス……逆に言えば、その分、とても大変な案件だった。

 

 その案件にかける設楽の情熱は半端ではなかった。朝早くから出勤し、夜は終電寸前の時間に帰る。一日中机にかじりつき、情報収集や資料作成……連日の戦略会議と先方との打ち合わせ……昼飯をゆっくり食べるどころか、仕事の片手間で惣菜パンを食べなきゃならんほどの一人繁忙期……それが、この数週間の間の設楽だった。

 

 もちろんその間、俺との昼食の時間はほぼなかった。俺がのんびりと弁当を堪能するその同じ事務所内で、設楽は昼休みの間にも、バシバシとキーボードを叩く日が続いていた。

 

 一度だけ、奇跡的に昼飯を一緒に食べることが出来たのだが……

 

「最近、先輩の卵焼きを食べてないのですが」

「だなぁ……」

「私の心が卵焼きを欲しているのですが」

「そうか。まぁ食べろ」

「……ありがとうございます」

 

 と、いつもに比べて、ややお疲れ気味の仏頂面を見せていた。

 

 ……で、その時に、設楽からお願いされたことがあった。

 

「……あの、先輩」

「おう」

「今の仕事が無事に成功したら、先輩からご褒美を頂きたいのですが」

「なんで俺が……そんなに辛いのか?」

「辛くはないですが、中々にハードな毎日ですから、自分を奮いたたせる意味でも、ハードルを超えた時のご褒美がほしいなと」

 

 まぁ気持ちは分からなくもないが……なぜそれを俺に催促するのか。自分へのご褒美なら、すべてが終わったあとに自分で買うなり作るなりすればいいではないか。なぜ俺が準備する必要があるのか……。

 

 俺の弁当箱から卵焼きを失敬して口に放り込む設楽の横顔は、やっぱりいつもの仏頂面に比べ、勢いがない。かつてない疲労が、設楽の仏頂面を蝕んでいるようだ。普段と比べ、目が死んでいる。瞳のハイライトが薄く、その仏頂面に拍車をかけている。

 

 正直なところ、俺には仕事の重圧というのはよく分からん。責任は常に回避するよう立ち回っているし、疲労がたまらないよう、常に仕事では程々を心がけているからだ。

 

 だが、そんな俺でも分かる。この設楽の仏頂面を見るに、こいつはかなり大変な仕事をしているようだ。

 

 ……こういうことはあまり好きではないのだが……かわいい後輩のためだ。たまには先輩として、一肌脱いでやるとしよう。

 

「おい設楽」

「なんでしょうか」

「お前、好きな食べ物とかあるか?」

 

 ……こいつの座高が、『ピコン』という音とともに、少し伸びた気がした。

 

「ご褒美をいただけるのですか」

「いいから好きな食べ物を言え」

「で、では……」

 

 とりあえず、設楽の仏頂面に少し勢いというか……声にハリが少し戻った。そうだその意気だ。こいつに元気がないと、俺のテキトーな会社生活に、本当の意味で張り合いがなくなる。

 

「あ、あの……」

「なんだ?」

「な、なんでも、いいのでしょうか」

 

 あの、悪夢の佛跳牆(ファッテューチョン)パワポが頭をかすめた……まさかこいつ、『では佛跳牆を』などと血迷った寝言をほざくつもりではあるまいな……

 

「かまわん。常識の範囲内でなんでも好きなものを言え。常識の範囲内でだ」

「では……」

 

 しばらく考えた後に設楽が出した結論は、意外にも、ありふれたものだった。

 

「では先輩……」

「なんだ」

「……メニューはお任せしますから、お弁当を作って下さい」

 

 なんだそれでいいのか……と若干拍子抜けした俺は、卵焼きを口に運びつつ、設楽の顔を見た。

 

「……」

「……」

 

 目に少々覇気が戻った設楽の鼻が、ぷくっと膨らんでいた。

 

 

 そんなやり取りがあり、俺は今日、アイツのために弁当を作ってきてやったのだが……

 

「結果的に約束は守れなかったか……」

 

 口からそんな言葉がぽろりと出てしまう。俺は約束を守ってあいつに弁当を作ってやったというのに……肝心のアイツが、案件を成功させることができなかったとは……

 

 しかし、このまま無駄にしてしまうのも食材に申し訳がたたん。俺は設楽用の弁当と自分の弁当を持って、何処かへと消え去ってしまった設楽を探す旅へと、出かけることにした。

 

 といっても、この会社は雑居ビルの中のワンフロアの中小企業だ。このビルの中で気分転換が出来、さらに会社の奴らがあまり顔を見せない場所となると……場所は限られてくる。

 

「……屋上にでも行ってみるか」

 

 右手に自分の、左手に設楽の弁当箱をぶら下げて、俺は喫煙所のある屋上へと足を運んだ。カツーンカツーンとサスペンス映画のワンシーンのように足音が響く階段を上り、大げさなドアを開いて屋上に上がると……

 

「……いた」

 

 いやがった。屋上入り口から少し離れた灰皿そばのベンチで、こっちに背を向けて一人で空を見上げてやがる。どんな顔をして見上げているのか分からんが、いつもの通り仏頂面なのだろう。一人で屋上で空を見上げる……なんてテンプレートな落ち込み方をしてやがるんだ。

 

「おーい設楽ー」

 

 わかりやすい落ち込み方をしている設楽に声をかけつつ、俺は設楽にとことこ近づいた。

 

「……先輩」

 

 俺の声に気が付き、こちらを振り返る設楽の顔は……ハイライトが消えた死んだ目をしてはいるものの、まぁ、表情そのものはいつもの仏頂面だ。俺は設楽の隣に腰掛け、仏頂面女の膝の上に、俺作の設楽用弁当をぽんと置いた。

 

「ほれ食べろ。約束だったろ。お前の昼飯だ」

「……いりません」

「食べろって」

「だって……私は、失敗しました」

「いいから食べろ。じゃないと今日の分の食材が無駄だ。俺は勝手に食べるからな」

 

 固辞しつづける設楽を放っておいて、俺は自分の弁当箱を開け、勝手にどんどん食べ始めた。設楽の方も最初は遠慮していたが……やがて……

 

「……では先輩」

「おう」

「いただきます」

「おう」

 

 俺が横で弁当を食っているのが気になったんだろうなぁ。おもむろに包みを開き、弁当箱を開けた。だが……

 

「……普通ですね。いつも通りだ」

 

 弁当箱を開いて第一声が、こんな失礼な言葉だった。これはずっと覚えておいてやる。恨み続けてやるぞ設楽。

 

「何が普通だ。俺がせっかく丹精込めて作ってやった弁当に失礼なことを……」

「……ですね。すみません」

 

 意外に素直に謝るあたり、やはり今日の失敗は少々堪えたようだな……まぁいい。説教なんぞする気もないし、する資格もない。慰めるってのはもちろん、元気づけるってのもなんか違う。

 

「いいから早く食べろ」

「はい」

 

 俺に出来るのは、弁当を作ってやる程度がせいぜいだ。

 

 今日はもう、仕事が終わったら早く家に帰って、うまいものを食べて風呂に浸かって、さっさと寝ろ。きっとそれが一番だ。

 

 何も言葉を発することなく、2人で黙々と弁当を食べる。ここがどこかの草原で、草の上で、そして晴天で気持ちいい風でも吹いてりゃ最高なんだが……

 

「……」

「……」

 

 悲しいかな。ここは草原ではなくビル屋上の喫煙所。吹きすさぶ風は冷たく、タバコの臭いが終始漂い続ける喫煙所だ。こんな中でよく平気で飯が食えるなァこいつはと、妙に感心する。

 

「……おっきいですね」

「ん?」

 

 設楽が卵焼きを箸でつまみ、ジッと眺めていた。今日の卵焼きは、いつもよりも大きく作っている。それに気付くぐらい、こいつは俺の卵焼きに慣れ親しんでいることに、今更気づいた。

 

「卵焼き、いつもより大きく作ってくれたんですか?」

「おう。いつもなら一人頭卵一個使ってるんだが、今日は大奮発で、俺とお前の二人分で卵を三個使った」

「三個……」

「喜べ。今日のお前の分は、卵一個半の卵焼きだ。その分いっぱい食べられるし、何より一切れが大きい」

「……」

 

 果たして、仏頂面で卵焼きを眺めるこいつの耳に俺の言葉が届いているのかさっぱり分からないが……こいつはひとしきり卵焼きを睨みつけた後、それを口に運んでいた。そしてその直後、鼻がぷくっと膨らんでいた。

 

「……口の中が、いっぱいになりまふ」

「そらぁ今日の卵焼きはデカいからな」

「めちゃくちゃおいひいれふ。……おいひいれふ」

「ならよかった。わざわざ卵を三個使った甲斐があったよ」

 

 どうやら、卵焼きは美味しかったようだ。こいつの鼻がそう語っている。これでちょっとでも気持ちが上向いてくれれば、悩んだ末に断腸の思いで卵を三個使った甲斐がある。

 

 なんて一人で達成感を感じていたら……

 

「……ん?」

「……」

 

 卵焼きを飲み込んだ設楽が、俺のことをジッと見ていた。相変わらずの仏頂面で、すこ~しだけ眉間にシワを寄せて。

 

「どうした?」

「今日は素直に私の称賛を信じてくれるのですか」

 

 なんだそんなことかと、俺は鼻を鳴らした。

 

「ああ。だってお前、本気で嬉しいんだろ?」

「はぁ」

「なんだその間の抜けた返事は」

「だって……いつも先輩、『その仏頂面で言われても信憑性に乏しい』とか言うじゃないですか」

「言うなぁ」

「だったら、なんで今日は、私が本気で喜んでるって思うんですか」

 

 ……どうやらこいつは、自分のクセに気がついてないらしい。

 

 俺も最近になって気付いたのだが……この、稀代の仏頂面女の設楽は、その仏頂面のせいで中々感情が読みづらい。だが、こいつは本気で嬉しい時や本気で楽しい時、鼻の穴がほんのちょっとだけ、ぷくっと膨らむクセがある。

 

「……ぶふっ」

「?」

 

 こいつは俺の卵焼きを食べて、鼻がぷくっと膨らんでいた。……ということは、こいつは今、本気で卵焼きが嬉しいんだ。その、ぷくっと膨らんだ鼻が、何よりの証拠だ。

 

「ぶふふ……」

「なんですか気持ち悪いですね」

「なんでもない。早く食べろよ。昼休みがなくなるぞ」

「……はい」

 

 設楽は珍しく素直に俺の言うことを聞き、次の卵焼きを口に放り込んでいた。その瞬間、仏頂面女の設楽の鼻がぷくっと膨らんだことを、俺は見逃さなかった。

 



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11. 物は言いよう

※少々長いです。


「そんなわけで、その頃から私には、先輩にお世話をしてもらうという責任が発生しているわけです」

 

 昔のことを思い出していた俺に対し、設楽はいつもの仏頂面で、悪びれることなく、すっぱりとこう言いきった。

 

 ……ところで、俺は今、友人知人や親、親戚一同にいたる、あらゆる顔見知りの連中に対し、こう聞きたい。

 

 これって、責任なの?

 

 なんというかこう……勝手に運命を感じるのは別に構わん。それが恋というものだ。相手にとってはなんてことない、日々の他愛ない出来事の中で、本人だけがそれに意味を求め、勝手に盛り上がり、それが愛だと錯覚する……思春期なら、それが当たり前だ。いや設楽は少なくとも思春期など過ぎている年齢だと思うが……

 

 だが、それと『責任を取る』というのは、また、別の話なんじゃないのか?

 

 それにだ。意味不明なプロポーズが設楽の仏頂面から発せられて、もうけっこうな時間が経過するが……なんというか、どうにも設楽の本気度が伝わってこない。

 

 やっぱりプロポーズってさ。こう、突き抜けた感情に突き動かされるというか……情熱的に相手に迫るものなんじゃないの?

 

――私、先輩が好きです! ぶわっ

 

 こんな感じで。これならまだ分かる。俺だって男だし、設楽のことはよく知ってる。付き合いも割と長くなってきたし、気取らず付き合えるこいつにそんなことを言われれば、悪い気はしない。

 

 だが、現実はどうかというと……。

 

―― 私の面倒を見て下さい

―― 先輩は仕事においては優柔不断で、決断力がありません

―― つまり、私が先輩を相手に選んだのは、いわゆる責任でもあるのです

 

 ……申し訳ないが、まったく愛情と言うものが感じられない。

 

 なんというか……設楽の話を聞いていると、本人の意志というよりは、義務感やシチュエーションに流されて、俺と結婚せざるを得ないと思い込んでいるようにも見えるが……

 

 ……でもあれか。弁当を作ってくれたのがうれしくて、設楽は俺との結婚を決意するあたり、俺に対して愛情みたいなのは感じているのだろうか……。

 

 今、黒霧島が入ったグラスを片手に持ちながら、設楽はじーっと俺を見つめている。仏頂面で。

 

 おれは設楽と付き合いだしてから随分経つ。その中で、こいつの感情の機微を多少なりとも読めるようになったつもりでいたのだが……

 

 だが、現状ではまだまだ甘いと言わざるをえない。今、こいつが一体何を考えているのか、俺にはさっぱり理解出来ない。

 

「……」

「……」

「……何か?」

「いや……」

 

 こいつは、新しく届いた揚げ出し豆腐を口に運びながら、一体何を考えているのだろうか……こいつ、常に本当に俺のことを……そのー……好きなのだろうか……?

 

「先輩」

「ん?」

 

 俺がシーザーサラダの残りをすべて平らげて、その皿を自分の脇へと追いやった時、揚げ出し豆腐を食べ終わった設楽が口を開いた。唇についた豆腐を俺が指摘すると、設楽は仏頂面のまま、ぺろっと舌なめずりしていた。

 

「お気づきですか?」

「何がだ」

「はぁー……」

 

 俺の返答を聞いた設楽は落胆したのか何なのか、首を左右に振り、大きなため息をついた。その仏頂面から繰り出されるため息は、見ている俺が、思わず殺意の波動に目覚めてもおかしくない腹立たしさだ。

 

「なんだよ」

「先輩にも責任はあるんですよ」

「何の責任だよ」

「私の面倒を見る責任です」

 

 ほわっつ? 俺に? 設楽の面倒を見る責任とな?

 

「どういうことだ。ちょっと聞かせろ」

 

 俺は設楽に手を出した覚えはない。それなのに、一体俺にどんな責任があるというのか。

 

 設楽はグラスに残った黒霧島をすべて飲み干し、そしてグラスをカラカラと動かし、氷の音を響かせた。少し飲むペースが上がってきたような……だが、顔は一向に赤くもなく青白くもなく……いつもの設楽のままだ。

 

「……先輩は、私の指導社員でした」

「だなぁ」

「なのに、何も教えてくれませんでした」

 

 ……? それは本気で言っているのか? 俺の頭の中が、はてなマークの形をした疑問という概念で埋め尽くされていく……

 

「どういうことだよ? 俺はお前に、教えられることはすべて教えたぞ?」

「ハハッ……ご冗談を……何一つ教えていただいておりませんよ先輩」

 

 ちょっと待て。俺は設楽に教えられるものは全て教えた。俺の奥の手……虎の子の技術である、パワポの使い方やプレゼン資料の作り方まで、丁寧に教えたぞ? そのおかげで、ただでさえゼロだった俺の社内での居場所が設楽に侵食されて、一時期は本当に会社内に居場所がなくなったぐらい、持っているものはすべて設楽に教えたはずだぞ?

 

「確かにそうですね。資料作成のノウハウは、今も大変役立っています」

「それを教えたのは誰だよ?」

「先輩です」

「だろ? 社内での決まり事や日々の雑務のことを教えたのは?」

「もちろん先輩です」

「ビジネスマナーを教えたのは?」

「先輩」

「電話の取り次ぎ方を教えたのは?」

「SEN‐PAI」

「名刺の渡し方を教えたのは?」

「先輩のおかげで所作が美しいとお褒めいただいております」

「だろ? 俺は俺が知りうるすべてのことをお前に教えたぞ?」

 

 一つ一つ、確認を兼ねて設楽を問い詰める。俺が知っていることは全て教えたはずだ。その証拠に、設楽はすべて『先輩に教えてもらった』と言っているじゃないか。ちゃんと覚えているじゃないか。俺が設楽に教えたと。

 

 ……だが、設楽が言いたいのは、どうやらそれではないらしい。

 

「……先輩、まだあるでしょう?」

「なんだと?」

「確かに仕事のことを教えていただきはしましたが、それだけです」

「それだけ……とは?」

 

 ダメださっぱり意味がわからない。俺が身に着けていることで? 設楽にまだ教えてないこと? 俺は頭をフル回転させ、何か教えてないことがあるか必死に思い出そうとするのだが……ダメだ全く思い出せない。

 

 そんな様子を眺めていた設楽は……

 

「はぁー……」

 

 と再び落胆のため息を漏らして首を左右に振り、俺の記憶力に心底幻滅しているみたいだった。

 

「ダメですね先輩。後輩への愛が足りませんよ」

「そこまで言うからには、俺が何を教えてなかったのか、ちゃんと説明出来るんだろうな」

「もちろんです。先輩は自分の後輩を信じられないというのですか」

「当たり前だ。俺は知っているすべてをお前に教えた。他に一体何があるという?」

 

 俺の口調が激しくなり、設楽の口調も心持ち棘が生えてきた。しかし俺も憤りを隠すつもりはない。これ以上、身に覚えのないことで、非難されるのはゴメンだ。

 

 設楽がこちらをジッと見据える。氷だけになった黒霧島のグラスがテーブルの上にトンと置かれ、そして……。

 

「……おせんたく」

「……ほわっつ?」

 

 設楽が発した一言は、またもや俺の予想外だった。

 

「おせんたく? おせんたくって、洗濯か?」

「他に何があるというのですか」

「ちょっと待て。なんでそこで洗濯が……」

「他にも、お掃除にお料理……そしてお裁縫……」

「……」

「ほら見て下さい。私に何も教えてない」

 

 ……今、俺の頭が、心臓の鼓動に合わせてズキンズキンと痛むのは、酒で悪酔いしているからではないだろう。設楽の斜め上の返答に、俺の頭が拒絶反応を示しているからだ。

 

「……おい設楽」

「おっ。やっと自分の非道な行いを私に謝罪する気が……」

「何が謝罪だ。どれも家事じゃねーか」

「そうですよ?」

「仕事のことじゃないのか?」

「誰が仕事のことだといいました?」

「俺はお前に仕事のことだけじゃなくて、家事も教えなきゃいけないのか!? 仕事の指導係の俺は、お前の花嫁修業にまで付き合わなきゃいけなかったのか!?」

 

 まくしたてる。確かにこいつは家事が絶望的なまでに出来ない。部屋だって散らかり放題だし、洗濯だって未だに洗剤と柔軟剤の区別がつかない。料理をすれば雪平鍋をアニメのように爆発させるのが目に見えてるし、裁縫をすれば、針を一回通す度に、自分の指も突き刺すであろう。仕事の時のテキパキとした姿はなりをひそめてしまう。

 

 ……いわばあれだ。自宅にいる時のこいつは、悪く言えば『休日のお父さん』だ。しかも仏頂面で愛想がゼロ。愛嬌のない『休日のお父さん』……それがこいつだ。

 

 だが、だからといって仕事の指導係でしかない俺が、なぜ後輩とはいえこいつに家事まで教えなければならんのか。あんなものは、普通に生きていれば知らないうちに身についていくものではないのか。何も『うまくなれ』『極めろ』と言っているのではない。自分一人が生きていける程度の家事は、誰だって出来るはずではないのか。

 

「……先輩」

「なんだよ……頭痛くなってきた……」

「頭痛いのですか? 大丈夫ですか?」

「誰のせいだよっ!?」

 

 設楽の他人事極まりない心配に、俺はつい声を荒げてしまう。『しまった』と思ったが、設楽は別段気にしてないようで、澄ました顔で新しく届いた焼き鳥を串から食べていた。ホッと一安心はしたのだが、堪えてないのは、それはそれで腹立たしい。

 

「大体、なんで俺が家事まで全部教えなきゃいけないんだよっ!! 俺はお前のかーちゃんかッ!!」

 

 俺の半狂乱の声を涼しい顔で受け流し、設楽は焼き鳥の串を涼しい顔串入れにひょいっと投げ入れ、冷たい眼差しで俺を見つめた。

 

「……先輩、覚えてらっしゃらないようなので、言わせていただきますが」

 

 俺の背中に、ゾクッと一瞬、嫌な冷たさが走る……まさか、ちょっと怒っているのか……?

 

「……以前、私の家に来てくれたことがありましたよね」

 

 ……確かにある。休みの日に突然設楽から電話がかかってきて……『洗剤と柔軟剤は違うのか?』といきなり変な質問をされて……

 

「あの時、私は先輩に『教えてください』といいましたよね」

「確かに……言ってたな」

「でも先輩、あの時、なんて言いました?」

 

 記憶を懸命にたどる……あの時はなんかもう怒りに突き動かされていたから、設楽に何を聞かれ、俺が何て答えたかなんて、殆ど覚えてないのだが……

 

「……すまん覚えてない」

「なら私が教えて差し上げます。あの時、先輩は『俺がやったほうが早い』って言ったんですよ?」

 

 言われてみればー……言ったような、言ってないような……。

 

「私は教えてほしかったのに。先輩は自分がやったほうが早いからって、全部自分でやってしまったじゃないですか」

「……」

「洗濯も自分の家から持ってきた洗剤を使って、掃除だって瞬く間にゴミを全部まとめてしまって掃除機かけて拭き掃除までして……」

「……」

「挙句の果てに『食材はない』って私が言ったら、私を置いてけぼりにしてスーパーに買い物に行って……私は料理が出来ないって言ったのに生鮮食品ばかり買ってきて……」

「ちょっと待て! 俺はお前がちゃんと食べられるように常備菜とかハンバーグとか色々作ってやっただろ! その日は2人でカレー食ったあと、『明日はこれでカレーうどん作れ』って俺ちゃんと言ったよな?」

「たとえカレーがあっても、私にカレーうどんなんて高等な料理、作れるわけがないでしょう。常識で考えて下さい。料理ができない私にカレーうどんが作れると思いますか?」

「カレーうどんなんて、最悪うどんゆでてそこに出汁を溶かしたカレーかけりゃ出来るじゃねーか! お前どれだけ料理出来ないんだよ!!」

「先輩はそう簡単に言いますが、それが素人にとってどれだけ高等な技術なのか想像つかないのでしょう。大空を羽ばたく先輩には、地べたを這いずる私達の気持ちはわからないのです」

「例えが意味不明で大げさすぎるッ!! カレーうどんごときでなんで大河ドラマの一般兵みたいなセリフ吐いてるんだよっ!!」

 

 二人の間で、言い合いがはじまる。はたから見れば痴話喧嘩に見えるかもしれないが、やってる俺たちは真剣だ。なんせこれが、俺が結婚する理由になってしまうかもしれないのだから。

 

 ひとしきり言い合いを繰り広げたところで……

 

「「……ぴたっ」」

 

 二人同時に、言葉が止まる。そして互いのグラスの中に残った氷を口の中に流し込み、バリバリと噛み砕いた。二人揃って、ほぼ同じタイミングだ。

 

「……まだ飲むか?」

「……いえ。ウーロン茶をいただきたいです」

「はいよ」

 

 呼び出しボタンを押し、店員を呼ぶ。店内に『ピンポーン』と軽快な音がなり、『はいただいまー!!』という、威勢のいい女の子の声が聞こえた。きっと設楽の口からは、永遠に聞くことがないであろう、元気に満ち溢れた声だ。

 

「……まぁそんなわけで、先輩には私の元に嫁ぐ責任があるのです」

「どこがだよ……」

「だって先輩、私は家事が出来ないんですよ。家事ができなければ、生きていけない」

「大げさに考えすぎだろ。そもそもお前、家事できなきゃ生きていけないってんなら、今までどうやって生存してきたんだ……」

「そしてその原因は、先輩だ」

「先輩の話を聞きなさい設楽くん……」

「言うなれば、私は先輩がいないと生きていけない身体に調教されてしまった……」

「人聞きの悪いこと言うな。いかがわしい言い方はやめろ」

「だから先輩……責任取って、私の面倒を見るしかないっ」

「責任をどんどん拡大解釈していくなッ!」

「バカなっ! 私の身体をここまで好きに弄んでおきながら!?」

「誤解を招きかねない言葉を大声でまくし立てるのはやめるンだッ!!」

「私のブラだって見たのに!?」

「あれはお前が悪いだろうが! 既成事実を積み上げていくのはやめろッ!!」

 

 設楽の予想外の方程式の組み立て方に、俺の頭がついていかない……こいつの計算の仕方は、俺の想像の範疇を軽く飛び越えている……俺のような凡人では理解できない領域にいるというのかこいつは……

 

 ……ただ一つ。俺に分かるのは、今こいつは、とても楽しんでいるということだ。ぷくっと膨らんだ設楽の鼻が、それを物語っていた。

 

 



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12. どうやって生きてきたんだお前は

 休日。朝早くに目覚めた俺は、天気のいい外の空気を吸いたくなり、パジャマ姿のままベランダへと出た。

 

「おお……今日はまたいい天気だなー」

 

 外は突き抜ける快晴。空を見上げればお日様が気持ちのいい光を俺に絶え間なく浴びせ続け、目を閉じれば、冷たく澄んだ心地よい風がそよそよと俺の身体を撫でていく。

 

 ……素晴らしい。なんと心地よい天気か。俺は休日にこのような素晴らしい天気をあてがってくれた神様に感謝をしつつ、今日一日のスケジュールを頭の中で組み立てながら、歯磨きをし、朝食の準備に勤しんだ。

 

 今日はとても気分がいい。なので今朝は久しぶりにラピュタパンでも食べようか。目玉焼きをサニーサイドアップに焼いて、トーストには盛大にバターを塗りたくる。熱いコーヒーもいいが、こんな気持ちいい天気の日はアイスコーヒーがいい……冷蔵庫の中の、昨日のうちに作っておいたアイスコーヒーをカップへと注ぎ、俺は天気予報とニュースを眺めながらラピュタパンを頬張った。

 

『今日一日、東海地方は気持ちのいい快晴が続くでしょう』

 

 お天気お姉さんが、最高の笑顔で今日の天気を教えてくれる。こんな素晴らしい天気が一日中続くのか……洗濯をして部屋の片付けをしたあとは、久々に近所の海へとサイクリングに出かけようか……胸が躍る。弁当は何にしようか……

 

 こうして一日の予定を組み終わった俺は、まずは洗濯でもしようかと、コーヒーを飲み終わったカップをキッチンへと置き、そして居間に戻ってきたその時だ。

 

――ててててててててててててん♪ ててててててててててててん♪

 

 俺のスマホが光り輝き、ぶーぶーと震えながら歌を歌い始めた。これは着信だ。誰だせっかくのこの素晴らしい休日に水を差すのは……心の奥底にほんの少しの憤りを抱えながら画面を見ると……

 

「う……」

 

 休日の朝からこの名前は見たくなかった……画面に光り輝いていたのは、『設楽薫』の三文字だった……。

 

 一瞬、出るか出るまいか迷ったのだが……見てしまったのなら仕方ない。ここで出ないで、『あの着信は何だったんだ……』とあとで悶々とするよりはいいだろう。俺は画面をタップして、設楽からの着信に出た。

 

『……もしもし』

 

 本人は目の前にはいないはずなのに、俺の網膜に鮮明に映し出される、設楽の仏頂面。これ、テレビ電話になってないよなと、一瞬スマホの画面を確認した。

 

「おう。設楽か」

『はい私です』

「折角の休日に一体何のようだ。俺はこれから洗濯と掃除をして、お昼のサイクリングのための弁当を作らねばならんのだ。手短に頼むぞ」

 

 手早く今日の予定を説明し、要件を手短に済ませるよう、暗に伝える。俺は休みの日にまで、会社の人間と付き合いたくはないのだ。

 

『あの、先輩……ちょっと、お伺いしたいことがありまして』

「なんだ」

『私、さきほど洗濯をしたのですが……』

「いい天気だからな」

『それで質問なのですが、洗剤と柔軟剤というのは、まったく違うものなのですか?』

 

 ……? 質問の意図が分からん。どういうことだ?

 

「おい設楽。意味がわからない。かいつまんで話せ」

『かいつまむも何も、そのままの意味なのですが……』

 

 その後、字面だけ見れば困惑していると思われる設楽曰く、どうやらこういうことらしい……

 

 先日の会社の帰り道、洗濯用の洗剤が切れていたことを思い出した設楽は、近所のドラッグストアへと足を運び、いつも使っている洗剤を買おうとしたそうだ。

 

 ところが、いきつけのドラッグストアに入った所、いつも使っている洗剤は在庫ゼロの状態だったそうだ。それで、他の洗剤を買おうとしたものの、何を買えばいいか分からず……途方にくれていた所、ある謳い文句が目に入ったそうな。

 

――3つの効果が衣類を守る! アメリカも認めた柔軟剤!!

 

 その謳い文句に心を奪われた設楽は、その洗剤(実際には柔軟剤)を購入。今朝、さっそくそれで洗濯をしてみたものの……洗濯したあとの衣類を見てみたら、柔軟剤のふわったとした香りは漂うが、どうも汚れが落ちてない気がしたそうだ。

 

 それで設楽は『ひょっとして、洗剤と柔軟剤は、実はまったくの別物なのでは……?』という疑問を抱き、俺に確認の電話をしてきたそうだ。

 

「……」

『というわけで、真相はどっちなんでしょうか』

「……」

『教えてください先輩。柔軟剤で洗濯は出来ないのでしょうか?』

「……」

『もしもし? 通じてますか?』

 

 さっきまでの、良い天気ゆえの上機嫌は、設楽のこのあまりにもマヌケな質問を前に、ナリを潜めた。

 

「お前、今まで柔軟剤を使ったことないのか?」

『ありませんが』

「今までよく間違えなかったな」

『毎回、決まった洗剤を買っていましたから。今回だけはいつものヤツが切れていたので、噂の柔軟剤とやらを買ったのです』

「なんだその洗剤へのこだわりは」

『こだわりはありませんでしたが、同じものを買っておけば間違いはないのだと、母に教わりました』

「……」

 

 ……まぁ、確かにいつもと同じものを買っておけば、少なくとも間違いはないよなぁ……でもさ……柔軟剤と洗剤が全然違うものだって、この歳になるまで気が付かなかったのかな設楽さん……。残念な気持ちが、俺の心を少しずつ、しかし確実に侵食していく……。

 

「……おい設楽。結論だけ言うぞ」

『お願いします』

「柔軟剤と洗剤は違うものだ。柔軟剤で洗濯は出来ない。以上だ」

 

 結論だけすっぱりと言い放った後、俺は電話を切って自分の洗濯をしようと思ったのだが……

 

『では洗剤は何を買えばいいのですか?』

 

 と設楽はさらにしがみついてきやがった。

 

「お前がいつも買っているものを買えばいいだろう」

『それの在庫がないから買えなかったという話をお忘れですか?』

「今日にはもう入荷してるだろうよ」

『店主のおばあちゃんの話によると、しばらく入荷しないそうです』

 

 なんでその店員におすすめの洗剤を聞かなかった!? と思わず叫びそうになったが、すんでのところでなんとかこらえた。心を落ち着け、静かに口を開いた俺を、誰かもっと称賛してもいいはずだ。

 

「……他の店に行けばいいだろう。洗剤なんてそうそう売り切れるものではないし」

『いやです。あのドラッグストアのおばあちゃん、行ったらいつも飴玉くれるんです』

「お前は小学校低学年女子か。いやよしんばお前が幼女だとしても、飴玉に釣られるってどうなんだ」

『私は小学生ではなく社会人ですが。それに黄金糖ですよ? 先輩にはその魅力を振り払うことが出来ますか?』

「どうでもいいとこに噛みつかなくていいんだよ。……だったらそのおばあちゃんに聞け。飴玉くれるくらい仲がいいなら、洗剤の在り処ぐらい教えてくれるし、なんならおばあちゃんが使ってる洗剤を教えてもらえばいい」

『……あ、そっか』

 

 仕事中のテキパキとしたお前は、一体どこへ行ったんだ設楽……仕事中のお前なら、それぐらいすぐ思いつくだろうに……

 

『あ、でもダメです』

「なんでだ」

『確かおばあちゃん、洗濯用石鹸(塊)でいつも洗濯してるって行ってました』

「なん……だと……?」

『うちには洗濯板ありませんし、せっけんを買っても洗濯はできません』

 

 そのおばあちゃんとやらはかなりの強者のようだ……確かにせっけんを使って洗濯も出来るが、少なくとも柔軟剤と洗剤の区別が全くついてない設楽には、それは不可能であろう。

 

『というわけで先輩』

「なんだ」

『先輩おすすめの洗剤を教えてください』

 

 ……いや、別に教えるのはやぶさかではないのだが……なんか、悪い予感がする。教えたら、何かめんどくさいことが起こる気がしてならない。

 

 たとえば、こんなことが起こりそうな……

 

『先輩、おすすめの洗剤ですが、水に対する分量はどれぐらいですか?』

『何分ほど洗濯すればOKなのですか?』

『すすぎは一回でいいのでしょうか』

『何か干す時に、この洗剤特有の裏技みたいなのはあるのでしょうか』

『いい加減にアップリケをつけていただきたいのですが』

 

 ……そんな、どうでもいい質問の嵐が、約15秒毎に俺の電話に飛んできそうだ……念のため、改めて確認してみることにしよう。

 

「設楽、お前、洗濯は好きか?」

『……』

「どうなんだ? イエスかノーかで答えろ」

『……のー、です』

「いつも適当に洗剤を入れるから、本来必要な洗剤の分量も分からず、『本当にこれでいいのか』と終始首をかしげながら洗濯をしているか?」

『いえす』

「洗濯機を動かし始めたら、洗濯がいつ終わってもすぐに干せるように、ずっと洗濯機の前で待機してたりするか?」

『なぜ知ってるんですか? 洗濯機の回転って見ていて結構楽しいんですよね』

 

 オーマイガー……俺の経験則から言って、こいつは家事ができないタイプの人間だ……目に浮かぶ……きっと設楽の家は散らかり放題だ……冷蔵庫の中もきっと缶ビールと申し訳程度の漬物、そして近所の米屋で米を買った時におまけでもらって、きっとそれ以来放置してるからカピカピに乾いている数年前の田舎味噌……

 

 あいつは……設楽は、今までどうやって生きてきたんだ……? 俺の頭の中に浮かんだ疑問が、俺の意識を侵食していく……

 

「おい設楽。お前、今日の予定は」

『洗濯をもう一度キチンとやったら、部屋に掃除機かけるつもりです』

「午前中はそんなもんだな……午後は?」

『それで一日潰れますが』

「なん……だと……?」

 

 このアホは、掃除と洗濯……しかも掃除は掃除機かけるだけ……たったそれだけで、一日を費やすというのか……!?

 

 確か以前に、設楽は『料理はしない』と言っていた……料理はせず、洗濯もよく分からず……掃除にもやたらと時間がかかり……生活力ゼロだ。休日の日のあいつは一体どうやって生きているんだ? 

 

 ひょっとして……

 

『うう……あと一日……あと一日がんばれば……先輩のお弁当……食べられる……』

 

 そんな感じで、金はあるのに生活力がなく、なぜかコンビニに弁当を買いに行くという発想もなく、決して不自由のない暮らしぶりなのに餓死一歩手前という、よく分からない状況にいつも追い込まれているのではあるまいな。……なんということだ。休みの日のあいつが、休みを満喫している姿が想像出来ない。

 

 俺の頭の中の疑問は、次第に焦りへと変貌していった。あいつ、大丈夫か? 一人でほっといて、大丈夫なのか? 俺の心の中に、ふつふつと使命感のようなものが沸き起こってきた。

 

「おい。今からそっちに行くから、住所教えろ」

『え……』

 

 気がついた時、俺はこう口走っていた。失言だった……だが、失言というものは、気付いたときにはもう遅い。

 

『先輩、こっちに来てくれるんですか?』

「う……」

 

 設楽の仏頂面ボイスを聞いて、『しまった』と思ったのだが……恥ずかしさを勢いと怒声でごまかすことにした。

 

「うるさい! 俺が洗剤もってそっちに行ってやるっちゅーとるんじゃ! 早く住所を教えろ!!」

 

 俺の怒声が部屋中に鳴り響いた。その途端、設楽との通話が切れる。『流石にまずかったか……』と若干焦ったのだが……すぐに設楽から住所のデータが送られてきた。スマホで自宅の住所のデータを共有したみたいだ。

 

 ホッとしたのもつかの間、すぐに設楽からのメッセージも届いた。

 

――お待ちしてます<スポンッ

 

 設楽のこのメッセージを見て、俺は女の子の家に突然押しかけるという迷惑この上ない宣言をしてしまったのだと、ちょっとだけ血の気が引いた。

 

 だが言い出してしまった以上、ここで退く訳にはいかない。俺は自分が使っている洗剤の予備をコンビニ袋に入れ、動かすつもりだった洗濯機の電源を切り、そして着替えて家を後にした。

 

 

 設楽の家は、うちから自転車で20分ほど疾走した住宅地の中にそびえ立つ、五階建てマンションだった。反射的にスーパーとの距離を計算して『割と近いな』と思ってしまうのは、生活力に満ち溢れる俺のクセだと思いたい。

 

「ここの501号室……か」

 

 エントランスを通り抜け、エレベーターに乗って5階まで上がると、俺は設楽の部屋を探す。501という部屋番号から察するに、きっと角部屋だよな……角っこまで足を運び、角部屋のドアの表札を確認……ビンゴだ。墨汁がカスレ気味のえらく気合が入った文字で、大きな板に『設楽』と書かれている表札がある。

 

「……ここだよな?」

 

 途端に不安になる。どう見ても女の家の表札ではない……控えめに言って、どこかの実戦武道の道場のようにしか感じない。この、必要以上に気迫が篭った表札のせいで。

 

 勇気を振り絞り、ベルを鳴らす。

 

「ぴんぽーん」

『先輩ですか?』

「おう。来たぞ」

『空いているので、どうぞ』

「では失礼する」

 

 声の主は、やはり設楽で間違いない。意を決し、ドアノブを握って、俺は設楽の部屋へと足を踏み入れた。

 

「う……」

 

 設楽の部屋は、玄関から居間まで、まっすぐにストレートの廊下が伸びている。その廊下から、寝室やキッチン、トイレや風呂場に行き来するようだ。

 

 意外と片付いてはいたのだが……俺の目はごまかせん。廊下の隅には、少々ホコリが溜まっている。俺が思った通り、普段からあまり掃除はしてないようだ。

 

「来たぞ設楽ー」

「勝手に上がって下さい」

 

 廊下のずっと奥の方……恐らくは居間……から、設楽の声が聞こえてきた。静かなのによく通る声で、お前は一体どういう腹式呼吸をしてるんだと、無駄な疑問が思い浮かぶ。

 

「スリッパ借りるぞー」

「どうぞ」

 

 一応、来客用のスリッパはある。それを拝借し、俺は居間へと向かった。しかし家主の設楽が出迎えないとはどういうことだ。普通、家に客人が来たらまず家人は玄関に立って出迎えるものだろう……と若干不満を抱えて居間に入ったら。

 

「……」

「ようこそ」

「……」

「何か」

「……いや」

 

 いつもスーツを着ていたからなんだか見慣れない、私服姿の設楽がいた。ベージュの短パンと純白のTシャツという、家でのくつろぎスタイルを前面に押し出した、なんとも奇抜なファッションだ。年季の入った座椅子に、あぐらをかいて座ってやがる。

 

 しかも着ているTシャツが、俺の頭を更に混乱させる。

 

「そのTシャツ……」

「ああ、これですか」

 

 設楽が自分の胸元に視線を下げた。設楽のTシャツには、表札と同じく墨が切れ掛かった筆で力まかせに書きなぐったようなフォントで、『ふつう』と書いてあった。

 

「……なんだそのTシャツは」

「『ふつう』とあったので、これが普通のTシャツなのだろうと思い、購入しました」

「……」

「流石にこれほどのファッショナブルなものを突然町中に着ていく勇気がなく、こうして自分の中でこなれるまで、室内着として活用しています」

 

 そう言って、鼻の穴をぷくっと広げる設楽に対し、俺はなんだかいたたまれない気持ちになった。

 

 ……気を持ち直し、周囲を見回す。

 

 設楽の部屋は思った以上に殺伐としていて、必要以上な家具があまり置かれていない。ベッドはないが、廊下を歩く時に他の部屋へのドアを見つけたから、そっちに寝床があるのだろう。あとは部屋の中心にこたつ併用のテーブルと角っこにテレビ……そして設楽が今座っている、年季の入った座椅子だ。

 

 その座椅子は、背が少々倒されているようだ。もたれかかりこそしていないが、俺が到着するその寸前まで、設楽は脱力してくつろいでいたということになる。

 

「……客が来たというのに、もてなさないのか」

「客という間柄でもないと思いまして」

 

 正直言うと、少しイラッとした。俺は設楽にとって、客ではない……だとしたら一体俺は設楽にとってどういう存在なのだ……。

 

「……ほら。うちのストックの洗剤だ、持ってきてやったぞ」

「ぁあ、ありが……て、私がいつも買っている洗剤じゃないですか」

「マジか」

「本当です」

 

 設楽は俺が渡した洗剤をまじまじと見つめ、そしてテーブルの上に置いた。テーブルの上は、色々と物が置かれている。テレビのリモコンやジュースの空き缶……そして空のコンビニの袋が一杯だ……。洗剤の箱に押され、コンビニの袋が一枚、パサリと床に落ちた。

 

 部屋の隅っこにある、大きなゴミ箱に視線を移すと、そこはコンビニ弁当の空き箱でいっぱいだ。料理をしないというのは、どうやら本当らしい……

 

 しかし『コンビニで飯を買う』という生活の知恵があったことは一安心だ。今でこそ俺がこいつの弁当を作っているが、以前はこいつはコンビニで買った惣菜パンを会社で食っていたわけだから、そんなの当たり前ではあるのだが。

 

「……で、お前は今何をやっていたんだ」

 

 確か最初に聞いた予定では、今日は洗濯と掃除もやる予定だったはずだが……しかしその様子から見て、くつろぎモードでアルファ波出力全開のような設楽が忙しく動き回った形跡は、ハッキリ言って見当たらない。

 

 俺の問い詰めに対し、設楽は顔色一つ変えずに背筋を伸ばして……しかし座椅子からは全く動かずあぐらをかいたまま……まっすぐジッと俺を見つめ、こう答えた。

 

「だって、先輩が来るじゃないですか」

「……」

「だから先輩が来たら、せっかくだから色々とやり方を教えてもらおうかと思いまして」

「やり方って……何のやり方だ……?」

「お掃除、おせんたく……それからお料理も……」

 

 俺に教わる……? 家事をか?

 

「教わらなければならんほど、お前はそれらができんのか……」

「ええ」

 

 仏頂面でそう答える設楽の鼻が、ぷくっと広がった気がした。

 

 一方で、俺はなんだか段々気持ちがやさぐれてきた。職場では何事もそつなくこなし、『我が社始まって以来の天才』ともてはやされる設楽が、一転……自宅に帰れば、炊事洗濯その他もろもろの家事ができず、変なTシャツを着て、座椅子にもたれかかり……

 

「……どうかしましたか」

 

 こいつの様子を観察する。こいつは美人と言っても差し支えないほど、顔の作りが良い。猫顔のぱっちりした目はとてもキレイだし、ストレートの長い黒髪もツヤッツヤでとてもキレイだ。今は化粧してるかどうかは分からないが、それでも普段のこいつと比べて違和感がまったくないほど、キレイな顔立ちをしている。

 

「いや、今日はすっぴんですが」

「……」

「?」

 

 俺の心の声を読んだことは、この際どうでもいい。だが、会社で有能な出世頭にしてとんでもない美人の設楽が、私生活ではここまで情けない女であることに、俺は極めて残念な気持ちを抱いた。

 

「……ちなみにあれか。お前の部下は、お前のこの惨状を知っているのか」

「知りません。先輩だけです。この部屋に上げたのも、先輩が初めてです」

「……」

「……なにか?」

「……いや、じゃあ洗濯からやるか」

「では私が洗濯機をかけるので、先輩は横から指導をして下さい」

「おう。早く立て。俺を案内しろ」

「いや……廊下の奥のお風呂場に洗濯機があるので、先に行って下さい」

「いいから早く立てよ。洗濯したら掃除するんだろ?」

「はい……ですから先に……」

 

 なんだ? なぜこいつは立ち上がろうとしない?

 

「早く立てって。時間なくなるぞ」

「先輩こそ早く行って下さい」

「だからお前が案内してくれないと」

「だから廊下の奥の風呂場にあると」

 

 ええいっ……埒が明かない。

 

「いい加減に……ッ!」

「あ……!?」

 

 俺は設楽の細っこい左手の手首を掴み、そのまま強引に引っ張り上げ、設楽を無理やりに立たせた。設楽の手が思ったより華奢で細っこいとか、意外と温かいとか、感じたことは色々とあるが、それよりも……。

 

「あ……」

「……先輩がチャイム鳴らした瞬間、部屋の隅っこで、見つけまして……」

「……」

 

 設楽が中々立ち上がらない理由が、今わかった。

 

 こいつは座椅子に座る自分のケツの下に、洗濯機に入れ忘れたと思われる、薄水色の下着を隠していた。

 

「……つまり、普段はその辺にぽいぽい洗濯物を脱ぎ捨ててるわけだな」

「ち、ちなみにこれは、俗にいう“ブラ”というやつで……」

「そんなこといちいち言われんでも分かる」

 

 流石にちょっと恥ずかしかったのか……設楽の仏頂面は、ほんの少しだけ目が泳いでいた。

 




※次回に続きます


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13. 後輩を育てる時にやってはいけないこと

 先ほど自分のケツの下に隠していたブラを手に、設楽は俺を洗濯機へと案内する。

 

「それは洗濯してなかったやつか……」

「ええ。昨日脱ぎっぱなしにしてたやつで……」

「ちょっとは恥ずかしそうにしろよ羞恥心はないのかお前は」

「だからケツの下に隠してたじゃないですか。もう見られたから恥ずかしいも何もないですよ」

 

 そんな会話を繰り広げながら、俺は死んだ眼差しで……設楽はいつもの仏頂面で、2人で洗濯機のある脱衣所へと向かう。

 

 洗濯機のある脱衣所は、居間と廊下に比べると、意外ときれいなものだった。入り口が開きっぱなしだったのでちょいと風呂場も覗いてみたが、ほこりもなく水汚れもなく、キレイなものだ。

 

「お前、風呂はキレイに掃除してるんだな」

「掃除をはじめると、なぜかお風呂掃除に専念して一日終わっちゃうんですよね」

 

 なんでだよ……その情熱を居間や廊下の掃除にも割り振ってやれよ……

 

 設楽は脱衣所のすみっこにある洗濯機の蓋を開き、手に持っているブラを投げ入れた。

 

「ていっ」

「……」

 

 お前は小学生男子か……。

 

「……下着はちゃんと洗濯ネットに入れろ。じゃないとすぐ痛む」

「なんで先輩は女の子の下着の扱いまでご存知なんですか?」

「常識だろうが……」

「通りで……」

「何がだ」

「……秘密です」

 

 俺の指摘を受けた設楽は、口をとんがらせて何かをぶつくさ言いながら、洗濯機の前でごそごそ何かをやりはじめた。俺の注意を受けて、先程投げ入れた下着を洗濯ネットの中にしまったようだ。

 

「さっきも言いましたが、これはブラです」

「うるせーよ」

「先輩、ではご指導よろしくお願い致します」

「……おう」

 

 こうして、俺と設楽の家事教室の授業が始まった。花嫁修業と言えなくもないが……

 

「……先輩?」

「……」

「何か?」

「……いや、何でもない」

 

 こいつ、結婚して主婦なんて出来るのかね……ジェンダーフリーな世の中とは言え、専業主婦になれば家事はすべて任されるし、例え共働きであっても、妻の方が家事の配分が夫より多い昨今……こいつは幸せな結婚生活を送ることが出来るのだろうか……? ……いや、大富豪の男を捕まえれば、あるいは……。

 

 雑念を捨て、まずは洗濯の手順を説明する。

 

「いいか設楽。洗濯はいかに素早く、そして手を抜いて楽をするかにかかっている。基本は大雑把。これで行け」

「はい」

「ただしこれだけは注意しろ。柄物や色物と白地の服を一緒に洗濯するな」

「了解です」

「今日は大丈夫か」

「大丈夫です。ワイシャツはクリーニングにいつも出してるし、色物しかありません」

「よし。他にも気をつけるべきことはあるが、まずはそれだけ覚えろ」

「承知しました」

 

 そんなこんなで洗濯機のスイッチを入れる。途端に『だばだばだば』と音を立て、洗濯機の中に大量の水が流し込まれていくのだが……

 

「よし洗剤投入だ」

「了解しました。分量は?」

「箱に書いてあるが、分からなければとりあえずスプーン一杯と覚えろ」

「了解しました」

 

 俺の至極適当なレクチャーを受け、設楽は俺が持ってきた粉末洗剤のパッケージを開け、そして中のスプーンで洗剤をすくい取るのだが……

 

「先輩」

「なんだ。早く入れないと洗濯が始まるぞ」

「スプーン一杯とのことですが……どの程度入った『一杯』なんでしょうか」

「細かいことは気にするな。スプーン半分以上入っていれば、それで充分だ」

「とは言っても先輩。スプーンには『60リットル』『80リットル』とかの目安の線がありますが……」

「気にするな。今のお前にはスプーンのその機能を使うには、知識と経験が足りない」

「いやでも使わないと……あ、でもうちの洗濯機って何リットルなんでしょうか先輩……」

 

 余計なことを気にし始めたな……こういう細かいことを気にしていると、家事はまったく進まなくなる。『まぁいいやこれで』の諦観が、家事を効率良く進めるには必要だというのに。

 

 だいたいこいつは、なんで仕事の時みたいにうまく立ち回れない。仕事の時のこいつなら……

 

――細かい数字は気にしなくていいです。

  とりあえずスタートして、あとで調整しましょう

 

 そうやって新しい仕事に取り掛かるはずだ。事実、そんな設楽を俺は何回も見てきた。

 

 それなのに、だ。今は細かいどうでもいい部分を気にして、まったく先に進まない。

 

「先輩……80リットルだと多い気もしますし……てか、そもそもうちの洗濯機に60リットルもの大量な水が入るのでしょうか。うちの洗濯機ってそう大きくないし、10リットル程度な気もしますけど……」

「……」

「どうしましょうか。そろそろ洗濯も始まります。今までも割とやきもきしながら洗剤の量を決めていたのですが、今回はちょっとその辺のこともキチンと知りたくて……」

 

 なんか段々腹が立ってきた。俺は設楽の質問の一切を無視し、洗濯機のスイッチを一度切った。

 

「……おい設楽」

「なんですか?」

「下着はキチンと洗濯ネットに入れたな?」

「はぁ」

「入れてるんだな」

「まぁ……」

「そうか」

 

 きっと、普段の姿からは想像も出来ない情けない今のこいつに、俺は怒りを感じ始めていたのだろう。俺の中のスイッチが今、ポチッと入った。

 

「貸せ」

「あっ……」

 

 俺は設楽の手から、洗剤のパッケージを奪い去り、そして再び洗濯機のスイッチを入れる。再び『だばだばだば』と音を立て、洗濯機に水が流し込まれていく。

 

 その間に俺は、スプーンで60リットル程度の分量の洗剤をすくい、そして水が停まったその瞬間に、洗剤を入れた。

 

「60リットルだったんですね。うちの洗濯機って、そんなにたくさんの水が入ったんですね……」

 

 ポソリと設楽は呟いたが、俺はそれをあえて無視した。

 

「設楽」

「はい」

「お前には任せてられん。掃除も俺がやる」

「ちょっと待って下さい。私は先輩に教えてほしいのに……」

「俺がやったほうが早い」

 

 設楽は抗議をしてきたが、そんなこと、俺の知ったことではない。ちんたらやっていては日が暮れる。洗剤の分量すら決断できんこいつが悪いのだ。

 

 俺は呆気にとられる設楽を残し、脱衣所を出て居間に戻った。

 

「あれ先輩。ここで待たなくていいのですか」

「待つ必要はない。終わればこいつは勝手に止まる。そしたら干せばいい」

「洗濯機の中、見ていたいのに……」

 

 俺の背後で設楽が何かを言っていたが、おれはそれを無視する。そして居間の全景を眺めつつ、部屋と廊下の掃除機がけとモップがけの段取りを整えた。

 

 

 こうして俺は、ポツンと居間で佇む設楽を置いてけぼりで、なぜか設楽の家の掃除をするという、自分でもよく分からない行為に勤しんだ。

 

 まずは居間のゴミを片付け、適当に整頓し、片付ける。

 

「設楽。まとめたゴミは廊下に置いておくぞ。次のゴミの日に出せ」

「ここのアパートはゴミの日はありません。好きな時に出して大丈夫です」

「……捨ててくる」

「ゴミ捨て場は裏手にあります」

 

 たくさんのゴミ袋を抱え、エレベーターを待つ間、『貴重な休みに一体俺は何をやっているのか』という虚しい疑問が頭をかすめたが、首を振って、その悲しい疑問の答えを考えないように気を配る。でなければ、考えただけで涙が出てきそうだ。

 

 ゴミ出しと居間の整理整頓が終わったら、次は居間と廊下の掃除機がけだ。

 

「おい設楽ー」

「はい」

「掃除機はどこだー」

「こちらに」

 

 設楽から掃除機を託された俺は、そのまま今から廊下へと丹念に掃除機をかけていく。くそっ……掃除ができないくせに、いっちょまえに吸引力の変わらないただ一つの掃除機なんぞ使いやがって……掃除機を作動させほこりを吸い取る度に、俺の胸にストレスが溜まっていく……。

 

 掃除機がけが終わったら、次はモップだ。こいつの部屋は、居間から廊下まで、すべての床がフローリングになっている。ならばモップがけをしたいのだが……

 

「モップはあるか」

「そんな気が効いたものが我が家にあると思いますか」

「雑巾でかまわん」

「こちらに」

 

 なにやら不機嫌そうに見える設楽から、濡れた雑巾を託され、俺は四つん這いで廊下の雑巾がけに勤しむ。フローリングのベタつきがなくなったことを確認した後、俺はそのまま居間の雑巾がけを行うのだが……

 

「設楽、ちょっと廊下に出てろ」

「えー……」

「洗濯機の中を見てるのが好きなんだろ? 存分に覗いてこい」

「……」

 

 俺によって居間から追い出された設楽は、渋々脱衣所へと消えていった。その後ろ姿から漂う困惑と哀愁は、俺が幼い頃に見た、掃除中の母ちゃんに居間から追い出されていく父ちゃんの背中から発せられていたそれに、非常にそっくりだった。そんな設楽の悲しい背中を見送りながら、俺は引き続き、四つん這いになって居間の雑巾がけを続ける。

 

 居間の雑巾がけが中盤に差し掛かった頃、脱衣所からとてもリズミカルなメロディが流れた。千葉県にある夢の国の電気的パレードの時に流れてきそうな、そんな夢と希望あふれるメロディが、俺の胸に悲哀を届けてくれる。

 

「先輩」

 

 脱衣所から、設楽がひょこっと仏頂面を出した。

 

「なんだ」

「洗濯が終わりました」

「俺は今雑巾がけで手が離せん。干すのはお前がやれ」

「はい」

「下着は寝室にでも干せ。男の俺が居間にいたら、そっちのベランダに持っていくのは気がひけるだろう」

 

 俺としては一応気を使ったつもりなのだが……設楽は何かぶつくさと文句を口走った後、洗濯物満載の洗濯カゴを抱え、脱衣所から出てきた。

 

「いだッ!?」

「あ、すみません」

 

 ベランダへ出るために居間を通り抜ける時、四つん這いの俺のかかとを踏みつけていく設楽。設楽のやつ……しかも口では謝罪していたが、その口ぶりからは、とても謝罪をする気があるとは思えない。

 

 設楽が洗濯物を干している間も、俺の雑巾がけは続く。居間のフローリングすべてを丹念に拭き、雑巾がけがそろそろ終了したかなと腰を俺が上げた時。

 

「先輩、干し終わりました」

 

 胸元に『ふつう』の毛筆体が入った設楽のクソTが、ベランダから戻った。

 

「こっちも終わったぞ。これで掃除は終了だ」

「ホントですね……とてもキレイになりました」

 

 いつもの仏頂面でそう答える設楽からは、とてもじゃないが感動は感じられない。部屋がキレイになった喜びはないのだろうか……。

 

「下着はちゃんと寝室に干したか」

「まだです」

「早く干せ。生乾きになって、明日は生臭い下着をつけて会社に来なきゃいけなくなるぞ」

「……」

 

 俺に煽られ、設楽は洗濯カゴを抱えたまま寝室へと消えていく。設楽の姿が寝室へと消えたのを確認し、俺は設楽が干した洗濯物の様子を見るため、ベランダへと出た。

 

「……まぁ、ちゃんと干せているな……」

 

 ベランダに所狭しと並べられた洗濯物の数々が、涼しく心地よい風を受け、そよそよとなびいていた。一応、洗濯物を干すことは人並みに出来るようだ。こんなものにやり方もクソもないが。

 

 時計を見る。すでに時刻は午後一時前だ。

 

「干し終わりましたよ先輩」

 

 寝室の扉が開き、再び設楽のクソTが視界に入った。

 

「おうお疲れ。これで掃除と洗濯は終わったな」

「色々教えてもらいたかったのに……」

「俺がやったほうが早いと言っただろ。お前に教えながらやってたら、今頃はまだやっと掃除機をかけはじめていた頃だぞ」

「……」

 

 珍しく俺から目をそらす設楽。どうやら少々ご機嫌斜めのようだが……

 

「んじゃそろそろ飯にするか」

 

 俺のこの一言で、設楽の顔に輝きが戻った。……いや、設楽の仏頂面に勢いが戻り、いつもの、相手を視線だけで殺しそうな凄みが戻った。心持ち、設楽の身長が『ぴこん』と音を立てて、2センチほど伸びたように見えた。

 

「ということは先輩、今日もお弁当を作ってくれたんですか?」

「作るわけがないだろう。俺はお前の電話を受けてすぐこっちに来たんだから」

 

 途端に設楽の目から、ハイライトが消える。俺の弁当の一体何が、そこまでお前を掻き立てるんだよ……

 

「ちなみにキッチンはこっちか」

 

 俺は居間を仕切るガラス戸を指差した。さすがに家主の許しなしでガラス戸を開けるのはマナー違反なので、今まで開けずにいたのだが……

 

「そうです」

「何か食材はあるか」

「ありません」

「食パンもないか」

「ありません」

 

 やはりそうか……電話を受けて最初の予想通り、こいつの家のキッチンには、食材は何もないらしい。せいぜいあれだろ。缶ビールと、近所の米屋から数年前におまけでもらった、カピカピの田舎味噌ぐらいしかないのだろう。

 

 ……俺の胸に、またもや負の感情がこみ上げてきた。

 

「……おい設楽」

「はい」

「俺はこれからスーパーに行く」

「はい? スーパーですか?」

「そこで適当に何か昼飯を買ってくるから、お前はテレビでも見ながらだらけて日々の疲れを癒やしているといい」

 

 『ちょっとまって……』と俺の背中に声をかける設楽を無視し、俺は怒りに任せてスーパーへ買い物に出かけた。目的は食材と昼飯の調達。正直あの仏頂面女はどうでもいいが、俺自身はこのまま掃除を続けていたら餓死してしまう。そうなる前に、色々と食材その他を調達せねば……

 

 

「……先輩、一体どれだけ買ってきたんですか……」

 

 買い物を済ませて戻ってきた俺を見た、設楽の第一声がこれだった。

 

 スーパーへと買い物へ行った俺は、生鮮食品を中心にかなりの量の食材を買い込んできた。その総額、およそ3万円。さすがにこれだけの量を持ち帰るのは、骨が折れた……

 

「どれだけって……食材を買えるだけ買ってきたに決まってるだろ……ッ」

「なんでまたそんなにたくさん……」

 

 言えぬ……買うものを吟味しているうちに、どんどん気持ちが高ぶってきて『あれも……よしこれも……』と次々と買い物かごの中に突っ込んでいたとは……

 

「お前が食材などないとほざいていたから、しばらくもつように色々と買ってきたんだろうが!!」

「……」

 

 息切れしながらそれでも怒りをぶちまける俺の姿を見て、設楽の鼻がなぜかぷくっと膨らんでいた。一体何がそんなにうれしいのやら……。

 

「でも先輩」

「あン!?」

「お気持ちはうれしいのですが、私はお料理など出来ませんが」

「あ……」

 

 忘れていた……ノリノリでたんまり買い物をしてきたのはいいが、肝心の設楽自身が料理が全くできないことを忘れていた……

 

「……」

「……」

「……先輩、とりあえずお金はお返しします」

「……いや、可愛い後輩への餞別だ」

 

 俺の粋なはからいに対し、設楽は返事の代わりに、鼻をぷくっと膨らませていた。

 

 

 『お腹が空いたので早くなにか食べさせて下さい』と設楽に催促された俺は、とりあえず買ってきた卵と食パン、そしてマヨネーズを使い、卵焼きサンドイッチを作って設楽に食わせた。

 

「ふぇんふぁい……もぐもぐ……」

「なんだ」

「めちゃくちゃ……おいふぃいれふ……もぐもぐ……」

 

 クソTと短パンで座椅子にあぐらをかいて座り、口いっぱいにサンドイッチを頬張る姿は、どう見ても小学生男子のそれだった。唇のはじにマヨネーズついてるし……。

 

「もぐもぐ……」

「……」

「?」

 

 どうしよう……仏頂面のせいで、ただでさえこいつから色気を感じることなどなかったのだが……今ではもはや近所の食べ盛りの少々背が高い、無愛想な少年にしか見えなくなってきた……最近は髪の長い少年なんか珍しくないしさ……。

 

 『残していてもしょうがないですし、何か料理を作って下さい』『ついでに今晩の晩御飯も何か作って下さい』と言われ、俺はそのままキッチンに立ち、買ってきた食材を片っ端から調理していく……。

 

「うわー先輩、3ついっぺんに料理を作ってるじゃないですかーすごーい」

「うるさい気が散る」

「先輩ひどいですね。かわいい後輩が称賛を送っているのに」

 

 興味なさげな感嘆の声をあげる設楽の横で、俺はキッチン内をせわしなく動き回る。設楽の家のキッチンは意外と片付いていて、ガスコンロも完備。調理器具も一通り揃っていて、これだけの環境なのになぜ料理をやらないのか疑問に思うほどの、充実したキッチンだ。

 

 俺は今、晩飯用のカレーと作りおき用のハンバーグの種、そして常備菜の牛肉の佃煮を作っている最中だ。ハンバーグの種を混ぜつつ佃煮とカレーの火加減を見て……カレーのアクを取りつつ佃煮をかき混ぜ……中々に忙しい。佃煮が出来たら今度は安かった牛すじを煮込む。これは三回吹きこぼす必要があるな……

 

「おい設楽」

「はい」

 

 俺は居間からこっちをじーっと睨みつけてる設楽に、牛すじの鍋を見ていてもらおうと声をかけたのだが……

 

「こっち来てちょっと手伝え。牛すじの鍋を見ろ」

「分かりましたが……ちゃんと教えてくれますか?」

「……自分でやる」

 

 とてもじゃないが、今は物を教えている余裕は俺にはない。それにしても鍋を見ることすら指導が必要ってのは、いったいどういうことだ……?

 

 そうしていくつもの冷凍おかずと常備菜を作り上げ……気がつくと、夕方六時前。

 

「先輩、お腹がすきました。そろそろ晩御飯を」

「出来とるわ! お前は俺の息子かッ! 俺はお前の母ちゃんじゃないぞ!!」

「だって今の先輩、どう見ても私の親そっくりです」

「うるさいわ!」

 

 居間でひたすらこっちの様子をじーっと見ていた設楽に催促される形で、2人で晩飯を食べることにする。今日の晩飯のメニューはカレーだ。さほど使ったことがないと思われるカレー皿に設楽の分のカレーとご飯を盛り、おれは設楽の待つ居間へと向かった。

 

「いい匂いですねー……」

 

 すでに居間のテーブル前で、例の座椅子に座って待っている設楽の鼻が、ぷくっと動いた。

 

「なんだカレーが好きなのか」

「そういうわけではないですが」

「そうか。でもカレーはいいぞ。この作り方が分かれば、ルウを変えればシチューになるし、ルウの代わりに出汁と醤油その他で作れば、具だくさん汁に早変わりだ」

「なるほど」

「作り方も簡単だ。適当に具を切って鍋で煮れば出来る。本当は色々と手順はあるが、最悪それでカレーは出来るからな」

「ではそれを手取り足取り優しく私に教えてください」

「今教えただろっ」

「えー……」

 

 いつもどおりの軽口を叩き合いながら、俺はテーブルの上に、設楽の分と自分の分のカレーを置いた。テーブルの上も、今日一日でキレイに片付けた。朝来た時はゴミやものでてんこ盛りだったテーブルも、今ではスッキリと片付いている。

 

「では先輩、いただきます」

「おう」

 

 手を合わせた後、設楽が俺作のカレーを口に運んだ。

 

「……」

「どうだ?」

 

 俺作のカレーを頬張る設楽は、いつもの仏頂面で俺を見つめていたが……

 

「……おいひいれふ」

 

 そう答える設楽の鼻は、やっぱりぷくっと膨らんでいた。

 

「ならよかった」

「おいひいれふ。へんはいのふふっへふれふぁはへー、おいひいれふ」

「残りは明日にでもまた食べろ。冷凍うどんも買っておいたから、それ使ってカレーうどんにでもすればいい」

 

 唇の端っこにカレーをつけて鼻を膨らませたまま食べる設楽を見ながら、俺は思う。

 

 憤ったり情けない気持ちになったりと、今日は一日中感情がせわしなかったが、本人が喜んでいるのなら、まぁいいとしよう。

 

 ……しかし、こいつのダンナになるやつは大変だな……仕事で恒常的にかなりの成果を挙げなければなければ釣り合わないし、家事も出来なきゃこいつと生活出来ない……こいつとの結婚を希望する男は、かなり高いハードルを越えなきゃならんわけだ。

 

「ごぎゅっ……どうかしました?」

「口の端にカレーついてるぞ」

 

 仏頂面のまま、設楽はぺろりと唇を舐める。

 

 こいつは一体、どんなヤツを選ぶんだろうな……設楽のクソTの『ふつう』の文言が、妙に俺の心に突き刺さってきた。 

 

 



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14. 決め手は先輩

「……さて先輩」

「……?」

「そろそろ覚悟を決めていただければ」

 

 酒も充分飲んだし、そろそろ腹もいっぱいになってきた。そろそろ何か甘いものが食べたい……そう思い、設楽と2人でメニューからスイーツの物色をしている時の、設楽のセリフ。

 

「覚悟か」

「はい。私をこんな身体に調教してしまった責任を取っていただきたく」

 

 それは、俺に決断を迫る一言だ。メニューを覗き込むために下に向けていた視線を、俺は設楽へとこっそりと向けた。

 

「……」

 

 いつの間にかジッとこっちを見ていた……一緒になってメニューを覗き込んでると思ったのに……いつの間にか、こっちの返事を待ってやがる……

 

「んー……」

「……」

「設楽よー」

「はい」

「それはさ。俺がお前の指導係だったからか?」

「そうです」

「それなのに、炊事洗濯その他もろもろ、何も教えなかったから、言ってるのか?」

「はい」

「そうか……」

 

 ふぅ……とため息が出る。責任の拡大解釈……そうとしか思えない。

 

 正直に言うと……設楽にプロポーズをされて、別に悪い気はしない。なんだかんだで付き合っていて気を使わなくていいし、これだけ付き合ってれば、こいつの呼吸と生活リズムも、なんとなく分かる。

 

 ……だけどなぁ……ずっと気になってるんだけど、イマイチこいつの本心が見えてこないんだよなぁ。

 

 いや、プロポーズを決断するぐらいだから、こいつも別に俺のことを悪く思ってないのは分かる。好きでもない男なんぞを部屋に上げないだろうし、(たとえそれが家事であれ)俺のことを頼りにしてくれているのもいい。

 

 でも、一連のこいつの話を聞いてると、なんだか『一緒になりたいから結婚してください』ではなくて、『本当はそんなに気乗りがしないんだけど、他に適当な人もいないし、先輩でいいんで』って気持ちが、見えなくもないんだよねぇ……。

 

 それが、俺がいまいち決断出来ない理由だ。まぁこいつなりに、なんとか自分の気持ちを伝えようと、パワポを作ってプレゼンしたり、責任の拡大解釈してきたりして、必死なんじゃないか……とは思うんだけど。

 

 決断力がないのは、自分でも自覚している。でもさー。一生のことだよ? 慎重に決断させてくれよ。明日の弁当のメニューを決めるのとは、わけが違うんだからさ。

 

 イマイチ踏ん切りがつかない俺の様子を見ていた設楽は、

 

「……はぁ〜……」

 

 とため息をついて首を左右に振っていた。そらなぁ。相手の態度がこれだけ煮えきらないとなぁ。お前としちゃ、ガクッと来るだろうなぁ。

 

「私の元に嫁ぐのに、何かご不満でもあるのですか先輩」

 

 ひとしきり首を左右に振った後、相変わらずの鋭い眼差しで、設楽が俺を睨みつける。蛇に睨まれたカエルって、きっとこんな気持ちなんだろうなぁ……俺の心が、どんどんどんどん萎縮していくのが分かった。

 

「不満っつーか……いまいち踏ん切りがつかんってのはあるな」

「なぜですか? 私のどこが不満なのですか?」

「そういうとこだよ」

「?」

「お前のプロポーズをずっと聞いていたが……お前の気持ちが見えてこない」

「私の気持ち……とは?」

「お前、本気で俺と結婚したいと思ってる?」

 

 そのジトッとした眼差しの仏頂面のプレッシャーにやられ、俺はついに口に出してしまった……出来るだけなんとかこの場は誤魔化そうとしていたのだが……まぁ仕方ない。ここは素直に言った方がいいだろう。なんせ、今後の人生に関わることだから。

 

「……本気とは?」

 

 うわー……俺を見る設楽の眼差しがさらに険しくなったよぅ……俺は設楽と視線を合わせないように店員呼び出しボタンを押した。店員の『はいただいま伺いまーす!』の声が店中にこだましたことを確認し、俺たちは店員を待つ傍ら、話を進める。

 

「気を悪くするなよ?」

「はい」

「お前のプロポーズを聞いてるとな。どうも『本当は好きでもないけど、相性いいしこの人ぐらいしか相手いないし、先輩でいいかー』的な打算が見え隠れするんだよ」

「……」

「正直に言うとな。俺だってお前にプロポーズされて、悪い気はしない。お前は、そのー……多少エキセントリックだが、気兼ねなく付き合えるし、お前の生活のリズムのとり方や過ごし方も、俺は知ってる」

 

 ……お、仏頂面の鼻がぷくって膨らんだぞ。

 

「でもな。お前の口から出てくる言葉は、『ベストマッチ』とか『責任』とか、そんなのしかない。お前の気持ちってのがさ。よく分からんのよ。『こいつ打算で俺を選んでるのか? それとも、本当に俺を選んでくれたのか?』って、疑問しか浮かばん」

「……」

 

 俺は今まで触れてこなかった核心に、あえて触れた。このタイミングを逃したら、今日はもう、この話をするチャンスは二度とこないであろう。そしてこいつとの間に気まずい空気が流れ、明日からは話をしづらくなる。それは俺だって寂しい。

 

 設楽の様子を伺うと……

 

「……ずーん」

 

 仏頂面は仏頂面だが、目に見えて落ち込んでやがる。初めて弁当を食わせたときみたいに、目からハイライトが消え、そして顔色が青黒くなってきやがった。

 

「お待たせいたしまし……て、どうしました!?」

 

 その酷さは、タイミングよく顔を見せた店員も気付いて、慌てて設楽を心配するぐらいだ。

 

「ご、ご気分が優れないのですか?」

「だ、大丈夫です……た、ただ、この人に……」

「!? な、何かされたんですか!?」

「調教され、も、弄ばれて……」

「誤解を招く言い方はやめろと言ったはずだッ!!」

 

 その絶妙に物騒な言葉選びは何なんだよ……店員の誤解を解き、さつまいもアイスを2つ注文する。店員が首を傾げながら部屋から出ていった後は、話の続きだ。

 

「お前、さつまいもアイスでよかったよな」

「は、はい……」

 

 いい加減機嫌を直せよ……泣きたいのはこっちだよ……

 

「だ、だって先輩が……私の気持ちに、気付いてなかったなんて……」

「?」

「私は、もう、私の気持ちを伝えたつもりだったのに……そして先輩も、私を受け入れてくれたと思っていたのに……」

 

 何やら話がおかしくなってきた。俺にすでに気持ちを伝えた? しかも俺はそれに回答済み? どういうことだ? 全然そんな記憶ないぞ?

 

「おい設楽」

「な、なんですか……をを……」

「わざとらしく嗚咽するなよ」

「すみません」

「ほら平気じゃねーか……つーかそれはいつの話だ」

「えー……全然記憶にないとは……」

 

 そらぁないから、今こうやって設楽を問い詰めているわけだが……でもこいつがここまでショックを受けということは、かなりハッキリした意思表示をこいつはしたってことだよなぁ。にも関わらず忘れてる……俺は健忘症の気でもあるのだろうか……?

 

 記憶を懸命にたどる。だが、いくら必死に思い出そうとしても、設楽とそんなロマンチックで胸がドキドキするイベントなど、発生した覚えがない。記憶にないとは、まさにこのことか。

 

 俺が忘却の彼方へ必死にアクセスし、その中の情報を必死に漁っていると……仏頂面の設楽が、ハイライトの消えた目で伏し目がちのまま、ポソリと呟いた。

 

「……バレンタイン」

 

 俺の記憶が、鮮明に蘇る。先日のバレンタインの日、確かに俺は、設楽からチョコをもらった。

 

 だが。

 

「あれ義理じゃなかったのか!?」

 

 思い出した俺の第一声はまさにこれ。確かに設楽からチョコはもらったが、あんなの、義理の代名詞みたいなもんだぞ?

 

「義理なわけないじゃないですか」

 

 設楽の仏頂面が、静かに俺に抗議をしてくる。

 

「しかしな設楽? あのチョコをもらって、『わーい本命だー!』て思うやつの方が、世の中には少ないと思うぞ?」

「だから女子力なくてすみませんって言ったじゃないですか。それなのに……ひどい……」

 

 いや確かにこいつ、女子力なくてうんたらすんたらって言ってたけど! 言ってたけど、だからって、なんで本命の男に渡すチョコに、あんなチョコをチョイスするんだよ!? なんでわざわざ女子力から一番縁遠いタイプのチョコをチョイスするんだよ!?

 

「いや、だったら他にチョイスあるだろ? 高級店のチョコスイーツとか、一流ショコラティエ監修の、もっとかわいくて素敵なやつがさ!」

「あのチョコのパックは最高級のチョコですよ? それが一キロも入ってるんですよ? 私は見てくれではなく、先輩に美味しいチョコを一杯食べてもらいたいなって思って、あれをチョイスしたんですよ?」

「いや確かにその気持はうれしいけれど! 美味しいものをいっぱい食べてもらいたいという気持ちはうれしいけれど!」

 

 だからといってあんなものをチョイスするか!? 俺がおかしいのか!? 世の女性の大半は、本気で相手に気持ちを伝えたい時、あんな、どれもこれもバッキバキに割れた、ブロークンハートの代名詞みたいなチョコを渡すのか!?

 

「そしたら先輩が、素敵なお返しをくれたものだから、私は気持ちを受け止めてくれたと思っていたのに……」

 

 待て待て待て待て。確かに俺はお返しを設楽に渡したが、それがここまで強烈なインパクトを与えていたというのは初耳だぞ!? 確かにこいつはうろたえていたが、ただびっくりしてただけじゃないのか!? 

 

「いや待て設楽。あれは別に深い意味があったわけではなく……」

「先輩は、好きでも何でもない女性に、深い意味もなく、あんなに女子力に溢れた可愛らしいプレゼントを送るのですか?」

「いや待てって。どれだけ鈍感なヤツでも、バレンタインにチョコを貰えば誰だってお返しはするだろう?」

「それはホワイトデーの話です。先輩は翌日にお返しくれたじゃないですか。本番はまだ先ですよ?」

「まぁ、たしかに……」

「しかも、『ハッピーバースデイ』なんてメッセージまでつけて……」

「うん、まぁ、お前の誕生日だから……」

 

 なんということだ……俺が軽い気持ちで作って渡したアレが、たとえ自覚がなかったとはいえ、設楽に対してのアンサーケーキになっていたとは……!?

 

 ……しまった。こいつ、ひょっとして……あのケーキで、今日のことを決意したとかじゃなかろうな……?

 

「おい設楽」

「なんですか」

「ひょっとしてお前さ……あのケーキで……」

「もちろん、先輩が私の気持ちを受け入れてくれたと思いました。だからプロポーズする勇気が湧いたのに」

「しだ……ら……ッ!?」

「あんな手の込んだものをお返しに、しかも誕生日に合わせて、ホワイトデーよりも前にくれたら、そら誰だって勘違いしますよ」

「ま、待て! あれは言うほど難しくないんだぞ? ホットケーキミックスを使って……」

「そら先輩みたいに、女子力溢れてお料理が得意な人にとっては、そうかもしれませんけど……私は料理ができません」

「……!?」

「そんな私から見れば、あのケーキは、とても手の込んだすごく素敵なケーキにしか見えませんでした」

 

 なんということだ……完全に読み違えていた……ッ!?

 

「しかもわざわざ板チョコにメッセージまで描いてくれるだなんて……」

「ううう……」

「きっと先輩は、私の気持ちを受け入れてくたんだとばかり……」

「……」

「それなのに……」

 

 そういい、設楽がハイライトが若干戻った瞳で、じーっと俺を睨みつけてくる。怖い……設楽の仏頂面との付き合いももうだいぶ長くなった。だから最近はもう、仏頂面にじっと見つめられてもどうとも思わなくなってきたというのに……まだまだ修行が足りないのか、それとも、この視線が本当に痛いのか……。

 

『大変おまたせいたしました! さつまいもアイスお2つでーす!』

 

 タイミングがいいのか悪いのか……店員が注文のさつまいもアイスを2つ持ってきた。

 

「はいどうぞー」

「……」

「……はい、どうぞッ」

「す、すみません……」

 

 気のせいではないはずだ……俺を見る店員の目に、非難が篭っていたことは……。

 



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15. 少しだけ、早いお返し

 設楽との付き合いも、もうけっこう長くなった。にも関わらず、俺は初めて、設楽からチョコレートをもらった。

 

「ほら設楽。今日の弁当だ」

「先輩。ハッピー……ばれんたいーん」

「お、おう」

 

 それはちょうど昼飯時のことだった。いつものごとく設楽に俺作の弁当を渡したら……いつもの仏頂面でこんなことを言われ、サンタが背負っていそうな、クリーム色の袋を渡された。俺の顔ほどの大きさのあるそれは布製の袋で、受け取ってみたら、意外とずっしりと重い。

 

「……なんだこれは」

「先輩には、日頃からお世話になっていますから。そのお返しということで」

 

 そういえば今日はバレンタインデー。事務所の中に義理チョコスペースが設置されていて、女子社員たちからのささやかなチョコの差し入れが置かれている。

 

 でも、今回はそれだけでなく、設楽が俺に個人的にチョコをくれるとは。しかもこの袋を見るに、けっこうたくさんのチョコのようだ。

 

「ありがとなー設楽」

「どういたしまして」

 

 設楽にお礼を言う。設楽は設楽で、俺のお礼に満足したのか何なのかよく分からない仏頂面で、こちらをジーッと見る。……早く開けてほしいのかな?

 

「とりあえず、開けていいか?」

「どうぞ」

 

 設楽の許可をもらい、袋を開けて中身を出してみた所……

 

「……なんだこれは」

「チョコですが」

 

 袋の中に入っていた、設楽からのチョコレートは……色気の欠片もなく女の子的可愛さもない、お徳用割れチョコ、一キログラムという代物だった。

 

「割れチョコか」

「女子力がなくてすみません。ですがおいしいチョコなので。一キロのものを探すのは苦労しましたが」

 

 そう言いながら満足げに鼻の穴をぷくっと広げる設楽の前で、俺はなんだか残念な気持ちを抱えた。

 

 いや、ありがたいよ? チョコをこんなにくれたんだ。しかも包装を見るに、このチョコは高級チョコで、さぞや美味しいんだろうさ。ビターチョコみたいに、大人向けの苦いチョコというわけでもないようだしさ。俺は甘党だから、こういうチョコはうれしいよ?

 

 でもね? 包装に真っ赤なフォントでデカデカと『お徳!!』と書いてある物を選ぶ、その微妙なチョイスは何なんだ? いやうれしいよ? うれしいけれど……

 

「……ま、まぁ、ありがたくいただいておく」

「どうぞご堪能下さい」

 

 俺の困惑は設楽には伝わってないみたいで一安心だが……それにしても、女の子っぽさの欠片もないこのチョイス……設楽らしいといえば設楽らしいのだが……

 

 沈んでいく気持ちをなんとか上向きに修正し、俺は弁当を食べ進める。

 

 設楽が自分の分があるにもかかわらず、俺の最後の卵焼きを横から強奪してしまい、それを受けて俺の弁当からすべての料理が無くなってしまった時……

 

「もぐもぐ……ふぇんふぁい」

「なんだ」

「ごぎゅっ……私のチョコ」

「それがどうした」

「……食べないんですか?」

 

 先程俺にくれた、割れチョコお徳用一キログラムが入った、白い布の袋に視線を向けていた。確かにいつも通りの仏頂面だが、その目はいつも以上に鋭く、真剣だ。

 

 ……ははーん。さてはこいつ。

 

「食べたいのか」

「いえ、そんなわけではありませんが」

 

 うそつけ。鼻の穴がぷくってふくらんで、座高だって一瞬ぴこんって上に伸びたくせに。

 

「……食べるか」

「はい」

 

 まぁいい。これをくれたのは他ならぬ設楽だし、こいつにも、コレを食べる権利はある。俺は割れチョコ一キロの包装を破って袋を開き、

 

「ほら設楽」

「よろしいんですか」

「食べたかったくせに」

 

 設楽と2人で、袋の中に手を突っ込む。適当に手に当たったチョコの塊を手にとって、袋から出した。

 

 袋から出したチョコの塊は思ったより大きく、板チョコの四分の一ぐらいの大きさがあった。設楽が手に取っていたのも、それぐらいの大きさだ。

 

「ではいただきます」

「めしあがれ」

 

 二人して同時に、チョコを口に運ぶ。

 

「……」

「……」

 

 ……うん。うまい。チョコの味と香りが濃厚だし、何より苦すぎないのがいい。きちんと甘みも強くて、俺が好きなタイプのチョコだ。

 

「……うまいな」

「……おいしいです」

 

 設楽も同じ結論だったようで、その、人を殺す勢いの鋭い眼差しが、キラキラと輝きを帯びているように見えた。仏頂面で、バキバキとチョコを割り食べていく設楽の姿には、不思議な迫力があった。

 

 

 その後はいつものように午後の業務の中で暇つぶしがてらパワポを一つ作成。そして帰宅した。

 

「……」

 

 そして今、俺は自宅の台所で、設楽から貰ったチョコの楽しみ方を思案しているところだ。

 

「うーん……」

 

 これだけたくさんのチョコ。そのまま板チョコとして楽しみ続けるのはもったいない。お菓子か何かに活用できればいいのだが……味見と称し、小さな欠片を口に放り込むと、たちまち口の中に上質なチョコの香りと甘みが、口いっぱいに広がる。

 

 さて……何を作ろうか。これだけのチョコであれば、どんなものでも作れるだろう。チョコケーキや生チョコ、チョコパイにしてもいいだろう。チョコプリンなんかもよさそうだ。当面の間は食後のデザートに困ることがなさそうで、胸が躍る。

 

 もらった時は正直面食らったのだが……設楽のこのチョイスは、俺にとってはかなり有意義なチョイスだ。板チョコとしてはもちろん、あらゆるお菓子へとクラスチェンジ出来る、無限の可能性を秘めていると言ってもいい。本人は『美味しいチョコをいっぱい食べてもらいたいから』と言っていたが、それ以上のメリットがあるぞこのチョイスは。

 

 ……そういえば、設楽で思い出した。明日……つまり2月15日は、あの仏頂面女、設楽薫がこの世に生まれ落ちた日だ。

 

『先輩。誕生日のプレゼント、楽しみにしております』

『お前は俺の誕生日にプレゼントをくれたのか』

『後輩にたかる気ですか。人でなしですね先輩は』

『うるさいわ』

 

 去年のそんな会話が思い出される。確か去年は飲み屋で黒霧島のボトルをプレゼントしたのだが……あいつ、いつもと変わらない仏頂面だったな……もっともその頃は、あいつは嬉しい時に鼻がぷくって膨れるってことに俺は気付いてなかったから、本当は喜んでいたのかもしれないが……でも仏頂面だったもんな。

 

 そういや今年は何も言ってこなかったな……俺への催促はやめたのか? 何事も期待のしすぎってのはよくないことだしな。

 

 そんな風に設楽の誕生日に思いを馳せていたら、フと思いついたことがあった。

 

「……そうだ」

 

 台所と冷蔵庫を見回し、使えるものがあるか確認する。今使えそうなのは……ホットケーキミックス……無塩バター……バナナも問題ない。

 

 次に、設楽の割れチョコの山を見る。見事にすべてが割れていて、俺が考えていることに使えそうなものはない。

 

 腕時計を見た。今の時刻は午後9時。少し離れたスーパーなら、まだギリギリ開いている。今ならまだ間に合う。俺は必要な材料を買い揃えるために、普段は行かない高級スーパーへと、自転車を走らせた。

 

 

「おはよう設楽」

「おはようございます。珍しいですね。私の席に先輩が足を伸ばすなど」

 

 そして翌日の朝。俺は出勤し次第、自分の机にバッグを置き、仏頂面ではあるが、目がどこか眠たげでトロンとしている設楽のもとへと、足を運んだ。理由は一つ。昨晩作ったものを、設楽へと渡すためだ。

 

 眠そうな目ではあるがいつもの仏頂面のまま、こちらをじーっと見つめてくる設楽に対し、俺は手に持っていた15センチ四方ほどの平べったい四角の箱を手渡した。真っ白でツヤのある、とてもキレイな化粧箱だ。

 

「ほい」

「……これは?」

「昨日のバレンタインチョコの礼だ」

「ホワイトデーはまだ先ですが……」

 

 設楽は椅子に座りこちらをじーっと見つめたまま、俺が渡した四角い化粧箱を受け取った。しらばっくれやがって……鼻の穴をちょっと膨らましてるくせに……だがお前がそうやってしらばっくれるというのなら、俺もあえてしらばっくれてやる。

 

「心配せんでも、その時はその時でちゃんとお返しするわ」

「はぁ」

「これはそれとは別に、お前にやるプレゼントだ。たくさんチョコをもらったからな。そのおすそ分けだ」

「ということは、チョコですか。あのままちびちびくれればいいのに。わざわざ化粧箱に入れてくるなぞ」

 

 などと設楽はいつもの軽口を飛ばしてくるわけだが……初めて見たぞ。こっちをジッと見上げる設楽の鼻が、さっきからピクピクしてやがる……。鼻の穴の痙攣なんて生まれて始めて見たな……。こいつ、今よっぽどうれしいのか。

 

「ああそうだ。昨日のチョコだ。昼にでも食べろ」

「……ありがとうございます。でももしかしたら、仕事中に食べてしまうかもしれません」

「構わん。好きなタイミングで食べるといい」

 

 俺は言いたいことだけ言って……しかし核心には触れないまま、設楽の席を後にした。俺は設楽に背中を向けたから、今あいつがどんな顔で何を見つめているのかは分からない。でも、これだけは分かる。アイツの鼻は、今もきっと、痙攣していることだろう。ぷくっぷくっと、膨らんだりしぼんだりしているはずだ。

 

 

 そうして午前中の業務が始まったのだが……設楽を見ていると、明らかに設楽の様子がおかしい。なんだかそわそわして、仕事に集中しきれてないようだ。課長や部下たちからの進捗確認に対し、歯切れの悪い返事しか返せていない。

 

「係長、岸田建築のメールの件はどうなりましたか?」

「……あ、す、すみません。午前中のうちに終わらせます」

「設楽くん。ノムラ事業所との業務委託契約書は出来たか?」

「すみません課長、今日中に準備いたします」

 

 珍しい光景もあるもんだ。あの設楽が機能不全を起こしておる。部下上司から煽られる設楽ってのも新鮮だな。だけどあいつはまだ、俺が渡した箱を開けてないよな。なのになんであんなにうろたえているんだろう?

 

 ひとしきり周囲からの煽りが落ち着いたところで、設楽は『ふぅ』とため息をつき、周囲をキョロキョロと見回した。……あれは、周囲の目が自分に向けられてないことを確認している目だ。

 

 さてはあいつ、俺が渡した箱をこれから開けるつもりだな? 今の機能不全なあいつがどんな反応をするのか楽しみだ。クックックッ……胸が踊るぜ。

 

 そうして俺が、罠にハマっていく哀れな設楽をほくそ笑みながら眺めること数分。ついにヤツは仏頂面のまま、俺が渡した化粧箱を机の上に出した。

 

「……」

 

 周囲を警戒しながら、設楽は化粧箱を開いた。そしてその途端……

 

「ひあッ!?」

 

 と妙な悲鳴が事務所内に響いた。

 

「「「「……?」」」」

 

 無論、事務所内の全員が、その声の発生源である、設楽の方を凝視する。

 

 設楽が周囲の異変に気づいた。キョロキョロと周囲を見回し、

 

「す、すみません。何でもない……です」

 

 と、目を泳がせながら謝罪していた。周囲は周囲で、設楽になんら異変がないことを確認すると、静かに自分たちの仕事に戻っていく。

 

 一方で、俺は笑いがこらえきれず、口を押えて必死に笑いを押し殺していた。

 

「っく……ぶぶっ……」

 

 まさか、あの冷静沈着で仏頂面の設楽が、あんな素っ頓狂な声を上げて驚くとは……!! これは予想以上の反応だ! ひょっとしてあいつ、リアクション芸人の才能もあるんじゃないのか!?

 

「くくっ……ぶふぅ……っ」

「……!?」

 

 ダメだこらえきれん……いかん……設楽が俺に気付いてこっちを睨みつけている……我慢だ……我慢して仕事に専念……できんッ!

 

「うっく……ぶ、ぶふぅうッ」

「……ッ!!!」

 

 身体をプルプル震わせて笑いをこらえる俺のことを、設楽がじーっと仏頂面で睨みつけているが……ダメだその姿がもはや面白い。笑いがこらえられん。

 

 しかもさらに面白いのは、設楽はいつも以上のものすごくするどい眼差しで俺のことを睨みつけているにもかかわらず、それでも設楽の鼻はぷくっと膨らみ続けていることだ。なんだかんだで、設楽はアレが嬉しくて仕方がないらしい。

 

 見ていて愉快過ぎる。あの、常に冷静かつ意味不明な物言いで俺を振り回す設楽が、今は俺のプレゼントに翻弄されている。面白すぎる。これが面白くなくて、一体何が面白いというのか。

 

 

 こうして、笑いをこらえながら午前の仕事は終了し、晴れて昼休みの時間となった。

 

「……先輩」

「おう。飯を食べるか」

 

 昼休みが始まるやいなや……設楽が、件の白い化粧箱を持って、俺のもとに昼飯を食べにやってきた。その顔は仏頂面だが、目は俺を刺し殺す勢いで鋭い。

 

「……これは一体、何ですか」

「ぁあ、昨日のチョコのおすそ分けだ」

「いえ、そうではなく……」

「じゃあ何だ」

 

 しらばっくれる。あくまで平常心ぽく見せねば……笑いを堪えねば……ぶふぅっ。

 

「こらえきれてないじゃないですか」

「す、すまん……ついな……ぶふっ」

 

 朝の設楽の痴態を思い出すと笑いが止まらん。そんな俺を睨みつけながら、設楽が化粧箱を開けた。

 

「……これを、昨日のチョコで作ったのですか?」

 

 化粧箱の中には、俺が朝セッティングしたままの、ホイップクリーム乗せバナナチョコブラウニーが入っていた。

 

「そうだが? 何か問題でもあるのか?」

「確かに、料理ができる先輩のことだから、ただのチョコのおすそ分けではなさそうな気がしてたのですが……」

「それで中が気になって、午前中はあんなにそわそわしてたのか? ぶふっ……」

「それよりも、これは一体何ですか?」

 

 設楽が、箱の中のチョコブラウニーを指し示す。何について言っているのか俺は見ずとも理解出来たが、あえてわざとらしく、俺も箱の中を覗き見た。

 

 設楽が指差したもの。それは、チョコブラウニーのホイップクリームの上にちょこんとのっかった。ホワイトチョコでメッセージが書かれたチョコプレートだ。そこには俺の筆跡で、『はっぴーばーすでい しだら』と書かれている。

 

「だってお前、誕生日だろ」

「そうですが……」

 

 おーおー。今日は本当に珍しいものが見られる日だ。設楽がまたうろたえ始めたわ。今日はこいつの新鮮な姿が見られて楽しいのう。

 

 実は昨日、俺は設楽の割れチョコを使って、バナナチョコブラウニーを作ったのだ。ブラウニー自体は、ホットケーキミックスを使えば、実に簡単に作ることが出来る。詳しい話は割愛するが、基本は全部ぶっこんでオーブンで焼けば終わりだ。こんなに簡単に出来るのに、味は格別。たまらん。

 

 さらに今回はそれだけでは寂しく感じたので、わざわざホイップクリームを作って出来上がったチョコブラウニーに乗せ、さらにちょこんとメッセージを書いたチョコプレートを乗せた。わざわざ夜遅くに普段行かない高級スーパーに行って、プレートとホワイトチョコのペンを買ってきて、俺が直々に書いてやったのだ。設楽のこの顔を拝むためにな。

 

 効果はバッチリだ。こいつは午前中、俺の予想を軽く上回る反応を見せてくれた。普段から俺を意味不明な言動で振り回してきやがる仕返しだ。ざまーみろ。

 

 とはいえ、純粋にこいつの誕生日を祝おうという気持ちも、まったくないわけではない。

 

「誕生日おめでと。設楽」

「う……ありがとう……ございます」

 

 去年は黒霧島のボトルだなんて、あまりに色気のないプレゼントだったからな。今年はキチンと喜ばせてやろうと思ったんだよ。恥ずかしいから、本人には言わないけどな。

 

「……ところで先輩」

「おう」

「ご飯食べ終わったら……これ、一緒に食べましょう」

「いいのか」

「はい。一緒に食べて下さい」

 

 そう言って、設楽は仏頂面で俺を睨みつけたまま、チョコブラウニーのおすそ分けを約束してくれた。そんな設楽の鼻は、ぷくっと膨らみっぱなし。喜んでくれているようでなによりだ。俺はそれだけで満足だ。

 

「んじゃあとで食べるか」

「はい。でも今日は私もおすそ分けしますから、卵焼きはいつもより多めに下さい」

「……いや、それはなんかおかしくないか?」

「おかしくありません」

「……」

 

 そう言って、鼻が膨らみっぱなしの設楽は、午後からはいつもの落ち着きを取り戻し、いつものようにバリバリと仕事に取り組んでいた。チョコブラウニーは2人で半分ほど食べ、残りは家で食べるそうだ。せいぜいチョコを満喫してくれよ。

 

 

 それから数日間の間、設楽の様子が妙におかしかった。……いや、俺に対する態度は、いつもの通りといえばいつもの通りなのだが……

 

「なぁ設楽」

「はい」

「お前、最近仕事が忙しいのか?」

「いや特には」

「んじゃ何か難しい仕事でも抱えているのか」

「そういうわけでもないですが」

 

 こうやって俺と一緒に、普通に昼飯を食べてはいるし、本人曰く、別段忙しいわけでもないらしい。普段と何ら変わりのない、いつもどおりの日々なのだそうだ。

 

 だが俺には、とてもそうは見えない。設楽は、一日中机にかじりついてパソコンを忙しそうに叩き、頭を捻っては何かの資料を眺め……ときに思い出したようにピコンと座高を伸ばして、またせわしなくキーボードを叩く。

 

 ……そして、そんなケッタイな様子の設楽を、俺が頭を捻りながら見守っていた、ある金曜日の昼飯時のこと。

 

「ふぇんふぁい」

「……口の中のコロッケを飲み込んでから話せ」

「ぐぎょっ……ふぃー」

「今日のカニクリームコロッケはうまいか」

「おかげさまで。それよりも先輩」

「おう」

「今晩は空いてますか?」

「空いている」

「では、居酒屋『チンジュフショクドウ』に行きませんか」

「なんだ飲み会か?」

「そんなもんです。7時から始めるのでよかったらぜひ」

「分かった。一度家に戻っていいか?」

「構いません」

 

 とこんな具合で、突然に飲み会に誘われてしまった。特に断る理由もなく、予定も何もなかったため、二つ返事でOKした。

 

 その時は、『何か相談事でもあるのか? やっぱり何か問題を抱えていたのか?』と思っていたのだが……いやはや…… 

 

 



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16. あなたが……

「うう……」

「……」

 

 『気持ちはまったく通じてなかった』『受け入れてくれたと思っていたら、実はそうでもなかった』そんなショックなことに気付かされてしまった設楽は、うつむきがちで、さつまいもアイスをスプーンですくっていた。

 

 確かになぁ……勘違いだったと気付かされるってのは、ショックだろうなぁ……設楽には、少し悪いことをしてしまったのかもしれない。

 

「……」

「……」

 

 うつむいたまま、設楽が遠慮がちにアイスを口に運ぶ。こんな設楽を見たのは初めてだ。まるで普通の女の子のように、今にも声を上げて泣き出しそうに……

 

「先輩。このアイスすんごいおいしいですよ」

「だからいきなり機嫌を直すなって言ってるだろうがッ!」

 

 なってなかった……こいつはアイスを口に運んだ途端に、顔を上げて目をキラキラと輝かせいつもの仏頂面に戻りつつ、鼻をぷくっと膨らませてやがった。こいつはうまいものを食べれば、どんなに気持ちが沈んでいても回復するのか?

 

 一体何なんだこいつは……未だに俺のことを振り回してくる……。チョコブラウニーで一泡吹かせてやったと思ったのに……これじゃいつも通りの俺たちじゃないか……。

 

 2人でひとしきりさつまいもアイスを堪能し、未だに俺に対して冷たい視線を向ける女の子の店員が運んでくれた、熱いお茶をすする。

 

「「ずず……」」

 

 二人して同じタイミングでお茶をすすった後、同じタイミングで湯呑みをテーブルの上に置いた。

 

「……」

「ふぅー……」

「……なんだよ」

「なんなんですか先輩は」

「なにがだ」

「私がこれだけ迫っているのに、どうして私の元に嫁ぐ気にならないのですか」

 

 と設楽は俺に対してその仏頂面を突きつけてくるのだが……そうではない。そうではないんだ設楽。

 

 ぶっちゃけ、お前が俺のことをそう思ってくれているのはうれしい。うれしいんだが……

 

「逆に聞くけどな。なんで俺なんだよ」

「ベストマッチだからです」

「そうじゃない。それは聞いたが、そうじゃない」

「じゃあ何ですか」

「……なんで、俺なんだよ」

 

 そうだ。なんで、こんな俺がいいんだ。

 

 俺は、向上心がない男だ。こいつとは、まったく釣り合わない。

 

 それなのに、こいつは俺のことを選ぶと言う。

 

 それが分からない。

 

 だから、設楽の言葉に確信が持てない。設楽の言葉に、自信を持って『OK』と言うことが出来ない。

 

「……先輩?」

「他にもっと……ふさわしい男がいるだろう……?」

 

 分かるよな設楽。俺には、お前と結婚して、子供を作って家庭を持てるほどの甲斐性なんて、ないんだよ。お前が結婚しようとしている男は、そんな、ダメ男なんだ。

 

 お前だって言っていただろう? 俺は仕事においては優柔不断で、決断力がない。効率もいいとはいえず、勤務成績もケツに近いブービーだ。あのアホみたいなプレゼンで、お前自身が突きつけた事実だろう?

 

「……」

「俺は、お前と結婚して家庭を持てるほどの甲斐性はないぞ」

「……」

「もっとよく考えたらどうだ設楽……確かに俺は、お前とベストマッチかもしれん」

「……」

「……それに、俺もお前と一緒にいるのは楽しい。気を使わなくていいし、お前の呼吸ももうわかってる。正直な所、俺だってお前に選ばれるのは、悪い気はしないどころか、素直に嬉しい。仏頂面は置いておいて」

「……」

「でもな。……お前には、もっといい相手がいるだろう」

「……」

「……だからさ」

 

 今日ほど、自分のことを情けないと思ったことはない。

 

 本当は、『OKだ。結婚しよう』と、すぐにでも言いたい。でも、こいつ自身が俺に突きつけた事実……俺は、こいつと釣り合わない。その事実は、変わらない。

 

 目の前に置かれた、自分の湯呑みを眺めた。澄んだ深緑のキレイな色の緑茶が、なみなみと注がれている。……だが、俺のお茶は普通のお茶だ。

 

 設楽の湯呑みを眺めた。設楽のお茶には、茶柱が立っている。幸運の証で、吉兆の印。

 

 これが、設楽と俺の違いだ。俺は輝くことが出来ず、輝こうともせず、毎日、ただ今日という一日が過ぎ去るのを待つだけの男だ。

 

 対して、設楽には輝かしい人生が約束されている。仕事に対する向上心もあり、結果も残している。こいつなら、人生を謳歌することが出来るだろう。間違いなく、輝かしい人生を送ることが出来るはずだ。こいつなら。

 

 俺では、そんな設楽の仏頂面を、仏頂面以上の幸せな顔にすることは、出来ないだろう。

 

 すまん設楽。俺はお前の気持ちには、応えられん。

 

 俺が心の中で葛藤するその姿を、設楽は何も言わず、いつもの仏頂面で、いつものようにじーっと見ていた。そして茶柱が立った自身のお茶を、ずずっとすすった。

 

「……あのな設楽」

「……」

「俺は、お前の気持ちには……」

 

 突如、タン! と大きな音が鳴り響いた。あまりに突然のことで俺はびっくりしてしまい、それが設楽が湯呑みを勢い良くテーブルに置いた音だと気付くのに、少々時間がかかった。

 

「……分かりました」

 

 唐突のことで俺が呆気にとられていたら……テーブルに湯呑みを置いた設楽が、いつもの仏頂面で、湯呑みから右手を離さずに、じーっと俺を見ている。

 

「分かったって……何がだ」

「なぜ先輩が私を受け入れてくれないのかが」

「……そうか」

 

 そうか。分かってくれたか……なら、もう言わなくても分かるよな。俺が、心の中にぽっかりと開いてしまった穴みたいなものを感じ、そろそろ帰るかと腰を上げようとしたら。

 

「だから言い方を変えます」

 

 と、設楽は顔色と仏頂面を変えず、まっすぐ俺を見つめたまま、そんなことをいいやがった。こいつ、俺のことを分かったと言っておきながら、さっぱり理解してねーじゃんかッ。

 

「おい設楽」

「はい」

「俺の話、聞いてたか?」

「はい」

「俺よりいい男がいるって言ったよな?」

「言いましたね」

「だったら」

「下らない寝言でしたが。先輩は睡眠を取ってないのに寝言が言える特異体質なんですね」

「おい。ふざけるなよ」

「ふざけてなどいませんが」

「だったら真面目にだな……」

「私ははじめから真面目ですが」

 

 設楽との押し問答がはじまる。いつもならこいつとの軽口の叩き合いは楽しいが、今だけは胸に痛い。こいつの軽口が……胸に痛い。

 

「あーそうかい。なら勝手にしろ」

「ええ勝手にします」

「俺は帰る」

「駄目です。最後まで私の話を聞いて下さい」

「なんでだよ。どれだけ聞いても俺の気持ちは変わらんぞ」

 

 これ以上何を聞いても、俺の気持ちは変わらん。お互いに傷つくだけだ。

 

「変わります」

「大きく出たな」

「変えてみせます。先輩の心を掴んでみせます。だから、最後まで聞いて下さい」

 

 まぁいつもの仏頂面の設楽なのだが……ここまで言い切る設楽の言葉が、逆に気になってきた。そこまで言うのなら、最後まで付き合うのも悪くないかもしれない。

 

「……わかった。そこまで言うなら、聞くだけなら最後まで聞いてやる」

「ありがとうございます」

 

 浮かせた腰を再び下ろし、俺は湯呑みのお茶に再び口をつけた。

 

 これは、俺なりの設楽への責任の取り方だ。こいつの言葉を最後まで聞いたら、俺は今日、こいつと縁を切る。昼飯も一人で食べるし、電話にも出ない。弁当はもちろん、卵焼きももうやらない。純粋な、上長と平社員の関係へと戻す。

 

「では……」

「おう……」

「先輩」

「……」

 

 お茶をすするのをやめ、俺は湯呑みをテーブルの上へと置いた。そして置いた瞬間、

 

「あなたを愛しています」

「んぶッ!?」

 

 俺の鼻から、お茶が垂れた。ツンとした痛みが鼻の奥を襲い、そして同時に心臓の鼓動がどんどんと大きくなっていく。

 

「し、設楽ッ!」

「私は、あなたを愛しています」

「ちょっと待て……ッ!」

「あなたが作った資料が好きです。あなたの卵焼きが好きです。お弁当もこのボタンも、あのカレーもチョコブラウニーも……何もかも、愛おしいです」

「何言ってんだよ!」

「いつも私と一緒にお昼ごはんを食べてくれるあなたが好きです。美味しい卵焼きをくれるあなたが好きです」

「やめろって!」

「お裁縫をしているあなたの横顔が好きです。私が落ち込んだとき、何も言わずに隣にいてくれたあなたが好きです。仕事以外の楽しさを私に教えてくれたあなたが……文句をいい、困った顔をしながら、それでも私の隣にいてくれる、優しいあなたが、大好きです」

 

 不意打ちだ……予想外だった……ッ!? 相変わらずの仏頂面のくせに、目だけはキラキラと輝いて……ちくしょう。今の設楽、めちゃくちゃキレイだ……ッ!

 

「もうやめろ!」

「いやです。私はあなたを愛しています」

「俺にお前を受け入れる甲斐性なんかないって!」

「私には、あなたと一緒になる甲斐性がある。あなたにはなくても、私にはある」

「普通逆だろ!?」

「普通とは?」

「だって……俺、男だぞ? 結婚したら、給料少なくて、お前に楽なんてさせられんだろうがッ!」

「なぜ先輩が働くことが前提なのですか。なぜ私が苦労することが前提なのですか」

「だって……常識だろ」

「先輩と常識の二者択一なら、常識なんかいらない。そんなものより、私は、あなたが欲しい」

「……ッ」

「先輩が欲しい。私は、あなただけが欲しい」

 

 ちくしょう。言い返せない。言い負かせられない。仏頂面のくせにめちゃくちゃキレイで、俺のことをかき乱すこいつを、止めることが出来ない。

 

 なぜなら……俺の言い負かそうという気持ちが無くなってしまったから。こいつの言葉に、俺の胸が少しずつだが確実に、ときめき始めてしまったから。

 

 俺の必死の抵抗をすべて言い負かし、仏頂面のまま、設楽はそのキレイな瞳で、俺から目をそらさず、言葉を続けた。

 

「……先輩」

「……」

「もう一度言います。私は、あなたを愛しています。あなたのすべてを愛しています」

「……」

「仕事は私に任せて下さい。愛するあなたに、苦労など絶対にさせません」

「……」

「その代わり……常に私を支えて下さい。あなたがいなければ……愛するあなたが毎日隣にいなければ、私はもう、生きていけません」

「……」

「先輩。私と結婚して下さい。私の……面倒を、見てください」

「……」

「私の、生涯の伴侶に……夫に、なって……下さい」

 

 最後はうつむいて、設楽は一言一言、吟味するようにそう言った。表情は俺からは見えないが、きっとその眼差しは、とても澄んでいるはずだ。

 

 そんな設楽の口から紡ぎ出されるこれらの言葉は、俺の心に、確かに染み込んでいった。

 

 確かにこいつのこの言葉は、絶大な破壊力があった。『あなたのすべてを愛しています』の言葉は、確かに俺の気持ちを変えた。

 

 俺は、こいつを前にして、自分に対する自信がなかった。俺と結婚したら、こいつは必ず今よりも苦しい生活を強いられる……幸せになんかならない……きっとこいつに、今以上の幸せな仏頂面をさせることはできない……それが、見えていたから。

 

 でもこいつは、そんな俺に対し、いつもの仏頂面で言った。

 

――常識なんかいらない。そんなものより、私は、あなたが欲しい

 

――あなたのすべてを愛しています

 

 こいつは、そんな俺を愛していると言ってくれた。そんな俺でいいのだと……そんな俺が欲しいと言ってくれた。

 

「負けた……」

「……」

「……設楽」

「はい」

 

 そこまで言うのなら……『仕事は任せて下さい』とまで言うのなら……悔しいが、設楽は確かに、俺の心を変えてしまった。俺の心を、掴んでみせた。

 

「ありがとう。お前の言葉はとてもうれしかった」

「……」

「俺の方こそ、よろしく頼む」

「……」

「すぐ結婚とはいかないだろうが……結婚を前提に、付き合ってくれ」

 

 精一杯の本音で、改めての意思表示。俺だってキチンと意思表示をしなきゃ、俺に対してしっかりと意思表示をしてくれたこいつに、申し訳ない。

 

 俺の言葉を聞いた設楽は、顔を上げ、テーブルの上の自分の湯呑みを手に取り、ずずっとひとすすりした後……

 

「はい。……お任せください。必ず、先輩を幸せにしてみせます」

 

 と、胸に手を当てて、いつもの仏頂面で答えてくれた。

 

「……そっか」

「はい。やっと私の元に嫁ぐ気になってくれましたね」

「うるさいわ」

「そうやってじわじわと、私なしでは生きられない先輩に、調教していきます」

「いかがわしい言い方をするなと言ったろう」

 

 よかった……改めての俺の意思表示を、こいつも受け入れてくれた。

 

 ありがとう設楽。こんな、ダメ社員で何の取り柄もない俺を、受け入れてくれて。

 

 設楽への感謝を抱きつつ、お茶をすする。俺のお茶は茶柱こそ立ってないが、設楽のお茶と同じ急須で淹れられたものだ。いわば、茶柱以外は、設楽のお茶と同じもの。

 

 それがなんだか、俺と設楽の関係を表しているようで……確かに得意分野は違うが、互いに相手を必要とする同じ人間なのだと、言われているような気がした。それが妙に嬉しかった。

 

 なんて、俺が設楽と結ばれた喜びをじんわりと噛み締めつつ、湯呑みを置いて顔を上げたら……

 

「……」

「……!?」

 

 生まれて始めて見る……世にも奇妙な光景を、目の当たりにした。

 

「ニヘラぁ……」

「しだ……ら……」

 

 笑ってやがる……会社でも自宅でも、今まで仏頂面しか見せなかった設楽が、笑顔を見せてやがる……鼻をぷくっと膨らますだけでなく、口角を上げ、ニヘラァアアと笑ってやがる。

 

「お前……」

「なんでしょうか。ニヘラぁ……」

「……そんな顔で、笑う……のか」

「そうですが。何か問題でも? ……ニヘラぁ」

 

 問題……問題というか何というか……

 

「そんなキモい顔で笑うとは思わなかった」

 

 そう。猫顔で美人と言っても差し支えない設楽だから、さぞその笑顔は魅力的なのだろうと思っていたのだが……こいつは、笑わない方が正解だ。口角を上げ、ニヘラァアアと笑うその笑顔は、見慣れないせいもあってか、中々にキモい。

 

「失礼なっ」

「すまんな」

 

 俺の失礼な指摘を受けた設楽は、必死に顔を仏頂面に戻し、再度俺をキラキラと輝く眼差しでジッと見つめ始めたのだが……。

 

「……」

「……」

「……ニヘラぁ」

「……」

 

 その顔は、一度緩んでしまったら、元には戻せない仕様のようだ。設楽の顔は、再び緩んでキモい微笑みを見せていた。

 

「キモいぞ」

「ちくしょう」

「……」

「……ニヘラぁ」

「……」

「ニヘ……ニヘ……」

 

 そんな状態でも、設楽の鼻はずっと、ぷくっと膨らんだままだった。

 

 そしてよく見たら、設楽のほっぺたがほんの少し、赤くなっていた。

 

「……」

「ニヘ……ニヘヘ……」

 

 まさかそんなキモい笑顔を、魅力的に思ってしまう日が来ることになろうとは……そして、結婚することになろうとは……いやはや……。

 

 ……猫顔って、カワイイんだな。ニヘニヘとキモい笑みをこぼし続ける設楽が、俺には世界一可愛い女の子に見えた。

 

 終わり。

 

 



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番外編 〜挨拶〜
1. 朝


 まぶたの向こう側からの優しく輝く光で、俺は朝が来たことを実感した。

 

「……起きました?」

 

 俺の耳に、そんな優しい囁きが届いた。見知った声色だけど、それは普段に比べ格段に優しく、そして柔らかい。まるで眠っている俺を起こさないように気遣っているような優しさで……だけど、俺が起きたのが嬉しくて、少しだけ胸を弾ませているような……そんな、優しく、そして弾んだ声だ。

 

「……ああ。おはよう」

「おはようございます。先輩」

 

 まぶたを開いた俺の視界に飛び込んできたのは、優しく微笑む設楽。いつもの仏頂面ではなく、優しく、柔らかく微笑む設楽は、誰よりも美しい。

 

「早いな設楽……」

「カーテンの隙間からのお日様が眩しくて……でもよかった」

「?」

「朝起きたら、昨日のことが全部夢で……隣に先輩がいなかったら……そう思ったら、心配で眠れなくて……」

「……夢なんかじゃないだろ?」

「でも、幸せすぎて……」

 

 そう言いながら、柔らかい笑顔にほんの少しだけ陰を落とす設楽は、カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされ、本当に美しい。

 

 設楽が俺の髪を、そのしなやかな人差し指でくりくりといじる。俺は、設楽のことを何も知らなかったようだ。こんなに優しく微笑む、美しい女性だったなんて……設楽の柔らかい微笑みと見つめ合い、設楽に選ばれた喜びと幸せに、俺の胸が満ちたりしていくことを感じる。こんなに幸せな朝を迎えたのは、いつぶりだろうか……

 

「腹減っただろ? 朝飯作るよ」

 

 そう言って上体を起こそうとする俺の胸に、設楽は頬を寄せた。そして俺の身体に手を回し、優しく、だけどしっかりと抱きしめてきた。『もう離したくない』という、控えめだけど強い、設楽の気持ちが込められている気がした。

 

「まだいいです。もう少し、こうしていませんか?」

「……そか? 腹は減ってないのか?」

「先輩」

「まだ、こうしていたいなって思って……」

「そっか……そうだな」

「先ぱーい」

 

 優しく温かい設楽に抱きしめられ、ベッドの中でまどろむ幸せ。設楽がそう言ってくれるなら……設楽が俺を受け入れてくれているのなら、もう少し、こうしていてもいいのだろう……

 

「SEN-PAI」

 

 俺は起きるのをやめ、再び設楽と共にベッドに身を委ねた。俺の胸の中で優しく微笑む設楽は、本当に綺麗だ。

 

「おなかすきましたー」

「先輩……愛してます」

「俺もだ……設楽、愛してる」

「起きて下さーいおなかすきましたー」

「ありがとう……私は、とても幸せです」

「卵焼き食べたいですー」

「俺も……幸せだ」

 

 愛する人が、隣で自分の目覚めを見守ってくれる……そしてその人が、俺の隣で一緒にまどろんでくれる……その暖かな幸せの中で、俺は再び、設楽の体を抱きしめながら瞳を閉じた。

 

……

…………

………………

 

「いい加減起きてくださいよ先輩」

 

 頭にズキンズキンと響く酷い頭痛で、俺の心地いい眠りは強制的に解除された。

 

「……お、おお……おはよう」

「おはようございます先輩」

 

 力ずくでまぶたが開かれた、俺の視界に飛び込んできたのは……いつもの、あの仏頂面の設楽だ。ベッドで眠る俺の寝顔を、いつもの……いや、眉間にシワを寄せた、いつも以上に迫力のある仏頂面で、ジッと見下ろしている。

 

「お前……俺の寝顔をずっと見下ろしてたのか」

「はい」

「なんで……いつつ」

「そろそろお腹が空いたんで、『起きろー起きろー』と先輩に怨念を送っていました」

「……」

 

 起き抜けでズキズキと響く頭痛を我慢しながら、自分の寝姿を確認する。なんか新手のダンスユニットみたいなポーズで寝ていたようだ。しかも首を右90度に曲げて、そこからさらに頭上を見るように曲げているから、これは寝違えてるなきっと……こんなポーズで寝ていたら、誰だって起き抜けに頭痛になるわ。

 

「先輩の寝相は毎度変ですね」

「うっせ……いづづ……」

「おかげで私は毎晩ベッドから落ちそうです」

「マジか。それはすまんかった」

「その仕返しに、先に起きたときは、こうやって先輩にポーズつけて遊んでるんですが」

「人の身体を弄ぶのはやめろ」

「首の角度はいつも苦労しますが、おかげで今日もいいポーズが出来たと自負しております」

「俺の起き抜けの頭痛はお前が原因か」

 

 知らなかった……設楽と同棲をはじめてからこっち、妙に寝相が悪くなった気がすると思っていたら、犯人は設楽だったのか。同居人の寝姿にポーズつけて遊ぶって、何やってるんだ。

 

「それはそうと先輩、お腹が空きました」

 

 言われて思い出した。さっきの幸せな夢の端々で『先輩』とか『SEN-PAI』とか『お腹が空きましたー』とか、妙に生活感溢れる余計なセリフが挟まっていたのは、こいつが犯人か。

 

 頭痛が少しひいてきた。徐々に覚醒していく頭を無理矢理に回転させ、食材は何が残っていたのか、懸命に考える……

 

「今朝は……」

「卵焼き早く作って下さい」

「卵は……あと4つだったか……」

「ですね。帰りに買って帰らないと」

「そだな……」

「卵だけは切らすことは許されません」

 

 そう言って、いつもの鋭い仏頂面のまま、鼻をピクピクさせる設楽。そんな設楽を眺めながら、俺は思う。

 

 ……考えてみりゃ、設楽があんなに柔らかく接してくるなんて今までなかったし、想像も出来ないよなぁ……設楽が仏頂面を崩すはずないもんなぁ……

 

「……なにか?」

「いや、設楽は設楽なんだよなぁと思ってな」

「?」

 

 夢の中の設楽も悪くはないが……というか、ぶっちゃけめちゃくちゃキレイだったが……やっぱ設楽は、仏頂面だからこその設楽なんだよなぁ。残念なような、ホッとしたような……。

 

「今朝のメニューは何ですか?」

「今は何時だ?」

「7時です」

「……あまりじっくり作ってられんな……なら、シンプルに卵焼きサンドイッチだ」

 

 今日は東京に行くからな。朝はそんなにゆっくりしてられん。こんな時はシンプルに卵焼きサンドイッチがいいだろう。

 

 俺がそう言った途端、仏頂面の設楽は、鼻の穴をピクピクと痙攣させ始めた。

 

 ……今日は、東京にお住まいの設楽のご両親に、結婚の挨拶に行く日だ。粗相のないようにしないとな。そのためにも、自分自身と将来の結婚相手に、発破をかけなければなるまい。

 

「マヨネーズ多めでお願いします」

「おう」

「ハムも挟んで下さい」

「景気づけに、一人頭4枚挟むぞ」

「今日の先輩は豪快さんですね」

 



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2. まだ見ぬ我が子の将来

 あの、驚愕と戦慄に彩られた逆プロポーズから半年ほど経った頃、俺たちは設楽の部屋で同棲を始めた。いくら婚約したとしても、まだお互いのことを完全に把握しているとは言い難い。本格的に結婚する前に、まず同棲してみて互いの生活リズムをキチンと把握しようと考えた、俺からの提案だった。

 

 かくして、俺は設楽の部屋へと転がり込んだ。仏頂面を24時間視界の片隅に入れるという、事情を知らないヤツからすれば気の毒この上ない、俺たちの同棲生活が始まった。

 

 ちなみに俺の部屋はまだ引き払ってはいない。しっかりと籍を入れた時に引き払うつもりだ。それまでは、物置き兼もしもの時のセーフハウスとして活用させてもらう。いわゆる『実家に帰らせていただきますっ!』てときのためだ。俺が実家に帰る立場なのかと思うと若干悲しい気持ちになるが……この部屋の名義は設楽だ。仕方ない。

 

 俺が設楽の部屋に転がり込んだ日、設楽はいつもの仏頂面で……

 

――おまかせ下さい。知らず知らずのうちに先輩を調教してご覧に入れます

 

 と物騒この上ない宣言をしてきたのだが……今のところ、俺は設楽からの調教や改造手術を受けた記憶はない。いざとなれば、俺はいつでもセーフハウスに逃げ込むつもりなのだが……そうとは知らない仏頂面の設楽は、今も俺の隣で、眉間にシワを寄せつつ鼻をピクピクさせながら、俺作のハムタマゴサンドを頬張っている。

 

「ふぇんふぁい」

「んー?」

「きょふもおうぃふぃいれふ」

「んー。食べたらさっさと準備しろよー」

「ふぁい」

 

 そして今日は、設楽のご両親に挨拶に行く日だ。設楽のご両親は東京に住んでいる。ここから新幹線で東京まで行き、そこから電車で吉祥寺へと向かう。吉祥寺っていえば、東京で住みたい街ランキング上位の、俺から見ればブルジョワジー溢れる街だ。そんなところに一軒家を構えてるのか……

 

「なぁ設楽」

「ふぁい」

「お父さん、会社の重役かなにかか」

「ふぃふぁいまふ。ふぁふぁふぁふぅうふぁふでふ」

「流石に分からん。まず口の中のサンドイッチをどうにかしろ」

「ぐぎょっ……重役は母ですね。父は結局主任までの昇進で満足してるみたいです」

「なるほど……」

 

 血は争えん……こいつの母親も、俺のような家事のスペシャリストを夫にしたということか……?

 

 朝食を食べ終わった後、俺達は出発の準備を整え、新幹線の駅へと向かう。ご両親への挨拶に向かうわけだから、それなりの正装で向かわないと……この日のためにクリーニングしておいたスーツを着込み、準備万端整った俺は、寝室で準備に勤しむ設楽の様子を伺うべく、寝室のドアを開いた。

 

「おーいしだ……ら……」

「先輩、準備整いました」

 

 目の錯覚じゃないよな……ピシッとしたポニーテールの愛すべき俺の婚約者は、いつぞや室内で着ていた、『ふつう』の文字が書かれたクソTを着て、ロールアップしたデニムのスキニーパンツを履いていた。こいつは足が細いから、こういうパンツが似合うといえば似合うんだが……

 

「お前……その格好で行く気か……?」

「そろそろ自分の中でこなれてきたので。まだこの格好では寒いでしょうか」

 

 そういい、設楽は俺に仏頂面を向けてくる。今はもう春だ。それに今日は天気が快晴。ここだけでなく東京も暑いらしい。だから半袖Tシャツだからといって、寒いということはないだろう。ダメではない。ダメではないのだが……

 

「……その格好で新幹線に乗り、不特定多数の人間から向けられる好奇の眼差しを受け入れるつもりか」

「バカな。この格好が普通ではないと言うのですか先輩は」

「いい機会だから教えてやる。そのクソTは、お前が思っているほど普通ではない」

「『ふつう』って書いてあるのに?」

「人の言葉をそのまますべて素直に受け入れるのはやめろ。疑惑の目を向けることが大切なこともある」

 

 俺の抗議を受け、設楽は首を捻りながら、普通の白い長袖のスリムなTシャツに着替えていた。そういう普通のものを着れば、設楽はモデル体型なんだから、すごく見栄えがいいというのに……なぜこう、スキを見せるとクソTを着たがるのか……

 

「だって……『ふつう』って書いてあれば、誰だって普通だと思うじゃないですか……」

「思わん。……もう一度、あえて断言しよう。思わん」

 

 そんなこんなで、やいのやいのと揉めながらも互いに準備は完了。俺たち2人は、東京行きの新幹線に乗るべく、部屋をあとにする。

 

 

 最寄りの駅から新幹線に乗り、俺達は自由席を2つ確保して、一路東京へと向かった。設楽が窓際で、俺は通路側だ。

 

「ところで設楽よ」

「はい?」

 

 俺は、今俺の隣の席で、新幹線名物の超硬質アイスクリームに必死に木のスプーンを突き立てようと仏頂面で奮闘する設楽に、ご両親の情報を伺ってみることにした。俺は相手のことを何も知らない。話のネタを準備しておくという意味でも、相手の情報は仕入れておきたい。

 

「お前のご両親、どんな人だ?」

「どんな……とは?」

「いや色々とあるだろう。好きな食べ物とか、趣味とか性格とか……」

「ぁあ」

 

 俺の言葉を聞いた設楽は、自分のバッグからiPadを引っ張り出してお絵かきアプリを起動し、そのキレイな指先で、サラサラと何かを描き始めた。

 

「……なにやってんだ?」

「私の両親の情報を知りたいんですよね?」

「そうだが……?」

 

 不毛なやりとりを俺と繰り広げながらも、設楽の指先は2人の人物を描き出す。

 

「……よしっ」

「……これはなんだ」

「母と父です」

 

 そう言って、少しだけ広がった鼻の穴から水蒸気を吹き出す設楽が、俺に見せてくれたもの……それは、まるで絵心のない小学生がクレヨンで描いたような、設楽のご両親の肖像画だ。

 

 ……なあ設楽? 絵心がないのは仕方ない。あれは一種の才能だし、ないやつをけなすつもりはないのだが……そのアプリには、他にも鉛筆やサインペン、マーカーといったペン先が選択できるはずだよな?

 

「……」

「……?」

 

 それなのに、なんでお前はその数あるペン先の中から、わざわざクレヨンを選択したんだ? それじゃ、どう見ても幼稚園の参観日か何かに教室の後ろの掲示板に貼ってある、『ぼくのおとうさんとおかあさん』の絵にしか見えないんだが……俺はまだ、お前と結婚はおろか子を授かった覚えはないぞ。いずれはするし、授かる予定だが。

 

「……すまん設楽。一ついいか」

「なんでしょうか」

「この未就学の幼児が描いたかのような似顔絵から、俺は一体、何を読み取らなければならんのだ」

「色々とあるでしょう……まずこちらの母ですが……」

 

 俺の当然の批評が気に障ったのか眉間に若干のシワを寄せ、設楽は2人の人物画の、左側の人物を指差した。それが設楽の母だということにまず困惑したし、それ以前にその人物が女性であるということにも、俺の無意識は驚愕していた。

 

「……なるほど。そっちがお母さんか」

「他に何に見えていたのですか?」

「……まぁいい。で、そのお母さんがどうした?」

「ご覧の通り、顔つきが私にそっくりで……」

 

 ……申し訳ない設楽。お前のその人物画からは、そんな情報は読み取れない。唯一わかるのは、お前の絵心が壊滅的だということだけだ。お前には、自分のイラストが自分そっくりに見えるのだろうか……将来の夫として、ここは視力矯正の必要性を強く訴えた方が良いのだろうか。

 

「……先輩?」

「……ん?」

「どうかしましたか?」

「いや……よく分かった」

「そうですか」

「それよりほら。アイス溶けてるぞ」

「ぁあ。そろそろちょうどいいかもしれません」

 

 これ以上聞いていても、何も有益な情報は入手できないだろう。俺は、設楽の意識を超硬質アイスクリームへと無理矢理に方向転換させ、その手のiPadを強奪した。

 

「んー……」

「アイスクリームはうまいか」

「おいしいです」

「何味を買ったんだ?」

「コーンポタージュ味です」

「そうか……」

 

 設楽の恍惚のため息(ただし顔は仏頂面)を聞きながら、俺は設楽作のご両親の似顔絵を眺める。

 

 ……俺達の子供に、絵心は期待しない方がよさそうだ。まだ見ぬ我が子の未来が、一つ潰えた気がした。 

 

 



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3. かえるの親は、やはりかえる

 新幹線で東京まで出た後、そこから中央線で吉祥寺駅まで出て……そこからさらに歩くこと30分……

 

「着きました」

「……!?」

 

 都内というには自然がいっぱいで……というか、どこか片田舎の懐かしい雰囲気すら漂わせる一角に、設楽宅……いや、設楽宮殿はあった。

 

「……」

「……なにか?」

 

 何食わぬ仏頂面で設楽は俺の顔を睨みつけるが、俺は今、その巨大な設楽宮殿の佇まいに圧倒されている。

 

 設楽宮殿は和風モダンとでも形容すればいいだろうか? 竹の垣根で囲まれた敷地は玄関まで充分な広さがあり、その玄関までの道は浮石が置いてある。小粒の砂利の上に浮かぶそれらは、さながら侘び寂びの様相を呈している。

 

 邸宅そのものは2階建てで、遠目から見る限り、外壁は漆喰と木のようだ。瓦屋根で全体的には和の様相だが、どことなくおしゃれでモダンな感じが漂う。

 

「お前のお母さん……」

「はい?」

「相当な重役だろ……」

「さぁ?」

 

 設楽はいつもの仏頂面を左にかしげる。こいつは事の重大さに気づいてないのか……お母さんとお父さん、相当な人だぞきっと……

 

 と、俺がまだ見ぬ設楽のご両親に気圧され、萎縮して立ち尽くしていたら……である。

 

「ぴんぽーん」

「ばッ……!?」

 

 設楽のやつが、俺の覚悟を待たずしてインターホンを押しやがった!? まるで押されたのはインターホンではなく俺の緊張発動スイッチだったかのように、途端に俺の心臓がマックススピードでビートを刻みはじめる。この勢いなら波紋も練れそうな気がするが、やはりチベットでの修行をしてない身では、そんな奇跡が起こるはずもない。

 

「なにやってんだ設楽ッ!?」

「なにって、ここで立っていても仕方ないので」

「俺の覚悟が完了するまで待てよッ!」

「これでも猶予を与えたつもりですが。それとも直接玄関を開けて入ればよかったですか?」

 

 いや、確かにそれよりは猶予はあるけれど! 直接入られるよりは、まだ若干の猶予があるけれど!!

 

『……はい』

 

 緊張して前後不覚の俺が、隣の仏頂面の設楽に食って掛かっていたその時、インターホンから、落ち着いた妙齢の女性……恐らくは、設楽のお母さん……の声が聞こえた。俺の心臓のビートが、早く、激しくなった。

 

『どなたですか?』

「お母さん。薫です」

『あら薫。もう着いたのですか』

「はい」

『ということは……』

「はい。噂の渡部先輩をお連れしました」

 

 と、親子にしては妙に堅苦しく聞こえる会話を交わす設楽とお母さん。その横で、俺はもう心臓が口から飛び出そうになっていた。

 

「先輩、大丈夫ですか?」

 

 そのサマは、設楽が珍しく俺の顔色を心配し、様子を伺うほどだ。……だが、いつまでもうろたえてばかりではダメだ。

 

「だ、だだだだだ、大丈夫……だだだだだ」

 

 なんとか強がろうとしたのだが、その結果がこの情けないセリフ……自分が情けなくなる……これじゃ、設楽に俺の動揺がバレて……

 

「なら大丈夫ですね。安心しました。さすがは先輩です」

 

 なかった。俺の動揺は設楽にバレるどころか全く伝わっておらず、むしろ俺の動揺しまくりの言葉を聞いて、設楽は心から安心した仏頂面を見せていた。今のこの仏頂面は、一安心してリラックスしたときの仏頂面だ。俺には分かる。眉間にシワもないし、目の鋭さが、見つめる俺を刺し殺す勢いだから。

 

「……」

「……何か?」

「……いや」

「?」

 

 俺はこの時、人の心を読む大切さというものを、身をもって教わった気がした。

 

 ほどなくして、玄関の引き戸がガラッと開き……

 

「!?」

『……』

 

 非常に見覚えのある……というより、俺の隣で佇む設楽に瓜二つのポニーテールの仏頂面が、引き戸の向こうから姿を見せた。

 

「設楽!?」

「はい。設楽ですけど」

 

 その瓜二つっぷりは、俺が思わず、隣にいるはずの設楽の名を呼んでしまったほどだ。

 

「あなたが渡部さんですか?」

「!?」

 

 言われて気付く。俺の設楽は、俺の隣で仏頂面を浮かべている。

 

 ということは……この、設楽がそのままキレイに年齢を重ねたような、この女性が……。

 

「お母さん!?」

「はい。設楽薫の母でございます」

 

 そういい、目の前の設楽そっくりなお母さんは、俺に対して深々と頭を下げた。

 

 ……実は、俺が設楽とお母さんを見間違えてしまったのは、何も髪型や顔つきが……いや仏頂面がそっくりだから……だけではない。

 

「お母さん。お久しぶりです」

「久しぶりです薫。元気にしてましたか」

「……あの」

「はい? どうされましたか渡部さん?」

「……申し訳ありません、そのTシャツは……?」

「……ぁあ、これですか」

 

 俺の失礼な指摘を受けたお母さんは、自身の胸元に視線を落とした。

 

 お母さんは、ボトムスには落ち着いたベージュのチノパンを履いていたのだが……トップスには、墨汁が切れかけの殴り書きのような毛筆体で、縦に大きく『ファッショナブル』と書いてある、娘の設楽そっくりの白のクソTを着ていた。

 

「本日、渡部さんに来ていただけるということで、服を新調いたしまして」

「……」

「せっかくなので、ファッショナブルなこちらのTシャツにさせていただいた次第です」

「……なぜ、そのシャツがファッショナブルだと……?」

「なぜ……って、『ファッショナブル』と書いてあるので」

「……」

「お母さん、ファッショナブルです」

「やはりこちらのシャツで正解でしたね。ありがとう薫」

 

 この瞬間俺の心から、緊張の二文字がほんの少しだけ消えていったのだが……同時に、残念な気持ちが胸いっぱいに広がっていくことを感じた。

 

 ……なんだこの残念な気持ちは。この、初めて設楽のクソTを目の当たりにした時のような、この、如何ともしがたい残念な気持ち。

 

 俺は、設楽のクソT嗜好は、ある程度年齢を重ねて落ち着けば、自然と解消されるものだと思っていた。若い頃に誰もが陥りがちな、体制や社会への反発……『私は他の人とは違う』という自尊心の表れ……それが、設楽にクソTを好ませているのだと思っていた。

 

 ……だが、お母さんのこの『ファッショナブル』を見る限り、そうではないようだ。この親子は、生粋のクソT嗜好……この世に生まれ落ちたその日から、この世を去りゆくその瞬間まで、自ら好んでクソTを着用し続けることだろう。

 

「……渡部さん?」

「はい……」

「先輩? どうかされましたか?」

「いや……なんでもない……」

 

 お母さんから感じられるこの雰囲気は、まだ付き合ってない頃の、俺を振り回しまくっていた設楽に似ている……意味不明な言動で俺を振り回していた頃の、あの正体不明な不安にかられる、あの頃の設楽にそっくりだ。

 

 ……これは、思った以上に苦戦を強いられる挨拶になりそうだ……俺は、将来の相方である心強い(?)味方の設楽を引き連れ、戦慄と混沌の設楽宮殿へと、足を踏み入れた。

 

 



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4. 運命の出会い

 『ファッショナブル』の毛筆体が輝くお母さんのクソTに案内され、俺と設楽は設楽宮殿のリビングへと、足を踏み入れた。

 

「お二人はそこで少しお話でもしていて下さい。今、お茶を準備いたします」

「了解です。ありがとうございます」

「ありがとうお母さん」

 

 お茶の準備に向かったのだろうか……お母さんが着るクソTは、そう言って俺たちに背を向けた後、ゆったりとリビングから姿を消した。

 

 俺と設楽が残されたリビングは広く、サイドボードの上に家族写真がたくさん並んでいる。自然とそれらに目が行き、俺はそのうちの一枚を手に取った。

 

「これは……」

「ああ、これは私が幼稚園児の頃の写真ですね。まだ兵庫にいた頃です」

「……」

「分かるとは思いますが、こちらが母で、こちらが父です」

 

 言われなくても分かる。今の設楽に瓜二つの仏頂面の女性と、顔の作り自体が笑顔のような優しそうな男性に挟まれた、幼児ながらすでに人を射殺す目線でカメラを睨みつける、仏頂面の幼女……これが在りし日の設楽一家か……。

 

 お母さんは本当に設楽そっくりだ。そしてこの幼い設楽も、今の設楽をそのまま小さくしたような、そんな感じだ。この頃の子供となるとけっこう自然な笑顔を浮かべるはずなのだが……こんなに小さい頃から、設楽は設楽だったらしい。その仏頂面は、幼女にしてすでに係長の威厳を漂わせている。

 

「お前は、この頃からすでにお前だったんだな……」

「はぁ……?」

 

 俺の意味不明な感想を聞いて、設楽は頭の上にはてなマークを浮かべていた。まぁいい。我ながら、変な感想を言ってしまったと思うし。

 

 手に取った設楽一家の写真をサイドボードの上に戻し、俺達はリビングの真ん中に置いてある二人がけのソファに腰掛けた。その前には木製の中々に重厚なテーブル。そして周囲を囲むように高価そうなソファが並べてある。

 

 そしてそのまま、待つこと数分。

 

「お待たせしてしまって申し訳ない」

 

 優しく、穏やかな男性の声が聞こえ、中々にナイスミドルな老紳士がリビングに入ってきた。背筋がしっかりと伸びた男性のその手には、急須と湯呑み、そしてお茶請けのきんつばが乗っかったお盆がある。

 

「お父さん。ご無沙汰してます」

「やぁ薫。元気そうで何よりだ」

「お父さんこそ、お変わりなく」

「ああ。母さんともども元気だよ」

 

 設楽が立ち上がり、その老紳士と言葉をかわす。ジーパンに黒の長袖シャツ、そして黒いエプロンをつけたその老紳士は、設楽を見て、とてもうれしそうな笑顔を見せていた。

 

 続いて……

 

「やぁ。きみが渡部くんだね?」

「は、はいッ! 渡部、正嗣ともうします!!」

「はっはっはっ……薫の父です。無理かもしれんが、まぁ緊張せず、くつろいでくれたまえ」

 

 老紳士は俺にも挨拶をしてくれ、優しい気遣いを見せてくれた。そうか。この人が、設楽のお父さんか……

 

「まぁ立ち話もなんだ。まずはソファに座ってくれ」

「はいッ! ありがとうごじゃいまふッ!」

「ぶふっ……噛み噛みじゃないか渡部くん」

「申し訳ございませんお父さん」

「別にきみが謝ることではないんだよ薫……」

「も、申し訳、ございませぬッ!」

「渡部くんも、一体いつの時代からタイムスリップしてきたんだ……まぁ座りなさい」

 

 とお父さんから優しいツッコミを受けつつ、俺と設楽は二人がけのソファに、隣同士に座る。タイミングよくお母さんのクソTもリビングに戻ってきて……

 

「では私はお誕生日席に座ろうか……きみはどうする?」

「私は渡部さんと薫の向かいに座って、無駄にプレッシャーをかけることにします」

 

 と夫婦2人で会話を交わし、お父さんは通称『お誕生日席』へ。お母さんは俺達の向かいのソファに座り……

 

「……っ」

「う……」

 

 その仏頂面を遺憾なく発揮して、俺と設楽に強大なプレッシャーをかけてきやがった。

 

 ……だが、実はプレッシャーなら、こちらも負けてはいない。

 

「……っ」

「……っ」

 

 こちらにも味方はいる。元祖仏頂面の設楽だ。設楽はお母さんに負けない険しさの仏頂面で、自身の母親をにらみ、強大なプレッシャーを……

 

「いえ、久々の実家なので、リビングが様変わりしてて新鮮だなーと感動してただけです」

「……」

 

 まじかー……そこはさー……『私の先輩に無礼を働いたら許さんっ』て感じで、自分の母親を威嚇するところだろー……守ってくれよ自分の婚約者をさー……。

 

 一方、お父さんの方はと言うと……

 

「……タッハッハッ」

 

 俺と目があった途端、こんな感じで苦笑いを浮かべていた。口元にしわがあるお父さんだが、そのしわは、若い頃からずっと笑顔を絶やさなかったからではなかろうか……そんな、自然な笑いだ。仏頂面が二人もいる空間で、笑顔のお父さんの存在が、なんと心に優しいことか。

 

 ……今わかった。この空間で俺の味方なのは、お母さんではなく、設楽でもなく……

 

「ん? どうかしたかい?」

「……いや、俺、お父さんと気が合いそうな気がします」

「それはうれしいね」

 

 お父さんだ。設楽にそっくりな女性と結婚し、妻を笑顔で支え続け、そして妻そっくりの娘を本当に妻そっくりに育て上げたお父さんが、俺の味方なんだ。

 

「それはそうと渡部くん、そのきんつばを早く食べてくれないか」

「あ、はい」

 

 互いに仏頂面で牽制し合う設楽母子はほっといて、俺とお父さんで話をすすめることにする。お父さんがお茶を湯呑みに注ぎながら、きんつばを俺にすすめてきた。人数分の小皿の上に2つずつ乗せられたそれは、いつもスーパーで買うものよりも、若干焦げ目が強く、そして大きい。

 

 まさか、このきんつば……

 

「ではお父さん、いただきます」

「ああ。食べてくれー」

 

 設楽母子はこの際放置だ。勝手にプレッシャーのかけあいをしていてくれ。それよりも俺はこのきんつばが気になる。俺はお父さんにすすめられたきんつばを一つ手に取り、そしてそれを一つまるごと、口の中に放り込んだ。

 

「ぅぉぁあああーん」

「……」

 

 その途端、口の中に広がったのは、こってりしたあんこの甘さと、香ばしい皮の香りと、パリパリとした心地いい感触だった。

 

「もぐもぐ……ぉおお」

 

 ……うまい。この味は市販のものではない。市販のあんこは、もっとこう、甘みがくどい。苦いお茶がすぐ欲しくなる甘みのきんつばがほとんどだ。だがこのきんつば……甘みは充分強いのに、それがまったくくどくない。喉を通してしまえば、あんこの甘みはスッとひく。

 

 それにだ。市販のきんつばはこんなに皮がパリパリとしていない。もっとぐにゃんぐにゃんしている。皮がこんなにパリッと仕上がったきんつばは、そうそうお目にかかれない。

 

 皮の焦げ目自体もいい塩梅だ。これ以上焦げていたら焼き過ぎで黒焦げになってしまうし、それ以下だと物足りない……ギリギリの焼き加減で止めている。

 

 そしてなにより、このきんつばは焼き立てで温かい。これはもしや……

 

「……お父さん」

「ん?」

 

 俺は、満面の笑顔だが、その奥底の目つきだけは妙に鋭いお父さんに、真相を問いただす。

 

「これはひょっとして……あなたが……」

 

 俺にお茶の湯呑みを差し出しながら、俺の言葉に若干かぶせ気味で、お父さんは口を開いた。

 

「お気に召したようで、なによりだよ。ニヤリ」

 

 やはり……このきんつば、お父さんの手作りか……

 

 しかしこれは……なんという腕前だ。ギリギリの焼き加減やあんこの甘み……これは極めたというレベルではない。これほどのきんつばであれば、これ一本でお店を出してもいいレベルの出来だ。

 

「……やりますね。お父さん」

 

 ポツリと口ずさみ、そしてお父さんを見つめる。俺の心臓は依然としてドキドキと高鳴ったままだが、これは、設楽の実家に挨拶に来たという緊張からではない。

 

「気に入ってくれて、私も嬉しいよ渡部くん。ニヤリ」

 

 お父さんから差し出された湯呑みを受け取る手が震える。だがこの震えは恐怖からではない。そのような感情は、この完璧なきんつばを食べたその瞬間、どこかへと消し飛んだ。

 

 代わりに俺の身体を支配したのは、闘志。

 

 今、目の前にいるお父さん……いや腕の立つ料理人と腕を比べ、そして勝ちたい……この人よりも美味しい物を作り、そしてみんなに食べて、喜んでもらいたいという、同じく料理をする男として当然の感情が、俺の心をいつの間にか支配していた。

 

 お父さんの、その鋭い目を見る。

 

――私はね きみの恋人と、その母親の面倒を見てきた男だよ?

  それぐらい、当然だろう? 舐めてもらっては困るね

 

 お父さんの、戦士のように鋭い眼差しが、俺にそう語りかけていた。

 

 ……俺は今、自分の人生に現れることなどないと思っていた人物……好敵手という存在に出会ってしまったことを、その肌で……いや、舌で実感した。

 

「……きんつば、おいし」

「ハッハッハッ」 

 



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5. 設楽母。きゃつは曲者。

「さて……」

 

 俺とお父さんの宣戦布告なぞどこ吹く風で、自分の娘と、血で血を洗う仏頂面の応酬を繰り広げていた設楽のお母さんが、お茶をずずずとすすり、口を開いた。

 

「薫。今日はお話があるということでしたが……」

「はいお母さん」

 

 ……室内の空気が、2度ほど下がった気がした。

 

 緊張感がリビングの中に充満した。俺たちとお母さんの間に、見えない壁のようなものが出来たかのようなプレッシャーだ。これほどのプレッシャー……うちの会社の重役どもでも出せないプレッシャーだ……さすが企業の幹部にまで上り詰めた人だ。

 

 一方……

 

「……ん? どうかしたかな?」

「あ、いえ……」

 

 お父さんの方は、戦士の眼差しを元の優しい目へと戻し、のほほんとした笑顔でのんきに自作のきんつばを頬張っている。

 

 やはり、お父さんは俺の味方のようだ。なんとなくだが、本来なら……

 

――バッカモォオオオン!! お前みたいな男に、うちの娘はやらぁぁあああん!!

 

 と娘が連れてきた男を叱責するのは、父親の役目のはずなのだが……まぁいい。この状況で一人でも味方がいるのは、俺としては、とてもありがたい。

 

「では、一体どのような話ですか?」

「はい。私と先輩の将来のことで報告したいことがあります」

「……ほう」

 

 設楽の返答を聞いたお母さんの仏頂面が、更に険しくなった。その眼差しは俺ではなく設楽に向けられているが……めちゃくちゃ鋭い目で設楽のこと睨みつけてるぞ……すんげーこええ……なんて俺がお母さんの仏頂面に恐れおののいていたら、である。

 

「では先輩。その発表、はりきってどうぞっ」

 

 と、この最悪のタイミングで設楽が俺に話を振ってきやがった!! なんだよっ!? なんでそんなタイミングで俺に話を振るんだよッ!?

 

「……ほう」

 

 そしてその途端、設楽母の視線が、ギンと一気に鋭くなった。その視線は、先入観のせいかもしれんが、見つめる俺をそれだけで殺しそうなほど、極めて鋭い。

 

「渡部さんの口から一体どんな報告が聞けることやら……」

「あわわわわわわ……」

「楽しみで胸が踊ります。興奮して今夜は眠れそうにありません」

 

 ……怖すぎる。今のセリフにしても、どこぞの悪徳都市の、時折御法に触れることもする運び屋のボスが、不始末をしでかした部下の報告を聞く時に言いそうなセリフだぞ!?

 

 ひょっとして……俺が『結婚します』とでも言おうものなら、その『ファッショナブル』と書かれたクソTの懐から、リボルバーの拳銃でも出してくるのではあるまいな!? この設楽母は!? そのクソT、左脇が妙に膨らんだりしてないだろうな!?

 

「あ、あのー……」

「はい」

「え、えっとですね……」

「はい」

「そ、そのぅ……け、けっこ……」

「けっこ……?」

「い、いや! 結構、緊張しますねぇこういう場だと! あはははは!!」

「はぁ」

 

 ごまかしてしまった……お母さんから発せられるプレッシャーに、勝てなかった……助け舟を出してほしくて、設楽の方に視線をやると……

 

「……」

「……」

「……先輩、早く言って下さい」

「!?」

 

 いや、確かに言うのは俺だけど、そこは何か援護射撃をしてくれよ! 例えば『お母さん。私達、付き合ってそろそろ一年なんです』とかさ!

 

 一方のお父さんは、相変わらずニコニコ笑顔で、お茶をズズッとすすっている。

 

「渡部くん」

「は、はいッ!?」

「気持ちはわかるけど、そんなに怖がることはないよ。勇気を出して言ってみなさい」

 

 と、本来なら隣の設楽が出すはずの助け舟を、お父さんが出してくれた。……やはりこの空間では、お父さんが俺の唯一の仲間か。お父さん、ありがとうございます。

 

 俺は一度目を閉じ、ゆっくりと深呼吸した後、目をカッと見開いた。

 

 そして発する。隣で素知らぬ仏頂面で佇む設楽との将来のため……この俺の、揺るぎない決意を!!!

 

「……本日は、薫さんとの結婚のお許しを頂きたく、参上仕りました」

 

 ……しまった!? 覚悟を決めたとはいえ、緊張していることに変わりはないせいか、なんか時代劇みたいな物言いになってしまったぞ!? 大丈夫か? お母さんとお父さんに、軽薄なやつだと思われてはないか!?

 

「……ほう」

「……」

「わが娘、薫との……結婚の許しとな……?」

 

 よかった。お母さんの返答もなんかおかしい。この人も緊張してるのか、それとも俺の緊張をほぐすためなのかは知らないが、セリフが時代劇の様相を呈している。どちらにせよ、俺のことを不快な存在として認識してないようで、一安心だ。

 

「左様でござる母上殿」

 

 お前は黙ってろ設楽。お前まで俺たちに釣られなくていいんだよ。

 

「キミ達は一体何時代の人間なんだ……大河ドラマに出演中の役者かなにかか?」

 

 お父さん、この場で冷静なのはあなただけです。感謝しますお父さん。

 

「……渡部殿」

 

 お母さん、そろそろ大河ドラマみたいな口調もやめにしませんか。おかげさまで俺の緊張も幾分ほぐれてきたみたいですし。

 

 お母さんはお茶をズズッとすすったあと、相変わらずの仏頂面で俺を睨みつけた。顔つきは確かに設楽そっくりなのだが、やはり年の功というか……その仏頂面は年季が違う。この仏頂面に比べたら、設楽のそれなど、満面の笑みに等しい。眉間にしわを寄せ、不愉快指数160%の目で俺を睨みつけてくるお母さん。

 

「実は以前より、薫からそのように伺っております」

「……は? マジか設楽」

「あれ。言いませんでしたっけ?」

「聞いてない。まったく聞いてないぞ」

「ええ本当です。ただ私達は、薫からだけではなく、あなたからもその決心を聞きたかったのです」

「なるほど」

「御無礼をお許し下さい渡部さん」

「い、いえ……」

 

 そうだったのか……だからお父さんは、『勇気を出して言ってみなさい』と……しかし設楽よ、そんな大事なことを、なぜ俺に言い忘れていた……?

 

 とまぁそんなわけで、一番勇気が必要だった結婚の報告は、意外とすんなりと終了したのだが……

 

「というわけで、渡部さん」

「はい」

「私たちから、いくつか質問をさせていただいても……よろしいかな?」

「……御意」

 

 ……お母さん、あなたいつまでその時代劇を引きずるつもりなのですか。設楽の仏頂面は見慣れているのですが、あなたの仏頂面はまだ見慣れないんです。その仏頂面でそんなセリフを吐かれると、なんだか悪代官に呼び出しを食らった、しがない町人みたいな気分になってしまうんです。だから俺のセリフまでおかしくなってくるんですよ。

 

「お母さんっ」

「薫? どうしましたか?」

「先輩は、私の先輩なのですが」

 

 俺の隣の見慣れた仏頂面が、そう言ってお母さんに噛みつき始める。今のどこに噛み付く要素があるのかさっぱりわからん……家族になるんだし、自分の娘を預ける男なわけだから、知りたいことも色々とあるだろうに。

 

「構わん。俺のことをお母さんとお父さんは何も知らない。俺もぜひ知ってほしいし、質問ツッコミその他もろもろ大歓迎だ」

 

 設楽に俺の覚悟を伝える。そう……いわばこれは儀式。お前と俺が家族になるための儀式なのだ。

 

「先輩、気をつけて下さい」

 

 俺の横の婚約者が、唐突に変な忠告を発してきた。『がんばってください』ならまだ分かるが、『気をつけて下さい』とはどういうことだ?

 

「母は、顔色を変えずに軽口を叩き、会話する相手をけむにまく癖があります」

 

 仕事中ですら見たことのない険しい口調で、設楽がそう注意を促すのだが……それ、どこからどう見てもお前じゃねーか……

 

 設楽が仏頂面で母をにらみ、つられて俺も設楽母を見つめる。

 

「……」

「……」

「……ぽっ」

 

 お母さん、なんで今、ほっぺた赤く染めたんですか。今のこのやりとりに、照れる要素などどこにもなかったと思いますが。

 

 まずい。お母さんの思考が読めない……助け舟を求めて、お父さんの方を見た。

 

「……」

「……はっはっはっ」

 

 お父さんは朗らかに笑うのみ。助け舟なんか出してはくれない。それどころか……

 

「渡部くん」

「はい」

「彼女はね。私の妻だよ」

「はぁ……」

 

 と、いちいち笑顔で意味不明な釘を刺してきた。一体何が言いたいのやら……

 

「さて、渡部さん」

「はい」

「娘の薫から、あなたのことはよく伺っております」

「そうですか」

「それこそ、あなた達が付き合いだした頃から」

「なるほど」

 

 気を待ち直した設楽母から、こんなことを言われる。意外なことに、設楽は俺達が結婚前提で付き合いだした頃から、折りに触れ、俺のことを実家に報告していたようだ。

 

「なんでも……私達の娘を、あなたなしでは生きていけない肉体に調教してしまった、情け容赦のない、どえすな方だと伺っておりますが」

「お言葉を返すようで恐縮ですが、あなたもそっち側の人間ですか」

「ほら、うちの母は軽口ですぐ相手を困らせます」

「九割がた、お前が原因だと思うぞ設楽」

 

 ……さすが設楽の母親だ……設楽同様、意味不明な物言いで相手を振り回す……普段から設楽の軽口で鍛えられてる俺だったからよかったものの、何も知らないヤツがいきなりこんなことを言われたら、恐ろしさで震え上がるぞ。

 

 しかし、これはどう説明するべきか……『本来なら私が彼女に家事を教えるべきだったのですが、それをしなかったがために、責任を取って結婚することに』などという言葉を期待しているのか? そう話すべきなのだろうか? 思考を整理すべく、お父さんが淹れてくれたお茶を一口すする。

 

「渡部くん、心配はいらない」

「?」

「私も、妻の方からプロポーズされたのだが……その言葉が『あなたのごはん無しでは生きられない女にされてしまったから、責任取って死ぬまで面倒見て下さい』だからね」

「……」

 

 うーん……なんだかどこかで聞いたことがあるようなプロポーズ……さすが、蛙の親は蛙ということか……

 

「主任っ! その話は……!!」

 

 設楽母が慌てて口を挟んできた。『主任』てお父さんのことのようだ。設楽が付き合ってからも、相変わらず俺のことを『先輩』と呼び続けるのと一緒かな?

 

「ん? どうかしたかい?」

「プロポーズの話は……主任と私だけの……ッ!」

「いやいや。どうにも他人事には思えなくてさ。実際、頭を抱えたからね。『ぇえ~……それって俺が悪いの?』て」

「……ぽっ」

「ハッハッハッ」

 

 なんというか……お父さん。その気持ち、痛いほど分かります。俺もほぼ同じ言葉で逆プロポーズをされた身として。

 

 俺の隣の設楽を見る。自分が母と同じプロポーズをしでかしたということには何の感慨も沸かないようで……なんだか呆れきったようにジト目で設楽母を見つめながら、静かにお茶をすすっていた。

 

「ずずっ……」

「お前は何の感慨も沸かんのか」

「感慨……とは?」

「お前の母が、お前と似たようなプロポーズをしていたんだぞ?『やっぱり私のお母さんだなぁ』とか、色々と感じるところもあるだろう」

「……いえ、普段の2人を見ていれば、プロポーズの言葉は想像がつきます」

「……マジか」

「はい。だから逆に『ああ、やっぱり……』としか思いませんね。ずずっ……」

「……」

 

 と、口ではこういう設楽なのだが……

 

「……」

「……? 何か?」

「……いや」

 

 湯呑みを置いたこいつの鼻が、ぷくっとふくらんでいることを、俺は見逃さなかった。

 

 そしてそんな設楽の視界の先には、設楽母を朗らかな笑顔でからかうお父さんと、そんなお父さんにからかわれて、真っ赤な顔で耳をぴくっと動かす、恥ずかしそうな設楽母だった。

 



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6. 争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない

「さて渡部さん。お話の続きです」

「はい」

「薫の話によると、あなたは家事全般が得意とのことですが」

「はい」

 

 まぁ、そういう話は事前に設楽は通しているだろうなぁ。親子の会話でなくとも、『私の恋人はこんな人ですよ』て話題になるだろうし。

 

「薫は、家事がまったくの不得手です」

「存じております。そらぁもう痛いほど」

「そんな薫に専業主婦を期待することは、本人もかわいそうだと思うのですが」

「そのとおりです。家事全般は俺が担います」

「ほう」

「その代わり、彼女は仕事に打ち込んでもらいます。ヒラの俺が会社勤めを続けるより、その方がお互いが輝けます」

「……ということは、つまりあなたは、うちの薫に養ってもらおうと考えているのですか?」

 

 ……あれ。なんか設楽母の仏頂面がどんどん険しくなってきたぞ? こういう話は出てこなかったのかな?

 

 とはいえ、結婚するんだからキチンと今後の計画は話しておくべきだろう。設楽母の眉間のシワの深さがマリアナ海溝レベルまで深くなってきているのが気になるが、勇気を振り絞って、俺と設楽の人生プランを話さねば。

 

「当面の間は俺も会社で働きますが、子供が出来て子育てが忙しくなった頃には、専業主夫も選択肢に入れています」

「ほう」

「もちろん、彼女が妊娠と出産で会社に出られない間は俺が家計を支えますし、俺と彼女が勤める会社は小さいですが、育児休暇の実績もあります」

「なるほど」

「むしろ彼女の場合は、会社にとっては絶対に手放したくない人材だ。育児休暇を認めるでしょう……から……?」

「……」

 

 あれー? 設楽母の眉間のシワの深さが、加速度的に深くなっているぞ? なんだなんだ? 俺たちの人生プランはそんなにマズいのか?

 

「大丈夫だよ渡部くん」

 

 俺の不安を察したのか、設楽と同じくのんびりと茶をすすっていたお父さんが口走る。大丈夫とはどういうことか。眼の前の設楽母は、今にも懐からルガーかなにかを取り出して、俺を射殺しかねないほどに俺を睨みつけているというのに……

 

「彼女はね、キミに感心しているんだ」

「へ?」

「妻はね。表情が無愛想なんだよ。薫と一緒で、四六時中、仏頂面なんだ」

 

 いやそれはわかる……わかるんだが……俺はまだ、設楽母の仏頂面から感情の機微を読むのは無理なんだ……ッ!! だからかどうかは知らないが、迫力でいえば、設楽本人よりも設楽母の方が、何倍も上に感じるんだッ!!

 

 だが、感心しているということを教えてくれたのはありがたい。その一言がなければ、俺は設楽母からの強烈な向かい風のごときプレッシャーに、潰されていたやもしれぬ……。

 

「ここまで読めるのは私ぐらいなのだが……彼女のこの仏頂面は、キミの話に関心している証拠だよ」

「……ぽっ」

「はっはっはっ」

 

 お父さんからそんなことを指摘され、設楽母のほっぺたが赤くなる。それを受けて高笑いするお父さん。このやりとりは、なんだか熟年夫婦の貫禄を感じた。

 

「……なぁ設楽」

「ずず……はい?」

 

 俺は、隣で佇む俺の婚約者、愛しい愛しい将来の奥様に呼びかける。設楽は俺のピンチなぞどこ吹く風で、お茶ときんつばを堪能していたようだ。将来の旦那が困っていたのになぜ助け舟を出さないのか。

 

「お前さ。もう少し助け舟を出してもいいんじゃない?」

「なぜですか? なにか困っていたのですか?」

「いやぁ、だって俺、お母さんの不快指数160%の迫力に押されてたろ」

「そうですか? お母さん、『感心してる』ってわかりやすい表情じゃないですか」

「……」

 

 俺はこの時、帰りの新幹線の中で、設楽に視力矯正の必要性を訴えようと、改めて固く心に誓った。

 

「今度は私が質問してもいいかい?」

 

 俺が将来の奥様にどんなメガネが似合うのかを妄想していたら……言い合いが落ち着いたお父さんが今度は質問をしてくる。カラカラの口の中をお茶で潤し、俺はお父さんの質問に備えた。

 

「はい。なんでしょうか」

「趣味は料理らしいね」

「趣味というわけではないですが……家事の中では得意な方です」

「私もね。料理が割と得意なんだよ」

「やっぱり……お父さん、俺と気が合いそうですよねー」

「はっはっはっ」

 

 お父さんの、オーソドックスかつ無邪気な質問に、俺の心が洗われていく……もう、仏頂面親子はほっといて、お父さんと話したいな俺……ああ……俺の心の安らぎのお父さん……俺はもう、あなたと結婚したいです……

 

 そんなわけで、お父さんに投げる俺の言葉も、自然とリラックスして弾んだものになってくるわけなのだが……

 

「ちなみにお父さんは、お菓子作りも得意なんですか?」

「得意だね。きんつばはどうだい? 美味しいだろう?」

「美味しいです!」

「和菓子が得意でね。特にあんこには自信があるんだ」

「そうなんですか! 俺はどっちかというと洋菓子の方が得意でして……」

 

 俺が『洋菓子が得意』と口走ったその瞬間……

 

「……う?」

「……」

 

 部屋の温度が、さらに2度下がった気がした。

 

「……あれ?」

「……」

 

 なんだ……さっきまでちょうどよい室温だったはずなのに……なんだか急に寒くなってきたぞ……突然の室温の変化に戸惑いながら、俺はお父さんを見た。

 

「……渡部くん」

 

 お父さんの目が鋭い……いや鋭いだけではない。ギラリと輝く眼光が冷たく、そして俺の胸に突き刺さってくる。

 

「おとう……さん?」

「……」

 

 ……今、俺は気付いた。この室温の低下の原因は、お父さん。お父さんの全身から発せられているのは、『こんな若造には負けられぬ』という、長い人生を歩んだものだけが見せる闘志……これは……

 

「……私の妻はね。洋菓子が好きなんだ」

「は、はぁ……」

 

 唐突な告白。お父さんの口から笑顔が消えている。俺の身体がお父さんの闘志に飲まれ、徐々に震えだしてきた。

 

「あら。渡部さんは洋菓子が得意なのですか」

 

 設楽母が口を開いた。まったく意識を向けてなかった方向からの声に、俺の神経は過敏に反応してしまい、いつもの倍近いスピードで首をひねり、設楽母を振り返った。

 

「……」

「私、チーズケーキ好きなんですよ。……ぽっ」

「……!?」

 

 まさか……自分の妻の好きなものが得意だと聞いて、お父さんは俺に闘志を燃やしているというのか……!? いや確かに和菓子よりは洋菓子の方が得意だが……でも自分の妻が好きなものが得意だからって、そんなヤキモチみたいなことを、こんなナイスミドルなお父さんが……

 

 そんなふうに、俺が、お父さんの突然の豹変に困惑していたら、である。俺の隣できんつばを頬張っている設楽が、いつものように口の中をきんつばでいっぱいにしたまま、口を開いた。

 

「もっきゅもっきゅ……おふぉうふぁん」

「ん? 薫、どうした?」

「ぐぎょっ……久々にお父さんのきんつばを食べましたけど、やはり絶品ですね」

 

 ……なんだと?

 

「そうか。ありがとう。ニヤリ」

「!!?」

 

 白状する。設楽がお父さんのきんつばを『絶品』と評したその瞬間、俺はイラッとした。

 

「……設楽。お前、和菓子が好きなのか?」

「確かに先輩のケーキも絶品ですが、私は和菓子も好きですよ?」

「!?」

 

 なんだ。この、俺の心に湧き上がる、如何ともし難いいらだちは……

 

 娘が、父が作った料理を褒める……そんなの、当たり前のことじゃないか。ましてやここは設楽家。設楽はお父さんの料理で育った。そんな慣れ親しんだ味なら、設楽にとって美味くないわけないじゃないか。

 

 ……だけどな。それはわかってるんだけどな。

 

「……あれ? 薫?」

「はい? お父さん?」

「なんか急に、寒くなってきたかな?」

「? 私は別に寒くありませんが」

「私も別に寒くないですよ主任?」

「……」

 

 お父さんが突然、室温の低下を訴え始めた。設楽と設楽母は何も感じていないようだが……同じフィールドに立つお父さんだけが感じているこの寒気の正体……それは恐らく……

 

「……お父さん」

「!? まさか……!?」

「……俺はね」

「こ、この殺気は……キミなのか……!?」

「ふふっ……洋菓子がね……得意なんですよ。……ニヤリ」

「!?」

 

 それは恐らく、俺の身体から発せられた殺気。

 

 どれだけうまいきんつばを作ってくれてもかまわん。あんこに自信を持つのも結構だ。事実、あなたのあんこは絶品だ。生まれてから今日この日まで食べてきたどんなあんこよりも、あなたのあんこは美味しかった。

 

 ……だが、俺が惚れた設楽の舌をかけての勝負なら、俺は負ける訳にはいかない。

 

 洋菓子も好きだが和菓子も好きだ? 言ってくれるなぁ設楽よ。

 

 結構だ。ならば俺は、お父さんを超えるきんつばを生み出し、そして『先輩のきんつばのほうが美味しいです』と言わせてやろうじゃないか。

 

「……お父さん」

「クッ……」

 

 覚悟するがいいお父さん。あなたは今、眠れる獅子を起こしてしまったのだ。こと設楽の舌に関してだけは、負けるわけはいかない。次にお会いする時、あなたは自作あんこへの自信を失うことになるだろう。この俺が丹精込めて作った、設楽の舌を虜にしてしまうほどのうまさのあんこによって……!!

 

「……今度、俺がきんつばを作って持ってきますよ」

「……ならそのときは、私はチョコブラウニーを作って待っているとしようか」

「負けませんよ……お父さん……将来の設楽の夫としてッ!!」

「私もね。負けるわけにはいかないんだよ。……父として、夫としてッ!!!」

 

 互いに一歩も引かず、牽制する俺たち。……そうか。これは運命。今日この日、お父さんという宿敵に出会い、そして勝つために、俺は料理の腕を磨いてきたのだ。きっとそうだ。そうなのだ……!!

 

「それはそうと、きんつばホントにおいし……もぐもぐ」

「はっはっはっ」

 

 ……でも、このきんつばはホントに美味しい……。今は……今だけは、素直に負けを認める。 

 



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7. 親子って、似るんだなぁ

「ふぁへ……もぐもぐ……ぐぎょっ……そろそろお昼ですが……」

 

 俺とお父さんが互いに牽制していたら……絶品きんつばを堪能していた設楽が口を開いた。言われて壁にかけてある鳩時計を見ると……時刻はすでに午後1時前。確かに腹具合が心もとない。

 

「「先輩(主任)、そろそろお昼ご飯を」」

 

 と設楽と設楽母が同時に口を開き、俺達の方を向いた。その顔は、まごうことなき仏頂面。二人の仏頂面が、俺とお父さんに昼飯の催促をする。

 

 本来なら、俺は昼飯の準備はしなくていい立場のはずなのだが……

 

「「お、おう……」」

 

 二人の仏頂面にそう言い寄られると、迫力に押され『おう』としか言えない……。それはお父さんも同じようで、苦笑いを浮かべながら、俺と同じく、『おう』と答えていた。

 

「仕方ない……渡部くん、手伝ってくれるか?」

 

 お父さんが立ち上がり、しずしずとキッチンへと向かう。

 

「わかりました。お手伝いします」

 

 俺も立ち上がり、スーツを脱いで設楽に渡し、シャツの袖をまくって、お父さんに続く。

 

「先輩、一つおいしいお昼をよろしくお願いいたします」

 

 そんな、将来の奥様からの、神経を逆なでしてくるエールを受けながら……

 

「クソっ……」

 

 

 といっても、キッチンはリビングのすぐとなりで、対面キッチンからはリビングの設楽と設楽母の様子がよく見える。

 

「ご飯は朝のうちに仕掛けておいたから、私は卵焼きでも作ろうか。少しきみのお手並みを拝見したいな」

「了解です。冷蔵庫の中、失礼していいですか?」

「どうぞ。好きなのを使っていいよ。好きなものを作るといい」

 

 お父さんの許可を得たので、俺はためらいなく冷蔵庫を開けた。俺の背丈程度の大きさの冷蔵庫の中には、うちの冷蔵庫とは比較にならないほどの大量な食材が並んでいるが、それらはキチンと整頓されている。さすが設楽家……。

 

「では卵を失敬……」

 

 卵を6つほどゲットしていったお父さんを尻目に、俺は冷蔵庫内の物色を続ける。中に、下処理が終わったと思われる筍を見つけた。

 

「おっ。筍ですね」

「お目が高いね。それは昨日掘ったものだ。アク抜きももう済んでるよ」

「わかめはありますか?」

「冷凍庫を見るといい。たけのこと合わせようと思って、昨日生わかめを茹でて冷凍しておいた」

「さすがですね」

「きみこそ、よくわかってるじゃないか」

 

 互いに顔を見合って、男二人でニヤリと笑う。この季節、たけのこといえば、わかめとたけのこの若竹煮が一番うまい。

 

「では使わせてもらいます」

「ああ」

 

 俺は冷蔵庫から水煮のたけのこと、冷凍庫からわかめを取り出し、それを持ってお父さんの隣に立った。お父さんは大きなボウルに卵を割り入れ、顆粒のかつおだしとお醤油をほんの少し加えて、ちゃかちゃかと慣れた手付きでかき混ぜ始める。

 

 俺は俺でまな板を準備し、たけのこを切り分けていく。根本の部分は半月切りで、穂先の部分はくし切りだ。

 

「……」

「……」

 

 今、キッチンとリビングには、さっきまでの騒がしさはない。静かな部屋の中に響くのは、お父さんが卵をかき混ぜるチャカチャカという軽やかな音と、俺がたけのこを切る、トントンというまな板の音だけだ。

 

「ついでに味噌汁も作ろうか」

「はい。お願いします」

 

 卵はまだ焼かないらしい。お父さんは冷蔵庫から豆腐とネギと味噌を出した。鍋に水を張って火にかけ、顆粒のかつおだしを投入したのち、器用に手のひらの上で豆腐をさいの目切りにして鍋に入れる。

 

「わかめ使いますか?」

「ああ。ありがとー」

 

 俺もお父さんの隣のコンロに陣取り、鍋に水を張ってそれを火にかけた。

 

「……」

「……」

 

 男二人、静かに鍋の火加減を監視する。さっきはいがみあっていたが……今は、互いに自分の鍋を見るのに、真剣だ。

 

「……」

「……」

 

 だって、互いの最愛の人に食べてもらうためのものだから。決して、手を抜くことは出来ない。

 

 ……なんて思いながら、真剣に鍋の火加減を見ていたら、である。

 

「……ふふっ」

「? お父さん?」

 

 お父さんが、自分の鍋を見ながら、微笑んでいた。

 

「ああ、いや……楽しくてね」

「そうですか?」

「ああ。楽しいよ」

 

 つられて、俺も笑ってしまう。お父さんは不思議な人だ。さっきまでは、俺に対してあれだけ敵対心むき出しだったのに、今ではホントに楽しそうに、笑顔で味噌を溶いている。

 

「渡部くん。礼を言うよ」

 

 味噌をすべて溶かし終えたお父さんが、俺にそんなことを言ってきた。お父さんの鍋からは、ほんのり味噌の良い香りが漂い始めている。

 

「? 何がですか?」

「薫のことだ。……あの子、ちょっとめんどくさくて大変だろう?」

 

 んー……そうか? 実際、めんどくさいというよりは、付き合い甲斐があって楽しいし。

 

「大変というよりも、毎日楽しいですよ」

「そっか」

「会話をしてると、予想外の答えが返ってくる。それがとても楽しいんです」

「……そっか」

 

 味噌汁の様子を見るお父さんから離れ、俺はまな板の上でわかめの芯を取り除き、鍋に投入する準備をすすめた。

 

「キミもよくわかってると思うが、薫はあんなふうに愛想がない。四六時中ぶすーってして、仏頂面だ。本人にその気はないだろうが」

「ですね」

「それに母親に似て、家事が苦手だ。料理をさせれば、煮物を作ってる雪平鍋からなぜか火が出てくるし……」

「洗濯をさせれば洗剤と柔軟剤の区別もつかないですからね」

「ああ。……ホント、若い頃の妻そっくりだよ。仕事はあんなにデキるくせに……」

 

 お父さんと二人、顔を見合わせてクククと笑う。ひとしきり笑ったあと、お父さんは再び味噌汁の鍋の様子を注意深く見つめた。でもその表情は、やっぱりどこかうれしそうだ。

 

「……そんな薫だから、結婚したときのことが心配でならなかった。私のときよりはまだ敷居が低くなったが、それでもやっぱりこのご時世、『家事は妻の仕事』だという風潮が根強いだろう? そんな中で、薫が結婚したら……出来もしない家事に苦労する毎日を送ることになるかもしれない。そこを理解してくれる旦那ならまだいいが、もし、それを理解してくれない相手だったら……」

「……」

「……そう考えるとね。親として、不安で仕方なかったよ」

 

 味噌汁の鍋が煮え端になってきたところで、お父さんは鍋の火を止め、奥へと移動させた。俺も自分の鍋に準備していたわかめを投入し、若竹煮の仕上げに入る。

 

「……薫から『紹介したい人がいる』と聞いて、気が気じゃなかったが……」

 

 コンロに卵焼き器を乗せて火にかけたお父さんが最初に準備していた卵をチャカチャカとかき混ぜながら、充分熱した卵焼き器に流し込んでいた。じゅわっと心地いい音とともに、俺以上に見事な手際で、卵焼きをくるくると仕上げていく。お父さんは、柔らかい笑顔を浮かべて、卵焼きをすいすいと仕上げていった。

 

「薫は、自分に必要なパートナーが誰なのか、ちゃんと分かっていたんだなぁ」

「……」

「薫が連れてきたのがキミで、本当に安心したよ」

「そうですか?」

「料理の手際を見ればわかる。キミは、本当に毎日キチンと家事をやってる」

「……」

「キミになら、安心して薫を任せられるよ」

 

 お父さんの卵焼きが完成したようだ。それをお父さんはまな板の上にあけ、一口大にささっと切り分けていく。

 

 俺の若竹煮も完成したようだ。鍋の火を止め、大皿に若竹煮を移し替えた。

 

「木の芽もあるから、忘れずに使うんだよ」

 

 お父さんの助言に俺は返事をせず頷いて、冷蔵庫を開ける。木の芽は冷蔵庫の奥の方にあった。

 

「……渡部くん」

「はい?」

 

 お父さんが俺に、リビングを見るようにと、顔で促した。それに従い、俺は設楽と設楽母がいるリビングに、視線を移す。

 

「……」

「……」

 

 設楽母子が、互いに仏頂面で睨み合ってやがる……いや、本当はそうじゃないのかもしれんが、俺にはそうとしか見えん。

 

 だが、長年連れ添ったお父さんには、また別の光景のように見えるようで……。

 

「……うれしいんだろうなぁ」

「はい?」

「ぁあ、いやね? 妻がとてもうれしそうだからさ。薫にキミのようなパートナーが出来たことが、本当にうれしいんだろうなと」

「そうなんですか?」

「ああ」

 

 設楽母も、設楽のようにうれしいときのサインみたいなのがあるのだろうか? こうやって見る限り、鼻の穴がぷくっと広がるような、わかりやすいサインはないようにも見えるが……

 

「妻の耳を見てごらん」

「耳ですか?」

「うん」

 

 お父さんに促され、俺は設楽母の耳を見た。……遠目からなので分かりづらいが、少しピクピクと痙攣しているようにも見える。まるで設楽が、嬉しいときに鼻をぷくっとふくらませるように。

 

「仏頂面は変わらない。でも妻はね。嬉しい時、ああやって耳をぴくっと動かす癖があるんだよ」

「……親子ですね」

「ああ。まごうことなき、親子だ」

 

 そっか。そっくりな親子だなぁ……そう思い、同じく自分の妻を嬉しそうに眺める、お父さんの横顔を見た。

 

 その時。

 

「ぷくっ」

「……」

 

 お父さんの鼻が、ぷくっと膨らんだのがわかった。

 

「ぶふっ」

「?」

 

 ……お父さん。あなたは、設楽が自分の妻にそっくりだと再三言ってますが……どうやら、それはちょっと違うようです。

 

「どうかしたかい?」

「いえ。親子だなぁと思いまして」

「?」

 

 あなたの娘は、お母さんそっくりなだけではなく、あなたにも似ているようです。その、鼻をふくらませる癖が、その何よりの証拠です。あなたが気付いているかは、わからないですが。

 

「「!?」」

 

 リビングの設楽母子が、急にこっちをぐわっと振り返った。結構なスピードで振り返ったものだから、ポニーテールにしている二人の髪が、『ふぁさっ』と音を立てるぐらいに暴れているようにも見えた。

 

「先輩」「主任」

「ん? どうかしたのかな?」「どしたー設楽?」

「「なぜふたりしてこっちをジッと見てるのですか?」」

「いや別に。なぁ渡部くん?」

 

 設楽母子が声を揃えてこちらを訝しげに見つめ、お父さんはニヤニヤとほくそ笑む。そんな三人がおかしくて笑いそうになるのをこらえながら、俺は手にとった木の芽をパシンと叩いた。

 

「ぅおぅっ」

「んお? 設楽?」

「突然のクラップはびっくりするからやめていただきたいのですが」 

 

 



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8. 白旗はまだ上げない

「ところで設楽よ」

「はい?」

 

 帰りの新幹線車内。俺の婚約者は隣の席で、行きのときと同じく、新幹線名物の超高質アイスクリームにスプーンを突き刺そうと必死だ。今回はバニラを買ったらしい。

 

「昼飯の時の話だが……」

「お昼ご飯ですか。とても美味しい若竹煮でしたが」

「……ホントか?」

「ホントですが」

 

 俺の疑念に対し、設楽が当然のように仏頂面で返事をする。この、眉間にシワを寄せた顔は……少なくとも、嘘はついてないようだ。確かに設楽は、俺の若竹煮をうまそうに頬張っていたのだが……

 

「しかし、ご両親の反応は冷ややかだった気がするが……」

 

 思い出したくもない、テンションだだ下がりの昼飯の光景を思い出し、俺は身震いを起こした。

 

 

 あのあと、俺は完成した若竹煮を食卓へと並べ、設楽母とお父さんに自信作の若竹煮を振る舞ったのだが……

 

「ふむ……」

「んー……」

 

 俺の若竹煮を頬張った設楽母も、さくさくとした歯ごたえを楽しんでいるはずのお父さんも、不思議と表情が優れない。

 

「あれ……」

「……」

「美味しくないですか?」

「……いや、美味しいよ?」

「そうですか?」

「ああ。美味しいよ?」

 

 不安に思い、俺はお父さんにお伺いを立ててみるのだが……まぁお父さんは人格者だし、ここで『まずい』とは言わないだろう。一方の設楽母の方は……

 

「んー……さくさく……」

「お母さん、お口に合いませんでしたか?」

「いや……さくっ……美味しい……もぐもぐ……ですが……ごきゅっ」

 

 設楽母にもお伺いを立ててみるが……口では美味しいと言っているものの、全身からそこはかとなく漂ってくるのは、『美味しいけれど、物足りない』という、不満の感情だ。これは、まだ見慣れぬ設楽母の仏頂面のせいではないはずだ。

 

 だが、俺の調理に何か不手際が合ったとは思えない。ダシこそ顆粒だしを使ったが、味見をしたときはまったく問題なかったはずだが……

 

「しゃくっしゃくっ……ふぇんふぁい」

「お、おう……?」

「めひゃくひゃ……もっきゅもっきゅ……おうぃふぃい……でふ」

「そ、そうか」

 

 唯一、設楽だけが実に美味しそうに、俺の若竹煮を頬張っているのだが……それでも、俺の不安感は拭えない。本来なら、家族になる設楽が『美味しい』と言ってくれているのだから、それはそれでOKなはずなのだが……

 

「ふーん……もぐもぐ……」

「んー……さくっさくっ……」

 

 なんだこのテンションだだ下がりな設楽夫妻の期待外れ感は……。試しに食べてみるが、特に落ち度は見当たらない。ダシの味付けも悪くなく、そのダシの旨味もタケノコに適度に染みているし……ほんのりといい感じに残ったタケノコのアクも、アクセントになっている。わかめだってしゃきしゃきとした歯ごたえを残すために、仕上がりの寸前に投入したし……

 

「いや、美味しいよ?」

「ホントですかお父さん?」

「ホントに美味しい。美味しいんだが……いや、美味しいよ」

 

 ……いやお父さん、その言い方は反則ですよ。それじゃあ完全に落ち度を見つけているようなものじゃないですか。

 

「お母さん?」

「もっきゅもっきゅ……美味しい……です……ごきゅっ……が」

 

 設楽母も同じだ。娘譲りの仏頂面のせいで、お父さんよりもさらに思考が読み辛い……

 

 だが、これだけはわかる。お父さんはもちろん設楽母も、俺の若竹煮の出来に、満足していない……

 

 

 その後、特に騒動もなく昼食は終了。若竹煮も無事に完売し、最後はご両親に『娘を頼んだ』と結婚のお許しも無事いただけたわけだが……

 

 だが、どうにも納得できん。あの設楽夫妻のリアクションは、とても美味しいものを食べて感動している人の反応には見えなかった。あんな、美味しいわけでもなく、かといってまずいものを食べているわけでもないあの反応を見て、一体誰が手応えを感じるであろうか。いや、そんな者などいやしない。

 

「何か落ち度があったのかなぁ」

「特に落ち度はないと思いましたが……んー……」

 

 俺の不安げなつぶやきを聞いた設楽が、アイスを堪能しながらそう慰めるが、俺の心中は複雑だ。

 

「そんなことより設楽よ」

「はい?」

「お前、メガネを買う気はないか?」

「先輩はメガネフェチなのですか?」

「違うわ。……だが、お前が真っ赤なフレームのメガネとかかけてたら、似合うかもしれんしな」

「そうですか?」

「おう。真っ赤なボタンが好きなあたり、似合いそうな気がする」

「あのときは散々『駄目だ』とか文句つけてたくせに……」

「それとこれとは話が別だ」

 

 ええい。答えの出ないことに悩んでいても仕方ない。俺は気持ちを切り替え、将来の奥さんに視力矯正の必要性を訴えつつ、いかに赤いメガネが似合うかを力説することに、心血を注ぐことにした。

 

 ……だが、設楽がその後メガネを買うことはなかった。

 

 

 それから一週間ほど過ぎた、日曜の午後。いつものように昼食を食べ終わり、二人でのんびりだらだらと過ごしていたら、来客を告げるインターホンが鳴った。

 

 その時、俺と設楽は二人でソファに座り、互いに足をからませ牽制し合いながら、オンデマンドで海外ドラマを視聴していたのだが……

 

「……先輩、来客です」

「お前が行ってくれよ」

「先輩が行ってくださいよ。私は日頃の仕事の疲れを癒やすのに精一杯なのです」

「そんなふうに動かなかったら、結婚後すぐに『日曜日のお父さん』になるぞ」

「先輩こそここで動かなかったら、将来『なにもやらないぐーたら嫁』一直線ですよ」

 

 お互い来客を想定した服装ではなかったため(特に設楽は『ハネムーン』のクソT)、互いに来客対応をなすりつけ合う俺たち。埒が明かないので足じゃんけんで雌雄を決し、見事俺のチョキによって敗北を喫した設楽が、玄関へと消えていった。

 

「んじゃドラマは一時停止しといてください」

「了解」

 

 そんな奥様の要望を聞き、俺はドラマの『カーター! ラピッドインフューザーに繋げ!!』というダグ先生のかっこいいセリフのところで一時停止を押した。医療ドラマは楽しいなぁ……。

 

『宅急便でーす』

『ありがとうございます。お勤めご苦労さまです』

 

 そんな声が玄関から聞こえる。日曜日なのに大変だなぁ……と極めて他人事なねぎらいを配達員のお兄ちゃんに心の中でつぶやきつつ、俺は設楽の帰還を待った。

 

「先輩。今晩の晩ごはんは準備しなくていいかもしれません」

「……? 宅急便か?」

「はい。父からです」

 

 大きなダンボール箱を抱えて帰還した設楽は、いつもの仏頂面を崩さず、持っているダンボールをテーブルの上へとポンと置いた。一辺が設楽の二の腕ほどあるダンボール箱は、置くときにトンと軽い音を立てたあたり、そんなに重くはないらしい。

 

 ダンボールに貼られた伝票を見る。伝票によると、確かに送り主は設楽のお父さんだ。品目は……衣類と食料品。ひょっとして、お父さん作の料理がいっぱい入ってるのかな?

 

「では開けてみましょう」

「おう」

 

 設楽が鼻をピクピクと痙攣させながら、ダンボールの封を開く。

 

「おお……」

「これは……!!」

 

 中に入っていたのは、新聞紙でくるまれた大きな包みが2つと、一着のクソT。クソTはサイズ的に設楽のためのものだろう。やや細身で水色の生地に、まるでパソコンで印刷したようなゴシック体の大きなフォントで『グアム』と書かれていた。

 

「……これはお母さんのチョイスだな」

「ですね。これからの暑い季節にぴったりです」

「……」

 

 クソTを手にとった設楽が、そう言いながらシャツを広げて鼻をプクッと膨らませた。俺にはさっぱり理解できない領域のセンスだが、奥様がそんなふうに喜んでいるのなら、旦那の俺はもう何も言うつもりはない。めくるめくクソTの世界を存分に楽しんでくれ。俺が同伴でなければ、どこで何を着ていてもかまわん。

 

「では先輩には私の『ふつう』Tシャツを譲ります」

「いらん」

「それを着て、二人で今度デートしましょう」

「なぜそこで勇気の安売りをしなければならんのか、俺にはさっぱりわからん」

 

 そんな軽口を叩きながら、俺は引き続き荷物の物色を続ける。大きな包の一つを開くと、どら焼きが6つ、甘い香りとともに出てきた。

 

「これは……! この香りは、お父さんっ……!?」

 

 味見をしなくてもわかる。この、かぐわしき甘い香り……香りだけですでに一級品の味を感じるそのどら焼きは、きっとお父さんによって作られたものだ。

 

「父はどら焼きも得意なんです」

「マジか。ホントに和菓子が得意なんだなお父さん……」

「絶品ですよ。ぜひご堪能ください」

 

 よし。これはあとで苦いお茶を淹れて、存分に堪能することにしよう。緑茶の在庫があったかどうかを思い出しながら、俺はもう一つの包を開いた。

 

「……おお、これは……!」

 

 新聞紙でくるまれていたそれは、大きなタッパー。その中には、若竹煮が結構な量入っていた。

 

 これはありがたい……あの、俺の若竹煮が設楽家のテンションを下げた悪夢の日の原因を追求することが出来る。世の中には『なんとイヤミな』と感じる者もいるかもしれないが、俺はこれをお父さんからの激励であり、ヒントなのだと受け取った。

 

 タッパーを開く。途端にリビングに香る、ダシのよい香り。冷めた状態でこれだけのよい香りを漂わせる若竹煮……俺の気持ちが高ぶってくるのを感じる。

 

「今晩の晩飯はこれで決まりだな」

「父の若竹煮は私も久々です」

 

 それは設楽も同じようで、ワクワクを抑えきれないといった感じで鼻をピクピクと痙攣させていた。その様子はある種の敗北感を俺のメンタルに植え付けたが……考えてみれば、相手は設楽のお父さん。俺の料理の何倍も何倍も慣れ親しんだ味だもんな。そらぁワクワクが抑えられんだろう。

 

 空になったはずのダンボールの中に、封書が一通、入っていることに気付いた。封書には、『渡部くんへ』という宛先が、達筆な字で書かれていた。その字は、どことなく設楽の文字を思い出させた。

 

「? 手紙? 俺宛て?」

 

 その封書を手に取り、中を開けてみる。中には便箋が二枚。書き主はどうやらお父さんのようで……

 

「お父さんですか?」

「おう」

「なんて書いてあるんですか?」

 

 お父さんからの手紙を読み進めていく。そこには、どら焼きをたくさん作ったからおすそ分けすることと、設楽母の気迫に押され、渋々クソTを同封すること。そして……

 

「……設楽」

「はい?」

「今晩の晩飯はフライだ」

「若竹煮のフライですか?」

「おう」

「久々だから、楽しみです」

 

 送った若竹煮を、フライにして食べるといいよ……という指示だった。

 

 ……お父さん。言われたとおりにします。あなたの若竹煮、堪能させてもらいます。俺には初めての若竹煮のフライだが、お父さんおすすめの食べ方だ。きっと美味しいはずだ。

 

 

 その日の晩飯は、お父さんのおすすめ通り、若竹煮のタケノコをはじめとしたフライ。そして、温め直した若竹煮。

 

「うまッ!」

「久々です。美味しいです」

 

 設楽は件のフライを口に運ぶやいなや鼻をぷくっと膨らませ、眉間にシワを寄せてその味に感動し、俺も初体験の若竹煮のフライに舌鼓をうった。

 

「なぁ設楽?」

「はい?」

「この食べ方って定番なのか?」

「実家では夕食に若竹煮が出た次の日には、このフライが出てましたね」

「割とメジャーな食べ方だったのか……それに、俺の若竹煮より断然うまいな」

「まぁ、料理上手の父ですから。でも先輩の若竹煮も、これに負けないぐらい美味しいと思いますが」

「そか?」

「はい。卵焼きに続く好物になりそうです」

 

 そんな賞賛を受けながら、互いに我先にとフライを貪っていく俺たち……悔しいが、若竹煮に関してはお父さんに完敗だ。若竹煮の段階ですでに美味しいのに、思っても見なかったこのフライが本当に素晴らしい。

 

 俺の若竹煮が、ご両親の心を掴まなかった理由がやっと分かった。俺が作った若竹煮は、わかめが溶けしてまわないようにさっと火を通しただけなのだが……溶けてしまったわかめがこんなに美味しいものだとは思わなかった。とろっとしたわかめがダシのうまみを吸っていて……たしかに食べるには一苦労だが、その分とてもうまい。

 

 それにしてもお父さんには恐れ入る。料理の手際を見るに、家事の腕も相当なものだ。そんな旦那がいれば、そらぁ奥さんも家事などせず、仕事に専念するだろう。そんな環境で育った娘なら、『別に女が家事をしなくてもよいではないか』的思考が育つのも不思議ではない。

 

 ……素晴らしい夫婦だ。互いが互いの得意分野で相手を支え合っている。仲もいいし、笑顔が絶えない。設楽母は笑顔ではなく仏頂面だったが……お父さんの前では、きっと設楽のようにニヘラ笑いを浮かべていることだろう。

 

 今、目の前で仏頂面でフライを頬張る設楽を見つめながら、俺は思う。

 

「……」

「もっきゅもっきゅ……」

「……」

「もっきゅ……? 何か?」

「……いや」

 

 あの夫婦は、俺と設楽の、将来の姿なのかもしれないなぁ。……いや、きっとそうだ。あの二人は、俺と設楽の理想の夫婦像なのだ。妻は前線で頑張り、夫はそれを脇で支える。

 

 そして、あの二人は俺たちが目指すべき目標だ。

 

 いつの日か俺と設楽に子供が出来て、その子に人生のパートナーが現れた時……そいつに、『素敵な夫婦だ』と思われるよう、努力していこう。普段はまったくヤル気のない俺が、珍しく人生の目標を立てた瞬間だった。

 

「なぁ設楽」

「はい?」

「お前の両親、素敵だな」

「そうですか? よくいる夫婦だと思いますが」

「そんなことない。奇特だが、とても素敵なご夫婦だ」

「奇特とは失礼なっ」

「それに……あのご夫婦はきっと、俺たちにとって、理想の夫婦だ」

「……」

「あんな夫婦になろうな」

「……はい」

 

 俺たちの子供も、こいつみたいな魅力的な子に育てよう。仏頂面はなんとか矯正したいが……まぁ別にいいか。こいつも設楽母も、一見ただの仏頂面に見えて、その実とても表情豊かだ。ただ、それらがすべて仏頂面だというだけで……絵心の無さだけに目をつぶれば、きっと、才能豊かで表情豊かで、相手を軽口で振り回す、楽しくていい子に育ってくれるだろう。

 

 若竹煮のフライを再度頬張り、その妙味を堪能する。夕食が終われば、今度は海外ドラマの続きを堪能しながら、お父さんのどら焼きタイムだ。今から胸が踊るぜ。

 

 お父さんのどら焼きだから、きっとうまいことだろう。俺は、今うちにあるお茶っ葉がそれなりの等級のものかどうかを思い出しながら、箸でフライの残りを口に運んだ。

 

 

 

渡部正嗣様

 

前略。先週は挨拶に来てくれてありがとう。

 

どら焼きを作りすぎてしまったので、いくつか送ることにした。薫と共にぜひ味わってほしい。味は保証するよ。ニヤリ。

 

あと、妻が『これからの季節にぴったりなシャツを見つけた』と耳をピクピクさせていたので、そのシャツも同封する。私にはまったく理解出来ないセンスだが、薫なら喜んで着るだろう。

 

ついでに若竹煮も送ることにする。到着する頃にはいい頃合いになっているはずだ。騙されたと思って、ぜひフライにしてみてほしい。我が家の昔からの定番なのだが……きっとキミも気にいるはずだ。

 

あの日、若竹煮を食べた私達の反応に、キミは困惑していたようだが……自信を持ってほしい。キミの若竹煮は本当に美味しかった。

 

ただ、うちの若竹煮とはちょっと違った。だから私と妻は、反応がちょっとかんばしくなかったんだ。食べ物には素直な夫婦で申し訳ない。

 

それをわかりやすくキミに伝えるために、私が作った若竹煮も一緒に送ることにしたんだよ。試しに食べてみてくれ。作り方が違うだけで、きっと美味しさそのものは変わらないはずだ。

 

キミたちが挨拶に来てくれたあの日、キミは気づいてなかったかもしれないが……私の卵焼きを食べた薫は、あまり美味しく食べているようには見えなかった。

 

そんな薫を見ながら、『きっと、キミが作る卵焼きに慣れ親しんだんだなぁ』『薫は人生のパートナーをちゃんと見つけたんだなぁ』と思ったよ。

 

薫は仏頂面で愛想がないが、私たちの自慢の娘だ。スキを見せるとクソTを着たがるし、きっと世話をしていて頭を抱えることが多いだろう。でも、私の妻にそっくりな、私達の自慢の娘なんだ。

 

渡部くん。そんな薫だが、どうかよろしく頼む。

 

私以上に薫好みの卵焼きを作れるキミになら、安心して薫を任せることが出来る。どうか、薫を幸せにしてやってくれ。

 

妻も『新しい息子が渡部さんでよかった』と喜んでいる。私も、息子と趣味仲間の友達がいっぺんに出来たみたいで、とてもうれしいよ。

 

また、いつでもうちに来るといい。その時は、また一緒に料理をしよう。互いの妻に、最高に美味しいものを作ってあげようじゃないか。キミと一緒にまた料理ができる日を、楽しみにしてるよ。

 

草々。

 

設楽直樹

 

追伸:次に来るときは、薫を落としたというチョコブラウニーを持ってきなさい。

   私のきんつばとどっちが上か、白黒はっきりさせようじゃないか。

 

 

挨拶編おわり。

 




この後、二人は何事もなく結婚します。
ちょっとした小話ですが、結婚後の二人の生活ぶりはこちらでどうぞ。


旦那に休養が出来てしまい夕食を作れなくなった時の渡部夫妻のLINE
https://chatstory.pixiv.net/stories/FCFnSas

奥様に急な仕事が入って夫婦で晩御飯が食べられなくなった時の、渡部夫妻のLINE
https://chatstory.pixiv.net/stories/8GK21Cu


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番外編 ~久々のデート~
1. すれ違いが続いた最終日


※結婚後の話なので、渡部の設楽への呼び方が『薫』になっています。


 カーテンの隙間から、うっすらと差し込んでくる朝日を感じ、俺はまぶたを開いた。

 

「……ん」

 

 自分が眠っていたのは、リビングにある二人がけのソファ。昨夜は薫の帰りを待って、そのまま眠ってしまっていたようだ。

 

「朝か……アイツは……?」

 

 ベッドではなくソファで寝たせいか、あまり頭がハッキリしない。寝違えたらしい若干ビキビキと痛む首を気遣いながら、俺はダイニングのテーブルの上を見た。

 

 昨晩あいつのために準備しておいた、晩飯の肉じゃがは……そのままだ。しかしご飯茶碗と卵焼きが乗った皿は、テーブルの上にはない。

 

「んー……肉じゃがは残したのか……」

 

 さては薫、昨夜は相当夜遅くに帰ってきたな……疲れ果てて食欲もなく……だが卵焼きの魅力には勝てず……大方そんなとこだろう。

 

 ソファから身体を起こし、立ち上がろうとした時、俺の腹にタータンチェックのブランケットがかけられていることに気付いた。薫が俺にかけてくれたのだろうか。

 

 だいぶ目が覚めてきた。居間のテーブルに目をやると、一枚のメモ書きが置いてある。

 

「ん?」

 

 メモを手に取った。これはどうやら薫からの置き手紙のようで、アイツらしい達筆な文字で、簡潔にこう書かれていた。

 

――先に出ます。例の案件、今日やっと終わります。

  だから今晩はゆっくりしたいです。

 

「……またか」

 

 驚きを禁じ得ない。『今日終わる』の部分がではない。『先に出る』の部分が、だ。

 

 アイツは俺が待ちくたびれて寝てしまうほどの深夜に家に戻り、そしてその俺が目覚める前に、出社したというのか……。

 

 薫が今、大変な仕事を抱えているのは知っている。いつぞや失敗した仕事のリベンジみたいなもので、この仕事をもし成功させることができれば、会社としても本人としても、大きなステップアップになるであろうほどの、とても大きな案件だ。

 

 薫は、あの時のリベンジとばかりに、めちゃくちゃ燃えていた。

 

――あの仕事を完遂できなかったことが、結婚前の唯一の心残りでしたから……

 

 そう語る薫の気迫は半端ではなく、その案件に取り組み始めてからの薫は、以前よりも、さらに忙しく動き回っていた。

 

 おかげで、今回はとても順調らしい。社内で時折聞こえる進捗報告も明るい物が多く、薫も、あのときのように切羽詰まった様子はない。大変は大変だが、とても充実した、キラキラと輝く仏頂面を見せていた。

 

 ……だが、俺は心配でならなかった。なぜなら、こんな毎日が、もう3週間も続いているからだ。先々々週の月曜日から始まった例の案件。今日は火曜日だから、丸々三週間が過ぎた計算だ。あいつの体力は大丈夫なのか? 土日だってこんな調子で出社してるんだぞ?

 

「すれ違いの生活が、もう3週間も続いてるんだなぁ……」

 

 ポツリと口ずさみ、口に出したその事実に、我ながら寂しくなった。

 

 俺と薫は、もう3週間も、会話すら満足に出来てなかった。 

 



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2. やっとゆっくり出来るけど

「あー……先日より設楽を中心に動いていたトノサマ商事の案件だが……本日、晴れて契約を結ぶことが出来た」

 

 もう定時近い午後5時半ごろの話だ。突然に全員出席ミーティングが開かれ、社長の口からこんな報告を受けた。

 

 事務所と同じフロアにある会議室に集められた俺たちを待っていたのは、社長と薫だ。社長はニコニコと上機嫌だし、薫もその仏頂面が、心持ち弾んでいる様に見えた。

 

「……皆さんのご尽力の賜物です。私一人では、ここまでの大仕事をやり遂げることは出来ませんでした。みなさん本当にありがとうございました」

 

 社員全員の前で薫はそう言って、みんなに深々と頭を下げていた。

 

 社員の反応は様々だ。みんな思い思いの言葉で、薫をねぎらっていた。『さすが先輩!』と設楽を称えるイケメンな後輩もいれば、『設楽ならやってくれると思っていた』と課長も鼻高々なご様子だ。

 

「……いえ、私は皆をまとめただけですから。本当にがんばったのは、皆さんですから」

 

 仏頂面で皆の称賛に応える薫も、鼻がぷくっとしてて、どこかうれしそうだ。

 

 俺も鼻が高い。俺は、以前の失敗のその時から、薫がどれだけリベンジしたがっていたかを知っている。そのリベンジを果たすことが出来たし、薫自身が「結婚前にやり残したこと」と言っていたことを、当の本人の薫が成し遂げたことは、素直に嬉しい。

 

「おめでとう薫!」

 

 俺も、珍しく拍手をし、薫の功績をたたえた。仕事なんて俺に取っちゃ生きるための手段以外の何者でもないし、そもそも仕事そのものよりも、日曜に家に届く国産黒豚ロースの味噌漬け1キロの方が大切だが……今回だけは話が別だ。俺は薫に、精一杯の拍手と、賛辞を送った。

 

「……」

 

 薫が俺の方を見た。そして……

 

「……ニヘラ」

 

 ほんの少しの間だけ、ニヘラと微笑みやがった……普段は俺の前以外では絶対に笑顔を見せないはずの薫が、皆の前であのキモい笑顔を見せるあたり、本人もやっぱりうれしいんだろうな。

 

 薫がその戦慄の微笑みを見せていたのは、ほんの数秒の間。角度的にも俺以外からは見えない角度だったためか、その笑顔が他人に指摘されることはなく、薫はすぐにいつもの仏頂面に戻っていた。あぶねーあぶねー……自分のことじゃないのに、妙に緊張したぜ……

 

「んじゃ、今日は俺のおごりで、社員全員で飲みにでも行くか!!!」

 

 ひとしきり歓声が落ち着いたところで、薫の隣の社長が大声で今晩の飲み会開始の宣言をした。うちの社長、うまい店をいっぱい知ってるからな。何が食えるのか胸が踊るぜ……なんて、俺が一人で晩飯のごちそうに胸を躍らせていたら、である。

 

「すみません社長」

「ん? どしたー設楽?」

「……少し、くたびれました。今晩は、私は帰らせていただきます」

 

 と、薫がいつもの仏頂面で断りやがった。

 

 室内は、一瞬「ぇえ〜!?」と驚きと落胆の声で満杯になったのだが……そこは仏頂面の薫。そんな風に落胆する皆を、その仏頂面でジッと見つめ、不必要なプレッシャーをかけた。

 

 薫のプレッシャーを真正面からくらった社長はもちろん、拡散したプレッシャーをくらった他の社員の奴らも、

 

「……ま、まぁ、設楽がそういうのなら仕方ないな」

「はい。すみません社長」

「大丈夫だ。ではお祝いはまた後日にしよう。今日は行きたいヤツらだけで祝うか」

 

 とこんな具合で、薫のお祝い出席を約2秒で断念していた。

 

「……なー、渡部?」

「はい?」

「お前も帰るだろ?」

「ですね」

 

 俺の隣の課長が、そんな分かりきったことを、ニヤニヤと腹立たしい顔で言う。そら帰るだろ。何がそんなにおかしいんじゃ。妻をほっぽって会社の飲み会に出るなぞ、俺の主夫魂に反しとるわ……。

 

 ちなみに、俺と設楽が籍を入れたことは、会社のみんなは知っている。本来なら、薫は一応「渡部薫」なのだが、社内では「設楽」のままで通しているのだ。

 

 

 帰りの挨拶もそこそこに、俺と薫は家路についた。2人で建物の外に出ると、まだお日様が出ていて明るい。こんな時間に薫が会社を出たのは、いつぶりだろうか。

 

 2人で並んで歩く。いつものように、薫は俺の右隣。

 

「薫、お疲れ」

 

 改めて、偉業を成し遂げた薫をねぎらってやる。

 

「私も先輩と一緒になったのですから、これぐらいのことはやって当然です」

「そか?」

「はい。でなくては先輩を幸せには出来ませんし、先輩とも釣り合いませんから」

「でもお前、今回は特に頑張ったじゃんか」

「……」

「俺も旦那として誇らしいし、自分のことのように嬉しい。よくやった」

「……」

 

 精一杯のねぎらいの言葉をかけてやる。薫はいつもの仏頂面で、まっすぐ前を向いて俺には横顔しか見せないが……やっぱりうれしいんだろうな。鼻の穴がぷくっとふくらんだままだ。

 

 ……でも、俺の心配は、やっぱり的中していたらしい。

 

「あだっ」

 

 薫が、道路のでっぱりに足を取られ、バランスを崩した。この道は通勤路だから、俺はもちろん、薫も歩き慣れている。にも関わらず、そのでっぱりに足をとられるぐらいに、薫はくたびれていたようだ。

 

「おっ……」

 

 とっさに右手を伸ばし、薫の左手を取って支えてやった。

 

「ん……ありがとうございます」

「いえいえ」

「……先輩」

「んー?」

「手、このまま握ってていいですか」

「んー」

 

 俺達はそのまま手を繋いで帰宅。今晩はゆっくり話をしたいと思っていたが、やはり薫は思った以上にくたびれていたらしい。

 

 『ご飯より先にお風呂入りたいです』という薫の言葉を受けて、俺が夕食を作っている間に薫に風呂に入らせたのだが……

 

「おーい薫ー」

「……」

「なにか食べたいものあるかー? 麺類と……か……」

「……スー……スー……」

 

 夕食の献立を決めあぐね、俺が寝室にいるはずの風呂上がりの薫にご意見を伺ったところ、薫は寝室のベッドでぶっ倒れて、そのまま眠りについていた。多分『ちょっとだけ』と思ってベッドに飛び込んで、そのまますーっと寝ちゃったんだろうなぁ……。

 

「……薫、おつかれ」

「……スー……」

 

 なんだか仏頂面ではない薫の顔を、随分と久々に見た気がする。それだけ俺達の生活がずっとすれ違っていたってことか。

 

 明日からは多少はゆっくり出来るだろうし、時間に余裕も出来るだろう。薫も定時であがれるはずだ。本当は久々にゆっくり話でもしたかったのだが……それは明日以降でもかまわないか。

 

 静かに寝息を立てている薫を起こさないように、俺は電気を消し、寝室をあとにした。今はまだ寝るには早い。薫は眠ってしまったが、俺の方は腹も減ってるから、夕食も食べたいし。

 

 ……薫、お疲れ。明日は一緒に晩飯食べような。 

 

 



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3. 奥様のわがまま

 朝。俺はいつもの時間に起き、朝食をいつものように作っていた。

 

 結局あの後、薫が途中で目をさますことはなく、今もずっと眠りこけている。これ以上のんびりしていると会社に遅刻してしまうわけだが……まぁ今日ぐらいは遅刻してもいいだろう。俺はそう判断し、薫を起こすのはやめておいた。

 

 弁当も、今日は別にいいだろう。昨日飲み会に出なかった分、今日の薫は部下たちにたかられるはずだ。こういうときに部下を大事にしておくのも、人心掌握術としては大切だしな。今日は素直に部下たちと昼飯を食ってくるがいい。

 

 そうして、俺が朝食の卵焼きと鮭の塩焼き、そして納豆を準備し終わった頃……

 

「……おあよーおあいあふ」

「はいおはよー。しかし今日は珍しく寝癖がひどいな」

「そうえすか?」

「おう。いいから顔洗って歯を磨いてこい」

「うぁい」

 

 普段に比べ、一際眠そうな薫が起きてきた。自慢のロングストレートの黒髪が大爆発していて、寝間着代わりのTシャツも裾がめくれ上がって腹が出ている。割とモデル体型の薫が、そんなセクシーな佇まいをしているわけだが……不思議なことに、今日はまったくムラッとこない。素敵な奥様に欲情しないのはどうかと思うが、今日に限って色気をまったく発揮しない、薫のせいだと思うことにする。

 

 俺に歯磨きを促された薫はそのまま洗面所へと姿を消し、ほどなくして戻ってきた。さっきと比べると、幾分その仏頂面にいつもの凄みが戻ったのだが……寝癖は相変わらずひどい。まったく直ってない。まるで二昔前の爆発コントの時のドリフみたいな寝癖だ。

 

「寝癖、直さなかったのか」

「めんどくさくて……うー……」

「あとでちゃんと直せよ。シャワーでも浴びたらどうだ?」

「はい……うー……」

 

 俺の提案に、普段口にしない『うー』という唸り声で答える薫。なんだよそのやる気のない猛獣が、愛くるしい生まれて間もない子鹿に向かって、愛想程度に威嚇してきたような声は。

 

 なんだか不機嫌そうな眼差しで、俺が準備した朝食をジッと見つめたあと、薫は椅子に座って朝食の納豆をかき混ぜ始めた。俺もエプロンを外し、薫の向かいに据わって自分の納豆をかき混ぜることにする。

 

「いただきます……うー……」

「シャワー浴びるんなら急げよ? 会社遅れるぞ?」

「……寝癖直してくださいよ」

「んー?」

「私の寝癖、先輩が直してくれればシャワー浴びなくても済みます」

 

 納豆をかき混ぜる手を止め、口を尖らせてそっぽを向きながら、設楽はそうつぶやいた。暫くの間、部屋の中では、俺が納豆をかき混ぜる音のみが響く。

 

「俺がお前の寝癖を直す?」

「はい」

「どうやって?」

「ブラシ通して下さい」

「自分で通せ」

「先輩は私の面倒を見る運命なのに……うー……」

 

 薫の様子がなんか変だな……普段なら寝癖なんて自分で直すのに……ご機嫌斜めなのか?

 

 薫の機嫌にいささかの疑問を抱きながらも、俺達の朝食は静かに続く。納豆を存分にかき混ぜた薫は、そのまま大好物の卵焼きに箸を伸ばし、口に入れた途端、

 

「……ん?」

 

 と眉間にシワを寄せ、俺作の卵焼きを、目で殺さんばかりの仏頂面で睨みつけた。心持ち、卵焼きが冷や汗をかいているように見えた。

 

「どうかしたか?」

「いつもと少し味が違う気がします……」

「そか?」

「はい。味がうすいような?」

 

 はて? いつものように味見しながら作ったし、味も普段と変わらないはずだが? 今回は特に何もミックスしてないから、味が薄まったというありがちな失敗も起こるはずがないし……

 

 俺も試しに食べてみたが……別段いつもと変わらない。

 

「まずくはないだろ?」

「はい。まずくはないですが……」

「なら今日は我慢してくれ。それから今日は弁当作ってないから」

「なぜ」

「今日は仕事を手伝ってくれた部下たちとランチしろ。昨日は飲み会出なかったんだから」

「……」

「わかったか?」

「はい。うー……」

 

 また唸る……一体どうしたというのだ薫……。

 

 その後は何事もなく朝食は終了。だが。

 

「俺が皿洗ってる間に寝癖直せよー」

「はーい。うー……」

 

 俺の指示に対して、ふてくされたようなやけくそに近い返事を返した薫は、テレビ前のソファにあぐらをかいて座り、そこから一向に動こうとしない。

 

 ついに俺が皿を洗い終わるまで、薫はまったく動かなかった。

 

「結局寝癖は直さなかったのか……」

「直してくださいよ先輩」

「わがままを言うな。寝癖ぐらい自分で直せ」

「うー……」

 

 ……おかしい。薫はよく軽口で俺を振り回すが、わがままを言って相手を困らせるタイプではない。それなのに今日は、やけに俺にわがままを言ってくる。一体どうしたというのか。

 

「ほら直せって。会社遅れるぞー」

「いーやーでーすー」

 

 ……ほら。今にしてもそうだ。俺は設楽の右手を取って無理矢理引っ張り、洗面所に連れて行こうとするのだが、薫は立ち上がろうとせずソファからずり落ち、俺に引きずられるままになってしまっている。掃除したばかりだからいいものの、そうやって床の上で引きずられ続けると、寝間着が汚れるぞ薫。

 

「遅刻しちゃうだろー!」

「いーやーでーすー!」

 

 俺も負けじと薫の両手を取ってひっぱるのだが……薫の抵抗の意志は凄まじく、床の上を引きずられても、抵抗の意志を崩さない。これじゃまるで人間モップだ。

 

「支度しろってー!」

「先輩がやって下さいよ~!」

 

 そうやって暫くの間、俺たちは互いの意地をかけてのぶつかり合いを演じていたのだが……いい加減俺も疲れてきた。廊下まで引きずってきたところで、俺は薫の両手をパッと離した。

 

「……どうした?」

「……」

 

 俺が手を離した途端、薫は廊下のど真ん中であぐらをかき、その場に座る。口を尖らせてそっぽを向き、俺と目を合わせようとしない。仏頂面以外の顔を拝めるのは新鮮でいいのだが、どうも今日の薫は考えが読めない。

 

 廊下のど真ん中であぐらをかいてふてくされる薫の前に座り、まっすぐ顔を見ながら、こいつの話を聞いてみることにする。これ以上まごついていたら仕事にも遅れる。俺は別にいいが、こいつはそれじゃまずいだろう。

 

「お前、いつもそんなにわがまま言わんだろ」

「だって……」

「ん?」

「……最近、先輩に面倒見てもらってない……」

 

 薫は、俺の追求に対し、とんがった口で不満そうにそうつぶやいた。

 

「面倒?」

「私は……先輩に面倒見てもらう運命なのに……面倒を見てもらうために結婚したのに……」

「……」

「やっと大仕事も終わったから、昨晩は二人でゆっくりしようって思ってたのに、私は寝てしまった……そして今朝はいつもどおり……」

 

 ……ははーん。なんとなく、こいつが何を不満に思っているのか見えてきた。

 

「……薫」

「なんですか……」

「わかった」

「……」

 

 ……わかった。なら、願いを叶えようじゃないか。薫をそのままほっといて、俺は一度居間に戻り、自分のスマホを取った。

 

「……」

 

 ちらっと薫を伺うが、アイツは俺に背中を向けている。完全にへそを曲げたようだが……気にせず俺は、会社へと連絡を取った。

 

『……はい。月島商事……ですが』

 

 数回のコールのあと、俺の電話に出たのは、ちょっと眠そうな声をした課長だ。昨日は打ち上げのあと、会社に泊まったのか? 二日酔いの時特有の声をしてる。頭に響く痛みを気にしてか、声も少々小さい。

 

 だが、課長に元気がないというのなら、好都合だ。

 

「課長、渡部です」

「渡部か……どうしたこんな朝っぱらから」

「今日と明日、渡部夫妻は有給をいただきまーす」

「お、おお……て、ちょっと待て渡部! お前はいいが設楽に休まれると困る!」

「そんなの知ったこっちゃありませーん。では木曜日にまた~」

 

 受話器の向こう側がやいのやいのと騒がしいが、気にせず通話を切った。これでよし。今日と明日は、会社を気にせずとも良い。

 

「薫」

 

 まだ廊下から動かない薫の方を見たら……あいつ、俺の電話が聞こえてたのか……こっちに背中を向けていたはずの薫は、いつの間にか振り返り、眉間にシワを寄せたものすごく険しい仏頂面で、こちらを見つめていた。

 

「……休んでいいんですか?」

「ああ。今日と明日は会社を休む」

 

 薫の鼻が、ぷくっとふくらんだ。

 

「ホントですか?」

「本当だ」

 

 薫の座高も、『ぴこん』と音を立てて少し伸びた。

 

「今日は先輩とのんびり過ごして良いんですか?」

「もちろんだ。そのための有給だ」

「今日一日は……先輩と、何してもいいんですか?」

「常識はわきまえろよ?」

 

 そして薫の眼差しにハイライトが戻り、見る人を殺しそうな勢いも戻ってきた。やっといつもの薫に戻ったか。やっぱりお前、久しぶりにゆっくりしたかったんだなぁ。

 

「で、では先輩……」

「おう」

「私の寝癖を直してくれたあと、どこかに遊びに行きませんか?」

「……寝癖は俺が直さないといかんのか」

「はいっ」

 

 『結局寝癖は俺が直すんかい……』と心の中で毒づく俺を尻目に、薫は、瞳をキラキラと輝かせ、眉間にシワを寄せて生き生きした仏頂面を浮かべていた。 

 



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4. デート先には、薫がいっぱいだ

 俺が薫の髪にブラシを通してやることで、不思議と寝癖はすんなりと直りやがった。あの寝癖は『夫婦でゆっくりしたい』という薫のわがままが爆発したことによる、堅い決意の寝癖だったのか……

 

 無事に寝癖が直った薫は、一度そのまま寝室に戻って外出着に着替えてきたのだが……

 

「薫?」

「はい?」

「別にいいが……暑くないか?」

「先輩こそ、寒くないですか?」

 

 半袖の普通のTシャツに着替えた俺とは対象的に、薫はいつもの『ふつう』のクソTの上から、パステルグレーのカーディガンを羽織っている。

 

 春先でいい天気の今日は、どちらかと言うと暖かい。天気予報でも、俺好みのたぬき顔のお天気お姉さんが「今日は一日中良い天気に恵まれ、場所によっては真夏日となるでしょう」と香港の夜景のような笑顔で言っていた。

 

 そんな天気だから、俺は半袖のTシャツでも少々暑く感じるぐらいなわけなのだが……一方の薫はというと、そんな天気なのに『寒い』といい、クソTの上からカーディガンを羽織っている……はて?

 

「まぁいいか」

「?」

 

 まぁ気温の感じ方なんて人によるしな。本人から聞いたことはないが、こいつは案外冷え性なのかもしれんし。

 

 

 準備が整った俺と設楽は、そのまま2人で家を後にする。

 

「で、どこ行くか決めたか?」

「考えたのですが、オーソドックスに水族館はいかがでしょうか」

「そういやデートで水族館て行ったこと無いな」

「はい」

 

 スマホでここから行ける水族館を確認してみると……最寄り駅から3つほどのりついだところに、深海生物が売りの水族館がある。デートとなると、もっと可愛らしい動物が多い水族館の方がふさわしいと思うのだが……ペンギンとか久々に見たいしな。と俺は考えていたのだが……

 

「深海生物が見たいです」

「マジか」

「はい」

 

 という、カーディガンを羽織った設楽の仏頂面に進言され、俺達は件の深海水族館へと足を伸ばすことにした。

 

 

 海のすぐそばにある件の深海水族館は、とてもこじんまりとした施設だ。水族館というにはちょっと小さい建物の中で、深海生物以外にも、シーラカンスの冷凍標本なんかも展示されている。

 

 ちょっとうれしいのが、魚市場や旨い魚を食べさせてくれる店など、周囲に食事ができる店が充実している点だ。近海をクルージング出来る船の発着場などもあり、ちょっと他にない観光地の様相を呈した場所になっている。

 

「ではさっそく行きますか先輩」

「……」

 

 現地に到着するなりキラキラと両目を輝かせ、薫は俺の手を引っ張って我先にと深海水族館を目指す。その様は待ちきれない子供や、はたまた実年齢より若干幼い印象の、可愛い女の子の様相なわけだが……

 

「……」

「どうしました?」

「……いや」

 

 仕草は確かにそうなのだが、顔はいつもの仏頂面なだけに、傍から見ると、怒り狂った妻にこれから地獄に落とされる、哀れな夫のようにみえるんだろうなぁ……

 

 ここに来て、薫はとても元気になっていた。朝のご機嫌斜めな薫は鳴りを潜め、今は絶好調で機嫌もいいらしい。

 

「いらっしゃいませ! 深海水族館へようこそ!!」

 

 それが証拠に、こいつは普段なら俺以外には絶対に軽口を叩かないはずなのだが……

 

「それでは人数は大人2人でよろしいですか?」

「はい。私たちは夫婦です」

「それはそれは」

「結婚してまだ一年経過していません」

「おめでとうございますー」

「夫婦なんです。私は仕事、夫は家事で互いを支え合う、結ばれる運命にあった夫婦なのです」

「は、はぁ……」

「そんな私たちにぴったりなチケットを準備していただきたいのですが」

「……か、カップル割でよろしいですか?」

「新婚割引みたいなものはないのでしょうか。もしくは運命のふたり割とか」

「……すみません、カップル割でお願いします」

「バカな先輩っ! それではまるで私達がまだ結婚してないみたいではないですかっ」

「いいんだよ。水族館のお姉さんに無意味な機転を強要するな」

 

 とこんな具合で、水族館入口のチケット販売窓口のお姉さんをその軽口で振り回し、水族館に対して、迷惑この上ない理不尽な営業妨害を働いていた。

 

 

 そうしてチケット窓口のお姉さんに迷惑を振りまいた俺達は、そのままカップル割のチケットを使って入場。建物内を順路に従って2人でてくてくと歩いて行く。

 

「先輩」

「なんだ」

「海の生物ってのは、やっぱり見ごたえがありますね」

「確かにな」

 

 順路に沿って配置された水槽には、陸上ではお目にかかれない珍妙な生物が所狭しとひしめき合っている。海老や蟹などの甲殻類はもちろん、ヒトデやウニ、はてや一本一本がぶっとい糸くずの塊みたいな生き物まで……そのバリエーションは様々だ。

 

「……あ、先輩」

「ん? どしたー?」

 

 薫が、ある珍妙な魚の水槽に興味を持った。それは、その姿形こそ至極普通の魚だが(若干口が尖って飛び出ているが)……その泳ぎ方が独特だ。頭を下にして逆立ちの状態でゆらゆらと水槽内を漂っている。

 

「おお……」

 

 薫が水槽に釘付けになっている間に、俺がその魚の名前を確認したところ……名前は「ヘコアユ」というそうだ。海水魚なのにアユ……そこには何か理由があるのか……

 

「……なんか、家事をしてるときの先輩みたいですね」

「そうか?」

「はい。なんかシャキーンてしてます」

 

 また意味不明なことを……そう思い、俺もヘコアユの群れを眺めるが……これは、俺にそっくりというより、むしろ……

 

「……つーかむしろ、仕事中の薫みたいじゃないか?」

「そうですか?」

「おう。なんかシャキーンてしてるところが」

「はぁ」

 

 マヌケな返事を返す薫をよそに、俺はヘコアユのスマートな出で立ちと、にも関わらず逆立ちで泳ぎ続けるその珍妙な様相、そしてキリリとしてシャキーンとした目鼻立ちに、いつしか仕事中の薫の仏頂面を重ねて見ていた。

 

「……夫婦ですね」

「だな……まさか互いに相手を重ねるとは……」

 

 困ったことに、その後も見る生き物見る生き物、すべてが相方に見えてくる俺達。例えば……

 

「先輩先輩」

「んー?」

「こっちにおっきなカニがいます」

 

 大きめの水槽を食い入る様に見つめる薫が、少し離れたところでヒトデの裏側を眺めていた俺を、大声で呼んできた。周囲の人のクスクス声に恥ずかしさを覚え、赤面しつつ薫の元に行ってみると、そこには『世界最大のカニ』と呼ばれるタカアシガニが数匹、微動だにせず佇んでいた。

 

「おー、タカアシガニか」

「はい。大きいです」

「これだけ大きいと流石に見応えがあるな」

 

 そんな俺達の好奇の目などどこ吹く風で、目の前のタカアシガニは微動だにしない。足やハサミは数ミリも動く気配はなく、唯一口元の触覚みたいな部分だけがピロピロと動いていることが、そいつが生きていることをかろうじて俺たちに伝えている。

 

「動きませんね」

「だな」

「休みの日の薫みたいだな」「仕事中の先輩みたいですね」

 

 腹立たしい意見の一致を見たところで、記念に写真でも撮っておくかとスマホのカメラを向けた。

 

 だがその途端にタカアシガニの野郎は突如機敏に身体を動かし始め、カメラの準備に追われる俺を尻目に、水槽の奥の方へと逃げていった。

 

「……逃げましたね」

「……残念。もう写メ撮れないな」

 

 口惜しい気持ちを心の奥底にしまい、俺がスマホを懐にしまっていたら……俺の視界のすみっこで、さっきのタカアシガニがこっちを覗き込むように身体を傾けているのが見えた。『どうしたオラ。俺様を撮影してみろやオラ』というやけにイキった吹き出しが、タカアシガニ野郎の頭上に、見えた気がした。

 

「……くそッ!」

「?」

 

 霊長目ヒト科として節足動物ごときにこんな気持ちを抱くのは大人気ないが……俺はこのとき、あのタカアシガニ野郎に、純粋な殺意を覚えた。

 

 

「先輩。こっちに仕事中の先輩がいます」

 

 タカアシガニへの憤りに身を焦がしていたら……いつの間にか別の場所へと移動していた薫が、今度はこんな腹立たしい呼び方で、俺の逆鱗を逆なでしてくる……一体何を見つけたのかと、薫が興味津々に覗き込んでいる、その水槽の中を覗いてみた。

 

「……なにこいつ」

「仕事中の先輩です」

 

 薫が熱心に眺めていた生物……それは説明書きによると、深海生物の一つ、「メンダコ」らしい。展示されている写真によると、なんだか出来の悪いちょうちんに、やけに鋭い目つきの目と可愛らしい耳がくっついた、とても愛くるしいデザインの生物のはずなのだが……

 

「写真と全然違うな。だらしないし、愛くるしさがない……」

 

 今、目の前にいるメンダコは、陸に打ち上げられたクラゲのようにだらしなくびろーんと広がりきっており、写真のような愛くるしさはどこにも見当たらない。しかも、風貌はそんなふうにだらしないのに、目だけはやけに鋭く、目が合う者を殺気がこもった眼差しで威嚇している。

 

「そんなところが、仕事中の先輩そっくりです」

 

 ドヤ顔でそういい、俺に得意げに仏頂面を向けてくる薫を見ながら、俺は思う。

 

 この、だらしなく広がった、やる気が感じられない風貌……ぴろぴろと愛嬌を振りまく耳……そのくせ、表情は相手を殺さんばかりの仏頂面……これ、むしろ休みの日の薫そっくりじゃないか?

 

「……これ、お前だろ」

「失礼な。私はいつもシャキーンてしてますが」

「いや失礼てなんだよ」

「これは仕事中の先輩以外の何者でもありません」

「いや、これは休みの日の薫以外の何者でもないな」

「失礼なっ」

「お前こそ失礼だっ」

 

 

 その後も俺たちは、目に入る生き物をことごとく相手のイメージに照らし合わせていた。足を使って海底をちょこちょこと歩く魚を見れば「まるでお化け屋敷に入るときの薫」と俺があざ笑い、ちっちゃいフグの仲間を見ては「まるで珍しく仕事にやる気を見せている先輩」と薫が俺を罵倒する……

 

「先輩、この冷凍標本のシーラカンスですが……」

「おう」

「まるで実力を大きく上回る仕事を押し付けられて、凍りついてる先輩にそっくりです」

「そんな瞬間見たことあるんかい……」

「ありませんが、こうなるという確信があります」

「……それはそうと薫」

「はい?」

「このオウムガイだが……」

「?」

「休みの日に仏頂面でえらく上機嫌に部屋の中をふわふわと漂うお前みたいだ」

「失礼なっ。私は休日中こんなにやる気なく部屋の中を彷徨ったりなどしていませんが」

「しとるだろ。しかも仏頂面で」

「していませんが」

「してるし」

 

 そんなこんなで、互いに互いを深海生物になぞらえて罵倒し合う、憎悪渦巻く水族館探訪は幕を閉じた。機会があればまた来たいな。今度はあの憎きタカアシガニ野郎を写真に収めたいし。

 

 

 その後、水族館から少し離れたところにある、魚市場の隣の食堂で昼食を取ることにした。水族館のすぐそばの売店では、名物と思しき『深海魚バーガー』なるハンバーガーが売られていたのだが……やはりそこは、生粋の日本人。『こういうとこでは、コメの飯で生魚が食べたいなぁ……』という己の欲望に従うことにした。薫も同じだったようで……

 

「お刺身が……あとキスの天ぷらが……」

 

 と、水族館を出てから食堂に入るまで、悪夢にうなされている少女のような口調で、ずっとぶつぶつつぶやいていた。

 

「先輩」

「んー?」

「美味しいです」

「だな」

 

 俺が頼んだのは、マグロやエビなどの刺し身がてんこ盛りの海鮮丼とカサゴの唐揚げ。薫は宣言通りの具だくさん天丼と刺身の盛り合わせを頼んでいた。

 

 薫はちょくちょく俺のカサゴの唐揚げの身を強奪していく。俺もお返しとばかりに薫の天丼からエビやキスなんかを強奪していくわけだが……やはり、どのメニューもうまい。海のすぐそばで、魚市場の隣という立地上のメリットを最大限に活かしていると言えよう。

 

 互いのメニューにちょっかいを出しながら舌鼓を打つ俺たち。最後の海老天を口に運んだ薫が、俺のことをジッと見つめていた。

 

「……ふぇんふぁい」

「口の中の海老天をまず飲み込んだらどうだ」

「ぐぎょっ……先輩」

「おう」

「……今日は、ありがとうございます」

「ん?」

「会社をサボって、私と遊んでくれて」

 

 なんだそんなことかと、俺はいつかのように鼻を鳴らす。

 

「いいんだよ。薫は最近、ホントによく頑張ってたし」

「……」

「ちょっとぐらいサボっても、誰も文句は言わん。仮に言う奴がいても、そんなの関係ない」

「……」

「それにだ。妻のバイオリズムをコントロールするのが、旦那の俺の役目だし、それに……」

「それに?」

 

 次の言葉をこんな場所で言うのは恥ずかしいが……逆に言えば、こんな機会でもなきゃ、言えないしな。意を決し、俺は恥ずかしい本音を口にする。

 

「……正直、薫とゆっくり出来なくて、俺も寂しかった」

 

 言ってしまった……途端に顔が熱くなる。自分の顔がまっかっかになって、熱を帯びてきているのが、自分でもわかるぐらい、顔がカッカカッカして熱い。

 

 ……でも本当のことだ。薫があの仕事をやりだしてからこっち、こうやって満足に会話する機会なんて、ずっとなかった。俺が朝起きたら薫はすでに出社してたし、薫が帰ってくるのは、いつも真夜中。晩飯だってずっと一緒に食べられなかったし、それこそ、会話なんて出来なかった。

 

 素直に認めよう。そんなすれ違いの日々が、俺も寂しかったんだ。こうやって、薫と久々に遊びたかったんだ。久しぶりに二人で遊んで、軽口叩きあって、仏頂面を眺めて、そして笑いたかったんだ。

 

 薫を見ると……

 

「……ニヘラぁ」

「う……」

 

 昨日のミーティングのときにほんの一瞬だけ見せた……でもその時よりも何倍もキモいニヘラ笑いを浮かべていた。

 

「ニヘ……先輩」

「ん?」

「もっと言ってください」

「何をだ」

「『俺も寂しかった』って……ニヘ……ニヘヘ……」

「キモいぞ」

「ちくしょう」

「……」

「……」

「……寂しかった」

「ニヘラぁ……」

 

 俺の『寂しかった』という言葉がそんなにうれしかったのか……世界一の美女である俺の奥様は、その美貌を台無しにするキモい笑みをやめようとはせず、食堂を出るまでの間、終始『ニヘ……ニヘヘ……』とほくそ笑み続けた。

 

 そんな薫の笑顔を見ながら、俺は思う。

 

「調教されたのかなぁ……」

「ニヘ……先輩が……寂しいって……ニヘヘ……」

 

 困ったことに、俺は奥様がいないと生きていけないよう、いつの間にか調教されてしまっていたのかもしれない。

 

 まぁいいか。こんなに可愛い奥様なら。

 

「……そろそろ出るぞ。顔引き締めとけ」

「はい」

「……」

「……ニヘラぁ」 

 

 



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5. ホッとしたとき、ありがちなこと

「ふぃー。ただいま〜」

「ただいまで〜す」

 

 食堂での食事が終わった後、周辺の市場で買い物をした俺達は、そのまま帰宅した。

 

「薫は晩飯までちょっと一休みしてるといい」

「先輩は」

「俺は晩飯の準備だ」

 

 買ってきたのはキンメダイを丸々一尾と鯨のベーコン。刺し身は昼に散々食べたから、キンメダイはそのまま煮付けにでもしよう。鯨のベーコンは……今日はまだいいか。また今度、薫とゆっくり晩酌するときにでも開けるとしよう。

 

「先輩はゆっくりしないんですか」

「俺は晩飯を作らなきゃならん」

「了解です」

「なんなら先に風呂入っててもいいぞ。今日は疲れたろ?」

「……じゃあお風呂は準備だけしときます。晩ごはんのあとで一緒に入りましょう」

「はいよー」

 

 俺に促され、薫は風呂の準備をするために風呂場へと消えていった。一方の俺は買ってきたキンメの下処理をするため、台所でまな板を出し、包丁を準備する。

 

「……先に炊飯器を仕掛けておくか」

 

 そう思いたち、包丁を出したところで、俺は一度キンメを冷蔵庫にしまった。冷蔵庫の中は思ったよりガランとしていて、明日あたりにでも食材を買いに行かなければならないことを、俺に静かに伝えている。

 

 炊飯器の内釜にコメを入れ、シャワシャワと洗っていたとき、俺は、ちょっとした異変に気づいた。

 

「……あれ」

 

 薫が風呂場から戻ってこない。風呂場の方からドアを閉じる音は聞こえてきたから、あいつが風呂の準備をしたこと自体は俺にも伝わったのだが……にもかかわらず、薫がリビングに戻ってこない。

 

「薫―?」

 

 米を洗いながら薫の名前を呼んでみるが、返事はない。

 

「着替えか?」

 

 米を洗い終わった後、エプロンで手を拭いて炊飯器のスイッチを入れ、俺は一度台所から寝室へと足を運んでみた。風呂場からは湯を張ってるダバダバという音が聞こえている。やはり俺が思ったとおり、薫はキチンと風呂の準備をしてくれたようだが……

 

 寝室に入ると、電灯が点いている。肝心の薫の姿は見当たらないが、ベッドの上の掛け布団が、不自然に盛り上がっている。

 

「……」

 

 『お前は小学5年生か』という言葉が喉まで出かかったが、そこはグッとこらえる。そっちがかくれんぼをしているつもりなら、俺だって騙されたふりをして、最後までお前に付き合ってやろうじゃないか。

 

「あー……薫はどこに行ったんだろうなー」

「……」

「わっかんないなー。どこに行ったんだろー?」

「……」

 

 非常にわざとらしい演技を行いながら、掛け布団に手をかける。相手を油断させ……そして……

 

「……こら薫っ!」

 勢いよく布団を引っ剥がす。思ったとおり薫は、掛け布団の下にうつ伏せで隠れていたのだが……。

「……ハッ……ハッ……」

「薫?」

 

 なんだか様子がおかしい。顔を見ると、目がうつろでぼんやりしてるし、表情も仏頂面というには、あまりに覇気がない。

 

「ハッ……ハッ……先輩、わーっ……」

「……具合が悪いのか」

「せっかくびっくりさせたんだから……ハッ……ハッ……驚いてくださいよっ」

「いつからだ」

「帰ってくるときに、ちょっとフラッてして……ハッ……ハッ……」

「……」

「『気のせいだろう』と思ってたのですが……お風呂の準備が終わったところで頭のグラグラがひどくなって……ちょっと横になったら、寒くなってきて……」

「……」

「でも、晩ごはん食べて一緒にお風呂入れば、なんとかなるだろうと思って……」

 

 連日の激務のせいか……こいつは、体調を崩していたようだ。

 

 考えてみれば、こいつは朝から、俺に対してシグナルを発し続けていたじゃないか。いつもと同じ味の卵焼きを食べて『味が違う』と言い、この暑い日にカーディガンを羽織って、Tシャツ一枚の俺に対して『寒くないですか?』と言っていたじゃないか。

 

 俺の心に、後悔の気持ちが芽生える。それらが何を意味するのか、もっと早く気がつくべきだった……毎日俺の卵焼きを食べているこいつが、いつもと同じ卵焼きを食べて『味が違う』と言った意味を、もっとよく考えるべきだった……

 

 ベッドに腰掛け、苦しそうに浅い息を続ける薫の額を触る。赤いでこちんは、思ったより熱い。

 

「ハッ……ハッ……」

 

 薫は今日一日、俺と一緒になって、ずっと大騒ぎしてはしゃいでいた。本人が気づいてないところで蓄積していた今までの疲労に加え、今日の分の疲労も重なって……ホッと一安心したところで、今までの借金が一気に吹き出したんだろう。

 

「……すまん薫」

「ハッ……ハッ……何が……?」

「今日はデートせず、休むべきだったな……」

 

 辛そうに浅い息をし続ける、薫のほっぺたに触れる。でこちんと同じくまっかっかで、めちゃくちゃに熱い。

 

「や……です。そんなこと……ハッ……ハッ……言わないで」

「なんでだ。今日はゆっくりしてりゃ、お前も倒れることなんかなかったろ」

「私は、後悔なんか……してません……ハッ……ハッ……」

「……」

「楽しかったぁ……久しぶりに、先輩と一緒に、いちゃいちゃ出来て……楽しかったぁ……だから、気にしないで、ください」

「……そりゃ、気にしろってことか?」

「はい」

「んで、看病しろってことか?」

「はい……ニヘ……」

 

 そんないじらしいことを言い、薫はニヘラとキモい笑みを浮かべる。……いや、キモい一歩手前程度の、いまいちキモさの足らない微笑みだ。

 

「……しゃーない。妻のバイオリズムを整えるのは、旦那の役目だ」

 

 薫のほっぺたから手を離し、ベッドから立ち上がる。時計を見ると、今は午後の4時。思ったより時間が過ぎていたが、まだまだ夕方の早い時間だ。

 

「……う」

 

 薫の力無い唸り声が聞こえたが、今はそれを無視する。ポケットからスマホを取り出し、俺は会社に電話をかけた。

 

『お電話ありがとうございます。月島商事でございます』

 

 俺の頭をデジャブが襲う……数回のコールのあとに電話に出たのは、若いやつではなく課長。なんで課長が電話番なんかやってるんだ?

 

 ……だが、一発目から課長が出たなら好都合。いちいち取り次いでもらう手間も省ける。

 

「課長。渡部です」

『おお渡部か。お前らが休んでるおかげで社内はけっこうてんやわんやしててな』

「ほー。それはそれは」

『お前の影響はないが、設楽が休んでると社内の進行管理がなかなかうまくいかん』

 

 課長のこの一言が、俺のプライドに不必要な傷をつけた。仕事に対するプライドはないが、直接こんなことを言われれば、俺だってへそを曲げる。

 

 ……まぁいいだろう。これで罪悪感を一欠片も抱えることなく、気兼ねなく話が出来る。そんなものを会社に対して持ち合わせたことなぞ、一度もないがな。

 

「課長、俺が朝言ったこと、覚えてますか?」

『朝? 有給の連絡か?』

「はい。今日と明日は有給という話です」

『このてんやわんやが明日も続くというのは考えたくない。設楽だけでも出勤してくれんか?』

 

 勝手なことを言いやがる……なーにが考えたくないだ。それをなんとかするのがあんたら管理職の仕事だろう。電話番はあんたの仕事じゃないはずだ。

 

「そのことですが……課長、前言撤回します」

「は?」

「渡部夫妻、今週いっぱい休ませていただきまーす」

 

 途端に大騒ぎになる受話器の向こう側。薫の様子をチラと伺うと、力のないトロンとした眼差しで、じっと俺を見つめてる。

 

「……先輩」

 

 薫の唇が力なくそう動いたが、俺は気にせず電話を続けた。

 

『ちょっと待て! 今週いっぱいって、今週はずっと休むってことか!?』

「そうでーす。渡部夫妻、今週はもう出勤しませーん!」

『設楽はまだ大丈夫だがお前は有給もう残ってないだろ!?』

「んじゃ俺は欠勤で」

『設楽だけでも出勤してくれないと困る!』

「そんなの知ったこっちゃありませーん。俺は休んでも会社に迷惑かからないし、妻はまだ有給残ってるし、何の問題もないでしょー」

『う、あ、し、しかし……!』

「それでは課長っ! よい一週間を!」

 

 未だわーわーギャーギャーとやかましい課長を尻目に、俺は通話を切った。そのままスマホを機内モードへと切り替え、一切の着信をシャットアウトする。

 

「……これでよし」

「先輩?」

「お前のスマホは?」

「そっちですが……」

 

 力なく指差されたその先のワゴンには、薫のスマホが無造作に置かれていた。それを手にとった俺は……

 

「薫、手」

「て?」

「おう」

 

 力が全く入らずぐったりとしている薫の右手を取り、親指をホームボタンに押し当てる。スマホのロックが解除されたのを確認した俺は、そのまま薫のスマホも機内モードへと切り替えた。

 

「あ……」

 

 これで俺と薫のスマホは、こっちから機内モードを解除しない限り、もうほかの奴らに鳴らされることはない。つまり、邪魔するやつはいないわけだ。そんな無用の長物と化したスマホどもをポイとワゴンの上に投げ捨て、俺はベッドの上でポカンとしている薫のそばへと腰を下ろす。

 

「今週はもう仕事の心配はしなくていい」

「ホントですか」

 

 薫がもぞもぞと、俺の膝の上に上半身を乗せてきた。体温が高い上にその猫顔……お前は猫かと突っ込みたくなる気持ちを抑えつつ、薫の頭をくちゃくちゃと撫でた。

 

「おう。風邪なのか過労なのかは知らんが、とりあえず体調を戻すことだけ考えればいい」

「今日と明日が休みというだけで贅沢なのに……そんなに休んでいいんですか」

「いいんだよ。今月はさんざん走り回ってたろ? それこそ、俺達の生活がすれ違うぐらい」

「でも……会社に迷惑では……?」

「平日に夫婦が一緒に晩飯を食えない方が間違ってるんだよ。いいから休め休め」

「……はい」

 

 もはやおばあちゃんちの猫と寸分違わぬ存在となった薫が、俺の膝の上で、俺の腰にしがみつく。俺はこいつの頭を撫でる手を止めない。猫なら猫らしく俺に撫でられるがいい。

 

「食欲は?」

「不思議とあるんですけど……『ない』って答えたほうが、手厚く面倒見てくれますか」

「どう答えてもちゃんと看病するわ。ただ作るものが変わるだけだ」

「……んじゃ、食欲あります」

「んじゃ今晩は、キンメじゃなくて豚肉にするか。梅使って、さっぱりたくさん食べられるようにするよ」

「あと、卵焼きも」

「はいよ」

「……ありがとう。旦那様」

「どういたしまして。奥様」

 



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6. 元気がなかったのは薫だけじゃなくて

 ザクザクと適当に切ったキャベツともやしとかぼちゃ、そして薄切りの豚バラ肉を耐熱皿に乗せ、ラップをかけて電子レンジの中に突っ込む。

 

「よっ……」

 

 適当に時間を5分にセットし、俺は電子レンジをスタートさせた。その途端にレンジの中で耐熱皿が回りだし、豚肉共はフィギュアスケーターよろしく中心点がぶれない華麗なターンを繰り返していた。

 

 豚肉その他を温めてる間にドレッシング作りだ。種をとってまな板の上で適当に叩いておいた梅干しとめんつゆ、そしてすし酢をよぉおおく混ぜ合わせ、そして菜種油を少しだけ垂らす。

 

「……適当に合わせた割にはうまいな」

 

 味見をして、自分の適当さもある程度のレベルの結果を残せるのかと感激した頃、電子レンジの小気味良い『チーン!』という音が鳴り響いた。扉を開いて中を覗くと、まだ豚肉の火の通り具合が甘い気がした。あと3分ほどチーンってしとくか。

 

 再度、豚肉共を電子レンジにかけ、その間に今度は卵焼きを準備する。今日はだし巻き。朝の薫は『味が薄い』と言っていたが、味付けそのものはいつもと同じでいいはずだ。

 

 再びキッチン内に『チーン!』という電子レンジの叫びが響く。まるで測っていたかのように炊飯器も『てーてれてれてーれーれー♪』と歌い出し、飯が炊けたと俺に知らせてきた。薫は食欲はあると言っていたし、別におかゆにはしなくていいだろう。食欲あるなら、キチンと食べたほうが体力つくだろうし。

 

 お盆の上に豚肉野菜etcが乗った耐熱皿をそのままと、お手製手抜き梅ドレッシング、そして卵焼きと温め直したお吸い物とご飯を乗せ、『おつかれ薫御膳』の完成だ。

 

「品数少ないか? ……まぁいいか」

 

 配膳の済んだ『おつかれ薫御膳』を、寝室で待つ薫の元へと、届けてやる。

 

「薫ー。お待たせ」

 

 寝室のドアを開ける。途端に薫がベッドから起き出し、ぼんやりとした眼差しで、鼻をひくひくと痙攣させ始めた。俺が夕食を作っている間に着替えたらしく、薫は寝間着になっていた。

 

「起きられるか?」

「大丈夫です」

 

 ベッドの中で上半身を起こし、そしてそのまま腰掛ける薫。やはり薫は風邪というよりも過労に近いようで、咳もせずくしゃみもせず、ただただ熱でぐったりしているようだ。

 

「……おっ。言ってた通りのメニューですね」

「名付けて『おつかれ薫御膳』だ」

「ひどっ……」

 

 そんなセリフとは裏腹に、さしてメンタルダメージを負ってない素振りの薫。『おつかれ薫御膳』のおぼんをワゴンに乗せ、俺は薫の前に差し出してやった。

 

「うー……」

「ん?」

 

 薫が朝みたいにまたうなりだした。朝のときよりも覇気がなく、愛想すら無くなった程度の、なんとも情けない唸りだ。

 

「なんだよ」

「……先輩は一緒に食べてくれないんですか」

 

 ……ちょっと読めてきた。薫が唸るときは、なにか不満がある時のようだ。もっと言うと、不満があって、わがままを言いたいときに、自然と唸り声が出るみたいだ。

 

 しかもこの癖は、結婚前には見せてなかったものだ。結婚して家族になり、薫も俺に気を許す場面が増えてきたのかもしれない。

 

「お前の世話があるだろう?」

「でも先輩……」

「んー?」

「『夫婦が一緒に晩ごはんを食べられないのはおかしい』って言ってたじゃないですか」

 

 ……そら確かに。至極ごもっともな指摘だ。やるなこいつ……グロッキー気味の仏頂面なくせに。

 

「んじゃ、俺の分も持ってくるから、ちょっと待ってろ」

「はいっ」

 

 本当は薫を寝かしつけた後、一人で食べるつもりだったんだけど……まぁいい。たまには寝室で、二人でご飯ってのも、悪くない。

 

 気の抜けた肉食獣のような眼差しの薫を残し、俺は一度キッチンへと戻る。そしてそのまま自分の分の『おつかれ薫御膳』をおぼんに乗せ、寝室へと舞い戻った。

 

「ただいまー」

「おかえりなさい先輩」

 

 薫の差し向かいに椅子を持ってきて座る。昼のように賑やかな場所ではない。静かな寝室で、ずいぶん久々の、二人だけの夕食が、やっと始まる。

 

「……では先輩」

「おう」

「「いただきます」」

 

 二人で同時に手を合わせた後は、俺はお吸い物に口をつけ、薫は豚肉に箸を伸ばした。

 

「……すっぱ」

「そか?」

「はい。でも美味しいです」

「……そっか」

「はい。……ホントに美味しいです」

 

 梅ドレッシングの酸っぱみに顔をすぼめながらも、薫が俺の晩飯を美味しいと褒めてくれる。そんな、なんでもないはずのことに、胸が暖かくなる。

 

「……そんな酸っぱそうな顔で言っても説得力無いぞ」

「どうせいつも信じてもらえてないのですが」

「そか?」

「はい。いつも『そんな顔で言っても説得力無い』って」

「……だな」

 

 豚肉で野菜を巻いて、それを口に運んだ薫は、再び顔のパーツのすべてを顔の真ん中にぎゅーっと集めていた。

 

 そんな薫を見ながら、俺は思う。

 

 ……俺も、心の何処かがくたびれていたみたいだ。家の中で薫の仏頂面を拝めない日々が続いて、俺も心の何処かで、『くたびれたー……奥さんとのんびりしたーい……』って愚痴をこぼしてたみたいだ。自分のことながら、そんなことに今更気付いた。

 

「……なー薫」

「はい」

「卵焼き、うまいかな」

「はい?」

「……今日の俺の卵焼き。うまいかな」

 

 改めて、卵焼きの味を聞いてみる。愛する自慢の奥様に、自分が作った卵焼きを、褒めてほしいから。

 

 眼の前の奥様は俺の言葉を聞いて、仏頂面を崩さないまま、口の中に残った豚肉をぐぎょっと飲み込み、そして卵焼きを頬張ってくれた。

 

 しばらくもぐもぐと味わった後、薫はいつものように、口の中に食べ物を入れたまま、ほっぺたをリスのように膨らませ、いまいち何を言っているのかよくわからない感じで、

 

「めひゃふひゃおいひいれふ」

 

 と、いつかのように言ってくれた。

 

 聞いた途端、俺の胸がホッと安心した。暗闇の中で、お誕生日ケーキのろうそくに小さな炎が点いたように、ぽっと明るく、そして暖かくなった。

 

「そっか」

「ぐぎょっ……はい。……でもどうしました?」

「んー?」

「今までそんなに真剣に『うまいか?』て聞いてこなかったじゃないですか」

「だな」

 

 ……恥ずかしいから言わないが、久々にお前の口から『おいしい』って言ってほしかったんだよ。そして、胸をポカポカさせたかったんだ。

 

「……知らんでいい」

「ひどっ」

「いいんだよ。早く食べないとお吸い物が冷めるぞ」

「はぁ」

「……」

「……?」

 

 俺の答えを聞いて、薫は困ったように眉間に皺を寄せる。こいつとの暮らしの中で、仏頂面にも色々と種類があることはもう分かってる。それだけ俺は、こいつの仏頂面をよく見てるってことだ。

 

 ……なあ薫? お前、前に『私なしでは生きられない先輩に調教する』って言ってたよな? お前自身には自覚はないようだが、俺はお前に、めでたく調教されてしまったみたいだ。

 

 だってお前に『おいしい』って言われただけで、こんなに胸が暖かくなるから。くたびれていた心がみるみる元気になっていくのが、自分でもわかるから。

 

「……先輩」

「んー?」

「美味しいです。……ホントに」

「んー」

 

 

 胸を暖かくさせたまま、俺達は久々の二人だけの夕食を終えた。洗い物も終わり食器を片付けたあと、薫が風呂の準備をしていることを思い出した。

 

 このままじゃ、せっかく準備してくれた湯がもったいない。薫は無理だろうけど、俺は入るか。

 

「おーい薫ー」

「はい」

 

 薫に声をかけるため、俺は寝室に入る。ベッドの上の俺の奥様の顔色が幾分ましになってきた。晩飯を食べたことで、少し体力が戻ったのかもしれない。いい傾向だ。

 

「せっかく準備してくれたし、俺は風呂に入ろうと思う」

「……う」

「なんだよ」

「……私も入りたいです」

「熱出てるだろ?」

「だって……『一緒に入りましょ』て言ったら、先輩『はいよー』って……」

 

 そう言って、薫は口を尖らせ、俺からぷいっと顔をそむけた。

 

 ……なんだか今日は、初めて見る顔が多いなぁこいつは。熱を出してる薫には申し訳ないが、そんな薫が新鮮でとても楽しい。

 

 薫の熱は風邪というよりも疲労の蓄積だし、少しぐらいなら、風呂もいいかもしれんな。それで薫の気が済むのなら、ちょこっとだけ風呂に入らせるのもいいかもしれん。

 

「……ちょっとだけだぞ」

「……いいんですか」

「ちょっとだけならな」

 

 おーおー……俺が『入っていい』と言った途端に、目にハイライトが入って力強くなって、元気になった瞳で俺を睨みつけておる。鼻もピクピクと痙攣しておるわ。

 

「言っとくけど、ささっと身体を洗って、少し体を温める程度だからな」

「はいっ」

 

 俺の釘刺しを聞いた後、薫はピコンと座高を伸ばし、そして熱を出している身とは思えないほど勢いよくベッドから立ち上がると、元気に風呂場へと消えていった。

 

 そんな風に、妙にシャキシャキと風呂場へと向かう薫の背中を眺めながら、俺は思う。

 

「……子供か?」

 

 仕事場でのシャキッとした薫だけしか知らないと、あいつがこんなにダメ人間で子供っぽいっての、想像つかないだろうなぁ……俺も、想像つかなかったしな……。

 

 

 ほんの少しの時間だけ二人で風呂に入った後は……

 

「ふぁ……ふぇんふぁい……」

「んー?」

「明日のためにも……今日は……寝ていいれふか」

「んー。おやすみ」

「ふぁい……」

 

 流石にくたびれたんだろう。眠そうな眼差しでブッサイクな表情を浮かべる薫は、お風呂上がりに水を飲んだ後、ふらふらと寝室へと消えていった。寝室の扉が閉じた後、パチリと電灯が消える音が聞こえたから、特に何事もなくベッドに入り、そのまま睡眠に入ることだろう。

 

 ……しかし、今日は中々にハードな一日だった。水が入ったコップを居間のテーブルに置き、ソファに腰掛けた途端に、今日の疲れがドッと押し寄せる。今日の薫は、俺ですら見たことがない顔をずっとしてたから、新鮮で楽しかったのだが……その分、俺も気が張ってたようだ。

 

 まぁ、結婚生活が始まる前から今日まで、薫が体調崩してぶっ倒れるなんて、なかったからなぁ。奥様の看病なんて初めてだし。

 

 ともあれ、風邪や体調不良ではなく、日々の激務の疲れが原因というのがわかっただけでも御の字だ。後はこの一週間をダラダラと過ごせば、薫の体調ももとに戻っているだろう。予想より早く回復しても、それならまたどこかに遊びに行けばいい。今回、薫は本当によくがんばったんだ。ちょっとぐらい歩みを止めて、一息ついてもいいはずだ。

 

 ひとしきりニュースを眺めながら、部屋を見回す。籍を入れたのと同時に引っ越したこのマンションだが、思ったよりも部屋の中が広い。一人で過ごすリビングって、こんなに広かったんだっけ? と疑問に思いつつ、テレビの電源を切った。明日も朝飯を作らなきゃいけないし、今日は俺も疲れた。ちょっと早いが、今日はもう寝るとしよう。

 

 居間の電灯を消して、寝室に入る。薫を起こさないように静かにドアを閉じ、ベッドへと入った。

 

「ん……」

 

 俺の奥様は、俺がベッドに入っても目覚めることなく、静かにスースー寝息を立てている。昨晩のように、仏頂面ではない、安らかな寝顔だ。若干腹立たしく感じるぐらい、邪気がない。

 

「んー……」

 

 俺がベッドに入り、薫のとなりに寝転がると……

 

「んが……」

 

 薫が俺にしがみついてきやがった。この季節、掛け布団は冬用よりも薄手のものに取り替えてあるのだが……それでも熱い。

 

「熱い……」

 

 寝てるとは思えない馬鹿力で俺の身体にしがみつく薫を振りほどこうとして、薫の寝顔が視界に入った。

 

「んー……」

「……」

「……ニヘラ」

 

 笑ってやがる……寝ているにもかかわらず、まるでこいつのプロポーズを俺が受け入れたときのように、ニヘラとキモい笑みを浮かべてやがる。

 

「……まぁいいか」

「……あっつ」

「!?」

 

 そして、俺が『そんなにうれしいんなら別に熱くてもいいか』と思った矢先に、こいつは勝手に俺から離れてそっぽを向いた。俺のこの悶々とした気持ちを一体どうしてくれるのだ……と純粋な怒りが湧いたが、流石に寝ているときの言動で奥様を責めるわけにもいかず……『まぁ仕方ない』と自分に言い聞かせ、そして俺も眠りについた。

 

 明日はどうやって過ごそうか。どう過ごせば、薫は喜んでくれるだろうか。朝飯の卵焼きは、どんな味付けにすれば『美味しいです』と言ってくれるだろうか……そんなことを考えながら、俺は眠りに落ちていった。

 

 



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7. 奥様は……

 胸に感じる心地よい圧迫感で、俺は眠りから目を覚ました。

 

「……?」

 

 仰向けで眠っていた俺の胸に、隣で寝ていたはずの薫が乗っかり、そして静かに頬を寄せて目を閉じている。

 

「……薫?」

「……あ、ごめんなさい先輩。起こしてしまいましたか」

「いや……おはよ」

「おはようございます」

 

 俺の挨拶を聞いた薫は、起き抜けの俺を刺激してしまわないよう、静かに、優しくささやきかける。その表情にいつもの仏頂面はなく、ただ、ほんの少し差し込む朝日に照らされた、優しく眩しい笑顔があるだけだ。

 

「体調はどうだ?」

「おかげさまで。だいぶいいですよ」

「そっか……よかった」

「昨晩、先輩が一緒にいてくれたおかげです」

「いつも通りのことをしただけだ。晩飯作って、風呂入って……」

「それが私には、いつもうれしいんです」

 

 こんなに穏やかで心休まる朝を迎えたのは、いつぶりだろうか。優しく囁く薫の吐息が俺のほっぺたまで届き、その暖かさが心地良い。

 

「先輩」

 

 カーテンの隙間からは、眩しい朝日が、寝室に優しく差し込んでいる。その光に照らされる薫は神秘的に感じるほど美しく、昨日までの疲労感はない。

 

「腹減ったろ? そろそろなにか作るよ」

 

 俺は奥様に朝食を準備しようと、ベッドから上体を起こそうとしたが、薫はそんな俺の上半身を優しくふわりと抱きとめて、起きようとする俺を柔らかく制止する。

 

「せんぱーい」

「……先輩。一つ、わがまま言ってもいいですか?」

「? わがまま?」

「今朝は……もう少し、一緒にベッドにいてくれませんか?」

「おなかすきましたー」

「そっか……でもどうして?」

「卵焼き食べたいです」

「だって……ずっと、先輩とこうして、朝にゆっくりしてなかったから……」

「……そだな」

 

 言われて気づく。薫と共に、こんなに優しい朝を迎えたのは、いつぶりだろうか。気がついたら薫とともに仕事に追われていた……

 

「……だから先輩」

「へーいせんぱーい。げらーっぷ」

「ん?」

「もう少し、二人で……」

 

 ……そうだ。今日は休み。仕事の心配はしなくていいし、会社から呼び出しがかかることもない。ならば、こうして夫婦の時間を取り戻すのも、悪くないはずだ。俺は起こそうとしていた上体を再びベッドに倒して仰向けに寝転び、薫の身体を強く抱きしめた。

 

「ぉおっ……せ、せんぱ……」

「そだな。今朝ぐらいは、ゆっくりしてもいいよな」

「朝っぱらからなんと大胆な……」

「……はい」

「んじゃ、もう少し……」

「はい」

「少しっ……くるしい……ですっ」

 

 薫が俺に体を委ねた。心地いいベッドのシーツの感触と薫自身の温かさに包まれ、俺の瞳は少しずつ閉じていった。

 

………………

…………

……

 

 鼻の頭の妙なくすぐったさで、俺の眠りは無理矢理に破られた。

 

「……くすぐったっ」

「……あ、やっと起きましたね」

 

 鼻の頭がやけにくすぐったい。ぽりぽりと掻こうと右手を動かそうとするが……大きな物が右手に乗っかっているようで、どうにも動かせない。

 

「なんだ……?」

 

 自分の右側になにかがある……それも、俺の鼻をくすぐってくるものが……確認するため、目を開いたところ……

 

「ぉおッ? 薫?」

「おはようございます先輩」

「お前……なにやってんだ?」

 

 目を開いた途端に俺の視界いっぱいに広がったのは、薫の仏頂面。俺の身体に薫がしがみついてやがったらしい。俺の顔のすぐそばで仏頂面を輝かせ、キラキラとハイライトが眩しい眼差しで、至近距離で俺を睨みつけている。鼻がさっきからくすぐったかったのは、こいつの吐息が原因のようだ。

 

「なにって……覚えてないんですか?」

「お? 何が?」

「覚えてないんですね」

「ま、まぁ……」

 

 はて……寝ぼけた俺は薫になにか不埒なことでも働いたのだろうか?

 

「私は十分ほど前に起きたのですが」

「おう」

「お腹も空いてきたし、いつものように寝ている先輩にポーズをつけて遊ぼうとしたところ……」

「だから寝ている俺で遊ぶなと何度言えば……」

「先輩が突然私の手を取り、ベッドに引きずり込んできまして」

「!?」

「突然のことでされるがままになってたら……こんな感じで、先輩がものすごい力で私にしがみついてきたので」

「……」

「しがみつかれてる私としてはとても苦しいですし、どうしたものかと思案していたところです」

 

 言われてみると、なるほど……右腕は薫を腕枕してるし、左腕は薫の腰辺りに置いて、ぐわっと全身で、薫の上半身を思いっきり抱き寄せてる感じだ。

 

 ……そうか。ご両親に挨拶に行ったときの朝のように、さっきの眩しくて幸せな目覚めは、夢だったのか……だから途中で『げらーっぷ』とかわけのわからないセリフが混じっていたのか。

 

 でも、いま薫を抱きしめているのは、決して夢なんかではなく……

 

「ところで先輩」

「お、おう……」

「いつまでしがみついているのですか」

「……おあ、す、すまん」

 

 互いの鼻が触れるか触れないか、そんなすぐそばの仏頂面に睨まれながらそんなことを言われると、なんだか怒られている気がしないでもない……大迫力の抗議のようにも感じる薫からの言葉に、俺は反射的に手を薫から離そうとしたのだが……

 

「……いや」

「お?」

「別に……離さなくても、よいですが……」

 

 ……と、目の前の仏頂面はほんのりほっぺたを赤く染め、そして昨日のように口を尖らせてそっぽを向いた。

 

「お、おう……」

 

 つられて俺の方も妙に気恥ずかしくなり、そして薫から目を背ける。こいつにこんな反応されると、反応に困る。どうした薫。いつもみたいに、軽口でぶつかってこいよ。

 

「あの……ところで先輩」

「お、おう」

「昨日は、ありがとう……ございました。もう、体調は大丈夫……です」

「よ、よかった」

「だから……あの……」

 

 ……あ

 

「……」

「そ、そのー……朝っぱらから何ですが……」

 

 ……やばい

 

「えーと……ひやっ」

 

 あ……無理かも……確かに朝っぱらから何やってるんだとか、相手は病み上がりだぞとか我ながら思うけど……薫を抱き寄せてる両手に力がこもったのが分かった。かなり強い力で、自分でも『俺ってこんなに力があったの?』てびっくりするぐらい、薫の華奢な身体を力いっぱい抱きしめている。

 

 その上……

 

「え、えっと……」

「お、おう……」

「もうちょっと……その、ぎゅーってしてくれて、いいです……」

 

 こんなこと言われて我慢してられるほど、俺はやる気ない旦那ってわけじゃない。腕枕っぽい感じになっている右腕を動かし、そして薫が着ているシャツの裾に手をかけた。

 

 左手を薫の背中から服の中に入れて、ブラのホックに触れた、まさにその瞬間。

 

――ぐぎょぉぉお〜……

 

「う……」

「んお?」

 

 服越しに薫に密着してる、俺の腹に不思議な感触が走った。そして、アニメみたいな妙な音も聞こえた。俺の腹伝いで耳まで届いたその音は……

 

「あ、あの……」

「……」

「お腹が……すいて……」

 

 忘れていた……薫は、空腹に耐えかねて俺のことを起こしに来ていたのだった……ということは、今の腹の違和感と情けない音は、薫の腹具合を知らせる音……いわゆる『腹の虫』というやつだ。こんなべったべたな事が起こるとは……

 

「……ぷっ」

「なんですかっ」

 

 俺も我慢出来ず吹き出し、薫はほっぺたを赤く染めたまま、いつもの仏頂面へとすぅっと顔を戻した。

 

「くくっ……色気がないなぁ」

「失礼なっ。奥様に対して色気がないなどと……」

 

 俺のヤル気も途端にしぼんだ。代わりにむくむくと頭をもたげてきたのは、『こいつに朝飯作らなきゃ』という、ある意味母親みたいな意識。……いや、設楽家の女性と結ばれた男性特有の、『妻の面倒を見なければならぬ』という、お父さんから受け継いだ使命感みたいなものといえばいいのか?

 

 でこちんをコツンと合わせ、互いに相手を見つめる。薫は赤面した仏頂面で。そして俺は、ほくそ笑みながら。

 

「くくっ……腹減ったろ。朝飯作るよ」

「う……はい……」

「なんだ。卵焼きはいらんのか」

「そうではないですが……うー……」

 

 おーおー……薫もすっかりその気になってたみたいだ。でも空腹も我慢できず、かといってスイッチをオフにするのも嫌で……といった具合か。昨日よりは幾分元気な唸り声だが……やっぱり猫科の肉食獣にしては、いまいち迫力がない威嚇なのも確かだ。唸り声に迫力がまったくない。

 

 だけど……愛しい俺の奥様は、そんなところが素敵なわけで……そんなところが、たまらなく愛おしいわけで。

 

「薫」

「なんですか」

 

――ちゅっ

 

 その瞬間、薫の後頭部から背後に向かって、ロケットの噴射にも似た爆風と『ドガン』という爆発音が発生したのが、俺からも見えた。

 

「えあ、あの……」

「愛してる。薫」

「へあっ!?」

 

 言いたいことだけサッサと口走った後、俺は薫からパッと手を離し、ベッドから跳ね起きた。主夫は朝から忙しい。顔を洗ったら愛しい奥様のために朝飯作って、洗濯しながら掃除して、そして……

 

「その前にまず朝飯だ。卵焼きサンド作るぞー」

 

 ひととおりの家事をしたら、今日は一日、奥様のご機嫌取りだ。奥様には次の仕事を頑張ってもらうためにも、今日は存分にいちゃいちゃせねばなるまい。

 

 ……無論、それは俺自身のためにも……なのだが。

 

 ベッドから起きた俺は、そのまま足速にドアへと向かう。ここから見えるリビングに差し込むお日様の光はとても眩しくて、今日も良い天気であることを俺に知らせてくれた。これだけの心地いい快晴なら、洗濯物がよく乾く。掃除よりも洗濯を今日は優先させるとしよう。

 

「サンドイッチにハムも挟むか。何枚挟んでほしい?」

 

 俺はベッドを振り返り、薫にハムの枚数を聞いてみたのだが……返事がない。

 

「薫?」

 

 代わりというか何というか……薫の頭から、狼煙のような湯気が立っていた。

 

 不審に思った俺は、一度ベッドに戻り、薫の顔を覗き込む。

 

「薫?」

「ニヘ……ニヘヘ……」

「?」

「先輩が……愛してるって……ニヘヘヘ……ちゅって……ニヘラぁ」

「……」

 

 やはりというか何というか……薫は、いつにも増してキモい笑顔をニヘラと浮かべていた。

 

「キモいぞ」

「ニヘヘ……だって、愛してるって……ニへへへ……」

 

 まったく……会社に行けばバリバリのキャリアウーマンで、我が社随一の稼ぎ頭兼出世頭。週刊誌の『女性が憧れるキャリアウーマンTOP10』なんかの特集で毎回上位に食い込んでいてもおかしくないような、そんなナリをしているくせに……

 

「ハムはいらんのかー?」

「ハムより……ニヘ……もっと言ってくださいよ先輩……ニヘラぁ」

 

 それが、一度家に戻れば料理はもちろん家事全般がニガテ中のニガテ。家庭内で気に食わないことがあれば『うー』と覇気のない肉食獣のような唸り声を上げ、嬉しいことがあると『ニヘラぁ』と誰よりもキモい笑みを浮かべる。常日頃浮かべる仏頂面は愛想がなく、俺以外の誰もが、その魅力に気づくことはない……いや、俺ですら、時々その仏頂面の迫力に押されることがある。

 

 ……でも、そんな奥様がたまらなく愛おしくて。

 

 まさか、たぬき顔が好きだった俺が、猫顔の奥様にベタぼれするとは……そして、迫力ある仏頂面も、やる気ない唸り声も……

 

「……」

「ニヘ……ニヘヘ……じゅるり」

「よだれを垂らすな」

 

 よだれを垂らしながら浮かべる、キモいニヘニヘ笑いも……すべてを、こんなにも愛おしく思う日が来るとは……いやはや……

 

 俺はスタスタと足早に洗面台へと向かった。俺に放置されたベッドの上の薫は、寝転んだまま茹だった頭からモクモクと湯気を出し、ニヘニヘとキモい笑みを浮かべ続けているようだ。

 

 早く朝飯を作らなければ……薫の腹は、すでにエンプティに達してアラートを鳴らしはじめている。急いで卵焼きサンドを作って、すっからかんを解消してやらねば……洗面台の前に立った俺は、急いで自分の歯ブラシを取り、歯磨き粉をほんの少し歯ブラシに乗せた。急げっ急げっ。

 

 ……あ、でも歯磨きは入念にやっとくか。そのあとの事に備えて。

 

終わり。

 




よかったらこちらもどうぞ

しょうもないことで夫婦喧嘩してしまった時の、設楽親子のLINE
https://chatstory.pixiv.net/stories/9rCYMly/view



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あの男女二人組の個室の様子がなんか変
1. 混沌のはじまり


登場人物紹介

川村咲希:居酒屋『チンジュフショクドウ』アルバイト。恋人は雌牛の花子。
 料理長:厨房の責任者にして和服美人。得意料理は冷やしおしるこ。
  朋美:咲希のバイト仲間。得意技は逃走。

  花子:乳牛。ホルスタイン種。7歳にして現役。咲希の恋人。


 これから混雑が予想されるであろう19時10分前。後に私達従業員たちの間に困惑と混沌をふりまくことになるその女の人は、唐突に店舗入口に姿を現した。

 

「本日19時より個室の席を予約している設楽ですが」

 

 その『設楽』と名乗ったお客さんはスラッと背が高く、長いストレートの黒髪は、つやつやとしてとてもキレイだ。背が高いから、ベージュのトレンチコートがとても良く似合っている。顔つきはスッキリした猫顔美人で、とてもキレイな顔立ちなのだが……その眼差しは、目が合う私たちの心臓にグサッと突き刺さってくるほど鋭い。

 

「え、えーと……ご予約いただいた設楽さま……ですか?」

「はい」

 

 バイト仲間の朋美ちゃんが、冷や汗を垂らしながらそのお客さん……設楽さんの応対をしたのだが……

 

「はい……えーと……」

「なにか」

「いや、えっと……」

「?」

「そ、それでは、お席にご案内……いたし、ます」

「ありがとうございます」

 

 この設楽さん、ものすごく無愛想な表情だ。眉間にシワが寄っているようにも見えるその険しい眼差しで朋美ちゃんを見つめるものだから、なんだか朋美ちゃんに対して『私は不愉快です』というオーラを叩きつけている風にも見えてしまう。

 

 そんな状態に困惑しつつも、冷や汗混じりの朋美ちゃんは予約表で個室席の番号を確認し、顔中に斜線を引いた笑顔で、設楽さんを予約席へと案内していった。

 

「予約は個室でお願いしたのですが……大丈夫でしょうか」

「だ、大丈夫ですよ? キ、キチ、キチンとご用意しております……」

「ありがとうございます」

 

 そんなやり取りをしながら、私たちがいる入口から離れて、お店の奥底へと消えていく二人。後ろ姿だけ見ていてもわかる。朋美ちゃん、ものすごく困ってる……よっぽどあの設楽さんの不愉快オーラが強いんだろうなぁ……

 

「ようおつかれさん。予約してたお客さん、来たの?」

「あ、オーナー」

 

 と、朋美ちゃんとお客さんの二人が、店の奥の個室へと消えていく様子を眺めていたら……今日は珍しく顔を見せているオーナーが、私の背後にいつの間にか立っていた。何を隠そう、あの設楽さまの予約を受けたのが、たまたま今日ここにいたオーナーだ。死んだ魚みたいな眼差しがチャームポイントだそうな。料理長がそう言っていた。

 

「あれがお客さん?」

「はい……」

「? どうかしたの?」

「いや、あのお客さん、ものすごーく愛想が悪いものですから……」

「ほーん……」

「なので、オーダーを取りに行くのも気が滅入るなぁと思いまして……」

「ふーん……ま、何か問題が起こったら呼んでよ。がんばってちょうだい」

 

 グチに近い私のセリフを、死んだ魚みたいな濁りきった眼差しで聞き流したオーナーは、私の肩をぽんと叩いた後、厨房の向こう側にある事務所へと消えていく。その背中は大人の男性にあるまじき矮小さで、どう見ても経営者の威厳や大人の貫禄は感じられない。猫背でヘコヘコと歩いていくさまは、どう見ても疲れ切ったうだつの上がらない中年男性だ。そんな人がなぜこの店のオーナーにまで上り詰めたのか、それがとても気になる……。

 

「ただいまぁ〜……疲れた……」

「朋美ちゃんおかえり。あのお客さん、どうだった?」

 

 ほどなくして、朋美ちゃんが厨房に帰還。設楽さんの相手はとても気を使うらしく、今日のバイトが始まってまだ30分ほどしか経過してないというのに、朋美ちゃんはすでに疲れ果て、げっそりとやせ細っていた。なんだかエジプトのミイラみたいに疲れ切ってる……。

 

「どうもこうもないよ……『ドリンクはどうしますか?』て聞いただけなのに、ギロッて睨んで『連れが来てからでいいですか』て言ってくるし……」

「言ってることは普通なんだけどねぇ……」

「だけどあんな不機嫌にされたら、何か失敗したのかってそわそわしちゃうよ……」

「わかる」

 

 うーん……やはり第一印象の通り、なんだか見ていて不愉快オーラが立ち込めている人のようだ。いるんだよねぇそういう人……本人にそんなつもりはなくても、自分の周りに不愉快オーラを振りまく人がさ。

 

「……とりあえず、そのツレの人を待とっか朋美ちゃん」

「うう……次呼び出されたときは咲希ちゃんが行ってよ」

「ぅええ」

 

 なんて、客商売にあるまじき会話を朋美ちゃんと交わし、嵐の前の静けさの中で佇むこと数分……

 

「今日、7時から『設楽』で予約を取っているはずなんだけど……」

 

 入り口から入ってくるなり私達に向かって直行し、そんなことを話す男性客が訪れた。少なくとも私よりは年上の男性で、髪は長いとも短いともいえない、ずいぶん中途半端な長さだ。なんだか顔に締まりがなくて、あまり仕事が出来るタイプではなさそうに見える。

 

 ただ、さっきの設楽さんに比べたら、幾分人当たりが良さそうな柔らかい眼差しをしている。……いや待て。この人の眼差しが普通なんだ。設楽さんの目が険しすぎるから、そう思っちゃうんだよ。

 

「あ、はい! 設楽様ですね!」

「おう」

「それではお席にご案内いたします!」

「頼む」

「はい。じゃあとも……」

 

 私はそう言って、ついさっき設楽さんを案内した朋美ちゃんに、この男の人の案内をお願いしようと思ったんだけど……

 

「……ッ!」

「? 朋美ちゃん?」

「……ッ!! ……ッ!!!」

 

 朋美ちゃんは目にいっぱいの涙を浮かべながら、私の右腕の袖をちょこんとつまんで、イヤイヤと顔を横に振っていた。

 

「えーと……」

「……ッ!! ……ッ!!!」

「……じゃあ、私がご案内いたします」

「おう」

 

 仕方ない……朋美ちゃんは行きたくないみたいだし、私が案内するしかないか……意を決し、私はこの男の人を席まで案内することにした。

 

 設楽さんが待ち構える個室席は、この店の最奥にある。私はその男の人と共に、その個室席へと歩いて向かう。

 

「……」

「よっ……と」

 

 その男の人が、私の背後で羽織っていた紺色のコートを脱いだ。さっきは気づかなかったのだが、この人も設楽さんと同じで、結構背が高い。体型はわりかし細身なので、『デカい』というよりも、スラッとしている印象だ。体型だけで見ると、あの設楽さんともお似合いの二人とも言えるんだけど……

 

「ぬぼー……」

「……」

「ん?」

「……あ、失礼しました」

「いや、別にいいけど」

 

 なんだか顔つきが『ぬぼー』としててずいぶん気が抜けた印象だから、どうしてもこの人が仕事ができるようには見えない。そんなところが、あの設楽さんとは対象的だ。

 

 そういう意味では、まるで正反対のこの二人が、なぜ居酒屋の、しかも個室で会っているのか……それがどうしても気になってしまう。

 

 最初は、二人はお付き合いをしているのかとも思ったのだが……どうにもこうにもそんな風には見えない。(失礼だけど)あのドギツい設楽さんとこの間抜けな感じの男の人が、ベタベタイチャイチャしている様子がイメージできないのだ。

 

 ひょっとして……

 

―― えっと……俺、また何か失敗しましたか?

―― まったく……あなたは上司である私の顔にどれだけ泥を塗れば気が済むんですか

 

 こんな感じで、実は二人は上司と部下の関係で、今晩、この人はあの設楽さんに厳しい追求と叱責を受けることになるのではないだろうか……

 

 あるいは……

 

―― 鳴きなさいこの豚野郎ッ! いい声で鳴くのですッ!!

―― ブ、ブヒィィイイ!!!

 

 そんな、ドライかつ爛れた関係の二人というのも、否定出来ない気が……いやいや。

 

 こんな具合で、不謹慎な妄想が止まらない頭の回転をなんとか沈めつつ、設楽さんが待ち受ける個室席の前まで来た。

 

「失礼いたしまーす」

 

 念の為、声をかけた後、個室席を仕切っている障子を開く。

 

「うっ……」

 

 途端に、個室内に充満していた不愉快オーラの気が、私の全身にまとわりついた。

 

「……何か」

 

 そしてそれと同時に、室内で静かに佇む設楽さんが、その険しい眼差しで私を睨みつける。……いや本人にそんなつもりはないだろうけれど、どうしても睨まれているように見えてしまう……

 

 そんな個室の雰囲気に押され、私が声を失っていたら……私の背後にいた男の人が、私よりも先に個室に入っていった。ぬぼーとした顔のまま、この瘴気に満ち溢れた混沌の魔窟へ平然と足を踏み入れるこの人のことが、私は最初信じられなかった。

 

 そして、私が信じられなかったのはそれだけではない。二人が交わす会話もまた、常軌を逸した信じがたい内容だった。

 

「おーう来たぞー」

「お待ちしてました先輩」

 

 先輩!? 先輩とな!? このぬぼーとして、どことなくうちの無気力オーナーに似た雰囲気のこの人が!? 設楽さんの先輩!?

 

「なんだ。俺たちだけか」

「他に人がいた方が良かったですか?」

「いや、そういうわけじゃないけどな」

 

 相手を視線だけで殺しそうな設楽さんの眼差しに、この男の人はまったく動じない。それどころか二言三言言葉をかわしつつ、ぬぼーとした顔で平然とコートをハンガーにかけ、設楽さんの差し向かいに座り、何食わぬ顔でメニューを眺める。

 

「そ、それではッ! ご注文が決まりましたら! よ、呼んでくださいッ!!」

 

 数々の想定外の事態に呑まれ、私はもう定型文をかろうじて口から発することが精一杯だ。いつもの決まり文句をなんとか口から絞り出した後、障子をピシャリと閉じて、逃げるようにその場をあとにした。

 

『先輩は何を飲みますか?』

『俺か? 俺はー……』

 

 去り際にそんな会話が聞こえた気がするけど、それも信じられない……あの男の人が先輩で、設楽さんが気を使う立場だと……!? あの雰囲気で、力関係は設楽さんではなく男の人の方が上だと!? あの設楽さんが!? 視線だけで人を殺しそうなあの設楽さんが!? ぬぼーとしている男の人よりも!?

 

 さっきの私の妄想が、形を変えて私の頭を駆け巡る。ひょっとして……

 

―― 店員の子を視線だけで萎縮させやがって! この仏頂面がぁあッ!!

―― も! 申し訳!! ございま……あうッ!?

 

 こんな具合で、あの男の人、二人きりになると性格が豹変したりするのだろうか……!? 分からない……あの人たちのことが、さっぱり分からない……!?

 

 私は普段とは明らかに異なる方向へと異常回転している頭を抱えながら、急いで厨房へと戻っていった。

 



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2. カオスは続くよどこまでも

 気が重い……。設楽さんとセンパイさんとやらが注文したメニューが、そろそろ完成しそうだ……。和服にたすき掛けといういつもの服装の女性料理長が、テキパキと刺身の盛り合わせを仕上げていくその所作は、見ていていつも惚れ惚れするのだけれど……今日だけは、その様子を眺めるのが憂鬱だ。

 

「……よし」

「……」

「お刺身の盛り合わせとシーザーサラダと厚焼き玉子、全部できました。お客様の元に持って行ってください」

 

 設楽さんに負けず劣らずのキレイな黒髪をポニーテールでまとめた料理長が、私にそう声をかけてくるんだけど……最初、私は料理長の言葉を幻聴だと思っていた。……いや、幻聴だと信じたかった。

 

「……」

「……?」

 

 私と料理長の間に気まずい沈黙が流れる。しばらくの静寂の後、料理長は私の顔を不思議そうに覗き込んできた。

 

「川村さん?」

「ひゃい!?」

「メニューが出来たので持っていってもらいたいのですが……?」

「うう……」

「? どうかしました?」

 

 耳に届く料理長の声は、本当に優しい。私が一向に料理を運ぼうとせず、まごついているのが不思議なようだ。

 

 私だって、あれが普通のお客様なら、いつもどおり『了解ですっ』と返事して、すぐに持っていくんだけど……うつむき気味で料理長の顔から視線を外し、私はこっそりとフロアの朋美ちゃんの様子を伺った。

 

 先程、逃げるように厨房から姿を消した朋美ちゃんは、今ではフロア内を忙しそうに歩き回っている。そのさまは、『私は今忙しいので、設楽さんが牛耳る個室席には行けませんッ!!』と周囲にアピールしているかのようだ。おかげで私がフロアに出る幕はなく、必然的に設楽さんたちの個室へは、私が運ばなくてはいけなくなる……。

 

 しかし……

 

「料理長~……私が持って行かなきゃいけませんかねぇ……」

「そうですねぇ……朋美さんはフロアの方で忙しいみたいですし……となると川村さんに運んでいただきたいのですが……」

「うう……気が重い……」

 

 あの空間に三度、足を踏み入れねばならない……その事実が、私の心に重くのしかかる……

 

 実は、今回私の足が重いのは、何も設楽さんの眼差しが恐ろしいからだけではない。私は先程、ある致命的なミスを犯してしまった。

 

……

…………

………………

 

 それは、私がカシスオレンジと黒霧島、そしてお通しのもずく酢をお持ちしたときのことだ。

 

「お待たせいたしました! ドリンクをお持ちしました!」

 

 私は個室の障子を開けた後、努めて元気に振る舞いながら、お持ちしたカシスオレンジと黒霧島をテーブルに置いたのだが……

 

「こちらが黒霧島でーす!」

「……あ」

「……」

「あとこちらが……か、カシスオレンジでーす!!」

「……」

「……」

 

 ひええ……黒霧島を“先輩”の前に置いた途端、設楽さんの目つきが険しくなったよぅ……カシオレを設楽さんの前に置いただけで、設楽さんの目に殺気がこもり始めたよぅ……目が冷たいよぅ……私のハートに設楽さんの視線が突き刺さってくるよぅ……

 

「……」

「……」

「あ、あとこちらが!? お、お通しになりまぁあすッ!?」

「……」

「……」

「ごゆっくりぃぃい!?」

 

 も、もうこれ以上設楽さんの視線に耐えられないッ! そう思った私は、後ろ手で障子を開き、逃げるように個室を後にする。その時……

 

『なんで言わなかったんですか』

『何をだよ』

『あ! あのぉおお! ぼく甘党なんでー、カシオレはこっちに下さぁあい!! ……とか言えばよかったじゃないですか』

 

 そんな会話が障子越しに聞こえてきた。ということは、どうやら黒霧島は設楽さんのオーダーで、カシオレはあの“先輩”とやらのオーダーのようだ。しまった……あの二人から発せられる混沌のオーラに飲まれ、普段のように『黒霧島のお客様~?』と確認を取ることが出来てなかった……

 

「しまったぁああ……」

 

 私の頭を自責の念が襲う。自分の情けなさに頭を抱え、がっくりとうなだれながら厨房へと戻った。なぜ落ち着いて普段どおりの接客が出来なかったのだ……私もこのバイトを始めて2年ほど経つというのに、こんな初心者のような失敗をしてしまうだなんて……。

 

 ……いや、正常な判断が出来ない原因はわかっている。設楽さんとセンパイさんの二人が巣食う、あの個室の空気のせいだ。あの仏頂面の設楽さんの、殺人経験者のような氷の眼差しに、私の心が無駄に恐怖心を掻き立てられているのだ……。

 

 次、お料理を持っていくときのことを考えると気が重い……。あの二人のオーダー何だっけ……お刺身の盛り合わせとサラダと厚焼き玉子……なら、何も私が持っていかなくてもいいはずだ。例えば今、フロアで忙しく動き回り、頭の中から少しでも設楽さんの悪夢を振り払おうと奮闘する朋美ちゃんでもいいはずなんだけど……代わって欲しい……もうあの空間に顔を出したくない……

 

………………

…………

……

 

 そんなことがあり、私は今、あの二人の個室に顔を出したくなかった。確認もせず、そっくり逆にドリンクを置いてしまった大失敗……それだけでも恥ずかしいのに、そんな失敗をしでかしてしまった相手は、あろうことか設楽さん……いやだー……

 

―― 私の前にカシオレなんて甘ったるいお酒を置いた罪は重いですよ……?

 

 そんな眼差しでジッと見つめられたら……いやだー……怖いよぅ……助けて花子……乳搾りさせて……

 

 なんて、私が顔中に『持って行きたくない』と書かれたような、泣きそうな顔で葛藤していたら、である。

 

「そんなに持って行きたくないんですか?」

「うう……はい……」

「なら……私が持っていくしかありませんか……」

 

 と料理長さんが苦笑いを浮かべながらポツリとつぶやいた。このつぶやきは、私にとってはとてもありがたい申し出だけど、それだけはのめない。

 

「……い、いや料理長!」

「はい?」

「ここは私が持っていきます……いや、持っていきたいです!!」

「そうですか? でもどうしても嫌なら、無理なさらなくても……」

「いや! 確かにあの個室には行きたくないですけど……でも! そんなことで料理長のお手を煩わせるわけには……!!」

 

 私と料理長の眼の前に並ぶ、絶品のお刺身その他のメニューが乗ったお盆を持ち上げ、私は店の奥にある個室をキッと睨んだ。そんな私の横では、料理長が心配そうにおろおろと私を見守っているのが、手に取るようにわかる。

 

「川村さん? ホントに大丈夫ですか?」

「大丈夫です! だから料理長は……お料理に専念してください!!」

 

 心配そうに声を掛ける料理長に、私は冷や汗混じりのサムズアップで『平気だ!』アピールをする。正直、やせ我慢がどこまでバレているのか心配でならないが、それでも、料理長に接客に行かせるよりはマシだ。

 

 いつも目が濁りきって無気力なオーナーとは違い、料理長はいつも従業員のみんなに優しい。どんなに店内が忙しくても笑顔を絶やさず私達を気遣い、暇な時間は私達に丁寧に料理を教えてくれる。相談事には全力で力になってくれるし、料理長を『お母さん』と慕う仕事仲間も多い。言っても『お母さん』というには若い人だし、とても仲の良い彼氏だっているらしいのだが……

 

 とにかく私は、そんなステキな料理長が大好きだ。故郷に残してきた雌牛の花子と同じぐらい好きだ。だからこそ、料理長には自身の仕事である調理に専念してもらいたい。尊敬する料理長に、あの個室にオーダーの品を運ぶという雑務をしてほしくないのだ。

 

 確かにあの個室に関わるのは嫌だ。だが、料理長の手を煩わせるのはもっと嫌だ。私は冷や汗をダラダラと垂らしながらも、勢いでお盆を手に取り、そして頭が『嫌だ!!』と悲鳴を上げる前に身体を動かして、魔窟と化した禁断の設楽個室へと向かった。

 

「無理はなさらないで! ご武運を!!」

 

 なんだか場違いに勇ましい料理長の不思議な応援をバックに、私は、50トンぐらいにまで質量が膨れ上がった両足を必死に動かして、無理やりに自分の体を前進させた。

 

 

 そうして個室前に到着。障子の向こう側では、二人の会話が聞こえてくる。

 

『妥協だの我慢だの……そこまでクライアントに不利益を平然と押し付けるか』

『次に、先輩の女性の胸の好みですが』

『いきなり話が飛ぶな』

『俗に “おっぱい”と呼ばれているものですが、分かりますか』

『いちいち言い直さなくても分かる』

 

 その会話の意味不明さが、私の頭をさらに混乱させる。一体二人は何の会話をしてるの……? 会話の内容がまったく読めないんだけど……なんでそんなものすごく冷静かつ感情の起伏がまったくない声で『おっぱい』とか言ってるの……設楽さん『察していただきたい』って言ってるけど、一体私は何を察すればいいの……

 

 花子ぉ~。私はもう分からない……これが都会の恐ろしさなのかな……花子の乳搾りしたいよ……花子のおっぱいに癒やされたいよ……。

 

 しかし、ここでもし自分に負けて厨房に戻ってしまったら……大好きな料理長に、また余計な心配をかけてしまうことになる。

 

――そうですか……なら、致し方ありませんね……

 

 優しい料理長のことだ……私が疲れ切り打ちひしがれた姿を見た途端、『なら私がお持ちします』と言いながら、この混沌の魔窟へとお料理を運ぼうとするだろう。それだけは避けたい。尊敬する料理長に、そんなことをさせるわけにはいかない。

 

「スーハー……スーハー……」

 

 障子を開く前に、軽く深呼吸をする。相変わらず心臓はBPM600ぐらいでビートを刻み続けているし、おでこに触れると冷や汗だってかいている。だけど意を決し、私は障子に手をかけ、そして勢いよく開いた。

 

「おまたせしましたー」

 

 その途端に私の全身にねっとりと絡みつく、設楽さんの殺気を含んだこの個室内の重苦しい空気……いや、瘴気と呼んでもいいだろう。とにかく不快でこちらの恐怖心を煽る赤茶色の空気が、私の全身にまとわりついた。

 

 ……しかしッ! ここで私も負ける訳にはいかない。まとわりつく瘴気に負けじと空元気を絞り出し、私はなんとか頭の回転をもとに戻して、個室内の様子を伺う。

 

「……」

「……」

 

 二人は私が入った途端に、会話を中断させて口をつぐんでいた。そこは割と普通の反応だ。大抵の人は、どれだけ会話が盛り上がっていても、私たち従業員がテーブルに料理を持ってきたときには会話が止まる。このふたりもしかり。

 

 設楽さんはiPadの画面をセンパイさんに見せている状態でピタリと制止している。画面がチラと視界に入ったが、なんか『先輩と私の関係性からみる相性』という見出しが見えた。その1ページだけでもとてもキレイに仕上げられているということはわかるが、右肩上がりと平坦……そんな対象的な軌跡を描く2本の折れ線グラフが一体何を意味しているのか、私にはまったく見当がつかない。

 

 対するセンパイさんの方はというと……なんだか呆れきったような表情で、設楽さんのiPadを見つめている。その目は濁りきっていて生気がなく、死んでいるといっても過言ではない。そのうつろな眼差しは、一体どんな思いでiPadを見つめているのか……

 

 ……ええいっ。二人の様子なぞどうでもいい。私は障子を開けた時の自身の勇気と勢いをなんとか思い出して振り絞り、自身に課せられた『この個室に料理を運ぶ』というミッションを完遂するべく、手に持つお盆をテーブルの上に乗せ、そして刺身の盛り合わせを下ろした。

 

「こちらお刺身の盛り合わせでーす」

 

 盛り合わせの大皿をコトリとテーブルの上に乗せる。よし。二人とも静かに佇んでいる。このまま何事もなく終われば……次に厚焼き玉子をテーブルに置き、最後のサラダを手にとったその瞬間である。

 

「あと……」

 

 設楽さんの眼差しが一瞬キラッと光った気がした。そして……

 

「こちらが……」

「私と先輩の年収予測推移グラフになりますが……」

「!?」

 

 『シーザーサラダでーす!』という私の渾身の営業ボイスは、設楽さんの意味不明な資料説明によって、もろくもかき消されてしまった。

 

「店員と会話をシンクロさせるな。度胸の無駄遣いはやめろ」

 

 しかし即座にセンパイさんがツッコミを入れてくる。それを受けてなのかどうかはわからないが、設楽さんは静かに口を閉じ、資料の説明を中断した。おかげで私の頭の回転がなんとか正常に戻り、『シーザーサラドゥ……ダです!』としっかりとサラダの紹介を終えた。台詞の途中で多少は噛んだが、この異空間の中でこの成績は中々だ。そう自分に言い聞かせるようにした。

 

「そ、…それでは、失礼いたしまっし!」

「はぁ……」

「はい」

 

 私は障子を勢いよく開け、そして逃げるように個室部屋を後にする。足早に厨房に帰り、フロア内を必要以上にせわしなく動き回る朋美ちゃんには目もくれず、今の私の心の安定剤……料理長の元へと帰っていった。

 

「りょうりちょ〜!!」

「ぁあ川村さん。どうでした? 大丈夫でした?」

「大丈夫でした! 大丈夫でしたけど……!!」

 

 厨房に到着するなり、料理長はいつもの暖かな笑顔で私を出迎えてくれた。その笑顔は見る人に安心を与え、そして緊張を解きほぐす、まるで天使のような笑顔だ。たとえその手に持っているものが、肘ぐらいの大きさの巨大すぎる出刃包丁だとしても。

 

 私は、こちらを心配そうな眼差しで見守る料理長の胸に飛び込もうとして……やめる。本当は料理長の胸に包まれればものすごく癒やされて安心するだろうけど……私が料理長の胸に飛び込むだなんておこがましい。

 

「うう……疲れました料理長……」

「大丈夫でした? ……ほら、温かいお茶でも飲んでください」

「はい……ありがとうございます……」

 

 代わりに、料理長が丁寧に入れてくれた熱いお茶をすする。途端に心の中で小さな炎が灯ったように、ホッと胸が暖かくなった。『安心する』とはこういうことか……料理長の笑顔と熱いお茶は、故郷の花子のおっぱいの次ぐらいに、私を癒やしてくれる存在だと理解した。

 

 ひとしきり私が安心したところで、料理長が心配そうに私の顔を覗き込んできた。

 

「例のお客さん、どうでした?」

 

 うう……思い出したくもないが、料理長には答えなければなるまい……

 

「はい……なんか、設楽さんはiPadであのセンパイさんとかいう男の人に資料を見せてまして……」

「はぁ」

「それを、センパイさんは死んだ魚みたいな濁りきった目で見つめてまして……」

「なんだかうちのオーナーみたいな人ですねぇその人」

「なんかもう、ホントに何やってるのかよくわからないです……」

 

 私は素直に嘘偽りなく、あの個室の中の状況と本心を語った。その間、料理長は私を心配そうに見つめながら、ジッと話を聞いていた。

 

「うーん……川村さん、ホントに大変そうですし……」

「……」

「だったら、やはり私がお料理運びましょうか?」

「……いや結構です! 私が持っていきます!」

「でも……」

 

 こんな具合で、優しい料理長は自分が自分が料理を持っていこうとしてくれる。でも、そんなふうに私たちを気遣ってくれる大好きな料理長だからこそ、私は自分と同じ目にはあってほしくないのだ。

 

「いや! 私に持って行かせてください! 私は持っていきたいのです!!」

「でも、とてもそんな風には見えませんよ?」

「そんなことありません!」

「今も疲れ切ってますし……」

「大丈夫! ほら!! げんきー!!」

「元気どころかエジプトのミイラみたいにくたびれきってますよ……?」

 

 私はがんばって両手で力こぶを作り、料理長に『私は平気!』とアピールするのだが……そんなことは料理長もお見通しなのだろう。そんな私の痛々しい姿を見て、ひたすら心配そうにおろおろするばかり。

 

 そんな料理長の姿を見ながら、私は思う。

 

 やはり、こんな優しい料理長を、あの個室の瘴気にさらさせる訳にはいかない。

 

 あの個室の犠牲になるのは、私だけで充分だ。……いや本音を言うともう行きたくはないが……たまには朋美ちゃんにも行ってほしいのだが……それでも、料理長を行かせるぐらいなら、私が自らすすんであの個室に行く。私が料理長を守る……!

 

「任せてください料理長! 私は……最後までがんばりますから……!!」

「でも川村さん……」

 

 改めて、料理長に宣言する私。そろそろぬるくなってきたお茶を一気に飲み干し、私は体の奥底から渾身の力を振り絞って立ち上がる。料理長が入れてくれたお茶で多少は体力も戻った。今なら、ミイラのように干からびた身体も、半生程度には戻っていることだろう。

 

 がんばれ私! あの個室の二人の瘴気に負けるな!!

 

 料理長、私はあなたを守ります!! 花子! そんな私のこと、見守っていてね!! 私、がんばるからね!!

 

 



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3. 泥沼の愛憎劇に陥りそうで

 あの二人がこのお店に来て一時間ほど経過した。私は変わらずあの個室に料理やお酒を運び続けているが……何度もあの個室に通うことで瘴気にも慣れてきたのか……私の警戒心は、次第に薄れつつあった。

 

 今も私は、新しいオーダーのホッケと軟骨の唐揚げ、そしておかわりの黒霧島ロックを、二人が待ち受けるあの個室へと運んでいる。最初こそあれだけ重かった私の足取りも、今では500グラムほどで落ち着いている。

 

 個室前に到着する。来店時の時のような緊張も特になく、私は勢いよく障子を開けた。

 

「大変お待たせいたしましたー! ご注文の品でーす!」

 

 その途端に会話が静まる二人。私達三人を沈黙が包むが、それもそろそろ慣れてきた。

 

 適当に説明を済ませホッケと軟骨の唐揚げを置いた後、黒霧島を設楽さんの眼の前に置く。併せて空になったグラスとお料理の皿を回収し、私は一言『ごゆっくりー』と声をかけて、障子を閉じた。

 

『ホッケうまっ』

『美味しいですね』

 

 途端にそんな声が聞こえてくる。私のメンタルがこの状況に慣れてきたせいか、二人の声が心持ち、柔らかく、優しい印象を持ち始めた。手に持つお皿に視線を落とすと、料理長が作り、私が運んだ料理の数々は、残さずキレイに平らげられている。まるですでに洗ったかのようにキレイなお皿を見るのは、お料理を提供した側としてはとても気持ちよく、そしてうれしいものだ。

 

「なんだ……いいお客さんじゃん」

 

 ホッと出たため息とともに、そんな言葉が口から出た。キレイなお皿を眺める私の口が、自然と微笑んだのだが……

 

 そんな平和も、あまり長くは続かなかった。

 

「料理長! お料理を運んできましたっ!!」

「はいありがとうございます。お皿はそちらに置いておいてください」

「はいっ!」

 

 厨房に戻った私は料理長に言われるままに、回収してきたお皿とグラスを厨房のシンクの中へと置いておいた。いつもなら、今ぐらいの時間になるとシンクの中は洗い物でいっぱいになっているのだが……不思議と今日は片付いている。

 

「今日は洗い物少ないですねぇ料理長?」

「今日はフロアの皆さんが率先してお手伝いしてくれるんです」

 

 料理長はそう言いながら、ヤリイカの活造りを仕上げている。これはあとで詳しく聞いたのだが、設楽さんの個室に料理を持って行きたくない朋美ちゃん以下私以外のフロア担当の全員が、我先にと厨房のお手伝いを買って出ていたそうだ。

 

 おかげでフロアのみんなは『私は忙しいからあの個室には行けない』アピールをすることが出来、厨房の料理長もお料理に専念することが出来る。私は私であの個室にも慣れ始めていたため、とても気が楽な上、他の仕事は朋美ちゃんたちがこぞって進めてくれるから、仕事が少なく楽になった。つまり、みんながwin-winの状態だ。素晴らしい。

 

 料理長が入れてくれたお茶をすすりつつ、料理長の手際を眺める。料理長がスッスッと手際よく切っていくイカの身は、まるで水晶のようにキレイに透き通っていて、見ていてとても美味しそう。足がうにうにと動いているから、とても活きが良いイカのようだ。

 

「美味しそうなイカですね~……」

「美味しいですよ? せっかくですから、あとでみんなで食べましょうか」

「いいんですか?」

「少し多めに仕入れてるんです。仕事が終わったら、みんなでちょっと食べましょ」

「楽しみです!」

 

 ……懐かしい。故郷でよく食べた、ヤリイカの活造り……遠く離れたこの地で、またあの味に会えるとは思ってなかった。

 

 郷愁が私の胸に訪れる。あの広大な土地を見渡せる母屋……その隣にある、独特の匂いを振りまく厩舎……そしてその中で私の乳搾りをいつも待ってくれている、つぶらな瞳の雌牛の花子……懐かしい……。

 

「ぐすっ……」

「川村さん?」

「あ、すみません……なんか、故郷の事を思い出して……」

「ああ、そういえば川村さんのご実家って、酪農をやってらっしゃるんでしたっけ」

「はい。牛の花子がカワイイんです!」

「そういえばこの前いただいた牛乳、美味しかったですもんね」

「はい! 花子のおっぱいは私も大好きです!」

「また頂いても良いですか? そのまま飲んでも美味しいですし、あれで作った牛乳プリンがまた格別なんです」

「はい! またお持ちします!」

「楽しみにしてますね。その時は川村さんにもおすそ分けしますから」

「はい!」

 

 そんなうれしい提案を笑顔の料理長の口から聞けた、その時である。

 

『例えが意味不明で大げさすぎるッ!!』

 

 男の人のそんな怒声が、お店の中に鳴り響いた。

 

「「「……!?」」」

 

 従業員の全員が、声の発生源に顔を向ける。ついさっきまで私と談笑をしていた料理長はもちろん、フロアで忙しそうに動き回る朋美ちゃんをはじめとしたフロア担当の人たち……そして『何事?』と事務所から出てきたオーナーのにごりきった眼差し……全員が、声の発生源を見た。

 

「!?」

 

 もちろん、私もその方向を睨む。その声の発生源……あの、設楽さんたちの個室のある、お店の奥の方を。

 

「……何事でしょうか」

 

 料理長が、いつになく深刻な声で呟いた。その眼差しはとても鋭い。まるで歴戦の戦士を思わせるそのキリッとした眼差しは、いつもはお母さんのように優しい料理長とは正反対の厳しさだ。

 

「何でしょう……」

「聞こえたセリフから察すると、そこまで物騒なアクシデントにはなってないようですけど……」

 

 料理長はその厳しい眼差しのままお店の奥の様子を伺うが、その後は大きな声は聞こえてこない。さっきのセリフを冷静に思い返す。『例えが意味不明で大げさすぎる』? セリフの字面通りに受け取ると、なんだか漫才のツッコミのセリフに見えなくもないけれど。

 

 思い当たるのは……やはりあの二人。仏頂面で不機嫌オーラを振りまく設楽さんと、そのセンパイさんが巣食う、あの戦慄の個室部屋……しかし、あの人達はちょっと仏頂面で機嫌が悪そうに見えるだけの設楽さんと、ぬぼーとして目が死んでいるけど気遣いは出来るセンパイさんの二人が、ただ美味しくご飯とお酒を楽しんでいるようにしか見えないんだけどなぁ……

 

「咲希ちゃん……今の聞いた?」

「ぁあ朋美ちゃん」

 

 心配になったのだろうか。フロアで存分に『私は忙しい』アピールをしていた朋美ちゃんも厨房にやってきた。すでに発生源の目星はついているようで、左手がカタカタと震えている。何より顔が青白く、気を許せば途端にエジプトのミイラのようになってしまいそうな様相だ。

 

「ねえ咲希ちゃん……やっぱり、さっきの声……」

「……そう思う。きっと、設楽さんたちの個室からだと思うよ」

「ひいッ!? ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃ」

 

 私の口から『設楽さん』という単語が出るなり、途端にゲッソリとやせ細ってツタンカーメンみたいな顔つきになる朋美ちゃん。私に背を向けてその場にしゃがみこみ、何かをぶつぶつつぶやき始める。

 

「朋美ちゃん?」

「いやだいやだいやだ……」

 

 ……そんなにあの個室が恐いのか。そんな個室にだんだん慣れてきて、平気で顔を出せるようになってきた私は、一体なんなんだ。

 

「……ちょっと様子を見てきてもらえませんか?」

 

 私と朋美ちゃんを尻目にいまだ警戒を解かない料理長が、声がした方を見つめながら私にそう指示を出した。

 

「私がですか?」

「ええ。さすがにさっきの大声は……」

「慣れてきましたし、別にいいですけど……」

「ありがとうございます。何か問題があれば、すぐに戻ってきてください。私が出ますから」

 

 そう答える料理長の顔は険しい。これは私を気遣っているゆえの『私が出ます』ではない。自分でなければ対処が出来ない場合もあると判断した故の、みんなの長としての使命感がそうさせているのだ。きっとそうだ。

 

 タイミングよく、従業員を呼ぶ『ピンポーン』という音が鳴り響いた。その途端、私の隣でうずくまっていた朋美ちゃんがハッと顔を上げ、使命感を帯びた真剣な面持ちで私を見上げるが……

 

「……ハッ!! 私、今呼ばれたから!」

「へ?」

「私! 今のピンポンのお客様のところに行かなきゃいけないから!!」

「う、うん……」

「だから設楽さんの個室は! 咲希ちゃんがお願い!!」

 

 そう言って元気よく立ち上がり、右手をシュタッと上げてフロアに向かおうとする朋美ちゃん。だけど、今しがたピンポンを鳴らした席を電光掲示板で確認するなり……

 

「……ひぃぃいいい!?」

「朋美ちゃん?」

 

 悲鳴を上げ、頭を抱えて再びうずくまってブツブツと何かをつぶやき始めた。よく聞き取れないが、『天にまします我らの父よ……父と子と御仏の御名において……なんまんだーぶなんまんだーぶ……』とキリスト教と浄土真宗の決まり文句を適度にブレンドした、独自の呪文を唱えていた。よほど気が動転しているのか、あるいは何か新しい宗派に目覚めたのか……

 

 電光掲示板で光り輝く数字は28……この番号は、あの設楽さんたちの個室を表す番号だ。さっきの大騒ぎのあとにもかかわらず、私たち従業員にオーダーを取りに来いと催促しているのか……。

 

 ともあれ、このまま手をこまねいているわけにもいかない。ピンポンも鳴らされたわけだし、キチンと二人の様子を見てこなければならない。料理長から下されたミッションは、私でなければ完遂できないだろう。

 

 私はキッと前を向き、設楽さんたちが待ち受ける悪夢の巣窟を睨みつけた。

 

「料理長……私、行ってきます」

 

 そして、料理長に決意を伝える。あの場所へは、私が行かなければならない。

 

「よろしくお願いします。無理だと思ったら、すぐに私と交代してくださいね」

 

 料理長の気遣いが胸に暖かい……そしてその暖かさが、私に前進する勇気を与えてくれる。

 

「はい。……行ってきます!」

 

 そんな料理長からの暖かい激励を受け、私は意を決して、お店の奥……設楽さんたちが待ち受ける渦中の個室へと、足を伸ばした。

 

「うう……無事に戻ってきて咲希ちゃん……うぇぇ」

 

 そんな、朋美ちゃんの嗚咽を聞きながら。

 

 

 個室前に到着。設楽さんたちの個室周辺は意外と静かで、先程大声が聞こえてきたとは思えないほど、落ち着いている。

 

「えっと……中の様子、どうかな……」

 

 しかし、周辺が静かだからといって油断は禁物だ。物静かな個室であったとしても、障子のその向こう側では、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていることだってある。事実、ここでバイトをはじめてからこっち、私は何度もそんな光景に直面してきた。

 

 障子の向こう側の様子を伺うため、そっと耳を澄ませてみる。途端に障子の向こう側から、設楽さんの悲鳴のような声が聞こえてきた。

 

『バカなっ! 私の身体をここまで好きに弄んでおきながら!?』

 

 ……ちょっと待ってちょっと待ってよ……やっと設楽さんたち二人の様子に慣れてきたっていうのに……ここに来て驚愕の新事実が発覚するのやめてよ……設楽さん、あのセンパイさんに弄ばれてたの? あのセンパイさんとかいう男の人、ぬぼーってしてるけど、ホントは女の人を弄んでは捨て歩く、ドクズの代表格みたいな人なの……?

 

 続けてセンパイさんが、何か勘違いだろと言わんばかりの口答えをしていたのだが……それはまったく私の耳に入ってこない……それどころか、設楽さんの次のセリフが私の良心にさらに衝撃を与えてきた。

 

『私のブラだって見たのに!?』

 

 下着姿を見せるってどんな状況なの~……私だって花子にすら見せたことないのにぃ~……今までなんだかんだでいい雰囲気の個室だったのにぃ~……なんでいつの間に泥沼になってるのぉ~……

 

 私の右手が、勝手にニギニギとエア乳搾りを行い始めた。私の身体が花子の乳搾りを求め始めた証だ。花子ぉ~……乳搾りさせてぇ~……あなたのおっぱいの感触で、私の心を癒やしてよぉ~……

 

―― ヴモォォオオオオオ

 

 私の脳裏を、ホルスタインの花子の姿が駆け巡る。白黒まだらの、あの可愛くて美しい花子の身体……あのつぶらな瞳……その瞳に映る故郷の全景……帰りたい……帰りたいよ花子……都会っておっかないよ……花子のおっぱいの方が何倍もあったかいよぉ……

 

 ……しかし、ここで逃げていてはいけない。

 

―― 川村さん 勇気を出して がんばって

―― ヴモッ ヴ……ヴモォォオァアアアア

 

 なぜなら、私の脳裏によぎる花子の傍らには、大好きな料理長の姿があったから。私の頭の中の料理長は、私が大好きな笑顔を浮かべ、そして花子とともに私を見つめて、必死に勇気づけていた。

 

 ……そうですね。いつまでも花子のおっぱいに逃げてちゃダメですね料理長。私、がんばります。

 

 見ててね花子。あなたのおっぱいに頼ってばかりじゃいられないよね。私、頑張るよ。

 

 『ふんッ!!』と鼻息を立てて気合を入れたら、勢いよく障子に手をかけ、そして開く。

 

「大変おたませ、いたしましましたぁあッ!!」

「お、おう……」

「……」

 

 中にいた設楽さんたちは、多少噛んでしまった私の勢いに飲まれたらしい。センパイさんはあっけにとられ、設楽さんもビクッと波打った後、口をつぐんだ。心配していたよりも空気は柔らかい。交わしていた言葉こそ物騒この上なくドロドロとした泥沼だったが、空気そのものはそう重くないようだ。

 

 だがそれすら、今の私には恐ろしい。ここ数十分の間に幾分持ち直しはしたものの、度重なる二人の奇行のせいで、今の私のメンタルはとてもセンシティブだ。そんな状態の私だから、たとえ思ったより軽く柔らかい空気感でも、それが逆に次の混沌を呼び込んできそうで、恐ろしくて仕方がない。

 

「えっと……烏龍茶を2つ」

「ほ、ホットとアイス……どちらになさいますって!?」

「えーと……アイスで、お願いします」

「かしこまりしたぁあ!! アイスお2つ!!」

「お、お願いします……」

「お待ちくだっし!! ごゆっくりゃあ!!」

「お、おう……」

 

 なんだか威勢のいい築地市場のおっさんみたいなやけくそなやり取りの後、私は急いで障子を閉じる。私とやり取りしたセンパイさんはだいぶ呆気にとられていたようだけど、そんな様子は頭に入らない。

 

「早く……早く料理長に帰らないと……ッ!!」

 

 オーダーのメモを取ることすら忘れ、私は急いで料理長の待つ厨房へと向かう。スタスタと足早にフロアを歩き抜け……そして……厨房が視界に入った。

 

「料理長!」

「ぁあ! 川村さん!!」

 

 その厨房で待っていたのは、大好きな料理長。心配そうに曇らせていた顔が、私の姿をを見るなりパアッと明るくなった。そして手に持つ私の腕ぐらい長さの柳刃包丁をまな板の上に置いて、濡れた手を自分のエプロンの袖で拭いた。

 

「おかえりなさい川村さん!」

「りょうりちょ……りょうりちょぉおお~……!」

 

 そんな料理長の顔を見るなり、私の全身に安堵が訪れる。覚悟を決めたとはいえ、やはり私の心は緊張しっぱしなだったようだ。そのままフラフラと料理長の元まで駆け寄った私は……

 

「ふぁぁああん……りょうりちょぉおお~……」

「ほっ?」

 

 そのまま、両手を広げて私を待つ料理長の胸に飛び込み、抱きついてしまった。料理長も最初は戸惑ったようだったが、やがて優しい笑顔で私を見つめ、頭を撫でてくれた。

 

「お疲れ様でした川村さん」

「ふぇええ……りょうりちょ……」

「はい?」

「えっと……ひぐっ……烏龍茶、2つ、オーダーです……ひぐっ……」

「オーダーだったんですね。よかったです」

 

 よくないですよ……あそこ今、泥沼の様相を呈してますよぅ……

 

「とりあえず私は烏龍茶の準備をしますから、川村さんは熱いお茶でも飲んで、落ち着いてください」

「はい……うう……」

 

 料理長の気遣いがとてもうれしく、そして疲れ切った私の心に染み入っていく……ああ……料理長……今の私にそんなふうに優しくされたら、私、料理長のことが好きになってしまう……でも、料理長には音楽家の素敵な彼氏がいたはず……うう……これはいけない恋だって分かっているけれど……そんな許されざる恋慕を、あなたに抱いてもいいですか料理長……。

 

 そんな感じで吊り橋効果よろしく、私を癒やしてくれる料理長に禁断の恋心を抱きそうになった、その瞬間。

 

―― ヴモッ ヴモッ

 

 こちらを見つめる、つぶらな瞳の花子のイメージが私の頭を駆け巡った。そうだ。私には花子がいたじゃないか。あのつぶらな瞳とあったかいおっぱいで私を癒やしてくれる花子が、私の故郷で待っているじゃないか……。

 

「だ、ダメですっ!」

「はい?」

 

 私は急いで料理長の懐から離れた。このまま料理長の温もりに包まれていては、私はこの人から離れられなくなってしまう……それはいけない。この人には約束された人がいるんだ。この人を好きになってはいけないんだ……私の理性の最後の一欠片が、料理長への恋慕に待ったをかけて、泥沼の三角関係に陥ってしまいそうな私を救ってくれた。

 

 ……そう。あの設楽さんたち二人のような泥沼の愛憎劇には、陥らなくて済んだようだ。ありがとう花子……私はあなたに救われたよ……帰ったら、いっぱい乳搾りしてあげるね……。

 

――ヴモォオッ 

 

 



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4. 分かった。あの人、ブレインウォッシングされてるんだ

 料理長への禁断の恋心も落ち着きを取り戻した後、私は料理長が丁寧に仕上げた烏龍茶を二つ、設楽さんたちが待つ個室へと届けた。

 

「こちら! アイス烏龍茶になりまぁあす!!」

「……」

「はいどうぞー!」

「おう。ありがと」

「はいッ!! どぞー!!!」

「ありがとうございます」

 

 先程、お昼のメロドラマよろしくあれだけ泥沼の男女関係のもつれを演出していた個室部屋の雰囲気は、意外にも明るかった。さっきのあのドロドロのセリフは何だったのかと首を傾げながら、私は烏龍茶を運び終わり、何事もなく厨房に戻ってきた。

 

 そして今、私は熱いお茶を堪能しつつ、小休止に入っている料理長と二人で、厨房で椅子に座って休憩中だ。本来なら休憩中は事務所で寛いでもよいのだが……今日はオーナーが事務所にいる。あのやる気のない死んだ魚の目をしたオーナーと同じ部屋で長時間過ごすなど、まったくもって落ち着かない。

 

 それよりも、同じく小休止している料理長と一緒にいたい。どうせなら、ホッと安心できる料理長と一緒にいたいと思うのは、私だけではなく誰しもが思うところだろう。それに……

 

「川村さん。はいどうぞ」

「? どら焼きですか?」

「『をだや』のどら焼きです。私の教え子が今日いくつかくれたんです。お一つどうぞ」

「ありがとうございます!」

「美味しいですよー」

 

 料理長と一緒にいれば、こうやって何かしらおやつをごちそうしてくれるから。

 

 今日のおやつは和菓子の人気店『をだや』のどら焼き。食べたことがある人が言うには『もはやどら焼きではなく神さま』と思えるほど美味しいらしい。

 

 料理長と二人で、どら焼きを頬張る幸せ。んー……疲れているときの甘いおやつは美味しいなぁ……料理長も幸せそうな顔で上品にどら焼きを頬張っている。同じものを食べて同じ幸せに浸れる……うーん……今日は色々と大変だけど、その分うれしい出来事も多いなぁ。

 

 そうして、二人でどら焼きを堪能しながら休憩すること、約15分。お客様の誰かが従業員を呼ぶ、『ピンポーン』という音が厨房に鳴り響いた。

 

「あら」

「お?」

 

 私と料理長は、揃って壁掛け時計の隣に配置された電光掲示板を見る。従業員を呼ぶお客様の番号は28。この番号は……設楽さんたちの個室だ。

 

「あ……行かなきゃ」

 

 つい条件反射で、椅子から立ち上がってしまう。残り少ないどら焼きを口に放り込み、私は急いでそれを咀嚼した。

 

「川村さん、休憩中なんだから、行かなくていいですよ?」

 

 そんな私の様子を見かねて、料理長が優しく私を制止するのだけれど。

 

「でも料理長。あの個室には、私が行かなきゃ」

「責任感があることはよいですが、休憩も立派な仕事の一つですよ?」

「でも見て下さい料理長」

 

 私は厨房から見えるフロアの様子を指さした。料理長も不思議そうな表情で、私が指差すフロアを眺める。

 

 フロアは今、てんてこまいだ。数人のフロア担当がせわしなく動き回り、誰一人として今の設楽さんたちからのピンポンに気付いてない。……いや、気付いてないフリをしている。

 

「……あれ。今、フロアってあんなに忙しいんですか?」

「……そうみたいです」

「でも厨房の方は、今そんなに忙しくないですよね? オーダーも溜まってないし」

「そ、そうなんですけど……」

「お客様だって、言うほどいらっしゃってないですよね?」

「ま、まぁ……」

 

 ……私には、見えていた。フロアのみんな……特に朋美ちゃんは、別段忙しいというわけではない。だってさっきまで、朋美ちゃんは暇そうにあくびをし、眠そうな目をゴシゴシとこすっているのが、私には見えていたから。

 

 ではなぜ今、みんなあんなに忙しそうにせわしなくフロアを右往左往しているのか。それはひとえに、設楽さんたちの個室に足を運びたくないからだろう。

 

 だからみんなは、さっきまではあんなに暇そうにしていたのに、『ピンポン』が鳴り響いた途端、まるで覚醒したかのように機敏な動きでフロアの中をうろつきはじめたのだろう。朋美ちゃんの、あの超高速の反復横跳びがすべてを物語っている。表情が鬼気迫っていて、あれではフロアの他のお客さんは声をかけづらいのではなかろうか……そんな余計な心配をしてしまう。

 

 そんな不審な光景を眺める料理長も、やがてすべてを察したようで……

 

「……分かりました。では川村さん、お願いできますか?」

「はい。行ってきます」

 

 と、私が設楽さんたちの個室に行くことを呆れながら許可してくれた。その上……

 

「そのかわり……今晩の残りで適当にお弁当作っちゃいますから、持って帰って召し上がって下さい」

「いいんですか!?」

「いいも何も休憩中にも働くんですから、それぐらいさせて下さい。私からのお礼です」

 

 とこんな具合に、ご褒美のお弁当を作ってくれる約束までしてくれた。料理長のお弁当……さぞかしとても美味しいお弁当なんだろうなぁ……仕事が終わった後の楽しみが増えたぞこりゃ。設楽さんたちの相手は正直とても疲れるけれど、その分、ご褒美はとても豪華だ!

 

「ありがとうございます! では行ってきますね!!」

「はいお願いします」

 

 うれしいご褒美も料理長からもらえるようだし、私は意気揚々と設楽さんたちの個室へと向かうことにする。口の中に残るどら焼きの甘さを、料理長が淹れてくれたお茶でさっぱりと洗い流し、私は胸を張って、個室へと向かった。

 

 

 そうして私は、個室の前に到着。しかし、この個室を前に、私はまたもや異変に気付いた。

 

「……う?」

 

 目を凝らさずともわかる。個室を仕切る障子の隙間から、灰色の瘴気がじんわりと漏れ出ているのが、私には見える……

 

「うう……また何かあったのかなぁ……」

 

 さっきまでの勢いはどこへやら……途端に私の心が萎縮し、右手がニギニギとエア乳搾りを行い始めた。

 

 ……しかし、いつまでも妄想の中の花子のおっぱいに癒やされ続ける訳にはいかない。意を決し、私はエア乳搾りをやめて、障子に手をかけ、そして勢いよく開いた。

 

「大変おまたせ……!?」

 

 途端に私の視界いっぱいに広がるのは、どよーんと重苦しく、そして灰色に着色された室内の空気。まるで夏の日の湿度が高い時の空気のように、重苦しい空気が私の全身にまとわりつき、頑張って絞り出した私の空元気と決意をどんどんと吸収していく。

 

 そして……

 

「……ずーん」

 

 今までの、人を殺しそうなほど鋭かった設楽さんの目に覇気がなくなり、顔色が青黒く変色していた。まるで2時間ドラマで毒物を飲まされてしまった被害者のように生気がない。その目も鋭さは失ってはないものの、どこかうつろで濁っている。

 

 これは、設楽さんの身に何かあったに違いない……このセンパイさんに何かひどいことでもされたのか!? 考えうる可能性が頭を駆け巡っていくけれど、まずは設楽さんの様子を伺うのが先だ……ッ!

 

「……て、どうしました!?」

「だ、大丈夫です……た、ただ、この人に……」

「!? な、何かされたんですか!?」

「調教され、も、弄ばれて……」

「!?」

 

 調教されて弄ばれていたとな!?

 

「誤解を招く言い方はやめろと言ったはずだッ!!」

 

 センパイさんが何やら言い訳を必死に叫んでいたが、そんなものは私の耳には届かない。

 

 設楽さんは、このセンパイさんという男に調教されて弄ばれていた……最初に私の頭をよぎった二人の関係性……それは、あながち間違ってなかったのか……いや、想像していたよりも、事態はもっと深刻でおぞましい……

 

―― おい設楽ァ……俺以外の人間には、もうそのカワイイ笑顔を向けるなよォ

   さもないと……分かってるよなぁ……?

―― は、ハイ……先輩……うう……

 

 そんな、設楽さんの弱みに付け込んだセンパイさんの悪行の数々が……設楽さんから笑顔を奪ってしまったのかもしれない……

 

 設楽さんは気付いたんだ……今日、自分が洗脳されていたことに……これは、設楽さんにとってはチャンスなんだ……このセンパイさんから逃げ出し、自分だけの自由な人生を歩みだす……その一歩なんだ。

 

 ならば私は、そのお手伝いをしなければ……お客様を守る……それは、接客業として当然の行い……まして、あの料理長の元で働く、このチンジュフショクドウのフロア担当であれば、なおさら……!!

 

「……ッ!!」

 

 私は振り返り、センパイさんをにらみつける。これ以上、設楽さんを好きにさせるわけにはいかない! 設楽さんに手を出すことは、この私が許さないッ!

 

「……えーと」

「……ッ! ……ッ!!」

「……注文、いいかな?」

「お決まりですか……ッ!?」

「あの……さつまいもアイス、ふたつで」

 

 ふざけたことを……さつまいもアイスのオーダーで私を煙に巻こうとするとは……しかし、オーダーはオーダーだ。私には、オーダーを厨房に持ち帰り、その品を再びお客様の元に届ける義務がある……。オーダーは持ち帰らなければならない……。

 

 しかし、だからと言って私も黙って引き下がるつもりはない。このセンパイさんをひときわ厳しい目で睨みつけ、そして『これ以上設楽さんに何かしたら許さんッ!!』という、私の揺るぎない決意を叩きつける。

 

「以上でよろしいですか……!?」

「お、おう……」

「では……ごゆっくり!!」

 

 私の揺るぎない決意を全身に受けて戸惑うセンパイさんをよそに、私は一度設楽さんの様子をチラと伺って、個室を後にする。障子を閉じるのを忘れていたが、ピシャリと障子を閉じる音が聞こえたから、センパイさんが閉じたようだ。センパイさんめ……あの密室の中で、設楽さんにどんな悪事を働くつもりだ……

 

 ともあれ、これから厨房に戻って、設楽さん救出作戦を考え無くてはならない。私は頭をひねりながら、厨房へと戻っていく。

 

 警察に連絡して、逮捕してもらおうか……いやダメだ。センパイさんが設楽さんを弄んでひどい目に遭わせたという証拠がない……ならば従業員全員で踏み込むか? ……いやそれもダメだ。他のお客様に迷惑がかかるし、なにより大事になってしまう……

 

「ぁあ川村さんおかえり……て、どうしました?」

 

 厨房に戻るなり、どら焼き片手に緩みきっていた料理長が、私の顔を怪訝な表情で眺める。私はよほど厳しい表情をしていたらしい。料理長にそう言われて、はじめて自分の眉間にマリアナ海溝レベルのシワが寄っていることに気付いた。

 

「……あ、料理長」

「何か問題でもあったのですか?」

「えっと……大問題です。あの設楽さん、センパイさんという男の人に、洗脳されていたんです!」

「へ……?」

 

 私は料理長に、先程個室で明るみになった驚愕の事実を告げる。センパイさんに弱みを握られ、言うことを聞かざるを得ない設楽さん……そんな設楽さんを洗脳し、おのが欲望のままに設楽さんを調教して弄んだセンパイさん……そして今日、その洗脳が溶けて自分を取り戻した設楽さん……

 

「そ、そんなことが……」

「あったんです。にわかには信じられないことですが、これは事実です……」

 

 料理長が、私と同じく眉間にシワを寄せる。先程センパイさんの大声がお店の中で鳴り響いたときのように、その眼差しは歴戦の武道家のように厳しい。きっと私と同じように、設楽さんを守らなくてはならないという正義感が、料理長の中で芽生えているのだろう。

 

 しかし、これはどうしたものか……このままあの二人を二人きりにさせておくのは危ないし……かといって、意味もなくあの個室に顔を出し続けていれば、あのセンパイさんに必ず怪しまれる……余計な警戒心を抱かれては、設楽さんをあのセンパイさんの魔の手から救うことは出来なくなるだろう……

 

「えっと……川村さん?」

「はい」

「何かの間違いということはないですか?」

 

 私の報告を聞いた料理長は、落ち着いて私にそう問いかけるが……やはりこの人は優しい。きっと性善説を信じ切っているのだろう。私は料理長のそんな優しさが好きだけれども……

 

「えっと……料理長」

「はい?」

「私の報告を聞いても、信じられないということでしょうか……?」

 

 料理長のその態度は、要は私が信じられないと行っていることと同義だ。それに、手をこまねいているうちに、設楽さんをセンパイさんの魔の手から救うチャンスを逃すということもある。善は急げだと思うのだけれど……

 

 でも、料理長が言いたいことは、実はそういうことではないらしい。

 

「違います。私の周囲にもいるのですが、とかく言葉選びが特殊で、それが原因で人に誤解を与えてしまう人というのが、世の中にはいらっしゃいます」

「はぁ……」

「その設楽さんという方も、そんな感じの人なのではないでしょうか?」

「でも……」

「直接お会いしてないので何とも言えませんが、設楽さんという方には、そんな印象を私は持っています」

 

 ……つまり、言い方が大げさなだけで、設楽さん本人は決してあのセンパイさんからひどい目には遭ってないということか……?

 

「アイスは急いで作りますから、とにかくそれを持って行って、もう一度様子を伺ってみてください。ホントにそういう状況なら、次は私が行きます」

「……分かりました」

「くれぐれも、見切り発車で先走りしてはいけませんよ?」

「でも……」

「これはお客様だけでなく、川村さんを守ることにもなるんですからね?」

「……はい」

 

 最終的に『先走るな』と釘を刺された……心の中に少しだけ不満をためながら、私は料理長がさつまいもアイスを作り終わる、その瞬間を待った。

 

 

 料理長がアイスをキレイに盛り付け、さつまいもチップをアイスにぶすっと差し込んだ。これでご注文のさつまいもアイスは完成。その2つを料理長から受け取り、お盆に乗せて個室へと運ぶ。

 

 料理長は『先走るな』と言っていたけれど……もし、設楽さんが洗脳されている証拠を私が見つけた時は……その時は、容赦なく二人の間に割って入るつもりだ。

 

 設楽さんは私に『調教され、弄ばれた』と訴えていた。……つまり、設楽さんは私に助けを求めたのだ。見ず知らずの飲み屋の従業員に助けを求めざるをえなかった……つまり、それだけ設楽さんは追い詰められているということになる。

 

 お客様が、従業員である私に助けを求めた……ならば、私がその人を助けなくてどうする? この状況を我が身可愛さに手をこまねいて見ていたら……私は、故郷の花子に顔向けできない。胸を張って花子の乳搾りができなくなってしまうではないか。

 

「大丈夫。私なら出来る……見ててね、花子」

 

 個室が近づくに連れ、自然と花子の姿が脳裏に浮かぶ。私は、あのつぶらな瞳の花子と、後ろめたさを感じることなく、胸を張って会いたいんだ。故郷のあの牧場で私を待ち続ける花子に会った時、胸を張って乳搾りをしたいんだ。

 

 個室の前に到着する。緊張する胸を沈めるべく、何度か深呼吸する。お盆を持つ手が震える。一度そばのワゴンにお盆を置き、目を閉じて、花子を思い浮かべる。

 

――ヴモッ……ヴモォオッ

 

 私の頭の中の花子は、つぶらな瞳で私にこう語りかけていた。

 

『大丈夫。あなたなら出来るよ 私の乳搾りのように、簡単に』

 

「よしッ。行くッ!!」

 

 意を決し、そばのワゴンに置いたお盆を手にとって、私は再び障子を開いた。

 

「大変おまたせいたしました! さつまいもアイスお2つでーす!」

 

 障子を開くとすぐに、出来るだけ元気な声で挨拶をする。設楽さんには、『私達がいますよ。だから安心してくださいね』という意味を込めて。そしてセンパイさんには、『設楽さんに何かしたら、張り倒す!!!』という威嚇の意味で。

 

「はいどうぞー」

「……」

 

 設楽さんの前に、さつまいもアイスを置いた。かわいそうに……設楽さんはうつむき、私の方を見ず、肩を震わせて佇んでいる……私がしばらく見ないその間にも、このセンパイさんに何かひどいことをされたのか……はたまた何かひどいことでも言われたのか……とにかく心配になるほどの意気消沈っぷりだ。

 

「……ッ!!!」

「んお?」

 

 続けて私は振り返り、設楽さんの向かいにいる、センパイさんを睨みつける。もう一つのさつまいもアイスを手に取り、そして……

 

「……はい、どうぞッ」

 

 ガシャンとテーブルの上に、乱暴にさつまいもアイスを置いた。

 

 これは、センパイさんへの牽制であり、宣戦布告であり、そして設楽さんに何かあったら許さないという、私の揺るぎない決意の宣言だ。

 

「あ、ありがと……」

 

 私の牽制はセンパイさんも理解出来ていたようで、額から冷や汗を垂らし、苦笑いを浮かべていた。私の迫力に萎縮しているようで、睨みつける私の目を見ず、目をそらしている。

 

 ……私は知っている。こういう風に周囲の人にひどい仕打ちをする人というのは、実は根っこは小心者な人が多いということを……。

 

「……ッ!!」

「……えーと……」

「……ッ! ……ッ!!!」

「なんすか……?」

 

 白々しい……私の迫力に押され、何も言えなくなったくせに……

 

「……ッ!」

「……?」

「……ごゆっくりッ!!」

 

 私はセンパイさんをひとしきり睨みつけた後、そのままの面持ちで勢いよく障子を開き、そしてピシャリと閉じた。閉じた時、障子の音がスパンと鳴って、私の怒りを代弁してくれたかのようだった。

 

 ……しまった。センパイさんのブレインウォッシングの証拠を見つけることが出来なかったが……まぁいい。あとでお茶を持っていかなければならないし、最後のお会計のときもある。その時は覚悟しろ。私はセンパイさんとやらの魔の手から、設楽さんを救い出す。

 

 ……花子、私はがんばるからね。

 

――ヴモッ ……ヴモォオオッ

 



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5. 混沌のおわり

 ……また頭が混乱してきた。つい今しがた、あの個室へと食後のお茶を運んだときのことだ。

 

『失礼いたしまーす! 食後のお茶をお持ちしました!』

 

 今度こそ洗脳の証拠をつかもうと決意して障子を開き、個室に入ったのだが……その瞬間に気付いた。個室の中の空気は、さっきまでと比べて重苦しさが緩和されていた。

 

『はいどうぞ』

『ありがとうございます』

 

 さっきとは明らかに異なる場の雰囲気に戸惑ったものの、私は気を持ち直し、二人の前で急須からお茶を淹れる。まずは設楽さんにお渡し、その様子を伺ったのだが……設楽さんは先程と異なり顔色が普通に戻って、心持ち元気になっているように見えた。相変わらず不愉快そうな顔してるけど。

 

 一方で……

 

『……はい、どうぞッ!!』

『……おう』

 

 敵意むき出しでセンパイさんの前にお茶を差し出したときに気付く。さっきの設楽さんほどではないが、今度はセンパイさんの顔色が少々おかしい。体調を崩した時ほどひどくはないが顔色が悪く、どこかしょんぼりとしていて元気がない。なんだか肩を小さく狭めて、猫背で自信がなさそうな、そんな感じの雰囲気だった。

 

 厨房に戻りながら、私は必死にその理由を考える。さっきまであれだけ元気がなかった設楽さんに代わって、今度はあのセンパイさんの様子がおかしい理由はなんだ? 支配しているはずの設楽さんから手痛いしっぺ返しを食らって、しょぼくれて落ち込んでしまった? ……いやとてもそういう風には見えなかったけどなぁ。

 

 悩めども答えが出ないまま、私は厨房に帰還した。

 

「あ、川村さんおかえりなさい」

「ただいま戻りました料理長」

「……で、どうでした?」

 

 厨房では、料理長が私の報告を待っていた。私は今しがたの個室の様子を改めて料理長に伝える。幾分空気が柔らかくなった室内と、調子が戻った設楽さん。そして、自信なさげにしょんぼりしていたセンパイさん……。

 

「……というわけで、個室の雰囲気は幾分和らぎました。でも……」

「今度はセンパイさんの方が落ち込んでいる……てことですか」

「はい。……どうしましょう?」

「……」

 

 私の報告を聞いた料理長は顎に手を添え、しばらく考える素振りを見せていたが……やがて意を決したようで、個室の方をキッと睨み、そして口を開いた。

 

「……分かりました。では私が様子を伺ってきます」

「ぇえ!? でも様子なら私が見てきますよ?」

「いえ。すでに事態は川村さんが解決できる範疇ではないかもしれません。責任者である私が様子を見て、そしてどうするか判断しなければ……」

 

 『すでに事態は川村さんが解決できる範疇ではない』という料理長のその言葉が、私の耳に、静かに、そして痛々しく響く……。

 

「あの……料理長……すみません」

「?」

 

 つい口から出てきたのは、謝罪の言葉だった。

 

 私は料理長が好きだ。本当は関わりたくないのに設楽さんたちの個室へと足を運び続けたのも、料理長の手を煩わせたくないからだ。それなのに……。

 

「結果的に、料理長の手を煩わせることになってしまいました……」

「川村さん?」

「すみません……私、もうここに勤めて長いのに……まだまだ力不足ですね」

 

 自分の未熟さが嫌になる。あれだけ『料理長に迷惑をかけたくない』と思ってがんばったけれど……自分にはまだ、あの二人を捌き切る実力がなかったということか。

 

 考えみれば、私は今日一日ずっと、料理長と花子、そして朋美ちゃんをはじめとしたフロアのみんなに甘え続けていた気がする。心が折れそうになったときは花子の面影に支えられ、料理長からはお弁当のおみやげで励まされ、その他の仕事は朋美ちゃんたちに全部やってもらえ、私自身はあの個室の応対に集中出来る環境を整えられたのに……たとえ、それがお互いにとってwin-winな状態だったとしても、私は今日、他のみんなにおんぶにだっこの状態で仕事をしていた。

 

 ……それなのに、私は満足な仕事を行う事ができなかった。設楽さんとセンパイさんの関係性を見抜くことが出来ず、結果的に料理長をフロアでの接客に駆り出す事態に陥ってしまっている……。

 

 私を見る料理長が、困ったように微笑みかける。きっと私から見た料理長は、あのセンパイさんのように、自信なさげでしょぼくれた感じに見えるだろう。自分でわかる。猫背で肩をすくませ、ずいぶんと身体が小さくなってしまった。料理長の顔を見てられず、つい俯いてしまう。だから余計に身体が小さく縮こまる。

 

 そうやって、私がうつむき、自分の未熟さに打ちひしがれていたら……

 

「……川村さん」

 

 料理長が私の肩に手をポンと置いてくれた。服越しでも分かるほどその手はとても温かく、そして肩に伝わる感触は、料理長らしくとても優しい。

 

 私は顔を上げた。料理長は優しく微笑みながら、私を見下ろしていた。

 

「……あなたは今日、とてもよくがんばってくれていましたよ?」

「でも、結局料理長が個室の様子を見に行くことに……」

「ええ」

「それって、つまり……私がキチンと対応出来てないから……ですよね?」

 

 私の口からポツリと出た言葉を、料理長は静かに首を振って否定した。

 

「それは違います」

「……?」

「あなたはちゃんと自分の仕事をこなしました。それは、今日ずっとあなたを見ていた私が保証します」

「そうでしょうか……?」

「はい。他のフロアの人たちがさじを投げたお客様の応対を買って出てくれ、状況を自分で判断し、そしてその都度、誠実に対応していました」

「……」

「正直、あのお客様はとても難しかったでしょう。厳しい目でこちらを見つめてきたり大声で怒鳴ったり、物騒な言葉でこちらを振り回したり……」

「はい……」

「私も、そんな二人の様子がちょっと気になるんです。だから様子を見に行くんです」

「……」

「いわば、これは私の責任者としての仕事みたいなものです。だから、あなたが気に病むことはないんです」

 

 優しい言葉で私を諭しながら、料理長は私の頭をくしゃくしゃとなでた。その手は水仕事を毎日している料理長らしく、決してすべすべとは言い難い手だけれど、不思議とそのサラサラとした感触が心地いい。料理長らしい、優しい手だ。

 

「……ではちょっと行ってきますね」

 

 料理長が私の頭から手を離した。たすき掛けの和服の背中が、私から離れていく。料理長は言うほど背が高くないから、その背中はとても小さい。だけど。

 

「あ、あの……料理長」

「はい?」

「……ありがとうございました」

「?」

「元気、出ました」

「ならよかったです」

 

 あのセンパイさんや私の背中のように、自信なさげな猫背ではない。小さくて可愛らしい背中だけど、とてもキレイに背筋が伸びた姿勢で堂々と佇む、美しく、カッコいい背中だった。

 

 料理長の美しい佇まいの背中を見送ったあと、私はあの個室の二人のことを思い浮かべた。

 

 最後に私が個室に入った時、確かにあのセンパイさんは自信を失っているように見えた。さっきの私のように、なんだか自分の無力さを思い知らされたというか……単純に落ち込んでいるようにも見えなくはないが……ではなぜ落ち込んでいるのかということを考えると、やはり自信がないからではないだろうか……そんな風に思えて仕方がない。

 

 なぜそんな風に思ってしまうのか……それは私自身、過去に自分の背中を見たことがあるからだ。

 

 今でこそ、私は故郷で花子の乳搾りにかけては世界一を自負しているが……かつてはとても下手くそで、花子の乳搾りに対して自信がまったくなかった時期があった。

 

 その時は、私が乳搾りを行えば花子は必ず痛そうにヴモォオっと悲鳴を上げ、ジタバタと逃げ回り、挙げ句後ろ足で私を蹴り上げようとしてきた。普段はとても優しく人懐っこい花子だったから、その変貌ぶりが恐ろしく、私は乳搾りに対する自信を完全に失ってしまった。

 

 その頃の乳搾りの写真を、一度だけ母親に見せてもらったことがある。おっかなびっくり花子のおっぱいを握る私を、背後から撮っている写真だ。その写真に写る私の背中は、とても縮こまった猫背で、まるで自信がなさそうに見えた。

 

 あのセンパイさんの背中は、あの写真の私と同じ感じに見えた。だから、『自信がなさそうだ』と私も思うのだろう。心当たりがありすぎる背中だから。

 

 もし、私の予想が当たっているとするならば……あのセンパイさんは、この短時間のうちに、一体何があったのだろうか。自信を失うような大きな事態……それは一体、何だろう? それは、設楽さんに関係することなのだろうか?

 

 そんな風に、さっきまでのブレインウォッシング疑惑のことなど忘れて、あのセンパイさんのことを心配していたら……

 

「……あ! 料理長! おかえりなさい!!」

「はい……ぷぷぷ……」

 

 料理長が個室から戻ってきた。両手で口を押さえ、笑みをこらえるように前かがみで身体をぷるぷると震わせているその様子は、普段の料理長よりも、可憐で可愛らしい女の子に見える。

 

「ぷぷっ……」

「あの……?」

「くくっ……」

「……料理長?」

 

 私は料理長に駆け寄り、そして話しかけるのだが……料理長のほっぺたが、ほんの少しだけ赤い。

 

 私の呼びかけに料理長が気付くまで、若干のタイムラグがあった。私に気付いた料理長は、その可憐で可愛らしい微笑みのまま私の方を見る。目が少しだけうるうるしてた。

 

「……ぁあ、川村さん」

「料理長、様子見てきたんですか?」

「……いや、障子から会話が聞こえてきたので、慌てて退散しました」

「どうでした? やっぱりちょっと様子おかしかったですか?」

 

 どうやら直接は見なかったようだが……やっぱり様子を伺ってきたのなら、あの二人の今の様子を聞いておきたい。そう思ったんだけど……料理長は私の質問のあと、思い出すように目線を上に向け、そして……

 

「……」

「……?」

「……ぷぷっ」

「んんん?」

 

 とこんな具合で、再び両手を押さえてぷぷぷと笑う。まるで何かとても面白いものでも思い出したかのようだ。

 

「そうですねぇ……おかしいといえば、おかしいですね」

「?」

「可愛らしいとも言いますけど……ぷっ」

 

 こんな具合で私の質問には答えてくれるのだけれど、核心には触れてくれない。一体、あの二人に何があったというのか……

 

「何か面白いことでもあったんですか?」

「……まぁ、面白いといえば面白いですが……私が話すより、川村さんも直接お二人を見た方が、分かりやすいと思いますよ?」

「はぁ……」

「きっと、お二人とも一生懸命な一日だったんですねぇ……誠実な方々でしたよ?」

「……?」

 

 そう言って料理長は目を閉じ、大切なものを包み込むかのように両手を胸に当てて自分が体験してきた個室でのことを反芻しているようなのだが……正直、私には意味がわからない。二人とも誠実で一生懸命? 可愛らしい? あの二人が? 設楽さんはぶすーっと不愉快オーラをずっと出してたし、センパイさんの方は終始ぬぼーとしてたのに、そんな二人が可愛らしい? 分からない……分からないよ花子……料理長は一体二人の何を知ったのだろう……。

 

 従業員を呼ぶ『ピンポーン』という音が鳴り響いた。電光掲示板で鳴ったテーブルの番号を確認すると、28。ちょうど、設楽さんとセンパイさんのテーブルにあたる。

 

「行ってらっしゃい」

 

 電光掲示板を見上げる私の耳に、優しい料理長の言葉が届いた。

 

「恐らくお会計でしょう。最後に、あのお二人の応対をお願いします」

 

 料理長を振り返る。さっきまでの可憐な女の子のくぷぷ笑いは影を潜め、いつもの、優しい料理長の微笑みが戻っていた。

 

「……分かりました」

 

 ええい。どちらにせよ朋美ちゃんたちはあの個室には行きたがらないんだから、私が行くしか無い。料理長の言葉も気になる。ここで考え込むより、直接様子を見たほうが分かるだろう。百聞は一見にしかずだ。料理長の言葉を信じ、私は個室へと向かった。

 

 

 個室前に到着。商事の向こう側からは、会話はまったく聞こえてこない。

 

「……静かだ」

 

 設楽さんたちがこの店に訪れてから、ここまで静かな状況なのは始めてな気がする。さっきまであれだけ響いていた設楽さんの不可思議なセリフもセンパイさんの怒号も、何も聞こえてこない。

 

 ただ、それと同じく、さっきまでの重苦しい空気も感じられない。障子の向こう側からなんとなく漂ってくる雰囲気は、とても軽やかだ。まるで、乳搾りの時間を待ちわびる花子が待っている厩舎のような……そんな雰囲気が漂っている。

 

 そんなさっきまでの雰囲気の違いにしばらく戸惑っていたのだが……ええいっ。ここでやきもきしていても仕方ない。料理長だって『自分で確かめろ』と言っていたじゃないか。なら、私はこの騒動の顛末を見届ける義務がある!

 

 私は意を決して、障子に手をかけ、そして開いた。

 

「大変お待たせいたしました! お呼びですか?」

 

 開いた途端……今までとは明らかに雰囲気が違う光景が、私の目に飛び込んできた。

 

「……あ、えーと、お勘定を……」

 

 センパイさんが私にお会計をお願いしてきた。その姿にさっきまでの自信の無さはなく、肩幅もさっきのように狭まってはいない。来店時の時と同じ様に、実に堂々とぬぼーとした雰囲気を出していた。

 

 表情は来店時と変わらないが、ほっぺたが少し赤い。お酒に酔ったのかとも思ったけれど、この人、確かあまり飲んでないし、なによりさっきはそんなに顔色良くなかったもんね。お酒が原因ではなさそうだ。

 

 そして……

 

「はい! かしこま……りッ……!?」

「……?」

 

 設楽さんを見た私が、思わず声を上げる。つられてセンパイさんも、設楽さんの方を見た。

 

「……ニヘラぁ」

「しだら……さ……!?」

 

 設楽さんが、笑っていた。センパイさんと同じくほっぺたをほんの少し赤くして、目を少しだけ輝かせて……でも、すんごいキモい。なんていえばいいのか……口角を上げてニヘラと笑うその顔は、美人な設楽さんにあるまじきキモさだ。

 

 なんということだ……私は今まで、どんな女の人でも、笑顔が一番キレイで可愛い表情だと思っていた。親にもそう言われて育ってきたし、事実私が知る限りでは、笑顔が可愛くない女の子という存在は皆無だ。

 

 ……ところが、その例外はここにいた。この設楽さんだ。

 

 設楽さんは美人なのに、その笑顔はこの上なくキモい……この人は、ぶすっとした顔の方がきっと正解だ。じゃないと、この笑顔は……!?

 

 ……いや待て。このお店に入ってからこっち、この人はずっと仏頂面で、私たちをギロッと睨み続けていた。きっと本人はそんなつもりはないだろうけど、ずっと不機嫌アピールをして、私に意味不明なプレッシャーをかけつづけていた。ひょっとしたらこの人は、普段からあまり笑わない人……意図的なのか無意識なのかはわからないが、笑顔を見せない人なのではなかろうか?

 

 そんな人が、(たとえこの上なくキモいとしても)口角を上げ、ほっぺたを赤く染めて笑っている……思わず笑顔を浮かべてしまうほどうれしいことでもあったのか……?

 

「……おい設楽」

「なんですか。ニヘラぁ……」

「顔引き締めろって。にやけてるぞ」

 

 私の様子に、センパイさんも気付いたようだ。センパイさんは設楽さんに笑顔を…やめるように促し、そして設楽さんもシュッと仏頂面に戻るのだけれど。

 

「……」

「ホッ……」

「……ニヘラぁ」

「!?」

 

 今の設楽さんは、元の仏頂面にはもう戻らない状況のようだ。表情を引き締めたその2秒後には、また元通りのキモいニヘラ笑いを浮かべていた。口も半開きで、なんだかよだれが垂れてきそうなほど、だらしがなくてキモい。

 

「二へ……ニヘヘ……」

「……」

「えっと……お会計、でしたよね?」

「……あ、ああ。お願いします」

「かしこまりました! では伝票をお持ちします!」

 

 本当はもう少し設楽さんのニヘラ笑いを観察したかったけれど、そうもいかない。お会計なら、早く対応しなきゃ。私はセンパイさんにお会計の確認をした後、個室を後にして障子を閉じる。立ち去る時、障子の向こう側から……

 

『だから顔引き締めろって……!』

『だって……二へ……二へへ……』

 

 という二人のやり取りが耳に届いた。言っているセリフは今まで通り意味不明だが、今までと比べると、二人の声がとても耳に優しく、心地いい。まるで、私が花子の乳搾りをするときの花子の鳴き声のように、優しく、そして温かい。

 

『ほら花子〜。今日も乳搾りするからね〜』

『ヴモッ。ヴモォオオオ』

『今日も美味しい牛乳ありがと〜花子〜』

『ヴモォオオオオオォォォォ』

『花子〜大好きだよ〜』

『ヴモッ。ヴモォッ』

 

 故郷にいたときの、そんな毎朝のやり取りを思い出す。あの頃は私も花子のことが大切で、花子のおっぱいを絞るあの時間が、毎朝楽しく感じたものだ。花子も私の顔を見るなりうれしそうに唸りながら私に駆け寄っていたから、きっと私と同じことを考えていたはず。

 

 そんな思い出を思い出してしまう、あの二人の最後のやり取り。……核心は持てないけれど、ひょっとしたらあの二人は、お互いがお互いにとって大切な、私と花子のような関係になったのかな。

 

 だとしたら、料理長が言っていたことも分かる。あの意味不明なやりとりも、途中で不穏な空気になったのも、きっとお互いが一生懸命で、相手に対して誠実に向き合っていたからじゃないかな。あの意味不明なプレゼン資料が、なぜ誠実に向き合った結果なのかは、私にはわからないけれど。

 

 胸にポカポカとした暖かさを感じながら、私は厨房へと戻る。厨房では、休憩から上がった料理長が丁寧に鰆のつけ焼きを盛り付けていた。いい感じに焦げ目のついた鰆が、とても美味しそうだ。

 

 料理長が盛り付けが終わった鰆のお皿を朋美ちゃんに渡したのを確認し、私は料理長に声をかけた。

 

「料理長」

「ぁあ川村さん。どうでした?」

「はい。お会計でした」

「やっぱり。で、お二人の様子は?」

「はいっ。えっと……うまく言葉には出来ませんが……」

「……ぷぷっ」

「……ニシシ」

 

 ひとしきり言葉をかわした後、私と料理長は互いに笑顔を浮かべる。料理長は口を押さえ、お上品にぷぷっと。私は歯を見せ、ニシシと笑う。

 

「……ね? 素敵だったでしょ?」

「はいっ。素敵なお二人でした」

 

 

 その後は、再度私がお金を預かりお釣りを渡して、何事もなく終了。二人はそろってお店を後にした。センパイさんは変わらずぬぼーとしてるけど、その背中はどこか楽しそう。設楽さんの方は言わずもがなで、人前だからとなんとかがんばって顔を引き締めていたようだけど、すぐにニヘニへとキモい微笑みを浮かべていた。

 

「ありがとうございました! またお越しくださいませ!!」

「はーい。ごちそうさまー。美味しかったよー」

「はい! ありがとうございます!」

「ニヘ……ニヘヘ……」

「設楽様もありがとうございました!」

「はい。……ニヘヘ」

 

 退店時には、私が二人をお見送り。私が店内から見守る中、ドア越しに見えた二人の去り際の背中は、お店から距離が離れるに連れ、少しずつ少しずつ、距離を縮めていっている様に見えた。

 

「咲希ちゃん咲希ちゃん」

「んー?」

 

 私が温かい気持ちで二人の背中を見送っていたら、さっきまでフロアでせわしなく動き回っていた朋美ちゃんが私の隣にやってきた。渦中の設楽さんがいなくなったから、『私は忙しい』アピールをしなくてもよくなったからだろう。あの個室から発せられる無言のプレッシャーからも開放され、その顔はどこか晴れ晴れとして清々しい。

 

「大変だったねー……咲希ちゃん、大変だったでしょ……」

 

 開口一番、朋美ちゃんはそう口に出し、私と一緒に二人の背中を眺め始めた。普段の私なら、そんな朋美ちゃんのあまりにも他人事な言い方にイラッと来たかもしれない。

 

「……そんなことなかったよ?」

「そお?」

「うん。だって、二人とも、とっても素敵な人たちだったから」

「そうなの?」

「うん」

 

 でも、今はそんなことがどうでもよく思えるぐらい、胸が暖かくて心地いい。朋美ちゃんには伝わらないだろうけど、あの二人の仲良さそうな背中が、私の胸を温めてくれたから。

 

 私の隣で首をひねる朋美ちゃんを尻目に、二人の背中を眺めながら、私は思う。

 

 お二人とも、どうかお幸せに。そして、私と花子のように、仲のいいお二人でいてくださいね。 

 

 



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6. 後日、判明した真相

「本日、19時から個室で予約していた渡部ですが」

 

 明日から長い連休に入るため、少し心が浮足立っている今日。その人は、久しぶりに私達のお店にやってきた。フロアは朋美ちゃんに任せている状況で少々手持ち無沙汰な時間を過ごしていた私が、その人の対応をしたのだが……

 

「いらっしゃいませ! 渡部様ですね」

「はい」

「えーと……個室でよや……へ? 渡部様?」

「そうですが」

 

 あれ……このお客さんの名前、設楽さんじゃなかったっけ?

 

「えと、すみません……設楽様、でしたよね?」

「? 私のことをご存知なのですか?」

「いえ、ほら一度こちらにお越しいただいたことが……」

「はい。……でも、よく覚えてらっしゃいますね。確かに私は設楽ですが」

 

 やっぱり……設楽さんはそう答えて、鼻の穴を一瞬だけぷくっと膨らませていた。忘れたくとも忘れられません……あの強烈な思い出は……

 

 

 あの、設楽さんとセンパイさんがうちのお店に混乱を振りまいたあの日から、ちょうど二ヶ月ほど経過していた。世の中は明日からゴールデンウィークに突入ということで、この居酒屋『チンジュフショクドウ』も、お客さんで大変賑わっている。

 

 私自身も、明日から暫くの間は実家に帰る。帰郷するのは年末年始以来だ。帰ったら愛しの花子とのエンドレス乳搾りヘブンが待っている。久々に花子に会えると思うと、今から気持ちがはやって仕方ない。油断していると私の右手が喜びのエア乳搾りを行い始めるから、中々に気を抜けない日々が続いている。

 

 そんな今日の午後7時10分前。設楽さんはあの時と変わらない、ぶすっとした表情で来店した。個室席で予約を入れていたらしいが、なぜ『設楽』ではなく『渡部』なのか……。

 

「まぁいっか。ではお席に案内いたしますねー」

 

 まぁ、お客様の名前が違うこと自体は大した問題ではない。世の中には、店にやってくるグループの代表者の名前で予約を取る人もいるし。そう思い直して、私が設楽さんを個室へと案内しようとしたときである。

 

「……ちょっと待ってください。連れがすぐ来ます」

 

 準備していた予約席に案内しようとした私を設楽さんは制止した。と同時に、設楽さんの背後の入り口ドアが開き……

 

「うぃー着いた着いた~……なんだ設楽。お前も今か」

「はい」

「早過ぎだろ。まだ10分もあるぞ?」

 

 この人も忘れようがない……あの日、この設楽さんと一緒に私たちを意味不明な混乱に陥れたセンパイさんが入ってきた。あの時と比べて髪が少し伸びてはいたが、そのぬぼーとした無気力さは変わってない。

 

「会社にいても何もすることないですし、早く来たかったので」

 

 そう言って設楽さんはセンパイさんに向き直り、私に横顔を見せていた。さっきと同じように、ほんの少し鼻の穴をぷくっと膨らませているのが、私にも分かった。

 

「そっか……」

 

 ……んー? センパイさんの顔がちょっと赤くなった?

 

「……先輩どうしました?」

「……いや。んじゃ個室って空いてるかな?」

 

 設楽さんから私に視線を移したセンパイさんは、私にそんなことを聞いてきたんだけれど……予約は個室で取ってるから大丈夫だってこと、センパイさんは知らないのかな?

 

「大丈夫ですよ。渡部様のお名前で個室席で予約頂いてますから」

「そうなの?」

「はい!」

 

 どうやら、センパイさんはホントに知らなかったようだ。ほっぺたをポリポリとかきながら設楽さんに向き直るセンパイさんのほっぺたが、さらに赤くなってくる。

 

「なぁ設楽」

「はい」

「お前、俺の名前で予約取ってたのか」

「いけませんか?」

「ダメってわけじゃないけど、なんで俺の名前?」

 

 顔そのものは設楽さんの方を向いてはいるけれど、視線は確実に設楽さんから外れてる……そんな、ともすれば恥ずかしくて目を合わせられてないようにも見えるそんなセンパイさんに対し、設楽さんは、表情は変えず、でもあのグサリとするどい眼差しでじっとセンパイさんを見て……

 

「……一足先に、“渡部”と名乗ってみたかったものですから」

 

 と答えていた。

 

 そしてその直後、設楽さんのほっぺたがほんのりと赤く染まる。

 

「……お、おう」

 

 センパイさんの顔も、さらに真っ赤に染まる。なんかもう料理長に茹で上げられた直後のタコみたいに真っ赤っ赤だ。

 

 この瞬間、私はすべてに合点がいった。

 

 なるほど……あの日、二人が相手に対して誠実に向き合っていた理由は、これか……。

 

「えっと……じゃあ、渡部さま?」

「はいっ」

 

 私の呼びかけに、センパイさん本人よりも素早く振り返る、将来の渡部さん。その表情はとても険しいし、眼差しだって鋭くて、こちらの胸に刺さってくるけれど……ほっぺたが少しだけ赤くなっていて、不思議とその様子は、とても柔らかく可愛らしい。

 

「ではお席にご案内いたしますね渡部さま!」

「ありがとうございます」

「おう。ありがと」

 

 センパイさんも、私にお礼を言う姿が、どことなくうれしそうだ。相変わらず顔は恥ずかしそうに真っ赤だが、顔そのものは柔らかく微笑んでいるし、目もどこか柔らかい。確かにやる気は感じられないが、この人は優しさと女子力で相手に好かれるタイプの人なんだろう。

 

 私が先導し、二人を案内する。渡部さんたちは私の背後で二人並んで歩いているから、二人がどんな顔で歩いているのか分からない。でも、二人で寄り添って、仲良さそうに歩いているのがよく分かる。

 

 だって……

 

「先輩先輩」

「んー?」

「私、“渡部”様と呼ばれました」

「それがどうした」

「渡部薫……」

「……」

「……ニヘラぁ」

「顔引き締めろって……」

「だって……ニヘヘ……」

 

 そんなうれしそうな会話が、私の背中越しに聞こえてくるから。

 

 お二人とも、おめでとうございます。私は心の中で二人に祝福を捧げつつも、二人の仲の良さにあてられて、早く花子に会いに行きたいと思い始めていた。

 

 おわり。

 



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小話
大晦日の二人


chatstoryでの公式連載の方で、
薫たち登場人物のキャラデザインを担当しているtoiroさんが、
とてもステキな薫のイラストを描いてくださいました。
https://twitter.com/okapi1192/status/1085499037262831617

そちらの薫をなんとか形にしたくて、大晦日の日の2人を書いてみました。
chatstoryでも大晦日の話を展開してますが、その小説版という感じです。


「はいおまたせー」

「ありがとうございます」

「ついでに玉子焼きも焼いた」

「でかした我が夫」

「調子いいこと言って……」

 

 俺が日本酒、獺祭の冷が入った冷酒用の背が高いデキャンタとおちょことぐいのみ、そしてついでにパパッと焼いた玉子焼きを持ってきたのを見て、薫はいつもの仏頂面で鼻の穴をぷくっと膨らませていた。

 

 今日は大晦日。一年の終わりは二人で静かに締めくくりたい……そう思っていた俺は、8時頃に来た金森くんからの初詣のお誘いを断り、こうして家で薫と二人、くつろいでいる。

 

 『金森くん』てのは、今年うちの会社に入ってきた新人、金森千尋くんのことだ。

 

 新人といっても、元々は大企業で働いていたやり手のビジネスマンで、入社当初から新人とは思えないほどの腕前を発揮。今では薫の片腕として、日々仕事を頑張っている。時折『正嗣さんを愛しています』と真顔で言ってくること以外は、好感が持てる後輩だ。

 

『今日は大晦日だ。大晦日は夫婦ふたりで静かに過ごしたいんだよ』

『……』

『年の終わりはゆく年くる年見ないと気持ち悪いしさ』

『そうですか……わかりました!』

『すまんな金森くん』

『いえ! 僕はあなたが幸せなら、それでいいんです……』

『メランコリックな受け答えはやめろと言ったはずだ。あの小娘との初詣デートを楽しんでくれ。あいつにもよろしくな』

『はい。……では正嗣さん、良いお年を!』

『おう。金森くんもよいお年を!』

 

 金森くんとの、そんな会話を思い出す。最後のメランコリックな返事はまぁ、置いておいて……小娘も行くというのなら、金森くんも退屈はしないだろう。あいつが薫に向ける卑猥な眼差しは正直不快だが、話をしていて楽しいヤツだしな。

 

 『小娘』ってのは、やっぱり今年うちの会社に入った新人の女の子、小塚真琴ちゃんのことだ。

 

 一応、金森くんとは同期になるわけなのだが、すでに大企業で働いていた経験のある金森くんとは異なり、あの小娘……小塚ちゃんはまったくの社会人経験皆無の状態で入社した。そのため血迷った上層部(薫を含む)によって指導社員として俺があてがわれ、今では俺と一緒に日々の雑務をこなす、俺のムカつく後輩だ。

 

 『薫お姉さまを愛しています』と日々豪語し、獲物を狙う猛禽類みたいな眼差しでうちの妻をねぶりあげるように見つめる以外は、性格もカラッとしていて付き合いやすい。

 

 金森くんは俺、小娘の小塚ちゃんは薫を慕ってよく絡んでくる関係上、あの二人と俺達はとても仲がいい。先日のクリスマスの日も二人を我が家に呼んで、四人でスマ◯ラで盛り上がった。薫が変な性癖に目覚めたりと中々にカオスなパーティーだったが、まぁそれなりに楽しかった。

 

 今回、その金森くんが『四人で初詣に行きませんか?』と俺達をめくるめくダブルデート(組み合わせが変だが……)に誘ってきたわけだが……

 

 これがいつもの日であれば、別に外出するのもやぶさかでなかった。だがそれが、今年最後の日というなら話は別だ。最後の日は二人で静かに過ごす。それがうちの毎年の恒例だし。

 

 それに……

 

――ゆく年くる年見ないと、一年が気持ち悪いのです

 

 去年うちの妻が、そんなことをぼやいていたからな。

 

「先輩?」

「うん?」

「どうしました?」

「いや別に」

 

 俺の隣の薫が、ちゃんちゃんこに包まれた身体をもこもこと動かし、俺の顔を覗き込んでくる。相変わらずの仏頂面だが、その顔はどこかリラックスして自然体だ。自然体が仏頂面というのも、俺はどうかと思うけれど……

 

「……ほら、ぐいのみこっちによこせよ」

「ありがとうございます。……先輩もおちょこをこちらへ」

「……ありがと」

 

 二人で肩を寄せ合って、互いの器に日本酒を注ぐ。こたつは横長の大きいものを購入して正解だった。結婚した年に薫が『横長のものを買いましょう』と言い出した時は正直『何を言ってるんだこの仏頂面は……』と思ったのだが……買ってみたら大正解だ。二人で並んで座れるし、二人でくっついても何の違和感もない。時々こたつの中でうたたねすることもあるが、そんな時に二人で並んで寝られるのもうれしい。

 

「では先輩」

「おう」

「……今年もお疲れ様でした」

「薫も、お疲れ様でした」

 

 二人で寄り添ったまま、静かにチンと乾杯する。小娘の小塚ちゃんと金森くんの二人とよくつるむようになってからは日々がとてもにぎやかで、こんなに静かな時間を二人で過ごすのも久しぶりな気がする。

 

 テレビではゆく年くる年が始まった。ナレーターが静かに今年一年を振り返り、日本各地の神社仏閣の様子が中継されている。その様子はいずれも静かで、一年の締めくくりに相応しい厳かさだ。

 

「今年もそろそろ終わるな」

「そうですね」

 

 そんな静かなゆく年くる年を、俺と薫は言葉少なめに眺めていた。

 

「……」

 

 仏頂面でテレビ画面を眺める薫の横顔を、こっそりと眺める。薫にバレないように……

 

「……」

 

 そろそろ新婚というのも憚られる俺達なのだが、俺の自慢の妻は、今も変わらず横顔がキレイだ。

 

「……?」

 

 そんな薫の座高が、『ピコン』と音を立てて少し伸びた。そのあと鼻を少しだけぷくっと膨らませ、ゆっくりと俺の方に顔を向ける。

 

「どうかしました?」

 

 言えん……まさか『横顔に見とれていた』とは、恥ずかしくて言えん……

 

「……なんでもない」

「そうですか」

「おう」

 

 薫は別段何の感慨も沸かない顔を浮かべ、また静かにテレビを見つめ始めた。俺も薫の横顔を見つめるのを中断し、テレビの様子を静かに眺めながら、自分のおちょこの日本酒を煽る。

 

 今、テレビにはどこかの神社の様子が映されている。雪が降りしきる寒そうな境内では、初詣を待ち続けるたくさんの参拝客でひしめいているようだ。篝火がパチパチと音をたてて炎を上げているから、境内はそんなに寒くないのだろうか……いやそんなことはないな。めっちゃ雪積もってるし。

 

 ……そういえば、ちょうど今金森くんと小娘の小塚ちゃんも、うちの町内の神社で初詣の参拝客にまぎれて、二人で年明けを待っているのだろうか。今日は外はいつも以上に肌寒い。風邪でもひかなきゃいいんだが……

 

 と、今年出来た二人の後輩の心配をしていたら、である。

 

「先輩」

 

 さっきの俺と同じように、薫が俺の顔を見つめていることに気付いた。まぁ二人並んでくっついてるから、顔をジッと見られていたら、誰だって気付くか。さっきの俺はちょっとだけうかつだったわけだな。

 

「ん? どうした?」

 

 俺も薫を振り返る。ゆく年くる年が始まって、室内が静かになったからだろうか。俺たちの耳に、かすかに除夜の鐘の音が届き始めた。

 

「今年ももう終わりですね」

「だな」

 

 小さいはずの除夜の鐘の音が、妙に胸をゴーンゴーンと揺さぶってくる。薫が手に持っていたぐいのみを静かにコトリとこたつに置いた。

 

 そして……

 

「……来年も、よろしくおねがいしますね。先輩」

 

 俺の顔を見つめたまま、ふんわりと柔らかく微笑んだ。

 

「……」

 

 正直なところ、薫の自然な微笑みを見たのは、今回が初めてではない。

 

「……」

「? 先輩?」

 

 初めてではないのだが……仏頂面が平常運転で調子が良い時はニヘラとキモい笑みを浮かべるこいつの優しい微笑みは……正直に言うと、心臓に悪い。

 

「どうかしました?」

「……あ、いや」

「?」

 

 だって、こいつがふわっと笑う度、俺の心臓がドキンってするから。そのあと、年甲斐もなく胸がドキドキして、それがしばらく収まらないから。

 

「……おう」

「はぁ……?」

「……こちらこそ、よろしく頼む」

 

 こう答えるのが精一杯だった。だって今、完全に頭が止まってたから。

 

 そんな精一杯の俺のアンサーを聞いた薫は、ふわっとした微笑みを浮かべたまま、小さくコクリと頷いていた。

 

 

 そんな風に薫とひとしきり見つめ合った後、俺はカーテンの隙間を見つめた。俺の角度から見ると、カーテンの隙間から外の様子が少しだけ見える。

 

 外は真っ暗でまったく様子がつかめないが、それでも分かる。外は今、恐ろしいほどの寒さだろう。それこそ、薫が外に出たら約2秒で『ひやぁぁあああ』と悲鳴を上げて逃げ帰り、このこたつの中に全力で引きこもるぐらいの寒さのハズだ。

 

 そんな寒さの中、初詣に出た二人が気にかかる。ちゃんと暖かい格好をしているだろうか……風邪をひいてないだろうか……あいつらはどんな願い事をするのだろうか……いい加減うちの妻に卑猥な眼差しを向けるのは謹んでくれるだろうか……

 

 あいつらにとって、来年は良い年になるだろうか……

 

 

 ちなみにこれはおいおい分かることだが、あいつら二人にとって来年の始まりは、かなりの嵐が吹き荒れることになる。

 

 どれぐらいの嵐かというと……それは二人の問題だけにとどまらず、大口の取引先との契約がご破産になりかけ、珍しく薫が怒りを顕にし、これまた珍しく俺が表舞台に立って仕事に全力を出すという、うちの会社始まって以来の大珍事が発生するぐらいの嵐だ。

 

 聞けばそれは、今日の大晦日から遡ること一週間……クリスマス・イブの日から徴候が現れていたそうな……まったく……若い子ってのは元気だね。いやはや……

 

「……先輩」

「ん?」

「明けました」

 

 ふんわりと微笑んだまま、薫がテレビ画面を見ることを促した。画面を見ると男女一組のレポーターが、さわやかな営業スマイルをこっちに向け、元気よく新年の挨拶を行っている。照明に照らされた二人の白い息が、その場の寒さを物語っていた。

 

『新年、あけまして、おめでとうございます!』

 

 無事に明けた。新しい年のはじまりだ。

 

「薫、今年もよろしく」

「はい。よろしくお願いいたします」

 

 改めて肩を寄せ合い、互いの器に日本酒を注ぎ合って、新年の到来を二人で静かに祝う。薫は変わらずふわっとした笑顔を浮かべながら、静かにぐいのみを煽っていた。

 

 今年も俺達にとっていい年になるといいな……至近距離にまで接近していたその嵐にはまったく気付いてなかった俺は、呑気にそんなことを思いつつ、目の前の愛しい妻が注いでくれた日本酒を煽った。

 

「……ふう」

「おかわりどうぞ」

「もういらん」

「あら。もう呑まないんですか」

「あんな醜態はもう晒したくない」

「別にいいのに」

「俺がよくない」

「私は先輩を膝枕して頭をなでなでしてあげるのは好きですが」

「……」

「なんせ先輩、筋金入りの赤ちゃんですから」

「……もう絶対にやらん」

「ちくしょう」

 

 もう、膝枕をせがんで頭なでなでを強要するような醜態は二度と晒すまい。俺は今煽っている日本酒で今日は終わりにしようと決心し、静かにコトリとおちょこを置いた。

 

 おわり

 




話の中で渡部がボヤいていた小塚ちゃんと金森くんの騒動は、
現在こちらで連載中!!

『勘違いをしたのかもしれない』
https://syosetu.org/novel/181691/



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