路地裏のアイゼンティア (宇宮 祐樹)
しおりを挟む

『白い蕾』

▽ 

 

 

 

 

 人というのは、変わることができる生き物らしい。

 

 誰から聞いたかはとうの昔に忘れた。今では声すらも思い出せない。そんな誰かのその言葉が、歪な感触になって俺の胸に残っていたのを覚えている。まるで後ろからナイフで刺されたような、古傷を抉られるような、そんな感覚だった。

 ただ肉のみを喰らう獣にも、死人に集る羽虫にもない、進む意志。今までの自分を捨てて、新しい自分になること。今までの過去を捨てて、未来へと辿り着くこと。それが、人のみに許された『変わる』ということらしい。

 

 ただ、人にその力があったとして、それが出来る人間になれるのか、というのは別の問題で。

 俺はどうやら、変わろうとしない人間に当てはまるらしかった。

 

 過去の自分を捨て、未来の自分へ縋る。その事が俺にはひどく恐ろしく、狂っていることに思える。そうして俺は、こんな路地裏でひっそりと暮らす人間になってしまったのだから。変わるという事は、決して良い事ばかりではないらしかった。

 だから、俺は今の状況から変わることに恐怖を感じているのだと思う。見たことのないものに酷く怯え、その一歩を踏み出そうとしない。勇気などという輝かしい言葉は、俺には決して手に入れることができないものだった。

 

 俺は変わることができない。変わろうとしない。俺は、俺は……

 

 

 路地裏へ続く壁に身を預け、目の前を行き交う雑踏を眺めていると、ふとその輝きが目に留まる。

 

 陽の光を受けて煌めく金髪に、猫のような翡翠の瞳。動きやすい旅人のような衣装に袖を通し、その少女は雑踏の中をすり抜けるように歩いている。そんな彼女のことを、俺はただずっと見つめていた。ぼんやりした光景に、その少女だけがくっきりと見えているようだった。

 そうして彼女を眺めていると、その腕が人ごみの中を動く。流れる雑踏の中を探るように動くその腕は、一人の人影へと辿り着くと、目にもとまらぬ速さでそれから何かを奪っていく。その動きは一度や二度のものではなく、とことんその行為に慣れ切っているようなものだった。

 

 盗った獲物を何食わぬ顔で懐へ戻し、少女は再び人ごみの中へと消える。次に彼女を見たのは、俺の真横を通り抜けようとしている時だった。

 後ろで纏めている金髪が、揺れる尾の様に目に映る。そして彼女は碧玉のような大きな瞳をこちらへ一瞬だけ向けると、ひどくにやついた表情をその顔に浮かべ――

 

「おい」

 

 そのまま通り過ぎようとしている彼女の腕を掴むと、そいつはわざとらしくこちらへ振り向いた。

 

「なーに、おにーさん。女の子にそんな乱暴しちゃダメだよ?」

「……今更そんな下手な芝居は打つな。ジーナ」

 

 名前を呼ぶと、彼女――ジーナは呆れるように笑っていた。

 

「ふん。つれないわね、カイン」

「それよりも、このあたりでスリをするなと何度も言っただろ? 注意するこっちの身にもなってくれ」

「……あんたらの仕事がやりにくくなるから?」

「そう説明したはずだが」

 

 するとジーナは不満そうに頬を膨らませ、俺に並ぶように冷たい路地の壁へと体を預ける。

 

「そっちの事情なんて知らないわよ。なに、今日も見張りなの?」

「ああ、お前のな」

「ふーん」

 

 こちらの話を聞く気はないらしく、ジーナはさっき盗った獲物を懐から取り出した。どうやら中々いい相手を見つけたらしく、皮で作られた財布は見た目よりもかなり重そうに見えた。

 

(あたし)のことつけ回して楽しい?」

「んなわけあるか」

「んなこと言って。ストーカーとか異常性癖よ?」

「それが嫌ならここに(たか)るな。お前みたいなのがいると警備が厚くなってこっちが動きづらくなる」

「へーそうなんだ」

「聞いてんのか」

「聞いてる聞いてる。バッチリ」

 

 無視を続ける彼女にこの野郎、といおうとした瞬間、ふと彼女がこちらへ何かを投げるような素振りを見せる。思わず出した手の内に感じるのは、冷たい重み。広げた手のひらには、三枚の金貨が輝いていた。

 

「つまり、こういうことでしょ?」

「……十分だ」

 

 本来ならばもう少し徴収するべきなのだが、まあ今回は許してやろう。

 

「んじゃあたし、もう行くから」

「待て」

 

 そっけなく返してその場から立ち去ろうとするジーナの手を、再び掴む。

 

「……何よ。まだ足りなかった?」

「そうじゃない。お前、これで何度目だ?」

「はぁ? 何よ、口止め料は払ったでしょ。あんたにはもう関係ないし」

 

 俺の手を振りほどき、ジーナがすたすたと路地裏の奥へと歩いていく。けれど俺とて引くわけにもいかず、暗闇の中へ進む彼女を追った。

 

「いいか? いま俺が組織の連中にお前のことを言えば、お前なんて明日には死んでるんだぞ?」

「それならそれで結構。煮るなり焼くなり好きにしなさい」

「お前の貯めた金も全部無駄だ。何なら、俺が全部いただく。それでもいいのか?」

「そ、良かったじゃない。好きなものでも買えば?」

「……あのなあ。俺は、お前のためを思って言ってるんだぞ」

「あっそ。ありがと。趣味悪いわよ、カイン」

 

 聞く耳を持たない。すたすたと前を行く彼女に、嘆息をひとつ。

 そして、声をかけられたのはそれと同時だった。

 

「あんたさー」

「何だ」

「どうして私のこと、そんな生かしてくれんの?」

 

 彼女の行為を見つけてから一か月経たないうち。初めてそんなことを聞かれた。

 最初は他のと変わらない浮浪者だと思っていたが、ここのところ毎日この通りに現れては俺の目の前でスリを働くようになった。他よりも此処の方が狩りやすいのか、はたまた俺が都合のいいやつに見えているのかは知らないが、とにかく俺と彼女は毎日のように顔を合わせるようになっている。

 仕事の邪魔になるからやめろ、と顔を合わせるたびに言っているのだが、先ほどのように彼女はそれを聞く耳すら持ち合わせていないようだ。俺のことなど見下しているのだろう。

 

「初めて会った時から、おかしいとは思ってたのよ」

 

 気がつけば俺は足を止め、思考の奔流に流されていた。

 

「私が邪魔ならとっとと殺せばいいじゃない。そりゃお金が欲しいんなら別だけど、あんたはそうってわけでもないみたいだし。なーぁに、私みたいなガキとお話したいってわけ? あんた相当変態じゃないの」

 

 なぜか俺は上手く答えられなかった。

 

 彼女を始末するのは簡単だと思う。組織へ連絡すればどうにでもなるし、今でも懐のナイフを突き立てれば、彼女はあっけなく死ぬだろう。そして、俺も面倒ごとを抱える必要がなくなる。

 そうすれば終わりなものを、なぜか俺はその行動に踏み出すことができなかった。

 初めて会った時も、二度目に会った時も、俺は彼女を殺そうとせず、ただ金を使って口外しないようにした。殺すことから離れているような、そんな振る舞いを見せていた。

 吐き出そうな言葉が、胸の内でうごめいている。全身を蟲が這っているような感覚。思考の奔流に巻き込まれる俺を引き上げたのは、彼女の言葉だった。

 

「ねえ、ちょっと! カイン!」

「……あ、あ。何だ」

「それはこっちのセリフ。なに? 今日のあんた、ほんとに変よ?」

「そう、か……そう、なのかもな」

 

 変、というよりは元からあったものが出てきただけ、というか。

 少なくとも、今の俺には何が正常で、何が異常も分からなかった。

 

「で、結局なんでよ」

「ああ。そうだな……」

 

 それに見合う言葉は見つからない。おそらく、今の俺には決して見つけられないのだろう。

 

「――怖い、のかもしれない」

 

 絞り出したような言葉に、彼女はきょとんと眼を丸くしていた

 

 おそらく俺は、彼女がいなくなることを、酷く恐れていたのだと思う。

 こうして今話している目の前の人間が消え去っていくのが、どこでもない遠くへ行ってしまうのが、とても恐ろしく歪なものだと感じられた。そんなことをする自分を思い描くことが、どうしてもできなかった。

 彼女が特別という訳でもない。それこそ、彼女と初めて顔を合わせたあの時でさえ、俺はそれを恐れていたのだろう。

 

 臆病なのかもしれない。けれど、理解されようとも思わない。

 ただ、俺の心を満たしていたのは、震えとわずかな恐怖だけだった。

 

「……なにそれ。あんた、バカじゃないの」

 

 つん、とそっぽを向くジーナに、俺は何も返せなかった。

 差し込む光は遠く、いつの間にか俺達は路地裏の奥深くへと足を踏み入れていた。

 

「あんた、いつか後悔するよ」

「なに?」

「あんたのそれ、すごく面倒なもんだ。カイン、あんた自分のこと、全然分かってないんでしょ」

 

 向けられた彼女の言葉は、心のどこかに落ち着いた。

 

「確かに、そうなのかもな」

「自分のことすら分かってないのに他人の心配するなんて、あんたおかしいよ」

「おかしい? おかしいのか?」

「見てるだけでこっちが狂いそう。なんであんたはそんなに他人の心配できるのよ」

 

 不機嫌そうに呟くジーナに、やはり俺は何も返せなかった。それだけ、俺は俺についてのことが何も分からなかった。

 

「……ほんと、意味わかんない」

 

 静寂。路地裏に足音だけが響く。

 

「そう言うお前は、どうしてスリなんかやってるんだ」

「へっ?」

 

 ふと思い立ってそう口を開くと、彼女は一瞬だけ固まった後に慌てて顔を背けてしまった。

 

「どうして、って……お金が欲しいからに決まってるでしょ」

「じゃあ金貯めて何するんだ」

「何……って、そりゃ――」

 

 そう続けようとしたところで、ジーナが慌てて口を閉じる。

 

「どうするんだ。言ってみろ」

「な、ぅ……いいでしょ、別に。あんたには関係ないもん」

「そう言うならさっきのも関係なかっただろ。いいから答えろ」

「うー……っ、この……仕方ないわね。わ、笑うんじゃないわよ」

 

 何を笑うかは知らないが、口を閉ざす俺にジーナはぽつりとその言葉を口にする。

 

「その……お花屋さん」

「……なに?」

「あーもうっ! ……お花屋さんになりたいから。そのお金を集めてる、ってこと」

 

 打ち明けたジーナの目は、どこか遠くの空を見つめていた。

 

「昔から花が好きだったのよ。どこでも咲いてるから。それに、綺麗だしさ。私は貧民街の生まれで、そこから抜け出してきたんだけど、それでも花が咲いてたの。思えば、そこからだったわね」

「……それで、スリを始めたのか」

「そうよ。それしか知らなかったから。でも、全部分かってるのよ。そんな夢がかなえられるはずがないってこと、このままじゃダメだってこと……私が真っ当に生きられないってことも、ぜんぶ」

 

 普段の彼女なら絶対に見せないような、儚いような表情。それは触れたら壊れそうな、触れてはいけないような、そんな静謐さすら感じられた。

 

「……で? どう?」

「どう、とは」

「私はお花屋さんになりたい、って……あんたはどう思う?」

 

 問いかけられたその質問に、俺はすぐ答えることが出来なかった。

 

 ジーナという少女の事は、ほとんど分からない。今の彼女を知るのに、一ヵ月という時間は短すぎる。けれど一つだけ分かるのは、彼女がこちら側の――俺と近しい場所にいる人間だということだけ。光の下で生きるのには、どうしても向いていないという事だった。

 彼女もそれを知っているのだろう。だから、俺へそんな事を聴いてきた。ここにいる俺達は、青空の下で生きることは能わない。それは、俺ですら分かりきっている事実だ。

 けれど、それでも。

 

 

 ――彼女に、変わる意志があるのなら。 

 

 

「きっと、なれるさ」 

 

 気が付けば、俺は足を止めて、彼女にそう答えていた。

 

「お前がそうなりたいと思うのなら。本心からそう願うのなら」

 

 自然に動く口に、自分でも驚きを隠せなかった。気が付けば彼女と俺は足を止めて、お互いのことを見つめ合っていた。そこには何もない。心のどこかに、空白が産まれていた。

 やがて。

 

「……あ、ははっ! あんた、本当に変なやつね! そんな風に言われるなんて、思ってもなかった!」

「お前、人に笑うなっつって……!」

「ごめんごめん! でも、まさか、あはっ! あはははは!」

 

 目尻に涙を浮かべながら、ジーナがこちらへ向き直る。路地裏に、彼女の明るい笑い声が響いた。

 

「あー……すっきりした! こんなに笑ったの初めてよ」

「こんなに笑われたのも初めてだな」

「だってあんた変なんだもん。それに……」

 

 ジーナがこちらの瞳を覗き込む。そうして、彼女はふと一瞬だけ儚げな笑みを見せて――

 

「そんな事言ってくれるのも、初めてだったから」

 

 彼女の言葉は、やはり俺の心のどこかへ落ち着くのだった。

 

「……それにしてもお前、こんなところに来て何するつもりだ?」

 

 見渡す限りの冷たい壁は、まるで俺と彼女を青空から隔てているようで、隙間から見える青空が眩しかった。それでもジーナはあても無く彷徨っている訳では無いらしく、転がっているゴミやらをまたいで奥へ奥へと進んでいく。

 

「どうだっていいでしょ。それに、勝手についてきたのはあんたの方だし」

「確かに、それはそうだが」

「……ま、いいわ。特別に見せてあげる」

 

 そうして彼女の背中を追って、辿り着いたのは薄暗い路地の突き当たりだった。向けた視線の先には、ゴミ溜めのように薄汚い、まるで汚水の漂流物をぶちまけたような惨状が広がっている。

 

「よし、今日も荒らされてないわね」

「こんなところ荒らす奴はいないだろ」

「分かんないわよ? 世の中にはあんたみたいな変質者もいるんだから」

「どういう意味だ」

 

 それに答える事は無く、彼女は散らばったゴミの中の、蓋が被せられたバケツの前にしゃがみ込んだ。そうしてその中身を確認すると、俺に視線を向けることも無く、間延びした声をかけてきた。

 

「カイン、そこにある木のヤツ取って来て」

「あー……これか?」

「そ。って、もうこれも腐って来てるわね。変えないと」

 

 言われるがままに長い木で出来た入れ物を渡すと、ジーナはそんな事を呟きながら、バケツの中の水をその中へと流し込んだ。中を満たす水は、いくらか綺麗なようだった。

 四分目ほどまで水を入れたそれを持つと、ジーナは再びバケツに蓋を被せて立ち上がった。

 

「……お前、何してるんだ?」

「見てりゃわかるわよ」

 

 それだけ残して、ジーナが再び歩き出す。向かう先はゴミ溜めの一番奥。足元に散らばる腐った肉や崩れ落ちた瓦礫を超えてゆき、その突き当りのぽっかりと空いた場所で彼女が立ち止まる。

 そして眼下に見えたそれに、俺はふと口を開いた。

 

「花の……蕾か?」

「そ。あんたには一生縁の無いモンだろうけど」

 

 それは暗闇の中で独り立ち竦む、孤独のような純白だった。他の色は存在せず、その光は冷たい漆黒の中で、唯一の清廉として俺の目に映っていた。

 散らばっている有象無象を踏み倒しながら、ジーナがその蕾の前でしゃがみ込む。はらはらと、木の入れ物の先からいくらかの水が零れ落ちた。

 俺もつられてジーナの隣へ寄ると、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。

 

「この花は他の花と違ってね、どんなに暗くても、どんなに汚くても、花をつけるの」

「詳しいんだな」

「当然。花屋になりたい、って言ってるでしょ」

 

 ふん、と胸を張りながら、ジーナが続ける。

 

「ま、それでも水はあげなきゃいけないんだけど……それでも、こんなに汚れてても、日が当たらなくても、いつか花をつけられる。それが、なんだかとっても、羨ましくて」

「羨ましい、か?」

「うん」

 

 多くを語ることはせず、ジーナはそのまま口をつぐむ。けれど彼女の言わんとしていることは、どうしてか察することが出来た。他人事だとは、思えなかった。

 どれだけ深く、救いの無い場所だとしても、花を咲かせられる。それが、どれだけ素晴らしく、届かない事か。白い蕾は、輝いて見えた。

 

「でもま、花をつけるのはもう少し暖かくなってからね」

「そうなのか?」

「ええ。咲いたらとっても綺麗なのよ? 他じゃ見られない、全部真っ白の花なんだからっ」

 

 ジーナが語りながら、解けるような笑みを浮かべる。始めて見る彼女の本心からの笑顔は、とても薄く、すぐに壊れてしまいそうだった。

 眼下に揺れるその蕾は小さく、どこか風でも吹けば一瞬で飛んでしまいそうだった。そしてその儚さが、ジーナと――何かと重なっているような気がした。

 

「そういえば、この花の名前は何て言うんだ?」

「あら、知らないの? 結構有名な花なんだけど」

 

 

 

  「アイゼンティア――それが、この花の名前よ」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『やさしいひと』

 

 アイゼンティア。

 

 小さな蕾を指先で撫でると、さらさらとした、とても小さな感触が伝わってくる。太陽の光も届かずに、首を吊ったひとのように蕾は固い地面へ伏せたまま。誰の目にもつかず、ただひっそりと暗闇にあるその花を、俺は憑りつかれたように見つめていた。

 

 彼女は、この花が好きだと言った。そして、この花が羨ましいとも。

 その事が、どうしてか他人の事ではないように思えた。こんな薄く暗い場所でも、そう在れることは、俺の目にも羨ましく映えていた。

 太陽は既に傾き、空は薄い紫に染まっている。冷たい風が背中から吹いて、手のひらの白い蕾を優しく揺らし――

 

「……カイン?」

 

 風音に混じって聞こえた声へ振り向くと、そこには訝しげな顔でこちらを見つめているジーナの姿があった。

 

「ジーナ? お前、スリはどうしたんだ?」

「あんた見張り失格ね。向いてないから今すぐやめなさい」

 

 そんな悪態とともに、ひゅん、と金貨が投げられる。手の内でそれを受け取った俺は彼女にスリを止めるように言うのも忘れ、ただ呆然と掌の上の鈍い輝きを見つめていた。

 そんな俺を見下ろしながら、彼女がため息混じりに口を開く。

 

「それにしても、こんなとこで何してんのよ」

「……昨日、お前が言ってただろ」

「いや、確かに言ったけど」

 

 足元を差すと、ジーナは呆れたような顔をした後に、くすりと意地の悪そうな笑みを浮かべた。

 

「なぁーに、あんた私が話してただけで見に来たの? あんたってほんとヒマねぇ」

「そう言う訳ではない」

 

 強く否定した後の言葉は、続かなかった。

 どこかへ行ってしまったその言葉を探すように白い蕾を見つめていると、ふと隣でジーナが膝を折って、こちらの顔を覗き込んできた。

 

「……この花、そんなに気に入ったの?」

「かもな」

 

 少なくとも、こうして一人で見に来るくらいには。

 

「とても、綺麗だと思う」

「……そ。ふふっ、そう言ってくれてよかった」

 

 そうやって彼女が浮かべたのは、年相応の少女らしい笑みだった。

 

「この場所を他の人に話したのね、カインだけなの」

「そうなのか?」

「もちろん。こんな汚いところで花の世話してるなんて、普通の人から見たら変じゃない」

「それは……そう、なのだろうか?」

 

 呆れたように肩をすくめて見せる彼女に、俺はただ首を傾げることしかできなかった。

 それが自分のやりたい事ならば、別に変ではないと思う。彼女がこんなところで花を愛でていたとして、それをおかしいと笑えるのは、それこそ彼女自身だけではないのだろうか。

 彼女の言葉は、ときどき良く分からない。それを理解するのは、今の俺には不可能に思えた。

 

「ま、それはどうでもいいのよ。それより水よ水。ちゃんとあげないと、枯れちゃうかもしれないんだから」

 

 心に生まれた疑問をかき消すように、彼女が立ち上がる。そうして昨日のように蓋の被っているバケツから水を木の入れ物へと注ぐと、再び俺の隣へと腰を下ろした。

 降り注ぐ水が、白い蕾を伝って地面へと落ちる。

 

「ねね、カイン。アイゼンティアの花言葉って知ってる?」

「花言葉?」

 

 確か花にはそれぞれ何か象徴する言葉があると聞いたが、それがこの花にもあるらしい。首を傾げている俺へ、ジーナは何かを思い出すように、白い花を遠い目で見つめながら教えてくれた。

 

「アイゼンティアはね、『そのままのあなたで』って意味なの」

「そのままの、か」

「そ。素敵じゃない? 何にも変わらなくても良い、自分は自分のままでいい、なんて言ってくれるなんて。私はずっと変わりたいって思ってるのに、そんな風にあるなんて」

 

 そう語る彼女の瞳には、やはり羨望の色が刺しているのだった。

 

「本当に、反吐が出るほど羨ましい」

 

 微かに呟いたその言葉は、風の音に溶けていった。

 空になった木の入れ物を適当な場所に置いて、ジーナは冷たい壁に背を預けていた。遠くにある空は既に暗く、夜の訪れを告げている。そんな暗い夜空を見上げながら、ジーナは口を開いた。

 

「……あのさ、カインは私に変われるって言ってくれたじゃない」

「お前がそう思うならな」

「なら、もし……ううん、上手く言えないなぁ……」

 

 うつむいた彼女の横顔は、色を失っていた。

 

「私ね、今の自分が大っ嫌いなの」

「どうして?」

「変わろうって思ってるのに、変わろうとしないから。叶わない夢を見てるだけで、今の自分に目を向けることすら出来ていないから」

 

 誰かの言葉を思い出す。

 

「私ね、もともと貧民街の産まれでね、なんとか逃げ出してきたのよ。でも駄目だったわ。私、これ以外の生き方を知らなかったの。今の私から変わることなんで無理だった。どこにも行けなかったの」

 

 自らの手のひらへ視線を落とし、彼女は続けた。

 

「真っ当な生き方だって、考えた。けれど、こんな身寄りもない汚いガキの面倒を見る奴なんて、いなかった。ほんと、こうやって話を聞いてくれるの、カインだけだよ」

「……別に、話を聞くのに身の上の事は関係ないだろ」

「ふふっ、だからあんたは変だ、って言ってるのよ。ま、それが良いんだけどさ」

 

 からからとした彼女の笑顔は、泡沫のように消えていった。

 

「だから、私は変わりたい。それなのに……なんでだろうね。ちょっとだけ、震えてる自分がいるの」

 

 ぽつりと呟いたその言葉が、心にすぅ、と吸い込まれる。

 星空を見上げる彼女に、何故か手を伸ばしたくなった。

 

「今のこんな私は大嫌い。それこそ、今の自分を殺して変わりたいくらいにはね。でも、さ。その先なんて誰も分からないわけじゃない。私じゃない私なんて、それは本当に私、って言えるのかな」

「それは……」

 

 紡ごうとした言葉は、喉の奥でぐちゃぐちゃになって、どこかへ落ちてしまう。けれど、彼女の抱いているものは嫌というほど理解できた。まだ見えない自分へ対するとても曖昧で儚げな希望は、ひとたび触れれば、もう二度と元に戻らないほどに壊れてしまいそうだった。

 静寂が一つ。

 

「そのままのあなたで、なんて……こんな風に生きたかった」

 

 足元で揺れる白い蕾に、ジーナが優しい視線を向けていて、

 

 

「どこかへ行ってしまいそうなら、俺が見つけてやる」

 

 

 気が付けば、俺はそんな事を口にしていた。

 

「進むのが怖いのなら、何度でも背中を押してやる。変わるのが怖いなら、そのままのお前を見つけてやる。簡単な話だろ。そうして少しずつでいいから進めばいい。そうすればお前の夢も叶えられるはずだから」

 

 本心を語っている口は、止まろうとはしなかった。

 

「……カイン?」

「何だ」

「あんた、自分で言ってること分かる?」

「これしか分からない。俺にはそれしかできないから」

 

 信じられないようなものを見る目でこちらを覗くジーナに、そう答えた。

 

「……バカみたい。自分のこと、何も分かってない」

「ああ。けど、お前のことは少しだけ分かった。いいじゃないか。好きな所へ行ってくれば。お前ひとりくらいなら、すぐに見つけてやるさ。だから、心配しなくてもいい。自分の変わりたいようになるといい」

 

 そうできるのなら、そうしよう。彼女に手が伸びるのなら、そうしよう。

 たとえそれが彼女でなくても、俺はそうしたかもしれない。それが見知らぬ誰かであっても、それが届かないはずの手であっても、俺は迷わずに伸ばしたのだろう。

 ――自分の事が、少しだけ分かったような気がする。

 

「決して、俺のようにはなるな」

 

 さっき喉の奥で腐り落ちた言葉が、這いずるように漏れた。

 

「……ほんとに、あんたって意味わかんない。何考えてるんだか」

「さあな。自分でも分からん。でも、正しい事を言ったと思っている」

「……ふん。あんた、いつか後悔するわよ」

「何だそれ」

「まだ分かってないのね。ほんっと、イライラする」

 

 昨日言われた言葉が、心の中で繰り返される。けれど、きっと俺はその後悔を受け入れられるがした。

 溜め息を一つついて、ジーナがこちらへ振り向く。

 

「前から思ってたけど、やっぱりあんたは――」 

 

 それに続いたのは、彼女の言葉でも、俺の言葉でもなく。

 

「なぁーぉ」

 

 という、足元から聞こえる間伸びた声だった。

 

「………………」

「………………」

「………………なにそれ」

「猫じゃないのか」

「いや、猫なのは分かるけど」

 

 落とした視線の先にいるのは、俺の足元へと体を摺り寄せてくる黒い猫だった。大きさは両手に乗せられるほどで、まだ子供らしく、その大きな月の様に明るい瞳はじっとこちらを覗いているのだった。

 会話を遮られたのが癪なのか、ジーナは口を尖らせながら、けれど少しだけ興味を持った目で俺の足元へとしゃがみ込む。そうして子猫の頭へと手を伸ばすと、わしゃわしゃとその毛並みを乱暴に撫でた。

 

「なぁー」

「小さいわね。子供? それもまだ生まれてすぐじゃないの?」

「間もないだろうな。どうしてこんなとこにいるんだ」

 

 小さな体を持ち上げ、手の内でわしゃわしゃと子猫をいじっているジーナが、ふと気づいたように口を開く。

 

「あ、この子、ケガしてる」

「なに?」

 

 よく見れば、黒い毛並みの体に、どこか薄黒い紅色が混じっているのが見える。短い毛を撫でるジーナの指には、まだ暖かいような赤い色の液体が付いていた。

 しかし、それすらも気にかけないように、小さな猫は俺達の顔を、ただじっと見つめていた。

 

「……捨てられた」

「なに?」

「どうせ、親に捨てられたんでしょ。そうじゃなきゃこんなとこに一人で来ないし、こんなケガをそのままにするはずないもの。見捨てられたのよ。かわいそうね、お前」

「なぁー」

 

 そう呟くジーナの瞳は、どこかで見たことのあるものだった。まるで鏡を見ているような、先にある自分を睨んでいるような、そんなどこかへ向けた憎悪。彼女が今の自分を嫌っている、というのが、心のどこかで反芻していた。

 親に捨てられ、路地裏を彷徨って、俺たちのところに辿り着いた。偶然といえば、偶然なんだろう。ただそれだけの事だ。別段、気に掛けるような事じゃない。ありふれた話だ

 

 けれど、もし。

 もしも、誰もいない暗闇の中で、助けを求めた挙句、こんな俺のところまで辿り着いたのなら。

 

 それくらい、なら。

 

「助けるか」

「…………は?」

 

 土地勘があまりないから不安ではあるが、恐らくここからなら近い筈だ。

 

「行くぞ」

「……行くって……どこに?」

「アテがある。傷口さえ塞げば治るだろ」

「な、なんで? 別に助けたって意味ないんじゃないの?」

 

 きょとんと眼を見開いているジーナに、思わず首が傾いた。

 

「なぜだ? 助けない理由がないだろ?」

 

 

 古ぼけた木製のドアを何回か叩くと、しばらくして静かな足音が聞こえてきた。

 

「はいはい、どちら様で……す……」

 

 果たして、ドアの向こうに立っていたのは、白衣を着た男性であった。

 ひょろっとした高い背格好に、少しやつれたような表情をした、俺より一回りか年上の男性。耳に掛かるくらいで整えられた茶髪と丸眼鏡が、初めて会ったときから印象的だった。

 俺を目の当たりにしたまま少しだけ固まったそいつは、しばらくの間を置いたあと、再び口を開く。

 

「……カイン? 何しに来たの?」

「包帯をくれ、クラウス」

「いきなりすぎるでしょ……過程を説明しなよ過程を」

 

 溜め息をついた彼――クラウスに、後ろで立っているジーナを親指で示した。

 

「猫が怪我をしていた。包帯が要る」

「……うち、獣は診てないんだけど」

「何か問題があるか? お前のところ、包帯置いてなかったか?」

「いや、違う……そうだな、お前は見境がなかったよな……いいよ、そっちも上がって。まだ営業はしてるから」

 

 それだけ残して、クラウスが扉の向こう消えていく。未だにきょとんとしているジーナに目をやって、俺達は枠が腐り始めた木の扉をくぐった。

 目に入ってきたのは、薄汚れてはいるものの、最低限の清潔が保たれた小さな受付のような場所だった。その奥はカーテンで仕切られており、どこからか嗅ぎ慣れない薬品の香りが漂ってくる。

 

「ここ、病院?」

 

 明るすぎるくらいの白い光に照らされながら、ジーナがそんな疑問を口にする。

 

「そ、ヒト用の病院。はじめまして、僕はクラウス。そこの間抜けな男との知り合いで、ここで病院を営んでいる。それで、お嬢ちゃんは?」

 

 カーテンをくぐり抜け、大きめの箱を持ってきたクラウスが、彼女に応えた。

 

「……お嬢ちゃんはやめて。ジーナでいい」

「そうかい。じゃあジーナちゃん、こっち来て。僕も寝たいから早く済ませるよ」

 

 並べられた小さなソファーの一つに座り、クラウスが隣をぽんぽんと叩く。少しだけ考えた後に、ジーナはクラウスの隣に座って、手のひらに乗せた小さな猫を彼へ差し出した。

 クラウスとジーナの真正面に回り込むようにして、俺も床へ腰を下ろす。

 

「ん、ありがと。これなら傷も塞がりかけだし、ちょっとやっちゃえば終わりだね」

「そうなの?」

「そうなの。心配しなくていいよ。あ、あとジーナちゃん、この子の血は触った?」

「えと、少しだけ」

「なら奥の方に水道があるから、そこでしっかり洗ってきてね」

「……わかった」

 

 素直に頷いて、ジーナが指されたカーテンの向こうへ歩いていく。クラウスの手の上でされるがままに巻かれていく猫は、何もわかっていないように、再び間抜けた声を上げるのだった。

 獣相手だというのに、するすると手際よく事を進めてくクラウスが、ふと口を開いた。

 

「それにしても珍しいね。君はこういうのには嫌われそうだと思ったけど」

「ああ。いきなり足元にすり寄ってきたからな」

「……待て。これ、野良?」

「言ってなかったか? 首輪ないだろ」

「ってことは君、そこらへんの野良猫の怪我を治すために、こんなとこまで来たのかい? それもただの包帯目当てで?」

「そうなるな。迷惑だったらすまん」

「…………………………」

 

 何か言いたいなら言えばいいのに、クラウスはそれを無理やり呑みこんだようにして、代わりに大きなため息を吐いた。気が付けば処置は既に終わっており、何をされたかも分かっていないような猫は、自らに捲かれた白い布を見つめている。

 本当なら包帯を貰って自分でする予定だったが、クラウスはよほどのお人好しなのだろうか。その話を持ち出す前に自分で終わらせてしまった。 

 間抜けそうにソファーから落ちそうになった猫を、両手で受け止める。

 

「あ、終わったんだ」

「なーぉ」

「うわ、間抜けな顔ー。あんた感謝ってものを覚えなさいよね」

「なぁー」

 

 へっ、と笑っている彼女に、猫が間延びした声で返す。俺の手の上で繰り広げられるその光景を、クラウスは眉を顰めながらずっと見つめていた。

 

「とにかく、助かった。幾らだ」

「……金貨十枚」

「安いな」

「この相場で安いって言えるのか、君は」

 

 少なくとも、何かを対価にして誰か助けられたのなら、安いとは思う。

 両手で転がしている猫をジーナに預け、クラウスに言われた分の金貨を渡すと、彼はそれを白衣のポケットに入れながら何とも言えないような顔をしていた。

 もっと高かったのだろうか。それとも、やはり迷惑だったのか。

 

「もういいよ、さっさと帰りな。こっちは眠いんだ」

「すまない。迷惑をかけた」

「別にいいよ。ちゃんとお金を払ってくれさえすればね」

 

 ふわあ、とあくびを一つして、クラウスが面倒臭そうに手を振った。

 

「ありがと、クラウスさん」

「ぁーひ……」

「……無理はするなよ」

「君だけには決して言われたくなかったなぁ」

 

 ……それは、どういう意味だろう? 

 

 

「ほーら、お帰り。もう怪我するんじゃないよ」

「んなぁー」

 

 ジーナの手から離れて、小さな四つ足がとてとてと薄暗い路地裏を歩む。特に不自由な部分も見られず、子猫はやはりぼんやりとした瞳をこちらに向けたまま、間抜けな声を、一つ上げるのだった。

 

「……あんたって、本当に損な性格よね」

「何がだ」

「だって、こんな子猫の一匹助けても、何も得しないのよ? それどころか、あんた金貨十枚もぼったくられてるじゃない。こっちがそれだけ稼ぐのに、どれだけ苦労してると思ってるのよ」

「けど、猫は助かっただろ。それならいい」

「……そういうとこよ」

 

 解き放たれたその猫はどこにも行こうぜず、それどころか、隣の白い蕾を見て、てしてしとその前足をぶつけていた。そんな遊んでいる猫を見つめて、ジーナがふと口にする。

 

「優しさってね。時々、自分の首を絞めるのよ」

「誰の言葉だ」

「さあね。でも、カインはこの意味がわかる?」

 

 そう問いかけられて、俺はすぐに答えることが出来なかった。

 優しさが自分の首を絞める、それを言葉にする意図が、そもそも理解できなかった。誰かを気に掛けたり、助けようとしたら、自分の身が滅びるのは当然ではないのだろうか。それに、こんな自分の身で誰かが助けられるのなら、それはとても素晴らしいことではないのだろうか。

 

「分かんないんでしょ」

 

 俺には何も分からない。ただ疑問が残るばかり。

 

「それが分かったとき、あんたはあんたじゃなくなるのかもね」

 

 その言葉はすぅ、と心の中に染みわたっていく。

 

「なぁーぉ」

 

 小さな鳴き声が、路地裏に響いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『それぞれの在処』

 

 

 そこにはただ、平和があった。

 

 街をゆく人だかりはいつものように、何を知るでもなくそこに在った。彼らの知らないところで別の何かが蠢いていようが、それらが知ることはない。たとえ世界のどこかで他人が死んでいようが、彼らが悲しむことはない。それらはいつも通り、何も変わることはなくそこに在るのだろう。それを、人々は平和と呼んでいた。

 世界のことを、俺はよく分かっていない。

 貴族たちの力の流れも、裏で引き起こされる金のことも、俺にはあまり関係のない話であった

 ただ、必要なのは今を生きる手段だけ。言い換えれば、他の事を気にかける必要など、今の俺にはあるはずもない。

 それなのに。

 

 ――彼女のことを、思い出していた。

 彼女は救われなければいけないと思った。そうしなければ、どこかに消えてしまいそうで。繋ぎ止めなくてはいけなかった。それこそが、今の俺にできる、唯一のことだった。

 彼女を救わねばならない。彼女は救われなくてはいけない。

 変わらなければ。今の自分と決別し、この暗闇から抜け出さねば。そうすることで、初めて彼女は救われるのだろう。

 そのためなら、俺は金も、命も、全てを投げ出せるような気がした。

 

「カイン」

 

 薄暗い路地裏には、一つだけ光が差し込んでいる。

 建物と建物の間の、わずかな隙間。そこだけはまるで劇場のようで、降り注ぐ光は俺にとってはとても眩しすぎるものだった。

 そこに、人の形がひとつ。光をよりいっそう煌めかせるような金の髪に、まっすぐに強い意思を持つ瞳はこちらへ向けられている。

 

「なによ、その顔して。ヘンなもんでも食べた?」

 

 ジーナはそんな事を呟きながら、からからと笑っていた。

 

「いや……これだけ言ってもやめないのか、と思っていた」

「あんた嫌味もヘタね。この仕事、向いてないわよ」

「……別に好きでやってるわけでもない。これしかすることが無いだけだ」

「あっそ。じゃあ私もそれね。『別に好きでやってる訳じゃない。これしかすること無いだけだ』」

 

 お互いに、本心からの言葉のようであった。

 親は居ない。生まれついてから各地を転々として、今はリヒトーフェンの所にいるだけ。自ら変わるようなこともせず、ただ流れるように生きてきた。それは彼女も同じようだった。

 そうする以外に、俺は生きることができないように思えた。それは彼女も同じなのだろう。これ以外に知らない事も、これ以外を怖がっているのも、全て。

 ――彼女を思う気持ちが、少しだけ強くなった。

 

「金、貯まらないのか」

「ぜんっぜん。あんたが稼ぎの半分を横取りしてるせいでね」

「……何か、他に稼ぎの良い仕事でも」

「そんなの、こっちが紹介してほしいくらいだっての。ま、そんな仕事ある訳無いけどさ」

 

 自嘲めいた笑みを浮かべながら、ジーナがいつものように俺の隣へ身を預ける。

 

「んな事より、今日はいいもん持ってきたのよ」

 

 そう言いながら彼女が懐に入れてあった小包を取り出して、その中のものを俺へと見せつけるように掲げてくる。唐突なその行動に、俺は眉をひそめながら、指先にある小さなそれを見つめた。

 

「ほらカイン、ちょっと見てくれる?」

「なんだそれ」

「見てわかんないの? 指輪よ、ゆびわ」

 

 差し込んだ光に照らされたそれは、きらきらと光る小さな輪の形だった。銀の小さな円の端には、まるで世界を映すかのように輝く紅玉が佇んでいる。焔のようなそれを金の瞳に写しながら、ジーナはぼんやりと紅の先の光を見つめていた。

 

「そんなもの、どこから盗んできたんだ」

「違うわ、落ちてたのよ。だから拾った、それだけ。別に盗んで来たわけじゃないもん」

 

 問いかけると、彼女はつん、とそっぽを向いて返す。どうやら拾った云々は本当のことらしく、いつもよりも口数が多いことがそれを示していた。

 ため息と同時に、目の前にまた違う鈍い輝きが投げ込まれる。手の内にある金貨の枚数は、五枚。今度はちゃんと盗んで来たものらしく、いくらか厚みのある財布を懐へと戻しながら、ジーナは再び指先で輝く指輪を見つめていた。

 

「これ、売ったらどれくらいになると思う?」

「どうして俺に聞く」

「あんたなら何か分かるでしょ?」

 

 その適当な態度も、彼女の言う通りなのも含めて、思わず溜め息が出た。

 

「……まあ、売らない方がいいぞ」

「え? こんなに綺麗なのに?」

「逆だ。高すぎる」

 

 燃えるような赤い色の宝石は、それが持っている価値を示すのに十分なものだった。

 

「ルーヴェルト、って聞いたことないか」

「……ああ、あの領主の」

 

 さすがのジーナでも知っているらしく、手にした宝石を見つめながらそう呟いた。

 ルーヴェルト伯爵。数年前に亡くなった親の跡を継ぎ、ここの領土を実質的に支配している男である。

 彼についての詳しいことはよくは知らないが、彼を取り巻く力については、仕事の関係で嫌と言う程知らされていた。

 

「そんな赤い宝石、あそこの家しか持っていないからな。俺でも知ってるんだ。持ってるだけで目をつけられる。ましてや本人の目に触れたら、何をされるか――」

「別にあたしがどうなろうと関係ないわ。お金がもらえるなら、何でもいいのよ」

 

 気分を害したのか、ジーナは口を尖らせながらそっぽを向いた。

 

「で? いくらになるのよ、これ」

「……金貨でも二百枚はくだらないだろうな。下手をすれば、それの倍」

「――――、それなら」

「待て」

 

 すぐにどこかへ行こうとする彼女の手を、思わず引き留めた。

 かろうじて掴めたその手首を見ると、首筋が凍り付きそうになるのを、感じた。

 

「何よ、これでお金貰えるのよ? なら売った方がいいじゃない」

「バカかお前、そうなったら最悪死ぬかもしれないんだぞ」

「じゃあこのままこんな暮らし続けるつもり?」

 

 そう叫ぶ彼女の瞳には、圧されるような何かが感じられた。

 

「これで死んだらそこまでよ。元々こんな命なんてないのも同然なんだから。それくらいなら、賭けるしかないのよ」

 

 その言葉は、心のどこかに残っていた。

 俺達に明日があるかなんて、分かるはずもなかった。今を生きるので精いっぱいで、見えない明日のことを考える暇など無いのだから。

 金が欲しいというジーナの気持ちは分かる。それこそ、彼女の夢を聴いたから、彼女の生い立ちを聴いたから、それは痛い程に理解できる。同じ立場にいるからこそ、できてしまう。

 しかし。

 

「……何よ、まだ文句あるの?」

 

 失望にもにた視線が、俺を貫く。瞳に込められた意志も、俺には理解できた。

 けれど、それでも、今ここで繋ぎ止めている彼女の腕を、離すことはできなくて。

 

「お前がいなくなるのは、悲しく思う」

 

 口から小さく漏れ出したのは、そんな呟きであった。

 

「はぁ? あんた、自分が何て言ってるのか分かってる?」

「それくらいは分かるさ。お前にはどこにも行ってほしくない。お前が居なくなるのは嫌だ」

「嫌……って、あんたねえ……なんかもっと、他の言いかた無かったの?」

 

 ため息交じりに、ジーナはそう返した。

 

「あー、もう……分かった。売らない。こんなもん、どっかに捨ててやるわ」

「それでいい。関わらないのが懸命だ」

「だったらさっさと離しなさいよ。いつまで掴んでんのよっ」

 

 そう呆れたようにして、ジーナが腕を振りほどく。あれだけ離れなかった手はいとも簡単に振りほどかれて、けれど彼女はそこに居た。

 少しだけ赤くなったような腕を見つめると、ジーナはむすっとした顔でこちらを睨む。

 

「それで? なんで私がいなくなると嫌なのよ」

「それは…………」

 

 言い淀む。喉の奥で、何かが燻る。

 

「お前がここに居てほしかったから。手の伸ばせないところへ、行ってほしくなかったから。お前は俺と違って、変われると思ったから」

 

 答えるのにはどうにも難しくて、そんな拙い言葉でしか俺は彼女に返せなかった。けれど彼女は何かを分かったようにして、静かに目を伏せながら、嘆息を一つ吐いた。

 

「まったく……私も変な奴に目をつけられたわね」

「悪かったな」

「少女趣味で、支配欲ばっかりで、しかもこんな薄汚い奴なんて……あんた性癖盛りすぎよ?」

「……ちょっと待て。何の話だ」

「何ってあんたの事じゃない。自覚ないの?」

「自覚も何も、そんな話はしてないだろ」 

「重症ね。それって変態って言うのよ」

 

 そんな風に言われる筋合いはない。言い返すにも呆れた俺を見て、ジーナはけらけらと悪戯っぽく笑っていた。

 

「ま、あんたは本当に無自覚なんだろうけど。他の女にそんな事言っちゃダメよ?」

 

 そうやって、どうして他の女が出てくるのかが分からなくて。

 

「……言わない。こんなことを言えるのは、お前だけだから」

 

 当たり前の事を、俺は口にしていた。

 ジーナという少女だからこそ。俺とは違い、光の見えた彼女だからこそ、俺はこうして救おうとしているのだろう。それ以外に伸ばす手を、俺は持ち合わせていないから。

 それでも、手の届く彼女を救おうとするのは、おかしい事なのだろうか。

 

「―――――、本っ当に、あんた、いい加減にしてよ……」

 

 考えていると、ジーナはそう呟きながら、ずるずるとその場に座り込んだ。

 

「どうした?」

「……なんでもない」

「何でもなくはないだろ。大丈夫か?」

「だーっ、うるさい! お願いだから話しかけないでっ! ってかこっち見るな! いいから!」

 

 ぎゃーぎゃーと喚く彼女に首を傾げていると。 

 

「どうか、したのかな?」

 

 そんな声が、路地裏の向こうから聞こえてきた。

 こんな薄汚いところに響くはずの無い、芯の籠った強く通る声。その声に、体が固まるのを感じた。背筋が凍り付いたようで、その声のほうを向くのには少しだけ時間が必要だった。

 肩まで伸びる赤い髪に、それと同じ色をした、焔の瞳。身に着けている豪華な衣装も全てその色で統一されている。言い表すならば、彼は艶やかな紅色だった。

 

「……あんた、誰よ」

「ああ、すまないね。倒れ込んでいるところが見えたものだから、つい」

 

 そう彼は笑って語り掛け、

 

「僕はルーヴェルト。ルーヴェルト・アルクフォンドという」

 

 ジーナの顔が、一瞬だけ強張った。

 

「それにしても、大丈夫かい? 君もひどいな、介抱してあげないなんて」

「そいつが勝手になっただけ、だ。俺は何も知らないし、何もしていない」

 

 目に見えるほどに震えている彼女の代わりに、そう答える。それでも彼は俺の言葉を素直に呑みこんだようで、不思議そうな顔をしながらに首を傾げていた。

 

「それで……何をしにきた? あんたみたいな奴が、こんな所に何の用だ?」

「おや、知ってくれているのかい? 嬉しいなあ、僕も頑張っている甲斐があるよ」

 

 うんうん、と満足気に頷く彼から、ジーナが恐る恐ると言った様子で立ち上がる。そうして彼女は逃げるようにして、俺の後ろへと隠れていた。

 しかしそれに気づかない―――あるいは、関係ないといった様子で、ルーヴェルトが続ける。

 

「ええと、情けない話なんだけどね。指輪をひとつ、どこかに落としてしまったんだ。無くなってるのに気が付いたのはここの近くでね。こう……赤くてとても綺麗な宝石のついたものなんだけど」

 

 ジーナが、俺の服の裾を握った

 

「どこかに落ちてるのを見たことがないかい? あー、と」

「カインでいい。それよりもあんた、一人で出歩いていいのか?」

「心配いらないさ。それとも、すぐに護衛の騎士でも呼んでみるかい?」

 

 目を細めたまま、彼が言う。凍り付くようだった。

 おそらく彼には全て見透かされているのだろう。俺達がどういう人間なのかも、ジーナが指輪を持っているのも、全て。そうでなければ、こんな俺達に声をかける筈がない。

 けれど、彼は選択肢を寄越してきた。貴族であるがゆえの余裕なのだろうか、それともただ単に俺達を弄んでいるのだろうか。彼に疎い俺には、それがあまり分からない。

 赤い色の眼はよく分からなかった。

 

「いや……いい。それで、指輪の話だったか?」

「うん、そうだね。向かいの大通りのほうはあらかた探したんだけど見つからなくて。もしあるとしたら、ここら辺に転がり込んだか、それとも誰かが拾ったか盗んだかなんだと思うけど……」

 

 けれど一つ分かるのは、試されている、ということだけ。考え込む素振りをしても、彼からの視線が絶えることはない。こいつが何を考えているのか、良く分からなかった。

 必至に探る俺を無視するように、彼は一人で続ける。

 

「僕としては、手元に戻って来てくれれば後は何もないけれど」

「……どういう事だ?」

「ん? そのままだよ。僕が指輪を手に入れられれば、後は何もないってことさ。たとえ盗まれたとしても、正直に白状してくれればいいだけ……ああ、別に君達を疑っている訳じゃないよ? 本当だよ?」

 

 楽観的なのか、それとも興味がないのか。掴み所の無い、どこかふわふわとした回答だった。

 では彼の言う事を信じられるか、と言えば嘘になる。その言葉は簡単に呑みこめるのもではなく、しかしそれに逆らえばどうなるかも分からない状況で。

 裏の世界に身を浸していても、やはりこういう場合は慣れない。向いていない、という彼女の言葉を改めて実感した。

 

 やがて。

 

「ジーナ、貸せ」

「…………っ」

 

 こっそりと呟くと、いつもよりも慌てた様子でジーナが懐から指輪を取出し、それを俺の手の上に載せる。そうする以外に、俺達に選択肢は残されていないようだった。

 

「こいつが拾っていた。東の方の通りだ。別に盗んだ訳じゃない……だから見逃してやってくれないか」

「………………」

 

 せめて彼女だけは、と言葉を添えると、ルーヴェルトは目を大きく見開いて、

 

「ほ、本当かい!? すごいな、まさか一発で辿り着くなんて!」

「…………は?」

 

 そう、声を荒げながら俺の手から指輪を受け取った。

 

「うわぁ、やったあ! 二度と見つからないと思っていたから、とても嬉しいよ!」

「……そうか。良かったじゃないか」

 

 何というか、子供っぽい反応であった。あれだけ身構えていた俺が馬鹿に思えるくらいには。

 呆れた俺など眼中にないのか、ルーヴェルトは手の内にある宝石をまじまじと見つめながら、うん、と一つ確かに頷いて、再び声を上げる。

 

「確かに本物だ! 凄いな! 何事も聞いてみるものだね……本当に助かったよ!」

「拾ったのは俺じゃない。礼なら彼女に」

「う、うぇ? あ、私、は、別に……」

 

 後ろの彼女を指差すと、彼は興奮が収まりきらない様子で、ジーナの手を取った。

 

「ありがとう! この恩は一生忘れないよ! ええと……」

「シータ。シータだ」

「……シータちゃんだね! うん、いい名前だ! とても優しい響きがする」

 

 身元が知られるのはあまり良い事ではない。その点、俺達は名前を一つ変えればどうにでもなるので、そこはとても楽だった。

 そうしてぶんぶんと何度も手を振られているジーナが、ふと思い出したように口にする。

 

「……報酬」

「ん?」

「報酬とか、ないの?」

 

 ……まあ、妥当か。

 一瞬だけ首筋が寒くなったけれど、ルーヴェルトはそれを真正面から受け取ったようで、何かを考え込むような素振りを見せていた。先程まで俺が考え込んでいたのが、馬鹿みたいだった。

 心配性なのだろうか。それとも、こういった人間を知らなかっただけか。

 

「そうだな……君たちは、何を望む?」

「お金」

「直球だね。でも正しい。そう言えるというのは、とても強いことだ」

 

 笑いながら、ルーヴェルトは手の内の宝石を彼女に見えるように撮み上げた。

 

「では、今から仮定の話をしよう。もしかしたら、これは僕のものではないのかもしれない」

 

 唐突な彼の物言いに、思わず顔が歪む。彼女も同じようにして首を傾げながら、けれどルーヴェルトはその反応を楽しむようにして、釈然とした態度でありながら続けた。

 

「僕のものではないのなら、僕が貰う権利は無い。となれば、これは拾った君が持つべきものだ」

 

 そう言いながら、ルーヴェルトは彼女の手を取って。

 

「もしこれを取りに来るものが居なければ、これは――君が本当に欲しいものを手に入れる時に、使うといい」

 

 人差し指へと、赤色の輝石を添えた。

 

「何のつもりだ」

「別に何という訳でもないさ。彼女が求めたのなら、僕は与えるまでだよ」

 

 そう語る彼の瞳には、とても強い色の意志が込められていて、それは彼という人間を表しているような気がした。決して動かないような、そんな強さを感じた。

 

「持つ者は、持たざる者へ分け与える。在るべきものは、在るべき処へ。そうして皆が仲良くできたのなら、それはとても素晴らしい事じゃないかな?」

「……それで救われると思っているのか」

「少なくとも、僕はそう思っている。愚直であろうと、それが皆を救う手段だと」

 

 それは、鏡を見ているようだった。

 

「とにかく、だ。それはもう君のもの。君がどうしようが、全て君の自由だよ」

「……後で返してって言っても、知らないから」

 

 ぽつりとつぶやいた彼女に、ルーヴェルトがくすりと笑う。

 

「それなら心配はいらないかな。よかったよ」

「……あんたも変なヤツね」

「変な、とは心外だな。僕は正しいことをしたつもりさ。それで君が救われるのなら、本望だよ」

 

 本心かは分からないけれど、彼が浮かべている笑みに裏めいたものは見えなかった。

 

「それじゃあそろそろ僕はお暇しようかな。いくら探し物があったとはいえ、少しばかり邪魔をしたいみたいだからね」

「……邪魔?」

「ああいや、勘違いしないでくれ。ほら、薬指は外しておいたから。紳士のたしなみ、ってやつだよ。どのような場所でも女性には優しく、ってね」

「薬指……? いや別に、どこでも――」

 

「ちょっと何いってんの!? 違うわよっ! あんた頭おかしいの!?」

 

 急に声を荒げて足を振り上げるジーナに、思わず羽交い絞める。

 

「いきなり何してるんだお前!」

「うるさい! ってかあんたもあんたで気づきなさいよっ! この鈍感バカ!」

 

 けれど彼女は止まらないようで、去っていくルーヴェルトと真後ろ俺へと、じたばた暴れながら叫び続けていた。俺としては見当もあったものではないけれど、ルーヴェルトはどこか穏やかな目をしながらもう一度こちらへ振り返り、

 

「元気そうでなによりだ。それじゃあ、お幸せに」

「だから違うって言ってるでしょ! なんなのよあいつ! ちょっと! 待ちなさいよ!」

 

 ジーナの必死の叫びも空しく、ルーヴェルトはここから姿を消した。

 

「ったく……なんで私の周りは変なヤツしかいないのよ……」

「ルーヴェルトか」

 

 どこかふわふわとした、夢のような奴だった。そのせいで会話のペースも掴まれてしまったけれど、妙にそれが嫌だとは感じない。それが彼の本質なのか、はたまた貴族の間で身に着けた技術なのかは分からなかった。

 けれど、彼の基底にあるものはひどく見慣れたものに見えた。

 持つ者は持たざる者へ。力はそのあるべき処へ。そうすれば、皆が救われる。

 その考えはとても子供じみて、夢のようだけれど、それが実現できるだけの力が、彼にはあるように見えた。

 

「いや、あんたも同じ……ってかさ。いつまでひっついてんのよ」

「……ああ、悪い」

 

 持ち上げたジーナを離すと、彼女はつん、とそっぽを向いて、そのまま自分の人差し指へ視線を落とす。嵌められた指輪は、ぼうっとした輝きを放っていた。

 

「あいつ、あんたと似てたわね」

「どうして?」

「変に誰かを助けようとしてたとこ。あんたと同じで、見境がないとこ」

 

 つまらなさそうな彼女の言葉に、どうも上手く答えることはできない。

 ただ、俺が思っていたのは。

 

「それは普通の事じゃないのか?」

 

 返ってきたのは、これ以上ないくらいに開かれた彼女の翡翠の瞳であった。

 

「……ほんと、どうしてあんたはこんな所にいんのよ」

「何かおかしい事言ったか?」

「おかしいわよ。あんたとあいつが同じくらい」

 

 それは恐らく、心のどこかで理解できた。

 誰かが救われるのは、とても素晴らしい事だと思う。それだけの力があれば、俺は彼女を確実に救えるのだから。そう言った意味では、彼は鏡のようにも見えた。

 ただ。

 

 彼の眼は、俺の眼とは少しだけ違うようだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『逃れるために』

 

 

 灰のかかった暗闇から、声がかかる。

 

「よ、カイン。調子はどうだ?」

 

 昼間の廃屋というのは、路地裏とはまた違った暗さだった。だんだんと光から遠ざかっていくのではなく、園と喧騒から切り離されたような、そんな決して干渉できないような暗闇。そんな中から聞こえた声に、ドアをくぐった俺は視線を向けた。

 そこに座っていたのは、使い古されてよれたトレンチコートに、鍔のくたびれた中折れ帽を被った壮年の男性だった。纏う雰囲気はとても薄いもので、人ごみの中へひとたび消えてしまえば、どこかに行ってしまいそうな、どこにでもいるようなものだった。

 

「……リヒトーフェン」

「なに、仕事の話さ。そうカッカすんなっての」

 

 こちらをからかうような口調で、彼――リヒトーフェンは答えた。

 

 俺達の商品は、包み隠さずに言えば薬だった。

 無論、治療などに使うものではなく、依存する形のもの。白い粉、といえばと言えば分かりやすいのだろうか。もともとそちらの気がない俺にとっては、その薬は商品以外の何物でもなかった。この粉を服用した人間がどうなるのかも、俺にとっては関係のない――手の届かないものだった。

 俺達の仕事はそれを秘密裏に仕入れ、様々な方向へ引き渡すこと。このただの粉で多くの人間が動くのが不思議だった。その先には、俺の理解できない力と金が渦巻いているような気がした。

 

「それで、俺はどうすればいいんだ」

 

 観念してそう口にすると、俺の組織の頭であるリヒトーフェンは、薄く笑った。

 

「別に難しい話じゃねえさ。俺達の後ろについてるお偉いさんからの依頼でな、とある組織を潰してほしい、ってわけだ」

 

 淡々と告げるリヒトーフェンに、顔が歪む。

 

「尻拭いか?」

「そう言う訳じゃねえさ。実はその組織もうちと同じモンを扱っててな。色々とこっちの管理下で好き勝手してるもんだから、少し邪魔になる。お前だって、給料が少ないのは嫌だろ?」

「……つまり、いつも通りに潰すと?」

「そうだ。疑いも無く飲み込めるのは、素晴らしいことだ」

 

 にっこりと、彼は満足気な笑みを浮かべ、そして肉のついた人差し指を立てながら、一つ。

 

「一ヵ月」

 

 語る瞳はこちらを覗き込んでいて。

 

「俺達に与えられた期間はそれだけだ。無論、お前にも声をかける」

「……見張りとしてか?」

「まさか。お前だって、自分が見張りに向いてないのは分かってるだろ」

 

 それは、どこかで聞いたことのある言葉だった。

 

「全体的な目星はついてるんだが、どうもあちら側も馬鹿ではないみたいだから……地道な作業だ。お前に声をかけることも多くなる。すぐに動けるようにしておけ」

「ああ」

「……何か、不満か?」

「いや、何も。俺は、これしかできないから。これだけしかできない俺が生きていけるのなら、不満はない」

 

 こうして誰かから必要とされているから、俺は此処にいるのだろう。それは彼女に手を伸ばすことと同じで、俺ができる数少ない事のうちの一つだった。

 純粋な力というのは、この世界で必要とされているものであり、俺はそれを持っている。

 誰かがそれを求めているのなら、俺はそれに応えることが出来る。

 

「だから俺は、此処に居るんだ」

 

 そうすることで、俺は生きてきたのだから。

 

「――そう、だったな」

 

 それは、彼も十分に理解しているようだった。

 

「まあ、いい……それともう一つ話をしよう」

 

 溜め息を一つ、リヒトーフェンがそう言った。

 

「最近、ここらでスリが流行っているらしいじゃないか」

 

 遠くを見つめながら語るリヒトーフェンの目には、耐え切れないような苛立ちと、少しの呆れが見えて、俺はそれに体が固まるのを感じていた。

 体の内から冷やされるような、そんな感覚。俺は知らないけれど、叱られる、というのはこういうものなのだろうか。

 

「なんでも少し前から、毎日スリの被害が絶えないんだと。そんなもんだから、街の警備も厚くなってきて、動きたくてもあんまり動けなくなっちまってな……まったく、誰のせいなんだか」

 

 首の後ろを抉られたようだった。

 

「そろそろ、処理をしないとなぁ」

 

 動きが凍る。胸を杭か何かで穿たれたようで、俺は何か言おうとしても言えなかった。

 リヒトーフェンの品定めするような視線が、こちらを貫いてくる。おそらく、全て彼は知っているのだろう。俺が彼女のことを見逃しているのも、俺が彼女を殺せないのも、俺が何を怖がっているのかも、全て。

 

 組んだ腕が震える。今俺が身を投じている世界の事を忘れていた。

 けれど、それでも、彼女がどこかに行ってしまう事は、それ以上に怖いことだと思えた。

 

「ま、そう言う訳だ。よろしく頼むぞ」

 

 それだけ残して、リヒトーフェンは奥の漆黒へと消えていく。

 逃げられない。改めて、彼の言葉を理解した。

 

 

 いつもは眺めているだけの人込みに紛れていると、決まってどうしようもない気持ちになる。

 

 ここにいる人々は、俺とは違う正しい生き方をして、この明るい元を歩いているのだろう。真上で照っている太陽がこちらを見下しているような気がして、俺はすぐにいつもの路地裏へ逃げたくなった。

 人ごみを歩む足が速くなる。俺はこんなところに居られるような人間ではない。このまま、いつもの路地裏へ、惨めに身を隠してしまおうか。そして、俺と同じ彼女を眺めるだけの、無為な時間を過ごそうか。

 そう考えながら雑踏を歩いていると、ふと、見慣れた金髪が視線をよぎった。

 

「……ジーナ?」

 

 間違いはない。いつも見張っているから、それは確実に言えた。

 この時間にスリをしているのは見た事がなく、こんな早くから彼女を見ることは何気に初めてだった。そして、彼女がしきりに辺りを見回しながら、何かを隠しているように歩いているのを見ることも、初めてのことだった。

 そうして、再び彼女が人ごみの中へ消えていく。

 

 気が付けば、俺は彼女を探していた。

 あるいは一種の逃げだったのかもしれない。俺とかなり近しい彼女が、同じように明るみに出ていてるのが気になって、彼女に近づきたかった。そうしなければ、俺はずっとこのままだと思った。

 それに、彼女に先程の話をしなくてはいけない。そうしなければ、変われるはずの彼女がどこかに行ってしまいそうだったから。

 

 姿を現しては消す彼女を追って着いたのは、一見の本屋であった。

 軋んだ音をたてる扉をくぐると、その中には静寂と知識が広がっている。立ち並ぶ本棚の間を眺めていると、その中のひとつ、隠れるようにしゃがみ込んでいるジーナの姿が映った。

 足音を立てて近づいてみるが、彼女が気付く様子はない。開いて読んでいる本の内容が見えるほどに近づいても、その内容に夢中になっている彼女が振り向くことはなかった。

 

「……何してるんだ?」

「うわっッ!?」

 

 声をかけたところでようやく彼女がこちらを向いて、閑散とした店内にその声を響かせた。

 

「な、なにしてんのよアンタはっ」

「いや、お前のことを見かけたから、気になって」

「それ、本当にストーカーじゃないの……とにかく、いきなり声かけないでよ。びっくりしたじゃない」

「すまない」

 

 頬を膨らませる彼女に頭を下げる。まったくもう、と彼女は再び手に持った、とても厚みのある本を開いた。

 

「……花の本か?」

「見りゃわかるでしょ。なによ、変?」

 

 呆れたように示すジーナの手の内には、様々な色の花が映っている。彼女はそれらの色彩に目を馳せながら、時々少しだけ訝しげな表情を浮かべながら、分厚い本の頁をめくるのであった。

 その本は一言でいえば図鑑のようなものであった。正確に写された花の絵に付け加えられるように、俺の知らないような単語や用語が所狭しと並んでいる。その文字列を見て、ジーナは少しだけ眉をひそめたり、逆にすらすらとそれを目で追っている時があった。

 

「お前、文字は読めるのか?」

「あんまり。でも、何が書いてあるかくらいは」

 

 紙に映る短い文字を、ジーナの細い指がなぞる。

 

「例えばこの花のこの文字は、春になると満開になる、とか。あとこの文字は、花びらが一枚しかない、とか」 

「全部覚えてるのか。凄いな」

「お花屋さんになるんだったら、これくらいは覚えないと。でも、まだ全部覚えてるわけじゃないから」

 

 指を差して語るジーナは、どこか楽しそうだった。

 

「花屋になるために必要なのか」

「そりゃそうよ。お花を売るんだから、当然知識も必要になるわけだし」

「そうか」

 

 彼女が変わるためには、金に加えて多くのものが必要そうだった。けれどそれで俺の様にならず、あの人ごみに紛れられるくらい、真っ当な生き方ができるのなら、それは相応のことにも思えた。

 ジーナの本をめくる手が止まる。楽しげに笑っていた彼女は消え、その横顔には影が差していた。

 

「ほんとは、文字も読めたらいいんだけど」

「……誰かに教えて貰うとか。それこそ、これを買ってしまってもいいんじゃないか」

 

 人差し指には、昨日の輝きがまだ残っていた。

 

「……そうしたいのも、山々なんだけどね」

「まだ使うべき、ではないと」

「いや、そう言う訳じゃないのよ。ただ……まあ、色々とね」

 

 俯いたまま、彼女が呟く。

 

「知ってる?お金って価値があるけど、私には価値がないのよ」

 

 そう語るジーナは、今にも消えてしまいそうだった。

 このままの彼女では、先の彼女へは届かないのだろう。それだけは、何としてでも避けなくてはいけない事だと思う。それは俺の身を削ってでも、阻止しなければいけない事のようにも思えた。

 彼女には無いものが、俺にはある。

 本来ならば彼女が持っている筈の、変わるための一つの手段。それは俺にはとても過ぎたもので、無価値にしか思えなかったけど、今の彼女が必要とするのなら、それはとても価値のあるものに見えた。

 持つ者は、持たざる者へ。在るべきものは、在るべき処へ。

 そんな、彼の言葉を思い出した。

 

「ちょっとそれ貸してみろ」

「は? あんた、何言って――」

 

 そう言いかけた瞬間、ジーナの瞳が見開かれ、

 

「やばっ」

 

 ぱたん、と大きな音を立て、ジーナが勢いよく本を元の位置に戻しながら、俺を盾にするようにして背中の方へと回り込んだ。

 いきなりの彼女の行動に訳も分からず呆然としていると、すぐにジーナとは反対の方から声が飛んできた。

 

「このクソガキ! お前また来てるのか!」

 

 振り向くと、そこに立っていたのは大柄の男であった。おそらくこの店の責任者なのであろう、俺よりもひとつかふたつほど年上の彼は、俺の後ろのジーナを睨みつけながら、怒号を飛ばしていた。

 訳の分からなくなっている俺を挟んで、ジーナが切り替えす。

 

「うるっさいわね! 客にぜんっぜん売ろうとしないアンタが悪いんでしょ!」

「お前みたいな小汚いガキに売る本なんか置いてねえ! それに、お前が来ると店の評判が悪くなるだろうが!」

「はん、こんなボロい店なんて、元々最悪だっつーの! なによ、あんた周り見えてないわけ?」

「あ? 今なんつった? 今日という今日は許さねえからな、このクソガキ!」

 

 本屋とは思えないような騒がしさである。けれど咎めるような人間はそもそもおらず、ジーナの言い分も少しだけ分かっているような気がした。それに、ジーナが本を買いたくても買えない理由も、目の前の男を見れば火を見るよりも明らかだった。

 終わりの見えない言い争いに、どう口を挟もうか迷っていると、ジーナを睨んでいた男の目が俺へと向けられる。

 

「そこの兄ちゃん、あんたそのガキの連れか?」

「……まあ、そうだな」

 

 少しだけ悩んだけれど、首を縦に振る。

 

「悪いがあのガキを連れて、帰ってくれねえか? あいつ、いくら注意しても引き下がらねえんだ」

「はん、それがモノを売る人間の態度かしら?」

「スリやってる犯罪者に売るモンなんて置いてねえよ。何なら今ここで衛兵に――」

「少し、いいか」

 

 続けようとした彼の言葉を急いで遮る。

 

「……彼女が読んでいた本、あるだろ。あれ幾らだ?」

「あ? もしかして兄ちゃん、こいつの肩持つつもりか?」

「聴いてるんだ。頼む」

 

 圧しかけるように続けると、店主の彼は呆れたように答えてくれた。

 

「金貨二十と銀貨八枚だな。それに、そいつ口止め料で金貨八枚。これ以下は受け付けない」

「ちょ、ちょっとあんた、足元見るのもいい加減に――」

「いいだろう」

「え?」

「……はぁ!?」

 

 本一冊にしては高額だが、買えない事は無い。

 それに金貨八枚で彼女が救えるのなら、安いものだと思う。

 

「それで彼女を見逃してくれるなら」

 

 呆然としたままの彼に懐に入っていた分を渡す。けれど、彼が金を受け取る様子はなかった。

 さっきまでの騒がしさが嘘のようで、彼は目の前に出された金貨を訳も分からないように見つめているだけ。奇妙な沈黙に、首が傾いた。

 

「……足りなかったか? すまない、もう少しあるから……幾ら必要だ?」

「いや、足りてるけどよ……」

「それならいい。頼むから、彼女のことは黙っておいてくれ」

 

 それでも彼女のことを言われたなら――その先は、あまり考えたくなかった。

 どちらにしろ、俺はそれを行動には移さないのだろう。

 乱雑に置かれている本を拾い上げる。思ったよりも厚みと重みがあったそれをジーナに差し出すと、彼女は少し不満そうに俺を睨んでいた。

 

「何だ、いらなかったのか?」

「……なんで、こんな事したのよ」

「お前が読みたいと思ったから。それに、それがちゃんと読めるようになれば、お前も変われる」

「そう、だけど、さ」

 

 何か彼女の癪に障っただろか。けれど、彼女はこれが欲しいと言っていたはず。それに、彼女が今の自分から変わるために、これは必要な物なのだろう。

 

「他に欲しい本は?」

「あったら買ってやる、って言うの?」

「ああ」

「……そう言われて、答えるほど頭は弱くないわよ」

 

 伸ばしてくる手はどこか震えていて、受け取ろうとしているのを怖がっているのが感じられた。けれど彼女は一瞬だけ振り切ったような表情を浮かべると、俺の手からその本を奪い取る。

 在るべきものは、在るべき処へ。それに彼女の手が届かないのなら、俺が変わりに手を伸ばす。

 それが、正しい選択だと、そう思った。

 

「騒ぎたてて申し訳なかった」

「……知らん。あんたはちゃんとした客なんだ。勝手にしろ」

「すまない」

 

 それだけ残して、ジーナに振り返る。

 

「目当てのものは手に入ったな? とりあえず出るぞ。水やりもまだだろ」

「……わかった」

 

 どうしてか、彼女の顔には影が差しているままだった。

 

 

「同情のつもり?」

 

 夕暮れから離れ、いつもよりも増して暗い路地裏を歩いていると、買った本を抱えているジーナがそんな事を聴いてきた。

 

「同情……というのは、良く分からない」

「……あんた、分かんないことだらけじゃない」

「ああ。けれど、それでお前が変われるのなら、お前はそれを手にしなければいけないと思う。それでお前が先へ進めるのなら、俺は何だってするつもりだ」

 

 それだけが俺の本心だった。

 彼女の手が届かず、俺の所へ落ちてしまうのなら、俺の手を切り離して、彼女の手に継ぎ足せばいい。そうすることで俺の所へ来なくていいのなら、俺は自らの両腕を彼女に差し出しても良いと思った。

 それが同情というのなら、そうなのだろう。

 

「……後で何か言っても、お金は返さないからね」

「何も言わんさ。好きにしろ」

「ふん」

 

 口を尖らせる彼女だったが、抱えたそれに落とした視線には明るい色が差していた。

 

「それに、そうやってお前のものを買えば、お前がスリをする必要もなくなって来るだろ」

「は? あんた、何言っ――……もしかして、バレてるの?」

「前からそう言っているだろ」

 

 あれだけ言っていたのに、分かっていなかったのだろうか。思わずため息が漏れた。

 

「前々から言っているが、もうスリはやめろ。お前のためを思って言っている」

「……じゃあ、どうすればいいのよ。この指輪、もう使えってこと?」

「そう言う訳じゃない。それはお前が本当に、心から欲しいと思ったときに使え」

 

 両手に抱えたそれを見下ろして、ジーナが呟く。

 そんな彼女に、俺は今なら手を伸ばせるような気がした。

 

「ジーナ」

「何よ」

「今後、もし金がなかったらスリじゃなくて俺に言え。そうすれば何とかしてやる」

「……カイン? あんた、自分がなに言ってんのか、本当にわかってる?」

「分からん。けど、もう二度とスリはするな。これが最終警告だ。いいか、よく聞け」

 

 気が付けば、俺は彼女に向き直り、その翡翠の瞳を強く見つめていた。

 

「お前はお前の好きなようになればいい。行きたいのなら、どこへでも行けばいい。前にも言ったように、俺が見つけてやるから。けれど、もう二度と帰ってこれないような、先の無い暗闇は行くな。見つけられないところへ……こちらへは、来るな」

 

 我儘なのだろうか。けれど、そうしなければ、彼女はこのまま戻って来れなくなってしまいそうだった。

 逃げられない暗闇への道が続いているのなら、俺がそれを絶ってやればいい。たとえそれで、俺自身が暗闇から逃げ出せなくても、彼女さえ救われれば、それでもいいと思えた。

 

「お前は変われる。そのためなら、俺は何でもしてやる」

 

 愚かなのだろうか。けれど、俺にはその言葉しか伝えられない。

 静寂が続く。彼女はその大きな瞳を見開いたまま、俺の事を碧色に映していた。そこには恐怖とか、不安とか、ふらふらとした感情ばかりが募っていて、今にも崩れ落ちそうに震えていた。

 やがて、彼女が薄い唇を開く。

 

「なん、で」

 

 その顔に浮かんでいるのは、歪なものを見るような、あるいは恐怖にも似た感情だった。

 

「なんで、そんな事言えるのよ……おかしい。あんた、やっぱりおかしいよ……」

 

 自分が狂っているかどうかすらも、もはや今の俺には分からない。けれど、彼女が俺のようにならないのなら、俺は全てを投げ出しても良かった。

 やがて。

 

「……本当に、信じていいの?」

 

 すすり泣く彼女は縋るように、俺の眼を覗き込んだ。

 

「こんな私を、救ってくれるの?」

 

 その問いかけは、俺にとっては何の者でもなく。

 

「それでお前が変われるのなら。俺のように、ならないのならば」

 

 何度でも、俺は彼女に手を伸ばすことが出来る。

 それだけが俺にできることで、俺がなさなければならない事に思えた。

 

「……ほんっとに、さ。優しいんだね、カインは」

「優しい?」

「だって、こんな私に付いてきてくれるんだから。こんな私を、救おうとしてくれるんだから」

 

 救えるなら手を伸ばすことが、普通じゃないのだろうか。それが自分の身を削って届くものなら、救おうとするのが当然ではないのだろうか。

 その言葉を理解することは、まだできない。

 けれど、

 

「ありがとう」

 

 やはり彼女の言葉はどこか胸に残り、俺の空白を満たしていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『少女の錯綜』

次回から動きます


 

 

 ――誰かの温もりを感じる。

 

「んぅ……」

 

 朧げな意識に入り込んできたのは、そんな小さな声だった。

 

「ジーナ」

「……ぁ、……? なー……に…………」

 

 隣で寝ている彼女に声をかけるけれど、それが届く事は無く、薄い布団にくるまった彼女は、瞼を閉じたまま俺の懐へと潜り込んだ。

 まるで猫の様に頬を擦りつける彼女の頭に、手を伸ばす。朝陽に照らされる金の髪は輝いていて、さらさらとした心地よい手触りが手に伝わってくる。

 しばらく彼女の頭を撫でていると、彼女はとても心地よいような笑みを浮かべていた。

 

「ん……もっ……と…………」

 

 頭を撫でる手から、耳元を伝って、頬へ。くすぐるように指先を這わせながら柔らかい肌へ手を伸ばすと、彼女はその感触を楽しむようにして俺の手へと頬を擦りつけた。

 眠りから覚めた時の、こもった暖かな感触が伝う。まるで夢の中にいるような、ふわりとした感覚で、俺は彼女の頬を撫で続けていた。

 彼女の香りがする。暖かな感触が包む。さらついた髪が、輝いていた。

 

 彼女は輝いていた。俺にはないものを持っていて、それはとても素晴らしいものに見えた。

 崇拝、渇求、切望――そんな感情が、渦巻いていた。その意味では、俺は彼女を欲していたのだと、思う。俺には無いものを持っている彼女が、ひどく魅力的で、それはまるで誘う花のようで。

 気づけば俺は、彼女を抱きしめようと手を伸ばし――

 

「…………」

「………………なにしてんの」

 

 翡翠の瞳と、ぶつかった。

 

「……おはよう」

「ん、おはよ」

「…………すまな、い?」

「なんで聞いてんのよ。さっさと起きるわよ」

 

 呆れたように呟きながら、彼女は俺の手を解いて、ベッドから立ち上がった。

 留めたまま寝ていたのだろうか、尾の様に垂れる髪を幾度か整えると、彼女が再びこちらへ蔑むような、それでいて興味のあるような視線を向ける。それに俺は何を返すでもなく、ただ彼女のことをぼうっと見つめていた。

 

「……あんた、寝起き弱いのね」

「そう、か」

「ま、いいわ。とりあえず、顔洗って朝ごはん持ってくるから」

「い、や。俺は……」

「ダメよ。朝はちゃんと食べないと。そんなんだからいつも暗いのよ? しっかりしてよね」

 

 まったくもう、と頬を膨らませながら、彼女は奥の部屋へと消えていく。けれど俺は何が出来るわけでも無く、ただじっと、彼女の残滓を見つめていた。

 

 ジーナと過ごす時間が多くなった。

 先日の一件から、彼女は俺の家で寝泊まりするようになった。もちろんそれは彼女からの提案で、元々住んでいた住処よりもこちらの方が街に近いから、という理由であった。始めは少しだけ迷ったけれど、それで彼女の力になれるのならば、迷う必要はなかったのだろう。

 彼女は自由な人間だったった。ベッドが一つしかないから、とこうして俺の所へ潜り込んでくるときもあれば、どこで覚えてきたのか、台所を勝手に使って料理を作るときもあった。

 そういった意味では、俺と彼女は近しい関係になったのだろう。それがどう働くかは分からないが、彼女がいつも隣にいる生活というのは、少しだけ安心するものでもあった。

 

 やがて、しばらくすると、彼女は昨日買ってきた黒いパンを二つ、手に持ってきた。

 

「今日はどうする?」

「仕事探し」

 

 それはそうだが。

 

「……もう、五日目だぞ? 少し休んだ方が……」

「そんなヒマあるわけないじゃない。あんた、今まで私の隣にいたんだから、分かるでしょ」

 

 小さな口でパンを頬張りながら。ジーナはそう言った。

 彼女の仕事探しは、言ってしまえば絶望的であった。とにもかくにも、彼女がまるで関わってはいけないように、腫れ物扱いされているのだ。

 顔が知られているのか、はたまた見た目というか、纏う雰囲気が悪いのか。とにかく彼女とまともに取り合う人間は今のところ見つかっていない。それは俺にはとても不満で、どうにも呑みこみにくいのもであった。

 

「しかしだな……お前だって、疲れもあるだろ」

「それが何よ。そんなもの関係ないでしょ」

 

 既に食べ終わったジーナが、床に置いたテーブルへうつ伏せになりながらそう答える。

 

「あんたが信じてくれてるんだから。私も頑張らないと」

「……そう、だな」

 

 そう語るジーナはどこか崩れてしまいそうで、俺はそんな彼女に頷くことを、少しだけ躊躇った。色の薄い、忘れてしまいそうな不安が心に浮かび上がっていた。

 けれど彼女はそんな事を知らないで、俯せた顔を上げながらこちらへ口を開く。

 

「よし、それじゃあさっさと行くわよ! ほら、あんた食べるの遅いんだから!」

「……元々、食べるつもりは無かったんだ。だから良いって言ったのに……」

「んじゃあいいわよ。食べ終わるまで待ってあげるから」

 

 呆れたように息を吐いて、彼女が再び腰を落とす。そうしてテーブルへ両肘をついたかと思うと、彼女はじぃ、と俺の事を見つめたまま動かなかった。

 既に固くなったパンを齧りながら、俺も彼女のことを見つめる。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「…………ふふっ」

 

 ……どうして、笑う?

 

「少し前まで、こうしてあんたと話をすることなんて、なかったからさ」

「……嫌、だったか?」

「ううん、その逆。嬉しいよ。こうして、私と話してくれるんだから」

「それなら……良かったのか?」

「なんで聞いてんのよ。良かった、って言ってるじゃない」

 

 少し照れくさそうに、けれど彼女は、俺の前で笑っている。

 そして、どういう訳か――俺も、彼女と同じように、笑みを浮かべていた。

 

 

「だーっ! 何でこうなるの!? ふざけるんじゃないわよ!」

 

 そんな叫び声とともに、ジーナが転がっていた空き瓶を蹴り上げる。からん、と夜空に軽い音を響かせるそれは、路地裏を転がって、街の光の届かないところで大きく弾け飛んだ。

 それでもまだ暴れ足りないのか、地面を蹴ったり、ぎゃあぎゃあ暴れたりする彼女を見届けること、十と数秒。いくらか体を動かしていた彼女は、ぜえはあと肩で息をしながら、俺のことをきつい視線で睨み上げた。

 

「むかつく」

「……落ち着け」

「むかつくっ!」

「分かったから」

 

 ぐぎぎ、と歯をくいしばる彼女に、ため息をひとつ。

 結局のところ、今日も彼女の仕事は見つからなかった。やはり彼女はどこか避けられているのだろうか、服屋にしろ飯屋にしろ、それこそ裏方にしろ、彼女を受け入れてくれるところは存在しなかった。

 

「なんでこんなに見つからないのよ! ほんと、どうかしてるんじゃない!?」

 

 正直な話、俺もそろそろ見つかるだろうとは思っていたのだが、けれど彼女はいつもと変わらず、またこうして癇癪を起している。それは彼女らしいといえば彼女らしい、という行動なのだろう。けれどその体の端々には、目に見えてわかる衰弱の痕が残っていた。

 

「まだ焦るような時期じゃない。ゆっくり、一歩ずつ進めばいいさ」

 

 焦る彼女の肩に手を置くと、ジーナは少しだけ落ち着いたようで、その細い指を俺の手へと重ねた。

 

「……早くしないと、このままじゃダメになっちゃうから」

「それも分かる。けれど、焦りすぎるのもいけないのは分かるだろ?」

「…………それも、そうね」

 

 溜め息を一つ吐いて、ジーナは自分で確かめるように一つ、首を縦に振った。

 

「早く帰りましょ。ってか、ここどこ? 適当に歩いてきたからわかんないんだけど」

「あのなあ……」

 

 彼女の惰性に付き合ってきたので、俺もどこだか見当がつかない。見知らぬ路地裏というのは先が見えない程に暗く、どこか冷たいものであった。

 差し込むのは街頭の光だけで、ジーナはそれに導かれるようにして、そちらへ足を運んでいく。遠くに行く彼女を追うと、夜のぼやけた街頭の光が、俺達を照らしていた。

 

「ここは……」

 

 煙草と、どこかで嗅いだことのある薬の匂い。女の香りが、一気に漂ってくる。あまり慣れない、どこかふわふわとした空気だった。

 

「そういうトコ?」

 

 並び立つ娼館を眺めながら、ジーナはそう首を傾げた。

 

「そうだな。まあ、ここを突っ切ればいつもの通りに着くはずだ」

「ふーん……」

「……どうかしたか?」

「なんでもない」

 

 何か気分を害したのか、ジーナはいつものように唇を尖らせながら俺の先を歩き始めた。

 こういったところはあまり慣れたものではなかった。酒と金と、女が入り乱れるこの場所は、やはり俺から遠くはなれた所に位置している。特に女というのは、俺にはあまり分からないものだった。

 けれどそれは彼女も同じなのか、時折ちらちらと店先にいる彼女等を見ながら、ふとこちらへ口を開く。

 

「あんたはこういうとこ、来たことあるの?」

「少ないな。あまり良くは知らない」

「……でも、一回は来たんだ」

「仕事の付き合いでな」

 

 俺達のような人間は、何かとこういったところと関係が深かった。

 

「やっぱりあんたも興味あるの?」

「あまり……良く、分からない。俺はそこまで余裕のある人間じゃないから」

「……そ。ならいいのよ。ほら、早く行きましょ。私はこういうの苦手なのよ」

 

 そう進むジーナに着いていくと、ふと。

 

「あら、カインじゃない」

 

 そう、どこから呼ぶ声を聴いた。

 果たして、立ち止った俺の視線の先に居るのは、一人の女性であった。短い煙草をふかしながら、視線は呆けた俺へと向けられたまま。長い茶色の髪は夜風に揺れていて、流すような瞳で彼女のことを思い出した。

 

「フローラ?」

「そうよ。久しぶりね」

 

 濃く差した紅の唇を吊りながら、フローラは俺へと続けた。

 

「あんたがここに来るなんで珍しいじゃない。どうしたのよ」

「別に、用という訳じゃない。たまたまだ」

「そう……ま、あんたの言うことなんだから、本当なんだろうね」

 

 そう薄く笑って、フローラが煙草を口に含める。すると彼女は俺へ向けて、その薄く白い煙を吐きかけた。煙草の匂いと、ほのかな、けれど強い香水の匂いが、鼻孔に突き刺さる。

 

「……何するんだ」

「なに、時間あるんじゃないの? あんたの事だから、毎日ヒマなんでしょ」

「どんな偏見だ。それに俺は毎日ヒマって訳じゃない」

 

 それが以外だったのか、フローラは目を見開いて俺のことを見つめている。

 そうして、彼女が何か口を開こうとした瞬間、ずかずかという音が聞こえそうな程の勢いで、ジーナが俺と彼女の間に割り込んできた。

 

「何してるの」

「ああいや、知り合いだったから……」

「それで?」

「話していただけ……だろ? そうだよな」

 

 少し助けを求めるようにフローラへ語り掛けると、彼女はジーナへ訝しげな視線を向けたまま、白い煙を吐いた。

 

「何よこのちっこいガキ。あんた趣味変えたの?」

「ち、ちっこいとは何よ! あんたみたいなおばさんよりマシでしょ!?」

「うるさいわね……だから子供って嫌いなのよ」

 

 と、彼女は呆れたように呟きながら、俺の方へと歩み寄って来る。すると彼女は煙草を地面に落とし、それを踏みつけるようにしながら、俺の手へと抱き着いてきた。

 煙草と薬の香りがする。あまり慣れない感覚だった。

 

「ねえカイン、あんなガキより私と遊ばない? あんたなら少し安くしとくからさ」

「な、なな、何してんのっ!」

「そうねえ……金貨12枚でいいわよ? あんたとするの、楽しいからさ」

「たのっ、楽しいって! ちょっとあんた! いい加減にしなさいよっ!」

 

 顔を赤くして叫ぶジーナをよそに、フローラが俺の耳元へ唇を寄せる。

 

 

「明日の夜、あんたに声かかってるから。準備しときなさい」

 

 

 ――体が、少しだけ強張った。

 思わず彼女の方を見下ろすと、フローラはいつも通りの不思議な笑みを浮かべながら、ただ俺の瞳を覗いている。そんな彼女に、俺は無言で頷くことしかできなかった。

 逃れられない。けれど、そのつもりもない。

 俺は、これでしか生きていけないのだから――

 

「聞いてんのカイン!? あんたもボケっとしてんじゃないわよ!」

 

 彼女の声で、どこかから俺は引き戻された。

 

「何よ、あんたこいつに惚れてんの? 止めときなさいよ」

「ほれっ、惚れてる、とかじゃなくて! そいつは今、あ、あたしのなんだから! 勝手に取ってくんじゃないわよ!」

 

 彼女のものになったつもりもないし、彼女に見合うものになれるかもわからない。

 けれど、その言葉は、どこか少しだけ落ち着いたものだった。

 

「……まあ、そういう事だ。誘いはありがたいが、今は余裕がない。本当にすまない」

「そう。あんたがそう言うならいいわ」

 

 俺の手を離して、フローラは呆れたような視線を向けていた。

 

「ほらカイン、さっさとする!」

 

 不機嫌になったジーナが、再び俺の前を進む。けれどそれは、呼びかける彼女の声によって遮られた。

 

「あ、ちょっとそこのガキ。こっち来なさい」

「……ガキって言わないでよ、おばさん」

「生意気ね。でもそう言うのは嫌いじゃないわ。子供は全部嫌いだけど」

 

 なんて軽口を躱しながらも、ジーナがフローラの元へと歩み寄る。すると彼女はジーナの方へかがみ込み、とても小さな声で、ジーナへ何かを伝えていた。

 

「あいつ、割と変態だから。やるときは覚悟しときなさいよ」

「………………は?」

 

 ぽん、と。

 彼女の顔が、急激に赤くなったのが見える。

 

「な、ななな、あ、な」

「そうね……あいつ、腋とか首筋とか、変なところ好きなのよ。綺麗にしときなさいね」

「はぁああああ!? あんっ、あんたいきなり何言ってんのよぉっ!?」

 

 遠くだったから聞こえなかったけれど、ジーナはどうしたのか、顔を真っ赤にしながら叫んでいた。さすがに周りからの気を少なからず引いているので、俺も彼女の方へ近寄っていく。

 

「あら、真っ赤にしちゃって。ま、頑張りなさいな」

「う、うるさい! ぁ、あた、あたしそんなんじゃないから!」

 

 必死に叫んでいるジーナの肩を叩いて、声をかける。

 

「ジーナ、行かないのか? 話すことがあるなら、別にもう少しゆっくりしていても……」

「――――――――ッ、わ、わかっ、た、から……」

 

 凄い目で見られたような気がする。そのまま彼女は頬を紅潮させたまま黙り込んでしまい、ぶつぶつと何かを呟き続けていた。

 

「ゎ、わき……くびす、じ…………」

「フローラ、お前何した」

「別に? あんたの事、少しだけ話しただけよ」

 

 少し、という量じゃない気がするが。

 けれど彼女はそれ以上話す気は無いようで、腕を組みながら俺へと流すような視線を送っている。そんな彼女に溜め息を吐きながら、俺は動かなくなったジーナの肩を叩いて帰路に着くことにした。

 

「じゃあね、カイン。あんまりハメ外しすぎるんじゃないわよ」

「……何の話だ」

 

 意地の悪い笑みを浮かべながら、彼女は最後まで手を振ったままだった。

 

 

 煙草と薬の匂いはどこかに消え、残ったのは見慣れた暗闇だけ。今までと同じ感覚で明かりを灯す街頭の下を、ジーナはうつむきながら歩いていた。

 冷たい夜風が肌を撫でる。空には月も見えず、ただ薄暗い曇天が広がるのみ。先の見えない暗闇は、どこかで見たことのあるもののようだった。

 

「ねえ、カイン」

 

 その声で、視線が前へと引き戻される。

 

「あんた、あの人とどういう関係なのよ」

 

 唐突にそんな事を問いかけてきたジーナに、少し考えてから口を開く。

 

「どういう、という程でもない。ただ、何度か世話になっただけだ」

「……ああいう女の人が好み、ってこと?」

「そう言う訳じゃない。ただ、彼女が俺の相手をしてくれるだけだ。俺は、ああいうところの勝手が良く分からないから」

「ふーん……」

 

 どこか素っ気なく見せるけれど、ジーナは少し興味のある様子で続けた。

 

「でもさ、あんたはちゃんとそういうのも買う、って事よね」

「……仕事の仲間との付き合いもある。どうしても、という場合には、まあ」

「じゃあ、女の体を買うのに抵抗もない、ってこと?」

「なんでそんな事を聴く」

「答えてよ」

 

 そもそも人前で言うような事でもないけれど、彼女の視線はそれを許そうとはしなかった。まるで何かに迫られたようで、俺はそんな彼女を不思議に思いながら、口を開いた。

 

「まあ、それがそういうものなら、拒否する理由はない」

「……そっか」

 

 それだけ告げて、再びジーナが何事も無かったかのように前を向く。訳の分からない彼女との会話を少しだけ不思議に思ったけれど、やがて俺は考えるのを止めた。

 これだけ過酷な環境に身を置いているから忘れがちだが、彼女はまだ子供と言えるような年齢なのだ。まだ分からない事も多いだろうし、それに対して考えるような時間も要るのだろう。そう呑みこめば、今の会話も別に不思議に思うことはなかった。

 

「…………」

「…………」

 

 歩いているうちに、景色はいつもの路地裏へ。黙ったまま前を行く彼女の後を、離れないように追う。

 うつむいた彼女の背中は何かを考え込んでいるようで、張りつめたような静寂が続いていた。それは俺には無くて彼女にある、どこかで憧れたもののようで、けれど今の俺は、それに憧れるのはどうしてか憚られた。

 

 やがて、彼女の歩む足が止まる。

 

「あの、さ」

 

 風が吹けば消えてしまいそうな声で、彼女はこちらへ向き直り、

 

「私の体、買ってみない?」

 

 問いかけるその瞳は、弱々しく震えていた。

 

「わ、私だってそういうの、もうできる歳だし……別に、できるでしょ? ……ほんとは、ちょっと怖いけど、あんたなら、その……あまり悪い気とか、しない、し」

「…………お前」

「金貨十二枚……は、私の体じゃ盛りすぎかな。十枚……いや、八枚でもいいよ。お金くれるなら、あんたの言うこと、なんでも聞くから。私のこと好きにしてくれていい、から――」

 

 

 

「ふざけるな」

 

 ――気が付けば、俺は彼女を壁に押し付けていた。

 

「俺はお前に施すわけじゃない。お前なら、変われると信じてるだけだ」

 

 フローラを否定するわけじゃない。かといって、ジーナを受け入れるわけでも無い。その理屈は言葉に表すのは難しいけれど、これ以上に表せることは、俺には難しかった。

 色褪せた彼女の瞳は、ただじっと俺の事を見つめていて、その体は崩れ落ちるように、俺の腕へと吸い込まれていった。

 

「……ごめ、ん。私…………」

「いい。疲れてるんだろ、今日はもう帰って寝ろ」

「わかっ、た……」

 

 そのまま眠ってしまいそうな様子の彼女の体を支えながら、家までの道を再び歩く。

 ふらつく彼女の体は、とても軽いものになっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『そこに居る理由は』

 

 夢のようだった。

 

「あああぁぁぁッ!」

 

 固い衝撃と共に、地面に血の雫が垂れる。脳を揺さぶられたようで、ふらふらと視界が揺れる。体力ももう限界が近づいていて、全身がふわふわと覚束なくなってしまう。

 けれど、握りしめる拳の力だけは、どうしても抜くことはできなかった。

 月の明かりが差し込んでいる。知らない誰かが、俺へ向かって叫んでいる。

 

「てめェ! いい加減に倒れろよッ!」

 

 振りかぶった男の拳を受け止めて、それを体の横へ。そのまま彼の体を地面へ倒れさせると、懐から一本目のナイフを取り出して、叩きつけられた彼の手のひらへ突きたてる。

 肉を突き刺す感触と、絶叫が聞こえている。そのまま、握ったナイフを何度か回転させると、赤い液体が花の様になって広がった。

 殺すことができた。けれど、殺しはしない。殺すことは、できない。

 それはとても怖くて、今の俺には辿り着くことのないものだった。

 

「……あと、四人」

 

 ふらつく体を無理やり立ち上がらせると、目の前に鉄の棒が迫っているのが見えた。急いで顔を背けたけれど、次の瞬間には、肩に大きな衝撃が走るのを感じた。

 びりびりと響く思い感覚と、半身が熱くなる感覚。衝撃が体を突き抜け、踵のあたりが痺れるよう。体が一段下げられ、そのまま地面に倒れ込みそうになる。

 けれど、それだけ。

 

「な、っ……!?」

 

 打ち付けられた鉄の棒を掴み、そのまま男の鳩尾を蹴りつける。唾を俺の顔にかけて飛んで行った彼は、棒を俺の手へと預けながら、冷たい壁へ手を付ける。

 そのまま起き上がろうとした彼の足へ、鉄の棒を振りつける。

 ごき、と気味の悪い音と共に、彼の足から白い何かがはみ出るのが見えた。そのままのたうち回る彼の腕へ、鉄の棒を叩きつける。片腕も同じように、動かなくなった。

 これで三人。

 

「お、おい……なんかアレ、やべえんじゃねえのか……?」

「落ち着け、こっちは三人だぞ! 勝てる訳ねだろ!」

「でもよ……」

「黙れ! いいから俺の言う通りに動け! そうすりゃ何とかなる!」

 

 残りの人間は、同じ鉄の棒が二人と、それとナイフが一人。それに対して何も思うことはないけれど、どこか俺の体は、ふらふらと覚束ない足取りを辿っていた。

 ……彼女に付き合って、疲れているのだろうか。それとも、俺自身が衰えているのか。

 限界に達したという考えは、ついには出てこなかった。

 

「おおァっ!」

 

 ぼんやりと思考に耽っていると、鉄の棒を持った二人が、同時にこちらへ向かってくるのが見えた。そのうちの片方を持っている棒で受け止めると、それを軸にして受け止めた彼の体を俺の右側へと受け流す。

 そのまま横腹を蹴り上げると、もう一人の振りかぶった動きが止まる。交差していた鉄の棒を引き抜くと、俺はそのまま横に振りかぶって、彼の首元へ鉄の棒を振り回した。

 かひゅ、と空気の抜ける音がする。

 

「おま、お前っ」

 

 地面で蹲っている彼には、二つ目のナイフを一つめと同じように。パンを切るようなそれを彼のふくらはぎへ突きたてると、何度かものを切るようにして、彼の足へ刃を刻み込んだ。

 そして、あと、一人――

 

「――――ぁ?」

 

 とす、と。

 腹に何か、熱いものを感じていた。

 

「…………そう、か。時間を、掛け過ぎていた」

「な……お、お前……? なん、で死なねえんだ!? お前もう、死にかけだろ!?」

 

 血が抜ける。体が重い。今すぐ眠ってしまいたいけれど、手の力を抜けなかった。

 

「まだ、死ねない、から」

 

 ナイフを突きたてている彼の頭に肘を下ろすと、体にかかっていた体重が落ちる。刺されていたのは肉の部分らしく、もう片方の手を回してナイフを抜き取ると、少ない量ではない血が足を伝っていた。

 殴りかかって来る彼の拳へ刃を突きたてて、そのままのけぞった首元を手で掴む。そろそろ力が入ってこなかったけれど、渾身の力を振り絞って、俺は彼の頭を壁へ殴りつけた。

 だらんと垂れた右腕から、ナイフを抜き取る。ぽとり、と肉が何本か落ちる音がする。

 そうして、俺は壁に押し付けた彼へ、ナイフを振り上げ――

 

「――――ッ!」

 

 頸に突き立てようとした瞬間に、それを止めた。

 

「……ころ、せない」

「は…………?」

「俺は、殺せない」

 

 壁に手を縫い付ける。ぐりぐりと回すたびに、千切れるような悲鳴が響いた。

 

「……終わった」

 

 うめき声と叫び声がまじりあう中で、血の湧き出る腹を抑えながら座り込む。幸い致命傷ではないのか、呼吸が苦しくなることはなかった。

 傷口を強く抑えながら待っていると、時間もたたないうちに、路地裏の先に人影が見えた。

 

「リヒトーフェン」

「上出来だ。全員生きてる」

 

 足元に転がる彼らを蹴りつけながら、リヒトーフェンは俺に笑みを見せた。

 

「後の処理は任せとけ。お前、今日だけで三件も処理したんだろ」

「あ、あ……俺も、休ませて、もらう」

「……待てお前。それどうした」

 

 こちらへしゃがみ込みながら、リヒトーフェンは傷口へと手を伸ばす。そういう切迫した表情も出来るのか、と俺は彼のそんな顔を見つめていた。

 

「どうした、って聞いてるんだ」

「……疲れていた。俺だって人間なんだ」

「すぐに手当てする。立てるか?」

「いや、いい……そんな時間は、残ってないから」

 

 これくらいなら、血を止めていればすぐに治る。幸い急所は外れているようだし、手を煩わせることも無いだろう。

 ふらふらと揺れる足に力を入れて、壁を背に立ち上がる。

 

「それより、金は」

「……ああ。今渡してやる」

 

 懐から取り出されたのは、一杯に膨らんだ大きな包み。片手でそれを受け取ると、思わず体が持っていかれる。倒れそうになった俺の体を、リヒトーフェンは受け止めてくれた。

 

「すま、ない」

「無理するな。お前に死んでもらっちゃ困るんだ」

 

 呆れたように言うリヒトーフェンに、首を傾げる。

 

「……俺はまだ、死なないぞ?」

「ンな体で言われても説得力ねえよ」

 

 死なない。いや、死ねない。死ぬ理由が見つからない。

 俺は、まだ俺ができることを成し遂げていない。彼女が変われるかも、変わった彼女のことも、見れていない。

 彼女の夢を見届けるまでは、俺は死ぬことすら許されていないのだろう。それが、俺が死ねない理由で、俺が全てを投げ捨ててでも成し遂げるべき使命だと思った。

 

 けれど、もし。

 もし彼女の夢を見届けたのなら――俺は、どうなるのだろうか。

 

「……ありがとう。もう、行かなければ」

「カイン?」

 

 その答えは、今の俺には見つからないような気がした。

 それこそ、俺自身が変わらなければ、その答えに辿り着く道すら開かない。けれどそれは決して開くことのない道で、俺には憧れることしかできないものだった。

 

「……か、ぁ…………ぅ…………、ぁー…………」

 

 うめき声も、叫び声も、遠くなる。夜闇だけが俺を包み込んでいた。

 肩を擦りつけ、血の痕を残しながら、いつもの路地裏を歩いていく。腐ったゴミの匂いと、撒き散らされた何だったのかも分からない雑多に囲まれながら、俺は力の抜けていく足を動かしていた。

 歩くことすら、既にままならない。このまま力尽きるのかもしれない。彼女のことも見逃しながら、俺はここで果ててしまうのだろうか。

 やはり俺は、変わることのできない人間だった。他人へ憧れることも許されず、そのまま諦めて死んでしまうのだろう。元より、どこかで尽きたかもしれない命なのだから。

 

 ――けれど、まだ、その命を捨てる気には、なれなかった。

 

「……ぁ?」

 

 そうして俺は、視線の先にぽつりと光る、小さな純白を見た。

 風に揺れるその蕾は、まるで俺を遠くから見つめているようだった。月明かりも届かない暗闇に塗れたその蕾に、俺は焼けるような痛みも、水に浸されたような疲れも忘れて、ただそれに向けて足を動かしていた。

 触れれば散ってしまいそうなその蕾は、彼女が憧れたもので――

 

「……カイン?」

 

 いつかのあの日のように。

 風音に混じって聞こえた声へ振り向くと、そこには驚いた顔でこちらを見つめているジーナの姿があった。

 

「ジー、ナ」

「あんた、何、して――」

 

 ふらふらと言う事を聴かない俺の体は、ジーナに軽くもたれかかった。

 

「夜更かし、か? 明日も早いんだろ」

「……何バカなこと言ってんのよ。起きたらあんたが居ないもの。すぐに探して――」

 

 心配をかけてしまっただろうか。けれど、こうして彼女に触れられたならば、それでいいように思えた。彼女の温もりを感じられたのなら、俺は生きていられた。

 血を伝うのとは反対の手で、彼女の後ろ頭を撫でる。さらさらとした髪を梳くたびに、彼女がそこに居ることを実感できた。

 

「ちょっとカイン? あんた……この血、どうしたの」

 

 彼女に手が届くのなら。こうして、彼女が進む道を、見られるのなら。

 俺は――

 

「カイン? ねえ、ちょっと、カイン!? 起きなさいよ! ねえ! カイン――」

 

 

「あなたって変わらないのね」

 

 それは、忘れた誰かの声だった。

 

「……元々、俺はこういう性格だ。変えようと思ったこともない」

「そうね。あなたは鈍感だし、気が利かないし、生きるのにこれっぽっちも向いていないな」

「馬鹿にしてるのか」

「まっさか。褒めてるのよ。ここまで変わらない人、初めてみたから」

 

 からかうように、彼女が笑う。その笑顔は、どこかで見たことがあるようだった。

 

「ねえ」

 

 声も、顔も、全てを忘れてしまった。俺と彼女を繋げているのは、ただ一つだけで。

 

「人っていうのは、変わることのできる生き物なのさ」

 

 その言葉は、どこか歪な感触になって、俺の胸に残っていたのを覚えている。まるで後ろからナイフで刺されたような、古傷を抉られるような、そんな感覚だった。

 冷たい何かが、俺の体を通り抜けていく。体温という概念が、肉体から消えていくのを感じる。

 

「あなたは変わらないんだろうけどね」

「……それは、いけない事なのだろうか」

「まっさか。いけないなんて、誰も決めていないよ。ただ私たちには、選ぶ道があるだけさ」

 

 そっけないように言うけれど、それが彼女のそのままを現しているようだった。

 

「誰にでも変われる道はある。どんなに暗い場所にいたって、光は届くんだから」

「……俺には、あまり分からない」

「だろうね。あなたはそういう人間だもの。鈍感で、自分のことも分からない、純粋に生きるひと。それが、あなたなのさ。それはとても尊くて、他人が憧れる生き方で――けれど、あなたはそれすらも分からないのだろうね」

 

 やはり、彼女の言うことは良く分からない。これだけ時間が経っても、俺は彼女の言うことを理解できていない。

 つまりそれは、俺が変わっていないただ一つの証拠で。

 

「あなたは、そのままのあなたで居たほうがいいのさ」

 

 夢の中の彼女は、そうはにかんでいた。

 

 

 

 気が付けば、すすけた白い天井を見上げていた。

 横たわった全身には血が回っていない様で、起き上がるのにも少しの時間が要った。ぼんやりとした意識の中に入って来るのは、鼻に抜けるような薬の香りと、肌をきつく撫でる朝の冷たい風で、窓の横で揺れるカーテンの向こうには、いつもとは違う景色が広がっていた。

 記憶が混ざり合う。まどろみの中で、彼女の姿だけが強く目に焼き付いていた。もう、声も顔も忘れてしまったけれど、その言葉は確かに覚えている。心に残っていた傷痕が、少しだけ疼いたような気がした。

 

「ん……カイン…………カイン!?」

 

 声が聞こえてきたのは、ベッドの端の方だった。

 うつ伏せになって眠ってしまったのだろう、傍に置いてあった椅子の上で目をこすっている彼女は、すぐにこちらの方を向いたかと思うと、そのままベッドの上から這い寄って、俺の頬を両手で強く挟んでいた。

 頭が揺れる。混ざり合った記憶が、揺れている。

 

「シー……、た?」

 

 ぽつりと呟くと、その彼女は一瞬だけ悲しそうな顔をした後に、すぐさま口を大きく広げて、

 

「バカっ!」

 

 ジーナの一言が、頭の中の雑多を吹き飛ばした。

 

「何であんたは他人にばっか気ぃ遣ってるのよ! 少しは自分のことも考えなさい! バカ! 大バカ! 変態! 鈍感! 間抜け! ほんっとにあんたって意味わかんないんだから! これに懲りたらもうやめなさいよ!」

「ジーナ? ……どうして、そんなに怒って」

「怒るに決まってるでしょ!? 死ぬかと思ったんだから! あんなに血、流してたら誰でもそう思うわよ! 本当に……死んじゃう、って……いなくなっちゃう、って考えて……」

 

 だんだんと小さくなる言葉を、黙って聞いていると、ふと彼女が、俺の胸へ顔を寄せる。

 

「カインが、居なくなったら…………私、もう耐えられないよ……」

 

 弱々しいその言葉は、けれど強く俺の胸に残っていて、小さな体を抱き寄せると、彼女が震えているのが伝わった。

 死ねない。死ぬことができない。死ぬことは、許されない。

 強く反芻するその言葉は、彼女が変わるのを見届けるまで、消えないのだろう。

 

「……君も大概だな、本当に」

「クラウス」

 

 呆れた声と共に現れたのは、眠たそうな瞳をしているクラウスだった。片手には湯気の立つコーヒーカップを握っており、彼はそれを一気に煽ると、それをベッドの横につけてある空いたテーブルの上に置いた。

 いつのまにかジーナは元の椅子に戻っていて、俺の事をつぶれた涙目で睨みつけていた。

 

「あんたが急に倒れたから、私が急いでクラウスさんの所に連れてきたのよ」

「倒れていた?」

「覚えてないのかい? 君、昨日は血だらけだったんだぞ。お蔭で滅多にしない徹夜をするハメになった」

 

 くぁ、とあくびをかみ殺しながら、クラウスはやつれた瞳を擦る。

 

「ともかく。お金はあとでちゃんと貰うから。僕はもうひと眠りしてくるよ……」

「すまない」

「こういう時は感謝を述べるのが正しいと思うけどね。ま、それが君か」

 

 そんな言葉と空のコーヒーカップを残し、クラウスが病室を後にする。朝の光が差し込む白い部屋には再び俺とジーナだけになり、彼女は俺をひとしきり恨めしい様ににらんだ後、とても疲れたように息を吐いたのだった。

 

「ともかく、無事で良かったわ。一時はどうなるかと」

「……迷惑をかけた」

「本当に迷惑。どれだけ心配したと思ってるのよ……怖かったんだから」

 

 腕を組みながら、ジーナがまったく、と頬を膨らませる。

 

「それで、シータって誰?」

 

 …………。

 

「何でそれを」

「あんた、一晩ずっと心配してた女の子より、その女の人の方が気になってたの?」

「……夢を見ていたから、その……」

「へー? 夢に見るくらいの女の子なんだ。目の前の私じゃなくて、夢の女の子のほうが頭にあったんだ。あんたの事を心配してあげてる目の前の女の子より、夢に出てくる女の子の方が気になってたんだ」

「許してくれ……」

「ふんっ」

 

 頭を押さえて謝ったけれど、彼女はいつものように不機嫌になって、そっぽを向くのだった。

 

「誰なのか教えてくれたら許してあげる」

「……お前には関係のない話だ」

「なに? そんなに言えない関係だったの? 体だけの付き合いとか?」

「頼むから許してくれ……」

 

 どうしてか彼女は相当に機嫌を損ねているらしく、俺はしぶしぶジーナの言うことを聴くことになった。

 

「……三年前だ。この街に来て、今の仕事につく前に、シータという少女と出会ったのは」

 

 ぽつりとそう語り出した俺の口は、存外につらつらと言葉を重ねていった。

 

「彼女はその国でも小さな貴族の一人娘だった。けれどその国はこれ以上ないほどに腐っていて……それを、彼女は変えようと考えていた。シータという少女には、それを成し遂げるだけの力と、踏み出す勇気があった」

「貴族って……あんたみたいな人間が、どうやってそんな」

「分からない。ただ、彼女はそういう人だった。自由というか、無鉄砲というか……立場を考えない人だった」

 

 天真爛漫で、悪く言えば自分勝手な性格。けれどその風貌はどこか静寂としたものがあって、言い方を変えれば全てに余裕を持っていたのだろう。彼女の立ち振る舞いは、つかみどころのない、飄々としたものだった。

 

「彼女は国を変えようと様々なものに手をつけた。腐敗した政府を告発したり、金を貪るだけの連中を始末したり……とにかく、やれるだけのことは全てやった」

 

 何事も正しくあるように、と考え、そのために彼女は死力を尽くしていた。そこに自らが間違っている不安や、遠い目標に対する懸念は見えない。ただ、それが国を良くすることだと思って、彼女は先の見えない暗闇の中でも、決して足を止めることはなかった。

 そんな彼女のあり方に、俺はどこか惹かれていたのだろう。だから俺は、彼女のことを夢に見るのだろう。

 

「とにかく俺は、そんな彼女の元で用心棒として働いていた」

「用心棒? あんたが?」

「ああ。幸いにも生きていくうちにそういった技術は身についていたし、金も悪くはなかったから」

 

 こんなどこの生まれかも分からない人間に金を払うあたり、彼女も相当おかしな人間だったことに間違いはない。けれど俺は、それを馬鹿正直に受け取って、彼女についていったのだから、何も言えることはなかった。

 

「長い時間だった。彼女は正しいことをした。人々も平和に暮らし、国も豊かになった。彼女の望みは果たされたんだ。けれど……」

「……けれど?」

「…………彼女は病気で死んだ。もともと、体の弱いひとだったんだ」

 

 彼女の成し遂げたことは、その小さな体には余るほどのものだった。国が豊かに、人々が幸せになっていくにつれて、彼女は衰弱していった。それはまるで彼女の命の灯火が燃え尽きていくようで、その明かりに照らされている景色は、とても素晴らしいもののように思えた。

 

「人というのは、変わることのできる存在らしい」

 

 胸の奥が、ずきりと痛む。

 

「シータはそう言っていた。何処かに行ってしまう、最後のその時まで、ずっと。彼女が言うのだから、それは正しいことなのだと思う」

「……だから、あんたは私を信じたの?」

「ああ。人は変われる。どんなに暗い道にいたって、そこに必ず光は差し込むんだ」

 

 彼女がそうであったように、彼女がそう成し遂げたように。

 消えていく笑顔の中で、シータはそう語っていた。

 

「けれど、俺は変われない」

「どうして?」

「分からない。それは、今の俺にはわからない。でも――」

 

 それは、俺を強く縛り付けている、けれどどこか優しく包み込むようなもので、

 

「そのままのあなたで居てほしい……そう、彼女が言っていたんだ」

 

 透き通るような、青い瞳が笑っていた。

 

「……もう、いいだろ。これ以上、俺が彼女を語れることはない」

「そうね。珍しくあんたの口から、他人のことが聴けたし。これくらいで許してあげる」

 

 肩の力を抜きながら、ジーナはゆっくりと息を吐く。そう考えてみれば、俺がシータのことを他人に話したのはこれが最初のことだった。そして、どうしてか俺の心は、とても落ち着いたものに変わっていた。

 傷跡が疼く。けれどそれが与えるのは不快や拒絶ではなく、解放のような、心地よい安らぎだった。

 

「でも確かに、その人の言うことも分かる気がするわ」

「……そうなのか?」

「ええ」

 

 続く言葉を遮る彼女に、ふと首を傾げる。

 

「カインには、そのままのあなたで居てくれた方が……いい、ってことよ」

 

 その笑顔はどうしてか、とても夢の笑顔に似ていて。

 俺が思い出したのは、暗闇にぽつりと灯る、白い花の蕾だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『足並みをそろえて』

 

 怪我をした体も二日と経たないうちに回復して、俺とジーナは再び仕事を探す生活に戻っていた。

 けれどやはりというか、彼女の仕事はどうしても見つからない。探し始めてからそろそろ十日が経とうとしているが、行く先々の店は、どれも彼女を見た途端にまるで腫れ物を扱うようにして追い出してしまった。

 不思議だったのは、それが明らかな拒絶ではなく、怯えたような否定だったことか。彼女自身を否定するのではなく、まるで触れてはいけないような禁忌で、彼女を自分から遠ざけているような、そんな感覚だった。

 そんな対応に違和感を覚えながらも、俺たちは十一日目の朝を迎えていた。

 

「今日はどうする」

「仕事探し」

 

 そんな十一回目のやりとりを済ませながら、ジーナが黒パンを噛みちぎる。一見すれば仕事が見つからないので苛立っているようだったけれど、やつれた目元が、彼女の疲れをわかりやすく表していた。

 同じように水気のない黒いパンを口に含みながら、ジーナに続けて問いかける。

 

「お前だってそろそろ疲れてるだろ。少し休んだ方が……」

「バカじゃないの。疲れてるなんて関係ないでしょ」

「そうは言ってもな」

 

 そんなふらふらの体では、説得力もあったものではないだろうに。

 

「あんたが信じてくれてるんだから。私も、頑張らないと」

「そうやって押し付けた覚えはないんだけどな」

 

 俺がやっているのはあくまで彼女が変われるように手伝っているだけで、彼女を無理やり変えようとしているわけではなかった。そんなことをすれば、彼女が何処かに行ってしまって、もう二度と戻ってこなくなってしまうような、そんな気がした。

 強く放った言葉に気圧されたのか、ジーナは机に体を伏せる。普段のように噛み付き返してこないあたり、相当やられているのが目に見えて理解できた。

 

「……早く仕事見つけないと。このままじゃ、いつまで経っても変わらないし」

「そう、だな」

 

 うつむいた彼女の顔に浮かぶのは、逃げ場のない焦りの表情だった。

 既に彼女は限界が近い。それこそ、今まで限界に達していなかったことが不思議なくらい、彼女は過酷な環境を生きてきたのだろう。だからこそ、彼女は救われなければいけないと思う。俺のように、このまま腐り落ちていくようになってはならないのだ。

 そのために。

 

「ジーナ」

「なに」

「今日一日、俺に付き合え」

 

 そう言うと、少しの間を置いて、ジーナは体を起こしながら俺に訝しげな視線を向けてきた。

 

「何すんの?」

「遊ぶ」

「は? 絶対に嫌よ。あんた一人で勝手にやってなさいっての」

「……いいか? お前を食わせてやって、寝床まで与えて、毎日付き合ってるのは俺なんだぞ。少しくらい言うことを聴いてもいいんじゃないか」

「うぐ…………」

 

 ばつが悪そうになって、ジーナが再びうつ伏せになる。正直こんな事は言いたくなかったけれど、彼女を引き留めるにはこれくらいしか思いつかなかった。

 そもそも、俺は彼女が此処に居ることに何の不満もないし、寧ろ俺の手の届くところに居られるのなら、嬉しく思うけれど。

 

「とりあえず、ひと段落したら出かけるぞ」

「ったく、なんでこんな……わかったわよ。好きにすればいいじゃない」

 

 最早言い返す気力も無いのか、横に顔を向けたままジーナがそう口を尖らせる。

 果たして、俺達が家を出たのは、丁度昼を過ぎるころだった。

 

 

「なんで私がこんなとこ……」

 

 家で昼食を済ませ、俺達が歩いているのは、街の中でも一番の通りだった。

 行き交う人々はいつもの者よりも多くなり、けれど隣のジーナへ向けられる視線は少ない。場所としてはにはジーナがいつもスリをしている通りの反対側に位置しているので、彼女の顔を知らない者の方が多いようだった。

 つまりは、ここなら彼女も普通に過ごせると言うことで。

 

「お前、普段は何してるんだ」

「んな事、あんたが一番よく分かってるでしょ」

 

 つん、とジーナが頬を膨らませる。その泳ぐような視線は、無意識なのか仕事柄なのか、街を行く人ごみの中を狙っていた。

 もはやそれは癖になっているのだろう。確かにこれなら、俺どころか彼女を知る人間なら分かり切っている事か。

 

「そうじゃない。休みの日の話をしている」

「無いわよ。毎日、お金を集めることしか考えてなかったから」

「……そうか」

 

 うつむきがちに言う彼女の手を強く引いて、こちらを向かせる。

 

「なら今日は休むことを覚えろ。金の事も何も考えなくていい。楽しい事とか、やりたい事とか、そういうのだけ考えてろ」

「んな事言ったって……」

「いいから。ほら、どこか行きたいところとか、何か欲しいものとか」

「……ない。知らない」

 

 それだけ言って、彼女は黙り込んでしまう。どうやら自分の事を知らないのは、俺だけではないようだった。

 

「それなら、適当に歩いてみるか」

「適当って、あんたも何も考えてないじゃない」

「いいだろ、何も考えずに歩くのも。それにこうやって普通に振る舞えば、お前を追い払ってった奴らの見方も変わるかもしれないし」

「それ、今考えたでしょ」

 

 それが正しいかどうかは置いておくとして。

 なんだかんだで観念したのか、ジーナは俺の隣を黙ってついてくるようになった。そう思えば、二人でこうして並んで歩くのはこれが初めてだった。俺が追い付こうとしても、彼女はすぐに、前へ前へと進んでいってしまっていた。

 おそらく、俺はそれが怖かったのだろう。彼女がどこかに行ってしまわないか。もう二度と手が届かないところにいってしまうんじゃないのか。そう考えることすら、俺は避けていたのだから。

 それは、一つの我儘だった。彼女が俺の手の届くところに居てほしいと、そう強く願っていた。これ以上、彼女が見えない闇へ進むのが嫌だった。

 だから。

 

「手」

「……なに?」

「手を、繋ごう」

 

 呆けたような顔をして、ジーナは俺の手を取ってくれた。

 

「ま、あんたの言うこと聴く、って言っちゃったしね。何考えてるのかは知らないけど、別にいいわよ」

「……ありがとう」

 

 こんな俺の我儘でも、彼女は受け入れてくれた。その事に俺は救われるような嬉しさと、少しだけの自責を感じていた。

 同じ様に進んで、手を伸ばす事が出来る。これならどこまで行っても、彼女を見つけられるような気がした。

 

 街中を歩きながら、さてどうしようか、と考えていると、ふと甘い香りが近くから漂ってきた。まるで胸にのしかかって来るような、そんな濃厚な香りに思わずたじろいていると、ふと手を強く引かれているのを感じた。

 

「ジーナ?」

「なに?」

「食いたいのか」

 

 問いかけると、彼女はすこし為らながらも、小さく首肯した。

 

「あんな甘そうな香り、嗅いだことないし。食べてみたい」

「いいだろう。行こうか」

 

 砂糖の焦がした匂いと小麦の焼ける香ばしい匂いに釣られるように、ジーナが俺の腕を引きながら人ごみを抜けていく。そこに在ったのは街中でよく見かける焼き菓子の出店であった。

 小麦で作った薄い皮に、焼いた林檎だったり、白クリームだったりを巻いているらしい。近くによると一層深くなる、胸やけするような匂いが、その甘さを嫌というほど教えてくれた。

 

「いらっしゃい」

 

 あまり忙しそうではない店員の男は、こちらににっこりと笑みを浮かべていた。

 

「何作りましょうか」

「ジーナ、お前何がいい」

「……いちばん甘いやつ」

 

 行き場の無い答えに呆れていると、彼は肘をつきながら答えてくれた。

 

「それじゃあおすすめはこのイチゴのやつだね。とにかく甘い」

「じゃあ、それを二つ」

「あいよ。金貨四枚と、銀貨二枚だね。すぐできるから待ってな」

 

 彼女の手を離して懐から五枚分の金貨を出すと、店員は奥の方へと消えていく。そして漂う甘い匂いと共に、ジーナが少しだけ興味がありそうに呟いた。

 

「カインも、同じのでよかったの?」

「いや、俺もここに来るは初めてだから」

 

 そもそもこういう菓子の類はあまり好きではないけれど。

 

「ま、確かにカインがこんなところ来てたら、それこそおかしいものね」

 

 くすりと彼女がおかしそうに笑う。俺もそれにつられて、思わず笑みをこぼしていた。そうしていると、調理の終わった店員がやって来て、甘ったるい匂いを放つ焼き菓子を二つ、俺へと手渡した。

 

「ほいよ。お待ち」

「ああ、ありがとう」

 

 片方をジーナへ渡した後、店員から八枚の銀貨を受け取る。

 

「彼女さんの分、少しだけサービスしといたから」

「……彼女? ああ、ジーナのことか。ありがとう」

 

 そう答えると、後ろのジーナから、小さく蹴りを入れられる。

 

「何するんだ」

「行くわよ」

「は?」

「いいから、さっさとする!」

 

 顔を赤くして喚きながら、ジーナがふてくされたようにすたすたと歩いていく。首を傾げたままもう一度店員の方へ振り向くと、彼は意地の悪そうな笑みを浮かべたままだった。

 一人で菓子をほおばっているジーナへ追いつき、同じようにそれを口へ含む。イチゴの甘酸っぱい風味と、クリームの柔らかい感触に、思わずもう一度自分の手の内にある焼き菓子へ目を向けた。

 甘すぎる菓子の事は置いておいて、ふてくされているジーナへ声をかける。

 

「どうしたんだ、あんないきなり」

「どうしたって……あんた、本当に分かってなかったの?」

「分かるも何も、急に蹴られたら誰でもああなるだろ」

 

 そう応えると、呆れたようにジーナが肩を落として、答える。

 

「あんたと私が恋人に見られてたってこと。本当あんたって何も知らないのね」

 

 溜め息を吐く彼女の頬は、まだほんのりと赤いようだった。

 

「俺とお前が?」

「そう。ってかなに、マジで言ってるの? さすがに酷いわよ、あんた」

「……すまない。そこまで余裕のある人間ではなかったから」

「以外ね。騙されてコキ使われてそうだったのに」

 

それはどういう見方なんだろうか。訝しげな彼女の視線に、俺はまた首を傾げていた。

 ほのかなイチゴの匂いを漂わせ、彼女が甘い焼き菓子をもぐもぐと食べていく。意外にもそのペースは速く、俺が三口目をなんとかして呑みこんでいるころには、既に彼女は半分ほど食べ終えていた。

 少しの間を置いて、ふと彼女が口を開く。

 

「で? 何か言うことは?」

「何か……?」

「……少しくらいは何か感想とか、あってもいいんじゃないの」

「感想? ああ、これか。少し甘すぎるというか……」

「あーもうっ! あんたって本当に面倒臭いわね!」

 

 耐えかねたように叫ぶ彼女が、こちらを覗く。

 

「カインは私と恋人に見られて、どうだったって聞いてるのよ」

 

 呆然としていた俺は、すぐに応えることが出来なかった。 

 悩む、というよりは本当に分からない。別に俺は彼女とそう言った関係になることは望んでいないし、彼女もまたそれを望んでいないはず。

 やがて口から洩れたのは、頭で考えたことの、そのままだった。

 

「あまり……良く、分からないな。そう言う経験が、なかったから」

「……っ、そ。それならいいわよ、別に」

「けれど」

「…………けれど?」

 

 不安そうな彼女の声に、答える。

 

「その親しい関係になれたとして……お前が、そういう余裕を持てるようになったなら、それは良いものだと思う」

 

 今のように詰まったままではなく、そうした普通の事を考えられるのなら、それが変わるという事ではないだろうか。そうやって他の事も考えられるようになるなら、彼女はまた一歩進んだことになるのではないか。

 それが今の俺の本心で、答えられる全てだった。

 

「……甘すぎ」

 

 しばらく呆然としていた彼女は、思い出したようにそう呟いた。

 

「何がだ」

「今の状況も、このお菓子も。甘すぎて、嫌になりそう」

 

 心底呆れた様子で、彼女が食べ終えた菓子の包装紙を睨む。けれど、そこに焦りの表情は見えず、どこか少しだけ、満足しているような笑みが、彼女の口元に見えた。

 

「てか、あんた全然食べてないじゃない」

「……実は、甘いの苦手なんだ」

「ならなんで頼んだのよ。あ、食べたげよっか?」

「いいのか、頼む」

 

 既に食べ終わっている彼女に自分の分を差し出すと、彼女は一瞬だけ目を見開いて、それからまたこちらを睨み始めた。

 

「……何だ」

「あんた、本当そういうところよ」

「良く分からないが……いらないなら無理しなくていい」

「いや、いる。よこしなさい」 

 

 俺の手から奪い取り、彼女が少しだけ迷った後にぱくりと菓子を口にする。あれだけ甘いと言っていたけどどうやら彼女は気にったらしく、もぐもぐと両手でつかんで食べるその姿は、小動物を思い起こさせた。

 しばらく歩いているうちに彼女はもう一つの菓子もぺろりと平らげて、再び街中を二人で歩く。ふらふらと歩いていると、脇に控えている店に服屋がちらほらと顔を出していた。

 

「そういえばジーナ、お前は服とか買わないのか」

「別に? 買う必要ないし」

「けどいつもその恰好だろ」

「……それが何よ」

 

 上半身をすっぽり覆うようなフード付きの上着と、それに隠されたぼろきれのような衣服に、下はつぎはぎのショートパンツ。改めて彼女を包んでいる衣装を眺めてみると、やはり少しだけ歯がゆいものがあった。

 

「身なりもしっかりしないと、また悪い印象を持たれるぞ」

「変わんないわよ。どうせ顔でバレるっての」

「あのなあ……」

 

 開き直る彼女に、溜め息をひとつ。

 

「とにかく行くぞ」

「はぁ? だから意味ないっ――……ああもう、話聞かないんだから!」

 

 届く彼女の手を取って、店の中へ。

 中は何も言えるほどでもない、至って普通の服屋であった。それでもジーナはそれが珍しく映っていたのか、並ぶ棚に目を移しながら、俺の後ろを黙って着いてくる。

 

「どういったのがいい?」

「……知らないわよ。服なんて選んだことないんだから」

 

 肩をすくめる彼女に、ふむ、と一つ考える。

 

「じゃあ適当に見繕うから、適当に着て来い」

「何よ、あんたも知らないじゃない」

「いいから」

 

 ぺらぺら喋るジーナにいくつか取った服を押し付けると、彼女は渋々といった様子で被覆室を探し始めた。

 実際に俺も服に関してはあまり知るところではないのだが、それでも今の格好よりはマシになるだろう。それで彼女への視線が少しでも変わるのなら、それで満足だった。

 やがて初めてでは絶対に分からないだろう、入り組んだ場所に被覆室を見つけたジーナが、カーテンを乱雑に開ける。

 

「……覗くんじゃないわよ」

「するか」

 

 そんな軽い言葉を交わして、しばらく。

 少しの衣擦れの音と共に、再びカーテンが開けられた。

 

「ほら、これで満足した?」

「……まあ、及第点だな」

「何よその感想は」

 

 袖口が余るくらいの白いセーターに、下は膝の上までの赤いスカート。その上にはいつもの黒い上着を羽織っているけれど、元の格好よりは随分とマシになった。

 などと言うことを考えていると、ジーナは何か違和感を感じているのか、スカートの裾をつまみながらきょろきょろと足元を見回していた。

 

「どうした」

「……スカート、短くない?」

「別に今までと変わらんだろ」

 

 そう答えると、彼女はむっとした顔で、けれど次の瞬間には呆れたように息を吐いた。

 

「ま、あんたがこういうの好きならいいんだけど」

「……そうだな、綺麗になったとは思う」

「ふふ、どうも」

 

 そう言葉を返すと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに、しかしどこか満足した様子で笑った。

 

 

「次はどこ行くの?」

 

 服も変え、機嫌も出るときとは真逆になったジーナが、こちらに問いかける。

 

「すまない……ここから先は、あまり考えていなくて」

「別にいいわよ、あんたの好きなところで。私もその方がいいし」

「……そうなのか?」

「大丈夫よ。ほら、早く連れてってよね」

 

 こちらへ手を突き出しながら、ジーナは穏やかな笑みを浮かべている

それは今まで見たことのなかった彼女の笑顔で、何かに圧されるような重たい色も、迫るような乾いた色も、何処かへと消えてしまっていた。

 そんな彼女の手を握りながら、俺はジーナと共に歩く。

 

「そうだな……また、甘いものでも探してみるか?」

「あんた苦手なんでしょ、無理しなくてもいいわよ」

「なら、適当に歩いてみるか」

「そうね、あんたと一緒ならどこでもいいわよ」

 

 そう語るジーナの頰を、風が撫でる。春のはじめ、まだ強さが残っているその風は、彼女の髪を揺らしていた。

 

「……髪、邪魔じゃないのか?」

「ん? ま、そうね。でも、伸ばしてるから」

 

 目にかかるほどの、細い金糸をいじりながら彼女が答える。

 

「髪は最終手段よ。一応こんなのでもお金にはなるから」

「金になる、って」

「そうよ。金になるならなんだってするつもりだったもの。そうでもしないと、生きていけないから」

 

 また、乾いた色が戻ってくるようだった。

 

「髪飾り」

「え?」

「髪を留めるものを、買おう」

「……うん、わかった」

 

 俺のその提案に、彼女はどこか満足したような笑みを浮かべていた。

 結局のところ、それらしい建物を見つけたのは、そう遠くない、こじんまりとした小物屋であった。髪飾り、というよりは雑多なものを置いているらしく、店先には動物を模した小さな置物や、色とりどりの装飾品が並んでいた。

 

「こういうものは?」

「興味ないわ。それこそ、そんな余裕なかったもの」

 

 生産性もなければ、必需品でもない。彼女には一番遠いもののひとつだったのだろう。

 ジーナより少し高いほどの棚を抜けて生きながら、髪飾りが置かれている、小さく収まった場所を見つける。ジーナはそこで様々にある髪飾りをいくつか手にとっては吟味していると、ふと彼女はこちらを向いて、少しためらいがちになりながら口を開いた。

 

「あんたが選んでよ。どれが私に似合うと思う?」

「俺にそういう感性はないぞ?」

「いいから。あんたが選んでくれたなら、なんでもいいのよ」

 

 そう言われると、どこか少しだけ歯がゆいものがあった。並んでいる髪飾りが、どうしてか威圧感のあるものに思えた。

 覚束ない俺の手は宙を何度か巡って、やがて一つのそれへと、長い時間をかけてたどり着いた。

 

「これなんか、どうだろうか」

 

 白い花を象った、いたって普通の髪留めであった。それはどこか、彼女が憧れている、小さなそれに似ているようだった。

 

「いいじゃない、ちょっと待ってなさい」

 

 そう答えながら、彼女はそのまま後ろで留めた髪へ手をやった。そうしてジーナが首を振ると、まるで太陽の光を反射するようにして、きらきらとした金の髪が、花が咲くようにして広がった。

 呆然としたままの俺の手から、ジーナが髪留めを拾い上げる。

 

「髪、熱いし重くなるのよね。だからいつもは後ろで纏めてるんだけど」

 

 白い花が添えられて。

 

「こういうの、どう?」

 

 碧色の瞳は、その金の中でより一層の煌めきを見せてくれた。

 

「……お前、髪下ろすと雰囲気変わるな」

「そう?」

 

 金糸にすっぽりと包まれたような彼女からは、いつもの活発とした強いものではなく、どこか弱く儚い、とても大人びた雰囲気を感じた。髪の結い方ひとつでこうも変わるのか、それとも彼女だけが特別なのか、果たしてどちらかは分からなかった。

 

「そういうことを言われたのは初めてね。でも、悪い気はしないわ」

「……今日は初めてが多いな」

「そうよ。こうやって、髪を下ろしたところ見せたのも、あんたが初めてなんだから」

 

 透き通るような、混じり気のない金髪を梳いて、彼女が呟く。

 

「……本当に、今日は初めてがいっぱいだった。誰かと一緒にこうして過ごすのも、あんなに甘いお菓子を食べるのも、こうして着飾るのも、全部初めてだった。今までの私なら、こんなこと一生できなかった」

 

 限界にかられ、金に迫られる彼女のままでは、おそらく今日の経験は全てはねのけるものだったのだろう。それこそ、今朝の彼女のままだったらそのまま変わることもなく終わってしまたかもしれない。

 けれど、こうして初めてのことをかみ締められるのなら、それはとても素晴らしいことだと思う。

 

「私いま、すごく楽しい」

 

 その言葉が、やはり俺の心の空白を満たすのだった。

 

 

 夕日の照らす街並みを抜け、いつもの路地裏へ。光は遠くの方へと過ぎてゆき、昼間の明るさがまるで夢のような、幻想のように感じられた。

 壁の隙間から見える夕空を見上げていると、バケツに入った水を換えていた彼女が、ふと俺へと視線を投げる。

 

「今日はありがとね、カイン」

 

 唐突に言われたその言葉に、けれど俺はすぐに頷いた。

 

「息抜きができたのなら、それでいい。また明日から頑張れるな」

「うん、カインのおかげだよ」

「……別に、俺が何かしたわけじゃない。それはお前の立ち直れる強さだ」

 

 彼女がそうなれたのなら、それでいい。そうして変わってくれるのなら、他に言いたいことはなかった

 

「今日ももう遅いが……どうする? 帰るか?」

「……うん、帰ろう。あ、あと夜ご飯の材料も買っていかないと」

「そうか、なら一緒に」

 

 お互いに差し出した手を取って、足並みをそろえて。

 このままの彼女ならすぐに変われるはずだと、この暗闇から抜け出せると、そう思っていた。

 

 そして。

 

 

 

 彼女が姿を消したのは、その翌日のことだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『変われるのなら』

 

「仕事、見つかったよ」

 

 そう、彼女が俺に告げてきたのは、昨日のことだった。

 

「……聞いてないぞ、そんなこと」

「そりゃそうよ。今日、夜ごはん買いに行くときに言われたもの」

 

 昨日までの沈んだ様子とは嘘のように、アイゼンティアに水をやりながら話す彼女の表情は明るいものだった。すると彼女はは指に嵌めた、紅の指輪をちらつかせて、こちらへ目を向ける。

 

「なんだか私、ルーヴェルトさんの関係者みたいに思われちゃってね。それでちょっと、声をかけられた、ってわけ」

「それはどうなんだ」

「いいのよ。実際に関係してるでしょ? それに、あの人なら疑う必要もないでしょ」

 

 胸を張るジーナに、少しだけ不安が残っていた。

 ルーヴェルトが関係しているのなら、それは確かなものなのだろう。何せ相手はこの土地の領主なのだ。その仕事を手に就けられるのなら、これ以上のものはなかった。

 やはり俺の杞憂なのだろうか。それとも、ジーナが俺の所からいなくなるのが、少しだけ寂しいと思っているのか。

 

「ま、私にかかればこんなもんよ。いっぱい働いて、あんたが欲しがるくらいお金稼いでやるんだから」

 

 ついぞ先日まで仕事に就けない、と喚いていたのは誰だろうか。けれど彼女がそうなれたのなら、俺からは何も言うことはなかった。

 

「それで? どこで働くんだ」

「あー……、なんだっけ? 忘れちゃった」

「お前な、自分の勤め先くらい覚えておけよ」

「しょうがないでしょー、物覚え悪いんだから」

 

 砕けたように、彼女が笑う。そこには今まで隠れていた、安堵の色が見えていた。

 

「あ、でもお店の人は、接客って言ってたかも」

「接客か。明るいお前なら、似合うのかもな」

「そう? そう言われると、自信つくかも」

 

 垂らした雫を眺めながら、ジーナは膝を伸ばして立ち上がる。空になった木の入れ物の調子を確かめるように振ると、彼女はそれを二のしてあるバケツの隣へと軽く放り投げた。

 からんころん、と軽い音が響く。その音に応じたのか、路地裏の隙間から、小さな陰が飛び出して、

 

「なぁー」

 

 小さな猫がジーナの足元へとすり寄った。

 

「アンタもここ棲みついちゃったのね」

「なぁーぉ」

「ふふっ、こんな汚い所にいても何もないのよ? せいぜい、あの花があるくらいで」

「なぁー?」

 

 何もわかっていないような表情で、子猫は首を傾げていた。

 そんな様子に彼女はくすりと笑みを浮かべて、手のひらの上の猫を優しく地面へ下ろす。再び地に足を着いた子猫は、辺りをきょろきょろと見回した後、ゆっくりとアイゼンティアの蕾へと歩いて行き、その前足で小さな蕾をつついていた。

 

「……ほんとに、分かってるんだか」

 

 雫を垂らすその花は、暗闇の中で輝いて見えた。

 

「そういえば、泊まり込みなのよね」

「……何が?」

 

 唐突なその言葉に、思わずそう返す。

 

「仕事よ、仕事。泊まり込みになるから、しばらくはお別れね」

「そうか……それは、大変だな」

「でも、お金は多く貰えるみたいだから。ひょっとしたら、すぐに帰ってこれるかも」

 

 どちらなのかは分からないけど、それは彼女も同じなのだろう。何かを思い出すようにする素振りからは、彼女が二つ返事でその仕事を引き受けた事が、目に見えて理解できた。

 けれど、明日から彼女がいなくなると思うと、どこか寂しく思う自分がいるような、そんな気がした。

 

「なにしょげた顔してんのよ。すぐに戻って来るし、それにあんたにも頼みたいことだってあるんだから」

「頼みたいこと?」

 

 首を傾げて聞き返すと、彼女は溜め息をついて路地裏の向こうを指した。

 

「アイゼンティアの世話。私が居なかったら、誰がすると思ってんの?」

「……ああ、そういうことか」

「いい? お水をあげるのは、一日二回。不安だからってあんまりやりすぎちゃダメだからね? それと、バケツの中の水も汚くなったら換えること。蓋もちゃんと忘れずにね」

「分かった」

 

 そう頷いて答えると、彼女はどこかおかしそうに、笑みを浮かべていた。

 

「そんなに気負わなくても大丈夫よ。すぐに戻って来るんだし」

「……まあ、出来る限りで頑張ってみる」

「そうそう、出来る限りでいいのよ」

 

 そう、彼女は一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべて、

 

「だから、絶対に待ってなさいよ」

 

 そんな呟きを漏らしていた。

 

「どこかへ行くつもりはない」

「そんなこと分かんないでしょ、必ず待ってなさいよ。それに」

 

 と、ジーナがこちらを見上げ、

 

「今度は私の番なんだから」

 

 口にしたのは、そんな言葉だった。

 

「それは、どういう?」

「今まであんたがしてきてくれた分、私が返してやる、って言ってるのよ」

 

 少し照れくさそうに言う彼女へ、俺はまた首を傾げていた。

 何かされるような事をした覚えもないし、そう施される身でもない。ただ俺にはその本心が分からなかった。やはり彼女は、ときどき俺には分からない事を言うのだった。

 そうやって口をつぐんだ俺に、ジーナはまた呆れたように息を吐く。

 

「私が、カインを救う」

 

 その言葉と共に、どうしてか背中に、何か冷たいものが走り抜けていった。

 

「もう、あんたが傷つかないようにしてあげる。こんな暗い所で生きなくてもいいように、私が導いてあげるから。そりゃもちろん、まだお金とかは足りないけど……いつか必ず、あんたを救ってあげるから、さ」

 

 笑みを浮かべるジーナの一言一言が、まるで死体に集る蟻のように、俺の肌の下でうごめいていた。まるでこの世のものとは思えないような、目を覆いたくなるほどのおぞましい怪物のような、そんな不気味さを感じていた。

 

「……でき、ない」

「はあ?」

「俺は、お前のように、なれない」

 

 ――声を忘れた、彼女の言葉を思い出す。

 それだから、俺は変われないのだろう。変わることを許されていないのだろう。

 

「俺は変われないんだ……それは、お前でも分かってるだろ? なのに、救うだなんて事を言わないでくれ……俺は、もう、ここから抜け出すことは……」

「そんなもの、やってみなきゃ分からないでしょ」

 

 覚束ない足取り、ぼやけそうになった視界の中で、そんな声が響く。

 

「こんな私だって、カインのお陰でちゃんと生きられるようになったのよ? それなら、私がカインを救うことだってできるはずよ」

「それは……」

「あーもう、なんであんたはそこで卑屈になるのよっ! あんた散々言ってたでしょ!?」

 

 ぐい、と彼女は俺の襟を引っ張って。

 

「私を、信じなさい」

 

 そう、強く俺に告げた。

 

「……どうして、お前は」

「何よ」

「どうしてお前は、俺を救おうとする?

 

 彼女の言葉がわからない。やはり、彼女の言うことは、俺にはまだ理解できない。

 けれど心からのそんな疑問に、ジーナは俺の襟から手を離しながら、静かに口を開いた。

 

「そんなの、決まってるじゃない」

 

 碧色の瞳には、どこか暗がりが広がっていて。

 

「カインがいなくなるのが、嫌だから」

 

 寂しそうに、どこか縋るように、彼女はそう口にした。

 

「だから、必ず待ってなさいよ! アイゼンティアも枯らさないように! いい? あんた変なトコで抜けてるんだから、気を付けること!」

「……分かった。必ず、ここで」

 

 そう答えると、彼女は一瞬だけこちらをにらんだかと思うと、すぐに頬を緩ませて、

 

「絶対、そこにいてよ」

 

 それを最後にして、彼女は俺の前から姿を消した。

 彼女の声が消えた路地裏はひどく冷たく、暗いものに感じられた。彼女という光がなくなった暗闇からは、今まで以上に、決して抜け出せないように感じられた。

 アイゼンティアの蕾を、雫が伝う。いつもは彼女の碧眼に映っているその白い蕾は、彼女が居なくても、いつものようにゆらゆらと水に流されて揺れていた。

 暗く、冷たい路地裏に、俺はいつまでも在り続ける。

 けれど心にはどうしてか、希望が抱かれていた。

 

「どうして、お前は……」

 

 救えると思ったのだろう。こんな俺を、導けると思ったのだろう。

 それこそ、彼女の言い分も根拠がないものだった。俺をどう救うのかも考えていないし、何の予定を立てているわけでも無い。明らかに感覚で、無鉄砲に信じているだけの、子供の夢のような、そんな言い方だった。

 けれど、それは俺にはどうしてか、輝かしい希望に見えた。

 

「お前を、信じている……か」

 

 いつか放った言葉は、今度は自分に向けられていた。

 先は分からない。募らせた希望が無残に散る事も、覚悟している。

 けれど、俺ができるのは、彼女を信じることだけで。

 

「それが、お前の望むものなら。お前がそう、したいのなら」

 

 白い蕾は、俺の瞳の中で――

 

 

 人を殴ることに、もう何の感情も湧かなかった。

 

「あああぁッ!」

 

 向かってくるナイフを手の甲で避けながら、そのまま相手の頬へ拳を打ち付ける。吐き出された血が地面に飛び散って、顔を上げようとしたそいつに、俺は膝を振り上げて顎を吹き飛ばした。

 痛みが走る。だから俺は殺すことができなかった。

 

「いい、加減にッ……!」

 

 立ち上がろうとする彼の手を踏み砕き、ふらつく手を懐へ。悲鳴を上げている彼の足へ長いナイフを突きたてると、赤い液体が彼の足から流れていた。

 まだ生きている。彼も、痛みを感じている。

 

「おいカイン、そっち終わったか?」

 

 悲鳴と嗚咽が響く路地裏でそんな事を考えていると、ふとそんな声が後ろから聞こえてきた。それが誰かは分からないし、知ろうとも思わなかったけれど、俺の敵でないことは定かだった。

 数は二人だった。一人は金の髪に小柄な体躯、手に血の濡れたナイフを持っていて、もう一人は頭にバンダナを巻き付けた、大柄な黒髪の男だった。

 

「……終わった」

「ってー、また生かしたままじゃねえか。お前も器用だなあ」

「ま、こっちの方が楽だしいいんだけどよ。ほら、ジーヴァ。お前の分」

 

 そう言って、もう片方が綺麗な方のナイフを渡す。渡された方の彼――名前を覚えるつもりはない――は、そのナイフを慣れた手つきで逆手へ持ち帰ると、足元で蹲っている彼へそれを突きたてた。

 声が途切れていく。血が流れだしていく。 命が切れていくのを、俺は見届けることができなかった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。肉を処理し終えた二人が、暗闇から戻るのが見えた。

 

「これで今日の分は終わりか?」

「……俺が知る限りでは、それで最後だ。情報は別の場所で引きだしているらしい」

「そうか。じゃあ早いとこ切り上げようぜ。なあ、カイン?」

 

 呼びかけに答える間もなく、肩へ手をかけられる。

 

「最近お前、なんか頑張ってるじゃねえか」

「……別に、手柄を取ろうとは思っていない」

「俺達もそんな事は思ってねえよ。ただまあ、気張りすぎるのも身体に毒だ。だから、久しぶりにそこらでパーッとやらねえか?」

 

 呆れながら言う彼の視線に敵意は無く、本当にそういった誘いらしかった。

 

「ま、本当はお前といると女が寄ってくるからなんだけどな」

「ガトー! なんですぐバラすかな、お前は」

「いいじゃねえか。騙すよりはちゃんと理由を言った方がいいだろ? なァ、カイン」

 

 こういった雰囲気にはいつまでも慣れなかった。人を殺した後に、酒におぼれて、女を抱こうとする彼らのことを、理解することができなかった。

 けれど彼らを否定するというわけでも無く、ただ俺が感じているのは疑問のようだった。それは、今のままの俺ではけっして理解できないような気がした。

 

「……いいだろう。少しだけなら」

「っし! そうと決まればほら、チャッチャと行くぞ!」

 

 そう言って真っ先に駆けだす彼をよそに、ふと足元の死体を見つめる。

 助けられなかった。手を伸ばすことは許されなかった。命を奪ったのは俺ではなく、それが例え救いようのないことだったとしても、目の前で誰かがどこかへ行ってしまうのは、とても恐ろしいことに思えた。

 

「カイン」

 

 強く、肩を掴まれる。

 

「気にするなよ、何度も見てきたことだろ」

「……あ、あ。そう、だ。何度も見てきた。何度も……何度も……」

 

 目の前で、また一人どこかへ行ってしまう。手を伸ばすことも出来なくて、それを俺はただ見届けることしか許されなくて。

 何度、誰かに分かれを告げただろう。何度、手を伸ばせたのだろう。

 やはり、俺には何も、分からなかった。

 

 

 気が付けば、いつか歩いていた色町を彼らの後に着いていた。

 酒と、女と、何かの薬の匂い。ここの通りに足を踏み入れると、どこか頭がぼんやりとする。それがたまらなく、俺には合っていなかった。どちらかと言えば苦手なようだった。

 けれど彼らはそうではないらしく、並ぶ娼館を眺めては、何か色々と話しているようだった。

 

「おいカイン、もっと近く寄れよ。お前がいないと話が進まねえんだ」

「すまない……少し、疲れているのかもしれない」

「ここ最近働きづめだったもんなあ。ここらで息抜きしたらどうよ」

 

 息抜き、というよりも息が詰まりそうだが。

 それを二人に言う訳でもなく、俺は二人の後へと着いていく。しばらくすると目的地へ辿り着いたのか、二人はそろって足を止めて、俺の方へと目を向けていた。

 煙草の匂いが強くなる。薬も、酒も。

 

「あら? あんた達、どうしたのよ」

 

 聞き慣れた声に、顔を上げる。

 

「フローラ」

「あんたが来るなんて珍しいじゃない。また無理したんでしょ」

「そうなんスよ。またこいつ、一人で無茶して」

「変わんないねえ。で、手柄もあんた達が横取りかい」

「だってこいつ、意地でも殺さねえですもん。俺達が殺っとかないと」

 

 肩を強く抱きかかえながら、彼らはそんな事を言い放った。

 

「それで、フローラの姉御」

「わかったわかった。そんなにがっつかなくてもいいでしょ」

 

 何か面倒くさそうにフローラは彼らを宥めるようにして、

 

「ふぅ……」

 

 そう疲れたように、俺へ煙草の煙を吐き出してきたのだった。

 

「あーっ、またカインかよ!」

「何でそんなチンケな男なんか……」

「そんな事言ってるなら、あんた達は一生わかんないだろうね。ほらカイン、行くよ」

 

 にやりと口の端を釣り上げながら、フローラが俺の肩を抱き寄せる。煙草の香りと薬の香りが広がって、頭が一瞬だけ揺れた。

 ぼんやりとしたまま、フローラに導かれるようにして娼館の中を歩いてゆく。桃色のような淡い壁紙の廊下は、まるで体の中を巡っているようで、フローラはその突き当りのドアを開けると、俺の体をベッドへ倒してくれた。

 

「……すまない」

「いいのよ。ああいうの嫌いなんでしょ? ゆっくり休みな」

 

 壁際に置かれた机の上の、小さな瓶を煽りながら、フローラは仰向けの俺にそう言った。

 

「あの子は」

「……ジーナ?」

「そう、多分その子。なに、逃げられた?」

「いや、彼女は仕事を見つけた。だから今は出稼ぎに」

「立派じゃない。あんたのお蔭?」

 

 そう、なのだろうか。俺は、彼女が進む光への道標に慣れたのだろうか。

 分からない。暗闇のままの俺には、何も分からない。

 

「……ジーナが、俺を救うと言っていた」

「物好きな子ね」

「彼女は真っ当に生きる道を選んだ。二度とこの世界に戻ってくることはない。だから、俺はそれで満足できた。それが叶うなら、俺は本望だった。彼女が救われることが、俺の願いだったから」

 

 その先に、俺と彼女が共に在る未来は無いと思っていた。彼女が、こちらへ手を伸ばすなんて、出来る筈も無いと思っていたから。

 

「どうして俺を救うのかも、話してくれた。俺をここから連れ出すことも、一緒に居られるということも、話してくれた。話している彼女は、とても満たされているようだった……けれどまだ一つだけ、疑問が残っている」

「それは?」

「俺は……救われても、いいのだろうか」

 

 もし、それが許されるのなら、俺は彼女の側を望むのだろう。

 いつまでも手を伸ばせる、光の届く先に、彼女を求めるのだろう。

 それが叶うならば、俺には他に何もいらなかった。

 

「もし私が答えたら、あなたは変わろうとするの?」

「…………すまない」

「いいのよ、それで。そう答えられるのなら」

 

 煙草をひとつふかして、彼女は静かに告げた。

 

「あんたが変われると思ったなら、それが答えよ」

 

 意味はまだ分からないけれど、彼女の言葉は俺の中へ溶けていくようだった。

 

「ま、いいわ。それよりも次の仕事の話、していい?」

「……断るつもりは、ない」

「そう。じゃあ二週間後に最終工程ね。待ち合わせの場所はリヒトーフェンから預かっているから、ここに置いとくわ。あんたも疲れてるだろうし、明日になったら読みなさい」

「ああ……、すまない、急に押しかけて」

「別にいいわよ。あんたと遊べなかったのは残念だけど」

 

 かちゃん、とドアを閉める音と共に、まどろみの中へ体が沈んでいく。淡い光は視界の中で溶けていくようで、横たわった体へ力が入る事は、二度とないように思えた。

 煙草と酒の残り香が、瞼を重くしていく。この匂いをつけてジーナに会ったら、彼女は怒るだろうか。そもそも彼女は、酒や煙草を嗜むようになるだろうか。煙草は似合わないだろうな。けれど酒は、二人で飲み交わすくらいなら、いいのかもしれない。

 そんな未来を思い描いていいのなら、俺は救われてもいいのだろうか。

 消えゆく意識の中で、そんな思いが透けてゆく。

 

 彼女へ思いを馳せながら過ごす二週間は、とても短く感じられた。

 

□ 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『夢の末路』

 

「カイン?」

 

 まどろみの中に聞こえるのは、そんな声だった。

 

「……ジーナ、か?」

「あんたを起こすやつなんて、私以外に居ると思う?」

「そう、だな……それもそうか……」

「まったく、もうとっくにお昼過ぎよ。いつまで寝てるつもり?」

 

 呆れたような声に起きようとするけど、それは叶わなかった。ふわふわと浮いているような体はそれを拒んでいて、それが届かないと言うことを知っているようだった。

 俺が横たわったままのベッドへ、ジーナが添う様に腰をかける。細い指は俺の腕をつぅ、となぞって、けれど朧げな意識はそれを感じることはできなかった。

 

「……一緒に居ることを、思い描いた」

「うん」

「どこかで、ジーナのことを思っていた。お前がいないことが、とても辛くて……満ち足りなかった。嫌、だったのだろうか。それすらも曖昧で、分からなかった」

「……うん」

「けれど一つだけ、俺でも分かったことがある」

「なに?」

 

 彼女は、ただ俺の事を見つめていて、

 

「俺は、お前と離れたくない」

 

 崩れるような、霞んでいくような笑みを浮かべたのだった。

 手を伸ばすことも叶わなくて、俺は遠くへ行ってしまう彼女に何もすることが出来なかった。ただ感じるのは彼女への強い羨望で、俺は間違いなく彼女のことを求めていた。

 どこか深い処へ堕ちていく感覚と共に、まどろみが溶けていく。彼女の映る景色は淡い光に包まれて、いつしかそこには、冷たく光る朝日があった。

 

 残るのはただの空虚だけで、伸ばした手は空を掴む。

 それは、八度目の夢だった。

 

 

 窓に打ちつける雨を、眺めていた。

 

「カイン」

「………………ぁ、何を?」

「何ボケっとしてんだ。早く済ませるぞ」

 

 影からこちらへ呼びかけるリヒトーフェンに振り向くと、そこには血と屍の匂いが漂っていた。込み上げる吐き気を抑えながら一歩前へ踏み出すと、靴の裏から静かな水音が聞こえてくる。その中を一歩進んでいくごとに、雨の淡い光も遠くなって、薄暗い世界が俺だけを包み込んでいた。

 

「どうやら、大方は片付いているらしいな。俺達が出るまでも無かったってワケだ」

「そうか」

「……お前、ずいぶんと興味なさそうじゃねえか。どうした?」

「何、も」

 

 蹴り飛ばす死体も、壁を這う血の痕も、今の俺には関係のないことだった。

 広い酒場だった、気がする、俺達が敵とみなした集団はそこを拠点としていて、外の面を偽って薬を市場へと流していたらしい。また地下には独房じみたところがあって、そこには女を閉じ込めていた、というのも、歩いているうちにリヒトーフェンは話していた。

 

「地下に女を囲って、上には酒。客を寄せるには一番手っ取り早い手段だな」

「そうなのか」

「ああ。でもまあ、その分情報が早くに洩れる。だからこうして、俺達に手っ取り早く見つかっちまう。その分、俺達はちゃんと弁えてるからな。こんな軽い商売と一緒にされちゃ困る」

 

 壁にべっとりと貼りついた肉は、二度と剥がれることはないように思えた。

 

「他の連中は」

「もう終わらせてある。後はお前の仕事だ」

 

 軋む階段を上がっていくと、それにつれて血の匂いも増していく。思わず口元を手で覆いながら階段を上がり切ると、そこには無数に転がった死体と、その先で待ち構える大きな扉が視界に入ってきた。

 血塗れの廊下を歩きながら、リヒトーフェンがその扉へと手を駆ける。その先の広い部屋は血とガラスと刃と、そのほかの色々なもので荒らされていて、大きな机の前に設置されたソファーという間取りがかろうじて理解できた。

 中にはいくらか血を浴びた男が五人か六人ほど中央で何かを囲んでいて、リヒトーフェンのドアの音に気付いた一人が、俺と彼へ頭を下げた。

 

「リヒトーフェン様」

「おう、ご苦労。いい働きだ」

「ありがとうございます」

 

 静かに退く彼へ適当に手を振りながら、リヒトーフェンがその中心へ歩み寄る。その茶色のコートの背中越しに見えたのは、椅子に縛り付けられた女性だった。

 髪は茶色で、瞳は黒。露出の高い紅のドレスを着ていて、けれどその顔には血が滲んでいる。切れそうな鋭い目つきがリヒトーフェンを突き刺すけれど、彼はそれに物怖じもするはずもなく、少し腰を下ろしながら彼女へ問いかけた。

 

「で、指示した奴は誰だ」

「……言うもんか」

「そうか」

 

 呆れたように肩をすくめて、リヒトーフェンが俺へ視線を預けて、

 

「ほら、仕事だ。頼んだぞ」

 

 そう、俺の肩を叩いた。

 

「…………」

「なにさ、そんな顔。私みたいなのを見るのは初めてか?」

「いいや……そう、だな。初めてだ」

 

 それが、何か関係するわけでもないけれど。

 床に転がっている酒瓶を拾い上げて中身を透かすと、まだ大分残っているようだった。

 

「言っとくけどね、こんなチンケな奴に私が口を割ると思うなよ! 女だからって舐めてかかからないでよね! いいか? たとえ私を殺したとしても、あんたら全員」

 

 そう叫ぶ彼女の脳天へ、酒瓶を叩きつけた。

 鈍い音と固い感触が、腕へ直に伝わってくる。けれどそのガラスは意外としぶといらしくて、何回か彼女の頭へ叩きつけても、割れることはなかった。

 やはり中身が入っていると、力が上手く入らない。いつもは窓のガラスだったけれど、今日は生憎の雨だったから。

 

「――――……か、ぁ……」

「気絶はさせるなよ。起こすのが面倒だから」

「……分かった」

 

 気絶した人間を起こすのは、確かに面倒くさかった。時間の無駄だ。

 瓶の中を一気に煽ると、熱い液体が喉の中を通っていく。最低限、毒は入っていないらしかった。酒もあまり好きという訳ではないけれど、そのまま捨てるのも勿体なかった。

 いくらか軽くなった瓶を側頭部へ叩きつけると、いくらかヒビが入るのが見える。次は一気に振りかぶって、勢いよく瓶を叩きつけると、飛び散ったガラスが床へ散らばった。

 

「お、おい、カイン? そこまでしたら、死ぬんじゃないか?」

「……俺は殺せないから。だから、こいつも死なない」

「無茶苦茶だろ……」

 

 周りの人間がうるさく言うけれど、床に散らばる破片を集める。片方の手のひらに埋まるほどに集めたそれを軽く握りながら、ぼんやりと目を向いている彼女の顎を持ち上げた。

 

「答えないのか?」

「……誰、が…………」

「そうか」

 

 そのまま指で口を開き、片手に持った瓶の破片を流し込む。口の中に頬張った破片をもらさないようにそのままの手でふさぎながら、勢いよく拳を振りかぶった。

 右の頬を三、四発ほど。口の中の傷だけだから、死ぬ事はない。

 おさえつけた手を離すと、じゃらじゃらとした破片と共に、血が垂れているのが見えた。

 

「が、はッ……げ、……ぉェ……」

「答えないのか」

 

 底の割れた瓶を掴みながら、露出した太腿へそれを突きたてる。そのまま何回か足へ擦らせると、ざりざりと言う感触と共に、血が白い脚を流れていった。

 露出が高い服で良かった。脱がせるのも面倒だし、こんな男に脱がされても彼女に悪いだろうし。 

 ……少し、酔いが回ってきたかもしれない。

 

「ああぁっ、ぁあ……ぎ、いぃい」

「答えないのか」

 

 口は開くけれど、望んだ言葉が出てくるわけではなかった。

 頬を切りぬこうとしたけれど、やっぱり聞こえにくくなるのでやめることにした。だから足に刺さった酒瓶を抜いて、もう片方の太腿へそれを突きたてる。筋肉が付いていないから、男よりも深く突き刺さった。

 けれど反応が変わる事は無く、仕方なくナイフを取り出す。くるくると手の内で回しながら、振り上げた銀の刃を、彼女の肩へ突きたてた。

 血が目元へ飛び散る。少し汚かった。

 

「はー……ッ、ぁ…………あん、た……いい男ね…………」

「フローラも言っていたから、知っている」

「カイン、って、言ったかい…………いいね、私は好きよ、あんたみたいなやつ」

 

 褒められるのが慣れていないから、いまだに返すのには困るけれど。

 ようやく、言葉を発してくれた。

 

「答えないのか」

「…………ああ、そう、か……そういう、ことね」

 

 まだ答えることはないらしい。けれどすぐ死ぬというわけでもない。

 

「カインって……あんたのことだったのね…………」

 

 振り上げた手が止まる。

 嫌な予感がした。全身の皮膚の下から虫が這い出るような、そんな悪寒が俺を包んでいた。

 

「どこかで聞いたこと、あると思っていた、ら……なるほどね……あ、はは……」

「………………何、を」

「そうね……あの子、本当にお金が欲しかったみたい、で……少し、ちらつかせたら……面白い様に、ついてきて……」

「カイン、聞くな」

 

 後ろからかかるリヒトーフェンの声が、遠くで聞こえていて。

 口から出てくる言葉を、理解することができなかった。それを耳に通して呑みこんではいけないような、視界にさえ入れてはいけないような、禁忌のようなものを感じていた。

 

「何度も、何度も呼んでたわ…………ふふ、そうねえ……良い気味だったわ……」 

「おま、え」

「落ち着け、カイン。きっと関係ない。でたらめだ」

「ふふ……う、ふふふふ……あ、はは! あははははっ!!」

 

 まだ決まったわけじゃない。そんなこと、あるはずがない。

 そうだ、これは別人なんだ。いくらなんでも話が出来過ぎている。

 そんな可能性なんて、あるはずもない、の、に――

 

「あの白い髪飾り」

 

 …………ぁ?

 

「とっても、似合ってたわよ」

 

 ――そこから先のことは、あまり覚えていなかった。

 

「あああああぁぁあぁぁっ!! お前ッ! ジーナを! ジーナをどこにやったッッ!!」

 

 頭がぐちゃぐちゃになった。理解した脳味噌を、全て吐き出したくなった。

 地面に倒れる彼女も、手の平へ突き刺さる破片も、何も感じなかった。ただ心を埋め尽くしているのは、どろどろになった黒い何かだったと思う。

 

「ふ、ふふ……」

「何がおかしい……ふざ、けるな……! ふざけるなよぉッ!」

「カイン、落ち着け! カイン!」

「離せッ! ジーナはどこにいる!? ジーナはどうなったんだよ!! なあ!!」

 

 後ろから伸びる手を全て振り払って、俺は倒れている女へ叫び続けていた。喉は痛くなって、殴りつける拳も軋んでいたけれど、それを止めることはできなかった。

 

「答えろ!! 答えろッ!! 頼むから早く! 早く吐き出せよッ!」

「…………ふ、ふふ……面白いわ、今まで生きてきた中で、一番…………!」

「あ……ぁぁぁぁああああああ!!!」

 

 傍にあった瓶で女を殴りつけると、かくん、と首が横を向く。

 その時だけは、殺すことのできない自分を、ひどく恨んでいた。

 

「クソっ、おいリヒトーフェン! 地下は手ェつけてねえよな!?」

「あ、ああ……まだ、何も……」

「畜生……ちく、しょうッ…………!」

 

 廊下に転がっている死体も、漂ってくる血の匂いも、今の俺は感じられなかった。ただ一つ、頭の中にあったのは強い拒絶で、それが決して届かないものだと、頭のどこかで理解できていた。理解できて、しまっていた。

 血濡れた階段を抜けて、地下へ続く階段へ。半ば転げ落ちるように階段を下りていくと、固く閉ざされた扉が一つ、俺の目の前へ立ちはだかった。

 

「ジーナ! おい、ジーナっ!」

 

 鉄を叩く音には何も返ってこない。

 軋んだ扉をこじ開けるのに、そう時間は要らなかった。

 

 暗い。

 

 光から完全に閉ざされたその空間には、微かな明かりすらも存在し得なかった。ただそこには、二度と手の伸ばせないような暗黒が広がっていて、俺はそこに、一つの何かを見た。それを理解するには、くらんだ頭を無理やりに叩きなおすしかなかった。

 それは人のかたちだった。白い布にくるまれた以外は何も無く、細い手と足が投げ出されたようにして横たわっている。まるでそれは死体のようにぴくりとも動かず、ただそこに存在しているだけのようでもあった。

 滲んだ視界に短い金の髪が輝いて、

 

「あ、…………ぁ……ぁ……」

 

 白い花が、虚ろな彼女に添えられていた。

 

「なん、で……お前、なんで…………!」

 

 光から閉ざされた固い扉の向こう。

 暗闇の中に見えたのは――

 

「……カイ…………ン?」

 

 ――変わり果てた、ジーナの姿だった。

 

□ 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『枯死』

 

 彼女に、光を感じていた。

 

 俺と近しい場所にいながらも、俺とは違う強い芯を持った人間。思えばその時から、俺は彼女に羨みや、嫉妬に似た感情を持っていたのかもしれない。自分とは対極にあるその彼女を、望んでいたのかもしれない。彼女は、ジーナは……とても……。

 彼女の心や意志の、一つ一つがどうしても眩しいものに見えた。まるでそれは輝く宝石のようで、けれど手の届かない星のようにも映っていた。

 だから、俺は彼女に手を伸ばしたのだろう。それが届かないと知っていても、それが叶わぬ想いだったとしても。彼女は、こちら側へ来てはいけない人間だと思っていたから。俺と同じようになってはいけない、太陽の元で生きていく人間だと思ったから。

 彼女に手が届くならば、俺は全てを捨てる覚悟すら出来ていた。

 彼女が変われるように、尽くしたつもりだった。折れそうな彼女を支え、何処かに行ってしまいそうな彼女を引き止めて、怖がる彼女の背中を、できる限り優しく押した。

 そうして、いつしか俺は彼女に手が届くようになっていた。あれだけの輝かしい光は、俺の手の届くところにあって、俺へと手を伸ばしてくれているようだった。

 彼女のためなら全てを捧げられた。それで、俺のような生き方をしないのならば。俺のように這い上がれないような暗闇に落ちて、穢れきった人間にならないのならば、それが俺の望みだった。

 

 彼女は、俺の一つの光をくれた。

 こんな俺でも、彼女と共に生きて行けると、そう行ってくれた。暗い奥底で彼女の光だけが届いて、俺はそれに手を伸ばした。星のような輝きは、けれど俺の手を取ってくれて、俺の心に別の何かを照らしてくれた。それは、救いのようにも見えた。

 だから、俺は彼女を信じた。俺の心を照らしてくれた、優しい光を俺は待ち続けた。彼女がそう言ってくれるのなら、俺はいつまでも待ち続けられるような気がした。

 

 彼女が変われると、そう信じていたから。

 

 そして。

 

「カイ、ン……? ……ぁ、…………カイン、だ……」

 

 変わり果てた虚ろな瞳が、俺のことを覗いていた。

 

「やっと……きて、くれた……」

「あ、あ」

「……みつ、けて……くれた、んだ」

 

 地面に横たわる彼女の側へ添うと、ジーナは燃え尽きたような、くすんだ表情で、俺のことを見上げていた。そんな彼女へ、俺は手を伸ばして――けれど、それが届くことがないように思えて。

 ぼろぎぬのように横たわる彼女は、その細く白い指で、俺を頬を撫でていた。

 

「ジー、ナ……? お前、なん、で……ここ、に」

 

 言葉が続かない。肺がめくれ上がってゆくようで、息をすることすらままならなかった。今の彼女へ、俺が伝えられることは、無いようにも思えた。

 

「お金」

 

 やがて、帰ってくる言葉は、彼女が追い求めていたもので。

 

「お金、いっぱい、くれるから……わた、し、頑張って……」

 

 続く言葉を遮るように、彼女の手を強く握る。弱々しいその体を持ち上げるのに、力はほとんどいらなくて、持ち上げられた彼女は、小さな声を漏らして俺のほうへ寄りかかっていた。

 

「…………カインも、お金……くれるの?」

「ちがう」

「そっか……そう、なんだ」

 

 安堵したものなのか、失望したものなのか、それすらもわからない。ただ虚空を見つめている、涙ぐんだ瞳には、ぐちゃぐちゃに濁った何かの色が映っていた。

 やがて、長い沈黙をまたいで、彼女がふと気付いたように声を上げる。

 

「じゃあ、カインは……私を、見つけてくれたん、だ」

「ああ」

「そっか…………うれ、しい……うれ、しいなぁ……」

 

 崩れ落ちてしまいそうな、溶けるような声で、彼女がそう言葉を俺へと紡ぐ。それだけで、彼女は満ち足りているような、幸せそうな表情を浮かべていた。

 

「カインのこと、信じてた……から……」

「……そう、か」

「ずっと、待ってたから……離れるのは、いや、だったから……」

 

 それは、手を離せばすぐに何処かへ消えてしまいそうで。もう二度と戻ってこないようにも思えて、俺は折れてしまいそうに細い彼女の体を、強く、強く抱きしめていた。

 震えた鼓動と、かすれるような吐息が伝わってくる。まつで、様々な感情がそこでせき止められていたようで、ジーナはそれを堪えるようにしながら、俺の顔を見上げていた。

 

「……ねえ、カイン…………わたし、さ、……いっぱい、頑張ったの」

 

 じゃら、とどこかで音がする。

 腕の中の彼女は、ぼろぎぬに包まれた、それを取り出して。

 

「ほ、ら……わたし、ちゃんと、おかね…………もらえたんだよ?」

 

 小さな左手から零れる金貨が、床に跳ねて音を経てる。からん、からん、と堕ちていく薄汚いそれは、けれど彼女の虚ろな瞳に、ただ一つの光として輝いていた。

 

「こんなに、いっぱい……た、たくさん、もらった……わ、わたし、頑張った…………頑張ったんだよ……!」

 

 本来ならば、上の人間に全て持っていかれるのだろう。それすらも当の本人は知らないようで、ジーナはまるで夢をみる少女のように、地面へ転がる数十枚の金貨へ目を輝かせていたのだった。

 

「カイン、わたし……わたし、頑張った、よね? ちゃんと、働いて……こんなに、おかね、もらえるくらい…………がんばったん、だよ?」

 

 縋るように、願う様に。つらつらと、彼女の言葉が重なっていく。

 それは俺に出は無く、彼女が自分自身へ言い聞かせているように感じて、そうしなければ、彼女はこのまま戻ってこないように思えて。

 

「だか、ら……わたし、お花屋さんに……なれるか、な……?」

 

 やがて、碧色の瞳に虚ろが戻る。

 

「……ジーナ」

「ゆめ、だったの……お花屋さん、なれるよね…………わたし、頑張ったもん。おかね、いっぱい稼いで…………」

 

 空っぽになった手を握りしめると、彼女の内で、何かが解き放たれるのを感じた。

 

「も、らって……おかね…………わた、し……っ、ぁ、あぁ……ぅ、ぁあ……っ!」

 

 輝いていた光は既に消え、晴れることのない暗黒が、再び彼女を包み込む。

 見えない光を目指して歩む少女は、いつの間にか、俺の腕の中で、崩れ落ちるように泣いていた。

 

「あ、あ……ッ、ぅ、あぁ…………! ……う、ぇっ…………あっ、ああぁあああっっ…………!」

 

 焼け爛れ、渦巻いた何かを嘔吐するように、涙が伝う。握りしめる彼女の手の力は弱く、それこそ今のジーナの無力さを現しているようで、俺はただ彼女の嗚咽を受け止めることしかできなかった。

 

「わ、たしっ…………なにも……なに、も、変わらなかった……!」

 

 ぐちゃぐちゃの感情が、彼女の心から溢れていく。

 

「やっぱり、ゆるして、くれない…………みんな、ゆるして、っ、くれないんだ…………! わ、わたしなんか、変われない……ずっと……ずっと、っ…………!」

 

 それは、とある解放のようにも見えて。

 

「ごめんなさい…………ごめん、なさい……! ゆめ、なんか、みて、ごめんなさい……っ…………!」

 

 祈るように嗚咽をもらすジーナを、俺は抱きしめることしかできなかった。

 

 行き先も見えなくなって、戻る場所も何処かへ消えてしまって。

 ただ存在するのは、彼女はあの時の彼女のままだという事実。擦り付けられるような、ぐずぐずと爛れていくような彼女の後悔にも近い言葉が、俺の心に沁みついていくようだった。

 彼女が変われるように努力したつもりだった。こんな暗い場所ではなく、彼女にふさわしいもっと明るい場所で生きてゆけるように、俺のできることを全て尽くしたつもりだった。

 だから、彼女は自らの手でその道を掴んだ。それが、輝かしい彼女の夢への道だと思って。俺も信じていた。届かないと思っていた夢へと歩み出す彼女を、愚直に信じていた。

 けれど、それは届かなかった。

 

 変われない。変わることは、叶わない

 そのままの自分でしか、生きていくことは許されない

 

 ――白い蕾を、思い出した。

 

「おーい、カイン?」

 

 やがて、かけられた声に、俺は振り向くことすら忘れていた。その声が誰かすらも忘れていて、微かに残った記憶の中で、この前に聴いた誰かのものだったことを、思い出した。

 二人だった。金髪の小柄な男と、黒髪の布を巻いた男。薄暗い部屋の中に彼らはこつこつと足音を立てながら入って来て、ジーナは俺の腕の中で、身を包むぼろぎぬを固く握り締めていた。

 

「何、を」

「リヒトーフェンさんが呼んでるぞ」

「お前なあ、いきなり飛び出したもんだから、俺達も驚いて……」

 

 そうした二人の視線が、彼女へと集まっていくのを感じて。

 

「なんだよカイン、お前そんなん使う気か?」

 

 ――――――――――――――――。

 

「どうやって嗅ぎつけたかは知らねえけどよ、止めといた方がいいぜ。お前にはそんなどこのかも知らねえガキより、フローラさんがいるじゃねえか」

「そうそう。つーかお前、やっぱり最近疲れてたんだろ? お前だって人間だし……って、ありゃ? おい、よく見りゃ結構上玉じゃんか」

「おいジーヴァ、お前もかよ……物好きしかいないのか、ココ」

「ガトー、お前人生ソンしてるよ。たまにはこういう体験もいいモンだぞ? なあカイン、ちょっと顔を見せ――」

 

 ――次に意識を取り戻した時には、足元に彼の手のひらが転がっていた。

 自分でも分からなかった。気が付けば、右手にはいつものナイフが握られていて、目の前の彼は先を失った自らの手を押さえながら、怯えるような目で俺の事を睨んでいた。

 

「な、ななっ、何、何してんだよッ、カイン! お、俺の、うで――」

 

 続く言葉を聴かずに、叫ぶ男の膝へ踵を入れる。固い何かを踏み砕くような感覚がして、崩れ落ちる彼の首へ無理やり手をのばすと、その頬へとナイフと突きたてた。

 冷たい床に、赤い雫が滴り落ちる。声になっていない悲鳴が鳴り響いて、けれど俺はその叫ぶ肉の塊を地面へ放り投げると、その上へとまたがった。

 刃が煌めく。心臓の鼓動が聞こえる。

 

「ゃ、め……ぉ…………ぉ、えひゅ……」

 

 咎めるような手も、縋るような声も、何も聞こえない。

 溢れ出した何かを止められなくて、俺は掲げた腕を振り下ろし――

 

『カイン!』

 

 声が、重なった。

 強く腕を引かれる感覚と共に、頭へ強い衝撃が走る。地面に伏せて、揺らぐ視界の中には血に塗れたナイフを握るリヒトーフェンの姿があって、地面に横たわる俺に、憐れんだような、呆れたような視線を向けていた。

 気が付けば、見下ろした手のひらは、灼けついたような血に染まっていて。

 

「殺そうと、したな」

 

 どくん、と心の臓腑の、さらに奥底で何かが脈を打つ。

 今まで感じたことのない、不気味で歪な感触。それは、触れれば今の俺が終わってしまいそうな、そんな重たい感覚だった。そして、それが殺気だと気が付くのには、いくらかの時間がかっていた。

 

「ころ、しちゃやだ…………カインは、ころし、ちゃ……やだ、よお……」

 

 紅い手へ縋りついて、そう声をもらす彼女の言葉すらも、どこか遠くのものに思えていた。

 

「……俺、は…………ころ、して……」

「ああ。まだ殺しちゃいない。お前は、まだ殺せない人間のままだ」

 

 軽蔑するようなその言葉に、けれど安らぎを覚えていた。

 

「いかないで………カイン、は、カインの、まま…………」

 

 ただ広げられた手のひらへ寄り添い、涙を流す彼女に、俺は何も声をかけることができなかった。指を伝うその雫の意味すらも理解することができなかった。

 殺せなかった。 殺せる訳が無かった。

 ――殺したかった?

 

「……………………ぁ、あ…………」

 

 殺したかったのだろう。初めて身に感じた殺意というものを、咎めることができなかったのだろう。

 そんな自分がとても愚かで、惨めで、生きる価値のないように思えた。今すぐここから消え去って、誰も届くことのない暗闇へと身を投じたくなった。

 真っ赤に染まった手のひらには、ただその痕だけが残っている。

 

「カイン」

「俺、は…………俺は……もう……」

「ああ……もう、いい。いいんだ」

 

 吐き捨てられたその言葉に、返すことはできなくて。

 俺の腕へ強く抱き着いたままのジーナは、ただただ何かに怯えるようにして、息を殺すように、ずっと涙を流していた。

 

 

 そこから先のことは、あまり覚えていない。覚えていられなかった。

 

「あ、ぁ…………っ、ぅ、うぁ、…………!」

 

 どうやって帰ったかすらも曖昧で、気がつけば俺は暗い部屋の中で、くすんだ白い布の一枚だけを身にまとったジーナを、ただ離さないように抱きしめていた。

 

「どう、して…………なんで……なんで、お前が…………」

「…………」

「あ、ぁ……ジー、ナ…………ジーナ、っ…………!」

 

 洩れる吐息と確かな鼓動だけを感じていて、それが嗚咽にも似た呟きとして、俺の中から這い出ていった。

 後悔、なのだろうか。少しだけ恨みにも似ていると思う。それと、それを全て包み込むような、行き場のない怒り。けれどそれは決して誰かへ届くことはなく、ぐずぐずと燻ったまま、虚空へと溶けていった。

 誰も信じることはできない。暗闇から、抜け出すことは叶わない。夢ですら、語ることは許されない。

 どうして……どう、して…………

 

「……カイン」

 

 やがて聞こえてくる小さな声に、虚ろな意識が引き戻される。

 

「ジーナ?」

「もう、いいのよ」

「…………何を」

「ちゃんと、あなたの側にいるからさ。だから……離しても、大丈夫。もう、何処にもいかないから」

 

 固く彼女を縛り付けていた腕から、力が抜けてゆく。解かれた腕の中で、彼女は俺へ柔らかな笑みを向けていた。

 

「待っててくれたんでしょ?」

「ずっと……ずっと、待っていた。お前と一緒に居ることを、夢にも」

「ふふっ、何よそれ。そんなに寂しかったの?」

「…………虚しかった。満たされなかった」

「……そっか」

 

 心の空白が埋まることは、決してなかった。それだけ口にして、また彼女が唇をつぐむ。

 床をじっとみつめている俺には、彼女がどんな表情を浮かべているか、分からなかった。今の彼女へ目を向けることすら、できなかった。

 

「ねえ、カイン」

「何だ」

「私の言ったこと、ちゃんと守ってくれた?」

 

 その言葉に、首を縦に振る。

 

「大変だった?」

「…………けれど、お前が頼んだから続けられた」

 

 ジーナを信じていたから。彼女が、光の下を歩めると信じていたから。

 

「あはは、そっか……うん、嬉しい。嬉しいよ」

「……枯れなかった。ちゃんと、水もやった。綺麗だった」

「それなら良かったわ。ちゃんと……私こと、信じてくれたのね」

 

 細い腕が、首へと回されて。

 

「ありがと、カイン」

 

 やはり彼女の言葉の一つ一つは、空っぽになった心のどこかへ落ち着くのであった。

 細い身体を縋るように抱きしめて、けれど彼女はそれを許してくれて。彼我を包み込む白い布が、花の蕾のように映っていた。

 

「……ねね、カイン。外、行ってみない?」

 

 暗闇を指で示しながら、彼女が明るい声色で告げる。

 

「夜だぞ。危ないし、暗い」

「いいのよ、散歩くらいなら。それに、あなたが居てくれてるんでしょ? だったら、心配いらないわ」

 

 既に時刻は朝の四時を過ぎていて、東の空が微かに青色に染まっている頃だったけれど、彼女を咎めることは今の俺にはできなかった。

 柔らかな身体から腕を離して彼女と顔を合わせると、ジーナはとても優しく笑っていた。それは何も含まれていないような、ただ満たされたような、純粋な微笑みだった。

 

「服を、取ってくる」

「……そっか。ずっとこのままだったから、忘れてた」

「……………………」

「あー、もういいから! さっさと取ってきてよっ」

 

 いつもの彼女のように、軽い声を背に受けながら急いで奥へと足を運ぶ。適当な大きい上着とズボンを持っていくと、彼女は少し呆れたような、照れているような笑みを浮かべていた。

 

「これだけしか無かったが」

「……ま、上着だけでいいわ。下はいらない」

「要らないって訳にもいかないだろ。いくら夜だからって」

「履いてると痛むのよ、股」

「…………それは」

「ごめん、本当のことなの」

 

 ん、と左の手を差し出すジーナへ、黒いシャツを投げ渡す。しばらく後ろを向いて、背中から聞こえる衣擦れの音が止むのを待つと、彼女は俺の腕をくい、と引っ張った。

 ぶかぶかのシャツの裾をひっぱりながら、ジーナがくるりとその場で回る。

 

「ほら、大丈夫。見えないでしょ?」

 

 ちらりと見えた細い腿の付け根には、赤い傷の痕がちらりと見えていた。それだけで、心の何かが崩れ落ちそうだった。

 

「……何処へ行くんだ?」

「いつものとこ」

 

 何気なく言う彼女に、ああ、と首を縦に振る。

 

「私にはもう、そこしかないから」

 

 

 夜の暗さも、全て遠くのように感じられた。

 冷たい壁に仕切られたそこには、ただ一つの白い蕾がぼんやりと映っている。夜の風は冷たく彼女の頬を撫でて、けれどジーナはその冷たさの中で、足元の白い光を優しく眺めていた。

 

「綺麗」

 

 ぽつり、と彼女の唇が紡ぐ。

 

「……初めて見た時から、そう思ってたの。こんな暗くて、薄汚いところでも、綺麗でいられる……それが、とっても眩しかった」

 

 初めてその花を見た時、彼女は羨望を語ってくれた。だから俺は、それに手が届くように、彼女へと手を伸ばしたのだろう。そのままの彼女は俺の様に腐り落ちてしまいそうで、目の前の人間を見捨てることが出来なくて。

 けれど俺は、それを成し遂げることが出来なかった。

 ただ、彼女が俺よりも暗い処へと堕ちていくのを、見届けることしか出来なかった。

 

「そのままのあなたで、なんて」

 

 白い花の言葉は、彼女を強く縛り付けていて。

 

「…………本当に、羨ましい」

 

 零れ落ちたその言葉は、やはり空っぽになった心に染みわたって、大きな暗い何かを感じさせた。

 

「やっぱりさ、……間違ってたのかな、私」

「何で」

「変われるなんて……できなかった。許されなかった。私は、このまま……暗いところにいたままで、変わることなんてできなかった」

 

 白い蕾は、ただそこに在り続けていて。

 

「おかしかったんだよ。今まで奪うことでしか生きてこれなかったのに、夢なんか見てさ。お花屋さんになりたい、だなんて……叶うはずのない夢なんか追って」

「それ、は」

「精一杯頑張っても、結局騙されて……お金も、もらえなくて、さ」

 

 空っぽになった手を、ジーナが見つめる。

 

「あんたを救う、なんてさ……そんな思いも、叶えられなくなって」

「ジーナ」

「…………なんだか、私……もう、疲れちゃった、かも」

 

 崩れ落ちそうな彼女の肩を、強く掴んだ。

 倒れ込んでくるジーナの身体には力が入っていなくて、こちらを見上げるその瞳には、汚濁のような虚ろが映っていた。

 

「ごめんね、カイン」

「どうして謝る」

「だって、あなたが、信じてくれた。だから、精一杯がんばったの。そうやって、あなたを救おうとした……恩返し、したかったの」

 

 一瞬だけ彼女は儚いほほえみを浮かべて、けれどまた、顔に影を戻す。

 

「けれど……もう、ダメになっちゃった。カインが、信じてくれたのに……あなたの気持ちを、無駄にして……ごめん、なさい…………」

 

 違う。無駄なんかじゃない。

 彼女を信じたその心は、紛れも無い確かなものだった。

 

「…………間違ってなんか、ない」

「え?」

 

 見開かれた虚ろな瞳を覗いて、しっかりと言葉を伝える。

 

「間違ってなんか、ないんだ。夢を追いかけることが間違いだなんて、あるはずがない。

変わろうとしたお前を否定することなんて、絶対にしない」

 

 全て、心からの言葉だった。光へ向けて足を踏み出す、その変わる勇気を持つ彼女だから、俺は信じたのだ。それこそ、彼女が白い蕾へと抱く感情と、少し似ているような気がした。

 それが間違いだとは思えない。それを間違いなんて、認めない。

 

「……疲れたのなら、休もう。また、一歩を歩みだせるまで、ずっと」

「……いいの?」

「ああ。この前みたいに、街を歩くのもいい。甘いものも、服も、本も……お前が安らげるのなら、どこだって連れていくから。お前さえ良ければ……ずっと、隣にいるから」

 

 傲慢、なのだろうか。けれど、それが彼女へ手を伸ばせる最後の手段だと、そう思った。

 もう彼女に、どこかへ行ってほしくなかったから。それが、手の届く場所だから。

 

「こんな私でも、まだ隣にいてくれるの?」

「お前が許してくれるのなら」

「……そっか」

 

 浮かぶのは、透くような儚げな笑みで。

 

「ありがとう、カイン」

 

 暗闇に、朝の光が灯った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『繋いだ手は』

 

「カイン?」

 

 まどろみの中に聞こえるのは、そんな声だった。

 

「……ジーナ、か?」

「あんたを起こすやつなんて、私以外に居ると思う?」

「そう、だな……それもそうか……」

「まったく、もうとっくにお昼過ぎよ。いつまで寝てるつもり?」

 

 おぼろげな視界の中で、彼女は呆れたように笑っていた。

 昨日のままの薄汚れた白い毛布に、体を覆い隠すような黒の上着。あの夢で見た彼女とは違うけれど、そこには彼女のいつものような、年相応の明るいものが感じられた。

 横たわる俺の身体に添うようにして座りながら、彼女がこちらへと左の手を伸ばす。白い指は俺の頬をすぅ、と伝って、その柔らかな温もりを確かに伝えてくれた。

 その小さな手に、自らの手を重ねて。

 

「夢じゃ、ない」

「……なに、まだ寝ぼけてるの?」

「まだ、いる…………ああ、そこにいるんだな、ジーナ」

 

 流れる血も、脈打つ鼓動も。

 あの夢で感じられなかった、全てがそこにあった。

 

「……大丈夫。もう、離れないから」

「そう、か……」

 

 閉じかけた瞼のその先で、彼女は優しく笑ってくれた。

 

「……一緒に居ることを、思い描いていた」

「うん」

「どこかで、ジーナのことを思っていた」

「嬉しい」

「お前がいないことが、とても辛くて……満ち足りなかった。嫌、だったのだろうか。それすらも曖昧で、分からなかった」

「……うん」

 

 長い時間だった。彼女が居ないことで、自分の何かが欠けていた。

 

「けれど、もう分かったことがある」

「なに?」

 

 夢の様に、彼女はただ俺の事を見つめていて。

 

「俺は、お前と離れたくない」

 

 今度は安らぐような、満ち足りたような笑みを浮かべたのだった。

 彼女の頬へと手を伸ばす。もうどこかへ行かないように、かならず手が届くように。感じるのは彼女への光で、彼女を求めていることだけが、確かなことだった。

 

「ふふ、そっか。あなたもそう思ってくれたんだ」

「…………どう、して?」

 

 答えることもなく、ジーナはその細い指と、俺の指を絡めて。

 

「私も、あなたと離れたくない」

 

 そう、固く手を握った。

 

「絶対に、あなたの側にいるから」

「そう、か」

「……ずっと、一緒だよ?」

「それなら、いい」

「……お風呂とか、一緒に入ってくれる?」

「お前が、望むなら」

「あー……もしかしてあんた、まだ寝ぼけてんの」

「そう、なのかもな」

「……なに言っても、覚えてない?」

「いや、それは……」

 

 ふわり、とどこかで嗅いだ香りがする。彼女の身体が覆いかぶさって、洩れる吐息が耳に触れる。けれど意識はまだ曖昧で、俺は突然やってきたジーナへ手を回して、とん、とん、と優しく背中を撫でた。

 どうしてかは分からないけれど、そうすることが彼女のためだと思った。それが、彼女の求めていることだと、そう思っていて。

 

「私、いまとっても幸せだから」

 

 微かなささやきが、聞こえたような気がした。

 

「…………ジー、ナ」

「ほら、早く起きなさい。もうそろそろ二時回るわよ」

 

 こちらへ伸ばされた手を掴むと、身体がゆっくりと起こされた。

 窓から差し込む光は眩しく、既に白みがかかっている。暖かな日差しは目を優しく焼いて、それが昼を過ぎた頃だと気づくのに、少しだけ時間がかかった。

 

「寝すぎたか」

「ほんとにね。まあ、昨日は朝まで起きてたから仕方ないんじゃない?」

「飯は」

「それが、私もさっき起きたばっかりで」

「……わかった。すぐに用意する」

 

 ふらつく足を動かして、キッチンの方へ。山の様に積まれた材料の中から携帯食料を二つ引きずりだすと、一つを口へ咥えて、もう一つをキッチンを出てすぐにいるジーナへ投げ渡した。

 ぽす、と器用に片手で受け取ったそれを見て、ジーナが一言。

 

「あんた、私がいない間、ご飯どうしてたのよ」

「全部これだったが」

「……今度、何か教えてあげるわ。それだけじゃ身体に悪いでしょ」

 

 ぱさぱさの塊を噛み千切りながら、ジーナがそう言った。

 

「……これからさ、どうしよう」

 

 その言葉に、最後の携帯食料を含もうとした口が止まる。

 まだ半分も食べていないのに、ジーナはそれを小さな袋に戻して、うつむいたまま黙り込んでしまった。

 

「休むんじゃないのか」

「そりゃそう、だけど。なんて言えばいいのか……生きる意味が、無くなっちゃった、って。夢も叶えられないのに生きてるなんて……無駄なのかな、って思っちゃってさ」

「…………それは」

 

 それなら俺のこの手は、無駄だったのだろうか。

 彼女を救いたいと思った、この意志は何処へ行くのだろうか。

 

「……違う」

「え?」

「無駄なんかじゃ、ない」

 

 彼女の肩を、強く掴む。鈍く輝く碧色の瞳を、覗き込む。

 

「お前は、お前のしたいことをすればいい。成すべきだと、そう思ったことをすればいい。そうすれば……いつか、夢に届くはずだから」

 

 それに添い遂げられるなら、いつまでも添い遂げよう。そのために何かが必要ならば、この身の全てをも捧げよう。

 ――そうすることで、俺は生きてきたのだから。

 

「どうか、夢を諦めるな」

 

 はじめて彼女に手を伸ばした時と、同じように。

 未だに俺は、彼女のことを信じていた。

 

「…………ぁ、あ……」

 

 しばらくして聞こえてきたのは、そんなか細く、溢れ出してしまうような声で。見開かれた碧色の瞳には、小さな光と、ぽろぽろと零れ落ちる涙が、浮かんでいた。

 震えた声のジーナを抱きしめると、彼女もまた俺の胸を、固く握っていた。それがどうしても切なくなって、思わず金の髪を指で梳くと、彼女は縋るようにぽつぽつと言葉を漏らした。

 

「ぁ、あたし…………カインの、こと、無駄……なんて……」

「いい。お前がまた歩み出してくれるなら、それで」

「あ、ぁぁ……っ、ぁぅ、っ……カイン……ごめん……ごめん、ね……!」

 

 嗚咽と懺悔だけが響き渡る。

 縛り付けていることは、理解している。追い込んでいることも。けれどそうすることでしか、ジーナを光へ導けないと思った。暗闇へと堕ちてきた彼女を引き上げるには、それしかないと思ったから。

 だから、また夢を追いかけられるように。光へと進むことができるように。彼女の見た夢を、諦めないように。

 俺が出来ることは、ただ彼女の背中を押すことだけだった。

 

 やがて声は止み、また静けさが流れていく。

 

「落ち着いたか?」

「……うん」

 

 かけた言葉に、ジーナは目を腫らしたまま首を縦に振った。

 

「飯、まだ何か食べるか?」

「……いらない」

「ならどうする? まだ少し休むか?」

「……いい」

 

 それだけ答えると、ジーナはまたふらり、と俺の懐から離れていく。

 

「私、行かなきゃ」

「……何処へ?」

 

 ふらふらとどこかへ、まるで導かれるように歩いていく彼女は、こちらを振り向いて、ひとつ。

 

「水やり、しに行かないと」

 

 

 いつも通りの路地裏に、いつも通りの二人で。

 昨日も見た光景だけれど、改めて感じるこの感覚が、どこか懐かしいものに感じられた。

 

「ちゃんと言いつけは守ってたみたいね」

「だからそう言ってるだろ」

 

 足元で揺れる白い蕾を見下ろして、ジーナはそう口にした。

 

「ま、いいわ。あんたがしてくれた分、今日は私がやるから」

 

 そう言って彼女はいつものがらくたの置かれているところから木の入れ物を左手で引っ張り出して、蓋の被せたバケツの前へとそれを置く。

 そのまままた同じ手で被せられた蓋を開けると、中の様子を確認しながら、淹れられた水を入れ物へと移し替えた。

 

「…………あ、切れちゃった」

「何が?」

「お水。あんた、ちゃんと量確認してた?」

「……そこまでは見てなかった。また、淹れてこよう」

「ん、よろしい」

 

 からん、と空になったバケツを地面に置いて、また彼女が入れ物を手にかける。そのままちゃぽん、と中の水を揺らしながら、また彼女が白い蕾の前へ立つ。

 白い蕾と同じように、けれど薄汚れた白い布を見に纏う彼女は、それに憧れている少女の、そのものに感じた。

 

「それ、気に入ったのか」

「…………ないと、ちょっと不安かも」

「そうか」

「……」

 

 ただ、言葉だけが交わされる。

 そんな彼女にどこか、違和感を感じていた。

 

「ジーナ」

「……なに?」

 

 震えた左腕は、水をばたばたと溢れさせている。

 

「何があった?」

「……何もないわよ? まったく、いきなりどうしたの?」

 

 乱暴に流される水を浴びて、白い蕾はもたげた首を暴れさせていた。そんな事を気にする様子も見せずに、ジーナは空になった入れ物を左手のまま持ち直して、こちらへと歩いてくる。

 

「だから、心配しすぎよ。こうやって、無事に戻ってきたんだから」

「……しかし」

「それとも何、まだ不安なの?」

「それは……」

「あんたも心配性ね。とにかく私は、ぜったい――」

 

 からん、と。

 いきり立つ声を遮るように、彼女の左手から木の入れ物が落ちていく。

 けれど彼女は、それを拾おうとせずに――ただ、打ちひしがれたように、黙ったまま見下ろしていた。

 

「ジーナ」

「……」

「ジーナ?」

「……、あ、えっと……な、何でもないのよ。何でも……」

 

 はたと気づいたようにして、ジーナが転がる木の入れ物へ手を伸ばす。

 けれど俺は、だらんと垂れさがった右腕を掴んで、彼女のことを引き留めていた。伸ばした左手は転がるそれへと届く事は無く、彼女は顔に少しの陰を浮かべながら、俺の手の中にある右手へと視線を動かした。

 

「……カイン、どうしたの? これじゃ取れないんだけど」

「そうだな」

「早く離してよ」

「振りほどけば、いい」

「…………っ」

 

 苦しそうな顔をするけれど、彼女の右手はまるで綿の詰まった人形のように軽くて、ぴくりとも動く気配がしなかった。

 何度も、何度も力を入れようとするけれど、俺の手が離れることはない。ただ、人差し指と親指の二本を巻くようにしているだけなのに、それすらも振りほどくことができない。

 やがて諦めたのか、ジーナは手を伸ばすのを止めて、うつむいたままその場に立ち竦んでしまった。

 

「何を、された?」

 

 その問いかけに、彼女がぽつりと、ただ一つだけ。

 

「…………打たれた」

 

 たった四文字の言葉が、全てを俺に教えて、同時に全身の血を粟立たせる感覚を与えていた。

 

「……薬か?」

「うん」

「……何回だ」

「毎日、するときに」

「っ……量は」

「あんまり覚えてない。途中のも合わせて、三本くらい?」

 

 首を傾げる彼女の顔が、おぼろげな色に染まっていた。

 

「……どうして、もっと早く言わなかった?」

「あんたに言ったって、どうにかなるもんじゃないでしょ?」

「けれど、言わないと何もできないだろ」

 

 その言葉に、碧色の瞳が見開かれて、

 

「ッ、じゃ、じゃあ、あんたに何が出来るっていうのよ! こんな、あんたの手すら振りほどけない手で、どうしたらいいのよッ!?」

 

 声を荒げるジーナに、思わず握っていた手を離した。あれだけ離さないと誓った手が、いとも簡単に、離れてしまっていた。

 彼女もまたはたと気づいたようにしてだらんと垂れた右腕を抑えて、再びうつむいたまま動かなくなる。

 

「ご、ごめん……ごめん、なさい……」

 

 やがて、何かを思い出すようにして、再び唇が言葉を紡ぐ。

 

「……気持ちよかったのよ」

 

 それは、遠い昔を懐かしむようだった。

 

「……打たれたときだけ、ぜんぶ忘れられたの。あいつらの眼も、身体の痛みも、ぜんぶ考えなくてよくなった。ただ、とっても気持ちよくて……溺れてたのかな。そんな、感じ」

 

 動かない右手を持ち上げながら、ジーナがふらつくように壁へ背中を預ける。そのままずるずると座り込む彼女を、俺はただ見下ろしていた。

 

「だんだん、嫌じゃなくなったのよ。最初は怖くて、来る気持ちいいのも成れなくて……でも、慣れたらいつのまにか、欲しがってた。それだけが救いだった。それさえあれば、ぜんぶどうでも良くなったから」

「……ジーナ」

「ねえ、アレさ……もしかしたら、あんた持ってない? あ、あたしさ、カインの言う事だったら、何でも聞くから。だから、持ってたらさ、それ――」

 

 そのまま続けてしまいそうな彼女を、強く抱きしめる。

 ぱたり、と言葉は止んで、それに連なるのは震えた声だった。

 

「あ…………ぁ、たし、今……」

「もういい。もう、忘れなくても良い」

 

 確かな左手だけが、俺の背中を抱いていた。

 

「行くぞ」

「……どこに?」

 

 不思議そうに首を傾げる彼女へ、告げる。

 俺では力になることが出来ない。痛みを忘れさせることもできないし、彼女の拠り所へなることすら不可能なのだろう。

 けれど、たとえ俺が力になれなくても。

 その力を繋げることだけは。

 

「治せるかもしれない人間を、知っている」

 

 

 

 すすけた病室の中で、水の流れる音だけが聞こえる。隣の小さな椅子に腰を下ろしているジーナは、何かに怯えるように、俺の服のすそを左手で握りしめていた。

 

「珍しいよ、君が勤務時間中に来るなんてさ」

 

 濡れた手を拭うクラウスは、俺の方をみて、そんなことを口にする。

 

「クスリだって?」

「ああ」

「それは打ったの? それとも、打たれたの?」

「打たれた」

「そっか」

 

 それだけ返してクラウスはふう、と息を吐き、手に数枚の書類を持ちながら、ジーナの真正面へと強く腰を下ろす。かけたいつもの丸眼鏡の調子を整えながら、クラウスはジーナへと口を開いた。

 

「こんにちは、ジーナちゃん」

「…………こん、にちは」

「今日は君の番だね。どっちかと言うと君の方が僕の本職だから、安心してもらっていいよ」

 

 優しく声をかけるクラウスに、けれどジーナの握る手の力が弱まることはなかった。

 机の上に放られたペンの調子を整えながら、クラウスが問いかけを始める。

 

「……症状はどんな?」

「右腕が動かない」

「腕が? 動かないって言うのは、力が入らない、ってこと?」

「…………そう。ぜ、全然、動かなくて……」

「いつからそんな感じ?」

「俺が見つけたのは、来る直前だったが」

「……昨日の、朝から、っ、ずっと…………か、カインと、会った……ときには、もう……」

「会ったときってことは、だんだん動かなくなった、って感じ?」

「そ、そう…………うん。そう……」

 

 こくこく、とうつむきがちに頷くジーナに、クラウスがペンを書類へ走らせる。

 

「薬は、どんな感じで打たれた?」

「………………無理やり、脱がされて、た」

「それは、毎日?」

「…………う、ん。二週間、ずっと」

「打たれたときに、どう感じた?」

「それ、は…………」

「クラウス」

「必要なことだ。それを知らないと、彼女を治すことはできない」

 

 思わず口を挟んだけれど、彼の言葉は芯のある、とてもつよいものだった。

 やがて、いくらかの時間を置いて、ジーナがぼそりと呟く。

 

「き、きもち、よかった」

「…………そうか」

 

 ただ彼はそれだけ告げて、再び机の上でペンを動かすだけであった。

 

「今のところ症状は体だけみたいだけど、他に何か見えるとか、聞こえるとかは?」

「ぁ……あんま、り…………見たことも、ない」

「……聞こえたのは?」

「か…………カインの、声……したんだ、けど……だ、誰も、いなくて」

「…………」

 

 かたかたと、裾を握る手が震えているのを感じる。思えば口調も身振りも今の彼女はどこかぎこちなくて、まるで何か、本能的に怯える動物のようであった。

 けれどクラウスはそれに気づいていないようで、ペンを走らせる手を止めて、ジーナへと向き直る。

 

「よし。それじゃあちょっと、腕を見せて貰っても良い?」

「……ぇ、ぁ」

「ちょっと触るだけだから。そうしないと、症状もよく分からないし」

「…………っ、か、カイン……」

 

 明らかな恐怖と、涙だった。

 

「必要か?」

「無論。口調だけじゃどうにもならないものもある」

 

 言い放つ彼の言葉は、けれどジーナには強く降りかかっていて。

 座り込むジーナと視線を合わせると、彼女は勢いよく左手を首へと回してきて、俺の胸へとその顔を、何かを抑え込むように押し付けていた。

 そんな彼女の頭へ優しく手を置いて、クラウスへ視線を向ける。

 

「これで」

「…………まあ、いいだろう」

 

 だらりと垂らされた右腕へ、彼の指が触れる。

 

「……っ、はぁ……っ……! ……ぃ、ゃぁ……っ……!」

 

 首元へ、爪が食い込むのを感じた。

 

「感覚は、ある?」

「…………ぁ、ある……」

「力、入れてみて」

「……っ」

 

 声を切らして彼女が全身を強張らせるけど、クラウスの手に包まれている彼女の腕は、やはりぴくりとも動くことはなかった。

 まるで標本のように白い彼女の手を眺めながら、クラウスがまた、ふむ、と顎に手を当てる。

 

「つまり、感覚はあるのに体は動かせないってことか。タチ悪いな」

「……何か分かったか?」

「一応はね。見当はついた……もう、離すから」

 

 ぱ、とクラウスが持っていた両手を開く。

 宙に浮かんだジーナの右腕は、まるで振り子が叩きつけられるように、彼女の身体へ戻ってきた。

 

「……っ、カイン…………!」

「大丈夫だ。もう、離してくれただろ? 何もされなかっただろ?」

「うん…………」

 

 やがてジーナは俺の首から手を離して、紅くなる目元を拭っていた。

 

「手、洗ってくるかい?」

「……うん」

「やりすぎないようにね」

 

 こくりと首を縦に振って、ジーナが部屋を後にする。

 やがてクラウスは重く息を吐いて、俺の方を見上げていた。

 

「……彼女、男性恐怖症だった?」

「そういう問題じゃない」

 

 植え付けられた恐怖心というのは、そう簡単に心を開かせることはない。

 染みるように痛む首元を指でこすると、人差し指の先には、赤い痕が付いていた。

 

「それで、どうなんだ。何か分かったのか」

「まあ、大体どんな症状なのかは理解できたよ。それに投与された薬もある程度絞り込めた」

「治るのか」

「……端的に言おうか?」

 

 無言で、その言葉を促す。

 

「はっきり言って、難しいね」

 

 告げられたそれが、心に重くのしかかった。

 

「そもそもの投与量が多すぎる。言葉を選ばずに言えば、手遅れだ」

「……そんな」

「あれだけ自我を保てて生きてる、ってだけでも奇跡なんだ。話を聴くだけでも相当な量打たれてるはず。それでもああやって受け答えができるのなら、それだけ強い拠り所があったんだろうね。薬の快楽に流されないだけの、確かに信じられるものが」

 

 淡々と語る彼に、けれど何か言葉を返すこともできなかった。

 無力だった。彼女を救うと言って伸ばした手も、ついには届かなかった。

 

「……原因は、何だ」

 

 縋るように喉から吐き出された問いかけに、クラウスがまた顎に手を当てる。

 

「アイゼンティア」

 

 やがて告げられたその答えに、俺は目を見開いた。

 

「……それは、花の名前じゃないのか」 

「ん? 知ってるのか。こっちの界隈では珍しい花なんだよね」

 

 意外そうな顔をしながら、クラウスが続けていく。

 

「アイゼンティアの花びらには、薬品と調合すると強い毒を生み出す成分があってね。その効果が、筋肉の神経だけを麻痺させて、動かなくさせるっていうものなんだ。おそらく彼女の症状は、この神経毒によるものだと、僕は思う」

「……腕だけなのは?」

「もともとアイゼンティアの毒は、あまり強くないものなんだ。けれど彼女の場合、長い間に渡って定期的に摂取していたからね。その打たれた部分から進行していったのかも」

 

 何も言葉を返せなかった。

 今のジーナが、彼女の憧れによってもたらされたものだと思うと、もう全てが信じられないような気がしていた。

 

「時間が立てば治るものなんだよ、普通は。さっきも言ったけど、そこまで強くないものだから」

「……ジーナの量じゃ、もう駄目なのか」

「そうだね。アレじゃあ、もう回復する見込みはほとんどない」

 

 とんとん、とペンを遊ばせながら、クラウスが廃れたような視線を虚空へ向ける。

 

「彼女は、一生あのままだろうね」

 

 ぱさり、と。

 微かな衣擦れの音が、後ろから聞こえてきた。

 

「ジーナ」

「………………」

 

 俺のその言葉に答えることもなく、彼女は一瞬だけその瞳に影を灯したかと思うと、すぐに元の調子に戻ったようにして、おとした白い布を拾い上げた。

 どう声をかけていいのか分からなくて、触れてしまえば彼女は崩れ落ちてしまいそうで。その短い間に何度も手を伸ばそうとしたけれど、彼女は白い布を肩へかけなおしながら、ぽつりとつぶやいた。

 

「やっぱり、無理だったでしょ?」

 

 まだ水にぬれているその腕には、赤く擦り付けたような痕がいくつも刻まれていた。

 

「ほらカイン、さっさと行くわよ。どうせ治らないならここに居ても意味ないし、クラウスさんも忙しいんだから。早く戻りましょう?」

「ジーナ」

「……すまないね、力になれなくて」

「何言ってるの、こっちだって無駄に時間とらせちゃったんだし……ごめんなさいね、邪魔だったでしょ? 今すぐ出てくから、悪く思わないで」

 

 立て続けに、まくしたてるようにしてジーナが言葉を連ねる。

 

「お金はいいよ、治せなかったんだ」

「しかし」

「……いいんだ、もう」

「ん、ありがとね、クラウスさん」

 

 震える左手に白い布を握りしめながら、ジーナが吊り上げられたような笑みを浮かべる。次第に顔は白くなってゆき、白い布から離れてゆく手が、垂れ下がった右腕を握る。

 

「また、ね」

 

 それだけ残して、彼女は逃げていくようにその部屋を飛び出した。

 

「おいジーナ! お前、何勝手に……!」

「行かせてやりなよ。彼女にとってはそうするしかないんだからさ」

 

 疲れたように息を吐いて、クラウスが俺へ声をかける。

 

「それよりも早く君も追ったらどうなんだ」

「…………俺、は」

「いいか、躊躇う必要はない。君は彼女を受け入れているし、彼女も君を受け入れている。それ以外には在り得ない。それ以外には、あってはならないんだよ」

 

 それはまるで、背中を押されているというよりは、深い闇へ突き落されているようで。

 

「彼女には、君しかいないんだ」

 

 

「ジーナ」

「………………」

 

 いつかのあの日とは、逆のようだった。

 夕闇に揺れる白い蕾の前でしゃがみ込んでいた彼女は、ぼうっとした瞳で俺のことを見上げていた。そこに感じるのは晴れることのない虚ろな暗闇で、俺はそんな彼女の肩を、抱きかかえるように掴んだ。

 

「ごめんね、急に」

「お前がそうしたいなら、それでいい」

「……クラウスさんに、ごめんね、って言っておいて」

「伝えておく」

 

 もう、彼の元を訪れることが出来るかは、分からないけれど。

 答えると彼女は力が抜けたように、俺の胸元へ頭を寄せる。そのままずるずると地面を擦るように身体を斃していて、虚ろな瞳は、昏くなる空をただじっと見つめていた。

 

「……もしかしたら、って思ったの」

「ああ」

「また一からやり直せる、って。ぜんぶ……ぜんぶ無くなって、もう一度最初から、一歩ずつ進めるんだって……そう思ってた」

 

 伸ばした手は、眩い光を掴もうとした。追い求めたその先に、彼女は確かに光を見たのだ。それは今まで見たことが無いもので、彼女の瞳にはそれが眩しすぎるくらいに映っていて。

 

「…………やっぱり、無理だったんだ」

 

 落ちた先、深い闇の中で、彼女はそう呟いた。

 

「やっぱり、許してくれないんだよ。か、考えてみれば当然だよね。みんなから殺されても、おかしくない。私なんて、居なくなった方がいいんだ。カインだって、そう思ってるんでしょ?」

「そんなこと、ない」

 

 穢れの無い、心からの言葉だった。彼女を見捨てることなんて、あるはずもなかった。

 けれど彼女はそうは思っていないようで、まるで自分自身を嫌って――かつてのあの日と、まったく変わらないようで、

 

「あはは、優しいよね、カインって。こんな私でも、そう言ってくれるんだから。こんな、こんな私、でも……」

「違う、ジーナ。お前が変われば、きっと」

「無理だよ。私はもう、変われないんだから」

 

 白い蕾が、揺れる。

 碧色の瞳に映る羨望が、彼女を縛り付けていた。

 

「……もう、あなたしかいない」

 

 うわべだけの言葉すらも出せなくなって、ただ流れる静寂を受け入れるしか出来なくなっていると、彼女はまた、俺を見上げてそう口にした。

 

「俺、が?」

「わ、我儘なのも、分かってる。あなたにとって……私が、邪魔なことも、分かってるのよ」

「だから、そんな事は」

「ごめん、ね。わたし、やっぱり駄目な人間なんだ。みんなは許してくれないのに、あなただけは、許してくれる、から……!」

 

 縋るように、左手を伸ばして。

 

 

「……離れたく……ないよ…………!」

 

 流れる涙が、頬を伝って地面へいくつかの染みを作った。

 

「捨てないで……おねがい、だから、っ…………ぁた、私、あなたの言うこと、何でも聴くから……!」

「ジーナ、いいんだ」

「ごめん、なさい……で、でも私、あなたが、いなっ、いなくなったら、もう……! 私、どうに、か、なっちゃいそうで…………っ!」

 

 抱きしめる手は、固く。嗚咽をもらす彼女を、受け入れるように。

 彼女の言葉の一つ一つは、やはり俺の心に杭を穿つように染みわたっていった。自惚れでもなければ、驕るようなわけでも無い。ただ、俺だけが彼女の拠り所だということを、確かに理解できた。

 彼女には、俺しかいない。そして俺も、彼女が全てでしかない。

 クラウスの口にした言葉が、頭を過ぎて行って。

 

「ごめん、なさい…………ごめん、なさい、っ…………!」

 

 夜の闇が、俺と彼女を包み込んだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『刻まれた痕』

 

 朝の静かな時とはまた違う、冷たい静けさの中に居た。

 眠気を感じることは、不思議となかった。それが心の調子によるものか、身体の調子によるものかもわからないくらいには疲弊していたのだと思う。けれど確かに分かることは、彼女が側にいてくれないと、不思議と意識が揺らぎ、まともに考えられなくなるということだった。

 虚ろなままの意識の中で、彼の声が響く。

 

「よう、カイン」

 

 いつものカウンターに向かい合せで座るリヒトーフェンは、にんまりとした嫌らしい笑みを浮かべて、俺に声をかけていた。

 

「こんな朝に何だ」

「……いつも、この時間だったはずだけどな?」

「ジーナを置いてきた。彼女はまだ寝ているから、俺が側にいないと……どこかに、行ってしまうかもしれないから……」

「…………」

 

 まだ布団の中で寝ているのだろうか。それとも、自分で食事を摂っているのだろうか。けれどもし、一人で外へ出ていたとしたら? もし、誰かに連れられて、また俺の手の届かないところへ行ってしまったら?

 怖さ、なのだろうか。それとも恐れなのか。それすらも、曖昧で。

 沈み込むような意識の奔流から、彼は俺を引き摺り上げた。

 

「先日の件だが」

 

 ぽつぽつと語りだした彼に、耳を傾ける。

 

「まだ裏で動いている奴の正体は掴めていない。本来ならあそこで吐かせる予定だったんだが……あいにく、不運な事故が起こってな」

「……彼女は」

「結局、何も吐かずに死んだ。舌を噛み切ったんだ。ま、優秀な部下だったな」

 

 それを俺が見届けることは、決してないのだろう。そうして自ら死んでいく者にすら、俺は手を伸ばすのだろう。

 それなのに、俺の手は彼女に届くことはなかった。俺の様にならないように、全てを尽くしたはずなのに、彼女はまた俺よりも深い闇へと堕ちていった。

 

「カイン? お前、大丈夫か?」

「……大丈夫だ。続けてくれ」

 

 そう答えると、彼はまた何か言おうとしたけど、目を伏せて首を振りながら、先程の話を続けて始めた。

 

「それだから今、残った痕跡を手がかりにして親玉を突き止めてる最中だ。その中であと数人にはアテを絞れたんだが、そこから上手くいかなくてな」

「…………それで?」

「あの嬢ちゃん、居ただろ」

 

 上げられたその言葉に、思わず身を乗り出した。

 

「ジーナを関わらせるつもりはない」

「けれど、関わった人間の一人一人を覚えているのは、彼女だけだ。そこを辿れば、必ず親玉へ辿り着ける」

 

 筋は通っているはずだった。けれど俺は、それに頷くことはできなかった。

 

「……ま、いい。それを決めるのはお前じゃない。話だけでも通しておけ」

 

 リヒトーフェンはそう切り上げ、また俺の瞳を深く見つめて、

 

「お前の話だ」

 

 そう、重々しく呟いた。

 

「俺の?」

「ああ、俺の部下を一人使えなくしてくれた、お前の話だ」

 

 リヒトーフェンはカウンターに手を置きながら立ち上がって、そう語りながら俺の方へ来るようにカウンターを回る。ふつふつと感じられる怒りに、けれど俺は何も動くことも無く、彼の言う事を聴くだけだった。

 

「なあカイン、誰にでも理不尽なものはあるさ。俺だってお前に同情できるくらいの義理はあるし、あそこで殺さなかっただけマシだとは思ってるよ」

 

 殺さなかった方が、マシなのだろうか。殺したら俺は、どうなっていたのだろうか。

 それを想像することすら、遥か遠くのことのように思えた。

 

「ジーヴァはな、デキる奴なんだよ。そりゃ性格の面ではダメな事が多いだろうし、人間としてもクズだ。けれど俺からすれば仕事を忠実にこなして、秘密も必ず守ってくれる、俺の右腕みたいな存在なんだ。この意味が分かるな?」

 

 置かれた手には、強い力が籠っていて。

 

「お前と契約したのは二年くらい前だったか? 前から噂は聴いてたんだよ。あのシータ嬢の護衛をしてたってな。そこらへんの話を聞いてりゃ、顔を見て一発で分かったさ」

「…………」

「あんな、全てを失ったような顔をした人間、初めて見たぜ。だから思ったんだよ。こいつは使える、ってな」

 

 それすらも思い出すことができない。ただ印象に残っていたのは、彼女の言葉と、心に空いた大きすぎるくらいの空白であった。

 夢を叶えてどこかへ行ってしまった彼女を、心のどこかで輝かしく思っていた。まるで俺には到達できないような、光の先にいる存在だった。

 

「でもなあ、お前は人を殺さなかった。殺せなかったんだ」

 

 今、目の前に居る人間が、どこかに行ってしまうのがとても怖くて。

 手すらも伸ばせなくなったそのことが、とても恐ろしく思えて。

 

「正直、驚いたよ。あのシータ嬢の護衛をしてるって聞いたもんだから、どんな極悪人かと思ったら、人のひとりも殺せない優男だったなんてな」

「それは……悪かった」

「いやいや、悪い事じゃないさ。寧ろ、与えた金の分の働きをしてくれたからな。お前のこと、頼りにしてたんだぜ。こいつなら任せられる、信頼を寄せられる唯一の部下だ、ってな」

 

 視界の端を、銀色がちらつく。それが冷たい、鋭い刃だというのに気が付いたのは、俺の頬に冷たい感覚が走るときだった。

 

「けどな、やっぱり見当違いだったんだよ」

 

 声はだんだんと、重く、深く。

 

「たった一人、それもただの癇癪で傷つけた人間のせいでこうなるとは思ってなかったか? 他人の腕を切り落として、それでいてまだ俺の元をいられると思ったか?」

 

 続く言葉の裏には、決してぬぐえないようなどろどろとした何かが張り付いていて、俺のこの首がすぐに落ちてしまうのも、おかしい事には思えなかった。

 けれどリヒトーフェンは銀のナイフを俺へと押しあてたまま、確かな自分を持ってまた口を開く。

 

「だからこれは、当然の応酬だ」

 

 つぅ、と熱い感覚が頬を撫でる。冷たい感覚に遅れて、灼けるような痛みが走る。 

 やがて机の上に置かれたナイフの先から、赤い雫がしたたり落ちた。

 

「本当なら、お前を今すぐにも殴り飛ばしたいよ。ジーヴァはこの先な、片方の手を失って生きていくんだ。その辛さがお前に理解できるか?」

 

 俺にその痛みは分からない。分かるはずもない。

 ただ、彼女なら理解できるのだろうと、頬に伝う痛みと共に思った。

 

「この話はもういい。本来、それだけで済んだとは思わないことだ」

「………………」

「よし、それじゃあまた楽しい話をしようか」

 

 どさ、と重たい音を立てながら、リヒトーフェンはどこからか取り出した大きな革袋をテーブルへと叩きつける。だらしなく開いた口からは、あのとき彼女が手にしていた量の何十倍もの金貨が覗いていた。

 

「百枚ある。全部お前のものだ」

「……ああ、そうだな」

「おい、もっと喜べよ。金貨の百枚なんて、下手したら数ヵ月は生活にこまらなくなるんだぜ? こんな職業から足を洗って、店を開くこともできるかもしれないってのに」

 

 そうやって夢を膨らませることを、俺はできなかった。夢の先にある末路を知ってしまっていたから、その夢すらもみることができなかった。

 輝きは同時に暗闇も見せて、その先へと誘われる。あれだけジーナが求めていたものは、いとも簡単に、俺の手へと受け渡された。

 その事実が、どうしても悲しく思えて、俺の心へとのしかかっていった。

 

「カイン?」

「…………俺は、どうすればよかったのだろう」

「あ?」

「彼女を引き留めるべきだったのだろうか。それとも、彼女と共に在ればよかったのだろうか。けれど俺は、何も……何も、できなかった…………」

「…………」

「送りださなければ、よかった……けれどそれは、彼女の夢を阻むことになったのだろうか……? 分からない……彼女を、信じていたから…………信じていたのに、どうして……どうして、ジーナが…………!」

 

 やがて俺が無愛想にしているのが面白くなかったのか、リヒトーフェンはまた俺と向かい合わせになって腰を下ろし、肘をつきながら俺へ口を開く。

 

「もういい、早く帰ってやれよ」

「…………」

 

 呆れたようなリヒトーフェンの言葉を背に、廃屋を後にする。

 右手に掛かる重さは、変わりようのない、確かなものであった。

 

 

 扉を開いて最初に見たのは、小汚い白い塊だった。

 

「カイン」

 

 ぱたん、と扉を閉める音と同時にそんな声が聞こえてくる。そんな異様な光景に、少しだけ動揺しながらも俺は腰をかがめて、座り込む彼女の顔を覗き込んだ。

 

「起きてたのか? こんな朝早くに」

「カインが、いなくなったと思って」

「……すまない。伝えてから行けば良かったな」

「さみしかった」

「もう、大丈夫だ。ほら、仕事の報酬をもらってきただけだから」

 

 ほら、と重く音の鳴る袋を見せるけれど、彼女はそれに少しの興味すらも持っていないようだった。かつてはあれだけ執着していたものに、ぼんやりとした視線を向ける彼女を見ると、またどこか心に空白を感じるのだった。

 そう思考を巡らせていると、ふと彼女の左手が伸びて、俺の頬を撫でる。

 

「カイン」

 

 白く透き通るような彼女の指には、穢れたような紅い液体がこびりついていて。

 

「これ、どうして――――」

 

 続く彼女の言葉を聴く余裕も無く、気が付けば俺は、彼女の手を取って、そこに張り付いた血を必死に白い布で拭っていた。その小さな指を強く握り締めながら、まるで憑りつかれたようにして薄汚い布へ擦り付けていた。

 

「ちがう……ちがうんだ、ジーナ…………き、汚いから……早く落とせ……お前は、こんなもの、触らないで……」

「カイン、ま、って」

「汚れる…………汚れるから、……これ以上、ジーナを穢すのは……」

「いたいよ、カイン」

 

 聞こえてくる震えた声に、はたと我に返る。

 おぼろげな視界には、幽かに赤くなった彼女の指が、俺の手の中にあった。

 

「あ、ち、ちが、ジーナ」

「……うん、大丈夫だよ。カインのすることなら、大丈夫だから」

 

 穢れてしまうと思った。これ以上、彼女が汚濁に染まってしまうかと思った。そうなると、もう二度と光の下で生きていけないような気がして、それは何としてでも止めるべきことだと思っていて。

 訳が分からなくなって、我を取り戻した時には、俺はジーナの身体を抱きしめていた。どこかに行ってしまいそうで、消えてしまいそうなその体を、強すぎるほどに縛り付けていた。

 

「……話してきたんだ。お前を貶めたやつを、どうやって探すのか」

「うん」

「でも、わからなかった……それで、あいつはお前を……お前の、記憶すらも頼りにしてきた。お前なら、覚えてるだろう、って。でも、そんなこと、俺は……」

 

 かすかな感触が、頭を撫でる。

 ゆっくりと髪を梳くようなその感覚に、言葉をつぐみ、ジーナは少しだけ安堵したような息をつくと、俺の耳元で囁いた。

 

「カイン、ごめんね。私……覚えてないの」

 

 そこには怒りとか憎しみとかではなく、朽ち果てたような色が灯っていた。

 

「……打たれたときから、よく覚えてられなかったんだ」

「それ、は」

「ただ、気持ちよかった……ぜんぶ、忘れられたの。だからごめんね、カイン。私じゃ力にはなれない」

 

 苦しみながら縋った希望にも、結局は届かない。

 もう彼女の眼前に広がる暗闇を晴らすことは、決してできない事のようにも思えた。

 

「……そうか、すまない」

「違うの。私が、覚えてなかったから――」

 

 抱きしめる腕の力が、強くなる。耳元で微かな声が漏れた。

 

「どう、して…………どうしてなんだ……なんで、誰もジーナを……!」

「カイン、大丈夫だよ」

「何で、誰もジーナを救おうとしない……? 幸せには、なれないのか…………誰かと同じように、生きることもできないのか…………!?」

 

 呟いた言葉は誰かに届くでもなく、暗い部屋の中で溶けていく。

 絞り出した声に返ってくるのは、ただ柔らかく頭を撫でる、彼女の手の感触だけだった。

 

「ねえ、カイン」

「……どうした?」

「私、外に行ってみたいな。この前みたいにさ、二人でいっしょに」

 

 共に歩いたあの日の事を、消えたジーナの事を、思い出す。

 

「で、も……そうしたら、またジーナは……」

「大丈夫。今度は、繋いだままで居てくれるでしょ?」

 

 力の抜けた俺の手を取りながら、彼女がそれを自らの胸で握る。伝わってくるのは彼女の温もりと、わずかに感じる鼓動だった。

 とくん、とくん、と流れていく。それが、彼女がそこにいることを、伝えてくれる。

 

「ああ…………行こう、今すぐにでも。今度は、絶対に……絶対に離さない」

「ほんとに?」

「決して、離さない。必ず見つけ出す」

「そっか……それなら、嬉しいよ」

 

 翡翠の瞳を覗き込みながらそう口にすると、彼女は恥ずかしそうに、けれどどこか満たされたように笑ってくれて、

 

「あなたと離れ離れになるのは、もう嫌だから」

 

 伸ばされた左手が、俺の頬を撫でる。

 また、白い指が、紅に染まっていた。

 

 

 昼を過ぎた頃でも、街の喧噪は何も変わらなかった。

 たとえ誰かが届かない闇の中へ堕ちて行っても、そこから這い上がろうとしても、行き交う人々の顔ぶれも足並みも、何も変わらない。唯いつも通りの風景としてそこに広がっているのは、彼女が望むそのものであった。

 けれど、どうしてかその時だけは、彼女を見向きもしないような彼らに、怒りにも似た感情が湧き上がっていた。どうして、彼らが太陽の下で生きていられるのか。どうして、彼女はそこにいられないのか。

 悔しかった。ジーナを見つけたあの時と同じような、昏い感情が湧き上がる。

 

「カイン?」

 

 ふとそんな心情に攫われて、立ち止った俺に、ジーナは振り向いてそう呼びかける。いつもの白い布をまるでフードのように被っている彼女は。一瞬だけ陽の明るさから、周りの人間から隠れているようにも見えた。

 

「どうしたの、調子悪い?」

「……何でもない。ただ…………」

「ただ?」

「……お前とこうして歩けることが、その」

 

 嬉しい、のだろう。けれどそれはまた、行くところを失った怒りにもみ消されていて。その時の俺はとてもふらついていて、それこそ彼女がいなければ、どこかへふらりと消えてしまいそうだった。

 けれど、そんな俺にでも、彼女はまた笑ってくれる。

 

「なら、行こう?」

 

 差し出された左手を握って。足並みをそろえて。

 こうしてまた、たとえ今だけでも、二人で同じ道を歩けることが、唯一の救いのようにも思えた。俺の隣を小さく歩く彼女はまた、輝きを取り戻したように映っていた。

 そうして人ごみの中を縫う様に、二人で手を固く繋ぎながら歩いてゆく。

 

「どこ、行こうか」

 

 あの日のように、また彼女は俺に問いかけてきた。

 

「……どこでも、お前の行きたいところなら」

「んー、でもこの前、あらかた巡っちゃったし……お昼も食べちゃったもんね」

 

 口の中に残る携帯食料の苦みに、ジーナは肩をすくめていた。

 それでは何かないかと、おぼつかない記憶の中を探ってゆく。彼女の求めているものは何だっただろうか、欲しがっていたのはどんなものだったか。

 そう考えを巡らせていくうちに、ふと頭の端から漏れ出すように、言葉が紡がれる。

 

「本」

「ん?」

「本は、どうだ?」

 

 まるでそれが、ずっと昔のことのように思えた。本を眺める彼女に手を伸ばして、初めてそれが届いたのを、確かに覚えていた。

 俺の提案に彼女はぁー、と少し考える素振りを見せながら、また向き直る。

 

「いいかも。いろいろ見てみたいしさ」

「なら、行こう」

 

 そう言うと彼女はいつものような、明るさに照らされたような笑みを浮かべた。

 大通りから外れ、細々とした路地を抜けていく。人々の喧噪はいつのまにか遠くなり、眩しかった陽の光もだんだんと弱ってゆく。けれど彼女は確かに俺の手を握ってくれていて、俺もまた彼女の手を離さないように握り締めていた。そこに言葉はなく、ただ彼我の間には全く同じような、強い何かが結び涙ているような気がした。

 溺れているのだろうか、それとも虚ろに耐えられなくなっているのか。

 彼女が居ないと、全てが崩れてしまうようだった。

 

「……こんなに遠かったっけ、ここ」

 

 やがて彼女が足を止めたのは、見たことのある、ぼろついた店の前であった。

 

「この前に出かけたときとは正反対だったからな。あそこからだと割とかかる」

「それ、ちょっと不便かも」

 

 そんな悪態を吐きながら、彼女が閑散とした店内へ足を踏み入れる。

 あの時と変わらず、やはり店の中には客も店員も、誰も見当たらない。それこそ、いまに本を一冊や二冊ほど盗んでも咎められないような、そんな静けさの中で彼女は、何かにつられるようにしながら本棚の中を抜けていった。

 

「こっち……」

 

 やがて辿り着いたのは見覚えのある場所で、ジーナが俺から手を離し、ふと手にして開いた本の中には、赤や黄色の色彩があふれていた。

 そんな流れるような色とりどりの花々を眺めて、しゃがみ込んだジーナがふと口にする。

 

「これ、知らない」

「知らない?」

「うん、見たことない。私、ここにある花の本はぜんぶ見たことあるのに」

 

 ずらりと並んだ本棚を一度見上げながら、しかし彼女はまた自らの手元へ目を下ろした。

 

「花、たくさん載ってる」

「そうなのか」

「まだ、こんなにあったんだ」

 

 それを眺めているジーナの瞳は、とても輝いて見えて。

 

「また、覚えないとな」

 

 呟いたその言葉に、彼女は驚くような色に染まった。

 

「なん、で」

「言ってただろ、花屋になるためには知識をつけないといけない、って」

「……そっか、そうだよね…………私、お花屋さん、に――」

 

「おいッ!」

 

 そう彼女が顔に色を取り戻した瞬間、店内に怒号が響き渡る。

 びくん、と過剰なまでに身体を跳ねさせながら彼女は開いた本をそのままにして、俺の背中へ廻りながら固く服を掴んだ。

 

「このクソガキ……って、あんたも一緒か」

「……覚えてるのか」

「無論、あんたは客だからな。それより……」

 

 と、彼は苛ついたように、俺の後ろでかたかたと震えているジーナへ目を向ける。

 

「懲りずにまた来たのか? お前なんかに売る本はねえって何度言ったら分かるんだ!」

「………………」

「分かったらとっとと帰れ! お前みたいな小汚いガキ、居なくなっちまえばいいんだよ!」

「…………っ……!」

 

 ぎゅう、と服を握る力が、さらに強くなる。背中に彼女の頭が押しつけられて、たまらず後ろへと振り向こうとするけれど、ジーナはそれを拒んだ。

 

「……おい、何とか言ったらどうなんだ。ついに返す言葉も無くなったか?」

「違う、本の中身を見ていただけだろ、そうしないと買うかどうかも迷えない」

「あ? おいあんちゃん、お前にも言ったよな? ちゃんとこいつに言いつけとけ、って。うちは立ち読みなんて厳禁なんだから」

「しかし、それでは択ぶことすら――」

 

 さすがに彼の対応も行き過ぎるものがあると、その時には思っていた。

 そうやって言葉を交わしていると、後ろにいるジーナが、消え入りそうな声で、

 

「……ごめん、なさい…………」

 

 そう、呟いた。

 

「あん? 今更、誤ったってなあ、こっちは……」

「ごめん、なさい……ごめんなさい、っ…………! ゆ、許して、くだ……さい、言うこと、ききますから……!」

 

 ずるずると地面に倒れ込みながら、彼女がそう口にする。地面に頭をこすり付けながら、爪を立てる彼女に寄り添いながらその肩を抱えようとすると、目の前の彼は呆れたように一つ息を吐いた。

 

「誰にやられたんだ?」

「……俺も、彼女も知らない。ただ、大勢いたのだと、思う」

「ったく、店の中でそんなことするんじゃねえよ……」

 

 むしゃくしゃしながら頭を掻いて、彼が静かに店の中へと戻っていく。けれど彼女は泣き止むことも無く、その小さな身体を支えると、またぽろぽろと涙が零れ落ちるのが見えた。

 

「わた、わたし、やっぱり…………」

「いいんだ。心配するな、ほら。立てるな?」

 

 そうやって差し出した手に帰ってくるのは、彼女の手ではなく、どさ、と何かが積み上げられるような音で。

 ジーナの眼の行くほうへ視線を向けると、そこには先にジーナが取ったような花の描かれた本が、五冊ほど積み上げられていた。

 

「……元々な、ここは学者サマ向け専門に売ってんだよ」

 

 積み上げたそれに手をかけながら、彼はそう語る。

 

「専門書なんだ、これ全部。各地から様々な学術書とか、論文とか、図鑑とか持ってきてな。それを国の研究所や病院なんかに寄付してるってワケだ」

「じゃあ、花の本が置いてあったのも……」

「ああ。それの一環だ。まったく、どこから嗅ぎ付けてきたんだか」

 

 肩をすくめながら、本を一つ手に取る。

 

「で、これは簡単に言えば余り物だ。五冊ある」

 

 ぱらぱらとそれを軽く開いて、彼は一瞬だけ考えるようにしながら目を閉じて、

 

「全部やる。金も要らん」

「いいのか?」

「ああ。どうせ金にならねえからな。不要なモンはうちには置かねえよ」

 

 包装用の紐布を取り出し、そうぼやくように口にする。

 

「なん、で?」

「俺にも理由は分からん。ただまあ、お前がこれで立ち読みしてくれなくなるなら、安いもんだとは思ったな」

「…………ごめんなさい」

「おい、お前バカか? 他人からモノを与えられたら、謝るんじゃなくて感謝するのが普通ってもんだろ」

 

 縦に布で縛った本をジーナの前へと叩きつけながら、彼は笑っていた。そこには先程までの怒りではなく、友人を励ますような、そんな好気の色が入っていた。

 そうして与えられたそれに、ジーナが恐る恐る手を伸ばす。

 

「ありがとう」

「おう、ちゃんと読めよ。そうでなきゃタダで売った意味がないからな」

 

 ようやく立ち上がった彼女は、自分の手の内にある確かな重さに、初めて輝くような笑顔を見せてくれた。

 

「……助かった」

「なに、こっちも面倒が減るんでね。丁度良く処理できたよ」

 

 それだけ言って、彼は重そうに本を引き上げる彼女をまくし立てるように、手を叩く。

 

「ほらほら、貰うモン貰ったらさっさと帰りな! 言っとくけどな、こっちは忙しいんだよ! そろそろ次の客が――」

 

 きぃ、と。

 彼の言葉をかき消すようにして、店のドアが開かれる。溢れるような昼間の太陽の光が、後ろから差し込んでくる。

 

「やあ」

 

 そうして俺が光の中に見たのは、目が眩むほどの紅であった。

 

「ルーヴェルトの旦那」

「うむ、時間に遅れてはいないみたいだね。少しお昼寝をしたから、もしかしたらと思ったけれど」

 

 つかつかと、けれど優雅な雰囲気で音を立てながら、ルーヴェルトは彼と言葉を交わす。すると彼は一瞬だけ俺の方へと目を向けた後、何かを考えるようにして、店主へと問いかけた。

 

「彼らは?」

「ああ……なに、ただの客ですよ。少し融通を効かせてやっただけです」

「そうか、それは良い事だ。ここにある書物は、腐らせておくには惜しいものばかりだからね」

 

 うんうん、と優しい笑みで、ルーヴェルトが首を縦に振る。

 そして彼はこちらへと視線を向けて――その時どうしてか彼の瞳に、とても冷たい、まるで崖から突き落とすような強い意志を感じた。

 

「君は……カイン、か」

「……よく覚えてるな」

「ああ。なにしろ、恩人だからね。そんな大切な人を忘れるワケがないさ」

 

 苦笑いを浮かべながら、ルーヴェルトは語る。

 

「どうしてここに?」

「もちろん、本さ。実を言うとね、僕は薬物学を専門に勉強してるんだよ。それのために此処の書物を参考にしていてね。彼はとても優秀さ」

 

 伯爵直々にそう言われたのが嬉しいのか、店主の彼は少し恥ずかしそうに頬を掻いていた。

 

「そういう君は、どうしてここに?」

「ああ、実は……シータが本が欲しいというから――」

 

 そう言葉を続けようとして、背中に強い衝撃を受ける。

 思わず後ろを振り向くと、そこには明らかに怯えたような顔をしたジーナが、俺の服の裾を強くつかんで、かちかちと噛み合っていない歯を震えさせていた。

 見開かれた目には深い虚ろの色が灯っていて、思わず握った腕からは、とても早く打つ鼓動が伝わってくる。小さく吐かれる息は、けれどとても荒々しかった。

 

「ジーナ?」

「………………ぁ、…………いや、…………カイン、に、げ……」

 

 途切れ途切れのその声に返ってきたのは、俺の言葉ではなく。

 

「君は、シータちゃんだね」

「――――――――ッ!!!」

 

 伸ばした手を左手で振り払って、その触れた左手を壁へ強く、何度も何度も擦り付けて。白い壁に赤い痕が着いたのを見た時には、彼女は既に積み上げられた本を持ちながら、どこかへと駆けだしていた。

 

「ジーナっ!? お前、何処に――!」

 

 ばだん、と扉が閉められる。

 

「……嫌われちゃったのかな?」

「いや、違う。今のあいつは、少し男と関わるのが苦手で……すまない、また」

 

 説明する時間も惜しくなって、また俺も店を抜け出して。

 最後に見た彼の顔は――どうしてか、悦に浸るような笑みを浮かべていた。

 

□ 

 

 見つけたのは、いつもの路地裏であった。

 

「ジーナ!」

 

 積み上げた本を崩し、壁に手を当てながら口元を押さえているジーナに、思わず声をかける。けれど彼女はこちらへ視線を動かすだけで、決して何かを答えられるような状態ではなかった。

 うつむいた顔は暗く、青白さが目立つ。吐き出される息はだんだんと荒さを増して行き、そんな彼女の背中へ手をやると、その小さな体が強張っているのを感じた。

 

「か、…………ぁ、えっ……!」

「大丈夫だ。もう、誰もいない。心配しなくても――」

 

 けれど、その言葉が届くことはなくて。

 

「ぐ、ぇ……、げっ、…………ぇゔ、っ、ぅぷ」

 

 びちゃびちゃ、と。

 肌色と、少し赤い色の混じった液体が、路地裏へ歪な斑点の模様を映し出した。

 

「ジーナ、落ち着け。大丈夫だから……」

「……ぉ、あっ……――う、ぇ、げぇっ、げぼ」

 

 背中をさすりながら、けれど出てくるものはもう何もない。それでも彼女の喉からは何か本能から逃れるような、四方から壁に潰されるような、喘ぎの声が漏れていた。

 ずるずると壁を伝いながら、自ら嘔吐したそれを避けるようにして、ジーナが壁へ頭を擦り付ける。その惨状に思わず背中を優しく叩くと、彼女は飛びつくようにして、俺の胸元へと抱きついた。

 

「ジーナ」

「ごめん、ごめんっ……カイン、逃げて……!」

「どうしてそうなる」

「……い、いや…………すぐに、あいつが来るから……! 早く、カインは逃げないと……!」

「……例えそうだとしても、お前を置いていけない」

 

 そう告げると、彼女は驚いたように、けれどどこか悲しそうに俺のことを見上げていて。

 

「……バカ…………バカだよっ! なんで、なんであんたは私を捨てないのよ!? もう、どうにもならないのよ!? 右腕も動かなくなって、私なんかもう、何もないのに……どうして、あんたは何も変わってないのよっ!?」

 

 言っていることの半分は、理解ができなかった。やはり彼女は、また前のように俺にはわからないことを口にする。けれどそれがどうしてか、しっくりと腹に落ち着いた。

 初めてジーナと出会った時から、俺は変わっていないのだろう。彼女を見逃し、力になり、共にあり続けた。例え俺たちを包む世界の全てが変わっても、それだけは変わらないのだろう。

 何故ならば。

 

「お前を、信じ続けているから」

 

 涙ぐむ彼女を撫でる。するとジーナはまた、俺の胸へと顔を埋めた。

 

「逃げる時も一緒だ。二人で逃げればいい。どこまで行ってもついて行くし、手も離さない。お前と出会った時から、ずっと」

 

 運命なんてものも信じていないし、巡り合わせなどと言うのにも興味はない。

 例え彼女でなくとも、俺はこの道を選んだのだろう。誰も死なせない、誰も行かせないために、俺は自らのそばにいる人間へ、手を差し伸べ続けるのだろう。

 ――ようやく、自分のことが理解できた気がした。

 

「……どっかアテ、あるの?」

「無いわけじゃない」

 

 呟く彼女の言葉に、そう返す。

 

「行こう、一緒に」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『瞳に映るもの』

 

「それで、わざわざ私のトコに着たわけ?」

 

 姿見の前に置かれているている古い椅子へと腰を下ろして、フローラは煙草の煙を吐いた。

 

「ジーナに逃げろ、と言われたから」

「面倒事しか持ち込まないと思ったら、ついに女まで持ち込んでくるとはね」

 

 そうぼやきながら、彼女は向かいのベッドへと流れるような視線を投げる。そこでジーナはまるで何かから怯えて隠れるように、毛布にくるまりながら座り込んでいて、そんな彼女にフローラはこの前とはまた違う、穏やかな視線を送っていた。

 膝を組んだうえに肘を乗せて、手の上に顎を乗せる。

 

「この前とはまるっきり変わったみたいね」

「……その、」

「言わなくても結構よ。それに、あんたから聞いた話じゃ、こうなってもおかしくなかったから」

 

 そうして彼女はそのままもう一度煙草を口にくわえると、イラつくようにこちらへと煙を吹き付ける。

 

「私のトコ以外、行く当てなかったの?」

「……すまない」

「ふん、本当よ。高くつくから覚悟しておきなさい」

 

 片方の頬を上げながら答えるフローラに、たまらず頭を掻く。

 

「……さて。それじゃ、話でも聞いてあげましょっか」

「フローラ?」

「いいのよ、私に任せなさい」

 

 そう得意そうに言いながら、フローラは軽く立ち上がってベッドの方へと歩いてゆく。その足音に白い毛布はゆっくりと視線を向けて、とさ、という小さな衝撃に体を跳ねさせた。

 急に与えられた衝撃に、ジーナは恐る恐るといった様子で、毛布の中からひょっこりと顔を出す。

 

「何人よ」

「…………え?」

 

 それは。

 

「フローラ」

「ちょっと、女同士の話に口を挟まないの」

「しかし」

「いいから。あんたはね、そこの酒でも飲んでなさい。今のあんたにならいい薬になるわよ」

「…………」

 

 言い切られてしまうと、彼女にはどうも言い返せなかった。

 仕方なく先程まで彼女が腰を掛けていた椅子へ手を伸ばし、それを部屋の隅にある机へと寄せる。ごちゃごちゃと金貨だったり薬だったりが散らばっているそこには、横たわる酒瓶が確かに置いてあった。

 中の液体を揺らして確認しながら蓋を開けると、熱い、けれどどこか安らぐような香りが、鼻の奥へと抜けていく。

 やはり、酒は苦手だった。

 

「それで、何人にやられたのよ。五人? 六人?」

「…………じゅう、ろく」

「あら、私と同じくらいじゃない」

「……て、な……ぃ」

「え?」

「十六から先を、覚えてない」

「……そう」

 

 ヤニの匂いと、酒の匂いが混じり合う。いつもなら苦手で顔を顰めるようなその香りは、けれど行き場のない怒りで満ちた心を、どうしてか落ち着かせてくれた。

 瓶の中の液体は、ちゃぷちゃぷと揺れている。それを飲み干すのには少しの勇気が要って、俺は未だに空いた瓶の先を見つめていた。

 

「それでも、あなたは生きてるじゃないの」

「……生きてても、こんな事になるなら」

「意味がない? だから諦めるってこと?」

「…………私はもう、これ以上変われない、から」

「ふーん」

 

 重く語る彼女とは正反対に、フローラは軽い声を上げる。

 

「それで、あんたは何がしたいの?」

 

 その問いかけには、言葉よりも重たい圧のような、けれど軽い夢のようなものが込められているような気がした。

 

「何、って…………私は、いまさら」

「そう言う意味じゃないのよ。たとえ叶えられないとしても、あんたには夢があるんじゃなかったの? それとも、このまま何もせずに死ぬつもり?」

「……そう、なのかな」

「聞かれてもね。でも、そう聴けるのなら、私はそうじゃないと思うわ」

 

 呆れたように息を吐いて、フローラはそう返す。

 

「あんたはまだ、生きる意味を見つけられるはずよ」

 

 そのまま彼女はふと天井を仰いで、まるで子供へ読み聞かせる母親のように、ぽつりぽつりと語りだした。

 

「私ね、本当はお姫様になりたかったの」

「……お姫様?」

「そうなの。ほら、たいていの絵本に出てくるお姫様って、とってもきれいで、上品で、かっこいい王子様と結婚するじゃない? 私もそうなりたい、って子供のころからずっと思ってたの」

 

 夢を語る彼女の瞳位は、初めて見る色が灯っていた。

 

「……それで、お姫様にはなれなかったの?」

「違うわ。まだなってないだけよ」

「なって、ない?」

「そう。実はね、まだお姫様になること、諦めてないの」

 

 くすりと、そう笑う彼女にどこか、ジーナと同じ様な子供めいたものを見た。それもまた、初めて見る彼女だった。

 

「おかしいでしょ? こんなおばさん手前になって、カラダ売って商売してるのに、お姫様になろうだなんて。ここには王子様じゃなくて金遊びに来た男しかいないし、私には上品さの欠片もないし、綺麗さは……そこそこだけど」

「……でも、諦めてないんだ」

「そうよ。だって、夢だから」

 

 やがて彼女は灯した煙草を足元へ転がっている灰皿へと押し付けながら、唇を開く。

 

「夢を語るくらいなら、それを叶えるために生きるなら、別にいいじゃない?」

 

 くすくすという小さな笑い声に耳を傾けていると、ふとその声が止んだと同時にフローラの視線を感じる。心なしか鋭くなっている彼女の双眸は、俺の手元にある酒瓶へと宛てられていた。

 

「ちょっと」

「何だ」

「酒、飲みなさいって言ったじゃないの」

「しかしだな、俺はあまり強くないんだ。知ってるだろ」

「だから飲め、って話じゃないの。言っとくけどね、私だって聞かれて恥ずかしい話もあるのよ」

 

 彼女の言う事をようやく理解して、改めて酒瓶の底に揺らめく自分の影を覗く。黒髪をぼさぼさに伸ばした男はひどくやつれた顔をしながら、その自分を飲み干した。

 喉に流れる熱い感覚に流されそうになって、頭がくらくらと揺れ始める。空になった瓶を机の上へ投げると、強いまどろみが襲ってきた。

 

「…………」

「…………」

 

 …………うん。

 

「…………んー……」

「……ほんとに弱いんだ」

「そうなのよ。ほんとに、ああいうところはなんか可愛いのよね」

 

 既に二人の輪郭がぼやけ始めている。

 

「……ねえ、ジーナ」

「なに?」

「あんた、カインのこと好き?」

 

 声は聞こえてくるけどその中の意味は分からなくて、ただ呼ばれたような名前に、ふらふらとした視線を投げる。

 

「は、えっ? …………その、それ、って」

「私は好きよ、カインのこと」

「そ、そうなんだ……その、いつから?」

「初めて一緒に寝た時からね。ほら、あいつ顔も良いし、根が優しいでしょ? だからそれにやられちゃってさ。それ以来、あいつがきた時にはいつも、私が相手してるのよ」

 

 フローラの語りが頭へ響く。柔らかでけれど高い、蕩けるような声は、いつもの彼女であった。

 

「だからね、もう少し仕事が落ち着いたら、カインと結婚しようと思ってるの」

 

 誰、だろう。

 ふらふらとした意識の中で、そんな声が響く。

 

「えっ」

「あいつさ、結婚したらけっこういい旦那になりそうじゃない? まあ、いつも不安なのは分かるけどさ。でも優しいし、いつでもこっちのこと気遣ってくれるし」

「それは、そうだけど」

「それに、もしかしたらね。カインが私の王子様じゃないのかな、ってたまに思ったりするのよ。恥ずかしいわよね、こんな年になってそんなこと」

 

 夢の話が、聞こえてくる。

 聞こえてくる言葉は、頭の中で溶けていく。

 

「…………だめ」

「ん?」

「駄目だよ」

 

 ただ、その呟きだけは、確かに聴きとることができた。

 

「ダメなの? なんで?」

「……分からない。けど、カインと結婚するのは、駄目」

「どうしても?」

「うん」

 

 こくりと、強く彼女が頷くのが見える。

 

「……カインと、一緒にいたいの」

「いつまで?」

「ずっと……いつまでも」

「……そっか。じゃあ改めて聴くけど、カインのこと、好き?」

「そう、なんだと思う」

「……ふふ、それなら邪魔しちゃダメね」

 

 笑う声が聞こえていた。

 

「それで、そこからどうするの?」

「………………そこから?」

「そうよ。大切なのは、そこからじゃないの? カインと一緒になって、それから何をするの? 手をつなぐとか、キスするとか。買い物するとか、遊びに行くとかさ」

「……いいの?」

「何がよ」

「そこから先を、望んでもいいの?」

「ええ、勿論」

「……我儘、じゃないの? あたし、こんな風になって、それでも……そんな夢を見ても、いいの?」

 

 ふわりと、一つ。

 

「それがあなたの、したい事なら」

 

 包み込むような声色で、そう言葉が放たれる。

 

「…………さん」

「え?」

「お花屋さん……カインと、一緒に」

 

 くすり、と微かな声が聞こえていた。

 

「朝、弱いからさ。私が起こしてあげて、その間に朝ご飯も作ってあげて……そこで一緒に食べて、ゆっくりして」

「うん」

「それで、花……フレシアとか、ローティゼリアとか、育てたいの。ちゃんとお水を上げて、花を咲かせるように育ててあげて、さ」

「それから?」

「……花束。みんなに、花束にして育てたお花をあげたいな、って。カインと一緒に育てたお花を、みんなに見て貰いたいから。お花の綺麗さを知ってほしいから」

「素敵じゃない」

「それから、それから…………」

 

 ぴたりと、言葉が止む。

 

「……そっか」

「どうしたの?」

「見つけ、られた。見えなかった……諦めてたから、分からなかった」

「……うん。そうだったのかもね」

「でも私、見つけられた。諦めないのなら、夢を見れた」

 

 最後に聞こえてくるのは、微かなささやきで。

 

 

「私、カインと――」

 

 

 深い暗闇に、意識が落ちていった。

 

 

 朝焼けは霞み、青白い空気が辺りを漂っている。けれど頭はがんがんと荒く金を鳴らしていて、響く痛みに思わず壁へ手を付ける。

 朝の路地裏はけれどやはり暗闇に包まれていて、少しだけ涼しいような風が吹き抜けていた。

 

「……飲み過ぎた、か」

 

 何も全て呑まなくてもよかったのだろうに、けれどそれで彼女は許してくれそうも無かった。

 お蔭で昨日はそこから何も記憶が無いし、早く起きるのにも苦労した。というより、話を聞かれたくなかったら何か他に方法があっただろうに。どうして俺だけが被害を受けなければいけないのか。

 そんな事を思い浮かべていると、ふと声が重なる。

 

「なー」

 

 足元から覗くのは、黒い毛並みの小さな猫だった。

 

「お前、は」

「なぁー」

「……そうだな。お前を見捨てる訳にも、行かないか」

 

 ぱちぱちと目を瞬かせている猫へ、手を伸ばす。

 

「なーぁ」

 

 腕の中に収まっているそれは、やはりいつものように何もわかっていないような顔で、俺の顔を見上げていた。そうして、これだけ簡単に手が届くことに、俺は心のどこかで疑問を浮かべていたのだと思う。

 この小さな命に手が届いて、どうしてジーナへ手が届かなかったのか、そう思うとまた、怒りのような後悔のような感情が湧き上がっていった。

 けれどそれを、どこかへ吐き出すこともできなくて。

 

「誰も、いないか」

 

 いつもの扉に手をかけると、その先にはやはり、見慣れた光景が広がっていた。

 必要なものは、金だった。俺にはあまり価値の分からないもので、彼女にとっては絶対の価値を持つもの。その違いは、どうやっても理解できるものではないように思えた。

 

「なーっ」

 

 そんな声を上げながら小さな猫が俺の腕から飛び降りて、一目散に部屋の中を駆け巡る。そうしてたどり着いたのは机の上で、そこにある一際大きな皮袋へとその身を投げると、じゃらじゃらとした音を立てながら、猫はまた鳴き声をあげていた。

 

「なー」

「……しっかり入ってろ。途中で落ちるかもしれないから」

 

 机の上に置かれた袋を手にかけると、ずっしりとした重みが感じられる。

 

「よう」

 

 かけられた声に振り向くと、目の前にはナイフを構えたリヒトーフェンが立っていた。

 

「……いつから」

「昨日の夜くらいからか? まあ、そこまで時間はかかってない。心配してくれなくてもいいぜ」

 

 こちらへ銀の刃を向けたまま、彼が部屋の中を歩いていく。机の上に置かれていた携帯食料を軽くつまみ上げると、それをおもむろに自分の口の中へと放り投げた。

 

「朝、食ってないんだ。食べないと一日やってられない体質でな」

「……何の用だ」

「単純だよ、仕事の話だ。俺とお前で、それ以外をしたことあるか?」

 

 壁に体を預けながら、リヒトーフェンが語り始める。

 

「仕事を頼みたい」

「……前の案件は、もういいのか」

「ああ、いいんだ。解決した。全て、丸く収まった」

「どうして教えない」

「一つ、教える必要がないから。二つ、教えたらまずい事になるから」

「…………どちらだ」

「両方だ」

 

 くるくると手の内でナイフを遊ばせながら、リヒトーフェンがそう答える。

 

「それで、仕事の内容だが」

「おい、まだ話は――」

 

 

「ジーナを殺せ」

 

 

 ――――――――は、?

 

「殺して、死体を森に埋めろ。ああ、顔を分からなくしてくれれば、河に流してくれても構わない。鳥に食わせても、まあ問題ないだろう。とにかく、彼女が居た痕跡を消せ」

 

 理解が追い付かなかった。彼の言っていることが、分からなかった。

 酒がまだ残っていたのだろうか。俺はあの手のものは弱いから、もしかしたらこれが夢なのかもしれない。二日酔いというのも聞いたことがあるから、もしくはそれなのだろう。だから、こうして感じる殺意も、握った拳の痛みも、全て幻なのだから。ああ、そうだ。そうに決まっている。こんなものが現実なんて――

 

「…………おい、やめてくれよ」

 

 気が付けば、押し倒した彼の顔の横に、ナイフを突きたてていた。

 

「どういうつもりだ」

「簡単さ。彼女がいると、色々とウチにとって都合が悪いんだ」

「貴様等のために、彼女を殺せって言うのか」

「ああ。そう、お前に命令してる」

 

 振り上げた手を、彼の肩へ突きたてる。

 

「ぐ、っ…………!」

「誰だ? いや、何だ? 何がお前の後ろで動いている?」

「言え、ねえな。許されてねえ。言った俺が痛い目を見るから」

 

 リヒトーフェンはいつもの悪戯めいた笑顔を浮かべていた。

 

「さあ、どうする? 依頼主が誰かも分からなくて、自分が命を賭して守っているヤツを、人を殺せないと分かっているお前の手で殺せ、って仕事だ。受けるか?」

 

 そんなもの。

 

「答える必要があると思うか」

「…………それでいい」

 

 先程とは違う、諦めたような笑みを浮かべて、リヒトーフェンはそうつぶやいた。それが一瞬どんな意味なのか分からなくて、けれど体はどこか力が入らなくて、跨ったリヒトーフェンの上から足をどけていた。

 

「ああ、クソ……本気でここまで刺すヤツがいるか、馬鹿」

「……何のつもりだ? お前は一体、何をする気だ?」

「なに、単純さ。お前は組織のボスである俺を裏切った、ってわけだ」

「それで、その裏切り者は殺すのか」

「まさか」

 

 よろよろと立ち上がりながら、リヒトーフェンが肩に刺さったナイフを抜き取る。赤い液体が床の上へ滴り落ちた。

 

「裏切り者なんて知らねえな。勝手にどっかにいって、くたばっちまえばいいさ。そんなものを追う時間もこっちには惜しいんでね」

「……それは」

「ああ。お前との契約はもう今日でおしまいだ。あばよ、カイン」

 

 唾を地面へ吐き捨てて、リヒトーフェンが口にする。

 

「それで、今ここにいるのは、昔に職場を同じにした旧友、ってわけだ」

「……なに?」

 

 そうやってリヒトーフェンは自らの懐を探りながら、手に取った何かをこちらへ投げ渡す。それは一見すれば何かの札のように見えて、裏を返すとそこには黒い鷹の模様が描かれていた。

 

「西の門だ。話は通してある。それを見せればいい」

「……何故だ? どうして手を貸す?」

「なに、昔の友人に手土産を渡しちゃ不思議かよ。俺はな、友人関係を大切にする男なんだ。それがたとえ、忌々しい裏切りモンだとしてもな」

 

 へへ、と疲れたような笑みを浮かべながら、リヒトーフェンがこちらを向き直る。薄汚れた灰色の瞳は、けれどどこかに安らぐようなものを感じさせた。

 

「優しすぎたんだよ、お前は」

「優しすぎる?」

「ああ。人のひとりも殺せないで、誰かれ構わず手を伸ばして。本当、損な生き方してるよな、お前って」

 

 損、なのだろうか。それとも彼がそう言っているだけなのか。

 これ以外の生き方を、俺は知らなかった。こう言った生き方しか、できなかった。

 

「来るべきじゃなかったんだ。お前みたいな人間を、引き連れて来るべきじゃなかった。だから、高い金を積ませれば勝手に逃げて行くと思ったんだ。けれどお前は、ここにいることを望み続けた。こんな薄汚れたクソみたいな世界で生きて行くことを、良しとしたんだ」

「そこでしか、俺は生きられないから」

「そんな訳があるか。いいか、人間ってのはな、生きようと思えばどこでも生き抜くことができるんだよ」

 

 それはどうやら、彼自身の言葉らしかった。

 

「憧れてたんだ。お前みたいな生き方を、守るべきものを見つけた喜びを」

「…………」

「そう、なってみたかった。俺には金以外に何もない。愛情も、優しさも、全部無くしちまった。けれどお前はそれを持っていた。だから、なんだろうな。ここまで手を貸す理由は」

「……後悔してるのか?」

「いや、違うな。今は役目を果たせたと思っている。満足してるよ、お前をここから追い出せて」

 

 言葉とは裏腹に、声色は優しかった。

 

「お前の居場所は、もうここじゃない」

 

 

「カイン」

 

 扉を開いた先にあったのは、この前の時と同じような、小汚い白い塊だった。

 

「また、起きてたのか?」

「寂しかった」

「……すまない。でも、お前を連れては行けなかったから」

 

 かがみこんで布の上から頭を撫でると、白い布の向こうにいる彼女は、くしゃりと崩れるような笑みを浮かべていた。

 

「仕事の話だったんだ。けれど、これで最後だから」

「最後?」

「ああ。もう辞めてきた。いや、正確には辞めさせられた、か」

「そっか」

 

 慈悲なのだろうか。それとも、彼の自己満足か。

 

「もう、カインが傷つかなくていいんだね」

 

 けれど、これでジーナが救われることは確かだった。

 

「……すこし、話をしよう。これからの」

「これから、って」

「ここを抜け出した先のことだ。いつまでも居るわけにはいかないだろ?」

 

 折った膝をもう一度伸ばすと、彼女も同じように左手を地面へついて立ち上がる。そうして隅のほうにある机へと歩いて行くと、彼女も俺の後ろをとことこといったようについてきた。

 

「この街を出よう」

「……できるの?」

「だからそのために、持ってきた」

 

 手に握った袋を机の上へ置くと、ずん、といった重たい音に、高い鳴き声が重なる。不思議がってジーナが首を傾げて居ると、開いた袋の口から、黒い影が飛び出した。

 びく、と体を震わせながらジーナは胸元へ手を寄せて、その物体を受け止める。

 

「なー」

「…………あ、はは。久しぶりね」

 

 ごろごろと喉を鳴らす子猫に、ジーナが笑いながら声をかける。その時だけ、その猫の顔がどこか安堵しているように見えた。

 

「……うち、動物は禁止なんだけど」

「なら、追い出してくれ。その方が都合がいい」

 

 いつの間にかドアに肩を寄せて居るフローラへそう告げると、彼女は呆れたように嘆息を吐いた。

 

「本当、あなたって勝手よね。一晩部屋を貸せ、って言ったと思ったら女まで連れ込んできて。それで次の日には勝手に出て行っちゃうんだから」

「すまない。でも、それしかできなかったから」

「……ふふ、そうね。あなた、それしか知らないものね」

 

 くすり、と笑みを浮かべながら、フローラが伸ばした指を俺の頬へ伝う。既に傷は赤く濁りながら固まっていて、けれどそれを彼女はいつくしむようにながら目ながら、その薄い唇を開く。

 

「いつ出るの? 今から?」

「いや……少し、時間を置く。リヒトーフェンが動いたとなると、何かしら警戒されるから、まだ一日か二日はここに」

「そう。なら好きに使いなさい。ただし猫の毛の処理はしておくように」

 

 それだけ残して、フローラはぱたりと扉を閉める。過ぎ去る足音とともにいつのまにか俺の後ろに隠れていたジーナがひょっこりと顔を出し、その手の中からまた子猫が顔を出した。

 

「この子、ここに居ていいの?」

「ああ。ちゃんと世話さえすれば」

「そっか」

 

 小さな頭を指先で撫でながら、ジーナが声をかける。

 

「よかったね、居られる場所があって」

 

 その笑顔には、安らぎを求めるような、けれどどこか憧れるような色が灯っていた。

 くしゃくしゃと撫でられる猫は、少し鬱陶しそうにしながら、手のひらの中で首を振っている。

 

「なー」

「あっ、ちょっと」

 

 やがて耐えかねたのか、それはぴょい、とジーナの手から飛び出して、床の上へと足をつける。そんな猫にジーナは声をあげながら――ふと、体をゆらりとふらつかせた。

 

「――――あ、れ?」

 

 地面へと倒れ込む彼女の像が、夢のようにゆっくりと俺の瞳へ移る。

 

「ジーナ?」

 

 そう声をかけても、帰ってくるのはくぐもった呟きで。

 

「カイン……? どこ…………?」

 

 白い毛布を被された彼女に手を伸ばそうとして、それが宙を掠めてゆく。次の瞬間、胸元に強い衝撃が走って、それが怯えた顔を布で隠しているジーナだと気づく頃には、俺は天井を見上げていた。

 俺の上へと細い脚で跨りながら、彼女がはたと声を上げる。

 

「カイン!? カイン、どこ!? ねえっ、カイン!? どこ行っちゃったの!? ねえっ!」

 

 俺の体の上で、俺の胸を強く握り締めながら、彼女は俺の名前を呼んでいた。

 

「ジーナ、落ち着け」

「行かないで……や、いやっ……! 一人に、しないで…………どこ? どこにいるの? カイン……カイン、っ……!」

「大丈夫だ。ここにいる。布で隠れてるだけだろ、ほら」

 

 安らげるように、優しく語り掛けながら、かたかたと震えたままの彼女を撫でる。

 そうして俺は、被された白い布をゆっくりと手にかけて――

 

「ぃ、ゃ……いやだ、っ…………カイン…………!」

 

 その右目に、虚ろな灰色が映っているのを見た。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『巡って、そして』

 

 小さく縮こまるジーナに、ふさり、と優しく白い布をかぶせる。

 

「いいか、できるだけ顔を晒すのは避けろ。どこで誰がお前のことを見ているか分からん」

「……うん」

「声をかけてくる奴がいたら、全員ジーナを狙っていると思え。たとえ逃げたくなっても、絶対に俺から離れるな。必ず守るから」

「わかった」

 

 ぎゅ、と頭を覆う布を握りながら、ジーナが小さく首を縦に振る。

 

「それと、これも」

「…………」

 

 そんな彼女の左手を優しく取って、その手のひらに懐から取り出したそれを掴ませる。小さな指に包まれたそれは銀色の光を放っていて、短い、けれど確かな鋭さを持ったそれには、ジーナの不思議そうな表情が映っていた。

 

「何が起こるか分からない。おそらく、それを使う時は最後の手段になると思う。俺だってそうなりたくはないけれど……その時は、来る」

「……わかった」

「念のために、いつも持っておけ。誰かが近づいて来たら、すぐに刺せるようにな」

「…………」

 

 ぼうっと、した碧色の瞳と、色を失った虚ろな瞳が短剣を見つめている。そんな、何かに堕ちていきそうな彼女を引き上げるように鞘を手渡すと、ジーナはまた同じような色に染まったまま、俺の事を見上げていた。

 

「……ねえ、カイン」

「どうした?」

「私たち、その……上手く、言えないんだけど、なんだか……」

 

 そう言葉を詰まらせる彼女を、優しく抱き寄せる。

 

「怖いのか?」

「……うん」

 

 微かに声をもらしたその背中を優しく何度か叩いてやると、身体に走っていた震えもだんだんと収まっていった。

 

「…………離れたく、ない」

「大丈夫だ。必ずうまくいく。俺を信じてくれ」

 

 わずかなこの時だけでも、たとえ変わることのできない俺でも。

 彼女が信じてくれるのなら、何処までも行くことができそうだった。

 

「行こうか」

「うん」

 

 白い布を少しかき揚げて瞳を見つめると、ジーナはさっきよりも少しだけ安心したような、安らかな笑みを浮かべていた。

 もう一度頭を優しく撫でてから彼女から離れて、机の上へ置いてあった袋へと手をかける。そうしてもう一度、その傍へ置かれていた鷹の札へと目を向けていると、静かにドアを開く音が後ろから聞こえてきた。

 

「もう行くの?」

「ああ。少し寄ってからになるな。今日の夜には発っている予定だ」

 

 声をかけてきたフローラに、向き直りながらそう答える。煙草の香りが、不安に震えて曖昧だった感覚を、確かなものに戻してくれた。 

 

「ほんと身勝手なんだから。ちゃんと準備とか、ぜんぶ終わってるの?」

「全て考えてある。行く道も、これからの事も、全て」

「まったく……あの子のこと頼んだわよ。あなたしかいないんだから」

「そう、だな。彼女だけでも、救わないと」

「……あんた、もしかして」

 

 それに上手く答えることは、できなかった。

 

「もう、会えないの?」

「きっと。戻ることは、ないと思う」

「……そう」

 

 答える彼女は、どうしてか寂しそうな色を灯していた。

 初めて見るそんな彼女に少しだけ驚いていると、フローラは俺の肩へと手を寄せながら、こちらへと踏みよってくる。嫌悪する香りはまた強くなり、けれどその中に少しだけ、甘い香りが漂っていた。

 

「寂しくなるわ」

「そうなのか?」

「ええ、とっても。大事な客がいなくなるのは、いつだって寂しいの」

「それは……その、すまない」

「そんな言葉だけで終わらせる気? もう会えないって言うのに?」

「でも、俺みたいな人間は、――」

 

 ――甘い香りが、いっそうと強くなる。

 

「これで、許してあげる」

 

 唇に、柔らかな感触が、一瞬だけ広がった。

 

「さ、行くならさっさとしなさい。あんまりモタモタしてると、手遅れになっちゃうわよ」

「……フローラ」

「これ以上言わせないでよ。これが、最後なんだから」

 

 顔を伏せていた彼女は、けれど何かを振り切ったようにして、こちらへ向き直り、

 

「好きだったのよ、あなたのこと」

 

 その笑顔はまるで、純粋な子供のような、輝きに溢れていたものだった。

 扉の向こうからは早く行く足音だけが響いていて、部屋の中にはじっとりと濡れたような静けさだけが残る。時間は迫っているけれど、どうしてかその足は重く、踏み出すのには時間が要るようだった。

 彼女の言葉が、心のどこかで、ずきずきと痛んでいた。

 

「……カイン」

「あ、あ」

 

 だらりと垂れた腕に、彼女の指が絡まる。心へと響く痛みは、だんだんと深くへ沈んでゆき、けれどその痕は決して消え去らないように思えた。

 伸ばされた腕を、固く握り締めて。もう、後ろを振り返ることもしなくて。

 

「行こうか」

 

 

「まだ分からないけど、おそらくアイゼンティアの後遺症だろうね」

 

 ぎぃ、と深く椅子へもたれかかりながら、クラウスは先日と同じように嘆息を吐いた。

 

「治らないのか?」

「それも分からない。なにせ、こんな症例は初めてなんだ」

 

 机の上に置いた書類を眺めながら、クラウスが口を開く。

 

「彼女の右腕に走っている毒が視神経まで伝ったのか、それとも別に調合されている薬のせいなのか、その薬とアイゼンティアによって生まれた成分によるものか。ま、言えることは僕の専門外、ってことだね」

「……そうか」

「すまないね、力になれなくて。医者も万能、と言う訳じゃないんだ」

 

 顔に影を差しながら、クラウスが対面に座ったジーナへと向き直る。右の眼に虚ろを灯した彼女は、その瞳で動かなくなった右腕をただ見つめていた。

 憧れの果てに訪れたのは喪失で、けれど彼女はまだ、夢を見続けられているようだった。

 

「どこか他に治せる医者はいないのか」

「さあねえ……僕もあまり詳しくはないから」

「どこでもいい。金もある。お前だけが頼りなんだ」

「専門外だ、とだけ言っておくよ。僕の力の範囲を超えている」

「けれど……」

 

 そう続けようとした俺の言葉を、クラウスはペンを指すことで遮った。

 

「ルーヴェルト」 

「なに?」

 

 唐突に出てきた名前に、思わず首を傾げる。うつむいていたジーナが、はたと顔を上げるのが、視界の端に映っていた。

 

「彼は植物薬学についてはかなり詳しいはずだ。それで他の国に招待された、という実績もある。そこに行けば、彼女も治せるかもしれない」

「……しかし」

 

 手にした書類をとんとん、と揃えながら、クラウスが奥の扉へと消えていく。そうして立ち上がったままのジーナへ目を向けると、彼女はひどくおびえたような様子で、白い布の端を固く握っていた。

 開かれた扉の向こうから、しかしクラウスの姿ではなく、声だけが響く。

 

「なに、大丈夫さ。実は僕も彼と面識があってね。腕は確かだよ」

「それは本当か?」

「ああ、本当だとも。僕を信じてくれよ」

 

 そこには確かな助言というよりも、まるで何かを無理やり読み上げているような、ぼんやりとした異質さが感じられた。中身のない声だけが、俺の首を締め上げるようにしていて。

 何かがおかしい。不穏な気配を感じる。

 

「カインっ! カイン、逃げよう!」

 

 腕を引かれる感覚も遠くなって、ただ虚ろだけが俺の心を満たしていく。

 

「思い出したの、ぜんぶ! あいつなんだ! 駄目だよカイン、早く行かないと!」

「あ、あ」

「殺されちゃうよっ! ねえっ! カインってば!」

 

どうしてか、また俺は暗闇へと落ちていく感覚をおぼえていて。 

 

「だから、君達は彼のもとへ行くといい。それで全て終わる」

 

 次に姿を現したクラウスは、その右手に治療用のメスを持っていた。

 

「――カイン!」

 

 がたん、と椅子を蹴る音がする。叫び声とともに、彼の体が揺れる。

 振り上げられた腕を左の腕で受け止めて、そのまま体をひねってつま先を踏み砕く。ぎ、と息の漏れる音を聴きながら背中にある彼の腹へと肘を打ち付けると、背中へとかかる重みが消えた。

 ぶつかった机の上の書類が撒き散らされて、けれどクラウスはそれをかき分けながら右手の小さな刃をこちらへと向けて来る。背中には、驚きで固まっているジーナの姿が見えたような気がした。

 

「っ、クラウス! お前、何を!」

「彼女を……彼女を連れ出せば、すぐに終わるんだ。だから……」

「終わる? 何が?」

「全てだよ、彼女が苦しむこともない。カインも……もう、逃げる必要はないんだ」

 

 だから――、と。

 向かって来る彼の体をかがみながら受け止めて、その膝を足の底で踏みつける。バランスを崩した彼の体を投げ飛ばしながら、けれどクラウスは何かに取り憑かれたように、机に手をかけながらこちらを睨み続けていた。

 

「どうしてだ? 彼女を救いたくないのか?」

「……それは、救いには見えない」

「そうか。君の目にはそう映るのか……」

「間違いなのか?」

「……いや、違う。とても、綺麗な瞳だ」 

 

 そうして口をつぐんだクラウスが、また地面を蹴る。彼我の距離はより近く、そしてジーナとの距離も近い。避けることはどうしてもできないように思えた。

 伸ばされた彼の手は、俺のほうへと伸びてきて――

 

「……、っ」

 

 右の腕へ痛みが走る。けれど、それだけ。

 伸ばした彼の腕を掴んで、そのまま右の足をもう一度、彼の腹部へ。飛ばされる彼の体とともに右腕から黒の血が飛んで、彼の白衣へ赤い模様を描いた。

 壁へ体をもたれかからせる彼の手首を強く踏みつけると、ころ、とメスが床へ落ちる。くすんだ銀色のそれを拾い上げると、それをびくびくと動く彼の手へと刺した。

 

「……かなわ、ないな」

 

 呆れたような、自嘲するような呟きが聞こえる。

 

「どういうことだ」

「……もう、終わりにしないか、カイン。君が傷つく理由はない」

「何の……クラウス、お前は何の話を」

「君は頑張ったよ。でも、どうにもならない時だってある。それが今なんだ」

 

 そうしてクラウスがふと顔を上げた時、俺は彼の右の瞳に、虚ろが灯っているのを見た。

 

「クラウス、さん」

「……ごめんね。僕でもこれは分からないんだ。完全に専門外。けれど、ルーヴェルトなら本当に理解していると思うよ」

 

 再び口にされたその名前に、顔が歪んでいることに気がついたのは、彼の視線のせいだった。

 

「脅されたのか?」

「そうじゃない。ただ……それが、彼女の救いだと思ったんだ」

 

 語るクラウスに、眉を顰める。

 

「救いだと?」

「考えてもみろ、彼女は一生、その目と腕をかけて生きていくことになるんだぞ? そんなこと、苦痛以外のなにものでもないじゃないか。それならいっそ……生きることから解放されることが、彼女にとっての救いだと、そう思ったんだ」

 

 彼の言葉の一つ一つが、理解できなかった。彼の言う救いが、俺にとっては決して抜け出せることのない、深い暗闇にも見えた。

 

「だから、ジーナを殺そうと」

「ああ。それ以外に僕には手の施しようがなかった。役目なんだよ、僕の。目の前で苦しむ人を救う事がさ」

 

 ――死とは、救いであるか。

 もし彼女が自らを殺してくれ、と頼んできたのなら、俺は彼女を殺していたのだろうか。それが彼女の救いになると、彼女自身すらも信じていたのなら、俺は彼女の首に手をかけていたのだろうか。

 そこから先のことは分からない。理解できるはずもない。

 けれど、それでも。

 

「それは…………それは、救いでは、ない」

 

 彼女がそれを望まないのなら、それが救いであるはずがない。

 

「君のような人間にとっては、そうなのだろうね」

 

 曇天の鈍い輝きが、俺に光を、彼に影を作っていた。

 

「君はいま、役目を持たない人間だ。それこそ彼女をあいつに引き渡せば、この辛い生活からも逃れることができる」

「そう、なのだろうな」

「……分かっているのに、どうしてそうしないんだ? どうして君は役目を背負っていないのに、彼女を救おうと全てを投げ出せるんだ?」

 

 そんな、こと。

 

「ジーナのことを、信じているから」

 

 同じ暗闇へと堕ちた苦しみを味わったから。そして、彼女ならそこから抜け出せるだろうと、信じているから。

 

「……愚かだ。そのために、そんな生き方をするなんて」

「愚かでもいいい。死んでもいい。けれど、彼女が救われるのならば、それで」

 

 それが、俺の願いなのだろう。それこそが、俺の生きる意味なのだろう。

 ――自分の全てが、分かったような気がした。

 

「……もう、いい。行きなよ。今ならまだ、逃げられるだろうし」

 

 溜め息の混じった声で、彼は呆れたようにそうつぶやいた。そうして右手に突き刺さったメスを勢いよく引き抜いて、そこに伝う赤い液体を白衣で強く拭い取る。

 怯えたように手を引こうとするジーナに、けれどまだ行くことはできなくて、足元に座り込む彼へと語り掛ける。

 

「お前はどうなる?」

「さあね。僕は何も見なかったし、君達にも会わなかったし、これは研究中に負った怪我になる。だから今話しているひとも、僕の知らない人間だ」

 

 かすれた声の答えに、黙って首を縦に振る。

 もう会う事も無いのだろう。彼の中でも、忘れ去られていくのだろう。

 どうしてか、とても寂しかった。

 

「ジーナちゃん」

「……なに?」

「どうか、幸せにね」

 

 その声を思い出すことは、もう能わない。

 けれど、最後に見た彼は、とても明るく、和やかな笑みを浮かべていた。

 

 

 いつもと変わらない人ごみの中を、ジーナを連れて歩いてゆく。

 なるべく日陰の側ではなく、行き交う人々の中へと紛れるように。ふと、人々の隙間から見える路地裏には、腰に長剣を帯刀した、赤い服の騎兵が入っていくのが見えた。

 いつもの景色なら決して目にすることのない、紅の鎧。それがルーヴェルトの持っている私兵だということを理解するのに、時間はいらなかった。

 

「……顔、隠してろ」

「ぁ」

 

 少しだけ見えた金髪も覆うくらいに白い布をかぶせて、再び彼女の手を引きながら雑踏の中へ。こちらを少しだけ不審そうに見つめてくる人々も、また別の路地で見かけた騎兵も全て無視して、西へと歩みを進めてゆく。

 そうして進んだ通りの突き当りを曲がろうとして、すぐに足を止めると、進んでいたジーナがわふ、と小さく声を上げてぶつかってきた。

 

「か、カイン?」

「戻るぞ、少しまずいな……」

 

 戸惑っているジーナの手を引いて、来た道を戻り、最初に見つけた路地裏へ。既に衛兵が巡回したあとらしく、撒き散らされたゴミの山をまたぎながら、奥へ奥へと進んでゆく。

 曲がり角に見えたのは、こちらへと進んでくる騎士の集団だった。それも、出会ってしまったら必ず逃げなければいけないような、力の差を見せつけられるくらいの、鎧の集団。

 そうして俺達は今、偶然誰もいない路地裏を、一目散に奥へと駆けていく。街の喧噪は妙に遠くに聞こえていて、握る彼女の手が震えているのが伝わってきた。

 

「カイン?」

「…………」

 

 たとえその思惑に逆らったとしても、あの大勢を相手に立ち回れるほどの力は持ち合わせていない。けれど来た道を戻って逃げようにも、先程の兵と相見えるだけであって。

 打つ手はなかった。こうするしかなかったのだろう。けれどそれも、彼の手のひらの上の事だと思うと、歩む足はだんだんと遅くなってゆく。

 やがて止まったその場所は、何処とも知らぬ冷たい壁の中で。

 

「ジーナ」

「…………いや」

「聞け。頼むから聞いてくれ」

「聴きたくない…………聴きたくないよ」

 

 何かを拒むようにして白い布を被る彼女の肩へ、強く手を置いて。

 

「お前だけでも逃げろ。俺だけ最低で六、七人は倒せる。そうすればお前ひとりでも抜けられるはずだから」

「……カインは、どうなるの」

「死ぬのだろうな。けれど、お前が助かるのなら悪くない」

 

 全てを投げ出せるという言葉は、やはり嘘ではなかったのだろう。

 今の心を埋め尽くしているのは後悔でも恐怖でもなく、ただの憧れなのだから。

 

 

 

「居たぞッ! 例の二人だ!」

 

 暗い壁に挟まれて、突き刺すような声が響く。

 そうして次に見えたのは、すらりと伸びる、銀色の長い刃で――

 

「ジーナ! 走れッ!」

「…………っ!」

 

 息をのむ彼女の手を引いて、地面を蹴った。

 数では大きく劣っているけれど、地の利はこちら側にあった。おそらくあっちは、こんな小汚くて薄暗い道など通ったことのない、太陽の下で生きてきた人間なのだろう。それに比べると、俺たちの歩む足は彼らの数歩先を行っていて、聞こえてくる怒声が遠くなるのにはそう時間はかからなかった。

 

「カイン、どうするのっ!?」

「…………」

 

 問いかけに応えることもできずに、けれど足だけはどこかへ導かれるように進んでゆく。

 やがて周りに見えてくる景色は見慣れたものになってきて、どこか寂れたような、冷たい壁がまた俺達と太陽を阻んでいる。そこから見える雑踏はいつも通りに俺の瞳へ移っていて、そこにあったのは――

 

「アイゼンティア」

 

 静かに揺れる白い蕾と、眩いくらいの紅だった。

 

「大陸の非常に広くに分布している合弁花類だね。通常なら観賞用として用いられるけれど、時にその花弁に含まれている成分は毒物の効能を倍増させる薬品にもなり得る。またアイゼンティアの茎自体にも微量の麻痺毒が含まれていて、これも花弁に含まれる成分を通せば十分に実用可能な麻酔薬になるんだ」

 

 そうして、紅の瞳は彼女のことを見つめていて。

 

「彼女のようにね」

 

 握った手のひらから、力が抜けていくのを感じた。

 

「……何のつもりだ」

「最終通告さ。情け、とも言う」

 

 こつ、こつ、と足音を立てながら、ルーヴェルトはこちらへと歩んでくる。

 

「単刀直入にいこうか、カインくん。彼女をこちらへ引き渡してほしい」

「…………ジーナはどうなる」

「君の知るところではない。けれど、彼女を引き渡してくれれば、君に危害を与えることはもうないよ」

 

 その答えに、懐へしまっておいた短剣を強く握る。

 

「ジーナ、下がれ」

「でも、っ」

「いいから黙ってろ」

 

 震える彼女の手を離して、その手に持った袋を握らせる。そうして懐から取り出したナイフを逆手に握ると、、彼はにやり、と頬を吊り上げさせるような笑みを浮かべた。

 腰に吊った長剣へと、ルーヴェルトの手が伸びる。

 

「やはり君は、それを選ぶのか」

「…………それしか道が無いから」

「だろうね。君はそれ以外を知らないのだろう。僕と同じ位置にあるからこそ、それを選ぶのだろう」

 

 その言葉の意味を理解できることはない。今までも、これからも、彼の事を理解することはできないのだろう。

 けれど、ただ一つ分かるのは、その瞳にはやはり、俺と同じ何かが宿っているということだけだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『逃亡の果てに』

 

「ぁ…………、ぃ、ゃ……っ」

 

 とさり、と。

 人が座り込むとは思えない、とても軽い音が聞こえてきた。

 

「ジーナ」

「……ぃ、や……あいつ、わたし…………! あ、ぁ、っ…………」

 

 俺の声も届いていないようで、座り込みながら、彼女は手に持った白い布を深く頭にかぶせていた。そうすることでしか、彼女は彼女でいられないような気がした。

 そうして歯を食いしばりながら振り向くと、彼はにっこりとした笑みを浮かべながら、口を開く。

 

「かわいそうに、反逆罪だ」

「……それがどうした」

 

 握ったナイフへ力を込める。

 

「見せしめとして、この街で一番大きな広場で死刑にしよう」

「そうか」

「何もできずに死んでいく無様な姿を、多くの民に見て貰うといい。そうすれば悪事を働こうとする者も少なくなる」

「……本当にそうなるのなら、それでもいいのだろうな」

 

 俺一人の犠牲で、多くの人が光をみることが出来るのなら、俺のように道を踏み外さなくなるのなら、それでもいいのかもしれない。それだけの人が本当に救われるのなら、この身を捧げるのも厭わない。

 けれど。

 

「それじゃあ、ジーナが救われない」

「……この期に及んで、まだ彼女を救おうとしているのか?」

「ああ」

 

 それで彼女が救われないのなら――俺は、その全てを捨てるのだろう。

 

「今のこの状況じゃ、僕を殺さなければ君達は助からない」

「そうみたいだな」

「君に殺すことができるのかい? 人を殺したことのない君が、僕を殺せるのか」

「……そのために、いま俺はここにいる」

 

 手が震える。足がふらつく。

 けれどその目だけは、しっかりと彼のことを捉えていた。

 

「いいのか? 僕を殺してしまえば、君はもう以前の君ではいられなくなる」

「そう、だな……今のこの俺は、死んでしまうのかもしれない?」

「怖いのなら逃げてもいいんだ。そうすれば、君は生き残ることができる」

 

 かつ、かつ、と。

 ゆっくりと歩みを進めながら、ルーヴェルトは俺の眼を覗き込んだ。

 

「殺すことが怖いから逃げてきた。変わることが怖いから、逃げてきた。それなのに……今のこの時だけは、逃げないのか?」

 

 立ち向かう事が、怖かったのかもしれない。

 逃げていると言われれば、そうなのだろう。殺す事から逃げてきて、変わる事から逃げてきて、そして今も彼女を連れて逃げている。

 それしか、知らなかった。俺のような人間が何かに立ち向かうことが、誠実に正面から向き合うことが、酷く無意味な事に思えてきた。

 だから、逃げてきた。必死に、ただ愚直に逃げることだけを選んできた。

 ――けれど。

 

「逃げるのにも……もう疲れた」

 

 そうやって立ち向かう事で、彼女を救う道が拓けるのなら。

 今の俺がどこかへ消えるのも、目の前の誰かがどこかへ消えていくのも、全てが受け入れられた。

 

「……愚かだ。それこそ、君は救いようがない」

「それでもいい。彼女が救われるのなら」

 

 どれだけ俺が傷つこうとも、どれだけ俺と言う存在が崩れてゆこうとも。

 彼女が救われるのなら、それでもいいと、そう思えた。

 

「では――望みのとおり」

 

 すらり、と銀色の光が、視界へ映る。

 

「殺してしまおう」

 

 そう呟く彼は、頬を吊り上げながら笑っていた。

 振り上げられた剣をナイフで受け止めて、こちらへと伸ばされる刃をぎりぎりと伝う。鉄と鉄が擦れあう音が耳元から聞こえてきて、引こうとされていたあちらの左足を、強く出した右足で踏み抜いた。

 けれど踏み込みは薄くて、足を潰すまでには至らない。そのまま体を押し付けようとしたときに、身体を強く揺さぶられる衝撃が走って来て、それが右足で蹴られたのに気が付いたのは、下げた頭のすぐ上を刃が通り過ぎる時だった。

 石の壁をがりがりと、銀の剣が撫でる。

 

「クソっ」

 

 冷たい路地裏では、こちらの得物が上だった。

 勢いの落ちた彼の腕へと手をかけながら、そこへ強く自分の体重をかけていく。がくん、とした衝撃と共に彼の身体が崩れて雪、掴んだ腕を軸にして地面へ足を吐けると、そのまま反対の壁へと思い切り体を投げた。

 ばたん、と肉と石が打ちつけられる。彼の手から離れた剣と、彼自身が落ちてくるのは同時だった。

 

「躊躇いが……なくなった、か。本気で殺そうとしてる、ね」

「知るか」

 

 口の端から血を流す彼へと、ナイフを逆手握り直して答える。

 右の肘を勢いよくまげて、一歩ずつ強く踏みながら刃を握った手を伸ばす。左胸を目がけて向かっていく俺の腕は、けれど彼の左腕と重なるようにして阻まれて、そのナイフが彼の体へ届く事はなかった。

 そのまま体をひねりながら、ナイフを握った手へ左の手を重ねる。地面を強く踏み込みながら体重をかけるけれど、次に感じたのは鈍い痛みで、一瞬だけ暗くなった視界に、彼が反対の拳をもう一度振り上げているのが見えた。

 

「この、ッ!」

 

 降ろされた手をすぐに離した左腕で受け止めると、静寂が流れ始める。

 

「……どうして、彼女を選んだ?」

 

 交錯する瞳の奥には、何かを強く求める、けれどどこか縋るような、そんな歪な意志が映っていた。

 

「なら……どうして、君なんだ?」

「何、を」

「僕じゃ駄目だったのか……? なんで、君のような人間が、彼女を救うことが出来る? どうして、僕じゃないんだ? 力も、金も、権力も、全部持ってる僕じゃない……どうして……どうしてなんだよっ! なあ!」

 

 吐き出される言葉が俺には理解できなくて、けれどルーヴェルトはまるで駄々をこねる赤子のように、どこかの奥底から叫んでいた。

 突然の行動に少しだけ力が抜けて、腹に強い衝撃が走る。背中に走るのは壁へ叩きつけられた衝撃で、立ち上がろうとした瞬間に、顔面を強く蹴りはらわれた。

 見上げる彼の姿は、ゆらゆらとおぼろげに揺れ動いていて。

 

「救おうと思ったんだ。彼女を……僕の、民を」

「……は?」

 

 意味が分からなかった。

 ――その言葉を、理解したくもなかった。

 

「お前は、何を……」

「はじめは穏便に済ませようと思ったんだ。こういう仕事をしてみないか、って。そうすれば君も仕事が得られるし、金も稼ぐことが出来る、って」

「それで、本当に納得すると思ってるのか……?」

「ああ、勿論。そうしないと彼女を救う事が出来なかった。あのままの彼女を、放っておくことが出来なかったんだ。施そうと、思ったんだよ」

 

 縋るように、言葉は紡がれて。

 

「持つ者は、持たざる者へ分け与える。在るべきものは、在るべき処へ。そうしてみんなが仲良く……幸せを分かち合う。それが、正しいことじゃないのか?」

 

 その呟きは、まるで自分を無理やり納得させるような、ふわふわとした掴みどころのないものだった。

 

「僕は……僕は、ただ助けたかったんだ。けれど彼女はそれを拒んだ。それだから……僕は、ああすることしか、できなかった」

「それは――」

「狂ってるのか!? 誰かを助けようとする僕を、君は……貴様はッ! くるってると、そう言うのか!?」

 

 胸倉が掴まれて、限界まで見開かれた紅が視界を埋め尽くす。その奥に灯っている色は、俺の見たことも無い、決して理解できないものに思えた。

 

「なら、いまの彼女が幸せに見えるのか!?」

「君のせいだ! 君が救い出さなければ……彼女は全て手に入れられてたんだ!」

「…………なんだと?」

 

 冷たい、暗い部屋の中で、ただ一人。

 縋るように白い布を握ったまま、ぼろぎぬのように倒れている彼女を――

 

「あ、あぁぁああああぁあっ!!」

 

 喉が全て裏返るように絶叫して、気が付けば拳に痛みが走っていた。

 しかしそれもすぐに何処かへ消えて行って、倒れ込むルーベルトの上へと勢いよく伸し掛かる。そうして彼の服を引いて顔を上げさせると、そこへ振り上げた拳を、思いのままに叩きつけた。

 

「違うだろッ! てめェッ!」

「どこだ?! 僕のどこが間違いだって言うんだ!?」

「全部だろうが! なにが、何がジーナを救うだッ!? アレでお前は彼女を救ったって言うのか?! 誇りも、尊厳も、腕も、目も、ぜんぶ奪ったくせに、まだお前はそんな事を言うつもりか!?」

 

 泥と血が混ざり合っていた。お互いの顔を濡らす液体がどちらのものかもわからなくて、ただ俺は目の前の男を殴る事を止めなかった。拳が半分潰れかけていても、爪がぼろぼろに割れていたとしても、それを止めることはできなかった。

 

「アレだけ必死に生きてきて、夢を追っていた人間を突き落として、まだそんな事を言ってるのか!?」

「突き落とした!? 違う! 僕は彼女を助けようとしたんだ!」

「ふざけるな! それが違うって言ってんだろ! やっぱりお前、狂ってんだよ! 人間じゃねえ! お前は、おかしいくらいに狂って――」

 

 固い衝撃を覚えて、視界が壁に叩きつけられた。

 きんきんと金属音に似た音が耳の奥で響いていて、ゆっくりと立ち上がる彼は、泥まみれの手のひらに、ちのついた煉瓦の欠片を握っていた。

 感覚の消えた腕を地面につけようとするけれど、それはまた、鈍い音と共に遮られる。

 

「じゃあ、ああする以外に何ができた!? 貴様みたいな何もない人間が、どうやって彼女を救おうとした!?」

「夢を追えるようにした! 彼女の望みが叶うように、全て尽くした!」

「全て尽くしただと!? じゃあ今の彼女は何なんだ! 貴様には何もない! けれど僕には全てがある! だから彼女を救えたんだ! それなのに……それなのに貴様は、僕から彼女を奪い、過酷な道を歩ませたんだ! それが貴様の言う救いなのか!?」

 

 言葉と共に、何度も紅い煉瓦が打ちつけられる。意識はだんだんと遠くなって、頭の中を彼の泣き叫ぶ声だけが埋め尽くす。

 けれど、それでも、彼の事を受け入れることだけはできなかった。

 

「僕だ……僕の民を救えるのは、僕だけなんだ! 君のような何もない、無為な人間に救えるはずが無い!」

 

 からん、と指の先に、固い感触を覚える。

 

「それでも、僕は狂ってるか!? 彼女を救うために、君は僕を――」

 

 幽かに動く腕でそれを引き寄せると、強く握り締めた刃を、振り下ろしてくる彼の左腕へとあてがった。

 肉を裂く音と、胸の上に熱い何かが落ちてくる。

 

「あ、ああぁぁああああ!?」

 

 視界を一面の紅が覆い、それと同時に崩れ落ちるような悲鳴が聞こえてくる。顔を覆う鮮血を手の甲で拭うと、口の中に吐き気をもよおすような、とても濃い鉄の匂いが広がった。

 胸の上に転がる彼の手を側へと投げ捨てて、そのまま跨ったままの彼を蹴り落とす。ぬるぬるとした地面へと手をつけながらすぐに立ち上がて、彼の方へとナイフを向けた。

 

 

「……殺すのか」

 

 ――殺せるのか。

 

「そうしなければ、彼女が救えないから」

「君の救いは、人を殺す先にあるのか?」

「ああ」

「君が君でいられなくなるぞ」

「それで、彼女が救われるのなら」

 

 俺は、俺でなくてもいい。

 少なくとも、目の前の暗闇から逃れられるのなら、このいまの俺がどこかに行ってしまっても、それでもいいと思えた。

 

「それなら……僕は、君を殺そう」

 

 ゆらり、と片腕の無い影が動く。

 向かってくるその身体へナイフを伸ばそうとしたけれど、その腕に力を込めることが出来なくて。級に視界が赤と黒に染まり、彼が地面を蹴り上げたことに気が付いたのは、右の頬に強い衝撃が走ってからだった。

 ごり、と鈍い音が聞こえる。口の中に、何かの破片が転がった。

 

「どうした!? ほら、殺してみろ!」

「が、ッ」

「殺せ! 僕を殺して否定してみろよ! なあッ!」

 

 横たわる体に蹴りが入れられて、ごろごろと地面を転がっていく。血と泥の景色が広がる視界は既に閉じかけていて、意識も何処かへと飛んでゆきそうだった。

 

「彼女を救いたいんじゃなかったのか!? それともまた逃げるのか!?」

 

 ナイフを握る手にも、もう力は入らない。ぼんやりとした思考に、また彼の声が響いてくる。傷だらけの体は、もう動こうとはしなかった。

 変われない。変わろうとしない。変われる、はずもない。

 やはり俺では、彼女を救う事すらも出来なかったのだろうか。そうしてまた、彼女と共に、二度と光の当たらない暗闇へと堕ちていくのだろうか。

 最後まで信じた。それでも、届かなかった。何もない俺のままでは、彼女を救う事ができなかった。

 

 溶けるような思考と、霞んでいく視界が全てを埋め尽くしていく。

 そうしてそのの先に、ふと――白い蕾が、見えた。 

 

「…………そう、だ」

 

 揺れるその白い花は、まるで暗闇の中の光のように思えて。

 

「変われる、んだ……俺でも、まだ……!」

 

 ゆっくりと、その蕾が――開いていくのが、見えた。

 

「……目つきが、変わったな」

 

 綺麗だった。たった一輪で咲いた純白の華は、路地裏に差し込んだ光のようにも思えた。それは決して穢してはいけない神秘すらも感じて、その前で俺はただひとり、目の前に立つ男を覗いていた。

 左の胸の刺繍だけだ視界に映る。それ以外には、何も見えなかった。

 

「――――ぁ」

 

 声はもう、出なかった。ただ地面をける感覚と、握りしめた短刀の感覚だけが、その最後の俺を構成している全てだった。

 ただ、彼を殺そうとしていた。殺して、殺して、殺そうと、そう思っていた。殺すこと以外に、意味を感じられなかった。

 伸ばされた刃は吸い込まれるようにして左の胸へと伸びてゆき―― 

 

「あさ、いッ!」

 

 肉を突き刺した感覚と共に、腹のうちに強い衝撃を感じた。

 脳が強く揺さぶられて、身体も暴れるようにして後方へと飛んでゆく。打ちつけられた路地裏の突き当りで、ずるずると背中を擦りながら倒れ込むと、だらんと垂れた指の先に、白い花が咲いているのが見えた。

 

「届かなかった、な…………カイン……!」

 

 胸に突き刺さったナイフへと手を添えながら、ルーヴェルトは頬を吊り上げていた。ずるずると足を引きずって血だまりの中を歩き、そうして彼は倒れ込む俺の事を、ただじっと見下ろしていた。

 あと一つ。懐の中に、手を伸ばす

 

「ま、だ……」

「ああ、まだだ。まだ貴様を殺してない」

「まだ、お前を殺してない……!」

 

 取り出したナイフを両手で握りしめて、立ち竦む彼へとそれを向ける。朦朧とした意識の中で、ただ彼を殺したかった。違う。殺したかった。そうだ、殺したかった。今の俺には、殺す事しかできないから、殺した。殺そうとしたから、俺は殺して――

 脳が、もう考えることを止めていた。そのまま、崩れていくようだった。

 

「ころ、す……お前を、殺して……殺して、やる……! 殺してから、また、殺して……! 殺さないと、殺せないから……」

「……君のほうが、狂ってしまったのか」

「お前を、殺して……ころ、して……? 殺してから……ころ、す……!」

そうしないと……そう、しないと!」

「もう、いい。君も救おう。僕の民だ。僕のこの手で、君を苦しみから救い出して――」

 

 とす、と。

 彼の向こうから、微かな音が、聞こえてきた。

 

「な…………、? なん、で……!」

 

 突き出された剣は、俺の額の前でぴたりと止まっていた。そうしてずるずると剣が抜かれていくと同時に、彼の体は崩れるようにして倒れ込む。

 

「なん、で……なんで、僕じゃ駄目なんだ……! どう、して……君は……………………! 君は、っ!」

 

 限界まで見開いた眼を、ルーヴェルトがゆっくりと後ろへ向ける。

 果たして、その先に立っていたのは――涙を流すジーナだった。

 

「ああぁあああああぁっ!!」

 

 絹が裂けるような絶叫と共に、諸手に握った剣が振り下ろされる。何度も何度も肉を裂くそれは、次第に水音を立て始めて、やがて微かに動いていた指さえも切り落としていた。

 まるで獣が食い荒らしたような死体をゆっくりと踏みつけながら、ジーナが俺の方へと歩いてくる。放られた剣がからん、と音を立てて、彼女の翡翠の瞳が、俺の眼の前へと広がっていた。

 

「いや、だ……」

 

 ぽつり、と。

 

「殺しちゃ、やだ…………カイン、行っちゃ、やだ……!」

 

 糸が切れた人形のように、ジーナが俺の胸へと倒れ込む。露わになった膝が血で濡れるのも構わずに、ただ彼女は俺のことを抱きしめながら、泣き続けていた。

 

「……ジーナ」

「やだ、っ……行かないでよ、っ……! カインが、今のカインがいなくなっちゃったら、私、もう、っ…………!」

「……ああ。大丈夫だ。どこにも行かないから」

 

 小さな背中をぽんぽんと叩くと、彼女は頬に血の痕を残したまま、笑顔を見せてくれた。そのことがこれ以上にないくらいに嬉しくて、彼女をまた抱きしめられることが、俺の心の全てを満たしていた。

 その細い体の鼓動も、吐息も、全てを感じられていて。

 

「おいッ! いたぞ!」

「早く捕らえろ! ルーヴェルト様に差し出すんだ!」

 

 聞こえてくる声に、彼女はふらり、と立ち上がって。

 

「カイン、すぐに逃げてね。いつまで持つか分かんないし」

「……待て。ジーナ、何するつもりだ?」

「決まってるじゃない。私が時間を稼ぐから、あんたはちゃんと逃げなさいよ?」

「何を…………いや、何を言ってるんだ? そんなこと――」

「いいのよ、もう」

 

 くすり、と零しながら、彼女は俺に振り返って。

 

「もう、私はあなたに救われたから」

 

 微笑んだその先には、冷たい路地裏だけが広がっていた。

 

「こんな私を、信じてくれた……助けようと、してくれた。それだけで私は、もう……いっぱいだよ。初めてだったの、ここまで私を信じてくれた人なんて」

「いや、違う……それは…………駄目、だ……」

「だから、ごめんね。私も悲しいし、怖いけど……カインが死ななくていいなら、それでもいいかな、って。そう思えたからさ」

 

 嫌、だ。

 まだ……まだ何も、変わってない、のに。

 

 

「ありがとね、カイン――――大好きだった」

 

 

 必死に伸ばした血まみれの手は、過ぎ去ろうとしていく彼女の手を――

 

「ジーナっ!」

 

 もう、決して離さなかった。

 

「カイン、あんた何で――」

「まだだ! まだ何も終わってないだろ! 夢も、何も叶えてないんだろ!? それなのにここで終わっていいはずが無いだろ! なあ!」

 

 気がつけば両方の肩を掴んで、俺は彼女へ叫んでいた。あったのは、微かな怒りと、必死に彼女を救おうとする意志だけだった。

 これでいいはずがない。これで、彼女が救われたはずがない。まだ、まだ彼女は光を見ることが出来るのだから。

 

「逃げるぞ」

「逃げる、って……もう、どこにも……」

「どこでもいい。とにかく、ここから離れて――」

 

「なー」

 

 言葉を遮るように、そんな間の抜けた声が、二人の間に響く。

 降ろした視線の先に居たのは、開いたアイゼンティアの花を前足で弄っている小さな猫だった。するとそれは俺達にどうしてか気が付いたのか、その細い瞳をこちらへと向けたかと思うと、急に明後日の方を向きながら、とっとっ、と地面を駆けて行った。

 黒い影が向かった先は、此処よりも薄暗い、けれどどこからか幽かな光が差し込んでいるところで。

 

「行くぞ」

「……うん」

 

 掴んだ右手を、決して離さないように。

 広がる暗闇の中を走り続けて、そして――

 

 

 光が、見えた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『青空のアイゼンティア』

 

 ▽ 青空のアイゼンティア

 

 

 ――――花の、香りだった。

 

「起きた?」

 

 がんがんと響く鈍い痛みの隙間に、そんな声が聞こえてくる。どうしてか体は横たわっているらしく、けれど寝ている頭の後ろには、何か柔らかい感触を覚えていた。

 瞼を動かそうとすると、ぱりぱりと小さく肌を引かれる感覚が走り、剥がれ落ちた何かが頬を転がっていくのが分かる。そうして開かれた景色に映るのは、透き通るような日差しと、こちらを覗く白濁と翡翠の瞳だった。

 

「ジー、ナ?」

「…………そうよ。あんたを起こすやつなんて、私以外にいると思う?」

「そう、だな……そうだったよ」

 

 おぼろげな視界の中で、彼女の笑顔だけがくっきりと見えた。

 

「ここは……?」

「覚えてないの? 私たち、こいつのおかげで街から出られたのよ」

 

 すぐにジーナの顔が視界から消えたかと思うと、急にごわごわとした毛並みが俺の顔へかぶせられる。いきなりの感触に少しだけ声を上げて、眼の上に載せられたそれを両手でつかむと、それは少しの間抜けた鳴き声を上げながら、細い瞳で俺の事をみつめていた。

 

「なー」

「……そう、だったのか」

「驚きよね。人間ってその気になれば、一晩で山を越せちゃうもの」

 

 その呟きに、猫を腹の上へ落ち着かせながら、また彼女のことを見上げる。

 

「山……?」

「そうよ。私たち、ずーっと走って逃げてここで力尽きた、ってわけ。まさかあんた、ぜんぶ覚えてないの?」

「……うっすらと、しか」

「そっか」

 

 答えると、ジーナは少しだけ寂し気な笑みを見せながら、俺の頬をゆっくり撫でていた。どうしてか彼女の顔には少しの陰が差しているような気がして、けれどそれを追い求めることはできなかった。

 というよりも、今のこの状況は。

 

「ジーナ」

「何よ」

「その…………重くないのか」

「……ふふ、なにそれ。まさかあんた、誰かにこうしてもらうの初めてなの?」

 

 少なくとも、こうした景色を見るのは初めてだった。

 くすりと面白そうに噴き出した彼女は、けれど今のこの状況を止めることはなくて、何かを宥めるようにして俺の頬へと指を馳せたまま。

 

「どう? 居心地、いい?」

「……それは、その…………」

「なによあんた、女の子の膝に寝かせて貰ってるくせに、感想の一つも言わないわけ?」

「ああもう、分かった。分かったよ」

 

 込み上げてくる羞恥心にそう返すと、彼女はちょっとだけ悪戯めいた笑みを浮かべて、けれどすぐにじっ、と俺の瞳を覗き込む。

 

「……もう少し、このままで」

「うん」

 

 流れていく時間は、とても長く感じられた。

 吹き上げる風は金の髪を揺らし、さらさらとした葉と葉の擦れる音が、遠くから聞こえてくる。背中に感じるのは草花の柔らかさで、指の先で土を擦ると、暖かな太陽の感触が伝わってきた。

 

「これから、さ。どうしよっか」

「……そうだな」

 

 俺はその答えを持ち合わせていないし、これからもそれは見つからないのだろう。そうやって自らを動かさずに生きてきて、それしか知らない人間だから。

 けれど、彼女と共に居られるのなら――彼女がそばに居てくれるのなら、俺は何処までも行くことが出来ると、そう思った。

 

「……とにかく、動かないことには始まらないだろうな」

「体、もう大丈夫そう?」

「ああ……なん、とか」

 

 小さな手で背中をさせられて、子猫を手に抱いたままゆっくりと上体を起こす。途端にぐらりと視界がゆらついて、意識がおぼろげになったけれど、それもすぐに収まった。

 今まで寝ていたからよく分からなかったけれど、そこは小高い丘にかこまれた小さな草原であった。回りを見渡すとジーナの後ろには小さな森の入口が見えていて、おそらくそこから俺達は出てきたのだろう。

 吹き抜ける風が、とても優しかった。

 

「ここは……どこだろう」

「ずーっと西に走ってきたわよ。だからここは、あの街からちょっと行った山の、もっと向こう側ね」

「詳しいな」

「子供のころに居たから。んで、またもう少し先に行くと、私の故郷」

 

 ひょい、と示された指先は、けれどすぐに消えてしまう。

 

「でもあんなところに行く気はないわ。何の為に抜け出してきたかわかんなくなるし」

「なら……そうだな。もっと北に行こう。そこにいい国がある」

「なによ、ずいぶん自信あるじゃない」

「ああ。なにしろ、あそこは――」

 

 そう言葉を続けようとした瞬間に、手のひらに軽い衝撃を覚える。

 突然のことに呆然としていると、俺の手から飛び出した子猫は、一目散に草原を駆け抜けていった。

 

「あっ、ちょっと」

 

 ぴょんぴよんと走っていく小さな黒い影に、ジーナがふらふらと片手だけで立ち上がろうとして、そして崩した体へと手を伸ばす。

 

「……お前こそ、大丈夫なのか」

「もう慣れたわよ。それより、ほら。早く追わないと」

 

 恩人なんだから、と呟くジーナの体を支えながら、小さな姿を一歩一歩追いかける。緩やかな傾斜は吹く風に波立っていて、ぽつぽつと咲いている花々が、緑に彩りを与えてくれた。

 燦々と照らす太陽の下、立った二人で足並みをそろえて。

 そうして辿り着いた丘の上、その先に見えたのは――

 

「…………ぁ、」

 

 ――彼方までに広がる、アイゼンティアの花畑だった。

 

「き、れい……」

「ああ」

「…………綺麗だよ、カイン! ほら、ほらっ!」

 

 ぐい、と身体を引っ張られて、視界が一面の純白に染まってゆく。

 

「ジーナ?」

「あはは、あはははっ! ほら、カイン! もっと、もっと!」

「ちょ、ちょっと待っ……」

「こんなにいっぱいの花、初めてみたの! これ全部アイゼンティアよ!? すごい、すごいよ! こんな景色、めったに――――ぁ」

 

 ぽす、と。

 白い花びらがひらひらと舞って、その先に蒼色の空が浮かぶ。

 並びながら倒れ込んだその先には、空と白の景色が広がっていた。

 

「……ふふっ」

「…………は、は」

 

 気が付けば、彼女と一緒に笑っていた。笑うのがいつぶりなのかも、それすらも忘れるくらいに、声を上げながら笑っていた。

 嬉しかったのだろう。楽しくもあった。長らく忘れていて、今の俺には既によく理解できない感情だったのだろう。どうして今の俺が笑っているのか、その時には訳も分からなかった。

 けれど確かに言えるのは、その時に俺が、心から笑っているということだった。

 

「……結局さ、あんたは変わらなかったよね」

 

 ぽつりと、笑いつかれた息と息の間に、そんな呟きが聞こえてくる。

 

「……そうだな。変われなかった」

「ううん、違うよ。変わらないでいてくれた。私がどっかに行っちゃっても、どれだけ失っても、変わらずにあなたは私を見つけてくれた。ずっと、待っててくれたじゃない」

 

 そうすることが、俺の全てだったから。そうすることでしか、俺は彼女を信じられなかったから。

 

「あなたが居てくれたから、私はこうしてここまで来れた。あなたが信じてくれたから、私は変わることができた」

 

 ああ、そうか。

 俺は――

 

「そのままの、あなたで」

 

 紡がれる言葉が、風に揺れる。

 

「……ありがとう、カイン」

 

 白い花に包まれて、彼女は幸せそうに、笑ってくれた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

『空と白の景色』

第16話『青空のアイゼンティア』との同時更新になりますので、まだご覧になっていない方はご注意ください。


 ▽ / Blue and Clear sky

 

 

 蒼色のキャンバスに白の絵の具を撒き散らしたような、乱雑な夏の朝だった。

 差し込んでくる光が眩しくて、翳した手のひらは対照的に陰に黒く染まる。どうしてか目覚めた頭は驚くほどに鮮明で、遠くから聞こえてくる鳥の声に、朝の冷たい風を、五感全てで感じられた。

 被せておいた薄手の毛布を体から剥ぎ取りながら、まだ熱の籠っている体をゆっくりと起き上がらせる。一瞬だけ頭から血が抜けていき、視界がふらふらと揺れだけれど、窓から差し込んでくる光がその感覚を遮った。

 

「……そう、か」

 

 光だった。

 あれだけ夢に見て、届くはずもないと思っていた、光だった。

 けれど、彼女を信じ続けた。彼女が光の下で暮らせるように、愚直に、まっすぐに信じていた。逃げることしかできなかった俺でも、彼女と共に在るのなら、どこまでも進み続けられた。

 夢を追い続けて、諦めることもせず、光の指す方へと足並みをそろえて。

 そうして――ようやく、ここまで辿り着いた。

 

「……長かったな」

 

 けれど俺の心を満たしているのは、絶えぬ幸福だった。

 彼女の夢が叶えられた。それだけで、全てが救われるような気がした。

 

「少し、早いか」

 

 壁に掛けられた時計は、朝の七時を少し過ぎたくらいを指している。店を開けるまでにはまだ大分時間があるけれど、どうしてか今日はもう一度寝るような気にはならなかった。

 散歩にでも行ってみようか、と翳した手を下ろすと、ふとその先に柔らかな感覚を覚えて――

 

「……いよいよ、部屋を分けた意味が無くなってきたな」

 

 呆れと共に嘆息を吐き出しながら、真横に出来た毛布の膨らみへと手をかける。ゆっくりとそれをめくると、そこには腰までに伸びる金の髪が、きらきらと輝きを放っていて。

 そして、窓から差し込む太陽の日差しは――

 

「………………………………んー……ぅ……」

 

 幸せそうに眠るジーナのことを、とても明るく照らしていた。

 

 

 む、と座って頬を膨らませる彼女の髪に、手を伸ばす。

 

「なんか不満か」

「……カインに起こされるの、慣れないのよ」

「いいだろ別に、今日くらいは」

「嫌よ。毎朝あんたを起こすのが私の朝の日課なんだから」

「……毎日、助かってるよ。ありがとう」

「ふん、どうしたしましてっ」

 

 そっぽを向きながら渡された、白い櫛を手に握る。細く、癖の少ない髪へとそれを噛ませると、さらさらとした微かな音が聞こえてくる。

 揺れる金の糸を梳きながら、姿見を睨みつける彼女に、声をかけた。

 

「だいたい、昨日も一昨日も働きづめだっただろ。今日くらいはゆっくりしてもいいんじゃないか?」

「……そんな理由でお店空けられないわよ」

「別に、店を開くのを午後からにするでもいい」

「んー……まあでも、それだったら午前はお店の掃除とかしちゃうし。その間にお客さんが来ても、相手しちゃうだろうし。あんま変わんないわよ」

「そうか?」

「そうよ、だから大丈夫」

 

 うん、と頷く彼女の髪を、ゆっくりと一つに束ねていく。

 

「働きすぎるのも良いものじゃない」

「いいのよ、好きでやってるんだから。それに」

 

 尾の様に揺れる髪を翻しながら、彼女はこちらへと振り向いて、

 

「あなたが叶えてくれた、夢だから」

 

 そう、あの時と同じ様な笑顔を、俺へ見せてくれた。

 

「…………そう、だな。それなら、いいんだ」

「カイン?」

「いや……何でもない。ただ……ようやく、辿り着いたと」

 

 喜びだったのだと、思う。心の底から湧き上がってくるような、ふいに彼女を抱きしめたくなってしまうような、そんな感情だった。

 覗いてくる彼女の頬に手を触れると、その温もりが伝わってくる。たった一つ残った翡翠の瞳は不思議そうに俺を見上げていて、けれどそれを止めるようには見えなかった。

 だんだんと小さくなる距離に、彼女が薄い唇を噤む。けれど洩れた吐息はどこか熱のあるもので、微かに聞こえてくる鼓動が、高鳴りを増していく。

 

 そうして――

 

「なー」

 

 間の抜けた鳴き声が、ジーナとの間に響いた。

 

「あら、ローレン」

 

 腕の中へと潜り込んできた黒猫――ローレンを、ジーナが左の手だけでわしわしと撫でる。

 

「あんたも大きくなったよね」

「なぁー」

「ふふ、でもやっぱり何も考えてないのね。間抜け面、直ってないわよ」

 

 腕の中でじたばたとゆるく暴れるローレンは、やはりぽかんとした様子で、ジーナと俺の事を交互に見上げていた。

 

「……そうか。朝食、まだだったな」

「今日はどうする?」

「卵、まだあっただろ。それでいい」

「ん、わかった」

 

 ローレンを床へと下ろしながら、ジーナがゆっくりと立ち上がる。

 

「それにしても、ジーナ」

「何よ」

「なんで今日は俺のベッドで寝てたんだ」

「う」

 

 寝る時以外に、いつも俺の部屋にいるのはいい。俺が本を読んでいる間にそこで菓子を持ってきながら、花の図鑑を広げているのも、咎める理由はない。

 けれど、そうやって他人の布団に潜り込んでくるのはどうなのだろうか。

 

「なんか夜に用でもあったのか?」

「いや、ち、違うけど」

「それとも……寝ぼけてたのか? 疲れてるなら、やっぱり今日は午後からに……」

「ああいや、違う、ごめん。謝るから、その」

「……どうして謝る必要がある?」

「ぅ、あ、ぇと、……んと…………」

 

 だんだんと小さくなる言葉に、思わず首を傾げる。ふと見下ろしたその先では、ローレンが同じようにして、不思議そうに彼女のことを見上げていた。

 俯きたままの彼女の頬は、心なしか少しだけ紅くなっているようで。

 

「ね、寝られなくて……何度か夜に起きちゃって……」

「だから俺のところに?」

「うん、だって、その……寂しかったし……」

「……寂しい?」

「ぁ、ぃゃ…………」

 

 ふるふると胸の前で手を振るジーナは、やがてがばり、と顔を上げて、

 

「あーっ、もう! そう! そうよ! 最近カインと一緒に寝られなくて寂しかったの! だから勝手にあんたの布団に入ったの! これでいい!?」

「そ、うか……」

「だってだって、この前まで一緒に寝てくれたのに! 急に離れちゃうもん! 私が悪いの!?」

「いや、そういう訳じゃない……悪くも、ない」

「ならいいでしょ別に! それと! 今夜もあんたの部屋行くから! 一緒に寝るから! いいわね!?」

「……わかった…………」

 

 ずかずかと大股で歩きながら、ジーナはそう吐き捨ててばたん、と強く扉を閉めてしまう。後に残るのは静寂だけで、訳も分からず叫び散らした彼女にどうしていいか分かりもせず、気が付けば俺は足元の黒い影を見つめていた。

 

 ……………………。

 

「……何か、悪い事でも言ったんだろうか?」

「なー?」

 

 その時のローレンはどうしてか、少しこちらを馬鹿にしたような、呆れたような声を上げていた。

 

 

「ちょっとカイン、手伝ってくれる?」

 

 店の中に置いてある植木鉢の整理をしていると、外にいるジーナからそんな声がかかってきた。

 明るい黄色のシャツに、それを覆うオレンジ色のエプロン。水回りの整備でもしているのか、捲ったズボンの先からは白い脚が覗いている。

 

「どうした?」

「お花、持ってきてほしいの。そこに纏めてあるフレシアとローティゼリア。それと、奥に置いてあるフェティシアもお願い」

「フレシア……ああ、その赤いのか」

「そ。その隣のがローティゼリアね」

 

 白い鉢植えに収まっている赤と黄色の花を持ちながら、店の先へとそれを運ぶ。前の道路は少しだけ濡れていて、彼女が片手持っているジョウロを見れば、何をしているかは理解がついた。

 

「……フェティシアというのは」

「あー、カウンターの向こうにあるやつ。アルマリリー……ええと、紫のやつの右にある薄い赤の」

「分かった」

 

 こと、と両手に持った花を地面に置きながら、また店の中へと足を運ぶ。そうして紫色の花の隣にある赤い花を手で持つと、またジーナのほうへそれを持って行った。

 降り注ぐ日差しは暑く、じりじりと照り付ける光が目に差し込んでくる。

 

「……暑くないか?」

「今年は去年よりも暑いみたいね」

「気をつけろよ。あまり日の下にいないよう」

「大丈夫だって、大丈夫」

「それと、水分もしっかり取っておくように。何なら後でまた飲み物でも持ってくる」

「あーはいはい、ありがと」

「それと、少し帽子を…………」

「だーっ! 大丈夫だから! そんなに気になるなら一緒に水浴びでもしてみる!?」

 

 左の手に持ったジョウロを振りかざすジーナに、思わず俺も手を上げる。

 

「……ほんとに、大丈夫だから。この子たちに水あげたら店に戻るし」

「ならいい。飲み物でも用意しておく」

「それなら、奥に買っておいたお茶あるから。それ淹れといて」

「了解」

 

 そんなジーナの注文を受けて、また店の中へ。奥にある台所から二つグラスを取り出して、そこに紅茶と氷をそれぞれふたつ。からからと中の氷で音を立てながらカウンターにそれを置くと、店の外からジーナが帰ってくるのが見えた。

 

「あー、あっつ! やっぱ冗談じゃないわよこれ!」

「できるだけ外出は避けるといい。ほら、冷たくしておいた」

「ん、ありがと」

 

 こくこく、と小さく喉を鳴らしながら、ジーナがグラスの中を煽っていく。

 

「冷たいっ! おいしー!」

「無理しないようにな」

「大丈夫よ、今日はもう外に出る気ないし」

「なら良かった」

 

 そう応えながら俺も冷えた液体を口に含むのと、店の先の鈴が鳴るのは同じくらいだった。

 

「はい、いらっしゃいませっ」

 

 果たしてドアの前に立っていたのは、夏用の薄く白いドレスを着た、ジーナと同じくらいの歳の、一人の女性であった。背中まで届く黒髪はそのまま伸ばされていて、その上にはつばの広い白の帽子が深々と被せられている。

 上流貴族だった。それも、とびきり権力の強いもの。

 けれどジーナはそんな事を気にも留めず、むしろ顔をぱぁ、と明るくさせながら、彼女の方へとたとたと駆け寄った。

 

「フェリスじゃないの、いらっしゃい」

「はい、ジーナさん、それにカインさん。こんにちは」

 

 被った帽子をゆっくり外し、彼女――フェリスは頭を下げた。

 

「早いな、もう少し間が空くと思っていたが」

「はい。けれど、やっぱりあのお屋敷にいるのは退屈で。また来ちゃいました」

「ま、確かにあんながんじがらめのトコじゃね。いいよ、くつろいでって」

「ありがとうございます」

 

 どこから持ってきたのか、片手でずるずると椅子を引き摺りながら、ジーナがフェリスへと語り掛ける。また一つ頭を下げながら、フェリスはそこへと腰を下ろして、柔らかな笑みを浮かべていた。

 ふぅ、と息を吐く彼女のそばに、黒い影が現れる。

 

「ふふ、こんにちは。今日もいい毛並みですね」

「……ローレン、あなたには結構懐いてるのよね」

「昔、似たような黒猫を飼っていたもので……なんだか、とても懐かしい感じがします。ほら、この可愛い顔なんてそっくりで」

「……それ、絶対になんにも考えてないわよ」

 

 くしゃくしゃ、と耳と耳の間を撫でながら、フィリスはそう笑った。

 彼女がここへ訪れることは、珍しくなかった。何かしら暇があればとりあえず来るところ、のような認識らしく、少なくとも一週間に一回は彼女と顔を合わせているような気がする。

 貴族にしては珍しく、よそ者である俺達に対等に接してくれるような存在だった。また、年の近いジーナとの仲も良好であり、彼女が敬語を使わずに接しているのも、フェリス自身からの頼みであった。

 そうして、いつものように談笑を続けているときに、ふとフィリスが口を開いて。

 

「どうでしょう。お二人はもう、この国には慣れましたか?」

 

 その問いかけに、ジーナと顔を見合わせた。

 

「んー……ま、そうね。良いとこだと思うわ」

「ああ、今のところ不満はない。やはり、素晴らしい国だと思う」

「それなら喜ばしい限りです。かつての姉も喜びますから」

 

 目を伏せて頷く彼女に、ジーナがふと首を傾げる。

 

「姉? ちょっと待って、姉ってどういうこと?」

「はい。私の姉は、昔にこの国の改革を進めた人物でして……今ではもう亡くなっているのですが、それはもう素晴らしいお方でした。今はあのお方の妹として、この国を治めているのですが……ちゃんと、あのお方の後を継げるような国造りができているか、正直不安で……」

 

 知っている。

 誠実で、正直で、まっすぐな人間だった。そうして、必ず届くと光を信じて――また、俺の心に深く何かを刻んだ人間でもあった。

 

「あのお方のお蔭で、今のこの国があるのです。私も、国の皆も彼女に感謝しているのですよ。今のこの平和は、彼女がもたらしてくれたものなのですから」

「……いい人だったのね」

「それに……その傍でお仕えしていた、またある人にも感謝せねばなりません」

 

 …………。

 

「お名前まではお聞きできませんでしたが、その方もまたとても清らかな方だったと聴きます。まっすぐで、誠実で……尊い精神をお持ちになるお方だった、と。それと、その……とても、お似合いだったそうですよ?」

「…………」

「…………」

 

 ……こっちを見るな、ジーナ。

 

「……いけませんね、どうも湿っぽくなってしまって」

「いいわよ、興味深い話も聴けたし。後で聞くことも増えたし」

「…………勘弁してくれ」

「そうですね、ちょっと話題を変えましょうか」

 

 くすり、と目を細めて、フィリスが照れくさそうに笑う。

 

「その……お二人は、いつご結婚されるご予定なのですか?」

 

 突如として放たれたその言葉に、ジーナは一瞬遅れて、勢いよくグラスをカウンターへと叩きつけた。

 

「は、はぁ!? あんっ、ちょっ、あんたいきなり何言ってんのよ?!」

「何と言われましても……お二人はそういう関係ではないのですか?」

「どこがよ!」

「ですが、年頃の男女が一つ屋根の下……仲睦まじく仕事を共にしながら暮らすというのは、もうすでの夫婦なのでは?」

「あああぁぁうるさい! うるさいっ! 知らないもんっ!」

 

 真っ赤になって左腕を振り上げる彼女を、ひょい、と避けながらフィリスがくすくすと笑う。それはまるで新しいおもちゃを見つけたような、けれどどこか羨ましさを隠しているような、そんな笑みだった。

 そんな彼女とジーナのことを眺めていると、ふとフィリスの蒼い瞳がこちらを覗いていることに気づく。そうして突進していったジーナをひらりと避けながら、彼女は小走りで俺に近づいて、カウンターへと両の肘を乗せた。

 

「カインさん、カインさん」

「なんだ」

「本音のところはどうなんですか?」

「……本音、と言われてもな。あまりよく分かっていない」

 

 縁がないだけなのか、それとも俺の学が足りなかったのか。結婚と言う言葉に関して持っている知識は、驚くほどに少ない。

 けれど、それでもし彼女が幸せになるのなら――

 

「それなら……いいものだと、思う」

「それは楽しみですね」

「あーもうっ! あんたら一回黙りなさいよ!! ブッ飛ばすわよ!?」

 

 だんだん、と地面を強く踏みつけるジーナに、フィリスは小さな笑みを浮かべていた。その笑顔が、細くなった目つきが、どうしても彼女のことを思い出させていて、俺はそんな彼女をただじっと見つめることしかできなかった。

 まだ、心に残っている。深く、俺の奥底に焼き付いている。

 

「それでは私、この辺りでお暇させていただきます」

「あっ待てこのっ! 次に来るとき覚えてなさいよ!」

「ふふ、次に来るときが楽しみになりましたね」

 

 くすくすと、今度は彼女自身の笑みを浮かべながら、彼女はじっとこちらの方を見つめていて。

 

「さようなら、変わらないひと」

 

 ――――それは、

 

 そう言葉を続けようとしても、帰ってくるのは微かな鈴の音だった。

 店の中に広がるのはまるで嵐の後の静けさで、けれどそれが長く続く事はなく、ジーナは頬を膨らませたまま苛立ちの収まらない様子でこちらの事を見上げている。

 

「……それで、いつから気づいてたのよ」

 

 問いかけに答えるのに、時間はいらなかった。

 

「最初に見た時から、ずっと」

「何よ、それなら言ってあげたらいいのに」

「言っても何も変わらない。もう俺は彼女の知る人間ではないし……今はここでお前と一緒に花を売る、ただの人だ」

 

 そうやって彼女の作った幸せを感じられるのなら、それでいいのだろう。

 それが彼女の望みへと共に歩んだ人間として、ここに居られるのなら、それ以上のことはない。

 

「……本当、良いところよね」

「ああ。そうだな」

 

 思い出の中の彼女は、優しく笑っているような気がした

 

 

 夕暮れの空が雲の向こうまで続いていて、伸びる影が道路を横切っていく。

 出しておいた植木鉢も一通り中に入れてしまい、店先の看板を開店から閉店に。今日の客はフィリスも含めれば二十人と少しほどだっただろうか。季節の花であるローティゼリアが多く売れた日だった。

 稼いだ金貨を手帳に記して、カウンターの一番下の引き出しへ。ごちゃごちゃとしたそこに手帳を押し込むように入れると、ふとその奥に何か、引っかかる感触を覚えた。

 不思議になって手を入れると、感じたのは少し固い、布のような感触で。

 

「……ああ、そうか」

 

 二年前のあの日からずっと、言い出すことはできなくて。

 けれど――俺が、彼女の幸せになれるのなら。これから先も、彼女に幸せを届けられて、笑顔にすることができるのなら。

 

「…………」

 

 懐にそれをしまいながら、店の中を後にした。

 家の中の廊下を抜けて、店を閉じたことを伝えるために、突き当りにあるジーナの部屋の前へ。まだ新しい、鈍く輝くドアノブを押すと、それは何の抵抗もなく開いてくれた。

 

「ジーナ」

 

 がたん、と。

 姿見の前で、白い毛布の塊が揺れていた。

 

「……ジーナ?」

「見ないで」

「どうした? 大丈夫か?」

「見ないで」

「具合でも悪いのか? それならすぐ横になった方が……」

「見ないで」

「……できない。見せてみろ。そんな恰好してる方が心配だ」

「ぁ、ぃや、ちょっと待っ――」

 

 ふさ、と毛布を翻したそこに居たのは。

 アイゼンティアの花束を左手に抱えたまま、こちらを見上げるジーナの姿で。

 

「…………」

「…………」

「……その、えっと…………」

「いい。言わなくても、もう」

「な、何よそれ……あんたが理解する時って、だいたいロクでもないことが……」

「……花嫁」

「――――っっ!?」

 

 そう呟くと、彼女は花束を抱え込みながら、肩にかかった毛布を勢いよく自分へと被せてしまった。

 

「あーもうっ! 違う! 別に影響されたとか、ちょっといいかなー、とか! 前々から思ってたけど、なかなか言い出せないなー、とか思ってないから!」

「全部出てるぞ」

「だから違うって言ってるでしょ! それに、別にあんたと結婚したいわけじゃっ……な、ない……し……」

「……なら、これも必要なくなるか」

「えっ」

 

 懐から取り出したリングケースに、彼女は白い布の下から、翡翠の瞳だけを見開いた。

 

「……どうして、それ」

「……前々から思ってたんだ。これでお前が幸せになれるのなら、それが俺の望みだから。でも……俺ではお前の幸せになれるか分からないし、お前もそれを望んでいないと思っていた」

 

 傲慢、なんだろうか。それとも押し付けか。あるいは自己満足か。

 けれどそれで彼女が幸せになってくれるのなら――それ以上に、嬉しい事はなかった。

 

「本当は、髪飾りの代わりとして送るつもりだった。お前には白い花が似合うから。でも……ここまで話したなら、それももうできなくなった」

「……いいの?」

「それでお前が、幸せになってくれるなら」

 

 ぎゅ、と小さな指が、薄くかかる毛布を握る。

 

「その、あたし、あの……あんまり、料理とか家事とかできないし……」

「そのために毎日練習した」

「め、めんどくさい女なの、分かってるでしょ?」

「元気をくれた。こんな俺を、そのままで受け入れてくれた」

「…………本当に、私でいいの?」

「お前を幸せにしたい。今までも……これからも、それは変わらないから」

 

 変われないのだろう。変わる事など、できないのだろう。

 それが、かつて彼女が望んで――そして、今の俺が望んでいることだから。

 

「ふふ……それならもう、いっぱいだよ」

「いっぱい?」

「うん。だって、あなたが居てくれることが…………大好きなあなたと一緒にいられることが、私の幸せだから」

「……もう、離さない。これから、ずっと」

 

 被せられた白い布をめくって、その瞳をじっと見つめる。

 静かに光る銀の指輪は、ゆっくりとその細い薬指へと通されて。

 

「…………カイン」

「ああ」

「大好き、だよ」

 

 そう開かれた彼女の唇を、俺は――――

 

 

 

 『路地裏のアイゼンティア』  結

 




活動報告にて後書きを掲載しますので、宜しければそちらもご一読ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。