ゆるキャン△短編まとめ (パープルフレイム)
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「すっげー美人」

綺麗ななでリンです。


――ある日の放課後。

いつものように図書室の受付で本を読んでいると、机に本をドサッと置かれた。

見ると、なでしこ――各務原なでしこ――が子犬みたいな笑みを浮かべて言った。

 

「この本、借りまーす」

 

私は二度見した。というのも、

 

「なでしこ、本読むんだ。あんまりそんなイメージなかったから驚いたよ」

 

なでしこは照れくさそうに頬を掻きながら、

 

「普段あんまり読まないんだけどね。リンちゃんがいつも読んでる本がどういうものなのか、ちょっと気になっちゃって」

「……なるほど、そういうことか」

 

確かに本のタイトルを見てみると、そこには見覚えのあるものが一杯あった。

「徳川埋蔵金の謎」「未確認飛行物体の謎」「秘密結社の作り方」……。

こうしてみると、随分私はオカルト本を読んでるんだなあというどこか他人事のような感想が沸き上がってくる。

それを噛み殺すと、私はなでしこに向かって。

 

「これ、五冊も借りてるんだ。冊数制限ぎりぎりじゃない。大丈夫? 読み終えれる?」

 

学校図書館の冊数制限や貸し出し期間は学校によってまちまちだが、本栖高校の場合は上限五冊、返却期限は二週間だ。

本を読み慣れている人間にとっては二週間なぞ五冊読破するのに恐るるに足らない時間だ。だが本を読み慣れていない人間にとってはそうでもない。意気揚々と借りたものの二週間で一冊も読めませんでした、なんて話も珍しいことではない。

なでしこは胸を張った。

 

「大丈夫だよ! 確かに普段あんまり本は読まないけど、読むときは私、すっごい早く読めるんだよ!

目を輝かして「えっへん!」と言いたげなその姿は、まるで誉めてもらいたがりの子犬みたいだ。もし彼女に尻尾がついていたとしたら、今頃ぶんぶん振っていたことだろう。

しかし、私は不安にならざるを得なかった。

……大丈夫かな。読み始めてから数分もしない内に寝始めたりしないだろうな。

いや、多分大丈夫だとは思うんだけど。思い返せば麓キャンプ場のとき、なでしこがキャンプ飯を作ったときも最初は凄く不安だった。が、出来はそんな不安を吹き飛ばして余りあるものだった。

きっと今回も大丈夫だとは思う。思うんだけど……。

葛藤の末、私は、

 

「……読み終わったら、感想聞かせてね」

 

薄く笑って、本に貼られたバーコードを機械に通した。

ピッ、と小気味よい音が五冊分、図書館に鳴り響いては溶け込んでいく。

なでしこは嬉しそうに敬礼した。

 

「了解だよ、リンちゃん!」

 

 

 

 

それからしばらく経った頃、ふと私は外を見た。

闇というには赤色が混ざりすぎている、夜と夕方の狭間みたいな色が中庭に染み込んでいた。驚いて時計を見てみれば、いつの間にかもう五時。図書室を締める時間だ。

どうやら読書に没頭しすぎてしまっていたようだ。なでしこが借りに来てからは特に貸し出しも返却も来なかったし、読書に集中できたという環境もあるんだろうが、それにしても、と思わざるを得ない。

 

「……なでしこは何してるかな」

 

呟いた。

図書室を締める際は、室内に図書委員以外の人がいないか確認してからでないといけない、という規則がある。閉じ込められた、なんてことが無いようにするためだ。

だから何にせよ、図書室内をうろつかなければならないのだが。それを抜きにしても個人的にうろついていただろうと思う。

なでしこはちゃんと本を読んでいるのだろうか。大量の何回な文字列に打ちのめされ、惰眠を貪ることになっていないだろうか。……それとも、図書室で読むのを諦め、もう既に帰路についているのか、気になったからだ。

果たして、なでしこは。

席について、しっかり本を読んでいた。

遠くからなのでその表情は窺い知れないが、少なくとも寝ているということは無さそうだ。

 

「へえ」

 

思わず声に出る。

流石に帰ってはいないだろうと思っていた――図書室から出るとき、多分なでしこは私に一言話し掛けてくる筈だから――が、いつかの本栖湖のトイレ前のときみたいにぐーすか寝ている可能性はあると思っていたからだ。

まあ、杞憂だったようだけど。そういえば、なでしこが嘘を吐いているところを私は見たことがない気がする。同じ野クルでも千明や犬山さんは普通に嘘をこいているのをよく見るが、なでしこだけは一度もない。出来ないことを出来ないと言うことはあっても、出来ないことを出来ると言ったことは、思い返してみればなかった。

疑ってごめんね、と心の中で謝りながら、私は閉館時間であることを伝えようと近付いた。

 

息を呑んだ。

 

そこにいたのは、なでしこではあるけれど、なでしこではなかった。限りなくなでしこによく似た美人が、無表情で本に目を通していた。

……いや、普段のなでしこが美人ではないと言っている訳じゃないけど。ただ、普段の彼女は美人っていうタイプじゃないのだ。どちらかというと、若い子犬? よく動くしころころ表情を変えるし、天真爛漫という言葉がよく似合う元気娘。可愛いと思うことはあっても美人というタイプではない。

それが、こんなに美人に見えるなんて。

彼女が読書中であるのが関係しているのだろうか。大口を空けて笑っていることが多い彼女だが、流石に読書中は無表情になっている。それが普段とのギャップと言うか、何だかとても神妙な表情をしているように見えるというか。

……美人に見えるというか。

 

そういえば、なでしこのお姉さんに四尾連湖キャンプ場まで送ってもらったとき、車内で私は「なでしこのお姉さんってすっげー美人だよなあ」と評していた。一方でなでしこを、「こっちはなんかもにゃもにゃしてるけど」とも評していたものだが……。

今目の前にいるなでしこは、あのときみたいにもにゃもにゃしていない。「すっげー美人」と評した、お姉さんにそっくりなのだ。

氷のように冷たくて、ナイフのように鋭くて、人形みたいに整った、いつものなでしこのイメージからはとても考えられない表情。

……ああ、姉妹なんだな、と思った。子犬みたいなオーラや挙動に誤魔化されているけれど、それらを取っ払ったとき、その顔はお姉さんみたいに怜悧な美人になる。

姉の遺伝子は妹にも入っていたのだ。……考えてみれば当然の話なのだが、しかし私は目から鱗がおちるような感覚を抱いた。姉妹で余りにも雰囲気が違うからだろうか。

……と。

 

なでしこが私に気付いて顔を上げた。無表情は一瞬で溶解し、明るい笑顔の花が咲く。

 

「あ、リンちゃんだ。どしたの、私をじっと見て。顔になんか付いてた?」

 

ぺたぺたと自分の顔を触るなでしこ。

見惚れていたなんて言えるわけもなく、私はふいっと目を逸らした。

 

「……別に。もう遅いし図書館閉めちゃうから出なよ」

 

少々ぶっきらぼうな言い方になってしまったが、なでしこは気を悪くした様子もなく「わかった!」と頷いて帰り支度を始めた。

いそいそとする彼女の表情はいつものように子犬みたいで、お姉さんの面影は消え失せている。

 

さっきの光景が夢か幻だったかのように感じられた。

 



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黒歴史

薄口の斉藤恵那概念です。濃くなる直前のところで物語を終わらせているっていうのもあるんですけど。
vipで書いた台本形式のssを小説形式にリメイクしたやつです。


誰しも、人には言えない過去というものが存在する。所謂黒歴史というやつだ。

中二病を拗らせた挙げ句の闇のノートとか、かつて犯してしまった過ちの数々とか。

そういう、出来ることなら一生埃を被らせておきたい思い出が私にもあるのだ。

 

それは高校生の頃のこと。ソロキャン後の帰り道で、私はお土産を購入した。

それ自体は何の変哲もないことだ。遠出したからには何か土産物を買いたいと思うことは自然の摂理だろう。

問題なのは、購入したお土産というのがペアリングだったことだ。

意味が分からない。何を考えているんだ。遠出しなくても買えるような物じゃないか。しかもよりにもよってペアリングだなんて。

そう言われても無理のない話だし、実際今の私もそう思う。

しかし、当時の私は想像してしまったのだ。私とお揃いの指輪をはめたなでしこ――各務原なでしこ――が、にへらと笑っている光景を。

それが決め手だった。気が付いたら私はペアリングを購入していた。してしまっていた。

購入直後の気分の昂りようといったら、もう有頂天だった。昂る気力、充填されていくエネルギーが凄まじいことこの上なく、「今の私なら全国の電力供給を一手に担うことが出来る」と本気で考えたほどだ。

そんな感じでかつてないほどの高揚感に包まれていた私だったのだが、しかしやはりというか、時間が経つにつれてどんどん不安になっていった。

冷静になってしまったのだ。

「どういう顔してこれを渡せばいいんだ」「なでしこは食べ物の方が喜ぶよな」「なんでこんなの買っちったんだ」「でも私と同じ指輪をはめたなでしこ、凄く見てみたい」

葛藤の末、私は理性を優先した。

だって恥ずかしいし。なでしこが喜ばないかもしれないし。……これ渡したことでなでしことの関係性が変わったら嫌だし。

そういうわけで、「お土産は絶対に衝動買いしてはいけない」という教訓を新たに心に刻みつつ。捨てようにも捨てるに捨てられず、結局ペアリングは部屋の片隅に追いやって、

その記憶ごとなかったことにしていたのだった。

 

が。

 

「……出てきちゃったかぁ」

 

部屋を掃除していたらなんか出てきた黒歴史を前にして、私は溜め息を吐いた。

酷い記憶を前にしたとき、人はなんとかそれを飲み込もうとする。咀嚼すらせずに。

だから、結局消化しきれなくて。ふとした拍子にそれは吐き出されて、またご対面する羽目になるのだ――なんてことをどっかの本で読んだ気がする。

今の私は、まさしくそれだった。

……これ、どうしよっかなあ。どうやら、この期に及んでもなお、私はペアリングを捨てられそうにないみたいだ。

それはそうだ。今捨てられる決心が付けられるのなら、そもそもあのときに付けていただろう。

掘り返したくはないけれど、処分することはいつまで経っても出来やしない。それが黒歴史というものだ。

何より。どんなに思い出したくなくても、掘り起こしたくなくても、埃を被らせておきたくても。

それは、きっといい思い出だから。

私の人生の、糧となっている筈だから。

 

「それを、忘れないためにも」

 

手元の箱を暫し眺めてから、私は。

 

再び、部屋の片隅にしまったのだった。

 

 

 

 

――それが、再び私の目の前に現れたのは、意外にもその数日後。

斉藤――斉藤恵那が、私の家に遊びに来たときだった。

 

「あれ? リン、ここに意味深に置いてある箱は何?」

 

そう聞かれたとき、私は脳みその全神経がぴたりと止まったかのような錯覚を覚えた。

……そうか、いつもはもっと物が積まれてたから目立たなかったけど、今日は部屋が綺麗だから。

その分だけ、ペアリングの箱が目立ってしまったのか。

簡単に斉藤に発見されるくらいに。

 

「ねえリン、この箱開けていい?」

 

いつものように、マイペースを崩さずに聞いてくる斉藤。

私は、なんと、頷いてしまった。箱が見つけられてしまった衝撃からまだ立ち直っていなかったのだ。

思考回路が復旧する前に斉藤のテンポに飲まれたというか、とにかく私は頷いてしまったのだ。

そして、その事を認識した頃には、もう手遅れになっていた。

 

「……っ!」

 

斉藤が箱を自分のそばに引き寄せるのが見えた。

斉藤が、箱の開閉口に優しく触れるのが。そこから躊躇もなく、箱を開くのが。規則よく並んだ二つの指輪を、彼女にしてはどこかうっとりとした目線で眺めるのが。執刀する手術中の医者のような手つきで指輪を取るのが。……指輪をあっさりと指に嵌めるのが。立て続けに目に飛び込んできた。

 

止めようとした。やめて、だとか、それは斉藤が触っていいものじゃないだとか、あるいはもっと口汚い言葉を口に出そうとした。

しかし、出来なかった。声が声にならなかった。縫い目がほどけて、言葉を紡ぐことが出来ないかのようだった。

 

斉藤はいつものように笑って、指輪を嵌めた薬指を見せつけてきた。

 

「えへへ。リン、どう~?」

 

私の心の中で、どす黒い何かが渦を巻いていくのを感じた。

コーヒーみたいな深みすらない苦いだけの液体が、体のどこかで溢れていった。

 



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too late

なでリンがデートキャンプする同日にソロキャンを行った斉藤恵那ちゃんのお話です。概念未使用です。vipにも転載しております。


 テントの設営を終えた達成感に浸っていると、リンから連絡がきた。

 

『そっちは今どんな感じ?』

 

 写真を撮って送る。湖と富士山とキャンプがシャッターに収まるように、なるべく引いた位置から。

 

『今設営が終わったところだよー』

 

 すぐに返信が来た。

 

『今日はよく見えるね』

 

 一瞬何のことを言ってるのか分からなかったが、富士山のことを指していると気付くのに時間はかからなかった。そういえば一年前、リンがここにキャンプに来たときは富士山に帽子がかかっていて。それで、私は『晴れるといいね』なんて送ったんだっけ。

 奇しくも今日の天気は晴れ。千円札のモデルにもなったといわれる、本栖湖の富士山を存分に堪能できる快晴だ。

 私は今日、本栖湖でソロキャンをしているのだ。

 

『これから天気が悪くならなければいいんだけど』

『だな』

 

 見覚えのあるやりとりをしてから、私はふと尋ねる。

 

『そっちはどんな感じ?』

『今キャンプ場についたとこ』

 

 メッセを読み終わるか終えないかのうちに、続いて画像が送られてきた。

 広大な平野、そびえたつ猛々しい富士山、シーズンオフなのにそこそこ見える他のキャンパー。

 

『ふもとキャンプ場にいるんだっけ』

 

 確認の意を込めて問うと、リンはなんでもないことのように答えた。

 

『そうだよ。なでしこもいるよ』

『そっか。そういえばそうだったね』

 

 今日、リンはなでしこちゃんと一緒にふもとキャンプ場に来ている。つまりはデートキャンプってやつだ。

 なんで私がそのことを知っているかというと、答えは至極単純。リンにソロキャンの助言を仰ぎに行った際、本人が言っていたからだ。「その日は私となでしこもキャンプに行くから、なんか困ったことがあってもすぐに反応できるかは分かんないよ」って。

 どうやって返したらいいか分からず、「そっか」と淡白な反応しか出来なかったのをよく覚えている。

 私がソロキャンをするのと同日に、なでしこちゃんとリンがデートキャンプする。

 なんともコメントに困る偶然だ。だけどその偶然は確かに現実として目の前に転がっている。

 息を吐いて、再びスマホの画面に意識を傾ける。すると、リンが新しいメッセージを投下していた。

 

『そういや、どうしてソロキャンしようって思ったの?』

 

 少し考えてから答える。

 

『なんとなく、かな』

『なんだよそれ』

 

 リンの呆れた表情が目に浮かぶようだ。あはは、と笑いたくなるのを噛み殺して、私は。

 

『なんとなく思ったんだ。そうだ、ソロキャンしようみたいな感じで』

『そんな京都に行くようなノリで言われても』

『でもそうでしょ? じゃあ、リンが今日なでしこちゃんと二人でキャンプに来た理由は?』

 

 暫しの間の後、リンは返した。彼女は今渋い表情をしているような気がした。

 

『なんとなく、かな』

『ほらね? 発起する理由なんて大体そんなものだよ、リン』

『まあ、そういうものか』

 

 言葉だけを拾い上げるんだったら、一応は納得したような感じのメッセージだ。

 だけど多分、リンは納得していない。私が答えをはぐらかそうとしていると思っているんだろう。そして、その上で敢えてそれに乗っかっているんだろう。

 実際、私ははぐらかしていた。まるっきり嘘というわけでもないが、それだけではない。明確な理由があるといえばある。

 リンの見ている景色が知りたかったんだ。寒風が吹きすさぶ冬のキャンプ場でリンは何を考え、何を見ていたか。「孤独も楽しむものなんだ」とリンが言っていたソロキャンが、一体どういうものなのか。

 私はそれを体験してみたかったんだ。

 ……こんなこと、本人に言うわけにはいかないけれど。

 

『それにしても』

 

 リンはどこか感慨深そうに――勿論文字だけだから本当に感慨深そうに言っているかはわからないが、それでも私には感慨深そうであるように思えた――メッセージを綴った。

 

『あんなに冬は寒いって言ってた斉藤が冬にソロキャンするなんてな。多分去年の私に言っても信じないと思うよ』

 

 それは、そうだ。

 

『私もそう思う』

『だろうな』

 

 返信すると、リンは待っていたかのようにそう返した。

 そして、会話が途絶えた。

 私もリンも、多弁な方ではない。話す話題がなければ黙っているタイプの人間だ。それに、止めどきを見失った会話ほど厄介なものもない。リンだって設営しなくちゃいけないだろうし、ここら辺が潮時だ。

 私はスマホを待機モードにすると、自分のテントへと戻った。

 ……それにしても。去年の私に言っても信じないと思うよ、か。

 実際そうだ。去年の……なでしこちゃんと会ったばかりの頃の私に話しても、多分「えー?」と懐疑的な笑みを浮かべるだろう。半年前、なでしこちゃんがソロキャンを始めた頃の私だったら「そういうこともあるかもなあ」くらいには思ったかもしれないけれど。

 なでしこちゃんと会って、リンは変わった。一人でいることを楽しんでいる人特有の雰囲気はすっかり鳴りを潜め……たわけではないけど。それでも、ある程度薄くなったのは間違いない。

 なでしこちゃんと会って、リンは変わったのだ。一緒にキャンプ飯を食べたり、焼肉キャンプやら浜松やらで一緒にいるうちに、だんだんリンは柔らかくなっていったんだ。何も知らない人にとっては何が変わったか見当も付かない程度の変化率だけど、中学からの付き合いである私にとってはすぐに分かるくらい、大きな変化。

 溜め息を吐いた。

 

「もっと早くキャンプを始めていればよかったなあ……」

 

 ひとりごちる。当然応答はない。

 私は遅すぎたんだ。既にソロキャンを経験し、今日もリンと一緒にキャンプに出かけているなでしこちゃん。中学校からの付き合いの癖に、今日初めてソロキャンを行う私。

 これは私の勝手な推測だけど、リンは一緒にキャンプする友達が欲しかったんじゃないか。自分の領域を土足で踏み荒らすわけでもなく、冬キャンプをさながら異民族の風習を眺めるように「私には理解できないけど、そういう趣味もあるんだね」と言うわけでもない、一定の距離で理解してくれる友達が欲しかったんじゃないか。

 口ではつれないことを言うけれど、そういう友達が出来て、内心嬉しかったんじゃないか。

 ……ああ、もっと早くキャンプを始めていれば。なでしこちゃんが現れる前に始めていればなあ。こんな風にソロキャンをすることもなかったかもしれないのに。

 

 再び、息を吐いた。ふもとの方では今頃何をやっているのだろうか。設営を終えて、まったりココアでも啜っているのだろうか。焚き火とか、散歩とかやっているんだろうか。

 確認してみようと思ったがやめた。どうにもリンと連絡する気になれなかった。

 もう一度呟く。 「遅すぎたなあ、もっと早くキャンプを始めていればよかったなあ」

 やはり反応する人はいない。呟きはすぐに冬の寒気に溶け込んで、最早有ったのかどうかすらも分からなくなってしまった。

 なるほど、確かにこれは孤独を楽しむものだ。楽しまざるを得ないとも言えるけれど。

 ぼんやりとしながら、私はそんなことを考えた。

 

 太陽が徐々に沈んでいくのが見えた。辺りはだんだん暗くなり、やがて完全な闇へと染まっていくのだろう。



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独占欲

土岐綾乃が各務原なでしこにナッツ入りうなうなパイを持ってきた理由の考察ssです。
各務原桜さんがなでしこに強制ダイエットを課した理由の考察ssでもあります。


 今年の秋に山梨へと引っ越したなでしこが、正月に戻ってくる。

 メッセージアプリにてその報告を受け取った私は、ふと中学時代の彼女に思いを馳せた。

 

 各務原なでしこ。私の幼馴染。食べることが大好きな父親の影響を受けたせいか、中学までは丸かった。

 その食欲は正直引くレベルで、フードファイターにすらなれるんじゃないかと思えるくらい。しかも食べっぷりが凄い。なんというか、本当に美味しそうに料理を貪るんだ。別にそんなに食べたいと思わない食べ物でも、なでしこが食べていると「一口ちょうだい」って言いたくなる。グルメレポーターの素質があるんだ。

 ……まあ、なでしこのお家の人って皆そういうところがあるんだけど。なでしこのお姉さん以外、つまりお父さんとお母さんも美味しそうに食べる。各務原家の人にはグルメレポーターの素因が遺伝子レベルで刻まれているのかもしれない。それだとお姉さんがあんまり美味しそうに食べれない(あの人、食べるときにめっちゃしかめっ面になるんだよね)ことの理由がつかないが、まあ遺伝しなかったんだろう。

 顔はぷにぷにしていて、生粋のもち肌。ほっぺを引っ張るとそれこそお餅のようによく伸びる。運動することが好きではなく、部屋で炬燵に埋もれながらゴロゴロしている姿が印象的だった。

 私はそんななでしこが好きだった。丸いなでしこが美味しそうに食べ物を頬張っているのが好きだった。光合成する植物のようにうっとりと日向ぼっこするなでしこが好きだった。涎を垂らして眠りこけるなでしこの表情を眺めるのが好きだった。丸っこい顔の中に時たま出てくる、母親や姉の面影というか、そういう美人な表情を見つけ出すのが好きだった。

 丸いなでしこが好きだった。魅力的で、可愛くて、隠れ美人で。……丸いお陰で、その魅力に気づいている人が少なくて。

 私は丸いなでしこが好きだったんだ。

 

 

 ○

 

 

 中三の夏休み。なでしこは突然ダイエットを始めた。……もとい、始めさせられた。

 何でも、食べるだけ食べて特に運動もせずにゴロゴロしていたのがお姉さんの逆鱗に触れたらしい。毎日浜名湖を自転車でぐるぐる回らされているとか。

 浜名湖一周って言っても、具体的にはどのくらいの距離なのか。とりあえず長いことはわかるんだけど。

 と思って調べてみたら、最短でも約五十キロ。最長だと八十五キロもあり、しかも坂道のおまけまでついているらしい。

 いくらなんでもスパルタが過ぎる。流石に毎日走るような距離じゃない。本人が望んだダイエットのためじゃなく、やらされているダイエットのためとなれば尚更だ。

 毎日送られてくる、グロッキー状態になっていることが容易に想像できるメッセージ。見てられないとばかりに、私はお姉さんに文句を言いに行ったことがあった。

 

「いくらなんでも厳しすぎじゃないですか? ダイエットするにしてももう少しいい方法があると思うんですけど」

「これくらいしないと痩せないのよ、あの子」

 

 お姉さんはため息を吐くように言った。私は口を尖らせた。

 

「それなんですけど、別に痩せる必要はなくないですか? 本人が痩せたがってないんですから」

「そこなのよね。あの子が痩せる気がないのが問題なのよ」

「だったら――」

 

 私の台詞を遮って、お姉さんはどこかうんざりしたように言った。

 

「綾乃ちゃん。うちの妹、可愛いと思う?」

「えっ。……その、まあ、はい。丸いからよく見ないと分からないですけど、美人だと思います」

 

 いきなり聞かれてしどろもどろになる私。

 お姉さんは気にも留めず、独白のように語り始めた。

 

「そう。なでしこは可愛い。顔がいいのよ。丸いから目立ってないだけで、痩せたらあの子は絶対に化ける」

「……そうですね」

 

 私は同意した。実際、なでしこの顔がいいというのはそうだ。なでしこのお母さんは美人だし、目の前のお姉さんだって普通に目を引く美人。彼女は美人の系譜なんだ。本当に、丸っこいから目立ってないだけなんだ。

 

「それなのに、あの子が丸っこいだけで論外みたいな扱いを受けているのを見てると……ね」

 

 僅かだが、お姉さんの話しぶりに怒りが滲んだ。恐らくそういう状況に出くわしたのだろう。

 

「無視すればいいじゃないですか。なでしこは現にそうしてますよ」

 

 私だって、と言いそうになったが飲み込んだ。なんとなく、それはこの人の前では言うべきではないように思った。

 お姉さんはふっと笑みを浮かべた。笑みは笑みでも、それは嘲笑のように私には見えた。「あなた、何にも分かってないのね」と言われているようにさえ感じた。

 

「それは無視してるんじゃないのよ」 お姉さんは言った。 「聞こえないようにしているだけ。見ないようにしているだけなのよ」

 

 何も言い返せなかった。お姉さんは続ける。

 

「私はなでしこに痩せてほしい。痩せて、黙らせてほしい。そういう声が聞こえなくなるくらい、痩せてほしい。綺麗になって、そういう声を出していた奴らに後悔させてほしいのよ」

 

 お姉さんの言いたいことは分かる。……でも、それは、

 

「……それはお姉さんのわがままじゃないですか。なでしこ本人は別に痩せたいとか思ってないですよ」

「確かにそうね。でも、なでしこはそういう声から開放されたいとも思っているはずよ」

 

 お姉さんはにべもなく言った。

 

「綾乃ちゃんの方こそただのわがままじゃないの?」

「なっ……」 私は目を見開いた。 「……なんてこと言うんですか。私はただ、なでしこがダイエットが辛そうだから、もっと甘くしてもいいんじゃと打診しただけですよ」

「それは本当? 本当に、本心からそう言える? 断言できる?」

 

 レーザービームが放てそうなくらい、お姉さんは私の目を凝視してきた。

 目が焼き焦がされるかと思った。心が苦しかった。お姉さんの目を凝視し返せばよかったのに、出来なかった。虚勢を張れなかったのだ。

 私は目を逸らした。お姉さんはつまらなそうに鼻を鳴らした。

 

「……綾乃ちゃんは、なでしこを甘やかしたかったんでしょう。甘やかして、そうして……なでしこを独占したかったんでしょ」

「それは、そっちは違います」

 

 急いで言った。やはり訝しげに、お姉さんはレーザービームを放つ。

 

「本当に?」

「……っ、ほん、とうです」

 

 小骨が喉につっかえたような返事しか出来なかった。

 勿論、嘘だ。違うなんてあるわけがない。

 だって自覚していたんだ。私は丸いなでしこが好きなんだって。丸いなでしこが食べ物を美味しそうに頬張っているのが好きなんだって。

 なでしこは可愛い。なでしこは美人なんだ。でも、なでしこは丸いから目立ってない。だから、そのことに気付いている人は少ない。

 でも、もしなでしこが痩せちゃったら? 多分、お姉さんやお母さんに負けないくらいの美人になるだろう。天真爛漫、子犬みたいに元気で明るい美少女になるだろう。当然、皆がなでしこの可愛さに気付く。世界が各務原なでしこは美人だと認識する。するとどうなる? 皆がなでしこを可愛いと言い始めるだろう。ひょっとしたら男が纏わりつくかもしれない。そんなぽっと出、にわか達のためになでしこと会う時間が減るかもしれないのだ。

 それは嫌だった。丸いからこそ、私はなでしこと仲良くいられるんだ。

 だから、私は丸いなでしこが好きで、丸いなでしこが美味しそうに食べ物を頬張っているのが好きなんだ。

 ……これが紛れもない事実だからこそ、嘘を吐くしかないんだけど。でも、どうやらお姉さんはお見通しのようだ。

 

「……そう。それなら、いいわ」

 

 冷たい視線で私を眺めた後、お姉さんは場を離れた。車のキーを持ってたから、多分ドライブに行くのだろう。

 お姉さんの姿が完全に見えなくなってから、私はふーっと息を吐いた。思っていたより随分ボリュームのある溜め息だった。それで私は自分が長い間呼吸を忘れていたことに気付いた。

 

 さっきの極寒の視線を思い出しながら、ぽつりと呟いた。 「あれは気付かれてたな。じゃなきゃあんな目は向けないだろうし」

 

 お姉さんは私のことをどう思っているだろうか。実の妹に、太ったままでいてほしいと願っている私のことをどう思っているだろうか。

 ……まあ、あんまりいい思い出は抱いていないだろうな。というか、ダイエットさせようとしているところにそんな友人がいるのを知ったら、私が姉なら全力で遠ざけようとするだろう。「もうなでしこには近づかないでほしい」って言われなかっただけましなのかもしれない。

 と、そんなことを考えていると、

 

「ただいまー。今日も浜名湖外周、完走したよー……」

 

 なでしこの声が聞こえてきた。なんというか、青菜に塩を体現したような声のトーンだ。

 家に上がるなり、私の姿を目に入れたなでしこは。

 

「あれ? アヤちゃんだ。お姉ちゃんは?」

「お姉さんなら、さっきまで一緒に話してたんだけどね。今は外に出かけちゃったよ」

 

 多分ドライブでもしてんじゃないかなー、と付け加える私に、なでしこは興味深そうに「へえ~」と言った。

 

「お姉ちゃんとアヤちゃんが一緒に話すなんて珍しいね。何話してたの?」

「なでしこを人気者にする話をしてたよ」

「およよ?」

 

 まあ、間違ったことは言ってない。きょとんとするなでしこを見て、私はこのまま煙に巻くのが懸命だと思った。

 この話は地雷源だ。いつどこで地雷を踏み抜くか分からない。万が一爆発して、なでしこに丸いままでいてほしいことがばれてしまったとしたら。

 ……やっぱり私には、この話を続けることは出来なそうだった。

 

 

 ○

 

 

 ……回想に浸りすぎていた。

 ふと時計を見ると、結構な時間が経過している。報告に返信しないといけないのに。

 このままでは、なでしこの帰省報告を既読無視した薄情な女という汚名を被ってしまう。早く返信しないくては。

 そう思って再びスマホに目を通すと、いつのまにか写真が送られていた。

 天真爛漫で、子犬みたいに可愛いなでしこの自撮り写真。写真の中のなでしこは痩せていて、数年前まで丸っこかったなんて想像すらできない。

 

 不意に、なでしこが何か食べている姿が見たくなった。

 



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レギュレーション違反

志摩リンに各務原なでしこと焼肉キャンプに行ったと聞かされた斎藤恵那のお話です。
短いです。


何が起きていたか分かりたくなかった。現実を、今目の前に厳然と転がっている現実を、受け入れる気にはならなかった。

スマホの画面に目を落とす。表示されているのは私たちがよく使っているメッセージアプリ。それの、リンとの個人チャット。

最後にメッセージが更新されたのはほんの数分前。リンの、こういうメッセージだった。

 

『なでしこと一緒に焼肉キャンプに行ってるよ』

 

どういう返信をしたらいいか、私は分からなかった。

リンがこのメッセを送った経緯は至極単純、私が彼女に『今日何してんの?』と送ったから。

先にこっちから聞いた以上、何か返事を返さなきゃいけない。それは分かっているのだが、私がしていたことはスマホをタップすることでもなく返信を考えることでもなかった。

ただ、今ここにはいない誰かに対して恨み言を吐き出していただけだった。

 

「一緒に焼肉やろうねって言ってたじゃん」

 

この間、私は図書室でリンと焼肉の話をした。メダル賽銭箱みたいな外見の焚き火台を持ってにやついていたリンをからかったりした。一緒に自炊焼肉について思いを馳せたりもした。そんなふうに話して、最後に私はこう言った。「一緒に焼肉やろうね」って。

そう言った筈なのに。冗談めかして伝えたとはいえ、確かにそう言った筈なのに。

それなのに、どうして。どうしてなでしこちゃんと焼肉してるんだろう。しかもキャンプというおまけまで付いて。どうして私じゃないんだろう。

胸中に多数の疑問符が吹きあがった。まるで火山が噴火したみたいだ。打ち上げられた疑問符はやがて思考回路に堆積し、心の箱を瞬く間に埋め尽くしていく。真っ黒に染め上げていく。

けれど、その真っ黒をそのままリンに放出するわけにもいかなくて。そもそも放出していいのかすらもあやふやで。当たり障りのないように「そうなんだ」と返すことも出来そうになくて。だけど、返事をしないなんて選択は選べない。リンに嫌われたくはない。

私は溜息をついた。

 

「ずるいよ、なでしこちゃん」

 

なでしこちゃんはずるい。仮にあのときの私とリンの会話を一部始終聞いていたんだとして。その上でリンに焼肉しようよって言ったんだとしたら。ついでにキャンプもしようよって言ったんだとしたら。

そんなの、……そんなの、ずるい。ずるいよ。なでしこちゃんはずるい女だ。天真爛漫のような顔をして、明るく元気な女の子のふりをして。それで、こんな所業をするなんて。

と、そこまで考えたところで気が付いた。焼肉キャンプをするに至った経緯をリンに聞けばいいんだ。

もしかしたら私の恨み言は全くの見当外れで、実際はリンから提案したことだったりするのかもしれない。「一緒に焼肉キャンプしようよ」と、あのマイペースな口調で誘ったのかもしれない。純粋で元気で天真爛漫ななでしこちゃんを誑かしたのかもしれない。本当にそうであるとは、私には到底思えないけれど。

私はようやく返事を打った。なるべく棘がないように、なるべく悟られないように気を付けながら。

『へぇ~』と送信した後、続けて『どういう経緯でそうなったの?』と送る。

果たして、リンからの返答は。

 

『なでしこが焼肉キャンプやろうよ! って言ってきてさ』

 

「――――っ」

 

――唾を飲み込んだ。声にならない声が口から漏れた。呼吸の仕方を忘れた。

 

『それ、私がこないだリンと図書室で話した日?』

『うん。焚き火台持ってきた日』

『その話してたの、私が帰ってから?』

『そうだけど』

 

心の中の疑問符がどろりと溶けていくのが分かった。どろりとした真っ黒な汚い何かが、確信めいた推測とともに感情を支配していく。

私は呟いた。

 

「それはずるいよ、なでしこちゃん。それはレギュレーション違反だよ」

 

リンとの図書室での会話が、時間が、それによって得られる何かが、掠め取られていくような感覚がした。

ふと、私もキャンプを始めなければいけないと思った。掠め取られる前に、行動しなければならないと思った。私も焼肉キャンプをやろうよと、――キャンプをやろうよと言える人間にならなければいけない、と強く思った。



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障害物競走

あきちゃんに「しまりんがクリキャン参加する」と伝えられたなでしこちゃんの話です。前の話と微妙に繋がってます。


 それは、リンちゃんが上伊那にソロキャンしに行った日の夜。

 お見舞いついでにほうとうを振舞ってくれたあきちゃんも帰ってしまい、自室のベッドに横たわる以外に私のすることがなくなっていたときのことだ。

 突然スマホが鳴った。SNSにて新着メッセージが届いた音だ。

 何の気なしに見てみると、あきちゃんからのメッセージだった。曰く、『しまりんもクリキャンに参加するってさ』

 目を疑った。

 

『ほんと!?』

『ほんとほんと。さっき本人から「やっぱ考えとく」って連絡きたから』

 

 ……どうやら本当みたいだ。あきちゃんが吐く嘘はもっとわざとらしい。一目見てすぐに分かるような嘘はよく吐いても、本当かどうか分かりづらい嘘を吐くような人間じゃない。

『素直じゃないよなー』と続いて表示されるメッセージを読みつつ、私は無言で文字を入力した。『わーい!!』とか、『やったー!!』とか。喜んでいるふうに見えるような文字列を入力した。

 文字のやり取りには色がない。どんな表情をしていようが、そこに感情は滲み出ない。言葉通りの意味だけが相手に伝わる。

 

『喜ぶのは分かるがもう遅い。今日はゆっくり休みたまえ、各務原隊員』

『りょーかいしましたっ!』

『おやすみー』

『おやすみなさい』

 

 ついでにマスコットが鼻提灯を出すスタンプも添えると、スマートフォンの電源ボタンを押した。画面が真っ暗になり、私の顔が写る。

 私は目を伏せて笑っていた。嘆くように、見たくないものを見せられたとでも言うような目と共に、口元だけで笑みを作っていた。

 深く、息を吐いた。

 

「そっかあ。リンちゃん、野クルのキャンプに来てくれるんだあ」

 

 ひとりごちる。

 多人数キャンプを、もっと言えば野クルを避けてたリンちゃんがついに野クルキャンプに参加する。

 なんだろう、それは嬉しいことなのに。とてもとても、嬉しいことのはずなのに。でも、私は素直に喜べる気になれなかった。

 どうして今のタイミングなんだろう。さっきあきちゃんが、野クルが、私たちが誘ったときは拒否したのに。なんで急に参加に意思が傾いたんだろう。

 ……いや。なんでとは言ったけど、なんとなくその答えは分かる。斉藤さんだ。斉藤さんがリンちゃんを誘ったのだ。

 斉藤さんはリンちゃんのお友達だ。確か、中学からの付き合いらしい。たかだか一ヶ月ちょっとしか付き合っていない私たちに比べると、その年月は遥かに重い。私たちがリンちゃんと付き合うにはまず氷を溶かすところから始めないといけないけど、斉藤さんはそんなの一切気にせずに飛び越えることが出来るんだ。氷を溶かしきる頃には既に斉藤さんはリンちゃんに侵入している。ゴールテープを切って、一位の席に座っている。唯一無二の座を獲得して、障害物競走に励む私たちを見下ろしている。斉藤さんのレーンにだけ、障害物が設置されていないのだ。

 ずるいなあ、と思った。とてもずるい。ずるいよ、斉藤さんはずるい。リンちゃんと一緒に過ごした、その時間を分けてほしい。そうすれば、私だって一位争いに加われるのに。

 でも、私とリンちゃんはこないだ出会ったばかりの新しい友達で。リンちゃんと斉藤さんは中学からの友達だ。事実は覆らない。どうしようもなく手出しできない現実として私の目の前に転がっていて、どんなにやり直しを要求しても受け入れはされない。ただ、鼻で笑われるだけだ。

 斉藤さんはずるい。そして、斉藤さんが羨ましかった。

 結局、リンちゃんを変えられるのは斉藤さんなんだ。まだゴールしていない私にその権利はない。現に私たちの誘いは断られた。リンちゃんが参加してくれたのは、斉藤さんがリンちゃんを変えてくれたからなんだ。

 本当に、斉藤さんは唯一無二の立ち位置なんだ。

 

「斉藤さんはずるいなあ」

 

 私は呟いた。苦い飴玉を口の中で転がしているような気分だった。

 

 

 後日、クリキャンの打ち合わせということで斉藤さんが野クルに来た。

 いつものようにたおやかな、しかし底知れない雰囲気を貼りつかせている。はがす気配なんて全くない。あきちゃんの賑やかなノリに包まれているときでさえ、それは変わらなかった。

 それが、なんだか妙に気になったんだ。

 あおいちゃんが緩い関西弁で持ち物の説明を終えたとき、思い切って私は話しかけた。なるべく無難な言葉遣いになるように気をつけながら。

 

「リンちゃん、来る気になってよかったよね」

 

 果たして、斉藤さんは。

 

「だね!」

 

 頬の筋肉を持ち上げてにこりとした。こういうふうに筋肉を動かせば笑顔に見える。そう思い込んでいるかのような表情だった。

 私は、そこにかすかな屈託を見て取った。

 雲が流れ、太陽の姿を隠していく。突如生まれた日陰が斉藤さんの顔を覆った。

 何かが致命的に噛み合っていない。そう、私の感覚が告げていた。



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盲目

恵那リンです。斉藤恵那は出てきませんが。
各務原なでしこが志摩リンに斉藤恵那との関係性を尋ねる話です。


「恵那ちゃんとリンちゃんってどういう関係なの?」

 正月、浜松のおばあちゃん家に向かう電車内にて。

 ぼんやりと外を眺めていたリンちゃんは、脈絡なくぶつけられた質問にぱちくり瞬きした。目をほんの少し細め、咎めるように訊いてくる。

「何だよ、いきなり」

「ええとね、」慌てて、私は台詞を付け足した。声がぶれないように、早口になりすぎないように、いつもの各務原なでしこに見えるように、悟られないように気をつけながら。「なんとなく気になっちゃって。恵那ちゃん、昔からリンちゃんと仲良しじゃない? でも、リンちゃんは頑なに恵那ちゃんを"斉藤"って呼んでるから。あきちゃんやあおいちゃんだって下の名前で呼んでるのに」

「えっ、犬山さん達も? あいつ、いつの間に仲良くなってたんだな」

「……リンちゃんって、あんまり周りを見てないよね」

 じとっとした視線を送ると、リンちゃんはばつの悪そうな表情を浮かべた。どうやら自覚はあるらしい。

 咳払いをしてから、私は話を再開する。

「ともあれ、一番付き合いの長いリンちゃんだけが名前呼びじゃないから、なんか気になっちゃったんだよ」

「なるほど、そういうことか」

 得心のいったようにこくこく頷くリンちゃん。その様子を見ながら、私はこっそり胸をなで下ろした。

 よかった、あの様子だと、多分気づいていない。

 私が知りたいのは、リンちゃんの恵那ちゃんに対する想いだ。リンちゃんは恵那ちゃんにどういう気持ちを抱いているか、どういう関係だと思っているか。……恵那ちゃんがどれくらい大事な存在なのか。それが知りたいだけだった。

 そのまま尋ねても教えてくれないだろうから、婉曲的な訊き方をせざるを得なかったんだけど。

 でも、リンちゃんは気づかなかったみたいだ。

 溜め込んだ息をゆっくり吐くと、いつの間にか下がっていた頭を持ち上げる。拍子に窓の外の景色が目に飛び込んできた。住宅、土、木、川、橋、緑。がたんごとんという音に乗せて流れ行くそれらは、寒さのせいか妙に白んで見えた。

 首を傾げ、私はリンちゃんの目を見て言う。

「どうして"斉藤"って呼んでるの?」

「そうだなあ……」

 リンちゃんは腕を組むと、空を仰いで「う〜ん」と唸る。

「なんだろうなあ。そう聞かれても、「これ!」って断定できるような理由はないんだよな」

「そうなの?」

「うん。強いて言うなら、なんとなく、かなあ」

「ふうん」

 私は眉尻を下げた。駄目だよ、リンちゃん。それじゃ足りない。そんな漠然とした理由じゃ私は満足しない。満足出来ない。

 とはいえ、リンちゃんはこういう駆け引きに鈍感なように思える。私が何を求めているか見抜いていて、敢えて答えをはぐらかしているようには見えない。リンちゃんは恵那ちゃんではないのだ。もちろん私でもない。……当たり前だけどね。

 となると、これはリンちゃんにも答えが分かっていないと見るべきで。だから、私は答えが出るように誘導しなければならない。揺さぶりをかけ、心の奥深くに眠る答えを引き出さなければならない。

 ショック療法を試みるのだ。

「じゃあさ、リンちゃんは――」極めて何でもないことのように、私は問いかける。「――恵那ちゃんのことが好き?」

「好きだよ」即答。さっきとは対照的だ。「斉藤は、私の大切な友人だよ。あいつとくだらない話をしてる時間が私は好きだ。たまにちくわの写真を見せてくれるのも好きだ」

 リンちゃんは緩やかに笑う。「……最近はキャンプに興味を持ってくれるようになって、ちょっと嬉しかったりする」

 その口調、態度に、私は面食らった。

「そ、そうなんだ。リンちゃん、恵那ちゃんのことが大好きなんだね」

「大好きってほどじゃ……。……いや、そうかもしれないな」

 頬を少しだけ赤くし、首元をぽりぽりと掻くリンちゃん。

 そっか、と思った。リンちゃん、恵那ちゃんが大好きなのか。嫌いなわけないだろうと踏んではいたけれど、これは予想外だった。予想以上に、リンちゃんは恵那ちゃんのことを好いていた。

 ……でも、それなら。

「それなら、どうして頑なに名前呼びなの?

 私やあきちゃんは名前呼びなのに」

 尋ねると、リンちゃんはぽかんと口を開けた。

「……確かに。何でだろう」

 言うと、リンちゃんは顎に手を当て、難しい顔で俯いた。

 獲物を探す肉食獣のような目付きをしている。しかしながら、誰にそれを向けているわけでもない。多分、それは自分に向けてられている。何かいい答えはないのか、頭の中という広大なサバンナをくまなく探しているのだ。

 今のリンちゃんは考える人だった。外見的にも、内実的にも。

 私は何も言わなかった。物言わず、ひたすら思考の海に沈んでいるリンちゃんが目の前にいるのだ。どうして言葉なんて発することが出来よう。リンちゃんの考えを邪魔してはいけない。私は何も言えなかった。

 車内に響き渡るのは、線路の上で打ち鳴らされる列車のステップの音だけだった。

 がたんごとん、がたんごとん、がたん、ごとん。

「……違うんだよな」

 不意に、リンちゃんが語り始める。

「なんか違うんだよ、斉藤となでしこじゃ。言葉にできないんだけど、何かが絶対的に違う」

 私はリンちゃんの顔を見る。

「何かっていうのは、その。……向ける気持ちが違うってこと?」

「そうじゃない」リンちゃんは首を振る。そして、真顔で言った。「斉藤を下の名前で呼んだら、何かが終わる。何が終わるかは分からない。友情が終わるのかもしれないし、キャンプ仲間とか愛犬家とかのある側面での付き合いが終わるだけかもしれない。世界が終わるくらいの衝撃的なことかもしれない。でも、何かが終わることは間違いない。そういう確信があるんだよ」

「…………そっか」

 私は、リンちゃんから目を背けた。極めていつも通りを装って言う。

「リンちゃんにとって、恵那ちゃんは大事な、特別な友達なんだね」

「別に、特別視してるわけじゃないけど」

 真顔が崩れた。不機嫌そうに、照れくさそうにリンちゃんは言う。

 嘘だよ、と思った。私やあきちゃんを名前呼びにしている一方で、「何かが終わるから」と名字呼びを貫き続けるだなんて。特別視以外の何物でもないじゃないか。

 大体、名前呼びしたくらいで何かが終わるなんてあるだろうか。急に友達が名前呼びをしてきて、怒って友情が崩壊するだなんて。そんなのよっぽどの特例じゃないと起こり得ないよ。むしろ、逆だ。嬉しいと感じるのが普通だろう。少なくとも、私がその立場だったら間違いなく喜ぶ。

 つまり、これは気持ちの問題なんだ。友情が終わるわけはない、終わるのはリンちゃんの気持ち。今恵那ちゃんに向けている、特別な"友人"という気持ちが終わる。そして、新たな気持ちが生まれる。

 リンちゃんが言ったのは、つまりはこういうことだった。

 はあ、と息を吐く。リンちゃんは、恵那ちゃんのことが大好きだった。私が思っていたよりもずっと。

 リンちゃんの一等星は恵那ちゃんだったのだ。それが、痛くなるくらいわかった。

 ……でも、それ。

「リンちゃん。その話、恵那ちゃんにしたことある?」

「その話って?」

「恵那ちゃんが大切な友達だってこと」

「え? いや、別に。付き合い長いし伝わってるだろ」

 平然とそんなことを宣うリンちゃん。

 私は唾を飲んだ。やっぱり、リンちゃんは周りを見ていない。あんなに近くにいる恵那ちゃんのことでさえまるで分かっていない。盲目と言っていいぐらいの鈍感具合だ。私は戦慄した。

 

 列車がトンネルに入った。車内は急に暗くなり、窓の外には暗闇が蔓延るばかりだ。木も家も川も土も橋も、緑もない。

 がたんごとんというステップが車内に響き渡る。トンネルを抜け出すのはいつになるのだろうかと、私は考えた。



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正体

冒頭はASIAN KUNG-FU GENERATION「踵で愛を打ち鳴らせ」からの引用です。


 喜びというのは流れる水のようなものだと、とあるバンドが言っていた。掬い上げた手のひらからするりと零れ落ちるもの、それでも繰り返すようにささやかに両手を満たすものだと。

 ささやかに、というのが重要なのだろう。手を乾かすわけにはいかないが、さりとていたずらに濡らすわけでもない。あくまでささやかに両手を満たす。不相応な量は求めない。こぼれてしまっても、何度も何度もささやかな量を掬い続ける。それでいいんだ。リンとのお喋り、メッセージアプリ越しの会話、一緒の帰り道。ささやかなものでも両手はいっぱいにできたから、私はそれ以上を求めてこなかった。私はそれでよかったんだ。

 ……なでしこちゃんと会うまでは。

 

 レジに出された品物を確認し、バーコードを読み取る。

「298円になります」

 金額を伝え、代金を受け取る。

「お釣りは2円になります」

 お釣りを渡し、一礼。

「ありがとうございました」

 いつもの作り物の笑顔で客を見送ると、私は詰めていた息をほうっと吐き出した。店内に客がいなくなったため、ある程度気を抜いてもよくなったのだ。とは言え、まだ勤務時間内なんだけども。

 私は今、コンビニバイトでレジの前に立っている。ということは一応接客をしているわけなんだけど、実のところ決められたマニュアルに沿って客を捌いているだけだ。アルバイトの中でも比較的メジャーなコンビニバイトと言えども、実態は工場バイトとそう変わらないのかもしれない。流れ作業的な意味で。もっとも、私は工場でバイトしたことがないので実際の工場バイトがどんな感じなのかは分からないのだけど。

 というか。そもそも私は今までアルバイトというものをしたことがなかった。毎月それなりにお小遣いを貰っているし、特別お金を使う趣味も持ち合わせていなかったから、むしろお金は余らせ気味ですらあった。たまにリンが読んでる本を買ったり、ちくわ用の魚肉ソーセージを買うくらい(それだって、基本的にお父さんに申告すれば費用を補填してくれた)で、あんまり困っていなかったのだ。そんなだったから、キャンプ費用のためにアルバイトに勤しむリンが私には眩しく映っていた。羨望というのか、尊敬と言えばいいのか。それとも賞賛? あるいは感心かな?

 全て当てはまるような気もするし、そのどれでもないような気もする。何であれ、私がリンに一目置いていたのは確かだ。アルバイトしてまでやりたいことがあるなんて凄い。そこまで大きな意欲を以て取り組めるような趣味なんて、私にはない。……流石に、こんなクサい台詞を直接本人に言ったことはないけどね。

 でも、多分本人に言ったら「じゃあ、斉藤もキャンプやれよ」と言ったんだろう。勿論本気で言うわけじゃなく、いや何割かは本気で言っているのかもしれないけど、どうせ断られると思っている、そんな声音で。そして、リンの察しの通り私は断る。「暖かくなってからにしようかなー」とか、「寒いからなー」とか、そんな理由で。で、リンが「春になっちまうわ」とツッコミを入れて、私はおかしくなって笑う。釣られてリンも口元を緩める。リンとのお喋り、ささやかな喜び、両手一杯分の小さな幸せだ。その光景を想像して、私は穏やかな気持ちになった。

 が、その想像が実現することはないのを思い出して、私はため息を吐いた。

 だって、私は今アルバイトをしている。コンビニで、レジの前に立って、さっきまでライン作業的に接客レジ打ちをしていたのだ。アルバイトしてまでやりたいことを私は見つけてしまった。というよりは、見つけさせられてしまった。特別お金を必要とする趣味を、私は作ってしまったんだ。

 無意識のうちに背中で繋いでいた両手を解く。二つになった手のそれぞれを開いては閉じ、開いては閉じる。零れそうになるため息を噛み殺して、代わりに自嘲するような笑みを浮かべる。

 普通なら、やりたいことが見つかるってのはハッピーな事象なんだろう。夢が見つかる、希望が見つかる、みたいな感じで。でも私の場合、ハッピーかアンハッピーかで言ったら後者だ。見つけたくなかった。私は見つけたくなかったんだよ、認識したくなかったのに。

 深く、息を吸った。空調によって強引に冷やされた空気が肺を満たす。やはり室内の空気だからなのか、酸素が足りない。フレッシュじゃないというか、何というか。客もいないし、外に出て酸素を補充してもいいかもしれない。そう思い、私は入り口に目を向けた。

「……あら」

「えっ」

 見知った顔がそこにいた。

 明るい髪に眼鏡、背は高くおっとりした顔つきの女性。よく見ればお年頃であるのは分かるんだけど、顔立ちが整っているせいか若い印象を与えている。彼女は私の顔を見るなり驚いたように口に手を当て、そのままずんずんと入店した。その様子を呆けて見ていた私だったが、来店ベルが鳴っているのに気がついて、慌てて一言。

「いらっしゃいませー」

 遅れた挨拶に気分を害することもなく、彼女は私の顔を見ながら、確かめるように。

「恵那ちゃん、ここのアルバイトなの?」

 こくりと頷いてから、私も問う。「なでしこちゃんのお母さん、うちによく来るんですか?」

「ええ。ここ、家から近いのよ」

 車を使えばの話なんだけどね。苦笑いしながらそう付け足すなでしこちゃんのお母さん。

 私は唾を飲んだ。そうなのか。車単位だと、ここのコンビニはなでしこちゃんのお家から近所判定を受けるのか。あくまで車基準の話だけど、子犬に匹敵する体力を持つなでしこちゃんだ。いずれ遭遇することがあるかもしれない。

 というか今日私と会ったことをお母さんが伝えたら、明日にでもなでしこちゃんはやってきそうな気がする。いや、やってくる。多分どころではない、間違いなくやってくる。私はリンほどなでしこちゃんとの付き合いが深いわけじゃないけれど、それでも彼女の行動力と性格を考えたらやってくるに違いない。

 吐息を噛み殺す。笑顔の仮面を被り、人差し指を口元の前まで持ってきて、一言。

「私がここでバイトしてるってことは内緒にしてくださいね」

 特に深い意味なんてないですけどと付け足すと、お母さんはふふふと笑った。「これね」と人差し指を口元に立てて、"静かに"のジェスチャー。

 私は笑顔を被ったまま頷く。実際、特に深い意味があって言ったわけじゃない。内緒にするよう促したのは、シンプルに内緒にしてほしかったから。至極単純な感情によるものなんだ。まあ感情と言うよりかは衝動って言った方が正しい気もするけれど、そんなことはどうだっていい。私はバイト先が知人に――特に、なでしこちゃんには知られたくないと思った。

 ただ、それだけだった。

「じゃ、お仕事頑張ってね」

「ありがとうございます」

 一礼してなでしこちゃんのお母さんを見送る。その姿がワンボックスカーに入ったのを確認して、私は開放するかのようにふうと溜息を吐いた。口止めしたとはいえ、人の噂に戸は建てられぬっていうし、なでしこちゃんの耳に入るのも時間の問題かもしれない。いや、なでしこちゃんのお母さんを信用していないってわけじゃないんだけど。でも、少なくとも明日来店するってことはないだろう。なでしこちゃんの太陽みたいな笑顔を思い浮かべながら、私はそう結論付けた。

 なでしこちゃんの笑顔。太陽みたいに明るくて、人懐っこい大型犬みたいな笑顔。リンの心をわずかでも溶かした笑顔。世界を変えてしまえそうな、あの笑顔。

 大して仲良くなくても、あの笑顔を向ければすぐに打ち解けれてしまう。実際リンがそうだった。人と壁を作りがちなリンでさえああなのだから、最早あれは魔法の類だろう。無論今の関係にまで至ったのは地道に魔法を積み上げてきたからであって、さながらファンタジーの魅了魔法のように一撃でノックダウンしたわけではないんだけど。彼女の魔法は強いわけじゃない。でも魔法であることには変わりない。ソロキャンが聖域だったはずのリンと何度も一緒にキャンプして、多人数キャンプに対するハードルを下げさせた。クリスマスのグルキャンに参加させるまでに至らせた。なでしこちゃんはリンを変えた。それで、私も変わった。私はアルバイトを始めたし、寒くてお金がかかるキャンプを始めた。前までのリンは放っておいてもソロキャンしかしていなかったけれど、今は放っておいたらどんどんなでしこちゃんとキャンプに行ってしまう。リンとのお喋り、メッセージアプリ越しの会話、一緒の帰り道。今までは確かに両手を満たせていたはずのそれらも、私はリンと一緒にキャンプしたことがないと思うと物足りなくなっていく。私は欲張りになった。両手のサイズが大きくなってしまったというか、なでしこちゃんがリンと二人でキャンプするのを見過ごせなくなっていったというか。

 気付けば私は"それ以上"を求めるようになっていた。私もリンと一緒にキャンプしたい。なでしこちゃんにリンは渡せられない。ささやかなものでも両手を満たせていた私はもういない。リンとのその先が欲しい。私がアルバイトをするほどの大きな意欲を以て取り組める、羨望と尊敬の的。その正体はなんてことはない、ちっぽけで特濃の独占欲だった。

 こんなの、ハッピーかアンハッピーかで言ったら間違いなくアンハッピーだ。気付きたくなかった。認識したくなかったよ。できることならね。

 なでしこちゃんは世界を変えてしまえる女の子、魔法使いだ。なでしこちゃんに会うまでの私はもうどこにもいないし、リンにしてもそう。野クルの、あきちゃんやあおいちゃんもそうだろう。彼女は皆の世界を変えた。リンがソロキャンにこだわらなくなったのも、野クルが活発的になったのも、私がこうして暗くて深い海の底で溺れている気分になっているのも、全てはなでしこちゃんに端を発している。

 全部なでしこちゃんのせいだ。喉元までせり上がってきたその言葉をなんとか飲み込み、代わりに心の中で咀嚼する。全部なでしこちゃんのせいだ。

 全部なでしこちゃんのせいだ。全部、なでしこちゃんのせいだ。

 

 来店ベルが鳴った。目を向けると、そこには知人でも何でもない、一般客の姿があった。

 そうだ、今はバイト中。深くて暗い沼に沈んでいる場合ではない。私はなんとか営業モードを叩き起こすと、一言。

「いらっしゃいませ」

 ……ああ。こうして営業モードを再起動しなければならないのも、全部なでしこちゃんのせいだ。



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矛盾

 お姉ちゃんとリンちゃんの件について、意外にも恵那ちゃんは動揺を示さなかった。

「へえ、そっか。リンとなでしこちゃんのお姉さんがねえ」

 呟くと、恵那ちゃんは手を後ろに組み、いつものように口元をちょっと歪めて笑みを作った。その声にはなんの感慨も含まれていなくて、ただ訥々と機械的、まるで殺人事件を平坦な口調で伝えるニュースキャスターみたい。もっともニュースキャスターと呼ぶにはちょっぴり声量が足りないんだけど。ともあれ、これが恵那ちゃんの反応だった。

「あまり驚かないんだね」拍子抜けして、私は言った。「恵那ちゃん、もっと怒るか悲しむと思ってたのに」

「へえ。なんで?」

「なんでって、そりゃあ……」首を少し傾けて、私の瞳を射抜くように見つめてくる恵那ちゃん。何故かその視線が恐ろしくて、私はふいっと目を逸らした。

「……恵那ちゃん、リンちゃんのこと好きなんでしょ」

「うん」力強い断定。当たり前じゃん、何を言ってるの? と言われているかのような気がした。

 意を決して顔を正面に向けると、私は。

「それなのに」恵那ちゃんの瞳を貫くように覗き込んで、「恵那ちゃん、驚きもしないから。私が恵那ちゃんの立場だったなら、絶対そんなふうにはできないよ」

 私の言葉に、恵那ちゃんの瞳が寂しさをたたえる。ほんのちょっと俯いて、感情を搾り出すようにぽつりと一言。

「……変かな? 私、もっとたじろいだ方がよかったかな?」

「……そういうわけじゃないんだけどね」

 再び目を逸らす。

 嘘だ。正直に申し上げてしまうと、私は好きな人が自分じゃない別の人と、その……色々したと知って、それでも尚動じていない恵那ちゃんのことをたいへん奇妙に思っている。違和感を感じている、と言ってもいいかもしれない。あるいは、知的好奇心? そこまではいかないけれど、でも今、私の心の中ではなんで、どうしてっていう思い、疑問符が舞っている。どうして恵那ちゃんは動じないんだろう。私なら確実に動揺し、迷子になった感情を発露させて周りに迷惑をかけること間違いなしなのに。どうして彼女はこうも平然としていられるんだろう? って感じでさ。

 だから、私は尋ねてしまった。

「恵那ちゃんは、リンちゃんが他の女の人と懇ろになっても平気なの?」

 自分でも不躾な質問だなあと思う。案の定、恵那ちゃんは語気を強めた。「そんなわけないじゃん」と。

「平気なわけないよ。嫌だ。悲しくて、寂しくて、辛くてたまらないよ」

 その台詞に、私は多少面食らった。恵那ちゃんが言っているのは当たり前のことだ。恋する人が他の人と懇ろになったら辛い。そりゃそうだよ。辛くない人間なんてこの世にいるのかって話だ。でも、その「当たり前のこと」を恵那ちゃんが言ったというのがちょっと意外で。今まで散々動じた様子もなく、機械のように笑顔を浮かべていた彼女が人間のような反応を見せたことに、私はちょっと衝撃を受けた。そして、ひどく安心した。

 なんだ。恵那ちゃん、ちゃんと辛かったのか。全くもってこんなことで喜んじゃいけないんだけど、さっきまで能面に会話しているような感覚だったから、初めて見せる恵那ちゃんの人間の表情に、私はほっとしてしまって。だからこそ、と言うべきだろうか。よりいっそう、私の疑問符は色濃くなった。

「だったら、なんであんなに無機質な反応だったの?」

 悲しくて、寂しくて、辛かったのなら、なおのこと冷めた反応の理由がつかない。

「なんて言えばいいんだろうなあ」

 溜息を吐くかのように恵那ちゃんは言う。寂しそうな、切なそうな声色だった。

「私はね、なでしこちゃん。リンを信用していないんだ」

「それって、どういう――」

 絶句する私。変わらず、悲しそうな恵那ちゃんの表情。

「私はリンが好き。愛してるって言ってもいいくらい好き。ちょっと重いかなあって、自分でも思っちゃうくらい」

 それくらい想っていることに気づいたのはつい最近の話なんだけどね、と苦笑してから、恵那ちゃんは話を続ける。

「もちろん、リンが他の子と仲良くしてるのを見て心臓がきゅってしないかって聞かれたら、そんなことはないって答える。ましてや私以外の人とそんな関係を結んだってなったら、心臓がどうにかなっちゃいそうだよ」

 そっと心臓の辺りを抑える恵那ちゃん。私は、なんと言えばいいか分からず、できることは口を噤むことぐらいだった。

「だけど、ね」恵那ちゃんの雰囲気が変わった。「私はそれ以上に"自由なリン"が好きなんだよ」

「自由なリンちゃん?」

 思わず聞き返してしまった私に、恵那ちゃんは力強く頷く。

「うん。だって、週末になったらどこへともなく出かけてソロキャンプするんだよ? 女子高生で、その上あんなにちっこいリンが、たった一人で行ったこともない遠くの山とかでキャンプするんだよ?」

 それは、そうだ。ワイルドだなあと私も思うし、今までソロキャンはおろかキャンプにすら縁がなかった私が今ちょくちょくソロキャンをやっているのはリンちゃんの影響だ。

「もちろん県外でキャンプするようになったのはオートバイを手に入れてからだけどさ。でも、中学生の頃から自転車こいでそういうことしてるんだよ。中学生でだよ? 凄いよ、リンは。あの頃の私は、キャンプしようっていう発想すらなかったもん」

 照れくさそうな表情。いつのまにか、楽しそうな口調。

「そんなリンが好きなんだ。自由で、気ままで、放っておくとどこまでも行ってしまいそうで、まるで鳥みたいな、そんなリンが好きなんだ」

「……でもさ、それで恵那ちゃんはいいの?」

 恵那ちゃんはぱちくりと目を瞬かせる。「それでいいの、って?」

 私は深く息を吸う。背中の後ろでこっそりと握り拳を作る。

「リンちゃんは確かに自由だよ。凄いなって、私も思うもん」

 毅然と恵那ちゃんの目を見る。

「だけど、今回リンちゃんはお姉ちゃんとしちゃったんだよ。恵那ちゃんじゃない、別の女の人と、ね」

 そうでもしないと、恵那ちゃんにとって残酷な現実を突きつける私がひどく醜いもののように思えたからだ。

 その恵那ちゃんはというと、唇を固く引き結んで目を伏せている。両手は相変わらず後ろで組まれていて、ここからじゃよく見えない。だけど、なんとなく私は血が止まるくらい強く握っているような気がする。……私が今、お姉ちゃんのことを思って握り拳を作っているように、それを恵那ちゃんに悟られないよう背中の後ろに隠しているように。何となく、私はそんな気がしたんだ。

「恵那ちゃんは、それでいいの? それでもまだ、自由なリンちゃんがいいっていうの?」

 恵那ちゃんは、なんと、こくりと頷いた。

「うん。……正直に言うとね、私はこんなこともあるだろうなって思ってた。予想してたんだ、リンが不倫……いや、これだと私とリンが付き合ってるって言い方になっちゃうね。ともかく、私はこうなることもあるって予想してた。覚悟はできてたんだよね」

 恵那ちゃんは自嘲する。

「リンって、昔から美人なお姉さんに目がないからなあ。あれで奥手だからまだいいんだけど、もしも積極的だったらって考えると恐ろしいよ。顔の良さの有効活用だ」

「恵那ちゃん……」

「だから、さっき言ったんだよ。私はリンを信用してないんだって。リンをそういう人間だと思ってるんだって。……そんな奴が、リンの翼をもいじゃいけないんだよ。私の近くにいるよりも、リンは飛び回ってた方がいい。リンは自由だからこそリンなんだよ」

「…………」

 私にはもう、かける言葉が見つからなかった。

 お姉ちゃんとリンちゃんが懇ろになるなんて嫌だ、悲しい、寂しい、辛いと言った恵那ちゃん、自分なんてふさわしくないからとリンちゃんに自由でいてほしいと言った恵那ちゃん。どうしようもなく、その二つは矛盾していて、私にはどうすることも出来ない。唯一なんとかする方法があるとしたらリンちゃん本人が恵那ちゃんに告白することなんだろうけど、それも今となっては遠い線だ。どの面下げて、って感想は拭えないだろう。……まあ、恵那ちゃんが喜ぶのならそれでいいのかもしれないけどさ。

 ともかく、この件で私ができることは何もなさそうだ。目の前にはひたすらに苦しそうな表情の恵那ちゃんがいる。なんで、どうして恵那ちゃんがこんな顔をしなければいけないんだろう。そう考えると、リンちゃんとお姉ちゃんに対してふつふつと怒りが湧いてきて、なんだかとても悲しくなった。



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