犬吠埼樹はワニー先輩のギターを弾く (加賀崎 美咲)
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鷲尾和仁は勇者を殺した 〜Dead end strayed〜
わしおかずひと


 神の稚児。

 生まれつき神樹と霊的に強く繋がり、勇者や巫女になれば歴代でも最上位の存在に至れる素質。具体的に言えば、勇者になれば一人で西暦の勇者たちを一方的に圧倒できる戦力の勇者に至り、巫女になれば万象を見通し、ラプラスの悪魔じみた予言を行える 。

 その才能を鷲尾和仁は生まれ持つはずだった。

 天より、怒れる神の使徒たるバーテックスが降臨し、約三百年が経とうとしていた。人類は多大なる犠牲と無垢なる少女たちの生贄を捧げ続け、なんとか人類という種をこの神世紀にまで存続させていた。

 いつからか無垢な少女たちを贄に捧げ続けることを大赦は躊躇わなくなった。それは少数の犠牲によって大勢の四国に住む最後の人類を守るため、必要な犠牲だった。

 生贄に捧げられる少女から目を逸らし、生き残ったという結果だけを見る。自分たちが行なっていることのおぞましさは人類を守るという目的のために正当化されていた。

 そんな世界になった神世紀285年、神樹から大赦へ一つの神託が下賤された。

 ——鷲尾の家に生まれる子は神の稚児である。

 これを聞いた時、大赦内はかつてない動揺に見舞われた。

『七つまでは神のうち』

 幼き子供はその魂が不安定な状態であり、あの世とこの世の境にいる状態にある。その為、その身は穢れからは程遠く、生きた人間でありながら神の領域に生きている存在になり、大人よりも幼い子供の方が神をその身に降ろすのに適した器になる。だからこそ勇者は幼い少女の中から選ばれた。

 そして神の稚児という要素がこれに拍車をかける。稚児とは乳飲み子、つまりは親によって育成される幼い時期の子供という意味から来ている。子とは親から無償の愛情を注がれて育っていく。神の稚児とは生きた人間でありながら、生来の両親と同時に神にも愛情を注がれる器たる素質を持った人間。

 それは生まれながら神に愛される素質であり、ひいては神への捧げ物としてこれ以上ない素質を意味する。

 神世紀の人間には、何度も満開を繰り返し神樹が創り出した神造のパーツで体の欠損を補填した勇者たちが最終的に至る「御姿」の性質を生まれながらにして持っている人間と伝えるのが分かりやすいだろうか。

 何よりも恐ろしいのは神の稚児は勇者とは違い、生来の全身が御姿であり、後天的に御姿になる勇者では混じり物故、どうやっても至ることのできない神への親和性を有している点だった。

 現実的で先進的な物の見方をする大赦の派閥はこの神託を聞いた時、千載一遇の機会であると認識していた。おおよそ十数年後に来ることが判明していたバーテックスの襲来に合わせ、この生まれてくる神の稚児を対バーテックス、ひいては対天の神への戦力として使い潰そうと計画した。

 神の稚児にはそれだけのことを行える潜在的な素質を間違いなく有していた。それはかつて西暦の時代の勇者たちが国津の神々から力をもらい受けたように、神の稚児そのものを器に、神樹の力を攻撃の為に顕現させようと画策した。

 そして間違いなく、最終的に神の稚児はその負荷耐えきれなくなり絶命するも分かっていた。

 誰もがそれを外道の行いだと判断した。他でもない、この計画を図った先進派自身も自分たちが行おうとしていることのおぞましさを理解していた。理解した上で計画が推進された。

 神樹の寿命がもう数十年もなく、滅びゆくことが確定した人類に人道的な観念は考慮する余裕などなかった。

 誰もがこれを間違っていると分かっていた。しかし人類を生かすためには手段を選ぶ余裕などもう存在しない。生まれてくる子供を人類のための生贄として使い潰す、この外道すぎる計画に声を荒げて怒っていた保守派の大赦神官も内心では、これで人類が存続できると安堵の息を漏らしていた。

 きっと誰も悪くない。ただこの人類が生き残るためにはこれが最も犠牲の少ない手段だったのだ。たった一人の命で四国人口400万人の人間が活かされる。

 数字だけ見れば四百万マイナス一の計算式。数字だけ見れば、これ以上なく効率の良い、良心さえ無視すれば最も正しい人類が生き残るための選択肢であった。

 生まれながらにして人類存続のための生贄。それが鷲尾和仁が持つはずだった定めだった。

 しかしその運命は同じ人間によって阻まれた。

 それを心から良しとしなかった人がいた。

 例え四百万人が犠牲になろうともまだ産まれぬこの子の幸せを願った人がいた。

 他の誰でもない、鷲尾和仁の両親である。

 彼らは若い夫婦ではなかった。それなりに年を取り、本当ならば小学生くらいの子供がいても良いくらいの年齢だった。それは一重に彼らが子供を作りにくい体質であったことに起因する。不妊に悩む夫婦は決して少なくない、その少なくない夫婦の一組が鷲尾夫妻だっただけのこと。だからこそ、妻が妊娠したと聞いた時の夫の喜び、やっと自分たちの子供ができたと知った時の妻の安堵は想像に難くないだろう。

 そしてその子供が人類のための生贄として消費されると知った時の夫妻の絶望もまた喜びに比例した。

 なぜ自分たちの子供なのだ。他の誰でも良いだろうに。やっと授かった子供。どうしてよりによってこの子なんだ。

 親として当然の怒りだった。何度も大赦に懇願した。しかし当時から大赦内でそれなりに高い家格を持った鷲尾家であってもこの決定は覆せなかった。上里の家長も、赤嶺の家長もどちらも決まって申し訳なさそうに首を横に振った。

 大を生かすために小を殺すのは正しいのだ。どうしようもなく。

 変えられない定めに二人は絶望した。

 一度は中絶も考えた。多くを生かすために殺される定めを持って生まれるならいっそのこと。しかし出来なかった。出来るわけがなかった。

 だから二人は神樹に願った。涙を流す顔を覆いながら、必死に願った。

 ——どうかこの子を、不幸な定めから救ってほしい。人並みの幸せを持って生きてほしいと。

 不幸なことは総じて神への願いとは歪に叶えられてしまうこと。神は人へは寛容だが必ずしもその善意が、人を人の価値観に基づいて救うとは限らない。人と神とでは根本的な観点が違いすぎる。微塵の悪意なく神樹は二人の願いを了承し、定めを少しだけ、鷲尾和仁にとっては地獄の幕開けとなる恵みを与えた。

 生まれた時、検査によって、それまでは間違いなく女の子と思われていたその子は、取り上げられてみると、その性別が男の子へ変化していた。

 仰天したのは大赦と両親の双方であった。

 大赦からすれば計画していた勇者計画、巫女計画の両方が前提から頓挫した。勇者も巫女も前提として無垢な少女でなくてはならない。男子ではどうしてもどちらにもなれない。

 両親は女の子ではなく、男の子に生まれたことには驚いたが、これでこの子も人並みの幸せを受けられると安堵した。

 しかし、奇しくも現実は双方が願ったものが歪に叶えられた。

 生まれてきた子は間違いなく神の稚児としての性質を生まれ持っていた。

 双方の願っていた存在から少しだけ歪にずれて鷲尾和仁は生まれた。神樹への親和性が高いだけの勇者にも巫女にもなれない期待はずれの存在として。

 生まれた和仁は普通の子の様にすくすくと育っていった。両親は安堵した。生まれてきた自分たちの子供は普通に育ってくれるのだと。生贄になることはないのだと。

 地獄が始まったのはちょうど和仁が3歳になってすぐのことだった。

 不安そうな顔で、父を見上げながら幼い和仁は聞いた。

 ——ねえ、お父さん。ぼくはきたいはずれなの? ぼくがおとこのこにうまれたからせかいはほろびるの?

 その言葉を聞いた時、和仁の父は心臓が止まった様な気がした。

 生まれつき、神樹と高い親和性を持っていた和仁は無意識に神樹からの神託では無く言葉を、この世界の情報を常に与えられていた。巫女が持つ神託の才能ではない、文字通り精神の一部が常時、神樹と同化し、神樹の方から情報が日々、とめどなく和仁に与えられていた。

 その日、本当に偶然に、彼はかつて和仁を生贄として使おうとしていた急進派の思考を神樹を通して知ってしまった。彼らが漏らした呟きを聞いてしまった。そして神樹は無慈悲に、善意を持って、様々なことを知りたいと思っていた幼い和仁に、彼に関わる全ての知識を与えた。

 四国の現状、残り少ない世界の寿命、勇者と巫女、そして生贄として期待されてきた自分自身の出自。そして生まれてみれば男子であり、勇者にも巫女にもなれない期待はずれ。

 生まれる前から悪意なく死んでくれと思われていた事実は幼い和仁には重すぎる告知であった。幼い子供の心を壊すのには十分すぎるほどの重圧。

 この時、和仁が世界よりも自分の方が大事だと思うことが出来ればどれほど幸せだっただろうか。しかし和仁はそう思うには聡明すぎた。

 自分一人の命と四国の全人口、どちらを天秤にかけて、どちらを優先するべきか理解してしまっていた。それは全人口に大切な両親も含まれていたから、幼い和仁にはその事実だけで自分は何を選択するべきか理解してしまった。子供らしい家族が大切だという気持ちが和仁に選ばせた。

 和仁の言葉を聞き、大赦へ抗議するために乗り込んだ両親についていった和仁。和仁の父は面会した、当時からの大赦の長、上里の家長に怒りのままに掴みかかった。

 ——上里! あのような小さな子どもに死んで欲しいなどと、大赦はいつからこうなった!

 ——落ち着け鷲尾! そのような言葉を吐いた馬鹿者は今こちらで探している! 子どもの前だぞ!

 和仁は父に摑みかかられていた神官、上里の家長の袖を引いた。袖を引かれた上里の家長は自身を見る和仁と目が合った。

 曇りひとつない瞳が上里の家長を見上げ、言った。

 ——ぼくをつかってください。おとうさんやおかあさん、みんなをまもるためにぼくをつかってください。

 その言葉に、喧騒に包まれていた大赦本部は冷水をかけられたように静まった。

 幼い和仁の言葉は周囲にいた大人全員を愕然とさせた。その言葉に声を荒げていた和仁の父も、それを静止させようとしていた神官たちも動きを止めてじっと彼を見ていた。

 ——自分たちはこんな幼い子供に何てことを言わせてしまったのだ。

 静止した時間の中、はじめに動き出せたのは当時神官の見習いとして偶然居合わせた安芸だった。彼女はこの痛々しい子供を黙って見ていることなど出来なかった。

 駆け寄り、抱きしめる。

 ——ごめんなさい、ごめんなさい。

 この時、高校生であった安芸にまだ3歳になったばかりの和仁の言葉は余りにも重すぎた。泣きながら自分のせいでもないのに赦しを乞う。状況を理解しているが故に謝罪することしかできなかった。そんな必要は無いとは言えなかった。

 抱きしめられ、謝罪する安芸を和仁は不思議そうに見ていた。大赦の人間は自分の死を願っていると思っていた和仁にとって目の前で泣いている安芸は不思議な存在だった。

 ぼーっと安芸を見る和仁と、その和仁にしがみついて泣く安芸を見ていた神官が一人、近づいて膝を地につけて土下座の姿をとる。

 土下座をしていたのは上里の家長であった。大赦の最高幹部の行動に他の神官たちもそれに倣って和仁に向けて平伏していく。

 立っていたのは和仁、状況についていけなくなっていた和仁の父、そして未だ和仁を抱きしめ泣いていた安芸の三人で、それ以外の神官数十人は平伏し、こうべを垂れたまま先頭にいた上里が口を開く。

 ——鷲尾和仁様。いえ、神稚児様。これより大赦一同、貴方様の申し出、謹んで受け入れさせていただきます。どうぞ私たちをこの国の未来のためにお使い下さいませ。

 神の稚児として和仁は自身を捧げる事を宣言し、大赦はそれを受け入れた。代わりの効かないただ一人の生贄として。

 これが和仁が持つ最も古い記憶。鷲尾和仁の運命が決まった日の記憶。

 そして2年の月日が経過した。

 

 その日、大赦本部に和仁はいた。

 異様な光景だった。仮面をつけた大赦の神官たちが壁を隠すように二列に並び、部屋の中央では椅子に座った和仁、ここ二年間で和仁のお目付役に抜擢された安芸がホワイトボードを背に説明を始めようとしていた。

「では皆様、書類は各自配られましたね。これより第一回、試作型宮司システムの説明会を始めさせて頂きます。ではまず概要から……」

 次々とホワイトボードに宮司システムの説明するためのスライドが表示され、それを一つ一つ安芸は説明していく。

 この二年間、大赦ではいかにして和仁を効率的に使うべきかと言う議論が幾度も行われた。その結果、いずれ襲来するバーテックスへの対抗手段として準備されてきた勇者システムの補助機構として、和仁を最大限活用できる宮司システムの開発が始まった。

 根本的に現在の勇者システムではバーテックスが討伐できない。倒しきれないのだ。

 そのため対バーテックス戦においては鎮花の儀という儀式によって四国内に侵入したバーテックスを追い払う戦法が取られ、いずれ開発中のバーテックスを真の意味で討伐できる勇者システムが完成するまでの時間稼ぎを行うことが現在の目的となっていた。

 幼い少女しかなれない勇者のみによる戦いでは成功率に不安があった。

 そこで神樹に接続した和仁を触媒にすることで、鎮花の儀によって追い払う力を増幅して稼げる時間を伸ばし、さらに鎮花の儀までの戦闘においては後方からの戦闘支援を行うことで確実に儀式を完了する役目が和仁に与えられた。

 基本的な説明が終わり、安芸は和仁に向き直る。

「以上が宮司システムの基礎的な概要です。神稚児様、分からない所はありますか?」

「大丈夫です。神樹様に関係する情報は全部、神樹様から聞いています。この後は宮司システムの試験運用ですか?」

 答える和仁の顔は儚く、暗く笑っていた。美しい笑顔だった。これから散りゆく花のような笑顔。

 しかし、その表情を見ても安芸は胸が締め付けられる。自分を機械的に消費する装置の説明に微塵も不安を持っていない、進んで生贄になろうとする表情を安芸は恐ろしく感じた。

「……はい、では問題ないようですのでこれから宮司システムの試験運用の方へ移行します。では皆様、これより試験場へ移動します、ついてきてください」

 説明が終わり、部屋内にいた者たちは揃って地下の試験場へ向かう。

 試験場に着くと和仁は数人の神官に連れられて下層に向かい、安芸に連れられた神官たちは上層のシステム管理用のコンソールがいくつもあるモニタールームでガラス越しに和仁と付き従う神官たちを見下ろす形になる。

 試作品なのだろうか、ところどころ配線がむき出しになったそれは試験場の中央奥に鎮座していた。

 遠目から見れば大きな卵のように見えるそれだが、よく見れば半透明な膜に覆われ、人ひとりが座ることができる椅子部分と搭乗者に向けて伸びた針のついた部品が鎮座していた。

 和仁は迷いのない足取りで装置に向かう。乗る直前に着ていた神官服の上を脱いで隣にいた神官に預ける。上半身が露わになり、事前の知識のない神官たちは息を飲んだ。

 本来は白く傷ひとつないであろう上半身に異様な刺青が刻まれていた。両肩、肩甲骨、脇腹、そしてスリットの入った神官服の隙間から太ももの四対、計8カ所に刻まれたそれは黒々と存在感と子どもの肌に刻まれているという事実により一種の禍々しさを放っていた。

 ひとりの神官が思わず安芸に尋ねる。

「あれはなんですか、安芸主任」

「……私語は慎んでください。あれは神稚児様と機械の接続を補助するための刻印です」

 素材が生きた巫女たちの生き血であることは黙っていた。今ここでそれを言ってしまえば、余計な混乱を生み出しかねなかった。

 息を飲む神官たちをよそに和仁は宮司システムに座る。システムは搭乗者である和仁を認識するとひとりでに動き出した。備え付けられたコンソールからは素人目には意味の分からない文字列が並んでは消えを繰り返し、座席に備え付けられていた機械の針がそれぞれの定位置に動くと、和仁を刺青の上から肌に突き刺す。

「痛ぅ……」

 突き刺さった針が肉を掻き分け、神経に物理的に繋がっていく。事前に聞いていた通りの痛みが和仁を襲う。しかし知っているのと実際に体験するのでは全く違った。

 神経に直接機器がつながる痛みに和仁は悶え、うずくまる。

 うずくまり、息を荒げて痛みに耐える。痛みに耐えようと激しくなる自分の呼吸音に混ざって繋がった接続を経由して神樹への接続が確立されていく。普段は朧げな神樹との霊的なつながりが機械を触媒により明確なものへ変化していく。

 吐いた息が100を超えたあたりでやっと痛みに慣れ、正面を向き、システム担当の神官たちに命じる。

「接続完了です。システムを起動してください」

 和仁の言葉を聞いて仮面を被った神官が手元の機械を操作する。

 操作が完了すると途端に感覚の変化が和仁を襲う。心が二人に分かれ、戻り、三人に分かれ、戻り、その手順が何度も繰り返される。精神がこの四国を包む神樹の結界と溶け合い、広がっていく。目で見ているはずの視覚は二重、三重と数を増やし、聴覚、触覚も同様に増加していく。ここにいるはずなのに自分が一帯に広がっていく。神樹を一体化していく感覚は体が融解し、分子になって広がるようだった。

 感覚が捉えた全てが機械的に分析され、宮司システムに備え付けられたモニターや各種計測器に反映されていく。

 同じものが様子を見守っていた神官たちの部屋のモニターにも映されていく。実験の成功に見守っていた神官たちは喜びの声を上げる。

 ——これで敵と戦う舞台を用意できる!

 静かに眺めていた安芸も、ホッと息をひとつ漏らした。

「ん! あ……」

 次の瞬間、異変は起きた。

 和仁のバイタルを表示していた計測器が異常を知らせる。

 そして次の瞬間、和仁の全身から血が噴き出した。吹き出た血液は辺り一面にしぶき、白い機械やモニターを赤く染めていく。

 突然、血を吹き出した和仁を見て、動揺しながらも安芸は指示を飛ばす。

「稼働実験、停止。急いで! 待機している救護班は直ぐに医務室へ運んで!」

 何が起こったか分からず狼狽える神官たちの中を安芸の鋭い指示が飛んでいく。指示された者たちは命令を実行しようと動き出す。

 しかしそれを止める声がした。他でも無い、血を吐き、むせ返える和仁が指示を出す。

「ゲホっ! じ、実験を続けてください。……ケホっ、大丈夫です、負荷をかけすぎただけです。続行には支障をきたしません」

「し、しかしどう見ても……」

「いいから続けてください。ここで立ち止まっていてもいずれ敵は必ず来ます。待っている余裕はないです」

「あ、安芸主任……、ど、どしたら……」

「神稚児様の……、おっしゃる通りに……」

 狼狽える技術スタッフに安芸は力なく答える。

 人々を守るために今、目の前の少年は血を吐いている。それは人々のために流される彼の血だ。戦わねば傷つく人々のために流される彼の血。

 目を背けることは、彼にその重役を押し付けたことから逃げることだった。目を背けることは許されない。しかしそれでもはっきりと和仁を見れていたのは二年間付き添った安芸だけだった。他は少しづつ目を背けながら彼を見ていた。

 それ故に安芸だけは見逃さなかった。血を吐きながら、凄惨な状況でありながら喜色に染まる和仁の顔を。必要とされることに歓喜する痛々しい表情だった。

 稼働実験は続行され、鎮花の儀の試験工程に入る。部屋にいくつも設置された鈴が鳴りだした。一つ一つの音が重なりはじめ、音が調和していく。

 古来、鈴の音とは神聖なものであり、場を清め、神にふさわしい場を作る作用があるとされた。

 鎮花の儀はその浄化作用を神稚児の霊媒体質を触媒にして、機械敵に場を神樹の力を振るいやすい空間に作り変える儀式であった。

 計測器が場の浄化具合、穢れに満ち溢れた現世が神樹の神聖な空間に書き換えられていく状態を数値として表していった。グラフが目標値まで伸び、しばらくすると必要値まで伸びたまま、数値が維持される。

 事前の説明では、今回は一分ほどの数値の維持が目標とされていた。しかし時計の秒針は優に周回し、三十分を迎えようとしていた。

 血を吐き続け、ついに意識を維持できる限界まで血が失われ、倒れこむように和仁は宮司システムから離れた。

 離れてすぐ、貧血を起こしてふらつき、自身の血液を踏んで滑り、倒れる。

 見守ることしかできなかった神官たちは和仁が倒れたことで我に帰り、待機していた救護班が急いで彼を医務室へ運び、安芸はそれに付き添った。

 神稚児の肉体は穢してはならない。それが大赦の新たなる原則だった。その為、穢れてしまっている普通の人間の血を輸血をすることは出来ず、何十本もの増血剤が和仁に緊急処置として投与される。

 普通の人間であれば死に至る状況であったが、神稚児であれば問題はなかった。一時間もすれば、増血剤と神樹の加護によって正常な状態へ移行する。後に実装される勇者を生かすシステムの雛形たる神稚児の力だった。

 血が通い出し、和仁は意識を取り戻す。体を起こし、周囲を見て安芸を見つけると淡々と話しはじめる。

「安芸さん、実験はどうでした? 上手くやれていましたか? 途中から視界が見えなかったのでよく分からないんです」

「……数値としてはこれ以上ないものです」

「それは良かったです。僕は役に立ったんですね」

 無邪気に和仁は実験の成功にはしゃぐ。

 そんな彼の様子に安芸は声を荒げる。子供が自分が死にかけたことよりも役に立ったことを気にすることが許せなかった。

「何が良かったものですか! あれ以上続けていたら、死んでいたかもしれないのですよ! もっと自分を大切にしなさい!」

「僕の身よりも大切にしなければならないものが沢山あります。それに、僕は神樹様の加護で守られて死なないはずです。現にこうして問題なく動けます」

「神樹様の加護も完全かはまだ分かっていないのですよ! なのにあの様な無理をして、もしも死んでしまったらどうするのですか!」

「それならそれでいいです。神樹様のために死ぬのなら、きっと神稚児としてはこれ以上ない死に方でしょ?」

 安芸の言葉に和仁は自虐的な笑みを浮かべて答える。きっとみんなはこれを望んでいるのだと和仁はいつも思っていた。だからこそ自虐的に笑ってしまう。

 そんな笑みを見て、思わず安芸は手を上げてしまった。

 静かな医務室に乾いた音がこだました。

 頬を叩かれた和仁は叩かれた左頬を触りながら、悲しそうに安芸を見つめる。

「安芸さん、不用意に僕を叩くとあなたにどんな厳罰が下るか分かりません。やめて下さい」

「そんな風に人を心配出来るのなら、どうして同じ様に自分を大切に出来ないんですか!」

「僕はいいんです。みんなの為に死ぬのが僕の仕事なんです」

 端的に言えば、和仁は怒られていた。しかし和仁は自分を大切にしないことで怒られる意味を理解できなかった。自分が犠牲になることを義務に思う人間にとって、自分の存在は計算に含まれない。

「どうして、素直にごめんなさいと言えないの! それは自分を軽んじる理由にはならないでしょ!」

 二度目の乾いた音が響く。まだ女子高生の安芸は感情に任せて行動してしまう。

 ただあの時、あの場で唯一、和仁に謝罪できたこと、大赦内で言えば年齢が近かったことで和仁のお目付役に選ばれた安芸は和仁にどう接して良いのか今日まで分からなかった。

 ただ今、目の前のこの子をこのままにしてはいけないことだけは分かった。

 教育としては違っているのかもしれない。しかしこれが彼女に出来る和仁への接し方だった。無理にでも考え方を改めさせなければならなかった。

 貧血で平衡感覚が弱っていたこともあり、二度目の平手打ちに和仁は耐えきれずに後ろに倒れこむ。

 叩いた本人であった安芸も驚き、思わず和仁を両腕で抱えて抱きとめる。

 抱きしめてみると驚くほど体が小さいことに安芸は気づく。当然だ。まだ和仁は五歳になったばかり、普通であれば幼稚園に通っている年齢なのだ。それなのにこの少年は人類のために身を捧げようとしている。そう思うと抱きしめる腕が力んでいく。

 強く抱きしめられ、腕の中の和仁は抜け出そうともがき始める。

「……安芸さん、苦しいです。離してください」

「ダメです。今日みたいなことをしないと約束するまでこのままです」

 そう言うと安芸は腕の力をさらに強める。細い、今にも折れてしまいそうなその存在が確かにそこにあることを確かめる様に。

「……ごめんなさい。……ほら、もういいでしょ?」

「ダメです。何についてごめんなさいと言っているのか分かりません」

 安芸の言葉に和仁は唇を尖らせて答える。母親以外の女性に抱きしめられることに羞恥を覚え始め、急いで言葉を紡いでいく。

「んー、自分を大切にしなくてごめんなさい」

「本当にそう思ってますか?」

「思ってます。思ってます!」

「ならもう二度と今日の様なことはしないと約束できますね?」

「します! しますから離して!」

 和仁が約束をしたことに安芸は腕の力を少し抜いた。和仁はそれを見逃さず、腕の中かすり抜けると安芸から距離を取り、シーツを被って顔を隠て丸まる。

 母親とは違う女性らしい柔らかい体つきの感触に和仁は恥ずかしくなって顔を赤くする。

 そんな和仁の様子を見て、恥ずかしがっていたことを分かっていない安芸は不安そうに聞く。

「もしかして、痛かったですか? 頬は大丈夫?」

 安芸に質問され、和仁はシーツから顔だけを出して答える。頬は平手とは違う意味で赤くなっていた。

「別に痛くないです。頬もこの通り、すでに治ってます。安芸さんはもっと子供の気持ちを考えるべきです」

「……えっと、ごめんなさい? でも私見ての通り、子供など育てたこともないので……」

「そう言う意味じゃないです」

 和仁は拗ねた様にベッドに横になる。顔だけは安芸から見えない様に壁を向いて転がる。

 年齢相応の和仁の様子に安芸は思わず笑みをこぼす。そっと和仁の頭を引き寄せ、自分の膝の上に置き、そっと撫でる。

「……なにしてるんですか、安芸さん」

「子供がいたら、お母さんはこうするのかと思って。……どうですか?」

「僕に聞かないでください。……母とはもうしばらく顔も合わせていないのでよく分かりません」

「……それはどうして?」

「……おかあさん、僕と顔をあわせる度にいつもに申し訳なさそうにするんです。見れば分かります、あれは産んでしまってごめんなさいって顔です。……だからあんな顔見たくないので家の中でも極力顔を合わせない様にしてるんです。父とも二年前のあの日からほとんど口をきいてないです。下手に仲良くなっても僕が死んだ時に悲しまれるのが嫌なので」

「和仁様は優しいのですね」

 安芸は優しく和仁の頭を撫でる。

「そうですね、人の顔を二度も叩く人よりもきっと優しいと思います」

 言葉に手が止まる。そう言われ、安芸は申し訳なさそうな表情を作る。

「それは……、本当に失礼致しました。過ぎた真似でした、どの様な厳罰でも甘んじて受ける所存です」

 一度だけ顔をこちらに向け、視線だけが安芸に向けられ、すぐに元に戻る。

「……もういいです、別に怒ってもいないですし。……もし普通の親子だったらあんな風に怒られるのですか?」

「どうでしょう? でも母親ならきっと自分を大切にしない我が子を怒ると思います。……まぁ、私のやり方は間違っていたかもしれませんが」

 安芸の言葉を聞いて、少しの間、和仁は黙り込む。

 急な沈黙に対し、安芸は不思議そうに和仁の顔を覗き込む。

「……安芸さんは先生みたいです」

「先生ですか? 私が? どの辺りがそう見えました?」

「神樹様は僕に知識を与えてくれます。でもそれだけです。教えてくれても、導いてくれることはしてくれません。今日まで僕に、安芸さんみたいに接してくる大人の人はいなかったです。前に神樹様を通してみた風景の中に学校があって、何か悪いことをしていた生徒が今の僕みたいに怒られていました。その時の先生と安芸さんが重なって見えます」

「そうでしたか。……いいかもしれませんね」

「何がです?」

「先生。ちょうど私、今高校の進路調査で何を答えるか迷っていたところなんです。せっかく神稚児様からのお墨付きが貰えたので先生になってみようかと」

 安芸の言葉に驚いた和仁は体を起こし、目を合わせる。顔は驚いて目がパチクリと瞬きする。

「そんな簡単に将来のことを決めてしまっていいんですか。……なんていうかもっと慎重に決めることじゃないんですか?」

「いいんです。決めました。私先生になります。というわけで和仁様、今日からは私のことは安芸先生と呼んでください」

 急な安芸の宣言に和仁は困惑する。決断の早さもさることながら、急に呼び名を変えることの意味がいまいち分からなかった。

「なんですか急に。そんなに急ぐこともないでしょう?」

「いえ、決めました。私はあなたを立派な大人にすると今、誓いましょう。という訳で今日から、私はあなたの先生です」

「何がという訳なのか、さっぱり分からないです」

「分かりませんか? 和仁様、私はあなたが大人になれる様に、大人になる年齢まであなたが生きられる様に私は頑張るってことです。これなら分かりますよね?」

「あ、……え? 僕が大人に?」

 全く想像もつかない領域の話だと和仁は思った。きっと近い将来に死ぬと予感していた。だから将来のことなど何も想像できない。まるで夢物語の話の様な気すらして、思考が停止する。

「はい、和仁様もお役目を終えれば、あとは普通に生きられるはずです。そうしたら自分のために生きていくのに、何も学んでいないと大変なことになります。なので貴方が困らない様に私が教え導きます。……どうでしょうか?」

「不思議な感じです。未来のことなんて考えたこともなかったので、こうして聞かれても全然分からないです。……でもなんとなくだけどいいかなって思えます。本当によく分からないですが」

 少し困った子で和仁は答える。でもその表情は来るかもしれない未来をぼんやりと想像して明るく、未来への期待が灯ろうとしていた。

 




という訳で本編の15年から始まる前日譚です。
こちらは本編の進み具合と兼ね合いしながら描いていこうと思います。

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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あきせんせい、あかみね、うえさと

 讃州にある宮司システム研究所の地下二階の道場にて和仁は座禅を組み、瞑想していた。

 目をつむり、集中して心の中を虚無に変え、瞑想を行う。聞こえて来るのは床下や壁の向こうにある空調の配管が揺れる音のみ。

 初めて行う座禅に和仁は慣れず、集中力が切れる。

 ふと、目を開け目の前を見る。目の前には和仁と同じように、しかし和仁とは違い堂の入った座禅を組み、瞑想に集中する三十代の浅黒い肌の男が一人。大赦直轄の暴徒鎮圧部隊に所属する赤嶺であった。

 目の前の浅黒い男は座禅を組み、目を閉じたまま和仁の集中が切れていることを指摘する。

「神稚児様? 集中が切れていますね、どうかそのままもう一度瞑想にお入りください」

 指摘され、和仁はもう一度瞑想に入ろうとするがどうも上手くいかない。自分の呼吸音や微かに聞こえる空調の音が人の話し声のように聞こえる。

 一度気にしてしまうとそれに囚われ、瞑想に力が入らない。

「……赤嶺さん? どうにも自分が何をやっているのか分からないのですが……」

 それもそうだ。今日、和仁は先日の宮司システム試験運用の事件から二日が経ち、体調に問題がないために復帰して研究所に入った途端、この浅黒い男に連れられて、地下二階の道場で座禅が始まったのだ。和仁はさっぱり意味がわからなかった。

 今日、何をするかは聞いていなかったが座禅と瞑想は今までなかったカリキュラムだった。これまで研究所で和仁が行ってきたカリキュラムは神樹への奉納儀礼に必要な所作の訓練や宮司システムに関する工学的な学習であり、肉体面でのカリキュラムは無かった。

 そもそも暴徒鎮圧部隊の人間が研究所にいることに違和感しかない。

 当の赤嶺は爽やかな笑みを浮かべ和仁に答える。

「そうですね、先日の稼働実験の件はお覚えですね?」

 思い出すのは二日前、初めての宮司システムの稼働実験。稼働実験によりできた傷はすでに癒えていたが、思い出すと傷が何となくうずく気がした。

「……それは、もちろん。昨日今日のことですから」

「はい、その一件を受けて大赦では神稚児様の技能面だけでなく、肉体面での訓練が必要と判断され、その教官としてわたくしは選ばれた、という訳です」

「……あぁ、それで座禅なんですね。しかしそれなら走り込みなどの方が適切なのでは?」

 そこで和仁は事態を理解した。つまり、今後の実験により再度傷害を得るようならば、いっそ体を鍛えて丈夫な肉体作りを行って傷を負いにくくしようという訳だ。

「そうですね、最終的には神稚児様には我々、鎮圧部隊と同様の訓練を行っていただく予定ではございますが、今はまだ御身は幼い身。数年は基礎作りと武術の型を覚えていただく方針になります。幼少期に不必要に筋肉をつけても成長に差し支えます故」

「武術ですか? 宮司には必要のないものに思えますが?」

「さぁ? わたくしは上からの命令を受けて神稚児様を教導させていただいていますゆえ、細かい事情は聞いておりません」

「そうですか。……しかし座禅とは難しいものですね。赤嶺さんはすぐに集中できているようですごいと思います。……それに比べ、僕はどうも上手くいきません」

 今日初めて行う座禅。和仁はうまくいかないことに歯がゆさを覚える。大赦の上層部の指示であるのならば、これは必要なことなのだろう。つまりは四国の人々を守ることにつながる重要な訓練であると和仁は思っていた。それ故にできないことに焦りが少しづつ募っていく。

「ハッハッハ。初めてならば仕方ないことでしょう。これから少しづつ慣れていきましょう。……今日は体を動かす方を重点的に行いましょうか」

 そう言って赤嶺は苦笑しながら座禅を解き、立ち上がる。赤嶺は胴着に身を包んでいた。厚手の胴着の上からでもわかるほどその肉体は鍛え上げられていた。対して同じように立ち上がった和仁はまだ五歳であることも加味しても細い体つきだった。儚く咲く花を連想させる立ち姿に赤嶺は自分が見惚れていたことを少ししてから気づく。

「……では今日は武術の方がいかに優れたものであるか、神稚児様に体感していただきましょう。ではいつでも良いのでかかってきてください」

「ええっと、はい。では、いきます!」

 和仁は自身のできる限りの速さで踏み込む。狙うは金的。元来、心優しい少年である和仁であるが、心優しくはあっても遠慮が意外とない少年だった。

 明らかに金的を狙った行動に赤嶺は驚きよりも感心する。たとえ訓練であろうとも手は抜かない。和仁の遠慮のなさと生真面目さを赤嶺は理解する。

 まじめに訓練に励もうとする和仁の姿勢に赤嶺は少しだけ微笑むと心の内を戦いのために切り替える。

 伸びた和仁の手を掴み、こちらへ進む慣性を体さばきによって少しだけ斜め後方へ逸らす。重心が思わぬ方へ移動し、バランスが崩れるのを何とか左足を使って支える。バランスが崩れ、体が少しだけ浮いたのを赤嶺は見逃さない。やっとのことで体を支える左足を素早く足で払い、ついに和仁の体は完全に浮く。そして浮いた体を慣性の流れに載せるように、掴んだ手を捻り、和仁は空中で一回転し、勢いよく道場の畳に叩きつけられた。

 和仁から見れば、手が当たると思った瞬間に視界がひっくり返り、あっという間に回されて畳に叩きつけられたという事実がめぐるましく移り変わったという結果しか見えなかった。

 畳に叩きつけられはしたが不思議と痛みはなかった。一重に赤嶺が手加減していたためであった。

 投げた和仁の手を掴んだまま、得意げな顔で赤嶺は和仁に言い。

「どうです、神稚児様? これは武術の基礎の応用のみですが、身をもって体験できたかに思えます。痛いところはございます?」

 赤嶺に支えられながら和仁は立ち上がりながら答える。

「いえ、赤嶺さんが上手に投げてくれるので痛みは全くありません。ご指導、お願いします!」

「勤勉な生徒には感心します。いいでしょう、今日は体力の続く限り続けましょう!」

 運動を通して仲を深める男が二人いた。たとえ神稚児であろうとも、それは普遍の男の性質であろう。静かな道場に和仁が投げられる音が何度もこだました。

 男の子同士はそれで良いかもしれないが、女性にはいまいち理解してもらいない分野であるでもある。

 別室でモニター越しに二人を見ていた安芸はそれはもうハラハラと心配した様子でモニターに熱視線を送っていた。

 その隣で同じようにモニターを眺めていた上里は安芸に苦笑する。

「安芸くん、随分と君は心配しているようだね。立ち上がってないで一度座りなさい」

「あぁ、和仁様……。あんなに投げられて、痛くないでしょうか……」

 安芸は心配そうに眉を下げて呟く。モニターのスピーカーは何度も和仁が投げられる度に、畳に叩きつけられる音を彼女に伝え、その都度に安芸は肩を震わせていた。

 そんな心配そうな彼女を上里は両手を出してなだめる。

「まぁまぁ、赤嶺くんはあの若さで大赦の実働部隊を一つ任されているほどの猛者であり、教官としても実績のある若者だ。それに赤嶺の家の者だ。家格も申し分ない」

「それはそうかもしれませんが、何故武術の習得など必要なのですか。……体力づくりならば別も方法でもいいでしょうに……」

 和仁が体を鍛えることに安芸は異論はなかったが、こうして何度も投げられるの目にしていると他の体力作りの方法でもいいのではないかと思ってしまう。

 しかしその言葉を聞いて、上里は少し顔を固くする。

「赤嶺、という名で察せられないかね?」

「……と言いますと?」

 安芸が知る限り、赤嶺という家は古くから大赦の実働部隊、暴徒の鎮圧などで貢献してきた家という印象しか持っていなかった。安芸が特に思いつくことがない様子を見ると上里は話し始めた。

「赤嶺の家はその昔、おおよそ二世紀ほど昔に天の神を狂信した集団を始末した家なのだよ。……よく考えたらこの情報は大赦で検閲しているものだったな。安芸くん、今言ったことは忘れたまえ、私の信用に関わる」

 あっさりと検閲された情報を漏らした、現大赦機関長の雑さに安芸は少しだけこの中年を見る目が残念なものになっていた。声も少し適当な色が混ざる。

「はぁ、結局その事実と和仁様の訓練にどのような関係が?」

「……コホン。つまりだ、私たちは将来的にこれが神稚児様に必要なものになると考えているのだよ」

「和仁様が誰かを傷つけると?」

 上里の発言に安芸は真剣な顔つきに変わる。宮司システム以外にこれ以上、和仁に重責を担わせることを看過出来ないと言いたげであった。

 そんな安芸の様子に上里は少しだけ苦笑し、そして表情を引き締めた。

「すっかり君も彼の教師役が板についてきたようだね。君を彼のお目付役に選んで正解だったようだ。……私たちが勇者に対して最も警戒しているのはね、お役目の最中に謀反を起こされる事なのだよ」

「謀反ですか?」

「そうだ、お役目の最中、神樹様の樹海化により、我々は守られている。しかしそれは同時に時間が止まっている事で我々の行動の一切を許さないということでもあるのだよ。その状況で何が起きても、我々は神稚児様に対処していただくしかない」

「しかし、勇者様たちがそのような事をするのでしょうか?」

 上里のいう可能性を安芸は否定する材料を持ってはいなかった。しかし感情がそれを否定しようとする。

「君の言いたいことは私も分かる。しかし事実として西暦の初代勇者様の中に一人、味方に手をかけようとした者が居たのもまた事実。可能性がある時点で対処は必要だよ」

 少し寂しげに上里は言う。彼も可能性と事実を認めこそすれ、それにいい気持ちはしないのは安芸にも伝わっていた。安芸は疑問を並べていく。

「そのような勇者が過去に? しかし神に選ばれる勇者に限ってそのようなことがあるのでしょうか?」

「私自身も確証はないよ。何せ大赦自身によって消されてしまった情報が多すぎる。しかし我が家に残っていた伊予島様の手記から推察するに過去にあった精霊システムが原因ではないかと私は踏んでいる。しかしだ、何はともあれ、神稚児様にはいざという時に勇者を御して貰わねばならない。その為に肉体強化という名目で戦闘訓練が組み込まれたのだ」

「……事情は分かりました。しかしこのことは和仁様には言わないでおきます。これ以上彼に精神的な重圧をもたせたくはありませんから……」

「君がそう言うのならそうしよう。ふふっ、やはり君を神稚児様のお目付役に選んだ私の目に狂いはなかったな」

 そう言う上里の表情は柔らかい。確安芸が教師役として和仁を支えようとする姿勢に、二人の間に良い関係性が生まれてきているのを察する。

 それを最後に二人の間に会話が途切れる。

 モニターを見ていると、先程から続いていた和仁と赤嶺の応酬に決着がついた。ついに体力の尽きた和仁が畳に転がり、それを涼しげな顔をした赤嶺が見下ろしていた。

「では、私は和仁様を迎えに行きますので、これで失礼します」

「あぁ、今朝送信した宮司システムの改修案、目を通すのを忘れないように」

「……それ、最初に言うべきでは?」

 その会話を最後に安芸はモニター室を後にする。階段を上がり、通路を抜けて地下二階の道場に到着する。

 扉を開けると体力が切れ、肩で息をする和仁と目が合う。

 和仁は安芸を見つけるとパアッと表情を明るくする。

「安芸先生!」

 先程までの息切れはどこへ行ったのか和仁は元気よく立ち上がり、安芸の方へ駆け寄っていく。そんな和仁を見て安芸も表情を緩める。

「もう昼過ぎになったので迎えにきました。食事の用意もできているはずなので昼食にしましょう。その後は座学の時間です」

「分かりました、着替えてきます!」

 和仁は赤嶺へ一礼するとそのまま道場を後にする。和仁を見送り、暇そうにしていた赤嶺が安芸の横に立つ。

「神稚児様、本当にいい子ですね」

 それが今日初めて会った赤嶺の感想だった。そして表情を曇らせる。

「だからこそ、彼に私たち赤嶺の殺人術を教え込むことに躊躇いを覚えます。本当なら同年代の友人と遊んでいるはずの年齢でしょうに」

「それでも私たちは和仁様に必要になるものを与えなくてはなりません。運命は彼を逃してはくれません。彼を守るために、生かすために私たちは尽くせる手段を全て施さなければならない」

「生きてほしい。初代勇者の乃木若葉様の遺言ですね。赤嶺の家にも伝わっています」

「しかし私たちは生きるため、随分と歪んでしまった。きっと最後には子供達に行ったことの責任を大人が背負う日が来るのでしょうね」

「安芸さんは高校生なのに随分と達観していらっしゃる。まるで教師のような物言いで、自分が高校生だった頃を思い出します。まぁ、自分は乱暴者の悪ガキでしたが」

 二人の間をしばらく沈黙が漂う。

 明日も分からない四国の現状を憂いながらも、もしも上手くいけばという展望を話す。そんな安芸の様子に赤嶺はしきりに感心する。少しづつではあるが確かに安芸に人を教え導く在り方が芽生えようとしていた。

 しばらくして大赦の神官服に身を包んだ和仁が駆け寄って来る。

 二人は赤嶺に会釈し、道場を後にした。エレベーターを使い、地上に上がって職員用の食堂にやって来る。

 和仁が入室したのを食堂の職員が見つけると事前に準備されていた席へ案内される。

 案内された席に二人が座ると職員は安芸に注文を聞く。

 安芸は日替わり定食を注文し、職員は去って行った。

 間も無く、職員がサービスワゴンにできた料理を乗せて運んで、和仁の前に並べられていく。

 並べられた料理は特徴的であった。並べられる料理は小鉢に入ったものがほとんどであり、その一つ一つが手の込んだもののは明らかであったが、それよりも目立つのは肉の類が一切含まれていないことが目立つ。

 言ってしまえばそれは精進料理だった。神稚児である和仁にとって食事にはかなりの制限がかけられる。それは一重にその身を汚れから守るためであった。古来から生きている生き物を殺してできる料理は少なからず汚れており、神道、仏門に属するものはそれを意図的に排した食事が推奨された。

 その為、和仁は生まれてこのかた、牛肉や豚肉、魚肉といったものを食べたことがなかった。食べるものは専ら、豆類や野菜、果物がほとんどであり、徹底して体を清浄に保つことに力が入れられていた。

 食べる前、和仁は神官服から一冊のノートを取り出し、何やら記入し始める。

「あら? 何を書いているのですか、和仁様?」

 何を書いているのか気になった安芸は和仁の手元を覗き込んだ。見てみるとノートにはいくつも箇条書きに何かが書かれていた。

 覗き込まれていることに気づいた和仁は安芸にノートをよく見えるように机の上に置いた。

「あぁ、これですか? これは僕のやりたいことノートです。神稚児のお役目が終わったらやりたいことをこうしてメモしていっているんです」

 ノートを見ると短く焼肉を食べると書いてあった。

 安芸は書いてあるものをそのまま声に出す。

「焼肉を食べる、ですか?」

「はい、お肉は食べたことないので味や食感は想像したことしかないです。きっと弾力のいいこんにゃくみたいなのかなって思ってます。全部終わったら祝勝会に焼肉に行ってみたいです!」

 未知の肉の味や食感に和仁は目を輝かす。これまでなかった未来に対する和仁なりの展望が生まれつつあった。

 安芸の定食も来て、二人は食事を始める。

 食べながら、時々二人は会話をしては食べるを繰り返す。

「本日からの訓練はどうでしたか?」

「格闘技なんて初めての経験で疲れましたけど、とても面白かったです」

「そうでしたか、苦手に思われなくて幸いです。やはり苦手なものは続けることが難しいですからね」

「先生がピーマンを残しているのは苦手だからですか?」

 指摘され、安芸はビクッと背筋を伸ばす。皿の上では炒められた肉が減り、意図的に残された。

「うっ、昔からどうにもこの緑の物体は苦手なのよ……」

「せっかく食べられるなら食べた方がお得だと思います」

 食事制限のかけられている和仁が言うと重い発言であった。

「神稚児の名において命じます。安芸先生? ピーマンを残さず食べてください?」

「こんなことに大赦内での絶対命令権を使われるとは思いませんでした……」

 神稚児の言葉とはすなわち、神樹の言葉であった。つまり大赦内であれば、それは神からの直接的な命令を意味する。神稚児としての初めての命令がピーマンを食べることであったことに安芸は少し肩透かしを受けながらも、少し涙目になってピーマンを食べ始めた。少なくともこんなことに使うようなものではないが冗談半分で言った和仁と本気で受け取った安芸の間には妙な意識のすれ違いがあった。

 食堂の中、二人から離れたところで食事をしていた上里と赤嶺は気づかれないように上半身を机で隠しながら肩を震わせて笑っていた。

 ピーマンの苦さに涙を流しつつ、二人は食事を完食する。

 ピーマンが皿の上からなくなり、和仁はパチパチと小さく拍手した。

「完食おめでとうございます。苦手を克服しましたね」

「……うう、口の中がまだ苦い……」

 シクシクと安芸は涙を流しつつ、水を煽って飲み、口の中の残留物を流し込む。

 二人が食事を終えるとすぐに職員がやって来て食べ終えた食事を片付けていく。

 食事を終え、二人は座学の時間のため、講義室へ向かう。

 小さな和仁の手を繋ぎ、安芸は食堂を仲良く後にする。

 側から見れば年齢の離れた兄弟にも見え、微笑ましいと見ていた職員たちは思っていた。

 そうした日々の中、和仁の宮司への準備は積み重ねられていった。

 過酷な生まれと幼少期とは打って変わって穏やかな日々が流れていく。

 そして七年後、宮司システムの改修が重ねられ、和仁が神稚児、宮司としても完成つつあったその頃、彼女に出会った。

 後に失うことになる最愛の妹、鷲尾須美。

 この時はまだ東郷美森というだった名の彼女が鷲尾須美になった日。

 和仁の本当の運命が決まる日が着々と、しかし確実に迫っていた。

 




というわけで鷲尾須美編のプロローグが終了。勇者たちと宮司の関係が始まっていく訳でございます。
しかし書いていて、女子高生安芸先生という可能性にたどり着いてしまったこの気持ちはどうしたらいいのかしら。

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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かぞく

 夜眠るという単純な動作、人が毎日行うそれを和仁は好きになれない。むしろ眠る度に不快感と嫌気を感じていた。眠るという行為において和仁は、通常見るであろう夢を見たことがない。

 眠る時、彼が見続けているのは、あの日の記憶。彼の父が和仁のため、大赦に抗議に行き、そして和仁が自身を使えと懇願したあの日。和仁が神稚児としての生き方を受け入れた日の記憶を何度も、何度も繰り返し見ていた。

 まるで忘れてなはならないと言われているようだった。深く体と心に刻みつけるように記憶の中をあの日が反芻していく。

 そして眠るときに見るものはそれだけではない。記憶のリフレインが終わると神樹による知識の供給が始まる。

 与えられる知識は様々であった。他愛のない雑学から、日々更新されていく宮司システムの最新情報、四国、それに関することであればその知識は何の貴賎なく和仁に与えられていた。

 そして毎晩行われる記憶の反芻と知識の植え付けは和仁へのひどい負担を生んでいた。眠る度に脳と体にかかる負担で寝苦しさを覚え、寝汗の気持ち悪さと共に目が醒める。

 毎日行われるそれに、和仁にとって爽やかな朝というものは理解からは程遠いものであった。

 体にかかる負担そのものは神稚児の特性、神樹による加護により瞬時に癒されるが、かいてしまった寝汗はどうにもならない。寝間着と枕、シーツに染み込んだそれは、冷えて不快感をもたらす。

 和仁はベッドから起きると部屋に備え付けられたシャワー室に向かう。和仁は鷲尾の屋敷には住まず、讃州近くの宮司システム研究所に住んでいた。

 彼自身への食事の制限やその他、体を概念的に穢しかねない全てから隔離するために、汚れ対策の用意がしやすい研究所の方へ住みこむようになるまでそれほど時間はかからなかった。

 和仁自身がそれを望んだ。こちらに住めば家族に会わずに済むし、研究に使える時間も鷲尾の家に住んでいた時よりも多く取ることができたため断る理由はなかった。

 自分を見る度に複雑な顔をする両親に会わずに済めばお互いにきっと気が楽だろうと和仁は思っていた。

 そのような経緯もあって和仁はこの宮司システム研究所に三年前単身住むようになった。

 研究所といっても研究自体は非常に広く、研究のためだけの施設ではない。元々ほかの研究者たちも住み込めるようにビルを改装して作られた研究所は上層階が大赦の事務所で有り、その下へ行けば住居区画、食堂、地下に行けば研究所と階によって分けられていた。

 最上階は和仁のために食事以外の生活と、神稚児の力を安定させるための修練が十分に行える空間に改装されていた。

 体質上、朝起きれば真っ先にシャワーに向かう和仁のため、出てすぐの部屋が浴室になっていた。

 部屋を出る直前、壁に掛けられた写真が目に入り和仁は不快感を一瞬だけ忘れて頰を緩める。

 壁に掛けられていたのは四年前、安芸が大学へ入学した時の時の写真。そしてその横に並べられているのはその四年後、卒業式の写真。どちらの写真でも安芸は振袖に袖を通し、卒業式の写真では手に卒業証書、そして隣に立った和仁が教員免許の賞状を持って写っていた。

 七年前、初めて宮司システムを起動したあの日の宣言通り安芸は教師となった。和仁も十歳になったのをきっかけに四年生から大赦が運営する神樹館小学校に編入することになり、担任は運良く新任教師として教鞭をとることとなった安芸であった。図らずしもお役目と実生活の両方で安芸は和仁を教師として教えることとなり、和仁もそれを好ましく思っていた。

 両親との距離や時間を離そうとする一方で安芸との時間や距離は密接になっていた。

 そんな生活を行うこと五年、この日少しだけ変化が起きた。

 シャワーによって寝汗を洗い流し、選択された室内用の神官服に着替えると和仁は地下の研究室に向かう。この日は土曜日であり、こうした週末、和仁はもっぱら1日のほとんどを宮司システムの開発の手伝いに時間を充てていた。

 来たるバーテックスの襲来まで子供らしい時間など不要と行動で示していた。研究者たちもそんな和仁を心配し、声をかけるが当の本人が笑いながら無用の心配だと言外に語る。

 そんな和仁の協力もあり、当初十数年単位での開発、試作段階にしてもバーテックスの襲来直前までかかると思われていた開発も二年の余裕を持って一段落した。

 白衣を着た開発者がモニターに表示される詳細を見せながら椅子に座った和仁と安芸に説明を終える。

 話を聞きながら、時折和仁が思ったことを質問していく。

「……以上のことから宮司システムは神稚児様を生体部品として組み込み、神樹様の行う樹海内での働きかけをこちらでも機械的処理し、通常の軍、警察における情報処理システムを勇者様たちにも行えるようにしたものになります」

「情報処理については僕の方で処理して勇者たちに口頭で指示する形に落ち着くのでしょうか?」

「はい、ご存知のように脳波を用いた広域通信で神稚児様と勇者様方との通信が可能になるはずです」

「そちらは樹海内に、実際に行かないと確証はないのですよね?」

「はい、過去から研究し続けている勇者システムと違い、宮司システムは一から作り始めたこともあり、おおよそ問題はないはずですがやはり確認するべきことも多くあります。しかし神稚児様が望まれていました勇者様方のダメージの肩代わりシステムと樹海内での位置情報等の情報処理自体は樹海化に関係ないため問題はございません。……しかしやはりこの肩代わりの方に関しては問題視も多いです、本当によろしいのですか?」

「問題ありません。通常の肉体しか持たない勇者よりも、神樹様から加護を貰っている僕の方が死に難いはずです。ならそれを利用しない手はないはずです」

 自分に負担をかける機構を組み込むことに和仁は何のためらいを持たない。人々の為に血を流すことこそ、自身の義務だと和仁は思う。

 言うなれば自己中心的の真逆、他人中心主義が和仁の在り方であった。

 他者の役に立てる自分が好きという当然の自己肯定でなく、人のために使われる自分の姿こそが自分の正しいあり方なのだという考え。価値判断の基準が人に依存していることが彼の精神性のあり方である。

 横に座る安芸は眉を下げて顔をしかめる。自分はどうなってもいいという和仁の考え方を感じる度に治したいと常々思うも、結局五年たった今日に至るまで手段を講じられないでいた。

 現実として和仁の意見は彼の犠牲という点に目を瞑れば効率や確実性に優れているのだ。故に強くは反対できない。そんなジレンマが何時も安芸にはあった。

 少し気落ちしながら安芸はファイルから一枚の手紙を和仁に渡す。

 差し出された手紙を受け取り、その送り主を見て和仁は眉をひそめる。安芸を見て確認するように質問する。

「……お父さんからですか?」

「はい、今朝届いたようです。和仁くんに用事があって手紙を贈られたようですよ?」

 中身は見ていないため、安芸は送り主が和仁の父であることだけを告げる。変わらず眉をひそめたままの和仁は丁寧に手紙を開くと中に入っていた便箋と一枚の書類に目を通す。

 和仁が手紙を読み進めるうちに困惑の表情を濃くしていく。読み終えと手紙を折り直し、元あったように封筒に収める。

「少し、鷲尾の屋敷に行ってきます……」

「鷲尾の家にですか?」

 和仁の発言に安芸は驚く。少なくとも今まで和仁が自ら行くと言ったことはなかった。

「どうやら家族が増えるようです……」

「……はい?」

 和仁の言葉に安芸は思わず素っ頓狂な声を出す。対して和仁の表情は硬い。家族が増えるという、通常であれば喜ばしいはずのそれに嬉しそうな様子は一切ない。

「……勇者が妹になるようです」

 とことん不愉快だという様子で和仁は言う。

 研究所を出て、大赦職員が運転する自動車で鷲尾の屋敷に向かう。休日の午前中ということもあり、気の重い和仁の心情とは裏腹に車はすいすいと車道を走って行く。一時間もかからず、鷲尾の屋敷に到着する。

 運転手に礼を言ってから向き直って敷地内を進む。

 正面玄関に立ち扉を叩く。少しすると使用人が扉を開き、居間に案内される。

 居間の扉の前に立つと使用人は一例して去る。一人残された和仁はなんとなく周囲を見る。五年前に出て行ったきり、何も変わらないように見える。まるで時間が止まったようだと和仁は思った。何も変わらない家の中から視線を扉に向け、扉を開ける。

 扉を開けると三人いた。父と母、そして知らない少女が一人。

 和仁を見つけるとまず和仁の父が立ち上がった。

 少しだけ硬い表情をなんとかいつも通りに

「おぉ! 帰ったか和仁。手紙で言ったように、この子がお前の妹になる須美だ」

「す、須美です! 鷲尾家の一員としてこれからよろしくお願いします、和仁お兄様!」

 紹介され、緊張した様子で件の妹、須美が和仁に挨拶して握手しようと手を伸ばす。

 可愛らしい少女であった。目鼻立ちがはっきりした整った顔、長い黒髪を後ろで纏め、大和撫子といった風貌の少女であった。

 初めて兄に会う事に気持ちが高揚する須美に対して、和仁の表情は明らかに不愉快そうだった。

 差し出された手を和仁はどうでも良さそうに睨みつける。須美から視線を外し、父に視線を向け、互いの視線が交わる。

「この子が勇者になる東郷美森さん?」

 あえて鷲尾須美ではなく東郷美森の名で彼女について質問する。

 明確な拒絶が言葉の端々に含まれていた。そういう聞き方だった。そんな和仁の態度に須美は少し困惑しはじめる。

「……そうだ、しかし今の彼女は鷲尾の一員である鷲尾須美だよ、和仁」

 言い聞かせるように和仁の父は言う。彼女はもう家族の一員のだと和仁の父は言うが和仁は睨みつけるように父を見る。

「何で勇者になる子が鷲尾の家に入ることになるんですか? 勇者と鷲尾家に関係は……、もしかして家格ですか?」

「そうだ、東郷の家では勇者になるに当たって家格が不十分と大赦で判断された。その為に須美を養子としてうちに迎え入れて問題を解決した」

 この時代、勇者という立場は神聖なものであり、大赦ではそれぞれ歴史のある家から勇者を選出していた。しかし今回神樹が選んだ勇者の一人である東郷美森の家はそれに値していなかった。その為養子という形をとって家格を補いことになった。

 歳の近く、お役目を共に務める和仁のいる鷲尾家であれば問題も少ないだろうという判断で鷲尾家に須美は養子へ送られた。数年前から家を出たっきりの和仁との会話のきっかけになるのではと和仁の両親も快諾し、須美自身も神稚児である和仁の身内になることを誇らしく思っていた。

 でも和仁はそれを好ましく思えなかった。ただでさえ家族と距離を作ろうとしているのにその家族自体が増えることにいい顔をしなければ、自分以外の誰かがお役目のために何かを強いられるのも気分が悪かった。だからこそ和仁は鷲尾須美という存在を好ましいとは思えない。

 それぞれの思いが交わり、部屋の中の空気が悪い方へと淀み始める。

 二人の会話を聞きながら須美はいくつか疑問を浮かべる。

 ——どうしてこの二人は親子なのに他人のように話すのだろう? 私は好かれていないのだろうか? 私は受け入れてもらえるのだろうか?

 須美が表情を不安そうにしていると和仁が須美に向き直る。須美が見た表情は暗く、彼女をどうでも良さそうに見ていた。

「須美さんだっけ? 君は勇者に必要な家格のためにこの家に来たのだろうけど、僕と仲良くする必要はない。おおよそ二年くらいで君も元の家に戻れる。宮司として君を無事、元の家に返すことは約束する。それまで親子三人で仲良くすればいい」

 親子三人、その言葉が明確に和仁自身を除いた数字であることは初対面の須美にも分かった。

 執拗に家族から自分を外そうとする和仁の物言いに生真面目な性格の須美が食ってかかる。

「和仁お兄様、そんな言い方はお父様とお母様に失礼です! 第一、私たちは兄弟になるんですよ、仲良くしないと」

 兄弟ならば仲良く。真面目な性格の須美はそれを当然と考え、またそうでありたいと思う。一人っ子である彼女にとって兄弟というものは一種の憧れの存在であった。しかし目の前の兄になる人はそれをよしとせず、自分と須美の関係をあくまでも勇者と宮司でしかないと語る。

 兄弟のいない須美にはどうすれば距離を縮められるのか分からない。家族を自分には不要と断ずる和仁は距離を離そうとする。

 これ以上話すこともないと判断した和仁は身を翻し、屋敷から出て行こうと扉に手をかけた。

「……もう帰ります。ここにいる用事は終えましたので」

 扉に触れ、俯きながら言う和仁。それを見た和仁の母が待ったと声をかける。声をかけられ、和仁は振り返る。

 最後に母と話した記憶は相当に古い。母に声をかけられて初めて、和仁は母親の声がそういえばこんな声だったと思った。少しだけ言葉に詰まりながらも和仁の母は懸命に和仁を呼び止める。

「ねぇ、和仁? ここは貴方の家でもあるのよ? 今日くらいゆっくりしていったらどうかしら? せっかく家族になるのだから須美とも、私やお父さんとも、もっと話してもいいと思うわ……」

 途絶えてしまった家族の縁を取り戻そうとか和仁の母は働きかける。そんな姿は少し痛々しく、そうなことをさせてしまったことを和仁は後悔する。一瞬だけ眉を下げ、直ぐに微笑むように笑う。まるでこれから枯れようとする花のように。

「いえ、結構です。まだまだやらなければいけないこともありますし、それに……」

 一度言葉を詰まらせ。少し悲しそうにして。

「母さん、僕がいない方が落ち着くでしょう?」

 そう言われ、和仁の母は思わず目をそらす。

 ずっと申し訳ないと思っていた。和仁が今の立場にいるのは産んでしまった自分のせいだと思い込み、顔を合わせていない間はそういう考えから目をそらすことが出来た。だからこそ和仁の言葉は図星であった。

 和仁の言葉に何も言い返せず、それっきり黙り込んでしまう。

 端的にいってしまえば、この家族は破綻していた。和仁を普通でない体に産んでしまったことを申し訳なく思う母、神稚児という立場に和仁を立たせてしまいどうすることもできずに歯がゆく思う父、そんな二人を気遣い距離を離し、自身は世のために進んで犠牲になろうとする和仁。まともな訳がない。この家族はどうやっても三人では修復不可能な状態だった。

 皮肉なことに血の繋がっていない須美と両親であれば、血が繋がらないこと以外に何の問題も破綻も起きない家族でいられる。

 和仁さえいなければ普通の家族でいられる。それがこの鷲尾家の状況であった。

 やっと初めて、須美はここでこの家族の亀裂を理解する。

 血の繋がらない須美以上に和仁は二人から遠くにいる。自ら距離を開き、互いが傷つかない距離へ離れていく。

 だからこそ新たに家族になった須美に同じように距離を置く。三人で仲良く家族をしていてくれれば自分はそれでいい。そう和仁は思う。自分とは育めなかった普通の家族をこの鷲尾須美と一緒に作って幸せになってくれればいいと、二人ともう一人の幸いを和仁は望んだ。

 黙ってしまった両親と須美を見て、今度こそもう話す事は無いと判断した和仁は部屋を出る。 廊下を出て、扉を閉めようとしていると最後に須美が和仁に問う。

「和仁お兄様、私たちは家族に、兄弟になれないのでしょうか?」

「血が繋がっていても破綻してるんだ。血が繋がってもいないのに兄弟になんてなれる訳がないだろう?」

 すがるように聞く須美の質問を和仁は切り捨てる。両親と同じように。ただ自分は神稚児であればいい、宮司であればいい、普通の幸せなど全てが終わってからでいい。

 例えそれがもう手遅れになっているのだとしても。

 扉を閉め、和仁は屋敷から出ていった。

 




続きを書きたいけど時間がとにかく無い今週。落ち着いたら投稿するそうするそうしたい。

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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わしおすみ

「……宮司システムと勇者システムの同調実験ですか?」

 鷲尾家の屋敷にて須美を拒絶してから数日、学校から帰ってきた和仁は研究者の言葉をそのまま反芻して呟いた。

 少しキョトンとした様子の和仁を見ながら眼鏡の研究者は続ける。

「はい、先日鷲尾須美様、神稚児様の妹君が正式に養子に入られましたので勇者としての活動が始められます。それにより滞っていました稼働試験の方を始められます」

 鷲尾須美という名を聞いて和仁の額に小さなシワができる。

「他の勇者たちではダメですか?」

 和仁は先日から義妹になった須美にあまり会いたくないと思った。出来ることなら顔を合わせる回数も最少限度、お役目の時にだけで済めば最良とさえ考えている。

 会いたくないという気持ちには先日こっぴどく拒絶した為、顔を合わせづらいという思いも含んでいた。

 そんな和仁の様子から何となく心情を察した研究員は申し訳なさそうに頭を何度も下げながら続ける。

「申し訳ありません。他の勇者様についてはまだシステムが完成しておらず、須美様の物を最優先で完成させましたので、その他の完成は当分先になるかと。それに、実際に稼働させないとシステムの改良点も見つけられませんので現状開発は中断している状態になります」

「……それなら仕方がありませんね」

 苦虫を噛んだような顔を作る和仁。来たるバーテックスとの戦いまで残された時間はそれほど多くはない。進められるのならば可能な限り研究は行うべきだ。そう和仁は結論づける。

 自分の感情よりも今、自分が何をしなければいけないかを優先する。今までそうしてきた、だからこれからも自分の思いは劣後させる。優先すべきは自分以外のその他全員を救うこと。

「では予定の調整はこちらで行いますので……」

 そう言って眼鏡の研究者は去っていった。後に残された和仁はただじっとその背中を見つめていた。

 これから義妹であるアレに会うと思うと気が重く、何処かぎこちない足取りで和仁は部屋に帰っていった。

 時間が経ち週末。

 和仁は研究所地下の実験室にて宮司システムに繋がり、その眼前には私服姿に勇者に変身するためのアプリが導入されたスマホを手にした須美が立っていた。

 須美は宮司システムに繋がった和仁を見て固まっていた。

 上半身が露わになったことにではなく、その肉体が十一歳という年齢にしては不釣り合いなまでに鍛え上げられていることにはなく、体に刻まれた刻印とその刻印を接点に、神経同期ケーブルが体に繋がり、和仁自信が機械の一部になっている異様な光景に理解が及ばず固まっていた。

 手に持ったスマホを握り締めながら須美は不安そうに口を開く。

「お、お兄様? それは一体? 痛くはないのですか?」

「うるさい。君は黙って為すべきことをしろ。無駄にしていい時間はないんだ」

 心配する須美の言葉を和仁は冷たく急かす。急かされた須美は不満気にしながらスマホを操作する。

 瞬間、美しい青菊が咲いた。

 神樹によって選ばれた少女たちは勇者システムによってその力を授かる。最も分かりやすいのは見た目の変化。それぞれの勇者はそのモチーフとなる花を象った勇者の衣裳を纏う。

 須美の場合、それは青い菊の花であった。

 一瞬にて変身を終えた須美を眺めながら和仁は菊の花言葉を思い出した。

 ——菊の花言葉はろうたけたる思い。ろうたけたるとは洗練された美しさや気品を意味し、そんな言葉は目の前の変身した須美にふさわしい言葉なのだろうと和仁は思う。

 強化ガラスによって隔離された操作室からスピーカー越しの研究員の声が聞こえた。

「では、これより第一回宮司システム、勇者システム同調実験を始めます!」

「よ、よろしくお願いします!」

「……接続開始」

 対照的な二人の同調が始まる。

 ——義妹である事を無視すれば和仁の須美への評価は相応の高さの評価を下している。お役目の重要さを理解し、責任感を持って真面目に取り組む。その為に養子に出され、元の家族を離されても今の鷲尾家の一員になろうと一生懸命。それ自体に和仁は悪感情を抱かない。むしろ立派なその姿に敬意を持つ。

「システム有効化! 同調はじまります」

「勇者の力とは違う。これがお兄様の見ている世界……。何だか広くて自分が溶けていなくなってしまいそうで……」

「……これが普通の人間の感覚。狭くて小さい。こんなものが勇者が使える神樹様の力?」

 重なっていく感覚。互いの感じる物の、あまりにも大きい差が如実に感覚に反映される。

 常時、神樹に繋がっている和仁の感覚は宮司システムによる後押しもあり現在は四国全体に広がっている。そうでなくとも繋がった神樹による肉体の最適化、強化により、和仁の見ている世界は通常の人間のそれよりも繊細で広大である。それを感覚として理解する須美は日頃のそれを余りにも乖離しているが為に脳が余りにも大きい感覚に拒否反応を示し始める。

 対する和仁も須美の感覚を拒否し始める。こちらは正反対の理由。余りにも感覚が、感じているものが狭い。指を半ばで切り落とされ、存在しない指先が空を切るような違和感。自分か期待された勇者の力はこの程度のものなのかと思ってしまう。

 ——しかし思ってしまう。そもそも自分が本来生まれるはずだった性別であったのなら、女として生まれていれば勇者となり、世界を守れていたのだと無駄なことと分かっていても想像してしまう。その結果命を落とすのだとしても、少なくとも両親との確執も、自分の存在理由に思い悩むことも、何よりも目の前の少女をこんな命をかけざるを得ない状況に追い込むこともなかった筈なのだとつい考えてしまう。

 ——結局、なにもかも僕が悪いんだ。

 ——これがお兄様の心の声?

 声が聞こえた。瞬間、和仁は気づく。同調した宮司システムと勇者システムによって、自分の心の中の声が勝手に伝わっている。

 驚き、慌てて手元の操作機を突き飛ばして無理やり接続を断ち切る。交わっていた感覚が突如元に戻り、伸ばしきった輪ゴムが元に戻るような反動がお互いにあった。特に感覚が異常に広がっていた須美は感覚が急に元に戻ったことで船酔いのような感覚に陥る。

 膝の力が抜け、思わず倒れこむ。息も絶え絶えになりながら須美は力の入らない瞳で和仁を見る。

 肉体的な反動が強かった須美に対し、和仁は肉体的には何の問題も無かった。しかし内面に関しては非常に動揺していた。安芸にですらごく一部しか見せたことのない心の内、そのおそらく全てを無理矢理曝け出されたことに動揺して思わず顔を背けるようにうつむく。須美がどこまで見たかは和仁からは分からない。しかし同時に感じていた須美の感覚は確かに己の内面の奥深くに触れていた。

 深呼吸し、心の中を何とか平静に戻す。まだ戻らない所もあるが、何とかいつも通りの自分を装う。恐る恐るうつむいた顔を上げ、須美の方へ視線をやる。

 須美の目を見た。そこにあったのはそれまでの和仁の冷たい態度に対する不信感ではなく、人々のために自らを生贄に捧げようとする神稚児への尊敬でもなく、生まれた時から続くどうしようもないものへの悲しみ、どうして和仁ばかりがこんな目に遭うのだという憐憫があった。

 繋がった心を通じて和仁が今まで感じていたものが須美には自分の感覚のように、手に取るように分かった、理解してしまった。

 全てを見て、悲しい人だと須美は思った。

 現状を理解しているがために神稚児という立場を投げ出せず、賢明であるが故に自分を使うことの効率の良さを理解し、そして何よりも献身の過ぎるが故に自分が人のために死ぬことを、その他大勢を守るために仕方のないことなのだと割り切ってしまう。そんなあり方を自分に強いる和仁を憐れに思う。

 それを理解すると須美の中にあった和仁の印象が変わっていく。

 そういう生き方をせざるを得ない生まれと人生、一体幾つ飲み込んだ苦しみがあったのか。一体幾つ拭った涙があったのか。

 見てしまえば、放っておくことは出来ない。

 苦しんでいるように見える兄に手を差し伸べようとする。

「お兄様はそんな風に生きていて、……辛くはないのですか?」

 その言葉を聞いて和仁は頭の中が真っ白になって、自分の思考が止まったのを数秒たってからやっと客観的に気づく。

 ——自分が同情された? 勇者に?

 その事実が和仁の心を今までなかった形で揺さぶる。

 生まれの体質も、立場も望んだものではない。それでもこのあり方を選んだのは自分で決めたこと。それをなぜ可哀想だと憐れまなければならない。

 ガギリ、と音は鳴る。気がつくと和仁は奥歯を顎の力で砕いていた。それなるほど強く歯を食いしばっている。

 ぽつりと和仁は言って、それから叫んだ。

「……ふざけるな。ふざけるなよ!」

 表情を怒りに染めて和仁は絶叫した。予想だにしなかった叫び声に須美は思わず身を竦める。驚いて呆然と自分を見る須美に関係なく和仁はまくし立てる。

「なに勝手に僕の中を見てるんだ。辛くはない? 楽しいわけがないだろ! 好きでこんなことする奴がいるわけがないだろ!」

「な、ならどうしてお役目を引き受けるのですか? 神稚児はお役目の強制をされはしないはずじゃあ……?」

「お前は僕の中を見たんだろう? なら分かるはずだ! 僕は死ぬことを望まれて生まれてきた。死ぬことでみんなを救う存在になるはずだったんだ。それなのに生まれる性別が変わったことで何もかもが破綻した。生まれた瞬間から意味のない、期待はずれに僕はなったんだ! 人のために犠牲になることでしか僕に生きてる価値は生まれないんだ!」

 和仁の言うことに須美が反論を口にする。決してそんなことはないと言葉で伝える。しかしそれは油に火を注ぐ行為であった。

「生まれた時に人の価値が決まるなんて、そんなこと間違ってます!」

「生まれで勇者にきまった奴が言うか! 本当なら僕が一人だけ勇者になれば、僕を生贄に世界は救われていたんだ。なのに今はどうだ。関係のない君やあと二人、これから世界を守るために戦わされる。君に至っては家族から家格なんてくだらない理由で引き離された!」

 もう一度須美は反論する。実直な須美の言葉が和仁に向かっていく。しかし何度繰り返そうともその言葉は意味のない音になる。

「私はお役目を勤めようと頑張って、家族と苗字が違ってしまったことに何も思わないわけじゃないけど……、それでも決して鷲尾の家が嫌とは思いません!」

「そう思うなら勝手にしろ。僕に家族はいらない。どうせいなくなるのなら、いなくなることを悲しまれるくらいなら、初めから関係を絶ってしまえばいい。そうしたらきっと誰も悲しまなくて済むんだ」

 その言葉を聞いて須美は自分が怒りによって拳を握りしめている事に気づく。

 悲しむくらいならいっそ関係を断つ? 今あの両親を見て悲しんでいないと言えるのか?

 思うがままの言葉を須美は口にして、実直な須美だからこそ己の言葉で正面からぶつかっていく。

「そう思うならどうしてあの人たちの表情を見ないんですか! お父様とお母様がお兄様の行動で悲しんでいるのが分からないのですか! それなのに突き放して。結局一番傷つくことを恐れているのはお兄様自身じゃないですか!」

 須美の言葉に和仁は乱暴に立ち上がる。

 図星であった。今まで人に見せなかった心の内を暴露され、頭が沸騰するような感覚。そこに生まれる苛立ちが行動の一々を乱暴にする。

 立ち上がり、和仁は須美の勇者衣裳のえりを掴みあげて睨みつける。

「もう黙ってくれ。君はお役目を終えて元に家に帰る。それまで勝手に親子三人で仲良くでもしてればいいだろ。もう俺に関わるな。不愉快だ!」

「いいえ、黙りません! 自分を守りために殻にこもる臆病者になんて! 理由をつけて正面から接することから逃げているだけの人なんかに屈しません!」

「頼むからもう黙れよ!」

 言い負かされ、図星を突かれ、立つ瀬もなくて。幼稚な精神は暴力を振るうことを選ぶ。掴みかかりながら空いている手で思いっきり顔を殴る。

 言葉による敗北を表す暴力だった。

 殴られ、鼻血を出しながら須美は不敵に笑う。

「女の子を、しかも顔を殴りましたね。歯を食いしばってください!」

 神樹の力によって強化された膂力を持って負けじと和仁を殴りぬける。

 当たった拳が顎にあたり、上に突き抜ける。当たった衝撃で和仁はよろめくがそれでも倒れない。神稚児の力による天性の肉体、赤嶺にとって鍛えられた感覚が和仁を支える。

「勇者様の力はそんなものかよ! その程度で敵が倒せるのか! 神樹様を守れるのか! 僕よりも価値があるのか!」

 怒りの形相で体を支え直し、拳を構えて殴る。一切の無駄のない軌道を描く拳が正確に須美の急所を正確に、それでいながら目で追えるギリギリの速度で振るう。

「守ります! 神樹様も、世界も! それが勇者に選ばれた私の役目です!」

「口だけは立派だ! でも内容が伴わなければ戯言でしかない!」

 相対する須美も必死に食らいつく。格闘戦の技術は無い。誰かと殴り合った経験も無い。ただあるのは神樹によって後押しされた身体能力と曲げない意志。その二つだけを持って殴り合いについていく。

 肉を叩く拳の音が何重も重なって、繰り返されて、それが数えるのもバカらしくなるほど積もっていく。互いに鼻血を流し、額が割れ、拳は擦りむけて互いが血に染まっていく。

 相手の意志を認められないが故にどちらも止まらない。

 足元に流した血で小さな血溜まりができる。殴り合いに夢中になって互いしか見えない。そんな中、血溜まりで足を滑らせるのは時間の問題であった。

「きゃっ!」

 殴られ、倒れまいと踏み込んだ時、ちょうど足が血溜まりに重なる。適度に粘性を持った血液は滑り、須美は体重を崩す。元々殴られ続けていたために不安定になっていたバランスはその小さなきっかけで完全に崩れ、仰向けに倒れる。

 背中から倒れ込んだ須美へ和仁は躊躇いなく追撃する。マウントを取り、馬乗りのまま拳を何度も顔めがけて振り下ろす。

 自由になるものが両腕しかない須美は防御を強いられる。馬乗りにされ、腕を振り下ろされる恐怖で思わず身を積むって耐えようとする。

 一つ、二つ、三つ。振り下ろした拳が防御する腕にぶつかる鈍い音が何度も響く。

 必死に目を須美は瞑って耐える。

 防御する須美はしばらくして腕にくる衝撃が来なくなったのを感じる。恐る恐るそっと目を開く。ちょうどその時、頬に何か冷たいものが落ちる。先ほどまで浴びていた粘性のある血液とは明らかに触覚が違う。自由になった指先で拭ってみるとそれは透明だった。

 見上げて、須美はそこで初めて透明なものがどこから来たのかを見つける。

 涙だった。

 馬乗りになり、振り下ろそうとする腕を振り上げたままの姿勢。須美を見下ろす目に涙が溜まり、溢れたものは流れていた。

 震えた声で和仁は言う。

「……どうしてだよ。どうして勇者なのにこんなに弱いんだよ。勇者は世界を救えるくらい強くないといけないのに、勇者はみんなに期待に応えなきゃいけないのに、どうして期待はずれの僕よりも弱いんだよ」

 振り下ろされた腕が弱々しく須美の胸に当たる。消沈して力が抜け、なんの意味も成さない攻撃。

「世界は守らなくちゃいけないんだ。守らなくちゃいけないんだ。例え何を犠牲にしてでも。それは正しいことで、それのために犠牲になることは尊いことなんだ。だからその為には強くならなきゃいけない。勇者は強者でなければ、負けない存在じゃなきゃいけない。そうじゃないと意味がない」

「でもそれでは、犠牲になった人も、戦った人も、誰も救われません」

「……え?」

 そっと須美の両手が和仁の頬を包む。触れられて和仁は驚く。

 血に染まった両手で和仁の顔を包むその表情は柔らかい。正面からぶつかり合い、やっと隠されてきたものに触れる。

 血に染まった穏やかな顔で須美は語りかける。

「お兄様のあり方は立派なのだと思います。でもお兄様は誰かを救うことばかりで自分の幸せを投げ捨ててしまってます」

「仕方がないじゃないか。大事の前に細かいことが軽んじられるのは世の常だ。僕の幸せなんて世界を救うことに比べれば些細なこと、一番後回しでいい」

「でもお兄様の不幸を自分のことのように悲しく思う人はいます。お兄様、あなたを知る人はあなたの不幸をなんとも思わない人たちですか?」

 須美の問いに和仁は言葉に詰まる。思い起こされるは今まで出会ってきた人々。両親、安芸、赤嶺、大赦の職員、きっと誰もが和仁の不幸を悲しいことだと受け止めている。

 そんな人たちが和仁の不幸を、誰かの不幸をなんとも思わない人たちだと和仁は言えなかった。きっと誰もが当たり前のように優しくて、当たり前のように誰かの不幸を悲しめる人だと和仁は思う。

「……きっとそんなことはない。みんな優しい人たちばかりだよ。そんな優しい人たちだからこそ、何を賭してでも守らなくちゃいけない」

「それで自分が不幸になろうとも? その結果周囲を悲しませるのに?」

「仕方がないじゃないか。僕は神稚児で宮司なんだ。誰かの為に死んでいくことでしか意味を成せないんだ。みんなの幸いを守ってたら自分なんて守れないんだ」

 だらかを救っている時、きっと自分にまで手は回らない。

 自分なんてどうでもいいから誰かを守りたい。その結果自分が損なわれるとしても。

 人に手を伸ばす人にこそ、真に手を伸ばされなければいけない。誰かが一人だけでみんなを助けるだけではいつか自分が守れなくなる。だからこそ人は助け合うのだ。

 そして鷲尾須美はそれをできる人間で、それをしたいと思える人だ。

「なら私がお兄様を守ります」

 須美の宣言に和仁は目を見開く。

 信じられないものを見る目で須美を見る

 呆然とした口調で声は震える。

「……僕を守る? ……君が? 勇者なのに?」

 その言葉には世界を守る為にいるはず勇者が神稚児を守るのかという疑問が含まれていた

 そしてそれを聞かれた須美は嬉しそうに答える。

「はい! お兄様が世界を守る為に我が身を振り返らないのなら、自分を守らないお兄様を私が守ります。だからお兄様は私たちを守ってください。そうやってお互いを守ればきっと誰かが傷つくことはあっても失われることはないと思います。そうしたいんです」

 あり得るのかもしれない未来を力強く宣言する須美に和仁は困った様子の表情を作る。

 なんとなくその言葉に脱力し、馬乗りの姿勢から並ぶように須美の隣へ倒れこむ。その衝撃で床に出来た血溜まりが小さく跳ねる。

 背を血に染めながら無機質な天井を見上げて、須美の顔を見ないまま和仁は口を開く。

「……分からないよ、僕を守る余力があるのなら敵を倒すことに割り振るべきだ。僕は守られる価値のある人間なんかじゃない。死んでいい人間だよ」

「そんなこと、絶対にありません。いなくなっていい人、傷ついていい人なんて世界にただの一人だっていません」

「僕は神稚児だぞ?」

 鷲尾和仁は世界を救う為に生まれた生贄である。

「私のお兄様です」

 鷲尾和仁は鷲尾須美の兄になる。

「……僕は君の兄じゃない。血も繋がっていない」

 和仁の心の最後の一片が露わになる。そっと須美は手を伸ばし、骨の折れた左手で弱々しくも、それでもしっかりと和仁の右手を握る。

 手を握られたことに気づき、和仁は頭を動かして須美の方へ向く。

 目が合う。彼女を表す花の言葉のようにろうたけたる微笑みを和仁に向ける。

 精一杯の親愛を表す。込められれる全てを言葉に乗せていく。

 思いを伝える為に、目の前の人に手を差し伸べる為に。

「これから、この時から私たちは兄妹に、家族になるんです」

「僕には家族がなんなのかさっぱり分からないよ。分からないものになんて成れない」

「だからこれから見つけに行くんです。私たちの家族の形を」

 言われた言葉を飲み込み、温かいものが流れていく気がした。

 隅から視線を外した和仁は天井の明かりをぼんやりと見ながら言葉を紡いでいく。

「……僕にできるだろうか。家族を切り離そうとした僕にそんなことできるだろうか」

「望むのならきっと、幸いは誰にでも降りてくるものだと思います。必要なのはその為の行動だけだと、そうすればきっと……」

 寂しげな和仁の言葉を須美はそうではないと言う。

 何度目にもなる須美の言葉を飲み込んで自然と胸が温かくなっていく。

 目を閉じ、少しだけ想像してみる。世界の危機も神稚児の立場のない普通の男の子の自分。家には父が普通に自分に接していて、母は罪悪感など持たず普通の母親のように愛情を自分に注いでいて、血の繋がらなくても普通の兄妹のように仲の良い妹の須美が一緒にいて、そんな四人で普通に食卓を囲ってなんでもない朝食を食べている。

 今ではあり得ない光景。でももしかしたら、未来でならあり得るのかもしれない光景。今まで自分が望まなかった光景。

 想像しているだけなのに自然と涙が溢れていく。

「……そんな未来があり得るなら。それはきっとしあわせなんだろうなぁ……」

 手の届きそうにもないものに手を伸ばすように声を出す。

 しかしそれは届かないかもしれずとも手を伸ばそうとする声であった。

 須美は繋がった手が握り返されたのを感じ、そして繋いだ手から温かいものが流れてくるのを理解する。勇者の力と似たその暖かさは全身にしみ込んでいき、傷ついた体を慰める。

 裂けた皮膚が、折れた骨が、色の変わった肌が癒されていく。

 勇者システムと宮司システムの同調を通じて神稚児に与えられる治癒能力が勇者である須美にも伝播する。

 須美に出来ていた傷は消え、再現するように同じ傷が和仁の体に現れ、それは神樹の力によって癒されていく。

 しばらくすると傷のない二人が血溜まりにの上に仰向けになっているだけの状態になる。

「なぐったりしてごめんなさい。痛かったよね」

「はい、とっても痛かったです。骨も折れましたし、叩かれるもの怖かったです」

「そっか」

「でも兄妹なので、ケンカすることもあると思います。だから今回だけは許してあげます」

「……そっか」

 短く和仁は答える。そして言葉を続ける。

 須美はそれを一つ一つ受け止めていく。

「ずっと生まれてきたことに後悔してきた。僕さえいなければ父さんも母さん悲しまなくて済んだと思うと、君も元の家族から引き離されなかったと思うと、悲しくてそれが全部自分のせいだと思ってた。それは今も変わらない」

「はい」

「でももし、ここからもう一度始められるなら、ゆがんでしまっているのだとしても、幸せになろうとしてもいいのかな?」

「もし怖いのなら一緒に歩きましょう、お兄様。 家族なんですから、支え合っていくものだと思います。二人でなら、家族と一緒ならきっと」

「……そっか、そっか」

 嬉しそうに和仁は繰り返す。

 言葉を噛み締めて、そして立ち上がる。繋いだ手を引いて須美が起き上がるのを手伝い、二人は初めて自分から相手を見るために正面から相対する。

「まだ家族のことはよく分からない。でも、だからこそこれから分かることができるよう頑張るよ、よろしくね須美」

「はい、こちらこそ、妹として末長くよろしくお願いします、お兄様」

 血に染まった体で二人は家族としての最初の言葉を交えた。

 血に染まった二人の姿。それは痛々しくも、穢れたようにも見えて、しかしそれよりも新しく生まれてきた赤子のような無垢さが、これから新しく始まるものがたりの輝きがそこにはあった。

 




書けるうちに書けるだけを書くのだよ!
兄弟のコミュニケーション(血飛沫)な話でした。序章が終了、これからわすゆ本編に入っていきます。
ではではまた次回。

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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となりをあるいて

 血飛沫と骨折と脳震盪を伴う兄妹のコミュニケーションから次の週末。和仁は駅前のバスロータリーの前に立っていた。

 駅の改札口周りに立っているのは電車を使う客の邪魔になると思い、人の少ないそちらに立っていた。

 日差しも柔らかい11月。街路時は鮮やかな赤色からくすんだ茶色に変わりはじめ冬の準備をしていた。柔らかそうな羊雲を見上げながら和仁は腕につけた時計の時刻を確認する。

「……少し早く来ちゃったな」

 小さく独り言を呟く。呟きは少し肌寒い秋風に乗って消えていく。何となく駅の改札口を定期的にチラチラ見ながら和仁は須美と待ち合わせをしていた。

 話は昨日の午後に遡る。

 血飛沫を伴った対話の後、和仁は体についた血を洗い流した後で服を着替え、談笑室で須美と話していた。勇者システムで変身する須美と違い、和仁は血に染まった服を取り変えらなければならなかった。

 談笑室の柔らかい椅子に座り、二人は面と向かって話しはじめる。

 少しぎこちないところを持ちつつも和仁は一生懸命、妹のことを知ろうとする。

「……えっと、その。須美はどんなことが好きなの?」

「え、えっと、その、この美しい国が好きです! 勇者としてもお国を守らねばと思っています!」

 出来の悪いお見合いのようであった。互いにどう接していいのかが分からず、しかしそれでも仲良くなろうとはしているものだから互いに距離感を計りながらの対話が始まる。

 質問に対して趣味や固有名詞が返って来ると思っていた和仁はお国という単語に面食らう。

 よく分からず聞き返す。

「お国? この国が好きってこと?」

「はい! この日本という美しい国を守ろうとする護国思想を重んじてます! そもそも護国思想とはですね——」

 元気よく、ハキハキと須美は言葉を並べていく。そのまま護国思想、ひいては国の歴史の話授業が始まる。

 自分が好きなものを話す時、誰だって語調は軽やかなものになる。

 楽しそうに須美は自分の知っている知識を和仁に披露する。

 楽しそうに話す須美を見ながら和仁は少し困った顔をする。

 はっきり言ってよく分からなかった。

 でも楽しそうに話す須美の楽しそうな様子に何だか自分も気持ちが浮き足立つ。

「それでですね、旧世紀の頃に活躍した我が国の戦艦大和が……、ってお兄様何を書いているのですか?」

 上機嫌に自分の好きなことを話していた須美は和仁が時々、自分から視線を逸らし、クリップボードに挟まれた書類に記入しているのを見つけた。

 何をしているのかと聞かれ、和仁はクリップボードの紙を須美に見せる。

「あぁ、ごめんね。話はちゃんと聞いてるよ? ただ早めにこの書類を書き終えとこうと思って」

 思わぬ書類の登場に須美は少し驚いて書類を凝視する。

 そう言って見せた紙は中学校に入学するにあたって必要な書類であった。

「中学校の書類ですか?」

「そりゃあ、僕も来年からは中学生だからね、一応義務教育はやっておかないと、大赦に就職するにしても最終学歴が小学校卒なのは流石に避けたいからね」

 小卒という単語に和仁は苦笑しながら話す。

 須美は気になったことを聞いてみた。

「お兄様は中学校はどちらに? やはりそのまま神樹館の中等部ですか?」

 現在、須美は神樹館の小等部に転入する予定である。つまり来週からは兄妹一緒に通学することができる。しかし和仁は現在六年生、つまり半年もすれば卒業してしまう。

 しかしそのまま中等部に進学するのならその先も一緒に通学できる。そんなことを頭の隅に置きながら須美は和仁の進学先について聞いた。

 質問に対して和仁は首を横に振る。

「いや、この研究所から神樹館は遠いから、中学に上がったらこっちの地元の讃州中学に通う予定だよ。住む場所もここから駅前の大赦が運営しているマンションに移り住む予定だよ。……あ」

 話しながらこれからのことを話す和仁。書きながら話していると和仁は気の抜けた声を出した。どうしたのかと須美は和仁の視線の先を見ると紙の上を動いていたボールペンが力尽き、その本来の用途である線を引くという存在意義が失われていた。

 すかすかとボールペンの先が紙を虚しく擦る。

 お気に入りのボールペンの寿命に和仁は仕方がないなという様子でため息をつく。

「そろそろ芯を買い換えなきゃなきゃか。次の日曜日にでも買って来るか、……ええっと、まだ予備のボールペンあったかな?」

 その言葉を聞いて須美は机に身を乗り出して顔を和仁に寄せる。

 神官服のポケットをまさぐっていた和仁は突然に視界いっぱいに須美の顔一色になったことに驚いて小さく声を漏らす。

 驚いて和仁は身を引いて須美との間に間を空けるが、広がった空間だけまた須美が体を前に出して結局その距離が変わらない。

 目を輝かせて須美は言った。

「行きましょう!」

「はい?」

 主語の抜けた須美の発言に和仁は思わず素っ頓狂な声が出る。

 そんな呆けた和仁の様子に手応えを感じながら須美は言葉を続けた。

「お買い物にです!」

 その後はなし崩しに話が進み、気がつけば和仁は須美と週末に買い物に出かける約束をしていた。

 そして時間は戻り週末の駅前。

 おおよそ三週間ぶりに制服と神官服でない私服に着替えて和仁はやってくる須美を待っていた。

 ポケットに入ったスマホのボタンを軽く押す。黒い画面に色がともり、和仁に待ち合わせよりも半刻ほど早い時間を伝える。

 和仁自身、妙に早くきた自分に驚き、今日の買い物を楽しみにしている自分に気がつく。

 週末ということもあり、先程から家族連れや若いカップルが和仁の横を通り抜けていく。みんな今日の予定のことや何気ない雑談をしながら目的地に向かって、あるいはなんとなく街中を歩き回るために歩いていく。

 皆一様に楽しそうに笑顔を作り、駅から歩き去っていく。

 そんな人々を見送るように見ながら和仁は去年、安芸と出かけたことの時を思い出した。

 私服に着替え、どこかへ行こうとする安芸を見つけた和仁がどこへいくのかと聞いてみると安芸は言い澱み、大した用事ではないと言って出かけた。

 気になった和仁はこっそり跡を尾けてみるとレンタルビデオ屋でお笑いの作品を借りる安芸を見つけた。その後会計を済ませた安芸にあっさり見つかった和仁は安芸の家に上がり一緒に借りたビデオを見て、神妙な顔つきでビデオを見る安芸の解説を聞きながら和仁は土日をお笑いに費やした。

 閑話休題。

 つまるところ、和仁にとって誰かと休日にどこかへ出かけるという経験は安芸を除けば始めてのことであり、同年代という区分であれば初めてのことであった。

 大赦での知り合いである巫女の国土亜耶はそもそも大赦で手厚く囲われているため滅多に会わないし、安芸先生は教師の仕事が忙しいため最近は会っていない。

「もしかして僕は寂しいやつなのでは?」と和仁が気がついて頭を抱え始めたところで駅の改札口から自分を呼ぶ声がした。

 振り返ると須美がこちらに向かって手を振りながら歩いてくる。

 合流すると少し走ったのか須美は軽く息を整えながら和仁の顔を見る。

「おはようございます、お兄様。随分と早くいらっしゃったのですね」

「うん。目が覚めて用意が終わったらそのまま研究所を出たから思ったよりも早くついたんだ」

「それでは行きましょう」

「そうだね、早めに行こうか」

 話しながら二人は並んで道を歩いていく。

 第一目的地の文房具店の場所を須美は知らないので場所を知っている和仁が若干前に出て、須美がそれに続くように歩き、人で賑やかになる駅前を二人で歩く。

 人の多い駅前を抜け、少し人気が少なくなった商店街の方へ進む。

 初めてくる商店街に須美が興味深そうに一つ一つの店の看板を確認しながら進んでいると一軒の店の前で和仁が立ち止まる。

 立ち止まった和仁の隣に立ち須美が聞く。

「ここですか?」

「うん、ここだよ」

 短く言って和仁が扉を開け、それに須美が追随する。

 店の中を見て、須美は感嘆の声を漏らす。店の中は圧巻の一言であった。

 決して広くはない店内、商品展示用の棚が所狭しにいくつも並び、これまた小さな袋詰めされた商品が所狭しに並べられ、絶妙なバランスでこぼれ落ちずに展示されていた。

 壁に掛けられた筆や並べられた硯を見て、その品質の高さに舌を巻く。並べられた商品は一目見て一級品と分かるものばかり、思わず足を止めて須美はじっと並べられた商品を観察する。

 興味津々な様子の須美を見て和仁はそっと微笑んだ。文房具を見ることに夢中になっている須美をそっとしておいて和仁は店の奥、小さなカウンターで新聞を読んでいた老人の前まで歩いて声をかけた。

 声をかけられた老人は見ていた新聞を下ろし、前を見る。目の前に立っているのが和仁だと気づくと少しだけ背筋を伸ばし、それから元に戻した。

 小気味いい音を背骨から鳴らしながら老人は和仁を見る。

「おぉ、これはこれは神稚児様、本日はどのような御用で?」

「ボールペンの芯が切れたからね、今日は替えと予備を買いにきたんだ」

 差し出されたボールペンを店主は受け取り、一度ボールペンをよく確認すると手慣れた動作でカウンター横に置かれた桐箪笥の形をした収納の一つを開いた。収納を引き抜くとそこには同じボールペンの替え芯が綺麗に整頓されて並べられていた。店主はそこから二本、取り出すとカウンターの上に置いた。

 そしてボールペンを素早くバラし、中の部品を確認する。一通り点検を終えると取り出したもうインクの残っていない芯を抜き、新しいものに取り替える。使わなかったもう一つの芯とボールペンを紙袋に入れて和仁に差し出す。

 紙袋を受け取った和仁はカバンからクレジットカード、大赦職員用のものを取り出し会計を済ませる。読み取り機を操作しながら店主は店の中、書道用の筆や道具のコーナーを興味深そうに覗いている須美に視線をやってから和仁に向き直る。

 顔に刻まれたシワをより深くして、イタズラっぽい笑みを浮かべて老人は問いかける。

「神稚児様、もしや『コレ』ですかな?」

 そう言って店主は右手の小指を和仁の顔の前で振る。

 質問された和仁は苦笑を浮かべながら手首を振って否定する。

「あはは、違いますよ。彼女は僕の妹ですよ。今日は一緒にお買い物ってやつです」

「ハッハッハ、なるほど妹君でしたか」

「私がどうかしましたか、お兄様?」

 二人が話す声や妹という単語を聞いた須美が自分のことかと寄ってくる。

 須美の質問に和仁は手を否定する意味で振りながら笑った。

「あぁ、いやね? 君が僕の妹だって紹介してたんだ」

「神稚児様が女性と、それも同年代の方と一緒のところなど初めてお見かけしたものでしたので。恋人かなどと聞いたのはいらぬ老人の老婆心でしたな!」

 愉快そうに老人が骨を鳴らしながら笑う。

 恋人という単語に先ほどまでの会話の内容を察した須美は顔を真っ赤に変える。

「こっ、恋人だなんてそんな。兄弟でそんなの破廉恥です!」

 わちゃわちゃと手を動かし慌てた須美が誰に対してなのかわからない弁明を始める。

 そんな須美の様子がおかしくて和仁と店主がくつくつと笑い、笑われた須美はまた顔をさらに赤くして俯く。

 会計を済ませ、店主に別れを告げて二人は店を後にする。

 行きの時とは違い、今度は須美が先導して歩き、それに和仁がついていく。

 少し違うのはドスドスと足音を立てる須美とそれに追いつく様に歩きながらなだめようとする和仁の様子である。

「いやあ、本当にごめんね須美。まさかそんなに怒るなんて……。この通りだよ許して」

「もうお兄様なんて知りません!」

 プンスカ怒る須美に和仁はどうしたものかと思いながら後についていく。

 別に須美は怒ってはいなかった。ただからかわれた羞恥をどうしていいか分からず、こうしてドスドスと歩いて、『私怒ってます』と表現するしか出来ることがなかった。

 この状況にしても兄を困らせるのは忍びないが感情の整理が追いつかず、ばつが悪くなってしまい取り敢えず歩くことを続行する。

 歩いていると視界のはしにそれを捉える。思わず足が止まる。

 ついてきていた和仁も足を止め、須美が見ている先を見る。

 そこにあったのは昭和の時代の戦艦だった。正確にはプラモデル屋のショーウィンドウの中でパッケージに描かれた戦艦長門のイラストがデカデカと自身をアピールしていた。

 足を止めた須美に和仁は少しだけ顔を寄せて話しかける。

「欲しいの?」

「いっ、いえ、今日の予定にない物なので買いません! ……おこずかいもそんなに持ってきていないので」

 少し声のトーンを落として須美は言う。欲しいと思っているのは明らかだった。しかし単純に予算オーバーであり、諦めるしかない。

 そんな須美の様子に「そっかそっか」クスリと笑ってから和仁は須美を置いて店の中に入っていく。

 十分もしないうちに大きな紙袋を持って出てきた。

 やはりというか、紙袋の中に入っていたのは先ほどまで須美が見ていたプラモデルと同じ物だった。

 決して安くはないそれを買ってきた和仁の行動に、須美は自分が兄に強請ってしまった形になったことに罪悪感を覚える。

「お兄様、そ、そんなの買わなくていいんですよ! 返してきてください!」

「いいじゃないか。僕のお給料だ、僕の欲しいものを買ったって」

 大赦において和仁は職員として登録されている。職員であれば当然、お給金が出る。その給与を使って和仁は普段から暮らしていた。

「で、でもお兄様プラモデルなんて組み立てたことないでしょう?」

「まあ、そうなんだけどさ。……妹に何か買い与えるのは兄妹っぽいじゃないか」

 そう言われてしまうと須美にそれ以上言える言葉はなかった。兄は兄なりに自分に歩み寄ろうとしている。須美はそんな気遣いを迷惑と断じてしまうのは躊躇われた。

 おずおずと差し出された紙袋を受け取る。受け取った紙袋はズシリと重く、須美は抱きしめる様にして紙袋を抱える。両腕にかかるプラモデルの重さが兄が自分へ向ける気持ちの重さの様な気がして自然と頬が緩む。

 ふと、視線を前に戻すとにやけた和仁が自分を見ていることに気がつく。なんだか恥ずかしくなって身を翻す。

 恥ずかしさと嬉しさを誤魔化すように須美は大きな声を出す。

「し、仕方ないですね、お兄様は。せっかく買ったのに開けないのは勿体ないので私がプラモデルのなんたるかを教えて差し上げましょう!」

「はいはい、出来の悪い兄へのご指導ご鞭撻よろしお願いします、須美先生?」

 おどけながら和仁は笑う。得意げになり、買ったプラモデルのモデルになった戦艦の歴史や詳細を話して笑う須美。

 柔らかい日差しに照らされながら二人の兄弟はアーケード街を歩いていく。

 側から見ても仲の良い兄妹以外の何物にも見えない二人はこれから少しづつ兄妹になっていく。これからもきっと。

 

 二年後

 四月に入ったなんでもない日。友奈は美森の部屋にお邪魔していた。

「わー、東郷さんの部屋だ! なんだか和風ってかんじだね!」

「ふふふ、いらっしゃい友奈ちゃん。はい、これぼた餅。ゆっくり食べてね」

「東郷さんのぼた餅だ。わーい、私、東郷さんのぼた餅だったらいくらでも食べられるよ」

「もう友奈ちゃんったら。そんなに褒めてもぼた餅しか出ないわよ?」

 照れ臭そうに笑いながら美森は車椅子を巧みに動かして机の上にぼた餅と温かい緑茶を並べていく。

 出されたぼた餅を美味しく食べながら友奈は部屋の中を見回す。部屋の内装や調度品は美森の好みが反映され、純和風といった感じに統一されていた。

 その時、タンスの上を見てみると大きな物が飾られていた。気になって近づいて見てみるとそれはガラスケースに収められた戦艦のプラモデルであった。

 初めてみる大きさのプラモデルに驚き、友奈は指で指しながら三森に質問する。

「ねえねえ、これ東郷さんが作ったの? すっごいね、こんな大きいプラモデル初めて見たよ!」

 友奈の言葉に美森は少し困った様な顔をする。

「えっとね、友奈ちゃん? それ実は私が作った物ではないの」

「どういう事?」

 どうして自分が作ったわけでもないプラモデルを自室に飾っているのか分からず友奈は不思議そうにする。

 友奈の反応にそう思うでしょうねと思いながら美森は続ける。

「少し前に私が交通事故で入院していたことは話したわよね?」

「うん。それで記憶喪失になったんだっけ?」

「その時にお見舞いの品として、いつの間にか届いていたのよ。誰からなのかは分からなかったけど、それを見て一目で分かったわ。それを作った人は相当の愛国心の持ち主。細かいところにも力が入っていて愛が見えるよう……。きっと私の怪我を心配した憂国の同志が送ってきたのだわ! この国も未来明るいわ、友奈ちゃん!」

「アハハ……、きっと誰かが東郷さんを心配して送ってきてくれたんだね」

 拳を握りしめ、力説する美森の激しさに友奈は思わずその熱量に押される。うんうんと一人納得する美森を見ながらふと友奈はもう一度プラモデルの戦艦をよく見る。

 そして気づく。

 ——あれ? もしかしてこれ二人で作ってる?

 丁寧に作られている戦艦だが、よく見ると一部粗が目立つところがあった。切り離しがうまくいかず少しだけ切り離すべき部分が残っている。ヤスリか何かで修正しているためかそこだけ周囲と質感が変わっている。順に作っていったのならこれを作った人は作りながら急激に腕を上達させていったことになる。

 しかしなんとなく、本当になんとなく友奈はそうではなく、誰か別の上手な人が初めて作る人を手伝いながらこれを作ったという印象を受けた。

 このプラモデルにはただ作っただけではない、それ以上の気持ちがこもっているのだと直感的に感じる。

 だからこそ、余計に疑問に思う、ならばどうしてそんな大事な作品を人に、それも匿名にして送ったのだろうと。

 そんな友奈の疑問とは関係なく、戦艦長門は今日も部屋の片隅から東郷美森を見守っていた。

 




1/350戦艦長門定価2万弱、妹との思い出プライスレス。
たとえ記憶がなくなっても残るものがあるという話でした。
次回からはわすゆ本編に入っていく予定。

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見を大募集。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。


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ういじん

 時間が経ち、和仁は小学校を卒業し讃州中学校へ進学した。

 中学進学と同時に一人暮らしも始まった。家事自体は大赦が派遣するお手伝いさんがやってくれるためそれほど苦にはならなかった。

 今日も日常的に寝汗の気持ち悪さで目が覚め、シャワー浴びてから朝食を終え、真新しい制服に着替えて学校へ向かう。少し遠いところに中学はあったが起きる時間が時間なため和仁は好んで歩いて学校へ向かう。

 途中、集団下校をする小学生の集団とすれ違い道を譲る。元気よく挨拶する小学生の一団に会釈を返し和仁は通学路を歩いていく。

 桜が少しだけ舞う通学路を歩き、今頃須美はどうしているかと思う。一年半の付き合いで分かってきたことだが須美は生真面目な性格であり、友達がうまくできないタイプだった。

 人との関わりに消極的で神稚児のお役目もあって友達がほとんどいない和仁が言えたことではないが妹に友達が出来るか少し心配だった。

 桜が綺麗な道を歩きながらきっと来年の今頃は一緒の通学路を歩いているのだろうかとも想像してみる。

 そんなありえるかもしれない未来を想像して微笑む。気持ちのいい朝日を浴びながら上機嫌で和仁は学校に到着する。

 教室に入る。特にすることもないため、教科書を出してぼーっと窓の外を見る。

 しばらくすると朝練を終えた運動部が始業のチャイムに間に合う様に廊下を走り、足の速いものから教室に雪崩れ込んでくる。

 最後発の運動部が教室に入る頃にちょうど始業のチャイムが鳴り、出遅れた生徒が担任に怒られながら教室に入ってくる。

 そんないつも通りの日常を眺める。

 その時、日常の中に非日常が入り込んだ。はじめに起きたのは美しい鈴の音。どこかここではない遠くから聞こえる鈴の音が和仁の耳に入る。

 はて風鈴でも設置されたのかと周囲を見渡して気がつく。時間が止まっていた。

 廊下を走る運動部。出遅れた生徒を注意する担任。いそいそと教科書をカバンや机から取り出すクラスメイト。誰もが一様にその動きを止めていた。

「ああ、ついに来たのか」

 その声に含まれるのは少し悲しげな色。

 自分以外の全てが停止した状況で和仁は特に慌てた様子もない。

 ついに来てしまったという思いと、やっと来たのかという思うが混ざり、少し気だるげに机から立ち上がる。

 教室の中を見ていた視線を窓の外へ戻す。

 四国をその外を隔てる神樹の結界から光が溢れ始める。

 敵と戦うための戦場である樹海を展開するため、世界が変わり始める。

 今も変わらず澄んだ鈴の音が世界に響き渡る。

 光と音が溢れ、塗り替えられていく。

 眩しくて思わず腕で視界を守る。そして光が収まった時、和仁は色とりどりの神樹の根が広がる樹海化した四国に立っていた。

 周囲を見渡し、自分が神樹にほど近い場所に立っていることが分かる。

 見れば用意された宮司システムがそこにある。座席に座り、接続器が自動的に和仁を認識し、体に刻まれた刻印に突き刺さり、神経を接続する。

 体に針が突き刺さる痛覚に少しだけ苦悶の声が漏れる。

 いつまでたってもこの痛みにだけは慣れない。

 少し間をおいて宮司システムが起動する。

 自身が神樹と一体化していくのを感覚が理解する。神に近い神稚児の体質を神樹が受け入れ、和仁の感覚が樹海化した四国全体に広がっていく。

 和仁の感覚を機械がシステム的に読み取り、感覚を数値として代入してコンピューターがそれを目に見える形に表現していく。

「各種センサー、管制システム、戦術指揮システム全て起動確認。……須美、俺の声が聞こえるか?」

 システムに繋がり、和仁は自身という存在が不安定になるのを感じる。細分化した自我から本来の自身の自我を守るために意図的に人格を切り替える。

 宮司システムの機構上の問題点として精神的な負担が挙げられる。宮司システムは搭乗者の感覚器官の感じられる範囲を四国全体に広げるために精神を分割している。それは宮司システムそのもの起動や脳波通信を可能とする一方で和仁自身の精神を細かく切り刻んで周囲に撒くような行為であった。

 必要以上の負担を軽減するためには意図的に分割しない部分とする部分を隔てる必要がある。

 その為の分かりやすい記号として一人称を変える。普段の一人称である『僕』から意識的に『俺』に変えることで今を日常から離す。これだけでも普段の自分とは違いと意識することができる。

 その為の予行演習は須美と共に幾度も行った。そのため現在の宮司システムは今までにない程に安定した長時間運用を可能としていた。

 感覚が広がっていき、見知った姿を見つけた。

 声が聞こえ、須美は落ち着いて答える。

「はい、お兄様、しっかり聞こえています」

「わわっ! なんか知らないこえがきこえてんよ〜!」

「なんだこれ、神樹様の声か?」

 落ち着いた様子で受け答えする須美に対して、今日初めて脳波による通信を聞いた乃木園子と三ノ輪銀は突然聞こえてきた声に驚いて周囲を見回す。

 しかし周囲を見渡しても自分たち三人以外は見当たる筈もなく、声がどこから来たのか分からず首をかしげた。

 そんな二人の様子に少し申し訳なさそうに和仁は謝罪する。

「すまない勇者の二人。俺の名前は鷲尾和仁、君たち勇者をサポートする為にいる宮司システム搭乗者だ。主な仕事は後方支援になる。よろしくお願いする」

 普段よりも一段階低いトーンで和仁は自己紹介をする。銀は鷲尾という名前を聞いてもうしかしてと思った。

「鷲尾ってことはそこの鷲尾さんの兄弟か何かか?」

「声が大人っぽいからお兄さんかな〜?」

 園子の予想に和仁は「そうだ」と答える。

「その通り、俺はそこにいる鷲尾須美の兄になる。妹ともどもよろしく頼む。特に妹は人付き合いが得意な方ではないから勘違いされることもあるがとてもいい子だ。出来れば仲良くしてくれると俺は嬉しい」

「お、お兄様! そんなこと言わなくてもいいんです!」

 和仁なりに気を使った言葉に墨が顔を赤くして抗議する。「自分だってそんなに友達いないでしょ」とか「私にも友達くらいいます」とか反論したかったがそれよりもまだ知り合って間もない二人に家族のやり取りを見られることが無性に恥ずかしくなって顔が赤くなる。

 そんな二人のやり取りを見て銀とその子が笑う。

「鷲尾さんってもっとお固いやつかと思ってたけど、案外家族の前だと普通に妹って感じだな。うちの弟となんか被って見えて来たよ」

「私も鷲尾さんって真面目でちょっと怖いって思ってたけど、お兄さんの前だと私たちとかわんないんだなーって」

 好き勝手にコメントをし始めた二人の言葉を聞いて、顔を赤くしたまま須美がプルプルと震えだす。そろそろ羞恥心の限界だった。恥ずかしい気持ちを誤魔化すように大きな声を出す。

「もう! お兄様のせいですよ! どうしてくれるんですか! 私はどんな顔をして勇者のお役目を果たしていけばいいんですか!」

「え、えー……、普段どおりでいいんじゃない? 肩肘張っても上手くいかないと思うけどな……」

「まあまあ、鷲尾さん、兄弟だと紛らわしいな……、須美って呼んでいいか? (あに)さんも別に須美を困らせようって思ってるわけじゃないし、そんなに怒ることもないだろ?」

「あっ、ずるーい。私も園子って呼んでいいから鷲尾さんのこと名前で呼ぶね〜」

「兄さんって何だか昔、安芸先生と見たお笑いのビデオの芸人さんみたいだな」

 須美を置いてきぼりにして勝手に話が進んでいく。

「おっ、兄さん安芸先生のこと知ってるのか?」

「ああ、五年くらいの付き合いだよ」

「世間は意外と狭いんよ〜」

 楽しそうに世間話に花を咲かせる三人に須美はムッとする。自分を置いてけぼりに三人が話しているとなんだか兄を取られたみたいで胸がもやもやした。

「わっ、私だって安芸先生を知ってます!」

 だから自分でも意味のわからない張り合いをしてしまう。

 そんな須美の発言に銀と園子は「知ってるー!」と元気よく返す。つまらない意地を自覚して須美は「ぐぬぬ」と、はしたなく万歳の姿勢で自棄を起こす。

 楽しそうな三人の様子を見ていた和仁は頬を緩めていたが、展開されていたセンサー類に反応がかかり意識を切り替えた。

 薄く繋がった心を通じて三人もそれを感じ、心を引き締めて結界の外側に向けて構える。

 少し遠く、それはいた。

 生き物というにはあまりにも無機質で、しかしところどころ生き物であるかのような意匠を残したそれは悠然と瀬戸大橋を渡っていた。

『バーテックス』

 神樹の結界の外側からやって来る人類の天敵。彼らが神樹に到達した時点で神樹は倒され人類は加護を失い絶滅する。

 そうさせない為に勇者たちがいる。バーテックスに通常兵器は効果がほぼない。倒すならば神に眷属する力がいる。そしてそれを、神樹の力を振るうことができるのが神樹によって選ばれた無垢なる少女たちである。

 やって来る巨大な敵、それに自分たちは立ち向かわねばならない。少し足が竦んでしまう。当たり前だ。三人は今日まで普通の女の子でたとえお役目に選ばれたのだとしてもあんなものに立ち向かわねばならないのだと言われても完全には恐怖は払えない。

 しかしここにいるのは三人だけではない。背中を押せる誰かがいる。

「大丈夫、君たちは神樹様に選ばれた勇者なんだ。自分と神樹様を信じて戦え!」

 鼓舞するように和仁は言う。神稚児でありながら勇者にも巫女にもなれなかった、だからこそ自分はこの三人を手助けする為にここにいる。

 自分だからこそできる役目を行う。

 背中を押され、三人は恐怖を勇気で追い払う。恐怖がないわけではない。しかし自分たちだけではないという事実が背中を押してくれる。

 幾度かの簡単な訓練どおり、三人は勇者専用のアプリケーションを起動した。

 三つの花が咲き誇った。

 一つ目は菊の花。鷲尾須美が纏ったのはろうたけたる花。

 二つ目は牡丹の花。三ノ輪銀が纏ったのは風格ある花。

 三つ目は青い薔薇の花。乃木園子は纏ったのは祝福の花。

 三者三様の花が樹海化した四国の中に咲く。

 変身を終え、須美は弓を、銀は二丁の斧を、園子は槍を、それぞれの武器を構える。

 勇者への変身を終えると自動的に勇者システムと宮司システムが同期を開始する。三人はそこにいながら、和仁が感じているものを受け取る。

 四国全体の見取り図、それリアルタイムに情報が更新されていくそれが自然と理解する。

「なんかゲームみたいだなこれ!」

「なんか視界が二つあるみたいで目が回ってきたんよ〜」

 初めての思考同期に二人はそれぞれの言葉で状況を評する。

 そんな二人の言葉に和仁は苦笑する。

「初めは慣れないかもしれないけど、細かい作戦は俺に任せて君たちは目の前の的に専念すれば大丈夫」

「敵、来るわ!」

 やってきたバーテックスは須美の声を皮切りに行動を開始した。水風船のような部位を膨張させ、濁流のような水鉄砲が放たれる。

 狙われた三人は元いた場所から跳んで回避する。

 思考を同期させた和仁は何の指示なく手元のコンソールを操作し、それぞれが跳んだ先へ迫り上がる足場を用意する。三人はそのしっかりとした金属製の足場を踏み台にもう一度飛び、合流する。

 一切の言葉なく流れるような流れに銀は感嘆の声を漏らす。

「うへー、アタシ何も言われなくても、何をすればいいのか分かっちゃったよ」

「以心伝心ってやつだね〜」

「これが思考同期による一体化の力、俺たち人類だけが持てる敵と戦うための力」

「お兄様の的確な補助があっての連携、見事です!」

 初めての戦い、日常から切り離される非日常感と連携の上手くいった一体感が三人を浮き足立たせる。

 興奮した銀が一歩先へ出る。

「ようし! この勢いで敵もやっつけるぞ! 一番槍、三ノ輪銀行っくぞー!」

「あぁ、ちょっと待って三ノ輪さん。一人で突出したら……」

 和仁の制止する声は出遅れ、銀は一人敵に突撃する。待ち構えたバーテックスはもう一度水風船のような部位を収縮させ、今度は巨大な水の玉を壁のように展開する。

 目の前に現れた水の玉を銀は手に持った斧で打ち払おうとするが文字通り水を叩いただけにしかならず少しだけ削っただけに終わり、結果銀は水の壁に頭から突っ込む。

 ゴボゴボと息を吐きながら銀は水の中から這い出ようともがく。しかしいくらもがいても水の中で水流が生まれず徒労で終わる。

 1分も水の中にいれば息が切れる。窒息死。水深が五センチあれば起きうる死因であり、水によっての最も起きやすい事故。

 それを意図的に起こす敵に銀は襲われていた。

「マズイ! 間に合ってくれ!」

 和仁の操作を受け、樹海内のいたる所に設置された装置の一つが作動する。

 射出機からフック付きのケーブルが放たれる。放たれたケーブルの先は和仁の意思を反映して異常な軌道を描きながら銀の元へ飛んでいく。

 ケーブルは水の中に突入すると銀の胴体に巻きつく。

「今だ! 思いっきり引っ張れ!」

「おーえす!」

 和仁の指示に須美と園子が掛け声で返答する。射出されて伸びたケーブルを手で掴み、思いっきり引っ張る。水の外からの力であればバーテックスによる水の操作は関係なく、銀はケーブルに引かれて水から逃れる。

 地面に転がり、銀は苦しそうにむせ返りながら水を吐き出す。

「ゲホッ、ゲホ。あー、死ぬかと思った、余計な迷惑かけちまった」

「三ノ輪さん、気張るのは分かるけど三人で君たちは勇者なんだ。互いを守りあって無事に帰るんだ」

「三ノ輪さん、大丈夫〜?」

「あぁ、最初はソーダの味がしてそれからウーロン茶に味が変わったこと以外は今のところ平気……」

「多分、乃木さんは味を聞いたんじゃないと思うけど……」

 先ほどまでむせていたのは何処へやら、ケロっとした様子で銀は冗談のような口調で先ほど呑まされた水の感想を述べ、須美がそれに呆れていた。若干味の感想が本当なのか疑う。

 それに和仁が気だるげに答えた。

「須美、三ノ輪さんが言っているのは本当のことだよ、感覚共有で味覚が伝わってきたけど、ほんとに何だろうねアレ。少なくとも食用にはならないよ」

「うお? アタシの感じてること全部兄さんに筒抜けのか?」

 和仁の発言に銀は驚く。知らぬうちに自分の感じているものが筒抜けになる事実に少なからず園子も動揺する。

「宮司システムと勇者システムの感覚同調だ。基本的にシステムは俺と君たちの感覚を繋げて通信や情報のやり取りを行なっている。だから君たちがの感覚が情報として僕にも反映されるんだよ。まぁ、一応君たち側からでも接続は切れるけど、情報共有が途切れるから切らないでくれると互いのためだと思う」

「はえー、勇者って結構ハイテクなんだな」

「当たり前よ、大赦とお兄様が数年かけて作り上げた機構、私たち勇者のための力なんだから」

「須美さんは本当にお兄さんが大好きなんだね〜」

「もう! お兄様は尊敬しているけど、今言うことではないわ!」

 園子にからかわれ、須美は顔を赤くして怒る。

「園子、須美をからかうのもそこまでだ、奴さん来るぞ!」

 銀の声に二人も前を向く。件のバーテックスは再度、水風船のような部位を膨張させ、最初の時のように水鉄砲を放とうとする。

 和仁がシステムを操作し、足場がいくつもせり上がる。いくつかを壁がわりに、残ったものを足場として利用し三人が距離を詰めていく。

 須美が弓を構え、溜めて、放つ。神樹の力を受けた弓と矢は光となって一直線を描いて敵に当たる。当たった場所から大きく揺らぎ、バーテックスは姿勢を大きく崩す。

 前衛である銀と園子はその隙を逃さず、一気に距離を詰め、上からバーテックスを襲撃する。

 その時、バーテックスは水風船のような部位を大きく、今までにないくらいに膨張させる。

 異変に素早く気づいた園子が自身の槍の槍先を傘のように開き、自身と銀をバーテックスから隠すように構える。それに間髪挟まず水風船が大きく脈打ち、先ほどまで一本しか撃っていなかった水鉄砲を数十本、狙いも適当に無闇矢鱈に放つ。

「須美、11時の方向二十メートル、二人を受け止めて!」

 構えていた園子とそれにしがみついていた銀は水に押されて後ろに大きく吹き飛ばされる。和仁の指示を受けた須美が走り、飛んできた二人を受け止めようとする。しかし流石に二人分の体重に水の勢いが加わってしまっては受け止めきれない。

 三人仲良く地面を転がっていく。少し転がってから何とか立ち上がる。

 和仁は手元を操作し、周囲に設置されていた発射装置から攻撃用のミサイルを放つ。飛んできたミサイルを回避することもできず、バーテックスは爆炎とともに後ろに押されていく。

 何とか立ち上がった銀が先ほどまで痛んでいた体の節々をさすりながら立ち上がる。

「いてて……、急にあんなふうにやたらに撃ってくるなんて本当にゲームっぽくなってきたな」

 続いて立ち上がった須美が自分が負うはずである傷がないことに気がつき、もしかしてと思い和仁に問いかける。

「お兄様……、体は大丈夫ですか?」

 須美の問いかけに銀と園子首を傾げる。どうしてここにいない人の心配をしているのか、ここで戦っていないのならば安全なのではないのか。そうした疑問を二人は持つ。

 須美の質問に少し声を強張らせた和仁が答える。

「……大丈夫、擦り傷くらいなら治るのに秒もかからない。俺の心配よりも敵を倒すことに集中して」

「お兄様……」

 心配そうに須美は遠く、神樹の根元の方へ心配そうな視線を送る。

 そのやり取りと須美の視線を見て銀は怪訝そうにしていた。

「アタシらの怪我がすぐ治るのと兄さんが何か関係あるのか?」

「あー、もしかして……」

 感のいい園子が少ない手がかりから正解を導き出す。

「私たちが怪我すると代わりにお兄さんが怪我を負うのかな?」

 少ない手がかりから正解を導き出した園子に和仁は感心する。園子の推測を肯定する。

「そうだよ、君たちの痛みは俺が背負う。君たち勇者がより長く、最良の状態で戦えるように支援するのが宮司の役目、俺のことは気にせずに戦ってくれればいい」

「なら、アタシらは出来るだけ怪我せずに敵を倒せばいいんだな」

 銀の言葉に和仁は疑問符を浮かべる。

「ん? 俺のことは気にしなくていいと言ったはずだよ? 君たちは目の前の敵を倒すことだけに集中してほしい」

 和仁の我が身を振り返らない発言に銀が首を振って否定する。

「いやいや、兄さんが言ったんじゃないっすか、『互いを守れ』って。それにはもちろん兄さんだってふくまれてるでしょ? だったらアタシらは兄さんが余計な怪我しないように自分を守ればいいってことだろ。大丈夫、アタシらは勇者なんだ、だったら兄さんだって守ってやるよ」

 銀の言葉に和仁は目を見開いて、それから何度か瞬きを繰り返した。

 二人目だと和仁は思った。家族でも何でもない他人であるはずの三ノ輪銀は今日会っただけの自分をも守ると言う。

 誰かのために贄としている自分が守られると言われることに和仁はなんだかむず痒さを覚える。

 でもそれは決して不愉快ではない。心地の良い感情だった。

「ミノさん、イケメン〜」

「ははは……、照れるからやめろよー。てかミノさんってアタシのことか?」

 銀の発言に園子が囃し立て、銀が照れて頭をかきながらつけられたあだ名を気に入る。

 轟音を立てて光の矢が敵めがけ飛んでいく。体制を立て直したバーテックスの出鼻を挫くように須美が矢を放っていた。命中した矢は光を破裂させるかのように爆発してバーテックスをよろめかせる。

 攻撃への対抗なのかバーテックスは先ほどと同じように濁流の水鉄砲はやたらめったらに周囲に撃つ。

 それを見て銀とその子は自分たちがまだ戦いの最中であったことを思い出す。忘れていたわけではないが必要以上に緊張せずにいられている。緊張し過ぎて動作が鈍くなるよりはよっぽどいいと和仁は思う。

「ようし、後は誰も怪我しないように敵さんをちゃっちゃとやっつけるだけだな!」

「三ノ輪さん、油断しているとスキを突かれるわよ」

「まあまあ〜、須美さんもそんなにカリカリしないで気楽に行こうよ〜」

 気張る銀、慎重な須美、そしてペースを崩さない園子。上手いこと三人の個性が噛み合ってきていると和仁は初陣である三人の勇者たちを見る。

 周囲に未だ水鉄砲を打ち続けているバーテックスを見て銀が困った声を出す。

「しっかし、あの敵さんどうしたもんかな。あんなにずっと撃ってきてたんじゃ近づけやしない」

「……あ、ぴっかーんっと閃いた!」

 園子が自身の槍を見て何かを思いつき、教室で答えるように手を挙げる。

「園子さんどうぞ?」

 教師で役に当たるであろう和仁が応答を促す。自身の槍を二人に見えるように掲げて見せた。

「これと四人で力を合わせればいいんよ〜」

「……え?」

 園子の答えに三人の疑問符が重なる。

 園子の指示通り、須美と銀は園子の槍を持つ。ちょうど運動会の綱引きのような感じになる。ただし違うのは槍を引き寄せるために持っているのではなく、槍を前に押し出すために持っていることである。

「……って、すっごい脳筋だった!」

「これを持ったまま前に進むって……」

 思っていた以上に頭脳ではなく筋肉に頼った作戦に思わず銀がツッコミを入れ、須美が困ったように呟く。

 作戦はごく単純。傘のように広がった園子の槍を文字通り傘にしてバーテックスの放つ水鉄砲を防ぎつつ、勇者の膂力で前に進む。人間離れした力を発揮できる勇者だからこそできるやり方であり、これを発想した園子に和仁はまたも感心した。

 普通、濁流じみた水鉄砲に立ち向かおうとは考えないだろう。普通ならいかに避けて進むかでやり方を模索する。逆転の発想であり、勇者である園子だからこそ思いつける方法であった。

「それじゃあ、行くよ〜!」

 園子の掛け声と共に団子になった三人は前進する。近づいてくる三人を認識したバーテックスは三人めがけて水鉄砲を放つ。しかし放たれた水鉄砲は園子の想定通り、広がった槍の穂先に当たって拡散する。トラックから真正面からぶつかった様な衝撃が三人を襲う。

「踏ん張れー!」

「前進―!」

 襲いかかる重圧に負けず、三人は進んでいく。途中、和仁の操作するケーブルがバーテックスを引っ掛け、水鉄砲の方向を逸らす。掛かっていた衝撃がなくなり、それを好機と見て三人は一気に前に出て距離を縮める。

「今だ須美! 三ノ輪さんを上に飛ばせ!」

 和仁の指示とイメージを受け取り、須美は素早く動く。バレーボールで素早く後ろにいた銀に向き直るとバレーボールのレシーブの姿勢に入る。武器を消した銀は飛び出し、構えた須美の両手に足を乗せる。そのまま須美は両手を勢いよく上げ、銀はその手を蹴って飛んだ。

 勇者の膂力と脚力が合わさり、銀は弾丸の様に飛び上がっていった。傘に隠れていたこともあり、バーテックスはそれへの対処に出遅れた。

 そしてその時点でバーテックスの詰みであった。

 急上昇し、バーテックスの真上をとった銀は消していた武器を再度出現させる。そして自然落下に武器の重さが加わり、勢いを加えながら銀はバーテックスに襲いかかる。

 須美が後衛であり、園子が中衛であるならば、銀は前衛である。前衛の仕事とは敵を抑え、そしてと止めを刺すことである。そして彼女はその通りの役割を果たす。

 落下の勢いと加速を利用してすれ違う様に銀は何度も両手に持った二丁の斧で斬りつける。繰り返された斬撃とそれに追随する衝撃により、バーテックスはその身を半壊させた。

 それを見て和仁は頃合いと見た。

「鎮花の儀、開始」

 和仁の身を触媒に樹海に満ちていた神樹の力が増していく。それは水に満たされた容器に水を足すことに似ていた。水は神樹の力、溢れた水は花弁となって樹海の中で花降る。

 寂寞の中、大橋に設置された鈴が鳴り出し、次第にその音を増していく。清廉な鈴の音が寂とした樹海の中を満たし、昂ぶるものを鎮めていく。

 樹海の力から生まれた花が降る中で神の怒りを鎮める。

 故に『鎮花の儀』

 神樹は複数の地の神の集合体。よって含まれる様々な属性は花の色となって顕れる。

 清廉な鈴の音と降りそそぐ多彩な花に満たされた樹海は言葉に詰まるほど美しかった。

 勇者三人は敵と戦っていたことも忘れ、ただただ目に見える景色に目を奪われていた。

 美しい世界の異物であったバーテックスは降りそそぐ花にかき消される様に姿を消した。それに気がついた須美はポツリと呟く。

「……勝ったの?」

 それまでの激しい戦いが嘘の様に決着は静かなものであった。余りにも何も残らなかったこそ須美も思わず疑問に持つほどであった。

 それに景色に見とれ、我に帰った銀と園子が肯定する。

「アタシら勝ったんだ!」

「敵をやっつけたんよ〜」

 成功した喜びで二人はハイタッチをし、須美のおずおずという様子でハイタッチに答える。

 光が溢れ、気がつけば三人は樹海の中でない普通の四国の中にいた。

 周囲を見渡し、園子はよく知った建築物を見つける。

「あっ! 大橋だ!」

 見知ったものを見つけた安心感に思わず声を弾ませ、指を指しながらその場で弾む様に跳ねる。同じように振り返った銀と須美も大橋を見つけ、安堵に胸を下ろす。

 日常的に見てきた大橋を見つけて三人は非日常が終わり、日常へ帰ってきたのだと視覚から理解する。

 小さく鈴が鳴った。

 それは樹海化が始まった時と同じもので三人は思わず身構える。

 一瞬の間を挟む。しかし光も、地響きも、時の止まることもない。

 血の匂いが香る。

 瞬きをして、気がつけば須美は視界が塞がれていた。

 正しくは塞がれたのではない、視界の全てが和仁の胴でいっぱいになっていた。鍛え上げられ、傷の塞がった血まみれの上半身をむき出しにして和仁は須美を抱きしめていた。

 須美の存在を感じながら安堵の声を漏らす。

「……あぁ、良かった。本当に、本当によかった」

 心底安心した和仁を見て、須美は血に濡れることも構わずに抱きしめ返した。

「はい、お兄様。私は無事にここにいます」

 初めてのお役目、三人と一人誰も欠けることなく無事に終わった。

 非日常が終わり、兄妹は互いの無事を確かめ、戦友二人はそっと微笑んで見守っていた。

 




鎮花の儀って小説版だと存在しないんですよね。
作者的な理由づけをして実装しました。
話させやすい二人も登場し物語は加速していきます。

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見を大募集。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。


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のぞみ

 敵を撃退して鷲尾兄妹が互いの無事を確かめているとすぐに異変を察知した大赦職員たちが駆けつけた。

 彼らが初めに見たものは上半身裸で血を流し終えた和仁と抱きしめられ、神樹館小学校の制服を真っ赤の染めた須美の二人であった。色白い肌と白い制服が赤く染まっているのは一目見て衝撃的であり、駆けつけた職員たちが彼らが大怪我をしていると勘違いを起こすのは当然であり、二人は有無を言わされずに準備していた救急車によって迅速に病院に運ばれた。

 学校から駆けつけた安芸と大赦職員の運転する車に乗った銀と園子が病院にやって来る頃には病院着に着替えさせられて二人は呑気に待合でジュースを飲んでいた。

 それを見た安芸は安堵を覚え、次に事情を聞いて紛らわしいことをした和仁を説教した。お役目を果たしたことは立派だが、その結果他の人を心配させてはいけないと安芸は和仁に言う。

 安芸の言うことはもっともであり、須美はしょぼくれながら説教を聞いていた。一方で和仁は久しぶりに安芸に会ったことでニコニコと笑っていた。説教をしているのにむしろにこやかになっていく和仁を見て安芸は遣る瀬無さに大きなため息を吐いた。糠に釘ならぬ、和仁に安芸である。

 しかし説教をする一方、安芸はお役目に従事する勇者と宮司、全員が無事に帰ってきたこと確認する。それを良かったと思い、ホッと息をつき、説教に区切りをつけて和仁と勇者たちに言った。

「全員無事によく帰ってきました。先生はあなた達を誇らしく思います。 和仁君? ちゃんとみんなを守り、自分も帰ってきましたね」

 優しく微笑む安芸にそう言われ、和仁は少し驚いたように見つめ返した。

 そして表情を戻して、笑って言う。

 七年前の続き。生きて未来を見る。和仁と安芸の約束。

「はい、先生。 僕がここにいて、そしてこれからそこにいる理由、先生がくれた大切な僕の理由ですから」

 二人は微笑んで時間を経て更に強く、堅く結ばれたそれを確かめ合う。約束の経緯を知らない三人は二人の言い回しに疑問を覚えるがそれは二人の秘密だと二人とも笑いながら詳細を語らなかった。

 気になることこそあれど三人と一人の無事が確認されたことで簡単な検査の実施だけで必要な処理が終わり三人はそれぞれの家に戻された。

 三人を見送った和仁は安芸は職員の運転する車に乗って大赦本部へ直行した。移動する車の中、時間の許す限り和仁は戦いの詳細を記録として記していく。

 これからも戦いは続く。なればこそより生存率を上げるために次の戦いの参考となる情報を形にして残そうと和仁は戦いの最中にあったことのすべてを思い出せる限り記す。

 もし何か情報が抜けて次回の戦いにおいて致命的な欠陥となれば誰かが死ぬ。妹を含めた三人の勇者の命がかかっていると分かっているから記述する手は止まらない。手を抜けるはずがなかった。

 鬼気迫る記述が8ページ目に突入した頃、車は大赦本部に到着した。開いていたノートパソコンを閉じ、安芸についていく。

 目的の部屋に入ると準備していた大赦の仮面を纏った神官たちが地に伏して和仁を迎えていた。

 当然と言えば当然である。多くから望まれていたものとはずれてしまったものの、鷲尾和仁は大赦内にて高い格式を持つ鷲尾家の長男であり、神樹を構成する神々の寵愛を受ける神稚児であり、人類をバーテックスから守る戦いを行う勇者たちを支える宮司である。

 彼一人が持つ発言力は優に他の神官や巫女を超え、彼の半生を多くの職員が知っているからこそ大赦内にて彼に逆らおうとする人もいなかった。

 故に一種の現人神の様に和仁は扱われていた。用意された席に和仁が座ったのをきっかけに伏せていた神官たちが座り直す。

 最も上座に座っていた神官が開始の言葉を述べて報告会、兼次回以降の戦いについての会議が始まった。

 宮司システムを通して記録された映像などの情報がホワイトボードに表示され、戦闘の一部始終が共有される。映像を見終わり、和仁の所感を記載した即席の文章を見て宮司システムと勇者システムの想定よりも低い出力や連携の弱さ、ダメージの肩代わり機構の和仁側の緩和などの浮かび上がった問題点が提示され、それぞれの担当部署に通知が行われた。

 報告会が終わり、用のない者から退席していく。和仁も帰ろうと立ち上がろうとした時に横から声をかけられた。

 統一された大赦の仮面と神官服のせいで一瞬、誰なのか判別がつかなかったが声を聞いてすぐに誰なのか気づく。

 上里機関長、大赦の最高責任者であり大赦内においてツートップの発言力を持つ上里と乃木のうちの片割れであった。

 手招きされ、和仁は応接室に案内された。

 神官服と仮面を脱ぎ捨て、中から上物のスーツを着た中年が現れる。ここ七年でめっきり老け込んだ上里を見て和仁は申し訳なく思う。神稚児として和仁がある程度自由に動けていたのはその立場と最高責任者である上里の助力があってのものであり、その分上里に苦労をかけさせていると老け込んだ顔を見ながら思う。

 そんな和仁の内心を知ってか知らずか、上里は息子に接するような態度で和仁にいつも良くしてくれていた。急須で入れたお茶と羊羹を机の上に出し終えて席について上里が一息つく。

「最近の調子がどうかな、和仁君?」

「特に問題はないです。宮司システムも勇者システムも想定通りの稼働、誰も欠けることなく敵の撃退に成功しました」

 真面目に返答する和仁に上里は苦笑する。

「宮司としての君ではなく、普段の君について聞いたつもりだったのだがな……。妹の須美君とは仲良くやれているのかい?」

「……あ、あぁ。そっちでしたか、ここで話すことだからてっきりお役目に関してのことなのかと思ってました。そうですね、特に変わりなくやれていると思います。須美とも少しづつ兄妹らしく出来てきているかと……」

「そうかそうか、それは良かった」

 羊羹をつまみ、お茶を啜りながら上里は息子のように思っている和仁の近況報告に耳を傾ける。どこか事務的な距離感がかえって年頃の息子と父親のようであった。羊羹とお茶を進めながら和仁は他愛のないことを話して上里が相づちを返す。

「そういえば君が推し進めていた神婚の儀式は凍結される事になったよ」

 和仁の他愛ない話を聞いていた上里がなんでもないようにそれを言った。その一言が話し手であった和仁を利き手側に変えた。唐突な報告に和仁は眉をひそめて上里を見る。

 半分睨みつけるように自分を見る和仁にまあまあとなだめながら上里は続ける。

「神稚児と天の神の霊的婚姻による敵の無力化だったね? 発想は素晴らしいと言わざるを得ないが神樹様以外の神に対して君の体質がどこまで通じるか分からない事と単純に君を失うリスクを天秤にかけた結果、これまで通り勇者システムの改良による敵戦力の殲滅の方がより確実と言う結論になった。神婚が凍結されたのはそういうことだ」

「……そうですか。なら僕は引き続き宮司として勇者たちを守ればいいんですね。大丈夫です、僕ら四人でなら必ず勇者システムの完成まで生きて帰ってきます」

 そう言う和仁に上里は少し驚いていた。自分の知る鷲尾和仁はこのように前向きなことを言う少年だっただろうかと思い、すぐにその好ましい変化の原因に思い至って笑う。

「そうかそうか、遠縁だからと東郷美森を鷲尾家の養子に入れたのは正解だったようだ。まさか君の口からそのように前向きな言葉が聞ける日が来るとは七年前からは全く想像していなかったが、いやはや長生きはしてみるものだ」

「上里さん、彼女は僕の妹の須美ですよ。はい、自分でも今みたいにものを考えられるようになるなんて思いもしなかったです」

 妹の名前に訂正を入れ、それから和仁は自身の変化への所感を好ましいことだと伝える。何もかもを背負い、人々のために己の血を流すことを受け入れた神稚児、鷲尾和仁。

 家族という持っていなかった楔はどこかへ消えようとしていた彼を確かにこの大地に結びつけていた。そしてこの大地を愛し、自身も根を下ろそうとしていた。

 和仁の答えに満足したのか上里は立ち上がって時計を見た。今から研究所に向かえばちょうど夕食の時間になる頃合いであった。それに気づいた和仁も立ち上がり部屋を後にする。

「ではまた次回の報告会で」

「あぁ、君の幸福と生存を願っているよ」

 短く別れを告げ、和仁は応接室を後にした。和仁が帰り、一人応接室に残された上里は皿や茶飲みをお盆の上に乗せ、ソファーに深く腰を下ろし、天井を見上げながら肺の中の空気を絞り出すように吐き出した。

 天井を見上げながら上里はこの七年間に思いを馳せる。思えば長かったものだと一人呟く。大人たちが和仁にしてあげられた事はあっただろうかと思索する。

 大人たちが和仁にかけたものはいくつもある。期待、失望、日常生活における不便、人類の未来、戦いの責任どれひとつ取っても決して軽いものなどではなく、子供一人など簡単に押し潰してしまいそうなものばかりであった。

 それに対して大人たちが与えたものはなんだっただろうか。大赦内での発言権、鷲尾須美という義妹、戦うための力である宮司システム、どれか一つでも和仁が自分から望むようなものだっただろか。

 子供を戦わせなければならない事に大人たちは罪悪感を覚える。代わってあげられるのなら代わってしまいたいと思っていても、現実として年端のいかない子どもたちを戦わせている。

 結局大人たちは彼らを支度を手伝い、戦場へ送り出すことしかできない。自分の先祖であり、かつて西暦の終わりに勇者たちと共にあった巫女の上里ひなたのようであると自笑する。こと戦い以外のことで勇者たちを支えることはできても一緒に戦うことはできない。ただ見送り、戦いが終わるまで帰って来るかも分からない勇者たちの無事を祈るだけしか出来ない事実が上里に無力感に苛まさせる。

 上里の家は三百年を経ても変わらず傍観者、戦いからは一歩離れた場所にいる。死ななくて済むという安心感と子供を戦わせる罪悪感の板挟み。戦わない者にも戦わない者なりの、傍観者でいることしかできないことへの無力感があった。

 だからこそ戦い以外での彼らの幸いを願う。歪ながらも昔より人らしく笑うようになった和仁を思い出し上里は安堵に息を吐く。

「あぁ、良かった……。神樹様、どうか彼を無事にお守りください……」

 意味の無い勝手な自己満足でしかないけれども、和仁の前向きな変化を好ましく思い安堵する。そしてそれがこれからも続くことを神樹に祈る。

 巫女でも、ましては勇者でもない上里の祈りが大した意味も持たないことは己が一番よく知っている。それでもどうか無事に全てが終わって欲しいと神樹に願う。

 その姿は年齢、性別は違えども確かに上里の名を継ぐ者であった。

 

 次の日の放課後、和仁は三人の勇者と共に大型ショッピングモール、イネスへやって来ていた。

 フードコートの中の机の一つ、両手で文らしきものを持った須美の代わりに彼女のジェラートを持った和仁がパチクリとしながら座っていた。正面に銀、斜め前に園子、そして真横に須美がそれぞれ席を取り机を囲っていた。

 両手に綺麗に畳んだ紙を広げて須美が読み上げる。

「えー、本日はお日柄もよく、先日の御役目の成功につきましては皆様の……」

 祝勝会であった。朝起きて須美から放課後にイネスまで来て欲しい電話があった時には何事かと思ったが要は祝勝会に参加して欲しいとのことだった。

 生真面目な須美はお堅い文体の祝辞を用意してそれを読み上げていた。

「もー、須美! そんなお堅くしなくたって勝ったー!、やったー!でいいじゃん!」

「お兄さん、すみすけのジェラート一口ちょうだい!」

「えっ! それは須美に聞いたらいいんじゃないかな?」

 それを気にせず三人はマイペースに祝勝会を始めていた。

 思ったような祝勝会にならず、須美はむくれて和仁に預けていた自分のジェラートをひったくってから乱暴に貪る。

「あ〜、そのジェラートも美味しそうだったのに〜。すみすけも私のメロン味食べていいから〜、交換っこしようよ〜」

「別に交換くらいいいわよ、それよりもすみすけって私のこと?」

「そうだよ〜、私お友達ができたら、あだ名とか付けあってみたかったの〜」

「そっ、そうなの。でもすみすけはちょっと……」

 須美の拒否を受けて園子はうんうんと唸りながら新しいあだ名を考え始めた。須美もあだ名をつけられること自体に忌避感はないようで次のあだ名は何かとその子の口から出て来るのを待っている。

 そんな二人を見ていた和仁と銀。ふと気になったことを銀は聞いてみた。

「えーっと兄さん?」

「なんだい?」

「兄さんはジェラート食べなくていいのか? アタシらが食べてるのに兄さんは水だけっていうのもなんだかなー……」

 三人がそれぞれジェラートを持って食べていた一方、和仁は机の上に水の入ったペットボトルを置いて時々それを飲んでいた。

 銀の気遣いに和仁は笑ってやんわりと断った。

「あぁ、ごめんね気にさせちゃって。ジェラートってバターが入ってるでしょ? だから僕は食べられないんだ。銀ちゃんは気にせず食べて?」

「……え、食べられないってどういうこと? アレルギーってやつ?」

 和仁の言う言葉が理解できず、銀は驚いて狼狽える。

 それに対して和仁は困ったように言葉を続ける。

「僕は身体を穢せないんだ。だから殺生した生き物は食べれらなくて、出来ないことも多いんだよ」

 自嘲気味に何度目かになる自身に課せられた制約を話す。

 和仁の生まれついた制約に銀はかける言葉がなかった。自分が持っている当たり前が無いことへの衝撃は凄まじかった。何か言わねばと思い、銀は絞り出すように言葉を紡いでいく。

 気がつけば話していたはずの須美と園子もじっと和仁を見ていた。

「そんなの……辛くないのか?」

「うーん、ずっとこうして来たから今更、辛いとは思わないかな。それが僕に与えられたあり方だから……。それに御役目が終わればそれも続ける必要もなくなるわけだから、こうしてやりたいことはノートに書き残しているんだ」

 そう言って和仁はカバンから冊子ほどの大きさのノート取り出して見せ、その後に須美を見た。須美はそうだと答えるように頷いてみせた。

 その二人の様子に銀は何故だか自分の中にしこりが残るような小さな不快感を感じていた。

 それが気になってもう少し聞いてみようとして、それを園子が遮った。

「あっ! そうだ、わっしーっていうのはどうかな?」

「……もしかして私のあだ名?」

「そうそう、すみすけが嫌だったから考えてたんよ〜。どうどう? わっしー!」

「まぁ、それなら……。なら私はそのっちってと呼べばいいのかしら?」

「わーお! わっしーったら以外とだいたーん!」

 園子の閃いたあだ名を須美はすみすけよりはいいかと納得していた。少しからかうつもりでつけたあだ名が好評だったので面食らう。

 思いついたあだ名が受け入れられ、さらに自分もあだ名をからかい半分につけて貰えた園子は実に嬉しそうにしていた。

 そんな二人を和仁は微笑ましそうに見守っていた。妹の幸せそうな姿に我のことの様に好ましく思っていた。

 そんな和仁を見つけ良いことを思いついたと園子は両手を打った。

「そうだ! せっかくだからお兄さんにも何かあだ名をつけてあげる〜!」

「ちょっと、そのっち。 お兄様に失礼よ!」

「いいよ須美。せっかくなんだから。僕にあだ名をつける人なんて今までいなかったんだ、ちょっと楽しみだよ」

 自分の様に独特なセンスのあだ名をつけられるのではと思い、須美は園子をたしなめたがそれを和仁はまあまあとなだめた。

 ちょっとワクワクした様子の和仁に見守られながら園子はうんうんと考えこむ。

 そして暫くして閃いたのか手を叩いた。

「そうだ! ワニー先輩なんてどうかな〜!」

「和仁を音読みして『わに』ってこと?」

 和仁の問いかけに園子は鼻をフフンと得意げに鳴らした。

「ふふふ……、それだけじゃないんだな〜。ワニー先輩には50点をあげちゃう〜」

「ええっと、それじゃあ残りの50点は?」

「正解は()っしーのおにー(・・)にーさんだからワニー先輩なのでした〜。パチパチ〜」

 園子の言葉に和仁はパチクリと瞬きして少し呆けた顔をして、それからとても嬉しそうに笑った。

 血の繋がらない兄妹である和仁と須美。二人を繋げる絆は心と心の繋がりである兄妹であろうとする在り方一つであった。

 そんな二人の名前を引っ掛けたあだ名の存在は血の繋がり以外では、初めての二人を結びつける確かな絆であるような気がした。

 そうかそうかと納得がいった様子で和仁は頷いた。

「須美の兄だからワニーか。うん、すごくいい、すごく好きだよ」

 口の中で転がす様に何度かそのあだ名を呟いてみる。

 ワニー、ワニー。

 神稚児の鷲尾和仁でもない、宮司の鷲尾和仁でもない、鷲尾須美の兄の鷲尾和仁としての自分を示す名前。

 唯の人である自分を表すその名前をいたく和仁は気に入った。

 思っていた以上に好感触な反応に園子はやったぜとハイタッチがしたくなり、ノリの良い銀がそれに答えた。

 自分の名前と掛け合わせたあだ名を喜ぶ和仁を見ていた須美はなんだか恥ずかしいような嬉しいような気がしてもじもじと小さくなっていた。

 そんな須美を発見した園子がまたからかい、銀もそれに便乗した。普段お堅いクラスメイトが恥ずかしくなって慌てる姿は格好の的になっていた。

 そんな小学生らしい三人の様子をニコニコと笑いながら和仁は見ていた。

 話が弾めば時間の流れは早いもので、気がつけば時間は夕刻の真っ只中になっていた。夕食に遅れては不味いと楽しい祝勝会はお開きとなった。

 車の迎えが来た園子を見送り、方向の違う須美と別れ、和仁と銀は夕暮れに赤く染まる道を進んでいた。

 四人でいた時の元気さとは打って変わり、銀が口を詰んで何も言わないため、和仁は何も言えないでいた。

 どうしたのだろうと時々、和仁は銀の方を見るが銀が俯いているために何も言えず、前を見てはまた振り向くを繰り返していた。

 蝉の鳴く声を背景に二人は歩みを進める。

 二人の道が別れる十字路について銀が脚を止めた。和仁が銀を見る。

「そうだよな、思い悩んで迷うなんて、この銀様らしくないよな!」

 俯いてた銀が決心した様に前を見て和仁と目を合わせた。どうしたのかと和仁は首を傾げる。

「なあ、兄さん。この後まだ時間あるか?」

「僕は大丈夫けど銀ちゃんは? この時間だと親御さんが心配するんじゃないの?」

「うちは両親とも忙しいからまだ大丈夫、そんなに時間はとらないよ」

 そう言って銀は和仁を連れ、二人は自宅近くの公園の遊具に座った。

 ギコギコと鳴る錆びたブランコに乗り、浮いた足をぶらつかせながら銀は確認するように聞いた。

「なぁ……、兄さんはどうして今みたいになったんだ?」

「神稚児としての僕ってこと? そういう風に生まれたからとしか言えないよ。人のために血を流すことが僕の使命なんだよ」

「そうじゃなくてさ。誰かの為に何かをしようとしてるのに、兄さんちっとも嬉しそうじゃないよなって思ったんだ」

「嬉しそうじゃない? どういうこと?」

 銀の問いかけに和仁は意図を理解できずに聞き返す。嬉しそうではないという言葉の意図が和仁には分からなかった。そんな和仁の様子に銀はやっぱりという表情を作り、言葉を続けた。

「アタシはさ、よく困ってる人に会うんだ。放っておけないから助けようとするんだけど、助けると大抵お礼を言われるんだ。そうしたらやっぱり良いことしたなって気持ちになるんだ」

「……それで?」

「だからさ、アタシは誰かを助けるって行為が好きでやってるんだ。だけど兄さんは義務だからとかそういう生まれだからって自分がどう考えるかが後に来てるんだよ。兄さんって結局お役目が終わった後のことを言うけどさ、本当にそのノートに書いたことを実行しようと思ってるのか?」

 銀の問いかけに和仁は少し声を大きくしながら答える。

「そうだよ、このノートに書いたことは僕がやろうと思ってることなんだ。全部終わったらやるんだ、君たち勇者を支えて終われせてそうしたら僕は人並みになれるんだ!」

 まるで自分に言い聞かせるような言葉だった。その言葉を聞いて銀は自分の中にあった不愉快なしこりの正体を理解した。

「やっぱりだ、なんか変だと思ってたんだ。今のでやっと分かった。兄さん何もかも自分で背負って行こうとして、しかもそれを義務だと思ってるだろ」

「何がいけない。僕は神稚児なんだ、僕には生まれ持った責任がある。僕は望まれてこれをやってるんだ」

「周りがどう見てるかなんて考えたこともないか?」

「喜んでるはずだ。僕は知ってる、生まれる前の僕が何に期待されていたのか」

「何があったかなんて知らないけど、色々あって今は宮司をやってる?」

「僕が初めに望まれた形とは違う、本当なら君たちが危険なことをしなくてよかったんだ。本当なら僕一人が居なくなって、何もかもがうまくいくはずだったんだ。でも僕はみんなの期待を外したんだ」

 懺悔するように俯いて和仁は言葉を途切れさせる。銀には和仁が両手で握ったブランコの鎖が罪人を吊るす磔刑台の拘束の様に見えた。

 和仁の言葉を聞いてそれは違うと銀は確信する。ブランコから立ち上がり、銀は和仁の正面に立つ。

 見つめていた足元が影に隠れて和仁は顔を上げて銀を見た。

「兄さんはさ、自分が期待を外したとか、自分がやらなきゃって言うけどさ、兄さんが傷ついてまでそんなことする必要なんかないよ」

「なんでだよ、言っただろう? 僕はそういう風に生まれたんだ、そうしなきゃいけない。そうしないとみんなの期待に答えられないんだよ」

「みんなの期待に応えようとしても、それで兄さんがずっと辛そうにしてたら周りにいる奴ら、きっとみんな心配してる。そんなのは誰も嬉しくなんてないよ」

「そんな人いるはずない。僕がこうすることを望んだのに、今こうしているのにそれを悲しむなんておかしいじゃないか」

「そうすることが悲しいんじゃないんだよ、兄さんがいつも苦しそうにしてることが悲しいんだ。知ってるか兄さん、兄さんいつも笑う時、いつもまるで枯れそうな花みたいに笑ってる」

 言われハッとする。思わず確かめるように頬に触れる。分からない、自分がいつもどんな風に笑っていたかなんて考えたこともない。自分が他人にどう見られているかなんて気にしていない証だった。

「ほらやっぱり……。兄さんが思ってる以上に周りはきっと兄さんを心配してるよ。アタシは須美や安芸先生ほどお役目、お役目って感じじゃないからさ。あの二人はそういうところ分かってても兄さんにやめろとは言えなさそうだからアタシが言ってやるよ」

 一度だけ言葉を区切り、銀は言いたかったことを簡潔に言葉にした。

「兄さん、辛かったお役目なんて放っぽりだして良いんだよ。そんな辛そうにしてるとこ、アタシは見たくない」

 いらないという言葉ではなく、不要という言葉ではなく、期待はずれという言葉でもなく、ただやめてほしいと願われた。自分が傷つくことも厭わないあり方なんて周囲からすれば良い迷惑だと銀は言う。

 そうすれば良いと持っていた和仁にとって自分を大事にして行けなどという言葉は自分を根底から否定されているようだった。人のための神稚児、人のために血を流す人、最も生贄に適した存在。

 足元が崩れ落ちるような気がした。力なく和仁はうなだれる。

 自身に課せられたものを放り出したいとも言えず、そうじゃないと反論することもできない。誰かのためにいることが自分の在り方だと思っていた。そうすることが義務だった。だからこそ、自分がどう思うかなどは二の次でしかない。

 望まれてそうしなければと思うのなら、逆にそうしないでほしいと望まれたのならば和仁はそれをできない。何であろうと。

 力なく途切れがちに言葉と紡ぐ。

「だったらどうしたら良いのさ……。本当に望まれた在り方はどうしようもなくて、今こうして期待に応えようと宮司をやっていても痛々しいから止めろだなんて、僕にどうしろっていうのさ」

「アタシがどうしてほしいかを答えても何も変わらないよ。兄さんがどうしたいかって、誰かに望まれたからじゃない自分の理由を見つけないと何にも変わらないよ」

 考えても何も思い浮かばない。当然である。これまで和仁が自身で望んだものなど何もない。ただ周囲から望まれ、そうあれば良いと自分に課してきた。今の今まで自分のためというものがない人間であった和仁にとって自分のために何かをしようとすることができない。

 自分だけでは望み一つ持てない自分に失望して力なくうなだれる。

「僕に欲しいもの何て何もないよ。望むものなんて何一つない。結局、今の僕を形作る何もかもは他所から願われたもので、僕が望んでやっていることなんてないよ」

「ならさ、兄さんが宮司としてアタシらを守ってくれるのは義務だからか? アタシらが敵が怖くて前に進めなかった時に背中を押してくれたの、すっげー安心したんだ」

「そんなものなくたって君たちはきっと敵と戦ってたよ。何たって君たちは神樹様に選ばれた勇者なんだ」

「そうかなー、でもアタシは確かに安心したぜ。だってあそこにいたのはアタシら三人だけで、後ろから誰かが背中を押してくれるなんて思ってもみなかったんだ。アタシが感じた気持ちは本物だよ。兄さんがどう思ってるかなんて関係なくて、兄さんがそこにいてくれたことが大事なんだ。兄さんがアタシらを守ろうとする気持ちは義務? それとも兄さんのやりたいこと?」

 二択を突きつけられ、和仁は言葉に詰まる。目を伏せて考えてみる。三人の勇者、自分が成れなかった勇者のお役目を果たす少女たち。

 とても素敵な人たちだと思う。須美も、園子も、銀も三人ともとても良い子達で無闇に傷ついてほしくはない。そんな三人を無事に帰すことが宮司の役目であり義務であると思う。

 しかしそれだけだろうか。義務だとか役目だとかだけが彼女らを守る理由なのだろうかと自問する。

 答えはよく分からない。でも無事でいてほしいと和仁は思う。

「義務だと少なからず思ってる。……だけど確かに僕は君たちに無事でいてほしいと思ってるかもしれない」

「そっか」

 短く銀は頷いた。和仁がどう思っているかが少しだけでも垣間見得て、とても満足そうに頷く。

「ならさ、アタシはこれから兄さんに頼るから、兄さんもアタシを頼ってくれよ」

「僕にできることなんて少しだけの支援だよ。君に頼られても期待に応えられることなんて出来ないよ」

「できるさ、兄さんがアタシら勇者が神樹様に選ばれたから凄いんだって言うんなら、宮司になった兄さんだって同じくらい凄いってことだろ! だったらそんなのが四人もいたらきっとなんだって出来る!」

 そう言って銀は和仁の手を握って引っ張った。手を引かれ、和仁は立ち上がる。

 手を引かれたことに驚きながら、ずっと好きになれなかった自分を肯定されて胸がいっぱいになる。

 顔をあげ、視界いっぱいが綺麗な夕焼けに染まる。笑いながら力強く銀の手が和仁を留まっていたブランコの上から引き上げる。

 望まれることでしか在れなかった自分の殻から外に出たような気がした。夕焼けに染まった道を手を引かれながら走り出す。

 自分だけでは絶対にやらないようなことをしているだけで違う自分になったような気がする。

 たったそれだけのことでなんだって出来る様な気がした。悲しみに寄り添うのではなく勇気を銀はくれた。

 どこかここではない遠くへ走り出す勇気、それだけでただ道を走っているだけのことが特別なことに思える。

 勇者に選ばれる素質があるのだとしたら、その一つはきっと誰かに勇気をあげられる人なのだろう。少しだけ夕日と熱に頬を紅潮させた和仁は銀に手を引かれながらそう思った。




勇気を与えてくれる人がいるだけで人は前を向いてすたすたと歩けてしまうものです。
自分のやりたいこと見つけることに人生を楽しむ秘訣があるそうな。

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見を大募集。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。


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きょうだい

「銀ったらいつも学校に遅れて来るんですよ」

 放課後の某日、そんな須美の一言から鷲尾兄妹と園子を巻き込んだ休日が始まった。

「いつも遅れてくるの? それは少し心配だね。彼女にも何か事情があるんじゃないかな?」

「そうではなくて、だらしがないと私は言いたいんです!」

 出来が悪いともっぱら評判の大赦職員の募集広告を紙飛行機に変えていた和仁は紙を折る手を止めずに視線だけを須美に向けた。

 自分とはだいぶ違う感想を持った和仁に対し、同意が得られなかったことに須美はムッと唇を尖らせる。

 兄ならきっと自分に同意してくれると思っていた須美には、和仁が銀の味方になって自分が放っておかれてしまった感じがした。いわゆる兄を取られた様な感覚を須美は味わっていた。

 不満に少し頬を膨らませる須美が何故そうしているのか分からず、和仁は自分の妹は可愛いなーと呑気にしていた。

 ムッとした顔で須美は文句を言う。

「お兄様は銀に優しいですね。そんなに銀が気に入ったのなら彼女も妹にしたらいいいじゃないですか」

「そんなことはない、銀ちゃんは優しい子だと僕は思ってる。だからそれに報いろうと思うだけだよ。それに僕の可愛い妹は須美だけだしね」

 しかし思わぬ言葉の反撃に須美は顔を赤くした。赤くなった顔を見られまいと首をひねって明後日の方向を見る。

 顔を赤くしたまま、須美は顔が赤いのを誤魔化すように大きな声を出す。

「も、もう! 調子のいいことばかり言ってもダメなんですからね。それよりも銀に事情があるのなら徹底的に調べましょう!」

「それってストーカーってやつなんじゃ……」

「勇者と宮司に不可能はありません!」

「犯罪だよ……」

 和仁のつぶやき虚しく兄妹による初の共同作業がストーキングに決定した瞬間だった。

 微妙に後ろ引かれる感じを覚えながら紙飛行機をゴミ箱めがけて飛ばす。

 真っ二つに折り曲げられた大赦公式ゆるキャラ、大樹くんが不気味に伸びた眉毛らしき枝で笑顔を振りまきながら、なだらか弧を描いてゴミ箱に消えていった。

 そして次の日、二人は銀の自宅近くに集合していた。そこにはもう一人の勇者、園子もいた。

「面白そうなこと、混ぜて貰えて嬉しいんよ〜」

「そのっちだけ仲間ハズレにするようなことはしないわ」

「まぁ、それはいいんだけど、この変装は必要だったのかな?」

 そう言って和仁は服装を二人に見せるようにその場でクルリと回る。

 普段通りの私服を着ている須美や園子とは違い、サングラスにマスク、ハンチング帽を被っていて、これぞ尾行する刑事という出で立ちだった。

 見た目は暑苦しく、怪しさが服を着ているようであった。

 実際、日差しも眩しい夏の昼盛りであるため、そんな格好は非常に暑い。

「ダメよ、お兄様。ただでさえ今のお兄様は目立つんだから」

「この格好の方が目立つと思うけどなぁ……、あっ」

 かいた汗が気持ち悪くてうなじの汗をかいていると指先が帽子の縁に当たり、そのはずみで外れて中にしまわれていた髪が勢いよく帽子の中から飛び出た。

 艶のいい肩まで伸びた黒髪が和仁のうなじを隠す。中性的な顔つきもあって、伸びた髪はそれだけで彼を女性に見せる。

 近くにまで寄った園子が後ろ髪を弄りだした。

「ワニー先輩、髪伸びたよね〜、この間のお役目の直後くらい?」

「うん、傷ついた体を高速で修復するから一緒に髪とか爪とか伸びるんだよね。爪は戦いの最中で割れるから後で切って整えればいいけど、伸びた髪を切るのは呪術的にダメなんだよね」

 古来、髪には霊力が宿りやすいと言われている。神職につく女性たちの多くが長い髪であるのはそういった事情によるものであり、古い時代の男性の髪が結い上げられているのも元来霊力が宿りやすい女性と比べてそれを補うためのアンテナのような役割をしていたためであった。

 こと和仁の場合、その神稚児の体から生えるものは映える物、つまりは供物としては最上級にあたり、おいそれとは一度に切って捨てる訳にもいかない。

 それ故に見た目の悪い部分だけを梳き、出来る限り長い状態を維持していた。

 1日前まで短髪であった髪が急に伸び、下手に切る訳にもいかないので邪魔に思いつつも頭から生えた隣人と何とか付き合い始めていた。

 出てしまった髪をもう一度帽子の中にしまいつつ、和仁は口を開いた。

「もうこの髪のことはいいけど、こんな人数で尾行してもすぐバレるとおもうけどなぁ……」

「そこはこの名探偵園子にお任せなんよ〜」

「全く、そのっちは目的は銀がどうして学校に遅刻してくるのかを暴くことなのよ? 」

 何処からか取り出した虫眼鏡を二人に見せながら園子は楽しそうに笑い、須美は呆れて何も言えないと言いたげにしながら口はしょうがないなと言いたげに笑っていた。

「……お! 銀ちゃん出てきたよ!」

 仲良く談笑していた二人を家の角に引き込み、姿を隠す。

 自分が尾行されているなどとは知らない銀は鼻歌混じりに歩きながら買い物袋片手に歩き去っていく。

 このままでは置いていかれると須美を先導に三人はこっそりと、しかし周囲から見ればバレバレの尾行を開始した。歩き始めてさらに暑さに和仁は気が滅入る。

「……後ろからついていくだけならやっぱりサングラスとマスクは要らなかったんじゃないかな。すごく暑い……」

「お兄様、古き良きこの国の刑事の尾行の服装なのですよ!」

「わっしー、それ多分ドラマの中だけじゃないかなーって園子さんは思うんよ。熱中症とか怖いから外した方がいいよ」

「……須美、ごめん」

 サングラスとマスクはカバンの中に消えていった。

 十分ほど歩いていると街中に入り、銀が立ち止まった。それに合わせて距離を取りながら三人も立ち止まる。急に立ち止まったことで須美は疑問を持つ。

「ここが目的地だったかしら?」

「確か毎週のこの時間は買い物に近くのスーパーに向かってるんじゃなかった?」

「さらっとミノさんの生活習慣を調べてるのストーカーよりもよっぽど犯罪臭がするんよ……。あー……、多分あの男の子を見て立ち止まったんじゃないかな?」

 園子が指差す方へ視線を動かすと木に引っかかった風船を見上げる幼稚園くらいの男の子がいた。

 しばらく様子を見ていると銀が男の子に話しかけ、あっという間に木に登り風船をとってあげていた。

 しばらくしないうちに今度は大荷物を持って階段を上る老婆を銀が見つけ、それを助けていた。

 間髪挟まず今度は壊れたダンボールから転がり落ちてきた果物を慌てて追いかけて拾い上げていた。

 少し歩くだけで厄介ごとに巻き込まれる銀を助けようかと三人は動こうとしたがそれよりも早く銀は動き、あっという間に解決させてしまっていた。

 手慣れた様子の銀を見て三人はしきりに関心の声をあげていた。

「ミノさん、みんな助けててカッコいい〜」

「というかちょっと歩くだけで厄介ごとに巻き込まれるなんて、生来の勇者体質なのかしら?」

「あっ、買い物終わったみたいだよ?」

「尾行続行だぜー!」

 三人で話していると買い物をさっさと済ませた銀がスーパーから出て帰路につく。

 帰りの道も尾行していると行きと同じように銀は何度も何かしらの出来事に巻き込まれ、その度にそれを助けていた。

 銀に行動に黄色い声をあげる園子とそれをなだめる須美がワイワイと話している中、和仁は会話に参加せずただジッと銀を見ていた。

 ——みんなの期待に応えようとしても、それで兄さんがずっと辛そうにしてたら周りにいる奴ら、きっとみんな心配してる。そんなのは誰も嬉しくなんてないよ

 ——兄さんがいつも苦しそうにしてることが悲しいんだ。知ってるか兄さん、兄さんいつも笑う時、まるで枯れそうな花みたいに笑ってる

 昨日、銀に言われた言葉が思い起こされる。

 神稚児である和仁にとって人を助けることは義務だ。そういう風に望まれ、そうしてきた。そこに自分の意思などは介入しない。

 しかし今見ている銀はどうだろうか。別に何かしらの出来事を見たところで彼女がそれに手を差し伸べる義務など存在しない。でも彼女は進んで困っている人を助けようとする。

 どうして違うのだろう。和仁は思う。結果だけ見れば同じように人を助けようとする在り方。でも和仁には自分と銀が同じものだとは思えなかった。

 誰かを助ける時に見せる、もう大丈夫だという銀の笑顔。それが自分と同じだとは和仁は言えなかった。

 言葉による教科書的な理解ではなく、目で見て、言葉を受け取って、心で感じて、和仁はようやく理解する。

 人を救わねばならないと人を助けたいと思うことは本質的に全く異なるのだ。

 ——その違いこそが自分にはなくて銀にはある部分なのだ。

 そうでいなくちゃいけないと実行することと、そうしたいと思って実行することには隔たりがある。無感情に行われる義務と温かさを伴う優しさ。それはきっと違うものだ。

 そうでなければきっと鷲尾和仁はこんなにも三ノ輪銀の笑顔に見惚れることなんてないだろう。

 とても綺麗なものだと見惚れ、ただ黙って視線は銀だけを見る。

 自然と脈は早鐘を打つ。沸き立つ感情の名前も知らず、ただうるさい心臓の音が気になって胸に手を当てる。

 和仁にはこの感情を言葉にできない。

 幼い時からこれを初めに無償で与えてくれる両親とは疎遠になり、周囲からは純粋なものではなく常に憐憫が混じり、この歳になって妹になった須美から不器用ながら少しずつ与えられるようになったもの。

 人間が動物とは絶対に異なると言える唯一の差異にして、人が人になる絶対的な基準。

 愛という暖かさ。

 まだ人に至れない和仁が初めて他者へ持った灯火のような初々しい暖かさ、人はそれを初恋という。

 だがそれはまだ恋などというものには至らない。自分を好きになれない人間が誰かを好きにはなれないのだから。まだこの感情に名はつかない。

 少し時間が経ち、銀とそれを尾行する三人は銀の家にまで到着していた。

 銀が家の中に入るのを見届けると須美はカバンの中から何やらゴツゴツとした道具を取り出す。

 それは途中で何度か屈折した望遠鏡であった。まるで海中から潜水艦が水上の敵を探すように須美は望遠鏡を使って生垣の向こう側を覗き見ようと試みる。

 しかし生垣は背が高く、微妙に視界が向こう側にまで行かない。

 困った須美は閃いたという顔をする

「お兄様、肩車して下さい!」

「……え、ああ、うん。いいよ」

 少しボーッとしていた和仁は不意打ち気味だった須美に驚きつつに支持されたように動いた。

 成長期に入った和仁が土台になる事で須美は望遠鏡を使わずとも生垣の向こうを見ることができていた。

 周囲を見渡し、ちょうど赤子をあやしていた銀とバッチリ目が合う。

「……あら、どうも?」

「……いやいや、何にしてんのさ須美」

 この場合、どう見ても銀の疑問は当然なものであった。

 休日に弟をあやしていたら生垣の上に同級生の首から上だけが見える状況。どう見たっておかしいのは須美の方であった。

 二人の間に微妙な間が開く。その間が空いたせいであやされていた弟がぐずりだした。

 庭先で赤子の泣き声が響く。

「わわ、きゃっ!」

 急に赤子が泣き出した驚きと自分のせいで泣き出したこと思うことで動揺した須美はバランスを崩し、とっさに動いた和仁が下敷きになる。

 最後に和仁が見たのは迫ってくる須美の尻と暗転した視界であった。

 火花が視界に散った。

 

 ぼんやりした暗闇から意識が戻り、そっと目を開く。目を開くが視界は薄暗く白い。目の上に何か重みが乗っている。

 手を伸ばし、目の上に乗っているものを取り除く。視界を下におろして見てみるとそれは白い濡れタオルだった。視線を上に戻すとこちらを見下ろしている銀と目が合う。

「おっ、兄さん目が覚めた?」

「えっと……、ぎんちゃん? ……ってうわぁ!」

 不意に距離が近いこと、頭に柔らかい感触があり膝枕されている事に驚いて飛び起きる。

 頭の後ろに柔らかい太ももの感触がまだ残り、嬉しいような恥ずかしいような気持ちがして顔が熱を持つ。

「ええっと、ごめん。ていうかどういう状況?」

「あー、それなんだけどさ……」

 言いにくそうにしている銀は顔を横に向け和仁も同じように顔をそちらに向けた。

 申し訳なさそうに正座している須美とニヤニヤして笑っている園子がいた。気落ちした須美が口を開く。

「お兄様、本当に申し訳ありません」

「ワニー先輩、わっしーに下敷きにされて気絶してたんよ〜」

「あぁ、そういうこと」

 どうやら自分がすみに下敷きにされ、気絶し銀の家に運び込まれ手当をされていたらしいことを和仁は理解する。

 しばらくボーッとしているとトタトタと軽い足音を鳴らしながら見知らぬ少年がやってきて和仁の後頭部を指差しながら持ってきた氷嚢を差し出す。

「兄ちゃん、頭大丈夫か? さっきまで後ろのとこプクーって膨らんでたんだぜ?」

「え、……あぁ、ありがとう。昔から傷が早く治りやすい体質なんだ。大事に使わせて貰うよ」

 そう言って和仁は差し出された氷嚢ですでに治っている後頭部を冷やす。薄いビニールの膜から直に伝わる氷の冷気が心地良い。

 春の空気を感じながら頭を冷やす氷と涼やかな風が気持ちいい。

 ふと意識を戻し、氷嚢を持ってきた少年に話しかける。

「これ、ありがとう。ところで君は銀ちゃんの弟君かな?」

「そうだぜ。鉄男っていうんだ! こっちは弟の金太郎」

 和仁に氷嚢を持ってきたのは銀の弟の鉄男であった。そして鉄男は近くの座布団の上に寝かされた赤子を指し示して弟の金太郎を紹介する。

 座布団の上の金太郎はスヤスヤと気持ち良さそうに寝ていた。

「そっか、君たちが銀ちゃんの弟か。兄弟がいっぱいいて楽しそうだね」

「いっぱい兄弟がいても、晩御飯とか奪い合いになるから楽しくないよ。姉ちゃんいっつも俺のことパシリに使うし」

「コラっ、鉄男。兄さんに変なこと吹き込むなよ!」

 怒った銀が軽く拳を鉄男の頭に落とす。大げさに痛がった鉄男が最近テレビで見た芸人の真似をして転がりながら部屋から退散する。

 会話がひと段落したと見た須美がオズオズと控えめに話しかけてくる。

「……えっと、お兄様。後頭部はもう大丈夫ですか? 先ほどまではかなり腫れていたので……」

「もう痛みは引いてるよ、そんなに気にしなくて大丈夫だよ」

 二人の会話を障子を少しだけ開けて鉄男が覗き込んでいて怪訝そうな顔をしていた。

「なぁ、兄ちゃん」

「どうしたんだい鉄男君?」

「兄ちゃんと姉ちゃんは兄弟なんだよな?」

 鉄男は和仁と須美を交互に見て怪訝そうな表情を続ける。

 それに和仁はキョトンとした様子で首を傾げた。

「そうだよ? 僕と須美は兄妹だよ。それがどうかしたのかい?」

「えー! 絶対おかしいよ。お兄様とか兄弟なのに『けーご』で話すなんて絶対変なのー!」

「変なのかな?」

「そうだよ、そうだよ! 普通兄弟だったらもっと普通だよ。兄ちゃんたちはなんかよそよそしく見える」

 兄妹一年目の和仁にとって兄弟歴七年の鉄男の言うことは無視できないものであった。真剣な様子で鉄男の言葉に耳を傾ける。

 今まで普通の兄弟をやってきたつもりだったがどこかおかしいらしい。和仁も須美も一人っ子であったために実際の兄妹とはどのような物なのかが想像はできても確信はない。

 だから二人なりに兄妹をやってきたのだが実際に銀というか姉を持つ鉄男からして変だとするならもうしかしたら自分たちは間違った兄妹をやってきてしまったのかもしれないと和仁は考えていた。

「そしたら、鉄男君。どうしたら普通の兄妹っぽいのかな?」

「ええー……、普通の兄弟とか聞かれても分かんないよ」

「そこはほら、兄弟の先輩ってことで何か助言はないのかな?」

 年上である和仁から先輩と呼ばれ、鉄男はなんだか気分が良くなる。しょうがないなと言って少し考え込む。そして幼稚園の兄弟がいる友達のことを思い出す。

「……あ、そうだ! お兄様が変なんだから、普通にお兄ちゃんって呼べばいいんだよ!」

「そうなのかい? ならそうしてみようか」

 初めて会った時からの呼び方を変えてみることに和仁は特に躊躇いはなかった。しかし視線のあった須美は恥ずかしそうにあたふたしていた。

「お、お兄様はお兄様です。それ以外の呼び方なんて……」

「須美は嫌かい?」

「い、嫌って訳じゃないですけど……」

「へいへい、わっしー。ここはお兄ちゃん呼びで妹力を高めるところなんだぜ〜! ほらほら、呼んでみよう。和仁お兄ちゃ〜ん!」

 横から出てきた園子が須美を煽る。実に楽しそう煽る園子と煽られ眉をへの字に曲げる須美を見て銀はクツクツと笑う。

 園子に煽られ、銀には笑われ、和仁は期待を込めた視線を送って来るものだから須美も引くに引けない状況に追い込まれてきて、背中を脂汗が流れる。むしろなんで自分は煽られているのかという気がしてくる。和仁の妹に立候補した園子に待ったをかける。

「そ、そのっちはお兄様の妹じゃないわ!」

「えー、じゃあ私も妹に立候補しちゃう!」

「妹は選挙制じゃないわ! もう、仕方がないわね。……えっと、その。お、お、お兄ちゃん……」

 蚊が鳴くような声でひっそりと言った須美。銀はなんだかオットセイみたいだなとか思ったが間違いなく怒るのは火を見るよりも明らかだったので黙った。園子はお兄ちゃん呼びする須美が面白かったので次に書く小説のネタとして机の下でメモに記録していた。

 そして和仁はニコニコと笑いながら須美の呼びかけに応えた。

「うん、どうしたのかな須美?」

「お、お兄ちゃんは恥ずかしくないんですか?」

「須美、須美。敬語抜けてないよ?」

「ムムム……。お、お兄ちゃんは恥ずかしくないの?」

「全然? むしろこれが兄妹っぽいのならずっと続けたいと思ってる。なんか可愛いよねお兄ちゃん呼びって」

 実に楽しそうな雰囲気の和仁を見て須美はこの呼び方論争において自分が孤立無援なのを察する。

 もうどうにでもなれとやけを起こし、普段ならば絶対にしないことを始める。

 羞恥心が一周してもはや恥ずかしいなどという感情は遥か遠くへ飛んで行ってしまった。

 畳の上を転がり、和仁の太ももに顔をうずくめ、口をもぞもぞと動かす。

「お兄ちゃん、園子と銀がいじめるー」

 部妙に幼児退行を起こしていた。そんな須美を和仁は若干演技かかった様子で頭を撫でる。

「おー、よしよし。もう園子ちゃんも銀ちゃんも僕の可愛い妹をいじめないでね」

「はーい」

 二人が仲良く返事する。

 なんだか馬鹿にされているような、からかわれているような気持ちとこんな形で兄に甘えられる気持ちが交わり、何もかもがどうでも良くなって須美は顔を上げずにもう一度和仁の太ももに頭をうずくめて何もしないでいた。

 なんだかよく分からない楽しさを感じながら四月の昼下がりは過ぎていく。

 七月まで3ヶ月を切っていた。




お兄様もいいけどお兄ちゃん呼びはもっといいよねという回でした。
銀ちゃんのあり方に作者は未だに好きなキャラトップ10くらいにするくらいは好きだったりします。
次回は合宿回。

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見を大募集。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。


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がっしゅく

 凪いだ海が静かに燦々とした初夏の日差しに照らされる。

 迫っては引いていく波打ち際が砂をさらっては運んでくる。

 爽やかな潮騒の波打ち際にて和仁はダラダラと汗を流し、それが無限に続くような気がしていた。

 そしてその視点の先では緩やかな波の音をかき消すように激しい音がいくつも生まれていた。

 いくつも並んだバレーボール発射装置がランダムなタイミングでボールを放ち、飛来するボール群をかき分けて前に出た銀が潜り抜けようと進む。横に追随する園子が手に持った槍の穂先を傘状に展開して自信と銀を守りながら前に進む。最後列に立った須美が弓をつがえ、二人が進むのに邪魔になる飛来物を可能な限り撃ち落としていく。

「ようし! 今度こそ、このまま一気に進んで終わりだ!」

「あっ! ミノさん、そんなに前に出たら、またさっきみたいに……」

「銀! そんなに進んだら援護が間に合わせられない!」

 勢いづいたのを良いことに銀が威勢の良い勝鬨をあげながら突出する。それに園子が追いつけず銀が前に一人出る。

 少しでも突出してしまえばもうそれは後の祭り。ボールを迎撃する須美の狙撃が間に合わず、園子の防御は後方、やってくるボールの対処は間に合わず、大ぶりな斧では処理しきれず数という質量に押し負けてまず先頭の銀がボールに当たって転び、面食らった園子が隙を突かれてボールが頭に当たり倒れこみ、後方で見ていた須美は気が抜けて顔にボールが当たってそのままゆっくりと後ろの砂に倒れこむ。

 もう何度目かの光景に宮司システムを省エネモードで駆動させていた和仁も面倒になって波打ち際に大の字になって倒れこむ。

 打ち寄せる海水がひんやりとして気持ちいい。海水の冷たさが背中に張り付いた汗を掴んで持っていき、代わりに涼やかさと砂を残していく。

 伸びた髪を海水に浸しながら和仁は砂浜を照らす青空と中央に陣取る太陽を見上げる。

 六月の暑くなってきた頃、バーテックスの襲来もかれこれ二ヶ月ほどなく、訓練と学業に勤しんでいた所、急にこの様な一夏の訓練が始まっていた。

 ——そう、あれは今朝のことだった。

 三日分の着替えを用意して三連休の初日の朝に集合。

 その様な指示が安芸からメールで送られ、和仁といつもの三人は特に疑うこともなく準備を整え、各自の家の前に安芸が自動車で迎えにきた時はてっきり旅行にでもいくのかと思っていた。

 しかし到着した砂浜に設置された大掛かりな装置の数々を見て察した。

 今年の夏の三連休が訓練に消えた瞬間であった。

 浮き輪とビニールのイルカとバレーボールとスイカとパラソルを旅館の部屋に叩き込み、四人は砂浜近くに設置された建物に集合した。

 麦わら帽子を被り、夏服を着た安芸は真剣な顔つきで四人を見て、確認するようにうなづいてから切り出した。

「これからあなた達には連携強化のための訓練をしていただきます」

「連携の強化ですか?」

 安芸の言葉に和仁は疑問の声をあげ、三人も同様によく分からないといった様子で首をかしげる。

「連携だったら宮司システムを使えば十分に取れていると思うのですが?」

 須美が代表して四人の疑問を質問に換える。他の三人もそうだという様子で同時に頷いて須美の言葉に同意を示す。それを見て安芸はやはりなと言いたげな様子で言葉を続ける。

「あなた達がシステムを通じて精神を同調させているのはこちらも承知しています。この訓練はお互いが何をできて何ができないかを知るための訓練です。お互いが何をできるのかを知らなければ、いくら同調しても戦略を組むことは出来ません」

「あ〜、そういうことか〜」

 察しのいい園子が言葉の意図を理解する。思えば全開の戦いにおいて銀は先行して歩調が合わず、敵のカウンターに見事に嵌り、一人で十分なものを二人で綱を引き、戦略も行き当たりばったり。少なくとも全員で生きて帰るという基本理念からは外れた闘いであると言うしかない。

 それ故の連携強化の訓練であった。

 互いが互いの出来る範囲を知り、それでいて最大限に互いの力を引き出す。1+1+1を3にするのではなく、最大限に引き出して十にも百にもすることこそが自分達を生き残らせるのに必要なものなのだ。

 そしてそれを俯瞰してみることで、その状況において最適な戦略を組む和仁の役目はその三人の勇者の数式を確固たる定理に変えることであった。

「よし! さっさと終わらせて海で泳ぐぞー!」

「三ノ輪さん! 遊び呆けてる時間はありません」

「ええー、いいじゃん先生。せっかく海にまで着たんだからさ。泳がなきゃ損だって!」

「お役目のために来ているんです。遊んでいる時間があるのなら……」

「まあまあ、先生。訓練が早く終わったのなら必要以上に疲れることもないと思います。……それにホラ、アレ」

 手の平を見せながら和仁が二人をなだめる。そしてここからでも見える旅館に一室を指し示して笑う。指先が指し示す先にはたためられ、萎んでしまった虹色のパラソルが窓から顔を覗かせていた。安芸の持ち物である。

 ギクリと安芸が肩を震えわせ、顔をすこし紅潮させてから目をそらす。付き合いの長い和仁は言葉がなくても察していた。安芸も少し海を楽しみにしていて、しかしお目付役であることが邪魔をして自分から四人を甘やかす様なことが言えないことを。

 付き合いが長いが故に察せられてしまうことに安芸はため息を漏らす。

「付き合いが長いと先読みされて先生は威厳を保つのが難しいです。和仁君みたいな察しの良すぎる生徒は先生、キライです」

「僕は安芸先生のことダイスキですよ?」

 屈託なく笑って和仁は答える。何を言ってもダメそうだと諦めた安芸がもう一度、今度はより深くため息を漏らして三人に向き直る。

「……という訳で三ノ輪さん。訓練が早く終わったのなら、その余りの時間は自由時間ということにします。ハァ……」

「やったー! これで須美の水着が見放題だ!」

「目的はそれなの?」

「何言ってるのさ、その立派な桃を見ずに海からノコノコと帰るわけにはいかないっしょ。グヘヘへ……」

 許可が降りたことで銀が諸手を挙げて喜び、言わなくていいだろうに心の声をダダ漏れにする。泳ぎたいのだと思っていた須美は銀のエロ親父染みた行動原理に思わず胸を隠す様に身構える。

「……まぁ、訓練が予定よりも早く終わればですが」

 デモンストレーションの様に設置された機械が一斉に動き出す。集中豪雨の様にバレーボールが砂浜に殺到し、なだらかだった一面の砂が月の表面の様にクレーターだらけになった。

 その惨状を見て喜んでいた銀の様子が尻すぼみに元気を失い。最後は呆然とした様子で穴だらけになった砂浜を見て顔を青くしていた。

 油の切れたブリキのおもちゃの様に首を回しながら銀は和仁に不安そうな顔を見せた。

「兄さん、アタシ生き残ったら須美の胸を心ゆくまで揉むんだ……」

「その時は僕を倒してからにしてね? 僕は横から応援してるよ」

 苦笑しながら和仁は余裕そうにしている。連携強化の訓練であるために自分は特に何もやらされないのだろうなという思いが気楽さを作り出す。

 その余裕そうな和仁に安芸はピシャリと言い放つ。

「何を言っているのですか、和仁くん? あなたもこの訓練に参加するんですよ?」

「……え、はい?」

 実ににこやかな笑みを浮かべて安芸は言う。先ほどのパラソルの一件の意趣返しが含まれているのは明らかだった。

 宮司システムは通常であれば研究所内にある物か樹海内にある二つしかない。研究所にありアレがどこかに移されるとは聞いていない和仁にとってこの場で自分ができることがあるとは思えなかった。

 少し考えを巡らせ、記憶を掘り返していく。そして心当たりがあった。

 ポケットに手を入れ、安芸は何かを拳に握って和仁に差し出す。

 差し出された和仁は観念した様子で何かを受け取る様に手の平を出し、安芸はその上に何かを落とした。

 和仁の手の平に乗っていたのは一対の指輪であった。金色の飾り気のない指環が陽の光を反射して輝く。

 手の平を覗き込んだ園子が不思議そうに聞く。

「ワニー先輩、それなに〜? 指輪だよね?」

「これかい? これは簡易版宮司システムだよ。もしも戦闘時にシステムに故障なんかが起きた時に最低限、通信と鎮花の儀だけでも出来るように作ってもらったんだ」

「でもどうして指輪型なの?」

「さあ? 特にデザインは発注した覚えはないから開発部任せだよ」

 クルリと二人の視線は安芸を見る。何故と視線で質問された安芸は肩をすくめて苦笑する。

「開発部曰く、お役目が終わった後には結婚指輪に再利用してもらおうとのことです。資材もタダではないので、他の使い道もあった方がただ作るよりも良いというのと、開発部から和仁くんへの贈り物を兼ねているそうです」

「だからって結婚指輪は贈り物としてどうなんでしょう?」

「その形状は指の神経とシステムを接続するのに最適なのだそうです。一応形から決まった様ですね、一応」

 安芸は平静を保ちつつ、内心で小学生への贈り物になるシステムのデザインに結婚指輪を選んだ開発部の男性陣のセンスに頭を痛くする。

 どこに小学生に結婚指輪を送るバカがいるのだろうか。割と身近に居たことに安芸は頭が痛くなり、そんなだから婚期だの出会いがなどと嘆くのだと内心毒づく。

 ため息を一つ漏らして気を取り直す。

「……という訳で和仁くんは訓練中はそれを用いて三人を支援してください。あくまでも目的は連携強化。通信だけでもあなたの役割はこなせるはずです」

「……はーい」

 建物の外を見輝りつける日差しに和仁は憂鬱そうに声が萎ませる。神樹による加護により、変身した勇者たちは暑さに対して耐性があるが生身の和仁にはそれがない。

 これから自分に降りかかってくる日差しを思うと気が重い。

 若干、気落ちしながら渡された指環を装着する。金色の指環はちょうど中指にぴたりとはまり、不思議と指との一体感を覚える。

 通常の宮司システムで行う神経への直接接続の針の時のように痛みはなく、指環の表面にも触覚がある様な気がする。

 試しに触れて見ると金属の様に冷たくなった皮膚に触れた様な感触を覚える。文字通り、身の一部になっているようだ。

 何時ものシステムより痛くない分、これはいいなと和仁は思った。必要なこととはいえ、できれば痛いのは避けたい。少しづつだが自分を大切にしようとする思いが確かに芽生え始めていた。

 三人は勇者の装束に変身し、和仁も簡易型宮司システムを起動する。感覚が広がっていくこともなく。結界や観測などの機能は一切ないが通信の機能だけは使えた。

 準備運動を終えてから訓練が始まった。

「いっくぜー! さっさと終わらせて海と須美の水着だぁ!」

 さっさと終わらせて海に入りたいという願望をむき出しにした銀が速攻を仕掛けて1秒でも早く終わらせようと突っ走る。

 そして一人で十歩先へ前に出て、そこで終わった。

 適当のように見えて隙を潰していくように迫るボールに翻弄され、最初は一つ一つ対応していた銀も次の瞬間には襲来するボールの対処が間に合わず当たり、吹き飛ばされる。

「あぁ、銀。そんなに前に出たら……。ってキャ!」

「槍で防いでも間に合わないんよ〜!」

 たった二人では三人用に組まれたボール群に対処は間に合わず、須美と園子も吹き飛ばされる。精神同調がないために特に痛みの共有もしていないためにいつになく気の抜けていた和仁も呆然とそれを見ている最中に流れ弾に当たっていた。

 この様な流れを何度も繰り返し、気づけば時間はあっという間に流れていた。

 そして時間は冒頭へと戻り、たんと流した汗を海水に浸かることで洗い流した和仁は立ち上がる。

 立って状況を俯瞰して観察している和仁と違い、歩きにくい砂浜を駆けて訓練を続ける三人は疲労困憊の様子で砂に突っ伏して動かない。

 いち早く復帰した銀が力なく首を持ち上げて爽やかな潮騒の音を奏でる砂浜を睨みつける。

「クッソー……。こんなに近いのにすっごい遠い……、ガクリ」

「アハハ……、お星様が見えるんよ〜……。ガクリ」

「あぁ、お国のために戦った英霊たちが見える……。ああ、待って。考えたらあっちは内陸部……ガクリ」

 それだけ言って全員、動かなくなる。

 世界を背負って戦うはずの勇者三人、潰れたカエルの様な声を出し、痙攣しながらも立ち上がろうとするが披露の溜まった身体がそれを拒否する。

 疲れてもう動けない三人を見て安芸は潮時だと判断する。

「今日はここまでとします。明日の訓練でも動けるように今日は早く寝ること。それでは解散です」

 動き続けて数時間、頂点にあった太陽が傾き始めてそ他の色が変わり始めた頃にやっと解散となった。解散を言い渡されても勇者たちは誰も動かない。それだけ疲労がたまっていた。

 動きたくても動けない。

 システムからそんな声を聞いて仕方がないなと和仁は動き出した。

 一番近くにいた須美の元へ駆け寄る。

 和仁を見つけて、倒れているところを見られて少し恥ずかしそうにしながら須美ははにかむ。

「あぁ、お兄ちゃん。すぐに動くから少し時間を……」

「もう、こういう時は後方支援の僕に任せてくれればいいのに」

 そう言って和仁は須美の首の後ろと膝裏に手を差し込み、彼女を持ち上げる。

 俗に言うお姫様抱っこである。

 状況を理解して須美が顔を少し赤くする。反対に和仁はからかうように笑う。

「お、お兄ちゃん、こんなことしなくても……」

「じゃあ、自分で歩いて旅館まで戻る?」

 意地が悪そうな顔をして和仁は笑う。反射的に動かそうとした両足、両腕は自重に筋肉が負けて動こうとしない。むしろ何もしなくても痛い。

 顔を真っ赤に染めた須美が蚊の鳴くような声を出す。

「その、えっと……。はい、お願いしますお兄ちゃん……」

「任された。今日くらいはいつも後ろにいる僕を頼ってよ」

 お姫様抱っこの姿勢のまま、和仁は旅館の部屋にまで須美を運ぶ。途中、旅館の従業員とすれ違い、仲の良さそうな兄妹を見て微笑ましそうに笑われる。

「ぅう……。恥ずかしい……」

「そう? 僕は楽しいよ」

 顔をさらに赤くして茹蛸のようになった須美はいっそ殺してと言わんばかりに顔を隠す。

 部屋にたどり行き、丸くなった須美を布団におろしてきた道を引き返す。

 戻ってくると早く来てと言いたげに目を輝かせた園子が地面と一体化していた。

「和仁選手、今砲弾に手を伸ばします〜」

「それだと僕は園子ちゃんを砂浜に振り回してから投げなきゃいけないような?」

 首を傾げながら和仁は須美と同じように園子を持ち上げる。

 先ほどの疲労はどこに言ったのか。園子は右腕だけを元気よく突き上げる。

「夢の国までひとっ飛びだぜ〜!」

「行くのは旅館の部屋だけどね、お布団はひいてあるからすぐに寝られるよ?」

「至れり尽くせり〜。ワニー先輩、愛してる〜」

「はいはい、園子ちゃん。女の子が安売りするものじゃないよ」

「あ〜ん、もう。そんなとこも好き〜」

 気持ち元気よく走りながら園子を布団の上の転がし、再度戻って来た和仁。

 砂浜に残っているのは銀一人であった。多少の時間が経ち、少し楽になったのか銀は武器を杖に子鹿のように震える両足で体を支えてなんとか立ち上がろうとする。

 やってきた和仁を見て照れ臭そうに笑う。

「あぁ、いいよアタシは。なんか照れくさいし、重いだろうし、兄さんアタシは放っておいて須美と園子の面倒を見てなよ」

「……そうかい? 銀ちゃんがそう言うならそうするけど……」

 和仁の手助けを銀はやんわりと断る。自分のようにガサツな奴にあのような運び方は似合わないと苦笑する。

 和仁は心配そうにしながらも戻ろうとしたところで旅館の窓から声がかかる。

 体をぐったりさせ、洗濯物のように上半身を窓から出した園子が野次を飛ばす。

「へいへい、ワニー先輩! ミノさんは照れてるだけだから、ここは男を見せる所だぜ〜! グヘッ……」

 言い終えて園子はぐったりと窓枠にへばりついて動かなくなる。

 干された布団のようになった園子を目を点にして見ていた二人は我に帰り、互いの視線を合わせる。

 顔が火照る。恥ずかしそうに視線を逸らしてかゆくも無いのに頭をかいて自分の中の羞恥心を誤魔化そうと試みる。

 しかし、そんなことをしても状況が変わるはずもなく、互いの間を通る沈黙が潮騒の音で掻き消される。

 沈黙を破ったのは和仁からだった。

「……ええっと、その、運ぶよ?」

「え……? あ! あぁ! 頼むよ兄さん……」

 そっと、世界でたった一つしかないような宝石に触れるよりも慎重に和仁は銀の膝裏に左腕を通し、右腕で肩甲骨を支えて立ち上がる。

 無意識のうちに自分が和仁の首に両腕を回していることに気がついた銀は目を見開いて顔をうつむかせ、今更離す方が変だと思い体重を預ける。

 沈黙したまま、二人は部屋までの道を歩いて行く。

 無言の歩みの中、ちっとも静かではなかった。

 胸の鼓動がうるさい。

 不思議と心地のいい音を互いに聞きながら一歩ずつ進む。

 あっという間に時間は進み、部屋にたどり着く。

 静かに銀を敷かれた布団に下ろし部屋を後にする。

 和仁は顔が赤いまま無理矢理はにかんだ。

「え、えっと。それじゃあみんなまた明日」

「お、おう。また明日な……」

 そっと障子をとしてトタトタと早歩きで去って行く。

 銀は呆然とした様子で誰もいなくなった障子の向こうをただジッと見ていた。

「ミノさんも女の子なんだからこういう時くらい女の子になっていいんよ〜。ポイント高いんよ〜」

「うぉ! 園子いつの間にいたんだよ!」

 いつの間にか復活して横にいた園子がささやく。肩を飛び上がらせて銀がその場で小さく跳ねた。

 顔を紅潮させたままの銀を園子は面白いものを見つけたかのようにニヤニヤと口角をあげてにじり寄る。

「へへへっ、お姫様抱っこは如何でした奥さん〜?」

「え、あぁ……。兄さんああ見えて意外としっかりした体してんだな……。筋肉とかすごかった。……ってなに言わせてんだ!」

 心の声をダダ漏れにした銀が怒り、園子をとっちめようとするが互いに筋肉痛を起こしその場で仲良く悶えながら転がる。

「むぅ……」

 頰を膨らませた須美が面白くなさそうに銀を見ていた。

 人気のない廊下を進み、自分の部屋に向かっていた和仁は急いだ様子で部屋にたどり着き、転がり込むように部屋に転がり込んで勢いよく扉を閉める。

 部屋に入ると和仁は糸の切れた人形のようにへたり込む。

 うつ伏せになって木目の天井を見上げる。その視界に築き上げた両手が見える。

 いつも通りの両手。ただ、今は初めて感じる温もりが宿っていた。

 まだ微かに残るそれを確かめるように何度か手を開いては閉じる。

「銀ちゃんすごく柔らかかった……。って、僕は何を言ってるんだ。須美や園子ちゃんも一緒だろうに……」

 顔に手のひらを重ねて何かを誤魔化すようにその場で転がってみる。

 しかし、そうしてみても宿った熱はかき消せない。むしろ意識した分、よりはっきりとした熱量になる。

 今まで感じたことのない熱に和仁は困惑する。

「一体どうしちゃったんだよ僕……」

 




初恋の時の止められない勢い覚えてますか?
作者は日記に残していたので今でもたまに読み返しますがすごいですね。ブレーキの壊れたドラッグマシーンみたいです。
勢いで文量が増えたので前後編になります。
それではまた次回。


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ひかり

 夕方、銀に別れを告げて部屋に戻った和仁は胸に宿った熱にうなされて続けて気がつけば朝になっていた。

 事前に設置した目覚まし時計が控えめな音量で起床を促している。

 ぼんやりとした窓から差し込んだ明かりが朝日に変わっていく様子を今日、和仁は初めて見た。

 しかしそんな雄大な自然の一端に感動している余裕などなく、寝ぼけ眼をこすって起き上がる。

 運動着に着替え、日差しがまぶしい外に出る。

 木陰に隠れ、しばらくしていると他の三人と安芸がやってくる。

 全員が揃ったところで合宿の二日目が始まった。

 午後から始まった初日とは違い、二日目の午前は個人訓練から行われた。

 勇者たちはそれぞれに課された課題をこなしていった。一方、一人では出来ることもない宮司である和仁は木陰に座りながら記録を取っている安芸の隣で一緒に彼女らを見ていた。

 記録を取る手を止めずに安芸が口を開いた。

「和仁くんから見て彼女たちはどう映りますか?」

「……そうですね、三人とも優しい人たちです。彼女たちが神樹様に選ばれた勇者で良かったと思ってます」

 書き物をしていた手が止まる。予想だにしていなかった答えを受け取った安芸は思わず和仁を凝視して、それから嬉しそうに口角を上げる。

「一応、勇者としての彼女らの能力について聞いたつもりだったのですが……」

 クスクスと安芸に笑われ、そこでやっと和仁は自分の失言に気がつく。何も気負わずにいった自分の発言を笑われたことに顔を赤くする。

「むぅ……、そういうのは大人げないって言うんだと思います」

「ふふっ、そうですね。先生としたことが生徒の成長が嬉しくて思わずからかってしまいました」

「そういうの、好きじゃないです。いつまでも子ども扱いして……」

「先生は今の和仁くんの方が好きですよ?」

 昨日の意趣返しもそこには含まれていた。同じことをやり返されてしまっては、何も言い返せない。むむぅ、と小さく唸りながら安芸を見る。

「もう昔の僕じゃないんです。……もう、あれから七年経ったんですね」

「そうでしたね。すっかり背も大きくなりましたね、…ほらこんなにも」

 そう言いながら安芸は和仁の頭をそっと優しく撫でる。初めて会った時は膝を折って目線を合わせていた背の高さが、今となっては少し目線を下げるだけの差になってしまった。

 座ってしまうとかつてあった背の違いは拳一つ分ほどしかない。

 近くなった目線の高さが和仁にこそばゆい感じを覚えさせる。

 七年が経った。七年しか経ってないとも言える。自分では何が変わって、何が変わってないのかがよく分からない。でもあの頃と同じだとは思えなかった。

 妹が出来て、友達ができて。それなのに何も変わっていないのだとしたら少し寂しい。

 だから一番近くで見ていてくれた人に問いかける。

「先生。僕は変わったのでしょうか?」

「はい、初めて会ったあの日よりもずっと優しい表情をするようになったと思います。そして、きっとこれからはもっと良くなっていくはずです」

「……そっか、そうですよね。先生がそう言ってくれるのなら、きっとそうなんだと思います」

 嬉しそうに和仁ははにかむ。

 誰かのために在らねばならないと思った。その為なら自分はどうなっても仕方ないのだと、そう思っていた。それがあの日、神稚児として生きようと決意した日の和仁の在り方であった。自分の幸福よりも不特定多数の幸福を第一に据える在り方は和仁の心を壊した。

 だから正直に言ってしまえば、周囲から見てそれまでの和仁の笑顔は不気味なものであった。子供らしくも、人らしくですらない枯れて茎の折れた花のような笑み。

 そして安芸との出会い、須美との出会い、銀との出会い、園子との出会い、そうした一つ一つの出逢いが少しずつ和仁を変えていった。

 不器用ながらも確かに目に見える守りたい人、自分を肯定する誰かを得て和仁は少しずつ人になっていく。

 色のない花に色が与えられるように少しずつその笑みは美しいものへと変わろうとしている。

 そんな変化をなんとなく理解してそっと胸をなでおろす。

 それ以降会話らしい会話もなく、二人は勇者たちの記録を続ける。

 時間が進み、午後に入ると昨日と同じように連携強化の訓練が始まった。

 元気よく三人の勇者は砂浜を駆ける。

 そして吹き飛ぶ。連携とは昨日今日で生まれるものではない。それでも必死に三人は互いの力を頼って戦う。

 しかし惜しいところで連携の甘さが露呈して失敗に終わる。

 失敗にいじけず三人はまた立ち上がる。少なくとも疲労と負傷で動けなくなった昨日とは違い、三人ともまだ戦えるという様子でもう一度挑戦しようと構える。

 それを見て安芸は確信するようにうなづく。

「それでは今日はここまでとします。各自夕食を食べ終えたら就寝するように」

「えー、そりゃあないよ先生。まだまだこれからってところじゃん!」

「三ノ輪さん、はやる気持ちを抑えてください。やめ時を把握することも修行においては重要です。過度な運動は身体を壊すだけ、休息をとることも重要な訓練の一部です」

「そういうことならしょうがないけどさ……。この溢れるやる気はどうしたらいいんだよ……」

 しぶしぶという様子で銀は引き下がるがその表情は不満そうだった。

「まあまあ、ミノさん。休めるときには休もうよ〜。むぎ茶おいしいよ〜」

「銀ちゃんもこの冷奴食べる? 冷んやりとしてて美味しいよ?」

 いつの間にやら休憩モードに入っていた園子と和仁は旅館の縁側で用意されていたものをパクパクと食べ始めていた。出遅れた須美も渡されたぼた餅を食べ始めて縁側でまどろむ。

 くつろぎ始めた三人を見て毒気を抜かれた銀は彼女を待つ三人のところに駆け寄り同じように縁側に腰をかける。

「はい、ミノさん。半分あげる〜」

「おっ! こんなのもあるのか」

 園子は半分に割れるアイスの片割れを銀に差し出す。冷え冷えとした氷菓が運動して熱くなった口の中を落ち着かせていく。

 冷たいアイスを堪能していた銀はふと和仁が悲しそうに遠くを眺めていることに気がつく。

 どうしたのだろうと不思議に思い、和仁が眺める先に視線を向けても川があるばかりで何も見つけられない。気になって声をかけようとしたところで園子の声に中断される。

「なぁ、兄さん何見て……」

「わたし、汗かいてベタベタするからお風呂入ってくる〜」

「あぁ、そのっち待って、私も行くわ!」

 トタトタとマイペースな園子とそれを心配した須美が部屋を後にする。友達二人に置いていかれた銀も慌てて立ち上がる。

「あれ? 銀ちゃん二人を追いかけなくていいの? 置いてかれてるよ?」

「え? あ、あぁ、うん。また後で聞くよ。先お風呂行ってくる!」

 なんだか区切りの悪くなった銀は慌てて二人を追いかける。一人残された和仁は銀の様子に不思議そうに首をかしげた。

 そして視線を戻しまた何もない川辺を静かに見つめていた。

 時間が経ち、入浴と夕食を終えた三人は部屋に布団を敷き、寝る用意を終えていた。すっかり暗くなった外を見てから園子が枕を抱き抱えながら楽しそうに笑う。

「やっぱりこういう合宿って言ったら枕を寄せてのおしゃべりなんよね〜。昨日はすっかりヘトヘトだったから出来なかったけど今日こそはやるよ〜」

「もう、そのっち。明日も訓練があるのだから夜更かしはいけないわ! 銀は銀で準備万端にならない!」

 夜更かしする気満々の園子とすっかりおしゃべりの体制に入った銀に呆れた須美は重いため息を吐く。

「二人とも訓練の時は頼りになるのに終わった途端にどうしてこうなるのかしら……。ハァー……」

 さらにため息を吐いた須美は勝手にしろと一人寝る体制に入る。それを見た銀は留めようと引き止めようとする。

「まぁまぁ、須美さんや。こういう時こそ楽しめるものは楽しまないと!」

「へへ〜、ミノさんノリノリだね〜。そうだ! こういう時は好きな人の言い合いっこが定番だね〜。よし、ミノさんからどうぞ〜!」

 須美は先ほどまで視界を遮断していた瞼を見開いて顔をあげ、そのまま銀に視線を投げる。綺麗な青い瞳がジッと銀を見る。園子も楽しそうな様子で銀の答えを待っている。

 急に指名され、題目も恥ずかしくて答えにくいものであったから銀は言葉に詰まる。

「え、なぁ、それって……」

「もちろん家族とか、好きな人がいないって言ったら勇者の資格剥奪なんよ〜」

 鼻息を荒くして目を輝かせた園子が先制を打つ。先手を打たれ、逃げ道を失った銀は動揺する。

「そ、それなら須美はどうなんだよ。アタシばっかり当てられるのも不公平だろー」

「私はお兄ちゃんが好きよ。当然でしょ?」

「かぞくは無しって言ったばっかじゃん!」

「血は繋がっていないから今回は対象内よ」

「せっこいぞ須美!」

 シレッとした顔で思わぬ回避をした須美のやり方に銀は不満を噴出する。しかし当の本人は涼しい顔をして銀の答えを待っていた。

「私もワニー先輩が好き〜。なんだか守ってあげたくなるかっこよさだよね〜」

「そのっち、それは果たしてカッコいいのかしら?」

 園子のとぼけたような答えに須美は苦笑する。本人はいたって真面目なのだからタチが悪い。

 銀は思う。下手に考えるよりここ二人に便乗して和仁が好きと答えれば下手に詮索されなくて済むと。心の中で名案だと自画自賛して銀は意気揚々と答えようとする。

「あぁ、それならアタシだって兄さんが、その、す、すす……」

「す?」

 どうしてだろうか言葉が続かない。好きという二文字がどうしても繋がって言葉にして口に出せない。

 そんな単純なことがどうして出来ないのか分からず言葉に詰まっていると、なんだか分からない熱さが胸を焦がしていく。

 胸に灯った熱さは血に乗って顔にまでやってくるとそのまま顔の熱さに変わっていく。風呂の熱などとうに冷めたはずなのにそれよりもよっぽど熱い火が頬から吹き出しているような気がした。

 銀の答えを今かと待つ二人の視線が真っ直ぐに彼女を捉える。自分を見つめる視線が答えを催促している。

「も、もお! やってられるかぁ!」

 追い詰められて銀が出した答えは逆ギレだった。

 かけていた布団を蹴り飛ばし、ドシドシと足音を立てながら銀は廊下へ消えていった。銀の消えた廊下を見ながら園子は申し訳なさそうにする。

「ちょっと急かしすぎちゃったね〜」

「……ええ、そうね。少ししたら迎えに行きましょう……」

 暗い廊下を一人銀は歩く。

「全く! 須美も園子も加減とか知らないのか! アタシは兄さんのことす、す、すす……」

 やっぱり言葉にできなくて言い淀む。立った二文字の言葉、それだけなら簡単に言える。でもそこに和仁の名前を言おうとすればどうしてか口にできなくなる。

 自分らしくない、いじらしさに苛立ちが積もっていく。

「全くアタシらしくない。こうなったら兄さんに文句の一つでもいってやる!」

 自分がこんな変な気持ちになるのは和仁の所為だ。理由や経緯など考えず、そう銀は結論づけた。

 そうと決まれば話は早い。火の玉ガールは目標を探して旅館の廊下を突き進む。しかしいくら探してもどこにもいない。部屋には誰もおらず、風呂はすでに時間外、待合なども消灯され、非常灯だけが薄く明かりになっている。

 どうして見つからないのだと思い、銀は首をかしげる。歩きまわっているうちに顔を火照らせていた熱も冷め、冷静になっていた。

「今日はもういっか……」

 探しても見つからないから諦めようと踵を返した時、視界に明かりが目に入る。見上げると窓の外で月が輝いていた。ちょうど雲の切れ間に出たのか、半分に欠けた上弦の月からくる優しい光が暗い廊下を照らす。

 とても綺麗な月だった。街中では人の作ったの明かりによって遮られてしまうあるがままの小さな星明かりも、この海辺近くの静かな旅館でならよく見える。ならば月明かりは普段と比べられないほどのものであった。不思議と心を奪う月の眩さは星と共に輝いて銀は目を逸らせなくなる。

 銀がその星空に見惚れているともう一度月が雲に隠れた。当然月の光も雲に阻まれて明るくなった廊下も元の暗さに戻る。

「ん……? なんだアレ?」

 しかしそれだけではなかった。窓の外に視線を注目させていたから気づけた。

 月明かりに隠されて薄く、小さく何かが瞬いていた。

 なんだろうと思い、顔をガラスに寄せる。ところが銀は顔を近づけると小さな瞬きはふと遠くへ離れていく。

 不思議なそれに好奇心を刺激された銀はやんちゃにもスリッパのまま窓を開けてから外へ飛び出した。

 湿った土の柔らかい音が足元で小さくなる。瞬く小さな明かりはどんどん遠くへ行く。

「待てよ! なあって!」

 呼びかけても明かりは離れていく。もう小さくなっていく光を追いかけて銀は旅館近くの林の中へ進む。

 木の間を通り抜け、茂みを越えて川辺にたどり着く。

 たどり着いて、銀は何も言えなくなって目を見開く。

 綺麗だった。先ほど見た小さな瞬く明かりがいくつもあった。まるで星空をずっと眺めている分かる天体の動きを模したように幾つもある瞬きが流動していく。

 瞬きの奔流に銀は圧倒されて言葉を失う。

 そんな銀を我に返したのは耳に入った音だった。いくつもある瞬きに見惚れていて気づくのが遅くなった。確かに聞こえるそれは目に見える川の向こう岸の少し遠くから聞こえてくる。

 なんだろうと思って音の方へ歩く。小さな明かりたちもそちらに向かって流れているようだった。先導する明かりについていくと少し歩いて音の正体を理解する。

 歌だ。誰かが歌っている。

 明かりが一瞬消えて、そして一斉に灯る。優しい光が物言わぬ林を照らし出して互いを浮かび上がらせる。

 細い川を挟んで二人は立っていた。

 一人は銀。そしてもう一人は和仁。

 思わぬところにいた探し他人の登場に銀は驚いて言葉が出ない。

 対岸の和仁は目を閉じたまま、静かに歌を歌い、時折小さく体を動かす。それは本来であれば神に捧げるべき神楽舞の奉納であった。略式であるものの、確かに積み重ねられた時間を思わせるそれは周囲の瞬きに見守られながら厳かに執り行われていく。

 聞いていて、寂しいような、悲しいような歌だと銀は思った。

 瞬く小さな明かりは和仁を囲うように集まっては離れてを繰り返す。幻想的なその光景に銀はただ黙って目に焼き付けていた。

 しばらくして歌が終わり、和仁がそっと目を開いて、視界に入る銀に驚いた表情をする。

「あれ? 銀ちゃんどうしてここに? もう夜も遅いよ?」

「それは兄さんもだろ? 兄さんこそどうしてこんなところにいるのさ」

「うん……、この子たちがたくさんいたから鎮めようと思って……」

「この子たち? 何のこと?」

 いまいち要領を得ない銀が分からなさそうにしているのを見て、和仁は小さく笑う。そっと手を空中に伸ばして明かりの一つに重ねる。

 割れ物を扱うかのようにそっと拳を握るを和仁は河岸を飛んだ。

 小さく湿った土の音と水音がなる。

 クスリと笑って和仁は握った手を差し出してからパッと銀が見えるように開いた。

 そこから銀が先ほどから何度も見た小さな瞬きが空へ向かって飛んでいく。

 ここで銀は明かりの正体に気がつく。

 蛍だった。先ほどから見えていた明かりの正体は何匹もの蛍が集まった光だったのだ。

 でもまだ分からないこともある。

「これがホタルなのは分かったけどさ、でもどうして兄さんはここに居たんだ? それも歌ってたし……」

 和仁は少し目を伏せて、そして元に戻って銀を見た。

「ここにいるのはゲンシボタルなんだけどね、銀ちゃんはこの蛍の名前の由来を知ってる? 」

「……え? え、えっと、分からない」

 唐突に聞かれても銀にはそれが分からなかった。

 和仁は言葉を続ける。

「昔ね、源頼政って人がいたんだ。その人は平家って人たちから酷い目に遭わされてね、復讐しようとしたんだ。でも思い虚しく復讐を果たす前に死んでしまったんだ。その時の無念の思いが形になったのが蛍の光だと言われてるんだよ」

 そう言われるとこの綺麗な光景が急に気味の悪いものに見えてくる。集まった一つ一つは弱々しい瞬きも数が集まれば視界を照らす明かりになる。まるで怒りによって生まれた煌々と燃える火の粉のようであった。

 そしてそれを鎮めようとしたと和仁は言っていた。どういうことかと銀は尋ねる。

 和仁は言葉を続ける。

「そんな由来があるからからね、蛍の光は無念や怨念の象徴になるんだ。蛍は一週間にか生きられない儚い命、そんな風に生まれてすぐに消えていくのは何だか悲しくて、だからせめて穢れを払ってあげたらと思って、こうして祝詞を歌っていたんだ」

 そういって川辺に集まった光を両手でそっとすくい上げる和仁に表情には少なくない憂いの色があった。

 しばらく言葉もなく二人は蛍の光を見る。

 気がつけば銀は質問していた。

「なぁ、兄さんはホタル好きか?」

「……どうかな。でもこうして消えていくものにはどうしても目が逸らせなくなる。きっと同じだから」

「同じ?」

「季節になればみんなから望まれて、気がつけば消えて無くなっていて、それが当たり前に思われて。……何のために彼らは瞬くのだろうね、どうせ消える命なら、初めから何も望まなければいいのに。そんな風に生まれるくらいならいっそ……」

 自分でも変に感傷的になっていると和仁は自覚していた。夜の人気のいない林の中にいるからか、それとも銀と二人だけだから。言葉が止まらない。

 すぐに朽ちてしまう蛍と自分を重ねて、大して気にしていなかった小さな種が実をつけるように膨らんでいって言葉が剥がれていく。

 言い終えるとすくった両手の中にいる蛍に視線を落として和仁は黙ってしまう。

 この蛍は何日目だろうか。もしかしたらもう朝日を見ることもないのかもしれない。

 なんて意味がないのだろう。もういいやと思って手の中にいた蛍を捨てようと思って広げようとして、出来なかった。蛍を包むように持っていた和仁の手を銀が抱きとめるように包んでいた。

 伏せていた顔を上げて、とても近くに銀がいた。優しく微笑んで銀は蛍を見ている。目線は蛍を見たまま銀は話し始める。

「アタシは好きだよ。だって命は命でしょ? そこに短いも長いもないよ」

「すぐに消えるものだとしても? そんな風に生まれたくて生まれた訳じゃなくても?」

「理科の授業でやったんだけどさ、蛍が光るのは仲間を探すためなんだってさ。そうやってお互いの明かりを目印にして集まって大きな家族を作るんだって聞いた。そしたら小さな家族ができてまた次の蛍に繋がっていくって先生は締めてた」

「次に繋がる……」

 銀は両手を上げて和仁の目線を上げる。目と目が合う。和仁と目があって銀は照れたように笑う。

「そそ、だから儚くたって意味がないなんてことは絶対にないんだ」

「でももし家族を見つけられなかったら? 独りぼっちの蛍はどうするんだい? その子の居る意味は?」

「これも授業で聞いたことだけど、蛍って自分の力だけで輝けないんだ。小さなバクテリア? が蛍を助けてるんだって。独りぼっちに見えるだけで、気づけないだけで見えない誰かが何時も側に居て、そいつが自分を輝かせてくれるんだって。なんかいいよなそういうの」

 自分とは全く違う蛍を見た銀の言葉を何度も心の中で反芻する。

 痛ましく思っていたそれが今までと違って見える気がした。少しづつ積もっていた重しが崩れはじめた。

「だからさ、どんな生まれだとしてもきっと色んな形で未来に続いていくんだ。今は何も見えなくても最後に良かったて思えればそれが一番いいんだ。それにほら、兄さんは蛍の光を怨念だとか無念に例えたけどさ、こんなに綺麗なのにそんな悲しいだけの光じゃないよ」

 届かない天の星に手を伸ばすように銀は手を広げる。

 雲の切れ間から漏れる月明かりと蛍の明かりが銀を照らし出す。

 とても綺麗だ。ただそう思う。余計なものは何もない。ただ和仁と銀が二人いるだけ。

「銀ちゃんはどういう最後だったら一番いいって思えるの?」

 一つ、答えが欲しい。自分が見つけられるいつかを照らし出してくれる道標を。

 聞かれて銀は答えに詰まる。照れくさそうに頭をかいて顔を赤くする。

「それって将来の夢とかそういうのでもいい? 変だから笑うなよ?」

「笑わないよ、銀ちゃんが良いって思えるものが変なもんか」

「……弟ができた時、初めはなんか邪魔だなって思ったんだ。親は弟にかかりきりだし、お姉ちゃんなんだから我慢しなさいとかさ、ありきたりなこと言われたんだ

 でも言葉もろくに話せない弟をはじめて抱いた時にびっくりした。暖かくて動いてるんだ。アタシの腕の中に収まるくらい小さいのに。そう思ったらさ、家族が増えるのっていいなって思えてさ、いつかアタシもそんな家族が持てたらって思ったんだ」

「家族が欲しいってこと?」

 和仁が聞き返して銀は後ろを向いて背中で顔を隠す。

「お嫁さんになりたいんだ、そしたらアタシだけの家族ってヤツを持てるかなって。……変だろ? ガサツなアタシが何言ってるんだって思ったでしょ?」

「そんなこと思わないよ。お嫁さん、とても素敵だと思う。きっと銀ちゃんならいいお嫁さんになると思う」

 ただ思った賞賛を口にする。照れた銀が振り返る。顔をリンゴのように真っ赤にして動揺していた。

「こ、こっ恥ずかしい事言うなよな! アタシにこんなこと言わせたんだ、兄さんも将来の夢を白状しなよ! ほら、早く!」

「そ、そんなこと言ったって急には出てこないよ」

「ええい! アタシにここまで言わせたんだ。夢の一つや二つ、ここででっち上げないと帰さないぞ!」

 銀は大地を蹴って飛んだ。広げた両手で和仁を捕まえて話さない。急に飛びつかれ、バランスを崩す。銀が和仁を押し倒すようにして柔らかい川辺の土に倒れこむ。

 気がつけば目と鼻の先に互いの顔があった。小さな吐息が顔に触れる。

 それが心臓の音を急かせる。すぐ近くに顔があることが落ち着かず和仁は目を逸らす。

 逸らした先で二人を見下ろす蛍たちが見える。ジッとそれを見て、自分が祝詞を歌うためにここに来たことを思い出す。祝詞を使おうと思ったのは自分の意思だった。

「歌……」

「え?」

 自然を言葉が漏れていた。この状況から逃れたくて言葉を続ける。

「歌を歌いたい……」

「歌手ってこと? ……いいじゃん! ギターとか持ってさ、ロックとかカッコいい!」

 和仁がひとまず答えを出したことに満足したのか銀が和仁の上から退き、和仁は服についた土を払いながら立ち上がる。

 満足そうにした銀が小さく跳ねる。困ったように和仁は呟く。

「そんなにカッコいいものかなぁ……? でも他に将来の夢って言われても答えが出ない……」

「なら決まりだな! 兄さんの将来の夢はギターソングライターってヤツだ!」

 勝手に和仁の将来の夢が予約されていく。

 弾いたこともないよ……、という和仁の呟きを銀は聞いていない。

 しかしそうした未知はこれからが始まるきっかけを予感させた。

 夏の夜の魔力は普段抑えていたものを解放させて心を浮き上がらせる。遠慮のない、ありのままの無邪気な強引さで銀は和仁の手を引いていく。

 そんな強引さがどこか心地良い。こうして引っ張ってくれる銀を和仁は好ましく思う。

 場に酔ったのか空に向かって楽しそうに笑い声を打ち上げる銀から視線を逸らして空を見上げる。半分だけの月が煌々と空に浮かんでいた。

 そんな月に見惚れながらいつか聞いたような言葉を和仁はポツリと呟く。

「月が綺麗だね。こんな夜なら死んでもいいって思えるのかな?」

 それを聞いた銀は怒ったように和仁を睨みつけた。

「死んでもいいなんて、そんなバカなことを言う口はコイツかー!」

 笑いながら両手を伸ばして和仁の頬を掴んで引き伸ばす。

 痛いと言いながら笑う和仁は逃れようとするが銀が掴んで離さない。

 暴れて転がって、足を踏み外して、二人は川の中へ滑って落ちた。浅い川が大きく水音を鳴らす。川の中で横並びになった二人は自然と空を見上げる。

 沢山の星があって、月があって、蛍の光があって、美しいもので満たされていて。

 自分たちがとてもバカなことをやっていることが急に小さなことのように感じて、それでもそんなバカなことが面白くて二人は訳も分からずに笑い出す。

「月が綺麗だね」

「あぁ、すっごい綺麗だ」

 今は何もかもを忘れてただ見上げる。

 暗いものや目を背けたくなるものを吹き飛ばす軽快な二人の笑い声が星と月と蛍の光の下に響いていた。

 七月まで後一ヶ月。




夏の思い出は少し特別な気がする、そんな話でした。
今週は遠出をするので次回の更新は一週間ほど間が空くかも。
時間があれば書きますが厳しいかな。
ではまた次回。


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はなび

 七月十六日の朝、七年間使われずにそのままになっていたその部屋に和仁はいた。

 すっかり体が大きくなり使えなくなった古い子供用ベッドに背中を預ける。組んだ足の上には真新しいようで使い込まれた木製のギターが乗っている。

 すっかり慣れた動きを覚えた指先が巧みに弦を弾く。

 夏の合宿からひと月が経っていた。足元にはその時に撮った写真が散乱していた。三日目になり、やっとも思いで訓練を達成する頃にはみんなクタクタになっていた。結局海を楽しむ体力など残っておらず着替えて写真を撮るくらいが精一杯だった。

 蛍の夜を経て少し変化があった。それまでは神稚児としての奉納の訓練や宮司システムの開発に持てる時間の全てを費やしてきた和仁は自分の時間を持つようになった。

 誰かに命令されたからではなく、自発的に自分から自分のためだけに時間を使うようになっていた。

 勝手が分からず聞いてみたところ本人以上に乗り気になった赤嶺に連れられて初めて入った楽器専門店にて買入したギターを今日までほぼ毎日、時間が許す限り練習していた。

 銀にでっち上げられたような夢だったが、案外和仁はこれを気に入っていた。

 初めて触った時は琴とは違う弦の感触に戸惑いこそしたが何度も触れていくうちに思うような音を奏でるようになった。

 自分のためだけに演奏する。それが上達していくのが楽しくて気がつけば暇を見つけては弾いていた。一ヶ月もする頃には自分で作曲した曲を練習するまでに至り、今は細かいところを直したり、確認して納得のいくものを作ろうとしていた。

 七時になる頃、トタトタと階段を登る音が遠くからして、それが廊下を駆ける音に変わる。三回戸を叩く音がして音の主が和仁に声をかける。

「お兄ちゃん、朝ごはんできたから下に来て!」

「分かった、すぐ行くから少し待ってて」

 手にしていたギターをベットの上に置き、散乱していた写真を拾って片づける。拾った銀と自分の二人がうつる写真を見て少し頰を緩める。

 カードの束のように写真をまとめてから部屋を後にする。

 廊下で待っていた須美の後ろについていった階段を降りる。

 食卓に到着すると先に二人が待っていた。和仁の父と母。

 そう、和仁は生家である鷲尾の屋敷に戻って来ていた。台所から使用人に手伝ってもらいながら食器を須美が運んでくる。

 思うところがあったのか並べられた料理を見て和仁の父が言う。

「たまには肉のない料理もいいものだな」

 並べられた料理への素直な感想だった。食卓に並べられていたのは一般的に言う精進料理、和仁が食べられる料理ばかりであった。

「さぁ、召し上がってください。頑張って作ったんです」

 楽しそうに須美が笑う。

「……うん、すごく美味しい」

「お肉のない料理なんて、って思ってたけれど家族一緒だと関係なく美味しいわね」

 ゆっくり味わいながら味の感想を言う和仁と肉が好みだけれども家族一緒の食事の前にはそんなことは子細であると言う和仁の母。

 会話こそ少ないものの、七年越しに叶った楽しい家族一緒の朝食だった。

 心地の良い沈黙の中で食事が終わる。食事を終えて出かける用意を済ませ、色々なものが入った肩掛けカバンを持った須美とギターケースを背負った和仁が玄関に立つ。

 少しこそばゆそうにしながら和仁が笑う。

「それじゃあ行ってきます」

「出かけてきますお父様、お母様!」

 出かける二人を両親が見送る。母は嬉しそうに手を小さく上品に振っていた。

「あぁ、いってらっしゃい。お祭り楽しんでこい」

「気をつけていってくるのよ?」

 なんでもないありふれた家族のやり取り。そんな当たり前が出来ることが何よりも嬉しい。ありふれたやり取りを噛み締めながら和仁は家に背を向けて出かけた。

 門を出ると彼らを待っていたように一台の乗用車が歩道に寄せて止まっていた。

 二人が近づくと後ろの窓が開く。中からサングラスにつばの広い帽子を被った園子が現れた。

「へいへい、お二人さ〜ん。待たせてくれちゃったね〜」

「うん、お待たせ園子ちゃん。待たせちゃった?」

「へへへ、そんなことないんよ〜。きっとゆっくり出てくると思ったから少し遅れてくたからピッタリ〜」

「そっか……、ありがとう」

 七年ぶりの。須美を交えれば初めての一家団欒、園子に気を使わせてしまったと和仁は感謝する。

 気にしないでと園子は言って車の中へ手招きする。

 言われた通りに車に乗り、二人は園子を挟むように席に着く。扉を閉めたのを確認して運転手が車を発車させる。

 発信した車は空いた日曜朝の道路を進み、しばらくして銀の家の前に到着する。

 運転手にお礼を言って三人は車から降りてその子の家に帰る車を見送る。

 代表して和仁がインターホンを鳴らす。聞き馴染みのある音がして、それに反応するように家の中から慌てたような足音がした。

 ガラガラと引き戸が音を立てながら開き、驚いた顔をした銀が現れる。

「なんだよ、もうきたのか。なんか早くない?」

「ミノさん、ミノさん。実はもうお昼過ぎてたりするんよ?」

「あれ、もうそんな時間? さっき弟に昼食べさせたばっかだからまだ余裕あると思ってたんだけどなー。まぁいいや、三人とも上がりなよ」

 お邪魔しますと言って三人は家に上がる。

 居間に通されると今寝つたばかりなのか金太郎が座布団の上にスヤスヤと寝息をたてて横になっていた。

「わ〜、ぐっすり寝てるんよ〜。可愛い〜」

「あんま触って起こすなよ、やっと大人しく寝たところなんだからさ」

 小さくなって寝ている金太郎の頬をちょんちょんとつつきながら園子はその感触を楽しむ。やっとの事で寝てくれた銀としては起きないで欲しいと深刻そうに祈りながらも二人を見て笑っていた。

「やっぱり家族っていいものだね」

「小さい頃から家族だったらあんな風に僕が須美をあやしていたのかな? きっと小さくても可愛かったんだろうね」

「も、もう! 恥ずかしいこと言わないで」

 和仁としては素直に褒めたつもりだったがあまりにも恥ずかしくて須美が怒る。互いに遠慮や躊躇いがないために、和仁は思ったがままの言葉を口にする。真っ直ぐすぎる言葉が時に受け手側を恥かしめる。

 すぅーっと長い息を吐いて気を取り直す。

「それじゃあ、お兄ちゃん。着替えてくるから少し待っていてね」

 談笑していた銀と園子を引き連れて須美は障子の向こうへ消えた。

 一人取り残された和仁は縁側に座ってジリジリと鳴る蝉を見ていた。

 ふと視線を感じて、振り向く。障子から半分だけ顔を出した鉄男がむくれた顔で和仁を睨みつけるように見ていた。

 不思議そうにした和仁が首をかしげる。

「どうしたの鉄男くん? そんな所にいないでこっちにきなよ」

 しばしの沈黙の後、腹をくくったように気合を込めて、むくれた顔のまま鉄男は和仁の横に乱暴に座る。

 どうして怒っているのかが分からず困ったとぼやく。

 鉄男は詰まらなさそうに口を尖らせる。

「兄ちゃん、今日は姉ちゃんと縁日のお祭り行くのか?」

「うん、みんなで今日はお祭りに行こうって約束してたんだ。楽しみだなぁ、誰かとお祭りに行くなんて初めてだよ」

 楽しみだと楽しそうに笑う和仁に反比例するように鉄男は面白くなさそうに難しい顔をする。

 むぅ、と小さく唸って絞り出すように鉄男は吐き出す。

「姉ちゃん最近は兄ちゃんの話ばっかしてる。ご飯の時とか、遊んでる時とか、金太郎の世話をしてる時とか、今日は兄さんがー、ってそんなのばっかだ」

「……そうなんだ」

 深くは追求しない。自分がいないところで銀が自分の話をしていたことが無性に照れくさい。どんなことを言っていたのか聞いてみたかったがわざわざ聞くもの変かなと思ったのでそっけない答えだけで留める。

 鉄男としては姉がとられたように無性に腹がたつ。八つ当たりのように言葉を続ける。

「なあ、兄ちゃんってすごいやつなんだよね。大人たちはみんなそう言ってた」

「そんな大したものじゃないよ。ただ、今出来ることを精一杯やってるだけだよ」

「でも大人たちがすごいって言う兄ちゃんなら姉ちゃんを守れる?」

「銀ちゃんを守る? 僕が守られるんじゃなくて?」

 鉄男のいうことがよく分からず和仁は首をかしげる。宮司である自分は三人を補佐することは出来ても守ることはできない。お役目の詳細を知らない鉄男だから勘違いしたのだろうかと和仁は推測してみる。

 しかし鉄男は首を振ってそれを否定する。

「姉ちゃん、お役目ってのをやってるんだけどなんかの訓練でたまに夜遅くに帰ってくるんだ。いつも手にマメ作ってるしボロボロになって帰ってくることもあるんだ。姉ちゃんは大丈夫だって言うけどやっぱり心配だし、大人に言っても立派なことだから見守ってろっていうんだ」

 ようやく和仁は鉄男の言い分に合点がいく。お役目の内容それ自体よりも姉が何か重大なことを任されていて、それで無事に帰ってきてくれるのかが分からなくて心配しているのだった。

 家族を大切にする鉄男の姿勢に和仁は嬉しそうに笑う。

「そっか、鉄男くんはお姉ちゃんが心配なんだ。仲がいい兄弟なんだね、そういうのいいなって思う」

「茶化すなよー。……それで兄ちゃんは姉ちゃんを守ってくれるのか?」

「……うん、約束する。必ず君のお姉ちゃんを無事に連れて帰るよ」

「約束だかんなー。ほらっ!」

 鉄男が右手の小指を差し出す。意味が分からず和仁は一度よく見て、流れを考えて理解する。

 笑って小指を同じように差し出して鉄男の小指を絡ませる。

 小指を結んだまま繋いだ手を約束を確かめるように振る。指切りの約束だった。

 頃合いと見た鉄男が自分の手を引っ手繰るように結び目から離れる。

「約束したからな! 姉ちゃんのこと頼んだぞ、男と男の約束だからな!」

 そう言い切ると鉄男は恥ずかしくなってその気持ちを誤魔化すように大きな足音を立てながら外へ飛び出していった。

 鉄男を見送ってまた静かになった縁側で和仁は変わらずに座り夏の蒸し暑さにさらされる。

 横に置いたガラスのコップの中の氷は溶けて涼やかな音が鳴って、同時に閉ざされたふすまが開かれた。

「お待たせ、お兄ちゃん」

「待たせたんよ〜」

「だぁ、もう。須美の園子も引っ張るなよ」

 銀の手を引きながら須美と園子が部屋に入ってくる。恥ずかしそうにしている銀は体を小さくして隠そうと必死そうにしていたが両隣がそれを許さず両腕を引いて和仁にそれを見せる。

 三人とも色鮮やかな浴衣に着替えていた。

「三人ともとっても綺麗だよ」

 思ったままの感想を述べる。素直な感想だった。三人とも自分のイメージカラーに合った色の浴衣を着ている。

 特に普段は動きやすい男の子のような格好をしていることが多い銀がしおらしい様子で浴衣に袖を通していて、そのギャップに和仁は目を奪われる。

「な、なんだよ。そんなに変かよ?」

 じっと見られて恥ずかしそうに銀が問う。

「ミノさん浴衣が可愛く似合ってんよ〜」

「ええ! これはもう銀じゃなくて金と呼ぶべき可愛さだわ! もっと写真を撮りましょう!」

 恥ずかしそうにしている銀が面白かったのか園子がからかい、須美は忙しない様子で持ってきたカメラのシャッターを何度も切る。

「もう! 二人ともからかうなよー。兄さんからもなんか言ってやってよー」

「どうして? 凄く似合ってるよ。銀ちゃん可愛いんだから普段からもっと可愛い格好をしてもいいと思うよ。……ウエディングドレスとかもきっと似合うよ」

「今その話をするなよー!」

「えー、なになに〜! ミノさんお嫁さんになりたいの?」

「ぐぬぬ……、兄さんが裏切った……。こうなったら公園まで逃げるんだよー!」

 銀のウエディングドレスという話を聞きつけた園子が面白そうだと銀に詰め寄る。思わぬところからさらなる奇襲を受けた形になった銀は逃げるために祭りの会場に向かって駆け出す。

 笑いながら三人も銀を追いかけて祭りが開催される会場へ向かう。

 公園にたどり着くと並んだ屋台からの客寄せの声がいくつも聞こえてきて賑やかさを肌で感じる。

 初めてやってきた夏祭りに落ち着かない気持ちを隠せない園子は興味深そうな足取りで一つ一つの屋台を覗き込む。

 りんご飴、綿菓子、チョコバナナ、たい焼き、何かのキャラクターの仮面。これぞ夏祭りという品揃えがやってきた客を視覚で楽しませ、祭りにやってきたのだという自覚をもたらす。

 浮き足立った園子が目についた屋台の店主に話しかける。

「おじさんこれください!」

「はいよ、一本50円だ。友達の分もおまけしてやるよ。お祭り楽しんできな!」

「おじさん、ありがと〜!」

 溌剌とした店主から払った分以上の品物を受け取る。大きくなった紙袋を大事そうに抱えながら園子が戻ってくる。

 買ってきたものを自慢げに披露する。

「ジャジャーン、焼き鳥! 美味しそうだったから買っちゃった!」

「おいおい、園子。こんなにおまけしてもらっちゃっていいのか?」

 数本を買ったつもりが、少なくとも四人で分けての十分な数の焼き鳥が袋の中にはあった。

 貰いすぎでは、と銀が遠慮がちに眉をひそめる。それをしれっとした顔の須美が何でもない風に言う。

「いいじゃない銀。せっかくの好意なんだからありがたく受け取ればいいのよ。今日はお祭りよ?」

「あぁ、なんか鷲尾さん家の須美さんがどんどん図太くなっていく……」

「遠慮ばっかりしてるよりはいいんじゃないかな? せっかく友達同士でいるのに遠慮ばかりだとむしろ寂しさすらしてくるよ」

「兄さんがそれを言うのか……」

 常識人はアタシだけかと銀は演技がかかった仕草で嘆く。もちろんみんなそれを分かっていたので特に何も言わず、園子の差し出した焼き鳥を銀はケロッとした様子で食べ始めた。

 何だかんだでみんな夏の祭りを楽しんでいた。

「……あら、あれは」

 須美が何かを見つけて楽しそうな声を漏らす。並んだ三人も何だろうと頭を並べて見てみると古き良き射的の屋台だった。

 店主にお金を払い、おもちゃの銃と弾になるコルクを受け取った須美は打つ準備をして構える。

 綺麗なフォームで構えた須美は照準を息を殺して覗き込む。深妙なその様子に見ていただけの固唾を飲んで見守る。

 夏の暑さで生まれた汗が一雫、和仁の額を伝っていく。緊張感に包まれてそんな汗が流れることも気にならない。

「…………っ!」

 伝っていく汗が行き場を失って落ちていくのとおもちゃの銃が小気味いい破裂音を鳴らしたのはほとんど同時だった。

 放たれたコルク栓は緩やかな曲線を描いて並べられた棚の上の置かれた青い猫のキーチェーンに吸い込まれた。軽いキーチェーンは容易く棚の上から弾き飛ばされて後ろに落ちていった。

 射的の屋台の店主が落ちた猫を軽く拭ってから須美に手渡す。

「すっげー! 須美まるで漫画に出てくるスナイパーみたいだ! 鷲尾東郷だ!」

「そこを変えたら両方とも苗字じゃない……。でも弓を使っている以上、これくらいは余裕よ」

 銀の考えた通り名にツッコミを入れながらもまんざらでもなさそうな須美が照れくさそうに頬をかく。

「ようし、次は私の番だ!」

 意気揚々と飛び出した銀が須美の余ったコルクと銃を受け取って射的に挑戦する。初めは外しながらも持ち前の運動のセンスと勘でで狙いを定め十回目にしてようやく須美と色違いの赤い猫のキーチェーンを撃ち抜くことに成功する。

「へへへ、意外と練習すればできちゃうもんだな!」

「え〜、わっしーとミノさんお揃いなのずるーい! 私もやる!」

 互いの戦利品を見せつけ合う須美と銀を見て園子が悔しそうに頬を膨らませる。残ったコルクと銃を受け取り射的に挑戦する。

「こうなったら、あの一番大きいやつをズッガーンって撃ち落としちゃうんだから!」

 悔しそうな様子の園子が指差したのは額から特賞の札を吊り下げた招き猫だった。いわゆる絶対に落ちない見世物用の景品であることを察した和仁と銀はやめるように園子を説得しようと試みるが意固地になった園子は聞く耳持たない。

 小気味いい破裂音が鳴った。一回、二回と積み重なり、和仁は3桁に到達する頃には数えるのをやめてすれ違う通行人を眺めてあの浴衣は綺麗だな、こっちも綺麗だなと黄昏ていた。

 持ってきた小銭入れを空にしてついに最後の一発となったコルクを銃に力の限りねじ込んだ園子が肩で息をしながら涙目になってボヤく。

「うぅ……、持ってきたおこずかい全部使っちゃった……。どうして落ちてくれないの〜」

「……もう、しょうがないなぁ」

 やめ時を見失った自業自得なのは明らかだったが軽く笑って和仁は園子の横に立つ。

 意気消沈してすっかり屁っ放り腰になった園子の姿勢を正して銃を構えた園子の姿勢を矯正するように手に手を重ねる。手を通して伝わってくる和仁の体温に園子はまるで最近読んだ少女漫画のヒロインのようだと思い意識してしまう。

「正面じゃなくて……、少し斜め下、バランスの悪そうなところを狙って……、っ今!」

 撃つ直前、カチリと何かが噛み合ったような感覚を園子は覚えた。確かに覚えがある。三ヶ月前のお役目、そして度重なる訓練そのいずれの時にも感じた感覚。

 ゆっくりとなった視界の中で気づかなかったものに気がつく。自分の左手に重なった和仁の左手、その薬指が金属に輝く。そうあれは金の指輪。簡易型宮司システムを使うための指輪がうつの間にか和仁の指にはめられていた。

 小さく光った金の指輪を見て和仁が何をしたのかを察した須美と銀は呆れて苦笑していた。

 拡大化された五感を通して狙うべき場所が手に取るように分かる。科学によって裏付けされた感覚のもたらす超能力じみた推測の通りの軌跡を描いてコルクは飛んでいく。

 狙い澄まして、当たって、招き猫は急所を突かれたかのように大きくぐらつくとそのまま自重を支えきれずに棚からはみ出て落下した。

 落ちる訳がないと高をくくっていた店主はあんぐりと口を開けて信じられないものを見るようにして転がる招き猫を見つめている。

「やった〜! 落ちたんよ〜! それじゃあ、おじさん。特賞くっださいな〜」

「え、ええっとまさか落ちるだなんて思ってなかったから、用意してな……」

 何かを受け取るために両手を差し出した園子を見て我に帰った店主が何やら言い訳をはじめる。それを見て和仁はポツリと呟く。

「……景品法違反」

「落ちないはずってどういうことです?」

 見つめる先にはお祭りの実行委員会のテント。胡乱げな視線を店主に送る須美。二人を見て腹を抱えて声を出さないように笑う銀。脂汗をかきはじめる店主。

 ニコニコと笑う園子が戸棚から二つ取る。両手に一つずつ持っているのは須美と銀が持っている猫のキーチェーンのものと色違いの紫の猫と空色の猫のストラップだった。

「お、おう! 持って行きな! だから招き猫のことはどうか内密に……」

 満面の笑みを浮かべて四人は立ち去る。招き猫は射的の棚からは消えていた。

 屋台を満喫した四人は公園から少し離れた小高い丘に来ていた。人気のない長いベンチに四人で座る。

 隣に座った園子から猫のストラップの片割れが突きつけられる。園子がパッとそれを離して和仁は受け止めるように手で捕まえて受け取る。

「はい、ワニー先輩にもこれあげる! これでみんなお揃いだね!」

「しっかしシステムをあんな風に使って良かったのか?」

「まぁ、相手もズルしてたからね。イカサマにはイカサマで勝負するだけさ」

 苦笑いする銀に和仁はイタズラが成功した小僧のようにほくそ笑んでいた。

 釣られて三人も笑う。一つづつ持ったお揃いのストラップを空に掲げる。

 仲良く並んだ4匹の猫の後ろでパァっと色とりどりの光が舞った。それに遅れて体の奥で振動するような深く重たい音が響く。

「わぁっ! すっごく綺麗!」

「もうっ、そのっちったら。そんなに飛んだりしたらはしたないわ!」

「そういう須美だって、飛び上がって喜んでると思うけどなぁ……」

 園子は大空を彩る花火を見て、そのあまりの美しさに飛び上がって全身で喜びを表現する。

 飛んで、跳ねて締められた着物の各所が緩み出す。それを見た須美は大事になる前に注意する。しかしそう注意する須美も女の子。打ち上げられた花火を最も見ようと同じように立ち上がって、時折楽しそうに跳ねていた。

 それを見た普段はお堅い須美の無邪気な様子に呆れながらも、しょうがない奴だなと笑って同じように花火を座ったまま見ていた。

「あんなに綺麗なのに一瞬で無くなっちゃうんだね……」

 ジッと花火を見上げていた和仁は無意識のうちに呟いていた。

 いつか見た蛍火の儚さを花火の鮮やかさと後に残る静寂さに重ね合わせる。

「でもまぶたを閉じればいつでも見えるだろ?」

「……そうだね。もう聞こえなくても、もう見えなくても、それでも感じられる思い出があることがきっと幸せって人は呼ぶんだろうね」

「そうそう、そういうもんだよ。何だ、兄さんもすっかり前向きなこと言えるようになったじゃん!」

 今までならきっと失われてしまうものを和仁は意味がないものと切り捨てていただろう。

 でも今なら、人と交わって変われた今ならそうじゃないと、そこにある何かはきっと何か意味があるのだと確かな意志を込めて言葉にできる。

 生まれ、生きて、失われる、それだけが存在の証明なのではないのだと今なら胸を張って言える。そう言えるようになった自分がとても嬉しい。

 だからきっかけとなってくれた全ての人にそれを伝えたい。

「きっとみんなの、銀ちゃんのお陰だよ。僕だけだったらきっと何も変わらなかった」

「へへへ、そう? まぁ、変わったのは兄さん自身の力でしょ。アタシは手助けしただけそんなにありがたがらないでよ」

 そんな和仁の感謝の気持ちをよそに、銀は何でもないことかのように笑って流す。

 誰かを助けるのにも常に自然体。誰かに手を伸ばすことが特別なことなどでは一切ない。きっとそんな彼女だから自分は強く惹かれるのだろう。

 そう意識すると自然と顔が熱くなる。

 きっと恥ずかしい顔をしているのだろう。見られまいと軽く俯いてしまう。

「あっ! そろそろいいんじゃないかな! きっと今がいい感じなんよ〜」

 そうしていると園子が何かを思いついたようで大きな声をあげた。

 それを聞いた須美と銀はついに来たかと待ちわびていた時の到来に楽しげに身構える。

 三人が須美のカバンから何かを取り出すと後ろ手に隠して和仁を取り囲む。

 ふふふ、と楽しげに、怪しげに笑う三人に突如囲まれて和仁は状況をうまく飲み込めずに目を白黒させる。

 代表して須美が祝福の言葉を述べた。

「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう!」

 おめでとう、と二人も言葉を続ける。

 須美の言葉を過ぎには理解できず和仁はポカンと口を小さく開いたまま固まる。

 和かな三人に囲まれ、ようやく状況を飲み飲んだ和仁は恐る恐るといった様子で確認するように聞く。

「……え? 誕生日? 誰の?」

「もちろんお兄ちゃんの。もしかして忘れてた?」

 すっかり驚いた顔から表情が変わらない和仁に少し呆れたように笑う須美。

 人に誕生日を祝われたのはいつ以来だろうか。少なくともすぐには思い出せない。

 少し呆然としたまま須美たちは持ち寄ったものを見せはじめた。

 一番手は園子だった。

「まずは私から。はいワニー先輩にはこれ!」

「ちょっとそのっち、これって……」

 須美の見せた贈り物に先に反応したのは須美のだった。園子の手の中にあったのは綺麗なバレッタ。須美が反応するのも無理はない。それは彼女が自分の髪を結い上げているのに使っているものと同一のものだった。

「ワニー先輩、最近どんどん髪が伸びて来たからこういうのいるかな〜って思ったので買ってきました! わっしーとお揃い、ペアルックってやつだね! 早速つけてみて!」

 無言で受け取った和仁は伸びた髪を左手で掴むと纏めて、結って、それをバレッタで固定する。

 鼈甲のバレッタは髪を結い上げ、細いうなじを見せる。まだ年幼いが故にそこに見え隠れする白い肌がかえって艶めかしい。

「どう? 似合ってる?」

「きてるよ〜、きてるよ〜。それを選んだ私の目に狂いはなかったんよ〜」

 ちょっと自信なさげにしながら、ちらりと和仁が須美を見る。満足そうにして何やらメモ書きに夢中な園子を尻目に須美はちょっと照れ臭そうにして頷く。その反応に和仁はすぐにプレゼントを気にいる。

「じゃあ、次は私ね!」

 恥ずかしさを振り切るように勢いよく前に出た須美が二番手となって手に持ったものを差し出す。

 その手にあったのは青いハンカチだった。美しい菊が刺繍されたそれは既製品ではなく手製を思わせるものだった。よく見ればハンカチを持つ須美の手で絆創膏が傷を隠している。

 ハンカチに込められた思いを感じながら和仁はプレゼントを受け取る。

「……大切に、長く使うね」

「……そうしてください、頑張ったんですから」

 短い言葉だけで終える。二人の間にはそれ以上言葉などなくても、気持ちが相手に伝わるだけの信頼があった。

「じゃあ、最後はアタシか。なんかこういうのちょっと照れるな」

 やっと順が回ってきたという様子で銀が前に出る。

 左手で吊るすようにしてそれを差し出す。

「ほいっ! アタシからはコレ」

「……もしかして、ギターのピック?」

 差し出されたそれを一目で見て何か理解する。三角形の形をしたプラスチック片。表側に花の絵が描かれ、開けられた穴から三色の鮮やかな飾り紐が伸びている。

 そっと、慎重な手つきで受け取った和仁は掲げるようにしてジッと見定めるようにしてギターピックを眺める。

「綺麗だね……、これは何の花?」

「あぁ、それ店員さんと相談して買ったんだけど雪待草、つまりスノードロップって花なんだってさ。希望って意味があるんだって言ってた」

 銀はしげしげと贈り物を見られて所在なさげに身を悶えさせながら答える。

「……アタシがギターとか勧めたからな、こういうの使うって聞いたからそれにしたんだ」

「そっか、うん、ありがとう銀ちゃん。すごく気に入った。この飾り紐はみんなの色?」

「そ、そうだよ。お役目の時ってさ兄さんいつも後ろの方で一人だろ? だからそれを持ってれば、いつでも近くにいるような気がするかなって……」

 恥ずかしいことを言っているなと自覚していた銀は所在なさげに頬を描きて羞恥を誤魔化そうとする。

 それを見ていた三人は銀の様子と思いやりに笑みを深くして銀を見つめる。

 感激して涙ぐんだ和仁が銀を見る。

「銀ちゃん……」

「あー、もうそんなにこっち見るなよ!」

 照れた銀が手をやたらと動かして顔を隠す。忙しない銀の腕を須美が捕まえた。動かそうとする銀であったが万力のような握力が離さない。ニッコリと良い笑顔の須美が加虐的に迫る。

「もう、銀? そんなに暴れてたら可愛い顔が見えないわ」

「……須美さんや。気がつかぬうちにどんどん図太さと遠慮のなさが増してますな……」

「もう家族のようなものなんだから遠慮することないでしょ?」

「え、それってどういう……」

「……そんなことよりもこれが最後。はい、お兄ちゃ……ん? ……っ!」

 須美の一言の意味を聞こうとした銀の声を涼しげな表情の須美が遮って贈り物を続ける。

 和やかに進んでいた和仁への贈り物。しかし最後の一つを渡そうとした須美の言葉は続かなかった。

 何事かを見る和仁の視線を追って三人が動いてそれに気づき、同じように何も言えなくなる。

 呆然とした表情で四人は空を見上げた。色とりどりの鮮やかな花火が暗くなった空を飾る。しかし一瞬で消えていくはずの儚い光は何故か一向に消えることがない。再生を一時停止したかのように花火はそのままでいつまでも在った。

「まさかよりによって今日来るなんて……」

「せっかく、最後のお楽しみだったに〜……」

「敵さん、ちっとも空気が読めないなー。まぁ、敵が空気を読んで来るのも変だけどさ」

「…………」

 苦々しく須美たちは呟く。楽しいお祭りと誕生日。楽しい思い出を作って終わるだけのはずだった一日に余計な、非日常からの乱入者たちが登場した。

 四国が神樹の力に包み込まれ、一瞬の光の後で世界は樹海の世界に置き換わり、戦いの場へと変化していた。

 いち早く変身した勇者たちは来たる敵を待ち構える。

 しかし先ほどから和仁が一言も発さない。

 不思議に思った須美が振り向くとそこには恐怖に顔を歪ませた和仁がいた。

 顔面を蒼白にして息を押し殺す。

 先ほどから起動していたため、宮司システムがいち早く和仁に状況を報せていた。

 そしてそれを知ったからこそ、和仁は表情を凍りつかせる。

 樹海と外を繋ぐ大橋の先、人を滅ぼすべく人類の天敵、十二星座を模した敵、バーテックスは襲来した。十二星座を模しているからその数は合計十二体。

 四月の初め、初めてのお役目で四人は力を合わせて、一体目の敵、水瓶座のバーテックスを撃破した。

 しかしそんなものはただの威力偵察に過ぎなかった。約三百年ぶりとなる攻勢に対して敵を知るために行われた敵の初めの一手。

 ならばこそ、人を滅ぼさんとする敵は前回の戦いから学び、敵を倒すべく立ち回る。

 ならばこそ、残り十一体のバーテックスを使うのは滅ぼすための敵の行動としては当然のことだろう。

 牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座、獅子座、乙女座、天秤座、さそり座、射手座、山羊座、魚座。残り全ての十二星座がそこにいた。

 人類を滅ぼさんがため、天より十一の絶望が降臨した。

 




という訳でお久しぶり、三ヶ月ぶりの樹海化です。
原作を読んでいて思ったのが天の神が真面目に人類を滅ぼす気があるのかずっと疑問でした。どちらかと言えば人類に試練を与えているような印象を作者は持っていたのでわかゆこ(鷲尾和仁は勇者を殺した)では真面目に取り組んでもらおうという寸法になります。
大雨で早く帰り、余裕ができたので急いで続きを旅行前に書いた所です。次回はおそらく、今度こそ来週。
ではまた次回。


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ともしび

 奇妙な沈黙が樹海の中で続いていた。

 舞い降りた十一体のバーテックスは四国と外の境界たる大橋の上で進行を止めると、憮然としたまま沈黙していた。

 対する四国の勇者と宮司たちも同様に沈黙していた。最前線にいるにいた和仁はカガミブネを用いて瞬時に最後方のシステムの場所まで移動、前回と同様に勇者システムと同調し、四人は戦う準備を整えていた。しかしバーテックス十一体の襲来という前例の無い状況にどう攻めていいのか分からず、様子見を強いられていた。

「……敵さんが十一体。どうしたもんよ兄さん?」

「一体ずつ引きつけてから各個撃破! ……とはいかせてもらえないんだろうね」

 緊張した面持ちの銀の問いかけに和仁は楽観的な意見を出してみるが圧倒的な数の不利に状況の厳しさを再確認する。少なくともこれまでの訓練においても十一体を同時に相手取ることは想定されていなかった。少なくとも一体、もしくは数体が相手になるのだと予想されていた。

 最大の見落としとは敵もまた思考し、策を巡らせる存在であったこと。4対11という圧倒的な数の不利が生み出す緊張感が勇者たちの動きを見えない鎖となって縛り付ける。

「…っ! 敵、きます!」

 目の良い須美が小さな変化を捉えた。

 長い沈黙を破ったのはバーテックスの方からであった。

 中心に陣取った獅子座が体を開き、そこからミニチュアの太陽とも言うべき巨大な火球を神樹めがけて解き放った。

 轟音をたてながら小さな太陽が迫る。

「園子ちゃん! 一点突破!」

「わかってんよ!」

 短い指示とともに園子が飛び出す。

 和仁が手元のコンソールを操作すると鉄の足場が地面から伸びて幾重にも重なって壁になる。鉄の壁を融解させながら火球は少しづつ勢いを弱めていく。火球が二十枚目の壁を破ろうとした時、正面から激突するように青い光が飛来した。

 それは須美の放った矢だった。神樹の力を纏った矢は破魔の作用を持ち、悪意を伴った炎を打ち払う。そうしたことで火球の黒い核が露わになり、そこに同じように神樹の力を槍に込めていた園子が迫る。

 目にも止まらない速さで園子は槍を持って突き進む。後に残るのは紫の残光だけ。迷いのない最短の直線を描いて光が核に突き刺さる。火球に近づいたことでその熱が容赦なく園子に襲いかかる。何かが焦げ付くかのような嫌な臭いが鼻につく。視界には入らないが髪先が黒く焦げて細くなっていく。

「…っ! 熱いけど、これくらいなら問題ないんよ!」

 刺さって、当たって、貫いた。

 勢い余った園子は地面に転がり、すぐに態勢を立て直す。振り返ると貫いた核が崩壊していく所だった。

 そしてその隙を突くように火球の後ろで迫っていた魚座が泳ぐように体を半分地面に埋めたまま直進し、園子を一飲みにしようと大口を開いていた。

 油断していた所への奇襲に園子は一瞬の判断に迷い、結果として無抵抗になる。そこに赤い閃光が走り寄る。

「だらっしゃー!」

「僕らに奇襲は無意味だぞ。バーテックス!」

 しかしてバーテックスの奇襲は不発に終わる。園子は銀の怒声を聞いた。感覚を四国全体に広げた和仁に見えていない場所は結界内に限れば存在しない。初めから火球を破壊した勇者に対する奇襲は読めていた。

 和仁の意思を受け取った銀が飛び出し、園子の頭上を飛び越える。手にした二本の斧に全力を込めて振り下ろす。三人の勇者の内、最大の攻撃力は伊達ではなく、振り下ろされた斧は纏った神樹の力を伴って魚座の頭部をかち割る。

 切り倒され、地面に叩きつけられた魚座は頭部を爆砕したダメージと合わさり動かなくなる。即座に和仁は鎮花の儀を開始する。花が舞い、その場が浄化されていく。清められた魚座は形を崩し、花弁に包まれるとその姿を樹海の中から消した。

「まずは一体目! 人間を甘く見るなよバーテックス!」

 自身に喝を入れるように銀が雄叫びをあげる。

 十一体という完全な数の不利、しかして勇者と宮司たちは負けてはいなかった。連携の練度という圧倒的なアドバンテージと巨体ばかりで連携が取りづらいバーテックスの対比が薄氷のような均衡を生み出していた。

 そしてそれを理解したのかバーテックスは三人を分断にかかる。

 静止していた九体のバーテックスが一斉に動き出した。

 三つの団体に別れたバーテックスがそれぞれの道筋で神樹を目指す。

「バラバラに侵攻! これじゃあ一つと戦ってるうちに他の二つが神樹様にたどり着いてしまう! どうするお兄ちゃん?」

 敵の行動に須美がどうしたものかと叫んで指示を仰ぐ。

 侵攻を開始したバーテックスを止めないわけにはいかない。人類はバーテックスが神樹に到達した時点で敗北する以上、三つに分かれたバーテックス各々に対処を強いられる。しかしそれでは三人による連携が活かせないジリ貧に自らを追い込むことと同義である。

 しかし考える猶予を敵は与えてはくれない。こうしている間にも敵は侵攻を続けている。

 焦りを感じながら今できることを和仁は指示する。

「戦い方を考える、三人とも時間を稼いで!」

「了解!」

 和仁の支持を受け、三人はそれぞれ最も近いバーテックスの集団の元へ駆けつける。

 最も最初に敵と接触したのは遠距離攻撃の弓を用いる須美だ。

 須美が対峙したのは三体。乙女座、山羊座、獅子座の三体は須美を認識しても侵攻を止めない。

 たどり着けば勝利条件を満たせるバーテックスからすれば戦うこと自体に意味がそれほどないのだ。

「神樹様のところへは行かせない!」

 足止めのために須美は攻撃を開始した。

 弓を引いて、解き放つ。

 破邪の力を纏った矢は光を纏いながら先頭の乙女座に飛来し、それなりの大穴を開ける。しかし乙女座は気にした様子もなく動き続ける。

 決定的に攻撃力が足りていなかった。本来であれば三人一組での戦いが想定されていた須美の装備にとって、このように一人で複数を相手取ることは火力の面で難があった。

 しかしこれは有事、そのような泣き言は言っていられない。

 想定外の状況なのであれば、戦い方も想定外の方法を用いれば良いのだ。

 思いつきレベルの奇策であるが兄となら不思議と出来るという確信があった。

 長距離狙撃から短距離用に弓の丈を変形させてから須美は弓を背負ってクラウチングスタートの構えをとる。

「お兄ちゃん、私が考えてること、出来る?」

 短いつぶやきと共に須美は考えた奇策の詳細を心の中で和仁に見せる。その声色は確信と自信に満ち溢れていた。

「もう、君も無茶なこと思いつくな……。でも仕方ない、無茶でもやるしかない!」

 和仁からのゴーサインが出た瞬間、須美は駆け出した。神樹の力によって強化された脚力をもって須美は風を切って走る。遥か先を行っていた三体に追いつくと大きく跳躍し三体の頭上に登る。

「まずは一射!」

 短く番えた矢を素早く解き放つ。放たれた矢は勢いよく乙女座に刺さる。

 しかし刺さるだけでそれ以上は何も起きない。通常であれば須美の放った矢は溜められた神樹の力を爆発させて火力を補っている。つまりそうしなければ須美の矢は通常の矢と威力が変わらないのであり、バーテックスと戦うのに火力不足が否めない。

 しかしこと、この状況であればそれでいいのだ。

 落下しながら須美は矢を放つ手を止めない。普通の矢と違い、須美の持つ弓は神樹の力によって形作られた弓と矢。矢筒から矢を番えずとも弦を弾くだけで光の矢が自動的に装填される。

 その特性を活かし、須美は何度も矢を生み出しては放っていく。みるみる乙女座の一部が剣山の様に矢が密集して刺さっていた。

 流石に邪魔に思ったのか乙女座が反撃を開始した。

 尾のような部位から卵状の爆発弾を生成すると須美目掛けて発射した。しかし放たれた爆発弾は須美に届くことはない。

 樹海の至る所から発射されたワイヤーとそのアンカーが爆発弾を空中で撃ち落とす

「流石です、お兄ちゃん!」

「余裕そうなこと言ってないで早く!」

 流石だと持ち上げる須美に和仁が必死な声をあげて行動を促す。アンカーによる爆発弾への精密狙撃は想像以上に神経を削る。一度でも外せばそれは須美に目掛けて飛んでいく。一度も外せない緊張感が和仁をより深い集中へ誘う。

 応じた須美は速射に加えて五指で四つの矢を同時に放ち始めた。素早すぎる手の動きは残像を伴い、放たれた矢は幾重にも飛び交い空を暗く覆った。無数の矢はそれでも全て吸い込まれる様にバーテックスに突き刺さっていく。

 時にやってくる山羊座の地震攻撃は空中に張ったワイヤーを足場にすることで跳んで回避し、獅子座の放つ火球はワイヤーが巻きつくことでそもそも撃たせないことで対処する。

 時間にして数十秒、それでよかった。それで十分だった。剣山の様に矢だらけになったバーテックス。その動きを封じる様に巻きついたワイヤー。それで全ての準備が整った。

 手元のアンカーを矢にくくりつけて須美は天上へと矢を放つ。アンカーに繋がったワイヤーが引かれ、緩んでいたワイヤーが絞られていく。三体のバーテックスに絡んでいたワイヤーが絞られ、三体はぶつかる様に縛り上げられ、密着する。

「威力が足りないのなら数で補う! さぁ、喰らいなさい!」

 握った拳を須美が掲げ、それに反応する様にバーテックスに刺さった全ての矢が同時に反応し、連鎖する様に爆発する。

 あまりの爆風に須美は腕で顔を覆って守る。少しして煙が晴れると大きく傷ついた三体がいた。三体は三者三様に各々の攻撃手段を構える。

 須美を自分たちを脅かす脅威であるとここで初めて認識したのだ。

「かかって来なさい! 神樹様へは一歩の近づけさせない!」

 もう一度弓を構え、須美は駆け出した。

 一方その頃、銀と園子は二人で六体を相手取って戦っていた。

 須美が三体に脅威と認識されたことで他も進行よりも脅威となる勇者の排除を優先し始めた。

 銀が襲いかかったのは蠍座、蟹座、射手座。

 園子が襲いかかったのは天秤座、牡牛座、牡羊座。

 それぞれ比較的近い所で接敵したことが災いして結果的に六体に囲まれていた。

 背中合わせの二人はその場から散開する。

 次の瞬間、二人のいたところに射手座の放った無数の矢が殺到した。蟹座が自身の持つ反射板を用いて射手座の放つ矢の方向を操作して二人を追尾する。追いかける様に降ってくる無数の矢を回避するために二人は止まらずに走る。

 走り抜ける二人を狙って蠍座がその長い尾を伸ばして攻撃する。

「ミノさん、私の後ろに!」

「任せた!」

 前に出た園子が槍を傘状に展開、スライディングするように尾と地面の先に滑り込む。迫り来る尾は開かれた槍の刃に遮られる。園子の陰に隠れていた銀が槍の陰から飛び出すと斧を振り上げて蠍座の尾を切りつける。数珠状の尾の接合部を切りつけられ、尾は引きちぎれて両断される。

 尾を切り落とされた蠍座は重心を狂わせ、倒れ込んでいく。

 倒れ込んだ蠍座を壁にして射手座の矢を防ぐ。

 蠍座の胴を壁にして二人は一息つく。

「ふぅー、やっぱり六体同時に相手するのは厳しいかな〜」

「まぁ、でも兄さんとの感覚共有で相手が何してくるかは分かってるから、その分だけ目の前の敵だけに集中すればいいから思ったよりは楽に戦えてるな。……ってやっぱ今のナシ!」

 敵影に気づいて二人は蠍座の陰から逃げる様に飛び出す。轟音をたてながら天秤座と牡羊座が回転をしながらその巨体で二人を押しつぶそうと落下してくる。

 飛び出した先で二人は響く様な轟音に思わず耳を塞ぐ。空中に浮かんだ牡牛座がその鐘を鳴らし、音によって二人を攻撃しはじめた。

 鼓膜を破ると直感的に感じるほどの音量に銀は反射的に片方の斧を音源目掛けて放り投げた。回転しながら投げられた斧は真っ直ぐに牡牛座の鐘へと迫り、鐘を叩き壊す。

 両手で斧を構え、園子と背中になりながら周囲を警戒する。

「こんなに敵が多いと鎮花の儀にまで持ってけるまで攻撃できないな……」

「敵もそれが狙いで、数で攻撃して来たんじゃないかな〜。戦いにくい以上に敵に止めを刺せないのが歯がゆいね」

 話しながら周囲を見渡して、なんとなく園子は違和感を持った。本気で人類を滅ぼそうと敵が思っているのなら、どうして敵は全員で攻撃に出たのだろう。

 はじめの攻撃は陽動からの火球の陰に隠れた魚座の奇襲。

 二つ目の攻撃は分散したバーテックスの集団による勇者たちの分断。

 どちらも確実に勇者を倒そうとする戦い方だ。

 そのいづれにしても敵全員で襲いかかる必要はないはずだ。むしろある程度の数を戦わせて残りは神樹を直接狙う方が敵は有利なはずだろうに。

 魚座は鎮花の儀によって退散した。残ったのは須美が相手する三体と自分と銀が相手している六体。

 ————一体足りない?

 強烈な違和感の正体に気づいて園子はガバッと神樹の方へ振り向く。ちょうどその時、視界の端でそれは駆け出したところだった。

 土煙をたてながら最後の一体のバーテックスが神樹目掛けて全力で走り出した。

 焦った様子で園子が和仁に叫んだ。

「やられた! ワニー先輩、敵の狙いは最初から神樹様一本狙いだったんよ。()()()()()()()()()!」

「あのめちゃくちゃ早いやつか! 早すぎてもう見えないぞ!」

 通常時であれば和仁は見逃さなかっただろう。それだけ宮司システムの感覚野は広大だ。しかし敵が多すぎること、須美や園子、銀の補助に気を取られていたこと。そして何よりもバーテックスとは巨大なのだという固定観念が発見を遅らせた。

 双子座のバーテックス。それは二対一組という特異性を持ったバーテックス。それは攻撃能力を持たず、ただ速く走ることのみに特化したバーテックス。

 十一体という数の有利、性能という質の有利を持って勇者を倒すのではなく、戦わずに神樹に到着するという、戦う行為それ自体を囮にする戦略をバーテックスは組み立てていた。

 戦って撃退するという人類側の前提、戦って勝つという認識を利用したこの作戦は見事にはまっていた。

 三人の勇者はそれぞれは数の不利の中、目の前のバーテックスの対処に手一杯であり、急に現れた人間サイズの小型のバーテックスという意表をつく存在を完全に見逃していた。

 時速300キロという新幹線並みの速度で双子座の二体は樹海を駆け抜けていく。完全に意表を突かれた三人は対応が遅れた。

 そしてその一つの対応の遅れが命取りとなった。三人のうち、時速300キロに追いつける者など一人もいない。呆然と走り去って小さくなる双子座の背を見つめる。

 一手の見誤りが完全に詰みをもたらした。

「ミノさん、追いかけて! 今すぐに!」

「えっ! でも、園子は……?」

「このまま戦ってもあいつが神樹様にたどり着いてこっちの負け! 今はこっちよりもあっちだよ!」

 そう話している間にも敵は真っ直ぐに、神樹に向かって加速していく。時速300キロとは秒速にして84メートル。人間の走ることのできる最高速度は理論上、時速64キロと言われている。

「クッソー! 待てー!」

 銀はもう視界の端で小さくなって見えなくなり始めた双子座を必死の思いで追いかけるが一向に距離は話されていくばかり。

 当然である。例え、神樹によって強化されているとしても勇者の出せる最高速度はせいぜい通常の人間の理論値の倍、時速120キロ。秒速に換算すると秒速33メートル。双子座が84メートルであるのならば、1秒あたり約50メートル引き離されていることになる。おまけにバーテックスと違い人間は疲れる。どれだけ必死になろうとも疲労により常に最高速度は維持することなど不可能。

 そんな当然の理屈が双子座と銀を引き離す。

 双子座と神樹の本体の距離が100を切る。次に一と数え終えると双子座は神樹に辿り着き、世界は滅びようとしていた。

「間に合ってくれー!」

 地面を破砕しながら樹海を駆け抜ける銀。それでも到底追いつけない。追いかけたのは20秒、距離にして1キロ離れている。通常時であればそれほど遠くもない距離、しかし今は途轍もなく遠い1キロだった。

 もはやこれまでかと諦めかけたその時、このどうしようもない状況に待ったをかける声があった。

「大丈夫だよ銀ちゃん。追いつけないなら、追いかけなければいいのさ」

 声に驚き、銀はうつむきかけた顔を上げて正面を見た。土煙を上げて走る二体の双子座の先、神樹との間に人影がある。

 ただ一人、この状況下においても胸を張って大丈夫だと言いながら和仁は双子座の走る直線上にて待ち構えていた。

「無理だ、兄さん! バーテックスには勇者じゃないと攻撃に意味が……!」

「それも大丈夫だよ銀ちゃん。本当に、不幸中の幸いっていうのはこういうことを言うんだろうね」

 銀の制止する声にも構わず和仁は構える。

 和仁を認識しても双子座は速度を緩めず、彼を轢殺するコースを選択する。前方にいるのはただの人間、勇者でなければ巫女でもない、ただの、それも武器一つ持たない素手の人間。

 和仁ではどうしても神の眷属であるバーテックスを傷つけることはできない。それが出来るのは同じように神の力を授かった勇者だけ、だから須美たちは敵と戦うために選ばれた。

 そういう前提が人間とバーテックスの間にはある。つまりどうしたって和仁自身はバーテックスに対して脅威にはならない。

 人間が足元にアリがいても脅威と感じず歩みを変えることがないように、双子座たちは一直線に神樹を目指す。

「ふぅ……、いくよ」

 静かに息を漏らし、初動は緩やかに、それでいて無駄はなく。

 和仁の言うようにいくつもの幸運があって、今に繋がっていた。

 幸運だったのは宮司システムが神樹の根元近くに設置されていたこと。

 幸運だったのは和仁が自覚がなくとも人を殺せる技術を学んでいたこと。

 幸運だったのは双子座が人型であったこと。

 幸運だったのは双子座が二体で一体のバーテックスであったこと。

 幸運だったのは宮司システムによってどれ程繊細な動きも超高速で動く双子座に対応出来る感覚野を持てたこと。

 いくつもの幸運が重なり、いっそ運命ともいうべき状況がそこにはあった。

 人ではバーテックスを傷つけられない。なら、バーテックスは?本来同士討ちなどしないバーテックスであるが、バーテックスがバーテックスを傷つけることは可能なのか。

 結論から言えば可能であった。

 轟音とともに爆発の様な衝撃が起こる。

 和仁が何をしたのかと言えば、ただ掴んで投げただけ。ただし正面から時速300キロで走る双子座の片割れの左腕を掴み、捻って、回して、回転を加えて、あくまで双子座自身の速度を利用する様に和仁はもう一体の双子座に向けてなりふり構わずに叩きつけた。

 文字通り、なりふり構わない一撃だった。

 まるでベクトルが突然逆方向に置き換わったかの様な一切の無駄のない投げ、正面からでありながら不意打ちの様に双子座の片割れどうしは互いにぶつかり合う。

 端的に言えば新幹線どうしが正面衝突したエネルギーと同等の衝撃。いかにバーテックスであろうともひとたまりもない。

 しかしその成果の対価は軽い者ではなかった。

 掴んだ時点で右手の指の骨が残らず砕けた。ひねりを加えて回転させた時点で両腕の筋繊維がめちゃくちゃになり、肩は勢いに耐えきれずに脱臼した。そして双子座を回して投げてぶつけて、それと同時に地面を踏みしめていたアキレス腱が切れ、大腿骨が和仁自身の踏み込みの衝撃によって砕けた。

 いわば和仁は正面から走ってくる新幹線を掴んで投げたのだ。無事で済むわけがない。

 すぐ間近で衝突した双子座の衝撃をもろに受け、和仁は木の葉の様に吹き飛んでいく。

 衝撃によって砕け散った双子座の破片とともに和仁は駆け寄っていた銀の側にまで転がされる。

「うおっとと……。よし、捕まえた! まったく、兄さんも無茶するなぁ」

 転がってきた和仁を銀が受け止める。見れば体のいたるところが青アザだらけ、両腕は両方とも変な方向へ曲がり、片足は関節が増えている。どう見ても無事とは言えない惨状ではあったが、銀は和仁に気をつけつつ双子座の飛び散った破片を睨みつける。バーテックスは鎮花の儀によって追い払うまで再生すると言うのがこの時代の常識であったから。

 しかし思っていた再生が起こらない。

 七色の光が天へと登っていく。それはバーテックスの御霊が砕かれた証であった。

 銀は知らないことだがバーテックスには御霊と呼ばれる核があり、それを壊せば退散ではなく、討滅することができるのだ。

 この時代ではまだあり得なかった御霊の破壊をただの人である和仁は成し遂げたのである。

 銀の腕の中で抱き抱えられた和仁が苦しそうに小さく呻く。

 顔を上げ、得意げな様子で笑い、強がってみせる。

「ははは……、どんなもんだい銀ちゃん。僕も頑張ればバーテックスの一つや二つ……」

「無茶しすぎだっての……。でも助かった、アタシじゃどうやっても追いつけなかった。でもホントにあんまり無茶するなよ?」

「うん……。これくらいならなんとか、繋がってるならもうすぐ治るから」

「……ったく、治ればいいってもじゃないでしょうに」

 銀は再三、心配だと言う様子で和仁を見つめる。

 当の本人はその心配を受け止め、自分は無事なのだと、あくまで自分が無事な範囲で頑張ったのだと強がってみせるがボロボロなのは変わらず銀は呆れてため息を漏らす。

 折れた骨やねじ曲がった筋繊維が小枝の束を追った様な音を立てる。折れた骨が、ねじ曲がった筋繊維が、異常のあるすべての箇所が、一息吸って吐く度にまるで時間が巻き戻るかのように、正確には異常な治癒能力によって治癒されていく。

 10回も呼吸を繰り返す頃にはなんとか立てるまでになり、弱々しくも銀の肩を借りて立ち上がる。 こうしている間にも宮司システム自体は問題なく稼働しており、一人奮闘する須美と園子は和仁の分割した思考に補助を受けながらなんとか生き残っていた。

「いてて……、なんとか折れた骨も繋がったみたいだからシステム本体の方に行くよ。一人で任せちゃった二人も心配だから早く戻らないと……」

「……敵があんな大勢だから多少の無茶は目を瞑るにしても、兄さん一人に負担を全部かけないようにアタシらも頑張らないとな! 敵の本命は潰したんだ。あとは少しづつ時間をかけて一体づつ敵を倒せば勝てる! アタシらと兄さんが力を合わせれば勝てるんだ!」

 そう、この多勢に無勢、薄氷のような均衡はあくまで宮司システムと和仁の体質に頼った面が強い。和仁がいたからこそ、なんとかなっている状況なのだ。

 ならば何故それが狙われない? 和仁たちは敵の狙いは戦うことを囮に神樹への直接攻撃狙いだと判断したがどうしてそれが正解なのだと言えるのだろう。もっと言えば敵がそれを狙いだと教えてくれたのだろうか。

 否、答えは否である。

 勝手な推測、勝手な判断、根拠はあっても答え合わせなど行われていない。

 誰が思うだろうか。十一体の同時攻撃も、一体を犠牲にした奇襲も、不意をついた本命狙いも、その全てが()()()()()()()()()()()など誰が予想できようか。だが敵は理解していた。勇者たちの連携の中心が宮司である和仁にあることを。彼が最も落とすべき目標であることを。その為だけにこの戦いにおける全てが用意されていた。

 放たれたのは一撃。今で見せなかった一つの攻撃。射手座が放つ最大の一撃。音速を超え、着弾するまで不可視の速度を持った矢は放たれた次の瞬間には和仁と銀の目と鼻の先にきていた。

 不可視の矢であろうとも拡大された和仁の感覚はそれを捉えていた。しかし人間の反応速度ではどうやっても対応できない。見えていても、体が対応になに合わない。

 走馬灯のように緩やかになった世界の中、少しづつ矢は迫ってくる。丸太のように巨大な矢。このままだと和仁と銀、両方を刺し貫いて殺す。

 ——あぁ、それだけはダメだ

 和仁はそう思った。反射的に銀だけでも助けようと引き寄せて投げようと試みる。

 わずかな思考も介入を許さない小さな時間、助けようとする意志だけが思考の早さを超えて体を動かす。

 袖を掴んで、投げようとして、ふと掴んだ袖が軽くなる。

 逆だ、和仁が浮かんでいるのだ。遅れて小さく腹が痛む。

 わずかに動いた視界の端、伸びた銀の足が和仁の胴を蹴っていた。

 掴んだ手が離れていく。伸ばしてももう手遅れ、和仁は銀から離れていき、離れた分だけ迫る矢が銀に迫っていく。

 理屈は簡単。システムによって繋がった精神を通じて和仁が見ていた状況が銀にも見えていて、和仁と同じように我が身を犠牲にして助けようとした。

 そして勇者の優れた運動能力の分だけ銀が早く動いて和仁が蹴り飛ばされて救われた。

 ——あぁ、良かった。助けられた

 銀は心の中で呟いた。迫り来る矢が見えて、明らかに自身の胴を貫く軌道が見える。次の瞬間には自分を貫いているだろう。

 自身が貫けれることに諦めを感じつつも和仁を助けられたことに安心感を覚える。

 明らかに致命傷、軽く見ても胴の半分以上が吹き飛ぶ未来が見える。

 最後に和仁を見た。せめて最後は好きなものを見て終わろうとする。

 和仁を見て、彼は笑っていた。銀に向けて嬉しそうに微笑む。

 どうして笑っているのだろうか。銀は分からない。

 そうしているうちに一瞬で射手座の放った矢が腹を貫いて、過ぎた。

 来る痛みに備えて強く目を詰むってから1秒。なんの痛みもない。

 死ぬときはこんなに痛くないものなのだろうか?死にかけた経験のない銀は少しづつ閉じた目を開いていく。

 そして目にする。なんの傷も負っていない自身の体を。

 そして視界に入った赤を見て言葉を失う。

「……おいおい、それはないだろ。そんなのずるいって。だったら最初から助ける必要なかっただろ、なあ、おいって!」

 混乱して意味のない言葉の羅列を吐いていく。

 思わす手で触れた腹には傷一つない。

 代わりにそこに穴が穿たれた。

 血を垂れ流し、欠けた腹の肉の隙間からは臓物がこぼれ落ちる。皮一枚で繋がった横腹からは砕けた骨の欠片が割れた水晶のように辺りに散っている。

 死に体で呼吸もままならないものだから掠れた声で笑う。

「……あ、ははっは……。システムでダメージを肩代わり出来るのは分かってたけど、どうしても体が動いちゃったんだ。……い、意味がないだなんてそんなこと言わないでよ、銀ちゃん」

 痛みを背負うとした銀の代わりに和仁がその痛みを、傷を請け負った。本来の宮司システムの目的通りに勇者の負傷を肩代わりした。

 その当然の結果がそこにあった。

 腹の大部分が穿たれ、大穴を開け、繋がっているのは脇腹の薄皮一枚。どう見ても致命傷を過ぎている。

 生きているのが論理的にありえないほどの傷。死に難いのではなく、死ねないと形容するのが正しいほどの様相で和仁は血と臓物を垂れ流しながら樹海の地に転がっていた。

「おい、しっかりしろよ! いきてるよなぁ? 頼むから返事してくれ! 和仁!」

 銀はほとんど動かない和仁を強く揺する。その度に血が吹き出てはみ出た内臓がその全体像をさらに空気にさらしていく。

 微睡むような視線で銀を見上げて、そっと手を伸ばす。伸ばした手は弱々しく銀の頬に触れる。

 手から伝わる優しいぬくもりを感じて和仁安心したように息を吐いた。

「……あぁ、良かった。助けられた。……初めて名前を呼んでくれたね。うれしいなぁ……」

 銀が心の中で思った台詞をそのまま返して、それだけ言って伸ばした手は力を失って血溜まりの中に沈んだ。

 自然に任せて落下した腕が血を叩いてはねた血が銀の装束を赤黒く染めた。

 遠く離れたところで戦っていた須美は突如起きた変化を察知した。

 それまで繋がっていた和仁との精神同調が突然切断された。まるで電話線を断ち切ったかのような不快な感覚を残して。戦いながら、呆然とした様子で神樹の方を見て、あるはずの和仁からの同調がなくなったことに動揺する。

「……お兄様が消えた?」

 その呟きに答える者は誰もいない。

 繋がっていたはずの心は断ち切られ、宮司システムは動作を停止した。




というわけでお久しぶりの投稿です。旅行先で気が変わって一週間ほど滞在を延期して満喫してきました。
お肌ツヤツヤの気持ちで書いております。
多分次回は早めの投稿予定。ではまた次回。


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せいれい

 射手座の放った矢は天の神の目論見通りに和仁を貫いた。

 腹に大穴をあけ、血しぶきと臓物を傷口から吹き出しながら時々痙攣する。しかしこれは生理的な反応でしかない。生きているから起きるものではない。

 当然だ。こんな状態で生きられる生き物など存在しない。

 こぼれ出た血と臓物は次第に乾燥していく。温かみのあった鮮やかな命の色も次第に失われて腐った土の色に堕ちていく。

 鷲尾和仁は確実に絶命しようとして、そして今死んだ。

 でも目の前で和仁が生きているのか、死んでいるのか、それとも死にかけているのか判断のつかない銀はなんとか返事をさせようと、生きていると確かめようと和仁を力強く揺さぶる。

 力の抜けた首が大きく揺さぶられ、中途半端に開いた口と焦点の定まらない瞳が生気のなさを悲痛にも銀に伝えていた。

 瞳に映る事実が受け入れきれずに銀は眼に涙を溜めて、目の前の現実を否定しようと声を震わせる。

「なあ、おいって! 返事してよ和仁! みんなで生きて帰らなきゃいけないのに……、死んじゃダメだって!」

 いくら声をかけても、いくら揺さぶっても答えは帰ってこない。

 もう一度目を合わせ、声帯を震わせられるだけの命の輝きを持ってはいなかった。

「なあって、早く返事をしてよ。悪い冗談は辞めてよ……」

 初めて見る人間の遺体、銀には死んでいるのかが分からない。土気色の顔はすぐにでも目を大きく開いて返事をしそうに見えて、しかしそれは銀がそうあって欲しいと望むから見えるだけでいくら待っても返事がくることはない。

 死んだのだ、完膚なきまでに、もう戻ることのない命の終端を銀は見る。

 そっと、上下しなくなった胸に手を当てる。

 無音。

 心臓は死に、脈を打たない。

 握った手も冷たくなり、硬くなっていく。

 それを理解して銀は何も言えない。

 ただ目の前の友達が死んだ事実にうちのめされる。

「そんな、そんなのおかしいだろ……。まだこれから一緒にやりたいこととか、行きたい場所とかたくさんあったのに……」

 そんな未来が奪われたという事実が重くのしかかる。

 受け止めきれず、呆然と涙を流す。

 しかし状況が銀に悲しむ猶予も与えない。

 爆発音がした。破砕音がした。少女の悲鳴が聞こえた。

 和仁を殺し、勇者たちの連携を絶ったバーテックスは神樹を、人間を滅ぼすべく侵攻を再開した。

 連携の要たるシステムが落ち、先ほどまで行われていた和仁による支援の一切がなくなり須美と園子は対処が追いつかなくなる。

 当然だ。敵は質も優った上で9体いる。それに対して今、前線に出ているのは須美と園子の二人だけ。

 どうやっても勝ち目がないのは目に見えている。

 それでも二人は諦めない。自分たちが諦めてしまえば、その時点で人類が終わってしまう。

 しかし思い一つで強くなれるはずもなく、無情に敵は攻撃を繰り出す。

 牡羊座の体当たりが、牡牛座の轟音が、蟹座と射手座の連携が、獅子座の火球が、乙女座の爆発弾が、天秤座の竜巻が、蠍座の尾が、山羊座の地震がまとめて二人を襲う。

 もはや戦いにもならない。天災ともいうべき攻撃の激流に二人は逃げることを強いられる。

 数の不利は戦力の差がけでなく、攻撃を挟む余裕すらも二人に与えない。

 心の声による通信も使えず、二人は揃って逃げる。しかしそれにも限界がくる。

 囲まれ、襲われ、攻撃が当たり始めた。

 ついに攻撃が当たり、二人は吹き飛ばされる。

「きゃあ! そのっち無事?」

 傷つき、須美は血を流す。

 同じように吹き飛ばされ、擦り傷だらけになった園子は弱々しく槍を支えに立ち上げる。

「まだ大丈夫。でもどうしたらいいの? さっきからワニー先輩からの返事もないし、通信もできない。ミノさんも帰って来ないし……」

「だ、大丈夫よ。 きっと二人とも無事よ。きっと悪いことなんて起こらないわ……。だから私たちは二人が戻ってくるまで敵を引きつけましょう」

「そうだよね、それまで頑張らないとだね! 行こう、わっしー!」

 二人の無事を信じて須美と園子はバーテックスに立ち向かっていく。防戦一方、逃げの一手を強いられようとまだ生きている。

 生きている限り希望は絶たれず、可能性は常にある。

 だから逆に言ってしまえば、死んでしまうことで人間の可能性は無くなる。

 死人に口なし。死んでしまったら人間は何もできない。

 銀は頬に触れていた手をそっと離した。

 そっと和仁に触れて目を閉じる。

 目を閉じた和仁は安らかな表情だった。

 まるで眠っているようだと銀は思った。しかしもう起きることはない。

 一時の眠りではなく、永遠の眠りに和仁はついた。

 銀は和仁右手の薬指につけた宮司システムの指環を外して自身の手にあてがう。

 ちょうど薬指がぴったりだった。

 皮肉にも憧れていた婚約指輪をこのような形をすることになって、銀は苦笑する。

「こんな形じゃなかったら……。こんな形じゃなかったらきっと嬉しかったんだろうな……」

 指輪をつけた薬指を包むように優しく握る。永遠を約束する証。しかしそれは既に死という絶対の終焉によって別たれてしまった。

 地に膝をつく。最後だと思って和仁に触れる。

 触れることで、まるで生きてるように見えても、命の温かみは失われている現実を教えられる。

 守りたいと思っていたのに守れなかった。無力であった事実が銀から戦う意思を蝕んでいく。

 でもここで諦めても、和仁は喜んでくれない。そう思って己を触れた手に力を込める。

「行ってくるよ。世界を、みんなを守らなきゃだもんな。和仁も守りたかったんだけどな……。終わったらまた戻ってきて直すから。

 ……だから、またね」

 そう言う表情はどこまでも優しかった。好きだと言う気持ちを、もう手遅れになった言葉を冷たくなった彼に捧げる。

 それでも思いに応える言葉は返ってこない。

 名残惜しそうに頬に触れた手が離れる。立ち上がって和仁に背を向けて歩き出す。

 視界にこぼれ落ちた血と臓物が映って顔をしかめる。

 出来ることならまだ触れていたかった。こぼれ落ちた臓物を拾い上げてせめて綺麗な状態にしてあげたいと思った。後ろ髪をひく思いを振り切って足を前に出す。

 敵は猶予を与えはくれない。今もきっと自分を待っている二人をこれ以上待たせるわけにもいかない。

「……あたしは勇者だから。勇者だから、みんなの敵を殺すんだ!」

 鼓舞するように、恐ろしい敵に立ち向かう勇気を持てるように勢いをつけて銀は駆け出した。

 死んだ和仁を後ろに置き去りにして銀は前に進み出した。

 心を冷やす悲しみを押し殺そうと敵への殺意が心を占める。

 そうすれば、今だけは悲しいのを我慢できた。

 力を込めた跳躍が銀を前へ、前へと運んでいく。

 人を超えた勇者の力、今はこれすらも鬱陶しく思う。これだけの力がありながら大切な人一人すら守れなかった後悔が銀をまた蝕んで、それでも立ち止まることは許されないから首を振って正面へ顔を向ける。

 跳躍し続けて須美と園子を攻撃している蠍座が視界に入る。

 歯ぎしりが鳴った。

「お前たちのせいで! お前たちさえいなければ和仁は死ななかったんだ! 」

 近づいて込められるだけの力と悔しさと怒りをありったけ乗せて叩きつけた。

 外殻を砕かれた蠍座は大きく仰け反って退く。

 傷つきなんとか立っていた二人も前に銀は着地する。

 二人に背を向けるように立ったため、須美は銀の表情が見えない。

 それでも無事な姿を見て安堵する。

「あぁ、良かった。銀、無事だったのね。これにお兄ちゃんも加われば何とか敵を撃退出来るわ。……ねぇ銀、お兄ちゃんはどうしたの? 一緒じゃなかったの?」

「さっきからワニー先輩からの連絡がないの……。ミノさん何か知ってるの?」

 須美と園子は不安そうに聞く。

 銀が無事に戻ってきたにも関わらず、通信が回復していない事実が最悪を予感させる。

 無言の銀は拳を握りこんで振り返って見せる。

 顔が見えた。

 泣きはらした顔、血に濡れた勇者装束。銀自身には大きな傷はない。それが彼女の血ではないことは見て取れる。

 自分でも園子でもない。ならこの樹海において存在している人間は後、一人しかいない。

 乾いた涙の跡と返り血を見てそれがどう言う意味を持つかなど言うまでもない。

「すまない、あたしがいたのに、あたしがいたのに……」

「そんな……」

 うわごとのように銀は言葉を繰り返す。

 その意味を察して須美と園子は唖然とする。どこかみんな無事で帰られると無邪気に信じていた。可能性は理解していたけれど、実際に仲間の死に直面したことで何も言えない。

 無言が逡巡して、銀は覚悟を決めた。

 薬指の指輪が輝く。

 遠く、無人の宮司システムが一人でに起動を始める。

 和仁を介さない起動、誰がやっているかは明らかだった。

 銀が宮司システムを起動した。

 宮司システムは和仁にしか起動できないものではない。適性さえあれば誰にでも起動はできる。しかし負担に耐えられるかは別。

 起動した瞬間、銀はめまいに襲われた。ひどい頭痛、神樹と一体化し、感覚が四国全土に広がって、過多な情報が脳を焼いていく。

 脳を焼く熱は薄い血管を破裂させる。眼球、鼻腔、汗腺、血の出やすい所から順に少量ずつ噴き出る。

 倒れそうになるのを歯をくいしばって踏みとどまる。

「あたしのせいで和仁が死んだ……。だから! あたしが背負わなきゃいけないんだ!」

「待って、銀! 一人で戦わないで!」

 罪悪感、後悔。負の感情が銀の背を押す。

 自分が弱かったせいで誰かの命を失ってしまった。もう戻ることのない喪失を自分が招いてしまった事実があった。

 だから生き残った自分は戦わなければならない。そうでなければ死んでしまった和仁の死が無意味なものになる。それだけは嫌だった。

 戦うことが死なせてしまった贖罪になる。そう思って銀は手に持った斧に力を込めて舞う。

 三人は跳ぶ。

 正しくは一人突出した銀を追うように二人も跳んでいた。

 全ての負担を銀が背負うことで宮司システムが復帰、三人は連携を取り戻した。

 立ちふさがるように牡牛座が立ちはだかる。備え付けた鐘を鳴らして轟音をもって攻撃する。

 巨大な音は質量となって襲う。故に銀は手に持った斧の片割れを投げた。

 投げられた斧は回転しながら真直ぐに牡牛座に向かい、牡牛座の鐘を砕く。

 投げた斧に追いついた銀は飛んできた勢いのまま斧を両手に持って振り下ろす。

「死ね! 死んで詫びろ! 消えろよぉ!」

 純粋な憎悪が呪詛のなって口から漏れる。

 もはや、平素の彼女ではない。殺意と憎悪を動力源にして三ノ輪銀はかける。

 振り下ろされた斧は牡牛座を無残に砕いた。

 しかしそれでも銀は止まらない。

「死ね、死ね、死ねぇ!」

 執拗に動かなくなった牡牛座に斧を振り下ろす。

 振り下ろした斧の動きが止まったのは自動的に発動した鎮花の儀によって牡牛座の姿が消えてからだった。

 それでもまた斧を振り下ろそうとする銀を園子が羽交い締めにして止めた。

「落ち着いてよミノさん! どうしちゃったの?」

「一人で前に出たら危険よ。……そんな戦い方、お兄ちゃんだって許可しないわ」

「でも、でも……、あたしのせいで和仁が……、死んじゃったよぉ」

 銀は俯いて嗚咽を漏らす。罪を懺悔するように親族である須美に和仁の死因が自分であることを告げる。

 須美は一瞬呆然とする。兄が死んだこと。その原因が友人であったこと。

 どう考えていいか分からず、考えて、そして結論を出す。

 伸びた両手が銀の襟を掴見上げる。須美は睨むようにじっと銀を見る。

「良いこと、銀? お兄ちゃんが死んだのはあなたのせいかもしれない。でもそれであなたが死のうとするのを私は許さない」

「……え?」

 許さないと告げられ、銀は須美を不安げに見返した。

 変わらず銀を見ながら須美は続ける。

「お兄ちゃんが死んだのはあなたを守ろうとして起こったこと。なら守られたあなたが捨て身になってどうするの。もうあなたの命はあなただけのものじゃないのよ。あなたが今死んだらそれこそお兄ちゃんが死んだことを無意味にする。戦いなさい、そして生き残りなさい。そうじゃないと私はきっとあなたを許せなくなる」

「ミノさん……。ミノさんが辛いのも分かってるけど、わっしーや私も辛いんだよ? それなのにミノさんも死んじゃったら私、どうしたら良いか分からないんよ……」

 純粋に心配そうで、今も大切な友達を失って泣きそうになっている園子が額を銀に当てる。

 弱々しく当たるそれを通して、園子の震えを感じて銀は肩の力を抜いた。

「……ごめん、そうだよな。守ってもらったのに命を粗末にしたらダメだよな……」

 園子は羽交い締めを解き、須美に並ぶ。

「……分ってくれれば良いのよ」

「みんなでワニー先輩を連れて帰らなきゃだね」

 園子の言葉に銀はまださよならを言っていないことに気づいた。

 銀が二人に並び頷きあう。生き残るために、もう一度さよならを言うために敵に立ち向かっていくことを決意する。

 そして見上げ、顔を驚愕に染めた。

「なッ……、なんだよあれ……」

 さらなる困難が立ちはだかろうとしていた。

 残った八体のバーテックス。中央の獅子座が太陽のように熱を放ちながら輝く。その輝きが広がっていくと周囲にいた七体のバーテックスを捕食、吸収する。

 同輩を喰らい、力を受け継ぎ、獅子座は膨張していく。変化が終わるとそこにいたのは太陽と見間違うほどの威圧感を放つ巨星。

 同胞の力を使うのはお前たちだけではないと言うように仲間を吸収し、獅子座は人類を滅ぼす最後の仕上げに入る。

 巨大な影を作りながら獅子座は神樹にとどめを刺すため、最後の侵攻を開始した。

 敵を止めるため、人類を守るため勇者たちは飛び出した。

 そしてあっさりと何の山場を迎えることもなくあっさりと勇者たちは倒された。

 数えるのも馬鹿らしくなるほどの攻撃が雨あられと降り注ぐ。

 倒れ、負担に内臓が傷ついて咳に混ざって血を吐く。

「カハァッ! ケホッ、……な、何で?」

「嘘……、あんなのどう対処しろって言うの……」

 たとえ巨大な敵とはいえ、相手は一人。三人で囲えば有利にはならなくとも互角に持ち込めると思った。

 しかし現実はそんな楽観的な予想を踏み潰していった。

 融合した獅子座は取り込んだ七体のバーテックスの特性を打ち消しあうことなく行使した。

 能力を共生させるだけでなく融合したことで出力それ自体も強化され、もはや人の手に負えない存在に到達してる。

 バーテックス、それは頂点を意味する言葉。皮肉にも人間が武器とした仲間との絆、協調を持ってバーテックスは完成たる頂点へと到達した。

 もやは人間には止められない。

 攻撃を中断した獅子座は倒れて見上げるだけの三人を素通りし、神樹へ向かっていく。

 敵とすら認識されていなかった。

 悠然と獅子座は着実に神樹との距離を詰めていく。

 その到達が意味するのは神樹の終わり、ひいては神樹に守られている人類の終わり。

 繋がった宮司システムを通じて銀は時間の止まった四国を見る。

 普段通りの生活を営む人々。明日が当然来るのだと思っていて、今にも人類が絶滅する危機にあることなど思ってもいない。

 そんな当たり前。あって然るべき当たり前が今、なくなろうとしている。

 それはあってはならないこと、明日がなることはあってはならない、なって欲しくない。

 それは死んでしまったらもう見ることのない朝日のようで、死んでしまった和仁はもう見ることのない光だった。

 最後に見た和仁の眠る表情を思い出す。安らかだった。銀を守れて、死んでしまうけど、けれど自分よりも大切な人を守れてよかったと寂しさを覚えながらも満足して果てた。

 思い出して、また怒りが心を染めていく。守れなかった自分の不甲斐なさに対する怒り。

 ふらついて今にも崩れてしまいそうな両足に力をこめる。

 霞んだ瞳で敵を見上げる。圧倒的な敵、文字通り手も足も出ない強大な敵。

 諦めそうになる。

 ——いいじゃないか、これだけ頑張ったんだ。

 でもきっとその諦めは受け入れられない。

 ——どうして頑張って人間を守ってくれなかったんだ。

 ——うるせえよ、あたしらだって頑張ったんだ。でも敵が強すぎて、何枚も上手で、敵わなかったんだ。どうしようもないんだよ。諦めて死ねよ。

 ——…………

「そんな理由で諦められるわけがないだろ!」

 弱音を吐く心の内に叱咤する。

 敵が強い? 自分が弱い? 勝てる見込みがない?

 それがどうした。

 手も足も出ない? なら頭を使え、諦めるな。

 負ければ何もかもが奪われる。それはダメだ。許せない。

 ——勝つのはあたしだ。

 弱気な自分を焼き殺す。戻ることも振り返る必要もない。ただ前に進み勝利する。

 故に勝利するのは自分なのだ。

 何もかもを出し切っていないうちに戦うことから逃げてどうする。

 諦めたから、途中で出しきらなかったから和仁は死んだんじゃないのか?

 ——嫌だ、嫌だ、嫌だ!

 もう二度と何も失いたくない。二度と起こさない。そのためだったらいかなる犠牲をも払おう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だから叫べ、絶叫しろ。赫怒の感情を礎に、もう何も奪われないために願い、手に入れろ。

 勝利するための力を。

 その意思が、必ず勝利するという激情が宮司システムを引き出す。より深く、より自身の輪郭を破壊するように銀は神樹に繋がっていく。

 深く、深く一体化して、それを探り当てた。戦うための力、かつて切り札として扱われ、そして封印されたそれを。

 一度見つけてしまえば繋がりは確立される。あとはあやふやなそれに明瞭な方向性を与えてやればそれでいい。

 狂うように叫ぶ、求めるその名前を。

「来い、かずひとぉ!」

 叫びに答えるように神樹が悲鳴にも似た脈動を鳴らす。

 溢れ出た過剰な力は顕現というただの動作に破壊力を与えた。

 吹き荒ぶ神通力は大気を軋ませ、不快な音をかき鳴らす。

 空間を歪ませるほどの重圧はただいるだけで周囲に緊張感を与える。

 明らかな異常事態に悠然とした態度だった獅子座は現れたそれが何かをする前に消してしまおうと攻撃を仕掛けた。

 三人の勇者たちを一瞬で倒した打ち消し合わない融合した8体のバーテックスによる同時攻撃、しかしそれは何の結果も残さずに終わった。

 銀に寄り添うように現れたそれはただ手をかざし、二人を包み込むように光の膜が出現した。天災と表現すべき攻撃の一切は膜に触れると存在が初めからなかったように霧散した。

 そして攻撃が終わり、手を下ろす。

 それはかつての西暦の時代において勇者たちの用いた力だった。神樹の中に情報として保存された概念を固定化して武器として使われたその名前は精霊。

 神樹の中にある概念情報とはすなわちかつて人々が畏れ、敬い、信仰してきた存在すべてが該当する。神樹が数多くの神々の集合体として顕現したが故の特性であった。

 乃木若葉が源義経と大天狗という精霊を用いたように三ノ輪銀は神稚児という信仰対象を和仁という枠を与えて自身の精霊として顕現させた。

 勇者が召喚した精霊はその特性による力を勇者に与える。源義経であれば高速の剣技、烏天狗であれば翼と天上界を一夜で滅ぼした破壊力。

 そして神稚児の特性とは生贄であること、願われること。

 両手を下ろした神稚児はそっと後ろから銀を抱擁する。銀の望み通り、精霊である神稚児は動く。銀に与えられたのは生贄になるという特性、生贄とはすなわち何かに捧げられる存在。信仰のために捧げられる存在。

「贄を承認。昇華はここに成された。汝の願いは聞き入られた」

 感情を一切排除した機械のような声で和仁の皮を被ったそれは確かに和仁の声で宣誓の祝福を述べ上げた。

 そしてこの場において最も信仰されていたのは勝利という結果ただ一点。勝利するのはあたしという銀の感情に従い、銀は己自身に己を捧げた。

 そして花が開く。鎮花の儀によって花降るはずの色とりどりの花弁は牡丹一色に置き換わる。命という水を吸い上げて赤い花を花開かせて散らせる。

「もう、何も奪わせない。例え、あたしがどうなろうとも、お前たちには一歩も先に行かせない。勝つのはあたしだ」

 後に満開と呼ばれるそれは今この時を持って初めて発動した。

 ただ横で見ているしかなかった須美と園子はその輝きに薄暗い不安を覚えた。まるで死装束のような満開の衣装を見て、銀の放つ輝きはそれこそ命と魂を燃やして燃え上がる鬼火のようだった。

 次世代の勇者システムの根幹を成すそれは命を焼き捨てながら燃えるように産声をあげた。

 本当の地獄の入り口はここに姿を現した。

 なぜなら絶望とはただ失う現実から来るものではなく、希望という灯火が消える時にこそ見出されるものだから。




忙しすぎて思った以上に遅くなってしまった。
というわけで満開と精霊バリア実装です。
原作ってよく考えたらどこから満開と精霊のリソース持ってきたか分からないよね。ということで作者なりの理由づけで実装されました。
事後処理的な数話でわかゆこは終わりになります。
というわけで待ってて次回。


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さよなら

 煌々と太陽のように輝き始めた獅子座は四国ごと神樹を燃やさんと襲いかかる。

 しかしその一種の神聖さすら備えた光輝は無情に、容易く、正面より飛来した更なる輝きに打ち消される。

「それだけか、たったそれ如きであたし達から奪ったのかぁー! もうなにも奪わせない、お前たち化け物なんかにないも奪わせない!」

 赫怒の闘志を燃やして銀は輝きと共に現れた巨大な腕を用いて獅子座を掴んで離さない。

 強大であるはずの獅子座の力、通常であれば勇者が何人で束になろうとも叶わないはずのそれに拮抗し、徐々に押し返していく。

 それを成すは三ノ輪銀。今、神稚児を精霊として己の身に降ろし、勝つための逆襲を始めた白い勇者。

 神稚児の特性は二つ。『生贄』であること。『願われ、それを叶える』こと。

 その性質に影響され、神樹の力によって編まれていた勇者の装束に変化を与える。

 赤と黒の牡丹を思わせるそれは今や死装束そのものである純白の着物へと変わり、背には神聖を示す後光を象った装飾が浮いていた。

 明らかに異質な力。明らかに神樹由来ではないそれを銀は纏う。

 銀に連れ添うように背後に出現した精霊『神稚児』は瞳を閉じ、両手を広げ、呪禁の詩を奏でる。

 それは自身に勝利を、奪われないことを願った銀への詩。歌うは祝福を込めた呪詛。当然である。いつだって生贄とは呪術の礎なのだから、奏でられるのは呪いの歌こそふさわしい。

 美しい歌声に呼応して銀の纏う力が増していく。

 本来であれば精霊の力とは使用者を蝕むものだ。心身を蝕み、汚していく。

 分かりやすいところで心の中に住まう負の感情を増幅させていく。過去においてはそれが原因で勇者同士が傷つけ合うことすらあった。

 しかし『神稚児』を御する銀にその方面での影響は存在しない。何故なら『神稚児』が側にいるから。

 湧き出た負の感情とは元を正せば小さな不満。誰だって小さな不満を持っているものだ。何かが上手くいかなかった、思うようにならなかった。そんな些細な有り触れた小さなきっかけ。それを精霊の特性は増幅させて負の感情に変換していく。

 しかし寄り添う『神稚児』がそれを許さない。例えどれほど小さな不満であろうとも神稚児はそれを叶える。願われ、叶えるのが神稚児の在り方だ。

 精霊の特性と神稚児の在り方が組み合わさる。精霊を降ろすことで生まれる増幅された負の感情、燃料に願いを叶えていくことでより力を増していく。

 願えば願うほど神稚児は力を振るう。負の感情は激しく燃える蝋燭のように消えていく。

 後に残るのは純粋な闘志のみ。力を望めば望むほどに自身の身体を贄に相応しいものに作り変えながら力を際限なく増していく。

 言ってしまえば神稚児の特性が精霊の負の側面を打ち消していく。

 当然、良い面ばかりではない。物事とは天秤のように常に反対の方向からの負担をかけられるだから、何にでも反作用というものがある。

 この場合、それは闘志に満ち満ちていくこと。人の欲には際限がないことが合わさり、その身を人でない何かに置き換えながら出せる力を増していく。

 そうした変化は銀の人間らしさを奪っていく。心には限りがある。それが全て、文字通り全てが闘志に置き換えられていく。

 最早銀の瞳には敵である獅子座しか写っていない。心の声が叫ぶ。敵を倒せと止めどなく心の中で絶叫が響き渡る。

 尽きることのないその衝動に任せて銀は獅子座を潰すために駆けていく。

「銀……」

「ミノさん……」

 後ろで見ているしか出来なかった須美と園子は飛び去っていく銀を見送る。銀の放つ輝き、絢爛な輝きに二人は薄ら寒いものを感じた。

 銀の放つ赤い輝き。それは夜空に浮かんだ赤い月、流れ出た血を連想させる。

 人の奥底にあるものを燃料にして放たれた輝きは本能的な不安を誘う。

「どこへ行こうと言うの、銀……? ダメよ、戻ってきて!」

 手を伸ばすように呟いた声は誰にも届かずに儚く消えた。

 具現化された精霊、『神稚児』は変わらぬ表情のまま眼前で戦う勇者を見つめながら、途切れずに呪禁の詩を奏でる。

 契約した勇者との霊的な繋がりから願いを受信し続ける。

 ——…………もっと力を。

 ——承引。契約者の両足を贄に最適化のため変換。願望を実現。

 ——……もっと力を。

 ——承引。契約者の両腕を贄に最適化のため変換。願望を実現。

 ——もっと力を!

 ——承引。契約者の内臓機能を贄に最適化のため変換。願望を実現。

『神稚児』の特性が連続して行使される。その度に銀の体は生贄として最適化され、自分自身を贄にして願ったことが叶えられていく。贄にされた部位は動かなくなる。

 当然である。贄に捧げられたのだから、もうそこは己に帰属しないものになったのだ。銀が銀自身に贄を捧げることによって身体の所有権が消失していく。所有していないものは自分の一部として物理的に繋がっているとしても霊的には絶たれ、同時に感覚も無くなっていく。

 戦って、戦って、戦って。劣勢であったのが嘘のように銀は獅子座を圧倒していた。

 幸いなことに銀が願ったのは戦う力。その本質は敵を倒し勝利すること。操作を失った部位は銀の意思を反映して自動的に戦うように動く。少なくとも戦っている間においては捧げられた部位は敵と戦ってくれる。

 それは同時に戦いが終わった瞬間に贄に捧げた部位が動かなくなることを意味していた。

 銀は戦いながら闘志に顔に歪ませて、それと同時に涙を流していた。

 体を失う恐怖からではない。それは失ったことへの悲嘆。

 勝利へ確かに一歩ずつ前進して闘志に満ち溢れながらも、それでも銀の心は僅かな、それでいて確かな嘆きが滴っていた。

「もっと早くこの力に目覚めていれば和仁は死ななかったのか……?」

 もう力においては 追い抜いてしまった獅子座を難なく、圧倒しながら思う。

 もう不可逆な、取り戻すことのできない大切な人の喪失に涙を流す。

 巨大な腕で獅子座を殴りつける。殴られた獅子座は身体を粉砕されながら後退していく。獅子座の欠けた破片が飛んで小さく切り傷をつける。しかしもう自分の一部でなくなった部位からは痛みが伝わらなくなっていた。自分の体が着実におかしくなっていることに恐怖を覚える。生きたまま何か別のものに変化する恐怖。しかしそれとは違う理由で涙が溢れる。

 銀はもう戻らない自分の身体という恐怖からの痛みよりも、他の誰かの喪失の痛みに泣く少女だった。

 そういう少女だったから彼女は勇者へと選ばれたのかもしれない。そういう少女だったから和仁は惹かれた。そしてそういう二人だったから運命はこうして決した。

 鷲尾和仁の犠牲を礎にして神すらも打ち砕く力を手にした。しかしどれだけ強力な力で勝利しようとも和仁の死がなかったことにはならない。もう和仁が笑うことも、その声を聞くこともないのだ。思ってしまう、そうしたらもう止められる道理などあるはずもない。

 ——会いたい、会いたいよ。抱きしめて好きだと言ってこの気持ちを伝えたい。

 もう届けることのできない言葉を伝えたい。()()()()()()

 ——承引。契約者の■■■■を贄に最適化のため変換。願望を実現。

 変わらず平坦で感情のこもらない声で『神稚児』はこともなさげに承諾した。

 その声を聞いて背筋に怖気が走る。気づけば願ったことを後悔していた。

「ダメだ! そんなことしちゃいけない、やめろぉ!」

 行かせまいと手を伸ばそうとするが戦うことと関係のないことに身体は動こうとしない。彼女の両腕はもう彼女のものではないのだから。望んだ通り敵を滅ぼすために体が動く。

『神稚児』は願いを叶える。対価さえ用意できれば、この精霊は願いを際限無く叶える。そこに神稚児の意思や感情は介在しない。何故ならば願われ、叶えることが神稚児の在り方なのだから。

 銀に変わらず力を与えるために寄り添っていた『神稚児』が姿を消した。

 次の瞬間には神樹のすぐそばで果てていた和仁の側に『神稚児』が現れる。

『神稚児』は自分と同じ顔をした和仁を見る。

 安らかな死相で眠り、腹には変わらず大穴が空き、周囲にはこぼれ落ちた内臓と血液が散乱していた。生き絶え、自ら動くことはもうないことは明らかだった。。

 ——現状を認識。不足部品を補い、再稼働を促進する。

 見下ろした『神稚児』はこともなさげに自身の両の五指を胸骨に指を差し込む。

 精霊でありながら差し込んだ隙間から血が溢れ出す。

 痛みを感じないのか無表情を変えず、そのまま胸骨を腕力を用いて開いた。精霊でありながら本物の人間のように内臓が中身としてあった。胸骨が開かれ、そのまま服を破り、股下まで自身の体を裂いていく。

 晒された臓器や噴き出た血が重力に従い流れ出て、それを死体である和仁が受け止める。

 まるで空いた穴を塞ぐようにして人体の内容物が欠けた部分を穴埋めしていく。

 最後に『神稚児』が手をかざしすとこぼれ落ちた精霊の内臓がひとりでに動き出し、肉の蠢く不気味な音をたてる。

 肉の砕ける音、何かが蠢く音を鳴らしながら和仁の遺体が痙攣して、そしてまた動かなくなった。見た目だけは無傷な状態に変わる。大きく開いた胴の穴も綺麗に塞がっていた。

 それを見届けてから『神稚児』は姿を朧げに煌めく粒子に変え、その場に残った粒子が和仁の中に消えていった。

 少しの間をあけて、死んでいる和仁の身体が大きく跳ねた。

 死人特有の蒼白だった肌は変わらず、そのまま和仁は目を開いた。

「……、あれ? ここは……」

 気がつき、硬くなった体を無理に動かしながら起きる。

「……なに、……これ」

 覚醒してまず目に入ったものに思わず息を飲む。

 周囲に散らばった臓器と血を見て青ざめる。

 もしかして自分は銀を守れなかったのか。

 不安が沸き起こった。すぐに周囲を見渡す。

 しかし周りには誰もいない。銀はいなかった。そこにいるのは何故か上半身の神官服が跡形もなく破れた自分と周囲の夥しい量の血を臓物ばかりだった。

 冷静な思考が疑問点をまとめる。

 何故銀をかばったはず自分が生きているのか。失敗したのだとしたら銀はどこへ行ったのか。確かに自分は銀をかばって体に大穴を開けたはず。そこからの記憶は一切存在していない。

 なにが起きているのか分からず、傷ひとつない自分の体を確かめるように触る。そして違和感に気づく。

「……どうして心臓が動いていない? それなの僕は生きてる?」

 何度確かめてもあるはずの心臓の脈が感じられない。脈がないのにどうして自分が生きているのか分からない。

 ゾッと正体不明の寒気が背筋を伝う。あまりにも理屈に合わない状況を前にした和仁の精神は状況を理解できない不安に押しつぶされそうになる。

 不安に押しつぶされて動けないでいると自分を何かが呼んでいる気がした。正しくは自分の中から手が伸びて何処かを指し示すような奇妙な感覚。押されるように動こうとして足を動かしたその瞬間に周囲の景色が変わった。

 空中に浮いている。

 自分の意思とは関係なく身体が勝手に動く。自分の身体が着ぐるみのようになった感覚、連続する意味不明な状況のせいで動揺しそうになって、それよりも眼前の光景に目を見開く。

 後ろ姿だった。勇者システムに関わった和仁が見たこともない装束に身を包んだ銀が最後に見た時よりも巨大化して圧倒的な存在感を放つようになった獅子座を相手に優位に立って戦っていた。

 口が勝手に開き、喉が呪禁を詩として奏でる。和仁はこれを知っている。

 持禁と呼ばれる身を清めることで病気の原因とされる邪気を退ける呪法の一種。それを起こすための呪いの祝詞。

 和仁の意思とは関係なくその祝詞を歌い上げられる。

 何かがまずい。状況が急に変わりすぎてなにが起きているのか正確には判断できていない。だが明らかに銀へと向けて自らが奏でているこの詩がまともなものには感じられない。

 ——なんとか止めないと、でもどうやって?

 心の中で呟こうとも状況は変わらない。

 巨星と化した獅子座、それを真っ向から圧倒する見たこともない装束に着替えた銀、銀へと向かい呪いの祝詞を歌う自分自身。

 身体は言うことを聞かず、ただ見ているしかできない。

 歌い続けることで冷静になりあることに気づく。使っていないはずの宮司システムが稼働している。冷静になったことで微細だった目の前にいる銀の感情が伝わってくる。

 ——敵を倒すんだ。もう何も奪わせたりはしない。生かしておけない、

 憎々しげな声色で伝わってくるのは明確なまでの殺意。

 思わず耳を塞ごうとして身体の自由が効かないことを思い出す。

 ——やめてよ、そんなの銀ちゃんらしくないよ。君が戦ってたのは敵を滅ぼすためなんかじゃなかったはずなのに。

 聞きたくなかった。あまりにも彼女らしくない言葉と声色に込み上げてくる感情。それは否定。

 もう見ていられない。

 戦うほど、強くなっていくほど、彼女らしさが失われていく。自分が強く惹かれたあの暖かな優しさが、それしかいらないと言わんばかりに己の身すら焦がす赫怒の憎悪に塗り替えられていく。

 銀の身体が操る巨大な腕が同じように巨大な戦斧を呼び出し掴む。明らかな殺意を纏ったそれを認識して獅子座は避けるために大きく後ろに回避しようと試みる。

 しかしそんな獅子座の行動は成し遂げられなかった、増設された巨大な腕が獅子座を掴む。二対、合計四本の腕がそれぞれ獅子座を掴み、戦斧を握りしめる。摩天楼と見間違えるばかりの巨大な斧が処刑人の刃のように振り下ろされた。

 腕の比類なき腕力、斧の圧倒的重量が暴力となって発揮される。まるで大地を砕くような音を立てながら鋭い刃が獅子座を切り進んでいく。

 もはや戦う敵として役不足となった獅子座は抵抗をすることすら許されず、振り下ろされた斧に破壊される。

 心のないバーテックスである獅子座は焦ることなく消滅の瞬間にこれ以上戦っても勝つのは不可能だと判断する。自身の半壊した核を暴走させ、余剰のエネルギーを用いて自爆を決行する。

 半壊しているため本来の数十分の威力に満たなくともただ消滅させられるよりはいいと瞬時に暴走を開始して、そうなった。

 最低でも四国の2割を焼き払える熱量の奔流がその場にいる銀と和仁を飲み込もうと襲いかかる。

 まずいと銀は降りてくる熱を見上げながら焦る。戦いが先ほどの獅子座の自爆で終わったのだと判断されたのか、もう身体が動かない。

 勝利したはずなのに、このままでは守ろうとした四国を焼き滅ぼされてしまう。

 もう一度動くことを願おうとして一瞬止まる。

 本能で気がついた。

 次はもう無い。

 それがどういう意味なのかは分からない。だが自身の直感が、生まれてきて今日まで使ってきた身体と心が告げている。もう次は無いのだと。

 ——それでもやるしかないんだ

 そう心の中で言って、己を後押しする。

 ——私は……

 ——大丈夫だよ、銀ちゃん。ぼくがここにいる

 願おうとして、呼び止められた。

 薄い光の膜が落ちてくる熱量を受け止めるように広がっていく。

 目に入ったのは目を閉じて歌い続けながら両腕だけは空に向かって広げる和仁。

 光の膜、バリアが広がっていき、巨大な熱量を正面から受け止める。バリアに触れたところから熱は消滅していき、迫っていた熱量は跡形もなく後に残っていたのは銀と和仁の二人だけ。

 戦いが終わり、二人は静かに地に降りていく。

「……銀ちゃ、って危ない!」

 大地に立って、急にバランスを崩した銀を和仁が正面から受け止めた。力なく銀が和仁に寄りかかり、顎を肩に乗せる。

「……もう、銀ちゃんはそそっかしいね。早く帰って病院にいこう。そしてどこか悪くなってないかちゃんと見てもらおう? ……銀ちゃん?」

 銀を受け止め、ホッとした和仁が安らか笑う。

 しかしいくら待っても銀からの返事がない。

 そして気づく、受け止めた銀がおかしいくらいに冷たい。そっと腕に触る。ざらりと土を撫でたような感触だった。驚いて触れた手を見る。どこからか来た土がべったりと手についている。

 否、出所は明らかだった。触った銀の腕、それ自体から土が付着した。瑞々しいはずの肉はところどころ乾いた土に変質している。腕だけではない。目につく場所全てが同じように変質している。

「なにこれ……、どうしちゃったの銀ちゃん……?」

 明らかな異常事態にうろたえる。返事はない。じっと和仁は瞳を不安に揺らしながら銀の返事を待つ。

 永遠とも思えるような沈黙の後、困ったような声を銀は出した。

「あぁ……、そうだよなぁ。まだ変わり切らないのはそういうことだよな……」

 どこか納得の言った様子で銀は呟く。その声は遠くどこかに行ってしまいそうで、どうしていいか分からない和仁が銀を強く抱きしめる。

 観念したように銀が語りはじめた。

「昔の勇者たちが使ってた精霊ってやつの力をつかって敵をやっつけたんだ。……それであたしが呼び出せたのは神稚児って名前の精霊だった」

「神稚児……、僕のこと?」

「うーん、多分だけど今生きてるあたしらが、大赦が信仰してる和仁が元になってるんだろうな。あたしが縁になって呼び出せたみたい。そいつの力を使って敵を倒せたんだ」

「銀ちゃんがそうなったのは僕のせいってこと?」

 不安げに和仁が問いかける。身体が土に変わる。明らかに身体に害のあるそれを見て無事だとは到底思えなかった。

 寄りかかったまま銀は苦笑する。

「和仁のせいじゃないよ、誰も悪くなんかない。ただみんな和仁に願ったから、和仁が叶えようとしたから、そういう在り方が精霊の神稚児を産んじまっただけなんだ。だから誰も悪くないんだ」

 和仁をかばうように銀は言う。納得のいかない和仁が言葉を続けようとする。

「でも銀ちゃんが……」

「これはあたしの自業自得だ。あたしが望んで神稚児がそれに応えた。だから和仁が謝るようなことはないもない。ただ、あたしが願ったんだ。もう一度和仁に会いたいって、もう一度会って思ってることを全部伝えたいって願ったんだ。……でも、もう言えなくなった……」

 銀が願ったのはもう一度和仁に会うこと。そして己の胸の中にあるこの暖かい感情を伝えること。

 死体のまま動き出した和仁に思いを伝えてしまえばその時点で神稚児の力は終わってしまう。和仁が本来あるべき死に戻ってしまう。

 だからもう思いは伝えられない。例えどれだけ思っていてもこの心は言葉にできない。

 切なそうな、寂しそうな声色で喉を震わせる。

「もう一度会って、言いたいことがあったんだ。でもそれを言ったら和仁を動かしてる精霊の力がなくなっちゃう。だからもうこれは言えない……」

「それって……」

 和仁の言葉が遮られる。

「だめなんだ。もう言葉にできないんだ。……あぁ、くそっ! なんだよあれ……、まだ倒し足りないって言いたいのかよ」

 悔しそうに銀は和仁の背後を睨みつける。銀の行動に気づいた和仁も同じように背後を振り返り、そして目を見開く。獅子座の熱量、それは神稚児の作り出したバリアによって二人と四国を害することはなかった。

 しかしその逆方向、獅子座側はバリアの防御の範囲外だった。

 そこにあったのは四国と外を隔てる神樹の結界。それが大きく損なわれていた。開いた穴から向こう側、赤黒い灼熱の世界が見える。

 しかし今はそれどころではない。開いた穴を通って無数に侵入者が現れる。それは星屑と呼ばれる十二星座のバーテックスの下位互換の尖兵たち。一体、一体は大した戦力にならない。しかしやって来たのは数えるのも馬鹿らしくなるほどの大群。

 もうあれと戦える戦力は人類側にはいなかった。須美と園子は獅子座に攻撃に倒れ、動けず、銀は捧げてしまった身体の部位が動かなくなっている。

 万事休すと言わざるを得ない状況。

 完全に詰んだ。もう見ていることしかできない。

 ふぅ、と銀は息を吐いた。覚悟を決める。

「——神稚児頼む。やってくれ」

 ……あたしの大事なものを守ってくれ。和仁の生きる未来を守ってくれよ

「——承引。変換可能な部位が存在しないため契約者を贄に。願望を実現」

 和仁の口は本人の意思と関係なく動く。和仁を動かしている精霊『神稚児』がその特性を発揮する。

 身体が和仁の意思とは関係なく動く。止めようと思っても自由が効かない。

 抱きしめていた腕を離し、もう捧げられる部位がないために三ノ輪銀という存在を贄にその願いを叶える。贄として最適化された肉体の全てが贄として消費される。

 土になりかけていた身体は完全に土に変わり、崩れていく。

 目の前で大切な人が土になって崩れていく。それを行なったのは自身の両腕。

「銀ちゃん!」

 いつの間にか腕を動かせていた。

 連れ戻そうと手を伸ばして掴もうとする。手に触れた。触れた手はすでに土に変わり、手の中に土の塊が残るだけ。何も取り戻せなかった。

 目の前で銀は土となって崩れていく。

 人の肌の色ではなくなったところから小さな芽が顔を出す。

 次々と開いていき赤い牡丹の花を咲かせていく。それが何度も続いて少しづつ銀の身体を覆っていく。

「やめて……、いなくならないでよ銀ちゃん……」

 呼び止めようとも花は咲いていく。笑うように表情を崩した銀が何かを言おうとする。しかし声帯はすでに土へと変わり、言葉を紡ぐことはない。

 もう目の前の彼女は人の輪郭を失っているのだと理解してしまう。

 いなくならないでと願い腕を伸ばす。崩れつつある身体を抱きしめ、それを最後に崩れ去った。

 朽ちた肉は細かい土となって辺りに広がり散った。咲いた牡丹の華は木の葉のように舞う。

 優しかった手のぬくもりは物言わぬ土に、清く織り成された記憶は儚い華となって散る。

「……あぁ、あぁ……。あああぁ!」

 抱いた腕の中で大切な人が砕けた。その現実に直面し言葉を失う。

 息遣いが言葉以下の風切り音をぎこちなく鳴らす。

 もう、どうしようもない。散っていく牡丹に手を伸ばして、しかし風に乗って遠くへ離れていく。

 そして変化があった。

 樹海が震える。振動と共に暖かな光が樹海を満たす。突如起きた変化、しかしそれに和仁は不安を持たない。見て理解する。これは銀の輝き、見間違えるはずもない優しい彼女の暖かさの象徴。理屈や理論などを通り越して直感がそう告げる。

 地響きと共に溢れ始めた光が侵入して来た星屑たちを追い返していく。物体に触れる光という矛盾した現象は四国にいるバーテックスを押し出し、それを終えると四国の結界と外の境界にとどまり、穿たれた結界と同化していく。

 赤い花弁が舞い始める。舞い落ちて来た花弁は結界に触れると溶けてなくなり、その度に結界は修復され、より厚くより強固に生まれ変わっていく。

 なおも結界の外では星屑たちが攻め込もうと結界に食らいつく。しかしどれだけ試みようとも結界はそれを拒み追い払う。

 かつて西暦の時代。高嶋友奈がその最期に起こした奇跡を人の願い、そして人の願いから生まれた神稚児が再現する。

 長い目で見ればこの奇跡もただの時間稼ぎにしかならないのかもしれない。しかし、確かにこの瞬間。戦いが終わった。

 赤い牡丹の華が舞う幻想的な樹海の景気を見上げて、涙を流す。

 結局守れなかった。心に浮かんだ言葉が現状を表していた。

 守るために宮司になった——しかし結果はどうだ。

 守ったはずの勇者が最後に自身を生贄にして自分を生ける屍として取り戻し、本人は砕けて消えた。守られるはずの勇者に守られた。

 何のために宮司なったのだ。何のために自分は生きているのだ。守られて犠牲にしてのうのうと自分だけ生きている。

「何なんだこれは……。僕は一体何のために……。これじゃあ、僕が殺したのと同じじゃないか!」

 力が足りず無意味に死に、その果てで庇われた。

 自分のせいで銀が死んだ。その言葉が和仁の心を殺す。

 罪悪感が自然と手を動かす。薬指にはめた宮司システム、本来であればその位置にある指輪は祝福を意味するはずだ。しかし今はそれは呪いの象徴ともいうべき意味を有していた。

 心臓が止まり、腐敗が始まろうとしている身体を維持し、動かしている精霊『神稚児』を和仁に繋げる縁だった。それを外せば和仁と精霊の繋がりが断ち切れることを意味している。

 衝動的に指輪を掴む、抜けば死ぬとわかっていても込める力は一切緩ませず、引き抜こうとする。

 ——そんな風に自分を責めないで

 声が聞こえた。もう聞くことができないはずの声。

 驚いて指輪を掴んだままの姿勢で固まる。耳を通して聞こえたものではない。

 聞いてすぐに理解する。宮司システムを通して聞こえる心の声。

 ——せっかく守れたのに自分から死のうとしないで

 これは会話ではない。ただの残り香。銀が確かにいた残留思念。戦いが終わり今になって和仁に届いた銀の最期の意思。

 ——和仁の生きる明日を守るんだ。そのためだったらあたしはどうなってもいい。和仁の未来にあたしが居なくてもいい。

「ダメだよ銀ちゃん……。僕だけが生き残ったって君がいなきゃだめなのに……、一緒に居たかっただけなのにどうして、どうして……」

 精根尽き果て膝から崩れる。答えなど帰ってこない。一人を犠牲にして生き残った。その結果だけが残った。

 ——好きだよ、和仁。お前のためだったらなんだってしてやれる。なんだってできる気がする。だからもしここであたしが終わるのだとしても悔いはない。

「やめて……、やめてよ」

 残留した言葉は止まらない。システム上に残ったノイズのようなそれはただ記録された言葉を流して、紡がれた言葉は失われていく。

 ——あぁ、でも。もしこれが最期になっちゃうんだったら、笑って別れたいな。さよならの時くらい微笑んでいたい。最期に見るものは一番好きな物がいいな。

 ——泣くなよ、和仁。大丈夫、きっとこの声が聞こえなくても、思いだけは無くならないから。届かなくても、いつまでも想ってる。

 そして途切れた。もう声は聞こえない。完全に銀がこの世に生きていた証が失われ、永遠に失われたのだと分かる。

 もうどうしていいのか分からない。

 命を懸けて救われた命。

 力を込めていた手を離し、だらしなく放り投げる。ここで死ぬことは銀の献身を無為にする。だから死ねない。死にたくない。

 無力感ばかりが残って、立ち上がる理由もなくなり倒れて、動かなくなって、そのまま意識を闇に手放した。

「……心だけは一緒だから。どうか幸せになって」

 最期にそんな幻聴が聞こえた気がした。




というわけでわすゆ編の山場となる銀ちゃん退場これにて完結。次回わすゆ編最終話です。


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おしまい

 寒々とした雨が降りしきる日。三ノ輪銀の告別式が執り行われていた。

 大赦に関わる家々は揃って参加し、幼い命が失われたという事実と共有する。

 神官服に着替えた和仁は複数の神官を連れて廊下を歩く。その表情は無の色に引きつっていた。

「いやはや、この度はお悔やみ申し上げます」

 その言葉を聞いて足を止めた。そこは参列者を集めた部屋だった。涙もろい人たちはすでに啜り泣き始め、そうでないものも悲痛に顔を曇らせている。

 言葉を発したのは参列者の一人。受け取っていたのは銀の母。隣にはまだ幼い金太郎がベビーカーに乗っておもちゃで遊んでいた。

 涙でまぶたを腫らした銀の母に男性が言葉を続ける。

「しかし、私は銀ちゃんが神樹様のお役目で殉職したことを誇らしい。銀ちゃんも親孝行が出来て良かったと持っていることだろう」

「……えぇ、そうでしょうね。銀は立派にお役目を果たしたんですよね……」

 それっきり銀の母は唇を噛んで黙ってしまう。

 見ていてあまり愉快なものではなかった。しかし男性の言葉に和仁は何も言えない。なぜなら、男性の言った言葉はは大赦の公式の見解と同じだから。和仁がそれを否定するような言葉を言うわけにもいかなかった。

 無力感に苛まれているうちにふと、和仁は視線を感じた。向けられた視線に振り向くと喪服に袖を通した鉄男と目が合う。無気力そうな瞳でじっと和仁を見ていた。

 鉄男は何を言うでもなくただ少しも視線をずらさずに見ていた。

 じっと見られることを苦に思った和仁は会釈して向き直り、廊下を進んだ。

 参加者が全員会場へと集い、告別式が始まった。

 壇上の中央に和仁が立つ。用意された紙を開き書かれた文章を読み上げる。

「……これより三ノ輪銀様の告別式を執り行います」

 表情は無。眉ひとつ動かずに淡々と続ける。

 宮司である和仁が告別式の中心となるのは自然なことだった。

 選ばれた神樹の稚児であり、お役目を果たす者の一人である和仁が執り行うこと、それ自体がこの式に箔をつける。それこそが勇者の告別式には相応しいとの判断だった。

「本日ここに哀悼の意を捧げます」

 戦いから二日後、和仁は皮肉なことに生き残った三人の中で最も問題なく動ける状態でいた。しかしそれは無事という意味では無い。

 戦いが終わってすぐの和仁の状態は脈拍ゼロ、脳波ゼロ。生物的には死んでいると言う他にない。

 しかし現に和仁は動いていた。心臓が動いていなくても、体は生きていた時と同じように動いていた。

 神稚児の再生能力によって見た目だけは生きている人間と変わりない。

 異常は他にもある。レントゲンを撮ってみれば内臓の位置はぐちゃぐちゃ、そもそも繋がってすらいない。しかし食事を取れば問題なく栄養を摂取でき、排泄も通常と同じようにできていた。

 ひとえに和仁の中で同化するように融合した精霊『神稚児』が和仁を生かしていた。

「今、私たちは深い悲しみの内に勇者様にお別れを告げようとしています」

 見下ろす。目の前にあるのは本来であれば遺体が収められる棺。

 色鮮やかな花で遺体を飾るはずのそれは、今は花束の様だった。飾り立てられるはずの遺体がないのだ。遺体の代わりに収められているのは三ノ輪銀だった土が入った小さな箱。

 遺体すら残らない無残な死にように和仁はどういう表情をしていいのか分からなかった。

 する必要のない呼吸を条件反射的に行いながら脈のない身体であることを感じる度に、自分が銀に生かされているのだという事実を突き付けられる。

「……————」

 紙に書かれた祝辞を述べ続ける。

 庇おうとして、助けられて、そして今はこうして彼女への別れの言葉を述べている。

 自分がしたかったことは、こんなことをするために宮司になったのだろうか。否、断じて否だ。

 ただ守りたかったはずなのに、ただ生かされた事実が何よりも心を抉る。

 参列者に目を配る。ここにいるのは大赦に連なる家の関係者たち、そして神樹館小学校、つまり銀のクラスメイトたち。

 皆一様に銀が死んだ事実の痛ましさに顔を悲しみに歪ませていた。

 まるで自分のせいで皆がそうした表情をしている気がして和仁は言葉に詰まりそうになる。

 ——泣いていいなど思っているのか?

 心の中で己に鞭打つ。悲しむ資格すら自分にはない。許可できない。だって彼女が死んだのは自分のせいなのだから。殺しておいて悲しむなど笑い話にもならない。

「三ノ輪銀様が神樹様のお役目で落命されたました。その輝かしい偉業はとこしえに私たちの指針として残ることでしょう。どうか神樹様の元で安らかに、そして私どもの行く末を見守りください」

 神稚児、鷲尾和仁と締めようとしてガタンという大きな音で言葉が止まった。音の原因へと目をやるとそこにいたのは父親に腕を掴まれながらも暴れる鉄男だった。

「なんだよみんなして! なんで姉ちゃんが死ななきゃいけないんだよ!」

「コラッ! やめなさい鉄男」

 周囲もなんだなんだと思い、騒ぎ出した鉄男に目をやる。

 席に座らせようと腕を引く父など御構い無しに鉄男は続ける。

「みんなおかしいよ! 立派だったーとか、英霊になって羨ましいとか、なんで姉ちゃんが死んで褒められるんだよ! 姉ちゃん毎日頑張ってたんだ。それなのにどうして姉ちゃんが死ななきゃいけない!」

 そうだよね、と心の中で和仁は鉄男に同意した。

 本来死ぬはずだったのは和仁であって銀ではなかった。しかし起こるはずだった運命を銀がが否定し、結果として和仁が生き残り銀が死んだ。

 鉄男の慟哭を和仁は黙って受け入れる。

「兄ちゃんだってそうだ。姉ちゃんのこと守るって約束したのに、どうして兄ちゃんが無事で姉ちゃんが死ななきゃいけない!

 姉ちゃんじゃなくてお前が死ねば良かったんだ! 返せよ! 姉ちゃんを返せよ!」

 鉄男の言葉が刃となって和仁の心を切り裂いていく。

 何も言い返せず、その通りだという同意のみが残る。

 小さな子供の心無い言葉、騒ぐ煩わしさに驚いて動けなかった大人たちはハッと我に帰り、鉄男を式場からつまみ出そうと腕を引く。

 それでも暴れて鉄男は恨み言を止めない。

「神様ならどうして守ってくれなかったんだ! 神様なら守ってくれよぉ!」

「いい加減にしないか、神稚児様の前で無礼だぞ。こっちへ来なさい」

 手近にいた男性が思いっきり鉄男を外へ連れ出そうと引っ張っていく。大人の体格相手では流石にどうしようもなく、暴れながら鉄男は引かれていく。

 鉄男が腕を引かれ少しづつ式場の端へと連れていかれるのを見て、ホッと溜息を漏らす参加者たち。

「お待ちください」

 ぴしゃりと壇上の和仁が言い放った。

 暴れていた鉄男も、それを引いていた男性も、参加者たちも驚いてそちらへ視線を投げる。

 しかし俯いて和仁の表情は見えない。しかし声だけは雨に濡れたように冷たく、震えていた。

「鉄男くん、今は黙って静かにしていて欲しい」

「何でだよ、どうして姉ちゃんとさよならしなきゃいけない! 姉ちゃんを連れていくなよ!」

「ごめんね鉄男くん、でもこれで最期になるんだ。せめて最期くらいしっかりとお別れを言わないといけないよ」

「姉ちゃんを殺した奴が偉そうなこと言うなよ! 姉ちゃんを殺したくせに!」

「——そうだよ」

「……へっ?」

 鉄男の言葉は口から出まかせというべきものだった。大切な姉の命を奪われ、目の前の少年は守るという約束を果たさなかった。それが歪に繋がって殺したのだという妄言を生み出した。

 自分でも理不尽で見当外れなことを言っているのだと心の中で思っていた。それ故に唐突に肯定されたことで鉄男の思考に異物が紛れ込んで動かなくなった。

 信じられないものを見る様子で鉄男は和仁の言葉を待った。

「君のお姉ちゃんは僕のせいで死んだ。それは紛れも無い事実だ」

「……え、は?」

「だから許してほしいとは言わない。僕は一生銀を殺した罪を背負って生きていく」

 顔を上げ、そこで初めて和仁の表情が見えた。それを見た誰もが息を飲む。

 光の燈らぬ瞳、そこに宿るのは鋼の決意。13歳の少年がしていい表情ではなかった。

 脈打たない胸を掴み、贖罪の決意を言葉にしていく。

「僕は銀に生かされたことを一生忘れない。生かされたこの身体に誓おう。銀が命を賭して守ってくれたこの世界をなんとしても、たとえ何を失うとしても僕は守る」

「ち、違う……。僕はそんなことを言って欲しかったんじゃない。姉ちゃんだってそんなこと望んでない……」

「いいや、関係ない。これは生き残った者としての責務だ。拒否することも、逃げることも許されない。誰かを犠牲にして明日を生きるという責務を俺は背負って生きていく。もう決めたこと、もう止まることはない」

 生まれ落ちた贖罪の宣誓。誰もがその重圧に言葉を失う。とりわけ正面からその重みを受け取った鉄男にはもう目に映った少年がかつて約束を交わした少年と同一人物だとは思えなかった。

 和仁の皮を被った怪物だと思った。理解できない狂気すら覚える鋼の決意。人間らしい灯火のない瞳があまりにも恐ろしい。

「う、うぅ。うわぁー!」

 恐ろしくなって人間がまず最初にする事とは逃げる事。掴んでいた男性の腕を振り払い、鉄男は逃げる。

 悲しそうな表情で和仁は鉄男を見送る。それは姉を奪ってしまった罪悪感か、それとも決意を受け入れてもらえなかった寂しさか、和仁自身にも分からなかった。

 和仁は告別式の参加者たちに向き直る。そこに表情など欠片もない。ただ煌々と燃えるような決意を秘めた瞳だけが不気味に輝いていた。

「……失礼しました。ではこれより式を再開させていただきます」

 そして告別式はつつがなく進行された。

 

 告別式が終わり、息をつく間もなく和仁は大赦本部の会議室にいた。

 会議室内には仮面で顔を隠した神官たちが配られた資料に目を通しながら改変された勇者システムについて決定されたことを確認していた。

「——よって三ノ輪銀様の起こした現象を今後『満開』と呼称、満開により銀様が生贄として捧げられたことにより神樹様の結界が数倍にその厚さを増していることが判明しております」

 ただ事実を列挙していくだけでどうしようもなく空気が重苦しい。

「今後はこの満開を軸に戦略を構築することが決定されました」

「何故ですか?」

 グシャリと和仁の手元の資料が形を崩す。無意識のうちに力強く握りしめていたらしい。

 そのまま鋭い形相をもって発言した神官を睨みつける。

 睨みつけられた神官が恐る恐るという様子で言葉を選びながら説明を続ける。

「……その、銀様の落命後、神樹様の結界が強固になったことを受けて行った調査の結果、西暦末の勇者高嶋友奈様の落命時と同様、もしくはそれ以上の補強が行われたことが判明しました。またこの時をおいても結界の外側では小型バーテックス、星屑の攻勢が続いていることが判明、このままで二年以内に結界が破られるとの報告が来ています。

 ……えっと、そのため残った勇者様たちにこの結界の警備、および補強、……そして最終的に贄になっていただくことが今後の戦略の要となります」

「須美や園子ちゃんも銀ちゃんと同じように生贄にすると?」

「完全に同一というわけではございません。一部オミットされた満開を勇者システムに搭載、戦闘行為を舞いとして奉納することで神稚児の様の中に留まっている精霊『神稚児』の特性を引き出し身体機能の部位ごとを満開の対価として奉納、より長く、より強く戦えることを目的としております。そのため銀様と比べおおよそ倍ほどの回数の満開に耐えることができると考えられています」

 並べられていく残酷な言葉。より長く、より強くあの神稚児の力を纏って勇者二人は戦うことを強いられる事を意味する。

「駄目です。認められません。何より敵の総数が不明な以上、現状の唯一の戦力である勇者を失う訳にはいきません」

 それらしい理屈を並べていく。これ以上誰かを犠牲にする戦い方なんて許容できる余裕などもうなかった。

 なんとか方針を変えようと和仁が焦燥していると神官の一人が立ち上がる。立ち上がったのは上里だった。鋭い視線がそちらへ向けられるが上里に動揺した様子はない。

「理解したまえ和仁くん。もう我々に選択肢などないのだと。銀くんが稼いでくれた時間はせいぜい数ヶ月。敵は最早、一切の躊躇なく攻撃を続けている。この現実を直視した方がいい」

 仮面に隠された表情は読み取ることができず書類を読み上げるような、聞き分けのない子供を諭すような調子で言った。

 納得がいかず和仁はその言葉に食らいつく。

「それでも! そんな戦い方では勇者がどれだけもつか未知数です」

「敵が神樹様の結界を破ることは確かだ」

「精霊に贄にされた部位はもう動かなくなるんですよ!」

「しかし戦わねば、無辜の市民が犠牲になることは必至だ。勇者にしても、少なくとも全身を贄として使い切るまでは命も保証されている」

「彼女たちの戦意が維持できるとは思いません!」

「そのための宮司システムだ。あれには勇者を洗脳する機能があると君自身が最もよく分かっているはずだ」

 何を言っても論破される。

 当然だ。人類を維持するという最大の目的において、たった2名の犠牲で済むのはどうしようもなく効率が良い。

 ただ人類を守るのならもう人類は確実な手札を手に入れたのだ。ならばそれを使わない手などあるはずもない。

 頭では分かっていた。これが大赦のやり方だ。これがこの神世紀における人類守護のやり方だ。生贄だ。今回はそれが巫女から勇者に変わったというだけのこと。今までだって何度もやって来た事。

 捧げてしまえばいい。そうすれば長い時間、人類の安全と繁栄は約束される。例えそれが血みどろの礎の上に成り立った偽りの平和だとしても。

 だけど感情はそれを許容することができない。

「違う! 違うんだ……。こんな事をするために僕は宮司になったんじゃない。あの子たちをを生贄にするために僕は生まれて来たんじゃない!」

 泣き叫ぶように懇願する。精霊『神稚児』が和仁に宿っているからこそ成り立つ戦略だ。つまりそれは和仁が勇者を生贄にする光景を見届けさせられる事を意味する。それを理解して、思わず髪を掻き毟る。

「お願いだよ、上里のおじさん。僕に、僕にあの二人に生贄になれだなんて命令させないでよ……。それ以外の、あの二人を生贄にさせない事だったらなんだってやる。何でもするよ……。だからお願いだ。これだけは……、これだけは嫌だよ……」

 上里の足に擦り寄り、地に伏して懇願する。それしか方法がない、ほかに取れる手段など思いつかない。間違っているのは和仁自身だと分かっている。だからこれだけは嫌だと感情に任せて、駄々をこねるように泣き叫ぶ。

 鉄男に未来を約束した鋼の決意などかけらもない。皮肉なことここで初めて年相応のわがままを見せる。

 しかし仮面を被った上里はただ無情に見下ろす。

「……和仁くん。君だって分かっているはず。もう我々に敵にまともに戦う手段があの満開を置いてほかにない事を。戦わねばさらに多くの命が失われることを。銀くんが何のために命を失ったのか、一番近くにいた君が誰よりも分かっているはずだ」

「でも、でもぉ……」

 上里の言う通りである。何よりも成すべきは人類の守護。そのためならば少数の犠牲は致し方ないものだと判断される。より少ない犠牲で済むのならそれは「よいこと」なのだ。

 人々を守りため、神稚児である和仁は宮司となった。和仁を守るため銀は生贄となった。そして今度はその犠牲の循環に須美と園子の順番が来たのだ。

「どうして、どうしていつも僕はこうなんだ。あと何回僕は何かを失って悲しめばいい。普通の家族も、普通の人生も、普通の友達も、やっと手に入れられたと思えばこうやって失う。僕は何のために生まれて来たんだよ、言葉があるのなら答えてよ!」

 理不尽な生まれ、人生、状況。全てへの憎しみを持って上里に摑みかかる。

 しかし上里は何も答えない。答えられない。全ては神稚児である和仁に望んだ大人たちの責任。戦いに対して無力な大人たちが望み、託した罪がこうして慟哭となって現れる。

 易々と答えられるような軽さなどどこにもない。

 誰も答えられず、会議室で聞こえるのはすすり泣く声のみ。

 そしてそれは唐突に現れた部外者によって破られた。

「もういいよお兄ちゃん」

「しょうがないよ、ワニー先輩」

 声の元に振り向く。

 そこにいたのは泣きそうなのを我慢して無理に笑おうとする須美と園子。

 いるはずのない二人の登場に和仁は狼狽する。

「ふ、二人ともどうしてここに? ここは大赦の職員しか入れないはず……」

「ごめんなさい和仁くん」

 和仁の疑問はすぐに解消した。二人の陰から出てきた安芸がその答えだった。

「先生が二人を連れてきたんですか?」

「……必要になると判断しました」

「そんなのって……」

 どうにかしようとする和仁のどこにも味方がいない。その事実が更に和仁を追い込んでいく。

「どうしてだよ先生! どうして二人をここに連れてきたんだ……」

「良いのお兄ちゃん。私たちが先生に頼んでここに来たの。何だか嫌な予感がしたから……」

「良くなんかないよ! みんな寄ってたかって二人を生贄にしようって……。なんとしても辞めさせないと……」

「だからそれをもういいと言っているの」

「……は?」

 須美発した言葉を飲み込めず和仁は呆然とする。

 握りこぶしを胸に当て、須美は決意を言葉にする。

「もし私たちを生贄にして世界を守れないのなら、私たちはそれを受け入れる」

「……やめてよ。須美まで僕に生贄になれって命令しろって言うの?」

「そうしないと世界が終わっちゃう。なら仕方がないと受け入れるしかないわ」

「それがダメだって言ってるんだよ!」

 言葉と共に感情に任せた踏み込みで床の木材が割れる。

 拳を握りしめ、震える。

「どうしてみんな分かってくれないんだ。こんなの絶対に間違ってるのに、どうして、どうして、どうして!」

 無力だった。鷲尾和仁には戦う力が無い。例えどれだけ武術を修めようとも、どれだけシステムを使いこなそうとも、結局のところ和仁自身には敵を倒す力はない。

 かつては人類最高峰の生贄として望まれて生まれ、そして勇者にも巫女にもなれない身では敵と戦う力にはなれず生き残った二人が生贄になるのを見送る事しかできない。

 ——生贄として生まれた?

 自身の来歴。それを振り返り、一つの発送を得た。

 二人を生贄にしなくても良いと言う自分に都合のいい展開に思わず笑みが溢れる。

「……は、あはは。あぁ、そうか。どうして二人を生贄にしなきゃって前提で話してたんだろね……」

「……お兄ちゃん?」

 声を上げて笑いそうになるのを堪えるような笑い方を始めた和仁を見て須美は不審がる。どうしたのだろうと近寄って、手遅れになった。

「最初から、こうすればよかったんだ!」

 口角を上げ、薬指にはめたままになった宮司システムを掲げる。声を上げながら笑い、それに呼応するように地響きが始まった。

 樹海化の定まった手順が行われ、秒も置かずに四国は樹海に覆われた異世界へと変貌する。

 周囲に誰もいない事を確認して和仁は宮司システムに座る。

 そして——

「……神婚開始」

 宮司を行なっていたことで忘れていた本来望まれていた役割を実行する。

 封印されていたコードを内側からシステムをいじることで解放していく。

 自身を生贄として神樹の一部へと変換してその力とする。

 これがどれほど意味を持つのか和仁自身にも分からない。もしかしたら何の意味もないのかもしれない。

 しかしそれで良かった。もしかしたら万に一つでも和仁が神樹を強化する生贄として十分になるかもしれない。そうすれば須美と園子が生贄になる必要がなくなる。彼女らは普通に生きていける。

 それが最も望ましい結末だが足りなくてもそれで良かった。

 何故なら和仁が死ぬことは和仁の中で留まっている精霊の『神稚児』が消失する事を意味しているから。満開システムは和仁の中にいる『神稚児』を要とした機構。それはつまり件の精霊さえいなくなれば満開が出来なくなる事を意味する。

 それはすなわち数ヶ月以内の人類の絶滅も同時に意味していたがそんな事和仁にはどうでも良かった。

 須美と園子を生贄にして続いていく世界など守るつもりなど欠片もない。ならばいっそのことみんなで死んでしまえばいい。間違っている事をしていることなどとっくに承知している。

 しかしそれでも自暴自棄となって、どちらの結末でもいいと自分に言い聞かせる。

 不思議と後悔はない。やっと肩の荷が降りたような安心感と共に自身の存在の境界が曖昧になっていくのを感じる。溶けて消えて、神樹と一体になってなくなるような感覚に安堵する。

「……銀ちゃん、もうすぐそっちにいくよ。もしかしたらみんなもまとめてそっちにいくかもだけど、もうそんな事どうだっていいよね?」

 また銀に会えると思うと自然と口角が上がる。

 言いたいことが沢山ある。言えなかったこと、伝えたかったことそれが叶うのだと思えるとなんだか嬉しくて笑ってしまう。人類を守るだとかそんな事はもうどうでもよかった。

 人類を巻き込んだ鷲尾和仁の自暴自棄が完了しようとしている。

 皮肉にも人々が望んだ神稚児の在り方と言う名の呪いをもって人類は終わろうとしていた。

 しかし世界を終わらせようとするのが原初の呪いであるのならば、それを止めるものまた原初の約束だった。

 感覚が溶け合い、希薄化していく自我を鋭い痛みが引き戻した。

 見下ろす。胸が矢で射られていた。

 一度だけではない。二度、三度と連続して射られ、身体を貫通してシステムに縫い付けられる。

 そして銀閃が舞った。視界を両腕が飛んでいく。

「痛い、痛い! なんで、どうして!」

 遅れて腕の付け根を切断された痛みが襲う。

 変わらず和仁が座していることでシステムは稼働しているが両腕がなくなったために操作ができない。そして襲撃者を見つけて表情が凍る。

 誰がやったのかなど予想するまでもない。しかし信じたくなかった。苦しそうに己の武器を握りしめた須美と園子がいた。この樹海内で存在できる人間など二人しかいないことなど分かっていた。それでも事実として目に入ってもその二人に攻撃された事を受け止めきれなかった。

 須美は近づき、傷口を止血するように抱きしめる。もう訳がわからない。どうして敵を倒すための力で自分が攻撃されたのか和仁に考える余裕もない。

「……約束したから」

 悲しそうに、悔しそうに須美は呟く。

「自分を守らないお兄ちゃんを私が守るって約束したから。世界に死んでいい人なんか一人だっていないから。だからごねんねお兄ちゃん。私、行くよ」

「ごめんなさいワニー先輩。帰ったらこれからどうするかちゃんと決めよう? 私とわっしーで結界を攻撃してるやつをやっつけてくるんよ〜」

 無理に笑おうとして顔は引きつっていた。これから戦うことで体のどこかの機能を失うことは避けられない。

 しかしそれでも和仁一人を犠牲にしてしまうよりもよっぽどいいのだと須美と園子は結論づけて飛び去って行く。少なくとも体のどこかを失うことことすれ、生きては帰ってこれるのだから。

 楽観視して何を失うかなど考えず。

「待ってよ、行かないでよ、置いてかないでよ」

「大丈夫だよお兄ちゃん。ちゃんと帰って来るから。約束だよ?」

「またね、ワニー先輩!」

 二人の独断を止める権利など和仁にはない。最初に先行して自ら生贄になろうとした和仁に二人を止める資格など無かった。

 身勝手の罰は自然な流れで起こり、ただ飛び去って行く二人を見届ける事しか許されない。

 幸いなのだと思って、誰にも何も言わずに消えようとした。だからその報いには見届ける事こそ相応しい。

 守ろうとしたものが自らの身勝手で壊れて行く光景。腕はなく、体は磔にされ、目をそらすことも許されずその光景を目に焼き付けられる。

 視界の遠く、美しく花が咲き誇った。満開の輝き。それの呼応して胸の内に潜む精霊が力を花たちへと注いでいく。

 こうして望んでいた未来は永遠に失われた。

 家族を得て、友達を得て、愛を知って、そして何もかもが失われた。

 これは喪失のおとぎ話。己の可愛さの余りに他者を蔑ろにして自分本意であったが故の罰だった。

 菊と薔薇の花が飛び去って、菊が根と色を失って、薔薇は最後の花弁を残して折れた。

 それを見届け、雪待ち草が枯れて朽ち果てた。

 

 鷲尾和仁は勇者を殺した・完




これにて前日譚である鷲尾和仁編終了です。
一段落して作者は一安心。
作者的、鷲尾和仁編のエンディングテーマはLocal Busさんの『桜見丘』を挙げておきたいと思います。


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犬吠埼樹の恋物語 〜Sing a song for the bride〜
入学式の朝はカプリチョーソに


 勇者を助ける宮司に選ばれたと聞いた時、誇らしい気持ちよりもまず最初に感じたのは安堵だった。■■の家に生まれた僕がやっと生まれてきた意味を持てるのだと、もう期待外れと言われないのだと思うと胸に詰まっていたものが晴れるようだった。

 ごめんよ、■■。こんなお兄ちゃんで。もし君がまだ僕に愛想を尽かせていないのなら君の作った朝食を父さんと母さんと四人で食べよう。

 

 宮司御記 大赦検閲済

 

 神世紀300年春。桜が咲いた通学路を通って、私こと犬吠埼樹はこの讃州中学に入学した。恐らく成長するだろうと見越して買った、少し大きめの制服の袖をそれぞれ、四つ指で軽く挟みながら私は校舎の廊下を歩いて行く。

 入学式の準備を勇者部として手伝うことになっていたお姉ちゃん、犬吠埼風と一緒に家を出たので肝心の入学式には大分早く着いてしまったのだ。早く着いてしまい、新入生の私には入学式の準備は手伝えさせないと言ったお姉ちゃんは私に適当に学校の中を見学することを勧めてきた。一緒にいた結城先輩と車椅子に乗った東郷先輩の二人の先輩もそれがいいと言って私の背中を押していった。

 ならそもそも家を出る時間にまだ眠かった私を叩き起こさなければいいのでは? という言葉は飲み込んだ。

 

 三人の勧めに対して断る理由もなかった私は仕方なく、人っ子ひとりいない沈黙した学校の廊下を上靴がリノリウムを鳴らす音を鳴らしながら進んで行く。

 行く当てもない私は取りあえず、まだ通ったことの無いこの校舎で唯一知ってる場所を目指す。廊下を進み、階段をトコトコと登って行く。三階に上がり、さらに廊下を進んで目的地にたどり着く。聞いていた場所にその教室はあった。

 壁に掛けられていた教室の表札を確認する。一番上には陽に当たって色が薄くなった家庭科準備室の文字があった。そしてそのすぐ下に真新しい色をしたもう一つの表札があった。「勇者部部室」

 表札にはそう書かれていた。お姉ちゃんが発起人になって件の結城先輩と東郷先輩を捕獲、もとい勧誘して作り出した部活らしい。その怪奇な名前の部活は姉曰く、世のため、人のためになることを勇んで行う部活らしい。

 姉がそんな殊勝な心掛けを行う人柄だったかとふと思考が頭を過ぎったが、よくよく考えれば帰ってきた姉が主に話すのは部活帰りのうどんの美味しさの報告が主で、部活自体より苦労した後の、姉曰く格別な味のうどんの方が重要なのかもしれない。いつも女子力、女子力と鳴き声のように繰り返していたが果たして胃に収まったうどんの炭水化物は何に変換されているのだろうか?

 

 こんなにこき下ろすように姉のことを話したが、もし仮に他人がお姉ちゃんをこう言ったら恐らく私はとても怒るだろう。姉は私の大好きなお姉ちゃんなのだ。

 両親が2年前に事故で亡くなった後、姉は父と母の代わりに私の面倒を見てくれた。中学生の身分で姉は私を守ってくれたのだ。もし施設などに行くようなことがあれば恐らく別の家庭に貰われて離れ離れになっていた事だろう。それは嫌だと思うし、きっと当時の姉もそう思ったのだろう。

 結果的に今も私たち姉妹は今日も姉妹でいられている。本当にお姉ちゃんは凄い。美人だし、背も高いし、みんなを引っ張って行く人徳もある。それはどれも私には無いものでお姉ちゃんを凄いと思う一方でそんな姉と己を比べてどうしても劣って見えてしまう。

 できることは精々、タロットカードなどを用いた占いくらい。別にそれだって百発百中というわけでもなく、六割当っていればいい方なのだ。あとは歌を歌うのが好きなくらいか?

 そもそも、比べることがおかしいのだ。妹である私はお姉ちゃんがいつも頑張っていることを知っている。それなのにやりたいこともない、夢もなくて何も頑張っていない私をそんなお姉ちゃんと同列に考えることがお姉ちゃんに失礼な様な気さえした。

 現にこうして勇者部の部室の中を歩いて、中に何があるかを見ながら確信する。様々な活動に使ったのだろう道具やそのうち使うのだろう人形やお芝居のセット、何に使うのかわからない飾られた戦艦のプラモなど、恐らくこの一年間の活動の軌跡が形になって部室内の至る所に鎮座していた。

 そうした活動の結晶を見ていると何もない自分が笑われている様な気さえしてくる。

 どうでもいいけれど、教室の鍵はかけなくていいのだろうか? いくらここが犯罪なんて年に数回あれば多い、いい意味で駐在さんが税金泥棒している地域だとしても鍵くらいは掛けようよお姉ちゃんと心の中で言いつつ部室を後にする。

 

 もう見たいところもないので適当な場所で入学式の時間まで時間を潰そうと階段を降りようとして、最初の段を踏み出した時ふと、小さな音が聞こえた。気になって踏み出した足を戻して、両手を耳に当ててその音を探す。よく聞いてみると音はさらに上の階の方から響いているのが分かる。なんとなく気にって階段を上って行く。合計二十八段の階段を登りきるとそこには屋上に繋がる扉が一つあるだけの空間があった。扉のドアノブには屋上入るべからずとプラカードが掛けられていた。

 しかしそんなプラカードの通せんぼとは裏腹に耳に入る音は扉の向こうから聞こえてくる。ここまでくればより鮮明に聞こえてきた。聞こえてきたのは何かの楽器を演奏する音とそれに合わせて歌詞を歌う声。扉が防音壁の役割をしてはっきりとは聞こえないが間違いなく誰かさんはこんな早朝の、しかも立ち入りが禁止された屋上で弾き語りを行っているのだ。

 なんだか見ておかないと勿体無い様な気がしてきた。そんな豪胆な人物がどんな人なんだろうかと思い、屋上に繋がる扉を押して開く。硬く閉ざされていた様に見えた扉は非常に軽く開く。少しだけ扉を開いて音の主人を探して見つけた。

 音の主は屋上に設置された神樹様の祠の台座に背をもたれながら地面に腰を下ろし、軽くあぐらをかいた足の上にギターを乗せて、メロディーと歌詞を奏でていた。着ている制服と背格好から恐らく先輩にあたる人なのだろう。

 見ていたら演奏していた曲目が次のものに変わる。演奏が始まったのは昔の車のコマーシャルで流れていた男性の曲。軽快にギターを演奏しながら屋上の推定、先輩の歌声がメロディーに乗せられて私の耳に流れてくる。その演奏は素人の私にも上手なものだと分かった。

 耳に入ってくる音に乗せられて思わず、メロディーに乗せて自分も歌ってしまう。

 そのまま曲はサビに入り、最後は気持ちのいいギターの演奏で締められる。思わず目を瞑って一緒に歌ってしまい、目を開くとこちらを向いていたギターの主人と目が合う。

 首だけをこちらに向けてキョトンとした顔をしてこちらに空色の瞳がこちらを見ていた。見つめられる顔は男の人にしては綺麗と言うか、制服がなければ女の人と間違えそうなほど整った顔だった。女性ならきっと大和撫子といった言葉が似合いそうな雰囲気を纏った先輩だった。

 黙って覗いた上に勝手に一緒に歌を歌っていたことに気づき、顔が恥ずかしさで熱を帯びていくのを感じる。緊張で声も体もガチガチになる。

 

「あぁ……、わ、わた、私……」

 

 何か言おうと思い口を開くが上手く言葉にならない。意味のない身振り手振りが空を切る。そんな私の様子が面白かったのか。困った様に笑いながらこちらに手招きしながら口を開く。

 

「音楽が好き? ならこっちにおいでよ。そんな所よりこっちで聞きなよ」

 

 意外なことに目の前の先輩は勝手に演奏を聴いていたことを怒っていないようだ。手招きし、眼前の空いたところを指差す。勧められて私は恐る恐るといった足取りでギターの先輩の前に正座する。

 かしこまった様子の私を見て先輩は笑う。

 

「そんな固くならなくていいよ。 俺の演奏を聴いてくれたんだろう? なら最後まで聴いていきなよ。一年生だろう? なら入学式まで三曲は余裕さ」

 

 それだけ言い終えるとギターの演奏が会話を続けた。穏やかな、それでいてどこか悲しそうな音色のギターの音色が屋上に響いた。優しくギターを演奏しながら質問が飛んでくる。

 

「一年生? 名前は?」

「いっ、犬吠埼樹です! 犬が吠えるとかいて犬吠埼です。樹は樹木の樹です」

 

 少し緊張しながら自己紹介をする。我ながら初めて合う男の人に対して上手く自己紹介ができたなと内心ガッツポーズ。例えを交えたのはポイント高い。

 私の名前を告げられてギターの演奏が一瞬だけ中断する。そして何事も無かったかのように演奏が再開した。

 

「そっか、君は犬吠埼の妹か。あんまり似ていないんだな。てっきり犬吠埼の妹だから子ギャル見たいのを想像していたよ」

「お姉ちゃんを知っているんですか?」

「あぁ、去年同じクラスだったよ。彼女目立つだろう? 勇者部とかいう部活の部長もやってるみたいだし。有名人だよ彼女」

 

 先輩の口から語られたのは私の知らない学校でのお姉ちゃん。しかしコギャルとは一体どういった了見だろうか。私はまともにメイクだってやったことないのにどうしたらそんな勝手なイメージがつくのだろうか。そんなつまらないことで少しだけムッとしてしまう。

 

「お姉ちゃんと私は違います」

「あぁ、ごめんごめん。気に障ったかな? だとしたら謝るよ。何時も女子力と彼女口癖のように言うだろ? だからてっきり妹の君もそんな感じなのかなって」

「お姉ちゃん、私のことよく話すんですか?」

 

 私のことを話してくれることは嫌ではなかったが知らないところで私のことが話しているとなると若干シスコンの入った姉がどの様に話しているか気が気でなくなった。

 そんな私の心中を察してか目の前の先輩は面白そうに少し吹き出す。そんな所作も上品さがあるのだから凄い。

 

「自慢の可愛い妹がいるって良く言っているよ。まぁ、妹が可愛いのは分からなくもないけど」

「先輩も妹がいるんですか? ……ええっと?」

 

 そこで私はこの先輩の名前を知らないことを思い出した。年上の人は大体、先輩、先生と読んでおけばいいと言う下級生共通の了解が今回は悪い方向へ働く。言い淀んだ私を見て先輩は思い出したかの様な顔をしてその後に笑う。

 

「そうだったね、自己紹介なのに俺の方が名前を言っていなかったね。俺のことはワニー先輩って呼んでくれればいいよ」

 

 示されたのは明らかにあだ名だった。推定純日本人のこの先輩のあだ名にしては随分とハイカラな感じの音のあだ名だった。しかし不思議としっかりと当てはまる様な気がする。つまりピッタリのあだ名なのだろうか?

 

「気に入ってるあだ名なんだ。それに俺、あんまり本名が好きじゃないから、そっちで呼んでくれたほうが嬉しい」

 

 少し嫌なことを思い出した顔をしながらワニー先輩は詳細を説明する。本名をあまり好まない人は確かにいるのかもしれない。そう自分を納得させて目の前の初対面の先輩をあだ名で呼ぶことになった。

 

 そうして自己紹介を終えて先輩は無言になって演奏を続ける。入学式が始まる直前までワニー先輩と私の二人っきりの演奏会は続いた。

 

 これがワニー先輩と私の出会い。きっとこの出会いがなければ未来の私は今とは大きく違ったものだっただろう。それが悪い事だとは思わないが少なくとも私はこの出会いを運命だと思う。少女漫画の様だと揶揄されても、確かにこの出会いは運命なのだと私は確信している。

 なのでこの日だけはお姉ちゃんに朝叩き起こされたことを許そうと思う。今日以外の日の恨みは忘れない。

 




というわけで早速新作です。よろしければご静聴ください。樹ちゃんによって語られる勇者と宮司の物語。いつだってボーイミーツガールは本人たちにとっては世界のどんなことよりも大事件なものです。


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非日常への転換はプレスティシモ

恋の始まりは相手をよく知りたいと思う気持ちだと思うわけです。


 僕が珍しく生家に呼び出された日、初めて君に会った。今日から君が家族になると嬉しそうに話す両親を見ているとお前はもうお払い箱だと言われている気がした。

 本当は新しい家族ができる喜び以上に君をきっかけに僕とのよりを戻そうと両親も必死だったのだろう。でも当時の僕はそんな事も理解できず、君を冷たくあしらってしまった。

 本当にそれだけあの時の僕は神樹様との親和性が無意味な性別に生まれたことをガッカリされていたんだ。

 あぁ■■。もう一度会いたいよ。

 

 宮司御記 大赦検閲済

 

 職人、犬吠埼樹の朝は早い。朝は淹れたてのコーヒーから始まり、優雅な朝食が用意されている。

 すいません、ウソです。これは夢の方でした。私こと犬吠埼樹は別に職人でもないし、朝はコーヒーから始まりません。ちょっとカッコよさげな朝を夢の中で演出しようと思いました。

 若干、恥ずかしながら私の朝は目覚ましのアラームの音とお姉ちゃんの声と揺さぶりで始まります。

「ちょっと、樹? もう目覚まし鳴ってるわよ? 起きなくていいの?」

「ハッ! 起きた! 今起きたよ、お姉ちゃん!」

 姉の声と目覚ましの連携により、瞬時に布団から私は這い上がる。急いで勉強机の椅子に掛けた制服に袖を通し、私よりもとうの昔に起きている姉の用意した朝食を食べるためにリビングに向かう。

「いただきまーす」

 姉と声が重なる。食卓に座り、これでもかと用意された朝食を食べ始める。いつものことながら姉の用意する朝食、正しくは家の全ての食事は量が多い。母親の代わりを勤めようとする姉の心遣いを感じて感謝する一方、どうにもこれは多いのではないかと疑問に思わない日はない。

 というかお姉ちゃん、身体測定の度に体重を気にするのなら食事の量を減らすべきなのではないのだろうか?それとも女子力とはカロリーと因果関係があるのだろうか?

 何度目になるのかわからない疑問をパンと一緒に牛乳で飲みこむ。

 食べ終えて使った食器を台所で水につけて姉に振り返る。

「それじゃあ、お姉ちゃん。先に学校に行ってるね?」

「最近、樹の目覚めが良くなって早く学校に行くなんてお姉ちゃん、感心だわー! 今日の晩御飯のうどんは増量ね!」

「もうお姉ちゃん、そんなに作っても私食べきれないよー」

「それもそうね。それにしてもこんなに早く行くなんて、何か用事があるの?」

 姉に学校に早く行っている用事を聞かれてドキリと心臓が鳴る。別に朝にあの先輩に会いに行くことにやましい事はないが、わざわざ男の先輩に会いに行ってますなんて言うのも恥ずかしい。この場を切り抜けるために昨日ドラマで見た女優さんを参考にしよう、そうしよう。人差し指を唇にあててウィンクして姉の顔を覗き込んでみた。

「ヒ・ミ・ツ」

 気持ち語尾にハートが付きそうな感じがポイントだ。私の所作を見て姉が固まる。

「いっ、樹が反・抗・期! ガーン」

 冗談でやっているのか本気なのか判別に困るリアクションの姉。見たところ顔の書き込みが少ない様にも見える。ショックを受けると人間、新聞の4コマ漫画のキャラクターの様な顔になるらしい。いや、姉だけか。

「遅くなっちゃうから、先に行ってるねー。行ってきまーす」

 固まって風化しつつある姉を放っておいて私はマンションを出発する。自転車に乗り、学校までの通学路を気持ち急いでペダルを漕いで行く。

 まだ朝早いこともあって通学路は空いていて、思っていたよりも早く学校に着く。自転車置場に自転車を停め、校舎に入って行く。上靴に履き替えて一年生の教室を素通りして階段を上っていく。二階に上ったあたりでかすかにここ数日聞き慣れたギターの音が聞こえてくる。

 聞こえてくるギターの音が大きくなるのと比例する等に階段を上っていく足が軽やかになっていくのを感じる。

 3階、4階と階段を上って屋上への扉を開けると今日も先輩はギターを弾いていた。扉が開かれる音が聞こえたのか演奏を中断して、顔がこちらに向けられる。

 先輩は来たのが私である事を確認するといつも通りの上品さを感じる顔を綻ばせて笑う。

「やあ、犬吠埼後輩。今日も来たんだね、聞いていくかい?」

「はい、今日も聞いていきます」

 このやり取りがここの通過儀礼であった。今日で5回目ほどになるが毎回このやり取りが先輩と私の朝の挨拶の代わりになりつつあった。入学式の朝が特別だったのか、普段ワニー先輩は歌に歌詞を乗せない。無言でギターで旋律を慣らしていく。その為、演奏中も指を動かしながら私との会話を続けてくれる。

「ワニー先輩はいつも朝ギターを弾いてますよね?」

「別に毎朝って訳じゃないさ。俺だって雨の日は大人しく教室で教科書でも読んでるよ」

「朝や学校から帰って来てから家で弾いたりしないんですか?」

「うちマンションだからね。知ってる? 駅前のマンション。あそこのが俺の住んでるところだよ」

「あー、あそこですか」

 駅前のマンションと聞いて三年前ほど前に完成したマンションを思い出した。駅前にできたマンションでかなり家賃が高かった筈だ。きっと先輩の家はお金持ちなのだろう。

「……まあ、そんな話はどうでもいっか」

 少し顔を暗くして先輩はぼやき、少し元気のなくなった花の様に顔をうつむかせる。

 この二週間ほどで分かった事だが良くお姉ちゃんの話題をする私に対してワニー先輩はあまり家族の話をしたがらない。たまに妹がいると言う事が話に出るがその詳細は今のところ聞いたことがない。家族との折り合いが悪いのだろうか。

「あっ、あの!」

 少し元気のなくなった先輩を元気づけようとして声が裏返る。驚いて少し眉の上がった顔がこちらに向く。

「先輩は普段どんな曲を聴いてますか?」

 空気を変えようと質問を繰り出す。

「好きな曲? うーん、いろいろ聞くけどなぁ」

 質問を投げかけられて先輩は少し考え込む様に眉間に軽い皺を作る。そんな動作一つも絵になっていて、まるで今から写真を撮られるモデルさんの様だった。

 そう、ワニー先輩は驚くほど女性の様に見える。長い髪は頭の後ろで纏められ、昔読んだ漫画の古い日本人の様に上向きに纏められていた。顔も中性的で男子用の制服を着ていなかったら性別が分からないと思う。どちらかというと学校の制服よりも昔の貴族の女の人が着ていた十二単なんかの方が似合いそうな感じだった。

 結論が出たのか先輩の目が開く。

「そうだね、やっぱり洋楽をよく聞くかな? 誰の曲って明確なのはないけど洋楽一般が好きかな? 演歌とか日本語の歌はあんまり聴かないかな。犬吠埼後輩は?」

「私もこれって曲はないです。でもお風呂とかで鼻歌なんかはよく歌ってます」

「そういえば、入学式の朝も僕の弾いてた曲を歌ってたね」

 初めてあった日のことを思い出したのか先輩は左手で口元を隠しながらクツクツと笑う。初めてあった時のことを出されて私は自分の顔がカーッと熱くなるのを感じる。あの一件は自分の中ではやらかした事に分離されていた。

 少なくとも人前で歌うことなんて今も恥ずかしくて出来ないし、あの時は先輩のギターの音に誘われて歌ってしまった訳で。思い返せば更に顔に熱が溜まっていくのを感じる。いい加減顔が熱さで風船みたいに膨らむんじゃないかと感じ始めていた。

 クツクツと笑いながら先輩は話を続ける。

「そんなに恥ずかしがることないよ。上手に歌ってたさ。少なくとも俺が演奏を中止しなかったのはそれが理由だよ。自信を持ちなよ後輩?」

「むっ、無理ですよ、人前で歌ったりなんて。恥ずかしいですし、そんなに上手くないですよ」

「そうかい? 俺は君の歌、良かったと思うけどな」

 この先輩は私の顔を破裂させたいのだろうか? そんな私の思いとは関係なくワニー先輩は演奏を変える。ギターが鳴らし始めたのは小学生でも知ってるクリスマスソングだった。今四月ですよ?

「時間的にこれで今日はお終いかな? 良かったら歌ってみなよ」

 そう言うと先輩は目を閉じて演奏に集中し始めた。穏やかなメロディーが流れる。多分私が歌いやすい様に簡単な曲を弾いているのであろう。無言では無く、有音の催促だった。こういう風に期待されるのは初めてで、なんとなくメロディーに合わせて口が勝手に言の葉を紡いでいく。

 この先輩の弾くギターの音は思わず聴いていたこちらも乗せられてしまう。それだけこのギターを弾くという一連の動作にこの人なりの思いがこもっているのが聴いていて分かる。

 目の前のこの人は一体どんな思いでギターを弾いているのだろう。そう思わずにはいられなかった。

 演奏が終わり、ギターの音が止む。先輩の顔が綻ぶ。

「どうだった? 歌ってみて良かった?」

「はい、楽しかったです」

「それは良かった、次からもそうしよう。目標は後輩が人前で歌えるようになることだな!」

 自分のことのように楽しそうにしているこの人を見ているとこっちも釣られて笑ってしまう。

 そのままギターを片付け始めた先輩に挨拶をしてから急いで教室に向かう。

 教室に入るともう少しで朝のホームルームの時間だった。相変わらず時計も見ていないのにいい時間に終わる。

 そのまま自分の席に座り、ホームルームが始まるまで待っている事にする。

 頬杖をつきながら先程までのことを思い出し、次はどんな曲を聴かせてもらえるんだろうと思うと顔がにやけるような気がした。ハッとして慌てて周囲を見渡すが特に見られている感じはしない。ホッと息を漏らして姿勢を正すと反対側の席に座っていたクラスメイトの瞳ちゃんと目が合う。

 すごくニヤニヤしていた。それはもう特ダネを見つけた新聞記者のようにニッコニコだった。

「おやおやー? 樹ちゃん、なんだか朝からご機嫌ですなー? 何かいいことでも?」

 瞳ちゃんとはこの中学に入ってから知り合った友達で彼女の気さくな態度は好ましいものだったが時々こうした感じになることが多く、それは私を困らせていた。別に嫌ではないが聴かれると困るという話だ。

「別に何でもないよ。ちょっと楽しみなことがあっただけだよ」

 照れ隠しに少し言葉がぶっきらぼうになる。しかし瞳ちゃんはそんな事を気にしたそぶりはなく、至って楽しそうに私の顔を覗きこんでいる。私の顔がそんなに面白いか?

「何でもないのに、そんなに嬉しそうな表情するなんて樹ちゃんは幸せ者だねー」

 何だそのおばあさんっぽい話し方は。私は君の孫か? からかうように喋る瞳ちゃんに私はジト目で抗議の意思を返す。

 そこで気づく。さっきから瞳ちゃんの表情が変わっていない。いつの間にパントマイムなんて習得したのだろうか?

 いや違う。周囲を見渡して確信する。みんなが動かないんじゃない。私が唯一動いているのだ。明らかに異常事態であった。昔見たSF映画のワンシーンを思い出し、慌てて同じような人がいないか探しに廊下に出る。少なくとも教室にいたクラスメイト誰も動いてはいなかった。

 廊下に出るとこちらに向かって廊下を走る姉の姿が目に入る。動ける人、更にそれが姉であったことで安堵から声が震える。

「お、お姉ちゃん! これどうなってるの? みんな様子が変で」

「良かった、樹」

 私の言葉を聞くまでもなく、姉に抱き寄せられる。

 そしてそこで見えた表情は優れなく、これからくる問題に不安な様子だった。

「ごめん、よく聞いて樹。私たちが『当たり』だった」

 そういう姉は本当に申し訳なさそうで私にはかけられる言葉がすぐに思いつかなかった。そしてそれ以上、言葉を続ける時間も与えられなかった。

 窓の外から光が溢れ、視界の全てが真っ白になる。思わず目を思いっきりつむり、光が収まるのを待つ。

 少しして周囲から何の音がしなくなったのを確認すると私は少しづつ瞼を開け始め、目に入った光景が見えると思いっきり目を見開いた。

 そこに広がっていたのは不思議な光景だった。立っていた場所は学校の廊下ではなく、いくつもの樹木の根が張り、山や谷を構築した世界であった。一目見て、普通の状況に自分がいないことを理解させれられる。

 見たことのない状況に面食らっていると突如、頭の中で男性の声が響く。

「接続完了。 僕の声が聞こえているな勇者たち。僕がお前たちをサポートするために大赦から派遣された宮司システムのパイロットだ。よろしくしなくていい。とにかく合流して変身しろ」

 響いてきた声はとても冷たいもので感情を一つも含めようとしない。冷淡なその声と目に見える景色が私のこれまでの日常が瓦解したことを悠然と表していた。

 




今作割と小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。


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勇者と宮司のプリモ

 初めて宮司システムに搭乗した時のことは鮮明に覚えている。体に埋め込んだ■■を神樹様に繋げると一気に流れ込んできた情報で頭がパンクして身体中から血が噴き出た。

 大赦の神官たちは大慌てだったがそれでも僕は接続を続けた。体が裂けるような痛みがあって苦しかった。流れ出た血が呼吸器を詰まらせて苦しかった。

 でもこの痛みの数だけ今は僕が必要とされているような気がして心地良さすらあった。

 

 宮司御記 大赦検閲済

 

 

 私の目に入る景色全てが神樹様の伸びた枝や根に覆われ、見たことのない幻想的な景色を作る。しかしこんな綺麗な景色を見ても綺麗だと感動する前にそもそもどこかも分からない場所に放り出された事による不安の方が大きかった。

 隣にいるお姉ちゃんだけは不安よりも申し訳なさそうな顔をしていた。

「僕の声が聞こえているか? 勇者たち」

 頭の中で低い男性の声が聞こえる。幻聴かと思ったが隣にいる姉も声に反応してる事からこれが幻聴でないことが確認できた。

「聞こえているという前提で話させてもらう。今、君たち4人の勇者はそれぞれ別の位置に出現している。スマホの画面を見ろ。位置情報アプリが一点を示しているな? まずはそこに行って合流してくれ」

 感情が込められていない声が私たちに指示を出す。一方的に命令されたことが気に入らなかったのかお姉ちゃんが少し怒った声色で話す。

「ちょっと? どこの誰か知らないけど、いきなりそんなこと言われてハイそうですかってなると思っているの?」

「ちょっと、お姉ちゃん。そんな風に行ったらケンカになっちゃうよ」

 苛立った声色の姉に対して宮司を名乗った男性の声はとても平坦だった。

「そうか、一方的に命令したことが気に入らなかったのなら謝ろう。しかし君以外の勇者たちがこの状況を飲み込めているとは確信できない。今は素早く合流するべきだ」

 淡々と言葉が続いていく。謝罪にしても声色は変化がなく感情が読み取れない。しかし言っていることも事実であり、お姉ちゃんは渋々だと言いたげな顔でスマホの示している場所に私の手を引きながら進んでいく。

 しばらく進んでいくと目的の場所にたどり着く。茂みのようになっている枝をかき分けて前に出ると拓けた場所に出た。そこには不安そうな顔を作った友奈さんと東郷先輩がいた。

 友奈さんは私とお姉ちゃんを見つけるとパアッと顔を明るくしてお姉ちゃんに駆け寄る。

「風先輩! 樹ちゃん! よかったー! でもどうして2人ともここに?」

「よかった」

 どうやら勇者というものに選ばれたのは勇者部のメンバーのようだ。なんとか合流できた事に思わず安堵のつぶやきが言葉になる。

「合流出来たようだな。なら事態の説明に入ろう」

 私たちが合流したタイミングで宮司さんの声が聞こえる。どうやら声の主は私たちが合流したことが分かっているらしい。

「その前に、さっきは聞きそびれたけどあんた誰よ?」

 二人と合流したことで少し精神的に余裕が出来たのか、お姉ちゃんが質問を何もない宙に向かってする。少なくともさっきから聞こえる声の元は頭に響き、向くべき方向がなかった。

「僕は大赦から派遣された宮司システムのパイロットだ。バーテックスと戦う君たち勇者を戦術的にサポートする事が僕の仕事だ」

「バーテックス? 勇者?」

 聞きなれない単語に友奈さんがおうむ返しに単語を疑問形で並べていく。確かに私たちは勇者部に所属しているが勇者になった覚えはないし、バーテックスという言葉は今日初めて聞いた。

 それをその反応を聞いて宮司さんはため息を漏らす。

「犬吠埼風、君は彼女たちに何も知らせていないのか?」

「もし当たらなかったらずっと黙っているつもりでした」

 宮司さんに責めるような口調で問いかけられ、お姉ちゃんはばつの悪そうな顔で答えた。どうやら姉はこの状況について少なくとも私たちが知らない以上のことを知っているらしい。

「それならそれでいい。気にすることはない。確かに御役目に指名されなければ何も知らないでいられる。不安を日常に落とすよりマシかは知らないがそれが君の判断なら尊重しよう」

 言っていることは姉を慰めているように聞こえるが声色が相変わらず平坦なことで責めているようにも聞こえた。それよりも姉が大赦に関わっていたという事実の方が私にはショックだった。そんな私の気持ちなど御構い無しに宮司さんの説明は続く。

「詳細はアプリの方で確認してくれ。要点だけ話そう。君たち4人は神樹様に選ばれた勇者としてやってくるバーテックスを倒してもらう。それが君たちの御役目だ」

「バーテックスとは何ですか?」

 東郷先輩が先程から聞こえていた固有名詞に疑問を提示した。

「十二体いる人類の天敵、彼らは神樹様を破壊するために壁の外からやって来る」

「神樹様を破壊?」

「そうだ。彼らが神樹様にたどり着いた時点で人類は滅びる。それを防ぐのが君たち勇者の御役目になる」

 質問の答えを返されて東郷先輩は黙ってしまう。それはそうだ、誰だって今日から君に人類を守ってもらうと宣言されて困惑しない人はいないだろう。

「君たち、スマホの勇者専用アプリを開いて地図を確認しろ」

 少し慌てた様子で宮司さんはこちらに携帯を操作するように言う。言われた通りに携帯を確認するといつも使っていた勇者部に入った時に姉に入れるように言われたアプリのアイコンが変わっていた。操作してみると地図が表示されて私たちの現在位置と四国の壁ギリギリの所に別の表示が出ていた。

「君たち以外のアイコンが見えるな? もう一体目のバーテックスが来たらしい。すぐに勇者に変身して迎撃の用意に入ったほうがいい」

「でも変身なんてどうしたら?」

「神樹様を信じて戦う意思を示せば、アプリが答えてくれる」

「そんなこと言われても……」

 当然のことのようにいう宮司さんに私たちは戸惑うを隠せない。昨日まで普通の女の子だった私たちがどうして急に戦う意思など示せるんだろう。皆がどうしていいか困っていると東郷先輩が壁の方を指差した。

「みんなあれを見て。何かしら?」

 指の示したほうを見ると小さな光が見えた。それは少しづつ大きくなっていって、こちらに近づいているようだった。

「マズイ! 間に合え!」

 焦った声色の宮司さんの声が聞こえた。それと同時に光と私たちを分断するようにおっきな壁が地面から生えるように伸びてくる。生えて来た壁が伸びきると壁の反対側から爆発音が響き、衝撃がここまで伝わる。壁は半壊して明らかになった向こう側に小さなピンク色の点が見えた。

「……それは本来は足場用の設備だ。耐久力は期待するな。どうやら敵は君たちを見つけたらしい。逃げるなら今のうちだとだけ言っておこう」

 焦った声が平坦なものに戻る。その最後のアドバイスは実質、無意味なものだった。

「逃げて、それであれが神樹様にたどり着いたら世界が終わるんでしょう? ならやってやるしかないわね」

 一歩先にお姉ちゃんが前に出る。どうやらお姉ちゃんは覚悟を決めたらしい。あぁ、またお姉ちゃんは私の先に行ってしまう。置いていかれるのが怖くなってとっさに前に出てしまう。

 一人先に行こうとするお姉ちゃんの手を掴んで、振り返ったお姉ちゃんと目が合う。

「ダメだよ、お姉ちゃんを一人残して逃げられないよ。何があってもついていくよ」

 だって何もない私にはそれしか出来ないから。そんなネガティブな言葉は声に出せない。

 私の言葉を聞いたお姉ちゃんは嬉しそうな、悲しそうな顔をして決意を固める。

「分かったわ、続いて樹!」

「うん!」

 スマホを操作する。そうするとスマホからたくさんの花びらが溢れて私たちを包み込む。包み込んでいた花びらが消えると私とお姉ちゃんは見たこともない装束を見に纏っていた。

 この装束に身を包んでいると体の奥から力が湧いてくるのが分かった。これが人類の天敵と戦うための力なのだと本能で理解する。

 今言うことではない事かもしれないが、私の衣装、脇のところが開いていて若干風通りが良すぎではないだろうか?

 そんな呑気なことを考えていたらまた先程の光が飛んで来た。慌てて飛んで回避を試みるが飛んでいたせいでもろに爆風を浴び、勇者になったことで強化された脚力も相まって体が前に飛んでいく。うまくバランスが取れずに前のめりになって空を横向きに落ちていく。

「樹、着地!」

「そんなこと言われても〜」

 もちろん空中でバランスを変える手段などあるはずも無く、私は地球の重力に従って地面に激突する。

 どうやらバランス神経や運動神経は神樹様のサポート対象外らしい。

 地面との激突の瞬間、緑色の光の膜のとようなものが私と地面の間に挟まり、それが衝撃を吸収したように感じる。少なくとも常人なら潰れたトマトのようになっていたである衝撃も軽く頭を打った程度で済んだ。

 衝撃よりも生身で空を飛んだことにより目が回って仕方がない。若干、回っている視界の中で棉に苗の生えたマスコットらしき何かが目の前に現れる。愛くるしい姿に思わず感想が出る。

「うわっ、なにこれ可愛い」

「それはこの世界を守って来た精霊よ」

「君たち勇者を守るバリアを作る装置だ」

 お姉ちゃんと宮司さんの解説が目の前の精霊が何であるかを私に教えてくれる。どうやらさっきの激突の時に私を守ってくれたらしい。感謝の意を込めて撫でてみると嬉しそうにその場で回り出した。

 そんな私の事などお構いなしにバーテックスは尻尾から卵のような爆撃弾を発射する。

 飛んでくる爆撃弾に飛来して来た小型のミサイルに当たり、爆発が生まれる。周囲を見渡すと樹海のあちらこちらから箱のような物体が生えて来てそこから小型のミサイルが飛ばされているのが目に入る。

「こちらからもサポートはするがバーテックスを倒せるのは勇者の力だけだ。こちらからは敵への妨害しか出来ない事は留意して置いてくれ」

 どうやらこの攻撃は宮司さんが行なっているものらしい。流れ弾になったミサイルがバーテックスに当たるが傷らしい傷が出来ない事はここからでも分かった。

「行くわよ、樹!」

 姉が跳躍し、それを私が追いかける。

「手をかざして! 戦う意思を示すのよ!」

 そう言うお姉ちゃんの手には大きな大剣が現れ、飛んで来た爆撃弾を野球のバットの要領で打ち払う。

 私も続こうと手をかざすが現れたのは手を囲う程の大きさの輪状の装飾品。どう見ても武器には見えない。どう使ったらいいか分からない。困っていると宮司さんの声がかかる。

「犬吠埼樹。君のバイタルデータで確認したが、それはワイヤーの射出装置だ。ワイヤーで敵を切ったり縛ったりするのに向いた装備だ」

「分かりました!」

 宮司さんの助け舟のおかげでこの装備の使い方を理解する。手を伸ばす。そうするとイメージ通りに花のようなパーツからワイヤーが伸びて飛んで来た爆撃弾を切りとばす。

 バーテックスの主な攻撃方法がさっきから飛ばされてくる爆撃弾だけなのか、暫く爆撃弾を放つバーテックスとそれを打ち払う私たちで軽いこう着状態になる。

「そのバーテックスの名前はヴァルゴ。主な攻撃方法は知っての通り、その爆発する爆撃弾と布のようなパーツによる打撃だ」

「どうして分かるんですか?」

「……神樹様による預言だ。神樹様からはこれから戦うバーテックスの名称とその戦い方が伝えられてる。それを作戦に組み込むのも僕の仕事だ」

 少しだけ間を置いて平坦な声で宮司さんが答える。今の間は何だったのだろうか? 軽い疑問が出来たが今はそれどころではない。飛んでくる爆撃弾を処理して行くがサポートのミサイルが減ってきた。どうやら数に限りのあるものらしい。

「きゃあ!」

「樹、大丈夫⁉︎」

 目に見えて私とお姉ちゃんの負担が増えて、攻撃が間に合わず、私たちは爆撃弾の爆風に吹き飛ばされる。

 吹き飛ばされ、地面に激突する。幸い、精霊の作ってくれるバリアのおかげで痛みはないがそれでも吹き飛ばされた衝撃で体が思うように動かせない。ゆっくりと進行していたヴァルゴが目の前にいる。

 ヴァルゴはその布ようなパーツの先を槍のように尖らせて私めがけて振り下ろす。精霊のバリアが直撃を防いでくれるがそれでも衝撃は殺しきれない。周囲からはミサイルが飛び、さらに鎖が伸びてヴァルゴに巻きつくがそんなものは関係ないと攻撃が止まらない。

「クソっ! これでも止まらないか。開発局は予算をなんだと思っているんだ」

 苛立った宮司さんの声が聞こえる。

 何度目かの振り下ろしでついに私の体が地面にめり込む。

 その時、桃色の光をが視界の端に見えた。光は一直線にヴァルゴに向かい、激突した。そのままそれはヴァルゴを殴り抜いて通過し、ヴァルゴの後ろに着地した。

 その人物はよく見知った友奈さんだった。桃色の勇者の衣装に身を包み、悠然と人類の天敵に向かい合っていた。

「みんなの為に私は勇者になる!」

 樹海の中でその声は確かに聞こえていた。友奈さんの声が聞こえるとなんとかなってしまう気すらする。そんな安心感を感じていると小さく、本当に小さく宮司さんの漏らした声を聞き漏らしてしまった。

「みんなの為の勇者……か」

 その声に流れる感情をこの時、私は欠片も理解してはいなかった。

 




情報量が多いので前後編になります
小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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日常の境界はスラーすぎて

 今日初めてのお役目だった。やってきた人類の敵バーテックス。三人を立ち向かわせるにはあまりにも敵は強大だった。用意された宮司用の支援システムも殆どが役に立たなかった。

 違う。僕が上手く扱えなかっただけだ。やはり僕は期待はずれの人間らしい。自分にがっかりして、やっぱり僕はいらない人間なのだと再確認させられる。

 敵を倒せたのは三ノ輪さんのおかげだった。

 安心してしまう。だって神樹様にバーテックスが到着する前に僕が死んでしまうから。役に立たなくても死にたくはないと立派に思ってしまう。

 

 宮司御記 大赦検閲済

 

 桜色の花びらを纏いながら友奈さんの拳がヴァルゴの半身を砕き、そのまま近くに着地する。私とお姉ちゃんだけだったところに友奈さんの加勢が入り、安心感を覚える。

「風先輩、樹ちゃん。私も一緒に戦います!」

「心強いわ、友奈」

 友奈さんの加勢にお姉ちゃんは安心したような顔を作る。

 友奈さんの一撃を受けたヴァルゴはその場に停止している。よく見ると少しづつ壊れた場所が巻きも同様に再生していた。思わず声が裏返る。

「お、お姉ちゃん! あれ見て、どんどん直ってるよ!」

「単純な攻撃ではバーテックスは倒せない。封印の儀を介する必要がある。こちらで処理する、少し待て」

 私の声に宮司さんが答える。どうやら攻撃するだけではバーテックスは倒せないようだ。

「ちょっと? 封印の儀は勇者がやるって聞いてたけど?」

「封印の儀はこちらで処理する。君たちはバーテックスから出てくる御霊と呼ばれるパーツを破壊する事に集中しろ」

「そういえば、さっきから私たち普通に宮司さんと話しているけど、これどうなってるんですか? 宮司さんの声が直接頭に聞こえますが!」

 先生に質問する生徒のように友奈さんは元気よく手を挙げた。

 そういえばさっきから当然のように聞こえていたがどう言う仕組みなのだろう?

 耳から聞こえているのとは違う不思議な聴覚で宮司さんの声は私たちに伝わっていた。

「あぁ、宮司と勇者間の広域通信のことか。さっきも言った通り樹海化の際、現実の時間は止まっている。そのため通常の電波を使った通信機器は使用できない。」

「あれ? でも私たちのスマホは普通に使えましたよ?」

「そうだ、そのためこの樹海内では神樹様のネットワークを介した通信を行なっている。僕をプロバイダーに君たちの勇者システムを接続して、君たちの大脳皮質感覚野に僕の見聞きした感覚を電子情報の形に変換して……」

「すいません。わかる言葉でお願いします!」

 宮司さんの専門的な解説は難しくて、私たちの頭が沸騰する。友奈さんの言葉に宮司さんは困ったように言い淀む。

 しばしの沈黙の後、宮司さんは言葉選びに悩んでいるのか言いにくそうに続けた。

「えーと、……つまりだ、僕の心と君たちの心を繋げている?」

「急にロマンチックになりました!」

「要は僕の脳内イメージを君たちに送っているんだ。時間がない、封印の儀を始めるぞ」

 宮司さんがそう言い切ると動いていなかったヴァルゴの足元から花びらが舞い始めた。花びらは光の拘束になってヴァルゴを拘束する。

 縛られたヴァルゴの頭部が花が開くように開いて、そこから逆さにしたピラミッドの形をした何かがポロリと出てきた。

 それは出てくるとそのまま空中に静止した。

「その物体がバーテックスの核である御霊だ。破壊すればバーテックスは死ぬ」

「分かってるわよ!」

「任せてください、結城友奈行きます!」

 宮司さんの指示を受けてお姉ちゃんと友奈さんが御霊めがけて飛び出す。

 御霊に対してお姉ちゃんが大剣を振るい、友奈さんが思いっきりパンチする。しかし二人の攻撃を受けても御霊には傷らしい傷がつかない。むしろ殴った友奈さんの方が拳を痛そうにしていた。

「い、痛―い!これめっちゃ硬いよ!」

 驚く事にこれが初めてのダメージらしいダメージだ。バーテックスの攻撃は精霊が守ってくれるがこれは例外らしい。

 ふと足元を見ると封印の儀で発生した魔法陣の数字が減っている事に気がつく。同じように気がついたのか友奈さんと目が合う。

「すいません、この数字って何ですか?」

「それはバーテックスを封じられる時間の目安だ。それを超えるとバーテックスをそこに封じる力が無くなってもう一度止めることが出来なくなる」

「ようはこれを過ぎるとバーテックスが神樹様に辿り着いてゲームオーバーってことよ!」

 宮司さんの説明にお姉ちゃんが要点だけまとめる。

 数字を見て見るともう1分を切っていた。あと1分で御霊を倒せないと人類が滅亡すると分かり気持ちが焦る。

 どうにかしないと思うけど、あの硬い御霊に対してどうしていいか分からない。

「精霊の力を使え! 単純な攻撃に対しては御霊の方も対応してくるぞ」

「なら私の渾身の女子力を込めた一撃で!」

 お姉ちゃんはそう言うと宮司さんの指示通り自分の精霊の力を借りて手に持っていた大剣を巨大化させる。

 巨大化させた大剣をハエ叩きのように御霊にぶつける。今度は精霊の力もあって、有効だったみたいで御霊はスーパーボールみたいに地面にぶつかって跳ねる。

「勇者パーンチ!」

 御霊が飛び跳ねたところで友奈さんが精霊の力を纏ったパンチを繰り出して御霊が半分に割れる。半分に割れて御霊はビクンと震えるとそのまま砂になって崩れていった。

 連動するように御霊の外身であったヴァルゴも同じように砂になって崩れた。

「勝ったの?」

 敵が倒れ、しばらく呆然としている中友奈さんの呟きが聞こえる。

 少しの間、樹海の中は静寂なままで、それを宮司さんの声が破った。

「こちらからは敵を確認できない。目視ではどうだ?」

 私は周囲を見渡して見たが目に見えるのは友奈さんとお姉ちゃんだけで、あとは遠くにある神樹様の壁だけで他にめぼしいものは見当たらない。

 お姉ちゃんや友奈さんと顔を見合わせて互いにうなづく。やっぱり二人も何も見つけられなかったらしい。

「特に見当たらないわ。今回は一体だけだったわね?」

「なら戦闘は終了した。ご苦労だった、もうすぐ樹海化が解けて君たちは元いた場所に近い神樹様の祠に送られるだろう」

「宮司さんもお疲れ様でーす!」

 友奈さんの返事に答えることなく宮司さんとの通信が切れる感覚がした。

 あまりこちらとは話す気がないらしい。

「あれ? 通信切れちゃった?」

 友奈さんは気にした様子はなく、単純にすれ違いだと思ってるらしい。

 なんとなく神樹様の方を見ていると地響きとともに樹海中が光に包まれ始めた。ここへきた時と逆再生のように戻されるらしい。

 眩い光に目を腕で塞ぎ、光が収まって目を開くとそこは学校の屋上だった。

「友奈ちゃん! みんな無事?」

 車椅子の車輪を自分で回しながら東郷先輩がこっちに寄ってくる。友奈さんも東郷先輩の方へ寄り互いの無事を確認するように抱き合う。

「東郷さんも大丈夫だった?」

「私は友奈ちゃんが守ってくれたから」

 なんか美しい友情が展開されていたので私とお姉ちゃんは蚊帳の外になっていた。別に混ざりたいとは思わないが少し寂しい。

 何となくボーッと二人を見ていた。

 私が微妙な顔をしていることに気がついてお姉ちゃんが心配そうに話しかけてくる。

「樹? 大丈夫? 痛いところはない?」

「え? あぁ、うん。大丈夫だよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんこそ大丈夫?」

「樹がそう言うならいいけど……」

 お姉ちゃんが心配そうにこちらを覗き込んでくる。私そんな深刻そうな顔していただろうか?ボーッとしてるだけだよ?

 東郷先輩と話し終わった友奈さんが学校の屋上から見える風景を見て呟いた。

「みんな、さっきまでの出来事を知らないんだよね?」

「ええそうよ、今日はみんなにとっては普通の木曜日。でもその普通の木曜日を私たちは守ったのよ」

 少し誇らしげにお姉ちゃんは胸を張る。

 どうやら普通の日常を私たちは守ったらしい。そんな姉の言葉もどこか遠くのことを言っているように思えた。

 何かを守ったと言う実感なんて湧いてこなかった。ただ当たり前の日常がいつものようにそこにあった。

「と言うことはもうすぐ授業が始まる?」

「急げば間に合うんじゃない? 一応大赦の方からもフォローを入れてもらうつもりだけど」

 そうと分かれば行動は早かった。それぞれの教室にダッシュで走り、なんとか朝のホームルームに間に合う。

 さっきまで世界を守っていたなんて冗談のように授業を受けた。

「樹ちゃん大丈夫?」

 現代文の授業中、隣の席の瞳ちゃんが心配そうに私を覗き込む。

 はて? 私はいつも通りだろうにそんな心配する事があるだろうか?

「うん、大丈夫だよ? 何か変だった?」

 私の返事に瞳ちゃんはさらに心配そうな表情を強くする。

 眉をひそめ、私の顔を怪訝そうに見つめてくる。

「うーん? 変ってわけじゃないけど、なんか表情が固い?」

 瞳ちゃん自身、確信がないのか曖昧な言い方で言い淀んでしまう。

「樹ちゃんが大丈夫って言うなら信じるけど無理しちゃダメだからね?」

 少し悩んだ様子だったが渋々という感じで瞳ちゃんは言う。

 そんなこんなで世界を救った朝と打って変わって昼間は本当にいつも通り終わった。

 私は元気一杯だったが今日はみんな疲れてるだろうって事で勇者部はお休みだった。

 特にやることもないので家で録画したテレビを見て、晩御飯をお姉ちゃんと一緒食べた。

 楽しみにしていたはずのドラマはどうしてか内容が頭に入らなかった。

 今日あんなことがあったからか、食を進めるお姉ちゃんは少し元気がなかった。

 いつもよりうどんの進み具合が遅い。それだけ気にしているのだろうか。

 うどんの丼を横に置いて

「樹。本当にこんなことに巻き込んでごめんね……」

「そんなに気に病まないでよ、お姉ちゃん。私ついていくよって言ったよ?」

「ありがとう、樹。ようし! 安心したらお腹が空いてきたわね!」

 安堵して表情がいつも通りに戻ったお姉ちゃんは普段通りにうどんを食べ始めた。そんないつも通りの姉の様子に私も胸をなでおろす。

「もう、お姉ちゃん。いつも言ってるけど食べ過ぎだよ」

「いいのよ。うどんは女子力を上げるのよ! 樹もじゃんじゃんおかわりしてよね」

 ガツガツうどんを食べる姉とは違い私はいつもよりも少な目の量を食べて食事を終えた。

 夕飯を食べ終えてお風呂に入る。どうしてか今日は鼻歌を歌う気にはなれなかった。

 湯船から上がり、体を拭いてパジャマに着替える。

 鏡に写る私の顔はどこか憂いたものだった。気に入らず、両の手のひらを使って口角を上げてみる。

 風呂上がりで湿った頬が手しっとりと張り付く。頬の柔らかさとは裏腹に私の表情は固い。

 これは確かにみんなに心配されるわけだ。

 しかしいくら頬を揉んで見ても表情は柔らかくならない。

 少し経って湯冷めして冷えてきたので急いで部屋に戻り、ベッドに入る。

 電気を消し、天井を見ていても眠くならない。

 目を見開きながら天井を見上げていても何も考えはまとまらず、私の息の音と隣の部屋の姉の寝言が聞こえるばかりだ。

 お姉ちゃんせめてうどんは1日三食までにしようよ。

 ボーッと天井を見上げているうちに部屋が明るくなる。まとまらない思考のまま朝を迎えてしまったらしい。

 もうベッドの中にいるのにも意味が見いだせず朝の用意を始める。

 洗面台に立って顔を洗う。クマができていた。

 いつの間にやら起きていたお姉ちゃんはいつも通りに朝食の用意を終えていた。

 ルンルンとお皿を並べていたお姉ちゃんが私の顔を見て驚く。

「ちょっと、樹? どったのそのクマ?」

「これ? あー、ちょっと占いやってたら夜更かししちゃって」

 嘘だ。変に心配をかけたくなくて嘘をついてしまった。

「もう、ちゃんと寝ないと背、伸びないわよ?」

「大丈夫だよ。もうそんなにしないよ」

 私の返答に満足したのか笑顔に戻った姉と朝食をいただく。

 食べ終えて、片付けて、家を出る。

 いつも通り、通学路を進んで学校に行く。

 いつも通り、玄関口で上履きに履き替える。

 いつも通り、一年の教室を素通りして屋上への階段へと上がって行く。

 そしていつも通り、ワニー先輩は屋上でギターを弾いていた。

 屋上の扉が開いたことに気がついた先輩がこちらに振り向き、微笑んで手を振ってくる。

 また今日もいつも通りの日常に私はいる。

 そう思えたら急に視界が歪んだ。目頭が熱くなって鼻水が止まらない。

 目があって急に泣き出した私を見て先輩が目を大きく開けて驚き、こちらに向かって寄ってくる。

「どうしたんだい急に泣き出して。どこか痛いのか?

「……ぐすっ、うわーん!」

「あわわ、本当に大丈夫?」

 声を出して泣き始めてしまった私に先輩は驚いて手で空を切る。ポケットから菊の花がアップリケされた青いハンカチを私に差し出す。

 受け取った私はハンカチで涙と鼻水を拭き取る。上品な澄んだ色の菊が水分を吸って色を濃くする。

「ごれがほんどの女子力―!」

 視界いっぱいに入った菊の花のハンカチに思わず変な感想を叫ぶ。

「本当に大丈夫、樹ちゃん?」

「大丈夫じゃないですー!」

「本当にどうしたんだい? おーよしよし」

 先輩に座らされ、ゆっくりと頭を撫でられる。お姉ちゃんに慰められるみたいで少し落ち着く。

 何度目か、鼻をかんでいるとやっと涙と嗚咽が落ち着く。その間も先輩は優しく私の髪を解いて行く。

 私が落ち着きを取り戻したのを見計らって先輩が語りかける。

「もう大丈夫?」

「はい、本当にすいません。ハンカチは洗ってお返しします」

 返事にともなって鼻をかむ。渡されたハンカチは涙と鼻水でベトベトになっていた。

 それを見て先輩は少し可笑しかったのか右手で口元を隠しながら笑う。

「なんだったらそれあげるよ?」

「いえ! 洗って返しますから! 洗濯とかしたことないですけど」

 また私の答えに笑いながら、先輩はゆっくりと私の頭を撫でて口を開いた。

「それで? 今日は一体どうしたんだい?」

 質問されて私は答えに詰まる。自分自身でもどうして急に泣き出してしまったのか分からなかった。ただいつも通りここにきたら自然と泣き出してしまったのだ。

 分からないから正直にあった事を答えることにした。

「分からないんです。ただ昨日が大変で眠れなくて、今日朝ここにきたらあんな風になっちゃって……」

「そっか」

 私の答えに先輩は少し納得がいったようだった。

「多分だけど、犬吠埼後輩は緊張してたんだな。それが今とけて、それまでの感情が噴出したんじゃないか?」

 そうじゃないかと聞かれ、私は昨日のお役目とその後のことを思い出した。

 急に始まった世界を守る戦い。そのあと急にいつも通りの学校生活が再開され、夜には寝付けずに朝を迎えた。一息つき暇もなく時間は続いていて、お姉ちゃんにも泣きつく余裕は無かった。

 そのままずるずるとこの時間まで私は緊張していたんだろうか?

 いつも通りの時間といつも通りじゃない時間の切れ目がなくて、それが緊張を貼り続けることになったのだろうか?

 考えをまとめているうちに自然と涙は治っていた。

 始業までの予備の鐘の音が屋上に聞こえてきた。

 私が泣いていたせいで先輩のギターを弾く時間がなくなったと思うと申し訳なくなる。

「すいません、先輩。私のせいで練習の時間がなくなっちゃって……」

 しかし私の言葉に先輩は怒ったような様子もなく笑っていた。

「別にいいさ、後輩が泣いてるのにほっとくわけにもいかないしな。それにもう目標とかもない、惰性の練習だからそんなに気に病むなよ」

 気にするなと先輩は手をヒラヒラと振って答える。おもむろに立ち上がってケースにしまったギターを持ち上げる。

「じゃあ、もうすぐ授業が始まるから先に教室にかえってるな? 顔綺麗にしたら犬吠埼後輩も教室に行くんだぞ?」

「ワニー先輩!」

 そう言っていこうとする先輩を思わず引き止める。名を呼ばれて先輩がこちらに振り向く。なぜ呼び止めたのか自分でも分からず俯いてしまう。

 でも言いたいことは確かにあった。

「どうした? まだ何かあったか?」

「その……、名前」

「名前がどうした?」

「さっき、樹ちゃんって呼んでました」

 そうだ。確かに先輩は慌てた時に私をそう呼んでいた。普段は犬吠埼後輩と呼んでいるのに。

「えっと、もしかして嫌だったか? そうだったら申し訳ない」

 先輩は申し訳なさそうにうなじをかきながらこちらに謝罪する。

「違います! よかったら樹って名前で呼んでください。犬吠埼だとお姉ちゃんと一緒です」

 先輩が驚いた顔を作り、少しの間が空く。

「えっと、だな。よし! じゃあまたな樹ちゃん!」

 少し照れ臭そうに早口で別れを告げて先輩は階段か駆け下りていく。名前を呼ばれてその音に胸のトクントクンという鼓動の音が伴奏を鳴らす。

 その後ろ姿を見送ってから私はハンカチで最後に顔を軽く拭ってから教室へ向かう。

 時間はあと1分で朝のホームルームが始まるという時間でかなりギリギリだった。

 急いで自分の席に座り、先輩から預かったハンカチをスカートのポケットに押し込み、平然を装って前を向く。

 教室に入ってきた担任の先生の挨拶を聞いていると脇腹がツンツンとつつかれる。何かと振り向いてみると瞳ちゃんが昨日と同じようにこちらを覗き込んでいた。

 しかし昨日とは違い、その顔は心配するようなものではなく、いつかのようにニヤニヤとしたものだった。

「へいへい、樹ちゃんや」

「どうしたの、瞳ちゃん?」

「いやー? 昨日の表情が嘘みたいに今日はいい顔してるからさ。いいことあった?」

 いい事があったかと聞かれポケットの中のハンカチを意識した。

「うん!」

 多分この時の私はとてもいい笑顔だっただろうと思う。

 不安になる事、心配になる事があります。でも今日はとってもいい事がありました。

 




小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
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だれかレポートバーテックスに効果的な勇者を紹介してください(血眼)



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今の部外者の声はピアノに

「私、もう風先輩のこと信じられません!」

 そう言って東郷先輩は車椅子の車輪を回して部室から出て行った。慌てた様子の友奈さんもそれを追いかけて部室から出ていく。

 後に残されたのはやっちまったという顔の姉と固まった私だけだった。

 私号泣事件から6時間後、部室にはみんなが集合していた。

 そこでお姉ちゃんからバーテックスのこと、勇者部が大赦の意向で集められた集団であり、発起人の姉はその手下だった事が語られた。

 姉妹である私も初耳だったが秘密にされていた事自体に東郷先輩はショックだったらしく、このような事態に陥っていた。

「いや、ホントにゴメン! ……これは少し軽すぎかしら?」

 当の本人はスマホから出した精霊である犬神相手に東郷先輩への謝罪を模索していた。

 いやそれは普通に怒らせるだけでしょ。

 漫才を始めた姉を横目にカバンからタロットカードを取り出してどうにかお姉ちゃんと東郷先輩が仲直りできるか占ってみた。

 死神! 死神! 死神!

 グッバイ東郷先輩。三週間ほどの付き合いでしたがあなたはいい先輩でした。友奈さんと末永く。

「……ううう、樹―。占いなんかいいの出た?」

 犬神との二者面談は上手くいかなかったのかお姉ちゃんが泣きついてきた。何も答えない犬神に聞いてもダメでしょうと思いつつ、占いの結果を見せる。

「死神のスリーカード。これならジョーカーにも勝てそうだね……」

 我ながらくだらないジョークに失笑。

「うがー! もうだめじゃあ!」

 ついに万策尽きたのかに転がる我が姉。床掃除なんて殊勝な心がけだと感心。洗濯するのあなたですよ?

「もう、お姉ちゃん。東郷先輩と友奈さん連れてくるから謝り方考えててよ」

 変に考えるより直接合わせた方がいいと結論づけて私は二人を探して部室を出る。

 東郷先輩が車椅子であることを加味するとそれほど遠くには行っていないだろうと結論づけて階段を降りていく。

 二階の踊り場の窓から外を眺めてみるとちょうど校舎同士の通路にいる二人を見つける。

 二人を追いかけて階段を降りて通路に入ったところで影になったいたところに思わぬ人がいた。

 少し離れた場所にワニー先輩がギターケースを背負って立っていた。

「あっ! ワニー先……輩?」

 話しかけようと近寄り、先輩の顔を見て足を止めてしまう。ワニー先輩は東郷先輩と友奈さんの方を見ていた。

 その表情を見て心臓が止まったような気がした。

 その表情はとても優しくて、愛しいものを見る表情で、切ない表情で、私には向けられたことのない表情だった。

 その表情を見ていると胸がチクチクと痛む。

 端的に言って嫉妬だった。

 視線の先をたどって見るとそこには東郷先輩がいた。

 落ち込む東郷先輩を慰めようとしてスベった友奈さんを東郷先輩が逆に慰め、そんな様子を遠くから、隠れるようにワニー先輩は眺めていた。

 どうしてそんな切ない表情をするんですか?

 質問を心の中で呟いても答えは帰ってこない。

 一歩前進み、ワニー先輩を問いただそうとした時、スマホが鳴り出す。

「え? これって、また今日もなの?」

 慌てて取り出して画面を見て見ると『樹海化警報』の表示が出ていた。

 画面から目を離し、もう一度周囲を見渡すとヒラヒラと落ちるはずだった木の葉がカメラを止めたみたいに空中を静止していた。

 周囲から光が満ち溢れ、昨日のようにあの神樹様の世界が広がろうとしていた。

 眩しくて思わず腕で視界を守る。

 腕で占められた視界の端、驚いた表情のワニー先輩と目があった気がした。

 時間が止まっているはずだから目が合うはずないのに、私を見て欲しいと願ったからだろうか?

 そんな考えの中、光が収まる。

 周りを見渡すとそこは昨日ぶりの光景だった。

 現実では見ることの出来ないような太さの根が大地を覆い、最奥には巨大な樹木である神樹様が厳かにその姿を現していた。

 変身して根の上を飛び超えてお姉ちゃんと友奈さんの方へ合流する。

「昨日ぶりになる、宮司だ」

 二人と合流を果たすと待っていたように感情のこもらない宮司さんの声が聞こえた。

「今回もよろしくお願いしまーす!」

「今回の敵だが三体、それも連携を組んでくるタイプだ」

 友奈さんの挨拶を無視して宮司さんは話を始める。無視された友奈さんは若干凹んでいた。

 そんなことは構うまいと宮司さんの話は続く。

「手前に来ているうち、尾の長い方が蠍座、板のようなものを付随させているのが蟹座だ。奥にいるのが射手座。射手座が遠くから射撃し、それを蟹座が反射させて追い込み、蠍座が各個撃破、それが奴らのやり口だ。まずは要になる射手座から始末しろ」

「分かりました! 結城友奈行きます!」

 先程まで凹んでいたのは気にしないことにしたのか、友奈さんは宮司さんの指示に従って遠くにいた射手座の方へ飛んでいく。

「じゃあ、私と樹は手前の方二体やっちゃいますか!」

「油断するな。その蠍座は特に攻撃に優れてる。慎重にあくまで複数人であたることを意識しろ」

「了解しました!」

 手前の二体のバーテックスに向かって私とお姉ちゃんは跳ぶ。近づいてくる私たちを蠍座がその長い尾を伸ばして迎撃する。

 伸びた尾をお姉ちゃんが大剣を盾にして防御する。それでも勢いは殺しきれず、コマのようにお姉ちゃんは吹き飛ばされていく。

「お姉ちゃん! キャー!」

 思わず、驚いてそちらを向き、叫んでしまい、それがいけなかった。

 後ろを振り向いてしまったことで正面からしなって、薙ぎ払われる蠍座の尻尾に気がつかず、思いっきり私も吹き飛ばされる。

 衝撃の瞬間、現れた私の精霊の木霊がバリアを張って守ってくれる。

 もし木霊がいなかったらと思うと冷や汗が背筋を流れる。

 空襲でワイヤーを伸ばて手近な根に巻きつかせ、クモのように空中を移動する。

 幸い、射手座の方は友奈さんが足止めしてくれるおかげで、飛んでくるらしい矢は今のところ飛んでこない。

「こんにゃろー!」

 復帰してきたお姉ちゃんが大剣を振り回して蠍座に肉薄する。

 しかしお姉ちゃんと蠍座の間に蟹座が割り込む。割り込んだ蟹座に大剣があたるが傷がついたような感じはしない。むしろ攻撃したお姉ちゃんの方が反動でよろめいてそこを蠍座の尾が襲う。

 お姉ちゃんを守ろうと蠍座の尾に向けてワイヤーを伸ばし、動きを止めようとしたが力負けし、私ごと尻尾がお姉ちゃんに振るわれる。

「言ったはずだ、一人でどうにかしようとするなと!」

 宮司さんの怒った声が聞こえた。

 飛んできた数発のミサイルが蠍座に当たり、蠍座の動きを少し留める。

 その間に私とお姉ちゃんは少し距離を開けるために後ろに飛ぶ。

 その時、悲鳴でドップラー効果を起こしながら友奈さんがこちらに飛んできた。

 見ればとんでもなく巨大な矢が友奈さんに当たり、そのまま吹き飛ばされていた。

 それを蠍座が追いかけ、追撃しようとしていた。

 友奈さんを助けようと私とお姉ちゃんが立ち上がった時、空からいくつもの矢が降ってきた。

 お姉ちゃんの大剣を傘がわりにして身を守るが飛んでくる矢は正確に私たち二人を補足していた。

 蟹座の反射板を経由して射手座の矢がこちらに飛んできていた。

 降り注ぐ矢に身動きが取れず、蠍座の尾を叩きつけられる友奈さんを見ているしか出来ない。

 宮司さんの支援でいくつか足場用の壁をせり出して道を作るが蟹座はそれを一つづつ丁寧に矢で潰していく。

「これでもダメか。しかしこのままだと結城がまずい。精霊のバリアにも限度がある」

 切羽詰まった宮司さんの声が聞こえる。

「お姉ちゃん、このまま動ける?」

「重くて動けないわ」

 お姉ちゃんに大剣を傘にしながら動けるか打診してみるが降り続ける矢はそれだけで重量となり動きを邪魔する。

 その間にも友奈さんは蠍座の尾に叩きつけら、抵抗できないでいた。

「このままだとジリ貧か……。仕方ない君達との同調率をあげる。具合が悪くなったら言ってくれ」

 次の瞬間、感覚が二重になって元に戻って不思議な感じだった。

 考えなくてもどうするべきか思考が走る。それを客観的に見る私がいる。二重に思考が起こる。

「僕の考えていることが分かるな? 今君達が感じているのが僕の思考だ」

 自然とやるべきことが分かる。自分の体が自分のものではないような感覚。しかし、確かに自分で動かしている。おかしな感覚の中、私とお姉ちゃんは動き出す。

 お姉ちゃんを掴み、ワイヤーを遠くに向かって伸ばす。根に刺さったワイヤーを使って自分を引っ張り、移動する。

「行って、お姉ちゃん!」

「おっしゃあ!」

 飛びながら別のワイヤーを伸ばし、テコの原理でお姉ちゃんを投げる。

 投げられたお姉ちゃんは同調した思考で合図なく対応し、回転しながら大剣を巨大化させて思いっきり叩きつける。

 思考の同調は私とお姉ちゃんの思考を無意識に混ぜ合わせ、合図なしの連携を可能にした。

 精霊の力を加えた大剣に回転が加わり、蟹座に大剣が叩きつけられて蟹座を大きく破損させる。

「ゆうなちゃんをいじめるな!」

 頭に東郷先輩の声が聞こえた。繋がった宮司さんを通じて状況を理解する。

 蠍座に痛めつけられた友奈さんを見ていて東郷先輩は怒ったのだ。その怒りのまま勇者に変身して蠍座を一方的に銃でやっつけていた。

 そのまま友奈さんは蠍座を傷ついて動かない蟹座に投げて上に乗せる。そのまま二人はこちらにやって来た。

「風先輩、部室では言い過ぎました」

 申し訳なさそうに東郷先輩はお姉ちゃんに言う。

 東郷先輩の謝罪にお姉ちゃんはホッとしたよう表情を柔らかくした。そして少し不安そうな顔をする。

「一緒に戦ってくれる、東郷?」

「はい。お国のために東郷美森、頑張らせていただきます」

「心強いわ、東郷」

 東郷先輩の狙撃銃が火を吹き、砲撃のような狙撃が射手座を襲う。

「ホント、スイマセン……」

 勇者部で怒らせてはいけない人一位が決まった瞬間だった。

 やっぱりこうなるのか。

 ん? 今のは誰の思考? 同調した思考から誰かの考えが伝わる。東郷先輩が戦うことに不快感を覚えた?

 気にはなったが今はそれよりも目の前のバーテックスを倒すことが重要だとさらに思考が混ざり、そちらに意識が強いられる。

「私が射手座を抑えているうちに封印をお願いします宮司さん!」

「了解した。手近な蠍座から行う」

 地面から花が舞い、蠍座の動きを止める。乙女座の時と同じように蠍座も体が開いて中からピラミッド型の御霊が出てくる。

 出てきた御霊を破壊しようと友奈さんが駆け寄り拳を振るう。出現した御霊はそれをヒラリと交わすが問題はなかった。

 一体化した思考の中、友奈さんの動きに合わせるようにお姉ちゃんが動き、動き終わったところで大剣をすくい上げるように切り上げ、御霊は上に飛ぶ。落ちてきたところを精霊の力を纏った拳を振るい御霊を破壊した。

 一糸乱れぬ連携だった。それだけ思考が一体化が連携を後押ししていた。

 次は私の番だった。

 蟹座の足元にも封印の儀が始まり、御霊が出現する。

 出てきた御霊は分裂して数を増やした。

「援護する」

「まとめて押し潰します!」

 短く宮司さんが言うと地面からいくつもの槍が伸び、数を増やし続ける御霊を囲って外に出ないようにする。

 私はワイヤーを伸ばして、生えた槍ごと増えた御霊をワイヤーで包み込み、そのままワイヤーを引いて圧迫して御霊をまとめて押し潰す。

 二つの御霊が破壊され、二体のバーテックスが砂に還る。

 そして残るのは最後の一体、射手座のバーテックスだった。

 それを自然と担当していたのは東郷先輩だった。

 射手座の放つ矢を東郷先輩が正確に撃ち落とす。

 繋がった精神から東郷先輩の思考が流れてくる。

「変身したら落ち着いた。これは変身したから?」

「そうだ。勇者システムには変身者の精神をシステム的に冷静にさせる機構が組み込まれている。それのせいだろう」

 東郷先輩の疑問に宮司さんが答える。

 勇者システムにはそんな機能まであったのか。

「恐ろしく感じるのなら無理に戦う必要はない。君が戦わなくても代わりはいる」

「いいんです。私友奈ちゃんや勇者部のみんな、ひいてはこの国を守りたいんです」

 少し心配そうな宮司さんの声に東郷先輩が答える。

 どういうわけか宮司さんは東郷先輩を戦わせることに忌避感があるらしい。

 そもそもこの会話も私しか聞こえていないのだろうか。友奈さんもお姉ちゃんも黙って東郷先輩を見ていた。

「そうか。君がそう思うならそうすればいい。邪魔した」

 宮司さんの言葉を最後に射手座の足元に封印の儀が始まり、御霊を吐き出させる。

 動き出そうとした御霊を地面から伸びた一本の槍が刺し貫き、動きを気を止める。動きのない御霊はたやすく精霊の力を込められた弾丸に撃ち抜かれ崩壊した。

「今度は犠牲なしに倒せた。よかった本当に」

 樹海化が溶ける直前そんな泣きそうな言葉が聞こえた。

『今度は?』今度とは前回があった?

 疑問を抱いたまま、学校の屋上に私たちはいた。

「本当に助かったよ東郷。これからも国防のため、頑張りましょう」

「国防のため……。はい、精一杯頑張らせていただきます!」

 雨降って地固まるとはこのことだろうか。

 亀裂の入ったお姉ちゃんと東郷先輩は同じ目的を持ったことで仲直りに成功した。

 それは嬉しいことだったが、私の中ではそれどころではなかった。

 どうしてだろうか、何か重要なことをいくつか見落としている気がする。

 そんな漠然とした不安感がなくなることはなかった。

 

 今日あの子を見かけた。

 友人と楽しそうに談笑していた。楽しそうにしていて、学生生活を満喫しているらしい。

 よかった。あの何も残らなかった二年間がこれに繋がるなら、せめて意味くらいはあったのだと自分を納得させられる。

 でもあの子の笑顔を見ていて思ってしまう。あの子は誰?

 考えてはいけない。深入りしてはいけない。胸が張り裂けそうになる。

 

 宮司御記

 

 




そろそろ一人称にも限界を感じてきました。
小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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五月の記憶はジョコーゾ

 天気の良い放課後、犬吠埼樹は汗をかいていた。

「あっつい……」

 ため息のように音葉が漏れる。

 滝のように汗が背中を伝い、夏服のシャツ汗で背中に密着して新しい不快感を絶賛作り出していた。

 なぜこのような事態になっているかは数十分前の部室に遡る。

 五月に入り、樹という新メンバーを加えた勇者部はその活動を改めて歩み始めていた。

 勇者としての御役目も、もちろん大事だが特に敵のこない平時では勇者部は通常営業だった。

 そのため、やってくる依頼をこなすことはいたって自然なことだった。

「東郷―、今日は依頼何件来てる?」

「今日は二件ですね。猫探しと学校の雑草取りですね」

「うーん、それなら猫探しの方に人数割きたいわね。樹? 雑草取りの方お願いしてもいい?」

「うん、いいよ。校舎横のところだよね?」

 特に断る理由もないため樹は雑草取りの件を了承した。

「それじゃあ、勇者しゅっぱーつ!」

 元気の良い友奈の声が部室から遠ざかっていく。

 決まったら行動は早く、風、友奈、美森の三人は部室を出て依頼主の方のところへ向かった。

 一人学校に残されることとなった樹はゆっくりとした足取りで校舎横へ向かう。

 そして件の校舎横にたどり着いた時樹は顔から血の気が引くのを感じた。

 本来ならば土の見えているはずの校舎横の地面は緑一色に染まっていた。

「あー……、これハーブだ。それもミント」

 手近な緑を一本引っこ抜いてみると、鼻腔を独特の爽やかな香りがかすめる。

 とてもいい匂いがした。しかし今はこのいい匂いが樹にはとても憎たらしく思えた。

 ハーブ系の植物のうち、ミントは特に育成には気をつけなくてはならない。

 なぜならミントの持つ繁殖力はそこらの雑草を悠然と超える。

 それはもう本当によく生える。

 ミントの掃除の手を抜いたばかりにプランターにびっしりと生え、本来育てようとした植物を枯らすなんてことは良くあることだ。

 そんな天然のバイオハザードであるミントが校舎横の地面に元気よく緑の絨毯を作っていた。

 一瞬、猫探しに行った姉たちを呼び戻そうかと考えがよぎったが任された以上、呼び戻すことはなんとなく嫌だった。

 仕方ないと自分に言い聞かせ、部室から持って来たゴミ袋の口を広げて雑草とりを始める。

 雑草といってもミント。抜くときはとても慎重になる。根が少しでも残っているとそこからまた元気よくこの緑の悪魔は生えてくるのだ。

 故に樹の作業は慎重に慎重を重ねる必要があった。根が地面の中で千切れないようにそっと力を込めて根を引きずり出すように草取りを行う。

 慎重に作業を行えば当然、時間がかかる。

 五月過ぎだというのにもう気温は真夏日であり、じりじりと太陽の熱が背中を温める。

 ミントがこんなにも元気よく生えているのにもこの日差しが一助しているに違いない。

 というかそもそもこれは学校の用務員の仕事でははないか? そういえば用務員の竹中さん(58歳)が荷車を押しながら時折、背筋や腰を伸ばしていたことを思い出し、今回の依頼人の正体を突き止めた。

 そんなことを思いながら樹はせっせと、しかし根を千切らないように慎重に黙々と草をもいでいく。

 日が15度ほど傾き始めた頃、前傾姿勢になっていたことで固くなった背筋を思いっきりそらす。

 腰や背中の骨が小気味良い音を鳴らす。

 ふと気になって視界を下にさげる。視界が良く通り、問題なく、足元の土が露出した地面が見えた。

 そして改めて自身の体の凹凸の無さを再確認させられる。少し寂しい気持ちになる。

 思い出してしまうのは数日前のワニー先輩のあの表情。

 彼は樹が今まで見たことない優しい表情で美森を見つめていた。

 あの表情に愛情やなんやらが籠っていないといえば間違いなく嘘だと樹には断言できた。

 もしかしてワニー先輩はああいうタイプの女の子が好みなのだろうか? 自然とそんな疑問を持ってしまう。

 しかし当の本人に質問する理由もなく、どう聞いて良いかも分からず、聞けずに数日が経っていた。

 むしろ下手に聞いて関係がこじれる方が樹には怖かった。

 事なかれ主義の考えのまま、答えの帰ってこない質問に悶々を頭を悩ませていた。

「あれ、樹ちゃん? こんなところでどうした?」

 振り返ると件のワニー先輩が珍しくギターケースを持たず、カバン一つで立っていた。

 唐突な彼の出現に樹は驚く。

「ワニー先輩こそどうしてこんなところに? 私は勇者部の活動で雑草取りです!」

「そっかー、こんなに暑いのに精が出るね。俺は職員室で担任と面談でね、ここ通ると職員室まで近道なんだよ。今はその帰り」

 言いながらワニーは樹の横まで歩き、日陰に入る。樹もそれに習って同じく日陰に入る。

「先輩、何か悪いことをしたんですか?」

 つい最近まで小学校に通っていた樹にとって担任との面談というものはイメージが掴めなかった。

 クラスの男子がたまに喧嘩して怒られるために職員室に連行されていたことくらいしか思いつかなかった。

 そのためそんな質問をしてしまった。

 そんなことを聞かれ、ワニーは一度キョトンとして笑い出した。

「そっかそっか、俺は職員室に呼び出されるほどワルに見えるのか。なら樹ちゃん、俺はどんな悪いことをしたのかな?」

 いたずらっぽく、それでいて気品を感じる笑みを浮かべながら、自身がどんなことをしたのかと樹に質問する。

 質問を質問で返され、樹は返答に困る。

 目の前の彼が何か悪いことをする人物には見えなかった。それ故、頭を働かせて考えてみる。

「えっと、授業をサボったとか?」

「今のところ、無遅刻無欠席だよ」

「それじゃあ、成績が悪かったとか?」

「成績は上から三番くらいかな? いい方だよ」

「ええっと、それじゃあ……」

 考えてみてもそれ以上は思いつかなかった。答えが思いつかず、うーんと樹がうなっているのを頃合いと見たワニーが正解を披露した。

「正解は進路調査票を出してなかったでしたー」

「進路調査票?」

 昔のクイズ番組風に正解を披露したワニーに対して樹は進路調査票という聞きなれない単語を繰り返した。

「そっ、進路調査票。入学したばかりの樹ちゃんにはまだ先の話だけど三年になると一応書かされる訳だよ」

「それを出してなかったんですか?」

「そういうこと」

 入学したばかりの樹には確かに卒業後のイメージは曖昧なものだった。

「どうして出さなかったんですか?」

「出そうとは思ってたんだけどなんて書いていいか分からなくてね。色々考えたけど自分がしたいことも思いつかなくて、そのままずるずると今日にまで伸びたってわけ」

 自分でもどうかと思ったが目の前の先輩も自分と同じようにやりたいことで悩んでいるのだという共通点に樹は少し嬉しいと思った。

 そんなワニー先輩の力になりたいと思い、提案してみることにした。

「先輩はいつもギターを弾いてますけど、音楽の道とかは興味ないんですか?」

 樹の質問にワニーは首を振ってかえす。

「音楽は別にそこまで好きな訳じゃないんだ」

「よく、朝に弾いているのにですか?」

「うん、惰性で今日まで続いたのかな? あっ、もちろん樹ちゃんが来てくれることは嬉しいよ? ただ将来まで続けるのかって聞かれたら返事に困るって感じで……。それにもう目標もなくてね」

「そんなことないです! 先輩のギターの音とっても素敵です! そんな卑下しないで下さい!」

 ワニーはギターを弾くことを対してそれを大事な事とは思えないと言った。

 樹はそんな言葉を聞きたくないと思った。否定の言葉に声が大きくなる。

 突然の抗議の声ににワニーは一度、目を見開いて驚いて、次に表情を崩す。

「そっか、そんな風に言ってもらえると嬉しいな」

 五指を合わせ、嬉しそうにワニーは話す。

 そして一息ついて、決意した顔を作る。

「なら進路調査票には音楽関係って書いておこうかな?」

「それがいいと思います。きっといいです!」

 応援するように樹は両手を握り、勢い余って飛び跳ねる。

 それを可笑しいそうにワニーは口元を隠しながら笑う。

「樹ちゃんは何か将来の夢はあるの?」

 なんとなく聞いた質問だった。

 自分が応援されたから、今度は聞いてみることにした。

 その質問を聞いて樹の動きが止まる。

「あの、えっと、その……」

 聞かれたくない質問であった。答えにくい質問だった。

 夢も目標もない樹にとって将来の進路などいくら考えても答えなどでる訳がなかった。

 考えても答えなど当然、何も思いつかず、樹から見て悲痛な沈黙が二人の間に流れる。

 俯いてしまった樹を見て、何かまずいことを聞いたと察したワニーが慌てて話題を変える。

「そっ、そうだ! 樹ちゃんは何をやってんだっけ?」

「……え? あっ、そうだ。雑草とり。……って時間経ってます!」

 そこで樹は話に夢中になっていて時間が立っていたことに気がついた。

 終わり次第、今日は解散だったため、このままでは帰れない。

「すいません、ワニー先輩。今日はこの雑草を抜かなくてはならないんです」

 そう言いながら樹は雑草取りを再開する。変わらず慎重さを忘れず。

 そんな樹を見てワニーは首をかしげる。

「それって勇者部の活動だよね?」

「はい! 今日の依頼はここの雑草取りなんです」

「手伝ってもいいかな?」

「え、そっ、それは……」

「ボランティアならら手伝っても問題ないよね? 俺が話しかけて活動の邪魔しちゃったみたいだし?」

 答えを聞かず、ワニーは雑草取りを始め、樹の作業を見様見真似で行う。

 手伝わせて申し訳ないと思いつつ、ワニーの抜いた雑草の根が少し残っているのを目ざとく発見する。

「あっ! ワニー先輩、ミントを引き抜くときは根もしっかり抜かないとまた生えて来ちゃうんです」

「そうなんだ。樹ちゃんは物知りだね」

 腰を曲げ、教えられた通りに土に残ったミントの根を毛抜きのように摘んで抜いていく。

 後には点々と草が抜けた小さな穴だけが残る。

 二人で雑草取りを黙々と行う。

 隣り合って雑草を抜いていると土の匂いやミントの爽やかな匂い、混じる雑草の草の匂いの中にそれとは違う優しい花の匂いがした。

 匂いの方へ顔を向けるとそこにはせっせと雑草を抜く長髪をバレッタでまとめた先輩。どうやらこれは彼の髪の匂いらしい。

 樹はまたもや彼の妙な女子力の高さを垣間見る。

 人の匂いに夢中になっていたことが急に恥ずかしくなり、雑念を取り払おう別の感覚を研ぎすまそうと耳をすませる

 聞こえるのはワニーがリズムよく雑草を抜く音と自分が雑草を抜く音、そして遠くから聞こえる運動部の掛け声だけだった。

 不思議ともう暑さによる不快感はない。

 でも別の不快ではない熱さがあった気がする。

 1時間もすればあの地面を覆う緑の絨毯もすっかり本来の下に隠れていた土の色に変わっていた。

 すっかり膨れたゴミ袋の口を縛り、袖で汗を拭う。

 同じように袖で額を拭った時、ワニーは自身の手や爪の間に土がこびりついているのを見つけた。

 すぐそばにあった手洗い場に行き、蛇口をひねって水を出して手を洗う。冷えた水道水が手の表面を流れ落ちてこびりついた土を洗い流す。

 手を綺麗にしたところでポケットの中を探ってみるが中には何もない。

「あー、冷たくてきもちいい。あれ? ハンカチ家に忘れたかな?」

「あっ、それならこれ使ってください。使ってくださいと言うよりは返します、でしょうか?」

 ポケットを探り、ハンカチがないことに気がついたワニー。それで樹はカバンから一枚のハンカチを差し出す。

 それは先日、ワニーから預かった菊の花が刺繍された青いハンカチだった。

 それを受け取り、手を拭う。

 青い菊の花が水を吸って色を濃く変える。

 ハンカチを渡して樹は顔を少し赤くしながら軽くうつむいてポツリポツリと話し出す。

「あっ、あの先輩。先日はどうもありがとうございました。ハンカチ嬉しかったです」

 先日の泣き出す痴態を思い出し、恥ずかしさに顔が熱を持つ。

 そんな可愛らしい後輩の仕草にワニーは笑う。

「どういたしまして、かな? もう大丈夫?」

「はい! もちろんです」

「ふふふ、なら良かった。……そうだ」

 樹の威勢のいい返事を聞いてワニーはもう一度笑う。

 笑いながら何かを思い出し、ハンカチをポケットにしまい、後ろに振り返るとそのまま自動販売機まで歩き、ポケットから小銭入れを取り出て何かを購入する。

 戻って来てみると両手にそれぞれオレンジジュースと紅茶の缶を持っていた。

「はい、オレンジジュースでよかった?」

「え、あっはい! オレンジジュース好きです!」

 そのうちのオレンジジュースの方を樹に差し出す。

 思わす両手を出して受け取る。樹が受け取ったのを確認すると手を離し、持っていたもう一つの缶を開け、少し傾けて少しづつ飲む。

 オレンジジュースを受け取った樹もそれに倣って缶を開ける。

 中の空気が勢いよく抜ける爽やかな音が聞こえた。少しだけ甘いジュースを飲んでから樹は口を開く。

「貰っても良かったんですか?」

「頑張った後輩へのご褒美さ、やっぱり何かした後に飲む甘いものはいいね」

 ニカッとワニーは笑う。

 釣られて同じように樹も笑う。

 真夏日の五月。爽やかな風が校舎の横、土色に片付いた地面に立つ二人の間を通っていった。

 




小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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マエストーソな振る舞い

 校舎横の草取りから二週間が立ち、六月になった。

 日差しも高くなり、登校時にも汗をかくようになった頃、樹をはじめ、神樹に選ばれ本当の意味で勇者になった勇者部たちはまたも樹海の中にいた。

 都度、三度目。前回から1ヶ月を経ての敵襲だった。

 前回からは東郷美森も加わり、四人に人数を増やした勇者たち。

 三度目にもなり、少し見慣れてきた樹海化した神樹の結界の中、来たる敵を待ち構えていた。

「君たちに先に言っておく。今回からは大赦から派遣された勇者が戦力として加わる。彼女と協力するように心がけてくれ」

「分かったわ。それにしても今さら応援の勇者なんて随分と遅い参戦ね」

「大赦としても出来るだけ万全を期した結果の遅刻だ。1ヶ月も敵が来なかったからこそ準備に時間をかけた結果の遅刻だ、戦力としての彼女にそれだけの期待しよう」

「その口ぶりだと宮司さんも会ったことがないんですか?」

 宮司と風のやりとりに疑問を持った友奈が宮司に質問する。

「君たちのバイタルや必要な情報かこちらでも管理しているが実際に会うことはない。宮司システム搭乗者はそういう決まりになっている」

 あいも変わらず宮司は無感情で抑揚の薄い平坦な返事を返した。いい加減三度目になり、彼の人と、なりを理解しつつあった友奈は何かいうこともなかった。

 結果的に分かったことは宮司を含め、全員が会ったことのない五人目の勇者が今回から参戦するという事実だった。

 そんな話をして時間を消費していると今回の敵が地図上に表示されている事に宮司が気ついた。

 地図の表示には牡牛座の文字。

 今回やって来た敵を表している。

 三度目、三体目の敵がやって来た。

「ようし、あんたたち。今回も行くわ……よっ⁉︎」

 やって来た敵を視認し、いざ行こうと風が呼びかけた時、突然降ってきたものに驚き、声が遮られる。

 飛んできたのは複数の日本刀。飛来したそれらは牡牛座のバーテックス囲むように刺さると日本刀自体を軸に封印の儀を開始した。

「ちょろい!」

 封印の儀を行われ、動けなくなった牡牛座に赤い影が一つ、掛け声を放ちながら迫る。

 その人物は赤い勇者の衣装に身を包み、先ほど飛来したものと同デザインの日本刀を両手にそれぞれ構えていた。

「おい、突出を許可した覚えはないぞ!」

「封印開始!」

 突然の赤い勇者の行動に宮司は驚いて声を荒げ、勇者たちはこの出来事を固まって見守っていた。怒った宮司の声を無視して赤い衣装の勇者は封印の儀を始める。

 本来であれば宮司を介して行うバーテックスの御霊を現出させる封印の儀ではあるが、非常時においては勇者も同様の手順を行える。そのため、勇者独自で行動して封印の儀を行うことは可能であった。

 仕方なしと宮司は最低限の神樹の力の供給を行い、封印の儀における勇者の負担を肩代わりする。

 赤い勇者の勝手な先行はなおも続く。封印の儀が始まり、牡牛座を囲うように花びらが舞いはじめる。舞う花びらは拘束の力を発揮し、牡牛座の体から核たる御霊を引きずり出す。

 引きずり出された御霊はせめてもの抵抗として暗い色をしたガスを吐き出す。吐き出されたガスは周囲へと広がり、その毒性をもって勇者たちを害そうとする。

 しかし勇者たちに与えられた精霊のバリアが彼女らを守る。しかし精霊のバリアはあくまで守るためのものであり、その働きは守りしかない。そのため周囲一帯に広がりつつある色ついたガスで視界が完全に遮断される。

 宮司は爆風を利用してガスを取り除こうと数発のミサイルを打ち込もうと宮司システム内のコンソールを操作しようとした。

「そんな目くらまし、気配で見えてるのよ!」

 だが赤い勇者はそれよりも早く動き、迷いなく浮かぶ御霊に向かって刃を振るう。

 目隠しに等しい視界の中、振るわれた二振りの日本刀は正確に御霊を切り裂き、破壊する。

 赤い衣装の勇者は小さく「殲滅完了」と己に確認するようにつぶやき、同時に御霊を破壊された牡牛座はその体を砂に変えて崩壊する。

 急な五人目の勇者の登場とあっという間にバーテックスが殲滅されたことに勇者部は喜ぶよりも先に呆気にとられていた。

 バーテックスを一人で倒し、少し得意げな顔で赤い勇者は振り返る。そして先遣であるの勇者部の顔を一人一人、みてその面構えを見て大仰に鼻で笑う。

「ふん、どいつもこいつも惚けた顔しちゃって。これが神樹様に選ばれた勇者なの?」

「ちょっと、あんた。いきなり来てなんなのよ。ていうかあんた誰よ?」

 初対面での赤い勇者の態度に風は眉をひそめる。少なくとも初対面での正しい物言いではないことは間違いなかった。

 いきなり険悪な雰囲気に入りつつある姉と赤い勇者をみて樹はどうして良いかわからず、オロオロしながら成り行きを見守る。

 赤い勇者は口を開く。

「私の名前は三好夏凜。大赦から派遣された本物の勇者」

「本物の勇者?」

 三好夏凜に告げた言葉に友奈は首をかしげる。神樹に選ばれることでなる勇者に本物、偽物があるのかと疑問を浮かべる。少なくとも目の前の新顔はその違いがあると認めている。

「そう、私は大赦から派遣された本物、先遣であるあんた達はもうお払い箱ってワケ。おつかれさまでしたー」

 一方的な物言いで夏凜は特に惜しくもなさそうに手をヒラヒラとふり、暗に樹たちに勇者を辞めるように身振り手振りで言う。

 そんな夏凜の態度にムッと眉をひそめた風が何か言おうとした時、先に口を開いたのは宮司であった。

「三好夏凜。少しいいか?」

「何よ、サポートの宮司が勇者に何の用よ」

 三好夏凜にとって宮司という役職はあくまで勇者の支援、別にいなくても良い役目であり、重要なのは勇者である自分一人であるという認識だった。

 そういう認識であったために無意識に、悪気はないながらも宮司を軽んじる態度になっていた。

 そんな夏凜の態度に宮司は声色一つ変えず、淡々と言葉を続ける。

「今の君の戦い方。君はあれが正しいものだと、良い方法だと判断して戦っていたのか?」

 宮司の問いはいたってシンプルなもの、一連の行動についての自己認識について。それに対して夏凜は自信満々に答える。

「当然でしょ。あんな敵、私一人で十分。あいつらがいなくても私一人で殲滅できたし、実際にそうしたわ」

 自分の行動と選択に間違いはない。そうした思いが夏凜の答える声に含まれていた。

「なら君は今日で勇者解任だ。お疲れ様でした。その後については大赦の方から正式な辞令が下るだろうから待っていてくれ」

「そう、解任なのね。って解任⁉︎ どうしてよ。私、ちゃんと敵を倒したじゃない!」

 突如、宮司から下された解任の言葉に夏凜は慌てふためく。まさか敵を倒してその直後に勇者のお役目を降ろされるとは露も考えていなかった。

 慌てふためく夏凜とは対照的に宮司は淡々と言葉を述べていく。

「君の行動は独断専行が過ぎる。我々は一度でも失敗することが許されない以上、少しでも不安要素は取り除きたい。君も分かっているだろうが君の代わりはいくらでもいる、ならそちらを起用するほうが良いと僕は判断した」

 淡々と述べられる宮司の言葉は夏凜に裁判における判決文のように聞こえ、勇者であることを辞させることに足元が崩れるような錯覚がした。

 元々、夏凜は複数いる勇者候補の中から厳しい訓練を経て大赦から選ばれた勇者である。そのため、当然ながら彼女に負け、勇者になれなかった者は確かに大勢いる。彼女たちのことを思い出し、夏凜は顔から血の気が引いていくのを感じた。

「で、でも私、勇者に選ばれたのよ、それなのにこんな簡単に辞めなくちゃいけないの?」

 自身のアイデンティティが崩壊させられそうになり、夏凜の声が震える。両の手を固く握り締め、震わせる。そんな夏凜の様子を先ほどまで口論しそうな雰囲気だった風たちも突然の解任騒ぎにどうなってしまうのかと不安になっていた。

 そんな夏凜の声や風たちの様子に何も感じないのか、それでもあくまで平坦な声で淡々と宮司は続ける。

「そうだとも、宮司である僕には君たち勇者に関する人事権がある程度、認められている。人格や行動に問題ある勇者を出来るだけ取り除き、人類を守るというこの儀式を遂行させる義務が僕にはある」

−−もう、誰かを一人で戦わせるものか。犠牲なぞ無い方が当然いいに決まってる。その端末を使わせる以上、あの子の様にはさせない。させたくない。

 宮司の声にもう一つ、別の宮司の声が重なって二重になった声が樹には聞こえた。厳しい物言いの宮司の言葉に重なるように聞こえたそれは彼女を心配した声だった。

 何故、宮司の声がもう一つ聞こえたのかは分からない。しかし、それを聞いて樹は言葉の真意を理解する。宮司の厳しい言葉はその実、独断専行を行うことに際してそれを行なった本人、ひいては周囲の勇者が傷ついたりする事が無いようにしたいという宮司の思いを察する。

 気がつけば樹自分自身でも意外なことに声をあげていた。

「宮司さん!」

「どうした犬吠埼樹。今、君が意見する必要はないと思うが? どうかしたのか?」

 樹の内向的で気弱な性格を理解していた宮司はここで何故、彼女が声をあげたのか分からなかった。夏凜もまさか樹が、他の誰かが何かをこの状況で話すとは思っていなかったため、思わず樹を凝視する。

 宮司に聞き返され、夏凜に見つめられて言葉に詰まりながらも樹は発言を続ける。

「あ、あのですね宮司さん。三好さん?……も初めての戦いで良いところを見せようと必死だったと思うんです。だから一人で良いところを見せようと頑張って、結果的にあんな風になっちゃったと思うんです。だからむしろ頑張ってる三好さんを手伝わずに見てるだけだった私たちにも多少は不備があったと思うんです」

 樹の言葉は夏凜を擁護する内容であった。独断専行を行なった夏凜にも問題はあるが、それを見ていただけの自分にも非はあると彼女は言う。

 そんな樹の言葉に宮司は疑問を返す。

「つまり事前に三好夏凜の行動を把握していなかった僕や見ていただけの君たちにも不備はあったと。君はそう言いたいと?」

「えっと、誰かが悪いとかじゃなくて、頑張ってた夏凜さんを一人責めるのは嫌と言うか……」

 うまく想いを言葉に変換できず、樹は言葉に詰まる。想いは確かにあるのに言葉にして伝えられず、樹は思わず涙目になる。

 そんな樹の様子に毒気を抜かれたのか、それとも呆れたのか宮司は少し語調を柔らかくした。

「三好夏凜。彼女のいう言葉に間違いはあるか?」

「えっ、はい、……はい、間違いはないです」

 何故、急に樹が自身を庇ってくれたのか夏凜は分からず、少し呆けながらも夏凜宮司の質問に答える。

「三好夏凜、君が勇者として功績を上げることに執着しているのは勇者システムを介してこちらも理解している。だが功を急ぐあまり、一人突出しその結果周囲を危険に晒す真似は宮司として看過することはできない。先ほどの御霊のガス攻撃を見ればわかるが敵の行動は未知数な部分も多い。より慎重を期す必要があることを考えれば、君たち勇者の連携は最重要課題に当たる。以後の戦いで君にそれが出来るか?」

「やります、やらせてください」

 姿勢を正し、夏凜は答える。宮司の言う連携の重要さは勇者というお役目が失敗した場合、人類の終焉を意味することを考えれば重要であることは間違いなかった。

 自身の心の内を知らぬ間に見られていたことに思うところがないと言えば嘘になるが、その上で宮司が言わんとすることは夏凜も重々承知していた。

「今回はこちらも十分な支援ができたとは言い難い。その点については謝罪する。すまなかった。君の人事についてだが今後の行動で判断することにする。ぜひ、言葉ではなく、行動と結果で君の有用性を示してくれ」

「了解しました。三好夏凜、勇者のお役目果たさせていただきます!」

 話は決着し、双方足らない部分があったということで話は手打ちとなった。

 結果的に夏凜の処分は保留となり、改めて勇者のお役目に対しての決意を固めた。

 話が終わると宮司は最後に樹の方へ意識を向けた。

「犬吠埼樹。これで君は満足か?」

「はい、これでよかったって思います」

「そうか」

 何故、宮司が樹の言葉に耳を貸し、このように話を手打ちにしたのか樹自身にも分からなかった。それでも樹には宮司自身はこの結果に満足しているような気がした。

 問われた満足したかという問いにはどこか自問の色があるのを樹は薄々とではあるが見抜いていた。

 だからこそ、自身と宮司の両方に向けてよかったと感想を言葉にした。

 その問いかけを最後に樹海化の結界が解かれ、凍り付いていた時間がまばゆい光に溶かされて動き始めた。

 その後、あの様な場面でも自分の意思をはっきりと言葉にすることができる様になった樹の成長に感動した風が樹をお祝いにうどん屋に連れていく珍事もあったのだがそれは樹自身が恥ずかしがったため割愛。

 数日後、勇者部の部室には新しいメンバーが追加されていた。

「というわけで、勇者のお役目を果たすため、私も足並みを合わせるわ! 私が来たからには完全勝利よ!」

 真新しい讃州中学の制服に袖を通した夏凜は部室に備え付けられた黒板の前で意気揚々とそう宣言した。

 −−友奈さんによれば成績優秀で編入して来て、スポーツもすごいらしい。

 優秀な人物の登場に樹は若干、自身と比べてまた自身の非才さを感じる。そんな考えをしてしまう自分に自己嫌悪しつつ、ため息をこぼす。

−−考えてみたら友奈さんも、東郷先輩も、お姉ちゃんも、ワニー先輩もみんな得意なことがあってすごい。でも私の得意なことって何だろう。

 そんなことを考えて鬱々としていると話題は来週末の児童館での折り紙教室に移っていた。

 風に進行を振られ、樹は慌ててカバンから用意していたプリントを取り出す。

 多めに刷っていたプリントを夏凜にも渡し、樹はプリントにも書いてある通りの内容を再度、皆に伝える。

 当然のように自身も参加することになっていることに夏凜が困惑して驚く。

「何で当然のように私も参加することになってるのよ」

「あれ? 夏凜ちゃんも来てくれないの?」

「私はあんた達の監視のために今日来たのよ。別に日曜日も来るなんて言ってないわよ!」

 当然、夏凜も参加する者だと思っていた友奈が夏凜に参加の是非を聞く。それに対して夏凜はそんなことはないと否定する。

 勇者のお役目に殉ずる夏凜にとって横道に逸れるような真似は極力避けたかった。

「でもきっと、楽しいよ夏凜ちゃん」

「いきなり下の名前呼び⁉︎」

「嫌だった?」

「嫌ってわけじゃないけど……」

 初対面でかつ、先日のやりとりを経ても友奈という少女は変わらず、友好的に夏凜に接する。初対面でもわかる友奈の人の良さに人付き合いが薄い夏凜はその好意に対してどう接していいか分からず、言葉を濁す。

 助けを求めて夏凜が周囲を見るとちょうど、樹と目が合う。

 少しばつが悪そうに頭をかきながら夏凜は樹と目を合わせ、ポツポツと話し始めた。

「えっと、犬吠埼さん?」

「お姉ちゃんと同じなので樹でいいですよ」

「じゃあ、樹。この間の時はありがとう。貴方のお陰で勇者をクビにならずに済んだわ。本当にありがとうございました」

 そう言って夏凜は深々と頭を下げた。夏凜に頭を下げられ樹は驚く。

−−別に夏凜さんを助けようと思って何かを言ったわけじゃないのに

 そんなことを思っていた樹は夏凜に頭を下げさせていることになんだか申し訳なくなった。結果的には彼女を助けることになったが動機はそれとは全く違うこともあり、的外れなことをさせてしまっている罪悪感が樹を満たす。

「かっ、夏凜さん。頭を上げてください。私そんなに感謝されるようなことしてないですよ」

「でも、お礼を言わないと私も気が済まないし……」

 樹と夏凜は互いにどうして良いか分からず、二人揃ってオロオロと行動を決めかねる。

「なら、夏凜、あんたも勇者部に入りなさいよ」

 二人を見ていた風が入部届けを夏凜に差し出しながら言う。

 差し出された入部届けを受け取り、夏凜は風を見る。

「入部? でもどうして?」

「宮司も言ってたじゃない。言葉じゃなくて行動で示せって。なら夏凜も勇者部に入って行動でお礼をすればいいんじゃない?」

「……! ええそうね!」

 言われ、夏凜はその言葉を言われたときを思い出す。言葉ではなく行動で示す。活発な夏凜にはその方が分かりやすく、直接的に樹へのお礼にできると思った。

 夏凜はその場で入部届けの空欄を埋めて風へと渡すと樹へ向き直った。

「樹、これからよろしくお願いするわ」

「はい、これからよろしくお願いします、夏凜さん」

 夏凜の言葉に樹は元気よく返事を返した。

 一件落着となり、釣られて勇者部のみんなも笑う。

 きっとこれから良いこと、楽しいことが沢山あると無邪気に信じていた。

 そして次の日、樹は音楽の授業のテストで頭を悩ませるなど露にも思っていなかった。

 




次回は今作の本編と言っても過言ではない
小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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犬吠埼樹のモデュレーション

 犬吠埼樹という少女は自己評価が低い。

 よくある話では、兄弟姉妹がいると下の子が上の子と比較され、上の子はしっかりしているのにどうして下の子はダメなのだと言われる。そうして下の兄弟は自己否定的な性格になる。

 犬吠埼家には両親がいない。だから樹にそうしたことを言う親はもういない。姉の風が親代わりに樹を支えていた。だからこそ樹はそんな姉と自分を比べ、自分で自分を否定し続けてしまっていた。

 ——お姉ちゃんはすごい。

 それが樹の心の中の口癖だった。樹自身、自分には得意なことはないと思い込んでいた。きっと何か得意なことを見つけても、優秀な姉はその上を行ってしまうのだと思い込んでいた。

 夢も、得意なことも、やりたい事もない。そんな私は優秀な姉について行けばいいのだと自分に言い聞かせていた。

 何か得意なこと、好きなことを持っている誰かを樹は尊敬していた。

 ワニー先輩が鳴らすギターのきれいなメロディーが好きだった。

 ——だって自分には絶対にできないことだったから。

 

 六月の初旬、音楽室にて。犬吠埼樹は自身の顔から血の気が引いていくのを感じていた。

 立っているのは黒板の前の足場が一段高くなった教壇。普段よりも高くなった視界が教室にいるクラスメイトの顔を捉えてしまう。26対の瞳がじっと樹を見ていた。

「では犬吠埼さん、お願いします」

 端的にに言えば歌のテストだった。

 音楽の先生は朗らかに言うと、ピアノの演奏を始める。視界を少しだけ下に逸らすと両手で持った教科書に書かれた楽譜通りの音階が鳴り、音符を追って視線が右へ動いていく。

 手が震えて、教科書の位置が安定しない。嫌な汗が背筋を伝い、不快感で制服をあおぎたくなる。

 そして伴奏が終わり、歌詞の部分へ突入する。

「は、はるはわぁ」

 声が裏返る。音程が外れる。間違えてしまったことで顔が羞恥で赤くなる。

 ——あぁ、やってしまった。失敗してしまった。

 目頭が熱なった気がする。一度間違えてしまえばそこからはもっと酷い。失敗した動揺を引きずったまま、三小節を歌うころには音程の原型はなく、もはや何の歌なのか樹自身にすら分からなくなっていた。

 そんな自分の失敗を現在進行形で心配そうな顔を向けてくるクラスメイト全員に見られているのだと思うと、あまりにも恥ずかしくて、見えなくなるまで小さくなって消えてしまいたかった。

 先生の演奏が終わり、樹の歌も終わる。羞恥で潤んだ目を向けると先生は実に困った顔をしていた。そして切り替えて笑顔を作る。

「大丈夫ですよ、犬吠埼さん。本番まで時間がありますから、それまで歌えるように頑張りましょう」

 先生のフォローが痛い。いっそ何も言わないで席に返して欲しいと思った。

 意気消沈し、肩を落としながら樹は自分の席へすごすごと戻り、着席する。

 隣の席の瞳ちゃんが何やら慰めの言葉を言っているらしかったが消沈し俯いていた樹には聞こえてはいなかった。

 落ち込み、クラスメイトの歌声を聞き流しながら、真っ白になった思考のまま、時間は規則的に進んでいった。

 働かない思考、上の空のまま全ての授業が終わり、樹はポケーっとしたまま自然と日課のようになっている勇者部へ向かう。

 部室に入り、部屋の奥では友奈が定期的に出している勇者部新聞のレイアウトを変え、その隣では美森が勇者部のホームページをいじっていた。

「だからね、これは猫よ!」

「いや、どう見ても別に生きもんでしょ。夏凜は絵が下手ねぇ。完成型勇者様でも絵心は修行の範囲外と見た」

「う、うるさーい。猫と言ったら猫なのよ!」

 何やら言い争っているの見つけると樹はそちらへ視線を動かした。見れば夏凜と風が迷子の猫探しのポスターに描かれた夏凜曰く、猫について論議していたらしい。

 樹には少なくとも夏凜が主張しなければ猫には見えなかった。

 どうやら先日の夏凜の誕生日会以来、彼女は上手くこの集団に溶け込み始めていた。少なくとも風と軽口や他愛のない口喧嘩が出来るまでには仲は深まっていた。

 そんな楽しそうな二人を放っておいて樹は席に座り、カバンからタロットカードの入ったケースを取り出す。

 手慣れた手順を行い、タロットカードで占う。占うのは自分の歌のテストがうまくいくか。裏返したカード見てため息を吐く。

 死神のカード。色々と意味はあるがこの場合、うまくいかないという予兆である。

 一応、何度か別の結果が出ないかと試してみるが結果は連続した。死神のスリーカードが出るなんて運命の女神も首を横に振っているらしい。

 運にも見放され、ため息をこぼす。それを姉の風が目ざとく発見する。

「あら? 樹どったの? ため息なんてついて」

「あー、うん、お姉ちゃん。実は歌のテストがあって……」

 歯切れ悪く樹は話す。あまり姉の手を患わせたくないと、余計な心配をさせたくないと思っていた。

 しかし大切な妹の危機を察した風の行動は早かった。

「勇者、しゅーごー!」

 風の声を聞いて、何事かとみんなが振り返る。なんだなんだと集まり、樹を囲うように集合する。

「勇者部は困っている人を助ける。それは部員だって例外じゃないわ。というわけで今日の活動は樹の歌のテストを成功させること。いいわね!」

「はい、賛成です!」

 風の宣言に友奈は元気よく賛同する。人助けを、それも大切な友達の困りごとであれば断るわけはなく、それは美森と夏凜も同様だった。

「でも、歌のテストを上手くいかせるってどしたらいいのかな?」

 元気よく答えたはいいが具体的な案を友奈は思いつかなかった。人を助けるのに打算的な思考や躊躇いを持たないのは彼女の美点ではあるが必ずしも上手くいく案を思いつけるかは別であった。

 そして親友である美森はそういう友奈の側面を好意的に見ており、助け舟を出す事に苦はなかった。

「ふふふ、友奈ちゃん? こういう場合はね、アルファー波を出すといいのよ」

「アルファー波?」

「そう、アルファー波。いい音楽にはアルファー波が含まれているのよ、友奈ちゃん。正確には音楽には音の波形があって……」

 何やら聞きなれない単語に友奈は首をかしげる。それを美森は身振り手振りや専門的な解説を用いてなんとか説明しようとし、長々と説明をするが最終的に部室内でそれを理解していたのは東郷美森一人だった。

「知っている知識を人に伝えられない己の語彙力のなさが憎い!」

 車椅子で降伏だと言わんばかりに両手を投げる美森。

 ——ごめんなさい、東郷先輩。話の一割も分からなかったです。

 心の中で謝る樹であった。

 芸人としての素質を見せる美森を尻目に次は夏凜の番になった。

「サプリよ、サプリは全てを解決してくれるわ」

 サプリ教の信者がそこにはいた。

 ——あぁ、もうだめだ。

 その時点で樹は察した。

 カバンからは大小様々なサプリの瓶や袋が出てくる。全て出しきる頃には机の上はちょっとしたサプリの博覧会のようになっていた。少なくとも樹にはどのサプリがどのような効能があるかなど分からなかった。

「樹には、はい。喉に効くやつね」

 夏凜はそのうちのいくつかをラベルを確認しながら選び、樹に差し出す。

 差し出されたサプリの容器を受け取るが普段、サプリを飲まない樹にはよくわからない錠剤を飲むのは高いハードルだった。どうしていいか分からず、受け取った容器を両手で持って動きを止める。

 それを見た夏凜がフフンと鼻を鳴らして得意げに語る。

「そうね、初心者には中々サプリを飲むのって緊張するわね。いいわ、私が見本を見せてあげる。完成型勇者としてね!」

 意気揚々と夏凜は机に並べたサプリの容器を手元にひったくるとその中身を飲みこんでいく。良い所を見せたいのか、それとも意地を張ったのか、明らかに用法、容量を超える量のサプリが夏凜の中へ流れ込み、最後にオリーブオイルで口の中の錠剤を飲み込む。

「う!、ゔぇ……」

 用法用量とは安全に薬を飲むための基準である。そうでなくとも口いっぱいのサプリと喉がなるほどオリーブオイルを飲んで無事に済むわけがない。

 アホなことをした報いは往々にして本人に返ってくる。サプリを流し込んで数秒、口いっぱいに広がったオリーブオイルの香りを上書きするように酸っぱい臭いがした。

 大惨事になる前に夏凜はトイレ目指し、廊下に飛び出す。

「トイレは奥のところを左よー」

 風の声が廊下を走る夏凜を見送る。

 ——夏凜さんも順調に勇者部色に染まってきたなー

 廊下を走っていく芸人と化した夏凜を尻目に樹は呑気にそう思った。

 しばらくしてゼイゼイと息を切らした夏凜が帰ってきた。誰も何があったかは聞かない。勇者部は優しい人間の集まりなのだ。

 帰ってきて机に突っ伏した夏凜をチラ見しつつ、風は自信満々に自分の案を出す。

「何はともあれ、やって見ないことには始まらない。というわけで実践あるのみよ!」

 要はカラオケに行こうという話であった。

 場面は変わり、学校近くのカラオケ屋。

 五人でカラオケに入り、順番に歌いたい歌をデンモクに入れ、歌っていく。

 一番乗りは部長の風だった。樹は手に持ったタンバリンを合いの手として鳴らしながら、風の歌を聴く。

 やはりというかなんというか、風の歌はうまく、聴いている皆も歌声に合わせて体を揺すったり、声をあげたりとそれぞれのリアクションをとっていく。

 ——あぁ、やっぱりお姉ちゃんは何をやらせても凄いなー

 今まで見てきた事実を改めて突きつけられる。優秀な姉の姿を見て、人前では緊張してうまく歌えない自分とは大違いだと樹は思ってしまう。

 ぼーっと見てると歌詞を表示していた画面に歌の点数が表示される。

 92点。とても良い点数だった。

「それじゃあ樹? 次歌ってみる?」

「う、うん……。ありがとうお姉ちゃん……」

 歌い終えた風はマイクの持ち手を樹の方へ向けて差し出す。

 差し出されたマイクを樹は少し躊躇う様子で受け取る。

 歌の上手な姉の後という事もあって、ただ歌う事以上の緊張感が樹の両肩に乗る。

 見知った曲を入れ、歌の名前が画面に表示される。一度、振り返ると樹の歌い出しを待つ四人の目と樹の目が順に合う。

 いつも通り楽しそうな友奈、マラカスを構えた美森、何を歌うのかとチラ見する夏凜、そして自分の妹なのだからできると信じる風、四つの瞳が樹の歌を楽しみにして樹を見る。

 決して悪意のある視線ではない。むしろ好意的な視線。しかし、見られていると思うだけで体が硬くなっていくのを樹は感じる。

 マイクを握る手が力む。

 しかしそんな樹の心情とは関係なくメロディが始まる。歌詞が表紙される。

 歌う時がやってくる。

「うわ……、あ、あ、は、ぁ……」

 言葉にしようとした音がかすれ、裏返ったような声と空気が抜けるような風切り音。

 また上手くいかなかった、失敗してしまったという思いだけが堂々巡りに思考を支配して樹は黙り込んでしまう。

 軽快なポップスの音が痛々しく部屋に響いて歌が終わる。

 歌が終われば、画面に表示されるのは0点の文字。歌っていないのだから当然である。

 樹はうつむき、それを見ていた人たちも顔が引きつってしまう。

 なんと声をかければ分からない。

 いち早く再起動したのは友奈だった。友奈に続いてそれぞれが精一杯のフォローをする。

「だ、大丈夫だよ樹ちゃん。上手くいかない事もあるよ!」

「ええ、見ている人をみんなカボチャだと思えばきっと緊張もなくなるわ!」

「大丈夫よ、樹。勇者なんだからこれくらいの困難きっと乗り越えられるわ!」

「樹の歌が上手いのはお姉ちゃん知ってるから、樹ならきっとできるわ!」

 今だけはフォローが痛かった。変に気を使わせてしまって申し訳なく、また上手く歌えなことに落ち込んでしまう。

 ——お姉ちゃんは出来るのに。やっぱり私にはできなかった。

 でも暗い表情をしていたらみんなを困らせてしまう。だから無理しても明るく努めなければと樹は思った。

「うん……、次は上手くいくように頑張ります……」

 無理をして笑顔を作っているのは誰が見ても明らかだった。

 みんな心配して樹を見て、見られた樹は顔をそらす。

「ようし! 夏凜ちゃん! この歌、一緒に歌おう?」

「え?……、あ、ええ! そうね、一緒に歌ってあげるわ!」

 沈んだ空気を打破しようと友奈は夏凜をデュエット曲に誘い、場の空気を読んだ夏凜がその誘いに乗る。

 硬い表情の樹はそんな二人の歌う姿を見る。楽しそうに歌う二人を見て釣られて樹も口角が上がる。

 最後にネタなのか本気なのか判断に困る国防色の歌を美森が歌ってカラオケ会は閉幕となった。

 解散となり、自転車を押しながら夕暮れの帰り道を樹と風は歩く。

 まだ少し落ち込んだ樹を見て風が口を開く。

「今日は上手くいかなかったけど、大丈夫よ樹。だって樹は私の妹なのよ? 絶対出来るわ!」

「……あ、うん。そうだよね。きっと出来るよね」

 一切の疑いのない純粋な応援が樹に掛けられる。しかしそんな言葉をかけられた樹はどこか上の空だった。

 ——凄いお姉ちゃんならきっと頑張れば出来るんだろうな。でも私は?

 そんなことを考えても怖くて横にいる姉には聞けなかった。

 

 翌日、雨が降りそうな曇り空の下、樹は学校に向かっていた。

 雨が降りそうだからと自転車を自宅に置いて歩いて学校へ向かう。

 昨日のこともあり、樹は少し俯いたままだった。

 何時もの時間よりも少し遅いくらいに樹は屋上にたどり着いた。

 屋上にはいつものようにワニー先輩が腰を下ろしてギターを弾いていた。

 屋上の扉が開かれ、樹の姿を見つけたワニーは表情を柔らかくする。

 ワニーはふと時計を見て、いつもよりも時間が遅いことに気がつく。

 笑いながらワニーは樹に聞く。

「あれ? 今日は遅いね樹ちゃん。もしかして夜更かしでもした?」

「えっと、別に夜更かしとかじゃなくて、何となく寝られなくて……」

 そこでワニーは樹の表情が硬いことに気がつく。

「どうかしたの?」

「……え?」

「だって樹ちゃん、すごく表情が硬いよ?」

 言われ、樹は自分の顔を触る。言われて見てもよく分からない。

 自分の表情は硬いのだろうか? そんな事を思っているとギターを横に置いたワニーが樹の前にまで歩き、樹と対面する。

「もし何か悩んでるのなら、良かったら話してみてよ。話してみたら、楽になるかもよ?」

 出来るだけ安心させようとワニーは柔らかく言う。

 促され、樹は少しづつ想いを言葉にしていく。

「その……、歌のテストがあるんです」

「うん、それでそれで?」

「でもみんなの前に立って歌おうとすると緊張しちゃって上手く歌えないんです。お姉ちゃんやみんなにも相談したんです。でも結局、どうしたらいいか分からなくて、みんなを困らせちゃうんです」

「うんうん。みんなの前で歌えない事とみんなをこまらせちゃって申し訳なく思っちゃったんだね……」

「だから、私のことなんて気にしないでいいんです。別に歌なんて上手く歌えなくてもいいんです」

「そんな風に言うもんじゃないよ。みんな君を心配して色々頑張ってたんだよ? 大丈夫さ、樹ちゃんならきっと出来るよ」

 樹ちゃんならきっと出来るよ。

 ——あぁ、なんて真っ直ぐな応援だろう。どうしてみんな出来る事を前提に話すんだろう?

 一滴、一滴とズシリと重くて黒い水が自分の中に沈んでいくような気がした。

 樹は考えてしまう。

 ——みんなはすごい。だって何か得意なことがあって、好きなことがあって、何か凄いことができる。

 ——友奈さんは凄い。いつも元気で明るくてあの人の声を聞いているといつでも元気になれる気がする。

 ——東郷先輩は凄い。昔の日本のことにとっても詳しくて、パソコンの操作だったり、お菓子作りが得意だ。

 ——夏凜さんは凄い。幼い頃から勇者になるための修行をしていて、運動が得意で勉強もできる。バーテックスだって一人でやっつけられた。

 ——そしてお姉ちゃんは凄い。小さい頃からよく見てきた私が一番分かってる。お父さんとお母さんの代わりに私を育てて、家事もできて勇者部でみんなを引っ張っていってくれる。ついていけば間違いないと思わせてくれる。

 ——それじゃあ、私は?

 何ができるの?

 何が得意なの?

 何がやりたいの?

 どれだけ考えても何も思いつかない。

 みんなと比べて私には何にもない。そう考えてしまうと両手が震えてしまう。どうしてか目が熱くなる。

『きっと出来るよ』

 なんて無責任な応援だろう。どうしてそんなことが言えるのだろう。

 どうして上手くいくことが約束されているみたいにみんなは言うのだろう。樹は考えてしまう。

「樹ちゃん?」

「……、みんな勝手です。みんなは何か出来るからきっと上手くいくとか、大丈夫とか思えるんです。でも私には何もありません。得意なことも、出来ることも、やりたい事も。私にはそんなもの、一つもないのに勝手です!」

 言葉の最後の方は叫ぶようだった。目に涙を溜めた犬吠埼樹の魂の叫びだった。何か出来る他者と自分を比べて生まれてくる劣等感の悲鳴だった。握りしめた両手のように声は震えていた。

 突如、叫び出し、泣きそうになった樹を見てワニーは動揺する。何か気に触る事を言ってしまったのか。突然のことに理解が追いつかない。なんとか目の前の少女を落ち着かせようと手を伸ばす。

「待って、樹ちゃん。何か気に触るような事を言っちゃったのなら謝るよ。だから思っている事を話して、それじゃあちっとも君のこと分からないよ」

「ワニー先輩には絶対に分からないよ!」

 伸ばされた手を思わず樹は思いっきり払ってしまう。手と手がぶつかり、大きな音が鳴る。

 その音を聞いて樹はハッと我に帰る。

 決して痛いことはない。小さな樹の手では思いっきり叩いたくらいでは痛むほどのことは出来ない。しかし伸ばした手を払われたことに驚いてワニーは払われた手を反射的に反対の手で守るように握ってしまう。

 払われたことに少なからずワニーは動揺するがそれ以上に払った本人が最も動揺していた。

「ごっ、ごめんなさい、ワニー先輩。私、決して叩くつもりじゃなくて、でも、ええっと、えっと、違うんです、そう言ってくれるのは嬉しいんです、でも大丈夫って言われるのが嫌で、えっと、その、あ、ああ……」

 何が言いたいのか樹自身にも分からなかった。動揺が言葉を見出し、意味のない羅列を生んでいく。そんな自分すらも嫌になる。悪循環だった。

「ごめんなさい、私、せっかく気遣ってもらったのにでも、でも、でも……」

 泣きそうだったのが泣き始めていた。訳が分からなくなって言い訳の代わりに涙が頬をつたう。

 失敗した。差し出された手をよりにもよって叩いて拒否してしまった。

「ごめんなさい!」

 考える力はとうに止まっていた。その場から逃げるように樹は立ち去っていた。

「待って、樹ちゃん!」

 手をもう一度伸ばすが手遅れだった。ワニーには樹にどう言葉をかければいいか分からなかった。かける言葉のない彼に出来ることは見送る事だけだった。

 ワニーの制止する声は樹は届いていない。

 階段を走って降り、昇降口を通って校門の外へ走る。何処へ行くかなんて考えは微塵もなく、ただ走れる方向へ足を前にのばす。

 今はただそこから逃げ出したかった。

 決して辿り着く場所など無いのに樹はただ逃げるために走っていく。

 曇り空は次第に色を黒く変え、もうすぐ雨が降ろうとしていた。

 




出来る兄弟、友達がいるとどうしても自分と比べてしまうものです。
小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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犬吠埼樹のモデュレーション 第2節

 バスの中から空を見上げると鈍く暗い色が見える。

 初夏の澄み切った青空は隠れ、今にも降り出しそうな暗雲が空を覆う。

 行き先のない樹の逃避行は目に入ったバスに乗る事から始まった。

 飛び乗った行き先のわからないバスは定められた道を進んで行く。それがかつて樹が住んでいた瀬戸大橋近くへ向かうものだったのは一重に偶然だった。

 意識してか、それとも無意識か、樹は家族がまだ四人だった頃の場所へ向かっていた。

 かつて両親が健在でまだ姉と自分を比べる前のことを思い出す。

 思い返せば自分はいつも姉の後ろについて行くばかりの子供だった。

 その頃はそれを嫌とは思わなかった。

 いつからだろうか、ついて行くしか出来ない自分に嫌気がさし始めたのは。

 いつからだろうか、やりたい事が思いつかないと自覚したのは。

 考えても答えは出ない。そう思うようになった理由もなければ、誰のせいでもない。自然とそうなっていた。自然と先を考えることを怠ってしまっていた。

 別に誰かが悪いわけではない。ただその結果、自分が苦しむことになっただけ。

 ——こんな事今まで考えたことなかった。あぁ、そっか……、ワニー先輩だ。先のことや将来のことに悩むワニー先輩に出会ったから、私も自分のことを考えるようになったんだ。

「……って、違うよね。先輩は何悪くないよ」

 まるで彼が悪いかのような言い分の思考に自分で反論して、そんな自分すら嫌になる。

 眉を下げ、表情を曇らせているとバスの表示が終点を知らせる。

 仕方なく樹はバスを降りて周囲を見渡す。

 ——ずいぶん遠くまで来ちゃった。あー……、そっか。ここ、昔住んでたところだ。どうして気がつかなかったんだろう。

 2年前までは住んでいたはずの場所なのにまるで知らない新天地に来てしまったような錯覚に陥る。

 それも当然であった。その光景を見ている樹自身が変わった。

 2年あれば誰だって変わる。良くも悪くも同じではいられない。変わったのだ、樹は。それが本人の望まない形であっても。

 もうあの頃の自分とは違うのだと自分自身の感覚が樹に宣告する。

 それがなんだか寂しいことのような気がして、樹は思い出せる道を記憶を頼りに進んで行く。

 かろうじて思い出せる道を歩いて行く。進むごとに懐かしい思い出がよぎって行く。

 ——あれは初めてお姉ちゃんと行った公園。

 ——あれは初めて一緒におつかいに行ったスーパー。

 進めば進むほど懐かしい思い出が蘇っていく。おぼろげだった記憶もしっかりしたものに変わり、確かに、家族四人で暮らしていた家に足を伸ばしていく。

 歩いて、歩いて、足を止める。

 そして目指していた場所にたどり着き、愕然とする。

『私有地』

 かつて家があった場所はまっさらな土地に変わっていた。

 人が変わってしまうのなら、世界だって変わる。

 かつて家族の集まる場所は今やただの不動産になってしまっていた。

 変わってしまう何もかもに樹は寂しく思う。

 変われない自分がもどかしくて、変われない自分が嫌になって、それでも結局変われない。

 そんな自分が樹は嫌いだった。何かができる誰かが羨ましい、何もやりたいことが見つけられない自分が嫌いだ。

 何よりそう考えるばかりで行動できない自分が大嫌いだ。

 ポツリ。落ち込んでいると鼻先を冷たいものが当たる。

 空を見上げると暗くなった雲が支え切れなくなった雨粒を落とし始めていた。

 それを見上げる樹の顔に少しづつ雨が当たる。

 ——どうしよう。このままだと濡れちゃう。

 帰ることよりも濡れることを心配してしまう。

 周囲に聞こえる雨音が次第に激しくなり、濡れるのを覚悟して目を瞑る。

 しかし少し時間が経っても濡れない。閉じた目をそっと開くと樹に当たろうと降って来た雨粒は空中で静止していた。

 樹はこの事象を知っている。これで四度目。バーテックスがやってくる。

 樹の気づきに一拍、間をおいてポケットのスマホが樹海化の警報を鳴らす。

 スマホを操作して警報を一度止めると気づかないうちに風や勇者部のみんなからの着信やメールがいくつも来ていた。

 東の方へ視線を向けると光が溢れ出し、思わず目を閉じる。

 そして次に開けた時、樹は見慣れた神樹が生み出す樹海の結界の中にいた。

 仕方なく勇者に変身する。

 戦わなければ、人類が終わってしまう。樹に選択肢はなかった。

 重い足取りの気分とは裏腹に神樹の力によって強化された脚力は樹を風たちの待つ方へ運んでいく。

 樹を見つけて最初に声をかけたのは風だった。いなくなった妹を見つけて風は安堵の表情を作る。

「ちょっと、樹! あんたどこにいたの! 電話を掛けても出ないし……」

「あー……、ごめんねお姉ちゃん。心配かけちゃって、大丈夫だから……」

「大丈夫な人はそんな表情で笑わないわよ!」

 明らかに無理をして笑顔を作る樹に風は怒る。ないよりも自分に相談してくれなかったことが悲しかった。

 そんな優しい姉だからこそ、樹は風に相談することができなかった。自分の問題なのに、自分はいなくても解決しそうな気がして、それが怖かった。

 お前の悩みなんてちっぽけなものだと言われているような気がした。

 だんまりしてしまう。互いにどう言葉を発していいか分からず、沈黙が二人の間を流れる。

 だんまりを続けざるを得なかった二人の沈黙を破ったのは第三者の声だった。

 宮司の声が聞こえる。

「犬吠埼樹。君は今日、待機だ」

「……え! どうしてですか!」

 ここでも自分は必要とされないのか。悪い方へ樹は考えてしまう。

 樹の心の声に応えるように宮司は続ける。

「今日の君の精神面で非常に不安定だ。集団で戦う以上、一人でも不安要素はないほうがいい。今日限りのことなら人事の再編成をするほどのことでもない。それ故の待機だ、いいな?」

「……はい」

 宮司の言うことは正しい。一度でも敗北すれば人類は終わりという戦いであり、何より一緒に戦う誰かの足を引っ張り、誰かが死んでしまうかもしれない。

 樹にもそれは分かっていたから、宮司の言葉にうなずく。

 そんな樹の様子を見て風はより心配そうな顔をする。

「帰ったら相談に乗るからそこで大人しく待ってるのよ?」

「……うん」

 そう言って風は先に戦っている友奈たちの方へ向かって飛ぶ。

 一人取り残された樹はその場に座り込み、膝を抱えて顔を伏せる。

 戦いが終わるのが嫌になる。戦いが終わったらこの気持ちを、自分のダメさに嫌になる心の内を話さなくてはいけなくなると思うと、いっそその時が来なければと思ってしまう。

 夏凜も参加し、連携のとれた勇者たちは一体でやって来た山羊座のバーテックスを囲み、追い込んでいく。彼女らの掛け声や互いにかける言葉が繋がった宮司を通じて樹にも届く。

 改めてみんなの優秀さを見せつけられ、同時に自分がいなくてもうまく行くのをありありと確認させられる。

 樹が膝を抱えていると宮司が声をかけた。

「……犬吠埼樹。今日はどうした?」

「別に宮司さんには関係ないです。私に構うよりお姉ちゃんたちを手伝ったほうがいいじゃないですか?」

 今までとは違う宮司の対応に樹は気づかずに突っぱねる。

「宮司システムは必要があれば搭乗者の精神を分割することが出来る。前線の勇者たちを支援しながら無駄話をすることくらいは楽なものだ」

「そんなことできるんですね。きっと宮司さんもそれは優秀な人なんですね」

 皮肉を多分に含んだ声色で樹は言う。

 ——あぁ、この人もお姉ちゃんたち側の人なんだね。

 どうしてかがっかりする自分がいることに樹は気がつかない。

「……そんなことはない。期待外れと言われた回数の方が多いよ……」

「……え! それはどういう……」

 始めれ樹は淡々とした、平坦でない宮司の声を聞いた。

 思ってもいなかった宮司の返答に樹は勢いよく顔を上げる。気になって詳しく聞こうとしたら遠くでバーテックスが敗北し砂になったのを感じる。

 言葉を続ける前に樹海の中は光に包まれ、樹は神樹の祠へ飛ばされる。

 ——帰ったら相談に乗るからそこで大人しく待ってるのよ?

 姉との約束を思い出す。

 ——いやだなぁ……。

 小さくつぶやいた。

 光が収まり、止まっていた時間が動き出す。

 次に樹が聞いたのは豪雨と言うべき雨足の音だった。目に入るのは降りしきる雨と捻じ曲がって大破した瀬戸大橋だった。

 樹が飛ばされた神樹の祠はいつも呼び出されていた学校屋上の祠ではなく、瀬戸大橋近くの初めて見る祠に樹は引っ張られて出現していた。

 2年前の大事故にて破損した瀬戸大橋は修復されることなく、そのままにされていた。

 まるで事故の記念碑のようにそりたったそれを見ていると、樹は事故が起きる前のことを思い出してしまう。

 しあわせな普通の家庭、普通に中の良かった姉妹、普通に笑っていた自分。もしあの頃に戻れたら、そう考えてしまう。

 雨に濡れながら、しあわせだった頃を思いだし、寂しく笑う。

 こんな自分は誰にも必要とされている気がしてしまう。私よりもきっと優秀な姉をみんなが頼って、みんなが彼女を好きになる。

 ——お姉ちゃんについていけば『犬吠埼風の妹』としてみんなが私を必要としてくれる。

 諦めにも似た結論が出る。

 体を濡らす雨が拍手に聞こえて、結論が正解だと言っている気がする。

「……はは、あはは……」

 濡れた体で乾いた笑いが口から垂れ流される。

 心がどこまでも凍りついているのに目頭だけは熱かった。

 顔に当たる雨と頬を伝う涙が一緒くたになって制服を濡らしていく。

 ——だれか私を必要としてほしい。

 諦めていたのに最後に思ってしまう。

 不変なものは何もない。何もかも、良くも悪くも変わってしまう。変わらないものはない。うまくいく人がどこにでもいる一方で、うまくいかない人も、何処にでもいる。

 必要とされていないとあなたは思いつめてしまうかもしれない。でもきっと、必ずどこかにあなたに手を伸ばしてくれる人は必ずいる。

 気づかないだけできっといる。ほら、ここにも。

「いた! 見つけた! 樹ちゃん!」

 呼びかけられたことに少女は驚き、涙に濡れた相貌を隠すことも忘れて振り返る。

 降りしきる雨の中、傘もささず、服が濡れるのにも構わず、何時もの上品な素ぶりを投げ捨て、いつもは纏められている髪をふり乱して、いつも持っているギターケースを屋上に投げ捨て、身一つで少年は駆けていた。

 探し続けていた少女を見つけて疲れて動きの悪くなった足に鞭打って年上の少年は、鳴子百合の少女の元へ駆け寄る。

 駆け寄って、少女の前に急停止すると息を切らして膝に手をついて肩で息を切らす。

 樹は動揺する。如何してここが分かったのか、如何して来たのか、聞きたいことはいくつもあった。

 しかし思考はうまく言葉にならない。どうして来たのか、差し出された手を払ったのは自分なのに。ぐちゃぐちゃの思考で精一杯の言葉を紡ぐ。

「……先輩どうしてここに?」

「ゼハッ、ゼハッ……。樹ちゃんが大橋の方のバスに乗ったのを見かけたんだ。確証はなかったけど、もしかしたらって思って。だから橋を追いかけてここまで走って来たんだ」

「ここまでって、学校からここまで50キロは離れてますよ?」

「実は樹ちゃんには言ってなかったんだけど、実はマラソンは得意なんだよ。樹ちゃんの歳の頃はよく走ってたよ」

 樹は笑って言う目の前の先輩の言葉が信じられなかった。普通バスでチラ見して、もしかしたら見間違いかもしれないのに、それなのに普通走って追いかけるだろうか。

 樹には理解できなかった。でもそれを嬉しいと思ってしまう自分がいた。

 でもそんな思いを素直に受け入れられず、顔をそらしてしまう。

「放っておいてください、手を払った人を探すなんて頭おかしいんじゃないですか!」

 探してくれたことが嬉しくても素直に認められず、逃げようと身を翻す。

 逃げようとして、以前は払った手が掴まれる。

 もう一度振り返るとワニーは自虐するように苦笑していた。

「自分でもこんなことするなんて思って見なかったけど、走っちゃったんだ。それに俺のせいで君を困らせちゃったなら、話くらいは聞いてあげたいよ。今度こそ樹ちゃんの話、聞かせてくれないかな?」

 真っ直ぐに見つめられ、樹は言葉に詰まってうつむいてしまう。でも今までのような悲しさや寂しさはない。

 繋がった手が、濡れて冷めてしまった腕が、確かに繋がった熱を教えてくれる。

 雨音にかき消されそうな中、樹の耳は確かに言葉に含まれた熱を彼女に伝える。

 そんな熱にたまらなくうれしく嬉しくなって頬を赤く染めながら答える。

「……うん、はい、お願いします」

「なら決まりだ。樹ちゃん? ちょっと重いけどこれ羽織って」

 ワニーは上着を脱いで樹の方にかける。

「え? でもどうして?」

「……えっと、その。透けてるよ?」

 さっきまでの真っ直ぐな視線は何処へやら、ワニーは頬を少し赤くして顔をそらす。

 如何してかと思い、樹は視線を下へ降ろすと濡れた制服が体に張り付いて下着がはっきりと制服の上から見えていた。

「きゃ! せっ、先輩見ないでください!」

「だっ、だから上着を貸したんだよ!」

 思わぬ羞恥案件に樹は驚き、肩にかけられていたワニーの上着を抱いて、丸くなる。凹凸などなくても恥ずかしいものは恥ずかしいものだ。

 そんなリアクションを取られ、ワニーも照れてしまう。

 手を繋いだまま、お互いの方を見ない変な二人組がそこにいた。

「このままじゃあ、風邪ひいちゃうな……。背に腹はかえられないか……」

 少し考え込んでから、街の方へ一瞥してからワニーは仕方がないと重い溜息を吐く。

 長い溜息を吐き切るとワニーは樹の方へ向き直る。いい加減、恥ずかしがるのにも慣れ始めてきた樹と目が合う。

「樹ちゃん? 少し歩くけどいいかい?」

「もうなんでもいいです……」

 若干、驚きの連続で樹は疲れ始めていた。

 立ち上がり、樹はワニーに手を引かれながら大橋の街を歩いていく。

 微妙な空気になり、雨に濡れながら二人は歩き、ワニーは慣れた様子で道を選び進んでいく。

 進んでいくと住宅街を抜け、閑静な高級住宅街に出る。

 家と家の間隔が広まっていき、なんだか不思議な方に来たと樹は思い始めていた。

 暫く歩き、ついに一軒の屋敷と比喩するべき家の前でワニーは開け放たれた門をくぐり、敷地内を迷いなく歩いていき、樹は繋いだ手に引かれてワニーについていく。

 立派な玄関の前に立ち、ワニーは二度扉を叩く。

 そうすると扉が一人でに開かれる。よく見ると内側から割烹着に身を包んだ女性が扉を開けていた。

 扉を開けた女性はまず始めに雨に濡れた樹に驚き、そしてワニーの顔を見て更に驚く。まるで幽霊にあったような顔をしていた。

 そしてハッとして顔を元に戻す。そして姿勢を正し、使用人としての態度を持ち直す。

「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」

「よしてくれよ。それより彼女をお風呂に入れて。このままだと風邪をひく」

「おぼっちゃまはどうされます?」

「お客さんに風邪を引かせるわけにはいかないよ。……名折れになるだろう」

「畏まりました。ではお客様こちらへ」

 最後の方、少し不機嫌そうにワニーは言う。使用人は気に止めた様子もなく、樹を屋敷の奥へ案内する。

 樹は案内されるまま、屋敷の奥に通される。長い廊下を抜け、脱衣所に案内される。

「ではこちらで着替えを用意しますゆえ、ゆっくりご入浴ください」

 完璧な一礼をして使用人は部屋から退出する。一人置いてかれた樹は他にできることもないので濡れて重たくなった上着と制服を脱いで浴室に入る。

 ——うわぁ。すごい広い

 とても単純な感想で端的に風呂の様子を表していた。一般家庭とブルジョワジーの格差社会がそこにはあった。

 普段使うのとはかけ離れた広い浴室にたじろぎながらも樹は入浴を終える。

 浴室を出ると綺麗に折りたたまれた女物の洋服が用意されていた。

 これに着替えろと言うことだろうか? 一瞬そんなことを考えたがよく考えれば他に着るものもない。

 用意された服に袖を通す。なんだか胸部にかなり余裕があった気がするが気のせいだと思い込んだ。思い込んだと言ったら思い込んだのだ。

 服を正し、脱衣所を出る。出て最初に目に入ったのはずぶ濡れのワニーだった。

「先輩何をしてるんですか?」

「順番待ち、入ったなら変わるよ」

 一瞬、樹は服を凝視された気がしたが特に言葉もなくワニーは脱衣所に消えていった。

 濡れた髪をタオルで乾かしながら樹はこれまた使用人の人に案内された部屋に待機していた。

 十分ほどでワイシャツとスラックスを着たワニーが部屋に入ってくる。部屋に入るとワニーは樹を凝視する。

 ——色っぺぇー……

 初めて見た髪を下ろしたワニーを見て樹はオヤジくさい感想が出ていた。

「髪、梳かさないの?」

「え?」

 不思議そうにワニーは首をかしげる。言われて樹は髪を触る。ドライヤーを借りるのを遠慮してしまい、タオルで乱暴に乾かした髪は乱れて跳ねていた。

 そんな樹の仕草が面白かったのか、ワニーは手に持ったヘアブラシを樹に見せて微笑む。樹の座っているソファーの横、樹の背後に座る。

「髪、触るよ?」

「え! えっと、はい。お願いします」

 丁寧に優しくワニーは樹の髪を梳かしていく。まるでお姉ちゃんのようだと樹は思った。髪を梳かしていくのが上手い、きっと初めてでないのだろう。むしろ手慣れた様子すらあると樹は思った。

 樹の髪を触りながらワニーは少しづつ言葉を紡ぎはじめた。

「ねえ、樹ちゃん?」

「なんでしょうか?」

 何を聞かれるかは分かっていた。

「……朝は俺が無神経だった。ごめんね? だから樹ちゃんの話、聞かせてくれない?」

「どこから話したらいいですか?」

「樹ちゃんの話しやすい所からでいいよ」

 樹は一度考え込むように天井を見上げる。ふう、と一度だけ息を吐いて気持ちを整理する。

 そしてぽつりぽつりと言葉を並べていく。

「みんな凄いんです。得意なことがあって、好きなことがあって、やりたいことがあって。でも私はやりたいことも思いつかなくて、置いていかれていかれるような気がするんです。だからなんとかしたいと思っても何も思いつかなくて、みんなに見られていると緊張もして、結局何も出来ないんです」

「…………」

 初めて樹は心の中で溜めていた思いを言葉にしていく。ワニーは黙って樹の言葉を受け止めていく。

 髪を梳かしながら樹の言葉は続く。

「お姉ちゃんは本当に凄くてなんでも出来ちゃうんです。友奈さんも、東郷先輩も、夏凜さんもみんな凄くて、なのに私は何もなくて。みんな優しいから応援してくれてもそれは結局何かが出来る人の理屈でしかなくて、出来ない私にはそんな応援が痛いんです。痛くて痛くて、逃げ出したくなるんです」

 初めて人に聞かせる樹の胸の内。ワニーは黙って樹の言葉を受け止める。

「だから嫌いなんです、きっと出来るよなんて言葉。私には得意なことも、出来ることもないから。そういう言葉は何も出来ない人には毒みたいに聞こえるんです」

 樹の言葉を聞いて、ワニーは手を止めた。ヘアブラシを横に置き、ポケットの中からあるものを取り出す。

 それを見た樹は驚く。ポケットから出て着たのは新品のタロットカードの入ったケースだった。

 タロットカードをソファー横の机に広げ、何かしらを占いはじめ、カードを弄りながらワニーは口を開く。

「ねぇ樹ちゃん? これで合ってる? 君を探してる最中に売ってるお店の前を通ってね、ついでに買ってきたんだ」

「えっと、並べ方が違うと思います。それならこうしたほうがいいです。……先輩何を占ってるんですか?」

「うん? 樹ちゃんがどうしたらやりたいことを見つけられるかを占ってみてるよ?」

 並べられたカードを並べ直し、少なくとも占いの形に持っていっていた樹の手が止まる。

 思わず、ワニーの顔を見る。

「占いでどうにかなるとは思えません」

「いいからいいから。ここはこっちの札から持ってくればいいのかな?」

 少し時間をかけて、やっと結果らしきものが出る。

「それで、樹ちゃん? これはどういう結果になるんだい?」

「え? これですか? ……ええっと、はい。……とても大雑把に言うと上手くいくかもしれないし、いかないかもしれないです」

「そっかそっか」

 樹の言葉を聞いてワニーは満足そうに頷く。樹には何が起きているのか分からなかった。

「こんなこと占っても何にもならないですよ」

 不満げな樹にワニーは笑う。

「樹ちゃんは凄いね。俺はさっきからちんぷんかんぷんだよ。カードを見ても意味はよくわからないし、占いの手順だってよく分かってないよ」

「こんなこと、ちっとも凄くなんてないです。覚えれば誰に出来ちゃいます」

「どうしてそう思うんだい? 俺は出来ないよ? これは樹ちゃんの凄いところじゃないの?」

「凄くなんてありません。凄いのは先輩はギターとかを言うんです。私には絶対に出来ません」

「樹ちゃんもやってみる? 練習したらちょっとずつ出来ると思うよ? 俺だって始めは簡単なコードを鳴らす練習だったし」

 樹は何も言い返せなかった。確かに占いはワニーには出来なくて樹には出来る事だった。ギターは今は弾けない。でも未来でなら、弾けるようになるかもしれない。

 淡く、そんな未来を想像してしまう。

「私には将来の夢がありません」

「俺だって進路届けを未だに出し渋ってるよ?」

「私好きなことがありません」

「前に聖歌を歌ってくれた時、樹ちゃん楽しそうに歌ってたよね? 歌うのは好きじゃないの?」

 樹の思い悩んでいたこと一つ一つにワニーは疑問をぶつけていく。彼女の思い悩むことに正面から一つ一つを梳かしていく。

「別に私じゃなくてもいいじゃないですか。お姉ちゃんならなんでも出来るし、きっと他の誰かが私より上手く出来ますよ」

「毎朝、朝礼が始まる前まで俺のギターを聞きに来てくれるのは樹ちゃんだけだよ? 俺はそれを他の誰かに変わってほしいと思ったことはないよ」

 一つ一つの樹の自己否定をワニーは否定していく。最後にワニーは一番言いたかった言葉を音にする。

「樹ちゃんは自分が嫌いみたいだけど、俺は君のこと好きだよ?」

 ただ肯定する言葉に樹は今までの自分が足元から崩れるような気がした。樹が嫌いな自分自身が崩れていく。

 だから聞きたくなった。どうしてなのか。

「先輩は、先輩はどうして私にこうも優しくしてくれるんですか? 私なんて別に放っておいてもいいじゃないですか」

「嫌だよ。だって可愛い後輩が泣きそうになってるのに無視なんてしたら先輩失格だろ? 俺は君の先輩なんだぜ?」

 その言葉を聞いて、嬉しくて、涙が頬を伝っていく。嬉しくて泣きはじめた樹の手に自身の手を重ねてワニーは続ける。

「ねえ、樹ちゃん? 誰だって凄い自分になりたいって思ってると俺は思うよ。君はお姉さんや周りと自分を比べて自分を否定してたみたいだけど、それは間違ってると思う。君には君の得意なこと、好きなこと、やりたいことがあって、でもそれは自分じゃあ見つけにくいんだと思うんだ」

「だから、樹ちゃん? 君がもしやりたいことや将来のことに悩むなら俺に言ってよ。力になるし、それに言葉にしてくれないとやっぱり伝わらないんだ。いつでも聞くからさ。だからゆっくりでも樹ちゃんのしたいこと、見つけていこう?」

「……はい!」

 流れる涙をそっと青い菊のハンカチが拭っていく。

 結局、樹の問題は今、具体的には何も解決していない。ただ胸の中に詰まっていたものを吐き出したに過ぎない。しかしそれでも樹には充分だった。

 もう樹は自分を否定するように考えることはないだろう。なぜなら目の前に自分を否定する言葉を全て取っ払ってくれる少年がいるのだから。

 ならばこれから一つづつ、思い悩むことをなんとかしていけばいい。そんなことできないなんてはじめから否定する少女はもうどこにもいない。

 

 少しだけ泣いて、樹は落ち着く。

 自分のことを聞いてくれたから、今度は自分が目の前の人のことを知りたいと思った。

 自分のしたいことの参考しようと問いかけてみる。

「先輩は何かやりたいことあるんですか?」

「……俺のやりたいこと?」

 聞かれてワニーは考え込む。少しだけぼーっとして何かを思い出そうとする仕草をして、あぁっと切なそうに息を吐く。

「少し待ってて」

 そう言ってワニーは部屋を出る。廊下を歩き、階段を上っていく音が聞こえ、どこかの扉が開き、もう一度開いて戻ってくる足音が帰ってくる。

 ワニーの手にはカセットテープが握られていた。一緒に持って来たプレイヤーにカセットテープを差し込むとイヤホンの片方を樹に差し出す。

 樹はイヤホンを受け取り、左耳に差し込む。再生ボタンを押すと音楽は流れ始める。歌詞のないバラード調の曲、少なくとも樹は一度も聞いたことのない曲だった。

 歌詞など一切なくても樹には分かった。とても優しい曲、誰かの幸せや未来を願う気持ちのこもった曲だった。

 演奏が終わり、互いの視線が交わる。

「これが先輩のやりたいことですか?」

 樹の言葉にワニーは首を横に振る。

「うん、正確に言うとやりたかったことだよ」

「やりたかったってことが辞めちゃったんですか?」

「これはね、誰かに歌って欲しかった曲なんだよ。でも、それはもう叶わない夢なんだ」

 カセットテープのプレイヤーにそっと手を触れるワニーの表情は暗い。もう叶わなくなってしまったものを思い出し、傷ついてしまった心が目に見える。

 それは今だから、樹の話を聞いた今だからこそ見せられる彼の奥底の一つだった。決して悩んでいるのは君だけじゃないと言う、ワニーなりの無意識の意思表示だった。

 切なそうなその表情を見て、樹は胸の奥が締めつけられる気がした。自分の不出来に思い悩むのとは違う、この人に悲しい表情をしてほしくないと切に思う。

 人の痛みを自分のことのように分かろうとする彼女だからこそ得る痛み。

 気づけば樹はそっと自分の手をカセットテープに触れていたワニーの手に重ねていた。

 手を触れられ、ワニーは樹の方へ振り返る。樹は重ねた手を固く結んで口を開いた。

「先輩、もし、もし私でよかったらその歌、私が歌ってもいいですか? あなたのやりたいことを私も一緒に、私のやりたいことにしてもいいですか?」

 それを聞いて少しだけワニーは考える。樹の知らない彼の中で何かを葛藤する。考えて、考えて、答えを出す。

 少しだけ不安そうな声でワニーは言った。

「そうだね、樹ちゃんがいいなら、歌ってくれるなら、お願いしてもいいかな?」

「はい! 私こそお願いします!」

 樹の返事を聞いて、安心したのか彼は表情をやわらかくする。今までの笑顔とは違った優しい笑顔、それは樹にだけ向けられた表情だ。

 静かに穏やかに二人だけの優しい時間が流れていく。

 歌詞のカードや音程について話していると不意に2人のいた部屋の扉が開かれた。入って来たのは樹の知らない男の人だった。仕立てられた立派なスーツに身を包んだ中年くらいの、生きていればちょうど樹や風の両親くらいの年齢の男性がワニーの顔を見て驚きの表情を作る。

「和仁、帰ってきたのか?」

 その言葉には仄かな期待の色が含まれているのを樹は察した。期待する男の人に対して和仁と呼ばれたワニーの表情は硬く、声はどこまでも淡々としていた。

さっきまでの樹へ向けられていた優しい笑顔は霧散し、影も形もない。

「いえ、たまたま近くで雨に濡れたから風呂を借りただけです。迷惑をかけました、もう帰ります」

「ここから讃州までは遠いだろう。車くらいは出そう」

 とても親子の会話とは思えない冷めたやりとりだった。必要以上に目すら合わせようとはしない。

 男性は使用人を呼ぶと短く言葉を交わし、使用人は頷いて車を取りに行った。

 ワニーに手を引かれて樹は部屋を後にする。途中、脱水の終わった制服の入った紙袋を受け取り、2人は玄関へ向かう。

 見送りには先ほどの男性ともう1人、心配そうな顔をした、どこかワニーに似た顔の女性がワニーを見ていた。2人に見送られることになんとなく視界から外したときそれは目に入った。

 玄関で靴を履いていると来たときには気づかなかったそれに樹は気づいた。玄関に飾られた二枚の写真、一枚は三人の集合写真だった。左右にそれぞれ2人の女の子、髪を短くまとめた活発そうな女の子と、のんびりした性格を思わせる表情の髪の長い女の子に挟まれた、幼い頃のワニーに似た子供が女装させられたのか顔を真っ赤にした写真。髪は今と同じくバレッタを使って後ろで纏めていた。変わらないワニーを見て樹は微笑ましく思った。

 そして2枚目の写真を見て顔はそのままに、でも目だけは見開いて樹の表情が凍りつく。

 それは家族写真だった。仲の良さそうな4人家族がどこかの庭園を背景に写真を撮っていた。それだけならただの家族写真だ。しかし写っている人物が樹の表情を凍らせる。両親と思われる2人は今、樹とワニーを見送っていた2人に違いない。しかし問題は真ん中に挟まれた2人だった。1人は先ほどの幼いワニーらしき子供、しかしその横にいたのもワニー先輩の今より幼い頃と思われる子供、髪を短く肩ほどで揃えた男の子だった。

 もう一度先ほどの三人の写真と家族写真を見比べて、樹は気づく。

 ——あぁ、そうか。この娘がワニー先輩に似てるんじゃない、ワニー先輩がこの子に自分を似せているんだ。でもどうして?

 樹は何か重大なことに触れている気がした。でも考えても目の前の写真だけでは答えは出ない。

 黙って2人は車に乗り込み、使用人の運転する車は讃州の方へと向かっていく。

 無言の中、車は道路を進んでいく。なぜ、どうして、と樹は聞けなかった。

 それほどまでに写真の中のあの女の子と今のワニーは不自然なまでに似ていた。

 気づけが樹の住むマンションの前まで車は来ていた。車から2人はおり、一礼してから使用人は車を出した。車を見送り、ワニーは駅前の方へ向かって歩き出す前に一度、樹の方へ振り返った。

「じゃあ、樹ちゃん、またね」

 優しい笑顔を作り、そう言ってワニーは歩いて行った。その笑顔はどこまでも写真の女の子にそっくりだった。

 目の前から立ち去っていく人が誰なのか樹は分からなくなりそうだった。

 




貴方らしい貴方とはどういう貴方なのでしょう? と考えてみることからアイデンティティの再確認が始まるそうな。
もしかしたらしばらく学業で更新が停止するかもですが気長にお待ちいただけると幸いです。ではまた次回

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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犬吠埼樹のモデュレーション 第3節

 乗せてもらった自動車から降り、ワニーと分かれ、樹は姉の待つ自宅へ向かって歩いていた。

 周囲はすでに暗く、街灯の明かりだけがマンションまでの道しるべであった。

 初めて歩く暗い夜道に不安を覚え、他の明かりはないかとポケットに入れっぱなしにしていた電源を落としたスマホを取り出し、明かりをつけるために電源を入れるとスマホは樹にいくつもの着信とメールが来ていたことを教える。

 ここで初めて樹は自分が周囲から見たら失踪した様にか見えない状態にいることに気がついた。特に姉からの着信は他のそれよりも多く、いかに自分が心配されているかに気づいた樹は顔を青くし、マンションまで大急ぎで走り出した。

 到着し、扉の鍵を急いで開く。中を覗いてみるとリビングだけぼんやりと明かりがつき、それ以外の電気は一切消されて物音一つしない我が家がそこにあった。

 夜遅いこともあり、樹はあまり物音を立てずにそっと玄関を閉じるとそのまま明かりのついたリビングに向かう。

 ——こんなに遅くなっちゃった、きっとお姉ちゃん怒るだろうな。

 実際、時計の針はもうすぐ両の針が頂上を示そうという時間だった。何も言わずに出かけて帰ってくるのにはあまりにも遅い時間であり、いかに自分が周りに迷惑をかけてしまったのかを思うと樹は申し訳なさにいっぱいになった。

 そっとリビングの扉を開くと食卓にある机の明かりを一つだけつけて、突っ伏して寝ている姉を見つける。着ている服も部屋着などではなく制服のままであり、きっと着替える時間も惜しんで樹を探していたのだろう。

 そんな姉を起こそうと樹は優しく風の体をゆする。

「お姉ちゃん起きて、制服このままだとシワになっちゃうよ?」

「ううん、あれ?」

 体を揺すられ、風は半覚醒した意識のまま、自分を揺する人物の方へ顔を向け、それが樹であることが分かると半開きだった目を見開く。

 樹の両肩を掴み、風は石火のごとく樹にまくし立てる。安心したのか、目には涙が滲む。

「樹! あんたどこ行ってたの! 電話しても出ないし、勇者部のみんなで探してもどこにもいないし、心配したのよバカァ!」

「ごめんなさい、お姉ちゃん。その……、大橋の方に行っちゃって、送ってもらったんだ……」

「……大橋の方? なんでそんなところに?」

 樹の口から出てきた懐かしい地名に風は首をかしげる。

 不思議そうな姉の様子を見ながら樹は少しづつ、自分の話しやすい調子で今日起こったことを話し始める。

「お姉ちゃんたちに話したみたいに悩んでる事をワニー先輩にも話したの……。でもケンカみたいになっちゃって、色々あって送ってもらって帰ってきたの」

 乙女的に大事なところはボカシながら今日のことを話す。少し赤くなった樹の頬を見て何かしらいい事があったのだなと風が思っていると樹の話に出てきたワニーという名前に引っかかりを覚える。

「ワニー? ワニーって誰のこと?」

「あれ? お姉ちゃんと同じクラスって聞いたよ? ほら、ギターをいつも持ってる先輩だよ?」

 樹にワニーの特徴を伝えられ、風はクラスメイトに当てはめていき、一人のクラスメイトを思い当たる。

「もしかして鷲尾のこと? 髪が長くて、後ろでまとめてる?」

「うん、多分そうだと思う」

 ——ワニー先輩、鷲尾って名字なんだ

 姉の言葉からワニー先輩の名字を知った樹。彼の家で父親らしき男性が呼ぶ彼の名前は和仁だった。

 組み合わせれば、鷲尾和仁。わしお、かずひと。どこか雅な音のする名前で、上品な風格の彼にぴったりだと樹は思った。

 納得していた樹は姉が微妙そうな顔をしていることに気がついた。

「お姉ちゃん? どうかしたの?」

「……うーん、鷲尾のやつそんなに人付き合いをしないほうだから、私そんなによく知らないのよ。放課後はいつもどこかに用事があってすぐ帰るし」

「それなら多分、ギターを弾きに行ってるんだと思うよ? 先輩ギターを弾くのが好きみたいだから。朝はいつも屋上で弾いてるよ?」

「あれ? あんた随分と鷲尾のこと詳しいのね。ん? ……んん! もしかして最近朝早く学校に行くのって、……そういう事?」

 自分が知らない妹の一面の発見に風は動揺する。あくまで推測ではあったがもし正解なら自分の妹は毎朝男、それも自分のクラスメイトに会っていた事になる。可愛い妹が知らないうちに自分よりも何やら少女の階段を登っていることに風は少なからず動揺する。

 過保護な風の姉妹愛が変な方向に向く。

 質問され、自分の行動を改めて客観的に見ることになった樹は、それが傍目から見ればどのように映るのかを理解し、改めて意識して顔を赤くする。

 そんな風に顔を赤くしたことが風への返答となった。風はへなへなと机に再度突っ伏してしまう。

「あぁ……、妹が、妹に彼氏が……、私にだっていないのに……」

「ち、違うよお姉ちゃん! 私とワニー先輩はそんなんじゃないよ!」

 妹に女子力的な面で負けたと思い、さらに妹に彼氏が自分よりも先にできたことによる二重の衝撃で風は脱力しだらしなく机と同化していく。

 勝手な推測で落ち込んでショックを受けている姉に樹は訂正していく。恋愛小説のテンプレ染みたセリフをきいて更に風は衝撃を受ける。樹が何か言うだけ更に風にショックを与えていた。

 衝撃を受け、机にだらしなく突っぷす風と慌てて弁明して更に風に追い打ちをかける樹。しばらくそうしていると、ようやく落ち着きを取り戻した風が樹に顔だけ向けた。

「あー……、何か樹が帰ってきたら安心して、お腹すいてきたわ。樹、ご飯は食べてきた?」

「ううん、何も食べてないよ。その前に家を出てきて、今着いたところだよ?」

「そっか、なら遅いけど晩御飯にしましょうか」

 いつも通りの声色、姉らしい態度に戻ると風は準備だけしてあった晩御飯の調理を始める。程なくして調理の終わったうどんが二人分机に並べられる。

 手を合わせてから二人は食事を始めた。

 うどんをすすりながら樹は風に話しかけ始める。

「……ねえ、お姉ちゃん?」

「どったの?」

 何やら話しづらそうに切り出した樹に風はすすっていたうどんを噛み切って尋ねる。

「私ね、ずっとお姉ちゃんは凄いって思ってたの」

「おうおう? まぁ? 女子力の申し子たるこのお姉ちゃんに任せればそうなるわね。……それで、樹はどうしたの?」

 突然、樹に褒められて風は悪い気はしなかった。しかしそう言う樹の表情が晴れやかではない事に気付き、本題がここからだと察する。

 樹はずっと溜め込んでいた思いを、自分が思っていたこと素直な言葉にしていく。

「ずっと凄いって思ってて、でもそれに対して私は何もやりたい事も、できる事も無くて、お父さんとお母さんが死んじゃってからはお姉ちゃんが親代わりになってくれて、だったら私はお姉ちゃんに着いていけばいいって思って、でもそれしか選べない自分が嫌で……」

「樹……」

 初めて聞く妹の本音、心からの本心を聞いて風は少なからず動揺するが、少しづつ樹の表情が変わっていくのを見逃さなかった。どういうことかと風が樹の一挙手一投足を見つめ、樹の話に耳を傾ける。

「だから、歌のテストでみんなが『できるよ』って言ってきた時は、応援されて嬉しいって気持ちと、どうしてみんなは私がそれを出来るって信じて言ってくるんだろうって思ってた

 でも今はそんな風に思わないことにしたよ。私には私の出来ることがきっとあって、出来ないこともきっとあるんだって思えるんだ。

 だから私は今、私が出来ること、やってみたいことを見つけていつか自分らしいことを出来るようになりたいって思ってる」

 それが樹が今言えることの全てだった。

 溜め込んでいた思い。変わってきた思い。彼女らしい成長が垣間見え、そんな妹の成長に風は笑みを浮かべる。

 言いたいことを言い切り、少し恥ずかしくなったのか指同士を合わせて恥ずかしがる樹を風は優しく抱きしめ、頭を優しく撫でながら語りかける。

「そっか、樹はそんな風に思ってたのね……。お姉ちゃん、お母さんの代わりになろうって頑張ってて、樹のそういうところ見逃してた。ごめんね」

 風は妹の成長に喜ぶ一方で悩んでいたことを見抜けなかった自分が情けなくなる。

 いっぱいいっぱいだったのだ。どれだけしっかりしていても所詮、犬吠埼風は中学生だ。彼女自身も本当ならば親に甘えたい年頃、しかし樹のために、もういなくなってしまった両親の代わりをしなくてはという思いがあった。そんな彼女らしい責任感が余裕を奪っていた。

 しかし手の中にいると思っていた妹はいつの間にやら自分の手を離れてどこか違う場所で成長を始めていた。

 そんな変化を嬉しく思いながら、どこか寂しさもある。変わらないものなど、どこにもありはしない。

 しかし変わってしまうことは決して悪いことではない。変化とは成長であり、発展なのだ。

 守られるの存在の妹から、同じ歩幅で隣に立つ姉妹へ、その変化への最初の一歩を樹は歩き出した。

 そんな前へ進む変化を風は嬉しく思い、受け入れた。

 少しだけ前向きに変われ、自分に自信を持った樹は得意げに笑う。

「大丈夫だよ、お姉ちゃん。私だっていつまでも頼ってばかりじゃないんだよ?」

「そうね、なら明日からは自分一人で起きてもらいましょうか」

「そ、それとこれとは話が別だよー!」

 成長した妹を風はからかう。まだ克服できていない弱点を挙げられ、樹は困った声を出す。

 そんな樹のころころ変わる表情が面白かったのか風は笑い、からかわれた樹も恥ずかしそうにしながら一緒に笑う。

 暫く笑って、二人は思い出したように食べかけのうどんを食べ終え、風は体を洗おうと風呂場に向かう。居間から出ようと扉に手をかけた時、ふと思い出し、振り返って樹に問うた。

「そういえば今、樹がやりたいことってなんだったの?」

 質問されて樹はカバンの中に入ったカセットテープとその再生機の方へ視線を向け、少しだけ微笑んで、風が見てきた中で一番の笑顔を作って風に見せ、人差し指を唇に当てながら答えた。

「今はないしょ。いつか聴かせてあげるね」

「そっか、なら楽しみにしてる。いつか聴かせて? くれるのね?」

「うん。だから楽しみにしていて」

 入浴に向かった風を見送って樹は自分の部屋に入る。カバンの中からカセットテーププレイヤーだけを持ってベットに飛び込む。

 転がって、イヤホンを両耳にあて、再生ボタンを押して窓の外を見上げる。雨の上がった夜空は雲ひとつなく、晴れ渡って小さな星が瞬いていた。

 瞳を閉じて聞こえてくる優しいギターの音だけを感じて、眠りに向かっていく。まどろんでいく中、樹は旋律を聴きながら、今日はきっといい夢が見れるだろうなと、そんなことを思いながら樹はいつのまにか夢を見始めていた。

 

 体が揺れる。正しくは揺らされる。

 耳から何かが抜ける感覚がすると急に真っ暗な世界に音が始まった。

「樹! もう朝よ、起きてー!」

「うわぁ! もう朝だ!」

「もう、やっぱりお姉ちゃんがいないと朝はまだまだね。ふふっ。」

 イヤホンで曲を聴きながら、そのまま樹は寝てしまっていた。風に体を揺らされ、やっと起きる。昨日の決意はどこへ行ったのか、まだまだ一人では朝起きられない樹に風は私はいないとダメねと笑う。

 笑われたことに樹は頬を赤くするが朝だということに、ぼーっとしていた頭がはっきりとし始めて慌てて学校に行く準備を終える。

 最近はすっかりと早く学校に行くことに慣れ始め、素早く準備を終えると台所で皿を洗っていた風に一言伝えてから樹は学校へ向かう。

 七月に入ったこともあり、通学路では気の早い蝉が鳴き始めていた。

 なんだか気温が熱くなったような気がしてきた樹は急いで通学路を自転車で駆けていく。

 いつものように靴を履き替え、屋上への階段を登っていく。

 登りながら樹はいつも聞こえてくるギターの音がしていないことに気がつく。

 少なくとも、今までワニー先輩が屋上にいなかったことはないが、間違いなくギターの音はしていない。

 もしかして今日は先輩は休みなのかと不安に思いながら屋上の扉を開くと、ワニーが膝から崩れ落ちていた。

「せ、先輩! どうかしたんですか!」

 驚き、樹はワニーに駆け寄る。駆け寄って、それを見つけた。

 ワニーはいつもギターをハードのギターケースにしまっていた。そのケースが開けられ、中のギターの姿が現れていた。中が水に浸かった姿で。

「……そうだよな。雨の中ほったらかしにしたら当然、雨に浸かるよな。アハハ……」

 雨水に使った木製のギターは一晩かけてじっくりと水を吸っていた。

 とても弾ける状態ではなかった。

 そんな無残なギターを見て樹は自分のせいだと思った。昨日、自分を探して彼が飛び出して言ったため、このギターは一晩ここで放置されてしまったのだ。

「ご、ごめんなさい。私のせいで大切なギターをこんなにしちゃって……」

「え、あ、んん! ああ、ごめん樹ちゃん、全然気がつかなかった。ごめんね、ちょっと待っててくれる?」

 樹に話しかけられ、ここで初めてワニーは樹が来ていたことに気がつく。水瓶と化したギターケースをひっくり返して中の水を捨てる。流れ出た水が乾きかけた屋上を濡らしながら広がっていく。

 ワニーはケースからギターを取り出し、触って状態を確かめていく。不安そうに樹はそれをただ黙って眺める。まるで判決を言い渡される被告人の心情であった。

 少しして、ワニーは少しだけ安心してホッと息を漏らす。

「よかった。これなら修理に出せば直りそう。本当に良かった……」

「ほ、本当にごめんなさい。私のせいで……」

 申し訳なく樹は頭を下げて謝罪する。自分が昨日あんなことをしなければこうはならなかったと罪悪感とやってしまったという後悔がぐるぐると胸の中を締めていく。

「ああ、いいんだよ樹ちゃん、フタを閉じるのを忘れた俺のせいだし」

「いえ、そもそも先輩が私を追いかけさせるようなことを私はしなかったら、こうならなかった筈です!」

「あー、……うん、そうかもしれないけど。修理すれば直りそうだし、そんなに気にしないでよ。直るなら問題ないでしょ?」

「でも……」

 謝罪を続ける樹にワニーは困ったように頬をかく。このままでは埒があかないと思い、何か別の話題を考えていると樹の歌のテストのことを思い出した。

「そういえば樹ちゃん、今日歌のテストじゃなかった?」

「……あっ」

 その言葉を聞いて先ほどまでとは別の理由で樹の顔から血の気が引いていく。結局、あれから対策らしい対策などすることをすっかり忘れていた。音楽の授業は1時間目。もうそれほど時間は残されていなかった。

 同時に起きた二つの問題にどうしたらいいのだと樹は頭を抱え始める。

 そんな困った様子の後輩を笑いながらワニーは樹の横に座り込む。

「それにほら……、樹ちゃんを追いかけたのは俺の選択だったわけだし、それを否定されるとちょっと悲しいかな? ……なんて少し厚かましいかな」

 自分で言って恥ずかしくなったのか少し赤くなった頬をかき、そんな顔を見せまいとそっぽを向く。

 そんな様子の彼を見て、樹は昨日ワニーが駆けつけてくれた時のことを思い出す。その時の気持ち、その後に髪を梳かしながら話した時の気持ちを思い出していく。

「別にそんな風に思ってないです……。来てくれた時、本当に嬉しかったです。だから厚かましいなんてこと、絶対にないです」

「そっか、なら良かった……。今日はギターが使えないから、おしゃべりでもしようか」

 水が染み込み、ふやけたギターでは音は出ない。二人は座って話し始める。

 先に話を始めたのは樹だった。

「歌のテスト、どうしよう……、もうすぐ始まっちゃいます」

「えっと……、そっか、もうすぐなのか。何か対策は考えて来たの?」

「全然です。結局何も思いつかなくて、どうしたものかと困っているところです。あれ?」

 カバンの中から音楽の教科書を取り出し、物憂げにそれを眺める樹。ページをめくっていくと中から折り畳まれた一枚のルーズリーフが落ちる。

 何かと思い、拾って紙を広げるとそこには勇者部のメンバーが彼女に宛てた応援のメッセージが綴られていた。

 樹は温かいものが胸に染み込んでいくのを感じる。紙に書かれただけの文字、だがそれは何よりも背中を押してくれる文字だった。

 樹の肩越しからそれを覗き込んだワニーは内容を見て微笑む。

「良かったね、樹ちゃん。君の先輩やお姉さんは君の応援、忘れてなかったみたいだよ?」

「はい、やっぱりお姉ちゃんたちは凄いです」

「今日は君が凄い方になる番だ。……そうだね、絶対大丈夫とは言わないよ、君が出来る限りのことをやってきておいで」

「はい! 私が出来ること、精一杯やってみます!」

 虚勢でも、こうして応援されたのなら出来る気がしてくる。樹は根拠などなくてもそう思えるようになり始めていた。

 それで、もう一押し、もうひと押しだけ樹は欲しくなる。他の誰でもない目の前の人から。

「先輩の方からは何かありますか?」

 具体的に何とは言わない。言ってしまうと自分が図々しい子のように思われるような気がしたから。頬を朱に染めて俯く。

 そんな樹を見てから、彼はぱちくりと瞬きして考えてみる。必要以上の言葉がなくてもそれとなく意思は伝わっていた。そんな風に頼られて悪い気はしない。むしろこれ以上なく嬉しいと彼は思った。だったら自分なりの応援を彼女にしたいと思う。

「そうだな、……上手く歌うコツって言ったらやっぱりアルファー波かな? 歌うときにアルファー波が出ると良いって聞くね」

「ごめんなさい、実はもうそれ、聞きました」

「おお! 音楽のなんたるかを分かってる子が勇者部にもいるのか! 是非とも今度その子と音楽談義をしたいね」

 意外なところからの同志の出現にワニーは目を輝かせる。

 彼が美森に興味を持ったことに樹は自分でもなぜか分からずにムッと唇を尖らせる。

「今はそんなこといいじゃないですか。それよりもほら、私の応援を考えてください!」

「え、あ、うん。そうだね、今は樹ちゃんが先決だね。……と言っても今からじゃあ、出来ることなんて……」

 授業が始まるまでそれほどなく、もう少しで予鈴がなる時間。何かを準備するのには時間は残されていなかった。ワニーはふと水を全て抜いたギターケースのほうへ視線を向けた。

 そしてギターをじっと見て、おもむろに立ち上がるとケース横の収納へ手を突っ込んで、中から何かを取り出す。

 手を引き抜くと手の中には何か紐のような物が握られていた。

 振り返ってそれを樹に差し出す。樹が差し出されたもをみるとそれはギターのピックだった。ギターピックとはギターの弦を鳴らす際に指で弾く代わりに使う三角形のプラスチック片。それに青、赤、紫の三色の飾り紐が結び付けられていた。

 差し出されたそれを樹は両手で受け取る。受け取った姿勢のまま顔を上げて渡されたものについて聞く。

「これは一体?」

「ギターピックだよ。昔、人から貰ったものでね、それに模様がついてるでしょ? それスノードロップの花で希望って意味があるんだって。だからそれ、樹ちゃんに貸してあげるよ。上手くいきますようにって希望」

 飾り紐を持ち、受け取ったピックを目線の高さまで持ち上げる。優しい朝陽に照らされ、描かれたスノードロップが輝く。ところどころすり減りながらも、磨かれて大事にされているのが分かる。

「なんだか素敵な贈り物ですね。でも私が預かって良いんですか?」

「良いよ。俺も樹ちゃんを応援したいし、今はギターも弾けなくて使えないからね。だったらそういう使い道でも、お守りとして役に立つなら持って行ってもらって構わないさ。……ちゃんと返してね?」

「はい、ならお借りします! そして歌のテスト、頑張ります!」

 思わぬ借り物を授かり、樹は浮き足立つ。

 浮かれる気分が行動にも現れ、小さくその場で跳ねる。

 そんな樹を微笑ましそうにワニーは見ていた。

 そんなこんなで時間は進み、朝礼を知らせる予鈴が鳴る。

 予鈴が鳴ったことを確認すると樹はワニーに向き合って言った。

「それじゃあ、行ってきます! 頑張って良い報告ができるようにするので期待しててください!」

「うん、行ってらっしゃい。良い報告を待ってるよ」

 優しい視線を背に樹は教室へと意気揚々と向かった。屋上の扉に手をかけて、動きを止め、朱に染まった顔で振り返った。

 ワニーという名前はきっと知り合いが彼を呼ぶ名前。なら自分はそうではない名前で呼びたいと樹は思った。だからそうなるように小さな勇気を振り絞って言葉にする。

 彼の名前を口にする。

「私が頑張るところ見ていてくださいね、和仁先輩!」

 本名を呼ばれ、ワニー、和仁は目を見開く。見開いた目でじっと樹を眺め、それ以外の一切の動きがなくなる。

 心底驚いたように固まった彼を見て樹が少し不安を覚える。

 ——もしかして、名前を呼ばれるのダメだったかな?

 少しの時間、永遠のようにも思える沈黙が二人の間を流れる。そしてワニー、和仁が表情を嬉しそうに、それでいて少し恥ずかしそうに頬をかく。

「……あぁ、うん。いきなりだとちょっとびっくりするかな、うん。行ってらっしゃい、樹ちゃん」

「はい!」

 言外に和仁は樹の呼び名を受け入れていた。拒まれず、受け入れられたことに少なからず樹は自分の心臓が早鐘のように音を鳴らすのを聞く。

 送り出され、樹は階段を下って教室へ向かう。その足取りに迷いなど欠片も無く、しっかりと確かな足取りで前へ進み始めていた。

 手に握りしめた飾り紐とギターピックが揺れながら樹はテストの待つ教室へ向かって行った。

 ことさら、歌のテストの合否など言う必要もないだろう。

 歌い終え、席に戻った樹は晴れやかな笑顔で預かったスノードロップのピックをそっと手で包み、自身の気持ちと同じように晴れやかな青空を薄紅に染まった顔で見上げていたことだけは確かなことだった。

 

 今日、あの子に名前で呼ばれた。ワニーじゃない、本当の名前で呼ばれた。

 鷲尾和仁。僕の名前。あの家と僕を繋げる祝福でもあり、呪いでもある名前。そしてかつては君との絆を表してくれる名前だった。

 最初、呼ばれた時、心臓が止まるかと思った。嬉しさよりも恐怖が先にあった。でもそれを塗りつぶしてしまうように嬉しくて、恥ずかしくて、確かに笑っている俺がそこにいた。

 確かに変わりつつあると思う。あれから二年、変わってしまったものがいくつもある。許せないものがいくつもある。

 これから先どうなるのか想像するだけで底の見えない崖に追い込まれるような気がして、どうしようもなく不安になる。

 優しいあの子を見ていると抑え続けてきた激情が、くすぶり続けてきた心がほだされていくのを感じる。あの子と一緒にいると自分が前に進み始めてしまっている。

 僕と俺の境界がどんどん曖昧になって崩れていく。あの日々を、君との日々を過去に、終わった物にしようとしている。

 君のいないこの世界は、君を忘れてしまったかのように変わらず続いていく。どうしたら良いんだ須美。

 助けてよ。怖いよ。

 

 宮司御記

 




試験の間をぬって小説を書くスリル、癖になりそう

はい、というわけでワニー先輩の本名は鷲尾和仁君でした。和仁と書いて「かずひと」と読みます。
今回の話でギャルゲー的に言うとワニー先輩ルートに入った感。
次回以降、過去編である「鷲尾和仁は勇者を殺した」を書くか、それとも単純に続きを書くか悩み中です。
詳細は活動報告にて。

小説の書き方の研究の側面があるので読みにくい、読みやすいの意見が欲しいです。
もちろん感想、誤字報告も大歓迎です。それではまた次回。(テンプレ)


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そして始まってしまったオーバーチュア

 歌のテストから数日が経った。

 すっかり習慣となり苦ではなくなった早起きをして樹は通学路を歩いていく。

「♪〜——」

 爽やかな涼しさを感じる道程に思わず鼻歌がもれて、何でもない通学路に歌があるだけで少し特別なものになったような気がした。

 歌うという何でもないこの動作に樹は今までなかった楽しさを覚える。

 もともと歌うこと自体が好きだった。でも今はもっと好きになった。

 こんな気持ちになった理由は疑うことなく彼のおかげだろうと樹は思う。

 ワニー先輩。本名、鷲尾和仁。

 入学式の朝、偶然屋上にて出会った謎多き中性的で制服がなければ女性にも見える大和撫子を思わせる三年の先輩。

 樹が知っていることは本名で呼ばれるのがそれほど好きでない事、よく屋上でギターを弾いている事、そして実の両親とは仲が冷え切っている事。

 樹が彼について知っている事はこれくらい。今以上に知りたいと思ってしまうのはどうしてなのか。樹自身にもまだよく分からない。

 しかしそんな細かいことはどうでもよくて、今日も樹は二人の集合場所である屋上に向かって歩いていく。

 階段を一段一段と登る。そして、ふと小さく聴こえた。それに気がついて樹は嬉しそうに顔をあげた。隠す必要もない喜びの色。

 足取りは軽やかに階段を越えていく。

 もう待てないと言わんばかりに勢いよく屋上の扉に手をかけてそのまま開いた。

 気持ちの良い朝日に照らされた屋上で、普段通り彼はギターに手をかけて思うように音を奏でていた。

 その後ろ姿を見つけてトクンと小さく胸が音を鳴らしたような感じがした。

 コツコツと小さな靴音を鳴らして近づいていく。

 ワニーはギターを鳴らす事に夢中なのかすぐ側に樹が座り込んでも気がつかない。

 邪魔をしてしまうのも悪い気がして、樹は黙ってそのままその演奏に耳を傾けていた。

 弦を弾き、思いのままに音を鳴らしていく。

 演奏には奏者の心が現れるという。和仁が鳴らすギターの音は優しく繊細な旋律。聴く人に優しい心地を見せてくれる時間をかけて研磨された音だ。しかし何度も聞いてきた樹にはそこに隠れた小さな不協和音を理解し始めていた。その音はどこか寂しげで、涙を流す悲しき歌のようだった。

 どうして好きなギターを弾いているだけなのにそんな音を奏でるのか樹には分からなかった。

 そんな秘密が目の前にあって、しかし聞き出す理由もなくて、樹は言いようのないもどかしさに苛まれていた。

 いっそ恥も外聞もなく聞き出してしまおうかとも思った。でも、それをしてしまえば最後、今までの関係が壊れて無くなってしまうような気がして踏み出せなかった。

 今のまま、朝にワニー先輩のギターの演奏を聴いて、時々その伴奏に合わせて樹が歌って、何でもないような雑談に時間を費やしているこの時間がこれ以上なく愛しくあったから。

 だから今日も樹は静かにワニーの奏でる演奏に耳を傾けていた。

 長くもなく、短くもない時間をかけてワニーは演奏に一段落した。よほど集中していたのか演奏を終えると深く息を吸って吐く。それは体に流れる血潮の熱を吐いているようで、どこか艶かしさすらあった。

 そういえば今日は来ないのかなとワニーは思って右隣を見ると自身を見る樹とバッチリ目が合って互いに静止した。互いの瞳の奥を見るように互いの時間が止まった。まるで宇宙の時間法則そのものが同じように止まったような沈黙を経て、やっと我に返ったワニーが嬉しそうに微笑んで、同時に少しだけ苦笑した。

「おはよう樹ちゃん。来たのだったら声をかけてもよかったんだよ?」

「その……、演奏の邪魔かなって思ったので終わるまで待とうかなって」

 少しモジモジしながら言い訳する事で見つめていた事は隠す。黙って見つめていた事がバレてしまうのは何故だか恥ずかしくて思わず隠してしまった。

 樹の言葉を受けたワニーは「そっか……」と納得して少しも疑う事なく信じていた。

 なにやら思い出したのかワニーは小さく手を叩くと手を合わせ、笑ったまま樹に問いかけた。

「先週の歌のテストはどうだった?」

 どうだったかを聞いていながらその質問は既に答えをあらかじめ確信したような言い方だった。その確信めいた聴き方に確かな信頼を感じて樹は小さく握りこぶしを作って、自信に満ち満ちて力強く答えた。

「はい! 先輩のおかげでバッチリでした! ブイ!」

 ニッカリと笑って勢いに任せてらしくもなくVサインで喜びの大きさを見せようとしていた。そんな樹の動作が変わりらしかったのかワニーは指で口元を隠しながらクツクツと小さく笑っていた。

 嫌味などない純粋な笑いだったが急に自分の普段やらないような喜び方が急に恥ずかしくなった樹は羞恥によって空気が抜けていく風船のように小さくなった。

 少しはしたなかっただろうかと思っているとワニーがやっと笑うのをやめた。

「そっかそっか、ばっちりだったのなら朗報だね。歌自体はどうだった?」

「いつも通りの楽しい気持ちで歌いきれました。やっぱり歌って楽しいですね!」

 その言葉を聞いて少しだけワニーの動きが止まった。驚いたように少しだけ目を見開いてジッと樹の瞳を見つめてそのまま動きがなくなる。

 見つめられた樹も何も言えずまたしても二人の時間が止まった。そしてフッとワニーは心の底から嬉しそうに笑って見せた。

「……そっか。樹ちゃん歌うのが嬉しいんだ」

「はい! 歌っている時ってなんだか自由で、ありのままの自分を恥ずかしがらずに見せられるような気がして、いつもとは違う自分になれたような気がして好きなんです」

 確認する様な聴き方だった。樹にはその質問が意味するところはよく分からなかったがせっかく聞かれた事には全力で応えたいと思った。だから今言えることの全てを樹は答える。

 内気で消極的な彼女にとって歌という手段は代わりのない自分を表現する手段だった。その精神と人に聞かせるという歌の性質は噛み合いこそ悪かったが今はこうして人前でも少しなら歌える様になった。

 そんな勇気を持てる様になった自分自身が誇らしくて、何よりもそうなれるようきっかけになってくれた姉や勇者部の仲間たち、そして後押しを樹が望み叶えてくれたワニーへの感謝は言葉にできないほど大きなものだった。

 そうやって多くの後押しを受けて少しだけ人見知りを克服した事実が何よりも嬉しいものだった。

 誇らしげな樹にワニーフフフと笑みを深くした。そんな風に見つめられ、先ほどまでの威勢の良さはどこへやら顔を赤くして縮こまる。そんな後輩の後輩の所作がまた可愛らしくてワニーは笑って、笑われた樹はなんだか恥ずかしくなって、そんなやりとりを何度か繰り返した。

 そんな好意的なからかいの循環から逃げ出そうと樹は話題をひねり出そうと周囲を見回してワニーギターを見つけた。

「……あっ! ギター直ったんですね!」

 我ながらあまりにも雑な話題の逸らしかただと樹は思ったが話題をふられたワニーは嬉しそうに膝に乗せていたギターを見せるように持ち上げた。

「うん、昨日返ってきてね。思った通りちゃんと直って返ってきてくれたよ」

 綺麗に直り、水浸しになったことを感じさせないギターを見て樹は先日の水浸しになったギターの惨状を思い出して申し訳なさそうにした。

「……あの、その、本当にすいませんでした。私のせいでギターがあんな風に……。やっぱり修理ってお金がかかっちゃいますよね?」

 少し不安そうに樹は問いかける。ワニーが自分に修理費を払うようにいう事はないとは分かってはいても迷惑をかけてしまったという気持ちが大きくなる。

 そう思うと聞かずにはいられなくなっていた。そんな樹の不安をよそにワニーか苦笑して手をヒラヒラと振って見せた。

「あぁ、そんなこと気にしなくてもいいよ。これが濡れちゃったのは樹ちゃんのせいなんかじゃないんだから。思い詰める事ないよ」

「で、でも私を追いかけたからギター、あんな風になっちゃって……」

「もう直ったのだから気にしなくてもいいんじゃないかな?」

「そうかもしれないですけど。でも……」

 何度言ってもワニーは気にしなくていいと樹に答える。しかし思うところがあって引っ込みがつかず樹自身、自分がどうしたいのか分からなくなっていた。

 迷惑をかけてしまったという罪悪感となんとかお返しをしたいという義務感の競り合いが樹の次の言葉を躊躇わせる。

 そんな樹を見てワニーはなぜ樹が思い悩んでいるのか分からないほど唐変木でもなかった。

 クスクスとイタズラっぽく笑ってワニーは切り出した。

「それじゃあ、樹ちゃんに払って貰おうかな、ギターの修理代」

「はい! ……えっと、でもどうしよう……」

 求めていた折衷案を出されて樹は思わず勢いよく返事したが直ぐに次の問題に対面する事になった。

 修理代、つまり修理費、言い換えれば代金。現金が必要なのだ。犬吠埼樹が扱える現金は毎月のおこずかい5000円。もっと必要ならば姉に用途と金額を伝えて要相談となる。

 厳しい現実と来月からのおこずかいアップを誓いながら表情を少し引きつらせて樹は聞いた。

「……ちなみに修理費はおいくら万円でしょうか?」

「水没からの総取り替えなので6万円になります……」

 現実は無慈悲だった。1ヶ月どころか12ヶ月分が必要だった。

 二度のバーテックスとの戦いについて樹は良い思い出はない。怖いし危険だしできる事ならば二度とこないで欲しいわけで。しかし今だけは樹はバーテックスとの戦いに感謝していた。具体的には素早い状況判断が養われた事に。

 値段を聞くや否や樹は膝をついて手を揃え、頭を地に伏した。

「出来るだけ、出来れば一年ほどお待ちいただけないでしょうか!」

 見事な土下座だった。犬吠埼樹一世一代のそれは美しい土下座であった。

 中学一年生の13歳に今すぐ6万円を用意せよなど割と無理な案件だった。無理なので素直に待ってくれとお願いするしかない。

 一方、土下座されたワニーはどうしているのかというと、率直に言ってビビっていた。

 値段が値段だけにまさか本気で返済するとは露とも思っていなかったワニーから見て、いきなり土下座をかましてきた後輩の存在は今までにない種類の脅威だった。

 今度はこちらがあたふたとする番になった。

「うぉ! ちょ、ちょっと落ち着こう樹ちゃん。そんなことしなくて良いから、イヤ本当に……、ね?」

 何やらおかしな方向にエキサイティングし始めた後輩を落ち着かせようと声をかけるがあまり意味もなかった。

「いえ! やっぱり迷惑をかけたままなのはいけないって思うんです!」

「別に迷惑だなんてちっとも思ってないんだけど……。それに6万円はちょっと難しいでしょ? だから払って貰おうなんて最初から思ってないよ」

「でも……」

 現実的な問題、樹に支払い能力はない。しかし現実的に無理だと分かってはいても感情が納得出来ないでいた。

 そんな様子の樹を見てワニーはどうしたものかと思い悩む。少し考えて何か思いついたように手を叩いて、すぐに微妙な顔をした。

「あー……、樹ちゃん日曜日時間あるかな?」

「え、……えっと、はい。多分何も予定はなかったと思います」

 樹の返事を聞いてワニーはニッコリと微笑んだ。

「なら良かった。それじゃあ日曜日に歩きやすい服装と靴を履いて駅に集合。いいかな?」

 とんとん拍子に週末の予定が決まっていき、今度は樹がきょとんとして状況を飲み込めないでいた。

「えっと、つまりどういうことですか?」

「いや、ね? やっぱり払えっていうのは難しいし樹ちゃんも気負わせちゃうのは俺も申し訳ないから、ちょっと体で支払って貰おうと思って」

「体で、なるほ……ど? って、えぇ⁉︎」

 驚いて思わず体を両手で隠す。さらに予想だにしなかった方向へ話が進み樹の混乱は最高潮であった。思った通りに混乱した樹の様子を見て、あまりにも思ったままだったものだからまたもやクスクスと笑うワニー。

 あまりからかいが過ぎるのも良くないかと区切りをつける。ネタばらしの時間だ。

「つまりね、樹ちゃん。ちょっと君に俺のお手伝い、アルバイトをして貰おうと思ってるんだ」

「……あはは、なーんだアルバイト、ってえぇー!」

 なんて事はないという風にワニーが笑って手伝いの正体が明かされた。そして樹は本日何度目かになる絶叫を繰り出していた。

 そんなやりとりをする青空の下、時節は七月になろうとしていた。

 

 場所は変わり、この世のどこかとは思えぬ灼熱の地。地獄とも形容すべきそこでいくつもの白い悪魔と呼ぶべきバーテックスの幼生である星屑がとめどなく生まれて来ていた。

 あるものは主の行いを妨げる結界に食らいつくために飛び立ち、あるものは完成体を作り出すために集結していた。

 しかしそのどちらも目的を果たす事はなかった。罪を裁く神の鉄槌のようにいくつもの光の槍が降り注ぐ。寸分狂わず正確に星屑の頭部に当たる部位をえぐり抜いていく。

 そして槍の襲来から少しだけ間をおいてそれは降って来た。手近な溶岩に飲み込まれていない岩場を足場にしてそれは着地する。どこか神聖さすらあった光の槍の担い手は打って変わって不気味の一言であった。

 一目見て連想されるのは西洋の悪魔、もしくは黒いトカゲ。人型のシルエットは黒く、腰からは尾のようにマニピュレーターが伸びている。

 よく見れば構成している部品は機械であり、人ひとりを包み込むように機械の鎧をまとって、それでありながら生体的な印象を与える。微かに見える生身の部分の女性的なシルエットがなんとかそれの性別を理解させていた。

 顔を上げその顔が見える。顔を隠すように装備されたバイザーからは不気味に赤い光が灯り、遠くにいる出来かけの完成体バーテックスを捉える。手にした二本の槍を力任せに放り投げ、乱雑な投げ方からは想像できない豪速で槍が射出されてバーテックスを貫き、御霊どころか全身を粉砕して消滅させていた。

 一体のバーテックスを倒す事に感慨も見せず、黒トカゲは足場を砕きながら跳躍する。跳びながら星屑を潰し、足場にして、さらに消滅させていく。

 そんな虐殺とも言える一方的な処理を終え、一時間もしないうちに目に見える範囲にいたバーテックス、および星屑は一切が消えて無くなっていた。

 最後に残った星屑の頭部を直接掴み、ただ握り潰す。それだけで人類の天敵は抵抗することも許されずに動かなくなった。

 動かなくなった星屑を大地に流れる溶岩に放り込み溶岩に溶けて灰になっていく様子をただジッと見下ろす。

「モクヒョウスウ、シュウリョウ。キトウシマス」

 ノイズ混じりの独り言を機械音声でつぶやき、踵を返して元来た方向へ移動を開始して帰還する。

 背中のパーツに刻印された製品番号と個体識別を意味する黒百合、それが傷一つ付いていないことが彼女の無類の強さを示していた。

 地獄のようなこの世界でこの黒百合はあの日から今日も変わらずに戦火にその身を墜としていた。

 




お久しぶりです。プロットを整理していたらこんなに遅くなっちゃいました。
犬吠埼樹の物語終幕まで一直線、頑張っていきます


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そして始まってしまったオーバーチュア Part2

 七月に入り、山の中ではつがいを求めるセミやひぐらしの鳴き声が鳴り止まない。ジメッとした気温や湿度は今年も若干不快感を覚えるものであり、触覚と聴覚によって樹は今年の本格的な夏の到来を感じていた。

 そんな真夏直前の気候の中で長袖、長ズボンを履いて山を登る自分に樹は疑問を覚えはじめていた。

「なんで私、山登ってるんでしょう?」

「ハハハッ、ごめんね樹ちゃん。でも今回のバイト先がこの上の神社だから登らなきゃ、ね?」

 少し申し訳なさそうに笑うワニー。

 そう、今二人はワニーの紹介で樹の自主的に負った借金を返すためのアルバイトに来ていた。

 借金を負った本人からアルバイトを紹介してもらうのもなんだか本末転倒のような気がしてならないが、何はともあれ二人は山頂の神社へ向かって歩みを進めていく。

 ふと気なって樹はワニーの方へ視線をやる。ルンルンという様子で楽しそうな様子が隣を歩く樹にも伝わってくるようだった。

 長い髪は今日もバレッタによって纏められており、肩には大きなボストンバッグがかけられていた。曰く、アルバイトで使う道具が一式入っているらしい。

 ずいぶんと大荷物に見えるが当の本人はすでに汗で服が背中に張り付きはじめている樹と違ってケロッとした様子で歩いていた。

 持ってきたタオルで汗を拭いているとこちらを見て軽く微笑んでいるワニーと目が合う。

「樹ちゃん大丈夫? 少し休憩していく?」

「いえ、まだまだ大丈夫です。先輩は随分と余裕そうで羨ましいです」

「まぁね、これでも色々と鍛えてるから。そう易々と根をあげたりしないさ」

 そんな軽口を言い合いながら山道を登っていき、そのうち開けた場所にたどり着いた。

 それまで歩いていた自然そのままの土の道とは打って変わり、明らかに人の手が加わった舗装された石の道が顔を出した。

 まず樹の目に入ったものはその先への道を進むことを拒む背の高いフェンスだった。見たところフェンスは視界の端の森の奥にまで続き果てしないようにすら思えた。

 視線を正面に戻すとそこが一つの入り口である事に気がつく。丈夫な南京錠と鎖によって封印された扉はここから先へ進む者を拒んでいた。

 その横には立て看板。『この先、大赦私有地につき立ち入りを禁ずる』一目見てここがどのような場所なのか理解できた。

 四国を守る神樹様を奉る組織である大赦。その私有地であるのならば信仰的に重要な場所なのだろうと樹は一人納得する。

 これからどうするのかとワニーに聞こうとしたところで彼は迷う事なく前へ歩き出した。

 そびえ立つフェンスに近づき、服の中から鍵束を取り出す。多少慣れた手つきで束の中から一つの鍵を選ぶと南京錠に差し込み回した。南京錠から小気味いい音がするとぼとりと解錠された南京錠が地面に落ちた。それを拾ってフェンスに掛けてからワニーは樹に振り返ってちょっと自慢げにピースをしてみせた。

 お茶目とも子供っぽいともとれるそんなワニーの様子に樹は苦笑を返事とした。

 フェンスを通過するとそれまでの土の地面とは打って変わり、人の手によって整備された石づくりの階段を登っていく。

 二人して黙って階段を登り続けて樹の息が切れそうになった頃、ようやく目的地の建物が姿を現した。

 人気のない山の奥、そこに件の神社は鎮座していた。

 一見して樹が最初に思ったのは妙に小綺麗に掃除されているということだった。

 山奥の、それもフェンスによって隔離された場所にあるのだらか樹はてっきり寂れているのだと勝手に思っていたが、見れば社自体も建て替えたばかりなのか色が剥げたところもなく、日に焼けたような様子もない。落ち葉やその他のゴミもほとんどなく定期的に掃除されていることも分かる。

 社もこんな山奥の誰も参拝できないところになりながら不自然に立派であり、神紋には大赦の印が使われていた。

 何度か来たことがあるのか慣れた様子のワニーに案内されて本殿に上るとその一室に案内される。本殿の中も掃除が行き届いていて、戸棚からお茶の用意一式をワニーが取り出すと手慣れた様子で樹の分のお茶を出した。

 しばらく待っているように言われ、言われた通りに樹が座布団に座ってしばらく待っている間、なんとなく部屋の中を見渡す。どうやら控え室のような部屋らしかった。押入れの中にはいくつかの座布団やちゃぶ台が収納されており、部屋にはコンセントや水道が備え付けられていた。山の奥ではあるがインフラはあるようだ。他には必要最低限のものしかなく人が生活するための部屋には見えない。この周囲の建物はこの神社しかなく、この神社のためだけにインフラを整備する事に樹は首をかしげる。

 それほど詳しいわけではないが少なくとも授業でインフラを整備するのには多額の費用がかかることくらいは樹も知っていた。それほどにこの神社が重要なのかとも思ったがその割に常駐の管理人は見当たらない。普通、神社の本殿の外には神主や巫女が常駐する社務所があるはずであるがその建物は存在自体がなかった。

 ならばこの神社そのものを立てておく事、それ自体が重要という事になるが手がかりがもうないのでそれ以上の推論を樹はすることができない。

 謎の神社について知的好奇心を発揮していると控えめな強さで障子がノックされた。どうやらワニーが帰って来たようで立ち上がった樹は障子を引いて開けて息を飲んだ。

 戻ってきたワニーは着替えていた。結論から先に言うとワニーが着ていたのは純白の神官服、以前テレビで見た事あるものと大きく違うのは体の至るところに鈴が備え付けられ、小さく動くたびに澄んだ音が鳴る。元々あった大和撫子めいた色香が巫女服と神官服の中間の印象を持つその衣装は肩が露出し傷一つない白い肌が見えることで一層引き立っていた。

 しばらくの間黙って凝視していた事で樹は妙な既視感の正体に気づいた。よくよく見ればどことなく和式の花嫁衣装を略式した様にも見える奇妙な衣装だった。

「どう? 似合う?」

 見惚れている樹が面白かったのかワニーは悪戯っぽく笑って感想を聞いてみた。

 質問された当の本人は数秒してからハッと我に帰り、それから慌ててうなづいてみせた。

 そんな樹の小動物的な所作に満足したのか「それでね……、樹ちゃんにはこれだね」そう言って、先ほどまでは着替えが入っていたのかすっかり細身になったボストンバッグに手を入れる。

 そのままガサゴソとカバンの中に手を入れ、その中から二つ取り出して樹に手渡す。手渡されたのは鈴、大小二つの神楽鈴だった。何かの祭事を執り行う巫女が持っているイメージのそれを渡され、自分がどうしたらいいのかがさっぱりと分からず樹は首をかしげて疑問であると主張した。

「えっと、先輩? 私はどうしたらいいんですか? というかアルバイトって……?」

「樹ちゃんの仕事はね、俺の手伝い、まぁ合いの手みたいなものだよ」

 そう言ってワニーはアルバイトの詳細を話し始めた。

 曰く、ワニーは大赦から定期的に大赦の保有する各神社の内、重要ではあるものの大赦が囲う巫女たちを派遣するまでもない重要度の低い神社にて神楽舞の舞い手を任されているのだという。

 扱いは臨時職員の様なものでありそれなりの報酬が出るとの事。

 今回樹が任されたのはその儀式にてワニーが舞う神楽舞の合いの手、正しくは奉る側の神への呼びかけを意味する鈴の音の鳴らし手。そのため、樹にも臨時職員としての報酬が出るらしい。

 早くやってしまえばそれだけ早く帰って良いとの事で二人は早速奉納の儀式場である本殿の最奥へと向かった。

 本殿に足を踏み入れて、樹は本日何度目かになる驚愕に表情を変えた。

 本殿の奥には大きな木製の箱、ちょうど棺のようにも見えるそれがこの神社の御神体らしく、いかにも大切なものであると言わんばかりに祀られている。よくよく見れば木箱にはいくつものお札が貼られ、封印されているような印象を受ける。

 しかしそんなものよりも、その周囲に鎮座するものから樹は目を逸らさないでいた。

 小さな明かり取りしか光源のない薄暗い本殿の中で幾人かの仮面と神官服の大赦職員たちが道具や楽器を手に座し、俯いて待機していた。

 物言わぬ神官たちを見て薄暗い本殿の雰囲気も相まって不気味であり、思わずギョッという驚きの声が出そうになる。

 思わず隣にいたワニーの腕にしがみついて彼の陰に隠れる。

 そんな不安そうにする樹を「大丈夫だから」と優しくなだめてからワニーは袖についた鈴を揺らして早只、つまり二拍子のリズムで鳴らした。

 すると伏せていた神官服たちがぎこちない動作で上体を起こし始め、それぞれが持った楽器を演奏するための姿勢になってからまた動かなくなった。

 ここまで見れば樹にもこの不気味な神官たちの正体を理解出来た。

「……ろ、ロ、ロボット?」

 樹の困惑を含んだ推測にワニーは小さく笑って肯定して、左手に持った神楽鈴を大きく振って鳴らした。

 そしてその音を合図に本殿に設置された数十体の神官人形たちが定められた動作を開始した。大赦の持つ最先端の技術を駆使して製造された機械人形たちは十数年その楽器に慣れ親しんだ奏者に引けを取らない演奏を開始する。

 そして樹が一斉に動き出して演奏を始めようとしている人形たちを見つめていると隣にいたワニーがその肩を優しく叩いてから彼女に微笑みかけた。

「大丈夫、演奏を聴きながら俺の動きを見て。そうすれば自然と君がどうすればいいのか分かるから」

 そう言うや否やワニーは本殿の中央めがけて飛び出した。

 右足を前に出し、滑らす様に左足を追随させる。右手には扇、左手には樹が手に持っているのとは更に違う音を鳴らす神楽鈴を持って舞う。

 見事に整った人形たちの演奏は見事の一言であり、美しい旋律が舞を引き立てる。いつの間にか灯った蝋燭の灯りが薄く本殿と照らし、神楽舞を舞い始めた彼の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。

 神へと捧げられる舞はただただ美しく、見るものを魅了する。衣装の各所に結び付けられた鈴が舞の動作に合わせて清廉な音を響かせる。耳に入る音を聞いているうちにそれ以外の何もかもが意識の外へと追いやられ、熱に浮かれたように意識が希薄になっていく。

 魅入られた樹はまるで暗闇の中でワニーただ一人が浮かび上がっている様な錯覚の陥って、そのうち舞を補助する人形たちの演奏に所々欠けたような、抜け落ちた様に音が足りないところがあることに気づく。

 無意識のうちに、自然と足りない音を補う様に樹は手に持った神楽鈴を振るう。二種、別々の音を奏でる二つの神楽鈴。それでも何故かどちらを振るうべきなのか、何も教えられずに理解していた。まるで頭に直接譜面を書き込まれる様な感覚に頭が熱を持って熱くなっていく。

 初めて聞く演奏、初めて見る舞、それなのにどうすればいいのかを一人でに理解していく。

 演奏が頭の中に反芻して響く。目に見える舞も一つ一つの動作が複雑さを派生し、鈴の音が更に増して、もっと、もっと舞の価値、奉納の意味を重ねていく。

 あまりの情報量に頭痛すらし始める。しかし体はそんな痛みにたじろぐ事すら出来ずに鈴を鳴らす手を止めない。いや、止められない。

 そして頭の中で針の先端が乱反射するように反芻する鈴の音を背景にワニーの歌声が足されていく。歌詞などではなく単純な無旋律、単純な音階の歌声が人には理解できない奉納となって響いていく。

 明らかに異常な状態でありながら、しかし最早何も樹は理解していない。ただ一心不乱に頭に書き込まれた様にして理解した舞を完成させていく。巨大な構造の一部、神楽舞の演じ手であり見届け人となって演奏と鈴の音と歌声と、それ以外の何も聞こえなくて、響いて、頭の中が軋んで痛みとなって、そしてそのうち限界を超えて、気がつけば視界が白く染まった。

 先ほどまで聞こえていた頭を割るような鈴の音も演奏も歌も何も聞こえない。重たい水の中を漂うような不思議な感覚の中、どことも知れない場所で樹は自身の存在が浮かび上がって周囲から離れていく感覚。肉体から魂が離れてどこかここではないどこかへと向かうのをなんとなく理解する。

 視覚、聴覚、触覚、嗅覚、外部の情報を知るための感覚の一切が意味を成さず、ただ白い無の地平線へと魂の第六感が到着する。

 意味が分からずただ流されるまま、起きることを受け入れるだけのままで漂う。

 そして受け入れ始めた新しい感覚が何かの到来を察知する。自分ではないなにかが自分に触れる。肉体を通過して魂そのものに自分ではない何かが触れる。ただ不思議と不快感はなく、どこか安心感だけがあって樹は無抵抗に触れたそれを受け入れて、あるがままに身を委ねた。

 そしてそれまであった真っ白な世界が遠くになり、ブツリと音が鳴って視界が真っ黒に切り替わる。

 ——声が聞こえた。

 驚いたような、不思議そうな、呆れたような、諦めたような、微笑んだような、無邪気な、いくつもの声が重なった人のそれとは明らかに違う。

「……あれ? どうして勇者がこんな所に? ……ま、いっか。求められたのなら叶える。それが僕らの存在理由だからね。隔てなく、君でさえも喜んで招くとも。ようこそ楽園へ。最新の勇者ちゃん」

 どこかで聞いたような声、知っているはずの声なのに、樹にはそれが今日初めて聞く声であるような気がしたが深く考えようとする前に思考は闇に覆い尽くされて、それ以上何かを感じることも考えることもなかった。

 そして逃れられない浮遊感と落下の感覚と共に樹は奈落の底へと落ちていく。

 現実の樹は目の焦点が合わずに物言わぬ、奏でられ続ける神楽の一部と化していた。

 そんな樹の様子など関係なく、神楽舞は続いていく。演奏を続ける人形たちとワニー、そこにどれほどの違いがあるのかも分からないまま。

 




忙しくてなかなか続きを書けない日々。時間をください(切実)


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楽園のシンフォニー

そろそろ本編が始まった樹ちゃん編。
あの子とか、あの子とかが登場する章。
始まります。


 意識がはっきりする。気がつくと樹は自室のベットで寝ていた。

 ——おかしい。先ほどまで自分が何をしてたのかが思い出せない。なにか大事な事があったような気がするが具体的には何も分からない。

 ふと気になって時計を見る。デジタル表記の時計には今の時間と日付けが出ていて、それを認識した瞬間、樹は顔から血の気が引いていくのを感じた。

 月曜日の朝、普段家を出ている時間なぞとっくに過ぎている。跳ね起きて、急いで身支度を済ませる。

「お姉ちゃんいつもは起こしてくれるのに……」

 あまりの自体に気が動転して八つ当たりじみたつぶやきが漏れる。

 それは置いといても不思議だった。常ならば樹が寝坊したら姉の風が様子を見に来る事がほとんどだ。姉も寝坊したのだろうか?

 そんなことを考えながら制服に袖を通し終え、そこで違和感が気づいた。

「……ん? 部屋、こんなに広かったけ?」

 部屋が妙に広い。内装や部屋に置いてあるものは樹自身、覚えのあるものばかりだ。しかし部屋そのもの、間取りがなんとなく広い。

 眉をひそめたまま廊下に出て動きが止まった。違和感どころではない。明らかに知らない家の廊下だ。

 自分の家はマンションの一室だったはず、だが長い廊下と家の中に階段、この場所は明らかに一軒家の様相だった。

 目が覚めて突如自分が見覚えを持った違和感のある部屋と知らない廊下の組み合わせは寝起きの樹を混乱させる。

 自分が今どこにいるのかが点で分からない。そう自覚してしまえば道への恐怖で足が固まってしまい、進むことも戻ることも出来ない。

「あら樹、もう起きたの? 今日は随分と早起きね」

 廊下に出て一歩目が進めずオロオロしていると声がかかった。

 良く知った声、聞き覚えがあるような声を聞いて安堵を覚えながら振り向いて、樹の表情は凍りついた。

 声の主は樹の様子に朗らかに笑う。

「もう、どうしたの樹。そんな幽霊でも見たような顔をして。まだ寝ぼけてる?」

 そこにいたのは風を成長させ、髪を短く揃えて快活そうな印象を受ける女性。

 樹が見間違えることも、間違えることもない。そしてもう見ることも、声を聞くこともありえないはずの女性。

 犬吠埼樹と風、二人の両親の片割れ、彼女らの母がエプロンを着た主婦姿で廊下になっていた。

 しかしそれはおかしな事だった。彼女と夫、樹達の父は2年前の大橋の事故で亡くなっている。二人の葬式は樹と風が確かに執り行い、お骨も自宅の仏壇に置いてあるはずだ。

 文字通り有り得ないはずのものを見た樹はどんな小さな反応も返すことが出来ず、パクパクと酸欠の魚のように口を開いては発語に失敗していた。

「ぷ、ぷはは! もう、樹ったら本当に寝ぼけてるのね。しょうがないわね、早く顔を洗って来なさい。朝ごはん、出来てるわよ?」

 そんな樹の様子が面白かったのか樹の母はひとしきり笑って、朝食の準備を終えるために居間に戻っていった。

 階段をパタパタと降りていく音だけが表情が凍りついたままの樹がいる廊下に響いていた。

 ようやく理解する。樹がいるのはかつては住み、現在は引っ越してしまった家、犬吠埼家があった家だった。

 

「……ええ、と。その、いただきます」

 顔を洗い終え、ひとまず冷静さを取り戻した樹は状況をおぼろげながらも理解しはじめていた。

 ——寝て起きたら死んでいたはずのお母さんが生きていて朝食を用意してくれていた。

 ダメだ、状況が全くこれぽっちもわからない、と内心の自分にツッコミを入れる。

「なんで生きているの?」やら、「どうしてこのお家にまだ住んでいるの?」などなど聞きたい事は思いつくが相手がさも当然であると言わんばかりに日常生活を送っているのを見ていると自分が間違っているのではとすら思い始める。

 食机の上を見る。大きすぎてマンションでは使えず捨ててしまったはずの食卓。部屋の中の家具はどれも捨ててしまったはずのものばかり。料理はいつも通り、ただ量が樹一人分だけ並べられている。

 恐る恐るという様子で手を伸ばし、スクランブルエッグに口をつける。

「……あ、おいしい。おかあさんの味だ」

 ひどく忘れていた味だ。両親が亡くなってからは姉の風が親代わりを務めようとしていた。料理もそのうちの一つ。美味しいけれど、量が多いのが気になるのが風の料理だった。そして味はいつも食べていたお袋の味、親がいなくなっても樹が寂しがらない様に頑張って風が再現した味だった。

 そして今はそのオリジナルが目の前にあって、ただのスクランブルエッグですらこれ以上ないくらい美味しいと感じる。

 懐かしさとまた食べられた嬉しさに、気がつけば樹は静かに涙を流していた。

 口の咀嚼は変わらずに、涙が一雫頬を伝ってこぼれていく。

 樹が食事をしているところを見ていた母はそんな娘の様子に狼狽する。

「あれ⁉︎ そんなに辛かった? コショウ入れすぎたかしら……?」

 そこで初めて自分が涙を流していることに気がついた樹は慌てって涙を拭い去り、今できる最大限に笑って、

「ううん、気にしないでお母さん。朝ごはん、すっごく美味しかったからびっくりしちゃっただけだよ」

「おぉ! そっかそっか、いやー参っちゃいますなー! そんなにアタシの作るメシは美味しかったかー!」

 涙を流した樹には狼狽したが料理を褒められ、母は上機嫌に照れ臭そうにしながらも自慢げに笑っていた。

 どことなく調子に乗りやすい風に似た、正しくは風が母親似なのだが、そんな風を思い出させる母の仕草を見て樹は目を細め見つめていた。

 そんなこんなで朝ごはんを終え、平日なのだから樹は学校へ向かう。

 かつて見慣れていた玄関の収納棚から制服の靴を取り出し足を入れ、軽くつま先で床を蹴って履けたことを確認する。

 そして見送りに玄関までやって来た母に振り返る。

「その……、いってきます」

「ええ、いってらっしゃい」

 当たり前のやり取りを終えて樹は家を出た。

 もう出来なかったはずの、当たり前の家族のやり取りに胸が暖かくなる。

 しかしその暖かさも長くは続かなかった。一人になって落ち着いたことで、考えないようにしていた疑問がいくつも浮かんでくる。

 今、私は当然のように通学路を歩いている。体は当然のように慣れた通学を多くの道から選別して進める。でも私はこんな道を知らない。お母さんもお父さんに2年前に死んでしまったはず。それなのに昨日まで一緒に生活していた記憶がある。

 知らないのに知っている。矛盾した心と体。何が起きているのか正確なことが知りたい。

 ひとまずは勇者部五箇条『悩んだら相談』を実行しよう。目的地もするべき事も分からない樹は他者の意見、頼れる先輩たちと姉に頼ろうと行動を開始した。

 ポケットからスマホを取り出す。

 SNSアプリであるNARUKOを起動して、それ以上進めなくなった。あるはずの勇者部の会話グループが見つからない。昨日だって使ったのだ少なくとも一覧の上の方にあるはず。

 しかしいくら探しても見つからず、念のために電話帳を開いてみればそもそも勇者部部員のアドレスが一つも見つからない。それどころか姉の風の電話番号すら載っていない。

 唯一覚えていた姉の番号を記憶を頼りに打ち込んで電話をかける。

「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」

 数回のコール音を挟まず、機械音声は無情に仕事を完遂する。確かに昨日まで姉と繋がっていたはずの番号が無意味なものとなり、頼れるはずの部活の先輩達にも連絡がつかない。

 荒野に放り出されたような孤独感と嫌な予感が背筋を凍らせる。

「どうして、どうしてなの!」

 半ば狂乱ともいうべき不安定な精神状態で樹は残った通学路を走り抜ける。とにかく状況を変えないと、何かしなければという焦燥感が足を急がせる。

 理解の及ばない異常事態に自分はいる。怖くて足が震えて逃げ出したくなる。

 それでも樹は逃げ出そうとは思わなかった。残された希望がまだ一つだけあった。

「ワニー先輩なら……、ワニー先輩ならきっと今日も屋上に……!」

 根拠のない推測だったが不思議と樹には確信があった。いつもの時間、あの屋上にいればきっと彼に会える。それを疑う気持ちは微塵もない。

 いつかのようにきっと自分がいて欲しいと願っていれば叶えてくれるとどうしてか思えてしまう。

 窮地に見えた希望に樹は不安な様子は息を潜め、希望へと進む力強さが足取りを軽やかなものへと変えていく。

 到着して見た目が変わっていない校舎に安堵しつつ、靴を変え屋上への階段を登っていく。急ぎすぎたから息が上がり自分の荒い息しか耳に入らない。しかしそんなことはどうでもいい屋上への扉さえ開ければまた今日も、あのギターの響きが樹を迎えてくれる。階段を駆け上がり、最後の段を飛び越え、屋上へのドアノブに手をかけ、ひねって回し、

 ——ガシャン

 開かなかった。

「……へ?」

 力を入れて回す。

 ——ガシャン

 回しかたが悪かったのだろうか? 反対側に回す。

 ——ガシャン

 そして確認するようにゆっくりと、確実に回していく。

 ——ガシャン

 何度やっても結果は同じ。鍵がかかっているから扉が開かないという当然の現実が樹に突きつけられる。

 両手で強く握り、思いっきり押しても、引いてもやはり扉は開かず、ようやく整った息は鳴りを潜め、辺りには樹が扉を無理やり開こうとして鳴った音以外音はなく。いつも小さく扉越しに聞こえていた演奏など影も形もない。

「なんで、なんで! 開いてよ!」

 開かない事と状況が一気に積んでしまった事が樹を焦らせる。乗りかかる恐れが重く、気がつけば不安に泣きそうなっていた。

 感情の高ぶりが冷静さを奪い取り、気がつけば樹は無意識にスマホを取り出し、勇者へと変身するアプリを起動していた。秒もかからず変身を終え、強化された膂力が鉄製の扉を軋ませる。

 バーテックスを倒すのに十分な力を前に扉が耐えられるはずもなく鉄の扉は紙切れのように割かれ、空間を隔てるという機能を失わせた。

 壊した扉を乗り越えて樹は屋上へと転がり出た。

 何もない。ギターの演奏は聞こえず、そもそも誰もいない。

 しんと静まり返った屋上に樹の息遣いだけが残る。

 きっと居てくれるとう願いは裏切られ、ワニーの姿などどこにもなく、真に樹の見方となる者は誰もいなかった。

 気がつけば長い時間が経っていた。低い位置にあった朝の太陽は大きく動き、夕方前の時刻を表していた。

 その長い間、樹は屋上の片隅に背を預け、膝に顔をつけて動けずにいた。己の身を小さく縮こまる事だけが孤独から自分を守れる自衛手段だった。

 終業のチャイムが鳴った。

 もうここに樹がいる意味もない。

 顔を上げた。泣き腫らして残った涙の跡を乱暴に拭って表面上だけは体裁を整える。しかしそんなことをしてもなにかが解決したわけではない。

 ここにいる理由などなく、力なく肩を落として樹はもと来た通学路を朝とは逆に歩き始めた。夕暮れに照らされた道を歩き、足が止まった。

 また明日も己が知る者達がいない学校に行くのかと思うとそこに意味も意義も見出せなかった。1日の終わりである帰宅に自然と足が遠のく。

 だからまっすぐ帰らず、ただ早く家に帰らないために樹は行く当てもなく歩くことにした。

 試しに部員達の家に行ってみることにした。友奈、三森、夏凜一つ順番に場所を思い出しながら歩いて行ってみたがそもそも家、またはマンション自体が存在せずただ時間の浪費とそもそも自分が知る者達の存在が消失している事実が分かっただけだった。

 ならば余計に分からなくなるのは、かつて住んでいた我が家に変わった自宅と、朝食を作ってくれた母の存在だ。

 知っている者の誰もがいなくなった現状で、ただ唯一の知った人物が亡くなったはずの母というのが引っかかる。あれは本当に自分が知る母なのか。

 見慣れた顔も、懐かしい食事の味も本当にあれで正しかったのだろうか。もしかしてよく似たものをそうなのだと思い違いをしてはいないなどうか。

 疑い始めたら止まらず、あれは自分の母だという証拠がなければ、偽物だと断言する確証もない。

 ただ頼れる者が誰もいない状況が樹を追い込んで余裕を奪っていくだけだった。

「——おっ、と、っと」

 考え込んで歩いていたからか正面をよく見ずに歩いていた樹は肩にあたる感触で人にぶつかってしまったことに気がついた。ぶつかった人物は樹に軽く当たった事で一歩足を戻そうとしてバランスを崩したらしい、上半身を大きくよろめかせて後ろに倒れこもうとしていた。

 しかしぶつかってしまった少女は倒れることはなかった。

 しかし完全に倒れる前、樹が反射的に手をのばず前に後ろに回り込んだ人物がバランスを崩した少女を後ろから支える。

「もう、銀。そんなに慌てたらダメだろう。現に人にぶつかってるし……」

「お前はあたしのお母さんか。ってイカンイカン。ぶつかって悪かった。この通りだ」

 支えられた少女は支えた少年に悪態をつきつつ、ぶつかってしまった樹にひら謝るする。

 ここでやっと我に帰った樹は、

「だ、大丈夫です。私こそ考え事していて前をよく見ていなかった……、……え」

 謝罪は最後まで続かなかった。謝りながら顔を上げ、そこにいた人物の顔を見て樹は

 言葉に詰まる。

 見間違えるわけがない。腰まで伸びていた髪は肩ほどで切り揃えられたことで大和撫子の雰囲気は失われているが柔和な表情や上品な仕草は変わらずに健在だった。

 やっと知っている誰かに会えた事で樹は安堵の息を吐き、

「先輩っ! 大変なんです! 私の知っている人が誰もいなくて、ここはいったいどこなんでしょうか」

 自らが置かれた状況から助けて欲しいと頼って、その手を取る。

 取ろうとして、距離が開いた。

「……え?」

 樹は困惑して声を漏らす。顔を上げると、困った顔を作ってこちらを見る和仁がいた。

「えっと、その……、初めまして……、だよね?」

 恐る恐るという様子で、確認するように和仁は樹に問いかけた。

 今日初めてあった女の子に、まるで知り合いのように話しかけられた、という明らかな困惑の反応であった。

 どうしてそんな目で見られるのか全く分からず、樹は思わず詰め寄って、

「私です! 犬吠埼樹です! 覚えてないんですか⁉︎」

「そんなこと言われても……、本当に僕たち知り合い?」

 やはり思い当たる節がないのか和仁は困惑をより深くする。

 そんな和仁の様子に隣いた少女は目を細め、ふーん、と面白くなさそうに鳴らす。

「ほうほう、和仁さんや。これまた、あー、随分とおモテになるようで。お邪魔ならあたしは帰るけど?」

「いや、だから本当に知らないんだよ、銀。僕が浮気してるとか本当に思ってるの? 君の前だからって知らないふりをしてるとでも?」

「……別に、浮気してるなんて微塵も思ってないけどさ。けど、どう見たってその子、嘘ついてる様子でもないだろ? なら、だいたいこういう場合は男の方に問題があるってのがお決まりのオチだろ?」

「そ、そんな理不尽な……」

 銀の一方的な判決に力なく和仁は小さくなって萎れていく。

 いつの時代もこういう話題で男子は女子に勝てず、しかし二人は自分達だけの空間を作ってこのやり取りをどこか楽しんでいた。

 すっかり蚊帳の外に置かれた樹はただ見ているだけしかできない。

 目の前にいるのは髪を短く切り揃えた少年らしい雰囲気の和仁。いつも樹へと向けられていた微笑みの全ては、余さず銀と呼ばれた少女へと宛てられ、その銀もまんざらでもない様子で笑って受け取っていた。

 二人の意識から樹が消え去り、互いだけを見つめている。どこにも樹は介在する場所などありはしなかった。

 見れば分かる。目の前の少年と少女は互いを思い合い、大切にしている。

 和仁の隣に立っているのは樹ではなく銀。

 瞳に映ったその事実が重くのしかかる。

 ——その場所は私がいたはずなのに。私の場所なのに……

 心に湧いた黒い感情は生まれて、でも直ぐに消えてしまう。

 分かっているのだ。自分は何も行動していない。だからそれに文句を言う資格などはない。

 ただ気がつくと何もかもを奪われ、奪われてしまった後を見るだけしかできないというのは余りにも理不尽だと、心の中で言葉未満のつぶやきが泡となって、弾けて、消えた。

 くちびるを噛み、泣きそうになるのを必死に堪える。

 奪われた跡だけを見せつけられて、それでも残った小さなプライドが涙を押し止める。

 泣いてしまったら、負けを認めるような気がして、しかしそれも長くは続かず、あなたは一体誰なんですか、と八つ当たりにも似た攻撃的な叫びを銀に向けようとして、

「あー、やっと見つけたよ。もう、こんなに動き回って……、探す身にもなって欲しいよ」

 三人に乱入した声が樹を牽制した。

 現れた声の主の方へ三人は振り向く。やってきた声の主は片方をあげ、のんびりとした様子で歩いてきていた。

「やっほー、かずくん。今日も銀ちゃんとアツアツだねー。ヒューヒュー」

「からかわないでよ、あっちゃん。僕たちは今日もいつも通りさ」

「……そのいつも通りがアツアツなんだけどなー。ま、いっか。……そうそう、今日は君に用事があったんだった」

 思い出したようにやってきた少女は樹の方へ振り向き、その顔を見て樹は眉をひそめた。そこにあったのは紛れもなく結城友奈の顔だった。樹の知る友奈とは少し背が低い他に肌が色黒ではあるが顔はそっくりそのままだった。

「え、ゆうなさ——」

「おっと、話は後にしよう、ね? という訳でかずくん、この後輩ちゃん貰っていくね?」

 樹の発言を彼女の唇に指を当てることで中断させ、確認のために和仁へ振り向いた。

 和仁はうなづきをもって返答し、樹に向き直って安心したように笑みを作った。

「……えっと、犬吠埼さんだっけ? 僕に君の事情はよく分からないけど、そこにいるあっちゃん、赤嶺友奈が君を助けてくれるみたいだ。もし助けがいるのなら僕らを頼ってもいいからさ」

「何、さらっとあたしも頭数に入れてんだよ」

「でも銀ちゃん、頼ったら助けてくれるでしょ?」

「……そりゃあ、そうだけどさー、なんかお前に主導権を握られてると腹立つ」

「今日も銀ちゃんは理不尽だなぁ……。」

「やならやめるぞ?」

「これでやめられないのが惚れた弱みってやつだよねぇ……」

 言っていて、恥ずかしくなったのか二人は背中合わせになって、頭を掻いたりし始めた。その顔は赤く、熟れた林檎の色だった。

「うへー、ここにいたら私まで暑くなってくる。それじゃあ、二人ともまた今度。お邪魔虫は退散することにしますよ、っと」

「えっと、あの……」

 友奈は照れ臭そうに首元を仰いで風を送る仕草を作って、暗に二人に文句を垂れていた。

 踵を返し、友奈は樹の手を掴んだまま歩き出し、樹はそれに引っ張られて連れられた。

 樹を掴む友奈の握力は尋常ではなく、樹の骨が少し軋む程だった。樹がいくら声をかけても友奈は返事をせず、そのまま二人はしばらく歩き、学校に到着し、樹が壊した扉をまたいで屋上にやって来た。

 どうしてか道中、平日の放課後でありながら生徒の誰にもすれ違わない。

 いつの間にやら先ほどまであった緩い空気は霧散し、鋭い刃物のような緊張感が友奈から発されている。

 屋上の中ほどでやっと足を止め、手が解放された。掴まれていた手は色が変わり、思わず樹は痛む手を守るように反対の手で隠していた。

 振り返って互いの目が合う。もう樹は目の前の少女から見知った結城友奈を連想することは出来なかった。結城友奈からは見ることができない純粋な殺気を友奈は纏う。

「ねえ、貴女。何者?」

 声には優しさは微塵もなく、攻撃の色が樹へと向けられている。

「わ、私は讃州中学の犬吠埼樹——」

「そういうことを聞いてるんじゃないの、分かってるよね?」

 瀬戸際で抑えられていた殺気が動きとなって現れる。

 ポケットからスマホを取り出し、アプリの起動画面に切り替える。

 人の身で神の力の一部を行使するための装置。

「……ゆ、勇者の変身アプリ?」

 見覚えのあるそれの名前を思わず呟く。

「へぇ……、これを知ってるなら、やっぱり貴女も勇者なんだ」

「あなたもって……」

 樹の言葉によって、ようやく確信を持てたのか友奈は笑い、

「——変身」

 アプリを起動し、姿が変わる。私服姿は赤い非対称な戦装束へと変わり、右腕に装着された大型の打撃用手甲が威圧感を放ち、樹へと向けられる。

 腰を落とし、戸惑う樹など気にせず、友奈は殺す為に構える。

「——それじゃあ、どうやってここにやって来たのか、その方法だけ話したら、さっさと死んでくれるかな? 異物ちゃん?」

 楽園の守護者、勇者である赤嶺友奈がその武をもって楽園の異分子である樹へと襲いかかった。

 



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楽園のシンフォニー Part2

物語の進行具合に合わせ、あらすじを書き直しました。


 視界に映る拳闘士の打撃が風を切って迫りくる。

 気がつけば迷い込んでいたこの世界で唯一、樹を知る少女、赤嶺友奈は一方的に宣戦布告をすると、樹の言葉を待たず攻勢を開始した。

 白兵戦、特に拳を使った一対一の戦いにおいて、重要となるのはいかに致命的な打撃を先に加えられるか、その一点に勝負の天秤は預けられる。

 人間の身体とは案外、丈夫に出来ているもので、骨の数本や肉の欠片などを折られたり抉られたりしても、多少の行動なら気力次第で続けられてしまう。

 しかし一方で、足や股間の関節への破壊や、脳への振動や打撲は、感じる痛み以上に行動する事そのものを損なわせる。動けなくなってしまえば、後は敵の思うがままに処理されてしまう。だからこそ、拳闘においてはそこへの攻撃が必殺の攻撃に足る。

 故に樹を始末する前に尋問を行う必要のある友奈にとって脳への打撃後の捕縛、尋問が彼女のすべき最善手であり、必要な過程であった。

「——ハァっ!」

 狙うは顎先、あごを軽く撫でる要領で打撃を加え、脳を揺らして捕まえるつもりだった。見るからに運動が得意そうでない樹ならば、これだけで十分以上の攻撃だと判断して最速の、しかし一切の躊躇もない正確無比な一撃を放とうと迫った。

 しかし友奈は油断していた。正確には樹の運動神経、その悪さを逆に高く見積もり過ぎていた。

 瞬きの間に眼前に迫る友奈を認識して、樹は驚いて思わず屈もうとした。それは恐ろしいものへの防御行動であるが、ここで彼女の運動神経の悪さがかえって幸運に働いた。

「——きゃっ!」

 身をすくめようとして、体がビクついた事で体の体感が大きく揺らぎ、何もないところで、それこそ歩いてもいないのに自分の足に引っかかってバランスを崩した。

 なんとかバランスを直そうとして膝を曲げた事で、あご先を狙っていた拳は思いっきり、頬へと吸い込まれていった。

 あご先をかすらせるだけだったはずの拳は頬への打撃に変わり、その勢いに比例して体重の軽い樹は殴られて飛ばされた。

 屋上の床を転がり、視点が二転三転して、何とか歯を食いしばって立ち上がり、相対する。

 殴り飛ばされた事で距離が開き、言葉を交わす余裕が生まれた。

 殴られた頬がひどく痛む。視界は揺れ、瞬きのような光がちらつく。口の中では気持ちの悪い錆の味がして、口の中が切れたのがわかる。

 思いつく限りの疑問を投げかける。

「一体、何をするんですか! あなたは一体なんですか! それって勇者の力ですよね? どうして人間同士で戦わなきゃいけないんですか⁉︎」

「あちゃー、こんなに運動神経が悪いなんて、びっくりだよ……。これで敵と戦えるなんて、最新の勇者システムは持ち主の運動神経も補ってくれるんだ。便利なもんだねー、テクノロジーの進歩ってやつ?」

 友奈に答える気はないようで、独り言のような賞賛の言葉を口に出していた。

 そんな態度に樹はこの場で言葉が持てる価値の希薄さを理解し、戦う事でしか自分を守れない事を受け入れ、己を守るため、戦う覚悟を決める。

 ポケットからスマホを取り出し、若干震える指に言うこと聞かせ、勇者への変身アプリを開く。

 樹が何をしようとしているのかを察した友奈は鼻で笑った。

「ふふっ、樹ちゃん? 君もここの外でなら勇者なのかもしれないけど、ここじゃあ許可がないと勇者に変身することは許されていないんだ。大人しく捕まってくれた方が痛いのは少なくて済むよ?」

 友奈が言うには、どういった事情かは不明であるが、ここでは勇者への変身を制限されているらしい。勇者の変身アプリを構えた樹を見ても、その余裕そうな態度に一切、揺らぎは現れず、作業を済ませる様な気楽な歩調で一歩づつ近づいてくる。

 明らかに詰んだ状況、しかし樹の心から、その闘志は少しも揺らいではいなかった。

 いつか姉の言った言葉を思い出す。

「勇気を持って、戦う意思を示せば神樹様は答えてくれる! ——変身っ!」

 構え、意思を示す。

 信じるは目の前の敵ではなく、今も背中を追い続けている偉大な姉。どちらの言葉を信じるなんて、迷う余地など最初からなかった。

 そしてここで初めて、友奈は驚愕によって余裕そうな表情を崩した。

 樹の手に持ったスマホは光を放ち、樹に戦うための力、勇者の力を授け、その姿が変わった。

 全体的に植物をあしらい、賢者を思わせるやるやかに膨らんだスカートと肩出しの衣装。武装であるワイヤーの射出機構のついたブレスレットが手首に巻かれ、変身を終える。

 樹の変身を見届け、一歩後ろに下がった友奈が初めてここで構える。樹を自分にとって脅威になり得る存在であると認めた証だった。

 眉をひそめ、射殺す様な視線で樹を睨みつけ、

「……何で守護者でもない君がここで勇者に変身できたのか、分からないなー……。本当に、迷い込んだってだけじゃなさそうだね……」

「もうあなたにやられているだけの私じゃありません! あなたを倒して、ここが何処なのか、どうしてみんながいないのか、ワニー先輩が私を忘れてしまったのか、全部洗いざらい吐いて貰います!」

 勇者に変身できたことで、ひとまず冷静になった樹は、己が不思議に思うことを羅列して言葉に変え、目の前にいる赤嶺友奈から聞き出すことを目標に定めた。

 だから樹は目の前の友奈を殺すわけにもいかないし、殺したくもない。ワイヤーを発射し、捉える様に、四方向から同時に友奈を捉えようと伸ばす。

 しゃがみ、手甲を振り上げ、足のバネを使って蹴り上げ、掴む。

 たったそれだけの動作で樹の放ったワイヤーは、いともあったり無効化された。

 ワイヤーのうち、一本を掴んで見せ、友奈が不敵に笑い、

「ふーん、勇者に変身出来たのは驚いたけど、実力は大したことないんだねー。——そらっ!」

 言って、掴んだワイヤーを手元に力強く引き寄せる。繋がったままのワイヤーは当然、樹を引っ張り、体重の軽い樹は体が浮いて抵抗する間も無く友奈の目の前にいた。

 腰を落とし、左肘を突き出し、右手は握りこんだ姿勢で構え、目の前にやってきた樹に合わせて引き絞った各部を解き放つ。

 見に染み込んだ武術の構えと動作は寸分の無駄のない連動を起こし、人の放てる最高威力の拳を振るう。

 樹の眼前に迫った瞬殺の一撃、しかしその拳が届くことはなかった。

「——っ! 木霊⁉︎」

 激突の瞬間、現れたのは樹の精霊である木霊。植物のマスコットの様な見た目の精霊はバリアを展開し、主人を殺意から守った。

 張られたバリアにこそ驚いたものの、友奈がやることは変わりない。バリアが攻撃を防ぐのなら、バリアごと殴ってダメージを与える、もしくは貫いてから改めて打撃を届かせればいい。

 バリアにめり込んだ拳をそのまま、力一杯に殴り抜いた。

 バリアは直接的な攻撃は防げても、衝撃波は防ぎきれなかった。樹は精霊のバリアを張ったままの木霊ごと殴り飛ばされた。

 衝撃に驚きこそすれ、ダメージはないため直ぐに構える。しかし視界の何処にも友奈がいない。

「——こっちだよっ!」

 声が聞こえると同時に衝撃が左から来た。不意の攻撃も精霊が防いでくれる。

 振り向けばバリアによって蹴りを止められている最中の友奈がいた。

 これ以上は無駄だと判断して後ろに下がり、友奈は軽く舌打ちして頭をかく。

「意識外からの攻撃もダメかー……。この子、あなたが認識しているのかとかは関係なく、あなたへの攻撃全般を防いでくれるらしいね。いやー最新式の勇者は装備の進歩が凄いね」

「こ、木霊は装備なんかじゃありません! 私の大切な精霊です」

 樹の反論に、少しだけキョトンとして惚けて、それから友奈は何かが面白かったのか腹を抱えて笑いだす。

「ハハハ! そっかそっか、精霊が友達かー。アハハっ! ……あの人が聞いたらマジギレしそうな事、よく言えるねー!」

 最後のほう、どこかその言い方に感心しながらもバカにしたような言い方が含まれていた。そして友奈は続けて、

「……まぁ、もうちょっと遊びたかったけど、あんまり遊んでいると怒られそうだし、もう終わらせるか」

 楽しげな雰囲気は霧散し、元の射殺す目つきに戻った。

 構える。

 先ほどまでの一切の動作は油断こそしていなかったが本気ではなかった。子供と戯れるのに膂力を余すことなく使う大人がいない様に、友奈も楽ができるなら、そうしようという考えが何処かあった。

 しかし今、そんな慢心や手抜きは一切捨てた。

 構えて、意識をふるい落とし、敵を始末するためだけに心を、肉体を、精神を最適化する。

 そしてより確実に終わらせるため、本来であれば格上相手にしか用いない『それ』を使った。

「奏上いたします。この武、この戦は(かみ)におわします、(いくさ)が神のため」

 祝詞が紡がれ、場の空気が張り替えられたのを樹は感じ取った。それだけの影響力があの言葉にはあった。

 友奈の表情から遊びがなくなり、視線は樹だけを捉えていた。

「——いくよ」

 一歩、前に出た。なぎ払う様に蹴りを繰り出す。

 正面からの攻撃、見えていたから樹は腕を交差させ、さらに木霊がバリアを張りしっかりとこれを防いだ。

 防がれた友奈は後ろへ飛び、体制を直す。それは舞のようだった。

 一歩前に出た。なぎ払う様に蹴りを繰り出す。正拳突きを突き出し、二連撃を繰り出す。

 先ほどと同じように防いだ。問題なく、友奈は防御を抜けない。

 一歩前に出た。なぎ払う様に蹴りを繰り出す。正拳突きを突き出し、二連撃を繰り出す。肘による打ち落とし、さらに裏拳がバリアを揺らす。

 バリアがぐらつくが、問題ない。

 しかしおかしい、何かがおかしい。

 ——この人の攻撃はこんなにも遅かっただろうか。軽かっただろうか。

 ふとした違和感を樹が覚えた次の瞬間、友奈の攻撃がきて、その予感が何を意味するかが痛いほどに分かった。

 一歩前に友奈は出た。一歩による前進は次の瞬間に音の壁の突破という結果を生んだ。空間が歪んだとすら形容すべき速度をもって友奈は前進する。蹴りが、正拳突きが、肘が、裏拳が、掌底が、膝蹴りが、アッパーカットが、かかと落としが、抜き手が、回し蹴りが、掌底が、踏み蹴りが、手刀が、あびせ蹴りが、いくつもの打撃、蹴り技が繰り出されていく。

 連続した技は技と技の間に時間を挟まず、むしろ一つの技を繰り出す間に次の技が始まる。

 樹が木霊にバリアを張ってもらっていたことで観察する時間が与えらていた。そして自分の目に映った事実を疑うことになる。

 技を繰り出す友奈の姿がぶれ、攻撃が終わる前に次の友奈が次の技を繰り出す。複数人の友奈が同時に樹に攻撃する。

 何が起きているのか、それは肉眼では捉えることができない。

 友奈が行ったことは実に単純なことで、光よりも早く動くことで連続攻撃を行なっているだけだ。

 光よりも早く行動し、攻撃することで、樹の瞳に光による像が映る前に友奈が次の行動に入り、終わらせることで、樹の視界に複数人の友奈が発生することが結果として起こった。

 すでに秒あたりに繰り出される打撃の数は百を超え、千にたどり着こうとしている。

 異常なのは攻撃速度だけではない。

 仮に人間が光の速度で行動することが可能だとして、もしそんなことをすれば空気による摩擦により人体は一瞬で燃え尽きて灰になってしまうはずだ、動いた余波の衝撃波によって、学校の屋上どころか四国そのものが吹き飛びかねない。

 しかしそんな状況は一切起こらず、ただ友奈が光速以上で動くという結果だけが残っていた。これは彼女の状態が通常の物理法則に依存しない力によって成されていることは明らかだった。

 しかし、そんな物理法則さえ踏み潰して乗り越える化け物に対峙している樹にはそんな科学的考証など、それどころではなかった。

 動きを止めようとワイヤーを放とうが相手は光速で行動する超常、一切が間に合っていない。避けられ、時には弾かれ、攻撃が止まない。

 抵抗すること自体が意味をなさない。敵が倍速で動くなら、速度の差は相対的にもっと大きくなる、なら光速で動く友奈から見て樹の動くはどれほど遅いのか。もはや光の波の先を行く友奈にしか、その光景は見ることが出来ないのだろう。

 光速を超える打撃の連続、それは思わぬ副次効果を生んだ。

 本来、勇者への攻撃に反応する精霊。しかし目の前で起きている光速の連続攻撃という外部からの入力に精霊の反応速度が追いつかない。

 精霊のバリアとは永続的に出されているものではない。出力の維持のため、必要以上に力を使わないために、必要時にバリアを張る方式が採られていた。それはバーテックスとの戦闘では問題なく効果を発揮していた。

 少なくとも今まで光速で攻撃するバーテックスはいなかった。しかし目の前の赤嶺友奈は物理の壁を超え、その想定されていなかった事態を引き起こし、過剰な攻撃という入力を受けたことで木霊に備えられていた反応回路に負荷をかけ、そしてオーバーフロー起こさせた。

 木霊が大きく痙攣し、浮いていたその姿が力なく屋上の地面に横たわる。それを友奈は見逃さず、途絶えたバリアを乗り越え、光速の蹴りを木霊に叩き込んだ。

 蹴りが当たると同時に木霊の体は膨張し、破裂した。サッカーボールが弾けたような音が鳴って、木霊だった破片がひらひらと屋上に紙吹雪のように降った。

「こ、木霊、ガハっ!」

 身を呈して守ってくれた精霊に気を配る余裕も与えられず、バリアという優位性を失った樹へ友奈は詰め寄り、その細首に手をかけて持ち上げた。

 万力のような力が首にかかり、樹は息ができなくなる。

 樹を持ち上げる友奈も万全という様子ではない。息をする度に肩を動かし、疲労の色を隠せない。

 まだ樹を締め落とすまでは握力が戻っていないのか、真綿で首を絞めるような力加減で樹の首を締めて持ち上げ続ける。

 全く、と一息吐きながら、呆れたように友奈が呟く、

「ほんと、その精霊のバリア固すぎ。奥の手まで使わされて、結局破れなかったし。いくら計画の一端だから守るって言ったってこれ過剰でしょ」

「奥の手? 計画? 一体何のことを言っているんですか?」

 締められた首からなんとか掠れた声を出し、樹は友奈が漏らした呟きへの疑問を投げかけた。

 疲れていたがためだろうか、正常な判断力が鈍っていたのか友奈は言わなくといいことまで呟いてしまっていた。その挙句、樹に質問されるまで、自分が呟いた事に気がつかなかった。

 顔をしかめ、やってしまったと小さく呟き、一度ため息をついてから樹を見て、

「あー……、その樹ちゃん? 悪いんだけど色々聞かせてって言ったの、あれナシって事で君のこと、今から殺すから。いや、ほんと、これだけは本当に私から漏れたとか、そんな風になったら上に私が殺されちゃうから。——じゃ、死んで」

 一切の抵抗を許さないのだろう。一度、樹の首を絞めている左手を力み、一瞬血の巡りが止まって意識が落ちかける。

 それで十分だった、友奈は空いた手を伸ばし、手刀を作り、まっすぐ、ただまっすぐ心臓に向け腕を伸ばす。

 これで十分。経験則で分かっていることだ。人間の胸板などこれで簡単に貫通できるし、そのまま心臓を貫くなり握りつぶすなりするのはもっと簡単だ。

 だからこれで終わり。どうやってここにやって来たのか。どうして許可が出されていないのに勇者に変身することが許されているのか。聞かなければならない事はいくつかあったが、楽園の事、計画の事を知られるのはそれどころではない。

『これは僕らが行う叛逆だ。誰にも知られるな、誰も信じるな、大命の成就までは全てがその礎だと知れ』

 あの人の言葉を思い出す。あの冷たい目、心などとうの昔に無くなったような冷たくて平坦な言葉を紡ぐ唇、そして自分が用いる強力な、物理法則を超越する神々の力の再現、『類感呪術』を生み出した知識。その全てがただ一つの大命のために存分に振るわれ、何を犠牲にしようとも進もうとしている。

 自分にだって目的がある。だからあの人の命令に逆らおうとは思わない。

 嫌な相互関係だと思う。でもあの人のやろうとしている事は正しい事で、痛ましい事だと常々思う。

 ——まぁ、何を言っても無駄なんだろうね。あの人は何があっても止まるとは思えないし。樹ちゃん、君も哀れな犠牲の一人になったら、またすぐに会おうね。

 先のことを考え、こんな出会い方で再開したらのなら、自分はどういう風に話しかけようかと思い、少しだけ友奈は樹に笑いかけて、心臓を貫こうと手刀を伸ばした。

 風を切る音を鳴らしながら腕が伸びて、

「断ち切りなさい、大葉刈」

 赤い斬撃が先へと進ませなかった。

 斬撃が届く寸前、友奈の反応の方が早かった。風を切るもう一つの音を察知すると樹を投げ捨て、自身は武装でもある打撃手甲を盾のように構え、斬撃をいなす。

 分かっていた。まっすぐ来ていたはずの飛ぶ斬撃はいきなり方向を変え、友奈めがけて破壊を撒き散らした。

「——テヤっ!」

 勇ましく声を張り、手甲を盾に、シールドバッシュの要領で斬撃をいなす。

 ——冗談じゃない、体にかすっただけで即、致命傷に変化する通常攻撃など誰がまともに相手するかよ。

 心の中でこれをやった犯人に向かって毒づく。これが誰によるものかなど明白であり、口にしないのは余計な争いを生まないため。この知り合いと本気で相対するなど避けたいことだった。

 奴はやる。もし敵対したら、相手が知り合いだろうが何だろうが躊躇わない。

 構える。斬撃の飛んできた方向など当てにならない。あれは距離や障害の影響を受けない斬撃だ。その上、一度でも当たれば即死亡。全くもってふざけている。

 それがどうしてこちらを攻撃してきたのか、友奈には全く心当たりがなかった。もしやと思って視線を隅にやる。

 投げ飛ばされ、転がる樹は苦しげに咳をして、なんとか息を整えていた。

 何起きたのか、状況が目紛しく移っていくせいで状況を理解するのにも一苦労だった。

 だが少なくとも今わかるのは、樹を殺そうとする友奈とは違い、樹を殺そうとせず、友奈と敵対する誰かがいる事。自分が助かっていることが何よりの証であると樹は思う。

 そして樹の正面側、友奈との間に立つように空間が歪み、その歪んだ空間の先からその少女が現れた。

「……お楽しみのところ悪いけど。この子を傷つける事はダメよ赤嶺さん。月並みだけど、私を倒してからにしてもらうわよ」

「ふーん。だからって不意打ちで致命傷斬撃飛ばしてくるなんて、ずいぶんご挨拶じゃないかな?」

「あなたならきっと、どうにか出来るというという先輩からの叱咤よ。高嶋さんと同じ友奈だもの。それくらいやってもらわないと、あなたがここの守護者に選ばれた意味が無いわ」

「うわー……。相変わらず、その親友に対する信頼と愛情が重くて怖いよ、グラビティ先輩」

 現れた少女の顔は樹からは見えない。背中から見えるのはまっすぐに伸びた美しい艶やかな黒髪。黒い勇者装束は目の前に立つ友奈とよく似通ってはいるが全体を見れば確かに別物だ。そして可憐な後ろ姿に似つかわしくない大振りの鎌が右手に握られていた。

 見上げることしかできない。現れた新たなる人物。果たして樹にとって救いとなるのか、新たな脅威になるのか。

「あ、あなたは一体……?」

 今まで意識の淵にやって忘れていたのか、樹がいることを思い出したかのようには振り向いた黒い衣装の少女。耳に残る大きな切り傷が印象的な美しい少女だった。彼女は樹を見ると微笑み、

「初めましてね、……えっと犬吠埼さんだったかしら? 私は勇者……、いえ、元勇者で、今はこの楽園の守護者を任されている、郡千景というの。これから、短い間になるだろうけど、よろしくお願いするわ。先輩だと思って頼ってくれていいわ」

 優しい笑みを浮かべる少女だった。

 どこかワニー先輩に似ていると樹は思った。

 




千景ちゃん本編でもいい役貰えて、後世ではゴールドタワーの名前になるなんて本当、制作側に愛されている子ですよねー


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楽園のシンフォニー Part3

 現れた黒髪の少女、千景は手に持った鎌の刃を友奈に見せることで牽制とした。

「いいかしら、赤嶺さん。この子の身柄は私が預かるわ。良いわよね?」

 確認の言葉であったが、それはどう聞いても質問をしている言い方ではなく、ほぼ強制という様子だった。

 問われた友奈は構えを解いてから深く息を吐き、

「はぁー……、断ったら本気でこっちのこと、潰しにくるんでしょう?」

「当然でしょ? どうしてそうならないと思うの?」

「あー、やだやだ。これだから話が通じない人って嫌いなんだよ。自分ルールで生きてる人ってほんと厄介」

「あら、私はあなたのこと、結構好きよ?」

 千景の言葉に友奈は降参だと両手を挙げ、半目になって、

「……私の友奈要素以外で?」

「そこ以外は特にないわね」

 千景はしれっと、特にこともなさげにそう言った。呆れた友奈の視線が千景を貫くが、当の千景はどこ風吹くという様子だった。

「あー、もうやだこの人。世界の価値基準が高嶋先輩か、その他になってるよ」

 面倒な先輩にからまれた友奈は、もう嫌だと言わんばかりに身振り手振りで嫌そうな様子を見せ、あっさりと変身を解除した。

「じゃあ、私帰るんで、後のこととその子のこと、お願いしますよ、先輩。……またね樹ちゃん。多分また会うけど今度は仲良くできると、……いいね?」

 最後は少し疑問系であった。

 そう言って友奈は屋上の端から飛び降りて、姿が見えなくなった。

「……って、え⁉︎」

 あまりにも友奈が自然に飛び降り、千景がそれに何も言わなかったから樹の反応が遅れた。様子を見ようとして駆け寄ろうとした樹を千景が制止する。

「あぁ、大丈夫よ。彼女、変身しなくても、元から学校の屋上くらいの高さなら無傷で着地できる人だから」

「人……?」

 普通、人間は10メートル以上の高さから飛び降りて平気で済むのだろうか?自分は至極真っ当な疑問をしていると思うが、あまりにも千景の反応が平素のそれだと、自分が間違っているような気がした。

 涼しげな表情の千景は樹を見て、あら、と樹の頬へ視線を固定した。

 見れば友奈に殴られた箇所が大きく腫れ、痛々しく赤らんでいた。

「……仕方がないわね」

 そう言って千景は手に持った大型の鎌を構え、なんの躊躇もなく樹に振り下ろした。

「え、はい⁉︎ って、あれ? どこも痛くない?」

 振り下ろされた鎌は確かに体を通過して体を割いたはずだった。しかし体に痛みはなく、傷もない。

 そう、先ほどまであった打撲痕、内出血、擦過痕、腫れ、その他の傷と言えるもの、一切が消失していた。

 驚いて己の体をペタペタと触る樹に千景は申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい、樹ちゃん。私、キズをなかったことにできるけど、元からない胸は治しようがないの」

「今まさにキズを作りましたよ⁉︎」

 優しいのかそうでないのか、全くわからない人だった。

 樹の反応を見て、自分が面白いことを言えなかった事を察し、千景は今度は本当に申し訳なさそうに頬に手を当て、

「……ごめんなさい、場を和ませようと頑張ってみたのだけれど、ダメだったみたいね。

 私、幼少期に母が不倫かましてから崩壊した家庭のせいで村単位でイジメに遭っていて、友達なんて人生のラスト二年で出来て青春する前に、そのまま死んだものだから面白い冗談とかどう言えばいいのか分からないのよね。次までに面白いこと考えておくわ」

「——」

 あまりにも悲惨な過去をあっさりと言うものだから、樹はあんぐりと口を開けたまま言葉を失った。

「口を開けているのに閉口。へー、こういうことかい。……イケるわね」

 ——何をもってイケると思ったのか、どこが面白いのかを懇切丁寧に説明してほしい。というか、今——

「死んだって言いました?」

 確認するように樹は恐る恐る問うた。

「えぇ、西暦2019年の6月が私の命日よ。仲間を背中から刺そうとして、逆に死んだわ。アッハッハ、なかなかマヌケな死に様ね」

 特に重要でもないのか千景はあっさりと認め、乾いた笑いが屋上に響いた。ついでに死因も判明した。知りたくもない事も含め、情報が多すぎる。

「……あー、ここは死後の世界かー」

 もう、頭が痛くなった樹は気が遠くなって、そのまま後ろに倒れこんだ。思考放棄することで己の脳とか心とかを守る。考えて頭を悩ませること自体が間違いなのだと精一杯、自分を慰める。

 様々な疲労に負けた心と体は精魂尽きはて、力が抜けた事で動かなくなった。

「あら、病弱キャラ? 実は伊予島さんていう先発がいるからキャラ被りってやつね。……そういえば私、あの子が病弱なところ見た覚えがないのだけれど。これってキャラの雑な消費ね。後からキャラ被りを気にしなければならないから、あまり良くないのよ」

 はっちゃけた郡千景は絶好調だった。

 

 ●

 

 気がつくと、樹は暖かく、柔らかい布団に包まれていた。

 むくりと上半身を起こし、周囲を見る。保健室独特の仕切りが目に入り、ここが学校の保健室だということが分かる。

「ええそうね、やはりここは意味もなくナースのコスプレでもして視覚的にあなたを楽しませる場面よね? 小説かゲームで読んだわ。でもあなた、起きるのがちょっと早いわ、まだ上しか着替えていないのに、もったいない」

 制服のスカートの上に上半身だけナースの制服という奇妙な出で立ちの千景が真剣な様子で言った。手にはこれから着ろうとしたのか、ナース服のスカートが広げられていた。

 さっき見えてはいたが、あまりにもバカバカしいものだから、意識的に視界から排除していたのに、どうしてこの人は空気を読んで存在感を消してくれないのだろう。

 この人が現れてから緊張した空気が何処へやら消え去り、気の抜けた空気で満ちてしまっていた。

 こんな状況を起こす様な珍妙な人間性を内包しているくせに、見てくれだけは一級品なのが余計に樹の眉をひそませる。

 じっと見ると余計に思う。一級品の見た目だからこそ、耳に目立つ傷跡はよりはっきりと存在感を放っていた。

「何をそんなにボーッとしているのかしら。もしかしてこの傷? あぁ、いいのよ。ちょっと昔、イジメでやられた傷よ。なかなかアバンギャルドでしょ?」

 過去のイジメの跡ですら、なんでもないように軽く言う千景に樹は眉をひそめる。

「その……、辛くはないんですか?」

 何がとは言わない。痛々しく耳に残った傷は、どう見ても一生涯残るもの。普通は隠したがるものだろうに、それを堂々と見せる千景の内心が樹には分からなかった。

 返ってきたのは微笑だった。

「あら、樹ちゃんは悲しい出来事は蓋をして、出来るだけ思い出さないようにして生きていくタイプ?」

「少なくともイジメにあった過去は大っぴらにはしないかな……、と」

「まぁ、普通はそうよね……」

 一息ついて、千景はベッド横のパイプ椅子に腰を下ろして続ける。

「あなたもいずれ分かるわ。過ぎていった過去はどこまでいっても過去でしかなくて、たまに追いついてはくるけれど、それでもどうしたって否定できるものではないし、結局はそれも今の私を作った血肉の一つでしかないのよ」

「それって……」

「受け入れる事もまた力であり成長。案外、嫌な思い出があるのも悪いことじゃないって思うようになるわ。時間だけはあったから、考えるには事欠かなかったわけだし。

 まぁ、私の身の上話なんていいのよ。立場上、色々と私はあなたに聞かないといけないのだけれど、あなたがどうしてここにやってきたのかはなんとなく察しているから、実は聞く意味がないのよね。逆にあなたから質問はある?」

「ずっと聞きたかったんですけど、結局ここはどこなんですか? 讃州中学みたいだけれど、私が知っている人は誰もいなくて、唯一見つけたワニー先輩は私の事を知らないって……」

 状況がわからず、更に自分を知っているはずのワニーの態度を思い出して樹は肩を落とす。

 そんな樹の様子を見て、千景は肩をすくめて笑った。

「まぁ、ここがなんなのか分からないと混乱するわよね。いいわ、樹ちゃん、ちょっと歩きましょうか。教えても支障のない範囲で少し、この世界の真実を教えてあげるわ」

 

 ●

 

 学校を出た二人は道をただ歩いていた。しばらくすると人通りの多い方へたどり着く。

 街の中、道脇のベンチに二人して座る。

「ねぇ、樹ちゃん? あれを見て頂戴」

 そう言って千景は手で正面見るよう促した。

 目に入るのは大通り。買い物をする主婦、学校帰りに遊ぶ女学生の集団、仕事の途中のサラリーマン、呼び込みを行う店員。

 言ってしまえば、当然の日常がそこにあり、特別気になるものはない。

 どれを見ろと言われたのか分からなかった。

 その様子を見て千景は納得がいったように呟く。

「やはり正規の受け入れと同じように扱われているのよね。でもここがどこか分かってはいない。いわゆる裏口入学に当たるのかしら?」

 状況を何となく理解し始めた千景はひとまず納得すると、何もない空中から大型の鎌を取り出した。

「——っ! 街中で一体何を——。……あれ?」

 千景が鎌を取り出したことで驚いた樹だったが、周囲の様子の変化のなさに気がつく。

 普通、街中で鎌を持った人が現れたら、それなりに騒ぎになるはずだ。しかし街を歩く誰も千景には目をくれず、各々の日常を進める。

 深く息を吐き、祝詞を奏上する。

「言葉とは力である。これは葉を刈る刃であれば、それは意味を成さぬ」

 手にした刃を力強く振るった。刃は風を鳴らし、何かが揺れた。

 もう不要になったのか、千景は鎌を空中に消した。

 振り返って得意げな顔、俗に言うドヤ顔を千景は樹に見せた。

「なかなかかっこいいでしょ? 三日くらい悩んで考えたオリジナルよ。」

「ふざけないと死んでしまうんですか?」

 思わず真顔になっていた。

 まあまあ、と言って千景は手近な地面に手を伸ばし、

 ——思いっきりめくりあげた(・・・・・・)

「——」

 息を飲む。空間を掴み、めくりあげられるという、言葉にしても意味のわからない状況に樹は見ているしかできず、

「——よっと」

 少しかかとを浮かせ、千景は紙のようにめくりあげた空間の一端を指で突き刺し、めくったままに固定する。

 先ほどと同じように、樹に見るように促す。

 少し身を屈め、めくられて闇しか見えない空間を覗き込む。

「——っ!」

 そこにあったのは『ナニカ』だった。

 色とりどりの色彩の光が集まって形を作り、道を、建物を、人を、ここにある何もかもを形作っていた。

「……これは一体?」

「まぁ、何というか、テクスチャって言葉で、分かってもらえるかしら? ……そう分からないのね。別に責めたりしないわ、要は化けの皮を剥いだのよ」

「それって一体……」

 困惑した樹が言葉に困っていると二人に呼びかける声があった。

 そちらを振り向くと女生徒の集団の中から千景を呼ぶ声があった。

 そして樹は気づいた。テクスチャを剥がした視界越しでも、その女子生徒だけは他の全てのように光で形作られておらず、本来あるべき姿に見えていた。

 同じように屈み、覗き込んだ千景がその女生徒を指差し、

「あれは私と同じように招かれた子。名前は確か……弥勒ナントカさん。あなたをボコった赤嶺さんの友達らしいわ。あれとお友達やってたなんて、きっと高嶋さんに似た聖人のような人格なのでしょうね」

「けっこう散々に言いますね」

「いいのよ、結構気心知れた仲だし。それに人殺しなんて、どうやったってろくでなしに違いないんだから」

 自嘲するように千景は笑ってみせる。

「ひ、人殺しって……」

「ええ、あの子も私も、人を殺めたわ。それがこの楽園の守護者の雇用条件のようだし、そういう繋がりで私たち、互いに遠慮がないのよ」

 なくならない過ちを千景は出身校を告げるような軽さで告白した。

 絶句して何も言えなくなった樹に千景は肩をすくめ、

「平和な時代だとそういう反応になるわよね。私たちの時代は特に倫理観とか壊れた状況だったし。まぁ斬られた和礼さんが気に病むなっていうから、私は気にしないことにしてるけど」

「ともひろさんというのは?」

「和風の和に、お札の礼で和礼。変な読み方の名前だって彼女、いつも言ってたわ。何だかんだ仲も良かったし、……そう言えば彼女の遺言を聞いたのも私だったわね」

「そんなに仲が良かったのに、千景さんが手をかけたんですか?」

 楽しかった思い出を思い出すように、語る千景に樹は事実との齟齬を感じた。

 樹の質問に千景は少しだけ悲しそうな哀愁のある笑みを作って、

「仕方がないことだったのよ、彼女は神稚児で、殺せるのは神の力を持った勇者だけだったから。それに、他の人にこれを背負わせたくなかったから……」

「千景さん……」

 仕方がなかったという言葉に後悔する声があった。

 きっと自分からは測りきれない彼女たちの物語があってその結果、千景は友人を手にかけ、ここにいるのだろうと樹は想像するしかなかった。

 辛い過去を聞き出そうと思わないし、答えてくれるとも思わない。

 ただ一つ、聞きなれない単語があったから、話題を変える意味もあって聞いて見ることにした。

「神稚児というのは?」

「あぁ、そう。あなた達の時代では口伝ですら、規制されているのだったわね。ま、言ってしまえば生贄よ、生贄。そんな物に適性を持って生まれてくる人間が世の中にはいるのよ。」

「生贄って……」

 物騒な言葉を聞いて樹が身をすくめる。

 それを見て、千景は手を大きく否定の意味で振って、

「あー、そんな暗いものではないのよ。本人もバリバリの武闘派だったから、神稚児の性質もあって一人で日本まるごと守るくらいには元気な人だったのよ」

「それがどうして、最後は千景さんがその……、殺すことに?」

「それも神稚児の性質のせいね。最後の方は見ているこっちが辛いくらいだったわ……」

 あまり思い出したくないのか、千景は言葉をぼかして伝える。

 話してみて、少しだけ樹はこの少女、千景のことを理解し始めていた。

 強い人だと樹は思う。

 時折頭が痛くなるような冗談や漫才じみたことを平気するが、それは内側を隠すためのカーテンのようなもので、少しだけ見える本人は取り返しのつかない過去や痛みを受け入れ、仲の良かった友達を思いやる人だった。

 そんな樹の内心が視線で伝わったのか、千景は恥ずかしそうに頬をかいた。

「その和礼さんはここにはいないんですか?」

「えぇ、神稚児はこの楽園、ひいては『大命』の完成には邪魔でしょうからね。やっぱり招かれてはいないわ。他の何人かの勇者や巫女も拒否して来ていないようだし」

「ここは一体何なのですか? 千景さんの言っていることをまとめると、まるで死んだ人ばかりがここに集められているみたいで——」

 話す樹を、千景が手を出して制止する。

 首を振り、それ以上の発言をやめさせる。

「樹ちゃん。あなたが勝手に想像することはあなたの自由だけれど、私からはなにも言えないわ。言ってはいけないの」

 またもや何もない空中から鎌を抜き出し、千景は鎌を大きく振るう。

 周囲の景色が歪み、エレベーターに乗った時のような体のゆらぎがあって。元に戻ると二人は橋の上にいた。

 樹はこの橋に見覚えがあった。

 瀬戸大橋だ。今では大事故で損傷し、使えなくなった大橋は、ここでは確かに健在だった。二人は瀬戸大橋の端、柵を乗り越えれば海に落ちるようなぎりぎりの場所にいた。

「橋というのはね、天と地を結ぶ場所。霊的に場所としてはとても曖昧なのよ。ここから飛び降りれば正規の方法で入っていない、あの子との繋がりの浅いあなたなら、元いた場所に多分戻れるわ。……その、死ぬほど痛かったらごめんなさい。」

「その、助けてくれて、ありがとうございます」

「礼なんていいのよ。出て行ってもらった方が私も楽ができるし、お互いに困らないから、これでいいのよ」

 樹が柵の上に立つのを手伝い。千景は近くの手すりに体重を預け、成り行きを見守り姿勢に入った。

 最後に振り返って、樹はここまで聞けずにいた質問を、無駄かもしれないと思いつつも、聞かずにはいられなかった。

「千景さん、ダメだったら答えてもらわなくてもいいです……。ただどうしても知りたいんです。どうして、死んだ人ばかりのこの世界に、生きているはずのワニー先輩が、鷲尾和仁先輩がいたんですか」

 この世界で出会った和仁は樹を知らないと言い、この世界は死人と世界を形作るナニカが暮らしている世界なのだと予想した。そうすると今も生きているワニー先輩がいるのはおかしい。

 疑問はそこに帰結する。

 沈黙がしばしあって、

 その質問に千景は何かを察してため息をつき、目を細くして、

「はぁ、そう。彼と知り合いなの。ここに迷い込んだのもそういう……」

 呼吸で区切ってから続け、

「樹ちゃん、悪いことは言わないわ。彼とはこれ以上関わるのを辞めなさい。これは親切心からの忠告よ」

「ど、どうして、そんなことを言うんですか!」

 千景の一方的な物言いに樹は食らいつく。それに対して千景は少し語気を荒くし、言い聞かせるように言う。

「このまま彼といるとあなた、不幸になるわよ」

「和仁先輩はそんな人じゃありません!」

 違うと言葉を並べる。それを見ても千景の態度は一貫している。淡々と続ける。

「でもあなた、彼のことどれだけ知っているの? 何を知っているから、そんな風に断言できるのかしら。はっきり言うわ、私の方があなたよりも彼のことを知っていて、その上で私は忠告しているのよ」

 樹はたじろぐ。構わず千景は樹を見て、

「彼がどう言う人で、何をしていて、何を隠しているのか、少しでもあなたは知っていて?」

「……それは」

 何も答えられなかった。答える言葉を樹は持っていなかった。千景はそれを知っている。

 出発点から違うのだ、言い合いにすらならないのは明白だった。

 でも、言われているだけなのは嫌だと思う。

 知らないからいい負けてしまうのは受け入れ難くて、悔しくて。だから、

「私は何も知らないのかもしれません。でもそれは、今はまだ知らないだけです! これからいっぱい、お互いのことを知って、それで、それで私はその先へ。

 まだ自分がどうしたいかなんて分からないけど、でもいつか、自分のしたいことを見つけるんです! そうあの人と約束したんです!」

 涙を溜めながら、樹は精一杯の去勢を張った。

 樹の言葉を聞き、千景は何も言わずただ見つめる。そして諦めたように息を吐くと、背中を手すりに預けて思いっきり背中を伸ばして戻す。

 そして晴れた表情に戻り、

「……そうよね、そういうデリケートな場所は他人に触って欲しくなんかないわよね。ごめんなさい樹ちゃん。危うく知り合いみたいな感じになるところだったわ。千景、反省。……ちょっとおせっかいが過ぎたようだわ。ま、ひどいことにならないよう頑張りなさい。先達としては、これくらいしか、かけられる言葉がないけど、幸運を祈ってるわ」

 うなづき、千景の言葉に対し、海へ思い切りよく飛び込んだのが樹の答えだった。

 不安が立ち込める方向へ、勇気を持って一歩を踏み出した。

 落ちていく浮遊感を感じながら、水面が迫り来る。しかし目を閉じたりはしない。見えていないものも、必ず見つけようとする勇気がそうさせる。

 水に当たる瞬間、やってきたのは衝撃と痛みではなく、薄い膜を破って突き進むような感覚。来た時のような無重力の浮遊感と存在が薄れる感覚を感じながら、樹の意識は戻るべき場所へと進み、意識は白く染まっていった。

 

 ●

 

 樹が飛び降りた後を千景は確認していた。

 しばらく待っても水死体は上がってこないことを確認し、一安心してホッと息をつく。

 ここは一方通行の世界。入ることはできても、本来は出ることはできない。もっとも、今まで出て行こうとするものもいなかったし、今回のような非正規の侵入も初めてのことだった。

「あーらら、ぐんぐんセンパイ、やっさしー。別に処分しても良かったんだよ。そもそもこんな風に入ってくる人なんて今までいなかったんだから、消しちゃった方が後腐れないだろうに」

 いつの間にか横にいた友奈が、同じように樹が消えた地点を見下ろしながら言った。

 友奈を半目で見て、千景はつまらなさそうな様子で言う。

「彼女も勇者なのよ、だったらいずれここに呼ばれる資格はあるわ。その時を決めていいのは私たちじゃないの。自然な成り行きで来る方が絶対にいいわ」

 ふーん、と興味なさそうにした友奈が首をかしげ、

「しっかし、原因が事故だと仮定して、神稚児様は何を考えてるんだろうね。『大命』だけを考えたら、今やってることって意味がないような?」

「さぁ? 神様に片足突っ込んでる人の考えなんて、それこそ神様にでもならないと分からないんじゃない?」

「それもそっかー」

 話しながらどうでもよくなったのか、雑談に話を切り替え、楽園の守護者二人は帰りへの道を並んで歩いて帰りはじめた。

 大命が始動するその日まで、服役者である二人は種であるこの世界を守護していた。

 

 ●

 

 水に沈んでいた体が浮上するような感覚を経て、樹は自分の体の重さを実感した。

 目を覚まし、起き上がる。

 起こした上半身からの司会で、自分が布団に寝かされているのが分かった。

 近くには持たされていた神楽鈴が置かれ、周囲を見渡してもワニーがいない。とりあえず起き上がり、体に異常がないか見ていると不意に扉がノックされた。

 返事を待たず扉が開かれるとそこには白い、神官服を着たままのワニーがいた。

「あっ! 樹ちゃん、目が覚めたんだね!」

 心底ホッとした様子で樹に駆け寄る。

「えっと、そのワニー先輩……」

「あ! 儀式のことだったら大丈夫。樹ちゃん、意識がなくても問題なかったからそのまま終わらせちゃったよ。いやーびっくり、終わってみたら樹ちゃん、意識がないものだから、とりあえず布団に寝かせて救急車を呼ぼうか迷ってたんだよ。でも起きて良かったー」

 本当に心配していたようで、目元には小さく涙が溜まっていた。

 ——あなたは彼のこと何も知らないのね。

 不意に千景の言った言葉を思い出す。

 どれほど彼のことを知っているのか、樹自身分からなかった。

 心配してくれていたこの様子も、もしかしたら演技なのかもしれない。疑いだせば何も信じられなくなる。まるで千景の言葉が真実であるかのようで。

 だから意思を固め、見るべき方向だけを見て、樹は決意する。

 未だ安心した反動か、喋りを止められないワニーの前に立つ。

「あれ、樹ちゃん、どうかしたの? やっぱり、どこか悪かった、だったら今すぐ——」

 言葉はそれ以上続かなかった。否、続けさせなかった。

 神官服の襟を掴み、力強く引き寄せ、唇で塞いだ。

 驚いたワニーは目を大きく見開き、ただ黙ってされるがままだった。

 唇を重ね、その時間がまるで永遠のように、二人だけの間で続いて、

「——ぷはっ!」

 息が苦しくなってやっと離れた。

「い、樹ちゃん、い、いったい何を——」

 驚いて顔を赤くするワニーを見る。息苦しさか、それとも恥ずかしさからか真っ赤になったまま、宣誓するかのように樹は真っ直ぐにワニーだけを見て言った。

「わたし、先輩のことちっとも知りません。好きなものも、嫌いなものも、本当に何も。でも、誰にも、わたしの気持ちの邪魔なんかさせません。もう何も知らないなんて言わせません。

 あなたの何もかもをわたしは知って、その上であなたを好きだと言います。わたしはもう、あなたしか見てませんから。だから、覚悟してください、和仁先輩」

 暴力的ともとれる宣誓を合図に、物語は始まった。

 もう他事などには惑わされない。ただ真っ直ぐにあなただけを見るという誓いの言葉で樹は自分の思いを見せつける。

 物語はここに堂々と幕をあけた。

 結末を知る者など、どこにも存在しない。だってこれは彼女が自分の力で進み、見つける物語なのだから。

 これは犬吠埼樹のためだけの恋の物語だ。




というわけで、これにてプロローグは終了です。
これから本格的に樹ちゃんも恋の物語がスタート。
しばし更新は止まりますが、二週間後には帰ってくると思いますので、どうかよしなに。


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彼女のプロローグ/彼のフィナーレの始まり

予定は未定とも言いますが真なる自由を得たので再開です。
待っていた人がいたならお待たせして申し訳ないです。


 一体、どれほど罪を重ねたの

 どうしたら許されるのだろうか

 いくつ命を奪ったの

 何を殺せば終わるのだろうか

 あとどれだけ生きていればいいの

 どうしたら許してくれるのだろうか

 どうしたら終われるの?

 

 

 朝早い学校の屋上。七月も半ばに入り、日は朝だというのに高く登っていく。

 爽やかというよりも、体を動かせば汗がにじむような陽射しの中、今日も変わらずギターの音色は屋上に響いていた。

 屋上にいるのはワニーただ一人。たとえ観客がいなかろうとも奏者は構わず旋律を奏でる。今まではそうだった。聞いて欲しい相手は世界でたった一人。それ以外なんてどうでもよくて、失ったあとはもうどうでもよかったはずで。

 しかしそんな他人など気にしない奏者のあり方が、今は少し揺らいでいる。

 一つの曲が終わり次の曲に取り掛かる合間のたび、屋上へ繋がる扉を横目に見てしまう。否が応でも彼女の存在が脳裏に浮かんで意識してしまう。そうしていると自然と顔が熱を帯びるのを感覚として理解する。それがなんだか恥ずかしくて頭を強く振り、なんとか意識を他に逸らしてしまおうと頭の中から記憶を掘り出す。

 しかしそんなことをすれば、おのずと余計なことまで考えてしまうもの。

 思い出したのは数日前でもある先週末、森深くの神社。課せられたお役目の一つである神楽舞が終わると樹は気絶していた。急いで別室にまで運び、横にして様子を見ていた。そして起き上がったと思ったらいきなり唇を奪われ、告白のようなことを言われた。

 重なった唇、今まで見たこともない彼女の強い眼差しと言葉。言葉の意味はよく分からなかった。誰かに何かを言われ、それに反発したかのような言い回しではあったが、こちらを一点に見つめる彼女の視線が、それがどれほどの覚悟を含んだものなのかを伝えていた。

 宙ぶらりんの指を乾いた唇にあてる。そうするだけであの感触が今のことのように思い出されて、鼓動が強まっていく。

 正直なところ、もらった言葉は嬉しいと思った。だからこそ彼女のことを想って高鳴っていた鼓動は、心の奥から流れ出てきた冷水に熱を失う。

 弦にかけていた指を離し、力なくうなだれた。朱に染まっていた頰は青く、罪悪感から目を逸らそうとした瞳は重く、足元ばかりを見てしまう。

 胸に重くのしかかる隠された秘密が心を暗い水底へと引き込んでいく。

「違うんだよ樹ちゃん。俺は君に好きになってもらえる価値なんてないやつなんだ。君を騙しているやつなんかが、そんな人間が君にふさわしいものかよ……」

 溢れた冷たいものは懺悔の言葉へと変わっていく。

 四月から始まった、人類の未来がかかった儀式。その一端をワニーは受け持ち、そして樹を、そして彼女の姉や友達を、もっと大勢をも巻き込んでいる。

 全てを口止めされ、何か言えば自分はおろか、樹やその知り合いにまで迷惑がかかってしまうかもしれない。

 全てがうまくいけば彼女たちはまた平和な日常に帰れると聞かされた。だからどれだけ秘密を隠すことへの重さに崩れそうになってもやめることは許されない。彼女を止めることも、自分が辞めることもどちらも出来ないのだから。

 失くしてしまった妹。もうあんな思いはしたくないから。だから今日もワニーはいい先輩を演じる。ただ求められた役割を操り人形のように望まれるがままこなしていく。

 それが▪️▪️▪️の生き方なのだから。

 決めたことだから、揺らいでしまうような覚悟でも、もう失わないと決めたのだから。しかしその覚悟を止めるように声がする。

 ——だから、そんな使命だとか生まれた理由とか関係なくさ、和仁は幸せになればいいんだよ。

 脳裏を走る声と痛み。思いがけないそれに和仁は頭を抑える。

 時々、ああして誰かわからない声がする。宮司のお役目に着いた頃からだろうか。うっすらだった幻聴と痛みはこの頃、ますます酷くなってきた。

 聞き違いのようだった声は、今やはっきりとした少女の声だった

 でも知らない声だった。何度聞いてもその声は見知った人の誰とも一致しない。それなのにひどく懐かしくて、忘れてはいけないような気がして、胸の内側をかきむしっていく。

 しかしどれだけ考えても思い出せず、痛みばかりが胸中に残る。いつしかワニーはそれが誰なのか考えないようにしていた。心の中でそうしたほうがいいと、そうしろという声がどういう訳かあるから。

 全てが終わればそんなことを気にする必要もない。

『その後』などワニーにはないのだから。咲き誇る花のように咲いて散って、次に花開く花のための養分になればそれだけで生きるのには十分だから。のちに咲くなど見られなくてもいいのだから。

 立て付けの悪い屋上の扉が音を鳴らしながら開かれる。今日もあの子がやってきた合図だ。

 暗い表情を優しい笑顔で上塗りして、今日もワニー先輩になる。

 可愛い後輩は今日も楽しそうで、そんな様子が失われてしまった妹を思い出させる。そうすると欠けてしまったものが満たされていくようで、そう思うと自然を笑みが溢れる。

「おはよう、樹ちゃん。とてもいい朝だね」

 今日もワニー先輩は君に会う。

 それがたとえ舞台上の役者だとしても。

 

  ●

 

 屋上への扉を開くと、樹は一番にワニーを見つけた。扉の音が大きかったのかワニーはすでにこちらを見ながら微笑んで満面の笑みを作り挨拶をする。

「はい! 今日もとってもいい日だと思います!」

 声をかけられ返す樹の笑顔が眩しい。楽しそうな様子が声からも表情からも手に取るように伝わる。弾むような足取りで屋上に躍り出て、樹の背に隠れていたものが露わになる。

 黒いマット素材のケース。一目見てワニーにはそれがなんなのか分かった。

「樹ちゃん、それはもしかしてギター?」

 理解はできたものの、どうして樹がそんなものを持っているのか分からなかったワニーは目を見開いたまま問う。

「そうですよ、この間のアルバイトのお給料で買ったんです。えへへ、その、私もギターをやってみたいなって思って……」

 聞かれた樹は少し照れ臭そうに鼻をかきながら答える。答えながら樹はワニーの横に座り、ケースの中からギターを取り出す。ギターをワニーの姿勢を真似るように置くと、小柄なこともあって樹の方が付属品のようにも見え、ちょっとした不格好さが醸し出されていた。

 ギターの型番が同じ、ギターを持つ姿勢も同じ、樹が誰を真似ているのかは明白だった。少し照れてワニーは表情を崩して。

「そっか、樹ちゃんもギター、やってみたいって思ったんだ。仲間が増えて少し嬉しいかな。……それで? 今はどれくらい弾けるのかな?」

「それがちっとも。まだコードの読み方もよく分からなくて、教科書に載っている指使いもよく分からないんです。それだったら分かる人に教えてもらおうと、……だから教えてください!」

 本題に入るや否や、樹は力強くワニーに頼み込む。それまであった距離が突然なくなり、顔と顔とが近くなる。樹の話を聞くことに意識を割いていたワニーは樹の口元にへと視線が下がり、血色のいい唇を見つめて、挙動が止まる。すぐに樹もその視線が何を見て、何を思い出ささせるのかに思い当たる。重なり、伝わった人肌の温かさを思い出す。

 二人とも顔を赤くして視線を逸らしあい、横目に相手を見ようとして視線が重なって、またもや逸らす。

 長いようで短い沈黙があって、このままでもいいような気がしたが、流石にこのままではいけないとワニーが口を開く。

「……えっと、その、教えるのはいいけど、ちょっと近いかなって。あ、いや、その。別に嫌とかじゃないんだけど」

 言葉とともに半歩だけワニーは後ろに下がる。しかし空いた距離が間も置かずに樹によって詰められる。

「嫌じゃなかったら近くても良いですよね?」

 ストンと横に腰を下ろし肩どうし、膝どうしが体の揺れに合わせて小さく触れ合う。小さく伝わる温もりに小さく鼓動が踊るが、樹はそんなワニーの心境など関係なく指をギターにかけ、基本的なコードの指運を見せる。

 恥ずかしさはあるものの距離を置く理由も見つからず、観念したのかワニーはギターを構える樹の手に触れ、弦に触れようと無理に力の入った指を優しい力で伸ばして間違いを指摘する。

「ここは無理に指の腹で押さなくて良いから軽く指先で押さえて……」

 一つ一つ基本を確認していく。樹が間違っていれば、その度にそれを指摘して直そうと触るから、やさしく指と指が触れる。細くて小さい子どもっぽい樹の指と長く冷たい白魚のようなワニーの手が絡み、自分とは違う手の感触が息がかかるほどに近い相手を意識させる。

 そんな気の休まらない時間はあっという間に過ぎ去り、抑えるべき基本を一通り教え終わる。

 無意識に止めていた呼吸を戻し、一段落がつく。

「それじゃあ基本はこれくらいかな。後は具体的な曲を何度も練習して動きに自分が馴染んでいけばうまく弾けるようになるよ。練習あるのみってやつだね。何か弾いてみたい曲はある? 楽譜だったらいくらでも貸すよ」

「それじゃあ、あの、先輩が昔作ったあの曲、弾いても良いですか?」

 樹の言葉にワニーの動きが止まった。それに対して樹は止まらずに畳み掛ける。

「私あの曲が引きたいんです。ダメでしょうか、お願いします!」

 少しだけ困ったように眉を下げ、懇願し頭を深くさげる樹をワニーはジッと見る。放たれた言葉は拒絶だった。

「……あれは、あれだけはそんなに簡単に誰かに触って欲しくないんだ。俺にとってはそれだけ大事なものなんだ」

「私は和仁先輩のことを全然知りません。でももっと知りたくて、だから少しでも先輩のこと私に教えてください。絶対中途半端にあの曲を触ったりなんてしませんから!」

 樹は真っ直ぐワニーを見上げて乞い願う。そんな樹から顔を背けていたワニーは考え込み、過去と今を天秤にかけ少しだけ今が勝ったことにワニーは気づかないまま答える。

「……うん、分かった。それだけ言ってくれるなら樹ちゃんにあれ、渡してあげる。大切にしてね?」

「はい! ありがとうございます! 中途半端じゃないって見せますから、文化祭までには頑張って自分のものにします」

「文化祭? もう2ヶ月もないよ? 流石に出来るとは思えないけど……」

「勇者部五箇条『なせば大抵なんとかなる』です! やっとできた私のやりたいこと、先輩に私が真剣だってこと分からせてあげます」

「勇者部……五箇条? なんだかとても前向きな言葉だね。なんでかそういうの、すごく懐かしいや。……うん、分かった、樹ちゃんを信じるよ」

 心の底からそう思っているという様子で微笑みながらワニーはそう語る。

 ギターケースを開き、中から楽譜の束を取り出し、その中から目的の楽譜を引き出す。他の楽譜とは違い既製品の印刷されたものでなく、手で書かれた楽譜を見つけるとそれを樹に渡す。

 受け取った樹は楽譜を大事そうに胸に抱える。髪の重さだけではない、そこの書かれた旋律と込められた思いがつくる重さを確かに感じる。

 時間が経ち、家に帰った樹はさっそく楽譜を取り出し、以前から預かった預かったままであったカセットテープの歌をもう一度耳を通す。

 澄んだ旋律に混ざる悲しげな歌声。自分が今から目指すべき完成がそこにはあった。しかし樹が目指したいのはさらにその先、ワニーが今見ている場所に追いつくこと。

 壁にかけたカレンダーをめくり、2ヶ月後の文化祭の行われる日に大きく丸をつける。決戦の日まで2ヶ月。

「時間はそんなにない……。否! やるんだ、もう今までの私じゃないんだから!」

 犬吠埼樹の戦いは始まったばかりだ。

 

  ●

 

 暗い建物の奥。薄明かりに照らされた何本もの培養槽に挟まれた通路を人が歩いている。顔を隠すように被った羽衣のような布のせいで顔はおろか性別も分からない。時折培養槽が息をするようなくぐもった音を出して空気が水面へと登っていく。

 羽衣の人が進むと研究室のような部屋にたどり着く。中央には死人のように仮面をつけた少女が安置され、その周囲では仮面をつけた者たちが人間に取り付けるための機械部品を整備、もしくは新しいものを用意していた。古いものはどれも深く傷つき、どれだけ酷使されてきたのかが明白だった。

「黒百合の稼働状態は?」

 羽衣の人が問いかけると作業をしていた仮面の者たちが一斉に、まるで示し合わせたかのように振り返る。一番近くにいた仮面が代表して答えた。安置された少女を指差し。

「最悪と判断。これ以上の連続稼働は部品を取り替えていったとしてもいずれ本体、中核である『S』の致命的損傷を招く恐れがあると思われ、お役目の手法の変更、もしくは被験体の補給が必要」

 答える仮面の声は機械的でまるで音声ソフトがスピーカーから話しているような話し方、語調であった。しかしここにそれを指摘するものも気にかける者も存在しない。

 明らかに人道的に反した雰囲気を持つ「補給」という言葉。

「そう……、もうこれも限界ってことか。二年間も良く持ったと言うべきか」

 仮面の者の横を通り、羽衣の人は横たわる仮面の少女の頬をそっと触れる。あるべき人の温もりはそこになく、人の形をした何かがあった。

 小さく羽衣の人がため息をこぼす。

「そうだね、君にはずいぶんと無理をさせた。もう少しで休んでいいからね」

 語りかける口調は優しい。大切な友人に語りかけるような声だった。

 しかしそんな柔らかい雰囲気はすぐさま霧散し、凍りついた雰囲気に戻る。

「大赦に通達。現時点をもって黒百合一号機の実践稼働による敵殲滅作戦を終了。準備が整い次第、第二次黒百合計画、および勇者満開の儀に順次移行する」

 そういうと羽衣の人は部屋を去る。通路を歩きながらどこに隠れていたのか、彼と同じように神官服に仮面をつけた、背格好の同じ者たちが羽衣の人に追随する。

 暗い地の底から悪意と憎悪が動き出し始めていた。

 



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トロイメライの夢から覚める

 静かな週末の昼ごろ。いつもなら二度寝して余分に寝ているのが常であった樹だったが、今日はそうではなかった。ギターを練習しているからだ。恐れていたバーテックスの侵攻はその影の形もなく、穏やかな日常が続いている。

 樹にとっての日常の一つである勇者部の活動もこなしつつ、使える時間の全てを新しいこと、やってみたいことに注いでいた。

 楽譜を受け取ったあの日から出来るだけ、樹はギターを手に楽譜に対峙している。夜遅くや朝早くは近所迷惑になってしまうから、練習できるのは家にいて、日の出ている時間に限られていた。勇者部の活動は放課後はもちろんのこと、週末もあるから決して練習できる時間は豊富な方ではない。むしろ目指す目標を考えれば少ないと言ってもいい。

 それでも樹は勇者部の活動もサボることなく、できる限り黙々と練習していた。時間がないから、勇者部の活動が忙しいからなどと言い訳をしたくない。いつだって誇れる自分を見て欲しいからいつも通りだった自分からさらにその先に一歩を踏み出そうという自分でありたいから。

「♪〜」

 広がる世界は愛や希望に溢れていて、そんな世界であなたに会えて良かったのだという思いを詩にして音を紡いでいく。

 一度通しを終えて、一段落つく。

 膝に乗せていたギターを横に置き、手を組んで思いっきり伸びをする。凝り固まった肩や背骨が小気味いい音を鳴らす。

「よおし、この調子でもう一回……、ってお姉ちゃん?」

 気がつけば扉が半開きになり、隙間からこちらを覗く瞳があった。気がつけばそれは一人ではなく、樹を覗く勇者部四人みんなが樹を影から見ていたらしい。

「いいわよ樹、こっちは気にせずもう一回行きましょ?」

「もう! そんな風にみんなに見られてたら緊張しちゃうよ〜」

 サムズアップして続けてと言う風に恥ずかしがった樹が頬を膨らませて怒る。

 ゴメンゴメンと言いながらみんなが部屋に入ってくる。

 まず動いたのは興味深そうな友奈だった。

「すっごいよ樹ちゃん! ギターが弾けるの?」

「弾けるのはさっき見てたでしょ……」

 天然で惚けたことを言う友奈に夏凜が呆れて呟く。しかし二人とも同じように視線は置かれたギターに注目し、興味があるのが分かりやすかった。

「最近、音楽の教本を熱心に読んでいたのはこれのためだったのね。教養を深めるのは大和撫子としていい経験だわ」

「フフフ……、うちの妹もやるったらやるのよ。大したもんでしょー」

 三森と風に褒められ、なんだか照れくさくなる樹。顔が赤くなるのを自覚して近くにあったクッションを引き寄せ顔をうずくめる。

「樹ちゃん可愛いー」

「ムゥー……」

 可愛い後輩を抱き寄せ撫で回す友奈とされるがまま気難しい表情で小さくなる樹。味方はいないのかと一人もみくちゃにされながら樹は神樹に心の中で嘆く。得てして、可愛い後輩の扱いなどはそんなものである。

「それにしても樹がこんなに何かに一生懸命になって頑張るの、お姉ちゃん感激だわ」

 大げさに泣きながらも声は実にしみじみと少し寂しそうで、それでいて同じだけ嬉しそうな様子で風が呟く。

 そこにいまいち要領を得ない夏凜が眉をひそめて、

「別に樹がやりたいことがあったっていいじゃない」

「いやー、やっぱりこうして家族、妹が成長していくとしみじみと思っちゃうのよ。あぁ、可愛かった妹が手を離れていくんだなって。そう思うとやっぱりもっと今のうちに可愛がりたくなるのが上の兄弟の心ってやつなのよ」

「……ふーん、そんなもんなの」

「そんなもんなのよ」

 思うところがあったのか、それっきり夏凜は考え込むようなそぶりを見せて何も言わない。少しだけ察した風はそれ以上何も言わず、少しだけ気を使って樹にちょっかいをかけにいく。そうして夏凜に一人で考える時間が出来る。こうした気づかいが出来るのが風のいいところなのだと傍観していた美森は微笑んでいた。

 やってきた風が一緒になって樹を撫で回して褒めて遊んでいる。してやられるばっかりであった樹がついに感情を噴火させる。

「うがぁ! お姉ちゃんも友奈さんも邪魔ぁ! 練習に手がつかない!」

 友奈を払いのけ、風を踏み台して小さく樹は跳ぶ。空中で一回転、クッションに正座で着地。「10点」

「キレの良い動き。怒りが爆発ってカンジね」

 余裕のある美森がどこからか取り出した点数のついた棒でそれを評価して、思考の海から帰ってきた夏凜が動きを実況する。

 そんなマイペースな二人など気にも留めず、樹は置いてあったギターをひったくると弦をかき鳴らす。

「私の歌を聞けぇー!」

 半ばヤケクソになっているのが伝わるかき鳴らし。しかし流れる音は旋律を描く。突如始まった演奏に驚いた四人は静かに樹の奏でる歌に耳を傾けていた。

 ところどころ指が詰まったりして拙さを感じさせるものの、一生懸命弾こうとする気概は十分に伝わってくる演奏、聞いていた友奈などは圧倒され、思わず正座して神妙にしている。

 真剣さとは伝わるものであり、樹の作る音以外の音は舞台袖に隠れるようにして消えた。

 そして演奏が終わる。

「……えぇっと、その。どうでした?」

 演奏しながら冷静さを取り戻したのかヤケクソ気味な語気は消え、いつもの小動物的な性格が見える。

「すっごい! すごいよ樹ちゃん! まるでプロの人みたいだったよー」

 いち早く感想を述べたのは友奈だった。大きく手を叩き、喜びの感情を見せ、素直な彼女は思ったままの感想を述べる。

「ええそうね、やるじゃない樹」

「……すっご。あたしにはそんな風に演奏なんて出来ないわ。そうね、やるわね樹」

 風と夏凜もそれぞれ樹の演奏を褒める。特に驚いた様子を見せた夏凜は目を大きく開いて、感心したようにしきりにうなづく。

 初めて通して人に演奏を見せ、出来の良さを褒められた樹は照れ臭そうに頭をかいてエヘヘと表情を崩している。

 なんな中美森だけは複雑そうな、どこか納得がいかないような表情をしている。

 それに気がついた樹は少し不安そうに、

「東郷先輩? もしかしてどこか音程とかおかしかったですか?」

「……はっ! いえ、樹ちゃんの演奏は素晴らしかったわ。ただ……」

 声をかけられ、我に返った美森が申し訳なさそうにしている。そしてどこか言い難いのかそれ以上の言葉が出てこない。

「ただ……、どうしたんですか? もし改善できそうな場所があったら直したいです。教えてください!」

「本当に演奏は素晴らしかったわ。本当よ? 練習すればきっと完成に近づいていくのは間違いないの。ただ……、樹ちゃんの演奏を聞いていて、その歌を聴いていたらひどく懐かしい気持ちになったの……。おかしいわよね、今日初めて聴いた歌のはずなのに」

 そう言うと美森は不安そうに胸元に手を当て、もう片方の手で動かない不随の足を掴む。手は小さく震え、不安が見え隠れする。

 この場の誰もが知らない事だったが美森は2年前に交通事故に遭い、記憶と足の機能を失ったと医者に伝えられた。そして本人からすれば事故にあったことも、その間の記憶もなく、ある日突然に数年分の記憶と足の機能を失った状況に放り込まれたに等しいのだ。そしてこの場には初めて聞くはずなのに聞き覚えのある曲。それが記憶と足を失った事実を思い起こさせ、底の見えない海の底のような果てしない不安を呼び起こす。

「大丈夫だよ東郷さん。私が隣に居るから、ね?」

 不意に横から声がかかる。

 いつのまにか横に座っていた友奈が優しくそっと、美森の手をすくい上げて自分の手で包み込んだ。不安で冷えていた美森の手に友奈の暖かさが伝わっていく。

「友奈ちゃん……」

「うん!」

 親友の間柄に余計な言葉など不要。短い応答で言いたいことは十分に伝わっている。不安な時に手を取ってくれる人がいることが何よりも美森の支えであった。もし支えてくれる友奈がいなかったら今の自分はいなかったと美森は時々思うことがあるほど、彼女に感謝していた。

 何度か深呼吸を繰り返し、美森は平常さを取り戻して樹に向く。

「ごめんなさい樹ちゃん。もう大丈夫よ」

「なら良かったです。でも急にどうしたんですか?」

「それは……」

 少し言い淀んだ様子を見せ、一度友奈を見てうなずき。

「どうしてなのか分からないけど、その歌がとても懐かしいの。初めて聞くはずなのに、……なぜこんなにも胸がしめつけられるのかしら。私が忘れてしまったものなの?」

 失ってしまった記憶を想起させる不安。樹も、親友の友奈でさえ美森が記憶がないと言う話は初耳であった。驚きはしたものの四人は美森の身の上話、2年前の事故による下半身の不随と記憶を失ったことを聞く。

 聞き終わって誰も何も言えずにいた。あまりにも重たい美森の過去に風や夏凜は言葉を失い、特に友奈は親友のそんな大事な話を自分が知らなかったことに少なからず動揺していた。

 そんな中で樹は以前見た光景を思い出していた。とても優しい表情、自分には向けられたことにない大切なものを見るような視線を美森に送りつつも、決して近付こうとはしないワニーを思い出す。

 今美森に聴かせた歌はワニーが作ったもの。そして美森はそれに聞き覚えがあると言った。ならばワニーの優しい視線と美森の感じる懐かしさが全く無関係なものではないことなど、誰にでも分かることだった。

 記憶のない事実がもたらす不安は当人でない樹には到底計り知れるものではない。しかしそれが俯く美森を見ればそれがどれだけのものなのかは見て取れる。

 もしかしてそうなのかと思い、棚からカセットテープとその再生機を取り出して美森に差し出す。

 差し出された美森は意味がわからず樹を見る。

 樹は美森に頷いて、

「これを聴いて欲しいんです」

 それだけ言うと樹は美森の動きを待つ。少し呆然とした美森は流されるがままにカセットテープを受け取り、耳にイヤホンを挿して再生ボタンを押す。録音された和仁の声とギター旋律が流れる。

 美森は感じる。樹のまだ拙さ残るものとは違う、完全な演奏と歌声。先ほど感じたものよりもさらに深い懐古の念が湧いて治らない。しかし、いくら思い出そうとしても、この歌を歌っているのが誰なのか、自分とどう言う関係があったのかも何も思い出せない。

「鷲尾和仁先輩です。その曲を作ったのは」

「鷲尾、和仁……」

 樹はそれが誰によるものなのかを伝える。その名前を聞いてもやはり美森は何も思い出せない。記憶がないことにによる無力感を感じながら美森は小さくその名を反芻する。

「ちょっと待って、今鷲尾って言った?」

 ここで意外にも割り込んだのは姉の風だった。その表情にあるのは困惑だった。

「あの鷲尾? でもあいつ一年の終わりからほとんど学校にきてないわよ? 樹、あんた一体どこでアイツと知り合ったの?」

「︎どういうこと? 私はいつも屋上で……」

「どうもこうも、一昨年から鷲尾のヤツ病気か何かでほとんど学校に来てなくて、たまにしか来ないから出席もギリギリって感じのはず」

「そんなはず……。いつも屋上で会ってるよ。ほ、ほら! 写真だって……」

 震えた声で話す樹。ポケットからスマホを取り出し、以前撮ったワニーの写真を見せる。しかし差し出された写真を見て今度こそ、風は納得のいかない表情をする。

「……なんか違う? これやっぱり鷲尾じゃないわよ。髪もこんなに長くなかったし、顔も少し違うような……」

 写真をよく見るが風は更に首をかしげた。

 さらに何だろうと友奈が覗き込み大きく声をあげた。

「この人何だか東郷さんに似ているね。ほらここの目元とか」

 指差した写真に写った目を指差し、美森を交互に見る。何度か見比べて樹はハッとしてようやく似ていることに気がつく。むしろ今日までこれほど似ているのに気がつかなかったのか、ほとんど毎日会っていたはずなのに自分でも分からなかった。

 そして改めて写真を見て気づく。目元や笑みの浮かべかた、全体的な雰囲気が確かに美森と似たものがあった。

「何だか兄弟みたいだね」

「友奈ちゃん、私に兄弟はいないわ。それにもしも、隠し子がいたのなら家族会議ものよ」

「でも何にも関係がないって感じでもないわね。親戚とか?」

 夏凜がそういうと誰も何も言えなくなる。写真を見て、それが誰なのかという疑問が出る。

 今日まで鷲尾和仁だと思っていた人物が本当にそうなのか確かめる確証は誰も持っていなかった。ただ唯一樹だけは確認する手段を持っていた。

「分からないなら直接聞きます!」

 分からないのなら本人に直接聞けばいい。電話帳に登録したワニーの番号を呼び出し電話を掛ける。

 スピーカーの先からコール音が続き、何度か繰り返される。しかしそれが変わることなく、何度も、何度も繰り返される。

「どうして出てくれないの先輩……。っえ⁉︎」

 突如、電話のコール音をかき消すように鳴り始めた警告音に樹は驚いて声をあげてしまう。最近聞き馴染みのなかったそれを聞き、勇者たちは身構えた。樹海化警報の警告音、つまる敵であるバーテックスが襲来したことを意味している。

 ここの1ヶ月はなかった襲来がどうしてよりにもよって今なのかと思う樹だった。そして数秒も置かず世界は光に包まれ、光が収まる頃に樹たちは神樹によって樹海化された四国に飛ばされていた。

「ねえ、ちょっとアレ見なさい!」

 樹海に到着し、一番に敵に気がついた夏凜が遠くを指さす。その声は少し震えている。当然だ。今日までおおよそ敵は一度に一体から三体ほどやってきた。しかし今、目に見える敵は明らかにその倍。六体の敵がそこにいるのが分かる。

 これまで無かった敵の大規模な侵攻。今まで以上の厳しい戦いが待ち受けているのは明らかだった。

「早くこれを倒して和仁先輩に会わないと……」

 しかしそれ以上に樹の心を揺らいでいたのは謎に包まれてしまった和仁の存在であった。

 早く戦いを終わらせ、ワニーに会う。樹の頭の中にあったのはそれだけであった。

 勇者たちの意思とは関係なく、状況は変化しはじめていた。

 



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