謳う者 (百日紅 菫)
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愛を謳う

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 幼馴染のあいつの両親が亡くなったと聞いたのは、中学一年の秋だった。

 その年の12月から、あいつは学校に来なくなった。小学校の頃からいっつも同じクラスで、地味な奴だったのに、席が離れていても目に入っているのが普通で。あいつが学校にいないのを見たことなんて、一度も無かった。

 家も隣だったから、学校から出された手紙なんかを届けに、毎日あいつの家に行った。昔から仲が良くて、どっちの両親もアタシたちの事を自分の子供みたいに思ってくれていたと思う。

 莉嘉もあいつのことをお兄ちゃんって呼んで懐いてたっけ。

 だから、学校に行っても、あいつの家に行っても、町を歩いても、あいつの姿が無いという現実が信じられなかった。

 でも、中学二年の一学期末テスト。あいつのことを忘れるように勉強をしていたアタシの前に、あいつはいきなり現れた。

 誰もが憂鬱になる期末テスト当日。アタシが教室に入った時には、すでにあいつはいた。出席番号順に座るから、迷うことなく席に座ったのだろう。最後に見た時より、なんというか、存在感が薄くなっているように見えた。

 幸薄そう。

 誰かが笑いながら言っていた言葉が、とてもよく似合っていた。 

 触れれば壊れてしまいそうな彼に話しかけることもできず、三日間のテスト期間は過ぎ去った。

 それと同時に、またあいつは学校に来なくなった。まさか、学生のほとんどが嫌いなテストだけを受けに来たのだろうか。

 その後も、あいつは期末テストの期間になると、学校にその姿を現した。テストがある三日間だけは、家に戻っているようだった。

 そして、あいつがテストの期間だけ学校に来る理由が、ようやくわかった。

 中学を卒業した後、三年間アタシ達の担任だった先生が教えてくれた。

 「あいつには黙ってろって言われてたんだけどな、城ケ崎だけには教えておこうと思ってな。お前、すげぇ心配してたし」

 担任には、アタシが心配しているように見えていたらしい。

 担任と両親からの又聞きになるが、あいつは中学一年生の12月に義務教育だから学校には来なくてもいいと判断したらしい。そして、両親の遺産を少しでも残すために、地元である埼玉を離れ、茨城県で父親の妹夫婦がやっている農業や近所の喫茶店を手伝って、お小遣いという名のバイト代で暮らしていたらしい。元から住んでいたあの家のローンはすでにあいつの両親が払い終えており、水道光熱費なんかは、あいつの両親と仲が良かったアタシの両親が払っていたそうだ。

 そして、テスト期間の度に戻ってきていた理由は、進学の為。

 両親を失い、少ないとはいえ確かに申し出のあった親戚の扶養をすべて断ったあいつは、国からの助成金を貰えるらしいが、それでも将来を考えるなら高校は出たほうがいいと、担任が助言したらしい。その結果、出席日数や授業態度などがあまり関係ない、学力重視の私立高校を受験することに決めたあいつは、テスト結果という受験に唯一必要な成績を得るために、テスト期間だけこの埼玉に戻ってきたらしい。

 「んで、結果はオール満点。受験も無事主席合格で、返済不要の奨学金を貰って格安で東京の高校に進学を決めたよ。授業を受けずにあれだけの成績を出しちゃうもんだから、教員連中は立つ瀬がないよ」

 それを聞いたアタシは、教室で泣きながら写真を撮ったり、卒業アルバムにサインを書いている友人たちに見向きもせずに、あいつの家へ走った。

 教室の扉を叩きつけるように開き、卒業式直後で騒がしい廊下の人込みをかき分けて、三年間通った通学路を振り返ることなく全力で駆け抜ける。

 いつもは10分以上かける道のりを、5分足らずで完走し、自宅の前にたどり着く。運動部にこそ入っていなかったけど、体力にはそれなりに自信があるのだ。

 アタシとあいつの家の前に、アタシの両親とあいつが立っていた。

 「すみません。ただでさえご迷惑をお掛けしてたのに…」

 「いいんだよ。それより、本当にいいのかい?この家を売ってしまって」

 「……え?」

 息を切らしながら、三人の近くに寄ると、予想だにしない言葉が出てきた。

 売る?十数年を過ごして、あいつの両親との思い出が詰まったあの家を?

 「今の…どういうこと?」

 「美嘉…」

 「ねぇっ!どういうことなの!?」

 中学卒業に対する感慨深さも、全力疾走の疲れも、今まで一人で頑張っていたあいつへの言葉も。

 頭から全部吹き飛んで、アタシ達の思い出を壊そうとしている彼らに詰め寄る。

 「…この家を土地ごと売る。帰ってこない家に、価値は無いから」

 「価値って…でも、おじさんとおばさんと暮らしてた家なんだよ?」

 「父さんも母さんももういない。俺も出ていく。今まで維持費を払ってくれてた城ケ崎さんには悪いけど、売る契約ももう済んだ」

 「そんな…そんなことっ!」

 久しぶりに話したと思ったら、なんだそれは。

 いつから決めていたんだ。今まで何を考えていたんだ。何より、アタシ達の思い出は、そんなに簡単に売ってしまえるようなものだったのか。なにより、自分の両親と暮らしていた思い出の家を、なんで売ってしまえるのか。

 たくさんの思いと気持ちが溢れ出し、言葉にするよりも先に、体が動いた。

 乾いた音と、驚いた両親の顔。アタシを真っすぐに見据えていたあいつの顔は横を向いていて、アタシの右手があいつの頬を叩いたのが、後から分かった。

 フーッ、フーッ、と走った後の息切れとは違う、でもそれ以上の息苦しさがある。

 「お姉ちゃんっ!?」

 重苦しい雰囲気の中、三人を残して家に入ると、玄関にいた莉嘉がアタシを呼ぶ。いつもなら、どれだけ疲れていても返事をするけど、今日ばかりはそんな余裕はなかった。

 タンタンと階段を上り、引っ越しの荷造りを終えて段ボールの積み重なった自室に入る。

 実のところ、アタシも東京に引っ越すのだ。

 去年の暮に、モデルにスカウトされ、その仕事の都合と自分の学力を照らし合わせて、東京で一人暮らしをしながら、仕事と学校を両立することに決めた。

 だから、あいつが東京に行くと聞いたときは、素直に嬉しかった。一緒に都内にいるのなら、県が離れるよりも会いやすいと思ったから。

 でも、それも実家が残っているからこそ。思い出があって、それを共有してこそだ。

 それをあいつが一方的に捨てるというのは、アタシたちの絆が削られているようなものだ。

 もう一人の父と母。あいつにとっての実の両親という、大事な思い出と絆。

 このままあいつに謝ることなく、アタシもあいつも東京に行ってしまえば、もう二度と会うことも無いかもしれない。

 二人とも東京に行くけれど、どこの高校に行くかなど知らない。いくら東京が大きくないと言っても、何処にいるかもわからない人一人を探し出すのは難しいだろう。砂漠で砂一つ、とまではいかないだろうけど、森で木一本を探し出すくらいの難易度はありそうだ。

 それでも、アタシの足は動かなかった。

 今でも思い出す。

 中学最後の卒業式は、最悪の一日だった。

 

 

 

 

 「おーい、美嘉?大丈夫?」

 「え、ああ、ごめん。なんだっけ?」

 346プロダクション。巨大な城を彷彿とさせる事務所の休憩室で、ピンク髪のギャルとショートヘアのやけに大人っぽい女子高生が飲み物を片手に会話をしていた。

 カリスマJKモデルと名高い城ケ崎美嘉。人気アイドルグループ『LiPPS』のリーダーを務める速水奏。ファンが見れば卒倒するような、事務所では割とよく見る光景だが、いつもの雰囲気とは少し違っていた。

 「珍しいわね。美嘉がぼうっとしてるなんて」

 「あはは、ちょーっと疲れてるのかも」

 「そう?ならいいけど」

 困ったように笑う美嘉に、これ以上追及する必要もないと判断したのか、手に持った紅茶をこくりと飲む。

 「それより奏。帰らなくていいの?」

 時刻は8時を回っており、346プロ所属の学生アイドルたちは帰宅している。残っているアイドルもいるにはいるが、直近にライブを控えた者だったり、迎え、あるいは担当プロデューサーが送ってくれるのを待っている者だったりする。

 そんな数少ないアイドルに含まれる彼女たちはというと、

 「私はプロデューサーが送ってくれるらしいから。ついでにフレデリカもね」

 「そうなんだ」

 「美嘉は?一緒に送ってもらう?」

 「あー、私は…」

 頬を掻くふりをして、曖昧に言葉を濁していると、休憩室の扉が開いた。

 そこから入ってきたのは普段はつけているうさ耳を外し髪を結ぶリボンにしている、自称永遠の17歳、ウサミン星からやってきたアイドルこと安部菜々だ。

 「あ、美嘉さん!奏さんも一緒だったんですね!丁度良かったです」

 「菜々ちゃん。今日もバイトだったの?」

 「そうなんですよー。明日もシフトが入ってるから飲めなくて、って菜々は17歳ですからジュースなんですけどねー!」

 「そ、そうなんだ。それより、何か用があったんじゃないの?」

 もはや何がしたいのか。彼女にとって年齢は地雷でしかない。が、普段の会話から、彼女は地雷原の上でタップダンスをするのが得意なのである。中学生以下の純真無垢なアイドル達には分からないが、察しの良い学生や大人たちは、彼女が地雷を爆発させる度に苦心させられるのだ。

 「そ、そうでした。奏さんはプロデューサーさんが呼んでましたよ。仕事が終わったそうです」

 「あら、ありがとうございます。プロデューサーも先輩に伝言なんて…」

 「大丈夫ですよー。言っちゃ悪いかもですけど、美嘉さんを探すついででしたし」

 「へ。アタシ?」

 「はい。仕事が終わって仮眠しているので、迎えに来てあげてください、と店長が」

 その言葉を聞いて、美嘉はため息を吐く。

 「そっか、今日は早いんだっけ…。すみません、菜々さん。アタシもあいつも後輩なのに、こんなパシリみたいなことを…」

 「いえいえ、私も彼にはお世話になってますから。店長もバイトなのが勿体無い、なんて言ってますしねー」

 「あ、もしかして美嘉の幼馴染っていう男の子かしら?」

 346プロの事務所内には、一つのカフェがある。その名も346カフェ。社員の店長を含め、正社員二名とアルバイト二名からなる、規模の小さいカフェだ。しかし、大きさに反して利用する客は多く、混雑こそしないものの、客足が途切れることは無い。数ある346プロの芸能部門に所属するアイドルやモデル、社員たちの憩いの場となっている。かくいう美嘉と奏も常連客として毎日のように通っているし、バイトの菜々でさえシフトが入っていない時に利用している。

 「まぁ、ね。店長に迷惑かけられないし、アタシはそろそろ行くね」

 「ええ、またね。今度は幼馴染君との話も聞かせてもらおうかしら」

 「あはは、それは勘弁してほしいわ…。菜々さんも、ありがとうございます。じゃーね★」

 「お疲れさまでしたー、きゃはっ」

 プライベートでも自分のキャラを出すことに余念がないのが、今のアイドル。

 それはさておき、二人と別れた美嘉は、事務所一階にある346カフェ、その裏口にいた。関係者以外立ち入り禁止の札が貼られているが、それに見向きもせずにカフェの中へと入っていく。

 真っすぐ伸びる廊下には三つの部屋があり、それぞれ男子更衣室、女子更衣室、休憩室だ。

 美嘉は迷うことなく足を進め、休憩室の扉をノックしてから中に入った。

 「こんばんはー」

 「こんばんは、美嘉ちゃん。彼ならそっちで寝てるから、起こしてあげてね」

 長身でひげを生やした、見た目50代くらいの優しい笑みを浮かべたこの男性こそ、346カフェの現店長。土日祝日問わず、店にいない日を見たことがないと言われるほど仕事熱心な彼だが、その実態はコーヒーを淹れるのが楽しすぎるあまり、事務所近くの独身寮に引っ越し、給料が発生しない休日ですら自分のためにカフェに来る、趣味と実益を兼ねたワーカホリックである。

 実際、カフェに来る客と店員との、彼に対する評価は異なっており、他余名の店員からは総じて、コーヒーオタク過ぎて、むしろ気持ちが悪いと密かに思われていたりする。しかし、仕事熱心であることに変わりはなく、気持ち悪いと思われながらも、純粋に尊敬される人物でもある。店員が四人であるにもかかわらず、問題なくカフェを運営できているのは、彼がいるからだと言っても過言ではない。どころか、彼がいなくなったら、346カフェは途端に経営困難に陥るかもしれない。

 そんな店長の指示通り、休憩室の奥へ進むと、テーブルに突っ伏した男が静かに寝息を立ててた。

 小さな体の下には、一冊の参考書とノートが置かれており、手にはペンが握られている。どうやら仕事終わりに勉強していたようだ。それも、ちらりと見える文字列を見る限り、高校の範囲を超えている。ただでさえ偏差値の高い高校にいるのに、その分野すら終えているのだろうか。

 「ほんとに、もう…」

 自分だってバカじゃない。それどころか、ギャルはバカだというイメージを払拭するために、そして仕事と勉強を両立すると親に言った以上、学校でも上位の成績をキープしている。

 それでも、彼を見るたび、もっと頑張らなくてはと思ってしまう。

 あいつとアタシでは、環境も目指す場所も、何より抱いている目標が違うのに。

 「ほら、帰るよー。起きて」

 「…ん、ぁ」

 肩を揺すると、薄く目を開けてその細い身体を持ち上げた。

 寝不足の為か、ここ二年消えない隈と、肩に届くほどの長髪。普段は一つに縛っているが、バイトも終わり、気分を緩めるつもりで解いたのだろう。

 「ああ、美嘉か…終わったの?」

 「うん。そっちもお疲れ様」

 「アイドルに比べれば、大したことないよ」

 机に広げていた参考書とノート、筆記用具を鞄にしまうと、立ち上がって背筋を伸ばす。

 小さく見えていた身体は、美嘉よりも10センチほど高く、けれどちゃんと食事をしているのか疑問に思うほど細い。床屋に行くのが面倒で伸び続けた髪と、線どころか物理的に細い身体、隈があるけれど中性的な顔つき。街中ですれ違ったなら女性に見えるかもしれない彼こそ、346カフェ期待のアルバイター。

 そして、あの日決別したはずの、美嘉の幼馴染だった。

 

 

 

 中学生最後の日。あいつの頬を叩いた後、アタシの家族も東京に引っ越すことを知った。

 あいつが引っ越すことを知った後、父親が職場に異動願いを出したそうだ。業務成績が良かったために受理されたそれは、東京の職場への転勤。それに伴って、家族全員が引っ越すらしい。

 それを聞いたアタシの動揺は、推して知るべし、と言ったところだろう。

 兎にも角にも、あいつだけではなく、アタシ達一家も東京に引っ越すことになったわけだが、当然すぐに家族全員が住める家を借りたり買うことが出来る筈も無く。さらに言えば、3月に異動希望を出したところで、すぐに会社を異動できるわけもない。

 結局、高校一年生の間だけは、契約してあったアパートで一人暮らし。その後、次の年に一軒家で家族そろって暮らすことになった。

 妹の莉嘉も、友達と別れることに寂しさを覚えただろうけど、それ以上に東京という新天地に胸を躍らせているようだった。

 両親は私たちと同じくらいあいつのことを溺愛しているから、きっと東京でも世話を焼くのだろう。だから、高校二年になれば、家族が東京に来れば否が応でもあいつと再会するのだと思っていた。

 けどそれは勘違いで、自分の希望が多分に交じった予想でしかなかった。

 「あ、れ?」

 「…おはよ」

 高校の入学式、よりも前。引っ越して二日目の朝。

 アパートの一階にあるポストに手紙を確認しに行ったとき、目の前の道路に見慣れない制服を着たあいつがいた。

 「なんでいるの!?」

 「俺んち、奥のアパートだから」

 「ええ!?」

 アタシの住むアパートの裏手には、ここより少しボロいアパートがある。立地や築年数、セキュリティ面からアタシのいるアパートより家賃が安い。ちなみにアタシは、父のヒステリックにより、最新式の鍵が付いた、それ故に少しお高めの家賃のアパートに住んでいる。たかが一年とはいえ、東京というだけで家賃は割高だ。その上、最新のセキュリティともなれば…。考えるのは止そう。高校の勉強も、これから始まるモデルの仕事も頑張ろう。上位の成績とモデルとしての仕事で、小さいけれど親孝行としよう。

 「…んじゃ、おじさんたちによろしく」

 あいつはそう言って、歩いて行った。

 制服を見て分かったが、あいつが通う学校は全国的にも有名な進学校だ。全国模試一位の生徒が必ずいるらしい。

 だから分かったのだが、あいつが向かう方向と学校は確か違うはず。それに、入学式の日程にズレがあるのはわかるけど、にしても時間帯が速すぎる。まだ朝の6時だ。

 「ちょ、どこ行くの!」 

 だから、気まずさも忘れて呼び止めた。

 寝巻に上着を着ただけの恰好に、冬が過ぎ去ったばかりの早朝の風は堪える。

 「バイト先だよ。346って事務所にあるカフェのスタッフやんの」

 「346って…ええぇ!?」

 「近所迷惑だぞ」

 「うるっさい!ええ、なんで!?アタシのモデル事務所も346なんだけど!」

 「知らねぇよ。え、モデルやんの?美嘉が?」

 「スカウトされたの!ギャルモデルとしてね」

 「へぇ。まあ、いんじゃない?がんばんなよ」

 「え、あ、うん」

 少なくない驚きを与えたあいつは、少しだけ笑って歩き去っていった。

 その後ろ姿は、アタシと同じか、アタシよりも小さかった。

 

 

 

 「…はずなんだけどな」

 「どした?」 

 「ううん、なんでもない」

 カフェを出た二人は、346プロ職員用の駐車場にいた。目の前には125ccのバイク、手にはバイク用のヘッドセットが付いたヘルメットを持っていた。

 「にしても、あれだけ忙しそうにしてた中で、よくバイクの免許なんてとれたね」

 「忙しいって言っても時間は作れるし、難しいわけでもないからな」

 髪を下ろした二人は、傍から見れば女子二人だ。そんなカリスマギャルと女子擬きはフルフェイスのヘルメットを被り、バイクにまたがる。

 一年前から、二人はバイクで一緒に帰るようになった。

 彼がバイクの免許を取ってから一年が経過したことや、アタシの父に頼まれたこと、何よりアタシの仕事が忙しくなり、帰りが遅くなったことなど、様々な原因が重なり、このスタンスに落ち着いた。

 妹の莉嘉はと言えば、まだ中学生である為、遅い時間まで残らないようプロデューサーがスケジュールを組んでいるし、もし遅くなってもアタシ達の両親と面識のあるプロデューサーかアシスタントのちひろさんが家まで送ってくれている。だから、事務所に来た時の帰りは、いつもこいつと二人きり。

 二人で帰るために、態々アタシ専用のヘルメットまで買いに行った。

 彼の後ろに座り、細い身体に腕を回す。

 「行くよ」

 ヘッドセットから声が聞こえると同時に、バイクが動き出す。

 東京での移動手段は専ら公共交通機関だ。自動車を持っている家庭が、他県に比べれば少ない。そのためか、混雑していない道路を一台のバイクが走っていく。

 「ねぇ」

 「なに?」

 「アンタ、アタシのライブ見たことってあるっけ」

 「生では見たことない。この前テレビでやってたのは見たけど」

 「アンタんちテレビ無いじゃん」

 「莉嘉に誘われて美嘉の家で見たよ。おじさんとおばさんも一緒に」

 「何それアタシ知らないんだけど!?」

 「そりゃ居なかったし。美嘉が346の女子寮に泊まりに行った日だったかな?」

 「えー、マジかー…」

 「なに、ダメだったの?」

 「うーん、まぁ、別にいいんだケド…」

 ヘッドセット越しに他愛もない会話をする。その会話の内容は、本当に日常会話で、普段通りの彼らだ。

 しかし、美嘉にはどうしても聞きたいことがあった。

 今日一日気になって、だからきっと中学最後の日の事を思い出したのだ。

 「ねぇ」

 「ん?」

 さっきと同じ問い。

 「…お葬式、行ってきたんだって?」

 「…ん」

 少しだけ、声色が変わった。

 おじさんの妹さん。つまりこいつの叔母に当たる人物が、先日亡くなったらしい。

 その人は、こいつが中学生の時お手伝いと称してアルバイトをしたときにお世話になった人で、血がつながった唯一にして最後の親戚だった。叔母夫婦に子供はいなく、父方の祖父母も母方の祖父母も、こいつが物心つく前に亡くなっている。母方に兄妹は無く、本当の意味での最後の肉親だった。

 昨日から今日の午前中に掛けて、こいつは茨木に赴き、葬式に出てきたそうだ。

 これで、こいつは天涯孤独になってしまった。

 肉親は無く、帰る家も無い。

 きっともう、本当の意味での親しい人間は、アタシ達の家族だけ。

 「…大丈夫?」

 「うん。勉強にも仕事にも影響させるわけにはいかないし、おじさんたちにも迷惑はかけられないから」

 そうじゃない、って言っても、こいつには分からないんだろうな。

 アタシが、アタシ達が心配してるのは、そんなお金とか他人に掛ける迷惑じゃなくて、あんた自身の心の事だってこと。

 「そっか…」

 「それより、もっとくっついてくんないと危ないよ」

 「うん、わかった…」

 言われるがままに腰に回した手に力を入れる。言われてみれば、確かにこいつとの間に空間が開いていた。

 アタシ自身免許を持っていないから父から聞いた話になるけれど、バイクの二人乗りはバランスを取るのが難しいので、出来るだけ、しかし適度に二人がくっつかないと危ないらしい。

 そう、くっつかないと。

 普段は気にしない。けれど、話が途切れて、ふと気づいてしまった今。

 「っ!」

 よくよく考えてみれば、彼氏でもない男の子に自分の胸を押し付けている、この状況。しかもほとんど毎日。こいつは気にしていないようだけれど、一度気にしてしまったらもう気にしないなんてできない。

 「?どうかした?」

 「ううん!何でもない!」

 信号待ちがこれほど嫌になることもそう無い。

 きっとヘルメットの下は真っ赤になっているだろう。

 それからほとんど会話は無く、20分という普段なら短く感じる時間をどうにか乗り切った。

 アタシの家の目の前で止まると、車体を安定させてくれる。よっ、という掛け声とともにバイクを降りる。

 「ありがとね」

 「うん、おじさんたちによろしく」

 ヘルメットを脱いで、バイク脇に立って彼と話す。時間も遅いし、このまま近くの自宅であるアパートへ帰るのだろう。もう少し早く、ウチの親に連絡していれば、このままアタシの家で晩御飯を食べていくこともある。

 だけど、無理に引き留めるのも良くないし、今日はこれで解散だ。

 と思っていたのに、

 「あ☆お姉ちゃん!お兄ちゃん!」

バイクの音で気が付いたのか、先に帰宅していた莉嘉が玄関から顔を出した。二つ結びをほどいて、パジャマ姿を見るに、お風呂にはもう入ったのだろう。僅かに頬が紅くなっている。

 サンダルを履いてこちらへ駆け寄ってくると、アタシの腰にしがみついた。

 「お帰り!」

 「ただいま。それじゃ、また明日ね」

 「うん。莉嘉ちゃんも、またね」

 「えー!?帰っちゃうの?」

 「無理言わないの。こいつは明日も早いんだから」

 そう、こいつは学校に行く前にもカフェに顔を出して働いている。朝、バイクでカフェに行き、登校時間ギリギリに学校に行って、帰りは学校から直接カフェに行き、そこからアタシと一緒に帰る。

 346カフェにこいつと店長の姿を見ない日はほとんどない。そのくらい、こいつは働き詰めている。

 だから、ほんの少しの時間でも休ませてあげたいのだ。

 「ごめんね。また明日来るから」

 「でもでも!お母さんがお兄ちゃんの分のご飯もあるって言ってたよ!」

 「え!?また勝手に作っちゃったの?」

 「あー…。じゃあ、少しだけお邪魔しようかな」

 「ほんと!?やったぁ☆」

 そう言って彼はバイクのエンジンを切った。

 

 

 

 

 「これは受け取れない。ただでさえ普通の高校生としての暮らしを維持するのが厳しいのに、そうでなくても、返してもらおうなんて思っていないからね」

 「そうよ。あなたは私達の子も同然なんだから」

 「でも…いや、分かりました。ご好意に甘えさせてもらいます。けど、必ず恩返しはしますから」

 「うふふ、それは将来が楽しみね」 

 「ああ、そうだな。できれば孫とかが…いや、でも美嘉も莉嘉もあげたくないし…」

 「はぁ…。それじゃあ、今日はもう帰ります」

 「あら、美嘉に会っていかないの?」 

 「降りてこないってことは、今日は会いたくないんでしょう。また今度、美嘉の機嫌がいい時に来ますよ」

 そんな会話を、リビングのすぐ外で聞いていた。

 曇りガラスに影が映り、だんだんと濃くなる。あいつが近づいているのだと気が付いて、サッと物陰に身を隠す。

 「それじゃ、また」

 言葉少なめに家を出たあいつを見送ることなく、アタシはまた唇を噛んだ。

 リビングの灯りが漏れる玄関とは真逆の、階段下の物置近くにいるアタシは、その暗さも相まって幽霊のようだ。けどきっと、それは間違ってない。

 あいつに対する負い目がアタシの心を蝕んで、学校にいる時とも、モデルをやっている時とも違う、自身の暗黒面ともいえる感情が滲み出る。今のアタシは、ギャルやモデルどころか、普通の女子高生ですらない。

 「美嘉」

 そんなネガティブな感情で埋め尽くされているアタシの耳に、お母さんの声が入る。

 「…なに?」

 「まだ謝ってないの?」

 「……うん」

 東京に来て一年が経ち、埼玉に残していた家族も皆上京してきた。それまであいつと絡む機会は、それこそ毎日のようにあったけれど、ごめんの一言はいつも出てこなかった。

 原因はわかってる。

 謝りたいと思っているのと同じくらい、アタシはあの件にまだ納得がいってないのだ。 

 誰かに相談することもなく、いつの間にか消えていて、急に戻ってきたと思えば思い出を簡単に切り捨てた。

 アタシは、あいつの本心が知りたい。

 「あの子ね、泣いてないのよ」

 「え…?」

 お母さんがポツリと呟くように語る。

 「美嘉も莉嘉も、私だって泣いてたのに、あの子は泣かなかった。お葬式の時も、お通夜の時も。受け止めきれてないのかと思ったけど、それも違う。あの子は、自分が一杯一杯であることに気づいてないの。二人が死んだこと。自分のこれからの事。私達にかかる負担。色々な事を考えなくちゃいけなくて、だから二人の事を終わったこととして考えるのを後回しにしてる。あの子は、優しい子だから」

 知ってる。あいつが優しいことは、誰よりも知ってる。

 アタシが泣いてるとき、いつもそばにいてくれた。何を言うわけでもないけど、一緒にいてくれた。

 莉嘉に嫉妬したときも、友達だと思っていた子から嫌がらせを受けた時も。

 皆で楽しんでるときも、アタシの我がままに付き合わせた時も。

 いつだって、優しい笑顔で一緒にいてくれた。

 そうか。

 だからアタシはあんなに怒ったんだ。

 優しかったあいつが、急に怖くなったから。優しさを感じない声で、絶対にやらないと思っていたことを、他でもないあいつがやったから。

 けど、それにはちゃんと理由があった。

 強くて優しいと思ってたあいつは、アタシ達が思っていたより弱くて。でも生きるために必死で、強くなろうとした。

 その結果が、あの日に繋がった。

 結局、あいつの優しさに、アタシが甘えていただけなのだ。

 「だから、美嘉。あの子の事、嫌いにならないで」

 いつの間にか近寄っていたお母さんが、アタシの眼を覗く。

 「うん。嫌いになんて、なるわけない。今度はアタシが、あいつと一緒にいてあげるんだから」

 あいつが、いつか自分とおじさんたちの事に目を向けられるようになるその時まで。あいつの優しさが、自分に向けられるようになるその時まで。

 アタシが一緒にいる。一人に何て、絶対にさせない。

 モヤモヤが少し晴れたアタシは、外に飛び出した。

 あいつの後を追いかけて、追いかけて、その後ろ姿を見つけた。

 「ねぇ!」

 誰もいない住宅街の道路で呼び止める。

 「…美嘉?」

 まだアタシと変わらないような身長のあいつが振り返る。

 「あの時の事、ごめんっ!遅くなったけど、ずっと謝りたくて…。許してくれなくてもいい!けど、これからも一緒にいさせてほしいんだ!」

 頭を下げて、住宅街だということも忘れて叫ぶように訴える。

 言い切ったアタシの頭に、ぽんと手が置かれた。細い指が、アタシの髪を梳いていく。

 「別に、あんなの気にしてないよ」

 その言葉は、アタシが一年間待ち望んだ言葉で、抑えきれなくなった感情が涙となってあふれ出す。

 ぽろぽろと零れる涙を、指で拭ってくれる。

 そんな彼が、苦笑とともにこう言った。

 「それより、さっきの告白みたいだったけど、そう受け取っていいの?」

 「なっ…!ち、違うからね!?そういうんじゃなくて…!あ、いや、そうでもなくて…!!」

 一年間の気まずさは、思ったよりも簡単に無くなった。

 たかが一年。アタシ達が築いてきた十数年の絆に敵うはずないのだ。

 だからきっと、いつかはこの胸に秘めた想いが通じる日が来るのだろう。

 こいつとは、いつまでも一緒にいる。そんな気がするから。 

 

 

 

 「へぇ。美嘉ちゃんとあの子にそんな過去があったとはねぇ」

 「あの、見すぎです瑞樹さん…」 

 「あはは、ごめんごめん」

 346カフェで、アタシは瑞樹さんと楓さんとともにコーヒーを飲んでいた。音楽番組の収録後に、事務所に戻ったその足でカフェを訪れた。入店直後は何やらスタッフ同士で揉めていたようだが、今ではいつもの落ち着いた雰囲気になっている。一体何があったのだろう。

 「お待たせしました。チョコレートケーキと、ウイスキーボンボンです」

 制服にエプロンをしたあいつが、瑞樹さんと楓さんが注文した商品をお盆に乗せてやってくる。

 「ねぇ、さっきの騒ぎは何だったの?」

 ケーキとチョコレートの乗ったお皿を机に置くこいつに聞いてみる。

 「ああ、店長が休むんだよ」

 「店長が休むと何かマズいの?」

 「いや、店長が休まないからヤバいんだよ」

 「ん?どういうこと?」

 いまいち要領を得ないこいつを前に首を傾げると、何でもないというように、信じがたいことを言ってのけた。

 「ここ一年くらい店長休みとってなくて、労働基準法的にヤバいから態々美城専務が来て一、二週間の休みを取らせたんだよ」

 「いっ!?」

 「一年!?」

 「確かに、いつ来ても店長さんと貴方はいますよねぇ」

 「まぁ俺は学校あるので時間にすれば問題ないんですが、社員の店長は流石に…。でも店長は店長で仕事、というかコーヒー大好きのワーカホリックなんで、大人げなくガチ泣きしながら抵抗したんです。それであれだけの騒ぎになっちゃったんですよ」

 「お仕事が楽しいのはわかりますけどね」

 「まぁ悪いことじゃないですからね」

 あはは、うふふ、なんて緩い空気を醸して笑っているが、アタシと瑞樹さんはそれどころではなかった。

 トップアイドルと持て囃されるアタシ達でさえ、週に一回は休みがある。なのに、店長は一年も休みが無かったとは。確かにアタシも瑞樹さんたちもこのカフェを結構利用する。そして、思い返してみれば、いつでも、どの時間帯にも店長はカウンターにいた気がする。

 しかしそれでも、自分たちがいない時にはどこかで休みを取っているものだと思っていた。

 「いくら好きだからって、休まないなんて無理じゃない?」

 「そりゃそうよ。ていうか、私がカフェに来る時間って夜が多いからかもしれないけど、この子も毎日いる気がするんだけど」

 言われてみれば、バイクで帰るようになってから、一人で帰った覚えがない。それはつまり、アタシが事務所にいる時はこいつがいつもいるってことで…。

 「アンタ!」

 「うおっ。どしたの?」

 「アンタはちゃんと休んでるんでしょうね!?」

 「学校行ってるんだから休んでるよ。八時間近く無駄な時間過ごしてるんだから、そりゃ身体も休まるでしょ」

 「いや、そうじゃなくて…。あれ?どういうこと?」

 こいつの言葉に頭が混乱してくる。

 学校に行って、八時間近く無駄な時間を過ごしている?それはつまり、学校の授業が休憩になっているということか?超進学校の授業が、休み?前にこいつの成績を見せてもらった時、ほとんど満点の通知表と、一桁というか一位の順位しか見たことが無いのに?

 「えーっと、君は学校でちゃんと授業を受けてるの?」

 「まぁぶっちゃけほとんど寝てます」

 「嘘だよ!アンタめっちゃ成績いいじゃん!」

 「そりゃバレないように寝てるし、テストは基礎さえできてればその場で応用して解けばいいし」

 「でもこの前休憩室で勉強してたじゃん。家で勉強するくらいなら学校ですればよくない?」

 「あれは行政書士の試験受けたから自己採してただけ。色々受けすぎて、どの試験の採点が終わってないかわかんなくなっちゃってさ」

 絶句した。

 行政書士試験と言えば、合格率が相当低い国家試験だ。その名の通り、行政書士になるために必要な資格なんだろうけど、詳しいことはよく知らない。少なくとも、アタシの高校で受験したという人間は聞いたことが無い。

 こいつの言っている学校のように、偏差値の高い高校なら当然の様に受けているのだろうか?

 しかし、大人の瑞樹さんですら驚いているのだ。やはり普通ではないのだろう。

 というか、今こいつは何と言った?いろいろ受けすぎちゃって?

 「…あの、他にはどんな試験を受けたのか、お姉さん聞いてもいい?」

 「はぁ。とりあえず高校でとれる資格は大体。公認会計士とか、Iパスとか、受けられるもんはかたっぱしから受けましたよ。…っと、いらっしゃいませ」

 入店したお客さんの相手をしに、あいつはカウンターへと戻っていった。

 にしても、まさかあいつがそんなに凄い試験を受けているとは思わなかった。一体どこの大学に行くつもりなんだろう。やはり法律系だろうか。 

 そこまで考えて、はと気づいた。

 そういえばアタシ、あいつの進路の事、何も知らないや。

 あいつは一体、何を目指しているのだろうか。

 「美嘉ちゃん、瑞樹さん」

 チョコレートを食べていた楓さんが、鈴の音のような声を出した。

 「どうしたの?」

 「いえ。彼が休んでいるのか、さっきの会話で分かったのかな、と思いまして」

 「え?」

 言われてみれば、あいつは学校で休んでいると言っただけで、たくさんの資格を取ろうとしていると言っただけで。

 ちゃんと休んでいるのかについては、一切言及していない。何なら、バイト以外にも力を入れているようで、あいつの忙しさに拍車がかかっているような気さえする。

 そもそも、ここの店長が休んでいないという話だったはずなのに、いつの間にかあいつの方が休んでいないという話になっている。

 というか、菜々ちゃんもアイドルと兼業をしているし、346カフェはワーカホリックとかしか働けないのだろうか。定休日とか作ったほうが良くない?

 「…あいつ、今度強制的に休ませよう」

 ギャルとか、カリスマJKとか、そんな後付けの自分を削ぎ落した、素のアタシがそう決めた。

 

 

 

 

 あいつの忙しさが判明した週の日曜日。アタシはあいつの部屋があるアパートに向かっていた。

 休日にしては早い、午前7時。日が昇って間もないことと、冬の寒さが相まって、コートやマフラーをしてても耐え切れない。マフラーに顔を埋めて僅かばかりの抵抗を試みるが、その程度で凌げる寒さではない。

 「はぁ…」

 吐いたため息が凍り、視覚的にも寒さを訴えてくる。

 何故こんなにも寒い思いをしながらも、アタシがあいつの家に向かっているかと言えば、今日が久しぶりにアタシとあいつの休みが被ったからだった。というか、あいつが久しぶりに休みをとれたのだ。

 なにやら346カフェのガス点検とかで、今日一日カフェは工事関係者以外立ち入り禁止になったらしい。バイトの掛け持ちをしてそうでしていないあいつは、その忙しさで部活もしておらず、今日一日はなんの予定も無い。

 それを知ったアタシの両親が、見たことも無いようなテンションで、一日中世話をすると言って、そのお使いにアタシが駆り出されたのだ。

 態々休日に早起きして、普段は絶対に作らないような朝食を作っている母親を見たときは少しばかり引いた。ウキウキした表情で4時に起きたという父親を見てさらに引いた。寝ぼけ目を擦ってアタシが家を出る直前に起きてきた莉嘉を見て癒された。

 とにかく、うちの家族はあいつを溺愛していて、いつも一緒に住もうとか言っているほど。アタシは、チョット恥ずかしいし、最初は抵抗していたんだけど、あいつの部屋の惨状を見て、最近はそれもアリだと思っている。

 あいつの部屋には無駄なものがない。というか必要なものもほとんどない。特に、夏場は窓を開けて団扇か扇子で、冬は重ね着と毛布や布団を身にまとって厳しい気候に耐えている。要するに、あいつの部屋は外の気温とほとんど変わらない。だから、朝から家に連れて行って、ゆったりする、させるつもりなのだと昨日の夜に言っておいたのだが、携帯に連絡しても一向に出やしない。きっと寝ているのだろう。あのヤバいくらい寒い部屋で。

 「まったくもー。世話が焼けるんだから」

 数分歩いたところであいつの住むアパートに到着する。見た目からして古いアパートの一階角部屋があいつの部屋だ。

 アタシの両親に預けておいた合鍵を使って扉を開け、シンプルなワンルームに足を踏み入れる。廊下には簡易的なキッチンがあり、その後ろにカーテンで仕切られた空間がある。そこにはトイレとお風呂が別々にあって、廊下奥の部屋を含めたお風呂、トイレ、簡易キッチンだけが、あいつの今の家だ。

 外とほとんど変わらない気温の廊下を進み、唯一の部屋に入る。

 机と本棚、開けっ放しのクローゼットとベッドだけの部屋で、あいつは眠っている。掛け布団に頭までしまい込み、小さく小さく呼吸していた。じっと見なければ布団が動いているのもわからないほど。

 静かに歩み寄り、ゆっくりと掛け布団をはがす。

 人肌で暖められた熱が漏れ、代わりに入ってきた凍てつく寒さで小さく丸めた体をさらに小さくした。

 「ねぇ、そろそろ起きて。美嘉ちゃんが迎えに来てあげたぞー?」

 わずかに呻くこいつの肩を揺らすが、起きる気配はない。

 乱れた髪がこちらを向いている彼の口元に垂れているのを見て、それを払ってあげる。

 にしても、見れば見るほど女子に見えるなぁ。あたしと違って、ギャル系じゃなく、清楚系みたいな。こいつが女子だったなら、深窓の令嬢とか言ってさぞかし男子にモテたことだろう。

 「ん…」

 めくれたスウェットから細く白いお腹が見える。バイトを頑張っているせいか、少しだけ割れた腹筋と男なのにくびれたウエストが扇情的だ。男なのに。

 なんというか、エロい。

 よくよく見ればめくれたスウェットだけじゃなく、下着もちょこっと見えてるし、スウェット自体古いものなのか、くたびれた襟から僅かにのぞく鎖骨が見る者の性欲を駆り立てるようだ。

 「ごくっ…」

 渇いているはずの喉が思わずなってしまうほど、と言えば伝わるだろうか。

 とにかく、女子であるアタシにすら性欲を湧き上がらせてしまうこいつだが、見た目に反してこいつは男だ。目に毒過ぎる恰好をしているが、男だ。

 とにかく自分に言い聞かせて、頭を冷静に保つ。

 だが、そういう時にこそ、自分が望んでいない物事が起こるもの。いつだか学校の先生が言っていた、マーフィーの法則という奴だろうか。

 「…みか……」

 寝ているはずのあいつの手が、いつの間にかアタシの手を掴んでいた。

 そして、剥いだ布団の代わりの暖を取ろうとしているのか、華奢な女子のような見た目では考えられないくらいの力で引っ張られる。

 「うわ、ちょ、ちょちょっと待って!待って待って!」

 抵抗する間もなく腕ごと引き寄せられ、バランスを崩してベッドに倒れこむ。

 はたから見ればアタシがこいつを押し倒しているように見えるだろう。

 「すぅ…すぅ…」

 「……むっ」

 だが、こちらが慌てているのに、一切起きる気配のないこいつを見て冷静になる。

 それどころか、正直このまま襲ってしまいたいという欲望が、頭の中をぐるぐるとかき乱す。いくらこういう状況に慣れていないアタシだって、きちんと性欲はあるのだ。

 実際、アタシの手が意に反してこいつの頬を撫でている。すべすべの肌を堪能し、指が少しかさついた唇を撫でる。

 普段のアタシだったら、不本意だけれど顔を赤くして、テンパってしまうだろう。非常に不本意だけど。

 そんな癪だけれど、自他ともに認める初心なアタシですら狼になってしまう。

 これがキス魔の奏とかだったら、とっくにこいつは食べられているだろう。

 少し前までは普通の地味な男子だったくせに、東京に出たとたん女性ホルモンが活性化でもしたのだろうか。

 「んん…すぅ……」

 むかつくほど穏やかに眠るこいつに、少しばかり腹が立ち、このまま欲望に任せて襲ってやろうかという考えが過る。

 徐々に近づく唇に、胸の心拍数が上がる。

 火照る身体を、抱きしめるようにくっつけて、唇と唇が重なろうとした瞬間。

 「お姉ちゃーん!そろそろママとパパが限界だよー!」

 玄関の扉を開ける音と莉嘉の声が、熱に浮かされたアタシを現実に引き戻す。

 「うえぇぇええ!?」

 「お姉ちゃん?どうしたのー?」

 「うわぁああ!莉嘉!来ちゃだめだからね!?」

 「えー、なんでー?」

 薄い扉を、大きい声で話す。しかも、人の上で。

 それだけの音量で話せば、よほど眠りが深いか、無神経な奴でもなければ当然起きてしまう。

 どちらにも該当しないこいつは、予想通りうっすらと目を開け、覆いかぶさり、というか抱きしめているようなアタシに向かって、眠そうな声で言った。

 「…なにしてんの…?」

 「う、うるさいうるさい!アンタが起きないのが悪いんだからね!?」

 「へ?…あれ、ふとんは?」

 「きゃー☆お姉ちゃんだいたーん!」

 「莉嘉!?来るなって言ったでしょーが!」

 「だってー、気になったんだもーん」

 「あの、きんじょめいわく…」

 こうして、久しぶりの休日は騒がしく始まった。……欲情なんて、知らないから!

 

 

 

 まだ眠そうなこいつと莉嘉を連れて、家を目指す。距離も近いし、莉嘉もいるからバイクはこいつの家に置いてきた。

 来るときに感じた寒さは、恥ずかしくて火照る身体の熱で全く感じなかった。

 「ねぇ、怒ってんの?」

 「怒ってない!」

 「怒ってるよね?」

 「うん、怒ってるね」

 「怒ってないってば!」

 莉嘉と顔を合わせて、頭にはてなマークでもつけてそうな顔で示し合わせる。

 実際、アタシは怒ってなどない。ただ、あの場面を見られたことが恥ずかしいのと、あんな大胆にこいつを襲いかけたことが自分でも信じられなくて、結果顔が赤くなってるだけだ。

 それをこいつらときたら、少しも察してくれやしない。

 「…はぁ」

 身体の熱を吐き出すようにため息を吐く。

 「とりあえず急ご。お母さん、かなり気合入れて朝ごはん作ってたから」

 「おばさんのごはんはおいしいからねぇ。最近はカフェのパンとかケーキくらいしか朝は食べてなかったから楽しみだなぁ」

 「はぁ!?そんなん体に悪いよ!ちゃんと食べなきゃ!」

 「あ、莉嘉が毎朝作りに行ってあげよっかー☆」

 「嬉しいけど、莉嘉ちゃん朝弱いんじゃないの?」

 「そんなことないよー!」

 「あんた平日の朝は起きれないでしょ」

 「起きれるもん!」

 「まぁ俺も朝は早いし、なんならカフェのキッチンも借りれるから大丈夫だよ」

 そんな朝ごはん事情の会話をしているうちに、アタシ達の家に到着する。莉嘉は鍵もせずに家を出てきたのか、玄関の扉はすんなりと開いた。まぁ両親がいるし、防犯的には大丈夫だけど、この子は家に誰もいない時にも時々鍵をかけずに出るから、いつも家を出る時は鍵をかけろって言ってるんだけどな。

 普段なら軽く叱っているところだけど、今はこいつがいるしスルーしてあげるか。

 「ただいまー」

 「たっだいまー!」

 「お邪魔します」

 三者三様に声をかけて家に入る。

 朝ごはんのいい匂いがリビングから洩れ、食欲をそそる。まだ眠そうなこいつも、外を歩いていた時よりかは目に生気が戻ってきているような気がする。

 「ねぇ美嘉」

 「ん、なに?」 

 「あ、いや……美嘉んち暖かいな」

 「そう?」

 莉嘉は早々にリビングに行って、アタシ達はまだ玄関にいる。暖房が効いているリビングはともかく、冷たい外気が入った玄関は外よりマシとはいえ、寒いことに変わりはない。

 「うん。暖かいよ。ありがとね」

 そう言ってあいつはアタシの頭を一度だけ撫でると、先にリビングへ入っていった。

 「……あ」

 しばしの間、立ち尽くすアタシの耳に、あいつと莉嘉、両親の会話が漏れ聞こえる。

 リビングから聞こえる楽しげな声を聞いて、あいつの真意を理解した。

 あいつが言ったのは、気温のことなんかじゃない。

 家に帰れば「おかえり」と言ってくれる人がいることの幸せ。自分以外の誰かが、自分のために料理を作ってくれる、アタシ達にとって当たり前の優しさ。

 それらは、あいつが二度と感じることは無い、血のつながった家族だけの暖かさだ。

 いくら距離が近くても、結局は他人であるあいつが入ることができない、内輪の暖かさ。

 それを外からでも見られて、入れなくても意識してもらえることが、あいつにとっては何よりも暖かかったのかもしれない。

 「…バカ」

 それは、あいつに向けてではなく、自分に対する罵倒。

 「…覚悟、決めなきゃ」

 そして、アタシの人生最大の、下手をすれば二度とアイドルとしての活動も出来なくなるような。

 城ケ崎美嘉という人間の全てを決めるような大勝負への激励だった。

 

 

 

 いつもの数倍騒がしい朝食を終えたアタシたちは、アタシの部屋でのんびりと過ごしていた。

 朝食を食べても、まだ8時。冬の朝は、夏の昼間に匹敵するほど長い。

 暖房のきいた部屋で、ベッドを背もたれに二人並んでテレビを見る。録画してあった、莉嘉がレギュラーで出演している『とときら学園』だ。

 「へー、莉嘉ちゃんがスモック着てるの初めて見た」

 「最初は嫌がってたけどね」

 「目に浮かぶなぁ。そんで美嘉がキレちゃってるところまで」

 「えっ。…なんでわかったの?」

 「やっぱりキレたんだ」

 ふふ、と優しく笑う。 

 それを見て、アタシの顔はまた赤くなっているだろう。綺麗な黒髪と、最近はよく見るようになったこいつの笑顔。消え入りそうな薄く白い肌に、触れてようやくわかる、男子らしい筋肉。

 こいつを構成する全部の要素が、アタシのツボにはまる。

 アタシはいつからこいつに、こんなにも惹かれるようになったのだろうか。

 「あのさ。勉強道具取りに帰っていい?」

 照れて顔をそむけるアタシに、何の気なしに言う。

 「…ダメ」

 顔の熱が冷めやらぬまま、頭は冷静に言葉を吐き出す。

 「取ったら戻ってくるからさ。だめ?」

 「今日はお休みなんだからダメだよ」

 「えぇ…」

 そんなにやりたいならアタシの言葉なんて無視すればいいのに、動こうともしない辺り、こいつは本当に優しくなった。

 いや、違うかな。

 「そんなに暇ならさ、どっか出かけようよ!」

 「別にいいけど、どこ行くの」

 「んー、ゲーセンとか?そういえばアンタとプリクラとか取ったことないよね?」

 「まぁ、無いけど。別に取らなくても良くね?」

 「ダメだよ!」

 こういう流されそうで地味に頑固な奴は、勢いで押し切るに限る。

 朝ごはんを食べてから時間も経ったし、そろそろどこのお店も開く頃合いだろう。

 よっ、と声を出しながら立ち、壁にかけておいたアタシとこいつのコートを取る。

 「とりあえず、モールに行こっか!何でも揃ってるし」

 「…はぁ。わかったよ。ただ、寒いからコートは止めた方がいいよ」

 コートに袖を通しながら、ため息交じりに注意してくる。

 確かに、バイクで行くなら風を通すコートは止めた方がいいかもしれない。けど、いつも来ているバイク用の服はこいつの家にも置いてある。バイクを取りに行くついでに、今日はそっちを着ることにしよう。

 「とりあえず、アンタんち戻ろっか」

 幸い、莉嘉は凸レーションの二人と遊びに行っているし、文句を言うのは両親位だ。その両親も、晩御飯にこいつを連れてくれば問題ないだろう。

 小さいバッグに最低限の荷物を入れて、二人で部屋を出る。

 一、二時間前に歩いた道を歩き、こいつの家でバイク用の上着を着て、いつものように二人乗りで町を駆けていく。

 風を通さないとはいえ、元々寒い冬の外気で、身体がどんどん冷えていく。それでも暖かいと思えるのは、こいつに触れているから。

 数回信号に捕まり、ようやくたどり着いたショッピングモールはかなり大きく、アタシもまだ数えるほどしか来たことが無い。

 そういえば、奏がここで撮影したって言ってたな、なんて思い出しながら、バイク装備を脱ぎ、いつもより落ち着いたファッションを晒す。髪は下ろして、ギャル系ではなく、清楚系に決めてきた。対してこいつは、さっきまで家にいた格好とほとんど同じだ。なんなら、コートの上にバイク用の上着を着ていたらしい。元が細いから、多少着ぶくれしても標準体型が関の山なのだから、女子としては腹が立つ。

 とまぁ、地味なこいつと、派手さを抑えたアタシは、バイク装備をロッカーに入れてモールの中に足を踏み入れた。

 

 

10

 

 広くて、広すぎるモールを歩き回ったアタシたちは、モールの中庭にあるベンチに座っていた。

 既に日は沈み、晩御飯を家で食べることを考えればそろそろ帰った方がいいだろう。

 「さ、そろそろ帰ろうか。明日も学校あるし」

 コートに顔を埋めたこいつが立ち上がって、手を組み背筋を伸ばす。

 モールの中はまだまだ騒がしく、イルミネーションも無く、暗くて寒い中庭にいるのは、アタシ達くらいのものだ。

 「そう、だね…」

 「ん、まだ見たいものとかある?」 

 「…うん」

 アタシの前にしゃがんで、顔を覗き込んでくるこいつの問いに、頷いて答える。

 けれど、アタシとこいつの考えは違う。

 きっとこいつは、アタシがまだモールの中にある店に行きたいとでも思っているのだろう。いや、今の聞き方にああやって答えたら誰でもそう思うかもしれないけど。

 アタシが行きたいのは。アタシが見たいのは。

 「いよしっ!行こっ!」

 跳ねるように立ち上がって、しゃがんでいるこいつの手を取って、中庭から直接駐車場につながる通路に向かう。

 「うわ、っとと。あれ?帰るの?」

 「違うよ!もっと良いところに行くのっ!」

 腕を引っ張って、荷物を入れたロッカーに寄ってからバイクに乗る。

 こいつは行き先を知らないので、後ろからアタシがヘッドセット越しに道順をその都度伝えていく。

 休日の夜だけあって、大通りはメチャクチャ混んでいたけど、アタシたちのバイクは隙間を抜けて、30分とかからずに目的の場所にたどり着いた。

 「…ここ、勝手に入って大丈夫なの?」

 「大丈夫だよ。ここ、346の建物だし、プロデューサーに許可もらってるしね」

 「なんだ、許可もらってるならいいや。ていうか、いつの間に連絡してたんだ?」

 「ま、ちょっとねー。とにかく中入ろうよ!」

 背中を押して、体育館のような建物に入っていく。

 ここは、346が保有する音楽ホールで、席数が少なく、トップアイドルではなく、新米から中堅クラスのアイドル達のライブによく使われている会場だ。今の楓さんたちのようなトップアイドルも、新人の頃はここでライブをして、少なくても絆のある、一緒に進んでいけるようなファンを増やしていった。

 かくいうアタシのファーストライブも、実はこのホールで行った。

 新人であることも大きな理由の一つだけど、何より、アタシがプロデューサーに頼み込んだ。

 アタシの、アイドル城ヶ崎美嘉のファーストライブは、このホールでやらせてほしい、と。

 「ここ、俺も一回来たことあるよね?美嘉と一緒にさ」

 「お、覚えてたんだ…」

 「まぁ、美嘉のオススメのバンドだったからね。初めてライブ行ったし」

 高校生になって、中学の時のことを謝りすらしていなかった一年生の冬。当時好きだったバンドのライブチケットがたまたま二枚当選して、予定があったのがこいつだけだったから一緒に行った。

 けど、その時が初めてだった。 

 おじさんとおばさんが亡くなって、笑ったあいつを見ることがなくなった中学一年の秋以来。

 初めて、あいつが笑ったのを見た。

 盛り上がる会場と、熱狂する観客。心を打つ音楽に、心を震わせたあいつの笑顔。

 アタシの眼には、舞台に立つバンドと同じくらい、笑顔のあいつが輝いて見えた。

 「だから…」

 だから、346のアイドル部署から声がかかった時。自分を見てもらうだけじゃなく、歌って、踊って、誰かを笑顔にできる、誰かと笑顔になれるアイドルになれると知ったから。

 「ん、何か言った?」

 「んーん!何でもないよ!ホラ、あっちあっち!」

 誰もいないホールを、手を引っ張って歩く。

 目指す場所は、敷地のほとんどを占めるメインホール。

 アタシがアイドルとして初めて歌った場所。

 「誰もいないと、結構広く感じるなー」

 観客席の後ろから入ったアタシたちは、広々とした空間を静かに歩く。

 きっとこの静けさは、アタシの心臓と反比例している。

 これから起こることを考えて、アタシの心臓はライブ前なんて比にならないくらいドキドキしている。この胸の音が、少し前を歩くあいつに聞こえてるんじゃないかって、心配になるくらい。

 「………よし。アンタ、ちょっとここに座ってて」 

 「へ?」

 一番前の客席、そのど真ん中に無理やり押し込んで座らせる。

 困惑するあいつを無理やり言いくるめて押しとどめ、アタシは舞台右側にある出入口から外に出る。 

 細い廊下を一人歩き、舞台脇に向かう。

 グループアイドルなら狭くて出入りが混雑しそうな舞台袖にたどり着くと、そこには一人の男が立っていた。真っ暗闇の中、一人音響機材をいじる彼は、アタシがアイドルデビューしたときからの担当プロデューサー。

 「お、ようやく来たか」

 「プロデューサー、それ彼女に言ったらフラれるよ?」

 「はー?俺の彼女はそんなに心狭くないですぅー」

 「でもこの前プロデューサーが上げたピアス、微妙過ぎて付けるに付けれないって言ってたよ」

 「うっそだろマジかよ!?」

 漫才のようなやり取りも程ほどに、プロデューサーが操作する機材を後ろからのぞき込む。

 アイドルと言えど、歌って踊るだけじゃなく、自分たちが使う機材の操作方法だって学ばなくては、トップアイドルに何てなれないのだ。アタシ達のライブを支えてくれる人たちの気持ちを知って、感謝するから、もっといいライブにしようと思う。

 それが、トップアイドルへの道なのだと、いろんな人から教わった。

 「それよか、あの、女の子?あれ、男だっけ?」

 「あんな見た目でも男だよ」

 「マジかー…。とにかく、あの男の子が、お前の切っ掛けか?」

 「うん、そうだよ」

 「そっか。彼が、ね」

 舞台袖から、イスに深く腰掛けて、ぼうっと舞台を見つめるあいつを見る。

 プロデューサーには、アタシとあいつの関係を伝えてある。

 だからこそ、今日の手伝いを頼んだのだ。

 アタシがアイドルになった理由。アイドルを続けている理由。

 それは、たった一つの目標の為。

 目指している娘には悪いかもしれないけれど、トップアイドルなんて肩書は、副産物でしかないのだ。

 目標のための努力が、たまたまトップアイドルという結果をもたらした。ただ、それだけの事なのだ。

 だから今日。

 アタシは、一世一代の勝負を仕掛ける。

 夢を叶えて、夢を与える存在となった偶像が、現実だけを見て、夢も未来も過去も視ない人間の考えを壊すために。

 過去を見ようともしない、あいつを。

 未来の事なんて考えもしない、あいつに。 

 生きる価値があるのだと、知らしめるために。

 貴方が忘れて、封じ込めた感情を、アタシが引きずりだしてやるのだと。

 力を込めて、アタシはマイクを握った。

 

 

11 

 

 舞台中央を照らすスポットライトを目指して、舞台袖を出る。

 観客はあいつ一人。

 普段ならたくさんの観客の熱気で、真冬でもライブ会場は暖かい。

 だから、人が少ない会場は盛り上がるまでは寒いまま。今みたいに、あいつ以外誰もいない会場は、本当なら寒いはずなのだ。

 けど、がらんとしたこの会場で、アタシの体はライブ終盤のように熱を持っていた。

 緊張もある。興奮もある。

 どんなに大きなライブより、こいつ一人を相手にするほうが、何倍も、何十倍も、怖くて楽しみだ。

 「…ここは、アタシが覚悟を決めた舞台なんだ」

 あいつだけが座る客席に向かって、マイクを片手に語る。

 「アイドルとして、たった一つの目標に向けて走り出す覚悟を決めた舞台。だから、聞いてください」

 大したメイクもしてない。かわいいステージ衣装でもない。

 それでも、あいつの、貴方のためのステージ。

 今までの努力は、貴方のために。

 ステージに流れる曲に合わせて身体を揺らす。

 この日のために、発表することなく、ライブがあるときでも欠かさず練習してきた歌。

 プロデューサーにも、作曲してくれた人にも迷惑をかけたけど、今日ようやく、お披露目できる。

 たった一人のためだけに作られた、愛の歌。

 優しいピアノのイントロから始まった曲は、普段のアタシでは絶対に考えられないような、バラードよりの曲。

 だからこそ、どんな歌より、それこそ、アタシたちの代表曲で何回も歌った『お願い!シンデレラ』よりも、たくさん練習した。

 バイト終わりのあいつを待たせたりもしたけど、それも今日の、この時間のためだ。

 五分にも満たないこの歌は、愛を謳った歌。

 友達を大事に思う気持ち。たった一人の相手を想う気持ち。そして、家族を大事にしたいという想い。

 アタシの両親が、貴方を大事にしたいのは。

 莉嘉が貴方を慕うのは。

 アタシがいつでも貴方のことを考えているのは。 

 おじさんとおばさんが、いつでも貴方の前で笑顔でいたのは。

 「貴方に伝えるよ。愛している、この想いを」

 激しいダンスはしない。

 ただ、この想いを歌にのせて。

 

 たった一人のためのライブは、僅か4分36秒で幕を閉じた。

 あいつの顔を見ることも無く舞台袖に捌けると、そこにはプロデューサーと、何故か楓さんや瑞樹さん、奏に菜々さん。346カフェであいつのことを知った人たちが集まっていた。

 「ほら、これ」

 「あ、ありがと」 

 プロデューサーが真っ白なタオルを渡してくれる。たった一曲で、ダンスも踊っていないとはいえ、緊張からか、汗をかいていたようだ。

 首元を伝う汗を拭う。

 「早く行ってあげて。あの人のための歌だったんでしょう?」

 「いい歌だったわよ」

 「そうですね。心に染みるような歌でした」

 「な、菜々も、感動しましたっ!」

 「お前がやりたいこと、やりたかったこと。アイドルとしては、褒められたことじゃないかもしれないが」

 たった数分のために準備をしてくれたプロデューサー。

 機材の電源を落とすための操作をしながら、顔だけこっちを向いて、彼は言った。

 「城ヶ崎美嘉の本気を見れたことが、俺は嬉しかったよ」

 アイドルは、誰もが憧れる偶像だ。

 誰かのためではなく、皆のために歌い、踊る。

 皆に夢を見せ、皆の夢になる、皆の偶像だ。

 だから、誰か一人のために歌った今日のアタシは、アイドルとしては失格だった。

 けど、プロデューサーは、そんな本物のアタシを見れたことが嬉しいと言ってくれた。あいつのためだけに歌うアタシの本気が、よかったのだと言ってくれた。

 それだけの言葉で、どれだけ楽になったか。

 「……ありがと!」

 その言葉に、最大限の感謝を詰め込んで、アタシは駆けだした。

 狭い廊下をスニーカーで駆け抜け、静かな観客席に入る。

 プロデューサーがスポットライトを消したのか、非常灯の明かりだけが、暗い客席の光源となっていた。

 その暗闇の中で、僅かに聞こえる息遣いを頼りに足を進める。

 「…ねぇ」

 目が暗さに慣れてきた。

 視認できるほどに近づいて、彼の前に膝をつき、顔を覗き込む。

 いつもなら、すぐに返事をしてくれるのに、何秒待っても返事をしない。

 だから、息が当たるほどに顔を近づけた。

 そうして見えたあいつの頬を、一滴の涙が伝っていく。

 「…あ、れ。なんで…」

 うつむいていた顔をアタシから離れるように上げ、何度もコートの袖で拭う。けれど、涙は一向に止まることはなく、止めどなく流れ出る。

 今まで堪えていた感情が爆発したように、彼の意志に反してあふれ出す。

 そんな彼を見て、アタシは彼を抱き寄せた。

 アタシは彼の肩に頭をのせて、彼の頭をアタシの肩にのせるように抱きしめる。

 「泣いてもいいんだよ。堪える必要なんてない。おじさんたちを思い出して寂しくなっても、泣きたくなってもいい。大丈夫。アンタが辛い時には、皆が、アタシが一緒にいる。アンタは、一人じゃない」

 せき止めていた何が決壊したように、彼は泣き出した。

 おじさんたちが亡くなってから止まっていた涙が、ようやく動き出したように。

 ようやく彼は泣いたのだ。

 今だけを見て、過去を振り返ることなく、自分が傷つくことも厭わない彼は、ようやく自分と向き合った。 

 それを見て、アタシも泣いた。

 アタシのアイドルとしての時間は、この時のため。

 彼は、誰かに助けられたことを気にして、その恩を返すためだけに今を生きてた。

 おじさんたちが亡くなった時も、その現実から逃げるために、これからの事に目を向けた。それ以来ずっと、目を背けた現実から逃げ続けていた。

 それを責める権利は誰にもない。

 あの日のアタシは、それを理解していなかった。

 だから、感情を切り捨てたと思っていたあいつが、アタシと行ったライブで笑顔を見せたことが、何より嬉しくて、嫉妬した。

 そして、アイドルとしてあいつの気持ちを引き出そうとしているうちに、あいつの感情が止まっていることをようやっと理解した。

 「好きだよ。アタシは、アンタの事を愛してる」

 泣き続ける彼に、アタシの肩を濡らし続ける彼に、そっと呟く。

 止まっている彼の時間を動かしたい。

 そう思ったのは、アタシがずっと彼を好きだったから。

 昔から、地味で冴えないやつだったけど、いつでも一緒にいてくれた彼だから。

 アイドルになって、ただ一人、彼の為だけに頑張って、頑張って、ようやく手が届いた。

 

 その日、数年の時を経て、ようやく両親の死と向き合ったあいつは、子供のように泣き疲れて、アタシの思い出の音楽ホールで眠ってしまった。

 このまま夜を明かすことも考えたけれど、風邪をひいてしまうと思い、両親へ連絡した。

 バイクは置いて、目を赤くして眠っているこいつを運び、アタシのベッドに寝かせた。

 部屋を暖かくして、お風呂を終えたアタシも一緒のベッドに入る。子供のように眠る彼は、アタシがベッドに入るなり、アタシを抱きしめた。

 「なっ…!」

 最初こそ恥ずかしくなったものの、優しい表情で眠る顔を見て、自然とアタシも笑みがこぼれた。

 「おやすみ」

 彼は、周りに迷惑をかけて生きていると思っていた。自分の事より、誰かを優先していた。

 それは、彼を愛する人がいないという考えから。そして何より、彼自身が彼を愛していなかったから。

 けれど、彼を愛している人がいるということを伝えたかった。

 貴方は、皆に愛されて。

 何より、アタシがこんなにも愛しているのだと、知ってほしかった。

 この想いがあなたに伝わったかは分からないけど、アタシは伝えたよ。

 「好き」

 明日の貴方は、どんな顔をしてくれるのかな。

 でも、どんな顔をしていても、貴方の優しさは変わらない。

 貴方が自分を大事にしなくても、生きている価値が無いのだと思っていても、それでも生きていたのは、誰かへの優しさがあなたの心にあったから。

 アタシは、そんなあなたが大好き。

 

 

 城ヶ崎美嘉は、貴方の為に、アイドルになったんだ。



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罪を謳う

 1

 

 この光景を、私は一生忘れることは無いだろう。

 教室の中心を囲うように倒れた机や椅子と、散らばったガラス。教室に入るための引き戸は廊下に倒れていて、その扉を壊したであろう机が重なっていた。

 教室の外には野次馬の生徒がたくさんいて、誰もが驚きと恐怖に顔を染めていた。

 ただ、何よりも忘れられないのは、教室の中心。

 五人もの教師に取り押さえられた少年。その足元には、十人以上の生徒が、頭から、顔から、身体の至る所から血を流して倒れ伏していた。

 聞こえる音は、野次馬のざわめきと、倒れた生徒の鳴き声。外から救急車のサイレンも聞こえていたと思う。

 教室内には鼻を塞ぎたくなるようなアンモニアの臭いと、流された大量の血による鉄の臭いが充満し、野次馬の先頭に立つ生徒は顔をしかめていた。

 その状況を作った張本人は、血に濡れた拳をだらりと下げて、死んだような瞳で取り押さえられていた。

 教師が何かを言っているようだが、その言葉は彼には届いていなかった。

 だけど、教師の一人が言った一言を聞いた途端、彼の瞳にもう一度火が灯った。

 「あとであいつらに謝るんだぞ。これはお前が悪い」

 その火は、怒りだった。

 何も知らない担任への怒り。倒れ伏した生徒と同じ存在である担任教師を、彼らと同じように床に沈め無くてはならないと言う怒りの使命感。

 彼は教師五人がかりの拘束を振りほどき、担任教師の顔面に鋭い拳を叩き込んだ。間髪入れずによろめいた担任の髪の毛を乱暴に掴み、床に顔面を叩きつけた。そして、とどめとばかりにその頭を踏みつけ、荒い息を吐きながら、彼はようやく止まった。

 一瞬の出来事に、けれどその惨たらしい景色を見せつけられた野次馬たちは悲鳴を上げ、教師たちは再度彼を抑えつけた。

 その後の事は、よく覚えていない。

 ただ、嵐のような彼の怒りと、台風にでも遭ったかのような教室の惨状が、記憶の壁にこびり付いて離れないのだ。

 その理由を、私は知っている。

 だって、彼を見捨てたのは私だから。

 彼の助けを求める声に、聞こえない振りをしたのは、他でもない私だから。 

 彼の怒りを忘れられないのは、その怒りの本来あるべき矛先が、私の筈だから。 

 中学卒業を目前に控えた二月。

 彼は私の前から姿を消した。

 

 

2

 

 「かんぱーい」

 金色のジョッキが四つぶつかり、キンという気持ちのいい音が響く。座敷の個室には私を含めて四人が座っている。先輩アイドルの高垣楓さん、川島瑞樹さん、片桐早苗さん、そして私、三船美優。

 いつもなら楽しい飲み会の席だけど、今日の私はどうにも楽しめなかった。

 居酒屋に入る前、どころか昨日の時点でお断りの連絡を入れていたくらいだ。

 なら、なぜここにいるのかと言えば、早苗さんに無理やり連れられてきたからだった。

 「ぷはぁ。それで?」

 一口でジョッキの半分を飲んだ早苗さんが、早くも私に聞いてくる。ただの飲み会が、私に関しての尋問会にシフトしているのは勘違いではないだろう。

 だけど、せめてもの抵抗として、聞き返してみる。

 「それで、とは?」

 「もー、すっとぼけんじゃないわよ!いつでも飲みに行くときはニヤニヤして楽しみにしてるくせに、今日は断るんだもん。そりゃ気になるでしょ」

 ですよね。でも、そんなにいつもニヤニヤしてたかな。

 「なにかあったの?」 

 「ええと、そうですね…」

 私は金色の液体を見て、言い淀む。 

 確かに『何か』はあった。というよりも、私は遭ってしまったのだ。

 「昔の知り合いに会いまして…」

 「……仲が悪かったんですか?」

 「いえ、仲は良かったと思います。二つ年下の男の子なんですけど、近所に年の近い子が二人しかいなかったのもあって、よく遊んでいたんです」

 外で遊ぶのが苦手な私に合わせて、家の中で遊べるゲームなんかをよくしていた。今思えば、身体を動かしたいのを我慢して、私に合わせてくれていたのだろう。年下なのに、とても気の使える子だった。騒いだり、うるさくするわけでもないけど、一緒にいるだけで楽しくなるような、そんな男の子だった。

 そんな彼は小学校一年生の頃から道場に通っていた。空手や合気道なんかを習っていたらしい。遊びで発散できない運動への欲求をぶつけていたのか、彼はみるみる強くなり、小学校を卒業する頃には、習っていた武道の多くで黒帯を持っていた。道場の中でも一二を争うくらい強かった彼は、けれど大会なんかには一切出たことが無く、彼の強さを知っていたのは私と彼の家族、道場にいる十人程度の人間だけだった。

 彼自身も、自己主張をするような性格ではないこともあり、何も知らない人から見た彼は、笑顔が絶えない優しい少年といったところだろう。

 実際、彼の優しさは底抜けで、困っている人がいれば躊躇なく助けに行くし、実際に助けるだけの力も持っていた。そして、怒ったところを見たことが無いくらい、いつも笑顔でいる。

 だから、だろうか。

 彼の強さを知っている人が、もう少しでもいれば。

 彼の強さを知る人が、彼の優しさに甘えなければ。

 あの事件は起こらなかった。彼の心は壊れなかった。

 「…彼は、中学に上がるなり、いじめに遭うようになったんです」

 原因は、いじめの主犯が好きだった女の子が、彼の事を好きになってしまった。ただ、それだけの事だった。

 中学一年生の校外学習で発覚したその事実に、いじめの主犯はすぐに動いた。

 中学は複数の小学校から生徒が集まってくる場で、その割合も千差万別。私たちの中学では、私たちの小学校から上がってくる子が極端に少なかった。私たちの家が、小学校の学区内ギリギリにあったから、しょうがないことではあるけれど。

 逆に、いじめの主犯側は小学校からの知り合いが多く、彼の情報が回るのも早かった。彼の、偽りの情報が。

 偽善者。

 それが彼を示す、たった一つの名前。

 百聞は一見に如かず、とはよく言ったもので、噂の実情を確かめようともしない人達のせいで噂は尾ひれがつきながら加速度的に広がった。それこそ、二学年も違う私にすら届くほどに。

 この段階で何よりも不幸だったのは、いじめの主犯の交友関係が広く、それなりに信頼を得ていたことだ。そのせいで、噂は噂ではなく、確かな情報として広まってしまった。

 けれどその噂に、彼の正しい情報など一切なく、常に浮かべている笑顔にすら裏があると言われているほどだった。

 そこから彼に実害が出るまでは早かった。むしろ、一か月も噂だけで済んでいたことに驚くほどに。

 靴や教科書が隠されたり汚されるのは当たり前。椅子に画びょうが張り付けられていたり、掃除中に水を駆けられることもあったらしい。苛めている側も、直接手を出すのはマズいと思っていたのか、暴力を振られることは無かったものの、学校中から敵とみなされ、攻撃される彼の心情は想像を絶するものだったろう。

 それでも、彼は挫けなかった。

 どれだけ陰口をたたかれ、いじめに遭おうとも、彼は学校に休むことなく、家や道場でもいじめに遭っていることを言わなかったという。

 だから、そんな強い彼が唯一弱さを見せられる私が彼を裏切ってしまったという事実が、どれだけ彼を傷つけたのか、私は知るべきだったのだ。

 彼の噂が広がり、実害が及ぶようになってからおよそ8か月。冬休みが開けて数週間が経った頃。

 私は、数少ない女友達と一緒に下校していた。三年間同じクラスで、そこそこ仲が良かった子だ。ただ、どんな話をしていたかはまるで覚えていない。

 覚えているのは、その下校途中に彼と出くわしたということ。

 そして、話しかけてきた彼に言ってしまった、残酷な答え。

 「…美優ちゃん、あの男子って」

 「う、ううん、知らない」

 知らない。

 私は怖かったのだ。

 彼との関係を知られることで、私に悪意が向くのが。

 当時の私は、その後彼に弁明するつもりではいた。近所に知り合いは彼しかいないから、いくらでも二人きりで話せる機会はあると思っていた。

 そんな考えは甘すぎたと、今でも後悔している。

 その日、彼の家に行っても彼はいなかった。両親に聞いても、帰ってきてすらいないと言う。その理由を、後になって知った。

 そして翌日、あの事件が起きた。

 学年が違う私は現場にいなかったから、事件の起こりや私が現場を見るまでの概要は彼の同級生からの又聞きになる。

 その日、彼はいつものように始業ギリギリに学校に到着した。いじめが始まってからというもの、彼はできる限り学校にいる時間を減らすために、朝は始業ギリギリに、帰りは終業後すぐに学校を出ていた。

 彼の椅子には接着剤で画びょうがつけられていて、机はベランダに出されていたという。彼の席は廊下側で、わざわざベランダから机を戻さなくてはならなかった。

 しかし彼は、嫌な顔一つせずに、淡々と机を戻す。

 その姿が、いじめる側の人間には生意気に見えたのだろう。

 机を運ぶ彼の足を払い、わざと転ばせた。机を持っている人間に対してすべきことではないし、実際彼は机を投げ出して床に転がってしまった。前日までの彼なら、何も言わずに、嘲笑にすら耐えていただろう。

 けれど、その日の彼は違った。

 数秒間床にうずくまったかと思うと、彼は投げ出した机の脚を掴み、彼を嘲笑っていた三人の男子に向けて机を投げた。

 苛められている人間とは思えない力で投げられた机は男子生徒の頭上を通り過ぎ、教室の窓ガラスを盛大に破壊した。窓ガラスが割れる音を、確かに私も聞いた。

 次に彼は、驚く男子生徒の鼻っ柱に鍛え上げた拳を叩きつけ、流れるままにいじめの主犯であった男子生徒三人を殴り倒したそうだ。否、彼はそれだけでは止まらず、倒れた男子生徒の頬骨が砕けるまで殴り続けたらしい。

 様々な武道を極めた彼にとって、一方的でなければ相手を辱めることもできない相手など、歯牙にもかけなかった。

 次に行動を起こしたのは、その惨事を見ていた周りの生徒だった。

 運動部系の男子を中心に、正義感の強い女子までが彼を止めようと動いた。

 けれど、それでも彼は止まらない。

 彼にとって、止めに来た生徒たちも、いじめの主犯と大差は無かった。

 それもそのはず。

 彼から見た周りの生徒は、いじめを見て見ぬふりをする、つまるところ、いじめを容認している存在だからだ。いじめを受ける側からすれば、いじめる人間も、それを見て嘲笑い、容認している人間も、断罪してしかるべき存在なのだ。

 そこからの彼は、まるで台風の様だったそうだ。

 男女の性差も関係なく、その場にある机と椅子を撒き散らし、鍛え上げた拳と蹴りを叩き込む。

 それはまさしく、暴力の嵐だった。

 痛みになく女子生徒、暴力に怯えるクラスメイト、血とアンモニアの水溜りに沈む男子生徒。

 破砕音に驚いて集まってきた生徒の群れにいた私は、その光景に恐怖でもなく、罪悪感を抱いた。それこそ、十年近く私を縛り上げるほどに。

 知らない。

 昨日の私が言ってしまった、四文字の言葉。

 その言葉が、無責任にも言ってしまった私の言動そのものが、この現状を作ったのだと。

 血に濡れたシャツと拳。

 疲弊していた彼を、最後の最後で追い詰めてしまったのは、私なのだと。

 「…さよなら」 

 諸悪の根源を、担任を含めて叩き潰した彼が教員に連れていかれるその時。

 彼はそう呟いた。

 がつん、と。

 本当に殴られたわけではないのに。本当に殴られた、教室で泣き喚く彼らの方が痛い筈なのに。

 私はその場に崩れたのだった。

 

 後になって知ったことだけど、彼の起こした事件は新聞の片隅に乗っていたらしい。

 いじめがあったという事実を把握していなかった学校側は責任を問われ、いじめの主犯であった生徒たちの保護者達にもその余波がいったそうだ。

 しかし、彼の暴力にもやり過ぎだと言う意見があり、事件は保護者と学校間での手打ちで終わったらしい。

 けれど、所詮それは子供の手が届かない大人の話。

 子供の世界では、一度起きた過ちはひたすらに影を引きずることとなる。

 事件の翌日から学校は休校になり、再度学校が始まった頃、彼は家族とともに引っ越していた。

 「それなりに仲の良かった両親たちは引っ越しの挨拶や、引っ越し先を教え合っていたみたいですが、それを知るのは私が高校を卒業する時期の事でした」

 高校三年生の一月。彼の家族からと思われる年賀状を見て、彼が東京に引っ越したのだと知った。

 けれど、それを知ったところで私にはどうすることもできない。 

 「…その彼と、再会したのね?」 

 「……はい」

 そして、その記憶を心の隅に追いやって、つまらない大学生活をやり過ごし、入りたくも無い会社でOLをして、そうやって辿り着いたこのアイドルという夢のような仕事で、私は自分の犯した罪と向き合うことになった。

 きっとこれは罰なのだ。

 自分の犯した罪から逃げた罰。

 つまらない時間を、無為な時間を過ごすだけで、彼への罪悪感から逃げ続けた自分への罰。

 「どこで会ったの?まさか、道端ってわけじゃないわよね?」

 「それが、その…」

 話を聞いている最中もお猪口を置かなかった楓さんが、何かに気づいたように声を上げた。

 そして、きっとそれは当たっている。

 「もしかして、新しく来たチーフアシスタントの彼ですか?」

 「え」

 先日、アイドル部署の助っ人として、346プロの総務部からやってきた年以上に若く見える男性。隣で紹介していた武内プロデューサーと比べても、いやに若いのが特徴的だった。

 だけど、それ以上に彼の名前を聞いて、私は血の気が引くのを自覚した。

 「…そうです」

 彼こそが、私の罪。

 

 

3

 

 彼がアイドル部署に来てからというもの、部署全体の騒がしさというか、仕事に追われるプロデューサー達の姿を見る機会が格段に減った。なんというか、以前までは定時を過ぎても帰らず、聞くところによれば日が変わるまで残業していた人たちもいたそうだが、今では定時で帰宅する人も増え、仕事をする姿にもどこか余裕を感じる。

 それも、時季外れの人事異動で別の部署からやってきた彼の功績だろう。

 くたびれたワイシャツにシンプルなデザインのネクタイを締めた彼。赤いアンダーリムの眼鏡の奥には濃い隈があり、それを隠すようにぼさぼさに伸びた黒髪が、記憶の壁に張り付いた彼に重なった。

 私より二つ年下、ということは現在24歳である彼は、およそ20代の働きとは思えないほどの働きぶりでアイドル部署の激務をこなしていた。

 チーフアシスタントという立場は、プロデューサーとアシスタントの中間のような立場らしく、プロデューサーの仕事を補佐し、同じ仕事をするアシスタントの統括役とも言える。つまるところ、別部署から移動してきた、アイドル部署の仕事にすら慣れていない彼が、アイドル部署で最も忙しい立場にいるのだった。

 実際、異動して数日の間、彼のいる部屋はお城のような巨大な事務所で最後まで灯りが点いていた。

 最近では定時ピッタリになると、アイドルやプロデューサーを残して帰るけれど、翌朝は誰よりも早く事務所にいる。

 それに加え、前の部署で相当頼られていたのか、態々アイドル部署に来てまでアドバイスを求める人たちもいる。 

 けれど、目に付く彼の表情は、いつでも変わることなく無表情だった。

 そんな彼に、私は未だに声の一つも掛けることことができていなかった。 

 「ねぇ、アンタいつ話しかけんのよ?」

 「うぅ、早苗さん…」

 彼が働く部屋の前で燻ぶる私に、態々ついてきてくれた。否、無理やり引っ張ってきた早苗さんがジト目で睨んでくる。10センチ以上身長差がある為、睨むと言うよりは上目遣いになっているし、年上とは思えない可愛さを含んでいるけれど。

 「もうすぐ6時になるけど、定時になったら彼帰っちゃうんでしょ?」

 「そうみたい、ですけど…」

 朝早くからこの部屋で書類の処理を始める彼は、プロデューサーやアシスタント、トレーナーさんと業務関係の話をするとき以外は、基本的に部屋から出ない。時折、アイドルの送迎なんかを頼まれて外に出ることはあっても、6時以降はアイドル部署から姿を消す。

 そんな彼と、6時以降も仕事をし続けるプロデューサーやアシスタントを見て、言葉にこそしないけれど彼に不信感を抱いている子もいるらしい。

 特に真面目で自分に厳しく、何より未成年の子たちは、その傾向が強いように思う。

 だけど、元OLの意見としては、残業なんて本来するものではないし、毎日毎日残業を続けるアイドル部署が異質なのだ。まぁ、他の企業との兼ね合いや、アイドルに対しての社員の数が足りていないせいもあるのだろうけど。

 とにかく、最初は夜遅くまで働いていた彼が、定時で帰っているということは、彼の仕事は終わらせているのだ。責められる謂れはどこにもない。

 「ていうか、いっつも見てるだけで、若干ストーカーっぽいわよ」

 「うっ」

 「いい加減、見てるこっちがイライラしちゃうから、さっさと話してきなさい」

 そんな働き者の彼に比べ、ここ最近の私は腑抜けていた。

 練習中も、取材中も、撮影の時でさえ彼の事を考えてしまい、トレーナーに怒られることも多かった。 

 そんな私を見かねたから早苗さんは私をここに連れてきたのだろう。

 「大体、昔の事をちょっと謝るだけじゃない。こんなでっかい企業に就職してるんだし、案外向こうも気にしてないかもしれないわよ?」

 そんな風に励ましてくれる早苗さんを見たその時、目の前の扉が開いた。

 静かに開く扉に反して、出てきた部屋の主は何事かを話していた。

 「はい。今から向かいます。ああ、いえ、問題ないです。え、それはマニュアルの62ページに…はい、とにかく今から行きますので、そちらで」

 彼は私たちの姿を見ると、電話を耳に当てながらも頭を下げ、別部署がある方へと歩いて行った。

 その手にはスマホの他に小さいノートパソコンがあり、服装もジャケットを脱いでワイシャツにネクタイだけのラフな格好だった。シャツの第一ボタンも外し、ネクタイを緩め、アイドル部署にいる時は下ろしている前髪をヘアピンでとめている彼は、およそ普段の彼からは想像もできないほど仕事ができる風体だった。いや、普段も見えないくらいのブラインドタッチでキーボードを叩いたりしているけれど、今の姿はビジネスマンとか、そう。プロデューサー、のようだった。

 「…行っちゃいましたね」

 「てか、あの分だと帰りそうにないわよね?定時帰りの男って話は嘘なのかしら」

 私と大差ない身長なのに、瞬く間に廊下から消えた彼を見て早苗さんが呟く。

 兎にも角にも、当初の予定を達成できなかった私たちは、自分たちのプロジェクトルームへと引き返した。

 「にしても、さっきの誰との電話だったのかしらね。マニュアルとか言ってたし、前の部署の後輩とか?」

 前の部署、と聞いて私は一つ思い出した。

 そういえば、彼の前の部署にプロデューサーがいた、という話を聞いた気がする。

 成年組のアイドルの中でも、よく飲みに行く私達の面倒を見てくれているプロデューサーが、アイドル部署ができる前にいた部署で後輩だった、らしい。

 彼と直接話すよりも、プロデューサーに私の知らない彼を聞いてからの方が話しやすいかもしれない。

 そんな考えが過ぎり、私は階段を上った。

 

 

4

 

 「あいつはすげー奴だよ。ぶっちゃけ、高卒って聞いて嘗めてたけど、この事務所で一番有能なのはあいつだな。ただ、あいつは有能すぎる。教えたことはすぐにできるようになるし、頼んだ仕事は俺がやるより速く、正確に終わらせる。そのせいで一時期、前の部署の仕事があいつに集中したんだ。何が悪かったっていやぁ、仕事を集中させた俺らが悪いんだが、それを感じさせないくらいあいつは完璧に仕事をこなしちまった。分からないことはあいつに聞け。できないことはあいつに任せろ。俺がアイドル部署に引き抜かれる直前にゃあ、そんな考えが部署内で充満してた。だから今回、アイドル部署に異動する事になって、あっちの部署は大慌てだ。あいつが回した決裁は上司ですら中身を見ないし、分からないことを聞いた奴らは言われるがままにやっていただけ。実質あいつ一人で回してた部署になっちまってたんだからな。こないだまで、あいつずっと執務室にこもってたろ?俺も聞いて驚いたんだが、数えきれないくれぇある業務を、一つ一つマニュアルにしてたんだとよ。ちらっと見せてもらったけど、かなり細かく書かれてた。ありゃ、永年保存されっかもな。んで、今度はこっちの部署の仕事が終わってから、向こうの助っ人にも行ってるんだと。行かなくて良いっつったんだけどな…」

 つまるところ、彼は今2つの部署で仕事を抱えている状態なのだ。

 その話を聞いて私がどう思ったかと言えば、またか、の3文字だけだった。

 またか。

 またなのか。

 手段が違う。彼を貶めるわけでもない。むしろ、彼を信頼して頼っているのかもしれない。

 けれど、これは。

 彼に対するいじめ以外の何物でもないではないか。

 「ここでも、なんですか…」

 「……美優さん」

 プロデューサーの執務室に来る途中で会った楓さんと瑞樹さんを含め、前回飲みに行った4人で、彼の話を聞いた。

 その実情は、大手プロダクションの闇とも言うべきものだった。

 「だからある意味、あいつにとっては美城専務からの救済措置、向こうからすれば遅めの処罰ってとこだな。実際、今の引継ぎさえ終わればあいつの仕事量も減るし。チーフアシスタントって立場はあいつに向いてると思うしな」

 それを聞いて、ようやく私は胸を撫でおろした。

 向こうの部署の人たちに悪気が無かったのだとすれば、今の忙しさが終われば彼の仕事もアイドル部署の仕事だけになるのだろう。後腐れも無く、昔のように、何も悪くない彼が逃げることも無い。

 そして思うのだ。

 やはり、私は関わるべきじゃない、と。

 仕事上で話す機会もあるだろう。けれど、それ以上に踏み込むべきじゃない。

 私の謝りたいという気持ちは、私の我儘だ。そして、彼に謝ると言うことは、彼にとって辛い過去を彼に思い出させるということ。

 それなら、彼に謝るよりも、私が関わらないようにした方が、彼にとっては良いだろう。

 私の中には罪として傷が残り続けるけれど、罪への罰としては丁度いいかもしれない。

 あのたった一言を一生忘れないことが、私が彼にできる唯一の償い。

 そう決心した私は、しかしすぐに考え直すこととなる。

 「…アンタ、あの子に関わらないようにしようとか考えてないわよね?」

 隣にいた早苗さんが、怒気を含んだ声で聴いてくる。

 「でも、私と会うことで彼が昔を思い出すなら、それは…」

 本末転倒。そう言う前に、早苗さんの怒声が私の耳を貫いた。

 「確かに昔のアンタがしたことは許されることじゃないわよ!あたしが彼だったら顔を見たいとも思わない!けどね、それはアンタが謝らなくてもいい理由にはならないのよ!いい!?人ってのは傷つけあわなきゃ生きていけないの!でもそれは、傷つけた後に謝って、仲直りするからでしょ!アンタがしようとしてることは、昔彼をいじめてた奴らと同じことなの!もしアンタがそれをやるってんなら、あたしはアンタを許さないわよ!」

 胸倉を掴まれて、壁に追いやられる。

 元警官の早苗さんの拘束を、普通のOLだった私が振りほどけるわけもなく、為されるがままだ。

 私は、壁に押し付けられたまま、怒りの火をその目に灯す早苗さんに、絞り出した様な声で聞いた。

 「…なんで、早苗さんがそこまで、怒るんですか…?」

 その質問に、早苗さんは一瞬の間を置くことなく答えた。

 「そんなの決まってんじゃない。あたしは悪党と友達になった覚えは無いのよ」

 ああ、彼女は言ってくれるのか。

 彼を裏切り、あの事件の本当の元凶とも呼ぶべき私を。

 悪党ではないと。いじめの主犯であった彼らとは違うのだと。

 「アンタが逃げたことは、正しくないけど、間違ってない。当事者じゃないから無責任な言葉になっちゃうけど、過激ないじめに遭ってる子と関わらないってのは、同じ子供の防衛法としてはひどく正しいんだから。だけど、本当に彼を思うなら、逃げた先で誰かに頼るべきだった。彼を助けてって、美優も声を上げるべきだったのよ。まぁ、それをする前に彼の方が動いちゃったんだから、しょうがないことではあるけど。いじめの問題は難しいけど、アンタたちの件で言うなら、いじめの主犯が一番の悪党。そんで、アンタたちは対応が悪かった。我慢するだけ。逃げるだけ。それじゃ、誰も救われないわよ」

 早苗さんは私の胸倉から手を放し、襟元を直してくれる。

 「だから、今度こそ間違えないで。アンタは、美優は彼を思える優しくて正しい女なんだって。美優の過去を知っても、あたしが胸を張って友達だって言える女になりなさい」

 そう言う早苗さんは、私が社会に出て出会った誰よりも正しく、格好良かった。

 その強さが、昔の私にあれば。

 そんな思いが頭を過ぎるけれど、頭を振って飛ばす。

 早苗さんの強さを求める必要はない。

 ただ私が、誰に対しても胸を張って、自分の思う正しさを貫けるようになればいい。

 彼がいじめに遭っていた時、本当は助けたかった。

 足がすくんで動けない自分に、心底失望した。

 だけど、私は変われる。

 胸を張って、自分は三船美優なのだと。

 あの時助けることはできなかったけど、それでも謝ることはできたんだって。

 未来の私が胸を張って生きられるように、私は成長する。

 「…私達、蚊帳の外?」

 「そうですね。ガヤにもなれてませんね」

 「何なら事情を知らない俺が一番訳わかんないんだけど。君ら何しに来たの?三船さんは彼と知り合いなの?」

 「うるさいわね!女同士の友情に水差すんじゃないわよ!」

 「うぅ、すみません…」

 

 

5

 

 「かんぱーい!」

 四色のグラスがカチンと音を立てる。机の上には枝豆や唐揚げをはじめとして、色とりどりなおつまみが置かれている。

 「ぷはぁっ!やっぱ仕事の後はこれよねー!」

 「明日はお休みですし、たくさん飲めますね」

 「楓ちゃんは次の日が休みじゃなくても飲むでしょ」

 「うふふ」

 前回とは違い、和気藹々とした雰囲気で始まる恒例の飲み会。店の角の座敷に陣取る私たちは、完全に悪酔いしていた。

 私の変化の兆しを祝う飲み会と銘打っているものの、やはり根底にあるのは酒好きの欲望なのかもしれない。

 それでも、私も今日の出来事が嬉しくて、これから頑張る自分へのご褒美と称して飲んでいるのだから、他の三人と変わらない。

 「にしても、今日の早苗ちゃんは格好良かったわねー。早苗ちゃんが男だった完全に惚れてたわ」

 「元警察官舐めないでよー?」

 確かに今日の早苗さんは格好良かった。

 まさか大学を卒業して、転職までした先で青春みたいなことをするとは思わなかった。

 思い出して、少しだけ恥ずかしくなったので、羞恥心を流し込むようにサワーを飲む。フルーツ系のサワーはスッキリとした甘みと酸味を同時に運び、少しだけフワッとした感覚に襲われる。

 いつも以上にお酒を楽しみ、三十分も経たないうちに楓さんのダジャレが止まらなくなってきたところで、楓さんのお世話をしていた瑞樹さんが何かに気づいた。

 入り口を注視する瑞樹さんの視線を追うと、入ってきたのはスーツを着た二人の男性。

 先に入ってきた男性は目つきが鋭く、どこかで見たような顔だった。その後に続いて入ってくる男性は、彼に比べて小さく、赤いアンダーリムの眼鏡が特徴的で、やっぱり見たことのある顔だった。

 というか、プロデューサーと彼だった。

 「…んぐっ!?」

 「なにやってんのよ!」

 遅れて反応した私は、飲んでいたサワーをのどに詰まらせた。

 隣に座る早苗さんが驚きと必死の表情で背中を叩いてくれるけど、当の私はそれどころではなかった。

 喉が詰まって息ができないせいもあるけれど、それ以上に、彼に謝る決意をしたその日に彼と会う決意はしていなかったからだ。

 「あら、プロデューサーにチーフさん。お二人で呑みに来たんですか?」

 瑞樹さんが手を振って、近づいてきた二人に声をかける。

 「お前らは呑みすぎだろ。まぁ、新田を連れて来てないから別にいいけどよ」

 「あの時は美波ちゃんから連れてってほしいって言われたのよ。それより、チーフさんと二人?一緒に呑んであげましょうか?」

 「…けほ、けほっ」 

 ようやくサワーが流れ、落ち着いてきたところに、今度は瑞樹さんが爆弾を投げてきた。

 ただでさえ顔を合わせるだけでも緊張で酔いが飛ぶのに、一緒に呑むなんてことになったら、もはやお酒どころじゃない。

 だけど、それは杞憂だったようで。

 「馬鹿か。お前らと呑んだら俺の身がもたんわ。その点、こいつなら絶対酔わねぇし、むしろ俺が酔いつぶれても大丈夫だからな」

 「酔いつぶれた先輩は置いて帰りますけど」

 「なんでそういうこと言うんだよ!呑んでもいいけど、帰ってこなかったら殺すって奥さんに言われてんだよ!」

 「じゃあ潰れないでくださいよ」

 「馬鹿言うな!お前のペースで飲んでたらこいつら以上にもたねぇよ!」

 何やら言い合っているが、とにかく彼らは私達とは一緒に呑まないらしい。良かった。

 「チーフさん、かなり呑めるの?」

 「そうですね。まぁ、人並みくらいには」

 「嘘つけ。こいつはザルだぞ。酔ってるところなんか見たことねぇし」

 その後、瑞樹さんとプロデューサーが少し話して、彼らはカウンターに座った。じっと見ていると、プロデューサーが普通のジョッキでビールを頼んだのに対して、彼は見たことも無いような大ジョッキのビールを頼んでいた。

 この時は知らなかったけれど、この居酒屋の店主は彼の知り合いで、彼の為に特別に用意してあるらしい。

 そして、驚くべきことに、彼はその普通のジョッキの2、3倍はあろうジョッキの半分を一気に飲み干していた。

 その後もちらちらと彼らの方を、楓さんを除いた三人で見ていたが、彼がお酒に強いと言うのは本当らしい。

 プロデューサーがビールのジョッキを一つ空にする間に、巨大ジョッキと日本酒、サワーにウォッカのロックを呑み、それでもなお、トイレに行く際の足取りは普段通りで、一緒に呑んでいるプロデューサーがかわいそうに見えるほどだった。

 それから一時間。

 夜の9時を回った頃、プロデューサーは完全に酔いつぶれ、私たちの席でも楓さんと早苗さんが潰れていた。私は彼が気になってしまうせいでいつもよりゆっくり、途中で普通のジュースを飲んだりしていたから。瑞樹さんは、普段から自制できているし、その上楓さんの面倒を見ながらだったので、酔いつぶれることは無かった。

 しかし、彼はひたすらにジョッキやお猪口を傾け、水でも飲んでるのかと疑うほど呑んでいた。

 それでもなお、酔っているようには見えない。

 「ほんとに強いのね。ていうか、強すぎない?」

 「そうですね…。そろそろ、私たちもお開きにしますか?」

 「そうね。楓ちゃんは私の家に泊めるから、早苗ちゃんの方お願いできる?」

 「はい。それじゃあ、お会計だけ済ませてきますね」

 そう言って、机に置かれているはずの伝票を探すが、どこにも見当たらない。

 「…あれ?瑞樹さん、伝票持ってますか?」

 「そういえば、見てないわね」

 二人で座敷の中を探すが、影も見えない。

 これだけの量の注文なら、伝票は一枚じゃ収まらない筈だし、そもそも持ってきてもらっていた覚えがない。

 近くを歩いていた店員さんに声をかけ、お会計をしたい旨を伝えると、とんでもない答えが返ってきた。

 「伝票、ですか?それなら、あちらのお客様がまとめて払うとのことでしたので、こちらのお席には持ってきていませんよ?お知り合いの方なんですよね?」

 そう言って指し示すのは、カウンター席に座って潰れているプロデューサー。隣に座っていたはずの彼を探すと、レジでお会計をしていた。その手元には、数枚の伝票があり、明らかに二人分ではない金額を財布から出していた。

 会計を終えた彼はカウンター席に戻り、プロデューサーを背負って私達の元にやってきた。

 「タクシーを呼びましたので、お二人を連れて来てもらえますか?帰る方向は高垣さんと川島さん、片桐さんと三船さんが一緒でしたよね?」

 「え、ええ。楓ちゃんは私の家に泊まるし、早苗ちゃんも美優ちゃんの家に泊まるから…。それより、奢ってもらっちゃったようだけど、いいんですか?」

 「はい。先輩名義で接待交際費の経費にするらしいですし」

 「仕事中じゃないのに経費で落ちるの?」

 「落ちません。というか、自分のところで決裁止まりますし」

 「あら、ひどいのね」

 「素面で言った先輩のせいです」

 彼はプロデューサーを背負いなおすと、私たちの準備ができたのを見計らって店を出た。

 続いて私達も店を出る。後ろからは、ありがとうございましたー、と聞き取りにくい声が聞こえた。 

 外には二台のタクシーが止まっていて、彼が運転手と話をしている。

 「それでは、私は先輩を送り届けるので、これで。お疲れさまでした」

 「あ…」

 住宅街の方へ歩いて行く彼に、私は声を漏らす。

 結局、一言も話せなかった。

 早苗さんをタクシーに乗せ、開いたドアの陰から彼の背を見る。彼より10センチほど大きいプロデューサーを背負い、尚且つ浴びるほどのお酒を飲んでいるはずなのに足取りは確かで、プロデューサーが信頼して酔いつぶれるのも納得ができる。

 置いて帰るなんて言っていたけど、きちんと送り届けるところを察するに、彼の優しさは変わらないままなのだろう。

 だからこそ、今ここで声を掛けなければいけない気がした。

 これから変わる私の第一歩を、今踏み出さなければ。

 その直感は正しくて。

 「あの!」

 「…はい?」

 「わ、私のこと、覚えて、ますか…?」

 出てきた言葉は、ずっと聞きたかった言葉。

 けれど。

 「…三船さんのこと、ですか?」

 返ってきた言葉は。

 「部署に来てから初めてお会いしましたよね?それ以前にお会いしたことは無いと思いますが」

 私が望んでいた言葉ではなかった。

 その言葉は、見え始めた希望に罅を入れるには、十分すぎた。

 

 

6

 高校卒業を目前に控えた一月。

 中学での出来事を忘れられずにいた私は、仲の良い友人を作ることも無く、推薦で大学を決めて、ただ卒業式が来るのを待っていた。

 何をするでもなく、非生産的な日々を送る毎日。この時すでに、今の私が出来上がっていたのかもしれない。

 そんな時、私は見てしまった。

 毎日、後悔するだけの日々を送っていた私を、正真正銘の地獄に叩き落した、一通の葉書を。

 午前中で終わる授業を受けて、お昼ごろに帰ってきた私の眼に入った葉書。

 それは、毎年両親が隠している葉書で、私が早く帰宅してくることを知らない両親が隠し忘れたものだった。

 「これ…」

 書かれた住所は東京。

 差出人の名前は、彼の父親のモノだった。

 震える手で葉書の裏を見てみれば、上半分には彼と両親が映った写真が、下半分には彼の父が書いたと思われる文章が書かれていた。

 そこには、彼の家族の近況が書かれていて、仕事や生活は安定しているようだった。

 けれど、写真に写っている彼と、最後に書かれている文章は、私を絶望のどん底に落とした。

 彼は、あの事件以来笑っていない。

 写真に写っている彼は、私でも知っている東京の進学校の制服を着ていて、その表情は何も感じていないかのような無だった。

 私が好きだったあの笑顔は、もう彼の中には存在しない。

 「私の、せいだ…」

 視界がにじみ始めた時、私はあることを思い出した。

 事件の前日。

 私が言ってしまった残酷な一言を謝りに彼の家を訪ねた時、彼は家にいなかった。

 いじめに遭い、私が拒絶し、その翌日に暴力事件が起こった。

 その前夜に家に帰らなかった彼が、向かった場所。

 私は、一つだけ心当たりがあった。

 スクールバッグを投げるように部屋に置いて、私はすぐに家を出た。

 昼下がりの住宅街を駆け抜け、近所の公園を通り抜け、目指す場所は私が小学生の頃に数回しか踏み入ったことが無い場所。和風建築と併設された、彼が通っていた道場だ。

 何故三年も経って道場の事を思い出したのかは、自分でも分からない。事件直後は混乱していたし、その後もあの一言を引きずっていて、事件の前夜のことを忘れていたのかもしれない。

 だからこそ、思い出したのは奇跡だと思ったし、彼が事件前夜に行ったであろう人に会わなければいけない気がした。

 彼が通っていた道場の師範さん。彼が道場のことを話すときは、決まって登場していた人だ。

 家族以外で彼が相談する人は、師範さん以外考えられなかった。むしろ、何故思いつかなかったのか。

 大きな和風建築にたどり着いたとき、私は塀に手をついて肩で息をしていた。もともと体力があるほうではない私にしては、それなりによく走ったほうだと思う。

 ようやく息が整ったところで、通用口の隣に設置されているインターホンを押した。押してから、何を話せばいいのか考えていないことに気づいた。

 「な、なんて言えば…」

 「はい、どちら様でしょう」

 「あ、えっと…!」

 「…ん?」

 カメラ付きのインターホンの前で一人慌てていると、インターホンの向こうにいる人が何かに気づいたのか、声をかけてくれた。

 「君は…。少し、待っていなさい」

 「へ、あ、はい…」

 ぷつん、とインターホンが切れる音がした数秒後、引き戸が開く音がして、目の前の通用口が開いた。

 「やはり君か。私のことは、彼から聞いたのかね?」

 「あ、いえ…。ただ、彼があの日の前に話した人に、ついさっき思い当って…。あなたが、師範さん、なんですか?」

 「ああ、そうだ。入りなさい。彼のことを、聞きに来たのだろう?」

 出てきた老人は、和服姿に白髪で、大きかった。身長ではなく、ぴんと伸ばした背筋と堂々と歩く姿に、本当に老人なのかを疑ってしまう。

 そんな老人の後を追い、私は屋敷の中へと足を踏み入れた。

 「あの子は天才だった。小学生にして既に、道場の中で敵うものはいなく、手合わせの時はいつも私が相手をしていた。だからこそ、あの夜にあの子が来たことに、私も驚いた」

 芝生の庭にある池を見ながら、師範さんは語る。

 「あの子は優しい子だった。自分の強さをひけらかすようなことは決してせず、いつでも笑顔で道場の皆にも愛される、そんな子だった。身につけた力で誰かを傷つけることは絶対にしない。あの子のおかげで、道場にはいつでも笑顔があふれていた」

 知っている。

 私も、彼の笑顔が好きだったから。

 「彼は、あの夜、何を話したんですか…?」 

 「……」

 師範さんは苦しそうに口を噤んだ後、苦々しい表情で言ったのだ。

 「あの日、あの子は自分を破門にしてほしいと言ってきた。この道場にいたという事実を、消してほしいと」

 「…なんで、そんなことを?」

 「私も当時は分からなかった。やんごとなき事情で道場を辞めるのなら、それは仕様がないことではあるが、この道場にいたという事実を消す理由にはならない。しかし、あの事件を聞いて理解した。あの子がどれだけの決意をもって私のもとに来たのか。そして、あの決断すらも、あの子の優しさ故だったのだと」

 師範さんは語る。

 あの日の前日にあった、事件の予兆を。事件が起こることを知っていれば、わかりやす過ぎて説明もいらない話を。

 「あの子の強さは本物だ。腕っぷしの強さもそうだが、何よりも心が強い。あの聞くに堪えないいじめを受けてもなお、10か月もの間耐え忍んだ。私なら、一か月も経たないうちに手が出るだろうね」

 力なく笑う師範さんは、つまらない冗談だったな、と言って続けた。

 「そんな体も心も強く優しいあの子が、苦渋に満ちた表情で道場を辞めると。自らのことを忘れてほしいと言った。それはつまり、あの子がいたという事実があれば、この道場の不利益になるということだ。どこまでも優しいあの子の、子供ながらに私への迷惑を考えての行動だったのだろう」

 池の水面を見つめていた師範さんが、唐突に歩き始めた。

 来なさい、という言葉に従い、師範さんの後を追う。

 向かった先は、併設された道場だった。

 「…あの事件で、彼が暴力を振るったからですか?」

 「ああ…。あの子がいじめの復讐に拳を使ったのであれば、否が応でもこの道場の名に傷がつく。例え、責任を追及されなくても、道場に通う者たちの心にしこりを残すだろう。だからあの子は、この道場を去った。だが…」

 師範さんが見上げた道場の壁には、この道場に通う人たちの名札が付けられていた。

 そして、その一番端っこに、彼の名前があった。

 つまりは、そういうことだろう。

 「……彼は、ほかに何か言っていませんでしたか?」

 「言っていた。だが、あの子との約束だ。誰にも言わずに、墓までもっていくと。すまないが、教えることはできない」

 師範さんはあの日の事を全部話し終えたのか、私を通用口まで送り届けてくれた。

 空は紅く染まり、住宅街の向こうには大きな夕陽が沈みかけていた。

 気を付けて帰りなさいと、通用口を隔てて師範さんが言ってくれる。

 ただ、見送ってくれた時の、優し気な、それでいて寂しそうな表情が、忘れられなかった。

 

 

7

 

 「お、おはようございます…!」

 「おはようございます、三船さん」

 彼が異動してきてから二週間。

 相も変わらず、彼は多忙だった。

 前の部署の引継ぎは終わったのか、時折人が来るくらいにはなったが、それ以外に彼は自ら仕事を増やしているようだった。

 ある時はシステム部門で宣材写真のアップやステージの宣伝ホームページの作成の手伝いを。

 ある時はトレーナーさんとともにレッスンの内容を考案し。

 またある時は、ステージ設営の現場監督すら務め上げていた。

 そんな彼に、アイドルが直接会う機会は思いのほか少ない。

 アイドルの直属の上司ともいえるプロデューサーは当然のこととして、そのプロデューサーを専属的に補佐するアシスタントさんたちなら会う機会はある。

 しかし、チーフアシスタントという立場の彼は、プロデューサーとアシスタントの補佐であり、纏め役だ。その業務にアイドルが絡むことはあれど、直接相対するのは彼ではない。その上、彼自身が増やしたであろう仕事のせいで、最近は外に出ることも多い。

 だからこそ、今日のような機会は珍しかった。

 「美城の第四ホールでしたよね。私は隣の第五ホールでステージ設営の監督をしますので、お送りします。先輩は先に行ってしまったようですし」

 たまたま彼の仕事と私のライブ会場が近く、時間まで被った為に、彼の運転する車に乗って二人で会場近くまで行くのだ。これが緊張せずにいられるだろうか。少なくとも、私には無理だ。

 「は、はい…!」

 初ライブと同じくらい緊張しながら、346の社用車に乗り込む。いつも乗っている車なのに、彼が運転している車だと思うと、何やらいい匂いがする気さえする。というか、実際に花のような香りがする。

 「あの、この香りは…?」

 「緊張しているようでしたので、落ち着く香りを、と思いまして。アロマテラピーがお好きなんですよね」

 「知っていたんですか?」

 「所属しているアイドルの公表プロフィールは把握しておかないと、プロデューサーやアシスタントの皆さんのフォローはできませんから」

 彼は何でもないことのように言うけれど、346に所属するアイドルの数は業界一だ。アイドルの名前と顔を覚えるだけでも、相当なファンでもない限り難しい。

 それだけでなく、私の趣味に合わせて緊張を解してくれようとする辺り、勤勉で優しくて、あの頃の彼のままだ。

 だから私は、彼に踏み込むことを決めたのだ。

 私の事を覚えてなくても。昔の事を忘れ去ったのだとしても。

 彼の優しさに甘えていたあの頃の私と決別し、彼に嫌われたとしても、私の思いを伝えるのだと。

 「…私、昔から家で大人しく遊ぶ子だったんです」

 会場までは、1時間近くある。

 彼の傷口を抉るようで、こちらまで嫌な気分になるが、自分が傷つくことは厭わないと決めたのだ。彼を傷つけることになっても、彼への想いを伝えると、そう決めたのだ。

 「近所に年の近い子は一人しかいなくて、よく一緒に遊んでいました。優しくて、小さかったのに男女の性差も気にして、私に合わせて室内で遊んでくれたり、外に行くときも私が無理をしない範囲で気遣ってくれました」

 彼は無言でハンドルを握る。

 私は過去を語る。

 「小学生の時は、毎日のように遊んでいましたね。一番思い出に残ってるのは、私が小学五年生の時のクリスマスです。私が風邪をひいてしまって、家族ぐるみのクリスマスパーティに出れなかったんですが、夜中になって、二つ年下のその子が私の部屋に来たんです。何かと思って聞いてみたら、クリスマスパーティに出れなかった私のために、二人だけでクリスマスパーティをしよう、って言ってくれて。夜中に子供二人で夜通し話して、次の日の朝に夜更かししたことがばれて怒られて。でも、私にとってはすごく嬉しいことだったんです。だけど、その日のうちに私の風邪が移ってしまって、彼が風邪をひいてしまって。今度は私が彼の家に行って、彼と一緒に寝てしまってまた怒られて。体が重くて辛かったことも、楽しい声が聞こえているのにそこにいない自分が悔しかったことも、彼の行動一つで嬉しい思い出になったんです」

 窓の外を流れゆく景色を見ながら、当時のことを思い出す。

 私よりも小さい彼が、親に隠れて暗い部屋に来てくれた時のことを。

 彼がいるだけで、私の心は跳ねるのだ。

 「…だけど、中学生のころ、その彼がいじめに遭っていたんです」

 少しだけ、車のスピードが上がった気がした。

 「彼は耐えて、私は見て見ぬふりをしました。彼とは学校どころか、近所に住んでいるのに家ですら顔を合わせませんでした。だけど、高校三年の一月、友達と一緒に帰っている途中に話しかけられたんです。きっと、いじめに耐えかねて相談しに来たんだと思います。でも、一緒にいた友達に聞かれたんです。知り合いか、って。私は、知らないと答えました」

 そして、あの事件が起きた。

 「その時の事を、私は一日たりとも忘れたことはありません。その一言のせいで彼が暴力事件を起こしたこともそうですが、誰よりも彼の優しさを身に染みて知っていた私が彼を拒絶したという事に愕然としたんです。彼と知り合いだということで自分がいじめられるかもしれない。そんな恐怖もありました。だけど、結局私は、自分が可愛いだけの、子供だったんです。それも、ついこの間まで」

 突然現れた貴方。

 そして、私を悪ではないと言ってくれた年上の友達の彼女。

 きっと師範さんのことを思い出したのも、偶然じゃないのだ。

 私が変わろうと思ったから。

 傷ついても大丈夫だと。傷つくよりも怖いことがあるのだと。

 早苗さんに教えてもらったから。

 「ごめんなさい。今更謝ったって遅いけど、私の罪がなくなるわけじゃないけど、ずっと謝りたかった。知らないなんて言って、ごめんなさい」

 あの事件からおよそ十年。

 私の中で燻ぶり続けていた、後悔の一言とは別の、彼に言いたかった一言は、それまでの苦しみからは考えられないくらい自然に出てきた。

 ああ、ようやく言えた。

 プロデューサーには無茶なことを頼んでしまったけれど、必要なかったかもしれない。

 そんな安堵とともに、私は彼の方を見た。

 昔の事を掘り返してまで謝る私に、怒っているだろうか。呆れているだろうか。もし、喜んでくれているのなら、それよりも嬉しいことなんて、きっと無いだろうな。

 だけど、顔を上げた先に見えた彼の表情は、無だった。

 そうだ。何を自惚れているのだ、私は。

 どんなに私が謝ったところで、私の自己満足であることに変わりはない。

 車の振動が止まり、ずっと黙っていた彼が口を開いた。

 「三船さん」

 「は、はい…」

 「着きました。先輩が待っていますよ」

 その言葉には、私から早く離れたいという気持ちが混ざっているような気がした。

 そうだ。

 彼に嫌われるとしても、謝ると決めたのは私だ。

 分かっていたことではないか。喜んでくれることなんて、ありはしないのだと。彼を裏切ってしまったあの時に、私はとっくに彼に見限られていたのだ。

 それでも、再会して普通に接してくれたのは、彼がアイドル部署のチーフアシスタントで、私がアイドルだからだ。

 だから、この結果に悲しむ資格は、私にはない。

 謝れたという事実で、私は少しだけでも救われたのだから。

 「…ありがとう、ございました」

 「いえ、仕事ですから」

 彼は私が降りたのを確認した後、スタッフ専用駐車場へと向かった。

 普段なら緊張しながらも楽しみなライブステージも、今日ばかりは、楽しめそうになかった。

 

 

8 

 

 「はぁ!?何も言われなかったぁ!?」

 「はい。…でも、謝れただけでも良かったです。早苗さん、背中を押してくれてありがとうございました」

 彼に謝れたのは、早苗さんのおかげだ。あの時の言葉が無ければ、今日の車の中だって無言で無駄にしていただろう。

 だけど、彼女は。

 彼の事をあまり知らない、それどころか、仕事でさえあまり関わらない彼女が。

 「チーフはどこにいんの!?」

 「うわっ、なに?あいつ?」

 「さっさと答えなさい!美優!アンタはあの曲の準備してなさい!」

 早苗さんはプロデューサーの腕を引いて、会場の外に出ていった。

 最初の出番はシンデレラプロジェクトの子たちなので、早苗さんと私の出番には時間があるが、それでもライブ直前に外に出ていく人は普通居ない。

 そんな彼女を、しかし私は止められない。

 ただ茫然と、走り去っていく二人を見ているだけ。

 どのくらいそうしていたのか分からないけれど、気づいたときにはライブは始まっていて、私もステージ衣装に着替えていた。

 今の私の気持ちと同じ、真黒で、飾りの少ないドレス。薄いメイクのせいで、私の赤い髪が嫌に目立つ。

 ふと視線を上げれば、ステージの中継映像が目に入った。輝くような笑顔で、楽しそうに歌い踊る彼女たちを見て、ノイズがかった頭で考える。

 もし、彼がいじめられていなかったら。

 もし、私が昔から強かったなら。

 もし、彼の助けを求める叫びに、私が手を伸ばせていたなら。

 きっと私は、ステージに立てていなかったとしても、彼女たちに負けないくらいの笑顔で今を生きていけたのだろう。

 そして、それは彼も同じ。

 悪かったのは、いじめていた彼ら。私と彼は対応が悪かっただけ。

 早苗さんはそう言ってくれたけれど、たった一つの間違いが修復不可能な傷を残すことだって、当然あるのだ。

 私は、それをしてしまった。

 彼との関係は、これでおしまいだ。

 だけど、良いじゃないか。

 未来の私がするであろう後悔を、一つでも減らせたのだから。

 謝ることすらできないままだったら、死ぬまで死にたくなるかもしれなかったんだから。

 「……これで、よかったんだ」

 ため息とともに吐露したのは、諦めの感情で。

 これ以上、彼と私の関係は前進も後退もしないことを、確信した言葉だった。

 けれど。

 「よかないわよ!っはぁ、はぁ」

 零れた言葉に反応したのは、息も絶え絶えな早苗さんだった。

 「早苗さん…?」

 「諦めるのが速すぎるわよ!はぁ、はぁ、ちょ…待って…」

 「ええ…」

 困惑しながらも冷たいお茶を用意して、早苗さんに飲ませてあげる。

 私よりも小さい身長で、私よりも大きい胸を持つ彼女が息を切らせている姿は、同性の私にとっても目に毒だが、とりあえず楽屋のソファに座らせる。

 すると、楽屋の外にもう一人やってきた。

 「はぁ、はぁ、俺も、年かな…。とりあえず、呼んできたぜ」

 「はぁ、えっと、誰を?」

 「ああ?あいつに決まってんだろ。珍しく三船が我儘言うから何かと思ってたけど、あいつの為の歌だったんだな」

 「え」

 何やら話がかみ合っていない気がする。

 一体、早苗さんとプロデューサーは何を考えて、何のために彼を呼んできたのだろう。

 その答えを、落ち着いた早苗さんが教えてくれた。

 「アンタが、どんな謝り方をしたのかあたしは知らないけど、あれだけ思い悩んでた友達が、ようやっと絞り出した謝罪を無碍にするなんて、あたしが許せないのよ!だから、聞かせてやりなさい。美優のあの歌は、きっとあの子の心に届くから」

 ああ、私が諦めてしまった感情を、彼女は私よりも大事にしてくれるのか。

 彼女の言葉に、何度励まされたのだろう。

 彼女の気持ちに、何度背中を押してもらったのだろう。

 そして、彼女の言葉で簡単に頑張ろうと思えてしまう自分は、どれだけ単純なのだろうか。

 彼と再会してから、落ち込んで、覚悟を決めてを繰り返し、何度も何度も思い悩んだ。

 ようやく謝れたと思えば、結局は自己満足だと気づいて。

 それでも。

 「…押し付け合い、なんですよね」

 「そうよ」

 人との関わりは、どんな関係であれ、等しく自分の意志の押し付け合いなんだ。

 私の謝りたいという気持ちも。

 彼の思い出したくないという気持ちも。

 早苗さんが私を励ましてくれる、その理由さえも。

 自分の思いを相手に押し付けているだけなのだ。

 だから、本当に伝えたい気持ちがあるのなら。

 無視されてもなお、自分の意志を押し付けろ。

 「早苗さん。プロデューサー。ありがとうございます。私、行ってきますね」

 「ええ、行ってらっしゃい。偶像の三船美優じゃなくて、嘘偽りない、気持ちを押し付けるだけの普通の人間の三船美優として、思う存分ぶちまけてきなさい」

 「アイドルがアイドルに言う言葉じゃねぇな…。ま、我儘を押し通して作った歌だ。好きに歌って来いよ」

 「はい!」

 黒いドレスを身に纏い、最後の決意をもってステージに向かう。

 そこにいる、彼に想いを押し付けるために。

 

 

9

 

 光り輝くステージの前には、たくさんのファン。

 いつもなら彼ら彼女らと一緒に笑顔で楽しく歌うだけ。

 けれど、今日は、今日だけは違う。

 目の前の彼らのための歌じゃない。

 だから、言わなければならないのだ。

 「今日は、皆さんに謝らなければならないことがあります」

 楽しげに揺れる色とりどりのサイリウムが徐々に止まっていく。

 「今日歌う新曲は、皆さんのために歌う曲ではありません。私が、私の気持ちを、意志を、我儘に押し付けるための歌です。私が犯してしまった罪を忘れないために、そして、これからの決意を、ただ一人の人に伝えるための歌です。だから、ごめんなさい。こんなに大きな舞台で、こんなにも私たちの、私の歌を楽しみにしてくれた人たちを裏切ってしまって、本当にごめんなさい」

 スタンドマイクの横に立って、深く頭を下げる。

 これは、ファンに対する裏切りだ。

 皆の偶像たるアイドルが、ファンの前でたった一人のために、自分の気持ちを押し付けるために歌うなんて、あってはならない。

 だけど、舞台の床を見つめる私の耳に届いたのは、罵声なんかではなく、大きな歓声だった。

 驚きの表情でゆっくりと顔を上げれば、色とりどりだったサイリウムは水色とピンクの二色に染められ、大きく振られている。

 そして、かろうじて聞き取れる歓声の中には、気にしていないという声や、私の我儘を聞きたいという、今の私には過ぎた言葉が混ざっていた。

 あまりにも優しいファンの反応に涙が出そうになるが、もう涙を流すわけにはいかない。

 辛くて出る涙も、悲しくて出る涙も、嬉しくて出る涙も、私自身は経験した。

 でも、それを経験していない人を、私は知っている。

 全部を一人で抱え込んで、自分が一番辛いのに、自分のことより他人のことを優先して。

 自分の辛さを押し殺して、笑うことも、涙を流すこともやめてしまった彼のことを、私は知っていた。

 「みんな、ありがとう…っ!私の我儘を、聞いてください」

 その歌は、私の気持ち。

 その曲は、私の意志。

 私が、私の意志を押し通すために歌う、私から彼へのメッセージ。

 静かに流れる音楽に合わせて、歌う。

 初めに唄うのは、過去の過ち。

 私が犯した、取り返しのつかない罪の詩。

 罪を嘆き、罪に潰され、自分にとって都合の悪いことを、自分への罰とした、愚かな自分を謳う。

 ふと視線を感じて舞台袖を見ると、そこには彼がいた。

 「君の背中を見つめるだけの、自分が何より嫌いでした」

 何よりも、誰よりも辛い思いをしていた貴方は、けれど知らなかっただろう。

 あの時の私が、どれだけあの一言に絶望していたか。

 その絶望は、貴方が受けた絶望に比べれば、取るに足らないものだっただろう。

 だけど、そんなものは関係ない。

 重要だったのは、絶望した理由だ。

 「ただ只管に強く優しい、貴方が何より好きでした」

 考える必要も無いくらい、単純な理由。

 大好きだった貴方を。昔から見ていた貴方を。誰よりも貴方の優しさを知っていた私が裏切ってしまったから。

 だけど、私を、私と貴方の事を思ってくれる友達のおかげで、私は変われたんだ。

 あの絶望を乗り越えて、貴方に気持ちを伝えられるように、強くなったよ。

 「私の罪は消えない。けれど、貴方への想いも消えることは無い。だから、ずっと見ていてください。罪を償う、その日まで」

 貴方が私を嫌いでもいい。

 それでも私は我儘を貫き通すから。

 私は貴方を愛してる。

 それが伝わったのなら、それでいい。

 私の我儘で作られた5分7秒の曲は、静かな歓声を受けて終わりを告げた。

 輝くサイリウムを横目に、私は舞台袖に立つ彼の前に立つ。

 今でも少し怖いけれど、前ほどじゃない。 

 ステージ裏の暗闇の中で彼と視線を合わせると、彼は静かに涙を流していた。

 前髪をヘアピンで留め、この一週間ほどで見慣れた彼の仕事スタイルは、動きやすさを優先していた。それは、彼が必要以上に仕事をしたがる故の恰好。その理由は、今なら簡単にわかる。

 余計なことを考えたくないから。昔の事を思い出したくないから。

 だから仕事に没頭する。

 その結果が、仕事人間の彼の姿だ。 

 そんな彼が、涙を流した。

 そこで私は思い出したのだ。

 彼が一度だけ流した涙の事を。

 あの事件で、彼が教師に連れていかれるその時。全てが終わったと呟いた彼は、確かに泣いていた。

 「…三船、さん」

 頬を伝う涙を拭うこともせずに、彼は私を見つめる。

 その瞳は、いつもの彼とは思えない程に弱弱しく、だけど、伝えたいことがあると物語っていた。

 スタッフが慌ただしく駆け回る中、私は彼の言葉を待つ。

 ステージの音も、ステージ裏の音も聞こえなくなった、彼と私だけの世界で、私が聞いた言葉は。

 「美優、姉のことが、好きだった、よ…」

 幼い子供のようにたどたどしく紡がれた言葉は、私の想像をはるかに超えるものだった。

 「…ほぇっ!?」

 「はいはい、後は人がいないとこでやってなさい。次はあたしの出番なの」

 「わ、早苗さん!?」

 予想だにしない返答に、明らかに赤面しているであろう私の肩に手を置いたのは、派手な衣装に着替えた早苗さんだった。

 彼女は私とすれ違うその瞬間に、耳に口元を寄せ、こう言った。

 「良かったわね」

 「……はいっ!」

 

 

10

 

 ホールの外に出た私たちは、星が輝く夜空の下で向き合う。

 冬ではないにしろ、夜ともなれば気温は下がる。黒いドレスだけでは寒いと思ったのか、歩いている最中に渡してくれた彼のジャケットを私は羽織っていた。

 ワイシャツだけの彼は、眼を赤くしながらも、私の事を見てくれていた。

 「…三船さん。ごめんなさい。本当に謝るべきは、私の方なんです。貴女が謝る必要なんて、なかったんです」

 「そんな…。私は、貴方に謝れたのなら、それで…」

 「違うんです。そうじゃないんです」

 彼は、私から視線をそらし、空を見上げた。

 そして、彼は語る。

 私の主観ではない、あの事件を。

 あの事件が起きた、本当のきっかけを。

 

 あの事件の前日。

 私が彼に言ってしまったあの一言は、私にとっての罪だったけれど、彼にとっては違ったらしい。

 あの日、私は彼が私の事を待っていたのだと思っていた。8か月に及ぶいじめに耐え兼ねて、憔悴したから私に相談しに来たのだと思っていた。

 だけど、彼と私が出会ったのは偶然だったのだ。

 偶然出会ってしまったからこそ、彼は無意識に声をかけてしまったのだと言う。

 仲の良かった、けれど彼の状況と私の弱さゆえに会うことができなかった私に会って、零れてしまった。

 そして、あの言葉を聞いて、私は彼がその一言に絶望してあの事件を起こしたのだと思った。

 けれど、本当は。

 「私が絶望したのは、貴方があまりにも辛そうな顔をしたからです」

 「え…?」

 「あの時、私が話しかけてしまったことで貴女の笑顔が失われたことが、私にとっては何よりも絶望すべきことでした。そして、貴女にそんな顔をさせてしまう自分が、どれだけ惨めな場所に立っているかを自覚したんです。けれど、私は解決する手段をたった一つしか持っていなかった。今思えば、短慮に拳を使っただけですが、それでも三船さんの表情を見て、決心しました。ああ、三船さんの責任にしようとしている訳じゃないです。あの事件に関しては、原因が何であれ、全て私の責任です」

 彼はへにゃ、と力なく笑う。

 「けれど、あの状況を壊すと言うことは、もう後には戻れないということ。あの時の私は、短絡的な考えの中でもそれを理解してました。だから、通っていた道場の師範に破門を頼み込み、両親にも引っ越しを求め、貴女の前から消えようとした」

 けれど、私と彼は再会した。

 私は罪と向き合うことを決意し、彼に謝ることを決め、自分の意志を押し付けた。

 しかし彼は。

 「貴女が私を思い出さなければいいと思った。チーフアシスタントという立場は、アイドルである貴女たちに一番関わらない立場だから、好都合だと思いました。貴女が私を思い出すことなく、貴女の笑顔を守れる立場にいられるのなら、どれだけ嬉しいことか。だからこそ、貴女が昔の話を始めた時、私は346を辞める気でいました。貴女があの事件を後悔してくれていることも、一切責任の無い貴女が謝ってくれたことも、私にとってはこれ以上ないくらい嬉しいことだったけれど、同じくらい、貴女に背負わせていたものの重さを知りました」

 私の謝罪は、私の自己満足と同時に、彼に私が感じていた罪を知らせてしまう行為だった。

 なら、何故。

 事務所を辞める覚悟さえさせてしまった私の歌を聞きに来てくれたのか。

 その答えは、あまりにも簡単で。

 「片桐さんと先輩が、言ってくれたんです」

 私を置いてライブ前に出ていった二人は、隣のホールでステージ設営の現場指揮を採っていた彼にこう言ったそうだ。

 「アンタねぇ、昔の事でうじうじ悩むのも大概にしなさいよ!昔の事を切り捨てたような顔して、アンタが一番引きずってんじゃないの!美優の言葉を聞かないふりして、今から目を背けるアンタが、あの子の覚悟を踏みにじるな!」

 「おい、事務所の奴しかいねぇとはいえ、アイドルが胸蔵掴むのは絵面悪ぃぞ。…ま、未だに事情を把握しきれてねぇんだけどよ。三船には三船の事情があるように、お前にもお前なりの気持ちと事情があるんだろうよ。だけどさ、結論を出すのはまだ早ぇんじゃねぇか?あいつが珍しく我儘通して作った曲を聞いてからでも遅くねぇと思うぞ。あいつの我儘を聞いて、お前の我儘も言ってやりゃあ、どういう結論にしろ納得できんだろ」

 あの二人は、そんなことまで言ってくれたのか。

 彼が私の歌を聞いてくれた、それだけでも嬉しいことなのに、その裏話を聞いて私たちの事を心配してくれる二人の優しさに泣きそうになる。

 「だから、私も…僕も我儘を言いたい」

 口調を変えた、否。以前の彼に戻ったような話し方の彼は、先ほどまでの優しく、儚げな表情から一変し、仕事をしている時よりも真剣な表情をしている。

 唐突に近くの街灯が消え、一層暗くなった。

 風がざあっ、と音を立て、ドレスの裾と降ろした髪が靡く。

 視界を遮るように揺れた髪を耳に掛けるように手を動かしたその時、彼の小さな口が言葉を紡いだ。

 「昔から、貴女の事が好きでした。あの日から、貴女の事を忘れた日なんて一度だって無かった。だから、これからは、貴女の近くで、貴女の笑顔を守らせてほしい。辛いものを見せて、責任と罪を背負わせて、貴女の覚悟すら踏みにじった俺がこんなことを言うのは虫が良すぎる話で、そもそもこんなことを言う権利すら無いってこともわかってる。だけど、もう、貴女の笑顔を見れないのは、耐えられないんだ…っ!」

 一度止まった涙が流れ出す。 

 ああ、君も、私と同じように苦しんでいたんだね。

 あの事件を後悔して。

 君と会えない時間に苦しんで。

 再会した時の喜びを押し殺して。

 お互いの笑顔を守ろうとした。

 ただ、守るための方法が違っただけ。

 私は逃げて、友達に出会って、覚悟を決めた。 

 君は一人で頑張ることを決めて、関わることを辞めようとした。

 私と君は、似た者同士。

 だから、君が思っていることは、私も考えていることで。

 答えなんて、決まっていた。

 「私も、君に会えないのは辛くて、耐えられないよ…。だから、これからは、私の傍にいてほしい。貴女の笑顔を、一番近くで見させてください…!」

 暗がりで、彼の半身は陰になっている。

 その彼の胸に、躊躇うことなく飛び込む。彼のジャケットを羽織り、正面から彼を抱きしめると、全身を彼に包まれているようで、心の底から安心した。

 流れる涙は留まることを知らず、彼のシャツを濡らしていく。

 そのお返しとばかりに、大して身長の変わらない彼の涙が、私の肩を濡らす。

 およそ十年に及ぶ罪悪感は、罪の象徴であった彼自身によって解かれていく。もう、私を苦しめるものは無いのだと、これからは彼の近くで幸せを享受していいのだと。

 今までの苦しみは、これまでの葛藤は、この時の為にあったのだと。

 私たちは、不幸だった。

 運に恵まれず、環境に恵まれず、感情に鈍かった。

 だけど、だからこそ、今までの不幸を、不運を、今日の、これからの幸せの為にあったのだと。

 もう、昔の事を笑って語らっていいのだと。

 そう信じられる涙を流せることが、こんなにも幸せなのだと。

 ようやく私たちは知ったのだった。

 





 満月が照らす静かな墓地に、一人の老人が立っていた。
 和服に身を包み、老人らしからぬ体格の彼は、顔に刻まれた皴が無ければ老人にすら見られないであろう彼は、一つの墓石の前に佇んでいた。
 それは、彼の親族が眠り、いずれ彼自身も入るだろう、彼の親族の墓石。
 そんな墓石の前で、彼は煙管から煙を揺蕩わせ、輝く満月を見ていた。
 見る者が見れば、墓場に佇む幽霊に見えるかもしれない彼は、一人呟く。
 「破門、か」
 肺に吸い込んだ煙を吐き出し、ゆったりとした動作で、墓石の前に座り込む。
 「破門になぞ、するものか。君があの事件を起こした本当の理由を聞いて、私は君を誇りに思ったというのに」
 紫煙と満月に思い浮かべるのは、幼い彼が、武家屋敷の通用口で言った言葉。
 その一言で、彼の名前は道場に刻まれることとなった。
 「……中学生が言うには、あまりにも酷な言葉だよ」
 再度煙を肺に入れ、満たされたところで吐き出す。
 片手に煙管を持ち、墓石の前に置いたお猪口を掲げる。
 日本酒が注がれたお猪口の水面に満月が映る。
 「彼と、彼の守りたかった彼女に、乾杯」
 一気に呷り、彼は立ち上がる。
 その脳裏には、数年前の一幕が映し出されていた。

  

 「本当に、名札を降ろしていいんだね?」
 「はい。長い間、お世話になりました」
 「…君ほど聡明で、優しく、才気に溢れた少年は、もう現れることも無いだろう。そうまでして君がしたいこととは、一体…?」
 「難しい話じゃないんですよ。とってもシンプルで、たった一つ、やらなきゃいけないことがあるだけなんです」
 「それは、君の為か?」
 「…誰かの為、とかじゃないんです。ただ、僕が、僕自身を許せない。美優姉の笑顔を守れなかった僕自身への、罰なんです」
 「子供を守るのは大人の仕事だ。君が責任を感じる必要はないさ」
 

 「そうかもしれません。でも、義務とか、責任とか、そんなのは関係ない。大好きな人には、ずっと笑っていてほしい。愛している人には幸せでいてほしい。僕の事が枷になるのなら、僕はいなくてもいい。ただ、美優姉のことが、何よりも大切なんです」

 


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夢を謳う

 1

 

 誰もが認めるトップアイドルの高垣楓と、ネットで話題になるさしわたという少年が出会ったのは、夜桜が美しい都内の公園だった。

 アコースティックギターの弦を一つずつ弾き、メロディだけの曲に合わせて歌う彼に見惚れていたことを、彼女はいつまでも忘れないだろう。

 公園に設置された一本の外灯に照らされて、淡く輝く桜の花弁が舞い散る中で歌う彼は、比喩ではなく妖精のようだった。

 そんな彼を見つけたのは、楓が和歌山から上京してきた当日だった。

 モデルの仕事のために上京し、事務所に比較的近いマンションへの引っ越し作業を終えた後。楓は隣人への挨拶をしていた。といっても、彼女の部屋は角部屋で、隣部屋は一つしかない。

 引っ越しそばを持って訪ねた隣部屋から出てきたのは、優し気な老夫婦だった。

 170センチを超える身長の楓を見たときはやや驚いていたが、それでも律義に挨拶をしてくれた楓に老夫婦は夕飯のおかずになりそうなものを何品かお裾分けしてくれた。

 酒を好む楓からすれば、これ以上ないくらいのプレゼントであり、花が咲くような笑顔でお礼を言った後に帰宅した。

 引っ越し祝いに、老夫婦からもらったおかずに合うようなお酒を買いに行こうと考えた楓は、夕日が沈んだ直後に部屋を出た。と同時に、隣室の玄関が開いた。

 「あら、どうかされましたか?」

 おかずをお裾分けしてくれたということは、老夫婦の夕飯の準備はできているのだろう。

 だからこそ、この時間帯に外出するとは思えなかった楓は、部屋から出てきたお婆さんに声をかけた。

 「ああ、高垣さん。いえね、孫がまだ帰ってきてなくてねぇ。そろそろお夕飯にしよう思ってるんだけど…」

 その言葉を聞いて、楓は頭で考えるよりも早く口を動かした。

 「お孫さんがいる場所に心当たりはありますか?今から少し出かけるので、途中で探してきますよ」

 「あらそう?悪いわねぇ」

 「うふふ、お互い様ですよ。美味しそうなおかずも貰っちゃいましたし」

 穏やかな嫁と姑のような会話は五分ほど続き、ようやく伝えられた場所は、マンション近くの公園だった。

 なんでも、子供がいなくなるような時間帯から公園に行くのが習慣らしく、目印は青いアコースティックギターを持った少年らしい。

 普段なら夕飯時には帰ってくるらしいが、余りに熱中しているときは今日のように遅くなってしまうのだとか。

 近くのスーパーで数個の缶ビールを買った楓は、言われたとおりに公園へと向かった。

 決して大きくはない公園には、ブランコと滑り台、いくつかのベンチが置いてあるだけで、近くに住む幼い子たちしか使わないような、住宅街の中にあるありきたりな公園だ。公園を囲むフェンスの近くには二本の大きな桜の木が植えられていて、公園の中心にある外灯が淡く照らしている。

 そんな桜の下にあるベンチに、彼はいた。

 聞いていた話では中学一年生らしいが、手に持ったアコースティックギターのせいか、男子にしては小さく見える。少し伸びた前髪をゴムで縛り、可愛らしいおでこが出ていることに少しだけ微笑んだ楓だったが、彼しかいない公園に足を踏み入れた途端、景色が変わったのを知覚した。

 薄暗く照らされていた桜は、月明りを反射したかのように輝き、散りゆく花弁は、薄暗い公園を幻想的な風景へと変貌させる。

 そんな景色を作り上げたのは、歌。

 ギターの弦をポロンポロンと一つずつ弾く彼の、優しい歌声だった。

 聞こえる歌詞は、彼の感情。

 何か嬉しい出来事があったのだろう。微笑みながら歌う彼は、何よりも幸せそうだった。

 聞いているだけで嬉しくなるようなその歌には、彼だけの言葉で作られた世界があり、けれど聞けばその世界に入り込んだような感覚に陥ってしまう。

 あまりにも幻想的な光景に目を奪われていた楓だったが、そんな彼女を現実に引き戻したのも、また彼だった。

 「…ごめんなさい。うるさかったですか?」

 ギターを奏でる手を止め、彼は申し訳なさそうな表情で謝る。

 ただでさえ小さい彼が頭を下げると、それはもう頭を下げるどころか、首を垂れるといったほうがしっくりくる光景だった。

 そんな彼に、楓は優しく声をかけた。

 「とても綺麗な歌でした。なんていう曲なんですか?」

 「え?えっと、曲名はないんです。思いつきで歌ってただけですから」

 「…思いつきで、あんな歌が?」

 それは純粋な驚きだった。

 人を感動させる曲は世の中に数あれど、即興の歌で人を感動させられる人間はどれほどいるのだろうか。ましてやそれが中学生の少年なんて言ったら、信じる人間はよっぽどのお人よしだろう。

 「それより、僕に何か御用ですか?てっきり注意しに来たものかと…」

 どうやらこの少年、以前にもここでギターを弾いて注意されたことがあるらしい。

 それはさておき、本来の要件を彼に伝える。

 「うふふ。私は高垣楓といいます。今日、貴方のお部屋の隣に引っ越してきました。お婆さんが、御夕飯だから帰ってくるように言っていましたよ」

 「え、すみません。お隣さんにご迷惑を…」

 「気にしないでください。代わりに、また貴方の歌を聞かせてもらってもいいですか?」

 「僕の歌、ですか?」

 彼は首を傾げて聞く。一緒に揺れる結んだ前髪のちょんまげが愛らしい。

 そんな彼に、楓は頷く。

 「ええ。少しだけしか聞いていないけれど、貴方の歌が好きになってしまったんです。貴方の喜びが伝わる、とても素敵な歌でした」

 ふふ、と優しく笑う楓の言葉には、一切の嘘偽りがない。

 だからこそ、楓の言葉は素直に伝わる。

 そして、意図せずとも楓の言葉は、少年の望む言葉に重なった。

 「……えへへ、それじゃあ、また聞いてください!えーっと、高垣さん…?」

 「ふふ、ぜひ聞かせてください。私のことは楓、と呼んでください」

 「よろしくです、楓さん」

 これが、彼と楓の最初の出会いだった。

 

 

 2

 

 「えー!?楓さん、さしわたさんと知り合いなの!?」

 芸能プロダクションの大手、346プロの事務所にある346カフェで、カリスマギャルとして名高い城ケ崎美嘉が叫ぶ。

 その正面には静かにコーヒーを飲む楓と、その隣に川島瑞樹が座っている。

 「というか、楓ちゃんの私生活って謎よね。私の家にはよく来るけど、楓ちゃんの家ってあまり行ったことないもの」

 「美嘉ー、他のお客さまが来たら声のボリューム下げてねー」

 「あ、ごめんごめん」

 カウンターの裏から美嘉を注意するのは、彼女の幼馴染。

 彼は都内有数の進学校を三年間主席、且つ全国模試でも一位で居続けるという驚異の成績で卒業し、教師陣からの大学進学の勧めをすべて断り、この346事務所への就職を決めた。

 アルバイトとして346カフェでアイドルと接し続けてきた経験もあってか、人手不足のカフェを手伝いながらも、いずれはアシスタントやプロデューサーとしてアイドル部署への配属も決まっている。ちなみに、その際の教育係はアシスタントの千川ちひろとなっている。彼女の優秀さは語る必要もないが、それ故に厳しい彼女の一面を知る者からは、やや可哀そうな視線を送られることもあるらしい。

 けれど、学生時代の経験から、彼は真面目に、けれど効率よく動く術を知っていた。

 そのせいか、彼とちひろの関係は周囲が思うほど悪くない。どころか、先輩後輩の関係にあっては、並みの運動部の関係性すら凌ぐ。 

 それに美嘉がやきもきしているのは、また別の話だ。

 閑話休題。

 美嘉が騒いだ理由は、一人の少年にあった。

 「ところで、その『さしわた』っていうのは名前なの?」

 「そうですよ。SNSで動画が上がってから、学生で知らない人なんかいないくらい有名なんです!路上ライブで、メディアにも出たことがないのに、人が集まりすぎて警察が出動したこともあるんですよ」

 「警察!?そんな凄い子と知り合いなの?」

 「知り合いと言いますか、お隣さんなんです」

 「お隣さん!?」

 美嘉と瑞樹は目を見開いて驚くが、楓にとっては、東京に出てきた時からの付き合いなのだ。何なら346のアイドルよりも付き合いは長い。

アイドルよりも付き合いは長い。

 そして何より、さしわたと呼ばれる少年が路上ライブで有名になった理由の一人でもあるのだから、ある意味さしわたの生みの親の一人と言っても過言ではない。

 だが、それを今言ってしまえば、目の前の二人はさらに騒いでしまうだろう。

 いつもお世話になっているカフェに、これ以上迷惑をかけられないと考えた楓は口を噤んだ。

 「……あ」

 振るえる携帯の画面を見ると、そこには話題の彼の名前があった。

 余りにもタイミングが良すぎる彼の連絡に声を漏らすと、騒いでいた二人の興味を引いてしまったようだ。

 「もしかして、そのさしわたって子から?」

 「ええ、まぁ」

 それを聞くなり、二人は楓を囲い込むように、楓の持つスマホを覗き込む。

 画面にはさしわたという名前と、今日の6時から駅前で、という文言が書かれていた。

 内容もそうだが、それ以上に、表示されている名前に疑問を抱いた。

 「楓ちゃん、知り合い、なのよね?」

 「はい」

 「じゃあなんでさしわたなの?え、さしわたって本名なの?」

 「違いますよ。さしわたという名前は彼が考えた芸名のようなものです。ただ、本名が漏れてしまうといけない理由があるので、彼と直接話すとき以外はさしわたという名前を使っているんです」

 「へぇ、なんか大変なのねぇ」

 そう。

 大変なのだ。

 彼と楓が知り合って、およそ3年。その間に、彼のことを知り、彼に憧れた。

 トップアイドル高垣楓の原点は、間違いなく彼だった。

 ファンと共に歩んでいけるアイドルを目指そうと思ったのも、そもそもモデルからアイドルに転向したのも。

 全ては彼に感化されたから。

 彼の歌に、心を突き動かされたからだ。

 だけど、楓に夢を与えた彼は、しかし自分の夢を追える環境にいなかった。

 彼自身は諦めていなかった。けれど、環境がそれを許してくれなかった。

 だから、楓は彼の背を押したいと願ったのだ。

 夢を与えられるだけの力を持つ彼の、叶わないと諦めた夢の先を見たいと。

 その未来を見れるのなら、何だってしてあげたいと。

 それを決意したのは、楓が新部署であるアイドル部署から勧誘を受けた、冬の日のことだった。

 

 

 

 3

 

 その日の歌は、虚しさの歌だった。

 ゆっくりと弾くギターに合わせて紡がれたのは、奇跡は簡単に起こるものではないこと。夢を叶えられるのは選ばれたものだけであること。そして、自身は選ばれなかったこと。けれど、だからこそ出来ることがあるということ。

 そんな虚しくも、希望を持つことを諦めない彼の歌を聞いて、楓は二つの感想を抱いた。

 一つは、変わることのない彼の歌に対する感動と、そんな歌を歌える彼への憧憬。

 もう一つは、疑問だった。

 彼の歌には、いつでも希望が混じっている。どれだけ悲しい歌だろうと、例え怒りの歌であろうと、彼の歌から希望が消えることはない。

 それは、言葉で伝えるだけでなく、時には表情で、時にはギターの演奏だけで、彼は何かを諦める必要はないのだと。希望を捨てることはないのだと、伝えてくれる。

 しかし、その日の歌には、そんな彼の優しい思いが薄い気がした。

 諦めないのではなく、別の道を探すのは、彼の本位ではないよう気がした。

 「…何か、ありました?」

 「え?いやぁ、えへへ。やっぱり、わかっちゃいますよね」

 彼の歌は、彼の感情そのものだ。

 感じた想いを、一言で伝えることができない彼の感情を、歌に込めて伝える。

 だからこそ、誰よりも彼の歌を聞いてきた楓には分かってしまう。

 「…今日、父さんが帰ってくるんです」

 

 それは、楓も聞き及んでいた話。

 彼の家には現在、件の老夫婦と、その孫である彼しか住んでいない。

 その事実を知った時、踏み込んでいいものかと悩んだ楓だったが、それは杞憂だったようで、彼のほうから教えてくれた。

 モデルの仕事終わりに彼の歌を聞いて、年の離れた姉弟のように並んで歩く帰り道。

 夕陽を受けて伸びた影を見ながら、彼は語る。

 「楓さんはもうわかってると思うんですけど、僕には母親がいません。二年前に病気で死んで、それから去年まではじいちゃんとばあちゃんと父さんと四人で、父さんが単身赴任になってからは三人で住んでます。母さんが死んだ直後は、本当に何もする気力が起きなくて、父さんに言われるがままに勉強だけしてました。そのおかげで、中学の勉強には困らないんですけどね」

 へへ、と笑う彼の表情は、けれど決して絶望などはしていなかった。

 「だけど、母さんの遺品整理をしてる時に、母さんが昔使ってたギターを見つけたんです」

 彼の母親は、NPOとして各国を飛び回り、音楽で人々の心を癒す仕事をしていたそうだ。

 時にはギターで盛り上がり、時にはピアノで優しく癒し、訪れた地域特有の楽器を教えてもらいながら心を通合わせる。

 お金やモノだけでは救えない人の心を、彼の母親は救うために各国を飛び回っていたそうだ。

 月の半分ほどしか会えない母親を、しかし彼は誇りに思っていた。

 そして、母親と会える少ない時間で、彼は母親から楽器を習っていた。

 その中で、最も得意で、最も母親に褒められたのがアコースティックギターだった。

 母親の持つ太陽のように赤いアコースティックギターと対照的な、青空のような蒼いギター。

 誕生日プレゼントとしてもらったそれは、今でも彼の愛用する、いわば相棒のようなものだ。

 「ふふ、優しいお母さんだったんですね」

 「はい。昔はただ母さんに褒められるのが嬉しかったんです」

 けれど、その母は死んでしまった。

 病気という、彼にはどうしようもない原因ではあったけれど。

 しかし、彼の母親が確かに遺したものがあった。

 死んでもなお、彼のことを心配するかのように、彼は母のギターと再会したのだ。

 「そのギターはもう僕には直せないから使えないんですけど、そんなギターに背中を押された気がしたんです」

 それから彼は、自身の感情を歌にして弾き語りをするようになったのだという。

 上達するまでに時間はかかったけれど、彼は諦めなかった。

 人の心を癒す音楽を奏でていた母親を目標に、彼は努力をし続けた。

 その努力は、美しく、誰が見ても健気に見えただろう。

 けれど、彼が母の死を乗り越えたのと同じように、彼の母親の死を経て、彼とは別の道を見出した者もいる。

 彼の夢を幻想だと切り捨てて、自身が信じる道を彼に歩ませようとする、彼の父だ。

 「父さんの言い分は、たぶん間違ってないです。勉強して、いい高校、大学に行って、良い会社に入る。それは難しいことだし、それを目指して努力している人たちがいるんですから、絶対に間違いではないんです」

 でも、と彼は続ける。

 「僕の目指す道は、それじゃないんです。父さんの示す道は、僕の目指す道じゃない。将来、父さんの言葉を信じてその道を歩かなかったことを後悔するかもしれない。父さんの示す道の先に、僕の本当の幸せがあるかもしれない。だけど」

 だけど、彼は自分の信じた道を進む。

 それは、誰かの言いなりになりたくないとか、父の示す道が嫌だからとか、反抗期の子供のような理由ではない。

 彼の信じた道が、彼の夢そのものだからだ。

 努力の末に叶えた夢も、夢のための努力も、彼にとっては欠かすことのできない、夢の一端。

 「父さんにも、言ってはみたんですけど、やっぱり納得してもらえなくて…」

 だからこそ、彼は父から逃げる。

 決して父の言う勉強を疎かにするわけじゃない。しかし、それ以上に大切なものを守るために、彼は逃げる。

 「…強いですね、貴方は」

 そんな彼の頭を、楓は撫でる。

 楓から見れば、彼はまだ子供で、母親の死を引きずっていてもおかしくない。

 それでも、母の、そして何より自分の夢のために頑張る彼は、輝いて見えた。

 逃げるなんてとんでもない。

 彼は、子供とは思えない強さと判断力で、自分の夢と戦い続けている。

 それでも、それだけの覚悟をもってしても、現実とは過酷で、残酷だ。

 「そ、そんなこと、無いです。夢をもって、努力をしても、僕は子供だし、じいちゃんもばあちゃんも母さんのことがあったから、本当は僕の夢を応援なんてしたくないんです」

 努力だけじゃ、夢は叶わない。

 彼の場合、環境が、彼の夢の道の邪魔をする。

 なら。

 彼にはどうすることもできないモノが、彼の夢を邪魔するのなら。

 彼の歌に惹かれ、彼の歌に込められた想いを、誰よりも知る私が。

 「私、アイドルに勧誘されているんです」

 「えぇ!?すごいですね!綺麗だし可愛いし、楓さんなら凄いアイドルになると思いますよ!」

 「ありがとう。でも、アイドルになるかは、迷っていたんです。二十歳を超えて、大学も卒業して、モデルではない仕事を探さなきゃいけない時期に、アイドルの勧誘を受けてしまって。けど、決めました」

 楓は立ち止まり、首を傾げた彼の目の前に屈みこみ、顔の高さを合わせる。

 やや童顔ながらも、美人であることに変わり無い楓の顔が近くにあるという事実に、彼は顔を赤らめた。

 「行きましょう」

 「え、え。行くって、どこにですか?」

 彼の手を引っ張り、歩を進める。

 目指すは、楓と彼が住むマンション。そして、彼の祖父母だ。

 困惑しながらも、楓の後を追う彼の頬は赤いままだった。

 数分後。

 彼と楓の前には、彼の祖父母がいた。

 ダイニングのテーブルを挟んで向き合う四人は、傍から見れば結婚報告をする息子夫婦に見えなくもない。それを断言できないのは、やはり二人の身長差が原因だろうか。まぁ、成長がほぼ止まった成人女性と、これから成長するであろう中学生男子ではしょうがないことだろう。

 そんな楓は、彼の祖父母に向かって、いつになく真剣な表情で話す。

 「おじいさん、おばあさん。お二人が彼の夢に肯定的でないことは分かります。彼のお母様のようなことがあれば、普通の道を歩ませたいと思うでしょうし、彼にはその道で上を目指せる才能もあると思います。けれど、彼に挑戦させてあげてはくれませんか。彼のファンとして、彼の歌に惹かれた者として、私は彼を応援したいんです」

 楓と老夫婦の付き合いは、引っ越し以来続いていて、それなりに長く、関係も良好だ。

 しかし、夫婦が彼女の真剣な表情を見るのはこれが初めてだった。

 だからといって、彼らも簡単に意見を曲げるわけにはいかない。

 勿論彼の母親のこともあるが、それ以上に至極真っ当な理由がある。

 彼の目指す夢というのは、不安定なのだ。

 当然どんな仕事に就いたところでリスクは存在する。

 それでも、愛すべき孫には可能な限り安定した道で幸せに進んでほしいと願うのが、家族というものだろう。

 「高垣さん。いつもお世話になっている貴女にこんなことは言いたくないが、貴女が言うことは孫にとっては嬉しいものだろう。けれどね、私たちからすれば責任を取る必要のない人間からの無責任な発言でしかないんだよ」

 「はい。ですから、彼の夢の責任は私が取ります。そして、彼の夢の道しるべに、私がなります」

 彼の夢を後押しするのなら。

 彼自身が諦めかけ、彼の家族すらも彼の夢を否定しているのに、彼に夢を追わせるのなら。

 その責任を、私が負うのだと。

 楓は言った。

 「今、私の所属している事務所に新設されたアイドル部署から勧誘を受けています。歴史も無く、一から始める部署です。そこで私が結果を出せたなら、彼の夢を応援してあげてください。そこで彼が結果を出せなくても、私が責任を取ります。だからどうか、彼に夢を、歌を歌わせてあげてください」

 それは決して、楓が負う必要のない責任。

 むしろ、メディアへの露出が増え、人生の転換期ともいうべきアイドルへの転向という決断に、自分の人生ではなく他人の人生の責任を乗せる人間が他にいるだろうか。

 それも、自分より5つ以上も下の、たまたま隣の部屋に住んでいた少年の人生の責任を負うと、その家族に言い切る人間がいるだろうか。

 けれど楓は断言する。

 彼の夢を誰かに伝えることができるのなら、きっと誰かの心を救える筈だと。

 彼の歌がここで潰えるのは、何よりも勿体ないと。

 その為なら、自分の人生を賭けていいと。

 何故そこまで彼の歌を大事にするのか、楓自身にもわかっていなかった。

 確かにアイドルという新天地に興味を惹かれていた。

 彼の歌に可能性を感じたのも事実。

 だけど、それ以上の何かが、楓を動かすのだ。

 「…高垣さん。なぜ、そんなに孫の夢を応援したがるんです?こう言っては何だが、君は他人だろう」

 そう。楓と彼は赤の他人だ。

 だけど、そこには確かに絆があった。

 最初は、彼の歌に惹かれた。

 そして、彼の歌に惹かれる理由を知った。

 ああ、そうか。

 楓は、ようやく自分の心にある気持ちを理解した。

 「そうですね…。理由は、特にありません」

 「は?」

 楓は理解した。

 この気持ちが、簡単には言葉にできないことを。

 そして、だからこそ彼は歌にするのだと。

 にこやかに微笑む楓に、老夫婦は呆気にとられる。

 それもそうだろう。孫の人生の責任を取ると言っている女性が、その行動に理由はないと言っている。

 「…はは、はははは!理由はないか。そうか。ははは!」

 「じいちゃん?」

 「よし分かった。お前はお前の夢を目指して頑張ると良い。高垣さんには、その責任を負ってもらおう」

 「いやいや、楓さんにだってやりたいことがあるんだから…」

 「ただし」

 彼の祖父は、言葉を切った。

 自然と彼も口を閉じる。

 楓と視線を合わせた彼の祖父は、真剣な表情で語る。

 「高垣さんがアイドルとして成功するまで、私たちにできることがあったら何でも言いなさい。この子の歌が聴きたければ聴きに来ていいし、いつでもご飯を食べに来なさい。家事が大変ならその子も私たちも手伝う。君が孫の夢の責任を負うというのなら、私たちは君の人生の責任を負う。そして」

 彼の祖父は視線を横にずらして、彼と視線を合わせる。

 「お前は、絶対に夢を叶えるんだ。中途半端なことはするな。途中で諦めるな。それは高垣さんに対して、最大限の侮辱だと思え。それをやったら最後、俺もお前を許さんからな」

 にかっと笑う彼の祖父は、どこまでも大人だった。

 楓の覚悟を認め、その上で彼の夢を守ろうとする楓すらも包み込む、大人の優しさ。

 その優しさに触れて、楓も顔をほころばせる。

 結局、この部屋に集まった人間は、誰もかれもが彼の夢を応援したいのだ。

 けれど、彼の祖父母は家族故に応援しようにもできず、そこに楓が現れた。

 単純に彼の夢を応援するよりも大変なのかもしれない。彼の夢の道だけでなく、楓の歩む道すらも応援することになってしまった。

 けれど、彼の夢を守ってくれる人間が現れたことに、その苦労以上の喜びを見出したのだ。

 ならば、あとは全力で彼と彼女を守るだけ。

 楓の最初のファンで、彼の二番目のファンは、彼の祖父母と相成った。

 「楓ちゃん、孫をよろしくね」

 「ふふ、任されました。可愛いですし、弟ができたみたいで私も嬉しいです」

 「弟じゃなくて楓ちゃんが嫁に来てくれてもいいんだけどねぇ」

 「いやいやいや!何言ってんのばあちゃん!」

 「あら、私では不満ですか?うふふ」

 「からかわないでください!」

 

 

 4

 

 金曜日の午後6時。

 定時で帰れた社会人や、土日前から遊ぶ学生が行き交う駅前の広場。

 普段なら混み合いつつも、人が流れるそこは、現在百人以上の人だかりで埋め尽くされていた。駅から出てきた人はその光景に驚き、その理由を知ると人だかりに参加していく。

 そうして集まった人々の中心に、彼はいた。

 膝まで隠れるような大きい長袖の真っ白なパーカーと、目元まで隠れる様なつば付きの白いニット帽。どう見ても体の大きさに合っていないが、女性に近い彼の体格に、それは不思議なほど似合っていた。

 しかし、それ以上に目を引くものがある。

 夕暮れの赤の中で目立つ、空色のアコースティックギター。

 蒼いギターを持つ全身白づくめの彼は、さしづめ空を漂う雲か。

 しかし彼は、そんな不安定でふわふわとした存在ではない。

 その証明の如く、彼は声を上げた。

 前語りは無く、自己紹介も無く、彼は歌い始める。

 ギターのない彼の歌声だけで始まった曲は、唐突に激しくなり、誰もが全身でリズムを取り始める。最初は足で地面を。次いで手を叩き始め。最後には、腕を振って、まるでライブ会場にいるかのように熱くなり始めた。

 彼の歌を知らない人も、心が知っていたかのように体が自然に動き、彼の歌に引き込まれる。

 彼の歌を知っている人は、さながらアイドルのファンのように声を上げて楽しんでいる。

 その光景に、楓は笑みを浮かべた。

 広場を一望できる、駅の二階に設置されたカフェのテラス。

 そこには帽子やサングラスで顔を隠した楓のほかに、さしわたに興味を持つ美嘉と瑞樹が広場を見下ろしながら彼の歌を聞いていた。

 「…なんていうか、こっちまで嬉しくなるような歌を歌うのね」

 「ですよね!こう、思っていても上手く言葉にできない気持ちを歌ってくれるから、こっちまですっきりするというか」

 彼女たちの感想を聞きながら、広場で歌う彼を見る楓は、どこか誇らしげだった。

 彼が夢を追えるようになったのは、他ならぬ楓のおかげだが、楓がアイドルとして輝けるのも、彼があってこそだった。

 「楓さん、なんか嬉しそうだね」

 「うふふ、わかりますか?」

 「そりゃわかるわよ。そんな幸せそうな顔しちゃってー」

 「幸せ…。そうですね。彼は、私の憧れでしたから」

 彼の夢の後押しをするためにアイドルになった楓は、アイドルという道の険しさを知った。

 厳しいレッスン。地道な広報活動。モデルという下地があってもなお、アイドルという新天地は楓に牙をむいた。同じ事務所内であるにもかかわらず、先行きが不透明な新規部署は事務所内でも煙たがられる。

 そんな過酷な新人時代に楓を癒してくれたのは、彼の歌だった。

 管理人に許可を取り、マンションの屋上で彼の歌を聴く。疲れた体に染みわたる彼の歌は、楓の好きな酒や温泉よりも、楓の心と体を癒してくれる。

 厳しいトレーニングに気分が落ち込む日もあった。

 見向きもされない自分に自信を無くした日もあった。

 それでも楓が頑張れたのは、彼の歌を聴いてきたからだ。

 夢へと続く道を諦めない彼の歌を聴いてきたから。

 自分のしてきた努力は、きっと何かに繋がるのだと謳ってくれたからこそ。

 楓は上を見て歩くことができた。

 辛くても、苦しくても、その瞬間に報われなくても。この努力は、経験は、必ず何かに繋がると信じることができた。

 そして、彼のようになりたいと思ったのだ。

 誰かを笑顔にできる彼のように。

 そして、誰かと一緒に笑える彼のようになりたいと。

 その願いを、楓は叶えた。

 高垣楓は、小さな少年に憧れた。少年に励まされ、小さな舞台で輝き始めた。その輝きは強くなり、遂には、誰よりも眩しい星となり、憧れた少年の道しるべとなる。

 「彼のためにアイドルになることを決めましたが、結局励まされていたのは私のほうだったんです。私がテレビに出るたびに彼は喜んでくれて、その喜びを歌ってくれました。私のライブには必ず来てくれて、凄かった、楽しかったって言ってくれるんです」

 彼の祖父母との約束は守られた。

 であれば、後は彼が彼の夢を追うだけだ。

 だからこそ、広場で歌う彼が、夢への道を歩き始めたことが自分のことのように嬉しい。

 特別やりたいことも無かった自分が、彼の夢を、自分の人生を賭けてでも応援したいと思った理由は、未だに言葉にできていない。

 けれど、彼の歌に感化されたことで、自分の夢を、一緒に歩ける仲間を得たことを、楓は何よりも感謝している。

 「いつか、彼のように言葉にできたらいいんですけどね」

 困ったように笑う楓は、その時がくればいいと本気で願っている。

 それが伝わったのか、美嘉も瑞樹も優しく微笑んだ。

 普段は駄洒落を言って掴みどころがなかったり、居酒屋で悪酔いをする楓だが、いつでも彼女は本気だ。

 「…あ、最後の曲みたいだよ」

 彼の路上ライブは多くても6曲で終える。

 太陽も沈み切り、地平線から漏れ出る日の光と、明るい街灯が広場を照らす。

 その中で、彼は初めて歌以外で声を出した。

 「今日は来てくれてありがとうございます。次が最後の曲ですが、今日はこの場所だからこその歌で終わりにしましょうか」

 彼の言葉に、聴衆の一人が「どんな歌ー!?」と声を上げた。

 「ふふ。ここの近くには、皆さんがよく知るアイドルが所属している事務所があります。その事務所の代表曲と言えば、これしかないでしょう!」

 音響機材はなく、音源は彼のギターだけ。

 それでも、彼の歌声の一音とギターの音だけで、彼女たちは理解した。

 それは三人が一緒に歌ったことのある、346事務所で最も歌われている一曲。新人アイドルの中には、この歌を聴いたからアイドルを目指した人間もいるほどの、346と言えばこれ、というほどに有名な歌。

 「お願い、シンデレラ。夢は夢で終われない」

 同じ歌、同じ歌詞なのに、楓たちが歌うそれとはまったく異なるその歌は、集まった人たちを熱狂の渦へと巻きこんだ。

 終いには、いつかの路上ライブのように近くの交番から警官が、駅からも駅員が数名出てきて交通整理をする始末。

 そんな騒ぎの中心にいたはずの彼は、早々にギターをケースにしまい込み、誰の目にも止まることなく渦中から逃げ出していた。

 上から見ていたはずの美嘉と瑞樹も彼のことを見失い、目を凝らして探す中、楓は下の騒ぎを見ることも無くコーヒーを飲んでいた。

 そんな彼女に近づく影が一つ。

 「楓さーん、帰りましょー」

 「お疲れ様です。確か、今日はおじいさんとおばあさんがいないんですよね」

 「はい。なので、晩御飯はどっかで食べてきなさいって言われました。楓さんはどうしますか?帰るなら一緒に晩御飯作りますよ?」

 「うふふ、それもいいですね」

 「待て待て待て待て待ちなさい!」

 家族か。そんな突っ込みをしそうになるほど親しげな二人に待ったをかけたのは、広場を見渡していた瑞樹だった。

 その視線の先には、先ほどとは打って変わって黒いパーカーに眼鏡をかけたさしわたが立っている。

 高校一年生にしては小さい身長が、隣に楓が立つことでさらに小さく見える。150センチくらいだろうか。

 というか、つい三分前くらいまで広場にいたというのに、いつの間にここまで来たのだろう。

 「君、さっきまであそこで歌ってたよね?どうやってここまで来たの?」

 身長差のせいか、幼い子を相手にするような口調で美嘉が聴く。

 「あ、城ヶ崎美嘉さんですよね!川島瑞樹さんも!初めまして。楓さんからよくお話をお聞きしてますー」

 「あ、うん、どうも。…じゃなくて、どうやってここまで来たの?服も変わってるし」

 楓と同様にやや天然が入った彼の喋りに釣られながらも、服装まで変わった彼に聞く。

 しかし、彼にとってはいつものことのようで。

 「普通に来ましたよ?服はリバーシブルになってて、全身真っ白な奴が黒い服になって人混みに紛れたら、もうわからないでしょう?」

 えへへ、と頭をかいて笑うさしわたに、美嘉と瑞樹はなるほどと頷く。

 確かにあれだけ目立つ服装からこの格好になっていればわからないかもしれない。

 そんな二人を余所に、楓と彼は今日の路上ライブについて話していた。

 「今日もいいライブでしたよ。『お願い!シンデレラ』を歌うことは知らなかったですけど」

 「サプライズです!皆も嬉しそうでしたし、何より僕が歌いたくなったので!」

 歌いたくなったから、であれだけ盛り上がる歌を歌われては、本家のアイドルである美嘉も瑞樹も立つ瀬がない。けれど、楓だけは違うようで、どころか普段の三割り増しくらいで嬉しそうな笑みを浮かべている。

 誰よりも、何よりも、自由に。

 それが彼の歌の、何よりの魅力。

 自分の感情を自由に表現する。簡単に言えてしまう想いも、上手く言葉にできない気持ちも、彼は誰にも縛られることも無く自由に歌う。

 だからこそ、彼の歌は心に響く。

 自分の言葉を彼が代弁してくれるから。自分が言葉にできない気持ちを代わりに歌ってくれるから。

 だからこんなにも、彼の歌は心に染みる。

 「ふふ。夜は食べに行きましょうか。私がよく行くお店があるんです」

 彼の頭を撫でながら、楓は飲み終わったコーヒーカップを持つ。

 慈愛に満ちた表情で彼を見る楓は、母や姉、大げさに言えば女神を思わせるような雰囲気をもって彼を連れ立つ。

 だが、そんな楓をまたもや止める者がいた。

 「ちょっと待ちなさい、楓ちゃん。よく行く店、ってまさか…」

 「あら、瑞樹さんも来ますか?せっかくなら美嘉ちゃんも来ます?」

 「え?行くって、何処に…?」

 彼の歌を除いて、楓が好きなものと言えば二つしかなく。

 心を満たされた人が、その喜びを飲食に繋げるのであれば、行く場所は一つしかなかった。

 

 

 5

 

 さしわた。高垣楓。川島瑞樹。城ケ崎美嘉。美嘉の幼馴染。三船美優。チーフアシスタント。片桐早苗。佐藤心。プロデューサーが二人に、アシスタントの千川ちひろ。他にも十数名。

 346事務所に所属する成人組と大学生組のアイドル、そのお目付け役に出動したプロデューサーとアシスタント数名が、事務所近くにあるこの居酒屋『常世の国』に集まっていた。

 美嘉や新田美波を始めとした大学生組は、いずれあるであろう飲み会なんかの予行演習という建前のもと、楓や早苗を始めとした調子に乗った成人組のアイドルに連行され、そのお目付けにプロデューサー。そして、そのプロデューサーの監視に、千川ちひろと美嘉の幼馴染というアシスタント二人が付き添うという、監視の監視が配備された結果、かなりの人数が集合している。

 この人数で居酒屋に押しかければ周囲の人を驚かし、迷惑になってしまうが、そこは飲みなれた、且つ常連の成人組の力をもって、『常世の国』を貸し切りにしていた。

 そんな中、騒ぎの中心である楓と、その隣に座るさしわたは目新しそうに店内を見回していた。

 どこを見てもアイドル、アイドル、その関係者。

 楓が所属している事務所のアイドルということもあって、彼は346事務所に所属しているアイドルの歌をほとんど網羅している。

 だからこそ、本物がいるという状況に興奮していた。

 「楓さん楓さん」

 ギターケースを自分が座る座敷の壁際に置いた彼が、楓の袖を引く。

 人が増えてきたからか、白いつば付きのニット帽を被った彼の前にはお品書きが広げてあり、初めての居酒屋で何を食べていいのか迷っている風だった。

 そんな彼に、常連の楓がアドバイスをする。

 「ここのオススメは枝垂空ですよ。店長が自ら仕入れに行ったくらいで…」 

 「かーえーでーちゃーん?未成年に飲酒を勧めるのは見逃せないわよ!」

 「はっ。未成年は熱燗アカン、ですね」

 「ふふ、アカンに決まってますよ?楓さん」

 成人の、しかもトップアイドルが未成年に飲酒を勧めかけるという事案を止めたのは、緑の制服を着こなした優しい笑みの、346事務所最強のアシスタント、千川ちひろだ。噂によれば、チーフアシスタントの彼と同等の働きをする上に、上司である美城専務にすら臆せず接するのは、アシスタントの彼女とチーフアシスタントの彼くらいのものだ。プロデューサーすら話すだけで緊張する専務を相手に立ち回れるちひろは、アイドル達からも大いに恐れらている。

 だが、アイドル側にもそういう人物は存在し、その一人が楓だった。

 悪魔と同等に恐れられるちひろの笑みにも臆さず、楓は笑みを浮かべまま言い訳を始めた。

 「冗談ですよ、ちひろさん。じょうだんでーす」

 「…はぁ。貴方も、呑んじゃいけませんよ?大人に勧められても、きっぱり断ってくださいね。何か言われたら私が止めますから」

 「は、はい」 

 自分とさして変わらないほどの大きさなのに、その威圧感にやや押されながら返事を返す。

 だがそれも一瞬のことで、店の喧噪と楽しげな雰囲気に、さしわたとしての心が揺さぶられる。

 メニューを注文し、品が出てくるまで、陽気な雰囲気に身をゆだねる。人によっては耳障りな騒音も、彼にとっては自分の、誰かの気持ちを歌うための材料でしかない。

 「……歌いたいですか?」

 体を揺らして、彼の頭に流れる曲が外に出たがっているのを察した楓が、小さく聞く。

 「はい。でも、ちゃんと歌えるのは明日か明後日になっちゃいますから、今は大丈夫です」

 いかに天才と言えど、ちゃんとした曲を即興で作れるわけではない。

 それに加え、歌が好きすぎるシンガーソングライターである彼でさえ、いつどこでも歌いたがる訳じゃない。TPOはちゃんとするし、楓と出会って以来、音の届かないマンションの屋上と、防音対策をした自室以外でギターを鳴らすことは無い。

 だからこそ、今も頭の中だけで曲の雰囲気だけを作り上げ、手は机に置かれた料理を口に運んでいる。

 けれど、そんな彼の本心も、楓は見抜いていく。

 席を外した楓は、カウンターの奥で料理を作る店長に声をかけ、一言二言話すと、すぐに戻ってきた。

 「このお店、防音になっているそうです。だから、ギターを弾いても大丈夫だそうですよ。へたくそだったら、追い出すって言ってましたけどね」

 「…へへ。それじゃ、歌ってもいいですか?」

 「勿論よ。さっきのライブだけじゃ、正直物足りなかったしね」

 向かいに座る瑞樹が頷くと、今度は楓の顔を見る。

 「お願いします。久しぶりに、近くで貴方の歌を聞きたいです」

 その言葉を聞くなり、彼はギターケースを開き、胡坐をかいてギターを膝の上に乗せた。

 自分の耳を頼りに手早くチューニングを済ませると、ポロンポロンと弦を弾く。

 「まぁでも、さっきの歌は出来上がってないので…」

 店内で数グループに分かれて騒ぐ346の人間を見渡してから、口を開いた。

 彼が選んだのは、彼の歌ではなく、城ヶ崎美嘉のソロ曲『TOKIMEKIエスカレート』。以前はシンデレラプロジェクトのニュージェネレーションの三人をバックダンサーにライブで披露したこともある曲。カリスマJKの名に恥じない、派手な衣装とポップな曲調が特徴的な、城ヶ崎美嘉の代表曲だ。

 そんな、居酒屋にはあまり似合わない曲が聞こえ始めた店内は、徐々に喧騒が鳴りやみ、いつも聞いているものとは違う曲に耳を傾ける。

 ポップに、けれど穏やかに。

 どこか引き込まれるような歌声に、一つ、歌声が混じる。

 「あなたは心に光る一番星」

 ここに二人のファンがいたなら、絶叫では済まないかもしれない。

 城ケ崎美嘉とさしわた。

 二人の歌声は、昔からユニットを組んでいたと言われても納得するほどにピッタリ合っていた。

 この時ばかりは、この曲は二人の曲となっていた。

 そして、さしわたの本日二度目のライブは留まるところを知らず、346事務所に所属するアイドルの歌をカバーする、両ファン卒倒もののライブと化した。

 自分の歌が流れるたびにアイドルたちはデュエットやトリオのように、彼と一緒に歌い始め、ここにいないアイドルの歌が流れると、プロデューサーやアシスタントの三人が互いやアイドルたちに囃し立てられながら歌う。

 ご飯を食べながら、お酒を飲みながら、心に染みる歌を聴き、時に楽しく歌い、上も下も無く、誰もが笑顔になっている。

 この店の名前である常世の国とは、海の向こうにある不老不死の理想郷。

 その意味とは少し違うが、それでも今この瞬間だけは、この店内は理想郷のようでもあった。

 「次で最後ですかね」 

 「そうですね。もうすぐ10時になりますし」

 楽しい時間というものは、早く過ぎ去るもの。

 未成年もいるのであれば、早々に切り上げて解散するべきだろう。

 しかし、店内はさしわたの唐突なライブによって盛り上がりすぎてしまった。

 だからこそ。

 いや、最初から最後の曲はこれにすると決めていたのか、さしわたは迷うことなくギターを弾き始めた。

 「盛り上がった最後は、これで締めにしましょう。ね、楓さん?」

 「…ふふ。そうですね」

 最後に選んだ歌は、高垣楓の代名詞『こいかぜ』だ。

 歌詞の通り、二人の歌声が狭い店内を風となって通り抜けていく。

 盛り上がりすぎた人たちの心を落ち着かせるように流れるその曲は、もはやただの歌ではない。

 彼の夢。

 楓が見たいと思っていた彼の夢の果てを思い浮かばせるような、美しくも身近に感じる優しい歌。

 まるでフィクションのように、歌に何かの力があるようにさえ思える。

 そして、気づけば皆、店の外に出ていた。

 締めの言葉も無く、けれど充足感に満ちたせいか、誰もが一言程度を交わして帰路に着く。

 それでも未成年はアシスタントたちが責任をもって送り届けるあたり、やはり仕事に関しては完璧だった。

 そして、最後に歌った二人はと言えば、二人並んで帰宅していた。

 同じマンションの隣部屋で、未成年の彼を楓が、女性である楓を彼が、お互いを守るように、けれど和やかに歩いていく。

 「それにしても、いつの間に皆の曲を覚えていたんですか?」

 「346事務所の出す曲は印象に残る曲ばかりですから。でも、やっぱり本物には勝てないですし、カラオケ大会みたいになっちゃいましたけどね」

 「そうですか?昔から一緒に歌っているようでしたけど」

 「あはは。それは嬉しいですけど、やっぱり僕の歌じゃありませんから。例えば、安部菜々さんの『メルヘンデビュー』なんかはあの人しか歌えないですし、『こいかぜ』だって楓さんが歌うからこそ響くんです。僕が皆さんの歌を同じように歌えているなんてことはあり得ないんですよ」

 「…それじゃあ、私と一緒に歌える曲を作ってくれませんか?貴方と二人で歌った時、とても楽しかったですし、気持ちがよかった。私と、貴方の、二人の歌を作ってくれませんか?」

 それは嘘偽りない、楓の気持ち。

 今まで一人でステージに立つことが多く、けれどそれを苦と思わない楓が言った、本心だった。

 「それは、いいですね。うん。それで、いつか一緒にライブができたらいいですね」

 「はい。いつか二人で、同じ舞台に立ちましょう?」

 そんな夢物語、とも言えない話をしている二人は、確かに幸せだった。

 夢へと続く道を、順調に歩み続ける二人。

 けれど、幸せがいつまでも続くわけではない。

 いつかは必ず、不幸が来る。

 二人はそれを、もっと先のことだと思っていた。つまるところそれは、突如来る不幸への対策も、心の持ちようも、一切の準備をしていなかったということに同義だ。

 だから、順調な道に突如現れた絶望という壁を、不幸という障害を前にしたとき、二人は立ち止まってしまう。

 

 翌朝。

 さしわたにとって何よりも大切な空色のアコースティックギターは、壊されて捨てられていた。

 

 

 6

 

 それに気が付いたのは、朝早くに事務所へと向かう楓だった。

 朝からスケジュールが埋まっている楓が、マンションの共用ゴミ捨て場の前を通り過ぎたとき、ふと視界の端に見覚えのある碧を捉えた。

 空の一部を削り取ったかのようなその色は、彼が、彼の母親から貰った愛用のギターの色そっくりだった。

 それに気が付いた楓は、ゴミ捨て場のネットを上げて、その碧の正体を確認した。

 そこには、数個のごみ袋に挟まれるように、ネックが折れ、弦が飛び出し、ボディに修復不可能なほどの亀裂と穴が空いた、彼のギターが捨て置いてあった。

 それを見た楓の感情は、動揺の一言に尽きた。

 何故、彼のギターがここにあるのか。

 何故、こんなにボロボロに壊されているのか。

 昨日のことを思い返しても、彼と部屋の前で、それも二人ともドアを開けた状態で「また明日」と話している時まで、彼はいつも通りだったはずだ。

 その記憶から導き出される結論はたった一つ。

 彼が帰宅した後に、何かがあった。

 それも、ちょっとやそっとのことではない。彼が大切にしているギターが、こんなにも無残な姿になるほどの、何かがあったのだ。

 仕事まで、まだ時間はある。

 細い手首につけられた小さい腕時計を確認した楓は、マンションの中へと踵を返す。

 朝も早いが、彼は祖父母のために朝食を作っていることもあり、この時間に起きていることは知っていた。時折、楓も朝食にお邪魔していることもあったため、もはや楓も彼も、お互いの一日のタイムスケジュールを何となく把握しているのだ。

 それはさておき、彼の部屋の前にたどり着いた楓は、迷うことなくチャイムを押す。

 数秒の間をおいて、ドアが開いた。 

 ガチャリと音を立てた先に立っていたのは、彼自身でもなく、彼の祖父母でもなく、しかし楓の知る人物だった。

 銀縁の眼鏡に、ピシッとしたスーツ姿。軽く整えられた清潔感のある髪型に、やや強面の男性は、彼が苦手としている、彼の父親だ。

 「おはようございます」

 「おはよう、高垣さん。こんな早朝から何か用かね?」

 「息子さんはいらっしゃいますか?昨夜は遅くまで連れ回してしまいましたから、顔を見てから仕事に行こうかと思いまして」

 するっと出てきた嘘は、楓の微笑みによって、まるで本当にそう思っているかのように聞こえる。ただそれが、彼の父親に通じるかどうかは別の話だ。

 「そのことなら気にしなくていい。息子には言いつけたし、あいつを叱るにはいい機会だった」

 「そう、ですか。それでは、息子さんはまだ落ち込まれて?」

 「いや、朝から外に出て行った」

 「そうでしたか。お家にいないならしょうがないですね。私も仕事に向かおうと思います。朝早くから申し訳ありませんでした」

 そう言って、彼の父が奥に引っ込み、扉が閉まるのと同時に、楓は速足でとある場所に向かった。

 楓と出会い、許可をもらってからは、彼はマンションの屋上で作曲やギターを弾いていた。

 しかし、それは毎晩のように楓がいるからだ。仕事終わりで疲れている楓を、態々外に出してまで聞かせることを忌避した彼の思いやりがあってこそ。

 なら、彼が一人になった時に向かう場所はと言えば、楓には思い当る場所が一つだけあった。

 今の時期なら、散った花弁が絨毯のようになっているだろう、思い出の場所。

 彼と楓が、劇的に、けれど静かに出会った、特別な公園だ。

 ただ、あの時とは致命的に違う点が一つあった。

 「…いた」

 出会った時と同じベンチに座る彼は、魂が抜けたような、という表現が嫌になるほどよく似合っていた。

 呆然と、虚空を見つめるように空を見上げる彼の手には、いつもの空色のギターではなく、数枚の紙を掴んでいた。バサバサと風が吹くたびに音を立てるそれには、一面にびっしりと何かが書かれている。

 桜の花びらでできた絨毯の上を歩いて、彼に近づく。

 「…大丈夫ですか?」

 「あ、楓さん…。おはようございます」

 普段から彼は、過剰に見えるほど感情が豊かだ。

 嬉しいことがあった時も、楽しいことがあった時も、悲しいことがあった時も、辛いことがあった時も。

 顔を見ただけで何があったのかわかるし、彼はそれを昇華して作曲している。

 だから、こんな彼を見るのは初めてだった。

 「そうだ。これ、昨日言っていた曲です。楽しみで、徹夜して作っちゃいました」

 苦し気に笑みを浮かべる彼が差し出してきたのは、数枚の楽譜だった。一枚の紙に数行の五線譜と歌詞が書かれているそれは、彼と楓が二人で歌うための曲であることが見て取れる。

 「あの後、すぐに作ってくれたんですか?」

 「はい。僕も、楽しみでしたから」

 その代わり、と。

 「父さんに怒られて、ギターを壊されてしまいました。えへへ…」

 その笑みは、悲痛だった。

 彼にとって、母の形見であるあのギターは、何物にも代え難い形あるモノだ。それが壊された彼の心境は、想像できるものではない。

 けれど、それを堪えて、楓に対して笑顔を見せるその姿に、楓もまた、悲痛を感じるのだった。

 「その譜面は楓さんにあげます。だけど、今回はちょっと、すぐには歌えそうにないです…」

 感情を歌にする彼が、感情に負けて歌うことすらできなくなっている。

 それは、普通の人から見ればただのスランプのように見えてしまうかもしれない。

 けれど、歌に夢を乗せている彼にとって、歌えなくなるということは夢への道を歩けなくなってしまったということに同義だ。

 挫折。

 ただ漫然と暮らしている者なら、何をその程度、と嘲わらっていたかもしれない。

 けれど、楓は知っている。

 彼がどれだけ本気なのか。

 努力が必ず報われるわけではない。だからこそ、彼は夢が叶うまで、いや。叶っても努力し続けるのだと。

 その努力のかけらを、そばで聴いてきたから。

 その夢への道を照らしたいと思ったから。

 ふらふらと立ち去る彼の背を見て、楓は決心した。

 それは、二度目の決意。

 一度目の決意は、彼の道しるべになること。

 夢への道を照らす為に、楓はアイドルになった。

 そして今。 

 彼とともに歌う楽しさを知った。

 彼が歌えないことに悲しくなった。

 彼が作ったこの手にある曲が、誰にも知られずに埋もれていくのが、耐えられなかった。

 だから、楓は決意し、行動を起こす。

 誰かと一緒に笑顔になる喜びを教えてくれた彼に、今度は自分が教えてあげるのだと、心に決めて。

 楓だからこそできる、楓にしかできない方法で。

 

 そして、二週間が経った。

 

 

 7

 

 ギターを壊されたことによる心の傷は未だに癒えず、心ここにあらずといった体の彼は、とあるライブ会場の控室にいた。

 数万人を収容することができる巨大なアリーナは、観客で超満員。

 明かりを落とし、始まった夢の舞台に、誰もが心を躍らせていた。

 それは観客側だけでなく、出演するアイドル達もそうだった。

 そんな中、彼は路上ライブをするときの白いパーカーを着て、高垣楓様と書かれた控室で天井を見つめていた。

 普段なら、満面の笑みで楓を応援していただろう。

 だが、今の彼には他人を気遣えるほどの余裕はない。

 母親を失い、その形見であるギターを失った。つい先日まで義務教育の中で生きていた彼にとっては、その事実を受け入れるのに時間がかかるだろう。

 しかも、母親を失ってもなお立ち直れたのは、形見のギターがあったからこそ。

 今回は、母親とのつながりを完全に断たれたも同然だ。

 それも、実の父の手によって。

 それでも彼が父親を恨まないのは、彼の父親が正しいと知っているから。

 相容れなくても、正しいと知っているから、彼は父親とぶつかることを避けてきた。

 だから、初めての父との衝突に、どうしていいのか分からないのかもしれない。

 「こんにちは」

 「…あ、こんにちは、楓さん。今日は呼んでくれてありがとうございます」

 「うふふ、来てくれてありがとう。今日は、貴方にプレゼントがあるんです」

 そんな彼に、楓ができることと言えば、前を向かせることだけだった。

 彼の道しるべとして。彼の道を照らす星として、彼に上を向かせることが、楓にできる精一杯。

 「プレゼント…?」

 「はい。それも、二つあるんです。その一つ目が、これです」

 控室の中にある衣装かけの奥から、大きな包みを取り出す。

 楓の腹あたりまであるそれは、おおよその形から何かわかる。

 彼からすれば、二週間前まで毎日手に持っていたのだから、楓の持ち方ですぐに何かを悟った。

 「これ…!」

 「ギターに詳しい友達に聞いて、貴方に似合うものを買ってみたんです。どうでしょう?」

 包みから顔を出したのは、真っ黒なアコースティックギター。ネックまで黒いそれは、やや青みを帯びており、例えるなら夜空の色が一番近かった。

 「なんで…どうして…?」

 「言ったでしょう?私が、貴方の道しるべになると。それに、それを受け取ってもらうのに、私の頼みを一つ聞いてほしいんです」

 「頼み?」

 「はい」

 黒いギターを遠慮がちに握る彼は、未だ以前のような眼を見せてはくれない。

 彼の夢は、自分の歌で、誰かと共に笑顔になること。そして、希望を失った人たちが、自分の歌を聞いて希望を、夢を持つようになってくれることだ。

 壮大な夢でなくていい。輝くような希望じゃなくていい。

 ただ、明日を生きる夢を、希望を、捨てないでほしいと願うことこそ、彼の夢。

 そして、亡き彼の母親が為しえなかった理想だ。

 彼は、彼の母親の夢を知らない。知っているのは、何をしていたか。ただ、それだけ。

 けれど、何も知らなくても、彼は母親の理想を夢見た。

 なら、その夢を目指す彼自身の夢は、希望は誰が支えるのだろう。

 楓は、彼の夢を聞いたその時から、彼の支えになると決めた。

 その理由は、言葉にすることが難しいけれど、それでも言葉にするのなら。

 「私と一緒に、今日の舞台に立ってください。私も、貴方の夢を支えるだけでなく、貴方の隣で夢の景色を見たいんです」

 彼の夢が、楓を救ってくれたから。

 別に、楓が苦しんでいたわけではない。将来に悩んでいてはいたものの、どうにかなるだろうと楽観的に考えていたのも事実。

 けれど、彼の夢は楓に夢を与えてくれた。

 今の楓の輝きは、彼がいなければなかった。

 そうしてたどり着いた高みで、楓はもう一つの夢を見つけた。

 「僕と、一緒に?」

 「はい。貴方のための道しるべである高垣楓は、ここで終わりにします。その代わり、貴方と一緒に、誰かの道しるべに、私はなりたい」

 道しるべ。

 奇しくもそれは、彼が楓と歌うために作った曲の、メインテーマでもある。

 黒いギターを見つめ、彼は沈黙する。

 夢。現実。母親。父親。

 何が正しく、何が間違っているのか。

 きっとその答えは、誰にも出せない。

 それでも前に進むのは、夢があるから。希望があるから。

 その手助けをしたいと思ったのは、何故だ。 

 「…最初は、歌って誰かが喜んでくれることが、自分にとっても嬉しかった。でも、母さんが死んで、身近な人で僕の歌を聴いても嬉しそうに笑ってくれる人はいなくなっちゃった」

 そんな時、幸せそうに自分の歌を聴いてくれる人が現れた。

 その笑顔が、とても好きだったから。

 そんな笑顔が、もっと広まればいいと思った。

 「うん。ギターを壊されたのは、もういい。父さんが、母さんのように歌う僕が嫌いなら、それでもいい」

 過ぎ去った過去ばかりを見るのは、もうやめだ。

 元から達観していたような少年だったが、もはや彼は夢を追うだけの少年ではなくなった。

 「ふふ、反抗期ですか?」 

 「えへへ、そうかもしれないです」

 萌黄色のドレスを纏うトップアイドルと、白いパーカーに黒いギターという、夜空のコントラストのようなシンガーソングライター、さしわたのライブが、始まろうとしていた。

 

 

 8 

 

 この二週間で楓がしたことは、ロックをこよなく愛するアイドル、木村夏樹に僅かばかりの師事を受けながらギターを購入したことと、もう一つ。

 冷徹なことで有名な、346事務所の専務である美城を説得したことだ。

 今回のライブで、楓自身をトリにしてほしいこと。そして、巷で有名なシンガーソングライターであるさしわたと共演させてほしいということ。

 両方の我儘を通すために、楓は好まない仕事をすることも視野に入れていたが、それは杞憂で終わった。

 「いいだろう。もともと君はトリにするつもりだった。当然、最後には全員で舞台に出てもらうが、それは構わないだろう?」

 「え、ええ」

 「それに、さしわたという少年に関しては私も聞いている。スカウトする手間が省けるのなら、むしろ有難いことだ」

 「あの、スカウトとはまた違うんですが…」

 「同じことだ」

 そんな、余りにもあっさりと快諾されたことに驚きながらも、楓は残る時間を、ただ一曲の練習に充てたのだった。

 

 

 色とりどりに輝くサイリウムを前に、さしわたは楽しみ半分、怯え半分といった顔でステージ脇に立っていた。

 「大丈夫です。貴方の歌は、これまでだって皆に届いてきたんですから」

 「…楓さん」

 「行きましょう」

 楓たちの前に歌っていた三船美優が、反対側のステージ袖へと捌けていく。

 誰もいないステージは、スポットライトの光すらなくなり、客席で光るサイリウムだけが星のように輝いている。

 そんな暗闇と、一分ほどの間をおいても、誰も出てこないことに対するざわめきが会場中に充満した、その瞬間。

 ポロン。

 たった一音。

 けれどその音は、一瞬にしてざわめきを鎮める。

 そして、その音に反応して、一筋のスポットライトが舞台の中央を照らした。

 誰もいないその空間に、再度ざわめきが起こりかけた瞬間。

 「夜空に輝くその星が」

 「夢へと続く道標」

 スポットライトが作る白い空間に、徐々に入ってきたのは、観客が待ち望んでいたトップアイドルの姿。

 そして、彼女が照らされたサークルの中央に立つと、アリーナのボルテージは一気に最高潮に達する。 

 アコースティックギターのメロディが流れる間、楓はマイクを握って観客に語り掛ける。

 「皆さーん。今日は集まってくれてありがとうございまーす。今日は、私の友人を連れてきちゃいましたー!」

 白い空間に、黒いギターが入ってくる。いや、白い服のせいで見えないだけだが、そこにはちゃんと、人がいた。

 このアリーナに、さしわたのことを知っている人間がどれだけいるのかわからない。

 けれど、そんなことは些事に過ぎない。

 さしわたとしての彼は、相手が誰であろうと、ただ歌うだけだ。

 自己紹介はない。彼は名乗らない。

 ただ、自分の軌跡を歌に乗せる。

 夢を追いかけ、挫折し、出会った一番星。

 桜舞う幻想的な風景で、人生を変えるほどの誰かに出会ったのは、なにも楓だけではない。

 彼も、楓と出会って人生が変わった。

 彼が一人だったのなら、夢への道は閉ざしていたかもしれない。

 その道を明るく照らし、彼に先んじて切り開いてくれたのは、他の誰でもない高垣楓だった。

 誰よりも輝く一等星。

 その輝きを道しるべに、ようやく彼女と同じ舞台に立った。

 互いが互いに憧れて、同じだけの喜びを、言葉にせずとも理解している。

 けれど、二人の夢は、そこで完結しない。

 自分たちの喜びを、誰かと共有したい。

 誰かが言えない言葉を、自分たちが。

 自分たちを含めた、誰かの想いを歌うことこそ、彼らの夢の果て。

 だからこそ、諦めないでと希う。 

 「暗闇を彷徨うあなたには」

 「その光が見えるだろう」

 夢を見ることは、決して恥ずかしいことじゃない。

 夢追い人は一人じゃない。

 夢を見続ける人間を、私たちは応援するから。

 「空に輝く、星導を」

 辺りを照らす二人の星は、心に巣くう暗闇を、明るく照らし出す。

 

 

 「どうかね、君のご子息は」

 「…諦めが悪いところは、彼女そっくりだ」

 「そうだな。そして、君にも」

 観客席後方の、VIPルーム。

 そこには、彼の父親と美城が、特殊ガラスの向こうで歌う二人を見ていた。

 「…わかっているんだ。彼女が死んだ原因が、世界中を飛び回っていたせいではないことくらい。だが、人々を幸せにしていた彼女が、何故不幸になる!誰かを笑顔にしたところで、自分に帰ってくるとは限らない!だから、あの子には夢を諦めてほしかったのに…!」

 それは、彼の父の本心だった。

 与えた分だけの幸せが帰ってくるとは限らない。時としてそれは、不幸となって自分に返ってくる。

 それを愛する妻の死をもって知った彼の父は、息子に同じ道を辿ってほしくないと願った。

 彼の夢で人々が笑顔になったところで、それが彼の幸せにつながるとは限らない。

 それは、息子を愛するが故の、父として当然の願いだった。

 けれど、彼の父は一つ、間違えている。

 「努力をすれば、必ず実る。私はそんな言葉が嫌いだ。何故なら、世の中には決して覆らない才能の差が、必ずあるからだ。だが、その言葉に別の意味を見出すものがいた。努力による結果ではなく、その過程をどれだけ楽しんだか。そして、その過程を経ての結果に自分が納得できるかどうか。君の息子は、その過程にこそ夢を見ている」

 そして、その結果は、目下に広がる光景を見れば一目瞭然だ。

 「夢が叶えば、それは幸せと言えるのではないかな?」

 「……また、負けてしまったか」

 それは、若かりし頃の記憶。

 有名な音楽家だった彼の母が、世界を渡り歩いて人々を笑顔にしたいと言った時のことだ。

 当然彼の父は猛反対した。彼女が提示した国の中には、いまだ紛争を続けている危険な国もあったからだ。

 けれど、彼女は頑として譲らなかった。

 それは、音楽がどれだけ人を笑顔にするのかを、実体験として知っていたことと、彼女の息子が聴くたびに笑顔になるからだった。 

 愛すべき息子の笑顔は、彼女にとって何よりの宝だ。

 だからこそ、そんな宝物を、世界に広げたいと考えた。

 「本当に、あの子は彼女に似ているよ」

 「その上、似たようなパートナーを見つけてしまったのだから、君には同情する」

 舞台の上には、出演していたアイドルたちが勢ぞろいし、その中心に、彼と楓が立っていた。

 アイドルの少女たちに比べれば、衣装は地味で、そもそも男であるから華やかさに関しては比べるべくもない。

 けれど、それを補って余りある輝きを、彼は放っていた。

 「皆さーん!今日は本当にありがとー!」

 「最後の楓ちゃんとさしわた君のライブには驚いてくれたかなー?」

 「驚いてる皆には悪いけど、もう一回驚いてもらおうかしら!」

 「いきますよー!」

 島村卯月の言葉に、ステージの巨大な電光掲示板にカウントダウンが始まった。

 減っていく数字に、観客だけでなく、楓と彼もくぎ付けになる。

 そして、ゼロになった時。

 現れた言葉に、二人は目を疑った。

 「ワールドツアーけってーい!!」

 「行くのはー、この二人!」

 スポットライトを受けたのは、楓とさしわた。

 「いやー、346に男性歌手が入ってきたどころか、楓さんと一緒にいきなりワールドツアーとは、私たちも驚いたよねー」

 「はい!でも、さしわたさんって元から結構有名でしたよね?」

 「うん。私も一回だけ駅前で歌ってるの見たことあるよ。凄いお客さんの数だった」

 アイドル達が思い思いにトークをする中、渦中のさしわたと言えば、ひどく混乱していた。

 そもそも346に入った覚えはないし、家族や学校の了承もなしに世界を渡るなんて、それこそあり得ないだろうと思う。

 けれど、隣に立つ楓が、あまりにも嬉しそうだったから。

 「ふふ、楽しみですね」

 たった一言。

 それだけで、周囲の柵も、誰かの思惑も、どうでもいいと思える。

 「はいっ!一緒に、行きましょう!」

 夢を歌い、夢を届けるシンガーソングライター、さしわた。

 彼の夢には、果てなど存在しない。

 この世界中の誰よりも、彼は自由に歌う。

 気持ちも、感情も、夢も、希望も、時には挫折だって。

 彼にとっては思いを届ける為のパーツでしかない。

 その名が示す通り、さしわたは、夢を謳い続ける。

 

 

 



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絆を謳う

 1

 

 「楽しいから。試合も、練習も、皆がつまんねぇって言う基礎練習だって、俺は楽しい。バレーをやる上で強くなれるからってのもあるけど、一番は皆がいるから。疲れた、暑ぃ、そんな愚痴とか、レシーブとかサーブのコツを教え合ったりとか、すげぇプレーが出たときの盛り上がりとか、そういうのが楽しいし、嬉しいし、煩わしい。だから、俺はバレーをやる。ま、プロを目指すとかじゃないけどな」

 そう言って、彼は朗らかに笑った。

 「…煩わしいと思うこともあるの?」

 「そりゃあるよ。自分の調子がいい時に面倒くせぇとか言われると、もうぶん殴りたくなるし、その逆もあるし。だけど、試合の時にゃ頼りになる連中だって知ってるからな。そういう信頼関係みたいなもんがあるから、何があったって楽しめるんだと思うよ、俺は」

 中学二年の秋。夕暮れの帰り道に尋ねた私の質問に、彼は正面から答えてくれた。

 昔からそういう奴だって知っていたはずなのに。昔から似たような奴だと思っていたのに。

 いつの間にか、彼は私にはないものを手に入れていた。

 つまらない、変わらない世界の中で、唯一彼だけは私にとって、そして何より、彼にとっての私は特別だと思っていたのに。

 彼は、私の知らない世界で、輝いていた。

 昔から、お互いのことで知らないことなんか一個も無かったのに。

 いつだって、一緒にいたはずなのに。

 誰よりも、何よりも、お互いのことを信頼して、信用して、二人の世界を築いて来たはずなのに。

 いつから、こんなにも違っていたのだろう。

 いつから、彼は輝いて。

 いつから、私は暗いままだったのだろう。

 その違いに気が付いて、私はただ只管に焦った。

 彼に追いつかなくては。

 彼と並ばなくては。

 彼に、相応しい存在にならなくては。

 そんな想いの中で出会った、アイドルという名の偶像たち。

 けれどそこには、確かに輝きがあった。

 輝くような笑顔と、不器用に差し出された手の先に、最初は何があるかわからなかった。

 それでも彼に背を押されて飛び込んだ新しい世界には、確かに私の望む輝きがあった。

 それを得るために、楽しいことも、辛いことも、たくさん経験した。

 そして、彼が言っていた言葉の、本当の意味を理解したんだ。

 バレーとアイドル。

 進む道は違えども、私たちが思うことはただ一つ。

 「仲間がいるから、楽しめる。仲間がいるから、頑張れる。そして、君がいるから、自分を見失わない」

 それは、絆の証。

 支え合い、追いかけ合い、時には突き放して、また近づいて。

 何があったって、切れることのない貴方との絆。

 だけど、それだけじゃ足りなくなっちゃったんだ。

 「私、アンタのことが好き」

 

 

 2

 

 ばいばーい、と手を振る未央と卯月を見送って、事務所入り口の中にあるベンチに腰を下ろす。

 広いエントランスには346事務所所属のアイドルのポスターがでかでかと飾られ、数種類の鉢植えがセンス良く置かれている。シックな雰囲気に合っているし、設計した人は相当良い感性を持っていたに違いない。

 そんなことを考えつつ、スクールバッグの中から黒いマフラーを取り出す。もう少しすれば待っている人が来るだろうから、マフラーを巻きながら外に出る準備をしておく。

 12月も始まったばかりと言えど、体の芯から冷えるような寒さは健在だ。事務所の正面扉が、その厚さでもって室内の暖気を逃がさないようにしてくれている。

 その寒暖差の要である扉が、ゆっくりと開いた。

 今このエントランスには私しかいない為、必然的に外からの来客であることがわかる。そして、その来客は私が待っていた人物だろう。

 「ふぅ、あったけぇ…。遅れて悪いな、凛」

 「別に遅れてはないよ。早く帰ろう」

 「いや、ちょっと待て。もう少しだけ暖まってから行きたいんだけど」

 「私は別にいいけど、アンタ家の手伝いあるって言ってなかったっけ?」 

 「ぐおお、そうだったぁ…!しょうがねぇ、帰るか」

 青いコートに紺色のネックウォーマー、下は制服ではなく黒地に青のウィンドブレーカーの彼は、心底名残惜しそうに入ってきた扉を出ていく。そのしなやかな背中を追うように、私も外へと出る。

 「寒っ」

 「だよなぁ。体育館の中なら半袖半パンでも大丈夫なのに」

 「アップの時は長袖着てるでしょ」

 「あ、そういやこれ聞いたか?」

 私の言葉に図星を突かれて話を変えるように、彼はポケットから音楽プレーヤーを取り出した。表示された画面には、アーティスト名と曲名、パッケージの画像が映されていて、そのどれもが見知ったものだった。

 「聞いたよ。うちの事務所の人なんだから」

 「いい曲だよなぁ。俺が今まで聞いてきた中で二番目に入ってくるレベル」 

 そう言ってサビを口ずさむ。

 その曲は、最近配信された曲で、大先輩である高垣楓さんと、ネットで有名で、今は楓さんとコンビで世界ツアーに行っているさしわたという男子の二人のデビュー曲である『星導』。

 この間のライブで発表されたばかりなのに、その人気は留まることを知らず、世界ツアーを最初のライブから追いかけている人も多くいるようだ。

 だけど、そんな誰もが認めるほどの曲が、彼の中では二番目に位置するらしい。

 まぁ、一番が何かを知ってはいるのだが、聞いてみてもいいだろう。

 「じゃあ、一番目は何なの?」 

 「あ?そりゃお前、『Never say never』に決まってんだろ。振り付けまで覚えてんだぜ?大体、俺の中でお前が何かに負けるわけないだろ?」

 「わ、分かった!わかったからもう黙って!」

 寒いはずなのに、体の芯から熱くなる。

 今のは勝手に自滅しただけだけど、それでもこいつに羞恥心があるのかを問いたくなる。

 頬から耳まで真っ赤になっているであろう私を見て、彼は追い打ちをかけるように『Never say never』を出だしから歌い始め、それどころか小さく振り付けまでしている。

 中学の時から使っている青いエナメルバッグを揺らしながら、彼はステップを踏みながら家に向かう。

 男子の彼が小さく踊る姿は少し滑稽で、最初は恥ずかしかったけれど、いつの間にか私も歌っていた。

 「ふぅ。そういえば、練習はいいの?いつもならまだ学校にいるでしょ?」

 「ああ、春高まで金曜はオフなんだ。今日は少しだけ自主練してきたからこの時間だけど」

 「少しって…。アンタ、そのうち体壊すよ」

 「バカだなぁ、飯食って運動してよく寝てんだから体壊すわけないだろ」

 「ごめん、壊れてるのは頭だったね」

 「確かに中間は赤点スレスレでしたけど!また数学教えてください!」

 別に頭を下げなくたって教えてあげるのに。

 彼は歩きながら手を合わせて頭を下げる。その器用な姿に感心しながら、彼の成績を思い出す。

 部活に心血を注いでいるからか、彼は勉強を疎かにしがちだ。事実、前回の中間テストでは全教科赤点スレスレで回避という、ある意味で荒業をやり遂げている。

 しかし、それで彼の頭が悪いかと言われればそうでもない。

 授業で多少寝ていても、私が一度説明すればちゃんと理解してくれるし、勉強会をした時のテストでは学年10位以内にも入っていた。

 ただ、勉強している時としていないときの差があまりに激しい為、各教科担当から目をつけられているらしいとは本人の談だ。

 ちなみに私と彼は違う学校だ。奇跡的に勉強内容がほとんど被っているので、勉強会をしたところで無駄が出ることが一切ない。

 「ふふ。とりあえず、今日の仕事が終わったら私の部屋に来なよ。テストまでもう少しだし、特にダメな数学を克服しておこう」

 「了解っす。代わりに現代文を教えてやろう」

 そんな会話をしながら数分。気づけばお互いの家である花屋と和風カフェの前についていた。

 この後彼は作務衣に似た制服に着替えて、閉店時間である9時まで両親の手伝いをするのだろう。

 私も店番をすることはあるけれど、花言葉やその人の雰囲気に合う花を薦めてレジを打つ程度。彼のように、愛想のいい笑顔を浮かべて注文を取ったり、気の利いた言葉で優しく注意したり、あのカフェの顔とも言えるような働きは、私にはできない。

 それを言うと、彼は決まってこう言うけれど。

 「いやいや、俺は誰に対してもあの態度だけど、お前は客に合わせて花を薦めてるんだろ?そんな細かいこと俺にゃ無理だよ。無理無理。初対面の人間の雰囲気とか分からんよ」

 その言葉は、どこもかしこも似ている私たちの違いを、彼が初めて口にしたものだ。

 人としての本質が似通った私たちは、けれどやっぱり違う人間だと理解し始めた頃からの口癖のようだった。 

 「それじゃ、あとでね」

 「おう、あとでな」

 たった数メートルの距離で手を振り、向かい合う店の中へと入っていく。

 いつも通りの日常。

 変わることのない関係。

 彼に支えられていた私の人生を、けれど物足りなくなくなってしまったのは、一体いつからだっただろうか。

 

 

 3

 無事に高校生になった春。私にとって運命的な出会いをした日の夕方。ペットであるハナコと散歩をしていると、入学早々から部活に参加している彼とばったり出会った。

 いや、いつもの散歩コースから離れているのを見るに、無意識に彼に会いに行こうとしていたのだろう。

 私に気づいた彼が、無言のまま私に並んで歩く。相変わらず察しのいいやつだ。

 普段の散歩コースに戻り、太陽のような輝く笑顔と、不器用に手を伸ばされた公園に来た時、私の口はようやく開いた。

 アイドルという夢に向かってひた走り、その夢を叶えた少女の笑顔。

 私の知らない世界に連れて行ってくれるという、不器用な手のひら。

 興味がないと。くだらないと。そんなものに何の意味があるのかと。

 そう、思っていたはずなのに。

 彼女の笑顔を見て、彼の手を取って、私の知らない世界というものを知ってみたいと思った。

 けれど、新しい世界に飛び出すということは、怖くて、勇気が必要なのだと知った。

 その世界に飛び込んだ後のことは何も見えず。その世界のことについて私は何も知らない。

 見えず、知らず、暗闇にも似た未来へ進むということが、怖かった。

 だから、私は彼に求めたのかもしれない。

 「…いいんじゃね。凛が、やってみたいと思ったんだろ?」

 いつだって背中を押してくれる彼の言葉を。

 「そう、だけど…」

 「誰だって何かを始めるのは怖ぇよ。テレビで見たって、いくら調べたって、経験しなきゃわからないことがある。けど、その初めての経験ってやつが何よりも怖ぇんだ。たった一回のその経験が、何に繋がるか分からないから」

 暗闇を照らしてくれる光のような彼の言葉を。

 「…アンタも、最初は怖かったの?」

 「ああ。友達に誘われて始めたけど、周りは皆昔からやってて、当然だけど俺なんかより何十倍も上手くてさ。なんなら、始めてからもちょっと嫌だったぜ」

 周りから見れば、新しい世界に先に飛び込んだ彼からのアドバイスにしか見えないだろう。

 けど、私にとっては卯月の笑顔や、プロデューサーの手より。そして何より、自分の意志と同じくらい重要な言葉なんだ。

 もし私の人生を物語にするならば、私以上に重要な登場人物として彼が登場するだろう。

 「それで?結局、凛はどうすんの?」

 彼は私の背中を押してくれる。

 もし挫折しても、彼は笑って迎えてくれるだろう。

 でも、それだけだ。

 彼は私を支えてくれる。けれど、押し付けてくることはしない。

 どんなに迷って相談しても、最終的な判断は絶対に下さない。

 それは彼なりの優しさと厳しさの表れだった。

 彼には彼の、私には私の人生があって、支え合っているけれど、互いの責任は一切負わない。

 だからこそ、私たちの関係があるのだろうけど。

 「…私は、見てみたい。私の知らない世界っていうのが、どんなものなのか。あんなに綺麗な笑顔をする卯月の夢が、どんなものなのか。私は知りたいんだ。だから、アイドル、やってみる」

 知りたい。彼女の夢や、新しい世界を。

 そして何より、彼が見て、経験してきたものを、私は知りたいのだ。

 「ん、良いと思うぜ。俺がバレーを始めた理由より、全然カッコいいよ」

 「何言ってんの。アンタが頑張ってる姿がカッコいいから、私も前に進めるんだよ」

 いつも隣を歩いている彼は、けれど時折、少しだけ前を歩いてくれる。

 その背中が、何よりも雄弁に語ってくれるのだ。

 お前なら大丈夫。お前なら進める。お前は、渋谷凛は、強いのだと。

 前を歩く彼は、決して手を差し伸べてくれない。あるのはただ、歩く勇気をくれる言葉だけ。

 私は、決して勇気がある人間ではない。

 高校まで新たな世界へ踏み出すことができなかったことが、その証左だ。自分が持っていると自負しているのは、度胸と恵まれた絆くらいのものだ。

 けれど、その繋がった絆の先にいる彼が、私に勇気をくれる。

 「はっはは。俺がカッコいいのは知ってる。超知ってる」

 「…ほんと何言ってんの。今のアンタは超ダサいよ」

 「はぁ?このジャージのセンスとか完璧だろーが」

 「そのジャージは私が一緒に選んだやつでしょ」

 「……ま、着こなしてるのは俺だけどな」

 こういうギャップは本当にどうにかしてほしい、本気で思うけれど。

 「そういえば、最初は嫌だったのによく続けてるよね、バレー」

 「ああ、そうだなぁ。ハマるきっかけが、あの一本が無ければ、今はやってねーだろうな」

 彼がバレーを始めたのは、友人に誘われたから。

 けれど、バレーを続けている理由がちゃんとあるらしい。

 確かに惰性で続けるには疲れるし、友情で続けているのなら苦しいだろう。けれど、今の彼からそんな疲れや気遣いは感じない。それどころか、実家の和風カフェの手伝いとの二足の草鞋を、彼は楽しんでいるようにさえ見える。

 「そのきっかけって、私知らない」

 「そらそうだよ」

 彼はからからと笑って、その理由を告げる。

 昔からいつも一緒だった私が知らないのは、彼の初めての試合だったからだと。

 確かに、彼がバレーを始めたと知った時、すでに彼はバレーに夢中になっていたと思う。それはつまり、彼がバレーにハマった後に、彼がバレーを始めたことを私が知ったということだ。

 それならば、彼のきっかけを私が知らないのも当然だ。

 でも、彼のことで私が知らないというのは、少し癪だと感じてしまう。

 「教えてよ。アンタがバレーにハマった理由」

 「別にいいけど、大した話じゃねーよ。初めて出た試合で、チームを救う一本に繋げたってだけで」

 彼がバレーにハマった理由。

 それは、たった一本のレシーブ。

 「初めて出た試合。緊張して普段通りの動きもできなかった。でも、ブロックを抜けて真正面に来たボールを、セッターに完璧に返した。たまたまだったかもしれない。けど、完璧に打たれたスパイクを、完璧に上げた。それだけのことなのに、それがすっげぇ嬉しくて。辛くて、もう辞めたいって思う練習も、こんなに嬉しいことに繋がるんだって思った。嫌だった練習が、チームを助けて、あんなに盛り上がるんだって実感した。それからは練習が楽しくしょうがなかったね。出来ることが増える、偶然スーパープレーができる、厳しいコーチが言うことをやって見返してやる。そんな感じで今はちっちゃい目標を重ねて楽しめるようになったけど、やっぱりハマった瞬間って言えば、あのレシーブだな」

 初めて聞いた、彼の大事な過去。

 私も、そんなふうに、アイドルという新しい世界を楽しめるようになればいいと思う。よくわからないけれど、きっと辛いこともある。卯月のように養成所にも通っていない私は、誰よりも遅れている。

 だから人一倍努力しなくてはならない。だけど、それさえも楽しめたなら。彼のように、それだけに打ち込めたなら。

 きっとそれは、掛け替えのない宝物になるだろう。

 ただそれが、楽しめるのか、打ち込めるのか、好きになれるのか、不安ではあるけれど。

 その不安を感じ取ったのか、話し終えて一息ついた彼が、私の頭に大きな手を置いた。

 「…大丈夫だよ。なんだかんだ凛はやり始めたら最後までやるタイプだし、お前が踏み出そうと思ったきっかけの女の子とおっさんもいるんだろ?」

 「そうだけど…」

 「それでも不安なら、俺んとこに来ればいい。お前がどんな世界に飛び込んだって、俺はお前の隣に立ってる。俺がダメな時に、お前が支えてくれたみたいにな」

 こいつは、恥ずかしくないのだろうか。

 気障なセリフなのに、普段だったら絶対に突っ込んでいるんだろうけど、今はその言葉が心地よかった。

 私が安心したのを感じたのか、彼は私の手からリードを取ってハナコとじゃれながら歩いていく。

 その光景を見て、どんな世界に進んでも、私の帰る場所はここしかないと、確信した。

 

 

 4

 

 「こんばんは」

 夜の九時を過ぎた頃。仕事を終えて帰宅した私は、向かいの和風カフェを訪れていた。

 「あら、凛ちゃん。あの子ならまだ帰ってきてないわよ」

 「え。まだ、ですか」

 「大会が近いからねぇ。ユースにも選ばれて期待されてるのに、前回は散々だったから」

 お客がいなくなった店内の掃除をしながら、彼のお母さんはそう言った。

 18歳以下の日本代表に選ばれた彼は、レシーブ、スパイク、サーブにブロック。あらゆる面で優秀ということもあり、かなりの注目を浴びていた。

 しかし、夏に行われた全国大会で、彼が所属するバレー部は予選敗退という注目していた人たちの期待を裏切る結果を出してしまった。

 その背景には、スタメンであった先輩が病欠し、初心者の選手を含めたチームで出場し、そのフォローを行いながらのプレーで都内ベスト8まで残ったのだが、周りから見ればユース選手、それも相当な注目を集める選手を抱えるチームが予選敗退したとあれば、注目していた者たちは露骨にその興味を無くしていくことだろう。

 実際、彼は周囲の注目など気にしていない。

 けれど、私と同じ負けず嫌いの精神が、彼を追い立てるのだ。

 全国出場だとか、都内ベスト8とか、そんな目標や結果よりも、どんな状況であれ負けてしまったという事実に、彼は悔しさを感じている。

 だからこそ彼は練習しているのだろうけれど、この時間までというのは流石に自分を追い詰めすぎだろう。

 「…ちょっと見てきます」 

 「え!?あの子も男なんだから大丈夫よ!それより凛ちゃんは女の子なんだからこんな時間に出歩いちゃ危ないわ!」

 「でも、オーバーワークはよくないですし…」

 「それを言ったら凛ちゃんも今日お仕事してきたんでしょ?大丈夫よ、そのうち帰ってくるから」 

 その言葉の通り、お店の扉が開いてジャージにコートを着込んだ彼が入ってくる。

 相も変わらず全身青い彼は、いつも以上に疲れて見える。

 「ただいまー…」

 「おかえり。凛ちゃんが来てるわよ」

 「え?あ、よう凛。どした?」

 「これ、私の部屋に忘れてったよ」

 そう言って手渡したのは、深い青色の音楽プレーヤー。登下校やランニングの際に彼が愛用しているモノだ。

 「おお、今日の朝ちょっと探してたんだよ。サンキュー」

 「どういたしまして。最近帰るの遅くない?」

 「あー、試合も近いし、決勝の相手が相手だからな」

 疲れて眠そうな顔を隠そうともせず、自室がある二階へと向かっていく。

 それに無言で付いていき、彼の自室に入るなり、ベッドに腰掛ける。

 何年たっても彼の部屋は変わらない。

 教科書と、それを上回る量のバレーボールの雑誌や本が立てかけられた机。机の脇の棚には、小学生の頃からの軌跡であるメダルやトロフィー、バレーボールが飾られ、下の段にはいくつかの漫画が置かれている。暗い青色を基調としたカーテンの下には、彼が愛用している学校用と遊び用の二つの青いバッグが置かれ、机の反対側には私が座るベッドがある。

 変わったことがあるとすれば、壁に貼られたバレーボールのポスターの隣に、シンデレラプロジェクトとニュージェネレーションズ、トライアドプリムスのポスターがあることだろうか。

 ていうか。

 「いつの間にこんなポスター貼ってたの」

 「こないだおっさんから貰った。ほら、お前がスカウト受けたっていう」

 「プロデューサーから?アンタたち知り合いだったっけ?」

 「お前を迎えに行ったときにちょっとな。それより、なんか用か?プレーヤー渡しに来ただけじゃないんだろ」

 コートとマフラーをハンガーに掛けながら、こっちを見ることも無く彼は問う。机の上に置かれた設置型の充電器にスマホを置き、座り心地を優先した椅子に座ってこっちを振り返った。

 ジャージを脱ぎ、長袖のシャツだけになった彼は、しなやかに伸びる長い足を組む。 

 「まぁ、ね。アンタの決勝の日付と私のライブが重なっちゃったから、試合を見に行けないよ、っていうだけなんだけど」

 「…そっか。ま、しょうがねぇよ。お互いがんばろーぜ」

 彼はフッと笑うと、大きな欠伸をした。涙目になりつつエナメルバッグの中から練習で使ったのだろうシャツやサポーターを取り出す。

 けれど、その姿はどことなく寂しさを感じさせる。

 そしてその理由を、私は知ってる。

 「うん。そっちこそ、私が応援席にいなくても勝ってよね」

 彼の試合、私のライブ。

 互いの戦場ともいうべきその場所に、いつも必ず互いの姿があった。

 彼の試合に私はいつでも応援に行っていたし、私のライブに彼は欠かさず来てくれる。遅れることはあっても、行かないなんてことは絶対になかった。

 だから、お互いの試合とライブに、お互いの姿がないという事実が、心にずしんと重くのしかかるのだ。

 その不安を、私たちは共有していた。

 「当たり前だろ。凛こそ、俺が見てないからってダンスとちるなよ」

 「何言ってんの。アンタこそ、前みたいにサーブミス連発しないように気を付けなよ」

 それは言うなよ、と彼は机に上半身を投げ出す。お互いの不安もそうだが、今日の彼は相当疲れているようだ。

 幸い、試合とライブ当日まで、まだ時間はある。

 不安を取り除けるかは分からないが、心の準備をするには十分な時間だ。

 今日は大人しく帰るとしよう。

 「それじゃ、今日はもう帰るよ」

 「おーう。風邪ひくなよー」

 「アンタもね」

 そういって部屋を出ると、彼も洗濯に出すのだろうシャツを持ってついてくる。

 外は冬の夜に相応しい寒さを保ち、道路を挟んだだけとはいえ、家に帰るのも億劫になってしまう。

 「凛」

 シャツ一枚。暖房が効いているとはいえ、出入り口付近は気温が低い。確実に厚手のカーディガンを羽織っている私よりも寒いだろう。

 そんな姿の彼は、開いたドアに寄りかかって私の名前を呼ぶ。

 「今、楽しいか?」

 それは、アイドルという世界に飛び込んだ私が、最初に抱いていた願い。

 その問いに、私は自信をもって応える。

 今は、悩むことも無く応えることができる。

 「楽しいよ。アンタが背中を押してくれたおかげでね」

 「そうか。……おやすみ、凛」

 「うん、おやすみ」

 胸の前で手を振って、道路を挟んだ自分の家に向かう。

 たった数歩でたどり着き、振り返ってみれば同じ姿勢のままの彼が立っている。

 たった数歩。されど、物理的なその距離は遠く、彼と触れ合えない時間をもどかしく感じる。

 けれど、互いの心は繋がっている。

 ただ、心の距離より、物理的に彼と離れていることに不安を感じるようになったのは、勘違いじゃない気がする。

 

 

 5

 

 心の中にまで雨が降っているようだ。

 アイドルとして、ニュージェネレーションズとして、三人で初めて立ったデビューライブ。

 けれどその成果は輝くような夢の景色ではなく、友人の一人が、そして、信頼してもいいと思った人との不和を作ってしまうものになってしまった。

 夢の景色に向かって走り、城ヶ崎美嘉のバックダンサーとしてライブに出たときや、自分たちの出来上がった曲を聴いたときには、その一端を垣間見た気がした。 

 けれど、プロデューサーや未央との間に生まれた不和で、それも見えなくなってしまった。

 卯月も練習を休み、プロデューサーのことも信じられなくなってしまった私は、ダンスレッスンを勝手に休み、おかえりという母親の声も無視して自室のベッドに制服のまま転がる。

 目の前に広がる天井は薄暗く、私たちの未来を暗示しているかのよう。

 どれだけの時間そうしていたのか、途中で寝てしまったのか。

 顔を覆っていた腕をどかすと、そこには薄暗い天井、ではなく。

 「よぉ。練習サボったんだって?」

 見慣れた顔の彼が、視界一杯に広がっていた。

 「…なんでいるの」

 「話、聞いてほしいんじゃねぇかな、って思って」

 彼はそのまま、私が寝ているベッドの端に腰を下ろす。

 作務衣にも似た服にエプロンをつけたままの彼は、家の手伝いの合間にここに来たのだろう。

 ノックをしたのかは分からないけれど、もはやお互いに自室のように扱っている部屋だ。特に抵抗も無く普通に入ってきたのだろう。

 変わらない彼の優しさに触れて、心の淀みが明確なものになる。

 口に出す言葉は曖昧で、けれど気持ちは確かなものだ。

 その明確で、不確かな言葉を、彼は聞いてくれる。

 「確かにお客さんは少なかったよ。けど、私は三人でデビューできたことのほうが嬉しかった。それでも、未央の気持ちもわかるんだよ。バックダンサーとして出たあのライブに比べれば、何もかもが劣っていて、それでも、プロとして頑張んなきゃって…」

 でも、現実は厳しくて、その上、未央に追い打ちをかけるようにプロデューサーの言葉が反芻される。

 「あれが、当たり前の結果だって…。未央の気持ちはどうなるの。私は、何を信じて歩けばいいの…?」

 不安。

 私の心を覆う曇天の空の正体は、それだった。

 夢へと続く道は真っ暗で、手探りで進もうにも、壁も、道も無い本当の闇。

 信頼できると思った三つの光は、もう見えない。

 「…当たり前、か」

 けれど、暗闇の中でも私自身の姿が見えるのは、消えない絆があるから。隣に立つ彼が、私の姿を照らしてくれるからだった。

 「そのプロデューサーがどういう意味で言ったのかは知らないけど、それは正しいと思う」

 「どういう、こと?」

 「アイドルの世界がどういうもんか知らないけど、誰だって初めての本番は緊張するし、それ以上に期待するもんだと思うんだよ」

 「期待…」

 「そう。俺だって、最初は期待した。凄い活躍をするんだって、俺より何倍も上手い連中より活躍してやる、ってな。その試合で俺は期待通りのことを一度だけできたけど、それ以外はてんでダメ。サーブレシーブミスって連続で点を取られるのは当たり前、サーブはネットを超えないし、スパイクはラインを割る」

 彼は言葉を区切る。

 薄暗い部屋に染みる沈黙は、私の不安を煽っていく。

 「それと一緒だよ」

 その言葉は、私の不安を怒りへと変えた。

 「その未央ってやつは、自分が新米だってことも忘れて、トップアイドルの景色を見れたことが、運が良かっただけってことを理解してないのさ。

 トップの努力の結果にたまたま触れただけなのに、自分もすぐにその景色を見れると思ってる。新人の努力なんてたかが知れてるのに、天才だとでも思ってんのかそいつは。そうだとしたら、ここで挫折して良かったじゃねぇか。鼻っ柱を折られて…」

 「アンタは!あいつの肩を持つの!?何にも知らないくせに、分かったようなことを言わないでよ!」

 私を照らしてくれる光は、けれど私を突き放した。

 起き上がって彼を睨む。

 確かに未央は舞い上がっていたのかもしれない。

 けれど、それは夢を追いかけるが故であって、そこには純粋な気持ちしかなかった筈だ。

 そんな未央の気持ちを、何も知らない彼がバカにするのが許せなかった。

 「ああ、知らねぇよ。でもそれは、お前だって一緒じゃねぇの?」

 私から目をそらさず、彼は真っすぐな視線で応える。

 「お前がアイドルを目指し始めてデビューするのにかかった時間が長いのか短いのかはわからん。けど、その時間でお前は何を知ったんだ?未央ってやつの気持ちを全部理解したのか?プロデューサーって人の言葉の意味を全部理解できるようになったのか?少なくとも俺は、昔から一緒にいるお前の気持ちを全部理解したなんて思ってない。渋谷凛って人間を、俺は未だに理解してない。これだけ一緒にいる人間のことも理解できていないのに、お前から話を聞いただけの人のことなんてわかるわけねぇじゃん」

 その通り、だった。 

 確実に繋がっていると、切れない絆があるのだと確信している彼のことでさえ、私はすべてを知っているわけじゃない。

 それどころか、彼が考えていることを理解している風を装っているけれど、それさえも私の思い込みに過ぎない。

 「じゃあ、どうすればいいの…。わかんないよ…」

 わからない。

 未央の考えていること、卯月の気持ち、プロデューサーの言葉の意味。

 今まで理解していたと思っていた彼の気持ちさえ、私が勝手にねつ造していたものだとしたら。

 何を信じればいいのか。何を目指せばいいのか。

 暗闇の中、壁のない迷路を延々と彷徨っているような感覚に陥る。

 入り口から入ったはいいものの、出口どころか道すら見えない。頼りになる筈の壁も無く、照らしてくれる光も無い。

 私は一体、何をしているのだろう。

 何もわからなくなってしまった私の頭に、彼が優しく手を乗せた。

 「…それを言ってやりゃあいいんだよ」

 「え…?」

 「どうすればいいのか、何を信じればいいのか。わからないなら聞けばいい。きっと、お前らに足りないのは主張のぶつけ合いだよ。言いたいことを言って、相手の話を聞いてやる。そんな当たり前のコミュニケーションが足りないから、認識の祖語が生まれるんだ」

 きっとそれは、彼がやってきた経験に基づくアドバイス。

 バレーボールというチームワークが強さに直結するスポーツに打ち込んだ彼だからこそできる、最大限の助言なのだ。

 くしゃくしゃと乱雑に頭を撫でる彼は、薄暗い部屋の中なのにはっきりと見える。

 「主張の、ぶつけ合い…」

 「まぁ、それは俺の時の話で、今のお前らに必要なのかはわからないけどな。でも、少なくとも腹を割って話し合う機会は必要だと思うけど」

 言われてみて、気が付いた。

 プロデューサーの言われるがままにレッスンをして、未央達の望むがままにバックダンサーとして出演し、たまたま乗った流れのままにデビューした。

 その流れの中で、私たちは自分の気持ちを主張しあっただろうか。進む道に、自分の意志があっただろうか。

 「…なんとなく、進めそうか?」

 彼は立ち上がると、作務衣のポケットに手を突っ込みながら、真っすぐな視線をこちらに投げかける。

 その姿は、迷いなく歩ける彼の姿は、私の憧れだ。

 そうありたいと願った。私も、彼のように、と。

 けれど、現実はそうはいかなくて。

 でも、彼もこの道を歩んだのなら、私も頑張れる。きっと、私も彼のようになれると、根拠のない自信が沸き上がる。

 不安と迷いは消えないけれど、それでも一歩を踏み出すには十分な勇気を彼から貰った。

 「うん。まだ納得はしてないけど、私はアンタを信じてるから。だから、アンタの言葉を信じて、進んでみせるよ」

 「ああ。とにかく、お前の悩みの答えを出せるのはお前だけなんだから、好きなだけ悩め。別に今日答えを出さなきゃいけないわけでもないんだから」

 そう言って彼は部屋を出ていく。扉の向こうから、ハナコの散歩に行ってやれー、なんて声をかけているのは、きっと彼に懐いているハナコがカフェに戻る彼の邪魔をしているからだろう。

 進もうと思った。

 けれど、その道を進むために信じるものが何なのか、目指すべき場所がどこなのか。

 それはまだ分からない。

 制服を脱ぎ、いつもの私服に着替えて部屋を出る。

 雨が止んだ夕暮れの空の下を、ハナコと歩いていく。いつもの散歩コースなのに、頭の中を巡る思考のせいか、やたらと長く感じる。

 そうして足を止めたのは、彼と話し、卯月やプロデューサーと本当の意味で初めて向き合った公園。

 今後のことを考えていると、いつの間にか私たちのデビュー曲を口ずさんでいた。

 「しぶりん!」

 彼は、私の悩みの答えは、私にしか出せないと言った。

 けれど、私の悩みは皆とのこれからのことで。その悩みの答えは、皆と出さなければ、いずれまた無理が出る。

 だから、ぶつけよう。

 私の不安を、彼女に。

 そして聞こう。

 彼女の悩みと、彼の本当の言葉を。

 そうすればきっと、きっかけの少女の夢のように、私も、私たちも、キラキラと輝く何かに成れると思うから。 

 未央の気持ち、プロデューサーの言葉、私の不安。

 それぞれをぶつけ合い、ぎこちなく、けれど確実に私たちは近づいた。

 その本心を完璧に理解したとまでは言えない。

 それでも、私の不安が消えたのは嘘じゃない。本当に信じられるべき人を見つけたのは、決して嘘なんかじゃないと、私は彼に報告することができた。

 アイドルを続けると決めた私の顔を見た彼は、わかった、と大したことじゃないという風に、淡々と口を開いたのだった。

 

 

 6

 

 「りーん。明日オフだろ?ライブ前にシンデレラプロジェクトとクローネの皆で、息抜きにカラオケ行こうって話があるんだけど、凛も来るよな?」

 仕事を終え、夕方のレッスンも終えた夜。更衣室で制服に着替えていると奈緒が声をかけてきた。

 相変わらずモフモフなポニーテールを揺らして、純粋な笑顔を浮かべている。だから言いづらくもあるのだが、明日は非常に大事な用事があるのだ。

 「ごめん。明日は用事があるから行けないや」

 「ええ?何の用事なんだ?」

 「聞かなくてもわかるでしょ、奈緒。凛が私たちより優先する人なんて、彼しかいないよ」

 いつの間にか更衣室に入ってきていた加蓮が、奈緒を驚かすように肩に手を置いて、案の定、奈緒が驚いて加蓮から距離を取った。

 しかし、それにしても加蓮の物言いには不満がある。

 いくら私だって、事務所の人間と用事があれば彼よりそっちを優先するし、今回はたまたま彼との用事が先に約束してあったという話だ。

 ただ、最近の彼の様子がいつもと違うことに、疑問と不安があることは確かだけど。

 「…とにかく、明日は用事があるから。息抜きは皆で行ってきて」

 「まぁしょうがないかぁ。明日はどっか行くのか?」

 「うん。ちょっと、懐かしい場所にね」

 昨日の夜、仕事も終わり店の手伝いも終え、自室でくつろいでいた私のスマホに一件の通知が来た。

 春高予選決勝を控えた彼からの連絡には、決勝直前の休日にあそこに行くから付いて来て、と書かれていた。

 私たち二人の間であそこ、と言われれば示す場所は一つしかない。

 だけど、そこに行くのはどちらかに何かがあった時だけで、年に一度か二度、それどころか行かない年だってある。

 だからこそ、彼が付いて来てと言うのなら、行かない理由なんて一つもない。

 「二人の思い出の場所みたいな?なんかいいね、そういうの」

 今度は邪な感情が一切ない口調で加蓮が言う。

 「それじゃ、明日は皆で楽しんできてね」

 「おう。今度は凛も行こうな」 

 「凛も、明日は楽しんできてね」

 またね、と手を振って全員が帰路につく。

 この一年で見慣れた帰り道は、彼の帰宅ルートでもある。けれど、最近はカフェの手伝いを休んで練習に打ち込んでいるせいか、朝も帰りも、彼の姿は見えない。

 ここ最近の彼は、いつもとどこか違う。

 思い詰めているような、何かに悩んでいるような。そう、アイドルとして活動し始めたばかりの私に、少し似ている。

 明日、この燻る靄が晴れることを祈って、私は星空を見上げた。

 

 例え祈らなかったとしても、朝は容赦なくやってくる。

 春高予選決勝、そして私のライブを翌日に控えた金曜日。私の高校は創立記念、彼の学校は何かしらの振り替え休日ということで、三連休の初日になっている。

 体を休めるために、彼の所属するバレー部も完全オフ。どころか、体育館を封鎖しているらしい。自主練という名目でオーバーワークをする選手がいるために取られた措置だそうだ。

 とにもかくにも、一日休日になっている私たちは、朝から出かけることにした。目的の場所には、夕方にでも行ければいいという彼の提案があったため、それまでは別のところに行こうという話になったのだ。

 「…よし」

 姿見の前に立って、自分の服装を確認する。

 いつからか、彼の真似をするように好きになった青を基調にしたコーディネート。誕生日プレゼントにくれた雫を模したネックレスはいつも着けている。

 「じゃあ行ってくるね」

 「行ってらっしゃい。気を付けてね、ってあの子が一緒なら大丈夫か」

 「もう、あいつの暴走抑えてるのは私なんだけど」

 「そう?でもあの子がいなくちゃ凛は外にも出なかったじゃない」

 そうかもしれないけど。

 店の花を手入れしているお母さんの横を通り抜け、外に出る。

 タートルネックのセーターにコートを着た私が、着込んでも寒さを感じる気温の低さに身を震わせていると、丁度同じタイミングで出てきた彼が同じように顔を顰めていた。

 「おはよう」

 「はよぅ。寒いから早く行こうぜ。どこ行くか決めてないけど」

 「だと思った。私欲しいものがあるからついて来てよ」

 「おっけー」

 どちらともなく近づいて隣り合い、同じスピードで歩き出す。

 疲れたような、眠そうな彼は、けれどいつものようにフラフラと歩きつつ、私に合わせてくれる。悩みがあろうと、何かに迷っていようと、彼の芯は変わらずそこにあるのだと分かる。

 「ていうか、アンタそのコートしか持ってないの?」

 「まぁなぁ。これ、気に入ってるんだよ。似合うだろ?」

 「いや、まぁ似合うけど…」 

 彼が着ているのは、彼が愛用している青のロングコート。下にはパーカーを着て寒さ対策をしてきたと思ったら、マフラーやネックウォーマーをしておらず、首元を寒そうにしていた。

 オシャレより実用性を優先する彼にしては珍しいと思いながらも、その首元に光るネックレスに気が付いた。

 いつもは練習の邪魔になるからと、私が誕生日にプレゼントした時のまま、大事に保管されているものだ。

 「ふふ」

 「ん?なんだよ」

 「いや、本当に青が似合うなって思ってさ」

 「はぁ?…あ」

 彼は私の言葉の意味を理解したのか、ふいっと顔を背けた。顔こそ見えないが、短く切り揃えられた髪のせいで隠すことができない耳が真っ赤に染まっているのを見て、さらに笑いが零れる。

 冬の寒さを吹き飛ばすように笑みを浮かべながら、珍しく照れた彼を隣に連れて歩いていく。

 

 

 7

 

 プロジェクトクローネ。トライアドプリムス。

 私に示された、もう一つの可能性。

 アメリカの企業から戻ってきた美城常務が提示した、アイドル部署の全プロジェクト総白紙化。

 それに対抗するプロデューサーと、彼と歩んできたシンデレラプロジェクトのアイドル達。

 私は、美城常務に対抗するシンデレラプロジェクトのアイドルで。けれど、彼女に示された新たなユニットに、私は可能性を見た。

 北条加蓮、神谷奈緒、渋谷凛。

 三人で歌った時に感じた、言葉にはできない何か。

 部署の解散は、私にとっても忌避するべきことで、今期末のライブである『シンデレラの舞踏会』のためにシンデレラプロジェクト全体のレベルを上げなくてはならない。

 わかってる。

 ニュージェネレーションズとトライアドプリムスの掛け持ちは、簡単なことではない。

 わかってる。

 この機会を逃せば、加蓮と奈緒のデビューは遠のき、いつになるかもわからない。

 わかってる。

 わかってる、分かっている。わかっているけれど。

 それでも、あの時感じた何かを、私は知りたい。

 けれど、その気持ちに区切りがつかないまま、未央は舞台の役者としてソロ活動に乗り出した。

 ニュージェネレーションズを守ろうと思えば、トライアドプリムスの結成はない。トライアドプリムスを守ろうと思えば、ニュージェネレーションズがバラバラに。

 私の小さな器では、目に入るすべての可能性を掬いあげることなんてできないことは、知っている。

 ならば私は、何を汲み取って、何を切り捨てればいいのだろう。

 「…わからないよ」

 「…俺も、わかんねぇよ」

 あの時。秋の定例会を間近に控え、アイドルになってから二度目の迷子になった時。

 彼はいつものように私の背中を押してくれはしなかった。

 お互いの両親さえ知らない、私と彼の秘密の場所。

 そこで私たちは、背中合わせになってお互いに体重をかけあっていた。

 綺麗に輝くはずの夕陽は、雲に隠れて早々にその姿を隠してしまっている。

 「ユースなんざどうでもいいんだよ…。こんなことになるなら、ユースになんか選ばれない方がよかった…!」

 18歳以下の日本代表に、高校一年生にして選ばれた彼は、その実力ゆえに部内で孤立しかけていた。

 ユース選抜の合宿には、彼と同等の実力の選手が何人も集められ、たった数日の合宿で、彼らは競り合い、感化しあい、技を盗み合い、その実力をさらに伸ばしていた。

 そうして実力を伸ばして部活に戻った彼を待っていたのは、余りにかけ離れた実力差ゆえの差別だった。

 元からバレーの実力は段違いの彼だったが、それでもユース合宿に行く前は同じチームの主力として皆のために頑張っていたのだ。それを知り、彼に負けじと努力していたメンバーたちは、紛うことなく一つのチームとして完成されていた。

 けれど、たった数日で追いかけるのもバカバカしくなるほど、彼とチームの間に実力差が生まれてしまった。

 それは彼のバレー愛ゆえであり、その根本は何よりもバレーを楽しむためであった。

 けれど、人は自分と違うものを拒絶したがる生き物だ。

 目標にすらならなくなってしまった彼は、バレー部にとって必要ですらなくなってしまった。

 今まで彼に引っ張られるようにメンバーが努力をすることで完成されていたチームは、彼を必要とせず、目標にもしなくなったことで、瓦解し始めたのだ。

 いくら私たちが似ているとはいえ、まさか同じようなことで悩んでいるとは夢にも思わなかった。 

 自分のせいで、チームが崩れていく。

 その罪悪感と、すでに崩れ始めたチームを見る焦燥感。

 どうすることもできないまま、私たちの時間は過ぎていく。

 「……凛」

 「…なに」

 「手、繋いでいい?」

 「…ん」

 体をずらして、隣り合うように座り、彼の左手と私の右手を繋ぐ。

 いつもの空気はなく、まだ不安も悩みも消えていない。けれど、繋がった手から感じる暖かさが、少しだけ安心させてくれる。

 私たちの問題は、私たちだけの問題じゃない。

 この場でどれだけ悩んだとしても、明確な答えは絶対に出ない。

 けれど、私の場合は私や未央が、彼の場合は彼自身がすでに一人になってしまっている。

 大きな氷から分離してしまった小さな流氷のように、私たちは離れ始めてしまった。

 「ん。アンタのスマホ、鳴ってるよ」

 「ああ」

 彼は右手でスマホを操作すると、全身を固めた。

 ちらりと見えたスマホの画面には、やたらと長いメッセージが表示されていた。

 普段ならきっと文句の一つでも言いながら読むであろうメッセージを、彼は無言で読み進める。何が書かれているのか、それを読んで彼が何を思っているのか、さっぱりわからないけれど、彼の感情だけは伝わってくる。私の手を握る彼の手が熱を持ち、強く、強く握りしめてくる。

 「誰から?」

 「……あいつ、から」

 それは、彼がバレーを始めるきっかけになった人物。今もなお彼とコンビを組み、私の次に彼を理解しているであろう、もう一人の幼馴染。

 チームでは小学生の時からセッターを務め、中学の時には都内ベストリベロ賞をもらっていたこともあったはず。

 そんな彼は、彼の高校で唯一同じ中学出身の生徒で、且つ誰よりも彼の実力に近しい人間だ。

 「そう…、なんて、言ってるの?」

 私も面識のある彼の言葉を知りたくて、メッセージの内容を求める。

 ゴールを見失い、佇む彼に、あいつはなんて声をかけるのか、気になったのだ。

 そして、思ったのだ。

 普通の友達以上に長い付き合いの長いあいつが。私たちと長い時間を過ごし、けれど私たちのように似た存在にならなかったあいつが、彼に何を言ったのか。

 それが、今の私にも必要なものかもしれないと、思ったのだ。

 「…待ってる。他の奴らが何をしたって、俺の相棒は、お前だけだからって。後は、昔のことがつらつらと」

 彼は、唇を噛みしめていた。

 それはきっと、彼を必要としない人たちの言葉に気を取られすぎて、彼を待っている人がいることを忘れてしまっていた自分への不甲斐なさ故。

 そして、それは私にも言えること。

 トライアドプリムスとニュージェネレーションズというユニットそのものと、未央のソロ活動、奈緒と加蓮のデビュー。

 目の前で起こる出来事だけに目がいって、その場にいる人間のことを考えていなかったのかもしれない。

 少なくとも、私たちの間に起こる出来事の中で、ただ一人待っていてくれている人のことを、私は蔑ろにしている。

 きっかけの少女、島村卯月のことを。

 その日、私たちは静かに帰宅した。

 悩む内容も、解決になる糸口が私たちを舞台に引っ張り上げてくれたきっかけの少年少女であることも、何もかもが似通った一日は、けれど決して悪いものではなかった。

 新しい可能性を、チームに必要な経験を、それぞれが得るために必要な時間だったから。

 それを知るのは、まだ先の話だけれど。

 

 

 8

 

 「はぁ。やっぱ寒ぃな、ここも」

 「ここに限らず今はどこも寒いでしょ」

 「というか、ここは人が来ねぇからなぁ」

 結局何かを買うことも無く、ウィンドウショッピングという名の冷やかしを続けた私たちは、お昼を食べた後、すぐに私たちの秘密の場所へ来ていた。

 私たちの母校である小学校のすぐ近く。外で遊ぶのが好きな男子たちがよく遊んでいた丘。そこに、私たちの秘密の場所はある。普通に上るだけでは辿り着けない、丘の頂上。

 ここを見つけたのは、本当に偶然だった。

 小学生の頃に彼に連れられて行った丘で、偶々辿り着いたその場所は、今なお誰も知らない。最近は子供が転んでケガをしたことから、小学生たちの立ち入りは禁止されているし、上りに来るのは近所に住む老人たちくらいで、その人たちも知ってか知らずか、態々頂上まで来る人はいない。

 だから、ここにあるベンチに座るのは、私たちだけだ。

 「…それで、話したいことって何なの?」

 「相変わらずズバズバ聞くねぇ。昔から不機嫌な時は素直だったけど、アイドルになってからはやたらと真っ直ぐになったよな」

 「何言ってんの。アンタの前じゃ、いつでも素直だったでしょ」

 「そうかぁ?」

 あはは、と乾いた笑みを浮かべる。少なくとも、私はそのつもりだった。いつでも彼に対しては素直でいるつもりだ。

 それは、彼も同じはず。

 けれど今の彼は、どうにも歯切れが悪い。私以上に素直で、相手が誰であろうと思ったことは何でも言う彼にしては、非常に珍しいことだ。

 「…バレー部なんだけどよ。二年になったら辞めようかと思ってさ」

 「……は?」

 こいつは今、なんて言った。

 「今のままの成績じゃ大学進学は難しいだろうし、部活は辞めて勉強に専念しようかと思ってな」

 「…ちょっと待って」

 「春高は優勝するつもりだし、ユースにも選ばれた。あいつには悪いけど、俺は十分バレーを楽しんだ。悔いはねぇよ」

 「ちょっと待って」

 「まぁ、バレー部の連中から何か言われるかもしれないけど、やっぱ将来のこと考えると部活より優先すべきことがあると思ってさ。まぁ、やればできるタイプだから、二年になったら俺が勉強教えてやるよ。部活辞めたら家の手伝いをやっても時間が余るだろうし、先輩たちみたいにバイクの免許取って迎えに行ってやってもいいしさ」

 「ちょっと待ってよ!」

 勝手に話を進める彼を止める。

 バレーを辞める?あんなにバレーを愛していた彼が?

 部活を辞める?見放されてもなお、バレー部の要として頑張ってきた彼が?

 「…部活で何か、あったの?」

 「なんもねぇよ。本当に、進路のことを考えての結果だ。凛の進む道を俺は聞いて来たのに、俺の進む道を凛が知らないのは不公平かと思ってな」

 淡々という彼の言葉を、私はどこか呆然としながら聞く。

 小学生の頃から続けているバレーを、彼は惰性や昔からやっているからなんて理由ではなく、愛しているからこそ続けてきたのを、私は知っている。

 幼馴染のあいつと喧嘩をしつつも、いつも夜遅くまで二人そろって練習をしていたのを、私は知っている。

 アイドルになって、ようやく彼に追いついたと思った。何かに必死になって、自分の可能性を知って、それに挑戦せずにはいられない彼の気持ちを、ようやく理解した。

 そう、思っていたのに。

 確かに将来を考えることは大事だ。高校二年生にもなれば、進路について考えなくてはならないだろう。加えて、彼のように不安定な成績なら、その進路に影響もあるだろう。

 けれど、それを差し置いてもなお、考えてしまうのだ。

 あれだけの情熱を、貴方は簡単に捨てられるのか、と。

 「不公平って、それは、私から頼んだことで…。…進路って、どこの大学?部活を辞めなきゃいけないようなとこなの?私がだめなら、美嘉の彼氏に教わったりとか。バレーを辞めなくてもいいような選択肢だって、きっと」

 「それはダメなんだ。凛は分かってるだろ」

 彼は、自分の苦手な分野を、その分野において優秀な人間から教わることを嫌う。それは、自分への甘えだと思っているからだ。

 だからこそ、人生の半身ともいえる私に勉強を教わりに来ていたのだ。身近に全国模試三年間一位を取り続け、高校生という身分でも取れるありとあらゆる資格を手にした、勉強面において天下無双ともいえる先輩を一切頼らずに。

 けれど、それを知ってなお私が口に出したのは、彼にバレーを辞めてほしくないからだろう。

 私たちは、お互いの決断には口を出さない。

 それはお互いを尊重し、ほとんど依存している二人の間の、最後の一線でもあった。

 「俺は不器用だ。そのくせ、やれば大体のことはできる。けど、俺が本気で取り組めるのは一つだけ。これからもバレーをやるとなれば、進路のことが疎かになる。プロになって食えるならそれもいいけど、一生それで稼げるかと言われればそうじゃない。だから、今、俺はバレーを辞める」

 その一線を越えようとした私を、彼は押しとどめる。

 彼の言うことは正しい。そして、誰もができる選択じゃない。

 私だって、一生アイドルでいられるわけじゃない。夢を見続けられる時間は限られている。

 ただ、夢から覚める時間が早いか遅いかの違いしかないのだ。

 彼は早かった。私はまだ覚めない。

 その差は、夢を見始めた時間の差もあるかもしれない。

 だけど。

 「…私は、アンタにバレーを続けてほしい。夢を見続けてほしい。だって、バレーをしてる時のアンタは、キラキラしてるから」

 「…悪い。決めたことだから」

 いつかの私のように意固地になったセリフを聞いて、私は立ち上がった。

 いつの間にか空は赤くなり始め、彼の好きな青色は、彼のコートと私たちの首元で光るネックレスだけになる。

 申し訳程度の柵の前に立って、彼に向き合う。 

 「アンタが、決めたことを曲げないってことは痛いくらい知ってる。真っすぐに、不器用で、バレーと勉強とって両立できないのも知ってる。それでも家の手伝いだけは手を抜かないことも、私のことになるとバレーと同じくらい必死になってくれることも、私は知ってる」

 「ああ、そうだろうな。だから…」

 「だから」

 彼の言葉を遮って、私は言う。

 「もしアンタが、将来の為に今を捨てて、なによりも楽しんでいるバレーを辞めるなら、私もアイドルを辞める」

 その言葉に彼は、ここに来てから一度も見せなかった苦痛そうな表情を初めて浮かべた。

 「な、なんでそうなるんだよ!?俺がバレーを辞めることとお前がアイドルを続けることは話が違うだろ!」

 「そんなことない。だって、私も楽しいから」

 アイドルのライブも、撮影も、辛いレッスンに、時に煩わしく感じる人間関係だって、何もかもが楽しいんだ。

 そして、その根底にあるのは、中学の時に聞いた彼の言葉だ。

 それについての出来事を全て楽しめるのなら、どれだけ幸せなことなのか。

 私はそれを知った。

 だけど、その根底たる彼が、何があったって楽しめると言っていた彼が、全てを楽しんでいるバレーを辞めるというのなら、責任を取ってもらおうじゃないか。

 私の自分勝手で、彼に責任を押し付けようじゃないか。

 それで彼がバレーを続けてくれるなら本望だ。恨まれたって、今までみたいにバレーを楽しめないとしても、それでもいい。

 だって。

 「アンタが楽しめるって言ったんだよ。仲間がいれば、何があったって楽しめるんだって。今のアンタには、仲間がいるじゃない。私がいるじゃない。それでも楽しむことができずに辞めるって言うなら、アンタの言葉は嘘だってことになる。そうなれば、きっと私もアンタと同じ道を辿ることになる。それなら、そうなる前にアイドルを辞める」

 今の彼は、何よりも辛そうだから。

 彼の悩みは将来につながる大事なものだ。

 だけど、だからって今を蔑ろにする必要はない。むしろ、将来の為に今を消費するなんて、勿体ないと私は思う。

 それこそ、高校の部活は一年も経たないうちに、チームそのものが変化していく。

 だからこそ、彼には今を楽しんでほしい。彼なら、今を楽しんでなお、未来へつながる道を楽しんで歩けると、私は信じているから。

 どれだけ我儘を言おうとも、最後に決めるのは彼だけれど。

 「…今日は先に帰る。明日はお互い頑張ろう。そのあとで、また話を聞かせてよ」

 いつになく弱った表情の彼にまくしたてる。

 今日のこと。明日のこと。そのあとのこと。

 単語の羅列のように言葉を発して、それと、と付け足す。

 「私、アンタのことが好き」

 じゃあね、といつものように手を振って、丘を降りる。

 彼と二人でここに来て、初めて私は一人で帰った。

 どさくさに紛れて告白したことなど、綺麗さっぱり忘れて、帰り道の空を見上げる。

 彼から貰った雫のネックレスのように、とても深い蒼色をしていた。

 

 

 9

 

 ライブ当日の控室。

 私は舞台衣装を着て、スマホでネット配信されているバレーの試合を見ていた。

 春高予選の都大会決勝はネット中継されていて、聞いたことも無い解説役と実況が選手の情報を話している。

 『前回はスタメンのキャプテンが不在で、代わりに一年生が出ていた為にその力を万全に振るうことができなかったようですが、やはりその実力は高校生バレーの中でも頭一つ抜きんでていますからね。今回はフルメンバーでの出場となりますし、監督も全国優勝を十分狙える実力だと言っていました!』

 『彼の持ち味は攻守ともに発揮されますが、特に注目していきたいのはレシーブです。今大会でも、リベロがほとんど出ないチームはここだけですからね。その理由は言わずもがな、彼と、彼に引き上げられた守備力の高さゆえでしょう。また、前回大会で出場していた一年生選手も、高い実力に引っ張られて、全国で通用する実力を備えていますからね、油断はできません』

 試合直前の解説で彼のプレーに触れるのはいつものことだ。それよりも私が気にしていたのは、彼の様子だ。昨日の件が後を引いているのか、いつもに比べてやはり覇気がないように見える。

 「お、それって今日の都大会の中継かい?しぶりん」

 「未央。うん、そう」

 肩口からスマホを覗き込んでくる未央。その衣装は私とは違い、黄色を基調としたひまわりのような明るさの衣装だ。

 対して私は、青と黒のツートンカラーで、シンデレラプロジェクトとプロジェクトクローネの時の衣装を足して二で割ったようなミニスカートの衣装。

 卯月に至っては白とピンクのドレスだ。

 何故ここまで衣装にまとまりがないかと言えば、纏まりが必要ないからに他ならない。

 今日のライブは、出演者全員がソロ曲を歌う。唯一違うのは、ワールドツアーから一時的に帰ってきている楓さんとさしわたのコンビくらいだろう。

 城ケ崎美嘉なら、つい最近発表した『アイコトバ』を。

 三船美優さんなら、同じく『Atonement』。

 高垣楓さんとさしわたのコンビは、『星導』。

 シンデレラプロジェクトの面々もそれぞれ、新しいソロ曲や、ソロデビュー曲を歌う。

 そして私は、今日発表する新しい曲を歌う。

 プロジェクトの垣根を越えているせいか出演順はごちゃまぜで、私の出番は木村夏樹の次だ。

 「にしても、いつにもまして盛り上がりが凄いね~」

 「そうだね。やっぱりソロで出てるから、ファンの皆もゆっくり一人ずつアイドルを見れて嬉しいんじゃないかな」

 「あはは、美穂ちゃんとかはかなーり緊張してたけどねー」

 そうこう話しているうちにスマホの中で試合が始まり、彼のチームからサーブが始まる。

 いつもは観客席で見ているため、やや遠く感じるけれど、それでもわかる。わかってしまう。

 「…やっぱり、いつもより動きが悪い」

 いつもの彼なら、相手のスパイクがどれだけ強かろうと、相手の攻撃がどれだけ早かろうと、どう見えているのか必ずボールに触る。レシーブができなくても、確実にボールには触れる。

 その彼が、ボールに飛びついても触れず、どころか甘いボールでさえいつものようにセッターの頭上に返せない。

 ユースに選ばれた実力は、完全にそのなりを潜めていた。

 そして、スマホ越しに見る弱った彼を見て、私は奥歯を噛みしめた。

 彼の不調は、私が彼の悩みを深めたせいだ。

 私の我儘で、彼の決断を鈍らせた。それが、彼のプレーに影響している。

 けれど、私が歯がゆく感じているのは、私のせいで彼が集中できていないことではなく。

 「アンタなら、乗り越えられるでしょ…!」

 私の我満も。進路の悩みも。バレーに集中することも。

 不器用な彼は、だからこそ一つのことに集中できる。そして、それとは別に、彼なら乗り越えられると信じているのだ。

 いつも私を照らしてくれる、私の太陽。

 彼の輝きで私は輝くことができたけれど、彼は自力で輝くしかない。だからこそ、彼の輝きを強く魅せるために、私は月のように輝くのだ。

 彼が自分を見失った時に、貴方の輝きで私が輝けたと言うために。

 傍から見れば、互いの我儘を無条件で聞き入れて、自分の悩みを深めようとも、お互いの為に生きる私たちは滑稽且つおかしいと思われてもしょうがない。

 自分の道を決めた友人に、自分の我儘を押し付ける人など、探したところでそうそういないだろう。

 だけど、私たちの間では、そんなものは関係ない。思ったことを言って、してほしいことを伝える。最後の決断は相手に任せるほかないけれど、相手に自分の想いも考えてほしいと思うから、私たちは自分の本音を伝え合う。

 「凛ちゃん、出番ですよ」

 扉から顔を出す卯月に促されて、私は席を立つ。

 1セット目の中盤に差し掛かったバレーのネット中継は閉じ、スマホをロッカーにしまう。

 舞台袖に立ち、歌い終えた夏樹のMCを聴きながら、私は考える。

 彼の問題に私が口を出せる段階は昨日で終えた。

 なら、私にできることは何だ。

 彼がどんな決断をしようとも、そばにい続ける私にできることは。

 思考を止めないままに、夏樹がかき鳴らすエレキギターの音をBGMに、私はステージに立つ。

 満員の観客席。煌めくサイリウム。

 満天の星空のような目の前に光景に、私は考えることを辞めた。

 「みんな。皆には、大事な人がいる?家族、友達、恋人。どんな人でもいい。自分にとって、一番大切な人との思い出を胸に、この歌を聞いてほしいんだ!」

 疾走感のある前奏と共に、彼との思い出が駆け巡る。

 私が悩むのは、決まって進むべき道を迷う時。

 彼が悩むのは、決まって自分を見失った時だ。

 昨夜、家に帰った私は彼の相棒に連絡を取った。

 彼について一番詳しいの私だという自負があるけれど、それでも高校生活に関してだけ言えば、相棒である彼のほうが詳しい。

 そして聞いたのは、彼にとっての弱みだった。

 彼は思ったことを素直に口に出す。素直ということはつまり、それだけ根が真っすぐであるということ。その真っ直ぐさこそが、彼の弱み。

 春高直前の期末テストで、私との勉強会のおかげでそこそこ優秀な成績を取った彼は、学年主任の教師にこう進言されたらしい。

 「お前がバレーを頑張っているのは知っているが、プロを目指すわけじゃないんだろう?それで聞いたんだが、家のカフェを継ごうと考えているんだって?だから、ここを受けてみないか?お前の成績は不安定だけど、二年から勉強に集中すれば、特待生枠でここの経営課に入学できる。バレーは疎かになるが、将来のことを考えて、決めてくれ」

 素直な彼は、教師の言葉を素直に受け止めた。

 今が楽しければそれでいい。そんな雰囲気を醸す彼が、突然将来について語りだしたのは、その教師が原因だったのだ。その教師だって、彼のことを思っての言葉だったのだろうが。

 そして、それでその教師を恨むかと言えば、難しくはあるけれど。

 だからこそ、彼には信じてほしい。

 わからない未来よりも。いずれ来る将来よりも。

 今までの自分が為してきたことを。

 今の自分が、楽しんでいることを。

 信じて、今を生きてほしい。

 それは将来のことを蔑ろにしろとか、そういうことじゃないんだ。

 何よりも信じてほしいのは、今の自分の可能性。

 彼は言った。

 自分は不器用で、本気で取り組めるのは一つだけだと。

 だけど、それは本当にそうだろうか。

 テスト前による部活停止期間という短い時間で、学年10位に食い込める学力を持っている。

 普段から家の手伝いで、なんだかんだ文句を言いながら調理を手伝ったり、経理の計算までこなしている。

 バレーに関しては言わずもがな。

 そんな彼が、一つのことにしか集中できないなんて、それこそあり得ないだろう。

 だから、私は歌う。

 この会場にいない彼に届くように。

 「貴方の思い出は、私にとっての宝物。大切にしていこう、貴方とのBlue Recollection」

 いつか、彼が言っていた。

 彼の好きな青色は、無限の可能性を持つ空の色だと。

 どこまでも広く、何色にでも変われる空の色。

 それを聞いて、私も青が好きになった。

 そして、それを真剣に語れる彼が好きになった。

 だからこの歌の青は、彼との絆そのもの。

 

 その日私たちは、私たちの絆を一歩前に進めた。

 346のライブは、全アイドルを通して大成功。私の新曲である『Blue』は、歴代のCDで一番の売り上げとなり、会場物販でも楓さんとさしわたコンビに並んで一位タイの売り上げとなった。

 バレーの試合はといえば、2セット目から調子を取り戻した彼と彼の相棒の活躍で、第5セット目までもつれ込み、35点を超えるデュースまで持ち込んだ果てに、彼のチームは負けてしまった。

 あとで聞いてみたところ、1セット目を取られた後のコートチェンジの最中、彼の相棒に叱責されたらしい。

 「お前がバレーを辞めようが知ったこっちゃねぇけどな。目の前の試合に集中できねぇなら今すぐ辞めろ!今のお前じゃ、バレーを始めたころのお前にも勝てねぇよ!……だから、頼むよ。今は、今だけは、バレーを楽しんでくれよ」

 彼にとって、相棒の言葉は大した接点も無い教師なんかよりも心に刺さるもの。

 そして、彼自身の芯を思い出させるものだったのだろう。

 ただ、それが私ではなかったことがたまらなく悔しい。

 「悪かったよ、凛」

 「別に、それは気にしてないよ」

 「じゃあ何に怒ってんだよ」

 「…アンタが落ち込んだ時に、力になれなかったから」

 「いや、んなことねぇさ」

 ライブも試合も終わった私たちは、いつものように並んで帰る。

 その影はいつものように並んで、けれど違うものが一つだけあった。

 「あいつに怒られたおかげで、バレーを続ける決心がついた。全国に行けるとはいえ、負けちまってるけど」

 「私は、それをしたかったのに…」

 「バレーだけが俺の全部じゃねぇよ。ただ、どうやってもお前らに先を越されてるから、情けなくもあるけどな」

 青空は薄く、何よりも暗い黒が空を染めていく。

 その下で薄く伸びる私たちの影は横に並び、黒い橋を架けていた。

 

 

 

 








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恋を謳う

この話には暴力、性暴力の描写があります。
苦手な方はブラウザバックを推奨します。















 1 

 

 一目惚れというやつを、初めて体感した。

 公園のベンチに座るその子は、少し汚れた紺色の制服を着ていて、真っ白な透き通る肌がとても目立っていた。冬の寒空にマフラーもコートも着ずにいるその子がやけに気になって、私は声をかけた。

 「あの…」

 「……」

 振り返ったその子は、ややウェーブのかかった黒髪と勝気な大きい瞳が特徴的で、控えめに言ってもアイドル並みに可愛いと思った。私が言うのも変な話だけれど。

 「高校生、だよね?もう遅いけど帰らなくて大丈夫?」

 「…関係ないでしょ」

 私の事を一瞥すると、すぐに視線を手元のスマホに落とす。ちらりと覗いたその画面にはメッセージアプリが開かれていて、時間やこの公園のことが書かれていてる。どうやら待ち合わせをしているようだった。

 彼氏さんとかかな、それなら自分が出る幕は無いな、なんて考えながら軽く謝罪を入れて公園を出る。

 それでも公園にいる子が気になって、公園を囲うフェンスを挟んで中を覗くと、その子の待ち合わせ相手が来たようだった。

 暗がりでよく見えないが、二人は少し話すと手をつないで公園を後にするようだった。その姿は普通の恋人のようで、私の取り越し苦労だったのだと少し安心した。

 二人が私の横を通り過ぎるまでは。

 「いやー、それにしてもこんなに可愛い子だとは思わなかったよ!ホテルでいいんだよね?」

 「はい。明日まで泊めてくれるならホテルでもおじさんの家でも」 

 「それじゃあおじさんの家にしちゃおうかな?」

 「それよりも、ちゃんとお小遣い下さいね?」

 「勿論だよ!君みたいに可愛い子だったら1万と言わずに2万でも3万でもあげちゃうね」

 反射的に、私はその子の腕を掴んで走り出した。

 恋人じゃなかった。さっき見たメッセージアプリも、見覚えが無かったのはそういうモノだったからだ。それに加えて、今手を掴んでいるこの子の手慣れた会話を聞くに、きっと今までもそういう事をしてきたのかもしれない。

 「えっ、ちょっ…!」

 「なっ、おい待て!」

 「いいから!走って!」

 この子が何処の誰かなんて知らない。そういう事をどういう気持ちでしているのかもわからない。

 けれど、未成年の子がするべきことではないし、それを見過ごす大人になりたくないと思うから、私は走っている。

 後ろから追いかけてくる気配がするが、ラクロスで鍛えた私と、手を繋いでいるとはいえ私のスピードに合わせられるこの子についてこれなくなったのか、いつの間にか追ってくる人影は消えていた。

 荒い息を吐きながら、私が所属している事務所近くで二人そろって膝に手をついて止まる。

 「はぁ、はぁ、大丈夫?」  

 「はぁっ、はぁっ、アンタ、何のつもり…?」

 「えっと、はぁ、さっきの人って、そういうサイトで会った人でしょう?」

 「それが何?」

 「何って、あなた未成年でしょう!」

 「アンタには関係ないでしょ」

 「関係ない、って…」

 確かにこの子とは何の関係もない。

 けれど、自分より幼い子が非行に走る瞬間を目撃して、そのまま無視するなんてことはできない。

 「てゆーか、アンタのせいで今日の宿が無くなっちゃったんだけど。どーしてくれんの?」

 「や、宿?お家に帰らないの?」 

 「……もういいや。また別の人探すか…」 

 そう言って私より少し背の低いこの子はスマホを取り出して、また夜の町へと向かっていく。

 きっともう一度、さっきのメッセージアプリのようなものを使って、見たこともない知らない人を捕まえるのだろう。

 さっきの会話から察するに、自分の体を対価にして。

 だから私は、引き留めた。

 見ず知らずの彼女を。

 身も心もボロボロにして、醜く足掻き、泥を啜り、その身を穢して、それでも強く生きようとする彼女を。

 「ねぇ、私の家に来ない?」

 

 

 

 

 2 

 

 「ただいまー」

 「…お邪魔します…」

 どうにか夜の街に溶け込んだ彼女を説得し、夜も更けた頃に私は彼女を連れて帰宅した。

 少し過保護な両親を持つ私の部屋はセキュリティも防災対策も万全な、ちょっとお高めのマンションだ。アイドルになる前は家賃のほとんどをお父さんが払っていたけど、アイドルになってからは自分で払うようにしている。そんな私の部屋にはそれなりの家電が揃っている。

 「とりあえず、お風呂に入っちゃって。その間に着替えと、貴女の制服洗っておくから」

 「え、いいよ別に。廊下で寝させてくれれば」

 「ダメだよ!ほら、お風呂沸いてるから」

 「うるさいなぁ…。てか今まで外にいたのに何で風呂出来てんの…」

 うちのお風呂はスマホで遠隔操作できる便利な代物です。

 それはともかく、ぶつくさ言いながらも脱衣所に入っていく彼女を見送って、私も自室に入る。私の服だと少し大きいかもしれないけれど、パジャマだし大丈夫だろう。

 私も部屋着に着替えて、彼女の制服を洗濯機に入れに脱衣所へと入る。幸い、明日は土曜日だし、私も仕事は休みだ。大学に少しだけ用事があるけれど、それも一時間で済むだろう。

 けれど、明日の予定を決めるより先に、彼女に聞かなければいけないことがたくさんある。

 「この制服も、汚れてるだけじゃないみたいだし…」

 少し匂うのは、きっと男の人のアレだろう。正直触りたくないけれど、洗濯してしまえば問題ない筈。ちなみにうちの洗濯機は新しいだけあって、制服でも型崩れさせることなく洗える優れものだ。

 脱衣所には着替えの下着とパジャマを置いて、今度はキッチンに入る。

 晩御飯を今から作るには遅いし、昨日の残りの肉じゃががあるからそれで我慢してもらおう。

 ご飯を炊いて、おかずを温めなおしているとリビングの扉が開き、私のパジャマを着た彼女が入ってきた。 

 「…お風呂、ありがと」

 セミロングの黒髪をいじりながら頬を赤くする彼女は、女の私でさえキュンとしてしまうような可愛さをしていた。

 「う、ううん。温まった?」

 「うん…」

 「よかった。それじゃあ、遅いけどご飯にしよっか。晩御飯、まだ食べてないよね?」

 「う、うん。でも私、アンタにできることなんて無いよ?」

 「お返しが欲しくてやってるわけじゃないから。でも、聞きたいことはあるから、それには答えてくれる?」

 「…別にいいよ」

 「うん!それじゃ食べよっか」

 楽しい食卓とはいかないけれど、それでも誰かと食べるご飯は美味しい。

 黙々と食べ続けること十分。テーブルの上にあったお皿の中身はきれいさっぱり消えていた。しかし、見た目通りというかなんというか、目の前の彼女はかなりの小食だった。おかずも少し手を付けた程度で、肉じゃがなんかはお芋とお肉とニンジンを一個ずつ食べて終わりにしてしまっていた。

 兎にも角にも食事を終えて、彼女に手伝ってもらいつつ食器を片し、私もお風呂に入ったところで、ようやく本題に入ることができる。

 「とりあえず自己紹介から始めよっか。私は新田美波。貴女の名前は?」

 込み入った事情がありそうな彼女の事だ、少し遠い話題から入ったほうがいいだろうと思い、名前から始まり学校や趣味、私がアイドルをしていることなんかを話していく。

 こうして話してみれば、最近の高校生と変わらない少女で、何となく渋谷凛ちゃんや速水奏ちゃんのような大人びた高校生という印象を受けた。学校では友達がいないそうだが、勉強はかなりできる方らしく、進路は私が通っている大学を目指しているらしい。

 しかし、私の遠まわしな会話に苛立ったのか、彼女はこう聞いてきた。

 「私が体売ってる理由が知りたいんじゃないの?」

 その質問に、私は首肯した。

 そうして語られる彼女の事情は、私の住む世界とはかけ離れたものだった。

 「まぁ、ただお金が必要ってだけなんだけどね。親と仲悪いから家にも帰りたくないし、だからお金もくれて家とかホテルを奢ってくれる人に、対価として体を差し出してるってだけ」

 「だけ、って…。いくら仲が悪いって言っても、ご両親が心配するんじゃ…」

 「するわけないよ。あの人達、私と血ぃ繋がってないし」

 彼女が言うには。

 現在のご両親は両方とも血がつながっていないそうだ。数えるのも億劫になるほどに両親の結婚と離婚を繰り返し見て、体験してきた彼女にわかるのは、今の両親とは血がつながっていなくて、その二人にとって彼女はいないほうが嬉しいものであるということ。

 だから、なるべく両親と会わず、迷惑もかけないように、自分の体を引き換えにして宿やお金を稼いでいるらしい。

 「で、でも、お金を稼ぐなら他のアルバイトとかあるじゃない?」

 「体売る方が高いから。今日はアンタのせいで収入なしだけど」

 「それは…ううん、やっぱりダメだよ」

 「ダメって。泊めてくれたり、食べさせてくれたりしたことには感謝してるけど、アンタにそんなこと言われる筋合い無いんだけど」

 彼女は何でもないことのように語るけど、私は一度見ている。

 数時間前、見知らぬ男の隣を歩いていた彼女がしていた、諦観と絶望の瞳を。そして、仄暗い瞳の奥に見えた、微かでも確かな輝きを。

 「確かに私が貴女に何かを言う筋合いは無いよ。でも」

 目の前の彼女は、今の自分に絶望してる。けど、未来には決して絶望していない。

 いつか今の自分が報われることを信じているんだ。

 だったら今、その手助けをするくらいしてもいいんじゃないだろうか。

 「貴女は今、辛くないの?」

 その言葉に、彼女は激昂した。

 「アンタに何が分かんのよ!こんな部屋に住まわせてくれるような家族がいて、アイドルなんて綺麗な仕事をしてるアンタに!選ぶ前から汚れてる事がどんなに惨めか知らないくせに!」

 木製のテーブルを叩いて立ち上がった彼女は、大きな瞳を見開いて、今にも泣きそうな顔をしていた。

 でもそれは、彼女の心の叫びでもあったように思う。

 私と彼女は違う。

 彼女から見れば私は恵まれた人間で、それは間違いじゃない。私が彼女の立場になっていれば、すでに心が折れていただろう。

 だからこそ、私は許せない。

 「うん。だからさ、教えてくれないかな、貴女の事」

 「…は?」

 懸命に生きているこの子の今が、こんなにも辛いものであるという事実が。

 「私と貴女が知り合ったのってついさっきの事じゃない?だから、教えてほしいな。貴女の今までの事」

 「なんで、アンタにそんなこと…」

 けれどそれも建前なのかもしれない。

 「私もさ、アイドルにスカウトされるまでやりたいことってなかったんだよ。でも、プロデューサーにスカウトされて、アイドルをやってみて、見える世界が変わったの。だから、貴女にとって私がそういう存在になれないかな?今までの事は変えられないけど、これからの貴方の人生で、貴女の支えになれる様な存在に」

 「い、いや、だから、私の問題はそういう事じゃなくて…」

 「大丈夫だよ。私こう見えても結構稼いでるから、一人くらい同居人が増えても」

 「え、いや、私、汚いし…」

 「汚くないよ。ほら」

 そう言って彼女の隣に回って抱きしめようとすると、彼女は椅子から転げ落ちるように逃げた。

 それを追うように近づくと、彼女はまた怯えたように逃げる。ようやく壁まで追いつめ、彼女の肩に手を触れた瞬間、先ほどの怒鳴り声とは比べ物にならない程の悲鳴を上げた。

 「さ、触らないで!」

 すると彼女は、打って変わったように震え始め、自分の体を抱きしめた。

 「どう、したの…?」

 震えながら、彼女は泣いていた。

 たった数時間しか経っていないからか、否、たった数時間だからこそ、短い時間でこんなにも印象が変化していく彼女の事を、私は掴めきれずにいた。

 最初は自分が汚れることをどうとも思っていない子だと思った。

 けれど、自立するために今の自分が汚れることを厭わない子だと感じた。

 でも、他人に体を差し出す彼女が、私に対しては触れられることすら嫌がるとは思いもしなかった。

 その理由は、彼女が嗚咽交じりに話してくれた、彼女の本当の悲惨な過去を知ることで理解した。

 彼女にとって三人目の父親は、彼女の二番目の母親と結婚した。それが、彼女が中学一年生の時のことだ。

 その男は、彼女の父親たちの中でも特に粗暴で、たびたび彼女と母親に手を上げることもあったそう。けれど、彼女にとっての本当の悲劇は、彼女に中学生離れした可愛らしさがあったことだ。

 この時点ですでに彼女の両親はどちらとも血がつながっておらず、さらに言うなら自分の子供という認識すらなかっただろう。

 だからこそ、その事件は起こってしまった。

 「うっ…ひぐっ……、あいつに、お、襲われて…」

 中学一年生の夏。血のつながりが無いとはいえ実の父親に、彼女は純潔を散らされた。

 「それからも、うぅ…何回か、犯されて、っ」

 彼女の、自分は汚れているという言葉。その過去が自分を縛り、それを惨めと思いながら生きる辛さ。それでも自分の未来を掴むために、その汚れを再び受け入れる覚悟。

 気づけば私は、彼女を抱きしめていた。

 「あ、だ、ダメっ!」

 彼女の私に対する高圧的な態度は、私に汚れてほしくないという優しさの表れだ。彼女が本当にお金の為だけに動いているのなら、こんなことにはなっていない。今思えば、お風呂に入るのを渋ったのも、廊下で寝させてくれればいいと言っていたのも、わたしがお風呂に入っている間に部屋の中を動いた様子が無いことも、私の部屋を、自分が動くことで汚したくないからだろう。

 「ダメじゃない」

 「ダメだよ!触らないで!あ、貴女まで、汚れちゃう…」

 「大丈夫だよ。大丈夫」

 「ダメ、だってば!」

 私を突き飛ばして後ずさる彼女を、私は押し倒した。

 「やめて…」

 仰向けになって倒れる彼女の上に覆いかぶさる。床に広がる彼女の綺麗な黒髪と、大きめのパジャマ故に零れる白い肌、お風呂上りの優しくもどこか誘惑するような香りが私を襲う。

 この子のどこが穢れているというのか。

 彼女の過去において、彼女の非が一切なかったとは言い切れない。私は当事者じゃなく、彼女を襲った人とは性別が違う。だから、その人にとって彼女がどう見えていたのか想像もつかない。

 きっと彼女はこれからもその過去に縛られて生きていく。

 それを知って、見知らぬふりをして生きていくなんて、私にはできない。

 だから私は、彼女にキスをした。

 「……んぅ!?」

 数センチも無い距離で目を見開く彼女を他所に、押し返そうとする彼女の腕を完全に抑えつけて、唇を押し付け続ける。その間も抵抗しようとする彼女だったが、だんだんと大人しくなり、遂にはくったりと力が抜けてしまったようだ。

 「ん、はぁ……」

 唇を離し、私と彼女を繋ぐ銀の糸を指で切る。

 そこでふと、私何してるんだろうと頭の片隅で考え始め、自分が抑え込んでいる彼女を見ると、お風呂上りでも見なかった程に頬を赤くし、目を回して気絶していた。

 どうにか冷静になった頭で状況を理解して、私が発した言葉は。

 「あっ」

 だけだった。

 

 

 

 

 3

 

 非難する視線がこうも痛いものとは知らなかった。背中を伝う汗が嫌に冷たく、罪悪感だけが膨らんでいく。

 「ミナミは」

 先頭で話を聞いていたアーニャちゃんが、眉尻を下げた純粋な瞳で見つめてくる。

 大変ですね、とか、私にできることはありますか、とか。心優しい彼女から、そんな優しい言葉が出るのを期待した私は、ようやく認めきれなかった自分の失態を悟った。

 「女の子が好きな人、ですか?」

 「くはっ…!」

 いや、わかってはいるんです。

 いくら彼女が私に触れても問題ないことを証明するためとはいえ、き、キスをする必要は無かったってことくらい。でもあの時は、流れというか、雰囲気でついしちゃったと言うか、私も初めてだったのにそうするのが必然に感じたと言うか。

 「うぅ…」

 「ま、まぁまぁ、外国じゃキス位挨拶って言うしさ」

 「それは頬にだよぅ」

 「そ、それで、その子は今どうしてるんですか?」

 一緒に話を聞いてくれていた李衣菜ちゃんと卯月ちゃんが話を反らしてくれる。

 私は今、シンデレラプロジェクトの皆とともに、旧プロジェクトルームにいた。今度のライブで、この13人とまた一緒にステージに立つからだ。明確に解散したわけじゃないが、全員が同時に同じ舞台に立つ機会が減ったことを多くのファンに指摘されたために、的確な言葉ではないが、短期復活ライブをするのだ。

 「まだ私の家にいるよ。昨日はお休みだったからどうにか説得して、着替えとか持ってきてもらって、当分は私の家にいると思う」

 「ふーん。一応、その子の親には話したの?」

 「うん。彼女の携帯を借りてね。電話して、何日か家に泊めますって言ったんだけど…」

 「だけど?」

 「その、別に帰ってこなくてもいい、って言われちゃって」

 「なっ、なにそれ!?」

 みくちゃんのセリフは、昨日の私が言ったものとまったく同じだった。

 彼女の言う通り、彼女の親は自分の子供だと思ってすらいない。むしろいないほうがいいと考えている。

 最早私の頭の中に、彼女をどうやって説得してお家に帰すかなんて考えは無かった。あるのはただ、どうやって彼女を養うか。

 「とにかく、彼女との生活が落ち着くまでは、居残りのレッスンとかが出来なくなるかもしれないから、先に事情だけ知ってほしかったの」

 「それは分かったけど、本当に大丈夫?その子、今までは知らない男の人の家に泊まってたんでしょ?その人たちが美波の家に来たりとかさ」

 凛ちゃんの心配はもっともだ。

 うちのマンションのセキュリティがいかに高いと言っても、中にいる彼女が鍵を開けてしまえば何の意味も無い。しかし、彼女の携帯を見る限り、連絡先を登録しているのは両親と学校くらいで、今まで会っていた人たちの連絡先は無かった。恐らく、アプリか何かで連絡を取っているのだろう。そのアプリも、昨日のご両親への電話の後に消させたので、今まであっていた人たちに彼女が連絡を取ることはできないだろう。

 そして何より、彼女がそういう事をしないという漠然とした、けれど心の奥で確信している理由がある。

 「それは大丈夫なんだけど、ちょっと困ったことがあってね…」

 「?それ以上に困ることなんてあるのぉ?」

 「うーん、今日私の家に来れる人っている?」

 その言葉に手を上げたのは、杏ちゃん以外の皆だった。きらりちゃんに無理やり連れてこられてはいたけれど。

 レッスンを終えて汗を流した私たちは、皆揃って私の家へと歩き始めた。

 事務所から私の家までは歩いて十数分くらいなので、適当な雑談をしているうちに到着した。鍵とナンバーロックを解除して自動扉を潜り抜け、階段を上る。私の部屋は4階にあるが、流石に14人もの人数でエレベーターに乗ると狭いし、途中で誰かが乗ってきたときに迷惑になるので、頑張って歩いてもらう。

 そうして到着した私の部屋の前で、私は深呼吸をした。

 「…自分の部屋、なんだよね?」

 「う、うん。そうなんだけど、つい…」

 兎にも角にも部屋に入らなければ意味が無い。

 扉を開けて、ただいまと声を掛ける。すると、部屋の奥からバタバタと音がしたと思うと、一人の美少女が飛び出してきた。

 ウェーブのかかった黒い髪と、太ももが眩しい短パンに少し大きめの真っ白なもこもことしたパーカーを着た彼女だ。初めて会った時とは真逆の優しい笑みと、紅くした頬がその可愛さをさらに増す要因になっている。

 彼女は私の前に来ると、両手の指を胸の前でくっつけて照れながらこう言った。

 「おかえりなさいっ、美波さん…」

 「た、ただいま」

 動揺しながらも、自然な笑みを浮かべる。浮かべるように努めてはいるが、どう見ても頬が引き攣っている様な気がする。

 「ね、貴女に会わせたい人を連れてきたんだけど、いいかな?」 

 「私に?美波さんの紹介なら誰でも会いますけど…」

 言い淀む彼女は、やはりまだ自分が汚れていると思い込んでいる。そして、そのことを気にしている。

 だからこそ、私は彼女達を会わせたいのだ。

 その思惑を感じ取ったのか、いや、彼女の場合は本能とか天然とかそういうものだと思うけれど。とにかく、私が紹介するよりも先に、彼女の前に出てきた。

 「ドーヴライディエン、アー、こんにちは、アナスタシアです。アーニャと、呼んでください」

 「え、あ、え?外国人?」

 「ロシア人と日本人のハーフです。よろしくお願いします」

 「あ…」

 差し出されたアーニャちゃんの真っ白な手を見て、彼女は硬直する。

 胸の前で行き場を失くした小さな手が、猫の手のように丸まっていく。心なしか顔色も青白くなって、声にならない空気が薄い唇から零れていく。

 彼女が右足を一歩、後ろに下げるのと同時に、アーニャちゃんは動いていた。

 「小さくて暖かい、可愛い手、ですね」

 真っ白なその手で、彼女の手を包み込む。

 その行為を、彼女がどれだけ望んでいたことか。

 私はきっかけに過ぎないんだ。彼女が享受する筈だった幸せは、これから今までの苦労に見合うだけ返っていく。

 一人きりで頑張り続けてきた彼女にまず必要なのは、彼女が信頼できる相手だ。

 「あ、や、あの…ありがとう、ございます……」

 「照れてますか?」

 「え、あの、はいぃ…美波さぁん…」

 「あはは。とりあえず、皆で中に入ってから自己紹介しよっか」

 彼女にとって、ある意味人生の分岐点にもなる女子会が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 4

 

 結果から言えば、今回の女子会は大成功だった。

 全員の自己紹介から始まり、彼女の経歴に皆が怒りを露わにし、半日を通してどうにかこうにか彼女が皆と触れ合える程度には仲が深まった。

 中でもアーニャちゃんと杏ちゃんは彼女と意気投合していた。アーニャちゃんは気を使いつつも彼女から話を聞き出していたし、杏ちゃんに至ってはお互いの知識面で同調するところがあったのか、大学生顔負けの話を繰り広げていた。その杏ちゃんにつきっきりのきらりちゃんとも話したりと、最終的には全員と話していたけれど。

 「どうだった?」

 「どう、って…。皆良い人でしたけど」

 「ん~」

 ドリップしたコーヒーをマグカップに注ぎながら、キッチンに立つ彼女が間の抜けた顔で返事をする。

 リビングダイニングを隔てるように置かれたソファに座り、背もたれに上半身を肘を置きながら彼女を見ている私は、彼女の姿を見て言い淀む。

 二つの桜の花の意匠が施されたシンプルなデザインのエプロンに、アップにして白いうなじが眩しい髪型。軽く捲った袖と両手に持ったマグカップ。

 新婚、という言葉が頭に浮かぶ。

 「…?」

 不思議そうに首を傾げる彼女に、はっと我に返る。

 「あ、えっと、仲良くなれそう?杏ちゃんと色々話してたみたいだけど」

 「はい、双葉さんってかなり頭が良いみたいで、知識も幅広いですし」

 「あー、確かに」

 ありがとう、と言ってマグカップを受け取る。ミルクの混じった優しい黒を、息で軽く冷ましてから口に含む。コーヒー特有の苦みと、それを包み込んでくれる甘いミルクが口の中に広がる。

 「美味しい…」

 「ふふ、ありがとうございます」

 口元に手を当てて、ほわっと笑う彼女。

 絵になるとか、もはやそういうレベルじゃない。この絵画のようなワンシーンを醸し出している彼女を、一体誰が三日前まで非行に走っていたと思うだろうか。それどころか女子高生というのも信じがたい。美し過ぎる新妻なんて呼ばれてご近所の有名人になることすら簡単に想像できる。

 そして何より、そんな彼女とこれからも暮らしていく私の心臓がもたない。

 「そ、そういえば、会った時と大分雰囲気変わったよね」

 「ああ、そうですね…。学校では私の噂を知った人達から煙たがられていますし、会った人たちや家の人は言わずもがな。人間不信になっていたんだと思います」

 遠い眼をしながら語る彼女は、どこまでも自分を客観視していた。

 「でも、美波さんが、その…キス…してくれたから…」

 「うぐっ!」

 唐突に心の傷を抉られて噴き出す私。少し散ってしまったコーヒーを、彼女がティッシュで拭いてくれる。

 ゴホゴホとせき込みながらマグカップをテーブルに置く。一気に熱くなった顔を冷ますように頬に手を当てて、彼女から少しだけ距離をとる。

 「あ、あれは、なんというか、その、ごめん!」

 そして、頭を下げる。

 よく考えれば、当日は彼女が気絶し、翌日は彼女がこの家に住む準備で忙しく、ちゃんと謝っていなかった。いくらそういう事をしていたとはいえ、同性にされるのはまた違うだろうし、もしかしたら嫌すぎて気絶したのかもしれない。もしそうだったら少しショックだけれど、セクハラと言われればそれまでだ。

 「いえ!嫌だったわけじゃないんです」

 けれど彼女は、照れくさそうに頬を掻きながら言った。

 「むしろ、その、嬉しくて…。同じ性別の人にされるのは初めてで、私の事を受け入れてくれたみたいで。だから私、美波さんには感謝してるんです!生まれて初めて、私の事を考えてくれた人ですから」

 「…っ」

 思わず視界が潤む。

 親が変わり、家族が変わり、周囲の見る目も変わっていく。それが敬愛や友愛なら何ら問題は無いが、侮蔑や軽視になっていくことがどれだけ怖いことか。人を信じられなくなって、自分を穢されて、自分で自分のことを大事にできなくなって。

 その彼女を思う初めての人になれたことが、どれだけ嬉しいことか。

 会ったその日から、私は彼女に感情移入しすぎなんだと思う。

 その理由はわかっている。

 「それで、ですね…」

 指で目じりにたまった涙を拭きとり、正面から彼女に向き合うと、カーペットの上に女の子座りで座る彼女が意を決したような表情で顔を上げた。

 「わ、私、美波さんのことを好きになっちゃいました!」

 早口で紡がれた言葉は、昨日から私が恐れていた言葉で。

 なんとなく彼女の雰囲気からそれを察していた私が、その言葉を恐れていたのは、断ることができないだろうとわかっていたから。

 潤んだ瞳で真っすぐに見つめる彼女は、どこか期待と怯えを含んでいる。

 私が彼女に感情移入しているのは。彼女の告白を断ることができないと思うのは。

 彼女と出会ったその時から、私が彼女に惚れていたからだった。

 

 

 

 5

 

 「どうしよう……!」

 どうしようどうしようどうしようどうしよう。

 彼女の告白は嬉しいどころか、もし私が男の子だったらその場で、二つ返事でオッケーを出している。

 けれど、私も彼女も女の子で、彼女は家庭環境が複雑なうえに、私はアイドルだ。別に346事務所のアイドルに恋愛禁止といったようなルールも暗黙の了解もないし、なんなら美嘉ちゃんや美優さんはアシスタントさんたちと付き合っている、と思うし。

 さらに言うなら、今は特定の地域なら同性婚も認められている。向こうの家庭環境だって、今のようにこれからも同棲して関わらないようにすれば何の問題も無い。いざとなれば、そこそこ裕福なうちの家に逃げることだってできる。まぁ、付き合ったとして、私の家族が彼女を認めるかどうかは分からないが、私が強く言えばどうにかなるはず。

 そうなると、もはや問題は私の気持ちだけで、なんならそれも、一目惚れという形で解決している。

 これだけ条件がそろっていても尚、私は彼女に応えることができない。

 「……どう、したの?」

 「大丈夫です?」

 「どうしよぉ、美嘉ちゃぁん…」

 346カフェにて、妙齢のダンディな店長の淹れたコーヒーをカウンターに置いて突っ伏している私に話しかけてくれたのは、レッスンの合間に休憩に来た城ヶ崎美嘉ちゃんとその幼馴染であるアシスタントさんだ。

 「おお?よしよし、珍しいね」

 「新田さんは皆のお姉さんって感じだったからね。何かあったんですか?」

 美嘉ちゃんに泣きついた私を、二人が慰めつつ話を聞いてくれる。

 昨日彼女に好きだと告白された事。多少の問題はあれど、あとは気持ち次第であること。そして、私自身が彼女を好きであること。

 「なんか、大変なことになってるんだね…」

 「そうか?」

 一緒に悩んでくれそうな素振りを見せる美嘉ちゃんの隣で、アシスタントさんがなんて事の無いように声を上げた。

 「いや、そうでしょ。気持ちに問題がなくたって、お互いの家族とか周りの目とかもあるだろうし」

 「いやいや、問題は家族くらいだし、向こうの家族はほぼ放任状態なんですよね?だったら納得させるのは新田さんの家族だけでいいし、周りの目だって本人の口から言わなければ友達なりルームメイトなり、それこそ姉妹とかでも通ると思う。結婚するなら多少の不便はあるかもだけど、その程度でしょう」

 「それが大問題なんじゃん」

 「そうか?別に男と女が結婚するのだって色んな手続きが必要だし、こと不便さだけに重点を置くなら、男女で結婚するのも同性で結婚するのも同じだと思うけど」

 「そう、かな…?」

 「まぁ周りの目だけは本人の主観になるから何とも言えないけど…」

 高卒で就職した割には、大学生の私以上に物知りなアシスタントさんはそう助言してくれる。

 というよりも、いつの間にか論点が私と彼女が結婚する際の問題点になっている。

 結婚、か。

 仕事を終えて帰れば、昨日のようにエプロン姿の彼女が夕食を用意して、おかえりなさいと微笑んでくれる。二人でゆっくりとリビングでくつろぎ、お風呂で温まったら同じベッドで並んで眠る。休日には二人で手をつないでお出かけしたりして、と。

 頭の中で広がる幸せな結婚生活を振りきる。

 「てゆーか、美波ちゃんの気持ちが問題ないなら何に悩んでるの?」 

 そう。気持ちも、環境も、障害となるべき問題が私と彼女の間には存在しない。

 それでもなお、私が彼女の気持ちに応えられないのは。

 「…彼女の好きという気持ちは、私だから、じゃないと思うの」

 彼女にとって初めて彼女の事を心配して、考えて、認めた人が偶々私だった。だから彼女は私を好きになった。

 もしそうなら、きっと彼女の相手は私じゃなくてもいい筈だ。

 それこそ、あの場にいたのが私じゃなくても、例えばそれがアーニャちゃんでも、プロデューサーでも、どこかの知らない誰かでも、彼女に好かれるチャンスはあったのだ。

 家族の愛を知らず、穢れと恥辱を受け入れて、尚自分の未来のために努力し続ける、健気で強い彼女の初めての愛を受ける権利は、誰にでもあった。

 今の彼女の気持ちは、一過性のもので、言うなれば風邪のようなものだと思う。

 初めて自分を肯定してくれたから。

 自分を汚れていると知っても抱擁してくれたから。

 愛の無い両親に代わって、愛してくれそうだから。

 彼女が私を慕ってくれる理由はそんなところだろう。

 そして、そのどれもが、私じゃなくてもできたことだ。

 彼女は愛を知らない。私が彼女に当然の事のようにしてきたことを、他の誰もができることだということを知らない。

 「うん…やっぱり、優先すべきは彼女の気持ちだし、ちゃんと説得しよう」

 私が彼女を好きであることよりも、彼女が本当の愛や恋を探せる時間を得ることの方が大事だ。

 「話を聞いてくれてありがとう。また明日!」

 「え、ちょっ…!」

 「新田さーん…」

 二人をカフェに残して、私は意気揚々と事務所を出た。

 だから、私は知らない。

 残された幼馴染カップルの二人が顔を見合わせて溜息を吐いたことを。

 けれど、そんなことは些細なことで、この時すでにそれは起こっていた。

 私はその可能性にたどり着いて然るべきだったのだ。

 彼女を受け入れて、彼女の今までの経緯を聞いて、彼女が私と暮らすメリットだけに目を向けて、その可能性を考えることもしなかった。

 アイドルとして、事務所の人たちや関係者に守られて、彼女に忍び寄る危険性を想像することもしなかった。

 私の家なら大丈夫だと高を括っていたのだ。

 その日、彼女は帰ってこなかった。

 

 

 

 

 6

 

 夜中の12時。

 翌日に仕事を控え、いつもなら就寝している時間にもかかわらず、私はダイニングに座っていた。テレビも付けず、ただ玄関と繋がる廊下を遮る扉だけに注意して、彼女の帰りを待っていた。

 しん、と静まり返る部屋の中で、一つの音も聞き逃さないように集中する。

 帰ってきたときにはすでに彼女の姿は無く、彼女のスマホは寝室の枕の下に隠すように置いてあった。私の家に来てからも欠かすことなく行っていた勉強道具は机の端に寄せられ、急いで外出したようにも見える。

 「どこ行っちゃったんだろう…」

 ぽつり。

 零れた言葉に反応するように、玄関の方からがちゃりと鍵を開ける音が聞こえた。

 「っ!」

 弾かれたように立ち上がり、バタバタと足音を立てながら玄関へと向かう。 

 こんな時間まで何をしていたのか。どこにいたのか。せめてスマホを持って行って連絡をしてくれ、と。説教をして、抱きしめて寝てやる。

 そんなことを思いつつ、防犯のために掛けておいたチェーンロックを外そうと扉に近づくと、聞きなれない声が聞こえた。

 「…やっぱマズくねぇか…?」

 「…バレなきゃ問題ねぇって。あの女に加えて、あの新田美波とヤれるんだぜ。アイドルなんてヤってる動画の一つでもありゃ脅していくらでも口封じできるって」

 私は目を見開いて、動揺しながらもチェーンロックの確認をし、音を立てないように静かに、ゆっくりとリビングへと戻った。

 廊下を遮る扉を閉めると、急いでスマホを取ってリビングの電気を消し、ベランダへと逃げ込んだ。冬の夜は極寒で、何故ベランダに出たのかと聞かれれば、無意識の防衛反応だったのだと思う。

 震える手でスマホを操作し、親しいプロデューサーへと電話を掛ける。この時の私には、夜中に迷惑をかけるとか、プロデューサーが起きているかなんてことは微塵も頭になかった。

 ただ、自分の家に不審者が侵入しようとしている。それも、私の体を目当てに。

 その恐怖に駆られて、無心でスマホを耳に当てていた。

 数回のコール音の後、やや眠たげなプロデューサーの声を聞いた私は、とにかく現状を伝えようと口を動かした。

 「ぷ、プロデューサー!今、うちに不審者が来ていてっ、あの子もいなくて、きっとあの人たちに連れていかれたんだと思うんですけど…!」

 「に、新田?とりあえず落ち着け」

 プロデューサーの落ち着きのある声につられて、焦っていた心が少しだけ落ち着いた。

 「今、お前の家に不審者が来てるんだな?」

 「は、はい」

 「他に今来ている奴らの事でわかることはあるか?というか、まだ家には入られてないのか?」

 「あの子の鍵を使って部屋の鍵は開けられて、でもチェーンロックをしてるからまだ家には入られていません。あと、聞こえた声は二人分で、二人とも男でした…!」

 「新田は今どこにいるんだ?」

 「ベランダの鉢植えの陰に隠れてます」

 「……わかった。とりあえず事務所と警察に連絡して、すぐに向かわせる。途中でチーフアシと合流して俺もすぐに向かうから、そこに隠れてろ。危ないと判断したら、ベランダの仕切り版を壊して隣の部屋にすぐにでも逃げろ。あと、何かあればすぐに俺に連絡してくれ。後はお前と合流してからにしよう」

 「わ、分かりましたっ…!」

 ツーツーと通話の切れたスマホを両手で握りしめて、薄く開いた窓の方へと集中する。

 チェーンロックを外せずに手こずっているのか、まだ家の中には入っていないようだ。そこでようやく、私は現状を把握するだけの余裕が出てきた。

 プロデューサーの家は割と近くで、確か歩いて20分くらいだったはず。そこから急いで来てくれるとなれば、遅くても15分以内には来てくれるだろう。もしくは、通報してくれた警察が先に来るかもしれない。

 しかし、明らかにファンではなさそうな話をしていた彼らは、どうやって私の家に来たのか。

 その答えを、私は手の中に持っていた。

 自分のスマホを持つ手と逆の手に握られた、彼女のスマホ。

 少し古い型の彼女のスマホに、私は適当なメッセージを送る。すぐに彼女のスマホの画面にメッセージが届き、『アプリを開く』というボタンが表示された。一瞬だけ迷うも、すぐにそのボタンを押してメッセージアプリを開いた。

 この古いタイプのスマホは、こうしてロックがかかっていても裏技的な方法でロックをスルーすることができる。 

 申し訳ない気持ちを抑えつつ、スマホを操作しメッセージアプリやメールボックス、とにかく誰かと連絡した形跡を探す。

 そしてそれは、すぐに見つかった。

 「なに、これ」

 それは、脅迫文だった。自ら体を差し出せと。同居している私のことも騙して差し出せと。

 通話履歴も今日だけで二十回を超えていて、彼女の抵抗の痕が見られる。

 けれど、何より私が慄いたのは、その相手だった。

 寒くて、指先は震え、吐く息は白く、それでも頬を伝う冷や汗が私の驚きを如実に表してくれる。

 「お前ら!そこで何してる!」

 「くっそ!お前が手こずるから!」

 「うるせぇ!早く逃げるぞ!」 

 「…っ」

 遠くから聞こえる怒鳴り声に反応して体が跳ね、窓の隙間に耳を当てる。

 さっき聞こえた声は、間違いなくプロデューサーのものだった。十分も経っていないが、それほど急いで来てくれたということだろう。

 静かに部屋に戻り、最大限の注意を払いながら玄関へと向かう。外からは言い争う声が聞こえていて、けれど何かがぶつかるような音、端的に言えば暴力的な音は一切聞こえない。

 チェーンロックの隙間から廊下を覗いてみれば、二人の男性をジャージを着た眼鏡の男性が床に抑え込んでいて、それを後ろからスーツ姿の男性がスマホを耳に当てながら見ていた。立っている後ろ姿は見たことがある人で、振り返ったその顔は私が助けを求めたプロデューサーだった。

 プロデューサーは私の顔を確認するなり通話を急いで終わらせて近寄ってきてくれた。

 「大丈夫か?」

 「は、はい」

 「多分あの二人だけだと思うけど、とりあえず警察が来るまではロックかけて部屋に入っていなさい」

 「あ、あの!」

 優しく安心させてくれる声にそのまま従いそうになるけれど、左手に持つスマホの存在が彼女の危機を伝えろと、教えてくれた。

 「あの子が、いないんですっ!脅迫されて、私が行かないとあの子がっ!」

 「電話でも言ってたな。でも、もうすぐ警察が来てくれる。その子もだいじょう…」

 ぶ。

 その言葉を聞くよりも先に叫ぶ。

 「時間が無いんです!私が行かないと!」

 あの子を脅している人は、私を求めている。

 そして、ここに来た人たちを捕まえてしまったということは、私が脅した犯人の元へと行かないという事。その事実に、こんなことをする人が我慢できるとは到底思えない。ならばその鬱憤はどこへ向かうのか。間違いなく、その矛先は彼女へと向かうのだろう。

 それはダメだ。それだけは。

 ようやく闇の中から抜け出せそうな彼女を、再び闇の中へと戻してしまうことになる。 

 それも、最悪の闇に。

 「…しょうがない。チーフ、そいつらと警察の対応は任せていいか?」

 私の必死の形相を見て何かを察したのか、連れて来てくれたチーフアシスタントさんに声をかける。

 「はい、大丈夫です。そちらにも後から警察を向かわせます」

 「有能すぎて助かるよ。それで、その子はどこに?」

 顔だけをこちらに向けて、頼もし過ぎる言葉で答えてくれるチーフさん。

 兎にも角にも、私はチェーンロックを外して外に出る。外出した時の恰好でいたのが幸いした。

 家の鍵を色んな意味で信頼できるチーフに預けて、プロデューサーを先導する。

 

 向かう場所は。

 

 「あの子の家に」

 

 彼女を脅している相手は、今の彼女の父親だった。

 

 

 

 

 7

 

 街灯の灯りと月の光だけが照らす夜道をひた走る。

 彼女の家は私の家の最寄り駅の隣駅。だけど、終電はとうに過ぎ、プロデューサーも車を持っていないので、とにかく走って彼女の家に向かう。

 「はぁ、はぁ…いつから、その子と一緒に住んでたんだ?」

 「一昨日から、です」

 「そうか…」

 後ろで息を吐きながら、スーツのジャケットを脱いでいる。ワイシャツのボタンを一個だけ外し、ネクタイも緩めた。

 「……次からは、ちゃんと言ってくれよ」

 「!」

 あの子の事はプロデューサーには黙っていた。

 本来なら、身分もわからない子を、たとえそれが女の子であったとしても自宅に住まわせるのなら事務所に報告すべきだ。

 それでも私は黙っていた。

 ただそれは、決してプロデューサーを信用していないからとか、そんな理由じゃない。

 きっと彼女の事を言えば、プロデューサーないしアシスタントの誰かが彼女の素性を探るか、そこまでしなくても彼女の顔を見に来るくらいはするだろう。男性に対して情緒不安定な彼女に、たとえ信頼しているとはいえ男性と会わせるわけにはいかなかったのだ。唯一の女性アシスタントである千川ちひろさんは、彼女を私の家に迎えいれた前日から長期休暇に行ってしまっている。

 だからこそ、会わせることができない理由を語るより、最初から黙っていようと思った。

 理由を言ってしまえば、この事態を理由に彼女と引き離されると思ったから。

 「怒って、ないんですか?」

 「怒ってるさ。けど、それ以上に自分の不甲斐なさに嘆いてるよ。そりゃあ、素性もわからない子を居候させてるってわかれば、多少は調べる。でもさ、その調べるってのは身辺調査をするだけじゃないんだよ。新田が言ってくれれば、俺たちはそれを信じる。会わせられない理由があるなら、新田が伝えてくれたことを俺たちは信じるんだ。アイドルの安全は絶対だ。だけど、アイドルのことを信じることも、俺たちにとっては絶対なんだよ。でも、それを伝えられていなかったことが、俺は悔しい」

 「そんな…!私は信じてます!皆も、プロデューサーやアシスタントさんたちのことを信じてますよ!」

 「それはわかってる。けど、言葉だけを頭っから信じるとは思わないだろ?」 

 それは、そうだけど。

 「まぁ人としてそれは正しいことだけどさ、俺たちは新田がリスク計算もできないような奴だとは思ってないから。とりあえず今は、それだけ覚えていてくれよ。それ以上の信頼は、これから得ていくからさ」

 そう言ってプロデューサーは歩き出した。

 私はプロデューサーを信じ切れていなかったのか。

 いや、普通は人の言葉を何の根拠もなく信じるなんてできないだろう。それでもプロデューサーは、それができるように頑張るといった。私たちの言葉を、プロデューサーたちが何の根拠も確証も無く信じているのだと、私たちが信じられるようにすると。

 それは、どれだけ大変なことなのだろうか。

 基準もなく、結果だってあやふやで、途轍もない時間がかかる上に、その結果に対する保証は一つも無い。

 それでもプロデューサーたちは頑張ると言っている。彼らの努力に、私たちが応えてくれると信じていると、臆面するそぶりも見せずに言っている。

 そのセリフは。

 その気持ちは。

 その心は。

 自分だけを信じるのでもなく、相手だけを信じるのでもなく、自分と相手を信じているからこそのものだ。

 「私は…」

 私は、それが出来ていただろうか。

 私の気持ちと考えを、彼女の気持ちだと思い込んでいなかっただろうか。

 「おい新田。あの子の家はどっちだ?」

 「は、はい」

 こっちです、とプロデューサーを再度先導する。

 けれど、その言葉にさっきまでの勢いはなかった。

 

 

 

 

 8

 

 「ここです…!」

 私たちが足を止めたのは、家を出てから10分後のことだった。

 目の前にあるのは二階建ての一軒家で、表札は無く、ポストには大量の新聞紙が入っていて、入りきらなくなったのかチラシや手紙が地面に散乱していた。一台だけ止まっている車はスポーツカーのように平べったいもので、家の外装とは一切釣り合わない綺麗さがこの家に住む住人の性格を如実に表していた。

 「これは、ひどいな…」

 「とにかくあの子を助けないと。行きましょう」

 「待て待て待て!」

 狭い庭に足を踏み入れた私の肩を掴む。

 「なんですか!?早くしないと彼女が!」

 「それでお前も捕まったらどうすんだ!俺はチーフ程強いってわけでもないし、お前だって護身術程度しかできないんだろ?だったら、警察が来るまで待つか、せめてチーフが来ないことには確実には助けられないだろう」

 「っ…でも!」

 「でももくそもねぇよ。中にいるのが男一人だけならどうにかなるかもしれんが…。とにかく、今の俺たちにできることは、応援を待つこと。そして、この家の中にどれくらい人がいるかを確認することだ。男一人ぐらいだったら、俺だけでもなんとかなるかもしれないしな」

 プロデューサーの言葉は正論だった。

 ならばチーフを連れてくればよかったかと言われれば、それは私の家に来た二人を野放しにすることと同義だ。

 だからこそ、私たちは彼女の家の周囲を探り、薄く開いている窓を発見した。中を覗き見ると、そこはウォークインクローゼットのような、倉庫のような、そんな部屋だった。

 幸運だったのは、その部屋の近くに彼女がいることが分かったことだろう。

 「おい!あいつらはまだ帰ってこねぇのか!」

 「は、はい。連絡もとれません…」

 「チッ!せっかくアイドルとヤれると思って我慢してたのによぉ。とりあえずお前で始めとくか」 

 「美波さんには関わらないって約束だったじゃない!」

 「うるせぇよ。元々はお前が体売ってたのが悪ぃんだ。新田美波を巻き込んだのはお前だよ」

 「っ!」

 彼女が息を呑むのと、私が窓から身を乗り出そうとするのをプロデューサーが止めるのは同時だった。

 彼女は悪いことなんてしていない。

 これまで生きてきた中で、彼女に関わることで不幸になった人間がいたのか。それは私には分からない。未成年の体を買ったことで捕まった人がいたのかもしれない。

 けれど、そんなのは自業自得だ。

 私は聖人じゃないから、それを言う。

 確かに、もし捕まった人がいたとして、その人から貰ったお金で彼女は生きてきたのかもしれない。それでも、高校生の女の子をお金で買って、その体を弄んで、その末で捕まったのなら、私は一切擁護しない。そこに彼女への思いが多分に含まれた偏見だったとしても、私はこの考えを貫き通すだろう。

 たとえ、その経験があったから彼女が私を好きになってくれて、私と彼女が出会えたのだとしても。

 だからこそ聞こえた声に私は怒って、けれどプロデューサーに止められた。

 「落ち着けっ!」

 「もう無理です。プロデューサーは警察とかが来てから来てください」

 「お前が一人行ったところでなんも変わんねぇよ!」

 「少なくともあの子が襲われる時間は伸ばせます!それに、ここで傍観してるよりよっぽどいいです!」

 「俺にはお前の安全を確保する義務があるんだよ!」

 その必死の形相に少しだけ怯むが、それでも私の怒りは収まらない。

 目の前で襲われそうになっている好きな人を見て、一体だれが落ち着いていられるというのか。

 けれどその問答は、完全に悪手だった。

 「誰だ!?」

 窓の向こう側から、そしてさっき確認した玄関から二人分の男の怒鳴り声が聞こえた。

 その瞬間、私たちは肩を跳ねさせて、見開いた眼を見合わせた。

 そこにあったのは、驚愕と焦燥と、最大限の危機感。きっと私も同じだった。

 新田美波の人生史上、最も過酷で、これからの人生を決める、最も重要な15分が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 9

 

 二人の男に前後を挟まれ、私とプロデューサーは彼女の実家へと足を踏み入れた。

 玄関には男物の靴が乱雑に散らかっており、家主の性格が窺がえる。リビングにつながる扉をくぐれば、僅かな腐敗臭が鼻につき、衣服が散乱し、その上で後ろ手をガムテープで縛られている彼女を視界に捉える。

 縛られているとはいえ、服が乱れていなかったことに安堵の息を漏らした。

 だが、その先のソファに座る男と目が合うと、すぐに緊張と怒りが私の心と体を支配する。

 いかにも高価なアクセサリー、誰もが知っている有名ブランドの服、吸っているタバコの煙が部屋に充満して、喫煙家のプロデューサーでさえ顔を顰めている。

 「ようこそ、新田美波さん。娘がお世話になっています」

 その男は優しそうな笑みを張り付けて、声を発した。

 聞けばどこにでもいる様な男性の声。けれど私はその声に全身を強張らせ、緊張をごまかすために握った拳に力が入る。

 「…初めまして。彼女を放してください」

 「別にいいですよ。これの代わりに貴女が私の物になるのなら、こんな女いくらでも、どこにでも捨ててやりましょう?」

 この男に抱いてるのは、どこまでも純粋な嫌悪。ただそれだけだった。

 目の前に座る男にとって、私や彼女は自分の欲望を満たす為だけの道具なのだと、たった一言声を交わしただけでわかる。

 今までどういう生き方をしてきたのかは知らないが、この家の惨状と、彼女から聞いた人物像、そして今。

 それだけでこの男の性格が推し量れた。

 どれだけ身なりを整えようが、内側からにじみ出る浅ましく汚らわしい本性は隠せない。

 「私は貴方の物になんてならないし、彼女も返してもらいます。もう二度と、私たちに関わらないでください」

 「…それは残念だ。ああ、とても残念でしょうがない」

 棒読みで言う彼は、私とプロデューサーを挟む二人の男に視線をやる。

 それに気づいて逃げようと思っても、すでに遅かった。

 「プロデューサー!」

 バットのようなもので後頭部を殴られたプロデューサーを、男に後ろから羽交い絞めにされながら視界に入れ、叫ぶ。

 プロデューサーの口から反射で漏れた短くも苦痛なうなり声に息を呑む。

 幸いにも倒れたプロデューサーの頭から血は出ていないが、それでも殴られた事実に変わりはない。早く病院に連れて行かなければまずいだろう。

 「放して!」

 脇から手を入れて抱きしめるように私を拘束する男を振りほどこうと暴れるが、やはり男と女。膂力の差でまったく振りほどけない。

 彼女が私の名前を叫ぶが、それすらも彼らにとっては面白いのか、下卑た笑みを浮かべるばかりだ。

 「やめて!何でもするからっ!美波さんには何もしないでよっ!」

 「あ?うるせぇな。大体、この女を巻き込んだのはお前だぜ?それを被害者ぶって喚いてんじゃねぇよ」

 「違う!悪いのは全部貴方たちよ!」

 「あーあ、ひどいこと言うなぁ。娘が知らない女の家に住むなんて電話がきて、聞き覚えのある名前だから調べてみたら、まさかまさかのアイドルときた。だから優しいアイドルにはお礼をしたかったのにさぁ」

 「はは、よく言うよ。それより、美波ちゃんマジでいい匂いなんだけど。手伝ってやったんだから、後で俺にも回してくれよ?」

 「使用済みでいいならな」

 「あー、ずりぃ!俺にも回せよ!それまではこっちで遊んどくからさぁ」

 「あ、この男の前で犯すのも面白くね?プロデューサーなんだろ?」 

 「そりゃいいな!」

 耳に入れたくも無い汚らわしい会話を楽し気にする彼らを、私は心の底から蔑視する。けれど、いくら心の内で思っても、抵抗すらできずに聞くことしかできないのなら何もかもが無意味だ。

 ソファに座っていた男がゆっくりと立ち上がる。全身につけたアクセサリーが不細工な音を立て、その男の一挙手一投足に嫌悪感が募る。

 その男は私に近づき、髪を一房持ち上げた。

 「…っ」

 「そんなに怖がるなよ。アンタが大事に思ってるあいつは、前から同じことをやってんだぜ?」

 耳元で、その男は呟いた。

 ふざけるな。

 心の中で燻ぶる怒りが再燃し、一気に燃え上がる。

 前からやっている?誰のせいだと思っている。

 今まで抱いたことのない感情が沸々と沸き上がり、私の心を塗りつぶしていく。

 ああ、彼女と初めてであった日。無遠慮に辛くないの、なんて聞かれた彼女はこんな気分だったのだろうか。

 自分のせいじゃないのに、まるで自分が悪いかのように他人から見られる。

 彼女は、その汚れさえも優しさで覆い隠していたというのに。

 ああ、認めよう。

 私は彼女が好きだ。

 その美しい黒髪も、透き通るような白い肌も、意志の強さを表す大きな瞳も、強がりに見える華奢な体も、自分の汚れを誰かに移さないようにとする優しさも、その為に人当たりが強くなってしまうところも、その上で自分が責められるとあっさり弱いところが見えてしまうところも、羞恥に染まる赤い顔も、私の事を好きでいることを隠し切れないところも、それでも自分の道を進もうと努力する彼女も。

 認めよう。

 勘違いだなんて思わない。自惚れでもいい。

 例えそうであったとしても、そんなものは私自身の努力でどうにでもしてやる。彼女が私の事を好きでなくなったときには、何をしてでも振り向かせて見せる。他の誰かに興味が移ったのなら、私だけに夢中にさせてやる。

 だから、私と彼女のこれからを守らせてほしい。

 「…彼女が汚れたのは貴方のせいです」

 「ああ?」

 「今彼女がこの家にいるのも、プロデューサーが倒れてるのも、私がここにいるのも、全部あなた達のせいよ!もう彼女に関わらないで!」

 後から思えば、あまりにも短慮だった。

 私の思いだった。彼らに対する、心からの思いだった。

 けれどそれは、その場で言うにはあまりにも短慮が過ぎた。

 「あ、っそ。そんなにあいつが大事か」

 表情を失くした男が目の前から遠ざかり、横たわる彼女に近づく。

 「何を…」

 「こいつが今までされてきたこと、いや、最近は自分からやっていたことを見て知れば、諦めてくれるのかな」

 「っ、やめて、やめてよ!」

 「おお?大好きな美波さんの前じゃヤりたくないか?そりゃそうだよなぁ。汚ねぇもんなぁ」

 彼女を無理やり座らせて、その服に手をかける。

 今までやられていたこと。最近は自らやらなければいけなかったこと。

 それは、もう二度とさせてはならない、彼女の闇だ。

 視界を真っ赤に染めながら、全身に力を籠める。それでも男の拘束を振りほどけず、暴れるだけになってしまうけれど、そうせずにはいられなかった。

 「触らないで!私が代わりになるから!やめて!」

 その言葉とは裏腹に、彼女の上着が剥がされていく。それを見ることしか出来ない自分がもどかしくて、目の前にいる彼女を抱きしめてあげられない自分の無力さが嫌で、私の視界がぼやけていく。

 たった15分。

 私とプロデューサーがこの家に入って、たったの15分。

 それだけの時間で、私は今まで触れたことのない人の悪意に叩きのめされた。

 私の知らない世界には、自分の欲望を満たす為だけに、他人を傷つけ、貶すことすら厭わない人間がいるのだと思い知った。

 それでも、そんな悪意に塗れて生きてきた彼女の闇には遠く及ばない。

 人の悪意に覆われて、それでもなお希望を見失わない彼女は、私なんかでは到底かなわないくらいに美しかった。

 だから。

 誰でもいい。

 なんでもいい。

 私が汚れたっていい。

 もう、彼女を傷つけないで。

 「へぇ?それじゃあ遠慮なく」

 「ダメだよ美波さん!私が……っ!?」

 男が私のシャツを引きちぎる。はじけたボタンが軽い音を立てて床に散った。

 彼女が叫ぶ。上半身は下着だけの彼女が叫び、悲痛そうな表情を驚愕へと変えた。

 後ろで大きな音が鳴る。壁を想いっきり叩くような、ドアを無理やり蹴破ったような、破裂音のような音だ。

 「あ?誰だ、アンタ」 

 私の肩越しに男が声を上げた。

 拘束されて振り向くこともできないが、ニュアンスから感じるに男の仲間ではないのだろう。

 一体誰だろう。

 強く瞑った目を恐る恐る開けて、出来るだけ首を回し、視線だけを後ろに向ける。

 そこにいたのは、小柄な女性だった。

 そのさらに後ろからは軽い足音と、規則正しい呼吸音。

 「はぁ、はぁ、早すぎです…」

 「当然じゃないですか。うちのアイドルが大変な目に遭っているんです、早く駆け付けるのは彼女たちを預かる身としての義務ですから」

 聞きなれた男女の声。

 一つはさっき聞いていた男性の声。

 もう一つは、ここにいるはずのない女性の声。

 「なんで…」

 その女性は若草色を基調としたコートを着ていた。

 ここにいるはずがない。疑問が頭をめぐり、驚きで硬直していると途端に体が軽くなる。

 「わ」

 拘束が解けてよろけた体を支えてくれたのは、長期休暇中で346事務所のアシスタントである、千川ちひろさんだった。

 

 

 

 

 10

 

 「ちひろさん、お休みだったんじゃ…」

 「はい。ですから昨日まで京都に行ってきました。後でお土産をお渡ししますね」

 「あ、どうも。…じゃなくて、どうしてここに?」

 その問いに答えたのはちひろさんではなく、後ろでプロデューサーの安否を確認しているチーフだった。

 「あの後すぐに千川さんに連絡したんです。ここの住所と今までの出来事を説明したんですが、まさかこんなに早く着くとは思いませんでしたが」

 「むしろこんなに遅くなってしまい、すみません。貴女たちアイドルを守るのが、私達の仕事なのに」

 「そんなこと…!」

 今回の件は100パーセント私が悪い。

 彼女を私の家に迎え入れたのも。

 そのことを事務所に報告しなかったのも。

 全部私の責任で、事務所側は何も知らなかったのだ。今日だって、こんな深夜にいきなり連絡して助けに来てくれただけで十分すぎる。その上で文句も言わず、むしろもっと信じてくれと言われたのだ。謝りたいのはむしろこっちだ。

 「とりあえず、後の話はこの人を大人しくさせてからですね」

 羽織っていたコートを私の肩に掛けて、ちひろさんは目の前の男と対峙した。

 「人の家に勝手に入ってゴチャゴチャとうるせぇなぁ…!せっかくだ、そこの女も一緒に撮影してやるよ。今から来る仲間と一緒に回して、ネットにアップして、身体を売らねぇと生きていけないようにしてやる」

 その男は、完全に怒っていた。

 あまりにも筋違いな怒り。

 私たちの側からすれば、逆恨みもいいとこだ。

 だからなのか、ただ一人正面から向き合うちひろさんは、毅然とした態度で言い返す。

 「貴方のしたいことは分かりました。ですが、こちらも大切なアイドルを傷つけられ、プロデューサーを傷つけられ、あまつさえその二人が守ろうとした人にまで苦痛を与えている貴方が許せないんですよ」

 「だったらどうすんだよ?言っておくが、俺ぁ空手をやってたんだ。お前も、そこの男もボコボコにしてやるのに十秒もいらねぇし、女だからって手加減もしねぇ。泣いて謝りながら犯すのも悪くねぇしな」

 「そうですか」

 淡々と言葉を返すちひろさんは、今まで見たことが無い程に怒っていた。 

 プロデューサーやアイドルを叱るような、私たちを見守る優しさからくるものではなく、単に大切なものを傷つけられたことから来る純粋な怒り。

 けれど、どうあったってちひろさんが目の前の男をどうこうすることはできないだろう。

 体格さもある。性差もある。普通なら、ここで前に出ているのはチーフの筈だ。昔武道をやっていたらしく、幼馴染の三船美優さんが言うには神童と呼ばれていたらしい。少し前まではとある事情から辞めていたらしいが、最近は昔通っていた道場に再び顔を出しているそうだ。

 だからこそ、不思議でしょうがなかった。

 互いの役割を、出来ることと出来ないことを把握しているはずのちひろさんとチーフが、今の立ち位置にいることが。

 「千川さん、この後警察来ますからね?」

 「ええ、わかっています」

 「…はぁ」

 チーフが言う言葉に、ちひろさんが返事をする。

 いつもの光景の筈なのに、どこか違和感を覚える。

 小さい歩幅で男に近づくちひろさん。後ろからではその顔が陰になって見えない。ただ、チーフの何も心配していない顔、というか、むしろ相手の男に同情している様な表情が、余計に混乱する原因になっている。

 そうしてちひろさんが男の目の前に立つ。ほとんど距離は無く、男の拳が振るわれればちひろさんはひとたまりもない。

 だから、その光景に目を疑った。

 男が拳を振るったと思った。

 だけど、次の瞬間には、ちひろさんの小さな足が男の頬に叩き込まれていた。

 「……え?」

 「……はぇ?」

 呆然とその光景を見ていた私と彼女の口から、気の抜けた声が零れる。

 スパァンッ、という小気味良い音がしたと思った次の瞬間には男が倒れ、この家に入って最大級の驚きに、声尾を発することも、ましてや動くことすらできなかった。

 そこでふと、とある疑問が頭を過ぎる。

 そういえば、私を拘束していた人は、いつの間に倒れていたんだろう。

 「あ、あの…」

 倒れ伏した男の前で、ゆっくりと蹴り飛ばした足を降ろすちひろさん。

 その光景を指さして、チーフに説明を求めた。 

 「…千川さんは、私が通っている道場の先輩で、師範代なんです。ただ、あの蹴りの具合だと、大分本気でやったみたいですね。それだけ怒っていたんでしょう」

 それは私達もですけど。

 そう言ってチーフはちひろさんの元へ近寄り、倒れた男の容態を見る。どうやら気を失っているだけのようだが、頬の腫れが痛々しく、この後来る警察への対応に苦労しそうだった。その下手人のちひろさんは、どうやらやり過ぎたと思ったのか、かなり焦って涙目になっていた。私としては感謝しかないので、ちひろさんが罰を受ける時には一緒に受けるか、少しでも軽くなるように直訴したいと思う。

 そして。

 「美波、さん…」

 チーフによって腕と足の拘束を解かれた彼女は、一目散に私の元に駆け寄り、座っている私の膝先に額をこするように座り込んだ。

 今の状況についていけていないのか、呆然とした瞳を次第に潤ませて、彼女は言った。涙を床に落としながら、何度も、何度も言った。

 「ごめんなさい…!」

 縋るように私のジーンズを掴み、濡らして、謝り続けた。

 「ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめんなさい…っ!私のせいで、迷惑かけて、ひどい目に合わせて、ごめんなさいっ!うぅ…ごめんなさい…っ」

 あぁ、彼女にまた傷を背負わせてしまった。

 私が彼女を助けたいから来たのに。彼女が責任を感じる必要は無いのに。そんなつもり、無かったのに。

 けれど、それをどれだけ言ったところで、彼女の罪の意識は無くならないのだろう。

 優しい彼女の事だ。

 言葉だけの許しなんて意味が無い。優しい彼女は、人の優しさをそのまま受け取れない。

 自分の責任と感じてしまった以上、彼女の謝罪には罰で答えなくてはいけない。

 それだけが、彼女が彼女を許せる唯一の道だから。

 「…うん。それじゃあ、私から一つ、お願いしてもいいかな?」

 「ひぐっ…はぃ…。もう、美波さんには関わらないですから…」

 「あー、そうじゃなくて」

 「?」

 ようやく見せてくれた彼女の顔は、今朝見た時の可愛い顔ではなく、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、乱暴に扱われたのか綺麗だったウェーブがかった黒髪もぼさぼさになっていた。

 可愛い人が、ダサい服を着ていたり、身だしなみに気を使っていなかったりすると、多くの人はがっかりしてしまうらしいが、全然そんなことは無かった。

 どれだけ汚くなろうが、どれだけ穢れようが、私は彼女が好きなままなのだろう。

 だから、私はお願いする。

 彼女の罪に対する罰として、お願いする。

 「私の、恋人になってよ」

 「……へ?」

 「普通の恋人にはなれないし、きっといろんな人から変な目で見られると思う。私がアイドルだから、誰かに恋人がいるって言えないし、なにより私の家族が許してくれるかもわからない」

 それは私にも言えることだけれど。

 「それでも、貴女が私の事を好きでいてくれるなら。もし、その涙が私の為に流してくれたものなら」

 彼女の顔を、優しく手で挟む。

 瞳から零れる雫が指を伝い、冷えた手に温もりを感じる。

 たったそれだけ、彼女の暖かさに触れただけで、心が満たされてしまう私は、きっともう彼女に惹かれ過ぎてしまっているのだろう。

 だから、一緒にいてほしいと思う。

 「私と、付き合ってください」

 生まれて初めての告白。

 場所のセンスも、ムードも、気の利いたセリフでもない。

 穢れて、汚れに塗れて、絶望の底に落ちてなお希望を見失わない彼女に、私は恋をした。

 出会って間もなく、互いの事を知るにはあまりに短い時間で、恋というには未熟なものかもしれない。

 愛を知らない彼女と、闇を知らなかった私。

 ちぐはぐだけど、簡単な道のりとはいかないけれど。

 それでもそこに想いがあるのなら。

 「…私、なんかじゃ、美波さんを幸せになんて…」

 「ううん。貴女じゃなきゃいけないんだ」

 「でも、今日だって巻き込んだのは私で…」

 「私が自分から来たんだよ。それに、幸せにしてもらおうなんて思ってないよ」

 「え…?」

 そう。別に、私だけが幸せになるために言ってるんじゃない。

 彼女の顔を少しだけ引っ張って、柔らかい唇に私の唇を合わせる。

 この前のような無理やりではなく、ただ触れるだけの優しいキス。

 「一緒に、幸せになろう。貴女が私を幸せにして。私は、必ず貴女を幸せにするから」

 どうかな、と首を傾げて尋ねる。

 すると彼女は、瞳に溜めた雫を一層大きくし、形のいい唇を歪ませて、それでも笑顔を作ろうとしているのか、さっきよりも顔をくしゃくしゃにしながら、飛びついてきた。

 「うぅぅう…っ!美波さんのバカぁ!」

 「バカ!?」

 「私なんて放っておいてくれればいいのに!」

 「…!」

 「…なるぅ…。美波さんの恋人になるよぉ…!美波さんの恋人にしてくださいぃ…」

 彼女を抱きしめて、背中を軽く撫でる。

 耳元で泣きながら喜びを感じさせる彼女に、ようやく笑みがこぼれる。

 ああ、ここが、私の腕の中が、彼女を安心させる場所になったのだと。彼女が本音を溢せる場所になったのだと。

 そう実感しながら。

 

 「……Immature love says “I love you because I need you.”」

 昔、意味も分からずに、母が歌っていたこの歌が好きだった。

 曲の雰囲気とリズムが、子供心に響いたのだろう。

 後から調べて知ったのだけれど、とある偉人の言葉を、母の知り合いが歌にしたのだという。その人は路上ライブでこの歌を歌っていたらしいけど、大成せずに別の仕事への道を歩いてしまったので、知っている人はごくわずかなのだという。

 けれど、私はこの歌が好きだった。

 愛と恋を謳った、子守唄のようなこの歌が。

 「Mature love says ”I need you because I love you”」

 泣き疲れたのか、私の肩で寝てしまった彼女を想い、謳う。

 私が一目ぼれして、彼女が私を好きになってくれて、それでも自分のせいでその気持ちに蓋をして。

 これまで彼女が歩んできた道は、泥にまみれた茨の道だった。汚れて、傷ついて、それでも進まなければ自分の幸せを掴めない。

 けど、これからは違う。

 辛いことも、大変なこともあるだろう。

 でも、一人じゃない。私がいる。皆がいる。

 だから、安心して進んでね。

 「I’m in love with you」

 あなたが挫けそうになった時。泣きたくなった時。辛いとき。嬉しさを共有したいとき。楽しさを伝えたいとき。

 何より、愛されていることを確認したいとき。

 あなたの恋人として、私が一緒にいてあげるから。

 

 

 数年後、私と彼女の関係が周囲に知れた時、とある記者にこう言われる。

 「新田さんは、同性愛者だったんですか?」

 その記者に、私が返す言葉を、今の私はまだ知らない。

 けれど、その思いは今この時から、ずっと変わらずに抱いているものだ。

 

 

 

 「違います。女性が好きで、女性しか愛せないわけではありません。男性が苦手で、男性を愛せないわけでもありません。私は、彼女という一人の人に恋をしたんです」

 



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