最後の一歩【完結】 (イーベル)
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リョコウ

 会社を出て、手が外気にさらされないようにポケットに突っ込みながら、僕はいつものおでんの屋台を目指していた。

 それは彼女との約束があったから。さらに言えば彼女に取り付けたい約束があったからだ。携帯電話を使えばいいじゃないかと思うかもしれない。

 けれど、こういう大事な事というか、大きなイベントに関しては直接会って伝えたいと思っている。

 電話は苦手という訳でも無いけれど、それだと彼女の驚く顔も、喜ぶ顔も見れない。単純に楽しみが減ってしまう気がする。そんな適当で、曖昧な理由だった。

 一度、彼女にその理由を伝えたときは呆れられたけれど、最後に「なんだか先輩らしいです。嫌いじゃないですよ」なんて、締めくくられたっけ。あの時の照れてる顔はカメラで撮って、永久保存したい可愛さだったなぁ……。

 そんな事を考えていると、おでん屋の暖簾が見えてきた。隙間から中の明かりが漏れ出している。強い風が僕の頬を撫でる。思わず体を震わせて、体温が下がるのを誤魔化した。

「早い所中に入って、温かいものを頼もう」

 そう小さく呟いてから、僕は小走りをしてポケットから手を抜くと、暖簾をくぐった。

「あ、先輩。お疲れ様です。待ってましたよ」

 小さな後ろ姿が振り返り、僕に向かって手を振った。ショートボブの黒髪。猫の様にパッチリと可愛らしい目つき。それにすらりとバランスの取れた体躯。間違いなく僕が待ち合わせしていた女性。僕の彼女、七咲逢だった。

「逢? 早いじゃないか。僕はてっきりもう少し遅くなるかと……」

「ふふっ、今回は根回ししておきましたから」

 微笑みの裏には何かが隠れているような気がしたけれど、深くは追及することは止めた。何が出てくるのか分からない。

「まあ先輩。取りあえず座って、何か注文したらどうですか?」

「それもそうだね。じゃあすいません。注文、大丈夫ですか?」

 屋台の店主さんに話しかけ、注文して席に着いた。彼女の隣。肩が触れそうで触れない距離。もう何年と居座り続けている距離だった。

 ここに居るだけで、すり減らしていた精神的エネルギーが満ちていっている。そんな気がする。我ながら単純だとは思うけれど、理屈ではないのだ。

 少し待つと皿に盛られたおでん、コップに注がれた焼酎のお湯割りが目の前に出された。

「じゃあ、乾杯です。先輩」

「ああ、乾杯」

 コップとコップをぶつけると、一口含んだ。高校生の時はこんな風にお酒を飲んでいる自分を想像でなかったけれど、なんてことはない。ただ、年を取っただけ。中身は高校生とほぼ変わっていない。強いて言うならほんの少し、知恵がついただけだ。

 逢に言ったら「そんな事無いですよ」って言われるとは思う。だけれど、これは僕の思い込み。他ならぬ僕自身が、成長できたと思えていない。それが拭えない限りは永遠にそうなのだろう。

 だから、僕自身が胸を張って、成長できたと思えるようにならなければならない。そのためには……

「……ぱい、先輩っ。聞いてますか?」

「ああ、悪い、逢。何だっけ」

「まったく、話があるって呼び出したのは先輩じゃないですか」

 逢が僕を肘で小突く。

「ああ、そうだった」

「しっかりして下さいよ。もう……」

「ゴメン、ゴメン。話したい事って言うのは、これの事でさ」

 僕は上着の内ポケットからある物を取り出して、逢の前に差し出した。赤と白で彩られた封筒だった。

「これは……何の封筒なんですか?」

「まあ、いいから開けてみてよ」

「はい」

 逢は僕に言われるがまま、封筒を開封すると、中から更に紙切れを取り出した。

「『二泊三日・温泉旅行ペアチケット』……これ、どうしたんですか、先輩?」

「実はさ、この間当てたんだよ。福引で」

「福引、ですか?」

「逢も知ってるだろ。あの商店街の福引だよ」

「ああ、あの。ふふ……」

 逢は口元に手を添えて、笑いを抑える。

「なんで笑うんだよ、逢」

「いえ、ちょっと……思い出してしまって」

「思い出したって、何を?」

「忘れちゃったんですか? あれですよ、あれ。一等、ハワイです……」

 逢は僕にそう伝えるとこらえきれなかったのか、再び笑い出してしまう。

 それを見て、僕も思い出す。一度美也に福引を忘れないようにって落書きされた事があった。その時最初に僕を見たのが逢で、これ以上ないってくらいに笑われたのだった。

「勿論、覚えてるよ。美也にされた落書きだよね」

「あの時の先輩の顔はもう……傑作でしたよ……」

「笑いを堪えてまで思い出さなくていいよ」

 逢はすいませんと肩を震わせながら、笑い過ぎて滲んだ涙を拭った。

「あの時は外れちゃいましたけど、今回はきっちりと大物を引き当てたんですね」

「うん。今回の一等だってさ。それで、逢さえ良ければなんだけど、二人で一緒に行かないか?」

「はい。勿論ですよ。いつですか?」

 思ったよりも素早い返事だった。躊躇いが見られない。付き合っているとは言っても、二人っきりでの宿泊なのに。もう少し恥じらいだとか、距離感というものがあると思っていた。だから僕は思わず聞き返す。

「……逢、そんなにすぐに決めていいの?」

「先輩はすぐに決めたら困るんですか?」

「いや、そういう訳じゃ……」

 逢から視線を逸らして、皿にあった大根へ手を付けた。

 別に困るとか、そういう訳じゃ無い。逢はもう少し奥手で、猫の様にゆっくりと距離を詰めるべき、これまでの経験からそう考えていたのだ。だから、普段と少し違う、彼女のアグレッシブな姿勢に虚をつかれた。それ故に少し戸惑ってしまっただけだ。

「ふふ、すいません。ちょっと、意地悪しちゃいましたね」

「まあ、別にいいけどさ」

「それで先輩。いつになるんですか。この旅行は」

「場所と、日程の予約もあるから早く決めた方が良いのは確かかな。都合の良い日はどこかあるかな?」

「そう、ですね――」

 逢はバックの中から手帳を取り出して、パラパラとページをめくっていく。僕はそれを眺めながら、少し遠い未来へ思いを馳せる。彼女との二人きりの旅行がどのような物になるのか、今から楽しみで仕方がなかった。

 

  ▽

 

 車内で小さく流れる音楽。それに合わせて鼻歌が聞こえる。運転席から見る声の主は頬杖を付いて、窓の外をぼんやりと眺めていた。

「ご機嫌だね。逢」

「え? そう見えますか?」

 僕の方を見て、パチパチと瞬きをした。僕は前方を見つつ「うん」と肯定する。すると彼女は照れくさそうに頬をかきながら、目線を散らした。

「たぶん、そうですね。だって先輩とのデートも久しぶりですし、それこそ旅行なんて……って先輩っ、なんで笑ってるんですか!」

「いや、だって――」

「だって、じゃないです! 逆に聞きますけど、先輩は嬉しくないんですか?」

「嬉しいよ。嬉しいから笑ってる。僕が顔に出やすいのは逢がよく知ってるだろ」

 意識してキメ顔を作ってみる。一瞬、彼女は戸惑いを見せたが、二度首を振るとすぐに表情をいつも通りに戻した。

「騙されませんよ。先輩がそうやって時々、見せる為に表情を変えるの、知っているんですから。気が付いてないとでも思ってましたか?」

「え、ばれてたのか……」

「ええ、バレバレです。でも、まあ……そういう姿勢は嫌いじゃない、ですよ」

「そっか」

 ハンドルを握り直して、途切れそうだった集中力を奮い立たせた。僕の『アタック』が見透かされていたのは勿論だけど、その後のセリフは予想外だ。手痛いカウンターを貰った気分だった。この攻撃に僕は勿論、仕掛けた逢本人まで照れて、黙ってしまう。

 お互いにだんまりを決めたまま、車を走らせていると今回の目的地が見えてくる。カタログでは緑に囲まれていたが、今の季節は冬。覆い隠す葉は落ちて、和風の建物の全景がよく見て取れる。それを機に僕は沈黙を破った。

「逢、あそこ、旅館じゃないか?」

「えっ、ああ。みたいですね」

「カタログで見た通りって訳ではないけれど、落ち着いたいい雰囲気だね。これなら期待通りゆっくり羽を伸ばせそうだよ」

「確かに楽しみですけど、先輩、最後まで気を抜かないでくださいね。気が緩んだ時こそ事故は起こりやすいんですから」

「そんなこと言わないでくれよ。何か、不安になっちゃうじゃないか……」

 不安を漏らしつつも僕は最後まで安全運転を続けた。車を駐車して外に出る。無事たどり着けたことに安堵しつつ、ホッと息を吐く。白い蒸気が天へと上がった。

「やっぱり寒いですね」

「そうだね。ずっと車内にいたのもあってより一層、って感じだ。早く中に入ろうか」

「ええ、そうしましょうか」

 トランクに積んでいた荷物を降ろしてから鍵をかける。チカッとランプが光るのを確認してから二人分の荷物を抱えた。

「あ! 先輩。大丈夫ですよ。自分の荷物ぐらい、自分で持ちます」

「いいって、普段は逢に頼りっぱなしだからさ。こういう時ぐらい、僕を頼ってよ」

「とは言ってもですね……」

 逢は不満げに声を漏らすと、顎に手を当てて横目でこちらを見た。

 別に、旅行だから特別気を遣っているわけでは無い。それに実際の所、普段は要所要所で頼っている。

 だから、こういった形で還元しないとフェアではない。そう思っている。だけれど女は納得していないようだった。

「僕は僕で、また今度逢に頼るからさ。それじゃあ、駄目かな?」

「先輩って、変な所で強情というか、意地っ張りというか……。まあ、いいです。分かりました。少しだけ、頼りにさせて頂きますね」

「少しだけ、か」

 そう付けられてしまうあたり、自分の甲斐性の無さがより浮き彫りにされた気分だ。だけど、まあ自分の要求を通せたのは悪くない。

 それから二人分の荷物を持って旅館に向かい、自動ドアをくぐって、足を踏み入れた。

 木材が多く使われた開放的なロビー。照明は会社で見るような、蛍光灯の白色とは異なって、暖色で落ち着いたもので、なんだか柔らかい雰囲気を醸し出していた。

 非日常感漂う空間に視界を泳がせて、カウンターを探す。しかし広すぎてどこに何があるのかさっぱりだ。見当もつかない。

 困った僕は逢に助け舟を求めることにした。

「逢、カウンターがどこだかわかるかな? 取りあえず受付を済ませたいんだけど、なかなか見当たらなくて」

 僕が問いかけると逢はキョロキョロと辺りを見渡した後、ビシッと手を伸ばして何かを指差した。

「でしたら、あれじゃないですか? 前に人が立ってます」

「ん? ああ、本当だ。流石逢」

「はぁ……こんな事で感心されても嬉しくありません。ほら、行きますよ」

 先行した逢に続いて、受付に向かう。立っていた女性に逢が声をかけた。

「すいません、予約していた橘なんですが」

「はい。お待ちしてました。二名でご予約の橘様ですね。この紙に必要事項の記入をお願いします」

「はい。分かりました」

 逢は受付の女性からペンを受け取ると、その場で書き始めた。荷物を持ったまま彼女を眺める。

 書類に書き込みながら、ときたま垂れた髪を一度耳にかける。耳が見えたり隠れたり、なんだかチラリズムを刺激される。

 彼女と一緒に仕事をしている人は毎日このような仕草を見ているのかと思うと、何だか羨ましかった。

「すいません。記入が終わったので確認をお願いします」

「はい、ありがとうございます。……はい大丈夫です。ではご案内させていただきますね。こちら――」

 それから僕たちは一通り説明を受けた。夕食の時間だとか、温泉などの施設の利用方法。最後に部屋の鍵を受け取って、その場を後にした。

 

 荷物を部屋の隅に置いて一息付く。僕たちに割り当てられた部屋は和室だった。畳にテーブル。お茶菓子とケトル。テレビと冷蔵庫。オーソドックスな面々が出迎えてくれる。でも、この部屋にはありふれた物だけじゃない。

「先輩、この部屋って確か、露天風呂が付いているんですよね」

「うん。そうだね。夜は星空を見ながらお風呂を楽しめるらしいよ」

 逢の問いかけに頷く。そう、この部屋には露天風呂が付いている。大浴場の運営時間なんて気にせず、いつだって温泉に入って疲れを癒すことができるのだ。

 その気になれば混浴だって……。いやいやいや。逢がそんな簡単に乗ってくれるわけないじゃないか。現実を見ろ、僕。

 そもそも、彼女と二人きりで温泉旅行なんて既に非現実的なのだから、これ以上を望んだらバチが当たるだろう。

 気持ちを切り替える為に僕は首を左右に振った。

「ところで逢、せっかくお茶菓子もある事だし、お茶でも淹れようか?」

「はい。そうしましょうか。あ、先輩は座ってていいですよ。私がやるので」

「え、ああ。ありがとう」

 逢はそう言うと手際よく急須にティーパックを入れて、ケトルからお湯を注いだ。それを眺めながら僕は手元にあった煎餅の袋を開けて齧った。バリッと軽く音が室内に響く。

「あ、先輩。私にも一枚頂けますか?」

「ん? ああ、ほら」

「ありがとうございます」

 逢は僕から煎餅を受け取ると、封を破って僕と同じように一口。ゆっくりと咀嚼してから再び口を開いた。

「しかし先輩。この後、どうしましょうか」

「どうって、何?」

「いえ、夕飯にはまだ時間がありますし、かといって温泉に行くにはまだ早い気がします」

 その言葉を受けて僕は時計を確認する。時刻はまだ三時過ぎぐらい。逢の言う通り時間には余裕がある。知らされた夕食の時間は、たしか七時。四時間もの空白だ。

 そのうちの一時間ぐらいは温泉に当てることができるけれど……。

「そうだね。温泉にはまだ早いか。逢はいつごろに温泉に行きたい?」

「えっと、できれば食前が良いんですけど。いいですか?」

「うん。僕は逢に合わせるよ。となると、あと三時間ぐらいは暇があるんだね」

「そうなりますね。でも、たまにはこうやって先輩とゆっくりお話をするのも悪くないです。最近は夜遅くまで仕事だったので」

「そっか、じゃあお疲れ様だね」

 逢は座椅子の背もたれに体を預けるとグイーっと両手を広げて伸びをした。閉じた口から洩れる声と、前面に突き出される胸部が何とも色っぽい。

 あまり見続けると逢に呆れられてしまうので、観察もほどほどに留めて会話に意識を戻す事にする。何を話そうか少し考えて、煎餅を持っていたので『食べもの』の話題から入ることにした。

 

「この煎餅美味しいけど、どこのなんだろう?」

「そうですね。こういうのは御土産コーナーにあるのが定番じゃないですか?」

「じゃあ、後で見てみようか。出るときに美也には御土産をねだられた事だし」

「美也ちゃんにですか。そういえば最近会えていないですね……」

「まあ、逢も美也も社会人になって忙しいだろうし、仕方ないよ」

 話題に出て来たところで、僕は美也について思考を巡らせる。美也は高校を卒業後、短大を経て社会人になった。

 兄としてはちゃんと仕事が出来ているかどうか不安ではあるが……。でも、いつまでも美也も子供じゃない。ちゃんとやっているはずだ。そう信じたかった。

 

 逢は頃合いと見たのか急須を取って、二人分の急須にお茶を注いでいく。僕は一言お礼を言って受け取ると話題を『世間話』へと切り替えた。

 

「そういえば、逢の弟はどうなんだ? 確か、もう高校生じゃなかったけ?」

「郁夫ですか? 今丁度、高校三年生ですよ」

「へぇ、あんなに小さかったのに」

 そうか、僕たちが高校を卒業してから十年が経っているんだ。だからもうそれぐらいになってても、おかしくはない。

「昔に比べれば、随分と手がかからなくなりましたし、今じゃ積極的にお手伝いをしてくれるんですよ」

「へぇ、あれだけのわんぱく小僧からは、想像がつかないな」

「まあ、私の矯正の甲斐、という事にしておいてください」

「そっか、流石逢だね」

 僕が褒めると逢は照れくさそうに笑って「ありがとうございます」と返した。両手を合わせて首をかしげるその仕草は、なんとなく高校時代を思い起こさせる。改めて見ると時間も経って、大人びた雰囲気になった。

 でも相変わらず、いや、より可愛らしくなったと言ってもいい。それはこの長い付き合いの中で距離を縮めたから、本当の表情を見せるようになってくれたのだと、僕は勝手に解釈していた。

 

 いい感じに空気が柔らかくなってきた気がする。逢もすっかりリラックスしているようだし、このタイミングなら何か「行動」を起こしても上手くいきそうだ。そう思った僕は早速、逢に声をかける。

「なあ、逢」

「どうかしましたか先輩? あ、お茶のおかわりですか?」

「いや、そうじゃなくてさ。ここ最近は忙しかったって言ってたじゃないか」

「ええ、まあ。最近はデスクワークが長くて……」

 逢は右肩に手を当てて腕を動かして見せる。どうやら肩が凝っているらしい。それはある意味好都合だ。僕は席を立って、彼女の肩に両手を置いた。

「え、先輩? 何を……」

「いや、せっかくだしマッサージでもしようかなって」

「ああ、結構ですよ。せっかく休みに来たんですから、先輩はゆっくりしてていいですよ」

 逢は手を振ってやんわりと否定する。

「だからこそじゃないか。僕は逢の疲れがきっちり取れるように手助けをしたいんだ。……駄目かな?」

 耳元で囁く。逢はそれに驚いたようで身を震わせた。そしてしばらくの沈黙の後で、口を開いた。

「そこまで言うのなら、分かりました。じゃあ、先輩……お願いします」

「うん。じゃあ早速だけどさ、逢。うつ伏せで横になってよ」

「横に、ですか?」

 想像していたこととギャップがあったのか、きょとんと目を丸くして僕を見た。僕はそんな事を気にせずに更に押す。

「うん。だってそうじゃないと体全体をマッサージできないじゃないか」

「わ、私は別に肩だけでも構いませんよ。先輩だって大変でしょう」

「往生際が悪いぞ、逢。そこまで気に病むようだったら、後で逢が僕にやってくれればいいから。さあ、観念して横になるんだ!」

「分かりましたから……」

 そう言うと逢は座布団を枕代わりにしてうつ伏せになった。その状態の彼女を僕は上から眺める。

 こうしてみると、なんというか、こう……官能的な刺激を受けるな。今日最初に会ったときは、セーターにジーンズという露出度が低く、もこもことしていてラインがあまり出ていない服だけれど、じっくりと見ていると分かる。

 その中には彼女のしなやかな肢体が隠れていることが! 逢の身体については僕がここ数年で一番見ていると言っても過言ではない。実物を見ればその上からゆっくりと、全体像が浮き出てくるようだ。今からこの体を揉む、いや、マッサージをすると思うと……。そんな事を考えて唾を飲み込んだ。

「えっと、先輩。やるならやるで、早くしてくれませんか」

 首を回して、チラリと立っている僕を見て指摘した。そうだ。ここで引く訳にはいかない。自分で『行動』したとはいえ、ここまで上手くいったんだから。

 

 僕は……逢の身体を、揉む!

 

 そう決心すると僕は拳を握り、逢の真横に正座で座った。

「じゃあ、いくよ。逢」

 声をかけて彼女の腰に触れた。セーター質感と彼女の体温を同時に指先から感じ取る。そして、手の平まで密着させて、少し力を入れて彼女の身体を揉み解す。僕の身体には無い弾力、柔らかさを感じた。

「んっ……」

「逢、痛かったら言ってよ」

「いえ、大丈夫です。もう少し強くしてもらってもいいですか」

「え? そう、分かったよ」

 僕はさらに力を強くして逢の腰を揉んだ。所々骨の感触がうっすらと感じ取れるけれど、やせすぎているってわけでは無い。最低限の表面の脂肪に内側にしっかりと筋肉が付いている感じだ。きっと逢は高校を卒業してからも、適度に運動をしているのだろう。

「これぐらいの力でいいかな?」

「ええ、丁度良いです。それにしてもこんな特技があったんですね。気持ちいいですよ」

「そうかな? よく両親にはやってたけど、特技って言えるほどじゃ……」

「私が気持ちいいと思うんですから、素人目に見れば十分特技ですよ」

「そうかな? じゃあちょっと張り切っちゃおうかな」

 それから僕は腰から肩甲骨付近、肩から腕に指先と、揉むポイントをずらしつつ、マッサージを続けた。最後に足を(ほぐ)そうとして立ち上がる。そこでふと、逢の顔を見る。

「……寝てる、のか?」

 瞳を閉じ、片腕を枕にして心地よさそうに寝息を立てていた。マッサージに夢中になっていたせいで気が付かなかったけれど、いつの間にか寝てしまったらしい。疲れも溜まっていると言っていたし、仕方ないだろう。

 このまま寝かせていると風邪を引いてしまうかもしれないし、上着でもかけておいた方が良い。鞄と共に持って来ていた自分のコートを手に取ろうとして、手が止まった。それは僕の頭にある思い付きがよぎったからだ。

 ……これは、チャンスなんじゃないか? いや、チャンスに違いない。

 逢はこう見えて、シャイ。恥ずかしがり屋だ。大胆になる時もあるけれど、それは例外。基本的にはスキンシップには消極的だ。逃げてしまう場面だって見られる。

 だから僕は手を繋いだり、その……キスをしたりするときも、どこか遠慮してしまっていた。本人の嫌がる事を無理にはさせたくなかったからだ。

 しかし、今回に限りそれを配慮する必要性はない。何故なら本人の意識はないから。嫌がるという感情が起こる余地はない。

 一度深呼吸をして、僕はある場所へと手を伸ばした。起きていたなら彼女は絶対怒ると思って、マッサージする箇所から外していた場所。

 

 そう、お尻だ。

 

 逢とは()()()()()の経験が無い訳ではないし、触った事も何度かある。でも先程話した通り逢は恥ずかしがり屋なのだ。じっくりと触らせてくれたことはない。

 でも、彼女の持っている物の素晴らしさは見ただけで分かる。かつて水泳部で鍛え上げた肉体は健在だし。腰からお尻のボディラインはそこらのグラビアにだって、引けを取らない美しさを持つ。その蠱惑的な場所、未知の感覚を追求したかった。

 指先が触れる。セーターとは違うジーンズの感触。その奥にある温かみ。弾力は、腰よりも大きく僕の指を押し返す。

 満を持して、手の平まで接地面積を広げる。ほんの少しだけ力を入れた。指先でマシュマロを弄繰り回しているような感覚だ。それを味わうと同時に、

「ひゃっ!」

 軽い悲鳴が鼓膜を揺らした。慌てて彼女の上半身に視線を移す。逢は首を回して、僕の方を睨みつけている。

「あ、逢。起きてたんだ……」

「『起きてたんだ』じゃありませんよ。先輩! な、何をするんですか!」

 逢はかなりのスピードで体を起こして、僕を上から見下ろした。腕を後ろに回して、自分のお尻を撫でている。触られた場所を確認するような仕草だった。

「何、ってその……」

「ハッキリと言えないようなことですよね。私がうたた寝している時に仕掛けてきたんですから。最低です!」

 最後の一言を強めで言い放ち、ゆっくりと僕に詰め寄って来た。座っていた僕は後ろに後ずさりをしながら説得を試みる。

「いや、そのなんというか、その……出来心だったんだ! 逢のお尻があんまりにも柔らかそうだったから」

「先輩は柔らかそうな物を見つけたら、何でも揉みしだくんですか!」

「いや、それは違う! 僕が揉みしだくのは逢の身体だけだ!」

「誇らしげに言い返さないで下さい!」

 逢は呆れたように「全く……」と漏らして、腰に両手を当て仁王立ちをした。

「でも確かに僕が悪かった。逢が怒るのはもっともだ」

「分かっているなら、実行する前に思いとどまって下さい」

「そう、だね。これからはなるべく気を付けるよ」

「なるべくじゃなくて絶対です! 分かりましたか、先輩?」

「は、はい」

 僕が縮こまりながら返事を返すと、逢はため息をついてから話し始める。

「分かったのなら今回はこれぐらいで許します。せっかくの旅行で不機嫌になるのも、馬鹿みたいですし」

「逢……」

「ただし!」

 ビシッと人差し指を立てて、付け加える。

「先輩には罰を受けて貰います」

「ば、罰って……」

「私だけが恥かしめを受けるのは不公平です。先輩にもここで一度、痛い目に会って貰わないとフェアではありません」

「それは、確かにそうだ。分かった。逢が納得いくように煮るなり焼くなり好きにしてよ」

「変態的な部分はともかくとして、そういう潔い所は嫌いじゃありませんよ、先輩。では早速ですが、さっきの私の様にうつ伏せで横になって貰えますか?」

「うつ伏せで、横に?」

「ええ」

 逢は頷く。僕は言われるがまま、さっきの彼女と同じようにうつ伏せになる。ほんの少し前に逢が寝ていたのもあって畳が温かい……って、僕は何を考えているんだ。首を振って、思考を振り払う。

「実は前々から試したい事があったんですよ」

「試したい事?」

「ええ、最近ある本を買いまして。自分で自分にやろうとしたんですけど、上手くいかなくて。だから先輩には実験台になってもらいます」

 そう言うと逢は僕の腰に跨った。彼女の体重が僕に預けられる。彼女は小柄で軽量級だとはいっても心の準備ができていなかったから、心掛けずうめき声が漏れた。

 太ももから彼女の手の感触。その感触はふくらはぎ、足先へと移動する。そして、靴下の中に指を入れられた。

「あ、逢!? 何を……」

「これからやる事の準備ですよ。裸足になってもらいます」

 スルスルと僕の靴下を剥いで、むき出しにすると両手で包まれる。彼女の温もりが伝わって心地良かったけれど、それと同時に寒気も感じた。

「えっと、さ。逢。一応聞くけどさ、どんな本なんだ? その本って。まさかプロレス技事典とかじゃないよね」

「そんなんじゃないですよ。考えが物騒(ぶっそう)ですね、先輩」

「そ、そうか。良かったぁ」

 ホッと息を付く。罰ゲームとは言っても武力行使ではないらしい。

「内容はかなり奥深かったので省略しますが、タイトルだけ伝えると……『プロが教える足裏マッサージ! ~痛みで疲れを吹き飛ばせ~』ですっ」

「え?」

「覚悟は良いですか先輩?」

「え、ちょっと逢? 待っぁああ――!!」



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メイレイ

 (あい)からの罰を甘んじて受けた後、時間が丁度良い事もあって各自で大浴場に向かった。僕は一時間ほど大浴場を堪能してから、浴場からコーヒー牛乳を片手にロビーに出る。

 しばらく歩いて、空いていた竹で編まれたベンチに腰をかけた。ここなら逢が出て来た時に僕を見つけやすいだろうと思ったのだ。

 瓶の蓋を開けて、苦みよりも甘味が強い液体を口にする。冷えたそれが喉を通り抜けるたびに、火照っていた体がゆっくりと冷まされていく。この感覚が好きで、ついつい買ってしまうのだ。

 まあそれは置いておいて、せっかく一人なのだし、今回やるべきことについて整理しておこうと思う。

 なにも目的もなく逢を誘ったわけでは無いのだ。この温泉旅行を当てたことは偶然だったけれど、これから先にやる事は必然にしたい。

 まず僕の目的は彼女に改めて思いを伝える事だ。僕がこれからも逢と長い時間を過ごしていきたいという事を伝える事、端的に言えばプロポーズ。結婚の申し込みだ。

 僕の気持ちは固まっている。問題は無い。

 だけれど、彼女は、逢はどうなのだろう? 

 僕と一緒になってもいいと思ってくれるだろうか? 

 その答えは分からない。……当たり前だ。

 でも、だからこそ追い求めてきた。本気で向き合った。逢にとって僕がそういう人物になれるように。

 だから、後は確かめるだけなのだ。逢の気持ちを、この十年間の答えを。

「すいません先輩。お待たせしましたか?」

 下を向いていた僕を覗き込むように逢は問いかける。僕は「いいや」と首を振った。逢は「そうですか」と答えて僕の左隣に座る。

「先輩も買ったんですね。コーヒー牛乳」

「ん? 逢も買ったんだ」

「ええ、ほら」

 そう言って僕の目の前で、茶色の液体が入った瓶を振って見せる。纏っていた浴衣の袖がつられて揺れた。

 風呂上りの逢は僕と同じく浴衣に身を包んでいる。薄着になり、腰で閉めた帯の効果もあって、来ていた服よりも格段に体の凹凸がはっきりしていた。湯上りで赤くなった頬も相まって、色っぽさが増している。

 今思えばどうして僕は先にマッサージをしたのだろう。浴衣になってからなら、より逢の体温も、肌の感触も感じ取れただろうに……。今になってみると後悔しかない。

「先輩、どうしたんですか? さっきから難しい顔したりして」

「え、そう?」

「はい。私があそこから出てきた後と、たった今。少なくとも二回はそんな顔をしてました。何か考え事でもしていたんですか?」

 そう言われて僕は言葉に詰まった。どちらも考え事をしていたのには変わりない。ただ、一方は真剣な考え事だったのに対して、もう片方は卑猥な考え事だった。どちらにしろ、話すことが難しそうだ。

 結局、僕はどちらを話すわけでもなく、思うがままに口を動かして誤魔化すことにした。

「いや、逢がどんなふうに出てくるのかを考えてたんだよ。髪を結んでくるかもとか、浴衣はどんなふうに着てくるかなぁ……ってさ」

「そうですか。お期待に沿えず、すいませんね。髪はそのままですし、浴衣も先輩が想像していたようにエッチに着崩してはいませんから」

「そ、そんなこと言ってないじゃないか」

「あれ、違いましたか? 先輩の事ですから、てっきりそんな事を考えているんじゃないかと思ったんですが」

「……そんな事はないよ」

 エッチな事について考えていたのはあながち間違いではない。だからあまり強く否定できなかった。

「今の間は何ですか、先輩?」

「いや、特に深い意味がある訳じゃ無いよ」

「そうですか……。それで、どうですか私の浴衣姿は」

 逢は僕の目の前でくるりと一回転して見せた。浴衣の裾が、髪が、ふわふわと揺らめいて、何だか周りにいい匂いを振り撒いていそうだ。

「うーん」

「どうして悩むんですか」

「いや、どうやって表現したものかと思って」

 そう、困った事に彼女の可愛さを、愛おしさを上手く表現できるだけのポキャブラリーを持ち合わせていなかったのだ。こういう時に自分の語彙力の無さが恨めしい。

「別にいいですよ。一言でも二言でも。こういうのは行って貰う事に価値があるんですから」

「まあ、そうだね。言わないよりはずっといい」

 期待する逢を視界に捉えつつ、僕はから揚げにかけるレモンのように限界まで振り絞って続けた。

「かわいいよ、逢。魔法の鏡があったなら確認したいぐらいだよ」

「ふふっ、ありがとうございます。白雪姫に例えられるというのは光栄ですね。でも、少し困りました」

 顎に手を当てつつ、逢は僕を横目で見る。

「え、どうして?」

「だって、先輩。鏡に問いかけるのは王妃様ですよ。最後にひどい目にあわされちゃいます」

「あれ、そうだったけ?」

 小さい頃に美也に読んで上げたっきりだったから、すっかり忘れてしまっていたみたいだ。逢はそんな僕を見てクスクスと笑う。

「はい。肝心な所でちょっとドジ踏むのは先輩らしいですけど」

「ははは……」

「でも、先輩には王子様になって貰わないと困ります」

「え?」

 耳元で囁かれた。僕は思わず聞き返したけれど、逢は微笑むだけでもう一度は口にはしなかった。彼女は立ち上がって僕の正面に立つ。

「さて、先輩。部屋に戻りましょうか。お風呂も入り終わった事ですし」

「ちょっと待ってよ。逢、さっきのは――」

「そう何度も言いませんよ。言葉の意味は先輩が考えて下さい」

「そんな……」

 うなだれる僕に逢は「行きますよ」とだけ声をかけて歩き始めた。

 立ち上がって彼女の後を追うけれど、僕にはどうしてもさっきの言葉の意味を知りたくてたまらなかった。

 だって、本来見えないものを可視化できるチャンス。逢がどう思っているのか、本来見えないはずの答えを掴むことができる機会だったのだ。だからどうしても諦められなかった。

 僕は聞き出すための手段を求めて、思考を巡らせた結果目の端に捉えたある物を利用することに決める。

「なあ、逢」

「なんでしょう? さっきの話の続きならしませんよ」

「そうじゃなくてさ、あれ見てよ」

 僕は離れた所にあった物を指差した。そこには白線が引いてあり、ネットが張られている台。まばらではあるが、人がボールを打ち合っているのが見える。

「卓球台ですか」

「うん。旅館に温泉、それに続くものと言ったら卓球だよ。せっかくだし、やって行かないか」

「定番ですからね。良いでしょう。汗をかいても室内の方の温泉に入れば良いですし」

 意外にも逢は素直に僕の誘いに乗った。僕はラケットを二つとボールを借りると、逢の対面に陣取ってから声をかける。目的は勿論、逢を罠にはめてさっきの話の続きをさせることだ。

 ラケットを片手にプラスティックでできたボールを弾ませる。

「逢、せっかくだし勝負しないか?」

「勝負ですか? まあ、良いですよ。ルールはどうします?」

「じゃあ、六本先に撮った方が勝ちで、勝者は敗者になんでも一つ、言う事を聞かせられる命令権を得るって事でどうだ?」

「それでいいですよ」

 俺の罠、言う事を聞かせられる権利に対して間を開ける事無く頷いた。身体能力という名目、男女の差、それらを踏まえてもう少し考える時間があってもいいはずだ。僕に有利なのがまるわかりなのだから。

「良いの?」

「はい。だって先輩に負ける気なんてしませんから」

「後になって後悔しても絶対に聞かないから、なっ!」

 語尾を強めに言い切るとラケットを力強く振った。そこそこのスピードでボールが弾み、敵陣地に向かっていく。

 完全に不意を突いた。逢は完全に棒立ちだ。これで一本目は僕の物。

 そう、思っていた。

 でも、次の瞬間。プラスティックの軽い反発音。ボールが軌道を変えた。逢がラケットで打ち返したのだ。僕の逆サイドにボールが吸い込まれ、地面に落ちる。見事なリターンエースだった。

「全く、こんな事じゃないかと思ってました。卑怯な手を使いますね、先輩は」

「真剣勝負なんだ。卑怯も何もないだろう」

「ええ、そこに文句を言う気はありません。ただ、後で『ハンデをくれ』なんて言っても聞く気はありませんから、そのつもりで」

 逢はそう言って笑うと、ラケットを振るった。

 

  ▼

 

「私の勝ちです」

「そして、僕の負けか……」

 ストレート負けは回避できたものの、逢に完敗を喫した僕は、地面に両手を付いて敗北の苦汁を味わっていた。

 よくよく考えて見れば、逢はバリバリの運動部出身(それもエース級だ)であるのに対して、僕は帰宅部。さらに社会人になってまともにスポーツすらしていない。

 そこをしっかりと考慮すればこの敗北は必然だっただろう。美也を相手取るのとは訳が違う。

 敗因分析はさておき、問題は逢がどのような命令をしてくるのかという事だ。正直な所僕は負けることを想定していなかった。故に、どんな命令に対してもケアができていない。強いてその対抗策を上げるのであれば、

「さて、逢。いい感じに動いたことだし、そろそろ部屋に戻ろうか」

 こうして誤魔化すことだ。

 それを見た逢はいつものように手を合わせて微笑む。

「それもそうですけど先輩、いつまでそんな恰好をしているつもりですか?」

「ん? ああ、ゴメン。負けたのが想像以上に悔しかったからさ」

 逢の指摘を受けて僕は立ち上がって地面に付いていた部分を叩く。

「でも仕方無いです。だって、それだけ命令権が欲しかったんですよね。先輩は」

 逢は隣に移動して語りかけてくる。くっ……忘れていてくれなかったか。いや勿論逢がそんな単純な人間だとは思っていなかった。けれど、僕に残された最後の希望が儚く砕けて散ったのだから、悔しがらずにはいられない。

「負けは負けだ。逢は何を命令するの? 煮るなり焼くなり好きにしてよ」

「ふふっ、じゃあ、どうしましょうか? 先輩にしてもらいたい事が多すぎて悩んじゃいます」

 逢は僕を見ながらニヤニヤと口元を緩ませている。きっと彼女は悔しさに歪む僕の表情を見て、楽しんでいるに違いない。

 やがて逢は「よしっ」と小さく呟くと話を切り出した。

「この話は一旦保留にします」

「えっ、そんな」

「ルールには違反してませんよ。『いつ』なんて時間の指定はありませんでしたから」

「それは、そうだけど……心配で僕の身がもたないよ」

「今日中には消化しますから、それまで我慢してください」

「それなら、何とか」

 僕は胸を撫で下ろす。いつでもどこでも命令権に怯えるのはごめんだ。それが回避されたのは不幸中の幸いだった。

「じゃあ、戻りましょうか。先輩」

 僕はその言葉にうなずいて、ロビーを後にした。

 

  ▼

 

 部屋に戻ってしばらく待つと、待ちに待った夕食の時間がやって来た。旅館の仲居さんがそれらを机の上に並べて、僕たちは礼を言ってそれからお互いの対面に座る。

「すごいですね、先輩。何というか浮世離れしているというか……」

「浮世って、これは現実だよ、逢。でもまあ、言おうとしていることは分かるけどさ」

 たぶん、逢が言いたいのは普段よりも豪勢な食事だということなのだろう。家庭料理もいいけれど、こういった物が食べれるのはやはり、特別なときだけだ。

「以心伝心で何よりです。冷める前に食べちゃいましょうか」

「そうだね。じゃあ、頂きます」

「はい。頂きます」

 手を合わせてそう言うと、割り箸を割って料理に手を付けた。刺身の盛り合わせから一切れ取って、醤油だまりに付けて口に入れる。

「旨い!」

「御刺身ですか?」

「ああ、柔らかくて、口の中でゆっくり解けていく感じって言えばいいのかな。梅原(うめはら)のお寿司屋さんにも引けを取らないよ」

「梅原先輩ですか。何か、懐かしいですね。お寿司屋さんになったんですか」

 少し驚いたように目をバチクリと瞬きをした。

「あれ? 言って無かったっけ」

「はい。上級生の進路なんて、なかなか知る機会なんてないですよ。私が知ってたのは塚原(つかはら)先輩とか、水泳部の先輩たち、それと先輩ぐらいです」

「そっか、梅原は実家のお寿司屋さんを継いだんだよ。今度、逢も一緒に行こうか」

「それは楽しみですね。先輩、御馳走になります」

「僕が奢ることになってる!?」

「冗談ですよ」

 逢は口元に手を添えて、クスクスと笑う。僕はてっきり命令権を行使されたかと思ってびっくりしてしまった。逢は本当に僕をからかうのが上手い。

「それよりも先輩、ごはんよそいますよ。お茶碗貸してください」

「ああ、ありがとう」

「どれぐらいにしますか?」

「ちょっと多めでお願いするよ」

「はい。分かりました」

 逢は僕から茶碗を受け取ると、おひつからよそって僕に手渡した。僕は「ありがとう」と言ってから受け取る。

 それにしても、こうやって同じ食卓を囲んで、ごはんまでよそって貰うとなると何だか新婚の夫婦みたいだ。もし、そうだったらどれだけ幸せなのだろう。

 家に帰ると逢が居て、こうやって食事を共にして……考えただけでもなんだかドキドキしてきちゃうな。

 でも、これを夢物語にしないためにもいつかは言わなきゃならない。

 そう、いつかは……。

「先輩、どうかしましたか? ちょっと怖い顔をしてます」

「え、そうかな?」

「はい、眉間にしわが寄ってました」

 逢の指摘でふと思考の沼から抜け出す。相変わらず僕はポーカーフェイスが苦手らしい。でもここで馬鹿正直にいう訳にはいかないので、パッと思いついた適当な話を切り出した。

「どうしてこんなに美味しいものを作れるのかなって」

「それは、料理人の企業秘密じゃないですか?」

「まあ、そうなんだけどさ。もし知ってたら家での料理もちょっと美味しくできるかもしれないじゃないか」

 僕は適当に話を進める。逢は箸を運ぶ手を止めて、少し黙った後に僕に言葉を返す。

「先輩の言う事にも一理あります。でも、知ったところで実践できないってこともあります」

「実践できない? どうして」

「一般的なのは道具ですかね。例えば中華料理なら、厨房の火力や鍋ですとか、なかなか用意できないです」

 成程。僕は頷く。確かに用意がしづらいだろう。できたとしても大きなコストがかかりそうだ。逢は続ける。

「あとは……作り方を知っても、それを習得するまで継続できないって事もありますかね」

「継続できない、三日坊主になるってこと? まあ技術を習得するのは大変だけどさ、それは僕みたいな面倒くさがりだけで、逢なら何とかできたりしないの?」

「技術だけなら何とかなるかもしれません。でも、食事は別です。中華料理つながりでチャーハンにしますけど、先輩は毎日チャーハン食べたいですか?」

「いや、あまり」

「ですよね。それと外食のチャーハンって結構油使ってるんですよね。家庭料理なら使うのを躊躇っちゃうぐらいに」

 確かに。僕は頷きながら箸で焼き魚の身を解し始める。

「例外はあれど、作ったなら食べなきゃいけません。高頻度で沢山の油分を食べなければなりません。となると健康を犠牲にすることになります。だから、維持できない。実戦できない。してはいけない、ってところでしょうか」

 納得だ。確かに健康を考えるのであれば、維持してはいけない。こういう所でも逢の家庭的な感覚を感じ取れる。

本当に良いお嫁さんになりそうだ。まあ……恥ずかしくて口にしないけれど。

「だから、別に知らなくてもいいんですよ。自分の継続できる調理の仕方を知っていれば」

「……そんなものか」

「ええ、そんなものです」

 逢はそう話題を締めくくると、再び箸を動かし始めた。僕は解した魚の身を口へと運ぶ。噛み締める度に広がる旨味を味わいつつ、考える。

 知らなくてもいい。

 この単語が妙に耳についた理由。それはきっと、僕がさっきまで逢の心境を暴こうとしていたからなのだろう。

 知らない事を知ろうとする。これは当たり前なのだけれど、知らないでいても良いという発想もある。知らないからこそ、見えてくるものがある。

 僕は逢に拒絶される恐怖に怯えて、それから目を背けていた。だいたい、知ったところで何だ。ダメだと分かったら身を引くのか?

 それは、違う。

 分かった所で、僕の気持ちは変わらない。自己満足でも何でも、この気持ちを伝えなければ気が済まないのだから。だからこの件に関しては、知らなくてもいい。そう思った。

「やっぱり、逢はすごいな」

「先輩、何か言いましたか?」

「いや、何でもないよ」

 

  ▼

 

「ふうっ……あー気持ちいい」

「先輩、戻って来るなりだらしないですよ」

「僕は悪くない。布団が気持ちいいのが悪いんだ」

 食事を終えた僕たちは、もう一度浴場に行って汗を流して戻って来た。卓球をして汗をかいてしまっていたのもあって、そのまま寝るのは(はばか)られたのだ。

 その障害が取り払われた以上、敷かれた布団に寝っ転がる事に躊躇する理由なんてない。

「そういう所、先輩は子供っぽいというか、成長していないというか……」

「弟にそっくり、とか?」

「いえ、最近の郁夫は先輩より幾分も大人です」

「そんな……」

 高校時代からよく似ているだの、何だのと言われ続けてきたからショックだ。逢の弟はいつの間にそんな成長していたのだろうか。少し気になる所だ。

「でも僕だって昔に比べれば幾分かマシになってるよ。こういう所を見せるのは逢の前ぐらいだよ」

「それは……喜んでいいんですか。呆れればいいんですか」

「まあ、逢も寝っ転がれば分かるって。ほら」

 僕は上体を布団から起こすと椅子に座っていた逢の手を引っ張って、体制を崩させる。彼女の身体が布団に倒れ込む。野球で言う所のヘッドスライディングみたいだった。

「急に何をするんですかっ!」

「いや、逢にもこの気持ち良さを体感して欲しかったからさ。気持ちいいでしょ?」

「それはそうですけど……なんか気に食わないです」

 うつ伏せになっていた逢は腑に落ちないようで、プクーと頬を膨らませた。逢にしては珍しい仕草で、僕はそれをじっくりと眺める。

「何ですか」

「いや、拗ねた逢も可愛いなって」

「別に拗ねてません」

 いや、それ言って拗ねてない奴なんているのかな。少なくとも僕は見たことが無い。特に美也なんかはその典型例で、そう言いつつも態度は不機嫌なのを隠さないのだ。

 まあこの状況は九割方僕が悪い。軽度とは言っても不機嫌なままでいられるのは嫌だ。だから僕はある行動に出ることにした。

 四つん這いで逢に近寄ると、彼女の頭に触れた。手が前髪をかき分けると、普段は見えないおでこが見える。風呂上りだからなのか普段からなのか分からないけれど、サラサラとした感覚が手から伝わった。

「本当は僕だって、カッコイイ所とか大人っぽい所の一つや二つ、見せたいと思っているんだけどさ。慣れてないというか、得意じゃないんだよ。申し訳ないけどね」

「……知ってますよ、それぐらい。ここまで長い付き合いなんですから」

 逢は僕の手を振り払うこと無く、受け入れるとそう言葉を返した。その後に今度は僕の頭に向かって手を伸ばす。小さい手が前髪をかき分けて僕のおでこを晒した。

「でも、見せるのが得意じゃないだけで、カッコイイ所も大人っぽい所もいっぱいあるって事も知ってます」

「そっか。ありがとう」

 僕はちょっと力を入れて逢の頭をワシャワシャッと撫でた。逢の手が頭から離れて、僕の手を捕まえるために動く。

「ちょっ、やめてくださいよ、先輩。髪崩れちゃいますから」

「ああ、ゴメン。逢が可愛かったから、つい」

「悪いと思っているのなら手を止めたらどうですか!」

 一向に手を止めない僕に対して、逢は交戦する決意を固めたのか、鋭い目つきでこちらを睨む。威圧感としては『一人ぐらい殺ってやる』ぐらいの殺気を感じ取った僕は一瞬、撫でる手を止めてしまった。

 その隙に逢は僕へと詰め寄って、押し倒す。そのまま流れるように僕の腰の上に居座り、マウントを取った。両手首を掴んで、手を動かす事すら許さない徹底ぶりだ。

「先輩は忘れてませんか?」

「何を、かな?」

「私が命令権を持っている事です。これだけ私に好き勝手しておいて、何の報復も無いと思ったら大間違いですよ」

 そういわれて思い返すのはつい先ほどの『足裏マッサージ』なのだが、あの痛みをまた味わうのは流石に気が引けた。

「いや、その……逢、僕が悪かった。だから罰で使うのは勘弁してもらえないかな?」

「先輩はさっき私が『止めて』と言っても聞きませんでしたよね? 都合が良すぎませんか」

「それは、そうだけど」

「だいたい、命令権に拒否権なんて無い、ですよね」

 彼女はそう言って首を傾けた。目を細めつつ笑っている。悪戯を仕掛けるときの少年みたいな表情。僕はそれに屈して、目線を下げた。

 でも、思わぬ副産物が視線の先ににあったのだ。浴衣の帯が、緩んでいる。さっきのもみ合いになったとき引っかけたのだろうか? 顔にばっかり目が行っていてさっきまでは気が付きもしなかった。ということはもしや……。

 予感を確信に変えるために、腰の帯から視線を上へ戻す。首元。チラリと見える鎖骨。そして、普段は隠されている二つの果実は――見えそうで、見えない。

 くそっ! どうしてだ! あと少し、逢があと少しだけ動いてくれれば見えるのに……!

「先輩、どこ見てるんですか」

「えっと、ど、どこだと思う?」

「私の胸を舐めるように見てましたね。気が付かないとでも思いましたか?」

 ばっちり正解。女性というものはどうしてここまで視線に敏感なのだろう。僕は見られても気が付かなそうなものだ。

 しかし認めるのも嫌だったので、目線を完全に逢から外して黙秘権を行使する。

「だんまりですか。先輩のくせに生意気です。やっぱり『お仕置き』をしなければいけませんね」

 そう言うと逢は拘束していた両手を開放、代わりに僕に密着するように体制を変えた。足と足。お腹とお腹。胸と胸。それぞれがぴったりとくっついた。

 逢は軽量級で、乗られてもそこまで苦しくない。それでも、問題はある。浴衣越しに伝わる彼女の体温、女性特有の柔らかな身体。それらが僕の心臓のテンポをガンガンに上げてしまう。そしてこの状況なら、逢は当然この鼓動を察知しているはずだ。

そして顔に手を添えられると暴飲に向きを変えられて、目と目が合う。

「先輩、顔が真っ赤です。恥ずかしいんですか?」

「そんな事はない……よ」

「こんなにも心臓がドキドキしてるのに? まあ、いいです。これからもっと、恥ずかしくなって貰うんですから」

 

 お互いの唇が触れる。重ねるだけのキス。しっとりとした感触を味わったかと思うと、そこに別の何かが触れた。唇よりも温度が高く湿ったそれは僕の唇を割って、僕の口内に侵入する。

 歯の近くをなぞって、やがて僕の舌に触れた。一瞬戸惑ってしまったけれど、やがては僕も触れ返して、彼女を受け入れる。

 お互いの普段は触れることは無い部分に触れ合って行くうちに、自分と彼女の境界線がぼやけて行くような感覚に陥る。

 近すぎる視界はぼやけていて、自分よりも高いと思った体温はどっちがどっちなのか、そもそも差なんてあるのか、分からなくなった。

 でも、それが妙に心地よくて、ずっと続けていたい気分にはなったのだけれど、酸素を欲した身体がそれを許さない。

 名残惜しくはあったが、僕は自由になっていた腕を動かして、彼女の背中を指先でそっとタップした。一つになっていた唇が分かれて、お互いに乱れた呼吸で酸素を補充する。

 逢は身体を僕に預けたまま、耳元で囁いた。

 

「どう、でした……。ドキドキ、しましたか?」

「したけど、さ。ちょっと……別の苦しさが混ざってる」

「ふふっ、かもしれませんね。先輩、肺活量が低かったみたいですから」

 笑った彼女の息が耳にかかる。くすぐったいのを耐えて僕は話を続けた。

「そりゃあ、水泳部だった逢からすればそうかもしれないけれど、一般的だよ」

「だとしたら一般的じゃあ、物足りないです。私はもっと先輩と……したかったんですから」

「そっか」

 背中に回していた腕で彼女をより強く抱きしめる。存在がより強く、より確かに感じられるようになった。

「ねえ、逢。これで命令はおしまい?」

「違いますよ。これはお仕置きです。先輩が私の胸を盗み見てた罰です」

「じゃあ、まだ命令権は残ってるんだ」

「そう、なりますね」

 逢がそう答えると、しばらくの間沈黙が続く。その間感じられたのは、呼吸で上下する腹部が互いを押しあう感覚、心臓の鼓動ぐらいだった。

「ねえ、先輩」

「何?」

「命令の、件なんですけど……」

「……うん」

 

「もう一度、しませんか?」

 

 



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コンヤク

 前日、僕はなかなか寝付けなかった。なかなかに過激だった(あい)の「命令」によって高ぶった気持ちを抑えるのに時間がかかったのだ。

 それは逢も同じだったようで、僕たちはそろって寝不足気味。キレの悪い思考回路のまま朝食を頂いて、部屋に戻った。

 布団はもう無くなっていたけれど、僕は畳の上に寝転がる。

 逢は座椅子に座って、ぼんやりとこちらを眺めていた。瞼は落ちかけていて、船を漕ぎそうな頭を頬杖で支えている。そんな彼女に僕は声をかけた。

「ねえ、逢」

「……どうしましたか先輩」

「ちょっと眠い?」

 返事が少し遅かった逢に僕はそう質問する。彼女は瞼を擦りつつ、ゆっくりと首を縦に振る。

「ええ、まあ。昨日はなかなか、寝付けなくて」

「そっか。じゃあ、僕と一緒だ」

「……奇遇、ですね」

「そうだね」

 ポワポワとした応答をしている逢に比べれば、僕の意識はハッキリしている。どうやら彼女自身が僕よりも昨日の行為引きずって、寝付けなかったようだ。そんな昨晩の逢の姿を思うと、彼女がより可愛らしく、愛おしい。

「ねえ、先輩。今日はちょっと、散歩に行きませんか」

「散歩? 眠いならここで二度寝というのもなかなか良いと思うけど」

「ちょっと歩いたら、この眠気も晴れると思いまして。せっかくの旅行に二度寝は味気ないでしょう?」

「それもそうだね。じゃあ、そうしようか」

 僕は提案に乗って、体を起こした。

「僕は一旦外に出てるから、その間に逢は着替えちゃってよ」

「先輩は着替えないんですか?」

「いや、着替えるけど、逢の後でいい」

 首を振って、彼女の提案を断る。逢は帯を緩めながら立ち上がった。

 はらりと襟が崩れて、彼女の胸元、そして下着がチラリと一瞬だけ見える。昨日はあれだけ待ち望んでいたのに、いざ見るとなると恥じらいが勝って、まともに見ることができなかった。水色だったことぐらいしか認識できていない。

 逢は視線を逸らした僕に一歩近づいた。

「……私は、先輩にでしたら、見られても構いませんよ」

「まだ寝ぼけてるの?」

「そんなこと無いです。本心ですよ」

「そうか、寝ぼけていたのは僕の方だな。ゴメンよ逢。着替え終わったらまた言ってよ」

 本当は聞こえていたけれどそう言って誤魔化した。僕は浴衣姿のまま背中を向けて、扉の方へ向かう。後ろで逢が何か言っていたような気がしたけれど、聞かない事にした。今はまともに顔すら見れる気がしなかったから。

 

  ▼

 

 無事に準備を終えた僕たちは、コートを纏って外に出た。ハッと息を吐くと澄んだ空気の上に水蒸気の靄がかかる。水蒸気が昇る先にある空は、一面灰色。公園の砂場の中身を全部ぶちまけたみたいな色合いだった。

「どこに行こうか。逢は何か当てはあるの?」

「いえ、全くもってサッパリ、当てなんて持ち合わせていません。ノープランですよ」

「え? 目的があったから歩きに行こうって言ったんじゃないの?」

「逆ですよ、先輩。私は歩いて眠気を覚ますことが目的で、どこかに行きたい訳じゃ無いんですよ」

 隣に立っていた逢はさっきよりもハキハキと僕の言葉に答えた。

 それはそれで良い傾向なのだけれど、少し困る。目的の見えない行動は苦しいものがあるからだ。だから僕の方でその目的を考えて、一つ思いついたことを提案することにした。

「ねえ、逢。昼食は自分たちで調達する予定だったでしょ? だから、美味しそうな店を探すのを目的に行動するのはどうかな?」

「そうですね。異論はありません。では行きましょう」

「うん、行こうか」

 僕は先に歩き始めた逢の後を追った。そして前後に揺れる手の平を僕の右手で攫うと、車道側に立った。

 手を繋ぐことには慣れている。なにせ恋人になってから十年も経っているのだから、これぐらいは大したことでない。温かみ、感触から彼女が確かにここに居るのだと、気軽に確かめられる行為だった。

 最初は驚いていたのか、やられっぱなしだった彼女も僕の手を握り返す。

「先輩の手、温かいですね」

「まあ、さっきまで中にいたから。それより逢の手は冷たいね。だから中で待ってて良いって言ったのに」

「先輩と早く外に出たかったんですよ。それに温かい室内だと待っている間に私が寝ちゃいそうです」

「そっか」

 それは、それで見たかった気がする。ロビーでついうっかりと眠りこけてしまう彼女の姿は見なくたって、可愛らしいと断言できる。

 それに今朝は慌ていて、寝顔をゆっくりと見る暇もなかったから、そのうちじっくりと拝見したいものだ。

 

「ところで、先輩。最近は運動していますか?」

 隣の逢が『運動』について話を切り出して来た。それに対して僕は「いいや」と首を振る。

「やっぱりですか」

「どうしてそう思うのさ」

「昨日先輩と卓球したときに想像以上に動きが鈍っていたものですから」

 まあ確かに、あそこまで一方的にやられてしまってはそう思われてしまっても仕方がないとは思う。でもそれよりも気になるの事があった。

「逆に逢はどうしてあそこまで動けるんだ? 僕と一緒で忙しいはずだろう」

「私は、先輩と違って怠惰じゃありませんので」

 逢は得意げにそう言った。

「僕にはそういうけどさ。逢は何か運動をしてるのか?」

「ええ、勿論。なるべく移動に階段を使ったり、たまに温水プールに行ったりしてますよ」

「へえ、温水プールね」

「季節関係なく泳ぎに行けるので重宝しますよ。そのうち先輩も一緒にどうですか?」

「良いとは思うけど、逢について行けるかどうか心配だな」

「ついてこなくたっていいですよ。自分が継続できるぐらいの運動量が理想的ですから」 

「継続は力なりってこと?」

「まあ、そういうことです」

 逢は微笑んで頷く。それにつられて僕の頬も綻んだ。

 それからも僕と逢は話をする。会社での事、最近はまっている事、そして最終的には当初の目的である『食べ物』の話に突入した。

「ねえ先輩。そろそろいい時間だと思いますけど。昼はどうしましょうか?」

「あれ? もうそんな時間か。どうしようか。逢は何か希望はある?」

「私は……そうですね。私はラーメンが良いかなって。先輩と歩いていたら、高校の帰り道を思い出しまして」

 僕と逢は帰り道に定期的にラーメン屋に行っていた。ただ、就職してからは帰り道を共にすることも無かったし、一緒に行く夕飯は居酒屋やおでん屋さんだ。

 だから、久々にラーメン屋に行くのもいいかもしれない。

「そうだね。じゃあ、ラーメンにしようか」

「はい。ありがとうございます」

「じゃあ、ラーメン屋を探さないとな」

 僕は目線を上げて、周りをキョロキョロと見回した。どこかに目印が出ているのではないかと思ったからだ。でもそれを遮るように、逢が繋いでいた手を引いた。

「それならあそこに暖簾が出てますよ」

「え? 随分と早く見つけたな」

「実を言うと先に見つけたから、ラーメン屋の事を思い出したんですよ」

「ああ、成程。そういう事だったのか。じゃあ早く中に入ろう。ずっと外に居続けるのはしんどいしね」

 逢は僕の言葉に「はい」と頷いて二人で暖簾をくぐった。

 

 店主の挨拶の後、僕たちは席に案内された。店内にはそこそこの人数が押し寄せていて活気にあふれている。テーブルに置いてあったメニューを一つ手に取って、隣に並んでいる逢と一緒にそれを眺めた。

「逢は何にするんだ?」

「私は、醤油ラーメンですね」

「即決だね」

「ええ、ラーメンの中で醤油が一番研ぎ澄まされてますから。そういう先輩は何にするんですか?」

「僕は、まだ考え中かな」

「相変わらず優柔不断ですね」

「そんなことない……とは言い切れないな」

 メニューに目を向けつつ、そう答える。逢が「ですよね」と頷いた。待たせる訳にはいかないのでなるべく早く決めることにする。

「じゃあ、僕はこの味噌チャーシュー麺にするよ。すいませーん」

 僕は手を挙げて店員さんを呼ぶと逢の分を含めて注文をする。店員さんはそれをメモに取って、奥の厨房へと引き上げていった。大きな声でメニューを読み上げているのが聞こえる。

「じゃあ私、水取ってきますね。ここセルフサービスみたいですし」

「ありがとう、じゃあ頼むよ」

 逢は席を立って、コップを二つ手に取ると、ピッチャーから水を注いでいた。それを眺めていると、彼女は何やら気になる物を見つけたようだ。視線がある一点で固定されている。その先に会ったのはブックラック。何か気になる本があったのだろうか。

 彼女は水を注ぎ終わったコップを持つ前に一冊の雑誌を脇に挟むと、二つのコップを手に持って戻って来た。コップを二つテーブルに並べる。

「悪いね、逢」

「いえ、これぐらいは。それよりも先輩。これ、見て下さいよ」

 脇に挟まれていた雑誌を取り出して、僕に見せつけてくる。

「観光ガイド?」

「ええ、この近くの事を書いてあるみたいです。昼食の後はどこに行くのか決めてませんでしたし、丁度いいでしょう?」

「そうだね。じゃあこれを参考に決めようか」

 逢は早速ページをめくって、今いる場所付近の情報を発掘していく。

「商店街、は今居るこの通りか」

「そうですね、近くの山は秋だと紅葉が綺麗みたいですけど、今は季節が悪いです」

「となると、どこが良いかな……」

 どこか良い場所を求めて地図に目を走らせる。トピックされている商店街、山、そして小さく書かれていたある場所が目に入った。

「逢、海岸なんかどうだ?」

「海岸? どこに書いてあるんですか?」

「ここだよ、ここ。小さくしか書いてないけど」

 僕は地図に指を突き立てた。

「へぇ、海岸ですか」

「ここから近いし、海なら季節関係なくいい眺めが見れるはずだ」

「そうですね。じゃあ、そうしましょうか」

 逢は頷くとパタンと冊子を閉じた。タイミングを見計らったように「お待たせしました」とお盆を持った店員が声をかけてくる。

 僕の前には味噌チャーシュー麺、逢の前には醤油ラーメンがそれぞれ置かれた。最後に伝票を置いて店員は立ち去った。

 立ち昇る湯気が僕の鼻腔をくすぐり、食欲を刺激する。一刻も早く麺を啜りたくなってきた。

「冷めないうちに早く食べようか」

「はい、じゃあ頂きます」

「頂きます」

 手を合わせてそう言うと、割ばしを割る。僕の割り箸の割れ方はなんだか歪だった。

 

  ▼

 

「当たりだったね」

「ええ、特に麺とスープが良かったですけど、トッピングも粒ぞろいで、伊達に観光地で店を構えているわけでは無かったですね」

「うん、僕はメンマが気に入ったかな。あれはこれまで食べてきた中でも群を抜いて美味しかったよ」

「そうですね」

 一通り感想を言い終わると、さっき観光ガイドで見た海辺へと足を向けた。暖房の効いていた室内から外に出たこともあって、外の空気がより一層肌寒く感じる。

 遠くを眺めていると、水平線が見えて来た。一歩、また一歩と近づく度に、風が運ぶ潮の香りが強くなる。

「海に行くのもなんだか久しぶりです」

「僕もだよ。最後に行ったのはいつだったかな。大学の時以来かな。たぶん、逢と一緒に海水浴に行ったのが最後だ」

「私もそうですよ。いつかまた行きたいですね」

「僕は、あまり気が進まないかな……。逢は覚えてないかもしれないけど、ナンパしに来た奴らを追い払うのは大変だったし、何より逢の水着をまわりに見られるのはあまり好きじゃない」

「へぇ、私が取られちゃうと思ったんですか?」

「そ、そうじゃないけどさ……」

「じゃあ、やきもちですか? 可愛いですね、先輩は」

 逢は顎に手を当てながら、クスクスと笑った。このままだとからかわれ続けそうだったので、僕は話題を逸らすことにする。目の前に迫って来た海を指差す。

「それよりも逢、ほら、もうすぐそこだよ」

「あ、本当ですね。早く行きましょうか」

 逢は僕の手を引いて、足の回転速度を上げた。僕もそれに送れないように小走りになる。

 住宅街を抜けて、視界が水平線に占拠される。テトラポットの横の防波堤に俺達は立つ。空は相変わらず曇り空。色合いがちょっとだけ黒っぽくなっている気がした。

「でも、やっぱり海は良いですね。波の音を聞いてると落ち着きます」

「そうだね。もし晴れていたら、水面がキラキラと光ってもっと綺麗なんだろうけど」

「はい、それだけはほんの少し、残念です」

 そう言うと隣の逢は目を閉じた。きっと音に意識を集中させているのだろう。根拠はないけれどそう思った。

 その間に僕は考える。

 今回の旅の目的について。

 彼女へのプロポーズについて。

 明日はもう昼前にはここを出る。今日もこの後はどこに行くのかわからない。適当に散策するだろう。

 だから、もしプロポーズをするのならこのタイミングが最良のはず。あとは僕自身が覚悟を決めるだけなのだ。

 深呼吸をする。ラジオ体操の様に大げさなものではなく、静かにだ。逢に悟られるのはどうしても、嫌だった。

「……逢」

「なんですか、先輩」

「実は、さ。話したい事があるんだ」

「……はい」

 心臓が耳元に移動したんじゃないかと錯覚するぐらいに、心拍音が大きくなる。口の中が乾燥して上手く動かない。話したい事はいっぱいあったはずなのに、それが、なかなか出てこなかった。

 じれったいと思ったのか、逢は閉じていた瞳を開く。俺へと真っすぐな視線を向ける。

 それを見て僕は覚悟を決めた。口にした最初の音から震えていて、カッコイイだなんて言えたものじゃなかったけれど、最後までそのまま言い切るつもりでいた。

「あ、あのさ――」

 鼻先に触れた冷たい感覚。それに驚いて思わず僕は言葉を止めてしまった。感触の正体を確かめるために指で鼻に触れると、滴が指にくっついてくる。

 そんな事を確認していたら、即座に雨が強くなった。雲の上でバケツをひっくり返したような激しさだ。

 逢は即座に僕の手を取って、元来た道を走り始める。

「先輩、走りますよ!」

「えっ、ちょっと、逢」

「話は後で聞きます。それよりも風邪を引かないように早く戻りますよ! 走って下さい!」

 先を行く逢に釣られて僕は走り出した。髪が湿気て、額にへばりつく。なまっていた身体はすぐにへばって、息が乱れる。

 そして足が進む度に思う。あと数秒僕の決意が早かったら、この雨の中でも楽しく帰れただろうと。どうしてその数秒早くができなかったんだろう。どうして僕は、こんな肝心な所で……。

 そんな自己嫌悪は油汚れの様にこびりついて、なかなか消えなかった。

 

  ▼

 

 結果的に僕たちはグショ濡れになって旅館に帰った。部屋に備え付けてあったバスタオルで水分を拭き取っていく。

「それにしてもすごい雨でしたね」

「……ああ、そうだね。まさかこんなに激しく降って来るなんて思わなかった」

「風邪を引かないようにお風呂に入りましょうか」

「うん、そうした方が良いだろうね」

 力なく僕は返事をした。気力はまだ完全に回復していない。今の自分をどうしても肯定する気にはなれなかった。

「じゃあ、先輩。大浴場に行きましょうよ。新しいタオルと着替えの浴衣、ちゃんと持って下さいね」

「悪い、逢。僕は大浴場には行かない。部屋の露天風呂に入るよ。ちょっと、一人になりたい気分なんだ。ゴメン」

「そうですか……分かりました」

 逢はそう返事をして自分の荷物を持って、部屋の外に出た。申し訳ない気で一杯だったけれど、しばらく時間をおかないと普段通りの自分の様に振る舞える気がしなかったのだ。

 

 水を吸って重くなった服を脱いで、持って来ていたビニール袋に突っ込む。一つタオルを持つと、部屋の露天風呂へと足を踏み入れた。畳のざらざらとした感触が木のすべすべとした感触に変わる。

 シャワーの前に置いてあった鏡が裸の自分を映す。酷い顔だ。不機嫌丸出しなのがひしひしと伝わってくる。自分で見てもこれなのだから他人から見たら相当だろう。

 こんな顔を逢に長い時間見せなくて良かったと、心から思った。彼女が戻ってくる頃には何とかしないといけない。せっかくの旅行なのだ。僕のせいでそれを台無しにしたくない。

 取りあえず蛇口を捻って、シャワーヘッドから吐き出されるお湯で自分の顔を隠す。頭から下へ向かって身体を洗って、湯船に浸かる。

 水面に顔が映ったけれど、波打っているからはっきりとは見えなかった。鏡と向かい合うよりも憂鬱にならずに済みそうだ。

 長く息を吐きだして、意識を自分の心に集中させる。これから自分がどう振る舞うのかを考える為に。

プロポーズのチャンスを逃した。それをまずは受け止めるべきだ。僕は今回の旅行での目的を果たすことができなかった。

 でも、それは失敗した訳では無い。まだ次のチャンスがある。……はずだ。そう、思いたい。

 ならば、こんなところでうじうじとしている暇は無い。次のチャンスを作るために行動するべきだ。

 だけれど、今の僕には、

「どうしたらいいのか、分からない……」

 天井に向けて呟く。怖いのだ。失敗したときが。気分が今以上に沈み込むのが。成功したときの喜びよりも、鮮明にイメージできてしまう。

 もし昨日の卓球勝負に勝てていれば手に入れられた答え、彼女の気持ち。それが、また知りたくてたまらなくなる。

「逢……」

「はい、何でしょう」

「へ? うわっああ!」

 君は僕の事をどう思ってるの、そう続けようとした所を遮る声。直後、声の主が視界の端から急に正面に躍り出る。僕は驚いて身を引いた。バシャンッと体につられて水音が立つ。驚く僕を見て彼女は肩を震わせて笑った。

「ビックリしすぎですよ」

「え、いや、だって。大浴場に行ったんじゃ……」

「戻って来たんですよ。とても気になる事があったので。隣、失礼しますね」

 僕の返事を待つことなく、バスタオルに身を包んだ彼女は湯船に身体を沈める。肩と肩が触れ合いそうな距離だった。

「……気になる事って?」

「先輩がさっき言っていたことですよ。私に、伝えたい事があるんでしょう?」

 逢が首を傾げつつ僕に尋ねる。額に付いていた水滴を手の甲で拭った。汗なのかどうかは分からない。でも、僕が焦っていることは間違いなかった。遠くにあると思っていたチャンスが、たった今目の前に転がって来たのだから。

 今度は逃さないように、慎重に言葉を選ぶ。

「そうだ。僕は、僕には……逢に聞いて貰いたい事があるんだ」

「……はい」

 逢が隣で頷く。僕は飾らずに思うがまま、ゴールに向けて口を動かそうとした。けれど、緊張からか、頭が真っ白になる。ゴールへの道筋が途切れてしまった。

「……あれ、ごめん。上手く言葉が出てこないや。言いたい事はたくさんあったはずなのに……」

「大丈夫ですよ。ひとつひとつ、ゆっくり話してくださいよ。私、全部聞きますから。あの時の、先輩みたいに」

「うん、ごめん。ありがとう」

 僕は目を閉じてから息を吸うと、逢の言う通りにゆっくりと話し始めた。

「僕と逢が付き合い始めたクリスマスから、もうそろそろ十年が経つんだ」

「そうでしたね。早いものです」

「あれから、何でもない普通の日が楽しくて、楽しくて仕方なかった。もう、逢の居ない日なんて考えられないんだ」

 最後の一言のために一呼吸置いた。たぶん僕の人生の中で、最も緊張感のある台詞になるからだ。大事な所で噛んだりしたくはなかった。

「僕は、この日常を手放したくない。もっと、確かなものにしたいって、思ってるんだ」

「先輩……」

 

「だから逢、僕と……結婚してくれませんか」

 

 手を彼女に差し出した。彼女を見るのが怖くて、目は閉じてしまっている。返事を貰うまでの時間でさらに緊張して、差し出した手が震える。

 やがて、鼓膜に彼女の声が届く。それは言葉ではなかった。込み上げる何かを押し殺しているようだった。僕は瞼を開けて、彼女の様子を確かめる。

「……逢、泣いてるの?」

「泣いて……ませんよ。先輩の気のせいに決まってますっ」

 逢はうつむいたまま語尾を強めに言い放つと、僕の身体へと抱き着いて来た。バスタオル越しに柔らかな感触と高い温度が押し付けられる。

 彼女の身体を受け止めて、右手で頭をそっと撫でると、耳元で鼻を啜っている音が聞こえた。

「やっぱり泣いてるじゃないか」

「……先輩が、そう思いたいのであれば、勝手にすればいいです」

「じゃあ、そうするよ。それで、逢。返事は貰えるのかな?」

「もうしました。こうしている事がもう答えみたいな物です。本当に先輩は、鈍感なんですから」

「……悪かったよ。でもさ、知っての通り僕は臆病者なんだ。ちゃんと言葉にして伝えてくれないかな?」

 そう言うと逢は耳元で「分かりました」と囁くと、少し離れて僕と向き合った。目元がほんの少しだけ赤くなっている。やっぱり逢は噓をついてたみたいだ。

「一度だけしかいいませんからね」

「……うん。分かったよ」

 さっきの僕さながらに、逢は目を閉じて一度、深呼吸。そしてゆっくりと瞼を開けてこう続けた。

 

「私は先輩のお嫁さんになります。ちゃんと、(たちばな)逢にして下さいね」

 

 僕はその言葉に「勿論」と返した。彼女が再び抱き着く。胸の奥からじんわりと幸福感が溢れてくる。僕はそれにじっくりと浸った。

 

  ▼

 

 逢に告白した翌日。

 早めに朝食を摂った。今日は彼女の提案で、一つ追加で用事ができたからだ。旅館を出る前に家族へのお土産を購入して、二人で車に乗り込んだ。

 途中に休憩を挟みつつ車を走らせて、今は輝日東に差し掛かったところだった。太陽は真上に差し掛かっていて、目的地に着くころには昼時になっているだろう。

 隣で電話をしていた逢が携帯を閉じて、顔を外から僕の方へと移したのを横目で見た。

「先輩、両親と連絡取れました。大丈夫だそうです。今日は二人とも家にいると言っていました。だだ……」

「ただ?」

「紹介したい人がいるって言ったら、お父さんが不機嫌になったそうです」

「そ、そっか……」

 どうやら早速ハードルが上がってしまったらしい。何だか胃が痛くなってきた。

「緊張してますか?」

「どうしてそう思うんだい」

「一瞬、口元が強張りました。先輩はそういう時、結構緊張してたりします」

 伊達に十年近く僕と過ごして来た訳ではない。逢にはいろいろな所がお見通しだ。彼女に隠し事をすることはやめておいた方が良い。そう確信できた。

「……そっか。でも、いつかは乗り越えなきゃいけない。逢と一緒に暮らすためには避けられない道だからね」

「そう言ってくれるのは嬉しいですね。ここで逃げるようなら婚約を破棄していたところです」

「ええ!?」

 僕は思わず視線を彼女の方に向けてしまった。彼女はそんな僕を見て微笑んでいる。

「冗談ですよ。それより前見て下さいよ、前。事故にあったら大変です」

 僕は視線を元通りに目の前に戻した。

「……心臓に悪いこと言わないでよ」

「だいたい、先輩はもっと自信を持った方が良いです。私がそんな事で愛想を尽かすとでも思っているんですか?」

「そうじゃないけど、もしそうだったらって思うとさ……」

「はぁ、全く。それだったらとっくに見切りをつけて別れてますよ。先輩の言動に何度困らされたか……」

 そんなに困らした覚えはない。そう言いたかったけれど、逢はいろんなところに気を配っていたりする。だから僕の知らない所でフォローしてくれたのかもしれない。そう考えると反論できなかった。

「あ、先輩。その交差点を右です」

「了解っと」

 僕はハンドルを切って、彼女の指示通りに交差点を曲がった。

「先輩、見えてきましたよ。あの家です」

 逢が指を刺した先には一軒家が見える。

「車はどうしたらいいのかな?」

「来客用にいつも駐車場を一つ開けているはずですから、そこに止めて頂ければ」

「分かった。ありがとう」

 僕は逢の刺した家の前にたどり着くと、空いていたスペースに車を止める。車を降りて鍵をかけた。ヘッドライトが点灯するのを見届ける。

「じゃあ、行きましょうか」

「ああ、うん」

 僕は頷く。そして家の門へと向かった。逢はその後を付いてくる。『七咲』の表札。その真下にあるインターフォンを僕はなかなか押せない。彼女はそんな僕に問いかける。

「押さないんですか?」

「いや、何か押しにくくて。妙な緊張感があってさ」

「でも、いくら待ったってなにも変わりはしませんよ」

「まあ、そうなんだけどね」

 ノックの仕方みたく、インターフォンにマナーなんて無い。少なくとも僕は知らない。だから、考えたって仕方がないのだ。

「……先輩、何か変な事を考えてませんか? ちょっと顔がにやけてます」

「え? そうかな。確かに考え事をしていたけれど」

「……何についてですか?」

「ちょっと、インターフォンの押し方マナーについて」

「やっぱり下らない事じゃないですか」

「三回連打するのかを迷ったんだ」

「一回で十分です! 先輩は小学生ですか!?」

「冗談だって」

「そうじゃないと困ります!」

「はははっ」

「はははっ、じゃないですよ。もう!」

 逢が全力で突っ込んでくる。僕の肩が二度ほど強く叩かれた。小さな痛みによって緊張がゆっくりと解けていく。痛みが引いた後、僕は覚悟を決めて、ゆっくりと息を吐いた。

「……じゃあ、行こうか」

「はい」

 

 僕は一歩踏み出して、インターフォンのスイッチを押した。

 

『最後の一歩』 完

 




これにて完結です。最後まで読んで下さってありがとうございました。
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