Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 (うさヘル)
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設定資料
オリキャラ初期設定


ご要望があったので、当方が初期に考えていましたキャラクター容姿イメージの載っている設定を引っ張り出してきました。展開のネタバレしない程度に添削しています。多少キャラ設定の変遷があります点、現在のものとなり微妙に設定に食い違ってる点、ご容赦ください。

キャラクターの外見イメージはあくまで当方のイメージですので、気に食わなければお好きなようにイメージしてくださって構いません。世界樹のアートブックの何処かに記載されていました通り、当方も読んでくださっている方が想像の翼広げて楽しんでいただければなと思っています。


共通ルートメインキャラクター設定

 

シン

年齢:25歳

所属都市:エトリア

職業:ブシドー

身長:178cm

体重:72kg

 

外見的特徴:伸びた黒髪を乱雑に後ろに纏めている。細見ではあるが、やや筋肉質でがっしりした体型。通った目鼻、薄い唇、細い顎の非常に整った顔立ち。基本は肩当と籠手、袴の和装で腰に帯刀をしている。

 

外見イメージ:トリニティブラッドのHC-IIIX(/ハーケー・トレス・イクス)。あるいは、ドリフターズの島津豊久。世界樹の基本ブシドー。

 

基本主要武装:

武器:カムイランケタム。岩をも破るという巨鳥の爪とダマスカスから作られた、神が英雄に与えたと言われる刀。

防具:レーシーハイド。森鬼の腕羽から造られた、森の精霊の加護を受けると言われる鎧を肩当に改良したもの。

:フレイムグリーヴ。伝説の炎の尾で飾られた高貴な脚部用の脛あて防具。

:世界樹の指輪(古)。世界樹の葉を用いた指輪。所有者の生命力、筋力、打たれ強さなどを強化する。本来ならば指にはめるものであるが、刀を振るうに邪魔という理由で袴に紐で括り付けられている。ブシドー用に昔の製造方法にてヘイが作成した。

 

人物特徴:ギルド「異邦人」の設立者にしてギルドリーダー。現エトリアにおいて最強と名高い存在。あらゆる分野に秀でた天稟を保有しており、大抵の事は一度の学習で完全な習熟に至る。基本的に他人に対して無関心で、故に他人から向けられる関心にもほとんど興味を持っていない。シンが無表情な人物であると評される場合が多いのは、そうした他人に対する関心の欠如が原因だ。

 

シンにとって他人とは基本的に路傍の石と同じ存在にすぎない。ただし、自分より秀でた一芸を持つ人間に対しては価値を見出し、関心と執着を持つようになる。とあるブシドーとの出会いにより己の視野の狭さを認識したシンは、村の外という世界で自分の予想をはるかに上回る状況との遭遇や自分を上回る実力を持つ人間との出会いを夢見て、村を飛び出た。やがて始まりの街エトリアにやって来たシンは、やがてサガ、ピエールと共に三竜討伐を目的としたギルド「異邦人」を設立し、冒険者としての一歩を踏み出しはじめる。

 

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ダリ

年齢:28歳

所属都市:エトリア

職業:パラディン(元衛兵)

身長:192cm

体重:105kg

 

外見的特徴:黒髪短髪、筋骨隆々、四角四面、岩を切り出したかのような強面顔。他人の気持ちを理解しづらいという特徴を持っており、然るに初対面の人相手であると、全身フルプレート、巨大な盾と槍を持った強面無口の巨体が、常に眉をひそめているという状況が発生。相手を怯させてしまう事が多い。サガより顔を見せぬ方がまだましとの批評を受けて以来、威圧感を薄れさせるために使用していた鉄の帽子を深く被ったり、鉄仮面をしたりと、あらゆる方法で顔を隠して街中を歩く場面がよく目撃されている。ただし巨体ゆえに目立つのであまり意味がない。

 

外見イメージ:ベルセルクのガッツ。或いは世界樹5のネクロマンサー男。

 

基本主要武装:

武器:大身槍。槍身が通常の倍ほどあり重量があるが、その一撃は強力な威力を誇る大槍。

防具:アラロマーナ。頑強な森鬼の腕甲を用いて作られた装甲に華やかな装飾を施した王城の騎士の鎧。

:シルバーシールド。白銀色の甲皮を加工して造られた、銀色の艶が美しい円形の大盾。

 

他、状況に応じて耐性付与アクセサリーを付け替えている。

 

人物特徴:元エトリアの衛兵にして、現ギルド「異邦人」のギルドサブリーダー。性格は冷静かつ沈着。他人に対してあまり関心を持てない性質で、故に他人の感情を読み違える事が多々あることを気にしており、衛兵業務の傍ら改善しよう必死に勤め、務め、努めてきた。結局本人が思うほどの改善に至らなかったが、対人応答と衛兵業務において真摯な態度であったことが多くの人間に評価されており、本人の自覚はないがエトリアに住む多くの人から「不器用で天然ながらも実直な衛兵で頼れる人間」との評価を得ている。

 

戦いにおいてはシンほどの才能があるわけではないが、恵まれた巨体と巨体に似合わない素早さと衛兵として長年活動してきた経験とその間に培ってきた知識を駆使する事でシン並みの活躍をすることが出来る。ただし、相変わらず人の気持ちを解する事は苦手で、的外れの言動をしたりすることもよくある。

 

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サガ

 

 

年齢:19歳

所属都市:エトリア

職業:アルケミスト

身長:150cm

体重:43kg

 

外見的特徴:金髪を短く切り揃えている。見た目少し幼く、小柄で細身。下手をすると14~15にも見られる。ぱっちりとした目に二重で、鼻が高く、鼻と唇の距離が短い。鼻筋が通っており、顎が唇よりも出ている。独特な前ぞろえの三つベルトのズボンルックのアルケミストの服を少し大きめのサイズで着用し、左腕にはアルケミストがスキル行使補助のために装着する金属籠手をはめ込んでいる。

 

外見イメージ:クロノクロスのサラ・キッド・ジール。或いは世界樹4の飾り布被ったソードマン女か、ベルンド工房の店主。

 

基本主要武装:

武器:アルカナワンド。二層番人の呪われた腕より造られる、折り畳み式魔杖。所有者のスキル行使を補助する機能があり、基本は金属籠手に内臓されている。

防具:ダークチュニック。闇夜に行動しやすいように考えられた上着。枯森の布材に四層に住まう妖精の漆蜜を染み込ませて黒く染めて造られた。

:フレイムグリーヴ。伝説の炎の尾で飾られた高貴な脚部用の脛あて防具。

:世界樹の指輪(新)。世界樹の葉を用いた指輪。所有者の精神力、素早さ、器用さなどを強化する。肉体系の直接強化よりも神経系の反応強化を重きにおいての改良が施されている。

 

人物特徴:ギルド「異邦人」の一員。設立時から存在する古参メンバー。体が小さく、それ故に少しばかり身体能力やスキル行使の能力が一般人よりも劣っている。

 

サガが他人の気持ちの変化に聡く、またどうすれば他人が喜んでくれるかを察する能力を保有しているのは、他人より劣る自分という素材を使って道化を演じることで自分が完全な役立たずでないことを証明するためだ。

 

サガは才能の欠如や自然と身についていた己のそんな能力を嫌っていた。やがて自暴自棄となり死に場所を求めてエトリアにやってきたところ、劣っている自分をその他大勢の中の一人として扱ってくれるシンと出会い、彼のギルドのメンバーとなる。非力ながらもシンたちと共に迷宮で数多くの死線を潜り抜けた結果、エトリアでも指折りのアルケミストになった。

 

ギルド「異邦人」の中で最も繊細に他人の気持ちを察して応対する能力に長けているため、ギルドにおける対人作業と周囲との調整作業はほとんどサガが行っている。そうして自分の事を周囲の人間と同じように扱うシンたちの役に立つことは嫌いでないが、そんな作業ばかりをしていると自分の昔の事情を思い出して、複雑な気分になったりもする。

 

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ピエール

年齢:22歳

所属都市:エトリア

職業:バード

身長:175cm

体重:73kg

 

外見的特徴:さらりとした金色の髪をふわりと腰まで流している。中世的な顔立ちで、流れるような目筋と鼻筋をしている。基本的に貴族然とした格好をしている。一見細身でシンよりも顔立ちが細いほどだが、バードという、戦闘中に楽器を手にしながら大声で歌うという所業を行うための並ならぬ体力と筋力を必要とするため職業であるため、裸になるとシンに劣らずがっしりとした体形である事がわかる。

 

外見イメージ:テイルズオブエターニアのレイス(本名:レイシス・フォーマルハウト)。或いは世界樹4の男性金髪ルーンマスターの髪をフワッとさせたかんじ。

 

基本主要武装:

武器:幸運の杖。所有者に幸運をもたらすという不思議な杖。腕に悪いとの理由で一度も使用されたことがない。また、楽器を振るうのに邪魔だという理由で、基本的に腰の飾りとなっている。

防具:レーシーハイド。森の精霊の加護を受けると言われる軽鎧。鎖帷子のように改良されている。

:ピクシーハット。樹海に住む珍しい妖精の羽をあしらった集中力が増すと言われている。

:楽器キタラ。枯森の枝材を組み合わせて間に弦を張りその弦を指で弾いて演奏する弦楽器の一つ。

 

人物特徴:ピエールは他人から向けられる関心を気にすることは少なく、他人の感情を逆撫でをするような振る舞いを平然とする人間だ。しかしピエールのそれら行動はシンのように他人に価値を見いだせないが故のものでなく、ダリのように他人の感情を理解しにくい故のものでない。ピエールがそのような態度をとるのは、そのようにして他人の感情を操ることで、他人が純粋な感情に突き動かされる場面を目撃したいが故のモノなのだ。ピエールは自身が気になることを体験するためならば、自分の評判だろうが他人の感情だろうがお構いなしに犠牲にするというはた迷惑な精神性を保有している

 

ピエールのそんな精神性は、彼の生まれと育った環境によるものだ。豪商の家に生まれたピエールは、幼いころから欲しいものが何でも手に入る環境にあった。ピエールにとっては大概のものは手に入るものであり、大概の金銀財宝は彼すぐそばにあるものだった。

 

ピエールの日々を変えたのはある日にピエールの実家へと立ち寄った冒険者との出会いだった。冒険者との話し合いにより、やがて自分の求めるモノはすべて迷宮の中にあると悟ったピエールは、自分が目撃したことのない美しいものを見聞きする事を求めてエトリアへと旅立つ。

 

向かった先はエトリア。始まりの地にこそ己の中にある好奇心を最も刺激してくれるというピエールの直感は見事に的中した。かの地にてピエールはシンという自らの好奇心を果てなく刺激する存在と出会い、ギルド「異邦人」への参加を決めるようになる。

 

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所属都市:エトリア

年齢:15歳

職業:ツールマスター

身長:155cm

体重:50kg

 

外見的特徴:茶色から光の反射によっては栗色に見える髪の毛を女性らしくセミショートに纏めている。美人というよりも可愛いという形容詞の方が似合う外見。年齢通りの未だに少し子供っぽさ残る丸っこい顔立ち。体付きもまだ未熟で、豊満さとは程遠く、肉付きは薄い。たまに少年と間違えられる。ファーマーと呼ばれる職業の彼らが着用するようなドレスの上にエプロンを未熟なその身に纏っている。

 

外見イメージ:戯言シリーズの零崎舞識(元名:無桐伊織)。世界樹三のファランクス女か、ファーマー男。

 

基本主要武装:

武器:剥ぎ取り用の短剣。解体用に作られた頑丈で切れ味のいい短剣。

防具:道具屋のドレスとエプロン。見た目の可愛らしさと清潔さを重視したエプロン。防御力はないに等しい。

:道具屋用の肩掛けバック。実用性を重視したバッグ。中にはこっそりとアリアドネの糸が二つ潜めてある。

 

人物特徴:幼いころはハイラガードで育ち、やがてエトリアにやってきた女の子。マギというドクトルマグスの父と、アムというファーマーの両親を持つ。ハイラガードでは指折りの冒険者であった両親がその実力を活かして、迷宮から持って帰る素材そのものを少しばかり高めに売るような隙間産業的道具屋を設立したはいいが、このたび両親が死んでしまった事によって、閉店の窮地に追い込まれた。

 

両親がともに冒険者であり、故に二人ともに家を空けている時間が多い環境で育ったこともあって、響は両親が死んでいなくなったこと自体に対してはあまり気落ちしていない。とかくして現実的な響の頭にまずよぎったのは、自分はこれからどうやって生きていこうかという問題だった。両親のような力を持たない自分だけでこの道具屋を維持する事が不可能だと悟った響は、まず自分ひとりでも生きていく力を身に着ける事が優先であると認識する。結果、響はやがて両親が所属していたエトリア最高峰の戦闘力を保有するギルドの「異邦人」を頼ることを思いつく。

 

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共通ルートサブキャラクター設定

 

ヘイ

年齢:54歳

所属都市:エトリア

職業:道具屋の主人

身長:173cm

体重:130kg

 

人物紹介:禿頭、樽腹の、壮年と言っていい年齢に突入しているおっさん。見た目通りに人当たりがよく、時折エトリアの入り口にある橋に食料品を売る屋台を出しては、迷宮に潜ったこともなさそうな初心者であり、かつ有名になりそうな実力を持っていると見込んだ冒険者たちに声をかけ、援助や案内を行っている。少しばかり薄暗い見た目の店構えに反して経営する道具屋が繁盛しているのは、彼の店の道具の質がいいことももちろんあるが、それ以上にこうした青田買い的行為の結果が実を結んでいるという事実にもある。年の割に夢見がちで、短気な点もあり、しかしそういった面が若者たちからはとっつきやすいと慕われている。実は既婚者。家族はエトリアに住んでいない。

 

外見イメージ:アトリエシリーズのハゲル・ボールドネスを、ヘルシングの少佐風に肥えさせたかんじ。あるいは世界樹4の冒険者ギルド長の縦横アス比を膨張させたイメージ。

 

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サコ

年齢:21歳

所属都市:エトリア

職業:施薬院のメディック

身長:140cm

体重:33kg

 

人物紹介:エトリアにおいて傷ついた人間や病にかかった人間を癒したり治したりする施設、「施薬院」に所属するメディック。体躯は小さく、ほとんど少女と言って差し支えない外見をしている。時折メガネ。基本的には施薬院の奥で治療と研究にいそしんでいる。怪我を負った人間を見ると治さずにはいられない。何かが完全な状態を見ると、彼女の内側からそれを完全な状態に戻さないといけないという気持ちが湧き出てきて耐えられない性質を持っている。

 

外見イメージ:とある魔術の禁書目録の月読小萌、或いは世界樹4のメガネメディック。

 

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クーマ

所属都市:エトリア

年齢:40歳

職業:執政院役員

身長:180cm

体重:80kg

 

人物紹介:エトリア執政院において冒険者たちに関するあらゆる事象を取り扱っている。迷宮の深層にまで潜ることのできる冒険者であり、その危険性から封じられてしまったエトリアの世界樹の迷宮の五層以降の情報を知る数少ない人物。ほかの役員たちとは異なり金銭や名誉にはあまり頓着していない。クーマの願いは主にエトリアの街の安定とエトリアに住まう人々の安全にある。故に現在エトリアの街に広まりつつあるエトリアの安全を脅かしかねない「新迷宮」とそれにまつわる「赤死病」の噂は、彼の悩みの種の一つだ。

 

外見イメージ:されど罪人は竜と踊るのガユス・レヴィナ・ソレル。或いは世界樹2公国薬泉陰の院長。世界樹クロスの眼鏡インペリアル。

 

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ゴリン

所属都市:エトリア

年齢:38歳

職業:エトリアギルドの統括マスター

身長:172cm

体重:67kg

 

人物紹介:エトリアに存在する無数のギルドを統括しているマスター。基本面倒くさがりで、能力は極めて高いのだが、仕事をしないためならあらゆる労苦を惜しまない。よく仕事場から逃げ出しては、衛兵たちに連れ戻されている。しかし衛兵たちがゴリンを見つけることは少ない。鳥ノ巣のような目立つ頭と独特の着流し改良服を着ているくせに、町中にいる衛兵の目から逃れるほどの隠蔽能力を保有している。

 

外見イメージ:新世界樹の迷宮のオースティン、或いは世界樹の迷宮の初期ギルド長。

 

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イン

年齢:??歳

所属都市:エトリア

職業:宿屋の女主人

身長:159cm

体重:47kg

 

人物背景:エトリアにある宿屋の女主人。料理の腕に長けており、年の割に快活で、気も配れるパーフェクト貴婦人だが、結構な皮肉屋で負けず嫌い。エトリアにおいて皮肉屋は少ないらしく、そのためエミヤのような皮肉人間と取るに足らないくだらぬ舌戦を繰り広げられるのは結構な楽しみとなっている。

 

その過去はすべて謎。冒険者ではなかったらしいが、突如としてハイラガードからエトリアへと移り住み、その土地の宿屋を買い取って商売っ気のない道楽商売を始められるほどの資産家である。もともとはハイラガードに滞在していたが、とある事情によりこちらへと移り住んできた。

 

外見イメージ:Fateシリーズの遠坂凛を幽遊白書の幻海師範風に老けさせたかんじ。或いは世界樹5のハウンドの婆さん。

 



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参考文献

外国語の参考文献、ペーパー論文、出所不明のものは外しています


季節の言葉 自由国民社

神話で訪ねる世界遺産 ナツメ社

ルーミー語録 岩波書店

手に取るようにわかる発達心理学 かんき出版

人工知能の作り方 技術表論社

図解旧約聖書 新紀元社

メソポタミアの神々と空想動物 山川出版

一神教の起源 筑摩選書

図説 金枝篇(上)(下) 講談社学術文庫

バビロンとバイブル 法政大学出版局

大洪水が神話になるとき 河出ブックス

聖書入門 創元社

シュメール神話集成 ちくま学芸文庫

旧約聖書外典 (上)(下) 講談社文芸文庫

慮美人草 角川文庫

神話の力 ハヤカワノンフィクション文庫

ポケットに名言を 角川文庫

神道の神秘 春秋社

奇跡の脳 新潮文庫

憎しみに抗って みすず書房

異邦人 新潮文庫

荒野のおおかみ 新潮文庫

千の顔をもつ英雄(新訳版)(上)(下) ハヤカワノンフィクション文庫

我と汝、対話 岩波文庫

漱石文明論集 岩波文庫

ファウスト(一)(二) 新潮文庫

原典訳 アヴェスター ちくま学芸文庫

方忌みと方違え 岩波書店

ヒト、この奇妙な動物 新曜社

ブーバーに学ぶ 日本教文社

マニ教とゾロアスター教 山川出版

ゾロアスター教 講談社選書メチエ

ゾロアスター教 青土社

古代メソポタミアの神話と儀礼 岩波書店

愛の日本史 国書刊行会

日本呪術全書 原書房

日本人のすがたと暮らし 明治、大正、昭和前期の身装 三元社

中国妖怪、鬼神図譜 集広社

中国の呪法 平河出版社

鳥瞰図で見る古代都市の世界 原書房

ケルト神話 青土社

図説 ケルト神話 新紀元社

北欧神話の世界 青土社

いちばんやかりやすい北欧神話 じっぴコンパクト新書

世界を読み解くためのギリシャ、ローマ神話入門 河出ブックス

北欧神話物語 青土社

イチから知りたい! 神道の本 西東社

生命倫理 有斐閣アルマ

ホモ・サケル 以文社

言語と呪術 慶応義塾大学出版会

北欧学 北樹出版

身体はトラウマを記憶する 紀伊国屋書店

私はすでに死んでいる 紀伊国屋書店

アーサー王と円卓の騎士 原書房

オリュンポスの神々の歴史 白水社

東と西の宇宙観 東洋篇、西洋篇 紀伊国屋書店

聖と俗 法政大学出版局

永遠回帰の神話 未来社刊

メソポタミア 文字・理性・神々 法政大学出版局

ショーペンハウアー 意志と表像としての世界 1、2、3 中公クラシックス

古代文字入門 河出書房新社

史上最強の哲学入門 河出文庫

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 河出文庫

迷いを断つためのストア哲学 早川書房

アスガルドの秘密 東海大学出版

古代文字と文学 岩波書店

安土往還記 新潮文庫

西行花伝 新潮文庫

チョムスキーの言語理解 新曜社

夏の砦 文春文庫

原因を推察する 有斐閣

自我と無意識 第三文明社

偶像の黄昏 河出文庫

元型論 紀伊国屋書店

文字講話 1、2、3、4 平凡社ライブラリー

山海経 平凡社ライブラリー

キャラクター小説の作り方 星海社新書

金槐和歌集 岩波文庫

呪の思想 平凡社ライブラリー

愛するということ 紀伊国屋書店

丸山眞男コレクション 平凡社ライブラリー

中国神話 東洋文庫

虐待が脳を変える 新曜社

やる気が出る心理学 PHP文庫

ルーン文字 創元社

魔女、怪物、天変地異 筑摩選書

禹王と日本人 NHK ブックス

黄金の華の秘密 人文書院

現象学入門 NHKブックス

エレミヤ書の探求 星雲社

実在主義とはなにか 人文書院

ライラとマジュヌーン 東洋文庫

ラーマーヤナ 1、2 東洋文庫

シュメル神話の世界 中公新書

大人からみた子供 みすず書房

物語の体操 星海社新書

バレエものがたり 岩波少年文庫

風の琴 文春文庫

背教者ユリアヌス 上中下 中公文庫

言葉の箱 中公文庫

夏の闇 新潮文庫

道草 集英社文庫

彼岸過ぎまで 集英社文庫

夢十夜、草枕 集英社文庫

ケルトの水脈 講談社学術文庫

神話学入門 ちくま学芸文庫

星の王子さま 角川文庫

永遠平和のために 岩波文庫

痴愚神礼讃 中公文庫

ルバイヤート 岩波文庫

ツァラトゥストラはこういった 上下 岩波文庫

弓と竪琴 岩波文庫

死に至る病 岩波文庫

善悪の彼岸 岩波文庫

情念論 岩波文庫

アラン幸福論 岩波文庫

フィガロの結婚 岩波文庫

情報理論 コロナ社

経済学ノート 桜門書房

ホモルーデンス 中公文庫

絵でわかる人工知能 サイエンスアイ新書

脳が読みたくなるストーリーの書き方 フィルムアート社

エッダ 新潮社

愛と死 新潮文庫

ペルシア史/インド誌 京都大学学術出版会

二人であることの病い 講談社学術文庫

北欧神話 ちくま学芸文庫

世界最古の物語 東洋文庫

新訳日本奥地紀行 東洋文庫

岩波講座文化人類学1~13 岩波書店

月の文化史 上下 柊風社

大英帝国は大食らい 河出書房新社

ゲームシナリオのためのファンタジー事典 SB クリエイティブ

ゲームシナリオのためのファンタジー物語事典 SB クリエイティブ

ゲームシナリオのための戦闘・戦略事典 SB クリエイティブ

ゲームシナリオのためのクトゥルー神話事典 SB クリエイティブ

ゲームシナリオのためのミリタリー事典 SB クリエイティブ

ゲームシナリオのためのSF 事典 SB クリエイティブ

ゲームシナリオのためのファンタジー衣装事典 SB クリエイティブ

ハリウッド脚本術 フィルムアート社

八極拳と秘伝 東邦出版

シナリオの書き方 映人社

陰陽道の発見 NHK ブックス

超訳モンテーニュ 中庸の教え ディスカヴァー・トゥエンティワン

行動経済学入門 ダイヤモンド社

プロカウンセラーの聞く技術 創元社

行動経済学の基本がわかる本 秀和システム

ゲームシナリオの書き方 ソフトバンククリエイティブ

神なき時代の民俗学 せりか書房

ヒルコ 棄てられた謎の神 河出書房新社

ビジネスで一番、大切なこと ダイヤモンド社

進化心理学を学びたいあなたへ 東京大学出版

文字と組織の世界誌 山川出版社

七日で身につく正しい文章の書き方 総合法令出版

日本の神々 新紀元社

日本の怨霊 平凡社

認められたいの正体 講談社現代新書

十三世紀のハローワーク 一迅社

クラウド量子計算入門 カットシステム

ケルト人の歴史と文化 原書房

アーサー王伝説の起源 青土社

ケルトの想像力 青土社

アイルランドの創出 水声社

ペルシア神話 青土社

交易の世界史 上下 ちくま学芸文庫

ケルトの神話 ちくま文庫

国家はなぜ衰退するのか 上下 ハヤカワノンフィクション文庫

エチカ 上下 岩波文庫

独裁と民主政治の社会的起源 上下 岩波文庫

リルケ詩集 岩波文庫

神統記 岩波文庫

ひとはなぜ戦争をするのか 講談社学術文庫

ミトラの密儀 ちくま学芸文庫 

W・B・イェイツ全詩集 北星堂

箱庭療法 創元社

作者の死 早川書房

毒の歴史 新評論

世界史 人類の結びつきと相互作用の歴史 1、2 楽工社

一気にわかる世界史 日本実業出版社

自殺論 中公文庫

ルーン文字の起源 大学書林

ロボット解体新書 SB クリエイティブ

子どものこころに寄り添う営み 慶應義塾大学出版会

大地・農耕・女性 未来社

悪について ちくま学芸文庫

孤独な散歩者の夢想 岩波文庫

硝子戸のなか 岩波文庫

世界を惑わせた地図 national geographic

プロカウンセラーの共感の技術 創元社

トラウマを乗り越えるためのガイド 創元社

野菜がよく育つ土づくり 学研

自信が持てない人の心理学 PHP

生きる意味を問う 大和出版

よくわかるパニック症・広場恐怖症・PTSD 主婦の友社

よくわかるアサーション 主婦の友社

世界樹の迷宮アートミュージアム GZ ブレイン

世界樹の迷宮クロス 公式パーフェクトガイドブック GZ ブレイン

真・女神転生Ⅳ the final 公式設定資料集+神話世界への旅 一迅社

ペルソナ5 公式設定画集 GZ ブレイン

世界樹の迷宮 公式設定資料集 enterbrain

世界樹の迷宮Ⅲ 公式設定画集 enterbrain

世界樹の迷宮Ⅳ 公式設定画集 enterbrain

fate/EXTRA CCC void log bloom echo 1~4

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新世界樹の迷宮 公式パーフェクトガイドブック enterbrain

新世界樹の迷宮2 公式パーフェクトガイドブック enterbrain

世界樹の迷宮Ⅲ 公式マスターズガイド enterbrain

世界樹の迷宮Ⅳ 公式マスターズガイド enterbrain

新・世界樹の迷宮1&2 公式設定資料集

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デビルサマナー葛葉ライドウ対コドクノマレビト 1~6 enterbrain

葛葉ライドウ超力兵団 超公式ふぁんぶっく enterbrain

デビルサマナー葛葉ライドウ対超力兵団 超公式完全本 enterbrain

デビルサマナー葛葉ライドウ対アドバン王 超公式完全本 enterbrain

藤田嗣治展 二冊 東京美術

ペルシア文化渡来考 岩波書店

狂気の歴史 新潮社

言霊の思想 青土社

易経 徳間書店

中国最凶の呪い 蠱毒 彩図社

易、風水、暦、養生、処世 講談社選書メチエ

世界樹の迷宮V 長き神話の果て 公式コンプリートガイド

よくわかる宗教学

よくわかる社会学

 

 



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世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜
第一話 現れた男


世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第一話 現れた男

 

無くしたものを探しに行こう。

腐っているよりかはマシな結果が出るはずだ。

 

 

青臭い草木の香りが脳内を強く刺激した。太陽と土と風の匂いがほのかに鼻腔をくすぐる。瞼が開くと同時に雲の切れ間から差し込んだ太陽の光が瞳孔に飛び込んだ。眩しさに思わず腕を差し出す。何度か瞬かせたのち、ようやく血が脳内を巡ったのか頭が冴えてきた。首を動かしてぼんやりと辺りを確認するも、ここが何処かを知ることはできなかった。

 

「……寒いな」

 

露わになっている顔面と掌の表面から冷たい風が温度を攫ってゆく。このままこうしていては体温低下で動けなくなる予感がした。まずは上半身を起こそうと手を地面につくと、雑草の湿り気ある冷たさや、砂土の乾いた暖かさが掌から伝わる。しっとりとした自然の刺激。

 

季節は春頃だろうか。周囲を眺めた。足元に広がる若葉色をした草は丘の向こうまで絨毯のように広がり、控えめに点在する花々が敷物の単調さを拒むかの如く色を添えている。方々自由に伸びた草花の絨毯に沿って、視線を地平の彼方まで送る。

 

やがて地平線に到達した視線は青空を通って、頭上へ戻ってくる。見上げると空は私を境目にして、半分蒼穹、半分曇天であった。私は、白で彩られた方へと視線を向ける。雲がいつもより近い。ならば私がいるのは平原ではなく高原か。しかしわからない。ここはどこだ。

 

考えを巡らせていると、天空を広々と覆う白い雲に切れ間が生まれ、隙間から覗いた太陽の光が地面を一部だけ照らした。陽光のスポットライトが当てられた部分に注目してやると視界の端に複雑な色合いをした複数の物体が動いたのが目に映る。それぞれ異なる色をしたそれらの動く先を見やると、森林の鮮緑に混じって、孔雀緑の切妻屋根をした石造りの家々が立ち並んでいた。あれは街だ。ならば、細々と動く点は、人か。

 

「……! 」

 

途端、飛び跳ねるように立ち上がった。意識の覚醒と重力の影響により脳内の酸素濃度が低下し立ち眩みが発生。平衡を失いそうになるが、意思の力でそれを抑え込み、背筋を伸ばして目を細めると、片手を額に添えて目に飛び込んでくる明光を遮り、遠く街の方を眺めた。

 

「――――――――――――なにも起きていない? 」

 

眉の片方をひそめた。視線を戻し、改めて周囲を見渡す。天高くには変わらぬ太陽。清澄な晴れた空には白い雲が稜線にまで伸びている。山の端から視線を手前に戻してぐるりと首を半周させ、続け様に全身を百八十度回転させて、同様に光景を眺めるも、広がっているのはどこまでも続くのどかな光景。疑問を表情に貼り付けて首をかしげる。

 

―――なぜ何の争いも発生していないのか。

 

争いがない。それは私にとって「異常」な状態である。なぜならば、私は「抑止力の守護者」と呼ばれる存在であり、人類の存亡に関わる問題が起きた際、「霊長の抑止力」という存在によって破滅を招く原因がいる現場に派遣され、そこにある一切合切を排除することで世界の破滅を防ぐ正義の味方とも言える存在だからだ。

 

即ち、私が「霊長の抑止力」によって召喚されたその時、その場所は、弾丸が飛び交い、刃が交差し、硝煙と血が舞い、命が呆気なく散ってゆく、そんな阿鼻叫喚の地獄が広がっている光景こそ「正常」である。……はずなのだが。

 

「――――――」

 

しかし今、いくらあたりを見渡そうが、戦いなく、諍いなく、争いもない。言うなれば、「何の異常もない」という平穏を意味する状態だけが、そこにはあった。困惑した私は自らの周囲にまで引き戻した目線の先を両掌に移してじっくりと眺める。続けて前腕、上腕を経て胸部、腹部、大腿から下腿、足指へと移動させると、両足間に落ちている封筒に気がついた。

 

――――――正義の味方へ

 

宛名として刻まれた言葉は、脳内を暴れ馬のごとく駆けまわり、胸をひどく高鳴らせる。動悸は心に間断を生み、真っ白になった頭と震える手は躊躇しながらも、自然に封筒の端を摘んで拾い上げていた。指先で宛名をなぞり、息を呑む。使われているインキの感触には覚えがあった。ぞくりとしたものが背筋に走る。戸惑いながら、封筒をひっくり返す。

 

――――衛宮凛

 

二度目の衝撃は裏書に刻まれた差出人の名前によって引き起こされた。瞳より飛び込んだたった三文字の名前は後頭部より頭部中央、脊髄を通って全身を駆け巡り、体に瞬間の痙攣を引き起こす。呆然としたのはどれほどか。体の表皮を舐めるようにして吹き抜けてゆく風が意識の覚醒を促したのをきっかけに、思わず呟いた。

 

「凛……、君は――――」

 

衛宮凛。衛宮性の、遠坂凛。おそらく、いや、間違いなく、そういうことなのだろう。

 

彼女の名がトリガーとなり、奥底に収納されていた記憶が引きずり出される。セピアよりも更に朧となり色味を失っていた白黒の記憶は触媒を得て結集し、凛という優れた騎手を得た記憶は駄馬から駿馬へと生まれ変わり、荒涼とした脳内を颯爽と駆け巡る。

 

刺激は長い年月の果て錆びつき磨耗した記憶が復元され、当時の感傷まで引き出してゆく。首根っこを掴んで揺さぶって無理やり思い出させられた気分だ。だがその強引さはいかにも彼女のやり方らしく、変なところに共通点を見出した私は思わず気を緩めて、口元を緩めさせる。緊張感の抜けた瞬間、私は無防備にも過去の記憶の濁流に飲み込まれていた。

 

 

聖杯戦争。それはあらゆる願いを叶える願望機、「聖杯」を巡って行われる魔術儀式。魔術師と呼ばれる存在が己らの悲願を達成すべく人為的に作り上げられた願望器は、完成の代償に7人の英雄の魂を必要とした。

 

だが人の輪廻と常識より外れた偉業覇業を行いし英雄の魂は、通常の人よりも霊質が彼ら寄りな存在である魔術師にとっても桁外れの存在だ。どれほど優秀な魔術師であっても英霊の降臨は一人一体が限界。すなわち英霊7体の召喚には7人の魔術師が必要だった。

 

しかして彼らが力を合わせて作り上げる聖杯は、ただの一度しか願望機としての機能を果たしてくれない。故に集う魔術師達はそれぞれの譲れぬ願いを叶えるため、召喚した英霊と協力して争う事となった。

 

―――、聖杯戦争の初まりである。

 

遠坂凛という少女は五度目の戦争に参加した魔術師の一人で、私は彼女に召喚された英霊の一人だった。私は彼女の従僕として、あるいは、相棒として共に戦った。聖杯を求めて戦争に参加した彼女は、しかし、己の願いのために聖杯を使おうとは考えていなかった。

 

「では聞こう。凛、君の願いはなんだ?」

「―――ないわよ」

 

願いは自らの力で叶えてこそ価値がある。他人に叶えてもらう願いに意味はない。欲しいものは自らの力で手に入れてこそ価値があると言い切った彼女は、名を体現するかのごとく、凛として強く美しかった。

 

願いは自らの手で叶えてこそという点、私は大いに共感した。私も彼女と同様、自らが抱く悲願の達成を己の手以外で成し遂げられたりしたくない。英霊は召喚者と似た性格の者が呼ばれる運命にあるというが、なるほどそう考えると、たしかに私と彼女は非常に似た考えと願いを持つ者であり―――

 

―――ただ、彼女の願いが白紙の未来に栄光を刻みたいという希望より生じたものであった点に対して、私の願いが私の辿ってきた恥辱に満ちた過去を全て白紙にしてしまいたいという絶望より生じたものであるという点だけが、決定的に違っていた。

 

 

生前、私は正義の味方になる事を目指していた。誰もが憧れる、悪を挫き、弱きを助け、どんな困難にも負けない、世界に完全な平和をもたらす、完全無欠の英雄。元々は養父の目指した理想であったものを受け継いだ私は、彼と同じように正義の味方を目指して奔走した。

 

正義の味方、という理想は、多くの人を見殺しにして生き残った私にとってとても眩しく映った。幼い頃、私は戦争に巻き込まれ、燃え盛る炎の中、助けを求める手を全て振り払い、救いを求める声も聞かぬふりをして、そうして生き延びた命がつきる直前に養父に拾い上げられ生き延びた。私の持つ原初の記憶だ。

 

だが、助けを求める意思の全てを無視して生き延びた私の命は、その時点より、私だけの命で無くなっていた。死にたく無いと願っている彼らの意思を知っていながら、死ぬたくないと懇願する彼らを見ないふりをして生き残ったという事実は、まるでそれ自体が彼らの怨嗟であるか様に罪悪感となって私の心にへばりつき、琴線を掻き鳴らし、心を乱す。

 

何故お前だけ生きている。何故誰も彼も見捨てたお前だけが一人のうのうと生きている。何故お前だけが。何故私たちでは駄目だったのか。何故。何故。何故。何故――――――

 

人の命は尊いという。人の命は重いという。ならば、大勢の人の命を糧として生き延びてしまった私の命はどれほどの価値を持てば、失われた彼らの重みと等しく釣り合ってくれると言うのか。己の罪悪感から生じる重圧は、逃げても、どこまでも追いかけてくる。

 

そんなおり聞かされた養父の純粋で綺麗な願いは、どこまでも清浄で、美しい理想だった。争いのない世界を作ると言う願いは、救済を望む他者を全て拾い上げると言う理想は、他者の命を背負いこんだ私にとって、これ以上ないほど眩かった。

 

私の背中にのしかかる人の命の重さ。自分が見捨てた分と同じかそれ以上の命を拾い上げれば、自分一人が生き残った理由になるかもしれない。そうして養父の独白は私の希望となり、正義の味方という道に進むことを決意させた。

 

そう――、正義の味方という理想は、私にとって、とても都合のいい、贖罪だったのだ。

 

やがて歳を経て身長が伸びて、違った世界の風景を見られるようになると、私はがむしゃらに戦場を渡り歩き、紛争終結のため力を尽くすようになっていた。初めは、ただ、個人同士の争いを止めるだけだったその作業は、いつしか規模が広がり、ついには国家や民族間の紛争に介入するほどのものになってゆく。

 

憎悪し合う両者の間に発生した争いを止めるためには、あるいは、止めた後に争いが起こらぬよう望むのならば、禍根が残らないようにどちらか一方の一切合切を無に帰すしかない。私はやがて、多くを助けるために出る犠牲を許容し始めた。

 

見捨てられた誰かのために、救いの手を差し出す。一方で見捨てられた両者のうち、より多くを助けるため、少ない方を犠牲に選定し、処分する。作業の果てに得られるものは、あらたな罪科と胸糞の悪さだけ。だが終わらない。今更ここで終わりにできようはずもない。

 

私の背中を追いかけて来る罪悪感は、坂道を転がる雪玉のごとく日に日に速度を増して背中に追いかけて来る。その雪玉は私の進んできた道に打ち捨てられた犠牲者を内部に取り込みながら、文字通り雪だるま式に膨れ上がってゆく。一度でも足を止めれば、速度を緩めれば、罪悪感は私を圧殺するだろう。だから進む。このいつ終わるともしれない偽善と矛盾に満ちた作業の果てに、いつか正義の味方になれる日が来ると信じて。

 

そうして戦場を渡り歩いていた私は、やがて自らのみの力で救えぬ人々を助けるため、私は抑止力に魂を売り渡した。抑止力に魂を取り込まれた者は、死後、魂は現世の輪廻から外され、永久に人の滅びを阻止するための力、すなわち霊長の守護者と成り果てる代わりに、願いを叶えてくれる。

 

永遠に滅びを阻止し続ける。それすなわち誰かを永久に助け続ける正義の味方と同義ではないだろうかと考えた私は、死にゆく運命にあった彼らの救済を望み、己の魂を売り渡した。

 

やがて死に、霊長の守護者、すなわち英霊と成り果てた私は、その死後、望み通り、人々を滅びから救う存在となり、そして――

 

地獄を見た。

 

争いはいつの世でも発生した。争いは憎悪と狂気を呼び、悪意に満ちた争いを終わらせるための手段が生まれた。争いを止めるための手段はいつも劇的かつ短絡的で、しかし効果のあるものだった。私の役目は、争いにより発生する悪意と手段がやがて伝播、拡大して人の世を終わらせぬように、その場にある全てを消滅させて事態の収拾を図ることだった。

 

その場にある全てとは文字通り、全ての悪意を発する者と手段とそれらに関わった人間のことだ。関わった、という人間の中には当然、手段の犠牲者となった人間もいる。理不尽にまきこまれ、訳も分からぬまま傷つけられる者たち。私が真に救いたかった人達。

 

だがそうして犠牲となる人達を、霊長の抑止力は救おうとしない。霊長の守護者の判断基準は人類が滅亡するか否かのみだ。抑止力はあくまでも人類の滅亡を回避するためだけに用意された機能で、その手先たる守護者はその判断に従い滅亡の可能性を綺麗さっぱり無かったことにするだけの掃除屋にすぎなかった。

 

―――ああ、なるほど。だから私が選ばれたのか

 

落胆と同時にひどく納得した。期待が破れて落胆する最中も続く煉獄。人が人である限り争いは続く。終わらぬ煉獄。犠牲を強いる作業。強要される殺戮。磨耗してゆく精神。しかし意思を奪われ体の自由が効かない私にできることは、せいぜい己自身を省みることくらいだった。

 

長い時間を費やした自省の果て、やがて私は自身の過ちに気づく。

 

万人に共通する普遍的で絶対の正義などない。誰もが譲れぬ正義を持っていて、自己の正義を貫くために、争いが起きる。世界平和や万人にとっての正義の味方とは、決してこの世に存在しないからこそ、多くの人間が惹きつけられる理想なのだ。

 

その時、決して叶わない理想を追い求めた私の生涯は、砂漠でオアシスの幻影を追いかけるが如く無意味なものであったと知る。しかもその理想は自らの裡より湧き出たものでなく、自らの罪の減刑を求めて他人より借り受けた紛い物の願いにすぎないのだ。

 

結局、私のやってきたことは、私が平和を乱すものと断定し切り捨ててきた彼らのやっていた、他人の綺麗事を隠れ蓑に使いながら己の独善を押し付ける行為と変わらない、砂上の楼閣を積み上げるよりなお無意味な自慰行為にすぎなかった。偽善どころか醜悪。ああ、耐えられない。愚かだ。こんな無様で醜悪な結果の果て生まれた己など、一秒だって見たくない。

 

己の浅ましさが嫌になる。他人を醜く思う己が嫌になる。醜いそんな彼らを後生大事にして守ろうと足掻いてきた事実が、磨耗しきっていた精神をいっそう磨り減らす。自らの信じる正義のために果てなく争いと殺し合いを続ける人類の醜さと、そんな醜い人間たちまで必死になって守ろうとした自身の愚かさに絶望して、私は自らの存在の消滅を切望した。

 

自らの存在をなかったことにして、私が過去に起こした全てを消滅させる。それこそが多くの命を踏み台にして拾い上げられた命を、空想に過ぎないものを追い求めるというひどく無意味な生涯として使い込んだ私に残された、ただ一つの真なる贖罪であると信じて。

 

 

……私にとって存在の消滅とはすなわち、抑止の輪よりの離脱を意味する。だが、過去現在未来にまで手を伸ばして人類の存続を管理する霊長の抑止力という機能は、歴史の整合性を何よりも重んじ、抑止の輪より人類の代表かつ守護者たる英霊がいなくなるという何よりの矛盾を認めない。

 

英霊本人がどれだけ願おうと、その消滅の望みは決して聞き届けられない。

 

続く煉獄の中で私は考え、そして思いつく。彼らが矛盾を嫌うのであれば、輪廻より外れた私が、輪廻の中にいる私、すなわち英霊となる前の私を殺すという矛盾に満ちた行動を起こせば、あるいは解放されるかもしれないと。思想のみによって導き出された結論は穴だらけだったが、その時より私は、正義の味方になる以前の自分をこの手で殺す事を切望する様になった。

 

やがて世界の走狗として扱われるさなか、聖杯戦争において遠坂凛という少女に召喚された私の目の前には、果たして生前の私である衛宮士郎が存在した。僥倖に身が震える思い、というものを味わった。やっと会えた。やっと殺せる。裡より涌き出でる歓喜と憎悪という正負の念は乗算され、脳髄の中身を負の感情のみで満たして行く。

 

衛宮士郎は自身の運のなさ故に聖杯戦争へと巻き込まれ、正義の味方を目指すが故に殺し合いを当然とする聖杯戦争を見過ごせず参加を決意し、自らの意思で渦中に飛び込んだ。これで奴を殺す正当なる理由ができた。参加者となった奴はすなわち敵であり、聖杯戦争が進むにつれて正当な理由に基づく殺害の機会はやってくる。

 

そのはずだった。

 

誤算だったのは、自らの召喚者である遠坂凛が衛宮士郎に好意を抱いた事だ。何が決め手になったのかはわからない。生来の高潔さと面倒見の良さが故に未熟さな男を放っておけなかったのか、魔術師という秘密を共有する本性を隠す必要のない年相応の異性である事が理由になったのかもわからない。ともあれ遠坂凛は衛宮士郎を愛するようになっていた。

 

男を愛する女は、当然、彼と敵対することをよしとしなかった。ならば私が彼女の従僕であるかぎり、私は私の目的を果たすことが叶わない。故に私は、衛宮士郎という男を自らの手で殺すという己の悲願を果たすため、彼女を裏切った。彼女を利用し、目的達成のために彼女の敵と手を組み、彼女の身柄を利用して衛宮士郎殺害の場を整え、そして衛宮士郎に決闘を挑んだ。

 

戦いは終始私の優位に進んだ。そも、衛宮士郎という存在の終着である私に、過去の未熟な私が勝てる要素などありはしない。真正面からぶつかり合えば、即座に殺傷せしめることが可能だった。しかしただ殺すのでは意味がない。

 

―――一息に殺しては飽き足らぬ、というだけではない。

 

長きに続く永劫の果て、何故私がそうなったのか、何故貴様がそうなるのかを知らしめて、私と貴様の違いを、俺とお前の距離を、世界が輪廻の内外を混同するほど同一の存在であると誤認せしめるまでに縮めてから殺さねば、消滅は望めないからだ。

 

―――だが、それが大半だ。あっさり殺したのでは、幾年月もの間、焦がれ、耐え、懊悩し、悔やみ、妬み、憎しみ、溜め込み続けた感情を晴らせない。これが八つ当たりだということはよく知っている。貴様が私である限り、こんなものはどこまでいっても自傷だ。そして自傷など所詮、自慰行為以外のなんでもないだ。だがそれでいい。貴様にも同じ苦しみを味あわせ、魂が擦り切れるほど後悔させ、自ら死を懇願する程に苦悩させてやらねば気がすまぬ。死ね。死ね。死んでしまえ。お前が、俺がこの世に生きている価値などない。

 

私は奴に俺の記憶を見せつけた。貴様では救えぬ存在がいる。貴様には救えぬ存在がいる。貴様だから救えぬ存在がいる。貴様が己すら救えない存在で、自己犠牲に基づく他人の救済という代償行為と偽善に生きる意味を見つける愚昧である限り、たとえ貴様が手を差し伸べたところで救われぬ者が大勢いる。他人による救いなど真の救いではない。

 

その事実に奴が気付き、気持ちが折れた瞬間こそ、長きに渡る鬱憤と贖罪を果たす時なのだ。

 

一合、剣を叩きつけた。記憶が流れ込み、奴の顔が痛苦に染まった。

一合、剣を叩きつけた。奴の剣に皴が入り、受けきれぬ衝撃が指をあらぬ方向に曲げる。

一合、剣を叩きつけた。奴の剣は砕け、崩れた体を思い切り蹴り飛ばした。

 

飛んでいったやつの体は瓦礫にぶつかり、着用している衣服が赤黒く染まった。内臓のどこかが破裂したのか、吐瀉物には喀血とも吐血とも思える血反吐が混じっている。もはや奴の体は死に体で、息も絶え絶えだ。

 

一合、剣を叩きつける。それでも奴は、新たに剣を作り出し、俺と、俺の出した結論を否定すべく、抗い続ける。やがて奴は積極的に私の記憶を読み取り、自らの血肉として受け入れ始めた。痛苦にまみれた記憶だとしても、その経験を糧として利用し受け取らねば、目の前の未来の自分に勝てぬと判断したのだろう。

 

私の絶望を味わい、己の目指す道の無意味さを知り、己の願いの歪みを理解しただろうにもかかわらず生に執着する様は、何とも無様で醜く愚かしく見える。過去の己が見せる醜悪は、未来の同一存在である私にとって汚点以外のなにものでもなかった。よかろう。己の過ちと歪みを知りながら、それでも生にしがみつきたいというなら、望み通りにしてやる。

 

私は同化の速度を速めるべく、苛烈に攻撃を早め、一合にのせる思いの質を高める。受けるやつの顔がより苦痛に歪んだ。私と奴の距離が縮まり、予想通りに、私と奴との境界が薄れてゆく。私と奴の距離は確実に近づいている。しかし私の絶望を受け止める奴は、予想外にも折れることなく、抗い続ける。

 

私は困惑した。なぜ折れぬ。なぜ立ち上がる。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ―――

 

疑問に満ちる頭と身体は、しかし冷静に奴の攻撃を軽く捌く。遠い未来の可能性の集大成であるこの私に対して、有限の、それもごく僅かな時間の未熟な経験しか持たない過去の私の刃が届くことは無い。そんなこと、戦っている奴本人が一番理解している筈だ。いくら続けたところで貴様に待ち受けるのは死という絶望のみ。なのになぜ貴様はそうまでして折れないのか。

 

過去の私と目が合う。血に霞む視界はもはやまともに私の姿を捉えてはいない。奴の眼中にもはや私の姿はなかった。奴のどこまでも愚直な視線が見つめているのは、私の背後よりさらに先。奴は無限に遠い未来の果て、あるいはやがて近くの将来、やってくるもの絶望を真っ直ぐに見据えて、それでも必死に抗っていた。私は起源を同一とした二人の人間が、ここへきて完全に別の存在へと成り変わっていると気づく。

 

それは未熟で経験が無い故の選択だったのだろう。だが私は奴が絶望を知ってでもなお愚直にその未来を選択する判断を尊いと思ってしまった。奴は私の抱えた絶望を一身に受け、だが尚も折れず刃に想いを乗せて、未来に絶望なんてしてやるかと抗い吠える。

 

―――それは

 

過去の私は愚直だった。

過去の私は向こう見ずで、無鉄砲で、短慮かつ、知恵のない子供だった。

過去の私は現実を知らないが故に理想に燃え、理想に裏切られるという未来/結末を知っても願いを捨てず、偽善と知って尚も正義の味方という理想を諦めていなかった。

 

―――それは、おそらく私が最も求めていた希望/救い/同意だった。

 

永遠という名の檻に囚われ、絶望を抱いた私が忘れてしまった、やがてくる死や理不尽に対して限りない命の必死に燃やして抗うという行為に、私は思わず見とれ、動きを止めた。それはあまりに眩く、尊い幻想だった。生じた隙を逃さず奴の剣は私を貫き、奴は理想に絶望した未来の己を超えてゆく。そうして私は奴に敗北した。

 

敗北という結果は長きに渡り抱き続けた私の願いが叶わなくなったことを意味するものであったが、私にとってどうでも良い事になっていた。私が真に求めていたのは、獄からの抜け出すため手段でなく、偽りに満ちた己と、その生涯を肯定されること。

 

そう。私は誰かに認められたかったのだ。否、「誰か」などではない。他でもない自分自身に認めて欲しかったのだ。認めてやりたかったのだ。

 

私の生涯は間違っていなかった。理想を抱き、理想に溺れ、理想に絶望したけれど、尊いと思った理想を追って駆け抜けた私の生涯は決して間違いなどではなかった。そう言い放った過去の衛宮士郎の言葉に、未来のエミヤシロウは救われた。なるほど、自分を救えるのは自分のみであるということを嫌という程思い知らされた瞬間だった。

 

 

その後、衛宮士郎の相棒により遠坂凛は敵手中より救い出され、紆余曲折ののち、私は聖杯を手に入れようとする敵との戦闘により深く傷ついた。這々の体で逃げのびた私は、陰ながら彼女が目的を達成するためのサポートし、やがて存在のために力までを使い果たす。そして消えゆこうとする私の前に彼女は現れた。余りにもぼろぼろである姿に思わず苦笑する。

 

赤く輝く空の下、彼女は私に契約の続行を申し出た。自らを裏切り、傷つけ、敵に売り払い、そして、愛する男の殺害を目論んだ私を、しかして彼女は赦そうというのだ。同情か、憐憫か。そうだとしても優しすぎる彼女の提案は、とても魅力的ではあったけれど、彼女を裏切った私にその権利はないだろうし、何よりもう残ってまで叶えたい望みがこの身にはない。

 

端的にそれを告げると、彼女は何かを言おうとして、言葉を詰まらせた。赤くなった目からは透明な雫が溢れかけている。続きを聞くことはできなかったが、この身を案じた想いが言外に伝わってくる。

 

―――ならばあなたは、一体、いつになったら救われるのか。

 

ああ、凛。君はどこまでお人好しなのか。

 

参った。未練などなくなったが、私の救いを案じて君が悲しむというのならば、それが未練となってしまう。なにより、私が彼女の重荷になる事だけは避けたかった。

 

「私をよろしく頼む。知っての通り頼りのない奴だからな。君が支えてやってくれ」

 

私を救ってくれ、彼が私にならなければ、私など生まれず、私はこの永遠の牢獄から解き放たれるかもしれない。少女は涙をこらえて返答する。私がいる限り、あいつはあんたみたいにならない。あいつが自分を好きになれるよう頑張るから、理想に絶望する衛宮士郎なんて生まれない。少女の誓いに、私の気持ちは救われ、自然と笑みを浮かべて答えていた。

 

「答えは得た。大丈夫だよ、遠坂。俺もこれから頑張って行くから」

 

消え去る直前に夕暮れの最中交わしたと約束は、今なお鮮烈に、心と魂に刻まれている。私

英霊エミヤシロウはそして、心からの満足を得て世界から姿を消し、私の聖杯戦争は幕を閉じたのだ。

 

 

遠坂凛の召喚した英霊、すなわち、私、エミヤシロウへ向けて書かれた手紙を手にして、濁流の如く押し寄せた記憶に身体を弛緩させ無防備な隙を晒していた私は、記憶の終焉を切っ掛けに意識を取り戻すと、手にした封筒の封を破りにかかった。だが、開かない。

 

封筒の上部に鉄パイプ程度なら捻じ切れる力を籠めてみるが、切れ目ができるどころか、皺すら生まれない。なんだこの堅牢さは。まるで鋼鉄のようだ。疑問に首を傾げて、ジロジロと全体を太陽の光で透かせないかと空に向けて、そして気がついた。

 

防護の魔術がかかっている―――

 

直感は瞬時に肉体に存在する半霊的な擬似神経「魔術回路」を起動させた。魔術とは、魔力と魔術回路により世界に現象を引き起こす術理だ。励起した魔術回路の中を魔力という名の燃料が駆け巡り、魔術「解析」は、私に封筒にかけられた魔術の正体を知らしめる。

 

「これは……」

 

手紙にはかつて遠坂凛の家にかけられていたものと同様の防護魔術が施術されていた。解呪の呪文を唱えると、パキンという小気味の良い音と共に、封筒の上蓋が自然に開く。この解除が使えるのは彼女の家族と従僕であった私くらい。ああ、やはり私宛か、と思う。

 

開いた口を大きく広げて中身を取り出すと、数枚の白紙とフォトペーパーが現れた。かつては紙片の上にインクが踊り、意味のある文字と絵を残していたのだろうが、今やすっかり蒸発してしまっており、嫌でも年月の経過を感じさせた。淡い笑いが漏れる。

 

封筒と紙に保護の魔術をかけておいて、肝心の中のインクにだけうっかり対象から外す辺り、なんとも彼女らしい。口元から、嘲笑に似た笑い声に漏れる。苦笑いだ。そして確信する。いや、これは間違いなく、彼女からの手紙に違いない。

 

後世に情報を残すという意義を失っていた存在を前に、しかし慌てることなく、左手に掴んだ数枚の紙片に向けて、もう一度「解析」を使用する。手にした数枚の紙片に魔力が疾走する。紙は呼応して繊維が伸ばされ、ピンと背筋を伸ばした。

 

私の「解析」魔術は対象とした物体情報を過去の物まで読み取ることを可能とする。この程度の障害など、無いに等しいものだ。だから何も問題はない。

 

構成材質―――解明。

消失部分―――投影により補完可能

補完を開始―――――――

 

「――あ」

 

握っている紙は十秒ほど姿勢を正したまま魔力の奔流に耐えてはためいていたが、ついには力尽きてハラハラと粉雪のように舞い散り、風の中へと消えた。長い間、撚られた状態で固定され続けていた繊維は、魔力という異物が体を走り回る衝撃に耐えきれなかったのだ。かつての主人からの手紙が迎えた予想外の結末に、思わず間抜けな声が漏れた。

 

手中より崩れて風の中に消えてゆく粉粒を残念と思いながら一瞥すると、しかしすぐに気を取り直し、読み取った情報を元に、魔術「投影」を使用する。「投影」とはここにない物品を作り出す魔術だ。それは解析の魔術と組み合わせることにより、私が読み取ったモノの投影を可能としてくれる。

 

あと少し解析の時間があれば、手紙に込められた当人の気持ちを読み取り、読まずとも内容を把握することができたが、きっと時間があっても私はそれをしなかっただろう。その行為は手紙を書いた人に対して失礼な行為であるし、あまりに無粋だ。

 

空っぽの右掌に意識を集中すると、投影の魔術は当たり前のように成功し、手中に数枚の紙と一枚の写真が現れる。先ほどまでの紙束を十全な状態で再現したのだ。そうして最前列に現れた写真を手に取り、

 

「――――――」

 

言葉を失う。自らの魔術により再現された紙切れへと刻まれていた情報は、視界を通して体の動きの全てを支配した。息を大きく呑む。胸が膨らんだ。刺激を受けた臓器が熱を持つ。

 

内臓が感じた熱は脊髄を伝わると、脳の芯と前頭から生じた電撃と混ざり、そして回帰した電気信号は脊髄と神経を通して全身へと出戻り、体を震わせた。体を震わせる衝撃の名前は、歓喜であり、憧憬であり、羨望であり、喜悦であり、驚喜であり、感嘆であり、賞賛であり、そして、敬意であった。極まった感情は遅れて伝わってきた命令を肺と喉元に伝えて、馬鹿みたいに開閉と呼吸を繰り返していた唇から、万感の思いを込めた一言を漏らさせた。

 

「――――――、凛」

 

無意識のうちに写真の表面を撫で、その名を呼ぶ。写真の中では彼女が満面の笑みで笑っていた。皺の深くなった顔と傷だらけの手で隣に立つ伴侶を愛おしそうに支えながら、片手でピースサインを前に差し出している。彼女の持つ気品は年を経てなおも変わらない。

 

いやむしろ、若さも、肌の潤いも、烏の濡羽色の如き髪の色も艶やかさも失った彼女は、しかし、若い頃よりもずっと美しく見えた。それは得たもの失ったものを己の裡で受け止め、酸甘辛苦を味わいながらも未来に絶望せず突き進んだ人間のみが作り出すことの出来る魅力のおかげなのだろう。彼女は老いてますます、名の如く、凛としていて美しかった。

 

そしてそんな彼女隣で、老齢の男性―――衛宮士郎は同じように皺の深くなった、そして枯れ木のように細い身体を凛に預けながら、困った、しかしまんざらでもない顔を浮かべて、伴侶がするように片手でピースサインを作っていた。彼は瀕死の体で、否、死体と断じて構わぬような顔色をしていた。死体の段階を通り越して、まるで屍蝋だ。

 

彼の生涯がまともと言い難い、苦難に満ちた道のりであっただろう事が、顔や肌蹴た胸元に急所を避けるようにして刻み付けられた消えぬ刀傷や弾痕、そして袖の先から出た腕に伸びる火傷跡や不自然に盛り上がった状態で再生した皮膚などが無言に告げていた。

 

また、傷の後遺症なのだろう、前に差し出そうとする手が、しかし身体中に繋がった管に邪魔されて上がりきっていない事と、サインを作る親指と薬指、小指が曲がりきっていない事から、体がもうまともに動かない状態だろう様子も窺える。

 

彼が体に不自由を抱えている予想が真実であろうことは、男の隣に笑みを浮かべた、愛する女がいて、彼女に半身を抱きかかえられているのに、抱き寄せるどころか、腰もあげず、さらには手を伸ばすそぶりすら見せていないという不自然が、何よりも雄弁に語っている。

 

これが生来の愚鈍さによる醜態であったならば、どれだけ良かっただろうか。

 

しかしそうして苛烈な生涯を送り癒えぬ傷を体の節々に負って不自由を抱えているだろう老いた男は、彼と同じくらい老いた、愛する女の隣で幸せなそうな笑顔を浮かべて笑っていた。男の笑みは、己の信念を成し遂げた者のみが見せることのできる満足を含んでいて、艱難辛苦に満ちていただろう生涯の道のりの過程を一切後悔していないだろう事が、当然、理解できた。わからいでか。なにせ奴と私は始まりを同じとするのだ。

 

彼の浮かべた満足の表情を見て、私は悟る。

 

―――ああ、彼女は約束を果たしたのだ、と。

 

写真の向こうにいる衛宮士郎は英霊エミヤになどならなかったと確信した。彼の身体中に残る急所に近く残る傷跡や体の不自由さは、彼の人生が苦難の道のりであった事を示すと共に、それだけの傷を負っても死なせまいとした誰かが常に傍にいた事を告げている。

 

その誰かとは、凛と考えて間違いなかろう。彼女は、おそらく、未来の己の無様を見てしかし尚も正義の味方を目指し馬鹿と無茶を繰り返す衛宮士郎の傍で、彼が彼以上の力を求めて世界と契約などしないよう見守り、奮闘し続けたのだ。

 

強気で、意地っ張りで、無鉄砲で、それでいて情の深い凛は、きっと愛する男を世界なんかに取られてたまるかと意地を張り続けた。だからこそ、馬鹿で、無鉄砲で、無茶をやる、回復魔術もまともに使用できない未熟者はそれでも生き残り、死が枕元で待機している様な状態であっても、己を愛してくれた女と並んで、満足の笑みを浮かべていられるのだ。

 

男は己の矜持を守り抜くために死地への突撃を繰り返し、女は己の忠告を無視して破滅へと一直線な馬鹿の手綱を絶対に離すものかと握りしめ、彼と共に地獄を踏破し尽くした。言葉にするとたったそれだけに集約する二人の生涯の、なんと重く、尊いことか。私は知らずのうちに彼女と彼の生涯を想って黙祷を捧げていた。

 

二人への祈りにより暖かさが全身に満ちてゆき、裡に抑えきれなくなった感情は口元に笑みを作った。大きく息を吸い込んで、吐き出す。呼吸ごとに、心の裡にへばりついていた負の感情が余さずこそぎ落とされて行く、体が生まれ変わるかの如き錯覚を覚える。

 

今の私なら、あらゆる困難を打ち砕いてゆけそうだ。

 

―――ああ凛。君に頼んで本当に良かった。

 

もう一度、目を閉じて、胸を大きく開き、深く呼吸を繰り返す。目の前に広く続く草原がその身を揺らしながら運んでくる風は、どこまでも清涼だった。風が運んでくる青臭さを含む香りは、肺腑の中に詰まったモノを新鮮なものへと取り替える。気持ちと同じよう上向きに瞼を閉じて顔を空に向けると、自然と口角も上がった。たまにはこうして、しばしの間、万感の思いを胸に浸らせていても罰は当たるまい。否、誰にも文句など言わせるものか。

 

 

しばらくして、雲間からのぞいた太陽の光が閉じた瞼を柔らかく刺激した。陽光の生み出す熱は純な感情で満たされた水へ投ぜられた小石となり、脳裏の表面に波紋を広げて意識を現実に引き戻す。冲融の気分を惜しみながら、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、写真を封筒の後ろに回すと、投影により再現された手紙を前へと持ってくる。

 

投影魔術は、手紙が劣化する前の状態を完全に再現していた。真新しい質感のする三つ折りに畳まれた紙の表面を軽く擦り、折れた状態から解放して文字を露わにすると、現れた見覚えのある字をひと撫でして、インクの乗った紙へと目を落とす。

 

「正義の味方へ」

 

封筒のおもて面にも書かれていた表題に、なんと皮肉な文言だろうか、と苦笑する。宛名を見た際にも思ったが、正義の味方になり損ねた私に対してこの文言を使う辺り、多少恨みの念でも籠められているのだろうか、と邪推する。まぁ、それだけのことはしてしまったし、いかにも強気な彼女らしい仕草かもしれん、と妙な納得をして、手紙の続きに目を通した。

 

「正義の味方へ。

 

堅っ苦しい書き方は性に合わないから、口頭形式で書かせてもらうわ。ですます調で書くよりも、この方がきっと私らしさが伝わると思うから。いいわね、アーチャー。

 

貴方がこの手紙を貴方が読んでいる頃、私はもうこの世にいないはずよ。色々と伝えないといけないことはあるけど、まず一つ、とびきりのニュースを教えてあげる。

 

私、貴方との約束を果たしたわよ。衛宮士郎は世界なんてものと契約しないまま、正義の味方として生き抜いて、幸せだって言って、笑って逝ったわ。まるで寝てるみたいに穏やかに、ほんとに死んだのかって思っちゃうほど静かに。

 

全く、勝手よね。好きに生きて、一人でさっさと逝っちゃうんだから。まぁでも仕方ないか。惚れた弱みってやつね。無茶やるあいつの伴侶として、やんなるくらい苦労をさせられたわけだけど、士郎が愛し続けてくれたから、苦労がチャラになるくらい幸せだったわ。

 

アーチャー。衛宮士郎と遠坂凛、改め、衛宮凛は、聖杯戦争で貴方と出会えたおかげで、貴方が私のサーヴァントとして戦ってくれたおかげで、貴方が士郎と戦ってくれたおかげで、貴方が私を守ってくれたおかげで、幸せに暮らすことができました。ありがとう」

 

ありがとう。聖杯戦争に呼び出されて以後、その一言を最後に聞いたのはいつだっただろうか。言葉は心に沁み入り、胸に暖かさをもたらした。嬉しさと同時にむず痒くもなる。心持ちを誤魔化すように、時間の経過は私と同一の彼の性質を変えはしなかったけれど、彼女の素直でない性質を和らげはしたようだ、と無理やり皮肉気に苦笑する。だが苦笑のため右片方だけを歪めた唇は、すぐさま両端を上側に持っていこうとするものだから、まるで痙攣を起こしているような有様を面に作っていた。なんとも無様なものである。

 

「そしてアーチャー。ここからが本題よ。まずは貴方が置かれている状況を正しく理解してもらうわ。正直、どれも嘘くさいと聞こえるかもしれないけれど、これから書くことはどれも真実なの。信じてもらわないと話が進まないから、どれだけ疑わしくても、まず提示された情報はすべて正しい、と信じてちょうだい」

 

書き記している彼女自身、かつては相当信じ難かったのだろうことが文面から見て取れる。優秀な魔術師である彼女がこうまでいうのだから、これより先に記された内容は、よほど現実離れしているものなのだろう。では乱れた襟元を正して拝見させてもらうとしよう。

 

「まず貴方が召喚されたのは、私達の出会った時代から数千年未来の世界よ。そしてあなたの足元に広がる大地は、世界樹という巨大な植物の上に人類が造り上げたもの。大地の上では、私たちが「真人類」と呼称した、魔力も魔術回路もなしで世界に働きかけて現象を引き起こすことを可能とする人類が繁栄しているはずよ」

 

手紙から目線を切って、空を仰ぐ。数千年先の未来。世界樹。人造大地。真人類。魔力も魔術回路もなしに現象を引き起こす人間。いきなり現れた力ある言霊の群れに、驚かぬとの決心はあえなく霧散する。額に片手をやると、重苦しいため息が漏れた。なるほど、彼女が念を押すはずだ。荒唐無稽というか、与太話というか、草双紙というか、寝物語というか、とにかく現実から乖離した単語の群れは、たとえそれが真実であるとしても、平仄の合わない小説の出来事かと思わせるに十分な力を持っていた。目元を揉みほぐして、再び目を落とす。

 

「―――以上の経緯で私たちに取って代わって真人類が霊長となった世界では、抑止力は真人類対応のものへと刷新されて、同時に英霊の座も新人類の英雄達は放棄されて、真人類の英雄達が身を寄せる場所となる。

 

もちろん新人類と真人類の抑止力が重なる瞬間もあるだろうけれど、とにかくこの瞬間を狙って、アーチャー、すなわちエミヤシロウという新人類の英霊を抑止の輪の拘束から隔離しておけば、その後あなたは解放されて自由になれるはず。具体的には……」

 

非現実と思える内容が続く中、様々な力ある言葉を押し退けて唐突に現れた「抑止の輪からの解放」という単語は、それまでとは別種の衝撃を生み、私の脳内をかき乱した。それは私が過去の己を殺してでも達成したいと望んでいてた願い。一瞬の呆然の後、慌てて紙面をめくって、詳しい説明が書かれている部分を探し出して目を通す。が。

 

―――……よくわからん

 

同じ魔術師同士ではあるものの、畑違いである彼女の説明はあまりに専門用語が偏っていて、半分以上の単語が私には正確に理解できなかった。専門的な用語は、知る人からすれば事象をピタリと言い表す便利なものかもしれないが、何も知らぬ側からすれば、解読不能の古代文字となんら変わらない。ともあれ、文句を言っても変わらない文面を睨んで認識の齟齬にけちをつけても始まらない。私は考古学者になった気分で、何とか単語と前後の文脈からニュアンスを読み取ると、己の理解の及ぶ範囲で知る言葉に当てはめて、私なりに理解を試みることとする。

 

まず、彼女曰く、霊長の抑止力とは文字通り、「霊長」のための抑止力であり、人類の存続のためだけに存在している力ではないらしい。そしてこの抑止力というものが持つ力が代替わりを起こすことは、最古の英雄と呼ばれる存在が証明していると彼女は続ける。

 

ギルガメッシュという英霊が神と人の世を分けたことにより彼は「最古の英雄王」と呼ばれるようになった。彼が最古となった時点から始まった「人という霊長」の歴史をβとし、それ以前にあった歴史をαとしたとき、我々が霊長の抑止力の力と呼ぶ英霊達は、βに当てはまる人類種とそれに関する時間軸を守るに過ぎない存在であると彼女はいう。

 

それ以前のαには、αを守護の対象とする霊長の抑止力の力や英霊が存在し、しかし、霊的に優れた「現行人類」が現れたことにより、霊長の抑止力は守護対象をαからβへと変え、αの抑止力の力、すなわち英霊達は消滅していったとの事。

 

αの英霊達と座が廃棄されてβに移り変わったからこそ、現存する人類の中で起源的存在として知られているアウストラロピテクスのルーシーが英霊の最古と呼称されず、召喚もできない理由であり、ギルガメッシュが人類最古の英霊と呼ばれる理由なのだ。

 

ならば、やがていつかは同様に、世が「真人類にとっての最古の英雄」によって新人類と真人類の歴史が分けられた時、我々の歴史が過去になり真人類の歴史=γが始まり、その真人類始まりの英雄が、最古の英雄として真人類の英霊の座に登録される日が来るはずだ。

 

その際は、先と同様に、βとγも歴史のどこかの時点で区切られ、βの英霊たちが廃棄され、座に登録されている英霊から新人類βのものから真人類γのものに刷新されるに違いない。

 

なら、我々新人類のシステムが消え去る瞬間、英霊エミヤの魂と情報を英霊の座とは別の場所、できる事ならこの世のどこかの場所に隔離し、真人類γの管轄になるまで存在の有無を誤魔化すことが出来れば、英霊エミヤを新人類の霊長の抑止力というシステムに捕らわれた状態から完全に解放する事が可能なはず。それが彼女の考えた理屈だった。

 

なんともぶっ飛んだ発想と滅茶苦茶な論理飛躍である。だが、こうして私が何の縛りも受けていない状態で存在している事が、彼女の出した結論の正しさを証明していた。そうして自らが抑止の輪より解放された自由の身である事を知った時、驚愕の連続により心中を駆け回っていた困惑は謀叛を起こし、情報の反乱を受け止めきれぬ脳は抵抗を放棄した。

 

 

衝撃の事実判明による茫然自失の状態に陥ってからどれほどが経過しただろう。ぼうっと天を眺めていた私は、体の熱を奪い去ろうとする涼風の刺激を受けてようやく再起動を果たし、残った手紙の部分に目を落とした。

 

以後の部分には、彼女が手段を実行に移す経緯と、案を実行する際心中に生じた己の心情が吐露されていた。英霊エミヤを救うためには、己の伴侶の身を英霊の魂を収める殻として改良し、英霊の座を観測するための装置として我が身を作り変える必要がある。加えて、自らの案は人類の滅亡を前提としており、それを是とするものだ。

 

それは自らの伴侶の矜持と私の誇りを汚しかねないものであり、しかし重々承知の上、それでも彼女は魔術師として思いついた理論を試したい性と、なにより己が彼を見捨てなかったという自己満足を得るために、英霊エミヤを英霊の座から解放する事を決め、実行した。

 

そこから先の文章には、己の業の深さと身勝手を醜いと思う心情がつらつらと綴られていた。なんとも彼女らしくない弱気と自責と激情の羅列は筆圧が乱れた状態で記されており、懊悩し、憂慮し、苦心惨憺した結果、告解や懺悔するかの如き精神で文章を筆記していたただろうことが一目で読み取れた。彼女の心情が書き殴られた文字の集合は、荒唐無稽とも思える内容が真実であると心から信じることができる。そして。

 

「私が思う救済の形を貴方に押し付けてしまってごめんなさい。それでも私は誰かの為に戦い続けた貴方には、幸せになってもらいたかったの。勝手だけれど、どうか赦して頂戴」

 

歪んだ文字は確信と共に混濁した心情をさらにかき乱す要素となった。機能を果たすことを放棄して久しい涙腺が再稼働を果たし、緩み、一雫が頬を伝って紙面の上に落ちた。滲んだ文字が新たに垂れ落ちる雫を受けて姿をボヤけさせる。

 

目の周辺で表面張力に負けた水が頬に数条の滝をつくり、顎下より垂れて手紙の染みをつくり、紙片上に生まれた湖は範囲を広げてゆく。そのうち文字は体裁を保つ事をやめ、インクは全て紙片の水に溶け出して、紙の上に混沌としたブルーブラックのマーブル模様を作ってゆく。

 

いけない、このまま文字が滲んで読めなくなってしまう。水の流れ落ちるのを止めるか、拭うか、いや、それ以前の対応として水分を飛ばして手紙を遠ざけなければいけないのはわかっていたが、心中より生まれた激情が駆け巡っている身体は動いてくれなかった。

 

紙面に広がりつつある混沌とした様は、私の心情によく似ている。彼女がそうまでして救いたいと考えた事実は、彼女の伴侶が妻の行動を許容した事実は、私の心象に広がる荒れた荒野を癒す天の恵みとなって降り注ぐ。ああ、凛、士郎。君たちは、なんて愚かな事を考え実行に移したのか。彼らの献身に比べれば、ああ、なんて。なんて。なんて無様なのだ、己は。

 

私はまた衛宮士郎と遠坂凛に救われた。彼らは私の精神のみならず、肉体と魂まで救ってみせたのだ。そして己らの肉体を差し出してまで救ってやりたいと思われていたという事実は、はるか昔地獄の中で切嗣という男によって助けられた時感じた歓喜と憧れと感謝を想起させ、彼らに対する負い目や自己嫌悪の感情と混ざって、心を無茶苦茶にかき乱す。

 

凛は愚かな女だ。愛すべき夫がいて、愛する子供もいて、親しい友人たちと過ごしていたのに、その幸せな日々の果てに、選択したのが、愛する夫に手をかけて装置に改造し、夫が愛した自らの身を弄って装置として命を断つ最後だなんて、なんとも馬鹿げている。

 

賢い彼女にそんな決心をさせてしまった、己の存在が憎くてしょうがない。しかし、救われたという事実は、胸に憎しみが塵と思えるほど怡々の水気を生み出すのだ。やがて混じり合うそれらは津波の如く心の荒野に押し寄せて、乾いた土地を潤してゆく。

 

津波に含まれる自己嫌悪という名の成分は、塩害の如く枯れた土地に被害を与えるかもしれないが、それ以上に、彼女の暖かな想いにより生まれた温水は、この地を肥沃な大地へと変える幻想を思い起こさせた。ここはいつか馬の背のような草原になるとまで思える。

 

衛宮士郎は愚かな男だ。愛する妻が過去に出会った男を救いたいというわがままを聞いて、唯々諾々と承諾してしまうのだから。正義の味方を目指すと言っていた彼は、なぜ愛する妻が別の男を救おうとする行動を許容してしまったのか。

 

正義の味方を目指すものとしての矜持か? 起源を同じくする人間とはいえ、こうまで離れてしまうと、もはや彼が何を考えているかわからない。だが彼が自らの命を狙った相手を助けるという行動を許容したという事実に、私は大いに嫉妬した。

 

しかし同時に、敵対者を、裏切り者を、自らを殺そうと目論んだ私の救いを許容した彼の寛大さに、嫉妬以上に救われた、と思った。彼の起こした沢風は、私の生んだ嫉妬の風に煽られながらも、悠々と砂塵舞う荒野の空気に吹き荒れて、荒野は耿気に満ちて行く。風は赤い夕空の色すら変えるのではないかと思うほど、雄々しく吹き荒れ続けていた。

 

正と負の矛盾する感情は電気信号に変換されると、心中を暴れまわり、共鳴と乗算を繰り返して大きな感情の波紋を生み、軋轢に心が軋んだ。不変のはずの風景が変化してゆくのを感じる。英霊エミヤと呼ばれていた私は、その時確信を得た。

 

今この場において私という存在は、不変を常とする英霊ではなく、彼女の手によって人の肉体を与えられ、変化を常とする人間として生まれ落とされたのだ、と。

 

私は与えられた救済を喜んで、哭いた。英霊だった頃の私を哀れんで、哭いた。彼女の苦悩を思って涙を流し、彼の献身を尊んで叫んだ。記憶にかつてと彼話した場面が蘇る。何が、救いなど金貨と同じ、だ。何が自助努力で掴み取らねば意味がない、だ。

 

それが贖罪によって生じた偽善というものによって与えられた救いだったとしても、与えられた救いが決して当人のためにならないなんて事はない。決してだなんて、そんな事はない。決してだなんて事はなかったんだ。だって、そうだろう?

 

他人に与えられた救いは、こんなにも、私の未来に希望の光を与えてくれているのだから。

 

 

「――愚痴っぽいことも書いたけど、私の選択を士郎が受け入れてくれたから、私は私のやったことに満足したわ。悪いけど、あんたは私のその自己満足に救われて、せいぜい自由に生きて頂戴な。ただし、生前みたいに自分を犠牲にする生き方をしちゃダメよ。正義の味方として生きても文句は言わないけど、そのときは自分の事を勘定にいれるのも忘れないように。約束よ。これは別れの際に難題ふっかけたアンタへのお返しも兼ねてるんだから、守らなかったらぶっ飛ばす。宝石剣での一撃をおみまいしてやるんだから、覚悟しときなさい。

それじゃ、さよなら、アーチャー。あなたのこと、士郎の次くらいには好きだったわ。

あなたの未来に多くの幸があらん事を。 ――衛宮凛 」

 

手紙はそんな言葉で締めくくられていた。最後に記された彼女の願いを受けて、燻っていた心の裡が燃え上がるのを感じる。こぼれ落ちる透明な雫が止まらない。生み出される熱は血流に乗って全身を駆け巡り、彼女の望み通り自らを守る原動力となるだろう。

 

嫌っていたあの男の懐の深さと覚悟、生涯に敬意を送り、凛に限りない感謝を送る。彼女は自分に返せないほどの借りを作っていった。ならばせめてその意を十全以上に汲み取り果たすのが、なによりの恩返しとなろう。そのためにも私は、自由に生きてみせる。そう。

 

「当然だ。・・・・・・当然、その約束、叶えてみせるとも」

 

正義の味方になると誓ったあの夜を思い出す。別離の夜、月下の元で私は、養父と他でもない私自身に対して、彼の願いを綺麗だと思った衝動に導かれるままに誓った。この誓いは、あの夜と同じものだ。私は彼女の願いを尊いと感じた己の心に従って自由に生きる。他者への贖罪を存在理由と糧に生きてきた私にとって難しいオーダーだが、その達成を彼女らと他でもない、自身の矜持にかけて誓う。

 

―――私は正義の味方を目指して生きつつ、しかし自由に生きる。

 

覚悟を胸に改めると目元を拭い、遠くにのぞむ街を一瞥して、深呼吸をする。折り重なっていた一朶の雲たちは気がつくとどこかへ消えていた。抜けるような青空の下、そして私は街へ向かう。何をするにしても、まずは情報が必要だ。人が集まる場所にはそれが自然と集まる。私は彼女の望み通り、私の思い通り、自由に生きてみるべく、動き始めた。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第一話 現れた男

 

終了



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第二話 理想を目指し、未知を行く

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第二話 理想を目指し、未知を行く

 

満月が浮かんだ夜は、あの夜を思い出す。

伽藍堂の炉に火が入った、静かな始まりの日のことを。

 

 

抜けるような蒼天の下、川の支流の如く伸びた道を遡って辿って行けば、盆地の中央を横断して流れる川を中心に、外側へと向かって切り開かれた街が目に入る。川を中心として円に広がっている人の街の領域以外は鬱蒼とした森林が山の端の方まで広がっており、この街がおそらくは森林地帯を切り開いて作られただろうことが予測できた。

 

森の街は、鮮やかに存在を主張する孔雀緑の切妻屋根と白漆喰が目立つ東欧風の街並みをしており、いかにも異国情緒に満ちている。また、川を挟んで二つに分かれた街を橋で繋ぐ様は、かつての故郷冬木を思い起こさせ、私は少しばかり郷愁に駆られる気分を得た。

 

まぁ、とはいえこの場所は冬木のように海と近くない。海辺の町であった冬木は、日中海から冷たい風が流れ込んできて、冬になるとそれこそ肌を切り裂くような冷たい風が襲いかかってきたものだが、盆地であるこの場所にはそれがない。盆地の中央に位置する街に向かうごとに風は弱まっていって、ただ身を凍えさせるような肌寒さだけがそこにある。

 

とはいえ、太陽の角度から察するに春愁のどちらかだろうに、この身の芯まで冷え込む寒さは異常だ。これでは冬の季節にどれほどの寒さになるのか、考えただけでも恐ろしい。などと詮無きことを考えていると、そろそろ太陽が山の端に姿を近づけて、身を隠す準備を始めている。大気層に反射されにくい長いが波が周囲を茜色に染めて闇が訪れる前にやるべき事をやらねばならない。

 

―――まずは観察と情報収集が必要か

 

街の様子を詳しく探るべく、眼球と関連する筋肉、そして血液に強化の魔術を叩き込む。眼球の持つ「見る」という概念の強化に伴い、機能が強化され、視界は軽く十キロは離れた街の石畳の数を数えられようになる。それだけ聞くと便利に聞こえるかもしれない。だが決してそんなことはない。強化と言うものはその対象となる箇所に魔力を込めるほど機能が上がる特性上、その分、操作に繊細さが必要となる基本ながら厄介な魔術である。

 

例えば眼球の場合、僅かに一度程度動かすだけで視点が十数メートルはすっ飛んで行く。そうなれば元見ていた場所に視線を合わせるのに縮めていた視界を広げて、もう一度、元の場所を確認し、再びピントを合わせるなんて面倒が必要になる。そんな面倒を体験しないためにも、肝心なのは最初である。集中し、ミスがないようにじっくりとしかし手早く意識と視界を絞り、焦点を全景から区画、広場、路地へと移し、人の様子を観察する。

 

街は中心部へ近づくにつれ、人数が増えて行く。行き交う人々はシャツとパンツ、あるいはスカートの上に厚い外套を纏ったものが大半だ。宗教の匂いを感じさせる町の外見に反して、宗教の規律の匂いがする格好をしたものは見当たらない。いやそれどころか。

 

―――なんだ、あの頓狂な格好は

 

街中では私の持つ常識では考えられない格好をした人間が多く闊歩していた。

 

分厚い鉄鋼のプレートを着込み一人位ならを完全に覆い隠すほど巨大な金属盾を背負う男性の側には、レザーボンテージを纏い、鞭を腰に携えた水商売風の女性がいる。彼らの前を人の頭ほどもある巨大な近未来的なフォルムの機械籠手を片手に装着した少年が横切ったと思えば、その後ろに服としての機能を放棄したとしか思えぬ一枚の布切れを頭から被り胸と股間の一部をかくしているだけの痴女然とした少女や、サラシと腰履き、肩当だけを身につけて日本刀を腰に携える女が堂々と続いていた。羞恥心をどこかに置き忘れたかのような、見ているだけで、あちこち寒くなりそうな格好は、私の鋼の心をもたいそう驚かせた。

 

二十世紀あたりの感性を持つ私からすれば一見して異常に思えるそんな格好の彼らだが、しかしこの時代ではまるで珍しいものではないようであり、街は布の採寸を一桁間違えたかのような格好の人間であふれている。はたしていったい、どのような文化の歩みと収奪を辿れば、自由に過ぎる服装で闊歩してやろうと思える文化が花開くというのだろうか。

 

「……ん?」

 

自らの持つ常識とはかけ離れた光景に驚き、人々の服装に目を滑らせながら真人類たる彼らがどのような歴史を歩んだのだろうかと考察していた時だ。衣服の衝撃など彼方へと吹き飛ばすような異常が、強化した視界を通して脳裏に飛び込んできていた。

 

「……、いや、まて、なんだ、それは」

 

視線の先に映るのは、一民家の窓から覗ける調理場とエプロンをつけた女性の調理姿だ。彼女は、一枚肉をフライパンに敷くと、ボウルに入った透明な液体をひっかけ、そして、当たり前のように虚空より火を生み出して、ストーブの内部に放り込んでいた。

 

何もない場所から火を起こす程度なら私はあまり驚かなかっただろう。例えば魔術で同様の現象を起こすならは、アンザスのルーンを刻むだの、四大属性や五行の法に則った手順をふむ事で再現できる。

 

また、魔術なんぞ使わずとも、ちょっと器用な者であるなら、発火や着火のための道具を人から見えないように隠し持ったり体内に埋め込んだりしてやれば、まるで虚空から突然出現したかのように見せることだって可能だろう。いわゆる手品というやつだ。

 

ただ、どちらにせよそれらは、意識的に行われる行動なのだ。しかし彼女は、どこまでも自然な動作で、呼吸をするかのように、ものを取ろうと腕を伸ばすかのように、日常の動作の延長上の作業として自然に火を生み出して、使用した。

 

意識的な行動を無意識レベルまで落とし込めて日常行う動作のごとく落とし込めてやる事も不可能ではないが、実現するためには気が遠くなるほどの訓練や、あるいは生まれ持った才能が必要となる。特殊な才能を持つ人間などそうは生まれないことを考えると、おそらくは、彼女のその異常は訓練によって身につけたと考えるのが普通だ。

 

しかし私にはどうしても、大した身のこなしをみせない彼女がそのような経験を積んでいるようには見えないのだ。フライパンを握る彼女の姿は、どこまでも普通で、どこまでも当たり前で、どこまでも平凡だった。

 

となれば、結論は一つだ。恐るべきことに虚空より火を起こす程度の出来事は、彼女が持ち得る才能により引き起こされた現象で、彼女にとって日常の出来事なのだ。無より有を生み出すという奇跡をまるで自然と行って見せる彼女は、まるで魔法使いの様だ。

 

無から有を生み出す。己の脳裏に浮かんだ言葉に引っかかりを覚え首をひねると、自在に操る凛の手紙に魔力も魔術回路も無しで、世界に現象を引き起こす真人類たる存在が現れたと書いていた事を思い出した。ああ、彼らがそれなのか、と嫌が応にも納得させられる。

 

驚愕の最中にも調理は続いていた。火を放り込んだのち、しばらく炉の中を眺めていた彼女は、満足げな表情で扉を閉める。彼女はフライパンを天板に固定すると、もう片方の手で、鍋を取り出し、先程と同様に虚空より氷を生み出すと鍋の中にぶち込んだ。そして、檻を鍋の取っ手を握ると、何処よりか取り出したサングラスをかけて真剣な表情で鍋を注視する。

 

すると、鍋が赤みを帯びた白光を発した。突然飛び込んできた予想外の光に、私は思わず目を瞑り視線をそらした。瞳孔の収縮が収まった頃、苦労してピントの外れた目を調整して、再び視線を彼女の部屋に合わせると、サングラスを外した彼女は鍋を放置して、菜箸で肉を抑えつけながら薪ストーブの天板に置かれていた材料の入ったフライパンを弄っていた。

 

鍋はどうしたと見てやれば、鍋の中では液体がグツグツと湯気を上げて煮えたぎっているのがわかる。その現象が意味する所を考えて、私は何度目になるかわからない驚きを得た。

 

―――まさか今の一瞬で氷を溶かし液体にした上で、沸騰までさせたというのか?

 

呆然とする中で、彼女の動作に目線を移してやると、手元のフライパンのなかでは肉は煙を出しながら血の気を失い、あっという間に赤身は変色して茶色になってゆく。これもまた私を驚かせた。肉が焼けるのが早すぎる。天板に穴がない事から察するに、彼女の使用しているストーブは、天板に伝わる余熱のみで調理を行うタイプなのだろう。

 

余熱を利用するタイプのかまどで調理が可能ではあったのは確かだが、それにしては熱の伝播が早すぎる。ストーブの熱効率で、あの速度が達成できると思えない。

 

火を放り込んだということは、おそらくストーブは薪を必要とするタイプ。その利点は、ゆっくりと時間をかけて熱を伝えられる事だ。あの速度で肉が焼けてしまうと、肉全体に熱が伝わりきらず、余計な焦げや味ムラが生じてしまう……ああ、いや、違うそうではない。見た目も味もひとまずどうでも良い。相当混乱している。ひとまず落ち着かねば。

 

努めて冷静を保つべく、意識を手元から彼女の周囲へと拡散させる。現象の起こった所と別の場所の観察をした所で原理を知らぬ出来事の謎が解ける訳ではないのだが、そんなことが考えられないほど、やはり私は混乱していた。

 

精神の動揺は体に影響を与え、瞳孔を大小させる。少し酔った感覚。ようやく、己の体の異常に気がつく。いかん。この程度で驚くな、死ぬわけでもない。努めて落ち着けと己に呼びかけて冷静を取り戻させると、外れてしまったピントと視界を彼女の部屋に合わせてやる。

 

そうしてもう一度調理を行なっていた彼女の部屋を覗けた時、彼女はフライパンの取っ手を握って部屋の奥へと消えてゆくところだった。彼女が去ったのち、フライパンのあった場所に目をやると、天板の下部には太く短い金属コイルが幾重にも輪を作っているのが見えた。私は納得した。肉の焼ける速度が早い理由はここにあったのだ。

 

あれは薪ストーブの天板に電気コンロだかを取り付けた、いわば火と電気を使って加熱を行うハイブリットストーブなのだ。フライパンにはかまどの炎熱と電気コイルから生じる熱が二重に伝導していたがゆえ、あれだけの早さで肉は焼成し、鍋は巻きつけられたコイルに熱が発生したから、発光現象が起こったのだ

 

とはいえ、熱を伝える天板と伝えられる側のフライパンとの設置面積が減れば、その分熱の伝導する面積も減ってしまうし、鍋の方も、金属の劣化や疲労が激しそうだ。適切な温度と電気量の管理ができていなければ余計に熱の伝導効率が悪くなり、結局、消費エネルギーあたりに使用できる量が低くなりそうに思えるが、どうなのだろう。

 

……ん?

 

―――電気。そうだ、金属の抵抗を用いて熱を生じさせるなら、電気が必要なはずだ。

 

ここで不自然に気づく。見たところ部屋に電気の通る線はなく、鍋や天板に電気を送るための配線が見当たらない。だが実際、電気を利用すると思わしき作りの製品がそこにある。そこで私はこう結論付ける。つまり彼女は、火や氷と同様に、虚空より電気を、それも相当量の電気エネルギーを瞬時に、そして継続して生み出すことができるのだ。

 

これが手紙にあった「スキル」なのかと直感する。私はその後、強化した眼球で観察を続け、いくつか別の家と施設らしき場所を覗き込み、彼らが「スキル」を使用しているのを見つけて、確信を得た。

 

―――しかし改めてとんでもないな。自在にエネルギーを生み出せるなど。

 

自らの目で確かめたことであるにもかかわらず、己の頭はまだ起きた現象を受け入れきれずにいる。魔術のごとく世界に働きかけて現象を引き起こすというその「スキル」は、火を起こすため、水を生み出すため、電気を生み出すため、あるいはまた、治療のためや食料の保存のために、当然の技術として行使されていた。

 

家中のみならず、道端でも「スキル」は使用されており、無より有を引き出すという奇跡の現象が一切誰の目を気にすることなく実行され、特別誰の注意を引くこともない。彼らにとって無よりエネルギーを生み出す奇跡は当たり前のことなのだ。

 

なるほど、便利なものだ。あれさえれば、火打ち石や水筒、発電機、または治療薬、その他多くの、過剰なエネルギーの生産と、貯蓄、維持を必要とする技術が不必要になる。そういえば凛の手紙には機械文明は世界樹の上に持ってくることが出来なかったと書いてあったが、街に立つ街灯や、炉、改良型の電化機材、水道の整備された街並みなどを見る限り、機械文明、というよりも、電気を使って半自動的に動くもの、すなわち、携帯や自動車、通信機材などの、道具の作成や、それを動かすためのエネルギーの生産、貯蓄、維持に高度な技術とコストを必要とするものを持ち込めなかった、というのが正しいのだろう。

 

携帯の操作すらおぼつかない、機械に弱い凛らしい勘違いだ、と、苦笑する。左の口角が自然と上がり、気が和らいでゆき、混乱する頭が収まっていくのを感じた。いい傾向だ。

 

そうしてしばらく観察を続けていると、急に視界がぼやけだした。同時に眼球の後ろに鈍い痛み。驚いて目を瞬かせると、涙腺から出た水分が表面に潤いをもたらし、瞼の渇きを癒しだしていた。限度を超えて酷使され続けた眼球が、痛みと苦しみを訴え、反応した肉体が訴えに応答したのだ。

 

―――眼精疲労というやつか。なるほど、そういえば今は生身の肉体だったな。

 

今更ながらに生きていること実感する。英霊でいる間は肉体の不便が起こらなかったので、そんな不便と痛み、長らく忘れていた。生じた疼痛を抑えるために深い呼吸をすると、体の中に冷たい空気が入り込んだ。肉体は環境の変化を素直感じ取って、自然に身震いが出る。息を吐くと、視界が白く濁る。数度呼吸を繰り返すと、冷えた空気が体の内部に入り込んで、熱を帯びた体内が冷却されてゆくのを感じた。その急激な温度変化に耐えかねて、もう一度肉体は身震いを起こした。腕組みした両手で思わず己の体を抱え込む。

 

寒い。冬木の街も山から吹き下ろす風が冷たかったが、ここはそれ以上だ。よく考えてみれば、この足元はマグマの蠢く大地よりはるか上空に作られた天蓋であり、熱を放出する宇宙に近いのだ。言ってみれば、高い山の中にいるようなものなのだから、当然、気温が低い。

 

温度の低さに対して、私の服と装備は英霊時代のままである。魔術防護を兼ねた、聖骸布より作り出した赤い外套。物理防護に長ける、カーボンを織り交ぜた黒いボディアーマー。身体に張り付くよう、動きを阻害せぬように仕立て上げられた防刃のシャツとパンツ。悪路を走破し、敵に叩きつけるため鉄板を仕込んだ靴は、どれも一級品とよんで差し支えのない私の戦いを支えてくれる品々であったが、自然の寒さの前にはまるで無力だった。

 

懐かしむより先に分厚い布地を投影すると、体に巻きつける。首を覆い、素肌を隠し、それでもなお体に入り込んだ冷気は外へと逃げていこうとしない。努めて体内の冷気を追い出すべく内腑を意識してやると、ぐぅと腹の虫が騒いだ。そこで自身の身が何を求めているかを真に察する。

 

震える体は消費した熱と体力を回復させるべく、食料を欲していたのだ。なるほど、そういえばこんな不便もあったな。いやはや、生きるということはなんとも不便なことだらけだ、と再び苦笑。

 

さてどうしたものか。少しの間考えて、街に向かう事を決意する。なんにせよ、動かねば何も変わらないのだ。そして行動するには食料が。指針を決めるには情報がいる。食料程度ならその辺を捜索すれば見つかる気もするが、情報の収集には他者との接触が必要だ。

 

不審に思われることなく、彼らとの接触を果たし、食料と情報を手に入れる。これを第一の目標としよう。強化した視力でもう一度街を眺める。街中は相変わらず個性に富んだ格好をした人間が大勢うろついている。ならば、今の自分がその姿のまま向かっても怪しまれる可能性は低いだろう。私は足早に街へ向かった。

 

 

川を跨いで作られた街の入り口まで伸びるアーチ状の石造りの橋が存在感を増すにつれて、街の全容が見えてくる。盆地の最も低い中央の土地に建築されたが故だろう、橋の上周辺は、最も低い場所から丘の上へと戻ろうとする風が強く吹き荒れている。また、入場制限のためか狭く作られた入り口は、風を一纏めにする役割を果たして丘より上からの吹き降りてくる風の勢いを増加させていた。丘の方へと吹き戻される風と、丘より降りてくる風はちょうど門のあたりでぶつかり、行き場を失った風が上空へと抜けてゆく。

 

激突した風は人の服や荷物を強くはためかせている。門より街に入ることを望む人々は列をなして快適とは程遠い乱気流に耐えながら、恨みがましく入り口の衛兵と旅人のやり取りを睨みつけ、今や遅しと順番を待っていた。門を見て、違和感を得る。なんだろうか。

 

橋の手前まで近づくと、そこから入り口にまで伸びる百メートルほどの道は往来の人々と仮店舗にて商売する人とで賑わっているのがわかる。ただ突っ立っているだけでも、自然と人々の会話が聞こえてくる。そうして耳に入り込んでくる言語が日本語であることを確認して、まずは一安心した。スキルの存在は生活様式を変化させ、衣服を別次元のようなデザインに仕立て上げたが、言葉にまでは強烈な変化を及ぼさなかったらしい。

 

人の営みの喧しさが耳に入り、懐かしい気分になる。さらに進んで上品下品が入り混じった喧騒を肌で実感した頃には、日がすでに姿を隠しかけていた。太陽が沈む速度が生前より微かに早いと感じる。これも足元の大地が天空に押し上げられた影響なのだろうか。

 

寒さに凍える住人や旅人をなだめるかのように、橋の両側では商人どもが声を張り上げ、腹の虫を刺激する香ばしい匂いの肉や湯気を発するパン、スープなどを売りつけようとしている。誘惑に負けた者が数枚の硬貨と引き換えにそれを手に入れて頬張るなか、私は人波から離れた場所で腕を組み目を閉じると、意識を行き交う人々の会話に集中して耳を傾けた。

 

「今日はどうする?」「さあ、迷宮の野牛の一番美味いところを選別した焼き串だ!一本たったの15エン!メディカを買うよかよっぽどいいよ!」「最近、病気の人増えたよねー」「腕利きだけがなるやつでしょ?怖いけどあたしらには関係ないでしょ。心配なら施薬院で診てもらいなよ」「うーん、依頼の期日が迫ってるから、今日はそれを片そうか」「冒険者たるもの、未知の発見こそを喜ぶべきである!最近の冒険者はーー」「はいはい、じゃあ明日の発見のために、今日も迷宮で一稼ぎしましょうねー」「新しい迷宮、また冒険者が帰ってこなかったんだってな」「一層番人が強すぎるんだと。旧四層うろついてるのが死ぬんだから相当だな。ラーダがまた規制をかけるかもな」「あんた、まだ登録済ませてないの?」「アーモロードからエトリア行きの馬車がなかなか捕まらなくて、着いたばかりなんだ。新迷宮の莫大な褒賞目当てのご同類がわんさかでな」「ま、いいわ。一回戻ってギルド長のところに行きましょう。登録しなきゃ活動できないもの」

 

会話の内容を聞いて軽く目眩がする思いをした。もはや自分が持つ常識が通用しない場所である事を再度認識する。常識の齟齬を理解し、都度の擦り合わせが必要になことになる予想をして軽く嘆息した。億劫だが、文化の違いによる衝突を回避しようと努力することなど、生前ようようやってきた作業である。必要経費だと諦め、私は収集した情報を確認する。

 

冒険者。新迷宮。一層番人。旧四層。ラーダ。登録。エトリア。褒賞。ギルド長。活動。

 

さて情報の整理だ。

 

見た目広く、清潔で、活気があるこの街の名前はエトリア。街はラーダという機関が行政を仕切っているようで、彼らによって定められ法が存在する事、それを敷き人々に周知し恭順させるだけの力や信頼も持ち得ている事が伺える。

 

また、街には病気の治療や予防を行う機関として、施薬院というのが存在し、一定以上の、少なくとも行けば病気を治してもらえると信じられる程度には効果のある治療を施してくれる。事前に病院に行く、すなわち予防という考え方が根付いていることから、それなりの高度教育がなされているのだな、とも予想ができた。

 

しかし。

 

―――迷宮……?

 

街の外には迷宮と呼ばれるなにかが存在するのは流石に予想の範疇を超えていた。聞くに迷宮は複層構造であり、敵性生物が存在し、時には死人も出るという。番人、という呼称からは迷宮に複数の敵性生物が群をなしているだろうことが推測できた。

 

そしてこの迷宮は複数の、少なくとも、新旧二つが存在する。エトリアの街で戦闘用の装備を携えた「冒険者」と呼ばれる職の人間は、迷宮を探索し、持ち帰ったモノを売り買いすることで生計を立てているらしかった。

 

加えて今、最新の迷宮には莫大な報酬がかけられている。何を対象とした賞金なのかはわからないが、事実として、その褒賞を目指して多くの「冒険者」がエトリアを目指しているようで、ギルド長とやらに登録をしてもらえれば、冒険者としての活動ができるとの事。

 

――まるでおとぎ話の中に迷い込んだよう

 

我ながら発想がメルヘンがすぎる、と自嘲した。しかし改めて周囲を見渡すと、浮かんだ言葉が今の自分の状況をぴったりと表し過ぎていて、なるほど的を射ているなと思い直す。

 

彼らは当たり前のごとく、風の寒さに耐えるために虚空より火を生み出し、喉を癒すために虚空より生み出した氷を、自ら生み出した電気で機械を稼働させて熱を利用し、液体にする。

 

エネルギー生産や貯蓄のために一切の手間をかけないそのやり方は、私が「人類」と定義して付き合ってきた者たちでは到底成し得ないことだ。

 

―――やっていけるだろうか

 

不安が頭をよぎったと同時に、いやまて、と考え直す。よく考えれば、魔力を使用する上、手法は異なるが、自分も彼らと同様、投影魔術により虚空より物を生じさせることが出来る。エネルギーの変換効率の高さを考えれば、私もかつての人類からすれば、十分に範疇外の生き物だ。であれば、私はむしろかつての「人類」よりも彼らは近い存在なのかもしれない。

 

などと考えてやると、彼らの存在がいきなり身近に感じる気がしてくるのだから、我ながら現金なものである。少し頰の強張りが緩まった。気の緩みは思考にだけ注いでいた力を別の感覚に分散する役割を持っていて、嗅覚は、擽る香しい匂いが近くにあるに気がつかせてくれた。自然と鼻腔がひくつき、香りを深く吸い込む。ゆっくりと瞼を開けて横を向くと、両手に串肉を持った男と視線があう。

 

「何か用かね?」

「いや、何も。ただ、長いことそうやって何もしないもんだから、どうしたのかと思ってね」

 

言われて今の自分の格好と状況を思い出した。顔や体を布で隠した長身の輩が、何するわけでもなく、長時間ぼうっと突っ立っていたのだ。目立つに決まっている。それが良い意味での注目でないことが自らの周りからは人が離れ、遠巻きに奇異の視線を送っていることからわかる。人々は私の視線を感じると、照れ臭そうに、あるいはばつが悪そうに、そそくさと退散して行く。とんでもない失態だ。いきなりこれでは先が思いやられる。

 

道行く人が様々な反応を見せる中、私が顔の布を取り払っていると、不審者へと言葉をかける事を選択した串焼きを両手にもった恰幅のいい中年男は、弛んだ腹と顔を揺らしながら片手の串肉にかぶりつく。頬張った口からは収まりきらない肉汁がこぼれて、地面へと落ちる。食事の光景と匂いは生理的な反応を呼び、自然と腹の虫を騒がせた。

 

―――そういえば腹が減っていたな

 

胃は痛みをして空腹を訴えており、胃の痛みを受けて他人事のように腹減りの事実を思い出す。まるでどこぞの騎士王のようだ。などと呑気に考えていると、男はガツガツと景気良くかぶりついて片手のものを平らげ、そして口元を拭って尋ねてくる。

 

「待ちぼうけでもくらったかな?」

「……初対面の人間には関係なかろう」

「まぁ、そうだわな。だかまぁ、そうつっけんどんな態度をとりなさんな。……はいこれ」

 

私の前に男性が串を差し出す。よくある押し売りだろうか、と訝しむ。

 

「金はない」

「いらんよ」

「借りでも売る気か?」

「違う違う。発想が突飛だねぇ、あんた」

 

男性は食べ終えた方の串で自らの店を指し示す。店とはいっても立派なものではなく、簡素な基礎組みの周囲に布を張り巡らせただけの簡単な作りだ。七輪が数個並ぶ軒先の奥にはいくつかの箱の一つの中には、湿気た紙切れと何十本もの串が無造作に放り込まれていた。

 

「今日はよくはけた。店を閉めたいが、最後がさばけん。処分を手伝ってくれると助かる」

 

ならば自分の口に収めればよいだろうに、との意思をこめて、視線を先ほど男が空にした手元の串へ向けると、男性はそれに気づいてか、イタズラがバレた子供のように空いた串を体の後ろに隠すと、照れた表情を浮かべた頬を赤らめた。

 

「まぁなんでもいいじゃねえか。ほれ」

 

無邪気な照れ笑いを見せると、手元の串をさらにこちらへと寄せる。その行動に悪意は見えず、彼の行動が純粋な善意からくるものであることが伺えた。言ってはなんだが、彼は悪巧み出来る人間ではないと直感する。警戒していた自分が馬鹿のようだ、と嘆息。

 

「……、ではありがたく頂戴する」

「おう、そうしろ」

 

顔を上げて受け取ると、今更ながら様々な疑問が浮かんだ。肉をしげしげと眺める。新人類たる彼らと同じものを食べても大丈夫か。そもそもなんの肉かわからない。解析の魔術を使用することも考えたが、人前で堂々と使うのも憚られた。少しばかり悩み、そして、そも自らの常識が通用しない世界であるので、解析しきれない毒の成分があるかもしれないし、色々と悩むだけ無意味な、結論の出ない悩みである事に気がつく。

 

―――ええい、ままよ。

 

覚悟を決めてかぶりつき頬張る。……美味い。すっかりと冷めてはいたが、中まで程よく火が通っている焼けた肉、固すぎず柔らかすぎることなく程よい質感。西洋の人間は血の滴る肉の方が好みで不満を抱くかもしれないが、日本で生まれ育った私には丁度良い焼き加減である。噛み千切るごと溢れる炭の香が鼻腔を擽り、肉の汁が舌を通して旨味を伝えてくる。腕と素材、そのどちらもが良くないとこの脳を蕩けさせる美味さは出ないだろう。

 

口を開け、もう一切れを頬張り、口を動かす。数度同じ動作を繰り返しあっという間に一本を食べきった。体に異常はない。杞憂だったか。己の葛藤の無意味さと疑り深さを自嘲して、鼻息を漏らす。熱を得て暖気を帯びた吐息は、空中に茶色みを帯びた霧を生んだ。唇と口についた汁気を掌で拭い地面に払うと、男の方を向く。彼は先ほどの宣言通り、店の奥で撤退の準備をしていた。大きな背中に声をかける。

 

「美味しかったよ。ごちそうさま、店主殿」

「そりゃよかった。ああ、口元の汚れにはこれを使うといい」

 

男は振り返るとにっかり笑い、手から串を取り上げてゴミの入った箱へ放り込むと同時に、一枚の柔らかい紙を差し出してきた。それを有り難く頂戴して口と手を拭うと、彼はそれも回収してゴミ箱に放り込む。そうして一杯になったゴミ箱を外に放り出すと、すっかり空になった店の天布をひっぺがし、かちゃかちゃと基礎を崩しながら店主は尋ねてきた。

 

「あんたも、家を飛び出して冒険者になりにきた口か?」

 

言葉を選びながら、嘘とならないよう答える。

 

「その口ぶりから察すると、ご同類はやはり、最近多いのか」

「そのとおり。御触れが出てからは、新迷宮へと挑むのが本当に増えたよ。もちろん報酬や名声が目当ての連中さ。中には噂が本当なのか確かめようとする奴もいるけどね。」

「噂?」

「あんたは報酬目当てにきた方かな。……最近の流行病は知っているかい?」

 

流行りも何も、先程呼び出されたばかりの私が知るはずもない。だが、何か引っかかりを覚える。今少し前、確か聞いたような気がする。少し考え込んで、思い当たりを告げた。

 

「……腕利きの奴がかかると言うあれか?」

「おう、それだ。赤くなったが最後、必ず死んじまうから赤死病たぁ直球だが、分かり易い名前だよなぁ。んで、赤死病なんだが、広まった原因が新迷宮にあるって噂が回り始めてな」

「……新迷宮に?」

「大体半年ほど前になるかなぁ。病気でおっ死ぬ奴が増えてきた時を境にして、あの辺りに生えてる木の葉っぱが赤く染まりだしたのが見つかってな。周りが緑一色の時期に、真っ赤っか。地面の土まで赤くなっちまった。んでもって、その直後に同じ場所から迷宮が見つかった。で、その直後に院が迷宮の踏破に懸賞金をかけるってな御触れをだしたもんから、あの迷宮の奥に病気の謎が隠されているに違いない、なんて噂が広まってるのさ」

 

赤く染まり死に至る病気の流行と同時期に、緑木が赤く染まるという異変が起きた。そしてその事実発覚直後下された迷宮踏破の御触書。なるほど、院のお触れとやらが発表されたタイミングもさることながら、赤く染まる、という共通項が二者の関連性をより強調する材料にとして働いているのだろう。しかし。

 

「それで、その噂が本当か確かめてやろうと、わざわざ死病の原因があるかもしれない場所に足を運ぶのか。物好きな奴らだ。自殺志願者の群れとしか思えん」

「わはは、言葉が強いなぁ。でもその通りだ。金目当ての奴らが多いのも確か。好奇心旺盛な馬鹿が多いのも確か。なに、つい最近発見されたばかりのあの迷宮は、世界中で最期の未踏の迷宮かもしれないわけだから、未知の体験に飢えている奴らが集まるのさ」

「……それで、君は本当に病の原因がその迷宮の奥にあると思っているのかね? 」

 

聴くと、大男は目線を上に回して、少し逡巡すると、答える。

 

「多分な。院の奴らの焦燥っぷり。そして、病気の広まった時期と死人の増える速度が、迷宮の発見や樹木や地面の赤化現象の拡大範囲と呼応してるのを見れば、あってもおかしくないと思う。ただ、まぁ、この前、知り合いの冒険者夫妻が亡くなっちまって一人残された娘が呆然としてたのをみちまうと、やっぱりどうしても、病の原因は迷宮の奥にあって、だれかが踏破してくれれば解決する問題なんだと信じてみたくなるってのはあるから、半々くらいかな。あったらよしってな感じだ」

「……そうか」

「そうともさ。さて、出来た」

 

店主は話を切ると、まとめ終えた荷物を背負った。

 

「俺はエトリアに戻るけれど、あんたはどうするんだい?」

 

しばし逡巡したが、心の裡はとうに決まっていた。人が死ぬ病がエトリアという場所で感染範囲を広げて流行りつつあり、その死病を撲滅する手段が迷宮の奥にあるかもしれないならば、正義の味方を志すものとして、やるべきことは一つだ。だから顔を上げてはっきりと宣言する。

 

「私はやはり、冒険者になろうと思う」

 

やるべきこととはすなわち、理不尽に怯える人々の一助となることである。つまりこの場合は冒険者と言う存在になり、迷宮の謎を解くこと。宣言を聞いて、男性はにんまりと笑った。

 

「なら迷宮探索の準備の際は、是非ヘイ雑貨店をご利用ください。勉強させてもらいますよ」

「……なるほど、抜け目がない。いい性格をしている」

「いやぁ、そう褒めなさいますな」

「皮肉だよ」

「存じてあげておりますとも」

 

ヘイと軽口を交わしながら、橋の中央に並ぶ列の最後尾につく。列は遅々としてなかなか進まない。雑談の最中、空を眺める。一朶の雲が流れる中、空一面に濃く広がる黄昏の色。耳をすまさずとも溢れる喧騒が鼓膜を刺激し、与えられた刺激に反応して街並みを眺めると、夕日に照らされた白と緑と茶色が醸し出す平穏の空気に包まれた光景が目に映った。

 

平穏の天幕が降りる中、行き交う人々の雑踏に混じるなど、いつ以来の経験だろうか。懐かしむ光景は古く稀となった記憶の扉を叩き、いつしか私を物思いに耽らせていた。

 

 

エトリア。凛と士郎が生存していた時代より、千年以上未来に存在する街。一度は絶滅の危機に瀕した人類が地上を捨て、空を塗り潰し造られた大地の上に建設された街は、そんな悲惨など知らぬといわんばかりに、活気で満ち溢れていた。人は機械文明と言う便利を失っても、失ったという事実を受け入れて代替となる物を生み出し、そして過去を乗り越えて生きてゆくことができる。それは私にとって、なんとも逞しく、そして、輝いて見えた。

 

―――敬意、というよりは羨ましいのか。

 

そうして私は人の強さを再認識するとともに、少しばかり疎外感を得た。己の選択してきた過去を嫌悪し、結果の結末を受け入れず、積み上げてきた過去を関わってきた全ての出来事と共に切り捨て無かったことにしようとした私には、彼らの存在は少しばかり眩しすぎた。

 

多くの羨望と少しばかりの嫉妬の感情を抱きながらヘイと会話する間にも列は確実に進み、やがて私の順番となった。ヘイは待ってるよ、と言って店の場所の書かれた紙を渡して門の先に消えてゆく。応対していた衛兵が人懐っこい笑顔を向けてきた。

 

「やぁ、こんにちは。ヘイさんの知り合いかな?」

「そうだ。と言っても先程知り合ったばかりだが」

「ああ、成る程。あの人らしいや。……早速だけれど、名前と、それと身分を証明できるものがあったら見せてくれ」

「エミヤだ。身分の証はない。冒険者志望だ」

「ああ、そういう。成る程ね。しかし、もしかして、目指すは新迷宮?」

「その通りだ。莫大な報酬と聞いてね」

「うん、まあ、そうだね。……一応聞いておくけど、新迷宮の噂って知ってるかい?」

「大層手強い迷宮で実力者の死人も出ているとも、流行病の源だとも聞いたな」

「ああ、知ってて来たのか。なら何もいうことはないよ」

 

衛兵は呆れたような、諦めたような顔でいうと、近くの屯所に合図を送る。すると体が大きく、胸板の厚い、髭面で、強面の、いかにも職業軍人と言った体裁の男を呼び出した。敬礼を交わすと、やって来た彼へ一言告げる。

 

「冒険者志望だ。名前はエミヤ。新迷宮の方だ。執政院まで案内を」

「……冒険者志望ならギルド登録が先じゃないのか?」

「や、普通そうだけど、ほら、この時間だとあの人もう帰っちゃって多分いないし、ほら」

 

言って衛兵は私の方を指差した。後からやってきた衛兵は私の方へと遠慮のない観察の視線を向けていたかと思うと、何か納得したかのように、鷹揚に頷く。

 

「ああ、なるほど。着の身着のままか。確かに、これは早めに手続きを進めてやったほうがよさそうだ。……だが登録も無しに連れていって大丈夫だろうか? 」

 

……どうやら彼らが横紙破りの決心をしたのは、身一つで迷宮に挑もうとする私を憐れんでのことらしい。文句の一つでも言ってやりたい所だが、返せる言葉もないので、黙っておくことにした。仮に私が彼らの立場であるとしても、命を落としかねない場所へと足を踏み入れようとしているのに何一つ準備をしてきていない輩を見かけたら、同じような憐憫の目を向けるに違いないからだ。

 

「前の補佐官まではダメだったけど、あの人は順番が前後する程度、笑って許してくれるさ」「……そうだなクーマ様はそういうお方だ」

「じゃあ、他の奴にマスターの呼び出しを頼んでおくから、院の手続き終わったらそのままギルドの方へと足を運んでくれ」

「わかった」

「じゃあ、よろしく」

 

そうして少しばかり長い応答をすませると、物腰柔らかな男はこちらを向いて言った。

 

「彼が案内をする。諸々の手続きを済ませれば、君も立派な冒険者だ」

「……なにやらこちらの不備で横着をさせてしまったようだな」

「ん、ああ、聞いてたかい。はは、なに、よくあることさ。身一つで謎に挑もうと考えられるくらい豪胆な方が、生き残れるってもんだ。それじゃあ幸運を、エミヤ」

 

会釈の返礼をして、先導する兵士の後に続く。彼は無口かつ職務に忠実な男で、余計な話は一切振ってこなかった。お喋り好きな相手だったら、話の中でボロが出るかもしれないと考えると寡黙な男でよかったと思う。

 

安堵を抱いたのち、この世界のことについて考える。どうもこのエトリアという街は、随分と呑気な性格の街であるらしい。自分の常識からすれば、身分証も何も持たない不審な男を尋問や拘束すらしないで街へ迎えいれ、職を与えようと考えられるのがまず信じられない。

 

さらに加えるなら、上の判断を仰がずにきっとあの人なら許してくれるという憶測のもと、定められた掟を破って不審者の入国手続きを進めようとする彼らの防備観念の低さが、少しばかり気になった。

 

もし自分がエトリアを引っ掻き回そうと考えている悪人であったら、あるいは、余計ないざこざを起こす人間だったらどうするのだろうか。防衛という観点から考えれば、彼らの善意の行動は、思考と機会の放棄に等しい愚行と言えるだろう。

 

しかし同時に、それは確かに善意から生じた尊い行動でもある。他人の事情を慮り、率先して気を配ることのできる彼らの行いに対して私が不信と憤りの考えを抱いてしまうのは、偏に私が、彼らより汚れている証のように思えてしまう。居心地の悪さが、少し強まった。

 

暗澹たる気持ちから逃げるようにして、横目に街を眺める。エトリアは盆地の最も低い部分に流れる川を挟むようにして森を切り開いて作られた街だ。丘の上に向かうにつれて、平たく整地された広場がいくつか点在し、それらの広場を周囲には立派な家々が密集し、コミュニティを作っている。広場を行き交う人々は雑多なだが、大抵は体格と恰幅良く、身綺麗な服飾と装飾で着飾った者が多い。家はどれも年月の経過を感じさせないほど手入れが施されており、漆喰の表面は手入れの頻度を誇るかのごとく、太陽の光を眩く反射していた。

 

そうして蘭と輝くコミュニティ同士を繋ぐのは細い裏路地だ。細い道がうねって張り巡らされているのは、敵が侵入した際に侵攻を遅れさせる目的だろう。石畳の道は緩急のついた坂道になっており、道の両側には、広場にあるよりも背の高い建物が並び、建物の開いた窓からは洗濯物などが覗いている。一階の窓にすら鉄格子、鉄柵の守りがないあたり、治安の良さがうかがえた。

 

人々の平穏な生活の匂いが端々から読み取れる坂道通りは活気にあふれており、少しばかりのだらしない格好や汚れた衣服を纏う人々や、叫びながらはしゃぐ子供たちとすれ違った。なるほど、広場が高級住宅街であるのに対して、こちらは集合住宅というわけか。

 

街の様子を眺めていると、前を行く男が少し先で足を止め、こちらに視線を送っている事に気がつく。どうやら観察に夢中で少し歩調が遅れたらしい。純粋な心配の目線が向けられている事に慌てて駆け寄ると、彼はすぐさま顔を平静に戻して言う。

 

「……ここを登れば、ベルダの広場。そして、執政院ラーダだ」

 

無口な男は肩口に背負った槍の穂先を動かして坂を指し示す。坂はつづら折りの広いものであった。指で光景の一部分だけを四角く切り取って見てやると、日本の城の石垣に見えてくる。坂は今まで通り過ぎてきたどこよりも多くの人間が往来していた。

 

「前は門から大通りを直進するだけでベルダの広場に行けたんだがな。人が増え、勾配の急さで事故が多発したため、こうなってしまった」

 

先導する衛兵の解説を聞きながら、行き交う人々を縫うように進み、そして坂を登り切ると、ようやく目的地前の市街中央、ベルダの広場へとたどり着く。広場の中央に配置されたオベリスクから放射状に立ち並ぶ建築物は、どれも均整が取れていた。立ち並ぶ建物の石壁の面はどれも下品な光沢にならぬよう調整され磨かれている事、翡翠緑に塗られた切妻屋根の木材も同じく真新しく見えるほどに磨きあげられている事は、この場所がエトリアにとって重要で大切な場所であることを一目で理解させる。

 

とはいえ、特別なのは空間だけのようで、そこを行き交う人々は下で見た彼らと何の違いもない。まぁ、下の入り口よりも多少汚れた格好の冒険者が目立つか……待て。

 

普通街というものは、内外を区切る壁に近いほど、汚れた格好の人間が多いものだ。だというのに、何故、街の入り口よりも街中の方が着衣の汚れた者が多いのだ?

 

疑問を抱いた時、広場がざわついた。奥の建物から、四つの担架とそれを運ぶ衛兵が現れる。

 

「急げ! 早く、施薬院に! 」

 

担架に乗る者は一人として血に染まっていない者がいない。皆ひどい重体であり、腕や脚がもげた者、腹の中身が飛び出しかけている者、皮膚がなくなり筋肉と骨が露出し、体の一部が吹き飛んだ者もいた。思わず目を逸らしたくなる燦々たる惨状に、周囲の人々は目をそらし、口を抑え、息を飲み、彼らから遠ざかろうと道の中央から離れてゆく。

 

人波を割いて担架がモスクのような丸い屋根の建物に運ばれてゆく中、遅れて一人の男性が担架に乗せられ運ばれてゆく。先の四人に比べれば五体満足で怪我がない様に見える彼は、しかし、異様なことに両足の膝から先が石に変貌していた。およそまともな傷ではない。

 

石化というと、かつて聖杯戦争で敵として戦ったメデューサの魔眼を思い出す。彼女のそれは先程見たような完全な石化現象を引き起こすものでなく、視線のあった輩の挙動に強制的な制限をかける呪詛の類であったわけだが……、今は関係ない事か。

 

運ばれてゆく彼の身につけている装備と、負った無残な傷跡を見て、私は彼らの傷が、何者かとの戦闘によるものであることを確信した。だが、先ほどまで街中は平穏そのもので、戦いや異常の気配など一切なかった。争いの気配すらなかったはずである。ならば、いったいいつどこで彼らはあのような傷を負ったというのか。まさか、突然街中に出現したというわけでもあるまいに。

 

「驚いたか。無理もない。どこの迷宮も情報が出回った今、ああした重い怪我を負うものなど珍しくなったからな。……だが、あれが新迷宮だ。おそらく彼らは新迷宮一層奥の番人に挑もうとしたのだろう。だが旧迷宮四層を常の縄張りとする彼らですら、ああなってしまう」

 

思わぬところから解答を得て、思わず振り向く。そして疑問を抱く。何故、彼は急に新迷宮の話をふってきた。ここは街中で迷宮は郊外にあるはず。いや、まて、もしや新迷宮とは。

 

「聞きたいが、新迷宮というのはもしや街中にあるのか? 」

「……はぁ? 」

 

疑問に返ってきたのは、マヌケを見るかの様な視線と声だった。どうやら己の出した結論は余りに素っ頓狂なものであったらしい。

 

「……、ああ、お前はもしかして、糸の事を知らないのか」

「糸?」

「そうか、お前は一度も迷宮に潜ったことのない……いや、冒険者と関わった事がないのか。いや、そうか。―――あの建物を見てくれ」

 

指先を追うと、先程怪我人と衛兵たちが建物を示していた。周りにあるものより少しばかり背の高い建物であるが、それ以外に変わった作りをした様子はない。壁も屋根も窓も入り口の扉も何も変わらない、―――いや、違う。

 

「出てくるものの格好が小汚いな」

「言葉が厳しいな。いや、間違っていないのだが。……あそこは帰還所なんだ。エトリアで紡がれたアリアドネの糸を使用すると、どこにいようがあそこに戻ってくる事が出来る。それがたとえ迷宮の奥や遠くの場所であっても、だ」

「―――糸を使うと戻ってくる?」

「その通り」

「その、アリアドネの糸というのは、もしや、一般的に流通している道具なのか?」

「その通りだ。冒険者と衛兵なら誰しも持っているものだ。お前も正式に冒険者として認められれば、そこらの道具屋で購入する事が出来るようになる。一個百エンと少々値は張るが、命綱としては安いものだろう」

「――――――」

 

アリアドネの糸。ギリシャ神話における伝承では、テセウスがアリアドネより託されたクノッソスの迷宮から戻る際の目印として使用された糸玉だ。なるほどたしかに、迷宮と呼ばれる場所より安全に帰還することの出来る道具につけられる名前としてはふさわしいものだ。

 

いや、この際名前などどうでも良い。問題はその効力だ。どこからでも転移可能など、あまりにも馬鹿げている。英霊でも一部の―――神話の時代にまで遡り、なお一部のみが可能とする奇跡が、一山いくらの道具として売り出されているという事実は、魔術という異端の使い手である私にとっても理解の範疇をあまりにも超えていた。

 

「―――この程度でショックを受けるようでは、冒険者としてやっていけんぞ。迷宮はもっと不思議なことに満ちている」

 

衛兵の言葉は淡々としていて、だからこそ嘘偽りのない事実を述べていることが察せた。また、先程の無残な姿になりたくなければ帰った方がいい、と言外に告げているようにも聞こえた。先程無残な姿で帰還した冒険者達の姿が脳裏に浮かぶ。なるほど、下手を打てば私も彼らの仲間入りというわけだ。

 

転移という奇跡を軽々と引き起こす道具の助けがあって、なお簡単に攻略されていない迷宮。その攻略難度は入り口で飛び交っていた噂の通り、目の前の衛兵が忠告する通り、相当高いものであるらしい。だが。

 

「忠告はありがたく受取ろう」

 

こちらとしても引く気は無い。迷宮を攻略の奥に病の原因となる何かがいるかもしれない。その謎を解くか、あるいは道筋だけでも示してやらない限り、彼らのような犠牲者が出るかもしれない。ならば、いかなる困難が待ち受けていようとも、正義の味方を目指すものとして、決して引くことは許されないのだ。

 

「そうか。……こちらだ。ついてこい」

 

断言して、無言を貫いていると、衛兵は再び案内へと戻った。忠告はしてくれるが、意思を押し付ける気は無いらしい。なんともほどよい距離感に、少しばかり心地よさを感じながら、私はベルダの広場の周囲にある建物の一つの前へと案内された。

 

その建物の入り口とその扉は巨大なものだった。高さおよそ二十メートル、横に十メートルずつはあるだろう両開きの扉は、来訪者を迎え入れるべく左右に大きく開いている。開かれた巨大な扉をくぐると、真新しい外観とは裏腹に、厳かな雰囲気の内観が出迎えてくれた。

 

内部構造は西洋教会を模しているのか、四角く切り出された石材が積まれた柱が一定間隔ごと橋脚のごとく立ち並び、天井の敷石がアーチに支えられている。石材という建材に囲まれた空間は、外と比べて涼しく感じた。

 

ただ、政務を執行する機能を持つ割に、院は外部と比べて人の気配が異様に少なく、不気味なほどに静けさが辺りを支配している。教会というより、まるで地下墓地のようだ、と思う。

 

教会。地下墓地。――――――言峰綺礼。雰囲気と言葉は記憶の深層を刺激し、いけ好かない外道神父の顔を思い出させた。神の教えを説く立場である神父でありながら、人間の悪を容認し尊ぶという、正義の味方とは決して相容れぬ不倶戴天の天敵である破戒神父。

 

「喜べ、少年。お前の願いはようやく叶う。正義の味方には、対立すべき悪が必要だからな」

 

よりにもよって強く思い出されたのは、奴の言ったそんな言葉だった。手綱の握れない記憶と、それにいちいち反応してしまう自らの肉体が疎ましい。思い出される記憶の不快さに思わず顔をしかめて、無意識のうちに強く舌打ちを鳴らした。静かな空間に反響する音。

 

その音を聞いて、衛兵が、どうかしたのだろうか、という顔を向けた。はっとして、なんでもないと手を振ると、彼は首を傾げながらも先導へと戻ってくれた。自らの軽はずみな反応を反省すると、不快な存在を記憶の外に弾き出すべく、周囲の光景へと意識を集中する。

 

正面に目を向けると、石柱に刻まれた樹木と、その上に飾られた真実の口がこちらを見下ろしていた。衛兵はその樹木の根元に存在する照明の下で受付の人間と一言二言を交わすと、こちらへと戻ってくる。

 

彼が戻るまでの僅かな間に、受付の人間と目があった。受付の彼は、シャツとベストとパンツルックという、外に群がる異様な格好をした人間と比べれば平々凡々な格好をしている。その普通さは私の荒れていた心を落ち着ける効果を持っていた。自らの常識からかけ離れていない存在は、かくも平静をもたらすものなのである。彼は人懐っこそうに口の両端を上げて、上品に笑った。

 

「こちらだ。ついてこい」

 

受付の人間が向けた笑顔に会釈を返すと、衛兵の後に続き、執政院の奥へと進む。廊下を行く途中では数人の人間とすれ違った。彼らは政治屋、と言うよりは図書館の司書でもやっている方が似合う、物静かで、おっとりとした人懐っこい雰囲気を身に纏っていた。大人しい気質の者が院内部の職員として採用されやすいのだろうかと、考えが浮かぶ。

 

とりとめなく辺りの様子を探りながら低い天井の廊下を進んで行くと、突如開けた空間に変わった。清廉かつ単調であった天井と床は、西洋の城玄関のごとく豪奢に彩られたものへと変化し、中央正面に存在する大階段と、大階段から両端に伸びる螺旋の階段が、豪華さを演出するのに一役以上の活躍をこなしている。

 

解析の魔術を使うまでもなく、元々は低い天井の建物であったのを増築したのだな、と理解した。内装に使われている素材の真新しい外見と漂う木材の香りから、つい最近追加で建築されたものだとも推測できた。

 

「執政院もエトリアの外からやって来た者。特にハイラガードやアーモロードの方面からやってくる奴らが執政院の建物が気に喰わないと言い出したので、執政院の機能を損なわない範囲で好きにしたらいい、と院長が許可を出したらこうなったそうだ」

「……その口調と言い方。彼らとこの建物を嫌っているように聞こえるが」

「―――そうか。注意しよう」

 

皮肉に対して素直な自省の言葉を返され、少し拍子抜けする。強面な見た目、口調の強さとは裏腹に誠実というか馬鹿正直な男だ。なんともからかい甲斐が無い。

 

くだらぬ事を考えている間にも、衛兵はペルシャ模様の絨毯が敷かれた廊下を進んでいた。慌てて足早に歩いて後ろに追い着くと、無言のまま豪奢に飾られた廊下を進んだ。しばらくして、衛兵はある扉の前で足を止める。

 

「ここだ。―――待っていろ」

「了解した」

 

衛兵は扉の正面に向かうと、籠手の甲で扉を叩いた。ノックの音が響く。

 

「クーマ様。冒険者志望の者を連れてまいりました」

「……どうぞ」

 

少し遅れて内部の声が入室許可の声を出した。失礼します、と言って衛兵はドアを開け中へと足を踏み入れ、私は後ろに続く。少しばかりの緊張。はたして冒険者の担当をする者とはどのような人物か。

 

華美に装飾が並ぶ廊下と違い、中はさっぱりとした上品な部屋であった。部屋には執務と関係のない道具はほぼ置かれておらず、木製の本棚、書類棚、机と椅子などは、どれも長い年月をかけてキチンと手入れをされてきたものである事が、その表面が飴色に光っている事実から推測できる。部屋の中に置かれた家具は暖かさを感じる濃茶色い木製のもので統一されており、大理石の床に敷かれた絨毯もそれらに合わせて濃茶の柔らかい色合いをしていた。

 

唯一、部屋の隅に存在する槍斧と盾と鎧兜が鈍色の光沢を輝かせて異彩を放っていたが、部屋の中央奥に存在する人間が部屋と武装の間を取り持つ存在となって、雰囲気は不思議と調和がとれていた。部屋と調度品は相応しい人間がそこにいてこそ、完成するのだ、と誇らしげに胸を張る設計者の意図が見て取れて、微笑ましく思う。

 

「クーマ様。こちら、新迷宮探索希望のエミヤです。ギルド登録はまだですが、ギルド長が捕まりそうになかったので、先にこちらへと連れてきました」

「ああ、わかりました。ありがとう。案内ご苦労様です。下がってもらって結構ですよ」

 

クーマと呼ばれた男性が机より顔を上げ、私と衛兵を一瞥すると、衛兵へと視線を向けて労いの言葉をかけた。衛兵は心遣いを受け取ると、一礼をした後、部屋より退室する。クーマは衛兵を見送った後、視線を私に向けなおして言う。

 

「エトリアへようこそ、エミヤ。私の名はクーマ。執政院ラーダの職員です。主に冒険者たちの管理を行なったり、依頼を出したりと、いわば窓口の役を請け負っています。どうぞよろしく」

 

クーマという男性の顔は、旧来の友人を迎えるかのごとく柔和な笑顔だった。幼さの残る顔立ちはまだ十代二十代の青年のように見えるが、顔に刻まれた皺の数と、頭髪に多く存在する白、物腰の柔らかさは、彼が外見よりも歳を食った油断ならない人物である予感をさせる。

 

予感を確信に近づけたのは、椅子に腰掛けているだけのはずの彼は身のこなしだ。そうして座っているだけの姿も中々見事なもので、一本芯が通っているかのごとく体の軸がぶれていない。少なくない戦闘の経験を積んでいる証拠だ。

 

ベージュ基調の変則型、ダブルのスリーピースを纏ったその外見と静かで、背筋の通った所作から察するに、おそらく三十後半から、四十代前半で、脂が乗っている、と表現するのにちょうど良い年頃くらいだな、とあたりをつける。

 

「まずは対応に感謝を。本来はギルド登録が先らしいからな。身分を証明できるものも、紹介状なども何もない。この場所で追い返される可能性も考慮していたが――― 」

「はは、新迷宮を攻略しようという気概ある来訪者にそんな真似はしないよ。この時間帯だとギルド長がいなくなるのは周知だし、多少順番が前後したところで、やってもらうことは変わらないからね。私が追い返すのは、エトリアに悪さをしようと考える人達だけさ。まぁ、少なくともここ数十年の間、一度たりともそんな人は来たことがないけどね」

 

彼は口調を馴れ馴れしいものに変え、親しげに述べた。丁寧な応対は初対面の礼儀で、言葉を交わせばすぐに知り合い、という手合いなのだろうか。別段悪い気はしないが、いきなりの態度の変貌と、そして今しがた述べられた事に、少し驚く。

 

「……あんな程度の警戒体制で数十年もの間、平穏が保てたのか」

「そうだよ。悪人なんてそうそういるものじゃあないからね。それがどうかしたかい?」

 

悪人などそうはいない。だから犯罪なんてまず起こらない、などという性善説論者の戯言を素直に信じられるほど、私は無垢ではない。何か隠しているのではとの疑問を瞬間的に抱く。けれど、見た目に似合わず無邪気に首を傾げて問い返す様からは嘘偽りを感じることができず、こちらに送られる瞳は無垢で純粋な赤子のように澄み切っていた。もしこれが演技だというのならば、よほどの役者だ。何を言ってもボロは出さないだろう。

 

だが、思考で疑いつつも、私が今まで培ってきた人物を見る眼と感が、彼のこの台詞が素直に事実を述べただけであると告げている。それはつまり、正直私の知る常識からは信じ難いのだが、このエトリアという都市は少なくとも、彼の生きている間は外部からやってくる敵からの攻撃を受けたことがなく、今現在、エトリアの周辺には、彼らに被害を与える人や生物が、赤死病を除いていないということを意味していた。

 

外部からの襲撃が起こっていないという事実に気がついた時、私はようやく入り口の門付近で抱いた違和感の正体に気がついた。エトリアの出入り口に存在した門は、城壁からではなく、民家の壁から直接伸びていた。民家の壁は薄く、また侵入口となる窓さえもあった。壁がアレでは、敵に攻め入られた際、窓は侵入口として利用され、真っ先に民家とそこに住む住民が犠牲になってしまう。

 

過去に一度でも敵からの攻撃を受けて住民に犠牲が出るような事態が起こっていたのであれば、手薄な壁面があのように放置されるはずもなく、必ずなんらかの対処がとられているはずである。つまりあの民家と城壁が一体化した構造が昔の姿のまま、今も改築されずにいるということが、クーマという人物のいう通り、一度たりとエトリアにそう言った事態が起こっていない事の確かな証なのだ。

 

未来世界の街という場所は、基本的に戦いとは無縁の世界であるらしい。

 

―――ああ、なんて平穏なのか

 

羨ましく思い、軽く目眩を覚えた。だが、同時に少し疑問を抱く。戦いなく平穏であるはずなのに、なぜ街の内部は作りは外敵に侵入された時のことを考慮した作りになっていたのだろうか。もしや街を作った当初は敵がいたのでは……いや、今考えても意味のない事か。

 

「いや……、いや、気にしないでくれ 」

「―――では本題に入ろう。エミヤ。君は新迷宮探索を希望している、そうだね?」

「その通りだ」

「うん、よし。さてエトリアでは迷宮での活動を望む者には、探索を行う力があることを示してもらうため、試練を受けてもらっている。試練はラーダからの正式な依頼として処理され、クリアの暁には君はエトリア公認の迷宮探索者となる。無論、幾分かの報酬もでる」

 

クーマは言って、机の中から数枚の厚紙と墨、筆、硯を取り出し、こちらへと差し出した。

 

「これは?」

「うん、依頼とはすなわち、迷宮、つまり樹海の地図を一部だけ作成してほしい、というものなんだ。私たちが迷宮の踏破に莫大な懸賞金をかけているのは、未踏の場所に何があるのかを確かめるためなんだ。私たちは魔物が出る、番人が守るその先に、何があるのかを知りたい。だから私たちは冒険者に、魔物を討伐しながら、地形や出来事を観察し、正確に把握する能力と、それを他人が見てもわかるように記録するスキルを求める。これは君達が冒険者を目指すものが、エトリアにおいて冒険者としてやっていけるかどうか、エトリアの益になるかを判断するための試練なんだよ 」

 

なるほど、院が冒険者に未開の地の記録を求めているのであれば、冒険者に地図作成能力があるか試す試練は、選別として必須なのだろう。最も、解析と投影の魔術が使用できる私にとって、基本的に迷宮というものは単なる進むのが多少億劫なだけの道に過ぎない。多少の罠があろうと、迷宮の情報を解析して、それを地図に投影してやれば済むのだから、あまり意味のない試練ではあるが、ともあれ、必要ならばやるまでだ。

 

「……作成する範囲は?」

「ワンフロア分だけ。縮尺は紙の端に記載されている数値を使ってくれ。丁度その一枚に収まる範囲のはずさ。ああ、そんなに構えなくとも、君の作ったものを私たちの所有するものと比較した後、ざっと地形が合致していれば依頼は達成だ。何も微に入り細に入り情報を記載してもらう必要はないし、意地悪をする気もないから、安心してくれ」

 

渡された紙一メートル四方の厚紙には、マス目と縮尺が刻まれている。縮尺から逆算するに、迷宮のワンフロアはすなわち十五 × 二十 ㎢に収まる程度であるということか。

 

「ワンフロア、という言い方から察するに、積層構造の迷宮なのか? 」

「うん、そうだね。旧迷宮と同じ構造をしているとすれば、君の行く場所を含めて五つのフロアが確認出来るはずだ。フロア一つ五階に分けられていて、どこかにある階段を下ると、新たな階層へと繋がっている。二階の広さも、多分、一階のと同じくらいだろう。二階から五階までの地図は詳細なものが出来上がっていないから、こちらは多分としか言いようがないけれどね」

 

つまり少なくとも、十五 × 二十 ㎢ ×五のフロアを更に五つ探索しなければならないのか。……ざっと千五百 × 五 = 七千五百 ㎢ というと、かつての故郷である冬木が郊外まで含めて約五百 ㎢ であったから、冬木の街を十五回隅々まで探索する気概があれば踏破できるという事か。……まぁ、なんとかしてみせよう。

 

しかしアリアドネの糸が必要な迷宮というからにはもっとおどろおどろしいものを想定していたが、思ったよりも大したことがなかったな。広大とはいえ、範囲が限定されているというだけで、気楽を得るには十分な材料である。

 

そして余裕ができた頭は妙案を産んだ。院が地図を所有おり、これが全ての探索者に課される試練であるということは即ち―――

 

「ああ、言っておくけれど、他の人の地図を複写する等のズルはダメだからね? 最低限。迷宮に出現する魔物に対処する力があって、謎を解いて記録することが出来る、と言うことを証明してもらうための試練なんだから」

「―――もちろんだとも。私がそのような不正を働くように見えるかね? 失敬だな」

 

釘を刺されて乾いた笑いを返す。背中に冷や汗が流れるのを感じた。

 

「はは、そうだね。まぁ、今では地図にはこうして固有のナンバーを割り振り記載しているし、迷宮内に入る直前に地図がサラであることを衛兵が確認するから、そうした不正は基本的に防げるし、大昔そうした不正が判明して、当該ギルドが二度と迷宮に入れない様に罰を与えてからは一度も起こっていないんだけど、一応念のためにね」

「いや、そうか。では私も一応、感謝しておこう」

 

クーマは私の表情の変化に気づいていない様だった。助かった、と胸を撫で下ろす。

 

―――危うく始まる前に躓くところだった

 

内心が落ち着くのを待って、クーマの座る机の前まで進み出る。机の上に広げられた地図製作の一式を指して問う。

 

「ではこれらを頂いても?」

「構わないよ。ものを確認して問題なければ、この書類に受領のサインを頼む。」

 

サイン。言葉を聞いて、緊張で体が少しばかり強張る。日常の会話に使用されている言語も店に掲げられた看板に記載された文字も、私の知る日本語が使用されていたため失念していたが、果たして公用文字も同様なのだろうか?

 

差し出された用紙を受け取ると、覚悟を決めて一瞥し、そして安堵した。日本語で刻まれた文字へと目を通し、そして疑問の声を上げる。

 

「いいだろうか。職業、ギルド、と書かれた項なのだが……」

「ああ、本来は、先に決めてからくるからね。とはいえ、一旦は、そうだな、どこかの街で活動していたのなら、その前職とギルド名を記入してもらえれば構わない。ああ、でも、迷宮探索関係以外の職だったのなら、記入しないでおくれ。あくまでも、迷宮に潜る人用の書類だからね」

「……記入ができない際は、どうすれば良い?」

 

クーマは頷いて笑った。

 

「うん、その場合は空欄で。名前だけで書いてくれれば構わないよ。そうだね、依頼達成報告までに決めて、記入してくれればいい」

「……、このような立場で言うのもなんだが、少しばかり杜撰ではないかね」

「迷宮探索前、冒険者でない人たちとの契約の書類だからね。彼らは向かったまま、命を落としたり、逃げ出したりで、帰ってこない事だって珍しくない。意味のない書類になる可能性の高いもの、多少順序が前後したって誰からも文句はでないのさ」

 

役所にしては随分といい加減な気がするが、害はないので気にしないことにした。羽ペンを借りて、署名欄、と書かれた横にカタカナで名前を記入する。少し迷ったが、フルネームでなく苗字だけを記入することにした。ファミリーネームでないシロウ、という名前を記入するのは、全てを曝け出す気がして、少し気が引けたのだ。我ながら臆病なものである。

 

「うん、たしかに。ではこの後、冒険者ギルドに向かい、冒険者登録を行ってくれ。以降のことはそこの長に尋ねるといい」

 

たった三文字が記入された書類をクーマへ提出すると、彼は頷き、机の上に広げた一式を袋に一纏めにして差し出し、それらを差し出した。

 

「承知した」

 

私は受け取ると、一礼をして踵を返す。部屋から出る寸前、後ろから声が聞こえた。

 

「次に会うときは君が報酬を受け取りへやって来るときかな。成功を祈っているよ」

「感謝する」

 

礼を述べ、再度会釈をして静かに部屋の外へと退出すると、一息つく。呼気とともに少し肩の荷が降りた気がした。

 

 

「終わったか。では次だ。冒険者ギルドへ向かおう」

 

案内をしてくれた不愛想な衛兵は背を向けると、さっさと前を歩いてゆく。私は再び彼の後ろに続いた。長く豪奢な通路と質素な石壁に沿って先程歩いた道を通り、受付を通り抜けて広場へ戻る。広場にでた衛兵はやはり無言のままその端に沿って少しばかり進むと、三階建ての建物の前で止まった。建物は執政院と比べてしまえば小さく思えるが、街中に立ち並ぶ家々や建造物の中では十分大きな部類に属しており、そこへ年季の入った外観が加わることで立派な雰囲気を醸し出していた。

 

「ここだ」

 

衛兵が木製扉をあけて中へと入ると、物静かな執政院の雰囲気とは対照的で、喧々諤々としている活気に満ちた場所であり、足を踏み入れた途端、喧騒が耳の中に飛び込んで来た。言い合っている奴らは橋の上で見かけたような、一癖も二癖もありそうな奴らばかりだ。

 

数人が開いた扉に反応してこちらに視線を送ってくる。大半は興味を失い元の場所に視線を戻すが、一部は観察の目線を向けたまま離そうとはしなかった。彼らの眼差しは警戒と好奇、つまりは相手の利用価値を探るものであった。生前飽きるほど浴びたその懐かしい視線を前にして、少しばかり彼らに親近感が湧く。衛兵は纏わりつく視線を無視して、ロビーを通り抜けたので、私もそれに倣って部屋の中を堂々と横断し、彼の後ろに続いて階段を昇り、一番奥の部屋へと進んだ。

 

「―――失礼します! ギルド長はいらっしゃいますか! 」

 

衛兵は荒々しくノックをかますと、返事も待たずにドアを開ける。無遠慮の実例とでも言おうか、おそらくギルド長という存在は彼にとって上役なのだろうに、彼の態度には敬意というものが感じられなかった。

 

「ギルド長! 新しい迷宮探査希望者をお連れしました! ギルド長! 」

「大きな声を出しなさんな。聞こえてるよ」

 

低い声とともに、奥の部屋から全身に傷が刻まれた大柄な男が現れた。片目が眼帯で防がれた精悍な顔は、飄々としていながらも隙がない。塞がれていない方の右目は鋭くこちらを測る様な視線を送ってくる。ああ、強いな、と一眼で確信した。

 

首元は急所を隠すかの様にマフラーが巻き付けられ、また、骨や肉の稼働の邪魔をせぬよう、それでいて攻撃を受け流せるように皮鎧を着込んでいる。加えて、一切体軸のブレぬ幹と足運び。なるほど、長というのも頷けるというものだ。

 

「よお、新入り。俺は冒険者ギルドの纏め役をやっているゴリンってもんだ。それでお前さんが身一つで新迷宮に挑もうっていう大馬鹿か」

「エミヤだ。迷宮に潜るためにはこちらでの登録も必要だと聞いてやってきた」

「そう登録だ、登録」

 

嫌味を受け流して要求を突きつけると、ゴリンも対して反応もせずに奥へと引っ込み、子供の頭ほどもある水晶と数枚の紙、一冊の本を携えて戻ってくる。真球に近い形に研磨された水晶は、透明な内部に光を取り込み屈折させ、七色の輝きを見せている。

 

―――魔力……、か。

 

輝く水晶はその内部に膨大な量の魔力を蓄えていた。解析の魔術を使うまでもなく、内部に秘められた奔流から、その事実に気付かされる。また、水晶は外部を研磨されただけでなく、一定の法則に従って内部が魔力の通りを良くするように加工されており、その内部を循環する魔力は、水晶の取り込んだ光を七色に煌めき返す手助けをしていた。

 

―――まるで凛の宝石魔術だな。

 

共通項はふと彼女の事を思い出させた。ゴリンは近くのソファに腰を下ろすと、水晶を横に置き、こちらを手招き、机を挟んで正面のイスに腰掛けるようジェスチャーを送ってきた。

 

「エトリアにきたやつぁまず、ギルド登録が必要だ。他所で職業登録してるんなら、それを記入してくれてもいい。だが、戦闘職でないってんならここで登録しなおしていくことをお勧めするぜ」

 

私は水晶から目を離さないまま、ゆっくりとその言葉に従って腰を下ろし、尋ねる。

 

「戦闘職とは?」

「あー、エトリアの場合は、ソードマン、レンジャー、パラディン、ダークハンター、メディック、アルケミスト、バード、ブシドー、カースメーカーだな。知っての通り、転職すると、職業に応じてそれぞれ個別にスキルが使えるようになる。スキルはエトリアへの貢献ポイントが一定以上になる度、それがそのまま熟練度として計上されて、新たなスキルを習得することができるようになる。この辺りは普段職と変わらない」

 

職業につくと応じてスキルが使えるようになる。貢献ポイントがたまれば新スキル獲得やスキル熟練度を伸ばすことができる。なんとも単純で、管理する側にとっても、管理される側にとっても、都合の良いシステム。出来過ぎだ。

 

「……職業毎の特徴を知りたい」

「ほらよ」

 

ゴリンは私の問いかけに、本を投げつけて答えとした。宙をまっすぐ進んできた冊子を掠め取ると、上下を正して正面に向け治し、ページをパラパラと捲る。本の中には職業毎の特徴と、取得可能スキルの特徴、注意事項などが記載されていた。

 

「詳しくはそれに書いてある。勝手に見て参考にしろ。説明は面倒だ。……ああ、そうだ。一応言っとくと、転職すると今までの職業スキルが使えなくなるから注意しとけ」

 

ついでのように告げられた言葉にページをめくる手を止めて、ゴリンの目を見て聞いた。

 

「今までの特技が使えなくなる、と?」

「ああ、知らなかったのか? 転職の経験がない? それとも、お前さんのところじゃ違ったのか? まさか、そんな物騒な気配漂わせといて、なんかの戦闘職についていないかったってなぁことはないだろうが―――、基本的にその通りだよ。転職をした時点で以前のスキルは使えなくなる。普段の使うスキルは例外としてな」

 

返答に眉をひそめた。迷宮で活動するためには冒険者としての登録が必要だが、それをすると、今までの力を失ってしまう。私の使う魔術は、彼らのスキルと違い職業に寄らない技術であるため、力を失わない可能性の方が高いとは思うのだが、仮にそうでない場合、魔術の使えなくなるというデメリットはあまりにも大きい。

 

―――さてどうしたものか。

 

悩む私を見て、ゴリンは笑った。馬鹿にされたようで腹がたつ。少しムッとした顔で聞いた。

 

「何がおかしいのかね?」

「いや、たまにいるんだよ。お前さんみたいなのは。……以前のやり方や職業のがやりやすいってんなら、それでも登録してもらっても構わない。ただしその場合、こちらがあんたが本当にその職業の人間であり、スキルだのを使用できるのかって言う保証できないから、うちから他ギルドへの紹介は出来ないし、エトリアへの貢献ポイントも入らない。他にも、いくつか色々と不都合なことも発生するがまぁ、死ぬって程のことじゃあない」

「そうか」

 

少し悩んだふりをする。だが、答えは決まっていた。

 

「……いや、だがそうしよう。以前の職業のままでいく。それで登録させてもらいたい」

「了解だ。ならあとは、これにアンタの名前と職業、活動ギルド名を記入してくれ」

 

差し出された書類に目を通して、それぞれの項に記入をして差し出した。

 

「えー、名はエミヤ、職はアーチャー。ギルド名は……正義の味方? 随分とまあ、なんというか、個性的だな。間違いないか?」

「ああ、そうだ」

 

自らのギルドに冠した名前はかつての理想。理想は恥ずかしいくらい実現不可能と思えるほど無謀な位が丁度いい。冠した名前に負けないよう発奮することが出来る。何よりこれは誓いなのだ。かつて私を救った養父より託された想いは、長い時間の経過によって一度、一切の光を反射しないほど黒く濁ってしまったけれど、過去の自分と赤い宝石のような彼女より研磨し直され、再び胸の裡で煌々と輝いている。

 

―――彼女と彼に与えられた命を無駄にしないためにも、私はかつての理想を追いかける。

 

多少の無茶など承知の上だ。笑われようが知った事ではない。傷つく事なしに、本当に叶えたい願いなどを叶えることなどできない。理想の存在に少しでも近づくため、その名を背負う覚悟をこの場で決めてやるのだ。

 

 

記入を終えて広場に戻り、衛兵と別れて壁に背を預ける。夜の寒さに温度を奪われつつあった壁面は私の体から熱を収奪してゆく。その怜悧さに辟易として壁から背を浮かせると、ズボンのポケットに手を突っ込んで空を見上げた。かつての時代より天に近いこの場所では、数多の星が燦然と誇らしげに己を主張している。その中にあって一際目立ち、大きく輝く月は、かつて正義の味方になると誓ったあの夜のように、優しく儚げな光を放っていた。

 

―――いつか君たちのためにも、この誓いを、願いを、想いを、叶えてみせよう

 

夜空の下で誓いを新たに念ずると、病室で笑い合う二人が安心した、と笑みを向ける姿を幻視した。二人の笑みは、かつて養父が逝去したあの夜みせたものと同じ柔和なものだった。それを見て安堵を得た自分の心境を省みて、自嘲する。いつから私はこんなに弱くなったのだろうか。感情に意識を振り回されるこのような体たらくでは、とてもでないがまともに戦えまい。

 

そして気を張っていられるのは、そこまでだった。生身の体というものはどうしてこうも不便なのか。記憶と想いが混じった事で生み出された幻想は身体中に張り詰めさせていた緊張の糸を残らず断ち切って、全身を弛緩させてしまった。気の抜けた肺は溜め込んでいた想いを乗せて、口元より息を吐き出させた。想いは白色を帯びて靄に消えてゆく。

 

遅れて、神経を逆撫でる感覚が背筋を這い上がった。頭が痺れる。幻想により生じた想いがさらに遅れて薄れていた感情を刺激し、生まれた感情は半日前から緩んだままの涙腺を刺激して、眼から水がこぼれ落ちそうになる。ああ、全く、生身の体はなんとも度し難い。

 

―――文句言わないの。せっかく機会共々用意してあげたんだから、せいぜい活用して頂戴。

 

追憶と感傷に浸り侮蔑と哄笑が漏れそうになったとき、広場を行き交う人々の中から涼やかな声が細い風に混じってするりと脳髄に入り込んできた。まるで、凜が存命してこの場にいたなら返ってきそうな悪態に、思わず息を呑んで声の聞こえてきた方へと意識を向ける。

 

―――そうはいってもよ。三層の番人限定の素材を二人で回収はきつくねぇか?

―――あんたのミスでみんなに被害が出たのよ。これくらいの罰は当然でしょ。

―――そうかもだけど……っくしょぉ、だりいなぁ。

―――文句言わない。さ、私も手伝うんだから、やな事はさっさとすませちゃいましょ。

 

目線の先では仲睦まじそうにやり取りをする二人が雑踏の中へと消えてゆく。会話の内容から、彼はなんらかのミスを犯し、彼女はそれを挽回する機会を彼に与えてやったのだと言うことがわかった。そして私にはそれが、いつかの未来、彼が己のミスで自責する事が無いように、きちんと罰してくれたのだと言うことがわかった。彼女はそうして失敗を犯した彼が、再び胸を貼ってスタートラインに立てるように気遣っている事も、理解できた。

 

その甘すぎると思う程に厳しく、しかし優しい気遣いと言葉は、かつて凛という少女が持っていたものと良く似ている。どこまでも正しい彼女の言葉は、まるで凛の言葉であるかのように私の心中に染み入り、自己憐憫と自嘲にはやめようと思わせる効力を発揮した。

 

―――そうだ、私は、誰かのためではなく、私のために正義の味方になるのだ

 

先程幻視した彼らの笑顔と、それに基づいての誓いや願いや想いが、他者に救いの理由を求めるという脆弱さを孕んだ自己完結であることに気づき、やはり人はすぐには変われないのだと苦笑する。だがもう気づいた。だからいつかは変われる日も来るだろう。急ぐ必要はない。時間は有限であるがまだカレンダーを捲るのが億劫になる程度には残っている。まずは彼らのようにゴールの瞬間を焦らず、外れた道からを戻って、スタートラインに立ってやることが重要だ。

 

己よりずっと年若く未熟な彼らは、今まさにスタートラインに戻ろうとして寒い春の夜を駆け抜けていった。彼らの目指す先がどこかは知らないが、私も彼らに習おうと素直に思えた。私が今回ゴールと定めた迷宮の踏破という目的が、正義の味方という願いにつながっているのかはわからない。ただ、それでもゴールを自ら定めて、走る過程に意味を見出せれば、たどり着けないとしても、その生涯はどれだけ幸せな事なのだろうと思えた。

 

人は、終着にある届かない理想に、憧れて届かぬと知りながら手を伸ばしている、その瞬間が何より幸福な時であるのだ。いつかは届くかもしれないと微熱にうなされながら祈り、有限の時間を必死にもがいて灼熱の中を泳いで生きるからこそ、美しいのだ。

 

無限に続く時間と空間の檻外にいた私を、有限で終着点のある檻の中へ閉じ込めなおしてくれた凛と士郎へ何度目になるかわからない感謝を送る。追想の中に浮かぶ彼らは私に向けて微笑んではいない。しかし、いつか、理想を駆け抜けようとして力尽きた時、その微笑みが追憶の中で養父が私に向けた笑みと重なってくれる事を夢見て、私は体を前に動かす。

 

私はこの未知の満ちる未来世界で、理想に生きて死ぬための一歩を踏み出した。足裏は高らかに石畳を叩き、大きな音を鳴らした。そのまま大業に、大股で闊歩して見せると、人波が己の存在を気遣って割れてゆく。たったそれだけのことに、少しばかり救われた気がした。

 

昼間のように日光の影を選んで裏を歩くのではなく、月光と街灯の照らす街を堂々と歩く。いつかは描いた理想に辿り着いて見せると、他の誰でもない私自身に誓った私は、胸を張って歩くことにもはや何の躊躇も抱いてはいなかった。

 

世界樹の迷宮〜 長い凪の終わりに 〜

 

第二話 理想を目指し、未知を行く 終了

 

 



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第三話 始まる冒険者の物語

 

第三話 始まる冒険者の物語

 

力だけでは届かない。

自信だけでは入り口に立てすらしない。

 

 

エトリア中央に位置するベルダの広場は、相変わらず汚れた冒険者と清潔な格好をした一般人で賑わっていた。ギルドを後にし、衛兵と別れてから、そろそろ小一時間が過ぎようとしている。私はその間、こうして広場の隅行き交う人をじっと眺めていた。

 

暗闇の中、真剣な表情で一人に視線をやってはじっと眺め、しばらくして視線を外す。そんなことをもう数十回も繰り返している私は、一見してどう考えても不審人物であるのだが、一人としてそのことを咎める人間は存在しなかった。

 

私が不信がられなかったのは、ひとえにこのベルダの広場が待ち合わせ場所として利用されるからだろう。彼らは此処を起点として、執政院ラーダへ報告に行ったり、冒険者ギルドへ登録へ行ったり、金鹿の酒場へ食事や依頼を請けに行ったり、ケフト施薬院に仲間を迎えに行ったりする。だからこの場所で小一時間ほど、人の顔を眺めていても私は不審者扱いされずに、お陰で強化した耳で人の話を立ち聞きし、様々な情報を収集する事が出来たのだ。

 

……さてもう十分だろう。最後にもう一度、五人組の冒険者集団に視線を送り、彼らの持つ道具を解析し、記憶の中に保存されている情報と照らし合わせる。照合は問題なく完了した。

 

準備が整ったこと確信した私は迷宮に向かうべく、街の出入り門に向かう。途中、人の気配と視線のない場所を選んで裏路地へと体を滑らせると、道の窪みを見つけて身を隠す。窪みは夕暮れのぼやけた光の下でもはっきりと汚いと認識できる程、雑多なゴミと壊れた道具に溢れていた。気圧されて少しばかりたたらを踏むと、ゴン、と瓶を後ろ足に蹴ってしまう。まさに足の踏み場もないと言う奴だ。

 

廃棄場か何かだろうか。こんな場所に人がいるとも思えないが、万が一のことがあってはたまらないので、一応視力と聴力に強化魔術をかけて、人の有無を確認する。ふむ。

 

―――念を入れて正解だったか。

 

周囲のゴミ山を見渡すと、くぼみの一番奥に扉があり、その扉の上には「マギ&アム道具店」と左から右に向かって記載されている看板がかけられていることに気がつく。おそらくここは道具屋の裏口で、廃棄する予定の物を置いたりする場所なのだと見当をつける。きっと捨てる道具だから扱いも雑なのだろう。

 

そうして無秩序に置かれた道具を眺めたのち、裏口の扉の上部にはめられている透明なガラスに目をやる。その向こう側、すなわち道具屋の内部は、分厚い生地のカーテンに拒まれて確認することは出来なかったが、ガラスとカーテンの隙間から灯りが漏れていないことを確認して、道具屋は現在無人であると結論づける。

 

―――ならば問題もなかろう。

 

一応、もう一度具に周囲を探ったのち、魔力を魔術回路へと流し込み、励起させる。

 

―――投影開始/トレース・オン

 

魔術はなんの問題もなく発動し、即座に手中へと薄茶色の皮のショルダーバッグが現れた。旧迷宮に出現するネズミとモグラと牛の皮と植物の蔓の加工品から作られているらしいバッグの表面を撫で皮を引っ張り、バッグの内側より強めに拳を叩きつける。拳に込められた薄い皮なら破れてしまうほどの威力が内張の皮に吸収されて、表面が軽く撓み波打つ。手を引っこ抜いてバッグの口を開いて強めに伸ばすと、元の二倍程度にまで広がった。

 

続けてその辺に落ちている薄い瓶を拾って中へ入れると、バッグの上蓋を閉じて多少手荒に石畳へと叩きつける。ぼふん、とバッグは地面に落ちて、一切バウンドしなかった。拾い上げて中を見てやると、薄いガラスの瓶は内張の皮の中で先程と変わらぬ姿を保っている。

 

なるほど、柔らかくも頑丈。おまけに伸縮性に富んでいる上、多少なら衝撃も吸収してくれる、と。これは頼もしい。冒険者である彼らが愛用する理由もわかると言うものだ。

 

続けて鞄の中に突っ込んだ拳を開くと、再び詠唱を唱える。すると空っぽであった鞄の中がみるみると音を立てて雑貨に溢れてゆく。投影により鞄の中へ量産されて行くそれらは、外傷を癒す薬や、血液を増やす薬、毒や麻痺、石化といった状態異常を治す薬に、身体能力をあげる薬といった、迷宮に潜る冒険者なら持つ道具である。これが小一時間における観察の、もう一つの成果だ。

 

投影により生み出したものは真の品よりもランクの劣る模造品ではあるが、良品ばかりを選んで投影したがゆえ、どれも実用に耐えうる効力を発揮するだろう。金や時間の余裕はないが取り急ぎ代用品が必要になるという、投影魔術を本来の使用用途として使うこの時ばかりは、己の持つ魔術の利便性を素直に認められる。

 

生み出した道具同士がぶつかって壊れてしまわぬようバッグの中を整理すると、最後にラーダにてもらった地図道具一式を放り込んで、肩に引っ掛け、細かい調整を済ませると満足して踵を返し、カツカツと石畳を叩きながら、雑踏の中へ混じる。

 

さて、ではこの腹がもう一度音を立てて空腹を主張する前に、急いで迷宮に向かうとしよう。

 

 

迷宮、と聞いて人はどのような光景を目に浮かべるのだろうか。私同様、ニ十世紀の感性を持つ人間なら、例えばそれは、遊園地にあるミラーハウスやお化け屋敷のような迷路を思い浮かべるのではないだろうか。

 

あるいは東京へ行ったことのあるなら、新宿駅と答えるかもしれない。工事の人間なら下水道と答えるかもしれないし、海外に目を向ければ、カタコンベと答える人間がいれば、インドの階段井戸を上げるひねくれものもいるだろう。

 

あるいは魔術をかじっていたり、オカルトに傾倒したものなら、クレタ島にあったとされるミノタウロスを閉じ込めるためのラビリンスを思い浮かべる人間もいるはずだ。

 

そう、例えば、私のように

 

世界樹の新迷宮、という単語を聞いた時、アリアドネの糸という名前の道具がある事実と、この大地が人間によって造りあげられた大地であるという事前情報から、私はてっきり、迷宮が人工的に作り出された迷宮だと思い込んでいたのだ。

 

それが大いなる勘違いだと気づかされたのは、エトリアの街、入り口に立っていた衛兵に教えられた道なりをたどって、黄昏の空の元、入口にたどり着いた後の事だった。

 

新迷宮はエトリアという街から一時間ほど歩いた先、こぢんまりとした森の中に入り口が存在する。いや、森の中、というのは適当な表現ではないか。なぜなら入口は、地滑りでも起きたかのように縦にずれた地面の狭間にあるからだ。

 

森と森を二つに分断するその断崖中に土をくり抜かれた空間こそ、新迷宮の入り口なのだ。地面と地面の間に存在するその空いた間には、不思議なことに、上下に生え揃った樹木と同じ種類のものが天井に向けて成長し、その頂点が天井にぶつかる直前で成長を止めている。

 

地滑りにより生じた縦割れが年月をかけてやがて川になるというのは聞いたことがあるが、こうもぽっかりと横に開かれたくり抜かれた土穴の中に森が広がるというものは見たことがない。なんとも珍しい光景だ。

 

いや、それよりも特筆すべきは、この視界に映る一切合切が赤い景色か。前評判は聞いていたが、地面の土から花草、樹木に至るまで、全てが赤の装いをしている光景というのは、まずお目に書かれるものではない。

 

例えるなら一面の山肌が紅葉に染まっているのが近いだろうが、四季が巡る都度に目撃する事が出来るその光景とは違い、樹木から地面までの一切が真紅に染まった光景というのは、あまりにも色味が純粋にすぎていて、人の入る余地がまるでない。赤く塗ったキャンバスに別の色を乗せてやれば、それだけで色の調和の不自然さが目立つのと同じだ。

 

―――なるほど、人を拒む土地、か

 

噂に聞いた誰かの例えが適当な表現だと感心しながら亀裂の方へと足を運ぶと、近くには兵屯所がポツンと一つ立っており、また、屯所近くにある石碑の周囲には、幾人もの冒険者と兵士がたむろしていた。おそらくここは待ち合わせ場所か何かなのだろう。私は石碑を横目に通り過ぎると、私は屯所の兵士に話しかけて探索許可の書類を提出する。

 

無愛想なもので、彼はただ名前と許可のサインの部分が入った部分だけを一瞥して、判を押して目線も合わせる事なく突っ返してくる。エトリアの入り口にいた衛兵とは違う、横柄とも思わせる態度。だが私は、彼を責める気にはならなかった。

 

額に滲む汗と早い呼吸から、必死に恐れの感情を押し殺した結果の態度であることを見破ったからだ。彼はおそらく、この異常な場所に怯え、しかし、兵士としての矜持があるゆえ逃げ出さず、応対を行なっているのだ。それだけでも彼は十分立派に兵士としての役割を果たしていると言える。だから私は、その震えを見なかったことにした。

 

書類を受け取ると一礼をして、大地の隙間の前に陣取っている無表情を保つ兵士に許可が下りたことを伝え、そして早速迷宮の内部へと足を向ける。そして迷宮との境目に立つと、一度足を止めて、新迷宮の入り口を仰ぎ見た。

 

大地の隙間に生えた樹木は隆々そびえ立ち、地上との境である土の天井を支えている。吸い込まれるようにして洞穴に足を踏み入れると、途端、樹木の幹、枝、葉はもちろん、地面の土に至るまでの真赤なという光景は異常な刺激となって、私を威嚇する。

 

これが世界樹の新迷宮。てっきり上下左右を石壁でおおわれた、人工の遺跡か何かこそが新迷宮なのだろうと思い込んでいた私は、少しばかり当てが外れて、心中にて、こっそり気を落とし嘆息。周りに悟られないように、静かに頭を振るう。

 

迷宮が人の手によって作り出されたものであるならば、私は迷宮に解析の魔術をかけることによって地形を一気に把握し、地図に転写することで完成させてやろうと目論んでいたのだが、自然が作り出した結果生まれた迷宮とあっては、解析の魔術で一気に地形を把握してやることが出来ない。

 

私の使用する解析魔術というものは、その対象が無機物である場合は、その物体の構造から、作成年数、誰が作り、用い、どのような経緯を経てそこにあるのかまで読み取ることも出来る。そう、対象が無機物であった場合は、だ。

 

しかしその解析対象が、無機物ではなく何らかの命を持った生命体である場合、私は途端にその構造を把握してやることが困難になる。生き物の内側は、無機物のそれとは違い、外界から隔離された固有の土地だ。そこに解析のために力を注ぎこもうとすると、当然、その土地の所有者は別の土地から無作法に入り込んでくる力に反発し、ひどい抵抗にあう。

 

要するに、解析とは、他人の家に土足でずかずかと入り込み、部屋の状態を無遠慮につぶさに調査して、情報を盗み取る行為なのだ。そこに家主がいれば、家主が盗人相手に抵抗して硬く戸締りするがために、私の「解析魔術」は家の中に入り込めないようになり、結果、情報を読み取ることが非常に難しくなるというわけだ。

 

―――となれば、やはり中に入って直接確認し、地図を作りあげるしかないか

 

覚悟を決めてさらに足を踏み入れてゆくと、すぐに周囲より闇が押し寄せてきた。私は背後から入り込んでくる煦々たる黄昏の光が絶えてしまわないうちにランプを取り出すと、着火。すると視界に映っていた深い赤、緋、朱の色は、炎の発する柔らかな光を帯びて、少しだけ淡い色を取り戻した気がした。私はその柔和な炎に癒され少し気を取り直すと、炎の揺らぐ輪郭に守られた空間の明るさを頼りに、さらに奥へと足を踏み入れてゆく。

 

一歩、また一歩と進むごとに、強化した感覚が違和感を訴える。目の前の赤が、鼻腔をくすぐる腐臭混じった甘ったるい臭いが、不自然なまでの静けさが、肌を撫ぜていく生暖かい風が、分泌された唾液の苦さが、お前なんて招いた覚えはないと断言して、迷宮の中への侵入を試みようとする者の拒否であるかのように感じる。

 

そう、違和感はまさに、新迷宮の警告なのだろう。

 

ここは人の来て良い場所でないから早々に立ち去れという警告を無視して、私はバッグより筆記用具と用紙を取り出すと、この場所に来た目的を果たすべく、紙面の上に記入を開始する。多少ふやけた紙を引っ掻く不快さも、迷宮の警告かもしれないな、などとくだらない事を考えながら、私はひたすら記入するとともに、新迷宮の奥へと進んで行った。

 

 

世界樹の新迷宮

一層 真赤の樹海

一階「来訪者を拒む赤に染まりし異界」

 

 

闇の中を駆ける。強化を施した身体は時速四、五十キロの速度での疾走を可能とするが、その速度があっても、地形把握と地図製作の作業は予定とは異なり、捗らない。新迷宮は名の通り内部が迷路のように入り組んでおり、何度も行き止まりにぶち当たっては来た道を引き返す工程を繰り返し行う羽目になるからだ。今までに六度。それが無駄足を踏んだ回数だ。

 

また、この大地と大地との狭間にある空間は、天井の隙間から落ちてくる月の光を周囲の赤土と赤樹木が反射して不気味な赤さで満たしており、その朧げな赤さは侵入した者の気を昂らせ、些細なことに気を揉ませ、そして苛立たせる効果を発揮する。

 

それは例えば、索敵の際などに神経質なまでに周囲の警戒を行い無駄に気を揉んでしまう結果を生み、そういった細々とした出来事の積み重ねが、私にいつも以上の疲労感を呼んでいるのだ。

 

それでもなんとか元英霊としての意地を以ってして己を律し、能力をフルに活用して迷宮の中を静かに駆け巡り、私は紙面の四割程度を埋める事に成功した。地図を片手に胸元より投影しておいた機械式の懐中時計を取り出し、蓋を開いてやると、迷宮に潜入してからおよそ六時間の時間が経過していることがわかる。

 

―――たった六時間でこれか

 

己の疲労具合を考えるに、一日の半分ほどは費やしたのではないかと思っていたが、どうやら、たったそれだけの時間とはいえ、いつも以上に気を張りながら、赤の森の中を駆け回る強行軍は、私に時間の経過を遅く感じさせるほど、私の体力と精神力を削っていた事に気がつく。肩腰を回してやると骨の鳴る音が聞こえ、両腕を広げ、胸を張ると、縮こまっていた筋肉が伸びる感覚を覚えた。ああ、なるほど、だいぶ疲労がたまっているのだな、と思う。

 

ただし、地図はその苦労の甲斐があったと言えるだけの出来栄えだった。区画ごとにきちんと区切られ、迷いやすい場所は何を目印としてすれば良いかを書き込み、次の分かれ道や三叉路、丁字路までどのくらいの距離があるかをきちんと書き込んだ地図は、たとえ迷宮の事を知らぬ者が迷い込んだとしても、脱出を可能とするだろう。私は自らが作り上げた地図を見て、満足の吐息を漏らす。そして私は前方を見た。

 

暗い闇の中、赤い地面には直径二メートル程の穴が斜めに空いている。斜度は二、三十度といったところだろうか。穴の中にランプを入れてみると、それは光が奥を照らしきれないほど長く続いており、この洞穴が何処かに繋がっているのだろうという直感を得た。

 

私は手近にあった石を握ると、地面に不自然に空いた穴めがけて投擲した。洞穴の斜度と平行に投擲された石は、間闇の中へと消えてゆくと、しばらくのちに地面とぶつかり、反射音を上げた。少なくとも、この先幾らか進んだ場所までは地面が存在するらしい。おそらくこれが次の層に続く階段なのだと見定める。

 

さて、クーマの指定にあったのは、迷宮一層一階分の地図。だとすれば、次の層に続いていそうな道も見つけている今、おそらくこれで一階の地図は完成なのだろう。クーマより請けた依頼は、一層一階の地図を持ってくる事であったわけであるし、私はそろそろ撤退時であると判断する。まだ接敵もしないうちから帰るなど多少慎重にすぎる気もするが、英霊時代と違って無茶の効かない体だ。臆病なくらいで、丁度よいだろう。

 

決心をしてランプを持ち直し、踵を返すと、今まで通って来たはずの道が今度は通せんぼをしているような雰囲気を醸し出していた。侵入など許可していない。そして、許可なく侵入したものが勝手に出ていく無礼も許していない。きっとそういう事なのだろう。

 

強まる不快感。どうやら新迷宮は私をここで仕留めておくべきであると判断したようだ。やれやれ、狭量な事だ。無視して来た道を引き返していると、周囲から重圧は徐々に強くなってゆく。重圧は己が彼らにとって招かれざる客なのだという異物感を私に強く感じさせた。

 

異物感。自らが思ったその言葉は、とてもしっくりとした表現である気がした。そう私は今、まさに迷宮という巨大生物の腹の中に迷い込んだ異物なのだ。蔦は毛細血管、砂は細胞とすれば、樹木は静脈か、動脈か。ぼうっと突っ立っていれば抗体に退治されるか、体液に溶かされてしまう。そんな馬鹿げた誤認を確信と思わせるような気配がこの異界にはあった。

 

―――人が溶かされる、赤き異界

 

自らの言葉に引っかかりを覚える。二つの言葉は結びつき、光景と共に大脳新皮質と側頭葉を刺激し記憶を掘り起こす。あれはいつのことだったか。生前、否、もっと直近の……

 

「―――悠長に考えている場合ではないか……」

 

ポツリと漏らす。思考は周囲より漂ってくる荒々しい気配に妨げられた。敵の数は……四。

 

先ほどから私が無駄に精神をすり減らしている原因の一つが、これだ。奴らは一、二時間ほど前、瞬間だけ気配を露わにして以降、ずっと私に付き纏い続けてくる。正体を確かめようにも、近寄ろうとすれば、その気配を断ってどこかへと消えてしまうので、奴らの正体は未だにわかっていない。だが少なくとも私が彼らに歓迎されていないことだけは、闇の向こうより放たれる剣呑な気配が、その予感が真実である事を証明していた。

 

―――また今度も、近づくと離れてくれるのだろうか……?

 

そう思って、地面を摺り足でゆっくり進むと、闇の向こうで気配が増大したのがわかった。視界に映らない敵が一瞬だけ投げつけてきた全身を舐めるような値踏みの視線伴う気配と、直後に気配を消した動作からは、戦闘の意思を感じとることができる。引き返すという行為がトリガーになったのか、私はついに仕留めておくべき相手として敵に認識されたらしい。

 

すぐに戦闘が始まる。判断と同時に素早く筆と地図をバッグへしまい込むと、地面にランプを置くと、揺らぐ炎の輪郭が闇の中に自分の領域を作り出してくれた。呼吸を正して力を抜き、己の身体に強化の魔術をかけると、強化を施された耳が地面をこする音を捉えた。これはおそらく―――

 

「ちっ―――!」

 

ランプに照らされた赤の森の中で、周囲の樹木の陰から飛び出して来た奴らは、果たして予想通り蟒蛇であった。その数は四。周囲と同じく全身が赤く染め上げられた体を持つ蛇は、一口で人を丸ごと飲み込む事が可能な程の巨大な口を大きく開けて、獲物を仕留めるべく、四方より炎の輪郭の中心にいる私へ突撃してくる。

 

その際、炎の灯りに大きく開かれた口腔の外でキラリとした何かが光を反射した。無数に宙に散る黄色く輝くそれは、口腔内に几帳面な感覚で生え揃えられた数十もの牙から排出され飛び散った液体である事がわかる。

 

その液体と蛇の巨体とにより、私は三百六十度の進路と退路を塞がれている。液体は状況と敵の姿から予測するに毒だろう。どうあれ、敵の進路を防ぐようにして嫌がらせのごとく撒き散らかされた液体に触れれば、ろくなことにならないだろう事は確かだ。

 

―――ならば真正面より突っ込んで斬り伏せるのは悪手か

 

なるほど、毒液とその巨体で逃げ場を奪うとは、獣ながら見事なコンビネーションだ。だが、舐めてもらっては困る。いかに包囲しようが、所詮は二次元的な包囲陣。ただの人になら通用したかもしれぬが、仮にもこの身は元々英霊という高次の存在であったのだ。

 

その巨体と毒液のコンビネーションによる包囲網など、こうして強化を施した足で宙に逃げてしまえば、恐れるに足らない―――

 

「―――なにっ!」

 

と、思い切り地面を蹴って回避を試みたその先に奴はいた。跳躍の先、樹木の上より大口を開けて落ちてくるのは、今しがた地上で見たのと同種の蟒蛇だ。下のやつらよりも一回り大きな姿をしたその蛇は、しかし下のやつらと同様に、大きな口から黄色い毒液を散布しながら落下してきていた。また、牙より勢いよく飛沫される毒液は奴の落下速度より早くこちらに迫っている。

 

強化魔術のかかった思考は高速で動き、頭上より落下してくる毒液の雨が体に触れた場合の被害を予想する。結果、広範囲に撒き散らされたそれを、宙に跳躍したばかりのこの状態から全てを避けきることは不可能であると告げた。どれだけ楽観的に結果を見積もっても、少なくとも一雫は触れてしまう。

 

どうする。思考が打開策を思案し始めた時、じゅう、と強化した耳は何かを焦がす様な音がした。反射的にそちらへ視線をやると、外套の端が溶けているのが映る。どうやら地上の方の蛇どもの毒が掠めていたらしい。思わず舌打ちをする。

 

いかなる理屈かは知らぬが、奴らの毒は聖人の加護を受けて防御力を増した布を貫くほどの猛毒であるらしかった。聖人の防護で耐えられぬならば、当然元は凡夫である私程度がその毒に耐えられようはずもない。困ったことに、明らかになった事実は、益々、この毒液に当たるわけにはいかないという事実だけを明白にしてしまっていた。

 

しかし諦めず逃げ場を求めてあたりを見回すと、眼下では四方向より凄まじい勢いで迫ってきていた奴らが見事な姿勢制御で激突を避けた状態で固まっている事に気がつく。奴らはそして、じっと鎌首を擡げてこちらを見つめている。

 

敵の野暮ったい瞼の奥、その向こうにある赤い瞳と細められた瞳孔からは、感情の色が読み取れない冷徹な視線がこちらに向けられていた。その刃物の鋭利さを思い起こさせる視線からは、獲物がどこに逃げようと食らいついて見せるという意思を感じる。思わず舌打ち。

 

―――獣と思って侮っていたか

 

初めから地上よりの攻撃は囮だった。否、地上より繰り出す気配を感じ取れぬ相手ならそれでも十分に仕留められるし、たとえ気がつくほどの手練れでも意識をわざとそちらに集中させることで、気配を消した上空からの攻撃を気づかせないようにする、二段構えの作戦。

 

―――そして油断している相手を仕留めるのは、どちらにせよ必殺の毒液というわけか。

 

上の敵が散らす悪意の結晶片がこの身と接触するまであと幾秒もない。空中ではろくな身動きは取れない。絶体絶命か。そう考えた瞬間、頭上より落ちてくる敵の口角が天の方向に引き上げられたのが見えた。口腔内より外に出ている舌の先がチロチロと蠢く。

 

その動作は、獲物である私の苦悩を見抜き、絶望の未来に抗おうと無駄な努力を重ねている、と嘲笑う意図を含んでいる気がして、私をひどく腹立たせた。

 

「舐めるなぁ! 」

 

生じた怒りを雄叫びに乗せて、それと共に両手の中へ一対の短剣を投影する。対称的に黒白の意匠が施されたそれは、宝具と呼ばれる、「干将・莫耶」と呼ばれる中華の宝刀―――を模した物に私が改良を加えた投影品だ。

 

私はその黒白の双剣の一本ずつを上下向かって投擲した。宝具と呼ばれる二つの短剣は毒液の障害を跳ね除けて、蛇に向かって突撃する。続けて私は、自らが纏う赤い聖骸布を即座に多重投影すると、膝を抱きかかえ、全身を丸く縮こめながら、自らの肉体にきつく巻きついてくれるよう、力一杯己の体に叩きつけた。全身を布が覆っていく。そして布が口元まで覆い隠す直前、世界に向けて一言呟いた。

 

「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」

 

放った言霊により離れた連理の双剣はすぐさまそれぞれの刀身から光を放って同時に点滅し、直後、膨大な熱エネルギーを放ちながら崩壊、そして爆発した。上下の離れた二点で生み出された膨大な熱の奔流はまず周囲を照らす白光となり、続けて圧を生み、さらには不規則な暴風を呼んで、敵である蛇たちはおろか、生み出した張本人である私さえもその嵐の内部に飲み込んで荒れ狂った。

 

その暴威や凄まじく、布で覆われ暗転した視界の中にまで光が飛び込んでくるほどだった。固く瞑った目でそれでも眩しいと感じた光は、全身を襲う熱と衝撃により頭が悲鳴をあげた結果だった。事前に聖骸布をぐるぐると巻きつけたは良いものの、体の関節の動きを阻害せぬ柔らかさを保持された布は、宝具が崩壊する際に発生するエネルギーが生み出す熱と衝撃を全て防ぎきれる程の頑強さを持っていなかったのだ。

 

少しばかり見積もりが甘かったが、とはいえ五体は満足の状態で残り、感覚も死なずに済んでいるのだ。あの聖骸布の守りすら貫く毒液を浴びれば、血肉が融解して今より酷いダメージを被っていただろうことを考えれば、安い損害といえるだろう。そう、この程度の損害は、状況を切り抜けるための必要経費だったのだ。

 

全身を揺さぶる熱と衝撃に口元を強く噛み締めて耐えていると、やがて投影した聖骸布の表面が大きく削られて、薄くなった部分が破けた。同時に投影された物体はその形を崩されたことで空気の中に消えてゆく。守りを失った全身を熱風が舐めるように通り抜けてゆき、露わとなっている皮膚に痛みが走った。私は熱気と痛みに促されるようにして、瞼を開ける。

 

開けた目は天と地とを交互に映し出す。世界がぐるりと回っていた。否、私は未だに宙を舞っていたのだ。ただ、もうゴールはすぐそこである。私はもう一度聖骸布を投影すると、空中で勢いよく広げ、勢いを殺しながら落下の方向を調整し、地面に着地した。

 

けれどやはり、布と両の足を使っただけでは宝具が爆発した際生じた衝撃を受け流しきれず、私は着地後多少地面を転がり、全身を使って衝撃を分散しながら地面へと逃ししてやる。

 

やがて起き上がって、すぐに肺の中の息を吐くと、着地と回転の衝撃で逆流してきた胃液が本来関係な部分へと到達し、私は思わずむせてしまった。ツンとした酸味が鼻の中に広がるが、無視して大きく一度咳き込むと、煙の方へと目を向ける、眼球の表面を異物が襲った。

 

目をしぱたたかせると眼球に入った埃が涙に流れて落ちてゆく。そこでようやくまともになった眼球を用いて周囲の光景を確認、状況を把握しようとするが、爆発の際ランプが吹き飛んでしまったため、目の前には赤暗い闇が広がるばかりである。私は再度ランプを投影し、地面に置くと、周囲の気配を探った。

 

直後、赤い土砂と樹木の破片と葉が視界一面に広がる中、私の耳に地面を叩く大きな音が煙の向こうから聞こえてくる。音の発生源はなにか探るべく煙幕の方へと凝らすも、わからない。警戒を解かないまま、布の投影を破棄すると、先と同じ黒白の双剣を投影する。意識は周囲に散らしたまま、体は意識に反応してすぐに動けるように弛緩させておく。

 

気配を探っていると、火傷した肌を風に乗った埃が叩き、あちこちの部分がじくじくと痛んだ。どうやら痛覚はまだ死んでいないようだ。己の体の頑丈さに感謝しつつ、痛みを無視し、周囲に気を配ったままに待機する事、十数秒。やがて煙は風に撒き散らされてゆき、目の前に自らが起こした結果が広がった。

 

まず見えたのは、上空にいた大蟒蛇……の残骸だ。すぐ近くにまで飛ばされて来ていた蛇の骸は、剣より生じた爆発により頭部と胴体の大半を消し飛ばされ、そして尻尾に近い部分だけがまともな形で残り、地面に叩きつけられたのだ。先程の音はおそらくこれだろう。

 

蛇の骸は尻尾から先も熱が体内に侵入したようで、ちぎれ飛んだ断面に焼け爛れた跡が目立った。見るも無残な死骸を見て、これは間違いなく死んでいると判断する。さて、これで空中のは片付いたとして、地上に残っていた四匹は―――

 

「こちらも死んでくれていたか…… 」

 

自分が生んだ光景とはいえ、四匹の死骸は酷い有様だった。頭上より熱波と衝撃、暴風を叩きつけられた奴らは、原型こそ留めているものの、ランプの光を受けて美しく赤く輝いていた鱗は、殆どが真っ黒に焦げて、剥げて、周囲にひどく飛び散っている。鱗剥がれた場所より覗く肉や内臓は、こちらも元の色がわからなくなるほど炭化し、あるいは爛れていた。

 

おそらく死んでいると見て間違いはないだろう。とはいえ、こちらはまだ原型を留めている。蛇といえば死と再生の象徴であるし、油断はできない。確認のために数本の剣を投影して奴らの頭に投げつける。

 

焼かれ柔らかくなった肉は一瞬の抵抗を見せたが、しかし、すぐに抵抗をやめて異物を体内に受け入れ、四匹の頭に赤い血の花が咲く。その血飛沫が見せた血液の赤だけは、この異なる赤色だらけの世界で、唯一自分の知る赤と同じだった。たったそれだけのことで、何故だか不思議と気持ちが落ち着いてゆく。そして冷静になった頭で考える。

 

蛇は剣が刺さった際、びくん、と剣が飛来する勢いに負けて体が跳ねたが、それだけだった。これが演技だというなら大したものだが、おそらくそれはないだろう。先の一匹と合わせて、これで五体。他に敵のいる気配もない。多少隙を見せても、襲いかかってくる様子もない。

 

しばらくした後、残心を解いて、ようやく戦いは終了したのだと判断を下す。安堵に長く重い息を吐きだすと、たったそれだけの動作で全身に鋭い痛みが走った。緊張の糸が切れると同時に、脳内の興奮にて抑圧されていた神経が騒ぎ出したのだ。髪を揺らす程度の風が吹くだけで全身に剣山を刺されたかのような痛みが走ることに、思わず苦虫を噛む。

 

省みれば自業自得の怪我とはいえ、これは少し代償が大きすぎる。宝具の爆発に身を晒すという無茶をやったせいで、身体中のあちこちに軽度の火傷が残っている。爆風の大半は聖骸布が防いでくれたものの、殺しきれなかった衝撃と炎熱はこの身に少なくないダメージを残していった。さて回復の必要があるが……そうだ、丁度いい。試してみるか。

 

突如名案を思いついて、バッグより薬液の入った瓶を取り出す。それはメディカⅢという、この世界で一般的に外傷に使われる回復薬の上位版だ。信じ難い事に、この薬は、振りかければすぐさま効力を発揮して切創、擦過傷、火傷といった外傷を癒してくれるらしい。

 

勿論、投影品であるが故に多少効果の低減は見られるだろうが、それでも冒険者たちの話によれば、切断された腕や抉れてしまった肉すら再生させる効力を持っているらしいので、相当の効力を発揮してこの程度の怪我なら完治を望めると判断する。

 

私は期待して、回復薬を体に振りかけた。冷たい液体が全身を濡らし、薬液が持つアルコールや独特の香りがあたりに広がる。いつ効果を発揮するのだろうかとしばらく待ってみるも、しかしなにも起きない。

 

首をかしげる。おかしい。私はたしかに冒険者が持っていた回復薬を解析し、そしてそれを投影したのだ。解析結果を確認し、そしてもう一度その解析結果に基づいて新たに薬液が入った瓶を投影し、中身を全身に振りかける。

 

二度目の薬液はすでに濡れた肌の上の液体と混じり、その水量や水路を増やしながら垂れていくだけで、やはり怪我になんの効力も発揮してくれない。

 

私はどういう事かと考えようとして、やめた。どうせ今考えてもわかるものでない。投影したアイテムが効果を発揮しないという事だけを知れただけでも儲け物と考えておこう。

 

全身についた火傷が液体に濡れて、少しだけ温度を奪って行く。風が吹いて、濡れた火傷の跡が痛む。ただ、その痛みは、少し柔らかくなっていた。投影した品は、回復効果はもたらさなかったが、消毒効果と傷口を洗浄する効果だけは確かにもたらしたのだ。

 

―――とりあえず、火傷をアルコールで消毒できただけでもよかったとするか

 

そして私はバッグの中身が全て役立たずになった事に少しばかりの無常を覚えながら、それらの投影品を破棄する。さらさらと形が崩れて、バッグの中で静かに消えてゆくそれらを眺めながら、決心する。

 

―――やはり撤退すべきだな

 

万全に近い状態だったのに、たった一度、道中の敵と戦闘しただけでこのザマだ。久方ぶりの生身の体に文句をつけるつもりは最早ないが、やはり勝手が違う。色々と過剰に強化を施し過ぎたせいで、身体中のあちこちも痛んでいる。英霊だったころはこの程度の傷や痛み、魔力を注ぎ込んで治癒魔術をかけてやればすぐに治ったものだが、やはり、生身とエーテル体は勝手が違う。もう少し慎重に、その辺りの分水嶺を把握してやる必要があるか。

 

ともあれ、痛みがあるままでは不便である。私は回復魔術を使用しようとして、しかし失敗。首を傾げて、もう一度同じように魔力回路に魔力を流し込んで、気づく。ああ、そういえば、もう私は英霊ではなく、衛宮士郎という男の肉体を得た状態なのだ。

 

この男の魔力回路は、たった一つ、「己の心象風景で世界を侵食する事」に特化している。ならば、もう回復魔術が使えなくなっていて当然か。いや、己の戦力すらも正しく把握できていなかったとは、なんともお笑い種だ。

 

自身の能力の把握と、この世界の回復薬とやらが自分に効果を及ぼさない理由を考察するのが課題か。増えた問題に自嘲気味なため息を吐くと、バッグより地図を取り出して眺める。己の性格を表すかのように精巧に書き上げられた地図は、全体の四割程度しか埋められていないが、往復を繰り返して、通常の人間が通行可能そうな道は全て記載しつくしてある。

 

だからおそらくは完成と見て問題ないだろうし、また、問題があればラーダに提出した際指摘してもらえるだろう。もしかしたらこれでも問題なしと、甘く見積もってくれるかもしれない。私はクーマの顔を思い浮かべて多少楽観的にそう思った。

 

地図に問題がなければ、これを提出する事で、私は冒険者として正式に活動することが出来る。幾許かの報奨金も出るといっていたから、まずはそれをもってして食料と拠点を確保しよう。幾ら貰えるかは知らないが、クーマという男の性格からして、少なくとも一泊と一食分位は出してもらえるだろう。となれば、現時点で懸念しておくべき事は―――

 

「その後、この地に留まってやっていくための金か」

 

金。銭。なんとも世知辛いが、何をするためにも等価交換が原則だ。大抵の厄介ごとを片付けてくれるそれを手に入れるためには、何かを持ち帰り、執政院に鑑定してもらい、その結果を道具屋に買い取ってもらうのが、この世界での冒険者の通常のやり方らしい。幸いにして素材となりそうなものはそこに転がっている。

 

―――本来は、このような目的に使う剣ではないのだが。

 

私は敵に近づくと、ランプを地面に置きなおして、毒液に触れないよう慎重に、しかし、急いで金になりそうな部分だけを選別して解体する。宝具は間違った用法にも文句を言わずその切れ味を発揮して、硬い鱗を苦もなく切断し、その巨大な肉と骨を切り裂いてくれた。

 

解体作業をつづける中、五匹のうち、一つは全身がまともに残っていることに気がついた。また、人間が丸々四、五人は軽く飲み込めそうな巨体は、思いの外軽く、強化した体なら容易に持ち帰ることが出来ることが判明したので、悩んだ末に、その全身を丸ごと全て持ち帰ることにした。これなら標本として高く売れるかもしれない。なに、いざとなれば捨ててしまえば良いのだ。

 

やがて気の使う作業を終えたころ、私は土天井の隙間から差し込んでくる光を浴びて、夜が明けた事に気がついた。朝霧の中、照らし出される黎明の光はまるで薄明のようにあたりを柔らく照らしている。

 

その光は赤の世界にあって、唯一暖かみを感じるものだった。その範囲は徐々に広がり、やがて森全体を明るく照らして、赤の世界を別の色で染めてゆく。眩い光の奔流は私に軽い酩酊感を齎した。陶酔の中で思う。

 

―――ああ、このまるで別のような世界の中で、私はこうして生きてゆくのだな。

 

そして私は光に導かれるようにして迷宮を引き返し、エトリアへの帰路を急いだ。

 

 

ここで時間が少し巻き戻る。エミヤがエトリアにやってくる日の朝、「マギ&アム道具屋」では一人の少女が悩み顔を浮かべていた。まだ幼さの残る顔並みに多くの皺を作ると、腕を組みながら、発達しきっていない未成熟な体を椅子に背を預けて体を前後に揺らしている。渋面の上で短く揃えられたセミロングの茶色い髪がまるで生き物のように跳ね回った。

 

彼女の名前は、響。「マギ&アム道具屋」あらため、「響道具屋」の現店主である。

 

 

さて、どうしたものだろうか。最近店の客が減ってきている。両親の残してくれた蓄えとアイテムはまだ残っているが、このままだと一月としないうちに廃業だ。そろそろ本気で身の振り方を考えないといけない。それはわかるが、どうすればいいか皆目見当がつかない。悩ましい。横で纏めた髪を弄って見てもまるで名案は浮かんでくれない。

 

大きなため息をついて机に突っ伏した。湿気を吸収した木製テーブルはさらりとした感触で頰をつるりと撫でて、落ち込んだ気持ちを慰めてくれる。その心地良さに身を任せていっそ眠ってしまいたかったが、昨日もそうやって1日を意味もなくだらだらと過ごしたばかりだ。そろそろ動かなければなるまい。なけなしの気力を込めて椅子から立ち上がると、ハタキを持って店の中へと向かう。

 

店に並んだ陳列物をどかし、はたきをかけると久しぶりに埃が空中に舞うのを見た。数日の間掃除をやらないとやはりこうなってしまうか。仕方のない事だとは言え、少々面倒くさい。

 

いつもより時間をかけて店内の掃除を済ませると、扉に貼った喪中の知らせをひっぺがし、木札をひっくり返して店の表に木製の看板を出す。看板には「マギ&アム道具屋」と書かれていた。慌てて店内に戻ると、サラサラと筆で自身の名前を冠した屋号を書いて、糊でぺたりと看板の上に貼り付ける。さぁ、数日ぶりの、いや、「響道具屋」の初開店だ―――

 

――――――と、なんとか空元気に笑顔を貼り付けて店を開けたのはいいものの、もうお日様が天高くに登る労働をしたというのに、客が一人もやってこない。この間、私のした事といえば、誰も訪れない店を綺麗にする事と、机の上で時間を怠惰に浪費する事くらいだ。

 

いや、この休業期間で客が少なくなるかもとは覚悟していたが、もとより大して期待していなかったツールマスターとしての仕事は当然として、まさか本業である道具屋の方までこれほど閑古鳥が鳴くような事態になるとは、予想だにしていなかった。これは少々まずい。このままでは蓄えが一月もしないうちに無くなり、干上がってしまう。

 

対策を考えないといけない。目を瞑り両手を合わせてやると、額に当てて光を遮り、考え事に意識を集中させようとするが、すると今度は表通りのざわめきを耳が拾って、うるさいと感じた。うん、まだ余計な刺激が邪魔だ。どうせ客は来ないのだから遠慮する必要もない。

 

仕方ないから両方の上腕の部分で耳を挟んでやり、机に肘をつく。そして瞼を閉じて机の方へ顔を向けると、そこでようやく外からの刺激を完全に遮断することができた。邪魔が一切入らなくなった状態で、私は意識を頭の中に集中し、現状を分析する。

 

現状、この響道具屋には全く客が来ていない。道具店の方に客が来ない原因は、この店が以前と違う点を考えれば、それが原因だと判断できる。つまり、多分は冒険者である両親が流行の赤死病で亡くなった事が原因で、この店に客が来なくなったのだ。

 

そもそも両親が建てたこの店は、現役冒険者であった二人が持ち帰ったもの売るだけの店であった。道具を製作するための炉はないし、両親は土を使う権利すら持っていなかった。それでも結構な繁盛を見せていたのは、この店が、装備を補修したり道具を作成したりする際に必要となる、例えば鍛冶や冶金の為の槌とか、薬を入れる為の瓶とかの材料をそこそこの値段で売っていたからだ。

 

つまり私たちは冒険者向けではなく、迷宮に向かう彼らを補助する道具屋を相手に定めて商売をしていたのだ。

 

道具屋は飽和しているから、道具屋が必要とする物を狙う、という両親の狙いは、冒険者へ依頼し手数料を払うという手間を省けるという点が特に道具屋の間で評判となり、商売は繁盛をみせた。また、道具屋が冒険者への依頼の手間や手数料を惜しんで迷宮に不法侵入するという事態の数を激減させた為、執政院の方からもお褒めの言葉を頂いた事もある。

 

ただまぁ、やっかみもあって、あまりに道具屋らしくない、という文句がどこかから出た。そこで迷宮探索の折、戦力にならない私がツールマスター、すなわち、道具の力を引き出したり、道具を修繕したりする職業に就き、店の一角でこっそりと装備品や衣服、携帯磁軸の修繕などの依頼を受けて、道具屋としての体裁を保っていたりもしたのだが、まぁ、私の稼ぎは雀の涙だったし、今は関係ないだろう。閑話休題。

 

そんなわけで繁盛していた店はでも、旧迷宮の深層にも潜れる冒険者であった両親が赤死病で死んでしまった事で、事態は一変したのだ。両親が死んでしまって素材が手に入らなくなった、というのだけでも結構致命的だけど、それ以上に赤死病で死んだというのがまずいのだろう。

 

験を担ぐ冒険者の間では、赤死病という運が悪いとかかって死んでしまう病気は敬遠される傾向にある。ここ最近腕利きの冒険者の間で増えているという噂のお陰で、多少、その具合が緩和しているところもあるけれど、基本的に、赤死病にかかって死ぬ奴は運が悪いし、それと関わるのは縁起が悪いというのが、冒険者たちの間での認識だ。

 

だから冒険者にとって、赤死病で死んでしまった両親が取ってきた素材から作られた道具を使って作られた品は敬遠されるようになる。つまり売れなくなる。そして道具屋もそれを嫌って、この店で取れた材料を使って作られた道具を使わなくなるし、買おうともしなくなる。だから在庫もはけないし、そもそもそんな縁起の悪い店に訪れようとしなくなる。

 

まぁ、死と隣り合わせの職なのだから、その辺敏感になるのはしょうがないとは思う。かかる確率の低いと言われている流行病に二人とも罹患して死んでしまったのだから、むしろこの店や、この店の品は厄を寄せるものとして扱われて然るべきなのかもしれない。

 

うん、なら、いっそ開き直って呪いの品として売り出せば、呪術を得意とするカースメーカーあたりが買ってくれるのではないか。などと思ったが、そうすると今度は呪いの品を売っていたのか、このやろう、と叩かれる未来が見えた為、やめた。目先の利益に囚われて、これまでの積み上げてきた信用と、今後一切のそれを失うなんてなんとも馬鹿らしい。

 

しかし、道具が売れないのはしょうがないにしろ、ツールマスターとしての依頼でやった仕事の完成品すら取りに来てもらえないのが、少し気になる。両親が亡くなるまでの間は、少なくとも日に一度くらいは、ツールマスターとしての仕事が舞い込んできていたが、今やこちらの方も一人として客足がない。その上、いくつかの荷物が溜まったままだ。うーん、と考え込んで、頷く。

 

うん、やはりこれも、冒険者の両親が病で亡くなった影響なのだろう。きっと彼らは、運の悪い冒険者が作った店に来訪して、運が悪い両親を持つツールマスターに依頼した品物を受け取りたくないのだ。少しばかり不満に思うがそれ以上に、自らの腕ではなく、両親の威光によって仕事を得ていただけだったのだと突きつけられた気がして、悲しかった。

 

そうして湧き上がってくる思いが心中を満たして行き、気持ちが塞ぎがちになる。いけない、このまま気弱になってしまうのだけは避けないと。両頬を掌で叩いて気合いを入れると、先ほどまでと同じ格好に戻り、もう一度考え込む。さて、自分には何ができるだろうか。

 

ギルドにツールマスターとして登録してある自分にできるのは、道具の力を引き出す事。劣化した道具を元どおりに直したり、修繕したり、道具を作ること。道具を直す、作る。その辺りを強調した作りに内装を変えてみようかしら。

 

いやでも、変えたところで、立ち退いた客足が戻ってこなくては意味がない。客足を戻すための何かが必要だ。声かけ、呼び込みなどが必要だ。でも、赤死病で死んだ両親を持つ自分が宣伝をしたところで、果たして人が呼び込めるのだろうか?

 

うん、まずは赤死病の悪評を払うのが優先かな?

 

あれも違うこれもだめ、と頭を悩ませていたおり、空腹が意識を彼方より現実へと引き戻した。顔を上げて、表通りに面したガラスの向こうの闇を街灯の灯りが照らしているのを見て驚いた。加えて、朝方より店を開けてから半日の間、だれも来ないという事実が、否が応でも現在が切迫した事態であることを告げていた。

 

―――ほんと、早急に、本格的な対策を練らないといけない

 

とりあえずは店を閉めて二階の自室で集中しよう。立ち上がると、あまり意味はなさそうだが表の立看板をひっくり返して閉店の文字を表にし、期限の切れた道具を袋に詰めて一纏めにする。そうして出来上がったゴミを捨てるべく、私は裏口に向かおうとして、気付いた。

 

裏口へと続く扉の向こうから、カツン、と音が聞こえた。誰かが裏口付近にいる。来訪者だろうか。もしかして、依頼の品を取りに来たとか? でも、なんでわざわざ裏口から?

 

疑問は体を硬直させる。やがてなにやら色々な音が聞こえたかと思うと、誰かは石畳を叩く足音を立てながら遠ざかってゆく。突然出来事にしばらく固まっていた私はその音を聞いて、ハッ、と意識を取り戻し、廊下をかけて裏口を開け、音の消えていった方を眺めた。

 

すると赤い外套を引っ掛けた長身の男性の姿が眼に映った。ピンと立った白いツンツン頭に真っ直ぐに伸びた背中。左肩には冒険者の証ともいえるショルダーバッグを腰の後ろに来るように引っさげ、そして細身ながらもがっしりとした男は堂々と立ち去ってゆく。しゃんとした後ろ姿に少しの間見惚れたが、気を取り直すと、周囲の地面を見渡して、安堵のため息を吐く。

 

なんの異常も見当たらない。いや持っていかれたところでなんの問題もないものばかりだが、とりあえずその事実に安堵した。しかしなんでこんなところにいたのだろう、と不思議に思ったが、表通りより聞こえてくる威勢のいい掛け声を聞いて、なんとなく予想がついた。

 

見たところ腕利きの冒険者のようであったし、大方、しつこい依頼者や商人の要求を避けて人通りの少ない裏路地に逃げてきたのだろう。腕の立つ冒険者を安く使おうとするケチな人や、高価なものを買ってもらおうと働きかける路上の商人も、最近めっきり少なくなったが、いないわけではないのだ。

 

しかし人に追われる、か。それは避けられている状況の自分にとって、少しばかり羨ましい状況だな、と思う。なにせ、なにもしなくとも、向こうから勝手に人が寄って来る―――

 

その時だ。脳裏に雷光が走った。

 

―――そうだ、冒険者だ。それも腕利きのそれになれば良いのだ。

 

両親や彼の様に一級の冒険者として活躍すれば、宣伝せずともあちらから客はやって来るだろうし、売るための道具も手に入れる事が出来る。いやいやそれどころか、もし新迷宮を攻略できるほどの冒険者になれれば、今の悪評など吹っ飛ぶであろうし、褒賞金も手に入る。それで全部の問題が解決だ。

 

まぁ、とはいえ旧迷宮の四層を活動拠点とする冒険者ですら苦戦する新迷宮を攻略したりする事が出来るのは、一握りの冒険者の中の更に選りすぐりが適切な徒党を組んだ場合だけだろう。また、冒険者になろうとする事自体は容易だが、単なるツールマスターに過ぎない女一人が思い立ったからといってすぐに新迷宮で活動する冒険者として認められる訳でないし、目的を達成できるだけの実力が身につくわけでないし、頼りになる仲間が出来るわけでない。

 

けれど、幸いにして私には少なくとも、その新迷宮を攻略出来そうな一握りで、新迷宮の探索許可を持っていて、仲間になってくれるかもしれない頼りのある人たちに心当たりがあった。それは亡くなった両親がかつて所属していたというギルドの人たちだ。

 

もしかしたら彼らを頼れば、なんとかなるかもしれない。見出した希望は落ち込んでいた気持ちを上向きにしてくれた。よし、熱が冷めないうちに、すぐ実行といこう。

 

店の中に戻ると割烹着を脱いで椅子に引っ掛けると、コートを羽織る。そして短絡的かつ直感に任せて出した答えを抱いたまま裏口より飛び出すと、私は裏路地をかけて賑わう雑踏の中へと突撃した。

 

 

通常エトリアにおいて、冒険者たちは身支度を整える拠点として、ラーダ推薦の宿屋を利用する。宿屋はラーダの協力により、荷物預かり、強さに応じた宿泊代金の減額、いつでもチェックインが可能といった、冒険者向けのサービスを提供できるようになっているので、冒険者たちはこぞって推薦の宿屋を利用する。宿屋はエトリアの外部よりやってきた冒険者たちにとって大事な拠点なのだ。

 

そんな冒険者たちに多くの奉仕を行ってくれる推薦の宿屋であるが、いくつかの厳格に守らなければならない決まり事があり、その中の一つに、退出時刻の厳守というものある。冒険者たち宿泊の際に次の朝か夕方の五時まで休むのかを選択させられ、そして選んだ時刻になると、問答無用で宿屋を追い出されてしまうのだ。

 

どれだけ疲れていようが、半日か、一日たつと、時刻きっかりに部屋にある物ごと外に追いやられる。それを嫌った人間たちが集って資金を出し合い、エトリアの土地を借りたのが、ギルドハウスの始まりと言われている。

 

冒険者であるなら一度は考える拠点、ギルドハウスであるが、維持のためには宿屋へと泊まるより多分に金を食い潰す。背後に潤沢な資金を持つ支援者がいる冒険者か、相応の稼ぎをひねり出すことが可能な冒険者でなくては持つことを許されないそれは、一定の信用や実力を証明してくれるまさに、冒険者たちが垂涎する、憧れの城。

 

のはずなんだけれど。

 

―――あいかわらず、質素というか……

 

目の前にある選ばれた一部の実力者のみが保持できるという謳い文句のギルドハウスは、木造建築の二階建て一軒家だった。飾りっ気というものがない玄関先に義務として定められているギルド名を記す看板がなければ、この建物は民家と区別がつかなそうだ。清貧で質素な木造の外見は、ある意味で、はるか昔林業で生計を立てていたエトリアらしさを持ってはいるが、好奇心と無駄を好む冒険者らしくない造りである。

 

私はそんな木造建築の入り口扉前に立つと、控えめに数度扉を叩いて声をかけた。

 

「ごめんください 」

 

しばらくそのまま待っていると扉が開き、細身であるがしっかりと出来上がった上半身をさらけ出した艶やかな黒髪の男性が姿を現した。疲れた顔で、瞳の下に隈も見えるが、それでもしっかりと背筋を立てて応対してくれる彼は、このギルドハウスを所有するギルド、「異邦人」のギルドマスター、シンだ。

 

「どなただろうか……、いや、ああ、君か」

「はい。その、ご無沙汰しております。生前は両親がお世話になりまして……」

「いや、こちらこそ彼らには世話になりっぱなしだった。感謝してもしきれない。……しかし、この度は御愁傷様だったな。まさか帰ってきて早々に訃報を聞くことになるとは……、っと、こんなところでする話ではなかったな。入ってくれ」

「ではお言葉に甘えて」

 

中に入り廊下を曲がると、そこはすぐに居間だった。大きな机が部屋の中央に鎮座しており、その周囲には椅子が。更に外側は、壁に沿って様々な道具の入った棚が並んでいる。

 

ギルドハウスは静まり返っており、人の気配がない。いつもならこの空間に他のメンバーも揃っているのだが、今日のところは彼一人のようだ。

 

「あいつらなら修繕依頼を出した道具の回収に出ている。二週間ぶりに迷宮から帰ってきたのが一昨日でな。昨日は身を綺麗にするのと挨拶回りと修繕依頼を出すので1日を潰した……ああ、好きにかけてくれ」

 

言われるがまま、近くの椅子に腰を下ろす。彼はリビングの奥に消えたかと思うと、ヤカンと湯のみ茶碗を二つ持って戻り、机を挟んで向こう側の椅子に座った。ヤカンの口から湯気を放つほのかに色付いた水が二つの湯飲みに注がれる。シンは一つをこちらへと差し出して言った。

 

「見た目は悪いが、とりあえず毒ではない。安心してくれ」

 

シンは言いながら自ら入れた飲み物を口にする。

 

「そんな事、言われるまで思いもしませんでした」

 

笑い、私は湯飲みに入った液体を口にする。ほのかな酸味と甘さが口の中に広がる。微かなほのかな甘みと、口当たりの良くさらりと喉を通る爽やかさは、私がよく知る味だった。

 

「これ……」

「君の母、アムから教わった、四層で取れる木桃と樹蜜とを合わせた物だ。採取が下手な我らでも作れ、かつ、胃もたれが起きないようにと、少ない素材であっさりとした風味に仕上げたと言っていた。現ギルドのメンバー全ての人間の活力剤だよ」

「やっぱり。でもいつもとちょっと違う気がします」

「冒険者用だからな。体力回復のために多少塩を追加している分、甘く感じるのだろう」

「なるほど」

 

感心して笑い、手の中にある湯飲みに視線を下ろす。いなくなった父母の痕跡がこんなところにある。疎まれた彼らがこうして受け入れられている。その事実は暖かい気持ちを抱かせてくれた。彼の気遣いが嬉しい。

 

余韻に浸っていると、トントン、と彼が指の腹で机を叩く音が聞こえた。面をあげてシンの方を見る。目線が合うと同時に彼は頭を下げた。驚く間も無く彼はそのまま喋り出す。

 

「悪かった。本来なら彼らが亡くなってすぐに君の元を訪ねるべきだったのだろうが、その時我々は迷宮に潜っていて知らなかったのだ。訃報を聞いたのは昨日夕方、ヘイの道具屋へ行ってから……。 驚かされたよ。まさか二人共赤死病で亡くなるとは思わなんだ……」

「一緒に過ごしていた私が気づかない程、アッサリかかってポックリでしたからね……。迷宮に長く潜っている実力者ほどかかる可能性が高いとはいえ、ビックリです」

「その理屈でいうと我々こそかかってもおかしくないのだがな。わからないものだ」

 

シンは目を細めてしみじみと呟く。彼は意外だと思っているようだが、私はいつかこんな日が来るだろうとは思っていた。いや、まさか赤死病で死ぬとは思っていなかったが、多分、迷宮関連の何かで命を落としてしまうのだろうな、という予感はあった。

 

彼らからみれば両親は迷宮に行った回数が少ないかもしれないが、私からすれば、両親も彼らに負けないくらい迷宮に足を運ぶ冒険者だった。両親は家の道具が売れたと思えば、すぐさま迷宮に潜る予定を立てて、当たり前のように二人で出かけて二、三日家を留守にする。

 

もしかすると彼らは家にいない期間の方が長かったかもしれない。だからなのか、正直、今、二週間前に死んだばかりの両親の話をしても、思っていた程の動揺はない。死んだと知ったその時はびっくりして気絶してしまうほど嫌な気持ちが押し寄せたものだが、今はそんなことはないのだ。そう、あの時、気絶から起きた時、私はやはり今と同じくらいには冷静だった覚えがある。

 

きっと私は、今でもひょっこりと両親が帰って来る気がしているのだろうと思う。予定を立てていなくなる彼らは、そのうち帰ってくると思っているのかもしれない。無論、そんな事起きないことは理解しているのだけれど。

 

「君のご両親は優れた冒険者だった。君の父のマギは我々に戦い方を教授してくれ、アムは迷宮での過ごし方や日常での改善してくれた。彼らは我々にとって、恩人であり、戦友だった。だからこそ、今回彼らがいなくなった事は非常に残念だ。本当に、残念極まりない」

 

シンは目を閉じて、長く、思い息を吐く。心底の落胆だ。彼の言葉に嘘偽りはないと思えた。

 

「ありがとうございます。父母もあなた方の様な知り合いを持てて幸運だったと思います」

「そう言ってくれると有難い。……ところで今後、どうするのだろうか」

 

身の振り方を聞かれて、ハッと思い出す。そうだ、それが目的だった。

 

「それなんですけど、私、冒険者になって新迷宮に挑もうかと思いまして」

 

さらりと述べた言葉は彼の琴線に触れてしまった様で、シンの顔つきが変わった。憐憫の形相は鋭い冒険者のモノに変わり、真剣な目線が向けられる。浮わつきつつあった心情が一気に地に落ちて、心臓が締め付けられる感覚を味った。額に汗が出る。胸が圧迫されて苦しい。

 

「……どうしてわざわざ新迷宮の冒険者に? 」

 

喉が乾く。湯飲みに残った液体を飲み干すと、懐かしい味が少し気分が落ち着せてくれた。

 

「その、両親が死んでから道具は売れないし、仕事の依頼は来ないし、多分、両親が赤死病で死んでしまったから、験を担ぐ冒険者の方が寄らなくなったのかなって。それで、解消するなら、冒険者として活躍すればいいか、って思って、それで……」

「……」

 

しどろもどろの言い分に耳を傾けながら、シンは無言を貫いている。口元は固く結ばれ、視線はまっすぐ、目線は鋭い。

 

「それで、その、新迷宮を攻略出来るほどの冒険者になれば、色々解決するかなって思って。でも、新迷宮攻略できる様なギルドって考えた時、私が頼りにできそうで、思い当たるギルドがここだけで、それで」

「つまり君は、新迷宮を攻略したいから、我々と行動を共にしたいと考えているのだな? 」

「……はい」

 

シンは顎を掻くと静かに目を閉じた。彼より迸る気配が強まり、思わず唾を飲み込んだ。

 

緊張感が高まる。威圧に逃げ出したいと言う思いがフツフツと湧き出して来る。考えてみれば、いきなりすぎるし、あまりにも失礼な頼み事だった。頼みというより、妄言に近い。素人に毛が生えた程度の人間が一級線の人に言う事ではない。ああ、失敗した。どうしよう。

 

不安に押しつぶされそうだ。鼓動が早まり額に汗がにじむ。唾液をゴクリと飲み込む。ざわざわして落ち着かない気分が心中に広がった。頭の中ではすぐ未来にかけられるだろう罵倒の言葉を予想して、それに対する言い訳を考え出している。ああ、どうすればいいのだろう。馬鹿にしていると思われただろうか。うう、なんでもいいから、早く―――

 

「―――いいとも」

「――――――」

 

答えて欲しい。そう思っていると、突如として帰ってきた快い了解の返事に驚き、息を詰まらせた。胸の鼓動は最高潮になり、空気が喉元でつっかえて言葉が出てこない。

 

「いいとも、響。ギルドの代表である私は君の入団を認めよう。これからよろしく頼む」

 

机の上に片手が差し出された。握手を求めているのだ。呆けていた頭が動き出す。そうして壊れた人形の様に頭を上下させると、両手で握りしめて言葉を胸の奥より絞り出した。

 

「―――よ、よろしくお願いします!」

 

 

「というわけで、今日から加入させる事になった響だ」

 

シンの言葉に、一人が頭を抱えて前にのめり込み、もう一人は興味なさげに頭を抱えると椅子に背を預け、一人は腹を抱えて大きく笑う。知り合いが返してくる三者三様の反応にどう返せば良いか分からず、私はとりあえず当たり障りのない言葉をひねり出した。

 

「よ、よろしくお願いします……」

「こちらこそよろしくお願いします」

「よろしくー」

 

三人のうち、二人からは色よい挨拶が返ってくる。だが、一人は未だに頭を抱え込んだまま、徐々に机に突っ伏し両拳を机に立てた姿勢に変わって行く。よく見ると彼の体が小刻みに震えていることがわかる。あれは悩んでいるのではない。怒りに身を震わせているのだ。

 

「お前は、一体、何を、考えているんだ……!」

 

それは腹の底から絞り出された重低音。一言と一言の間にいちいち息継ぎが入っているあたり、よほど腹に据えかねていると見える。短く刈り上げられ油で固められた髪の一本一本を逆立たせながら、渋面に大量の皺を生んだ状態で、その大柄な長身が目の前の机をガタガタと震えさせる様は、なんとも迫力満点だ。先ほども思ったのだが、一級冒険者の生み出す威圧感というか、気配というか、そんな感じの空気というものは体に悪い。圧迫感だけで過呼吸になりそうだ。怖い。

 

「私か? 私が考えているのは、勿論、迷宮攻略に巣食う強者との戦いのみだ。それ以外の事には基本的に興味がない。お前も知っての事だろう、ダリ」

「……よし、よし、そうだな。お前はそんな奴だ。わかった。わかったよ。じゃあ、説明しろ。なぜ彼女を我々のギルドに加入させた」

「それは勿論、彼女が迷宮攻略の役に立つと感じたからだ」

「それはどういう風に?」

「わからん」

 

シンのきっぱりとした断言に、ダリは今度こそ顔を両手で覆って、指の間から深く長いため息を漏らした。喉元から甲高い声を漏らしながら、さらに肺の中の空気を全て吐き出してもなお続けられるその行為からは、心底の落胆と諦め、そして、呆れが混ざっている気がした。

 

そのやりとりに他の二人が反応して笑い声をあげる。私と同じくらい小柄な体のサガは、両手を数度叩き、その細く小さい指先でシンとダリを交互に指差して。ダリと同じくらい背が高く、しかし彼とは対象的に細身のピエールは、口元に白魚のような手を当てて必死で笑いが漏れるのを堪えようとしながらしかし堪えきれず、不連続に体と長い金髪を揺らしては、端正な顔のその口元から、息を漏らしていた。

 

私はもはやどうしていいか分からず、オロオロと突っ立っていることしかできなかった。

 

「―――おま、お前、おまえ、おまえは、おまえ!」

「落ち着け、ダリ。言語中枢が馬鹿になっていてまともな言葉になっていない」

「お前! サガ! お前は何も思わないのか!?」

 

荒ぶるダリを諌めようと試みたサガは、小さな肩をすくめると唇を片方釣り上げて言う。

 

「うん、まぁ、思わないところがないわけじゃないけどさ」

「なら!」

「でも、いつものことだろ?」

 

サガの言葉はなんとも言えない諦観のそれに満ちていた。

 

「シンの奴は言う事やる事突飛だけど、それは決して考えなしの言動じゃあないんだ。辛抱強く聞き出してやると、きちんとあいつなりの理論と根拠があって、常人には理解しづらいものだけど、割と良い結果が出るんだ。あいつ単に言語化が苦手なだけで、考えなしのノータリンじゃあないのさ。だよな、ピエール」

「彼のあれは、頭の回転と見切りと判断が早い事と、ハイリスクハイリターンを好む性格が

合わさったものです。さもなければ一撃と回避に特化するブシドーなんていう職で四層までやってこれないでしょう」

 

ピエールの援護なのか裏切りなのか分からぬ言葉に、サガはケラケラと笑って、ダリを指差して言う。

 

「ま、被害の抑制を基本方針とするパラディンのお前と被害を無視して最大の効率を優先するシンとじゃ、職業上の相性がよくても、性格の相性は悪いだろうさ。でも、いつもは誰かと組んで行動することに反対するシンが賛成するんだから、案外響は本当に掘り出し物なのかもしれないぜ。シンの迷宮に関する感性と実力だけは信頼できるからな。ピエールと違ってな」

「なぜ私に流れ弾を飛ばしますか。私は面白い方を選ぶだけですよ」

「……そうかもしれないな」

 

茶番を見て溜飲が下がったのか、ダリは荒げた息を整えるためか、数度深呼吸をした。目元を揉みほぐし、肩と首に手をやり首を回すと、私の方を向き、言う。

 

「いくつか聞いても良いだろうか?」

「はい! どうぞ!? 」

 

いきなりの出来事に、上ずった声が出た。醜態を見てダリは頰を緩める。うう、恥ずかしい。

 

「すまない、無様なところを見せた。気にしないでくれ、といってもそうはいかないだろう。……響。私も心情として君がギルドに加わる事に文句はない。だが、私の職業はパラディン。襲いかかる脅威から皆を守る役だ。その観点からいうならば、君という不確定な―――どちらかといえば駄目と思える要素をギルドに加える事に反対すべきだと考えている」

「それは―――当然だと思います。私自身、驚きましたし、そう思いましたから」

「そうか……、いや、まともな感性を持ってくれていて助かった。いままでのやりとりでわかったと思うが、此処にはまともである奴の方が少なくてな」

 

ダリは少し胸をなでおろしたようだった。しかし本人を前にして駄目と言い切るとは、なんともハッキリと物を言う人だ。だがわかりやすい。物怖じせずに好悪をハッキリと述べるその態度は潔いと感じるし、嫌いではない。

 

「マギとアムのご息女でもあるわけだし、そういった意味合いだけで判断すれば、君がこのギルドに入るというのは賛成したい気分なんだがな。まぁ、だが仮にもギルドの代表であるシンが加入を許可したのだ。ならば私としてもこれ以上文句を言うつもりはない。だがいくつか質問させてほしい。―――響。迷宮に潜った経験は?」

「はい、あります。といっても、親について回っただけですが」

「マギとアムに連れられて、か。君、今の職は?」

「ツールマスターです」

「……ツールマスター? ああ、確かそう言えばそうだったな。しかし、戦闘職ではなく、準戦闘職ではないか。此処に来る前に転職はしなかったのか? 」

「はい」

 

ダリは怪訝な顔をしてシンを見る。視線を向けられた彼は鷹揚に頷き、その反応をみたダリは首を傾げながらも響の方を向き直した。続きを促されている。そんな気がした。

 

「なぜ、とは聞くまい。それで、君、ツールマスターは迷宮で何が出来るのかね? 」

「道具の力を目一杯引き出したり、物を修理したり、後は目利きが出来ますので、回復や採取採掘伐採。それと一応、道具を使っての補助もできます」

「それだけ聞くと君の母親、アムが就いていたファーマーみたいに思えるな……、ところで道具を使っての援護といったな? それは、戦闘中の? 戦闘以外の? 」

「ええと、主に戦闘以外ではありますけど、多分、戦闘の援護も出来ます」

「多分? 響、君は迷宮で敵とは戦った経験がないのか?」

「はい。ああ、いいえ、そうではなく、相対した事はあるんですけれど、ほとんど私が倒す前に両親が倒してしまうので、戦いが始まる前に終わってしまうと言うか」

「彼らが二人でさっさと片付けられるあたりというと―――二層くらい……か?」

「その通りです。三層以上の時は私、連れていってもらえませんでしたから」

 

そこまで聞くとダリは目を閉じて考え込む。しばらくの間、沈黙の帳が落ちた。

 

そして。

 

「……響、君、道具の力を引き出せるんだな? それはどんなものでも最大限に? 」

「あ……はい、そうです」

 

答えると、ダリは目を瞑って、考え込み、しばらくして口を開いた。

 

「……わかった。では響。明朝、鐘がなるまでの間に迷宮用の装備と道具を用意して探索時の格好で来てくれ―――明日はこの場所で集合。ヘイの道具やで準備を整え、彼女の装備を見繕い次第、旧迷宮の四層へ行く」

 

ダリの宣言を聞いた男どもは各々のやり方で応答をすると、部屋より出て行った。いきなりの指示に驚いたが、皆が忙しく動き出すのを見て、慌てて家へと戻る。こうして私は冒険者としての一歩を踏み出したのだ。

 

 

世界樹の迷宮(旧)

第四層 枯レ森

十六階 「流れる砂の上で進む道を求めた場所」

 

 

「――――――!!」

 

獣のあげる末期の雄叫びが枯れ木の乱立する森の静寂を切り裂く。上段より繰り出された刃は、猪の鼻先より侵入すると、左右に鼻孔を切り離しながら頭蓋骨までを断ち切り、獣を即座に絶命させた。巨大な黒猪の突進合わせた一撃を耐えた剣の耐久力に感謝をしつつ、周囲の気配を探る。何者かが動く気配がした。

 

―――そこか!

 

猪の鼻っ面を蹴っ飛ばして刃を力任せに引き抜くと、即座に気配の方へ体を向け、刀を上段に振りかぶる。摺り足で地面を進みながら、腰をひねり、全ての力を込めた一撃を即座に敵へと繰り出す――――――

 

「おい、バカ。もういねぇぞ」

 

そして声と共に背後よりガツンと頭を小突かれた私は、前方につんのめった。数歩足を前に出して、転げないように姿勢を整えようとすると刀身が宙を切り、切っ先が力なく地面に刺さる。ダマスカスの大爪より鋳造された刃はそれでも威力を発揮して、すくと地面に吸い込まれて行く。うむ、相変わらず、愛刀カムイランケタムは切れ味が良い。

 

突き立った刃の横には響が地面に手を投げ出していた。先ほどの気配は彼女だったのか。地面に解体用のナイフが放り出されているのが見える。なるほど、戦闘終了を察して素材を剥ぎ取りに来たのか。悪いことをした。

 

突き刺さった刀を抜き、刃についた土埃を払い刀身を眺める。茶色く波打つ波紋にはほとんど血糊と余計な脂が残っておらず、刃こぼれも見当たらない。うむ、委細問題なし。さて残りの汚れも拭き取ってしまうか。

 

「順序がちがーう」

 

拭紙と袱紗、油を取り出そうとしたところ、再び頭をポカリと杖で叩かれた。叩いたのは、小さな体に不釣り合いなほど大きな籠手に杖をもったサガだ。握る枯れ木の杖の先端では、深緑の勾玉が煌煌と輝いている。丈の長い、小さな背の足元まで覆う黒のチュニックの裾が暴れ、きめ細やかな意匠の凝らされたハットが大きく上下していた。

 

サガは杖の先端を左右に振ると、先端で響の方を示す。なるほど、確かにその通りだ。

 

「すまない響。殺しかけた」

 

率直に謝罪の言葉を述べて頭を下げると、乾いた笑い声と共に言葉が返ってくる。

 

「いや、いいんですよ。ふふ、ええ、気にしていません」

 

嘘だな、と思った。腰を抜かしたのか地面にへたり込む様からも、気を使ってくれている事が簡単にわかる。無下にしないため、その心遣いをありがたく頂戴し、気づかないふりをして手を差し出した。だが彼女はショックから立ち直っていないのか、差し出された手を呆然と眺めたまま動きを見せない。うむ、では分かりやすく言葉にするとしよう。

 

「手を貸そう」

「バカ。手に持った刀をしまってからにしろ」

 

サガの言葉に自分がどのような状態で彼女に手を差し出しているのかを認識する。ああ。それで。なるほど、片手に抜き身の刀を持ちながらもう片方の手を差し出されるというのは、相手に良くない心象を与えてしまうのか。私は指示通りしまい込もうとして、しかし気づく。

 

「確かに……、いやまて、だが拭わず鞘に納刀すると剣が傷む―――」

「―――響ちゃん、ごめんね、こいつバカでさ。悪気はないし……、ああ、だから余計にタチが悪いんだけど、許してやってくれ。戦いと探索では役に立つからさ。……ところで本当に大丈夫? 腰とか抜けたりしてない? 怪我は? 気分は? 」

 

サガは矢つぎ早に質問を響に質問を浴びせ、それに対して彼女が人形のように響がこくこくと頷くのを確認すると、持っていた杖を地面に突き立て、半ば強引に彼女の手を取って体をぐいと引っ張り上げて立ち上がらせた。

 

「で、お疲れのところ悪いけど、こいつらが消える前に素材の剥ぎ取り、頼んでいいかな?」

「あ、はい。もちろん」

 

響は自らの尻を叩くと、近くに落ちていた解体のナイフを拾い上げ、倒れた黒猪の元へと向かった。顔の割れた獣の死体を怖気づく事無く丹念に調べ、そして少しがっかりした様子を見せると、気を取り直した様子でナイフをしまい小さなノコを取り出して、巨大なツノに当てて前後に動かし始めた。牙が不快な音を立てながら、ノコによって根元を削られてゆく。

 

「やるな、あの子」

 

私が彼女の様子を眺めながら刀の汚れを拭って手入れをしていると、いつのまにかこちらに来ていたダリが感心の声をあげた。

 

「目立つ牙の前に皮膚の方を調べるとはな。黒猪は突進に合わせて思い切り殴りつけて仕留めると、その部分の皮はとても滑らかで柔らかい物となる。最初のあれはそれを知らんとできない動きだ。二層までしか経験がないと言っていたが、素材や道具の知識は四層まで修めている。流石は二人のご息女だ」

「そうだな……。それに戦闘での動きも見事だった。己の力量不足を即座に判断し、自分の攻撃が通らないだろうと見るや、私たちの邪魔にならないよう自らの立ち位置を調整し、さらに奴らの中でも一番厄介な叫び声をあげる奴に対して縺れ糸を使い行動を封じる手並み。身のこなしと言い、手練れと言い、実に見事なものだった」

「あれで剣が使えたら、フーライになれるんじゃね? 」

「ああ、何処かの国に単独での探索と生存に特化したそんな職業があるらしいな。だがまぁ、あの子にそれは必要あるまい。別に単独で戦える強さは必要ないしな。剣ならシンがいる。それに、そんなものがなくとも役立ってくれそうなのは確かだ」

「そうですねぇ。バードとしての役割を果たせなかった私よりは役に立つのでしょうねぇ」

 

ピエールの自重で私たちの間に軽い笑いが広がる。ピエールが就いているバードという職業は、我々の身体能力を引き上げることを得意とする。だが四層に出てくる魔物を鍛錬の相手として戦い続け、そこの魔物を真正面より簡単に屠る事が出来るようになった我々にとって、四層の雑魚共相手如きに彼が我々の能力を向上させるスキルを使うのは、死んだ敵の骸をさらに切りつけるが如き愚行だ。

 

だから彼の力は活躍できなかったのではなく、活躍の必要なかっただけのことなのだが、それを知りながら奴はあえてこうした皮肉を述べて、周囲の笑いを誘う。どうにかして他者の気持ちを動かしてやろうと画策し実行するのはバードとしての性分なのだろう。

 

「まぁ、そういうな。新しい方では四層の奴より強いのが発見されつつある。あそこに行けば、お前の好奇心と満足も満たせるだろう」

「そうすればあなたの闘争心も満たせる、と言うわけですか、シン」

 

ピエールは唇を釣り上げて私の言葉の返答にすると、手にした―――確か「キタラ」と言う銘の―――下部に共鳴箱とやらを備えた四角い竪琴を鳴らして、柔らかい笑みを漏らした。細くしなやかな指と見た目に反して厚い指先から生まれる静かな音は、一奏でごとに闇色の衣とブーツのキルト飾りが揺れ、戦闘で多少なり昂ぶっていた気持ちを和らげてゆく。

 

音色の心地よきに身を委ねていると、それに重い物が地面を削る音が混じる。発生源は響だ。

 

「いい音ですね」

 

彼女の手には猪より切り落としされた二つの牙の先端が握られている。地面にまで続く切り落とされた牙の姿をよく見ると、その全体に墨で線が引かれていることに気が付いた。

 

「それは?」

「あ、はい。ばらけさせる前に一応確認をと思いまして。枠で囲った部分がイキです。それ以外は多分値がつきません。なので、捨ててしまっても構わないでしょうか? 」

 

黒く囲まれた部分をよく見ると、他より濃厚な色味をしていた。なるほど道具に使える部分を選別したというわけか。質の良い部分のみを抽出し、他を切り捨てる判断といい、博識、解体のスキルレベルといい、ダリのいうとおり、両親によって良い教育が施されている。私は数度頷いて返事をした。

 

「構わない。では、そのように頼む」

「はい。では遠慮なく」

 

言って彼女は線を引いた部分にノコを入れ、ギシギシと音立てながら切り分けて行く。手際には迷いも淀みも少ない。彼女自身がどう思っているのかはわからないが、それは間違いなく達人の仕事であった。

 

ダリとサガ、ピエールまでもが感心した目でそれを眺めている。その目には彼女の仕事に対する敬意があった。これならば―――

 

「では彼女の作業が終わり次第、下層に向かおう。目指すはアークピクシーだ」

 

予想通り、彼女を連れて行くことに反対する者はもはや誰もいなかった。

 

 

私が連れてこられた旧迷宮の四層は、朽ちた灰色の世界だった。瑞々しさを失った太い大樹の幹は天を目指す事が出来ず中途で成長を止め、彼らの代わりに、細い身なりの樹木だけが捻れながらなんとか天井に身を到達させる事を成功させている。それでもその負担は相当のものらしく、層を支える彼らのその身からは、傷ついた己の傷を癒すための橙色の樹液があちこちで漏れ出していて、それがひどく甘ったるい匂いを生み出している。

 

樹木がしっかりとした体躯で天井を支えているため、私達は探索をする事が出来る。けれど、天井からはパラパラと支えきれない土が、上から下に向けて雨のように降ってくるため、空気中は土埃だらけだ。そのせいで目は異物に反応して涙を流すし、口に布を当てないといけないため、息苦しい。服や靴の中は砂が入り込んで、痛いし気持ち悪い。辛い。

 

舐めていたつもりはないが、侮っていた。二層の密林も始めて訪れた時は酷い蒸し暑さに死ぬ思いを味わったが、これはその上を行く。やはり世界樹の迷宮は人を拒んでいる土地なのだ。深部に潜った今、私はその事をひどく実感していた。

 

そんな手酷い環境下にもかかわらず、ギルド「異邦人」のメンバーは見事な動きを見せていた。シンは疾風となり汚れた空気を吹き飛ばしたかと思うと刃を振るって敵を切り裂き、サガは機械のように正確な動きで敵の弱点を的確に突いて対応した炎氷雷と無属性の錬金術スキルで敵を倒し、ダリはパラディンとして鉄壁となり彼らが活躍する隙を作り出し、ピエールはバードとして彼らが戦い易いように場を整え、敵を屠ってゆく。

 

これは戦闘ではなく、屠殺だ。視界に入った敵はもはや決まった手順で処理されるだけの家畜に過ぎないのだ。これが迷宮最強と名高いギルドの実力―――

 

私に出来るのは、精々、戦闘中邪魔にならないように彼らから離れる事と、獲物から素材を剥ぎ取る事、そして、道中で素材を回収することのみだ。それでも出来る事をやるしかない。

 

私は覚悟を決めると、彼らの後ろに必死でついてゆくのだった。

 

 

そうして必死の思いで彼らに食らいつき、底が抉れて向こう側が見えるほどに体力を使い果たした私が迷宮より戻ってきたのは、なんと三日後のことだった。実力のたりない冒険者がギルドに加入した際、その実力を無理やり押し上げるため、一定期間の間迷宮に篭りきりになって戦闘を繰り返し、無理やり実力をつけるというやり方を聞いたことがあるが、それなのだろう。

 

その、新迷宮に潜るにあたって、私の実力だけが足りていないのは明白なので、やる必要性があるのはわかるのだが、まさか加入翌日からいきなりやらされるとは思わなかった。帰還したのち、本当は一週間から二週間、ぶっ続けで迷宮四層を往復する予定だったと聞いて、心底ゾッとした。

 

あの時、もう解体したり採取したりの素材で持ち物がいっぱいだから一旦帰ろうと、サガとダリが提案してくれなかったら、きっと、シンは本気で、ピエールは興味本位で、本当にあの地獄を続けていただろう。理性的な二人には心底感謝している。そして、素材を必死で回収していた私自身を本当に褒めてやりたい。それくらいには三日間は地獄だった。

 

彼らからすれば、たった三日。そのたった三日の間に、私は死ぬかと思う出来事と、死んだと思った出来事と、死んだほうがマシと思う出来事とがあったわけだが―――もはや思い出すのも億劫だ。否、徹夜でも普段と変わらない活動を当たり前とする彼らに薬を使いながら必死で食らいつき、恥も外聞も乙女の尊厳もかなぐり捨てて活動した続く連日連夜を、もう積極的に思い出したくもない。今や私の頭の中を支配しているのは、惰眠を貪りたいとの願いだけなのだ。

 

そうして迷宮潜入後の処理を終えて、驚くほどの報酬と経験と実績を手にして家に帰ると、私は二階の自室へと飛び込み、手にした荷を全てその辺に放り投げると、汗と泥と血とその他諸々にまみれた服を脱ぐのも忘れて、私はベッドへ飛び込んだ。硬貨が高い金属音を奏でて地面を転がる音がするが、それを気にする体力も残っていない。店のことも、赤死病とか、一流の冒険者とかのことも、今はもうどうでもいい。とにかく眠りたい。

 

シミのないシーツが顔にこびりついた汗と吹いた塩と汚れを優しく包み込み、意識がすぅっと消えてゆく。その刹那の中で、今まで感じたこともないような深い眠りにつく直感を覚えた。少し怖い。でも。

 

―――大丈夫。私はまだ生きている。生きて、この世界に帰ってこれた。

 

自分に言い聞かせて、すっかり意識を飛ばす。そして私は次の日の夜、肌寒さに体が震えるまでの間、ずっと、朝昼夜三回鳴り響く鐘の音も無視するほどの深い眠りについていた。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 

 

第三話 始まる冒険者の物語 

 

終了

 



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第四話 歳はまさに甲子となりて

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第四話 歳はまさに甲子となりて

 

過去の経験と記憶と感傷は背を押す原動力だ。

例え日に吠え月に喘いだ経験でも、経験に憂いた記憶でも、記憶が生み出す不安と恐怖の感傷でも、ないよりはあるほうがいい。

 

 

身体中を這い回る違和感に澹蕩の気分を邪魔される。白光に満たされた空間に赤光が差し込んだかと思うと、すぐさま部屋を生々しい血の色に染め上げた。やがて赤の部屋は壁面が蠢き、腐臭が漂うようになる。

 

原因を突き止めてやろうと、不快さに耐えてよくよく壁面を見てやると、つるりとした壁面に生じた凸凹が、人の顔の形をしている事に気がつく。私はその幼い顔に見覚えがあった。当然だ。だってそれは、私が、かつて、犠牲として容認し、この手で命を奪った、少年だ。

 

彼は苦悶の表情で口をパクパクとさせて、なにかを訴えようとしている。だが壁面には発声を行うための喉が付いていないので、言葉は小さき口より出てこない。しかし、私はその彼の声なき声がなにを訴えているのか、即座に理解できた。

 

―――どうして僕を殺したの

 

純粋な問いかけから逃げるようにして、隣の窪みに視線を逸らす。するとそこには、私が悪と断じて処分した魔術師の顔があった。魔術実験のために多くの村人を攫い、しかし私に討たれるその時すらも、なぜ私が殺されねばならないのかと叫んでいた奴は、苦悶の表情を浮かべながら、しかし恍惚とした目で語る。

 

―――所詮、俺とお前は同類なんだよ

 

ああ、知っているとも。そんな意思を込めて怜悧な視線で見下してやると、卑屈に視線を逸らす奴から興味が失せて、再び目線を隣へと移す。隣にいたのは、いつか救えなかった少女がいた。その隣には、救えなかった家族が揃って張り付いていた。

 

壁面には張り付く無数の、男の、女の、子供の、老人の顔は、私と関わり、結果、命を落とした人間たちだ。彼らは一様にして私に声なき声に暗澹とした感情を乗せながら、投げかけてくる。そうだ、これが辿った道の結果。たとえ未来へと逃されようと、忘れてはならない、私の無知と疑心が招いた罪科。

 

彼らの動かす口は何の言葉も語らない。しかしそこから漏れる感情は赤光に照らされた空気を振動させ、やがて私の肌にまでまとわりつき、皮膚の上を蠢く。やがてその圧は熱を持ち、肌の上に生温い水を生み、口腔より肺腑に入り込んで呼吸を乱す。

 

身体を包み込む不快に、しかし抗う気は起きなかった。やがて酸素が足りなくなった頭は、周囲の光景を黒白の二色でしか認識することが出来ないようになり、意識が混濁に飲み込まれてゆく。

 

そうして意識が消え失せる直前、黒白の中で蠢く彼らの姿の向こう側に、見知らぬ生物が私を覗いているのを見つけた。そいつは私の方を見て口から下品に涎を垂らすと、私の体を丸ごとを吸い込んで、咀嚼し始めた。

 

ああ、もう、どうにでもしてくれ。

 

 

「っはぁ! 」

 

横たわっていたベッドから上半身を飛び起こし、呼吸を荒げる。空気を振動させる音がはっきりと聞こえるほど、大きく何度も喉元を動かして空気を取り込んでやると、鍛えあげてある体はすぐさま落ち着きを取り戻してくれた。最後にもう一度大きく息を吐くと、シーツに枕と掛け布団だけが置かれた簡素なベッドの上から辺りを見回す。

 

入り口から、鎧掛けに、ハンガー掛け。机と椅子、大鏡と続き、そして窓で終わる十五畳ほどの部屋に、私は見覚えがあった。

 

―――そうだ、宿を借りたのだった

 

そして私は、昨日のことを思い出す。

 

 

新迷宮を駆けて逆走し、入り口に戻った私を迎えたのは、隊伍を組んで槍を前方に構える衛兵の群れだった。彼らは一様に怯えと緊張を備えながら、私にまるで怖いものを見るかのような視線を向けてくる。

 

一旦足を止めて、迷宮とそうでない場所の境界線付近に立ち止まり、頭を支えとして運搬していた蛇を地面に放り出す。すると、彼らは、

 

「蛇の化け物が人間になった」

「蛇人間だ! 」

 

などと言って大いに騒いで見せてくれた。どうにか落ち着いてもらい、話を聞くと、どうやら彼らには、迷宮の奥から蛇を運んでくる私の姿が蛇の体の下に人間の体が生えた新手の魔物に見えたのだとか。

 

失礼な、と思いながらさらに話を聞くと、彼らから見た私の姿は、頭を支えとしてクタリ垂れた蛇を運搬していたが故に私の頭は見えず、胴体だけが判別できる状態であり、その上、迷宮の色に似た赤い外套と蛇の返り血で赤く染まった黒いパンツという出で立ちは、如何にもこの迷宮に出現する魔物としていて、真に魔物と思うことしかできなかったのだとか。

 

言われて私は先ほどの自分の状況を思い起こし、少し想像する。赤い樹海を仄かに濡らす朝霧の中、上に乗る蛇の体は滑空するように霧を切り裂いて、その下に生えた首なし人間の下半身は土煙を起こし、地響きをあげながら入り口にいる自分たちのところへ、時速二、三十キロの速度で迫ってくるのだ。

 

―――なるほど、化け物と見られても仕方ないか。

 

不満を抱きながらも納得。その後、落ち着いた衛兵たちに地図が完成したので照合をお願いしたい旨を伝えると、彼らは驚いた様子を見せて、しかしきちんと私の地図を受け取り、そしてもう地図を見た瞬間、先程よりも大きな驚きとともにざわめき、暫しの騒動の後、私はやっと、迷宮の新迷宮一層一階地図完成を証明してもらうことができた。

 

その後、私は衛兵の好意によりアリアドネの糸を使わせてもらい、エトリアへと転移する。糸による転移という現象は、私の体を分解したりして時間や空間を跳躍するわけでないらしいと理解する。令呪を用いた転移や英霊として召喚される際とは違い、召喚酔いや体がバラバラになる嫌悪感を引き起こすことがなかった。代わりに体の節々が軽く痛んだ

 

瞬間的にある場所からある場所に移動する、というよりは、見えない水路の中の激流に身を任せてその勢いで目的地まで一気に運ぶ、というイメージが近いだろうか。おそらくは、転移というよりも超高速移動なのではないかと推測する正しいのだろう。

 

ともあれ、私はアリアドネの糸の力により、エトリアの転移所に移動した。蛇の死骸を執政院に持って行くまでの間、住人が驚かないようにと転移所の衛兵から貰った布で蛇の体を覆ったり、執政院に持ち込んだ蛇の死骸に受付が腰を抜かして悲鳴をあげるほど驚いて、ラーダ内に駐在する衛兵たちが集まってくるなどの一悶着もあったが、それでも私は、なんとかラーダの受付で新迷宮の拾得物報告と地図完成の報告をすませる。

 

クーマが応対するものと思っていたが、彼は別件で席を外しているとの事で会うことはできなかった。だが、それでも彼の手によってキチンと報酬は用意されていて、私が依頼達成の証として、森の入り口衛兵の手によって判を押された契約書を見せると、受付の彼に差し出されたクーマの用意していた契約書にギルド名や職業の名前も併せてサインし、引き換えに報酬五百イェンを受け取る。

 

また、蛇の全身標本はラーダが研究材料として買い取りたいと申し出てきたので、私は快く申し出を受けて、追加の報奨金を受け取る。その額は三万イェン。ただし、いきなりその額は用意できないとのことで、半値を現金で、もう半値を一時手形で受け取った。これで金は先の報酬と合わせて、現金は一万五千五百イェンになった。残りは明日の朝、鐘が鳴るまでに用意するので、それまで待っていてほしいとの事。急ぐ理由もないので了承する。

 

受け取った一万五千五百イェン高いのか安いのかわからないが、以前ヘイという男が牛串を十五イェンという価格で売っていた事から察するに、日本円にして四十から五十万いかないくらいだろうか。となると、三万イェンは間をとって、九十万くらいと見なせるか。

 

なんにせよ、袋一杯に硬貨が詰め込まれたものが三つはあるのだ。第一次大戦後のドイツのようなハイパーインフレでも起きない限り、その相場がいくらにせよ、これで当分の間は資金面に困るまいと、多少楽観視する。

 

そうして報酬と新迷宮探索許可証、冒険者証明書を受け取り、多少の安心を得た私は、受付にラーダ推薦の宿屋を教えてもらい、そして訪ね、長期逗留の契約を結んだ。

 

冒険者がこの街で転職し、そして戦闘職についた場合は、レベルというやつに応じて宿泊代が減額されるが、代わりに一日分の契約しか結べない、チェックアウト時間に確実に追い出されるという縛りがあるらしいのだが、私はこの街において転職を行なっていない為、その縛りを受けることがなかった。ちなみにその場合、一泊百イェンである。

 

女将は訪問者である私の、火傷と水膨れだらけの顔を見た瞬間、軽く悲鳴を上げ、簡単な治癒スキルで応急手当だけでもしようかと提案してきてくれたが、もしも回復薬の時のように、スキルが効かなかった場合、何者かと疑われ面倒なことになるかもと考えて、丁重にお断りさせていただいた。好意はありがたいが、厄介は御免だ。

 

でもひどい怪我だよ、と渋る女将に前金で宿泊代三千イェン即全額を支払い、部屋を一月借りる。その後、女将に頼んで簡単な食事を出してもらい、それを胃の中にかっこむと、案内された部屋に置かれたベッドの上へ倒れこむようにして寝たのだった。

 

 

ぼやけた頭で昨日のことを思い出すと、窓の外へと目を向けた。陽光が作る窓枠の影は元々の大きさよりもずっと短く、今がおそらく昼時であることを知らしてくれる。私は首元と顔の寝汗を拭うと、火傷のピリとした痛みから逃れるよう、陽光の清潔に誘われるよう窓に近づき、ガラス窓の鍵を開け、開放する。

 

外側と内側を区切る境界が無くなった途端、部屋に溜まっていた湿気と淀んだ空気が飛び込んできた風に撹拌され、その密度が薄められる。部屋の中を荒らした風はやがて入り口の扉に押し返されて戻ってくると、出戻りの風が窓より退出してゆく。

 

その涼やかさを含む風は通常なら心地よいと感じるものなのだろうが、全身に火傷の痕跡が残る今のこの身には、少しばかり刺激が強すぎるようで、寝汗に濡れた上半身の水膨れが残っている部分がヒリヒリとジクジクと痛みを訴えた。反応して思わず火傷跡に触れようとする手をなんとか止める。

 

おそらくこの全身を包み込むじくじくとした痛みと、寝汗の気持ち悪さとが、昨日潜入した迷宮の不気味な外見の記憶と混じり合い、さらに痛みと気持ち悪さが私の古き過去の記憶と結びつき、あのような悪夢を見せたのだろうと思う。

 

しかし、夢を見るなど、どのくらいぶりだろうか。睡眠を必要としない英霊は、基本的に夢など見ない。夢とは浅い眠りの時に、その日に起こった物事を脳が整理して記憶として残す際に起こる現象だ。つまり、私が最後に夢を見たのは、生前ということになる。

 

私の生前というと、もはや幾億千万の彼方、その遥か昔の出来事だ。だから、もはや、夢を見て起きた後、どういう感覚を抱くのが生身を持つ人間として正解なのかなどわかろうはずもない。だがこうも獰猛な悪夢を見た場合、本来もっと最悪に近い気分を抱くのが当たり前の反応だと思うのだが、今の私はむしろ真逆に、不思議な解放感だけが心中にあった。

 

悔恨に満ちた悪夢の内容は今でも鮮明に思い出せる。しかし、思い出した所で、不思議と何の感慨も湧いてこない。空虚になってしまった想いがどこに行ったのだろうと、胸の裡を探りあれこれと思案していたが、しかしやはり結論は出ることなはかった。

 

そうして私が時間だけを無為に浪費していると、やがて無駄を責めるように、窓よりもう一度乾いた涼しい風がひゅうと入り込み、体の表面を撫ぜていった。寝汗に濡れた火傷跡の残る体は、風に体温を奪われて、寒さとこそばゆさと軽度の痛みを訴える。

 

私は刺激に促されるようにして窓を閉めると、今来ている汗を吸って湿気ったシャツを脱ぎ、新たなシャツを投影すると着込む。普段着として投影した黒シャツの柔らかい布地が火傷の跡残る肌を優しく包み込み、外の空気と遮断されたことにより、痛みが微かに和らぐ。

 

そうして生まれた心地よさの上に防寒として赤い外套を羽織ると、靴を履いて、部屋の反対側、入り口の扉へと向かう。さて、何にせよ、まずは食事で活力を満たすとしよう。

 

 

起き抜けに女将が用意してくれた食事をいただいている最中、火傷の治っていない状態をみた女将は、「まずはその全身についた火傷を施薬院で治したらどうだい」とため息混じりにアドバイスをくれた。その言葉に従い、食事が済んだ後、私はベルダの広場にあるというモスクのような外見の建物の前にやってきた。

 

円形の広場より少しだけ離れた場所にあるそこの内部は、すぐ近くにある広場の喧騒などとは無関係の場所だと主張するかのように、シンとして静けさを保っている。一見祈りを捧げるべく作り上げられたに見えるこの建物の名前は、ケフト施薬院。いわゆる、エトリアの治療施設である。

 

施薬院の内部に入ると、まず空高くまで吹き抜けるような高い天井が私を出迎えてくれた。両側の壁に設置されている棚が嫌でも目に入る。棚の中には美術調度品ではなく、ビーカーやフラスコが所狭しと並んでいて、様相はまるで病院というよりも、教会。教会というよりも、古い時代の化学実験施設のような雰囲気を漂わせている。

 

棚に沿って奥まで目をやり、縦に等間隔で並ぶ三つの窓を辿って視線を上へと持っていくと、丸みを帯びた天井までは二十メートルはあるだろうことがわかる予測できる。壁に立ち並ぶはめ殺しの窓からは、朝昼晩どの時間帯でも院内を明るく保ち、清潔感を出そうとする設計思想が見て取れた。

 

絵画の煩わしさを嫌って真っ白く染め上げられた天井から一気に視線を下ろしてやると、出っ張り半円にくり抜かれた空間の中心に、直径二メートルほどの盃が地面に置かれているに気づいく。なんだろうと立ち止まって見ていると、施設に入った人間はまずそこへと進み、手を洗っているのがわかった。多分、大きめのフィンガーボウルなのだなと推測。私は周りにいる彼らに習って、奥へと足を進めた。

 

少し奥へ進むと、左右の扉から傷だらけの人間が扉の向こうに消えたかと思うと、戻ってくる頃には傷一つない状態になっているという光景が出迎えてくれた。なるほどたしかに、「いかなる病気や怪我でも治して返す場所」と自慢げに述べた女将の言は嘘でないらしい。

 

手を洗い、さて、どうすればその自慢の治療を受けることができるだろうかと辺りを見渡すと、ひとりの白衣を着た少女が先に見つけた扉の向こうから出てくる姿を見つけた。まだ幼さの残る容貌に反して、しっかり結い上げられた黒髪と、まっすぐとした顔つき。私は多分、彼女はこの施薬院の関係者なのだろうとあたりをつけ、少女へ声をかける。

 

「すまない。少しよろしいだろうか? 」

「あ、はーい、……、うん、なるほど。わかりました! 今すぐの治療がご希望ですね! 」

 

私の声を聞いて視線を上にあげた少女は、私の顔を視界に収めた途端、静かな怒りの感情

を含んだ笑顔で断言した。予想だにしなかった反応に、少しばかり気圧される。

 

「そうだが……」

「見た感じ、火傷を半日ほど放置していましたね!? なんでですか! 」

「ああ、いや、その、なんだ、新迷宮に潜って疲れていたのでな…… 」

「じゃあ余計にダメですよ! 特に新迷宮なんて、まだまだ謎が多い場所なんですから、何が原因で体調が悪化するかわからないじゃないですか! 次からは、怪我や体調不良になったら、すぐにここにきてください! いいですね! 」

「あ、ああ、了解した」

 

その威勢の良さと押しの強さに気圧されるがまま、肯定の返事を返す。そうして言われるがまま返した答えを聞くと、彼女は満足げに頷いて立ち上がった。

 

「では、早速治療室までご案内します。ついてきてくださいね! 」

 

宣言すると、彼女は逃がさんとばかりに、強引に私の腕を掴み、そのまま引きずるようにして施薬院の奥へ向かおうとする。色々と言いたいことはあったが、何かをいったところで火に油にしかならないだろうなと感じたので、私はなされるがまま、その案内に従って、足を小刻みに歩幅を彼女に合わせて動かした。

 

 

施薬院の両側より奥の場所は、図書館のような場所だった。扉をあけて中に入ると、大きく十字に開かれたその四方の壁には棚が張り付き、その棚に囲われるようにして、部屋の中央には多くの長机と、それに合わせた数十脚もの椅子が並んでいる。棚に収められているものがビーカーでなく本であったなら、まさしく図書館といって差し支えないだろう。

 

少女はその机と棚との間を縫うようにして進むと、適当な空いている場所を見つけ、彼女は椅子を引いて私に座るよう促した。指示に従い、私が机を正面にして腰をかけると、彼女はその隣に座って、机を横目にこちらを向く。

 

「では、脱いでください」

「……は? 」

 

そしていきなりの言葉に驚き、半身を捻らせながら、彼女の顔を見た。

 

「え、ですから脱いでください。治療が出来ないじゃないですか」

「治療……? 君が……? 」

 

私は彼女の言葉を聞いて、思わず首を前にしてその小さな顔を覗き込んだ。彼女はその失礼に驚く様子も見せず、もう一度繰り返す。

 

「そうですよ。私が治療します。私もこの施薬院のメディックですから」

 

言って彼女は胸を張ると、羽織った白衣が揺れて、胸元のプレートが目に入った。そこには「ケフト施薬院所属メディック サコ」という文字と多分証明のだろう判が記載されている。驚く事に、この小さな少女は本当にこの場所で医療行為を行う医師であるらしかった。

 

「あ、ああ、すまない。その意外だったものだから」

 

そこまで言って、今の自分の謝罪が君は医者に見えないとの侮蔑を多分に含んでいることに気がついた。失礼を恥じて私が眉をひそめると、彼女はそんな自責を見抜いたのか、「いえ、いいんですよ」と言いながら、にっこりと笑った。

 

「さ、わかったら脱いでください。火傷は上半身だけですか? 」

 

私は外套を机の上に置いて、シャツを脱ぎながら答える。露わになった肌は、ある面は腫れ、ある面は表皮がなく、ある面は水膨れがあり、ある面は体液が滲んでいた。彼女はそれを見て物怖じするどころか、憐憫と怒りと呆れの目を向けてくる。その眼差しは、医療従事者が患者に向ける特有のものであり、そして私はようやく彼女が医者だと言うことを確信した。

 

「ああ、おそらく、肌を晒していた部分だけが熱風でやられたのだと思う。上半身がひどい分、逆に、腰部から下にかけては一切火傷はない。靴はブーツ型、ズボンは足首の裾を靴の中に入れ、さらに腰から靴との接触部分近くまでをベルトできつく締めて、隙間が生まれないようにしてあるからだろう」

「それでも上がこれだけひどいのですから、下も多少は跡がありそうなものですが……まあどのみち治せますから、いいです。とにかく、状態はわかりました。では、ちょっと失礼」

 

いうと彼女はラテックスの薄いゴム手袋を着用し、肌蹴た胸元に手を当てて、ペタペタと

触る。彼女が触るのは、火傷の深度が浅い部分か問題ない場所ばかりで、無事な場所の神経はむず痒いさを、それ以外の部分を微かな痛みが這い回る。

 

少しばかり二つの感覚に耐えていると、彼女は立ち上がり私の周りを半周して背中側に回り込み、やはり火傷の跡の上をなぞってゆく。

 

「あー、すごい、こんなところにまで。随分広範囲にまあ、法則性もなく広がってますねぇ。これ、敵の攻撃によるものですか? 」

 

正直に答えるなら、投影魔術で生み出した宝具の爆発の余波によるものなのだが、魔術の事も宝具の事もバカ正直に言う事が憚られた。それは魔術が多くの人に知られるほど威力と効力が弱まるという特性以上に、スキルではなく魔術、という異端が、彼らに受け入れてもらえるかわからないという、臆病の葛藤によるものだった。私は少しだけ考えて、答える。

 

「いや……、違う。敵を処分しようとして爆発を起こしたら、思いのほか、威力が強くてな」

「あー、火力の調整を誤りましたか。なるほどねー」

 

上部だけを取り繕った意見に、彼女は納得したと言わんばかりに大きく首を上下に動かして頷いみせる。受け入れられたことに、少しばかり胸をなでおろした。しかし、この浅い説明で納得されるということは、スキルでも宝具の爆発と同じような事象を引き起こす事が可能で、この手の事故はよくあると言う事なのだろうか。

 

「あ、すみません。少し待っていてくださいね」

 

私の顔が疑問に歪んだのを、苦痛のそれと勘違いしたのか、彼女は駆け足に壁面の棚へ向かうと、そこから一つの三角フラスコを取り出して戻ってくる。瓶の中には薬草と液体。そうしてその蓋を開けると、フラスコを振って中の黄色の液体を少し撹拌させ、言った。

 

「では、いきますよー。皮膚がすでに薄く再生していますから少し痒かったり痛かったりがあるかもですが、我慢してくださいねー」

 

呑気な声とともに、体に液体がかけられる。生ぬるさと痛みの感覚が、ごちゃごちゃと雑多に上半身を駆け巡る。迷宮でメディカを被った時のような、アルコールと薬液の匂いが鼻腔に広がった。そして。

 

「ヒーリング」

 

宣言。彼女の放った癒しの意味を持つ言葉と共に、私の体は柔らかい光に包まれた。かけられた液体は彼女の言葉に反応して光の粒子になると、全身を薄く包み込み、皮膚の下へと潜り込む。直後、上半身の火傷を負った部分に違和感。

 

彼女が言った、くすぐったいような、かゆいような刺激が上半身のあちこちを襲ったかと思うと、みるみるうちに、浅黒い肌に残る傷が消え、元の平坦さを取り戻してゆく。

 

やがて数秒ほどして異常な感覚が収まった頃、追うようにして発光現象も薄らいでゆき、光が完全に消える頃には、私の体は十全な状態に戻っていた。痛みのまるでなくなった肌の上を強めにさすってみても、何の違和感もない。その手際のあまりの見事さに、私は感嘆のため息をついた。

 

「見事なものだな」

「いえいえ、それほどでも。この程度。市販のメディカでも同じ事が出来ますからねー」

 

謙遜していうが、彼女は少し誇らしげだった。しかしすぐに疑問を浮かべた顔で続ける。

 

「それにしてもすごい無茶しますねー。痛かったでしょう? こんな火傷を放って一晩過ごすなんて。施薬院にくるのが億劫だったとしても、それこそ市販のメディカや普通のメディックの方にでも治してもらえばいいでしょうに」

 

彼女の言った疑問の言葉に、私はしかしその答えではなく、別の事を考えさせた。ああ、やはりメディカを使えば、この程度の傷は治ってくれるのか。私は解析結果が間違っていなかったことを安心し、しかし同時に、なぜ私の投影品は効力を発揮しなかったのだろうと思う。

 

私は首を傾げたままの彼女に、言葉を選んで回答するとともに、尋ねる。

 

「ああ、まぁ、そうなのかもしれないが、ちょうど手持ちが心もとなかったのでな」

「ああ、なるほど」

「……そうだな、ところで、そのメディカ、と言う薬なのだが、どのような仕組みで傷を治すのか聞いても良いだろうか? 」

「……? 別に、構いませんけど」

 

なんでそんなことを気にするのだろう。私は彼女の瞳に浮かぶそんな疑問の色に、あえて完全に気づかないふりをして、受け流した。

 

「なに、大した理由はないよ。単なる興味本位だ」

「ふぅん……、まあいいです。えっと、そう、メディカでしたね……、この薬にはアルコールと洗浄、殺菌作用をもった液体に薬草を加え、私たちがヒーリングのスキルを閉じ込めてやる事で完成します。ちなみに中に含まれている液体に何を溶かすかでそのスキルの効力も上がります。例えば、メディカⅱだと小さな花が必要になりますし、メディカⅲだと琥珀色の蜜結晶が必要になります。植物ではないですが、これに岩サンゴを混ぜれば、重傷でもたちどころに治る、メディカⅳが出来上がります。これが治癒効力の違いになるわけですね」

「……なるほど」

 

彼女の説明を受けて私は、細かい理屈はわからないにしろ、私の投影した薬がなぜ効力を発揮しないのか理解出来た気がした。私の投影品が効力を発揮しないのは、おそらく、彼女の言うところのスキルという奴のせいなのだろう。

 

私はそのスキルというやつを使うことができない。どのような理屈で発動しているのか、どこから力を引っ張ってきているのか、さっぱり理解出来ていない。だから、投影の際も、その部分を再現してやる事ができず、結果、効力を発揮しない薬が出来上がるのだろう。

 

「いや、興味深い話だった。感謝する」

「いえいえ、それほどでも」

「いや、治療の手並みといい、見事なものだった。お陰でこの通り、十全な状態に体を戻すことができた。……ところで、料金はいかほどだろうか? 」

 

尋ねると、彼女は少しぽかんとした顔を見せて、しかしすぐに笑ってみせると、言う。

 

「いえ、いりませんよぉ。ケフト施薬院はエトリアに住むみんなのための施設ですからねぇ。余程の事情がない限り、治療費はいただいていません」

「――――――、そうか」

「ええ。でも、そんなことも知らないなんて、あなた、やっぱりど新人さんですか?」

 

私は私の情報を開示して良いものだろうかと一瞬思ったが、どうせ言わなかったところでいつかはバレてしまう問題である。それに執政院という政府機関に相当する部署が知っているのだから、同じく公共施設だろう施薬院の職員に言ったところで問題あるまいと判断すると、頷いて答える。

 

「ああ、昨日こちらに着いたばかりだ」

「はぁー、なるほど。だから怪我してもここにこなかったんですねぇ」

 

納得して見せる彼女は、鷹揚に頷くと、ポケットから一枚の紙を取り出して、言う。紙には彼女の「サコ」 と言う名前とケフト施薬院という名前と印章が大きくが刻まれていた。

 

「では次からは、遠慮なくおいでください。怪我をしてやってくる事を歓迎するわけにはいきませんけれど、怪我をした人、病気の人たちを私たちは昼でも夜でも、いつだって門戸を開いて受け入れます。どうか忘れないでくださいね」

 

 

エトリアの鐘が昼の時を告げ終えた頃、無料にて治療を終えた私は、執政院にて残りの半金を受け取り、ベルダの広場より離れて、街の中心街より離れた場所へと向かっていた。

 

傷口と接して汚れたシャツをこっそりと投影しなおして、シミひとつない糊の利いたシャツに外套を羽織り、不快感のすっかり失せた体で、一朶の雲すら無い蒼天の下に広がる石畳の街を軽やかな足取りで進む。白の漆喰と木材で作られた街並みは、陽光を反射して綺麗な光沢を周囲に誇っていた。

 

その青さに負けないくらい晴れ晴れとした気持ちで、歩を進める。そうして十分ほども澹蕩の気分を味わっていると、やがて、人並みの少なくなった頃に、目的の場所を見つける事ができた。

 

住宅街と広場のその間に、人目を避けるようにしてポツンと置かれた立て看板には、「ヘイ道具屋」と書かれていた。さてあの男は雑貨店、と言っていたがと首を一捻り。私はその民家のようにしか見えない家の前に立つと、胸ポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出して、その面に書かれた紋様を看板のそれと比べる。

 

―――ああ、間違いない

 

二つの図形に相違がない事を確認すると、私は扉を開けて、その店内へと足を踏み入れた。

 

 

扉を開くと、軽やかな鈴の音が鳴った。そうして薄暗い店内に足を踏み入れると、そこに広がる光景は、道具屋というより、鍛冶屋を連想させた。鉄と土と焼けた木材と塗料の混じった独特の煤けた刺激臭がツンと鼻をつく。

 

まず目立つのは、奥にあるレンガで作られた、製鉄用の鞴と竃と炉だ。そこから視線を手前に戻してくると、生のまま広がった土の地面の上には、水桶に冶金台、ハンマー、てこ棒、火箸、レンチ、万力などが、所狭しと捨て置かれている。

 

そこからさらに入り口に近づくと、剣や槍が立てかけられた樽や桶、鎧盾に兜が立てかけられ、あるいは乗せられた木台が目に入る。こちらは多少見栄えに気を使っているらしく、一応の法則性に従って規則正しく並べられているが、それでも雑多という以外にこの場所を適当に表現する言葉が思い浮かばないほどには汚れていた。

 

「はいはい、どちらさん―――、っておお、来たか 」

 

そうして店の中を見回していると、やがて炉の横の通路から太めの大柄な男が呑気な声を上げてやってきた。忘れようもないその濃い顔は、二日前、エトリアにて私が始めて会話を交わしたヘイという男の顔に間違いがなかった。

 

「ご招待にあずかり参上させてもらったよ、ヘイ」

「やぁやぁやぁ、よく来てくれた、エミヤ」

 

彼は大業に両手を広げると、そのままこちらへと近寄ってくる。その抱擁を片手で胸元を押し返して柔らかく拒絶すると、彼はノリが悪いなぁ、と惜しげに呟いて指を鳴らした。私がその引っ掛けた作業用ツナギに引っ付いた油と鉄と塗料と土の汚れを一々指摘してやると、彼は大いに頷いて、悪かった、と頭を下げて来た所から奥へと引っ込むと、ドタバタとした音の後、すぐさま綺麗な身なりで姿をあらわした。

 

「それで、どうだった。冒険者にはなれたのかい? 」

「ああ。おかげさまで、昨日、正式に新迷宮で活動して良いとの許可をもらえた。……これが証明だ」

 

言って胸元から書類を引っ張り出す。ヘイはその書類の上から下にまでご丁寧に目を通すと、感心していいのか呆れていいのかわからない、といったような、なんとも不思議な顔を浮かべて、こちらに謎の視線を向けた

 

「いや、へへ、馬鹿だたぁ思っていたけど、まさかここまで突き抜けた馬鹿だとは思ってなかったんでね」

「ヘイ、それはどういう意味だ」

 

遠慮のない直接的な罵倒に少しばかり腹を立てて応対の口調を強める。普通の人間なら怖気づく程度の圧に、しかしヘイは平然としながら、やはり呆れた口調でいう。

 

「いやさ、お前さんが新迷宮をクリアするだろうな、ってこたぁ予想してたんだよ。だって、お前さんの纏う雰囲気や空気はそこいらの一般冒険者が出せるもんじゃあなかったからな。ただまぁ、お前さんが、どこのギルドのも所属しないで、エトリアで定められている戦闘職に就くこともなく、一人で新迷宮に突っ込んだ挙句、クリアするような実力ある馬鹿だたぁ、思っていなかったんでよ」

 

彼はひらひらと手中で踊らせていた紙をこちらへ弾きながら言った。私はそれが地面につく前に素早く拾い上げると、折りたたみ、胸元へとしまい込むと、ため息を吐く。

 

「君は結局、馬鹿にしているのか、褒めているのか、どっちなんだ」

「いや、別にばかにゃぁしてないよ。むしろほめてらぁ。ただ、ただ、そう、知り合いの馬鹿を凌ぐ程の馬鹿がいるもんだなぁ、と感心していただけさ。いやはや、世界は広いなぁ」

 

どう聞いても馬鹿にしたとしか思えない態度で、ヘイは間の抜けた声を漏らす。

 

「ほぉ、だが、馬鹿を凌がない程度の馬鹿という私のご同類とお知り合いな君も、きっとご同類なのだろうね」

「ああ、その通りさ。いや、あいつらもお前さんよりずっと未熟な状態でエトリアに来て、俺の店にやって来たと思ったら、たった三人で旧迷宮に挑んで、たった三日で地図を完成させた奴らなんだよ。あん時は、まぁ、無鉄砲な奴らだと呆れたもんだが、まさか上がいるとは……普通思わんよなぁ? 」

 

嫌味をさらりと受け止め、そしてもう一度わざわざ貶す言葉をニヤリと大げさに言ってのけるヘイ。そのあまりにこちらを馬鹿にしたような態度にカンに触ったので、その怒りを大げさに表現するかのように一つ大きな咳をかますと、木台を強く叩いてやった。衝撃に台の上に乗ったさまざまな物品が、一瞬浮遊をみせる。

 

「ああ、悪かったよ。言いすぎた。そう怒らんでくれ」

「……まあいい。今日はこんな話をしに来たのではない」

 

言って道具を整えるヘイを尻目に、腰に引っ掛けたバッグから硬貨の入った袋を取り出すと机の上に投げ置いた。重い金属音が細かく重なって、大きな音をたてる。ヘイはその袋を見ると、一気に目元口元を引き締め、剣呑な雰囲気を漂わせながら聞いてくる。

 

「これは? 」

「昨日執政院からもらった報酬の一部だ。これで道具を売ってもらいたい」

 

ヘイはその袋に手をつけようとしないまま、木台の向こうへ行くと、年季の入った紐で製本された紙束を持ってくる。

 

「ほれ。これが売ってる道具の目録だ。んで、今のお前さんに売れるのは、ページの枠に色が付いていない部分のもんと、糸だけだ」

 

パラパラとめくると、カタログには街中をあるく冒険者が装備している装備品や、物品、そして一昨日がた自分が投影し、しかし効力を発揮しなかった薬などが、製作に必要な材料や、仕立て直しの際にかかる料金、調合調整期間、値段などと共に掲載されている。

 

私は枠が白く、色のついていないページだけを選別してパラパラと眺めると尋ねる。

 

「全体の量に比例して、随分とまた私が買える商品が少ないようだが」

「そりゃそうだ。そもそもメディカとかの基本的な薬やアリアドネ以外は、迷宮の中でしか取れない材料を元に製作しているからな。冒険者ってなぁ基本的に自給自足が原則。自らの力で勝ち取ったものでない力は手に余るからな。だからそこに乗っている、無色のページ以外の道具や武器防具が欲しいなら、目録にある道具の素材を自前で用意してくんな」

 

ふむ、なるほど。このエトリアという街は、いかなる不審者も冒険者として受け入れる、随分と大らかで大雑把な性格の街だと思っていたが、力に対する考え方や、締めるべきところと緩めるべきところの線引きはきちんとしているらしい。これが住む人々全員に共通する考え方だとするなら、大したものだと思う。

 

「了解した。ではまず、そうだな。……アリアドネの糸を五個とメディカを十個ほど頂けるだろうか」

「ん、ちょっと待ってろ」

 

言うと彼は、奥へと引っ込み、かちゃかちゃ、ガチャガチャと音を立ててあたりを騒がすと、木箱を二つ持ってくる。彼が机に置いたそれを覗き込んで見ると、一つには凧の糸巻きに似た姿のアリアドネの糸が雑多に詰め込まれ、もう一つにはメディカと呼ばれる薬の入った細瓶がきちんと等間隔な状態で綿に突き刺さっていた。

 

ヘイはそれから私の指定した数を取りだすと、糸は机の上に並べ、メディカはゴムで薬瓶の上下両端を縛り固定して、それらをこちらの方へと押し出した。

 

「合わせて七百イェンだ」

 

指定の額を袋からとりだして渡すと、彼はそれを受け取り、乱雑に近くの桶へと放り込む。桶の中には結構な額の硬貨がたまっているらしく、硬貨が桶の中に姿を消した直後、薄暗い店内に涼やかな金属音が細切れとなって鳴り響いた。金に無頓着なところがまた、彼らしい。

 

「他に何かあるか? 」

 

ヘイの言葉に、私は少し考え込む。もうこの時点で必要なものは最低限入手した。後はその旧迷宮という場所に行って材料を手に入れなくてはならないものばかりと言うなら、もう用はない。さて、あとは……、ああ、そうだ。

 

「そうだ、ヘイ。質問があるのだが、よろしいだろうか」

「ああ、まぁ、答えられる範囲内でなら答えてやるよ」

「感謝する。ヘイ、この中に、毒と石化を防ぐ装飾品はあるか?」

 

カタログを片手に持ち机に差し出すと、ヘイは無言でカタログの紐を解き、パラパラとページをめくる。やがて枠が濃緑色のページと枯草色のページを取り出すと、私の前にそのページが正面になるよう揃えて並べて差し出し返してきた。

 

「ほら、これだ。一つは毒祓のタリスマン。一つは石祓のバングルだな」

「ふむ、これを作成するための素材入手方法は? 」

「毒の方は旧迷宮の二層六階あたりに出現するポイズンウーズをぶん殴って倒した際に出る、毒の凝集された粘液を持ってきな。石の方は四層二十階前後に出るアークピクシーを石化させて服を剥ぎ取れ」

 

……殴って倒すはいいとして、服を剥ぎ取れとは、また凄まじい事を言う。服を着ていると言うことは、そのアークピクシーとやらは人型、ないし、知性のある生き物なのだろうか? そうだとすると、少しやりにくい。しかし。

 

「ところで、石化と、いうのはどうすればいいのだろうか」

「ああ、そりゃオメェ、ダークハンターかカースメーカーに手伝ってもらうか、それか最近開発された石化の香を使うかだな」

 

手伝ってもらうのは論外として、石化の香を使う、か。名前とこれまでの流れから察するに、使うと敵を石化させる香なのだろうが、しかし一体どういう理屈で……、いや、もう問うまい。どうせスキル関係しているのだろう。ならそれはもう、自分の理解の及ぶ範囲ではない。

 

「ふむ、では、その石化の香、というのを手に入れるにはどんな素材が必要なのだ? 」

「ああ、うーん、それがこれ、割と素材の入手に面倒があってなぁ。盲目、麻痺、混乱

睡眠の香の材料をちょっとずつ混ぜて作るから、旧迷宮のあっちこっち飛び回らんと手に入らんぞ。―――ほらこれが必要素材の書いてあるページ。そうだな、でも、新迷宮一層一階を一人で攻略したアンタなら、三ヶ月もあれば集められるだろう」

 

言いながら三色のページをこちらへと差し出した。私はそれを受け取ると、素材の入手場所が二層、三層、四層とかかれたのを見て嘆息した。三ヶ月。それは流石に、準備期間としては長すぎる気がした。そもそも、新迷宮を攻略するのが目的なのに、旧迷宮に潜るというのが、なんとも本末転倒である気がする。

 

―――あの研究員の忠告を無視し、危険を承知でも先に進むべきだろうか

 

思いがけない壁の出現に頭を悩ませていると、ヘイは机を叩き、尋ねてくる。

 

「ちなみにその二つが必要なのは、新迷宮一層の蛇対策かい?」

「そうだ」

「ふぅん、しかしなんでまた毒まで必要なんだい? 一層の蛇が使うのは石化毒だけと聞いていたけれど」

「いや、蛇の毒は、生物の体を融解させる猛毒と石化させる毒が混ざったものらしくてな。片方だけだと効果がないとは言わないけれど、敵の毒を完全に防いでくれはしないらしい」

「へぇ、それは初耳だ。エミヤ。アンタ、それをどこで知ったんだい? 」

 

少し逡巡。しかし、別に隠しだてするほどの事ではないと判断して、口を開く。

 

「今朝方、執政院で、だ。蛇の体を丸ごと執政院の研究機関に提供し、その報酬の半値を受け取る際、事務処理にやってきた研究員が嬉々として教えてくれたよ。いや、今朝訪ねた際、やけに手続きに時間がかかるなとは思ったが、まさか受け渡したからずっと解剖と調査と研究とをしていたとはね。まぁ、お陰で対策がわかったわけだが」

「……蛇って、おまえ、あそこの蛇は人間一人なんかより余程でかくて重いって聞いた事があるんだが」

「まあ、それなりに巨大で重くはあったな」

「それ、正式な冒険者になる前の話だろ? てことは糸なしで持って帰ってきたのか? 」

「……、まぁ、そうなるな」

 

人ごとのように告げると、ヘイはぽかんと口を開けて停止した後、木台に上半身を預け、腹を抱えて大笑いしだした。振幅する腹より生じるその声は、陰鬱な店内の雰囲気を吹き飛ばすような空気をも揺らす声量があり、私は少しばかり耳の中にダメージを受け、思わず両手で耳を塞ぐ。

 

やがて彼の馬鹿デカイ笑い声が収まった頃、彼は抑えていた腕を木台の上に移動させて身を起こし、目元に浮かんだ涙を拭いながら言う。

 

「うん、いや、あんた、やっぱりとびきりだな。あいつら以上だ」

 

具体的な事を何一つ言わない言葉には、多分な感心と呆れと喜色が混じっていた。私はもう反応してやる気にならなかった。するとヘイは、私のその態度を見て、さらにもう一つ笑いを漏らすと、呼吸を整えながらいう。

 

「うん、じゃあ、その馬鹿さ加減に免じて、少し裏技を教えてやろう」

「裏技?」

「ああ。実はな。さっき言ってた素材は自分で集めにゃならん、ってのには抜け穴があってな。素材を自分で入手しなきゃならんのはそうなんだが、別にその素材を手に入れるために迷宮に潜って自らの手で取ってこなきゃならんと言う条件はないわけなんだよ」

 

ヘイの言葉を聞いて、私は途端、閃く。なるほど。

 

「つまり、買取や交渉で素材を手に入れても構わないと? 」

「その通り。とはいえ、その場合交渉の相手は道具屋じゃなくて、冒険者になるから、多少の余計な出費は覚悟せにゃならんがな。その際は、金鹿の酒場の掲示板に依頼を張り出すのが一番手取り早い。適正価格がわからなかったり、交渉に自信がないなら、あそこの女将に相談すれば、大体相場位の値段で張り出してくれるぞ。まぁ、こっちは余計な出費が抑えられる分、多少運と時間を要するが、まぁ、自分で全部の素材を集めるよりは金も時間も節約できるだろう」

 

私は聞いて考える。確かにそれは魅力的な提案だ。別段金を惜しむ気は無いし、その女店主とやらに相談した上で、適正価格の倍程度の金額を張り出しておけば、すぐさま手にはいるのではないだろうか。

 

「有益な情報の提供、感謝する」

 

言って荷物を纏めて立ち去る準備を始めると、ヘイは慌てて引き止めてくる。

 

「おっと、まちな。その顔は、とにかく金を積んででも、素材を手に入れようって顔だな」

「……、それがなにか?」

「いやなに、確かに金を惜しまにゃ素材はすぐに手にはいるだろうが、その後、素材から装飾品に加工する際には、また別に手数料が必要となる。それにお前さんの欲している素材ってぇのは、四層の一番奥に潜む奴をさっき言った特殊な手順で倒してやらにゃならん。そもそも旧迷宮四層到達者の数は限られているからを受けられる冒険者は少ないだろうし、そう言う奴らはほかに一杯の依頼を抱えているから、金を積んでもすぐに順番が回ってくるとは限らねぇ。金を積むほど、順番は早く回ってくるかもだが、そうなると今度は装飾品を作る手数料が足りなくなりかねねぇ」

「……回りくどいな、何が言いたい? 」

「へっへ、だからよ。その素材を手に入れられる冒険者に、俺の方から依頼しといてやろうかと思ってな」

 

ヘイの提案に、私は荷物を纏める手を止めた。ゆっくりと彼の方に顔を向けると、出会った時見せたような、いたずらに成功した悪餓鬼のような意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。

 

「……助かるが、またどうして急に? 自給自足が基本ではなかったのか? 」

「なに、新迷宮一層にでる蛇の化け物を一人で片して持ち帰る奴なら、旧迷宮の四層だろうと一人で問題なく踏破出来るだろうからな。そんな人材をわざわざ足止めするなんて勿体無い事、見過ごせないのさ。それにそれだけの実績があるなら、あいつらも素材を提供するのに嫌とは言わないだろうしな」

「―――、そうか。気遣い、感謝する」

 

言ってもう一度頭を下げると、ヘイはからからと笑って、言う。

 

「いいって事よ。しかし、お前さん、今日は随分とまた、素直だね」

「……そうか?」

「おうよ。前にあった時は、もっと、色んなものを抱え込んで一杯一杯みたいな顔をしてたけど、今日はやけにスッキリとした顔をしている。何か嫌なこと忘れられるくらい、吹っ切れる出来事でもあったのかい? 」

 

ヘイの言葉に私は今朝方の事を思い出す。そして、悪夢を見ている際に感じていた感情を思い出そうとして、やはり出来ないことを確認した。何故だろう、人より指摘されてその事を再確認すると、今更ながら、怒りがこみ上げてきた。

 

この胸を焼く怒りは、自己嫌悪の炎だ。己の犯した罪と彼らの怒りに対して、何も感じなくなってしまったと言う事に、私は腹を立てている。私は、それほどまでに、身勝手な人間に成り下がってしまったと言うのか。

 

思った途端、胸の裡に不快の感情がさらに走った。正義の味方になると言う目的から遠ざかってしまったと言う感覚が湧き上がる。やがて、そのドロドロとした汚泥は静謐な状態を保っていた心中を塗りつぶして、鬱屈とした気分をもたらした。胸が苦しい。

 

湧き上がるモノを抑え込むようにして胸元を握りしめると、柔らかなシャツの縫製が悲鳴をあげた。その軋みが胸の苦しさとリンクして、余計に私の心の軋轢となる。

 

「お、おい。なんかまずったことでも聞いたか? 」

 

ヘイは私の変化を見て、あたふたと慌て聞いてくる。私はそれを聞いて背筋をしゃんと伸ばし直すと、胸元に置いていた両手を分離させて、二つを拳にして強く握りしめた。

 

「いや、大丈夫だ。問題ない」

「問題ないって、お前さん、それ」

「問題ない。それより、ヘイ。出来ることなら。彼らとのコンタクトを頼む。連絡にはどのくらい時間を要するだろうか? 」

「お、おう。そうだな―――、昨日新人引き連れて今朝がた潜ったばかりだから、多分、一週間、いや、三日、かな? それくらいで限界になって戻ってくるんじゃねぇかな」

「―――では三日後、また来る。それ以前に手に入るようなら、インの宿屋に連絡を頼む」

 

諸々合わせてどうかよろしく頼むと念を押すと、前金だと言って、硬貨の詰まった袋を一つ丸々置いて店を出る。暗がりより街中へ戻ると、空はすっかり曇天になっていた。今に雨の降り出しそうな天気に、私は辟易とした気分で、宿の方へと急ぐ。

 

店に入る前にあった安穏とした気分は何処へやら、今や私の心中ははやる気持ちと不安で満たされている。それは、私が、身勝手に落ちた私が、正義の味方になれないかもという不安から生じたものだった。

 

いけない。このままでは、私が私でなくなってしまう。この身勝手な楽観が私の心を食い破る前に、早く迷宮を攻略して正義の味方にならないといけない。

 

早く。

そう、出来る限り、早く。

 

曇天はやがて黒さを帯びて、空より雫を落とし出す。無風の街に降る雨は、真っ直ぐに地面へと落下し、石畳の上にいくつもの水たまりを作った。その水が石畳に拒絶される様に、私は理想に拒絶された自分を見つけ、余計に不安さが増して、戻る足を早めた。そして思う。

 

三日待つ。その間に、体調を整え、己の能力を把握し尽くす。その後、ヘイからの連絡がない、あるいは色よい返事が帰ってこなかったらのなら、物が手に入らなかったのなら、しかしそれでも、行こう。私は覚悟を決めて、雨の降りしきる街中を早足で駆け抜けた。

 

 

世界樹の新迷宮

第一層「真赤の樹海」

第一階「来訪者を拒む赤に染まりし世界」

 

 

一度目の迷宮探索から五日が過ぎた。新迷宮を訪れると、一層の赤い異界は相も変わらず毒々しい見た目で訪問者に警告を促し続けている。すなわち、「さっさと帰れ」だ。

 

だがそうはいかない。エトリアでは病による人死が増加しており、増加の原因がこの迷宮にあるという。ならば正義の味方を目指すものとしては何が何でも迷宮の最深部に到達し、真偽を確かめ、事実であるなら解決を図らなくてはならない。

 

これは私の矜持だ。私という存在が衛宮切嗣に助けられてから、この世界に衛宮士郎という存在として生まれ落ちた時から抱え続けている、私を私たらしめる、忘れてはならぬ誓い。そう私は過去、私が生きるためあの地獄に置き去りにしてきた人達の為にも、私が犠牲として切り捨ててきた人達の為にも、その誓いを果たすと誓ったのだ。

 

だが、今、私は、その誓いの根幹が揺らいでいる。私は、過去に私が切り捨ててきた人達の事を忘れ、平穏を手にしようとしている。その悪夢のような身勝手さは、私の存在理由を揺るがし、私の不安を煽るのだ。ぼやぼやしていると、この不安すらも忘却の彼方に消えてしまうかもしれない。

 

急く気持ちと不安を抑え、しかしそれに後押しされる形で私は己の作成した地図に従って進む。地図にこれより先は特に地図を完成させろとの指示もなかったわけであるし、もうこれより先は、最低限の地図だけ書いて進もうと決意する。そうして私は一層を駆け抜けると、目の前に開いた穴へと身を滑り込ませて、世界樹の新迷宮第二階へと到達した。

 

 

世界樹の新迷宮

第一層 「真赤の樹海」

第二階 「神に翻弄された少女が変貌したその身を隠した場所」

 

 

世界樹の新迷宮の第二階は、やはり一階と変わらぬ赤の異世界だった。天井見上げると、一切の隙間はないのに、周囲の空間は何処かより入り込んで来ている光に満たされて、地上と変わらぬ明るさを保っている。

 

変わらぬ赤さに辟易としながら進む私は、しかし前回とは違う装備を身につけていた。胸元ではポイズンウーズという魔物の体内で凝縮して作られた粘液を加工して作り上げられた濃紫のタリスマンが妖しく光り、腕には石化したアークピクシーの花服より切り出された硬い紫石のバングルがその重さで存在を主張する。

 

二つのアクセサリーの効力は―――

 

「……早速、お出ましか」

 

遭遇したのは、以前と同じ巨大蟒蛇だ。赤い鱗は太陽の光を反射して鈍く輝く。周囲と同じ色に蠢くその細身は、迷彩のような効果を発揮して周囲の光景に溶け込み、敵の動きを見えづらいよう隠していた。数は一。問題ないが、前回の轍がある。油断はできない。

 

「―――――――――!!」

 

巨大な蛇は、最大限に口を開けて迫って来た。あまりに直線的すぎる行動に少し驚く。だがなるほど、貫通と石化効果を持つ毒液を撒き散らしながらの突進は確かにそれだけでも十分な脅威である。彼らにとって、毒液は信じるに足る絶対の武器なのだ。

 

逃げ場がない……わけではないが、私はカーボン製の弓を投影すると、あえて巨大な蟒蛇の毒液充満する口に自ら飛び込んでゆき、腕ごと弓を捻じ込んだ。毒液が弓とねじ込んだ私の体に付着する。蛇は馬鹿め、と言わんばかりに開いた口を勢いよく閉じようして―――

 

だが、それは叶わない。触れた途端即座に融解と石化の複合反応を引き起こすはずの毒は、タリスマンとバングルの力により効果の発揮を封じられている。蛇にとってそれは当然予想外の出来事だったのだろう、毒液で解けるか弱るかしたはずの弓を思い切り噛み砕こうと皮算用をしていた蛇は、その自らの力によって尖ったカーボン弓の先端が上顎と下顎を傷つける事となった。弓は口腔の上下の皮膚を突き破り、刺さり、つかえとなる。

 

―――これで口の開閉は行えまい。

 

馬鹿みたいに開いた大口より素早く自らの身を引くと、軽く跳躍して投影した巨大な石の大剣を蛇の頭めがけて叩きつけた。重量と膂力に任せて振り下ろされた剣は重力を借りて蛇の頭を瞬時に粉砕する。蛇はびくんと体を跳ねさせると、力なく残った部位を横たえた。

 

動かなくなった敵の骸を前に、周囲の気配を探る。二の轍を踏む気は無い。警戒していたが、果たして敵は現れなかった。どうやら本当に一匹だけであったようだ。投影していた弓と斧剣を消すと、効果が十全に発揮されたバングルを眺め、感心の息を漏らす。

 

「なるほど、施薬院での回復のスキルを見るに、信じていないわけではなかったが……」

 

胸元と腕に身につけているアクセサリーは、それぞれ毒祓のタリスマンと、石祓のバングルという名称だ。その効果は読んで名の如しである。ちなみに値段はそれぞれ二千イェンと、四千五百イェン。もっとも、これはアクセサリー本体だけの価格だ。

 

それ以前に、アクセサリーの素材となる道具を他の冒険者から仕入れてもらい、手に入れたそれを一度ヘイに売り渡して、そこからさらに製作してもらうという面倒な工程を踏んだ為、諸々の手数料を含むと、これらの入手に総額一万イェンは吹っ飛んでいる。ヘイ曰く、組合との価格カルテルとの兼ね合いでそれ以上の額にならなかったらしい。

 

一般的な回復薬一つが二十イェンであるのを参考にすると随分高く思えるが、身につけるだけで毒と石化に対する耐性を飛躍的に上昇させ、破損しない限り二つの効力が持続してくれる事を考えれば、それだけの価値は十分にある。

 

―――なんにせよ、これでさっさと先に進める

 

私は金になる部分だけを選定して素材の剥ぎ取りをさっさと済ませると、大きく跳躍し、迷宮の奥へと足を急がせる。こんなところで手間取っている場合では無い。早く深層に辿り着き、謎の解明をしなければ。

 

焦る気持ちで赤の空間を駆けたところで、私のポテンシャルは変わらない。私は無駄と知りながらもはやる気持ちを抑えきれず、赤い異界の中で不安だけを募らせてゆく。

 

 

エミヤが急いて新迷宮一層奥へと進む一方、ギルド「異邦人」一行は新迷宮の入り口付近にいた。新迷宮は噂通りおぞましい雰囲気に満ち溢れており、普通の感性を持つ人間なら探索を躊躇うような見た目をしている。その光景は旧迷宮四層を縄張りとする「異邦人」の彼らでさえも多少の躊躇を覚えさせるものだった。そしてそれは当然、新入りの響も同様だ。

 

 

世界樹の新迷宮

第一層「真赤の樹海」

第一階「来訪者を拒む赤に染まりし世界」

 

 

 

「すごい見た目だよな、これ。木とか枝とかウネウネしてて、まるでなんかの足みてぇ」

「造形もだが、赤さも酷いな。血飛沫や血溜まりの方がまだ大人しい」

「シン。お前は相変わらず物騒な表現ばかりするな」

「目が痛い。ああ、煩わしい」

「おい、ダリ。手続き終わったんならさっさとこいよ」

「書類をしまったらすぐ行く。少し待ってろ」

 

サガの言い分を一蹴すると断言し、先んじて迷宮へと突入した仲間に続く。新迷宮の入り口は噂通り赤に満ちた場所だった。とはいえ、今更その程度で怯む我々ではない。軽口を叩きながら、臆せず迷宮の深部へと歩を進める。迷宮の探索に必要なのは、適度な緊張と弛緩。

 

我々四人のうち三人が一組となり、互いに気を配りながら奥に進めば、大抵のことはなんとかなるし、一人は休息にする事ができる。それを交代で繰り返せば、休みながら、迷宮を探索できる。長く迷宮の最前線で生き延びて来た我々が、経験から身につけた、迷宮で最も長く生存できる術だった。

 

「なぁ、響はどう思う?」

「え、あ、はい。ええと、なんでしょうか?」

「この光景だよ。こんな気持ちわりーの見たことないだろ?」

「そう……ですね。赤さはともかく、この、なんとも言えない生々しさはちょっと……」

「だよなー」

 

唯一その術を身につけていない響はまだ緊張が解れていない。あれでは周囲に気を配る事も、休息も上手くはいくまい。だが、そんな彼女には、サガが対処して、気をほぐそうとしてくれている。さすがエトリア随一のアルケミストは細かいところにまで気をやれる。奴と話していれば、響もそのうち余計な肩の力が抜けていくだろう。それまでの間は、てすきの我々でカバーすれば良い。

 

そうして戯れる二人から目を放すと、シン、ピエールと目線が合った。どうやら同様の事を考えていたようで、目配せ一つで互いに頷くと、周囲に対する警戒を強める。すると、体にまとわりつくような粘っこさを感じた。耳を立てれば微かに草木が擦れる音だけが周囲を取り巻く全て―――

 

だった。

 

「―――今のは!」

「誰かがどこかで戦っているな。だがこの爆発の音は……大分遠いな。階層が異なるかもしれん。しかし爆発ということは、この音を出した奴は……アルケミストか?」

 

シンの問いかけに、サガは少しの間考え込んでから言った。

 

「んー、ちょっと違うと思う。あたりに炎を撒き散らすだけにしては五月蝿すぎるし、周囲の全てを巻き込んでぶっ飛ばす核熱にしてはお上品だ」

「サガにしては洒落た言い回しですねぇ」

「ピエール。お前は皮肉なしに褒めることが出来ないのか?」

 

二人のやりとりに笑いが漏れた。サガの感覚はパラディンである私にはわからないが、彼がそういうのであれば、聞こえてきた音はアルケミストが原因のものではないのだろう。

 

「では敵の攻撃によるものか? これほどの音を出すとなると四層の主くらいしか思い当たらないが、そんなものが徘徊していたら、それこそ洒落にならないな」

「あるいはもしかしたら、二層のワイバーンみたいなのがいるのかもしれませんね。私、一度だけあの竜がブレス吐くところに遭遇しましたけれど、確かこんな感じの音だった気がします」

 

響の発言に、彼女以外の皆が緊迫する。頭部に鋭い、側頭部に鈍い頭痛が走る。腕がじくりと痛んだ。記憶が詳しく姿を表す前に、体はすでにあの時感じた恐怖を思い出していた。まとわりつく空気を切り裂く鋭い視線。眼前に並ぶ獲物の群れを睥睨する見下した視線。閉じた口腔から漏れる赤く輝く光。そして。

 

体の一部が炭化し灰となって風に散っていった時、痛みよりも早くやってきた喪失感。あの時、とっておきとして買い揃えておいた大量のメディカとネクタルと縺れ糸がなければ、私たちは五体満足の状態で迷宮から帰ってこれなかっただろう。

 

「ああ、そういやそうだな。……ない、とは言い切れないけど、多分、ないだろ。酒場の情報では聞かなかったぞ」

「新迷宮が見つかってからしばらく経つが、ワイバーンのような魔物がいるなら、噂に聞こえるはず。いや、ないとおかしい。だからいない証拠と見て良い……と思うが」

 

サガが受けてシンも続くが、告げる二人は、心底そうだとは言い切れずにいた。私よりも痛みや不条理に強い耐性を持つ彼らですら、経験が思い出させて裡より漏れてくる不安を押し殺せずにいるのだ。二人のその気持ちは、奴の攻撃を受け止めて一時的に両手を失ったわたしにはよく理解できた。

 

一方、事情を知らない響は何故空気が凍りついたのか察することが出来ず、あたふたと手を彷徨わせては一同の顔を見て目線を行ったり来たりさせている。自分の一言で、パーティーの様子が一変したのだ。そうなるのも無理はない。

 

「あの、わたし、何か不味いことでも―――」

「いや―――、いや、そういう訳じゃないんだ。君は何も悪くない。ただ、ワイバーンという魔物は私たちにとってちょっと特別でね。その、対峙して、そして這々の体で逃げ帰った経験があるんだ。―――なにせ、あれを倒すのが先日までの私たちの目標だったのだからね」

 

聞いた響はゆっくり、あんぐりと口を開けた。驚きと、呆れと、疑問とが混じった、ワイバーン退治を目標としていることを告げた際、よく見かける表情だ。だが、彼女のものには少し異質なものが混じっているように見受けられる。混乱した彼女は何かを言おうとして口ごもり、しかしやはり何かを言おうとして、だが発した言葉は宙に消えた。

 

「え……っと」

「おっと、無謀と笑わないでくれよ。一応その時はその時なりに、覚悟して挑んだんだ。結果、手も足も出ないで逃げ帰る羽目になったけどね。……響、三竜を知っているか?」

「あ、はい。ものすごい強さの魔物と言われている奴ですよね。世界中で目撃情報があって、噂ではエトリアにも潜んでいたとか。老舗のシリカ商店に鱗とか飾ってましたよね」

「そうです。雷鳴とともに現る者。氷嵐の支配者。偉大なる赤竜。それら三匹の魔物を討伐する事が私たちの目的。私たちは四層までをくまなく捜索しましたが、未だに奴らとは遭遇できていません。ああ、その姿を一度でもいいから見てみたい……!」

「残る希望は五層のみ。だが五層はラーダにより規制がかけられている。四層までの比ではないレベルの危険性である、という事でな。だが、私は彼らと戦ってみたいのだ」

「行くにはそれ相応の実力がある事を示さないとダメなんだとさ。その方法がワイバーン討伐だったわけ。新迷宮が発見されてからはそちらの攻略でも良くなったけどね。……あ、俺は興味本位。何十年経っても無くならない素材の現物を手に入れたくてさ」

 

捩くれた火竜の角。刺々しい氷竜の翼膜。瑞々しさを保つ雷龍の眼球。エトリアの老舗であるシリカの道具屋にあるそれらは、伝説にのみ語られる三竜が実在したということを、なによりも雄弁に語っている。そしてだからこそ、彼らはエトリアに集ったのだ。

 

響は馬鹿みたいに開けた口からさらに顎を落とした。気持ちはわからんでもない。かくいう私も、初めて彼らの目的を聞いた時は驚いて似たような反応したものだ。笑いを漏らすと、目を丸くした彼女がこちらを向いた。いかん、目が奴らと同類の者を見るそれだ。

 

「おっと、私は違うぞ。私は単にこの馬鹿どもが早計にもさっさと挑んでしまわないようにする、いわば騎手役だ。手綱を握る役目がいないとこいつらはどこまでも暴走するからな。―――話が逸れたな。ワイバーンの退治には君の父上の力を借りる予定だった。君の母上の力で道具の素材を用意してもらい、我々が装備の調達とレベルの調整をして、ワイバーンを討伐する予定だった……のだが」

 

言いかけて、言葉に詰まった。得意げに出した響の親の話題は、彼女の顔をなんとも形容しがたい複雑なものへと変える。しまった。二十日ほど前に死んだばかりの親の話を、なぜ私は口にしてしまったのか。私は自らの配慮なさに憤死してしまいたい気分になった。

 

助けを求めて皆を見回すと、シンは眉目の距離を縮め、ピエールが帽子に顔を隠す。サガが愚か者を見る目で非難の視線を向けていた。声には出していないが「ばかじゃねーの、お前」という口を動かしたのが見えた。的確すぎて、ぐうの音も出せない。

 

「―――、その、すまない」

「いえ、お気になさらないでください。その……、あの人たちは店よりも迷宮にいる時間の方が長い人たちだったので、いつかきっと唐突にいなくなるかもな、と思っていましたから。―――予想していた、いなくなり方では、ありませんけれど」

 

複雑な表情に陰りが混ざった。気にしていない、というのは半分が本当で、半分が気遣いなのだろう。機敏に疎い私でもそれぐらいは読み取ることができる。しかし空気が重い。それこそワイバーン戦の直前ですら、こんな切羽詰まった緊張はなかった。

 

―――だれか、どうにかしてくれ

 

切に願った時、助け舟を出しくれたのはサガだった。

 

「ま、そういうわけもあってワイバーン討伐が駄目になってね。うちら四人だけであれに挑むのはちと厳しい。そうなるともう、どっちを選ぼうが同じくらいに苦労する。さぁどうするって悩ましい時期に君がきてくれた。おかげで方向性が決まって助かったよ。まぁ、この馬鹿だけは、響も知っての通り、なんだかんだと反対していたけどね」

 

サガはこちらがぶっ倒れる勢で無遠慮にこちらの肩を叩くと、私の肩の高さを調整し、首元に小さな腕を回して抱え込む。その際、硬い金属の小手と私の鎧がぶつかり合い、ガンッガンッ、と大きな金属音を立ち、さらに、背の低いサガの体重と腕の力が私の首に負荷を与え、思わず咽せこんだ。なにをする、と、そんな文句が喉元まで出かかったが。

 

「ふふっ」

 

憂いた表情を見せていた彼女が幼さの残る顔に年相応の笑みを浮かべたのを見て、私はその全てを飲み込んだ。微かだが、気を取り直してくれた。その事実に少し胸がスッとした。生まれつつあった黒い気持ちが晴れてゆく。

 

「貸しにしとく」と、顔で訴えかけてくるサガに最大限の感謝を込めて、目を閉じて下がった頭をさらに下げる。礼を述べるのは後にしておこう。蒸し返すと、彼の気遣いが台無しだ。

 

「―――とりあえず」

 

ピエールは白魚のような指先で竪琴をかき鳴らした。視線が彼に集中する。

 

「お話は帰ってからにするとして、進みませんか? こんなところで呑気をしていれば、格好の的です。先ほどの爆発にしても、材料が足りない状態で推理をしても結論なんか出やしません。そんなもの、放置で構わないでしょう」

 

確かにいう通りだ。どうせ考えても結論は出せない。下手な考え、休むに似たり、か。ならば先に進むほうが建設的というものだ。

 

「―――行こう」

 

宣言をして大げさに手刀を切って行動方針を決めてやると、肩から力が抜けてゆくのを感じた。シンもサガもピエールも即座緊張を最大限に高め、しかし適度に薄らげてゆく。そうしてしばらくの間、周囲に気を配りながら太陽が頂点に達するまで迷宮を散策した時、響も私たちも、すっかりいつもの状態へと戻っていた。

 

 

迷宮に出てくる魔物は、見たことの無い新種ばかりだった。猪とか蝶とか土竜とか、知らないのとか多彩に出るが、特に蛇が多い。幸い、見た目は違えど、体の大まかな構成は既存の奴らと変わらないし、どいつもこいつも氷結が馬鹿みたいに効くから手間取りゃしない。

 

一番手ごわいのは、デカい蛇だが、奴らは体に氷が当たった瞬間、それこそ凍りついたみたいに動きを止める。そうすりゃシンがめった切って終了だ。あいつの乱撃で蛇の頭はミンチになるまで砕かれる。蛇は頭だけでも飛びかかってくる場合があるので、あれくらいは仕方ないとわかるが、それにしても原型を留めなくなるまで叩き潰す必要はないだろうに。

 

その点、響はいい。彼女、すなわちツールマスターは道具に望まれた効力を十二分に発揮することができる。例えば、敵の任意の部位を縛り付ける「縺れ糸」を使うと、対象の敵は糸の巻きついた部位がうまく動かせなくなるわけだ。そこをシンがスパンでハイ終了。いやー、便利だね。確定で封じ状態や状態異常に出来るって、やっぱつえーわ。

 

蛇に糸を使った際なんかには、鎌首をもたげることすら出来ず、地面をのたうち回っていたもんな。そりゃそうだ。蛇は体の左右に等しく力を分配して波打つことで、地面を這って進む力とする。その起点となる胴の筋肉を、縺れ糸で縛り付けて部分を抑えつけられたのだから、動けなくなるのも当然だ。

 

あれをさっと見抜いてやってのけるんだから、いやいや、流石はマギとアムの娘さんだ。二人は彼女を二層までしか連れていかなかったらしいが、きちんと教育されている。我を抑えられる心といい、基礎を応用する知恵といい、環境と資質が上手く組み合わさったゆえの実力というやつか。ほんと、末恐ろしいね。

 

しかし図らずとも、シンの直感の正しさがまた証明されちまったなぁ。あいつの野生的直線思考は、ほんっと頼りになる。それに比べて、ダリは少し頭でっかちがすぎるな。安定思考は守りの要としちゃ申し分ないが、普段の会話にまで正論と上手さを求めすぎている。

 

おかげでさっきみたいなざまだ。普段ならまだしも、命をかけた場所であれを繰り返されちゃたまらん。わだかまりも残っている様子だし、新迷宮踏破のためにもここはひとつサガ様が一肌脱ぐしかないか。

 

決意を新たに響の方を見ると相変わらず緊張がほぐれていない様子だった。続けてダリを見ると、やはりあいつも、いつもより肩に力が入っている。先ほどのことを引きずっているのだろう。終わったことなのだから気にしなけりゃいいのに、頭の片隅から離れていないのが丸わかりだ。バカ真面目な奴らめ。

 

さて、まずはどうしようか。こうも肩に力が入ったもの同士だと、いきなり二人をくっつけてさぁ話せとやったのでは意味がない。苦手意識を抱いた良い子ちゃん同士をくっつけても、ろくな結果は生まれないのだ。まずは硬くなった部分をほぐす所から始めようか。

 

と、思ったが、それ以前の問題が発生してる。まずはこっちかぁ。

 

 

「なぁ、そろそろ一旦もどらない?」

 

素材を剥ぎ取り終わったところでそんな提案をした。視線がこちらへ集まる。

 

「どうした、珍しく弱音を吐くな、サガ。まだスキルを使う余裕がありそうに見えるが」

 

シンの言うことは正しい。今までと同じ奴ら相手なら、三度の戦闘を行えるだろう余裕を残している。同じく、シンもピエールもダリもまで行けるだろう。だが響が限界だ。よくやってはいるが、やはり地力の差がそのまま現れている。おそらく、先ほどの戦闘で気力まで使い切ったのだ。

 

―――帰ったほうがいい

 

心中の囁き通り、ここは一旦引くのが最も正しい選択肢だ。とは思うのだが、彼女に疲れが見えるから戻りたい、と、声に出して指摘するのも躊躇われた。彼女は今の所、自らを足手まといと思っている節があるからだ。ここではっきりと事情を告げると、彼女が余計に無駄な罪悪感を感じてしまうだろうことが容易に予測できる。

 

―――さて、じゃあ、どうやって提案してやろう?

 

この大役を人に任せるとすると、彼女が一番信頼しているだろうシンが最も良さそうなものだ。しかし、あの数度の戦闘で気分の高揚が保たれている状態では気づくまい。いや、あの戦闘馬鹿は、仮に己が響の状態になっても戦うだろうから、あえて気づかないふりをしてやろう、などと考えて、無視しているのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。そうだとしたらとんだバカ野郎だ。皆がお前と一緒じゃあない。

 

ピエールなら気づいているかもしれないが、あの刺激馬鹿は、他人の苦労を見て喜び歌にする節があるから、帰ろうなどとは言い出さないだろう。本当に皆が危険に陥ったのなら撤退を進言するかもだが、きっとあの馬鹿は全滅直前まで何も言わないし、やらない。

 

んでもって、余計な事をいちいち口にするダリは論外だ。あの正論馬鹿は人の気を慮るに向いていない。今彼女の状態に気付いていない時点でもってのほかだし、そんなダリに頼んで余計な一言が飛び出せば、二人の仲が更に拗れてしまうだろう。そしてその後の尻拭いをするのは、多分俺の役目となるのだ。俺ぁ、そんな面倒は真っ平御免である。

 

仕方ないか。観念して俺は別口より切り出すことにした。

 

「いうけどさぁ。真っ赤っかな世界を突っ走ってきたもんだから、精神より目が疲れたんだよ。ずぅんと重くてやってられねぇ。これじゃあ、術式のブッパは出来ても、敵の攻撃を避けらんねぇ」

 

両瞼を上下に引っ張って全員に目を見せつけると、最後に響の方へちょいと視線を泳がせてから、シンへと向ける。シンはこちら側の目線に気がつくと響に目をやってその姿を観察し、そこでようやく彼女の状態と俺の意図に気がついたらしく、素直に頷いてくれた。機敏を読み取ってくれるだけダリよりマシだな。

 

「たしかに。その周りと同じくらい赤い眼では、攻撃筋をまともに見切れんか」

 

シンが阿吽の呼吸で話を合わせてくれる。これがダリなら余計な一言を発する事もないだろう。気づきさえしてくれれば、こういった気配りが自然と出来る点は、本当に頼りになる奴だ。ピエールを見ると、奴も色々察していたようで、肩を軽く一度浮かしてにこやかな笑みを見せた。あえて何も言わないのがなんとも奴らしい。

 

「だからさぁ、今回はもうやめようぜ。というか今後もせめて、目がこの真っ赤な世界に慣れるまでの間はちょっと慎重に行きたい。なぁ、そう思わないか、ダリ」

「そう……、そうだな。慎重に行くと言う意見には、私も賛成だ」

 

乗ってくれた。こういう時、行動方針がわかりやすいと本当に助かる。ダリが言葉を述べた直後、小さく土を掃く音が聞こえた。横目を送ると、響が両足を肩幅に広げて、重心を下げている。撤退の流れになり、披露した体から緊張が抜けてしまったのだろう。

 

―――ま、暫くは仕方ないか。そのうち慣れてくれるよな

 

「よし、決まり! じゃあ糸を使おう! 集まってくれ!」

 

いつもより少しだけ大きめに声を出す。腰のポシェットからアリアドネの糸を出して糸巻きより解くと、地面の一定範囲に境界が刻まれ、体が浮遊感に包み込まれる。続けて目の前の赤は一瞬にして遠ざかり、視界は白に包まれた。

 

 

欲しいものは日常を彩るスパイス。適量は人それぞれ違いますが、貪欲は貴族という家系に生まれた者の宿命なのでしょう。父は物の蒐集に命を賭け、母は金を浪費することを美徳としました。そして彼らの間に生まれた私、ピエールという人間は、普段という日常にはない新たな刺激に貪欲な人間だったのです。

 

多くを望まなければ生きるに不自由しないこの世界は、安全ですが退屈です。そんな退屈さに飽いた人間は、自ら望んで身を危険に晒す冒険者という職業を選択するものが多く……。

 

そして私も、通常得られない刺激を求め冒険に生涯を捧げると決めた一人だったのです。

 

冒険者とは自ら望んで危険に身を置く風来坊です。冒険とは自然災害と聞くと身を曝け出し、魔物が巣食っていると聞けば洞窟へ突撃し、未踏の地があると聞けば足を踏み入れようとする事……。

 

幼い頃、屋敷を訪れた冒険者の語った探検譚は、胸の奥底に隠れていた私の琴線を見事に掻き乱し、その夜、私に冒険者になろうという決心をさせました。

 

彼らが去った次の日、両親に溢れんばかりの心情を真っ正直に告げると、とてもあっさり了承され、冒険者としての装備一式を贈られました。彼らはきっと私の性質を見抜いていて、けれどあえて何も言わなかったのでしょう。しかしそんな回りくどさも、悪い刺激ではないな、と思った瞬間でした。

 

心に従うがまま、私を冒険者として導いた彼に憧れて、私はバードという職業につきました。バードの役割は二つあります。一つは戦闘時、味方を鼓舞し、彼らの能力を引き出すこと。もう一つは非戦闘時、すなわち日常において我らや彼らの冒険譚の語り部となること。

 

語り部たる我々バードは、自らが五感を通して得た感動を、時に雄々しく、時に軽やかに、時には切なく声高に語りかける事で、多く人に感情の波紋を呼び起こし新たな刺激を生み出します。

 

そう、新たな刺激を。刺激。ああそれは、なんと甘美な響きなのでしょう……。身をもって素晴らしさを教わった私が、それを生み出す職業を選択する事は、まさに必然、いや運命だったのです。

 

 

やがて冒険者となり、エトリアで登録を済ませた後、行くあてのない私はギルド長よりシンとサガを紹介されました。出会った瞬間、彼らと旅することになる、と直感しました。シンの大きな目はギラギラと輝いて、とても蠱惑的でした。サガの小さな目はいかにも好奇心を抑えられぬ宝石のような煌めきを放っていて、なんとも素敵でした。

 

彼らは一目で私の求める冒険者であることが見て取れます。ああ、彼らは一体、どんな男たちなのか。逸る気持ちを抑えきれず、第一声にて私は尋ねました。

 

「お二人の目的は?」

 

顔を見合わせて彼らは迷いなく告げます。

 

「「三竜」」

 

三竜。それは歴史に名を残すような英雄たちの前に現れると言われる魔物。それが目的であると言う事はすなわち、彼らが未知の危険も、未踏の土地も、見たことも聞いたことも魔物をも踏破し、艱難辛苦を乗り越える、刺激的な冒険をこなす人間である事を意味していて―――

 

ああ、なんと僥倖な事なのでしょう!

 

冒険者たちの宣言を聞いた瞬間、希望が世界を彩りました。緩やかな第一楽章は第二楽章へ移り変わり、曲調が一気に激しい音色へと移り変わります。彼らという弓を得た棹は私の蔓を激しく掻き立てて、心音を高らか反響させます。ギルド長は陶酔する私の顔を見やると、指揮者のように手を広げて、新たな楽章の始まりを歓迎し、祝福を告げてくれたのです。私の人生はあの瞬間より、緩急激しい胸踊るものへと生まれ変わりました。

 

三竜は世界各地で目撃されていますが、エトリアの場合、目撃情報に加えて、シリカ雑貨店という店に竜より剥ぎ取ったと言われる素材が飾られています。世界で初めて見つかった迷宮の近くと言うこともあってか三竜の目撃情報も最も多く、だからこそ、シンとサガはこの街を中心に活動する事を決めたようでした。

 

二人と行動をともにすることにした私たちは、しばらくの間は三人で迷宮に挑んでいました。迷宮は五人まで同時入場を許可されていますので、出来ることならあと二人の仲間が欲しかったのですが、我らの他に三竜に挑もうと考える享楽者がいなかったのです。

 

人数の足りない探索当初の頃は、加えて連携も何もなく、とにかく酷い有様で、ですがだからこそ、胸の踊る旅でした。迷宮の障害といえば襲いかかる魔物が主ですが、シンは彼らに対して連携も何もなく最速で刃を通そうと突っ込んで行きます。当時は自身で大道芸と断言して憚らない居合を、しかし好んで使っており、敵の止まった一瞬の隙をついて首を飛ばすのが彼の得意技でした。

 

戦闘になった際、可能な限り素早く敵の数を減らそうと試みる彼の行為は、間違いなく正しいことなのでしょう。素早く戦闘力を削げば、その分、こちらが被害を被らず済みます。

 

ですが迷宮の魔物は、多くの場合、複数での出現が常。一体を仕留めたとしても、戦闘は終わりません。そんな時、突撃脳のシンをフォローしていたのはサガでした。

 

サガは彼の撃ち漏らした敵を適当な属性攻撃で吹き飛ばします。彼は三属性により弱点を突くことに優れたアルケミストでした。そして生まれた隙を見逃さず、シンは敵に再び切り掛かり……。あとはそれの繰り返しです。大抵二十秒もしないうちに終わるので、私の出番は殆どありませんでした。

 

今考えればよくもまあ、それだけの連携でやっていけたモノだと思います。冒険者だと言う事を差し引いても、無謀もいいところの挑戦でした。それでも生き残れたのはシンが一切迷わずその行動を繰り返し続け、しかし勝てないと感じた敵からは逃げる感性があってこそでしょう。彼は戦馬鹿ですが、愚かではないのです。

 

当時、戦闘後などはサガの文句を垂れる日常でしたが、シンが生き残りと目的達成のために真摯なだけ、という事を理解してからは愚痴も減りました。

 

私にとって三度目の、ギルドにとって二度目の転機が訪れたのは、互いのことを理解しだした、そんな頃です。ギルド長より招集のかかった私たちは、二人の人物を紹介されました。待望の入隊希望者です。楽章は三番目へと突入し、再び曲調はゆるやかなものになります。

 

彼らは、それぞれドクトルマグスのマギ、ファーマーのアム、と名乗りました。彼らが身に纏う装備は華美と剛健さを兼ね備えており、また、彼らの動きや仕草までもが装備に見合うほど洗練されていて、まさに優美と読んで差し支えない強さと品格を備えていました。

 

やがて、何度か冒険するうちに、私たちは、ハイラガード出身より訪れた彼らが予想通り只者でなく、あちらの迷宮三層を拠点とする実力者だったことを知ります。

 

「なぜ、このような出来たばかりのギルドに?」

 

問うと、彼らはおずおずと、しかし恥ずかしそうに告げました。

 

「「刺激が欲しくて」」

 

前後にそれぞれの思惑やそれ以外の事情を語る言葉があった気がしますが、はっきりと耳に残ったのは、その言葉でした。彼らもまた私と同じく、刺激を求めてエトリアへとやってきた冒険者だったということです。それだけで十分でした。ハイラガードより放逐された云々は瑣末な事情に過ぎません。

 

彼らを迎え入れた私たちは、破竹の勢いで迷宮攻略を進める事が出来ました。ドクトルマグスのマギは搦め手と回復を、ファーマーのアムは迷宮探索と素材の収集と得意とするプロフェッショナルで、彼らは戦闘面、探索面、生活面で我々の足りなかった部分を全て補う人材だったのです。

 

足りないものが埋まるどころか一気に突き抜けたのですから、当然の結果と言えましょう。彼らが加わってからたった一ヶ月で、一層の番人を攻略し、二層に行くことができました。

 

しかし、仲間を得て勢いよく一層を攻略し天狗になっていた我ら三人は、ある日彼らがいなくとも二層を進めるだろうという過信を抱き、八階にてワイバーンという脅威に遭遇し高い鼻をへし折られました。

 

二層八階。樹木がひしめくその密林の中央には、地平の彼方まで広がるような錯覚を覚える場所が存在します。それこそが奴の支配領域。何も知らず入場した私達は、その途端、奴より炎の洗礼を受けました。

 

なんとか回避した直後、その炎が飛んできた先に視線を写せば、雄鹿の角を携えた頭部、腕部と一体化した両翼を大きく広げ、巨大な尻尾を垂らして宙に浮き、こちらを睥睨する深緑の御姿は、まさに密林の支配者と呼ぶにふさわしい風格を揃えていました。加えて、視界に入った邪魔者を完膚なきまでに焼き尽くさずにはいられない烈火の気性。その時の胸の高鳴りはといったら、もう言葉では言い表せません……!

 

奴は門より入った全ての侵入者に対して攻撃的でした。我々は入り込んだ途端、煌々と紅く輝く火焔の球で歓迎を受け、そしてそれは、我々が広場より脱出するまで続くのです。恥も外聞も捨て去って、装備も道具も使い切って、なんとか逃げ切れたその魔物は、しかし最強の魔物ではありません。私たちの目的である三竜はあれより強いと謳われる魔物なのです。

 

「あれに勝てないようでは三竜討伐など果たせない」

 

ギルド長のその言葉は正しかった、と我々は悟らされました。現実という鋭き刃が喉元に突き立てられ、シンとサガは堅実さを習得しました。ようやくです。そしてシンは戦闘の際の構えを居合から上段に変え、サガは無属性で超高火力の術式と定量分析を取得し、二人の戦術に慎重と様子見という選択肢が加わりました。才能もそうですが、やはり負けた経験も重要ですね。おそらくその辺りからなのでしょう、自覚を促したワイバーンは私たちにとって特別な魔物になったのです。

 

その後、ボロボロの姿で逃げ帰った我々は、マギとアムに大変叱られながらも、彼らよりハイラガードに伝わる職業ごとの奥義、フォーススキルの使用方法を伝授されました。無我といいますか、程よく心身がほぐれているときにしか繰り出せない代わりに、通常のスキルより強力な効果を持つ技を繰り出せるのです。

 

制限こそあれど強力なスキルの習得と、心構えを変えた二人、熟練者二人の加入により、私たち「異邦人」の迷宮攻略は破竹の勢いさを増し、私たちはワイバーンという魔物を除いて、四層までを暴き尽くしました。しかし、残念ながら、三竜は影も形も見当たりません。残る可能性は、四層の更に下―――

 

五層を目指したい事をラーダに訴えかけたところ、ワイバーンの討伐をすれば、ミッション攻略の報酬として五層の探索を許可すると言われました。私たちは恐れながらも、今の自分たちの力なら勝てると発奮して、情報を集め、対策のために自らを鍛え上げ直し、武器防具を揃え、戦略を練る事を始めたのです。

 

ギルド長から、討伐を目的とするなら、火炎球を防ぐ事のできるパラディンがいた方が良いという事で、ダリを紹介してもらいました。ダリは許可なく迷宮に入るものを追い出したり、迷宮で迷った人間を見つけ出したり、迷宮に消えた人間の遺品を見つけたりする、迷宮探索に慣れた衛兵でした。第四楽章の始まりです。

 

彼は衛兵やパラディンという守りの要たる職に就くだけあって、頭でっかちで正論で人を説き伏せようとする部類の人間です。悪気がないのはわかるのですが、少し、私たちとは相性の悪い人間でした。最初の頃、直感で動くシンや、私とは衝突が絶えませんでしたが、意見をぶつけ合ううちに、本音を言い合える仲となり、互いに認め合えるようになりました。

 

そうして守護役としてダリを加えた私たちは、魔物との戦闘において安定した状態で戦えるようになりました。防御というカードが増えたことで、層ごとに存在する、いかなる言語化にてかfield of enemyと称される、通称F・O・Eという強敵も安定して倒すことが可能となったのです。何度かワイバーンに挑み、しかし敗走、を繰り返しながら、やがて四層のFOEを安定して狩れる様になった時、私たちは時が来たことを確信しました。

 

ワイバーンを討伐し、五層に向かう権利を得る。対峙と打倒の覚悟を決めた私たちは、戦術を練り、対策を立て、敵に対して効果的な装備と道具を整え出しました。炎耐性の高い防具を整え、連携を強化し、いざという時の道具を用意し、いざという時の対処法も用意して、今まさに、密林の王者に対して挑戦状を叩き込もうとしていました。

 

決意の日から、半年ほど経過した時のことです。さぁ、全ての準備が整った。あとは、マギとアムが店の都合で離脱している間、私たちは勘が鈍らない様にと、迷宮の四層でFOEと戦っていました。その頃には私たちは十分に強くなっており、オウガだろうとデモンだろうが、たとえ四層の番人だろうが、四人で倒すことが可能となっていました。

 

その日の私たちは最高の出来でした。なにしろ番人を無傷に近い状態で倒し切ったのです。揚々と湧き上がり、軽口を叩き会いながら素材を剥ぎ取り、さぁ一週間後に挑もうと息巻いていて縷を解いてダンジョンよりエトリアに戻った際。

 

―――マギとアムの訃報を転移所の兵士より耳にしました。

 

交響曲は突如として終わってしまったのです。聞いた途端、拍子抜けして、はぁん、と間抜けな声が漏れました。兵士の口から告げられた呆気ない死の知らせは、取り繕う余裕の全てを奪っていったのです。二度と彼らが戻らない、という喪失は我が身を裂かれる思いでした。

 

ダリのような堅物が一瞬、意識を飛ばしたくらいの現実味のない衝撃を受けて、五感は正気を失い、感覚器官により入ってくる全ての刺激を荒々しいものへと変貌させます。色は、音は、光は、ぐにゃぐにゃと荒々しく波打ち、正気と狂気との輪郭が綯い交ぜに変わり、失意が身を包み込みました。夢抱いていたものが遠ざかって行く絶望と、望んだ未来が手に入らないだろうという焦燥の混じった喪失感は、立つという機能さえ体から奪い去ったのです。

 

知らせを聞いた直後より、私は寝たように起きていました。近づいた結末が遠くに去ってしまう。彼らの死という予想と違う形での大きな刺激は、しかし私にとって好ましいものではなく、望んだ未来が手に入らないという大波と合わさって、私の心の海に高波を起こします。

 

その時私は、第三者でなく、当事者でした。浜辺から荒れる海を眺めていた私は、気がつくと荒れる大海原に小舟で投げ出されていたのです。寄る辺も対策も指針も知らぬ私は、荒れ狂う波にさらわれるがままでした。

 

やがてそんな私の元にいつの間にやら目覚めていたダリはやってきて、「とりあえず動こう」と言って、私を片手に抱えこみ部屋より強制的に連れ出しました。部屋で腐っていると、気持ちまで腐ってくる、と此の期に及んでまで正論を吐く彼に、私は流石に少し文句を言おうとしましたが、彼の目と鼻先が赤らんでいるのをみて、何も言えなくなりました。彼は、彼らの死を受け止め、悼み、それでも前に進んでいたのです。

 

ギルドハウスから出る際、消沈したシンとサガがリビングで顔を伏せて何もしていないのを見かけました。目線も向けない彼らに見送られ、私は引きずられるがままヘイの店に連行されました。

 

出迎えてくれたヘイは、型にはめたような冷静さで私に忠告してきます。

 

ひと昔前なら珍しくない事で、冒険者なら死体がまともな状態で残っているだけ有難い死に様だ。知り合いにも何人か、そうなってしまった奴がいる。だから、今回のはまだ運が良い方だ、と慰めにも嘲りにも聞こえる言葉を投げかけてきます。彼は諦観していました。道具屋として数多の冒険者接してきた彼は、人死や理不尽に慣れていたのです。

 

その時、ダリも同じようなことを述べました。元衛兵である彼は、死人や、死人の出たギルドと立ち会うことが多かったらしく、やはりヘイ同様、死に慣れていたのです。だからこそ、誰よりも早く立ち直り、引きこもる私をどうにかしようと思い至ったのでしょう。

 

……まぁ、後ほど、彼らが冷静な態度を崩さずにすんでいるのは、それだけでないのではないことを、あとで知りましたが。

 

ともあれダリとヘイによる説得は一晩続き、二人の説得により、私は漸く平静を取り戻しました。途中より道具屋にやってきて参戦したサガもその輪に加わり、私たちは今後の事について話し合いを始めました。兎にも角にも、一旦予定は中止だ。まずはシンと話し合って、今後どうするかを決めなければならない。

 

ギルド長へ相談し人員を補充してもらう。望めない場合は、四人のまま攻略するか、あるいは別の場所で三竜を探すのか。そう言った事のあれこれを話し合い、結局、シンの意見を聞いてからでないと、話が纏まらないというなんともお粗末な結論を出して、ギルドハウスに戻った時。

 

――――――天が私たちを見捨ててはいなかったことを知ったのです

 

なんと、そこには彼らの娘である響がいました。両親を突如として失い、私たちよりも余程悲嘆にくれていただろう彼女は、しかし健気にも新迷宮を探索する為に、私たちと同行したいと願っていると、シンは語るのです。

 

「新迷宮を攻略する」

 

ああ、その言葉のなんて刺激的なことか。二人の息吹を感じさせる彼女の輝きは、荒波に悶える私を照らす小さな灯台の光でした。それはかつて私が冒険者を目指した原点であるバードの与えてくれた刺激に似ていて、私は再び夢の地図を手に入れることが出来たのです。

 

喪失とそこからの立ち直りという落差は、今までにない刺激を私に与え、マギとアムの死

もたらした悲しみを一旦保留にしようと考えるほどの力を持っていました。私はその時、五度目の、人生で味わった事のない刺激を体験することが出来たのです。

 

曲は終わりを告げたのではなく、中断していただけで、新たに五楽章が続いていたのです。彼女は―――、私にとって七人目になる、初めて味わう刺激を与えてくれた人でした。その彼女は今、様々な不安と期待とで緊張しています。おそらくこれは時間によってしか解決を見せないでしょう。

 

だから、しばらくの間、待とうと思います。それが、私が夢を見続けられるようにしてくれた彼女に対する礼であり、恩返しだと信じています。ああ、いつか成長した彼女にこの気持ちを語った時、あるいは勝手に気が付いてくれた時、いったいどんな反応を見せてくれるのでしょうか。ああ、なんとも楽しみです。

 

 

異様。その一言に集約される森の中、不規則に響く音があった。音を発生させている主は、緋色の残像を残したかと思うと、次の瞬間には数メートルも先の場所にて着地音を立てている。音の中には、周囲を揺るがすほどの大爆発すらあった。

 

森に残された足跡を戻って行くと、飛び交う赤や森の深い赤とは別の、鮮やかな赤や肉片が破壊の痕跡と共に一定間隔で残されている事に気付けるだろう。それはエミヤが切り払った魔物と呼ばれる脅威どもの残骸であり、戦闘痕である。

 

 

世界樹の新迷宮

第一層「真赤の樹海」

第二階「神に翻弄された少女が変貌させられたその身を隠した場所」

第三階「姉妹を思った少女達が呪いに苦しんだ土地」

第四階「人と獣の間で家族を守らんと努力する化け物が住まう領域」

第五階「姿を消して襲いかかる卑怯者に裁きを下す女神のおわす宮殿」

 

 

明るい光の下でよく見てやれば、頭足類―――特にタコの足を思わせる不気味な樹木が生え並ぶ樹海は、血をぶちまけたかのような赤さで来訪者の気概を削ぎにかかる。何処より侵入したのか分からぬ光に照らされ明るさを保つ森は、地上のものと全く変わらないからこそ、一層不気味で奇妙だ。不思議の仕組みを解明してやろうと天井を眺めてみても隙間など存在せず、土が一枚板のようになっているばかりである。まったく、理解不能だ。

 

疑問を浮かべながら、しかし、迷わず樹木を蹴って、地面と体の正面を平行にしてやると、樹海の中を翔ぶが如く進む。目の前に現れる獣は、いずれも脅威となり得ない。一番の脅威であった蛇は、もうすでに対抗策を講じてある。

 

それ以外のやつなど、大した強さを持っていない。猪、蝶々、土竜、牛、羽虫、駱駝、その他植物、そのどれもが蛇ほどの狡猾さも身体能力の高さも、毒液のような脅威も備えておらず、一刀の元に斬りふせることができる。

 

初見の際も多少手間取るが、二度目以降の遭遇は単なる処理作業にまで落とし込める。私は出現した魔物を決めた手順通りに狩り、屠り、解体し、迷宮の中を進んでゆく。

 

唯一の懸念事項は、魔物などではなく、執政院に怪しまれない地図を作れるか否かだ。英霊の能力で迷宮を縦横無尽に駆け抜けて探索してしまっては、もはやそれは他人が見た際に、地図と呼べない代物に成り下がってしまう。そうすれば今後、再び地図の提出を求められた場合、獣道ですらない場所をどうやって踏破したのかと疑われ、余計な苦労を背負い込むのが容易に予測できる。

 

だから私は、可及的速やかに、しかし、人の通れそうな道を駆け抜けて、迷宮を駆け回った。三日ほど徹夜の状態で、保存食と水を食み飲む休憩と、体力、魔力の回復時間だけを挟みながら、二階、三階、四階を放たれた矢の如き迷いのなさで駆け抜けると、やがて区切りと教えられた五階の一画でこの迷宮にそぐわない異物を発見し、足を止め、目線を送った。

 

―――門?

 

超然的な自然が広がる最中、突如現れたのは、明らかに人の手が加えられている白き石の扉だ。大理石に似た素材で作られた観音開きだろう二枚扉は、自然の樹海と土を押しのけて胸を張り己の存在を誇っている。扉は同じく手の加えられた壁の横から伸びていた。

 

高く見上げれば天井に。横に視線を移せば、遠くの樹海までを切り開いて伸びる壁は、異様を誇る樹海の中で、なお異様を主張し、厳かな威圧感を放っている。

 

しかし、真に警戒すべきは、目の前に映る人工物ではない。白い門の向こうに存在するだろう何かが飛ばしてくる、この門をくぐる物は一切の希望を捨てよと声高に主張する何のかが飛ばす敵意。それが門の生み出す威圧感を助長させているのだ。

 

――――――、さて

 

警戒のレベルは自然と最大限にまで引き上げられる。門より離れてしばらく様子を見る。何も起こらない。少し近づくと、向こう側の住人は敏感に反応して、肌を突き刺す様な冷たい害意は飛ばしてくるものの、やはり何も起こらなかった。

 

どうやら扉の向こうにいる存在は、この門を開けてまでこちらに襲いかかってくる気はない様だ。警戒を解かないまま、脳裏より地図の情報を紙に記載し、これまでの道程を整理する。そうして少しの時間をかけて出来上がったものを眺めると、億劫にため息が漏れた。どうやら扉の向こう側にいる存在との争いは避けられそうにない。

 

世界樹の迷宮と呼ばれる場所は、地下に深く続く構造だ。広い迷宮は探せば必ず何処かに奥へと進むための隙間や下り通路が存在し、それを通過することで冒険者は奥へと進むことが可能となる。らしい。

 

実際、これまで一階、二階、三階、四階はその法則に従って、下へと進む道が広いフロアのどこかに存在していた。しかし、この五層というフロアは、一から四階までの広さや迷い道がなく、グネグネと曲がった一本道が続き、それを行儀よく辿ってやった後、見つかったのはこの門だけ。

 

もはやここ以外の人間が通れそうな場所は、残っていない。そして、今までの迷宮の特性から考えるに、ここ以外の、獣すら通れない道の先に、下へと進む道があるとは思えない。

 

―――ならば、結論は一つしかあるまい

 

おそらくこの先にその道があるのだ。静かに立ちそびえる門に手をやり、表面を撫ぜる。つるりとした表面からは、その美しさとは裏腹に、何者かの侵入を防ごうとする意思を感じ取れた。解析を試みようとしたとき、扉は思った以上の軽やかな音を立てると、奥へと開きゆく。開閉は招かざる客人を仕方なく迎えるかのように、重く、緩やかだ。

 

―――仕方あるまい。進むか。

 

誰かの作為と諦観に背を押される形で決意を固める。扉の開閉とともに視界がひらけて行く。門の先は思いの外広く、一キロ四方程度に区切られていた。あからさまに人の手が入ったとしか思えない正方形の四角に、しかし、意識は割かれなかった。それよりも、目立つ存在が門の対角に鎮座していたからだ。

 

「――――――」

 

それは黒き巨大な紫白蛇だった。全長は五十メートル程。獲物を食ったばかりであることが、蠕動している大きな腹の様子でわかる。しかし、その鱗と蛇腹のなんと美しい事か。

 

蛇の紫鱗と真珠色の肌は周囲の光を乱反射して、蕩ける様な色を惜しげも無く振り撒き周囲を魅了する。色香に惑わされた周囲の赤は、惜しげもなく己の存在意義を提供することで、彼女の輪郭は艶やかな黒で彩られていた。神々しい、と形容しても過言ではない。意識へ滑り込んでくる美貌は、なるほど、部屋の主人と呼ぶに相応しいだけの風格と品を備えていた。

 

蛇の体の一部が浮いた。一体化していた風景が崩れた事で、ようやく意識が戻ってくる。

 

―――いかん、見惚れている場合でない。

 

己の醜態に喝を入れ、即座に己の身を戦闘態勢へと移行させられたのは、鎌首をもたげた蛇と視線が合うのと同時だった。邪視。魔眼は石化の呪詛を多大に含んでいた。蛇の視線は全身を貫き、冷静さを保っている筈の心が、さらに凍てついてゆくかの様な悪寒を走らせる。

 

―――防ぎきれない。

 

瞬間、石像と成り果てた己の身を幻視した。だがその未来予想は覆えされる。寒気が全身を包み込む直前、彼を救ったのは腕に装備されたバングルだった。右腕に装着された冷たく輝く装備は効力を十分に発揮して、石化の呪いを防ぎきる。石で作製されたバングルの冷たさは、零度に落ち込みかけた心情を引き戻すに十分な熱を持っていた。

 

こちらが石化しない様を見て、蛇が瞼を細める。唇より二つに割れた舌がチロチロと動いた。腹を満たして揺蕩うていた蛇は、己の意を無視して侵入した私に対し、そして、自らの権能を打ち破られた事に対して、不快感を露わにしている様に見える。

 

―――うっとうしいですね

 

ハスキーな女性声の幻聴が脳裏に聞こえる。彼女は気怠そうに半身を起こすと、細めた瞼をさらに縮めて閉じ、次の瞬間、ギョロリと見開く。ズンッ、と背後より音が聞こえた。背の高い扉が閉じたのだ。

 

そこでようやく、自身が蛇に向けて数十歩近づいていた事実に気がつかされた。どうやら蛇の美貌に意識を奪われた際、彼女の方へと引き寄せられていたらしい。

 

「いや、君の怠惰な気質には感謝するよ。でなければ私はとうに死んでいただろう」

 

ニヤリと笑って述べた皮肉の言葉の意を介した訳ではないだろうが、浮かべた表情と所作は冷血とされる彼女をイラつかせるに十分な効力を発揮した様で、蛇は全身に力を込めて戦闘体制へと移行した。それでいい。頭に血が上った獣相手の方が、私としてもやりやすい。

 

戦いは避けられぬ。ならば、先手必勝、攻撃あるのみだ。

 

全身に強化を走らせる。ついで双剣を左右の手中に投影すると、両の腕をだらりと垂れさせた常日頃の戦闘体制へと移行しながら、まっすぐ蛇へと突撃した。石化を撒き散らし、異なる生物をも魅惑する魔性の蛇など、生かしておく理由など、ない。この魔物は仕留めておかねばならぬ相手なのだ。

 

だが。

 

「―――ちぃ!」

 

必殺の意思を持っての直進は、前方上方向より落ちてきた招かざる客によって中断させられる。来訪者は迷宮で幾度なく遭遇した蛇の群れであった。彼らはその身を盾として己らの女王を守るべく壁を作る。それはなんともおぞましき、赤蛇の滝壺であった。

 

その数なんと十と八。今更、恐るるに到底足らない存在は、だがしかし、いかんせん数が多すぎる。別段、迎撃することは不可能でないが、裂けば舞う血飛沫は目を眩ます霧となり、散る肉片は行動を制限する重石となるだろう。

 

正面突破は下策だ。かといって、今更つけた勢いを殺すだけの距離もない。舌打ちと共に右足に力を込めて地面を思い切り蹴ると、蛇滝の横を斜めに通りぬけた。直後、赤一面の景色に白が混じる。蛇の牙だ。強いられた跳躍の先では、巨大蛇が大口を開けて待ち構えていた。

 

―――まんまと乗せられた

 

迂闊な自分の行動を呪うが、今更どうなるものでもない。

 

さてどうする―――

 

いや待て、これはチャンスだ。他の蛇同様の複合石化毒なら、タリスマンとバングルで防げるだろう。ならば飛び込んで、口腔内部よりその余裕こいた面ごとをブチ抜けば良い。

 

浮かんだ起死回生のアイディアは、鷹の目が牙から滴り落ちる黄色の液が容易に煙を上げて地面を溶かしたのを見た瞬間に霧散した。

 

地面をも溶かす酸―――!

 

女王の口液は迷宮に一般に出現するそれに当てはまらない特殊なものだった。おそらくは、石ころとなった敵を食べるためだろう。硫酸か、フッ化水素酸か。いや、この際名称や細かい成分などどうでも良い。ともかく、あの液体に当たるとロクな結果にならないことだけはハッキリと分かった。ならば口腔内からの攻撃など、とんでもない。

 

口に飛び込まんとする刹那の間に思考を巡らせる。跳躍したこの身の方向を変える手段など、そうはない。以前のように爆発で方向をそらすか―――

 

考えていると、鷹の目と巨大蛇の片眼がかち合った。奴の視線はこちらに対する優越感に満ちている。まるで、どうとでも足掻いてみろ、と訴えかけている視線は自信に満ちていて、しかしこちらが足掻きを見せれば、即座に噛み砕くという油断なき意思に満ちている。

 

ダメだ、爆発では遅い。経験から直観できた。手にした投影物を投げるのに一つ。聖骸布を投影するのにまた一つの工程が必要であり、それを纏い、最後に威力と方向を調整しながら剣を爆発させるとすれば、余計に数工程必要だ。

 

おそらく、それだけのもがきを見せれば、奴は素っ首を伸ばして噛み付きに来る。先の奴の反応から噛み付きの速度は私が一定の動作を行うよりも早いことが予測できている。

 

奴が今それをしないのは、ひとえに、奴が自らに無礼を働いた下賤を嬲り殺す心情であるからだ。なるほど、奴は女王なのだ。世界樹の迷宮の主にして、大蛇どもを統べる女王。自らに無礼を働いたものは、恐怖に絶望させてから砕くが女王としての誇り――――――

 

―――女王、か。ならばそこに存分に付け込ませてもらおう。

 

奴の立場がわかった途端、対策が閃いた。一種の賭けでもある。だが、勝算は十分にある。

 

「投影開始―――!」

 

両手に握った双剣を放すと、楔のついた鉄鎖を投影する。名のある宝具ではなく、ただ頑丈なだけの、楔と鎖。一工程のあがき。蛇はピクリと反応を見せた。

 

続けて腕と足を思い切りふるって体を回転させる。これで二工程。女王が足掻きを見せた愚か者を罰しようと、開いた口を窄めてこちらへと近づけて来る。女性からの口づけならば歓迎したいところだが、獣臭と腐臭を漂わせる貴様のそれなど、真っ平御免だ。

 

全力で雌からの接触を避けるべく、強化した回転の勢いに任せて、楔を赤蛇の群れ目がけて思いきり投げつける。鉄鎖の先端は鈍色の光線となり、落下する蛇の体内を蹂躙しながら突き抜けると、そのまま勢いを殺しながら数匹を貫いたところで止まった。

 

鉄鎖の勢いが死ぬ。と同時に、あちらとこちらの体が、空中で一瞬の停止を見せた。大蛇数匹の落下エネルギーがこちら側の勢いに勝ったのだ。これで三。女王は予定外に配下を傷つけられ、大層ご立腹だ。突撃の勢いが増す。―――ここだ。

 

腕力を強化をして鉄鎖を引っぱると、時間は思い出したかのように動き出し、私の身体は落下する蛇に近づく。異物にぶつかり微かな撓みを見せていた鉄鎖はピン、と伸びて、そして再び撓んだ。これで四工程。奴の口までもう僅か。だがもう遅い―――

 

―――届いた!

 

身体が赤蛇の体と接触する。ぐにょり、と気持ちの悪い感触が伝わった。中途半端に冷めたい暖かさを持つ蛇のクッションは、私という敵を拒絶出来ずに衝撃を受け止める。女王は接吻を取りやめて頭を身ごと後ろに引いた。

 

数匹の蛇の体をクッションがわりに使用して落下のダメージを軽減すると、私と地面の間で圧力に負けた蛇の体から体液が散る。血液は暖かく、生臭い。液体には複合石化毒も混じっていたが、それは今の私にはなんの意味もなさなかった。

 

己の体を貫かれて自由な身動きを封じられ、あまつさえは衝撃を殺すための道具として使用された蛇は潰れた部位の痛みを周りに訴えるかのごとく、身をのたうち回らせ、悶え苦しんでいる。私は十分な余裕を見せつけるように、ゆっくりとした動作で体に付着した体液を払うと、口を吊り上げて女王に告げる。

 

「流石に身を呈して己を守ろうとした部下を、自らの牙で砕くのは気が引けたようだな。いや、冷血動物などと侮って悪かった。君は十二分に情のある生物であり、上に立つものとして下々に配慮も行える優秀な統率者だ。―――だから」

 

両手に刃が二メートルはある巨大な刺突剣を投影すると、悶える蛇の頭部目掛け投げつける。剣は蛇の頭蓋もろとも脳を貫くと、蛇の体を地面へと縫い付けた。そして絶命。それを見た女王が、忌々しげな視線をこちらへと向けた。

 

「―――だから、存分に君のそれを利用させてもらう!」

 

 

後はただの殺戮ショーだった。周囲に群がる大蛇を生かしたまま盾として使えるとして、後十枚以上は有る。巨大蛇は己の身を守ろうと出現した大蛇を自らの手で仕留めるのを躊躇う。また、動かなくなった大蛇を障害物としてばらまくと、彼女の進路を防ぐストッパーとして働いてくれるので、私は彼らが死なぬよう気を配りながら、生き長らえるよう加減をして、大蛇の機動を削ぎながら、有る時は大蛇の体を盾にして飛び回る。

 

巨大蛇は大蛇を人質ならぬ蛇質にとられ、身動きを制限されたまま、その身を削られてゆく。美しい鱗は見るも無残に輝きと色味を失い、生命が蛇の体より抜け真珠肌は朱に染まり、身体が不自由になってゆく巨大蛇の冷めた顔には、絶望感に身を浸し焦燥感が湧き上がりつつあるのが見て取れる。

 

―――いやはや、どちらが悪役か分かったものではない

 

だが、引けぬ。

 

貴様が迷宮の奥へ行くための障害であり、人に害なす魔獣で有る以上、私の願いに相反する存在だ。獣ながらその情、その誇りは素晴らしい。だが。貴様は私にとって、障害以外の何者でもない存在だ。

 

だから。

 

―――悪いが貴様はここで死ね。

 

都合十枚以上はあった盾を殺しきった頃、巨大蛇はもはや息も絶え絶えであった。魅了をばら撒いていた紫白は一転して周囲と同じ赤に染まり、長く伸びた肉体の所々からは血と内臓と体液とその他未消化物―――すなわち、石となった被害者の一部が―――漏れていた。

 

もはや死に体の巨大蛇は、しかし、その双眸だけは爛々と感情を蓄え、射殺さんばかりの視線をこちらへと送ってくる。鶯色眼球の中で大きな金の縦瞳孔がきゅうと細くなり、広がった。見るものを極寒の寒気に叩き込む石化の瞳には怒りと憎悪と使命感とを綯い交ぜにした感情が広がり、貴様だけは許さぬ、という意思がありありと伝わってくる。

 

視線が交差したのは一瞬のち、巨大蛇は身を翻して部屋の隅、私のいる位置より対角となる場所まで移動した。尾より先の半身でグルグルと巻いてバネを作ると、壁に押し付けて顔を頭部をこちらへと向ける。細かく位置を調整しながらも、瞳は私を注視して離さない。いざ行かんと瞳を輝かせる様に、突撃前の軍馬の姿を幻視した。

 

―――なるほど、それが貴様の切り札というわけか。

 

五十メートルの巨体を動かす筋力から繰り出される一撃は、小さな山や丘程度ならを吹き飛ばす程の威力を秘めているだろう。ならばあれは、牙城を門ごと粉砕する破砕槌に等しく。

 

―――生半可な手段では止められない

 

そう判断を下すと、手持ちの投影品を全て破棄した。続けて取り出したのは、以前は口を縫い付けるつっかえ棒として使用した黒塗の洋弓だ。カーボン製で作られたそれは、多少頑丈で有るものの、先ほど投影した鉄鎖と変わらぬ、単なる弓である。それ単体では眼前の敵に傷一つ負わせることなどできはしない。

 

そんなことは百も承知だ。そもそも弓において、敵を害する剣となるのは、矢だ。それも小山に等しい巨大な魔獣を打ち倒すのなら、それ相応の強力なモノを用意せねばならぬ。

 

「―――我が骨子は捻れ歪む/I am the bone of my sword. 」

 

動きを察知して、敵が動いた。引き絞られた体に蓄えられた力が壁めがけて放たれる。飛翔。蛇は地を這うではなく、空中を真一直線に直進する。

 

遅れて、パン、と小さな音が鳴った。それは彼女が巨体を動かした際に発生する音だった。それは巨体により生まれたにしては、あまりに小さく、彼女の通常よりもずっと小さい音だ。

 

壁を叩いた際発せられる音とは、すなわち、エネルギーのロスである。叩いた際、振動が発生し、余剰のエネルギーが音源となり、発せられる。それを解すればつまるところ、巨大魔物が生み出した音が小さすぎるという不可思議な現象は、彼女がほとんどロスなく、巨大な体に蓄えていたエネルギーを飛ぶという現象に使用したということを意味していた。

 

敵には覚悟があった。いかなる妨害があろうと、いかに体を傷つけられようと、この不届きものだけは誅さんという必殺の意思が込められた五十メートルの弾丸は紫白の残像を撒き散らしながら迫り来る。防御など、とんでもない。回避を試みたところで、もはや手遅れだ。

 

否―――、もとより、そんな選択肢を取るつもりなど毛頭無い。石化させる能力を持ち、群れて人に襲いかかる巨大蛇など、この世から消滅させておかねばならぬ魔獣だ。来ると言うのならば、迎撃するまでの話。直線にくるというなら、都合がいい。必殺の好機を見逃すほど、私はお人好しではない。

 

彼女に攻撃を仕掛けられた瞬間、すでに準備は終えている。弓に装填したのは、捩じくれた歪んだ矢だ。それは知る限り、最も手軽で、最も信頼のおける、最も貫通力と威力に優れた

―――剣だ。

 

接触まで三秒。彼女より発せられた殺意は、私の裡に秘めた決意と衝突し、乾きという現象を生む。緊張に喉がひりつくなど、幾年ぶりのことだろうか。そういえば生身であったな、と何度目になるかわからない気付きを得る。

 

久方ぶりの全力稼働に魔力回路と言う名の後付けの擬似神経が軋む。背骨を中心に痛みを伴う熱が身体の隅まで広がってゆく。未熟な頃はよく、背骨に鉄の棒を差し込むような痛みに耐えながら魔術を行使したものだ。懐かしい。

 

思い出に浸る私を責めるかのように、チリッと、指先が刺されたかのように鋭く痛んだ。魔力の逆流である。番えた剣が刀身に溜め込める魔力の分水嶺を超えて、悲鳴をあげている。もはや我慢ならぬとばかりに、余剰に注ぎ込まれた魔力が剣の特性を先走らせて発揮させ、身体の周囲に暴風と雷光が生まれては逆巻く。

 

後二秒。十分だ。後は番えた剣の真名を開放すれば良い。剣はアルスターの古い伝承に有る黒き雷の意味を関する名の宝具―――に私が手を加え、弓よりの射出に適した形状へと変貌させた、改良型の投影品。その名は―――

 

「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ―――! 」

 

一秒。矢の切っ先を憎悪に歪む眉間に定めて、熱を帯びる右の指先から力を抜く。真名を発せられた宝具は秘められた真なる性能を発揮して射出され、強化の施された弦は役目を終え、びぃん、と蔓のたわむ音が間抜けに響いた。

 

零コンマ数秒。放たれた矢は音速をはるかに超える暴力となり、目前十メートルまで迫った蛇の頭部に襲いかかった。切っ先に生じた衝撃波が先んじて牙を突き立て、紫の鱗を剥ぐ。直後、宝具は体内への侵入を果たすと、巨大蛇の肉体を抉りながら直進した。頭部を守る役目の頭蓋は釘を前にした豆腐程度の役割も果たさず、彼女の頭部は瞬時に血煙に消えた。

 

つまりは即死である。さもありなん、あれをまともに食らって生き残る手段などありはしない。頭を砕かれた彼女の亡骸は、それでもエネルギーを保有したまま直進する。頭蓋を砕き脳漿をぶち撒けた剣の切っ先は、残る血肉も飛沫へと変換し、周囲に撒き散らしてゆく。

 

零秒。

 

―――っと、いかん

 

剣が蛇のほとんどを消し去った頃合いを見計らって、投影を破棄する。巨大蛇の体躯という障害を消し去った宝具は、影響だけを残して空気に溶けるように消えてゆく。遅れて一面に空気の弾ける音が盛大に鳴り、さらに遅れて、捻じ曲がった空気が壁を叩く音が聞こえた。

 

これでいい。これ以上宝具を現出させておくと、迷宮にまで破壊を生じさせる事となる。迷宮内での戦闘は許可されているが、必要以上の破壊と、故意に害することは執政院より禁じられている。私としても、いかなる技術をもってして作られたのかわからぬ代物なのだから、下手に刺激を加えたくはない。

 

肩の力を抜いた。重く深いため息をつく。常ごろより多少強めに強化を施した箇所が、無茶な過労に耐えかねて悲鳴をあげていた。痛い。生身での長時間戦闘は久しぶりだから仕方がないのだろうが、我ながら情けなく思う。

 

汗が抑えきれず、額に滲んだ。高速戦闘は体が冷える。冷えて感覚が鈍るとそれが命取りになるので、いつもは調整して戦っているのだが、今回はそんな余裕もなかった。自らの見通しの甘さに反省を促しつつ、体温の上昇を抑えるべく、呼吸を多めにとった。

 

久方ぶりの生きている証に手間を感じる。投影で汗を拭うものを生み出そうかと思って、しかし魔術回路が未だに灼熱を帯びているのを感じて、やめた。下手に使おうものなら、魔術回路は今以上の熱を生じさせ、体に余計なダメージを与える事となる。本末転倒だ。なんの意味もない。こう言う場合、自然に放熱を待つのが一番の近道なのだ。

 

気がついたかのようにバッグよりメディカを取り出してふりかけた。投影品の際は一切効力を発揮してくれなかった液体は、私の火照った体に触れた途端、光の粒子となって拡散して、体全体を包み込む。疲労が残らず消えてゆく感覚が心地よい。

 

そうして光が消えるまでの間、衝突―――というより、一方的な虐殺の余波により生じた荒れる空気の流れに身を任せた。もちろん、残心は解かない。強化により敏感になった肌と感覚は暴走して周囲の情報を取り込もうとするため、それの選別に意識を割く。やはり生身の肉体も良し悪しだ。

 

昂ぶった精神が落ち着くのを待っていると、執政院へ報告するために、倒したという証明が必要であることに思い至った。しまった、多少加減をするべきだったか、と思うが今更遅い。仕方なくあたりに視線を配ると、撒き散らされた巨大蛇の尾っぽ部分が残っていることに気がつき、胸をなでおろした。

 

これでよかろう。一応、残骸に剣を突き立てて動かないことを確認すると、まともに残っていた人の頭ほどもある大きさの麗しい紫鱗を数十枚剥ぎ取り、真珠色の皮を一メートル四方ほど丁寧に切り取る。これだけ持ち帰れば、討伐報告も納得してもらえるに違いない。

 

切り取った報酬を水分を通さぬ布に包むと、予想外に大荷物になってしまった。先に進もうかと逡巡したが、まずは増えた荷物の処分と情報の共有を先決させた方が、効率が良いだろう。自己と他者、そのどちらの二次被害を抑える意味でも、二層に行くのは手持ちを減らしてからで良い。

 

腰に装着したポシェットよりアリアドネの糸を取り出すと、縷を一気に引く。飛行機が離陸した時の浮いた感覚が体を包み込んだかと思うと、次の瞬間には視界は白に染まり、体も意識も迷宮より離脱させられた。

 

迷宮には彼の残した熱と残骸だけが取り残される。そしてしばらく経った頃には、その熱と残骸さえも風の中に消えていった。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第四話 歳はまさに甲子となり

 

終了

 




駆け足ですが一層終了です。
本来ならここまでを一話としていたのですが、長かったので分割しました。
お陰でキャラクターの登場比率がおかしかったりしますが、ご勘弁ください。








こっそり追記のメタネタ

今回のボスと層に出てくる蛇のモチーフは、fateプレイヤーや感の良い方ならご想像がつくと思いますがギリシャ神話の有名女神、ライダー、すなわちメデューサさんです。

話の都合上、あっさり退場

ちなみに世界樹の迷宮Ⅴの冒険者たちなら、伝承通り、ウォーロックが「インビジブル」使って透明状態でこっそり近寄って不意討ち、初期は睡眠状態の敵をリーパーの「死滅の鎌」で即死させてやることで、特殊ドロップ「メデューサの首」を手に入れることが出来ます。

店売りしたら「イージスの盾」が出現。

あるいは二層側階段から背後より近寄って、「凍てつく大鎌」から作りあげた「氷刀アルマス」を使用してのブシドー首討ちによる即死成功でもドロップします。


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第五話 降りる帳、されど幕間の日常は狂乱に満ちて

世界樹の迷宮 ~長い凪の終わりに~

 

第五話 降りる帳、されど幕間の日常は狂乱に満ちて

 

どんな世界になっても、自分の心だけは決して変わらないと思っていた。

けれど、心は世界のありようでこうも簡単に変容する。

 

 

「攻略されただぁ!?」

 

深夜の店内の静寂を甲高い声が切り裂いた。平穏を乱した張本人は鼻息を荒げてカウンターの上に身を乗り出し、買取査定中の素材を押しのけて道具屋店主―――ヘイを睨みつけている。寝間着なのにやけに目の冴えた様子のヘイは、慌てて、「静かにしろ、今は夜中だぞ! 」と大きな声で言ってのけた。己の注意の声の方が大きいという間抜けさに、ピエールがくすくすと笑う。

 

彼ほどではないが、私も当然驚いているし、ギルド「異邦人」の他のメンバー、ダリ、あのシンまでも、素直に驚いた表情を浮かべてヘイを眺めている。違うのは多少笑みを浮かべたピエールだけだ。ヘイは、近い近い、と言ってサガの上半身を押し返すと木台の上からおろして、視線を散らすように両腕を大きく振り、サガによって撒き散らされた素材を引き寄せながら答えた。

 

「おう、その通りよ。明日あたりにはエトリア中に話が広がるだろうぜ。いやぁ、出会った時から雰囲気で出来る奴だと感じていたが、まさかこう、単独で新迷宮の一層を攻略する実力の持ち主だとは思わなんだ。いやぁ、声をかけておいて正解だったなぁ」

 

道具に拡大鏡をあて、真剣な様子で鑑定を行いながら、それでも笑みを抑えきれないにやけた顔からは、誰かに知り合いの活躍を教えたくて仕方がない、という気持ちが読み取れる。知人が有名になった事を自慢する際に、よく見かける顔だ。知り合いの活躍というものは、まるで自分ごとのように嬉しいものだから、気持ちはわかる。

 

いや、まて、しかし、そんなことよりも、いま、ヘイは信じられない事を言わなかったか?

 

―――単独で、新迷宮一層を、攻略した?

 

それはつまり、私がいつも潜っていた旧迷宮の二層の魔物なんかとは比べものにならない、旧迷宮の四層を軽々と攻略できるギルドのメンバーときちんとした戦いになるくらいには強い魔物がうろつく樹海を一人で探索し、多くの熟練冒険者たちが討伐に失敗して帰ってこなかったという強さの番人を、たった一人撃破してみせたという事か。

 

一体―――それはどれほどの強さや経験があれば、成せる事なのか。想像もつかない強者の存在は、それだけで背筋にぞくりとしたものが走る。想像を超えた未知というものは、いつだって怖さと興奮の混ざった感覚を覚えるものなのだろう。

 

「ん……、単独? ヘイもしかして、その彼……というのはもしかしてあの依頼の? 」

 

ピエールが尋ねた。緑水の瞳からは、興味を抑えきれず、好奇の光が溢れ出ている。

 

「おうよ。何を隠そう、この前、お前らに毒祓のタリスマンと石祓のバングルの素材を譲ってやって欲しい奴がいるっていう、あれの依頼主がそれよ」

「ああ、ヘイが珍しく肩入れをしていた冒険者か……、ふむ、ヘイ。確か君は、見込みはあるし、強いが、探索をしたことのない、ど素人だと言っていなかったか?」

「おお、その通りよ。なにせ、エトリアの門前で出会った時、あいつときたら手入れの行き届いた高価そうな鎧と服を着ているだけで、後は何も持っていなかったんだからなぁ。……、うん? しかし、迷宮から帰ってきて一番にここにきた時にゃ、あいつバッグを持ってたな。さて、あいつ、道具屋を訪れるのは初めてだったように見えたが、いったいどこで手に入れたんだ? 」

「大方、新迷宮の中で誰かが忘れていったモノを拾ったんじゃないですか? 」

 

私が意見を述べると、ヘイは、「あ、なるほどな」と言って、手を叩いた。

 

「いえいえ、わかりませんよ。もしかしたら、じつは一緒に潜った仲間がいたけれど新迷宮内で死んでしまって、そんな仲間の意志ごとをバッグの中に詰め込んで受け継いだのかも……、いえ、だからこそ、一人で踏破しようと考えたのかもしれません」

 

さすがはバードという語り部がキタラを鳴らしながら言うだけあって、彼の言葉は不思議と信用しても良いかもと言う物語があった。なるほど、でも確かに、たった一人で新迷宮の一層を攻略しましたというよりは、複数で行って、ただ一人返って来ました、という方が、まだ説得力がある気がする。だいぶ悲劇的に脚色されているけれど。

 

「ピエール。お前、本当に、いい加減にしたほうがいいぞ」

 

でっち上げられた脚本の内容を責めたのは、サガだ。彼は小さな顔の中で細く輝く鳶色の瞳を、さらに鋭利にして強く忠告する。普段は飄々とした人物が見せる、見知らぬ他人の悪口に腹をたてる姿が意外すぎて、私は息を呑んで案外真面目な一面もあるのだなと驚く。

 

「そもそも、俺がバッグを見た時にはすでにあいつ一度目の探索を一人で終えてたしなぁ。二度目の探索でもって攻略したのは院発行の素材証明書に書いてあったし、一回目の探索の後、素材を加工してやったら即座に迷宮向かったみたいだし、一人で攻略したのに間違いはないと思うぞ」

 

ヘイが呆れたように言うと、ピエールは肩をすくめて、一応の反省を示した。

 

「それは興味深い。しかしどんな背景があれば、どんな実力を持っていれば、一人で新迷宮なんて思えるんですかねぇ。いや、是非とも、一度お話しを伺いたいものです」

 

と思うと、ピエールはすました顔をうっとりとした表情に変化させながら言う。蕩けた声と焦点の定まらない瞳は、まるで恋する乙女のそれだ。彼の脳内は今、話の中に出てきた彼の存在でいっぱいなのだろう。なんというか、自由な人だな、と思う。

 

「いや、そんな事より、素人同然の男が迷宮を攻略した方が、重要だ! どんなやつなんだ、そいつは!? 」

 

幻想に浸るピエールを押しのけて、ダリが尋ねる。迷宮では常に冷静な指示を飛ばし、冷徹にこちらの至らぬ点を指摘する彼は、珍しく狼狽えていた。感情の波の大小が少ない人、というイメージが強かっただけに、普段とのギャップの大きさが面白おかしく、何とも意外な感じだ。少しばかり、親しみを感じることができて、少し嬉しい。

 

「どんなって、エミヤっていうやつさ。赤い外套に白髪でべらぼうに長身の、そう、ダリ。ちょうどお前位の背格好をした、冒険者さ。おお、そうだ、良いものを見せてやろう」

 

ヘイは言うと、ウキウキとした様子でカウンターの奥へ引っ込み、そして黒い布を抱えて戻ってくる。彼が抱えていたのは、麻でも絹でも木綿でもないつるりとした布だ。

 

見た目いかにも頑丈そうで耐水性に優れているように見えるそれは、道具屋の娘である私も見たことない表面のつるりとした布だが、使用用途は想像できた。きっとそれは、回収した素材を収納しておく袋なのだ。

 

「あいつが持ち帰ったものを買い取ったんだ。……ほれ!」

 

「「「「「―――――――――――――……!」」」」」

 

ヘイは、ご覧あれと布を開帳する。途端、私たちは意識を奪われた。ああ、なんて。なんて。

 

「美しい……!」

 

ピエールが一同の気持ちを代弁していた。サガに戦闘馬鹿と呼ばれているシンですら、現れた人頭大の紫鱗と、綺麗に折り畳まれた白皮に心を奪われ、目線を切ることが出来ずにいる。

 

魔性。そうとしか表現のできない美しさ。菱形に潰れた四角と六角形が組み合わさった形状から、恐らくその品が蛇の鱗であることが伺えた。討伐した新迷宮一層番人から剥ぎ取られたのだろう代物は、そこにあるだけで他の全てを些事へと追いやる存在感があった。

 

まるで美女のようだ、と思う。紫の鱗は直線的な怜悧な美しさを持つ美女だ。薄暗くなった店内に広がるランプの光を下僕にして飴色を身に纏い、黒く艶やかに微笑んでいる。対して、白い皮は一変して物腰柔らかい態度の美女だ。皮の優美な曲線はしなやかさを想像させ、蝋燭の炎を思わせる美しさで視界を優しく包み込む。ランプの光は優しく虜にさせられ、その身の回りを虹色の薄布がかかっているかのようだった。

 

彼女らは自らの美しさを主張するなどという野暮な事をしない。ただ有るだけで周囲の者共を虜にしてしまうのだ。その誇らしげでない様の、なんと上品なこと。なるほど、ヘイが自慢したくなる気持ちがよくわかる。同じ道具屋の……というか、人の習性だ。美しいものを手に入れたとき、人はその存在を見せ付けずにいられないのだ。

 

魅了されたピエールの手がふらふらと二つに伸びた。それは意識してのものでない。美しいものを手に入れたいと思う気持ちが、自然と手を向かわせたのだ。

 

「あ、こら、いかん! 」

 

ピエールの手がものに触れる寸前、先にそれを手に入れたという慣れからか、一足先に意識を取り戻していたヘイは慌てて布を閉じる。誘蛾灯が遮られたことで、虫になっていた私はようやく全身の自由を取り戻す。長く深く息を吸って吐くと、同じように皆がそれに続いた。

 

「いや、素晴らしい。良いものを見せてもらいました。加工するとしたら、スケイルアーマーにするのが妥当でしょうか」

 

我にかえったピエールはバツが悪そうに礼を述べると、手を引っ込める。物惜しい。はしたない。だが、まだ見たい。出来ることなら、手にとって頬ずりの一つでもしたい。欲しい。彼の様子からは未練がありありと見て取れた。気持ちはよくわかる。私だって手に入るものなら、是非とも手に入れたい。ヘイにピエールの様子を見て、苦笑いを浮かべながら、いそいそと品をしまい込む。

 

「誰がそんな勿体無いことをするか! しかし、いやぁ、実に良い買い物した。そういう反応をしてもらえると、有り金叩いて買った甲斐があるってなものだ。いや、しかし、大したものだよなぁ。一人で番人を倒すたあよ」

 

ヘイの一言に、意識をまともに戻したシンが反応を見せた。

 

「ところでヘイ。魔物が倒されたと言うことは、明日からは……」

「ああ、いつも通りなら、番人が復活するまでの間に冒険者たちが新迷宮に殺到するだろうな。そうだ。お前さんがた、今からでもラーダに行って探索予約を取っておくといい」

 

次の層への階段を守る番人は、一週間ほど経つと復活する。これはエトリアだけでなく、ハイラガードやアーモロードなどの迷宮にも共通する不思議な法則だ。なぜ復活するのかは、そもそもそれが本当に復活なのかすら、未だにわかっていない。まぁ、とにかく重要なのは、一週間ほどは、番人がいない状況が生まれるということだ。

 

さて、番人がいないその一週間の間、番人の部屋直前付近で部屋の主人と対峙する事を躊躇って足踏みしていた、けれど野心ある冒険者たちが、我先にと迷宮へ押しかける。そこの主人がいない間に先に進んでしまおうと言う魂胆だ。

 

そう考える多くの人は、強いものと戦いたいわけじゃないけど、目にしたことのない光景を見たくて冒険者を志した、とかの好奇心旺盛な性質の冒険者だったりする。後は、とにかく下の層で取れる物の方が高く売れるから、とかのお金目当ての人とか、他にも執政院のギルド長率いる調査隊や、施薬院、道具屋組合の雇った冒険者とかだったっけか。

 

とにかく、番人が倒された直後からこの一週間の間は、こういった人達が番人のいないうち次の階層に進んでしまおうと殺到する。一時間に五人の人間までしか入ることが許されていない世界樹の迷宮に対して、百を越すギルドの人間と、それ以外の冒険者たちが入り口に押し寄せて、我先に迷宮に入ってやろうとするのだから、たまらない。

 

いつだったか、そんな彼らが殺到した事で、迷宮入り口で大混雑と混乱が起きて以降、番人が討伐された直後には「番人がいないから、今なら好きに通って良いよ。でも執政院で予約した人から順番にね」と言った内容の御触れが出されるようになったのだ。

 

そして、その御触れが発表されるのは、討伐が判明した次の日の朝五時だ。そして発表の直後、ラーダには探索の許可を求めて長蛇の列ができる。旧迷宮でもよく見られる現象だ。

 

ならば、新迷宮でも当然、いやむしろ確実に、明日のラーダは今まで以上に、好奇心と野心旺盛な冒険者で溢れるかえることになる。出遅れれば次の冒険は、少なくとも次に再び番人が復活する迄の、一週間程度は引き延ばされることとなるだろう。そして一週間という時は、誰よりも早くの迷宮攻略を目的とする私たちにとってとても大きな出遅れとなる。

 

ちなみにであるが、実のところ迷宮の潜入予約自体は番人討伐直後であろうとなかろうとできるので、目敏い、耳ざとい冒険者の人は、誰かが番人を倒したその直後に、何処かからか情報を仕入れて、素知らぬ顔で探索の予約を入れることもある。例外除いて前からの予約が優先されるので、彼らの手によって狭き門はさらに狭いものとなる。

 

だから、ヘイは、今のうちに私たちもそんな彼らのように優先予約をしておいた方がいいぞ、申請を忠告してくれたのだ。なんともありがたいことだ。

 

「予約か……そう、そうだな、その通りだろうな。感謝する」

 

シンは唇をひん曲げながら心遣いに礼を言った。最初に新迷宮踏破を成し遂げて五層探索の許可をもらうためなら、間違いなく有難い忠告なのに、なぜ彼は不機嫌そうな顔を浮かべるのだろうか?

 

「それはね。彼が他人に手柄譲ってもらって喜ぶタイプじゃないからさ」

「――――――!」

 

びっくりした。びっくりした。突然、後ろから聞こえた内心に答える声と、肩にそっと乗せられた柔手に、心臓が飛び出るかの思いをする。ピエールだ。彼はしてやったり、の笑みを浮かべると、私の肩を揉みながらシンの心情を代弁する。その柔らかな手がむずがゆく、吐息がくすぐったく、なんとも全身にこそばゆい感覚が走る。

 

「出来る事なら、番人を自らの手で倒してから先に進みたい。だが、進むなら今がチャンスだと言うのもわかる。五層の三竜を倒すのが目的なら、もちろん進むべきだ。だが、ああ、しかし。今彼はそんな葛藤の渦にいる。いやぁ、純情ですねぇ」

 

茶化すかの口調は大きく、ピエールの高い声は静かな店内によく響いた。思わずシンとピエールの顔を交互に眺める。シンの顔はピエールの顔を真剣に見つめたまま動かない。一体何を考えているのだろうか。気持ちを暴いての代弁など、誰にとってもいい気分ではなかろう。もしや怒ったかと思うと、ああ、胸が痛い。悩んでいるとシンが口を開いた。

 

「うむ……、うむ、その通りだ。流石はピエール、的確だな」

 

出てきた言葉に息を思い切り飲んで、吐く。割と挑発に聞こえる台詞だったので心配したが、どうやらこれくらいは彼らにとって軽口の範疇であるらしく、シンのまっすぐな答えに、ダリもヘイも笑っている。先ほどエミヤという男の悪口に怒ってみせたサガも、声を上げて笑っていた。

 

多分だが、先程サガが怒ったのは、目の前にいない人の悪口を卑怯にも言ってのけたからなのだろう、と勝手に思った。ああ、でも、本当に心臓に悪い。

 

「だがピエール、惜しいな。少しだけ足りん」

「おや、残念。果たして何が足りなかったのでしょうか?」

 

シンは深く頷くと、答える。

 

「エミヤだ。迷宮を一人で踏破したという彼が、果たしてどんな能力を持った人なのか、私は非常に気になっているのだ」

 

なるほど、先ほどの苦悩に見えた表情は、ピエールが指摘した思いに加えて、エミヤという一人で新迷宮の番人を倒した人のことを考えていたからだったのか。それは確かにとても彼らしい。他の冒険者の強さに興味を抱かない私ですら気になるのだから、他の皆から戦馬鹿などと揶揄されるほどの彼なら、気になって当然だろう。

 

「ヘイ。他に彼について知っていることはないか?」

「って言われてもなぁ。あいつ、と知り合ったのはついこの前だし……、ああ、そうだ」

 

ヘイは、ぽん、と手を叩くと、言う。

 

「エミヤだがな、あいつ、赤死病の解決を望んでいるみたいだぜ」

 

ピクリと私の体が反応した。赤死病。両親の死んだ原因。私が新迷宮を目指す原因となった病。もう気にしていないつもりだったけれど、体は心より正直だったようで、その動きに反応するかのように心に漣が立つ。

 

シンがこちらをちらりと見た。遅れてほかのダリとサガが心配そうな目線を、ピエールがあまり興味なさそうな目線を向けた。さらに遅れてヘイが、しまった、とても言いたげな、大口を開け、開いた口の前に手を持ってくるという行動を取った。

 

いつまでも気を使われている、というのが少しばかり気に食わなくて、両手をブンブンと顔の前で振ってみせると、真っ先にシンがふいっと顔を背けてヘイの方を向き、先ほどのヘイの話題の後に続けてくれた。

 

「ほう……、しかしそれにしては仲間を集めず単独でというのは珍しいな。数がいればその分とれる戦略が増えるのだから、普通なら迷宮での活動が許可されている最大人数である五人で徒党を組みそうなものだが……。複雑な事情持ちか? 」

「さぁな、俺にはわからん。推測をする気もない。客の語らない事情を邪推したいと思うほど、身の程知らずじゃないからな。知りたきゃ本人に聞けよ。さっき言った通り、赤い外套に白髪長身の目立つやつだからすぐわかんだろう」

 

ヘイは言うと、今までの愛想の良さが嘘のように、迷惑だ、といった顔をする。まぁ、その通りだ。迂闊に人の情報を話す事は、信用を失う行為に繋がる。

 

いろんな人と接して色々な情報を手に入れることのできる道具屋は、だからこそあまり人の事情を深く話そうとしないし、想像を働かせようとしない。語るのは、判明している事実だけなのだ。赤死病については、きっと、彼が公言していたのだろう。

 

「わかった。感謝する―――、では行こうか」

 

いうと、シンはクルリと踵を返した。どこへ? 聞こうと思ったが、言わずとも理解できた。私は荷物を持ち直すと、彼の後に続く。シン以外のメンバーも鷹揚に頷くと、床に置いていた荷物を持ち上げて後に続く。彼の事が少し理解できた気がして、嬉しいと思う。

 

私たちはヘイに挨拶と礼を告げると、夜の闇の中に足を踏み入れる。目指すはラーダ。目的は、一人で番人を倒した彼よりも早く、新迷宮の奥地へと到達する事。

 

―――明日からはまた、一段と騒がしいエトリアの1日になる。

 

世界が賑やかになるのを想像して、私は少し胸が踊った。

 

 

番人という障害を打ち倒した後、糸を用いてエトリアに戻った私は、討伐報告を済ませるためにラーダへと向かった。転移の際に生じる光を外に漏らさないため、あえて空気と換気のための穴以外をなくした、牢獄のような設計の転移所より街中に足を踏み出すと、陰鬱とした気分を祓ってやろうとするかのごとく、満点の星空が私を迎えてくれた。

 

―――ああ、そういえば、ここは天に近い土地だったな

 

闇の部分よりも多く見える星の光。文明の匂いがする街中にいるにもかかわらず、大気が澄んでいる証拠を映し出す空を見上げていると、時代が変わったというのをひしひしと感じる。聖杯戦争の最中、高層ビルの上から眺めた電気文明が灯す街の光ですら、この光量に勝りはしないだろう。煌びやかな星に誘われるようにして足を踏みだす。

 

ベルダの広場への道は、夜という時刻であることもあって、いつにも増して賑わっている。この時間帯は冒険者という人種が多い。彼らはこのベルダの広場にある金鹿の酒場を中心とした飲食店を目当てにやってくるのだ。

 

右を見てみれば、店からはみ出したテーブルや椅子の上で酒を瓶から直接胃の中へと押し込む人間がいて、左を見れば、そんな彼らを冷めた目で眺める、少しインテリぶった格好の人間がいる。どこの時代でも見られる、対立。そんな光景に、かつて自分が駆け抜けてきた時代の変遷の中にあった騒めきを見出して、胸がざわめく。郷愁、というやつだろう。

 

思うまま歩く。人類の機械文明の大半を足元に閉じ込めて、世界は一変した。世界に住む住人はスキルという異能を当たり前のように使用して日々を過ごし、自分のような不審者を当たり前のように慮る人ばかりだ。それが上っ面で見せかけの優しさでないことは、人の意地汚さを間近で眺め続けて、誰より知り尽くしている私にはすぐにわかった。そうした偽善者がもつ、押し付けがましい正義の匂いが、彼らからはしない。

 

かつて私が生涯を駆け抜け過ごした世界はこれほどまでに人に、他者に優しい世界ではなかった。歳をとってかつての自分を見下せるほど高くなった背と、分別を覚えて多少は賢しくなった頭が捉える景色は、いつだって悲しみと憎しみ、偽善と欺瞞に満ちて、汚れていた。

 

数千年。凛は数千年の時が流れていると述べたその世界は、しかし、そんな醜悪さとはかけ離れた世界になり変わっていた。永劫続く時の流れの果てに、人々の醜い部分を知り尽くした気になっていたけれど、もし何かきっかけがあって、その後数千年の時が経つことで、人々がこうまで変われるというのなら、果たして私が生前、そして死後やっていた虐殺はなんだったのだろうか。

 

自分という存在が正義の味方なんてものを目指さなくとも、人々はこうして変わってゆける。そうして変わった世界に、果たして自分という不純物は必要なのか。この世界の住人と話していても、裏を読もうとして、そしてそれが勘繰り過ぎだと気付き、彼らの幻影という鏡に己の醜さを見つけるばかりのこんな私に、果たして存在価値はあるのか。そこまで考えて、自嘲した。

 

己のレゾンテトールを問うという、思春期の少年少女が陥るメルヘンチックな精神状態になる事ができたのを、青臭い過去の自分を取り戻した証と見ていいのか、それとも単にあの正義の味方を目指すと誓ったあの少年時代より己が成長していない証明と見るべきか。悩む私が複雑な思いをため息に込めて白い吐息を空気に撒き散らした時、私の靴先は地面の微かな段差を叩き、私が目的の場所にたどり着いた事を教えてくれた。

 

―――まぁ、今考えるべきことではないか

 

一旦全ての悩みを放棄して、賑わい見せる金鹿の酒場と真反対の場所にある、静かな執政院ラーダへと足を踏み入れる。暗がりの廊下を進んで受付にたどり着くと、背負った素材と地図を事務員に差し出して番人討伐の報告を行う。

 

「一層を攻略した。手続きを頼む」

 

いうと、受付は一度首を傾げてぽかんと口を開けて間抜けな面を晒したかと思うと、

 

「えっ、と、すみません、もう一度仰って頂いてもよろしいでしょうか? 」

 

と問うてきたので、

 

「新迷宮の一層を攻略した。五階まで到達し、番人を討伐して帰還した。これがその証、番人から剥ぎ取った素材と、そこまでの地図だ」

 

言って諸々を差し出すと、受付はその素材を受け取り、確認し、そして、素材を見て魂を引っこ抜かれたかのように呆然としたかと思うと、地図を広げて眺めた。そして彼は、少々お待ちください、と言って、素材も地図もなにもかもを受付の机に投げ出したまま、髪を振り乱す勢いで執政院の奥へと消えていった。

 

しばらくそのまま受付の机に体を預けていると、受付の彼は消えた時と同じように駆け足で戻ってくると、額に汗を滲ませ、肩で息をしながら告げた。

 

「す、すみません! 今、担当のクーマ様が別の場所へと出向いておりまして、その、正確な手続きの方法がわかりません! と、と、ともかく、地図の正確さと番人を討伐したという事が事実であるか、今すぐ調査隊を組んで確認に向かわせますので、少々日数を頂いてもよろしいでしょうか? 」

 

なにもわからないという事を馬鹿正直に伝えなくともいいだろうに、と私は律儀さに苦笑しながら了承する。肩をすくめて手をひらひら振って見せると、

 

「了解した。では、インの宿屋という場所に逗留しているので、何かあったらそこまで連絡をよろしく頼む」

 

伝えると彼は、ひどく恐縮した態度で何度も頭を下げながら、剥ぎ取ってきた素材の一部を回収して預かり証を取り出すと、更に残りの素材の部分にも保証の紙をひっつけ、受付の予約票と共にこちらへと差し出してきた。未知だろう物を、鑑定もしていないのに保証していいのか、と聞くと、こんなくだらない嘘つく人に見えません、と断言された。

 

その甘さと人を見る目があることを好ましく思いながら、私はそれを回収すると、ラーダを訪れた時のように投影した防水加工済みのポリエステル布に素材をしまい込む。

 

すみません、すみません、と水飲み鳥のようにいう彼に、「別に君に謝って貰う必要はないよ」と一度告げると、私は物を持ったまま執政院を出て広場を通り抜け、賑わいの中を逆走してヘイの道具屋へと向かった。

 

 

夜も更けてきたころ、一面に黒の滑らかを保つ月夜へ雲が混じり、カーペットを侵食するかの如く光量の減った曇天へと変貌する中、迷宮より帰還した冒険者たちが広場に向かうのを尻目に、私は彼らが向かう方向と逆の方へと足を進めていた。昼間のドタバタとした騒乱が家族と過ごす団欒に変化する頃、夕餉の暖かさが窓より漏れる住宅街の幸福を邪魔しないよう、家々より溢れる光を避けながらヘイの道具屋へやってきた。

 

扉を開けると、涼やかな鈴の音が静寂に鳴り響く。音が鳴り終わらぬうちに木台の所まで進み素材を机に下ろして待っていると、すぐさま二階よりドタバタと音がして、見覚えのある熊のような男が現れる。彼は昼間の小汚い格好が嘘のように、柔らかなシルクの寝巻きに身を包んで、ポンポンのついた毛糸のニット帽を被っている。

 

「やぁ、すまないね、こんな格好で」

「いや、気にしないでくれ。こんな時間に訪ねた私の方が無作法だった」

 

非礼を詫びて頭をぺこりと下げると、彼は小さい声で大振りに笑ってみせて、言った。

 

「いやいやいや、冒険者っていうのは、それくらいでちょうどいいのさ。相手の都合をいちいち気にしていちゃ、命の切った張ったをするには頼りないからな」

「……そんなものか? 」

「そんなものだよ」

 

私はヘイのよくわからない理屈に首を傾げながらも、一応納得の返事を返した。すると、彼は私の不理解を笑うようにもう一度体を大きく揺らすと、木台の前までやってきて、私の対面に上半身を預けた。

 

「それで、どうした。こんな時間に」

「いや、なに、迷宮から帰ってきたので、つい、物を売りにきてしまったのさ」

 

いって素材の袋を前に差し出す。その差し出された黒い布袋の大きさにヘイはまず驚きながら、受け取っていう。

 

「おいおい、随分とまた大荷物だな。しかもこんな厳重に縛って……、ああん? なんだ、これ、随分とツルツルしてやがるな」

「ああ、まぁ、毒を使う蛇から剥ぎ取ったものだったからな。なにが飛び出すかわからんし、一応防水性の布に包んできたのさ」

「おいおい、まさか毒とか残っているってことはないだろうな」

 

言いながら彼は寝巻きの上に汚いエプロンを引っ掛けながら聞いてくる。

 

「さて、それを調べるのも、買取を行う君の仕事だろう? 」

「簡単にいってくれる 」

 

ヘイは苦笑いをしながら、しかし毒の事など気にもとめない態度で、おくびも出さずに袋の結び目を解く。やがて四つ結びの布が開かれた時、中から現れた物を見て彼はまさに、魂消た、という表現がふさわしいくらい、目を見開き、大きく口を開けて仰け反り、そして今度は見開いた瞼のまま品に顔を近づけると、口を強く結び、覗き込んだ。

 

彼はそうして現れた物品に、魂を奪われたまま動かない。そうしてじっと品を眺める彼の様子をしばらくは面白く眺めていたが、流石に三分としないうちに飽きたので、木台を叩いて彼の意識を引こうと試みる。

 

そうして何度か木台を軽く叩いて見てもヘイは一向に反応をしないので、多少強く木台を叩みてみせると、衝撃で木台の上に置かれたその品が崩れそうになるのを見てようやく奪われていたモノを取り返したのか、彼は慌てふためいて、崩れそうになる物品を抱きとめて、その崩壊を防いだ。訂正。未だに彼の意識は物品に取られたままのようだ。

 

「……お楽しみのところ悪いんだが、査定をお願いしたいんだがね」

 

いってのけると、彼は言葉もなく首を何度も上下に頷かせて、差し出したもの―――重ねられた紫の蛇鱗と白の柔肌が崩れないように丁寧に置き直すと、奥へと引っ込んで手帳を持ってきた。掌に収まる小さな紙束の表を一枚めくると、彼はそれをこちらへ差し出して言う。

 

「これが俺に出せる全てだ。好きな額、書き込め」

「……、正気か?」

 

差し出されたそれは、いわゆる小切手帳というやつだった。サラリとした上質な紙の、その表面の端と中央部分に、それぞれ店の名前と印、執政院の判が刻まれたそれは、おそらく本物で、院の方に差し出せばすぐにでも効力を発揮するだろうものである事が読み取れる。

 

「君、例えば私がこれに、零を二桁三桁の数をも書き込んだら、どうするつもりだ? 」

 

眉をひそめて忠告すると、彼は、その夢見心地な顔の中に真剣さを伴った顔で言う。

 

「構わん。これにはそれだけの価値がある。俺ぁこのエトリアで長いこと道具屋をやっているが、ここまで美しいものは見たことねぇ。シリカに飾られている三竜の一部だって、その加工品見た時だって、ここまで綺麗と思ったことはなかった。……、俺にはとてもじゃないが、これに値をつける事なんて無礼を働く事が出来ねぇ。悪いが、エミヤ。俺としてはこれをぜひ買い取りたいとは思うが、俺が感じたこの感動に俺は値をつけることはできねぇ。道具屋としちゃ失格だが、客観的な判断、ってやつが今の俺にはできそうにない。だから、エミヤ。悪いが、お前が値を決めてくれ」

 

ヘイは小切手帳をこちらに差し出したまま、その手で大事そうに鱗と皮の入った袋を胸に抱え込んでいる。美しいと思うのは確かだが、このような品に白紙の小切手を切るなど私からすればなんとも馬鹿げた取引に思えるし無茶苦茶をいうと思ったが、ここで小切手帳をそのままつき返して鱗と皮膚を無理に取り上げようとすれば、彼が必死の抵抗を見せそうな雰囲気を醸し出しているのを見て、もう何を言っても無駄だろうなと悟った。

 

私はしばらくの間。小切手帳の表面を見ながら逡巡していたが、覚悟を決め、手を伸ばして、金額を書き込み、そして彼の方へと押し返した。ヘイは自分の方へと戻ってきた小切手帳を恐る恐る受け取ると、その表側に書かれた金額を見て愕然とする。

 

「おい、おい、エミヤ。この、一万イェンってのは、どういう冗談だ? 」

 

彼の目には怒りがあった。それは金額があまりに高価であったからでなく、自分が魂を奪われたものが、エミヤにとってはたったそれだけの価値しかないと告げられたが故の憤怒だ。

 

私は彼のその激情を真正面から受けとめると、返しながら答える。

 

「カルテルとやらで一度の取引でそれ以上の価格での買取はできないのだろう? なら、それ以上の金額を書き込んだところで、なんの意味もなかろうよ。君のその燃え上がる気持ちを否定する気も、馬鹿にするつもりもないが、意味のない紙切れを貰っても喜べんし、何より、私の手で誰かの生涯を破滅に追いやるなんて苦痛、もう真っ平御免でね」

 

冷静に、そして冷徹の視線で彼の向けてくる熱情を迎撃して見せると、相反するエネルギーの衝突に打ち勝った私の怜悧な意見は彼の煮沸した脳髄を冷ましてくれたようで、彼は熱が冷めたように、抱きかかえていたものを手放すと、それをこちらへと押し返して言った。

 

「すまん、興奮した」

「ん……、ま、そう言うこともあるだろうさ」

 

言うと彼はボリボリと頭を描いて、長く大きなため息をついた。暗い店内を照らすランプの橙が、彼の中で燻って残っていた熱を表すかのように彼の吐息に赤い着色を行う。

 

やがてしばらくの間、目を瞑って静かに側頭部を指で叩いていたヘイは、なにかを決心したらしく、一つ頷いて見せると、出戻った小切手帳を開くと、パラパラとめくってサラサラと書き込み、こちらへと再び差し出した。見ろと言わんばかりに差し出されたそれを手にとって中を開くと、全てのページに一万の値が小切手の価値を決定する記号と共に書きこまれている。普通より分厚い小切手帳の残り枚数から察するに、総額約百万イェン程度にはなるだろうか。

 

「……これは? 」

「エミヤ。お前の言う通りだ。たしかに冒険者が一回探索して持って帰ってきた品を、一つの道具屋が買取出来る額の限界は、一万イェンまでだ。一回につき一万イェン。それ以上になりそうな場合は、組合に相談するか、他の道具屋にお前の持ち込んだものを回してやらにゃならねぇ。組合のお陰で長く道具屋をやってこれた俺が、組合がそうと決めた法律を破るわけにはいかねぇが、だが、俺はそれを律儀に守ってこれを他のやつに渡したいとは思わないし、たったそれだけの値段でこれを買い取りたいとも思えねぇ」

「……」

 

彼の目は真剣だ。瞳にこもった熱の視線を羨ましく思いながら、私は続きを聞く。

 

「だから、こうしてくれねぇか。俺はお前が持ってきたこれを、まず一万で鱗一枚か皮一枚だけを買い取る。それ以外はまだお前のもんだ。でも残りは俺が預らせてもらう。そして、お前が来るたびに、一部ずつ買い取らせてもらうんだ。お前は渋って、一回の迷宮に潜るごとに、少しずつしか売り払おうとしない。俺は、それをいちいち律儀に一万ずつだけ買い取るんだ。来るたびにその小切手を使って払ってやる。そうすりゃいつかは全部を買い取ることが出来るって寸法だ」

 

どうやら彼は鱗と皮に、暫定的ながら一つ一万イェンの価値をつけたらしい。とすればこの鱗と皮の群は大体日本円にして総額三千〜四千万程度になるのだろうか。先ほどの彼の態度からすれば、随分控えめな額である気がするが、それでも一般的には結構な大金だ。

 

「……、別に構わんが、鱗と皮と合わせても、三十枚程度しかないぞ。一つあたり一万で買い取るとしても、だいぶ小切手の枚数が多い計算になるが」

「それ以外はお前に面倒を押し付けるのと、悪者にしちまう手数料だ。好きに使ってくれて構わん。大体それで当座にある額全部くらいだ」

 

要は全財産差し出すから売ってくれ、と言うことか。私は書き込まれた小切手を見て、次にその手を引っ込めようとしない彼の態度を見て、ゆっくりと一度大きく息を吸って吐くと、それを受け取って、一枚だけを破り、残りを返した。

 

「了解した。ではそれで取引成立としよう。残りはその鱗と皮と一緒に預かっておいてくれ」

 

言うと彼は、顔を一気に輝かせて、品を抱き寄せ、ついでのように小切手帳を引き戻した。

 

「ああ、わかった。ありがとうよ! 」

「まぁ、取引をやめたくなったらいつでも言ってくれ。中断はいつでも受け付ける」

 

言うと、「そんなこたぁしねぇよ! 」と大きな声で、彼は叫んだ。その熱にうなされた真剣さをなんとも微笑ましく思いながら、私は素材の証明書を置いて店外に出ようと、踵を返す。彼はその証明書が差し出されたのを見て、思い出したかのように聞いてきた。

 

「そうだ、聞き忘れてた。エミヤ、お前、これ、一体どこで手に入れたんだ? 」

 

ヘイが今更すぎる質問をしてきたのを可笑しく思った私は、失笑を漏らしながらも彼の問いに答える。

 

「なに、一層の番人を倒した際にだよ」

 

言うと新たな情報を得て静まり返った店内より退出して扉を出る。やがて店から素っ頓狂な叫び声が聞こえた頃、住宅街は私と彼、各々の非常識さを咎めるかのようにざわつきを取り戻していた。

 

 

番人を倒した翌日のことだ。昨日の苦労の出来事を反省しながらベッドの上で精神の疲れを癒していると、常より大きな人のざわめきが窓の外より聞こえてきた。私がなんだろうと窓下を覗き込むと、まるで砂糖に群がる蟻のように、インの宿の入り口に群がる冒険者たちの姿を見て、思わず閉口した。

 

雑多な格好をした彼らは律儀に宿の入り口に待ち構えて、なにかを待っている。やがてその異様な光景が果たしてなにによって引き起こされたものなのかを考えようとした時、部屋の反対側からノックの音がざわめきを割いて聞こえてきた。

 

「やぁ、エミヤさん。ちょっといいかい」

 

扉を開けると、そこには女将が疲れた顔で立っていた。その疲労の様子を見て、私は驚きながらも、私は頷き、肯定の返事を返す。

 

「もちろんだ。……どうしたのかね? 」

「や、昨日、あんた、番人を一人で倒したって、本当かい? 」

 

女将の質問に私は素直に頷く。すると、彼女は疲労のこもったため息を吐いて、私の方に分厚い紙束を差し出してきた。

 

「これは……?」

「見りゃわかるだろう。あんたへの勧誘状/依願状/恋文だよ」

 

無言で封を開けて中身を取り出して、全ての手紙を広げる。所狭しに並ぶ美辞麗句の文言に目が滑り、その性質が移ったかのようにいくつかの紙がひらひらと地面に滑り落ちた。落ちたものを多少乱雑に拾い上げ、眺めてほとんど同じような内容が書かれている事を確認すると、それは十分な効力を発揮して、私の全快まで回復しかけていた気力を減衰させてゆく。

 

階下の光景を想像してため息一つ。

 

―――ああ、ならばあそこの窓下で群れている彼らは、私を勧誘しようとしている冒険者たちと、番人から剥ぎ取った素材を買い取りたいと言う商人の群れということか

 

額に手をやって大きくため息を吐くと、女将が見かねて肩を叩いてくれた。多分に憐憫の情を含むそれが、今はとても有難い。

 

いやしかし、宝くじの一等にでも当たったかのような状況だ。あれの当選者も、そのお零れに預かろうとする輩が集まって来るらしいが、まさにそんな気分。加えて言うなら、多分、彼らはそんな貧者のような思想を持っていないで、なんというか、純粋な好意と好奇心しか持っていないらしいことが渡された手紙から読み取れる分、余計タチが悪いと感じた。善意の申し出と言うものは、かくも非常に、断るのを考えると心苦しくなるものなのである。

 

しかし、悪いとは思うが、これら全ての手紙にいちいち応対していてはキリがない。この手の輩は、「私は誰からの勧誘も受けない、売る気は無い」と、きちんと言ってやったところで、その情熱が平熱に冷めるまでの間、行為をやめようとはしないだろう。いやむしろ、丁寧に応対するほど、強く言い寄ってくる可能性すらある。

 

私の勧誘が不可能であると言う一発で周知させる手段があれば解決が望めるのだが、さて、どうしたものだろうか。

 

「ごめんくださーい」

 

策を練るべく首を捻ろうとした間にも、冒険者の声が受付から聞こえてきた。痺れを切らした誰かが突撃してきたのだ。蟻の穴から包みも崩れる。そんな嫌な予感がする。女将と顔を見合わせると私と等しく、苦笑いを浮かべていた。おそらく、同じ予測をしたのだ。気は進まないが、これ以上彼女に迷惑をかけるわけにもいくまい。

 

「迷惑をかけてすまない。あとは私が」

「待ちな。受付にはあたしがいく。あんたはあっちから出て行きな」

 

彼女は指でゴミ捨ての出入り口を示しながらいう。逃してくれるというのか。

 

「しかし、それでは貴女に迷惑が」

「ええとも、鐘がなってからずっと、もうずっと、迷惑かけられ通しでしたわよ。今後も続くのはごめんだね。あんただってそうだろう? ―――だから、今日中になんとかしておくれ。今日一日位なら、我慢するからさ」

「―――感謝する」

 

受付に向かう女将に頭を下げて、扉を開けて、裏路地に出る。流石に誰かを勧誘するのに、商品を買い取るのに、ゴミにまみれた場所で待機しようと考える輩はいなかったようで、すえた腐敗臭が漂う場所は静けさを保っていた。私は袋を投影すると赤い外套を脱いで袋に叩き込み、麻のフードを投影して頭を覆った。

 

油で立たせていた髪を寝かせて、いつもと違う、少しばかり着心地の悪い、一般の冒険者が羽織るマントを引っ掛けると、体全体を覆って、裏路地から裏道を辿り、人気の無い場所を、それでもさらに気配を消して進む。

 

―――まずは目立たぬ場所に行こう。静かで、人気がなく、静けさの支配する場所がいい。加えて、この事態を収集する方法を知り得ていて、なおかつ、口の軽くなさそうな人物といえば……

 

「クーマか、ヘイだな……」

 

ならばまずはクーマの元を訪ねてみよう。もしかしたら昨日の報告の結果を受け取れるかもしれないし、執政院の職員である彼ならば、名案をくれるかもしれない。期待を抱いて、人目を避けて裏路地を歩く。たまに誰かとすれ違うたび、後ろを向いて確認してしまう。一度疑心を抱いてしまうと誰も彼も勧誘をしてくる輩に見えるから、タチが悪い。

 

そうして遁走するかの様に街の中央へ向かうと、人気ない場所を選んでいる筈なのに人通りがそれなりにある事に気がつく。ざわめきは中心に向かうにつれて大きくなり、それと共に一層、人波が多くなってゆく。しかも都合の悪いことに、増えているのは冒険者ばかりだ。

 

さては街の中心で冒険者の催し物でもある日なのだろうか。だとしたらその場所を避けた方が良い。そう思って私は、街の人間に質問する事にした。一秒でも時間が惜しいこの際、多少のリスクは承知の上だ。

 

「すまない、ちょっといいだろうか」

 

冒険者でなさそうな人を選んで、声をかける。

 

「はい、なんでしょうか」

「今日はいつもより人混みが多いように見受けられるが、何かあったのだろうか?」

「ああ、それがですね。今朝方、新迷宮の番人討伐の報が広まりまして、冒険者の皆さんが我先に探索の予約を行おうと、ラーダに押しかけているらしいのです」

「……そうか、いや、ありがとう」

「どういたしまして」

 

なんとか笑顔を浮かべて礼を言うと、街人はにこやかに去ってゆく。彼が立ち去ったのを見届けた私は、もはや何度目になるかわからないため息を吐いて、己の状況を省みた。さて、困った。己の所業のせいとはいえ、冒険者がラーダに殺到しているのでは、クーマの元を訪ねるわけにはいかない。自意識過剰な気もするが、無用な混乱を避けるためだ。仕方がない。

 

―――やはりヘイの元へ向かうか。

 

政務官でなく道具屋とはいえ、長くこのエトリアに在住している分、少なくとも私よりは、エトリアの事情に精通しているはず。ならばこの馬鹿げた事態の収拾のさせ方を知っているかもしれない。打算的なことを思うのなら、昨日、借りを作った彼ならきっとなんとかしてくれるだろうと言う思いもある。

 

そんな期待を胸に、踵を返して、街の郊外へと向かう。ヘイの店は街の中心よりすこし外れた閑静な住宅地の中に建っている。彼の店に向かうにつれて、人波は少なくなって行く。それは噂の渦中の人物となってしまった、今の自分にとって都合が良かった。

 

 

「――――――」

 

人目を忍んで木目扉をそっと開けると、小さく鈴の音が鳴る。鈴の音すら今の自分の存在を見張っているようで、少しばかり焦りながら扉を閉じてやると、雑多に物の並ぶ棚を突っ切ってカウンターまで進む。鈴の音に反応したのか、すぐにヘイが奥より現れる。

 

「いらっしゃ―――、やぁ、いらっしゃい、エミヤ! 」

 

商売用の顔を、親しい知人用のそれへと変えて、愛想よくヘイは語りかけてきた。

 

「すっかり有名人だな。街中、お前が番人を討伐したっていう噂で盛り上がりだ」

「迷惑極まりないがな。見ろ」

 

捨てると祟られそうで抱えてきてしまっていた紙束をカウンターに広げる。買取依頼かな、と冗談を口にしながら手紙に目を通したヘイは、書かれていた内容を見て途端に口をすぼめて閉口すると、苦虫を潰したような顔を向けてきた。ああ、その気持ち、よくわかるとも。

 

「なぁ、これ全部か?」

「ああ。全く、我ながら大した人気者だよ。―――ああ、買取してくれるのだったか。大歓迎だとも。ついでに事態も収拾して貰えるなら、特別に熨斗と礼状だって付けてやろう」

「いらんいらん、持ち帰れ」

「そう言うな。一回の訪問につき、一万で買い取ってくれるのだろう? 」

「馬鹿いえ、あれはお前が迷宮に潜った後の一回だけだ」

「なに、遠慮することはない。今ならただで売り払う。いや、なんなら、処分代として預けてある小切手帳を破ってもらってもいい。それごと、そこにある炉にでも突っ込んでくれれば手間はない。全ては炎の中に消えてくれる」

「冗談、やるなら炉を貸すから自分で勝手にやってくれよ。情までこもってそうな紙束、燃やして念に祟られちゃたまらん」

「了解した。ではありがたく」

 

許可が出たので乱雑に紙束をまとめると、迷わず炉に突っ込む。火をかけると、情念と無遠慮と美辞麗句の混じった嘆願書がパチパチと音を立てながら灰になってゆく。いや、スッキリした。やはりこの手の念のこもっていそうな手紙は燃やすに限る。

 

満足に頷いて、振り返ってヘイの方を見てやると、本当にやると思っていなかったのだろう、唖然としたヘイの様子が小気味良い。少しばかり鬱屈としていた気が晴れた気分だ。

 

「さて、ヘイ。相談があるのだが、いいだろうか」

 

努めて爽やかに見えるよう振る舞う。あれはあれ。それはそれ。だから気にするなという意思表示は、果たして功を奏したらしく、ヘイは硬い表情ながらも、笑みを浮かべてくれる。

 

「はいはい、なんでございましょうか」

「すまないが、今なような事情があるから、これをなんとかしたい。まともに応対すれば引くものの、数が数だけにやってられん。宿の女将も悲鳴を上げている。まるで蝗害だよ」

「なんだぁ、蝗害って」

「しらんのか。虫……特にバッタだな。腹を空かせた奴らが空一面大地一帯を覆い尽くすほど発生して、餌を求めて大移動を行う。口に入るならなんでも齧って行くものだから、後にはぺんぺん草一つ生えない惨状になる」

 

生前、幾度か何度か目にしたおぞましい光景を思い出して、一人背筋に寒気を走らせる。飢餓の感情以外を持たない無機質な複眼と、身体の全てを移動のために特化させた肉体は、石のように固く、どう行った意味でも煮ても焼いても食えない奴となるのだ、

 

「へぇ。エトリアの外では恐ろしい事が起こるねぇ。ま、言わんとすることはわかったよ。要はひっきりなしに来る勧誘だのに関する一切合切をなんとかすればいいんだろう?」

「……出来るのか? 」

 

我ながら割と難題をふっかけたと思っていたのだが、ヘイは当然、と言わんばかりに胸を張りながら答える。

 

「もちろん。……いや、実際、似たような事態はよく起こるもんでなぁ。番人討伐の直後、勧誘だのに対策を取っていない奴はよくこんな事態を引き起こすのさ。ここまで熱烈なやつは初めて見たけどな」

 

言いながら、カウンターから一枚の書類を取り出してこちらへと差し出す。受け取り、表題を眺めると、嘆願書という題だけが大きく記されている。ほとんど白紙のそれを上から下まで一瞥、ピラピラとした紙を綺麗にたてながら聞く。

 

「それで、いったいこの嘆願書をどうして、何処に提出すれば良いのかね? 」

「嘆願の表題に、「一切の勧誘お断りの、御触れ施行依頼書」と書いてラーダに提出する。そうさなぁ、お前さんが番人を倒した事実を知る職員に直接渡してやれば、次の朝、鐘のなる前にはベルダの広場に「エミヤへの勧誘の一切を禁ずる」って御触れが出て解決してらぁ」

 

公的機関が個人のために保護令を打ち出して周知してくれるのか。いや、ありがたいが、しかし、その方法を行うには問題がある。

 

「それで、どうやってその「事実を知る職員」とやらに渡せば良いのかね? まさか広場に群がる冒険者の中を突っ切って行けというのではあるまいな。飢えた獣の群れに進んで身を投げ入れたいと思うほどの酔狂さは持ち合わせていないぞ、私は」

 

すると、大方の予想通り、ヘイは握りこぶしの親指だけをピコピコと動かして己を指し示した。得意げにしゃくりあげた顎の上に乗る唇は、いかにも意味ありげな笑みを浮かべている。まぁ、つまりそういう事なのだろう。

 

「はぁ……わかったよ、君に頼もう」

「よっしゃ、任せとけ。いや、確実に届けさせてもらいまさぁな。―――所で届ける際に誰か指定はあるかい? 親しいのがいるならそいつに渡してもいいし、なけりゃ、話の通りやすそうなクーマに届けておくが」

 

クーマ……、ああ、執政院の冒険者担当の職員の彼か。

 

「いや、その彼で構わないよ。職務に誠実そうであったしな」

「あいよ、了解」

 

顔も見えない誰かに頼むくらいなら、多少は知っている人物に渡してもらえた方が安心する。そもそもラーダに知り合いなどいないのだから、選択肢などあってないようなものだが。

 

「それで幾らだ」

 

ヘイがヒラヒラと舞わせていた嘆願書を掠め取ると、要項を記入しながら尋ねる。価格の決定をしないうちから書類に記載を始めるなど、愚か者のやる事であろうが、彼は労働の値を無闇矢鱈に吊り上げないだろうという確信があった。小切手を差し出しても受け取らないだろうから、そのことは始めから口にしない。

 

「ああ、今回代金はいらねぇ。そのかわり、ちっとばかし頼みを聞いてほしい」

 

ヘイはひらひらと手を振りながら、バツが悪そうに言う。只より高い物はないというし、少しばかり眉をひそめながら尋ねる。

 

「何だろうか。あまり無茶な事だと承諾しかねるが」

「ちょっとばかし、あってやってほしい奴らがいる。いや、この前お前さんが依頼を出した、ギルド「異邦人」の奴等なんだがね。奴さん達、新迷宮を一人で攻略したお前のことが気になっているようでさ。一度時間をとって、自慢話でも聞かせてやってくれないか」

 

少し迷った。私が冒険者たちに集られ辟易している状況を知っていて、その対策を頼まれながら、それでもヘイが頼むのだから、その「異邦人」というギルドの連中は、彼にとって特別なのだろう。

 

そうまでしての頼み事や、他者との交わりを拒もうと思えるほど無粋なつもりはないが、誰かと交流を行ってこちらの情報―――特に魔術関連の事情が漏れてしまうのも、困る。相手は新迷宮での出来事を聞きたいらしいし、そこに突っ込まれるとまずい。スキルのことに詳しくない私では、どこまで誤魔化しが効くかわからん。

 

下手を打てば魔術について開示せざるを得なくなるだろう。私としては、ブレーキのない車に等しい技術の存在を明かしたくはないし、スキルというものが使えないこの身にとって生命線となる魔術の存在を明かしたくはない思いもある。

 

いつかは露呈する事なのかもしれないが、いまはまだその時ではない。正義の味方になれるその時まで―――などと贅沢を言う気は無いが、いや、せめて、赤死病とやらの解明が済んでからであってほしい。それならば、果てに何があっても……、胸を張って彼女と彼と養父に会いに行けると言うものだ。

 

「あー、無理にとは言わないぜ。今すぐ、とは言うつもりもない。お前さんにも都合ってもんがあるだろうし、あいつらの返事も聞かなきゃならん。いやってんなら、そうだな、この依頼は、メディカ三個分の代金で引き受けるぞ」

 

考え事までは察していないのだろうが、拒絶を含む心情を察したのか、ヘイは折衷案のようなものを提案する。メディカ三個というと、六十イェン位……。

 

―――うん?

 

「ヘイ。君、その言い方だと、相手側の依頼あってのものでないように聞こえるが」

「そうだよ。こりゃ俺の独断だ」

 

あっさりと肯定。素直に疑問を抱いた。

 

「なぜ、わざわざそんな事を? 」

「なぜって、別に深い理由はねぇよ。そうだな、誰かに興味ある奴がいて、それが俺の知り合いだってんなら、引き合わせてやりたいと思うってだけのことだ。それ以上はないさ」

「――――――そうか」

 

なるほど、彼という人間の事を少し理解する。彼は、良いと思う事を、良いと思って人に提案する人間なのだ。押し付けるではなく、どうでしょうか、と提案する。それはやった結果に同意が得られないと気が挫けてゆく、簡単に見えて案外難しい事だ。

 

機会の提案を自然にできる彼はなるほど、根っからの商売上手であり、しかし商売に向かない、欲しい物を欲しいと言える気概を備えた人間なのだ。さて、どうしたものか。提案が彼の善意からのものと知ってしまった以上、人となりを知り、色々と骨を折ってくれる相手の要望を無碍に断るのは、少し心心苦しい。とはいえ下手に同意するのも気がひける。

 

「―――その彼らというのが、こちらの出す条件をクリアしているのであれば、構わない」

 

ふと思い付きそんなことを言うと、ヘイは目を輝かせた。上から目線の物言いだが、彼は気にした様子もなく、期待を込めた様子で次の言葉を待っている。いや、他人は己の心を写す鏡とは言うが、なるほど、その通りだ。無邪気さを前にすると、己がいかに邪に塗れているかを痛感させられる。

 

「おうよ、どんなだ。言ってみ、言ってみ」

「彼らが―――君の言う私に合わせたいと言う連中が、私と同じだけの実力がある、と君の目に叶うのであれば、会おう。ないのであれば、悪いが諦めてくれ」

「あー……なるほど。そうきたか」

 

我ながら無茶な条件を突きつけたものだと思う。スキルという技術があろうと、所詮、人間は人間。仮にも元英霊であるこの身と比肩する存在などいる筈がない。

 

英霊という存在と人を比べるというのは、どうすれば竹やりで戦闘機というはるか上空を音速以上で飛び回る暴力に対して立ち向かえるか、と問うに等しい愚問だ。大抵の武器は上空を飛び回る戦闘機に当てる事ができないし、仮に英霊を仕留めうる武器を持っていたとしても、反応を見せる前に処理する事ができる。

 

人間と英霊の間にはそれ程までに隔絶した差が存在する。等しい戦力を保有する人間などそういるはずがない。―――万が一の例外が身内や知り合いにいたので、断言はできないが。

 

「ああ。出会いは有意義である方が好ましい。そして私にとって好ましい出会いとは、私と同程度の実力を持つものとの会合だ。どうも残念なことに、私の実力を知って寄ってくる輩は、私の力を利用しようとする有象無象である事が多いのでな。例えばあんな風に」

 

そうして炉を指し示すと、言外の態度にも否定の意が強く出ていたのか、ヘイは少し憐れんだような顔をする。不信を露わにしている私の言動を悲しく感じている、と、そんな表情だ。少しばかり良心が痛むが、情けをかけて今後の活動に支障をきたすわけにはいかない。

 

「だから、ヘイ。もし君が私を彼らと引き合わせたいのであれば、彼らが、私を利用しようとするだけの輩でない存在であると言う事を証明してほしい。元々、今回の嘆願書もそう言った彼らを寄せないようにする為に、提出するのだから」

「―――わかった。それでいいよ。……残念。しばらくはお預けかぁ」

 

言い切ると、未練タラタラであるが、一応の納得をしてくれた。同時に、私の価値に高額の札が貼られている事がわかり、悪くない気分を味う。自惚れも少しくらいならいいだろう。

 

「では頼む」

 

記入し終えた紙ペラを渡すと、受け取り了承の意を見せる。記入漏れがないかチェックをしながら、ヘイは思い出したかのように言った。

 

「そういえば、おまえ、明日までどうする予定なんだ? 宿には戻れないんだろう? 」

 

ああ、そうだった。さて、どうしたものか。御触れが出るまで街中にいるのは避けたいし、道具屋と宿を除いたとしても、冒険者が集う場所しか知らぬ。

 

「君のところで匿ってくれたりは―――」

「悪いな、一応、特定の冒険者を選んで肩入れはしない主義だ。預かるのは、他人様の道具と素材と依頼書だけってね。人を匿うのは、道具屋の理念に反する」

 

半ば予感していたとはいえ、あっさり断られてしまった。わかりやすいその性格は嫌いでないが、さて、何も問題は解決していない。ヘイは書類を確認しながらいう。

 

「行く当てがないなら、迷宮にでも行ったらどうだ? 番人討伐者であればどんな冒険者よりも優先的に入れてくれる。迷宮に入れるのは一時間おきだし、それだけあればお前さんなら、身を隠せるだろ」

「魔物の群れる場所を休息の場所に推奨するなど、正気か? 街中は論外として、野晒しでも郊外で時間を潰すほうがまだ安全な気がするが」

「ああ、郊外もやめといた方がいい。この辺の夜は水が氷になるくらいに冷え込む。夜に外で暖をとると、人が寄ってくるし、森での火起こしは禁止されている。かと言って、夜に寒さを避けて街に入ろうとすると、門のところで騒ぎになるだろう。ラーダに集まっている今ならまだしも、今夜から明け方にかけての門付近は特にお前を探す冒険者で溢れるはず。ならいっそ、迷宮の中で一夜を明かした方がマシだと思ったのさ。気は抜けないかもしれないが、あそこは不思議と温度が一定だからな」

 

なるほど―――、いや、魔物の群れが存在する場所で休憩を取れという意見には驚いたが、聞いてみれば、まぁ、納得のいく理由だ。そして彼のセリフに、今更ながらこのエトリアと言う場所の高度が、かつての地上世界より高い場所にあることを思い出す。

 

どの程度上空なのかは知らないが、ともあれ天空にある街の外で一晩を過ごすなどと言うのは、高山でテントも貼らずにビバークするに等しい愚行か。そんな自殺行為を試みるなら、同じ気を張るなら、出会い頭に処分のできる魔物相手の方が、まだ、気を揉む必要がない。

 

「意見、ありがたく参考にさせてもらおう」

「ん、行くなら今すぐがいいだろう。―――ほれ、糸と食料を持ってきな。冒険者と衛兵がラーダに殺到している今なら、門で鉢合わせずにすむはずだ」

「そうしよう」

 

ちゃっかりと買い物をすすめる彼の商人根性に失笑のまじった返事をする。言われた通りのものを揃えてもらうと、バッグに保管していた麻袋より硬貨を適当に差し出した。カウンターに置いたそれらを数えて、ヘイは文句を言う。

 

「おい、お前、出し過ぎだ。これじゃ五百と六十イェンも多い」

「チップ。まぁ、情報料だ。色々と助言も貰った事だしな」

「いらん。労働は別として、形の無いものに値をつけるのは好きじゃない」

 

告げるが、己の仕事と、自らが定めた額をキチンと受け取ることに対して誇りを持っているらしく、彼は頑として受け取ろうとはしなかった。高く評価されれば嬉しいものだと思うが、出された額が多いことに文句をつけるとは大したものだ。

 

「というか、あれだろ。六十ってのは、明らかにお前、あいつらと会わないことを前提の料金だろ。それがもっと気に食わん」

 

我を通して言い切る彼はいかにも不満げだった、昨夜も思ったが、自分の欲を優先して商売を後回しにするあたり、なるほど、やはり彼は小売向きの性格をしていない。

 

「そうだな……なら、こうしよう。労働には正当な対価が必要だ。多い分は今のところ、嘆願書の提出代金と思ってほしい。もし君の願いが叶って、彼らと私の対面が果たされて、今渡したそれが正当な対価で無くなったのなら、そうだな―――その時は私たちにオススメの酒でも一杯奢ってくれ。それでチャラとしよう」

「―――面白い。ならその時まで、これは預かっておこう」

 

打って変わって気をよくすると、ヘイは代金を桶の中に納める。コロコロと表情を変える彼の様子を面白く眺めながら、私はインの宿屋へ言付けをしてくれるようついでに頼んで、踵を返して外へと出た。中心より離れた街の中は、未だに静けさを保ったままである。私はその静寂を乱さないよう、そっと忍び足を保つと、街の出入りを管理する門の方へと向かう。

 

そうして身を隠しながら門を抜けて世界樹の迷宮へ向かっていると、私はいつのまにか、昨日まで抱いていた、胸を焦がす不安がなくなっている事に気がついた。忙しい日々悪夢を見なかったせいだろうか。天にまで届く程に騒がしい街の様子は、一時の間、自己嫌悪を忘れさせてくれる効力を発揮していたのだ。

 

悪夢を忘れる不安を忘れてしまった事実に、新たな不安と晴れやかなさが混じった混沌の気分を抱きながら、私は昨日と帰還したばかりの新迷宮へと向かう。透き通った青空では、積み重なった雲が乱雑に散らされながら、稜線の端の方へと呑気に流れていった。

 

世界樹の迷宮 ~長い凪の終わりに~

 

第五話 降りる帳、されど幕間の日常は狂乱に満ちて

 

終了

 




今更ですが、世界樹側の設定は本当結構いじくっています。

世界樹の迷宮一から四までの設定を、世界樹TRPGのシナリオブックスを参照して、作りなおす感覚で構築しなおしているので、矛盾等ありましたら遠慮なくご指摘ください。


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第六話 蠱毒のさざめき断つ、快刀乱麻の一閃

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第六話 蠱毒のさざめき断つ、快刀乱麻の一閃

 

一撃で断つのが難しい?

ならできるまでやれ。

 

 

赤い部屋の悪夢は続いている。平穏を享受する私を責め立てるように、部屋は血の赤で満たされ、六方向の壁面には苦痛と憎悪の顔が浮かんでいる。普通の人間なら避けたいと思うだろう罪悪感の発露なのだろう悪夢を、しかし私は毎夜に望んで、彼らとの逢瀬を繰り返す。

 

私はまだ、君達の事を忘れてはいない。私はまだ、卑怯者に落ちていない。私はまだ、過去に行った己の行いの罪深さを忘れていない。私はまだ、己の原点を忘れてなどいない。私はまだ、なぜ己がそれを目指しているのか忘れてなどいない。

 

誰一人として知り合いのいなくなったこの未来世界において、この悪夢だけが、私という存在が、たった一時、胡蝶の見た夢幻でない事を保証してくれている。この胸を軋ませる痛みがなくならない限り、私はいつまでも私であり続ける事ができる。

 

そう。この痛みは、誰もかれもがあまりにも優しいこの未来の世界において、はるか別の場所からやってきた己が、確固として存在しているという証明なのだ。だから私は、この悪夢を見るたびに、己の過去を思い出して、安寧の気持ちを得る事が出来る。

 

―――だが

 

夢はいつだって儚いものだ。どれだけ恋い焦がれようとも、一度夢より覚めてしまえば、その内容は泡沫の中に冷めていってしまう。どれだけ同じ夢を見ようとしても、脳裏の中より壁面に映し出された過去の刻印を思い出そうとしても、目覚めてしまえば、二度と同じ夢を見る事が出来ない。二度と、同じ悪夢の続きが見られない。

 

赤い部屋の壁面に張り付く顔は、私が犠牲にしてきた人々のモノだ。しかし、その苦悶の表情の中には、一つとして見覚えのある顔はいないのだ。いや、ないのではない。はるか夢幻の先にまで続く壁面は、よくよく見てやれば、一部が白に染まっている事に気が付ける。

 

 

その清潔に切り分けられた白の領域をさらにまじまじと眺めてやると、輪郭のはっきりとしなくなった壁面に、昨日やそのさらに前日の悪夢の主役であった人々の顔を見つける事ができる。彼らは変わらずさまざまに目元口元を歪ませて、己の味わった苦痛を、それを与えた張本人である私に伝えようとしているが、私はそれを見ても、何も思えないのだ。

 

そう、ここにいるのは、私の悪夢での演劇の役割を終えた人々の墓標だった。過去の中でさらに記憶の片隅に追いやられた彼らは、感情より切り離された場所に隔離されていた。

 

墓標に刻まれたデスマスクは、過去になった我らの痛みすら忘れようというのかと訴えている。眺めた私は、せめてその最後の遺言を果たしてやろうと、必死に、彼らの末期を思い起こす。しかし、そうして思い出した記憶の中身は、もはや完全に感情というものが漂白されていて、脳裏の中で一切の化学反応をしてくれない。

 

過去に置き去りにした亡霊の切なる願いをせめて叶えてやろうと苦慮していると、やがて、赤の壁は崩れて、再び、何者かが私の夢の中へと足を踏み入れたことに気がついた。以前ははっきりと見えなかったその姿は、人間の脳味噌のような形をしていた。

 

その存在は、脳の正面中心に携えた赤色の単眼の周りに触手としか表現しようのない棘を伸ばすと、大きくその脳体を揺さぶらせた。直後、壁面の赤は奴の蠢く眼球の中へと吸い込まれ、忘却の色へと変貌してゆく。

 

私はその所業をどうにか止めてやろうと、体を動かそうとしたが、背後より現れた黒い人影に邪魔されて、その場から一歩も体を動かす事が叶わなかった。解放を求めて暴れる私を、後ろの影が慈愛に満ちた優しい力強さで引き止める。

 

―――あれはお前の苦悩を処分してくれる、お前の味方だ。なぜそうまでして、苦痛の記憶を抱えたがるのかね? やり直しを望むのなら、罪など不要なものだろう?

 

影は、どこまでも優しい口調で、諭すように私に話しかけてくる。その反吐が出そうなほどの説教を無視して抗ってやろうとしたところで、私は、一向に動く事が出来ない。そうしている間にも、私の罪は奴の蠢く瞳の中へと吸い込まれてゆく。

 

やがて部屋の一角の赤をある程度吸い込んだそいつは、げっぷ、と満足したかのように体を揺らすと、部屋より離れてどこかへと消えてゆく。気がつくと、後ろで私を抑えていた影も、もとよりいなかったかのように消え去っていた。

 

望み通り解放された私は、赤の部屋の中の一角が清潔になってしまった光景を眺めて、重くため息を吐く。もう何も感じない。奴が息を吸い込んだその一角だけが、まるで再誕の門出を祝うかのように、曙光に満ち溢れていた。

 

夢の侵食は終わらない。悪夢もまだ、終わりでは、ない。

 

―――終わらせてたまるものか。

 

 

さて、十日前のことである。騒ぎからの避難先として新迷宮の一層一階の行き止まりを選んだ私は、望み通り誰とも会う事なく、一日をやり過ごす事が出来ていた。おそらく、新迷宮の二層に進もうという連中は、そもそも一層一階の地図は完成させている連中で、一層一階の行き止まりには目もくれない輩なのだろう、という私の予想が当たったのだと推測。

 

ともあれ一日を魔物の暗殺と処分と解体という作業に費やした私は、明朝、迷宮の隙間から日が昇るのを確認するとともに、アリアドネの糸を使用してエトリアに戻り、一応は身を隠しながら転移所より執政院に出向くと、受付で確認作業と手続きが終わったのかを尋ねた。

 

だが受付の彼は、廊下の暗闇の中に私の顔を見つけた途端、申し訳なさそうにペコペコと、「なにぶん、四層分もの地図をこちらが持っていない状態で未踏の迷宮が攻略された前例がありません。また、ギルド長率いる調査隊の方も戻ってきていないので、もう少々お待ちください」と、深々と頭を何度も下げてくるだけで、結局、執政院への訪問は、事態が何の進展もしていない事だけを理解するに終わった。

 

私が「では、とにかく何か進展があったら連絡をくれ」と言うと、青年は再びペコペコと頭を下げながら、「おそらく番人復活の調査も兼ねているでしょうから、一週間ほどお待たせする事になります」と返してきた。

 

私はまず、調査の期間などよりも、あれほどの死闘を繰り広げて倒した番人が復活する、という情報を聞いて大いに驚き、「一週間!? 」と多少大きな声を荒げてあげる事となった。

 

その番人復活に対する驚愕によって生み出された言葉を、しかし受付の青年は期間の長さに対する憤怒の念が籠もった罵倒と捉えたのか、「お待たせして申し訳ありません。すみません、すみません」、と、水の勢いの調整を誤ったししおどしのように、そのぎゅっと閉じた瞳の端に微かな涙を漏らしながら、音の聞こえてきそうな勢いで謝罪を行うのだ。

 

急かす脅すの意図がなかったとはいえ、別段なんの責任もない彼を

怯えさせてしまったわけだし、調査隊が戻るまでの間、私の来訪毎にいちいち恐縮させるのも不憫だと思ったので、結局私は、受付の彼より報告があるまでの間を大人しく宿で待つ事を決心した。我ながら甘っちょろいとは思う。

 

そうして謝罪を続ける受付の彼に対して、多少強引に今日の探索の処理を行ってもらうと、「では何か進展があったら連絡を頼む」、と伝え、その場を後にする。素材の処分ついでに番人復活の剣をヘイにでも尋ねるか、などと考えながら執政院よりベルダの広場に出ると、院の入り口には野次馬が大いに集まっていた。

 

さては先ほどの己があげた大声に反応したのだろうか、と思ったが、遠慮なく向けられる視線の中にあるのが、おっかないもないものを見るそれではなく、物珍しいものに対する好奇心が多分に含まれているのを見つけて、昨日より己が彼らより注目を浴びる存在になっていた事を思い出した。

 

迂闊に舌打ちの一つでも漏らしたい気分の中、勧誘大会でも始まるか、と失態に眉をひそめながら身構えたが、視線を送る彼らは執政院の前に立てられた立て看板とこちらの様子を交互に見比べるだけで、結局何もしてこようとはしなかった。

 

彼らの視線から立て看板を見つけた私は、一瞬あれに何が書かれているのだろうかと思い悩んだが、少しばかり歩いて立て看板の前まで進み、それを覗き込んだ際に、そこに書かれている「お触書」とその内容を見て、ヘイが望み通り依頼を果たしてくれた事に感謝した。

 

しかし、私が生前の頃の社会であるなら、このような罰のないお触れなんてもの、無視してでもすり寄ってこようとする輩がいたものだが、どうもこの未来世界では、きちんと嫌と言った者に対しては、無理強いをしないという事が常識として浸透しているらしい。いやはや、抜け駆けを考える輩がいないとは、なんとも甘く、しかし平穏な世界だ。

 

その後、ヘイに礼をいうことを目的に追加して、私は彼の道具屋へと向かったが、その入り口に貼られた「留守にします」の文字を見て、すごすごと宿屋へ引き返す事になる。初めての無駄足に、少しばかり時間が無駄に動く。

 

宿に戻ると、集った冒険者が散った宿では、女将がニンマリとした喜色の笑みを浮かべて、「やったね、アンタ」と迎えてくれた。年季の入った笑顔にさらなる喜びの線を増やして無邪気に喜んでくれる様に、多くの歓喜とやはり一抹の居心地の悪さを感じながら、私は女将の歓待を受けて、その後、衛兵からの連絡のあるまでの間、数日の大半の時間を共に過ごす事となった。

 

私がそうして足止めを食らっている間に、何組もの冒険者が二層へと到達したとの噂を聞いたが、私には正直どうでもよかった。新迷宮の謎を解けば正義の味方になれるかもと思ってはいたが、同時に、別に死病の謎なんてものは誰かが解いてもいいと思っていたからだ。

 

―――そう、私はあくまで、人が赤死病などという病で理不尽に死ぬのがいやだから新迷宮に潜るのであって、正義の味方になりたいが為に誰よりも先に新迷宮踏破を成し遂げたいのではない

 

何日か前に自らが抱いた早く踏破したいという願いが、またもや贖罪を求めて身勝手より生じた願いなどでないと強く否定するかのように、私は自らに強くそう言い聞かせる。そうして心中のどこかで燻る熱を、理性の冷静で無理やり抑え付けて過ごす日々は、しかし胸を軋ませる矛盾の思いとは裏腹に、静寂に満ちた日々だった。

 

おそらくこの、平穏の時の流れの中に痛みが癒されてゆく事象に逆らおうとする、氷炭の相容れぬ理性と感情の鍔迫り合いこそが、忘却の救済を押し付けられる悪夢の正体ではないかと私は推測している。人の身に堕ちたこの私に、もはや無限に等しい罪科を抱え続けるなど不可能だという理性の忠告こそが、あの脳の化け物で、影はその手先なのだろう。

 

身勝手さに身を震わせ、どうか忘れさせてくれるなと己の身に強く呼びかけても、悪夢が強制的に塗りつぶされていく忘却の日々は、一向に変わってくれなかった。

 

 

宿屋のインという白髪の彼女は、元々ハイラガードという場所で料理屋を営んでいたらしく、和洋中と実に様々なレパートリーを毎日披露してくれる彼女の腕は実に見事な味で、私の三食を喜びで満たしてくれていた。

 

そうして彼女の作る豪勢な料理が、ちゃんこ風の鍋だったり、味噌を使った煮しめだったり、桜肉のしゃぶしゃぶだったり、猪肉の豚汁だったり、くるみ羊羹だったり、いちご大福だったりしたことから、もしやハイラガードとは元は日本のあった場所なのだろうか、と考えた。

 

しかし、その次の日に出てくる料理が栗月餅だったり、野牛肉拉麺だったり、包子だったり、回鍋肉だったりするで、すわもしやそのハイラガードというのは日本と中国の狭間あたりにあるのだろうか、などと考えて、しかしさらに次の日に出てくるメニューがステーキのリンゴソース添えだったり、タルタルステーキだったり、鹿肉のステーキだったり、ストーンガレットだったりと、一転して洋風に切り替わったのをみて、そのハイラガードとやらが旧世界に当てはめるとどこにあるのかと推測する事をとうとう諦めた。

 

ただ、そのあまりにも節操のないメニューが、かつての相方と妹分と私の得意料理と重なり過去の記憶を刺激したようで、女将は果たしてどこで節操なく料理を修めたのだろうかという疑問がむくむくと湧いてきた。

 

考えたところでわかろうはずもないので、三種類の料理の特徴に触れながら、女将に「いったいあなたはどこで修行したのだろうか」と素直に尋ねると、

 

「私はハイラガードのレジィナという女性が、迷宮料理を家庭でも提供出来るように改良してくれたレシピの通りに作っているだけだよ」

 

という回答をくれた。

 

やがて己の技術に興味を持った事に機嫌をよくした女将は、「料理の手順や作り方、素材に着目して興味を持つ冒険者は珍しい。アンタもやってみるかい? 」と、私に包丁と鍋を差し出してきたが、私はその突き出された鍋にコイルが巻きついているのを見つけて、非常に心揺さぶられる提案ではあったのだが、丁重にお断りした。スキルを使用する事前提の料理なんて、私には出来そうもないからだ。

 

そうして辞退する私の顔の中に何を見つけたのかは知らないが、女将は少しばかり気の毒そうな顔を見せて、以降、私はそれより一週間と少しほどの時を、鍛錬から戻った途端、満漢全席を思わせるような料理の群れに遭遇したり、彼女の調理を見て思うところを指摘させられたりと、さまざまな形で料理に携わりながら過ごす事となった。

 

それはまさに平穏を形にしたかのような日々だった。

 

 

エトリアの街が一時の騒がしさを見せてから、一週間と三日の時が経過した。

 

ようやく調査が終わったようで、インの宿屋に「迷惑をかけた」とラーダの受付がわざわざ詫びにやってきた。彼は相変わらずクーマが不在で担当の者と直接会えない事を丁寧に告げると、番人討伐の認定証を置いて、ようやく胸のつかえを下ろせた、と言った顔で帰ってゆく。

 

彼を見送りがてら、街中を歩くと、エトリアの街が不穏な空気に包まれている事に気がついた。街をゆく人々のうち、特に手練れの冒険者と思わしき人ほど、その様々な装束の上に乗る顔に等しく焦燥と不安を浮かべながら無言で街角に消えてゆく。

 

そのようにエトリアに暗澹の雰囲気が漂っているのは、一週間で復活すると噂の、層ごとの門番、すなわち今回の場合、一層の番人であった巨大蛇が復活の兆候を見せておらず、未だに層の境界は沈黙を保っているのが主な理由であった。

 

私としては、命懸けで倒した敵が復活するという理不尽が起こらずに胸をなでおろしてやりたい気分だったのだが、番人が復活しないという事態は、熟練の冒険者や彼らに関わってきた街の人々からするとただらなぬ異常であるらしく、彼らの行動に多大な影響を及ぼしたのだ。

 

験を担ぐ彼らの間では、この事態が「不吉な現象」、「悪い事が起こる予兆」として扱われ、新迷宮の一層番人の部屋が敬遠の対象とされるようになっているという。また、彼らの放つ鬱屈とした感情や、未知に対する怯えを敏感に感じ取った現役や新米冒険者たちの間でも同様に、その出来事を縁起の悪いものとして扱う者が出てくるようにもなっているらしかった。

 

一応、「そんな迷信は信じぬ」と、意気揚々に迷宮二層へと向かう冒険者もいなかったわけではなかったのだが、勇敢な彼らも帰ってくる頃には精魂共にくたびれ疲れ果てて帰ってきては、「もう二度と新迷宮の二層なんぞに行きたくない」という輩が続出するようになり、結局、つい十日前に気炎を上げた迷宮二層探索の情熱は、たった三日の間で早くも最低温度にまで下げられていた。

 

今、エトリアは、死病以外に、新迷宮の探索者が減るという、新たな悩みを抱えつつあった。

 

 

今朝のメニューは、「鹿肉と樹海野菜のすき鍋」と「東国伝来の煮しめ」だった。朝からボリュームのありすぎる食事だと思ったが、体が資本なんだからしっかり栄養をつけておきな、という女将の言葉も最もだと思ったので、ありがたく全てを平らげることとした。

 

迷宮の鹿より切り出したという鹿肉のツミレはそのままだと独特の臭みがあったが、その野性味はお椀に鍋の汁と共に入れた途端、味も匂いも程よくスープとマッチして口の中で気持ちよく崩れてゆく。すき鍋なのになぜツミレなのかという疑問は一緒に胃のなかへ押し込むことにした。

 

また、煮込んだ後に時間を置いたカボチャと肉厚のキノコ、レンコンは、口の中に放り込むと、あっさりとした食感と共に胃の中へと落ち込んでくれ、安心した味を提供してくれる。最後に鍋のスープを長ネギと共に飲み込むと、不思議と体が軽くなった気さえした。

 

女将の料理に背を押されるようにして、街が抱える一切の不安を無視しながら、揚々とエトリアを出立する。轟々と水色を垂らしていた空は、十日前に見かけたような積乱雲がいつのまにか方々に散っていた。

 

生ぬるい空気の中、彼らが湿らせた地面に靴の跡を残しながら進むと、やがて晴れた空に天気雨が振るのを見かけて、今回の旅路の不安定を感じ取る。

 

―――さてこの雨を、狐の嫁入りと取るべきか、悪魔の嫁入りと見るべきか。

 

晴れた空に迷信を見つけて不安に陥る私を、以前よりも大口開けて嘲笑うかのような赤さで私を出迎えてくれた新迷宮の入り口は、一時の騒ぎが嘘のように人気が少なかった。屯所の付近にたむろっていた微かばかりの冒険者たちは、一人でやってきた私を見つけると、珍しい生き物を見つけたかのように、少し離れた場所から霧雨のようなはっきりとしない視線をちらちらと送ってくる。

 

体を濡らす不快の視線を無視してやって私は衛兵へと地図と証明証を出すと、彼らは次に入り口へ行こうとしていた冒険者たちを押しのけて、私を最優先で迷宮へと案内してくれる。兵士はついでとばかりに、「この先、二層の樹海磁軸までご同行いたしましょうか」と問うてきた。

 

さて、樹海磁軸とはなんぞや、と思い、彼らに尋ねてみると、まず私が樹海磁軸を知らないことに驚き、けれどすぐにその無礼を詫びて、それの説明をしてくれた。

 

彼らの説明によると、なんでもその樹海磁軸というのは、いわゆる迷宮内に設置された転移装置であるらしかった。青く屹立する柱に手をかざしてやれば、次からは屯所近くの石碑からそこへの移動が可能だとか。いやはや、なんとも便利な代物である。

 

そうして迷宮の内部にある攻略を楽にするだろう設備を考え、果たして迷宮は攻略されたくないのか、攻略されたいのだろうか、どちらなのだろうか、などと考えていると、衛兵たちは恐縮したかのようにもう一度、「それで、どう致しましょうか」と尋ねてくる。

 

一瞬ぽかんと首を傾げて、しかしすぐさまそれが自分を連れてその二層の磁軸に連れて行ってやろうかという提案だと気づく。しかしなぜそうも親切にしてくれるのか、と尋ねると、こちらの事情で足止めをしてしまったお詫びです、と答えられた。

 

私は考え、そしてなんとなく受付の彼のことを思い出した。おそらく、彼の指示なのだろう、と勝手に思う。断る理由もないが、もし断った時彼が恐縮する姿を幻視して、私は静かに頷いた。直後、一人の衛兵が前に足を踏み出して、恭しく案内をしてくれる。

 

衛兵から特別扱いされた事で、冒険者たちから向けられる視線に羨望が混じった気がしたが、その全てを無視して、私は都合三度目になる迷宮踏破の旅を、衛兵という見知らぬ誰かと共に踏み出す。

 

衛兵が石碑に触るとすぐさま効力を発揮して、赤い光を放った。衛兵は、こちらの手を強く握ったまま放さない。その多少汗ばんでいる感触を頼りに赤い光の輝きに身を任せていると、一瞬の浮遊感の後、全身を強く押される、アリアドネの糸を使った時の感覚がこの身を襲いかかり、やがて瞬間的にその場から消え去った。

 

 

世界樹の新迷宮

二層「蠱毒の大密林」

六階「偽りの愛を植え付けられた少女が裏切りを犯した場所」/「土と共に生きる少年が剣聖に魅了された場所」

 

 

体を押す力が全身のあちこちに影響を与えたかと思うと、一瞬の浮遊感の後、私は誰かに背を押されるようにして迷宮の中へと押し出される。すると途端、重力は正常に働いて、肉体を地上へとおろしてくれる。その勢いは思ったよりも強く、私はつんのめらないように、思い切り両足に力を入れて踏ん張って見せる。

 

降り立ちまず感じたのは、肌に生ぬるい水を塗りたくったような蒸し暑さ。一層を攻略されて迷宮も多少の焦りを見せた証拠なのか、二層は体を火照らせたかのような温度と湿度を保っている。粘っこい空気には、濡れた薄布を口元に当てているかのような錯覚を覚えさせる程だ。梅雨の時期を思わせる不快さに、思わず苦笑い。

 

その不快に耐えて軽く一歩を踏み出すと、足裏から伝わってくる湿潤の粘土が靴裏に纏わりつく感覚に、さらに不快さを煽られる。もしこの高い不快指数が、迷宮が侵入者を拒む仕掛けなのだとしたら、なるほど、集中を欠かせる効果を覿面に発揮しているといえるだろう。

 

やがて目が樹海磁軸とやらが放つ紫の光に慣れた頃、瞼を何度かしぱたたかせながら、ぼやけていく視界の中身を吟味すると、眼前に広がったのは、今までと変わらぬ赤き異界だった。

 

何処かより侵入した寂寞の光は、赤に染まった亜熱帯風の樹木と草花が萌ゆる一面を暗く照らし、地面より生えた触手のような樹木は、見上げれば高い土の天井にまですらりと伸びて、樹々の枝が重なりできる林冠よりさらに先端、すなわち樹木の頂では、大地と接した幹と枝と葉が地面の中にまでその手を伸ばして突き刺さり、天井の支えとなり、天井の崩落を防いでいる。

 

その大樹が天地を支える光景だけ見てやれば、なるほど、ここが世界樹と呼ばれる場所で、周囲一帯に鬱蒼と茂る樹木が大地を支える偉大さを保有していることを十分に理解できるが、だが偉大だからといって目の前の光景に敬意や好意を抱けるかというと、決してそんなことはない。一層同様、赤死病の「赤」の侵食によるものだろうか、一面に広がる赤の景色というものは、見るものの神経を昂らせ、苛立たせる効力を持っている。

 

加えて一層の赤を「鮮烈な」と表現するなら、こちらの赤は「暗い」と表現するのが正しい。そう、例えていうなら、その紫が混じったような燻んだ赤は、緋色に近いものだった。一層の突き放すような赤さとは異なって、二層の赤は多少柔らかさを帯びていたけれども、二層に来ても赤の光景が変わらなかったという事実は、この先三層、四層に進もうが、同じような赤の光景が広がっているだろう事を想像させ、少しばかり気が滅入らせる。

 

「エミヤさん、まずは磁軸に登録を行いましょう」

 

そうして周囲の光景に観察の視線を送っていると、私をこの場所へと導いた衛兵は私の手を引いて、そう告げた。彼の言葉に従い後ろをふりむくと、まずその周囲の樹木に負けない勢いで天井にまで届かんとする勢いで屹立する光の柱に視線を奪われる。

 

屹立するその柱は、紫の光の粒子によって構成されていた。地面よりするりと生まれ出でた光の粒子が、その頼りなさを保ちながらゆらゆらと天井に向かって進み、しかしやがて力尽きたかのようにか細く虚空に消えてゆく光景に、まさに釈迦尊より垂らされた蜘蛛の糸が罪人の重みに千切れた光景というものを見つけて、私はまさに死病の蔓延する地獄に相応しい光景であると、不謹慎ながらに考えた。

 

「エミヤさん」

 

冥々のうちに柱へと近寄っていた私の腕を衛兵が引く。私は馬鹿な考えを霧散させて、彼の方を向くと、彼は「アレに触れれば登録完了です」と言ってのけた。彼が指差したのは、もちろんその光の柱である。

 

私は光の柱に、魂を抜かれるかもという覚悟をしながら、そっと触れてやる。すると光の柱は、思った以上の暖かさで私の手をその身の内に迎え入れて、触れた場所から表面の粒子をその全身に向けて漣立たせた。

 

「はい、これで登録完了です。あとは戻りたいと考えるだけで、今のところへと戻ります」

 

兵士は言うと、「では実演しますね」といって同じように手を触れて、光の柱に消えてゆく。私は彼の後に続いて、同じようにすると、先ほどまでいた石碑の前に転移し、そして、一連の事の礼を彼に告げると、もう一度石碑に触り、熱気と不快さが支配する大密林へと戻ってきた。大きく息を吸うと、吸った以上の量を吐いて、全身を戦闘、探索用へと切り替える。

 

―――さて、では、二層探索を始めようか

 

 

世界樹の新迷宮

二層「蠱毒の大密林」

六階「偽りの愛を植え付けられた少女が裏切りを犯した場所」/「土と共に生きる少年が剣聖に魅了された場所」

↓ ↑

世界樹の新迷宮

二層「蠱毒の大密林」

七階「愛に狂った王女が弟をばら撒いた海辺」/「雅を覚えた青年が修行をした山中」

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世界樹の新迷宮

二層「蠱毒の大密林」

八階「旅路の果て裏切りの報いを受ける女王」/「剣士が飛燕を捉えた瞬間」

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世界樹の新迷宮

二層「蠱毒の大密林」

九階「愛に絶望した魔女が蛇竜に乗り消えた空」/「満足に剣を振る機会を得られなかった剣聖が生涯を終えた場所」

 

 

探索を開始してから早一ヶ月が経過し、私は都合四度目となる探索を行っていた。天空に広がる地面の中にある二番目の迷宮である大密林は、非常に意地の悪い構造をしている。謎の解明を求むなら地下深くを目指すべし、と謳われるその場所は、しかし地面に地下へと続く無数の穴が空いており、一見して階下を目指すのは容易く思えるだろう。

 

しかし嬉々としてその穴を潜ってやると、その先にあるのは、周囲を土砂で囲まれた猫の額程の空間であったり、あるいは水たまりの洞穴だったり、または結局どこにも繋がっていない行き止まりの空洞であったりするので、引き返さざるをえなくなる場合が多い。

 

これが例えば寺院の山門前によくある急な階段の上り下り程度であるならまだしも、湿気った地面に広がる直径二メートル程の穴の中の斜度は、七十度から九十度はあるだろう絶壁で、かつ、ホールドできる岩もなく、掴める樹木の根もなく、その上で柔らかい土を相手にしてやる必要があるので、心底たまらない気分になる。

 

下りは柔らかく不安定な両側面に投影した剣を突き刺して、土の柔らかさにて速度を調整しながら滑るようにして降り、登りは英霊としての身体能力を遺憾無く発揮して、湿り気を帯びた柔らかい地面が崩れないうちに、両手に持った剣をピッケルのごとく交互に突き刺しては、足で壁を鉛直方向へと蹴って、崩れる前に駆け上がるよう登攀してやる必要がある。

 

そしてまた、そのどこに続くともしれぬ穴は浅かろうと深かろうと、先が見えないのだ。一度は二十メートルで次の層の天井に出たこともあれば、百メートルほども無意味に降り登りをしたことすらある。

 

一度や二度ならともかく、流石にそれが数十回も続くとなると、もう、気の利いた例えを使ってやろうという気にすらならないくらいに、私は体力と精神を消耗する羽目になるのだ。

 

しかしそれでもめげずに、私はこの一月の間で、二層大密林の五階から九階までの四フロアにおいて、地面の上から天井の下までを駆け抜けて、この絶壁とも言える洞穴の中を含めた地形の往復を繰り返し、二層九階までの八割近くを地図にしてやる事が出来ていた。

 

とはいえ、すでに一週間近くに渡る強行探索を三度も繰り返して、数十度もクライミングを繰り返す羽目になったというのに、それでもまだ次の番人の部屋は見つかっていない。

 

この暑さ、この湿度、この高低差、この広さ。広大な山の中、馬鹿みたいに敷き詰められた熱帯林を延々と歩かせ体力を奪い、そして見つけた穴を苦労して進んだ先に、しかし道はどこにも繋がっていないという状況を作る事で精神を疲弊させるこのやり方。

 

刑罰の中に延々と穴を掘っては埋めるを繰り返すことで、己のやっていることがいかに無意味であるか、転じて、己がいかに無意味な存在であるかを悟らせるやり方があるらしいが、この徒労感はまさにその刑罰のそれ等しいだろう。いや、なるほど、きっとこれが、探索しようと考える冒険者が少なくなり、さらにはその後、その原因を語らないで口を閉ざす理由なのだ。

 

さてはこの新迷宮というものが如何なる理由で生じたのかは知らないが、少なくともこの新迷宮二層を作り上げただれかは、人の苦労や不幸を見ると暗い喜びのうちに甲高い声で哄笑する、性格の捻じ曲がった魔女のような性格をしているに違いない。

 

 

「―――来たか」

 

異変を感じた瞬間、穴より上に飛び出て、腐葉の入り混じった土を靴で叩く。意識を集中させ、地面から帰ってくる柔らかく神経を刺激する余分な感覚を取り除くと、必要な感覚だけを研ぐように細く鋭くして周囲にはりめぐらせる。

 

そうして周囲一帯の異変を感じ取ることだけに殊更意識を集中させると、湿気を帯びた空気の中、周囲に散らばっている、ヴンヴンと重なる羽音が、私の鼓膜を絶え間なく叩き続けている事に気が付ける。いかにも不愉快さを想起させる、蚊蝿のごとき輪唱の音色は、大量の薄羽根が自らのすぐ近くで細かく振動している証拠だ。

 

これだ、この不愉快に満ちた密林での活動不快指数を跳ね上げる、もう一つの要因である。

 

全身を嬲る合唱は段々とその数を増やしてゆき、体の内部にまで侵食した不協和音が脳髄もろとも攪拌を始め、やがて私の三半規管内である程度の音色の統一がなされると、不快を増幅させる音波となる。湧き出る不愉快と煩わしさを余計と断じて努めて落ち着くよう心がけていると、プゥン、と一層大きい音が頭の中に鳴り響いた。

 

苛つきに片目を痙攣させながら多少足を前に出しつつ嫌々の視線を向けてやると、待ってましたとばかりに、やがて一帯の草葉の陰から飛び出したものが集まり、密林の隙間を埋め尽くす巨大な醜い虹色の霧となってこちらに敵意を向けてくる。

 

子供が絵の具をかき混ぜたかのようなその七色の霧は、胴体が人の頭ほどもある巨大な羽虫の集まりだ。色とりどりの羽の蝶々、七色の斑点を持つてんとう虫、針が複数回使える構造をした熊蜂、爪を携えた蛾、オニヤンマと蟷螂が合体したかのような名称不明の敵が、その巨大な姿を密集させながら、うぞうぞ、うぞうぞ、と湿気が蔓延る密林の空中を蠢く様は、とても醜悪の一言では表せない。

 

また、百を超える虫共の揺れる色とりどりの表皮に注目してやると、警告を与えるには十分過ぎるほどの悍ましさに満ち溢れていて、なんとも汚らわしく毒々しく見える。実際、その奴らの人の頭ほどもある肢体には、侵入者に対する悪意が融解や麻痺、睡眠や混乱、盲目を引き起こす効力の毒が多く溜めこまれているのだ。

 

その悪意を無視して歩を進めようとすると、奴らは近寄ってきて、こちらにさまざまな攻撃を仕掛けてくる。昆虫の無機質な複眼からはその意図が読めないが、こちらを挑発して怒らせ、行動を単純化させようとする意図を含んでいるのか、その鋭い初撃は必ず私の頸や胸、急所などを掠めるようにして放たれる。その一撃はまるで熟練の剣士のそれだった。

 

行為に反応して、投影してあった登攀に使用した剣を投げつけると、剣は勢いよく刃先より飛びかかり、直線上にいた虫を数匹切り落とし、瞬間だけ霧に切れ間を作ってくれる。だが、虫は私の霧払いの反撃を確認すると、一気にその上下運動を早めて、無機質さの中に殺意を露わにして本格的に襲いかかってくるのだ。

 

嫌悪色をしている虫霧が、その体積を大きく膨らませながら、包囲するようにして迫ってくる。色とりどりの蝶々共がその羽を広げてやるたび、周囲を焼き尽くさんばかりに炎が、樹木を打ち倒さんばかりの氷が、森の隙間を縫うようにして雷が広範囲にわたって撒かれ、青蜂が薄羽を高速で動かすたび、生まれた風は蝶々どもが巻いた毒鱗粉を周囲に撒き散らし、進路と退路塞ぎ、蜂どもは攻撃の隙間を縫うようにして毒々しい尾針を飛ばしてくる。

 

―――まともに相手などやってられん

 

いつも通りに撤退を決意した私の身が翻される直前、視界に収めた悍ましい彼らの数は、そろそろ目算で数えられなくなっていた。見るに密林の隙間を埋め尽くす勢いで増える、通常の虫よりも巨大な奴らは、もう百を越す勢いだ。

 

あの数程度、倒しきれない、などと言うことは間違いなくないが、双剣、弓矢のどちらの手段を使おうと、あの数を悉く殺し尽くすとすれば、相当の手間と時間がかかってしまうだろう。かといって宝具の爆裂を使用して消し飛ばしてやるのも悪手だ。

 

多少高度を下ってきたとはいえ、ただでさえこの場所は高度が高く、酸素の薄い場所なのだ。加えてこの穴ぼこだらけとはいえ、虫だらけの閉鎖空間の中で燃焼や爆発を起こす魔術なんぞ使えば、やがて酸欠になるのが目に見えている。

 

―――だれが自らの首を絞めるような真似をしてやるものか

 

増殖する敵を前に、自らの刻んだ足跡を追って道を引き返すと、色取り取りの警戒色に塗れた霧は、逃げた獲物たる私を追い詰めてやろうと相変わらず集団で迫ってくる。感受と反射しかないはずの昆虫は、しかし、私を排除すべき敵として認識してか、迷宮に対して悪影響を及ぼす敵であると評価してか、逃げた私を延々と追いかけながら攻撃を仕掛けてくる。

 

虫どもはそんなどこか人間じみた行動をする割には、けれど見た目通り感情というものが感じられなく執拗で粘着質なのだ。どこまでも獲物を追いかけて敵を殺す、まさに冷徹な始末屋。などと考えて、自らの思考より染み出て来た言葉に養父とかつての自身を思い起こさせた事実が、煩わしさの熱にて沸騰しかけていた頭を、蒸発せん勢いで湯立たせる。

 

逃走の最中、一人勝手に敵に対する怒りを高めていると、周囲の敵対的な気配が加速度的に増えていくのを感じた。おそらく奴らが仲間に敵愾心を伝播させたのだろう。どれだけ来られようが敗北などあり得ないが、細かい敵を一々相手にするのも馬鹿らしい。数の暴力を前に退散するのを歯がゆく感じながらも撤退の判断を下すと、速度を早めて密林を駆け抜けて、奴らとの距離をあけると、糸を解いて迷宮九階より離脱する。

 

昆虫たちはエミヤがいなくなったのを確認すると、蜘蛛の子のように霧散していった。

 

 

世界樹の新迷宮

二層「蠱毒の大密林」

九階「愛に絶望した魔女が蛇竜に乗り消えた空」/「満足に剣を振る機会を得られなかった剣聖が生涯を終えた場所」

 

 

「敵、出ないなー」

 

サガが呟く。気の抜けた一言にダリが戒めの視線を投げかけるが、サガは気にすることなく地図に情報を書き込んでいた。ダリという男の視線は感情に欠けているようなところがあり、私なんかは見つめられると震え上ってしまうような冷たく鋭い視線をしているが、それを気にしないサガの胆力は大したものだと思う。

 

「シン、お前もそう思うだろ?」

「そうだな。二層に潜り始めてからはや一ヶ月と十日。既に両の手を超える程探索に出ているが、未だにFOEを除けば、魔物と遭遇したのは十回に満たない。いつもなら、一回の探索でいく数……。いや、これはあまりにも少な過ぎる」

 

いや、普通の冒険者は一ヶ月に十回近くも探索に向かわないし、一回の探索で十回も魔物との戦闘を重ねないだろう。そんな言葉が喉元まで出かかったが、なんとか飲み込む。その普通でない事をやるのが彼らなのだ。彼らの常識は世間の一般とかけ離れている事を、私、すなわち響は、この四十日で嫌という程思い知らされている。

 

「良いじゃないですか。その分探索が順調なんですから。それに、この順調と呼べるペースで進んでいるのにも関わらずまだ十階への通路が見当たらないのです。はしゃぐのはそれを見つけてからにしましょうよ。でないと、彼にまた先を越されますよ」

 

しんがりを務めていたピエールが上機嫌に言う。ピエールのいう「彼」というのは、エミヤという人物のことだ。単独で一層攻略をした事で有名人となり、そして勧誘の禁止令が出るほどの人気ものであり、そして新迷宮に長く潜入し、しかし戻ってくる際、常に無傷の彼と、噂に欠かない彼は、今やエトリアで一番有名な冒険者である。

 

「そう、そうだな。その通りだ」

 

彼の名前を聞いて、シンが少しばかり悔しそうな表情を浮かべる。目の奥に宿る自省の念から察するに、エミヤという男が自分より活躍しているのが気にくわない……というわけでなく、これほど順調に進んでいるのに彼に追いつけていないという事実が自分の未熟さを露わにしているように感じて、恥じる気持ちを抱いているのだ。うん、きっと間違いない。

 

ピエールはそんなシンの懊悩を見て、さらに機嫌を良くする。彼は誰かの感情が動くのを見て、刺激を喜ぶのだ。とてつもなく性格が悪いが、あれが彼の平常運転である。

 

「しかし私たちも、もう四階も階層を進めて地図も結構埋まってきたというのに、未だに彼と遭遇していないな。はたしてエミヤは一体、今、どこにいるのだろうか? 」

 

シンはふと思いついたかのように言った。ああ、それは確かにそうだ。たしかに今エミヤという男も、この迷宮にいるはずなのに。そう思ってサガの書いている地図を覗き込む。

 

歩きながらの記入で少し文字や線がぶれているが、それでも半分くらいが綺麗に埋められた地図には、密林の下の方に生える低い庭木の中に隠されていた獣道や、深い濁った湖の向こう側に見える行き止まりの壁面や、落ちれば死んでしまいそうなほどぽっかり地面に空いた落とし穴など、今までの足跡が几帳面に記されている。

 

そんな地図を見直せば、たしかに多少見つけにくい道や、出てくる魔物が気持ち悪くて怖い思いをする場所、ちょっとした仕掛けみたいなのもあったけれど、いくつかの障害を除けば割と綺麗な一本道が浮かび上がってくる。

 

旧迷宮四層にある、流れる砂の上を行くことや、転移装置だらけでどこにいるのかわからなくなる仕掛けを思えば、ずっと単純な道なのだが、颯爽と現れてて一層を疾風の如く駆け抜けた彼は、いまこの地図のどこらへんをうろついているのだろうか?

 

もしや。

 

「エミヤも私たちと同じく魔物があんまりでないのなら、もしかしてもう、二層の番人がいるところまで到達しちゃったんですかねぇ」

「いや……いや、それはどうだろうか。エミヤはむしろ、大量の魔物が出現して困っているらしい。入ってしばらくすると処理しきれない数の敵が出現するから、対処できなくなって撤退せざるをえなくなる。お陰でまだ九階から先に進めていない、とぼやいていたらしい」

 

疑問を呈すると、シンがさらりとそんなことを言った。誰から聞いたのだろう、と一瞬思ったが、ピエールが口を挟んで答えを言ってくれた。

 

「ヘイが口を滑らせましたか。あの人は、しっかりしてるようで、案外間の抜けたところがありますからねぇ。……しかし不思議ですねぇ。私たちはあまり魔物と遭遇しないのに」

 

いやはや、同じ迷宮を探索しているのにもかかわらず、一方ばかり集られるとは不可解な現象だ。もしやエミヤは魔物に好かれそうな匂いでも出しているのだろうか。そうだとしても、一方に集中しすぎている気がするけれど。

 

「他のギルドはどうなのでしょうか? やはり、魔物と遭遇しないので?」

「うん、そうらしい。ただ、魔物はいなくても、道が見つけづらかったり、落とし穴が多かったり、強い魔物が群れている場所とか、行き止まりにぶつかって、全然先に進めないし、地図作成も捗らないんだと」

 

ピエールが言うと、サガが己の持つ地図の広範囲にぐるぐると円を描くと、適当に指差して言う。それは当然だと思う。だってこの新迷宮の二層は、旧迷宮の四層を攻略し尽くした「異邦人」というこのギルドの彼らですら、少し手こずるような場所だ。私はサガ持つ地図の、狭い範囲を指で囲って、続ける。

 

「多分その強い魔物って、この辺の虫のFOEだらけの場所ですかね。たしかにあそこはFOEの動きの法則性を見つけるまでちょっと怖かったです」

「まぁ、近づいても一切攻撃しなければ素通りさせてくれるとはいえ、初見でああも狭くて近い通路の奥からいきなり威嚇射撃を飛ばされると、つい反撃したくなりますよねぇ。まぁ、私は攻撃手段に乏しいのでそもそもそんな野蛮なことできませんが、……ねぇ」

 

ピエールは言いながらサガを見た。やろう、よくもやったな先手必勝だ、と勇ましく属性攻撃を虫に仕掛けて、その周囲にいたFOE全てに追いかけられ、逃げ帰る羽目になったことを、未だに根に持っているのだ。

 

サガが少し恨みがましそうな、しかし自分のミスなので何も文句を言えないでいるのを見て、ピエールは楽しそうに竪琴をかき鳴らそうとして、しかし糸が湿り気を帯びていていい音が鳴らないことに気がつくと、ため息を吐いた。

 

サガはその様子を見て、ザマアミロ、と大人気なく上機嫌に笑うと、こちらを向いて先ほどの話題を続ける。

 

「しかし、響。お前、あれが転移装置だなんてよく一目でわかったな」

「ああ、そうだ。あれは響のお手柄だったな。あれがなければ二層は階層の移動も出来んのだから、この迷宮の二層は、なんとも意地の悪い仕掛けをしている。しかし、石碑以外の転移装置など旧迷宮の十九階にしか存在していないし、ともすれば見落としがちなのだが、響、よくわかったな」

 

サガの言葉を受けて、シンが褒めてくる。彼の言葉は他の人が言うような回りくどさがなく、真っ直ぐなので、すごく照れ臭くなる。私はおもわず口元をにやけさせた。

 

「いえ、だって、地面に不自然にあった、あれ、携帯磁軸と同じようなつくりでしたから」

「ふむ、そういえば君、本職はツールマスターだったか」

「あー、そうだった、そうだった。戦闘中はふつーに道具使うし、なんか採取とか解体ばっかの活躍だったから、ちと勘違いしていたわ……」

 

地図を弄りながらサガがそんなことを言う。うん、その点は指摘しないでほしい。私も最近、自分の職業がツールマスターなのか、補助専門のファーマーなのかわからなくなってきているのだから。などといじけていると、サガは持っている地図を広げて言った。

 

「地図といえば、エミヤの地図はすげーらしいな。受付の兄ちゃんから聞いたんだが、なんでも広い範囲を俯瞰視点ですげー細かい所まで作り込んであるとかで、落とし穴がどこに繋がっているかまで書いてあるらしいぜ。いやぁ、ご苦労な事だよなぁ。歩ける場所だけでいいのにさ」

「それはすごいな。戦いだけでなく、空間把握にも秀でているのか。大したものだ」

「サガの地図は几帳面な割に字と線がぶれていて見にくい――――、いえ、醜いですからねぇ」

「ピエール、おい、お前、今わざわざなんで言い換えた」

 

サガとシン、ピエールは本格的に雑談を始め、命がかかった真剣な場面とは思えないほど軽薄な空気が漂う。もはやまじめに迷宮探索を行おうという空気は完全に死んでいた。会話は二転三転としてゆき、結局、魔物はなぜエミヤにばかり集中するのか、という議論に発展する。以前、迷宮のでおしゃべりを自制した人たちとは思えない現状だ……、うん?

 

―――そういえば、以前、誰がこの状態を断ち切って彼らを進ませたのだっけか?

 

過去が脳裏をよぎった途端、ぬたぬた、ガチャガチャと金属が地面をめり込む音が近くで聞こえた。大きな声の会話に負けぬくらい大きな不穏な音につられて目を向けると仁王立ちをしたダリが不機嫌そうに三人を注視していた。新調した兜の伸びた板金から覗く視線は感情が抜け落ちたかのように冷たく、怖い。

 

―――ああ、何故こういう事に真っ先に気がついてしまうのか。

 

細かいところに気がつくのは命がかかっている冒険者として優れた点で、母譲りの良い癖だとよく褒められるが、こういった要らぬ所まで気がついてしまうのも早いので、結局、利害の収支はトントンだと思う。万事塞翁が馬というが、こんな場合、馬でなくとも逃げ出したくなるものだ。

 

「―――お前ら……」

 

耐えかねたダリが口火を切ろうとする。

 

「なぁ、ダリはどう思う?」

 

直前に、滾る炎に向けて、サガが平静の声をかけた。突如話題を振られたダリは、怒りの眼に戸惑いを浮かべながら、驚いた表情でサガを見つめ返す。

 

「……どう、とは? 」

「だから、魔物がエミヤばっかに集中する理由。衛兵の経験も合わせりゃ、ギルドの中で一番迷宮経験の長いだろ、お前。ギルドしかしたことない俺らと違って、知識豊富じゃん。お前なら何かわかるかとおもってさ? 」

 

突然の質問とお褒めの言葉は好奇心と自尊心を擽って、怒りの火種が、別の種類の焔に変えてゆく。そうして考え込みだしたダリは、すっかり溜め込んだ感情を思考のエネルギーへと変換させて、激しく燃え盛りあたりを焼き尽くすほどの怒りの業火が、その燃やす対象がそれた事で、私は、はぁ、と大きくため息をつく。

 

サガが悪戯っぽい笑みを浮かべてシシッ、と笑った。どうやら狙ってのものらしい。普段のくだらないやりとりにも不満を抱き、鬱憤を溜めてゆくダリのガス抜き……、なのだろう。多分。シンは他人の機敏を気にするタイプでないし、ピエールは溜め込んだ感情が爆発するのを見て楽しむタイプなので、自然とサガがダリの手綱を取るようになったに違いない。しかしサガは気配りが本当に上手い。

 

上手いと思うが、出来る事ならもう少しこちらがハラハラとしない方法でやって欲しい。こう、彼的に重要なこと以外は、普段から小まめに処理するのでなく、溜め込んで一気に処理する乱雑さは、なんともそれらしいんだけれども、非常に心臓に悪い。そうして私が心臓の動悸を乱れさせていると、私の臆病になど露ほども気づかない様子のダリが口を開いた。

 

「―――迷宮が発見された当初の頃のことだ。当時はまだ、未開の場所だった旧世界樹の迷宮の奥に秘められたその謎を自分たちの手で解くために、執政院は大量の人間―――百人単位の人間を一度に調査隊として送り込んだ」

「ああ、そうだったみたいだな。なんでも謎を解明すれば、当時はしょぼかったらしい林業の町エトリアがすげー発展するかもって、張り切って送り込んで全滅したってやつだろ? 」

「その後、めげずに幾度か小規模な調査隊を送って、それでも謎は解明されず、結局極端に人手が足りなくなったため自分たちで謎を解き明かすのを諦めて、お触れを出して他の国の人間に迷宮の謎を解いてもらおうと冒険者を集ったのが、その後のエトリアの発展に繋がったとは、なんとも皮肉ですよねぇ」

「ふむ、そういえば旧迷宮は当時の冒険者たちに踏破されたという話ではあるが、未だにその謎とやらは具体的には開示されていないな」

 

ダリの話を聞いて、各々が追加で情報を述べる。私はあまりその辺り詳しくないので、黙って聞いていることにした。

 

「まぁ、皆のいうことはどれもその通りだ。未だにラーダが明かそうとしない謎の内容も気になるだろうが、今回重要なのは、そこではない。大事なのは、何故、それだけの戦力を持った調査隊が全滅したのか、という点だ」

 

ダリは一旦そこで切って、咳払いをすると、指を上に向けて、くるくると回しながら続ける。

 

「調査隊が全滅した理由は簡単だ。最初に送り込んだ大量の調査隊の戦力を上回るだけの敵戦力が彼らの前に現れたのだ。探索の当初は大規模の人数を送り込み、普通に歩ける迷宮の部分はもちろん、上は天井から下は地面を掘りぬいてでも調べようとしたらしいが、そうして道無き道を切り開き、樹木の上に登れば敵が殺到するし、地面を掘って調べてやろうとすればある程度掘り進めてみると、そのうち魔物が迷宮の外にまで出てきてしまうほど湧き出てくる始末で、精鋭だった筈の彼らはあえなく全滅したのだ」

 

ああ、それで、「迷宮内で無闇に人の通れない道を無理やり通る事を禁ずる」とか、「無闇に迷宮を傷つける事を禁ずる」とか言った内容の不思議な探索のルールがあったのか。

 

「以後、数度の小規模な調査隊の投入と帰還を経て、六人だろうと七人だろうと、それこそ百人以上だろうと、帰ってくるのが五人以下、という経験から、「最大五人」という人数で、「徒歩で移動できる場所」を最低限だけ探索するのが、迷宮を長く探索する際の鉄則になったという。冒険者を目指す初心者にたいして、最初に「徒歩で歩ける場所」の地図だけでよいと指示するようになったのもこれが原因だとか」

「へぇ、なるほど。五人の方は知っていたが、地図の製作範囲が限定されている理由がそんなだったのは知らなかったな。確かに、「歩ける部分だけでいい」って最初に強調して言っときゃ、わざわざ他の部分を歩いてまで面倒な部分を書き出そうとする奴はいないだろうからなぁ」

「土の掘削なんていうのは元々、エトリアどころかどこの地域でも許可制ですから普通やりませんしねぇ。いやぁ、上手いやり方だ」

 

サガとピエールはダリの言葉にしきりに感心の声を上げる。私もおもわず、「はぁぁぁ……」と長く間延びした声を上げさせられた。いや、歴史というものは何処にでもあるものだなぁ。

 

「……ダリ、それで、その「探索人数限定」と「迷宮探索範囲指定」のルールが、エミヤだけに魔物が集中する状況と、どう関係しているのだ?」

 

そんな中、ただ一人、シンが疑問の声をあげた。ああ、そういえば、元々は魔物が一人に集中する理由を尋ねていたのだった。ダリの答えは、調査隊が魔物によって全滅させられた事実よりいくつかのルールが生まれた説明にはなっているが、エミヤにだけ魔物が群がり、ほかの冒険者がほとんど無視されている理由になっていない。シンの疑問はもっともだ。

 

「わからないか、シン。先程サガが、言っていただろう? エミヤの地図はまるで俯瞰したかのように、精巧なものであったと。加えて、単独で魔物を避けてさっさと進もうとしているというの仮定が正しいなら、答えはおそらく……」

 

ダリは静かに上を指差した。それの指し示す意味は、私にも読み取れた。

 

「なるほど、あいつ、まさか、木の上を行っているのか」

「おそらくな。一般に魔物は多くの場合、地上近くに現れる。蛇や羽虫はともかく、狼、土竜、鹿などの四足動物は地をゆくからな。加えて、エミヤは迷宮初心者と聞く。そしてこの新迷宮の一層において、襲いかかってくる魔物は殆ど地面からだった。その事実から考えるにおそらくこうだ。彼は敵と戦う煩わしさを避けるため、樹木の上を進む事にした。しかしその行動が先の「歩行可能範囲」ルールに抵触し、だからこそ、迷宮内の多くの魔物が彼の方へと寄って行ってしまう。その恩恵を受ける形で、私たちの方へは魔物が寄ってきていないのではないか、というのが私の推測だ」

「はぁー、なるほどなぁ……。しかしこりゃ思いつかんわ」

 

サガが大きく感心の声を上げる。シンもピエールも、もちろん私も同じく感心して彼の話を聞いていた。頭でっかちで理論先行の部分もあるが、思考は彼の得意分野だ。疑問を投げかけると、豊富な知識から、それらしい結論を導き出してくれる。他人の感情が絡まなければ、彼はとても頼りになる男なのだ。

 

ダリの返答に、シンは深く何度も頷いて納得を露わにする。

 

「なるほど、あるいは単独で番人を倒す実力のある男だからこそ、なのかもしれないな」

「……どゆこと?」

「それだけの実力があるのだ。もしかしたら彼はその説明を受けていて、しかしなお、樹木の上を行っているのかもしれんと思ってな。そう、その場合、おそらく彼にとって、その程度のことは「普通の人間が出来る範疇」なのだろう。実力が高く、木の上を軽々と行けるだろう事を、しかしそれが異常だと把握できていない。だから、そうだとしたら、上をいくという選択肢を取ったとしても納得が出来るだろう?」

「なるほど、無茶苦茶だけど、お前らしい結論だわ」

 

サガが違った意味での納得を見せる。その時だ。

 

「――――――来たか」

 

シンは呟き、静かに気配を鎮めた。彼の意を察知して一同が一斉に戦闘体制へと移行する。サガは巨大な鉄籠手を解放させ、ピエールは乱れた服装を整え帽子を深くかぶり直し、喉元を何度か優しく摩った。シンはパチンと鍔を鳴らして刀身を微かに露わにし、ダリは盾を構えながら猫背気味の前傾姿勢になる。

 

わたしは彼らに少しばかり遅れながらも、すぐさま道具を取り出せるように袋の口を解放させて、手を突っ込んだ。道具の配置を確認するためそれぞれの感触を確かめながら周囲に注意を配っていると、サガと目があった。彼は白い歯を見せつけるようにニッカリと笑う。

 

「動き、滑らかになったな」

 

褒められた。認められたという感覚が胸の中を擽って、こそばゆい。

 

「まだまだ、だがな」

「まだまだですけれどねぇ」

 

ダリとピエールが気の削がれるような事をいう。一聞にして嫌味のように聞こえるが、ダリにとってそれは悪気あって言っているのでなく、前よりは成長していると認めてくれているのであり、ピエールもやはり同様なのだ。私は最近、ようやく彼らの裏に隠された感情が読み取れるようになって来た。……気がする。

 

「響。フォーススキル、行けるか? 」

 

シンが流れを気にせず、そんな事を聞いてきた。相変わらずシンは戦闘のことしか頭にないが、その徹底して空気を読まない態度でこちらを頼りにしてくる態度はとても潔く、心地よかった。私は体の調子を確かめると、今まさに最高の状態であることを確認して頷いた。

 

「はい……、はい大丈夫です。やってみます。お望みとあれば、最初にぶっ放します」

「ではそれで行こう。羽虫系統、小さいのメインだったら香で状態異常。大きい場合は糸で行動阻害。判断が難しい場合は、ピエールに聞いてくれ」

「わかりました」

「ピエール、聞いての通りだ。サガ、ダリ。彼女のフォローは任せた」

「お任せを」

「あいよ、了解」

「承知した」

 

皆の言葉は力に満ちていて頼もしかった。期待に背を押されるようにして、各種香と縺れ糸を撫でる。敵の来るだろう方向に当たりをつけて、シンが視線と柄の先を向けた。意識を集中させると、羽が空気に擦れる音が重複して聞こえてくる。

 

―――そうか、羽虫の群れか。

―――なら香で

 

鞄の口を開けて複数の香を取り出すと、意識を集中させて能力を引き出す準備をする。人をはるかに上回る大きな体躯の魔物であっても、一息吸えば盲目、麻痺、睡眠、混乱の混じった調合の香は、人よりもはるかに小さい羽虫に対してであれば、驚くほどの効果を発揮し、敵を確実に石化させてくれるだろう。

 

ただし、敵を石化させる香は複雑な調合により非常に不安定な状態であり、それゆえに風向きを読んでの調整は難しく、また、身体能力の低い私では、基本広範囲の対象に向けての使用はできない。そう、それこそがツールマスターが準戦闘職である理由。

 

ツールマスターは集中してやる事で、一つの道具が確実に効力を発揮するように使うことはできるけど、その反面、身体能力や反応速度が低いから、戦闘中に道具を適切に使うことができず、例えば戦闘職の彼らが使えば広範囲に効果を及ぼすようなものであっても、一つの対象にしか使ってやることができない。

 

その身体能力と反応速度の違いが、戦闘職と準戦闘職を分ける確固たる証明。だから、常に複数の魔物に対処しなければならない迷宮において、ツールマスターという職業は、転移装置の手入れや、携帯磁軸の調整などの場合以外ではお呼ばれがない、準戦闘職なのだ。

 

けれど、今、私の神経は他人の感情の機敏に気が付けるほどに研ぎ澄まされているし、真意を見抜けるほどに落ち着いている。本当に初めの頃、最初に行われた旧迷宮四層における戦闘の連続で私はそこいらの冒険者に負けない身体能力を手に入れた。

 

そして、よほど、集中できている時―――いわゆる、フォーススキルを使える状態であれば、私はどんな道具だって、その効力を最大限に、適切に発揮させてやることができるのだ。

 

―――いける!

 

確信を抱いた数旬の後、果たして敵は現れた。威嚇的な形状と不愉快にさせる容貌が混ざった彼らを視界に収めた瞬間、私は香をカバンより取り出してフォーススキルを発動させた。

 

「イグザート・アビリティ!」

 

声高にフォーススキル名を叫ぶと同時に、発揮した石化の力は広範囲に散って魔物の群れに襲いかかる。それは開戦の狼煙となって、私たちは一斉に行動を開始した。

 

 

世界樹の新迷宮

二層「蠱毒の大密林」

六階「偽りの愛を植え付けられた少女が裏切りを犯した場所」/「土と共に生きる少年が剣聖に魅了された場所」

 

 

視界が赤に染まる。石碑より転移した体が、世界樹の迷宮二層六階に屹立する紫柱の前に広がる大地を踏みしめると、即座に足を動かして探索を開始する。探索は二層だけに限定しても、これでちょうど四回目。此度こそはなんとしてでも迷宮の番人を倒し、三層へと突き進んで見せようと、他でもない己の心に誓ってみせる。

 

脳裏に広げた皮算用ではとうの昔に三層を攻略しているはずだったが、なるほど、やはり世界樹について狐狸程度の知識しか持たぬ私では、予定通り上手くいかないのも無理はない。

 

例え獣であろうとも、かのギリシャの大英雄や気に食わぬケルトの英雄、絶望的にソリの合わぬメソポタミアの英雄王が持つような神性でも得て、正一位にでもなれるのなら話は別なのだろうが、あいにく元々、裏技的な手段で単なる人より英霊へと昇格しただけのこの身は、彼らの様に信仰を得られるほどの華々しい活躍を世に残せていない。

 

あるいはこれより奮起して、剣の解析と投影に秀でた魔術の特性を活かし、武器職人の道でも進み極めてみれば、あるいは金屋子神の末席には加えてもらえるかもしれないが、まぁ、こんな穢れた魂の男は、精錬という金属の純粋さを極める神聖な領域に相応しくはないし、荒ぶる神として禁足地に祭り上げられるのが精々の末路だろう。

 

「――――――ちっ、早いな」

 

くだらぬことを考えんがら、樹々の間を縫う様にして迷宮を翔ぶが如く進んでいると、すぐさま知覚が邪魔者の存在を感知した。五感と六感を発端とする信号は正常な進行を妨げるノイズとなり、肉体は否が応でも探索より戦闘の体制へと移行させられる。

 

魔術回路を強めに励起させて、進路を塞ぐ様にして陣取る敵の詳細を感知すると、いつもの毒虫が前後左右上下天地にまで群れて待機している事を理解させられた。

 

半球状に群れなす毒虫共はまるで茹で上がった釜の様だ。具材となる素材は飛び込んで仕舞えば、後は捕食者に喰われるまで身を任せるがままにするしかない。食材をいかにして調理してやろうと考えるのは得意分野であるが、己が調理をされる側に回るのは御免被る。

 

ぞっとしない結末を避けるために、強めに強化を施した足で太い木の幹を強く思い切り蹴り飛ばす。前方に進む運動エネルギーがそのまま負荷となり、内臓が押され、気持ちの悪い浮遊感が体を襲う。胃袋の内容物をぶちまけるほど柔な作りの体ではないが、強化された肉体でも体内を漂う空気は抑える事が出来ず、食い縛った口の端から、しぃぃぃぃ、と呼吸が漏れていく。

 

空中でくるりと身を翻して体の前後の向きを逆転させると、一目散に前進する。一瞬の後、背後より先ほどまで自分がいた場所の空気を何かが通り抜けた音が聞こえた。探索当初は初撃に挑発を挟んできた奴らも、最近は遠慮というものを忘れてしまったようで、こちらの姿を見つけると、嬉々として己の誇る武器をぶつけてやろうとしてくるようになっていた。

 

無作法の行いを無視しながら、脳裏に刻まれた地図の情報を最新に更新して、使用不可能となったルートに大きくバツをつけると、儃佪を避けるため、即座に迷宮奥地へ向かう次の探索進路を定め、迷わずそちらの方向へ身体を転換させる。

 

敵は多く、密林の隙間を埋め尽くすほど、まるで進路を塞ぐ様に湧き出てくるが、広大な空間体積を誇るラビリンスの隙間を全て埋める事ができるほどの数はいない。いや、もとより、そんな生態系を壊すほどの数がいるはずもないし、一気に出現するわけもない。はずだ。

 

ともあれ、迷宮が広く大きい、という事は、それは私にとって長い旅路を約束する不幸な事実であり、敵との戦闘を避けやすい幸運な事実でもあった。私は多大な不幸と幸運を携えながら、迷宮を進撃する。

 

 

世界樹の新迷宮

第二層「蟲毒の大密林」

第十階「全てを失った女が出会った伴侶と愛を誓い合った教会」/「空位に至った亡霊が望みをかなえた山門」

 

 

視界に痛い赤の密林と、肌に粘りつく空気を裂いて、迷宮の九階を飛び回る事を丸一日ほど続けると、密林の低い場所にある短い木の下に隠されていた水路を抜けた先に、ようやく十階との出入り口を発見する。そこをくぐると、二層十階というものは思ったより狭く、二時間ほども逃走と疾走を繰り返すと、すぐさま最奥に位置する、番人の部屋の前の白無地の門と壁にたどり着く事が出来た。

 

そうして周囲の赤との協調を拒む病的なまでの白き扉の前まで来てやると、今までの喧騒と乱痴気騒ぎが嘘の様に門前は静けさを保っていて、疲れた体を休ませるに適した場所へとなっていた。

 

……門の向こう側よりひしひしと伝わってくる、不愉快を隠そうとしない気配が漂っているのを無視すれば、の話であればだが。

 

門の向こう側から番人だろう相手がこちらに飛ばしてくる敵意は、女の妬み恨みを思わせる粘着質を保有していて、そのドロドロとした怨念が門と壁より一定の距離の空気を澱ませ、群がっていた魑魅魍魎を祓ってくれているようだったのだ。

 

その凄まじく恐ろしい冥漠とした感覚は、無生物であるはずの蔦も苔も埃塵もが情念を嫌って、門も壁もが汚れひとつ見当たらほどの潔癖さで白さを保っているといえば伝わるだろうか。

 

とはいえ、そのおどろおどろしい様が群がる敵を退け、門前に安全な空白地帯を作り出しているのだから、番人戦に備えて薬などを使い、準備を整えている今この瞬間だけは、門の向こうにいる奴が放つ気配の迷惑有難さに感謝せざるを得ないだろう。

 

―――まぁ、これからそのありがたい存在の排除を積極的に試みるわけではあるが。

 

さて、一層の番人が層の中で一番強い魔物の長である様な姿をしていたのだから、此度もおそらくは同じだろう。とすれば二層の番人の姿として一番あり得そうなのは、巨大な羽虫だろうか。なら装備は、道中と同じこれでよかろう。

 

そうして胸元にしまいこんである品の表面を撫でる。この度身につけてきた装備品は、鬼の護符、と言う名の状態異常を防ぐアクセサリーだ。符には大きな角と牙を持つ四角顔の鬼が厳つく口を開けて威嚇しているのが、紅を用いて白紙に刻まれている。

 

紋様を変えれば攻撃の力を上げてくれるときいたが、この毒虫蔓延る迷宮においてはこちらの方がいいと判断ししたため、そうしてもらった。

 

護符は双剣に刻んだ魔除けと聖骸布の加護とが持つ魔除けの効力と合わさる事で、大抵の状態異常、すなわち、盲目、毒、麻痺、石化、混乱などの異常を防いでくれるありがたい代物だ。タリスマンやバングルと同じく値は張る代物だったが、命に代えられる程ではない。

 

魔を払う護符は、よくある姿として効力とは対称的に禍々しい姿をしているが、威嚇的な姿で悪を祓おうとするのはよくある手法である。悪をもってして悪を討つ、という点に、似た者同士というシンパシーを感じて表面を撫でると、頑固さと異常を拒む性質を表しているかの様にごわごわした紙質が、同類を歓迎するかのように優しく皮膚を擦る。

 

戯れも程々に、番人と対峙する前に道中で乱れた身だしなみを整え汗を拭き、体の疲れを持ち込んだ薬剤で取り除き、事前にいくつかの装備品を投影する。生み出した双剣を腰に携え異常に対する守りの備を強化すると同時に一手分の短縮を行う。

 

そうして守りが万全である事を確認すると、一層の番人を倒した際に使用した黒塗の洋弓と宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」を投影し、番えて構えた。前回は馬鹿正直に門の中に踏み込んでしまったため苦戦を強いられたが、此度はそうはいかない。番人の姿が何であれ、門の外から、速攻の一撃で決める。

 

決心とともに、はしたなく扉の下側に足をひっかける。ここに来るまでに溜まった鬱憤を晴らすかのように、少し強めに足裏で押してやると、ピタリと閉じられた門が両扉ごと綺麗に後ろに引くのを確認。

 

同時に、此方も身を引いて弓の弦を引く力を強める。改めてノッキングポイントに捻れ剣を番えなおすと、魔力を込めて射の構えをとる。一度経験した作業は、スムーズな行動を可能としていて、以前より手間取る事なく、滑らかな動きで作業は完了した。限界ギリギリ迄魔力の込められた矢は力を撒き散らす事なく身を震わせ、雷霆鳴り響く直前の気配だけを漂わせている。

 

「――――――、ふん、やはりか」

 

そうして開いた扉の向こう、はるか先に現れたのは、曲線に尖った身体を様々な色で雅に彩った、玉虫の群れだった。その大きさは私の常識の範囲内に収まる小さなものだったが、その数があまりにも異常だった。

 

部屋の中心に浮く、直径三、四十メートルの球体の表面が色鮮やかに蠢く様から想定するに、千万匹を下らない数がそこに潜んでいるのだろう。中までぎっしりと詰まっていると考えると、下手をすれば億すらも越しているかもしれない。あれが如何なる手段でその生態系を保っているのかはしらないが、あの数が敵に一斉に襲いかかる姿を想像すると、それだけで身のあちこちが痒くなる。まさに蝗害だ。

 

だがこれなら殲滅は容易である。濃淡鮮やかな緑水色に光る奴らが、たとえその色と等しくエメラルドほど硬度持っていたとしても、宝具と呼ばれる兵装の一撃を耐えられるはずはないし、範囲外に半径百メートル程度までなら宝具の崩壊による熱の一撃、すなわち、「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」による追撃で焼き払う事が可能だ。

 

また、仮に奴らが鮮やかな警戒色が示している様に即効性の毒を持っていて、爆発により離散するだろう毒液、体液が、護符と魔術的防護による守りを貫けるほどの強毒や強酸を持つとしても、五百メートルほども距離があるここからであれば、大した余波を受けずにすむはずだ。後はこの距離から射撃と宝具の織り交ぜにより潰してゆけば、手間かもしれないが安全に戦闘を終わらせる事ができる。

 

算盤を弾いて利害を算定すると、自然と決意も固まった。後は一撃でかいのを叩き込んで、さっと瓦礫を除去するだけの作業に過ぎない。

 

「――――――、……ぅ」

 

宝具の真価が発揮するには名を呼ぶため必要がある。発音のため少しばかり息を大きく吸い込むと、瞬間、敵の群意がこちらに向いた。だが遅い。

 

己に近づきつつある死の気配に気がついた彼らは、開きつつある扉のはるか向こうで、球体となっていた緑球体の表面を激しく波打たせる。私は攻撃の瞬間がわからないよう、濃厚に殺意だけを放ちながら、しかし攻撃の気配を殺してやる。

 

濃密な殺意を球体に叩きつけるは風船に突き立った針を引くに等しい行為であった。殺意の針により空いた大穴から、玉虫が硬い羽音を立てて飛び出した。その光景に屍肉に群がる蝿群のそれを思い出して、多少集中が害される。

 

―――だが、問題はない。こちらの一撃を止めるべく最短の距離を進む敵群の動きは直線的で、矢を放てば巨大蛇の如く薙ぎ払えるだろう。ならば……!

 

「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ!」

 

切っ先を進軍する群の先端に向けて真名と共に一撃を放つと、弓より放たれた雷霆をあげる極細の竜巻が、周囲の空間を捻る切りながら、迫る虫をもかき消して進んだ。刹那の後、球体の中心に到達するだろう宝具を崩壊させ、虫をもろとも焼き払うべく、世界に意を伝えようと声をあげる。

 

「壊れた/ブロークン―――!」

 

口より溢れた声が意思を伝え切る直前の瞬間、強化された眼球は、虫の密度が薄れた球体の奥に、異端を見つけた。それは七色に輝く玉虫色の中にあって、毒々しくも柔らかな高貴さを放つ藤色の何か。正体不明の悪寒が背筋を貫く。直感が攻撃の中止を訴えて信号を発するが、喉元は既に意に反して震えて、残る音声を世に生み出していた。

 

「幻想/ファンタズム―――!」

 

直後、爆発。―――そして背後に気配。

 

「なぁ―――」

 

前方に向けて大きく跳躍。背後より虚空を切り裂く三条の光を避けられたのは、偏に、異変を察知した感覚が警戒を密にして、周囲の空間の異常を捉えたからだ。戦闘経験が導き出した警告が遅れて頭に鳴り響く。だが、その正体がわからない。

 

考える間もなく続けて背筋を悪寒が襲い、自然と体を前に逃走させる。背後より追いかけてくる空気を裂く音が、足を止めてその正体を確かめるべく振り向くことを不許可し続けていた。

 

―――まずはこの連撃をやり過ごさねばなるまい……、あれだ!

 

己の起こした爆風によって生じた土砂入り混じった風が、部屋の中央から迫りつつある。数秒後、迷わず前方より風に運ばれ来やる土砂壁の中に飛び込み、砂塵に身を隠した。宙に吹き荒ぶ石土は己にとっては小さな障害に過ぎぬが、僅か数センチの体積しか持たぬ敵にとっては、巨岩が舞うに等しい嵐なのだろう、そこで漸く敵の目を撒けたようで、背後より迫っていた攻撃が一時的に止んだ。

 

安堵の息が漏れる。呼吸と共に、散布する土砂が口に飛び込んで、味蕾が要らぬ土の味を感知する。血潮の鉄気を帯びていなかっただけでも有難いと思うべきなのだろうが、不快だ。腕布を口元周辺に当てて、鼻と口元からの侵入を防ぐも、面倒見きれない耳孔に砂が侵入し、鼓膜を掻きならす。不快さが増した。

 

しばらくそうして呼気を整えていると、土煙が薄れて行く。晴れてゆく砂塵に中で、気を入れ直して周囲の気配を探ると、己の周囲に緑の線が幾重にも張り巡らされていることに気が付いた。球を解いた虫どもが、獲物を逃さぬようする為、煙を中心として半球に取り囲んでいたのだ。

 

「―――ちぃ!」

 

互いが土煙より敵の姿を視認した途端、玉虫たちは攻撃を再開した。地を蹴り、即座に現所より離脱。蠢く球内殻の面から玉虫が針の如く次々飛び出たかと思うと、直前の瞬間まで私のいた空間を弧なる翡翠色の刃が軌跡を残して、土煙に跡を残しながら去って行く。先程の攻撃はこれか!

 

回避をするも、避けた先に次なる刃が置かれていた。強化した筋繊維と反射神経に任せて強引に身を捻り躱す。しかし、その先には更に飛燕の如き速さで飛ぶ刃が配置されていた。

 

―――避けきれんか!

 

腰に当てていた双剣を逆手に握り、首元を狙う玉虫色の刃の進行に合わせて黒白の双剣を交差の比翼にして突き出し、防御を試みる。楔型を取った双剣は敵とかち合った刃は耳障りな鈍重音を立てて幾分かの玉虫の流れを逸らすことに成功し、幾ばくかの敵を切り裂くが、散弾となった敵を防ぎきるにはとてもではないが、面積が足りなかった。鍛え上げられた細き刀身の真横を数センチの弾丸通り過ぎ、流れの先にあった両手の聖骸布に亀裂が走り、素肌の頰と左右の首筋に赤の線が幾筋も走る。

 

直線に走ったが線は、失態の代償の痕だ。遅れてやってきた痛みに続けて、痕を撫ぜるように痒みが走るが、それは傷口が生きている証だ。毒も……、ない。大丈夫だ。

 

どれほどの裂傷がついたのか確認する間も無く、三つの刃が再び同時に繰り出され、散弾で構成された刃は再びこちらの命を刈り取ろうと、車のエンジン音にも似た羽音を立て迫りくる。

 

―――だが、遅い

 

同じように繰り出される三つの連撃を最小の動きで回避する。繰り出される玉虫の刃は決して早いわけでなく、忠実に同じ行動が繰り返されるばかり、かつ、体崩しと不意打ちが組み合わさった心の隙を突く攻撃で、それはまるで意思のない暗殺者の一撃のように機械じみていた。

 

―――なるほど、大したものだが、相性が悪かったな。

 

体を崩し上下の回避方向を固定するため繰り出される横薙ぎを身を沈めて避け、左右の回避方向を決定付けるための唐竹を地を這うような格好で避け、死角から繰り出される首への刺突を剣に突き立てた刃の制動によって避ける。敵の動きを計算に入れての連撃は見事だが、私を仕留めるには速度の見積もりが甘すぎる。

 

敵の戦術は、質を補うため数の優位と未来予測に頼った、いわば弱者の戦い方だ。見下すつもりなど毛頭ない。隙を作り出して活路を見出す戦術は私もよくやる手法であり、敵ながらに親近感すら覚えてしまう。だからこそ、相手の行動の予測が手に取るようにわかるし、そのような相手に負ける気はしない。

 

―――とはいえ

 

回避は可能だが、有効となる反撃の手が思いつかない。おそらく、あの異端たる宙を飛ぶ藤色の蛇がこの玉虫どもの親玉であり、あれをどうにかすれば硬直した状況を好転させられる予感がある。

 

だが。

 

「ち、届かんか」

 

攻撃の隙を見て投影した剣を蛇目掛けていくつも投擲するも、大抵は玉虫の壁に敗れて弾かれるし、通り抜けた所で、蛇は転移をして別の場所に消えてしまう。なるほど、突如として玉虫の群れが私の背後に現れたのは、こやつの仕業かと直感する。

 

攻撃の正体と敵の情報が揃ってきた所で、対策が思いつかない。いかんせん、飛燕の連撃を避けながら、視界すら遮る厚さの敵の虫条網を抜けて、飛翔に、恐らくは転移までこなす敵を攻撃する有効な手段が思い浮かばない。

 

―――どうするか……、ん?

 

悩む間にも敵の一撃の速度が上がっていることに気がついた。先ほどまで避ける事の出来た速度での回避が叶わない。強化を重ねがけしながら識を巡らせると、敵の敷いた陣が縮こまっている事に気がついた。

 

―――やってくれる。

 

己を中心とした半径二十メートルの空間は、内部の核となる敵を確実に仕留めるべく、距離を詰めていた。惨殺か、圧死か。手をこまねいているままでは、運命が決まってしまう。全方向の敵との距離が狭まる中、縮まる半円空間内部を三筋の緑光が煌めいた。

 

両手の甲と頰と首にさらにいくつもの筋が走って、赤の雫が溢れて舞う。痒みはもう痛みを帯びて、頬と首より流れる服の胸の方にまで血が流れ込んでいる。もはや猶予はない。近づく刻限と極限の状況は、己の魔術の真髄を思い起こさせた。あまりにも想定外であるが、仕方ない。

 

―――切り札を使用する

 

数秒後、雄叫びとともに空間を割く鈍色の光が一面を走りぬけ、世界はその姿を一変した。

 

 

私は近くに穏やかな水源があり、周辺を腐らぬ程度に草木が足元の一帯を覆い、少し離れた場所に行けば樹木林の広がる山が広がる環境で生まれ育った。天気が荒れることはほとんどなく、凪の様な静けさが特徴といえば特徴になるだろう、これといって特筆することの無い、閑静な村だった。エトリアという街から、迷宮という余分を引っこ抜けば、ああなるのだろう。

 

辺鄙な場所に位置し、近くに迷宮も何もない静かな村には、冒険者が訪れることはまず無い。穏和な人格の者ばかりである為日々は穏やかに過ぎて行く。諍いは少なく、勃発したとしても、スキルという日常発生しうる全ての不足をカバーする存在が、決定的な損失になりうる取り返しのつかない事態が発生させないので、諍いの原因はその内なくなってしまう。互いに気の置けない人間が集まっているのも大きかったのだろう。

 

―――障害がない。幼い頃よりそれが不満だった。

 

私は、スキルと身体能力において、他者より秀でた才があった。ただでさえ不満のない生活に過剰な能力が与えられたならば、それは余裕を通り越して退屈となる。同種の経験と苦労があるからこそ、相互理解に繋がる。周囲より優れた能力を持つ私は、優れているが故に他者と話が合う筈もなく、十になる以前に手の届く全ての範囲の雑事をこなせる様になっていた私は、十になるより以前、早々にして人生に飽いていた。

 

さて、飽いたとはいえ、残りの生涯を文句だけで過ごすのも馬鹿らしいと考えた私は、己の進行を妨げる障害を求めて、あえて物事に力一杯取り組むという事を生活の退屈を紛れさせる趣味として生きていた。

 

退屈の中、いつかは自らの力では解決不能である難題に出会えるだろう事を懸想する日々。転機は数年に一度ほどの頻度で発生する、草食動物の大量発生時期に訪れた。

 

増えすぎた動植物は、放っておくと翌年以降の食糧事情に影響を出す。同年代の中でも身体能力に優れていた私は、村長より、増えた草食動物を処理する為に訪れる数人の冒険者たちの補助を依頼されていた。

 

普段おとなしい相手とはいえ、争いとなれば荒々しい抵抗を見せるし、数増えて群をなせばその分脅威度は更に増す。数人の人間で、数百越す動物を狩る。それは明らかに、無理難題なものだった。だが、村長は彼らならそれが出来ると信じてやまない態度だった。

 

難題を求めていた私は、村長の信頼を不思議に思った私は、当時、冒険者という職ではなく戦闘用スキルというものを使用出来なかったが、それでも狩りも、解体も、食肉加工も、鞣しの経験も持ち合わせていたため、十分やれると判断し、承知の返事を返す。

 

次の日、村長に指定された村の広場に行くと、いたのはブシドー、パラディン、アルケミスト、メディック、カースメーカーが一名ずつだった。彼らは弓も銃も持たず、杖と剣と刀と盾ばかりを持った、とても狩り人に見えない集団だったが、彼らを目にした瞬間、村長が信頼して任せた理由が理解できた。

 

彼らならやれる。およそ一度たりと外した事のない自らの直感がそう告げたのだ。合流直後、外部より招き入れた彼らとともに草食動物の狩りを始める。

 

雌の気をひくための装飾角や、重い身体を支えている強靭な四足の一撃を避けるためには、不意の一撃で全員を仕留められるのが一番効果的だ。だが群れている場合は、その手法は不可能だ。少しずつおびき出して処理する事も可能であるが、警戒心を抱かれて途中からうまく行かなくなるに違いない。

 

平原を呑気に歩く草食獣の群れを前にして、さて彼らはどうするのだろう、と期待を込めた視線を送っていると、我々の殺意に敏感に反応した獣が、一斉に立ち上がった。

 

私はその時、初めて絶望というものを知った。

 

平原を黒に覆い尽くす獣は、数百どころか、三千―――数は後で知った―――を超える数がいたのだ。私が見たのは、その一部でしかなかった。

 

そうして私が当時は理解不能だった感情に襲われていると、怯える私の頭をその籠手を装着した腕でガシガシとなでて、ひとりのブシドーが前に出た。彼は刃を腰鞘に収めたまま、中腰の姿勢で構える。

 

―――何をする気だ

 

答えはすぐに示された。彼の放った一撃によって、眼前にいた草食動物は全て死に絶えた。それが私の原点。冒険者という職業を目指すきっかけ。そう、あの時彼の放った強烈な一撃は、私の寤寐に塗れた日常をも切り裂いて、私を俗界に引き戻してくれたのだ。

 

 

「――――――」

 

在りし日を思い出したのは、私の常識が再び切り裂かれたからだろう。言葉が出なかった。眼前にて繰り広げられている戦いは、それほどまでに私の知識にある戦闘とかけ離れたものだった。

 

ウォンウォンと耳障りな低音を上げる百万を優に越えるだろう翡翠虫の球の中は、土砂の赤と弧の緑の光に満ちている。光は才ある近接職がようやっと追いつけるほどの速さで動く玉虫が繰り出す体当たりが連続して起こっているものだった。加えるなら、瞬間の光が実は三連であると捉える事が出来るのは、この場において私以外にいないだろう。

 

この場にいるのは、一人を除けば、歴戦の強者である。エトリア中を探しても、私たちほど熱心に迷宮探索に取り組んでいるものはいないだろうし、熱心に取り組む輩の中でも飛び出たギルドという自負もあり、事実として、私と彼らは強い。

 

だが、その我らをしても対応出来ないかもしれない程の戦いが目の前で繰り広げられている。その事実は、私をひどく興奮させ、そして、彼らと彼女の意識を奪っていた。

 

緑球の檻の向こうで強者が舞う。彼は繰り広げられる連撃を軽々といなしている。周囲全方向から繰り出される斬撃を、一度たりと正面から受けることなく、身のこなしと予測にて最小の動きで避けるその様は、「見事」の一言以外で表現する事が出来ない。

 

ブシドーとして頂に近い実力を持つ自負はあるが、その私がピエールや響に強化されたとて、彼のような動きはできない。私の動きは動物のそれに近く、己の直感を完全に頼り、反射に任せたからこその動きであるが、彼のそれは、どちらかといえば、ダリのような、思考に基づき計算されつくしたものである。

 

肉体の反射のみで戦う利点は迷いを捨てられることにあり、欠点として一切の迷いがないので行動を見切られやすい性質を持つ。対して、思考を中心に戦闘を組み立てる戦闘方法は、行動を見切られにくい安定の利点を持つが、思考にて迷いが生まれた瞬間や、戦術を切り替える最中に隙が出来るという欠点を持つ。二つの戦闘方法は氷炭なのだ。

 

通常相反する性質の戦闘方法を、しかし彼は見事に融合させた戦いを行なっている。ダリの思考が直接反映された状態で私が動いている様なものなのだから、なるほど、強くて当然だ。

 

「……ん?」

 

どれほど呆然としていたのかわからぬが、眺めているうちに異変に気がつく。中で剣を振るう男が焦燥の様を見せている。何故だろう、と考える前に、気がついた。彼の姿が見えにくくなっている。球が縮小をしているのだ。

 

助けなければ、彼は死ぬ。思った時には体が動いていた。前に出た肉体は自然と鞘から刀を抜き、上段に振りかぶった状態で突撃をしている。なるほど、直前に見た過去は、これを予兆していたのだ。

 

思考を排除して、感覚を研ぎ澄ます。エネルギーを余すことなく行動へと回すと、丹田に溜まっていた力に気がつく事が出来る。フォーススキル使用可能を示す合図だ。

 

気付きと瞬きの間に、既に体は数十メートルも進んでいる。上半身より力を解いて、弛緩させる。必要なのは繊細な体捌きではなく、心持ち。己は必ずその現象を起こせるという確信があってこそ、フォーススキルは現に絶大な現象を発揮する。

 

かつて百を越す草食動物の群れを一刀の元に斬り伏せたブシドーがいた。彼は今の私よりも劣る実力と、はるかに劣る武装しかもちえず、とても三千の獣を倒せるだけの条件など整っていなかった。

 

しかし、彼は、いや、だからこそ、己の実力以上を必要とする難題に挑める事を喜び、にぃ、と両の口角をあげ、楽しんだのだ。あの時、あの瞬間、彼が魅せた快楽を抑えきれぬ表情は、今でも私の心底に張り付き、褪せぬ指標となっている。

 

羨ましい、と今でも思う。冒険者になってから、彼を上回る実力を身につけた私は、しかし、一度たりと、百を超える群れを一刀の元に斬り伏せる所業を越す事が出来ていない。

 

だが、今、その機会が転がり込んできたのだ。眼前に群がる玉虫の軍勢は質こそたいした事ないが、量はあの時を遥かに凌駕する。如何なる理由があればこれ程までの数が集まれるのかは知らぬが、おそらく球中にいる彼が関係しているのだろう。

 

―――確か、エミヤという名だったか。

 

心中で最大限の感謝送りつつ、次の瞬間にはそれすら排して、身体の燃料と化す。

 

あとは数歩。球体は近づく私を脅威と認識したらしく、球外殻の表面に高波が生まれ、羽虫たちは円錐状のトゲとなりつつある。だがその程度、何の問題にもならない。いける。確信は力となり、極限まで研磨された感覚は、私と敵以外の紛たる存在を排除し、世界は窮屈さを無くして光闃たる姿を取り戻す。

 

身体中が不思議な感覚とともに光になる。体は空のように軽い。これだ。この感覚を求めていたのだ。さあ、いくぞ。今こそ望みの時。眼前に存在する全ての魔物の首を叩き落とし、過去に見た憧れの光景を我が手で再現してみせよう。

 

「一閃! 」

 

発声と共にダマスカスの刀身を静かに振り下ろすと、黒白の世界に幾万星霜の赤金色が宙を飛び交い、私を俗界に呼び戻す。数秒後に広がるだろう光景を幻視して満足を得た私は、愚昧にも己が振り下ろした剣の柄を離して、心ごと地面に預けてしまった。

 

 

「一閃! 」

 

誰かの叫びと共に、空中に閃光が走る。赤銅色の線は宙に在った玉虫と混じって深碧色の光景を辺りに広めると、次の瞬間、頭部と胴体の意思疎通を不可とされた羽虫が粛々と落下し、半球のあった場所には翡翠色の村雨が起こる。

 

―――何事だ。誰の仕業だ。助かったのか。

 

浮かんでは消える懸念を中断させたのは、落下する幾百万の複眼と目があったからだ。私の体は攻撃を避けた直後の予想外についてこれておらず、硬直してしまっている。

 

―――非常にまずい。

 

虫の手足は頭部をもいでもしばらく動き続ける。それはすなわち、億万匹の玉虫の胴体が、うぞうぞと手足を無意味に蠢かせながら落ちてくる事を示していた。

 

なによりその数がまずい。四、五階程の高さから落ち来る厚さ二メートルの内外殻は、間違いなく小高い丘程も積もり、二メートルに満たないこの体を埋もれさせるだろう。

 

圧死か、窒息死か。理想に溺れたこの身であるが、蠢く虫共に溺れて無様を晒すのは御免だ。大きく息を吸い込み肺に溜め込むと、覚悟を決めて、落下物の霰に身を飛び込ませる。身体に叩きつけられる虫の身体は豪雨の如く、多分の不快さと共に私の体を流れてゆく。

 

重い。加えて戦闘の相に変態していた玉虫どもの体は硬く、接触部分が石壁に体当たりをかましたように痛む。手足が聖骸布や繊維の上を刷毛で撫ぜながら落ちて行くので、痛みに加えて、背筋にぞわりとしたむず痒さが混じる。最後に、頭部と同の断面より青臭い汁が身体の其処彼処を染めて肌に張り付き、痛し痒し所に臭気、纏わりつき、不快さが混じった状態になる。

 

一秒を零で割ったかのような無限大の不快を我慢しながら、数秒ほどかけて虫の霧を抜ける。感覚が途切れた瞬間を頼りに顔を覆う布を取り払うと、赤い世界が目に飛び込んだ。目に痛い筈の赤をなんとも好意的なものに感じる。開放感が着色されたためだろう。

 

すぐさま視線を下に移すと、足元を落下する虫の死骸が山となり、積もって行くのが映った。あの様子だと、全て死んだか。意識を辺りに配ると、晴れた視界の先、冒険者一行と、藤色の蛇を見つける事ができた。意識的に冒険者達を排除して、いまや眼下となった空中の蛇の方へと注目する。

 

すると、何者かの攻撃によって配下を全滅させられた女王蛇は、なんとその蛇口の中から金毛の羊が姿を表したではないか。驚いたが、そうして真の姿を晒した彼女が己の身に起こった事の理解に努めているのか、配下の全滅に気を取られているのかしらんが、空中でつんのめったまま停止しているのを見て、これはチャンスだと悟る。

 

「投影開始/トレース・オン」

 

詠唱と同時に手中へといつもの黒洋弓を生み出す。まだ羊は動かない。続けざまに、もう一度同じ詠唱をして、一メートルほどの真っ黒い刀身を持つ捻れた外見の剣を生み出した。

 

刺突に適した中心の芯に幾重にも巻き付けた鉄板の意匠は、貫いた敵の部位を少しでも多く抉り取るためのものである。弓に番えて剣に魔力をこめると、矢となった剣に秘められた力が解放されてゆき、余剰が血の赤となり零れ出た。赤は魔術回路の熱が冷やされた際に現れる赤銅色と混じって、空中に緋色の尾を垂れさせる。

 

ゆっくりとした跳躍が頂点に達した頃、空中に撒き散らした熱が伝播し覚醒を促したのか、金の羊があたりを見回して冒険者たちを一瞥した。かぶりを振って辺りを見回したのち、柔らかい上顎を見上げさせて、眠たげな細い瞳に驚愕が現れる。

 

自らの身に迫る脅威を今更悟った所で、もう遅い。十秒程をもかけてチャージした魔力は貴様を射殺すに十分な量を上回っている。此度投影した剣はイングランドの叙事詩に登場する英雄、ベオウルフが使用した剣。

 

銘は―――

 

「赤原猟犬/フルンディング! 」

 

叫び、魔弾を射出する。同時に敵が空間より消え去った。落下の最中、つい、と首を動かして視線を上げれば、先より三百メートルほど彼方の後方の空間に姿を現したのが映る。入り口の時、虫どもを転移させたよう、己の不利を知った羊は矢による攻撃を回避するべく転移したのだ、と直感した。

 

強化した視線は、羊の口元がニヤリと上がるのを捉える。それは思惑が上手くいって勝ち誇っている女の笑みを思い起こさせた。かのようだった。此方の必殺を回避し、仕切り直しに成功したと確信できたのが余程嬉しいのだろう。

 

―――だが甘い

 

赤光を纏った矢は音速を超えた速さで敵のいた空間を食い破ると、地面に接触する寸前で、カクンと折れて遠くへ逃げた敵に鏃の先を向けなおすと、再び一直線に羊の元へと突き進む。一度放たれた矢にあるまじき挙動を見せた宝具は、射手が生存する限り、籠められた魔力が空っぽになるまで追跡し続ける特性を持っている。

 

折れ曲がる異常に気がついた羊は、再び何処かへ姿をくらました。直後、刃は再び奴のいなくなった虚空を通り抜けると、切っ先を羊の転移した先へと姿を転身させて突き進む。曲がった刃の先を目で追うと、二百メートル程離れた位置で、羊は驚いていた。

 

意趣返しが上手くいった子供のような、気分を抱く。すなわち、ざまあみろ、だ。一度目の転移から距離が落ちた事実から察するに、もう長くは持たないだろう、という予想は的を射ていたようで、十秒としないうちに追いかっこは終了し、放たれた猟犬は獲物を食い破り、脳髄に突き立った刃は頭部から上を消しとばす。

 

はずだった。

 

やがて予想外にも蛇の抜け殻が、羊の前に立ち塞がる。まるで身を呈して伴侶を守るようなその姿。蛇の抜け殻の行動に、なぜか羊まで驚いているようだった。

 

抜け殻に迫る緋色の刃。羊は慌てて己の身をその前に転移させると、直後、二匹の獣は仲良く刃に貫かれて、体の半分を消滅させ、空中より落下してゆく。

 

―――今回は、一緒にゆけるか

―――ええ、あなた

 

なぜかそんな幻聴を聞いた。

 

羊の絶命を見届けると、それでも獲物にしつこく絡みつく剣を消滅させて、自然に任せて落下してゆく。下を眺めれば、動かなくなった玉虫の死骸の山が勝者の私を出迎える。少し後に虫山の中に埋もれるだろう未来を想像して、私は深いため息とともに空目した。

 

 

番人の部屋の中にあった、高さ二十メートル程の表面波立つ蠢く緑虫の半球体を見て、私達の思考が停止したのも束の間に、シンが抜刀しながら駆け出した。慌てて皆で追いかけると、次の瞬間には、シンがフォーススキルを発動させていた。疾る一閃は瞬きの間だけ球の緑を深く染めあげて、薄さを取り戻した緑の球が崩れてゆく。瓦解始めの直後、円の中心から赤い男―――多分エミヤという人だろう―――が飛び出した。

 

跳躍した彼は部屋の半分ほどの高さまで飛び上がると、何処よりか弓と矢を取り出して、一矢を発射する。彼の射た矢は、まっすぐと飛び出して、数度の不自然な角曲がりを見せると、遠くで何か……多分、敵を撃ち抜いた。

 

使ったのは「一度放った矢の方向を変化させる」スキル……だろうか。聞いたことがないけれど、きっと他の国の職業スキルなのだろう。

 

敵を葬り去ったエミヤは、地面に落ちてゆく。五十メートルほどの高さから落ちるにしても、落下地点に広がるのは十メートルほど積み上がった虫の死骸の丘なのだから、まぁ、即死はしないだろうが、あの骸の山に全身を埋もれた時の心境を考えると、いっそ死んだ方がましと思わないでもない。自己に置き換えて、少しばかり鳥肌が立つ。

 

たった三秒ほどで彼は虫の山に落着した。虫の骸が空中に舞って散る。虫の死骸は光を反射して綺麗な雫のようにも見えたが、彼の衝撃を受け止め切れず砕けた虫体の破片が飛散して私の顔を叩いたのを切っ掛けに思い直した。綺麗というか、悲惨だ。

 

皆で呆然としていると、突如、その死骸のうちより、数匹の玉虫が飛び出した。その中から彼らはボロボロの小さな体に、けれど静かな意思を携えて、宙に浮かんでいる。

 

「―――下がっていろ、みんな」

 

刀を地面より抜いたシンが上段に剣を構える。それを見て虫の群れは嬉しそうに上下に震えると、やがて静かに空中で停止した。

 

緊張が走る。ブシドーと虫の群れは、なぜか武芸者同士の対峙に見えた。二人はそれぞれ口元と、身振りで薄く喜びを交わし合ったかと思うと、瞬時に風となり交錯する。

 

「ツバメ返し!」

 

シンが叫んだ。焔をまとった剣が目にも見えない三連続で繰り出される。その刃は同様に虫群が瞬間の間に放った薄緑の三連とぶつかり、火花を散らし、あたりに光をばら撒いた。

 

やがて瞬間の光が消える頃、虫は全ての体を燃やされて消えてゆく。勝者であるはずのシンの体には、二つの傷跡がついていた。首から血が流れ、右肩当が半分の大きさになって地面に落下する。

 

―――いやはや、同じ技の撃ち合いに負けるとはな

 

涼やかな声が迷宮の中に消えてゆく。シンもその幻聴を聞いたのか、とても悔しそうに敵を仕留めた刃の柄を握りしめると、宙に向かって呟いた。

 

「何を言う。貴方が万全であったなら、負けていたには私の方だ」

 

誰に向かっての哀悼の言葉かは知らないが、その言葉を笑うかのように、周囲から戦闘の熱が消えていく。やがてその光景と出来事を理解できずに、呆然と周囲を眺めていると、凄惨な死骸の中心からひょいと赤い影が飛び出した。

 

中央抉れた分端が高くなった周りの壁をこともなげなに飛び越えると、私たちの近くへと着地する。音を殺して地面に降り立つまでの一連の動きは洗練されていて、少し見惚れてしまった。

 

赤い外套。黒い軽鎧。白髪を刺々しく固め、鷹のような鋭い視線を持つ、浅黒い肌の長身の男性。纏う雰囲気は、シンなどが持つ歴戦の冒険者のそれで、なるほど、彼が一人で番人を倒したといわれても納得の出来るものだった。

 

「―――、これは君たちの仕業か?」

 

半信半疑、より、警戒態勢に寄っている問いかけ。虫の全滅という現象を引き起こしたのは私たちかと問う声には刺々しさを多大に含んでおり、一切の油断が感じられない。

 

「そうだ、私がやったのだ。―――すまない、邪魔をしてしまったか」

 

寒気すら感じさせる意思がぶつけられる中、シンが平然と一歩前に進み出て言った。邪魔とはどういう事だろうか、と疑問に思ったが、彼の性格から察してにすぐに納得した。彼の戦人としての価値観では、あの場面での手助けは、余計なお世話なのだろう。

 

「―――いや、そんな事はない。君の行動で硬直していた状況が好転したのは確かだ……そうだな、助かった。礼を言う」

 

エミヤは帰ってきた言葉が予想外だったのか、戸惑いながらも礼を述べた。

 

「そうか、それなら良かったよ。エミヤ……で、よかっただろうか」

「……なぜそうだと思った? 」

「何、我らより先に単独で迷宮を攻略しようとする御仁など、一人しか思い浮かばなかっただけだよ。エミヤは、今やエトリアで一番の有名人―――その様子だと、自覚もしているようだが……」

「嫌という程にな」

 

エミヤは腕を組むと、重苦しいため息をつく。気負いが全て徒労に終わった、と心中から吐く仕草はダリのそれに似ていて、なんとなく理知的な人間なのだろうな、と感じた。

 

「私の名はシン。ギルド「異邦人」のギルドマスターで、ブシドーだ」

「エミヤ。……アーチャーだ」

「聞かない職だな。だが先ほどの技といい、練度が凄まじい。何処で修練を積まれたのだ?」

「ん……、まぁあちこちを転々としてな。……そういう君の技こそ見事だった。あれだけの数の玉虫を瞬間に葬り去るとは、並みの手際ではない。鮮やかなものだった」

「そうだろう。私も初めてだったが、結果が出て満足だ。そも、あれだけの敵が集まるなどそうはない事であるし、おそらくあの規模に対して「一閃」のスキルを繰り出す機会を得られたのは私が初めてやもしれないからな。いや実にめでたい。こちらこそ礼を言うとも。それに、その後の一騎打ちも心躍るものだった……いや、負けたのは少し悔しいが、とりあえずは生き残れたのだ。実にめでたい」

 

エミヤは少しばかり困った様子で喜んだり悔しがったり、また喜んだりするシンから目線を外すと、こちらを見た。真っ直ぐにこちらを見る視線には、戸惑いが混ざっている。

 

「あー、エミヤ。気にする事ないからな。そいつのそれ、正常なんだから」

「……バトルマニア、戦闘狂というわけか、了解した。心中察するよ。手綱を握るのにはさぞかし苦労するだろう。……ええと」

「はは、ありがとう。サガだ、よろしく。ところで察しついでに相談があるんだがいいか」

「……内容次第だが」

「んじゃ、単刀直入に」

 

サガはニンマリと口角を上げると、階段の方を指差して言った。

 

「この先多分、樹海磁軸があると思うんだけどさ。俺たちも一緒についてって構わないか?」

 

腕を組んだ彼はサガの目をじっと見つめた後、少しばかり考えこむ仕草を見せると、シンを見て、こちら含む他のメンバーを見て、答える。

 

「好きにするといい。その程度で借りを返せるならお安い御用だ」

「よっしゃ、なら話は早い。あんたの素材回収が終了し次第進もう……、こっちも準備を整えておくからさ」

 

あれよあれよという間に話が決まってしまったが、文句を言うものは誰もいなかった。ダリはエミヤの職を聞いてから顎に手を当てて考え込んでいるし、ピエールも先ほどの戦いか感銘を受けたらしく、目を開いたまま口をぱくぱくと動かして考え込んでいる。シンは何か言いたげな様子だったが、エミヤが賛同したのを見て、何も言わなかった。

 

「わかった。そうさせてもらおう」

 

言ってエミヤは己が撃ち落とした敵の方へと向かう。向けられた彼の背は、鬼神の活躍を見せたと思えないほど、普通のものだった。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第六話 蠱毒のさざめき断つ、快刀乱麻の一閃

 

終了

 



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第七話 揺れる天秤の葛藤

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに〜

 

第七話 揺れる天秤の葛藤

 

正義も悪も所詮は人の感じ方次第だ。

悩んだところで正しい答えなんかでやしない。

 

 

疲れてふと立ち止まり、さて一休みしようかと座り込んだ時、辿ってきた旅路の足跡をうたた寝の中で自由に思い返す作業こそが、夢であるとするならば、その揺蕩う意識の中で、体に刻まれた過去の痛みに悶え精神を苛まれる作業こそが、悪夢である。

 

血の色にまみれた悪夢の中で、もはや何度目になるかわからない忘却の救いによって、誰にも責められる事のなくなった己の罪が刻まれた墓標の前で、咎を求めて白面に語りかけて見ても、刻まれた苦痛の証は悲しげに顔を歪ませるだけで、何の熱も返してはくれなかった。

 

何度目かの悪夢を見た後、私は正義の味方になりたいという目的を、自ら再び否定した。そうして我が胸に戻った熱へ誓ったはずの想いを拒絶してしまったのは、忘却の中に過去の罪悪感を忘れてゆくという行為が、思った以上に自分の中に空白という名前の救済を与え、そうして虚無になってゆく過去と引き換えに手に入る安寧という名前の救いに癒される己が、あまりに醜く感じたからである。

 

その醜悪さは、かつて己が正義の味方として断罪してきた身勝手な人々が持っていた無関心という名前の罪であり、再び正義の味方を目指す己が持ち得ていては決していけないものだった。だから私は、あの日、あの時、自らの心中の歪みに耐えきれず、正義の味方になるという願いを、再び、自らの心中にて握りつぶした。

 

己の心中の変化によって続いているのだろう現象から、逃げるようにして徹夜の強行軍を繰り返し、醜さから目を背けるために赤死病の解決の為と名目を掲げ、果てには二層の迷宮を攻略達成をしてみせたが、しかし、そうして他者の救いを優先したところで、私が自らの救いを求めて過去を忘れたがっているという事実を形にする、悪夢が正しく夢に変わってゆく忘却の救済はいっこうにその手を止めてくれない。

 

己の理想を握りつぶし、自らの醜さから目を背けて他者の救いを優先に活動したところで、個人の救いと他者の救い、その比重をどの程度にすれば、果たして正義の天秤は正しく釣り合っていると言えるのか、その答えはいまだ出てきてくれなどしない。

 

―――きっと、今後も出ることがないのかもしれない

 

 

二層の番人を倒した後のことだ。私が鉛を埋め込まれたかのように重たくなった体をなんとか動かして、足を引きずるかのように己が打ち貫いた蛇と羊の様子を見に行くと、二匹の獣は、体の大半を消し飛ばされながらも、二度とは離れぬと主張するかのように仲睦まじく並んで地面の上に果てていた。

 

その骸に、神前にて愛を誓った夫妻のそれを見つけて、魔物とはいえ、私は思わず二匹の死骸を引き剥がすのを躊躇ってしまった。結局、その死骸の周囲に散らばる、己の射出した剣が散らした、まだ肉の引っ付いた金の羊毛を適当にある程度拾い集めると、これでも討伐の証明には十分だろうと、骸を放置して私は彼らの元へと向かう。

 

「響、ということは、君、あの虫の三連続が同時だったというのか? 」

「あ、はい……、その……、私にはそう見えましたけれど」

 

そうして玉虫の死骸の山を避けて彼らの方へと近づくと、言い合いをしている男女の姿を見つける。一人は、裸の上半身の上に、長く伸ばした黒髪を一つに纏めて腰まで伸ばした、刀身が幅広い刀を腰に携える、ギルド「異邦人」のギルドマスター、シンという男だ。

 

もう一人の、茶色い髪をセミロングに纏めた、まだ発達途上の最中にある体躯の響と呼ばれた彼女は、シンという男に両肩を掴まれた状態で詰め寄られていて、困惑しているようだった。長身の男性が覗き込むようにして響に詰め寄る姿は、少しばかりよくない想像を掻き立てる光景に見えて、私は思わず仲裁のために口を出していた。

 

「どうかしたのかね? 」

「あ、エミヤ……さん」

「エミヤ。もういいのか? 」

「ああ。必要なものは回収した。ところでどうしたんだ? まだ幼い面影を残す少女に対して半裸の男性がそのように詰め寄るなど、あまり感心のできる光景ではないが」

 

皮肉を聞いてシンは少しぽかんとしたが、すぐに己がいかなる状態か認識したらしく、「確かにその通りだ、すまなかったな」と、手を離して素直に謝罪を行なった。

 

一方、眉をひそめながら釈然としない表情を浮かべていた響は、少しばかり頬をむくれさせたまま、こちらを向くと、顔を大きく見上げさせて私の胸から首元あたりまでを眺めて困惑の表情を浮かべた。さて、おそらくむくれたのは、子供扱いされたのがきにくわないのだろうとして、なぜ私を見て困惑の表情を浮かべたのだろうか。

 

「いや、聞いてくれ、エミヤ。先の戦闘で玉虫が三連続の攻撃をしてきただろう? 」

「そうだな。それが? 」

「いや、君があの虫の死骸の中に突っ込んだ直後、飛び散ったその骸の中から生き残りが数匹ばかり飛び出したのだ。虫はつい先程君が戦っていた状態とは違って、なんというか、正気を取り戻したような状態で、尋常な勝負を挑んでいるような雰囲気を出すものだから、その望み通り一騎打ちを受けたのだ。その際、奴はやはり三連の素早い攻撃を仕掛けてきたのだが、それがこの子には、三連続ではなく、三つ同時の刃に見えたらしい」

「ふむ? 」

 

説明を受けて私は響の顔を覗き込んだ。シンよりもさらに長身の男に覗き込まれると言う事態に怯えたのか、彼女は一瞬肩をうかせると、しかし、長い説明の間に冷静さを取り戻していたらしく、彼女はおずおずとした態度で、しかしはっきりゆっくり頷くと、言う。

 

「はい。その、見間違えかもしれないですが、私には三つ同時に見えたのです」

「いや、彼女の言うところの一撃が私には三連続にしか見えなかったものでな。だか

こうして、確認していたわけだが……」

 

先程の自らの醜態を思い出したのか、シンはそこで押し黙り、そして静かに続ける。

 

「結局、誰の目にどのような風に見えたかなど、確認しようがないからな。まぁ、認識の違いとして納得するしかないか」

「ふむ、まぁ、あの虫は群体だったのだ。例えばその一撃が意思統一された元に繰り出されたものなら、彼女の言う通り、同一の瞬間に三つ同時の刃、ということもありえるだろうよ」

「ああ、なるほど」

 

シンは納得したのか目をつぶり、そして大きく首を数度上下に動かすと、響に向かって頭を下げた。「すまなかった」、と謝罪する彼のそれを、しかし響は気にしないでくださいと、手を振りながら気にしていない事を主張する。

 

シンはそれを見て頷くと、「それでは失礼する」と言って、仲間たちが群がる、虫の山の方へと向かった。そして響という少女は私の方を見ると、首元を指して言った。

 

「あの、ところで、それ、大丈夫ですか? 」

「うん? 」

「あの、頬から首からにかけて、その、すごい、血の跡が」

 

言われて片手で頬を撫ぜると、パリ、とひび割れる感触がした。直後、乾いたものが落ちたと思うと、皮膚につけられた幾つもの傷跡がようやく痛みを取り戻して、抉るような、ひりつくような感覚を訴えてくる。私は自分の体の状態を思い出して、ああ、と声をあげた。

 

「そういえば、敵に削られていたな。すっかり忘れていた」

「すっかり、って……、あの、すごい顔色悪いですよ? 本当に大丈夫ですか? 」

「ああ、問題ない。この程度の傷、こうして……」

 

いってバッグよりメディカを取り出すと、自らの体に振りかける。すると回復の効力を秘めた薬は、いつも通り皮膚に触れた途端、液体を光の粒子へと変えて傷を癒してゆく。そうして首と頬の傷が塞がったかと思うと、続けて強化の魔術により酷使を強要されていた全身の細胞が歓喜に震えながらその疲れを癒されてゆく。

 

「これで解決だ」

 

やがて全身の張りや痛みが取れた頃、それでもまだ少し重い体を動かし、すっかり治った傷跡をなぞり残っていた瘡蓋のなりかけなどを引っ掻いて落として、万全の状態になった皮膚を見せつけてやるも、彼女は顔をしかめさせたまま、動こうとしなかった。

 

その不安の混じった瞳が平静に戻らない事を不思議に思いながら、顎に当てた手を動かすと、じょり、と一週間放置されて生え出した不精の証が皮膚を微かに上下に動かす。さてはあの顔は、この髭の醜態に不快感でも抱いた証なのだろうか。

 

やがて彼女は、おずおずとした様子ながらも言う。

 

「あの、メディカは確かに傷を治して、疲労を取ってくれますけれど、失った血液までは元の通りになおしてくれませんよ? 」

 

彼女の言葉に、私は、「そういえば魔術解析の結果でもそのような特性を読み取ったな」と今更ながらに思い出して、頷く。そうして魔術にて知っていた、という所業により生じた不自然さを打ち消そうと、言葉を付け加えた。

 

「……、ああ、そうだったな 」

「はい。メディカなどのスキルはあくまで、傷や怪我を元の通りに戻すことはできますけれど、失った部分の補填はしてくれません。だから、その、先程の戦闘でエミヤさんが失った血液はそのままなんです」

「……なるほど、貧血か」

 

疲労の取れたはずの全身に残る倦怠感の正体を言い当ててやると、響は「おそらく」と言ってこくりと頷いた。なるほど、顔色が悪いと言われるわけだ。私の言葉に意を読み取ってもらえたことで満足を得た彼女は、腰に引っ掛けてあるバッグに手を突っ込むと、メディカとは別の、少しだけ大きい瓶を取り出して言う。

 

「はい、だから、次からは、その、このネクタルを使うといいですよ」

 

ギリシャ神話に登場する不死の薬の名を冠する薬を受け取ると、そういえば投影をした中に血液を増やす効果の薬があった事を今更ながらに思い出す。天上の神々をも蕩けさす甘さで魅了したというその薬は、製造のために一層の「蜜のかけら」という素材を必要とする薬であり、それ故に私の場合は、ヘイの店で購入してやろうとすると、一手間かけないと購入することができない薬であるため、すっかり失念していた。

 

「ああ、たしか、気付けと造血の効果があるんだったか」

「ご存知だったんですね」

「ああ。だが、私の場合、素材が足りなくて購入できなくてな。すっかり忘れていたよ」

 

正直に事情を告げると、眼下の彼女は息を呑んで背筋を仰け反らせて、驚いて見せる。

 

「あ、の、この蜜、新迷宮の一層でも取れるものなんですけれど」

「む、そうなのか? 」

「え、ええ。その、普通に迷宮に潜る時みたいに、そのあたりで採取していれば、一つくらいは手に入れていてもおかしくないんですけれど……、その、売るだけでも幾らかのお金にもなりますし」

 

小さくなってゆく言葉尻には、多分に疑問の要素が含まれていた。そこでようやく、この世界の冒険者というものは、単に迷宮を踏破して功名心を満たすためだけに生きる存在でないことに思い至る。なるほど、迷宮より素材を回収して誰かに売り払い、その儲けで生活するという生き方もあるのか。

 

「いや、なんだ。その、素材の見分けがつかなくてな」

 

冒険者という人間の在り方を傭兵のそれに似た生き方だと勘違いしていた私は、その羞恥を隠すかのように、別の事実で上書きして、答える。すると、彼女は先程と同じように驚いた様子を見せて、言った。

 

「え、っと、あの、初心者の方は、最初、転職とかの際にギルド長のところである程度の教育を受けさせてもらえる筈ですけれども」

「……、そうなのか? 」

 

そうして彼女が三度目の驚愕を顔の上に貼り付けた時、愉快な気分を多量に含んだ笑い声が近づいてきた。先程サガと名乗った大きな籠手を装着した彼は、その鳶色の瞳に涙を浮かべ、腹を抱えながら我々の近くにやってくると、言う。

 

「大方、あんたが初心者に見えなくて、その辺の説明を省いたんだろうぜ。いやぁ、実にあの面倒くさがりらしいミスだぁ」

 

言われて、ギルド長―――たしかゴリン―――と呼ばれた人物が、自分のことを戦闘経験者であることを見抜いたことを思い出した。おそらくはそのあたりから、こちらが迷宮探索においてもある程度の経験があり、だから別に言う必要ない、と判断したと言うことなのだろうか。いや、まったく、ゴリンという男は、億劫そうな外見通りに、怠惰な男である。

 

「まぁ、文句は後で直接あいつに言ってもらうとして、エミヤ。こっちの準備は完了したぜ。お前の方はどうだい? 」

「大丈夫だ。問題ないよ」

 

響の小さな手のひらに礼と共にネクタルを返して、サガの方を振り向いて言う。そうして向いた先ではすでにサガが地面の上に麻袋を置き、そして彼以外の三人は少し離れた場所で体に見合った大きさの袋を手にした状態で、待機しているのが見えた。

 

そうして彼らが持つ袋の周囲がジグザグに刺々しい状態であるのに気がついて、一瞬不思議に思ったが、彼らの足元に広がる虫の死骸を見て、すぐにその原因に思い至り、袋の内容物の悍ましさ状態を想像し、少しばかりげんなりした。佃煮でも作る気か。

 

「まぁいい。では行こうか」

 

 

 

番人部屋奥に秘されていた通路を通り、肌にまとわりつく熱と湿気が漂う暗い洞窟を進むと、やがて徐々に不快な温度だけが下がってゆく。そうして進んだ洞穴の先、暗闇の中に飛び込んでくる光の色合いが、やはり先程まで見かけていたような赤である事を確認して、予想と変わらない現実に少しばかりうんざりしながらも、先頭を行く。

 

そうして洞穴を抜けた先、広がっていたのは、一層、二層に広がっていた現実に則した光景とはまるで異なる、幻想的な風景だった。例えるなら、南国の海、赤潮の中、浅瀬に広がるサンゴ礁の海底。

 

一層の樹海、二層の密林とはまるで異なるその風景は、二層の密林の中を漂う湿気が、柔らかい地面に染み込み、三層との間の地面に置いて結露と解凍を繰り返した結果、濾過された水気が集まって、三層を海底の様相へと変化させているような純粋さと清潔さがあった。

 

また、これまでの赤と違い、周囲を照らしている光の成分は、水分の中に吸収されてしまったのかのように、少々暗い。光を拒み出した深海にて、足元の確かさも認識できなくなる程の暗闇を進む助けとなっているのは、方々で明るく存在を主張する珊瑚と海藻だ。

 

赤く燃える色の珊瑚は透明度の高い周囲よりも赤さを誇って枝を伸ばし、海藻の如き植物は水の中を揺蕩う様に赤い身を揺らして、周囲を照らし出すとともに、一面の海底らしさを演出するに一役買っている。彼らの放つ柔らかな光は空間の明度を調整して三層の空中に薄紅のヴェールを生み出して周囲の濃さを和らげに、海中の透明感を与えているのだ。

 

「新迷宮の三層も、色を除けば同じ見た目ですね」

 

後ろから聞こえたトーンの高い舌足らずな声が耳に届く。確か、響、と言う少女だったか。

 

「ああ、見た目はな。だが、一層、二層もそうだったように、おそらく、出現する魔物の種類と頻度は決定的に違うはず。警戒は怠らないように」

「わかっています。私だって油断しない程度には成長したつもりです」

 

ダリ、と言う男の言葉に鼻息荒く主張する響の言葉は、少しばかり早口になっている。

 

「そうそう、つい一ヶ月前の頃よりはずっと格段に成長してるって。最近じゃ、戦闘に手出しも出来るようになったしなぁ」

「いかんせん本当に最初の頃は置物でしたからねぇ。まぁ、勝手な動きをされない分、他の有象無象な人よりも筋は良かったですが」

「ピエール。お前は、ほんと素直に褒められないなぁ」

 

死地にいるとはとても思えない軽快な会話が続く。察するに体躯小さく、細身で肉付きの薄く、茶髪を短く整えた、幼さ残る見た目の響という少女は、迷宮という魔物の闊歩する場所に足を踏み入れ出したばかりの新入りらしい。わざわざ望んで危険に身を晒すこともなかろうに、と思い余計な言葉が口元まで出かかったが、しかし己も生前は若い頃から無謀を繰り返していた事を思い出して、人のことは言えないか、と口を塞いだ。

 

そうしてしばらくの間、話す彼らを背後に無言で迷宮探索の先頭を歩くと、やがて何事もなく、屹立する光の柱の元へとたどり着く。海中の赤い様相を切り裂いて地上から天井まで屹立する青色の円柱は、相変わらず蜘蛛の糸のような、荘厳かつ優美な迫力を周囲に撒き散らしている。

 

―――この樹海磁軸が紫ではなく青色なのは、ここが海底に似た場所だからであろうか。

 

周囲の赤を切り裂いて青く光る柱は、樹海磁軸。樹海を探索する際の目印であり、樹海内部と地上の行き来を可能とする移動装置である。聞いたところによると、層と層の境に必ずあるらしいそれが、はたしていかなる技術によって転移を可能としているのか、いかなる意図によって設置されているのかはわからないが、樹海に存在するこの柱に触れて登録とやらを行うと、樹海入り口にある石碑との移動が可能となる。

 

樹海磁軸は、樹海攻略速度を著しく上昇させる。なにせ磁軸を利用しない場合は、例えば樹海の一層からこの場所に来るためには、それまでに進んできた十の階層を再度進み、そこに出現する魔物どもをさばきながら進まねばならないのに対し、樹海磁軸を利用する場合は、ただ石碑の前でこの場所のことを考えれば良いだけなのだ。

 

「あ、樹海磁軸ですね」

 

などと考えていると、背後でガヤガヤと騒いでいた一行のうち、真っ先に響がその存在に気づいた。彼女は会話を打ち切り、早速柱に駆け寄ろうとする。が。

 

「まて、響」

「ぐぇっ! 」

 

走る姿勢を見せた響の服の後ろをシンが引っ張った。気管が押しつぶされて、響の口から少女のものと思えない蛙の潰れたような声が漏れた。思いのほか両者の力はしっかりしていたらしく、ピクリとも動かないシンの体に対して、勢いよく響の体が、首を中心として横にしたへの字のように折れ曲がる。もはやくの字に近い。

 

人体の限界への挑戦を無理やりさせられた彼女は、一瞬で、透明な壁との間でバネに押し返されたかのように体をシンの方に引き戻されると、喉元を抑えて、ひどくむせこんだ。

 

「―――っほ、……ごほっ、な、何で……」

 

響は咳き込みながら抗議の声を上げる。シンは批判のこもった視線を真正面から見据えると、はっきりと首を振って断言する。

 

「彼が先だ」

 

シンは言って掌を上にこちらに差し出して、私の方へと向けた。忠告を受けた響は咳き込みながらも、なるほど確かに、と思ったのか鷹揚に頷いて、呼吸を整え終えると、バツが悪そうに口元をきゅっと結ぶと、謝罪の言葉と共に頭を下げてきた。

 

「失礼しました。ごめんなさい」

 

なんと返していいものか。私は反応に困った。ただ、彼と彼女の真意は理解出来ずとも、多分、ヘイの言っていた、番人を倒した時の優先権とやらが絡んでいるのだろうと考えながら、私は適当にお茶を濁したような返事を返す。

 

「ん……、なに、次は気をつけてくれればいいさ」

「はい、ありがとうございます」

 

当たり障りのない答えに帰ってきた素直な返答を、しかし素直に受け取れず、やはり適当に流すと、彼女以外の異邦人のメンバーに視線を送って確認を取り、彼らに先んじて磁軸の前に進む。

 

光の柱に手をかざす。周囲に撒かれた光の薄膜を破るようにして指先を突き入れると、柱の光に触れた周囲、指先から情報が吸われた感覚がある。光の柱は触れた部分から明るさを増して上下に広めて行き、来訪者の歓迎を全身で表現しているようだった。

 

拍動する光の収斂は柱の全体に範囲を広げると、ようやく落ち着きを見せて光の点滅を小さくさせ、太平へ状態を戻してゆく。光の色は気がついた時には、青から紫色へと変わっていた。どうやらこの色の変化が登録完了の合図であるらしい。さて、先日衛兵と共に潜った際、柱が紫だったのは、すでに潜ってあった彼と一緒に潜ったからなのだろうか?

 

そうして登録の仕組みに考察をしながら完了を確信すると、後ろの彼らに順番を譲ろうと、柱から一歩引いて振り向き、彼らの方を見る。すると、彼らのうち、特にシンという男が満足げに頷いているのが目に入り、なんとなく彼に声をかけた。

 

「どうぞ、ミスター」

「ありがとう」

 

恭しく左手をくるりと回して磁軸を示し言ってやると、シンが丁寧に一礼して前に進み出る。その後ろに異邦人の一行が続いた。彼らはわいわいと軽口を叩き会いながら光の柱に手を触れて登録を行なっている。

 

誰かが軽口でからかい、軽口に対して皮肉を返し、皮肉に対して真面目を返し、会話は続いて行く。迷宮の中では気が抜けば死につながる、と、警戒を続ける自分が馬鹿らしくなるほど、彼らは自然体で軽快だった。

 

その様に、かつての駆け抜けた聖杯戦争の日々を思い出す。実力伴わぬ大言を口にする未熟者がいて、完璧を気取るくせ肝心な場面でミスをする揶揄い甲斐のあるマスターがいた。

 

万能の願望器を求めて開催された戦争に参加する彼らは、戦争という非日常の中において変わらぬ日常を歩む事を忘れず、学生らしく学校に行き、勉学に励み、友と会話を交わす日々を過ごし、彼らは日常と非日常の境を当たり前の様に行き来しながら、青い春を謳歌していた。譲れない日常は彼らの強さの源だったのだ。

 

願いを叶えるには余分、と、必死の後ろに置き去りにしてきた青臭く緩やかな日常は、梅雨の季節に肌にまとわりつくような悪夢に思い悩む私の苦悩を、微かにだけ吹き飛ばして行く効果を持っていた。

 

後少しばかり風の強弱が違ったなら、彼らと共に歩む未来もあったのだろうか、と空想してしまうのは、現実目の前の彼らが奇しくも、かつてと同様の状況で見せた、非日常の中の日常のせいなのだろうかと考え、私に自然と笑みをこぼさせる。

 

「お待たせしました」

 

暢気さに気持ちを緩ませられていると、作業の終了した響が話しかけてきた。

 

「エミヤさんはどうされます? 」

 

どう、とはどういうことだろうか、と考えたが、すぐさま思い当たって答える。

 

「戻るよ。流石に消耗したからな。疲労困憊の状態で進もうと思えるほど、私は自信家ではないよ」

「さすがに実力者は良い事をいう。回復もすまないうちに番人に突っ込んだどこぞの猪武者とは違う。……なぁ、シン」

「ん……、ああ、そうだな」

 

ダリに番人に見せた際の突進を責められるが、シンは気にしたそぶりも見せずに答える。わかっていたのか、気の無い返事にダリは諦観の念を見せた。サガがそんなダリの背を叩いて、同情を露わにしながら、慰めた。

 

「どう諭そうと、あの性質は変わらないさ。さぁ、帰ろう」

 

言って糸を取り出すと、周囲を見渡して解く。糸より発した光は少し離れていたこちらまで光を伸ばすと、磁軸に負けぬ強さの明るさを撒き散らして、一同をエトリアへと移動させた。

 

 

エトリアの転送受入施設より外に出ると、夜である事に気がつく。眼前に広がる満点の星空には、忘却の悪夢が生み出す赤の不安の中に、昔日の青い思い出が混ざりこんだ、そんな矛盾の鬱屈を吹き飛ばすかのような、濃い紫の爽快の上に煌めきが広がっている。

 

天より落ちる星の光に伸びた、少しばかり石畳の暗がりを照らす外灯の橙は、星空の下で柔らかに輝いて、冒険者たちの足元に濃い影を落としていた。そうして伸縮する影が遊ぶ様を眺めながら数十歩ほども歩くと、ベルダの広場へと出る事ができる。

 

エトリア中央に位置する広場の夜は、いつものように、職務を終えて帰路につく人間で賑わっていた。周囲にある酒場は軒先の椅子机まで客で埋まり、客たちは気分良く酔いに浸って赤ら顔をしたものばかりが集っている。

 

上機嫌の雰囲気が満ちる中を突っ切り、執政院に向かうと、夜の執政院は、星とランプの光にて建物の陰影の濃淡をはっきりとさせられて、厳かな雰囲気さを増していた。

 

やがてその中を進み、愛想よさの中にも貞淑さを前面に押し出しながら、半ば義務的に笑いかけてきた、以前とは違うプロ意識の高い受付の人間に番人を倒した事を告げ、証拠として回収した素材と地図を差し出すと、少々お待ちを、と言って彼は慌てて奥へ引っ込んだ。

 

受付の前からどいて、しばらく「異邦人」のメンツと新迷宮についての考察や、ギルド長への不満などを交え、共通の知り合いであるヘイについての共通認識項を増やしていると、引っ込んだ職員が再び慌ただしく駆け寄ってくる。彼は再び受付にやってくると、乱れた襟元を正して髪を整え、胸元のポケットチーフを整えると、背を正して言う。

 

「申し訳ありませんが、現在、担当のクーマは席を空けておりますため、依頼達成の確認が取れない状況でございます。また、地図の正誤率も、番人の討伐確認も出来ておりませんので、この場で報酬をお渡しする事も、素材の保証をすることも出来ません。ご面倒でしょうが、明朝以降、こちらの地図と素材をお持ちになって、再び執政院へお越しください」

 

どうやらこの度目の前にいる綺麗なお辞儀をする職員は、以前の職員とは違って、随分とまたお堅く、法律に忠実な人間であるらしい。しかし、彼のいうことはいちいちもっともなので、彼の態度に付き合って、律儀にお堅く了解の旨を伝えると、惜しむ彼らと別れて、インの宿に向かった。

 

そうして、疲労感を携えた状態で街中を歩き、宿屋に戻ると、切符の良い女将は迷宮より帰還した私をいつも通りの笑顔で迎え入れてくれた。促されるままに風呂で汗を流して、服の洗濯を任せて、食事を胃に入れて床に入る。やがて遠くにキジバトの鳴き声が規則正しく響く声を聞きながらベッドに倒れこむと、意識は素早く現実から乖離し、私は悪夢の中へと誘い込まれていく。

 

 

もはやお馴染みとなった悪夢を前に、鬱々とした諦観の念を持った状態であたりを眺める。忘却を強要する存在によって、広大だった部屋の赤色はすでに半分近くまでが白に染まっている。

 

赤い部屋の中で心が漂白されてゆく恐怖を振り払うため、一週間の徹夜にて強行軍を繰り返したり、あるいは体力と魔力回復の時間以外を鍛錬に当てて深い眠りを保とうとしたが、そんな私の苦労を嘲笑うかのように、悪夢は睡眠ごとに現れ、そして理性の象徴だろう脳の化け物は、いつもノソノソと壁を壊してやってくる。

 

化け物はもはや抵抗は無意味と察して動こうとしない私を見て、その脳前方中心の単眼にある瞼を一瞬だけ薄くすると、己の中に生じた残念の意を振り払うかのように、眼球より赤を喰らい、白へと変えて行く。

 

いつかこの赤の部屋が白の意匠で覆い尽くされた時、その感情の一辺倒までもが凍結した様を見て、私は何を思うのだろう。忘れないでくれと叫ぶ彼らを見た際に、しかしそんな彼らに哀悼も激情をもいだけぬ、感情が理性で押しつぶされた平穏さを保つような部屋の中で、私はいったいどんな存在になるのだろう。

 

その、己の犯してきた罪に対して何の感慨も抱かない、理性に殉じる機械のような存在になった時、私は果たして正義の味方として己の存在を誇れるようになるのだろうか。

 

―――何を迷う。主のあわれみに給わらずとも、己が罪が取り除かれるのだ。そうして永遠の安息を得られる事を幸福と呼ばず、訪れる恒久の平穏を嫌うなど、それこそとても正義の味方と呼べる存在ではなかろうよ

 

いつのまにかやってきていた黒い影の言葉に、心臓を掴まれたような思いで振り向く。聖句を引用する影は、赤と白の支配する世界において、どこまでも黒く、まるでこの世の全ての悪を容認しているかの如く、暗い喜びに満ちていた。

 

「貴様―――」

 

何者だ。言葉を喉元まで出しかけると、その黒は思考を先読みしたようで、その塗りつぶされた頭部に嘲笑の三日月を顕現させて、薄く笑い、そして私の脳裏に直接に答えかけてきた。

 

―――私はお前と同じだよ。お前と同じく、見捨てられた仔羊に手を差し伸べる者だ

 

言いすてると、影は高笑いとともに去って行く。多分に愉悦を含んだ、その胸糞の悪くなる気色の悪い声は、部屋の片隅に置かれた記憶を刺激して、赤い壁面が蠢く。その正体を確かめてやろうと近づいた時、赤い部屋に溺れる視界がぼやけてゆき、私は、満足を得たのか理性の顕現だろう脳みそが消えていたことに気がついた。

 

今宵の逢瀬は終わりの時間だ。眠りの魔法はもう解けてしまう。

 

 

鐘の音が朝の到来を告げる。鐘の音が響く朝五時になると冒険者は問答無用で荷物を持って叩き出されるものだが、前金で一月分を前払いしている私はその範疇に入らない。女将が起こしに来ないのをいいことに、窓より差し込む光を避けて寝返りを打つと、シーツを頭に被り直して二度寝を開始する。

 

久方ぶりの全力戦闘と、悪夢を見た後の醜悪な気分は、自分を律する程度の気力すらも脳裏から奪い尽くして、体は正直に、怠惰を堪能して体力の回復をしようと訴えていた。

 

誘惑に負けてしまった私が結局起床したのは、それから四時間後の事だった。役場の業務開始を告げる二度目の小さな鐘の音を聞いて、もぞもぞと寝床から這い出ると、部屋の入り口近くに設置された鏡面台に向かう。

 

鏡に映る、見慣れた浅黒い顔は、疲労の色が混ざってその濃さを増し、いつもの体裁を保てていない。特に、敵の近寄りつつある三連の動きを見切るべく、強化を乱発した目元が酷かった。酷使を重ねられた瞳周辺の組織は色素が沈殿して黒ずみ、仏頂面と称される我が顔をさらに人避けするものへと変えている。

 

我ながらひどい面だと自重しながら顎に手をやると、短く伸びていた無精髭に、再び気がつく。カミソリを投影して肌に石鹸を塗りたくると、皮膚を押し分けて生えた彼らを一切刈り取って、せめてもの身だしなみを整える。英霊となってからご無沙汰だったこの作業も、今ではすっかり習慣となっていた。

 

階下へと降りてダイニングへ行くと、女将が再び笑顔で迎えてくれた。睡眠を妨げない心遣いに礼を述べると、彼女はやはり笑って、暖かい食事を提供してくれる。どうやら階上の足音を聞いて起床を確信し、調理を行なって用意してくれていたようだ。

 

素直に感心したので再び礼を言い、雑談をしながら皿を空にすると、異邦人の彼らが宿を訪れていない事を女将に確認して、外に出る。密林の湿気を帯びたかのような空気の中、見上げた曇天は、しかし迷宮とは異なり、驚くほどの霧と寒気に満ちていた。

 

どれほどの差異があるかは知らないが、世界樹の上という常識外の場所にあるエトリアの大地は、生前を生きた土地より確実に標高が高い。百メートルはあろうかという冬木センタービルの屋上もこれほどの寒さではなかった筈だ。吐く息が白く濁るが常になるのは冬の風物詩だが、春も半ばをすぎたこの時期に味わうことになろうとは。

 

「……冷えこむな」

 

吐いた吐息の行き先を追ってやると、身にまとった黒のボディアーマーに結露が浮かんでいる事に気がつく。黒いボディアーマーは防御に優れるが、温度の変化にまでは対応していない。体の芯にまで貫通する寒さを防ぐために、投影してあった生地の厚い羽毛の仕込まれた外套を羽織ると、街中へと足を踏み出す。

 

石畳と煉瓦の街であるエトリアは、霧がよく発生する。霧の発生が大気汚染による黒いスモッグ由来ではなく、寒さを由来とするもの透明なものであるのは、大気汚染を原因とし滅亡の道を歩んだ旧人類に対してのせめてもの救いだろう。

 

石畳を叩きながら霧中を分断しながら歩くと、割く刺激が記憶の扉を叩いて、生前、ロンドンに滞在していた時のことを思い出させる。あの頃は正義の味方を目指しての鍛錬に、魔術の勉強に、同居人の彼女や茶坊主の真似事にと忙しかったが、充実していた時期だった。

 

さて記憶の彼方に忘却していた充実の記憶を思い出せたということは、もしや今の自分はあの時と同じくして喜色の感情を抱いているのだろうか、と、ふと思う。思い返せば、他者の不幸を払うために自らの身に着けた力を存分に振るい、結果として誰かに認められる日々というものは、生前なによりも切望していた正義の味方という生き方に近い気がする。

 

正義の味方が正義であるためには、悪の存在が必要である。そんな事を語ったのは、いけ好かない神父の存在だったか。あの神父は他者の不幸にのみ愉悦を感じる破戒的な男だった。人の幸福に幸せを見出すこの身とは立場が正反対といえど、他者に生きる意味を見出すという点において、エミヤシロウと言峰綺礼はやはり同一なのだと再確認する。

 

自らの業の深さを改めて思い知らされると、それは今朝方見たばかりの悪夢と混じりあい、心の裡を黒き霧の如きものが、もやもやと覆い出すのを感じる。先程得た爽快なる感覚は、忘却の悪夢がもたらした者だと思うと、素直に喜べない。忘却の悪夢は、徐々にその救済を形にして、現実を侵食しつつある。それが何よりも不安だ。

 

―――いかん、もう着いたか

 

余計の浮かぶ心中は時間の経過を忘れていたようで、気づくと私は目的地であるラーダの前、ベルダの広場までやってきていた。これより先の事を考えると、こうも仏頂面ばかりを浮かべてはいられない。

 

目元をほぐし、心中を覆いつつあった霧を払拭すべく、強く念じながら片手を大きく顔の前でふるい現実にあるごと霧を散らしてやると、余計な事を考える隙を与えぬため、霧中を少しばかり足早に歩いて、知覚に負荷をかける。

 

結露に濡れた路面を大の字に歩き、視神経と聴覚と肌をいじめながら肩で風を切り、はや数秒もすると、執政院ラーダの前にたどり着く。昼に近いラーダは通常空いているのが相場だが、今日はまた一段とひどい混み具合を見せていた。

 

あたりに群れている彼らはほとんどが冒険者で、一様に一定以上の興奮を見せている。ざわめきに耳を傾けると、どうやら自分たちが二層の番人を討伐したこと話題が、あたりを賑わせている事がわかる。それを認識した途端、宿屋で一度、広場で一度味わった記憶が蘇り、離脱の決心が働いた。

 

「あの、もしやエミヤ様でしょうか」

 

そうして人目を避けようとした際に、背後よりボソリとかけられた声を受けて、しまった、遅かったか。と後悔する。騒乱に巻き込まれる覚悟を瞬時に決めて振り返ると、そこにいたのはエトリアの衛兵だった。

 

「クーマ様から案内を仰せ仕りました。「異邦人」の皆様もお待ちです。どうぞこちらへ」

 

兵士は囁き、返事も聞かずに身を翻し群衆から離れる。どうやらすでに「異邦人」のギルドメンバーはクーマと会談を始めているようだった。出遅れたことに少々の反省をしながら兵士を見てやると、ぐるりと広場の外側へと向かう彼を見て、なるほど混乱を避けるためか、と納得すると、配慮がなっているのを感心して、彼の後に続く。

 

そうして執政院の横に回ると、白い壁にぽつねんと取り付けられた職員用の出入扉を開いて手を招く。裏口から侵入を果たすと、兵士の案内の元、常と違う質素な道を辿り、やがてクーマの部屋の中まで辿り着く。衛兵は扉を閉める前に一礼をして、閉めて去って行った。

 

にこやかな笑みを持って迎え入れられたクーマの部屋の中には、すでに「異邦人」の五人がいる。机の上に並んでいた六つの紅茶の減り具合と湯気の立たないことから察するに、大分話し込んでいたようだ。

 

「待たせたようだな……」

 

詫びの言葉の一つでも必要か、と続けようとした時、遮ってクーマがうわずった声を上げる。

 

「いやいや、そんなことはないよ! 君の活躍を聞いて楽しませてもらっていたところさ!……あ、ええと―――、うわ、もうこんな時間なのか! どうやらいやしかし、これは信じられないような報告ばかりだ! 胸が踊るよ! 」

 

その知的な外見に似合わず、興奮を露わにまくし立てるクーマは、幼い子供のように見えた。普段の彼を知る者なら、好奇心旺盛を前面に押し出して興奮する彼を見て仰天の一つでも見せてくれただろう。

 

そうして湧き出る感情に身を委ねていた彼は、自らの勢いに私が背を微かに仰け反らせるのを確認すると、恥ずかしそうに頭から首までを撫ぜて、咳払いをし態度を改めると続けた。

 

「流石に吟遊詩人は語りが上手いね。引き込まれて夢中になってしまったよ」

「お褒めに預かり恐縮です」

「うん、本当にお見事だった。―――さて、エミヤ。彼らと受付の彼から一応の報告を聞いたけれど、君の口からはっきりとした報告をもらいたい」

 

一転しての真剣な眼差しに、姿勢を正しめる。背筋を伸ばすと、努めて真面目な態度で、樹海磁軸を用いて迷宮二層へと潜入し、探索の後に番人の部屋にたどり着き、彼らの協力を得て番人を討伐した、と成し遂げた事実を、魔術の説明を省いて淡々と述べてやった。

 

 

話の内容は、信じ難い事象の羅列でした。森の上を駆け抜けて、千万を超える羽虫からの逃走の後、億の数を超える敵と彼らの統率者を相手にして打ち勝った内容は、しかし、その程度の結果は当然だ、という淡々とした口調から真実であることが感じ取れます。

 

彼は、誇張なくただ起きた出来事を淡々と語っているだけ。しかしその内容は事実として粛々と受け止めるには、あまりにエトリアの一般の常識からは、遠くかけ離れていました。

 

一層の番人を一人で倒したという報告を、衛兵から紙面と口頭にて淡々と聞かされた際はあまり感じなかった興奮が、胸の中で湧き踊ります。そうして彼の真剣な瞳を見ていると、その静かな雰囲気の中に、ある種の超然としたものを見つけて、なるほど、彼ならばやってのけるだろうという確信を得ることができました。

 

そうして数十分ほどかけてひとしきり語り終えると、エミヤは「以上だ。何か質問は? 」といって、報告を終えてくれます。報告に偽りがない事は、嘘を語る軽薄さを持たない赤銅色の瞳が雄弁に語っていました。

 

とはいえ質問はいくらでも思いつきます。どうやって倒したのか、どうやってそれだけの技量を身につけたのか、どうすればその職につけるのか。どこの出身で、どこの土地で育ったのか。

 

執政者の一人としても、個人としても、聞きたいことは山のようにあります。けれど、偉業をなした人物に対して、矢継ぎ早に疑いを含んだ質問を投げつける事を無粋だと思った私は、しばらく逡巡をすると、静かに首を横にふりました。焦る必要はありませんよね。いつか話したくなれば、彼は語ってくれるでしょうから。

 

「いや、いや、ないよ。期待以上の活躍です。本当にご苦労様でした」

「そうか。期待に添えたのならなによりだ」

 

緊張を少しは解いたのか、ふっ、と、柔らかい笑みを浮かべます。私はそれを見て、彼を信じた己の直感の正しさを確たるものにすると、客人用に置いてあるソファから腰をあげ、己の作業机へと足を運びました。そうして収納と一体型の机の最下段の棚から膨らんだ袋を取り出すと、彼らの方に差し出します。

 

「では、まずはこちらをどうぞ。番人討伐の報酬です」

 

差し出したそれらを眺めた一人と五人は、差し出されたそれらを目にした後、取りに行こうとせぬ互いを不審に思って見つめ合いました。目線の交錯ののち、サガが首をくいと顎を使って机を指したのを見ると、エミヤは首を傾げて言ってのけます。

 

「……、番人の討伐に、報酬なんてあったのか? 」

 

帰ってきた予想外すぎる答えに、私はみっともなく顎をがくんと垂らして、大口を開けて驚きを表現してしまいました。どうやらその驚きを感じたのは私だけではなかったようで、一同もそれぞれの方法で、驚きを露わにしていました。

 

「え、っと、エミヤさん? あなた、一層の番人を討伐したんですよね? 」

 

響という少女が、私の気持ちを代弁して尋ねてくれました。

 

「ああ、だが、その際は受付で報告をしてから十日ほど後に、訪ねてきた彼から討伐の証を受け取っただけだった」

 

言葉を受けて私は雷スキルを食らったかのような衝撃を受けて、慌てて机をひっくり返すと一層攻略の書類を取り出して、目を通します。そうしたのちに、果たしてその書類の一部に、報酬金の受領印が無い事を確認すると、堅く硬直した体を無理やり動かして、言葉を絞り出しました。

 

「も、もうしわけない。どうやら、手違いで、処理が行われていなかったみたいですね」

 

震えた声でいうと、彼は「ああ、そうなのか」、と対して興味ないような素振りで返事を返してくれました。そのまるで気にしていない様子が私の罪悪感を刺激して、私は慌てて部屋の隅の置かれた金庫を開けると、中から一定額を取り出し麻袋に詰め、書類と共に前に差し出します。

 

「本当に、申し訳ありません。これが前回の報酬、一万イェンです」

 

彼は差し出たそれを、心底興味ないかのように一瞥しました。その瞳のあまりの冷たさに、私の心はさらに締め付けられて、思わず言い訳がこぼしてしまいます。

 

「すみません。その、深く反省しております。あなたの報告を処理した担当の者共にも、言い聞かせておきますので」

「……、ああ、いや、いい。別にそう、強く言ってやらないでくれ」

 

処理した担当、という言葉に彼はピクリと反応を見せると、苦笑とともにそう言ってくれて、袋を受け取りと書類にサインをしてくれます。そういってくれたことに感謝をしながら、こちらの失態により硬直してしまった空気を弛緩させるべく、わざと大きめに何回か咳払いをすると、努めて柔和な笑みを浮かべて机に深く腰掛けました。

 

「で、では改めて。こちらが今回の二層番人討伐の報酬、一万五千イェンです」

 

そういって二つの袋を差し出すと、近くにいた再び彼はそれを受け取って、書面を見てサインをしようとし、しかしその途中で袋の重さに違和感を持ったらしく、先程受け取った一万イェンの袋と両手の天秤に乗せて交互に動かしてその重さを測ると、袋を両方とも机に戻し、書類の一部分を指差しながら尋ねてきます。

 

「クーマ。どうやら提示された額面通りの額が入っているようだが」

「ええ、その通りです。額面に書かれている通り、の額を袋に入れましたから」

「だが、これでは、額面の倍額を君は支払うことになる。番人を倒した者たちに一万五千の褒賞を与える、というのがこの契約書の文には書かれているが」

「ええ、ですから、番人を倒したギルドの人たちに、それぞれ、一万五千を払うのですから、何も問題はないでしょう? 」

 

いうと、エミヤは驚いた表情で問い返してきました。

 

「契約書の文言と違うがいいのかね? 」

「ええ、解釈は担当者の自由裁量に任されていますから。一人と五人のギルドが協力して倒す事態は正直想定外でしたが、以前もこのようなことがなかったわけではありませんし、その場合もこうして報酬を支払いましたから。何の問題もありません」

 

返答にエミヤは先程までの精悍さとは打って変わって呆気にとられた顔を浮かべると、なにか言おうと口を開きかけ、しかし飲み込むようにして口を固く結びなおすと、やはり呆れたような、しかし取り繕いのない自然な苦笑を浮かべ、言いました。

 

「は、まったく、平和な世界だ」

 

そうして吐き捨てられた罵倒の言葉には、けれど驚くほど毒気が含まれていませんでした。

 

 

―――彼らなら、新迷宮の謎を解明してくれるかもしれません

 

踵を返すと、彼と彼らは立ち去って行きます。双方の苦労に報いたいという意図をくみ取り、その他諸々の証明書と報酬を受け取って立ち去った彼が扉を閉める音を聞きながら、私は己の判断の正しさをさらに深く確信しました。

 

やがて彼らが帰った後、驚くほどの静寂さを思い出した部屋の中で、私は本棚から取り出したボロボロになった一冊の本を握りながら、物思いに耽りました。表紙が擦り切れ、背の印字は掠れ、小口が手垢にまみれた本をめくると、本扉には「英雄譚 エトリア編」と、とても簡単な銘が記載されています。

 

幼き頃、己を冒険者達に憧憬を抱かせた両親からの秘密の贈り物には、かつて五人の冒険者達が、どのようにしてエトリアの旧世界樹の迷宮を初踏破したのかを事細かに記しされています。英雄たちに直接会って話を聞いたという記者によって記されたその内容は、あまりに旧迷宮五層以降の冒険を克明に書き上げていたため、発売前に回収されてしまった代物でした。

 

そうして禁書となった本を開いた私は、古ぼけたページを捲ってある所で指の動きを止めました。そこより以降に記されているのは、ある一人の冒険者の情報です。本気か嘘か、旧世界の出身と嘯く彼女は、本の作者曰く、まるでたしかに、初めてこの世界に足を踏み入れたかのように、さまざまな一般常識に欠けている部分があったと言います。

 

―――そんなのまるで、彼のようじゃないですか

 

私は目の前に突如現れた白紙のような彼と、過去の世界に生きた旧世界の英雄の間に不思議な一致を見つけて、背筋から湧き上がるぞくりとした感触に、思わず身震いして、我ながら気持ちの悪い、だらしない笑い声を静けさの中へと響かせました。

 

 

正体を知らぬ二層の番人を、共同とはいえ倒した事実に、私たち、ギルド「異邦人」の名声はエミヤに負けず劣らず高まっていた。実際のところ、ギルドの活躍と言うよりはシン一人が手を貸しただけに過ぎないわけだけど、端的にエミヤのギルド「正義の味方」と私たち「異邦人」のギルドが共同で倒したと言う結果しか語らない執政院ラーダ前の立て札は、嘘ではないが事実を誇張して伝えたらしい。

 

エミヤと別れ、祝杯をあげた次の日の早朝、鐘の音がなる響く前に、私は窓の外からきこえてくる異常を察知して、なんとか寝床より這い出した。天空を支配している月の光が未だに煌々と輝き、その凍えるような冷たさが一晩中エトリアを照らして、大気は暖気を奪われたかのように、日が稜線より顔を出す直前、最も冷気が強くなる。

 

身を切り裂くような寒さに小声、思わずベットから布団を剥がして羽織る。中に潜んでいた温もりが湿り気とともに拡散して、ふわふわと空気の中に消えていった。部屋の中は、暖気を保つ羽毛布団と、ベットの下に仕込まれた、旧迷宮産の発熱する輝石がなければ凍死してしまいそうな冷たさでいっぱいだった。

 

けど、かつて迷宮の存在を知らなかったエトリアの住人は、どうやってこの寒波に耐えていたんだろう。そんな他愛もないことを考えながら、蝶番を弄って、窓を開けようとして。

 

「……はぁ?」

 

窓の外、ぶら下げた道具屋の看板の下に、人の群れを見つけて、上擦った声が漏れ、ビックリに心臓が悲鳴をあげた。灯りの影が映し出す陰影から彼らの正体読み取るに、多分、冒険者なんだろうと思う。

 

なら彼らの目的はきっと、冒険者用の素材や道具も一応は扱う、響道具店が目的なんだろう。けど、一体なんで、呪いの噂で客のこなかった道具屋に、彼らはわざわざ足を運んでくれる気になったんだろう。あるいは今更、預けてあった道具でも取りに来たんだろうか。

 

混乱する頭だけど、客が来ているのであれば店を開かない理由はない。とにかく着替えて階下に向かうべきかな、と考えたその時、廊下の路地裏側の窓から小さな音が聞こえた。なんだろうと部屋から首を出してみると、窓に粒ほどの小石が連続してぶつけられていた。

 

知らぬ間に、恨み事でも買ってしまったのか、と怯えていると、透明なガラスの向こう側に黒い影がぬっと現れた存在に驚く。

 

―――な、生首……!

 

微かに白んだ夜空の黒を遮った陰影は、私を驚愕させるのに十二分な効果を発揮して、思わず仰け反り、首を後ろの扉枠にぶつけて、四つ這いになった。強打したらしく、ひどく涙目になりながら、嗚咽が漏れた。

 

痛みは混乱と混じり合い、極まった感情は眼より熱いものとして漏れ出して、頬を伝い、床へと落ちてった。一体なんだと言うのだ。私が何をしたと言うのか。

 

伏して羽織った布団にくるまって、身の守りを固めながらハラハラと涙を流していると、今度は路地裏のガラス窓を強く叩く音が聞こえた。そうして私は問題が何一つ解決しておらず、十数メートル先の空間では、何者かがこちらを見据えている現実を思い知らされる。

 

二階の窓先に生首を浮かべる輩は、何を思ってか、あるいは伏したこちらを気にしているのかはしらないが、音を鳴らすのをやめてはいるが、その気配は未だに消えてくれていない。とりあえずはこれだけの隙を見せても襲い掛かってこない事実とこちらを気に掛けて音を止ませた事実から、多分は、相手はこちらに危害を加える意思がなんだろうな、と、半ば逃避気味に予測。

 

楽観混じった結論に達した時、予想外と理不尽を突きつけられていた私の脳内は己の思考の危機的状況を打破するため、脳内にて渦巻いていた思考の全てを一つのものに集約させた。すなわち、二階の窓を叩く不届き者の正体を確かめてやる、だ。

 

覚悟さえ決まれば、行動に移るのは早かった。頭からすっぽり被っていた布団を部屋のなかへと跳ね除けると、ずんずんと大足で歩いて大胆に窓へと近づく。すると、私は、すぐさま影の正体を知ることが出来た。見覚えのある艶やかな黒髪と細身ながらしっかりとした骨格と肉を備えた上半身。それは、ここ一ヶ月ほどで飽きるほどに見続けた肉体だ。

 

蝶番を捻り窓を開けると、外枠に両手の指先の力だけで器用に張り付いている人物めがけて、努めてにこやかに、商売用の笑顔を浮かべて、冷静に問いかけた。多分、生まれてから一番の、会心の作り笑いだった。

 

「……なにをやっているんですか、シンさん」

 

先程まで体内を巡っていた熱は肺の中の空気を圧縮するためにすべて使われたらしくって、驚くほど冷たく抑揚のない声が、するんと口から出た。

 

「うむ、君を迎えに来たのだ。響」

 

突きつけられた言葉の冷刃をまるで無視して、シンは呑気に理由を答えてくれた。時と場所と気持ちさえ整っていればまるで告白のように聞こえただろう言葉は、残念ながらこの度は鋭い刃となり、私の中に残されていた理性の綱をまとめて簡単に断ち切った。直後、私は迷わず窓の外にいたシンの額目掛けて拳を突き出す。

 

無意識のうちに繰り出された拳は、近接職のシンにすら知覚のできない不可視の攻撃となって彼の頭を撃ち抜き、真正面に加えられた横の力に耐えられなくなった彼の指先は窓枠から離れ、彼の体は重力に負けて落下する。

 

一撃に魂を込めてしまったのか、その後、黎明の知らせを告げる鐘の音が脳を刺激するまで、私は糸の切れた操り人形のようにへたり込んでいた。

 

 

曇天。薄い雲間から時折姿を覗かせる月光はエトリアの大地を全て照らすに足りず、大地には依然として静かな暗さが残っている。響達の騒動が騒ぎになるより更に前の時刻では、未だに宵闇と閑静さが領域の大部分を支配するエトリア郊外の森中では風切る音が、場所を移動させながら、時に不規則に、時に規則正しく響いていた。

 

やがて月は一日の最後の力を振り絞って雲間の切れ目より森の一部を照らした。襲来した月光を二振りの黒白の刀身が切り裂く。繰り出された刃は、突如身を引いて、光の奥へと消えた。そして現れたのは、黒いボディアーマーに身を包んだエミヤである。

 

エミヤは重厚に足元を蹴りながら、移動しては片手ごとの刀身を振り抜かず止めて、別の場所へとまた振るい、そして振り抜かず戻す。手腕だけを見れば不可思議にも見えるこの作業は、しかし動きの全体を見てやればその意図がつかめる。彼の動かす刀身の先は、常に一定の距離を移動すると、戻る軌道を描いている。切っ先の通過した場所に色をつければ、それが彼を中心とした球を形作っていることに気がつけるだろう。

 

形作った厚い殻は、すなわちエミヤの支配する領域だ。今、エミヤは先日戦った敵の動きをを脳内にて再現し、模擬戦を行なっている最中であった。虫の繰り出す鋭い群撃に刃の腹を当て、いなして、再び繰り出される群撃に刃を合わせる。繰り返し双剣を振るう彼の手は動きが不規則に乱れる。想定の中で敵の攻撃を捌き切れなかったのだ。

 

動きが乱れるたびに、彼の呼吸が乱れ、証額に吹き出た玉の汗の量が増える。汗は飛び散り、乱れた吐息に、エミヤの周囲は熱を帯びて空気をゆらゆらと歪ませた。草木も眠る時刻より迷惑にも激しく森の空気を裂き大地を荒らしていた音は、稜線より現れた陽光が周囲を照らし朝を知らせると同時に動きを止めた。エミヤは額の汗を腕で拭い、忌々しげに呟く。

 

「……何もしなければ、衰える。使いすぎれば、壊れる、か。なんとも贅沢な悩みだな」

 

彼にとって、己の理想とする身体能力といえば、英霊時代のそれが基準である。生前生身で過ごすよりも死後英霊として過ごした時間の長い彼にとって、それが準拠となるのは当然のことだ。英霊時代は、魔力さえ注ぎ込んでおけば、肉体は劣化も老化もしない。だが、生身の体を得た現在、何もしなければ筋肉は萎むし、時の経過と共に神経反射の速度は衰える。そして過剰に使用すればどちらも壊れるのだ。

 

全身に強化を多用して、筋肉と神経と血管と筋と内臓、その他各部位に過剰な負荷を強いるのはエミヤにとって常である。すなわち生身の肉体を得たという事実は、彼にとって贅沢でありながらも深刻な悩みであった。

 

 

幸いにして、この世界にはスキルという便利な存在があり、エトリアの施薬院を訪ねれば、スキル治療により体調を万全な状態に戻してもらうことが出来る。造血剤だって投与してもらうことが可能だ。だから、エトリアに戻ってさえ来れれば、悩みは解消される。

 

そうなれば問題は一つ。エトリアで治療を受けられない環境に身を置いている時、すなわち迷宮に一人潜った時、体調の万全を保つのが難しいという事にあった。一応、スキル同様の効果を発揮する薬を使用することによって身体の回復は望める。だがそれは敵との非遭遇時に限る事であり、つい先日あったような強敵との戦闘時おいてはそんな暇など、ない。

 

例えば、自動で回復が発動するような仕掛けがあればいいが、ヘイに聞いたところ思い当たらないという。一応自ら作り上げるのも不可能ではないだろうが、剣から形が離れるほどに劣化する我が魔術では、不死不老に近い効果を与える武装など投影できるものではない。

 

噂によれば、世界樹の迷宮は階層を深く潜るごとに、魔物の強さの質が上がるという。二層で苦戦を強いられた現実を省みれば、怪我の回復をある程度の判断のもと、自動的に行うような道具が用意できないのであれば、己以外の誰かに協力を仰ぐことが必要だ。ただし、その誰かというのは、己に匹敵するほどの手練れ出なくてはならない。

 

そうして思い浮かぶのは、つい先日、短い間行動を共にした彼らのことだ。シンとかいうブシドーの彼が放った一撃は、自分の苦戦していた玉虫を、フォーススキルという切り札を持って全て切り伏せるという結果を残し、己の実力を私に知らしめた。

 

彼の引き連れる仲間のうち、一人は素人臭い動きを残していたが、彼女を除く彼らは、隙の少ない良い立ち居振る舞いをしていた。

 

―――彼らなら、もしや、協力者足り得るかもしれない。

 

思ったが、彼らと私にあの時以外の接点などないのを思い出して、かぶりを振った。一見の出会いでしかない手練れの彼らが、私に協力してくれる理由などないだろう。彼らの話を聞く限り、彼らの目的は己らの手で新迷宮を踏破してやること。

 

己の目的を他者の意思によって邪魔されることほど、腹立たしいことはない。ならばそれを邪魔するかのような協力の要請など、恐らく聞いてくれないに違いない。しかし、それなら金銭ではどうだろうか。いや、先の彼らの態度から察するに、彼らは名誉を重んじるタイプだ。恐らく金では動かんだろう。

 

―――いかんな、気が急いている

 

己の焦りを認識し、継続して働かせていた思索が途切れを見せた瞬間、芯に冷える寒さが身を包みつつあることに気がついた。森に潜む夜の間に溜め込まれた冷気は、周囲に撒き散らされた温度と太陽の陽光の暖かさを下回って、皮膚より熱を奪い去ってゆく。

 

軽く全身の汗を拭うと、汗の蒸発が体温を奪い切る前に外套で熱の逃げ場を制限し、賑わいを見せるエトリアの門に向けて足早に向かう。そうして門の前まで辿り着いた時には、周辺は春も半ばの気温を取り戻していた。

 

見上げれば暁の空には、刷毛で書いたような灰色の雲が、乱雑を形にしたかのように茜色と混じる青色の上にぶちまけられ、東雲の光景を半分以上覆い隠している。その夜明けに黒白混じった色が広がる様はまるで、心中の懊悩を表すかのような光景だった。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに〜

 

第七話 揺れる天秤の葛藤

 




皆さま、過分に思えるお褒めの言葉をありがとうございます。感想とご一読されているお方達のおかげで、思った以上の速さで執筆作業を進めることが出来ています。この場を借りて、お礼申し上げさせていただきます。


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第八話 埋まる知識、広がる実力差

第八話 埋まる知識、広がる差

 

最強の男が知識までも兼ね備えた。

解決は時間の問題に決まっている。

 

 

毎夜見る悪夢の中に出現した、不快の影の正体を確かめてやろうと、己が心象を表すのだろう赤い部屋が白く染まっていく風景を眺めながら、周囲の気配を探る。

 

そうして伽藍堂になった肉体を放置して、神経を密に外部へと張り巡らせてみても、しかしその敏と周囲に散らした蜘蛛の糸が反応してくれるのは、やはり毎夜常に現れる己が理性の分身だろう、脳の化け物だけなのだ。

 

やつは私がこの悪夢の部屋にやってきてからきっかり三分後、定刻通りに現れ、ウェイターの気を引くが如くこちらを一瞥すると、しかし、注文もせずに周囲の机を見渡し、他人の料理が陳列する席の中から好物の品を見つけると、勝手に座り、目の前に並べられたものを貪り出す、強欲で礼儀知らずな律儀者である。

 

そんな奴の好物は、負の感情がその色を表したかのような、黒いコーヒーだ。

 

本来は分離不可能に成り果てたはずの記憶と感情の強固な結びつきを、あたかも混ぜ込んだ不可逆の代名詞たるカフェオレのようなそれを、ミルクとコーヒーに戻すかのごとく分離させられ、そうして現れた黒の感情を淡々と処理されてゆく感覚というものは、「これから先の道のり、決して道を間違えることは許さん」と、言外に脅迫されているような感覚を覚えて、ひどく憂鬱な気分になる。

 

そうして陰鬱な表情を隠しもせずに脳を観察していると、やがて満足したやつは帰ってもゆき、赤と白の混ざった部屋は傍若無人な無銭飲食者を取り逃がして、平穏さを取り戻す。もどかしい感覚だけを食事の代金代わりに、割りの合わない不等価交換の結果、私は現実の中へと引き戻される。

 

結局、この夜は、常に一対に現れるはずの黒の影がその悪意の気色に満ちた姿を表すことはなかった。己が記憶の中にいるはずの人物の正体はいまだに掴めない。

 

だが違和感だけはある。常に時間ぴったりやってくる脳の化物と違い、あの心底性格の悪そうな物言いをする影は、こちらの望みをまるで完全に裏切るかのように、望んだ時に現れず、そして望んでいない時にばかり、望んでいないことを好き勝手言って帰ってゆく。その傍若無人ぶりは、理性、というものから最も程遠い、醜悪な感情を感じられる。

 

―――もしやあの影と、脳は、別の存在なのだろうか

 

 

二層を攻略して早四日が経過した。朝、鐘の音がなる前に目を覚ましたのは、ひとえに身体中を覆う不快感のおかげである。二層番人を倒したことによりその大密林の湿気が解放されたのか、石畳と漆喰と煉瓦の街であるエトリアは、梅雨でもまだマシと思えるほどの、水をぶちまけたかのような湿気に包まれていた。

 

そんな空気中を漂う水分から一晩中私をかばいながら、さらには不快な湿度と温度により生み出された寝汗までも吸収してくれた、そんな優しさを持っていた掛け布団は、しかし、朝方にそのおせっかいぶりを遺憾なく発揮してエトリアの朝の冷気までも取り込むことで、まるで冷蔵庫で存分に冷やした水まくらのような物体に成り果てていた。

 

素直さの裏に隠されていたそそっかしい面を遺憾なく発揮した布切れを、一応は気遣って枕元の方へ追いやると、まだ暗がりの残る部屋の床に足を下ろす。木製の床板がギシリと常よりも鈍い音をたてて、悲鳴をあげた。どうやら今日の彼は、周囲の水気をたっぷりと吸い込んでご機嫌斜めのようである。

 

やがて寝ぼけた顔のまま鏡面大の前に行き、身だしなみを整える。眉を整え、ヒゲを剃り、髪をセットしようとして、脂のノリが悪いことに気がついた。髪は湿気をたっぷりと含んだ空気と協力することで、いつもより反抗的な態度で整列するのを拒んでくる。

 

しばらくはその悪童を強制してやろうと格闘していたが、あちらを立てればこちらが立たぬとでも言おうか、直した端から反逆するものが現れるので、適当なところで切り上げてやめた。どうやら今日は、多くのものにそっぽを向かれる日であるらしい。

 

そうして無駄なあがきをしていると、やがて朝五時を告げる鐘の音が聞こえた。エトリア中の寝坊助を起こす鐘の音を合図に階下へと降りると、女将が机の上に多くの皿を広げて待ち構えていた。

 

「やぁ、おはようさん」

「ああ。おはよう」

 

からりと笑いかけてくる女将のインに挨拶を返すと、椅子に座る。食事の最中、女将は鳥の巣に似た頭のことを指摘して、「今日は随分と遊ばせているじゃ無いか」と指摘してくる。

 

怠惰を見抜かれ、指摘され、恥を覚えた私は、「湿気のせいか、今日は随分聞かん坊でね」と言い訳がましく答えると、彼女はやはりからからと笑って、「たまには息抜きさせてやらないと。きっちりしても見せる相手がいないだろう? 」などと言ってきた。そこで、

 

「貴女がいるだろう? 」

 

と、するりと返すと、彼女は「からかっちゃいけないよ」、と言いながら、少しばかり顔を赤らめた。甲斐のある反応をしてくれるものである。やはりこうでなくてはいけない。

 

さて、そうして平穏を堪能していると、食堂に私以外の客がいないことに気がついた。そういえばここ最近、客の姿を見かけていない。思って聞くと、

 

「一ヶ月ほど前から、夜討ち朝駆け上等で、帰る時間も告げやしない、そのくせ五時になっても叩きだせない礼儀知らずが逗留しているからねぇ」

 

と、手痛い言葉を返してくる。言葉の暴力に耳を痛めていると、私は一ヶ月という言葉を聞いてなにかを忘れていると首をひねり、そして今更ながら、一週間ほど前から逗留の代金を支払い忘れていることに気がついた。以前一ヶ月分を前払いしていたので、その後一切代金を支払う機会がなく、騒々しい日々に代金の事を忘却していたのだ。

 

気づいた瞬間、食事を取る手が止まった。慌てて彼女にそのことを告げ、詫び、今すぐ支払おうと言って立ち上がり、部屋に戻ろうとすると、彼女はやはりからからと笑って、言う。

 

「慌てなくても、あんたが踏み倒すような輩じゃ無いことは知っているよ。だからまずは、冷めないうちに料理を食べてからにしな」

 

どうやら知っていて言わなかったらしい。見透かされたかのような言動を受けて、ばつの悪さに足を何度かその場で遊ばせると、しかし、彼女のその慈愛に満ちた視線に負けて、結局彼女の言葉通り席に着き、意趣返しとばかりに言い返してくる彼女にからかわれながら食事で腹を満たす。

 

―――あいかわらず、この世界は馬鹿げたくらい優しさに満ちている

 

 

女将の催促が無いのをいいことに、ただ寄生していたことを詫びて、ついでに幾ばくかの違約金を渡そうとすると、女将に大層怒られた。そうして不機嫌になった彼女に追い出されるようにして宿を出る。

 

夜が開けたばかりの黎明は、冷気と湿気を払う暖かさを十分に発揮できておらず、肌寒い。しかしそれでも街中を歩くと、外套も羽織らずに常の奇天烈な格好がそこいらに見かけられることに驚かされる。

 

そうしてエトリアに生きる冒険者たちの耐久力に畏敬の念を送っていると、彼らの顔色が以前よりも良いことに気付かされる。はしたなくも聞き耳をたてて情報を収集すると、どうやら彼らの顔色が以前よりも良いのは、新迷宮二層の番人が倒されたことに起因しているようだった。

 

新迷宮一層の番人を倒したのち、一週間の後、本来復活するはずの番人が復活しないという事態は、一時の間彼らを不安の渦中に叩き込んだ。きっと何か不吉なことが起きるに違いない、という不安は、しかし、その後、約一ヶ月の時を得てしても現実化する事がなく、その上、さらに二層の番人が倒されたという報が発表され、そうして彼らは、「新迷宮は番人が復活しないのが普通である」と判断したようだった。

 

この辺りの判断の早さを見せつけられると、現金というか、楽観というか、とにかく、エトリアの冒険者というものは、たくましいなと思わされてしまう。

 

問題が解決したと見れば、もう過去に目を向けない、負の感情を留める手段が知らないとでもいうかのような、その悪夢をみようが知った事でない、と言わんばかりの彼らの態度は、今の自分にとって酷く羨ましく思えた。

 

 

「む」

「お」

 

扉をあけて鈴の音をならすと、先客と目が合い、互いに間抜けな声を漏らした。薄暗い空気の中に混じった二つの声は、その場にいる全ての人間の視線を集める効果を発揮して、静かに短い役目を終えて消えてゆく。

 

「よぉ、あんたも売りにきたのかい? 」

 

サガが籠手のない片手を小さくひょいとあげて、親しげに声をかけてきた。投げかけられた言葉が外に逃げないうちに扉を閉めると、薄暗い店内に入って同意の言葉を返すと、一同が集まる店内へと足を進める。

 

いつも鍛冶や冶金などの道具で雑然としている「ヘイ道具屋」は、たった五人だけでも許容人数範囲を多くオーバーしているようで、いつもは道具で一杯の木台の上からは綺麗に一切合切の物が彼らによってどかされたのだろう、地面に乱雑に置かれ、木台はギルド「異邦人」が腕を置く大きめの脇息へと成り果てていた。なんとも厚かましい態度である。

 

しかし、その道具屋の店主に一切の遠慮をしない態度からは、ヘイと「異邦人」の間にある彼らの気の置けない空気が読み取れるようで、少しばかり羨望の感情が湧く。

 

「その通りだ。番人のやつを売ろうと思ってな」

 

答えながら店内を進む。奥へと進んで、さて店主はどこだと見渡してみても、店主を差し置いて堂々とレジ前を占拠する不審者がいるばかりで、いるべき人間が見当たらないことに、まず首をかしげる。

 

「ヘイはどこだ? 」

 

いうと、組んだ腕のままダリという男が店の奥を指差した。

 

「あそこだ」

 

そうして長身から伸びた指の先を追ってやると、炉の横にある出入口の向こうに見覚えのある巨体を見つけて、私は挨拶の声をかけようとする。

 

「ヘイ―――」

 

が、その熊のような巨体がよくみてやればプルプルと震えているのをみて、私は今しがた喉元まで出かけていた愛想の良さを引っ込めた。あの抑えきれぬ激情を、それでもなんとか抑えようとして、それでも抑えきれない発露が体の外に出る状態を、私はよく知っている。

 

それは。

 

「―――、だぁ、やってられるか! 」

 

憤怒だ。

 

「お前ら! 二層の番人から剥ぎ取ったものだってぇ、裏口からデケェ袋をいくつも持ち込むから期待して開けてみりゃあ、詰まってんのは、虫、虫、虫、虫、虫、虫じゃねぇか! しかも腐っててクセェ! 嫌がらせか、テメェら! 」

 

ヘイはついに堪忍袋の尾が切れたようで、ついでとばかりに漁っていた麻袋の口を強く握りしめると、ドスドスと大股に歩いてきて、一番近くにいたダリへと押し付けた。

 

「返す。だから帰れ」

 

二言には、有無を言わさない迫力があった。仮にここにいるのがその辺にいる一山いくらの冒険者なら、その迫力に押されて退却していたかもしれない。

 

「まぁ、そういうなってヘイ」

 

だがここにいるのは、ヘイにとっては不幸なことに、その有象無象に当てはならない、ギルド「異邦人」の五人である。彼らのうち、怒りに燃えるヘイを宥めようと言葉を出したのは、サガという、小さな青年だった。

 

「これでも可能な限り早く持ってきたんだぜ? それに、それは間違いなく二層の番人から手に入れたものだ。いや、むしろ、二層の番人そのものだ。なぁ、エミヤ」

 

サガはいって、私に援護の声を求めてくる。そうしてヘイの怒気に満ちた視線がこちらを向いて、「本当なのか」という問いに満ちた瞳を投げかけてくるのを見て、私はサガの手腕に賞賛と罵倒を心中にて送りながら、答えてやる。

 

「ああ、その通りだ。その、なんだ、君の持っている、その、様々な汁が垂れる袋に詰まっている奴らは、間違いなく番人のそのものだ」

 

そうして彼の望んでいないだろう回答を返してやると、ヘイは一度天井を仰ぎ見て、そうして諦めるかのように左右に何度もかぶりを振ると、大きなため息を吐いていう。

 

「まぁ、エミヤが言うなら違いねぇんだろうな」

「ヘイ。おい、お前、そりゃどう言う意味だ」

 

端的にお前らの話は信用ならんと告げられたサガが抗議の声を上げる。

 

「ばっか、そりゃオメェ、こんな堆肥にもならんゴミを持ち込む奴らと、あの美しい鱗と皮を持ち込むエミヤ、どっちの言葉を信用するかって言われたら、そりゃオメェ、エミヤに決まってんだろう」

 

ヘイの迷いのない断言に、サガが何とも悔しげにしかし、何も言えないで押し黙る。それを見て、ピエールという男は意地悪く失笑を漏らし、響が何とも言えない苦笑いを浮かべる。ダリは納得の表情で首を縦に振り、シンはそんな周囲の態度には興味ないといった程で、ずっとこちらに鋭い視線を送ってきている。

 

「おお、そうだ、エミヤ。この馬鹿どもは放っといて、お前は何を持ってきてくれたんだ? 」

 

ヘイはその袋をぽいと店の奥へと放り込むと、大股でこちらに進んで尋ねてくる。彼の放り投げた袋の口が開き、その中からおぞましい汁を周囲に撒き散らしながら、ガサガサと音を立てて佃煮の様な状態の玉虫が店の奥へと撒き散らされる。

 

ヘイはその耳障りを聞きつけて己の所業にすぐさま気づくと、諦観とやり場のない怒りとが混ざった顔をして、一瞬だけ凄まじく眉をひそめると、努めて商売用の顔に作り変えて、もう一度こちらを向く。その顔は覚悟を決めた殉教者のように表情が固定されていた。

 

私は、あの残状を見ながら、一旦は捨て置いておこうと決心した彼の胆力に感心しながら、持ってきた小さな麻の袋を取り出して、彼の前に差し出す。

 

「今回の番人から剥ぎ取った品は、あまり量がないのだが……」

 

言って差し出した袋をヘイは丁寧に奪い取ると、「前回みたいなのをまた持ち込まれたら、身がもたねぇ」と言いながら、その袋の軽さに違和感を持ったのか、一度首をかしげるとその縛りを解き、中身を見る。途端、彼の顔には驚きと呆れが詰めこまれ、体は再び震えだした。

 

「……、エミヤ、お前、これ」

 

その体全体を小刻みに動かす様に、先のシンらが持ち込んだ際に彼が見せたものとの共通を見出した私は、何がその起爆剤になったのかはわからないが、言い訳するかのように、言葉を付け足す。

 

「一応、腐りかけた余計な肉をこそげて、売れそうな部分のみを選別してきたのだが……」

 

私が差し出した袋に入っているのは、金の羊毛だ。とはいえ半身を消し飛ばし、残りの殆ども宝具でバラバラにしてしまったので、わずかながら無事だった肉体に残ったものを刈り取って持ってきたわけだが、やはり量が少なすぎたのだろうか。

 

「――――――」

「あぁ―――、ヘイ? 」

「――――――これだよ、これ! 俺はこういうのを求めていたんだよ! 」

 

不安に陥る私が声をかけたその数秒後、ヘイは大きな声で叫ぶと、私の両手を無理やり掻っ攫って、上下に大きく振る。そうして満足を大いに表現したヘイは、私の後ろにある扉にまで進み、鈴の音を何度も大きく響かせながら扉を乱雑に開閉させると、その間に器用にも表の看板を回収し、さらには閉店の文字を表にして、こちらへと戻ってくる。

 

「さぁ、今日はこれの加工と使い道を考えるので忙しい。俺は上に行くから、エミヤ、悪いが、値はつけたら後で知らせる! また後で来てくれ! 」

 

いうとヘイは、異邦人の彼らには見向きもせず、一目散に店の奥に引っ込んで、ドスドスと階上へと消えてゆく。その迫力にあっけにとられてぽかんと眺めていると、やがて同じように口を開けて呆けたサガという男と目があった。彼は下から覗き込むような視線を私に送ると、苦笑いをしてこちらに話しかけて来た。

 

「よう。災難だったな」

 

思うに彼らがあの腐った虫の死骸を持ち込んだことが、彼をああまで不安定な心境に追い込んだ原因だと思うのが、彼のその、まるで自分らは無関係だと言わんばかりの態度に呆れたような、感心したような、そんな複雑な思いを抱いて、私は返答する。

 

「まるで人ごとのようにいうな」

「まぁ、実際、人ごとだし? 」

「面の皮が厚い」

「よく言われる」

 

言い合って互いに失笑を漏らすと、彼は事実無関係といった程でそのまま話を続けた。

 

「それにしても一昨日ぶりだな」

「そうだな。クーマのところであって以来か」

 

言って一同を見渡すと、シンという男の頭に見事な拳紅葉が付いていることに気がついた。さて、何があったのだろうかと、思わずその額を注視すると、彼はその視線に気がついて、額をさすると、静かな視線を二つ隣の少女、響へと向けた。

 

私はその動きに誘われて彼女の方へと目線を動かす。そうして二人の視線に誘われるように、皆の視線が響に集まると、彼女は己に集まった視線にまずはいちいち目線を返して、次にその視線がシンの額を発端として己に集まった物だと悟ると、顔を赤らめて、下を向いた。

 

―――なるほど、彼女が原因か

 

私は以前、半裸のシンが彼女に詰め寄っている光景を思い出して、邪推の元に尋ねる。

 

「シン、もしやとは思うが、無理やりは良くない 」

「いや――――――」

「違います! 」

 

シンが言葉を紡ぎきるまえに、響が顔を赤らめて大声をあげた。少女特有の、耳に長く残るソプラノボイスが、鼓膜に多く振動を与える。

 

「あれは、シンさんがいきなりあんな馬鹿をするから―――」

「ふむ、だが、いや、あの一撃は見事だった」

 

響の狼狽えた言葉を遮って、多分的外れなのだろう意見をシンが返すと、彼女は呆れたような、諦めたようなため息を吐いて、下を向いた。その言葉だけ聞けば十分に怪しい想像を掻き立てられるそれに反応して、サガが快活な笑いをあげながら、言葉を継ぐ。

 

「いやね。一昨日のことなんだけどさ。あんたと別れた後、俺らも祝杯をあげた後、夜くらいに解散して、それぞれの寝床に戻ったのさ。まぁ明日―――つまり昨日だな―――はクーマからの依頼で、樹海磁軸を使って番人の間に行って、新迷宮の番人の不在証明を手伝うことになっていたから、早めに帰って道具の手入れをしようって話になってたんだが、その際に、響の噂を聞いてさ」

「うむ、クーマは馬鹿正直に、六人が偶然、番人の間でかち合ったから、協力して倒したと周知しようとしていたわけなんだが、まぁ、その話が公式に広がる前に、六人ということを聞いたそやつらが深読みしたらしくてな」

「なんでも、彼女が準戦闘職であったから、戦闘職五人、プラス一人という、許可されている最大人数で予定通りに挑み、だからこそ番人を倒せたのではないかと考えたらしい」

 

サガの説明にシンが付け加え、ダリが続くが話の内容がよくわからない。おそらくはエトリアにおいての常識に照らし合わせると、そこの響という少女が私たちと共に戦うことで、なにかの不都合な事態が発生したということは読み取れるのだが、それ以上の情報が読み取れない。

 

私は少し悩んだが、私が迷宮探索の初心者ということを彼らは知っているわけであるし、聞いても問題ないかと考え、素直に疑問を返すこととした。

 

「すまない。何が問題なのだ? 」

 

返すと彼らは驚いて顔を見合わせて、しかし納得した表情で、私の質問に答えようとして、しかし、私のどんな知識がかけていて何が理解できていないのか、というのがわからないらしく、サガは困った顔で聞き返してきた。

 

「ああ、そうだな、ええと、どこから説明していいのか……」

「エミヤ、迷宮は一つのギルドにつき五人までしか、また、一時間に五人までしか、潜入してはいけないという法があることを知っているか? 」

 

サガの言葉をぶった切って、ダリという男が説明を引き継ぐ。淡々と告げる彼は、しかし、話す機会をまっていたといわんばかりに顔が気色に満ちている。どうやら彼は、己の知識を語ることが好きな、いわゆる理系の男というやつなのだろうと勝手に思う。

 

「いや……、時間は聞いたが、ギルドの方は知らなんだ。ああ、だが、言われてみれば、たしかに、街中を集団で歩く連中や、入り口で待ち合わせている彼らや、迷宮の前でたむろっている連中は基本五人組だな」

「そうだ。調査隊の全滅などの経験則から、迷宮は一時間に五人までしか挑んではならんとエトリアでは決められている。また、迷宮に入った五人は、偶然鉢合わせるくらいならすぐに離れてくれれば問題ないのだが、その後集団で行動すると、迷宮外にまでも魔物が溢れて出てくる可能性があることから、中で合流して六人以上になることも、基本的には禁止されている」

 

ふむ、経験則と言われると理由は理解できないが、とりあえずは五人以上で行動するのがいけないという点が重要であるらしい。

 

―――ああ

 

「もしや君たちのギルドと協力して六人で番人を討伐したのが、まずかったのだろうか? 」

「いや……、いや、それはまあ問題ない。一応、関係はあるのだが、それだけではない」

「どういうことだ? 」

 

ダリは頷くと、まるで学校の教師が指示棒のごとく、指をくるりと回すと、言う。

 

「五人まで、と言う点には、実はいくつかの抜け穴がある。例えば、一つは、誰かが戦闘で手こずっているのを発見した場合、あるいは、執政院や酒場の依頼などで、非戦闘要員を、依頼人を迷宮へ連れて行かねばならぬ場合などの、短い間のみ、迷宮に六人以上での行動を許可されるのだ。まぁ、人助けなら、少しの間でも仕方ないと言うことだ。我々冒険者は最大潜入可能人数である五人を基本に戦術を組み立てていることが多いからな」

 

ああ、なるほど。仲間の数を削って非戦闘要員を数に数え、そうして彼らが生き残る確率を減らすくらいなら、まぁ、一時の間は六人以上でも構わないと言うことか。

 

「―――それで? 」

「うむ、それで、先ほどの話に戻るのだ。実はこの響という少女は、戦闘職でなく、ツールマスターという準戦闘職で、正式な戦職業でない。だから、数の上では、私たちは、一応、短い間なら、後一人を加えて迷宮へと潜ることを正式に許可されているのだ」

 

―――なるほど。話が読めてきた

 

「つまり、そのことを利用して、私と手を組み、そうして予定通りに法の穴をついて、番人を倒したのではないかと邪推する連中が現れたということか」

「ああ。そうして深読みした連中―――その中でも、特に、まだ新迷宮の踏破を諦めていない連中が、番人を討伐したメンバーの一人である響に目をつけてな。我々や君は勧誘不可のお触れが出ている状態であるが、彼女はその守りがない。というか、出し忘れていた。実力が我々よりもずっと劣っていたからな。まあこれは我々の過ちだな」

 

いうと、そこでダリは咳払いして、一息つくと、また続ける。

 

「とにかくそこに目をつけて、同じような手段で攻略してやろうと目論んだ連中が、その発表前に、多少強引にでも他より先に勧誘に向かえばその分説得の時間も確保できる、と計画を立てている連中の話を耳にしたのがきっかけだ。―――まぁ、その場で言ってやっても良かったんだが、どうせそんな輩はまた出てくるだろうし、夜も遅かったものだから、明朝、鐘がなる前、日が昇る前にシンを迎えに行かせたんだが……」

 

ダリは言うと、重くため息を吐いて、続けた。

 

「この馬鹿、こっそり連れ出してこい、と言うのをそのまま言葉通りに実行しようとしたらしくて、裏路地の二階の窓枠にひっついて、窓を叩いて彼女をおびき出して連れ出そうとしたらしい。あとはまぁ……」

 

言うと、ダリは響の方へと視線を向けた。すると彼女はその小ぶりな顔を真っ赤にしながら、スカートを両手で握って、顔を伏せる。恥ずかしげな彼女とは裏腹に、シンは前髪をかきあげて、拳の跡を露わにすると、晴れやかに言う。

 

「窓から現れた彼女に迎えの言葉を言うと、いきなり拳を突き出されたのだ。いやぁ、しかしあの一撃は見事だった。二層の番人の攻撃を見切れた私が見切れない、まさに無我の境地でないと繰り出せない一撃とでも言おうか。うむ、彼女はよい近接職になるぞ」

 

己の顔面に拳を叩き込まれたことを、しかしシンは、まったく気にせず、誇らしげに言う。その様になんとも返すことができなくて、私は変なら含み笑いを返すことしかできなかった。彼女はそんなシンの言葉を聞いて、耳まで赤くすると、余計に服を握る拳に力を入れた。年頃の少女が武の強さを褒められてもうれしくないのだろう。なんとも不憫な……。

 

「……いや、まぁ、この馬鹿は放っておいて、とにかくそう言う理由で迎えに行かせた後、とにかく対策を、って事で、クーマのところでの依頼を片付けついでにお願いしに行ったんだ。響も勧誘不可のお触れを出してくれってね」

「それが昨日の昼頃でな。まぁ、それまでの間、街にいるのもあれだから、クーマの番人討伐の確認作業を手伝って、三層磁軸から番人部屋まで案内した後、彼を帰らせた後、迷宮内で一晩過ごしたのだ」

「そうして今朝方糸を使って帰ってきたところ、まぁ、問題は解決していたのですが、忘れていた虫の袋がまぁ、中身が酷いことになっていましてねぇ」

 

サガに続いてダリが補足し、そうしてピエールがクーマの消えた、店奥の先を指差す。そこには、先程ヘイがぶちまけた、頭部と胴が切り離された、体液と腐った汁にまみれた玉虫の死骸が群れていた。

 

「麻袋をおいてた、その床にまで虫汁が染み出してたからなぁ。まぁ、とはいえ、処分しないことには仕方ないから持ってきたんだが……」

「あのざまです」

 

サガの言葉にピエールが口元を意地悪く歪めながら、さらりと告げる。その顔は、イレギュラーな事態を楽しむような、その後、ヘイがどんな気持ちで処分するのかを想像して楽しむような、そんな、暗い愉悦に満ちた、しかし恍惚とした顔をしていた。どうやらこのピエールという男、相当いい性格をしているようだ。

 

「あまりいい趣味とはいえんな」

「おや、失敬。顔に出ていましたか? 」

「少なくとも迷宮素人の私にもわかるくらいにはな」

 

私の忠告に、ピエールは悪びれもなく素面で言ってのけるので、皮肉を返してやったが、彼はそれすらも涼し気に受け流した。本当に、良い性格をしている。

 

「諦めろよ、そいつの性格だ。……、しかし、エミヤ。お前、本当に変な奴だなぁ」

 

サガはしみじみとこちらを覗き込みながらいう。

 

「何がかね?」

「だって、お前、そんなに強いのに、どうしてそんなに迷宮のことについては常識がないんだ? なぁ、お前、一体、どうやって迷宮に潜らずそんな強さを身につけたんだ? 」

 

痛いところを疲れて言葉を返せない。馬鹿正直に、元英霊の人間だなどと告げても理解されないだろうし、あるいは、過去よりの来訪者ですなどと多少誤魔化したところで、かわいそうなものを見る目を送られるだろう未来が容易に想像できる。

 

そうして私が返答に窮していると、フォローしてくれたのは、まさかのピエールだった。

 

「まぁ、いいじゃありませんか。いい男に謎はつきものです」

「いや、そういう問題じゃぁ……」

「根掘り葉掘り聞くのははしたないですよ。込み入った話というもの、まだあって間もない人間には言いづらくて当然でしょう。あなただって最初の頃は、なんで冒険者になったのか、その理由、を語ろうとはしなかったでしょう? 」

 

いうと、サガは渋面をしながら閉口。それをみてピエールはやはり機嫌よく笑う。どうやらこのピエールという男は、性格は悪いが、わきまえているところはあるらしい。本当に、非常に扱いづらい性格をしているのが難点であるが。

 

「まぁ、それはいいとして、エミヤ」

「なんだね? 」

「あなた、まずはその、迷宮の常識を知らない面をどうにかした方がよろしいかと。おそらく今後も、あなたが強いのに迷宮のあれこれを知らないということを知られると、ここにいる礼儀知らずのように、同じ疑問を投げかけてくる輩がいるでしょうから」

 

サガは立て続けの罵倒に、もはや噴火寸前だ。ともあれ、まぁ、嫌みを除いて聞いてやれば、ピエールの言うことは的確だ。同じような事態になった時、対処する手段としても、迷宮の常識は知っておいた方がよいだろう。

 

だがあいにくと、その常識のなさを埋める手段が思い浮かばない。さて、どうしたものかと、首を微かにかしげると、その悩みを見透かしたかのように、ピエールは続けた。

 

「エミヤ、ギルド長のところへ行くとよいでしょう」

「ギルド長? ゴリンとかいうあの怠惰な男か。何故だ? 」

「初心者に冒険者としての心構えや常識を教えるが彼の役目です。以前、迷宮であなたはその辺りの説明を彼から受けていないとおっしゃっていましたね? あの男がサボったせいで、今あなたはそうやって恥をかいている。ならそのツケは、元凶に支払わせるのが道理というものでしょう」

 

涼やかに告げるピエールの瞳には、人を食ってかかったような、そうして己の行動の結果、正しく人が少しばかり困るのを喜んでいる節があった。だが。

 

「まぁ……、そうかもしれんな」

 

あのゴリンという怠惰を形にしたかのような男のせいで、このような齟齬に戸惑う事態が起こるというなら、たしかにピエールの言うことも一理ある。

 

「でしょう? ですから、エミヤ。もしこれからお暇でしたら、一緒に、ギルド長のところへ行きませんか? 」

「……、ふむ」

 

ピエールの突然の提案に、彼の顔を覗き込む。その緑水の瞳には曇りがなく、口元は悪戯っぽく口角が上がっている。私はこの性格が悪いだろう男の親切の提案に、一瞬疑念を抱いて、そしてそれはそのまま、口元からこぼれた。

 

「ピエール。なんでわざわざ付き合ってくれる」

 

聞くと、彼はやはり意地悪に口元を歪めていった。

 

「決まっているじゃないですか。面白そうだからですよ」

 

 

世界樹の新迷宮

第三層「疾走の朱樹海」

第十三階「影の国で修行を重ねた日々」

 

 

三層を攻略しはじめてから二週間後。早くも三層第十三階を潜る「異邦人」一行は、いつも以上に順調に階層を進めながらも、順調とはいえない連戦の旅路に苦戦を強いられていた。出て来る敵は、四足を持ち大地を駆けるの、犬、猪ばかりである。

 

たった二種類しか出ない迷宮は、その上とても直線的で、面倒なことは嫌いだとでも言わんばかりに、わかりやすい作りをしていた。しかし現れるたった二種類の獣共は、人よりもずっと大きな体を持ち、こちらを視認した瞬間、嬉々として襲いかかってくる。

 

その巨体のどこからそれだけのエネルギーを生み出しているのか、風を切るようにして敏捷に動き回り、牙を、爪を、頭部を、鼻先を、一秒でも早く相手に叩き込もうと突進を繰り出しては、ギルドの二人が繰り出す攻撃と防御に遮られ撤退し、そしてまた突撃を繰り返す。防がれれば引き、すぐさま戻っては突撃を繰り返すその様は、さながら槍の刺突によく似ていた。

 

 

犬、犬、猪、猪。襲いかかる敵に応じる五人のうち、まともに戦えているのは二人だけだ。シンとダリ。近接戦闘を生業とする彼らだけが、獣どもの武器を斬り、突き、払い、叩き、いなし、受け止められる。私たち三人が生きていられるのは、彼と彼がそうして敵の攻撃を本能的に、あるいは理性的に捌き続けているお陰だ。

 

シンとダリは笑っている。口角を上下対称に歪める二人が脳裏に浮かべる感情を想像するに、真逆の思いをそれぞれ別の対象に向けているのだろう。

 

シンは強敵の出現に喜んでいるように見える。刃を振るっても仕留めきれず、振り下ろした刀身は皮と脂肪を割いて肉を切るが、それらの分厚さと硬さに負けて骨まで断てないのを見て、獰猛な笑みを浮かべる。

 

切れぬが、それが良いというかのように、刃を通さない堅さと自らに追いつく速さを持つ敵獣を前にして、シンは無言にて笑みだけを貼り付けながら、彼らの相手を務めている。短い付き合いであるが、私はシンがそういう人間である事を嫌という程理解できていた。

 

シンは己を打倒しうる牙を持つ獣の襲来を歓迎し、心底喜んでいるのだ。そうなるともう、彼は周囲の環境を、一切関知しない。まさに一秒でも早く相手の体に刃を通す事に持てる力の全てを叩き込むだけの道具になるのだ。近接職はこうして一枚壁を失い、その負担はもう一人の近接職であるダリに降りかかることとなる。

 

ダリの顔に浮かぶのは、諦めと悟りの中間にあるような、遠い目とへの字である。シンの暴走を諦めつつ、そして後ろに立つ非力な肉体を持つ後衛職を守るのは、前衛に立つ者としての、そして、パラディンという職業である自分の役割だと気負っているのだろうか。

 

己の役目を十全に果たすべく、ダリは常に優先して味方の位置に気を配り、敵の意識が私たちとシンに向かないよう攻撃と挙動に調整を加えながら、盾と槌を振るっているのがわかる。ダリは後ろにいる彼らを傷つけうる敵の襲来が味方に及ばぬよう、暴走したシンが無茶をせぬよう、味方の安否を気遣い続けているのだ。

 

そうして諦観の念を得て解脱に至りそう表情のダリは、一人で全周囲の敵に気を配りつつ、四人の面倒をみている。誰よりも重い鎧盾を装備した状態で、誰よりも多く戦場を動き回る彼は、当然のことながら負担は大きいのだろう事が、誰よりも呼気を荒げて、肌から蒸気を絶えず発していることから見て取れる。

 

だが、その彼の持つ真面目さと責任感から取られる行動は、前衛のシンの更なる暴走を促し、後衛の私たちに安全を提供し、私は彼に発奮させられる。

 

ピエールは味方の身体能力を引き上げるバードの役割を完全に果たそうとしているのか、一歩も動く事なく目を閉じて高らかにスキルを発動させ続けている。回避も防御も放棄するという選択肢は、シンは必ず敵を倒すし、ダリが攻撃を絶対に防ぐという信頼がなければ出来ない事だろう。己の命運を完全に他人に預ける様は、絶大な信頼の証である。

 

一方、サガはというと、ピエールのそばで小さくまとまって、待機していた。それは怠惰からくるものではなく、見に回るという彼なりの戦い方だった。新迷宮三層という砂地の上を縦横無尽に駆け回り、その上、属性攻撃に強い敵に対して、出来る選択肢の事の少ない事を自覚している彼は、両の手から巨大な籠手を引き抜いた状態で、ただひたすらに努めて動かず留まり、状況を見守る事に集中する。

 

三層に現れる犬と猪は耐熱に優れた皮で炎を防ぎ、硬い皮膚で氷の刃を防ぎ、周囲に発散している絶縁の粒子を利用して雷を防ぐ。そのうえ彼らは、一撃にシンの威力程も力を込めなければ、近接の攻撃を通さない。一応近接攻撃を持つがシン程の威力を到底出せず、遠隔からの三属性攻撃を主な手段として戦うサガは、新迷宮三層の敵に対して無力に近かった。

 

サガは耐性を持つ敵への有効的な手段として「核熱の術式」という、光の柱を射出し、触れた部分の敵体内からほんの一部ずつを原子崩壊させてゆく事で、肉体の崩壊と同時に爆発を引き起こす、堅い敵を切り崩すスキルも習得しているが、過剰な集中と先読みを必要とし、気力の消費が激しいそれは、ひっきりなしに動き回り襲いかかってくる敵に対して乱発するのに適さない。

 

効率の悪さを嫌う彼は、だからこそ前衛の負担を減らすためじっとして、戦況を見守っている。いざとなれば、それでもスキルを使用して状況を好転させるために。彼はさぼっているのではなく、必死で耐えているのだ。忍耐という戦いの辛さは一層、二層でなにも出来なかった私が一番よく知っている。

 

そうして以前よりも人の行動の傾向がつかめてきた私というとは、動き回る二人と動かぬ二人との間で、動いては止まり、止まっては動くという挙動を繰り返していた。

 

私の役割は、道具を使ってギルドのメンバーが効率的に動く事をサポートする事だ。道具によるサポートとはすなわち、道具を使用して攻撃する事であり、回復する事であり、敵の邪魔をする事であり、味方の行動を補助する事だ。

 

私はシンのように周囲全ての脅威を心配無用と切り捨てて、速度の早い敵の姿を目で追い続ける事が出来ない。かといって、ダリのように周囲全ての敵味方の情報を拾い上げて予測を拾い上げて防御や援護をするという事も出来ない。けれど私は、ピエールのように補助を行うことができるし、サガよりも上手に道具を使うことができる。

 

だから動く。命を張っている彼らを前にして、出来る事が有るのに何もしないというなどという怠慢を選びたくはなかった。

 

―――もう数度も戦いを観察したんだ。そろそろ何か気付けてもいい頃だ

 

だから、出来る事をするため、前段階として、出来る事を探すため、焦燥にはやる気持ちを押さえ込みながら、私は戦況の推移を見守り、観察する。

 

俊敏に動く獣は、赤く苔むした、湿り気のある柔らかい、しかしさらりとした砂地を苦もなく踏みしめて、地面を走るのではなく、地の上を滑る様に接近してくる。まるで鳥の様だ。なぜダリほども大きな体をあれだけ軽やかに動かす事ができるのか。

 

素早く動く姿を捉えようとすると霞み、対象をとらえようと拡大と収縮を繰り返す瞳孔は頭を混乱させ、頭痛を生む。過度の使用停止を訴える脳の指令を無視しながら、宙を滑る敵を何とか視線を捉えてやろうと苦戦していると、身を置いている戦場に周囲に尋常じゃない量の砂埃が舞っている事に気がついた。

 

砂塵と苔は、シンやダリが動くごとに地面を蹴って巻き上げるよりも早く、周囲に薄く広がってゆく。肌が生暖かい風を感じた。

 

―――風?

 

戦場に吹き荒れる風は、上下左右から満遍なく体に吹き付けられている。地下へと向かう洞窟である世界樹の迷宮には常にあちらこちらから風が流れてくるが、大抵は大地の流れに沿っている。高いところから低いところへ。

 

水が低きに落ちるよう、地形の流れに沿って進むのが迷宮のみならず自然の風だ。ならばとりとめのない風は、自然に生じたものでなく、明らかに何者かの意図が絡んだ代物に違いない。さらに鋭く戦場を吟味する。

 

シンが犬の突進に合わせて一撃を放つ。犬は足を地面につける事なく急制動をして見せると硬質の毛を使って受け流す。そうして敵が真の横を走る抜ける直前、駆け回る子供の首根っこを掴んだ様な急激な挙動を見せた瞬間、敵の足元から砂苔が上がる。風は明らかに犬の足元から噴出していた。それは猪も同様であった。

 

理屈はわからないが、あの獣どもが素早い動きと変則的な挙動を見せるのは、足元から追い風向かい風を自在に生み出せるかららしい。そしてシンの一撃を交わした犬は、身を屈めて四足を前に突き出すと、再び地面を軽く吹き飛ばして勢いを殺し、背骨を器用に曲げて前後を反転させて、大地に難なく着地し伏せると、弾丸の様に再び突っ込み、そうして再び生じた風が戦場の空気を荒らしていた。

 

―――そうだ!

 

獣の起こす大気の変化と彼ら動きを見て、思考が働く前に、敵影を追い続けていた脳が援護の手段を導き出す。直感に従い、道具袋の底へと手を突っ込んで、毒香の袋を取り出す。毒は一層の毒蛇から抽出して作り上げた特別製のもので、一息体内に入り込めば、一瞬で融解を引き起こす効力を持っている。

 

最初に旧迷宮でアークピクシー狩りをして石祓いのバングルを手に入れ、毒祓いのタリスマンがなければ、到底入手は出来なかっただろう。いやその今までは不明だった敵の毒を解明するに一躍買ったのが、エミヤだというからまぁ。そのあたりやはり彼はすごい人物なのだなと思う。閑話休題。

 

ともあれこの粉は、そういったすさまじい効力を持つ代わりに、空気よりも重く、下の方に沈殿する性質を持っている。重い粉末は上手く散布するのに手間取るし、ツールマスターの私では狙いすましても単体相手でないと使えないしで、素早い敵相手では出番がないかと思っていたが、そんな事もないらしい。

 

「毒香を撒きます! 気をつけて! 」

 

使用を一方的に宣言すると、私は迷わず厳重に縛った口を広げて、頑丈な袋を地面に叩きつける。袋の中から紫の粉末が地面との激突により低く濃く散り、戦場舞う辻風にて素早く赤土と苔に混じり、黒い毒風が広く薄く散ってゆく。

 

シンから離脱をした犬。ダリが受け止めた猪。前衛の隙を窺っていただろう犬。後衛を攻撃する瞬間を窺っていただろう猪。毒煙は地面に低く伏せていた彼らの体の下半分を包み込む。

 

「な、なにを! 」

 

期せずして発生した煙は敵の攻撃の瞬間を見えにくくし、守りを担当していたダリは戸惑ったような声を上げる。しまった、このデメリットは考えていなかった。申し訳ありませんと心の中で謝罪する。けど。

 

「大丈夫! すぐ敵に効くはずです! 」

 

疑問の声にすぐさま顔を向けて回答して、敵の方へ向きなおす。唖然とした表情を浮かべる三人は逡巡の様子を見せながらも自らの態勢を維持し、シンは迷いを見せず、煙に覆われた敵へと斬りかかる。直後、敵に起きた異変は劇的だった。

 

「――――――! 」

 

戦場を飛び回っていた四匹の獣は突如として血反吐を吐き、地面に崩れ落ちた。周囲に広まっていた獣臭に酸い臭気が混じる。肉の焼ける音が響き、獣の顎から口元にかけて喉が変色を起こして爛れていく。

 

遅れて獣共の喉元に空いた複数の穴からは、びちゃと血液と体液が零れ落ち、ひゅうと呼吸の努力が虚しく漏れた。大きな体の制動を自在に操り、風を生んでいた足先も、同様に崩壊と壊死を開始している。四匹はもはや死に体だった。

 

「よし! 」

 

狙った効果以上の出来栄え。無意識に毒を投擲した手である事も忘れて、固く握り締めた。

 

「よくやった、響! 」

 

上段に構えたシンが吠えて敵に突っ込み、動かぬ敵の首を切り落とし、苦しむ敵を介錯する。そんな事を都合四度ほど繰り返して、戦場はようやく静まり返った。周囲を自在に吹き遊んでいたに風の代わりに自然の飄風が吹き、毒、土、苔の混ざったワインレッドの煙をどこか遠くへと運んでゆく。そうして静閑さを取りもどした空気を感じて、響は昂りを沈めた。

 

―――やっと腰を落ち着けられる

 

息を吐いて戦闘終了と思ったのもつかの間、律儀に順番を待っていたかの様に、どこから遠吠えが聞こえた。うんざりした気持ちで顔を上げると、一人を除く皆に同様の表情が浮かんでいるのを確認する。そうして皆で仲良く首を縦に振り合うと、手際よく敵の解体を済ませ、風の導きに従って迷宮の奥へと進む。

 

ちらりとシンに目をやったと、逃げるという選択肢に不満げで渋々の様子だ。横顔を見ていると、気付かれたようで、目があった。彼は一転してニヤリと笑うと、小さな声でよくやった、と言った。言葉に胸の奥に暖かさを覚える。

 

溢れ出た想いに私は自然と笑みを浮かべた。そうして彼の言葉で先程の戦闘を思い出すと、その後、袋の中に手をやって、毒香の数を確認する。

 

―――袋はあと五つ。それが切れたら帰還を提案してみようかしら

 

物怖じせずに提案をしてみよう、と思えるようなったのは、きっと、彼のおかげなのだろう。誇張無しで心情を語る彼の口から出る言葉は、ほかの誰よりも真剣そのもので、褒められるのが素直に嬉しいと思える。だから苦しくとも頑張ろうと思えるのだ。

 

私はこの探索が終わったら感謝の言葉でも送ってみようかと思ったが、先日自分を驚かせた彼の失態を思い出して、止めようと強く思った。事情は後でわかったが、あのやり方はない。私はまだあの時の、嬉しさと怒りの混ざった出来事を消化しきれていない。まぁ、そのうち嫌な記憶も薄れるだろうから、そんな心持ちになった時にでも礼を言えばいいだろう。

 

 

―――ありゃ、やばい

 

響のやつ、ダリと同じで、理を詰め、冷静に事を進める性格であるのに、気質はどちらかというとシンに近く、己の理でよしと判断したら即座に行動に移す直感型だ。これまで響が気質を発揮せず大人しかったのは、己の実力が未熟と判断していたからか。

 

けれど、彼女はこれまでの積んできた経験とそれに伴った成長で自信を培ってきていた。そして先の戦いで己の理と知識から導き出した直感的選択が、新迷宮の敵にも通用するのを知ってしまった。

 

だからこれから彼女はきっと、良いと思った行動を迷わず宣言して実行に移すようになるはずだ。シンのように何も言わずに突っ込むよりはましだけれど、だからといって、宣言即行動も困る。特に今回のように、味方の体調にまで影響を及ぼしそうな道具の使用の際には、もう少しだけ詳細に説明して欲しいと思うわけだ。

 

戦闘終了後それとなく指摘した際に君の言った、「このくらい大丈夫ですよ」の「これくらい」は、君がツールマスターで、道具の知識が他の人よりも豊富にあるから「大丈夫」とわかるのであって、道具のプロフェッショナルでない他の人は「このくらい」がわからないのだと言う事を認識していて欲しかった。指摘するまで続くよなぁ、このすれちがい。

 

どこか暇を見つけて指摘しないといけないな。見た目紫のあからさまに有害そうに見える煙を、注意直後、身構える間も無く周囲に撒かれては、結果大丈夫だとしても、堪らない気持ちになるね。敵に毒が効いて可憐な笑顔を浮かべた時には背筋に寒いものが走ったよ、俺。

 

わかるけどね、予想が当たっていて敵に効果的な手段を選択出来た時の喜びで嬉しくて笑顔浮かべたんだろうな、とか。でも、だからといって、一歩間違えていればああなってたのが自分たちだったかもと思うと、素直に一緒に喜べない。

 

もう少し常識があるタイプだと考えていたが、ちと見直す必要がある。新入りの成長が早いのは大歓迎だけれど、戦い方を把握しきれぬうちに率先を見せられると、足並みを揃えるのに一苦労だ。シンとピエールはまぁいいのだろうけど、ダリあたりは愚痴りそう。

 

うーむ、でも自惚れって成長に重要だし、常識を常識と知るには時間が必要だから、こればかりは耐えてもらわないとなぁ。彼女が入ったばかりの頃に抱いた不安とは違って、成長速度が早すぎるという贅沢な悩みだけれど、暫くは頭の痛くなる日々が続きそうだね、こりゃ。

 

―――ああ、そうだ

 

新入りといえば、彼女より迷宮の常識に欠けていた、迷宮常識を習得するべくギルド長の元で知識の学習に励んでいた彼は、今頃どうしているのかな。

 

 

世界樹の新迷宮

第三層「疾走の朱樹海」

第十一階「鍛冶屋の番犬を殺した少年が猛犬の誓いを立てた場所」

 

 

ギルド「異邦人」の彼らからギルド長の情報をもらい、ともに押しかけて、半ば脅迫じみたやり取りの後、ゴリンの元で迷宮やエトリアの常識、道具や素材について学ぶこと、二週間。

 

億劫と怠惰を信条とする彼が逃げ回ったのと、他の初心者との兼ね合いとで、三日もかからないという講習の時間がやけに伸びる羽目になったが、私はなんとかいわゆる「冒険者」の常識を身につけて、再びこの迷宮へと足を運んでいた。

 

樹海磁軸を使用して、地面に降り立つと、まず新たに手に入れた深度計を確認して、大まかな現在の位置を確認。磁軸のある位置の深さを地図の片隅に忘れぬよう多少大きめに記載する。こうしてちまちまと迷宮の深さと階層を小刻みに記録しておけば、たとえ転移の罠が仕込まれた場所でも、大まかに自分の位置が把握できるのだという。

 

これを知らないことを告げると、ゴリンはどうやって新迷宮二層を攻略したのかと驚いていたが、無視してやった。前回必死になってやったクライミングが全て徒労だったということを知った私の、せめてもの意趣返しだ。せいぜい首を傾げて頭を悩ますがいい。

 

その後、地面を確認すると、他の冒険者がつけた足跡を見つけることができる。あとはそれをトレースして行けば、何もない状況よりかは、幾分か楽に地図を作ることができる。まぁ、この辺りは、知識を得る以前からやっていたことだから、問題はない。

 

そうして他の冒険者が突き進んだのだろう足跡を追って、強化の魔術を全身に叩き込み、進む。常より多少速度を落としての、私にとって安全歩行に等しい進撃は、もちろんいつもより余分に探索の時間を必要とするが、その慎重の代価として、私に安寧の時間を多く与えてくれていた。

 

―――なるほど、知識の有無でここまで違うものなのか

 

二時間ほど突き進んでも、未だに魔物は姿を表さない。もちろん私が気配を殺して進むお陰もあるのだろう。だがとはいえ、迷宮にある「探索範囲」のルールを守り、人の通れる場所をかけるだけで、二層の密林のよう、瞬きごとに違う敵が現れるという状況に陥らないのは、私に新鮮な気分を味あわせてくれていた。

 

赤に囲まれた閉塞の不満も、時間の流れの中に薄れてゆく。かつては異常を訴えていた感覚も、多少穏やかになった迷宮探索にすっかり怠慢を決め込んでいて、目の前に広がる赤の演出を日常の一部として認識するほどに弛緩させていた。

 

そうして怠惰に任せるまま、周囲の光景に改めて観察の目を送る。

 

まず、いの一番に飛び込んでくるのは、そのふんわりとした明るさだ。天井の塞がれている昼の三層は、今までのようにどこからともなく入り込んでくる光ではなく、周囲の枯れ木の枝や、珊瑚、海藻、砂、苔、果ては樹木の淵に溜まった水などが放つ燐光によってその冥とした明るさを保たれていた。

 

周囲の燐とした淡い光を頼りに習った通り、努めて人道を外れないことを心がけて足を進めると、やがて珊瑚の群生地にたどり着く。赤く輝く樹海の中、周囲の色を塗り替えるかのように鮮やかな色彩を誇るそれの集団に近づくと、適当なところを狙って、少しばかり力を入れて、折る。

 

一回の探索で一つの群生地から回収できる機会は厳密に決められているので多少慎重にやったのだが、かえってそれがいけなかったのか、その鮮やかな岩サンゴは、とてつもなく大きな音を立てて枝の分かれ目あたりで折れてしまった。

 

―――しまった、これではメディカⅳ一個分にしかならないか。

 

残念に思いながら、慌てて周囲を警戒する。こうした伐採だの、採掘だの、採取だのの活動の際、ああっ、と思った瞬間、魔物現れたりするらしいので、気が抜いてはいけないらしい。

 

そうしてしばらく周囲に気配を送ってみるも、敵は現れない。やがて一切の気配がないことを確認すると、私は伐採した岩サンゴを特別製の袋に包んでしまい込む。柔らかい皮の中にねばつく液体が仕込まれたそれは、転移の際に壊れやすいものを持ち帰るのに必須とか。

 

そうして岩サンゴを袋に入れると、次に粘ついた粘液の上についた砂を液体ごと軽く掬って外へと捨てた。世界樹の地面を作る土や砂は、転移の際に自動的に体や持ち物から省かれてしまうらしく、袋に入っていると、破けてしまう場合が多いらしい。

 

ちなみにこの法則に気がついたのは遥か昔、まだ旧迷宮が発見された当初。気づいたのは樹海磁軸の周囲の地面を掘り進めて、下の階層に行こうとした馬鹿だとか。

 

地面を掘り、土を袋に詰め、そうしてある程度掘ったところで魔物が大量に押し寄せた際、掘った土ごと転移しようと土を入れてある麻袋を持ってアリアドネの糸を使用したら、見事に土だけ転送されず、破れた麻袋だけが回収出来たとか。

 

ちなみにその後、勝手に掟を破って迷宮を傷つけ、あまつさえは全土で禁止されている許可のない土掘削を行ったということで、当時の院長であるヴィズルという男にこっぴどく叱られた上、追放されたらしい。そうしてその次の日に院長が確認しに行くと、全ての土が元の通りになっていたと言っていた、との記録も残っているらしい。

 

いやしかし、なんと、迷宮は自動修復機能まで兼ね備えているのか。土や砂が持ち帰れないという理屈でいうなら、人体や人の服などに入り込んでいる砂や埃はどうなるのだろうと思ったが、まぁ、どうせこの世界の細かな法則やスキルのことは今のところ考えてもわからないのだ。ならば考えたところでしかたあるまい。

 

―――さて、では「世界樹の冒険者」らしく、色々と余計なことをしながら進むとしようか

 

 

そうして前回よりはいわゆる「世界樹の冒険者」らしく私が道を安全歩行で進んでいると、ようやく敵が現れてくれた。前方、役百メートルほど先に現れたその犬は、私を見つけた瞬間、嬉々として砂地を飛ぶようにして飛びかかってくる。

 

―――六時間か

 

私は時計の蓋を開いて軽く敵出現までの時間を確認して、その後、胸元にしまい込むと、いつもの双剣を投影して、いつもの両腕をだらりとした戦闘体勢をとる。まるで滑空するかのごとく迫る犬は、時速換算すれば60キロくらいは速度が出ているだろう。まるでバイクの突進だ。

 

その速度は私が強化してあたりを飛び回る速度よりも10キロほども速く、五秒もしないうちに、私の目前まで来ると、そのまま牙を向いて襲いかかって来る。まぁ、普通の人間なら十分に即死が狙える速度と言えるだろう。

 

だが。

 

「悪いが貴様より早い男を相手にしたことがある。私を殺したければ、二倍とは言わんが、せめて瞬間だけでもあと一・五倍は速度をあげてからこい」

 

長々と忠告しながら、強化を施して、敵の進路を予測。回避と同時に剣を進路上に置き、大きく開かれた口めがけて宝具「干将・莫耶」の二刀を通してやる。軽い金属音、いつもより少しばかり重い感触。

 

おそらくは硬いのだろう牙、皮膚、骨は、宝具の前ではまるで紙くず同然に刃を通すこととなり、牙から頭部を抜けてそのしなやかな背骨から尾っぽまでを綺麗に両断された犬は、勢いよく放物落下運動を行うと、砂浜の上を滑ってゆく。やがて切断面から致死量の血が流れて、絶命を証明してくれる。

 

「……ふむ」

 

―――また一匹か

 

どうやらこの層の敵は、敵をみた瞬間、嬉々として襲いかかって来る躾の悪さとは裏腹に、騎士道精神に溢れているらしく、常に一体づつでしか襲いかかってこない。その潔さに好感を覚えながら、私は敵の解体をすませると、周囲を見渡す。

 

やはり流石に三層までくれば目も慣れてくれたのか、その赤の光景を見ても特に対して眼球は痛みを訴えない。五感が慣れを覚えて心理的負荷が減るのは通常悪い事でないが、平穏な日常と切り離された迷宮という場所では、慣れは油断となり、油断は死に直結する。死と私とを繋げようと試みる異常を、きちんと異常として認識するため、私はいつも以上に気を張り、周囲への警戒を密にした。

 

疑う。地面をくり抜いて敵が出てくるかもしれない。赤い地面に生えた毒々しい色合いの茸は魔物が擬態した姿で、胞子を空気に混ぜて私の身体に異常を引き起こそうとしてるのやもしれぬ。辻風の運んでくる葉の擦れる音の中に、気配を殺した獣の足音が混ざっているかもしれない。鼻孔を擽る青臭さに、腐臭は混じっていないか。露わにしている顔と首と両手首から先の肌が触るのは、常ごろ迷宮に吹いている自然な風であるだろうか。果たして本当に魔力の残り香はないのか。

 

眼耳鼻舌身の五感に魔術の要素を加えて感知を行い、己の第六感が働かぬ事を確認しつつ、海底の如き光景の中、緩々と歩を進める。新たに迷宮の知識を得て、接敵と危機を忌避して慎重の警戒に務める自分は、いつになく臆病を頼りにしている。これが英霊にまで昇格した男の姿か、と自嘲気味に笑う。

 

吐息に漏れた音が、海水を思わせる三層の空気の中へ静かに溶けて消えた。そうして残るのは寂寞とした生暖かさだけである。迷宮の三層は、一層と二層の喧騒が嘘のように、静けさを保っている。

 

気配を殺し、己を殺し、唯々自然の中を目的地など無い彷徨い、一般の人の如く地上を歩き、探索する。迷宮は攻略の意思をはっきりと示す私に対して、しかしこれまでとは一転して、驚くほどの寛容さを持って私を迎え入れている。

 

なるほど「異邦人」ギルドである彼らの言う通り、迷宮の事を知って探索を行うのと、知らずに行うのではまるで効率が違う。ギルド長に指導を頼み、たっぷり二週間を旧迷宮の魔物の習性なども含めて、迷宮に共通する常識の習得に費やした甲斐があったというものだ。

 

さて、ひどく億劫そうに物を教えることを拒絶するギルド長を、半ば脅すような形で私への教育を強要してくれた彼らは、その知識習得の機会を与えてくれたことに対して代価を求めなかったが、一方的に恩を売りつけられるのはどうも性に合わない。

 

さて、番人討伐の際に作った借りも含めると、見合った代価を払うためには何を礼とすれば、好意的な行動として受け取ってもらえるだろうか。

 

 

好情というものは親切心や思いやりを抱く状態だという。親切心や思いやりを抱くには、相手の事情や思考を理解し、自らが彼の立場であるならこうされると嬉しいだろうな、と想像する事が必要となる。とすれば、自らの立場に置き換えた時、己の天凛で大抵の事態の解決を望める私は、立ち行かないと言う状態を想像できない私は、他人に好意を抱く事が難しい人間であり、抱かれるのが難しい人間だった。

 

物心ついた頃、既に大抵の事をやってのけることの出来た私は、親切や思いやりの行動を受け取った記憶が殆どない。私にとって同じ立場で物事を考えて、私の益となるような施しを与えてくれる人は、大抵、一回りも二回りも年齢を重ねた大人で、そんな彼らが私に与えるものは、ほとんどが、同い年の誰が困っているから助けてやれという言葉だった。

 

私は同年代の彼らから敬意を向けられる様になった。やがて時間の経過に伴い私の出来ないことがよりいっそう減って行くと、大人たちですら出来ない事をやれる私は、好意でなく敬意を向けられるようになる。そうして村の殆どの出来事が私一人で解決出来る様になった時、初めて私は私の理解者がいなくなったと落胆している自分に気がついた。

 

好意が理解の証だとしたら、敬意は不理解の証明だ。敬いとは、己に出来ない事をやってのけるものに向けられる感情だ。原因が結果に至る課程は真似できないし、理解し難いが、出した結果が優れている事はわかるので、自分より高い存在と認めて礼を尽くす。

 

好意の遣り取りには己と同格の相手が必要で、敬意を抱くには己より優れた位置にある人の存在が必要だ。だから人が日々の生活で経験する全ての分野においての才能に秀でた私は、「不動」の代名詞の様な村の中で、万能に優れた人間だった私は、村の殆どの人間に好意を抱くことができなくなってゆき、やがて私が敬意のみを向けてくる彼らに抱く感情に返せる感情は、彼らが私に向けるものとは別種の感情のみとなっていた。

 

そんなおり、長老に冒険者という存在を紹介され、そして彼らの活躍を目にした時、およそ数年ぶりに他人に情け以外の、敬意という感情を抱いた時、私は初めて自らの狭窄に気がついた。彼らの、特に彼の百匹同時の首を落とす一撃は、私の狭い世界を切り開く一撃にもなり、彼らへの敬意は私を冒険者という職業になる事を決心させたのだ。

 

彼の繰り出した一撃は私にとって、怠惰と飽きに満ちた人生を一変させる祝福と行っても良い。祝福を受けた私は、すぐ近くに様々な難題があった事に初めて気がついた。己の矮小さを心底喜びながら、世界に用意されていたいくつもの難題の中から、私は最も難題であろう三竜討伐という事を目的にする事を決める。

 

難題に挑む事を決めると、同じく三竜討伐を目的とする仲間と知り合うことができた。冒険者として駆け出しだった私は、同じく駆け出しである彼らと同じ程度の実力しか持っておらず、故に私は久方ぶりに好意を育むことができた。

 

だが、ここでもまた才能という呪いは、私の祝福に満ちた日々の生活を妨げを再開する。日常を生きる才にあふれた私は、冒険者として非日常を生きる為の才も備えていたようで、手を抜く事の出来ない私の実力は彼らの中でも抜きん出てゆく。

 

私は日々、己の実力が向上して行くにつれて、幸福の基準値が高まりつつあるのを感じていた。そして基準値の高まる速度は、響の両親であるマギとアムの加入で加速度を増す。純粋な敬意だけを抱かせてくれる実力を持っていた彼らとの出会いは、喜ばしいものであったが、同時に、幸福の基準値の高さを、さらに上昇させるという悩みの一因となった。

 

それはワイバーンに負けた事に起因する。奴に負けた時は、胸が踊ったもので一時はその伸びが滞ったが、その後、マギとアムの指導により、私はかつてあの冒険者が放ったフォーススキル「一閃」を会得する。そして直後、私が戦闘で試しに放ったフォーススキルは、かつて見た彼の一撃の鋭さを超えていた。

 

私は既に彼を超えているかもしれないという予感はあった。だが私はその事を認めたくなかったのだ。憧れを超えてしまったという事実は、きっと、憧憬の感情を陳腐なものへとすり替える。陳腐なものに成り下がった憧憬は、先の実力の証明と合わさり、全ての難題を簡易なものへと変化させてしまう。

 

村に住んでいた頃の私なら、別段、気にもしなかっただろうよくある変化は、憧憬により難題という希望を知ってしまった私にとって、何より恐ろしい毒となっていた。だから私は愚かしくも、事実を事実として認めず、こう結論づけた。

 

―――私は百の獣を一度に屠った訳でない。だから私はまだ彼に劣っているはずだ。

 

己に対する卑下は、己の持つ本来の実力を貶めて、私の成長の遅滞という結果になる。そして皮肉な事に、私にとって緩やかとなった成長は、仲間たちと同じ速度であった。本来の実力を発揮しないという侮辱は表面的には平穏の日々を呼び寄せて、私は再び、仲間と共に難題に挑めるという幸福に満ちた日々を取り戻したのだ。

 

己を偽って手に入れた仮初めの日常は、幸福であったが、憂いに満ちた日々だった。己が全力出し切れていないという当時の己では気づけなかった裡の不満は、剣先へと影響を及ぼし、私の剣から繊細さを奪い、そして私は、憧れより習得した居合という攻撃手段で敵を倒すことが出来なくした。

 

当時の私は、敵も強くなり、今の攻撃手段ではついて行けなくなるかもしれないから、戦闘スタイルを変える、と豪語していたが、今考えればなんのことはない。迷いが剣の腕を鈍らせていただけなのだ。

 

私は、居合という技量を必要とする攻撃手段を捨てて、上段からの振り下ろしという力を主とする攻撃に頼る事にした。そうして身体能力に頼った戦法は、居合で戦っていた時ほど私の趣味と合致した戦法ではなかったけれど、だからこそ私は難題に挑戦しているのだ、と思い込む事を可能とさせて、事実を認めない醜さから目を背ける材料となっていた。

 

そして私は、事実から目を背けるために言い訳を行い、自説を補強するために別の材料を使い難題を作り出すという、なんとも無様な醜態から目を背け続けていた。そうして己の真なる気持ちを隠しながらの日々の憂いは、私を正常から捻じ曲げていく。

 

やがて壊れかけた心は、間違いなく悲報であるはずの、私はマギとアムの訃報を聞いた瞬間すら、「ああ、これで課題達成が遠のいてくれた」と、どこか安堵の気持ちを抱く最悪を体現するほどに擦り切れていた。

 

そんな偽りと憂いに満ちた日々を壊したのは、響が新迷宮に行こうと提案してくれ事を端に発する。彼女を加えたのは、直感が彼女なら新迷宮でもやっていけるだろうと告げた以上に、多分は「素人を連れて迷宮に行く」のが難題に思えたからだろう。私はそういう、どこまでも身勝手な人間なのだ。

 

しかしそうして、己の才と身勝手に増長する私の常識を、エトリアの新迷宮一層を単独で攻略したエミヤという男がぶち壊した。単独での迷宮攻略がという信じがたい偉業をなしたという知らせが、仮初めを身に纏う憂いに満ちた日々へ打ち込まれる釘となり、二層で彼が番人と戦っている光景を見た瞬間、私は再び己が己に抱いていた過信を打ち砕かれる事となる。それは、私にとってあまりにも衝撃的な場面だった。

 

才ある自分の目ですら霞むような斬撃を、彼は難なく避けている。私がピエールに強化をしてもらっても出来るかわからない動きをしている彼の姿を見た瞬間、私は完全に自分の上をゆく人間、というものを初めて知ることが出来た。

 

戦闘において、私は彼に敵わないかもしれない。そんな実感を得られた時、私は燻っていた思いを全て捨て去る事に成功した。迷いによって剛の道を選んだ私の剣は、迷いの断捨と共に柔を取り戻し、剛柔一体の剣となった一閃は、剛よく柔を断ち、柔よく剛を制す、過去の柵全てを切り捨てる一撃となる。

 

―――ああ、そうだ、これが憧れの強さだ

 

あの日、あの時、あの一撃を繰り出した瞬間、私は久しぶりに他者に敬意と好意を抱ける余裕に満ちた日常へと戻って来ることが出来たのだ。

 

ああ、そういえば、響がこの前繰り出した一撃は素晴らしかった。暗がりと無意識に助けられたとはいえ、まさか私が反応できない一撃をくりだすとは思わなんだ。そういえば、彼女は、私は三連にしか見えなかったのを同時と言っていたな。もしや彼女も近接職として鍛え上げれば光る逸材なのやもしれん。なんとも好ましい。

 

先ほどの迷いなき行動といい、おとなしそうな外見と裏腹に、意外と肝が座っている。私が迷いを捨てたきっかけを作ってくれた恩を返すためにも、今度、暇を見つけて剣を教えてみるとしよう。

 

 

世界樹の新迷宮

第三層「疾走の朱樹海」

第十一階「鍛冶屋の番犬を殺した少年が猛犬の誓いを立てた場所」

世界樹の新迷宮

第三層「疾走の朱樹海」

第十二階「予言のあった日に青年が力を誇示した御前」

世界樹の新迷宮

第三層「疾走の朱樹海」

第十三階「影の国で修行を重ねた日々」

世界樹の新迷宮

第三層「疾走の朱樹海」

第十四階「四枝の浅瀬」

世界樹の新迷宮

第三層「疾走の朱樹海」

第十五階「誓約と闘争に満ちた生涯を駆け抜けた英雄」

 

 

三層の探索を開始してから、早くも五度目の探索を行うときには、一か月の時が経過していた。たった一度の探索で、しかも一週間に満たない期間で、さっさと一層を攻略できるほどの短さの迷宮は、現れる敵の猛然としたやる気とは裏腹に、作りはとても簡単で、まるで冒険者を惑わせてやろうという気が感じられなかった。まるで面倒ごとを嫌うそんな性質は、とても迷宮らしくないと思うが、その潔さは私的には好意に値する。

 

「あ、門ですね」

 

などと考えているとわかりきった事を響が言った。目の前にあるのは、番人が待機する広間の直前にある門だ。番人と広間と門は、様々な姿を見せる世界樹が、その内観を一変させる直前に現れ、異なる風景と風景の繋がりを拒絶するかのように、冒険者の前に立ちふさがる。

 

私はその白く美しい門の表面に一切の汚れがないのを見て、非常に喜ばしい気持ちを抱いた。汗も脂肪も体液も付着していない新雪のような白は、広間の先が未踏の処女地である事を示している。これは新迷宮に潜り始めてから一度たりとまともに番人と戦えていない私にとって、僥倖と呼ぶより他ない知らせであった。

 

門の下をくぐって先にある広場へ抜ければ、新迷宮の番人と戦える。前回、少しだけ戦えた新迷宮の番人が、旧世界樹の番人と桁違いの強さを持つ敵だったのを考えてみれば、今回もそれに劣らぬ強敵が待ち受けているはずだ。

 

もしかすると己の実力をはるかに上回る強敵かもしれないと思うと、それだけで胸の鼓動が激しく脈を打つ。余計な迷いを捨てた今、その喜びは以前よりも大きいものとなっていた。

 

強敵との戦い。己の実力以上を発揮せねば勝てぬやもという難題は、天より才という呪いを与えられた私が最も望むものである。さて、敵はどんな姿形をしているのだろう。一層の番人は迷宮に多く現れた蛇で、二層も同じく虫が中心の編成とくれば、この先にいるのは、この三層でよく戦ってきた犬の姿をした敵である可能性が高い。

 

犬だとすれば、どのような戦いをするのであろうか。やはり攻撃が直撃する手前でカクンと方向を曲げる動きをするのだろうか。あの獣どもの、空気を取り込んで圧縮し解き放つことで急制動を操り翻弄する手並みは素晴らしかった。

 

また、おそらくは繊細な体内を守るために発達したのだろう、炎氷雷を防ぐ分厚く固い皮と脂肪、そして硬く太い毛も見事である。加えて、毛の生える方向に沿って一撃を叩き込もうとすれば急制動で斬突壊攻撃の方向をそらして致命を避ける技術は、高い自己再生能力と相まって犬に見事な高火力高機動高耐久を実現させ、犬を強敵に仕上げていた。

 

惜しむべくは、圧縮した空気と熱を噴出するための繊細な器官と管が四肢を通して骨の下の体内を巡らせていて、一本でも破損させてしまえばそれだけで敵の動きは格段に鈍くなる事。

 

そして、圧縮で生じた熱を冷却するためだろう、体のあちらこちらに熱交換のための入り口と思わしき通風孔があるので、響がやったように細かい毒でも散布させてやれば、すぐさま大量の毒が全身に張り巡らされた空気管を通って体内をめぐり、倒れてしまう事か。

 

体の機能を攻撃と回避と受け流しのために特化させている彼らは、その分とても脆弱だ。機能特化させたものの宿命とでも言おうか、一つのことに特化させすぎていて、特化した行動が通用しない相手が現れると何もできないし、動きの軸となる部分を狙われ瑕疵を負うと、途端に何もできなくなるというわけだ。

 

彼らは素晴らしい猟犬だった。だが、もう慣れてしまった。もう私は戦術を確立してしまったし、私達は戦略を確立してしまった。一体だけなら私の振り上げた攻撃に対して敵が回避する瞬間に四肢の動きから逃走方向を予測して、スキル「ツバメ返し」を繰り出せば、足の一本は確実に持っていって終わりだし、数の多い場合なら響が一層蛇の毒香をまけばそれで終わりだ。此度の敵は、別段あたりに撒くだけでもその毒を吸い込んで滅してくれる。

 

彼らは素晴らしい好敵手だったが、彼らの技能ではもはや私達を傷つける事は出来ないだろう。三層に現れる敵は彼ら以外、大した強さを持つものはいない。そうなると新迷宮の三層にて強敵との戦いに興じたいという望みの叶う機会があるのなら、もはや門の先にいるだろう番人が最後の希望だ。

 

―――ああ、一体どのような敵が待ち受けているのだろうか。

 

思考は出口のない袋小路を彷徨う。道は暗く、足元は険しい。一寸先は闇の中、路地裏に潜むかもしれぬ敵の姿を想像して、ああではない、こうではないと考えながら結論の出ない難しき問題に挑むのも、また私の好むところだ。

 

「それで、どうするよ」

 

暗夜行路のでこぼこ砂利道を行く呑気な旅人へ突如水を打ち、熱を冷まして私を現実に引き戻したのはサガの一言だった。いや、いけない。現実存在する迷宮の中で空想に浸り油断を晒すなどまともな冒険者のやることではない。そうとも。

 

「決まっている。まだ未到の場所があって、それが手の届く場所にあるなら、足を踏み入れて謎を解き明かすのが、冒険者の常道。すなわち、踏み倒して進むのみ」

「やっぱりかー……。一応言っておくけど、今までの広間で戦ってきた奴らと違って、完全に前情報なしなんだからな。もう少しばかり準備をしてもいいんじゃないかって思うけど」

「サガの言う通りだ。これまでは順調だったかもしれんが、我々は探索に潜ってよりほぼ丸一日かけて迷宮を進み、道具を消耗し疲労を重ねている。ここは一度、エトリアへ戻って、もう一度新迷宮一層、二層などで素材を揃え、万全の態勢を整えてからにしよう。何、二週間もあれば万全に揃えられるはずだ」

「そうそう、ダリの言う通り。それにシン。この前お前が倒した玉虫から入手した羽、実はお前が一騎打ちで倒した奴が落とした奴だけすげぇ頑丈で、いい剣が出来上がるらしいじゃないか。薄緑の刀身のすげぇ綺麗な奴になるらしいぜ。あと数日もあればシリカに頼んだ精錬鋳造がヘイの店に届くわけだし、それを取ってからでも遅くないだろ? 」

 

サガは私を諭そうと、そんな事まで言ってくる。万難を排そうとするのは、冒険者として当然のこと。だが難を求む私としては、では、あとどれほど準備をすれば万全と言える状態になるというのか。道具を目一杯持って来て、疲労の全くない状態でここまで来れるのか、そもそもサガの言う通り、敵の情報がまるでないのに、果たしてどうやって万全と言うのを判断するのか、と突っ込みたい。

 

背反する思いは一言の文句となり、口よりこぼれ落ちた。

 

「そうしてまたもや彼に先を越されるのを待てというのか? 」

 

一言は盛り上がった空気を一気に静かにした。サガは珍しく顔を引きつらせた状態で停止し、同意を得て喜びを露わにしていたダリは私の思惑を察したのか一気に顔を曇らせた。ピエールは二人の変貌を見て静かに笑みを浮かべている。響だけがどう反応していいのかわからないといった面をみせて狼狽えていた。

 

一緒に冒険をするようになってからまだ日の浅い彼女は別にするとして、長い付き合いになる男三人の気持ちは手に取るようにわかる。理性より組み上げた論理でガチガチに身を固めてしまっているが、サガとダリの二人も実のところ、早く迷宮の番人に挑みたいのだ。

 

本能から生み出された本心を、サガもダリも皆の安全を第一として抑圧しているが、サガはそうして見たことも聞いたこともない敵の素材を手に入れたいというし、ダリだって、実はそうして見たことのない場所の扉を開くという経験を欲していると言っていた。

 

―――だからそこを突く

 

「ヘイによれば、ろくに迷宮の事を知らぬのに一層、二層をあっさりと攻略したあの御仁は、先の二週間で知識を蓄えた結果、現在もう十四階を進んでいるという。携帯磁軸を持っている私たちが一々、一階一階の安全な場所ごとに衛兵に協力を仰いで、転移場所を確保しながら進んでいるのに対してこれだ。二週間はあった猶予はもうない。彼は我々が一月ちまちまとかけてきたところを、たった二週間で踏破して、すぐそこまでやってきているのだ。とすれば、もし我々がエトリアに戻って、我々が万全の準備とやらを整えている間に彼がこの階層までやってくれば、その勢いのままにあっさりと三層を攻略してしまうかもしれない。すると我らは再び後手に回ってしまうわけだが、さてその時、彼に追いつく機会など、今後無いに等しくなると思わないだろうか」

 

淡々と予想を述べる。私にしては珍しく多くの言葉を喋ったのは、それだけ先に進みたい気持ちが強いからだろう。あるいは、私より強い、憧れの彼に負けたくないのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。

 

予想は彼がとても順調に探索を進めて、今後も単独での攻略が順調に進むだろうという楽観の前提にあるものだが、彼のやった実績から考えるに、十分に起こりうる可能性のある未来予想図だ。

 

迷宮の知識を身につけた彼が本気で迷宮攻略に乗り出せば、あっという間に謎めいた迷宮から未知の要素が失せかねない。そうすると、未知の迷宮を踏破して力の証明とし、五層に潜むだろう三竜を討伐するという目的の達成は遠ざかってしまう。

 

私はもとより、未知との出会いを目的として二年の時を重ねてきた彼らもそれは避けたい事態のはず。ならきっと。

 

「―――ああ、わかったよ。行きゃいいんだろ、行きゃ! 」

 

籠手を収納してガシガシと頭を素手で掻き毟ると、サガがやけくそ気味に叫んだ。考えていた案が諸々瓦解した時に見せる彼の癖だ。やはりあの小さな頭の中を全力稼働させて色々な事に気を回し、小賢しい事を多々考えていたのだろう、叫び、頭の中の思案を全て捨て去った彼は、だが心なしかさっぱりとした面持ちをしている。

 

溜め込んでいた余計なものを吐き出してすっきりしたのだろう、と思う。頭の回転が速いのは結構だが、やはり一人で溜め込む所がサガの悪い癖だ。うじうじと不満を溜め込んでいるとろくな結果が生まれないという事は当然であるし、つい先日までの己の経験で実感もしたばかりだ。細部まで余計で満たされた脳内は、たまさかには洗い流してやらねばならない。

 

「―――その意見には一理ある。だが、このまま突っ込むのには賛成できない」

 

迷いを見せたダリは、だが本能より生じたはずの迷いを抑え切って、誘惑を言い退けた。流石は我がギルド随一の頭でっかち。この程度の誘惑では流されはしないか。

 

だが、その譲歩が引き出せれば、いけるかもしれない。

 

「どうすれば納得するのだろうか」

「体調を整えて、装備の修繕と最低限の道具を取り揃える。一週間もあれば可能なはずだ」

「遅い。それだけの時が経てば、きっと彼なら先を行く」

「そうかもしれない。だが、そうならない可能性だってある。なにより安全には代えられん」

 

睨み合う。睨め付けてくるダリの目は、お前の気持ちなど知ったことか、皆のためにも絶対に引かないという覚悟に満ちている。恐らく私がなんと言おうと、己がこうと決めた分水嶺から引かない強さが彼にはある。

 

―――だめか

 

彼と私は平行線だ。リスクを好む私とリスクを嫌うダリでは、己の主張はどこまでいっても交差しない。こういう時、両者の主張をうまく折衷させた案を出すのはサガの役目なのだが、彼はもう細かい事を考える事はごめんだとばかりに、顔を体ごと背けさせて明後日の方向を向いている。こうなった彼は、1日は放置しないとまともになってくれない。

 

「んー、少しよろしいでしょうか」

 

思惑が外れて困ったそぶりを見せていると、だんまりであったピエールが口を挟んでくる。

奴の度が過ぎる言動はなかなか目に余る部分もあるが、とはいえ、サガ以上に柔軟な思考を持っている奴は、真剣になってくれれば、サガ以上に的確な意見をくれる。私はそんな期待を込めて問う。

 

「なんだ」

「要するに、あのエミヤという彼に先を越されるのがいけないから、潜るタイミングを早めていつにするのかを議論されているのですよね?」

「そう……だな。……ああ、そうだ。時期を早めるというのはシンに誘導されたようで少々気分は良くないが、結果的にそうなっているな」

「なら、こういうのはどうでしょう」

 

 

「異邦人」一同が新迷宮三層奥の扉に到達してから、一週間後。再び門の前にやってきた一同には、一人の同行者が加わっていた。赤い外套を纏った、背の高い男。しっかりと鍛え上げられた事がわかる肉体の上に黒いボディアーマーを着込こみ、鷹のように鋭い視線を周囲に向けるその男の名前は、今一番、エトリアで有名な男、エミヤだ。

 

 

「便利なものだな、携帯磁軸というものは。まさか本当に、持ち運び可能な転移装置があるとは思わなんだ」

 

彼は周囲の景色を眺めて感心した様子で言った。単独で迷宮に潜って平然と帰還できる彼が実力的に雲の上の人であることに間違いはなく、予想だにしなかった格上から頂いたお褒めの言葉に、少しばかり照れる。

 

「便利ですよね、これ。やろうと思えば、どんな場所にでも設置出来ますから」

 

携帯磁軸は、磁軸を設置した場所と地上の石碑を行き来出来るようにする便利な道具だ。ただしどこにでも設置出来るというわけでなく、魔物の出現がない場所か、もしくは衛兵が常に待機している場所―――階ごとの境目とか―――以外は設置が許されていない。

 

「本来なら衛兵や研究者とか、迷宮探索を専門としない奴らの犠牲を減らす為に開発されたものだから、迷宮探索本職の人間が設置する際にはいちいち申請と許可がいるけどね。うちには本来なら探索職でないツールマスターの響が常に探索メンバーにいるから、その辺りの面倒が全てすっ飛ばせるって訳だ」

「だからといってあまりあちこちに設置すると文句が出るだろうがな」

「おれたちの都合のいい場所に設置ってだけでも結構あれなのに、そこに六人できたからなぁ。設置復活の兆候を見せない、未知の番人の調査っていう苦しい言い訳で、今回はその辺に甘いクーマが特別に許可してくれたから通してもらえただけで、普通はどっちもあり得ねぇよな。特に六人の方」

 

うん、それはきっとその通りだ。今日私たちは、他ギルドのメンバーであるエミヤを加えた六人という人数で迷宮入り口より転移した。六人というのは、迷宮が活性化するかしないかの境目である人数だ。人を拒む迷宮は、多くの人間が一度に足を踏み入れることを好まず、迷宮よりの帰還率は、六人を境目として途端に著しく減少する。

 

だから執政院は六人以上の徒党を組んで迷宮に入る事を固く禁じているが、例えば未知の道具の鑑定の為に学者を連れて行くとか、研究、観察を目的とした依頼人を連れて行く場合に限って、一時的に縛りは緩和され、六人での入宮が許可される。

 

身に迫り来る危険は勿論跳ね上がるが、謎の解明や、依頼人が暴走して迷宮に入り込み無駄に命を散らす事態を防ぐ為には仕方ないというわけだ。まぁ、同じ死ぬなら覚悟した強い冒険者いた方が生存率は格段に上がるわけであるし。

 

「しかし、本当に良かったのかよ、エミヤ。共同戦線なんて張らなくても、お前なら先に進めるんじゃないか? お前だけの手柄じゃなくなるんだぜ? 」

「うむ、サガの言う通りだ。不躾といえばあまりにも不躾な願いを受けて貰っておいてなんだが、今からでも遅くはない。断ってくれて構わんのだぞ」

「シン、お前、今更」

「だが、ダリ。いくらなんでも競争相手である現役の冒険者に向かって、貴方の方が優れているから私達の探索を手伝ってくれ、というのは、あまりに良識に欠けている気がしないか」

「市井のあいだじゃあ、割と普通に行われますけどねぇ。しかし、貴方の口から良識という言葉が出てくるとは思いませんでしたよ、シン」

 

シンの問いに、ピエールが嫌味ったらしく指摘をする。エミヤはやりとりを見ると苦笑を浮かべて、涼しげな顔で述べた。

 

「安心したまえ。今更断る気はないよ。君たちには少なからず借りを作っている。この程度の事で礼になるならお安い御用というやつだ。迷宮について基本の知識を得たとはいえ、応用が効くかは別であるし、諸々の部分で君たちに劣るだろうからな。何より私が求めているのは、名誉でなく、実利だ」

 

名ではなく実を取ると述べた彼の顔に迷いは見えず、心底そう思っているのだろう事が窺えた。

 

「結果、というと、やはり、あの、赤死病の……? 」

「ああ。それの解明と撲滅が私の目的だ」

 

断言した彼の顔は真剣さに満ちていた。なぜ彼が赤死病の謎に挑むのかはわからないが、生半可な決心と覚悟でない事が言動と単独でも迷宮に挑む姿勢から窺える。店の存続を理由に軽率な判断で謎の解明を考え、両親の死を理由に、寄生するような形で強いギルドへと入り込んだ自分とはまるで違う、意志と実力。対比すると己の矮小さが浮き彫りになった気がして、少しばかり心が痛む。

 

でも、なんでだろう。そう断言して遠くを見つめる横顔には、どこか自分にたいして必死に言い聞かせているような感じがして、少しばかりの違和感がある。なんていうか、そう。

 

―――少し、迷っている?

 

「―――響? 」

「あ、……はい、何ですか? 」

「そろそろ挑む。準備は万全か?」

 

シンが問いかけてくる。考えていたところに突如として話を振られ、驚きながらも反応し辺りを見回すと、他の面子はエミヤも含めて準備をとっくに済ませており、後は自分だけだった。慌てて道具袋の中のチェックを済ませると、全身の装備に不備がない事を確認する。

 

「問題ありません!」

 

少しばかりどもって上ずりながらも、報告をする。シンは頷くと、改めてエミヤの方を向いていった。

 

「よろしいか」

「いつでも」

「では打ち合わせ通りに」

 

行って前に進み出たシンは白い扉に手をかけて、前に押し込む。対して力を入れられていない手によって開かれた扉は重厚な音を立てて真っ直ぐ奥に進むと止まり、左右に等しい速度で開いてゆく。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに〜

 

第八話 埋まる知識、広がる実力差

 

終了

 




三層を一気に投稿しようかと思ったのですが、長いので分けました。もう片方は、推敲が終わり次第投稿したいと思います。次がターニングポイントなので、次の次の話以降は、一話からばら撒いてきた伏線回収と矛盾をなくす作業を加えるので、少々投稿に時間がかかるかようになると思います。五日~一週間くらいを目安にしていただければと思います。

全二十話位を予定しておりますので、世界樹クロス発売前には全話を投稿したいものです。


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第九話 迷宮に響くは、戦士への鎮魂曲

戦闘が長いです。複数人での戦闘描写って難しいですね。


世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第九話 迷宮に響くは、戦士への鎮魂曲

 

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

両者が背水を背負うなら、より死を恐れず足を踏み出す方が、勝つ。

 

 

赤い部屋の色が白くなってゆく。心中に溜め込んだ感情を伴った記憶が失われていく。そうして白くなってゆく部屋を前に、私はしかし、以前のように残念の感情を抱くけなくなってきていた。

 

一角を見渡す。白く清潔なこの部屋の、その病的なまでな空白には見覚えがある。あれは……、そう、あれは、生前。かつて己がまだ無垢に正義の味方という存在になれると信じきっていた頃、そうして過ごした武家屋敷の中にあった己の部屋だ。

 

誰かに空っぽの部屋と称された、そのいっそ己は何も得てはいけないのだという執念すら感じられる、余計という言葉とは無縁の部屋は、今この白く漂白されつつある部屋のあり方とよく似ていた。

 

赤い部屋。他人が向ける感情を自分の裡に押し込めて、そうして部屋が血の色に染まってしまうくらい、目に見えない憎悪と悔恨と絶望とを蒐集してきただけの部屋は、そういった他人の感情を失ってしまえば、己というものが感じられないくらいに、無謬に自己の不在を証明し尽くしていた。

 

この先に一体何がある。他人の残念の想いだけを蒐集してきた部屋が空っぽになった時、果たして己の中には一体何が残ってくれるというのか。先のことなど考えたくはない。しかし、その答えを見せつけられてしまう時はすぐそこまで迫っている。

 

時計の針を無理やり進める、己の無様をとことん露わにしてゆく怪物を見る。奴はこの世界に来てから二ヶ月近くでそのだらしない体を大きく肥大化させている。単眼携えた脳からは、頭足類の足ばかりの巨体が出来上がってきている。赤を吸い込んでばかりのそいつの体は、その赤に秘められた真の感情を反映してか、驚くほどに真っ黒く染まってきている。

 

あれが己の理性の顕現だとしたら、あまりにも醜悪すぎる肥大化した体には果たして、己はどんな寓意を込めているのか。あるいは自己嫌悪の象徴こそがその醜悪な外見に現れているというのか。

 

部屋はもうほとんどが白くなっている。後どれくらいの時が残っているのだろうかはわからないが、限界は近いと思えた。この赤い部屋が、まるでかつての自分の部屋のような世界が再び空に満たされた時、果たしてその無情の部屋の中で、私は何を、誰を思えるのか。

 

限界は近い。ああ、もういっそ、このまま、奴の与えるこの忘却の救済に身を任せてやるのが正しいとすら思えてくる。そんな弱気を抱く自分に怒りを感じることすら出来なくなってきている。なら。そう、ならいっそ―――

 

―――ふむ、薬が効きすぎたか

 

そうして全てを諦観の彼方に追いやろうかと考えた時、混濁した頭の芯にすら滑り込んで不快を呼び起こす、そんな、醜悪さを兼ね添えた低い声が聞こえた。相変わらず、望んでいない時にばかり現れる奴だ。

 

「―――何の用だ」

 

抱いた不快を吐き捨てるようにいうと、影はその様を愉快とばかりに笑い、そして言う。

 

―――何、悩める仔羊の告解でも聞いてやろうかとおもってな

 

不快。それ以外で表現するのも憚られるその影は、やはり不快な声で、不快な事を言う。

 

「は、貴様に心の裡を明かすくらいなら、壁にでも語りかけた方がまだ建設的というものだ」

―――良く言う。先ほどまでよりもよほど饒舌になったではないか。

「貴様にだけ喋らせておくと碌な事がないからな。その機会を損失させるためには、いやでも自らから語りかけるしかあるまい。全く、余計な手間だけ増やしてくれる」

―――減らず口を。

 

なるほど悪意の記憶が失せてゆく部屋で、相手を否定する言葉を交わし合うその不毛は、しかし自身の気持ちを苛立たせ抵抗の意思を奮い起こさせる効果は持っていたようで、私は自然と饒舌を取り戻していた。

 

「―――改めて聞こう。貴様、何者だ? 何の目的でこの場所にいる? 私の分身ではないのだろう? 」

 

やはり吐き捨てるように言うと、その言葉を聞いた男は、それが心底おかしいとでも言うかのように、哄笑し、嘲笑し、そして痛烈に言ってのけた。

 

―――くく、いやいや、そんなことはないとも。私と貴様は方向性こそ真逆だが、そのあり方は同一の存在だよ、エミヤシロウ。―――そうだな……

 

その黒い影の男は心底愉快そうに私の名前まで述べると、少しだけ輪郭を露わにした。その長身で、背筋に芯の通った、ガタイのいい体格に私はどこか見覚えがある気がした。

 

―――お前が私の名を当てたのなら、そうだな、その時は、報酬の代わりに講話のひとつでもくれてやろう

 

哄笑。反転。

 

 

久しぶりに最悪の気分で目がさめる。起き上がり窓より覗く空を見上げれば、昨夜に引き付き暗雲が立ち込めていて、糸雨がはらはらと空を舞っている。窓に近寄って地面を見下ろしてやると、すでに一雨がきていたらしく、石畳のあちこちに水たまりが生まれていた。

 

どうやら一晩の間続いた雨はよほどひどかったようで、この時間、常ならそれなりの人で溢れている表通りは、驚くほどに人の姿がなく、街の静けさに誘われるようにして狭い枠から覗ける漆喰の壁と壁面を見てやれば、温度を失った街はいつになく暗鬱な色を携えている。人気を失って殺風景を体現した空っぽの街が、そうして別の色で染め上げられていく様は、まるで今の私の状態をそのまま映し出したかのようだった。

 

赤い部屋を白に侵食する、化け物と影。影と化け物に重点を置くならフロイト論で考えるのが正しいだろうか。もはや理性の化け物ではなどではない、影のことが過去の何かの象徴であるとするならば、あの影が言っていた言葉そのものがヒントであり答えの筈だ。

 

―――方向性こそ異なるが、似て非なる存在

 

方向性。英霊エミヤの方向性。在り方。正義の味方。他者の救いに比重の重きをおく、人格破綻者。それと同一かつ、真逆の存在。悪の味方。悪の容認する、人格破綻者。ならそれは。

 

「……まさか」

 

そんなはずはない。そもそもここがあの時より何年先の未来の話だと思っている。否、そもそもかつては英霊であった私の精神という場所に、ただの人間であったあの男が、巣食えるはずもない。ありえない。そうだあり得るはずがない。そんなことあり得るはずがないのだ。

 

―――しかし

 

「言峰綺礼―――? 」

 

疑念を形にした瞬間、雨風が強く窓を叩く。一度その勢いを弱めていた雨足が元の強さを取り戻し、盆地であるはずのエトリアに嵐のごとき風雨が逆巻き、街の温度をさらに下げてゆく。天空を覆う灰色がその色の濃さに比例して、一層街の雨化粧も過剰を増してゆく。

 

虚空に問いかけを漏らしても、疑念の答えは出ない。光彩の薄れた孔雀緑の屋根から落ちる雨だれがその数を増やしてゆく中、湧き上がる疑念は雨樋を流れる水量の如く増えてゆく。

 

 

夕刻。答えの出ない問いの答えを探すなど無駄と知っていながらも、思考は勝手に余計の袋小路に迷い込みたがる。気分を晴らすために外を彷徨こうにも、己を宿に閉じこめるかのように、太く重い間断のない雨の檻が外出の選択を奪っていた。

 

―――結局、時間を無意味に消費してしまったか

 

ため息混じりにベッドから腰を浮かすと、首を左右に振る。姿勢を強要されていた骨が悲鳴をあげ、硬くなっていた繊維が伸びる音がした。どうやら昨夜、迷宮より帰還したばかりの疲労は一日では取れなかったらしい。疲労を露わにする音は、疲れを自覚させるきっかけとなって、もう一度重苦しいため息が漏れる。

 

同時に午後五時を告げる鐘の音がなった。雨中を切り裂いて鳴り響く金属同士のぶつかる音は、多少の重苦しい空気を払う効果を持っていて、誘われるようにして扉をあけ、いつもよりも機嫌の悪い木造の床を軋ませながら階下へと降りる。

 

「やぁ、寝坊助だね」

 

すると、受付にて女将のインがいつものように話しかけてきた。青みがかった緑色の瞳を携えた顔が意地悪く歪む。

 

「ああ、そうだな」

 

皮肉を返してやる気分でもなかったので素直に返答してやると、女将は異常を見つけたとばかりに片唇を捻じ曲げて、

 

「エミヤ。今日は随分とまた素直じゃないか。さては今日のこの雨はあんたの仕業だね」

 

などと返してくる。私のお株を奪うその行動は、なるほど、多少は落ち込んだ気分を発揮する効果を表して、私に何かしら言い返してやらないといけないなと思わせる効力をも発揮した。

 

「おや、心外だな。私の記憶が正しければ、この雨は昨夜から続いていたはずだが。昨日のことも思い出せぬほど耄碌したというのなら、施薬院に行くのをオススメするが」

 

多少強めに言ってやると、女将は「それでこそエミヤだ」と言って顔に皺の数を増やして見せて、上機嫌に椅子より立ち上がり、食堂の方へと向かう。ついてこいという無言の指示を飛ばすその背中に続くと、やがて様々な料理が所狭しと立ち並ぶ机の光景が現れた。

 

十品目ほども小皿に並ぶ包子や焼売、炒飯などの中華は、おそらくは鐘の音がなる頃には出来上がっていたのだろう、すでに少しばかり温かさを失っていたが、それでも製作者の腕の良さを示すかのように、整った姿を保っていた。

 

「うっかり作りすぎたのさ」

 

彼女は言うと、奥のイスに腰掛けると、机に伏せて顔を隠した。彼女が照れた時に見せる所作だ。おそらくは、昨日、宿屋に帰還した途端、倒れこむようにして部屋に入ったのを見て、気を利かせてくれたのだろう。

 

「感謝する」

 

料理に端をつける。並ぶ中華の品々は、多少の熱を失ってべたついたが、それでも女将の気遣いと言う熱で温められて美味しく仕上がっている。

 

「美味い」

「当然よ」

 

短く交わすと食事に戻る。しばらく時間をかけて片付けると、彼女は空いた小皿を纏めて奥へと持っていき、しばらく水の音を響かせたかと思うと、小さな平たい急須を多少深い皿の上に乗せて、ひとつの壺に二つの、とお湯の入ったヤカンを持ってやってきた。茶壺に、茶海に茶筒。どうやら今日の食後の一杯は台湾茶と決めたらしい。

 

「聞香杯はいらないね」

 

言うと、乱雑に湯を皿の上の急須に注ぎ、その淵まで溢れたのを見て頷くと、蓋をして、そしてもう一度湯をかける。湯が皿の上に外と内より温められて、中の茶葉が空いた蓋の隙間から零れ落ちた。甘い香りが漂う。

 

一、二分ほどして余った湯で器を温めると、湯を壺に捨てて小さな茶杯に茶を注ぐ。器に注がれたほんの一口ほどの薄緑の液体を口に含めると、ちょうど良い甘さが考え事で疲れていた頭を解してゆく。

 

しばしの無言。手のひらで遊ばせていた湯杯は、すでに部屋の中へとその温かさを共有している。話すきっかけを失って、手持ち無沙汰になった頭で呆然外の様子を眺めていると、インが呟くように言った。

 

「雨、やまないねぇ」

「ああ」

 

言うと再び無言の帳が落ちる。外に降る雨は二人から会話の熱までも奪うかのように、闇色に染まりつつある地面を打ち付けていたが、外の冷えた温度に反して、二人の間にある沈黙は、不思議と柔らかなものだった。

 

 

「よぉ、エミヤ」

 

柔らかな沈黙の時を破ったのは、受付に現れた「異邦人」の一行だった。迷宮より脱出直後、強く打ち付ける雨の中をやってきたのだろう、五人の体は頭から足元までが新迷宮三層に潜った証であるかのように濡れていた。

 

女将が小さな悲鳴をあげながら奥へと引っ込むと、大きなタオルも持ってきて、四人の男に文句を言いながら乱雑に一つずつ投げつけると、入り口近くで服の水気を絞っている響にだけにだけは優しさを発揮して、濡れた頭を拭ってやっていた。

 

「どうした、こんな時間に」

 

受付に備え付けられた機械式の時計を見る。もう時刻は八時を回っていた。電気文明の世界なら、まだ宵の口とも言えないような時間だったが、早朝と夕刻の五時を基準に動き出す冒険者たちにとっては、そろそろ迷宮へと旅立つか、寝る準備をする時間帯だ。

 

「いや、その、なんだ」

 

他の男三人が大荷物の水分を拭う中、体が小さい分だろう、真っ先に手隙となったサガは、ひどく体を悶えさせた後、決心したかのように頷いて、口を開く。

 

「エミヤ。ちょっと、相談があるんだが、いいか」

「なんだ」

「あー、いや、あんまり人に聞かれたくない」

 

言うと彼は、目線を階上の部屋へと移した。密談がお望みということか。

 

「私は構わんが……」

 

少女の面倒を見ている女将の方に目線をやると、彼女はため息を吐いて受付から宿帳を出すと、めんどくさそうに言った。

 

「宿泊するってんなら、中で何をされようと私は関与しないよ。後、エミヤ。やるってんなら、その間、あんたの部屋の掃除をすませちまうがいいかね」

 

私は静かに頭を下げて、彼女の提案に感謝を返した。

 

 

案内された部屋は、冒険者用の広い部屋だった。私が常の寝床としている一人用の部屋とは違い、部屋の中央端にはダブルのベッドが二つ並び、一人がけの椅子と机は、三人がけのソファと丸椅子と三個の金属椅子に変化していた。

 

また、部屋の端っこにあった鎧がけも、大きな棚と箪笥に変化しており、窓の数とカーテンの数とその大きさも約二倍ほどに増えていた。机の上に聖書がない事だけが、あるいはこの世界における全ての部屋における共通項だろう。

 

これが一泊百イェンと、三百五十イェンの部屋の違いということか。

 

「あー、やっと、落ち着けるー」

 

言いながらサガがシーツへと飛び込んだ。真っ白なシーツは体重を受けた場所からシワを作り、無礼者を受け止める。ダリはそれを咎めるような視線を送りながら棚に鎧兜を置くと、盾を壁に立てかけて奥のソファへ腰掛け、ピエールは竪琴を持ったまま静々ともう一つのベッドの端に腰掛けた。響は無手で、シンは刀を持ったまま、仲良く並んで、丸机前の椅子に腰掛けている。

 

「それで、なんだ」

 

改めて問うと、一同は見合わせて、そして無言の帳を下ろす。いつもなら率先して話しかけてきそうなサガや、ダリ、シンまでもが口を噤んで黙っていた。

 

「……らちがあきませんね」

 

ピエールがため息を吐いた。薄い唇から漏れた吐息が、明るさを帯びて宙をゆく。

 

「エミヤ。単刀直入にいかせていただきましょう。―――私たちと組みませんか? 」

「――――――」

 

突然の申し出に驚愕。その衝撃を受けた所作をどう捉えたのか、ピエールを除く男三人は顔を見合わせて、そうしてそれぞれに歪めた。

 

「なぁ、ほら、やっぱり。こういう反応になるだろ」

「うむ。この申し出は、あまりにも不躾が過ぎるというものだ」

「まぁ、突然すぎたからな」

 

どうやら一同は、己のそれを拒絶の反応と捉えたらしく、それぞれに失敗の予感を口にする。そんな中で、ピエールと響だけが、違った反応を見せていた。

 

「それで、どうです、エミヤ」

 

ピエールが問う。私は一瞬その提案を聞いて思考を停止させたが、すぐさま脳の血の巡りを良くすると、反応して聞く。

 

「一体、どういう意図があってその結論に達したのかね? 」

「ええ。実は、私たち、三層の番人の部屋の前までたどり着いたのですが、まぁ、ちょうど手持ちの道具などが心許無くなりましてね。そこでダリとサガが撤退して準備を整えてから番人に挑もうと提案したのですが、シンは貴方に先を越されたくないからさっさと挑みたいと聞かなくて」

 

ピエールはそこまでいうと、一気に喋りすぎたとばかりに喉元をさすって、咳払い一つ。

 

「まぁ、そうして二人と一人。特にダリとシンが互いの意見を押し通そうとして譲らない。ダリは一週間は準備に欲しい。シンはそんな期間あったら、貴方が三層番人を倒して突き進むという。まぁ、どっちのいうことも最もなので、折衷案として、私が最初から協力を要請して一緒に倒してしまえばいいじゃないですかと頼んだわけですよ」

「……」

 

折衷というにしては、あまりに明後日の方角を向いている案のように思える、とりあえずは二人の意見を確かに汲んではいる。要は、こういうことだろう。

 

「つまりあれか? 君たちは、一週間という期間の後、私とともに番人の部屋に挑みたいということか? 」

 

口から出した言葉に反応して、ランプの光が揺れた。まるで、一同の意思を問うかのようにその身を震えさせると、彼らの影をゆっくりと順に伸縮させてゆく。

 

「ええ、その通りです」

 

ピエールが最初に反応した。

 

「私としましては、ついでにその後の、多分あるだろう四層、五層の探索も協力してもらえればと思っているんですがねぇ」

「お、お前何をバカな」

「ピエール、それは流石にいくらなんでも……」

 

ダリとサガが続いた。シンだけは一切反応せず、こちらの出方を伺うような視線を向けている。おそらくは、間違いなくその通りなのだろう。

 

「なぁ、やっぱあれだって、こんな寄生みたいな真似良くないって」

 

サガが眉をひそめて言う。

 

「まぁ、我々も何度か同じような輩に辟易とさせられてきたわけであるしなぁ」

 

ダリがしみじみと言う。

 

そして。

 

「――――――、了解だ。その提案、受けよう」

 

二人の懸念をバッサリと断ち切って、私が提案を受託する。答えた瞬間、二人の反応は劇的だった。二人ともピエールに抗議の姿勢をとったまま動かない。まるで石像にでもなってしまったかのようだ。

 

「おや、よろしいので? 」

 

ピエールは少しばかりの驚きを顔に貼り付けて言ってのける。その、いかにも一応礼儀として驚いておきましたよという態度からは、実のところ、私の回答が彼の予想通りだったのだろうことが読み取れた。

 

「良く言う。その反応から察するに、私が受けるのは君には読めていただろう? 」

「ええ、まぁ。これでも、人を見る目は持ち合わせているつもりですよ」

 

ピエールはやはりいつものように涼しげに笑い、意地悪く目元を逆三日月にして、誇らしげにそう述べた。

 

「―――、いいのか、エミヤ」

 

結論を述べると、ようやくシンが尋ねてくる。黒曜石のように済んだ瞳には真意を図ろうとする意思に満ちていた。

 

「エミヤ。悔しいが、今の私たちより、君個人の方が、実力は上だ。だからこれは、言ってみれば、格下が、格上である君を、利用したいという宣言だ。私たちは、以前響を利用しようとした彼らのやろうとしたことを、以前、そんなことはやらないといったことを、我らは今、進んで行おうとしている。唾棄に値する行為だ。他人の情を見込んですがり、自分の実力以上のことをなしとげようなど、あまりに厚顔無恥な提案だと思いはしないのか? 」

 

シンはなんともまっすぐ、饒舌に、馬鹿正直に聞いてくる。多分、何か過去の経験で、実力が格上だの格下だのといった事で嫌なことがあったのだろうか、己を乏す原因になっていることが読み取れる。

 

しかしなにが琴線に触れているのかは知らないが、ともあれ、私は言ってやる。

 

「ふむ……悪いがシン。私としては、正直、そういう、誇りだのなんだのは、どうでも良いことでね。この身を誰に利用されようが、誰がをどんな結果だそうが、私にはあまり関係ない。私にとって重要なのは、謎が解明されて、人が死なないようになってくれれば、それでいいのだよ」

 

述べた言葉は、シンにとって相当意外だったのか、雷を打たれたかのように彼は停止した。良く分からぬが、おそらくは名誉を重んじず、実利を優先する私の態度が意外だったのだろう。その黒曜の瞳には、明らかな動揺の色が浮かんでいた。そんな彼の様子を見てピエールがクスクスと笑いながらいう。

 

「だから言ったでしょう、シン。みんながみんな、貴方みたいに潔癖な考えの持ち主じゃあないんですよ。その表向きバッサリとしている癖に、何が出来る何が出来ないだけに価値の重きを見出して、わかりやすく他人の上下を評価する癖をやめた方がいいですよ」

 

言われてシンは、目を見開いてピエールの顔を注視した。高い戦闘能力に見合った威圧が周囲に撒き散らされて、隣に座っていた響がまるで極寒の吹雪の中にいるかのように、体を縮こめた。

 

普段のバトルマニアと称される彼からでは、とても想像もできないその動揺は、おそらくはピエールの言ったことが真実なのだろうことを何よりも如実に告げているようだった。

 

周囲の、特にダリとサガはピエールの言った言葉とシンの応対を見て、さも意外そうに驚いている。おそらくは、シンがそんな人間だとは夢にも思っていなかったのだろう。だが、私はそんな彼らとは逆に、ピエールが暴いたシンという人間の性質に、少しばかりシンパシーを感じていた。

 

―――ふむ、この世界の人間も、案外闇を抱えているものだ

 

入り口の衛兵や、ヘイだの、クーマだの、ばかりと接していたから、安穏で平和ボケしたような人間しかいないと思ってたが、ピエールといい、シンといい、この世界の人間の中にも、案外、かつての旧世界にいたようなひねくれ者や、鬱屈、侮蔑の感情を抱えた人間もいるらしい。

 

そうして隠していたところを暴かれた彼は、しばらくの間、燃え盛る炎のような気配を周囲に撒き散らしていたが、突如、ふっ、とその猛炎を鎮火させて、ピエールに言った。

 

「ああ―――、まいったな。さすがだよ、ピエール」

 

必死に心の中に押し込めて隠していた醜いものを晒しあげられたシンが、しかし顔に貼り付けていた無表情の仮面を落とし、全身から力を抜き、肩を落として述べたその言葉からは、気負いというものがまるで感じられない、まさに、まさに憑き物が落ちたという表現が合うものになっていた。

 

 

世界樹の新迷宮

第三層「疾走の朱樹海」

第十五階「誓約と闘争に満ちた生涯を駆け抜けた英雄」

 

 

番人が待機する広場は樹木も岩石も滝も湖も浅瀬も無い、本当になにもない単なる広い空間であることが多い。だが今回、扉の向こうにあった光景はその常識とかけ離れた空間であった。ただしく「樹海」と表現するのが正しいのだろうか。いや、樹木が所狭しとばかりに視界どころか行く手も遮り、上下左右斜めの方向へ無造作に幹と枝葉を伸ばす様は、大樹海とか、密林樹海とか形容するのが正しく思える。

 

「まともに進めないな」

 

シンが鉈を振るって、樹木の上より垂れ下がっている蔦を切り払った。蔦はバサバサと地面に落ちて青臭い匂いが周囲に広がり、鼻腔に入り込んで不快を引き起こす。シンはそのまま身を屈ませて作業によって現れた樹木の幹と幹の下の通路を通ると、再び鉈をふるってバサバサと蔦を落として視界と進路を確保する。私達はそうして作ってもらった青臭い小さな通路に続く。そうして少しばかり進むと、シンが突如作業の手を止めた。

 

「どうしたんだよ、シン」

「……見ればわかる」

 

サガの質問に素っ気なく答えると、前に進み、膝を伸ばして背筋をピンと伸ばした。立ち上がったというからには、ついにはひらけた場所に出たのだろう。ダリ、サガ、ピエールに続けて樹木同士が重なってできた洞穴から抜け出すと、縮めていた身を伸ばして体の硬くなっていた部分をほぐした。自分の体からぼきりと鳴る感覚が、なんとも快感だ。

 

そうして呑気をした後、視線を前に戻した時、見えた光景に私は驚いた。

 

門の場所より四百メートルほど続いた閉鎖的空間の先にあったのは、先程よりずっと視界の開けた空間だった。半径五十メートルにも満たないその空間は、相変わらず幹が自由に振る舞うのを許容しているものの、それ以外の、例えば苔だとか蔦だとか、役割を終えた葉が落下するのさえ許容しておらず、地面は一様に茶色い砂と幹だけが自由に姿を晒している。砂地に樹木の絨毯が敷き詰められた様は、まるで人が歩くに適していない。

 

そうして砂と樹木の地面を追っていくと、その先にある、少しだけひらけている小さな広場の中心は、樹木と砂で構成された小高い丘の形に地面が盛り上がっている。樹木をさけて視線を送った先、丘の頂には一匹の身体の大きな獣が横たわり、彼を取り囲むようにして六匹の獣がこちらに視線を向けている。頂に寝そべる体の大きな獣は彼らの主人だろうか。

 

こちらに視線を送る獣たちの身体は中心に寝そべる獣よりは多少小さいが、それでも今まで戦ってきた多くの奴らよりも大きな体躯を持っていて、すぐさきに起こるだろう戦闘が苛烈なものになるだろうことを暗示しているようだった。

 

六匹の獣は皆同じ見た目をしている。全身を覆う短い黒毛は、彼らの呼吸ごとに光の反射方向を変えて、その滑らかの在り処を移している。水面に映ったかの如く反射する光の動きの滑らかは、毛並みが持つの滑らかさと艶やかさを証明するに一躍買っている。

 

敵であるというのにもかかわらず、思わず見とれてしまう美しさを持つ獣は、私の後ろからエミヤが現れた瞬間、ギルド「異邦人」の一同に注がれていた視線を一斉に彼の姿に集中させた。

 

「……、犬、か」

 

エミヤは一言漏らした。彼は明らかに目の前に何かしらの特別な思いを抱いている。言葉の抑揚から読み取れたが、それが何かまでは窺い知ることが出来ない。だが、その少しばかりうんざりした様子からは、私は犬に何か嫌な思い出でもあるのだろうか、と思う。

 

「――――――!」

 

エミヤが姿を表して呟くと同時に伏せていた犬が一斉に立ち上がる。お尻より伸びた赤い毛のウィップテールをピンと直立させてクネクネと左右に振らしていることから、犬たちがエミヤに対してただならぬ警戒を抱いていることがわかった。

 

「私達は眼中になし、か」

 

シンが不機嫌そうに、呟く。ああ、なるほど。たしかにエミヤを見た途端警戒を露わにしたということは、私たちは警戒に値する存在でないと思われていたことになる。シンはそれが気に食わないのだろう。でも仕方ないと思う。だって実際、彼はとんでもなく強いのだから。

 

周囲の獣どもの異変を感じ取ったのか、寝そべっていた犬がようやく動きを見せた。のっそりとした所作で身を起こすと、全貌を露わにして丘の頂からこちらを睥睨する。体躯の全身を露わにしたボス犬は、しなやかさを彫像化したかの如く美しい姿をしていた。

 

周囲の美しい毛並みの獣が霞んで見えるほど、全身を覆う毛並みは絹糸のような滑らかさと艶やかさを併せ持っている。巨大な体躯はだからといってゴツゴツとした雄々しさに満ちているわけでなく、引き締まった胴体と四足はすらりと伸びていて、犬が素早く動ける事を容易に想像させた。

 

下顎から頭部にまで繋がる透明に見えるほど細く薄い毛は、周囲の光を取り込んで七色に美しく輝き、周囲の獣との隔絶を表現している。七色に覆われた毛の中心にある顔にある瞳は同じように光を取り込み、七色に輝き雄々しい視線をこちら……否、エミヤの方へと向けようとしていた。

 

ボス犬の所作はとても自然で洗練された動きで、私は思わずその一挙手一投足に見惚れる。やがてボス犬とエミヤの視線がぶつかる。七色に輝く瞳がエミヤの向ける鷹の如き鋭い視線を捉えた瞬間、美しい瞳は獰猛さをも兼ね備えた凶暴なものへと変化する。

 

獣の瞳の変化は見惚れる私の気持ちを瞬時に萎えさせて、薄くなりつつあった敵に対する恐怖心が沸き、無かったはずの闘争心をも湧きあがらせる。変化は数秒後に始まる戦闘の予感となり、身を強張らせる。

 

「この場で誰が一番危険かを本能的に察知し、警戒態勢に入るか。なるほど迷宮を守る番犬に相応しい態度。まずは流石といっておこう」

 

だが敵意を向けられたはずのエミヤは、敵の意思など知った事かと言わんばかりの態度で、のんきに敵を褒める。エミヤは少し先、高い場所にいる犬を、高さの低い場所から大いに見下していた。その態度が気に食わなかったのか、ボス犬は大きく低い声で嘶くと、口を上に向け、口先をすぼめて吠える。遠吠えが広間大きく反響した。

 

後ろから扉の閉まる音が聞こえる。番人との戦いが始まったのだ。私たちは五人と一人のグループに分かれて戦闘体制をとる。続けて六匹の獣が三匹ずつに分かれて丘より駆け下りてくる。そして大きなボス犬が頂から一直線に、二つのグループの間を直進した。ボス犬が攻撃対象に選んだのは、嘲笑の表情を向けたエミヤだった。

 

「――――――! 」

「ボス格自ら率先して強敵の対処に当たる心構えは見事。だが驕るなよ、駄犬―――! 」

 

エミヤは言って前に身を乗り出した。遅れて私たちも続く。加勢しようとした私たちは残りの六匹に動きを邪魔される。六匹は今まで戦ってきた犬達よりも格段に早く、そして力強い。その上、乱立する樹木の間を飛び回り多角的な攻撃をしかけてくるので、毒が使えない。

 

飛び回る犬達に有効な量の毒を吸い込ませようとするならば、空気中に広く散布する必要がでてくる。それだけの量をあたりにばらまくと、間違いなく味方にまで被害が出てしまう。毒は一定量を体内に取り込むだけで、骨肉を溶かす猛毒だ。間違っても味方が吸入する事態は避けなければならない。ならどう動くべきか。私は答えを求めて周囲を眺めた。

 

「ではまず、体をリラックスさせましょうか」

 

真っ先に目に入ったのは、敵から殺意を一身に浴びせられているピエールだ。ピエールは敵がエミヤに突撃をかました瞬間に、スキル「軽業の旋律」を歌い上げていた。楽器が奏でる高低音は、細く白い喉元から生まれる声に調律されて、周囲の味方の反射神経を上昇させ、回避力を引き上げる力のある音色となる。ピエールの生み出す音色は、地面に生えた樹木が行く手を遮る場所においても、あたりを賑わすだけの力を持っていた。

 

大きな音を立て、そして声を張り上げるピエールは、他の人よりもよりいっそう犬の注意を引く。おそらく人間よりも高い可聴領域を持つ彼らにとって、ピエールの出す音色は不快なものを含んでいるだろう、ピエールが歌うと犬どもはこぞって彼を狙った行動をとる。目を閉じて一心に歌い上げるピエールに前方の六方向から少しずつ時間を空けて不快を露わにした殺意を纏った犬の攻撃が迫るも、彼はその場から一歩たりと動こうとしない。

 

「ピエール!」

 

牙爪が彼の柔肉に食い込む直前、ダリはスキル「フルガード」を発動した。物理防御を高める光がダリの周囲を包み込み、同時にピエールのに向けられた獣の攻撃がその光によってダリの方へと誘導され、彼はそれを盾と全身に着込んだ鎧兜で受け止める。

 

金属音。そうして己の攻撃が不発に終わったことを知ったやつらに対して、ダリがダマスカス製の大身槍を振りまわすと、と、奴らは素早く跳躍してその場から離脱する。ダリを全身に攻撃を受けながらも、予定通りに攻撃を防げて満足気だ。

 

これまでの戦いで犬達は歌い上げるピエールを率先して狙うことを、私たちは知っている。彼らはその不快な音を生み出す輩を始末してしまおうと躍起になるのだ。だからこそ、私たちは、ピエールは率先して歌い出す。そして、敵より最優先の排除目標として認識された彼をダリが守ることで、被害を彼らにのみ集中することができるのだ。

 

先ほどまでの戦闘において、私は彼らがそうして生み出した隙を狙って、毒を散布することができた。攻撃を防がれた犬達は、大抵警戒心を強めて、少しばかり距離をとってこちらを観察する行動に移行する。その隙を狙い、毒を地に伏せる犬達にのみ有効な程度地面に向けて適当に撒き散らせば、敵はすぐさま狂ったように悶えて死に絶えてくれた。

 

だが、今回はその手段が使えない。一番の障害は、周囲の地形だ。鬱蒼と上下左右に向けて生える樹木の幹が、地面に無造作に生えているそれが、平坦な地面を立体的な場所へと変えている。断絶する空間と空間の間を縫うようにして攻撃を仕掛けてくる犬達は、今までのように地面を絶対の待機場所としていない。

 

また、立体的な動きで縦横無尽に駆け回る彼らは、樹木と樹木の間に一定でない風を生み出して、不均一な空気の流れを生み出している。改めて、このような環境において、今の自分の力量では毒を犬達にのみ有効となるように散布するのは不可能だ、思い知る。

 

この場をどうにか出来るなら、多分現状最高戦力のエミヤか、と思って周囲を見渡すも、彼はいつのまにか私たちのそばから消えていた。引き離してくれたのか、引き離されたのかは知らないが、遠くで断続的な、不規則な剣戟の音が聞こえる。どうやら彼は、私たちと少し離れた場所で、一人で戦っているらしい。私たちが付いていくのがやっとの犬と、たった一人で対等に戦えている彼が羨ましい。

 

自らの力量不足を悔しく思っていると、ピエールに群がっては、ダリに蹴散らかされている犬が突然、不自然な挙動を見せた。犬の予定していただろう進路上に赤茶の月光が数度煌めいたかと思うと、犬は連続した弱い悲鳴をあげながら体を何度も折り、予定進路とまるで別の方向へと吹き飛ばされる。

 

「シン!」

 

犬のいなくなった後には、刀を振り下ろした状態のダリが名を呼んだシンが立っている。ブシドーのスキル、「ツバメ返し」を繰り出したのだ。繰り出した連撃を全て当てたシンは、だが、苦々しい表情を浮かべて犬の方向を見ていた。

 

「今までのようにはいかんか」

 

視線の先を追うと、シンが完全に不意をうって繰り出した刀技を体で受け止めた犬は、ピンピンとした状態で樹木の上に衝撃を殺しながら着地しているのが目に入った。犬は全身を大きく身震いさせて状態を確認すると、忌々しい、と言わんばかりの視線をシンに送り返している。

 

シンの一撃が効いていない。その事実に驚き、シンの方を見ると、彼の刃先は珍しく足元の地面、この場合は樹木へとめり込んでいる。さらに注視すれば、彼の足元の樹木の表面の茶色が剥がれて落ちて、瑞々しい樹木内部が見えているのもわかった。

 

―――なるほど、滑ったのか

 

シンは足場が悪くて、力を発揮しきれなかったのだ、崩れた体勢で繰り出した一撃は、敵に有効打を与えることができなかった。樹木の地面の高低差と周囲の地形に苦戦しているのは自分だけでないというわけだ。

 

「またか!」

 

シンは続けてピエールに向かう敵めがけて一直線に向かうと、上段に構えた刀を振り降ろす。が、敵は近くに生える樹木を利用してその姿を隠す。敵の姿が見えなくなった事を確認したシンは、剣と体の軌道を無理矢理変更すると、身を翻して構え直す。

 

彼はいつものように追撃を加えることができず、やりにくそうだ。しかめっ面からと喜色の混じった顔からは、苦戦はいいが、全力を出せないのはいただけないという、彼らしい複雑な思いが読み取れる。

 

「なら、その樹ごと吹っ飛ばしてやる!」

 

そうしたシンをサガはフォローすべく、シンの一撃で体勢を崩した敵に対して、シンの攻撃に続けて「核熱の術式」を放っている。当たれば敵を分解して、超高温を生み出す光の柱は、三属性が効かない敵にも有効な一撃となって、敵にダメージを与える……はずだった。だが、やはり目の前にいる犬達相手には通用しなかった。

 

サガの籠手より直進した光の柱は、多量の水分を含んだ樹木にぶつかるまでの空間を白光で満たし樹木を巻き込んで爆発の柱を生み出すが、果たしてその時、すでにその場に犬の姿はないのだ。シンの一撃受けて、あるいは回避して体勢を崩しているはずの敵は、しかし、サガが攻撃を受ける前に、その場所から身を退けている。

 

「だぁ、くそちょこまかと!」

 

敵はこれまで私たちが倒してきたどの犬よりも、頑強で、速く、強い。歴戦の彼らが苦戦する中、私には一体何ができるのか。毒以外に持ってきているのは大量の回復薬と、麻痺や盲目の状態異常を引き起こす香。それと各種採取ツールに、敵の体を縛るための道具だ。

 

敵の動きが早すぎて捉えられていない現状、有効な援護として思いつくのは、敵の動きに制限をかける香を使うか、足を縛る糸を使うかだ。だが、麻痺は毒と同じ理由で周囲に有効な分量をばらまくことができないし、足を縛る糸もうまく当てる方法が思いつかない。

 

だが、援護の可能性があるとしたら、縛る糸の方だと思った。糸は使用すると、鞠となった糸玉から一直線に長く手を伸ばして敵の拘束を試みる。また、香とは違い、糸は敵味方を選別してくれるうえ、糸の一部でも引っかかってくれれば効力を発揮する。そうして敵の行動を制限してくれる糸は、この状況下においてうってつけだと思う。

 

けれど、粒子の集まりである香とは違い、塊で、発動後も目測可能である縺れ糸は、俊敏な敵や警戒心の高い敵には回避されやすいという弱点を持つ。敵は私たちのパーティでもっとも速いシンが捉えきれないのだから、なお当たる可能性は低いように思える。

 

私のフォーススキル「イグザート・アビリティ」を使用すれば、真価を発揮した糸は、広範囲に糸を飛ばして普通より長い間追いかけてくれるけれど、糸がきちんと真価を発揮するためには、この環境が邪魔だと感じた。速い敵を追いかける糸が生い茂る樹木に絡め取られて、効力を失う未来まで幻視できる。

 

どうすればいい。どうしたらいい。繰り返し頭の中に響く言葉は結論を出すことをせかす。焦りは悩みとなり、脳の邪魔をする。焦燥と懊悩を排除して集中を試みるも、過敏になった感覚がピエールの歌声やダリの盾が生み出す衝突音を拾い、音に反応した体はとっさに周囲の様子を探ろうとして、鬱蒼と茂る風景ばかりを目に写す。

 

―――ああ、なぜ、樹木はこうも鬱陶しく茂っているのだろう。樹木があんな縦横斜めの方向に伸びて空間を狭く制限していなければればもっと楽に戦えるのに

 

一方的な怒りを樹木に対して向ける。思い通りにいかないという事に対して怒りを覚えた。

 

―――樹木も自由気ままに生えるなら、いっそのこと空間を満たして、私たちと敵を隔絶する位に生えてくれていればいいのに

 

……空間を、満たす――――――、これだ!

 

心の中で吐いた己の愚痴に、天啓の稲光が走る。思いつきを実行すべく、カバンに入れていた手が思考の最中から握っていた糸を取り出すと、いつかのように大きな声で叫んだ。

 

「フォーススキルを使用します! 」

 

 

干将・莫耶を振るう。鍛え上げられた白の刀身で獣の攻撃を捌き、黒い刀身は獣の肉を裂いて戦場に血が舞った。獣は唸り声をあげながら、身を翻して後方へ跳躍する。反射的に繰り出したであろうその反応の動作と速度は俊敏。あっという間に数十メートルの距離が開く。

 

目線を手元から前方、獣の跳躍した方向へとやると、獣の体から煙が上がるのが見えた。煙は傷口から上がっている。そうして獣の上へと昇った煙が元より赤い空間をより濃い血の赤で染め上げたかと思うと、すぐさま煙は収まり、獣の体から傷が消えていた。

 

獣は自己回復スキルを身につけているらしい。なんとも生き汚い奴だ。戦闘が予想より長引くと確信して思わず舌打ちをする。

 

犬の如き姿をした四足の獣は、世界樹と呼ばれる迷宮の中で出会ってきたどの敵よりも早い。強化魔術を叩き込み、味方のスキルでさらに強化された眼球ですらその姿をはっきりと捉えきれず、眼球の表面にぼやけた像を残しては消えてゆく。その速度たるや、あの神速の槍兵の動きに匹敵するかもしれない。

 

敵は強い。移動速度は一流の英霊に匹敵し、力は私に拮抗し、動作と反応速度に至っては私を超えている。加えて自己回復の能力。なるほど、強敵である。

 

だが。だがそれでも。

 

「それでも貴様ごときでは、私の脅威にはならんな」

 

呟き、挑発的な視線を送り、隙を作る。挑発に怒りを沸騰させた敵は、私の隙を見つけたと喜んでは死角から攻撃してくる。敵の動きには迷いがなく、最短の距離を最速の速度で駆け抜けてくる一撃は、どれもが必殺と呼んで過言でない威力を秘めている。

 

私は己の反応速度を大きく上回っている攻撃に反応しきれず、目線などはまだ、獣が攻撃の寸前までいた場所から動かせていない。戦いの最中、一方的に敵を見失うなど、死に体も良いところだ。獣はおそらく、仕留めたと確信して会心の笑みを浮かべたことだろう。

 

しかし。

 

「――――――!」

「動きが直線的、かつ短絡的に過ぎる」

 

好き放題に敵の弱点を述べる。獣が私の言葉を介していないだろうことは、その後も繰り返される直線的な連続攻撃からわかっていた。だから、あえて言葉にして私自らに言い聞かせる。五感より感じ取った情報は言語化され、私の脳内が認識したその言語は、私の中から挑発の姿勢と見下しの態度を引き出してくれる。

 

獣は言葉こそ感じ取らないが、私の向ける嘲笑を五感で不快と感じ、奴は怒りを抱く。そうして敵の攻撃はいっそう怒りに支配された単純なものへとなり、私はよりいっそう簡単に敵の攻撃を避けられるようになるのだ。

 

繰り出された、敵にとって最速の、私にとって致命的な視界外からの速撃を私は防ぐ。固いもの同士がぶつかる高い音が瞬間だけ鳴り、続けて金属同士が身を削りあった際に発生する不快さを含む音が聞こえた。

 

背後からの一撃を、右手剣を盾として配置し防いだのだ。獣の前足から伸びた爪を折らぬように方向を調整して置かれた剣は、その薄い剣腹で見事に五爪を受け流し、身を守ると共に獣の体勢を崩す役目を果たしていた。

 

胴から上を捻じ曲げて上半身だけ振り向かせると同時に、無防備を曝け出しただろう獣の胴体向けて一閃を振るう。確実に胴を切断すると思った横薙ぎの一撃は、しかし、虚空を通過するに終わる。後ろに向いた私の眼球は、敵が地面に両手の爪を突き刺した状態で伏せているのを見た。

 

敵は胴体が刃に裂かれるのを避けるため、両手の爪が地面に深く突き刺さったのを逆手に取り、腕力と膂力を利用して胴の進行方向を無理矢理に地面へと変えたのだろう。その行動は、敵にとって不服な選択であったことが、睨め付ける視線から見て取れた。

 

視線がかち合う。虚空を切った左腕に乗せられた回転の勢いを殺すことができず、私は傾いた竹とんぼのような姿勢を取ることとなった。無防備な胸が敵の正面にさらされる。敵はその隙を好機とみたらしく、敵は笑みを浮かべると、地面突き刺さった爪をさらに深く埋めて、力を溜めた。きっと地面にめり込んだ爪が自由になった瞬間、胸に爪を突き立てる気だ。

 

そうして私の上半身の勢いが腰の回転に影響を与えた次の瞬間、敵は先程深々と地面に突き刺さっていた爪は攻撃の用意を完了していて、既に半分程も姿を現していた。もはや一拍を置く猶予も残されていない。

 

ならばこうだ。腰に移った回転の勢いを殺さないまま、右足を浮かせて左足の踵を軸足とする。そうして左足の踵を軸としてグルンと下半身を反時計周りに回転させると、左足の指先がちょうど敵の真正面を捉えた時、左のつま先に力を込めて地面を踏みしめ、勢いが乗った右足に殺意を込めて敵の体めがけて思い切り振りぬいた。

 

一般の状態でなら敵の方が速いとはいえ、敵は未だ攻撃の体勢に移行している状態で、攻撃の速度は最高速に達していない。対して私は己の出すことのできる最高速度を繰り出した状態から、その勢いを加えての攻撃だ。どちらが速く敵を捉えることができるかといえば、それは間違いなく―――

 

―――私だ

 

鉄鋼靴の右足が敵の腹に突き刺さる。鉄板に保護されたつま先が柔らかいものを押し分けて、蹴りの衝撃を接触地点から敵の体へと伝えた。手応えを感じた瞬間、迷わずそのまま右足を振り抜く。敵の体が大きく折れ曲り、蹴足の先の方向へ飛んでいった。

 

「……浅いか」

 

見た目派手な飛び方をしたが、右足の甲と脛を通じて伝わってきた感触は途中から、まるでぬいぐるみを蹴っ飛ばした時のような軽い感触に変わっていた。血肉が詰まった塊を蹴り飛ばした時特有の重みのなさは、蹴りの衝撃が十全に伝わっていないことを告げている。

 

蹴り上げた足の外側から爪の抜けた地面を見ると、敵の前足と後ろ足の後部の跡が残っていた。つまりは蹴りの衝撃が伝わりきるまえに、自ら後ろに飛んで逃げたのだ。素晴らしい反射速度だ、と敵ながら思わず賞賛の言葉が浮かぶ。

 

すぐさま気を引き締めて、振り上げた右足を下ろし、両手の力を抜いてだらりと垂らし、獣の吹き飛んだ方向へと正面を向ける。戦闘の構えをとって地面へ微かに残った血の跡を追ってやると、平然と体を起こす獣の姿が目に映った。

 

一撃を防がれ、なおかつ反撃まで食らった獣は、しかし七色の目を先程までより爛々と輝かせて、口元を凶暴に歪めている。閉じた口元の端から蒸気が漏れた。どうやら内臓系のダメージも回復できるらしい。そうして窄めた口元から血の塊を地面に吐き出すと、再び低く構えて闘志を削ぐどころか、火に油を注いでしまったようだ。なんとも面倒な性格をしている。

 

獣は七色の目を細め上半身を低く構えると、間をおかず再び突進。相変わらず愚直で単純な線の動きだ。一撃を防ぎ迎撃するも、やはり返しの一手は深手を負わす事は出来ず、敵に距離を開けられて仕切り直しとなってしまう。攻防は一進一退のまま停滞していた。

 

鋭い一撃を強化した身体能力と投影した剣で防ぐ。実際と予測の攻撃は軌道や威力が違うことが多い。ズレが生じる都度に、強化を施して、予想外を受け流すために使用する。

 

―――まずいな……

 

余分な魔力の消費が、思った以上に多い。状況が好転しないことに少しばかり焦りを覚える。三層の番人は予想外に強い。一層の様に巨大な体と特殊な能力を持つわけでなく、二層の番人の様に億千万にも群れているでもない。敵は単純に素早く、硬く、そして回復能力を持っているだけである。

 

だが私は、身体能力が低いため、搦め手と予想外と状況に応じた的確な判断を主な武器として使用する私は、強靭な身体能力を真正面から押し付けてくる相手を苦手とする。

 

ピエールの身体能力向上スキルの恩恵を授かっているからこそ、常より魔力消費を抑えてながら若干有利に立ち回れているが、スキルの効果が切れてしまえば、戦闘の流れの天秤が敵に傾く可能性の高くなる。一旦身体能力が自らより上の相手に戦いの流れを持って行かれれば、仕切り直しをするのは難しくなる。

 

―――多少無理してでも強引に仕留めに行くべきか

 

行くか引くかの判断に悩んでいたその時だ。

 

「フォーススキルを使います! 」

 

離れた場所から少女の声が戦闘の音に割り込んで聞こえてくる。何をするかをわからないが硬直した状況を打破できるという確固たる確信が、断言した言葉には含まれていた。天秤がどちらに傾くかはわかならいが、彼女がフォーススキルを使った瞬間、確実に状況が動く。

 

停滞した状況が進展するその時を確信して、私は周囲の変化にいっそう意識を集中させた。

 

 

「フォーススキルを使います! 」

 

断言して糸玉を取り出す。糸玉の名前は「縺れ糸」といって、使用すれば玉より解けた糸が周囲一帯の敵に向かって自動で追跡し、頭、胴体、足などの自由を奪ってくれるという便利な道具だ。しかしこの道具にはひとつ欠点があった。

 

「あいつら速いぞ! その上この地形だ。当てられるのか!? 」

 

すぐ近くで戦況を見守っていたサガが問いかけてくる。そう。自動で追尾する糸は、最短の距離で敵の体まで到達する作りとなっているため、素早い敵や、ゴチャゴチャと障害物の多い場所で使うために向いていない。サガの心配はもっともだ。でも。

 

「大丈夫です! 当てます! 」

 

宣言して糸玉に意識を集中させた。体内を巡っていた見えない力が両手を通じて縺れ糸の中へと移動する。そうして体内から残さず力を移し終えると、糸は周辺に微かな淡い橙光を放つ様になっていた。

 

特別化した糸玉を片手で握り、周囲の状況を確認する。ピエールの周囲を飛び回る犬。犬を追い払うダリ。犬を追いかけるシン。そしてあたりに広がる鬱蒼とした樹海と、ついでに少し離れた場所で戦うエミヤ。敵味方の立ち位置と地形を把握すると、これだ、と思う場所めがけて思いっきり縺れ糸を投擲する。

 

「おい、響! なんでそんな明後日の方向に……! 」

「これでいいんです! 」

 

天井めがけて投擲した糸玉は、樹木に重なる枝と葉を突き抜けてすぐに見えなくなった。これでいい。サガは姿を消した糸玉の方向と私とを交互に見返しては困惑している。そうして彼が口を開こうとしたその瞬間、戦況は動いた。

 

「――――――!! 」

「―――!!」

「―――――――――!!」

 

犬達が吠える。複数入り混じる鳴き声にどの様な意図が込められているのかは知らないけれど、多分、今のサガと同じ様に困惑してのことだろうと予想する。そうして風切り音の代わりに、咆哮がいくつか響いたかと思うと、犬達はピエールの周囲で飛び回るのをやめた。

 

直後、犬達は統率を乱してめたらやったらに飛び回る。サガが不思議そうにその光景を眺めていた。犬はチラチラと後方を確認しながら、周囲を駆ける。犬の後ろでは橙の線がキラキラと輝きながら、犬の後ろを追いかけていった。

 

光の速さは遅く、今にも消えてしまいそうだが、全ての犬達は後ろから追いかけてくる足を縛る効力を持つ縺れ糸の存在を無視できず、逃げ惑っている。

 

「―――そうか、糸か! 響、君は、糸を敵の体を縛るためでなく――― 」

「はい、敵の行動を制限するために使いました。障害物にぶつかるごとに効力を失ってゆく縺れ糸ですが、あの糸には私がフォーススキルを使用しましたから……」

「質と精度が高まる分、少しの間なら持つ、か」

 

サガは言うと目線を犬達に戻した。橙に輝く糸は犬達を追いかけるが、犬の速度に到底及んでいない。そのうち力尽きて地面に落ちるだろう。でもそれでいい。重要なのは、今、犬がそれに気を取られて意識を糸に回しているという点だ。

 

「シン! 」

 

サガが叫んだ。呼応して樹木の間からシンが顔を出す。顔には凶暴な笑みが浮かんでいる。獲物に飛びかかる寸前の猛獣のようだ。彼はもう目の前の敵しか見えていない。

 

彼は動き回る一匹の犬に狙いを定めると、赤い地面に足跡を残してその場から跳躍した。疾風となった彼は、目にも止まらぬ速度で犬に迫り、真横より犬の意識の埒外の攻撃を加える。

 

防御の意が込められていない硬いだけの毛と皮と肉は、必殺の意思を込めた一撃の前にあえなく道を譲る事となる。

 

シンの攻撃の対象として選ばれた敵の首から先が、犬自身が保持していた速度と比例した勢いで前方に飛んで行く。司令塔を失った犬の体は、すぐさま力の抜けた前足から崩れて、地面を転がった。

 

首を失った胴体は、失くしたものを求めるかのごとく、ぬかるんだ地面をゴロゴロと転がって、少し先に落ちていた頭部へ接触するとその動きを止めた。ようやく一匹。まだ先は長い。

 

犬達は己の戦力が低下したことに気がついてか、連続攻撃の手を止めて距離を開けた周囲の樹木の上に立ち、固まっている私たちとシンを交互に眺め、睨めた視線を送ってくる。やがて視線は親しげなものに変わった。背筋に冷たいものが走る。それは恐怖だった。

 

私たちは、敵に親愛の情を抱かれた。だが、味方を殺した敵に対してなぜそのような感情を送るのかがわからない。不可解極まりない疑問が不安となり、不安が恐怖へと変わる

 

「次ぃ! 」

 

いつのまにか近寄って来ていたシンが剣先を犬の一匹に向けて雄叫びをあげると、彼の言葉を合図に犬達は私たちに飛びかかって来る。対処のために少しばかり体の大きな一匹の瞳を覗くと、七色に輝く瞳孔は爛々と闘志を燃やしていた。戦闘はまだ終わりそうにない。

 

 

「―――倒したか」

 

敵を思い切り蹴り飛ばした。直後の雄叫び。反応し、樹海の鬱蒼を避けて味方に目線を送ると、獣の一体が地面に胴と首が別れた状態で倒れている。ようやく戦況が動いたか。彼らの能力では一匹を仕留めるのも厳しいかもと考えていたが、存外やるものだと再評価を行う。

 

視線を外したのもつかの間、直後、番人に意識を戻すと、敵の動きに乱れが生じていた。最短の距離を最速で駆け抜けて攻撃を仕掛けるスタイルに変わりはないが、構え、跳躍し、攻撃し、離脱するその一連の動作が鈍くなっている。

 

―――部下の死に動揺しているのだろうか。なんにせよこれはチャンスだ。

 

なおも続く連続攻撃をいなしつつ時を待つ。やがて後ろから閃光が走ったかと思うと、耳をつんざく爆音が続き、砂埃と樹木と風が私と奴の身を叩いた。互いの姿が土煙の中に消える。

敵は襲いかかってこなかった。その隙をついて宝具の設計図を脳裏に描き出す。

 

設計図は、偽・螺旋剣。それに少しばかり手を加え、今回の使用に適した形にする。これで準備は整った。

 

風が弱まり煙が薄れて行く。周囲に解析の魔術をかけて、煙の空白地帯を把握。

 

―――そこか

 

先程までの敵の速度を思いかえし、互いの距離を割って接触までの時間を算出する。身を丸めている敵はまだ動かない。単に気がついていないのか、意図して動いかないのか判別つかない。なんにせよこちらから動くわけにはいかない。動いたところで私の速力では過剰な強化を施さないと敵に追いつけないし、何より、立てた目論見がご破算になる。

 

じっと敵の動きを待つ。数秒もしないうちに煙はほとんど消えた。周囲に広がる見慣れた赤色の光景に距離感が狂いそうだ。

 

―――来るか

 

敵はピクリ、と耳を動かした。すんと鼻を数度ひくつかせて索敵と確認をすませると、ジロリとこちらに首を動かして、私の方を向く。ニヤつき、伏せた。攻撃の体勢。大丈夫だ。余裕はある。落ち着いて計画通りにまずは宝具を投影しようとする。

 

―――投影開……!?

 

そうして頭にイメージを浮かべた瞬間、敵の牙が目前に見えた。その速度や今まで繰り出していたそのどれよりも速い。今までの速度の低下が嘘のようだ。まるで誓約や縛りから放たれたが如く速い。否、真実嘘だったのかもしれない。この速度を今まで温存していたのかと驚く。敵も敵で私を仕留めるべく策を練っていたのだ。やられた。だが迷っている暇はない。

 

計画の範疇外からねじ込まれた一撃を防ぐためには、重い双剣を振り上げたのでは防御が間に合わない。確信からその速さに少しでも追いつくために、両の手に握った双剣を放棄して両腕を頭の前で交差させる。頭と首を守るためのとっさの判断。悪くはない。だが。

 

――――――っ!

 

違和感が左腕に走った。平時と異なる感覚の訴えは神経を駆け巡り脳内に到達すると、脳は違和感を灼熱の痛みとして捉え、左腕の異常を知らせている。ぼとりと何かが地面に落ちた。赤い布に包まれた浅黒いものに私は見覚えがある。長い間使い込み続けた己の肉体なのだ。見覚えあって当然だ。そう。地面に転がっていたのは、私の五指が生えた手腕部だった。

 

―――もっていかれたか……!

 

そうして私は己が左前腕部から先を失ったことを知る。あって当然のものがなくなった、という喪失感は思ったほどなかった。代わりに胸に去来したのは、間抜けな選択の結果、彼女に与えられた彼の肉体を失ってしまったという己の未熟に対する怒りと失意。

 

瞬間的に沸き上がった二つの想いが体を支配するのを自制心で抑え込む。腹の中に生まれたエネルギーは感覚を通常より過敏にして、聴覚に微かな風切り音を拾わせた。感覚に導かれて首を上に傾ける。そうして私は、私の腕を噛み切った獣と目を合わせた。視線が交錯する。奴は私の視線に気がつくと、赤い瞳孔に喜色を浮かべて閉じた口を少し開いた。

 

一連の動作はスローモーながらもはっきりと見えた。口元の白い牙が上下に離れて行き、生暖かい吐息の煙が漏れ、見えた口腔には、赤い布に包まれた肉の切断面が見える。そうして獣は舌の上にのったそれを喉へと送ると、見せつけるようにゆっくり嚥下した。

 

喉元が大きく動いて、胃の中に私の一部が落ちて行く。一連の動作を素早く終えた獣は、口を大きく横に開けて、まるで人間の笑みのような顔をしてみせる。

 

己の牙が敵の守りを崩せた事がよほど嬉しいのだろう。これで戦況は大きく一変する。腕を一つ失った私は、間違いなく今までのように敵の攻撃を捌けない。いや実に見事だ。ギリギリまで己の力量を隠し、私の眼を見誤らせ、慢心につけ込んむその戦術はまさに見事の一言に尽きる。作戦成功の祝儀代わりに腕の一本くらいくれてやるとも。その代わり。

 

「腕の代価は貴様の命で支払ってもらう! 」

 

頭上を通過しながら地面に身を近づけつつある敵の方を向いて姿を視界に収めた私は、雄叫びをあげながら「偽螺旋剣/カラドボルグⅡ」を投影した。左腕部の消失により魔術回路の一部が欠損した状態での魔術行使と、過程をいくつかすっ飛ばした投影の影響で神経がひどく痛む。

 

加えて、不完全かつ粗雑な手順に従って生み出された投影は結果に影響を及ぼし、通常貫くことに特化させた姿で現れるはずの「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」は、あちこち粗だらけの姿で生み出される。先端に向かって細くなる円錐状の刀身からは鉄の棘が奔放に伸びて返しのようになっていた。これでは対象を貫くどころか、途中で止まってしまう可能性もある。だが、知ったことか。

 

「――――――つぁあっ!」

 

背後に移動しつつ宙に浮かんで身動きの取れない敵の胴体中心軸をめがけて逆手に握ったなまくら剣を叩き込んだ。鋭くない剣の切っ先が四足獣の左前腕部にめり込む。肉を抉る感覚が手を通じて伝わってくる。

 

同時に、肉体に負荷がかかる行為をとったことで、左腕の傷口から血が噴出した。噴出した血液と体液は、周囲の残った神経を刺激して、痛みの信号で肉体の異常を訴える。喪失に伴う痛みを無視して奥歯を噛み締めると、思い切り力を込めてさらに刀身をねじ込む。地面に近づきつつあった敵の体が、私の加えた力により、奴の予定より早く地面へと向かった。

 

獣の腹が地面に接触した瞬間する。その衝撃を感じた瞬間、切れ味の鈍い刃に体重を乗せて獣の肉体を無理矢理押し分けて貫通させると、刃の先端を地面に突き立てた。大地を穿つ衝撃が私と獣の全身に別れて走る。

 

獣は受けた衝撃に耐えきれず、体内の空気と体液を撒き散らすと同時に、胃の中へ収めつつあった私の前腕の一部も吐き出した。液に塗れた腕は少しばかり地面の上を転がると、砂を被りながら少しばかり離れた場所に落ちる。己の肉体が粗末に転げて行く姿に少し感じるものがあったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 

続けて地面に刀身を隠していた干将を右腕で引き抜くと、文字通り胸を貫いた衝撃に、目を白黒させる獣の脳髄めがけて叩き込む。強化の魔術が限界以上にかけられている一撃は敵の硬い毛、皮膚、肉、骨を見事に貫通して、敵の頭を地面へ縫い付けた。手先から感じる感触と液体を浴びて敵の死を確信する。

 

「これでもはや動けまい……」

 

地面に縫い付けた獣の体を一瞥すると息も絶え絶えに一言呟く。一応反撃に備えて双剣の片割れ、莫耶を拾って右手に構えるが、敵は動きを見せない。敵の肩から腹にかけては、螺旋剣が突き立ち、頭部には干将が刺さっている。

 

―――即死だとは思うが……

 

予感を確信に変えるため解析の魔術を使って確かめたいが、あいにく腕の魔術回路が千切れている今の状態での魔術行使は危険度が高い。魔術の発動を自動車を動かす行為と例えるなら、一部魔術回路の千切れた今の状態での魔術行使は、いってしまえばガソリンが漏れ、CAN信号伝達が不完全な状態で自動車を動かすに等しい危険な行為である。

 

そして私は、進んで二度も危険な橋を渡ろうと思えるほど危うい性格をしていない。敵が動きを見せない今は、まずは傷の対処を済ませてしまおうと考える。確信のためにもう一撃加えてやろうかと思ったが、やめた。敵が生きていようが死んでいまいが、あの状態ではまともな動きはできないだろうと考えたからだ。

 

無駄に費やす時間があるのなら、怪我の手当てに割いた方がよほど建設的である。そうして改めて傷口を確認すると、切断面は獣の牙で切断されたと思えないほど予想外に綺麗で驚く。まるで達人が研磨された刃で切り落としたかのような切り口。

 

―――これならメディカとネクタルの使用でなんとか繋がるかもしれない

 

一縷の希望を抱いた私は、傷口を直接止血するのをやめて、脇の下の動脈を強く圧迫した。左腕の出血が少し収まる。多少の止血を確認した後、代わりにバッグを脇下に挟み、圧迫を続けたまま近くに落ちていた手腕部を拾う。垂れる指がぷらぷらと人形のように垂れる不気味を無視して切断面を見ると、こちらもやはり綺麗な断面。

 

―――いいぞ、希望が持てそうだ。

 

さらに続けて獣の頭の先に転がっている唾液と消化液にまみれたの残りの前腕部を拾い上げて切断面を見る。あいにくとこちらは獣のさまざまな体液と砂埃に汚染されているが、断面はやはり綺麗で滑らかなものだった。消化酵素が働く前に回収できたのが功をそうしたか。いける、と確信してバックに手をやる。

 

救急キットの中から水を取り出すと切断面に振りかけ、汚れを払った。水が足りなくなったので、水筒から飲み水もふりかけて切断面から目に見える汚れが取り除かれたことを確認すると、獣が吐き出した前腕部を傷口とくっつけてメディカをふりかけた。

 

一時的に感覚が麻痺していた傷口から白煙と肉の焼けるような音が生じ、切断箇所の神経が痛みとむず痒さを同時に訴える。回復の促進を行う際の疼痛だ。少しして切り離された肉同士がくっついたのを確認すると、続けて前腕部と手腕部の切断面を接いでメディカをかける。

 

先ほどと同様の痛みとむず痒さを感じたのち、力なく垂れ下がっていた指は五本が同時に跳ね上がる。唐突に送られてきた二度と送られてこないだろう信号が伝達されたことに驚いたのだ。腕を動かすと、多少麻痺の感覚が残っているが、きちんと動くことを確認して、まず一息。

 

そうして肉体の回復を見届けると、続けて魔術回路の状態を確認する。魔力を千切れた部位に流し強化を行う。滞りなく魔術が発動されるのを確認して、珍しくホッと二息目をついた。ああ、よかった。こちらには一切の異常がない。

 

安心して魔術回路を起動させると、地面に縫い付けてある獣の方へ解析の魔術を含んだ視線を向ける。魔力は滞りなく奴の体に入り込んで、その情報を持って来る。間違いない。死んでいる。奴は動かない。一応いつ起き上がって襲いかかられても問題ないように警戒はしていたが、やはり先の一撃で死んでいたのだろうか。

 

「―――なんだと……! 」

 

そうして魂のなくなった死骸にかけた解析魔術の結果を見て私は驚く。

 

―――どういうことだ……

 

瞳を開けると、先ほど見た赤い瞳の瞳孔が閉じている。七色ではなく、赤。やはりこの獣は、先ほど自分が戦っていた獣ではない

 

―――まさか影と入れ替わったとでも言うのか。

 

混乱する脳の思考を中断したのは、聞こえてくる戦闘音と、爆裂、そして歌。慌てて鳴り響く方を向くと、バッグに一つだけ詰め込んであったネクタルを使用して血液を増やし、地面に突き刺さった干将・莫耶を拾い上げて駆け出す。

 

なにが起こったのかはわからない。だがここにある偽・螺旋剣/カラドボルグⅡが刺さった死体が番人のものでないという事実は、未だ戦いが終わっていないという事を残酷に告げていた。

 

 

番人の取り巻きたちとの戦闘は最終局面を迎えつつあった。敵の数は最初の半分、三匹にまで減っている。響が策を練って仕留めたのが一。ダリがシールドスマイトを使用して敵を吹き飛ばすとともに退路を断ち、サガのフォーススキル「超核熱の術式」を上手く直線上にまとめて当てて仕留めたのが二。

 

対してこちらは一切の被害は出ていない。今のところは五人ともに五体満足で敵の攻撃を上手に捌けている。そう。今のところは、だ。だが近いうちにこの優位は崩れることとなるだろう。……認めたくはないが、敵と私たちの継戦能力の違いが原因だ。

 

敵は数こそ減ったが未だ無傷で、最初の頃と変わらぬ速度を維持するほど万全な状態である。いや、むしろ、六匹の時よりも、より速くなっている。たいして、私たちはもはや燃え尽きる寸前の蝋燭のような状態。

 

私はまだしも、サガは直前に消耗の激しいスキルを連発したのが原因で、もう立っているのが精一杯。身体能力の向上などを行なっているピエールの声には掠れが生じ始めているし、足止めと回復を担当していた響は、ほとんど道具を使い切ってしまっている。

 

三人をかばい続けているダリはまだ余裕がありそうな、すました顔をしているが、あれは自らの疲労に気がついていないだけだろう。敵の行動を予測して動くのではなく、視界に入った襲いかかる敵の攻撃を反射的に防ぐようになっているあたり、ダリの頭はもはや限界寸前なのがわかる。追い詰められると余裕をなくし視野狭窄に陥る。ダリの悪い癖だ。

 

一か八かの賭けに出るべきか。私はフォーススキルの解放を考える。ブシドーのフォーススキル「一閃」は、私が敵として認識している全ての敵対象に首刈りの一撃を放つスキルだ。スキルは相手が自分より弱いほど効力を発揮しやすい。

 

自分より強い敵と戦いたいと考えるお前の癖とは合わないスキルだな、とサガには茶化されたが、私は案外、この自らより弱いものの首を刈り取るスキルを気に入っている。そもそも憧れの彼が放ったスキルであったし、憧れを取り戻させてくれたスキルであり、そして、強い敵に「一閃」を放って通用してくれれば、敵より私の方が強いことの証明となるってくれるからだ。

 

だから私はFOEや番人など強敵との戦いにおいて、最後の一撃を放つ際には、どれほど死にかけの相手であろうと必ずフォーススキルを使うと決めている。そうして「一閃」が通用し、敵の首が刈り取られるのを見て、私は強敵を超えたという実感を得ることができるのだ。

 

そんなことを幾度となく繰り返してきた私だからこそ、直感できる。今「一閃」を放っても敵の首を落とせない事を。否、それどころか、繰り出した「一閃」の攻撃が当たってくれれば御の字だろう。だが、皆が消耗したこの状況で、万が一にでも勝てる可能性があるとすれば、即死を狙えるその一撃しかないのも確かだ。

 

―――どうする

 

迷っている間にも、味方の限界の刻限は迫りくる。直感はやめろと言っている。理性はやれと言っている。進退窮まる状態に陥るのは久しぶりだった。迷いは剣先を鈍くし、隙を生む。敵は迷いなく、隙へつけ込んでくる。

 

繰り出される爪の一撃をかわしきれず、防具の一部が壊れて落ちた。もう後は無い。覚悟を決めるしか無い。決死を思い定めた時、敵の攻撃の間隙を縫うようにして、森の奥から雄叫びが聞こえてきた。

 

「腕の代価は貴様の命で支払ってもらおう! 」

 

エミヤだ。彼の力強い声を聞いた時、私はエミヤの勝利を確信した。そして思う。あちらの戦闘が終了すれば、彼が助けにきてくれるだろう。死を覚悟するにはまだ早い。そうして敵の攻撃に集中していた意識を拡散させて周囲の様子を改めて見渡すと、一同も同様に希望を見出した表情を浮かべていた。

 

すぐさま来襲する敵に気を向けなおす。敵はエミヤの咆哮に気を取られたのか、代わる代わるに間隙ない一、二、三の連携は、一、二、の三へと攻撃の感覚を変化させていた。三匹目が来る寸前に三匹目の軌道を予測して、剣の軌跡を獣の進路上に合わせてやると、敵は慌てて引っ込み、距離を置く。

 

「さぁ、突撃を! 迷うなんて貴方らしくもない! 」

 

隙をついてピエールは最後の力を使って高らかに詩を歌い上げた。最後の力を振り絞っての歌唱は魂を震わせる熱演だった。フォーススキル「最終決戦の軍歌」が乗せられた旋律は、一定時間の間、攻撃と防御を上げてくれる。

 

つまり彼はこう言っているのだ。やってしまえ、と。胸がざわついた。サガと響が武器を構えながら後ろに下がる。彼らの行動に迷いは見えない。ダリは彼らとは逆に、ピエールから離れて私の側へと寄った。ダリの行動は明らかに私だけを守ることを意識していた。

 

「好きにしろ。尻拭いはしてやる」

 

ぶっきらぼうなダリの言葉。笑みを返礼とすると、再び来襲した一匹目の獣めがけて剣を上段に構えて思い切り地面を踏みしめ、真正面から突っ込む。最高の威力を出すために脱力を必要とする上半身には、一切余計な力が入っていない。味方の最高の援護もあって、身体の能力も反応もこれまでの中でも最高の出来だ。もはや迷いはなかった。

 

腹筋から背筋にかけて思い切り力を込めて振り下ろす。脱力は最大の瞬発を生み、余計な力の発生を退けていた。上段の構えより繰り出すのは、ブシドー最大の威力を誇る「ツバメ返し」 。その威力は単体を相手とするなら、間違いなくフォーススキルよりも上だ。

 

刃が炎の吹き荒ぶ音を立てて振るわれる。遅れて甲高い金属音が響いた。それ以外の一切は静寂を保っていた。確信とともに刃の軌道を変えて、もう一度振り抜く。再び炎音と金属音。最後にもう一度無理やり軌道を変えて一閃。結果は見るまでもなくわかっていた。

 

突撃の刃に裂かれた敵は、体が跳躍の頂点に達すると、その勢いのまま直進し、後方頭上の樹木の幹にぶつかった。血肉が爆ぜる音。これは間違いなく即死だろうと言い切ることができる。まさに一刀両断、いやこの場合は三刀四断とでもいうえば良いのだろうか。ともかくこれまでで最高のツバメ返しが繰り出せたのは確かだ。我ながら見事な一撃。

 

だが私は攻撃の代償として隙だらけだった。これまで味わったことのない弛緩から緊張の急激な落差を経験した肉体は素直に驚き、戸惑っていた。想像を超えた肉体の稼働は脳が現在認識している肉体位置と実際に存在している位置に差異を生む結果となり、想像上と現実の齟齬を擦り合わせようと必死に稼働する脳は、思考より送る動けという命令を無視して、腕も胴体も脚も硬直を保っている。

 

舌打ちの一つでもしてやりたいが、それすら上手くいかない。経験から、硬直した体が元に戻るのにたったの数秒もかからないだろうと予測が出来た。だが、前方より迫り来る敵は、私が自由を取り戻すよりも前に、硬くなっている肉に食らいつくだろう。後ろからダリの気配を感じたが、援護には間に合うまい。いや、仕方ないか。むしろ鈍重な鎧盾を装着しながら、身軽かつ仲間内で最速の私に食らいついただけ、凄いと言える。

 

死の脅威が迫り来ているのに頭はやけに冷静だった。私の体は動かない。味方の援護は間に合わない。敵の攻撃は私と味方の行動より早い。だというのに自分は決してまだ死なないという確信があったからだ。ここはまだ自分の死ぬべき時でないという確信が。

 

死を恐れぬ心持ちが脳の回復を促したのか、眼球だけが動くことに気がつく。刃先に伸びていた視線を前方より迫り来る敵の方へと移すと、敵の爪がもうすぐそこまで迫っていることに気がついた。次に瞬きをすれば瞼を開けた瞬間自分の体はいくつかの肉片に切り裂かれているだろうという、自分での回避は不能。ダリでさえ防御も不能。そんな一撃だった。

 

「……、ッ―――!? 」

 

だが迫る致死の一撃を放つ敵は、私を裂く直前に突然真横へと吹き飛び、目の前より去っていった。代わりに少し先の視界を遮るようにして現れたのは、そこらに生える樹木の幹……ではなく、土煙にまみれた黒く強靭な足だった。エミヤだ。

 

姿を確認した瞬間、熱いものが胸に広がった。やはりこの男は期待を裏切らない、それどころか私の想像の上をゆく。まるであのブシドーのようだ。姿を重ねたのは一瞬。だが瞬間起こった現実からの乖離は脳を現実と空想の差異による混乱を鎮め、私の体は再び思い通りに動かせるようなっていた。

 

私が少しふらつく様を眺めたのち、エミヤは足を引っ込めて地面に下ろす。通った視線の先に後ろからやって来ていたもう一匹の敵が、即座に後方へと身を翻して距離を開けたのが見えた。挙動が他のやつよりも素早く見えたのは、まだ頭がうまく働いていない証拠だろう。

 

「間に合ったようだな。全く、後先考えないで限界を超えた一撃を放つなど無茶が過ぎる」

 

エミヤはやれやれ、と首を振りながら、私の行動を咎めた。

 

「いや、それは違う。ちゃんと考えていたとも」

「ほぉ……、それは興味深い」

 

目線はどのような案があったのか、と問うている。だから私は迷わず答えた。

 

「君が助けてくれるとな」

「……それは思考の放棄だ。そのような他人任せ、考えていたなどと言わない」

 

呆れたように言ってエミヤはそっぽを向いた。だが少しばかり照れが混じっているのを私は見逃さなかった。意外だがこの男にもまるで幼子のようなところがあるのだな、と思うとなんとも微笑ましく感じた。

 

「―――なぁ。言葉の定義を議論するのは後にして、番人に対処しようぜ」

 

いつのまにか近くにまで来ていたサガが口を挟んだ。他の仲間も追いついて周囲に固まっている。ピエールとダリと響は周囲を注意深く見回して視線を張り巡らせていた。自ら身を引いた敵のみならず、エミヤに蹴り飛ばされた方もいつのまにか姿を隠している。

 

敵の消えた森は静けさを取り戻していたが、あたりに広がる不穏な空気と肌のひりつく感じは健在だ。閉鎖空間に生え散らかされた樹木のせいで敵の正確な居場所はわからないが、残り二匹の獣はこの近くにいて攻撃の隙をうかがっているのが気配でわかる。

 

現状三人とエミヤが密な警戒をしているため何も起こっていないが、剣呑な状況は続いている。確かに、悠長におしゃべりをしている暇はなさそうだ。

 

「その通りだな、サガ。……皆の現状は? 」

 

ピエールは喉もとを数度指で叩くと、小さく首を振った。もう声も出ない、と言うことか。サガに視線を移すと、舌を出して両手を大業に上げながら肩をすくめた。

 

「悪いが俺もすっからかんだ」

「私の方はフォーススキルが一回。シン。お前は」

「ツバメ返しが数回とフォーススキルが一回。それで打ち止めだ。響。道具の残りは」

「あ、っと、アムリタ系と縺れ糸が無くなりました。メディカ系は三割。ネクタル系は五、あとは殆ど残っています」

「承知した。響。プレイナードを私とエミヤに頼む」

 

行って話題にあげると、エミヤは警戒を解かないまま問うてきた。

 

「プレイナード? 」

「一時的に攻撃の威力をあげる薬だよ」

「ああ、ギルド長が言っていたな。了解だついでにネクタルをくれ。血が足りん」

 

了承の返答を合図に、響が金属の筒を二本取り出して、エミヤに中身をふりかけた。即座に中身は揮発して赤い霧と白光の粒子になり、紅白入り交じらない状態で彼の体に纏わりついて消える。続けて彼女は私にもプレイナードを同じようにふりかけた。効力により高揚感と興奮が誘発され、刀を握る手に力がはいる。

 

「……来るぞ! 」

 

敵の気配が濃くなる。木の葉と枝が激しく揺れだした。おそらく敵が頭上を飛び回っているのだ。耳をすませて位置を探る。木の葉が擦れ合う音に加えて、徐々に近くなる足音。敵はもうすぐそこまで迫っている。

 

 

獣共は全身のしなやかな筋肉をバネのように使用して、まるで流星の如き速さで樹木の幹を蹴って周囲を飛び回る。赤い獣二匹はこちらの隙を見つけては、死角より飛来して命を刈り取る弾丸となる。まるで流星群の落つる夕空の檻に閉じ込められたようだ。

 

だが私は牢獄の中で死刑を待つ罪人のように、大人しく死刑の執行を待つ程、行儀はよろしくない。両手の剣を用いて敵の攻撃逸らす。百キロは優に超えているだろう敵の体重が乗せられた体当たりは、たとえ強化を施したこの身体でも真正面から相手などしていられない。

 

攻撃をいなした後、不自然に見えないよう、身体の姿勢を崩す。体制の立て直しに手間取り、焦ったかのような風を装って、意識的に頭、首、胸などの急所に意識の隙を作る。獣は喜んで隙に一撃をねじり込んでくる。予定通りの一撃をいなし、そうして生まれた敵の隙に反撃を叩き込むのが私のやり方なのだが……あいにく今回の敵の場合、反撃に転じることは不可能だった。

 

敵の重たく鋭い一撃をきちんと受け流すためには、とてもでないが片手ではこと足りない。強化の魔術でもどうにもならない。なぜなら足りないのは腕力ではなく、体重だからだ。まともに受ければ大樹すら粉々にしてしまうだろう一撃は、とても一刀と半身では受け流しきることができない。何より先程、くっつけたばかりの左腕の反応が鈍い。

 

仕方なく二刀と全身を用いる。二刀にて敵の差し出す爪が急所に突き立つのを防ぎ、しかし敵の勢いを受け止めないよう、全身を使って力の向かう方角だけを変えてやる。すると敵は来た時の勢いのままに疾走し、再び樹木の中へと消えてゆく。通常、交差の瞬間にどちらかの刀を叩き込んでやるの常だが、両手を使っての作業をしている今、反撃のしようがない。

 

ちらりとすぐ隣を見た。そこでは私と同じように、ギルド「異邦人」のメンバーが敵の攻撃に耐えている。彼らは私のように単体で敵を捌くでなく、集の力で攻撃にたちむかっていた。

 

敵が彼らに襲いかかる。ダリという盾を持ったとなる男が見事にこれに反応して前に出た。彼の後ろに控えていた三人の男女が機敏に反応して続く。彼らが動くその間にも敵はすぐ近くまで迫っている。接触の寸前、盾を構えた男が地面に足腰を踏ん張り衝撃に備えた。同時に後ろについて来ていた三人がその身体に纏わりつき、支える。

 

自動車同士がぶつかったかのような衝突音。そして盾一枚を挟んで四人と一匹は対峙する。四人は地面に靴の擦ったを跡を残して後退させられながらも、見事に敵の攻撃に耐え抜いていた。彼らは集まり一つの塊になることで、重く早い敵の一撃を受け止められるだけの体重を補ったのだ。なんとも見事な機転である。

 

加えて注目すべきは、盾を構えたダリの技術だ。彼らが攻撃に耐えられているのは皆で体重の帳尻を合わせているからなのは事実だが、しかし、敵の突撃はその程度で止めることが可能なほどやわなものでない。

 

大樹を砕くほどの一撃を秘めた衝撃を、彼が接触の瞬間、前方からの衝撃と後方からの支えの力をうまく利用して相殺しているからこそ、彼らの被害は地面を削る程度ですんでいるのだ。素晴らしい才能と技術に感嘆させられる。

 

とはいえあれも長くは持たないだろう。一回の衝突ごとに彼の体は、前後から受ける衝撃によって大きなダメージを蓄積しつつある。攻撃を防いだ直後にシンが放つ神速の三連撃は、敵の体を捉えるも全身を固くした敵の命を奪うには至らない。そして敵は離脱し、傷を回復して再び襲いかかってくる。まさに徒労だ。

 

そんなことを繰り返しているうちにダリの疲労はさらに溜まりつつあるのが見てとれる。あと十も繰り返さないうちに彼の体に限界がくるだろう。そうなれば、彼らの運命がどうなるかは火を見るよりも明らかだ。考えている間にまた一匹と四人は衝突。そして離れる。

 

敵の攻撃は交錯ごとに苛烈さを増してゆく。敵は徐々になりふり構わず速度を上昇させて、体当たりを仕掛けてくるようになってくる。それはあきらかに、己の出す一撃がこちらの弱体を生むことを見抜いての行動だった。強化魔力の消費が激しい。長く叩くほどに不利になるのを実感して、決着を急く気持ちが湧く。それを冷徹な意思で胸の奥底に押し込めた。

 

ただでさえ敵の攻撃は苛烈で徐々に鋭さを増しているのだ。余計な考えは死を招く。私はただいつものように、敵の攻撃を正確にさばいて攻撃のチャンスを待つ機械となればよい。いつも通り。そう、いつものように、一人で、機会を待ち、耐え忍ぶ。私はこれまでそうやってチャンスをモノにしてきた。私にはそれが出来る。

 

―――しかし彼らの限界を計算に入れるなら、もう時間はない

 

ダリの守りが瓦解すれば、私は生き残れるだろうが、彼らは間違いなく死ぬ。他人の確定している不幸な未来を黙って見逃せる性分をしていたなら、私はもとよりこんな迷宮に潜ってなどいない。

 

彼らを助けるためには、勝負に出る必要がある。目算はすでに立てている。勝算は低いが、分の悪い賭けを強いられるのは、いつものことだ。僅かでも勝率があるのなら、この命をベットに勝利への扉をこじ開けてみせよう。

 

私は敵が離脱した僅かな隙を狙い、ダリに声をかけた。

 

「賭けに乗らないか」

「なんだ」

 

ダリは響に薬を浴びせられながら、ぶっきらぼうに答える。回復と問答の隙をついて、二匹の獣は再び攻撃を仕掛けてきた。二匹は私と彼らの集団をそれぞれ一つの敵として扱っているのか、常に一人と五人に攻撃を仕掛けてくる。獣は几帳面というか馬鹿正直な性格らしく、私と彼らを真正面から力ずくでキチンと叩き潰したいらしい。好都合だ。

 

「一度だけ、奴らの攻撃が私に到達するのを防いでほしい」

「奴“ら”? 」

「そうだ」

 

奴らに悟られないためにも、それ以上は言わない。ダリは周囲の気配を怠らないまま、一瞬だけこちらの方を向いた。真剣な表情には私の意図を推し量ろうとする意思が籠められている。私は黙って返答を待った。彼はすぐに周囲の警戒に戻り、そして言う。

 

「一回。それで奴らをどうにか出来るんだな」

「少なくとも片方くらいは仕留めてみせよう」

 

断言。彼は鼻を鳴らすと、そっぽを向いたまま答えた。

 

「一回だけなら何とかしてみせよう」

 

ダリはそれだけ言うと、押し黙った。私と彼のやり取りを聞いていた彼の仲間たちは、ダリの言葉を聞いて体勢を整えた。彼らはダリの判断と私の言葉を疑っていない。甘いと思う。だが、状況打破のために差し出された提案を受け入れた味方の意思を尊重し、迷う事なく彼の判断に命を預ける覚悟は嫌いでない。

 

―――だから期待には結果で応えさせてもらうとしよう。

 

先程と同じように双剣を構える。しかし今度は一切の隙を見せてやらない。呼吸や脈動により生まれる隙にすら、都度意識を割いて対応する。私が一切の隙を排除した結果、敵は戸惑い、攻撃のタイミングを逃したようで、彼らは姿を見せることなくしかし、意識だけは立派に向けて、こちらを牽制しよう試みている。

 

今、敵と味方の間にある空間では、互いの視線と意図が何度も交錯していた。意識の戟による無音の戦いを続けながら、私たちはジリジリと出口に向かって歩を進める。そうして繰り広げられた無数の矛先が千をゆうに超えた時、私たちは敵が最初寝転んでいた場所に到達し、瞬間、敵意が途端に濃厚なものへと変化した。

 

周囲より降り注ぐ敵意から牽制の意を含むものがなくなり、全てが直接的な殺意に変わる。体を突き刺すような殺意はこれまで送られていたものと比べて、あまりに直線的だ。無遠慮に叩きつけられる殺意は、私たちの本能を強く刺激し、敵の居場所を知らせる。

 

「――――――――――――!! 」

 

そうして敵の方向を振り向いた瞬間、敵はすでに攻撃を開始していた。私の強化した眼球ですら光の突進としか映らない敵影。それはまさに、防御も回避も捨てた、捨て身の一撃。我が身がどうなろうと敵を仕留めるとの覚悟が込められているようで、これまでの攻撃が児戯に等しく思える速度のものだった。

 

そうだ。部屋の番人たる貴様らにとって、侵入者をこれ以上先に進ませることは、耐え難く、許容出来ないことなのであろう。だからこそ、私たちが貴様らを無視して先に進もうとすれば、阻止のために攻撃を繰り出すことは読めていた。だが。

 

―――しかし、この速さはあまりに予想の範疇外だ。

 

痺れを切らした敵が攻撃に転じるまでにかかった時間と、その後の繰り出された攻撃の速度が速すぎる。英霊であった私すら咄嗟に反応して投影の詠唱をするので手一杯だ。

 

不安がよぎる。対応に遅れる一撃を、果たして人間たる彼が認識し、そして神速の二撃から私を守護することが果たして出来るのか。そうして湧き出た余計な疑念は、次の瞬間、目の前に現れた光の粒子の壁により取り除かれた。

 

これが何かはわからない。だが、これがどういう効果を及ぼすものであるかは、自らを包み込む光の放つ柔和さと暖かさにより直感できた。これはおそらく、ダリの言っていた一回だけの防御手段なのだ。

 

獣たちはそのような薄い光の靄など知ったことかとばかりに直進する。光は瞬時に獣たちと接触。そして二匹はまるで映像の一時停止のごとくその動きを止めた。変わらず背筋を極寒に叩き込む殺意を向けたままの姿で空中に停止した姿は、滑稽にすら思える。

 

そうして私は、直前抱いた懸念が非礼に等しいものだと知らされた。

 

「完全防御! 」

 

ダリの低い声がスキルの発動と敵の到来に遅れて聞こえてきた。声には微塵の迷いも憂いも含まれていない。彼は敵が攻撃に転じると察知した瞬間、自らのスキルが敵の攻撃を完全に防ぐことを確信してスキルを使用したのだ。

 

―――見事だ

 

彼は見事に私の要望に応えてみせた。ならば今度はこちらの番である。私は当初の予定を変更して、思い描いていたものと違う武器を投影した。空中に現れたのは、人間一人の正面姿よりも大きな斧剣。それは、かつてギリシャの神殿の一柱から切り出した、ただただ巨大で無骨な、敵の肉を斬って殺すよりもむしろその重量をして敵の肉を潰し殺す事を目的とした、まさに圧殺のための道具である。

 

二匹の獣は目の前にいきなり現れた異常事態を前に驚いた様子を見せたが、すぐに現実を受け入れ、抗いを試みていた。光の粒子に捕らえられた獣たちの体が細かく震えた。離脱を試みているのだ。そんな事は許さない。お前らはここ仕留めきる。回避などさせない。回復可能な傷も与えない。

 

獣の驚異的な回復力の源は、獣の胸に収められている特殊な器官である。私は先の戦闘において、偶然にも敵を地面に縫い付けるつもりの一撃がそれを打ち砕いたが故に、生き残れたのだ。おそらくこの二匹の獣も同様の身体構造のはず。であれば、この一撃で頭部も胸部の器官も押しつぶす。それで決着だ。

 

私は申し訳程度に巻きつけられた滑り止めの布の上から柄を両手で握りこむと、己の身長よりも大きな斧剣を持ち上げて振り上げ、二匹の真横に回り込む。そして彼らを睥睨できる位置に跳躍すると、二匹の横幅を補って余りある長さの斧剣を大きく振りかぶり、刃の重さに自重を加えながら思い切り刃を振り下ろしつつ落下した。重い斧剣が鈍重な唸り声をあげながら空気を掻き分けながら無防備な頭部に向かってゆく。

 

獣の体は揺れる。筋肉が小刻みに震え、硬い体毛同士がぶつかり、耳障りな音を立てた。その行動が功を奏したのか、はたまた、単に完全防御とかいうスキルの限界時間だったのか、光の粒子は薄れて消えてゆく。敵の体が落下を開始した。このままでは一秒もしないうちに敵は地面に着地するだろう。無論、そんなことは許さない。

 

私は握り込んだ両手を強化して振り下ろしの速度を上げた。すると刃先の方が一匹の獣の頭部に触れた。敵は抵抗を見せたが、上からやってくる重さを躱す術を持っていないようで、遠心力の乗った刃先から逃れる事は叶わない。振り下ろされる斧剣の勢いが加わり、刃先に接触している敵の落下速度が増した。

 

斧剣の刃は続けて手前にいる獣にも迫った。敵は斧剣の刃先がもう一匹と戯れている間に体を捻っていた。

 

―――何をする気なのかしらんが、もう地面はすぐそこだ。諦めて死ぬがいい。

 

一瞬の攻防の後、遠心力の乗った刃先が最初に地面に到達した。地面は過重を受け止めきれず爆ぜ、刃の両側に土石を撒き散らす。続けて肉の詰まった腸詰に切れ味の悪い包丁を叩きつけた時のような感触がして、赤とピンクと白色が飛沫が宙に舞う。一匹の獣を仕留めたという確信。だが浮かれるのはまだ早い。勝利に酔ってよいのは、もう一匹を仕留めた後だ。

 

意識をもう一匹に集中すると、根元近くの刃は四足中の抵抗により頭上より首の根元にずれている事に気がつく。たが、問題ないと判断する。要は敵の胸にある回復機構を破壊できれば、頭部の破壊など、回復不能な手傷を負わせたその後で良い。

 

刃が地面にめり込む領域が私の手元へ近づき、もう一匹の獣の頭上と地面の距離が狭まる。センチはミリになり、マイクロからより小さくなってゆく。そして、ゼロ。超重の斧の刃が獣の体の抵抗を強引に突破して……ゆかない。

 

獣は刃によって地面に押し付けられた瞬間、四足にて思い切り地面を蹴り飛ばして、斧剣の根元の方、すなわち剣を振り下ろす私の方へと逃げようとしていた。斧剣が地面に姿を隠してゆく速度は、満足いく状態での四肢の力の解放が出来なかった獣の離脱速度よりも上であり、獣の体は少しずつ剣に圧し広げられてゆく。それでも敵は死んでたまるかと足掻いていた。何という本能。何という生き汚なさだ。

 

剣を振り下ろして敵を圧し潰す事に全身全霊で注力していた私は、獣の抵抗を目で追う事はできても、動きに対応する事が出来なかった。柄を握っている両手は地面を砕いた衝撃を逃がすために働かせ、両足は着地の衝撃を逃すべく硬直と弛緩を繰り返している。

 

やがて敵は右半身を断たれながらも剣の根元にまで到達し、剣を握る私にぶつかった。勢いは凄まじく、敵の傷口より多くの血飛沫が宙に舞う。衝撃は私の硬直していた手を柄から引き剥がし、体当たりの勢いに負けた私は背中より地面に大きく打ち付けられた。

 

「―――ぁっ、は、あ」

 

肺の空気が漏れる。敵の突撃に続けて、地面との衝突による衝撃が背中より全身を貫いた。衝撃は背骨を通じて脳に到達すると、異常の信号を出して脳裏に光と音のノイズを発生させる。眼球の中で光が明滅した。続けて耳鳴り。遅れて脳は痛みを訴えた。

 

痛みは無意識の境に旅立ちかけていた私を現実に引き戻し、私はすかさず腹筋のバネを利用して起き上がる。急激な位置変化は脳を揺らして平衡感覚と視界が揺れたが、即座に喝を入れて周囲を見渡す。仕留め損ねた敵はどこへ行ったのだ。

 

そうして意識を周囲に拡散させると、離れた地面の上に構えていた目標を視界内へ収める事に成功する。獣は胸部の右側を断たれて動かなくなった右足をぶらりとさせながらも、残りの三足で地面に伏して構えていた。獣は息を荒げている。傷口からは、微かな回復煙を上げているものの、その傷が瞬時に癒える事はない。こちらの目論見は成功を確信する。

 

「やったな、エミヤ!」

 

シンが仲間と共に称賛の言葉と共に駆け寄ってきた。ダリは無言ながらもこちらの肩を叩き、笑顔で攻撃の成功を祝ってくれている。サガとピエール、響の三人は三者三様に感嘆したり呆れた声をあげたり、目を白黒させて驚いたりしていた。

 

「これで残るは一匹。エミヤ。行けるか? 」

「勿論だ」

 

私は深く呼吸をして体の状態を整えると、獣に視線を送った。もはや死に体に等しいだろう姿。しかし、それでも獣は今のこの状況が楽しくて仕方ないとでも言うかのように、獰猛な笑みを浮かべて、未だ衰えぬ敵意を向けてくる。その表情からはこの状況下において未だ己の勝利を疑っていない事が読み取れた。

 

敵はいっそう深く地面に体を傾けた、敵はただ体を地面に近づけただけである。だがたったそれだけの動作は、私の体に悪寒を走らせ、本能に警鐘を鳴らさせた。いかん。何かはわからないが、このままでは全滅する。最悪の結末が、強化し千里眼に近い機能を持つ眼球を通して見えた。即座に防御用宝具の設計図を心の裡より引っ張り出す。

 

獣の低く伏せられた頭とは逆に、高く天を貫くかのごとく掲げられた赤い尾がゆらりと揺れた。すると獣の周囲に五つの死骸が現れた。宙に浮く骸のうち、二つには見覚えがある。先程己が仕留めた奴なのだ。も覚えがあって当然だ。

 

それらは先程この部屋で私たちが倒した獣どもの骸だった。彼らの死骸は傷口から体液を地面に垂らしながら、宙にじっと待機している。何が起こるのか、と頭が結論を求めて回転しだしたが、やめた。現状、とにかく情報が足りない。ただ一つ、何が起ころうと、おそらくはろくな事にならないだろう予感を信じ、いつでも動ける様に意識を集中させる。

 

私と同じ結論に至ったのだろう、シンらも警戒を強め、構えた。私たちがそれぞれに構えたのを見て、地上に伏せた獣は笑う。敵は回復器官を損傷し、傷口の治癒が望めない状態になりながら、それでもなお、こちらを真正面から叩き潰そうとしているのだ。野生の獣とは思えないバトルジャンキーっぷりである。

 

獣が獰猛な笑みを浮かべると共に、宙に浮いていた死骸の群れに異変が起こった。胴体より頭部と四肢が離れたのだ。頭部と四肢は宙に浮いたまま動かない。

 

一方、胴体はこちらに射出された。だがその速度は遅い。どういう意図があるのかは知らないが、近接職の三人が迎撃を試みた。すると、寸前で胴体は内部より爆発。私たちは内臓と血肉と骨片と体液の散弾を浴びる。

 

血肉は対したことがないが、細かく散った骨片は多少の痛みを与え、私たちのからだに傷を作った。骨は頬と首元にいくつかの赤い筋が走り、ダリは瞬時に反応して盾で防ぎきるも盾の表面に傷を作り、上半身を露わにしていたシンはもろに食らって、体のあちこちに傷を負っていた。骨片が刺さっている部分もある。敗血症にならなければいいが。

 

そうして改めて敵の方を見てやると、嫌がらせが成功して嬉しいのか、獣がニヤリと笑みを深める。その動作が多少カンに触る。

 

赤の空間に突如として起こった血肉の散乱により、さらに私たちはひどい臭気と不快感を与えられる。血と肉と骨片と内臓のかけらは大半が地面にぶちまけられるも、勿論いくらかは私たちの体にも付着し、熱気と湿気、生暖かい感触と臭気が辺りに拡散される。

 

悍ましい。そんな言葉では表しきれない光景が広がった。

 

「うぇ、なんだよ、これ……」

「生ぬるい感触と、臭さが……」

 

サガと響が不快に顔を歪める。獣はそれを見て笑う。そうして尻尾の先端が指揮棒の様にくるりと一回転させると、こちらに向けた。同時に宙に浮いていた頭部の牙と手足の指先がこちらに向く。頭部だけとなった獣の口が開き、爪が伸びた。まずい。これはまさか―――

 

悪寒は脳内を駆け巡り、攻撃よりも防御を優先させた。瞬時に魔術回路を励起。最大限の強化を全身に施すとともに、右手を前に掲げて敵に半身を向ける姿勢となり、両足で地面を硬く踏ん張る。そして脳裏の投影設計図から、私の持つ中でも最大の防御用宝具の物を引っ張り出す。

 

―――そうして引き出したのは、ギリシャ神話はトロイア戦争の大英雄「アイアス」が所持していた、ヘクトールの投擲攻撃を防ぎきった盾

 

そうして敵の頭部と四足は予想通り、宙より私たちに向けて弾丸の様に射出された。血飛沫の尾を引いて彗星の様に飛来する合計三十の魔弾は。どれも当たれば必殺の威力を秘めている事が一目で理解できる。牙や爪の鋭さはいうまでもないが、あの質量と速度はまずい。直撃を食らわずと、掠めただけで我々の体を抉ってゆくに違いない。

 

私は敵の攻撃と同時に右腕を前方に掲げ、防御用宝具を投影した。

 

―――その名は

 

「熾天覆う七つの円環/ロー・アイアス! 」

 

投影により生まれた七枚の花弁が、我々の身を守るべく差し出した右手の向こうに展開される。向こう側が見えるほど薄く儚く見える人間大の大きさの桃色は、その一枚一枚が古代の城壁の防御力に匹敵するという、私の持ちうる中で最も堅牢な防御手段だ。

 

宝具を投影した直後、掲げた腕のすぐ前方の空間で、アイアスが飛来した大きな彗星群と激突した。桃色の壁に牙や爪が散弾の如く突撃したその衝撃は凄まじく、掲げた右腕を伝わって全身に広がった衝撃は私の体を激しく揺さぶる。

 

桃色の壁が甲高い悲鳴をあげながら一枚砕けて散った。膝をつきそうになる程の衝撃を、大地をさらに強く踏みしめることで抵抗する。なんという威力だ。だが最大の威力であろう攻撃の最初の一撃は防げた。あとは牙と爪が威力の速度が落ちるのを待てば良い。

 

―――

――――――

――――――――――――?

 

馬鹿な……、―――威力が落ちないだと!?

 

腕より伝わる感覚は初撃の時から変わらぬ力強さを保って、私たちに喰らいつこうと前進を続けている。私はわずか数秒もしないうちに、自らの楽観的期待が大いに外れたことを知らされた。二枚目の花弁が散る。しかし牙と爪は威力を一切落とさないまま前に進み、私たちに食らいつこうと試みる。

 

続く勢いに押され、私は地面を削りながら後退させられる。靴で地面を抉る感触は

いつもと違うぬるりとした感触。……まずい、先ほどの血飛沫が地面の摩擦係数を低下させている。このままでは踏ん張りが効かなくなる。そうすれば待っているのは、死だ。

 

先ほどの無意味に見えた胴体の爆破はもしやこれが狙いか。ずるずると後退させられる体。血と体液でぬかるんだ地面を踏みしめる足裏には泥が付着し、いっそう踏ん張りを効かなくする。

 

「力を貸そう、エミヤ 」

 

そうして後退させられる体を後ろから支える者がいた。ダリだ。彼は盾を地面に放り出すと、半身となっていた私の体に片手で抱きつくと、もう片方の手に握っていた槍を逆手に地面へと突き刺して支えとした。支点が増えたことにより私の体は衝撃の逃げ場が増え、安定性を増す。

 

「わ、私たちも! 」

「手伝いますよ」

「無論だ! 」

「当然! 」

 

ダリの後ろに四人がひっつく。ダリの後ろにはシンが背中合わせにひっつき、地面に刀を突き立てる。ダリの鎧が大きすぎて、シンの回した片手が彼の胴体を掴みきれないための処置だ。ピエールはダリとシンが離れないよう、二人をしっかり固定するように腰を抱きとめながら地面に膝をつけている。背の低い響とサガはダリの足にしがみき、地面に足と膝をついて接地面積を増やしていた。

 

「助かる……! 」

 

五人がそれぞれ衝撃を受け持ってくれたおかげで体を伝わる衝撃は軽減し、後退速度は低下する。だが、そこまでだった。結局、牙と爪の威力が低下しないので、手詰まりなのに変わりはない。

 

―――どうすればいい。何をすれば止められる? 仮に魔術でこれほどの力を発揮するとしたら、何が必要か。考えろ。思いつかなければ近似する攻撃手段から解決案を見出せ。敵は直前、何をした?

 

考える間に三枚目の盾に亀裂が走り、その身を散らせてゆく。それを見て敵は笑みを深める。迫る魔弾。近く死期。焦燥を誘う行動をしかし、無理やり抑え付けて思考を続ける。

 

―――さっと思いつくのは、二つの行動。尾っぽを振るう行動と、胴体を爆発させたそれ。前者はこの攻撃を操るものだとして、後者には何の意味がある? ただ地面との摩擦を奪うだけのものか? 本当に?

 

四枚目の盾が悲鳴をあげている。敵の悍ましい魔弾は衰えを見せない。その牙で、その爪で敵の体を食い破ってやろうと変わらぬ殺意を讃えて薄板の向こうで暴れている。ギシギシと全身が揺さぶられ、意識が中断させられそうになる。

 

瞬間、敵の攻撃の力に負けて盾をかざす方向が微かにずれた。正面に掲げられた盾にできた一瞬の斜めの空間に、アイアスの盾の端にて力を発揮していた五爪が滑り込んで、盾の内部に入り込む。必殺の一撃の一部を通したことに、悪態の一つが漏れる。

 

「―――くそ! 」

 

―――やられる

 

思った瞬間、しかしその牙は我々六人をまるきり無視して先程ダリが放り投げた盾の表面に直進すると、その堅牢な盾に突き刺さった。理解不能の行動に、我々は揃って混乱。しかし、そうして盾を食い破った爪が満足そうにその動きを止めたのを見て、天啓を得る。

 

―――感染呪術

 

「それか! 」

 

思わず声をあげた。同時に四枚目の花弁が散った。

 

―――奴の血肉によって生まれた傷こそが、呪いの源か。胴体を割いて血肉をばら撒いたのは、足元から摩擦を奪うためではなく、呪いの発動条件を整えるためだったのか!

 

だがどうする。呪いの発動条件がわかったとして、感染呪術であるとするならば、接触してしまった時点で、傷をつけられた時点でどうしようもない。ほかに方法があるとすれば、呪いを発動している術者の命を絶つあたりだろうが、そのような強硬手段を取る暇などない。多重投影に力を回そうものなら、瞬間、今の守りは砕けるだろう。

 

もはや花弁は残り二枚。ヒビの進行が少しでも送れるよう強化の魔術を重ねがけするが、硬度を増したところで死ぬ迄の時間稼ぎができるだけで、事態の解決が図れるわけでない。最後の一枚はそれまでの六枚よりやや硬くできているが、だからといって発動し続ける呪いを解呪するような機能はついていない。まさに絶体絶命の窮地というやつだ。

 

「エミヤ。なにか気がついたのか? 」

 

誤魔化すように溜息を吐くと、すぐ後ろを支えるシンが問うてきた。言葉は真剣みを帯びていて、彼はこの状況下において、未だに諦めていないことがわかる。そしてまた、彼は私なら何か突破口を見つけてくれるかもしれないと思っている節がある。面映ゆさを感じながらも、私は出来る限り正直に現状を伝えることにした。私は踏ん張りを一層強めながら言う。

 

「この攻撃は、おそらく呪いの類だ。おそらく先程散布された獣の血肉がつけた傷に到達するまで、この一撃は止まらん。呪いの詳しい内容はわからんが、牙や爪が指定した場所に到達するまで一定の威力を保ち、止まらない、という条件は含まれていそうだな」

「傷に、呪いか。一般的な呪いならテアリカβで治るものだが……」

 

呪いが一般的に存在するのかと驚く間も無く、シンの言葉でダリの足元にしがみついていた響が素早く動いた。彼女は地面に投げ出されていた己の鞄を引き寄せると、二つの瓶を取り出して直上めがけて中身の液体を振りまいた。

 

散布された白い液体はきらきらと光を反射して薬液の霧雨が頭上より落ちる。液体が触れた途端、体に張り付いていた血生臭さが薄れ、傷が癒され、幾分か楽になった。しかし。

 

敵の攻撃は止まらない。

 

「ダメです! 効果がありません! 」

「おい、呪いじゃないのかよ! 」

 

傷を治しても、呪いを解除する道具を使用しても、敵の攻撃は止まらない。支え役が一人減ったことで、少しばかり後退の速度が早まった。慌てて響は再びダリの足にしがみつき、地面に跪く。私たちが地面を抉る速度は低下したが、やはり牙と爪の勢いは変わらない。

 

「おそらく既に発動してしまっている呪いには効果がないのだろう」

「エミヤ。呪いに詳しいようだが、この呪いを解除する方法はわかるか? 」

 

シンは、再び尋ねてくる。私は踏ん張りながら、少し考えたのち、答えた。

 

「発動している呪いに対処する手段はいくつかある。例えば、呪詛返し。呪詛の儀式を中断してやれば、契約の違反により、呪いは発動させた本人の元へ戻り、当人を呪う。他にも、例えば、発動している術者を殺せば、儀式の不成立ということで呪詛の発動が止まる事が多い。あとは呪具の道具、この場合だと牙や爪を破壊や…… 」

「なるほど。十分だ」

 

言ってシンは私の言葉を遮った。彼は地面に突き刺していた剣を引き抜き、体を起こす。大きく負担を受け持っていた一人分の支えが減ったことにより、私は少しバランスを崩した。慌てて全身の力配分を調整し、倒れぬよう魔力配分を調整する。

 

「おい、シン。十分って何がだよ! 」

 

サガが悲鳴のような声をあげて問う。

 

「やるべき事が分かったという事だ」

 

シン静かな表情を浮かべると、今までとは違う、剣を上段ではなく、横に構えた居合の構えをとる。薄手となった彼は剣を握ると、私の横に並び立った。

 

「……おい、シン、まさか」

「儀式の邪魔をしてやるか、術者の殺傷、呪具の破壊でどうにかなるのだろう? ならこれが一番手っ取り早い」

 

シンが何を行おうとしているのか察したらしいサガが呆然と言うや否や、シンは身体を地面の方向に傾け、腰を落として前傾姿勢に構える。しなやかな蛸足の指先が地面をがっちりと捉えており、シンの体はぬかるんだ地面の上でも安定した姿勢を保っていた。私は彼の姿に獲物を求めて飛び出す直前のチーターの姿を想起した。

 

「何をするつもりだ」

 

ダリが礼儀のように聞いてやると、彼も礼儀のように義務的に返してくる。

 

「一閃を使用する。弱ったあれ相手ならいける」

「……この際、結果を楽観するのには目を瞑ろう。だとして、目の前のあれはどうする気だ。あの速度と威力を見ただろう? 断言してやる。かいくぐって攻撃するのはお前でも不可能だ。私の援護をあてにしているならやめておけ。いまの私では、あの数は防げん」

 

シンは無言で告げる私の方に目を向けてきた。少しばかり眉間にしわを寄せた顔には、お前ならなんとかできるのではないか、という期待が混じっている。私は逡巡した。

 

確かに牙爪の侵攻を止める手段は思いついている。だがそれは呪いの前にどれほど通用するかわからないし、通用したとしてどのくらいの時間有効かもわからない。そんな無い無い尽くしの手段を、私は命を賭ける者に献上する策として提案したくはなかった。だから迷う。

 

しかしシンは言った。

 

「進言を迷う程度の効果しか望めないにしろ、突撃を止める手立てがあるんだな? 」

「……、効くかわからん。もっても一瞬から数秒だろう」

「了解した」

 

それだけ言うと、シンは正面を見据えて、下半身に力を入れた。袴の裾から、肉が隆起して太くなっているのが見てとれる。彼の中ではもはや私がその手段を実行するのは決定事項で、おそらく何を言っても止まる気はないのだろう。私は今日何度目になるかわからない溜息を吐いた。

 

「諦めろ。こいつはそういうやつだ」

「……苦労を察するよ。―――カウントから五秒で盾を消す。同時に大量の剣をあれにぶつける。一瞬くらいは拮抗が望めるだろう。その隙にシンが仕留めれば勝ち。出来なければ、その後どうなるかは分からん。せいぜい自分の身を自分で守る覚悟を決めておけ。……五秒後にカウントを開始する」

 

断言した直後、背後を支える力が弱まるのを感じた。彼らもシン同様準備に入ったのだ。私は全身の力のバランスを調整しながら、盾に注力していた魔力の一部を別の投影に回す。

 

――ー体は剣でできている/I am the born of my sword

 

剣を盾の前方に射出するイメージ。質ではなく数を重要視して、百を超える数の剣の投影を準備する。いかに威力と速度を一定に保つ呪いといえど、ある程度以上の堅牢さを持つ物体の前にしたとき、その進行を止めることができる事は、アイアスが目の前で明らかにしてくれた。

 

ならば、別方向から力を与えてやれば、その矛先を逸らすことが出来る可能性もある。と、考えたわけである。巨大な質量のものを一つ用意するのではなく、一般的なサイズの剣を多数用意したのは、単純に私の魔力が尽きかけているからである。アイアスの強度を保ち続け、かつ全身に強化を使用し続けているという行為は、私から悉く魔力を奪っていた。

 

魔力が尽きれば、当然私を待つ運命は死である。もはやシンの一撃が通用することに賭けるしかない状況なのだ。運の悪さを自覚している私としては、完全に運否天賦な勝負は避けたかったが、仕方ない。

 

「―――五、四、三」

 

こうなればベットの対象である彼が、間違いなく敵を仕留められるという確信を持っている事に希望を見出すしかないかと思いながら、私はカウントの数字を進めた。さて、ご破算にならなければ良いのだが。

 

 

すでに準備は万端だ。力を込めた下半身は力の解放を今や遅しと待っている。

 

「―――二、一、―――全投影連続層射/ソードバレルフルオープン! 」

 

エミヤの勘定が進み、零の言葉が発せられる時を前にして、エミヤが前方に突き出す腕と桃色の壁の前の十メートルほど上空に無数の剣が出現した。数を数える暇はないが、目算ざっと百は超えていると思われる。剣群は壁が消えるよりも早く上空より壁の前に陣取る敵の牙と爪に猛然と襲いかかり、口を大きく開けた頭部と爪の伸びた四肢を地面に叩きつけた。

 

衝撃により生じた爆風は目の前の壁によって上空と敵へと向かい、桃色の壁の前に巻き上げられた土砂が舞う。同時に壁が消えた。私は風と土砂が私たちの元へ到達する前、迷わず下肢より力を解放し、煙の中に飛びこんだ。肌の晒してある部分を、土と風が強く刺激する。

 

一足飛びで煙の中を抜け、着地。牙と爪が密集する危険地帯を飛び越えると、力の勢いが全て地面と平行の方向へ向くようにして地面を蹴る。鉛直方向への力が最低限であることを確認すると、抵抗を少しでも減らすため地面に向けていた顔を上げて、敵を見る。

 

敵は変わらず尻尾を立てたまま地面に伏せていたが、煙より飛び出して近寄る私を見て少し仰け反らせた。警戒を露わにしているが動く気配はなく、エミヤがつけた首の傷は未だ健在である。素晴らしい。これなら間違いなく首を落とせる。私は勝利を確信した。

 

直後、背後から聞こえると無数の金属音と男女の悲鳴。加えて、背後から殺意が迫っている。多くの牙と爪がこちらに迫っているのがわかる。恐らく残り二十九のうち、その大半がこちらに向かっている。先ほどのエミヤの説明から聞くに、最も多く傷を負った私が、最も多くの呪いを受けているからだろう。だが知ったことか。

 

腰の力だけで上半身を起き上がらせると、多少胸板に風の抵抗がかかるのを無視して剣を上段に構え、大きく息を吸い込みながら腕を振り上げた。そうして剣の腹が背中に着く直前まで振りかぶると、次の着地の際、右足で地面をおもいきり踏み込み、肺の中の息を全て吐き出しながら技の名前を叫ぶとともに、必殺の意思を込めて剣を振り下ろした。

 

「一閃! 」

 

体の中に溜め込まれていた力が腕を通じて振り下ろした刀に伝わると、剣は微かに発光する。刀身より生まれた光は瞬時に周囲一帯に広がり、敵近くの空間に断裂が生じた。断裂より現れるのは、私の刃そのものだ。振り下ろした刃は彼我の距離をゼロにして、切り上げの一撃となる。

 

フォーススキル「一閃」は使用すると、一定範囲内の敵全てに対して使用者の刃の一撃をおみまいする事の出来るスキルだ。刃は幾重にも分裂して、敵のすぐ近くの場所に現れる空間の断裂から敵を狙う。空間の断裂が出現する場所はスキル発動者の認識に依存する。私の場合、敵の急所を死角から切断できる場所を常に意識するようにしている。

 

例えば今回のように首と胴を切り離せば死んでくれる獣相手の場合は、敵の視界範囲外となる真後ろから無防備なうなじに刃を叩き込める位置に空間の断裂を出現させて、頭部と胴体を切り離す一撃が首元めがけて放つようのが常のやり方だ。

 

だが今回、私はあえて通常の場合とはイメージをずらして、刃の出現位置を変えた。今回空間の断裂が現れたのは、右胸部にぱっくりと開いた切り傷の近くだ。エミヤがつけた傷は未だに煙を上げながらは血を滴らせながら周囲の肉が蠢いている。硬い毛も外皮も脂肪も筋肉も快癒していない部分は、まさに敵の急所と言えるだろう。

 

この一撃がうまく傷口から刃が侵入してくれたならば、敵の傷口から体内入り込んだ刃が内部より外部に向けて直進し、侵入と真反対の部分までを切り裂いて敵の体を両断してくれる確信がある。そうなれば私たちの勝利である。当然私の狙いはそれだ。

 

当たれば勝ちの勝負にはしかし懸念もあった。敵は私を見て構えてみせた。ならば敵がこちらを警戒して動く可能性もある。動けば当然、傷口の位置はズレてしまう。そうなれば、攻撃は敵の硬い皮膚や毛にあたり、弾かれる可能性が高くなってしまう。

 

そう。敵が動くか否か。それが問題だ。敵が警戒して見に徹してくれれば私の勝ち。敵が警戒してその場からの離脱を試みた場合、勝負の決着はお預けの可能性が高くなる。

 

考えている間にも振り下ろした刃は空間の断裂の向こう側に現れ、傷口に迫っている。さぁ、どうする。どう動く。迫る刀身に動かない敵。意識のほとんどが両手とその先に集中する中、微かに残っている五感は視覚が敵の口元の歪みを捉えた。

 

敵の七色の瞳は怪しく輝き、覚悟と殺意に満ちている。間違いない。敵は私の狙いに気がついている。先の先を取ったことに気がついている。だが敵は動かない。なぜ。どうして。嫌な予感。心に陰りが生まれた。

 

刹那よりも短い時の中で、疑問が湧く。疑問は不安となり、敵への斬気で満たされていた心中に落ちて動揺の波紋を生む。間違いなく敵はなにかを狙っている。それはこちらにとってロクでもない事であるのは想像だに容易い。だがもはや手遅れだ。振り下ろした刃の勢いは止まらない。心中に生まれた動揺は焦りとなり、剣を振る速さは上昇すらしている。

 

直感は己の命の危機を訴えて、懸命に停止の警鐘を鳴らす。しかしもう遅い。

 

敵の胸元の傷口に剣が吸い込まれた。敵の数に呼応して多重に分裂する刀身の先から感触が伝わる事はない。刀身が敵と衝突したさいの衝撃と感触が伝わるようなら、私の手は先の番人戦において鋼のごとき硬さの虫共億匹を斬り裂いた際に使い物にならなくなっている。

 

だが断裂した空間の先で刀身が敵を裂いたと直感が告げた。生まれてこのかたこの感が外れた事はない。勝った、と私は確信した。硬い敵の柔らかい内側への侵入を果たした刃は肉と骨を切り裂き、反対の肉体より抜け出る。

 

剣を振りながら、しかし視線をまっすぐ敵に向けて見守っていると、遠目に敵の硬いが盛り上がったかと思うと、見覚えのある形をした刀身が皮を突き破って現れ、消えた。

 

骨肉を断たれた敵の胸元から上側が、ずるりと新たに生まれた傷口に沿って下方向へ滑る。支えを失った首はあとは落ちるが定めである。後ろから迫る殺意が消えている事からも、結果など見なくともわかりきっている。だが先程胸に湧いて生まれた悪寒は、敵の首が落ちて動かなくなるまで視線をそらすなと告げていて、私は敵から目が離せない。

 

赤一色で見にくい視界の中、敵の挙動を注視する。司令塔からの命令を失った敵の四肢から力が抜けたのがわかった。地面に低く伏せた胸と腹はすでに地面へ向かって落下を開始している。脳から一番遠い尻尾だけが、未だ雄々しくピンと天を向いていた。

 

視線をもう一度敵の頭部へと戻す。敵の頭部は胴体に先んじて落下を開始しており、先程ついたばかりの傷口から肉と骨が見えた。敵の鼻先から頰、目元を見ると敵の生気を失った赤い瞳が私の眼に映る。

 

―――赤い瞳……?

 

何かおかしい。疑問に思った瞬間、私の体は後ろからの衝撃を受けた。敵に向いていた視線が頭上の樹木と枝葉を捉える。なぜ、と思う間も無く、続けて胸元から飛び出した毛と肉と骨の塊が直進するのが見えた。

 

直前までの集中は、塊が先程まで自分が散々見ていた獣の頭部であることに気がつかせる。頭部の開かれた口と思わしき部分からはピンク色の脈動する管が伸びていた。管を追って目線動かすと、自分の腹より伸びている。

 

私は一瞬の間だけ馬鹿みたいに惚けると、唐突にそれの正体に気づいた。私はそしてなにが起きたのかを悟った。

 

―――ああ、胸元と腹を持っていかれたのか。

 

よく見ると右腕の一部も途中から断裂している。無事なのは、頭部と左腕と両足だけだった。さらに軽い衝撃のち、伸びていた腸の一部が切れた。振り下ろしている最中の右前腕は剣の柄を固く握ったままぐるりと半回転して私の左脇腹を叩いた。

 

右前腕の外側部分が左半身に触れるという異常は、止まっていた時を動かす働きを持っていたようで、私の体は地面に吸い込まれる。まず無事だった腰部から下の部分が八の字を描いて地面に倒れこんだ。そして肩部から上の部分が傷口の部分よりきれいに着地して泥を跳ね上げる。

 

息が喉元より漏れた。肺が機能停止しているため、空気は漏れていく一方だ。いやそもそもこの有様では肺が生きていたとして、酸素が全身に運ばれる事もないだろう、とどこか他人事のように思う。遅れて地面との激突により生じた衝撃が脊髄を通って脳内に到達し、胸より下と右腕を失った事実を認めて痛みの信号を脳内に発した。痛みの直前訪れたのは酷い喪失感。そして他には例えようもないほどに冷たく鋭い痛みが走る。

 

痛みは感覚を鋭敏にして、視界の先が自身の体内の光景を通り越して、宙にある回転する敵生首の横目を捉えた。

 

―――あの野郎の捨て駒にされたのは気にくわねぇが、必殺の看板をおろさずにすんだ事だけは、感謝してやる

 

そんな言葉を幻聴した。憎々しげに歪む口元は私のことなんて見ていない。それがひどく悔しくて、私は自らに致命の一撃を与えた敵がやったように、にやりと笑って同じ意思を返してやると、敵は少しばかり不服の感情を深めたように見えた。

 

―――ざまあみろ

 

意趣返しの言葉を思ったと同時に視界が暗くなってゆく。頭はもうぼんやりだ。呼吸ができない。苦しい。急速に感覚が失われてゆく。視界がぼやけてゆく。痛みだけがはっきりと今の自分の意識を保たせていた。

 

失せてゆく視界の代わりに嗅覚と聴覚が敏感に反応した。すんと鼻を動かすと血と鉄と土の匂いが痛みを柔らげた。そして静寂を切り裂いて前方から大きなものが地面に落ちる音が聞こえた。続けて後方から聞こえる悲鳴と私の名前と泥の跳ねる音。

 

彼らの声を聞いて私は最後に何を言い残すべきかを考えていた。

 

 

シンという青年によって撹拌され広範囲に拡散した、世界樹特有の赤い土砂と敵の血肉のかけらが混じった煙がが薄れてゆく。多重投影によって生まれた視界がクリアになってゆく中、地面には突如として動きを止めた敵の牙と爪が散乱している。もう動く様子はない。どうやら完全に活動を停止しているようだ。私はシンという青年が上手くやったことを直感する。土煙がさらに薄れて、ぼんやりとした視界の向こうに彼のシルエットが現れた

 

そして気づく。赤い煙の向こうに見える彼の形の不自然さに。なぜ彼は浮いているのか。なぜぼやけた彼の体の真ん中から遠くの敵の首切り死体が見えているのか。思いつく限り最悪の想像が頭の中を駆け巡る前に答えは目の前に提示され、光景を目にして私は戦慄した。

 

シンの土手っ腹には大穴が開いている。半ば体を斜めに傾けた彼は、頭部と腰部から下が完全に分離して宙に浮いていた。彼の斜角からして、何か硬いものが一瞬だけ彼を背中から上方向に押し上げて、その直後突き抜けていった、というのが予想できる。私は彼が向ける視線の先を追うと、先程我々と相対していた敵のその頭部を見つける事に成功した。

 

奴は目元に微かな不快を浮かべながらも、血肉を食んだ口元には不遜な笑みを浮かべている。凶暴な笑みを浮かべる口元から覗く人の内臓の千切れた端が、この惨状の下手人が奴であることを明確にしていた。宙に浮いた彼の体が浮遊の不自然に耐えきれず落下する。

 

―――あの野郎の捨て駒にされたのは気にくわねぇが、必殺の看板をおろさずにすんだ事だけは、感謝してやる

 

さっぱりとした声の、そんな幻聴を聞いた。聞き覚えのあるセリフに頭が硬直する。まて、そのセリフ。忘れもしない、私の盾を打ち破り腕をズタズタに引き裂いた一撃を放った男の言い放った言葉になぞった文句。まさか、では、もしやお前は―――

 

「―――ランサー?」

 

呟いた瞬間、どん、という間抜けな音が響き、私達の時間が動き出す。浮いたシンの体が落着していた。思考を現実に戻し、真っ先に響が耳をつんざく程の悲鳴をあげた。ダリが声がかすれるほど大きな声をあげてシンの名を呼び、駆け出す。私は彼の後に続いた。遅れて二人が地面を蹴る音が後方で聞こえる。

 

彼はばっさりと断たれた胸部の傷口が綺麗に地面と接触しているため、まるで胸像のようだった。私に先んじて近寄ったダリは、もはやどう対処していいのかわからないと言った体で視線と両腕を虚空に彷徨わせている。

 

私はその脇を抜けて彼の体を噛みちぎった敵の頭部の元へと駆け寄った。敵は瞼を落として満足気な表情で口角を上げて死んでいた。瞼をグイと押し上げると七色に輝いていた瞳は光彩を失い瞳孔が拡大して対光反射をなくしていた。

 

死亡を確認。意を決してすぐさま閉じられた口元を開けてやる。そしてその口腔に唾液にまみれ現れた破損した人体を見つけて、思わず眉をひそめて唇を噛んだ。シンの体と内臓は噛みちぎられた際の衝撃で大きく損傷したのち、更に何度か咀嚼されグズグズになっている。

 

この世界の技術と私の魔術があればなんとかなるかも、という淡い期待を抱いていた私は、ようやく彼はもはや手遅れである事を悟った。重苦しいものが胸に去来する。見知った誰かがもうすぐ死ぬという事実は、思った以上に今の自分にとってショックな出来事であるようだった。さて、いつからこんな感傷を抱くようになったのだろうか。

 

獣の口元を閉じて両手で抱きかかえる。そうしてその中身が崩れない様に注意を配ると、抱えた状態で地面についた自らの足跡を逆走した。物言わぬ骸になりかけている彼の周りでは四人の人間が地面に膝をついてどうしたものかと喧喧諤諤に言い合いをしている。

 

「おい、どうするんだ! どうすればいいんだ!? 」

「響! 喚いてないで回復薬を使え! どうにかなるんだろう!? 」

「傷は塞ぎます! 塞ぎますけど、こんなんじゃ傷が塞がらないじゃないですか! 」

「ネクタルはどうなんだ? 」

「真っ先に使いましたよ! もうありません! ダメなんです! 体がないんです! 顔が血の気を取り戻した端から白くなっていくんです! 血も止まらないし、そもそもこんな状態じゃどうすればいいっていうんですか! 」

「……シン、聞こえますか。まだ大丈夫ですか? 」

 

三人が騒ぎ立てる中、殊更冷静にピエールだけが彼の頬を叩いて意識を保たせる努力をしていた。ピシピシと頬を叩く行動は死体に鞭打つようであるが、効果はあったらしく、シンは閉じていた瞼を開けて、顎を微かに上下に動かした。

 

まだ息がある。そのことを確認すると、私は彼の周りにたむろった人を退けて、シンの眼前に狼の頭を置いた。一同、特に三人が息を呑む。私はもはや魔術を使うことを一切気を使うことなく剣を投影すると、犬の口を開けて、片側を大きく切り裂いた。

 

剣は口腔を抜けて口の端から後頭部まで通り抜けて、その間にある障害物を全て斬り裂く。そうしたのち平坦に伸びた前頭部から頭頂部までを掴み、眼球のあたりに親指を引っ掛けると、力任せに肉を引きちぎりながら敵の上顎と下顎を開口させた。

 

無理やりの衝撃に頬骨が破砕する音が聞こえたが無視する。周りが息を飲んだのがわかった。そうして現れたのがシンの失った体の一部は唾液でベトベトになり、内臓は腰側の胴体から飛び出して口腔内に飛び散っている。惨状に目を逸らす気持ちもわかるつもりだ。だが。

 

「シン。横にするぞ」

 

今は一分一秒も惜しい。返事も待たずに美術室に屹立する胸像めいた身体と頭部になった彼を抱きかかえて、獣の舌の上に乗っている彼の体の切断面に合わせる。上半身はバウンドした際、内臓がこぼれ落ちて土にまみれていたが、切断部分の敗血症や感染症の心配をしている暇などない。とにかく繋げることがまず第一だ。

 

汚れた面と唾液に塗れた面を強引に押し付けて、見た目の体裁だけ整えると、響に向けて言う。

 

「響。薬を彼に」

「……え、あ、うぅ」

「やれ! 死なせたいのか! 」

 

叱咤すると、響は慌てて地面に投げ出されていたバッグから薬の入った細長い金属瓶を取り出してふりかけた。瓶の口より溢れた光の粒子が宙を舞い、重力に従って彼の傷口に殺到する。光の粒子は傷口に触れる直前強く発光してみせると、彼の傷口から音と煙が上がり、薄いピンクの肉が盛り上がった。白くなりつつあった彼の顔が微かに血色を取り戻す。信号を取り戻した心臓は再稼働を果たし、腰部あたりからの出血が再開した。

 

……指示しておいてなんだが、この結果に驚いた。まさか動脈静脈神経骨その他の部分が綺麗に吻合されたということなのだろうか。切断面の汚染があるにもかかわらず、切断された両者の部位が重力に負けて多少のズレを生じているにもかかわらず、回復薬は傷を治癒してみせたというのか? なんという奇跡。何という威力なのだ。

 

驚愕をして疑問を考察しようと試みていた頭は彼が咳き込んだのを聞いて現実を思い出した。肺が機能を取り戻したのだ。呼吸の再開は生存の可能性が見えてきた証明であるとはいえ予断を許さぬ状況であることに変わりはない。

 

急いで獣の頭部顎下にあったシンの下半身を引きずり出すと、同様にすぐさま切断面同士をくっつけようと試みる。しかし。

 

「っつ、厄介な……」

 

こちらは上半身のように簡単に出来なかった。飛び散った内臓はぐちゃりと潰れ、あるいは牙にちぎられている。特にひどいのは腸だ。無造作に飛び散った消化器官はどれがどれだか区別がつきにくい。そうして内臓立体パズルを解いている間にも、出血は続き、血の気を取り戻した顔は再び白さを帯びてゆく。内臓を弄っているにもかかわらず血まみれにすらならない事態に焦りながらも、なんとか無理やり形を整えると、再び指示を飛ばす。

 

「響! 薬! 」

「はい! 」

 

すると今度は待ってましたとばかりに彼女は一瞬の間も置かないで先程から手にしていた薬剤を振りまいた。どうやらこちらが何をする気なのか理解して待機していたようだ。

 

薬剤がシンの体にかかり効力を発揮しだして傷口がざわめき出すのを見届けると、長く深いため息が自然に口より漏れる。荒く断面を合わせるだけの作業はしかし、先程までの戦闘とは別種の精神的な疲労をもたらして、全身から汗を吹き出させていた。肌にまとわりつくぬめりとした感触が周囲の湿気と入り混じって酷く不快な気分だ。

 

せめて顔の部分だけでも拭ってやるかと片手を持ち上げると今更ながらに両手が汗と血と脂に塗れて生温さとどろりとした不快さを帯びていることに気がついた。仕方なく右手の裾で額、頬、口元、顎と順に拭ってゆく。その間にもシンの体は傷口から再び煙を上げて塞がれつつあった。

 

響とダリとサガは期待に満ちた目でシンの肉体が修復されてゆく様子を見守っている。シンの肉体の傷口から見える内臓は、まるで収まるべき場所と帰る場所を知っているかのように勝手に蠢いては接合してゆく。治癒というより再生。再生というより復元、時間の巻き戻しに近いものであるように見受けられた。

 

ふと自らの左腕を上げて掌を覗く。狼の牙によって落とされた左腕は魔術回路まできちんと治療が及んでいた。メディカの効用が半霊的な器官にまで効果を及ぼすとなると、やはりこの薬は科学的な理論に基づいたものでなく、非科学の領域に足を突っ込んで作り上げられたものなのだ。

 

回復薬とは一体どういう成分なのだろうかと真剣に悩む。解析の魔術をかけてもわかるのは花蜜と蜜結晶と岩サンゴを砕いて混ぜて作られたという事実がわかるだけで、それ以外の事はさっぱりわからない。だがその不明な成分が先程私の左腕を繋ぎ、今瀕死の淵にいるシンの命を拾い上げようとしているのだ。効用ばかりは信頼できるな、と左腕の傷口を見て独り言つ。その時だ。

 

「失礼 」

 

ピエールは短く言ったと思うとすぐに私の左腕をジロジロと眺め、言葉を続けた。

 

「エミヤさん。もしかして左腕は一度千切れたのを回復薬で治したのですか? 」

「……その通りだ」

「やっぱり。でしたら、一度地上に戻った際、施薬院に行ったほうがよろしいでしょう。繋がっているように見えて、案外、応急手当て的なぞんざいさが残っていたりしますし、多分、転移の直後間違いなく、傷の影響が出ますから」

「そうだな、そうするとしよう。忠告感謝するよ。しかしなぜ見抜けた? 」

 

彼は飄々とした笑みの中に少し悲しげな雰囲気を加えて、答える。

 

「羽織っていらっしゃる外套の左腕の前部分だけ綺麗に破れています。この敵の攻撃でぐるりと腕を一周するような外傷ができるとしたら、先程シンが受けた噛みつきの攻撃しかないでしょうし、加えて、あの胴体を裂くレベルの攻撃をその細い腕の部分に食らったのなら、いかにあなたが強靭な肉体を持っていても、腕が千切れて落ちるが道理かと思いまして」

「よく見ているな」

「観察は楽師の性分ですから。後に物語る時、見て聞いて感じての出来事を自らの言葉と感性で語れないようでは楽師失格ですからね」

 

なるほど聞いてやればもっともらしい事をいう。しかし疑問が湧いた。

 

「なら私よりもシンの方を観察したほうがいいだろうよ。窮地に陥った仲間を颯爽と救った英雄だ。彼を主役にしたほうが話も盛り上がるというものだろう」

 

口から出た言葉には、私の事を物語にして欲しくないという考えも混じっていた。彼の職業柄、私の所業がその口から多少の誇張や華美な表現で語られるのは許容できるとしても、彼の語りによって名声が上がり以前のように一挙手一投足に注目を浴びるような事態になるのは避けたかったからだ。

 

「そう……そうですね」

 

私が言った懇願も含めた言葉を聞くと、彼の整った顔に含まれていた悲しみの色になんらかの決意が加わり、悲壮へと変化した。私は自らの吐いた言葉のうち、何が彼の胸の裡に変化を起こしたのか理解できず、尋ねた。

 

「……なにか気に触ることでも言ったかな? 」

「いえ。ただ、そう。あなたのおっしゃる通り、臆病を殺してでもシンを観察したほうが良いだろうな、と思っただけです。……多分これが最後の機会になるのでしょうから」

「……何? 」

 

聞き間違いか。そう思って彼の顔を覗き込むと先程よりも悲壮感が強くなっている。固く結び付けられた口元からは、覚悟と決意の現れが見て取れる。私は今の彼と似たような顔を何度も見たことがある。それは近しい人間の死を覚悟した人間が浮かぶべる表情だった。

 

「どういうことだ? 」

 

具体性を書く質問に、しかし彼はニコリと笑って意を汲み答えてくれる。

 

「そのままの意味です。シンはもう助かりません」

 

確かな断言は静けさの残る森の中によく通ったように思えた。言葉につられてちらりとシン方へ目をやると、傷の治療が行われている彼と、彼の側でその様子を見守る彼らが視界に入った。ピエールの言は彼らの耳には入らなかったようで、少し安堵する。私は振り返り反論を試みた。

 

「そうはいうが、怪我は治り、傷口は小さくなりつつある」

「ええ。怪我は治ります。傷も小さくなりそのうち完全に塞がってくれるでしょう。ですがそれだけです。薬は肉体の損傷を治してくれますが、失ったもののは補填してくれません」

 

言ってピエールはシンの横たえられている地面の周囲に視線を送った。そして理解する。元より赤く湿り気のある状態であった地面が黒く固く染めあげられた状態は、明らかに異物が土壌を侵食した証であった。地面の赤黒さは血液の乾いた後である。なるほど、血液が足りないのか。

 

「ネクタルは?」

「ああ、あなた見ていませんでしたね。彼に近寄った響が真っ先に手持ちのネクタルを全て使用したのです。過剰に注ぎ込まれた生命力の源は、上半身の一部だけの状態の彼が旅立つのを引き止めてくれました。彼女がそうして素早く対処してくれたからこそ、心臓も肺も破損した状態でも貴方が治療を行うまでの間生きて入られたのです。普通は即死ですよ、あんなの。しかし……、残念です。もう少しだけでもネクタルを持ってきていれば、あるいは残っていれば、彼も助かったかもしれないのに」

「まて。ならば今すぐ糸を使って施薬院で治療を受けさせればよかろう 輸血でも生理食塩水でも造血剤でも使ってやれば……」

「それも無理ですよ。糸が使えないのです。御覧なさい。あなたの的確な指示と対応で傷は塞がりつつあります。中も多分完治しつつあるのでしょうが、未だに顔に血の気が戻らない。おそらくあの状態で糸を使うと、彼はエトリアに到着と同時に死ぬ」

「……わからんな。なぜそう言い切れる」

「おや、ゴリンからお聞きになりませんでしたか? 転移の際、土や砂は自動回収されるのですよ。貴方のその左腕ぐらいならまだしも、シンは重要機関から臓器から神経、血管に至るまで、全てに砂が入った状態で切断面がくっつけられています。聞いたことありませんか? 世界樹の地面を構成する砂土は転移することが不可能なのですよ。あれでは恐らく、砂の入った部分は転移と同時に穴が開く。エトリアに着いた途端、失血死か、ショック死かでしょう。それにあの繋がったばかりの肉体じゃあ、そもそも、転移の際にかかる衝撃にも耐えられない可能性の方が高い。転移の最中に物を失うと、それはどこかに失せてしまいます。だから無理なのです」

 

私は土の話と転移の際の衝撃を思い出して、思わずエトリアに来た日ばかりの日の事を思い出していた。五人いた彼らは、足がもげ、腕がもげ、体の一部が欠損していた。

 

―――あれは、瀕死の状態で、なんとか糸を使って離脱したが故のものだったのか。

 

なるほど彼らは、そうして迷宮に体を忘れてきたのか。かつて見た光景に、彼の言った言葉が信用するしかないものだと、不承不承も納得する。しかし、いちいち大業な所作をとるピエールの言動に少しばかり腹を立てながら聞く。

 

「ではどうすれば彼を助けられるというのだ! 」

「だから無理だといっているでしょう! シンを助けたければ、この場から転移を使わず脱出するか、ネクタルの一つでも出して見なさい! さぁ、はやく! 」

 

ピエールが顔に陰りが生まれた。吐き捨ているように述べられた最後の愚痴は重苦しい。己の準備不足や不手際に対する慚愧の感情が多分に含まれているようだった。彼が生まれた感情を隠すかのように目元を片手で覆いしゆっくりと首を左右に振るのを見ていると、金属の筒が地面を叩く鈍い音が背後より聞こえた。

 

音に誘われて顔を向けると、地面に跪いた響が顔を真っ青な状態で体を震わせている。彼女の震える眼差しは、先程己が振りまいたネクタルの瓶の群に向けられている。

 

―――しまった……!

 

「あ、……、あ、あぁ……、あ、う……」

 

シンの容体を見るのを投げ出した彼女は頭を抱えて地面に蹲った。かたかたと震える小さな体をさらに小さく丸める様は、まるで感じる悪意から身を守ろうと必死な幼子のようだ。

 

「――――――シ、シンさん、助からないんですか? ネク、ネク、ネ、ネクタルが足りないから? 私。私が、使い切ったから? 」

 

絞り出された声には気の毒なほどに悲痛と後悔が混ざっていた。その有様を見て、私はピエールと目線を交わすと、互いに苦い顔を浮かべて己らの不注意と迂闊さを呪った。

 

「わた、わ、わた、私がもっと上手、う、上手く、く、やって、や、やれれば……」

「それは違います、響さん。シンが今まだこうして生きているのは、貴方があの時適切な処置をしてくれたおかげです。あの即死にも等しい状態のシンを前に、ネクタルを使うという判断を下せたのは貴方だけです。むしろ熟練を自称しているにもかかわらず、あの場面で動けなかった私たちこそ、罪深いというべきでしょう。貴方は何も間違ってなどいないし、下手を打った訳でもありません。ただ……、そう、ただ、彼の運が悪かっただけなのです」

「う、うぅ、うぁ、うぇ、う、うぅぅーーー! 」

 

ピエールの慰めは響の心に聞こえる事なく、彼女は大きな声を上げて喚き始めた。静かな森の中、死にゆく定めにある彼の傷が塞がる無意味な音と彼女の大きな泣き声が響く。呼吸困難に陥りながらも続けられる嗚咽は、その場にいる全ての人間の感情を刺激するように、周囲に残響しては消えてゆく。悲鳴にも似た声を聞いて私は思わず彼女から目をそらした。

 

そして。

 

「ずいぶんと、―――っ、……うるさいな、は、ぁっ―――」

 

甲高い声は死の淵に瀕していたシンの意識を刺激したらしく、咳き込みながらもゆっくりと目を開けた。ようやく繋がった胸は酸素を求めて小刻みに上下に動かされている。

 

「シン! お前! 」

「シン! 」

 

ダリとサガが揃って名を呼ぶ。響は大きく泣くのを止めて、呼気を荒げながらも顔を上げて恐る恐ると言った体で彼の方を振り向いた。

 

「……っく、ひっ、ひっく、シ、シン、さん」

 

そして、シンの顔を見た響は体をゆっくりとシンの方を向きなおして膝で地面を擦りながら前進すると、彼のもとに近づいた。

 

「だ、だ、だ、大丈夫、だいじょ、大丈夫ですか」

 

響の言葉を聞くと、シンは剣を握って離さぬ左腕を動かしてみせて、そして肩と首元付近を動かして、止まった。彼は左腕を動かして自らの体をペタペタと撫でて見せると、乱暴に叩きながら、上半身の傷口より上の部分だけを身悶えさせた。

 

彼の顔は必死の形相で脂汗がにじみ出ている。彼は頭を一回りさせると大きく天を仰いだ。瞳を静かに閉じると、小さく息を吸って、弱々しくもらした息で天を突く。顔に覚悟と諦めの混じった表情が浮かんだ。

 

その所作で私は彼の体の状態を悟った。己の不甲斐なさが怒りとなり腹の中で蠢いた。憐憫に似た情が心中に湧き、目の前の悲惨を嘆いて目線を逸らしてしまいそうになったが、弱気の湧いた自分を叱咤するとともにあえて彼の体に視点を固定する。いかに望まぬ、希望が無いものでも、これは彼の出した結論が生んだ結果であり、私の選択した判断の結末だ。

 

一度きり、いや、前回の番人戦を勘定すればたった二度の戦闘を行っただけの短い付き合いではあるが、数度ほどの日常でのやる取りと合わせて、彼が後ろ暗い部分を持ちながらも、真っ直ぐな性質を併せ持つことは理解できている。そして彼は今、己の行いのその結果を確認し、そして受け入れた。

 

ならば、私も関わって生まれてしまったその結果を受け入れないのは、彼の行いに対する侮辱であると感じたのだ。

 

「ああ……うん、……いや、これは、ダメだな 」

 

彼の声はどこまでも冷静だった。そして冷徹な口調で横たわっている己の体にダメ出しをした。ピエールが目をそらした。ダリが唇を噛み、サガが親指を咥えて爪を齧る。響は彼の言葉をどう捉えたのか、呆然とした顔でシンの全身を上から下まで眺めていた。

 

「腹から下が動かん。胸から下は叩いても感触がない。目の前はぼやけて黒い。呼吸をするのも一苦労だ。右腕は肘から先が動かない。だが痛みはない。静かで、ひどく眠い。眠いんだ。―――、ああ、これが死、か」

 

彼はどこまでも透明で、なんの感情ものせず、ただ近い将来に起こるだろう淡々と事実を告げた。開かれた彼の目は、その黒い瞳孔がただただ虚空をさまよっているだけで、もうどこも見ていない。

 

「ば、か、をいうな! 」

「もう薬はないんだろう? 」

 

彼は静かに聞き返した。響がびくりと震えた。彼女の様をいかなる感覚で感じ取ったのか、シンは力なく笑うと、

 

「そら見ろ」

 

と言った。笑いはもう息が漏れているだけのものだった。ひと笑いごとに生命が抜けていくかのように、息が弱まっていく。サガが地面を叩いて憤慨した。

 

「今すぐ戻れば助かるに決まってるだろぉ! 」

「そのとおりだ! おい、糸! 」

 

ダリが荒く叫ぶ。だが道具を管理している響は全身を震わせながら泣きじゃくり、そしてしゃっくりを含めた呼吸を繰り返すばかりで彼の指示に従わない。未だに現実の咀嚼ができていないようだった。

 

ダリはイラつきを露わに舌打ちをして響を押けのけると、ひったくったバッグに手を突っ込み、そして漁り、糸を取り出した。ダリの押した反動により後ろから地面に倒れそうになった響をピエールが抱きとめる。

 

「やるぞ! 」

 

そうして糸先を摘み解こうとしたダリの手から、ピエールが糸をさっと取り上げた。

 

「何をする! 」

「やめておきなさい。どうせ助かりません」

「お前! シンが死んでもいいってのか! 」

「いいわけないでしょう! 」

 

ピエールは大きな、しかし掠れた声をあげた。その行動は彼の声帯を傷つけたようで、大きく咳き込んだ。楽師の命とも言える豊かな高音重低音を生み出す喉を傷ついてまでの叫び声は、その事をよく知るダリとサガの行動を止める効果を持っていた。

 

「……、いいわけ、ないでしょう」

 

ピエールは掠れる声で小さく漏らし、そして喉を痛めたのか、激しく咳き込んだ。ピエールは片手で口を抑えながら唾液が飛散する防ぐ。ダリとサガは吟遊詩人がその喉を痛めてまで吠えるその所作を見て、ピエールは自分たちに知らない何かを知っているからこそ、糸を取り上げる強行を取ったのだと事情を悟ったようだった。

 

「――――――、この状態で糸を使うと、シンはエトリアに戻った途端、全身に穴が開いて失血死するかか、あるいはそれ以前に、五体が迷宮と転移室にバラバラに撒かれることとなるかもしれません。今すぐ彼にトドメを刺したいと言うのでしたら、どうぞおやりになってください」

 

ピエールはシンを一瞥して少し躊躇っていたが、短い間瞼を閉じて意を決っしたらしく、掠れたしかしはっきりと通る声でシンの死を告げる。サガとダリは狼狽えて視線を泳がせた。

 

「―――本人を前にはっきり言ってくれるな、ピエール」

「ええ。小賢しいのと回りくどいのは、貴方、お嫌いでしょう? 」

「そうだな。助かるよ。残り少ない時間を無駄に使わなくてすむ」

 

シンは言うと、視線の先を天井に移した。

 

「いや、しかし相討ちか。途中までは良かったんだが、最後で油断してしまった。……いやしかし、エミヤという男の片腕を損傷せしめる相手と引き分けに持ち込めたと考えれば、戦果としては悪くないか」

 

シンは左腕に固く握られた剣を持ち上げて眼前に持ってくると、刀身を眺めながらしみじみと言った。唇から漏れた彼の呼気で刀身が曇る。持ち上げられている剣の刀身、その反り返った部分から剣に付着していた血液が集結して雫となり、彼の顔に落ちた。

 

一滴の雫は彼の瞼に落ちて端から端正な顔立ちを伝い地面へと紅涙のごとく流れるが、彼は一切の反応を見せなかった。ああ、もう触覚すらも失せてしまっている。仲間の男性陣も私と同様に死期が近い事を感じ取ったらしく、目を伏せて、あるいは目線を逸らさず、静かに彼の言葉に傾聴の姿勢を正す。場にいる全ての人物の挙措が全て彼に支配されていた。

 

「うん、なるほど。そう考えると、まぁ、最期の相手として不足はなかったが……、しかしヘイの用意してくれたこの剣と、今作ってくれているもう一本を伝説の三竜に叩き込めなかった事は残念だ。倒せるかどうかは別として、せめて一閃がどこまで通じるかどうかくらいは試してみたかった。……、ああそうだ」

 

シンはくるりと剣を回して刃先を地面向けると、ぐさりと刀身を突き立てた。仲間に対して、何より、剣に対してあまりに遠慮がない。もうそれが限界なのだろう。刀身に付着していた血と脂が飛び散り、近くにいた仲間達の服と、彼の一番近くで両手をついていた響の顔を汚した。刺激に驚いてか、彼女は背を軽く浮き上がらせて、ひっ、と声を漏らす。

 

「響。いるか」

「――――――、え、は、はい!! ここに!! 」

 

声をかけられた響は顔の血を拭うと、周囲に残響するほどの大声で反応して見せた。やかましいくらいの大声はだが、今の五感が失せつつあるシンにとっては丁度良い位の声量だったのか、微笑を浮かべて静かに続ける。

 

「君はこのメンバーの中で一番剣の才能がある、と私は思っている。だから、もしよければこれと上のを使ってやってくれないだろうか」

 

彼は突き立てた剣の腹を拳で叩いて、刀身を軽く打ち鳴らす。金属の撓んだ音が響いた。

 

「あ、え」

 

申し出に困惑した様子の響。意味ある言葉を返せずにいると、シンは優しく続けた。

 

「無理にとは言わない。邪魔だったら売り払ってもらって構わない。ただ、まあ、できるなら、この先迷宮でやっていくというなら、受け取ってもらえないだろうか。私とサガとダリと、君のご両親で集めた素材を鍛えて作り上げてもらった剣だ。きっと君の役に立つ」

 

そこまで言って彼は大きく咳き込んだ。体内に残された血液量では十分量の酸素を循環させることが出来ていないからだろう、力なく胸を上下させて必死に呼吸をするシンの顔は死人のように白い。しかし彼はまだ果てるわけにはいかないと、必死に耐えている。彼は響の返事を待って耐えている。

 

「――――――」

 

その台詞は卑怯だ、と他人事ながらも思った。言葉は地面に突き立てた刃の代わりと言わんばかりに、彼女の心に突き立ったようだった。彼女は幽鬼のようなシンとは対照的な赤ら顔を動かして、彼の横にしっかりと身を立てている刀剣へと視線を移す。

 

刀身は柄から刀身にかけての表面が赤い血液で濡れそぼり、重力に従って地面へと向かっている。あの血液全てが貪婪に地面へと吸収されるよりも早く、シンの命は消えて無くなるだろう。血液の砂時計が刻限を告げるのを否定するかのごとく、響は立ち上がり、両手で刀身の柄を握ると、地面より引き抜いて泣き叫ぶように宣言した。

 

「はい! 」

 

 

威勢のいい返答は薄れつつあった意識の中にも明朗に聞こえてきた。声は夕霧の中へと隠れつつあったぼんやりとした意識を痛みに満ちた此岸へと引き戻してくれる。瞼を開けると、薄暗くぼやけた視界に柄を両の手で逆手に握った姿勢で固まっている響の姿が映った。

 

その姿はまるで、死にかけた私を楽にしてくれる執行人のように見えて、私の笑いを誘ってくれた。その震えた状態ではまともな死刑執行は行えまい。

 

「響、刃を人に向けるのは良くない」

 

口からそんな言葉が漏れた。かつてサガに言われた言葉を言うと、バカヤロウ、とサガの小さな声が聞こえた。かつてその対象であった響は慌てて柄を握りなおして刃先を天へと向け、両手でぎゅっと絵を握って剣を天高く掲げた。ああ、いやそうではなくて。

 

「構えるなら八相か正眼に。迷宮での乱戦なら八相の方を基本にした方が良かろう。右足を引いて、刀を右に振りかぶって」

「え、あ、はい」

 

足が地面を引きずる音が聞こえた。響の足が生じさせた音は、彼女が腕と胴を動かした際に生じた空気の揺らぎと合わさって、赤と黒に霞む視界の先に剣を構える彼女の姿を幻視させてくれた。

 

「ああ、力を入れすぎた。左足はもうすこし前に。肩口をしっかりと締めて左の肩当で攻撃を受け止めるイメージを……ああ、そうだ、いいぞ、さすがだ」

 

多少の口出しで彼女は見事な構えをとって見せる。自然体、には程遠いが、最初に剣を握ったにしてはなかなか様になっている。ああ、やはり私の目に狂いはなかった。彼女こそ私の剣を有効活用してくれるに違いない。

 

安堵は全身に広がりつつある痛みを和らげて、瞼が落ちてゆく。視界が徐々に狭まってゆく。だが、懸念が湧いた。彼女は素晴らしい才をもつかもしれないが、私がいなければ師となる人物がいなくなってしまう。サガもピエールもダリもダメ……ああ、そうか。彼がいた。

 

澌尽し霧散しかけていた意識が、少しだけ役目を思い出したかのように脳みそを動かしてくれる。最後のひと踏ん張りだ。このままでは瞑目することができなくなる。

 

「―――、エミヤ。一つ、頼まれてくれないか」

 

彼は多分、少し驚いたのだろう、私の言葉に少し遅れて反応した。

 

「なんだ」

「彼女を頼む。剣の才能があるんだ。指導して欲しいとは言わない。ただ、使えるようになるまで見守ってやってくれないか」

 

彼が息を呑んだのがわかった。突然すぎる不躾な願いに戸惑ったのか、うんともすんとも帰ってこない。ああ、でも、この頼みだけは、聞いて欲しい。遠くへ旅立とうと急かす意識を宥めて返事を待つ。あと少し。あと少ししたら行くから待っていてくれ。これで本当に最後だから―――

 

「了解した。最後の依頼、承ろう」

「―――ああ、安心した」

 

また彼の息を呑むのがわかる。いつもより過敏な感じがしたが、一体なんだというのか。靴が地面を引っ掻く音まで聞こえた。

 

―――ああ、なんだ、何に反応したというのか。……まぁ、いいか。今更…………、知ったところで…………、む、い、み……――――――

 

旅立ちを急かしていた意識がついに待ちきれなくなって、彼岸へ向けて走り出す。制御はもはや不可能だった。駆け出した意識に手を引きずられて白い霞の中に飛び込むと、かつての旅路の光景が走り去ってゆく。

 

彼に憧れ、彼らと出会い、彼らと共に歩んだ刺激と苦節の道は、彼と彼女との別れという忸怩と苦難と挫折へと続き、やがて縁による出会いは三か月の期間における満足と誉の旅路へと自らを導いた。生涯からすればたった三か月に満たないだろう、この期間を生きられただけでも、悔いはない。

 

「サガ、ピエール、ダリ、エミヤ」

「―――――――――」

「――――――」

「―――、―――――――――、―――」

 

呼ばれた三人は三様に反応したのだろう。一人だけ無言なのがなんとも彼らしいと思った。だがもう言葉を捉えることはできなかった。ただ、込められた言葉から熱を感じることだけはできた。暖かい。ああ、この暖かさに包まれて逝けるのならば、冒険者の死に様としては上等すぎる。

 

命の燃料が尽きてゆく。だから、しかし、こんな身勝手な私を受け入れ続けてくれた仲間たちに対して最後に万感の想いを込めて言う。

 

「あ、……………と……」

 

最後の言葉は紡げなかった。ただそれだけが残念だと思った。霞を抜けた先は、冥とした澹蕩の闇だった。導かれるままに闇に身をまかせると、どこまでも暗く深く静かなところへと落ちてゆく。光なく、音なく、匂いなく、刺激なく。

 

―――ああ

 

 

「――――――」

 

闇の中、誰かの声が聞こえた気がした。聞き覚えのない声であるのは、感覚が機能を放棄しているためだろう。最後、冥漠の闇を貫いてまで聞こえたのは誰の声なのだろうと思いながら、返事くらいしてもいいかと考えた私は、ああ、とだけ返して、とうとう意識を手放した。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第九話 迷宮に響くは、戦士への鎮魂曲

 

 




ようやくターニングポイント。複数人入り混じる戦闘部分は描写と状況把握が困難だったので、正直自分でも矛盾を見落としている可能性が高いので、八、九話はそのうち書き直すかもしれません。前回の宣言通り、次回からは少しお時間いただきたいと思います。

長い部分をご一読くださり、本当にありがとうございました。戦闘の流れや描写で変だな、と思う点がありましたら、どうぞご教授下さればと思います。よろしくお願いします。


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第十話 悲しみは留められなくて

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十話 悲しみは留められなくて

 

とても悲しいんです、明日も泣かせてください。

どうか、この気持ちを奪わないで。

 

 

幼い頃から、小さい身体のせいで人より体力がなかった。人一倍頑張って人並みなんてことはざらだった。ただ、別にそのことを責めるやつがいなかった。誰もが優しく、仕方のないことだと俺を笑って許してくれていた。その優しさが「お前になんて期待していない」っていう宣言に聞こえて、いつだって俺は腹を立てていた。みんなが優しいから次の日には忘れるくらいのどうしょうもないものだったけれど、たしかにあれは怒りという感情だった。

 

期待されないっていうのは、案外辛い。立派な目標を掲げて、達成できなくっても、返ってくるのが許容の言葉ばかりだと、気が狂いそうになるくらい悔しかった。お前には出来なくて当然だ、っていう言葉に聞こえるんだ。ただ、それを素直に述べると、あの優しい人たちを傷つけてしまうだろうな、と思える程度には、空気の読める人間でもあった。

 

だから何も言わない。言わないで躍起になって、もっと高い目標を立てて、そして当然のごとく失敗する。そうしてまた慰められて、腹をたてて、そして次の日にはそれを忘れる。いつしか俺は、高い目標を掲げては未達成に終わるのが当たり前になっていた。熱し易く冷め易い。気がつくと俺は、自分が一番信用できない人間になっていた。

 

それがとてつもなく嫌だった。自分を信用出来ない自分も、そんな自分を受け入れてくれる環境も、とにかく全てが嫌だった。優しさに溺れて腐ってゆく。漫然とした日々の中で、ある日ふと思った。このままここにいたらダメになる。とにかく、もう後のないような所で発奮しないといけない、と思った。だから冒険者を選んだ。

 

冒険者ってのは、一歩間違えば命を落とす危険な職業だってのはわかってた。だから、選んだ。人一倍頑張って、ダメならそこでバサッと、諦めさせてくれる存在がいる。そう、言ってしまえば、俺が冒険者になるっていうのは、遠回しな自殺を選んだだけだった。

 

登録をした後、三竜の素材が欲しいなんて口にしたのに理由なんてない。ただ、三竜なんて言葉が出てきたのは、まぁ、それくらい言っておけば、迷惑かけても問題ない仲間と組ませてもらえると思ったのと、直前に有名なシリカ雑貨店で実物を見たからだろう。

 

そんとき、ゴリンは、ふぅん、と言って、興味なさそうだったから、ああ、失敗したな、くらいには思ったかな。そしたらあいつは、ちょっと待ってろと言って、ギルド長の部屋から出て言った。

 

その後だ。シンと出会ったのは。部屋を出ていったゴリンは割とすぐに戻ってきて、シンを連れてきて、「お前と同じく三竜討伐を口にしたバカだ」とか言ってたっけか。俺は、ああ、こいつも冗談に失敗した口か、と思って、まぁ、適当な言葉をかけてやろうとして、その隣にいたあいつの目を見て、結局何も言い出せなかった。

 

なんていうか、あいつはただまっすぐだった。難しい目標を当たり前のように掲げて、一心に曲げない。難しい事に挑むのが、当然って顔で、ただまっすぐこっちを見ていた。ゴリンの横に立っていたあいつはズカズカとやってきて、目をキラキラと輝かせて、言った。

 

「これからよろしく」

 

その、俺のことを同じ目的を持つ同士と信じてやまない目を曇らせるのが怖くって、断ろうなんて気になんてなれなかった。今でもそのことは間違いじゃなかったと信じている。多分その時からずっとサガという人間は、シンという男のまっすぐなあり方に惚れていた。

 

 

「あ、……………と…」

 

言いきらず、シンが目をつぶった。その顔は安らかで、まるで。いや。間違いなく。

 

「―――おい、おい。嘘だよな? 」

 

死んでいた。体を揺さぶるもなんの反応も返ってこない。こいつがタチの悪い冗談をつけるような人間でないことは、俺がこの場にいる誰より知っている。だって、俺はこいつとエトリアで初めて出会った相棒なのだ。

 

「おい、おい、おい! 」

 

体を大きく揺すった。首が上下左右に大きく揺れる。その動きに意思は感じられない。瞑目した瞳を思いきり開く。瞳孔が拡散していて、光が入ったというのに一切の反射が見られない。その様に腹が立って胸を叩いた。拳の先から伝わって来るのは、解体した動物の生肉を叩いた時のような、命の失せた肉独特の、柔らかく、抵抗のない、気持ちの悪い感覚。

 

だがまだ暖かい。それだけは救いだった。この拳から伝わってくる感触が、彼の命がまだそこにあるような感覚を肌身より与えてくれる。この薄くしっかりとした胸板を撫でてやれば、生き返るのではないかと思い、拳を開いてシンの胸に手をあてて、そして絶望する。

 

心臓が動いていない。こんな現実あってたまるものか、と、砕けそうなほどに奥歯を強く噛み締めて、胸に拳を振り上げて思い切り力を込めた。掌に爪が食い込む。肩から先が落ち着きを忘れたかのように激しくぶれている。

 

「―――っああ……っ!! 」

 

そしてそのまま真下に振り下ろして、地面に思いきり打ち付けた。血と泥が弾けてあたりにいる人間の服を汚す。鈍い衝撃と鋭い痛みが同時にはしった。持ち上げると指の背の皮が砂つぶとの接触に耐えきれずいくつもの擦過傷が出来ている。

 

痛みが余計に昂ぶった感情を苛立たせて、俺は思いきり地面を殴りつけた。汚泥が舞うがそんなことは知った事でない。次から次へと湧き上がる持って行き場のわからない感情を発散してやるべく、駄々をこねる幼子のように連続して地面を殴打する。

 

「――――――っ、ぁ、あっ…! あっ! ああっ……! ああああああああ……!! 」

 

わからない。なぜシンが死んでいる。死んでなどいるものか。いや、死んでいるとも。嘘だ、デタラメだ。そんな事は信じない。信じなくとも真実だ。なんなら鬱憤のぶつける先を奴の体としてやるがいい。死んでいないのなら存外その一撃で起きるかもしれないぞ。そんなことできるものか。必死で戦って俺らを守って逝った男の遺骸だぞ。そんな尊厳を貶すようなことできるわけないだろう!

 

―――ああ、なんだ。お前、認めているじゃぁないか。

―――何をだ!

―――その男が死んでいるということをだよ

 

「…………っ! 」

 

理性は現実を指摘する。感情は必死に現実を否定する。しかし今、感情は理性に矛盾を指摘され、目を逸らしていた事実に直面させられた。振り上げた拳が止まる。指の皮はズル剥けて血と泥に塗れている。息が苦しい。胸が圧迫され、肺は空気を求めて必死で呼吸を試みるが、肝心の命令が筋肉に届いていない。

 

脳は痛みを訴えて拳の治療を命令する。脳は呼吸の再開を命令する。本能は冷静に、目の前の現実を受け入れて、自らが生きるための活動を行えと、命令を出す。その冷徹さが気に食わなかった。目の前で親友が死んでいるというのに、己のことを優先にするその根性が癇に障った。

 

「―――っくしょぉおおおお……!! 」

 

最後に思いきり振りかぶった拳を地面に振りおろすと、肺の中の空気を吐ききった。拳の勢い泥の摩擦の少なさに負けて、体が地面に向かって傾く。そこまでだった。頭がかっと燃えるような熱さを帯びたかと思うと、視界がぼやけて黒く染まる。

 

消え失せてゆく視界が最後に捉えたのは、シンの力の入っていない両腕が出鱈目に投げ出された姿を見かねたピエールが、彼の腕を組み直し、瞼を閉じた状態へと整える場面。

 

―――シン。俺が悪かったよ。手荒にしちまってごめんな。ピエールも、ありがとうな。

 

そんなことを考えた瞬間、頬が冷たさと生温さを感じ、意識は闇に消えていった。

 

 

シンは本当に純粋だった。三竜討伐を目指して、本当にまっすぐだった。あいつにはいうだけの才能もあった。あいつは出来ると思うと突っ込むタイプで、本当にやってのけるタイプだった。ただその分、俺らに求める目標も高くって、ダメだと思うと割と素直にダメというやつだった。

 

自分でもダメだと思ったところをダメだと指摘するやつは初めてだった。俺はその今まで誰も向けてくれなかった言葉が嬉しくて発奮した。自分をきちんと見てくれるやつだと思った。才能が無いなりに、必死で食らいついていこうと頑張っている時が一番幸せだった。

 

唯一シンの欠点は、人の気持ちに疎いところだった。それを指摘してやれるのがちょっとばかり優越感を感じる出来事だった。そうして空気の読めない発言をするあいつをやり込めるのは、すごく気分が良くなれた。あいつがそうしてそうだったのか、というって頭を下げてくれるのが、内心、すごく嬉しかった。

 

ああ、ごめんな、シン。俺がこんなんだから、お前を死なせちまった。才能ないのに、冒険者なんてやってから、お前に迷惑かけちまった。ごめんな。悪かったよ。お願いだから戻ってきてくれ。シン。

 

頼むよ。

 

頼む。

 

シン。

 

 

出会った時は気づきませんでした。シンは特別でした。あれは、天才という部類の人間です。強すぎて、並び立つものがいない人間でした。誰も彼を追いかけない。そんな彼に追いつこうと必死だったのが、唯一サガでした。

 

サガが必死で食らいつく。それでも追いつけなく、でもサガは己のダメな部分をはっきりと指摘するシンの横にいて、不貞腐れたように文句を返していましたが、それでもサガは嬉しそうにその隣に並び立とうと努力していました。才能という点でも、性格という点でも、彼らはいい凸凹コンビでした。

 

シンとダリは決定的に反りが合いませんでした。シンが無茶を邁進しようて、ダリがそれを首根っこ掴んででも止めようと立ち塞がる。ブシドーとパラディンという職業面で言えば、互いの能力が恐ろしく噛み合う二人は、性格面ではまさに水と油という程でした。

 

ただ、彼らは二人とも互いのことを認めていました。ダリはシンの能力についていける稀有な能力を持つ人間だったのです。彼は才能を補う経験を持っていました。ダリとシンは互いのやり方を嫌いながらも認め合い、いざとなればその相手のやり方にぴったりと息を合わせることのできる、矛盾を形にしたかのような関係でした。

 

シンが鬱屈としたものを抱えているとわかったのは、響という少女を連れてきた後、エミヤという男が一層を攻略した時のことです。彼は、その時からかつて出会った頃の彼に戻り出しました。二年という長い時間が彼のことを変化させていたのだ、ということに、私はその時初めて気がつきました。

 

彼は自分より先に迷宮を攻略されたのに嬉しそうでした。目的が遠のいたのに嬉しそうでした。自分より上位の存在の出現に瞳を輝かせていました。そのとき瞳は、初めて迷宮に潜る際、彼が見せたもので、なんとも純粋な色をしていました。私は初めて、彼がずっと孤独を抱えていた人間だということに気がついたのです。

 

あとは記憶から彼の言動を思い返すだけで、私は彼の抱える闇は簡単に気がつきました。彼という純粋に見える人間にも、別の顔があるのだな、と思うと、そんな秘密を私だけが知っているということが、さらに私の胸を高鳴らせました。その時、私は改めて、私はシンという男を好きなのだな、と思わされたのです。

 

 

赤く燃えた様な樹木が鬱蒼と地面に波濤を作る中、静寂な空間を引き裂いて、サガの咆哮が響いています。大小安定しない音には、返せ、シンを返せと痛切に叫ぶサガの心中に響く無言の叫びが。乱れた音階には情の様々が現れていて、なんとも悲しい鎮魂曲を奏でていました。

 

サガの悲痛な号泣の様子は私を冷静にさせました。サガがシンの体を揺らし、死を認識したのち、喚いて叫んで地面を殴って繰り返しています。咆哮と号泣より伝わる悲嘆に共感するのが辛くて、目を逸らすと、シンの体が悲惨な状態になっていることに気がつきました。

 

白くなった体は、両の瞼が開いているとも閉じているとも取れない状態で、両腕はそれぞれあらぬ方を向いています。その壊れた人形のような様はいかにも命の喪失を想起させ、不憫をと思いました。だから、せめて全力で生き抜いた男の死に様としてふさわしい様に戻してやろうと考えたのです。

 

シンの尊厳を守る。それを目的として、私は泣きじゃくるサガと両手に持った剣を地面に向けて呆然としている響の間を通り抜けて彼に近寄りました。彼の骸の頭部部分へ回り込むと、楽器を地面に敷いた布の上に下ろし、その頭部に触れ、そして肩を持って持ち上げ、正しました。

 

力の入っていない人間の上半身は、それなりに重いものでした。斜めに傾いていた彼の体を直線に整えてやると、乱れた髪を整えて、中途半端に開いた瞼をきちんと閉じてやり、あらぬ方向に曲がっている腕と指先を取ると、胸の上で指を絡ませ、両手を組ませてやりました。

 

ようやく彼はきちんと尊厳を持った体裁を取り戻します。顔をじっと見ていると、今にも起き上がってきそうな笑顔を浮かべる彼は、しかしやはり物言わぬ骸のまま横たわっています。ああ、死んでいる。そこで私はようやく、シンが死んだのだという実感を得ました。

 

彼の死を悼んで、彼の生き様を振り返って、思わず涙を流しました。彼の目標に向かってまっすぐと進む姿は、私にとって頼れる指針そのものでした。彼と一緒にいれば、まだ見ぬ世界を見ることができる。彼は私に最高の刺激を与えてくれる、無二の親友でした。

 

サガとの凸凹っぷりも、マギとアムにだけは頭の上がらない様子の彼も、ダリとの反りの合わなさも、響という少女とのドタバタも、エミヤという男に憧れる彼も、その全てが、かけがえのない、日々でした。

 

――――――だ、だから、わ、わたしは、こ、こ、こんな、こんな。

 

「こ、こんな、……っ、ところで、まだ、っ……ひっ……う、もく、もく、も、もくてきの、あ、さ、さんりゅうもたおしてないのに、ま、ま、まんぞくげに、いく、なんて……っあ」

 

 

帽子を伏せて、顔を隠します。痛んだ声帯はそれでも彼の死を悼んで、掠れた声を絞り出しまて、嗚咽が止まりません。滔々と溢れる涙はとめどなく頬を伝って彼の顔元に垂れました。水滴が彼の顔に落ちると、彼の汚れた顔を伝い涙は流れて行きました。

 

どうか今一度と立ち上がってその無礼を怒ってくれと祈っても、蘇るのはシンと迷宮を旅した日々の追憶ばかりで、彼は横たわったままピクリともしません。しかして悲嘆に染まる脳裏に浮かぶ記憶の中では、彼は誰よりも早く戦場を自在に駆け回って敵を斬り伏せ、そして、いつもの様に不遜に笑って見せるのです。それが一段と追憶を色付けて、胸に痛みを呼び起こすのです。

 

記憶と痛みに顔を隠していた帽子を浮き上がらせると、彼の死に顔が目に移りました。閉じたその瞳の奥にあった純粋さと潔癖な部分が生む、真っ直ぐな視線。自分が下手を打っても当然別のメンバーが尻拭いをしてくれると信じてやまない感性は、性格も性質もバラバラな私たちを強く結びつける硬い絆の象徴でした。

 

移ろいゆく世の中でも不変を貫こうとする強さを彼は持っていました。このままいつまでも、変わらぬ彼の側で活躍を見続けることができるのなら、それはなんて幸せな日々なのだろうと懸想していました。

 

しかし、今、もう、彼はいなくなりました。強かった彼は地面に臥してしまい、真の意味で永遠に変わらぬ存在になりました。零れ落ちた精神は天に帰りました。やがて肉体も地に帰るのでしょう。見上げると、あたりを照らす光量が徐々に減り、夜の闇が到来しつつあることに気がつきました。

 

世界はシンがいようといまいと変わらず時を進めて、空の色を刻々と変化させてゆきます。そろそろ太陽と月が役目を交代する時刻です。私は太陽のことは嫌いでないですが、全ての影を白日のもとにさらけ出してしまう太陽の光が好きではありません。

 

変化の中で不変であろうとする存在は好きですが、真に不変なものは嫌いなのです。

 

煌煌と輝く強い光は、いつも完成したパズルの様な完璧さを見せ付けます。雲があろうと、地面を端から端まで照らすことを可能とする太陽の光の強さはかわることはありません。永遠に変わらぬという存在であるという不遜さが、私は気に食わないのです。

 

対して月とその光、そして、太陽と月の二人が主役として舞台に上がる、この茜色のあやふやな瞬間を好んでいます。不変の存在であるはずの太陽の光がしかし、力を使い果たして舞台を月の光に明け渡します。

 

月の光は頼りなく、雲がその姿を遮った途端、地面は闇の中に消えてしまいます。その、なんとも頼りなく弱々しいけれど、しかし姿を表した瞬間、意地でもはるかのように天と地を明るく照らしてやろうと儚く光る強情さが、素晴らしいと思うのです。

 

例えて言うなれば、シンは月で、シンの足跡は月の光でした。私たちは彼の照らす光に従って歩く旅人だったのです。彼の放つ光は弱々しくともすれば見失ってしまいそうな程のものでした。

 

しかし、だからこそ、旅人である私たちも積極的に光を見失わないよう努力をし、そして彼と私たちは彼の照らす仄かに明るい未来の地図を辿ることで、迷宮という暗闇を踏破して来れたのです。彼と私たちの間には、確かな協力関係がありました。

 

しかしそこに、エミヤという太陽が現れました。太陽が光で全ての場所を露わにするように、彼はその確かな実力を持って、単独にて新迷宮へ挑み、番人を倒し、地図を作りあげました。そう、いわば彼は完成した地図なのです。

 

その地図を見てしまったが最後、もうそれ以外の答えは得られないと周囲の人間を納得させてしまう完璧で絶対的なものでした。それほどまでに彼の実力は隔絶しており、出した結果は非の打ち所がない理想的な功績でした。

 

実力と功績に遠く及ばぬなら諦めてしまうのが凡人の性分ですが、しかし我々の中でも飛び抜けて高い才能と実力を持っていたシンという月は、強情っぱりの彼は、己もその高みに登りたいと望みました。だからこそ、番人討伐の共同戦線をあれほど拒んだのでしょう。

 

シンはエミヤという男に憧れていました。エミヤという男が、どんな実力で、どんな戦い方で、どのようにしたら単独で迷宮に潜ろうと考えられるのかを知りたがっていました。単独での迷宮攻略を試みて結果を出しただけの彼に罪はありません。弱かった私たちに、彼がいなければ先の番人戦でただ無残に殺されていただろう私たちに、文句を言うことなどできません。

 

ありませんし、できませんが、それでも、それでも、なぜは彼はそこまで強く、私たちが五人がかり倒せる番人を一人で倒せる実力がありながら、それでも、なぜ、シンを助けてくれなかったのかと思うのを止めることはできませんでした。

 

八つ当たりでしかない感情の名前は、理不尽極まりない身勝手な憤怒。エミヤという恩人に対してそのような感情を抱くなど、彼に憧れたシンが誰よりも望まないことはわかっていながら、しかし、私は輝かしい功績と高い実力を持つ彼に醜い感情が溢れてきます。

 

醜い。あまりにも醜い。こんな刺激はいらない。だれか。こんな私に罰を与えてほしい。

 

ああ、シン。どうか、出来ることなら、もう一度起き上がって、この不甲斐ない私を殴り飛ばし、叱りつけてください。切に願ったところで、死人は蘇る事など無く、私はシンが永遠に失われてしまった事実に、涙と嗚咽をあげて哀悼を捧げ続けていました。

 

ああ、そうだ。この胸を裂く痛みが薄れて消えてしまう前に、せめて今回のシンの活躍を見た際に感じた想いに、歓喜の感情を乗せて、歌に残しておかないといけない。どれだけ胸を裂く痛みだろうと、このままだと明日にはこの悲しみは、色褪せて鮮やかさを失ってしまうのだから。

 

 

あの男が死んだ。私をこの道に引きずり込んだ男が死んだ。彼の三つに切り分けられた体が一つになり、息を吹き返したのを見てしまったためか、未だに彼が死んだという実感がない。いや、違う。死んだという確信はあるのに、その事実を淡々と受け止められてしまっている。

 

うつ伏せに倒れこんだサガを仰向けにしてやると、シンの遺骸の前に進み、手を合わせて冥福を祈る。祈りをすませて立ち上がると、他のメンバーの様子を見て立ち上がる。普段は飄々としているピエールも流石に仲間の死は堪えたようで未だに嗚咽が続いており、響は口を開いて呆然としたままだ。気持ちを整理する時間も必要だろうと、目線を切って立ち上がる。そうして槍盾を構えて両の足で大地にしっかりたつと、周囲を警戒する。その挙動を取った時、己があまりに冷徹な対処を取っている事に驚いた。

 

悲しいのは悲しいのだが、彼らほど過剰な反応を見せられるほど、気持ちが湧き上がってこない。ああ、死んでしまったか、と残念に思い、悲しいと思うだけ。死んでしまったものは戻らない。そう思ってしまう自分がいる。そう理解して、取り乱すのをやめた自分がいる。

 

私はサガやピエールの様に外聞も何も捨てて泣き喚き取り乱す程、響の様に、呆然と思考停止の状態で固まる程、彼の事を親しく思っていなかったという事なのだろうか。そう考えると胸が痛い。

 

去来したのはのは疎外感だ、自分だけが彼らと違うという事実はたまらなく自分の裡を刺激した。ああ、私は自分の事はこんなにも哀れむ事ができるのに、人の死に対して何故こうも希薄にしか反応できないのだろうか。己を哀れと思う気持ちは自らを余計に惨めにする。

 

「君は冷静なのだな」

 

エミヤという男が尋ねてくる。そういえば、彼だけはシンの死に対して過剰な反応を見せていない。共に過ごした時間が短いためだろうか。もしや彼も他人に情を抱きにくい人間なのだろうか。

 

「そうだな。自分でも不思議なくらいだ。涙の一つでも出るかと思ったが、そんな事もない。悲しくないわけではないのだが、あそこまで大業に反応ができない」

 

己に対して情けないと思うたび、去来する胸を刺すような痛み。こんな風に自分ごとでしか悲しみの感情を生み出せない自分がなんとも惨めに思えて、泣きたい気持ちになる。その泣きたいと思うのすら、自分のためだと思うと、余計に惨めになる。

 

―――ああ、ほんと、なんという無様さだ。

 

「……なるほどな。……ダリとか言ったか。君、元々は別のギルドに所属していたか、あるいは冒険者でなく、医者とか、兵士とか、墓守とか、そういう職種だっただろう? 」

「……確かに私は以前エトリアの衛兵だったが、どうしてそう判断した? 」

「冷めている、というより、割り切れている風に見えたからだ。誰かが死ぬという事態に死に慣れているからこそ、親しいものが死んでも割り切った態度が自然と取れてしまう。多分、君は彼ら以上に人死に接してきたのだろう。人死には残念と思っているが、喚いたところで死人は蘇らない。このエトリアでその絶対的な理を腹に落とし込める事ができるほど、人の死に接する経験のがありそうな職業というと、私の知る限り、先の三つだったというわけだ」

 

死に慣れている。彼の言った言葉は私の胸の中へすんなりと落ち込む。なるほど、的確だ、と思った。確かに衛兵だった頃、私は自分の実力以上の場所に挑んで死した冒険者たちの遺体を何十人も回収して来た。初めて死体を見たのはもう何年前のことだったか……、あれは衛兵になり、半月ほど経った頃のことだったはず。

 

酷いものだった。仲間の遺骸を回収したいとの連絡を受けて減った人間の一時的な補填として同行した私は、やがて見つけたかつて仲間だったモノを前に泣き叫ぶ彼らの感情に引きずられるようにして、涙を流しながら嘔吐した。

 

迷宮の獣共に食い散らかされた彼らの亡骸があまりにも無残な残骸に成り果てていたからだ。そう、彼らの死を悼んで無様を晒したのではなく、晒された跡の凄惨さが齎す嫌悪感と己の目の前にある残酷な現実を否定したいとの恐怖によって大いに泣き、吐瀉したのだ。

 

―――ああ、なんだ。私は初めから、そうだったのか。

 

そうして初めは無様を晒した私は、任務を終えて帰ったのち、私の様子を見て心配してくれた先任の衛兵に「大丈夫。明日になれば、きっと、もう平気になってるさ」と優しく声をかけられた。その時は、何を言っているんだ、そんなことあるわけないだろう、と反感を抱いたものだったが、実際のところは、たしかにそう、その通りだった。

 

そう、あの時も、なぜだろう、と考えた。他人の結果より齎されたものとはいえ、自分の裡から湧いて出た己への憐憫という強い感情がたった一日で消えてくれる理由がどうしてもよくわからなかった。

 

言葉をくれた衛兵の彼に聞いても、彼は苦笑いして、「俺もそうだった。俺の前のやつも、同じ時期に衛兵になったやつもそうだった。そういうものなんだ」

と、答えるばかりで、はっきりとした答えは結局でなかった。

 

二度目、私は吐くのを堪えた。夜に怯えるのは止められなかった。三度目、私は泣くのも堪えられた。負の感情は夜寝る前には消えていた。四度目でからは平気になっていた。そうだ、私はそうして慣れていったのだ。

 

五度目からは細部を覚えていない。持ち帰った遺骸を前に泣き崩れる彼らの側でその様を見守ったのも、共に出向いて遺骸を回収しに言った時、迷宮の中で敵を呼び寄せるかの様に大声をだして泣き喚く彼らが魔物に襲われない様に見張っていた事もある。

 

ああ、なるほど、慣れか。確かに私は彼らより死に慣れている。慣れてきたのだ。エミヤという男の言葉は、胸の裡でもやもやとしていた霧の一部を晴らしてくれた。自責の念が少しばかり薄れる。すると現金なもので、余裕は疑問を呼んだ。

 

「何故私が最初は冒険者でなかったと見抜けたのだ? 」

「なに、彼らが知人の死にああも反応しているのに、君だけは冷静だったからな。一度結成したのなら解散をする事が滅多にないと言われるギルドの、その集団の人間が仲間の死に慣れていない反応をするものだらけの中、一人だけ割り切った反応を見せる男がいるのなら、それはそいつが元々は違うところに所属していたと考えるのが自然だろう? 」

 

私は頷いて返すと、そこで再びシンの遺骸に縋りつく仲間達の様子を眺めた。彼らは未だに現実を受け入れられずにいた。彼らの様を羨ましく思いながらも、私は周囲を見渡した。静けさを保っている森は変わらず葉から樹木に至るまで赤く染まっているが、その影が薄くなっている事に気付ける。樹木の間を縫って差し込む光の量が少なくなっているのだ

 

「エミヤ。そろそろ夜が近い」

「……その様だな。それで? 」

「夜になると迷宮はまた違った姿を見せる。魔物が活性化する事も少なくない。安全を考えるなら、そろそろ引くべきだろう」

 

彼はさもありなんという様に肩をすくめると、視線をシンらの方へと投げかけた。その顔は、わかったが彼らはどうするのだ、と問うている。私は少し戸惑い心中で覚悟を決めると、多少落ち着きを見せたピエールに話しかける。

 

「……ピエール。いいだろうか」

「……ええ。聞こえていました。……っく、戻るのでしょう? ええ、大丈夫です。……っく、今のシンなら、体がばらばらになる事もないでしょう。……っ、死んでいますからね……」

 

己の口から出た言葉に、ピエールが再び静かに涙を流した。私はきっとこれが普通の感性なのだろうなと考え、彼らの様に素直に悲しさを表現出来ない事を少し寂しく思った。そして結局、自己憐憫しか出来ていない自分の事を、やはり惨めだと強く感じる。

 

「そうだな。その通りだ」

 

己の疚しさを誤魔化すよう私は努めて冷静に言ってのけると、使う予定などまるでなかった人の大きさほどの柔らかい皮袋を取り出し骸となった彼を入れてやり、槍と盾を背中に回して自由になった両手でシンの遺体を抱きかかえた。力の入っていない彼の体は、その細身の外見に反して重く、しかし彼のかつての力強い言動からは考えられないほど軽かった。

 

「ピエールは響を頼む。エミヤ。悪いが、サガを頼めるだろうか」

「ええ、わかりました」

「了解した」

 

ピエールは地面に目線を固定させたまま呆然している響の頬を何度か叩くが、彼女はまるで反応を見せない。ピエールは彼女の腕を持ち上げると、自らの首に回し、無理やり立ち上がらせ、そして少し顔をしかめた。彼女がシンの剣を片手で固く握りしめたまま無反応で、己の体重を支える意思すら見せないので、予想以上に負荷がかかったからだろう。

 

エミヤは、仰向けで気絶しているサガを持ち上げると、肩に引っ掛けた。サガが身につけている籠手を回収すると、少し考え込み、そして上下が切り裂かれた番人の巨大な頭部に剣を突き立てて上下の顎が離れぬよう固定すると、それを持ったまま涼しげな様子でこちらに顔を向けて言う。

 

「番人を倒したと言う証は必要だろう? ……それで、戻ってどうする? 」

「まずはシンの遺体と気絶した彼らを施薬院に運ぶ。預けた後、発行される証書を持って、執政院でシンの死亡と番人討伐の報告と手続きを行う。エミヤ。悪いが、執政院まではご同行願いたい。番人討伐の報告には当人がいたほうがいい」

「了解だ」

「ピエール。糸を頼む」

「……はい」

 

ピエールは回収した響の鞄を漁るとアリアドネの糸を取り出して、その糸を解く。力が解き放たれ、効力が発揮される。飛ばされる寸前、抱きかかえたシンの遺骸をもう一度眺める。

彼の活躍を見る事はもうないのだな、と思うと、不思議と今まで気配も見せなかった感情が胸中に襲来して、涙が溢れた。

 

この感情は、この涙は彼と共に戦えなくなった自分を憐れむ身勝手がもたらすものなのか、真に彼の死の悲しみを押し殺していた事によるものなのか。

 

―――できれば後者であってほしい。

 

判断を下す間も無く、私たちの体は光の中に消えてゆく。

 

 

エトリアに戻った私とダリたちは、驚く転移所の衛兵に番人の頭部を預けると執政院までの運搬を頼み、シンの遺骸と動かない二人を施薬院に運びこんだ。

 

施薬院の人間は淡々と彼の遺骸を受け取ると、死亡証明書を発行し、ダリがそれを受け取る。そうして発行された証明書を持ってダリは受け取ると、ピエールにその場を任せて私とダリは執政院に向かった。

 

私たちが施薬院の扉を潜り表に出ると、賑やかだった広場は一転して不自然なまでの静けさに包まれた。音の代わりに痛いほどの多くの好奇の視線が私たちに注がれる。少しばかり怪訝に思ったが、己らの姿を顧みて納得した。大半が獣のものとはいえ、血と脂と異臭とに塗れた人間が突如として出現すれば、この様な反応の一つをされても仕方があるまい。

 

一歩を踏み出す。聴衆は黙って一歩引く。海を真っ二つにしたモーセがやった様に、一歩ごとに人波が割れてゆく。その様を無視して進む。嫌悪や畏怖で進む道が拓かれてゆく様は

かつての己の生涯を思い起こさせて、余計な感傷を抱かせた。無様だ。

 

無音の空間に石畳を叩く靴音と人の散してゆく音だけが響く。陽は落ちてすでに辺りは暗い。広場中央に設置された灯籠が私たちの影を町の外に向かって生み出していた。暗い道に生まれた影を追う様にして執政院に向かう。

 

そして執政院の前までやってくると、院の前で警護しているにいる衛兵と目があった。彼らは私たちを見て少しばかり目を背けようとしたが、思い直したかの様に頭を振ると真っ直ぐ正面より無言で敬礼をして構えた。

 

「番人の討伐、お疲れ様です。持ち帰られました証拠の品はすでに鑑定所の方に運び込まれております。どうぞ中へ」

「ありがとう」

 

横にやってきたダリが礼を述べると、兵士たちは再び姿勢を正して敬礼して見せた。その横を通り抜けて執政院の巨大な門を潜る。すると背後から重苦しく鈍い音が聞こえ、そして広場より入り込んできていた光が途絶え、一切の音が聞こえなくなる。門が閉められたのだ。

 

「珍しい事もあるものだ」

 

ダリがポツリと漏らした。

 

「何がだ」

「門だよ。昼夜問わず終始開かれているあれが閉じられるなんて滅多にない。雨風が余程強い時くらいだ。余程の事情がなければあの門は閉じられない」

「なら、そういう事なのだろうよ」

「ん? 」

「私たちの来訪が余程の事情であるのだろう」

 

彼は荒げた鼻息を一つ出して、納得の返事としたようだった。静かな暗がりの廊下を歩くと、すぐに受付までたどり着く。緊張の面持ちで私たちを出迎えてくれた受付の人間は上擦った声で「ようこそ」と言ってのけると、「どのようなご用件で」、と続けた。

 

「番人の討伐。それとギルドメンバーの死亡報告だ。担当者に話を通してもらいたい」

 

ダリの言葉に受付の青年は体をびくりと浮かせた。全身に緊張が走り、少し強張った様子を見せる。おっかなびっくりとしながら、青年は口ごもり、しかし、質問をした。

 

「あ、っと、その、死亡の? 」

「ああ。番人戦は討伐したが、一人死亡者が出た」

「……その、ご愁傷様です。……施薬院の方へは……」

「遺骸は既に運び込んだ。これが証明だ」

 

受付の青年はダリの差し出した書類を恭しく受け取ると、具に紙面の上から下までに目を通す。文字をなぞる指先が紙片の一番下まで到達した時、一度目を瞑り、小さく頷き、言う。

 

「はい、確かに受領いたしました。番人の討伐も含めまして、担当の者に伝えておきます。すぐにお会いになられますか? 」

 

受付の青年はダリと私を交互に見て、告げる。ダリがこちらを向いた。

 

「エミヤ、どうする? 」

「私はどちらでも、……とは言いたいが、いささか消耗が激しい。左腕を施薬院で見てもらいたいというのもある。後日に改めてということにしてもらえるとありがたいが」

「そうか、わかった。そうしてもらえると、こちらとしても助かる」

 

ダリは頷くと、受付の青年に言う。

 

「というわけだ。すまないが、後日改めて担当の方へ報告ということでお願いしたい」

「承知しました。日時はいつ頃ご都合よろしいでしょうか? 」

「……いや、すまない、それもわからない。施薬院に運び込んだ生き残りの仲間の事情がある。……そうだな、二、三日中に来るようにはする。すまないがそれでよろしいだろうか? 」「承知しました。そういたしましたら、この受付票をどうぞ。受付の者に渡せば話が通るようにしておきます。ご都合よろしい時においでください。あとこちらは、皆様が持ち帰った素材の受領証です。合わせてどうぞ」

 

青年は恭しく二つの書類を差し出してきた。ダリは受け取ると、礼を述べ、こちらを向く。

 

「さて、エミヤ。では施薬院に戻ろう。細かい話は向こうで」

「了解した」

 

返事をすると、彼は書類を胸元にしまいこみ、先んじて歩き出す。その足取りは仲間を失ったばかりとは思えないほどしっかりとしたものだった。

 

 

一同と別れた後、宿へと戻った私は、出迎えた女将に仰天されながらも着ていたものを剥ぎ取られ、風呂桶の中に叩き込まれた。張り替えられたばかりの汚れの浮いていない湯に、私の血と汗と疲労が溶け込んでゆく。湯に浸かりながら、今日ついたばかりの傷跡が一つとしてなくなった左腕を眺めた。

 

番人との戦闘の際、千切れた左腕でも違和感なく戦えていたのは、己の全身にかけていた強化の魔術と昂ぶった精神のおかげだったのだろう、番人戦において地面と唾液に塗れた傷口を多少洗浄した直後、無理やり接合した腕は、当然というか傷口に残留物が残っていた。

 

そして、迷宮から戻った直後、無理やり接合した私の腕は痛みによりその違和感を訴えていた。その悩みをまるごと取り除いてくれたのが、ケフト施薬院の医者だ。医者のスキルによる治療は、迷宮で千切れた部分の違和感を見事に無くしてくれていた。見事なものだと思う。

 

ただ、痛みもなく、腕の中から、皮膚と繊維と神経と血管の間をすり抜けるようにして、残っていた異物が体内より音もなく出てくる所は、まるで死体よりずるりと蛆が這い出てきたような悍ましさがあった。あの傷口を蛆が這い回る、マゴット治療のようなむず痒い感覚は、慣れられるものでないと今でも思う。

 

湯船より腕をあげて傷のあった場所をさする。無骨な腕の指先より垂れた滴が湯に落ちて、瞬間だけ水面に波紋を作り、すぐ消えた。雫の消える様を見て、施薬院で別れる際に交わした会話を思い出す。

 

「悪いが、明日、私たちのギルドハウスまでご足労願えないだろうか。今後のことについてみんなで話し合いたい」

「構わないが……、大丈夫か?」

 

狂乱の果てに気絶した一人と、治療が完了しても未だに放心状態の人間が、半日もしないうちに話し合いのできるまともな状態に戻れるとは思えなかったのだ。

 

「大丈夫だ。明日にはこいつらも、きちんとした状態で、ギルドハウスにいるよ」

「……、そうか。了解した」

 

だが、ダリはそう断言する。断言には確信に近いものがあった。言い切る彼の真剣みに押しきられて了承の返事を返すと、彼は頷いて、メモを取り出すと鉛筆でサラサラと記載し、こちらに差し出した。

 

「ありがとう。では、よろしく頼む。道はこれに記しておいた」

「では、私もこれで」

 

一言も発しなかったピエールは、一人先にどこかへと消えていった。ダリは彼とは別の方向へと歩を進め、気絶した一人を背負い、放心状態の一人の手を引いて、夜の闇に消えてゆく。

 

彼らは一体どうするつもりなのだろうか。――――――、やめた。

 

どうせ考えたところで解決しないのだ。こういう時はさっさと寝るに限る。大きくため息を吐いて、湯船より立ち上がる。ざぁ、と自らの体から流れ落ちた余分が湯に混じって流れ、排水口に吸い込まれていく。

 

風呂場に用意されていたローブをありがたく借りて、インに礼を述べ、明日の朝、寝ていたら起こしてほしいと伝えて部屋に戻る。インは何かを察していたようで、何も言ってこない。それがとても有り難い気遣いだと思った。疲れた体をベッドに放り出して瞼を閉じる。意識を手放すことは、宵闇の中、ありもしない答えを求めて彷徨うよりもずっと容易だった。

 

 

ベッドに乱暴に投げ込まれる。ベッドのバネが体を空中に押し返して、数度、跳ねた。押し上げられた部分と、硬さが残る寝床とに挟まれた皮膚が痛みを訴えるが、血と汗で汚れた体はそれでも動いてくれなかった。ずっと。ずっとだ。意識はあの時からずっとあったけれど、心がどうしてもあの場、あの瞬間と、あの場所から離れてくれていない。

 

ダリは同じようにしてベッドにサガを投げ込む。ベッドは私の時と同じように跳ねて、気絶しているサガを受け入れた。ダリは長く重い息を吐きだすと、誰にいうわけでもなく、言う。

 

「明朝、鐘がなっても起きてこない場合、昼前には起こしにくる。昼以降、エミヤが来たら、今回の配分と、今後のことを話し合う。話は彼との共同戦線についてが主題になるだろう。今後、迷宮を潜る際にはシンに変わって、彼を主軸において進むことになるだろうからな」

 

指先がピクリと反応を見せた。今までまるで動こうともしなかった頭と体は急速に血の気を巡らせて、体に熱が戻って来る。跳ねるようにして起き上がった。私とサガの横に私たちの装備を置いていたダリが驚く様子が目に入る。だが今はそんなこと、どうでもいい。ああ。

 

「ダリさん。今、なんていいました? 」

 

口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷たかった。ダリは少し気圧された感じ後ろに一歩下がったけれど、しっかりと姿勢を正して顎に手を当てて考え込み、言う。

 

「明日、昼、エミヤが来る。それまでに起きてこなかったら、起こしにくる。議題は今回の探索の報酬の配分と共同戦線についての二つ。後者が主になるだろう。今後はシンの代わりに彼がメインのアタッカーになるだろうから……」

「シンさんの! 」

 

おそらくは整理してくれたのだろう話の内容を遮って、叫んだ。気遣いを発揮してくれるのはいいが、ダリというこの男は、サガのいう通り、やはり人と少しずれているところがある。

 

「シンさんの代わりなんて、いません……。いないんです……っ! 」

 

それだけいうと、止まっていた時がようやく全て動き出した。涙が溢れて、抑えきれなかった声が漏れる。しゃっくりが止まらない。ただ泣き続けた。街はもう眠る時間だということも気にせず、ただただ泣きじゃくった。シーツを握りしめて、握りしめたシーツが破けそうなくらい張り詰めさせて、わけもわからず頭から被って、くるまった。

 

「――――、――――、――、―――――、――――、――――」

 

口元を布団に押し付けて大声を上げる。布に吸収された泣き声は拡散され、変換され、消えてゆく。消えた。そうだ。シンは死んでしまったのだ。あの、馬鹿みたいに直情で、わざわざ私を心配して馬鹿をやってぶん殴ってやって、それでも元気が出たようだなと笑って見せた彼は、もう死んでしまったのだ。

 

「――――――っはぁ! 」

 

息苦しさに顔をあげて、うつ伏せの上半身を軽く起こすと、傍にシンに託された剣が目に入った。思わず寄せて、抱く。鞘の革の匂い。剣の脂の匂い。柄の部分からは汗の匂いと、少しばかりの酸い臭気がした。その不快ささえ、彼がまだそこにいる証のようで、愛おしかった。抱いて、再び泣き、嗚咽を漏らし、やはり泣く。止まらない。あそこからここにくるまでの間に感情の奔流を押し留めていた堰は壊れてしまったのだ。もうだめだった。

 

「―――っ、ぁっ―――、――――――、―――っ」

 

声すらうまく出ない。ただ、悲しさだけが口と目から漏れていく。ひとしきり泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。剣を抱き、ひたすら泣く。ダリはその様子ずっと見守ってくれていた。いや、違う。彼はきっと戸惑っていたのだ。彼はこのような場面で、どんな行動を取るのが最善の選択であるのかわからず、選べずに動けないのだ。その慎重さが、臆病な部分がシンの死に繋がったのかもしれないと感じて、ひどく腹が立った。

 

ダリは己に対して向けられた敵意や害意を敏感に感じ取って、言う

 

「……どうやら今、私は歓迎されていないようだな。……また明日起こしにくる。おやすみ、響。大丈夫。明日になればきっと、大丈夫だから」

 

大丈夫。その言葉は魔法の言葉のように頭の中へ入り込むと、不思議にその通り、明日にはこの悲しみがなくなってしまう予感がした。ああ、それは悲しいことだと思いながら、私はずっと泣き続けた。

 

 

どのくらいの時間が経ったのだろうか。涙も声も枯れ、ただ彼が存命して一緒に迷宮を探索していた頃のことを振り返っていると、ふと彼の剣のことを思い出した。鞘から引き抜いて刀身をとって、ダマスカス鉱特有のマーブル模様の波紋を見てみる。

 

その茶色い刀身にはまだ血糊と脂がべっとりで、そこにはシンの血も混じっているのだ。刃先に怪しく光る紅涙の輝きに魅せられて、己の顔にその切っ先を向ける。

 

―――「響、刃を人に向けるのは良くない」―――

 

そんな彼の言葉が思い出されて、また泣きたい気分になった。もう会えない。考えるだけで胸が痛い。あれだけ好き勝手やって、あんなにあっさりと退場するなんてひどいと思う。悲しい。悲しい。悲しい。会えない。いやだ。寂しい。

 

―――嫌だよ

 

一緒に過ごすようになってから三ヶ月。たった三ヶ月だったけれど、シンという男は、わけのわからないくらいのまっすぐさで、私の中に入り込んできて、影響を与えるだけ与えて消えて言った。まだ、知りたい事があった。教わりたい事があった。一緒に旅をして見たかった。活躍を見ていたかった。まだ―――

 

―――歌?

 

共に過ごした日々を思い返していると、眠りについたはずの街中から聞こえてくる音色があることに気がついた。耳をすませると、それが誰かの歌声であることに気がつく。一人の人間が即興で歌っているのだろうか、楽器の伴奏に乗った独唱は一小節ごとに途切れて、緩やかなスタッカートみたいな演奏となっている。その音色と声に私は聞き覚えがあった。

 

だが、歌は歌とわかるだけで、肝心の歌詞がまるでわからない。気になった私は、音色の詳細を確かめようと考え、ベッドから身を起こすとノソノソと窓枠に近づいた。

 

―――「うむ、君を迎えにきたのだ。響」―――

 

―――っ!

 

記憶が胸を締め付ける。胸を締め上げるその感情が苦しくて、逃れるように半開きの窓を全開にした。それでもまだ締め付ける痛みから逃げるようにして耳をすますと、音色は少しばかり大きく聞こえるようになったが、それでもまだ弱く、頼りない。

 

歌詞はまだわからない。ただ、その声に秘められている切な感情は今の私の想いと重なり、心臓を締め付ける。カンパネラのような音色は、文字通り、屍人に対する弔いの鐘の音だ。堪らなくなって、私はギルドハウスを飛び出ると、夜の街に繰り出した。

 

歌声に誘導されるようにして汚れた服のままフラフラと街中を歩くと、やがてベルダの広場の一角にある灯りのついた場所へとたどり着く。そうして私はようやくお目当てと対面することができた。

 

宵もすっかり深まり、宵張を得意とする酒場すらその営業を終えて休息した頃、月明かりすら一朶の雲に休息を強いられた夜の闇の中、広場の中央では外周に沿って設置された街灯の微かな灯りを浴びて照らされる集団。その中心、天に向かって屹立するオベリスクの前で、ピエールは世界の全ての注意をその一身に浴びながら、滔々と歌を吟じていた。

 

「―――、……―――――、…………―――――――、……。―――」

 

いや違う。歌はやはり途切れ途切れで、一小節ごとに止まり、そして、楽器の音に乗せられていた。それを途切れない歌と思ったのは、歌詞が私の頭の中ですぐさま場面に変換されて連続した物語となっていたからなんだ。

 

ピエールの感情が乗せられた一つ一つの言葉が、私の記憶から彼と過ごした日々を思い出させる。一つの場面が薄れる前に、彼の言葉は再び別の場面を思い出させて、私の頭の中では立て板に水が流れるような流麗さで、途切れた歌詞は繋がった物語になっている。

 

歌は途切れ途切れのスタッカートではなく、一連に切れ目がなく続いているレガートであり、彼と共に日々を過ごしたものにのみ、それとわかる、鎮魂の物語だったのだ。彼の歌は、シンと出会えた喜びと、彼を失った悲しみの二律背反を含んでいた。

 

夢うつつの気分でピエールの語りを全身で聴く。やがて場面は佳境に突入し、彼の死の場面へと突入する。シンは敵へと勇敢に立ち向かい、そして、敵の一撃によって倒れ、地に没する。楽器の音が途切れた。しかし、無音というわけでない。

 

空間に静かに響くのは、ピエールの涙の音色だ。それまでの合唱に比べれば無音に等しい微音は、言葉と音色にて他者に彼の活躍を伝える役目を放棄した彼は、しかし沈黙と涙を最高の手段として、彼の言葉に出来ぬ程の濃密な歓喜と悦楽と雀躍と、悲哀と絶望と無音の慟哭を切に表現していた。

 

動けない、動かない。誰もその無音の演奏を止められる者はいなかった。やがて流れていった雲の端から月明かりが漏れて、彼の姿をひそやかに照らし出した。静々と滔々に涙を流す彼は、月明かりの合図を受けて、楽器を脇に抱えると帽子を脱ぎ、終曲の一礼をした。

 

聴衆は誰一人として動けない。終幕下にもかかわらず拍手を貰えない演者は、それでも不満を漏らすことなく、オベリスク前の舞台から立ち去ろうとする。不意にこちらへと目線が向けられた。

 

赤く腫れた目には、シンに対する哀悼の他に、何か別の悲しみを伴っているように見えた。その嘆きの色に魅了されるようにして、私は彼の後ろについて行く。私たちがベルダの広場を去ろうとする時、それでも聴衆は一歩たりと動くことはなかった。

 

 

ギルドハウスに辿りついた私とピエールは、机の前で対面する形に座ると、何も語らないまましばらくの間を過ごした。やがて沈黙に耐えかねた私は何かを喋ろうとして虚空に手を彷徨わせた。目線が彼と机との間を行き来する。

 

「……その」

「はい」

「――――――……、よかったです」

「そうですか。それはよかった」

 

再び沈黙。違う、そうじゃない。聞きたいことがあるけれど、うまくまとまらない。いや、何が聞きたいのか、自分でも把握しきれていないのだ。何か聞きたい。聞きたいことがある。胸元が気持ち悪いくらいざわついている。

 

ただ、それをなんと表現していいのか、なんという感情で、何という言葉で表せばいいのかがわからない。それが悔しい。悔しいという事はわかるのに、何を聞こうとしているのかわからないのが余計に気を急かして、私の頭の中はぐるぐると意味のない考えが巡っている。

 

「あの……」

「…………一度眠ると、悲しみだけの痛みは忘れてしまうからですよ。だから私は、ああして相反する思いを同時に吟じていたわけです。まぁ、言ってみれば、私なりの、彼への手向けです」

 

彼は悲しげな口調で言った。私は何も返せなかった。

 

「私がシンのレクイエムを歌う際、なぜ、悲しみ以外の感情を私が歌に乗せて吟じあげたのか。多分、それでしょう。あなたの知りたかったのは」

 

彼の言葉に気がついた。それだ。私は、それが知りたかった。私は、ピエールという人が、なぜ瞳に悲しみの色以外を携えていたのかを知りたかったのだ。なぜ、必死に、無理やり辛い記憶の中にねじ込むようにして、喜びを着色していたのか。それが知りたかったのだ。

 

しかしなぜわかったのか。驚いた顔で彼の瞳を見つめると、彼はようやく柔らかく微笑んでを見せて、言った。その笑みは、いつものような皮肉げなものでなく、他者を悼むような哀切の感情に満ち溢れていた。

 

「わかりますよ。なにせ、吟遊詩人ですからね。人の、環境の、その細やかな変化を観察し、意図や変化を言語化出来ないようでは、バード失格です」

 

涼やかに笑って見せる顔には自信に満ちていた。なるほど、そんなものかと思う。再びの沈黙。さて困ったぞ。こうして先回りで自分の欲しかった回答を与えられてそこで会話を終わらせられてしまうと、何を話していいのかわからなくなる。

 

何か話題はないものかとあちらこちらに視線を彷徨わせていると、窓より差し込んでいた月明かりの光量が減って、周囲が闇に落ちた。

 

「ここは暗いですね」

 

言ってピエールは立ち上がって灯りをつける。そうして彼がランプに火を灯すと、橙色の柔らかな光が周囲をゆらゆらと不規則な光で照らし出す。私はその挙動に注目していると、先程は月明かりと暗がり、そして歌と演奏に夢中であったため気がつかなかったが、人一倍見た目を気にする彼にしてはあまりに酷い格好だ。当然か。だって、彼は先程まで私達と共に迷宮の中で死闘を繰り広げていたのだから。

 

大事に抱えている楽器の弦は切れた部分を無理やり調律した跡があるし、羽帽子は羽が殆ど落ちてつばが広いだけのチロリアンハットになっているし、服には汗染みと塩の吹いているのが目立ち、端正な顔に薄く施された化粧は落ちて崩れている。私はなんとなく、彼なら服や楽器の修繕が終わるまで人前に出ないイメージがあったので、なぜ彼はそんなボロボロの格好であるのに人前で歌う気になったのだろうという疑問を抱いた。

 

「それはですね。明日になれば忘れてしまうからですよ」

「え……」

「どれだけ悲しいことがあっても、どれだけ苦しいことがあっても、ただその気持ちを沈ませるような感情だけだと、この世界では一晩眠れば大抵の痛みは癒されてなかったことになってしまうのです。だから、シンのため真剣に鎮魂を願って祈りを捧げ、彼が居たという事を、どうしても覚えていたいというのなら、彼が亡くなり、その痛みと悲しみが心中に残っている、今日、無理にでも浮き上がるような感情と混ぜてやらないといけなかったのです」

 

ピエールはひどく悲しげな諦観の表情で言った。目には哀愁が漂っていて、なんとも背徳的な魅力を伴っている。少しだけどきりとしながら、聞く。

 

「……、それだけだと、痛みを忘れてしまうんですか? 」

「ええ。エトリアは、この世界は、私たちの体は、どういうわけかそうなっているのです。例えば、小指をぶつけてイラついたとか、人にぶつかって嫌な思いをしたとか、そう言った軽いすぐさま無くなってしまうものは当然として、大事な人を失って悲しいとか苦しいとか、あるいは自分にないものを持っている他人が憎いとか妬ましいとか、そう言った人間や生物を対象とした、負の感情も、それだけだと次の日にはさっぱり消えてしまう。……覚えがありませんか? 例えば、そう、ご両親が亡くなった後の事とか」

「――――――――――――、はい」

 

絶句した。ああ、確かにその通りだ。私は両親が死んだと知って、世界がひっくり返るかのような衝撃を受けて意識を失って、けれど起きた時には、すでに落ち着いていた。そしてその時から私の心の中は、両親が死んだ悲しみよりも、死んだ後、彼らなしでどうやって店を経営してゆくかの心配に興味が移っていた。

 

「以前、遠い昔はそんな事なかったらしいですけれどもね。過去の英雄譚を漁ると、例えば、何かに対する恨み辛み妬み嫉みによって見返しや復讐から物語が始まったり進展したりするもの沢山あります。けれど、ある一定の時期から、それが一切なくなってしまうんです。物語は他の命に対する興味と好奇心だけのものとなり、山場と、山場と、山場だけが物語の構成要素になりました。よくわかりはしませんが、ある時から、私たちは、そう言った苦しみや悲しみを、それだけでは次の日にもちこすことが出来なくなったのです。まるで誰かに食べられてしまったかのように、綺麗さっぱり消えてなくなってしまうのです」

「――――――、それは」

 

なんて、残酷なまでに優しい現象なのだろう。

 

「昔、人と人の間で争いが頻発していた頃、争いの原因は負の感情によって引き起こされたと聞きます。無用な諍いが起きないという点では、なるほど私たちは幸運なのでしょう。しかし、それと同時に、私たちは亡くなった、失った命を次の日以降悼むことができなくなりました。おそらく私が今感じているこの悲しみと苦しみと、それより生まれ出た焦がれる気持ちも、さらにそこから派生した様々な複雑な想いも、寝床で瞼を閉じれば泡沫のように消えてしまう。感情が消えるという事を知っている私は、シンを失った際に感じた心の臓を掴み取られたような気持ちが消えていくという事実を、知っていながら何もしないという事実に耐えられない。この痛みもそれだけだと、明日になれば消えてしまうのでしょう。その事実が、なんとも耐え難い。でもどれだけ耐え難くとも、負の感情だけだと休めば消えてしまうという事実は覆せない。理由はわかりませんが、正の感情を混ぜて、矛盾する思いとしてやらねば消えてしまう。だから、今日でないといけないのです」

 

それがあの演奏か。あの正と負の入り混じった一拍ごとに立ち止まる歌は、ピエールが矛盾する感情を必死に押さえ込みながら、シンの生きていた頃の喜びを歌い上げるオラトリオであり、シンの死に対する悲しみを悼んだレクイエムであり、同時に、己の消えてしまう痛みが最後に訴えた遺言でもあったのだ。

 

だからこそあの途切れ途切れで単純な歌は、孕んだ矛盾が心を軋ませる悲鳴のように聞こえて、だからこそ、みんなの心を捉えたのだろうと思う。

 

彼の歌を思い出して、胸の締め付けられる感覚が戻ってくる。早まる鼓動はシンの死に直面した時よりも遥かに強くなって、頭が熱くなる。ああ、そうだ。忘れてしまっていた。私はこの感覚を一度だけ味わったことがある。記憶にはある。でも感情が残っていない。両親が死んだと聞かされたあの時、私は確かに、この胸を貫き抉るような痛みに意識を消失させられたのだ。

 

シンの死は、失ったはずの両親の死が死んだ際の痛みまで思い出させて、私は机に突っ伏した。目頭は熱くなり、喉は呼吸を乱し始める。口はへの字に曲がって、唇を食む。ああ、忘れたくない。無くしたくない。この想いに消えて欲しくない。

 

「…………」

「ふふっ」

 

ピエールは小さく笑った。その違和感につられて彼の方を見る。

 

「ピエールさん? 」

「いえ、あの戦バカ、案外、ドンファンなところもあるなと思いまして」

 

……、どういう意味だろう?

 

「あの」

「ねぇ、響さん」

 

ピエールは先ほどまでとはうって変わって、慈愛に満ちた静かな口調で言う。

 

「ひどいやつでしたよねぇ。最初の頃は、貴女に切りかかっても謝罪もしないで」

「……そうでしたね」

「敵と見れば、とにかく真っ直ぐに突っ込んで、カバーは大抵サガかダリ」

「道具の使い方もまともに覚えてなくて、だいたい私がやる羽目になってました」

「文句を言った際、嫌味に苛立ちの一つでも見せてくれればまだ可愛げがあるのに、粛々と受け止めるばかりで」

「どこかずれていて、まさか、殴ったことを褒められるとは思ってませんでした」

 

愚痴を言い合う。シンのこと。たった三ヶ月しかまともに一緒にいる事のなかった彼だったけれど、驚くほど話題は尽きなくて、いかに彼が変で妙な変わった人物だったかを思い知らされた。うん、でも。

 

「でも、バカだけど、いいやつでしたよねぇ」

「……はい、真っ直ぐで、いい人でした」

「私、あのバカのこと、好きでしたよ」

 

まっすぐの好意を告げる言葉。その言葉を聞いて、私は胸の奥底で燻っていた思いをようやく自覚させられた。胸が高鳴った。限界だった。今日は色々な事があったけど、何にも増して、残酷な事実を今更思い知らされる。ああ、そうだ、私は―――

 

「―――はい。私も、シンのこと、好きでした」

 

言葉にすると、遅れて感情が湧き上がってきた。腹の底より上がってきた熱は、喉元と涙腺でそれぞれ音と水に変換されると、嗚咽と涙へと生まれ変わる。この悲しみが明日消えてしまうとかもうどうでもよくって、ただ、彼と出会えた事が嬉しくて、でも居なくなって悲しくて、そんな胸の奥をぐちゃぐちゃにする思いをただひたすらに大事にして、愛でていたい。

 

「―――、――――――、―――――――、―――」

 

―――死んじゃった。死んじゃったよ。もう会えないんだ。ごめんなさい。さっきまでただ自分のために涙を流すばかりで、ごめんなさい。貴方の事を思っての涙じゃなくてごめんなさい。シン。シン。シン。シン。ああ。あぁ。

 

視界の端でピエールが私を一瞥だけして去っていくのが見えた。向けてすぐに伏せたその目には気遣いがあった。邪魔はしないから存分に自分の気持ちとの別れを惜しめと言うことだろう。素直にありがたいと思った。

 

私は仲間を失ったこの日、初めて両親の死を想って泣いた。シンの死を悼んで、今更ながら、両親の死を嘆いて、この気持ちとの別れを惜しんで、泣いた。

 

多分、両親を思って出た涙は、彼らの死をまともに悼んでやる間も無くしてしまった自分に対する憐れみの感情が生んだものだったが、それでも、ただの一つの落涙もなく過去を思うよりはずっとマシだろうと、身勝手に思う。

 

惜別の涙は口の中にはいると、すぐに微かな塩気を残して消えてゆく。それが明日という日、儚く消えてゆく記憶の運命を表しているようで、余計に悲しくなって泣いた。やがてランプの油も切れて、黎明を迎えた時、私は窓より差し込んでくる太陽の光に起こされた。

 

そして気がついた。昨日感じた、彼を失った際の千切れるような痛みはもうどこにも残って居なかったけれど、かつて共にいたシンが、でも、もういないという、愛しさと喪失の混ざった胸を締め付ける気持ちだけは残っていた。

 

ああ、これが、ピエールの言っていた、「矛盾する気持ちだけが残せる」と言うことなのか。私は彼の言葉を今更ながらに理解して、彼に感謝した。彼はこの感情を私の中に残すために、昨日ああして語ってくれたのだ。

 

そうして残す手助けをしてくれたピエールに感謝を送りながら、差し込む朝日の匂いに包まれながら、思う。

 

―――シン。私、貴方のことが、好きでした。だから、いま、すごく悲しい

 

朝日の中に溶けて消えてしまった昨日より薄れてしまった悲哀の感情は、それでも私の心を刺激するのに十分な熱量を残してくれていた。

 

 

―――ほう、いい面構えになったではないか

 

悪夢の、もはや殆どが白になりかけている部屋の中、出会い頭、開口一番に黒い影はそんな事を言ってのけた。黒の影の口はいびつな三日月を浮かべて、ないはずの両目には喜色が浮かんでいるように見える態度。ああ、やはり不快だ。

 

「ほう。どうやら貴様にはその外見通り、人を見る目というものがついていないらしいな」

―――外見で人を判断するとは、まだまだ未熟だな。とても正義の味方の台詞とは思えん

「はっ、貴様がまだ人の範疇に収まっているなら、中身で判断してやっても良かったのだがね。いや、外見で判断しようが、中身で判断しようが、どのみち貴様と言う男は、最悪という以外に体現しようがないから一緒ではあるか。―――そうだろう、言峰綺礼」

「―――ふ」

 

そうしてその影の正体を暴いてやると、言峰綺礼は、輪郭を露わにして、無限に広い部屋の中を覆い尽くさんほどの声量で、心底愉快そうに哄笑した。高笑いには、愉悦と愉快の感情が多分に含まれていて、それが心底私の脳裏を刺激して、不快を生み出す成分となる。

 

「よくぞ気づいたな、アーチャー。いや、あれだけのヒントをくれてやったのだから当然か」

「ふん、よくもまあ、ああも聖句を胸糞悪い様に引用できるものだ」

「いやいや、説教は神父の嗜みだからな。しかし、神の教えを聞いて胸糞を悪くするとは、アーチャー、貴様やはり、その属性は中立などではなく悪の側に近いのではないのかね? 」

 

悪意の応酬は終わらない。放っておけばいつまでもこの不毛な争いが続くだろうと予感した私は、舌打ちを一つ大きく打つと、無理やり話を打ち切って、本題を叩き込む。

 

「それで、なぜだ」

「なぜとはなんだね? 何が疑問なのか具体化してもらわないと理解が出来ん」

「ほう、では言ってやろう。なぜ貴様は存命している。なぜ貴様がここにいる。何のために貴様はここにいる。何を求めてランサーを再び手駒として用いた」

 

立て続けに質問を浴びせると、やつはそれが心底可笑しいといったように、体をくの字に曲げ、腹を抱えながら失笑を漏らす。その様がまた、ひどくこちらの癪に触る態度なものだから、私は影を思い切り殴りつけてやったが、拳は黒い影の中を通過するだけで、その威力を発揮してはくれなかった。

 

「―――ちっ」

 

舌打ちと共に通過した拳を拭う。手についた汚物を払うかのような態度を見て、さらに言峰はさらに気分を良くしたらしく、一秒間あたりの笑いの数を増やして、言ってのける。

 

「ふむ、その質問にいちいち答えてやってもいいが……ああ、そうだ前回、約束を交わしていたな。講話の一つでもくれてやろうと。ちょうどいい。では今回は夢の終わりまでそれを語ってやるとしよう」

「貴様、私の質問に……」

「そうだな、あれは遥か昔。凛という女がまだ生きていた頃の話だ」

 

こちらの意思を完全に無視しての態度を注意してやるが、やつは一向に気にした様子を見せずにそのまま滔々と語り出す。物理的に止める手段がないのは証明されてしまったし、こうなったやつは何があろうと己の語りたい事を語り終えるまで、何一つこちらと応答する事がないだろうから、私は早々に諦めて、その不快な講話とやらに耳を傾けることにした。

 

「第五次聖杯戦争集結から、約十年後。かつて天国の鍵を持つお方が崩御されたその地の近くの海に、隕石が静かに落下、着水した。その隕石というものが曲者でな。実は“魔のモノ“と呼ばれる宇宙生物だったのだ」

「……はぁ?」

 

素っ頓狂な声を出すと、やつはその驚いた様が心底可笑しいと言った態度で失笑を漏らすので、私は唇を噛んで口をへの字にしてやり、再度聴講の体勢を取ってやる。

 

「くく、いい反応だ。さて、その魔のモノは、魔と言う名を冠するだけあって、一つの特徴を兼ね備えていた。それが、人の負の感情を己の糧にするというものだ。見事なものでな。そこに正の感情という不純が混ざったものはいらんという、偏食家っぷりを見せる。奴は、真に悪意のみを食らう、名前に反してまさに正義の味方のようなことをやらかすのだよ」

 

どうだ、という顔でこちらを見てくるので、努めて無表情で続きを促してやる。そうすると、やつはその無理しての態度もまた面白いと言った顔で笑いを漏らすので、やはり不快の感情が生まれる。ああ、やはり、この男と私は氷炭の様に相性が最悪だ。

 

「……」

「無視かね……、くく。さて、この“魔のモノ“という宇宙生物であるが、実はあるものに追いかけられた結果、この星に着陸したのだ。そのあるものこそが、我々が世界樹と呼ぶ、現在の世界を支える巨木のオリジナルだ」

 

“オリジナル“? ということは、現在世界中を支える世界樹はコピーであり、また、世界樹とかいう巨木は複数あるということか。

 

「さて、その世界樹だが、“魔のモノ“の活性を抑える能力を持っていた。いわゆる正義の味方というやつに相当するのだろうな。そうして追いかけきた世界樹は、魔のモノの活動を抑えるためだろう、やがて魔のモノが落ちた場所とまるで同じ場所に降り立った」

「……どれほどかしらんが、この世界を支えるだけの巨木が着水すれば、それだけでも相当の被害が生まれそうなものだが」

「いやいや、その様なことにはならなかったとも。さすが正義の味方の世界樹様はそのあたり心得ていた様で、魔のモノが落ちたその海の真上にやってくると、勢いを緩やかにして、漣すら起きないほどの速度で海の中へと落ちて言ったらしい」

「……」

「くく、しかし、流石にそれだけの巨体を倒れない様にするためには、深く根を下ろしてやらなければならない。やがて魔のモノと接触した世界樹は、己の体でやつを封じ込めるため、魔のモノを深海の地中深くに埋め込んでから、さらに何千メートルも押し込む事となった」

「……」

「それが全ての始まりだ。そうして地中深くに押し込まれた“魔のモノ“は、やがてその身を地中を流れる龍脈と接触した」

「……なに? 」

 

だんまりを決め込んでいた所に聞き捨てならない言葉が聞こえてきて、思わず聞き返す。

 

「龍脈だと? 」

「そうだ。龍脈、霊脈、レイライン。呼称が千差とある世界中を流れる魔力の川と接触した“魔のモノ“は、龍脈という荒々しい力の奔流に耐えきれず、龍脈にその身を浸しながら、その身の表面を少しずつ削られていった。だがそうして削られた”魔のモノ“の体は、やがて龍脈の流れに乗って、世界中へとばら撒かれることになる」

「……」

「くっくっ、そうして負の感情を食らう“魔のモノ“の分身は細分化されて、世界中にばら撒かれることになったのだ。いやはや、正義の味方というものは実に余計なことしかしないものだな」

「……」

 

挑発を努めて無視してやる。悪態の一つでも返しても、無視しようがどのみち喜ばせるだけなら、少しでもエネルギーを使わない方を選択してやろうと思ったのだ。だが、やつはやはりそんな私の抵抗を見抜いているのだろう、口元の喜色を濃くしながら続ける。

 

「ばら撒かれた“魔のモノ“のかけらは、当時は世界中に繁栄していた彼ら旧人類の持つ、憎悪や悔恨、嫉妬といった心中に溜め込んでいた悪意と正しく共鳴し、反応を起こした。そして誕生したのがスキルだ」

「……、なに? 」

「魔のモノは龍脈を通じて己の分身を全世界の人間にばらまく。宿主となった人間が持つ悪意を吸収するために、己と人間との間にパスを繋げる。人が魔のモノと繋がるという事は、すなわち、魔のモノが身を委ねている龍脈と直結するということでもあるのだ。本来、龍脈などという大河の流れにそのまま身を委ねれば溺れ死ぬだけの矮小な存在である人類は、魔のモノという変換器/インバーターを介する事で、地球という強大な存在と間接的ながらも、しかし今まで以上に直接的に繋がることが出来るようになったのだ。加えて、魔のモノが感情を回収するということは、ともすれば、人が感情を龍脈に伝える手段でもある。くくっ、変換器を用いて世界と繋がり、己の意思を伝えることが出来る。まるで魔術のようだとは思わないかね」

「―――、そうか、魔術とは、魔力を用いて己の要望を世界に伝え、魔術回路/変換機に応じた望む現象を引き起こす術理。つまりスキルとは―――」

 

やつの与えた情報から導き足した結論を聞いた言峰は、生徒の出来の良さを誇るかのように、己の伝達能力の高さに満足するかのように、慈愛と恍惚に満ちた笑顔で頷き、言葉を継いだ。

 

「そう、つまり、スキルとは魔術と同じ仕組みなのだよ。人類は総じて、ある意味で魔術師になったのだ。いや、己の意思を伝えるだけである程度の現象を引き起こせる、変換効率無視のその有様は、魔法使いといっても過言ではないかもしれないがな。ともあれ、やがて己の意思だけで現象を引き起こせる事に気がついた人類は、その方向性をある程度体系化してやることで、万人が魔のモノの力を使える様に研鑽した。その正体に気づくこともなくな。この努力の末に生まれたのが、スキルだ。当時は科学と組み合わせて使うスキルが多く開発されていたが、そういったモノは電気機械文明の崩壊を経て消えてゆく。そして残ったのが、いわゆる現在も残っている日常的に使われるスキルや、戦闘の際に使用されるスキルだ」

「―――」

 

言峰という男が語った話の、そのスケールのあまりの大きさに驚いて言葉が出ない。なにかをいってやらねばその荒唐無稽な話を、脳が真実として受けとってしまいそうだ。必死に反論を考えるが、馬鹿げた話と断じてやることもできない。彼らが、スキルが、エネルギー保存則や変換効率無視の技術であることは、この三ヶ月の間に嫌というほど見せられている。

 

―――いや、まて

 

「まて、魔術に例えるというのなら、それはおかしい。魔術の原則は等価交換だ。それだけのエネルギーを生み出すというなら、一体なにを代価に―――」

「鈍いな、貴様も。これはある意味で、人と神との間に交わされた契約なのだ。人は一日の終わり、眠りの中で魔のモノに純粋な負の感情を捧げる。神はそれを受け取るかわり、道を繋げ、そこから逆流しようとする余分を全て肩代わりする。こうして、荒ぶる神は人の捧げる供物を代価に、己の信者たちに龍脈と繋がる力を加護として与えているというわけだ」

 

返答は一分の隙もなく正しいものだった。等価交換は成立していた。人と魔のモノが結んだ、負の感情を取引材料に力を得る契約。スキルの正体が悪魔の契約に等しいものだと知って、私はもはや、やつになにを尋ねようとしていたのかすら忘却して、呆然とする。

 

「くくっ、いい顔だ。そんな反応をしてくれると、聞かせた甲斐があったというものだ。……、さて、そんなスキルという新たな力を得た人類だが、その代償は大きかった。負の感情を失う。簡単に言ってしまえばそれだけのことだが、踏み込んでいえば、例えば、不安や臆病の要素をも飲み込むという事でもある。すなわち、多くの人々は躊躇というものをなくし、消費と浪費の文化をさらに邁進させた。それにより生じたエネルギーの浪費は、もはや地球の自然環境を悪化の一報を辿らせ、しかし、その変化により生じる環境の悪化がもたらす不安や臆病は、すべて魔のモノに吸収されるため、人々は等比級数的な速度で、滅びの道を駆け抜けていったのだ」

「―――ああ」

 

なるほど。不快な奴の言うことは、しかし、なんとも人類の歩んできた歴史を数千年分も凝縮したかの様な愚かしさを体現していて、ひどく納得のいく内容として腹の中に落ち込んだ。それは、そんな人類を愚かと断言して見限った自分ならではの思考だろう、とも思う。

 

「やがて環境の悪化は、世界樹という魔のモノを封じていた巨大な樹木にも悪影響を及ぼす様になり、弱った世界樹の力は人々の負の感情により力を取り戻しつつあった魔のモノの力を下回り、抑圧を上回った魔のモノは龍脈を通じて世界に顕現しかけた。それこそが、かつて旧人類が迎えた落日の時」

「―――しかけた? 」

 

質問に、滔々と話す奴の口が、わずかに歪む。私がふと口に出した言葉は、よほど言峰という男の機嫌を損ねる力を持っていた様で、奴は愉悦ばかりを浮かべていた顔に珍しく憎々しげなの様相を浮かべて、しかし吐き捨てる様に続けた。

 

「そう。魔のモノがその姿を表しかけた時、しかし、世界のそんな異変に気がついていた当時の人間の一部は、そんな終末を避けるべく、世界樹のコピーを生み出していた。世界樹のコピーはオリジナルほどでないにしろ、魔のモノを抑える効果をもち、また、その巨大さに見合った環境濾過機能を兼ね備えていた。そうしてやがて奴らは魔のモノが世界に姿をあらわす直前、その該当箇所に世界樹のコピーを植え込み、霊脈の力を利用して過剰成長させ、成長した魔のモノを封じた。その後、彼らは汚染された地上の上に大地を作り、汚染された環境を地下へと封じ込めるとともに、環境の改善を世界樹に任せ、自分たちは空の上に逃げたこうして、貴様が今存在している、「世界樹の上の大地」という世界が出来上がったのだ」

 

……、信じがたい。奴の言うことは、スケールが大きすぎて、まるで空想話の中の出来事だ。しかし、奴の言う、急速な環境の悪化による人類の滅亡という話は、凛の残した手紙に書かれていた旧人類滅亡の理由と合致していて、一概に否定を突きつけてやることができない。いや、そも、それが真実だとしたら、なぜ彼女は―――

 

「くくっ、その顔は、なぜ凛が残した手紙にはその事が書かれていなかったのか、と考えている顔だな」

「―――貴様……! 」

 

努めて冷静を保っていた精神に皹が入る。不快の源が恩人の名を語ったと言う事実に抑えきれなくなった感情は、裡に出来た亀裂をあっという間に広げると、全てを殺意という名前の意思に変換されて、表へと噴出した。

 

「貴様、なぜ、それを知っている……! 」

 

言葉に質量が言峰綺礼の体を両断するだろうほどの圧を含んだ言葉を、しかし、奴は涼しげに受け流して、直前のまで不機嫌とは一転した、しかし再び、愉悦の顔で続ける。

 

「くく、いや、なに、決まっているだろう? 私も読んだからだよ。ああ、いや焦ったよ。照れ隠しか知らんが、一度手紙を読むと、文字も写真も消えるような処置が施してあってなとは思わなんだ。まぁ、エミヤシロウという英霊の魔術特性ならばそうであろうと問題なかろうと思ったのかも分からん。ともあれ、消えたものは仕方があるまい。かかっていた魔術の鍵だけかけなおして、貴様と同じ場所に送ったわけだが……、その様子だと、再現の際に、そのことまでは読み取らなかったようだな」

「―――……っ! 」

 

そうか。あの写真にだけ防護の魔術がかかっていなかったのは、彼女のうっかりではなく、貴様の悪意に満ちた行為の結果だったというわけか。私は目の前の悪意の塊に像を抱くとともに、彼女の思いを汲み取って、詳しい経歴までを解析しなかった己の迂闊さを呪った。

 

「ああ、いいぞ、その殺意。その憎悪。己の大切であるものが実は己の嫌悪する人間の手で汚されていたものであったと知った時の、その絶望。くく、いや、随分といい反応を見せてくれるものだ。それでこそ、教えたかいがあると言うものだ」

 

こうして記憶の傷口を切開し、過去の大切な部分に土足で踏み込み、心の臓に毒を塗って相手が悶えて苦しむのを見るのが、奴が一番好みとするシチュエーションである。憤怒も憎悪も、奴を愉悦させるだけの単なる不毛な感情にすぎぬと知りながら、私はそれでも裡より溢れるそれを抑えきれず、言葉の端々に余剰の感情を漏らしながら、なんとか尋ねる。

 

「……、貴様、どこで……、いや、いつだ」

「神父が他人の秘密を知る場所といえば決まっているだろう? ―――もちろんあの、冬木の教会で、だ。―――そう、私は、神によって再び命を授かったあの日、己の教会の隠し部屋で見つけたのだ。かつて貴様が一人その犠牲から逃れたあの場所で、未来に希望を託されて眠る貴様と、その隣で眠る凛の残骸を、だ。いや、なんとも皮肉ではないかね? かつて受肉化した英霊を存続させるために多くの子供が機材に繋がれ生命力を搾り取られていた場所には、その事実を否定し憎んだ貴様らが、同じように、英霊たる貴様を存続させるために己らの体を機材として改良した凛の残骸と、そんな機材と化した彼女と繋がれた貴様がいたのだからな」

「―――凛……が……、あの教会で? 」

「その通り。ああ、そこには手紙と、転移装置もあったよ。その装置の座標は常に変動する高さの地表の高さを観測する装置と繋げてあり、起動すればオートで地上に出られるよう、設定されていた。転移装置の傍らには、もう一通、機械オンチの彼女が必死に勉強して解読したのだろう結果の説明が記載された手紙が置かれていた。いやはや、健気で用意周到だとは思わんかね? ……まぁ、そちらは別段役に立たぬ素人の気遣いでしかなかったので、いらぬと思って燃やしてしまったが」

「――――――っ! 」

 

感情は奴の一言一言ごとに一々反応して、激しく躁鬱を繰り返す。その鬱屈と驚愕の間で揺れ動く感情を見物して愉悦に浸るのが奴の目的とは知っていながら、しかし私は、奴の言葉に反応するのをやめられない。凛という恩人の事を乏しめられ、侮辱され、それでも平然としていられるほど、私は出来た人間ではないのだ。

 

「どういうことだ! 答えろ、言峰綺礼! 」

「ははっ、主語がない質問に答えられるものか……、と言ってやりたいところだが、特別に気持ちを汲み取って答えてやろう。―――なに、そうして貴様と凛を見つけた私は、彼女の望み通り、貴様を地上に送ってやったのだよ。ああ、もちろん、試運転をした上でな」

「試運転……? ―――まさか、貴様! 」

 

思いつく限り最悪の想像。決してあって欲しくない想像をしかし奴は読み取ったようで、告解を終えて罪の赦しを乞う信者に向けるような、なんとも朗らかな笑顔で言ってのける。

 

「生きているものを送る前に、命のない存在で安全性を試すのは当然のプロセスだろう? ちょうど貴様の側に、同じような人型をした装置があったから、先に地上に送ってやったのだよ。―――適当な座標軸に合わせてな。さて、彼女の方は確か、大幅に数値大きく変化させて空の上に転送したから、今頃あるいは、文字通り天の国に召されているかもしれんぞ」

「――――――!」

「おお、主よ、永遠の安息を衛宮凛に与え、絶えざる光を彼女の上に照らし給え。衛宮凛の安らかを憩わんことを」

 

アーメン、と奴はわざわざ丁寧に十字まで切る。それが限界だった。もはや触れる触れないの縛りなど関係ない。この男は、こいつは、この場で殺しておかねばならぬ男だと、肉体も、魂も、精神も、この体を構成するすべての要素が叫んでいた。

 

目の前に佇む黒い影に思い切り振りかぶった拳をぶつけようとして、しかしやはり予定通り空を切る拳を、けれどそんなことは知らぬとばかりに振り抜いて、その影をどうにかこの世から消し去ってやろうと、何度も拳を宙に空振らせる。

 

「言峰! 貴様ァ! 」

「はははははっ、そうだ、いいぞ、アーチャー、否、エミヤシロウ! 貴様のその、世界の全てを感情の発露の対象としてもまだ余りあるような、憤怒、憎悪、嫌悪、殺意! その全てが何とも心地よい! 」

「貴様! 言峰綺礼! なぜだ! なぜそんなことをした! 」

 

口から出た問答に意思は伴っていない。ただ怒りのままに飛び出しただけの定型文に、しかし奴は笑いながら、心底愉快そうに、笑って答える。

 

「はは、聖堂教会の神父が英霊たる男の参戦を祝福し、手助けする理由は決まっているだろう? すなわち、聖杯戦争の幕開けだ」

「なにを! 」

「そうだ、エミヤシロウ! これはあの聖杯戦争の再現なのだ! 戦争を最後に勝ち抜いた勝者には、万能の願望器が与えられる。その再現。それこそが、我が主の望み! それこそが私が心底望むものなのだ! 」

 

言峰はもはやこちらの意思など御構い無しに、ただ己の言いたいことを喚き散らすだけの、狂人に成り果てていた。いや、狂気に陥っているのは、元からであるが、ともあれその様に心底憤怒と嫌悪をしながら、しかしそんな奴を排除できぬ己の身を呪いつつ、私はやがてその最悪の悪夢から、これまででも最も最悪な事実を土産に、現実へと引き戻される事となる。

 

 

「―――言峰綺礼! 」

 

咆哮とともに、体を起こす。虚空を切った腕は体の上に乗っかっていた掛け布団を、遠慮なく壁の方に吹き飛ばし、薄い窓に悲鳴をあげさせた。殺意の発露として荒げていた呼気が、空気中の水分と反応して、宙に白い靄を生む。

 

「―――はぁ、はぁ、っ、はぁ、っ、はぁ」

 

治らない。悪夢の中、呼吸のでる暇を与えず叩き込んだ意味のない連撃は、現実の体にも影響を与えて、疲労の回復しつつあった体を、昨夜の状態へと戻していた。

 

「――――――、くそっ! 」

 

ベッドに思い切り拳を振り下ろす。白のシーツに吸い込まれた拳は、瞬時に布を引き裂いて、中に仕込まれていた羽と、綿と、バネとが勢いよく飛び出てくる。三つの異なる素材のそれらは、綯い交ぜに宙を舞って、己の醜態を形にした。

 

「―――言峰綺礼……! 」

 

腹の底から湧き上がる心底の怒気とともに生まれた言葉が、部屋の空気を揺らす。散らばった三種の異物は、私の声を恐れるかのように、離れた地面の上でその身を震わせていた。

 

「――――――」

 

怒りが収まらない。彼女を利用したという事実が、彼女の覚悟を汚したという事実が、胸に残る彼女の記憶と笑顔、手紙の言葉と混ざり合い、過剰な化学反応を起こして、ニトログリセリンの爆発どころか、核の融合に匹敵するエネルギー量を生んでいた。

 

「――――――っ! 」

 

収まらぬ怒りのまま、握っていた破けたシーツを持った手を頭上高くゆっくりと持ち上げると、もう一度、感情の発露として物に八つ当たる無様を晒す。英霊の渾身の力を一身に浴びたベッドは、拳が叩きつけられた瞬間、その部分から見事に割れて、二つに身を分けた。

 

「――――――言峰ェ! 」

 

それでも発散しきれぬ思いが心中を飛び出して、喉元を震わせて言葉となる。我が身を焦がし、周囲を破壊して、なおも収まらぬ猛り狂う灼熱の憤怒を撒き散らす醜態は、やがて異変に気がついた女将が部屋を訪れて、しゃがれた高い悲鳴をあげるまで晒し続けることとなった。

 

 

「――――――」

 

三層番人を倒した、その次の日の昼。怯えさせてしまったことを詫び、それでも今までと変わらぬ態度で接してくれるインに感謝をしながら、壊した物の代金を払った私は宿を出て、しかし未だ収まらぬ怒りを胸の内に携えながら、エトリアの街を歩いていた。

 

天空で燦々と輝く太陽は、未だ収まらぬ私の腹の灼熱の猛火を反映したかのような熱量を周囲にばらまいて、街の中から水気を悉く奪い、熱と蒸気を提供する石畳の地面は、焦熱地獄の様相を呈している。

 

その、負の感情に浸る私を許さない、と言わんばかりのあっけらかんとした陽光は、今の怒りに満ちた私にとって、文字通り火に油を注ぐような不愉快な説教以外の何者でもなく、私はその鬱陶しい日照を拒み跳ね除けるよう、肩を切って街をゆく。

 

人気は不機嫌を露わにする私を前にすると、葦の海の如く割れてゆく。そうして生まれた人波の壁の中を歩いていると、三層攻略の情報が出回った街は、やはり以前番人を倒した時のように、どこもいつもより賑わい、冒険者のばら撒く噂話で溢れている事に気が付ける。

 

やがてそうして怒りに身を任せながら、街中を歩いていると、纏った怒気を貫いて、大きな話し声が鼓膜に響いてきた。

 

「な、知ってる? 今回三層の番人を倒すにあたって、六人で行って、一人死んだんだと! 」

「あー、やっぱり、六人っていうのがダメだったのかなぁ」

 

知らずの事とはいえ、知人を失い、そうして不愉快な悪夢に苛立つ私を前に、無神経にも声を大にして不機嫌な話題を提供する無遠慮な輩に苛立ち、今の鬱憤全てをぶつけるかのように威圧をばら撒いてやると、遠慮ない会話をしていた冒険者たちは即座にその感覚を敏に捉え、こちらをみて、そして腰を抜かしてへたり込んだ。

 

「―――っひ」

「……お、おに」

 

その無様すらも腹が立ったので、わざわざ立ち止まり、じっくり睥睨してやると、彼らは意味をなしていない言葉の羅列を喚きながら、無様に走り去っていく。その様を見ていた周囲の見物人どもは、彼らの様子を呆然とした様子で見てそして私の方へと視線を移し替えると、途端同じような硬直してその場で立ち止まり、即座に目線をそらす。

 

―――懸命だ。おそらくは、少しでも私と目があっていたのなら、彼らも先ほどの二人と同様の運命を辿ることとなっていただろう。

 

そんな彼らの動作すらも、怒りの感情を再燃させる燃料となる事実が我ながら鬱陶しく、私は表通りを離れて裏路地へと体を滑り込ませた。そうして太陽の熱が未だに伝わりきっていない影の街を歩いていると、周囲の怜悧は私の発散する熱量を収めるのに一躍買ったようで、私はようやく徐々に普段通りの平静を徐々に取り戻してゆく。

 

落ち着いた頭は冷静を命じて、その作業に注力せよと命じてくる。気化していた気持ちを冷却させて状態を安定化させる作業に努めるべく、陽光に照らされて出来た影の中の部分、その淀んだ空気に身を浸しながら進む。影の壁面にこびりついた湿ったカビ臭さは、周囲に八つ当たりをぶちまけていた無様な自分にはふさわしい、鬱屈さの象徴である気がした。

 

 

言峰から得られた情報をまとめて整理しようと試みるが、まるで頭に焼けた石が入っているかのように、頭の中がかっかとし続けていて、まるきり考えがまとまらない。

 

このザマでは、まともに推論はできなかろうと、一旦は思考の余計を取り除いて空っぽになった頭で、光の照らす道を避け暗がりの中を選んで街中を歩いていると、いつの間にやら、街のはずれにあるギルドハウスに辿り着いていた。入り口に飾られている看板を見ると、漢字で「異邦人」との名が刻まれている。

 

影の中から覗く、未だに違和感を覚えることもある未来世界の中に混ざる見覚えのあるその三文字は、さまざまな疑念渦巻く暗中に差し込む光となり、私は誘われた蛾のように影より足を踏み出した。途端。

 

―――眩しい

 

影から顔を出した瞬間、日差しが暗闇に慣れていた瞳に襲いかかり、暗澹たる気分までかき消された気がした。まともになった頭と眼でもう一度漢字三文字を眺めると、影の中からでは眩しく見えた三文字は、光の中においては見事に周囲の光景と平凡に溶け込んでいた。

 

光に背を押されるようにして、ギルド「異邦人」のハウスの扉を何度か叩く。すぐさま扉は大男に開かれ、彼に招かれて、私は家の中へと足を踏み入れる。ダリの案内に従って一つ扉の向こうにある部屋に足を踏み入れると、そこには犠牲一人を除く、「異邦人」全てのメンバーが勢揃いしていた。

 

「まぁ座ってくれ」

 

言われるがままに座ると、

 

「まずは礼を。エミヤがいてくれたおかげで、私たちは多いに助けられた。感謝する」

 

ダリは言って座ったまま頭を下げた。仲間が死んだというのに、なんとも冷静な男だ。周りの三人は、ダリを倣って頭を下げた。私は何と返していいか困った。私がいなければ彼らは死んでいただろうことは確かだ。だが、私は彼らに対して最高の望むべき結果を提供できたわけではない。一人の尊い犠牲のもとに、運良く帰ってこられただけなのだ。

 

「いや……、ああ、そうだな」

 

躊躇は結局、横柄な態度での返事を生んだ。しまったと思うがもう手遅れだ。口から出た言葉を取り消すことはできない。私がその後の返答に窮していると、窓辺に立っていたサガが口を開いた。

 

「まぁ、ある意味であいつらしい死に様だったよな」

 

そのあっさりとした物言いに驚愕し、思わず目を見張りサガの顔を眺めた。彼は小さな体

にとぼけた表情で、こちらの視線は一体何が原因だろうかと首を傾げていた。

 

その顔からは一切の悲壮感が感じられず、昨日シンという人物の死にあれだけの狂乱を見せた人間が、こうもあっさり彼の死を認める言葉を口にするというその異常は、あまり付き合いのなかった私ですら異常と感じ取れる、強烈な違和感を生んでいた。

 

「うむ、確かにそれは一理あるかもしれん」

 

ダリが平然と頷く。確かに冷静を形にしたかのような彼ならいうかもしれないが、それにしても、こうも仲間の死んだ翌日に平然とそんなことをいってのける良識のない人物には見えなかっただけに、私は二度目の驚きを得て、隠しきれない思いを露わにした。

 

そうして固まっていると、やがて二人はお茶と菓子を用意してくると呑気に言い放って、台所へと消えた。その鼻歌でも歌いだしそうなあまりの陽気さは、私は昨日のシンの死が何かの間違いであったかと思ったほどだった。

 

驚愕のまま、ほかの二人を眺める。すると、ピエールと響は、一瞬、理解者を得て、喜び、しかし、困ったような、そして哀切をも含んだ、複雑な笑みを浮かべて返してくる。どうやらあの男女は男二人のようなことはなく、シンの死をきちんと認識しているらしい。私がそうして驚愕の視線を向け続けていると、響はおずおずと、そしてなんとも悲しげに言った。

 

「エミヤさん。この世界は、一度寝ると、悲しいとか、寂しいとか、苦しいとか、痛いとかだけの感情は消え去ってしまうんです」

 

言われた言葉に絶句する。私は瞬時に夢の中における望まぬ会談の内容を思い出した。

 

―――魔のモノは人の負の感情を己の糧にする

 

負の感情。それは殺意、憎悪、悔恨、嫉妬、苦痛といった、要素だけではなく、悲哀、悲嘆、痛切、哀切、不憫も、憂鬱も、消し去ってしまうというのか。言峰の話が事実であるということを見せつけられて放心に近い心持ちでいると、ピエールがその後に続く。

 

「サガは、シンが死んでしまった直後、気を失ってしまいましたからね。そのせいでしょう。ダリは、まぁ、元々、他人に対して冷徹なところがありますから……」

 

ピエールは珍しく、寂寞を携えた表情で尻すぼみにいう。おそらくは、皮肉ばかりの彼にしては珍しく、二人のことを真に庇いだてしているのだ。そうして意外な面を見せた彼の言葉に、しかし疑問を抱いて、聞き返す。

 

「まて、それが事実だとして、何故君達は、そのことを覚えている。いや、まて、そうだ、おかしい、確か、シンはそんな負の感情に基づく闇のようなものを抱えていた。そうした負の感情が残らず消えるなら、彼がああも鬱屈としたものを抱え込んでいたのはおかしい」

 

私は必至の否定を行う。思うに、昨晩言峰より聞かされた話がよほど受け入れ難かったのだろう、奴の言ったことは真実であると裏付けるような事実なぞデタラメだと、子供のような言い訳をしてみせる。

 

しかし。

 

「ええ、ですが、おそらく彼の場合は、鬱屈の中にも、どこか憧れのようなモノが混ざっていたのでしょう。そうして、気分を優れさせる感情が混ざった負の感情は、なぜか消えることなく残ってくれるのです」

「私もピエールにそのことを聞いて驚きました。でも、そうして彼が教えてくれたおかげで、私は彼の事を想って、嬉しいの中に悲しいという事を混ぜているから、そんな悲しさを残していられるのです」

 

―――見事なものでな。そこに正の感情という不純が混ざったものはいらんという、偏食家っぷりを見せる。奴は、真に悪意のみを食らう、名前に反してまさ正義の味方のようなことをやらかすのだよ

 

「―――っ」

 

己が否定として出した問題の答えは、言峰の言葉と符合するという結果をもってして、現実の刃を突きつける。信じぬ信じないではない。もはやそうだという事を信じざるを得ない証拠を突きつけられて、背筋に冷たいものが走る。

 

と、同時にこの世界の住民が、人に他人に対して無遠慮であったり、素直であったり、優しすぎる住人の多い理由を見つけた気がして、ひどく納得した。彼らの多くは、そうした凝縮した負の感情がもたらす悪影響を受けていないのだ。

 

彼らは憎しみを溜め込まない。彼らは怒りを溜め込まない。彼らは不安を溜め込まない。彼らは、周囲の環境の状況を肌で感じ取ったままに表現し、街や周囲に発散する。

 

そう、そして、彼らは、悲しみを溜め込まない。溜めておけない。ああ。

 

―――この世界の住民は、そんな切ない世界に生きているのか

 

「―――よぉ、あったかいのと冷たいの、どっちがいい? 」

 

奥から投げかけられるそんな無邪気なサガの言葉が、これ以上現実を否定する事は許さないとばかりに、私にトドメの一撃を投げつけた。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十話 悲しみは留められなくて

 

終了

 




ようやく少し伏線回収。自分での推敲では矛盾はないと思うのですが、これと思う点があったら、指摘していただけると助かります。


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第十一話 「生き方を選べ」

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十一話 「生き方を選べ」

 

ねぇ、士郎。

今更だけど、あなたはどんな正義の味方になりたいの?

 

 

正義の味方、と聞くと多くの人はテレビやアニメ、小説の中に出てくる戦隊モノのヒーローや仮面を被って正体を隠し悪と戦う彼らの事を思い出すのではないだろうか。あるいは、ドラマや映画の中に出てくるような、困難に陥っている人を助ける主人公だったり、現実で言えば、日常の平穏を守る警察や有事の際に活躍する自衛官や軍隊の人々を思い出すかもしれない。

 

どうしても自分の手では解決不可能な出来事が目の前に立ちふさがった時、颯爽と現れて問題を解決してくれる存在。大した見返りも何も求めず当たり前のように他人の祈りの為に命をかけて、知らぬ間に問題を解決しても名乗り出ず、人知れず世界の平和を守るそんな存在。

 

正義の味方。あの性悪神父はその存在をこう言い表した。「悪がいないと成り立たない存在だ」、と。非常に腹立たし事だが、なるほど真理だ。悪とは例えば、大きなものでは、人類の支配を企む悪の組織が現れたり、地球崩壊の危機に陥ったりであったり、あるいは小さなもので行けば、なにかを落としたとか、喧嘩をしている人を目撃したとか、彼らはそういった人々の悩みを解決する事で、大衆に正義の味方として認識されるようになる。

 

悪とはつまり、可視化された、あるいは不可視の状態の問題だ。放置しておけば何処かで誰かが困るものを処理するからこそ、彼らは正義の味方として扱われる。つまり「正義の味方」が万人にとっての迎え入れられるには、その問題が万人にとって迷惑となる問題であり、解決する事で誰もが喜ぶものでなくてはならない。

 

はるか昔、私は藍色に輝く夜空に浮かぶ満月の下、養父、衛宮切嗣の前で正義の味方になると誓った。それは決して、正義の味方になりたかったと後悔を露わに独白した彼に対する同情だけではなく、また私が置き去りにしてきた過去の亡霊に対する贖罪の為だけではなく、衛宮切嗣という男の純粋な願いを受けて私の心に動かされるものがあったからこそ、私は正義の味方になると誓ったのだ。

 

けれど、この悲惨と苦痛に満ちた世界から来た私は、一日の終わりに負の感情を失い誰もが他者への優しさを継続することが容易になった世界で、今更ながらに思う。果たして。この残酷な法則が蔓延する優しい世界において、私は誰のどんな問題を解決すれば、私の目指した正義の味方になれるのだろうか。

 

 

……目覚めは驚くほどあっさりだった。もはや窓ガラスを軽く揺らすほどの鐘の音に耳朶を打たるのも随分と慣れたようで、寝床より起き上がれば、もはや鐘の音は頭の中を反芻したりはしないようになっていた。

 

寝ぼけた頭で窓の方へ目をやれば、昨夜あれほどの灼熱を放っていた太陽はその傍若無人な矛先を収めているようで、窓より飛び込んできた緩やかな光が床を平行四辺形の形に淡く切り取っているのが見える。

 

そうして飛び込んだ光が部屋の中に漂う埃と反応して煌びやかに輝くのを暫くの間眺めていると、眠りの間に部屋の中へと拡散されていた意識が光に導かれて頭の中へと戻ってきたようで、ようやく何かを考えようという気になった。

 

―――あの男の狙いは一体なんだ?

 

言峰綺礼。かつて、第五次聖杯戦争にて監査役という地位を隠れ蓑に裏で暗躍し、聖杯に潜んでいたゾロアスター教の悪神「この世全ての悪/アンリマユ」が生誕することを望んだ、万人が美しいと思うモノを美しいと思えず、他者の苦痛に愉悦を感じる破戒神父。

 

だが奴のその野望は、かつての我がマスター遠坂凛と、その伴侶衛宮士郎によって阻止され、彼らの手によって命を失った。もう、千年単位で昔の話だ。あの影が真実奴であるとするならば、奴はなぜ、今、この時代に蘇ったのだ?

 

……一つずつわかっている情報から推測するしかないか。さて、まずは……奴はどうやってこの世界に復活したのか、だ。

 

―――神によって再び命を授かった

 

神。奴の信仰する神。通常、聖堂教会というカトリック系列の一派である奴が言うなれば、それはもちろん、唯一神のことだろう。だがあそこの神は、死者の復活という神の子レベルの存在しか成し得ないような奇跡を安売りするような軽薄を許容しないはずだ。

 

となれば、奴の言う神というのはこの場合、死者の蘇生を可能とする唯一神と同等の力を持つ存在のことを示していると考えるのが妥当なのだろう。また、奴が魔のモノと呼ばれる存在の話を嬉々として話していた事と合わせて考えるに、おそらく神=魔のモノと呼ばれる存在と考えて間違いないはずだ。捻くれ者の腐れ外道に相応しい捻じ曲がった解釈かもしれんが、まあよかろう。

 

さて、神=魔のモノと仮定した際、次に問題になるのはその魔のモノが何を考えているかだが―――

 

―――これはあの聖杯戦争の再現なのだ! 戦争を最後に勝ち抜いた勝者には、万能の願望器が与えられる! その再現! それこそが、我が主の望み! それこそが私が心底望むものなのだ! ―――

 

再現。あの物言いから察するに、もしやすでに聖杯戦争は再開していて、己は参加者として盤上に乗っているのだろうか。この世界に来てから己がやったことといえば、迷宮の番人を倒したくらいだ。

 

ふむ、そういえば、シンが三層の犬にとどめを刺した際、、私はランサーの声を幻聴した。最後に使ってきた技も、ランサーの宝具「ゲイボルグ」の投擲に似た、三十に分かれる魔弾であったし、おそらくあれがランサー「クーフーリン」という存在の再現であると見て間違いあるまい。とすれば……

 

おそらく、一層の石化能力を使用する輩はライダー「メデューサ」で、二層の転移を使いこなす黄金の羊はキャスター「メディア」、あの三連を繰り出す虫の群れはアサシン「佐々木小次郎」か。彼らが人型をしていない理由はさておき、この仮定があっているとすれば、これでこの聖杯戦争からはすでに四騎のサーヴァントが脱落していることになる。

 

となると、残っているのは―――

 

「アーチャーである私、「エミヤシロウ」。そして、バーサーカーである「ヘラクレス」に、セイバーである「アーサー王」か」

 

やれやれ面倒な奴ばかり残っている。クーマが、新迷宮にも四層、五層があるだろう、といっていたことから考えるに、どちらの階層かは知らんが、どちらかをモチーフとした敵が出てくるかのだろう。かつての陣営ごとに切り分ける馬鹿みたいな律儀さには感心するが、どのみち一筋縄ではいかないだろうことにため息が漏れる。

 

しかし、待てよ。もしやそうして、六騎のサーヴァントの代理を倒したとして、最後に私が死ななければ、聖杯は完成しない。いや、そもそも。

 

―――魔のモノは、なぜ聖杯戦争の再現をしようとしているのだ?

 

聖杯戦争。あらゆる願いを叶える万能の願望器「聖杯」を巡って行われる魔術儀式。もしやつが聖杯を欲していると言うのならば、奴は聖杯を利用してまで叶えたい願いがあるということなのだろうか?

 

……いや、だが、奴の話によれば、魔のモノは霊脈と一体化しているはず。それならば、霊脈の力を六十年もの間を溜めこみ、その膨大な魔力量の方向性を定めてやる事で現実の壁をぶち破り改変を行う、という聖杯のシステムから考えるに、地球そのものとも言える魔のモノに聖杯なんぞ必要ないと思うのだが……。

 

―――だめだ、材料が足りん。この方向からのアプローチは一旦保留。残るは……

 

―――もちろん、あの冬木の教会でだよ

―――今頃あるいは、文字通り天の国に召されているかもしれんぞ

 

―――っ!

 

奴に対する考察を深めようと記憶を掘り起こすと、そこから関連した奴のやった悪行が紐付きで思い出され、腑が煮え繰り返りそうになるのをなんとか抑えこむ。腹の中に溜め込めないだけで、思い返した際に脳が生み出す灼熱の怒りの源は一日経っても消えないのだな、とどこか他人事のように考える。

 

―――だめだ。落ち着け。今は必要ない情報だ。凛の骸がどのように扱われたかは、一旦、保留にしておけ。その報いは、次に奴と合間見えた時に、必ず叩きこんでやる

 

将来必ずあの腐れ外道は滅してやるから今は我慢しろ、と胸板を強くかきながら己に言い聞かせる。ともすれば奴への殺意で一杯になりそうな胸の裡からなんとかその思いを追い出すと、胸の奥に生じた猛火をなんとか沈静して、もう一度推察を再開する。

 

―――冬木の教会

 

たしかに奴はそういった。……冬木。エミヤシロウという存在にとって、大きな運命の転機となったあの土地が、未だこの数千年も未来の世界にその姿を残していて、奴はそこで復活したということなのだろうか。

 

冬木。数千年前に地下に消えた街があるとすれば、おそらくは同様にこの大地の遥か地下なのだろうが、それだけの時を経ても未だに教会は原形を残していたということなのだろうか? 一体どうやって?

 

それに、なぜ、奴は私を生かして地上に転移させたのだ? 不倶戴天といってもいい存在である私を、なぜ殺さずに生かしたまま地上に送ったのか。聖杯戦争を再開すると言うのなら、元サーヴァントたる私は真っ先に殺し、聖杯に捧げて然るべきと思うのだが……。

 

まさかとは思うが、夢の中で私が見せた醜態に愉悦したいがためとは言わないだろうが……、いや、奴の場合、ありえるかもと思えしまうのが、なんとも辛いところだ。

 

「ちっ、煮詰まったか」

 

舌打ちをして、ベッドに半身を横たえる。与えられた情報から導き出した情報を整理したことで導き出せた結論は三点。その内確定しているのは二点。神―――おそらくは魔のモノ―――が聖杯戦争の再開を望んでいるという事と、この世界のどこかに冬木と言う土地があって、その教会が残っている事。

 

そして、確定ではないが、おそらくは七騎の英霊が覇を争うその聖杯戦争がすでに再開しており、現状残るは三騎にまで減っているだろう事も判明している。

 

―――あとは、奴に真意を問いたださねばならないか

 

億劫な未来を思い浮かべてため息をつく。あの人格破綻の極悪な外道神父と会話をしなければいけないと言う面倒は、想像するだけで気分を不快に陥らせた。鬱憤を吐き出してやろうと、長いため息を吐くと、床に落ちた光の四辺形がその面積を減らしているのに気がつく。

 

窮屈そうに身を縮こめさせている窓を解放させると、溜まった鬱屈を散らすかのように涼しげな風が部屋の中に飛び込んで、縦横無尽に遊びまわり駆け抜けてゆく。開けた視界に広がるのは、私がやってきてから三ヶ月間変わる事のないエトリアの光景だ。

 

孔雀緑の屋根、木造と白漆喰の混ざった壁、街と外を区切る壁の外に広がる肥沃な森林地帯。円を描く街のちょうど狭間あたりに位置するインの宿屋から見える景色は、その全てがなにもかも変わっていない。だというのにもかかわらず、この同じ場所から見える景色は、私にとって昨日までとまるで違う光景として私の目には映っていた。

 

―――負の感情をとどめておけない世界、か

 

街行く人々の顔を眺める。昼間のエトリアを行き交う人々。その三割ほどは冒険者で、残りが町人やそれ以外だ。冒険者の方へと注視すると、迷宮という場所で命のやりとりをしている彼らの顔は、しかしまるでそんな気概を感じられないほど、いつも変わらず笑顔に包まれている。

 

つい先日まで、私はそれが長い年月をかけて人が自ら変化の道を辿った結果だと思っていた。スキルという技術を得た人類が、数千年の時をかけて己の性質を変えてきた結果だと思っていた

 

しかし、現実は違った。最初こそ一方的だったかもしれないが、彼らは、魔のモノという存在と、負の感情を代価とした契約を結んだ結果、出来たのがこの世界だ。

 

負の感情を吸収する魔のモノと契約したものの子孫が住む世界。一眠りすると、負の感情を全て失ってしまう人々の住む世界。人々は自ら変化したのではなく、おおいなる存在によって、その性質を変化させられてきたのだ。

 

理不尽や不幸に直面するたび胸の裡に堆積してゆく負の感情の澱という害悪を知らずに育ったからこそ、彼らは他人を憎まない、恨まない、妬まない。人に悪意を抱き続けないからこそ、警戒心が薄く、見知らぬ他人をすぐに信用する。

 

世界に住む人間の全てがそんな性質を持っているというのなら、なるほど、この世界の住人の多くが、あそこまで他人と無邪気に接することができるようになる理由もわかる。いつの日か感じた、自分と彼らは違う、という思いは、ある意味で正しかったのだ。

 

彼らと私は違う。考えた途端、不穏な疎外感が胸に押し寄せる。馬鹿げた妄想だと切り捨て、空を見上げた。ぱっと見一面に広がる、吹き抜けるような青い空。空の端では、風が山の稜線の向こうに雲を追いやろうとしていた。まるで蒼穹の景色に余計な色は要らぬと言わんばかりの風の所業は、そう、例えてみれば魔のモノのやっていることのようだと思う。

 

人の心は言ってみれば真っ白なキャンバスみたいなものだ。人は生きていく中で、感情の絵の具を使って、記憶という絵を心中のキャンバスに書き込んでゆく。歓喜に満ちた記憶なら、色鮮やかで華やかな絵が刻まれるだろう。その記憶が悲哀や苦痛に満ちたものなら、暗澹とした色合いになるかもしれない。

 

出来上がっていく絵に手を加えるのが魔のモノだ。奴はその暗澹たる属性の色は己のものだと主張し、パンくずで、ペンチングナイフで暗い色を削って白のキャンバスに戻して去ってゆく。そうしたやり方をこの世界の人々は知らずのうちに、あるいは知りながらも、迎合し、暮らしている。

 

そうして魔のモノとの共同作業により完成するのが、暖かい色しか使われていない絵だ。この世界に生きる彼らは、知ってか知らずか、魔のモノと協力して「生涯」という題名の一枚絵を見事なまでに平穏の作風に仕立て上げる。

 

その色使いと作風は周りのものに伝播させ、やがて世界からは一層暗澹の色と気配が消えてゆく。その末が、明るい絵ばかりを収集する美術館のごときこの世界だ。

 

そして、その中に一枚混じり込んだ異物こそが私。光明満ちた真作だらけの世界に、一枚紛れ込んだ、タッチも色使いも衛宮切嗣という男の正義の味方という夢を模倣して書きあげられただけの、陰鬱な贋作者の書き上げた絵こそが、私だ。

 

思う。このままいけばおそらくは聖杯を巡って魔のモノとやらと戦うことになるわけだが、仮に、負の感情を食って成長する魔のモノを倒してしまったのなら、負の感情が奪われるという出来事はなくなるというのだろうか? あるいは、スキルというものが無くなるのだろうか?

 

そうして人が今まで当たり前のように使用していたエネルギー確保の手段を失った時、果たして世界はどのように変化してゆくのだろうか? 世界は再び、エネルギーの利権などを巡って争いだらけの状態に戻るのだろうか?

 

そうやって魔のモノを倒すことが、世界の混乱を引き起こすことだとすれば、それは正義の味方として正しい行いなのだろうか。果たして、この世界の為になるのだろうか。

 

―――魔のモノと言峰綺礼を倒す。それは本当に、私の独り善がりではないのだろうか? 所詮は贋作でしかない私に、果たしてこの世界の当たり前の法則をどうこうする資格があるのだろうか? 果たして、これから自分がやろうとしている行為は、正義の味方として正しいものなのだろうか

 

「―――は、何をバカなことを」

 

そこまで考えて自嘲する。魔のモノという存在が現在の人々に影響を与えているというのはどうあれ、あの破滅思考の男が神として崇めるような存在なのだから、どうせろくなやつではあるまい。ならば、倒してしまったところでなんの問題もないはずだ。

 

「―――私も魔のモノの影響を受けたか……」

 

理性の化け物が忘却を強いる悪夢。否、魔のモノという存在によって己の抱いていた負の感情を食われる現象は、つい先ほどまでの眠りの中で、ついにその姿を消していた。そう、おそらく奴は、数千数万年以上における憎しみの収集の結果を見事に食い尽くしたのだ。

 

忘却の救済は為されてしまった。そうして胸の裡に溜め込んでいた負の感情が澱まで残さず元の色を取り戻した時、心中に残っていたものは、見事なまでにかつて己が大切としてきた記憶だった。

 

地獄の中で養父に助けられた瞬間。養父と誓いを交わした夜。土蔵で彼女と契約を交わした瞬間。彼女とともに運命の夜を駆け抜けた日々。決着をつけた後の彼女との別離。正義の味方を目指して活動した日々の中にあった平穏。助けた人々から礼を言われた瞬間。

 

そして、再び巡ってきた運命の夜、凛とした彼女とともに駆け抜けた日々。

 

それらの悲喜交々の感情を伴って思い出せる、今の自分を作り上げた原点の記憶はどれも色褪せず残り、キャンバスの上で鮮やかに輝きを放っている。それが。その絶望の着色をこそげ落とされた状態の心地よさが、今の私の葛藤を生み、迷いとなったのだろう。

 

「―――時間か」

 

エトリアの蒼穹を鐘の音が切り裂いた。長い間隔を置いて鳴り響いた三度の大きな音色に続いて、テノールの小さな鐘の音が三連打で三度鳴らされた。埋葬の予告と、死亡した人間の性別を告げる鐘の音が、漆喰と石畳の街に反響して路地裏の方まで通り抜ける。

 

東欧風の街に住まう人々は、その西欧式の鐘の合図を受けて、立ち止まり、静かに瞑目する。誰とも知らぬ人間のために、黙祷を捧げるその光景を見て、やはりこの魔のモノと契約をかわした人々が住まう世界には、しかし優しさが満ちていると思う。

 

「……いくか」

 

そのまま眺めていると、先ほどの禅問答のごとき堂々巡りに陥りそうだと考え、私は黒服を纏い、ノブを握って扉を開けた。

 

途端、階下の宿屋の入り口より昇ってきた風が、窓の空いた部屋を通り抜けてゆく。懊悩と苦悩により陰鬱な空気を漂わせていた部屋は、蒼穹広がる空から運ばれてくる快活な風によって驚くほどの爽やかさを取り戻す。その爽快な様は、まるで、真っ白な地塗りすら施されていないキャンバスのようだった。

 

 

葬儀の帰り道、合流した「異邦人」一同と共に執政院に向かう。私と同じく黒服を纏う彼ら四人のうち、響とピエールの二人は消沈気味で、ダリとサガの二人は多少落ち込みを見せていたが、ほぼ常と変わらない平生の態度だった。

 

その悲しみを未だ持ち得る者達と、すでにそれを忘れ去った者達の対比が先ほどの己の葛藤の比喩に見えて、私は思わず眉をひそめた。どうやら過去を引きずる癖はこんなところでも発揮されてしまうらしい。

 

そんな彼らの内に先ほどまでの懊悩を見つけて、辟易とした気分を抱えながら、彼らの後ろについて行く。やがて高い壁面の雨樋までが真っ白く塗られた壁沿いを静かに歩くと、以前、混乱を避けるために使用した裏口に辿り着く。

 

裏口を守っている兵士は私たちの姿を見ると、静々と綺麗な一礼をして見せて。門を解放してくれる。何も聞かずに通してくれるあたり、クーマが事情を説明していてくれたのだろう。

 

開かれた職員用の小さな扉を潜り、質素で殺風景な通路を進む。通常なら人に見せる場所でないためだろう飾り気のない廊下を五分ほども進み、突如として現れる華美な廊下に足を踏み入ると、すぐに目的地へと到達する。

 

ノックをすると、聞き慣れた声が入室の許可を告げて、私たちは中へと足を踏み入れた。

 

「……やぁ。事情は聞いたよ。彼のことは残念だったね。まさに青天の霹靂というやつだ。」

 

遠慮せずに座ってくれ、と着席を勧める彼の言に従い素直に腰を下ろすと、柔らかな素材のクッションがこれまでの疲労を労わるかのように、全身で優しく迎え入れてくれる。位置を調整して背を預けると、先ほどまでの気怠さと気まずさが溶け込んでいくかのような柔和さをそのソファは持っていた。

 

「……、それでは、早速で悪いのだけれど、番人討伐の報告をお願いできるかな」

 

 

「以上です」

 

ダリが三層番人戦における始まりから終わりまでの流れを一通り話し終えると、クーマは伸ばしていた背筋から力を抜いて、豪奢な装飾の椅子に深く背を預けてため息を吐いた。そうして天井を見上げる彼の顔には、疲労の色の他に、後悔の感情が混じっているように見受けられる。恐らく、特別調査の許可を出した事を後悔しているのだろう、と勝手ながら思う。

 

「そう、そうですか……。ご苦労様でした」

「いえ……」

 

彼の疲弊具合に、私たちは誰も続く声をかけられない。瀟洒で整った静かな空間は、謎の緊張感に包まれていた。壁にかけられた時計の時を刻む音だけが、やけに大きく部屋の中に鳴り響く。

 

「―――」

 

クーマが口を開きかけ、しかし躊躇して、口を遊ばせるだけに終える。再び訪れる沈黙。おそらくは誰かが舵取りをしないと進まないだろうな、と誰もが思っているのだろうが、クーマは葬儀直後のこちらに遠慮して。異邦人のメンツは疲弊の様子が見て取れる彼を慮ってだろう、己から口火を切ろうとしない。

 

「―――、クーマ。申し訳ないが、見ての通り、私たちは葬儀の直後で精神的に参っている人間が多い。なにもないのであれば、事務手続きを行ったのち、速やかに退散したいのだが」

 

仕方なしに、クーマとの顔を合わせた回数が少なく、最もシンという男と関係の薄かった私が口を開く。視線がこちらに集中した。彼らの目には、揃って安堵の色が浮かんでいた。よくやってくれた、よくやった、と言わんばかりのその瞳の群れを眺めて、私は行いの正しさを確信した。

 

「……ああ、すまない。ええと、そうだな……」

 

私の急かす言葉にいち早く反応したクーマは、しかしやはり少し躊躇して、けれど意を決したよう一つ大きく頷いて見せると、一転して迷いを捨てて真剣な目をしてその口を開いた。

 

「―――、皆さん。まずは改めて、お疲れ様でした。あなた方二つのギルドの活躍、および、合同調査により、見つかってから一年以上のも間、一層すら攻略されなかった新迷宮は、多大な犠牲を払いながらも、たった三ヶ月の間に三層までが攻略されたことになりました。本当に感謝しています」

 

ありがとうございます、と言ってクーマは丁寧に頭を下げた。多大な犠牲、という言葉に響が体を震わせた。体を上下させたのは一瞬。努めて己の意思でその後の反応を抑えたようだが、しかし彼女の反応を空気の振動から感じ取ったのだろう、彼は数秒程もかけて謝罪の意を示し続けたのち、頭の位置を元に戻すと、背筋を整え、一拍を置いてから再び口を開く。

 

「さて、言うまでもないことですが、我々が皆さん冒険者の方々に迷宮探索の依頼を行い、褒賞金を用意しておりますのは、迷宮の最も奥にある謎を説き明かして欲しいからです。かつて英雄達が旧迷宮の謎を解いたように、誰かに新迷宮の最も奥にある謎を解いて欲しい。それが私たち執政院の願いであります」

 

一度喋り出すと調子が出たのか、クーマは饒舌に話を続ける。

 

「さて、その謎についてですが……ところで皆さん。新迷宮の奥地に秘められた謎がなんだかご存知ですか? 」

「えっと……、あの、今さっき、謎だから調査を依頼しているって……」

 

響が馬鹿真面目に聞き返す。確かに最もだが、そんなことは彼も百も承知だろう。しかし、だからこそ聞いてきたのだ、と考えれば、おそらくは。

 

「ふむ、具体的にはわからんが、街や冒険者の間の噂では、赤死病の原因はあそこにあるのではないかと言われているな」

「赤くなって死ぬ。周囲の森や地面が赤く染まる。その辺りの共通点が判明した直後、執政院が謎に対して褒賞金をかけたから、そんな噂が立った、と言われているな」

 

私の言葉にダリが続く。私たちの言葉を聞いてクーマはニコリと笑みをうかべると、頷いて、私たちの言葉の後に続いた。

 

「はい。仰る通りです。正式には発表をしておりませんが、仰る通り、その認識で大まかには問題ありません」

 

やはり単なる認識のすり合わせのためか。

 

「なぁ、でも、街中に流れている噂と一緒だってんなら、なんでまたさっさと認めちまわないんだ?」

「ああ、それは確かにそうだ。正体がわかっているというなら、その方がエトリアに住むみんなも安心するだろう」

 

サガの疑問にダリが同意する。二人の様子を見ていたピエールは雅やかな金髪を揺らしながら大きく首を振って、苦笑を漏らした。

 

「やれやれ、わかっていませんねぇ」

「あ、何がだ? 」

 

サガがその挑発じみた言葉に反応して喧嘩ごしでつっかかり、顔を彼の方に突き出した。そうして差し出された鳶色の瞳の視線をピエールはさらりと避けると、やはり嘲笑じみた顔を崩すことなく答えを返す。

 

「人、特に冒険者を動かすのは未知です。未知の場所、未知の領域、未知のモノ。この先に何があるのか、この先にどんな魔物が待ち受けているのか、この先にゆけば今まで経験したことのないことが経験できるかもしれないからこそ、彼らは、私たち冒険者は、その未知がなんであるかを確認するために、命を賭して未知なる場所に出向くのです。なのにいきなり、

「答え」を提示されちゃあやる気が削がれるというもの。そんな場所に挑もうとする冒険者は減ってしまうでしょう。つまりは、挑戦者の母数を増やしたいがために、執政院はあえて、答えがわかっているのに、提示しない。……違いますか? 」

 

ピエールは己の推測を披露し、サガにやり込めてやったと言わんばかりの熱が込められた視線を返すと、一転して涼しげな表情でクーマに問いかけた。緑水の瞳を投げかけられたクーマはニコリと笑うと、口を開く。

 

「よくご存知です。―――ええ、もちろんそれもあります。特に旧迷宮においては、初代院長のヴィズルが貴方と同じ思考に至り、迷宮奥の謎を知っているにもかかわらず、知らぬふりをして謎に褒賞金をかけることで、冒険者を集め、人の交流を盛んにし、この街を発展させたと言います」

「―――それも?」

 

帰ってきたクーマの言葉にダリが素早く反応した。彼はその大柄な巨体をのそりと動かすと、クーマの机の方に乗り出して、尋ねる。

 

「その言い方だと、他にも理由があるということか」

「ええ。その通りです。―――、この際ですからはっきりと述べましょう。私たちは、ああして周囲の地形が赤く染まった場合、そこでは赤死病に関わる問題が起きているのだという事実を知っていた。だから、見つけてすぐに迷宮へ懸賞金をかけたのです」

 

赤死病。罹患した人間は、体が赤く染まったかと思うと、すぐに死んでしまうという病気。私が迷宮に潜ることを決めた原因となった病。ああ、そうだ。私は目の前で誰かが理不尽に死んでいくのが見たくなくて、迷宮に潜っていたのだった。

 

悪夢と焦燥に突き動かされていて考える暇がなくてすっかり忘れていたな、と今更ながらに初志を思い出して、内心でそっと自分の馬鹿さ加減を笑う。

 

「―――、それで、なぜ、今そんなことを明かすのです? 」

「ええ。じつは、皆様に依頼をお願いしたく思っておりまして。その依頼というものが先の事と関係しているのです―――、お引き受けいただけるのでしたら、踏み込んだことも含めまして、お話しいたしましょう」

 

クーマは柔和な目元にいくつもの真剣の証を刻んで、鋭い目線で私たちを一瞥した。なるほど、未知の事象に魅力を感じるという冒険者の琴線を擽っての交渉は、見事だと思う。

 

「……、ちなみに、受けなかった場合、クーマさんは私たちに執政院がその事実を隠していたということを知るだけ知って帰る事となるわけですが、よろしいので? 」

「構わないよ。どうせ市井にまで広がっている噂だ。今更君達がそのことを広めたところで、不確定な噂が信頼性の高い不確定な噂になるだけで、確定するわけじゃあない。結局のところ、私たち執政院が発表しない限り、真実はグレーなわけですから」

 

なるほど。いや、この世界の住人はこういった腹芸をしないと思っていたものだから、少しばかり驚いた。ああ、しかし、そういえばヘイも組合のカルテルを誤魔化すための手段を取っていたな。まぁ、負の感情が有ろうと無かろうと、為政者がこうした含んだ手段を取るのは変わらないらしい。

 

「―――私としては、受けてもよろしいと思いますが……」

 

言いながらピエールはゆっくりと首を回してゆく。彼と目があった異邦人のメンバーが彼の意思確認に頭を縦に振ることで答え、そうしてサガ、ダリ、響と続けたのち、体を私の真正面に向けなおして、続けた。

 

「いかがでしょうか? 」

 

彼の言葉に部屋の視線が私に集結する。後はお前の意思次第だ、という空気に、ともすればその提案への同意が正しい選択肢のように思えてしまう。さて、どうするか……。

 

「……双方に一つだけ聞きたい」

「はい、なんでしょうか? 」

「なんなりと」

「ではまずクーマ。聞くが、その依頼とやらは無茶なものでないのだろうな? 機密に抵触するから具体的な内容を言わないという点には目を瞑るとしても、依頼の簡単な難易度傾向位は教えてもらえないと、とてもでないが受領などできん」

 

これでもだいぶ甘い条件だが、この世界の住人に悪人はいないとの仮定の元、最低限の確認をする。クーマは質問を受けて、失礼、と少しの間額に手をやり考え込むと、数度側頭部を軽く叩き、結論を脳から捻り出して告げる。

 

「―――具体的な内容はまだ明かせませんが、何をしていただきたいかだけ言ってしまえば、基本的には今まで皆さんがやってきた事と変わらないことを改めてお願いする事になるとおもいます。まぁ、つまりは、新迷宮の未踏の場所の探索と調査と戦闘ですね」

「―――なるほど、了解した。さて、ピエール。クーマのいう、それを仮にわたしだけ受領しなかった場合、君たちはどうするつもりなんだ? 」

 

返す刀で彼に質問を浴びせかける。すると彼はその薄い唇を奥に引っ込めて、目元を緩めてニコリと笑うと、楽器を鳴らそうとして、しかしないことに気がつき、少しばかり不満の様相が混じった表情で答えた。

 

「まぁ、当然、私たちも受領を断念するしかないでしょうねぇ。―――、最大戦力が抜けたパーティーで、物理アタッカーの要が抜けた状態であの新迷宮の詳しい探索や調査、戦闘なんか、できるわけがないんですから」

 

ピエールは話の途中で少し言葉を詰まらせながらも、断言した。最大戦力、のあたりで悲痛の表情を浮かべたのは、おそらくシンという男のことを思い出したからだろう。

 

「というわけで、できることなら、貴方にも依頼を受託していただきたいのですが」

 

しかし己の感傷など今は関係ないと言わんばかりに、飄々とピエールは続ける。彼の言動を受けて一同を見渡すと、ダリもサガもピエールの言う通りだと言わんばかりの表情でこちらを見ている。

 

そうして男三人を見渡したのち、最後に響という少女に目を落とす。紅一点の彼女は、その小さな体の上でセミロングの茶髪を揺らしながら、綺麗な青の瞳を私の方に向けてくる。その真っ直ぐな瞳から、貴方がどんな選択をしようが、私は恨まないし憎みませんという純粋さが見て取れて、少しばかり罪悪感が生まれた。

 

……、さて、よく考えれば、私の命を救ったあの男と彼女が一人前になるまで見守ってやると言ってしまったわけであるし、まぁ、仕方あるまいか。

 

「了解だ。この話、私も受けよう。ただし、その話を聞いてあまり無茶なものだと判断したならば、規約がどうあれ断らせてもらうが―――」

「―――、ああ! もちろん、それで構わないよ! 」

 

エトリアが無茶をおしつけるなら、私は私の好きにやるという宣言を、しかしクーマは快く受け入れて、喜んで手を叩きあわせて答えに対して歓迎の意を示す。さて、この辺りの甘さはやはり不安だの悩みだのの感情を溜め込めない部分からきているのだろうか。

 

そうして腰を椅子から浮かしかけて喜んだクーマは、己の状態を省みて少し恥ずかしそうに咳払いをして座り直して腰の位置を調整すると、背筋を正して改めて告げる。

 

「では早速―――、あ、ところで皆さん。旧迷宮の五層について、何か知っていることはおありですか?」

 

依頼を話すと思いきや、やはり話を脱線させるクーマ。こちらがどこまで情報を知っているのかを確かめてから、足りない部分だけを語るのが彼のやり方らしい。無駄を嫌うその様は、為政者らしい几帳面の現れといえばそうなのだが、そもそも私は何も知らないのだから、最初から全てを語ってくれればそれで済むのにと、回りくどさを感じてしまう。

 

「ああ、いや、多分、三竜がいるんじゃねーの、くらいしかしらね」

「サガと同じく。噂では三竜や、それに相当する危険な生物だらけで、生半可な冒険者では生きて帰るのも困難だから封鎖していると聞きましたが……」

「私もサガやピエールと同じくらいしか知りません」

 

サガ、ピエール、響はそう返す。対して、ダリは少し戸惑った様子でクーマに問いかけた。

 

「私は知っているが……」

 

いいのか、と彼は視線でクーマに問いかける。そういえば、彼は元衛兵だったな、と今更ながらに思い出す。背の高い彼からの鋭い目線を受けてクーマは静かに頷くと、ダリは所作から了承と説明の依頼の意を読み取って、咳払い一つで場を整えると静かに語り出した。

 

「旧迷宮五層。今や腕利きの冒険者や有名な冒険者ですら滅多に潜入の許可がおりないその場所。その理由は市井では諸説様々な噂が流れているが、実の所、たった一つの理由なんだ」

 

ダリは言って、再びクーマに目線を送る。本当に言って良いのか、と問いかける視線に、やはり頷き一つで了承の意を示す。ダリは彼のその所作を見て、 唾を嚥下する音を鳴らすと、意を決して口を開いた。

 

「―――、その階層の……、第五階層で取れる遺物を持ち帰って欲しくない。あそこにあるのは、かつて世界を滅ぼした道具がゴロゴロと眠っているんだ。そう、あの第五層、「遺都シンジュク」には」

 

 

「新宿……、だと……! 」

 

ダリの言葉に、今までほとんど己は無関係である、という体裁を貫いていたエミヤが過剰に反応する。いつものすました顔は何処へやら、目を見開いて、腕を組んだ体を前に乗り出して、その言葉を発した人物の方へと一歩を踏み出していた。

 

彼のその言葉に、みなの視線が集中する。すぐさま冷静さを取り戻した彼は、己の醜態にたいしてしくじった、というバツが悪そうな顔で視線を斜め下にそらすと、

 

「いや……、なんでもない」

 

と言って、再び腕を組んだ姿勢に戻る。多分本人としては、ごまかしたい話だから気にしないでほしいとの意思表示の態度なのだろうけれど、今度の依頼と深く関わるのだろう旧迷宮の五層に関する情報を知っている反応をみせておいて、放っておかれるわけがないだろうと思う。

 

「……エミヤ。あの反応を見せておいて、流石にそれはどうかと思うぞ」

「なぁ、エミヤ。お前何か知ってんのか? 」

 

予想通り、ダリとサガが突っ込んだ。そうして追求の視線と言葉を向けられるエミヤは、しかし聞いてくれるなと言わんばかりの態度で、目を閉じて、腕を組んで、壁に背を預けてこちらとの交信にたいして一切の途絶の意思を貫いている。

 

やがて一分としないうちにダリとサガが頑なな彼の態度に追求の手を諦めた頃、三人の様子をじっと眺めていたクーマは、静かに息を吐くと、微笑んで告げた。

 

「エミヤ。貴方やはり、過去からの来訪者ですね? 」

「――――――」

 

クーマの言葉に、無言と無反応を貫いていた彼が始めて体を揺らした。多分、動揺したのだろう。彼は閉じていた瞼をゆっくりと開けると、その鷹のような鋭い目をクーマに向けて、静かにじっと見つめる。その射抜く視線は、お前は何を知っているのか、と問うているように見えた。その視線をじっと見返したクーマは、一切怯むことなく空中で彼のそれと激突させると、やはり静かに、しかし部屋に響く声で告げる。

 

「――――――、エミヤ。かつてこのエトリアの旧迷宮を救った五人の一人に、フレドリカという女性がいました。当時はまだ少女に過ぎなかった彼女は、エトリアに来た当初、当時のギルド長ガンリュウの元で職業システムについて深い知識を披露し、しかし執政院でいくつもの常識外れの行動を取って問題を起こして当時のオレルスを怒らせ、金鹿の酒場ではハンバーガーが食べたいといって当時の女将のサクヤを辟易させるひと騒動を起こす問題児であり、この世界では滅多に出回らない銃という武器を使用する、ガンナーという特殊職だったと言います」

「―――、銃……、ガンナー……」

 

エミヤはクーマのいった一言をつぶやくと、絶句、という表現が相応しい、口を半開きにした顔をする。クーマはその様子を見てにこりと笑うと立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。クーマは表紙が手垢で擦り切れる程読み込まれた本をパラパラとめくると、あるページでピタリと止めて、机の上に置き、差し出した。

 

「そんな貴方とよく似た彼女は、嘘か真か、この街に現れた当初、千十六歳を名乗っていました。なんでも、この本の記録によると、なんでも、旧世界の遺跡でずっと眠っていて、当時のオレルスに招聘されたハイランダーの方と、ハイラガードからの調査隊によって目覚めさせられたとか」

「――――――」

 

無言を貫くエミヤは落ち着きを取り戻したようで、身じろぎ一つしないまま、クーマの話を静かに傾聴している。だが、決して気を許したわけではない、というのが、その剣呑な態度から読み取ることができた。クーマはそんな彼の態度を見て、しかし変わらず笑みを浮かべたまま続ける。

 

「そんな彼女も、エトリアに来てから数ヶ月の間は、必要以上に警戒を怠らない態度だったと聞きます。まぁ、いきなりあの技術の栄えていた世界から、千年以上も後の、彼女の生きていた当時からすれば不便な世界にやってきたのなら、当然といえば当然の態度なのでしょう。……、ですから、エミヤ。私は、過去からやって来たのだろう貴方が、同じように警戒を露わにしていても仕方のないことだと思います。、ですから、私からはこれ以上は何も聞きません。話したくなったら話してくだされば結構です―――さて、話を戻しますが……」

 

言って、クーマはエミヤから視線を外して私たちを見回すと、本当にそこで話を打ち切って全員にたいして語りかけてくる。クーマの態度にエミヤは、やはり彼にしては珍しく呆気にとられた顔をして、クーマの方に呆然の視線を返していた。

 

彼の事情が気にならないといえば嘘になるが、たしかに人間、語りたくない事情の一つや二つはあるだろう。なら、わざわざ傷を抉るようなことをしないほうがいいだろうと思った。多分、そうして語りたがらないということは、彼にとって、それは喜びと悲しみが入り混じった複雑な記憶なのだろう、と思えるくらいには、今の私には同情の心と分別があるつもりだ。

 

「ダリが説明してくれたように、私たちが旧迷宮五層の出入りを制限しているのは、過去の時代の旧異物を持ち帰って欲しくないからです。あそこにある過去の技術の塊は、どれも使っていると、世界樹―――すなわち、この大地の基礎となる環境を悪化させる要因になるものだからです。環境の悪化は、世界樹にダメージを与え、フォレストセルと呼ばれる魔物が生まれる原因となったり、悪食の妖蛆と呼ばれる存在を活性化させたり、あるいは意思を持つに至った世界樹自体が暴走する原因になり、そして―――」

 

クーマはそこで一旦話を切ると、長い話で乾いたのか、失礼、と言って近くの水差しからコップに水を入れ、それを飲んで息を整えて続けた。

 

「そうして世界樹が弱まると、世界樹が抑えている魔のモノと呼ばれる存在が活性化し、やがて周囲は、魔のモノが侵食した証として、旧迷宮第六層、「真朱の窟/まそおのいわむろ」のように赤に染まってゆく。そしてその魔のモノの侵食こそが、赤死病の正体なのです」

「―――、……」

 

エミヤは魔のモノ、という言葉に少しだけ反応して、身じろぎをして見せたが、先ほどの醜態は二度と晒さぬと言わんばかりに両腕を強く握りしめて、不動の姿勢を保っている。なんというか、案外わかりやすい反応をする人なのだな、と思う。

 

しかし、今はそれどころではない。クーマはとんでもないことを言った。

 

「魔のモノが……、赤死病の正体……? 」

 

私はクーマの言った事を復唱する。それは私が追い求めていた謎。私を冒険者へと導いた病気。両親が赤死病で死んで心としまったからこそ、私はこうして今この場にいるのだ。その謎がこうしてあっさりと明かされたということは、私の心に多大な影響を及ぼして、思考は停止へと追いやられた。

 

「おい、クーマそれはどういうことだ。そんな話は衛兵の頃に聞いた覚えはないぞ」

「ええ、それはそうでしょう。魔のモノの存在と赤死病の正体は、執政院の中でも更に一部のモノにしか知らされていませんから。知っているのは、私とゴリン、今は不在の院長といった、旧迷宮六層の存在をしる人間くらいでしょう」

「魔のモノってぇのは、そんなにすげーやつなのか?」

「ええ。なにせ、奴はかつて一度世界が滅びた原因ですから。その存在を知られたくないが故に、私たちは新迷宮周辺が赤く染まった原因、つまり赤死病の原因が魔のモノと知りながら、それでも知らないふりをして、新迷宮の謎を解いてくれ、とお触れを出して懸賞金をかけたのです」

「赤死病の正体が魔のモノ由来のモノと知られたくないから、ですか」

「ええ。魔のモノの事を話すとなると、五層の事も話さなくてはなりませんし、五層の事を話すと、まぁ、他にも色々な事を明かさないといけなくなりますから。とはいえ皆さんの場合もうこちら側ですし、興味がおありでしたら、魔のモノについてだろうと、第五層についてだろうと今度詳しくお話しして聞かせますよ」

「ああ、それは是非。いやぁ、心が踊りますねぇ」

 

彼らの会話だけが耳に入ってくる。だが、その様子を観察しようという気にはならなかった。不思議なことに、両親を赤死病で亡くした際にあった悲しいとかの感情は消え去っているはずなのに、彼らが死んだ原因を隠していたという事実に対する怒りがこみ上げてくる。由来もわからないその憤怒の感情は、目の前で朗らかに会話を続ける彼らを目の前にして、グツグツと煮立ったスープのように、その温度を上げ続けていた。

 

―――じゃあ、そんな貴方達の都合で、シンは死んでしまったのか

 

「――――――、あ……! 」

「―――、ご歓談中悪いのだがね。そろそろ本題に入ってくれないか? 」

 

喉元まで出かかっていた沸騰した思いを吐き出そうとした瞬間、我関せずを貫いていたエミヤが口を開いた。彼は普段通りを装ってはいたが、まるで感情というものが抜け落ちたかのような様はどうにも不自然で、それが逆に、彼が冷静を努めているのだなと直感させた。

 

「クーマ、結局依頼とはなんだ。君は私と彼らに何をさせたいのだ」

 

そういえば、話の焦点はもともとクーマの依頼であった事を思い出す。逸れていた話の熱に冷や水がかけられた事で、煮沸していた気持ちもまるで蒸気のように霧散してゆく。彼の冷たい一言は、私の煮立った気持ちを冷めさせてくれる効果を持っていた。

 

ダリやサガ、ピエールに魔のモノの説明を行なっていたクーマは、エミヤの一言を聞いて、またやってしまったか、といった感じのバツが悪そうな顔を浮かべると、いつものように咳払いをして、姿勢を正し、そして告げた。

 

「はい、私たちの依頼とは、つまりはこうです。新迷宮の奥へと挑み、その奥にいるのだろう魔のモノを鎮めて欲しい。―――、これを使用する事で」

「――――――」

 

クーマの差し出した赤い石を見た瞬間、エミヤは今度こそ目元から肩に至るまでの間の全ての力を抜いて、愕然という言葉が似合う姿で、その宝石を指差した。

 

「―――、それは」

「珍しいでしょう? シンジュクの更に地下、真朱の窟の更に深いところで見つけた、世界樹の上という環境では滅多に手に入らない宝石、天然のルビーです。……多分、貴方の生きていた時代でも相当珍しいものだったのでしょうね」

 

差し出されたそれは、たしかに非常に綺麗な赤い石だった。オーバルカットされたそれは、カッティングされてなお、手のひらに乗せて余るほどの大きさの石で、その縁を彩る金属の造形も素晴らしい。おそらくは一流の職人の仕事だろう。

 

そうして周囲の光を取り込んで光輝を振りまく宝石は、たしかに気品と風格があったけれど、何故それをクーマは珍しいというのか、なぜそれを見てエミヤが驚いているのかはまるで検討もつかない。だって、あのくらいの大きさのものなら、旧迷宮の三層で取れる鋼石、コランダム原石から造れるルビーやサファイアの方が、よほど大きいものが手に入る。

 

その答えを求めて周囲を見渡すと、同じような疑問を抱いていたのは私だけでないようで、ダリもサガも疑問を顔に浮かべて首を傾げている。ただ一人、ピエールだけが好奇の視線でその赤い宝石を眺めていた。どうやら彼だけは事情を知っているようだ。

 

「へぇ、本物の宝石なんて久しぶりに見ましたよ。実家を出て以来です」

「あの……、ピエール? ルビーのどこがそんなに珍しいの? 」

 

尋ねると彼は、まずは驚いた顔をしてみせて、次に意地悪く口角を上げると、にこやかにクーマに話しかけた。

 

「クーマ。手にとって見てもよろしいですか? 」

「ええ、もちろん。でも、扱いには気をつけてくださいね」

「ええ。傷をつけてインクルージョンを増やすような真似はしませんよ」

 

いうと彼はクーマの手のひらから、恭しくハンカチを用いてその宝石を己の手にして、大事に布で包み込むと、両手の平で優しく包み込んで私の前まで持ってきて、広げた。

 

「覗き込んで御覧なさい」

「―――わぁ……! 」

 

途端、その透明度に見惚れた。いつものルビーと違って表面に現れる六条の光はぼやけた輝きであるのにだからといって頼りないわけでなく存在感を主張し、そして宝石の中に閉じ込められた光は、いつものとは比べものにならないくらい内部でキラキラと乱反射を繰り返して、宝石の周りに真紅の色をばら撒いていた。

 

「これが本物の宝石です。私たちが日頃アクセサリーなどに用いる人造のものとは違う、天然の宝石。私の家にあった、六爪の指輪に支えられた透明なダイヤなどより、よっぽど品があり、美しい……」

「これが本物……」

 

なるほど、たしかに目の前のルビーには、今まで自分が取り扱ってきたもの全てが贋作であると思えるほど、内部は星空の光をそのまま閉じ込めたかのような流動性に満ちていて、決して人の意思が介在しては作り出すことのできない、天然の優雅さと高貴さがあった。

 

「―――あ」

「―――――――――」

 

そうして天然の鉱石の内部に作り出された万華鏡の光を楽しんでいると、やがて突然、鑑賞は浅黒い肌によって遮られた。エミヤの大きな手はそっとルビーの縁を掴むと、くるりと回して背面を確認し、そしてもう一度表面にすると、宝石を手にした時と同じように、呆然と驚愕の感情を使い切ったような表情で佇む。

 

「心配しなくとも、片面半分だけの贋作なんかじゃあありませんよ」

 

ピエールが言ったそんな言葉も、今の彼には届いていないらしく、ルビーを持った時の姿勢のままで固まっている。目の前に出現した赤のたくましい彫像は、その固定化された外面とは裏腹に、その内面ではルビーの中の光の乱反射もかくやという勢いでいろんな思いが錯綜しているに違いない。一体何がそんなに彼の琴線にふれたというのだろうか。

 

「―――クーマ、君は一体、これをどこで手に入れたと言った? 」

 

エミヤは滅多に崩さないその仏頂面を珍しく崩していた。その質問も、思わず素直に口から出てきたという風に見受けられる。どうやらそのルビーの登場は冷静を常の態度と彼の仮面を剥がしてしまうほど、よほどの重大な予想外であったらしい。

 

「旧迷宮、第五層シンジュクの最下層にある建物から、さらに地下に潜った場所にある、第六層「真朱の窟」の一番下のある部屋に置かれていました。初代院長ヴィズルの記録によりますと、このトオサカの宝石は、魔のモノの侵食を抑制する効果があるらしいのです」

 

トオサカ。その名前に、今度こそエミヤは感情抑制の臨界点を超えたようで、体内に残っていた分の驚愕を余さず使い切ったかのように、取り繕うのを忘れて、息を呑んで目を見開き仰け反って、愕然とした表情で手にしていた宝石を布の上からそっと握りしめた。

 

エミヤのその宝石を握る動作は無意識だったのだろうが、しかし宝石に対しての優しさを秘めていて、決して手荒なものではなかった。その思慮と遠慮の入り混じった所作からは、ルビーに対する特別の思いが見て取れて、私は直感する。

 

―――間違いない。エミヤは、このトオサカの宝石について、何か知っている。

 

シンジュク、魔のモノ、トオサカの宝石についてなど、エトリアの相当上層部の中でも、さらに限られた一部しか知り得ない、遥か昔に滅びた過去の知識を知っているなんて、普通じゃない。多分彼は、おそらく先ほどクーマが言っていた、過去からやってきた人間、という推測が正しいのだろうな、と勝手に思い始めていた。

 

しかし不思議だ。

 

一体、なぜ彼はそんなにも頑なに、そんなどうでもいい事を隠そうとするのだろうか。

 

 

木目の扉を開けて部屋の中へと入ると、満たされていた温熱の空気を突き進んで窓を解放する。窓から吹き込んでくる風は、あっという間に部屋と扉の通り道を駆け抜けて、部屋の隅々まで森羅の香りが満ちてゆく。

 

おそらくそろそろ夏の季節だからだろう、部屋を駆け抜け体を撫ぜる風は、涼しさの中にもどこか生暖かさを秘めていた。部屋の扉が風に押されて、大きな音を立てて自然と閉じる。

 

女将の文句が飛んでくる前に扉を閉めてくれた一瞬の颶風に感謝すると、胸元より赤い宝石を取り出して夜空に掲げた。すると真紅の宝石は、天空より落ちてくる淡い光と、街中に満ちる街灯の光を表裏より取り込んで、これ以上ないくらいに存在感を主張した。

 

宝石は月光と燭光を吸収し、その周囲の空間との間に真紅の壁を作り出して内外の関わりを断絶している。己の周囲にオーラを纏うようにして存在感を撒き散らすその所業は、宝石の内部に魔力という余分が蓄えられた状態でしか起きない現象だ。

 

溜め込まれた内部の魔力が絶え間なく流動することによって生じる独特のこの光の反射がなければ、たとえその姿と宝石が関する名前が、かつて彼女が持っていたものと同じだとしても私はこの宝石が凛のものであると確信はしなかっただろう。それくらいには、この宝石が目の前にあるという奇跡は信じがたいものだった。

 

「―――、魔のモノを封じる力、か」

 

そう、これは、間違いなく、凛という彼女が持っていた、遠坂家秘伝の切り札となる宝石だ。かつて己を死の淵から救いあげた宝石が、今この手の中にある。数千年の時を超えた邂逅は、驚愕の事実伴って私を興奮の坩堝に叩き込んだが、夜風と月夜に晒されて淡い光を放つその宝石は、興奮の余熱が収まらぬ私の意識を冷静の状態へと変化させる効力を持っていた。

 

私は部屋にそよそよと侵入する涼やかな風の移動を邪魔するように窓辺に腰かけると、胸の内に大切に宝石をしまいこんで腕を組む。そうしてそのまま何をするでも無く部屋の中に飛び込む月と街の明かりが生むコントラストの変化を楽しんでいると、部屋の明るさが先の会談の場所のそれと一致したためか、ぼうっとした頭はとつぜん先程のクーマと異邦人一同との話し合いをの事を思い出すこととなった。

 

―――しかし、醜態を晒してしまったな

 

新宿、魔のモノ、赤死病の正体、提供された情報はどれも私の裡の琴線をかき乱して胸の底までを混沌に叩き込む十分な破壊力を秘めていたが、特に実体のあるこの宝石を目の前にした際は、逆波渦巻く心中の内部を混乱もろとも欠片も残さず吹き飛ばすほどの威力で、私の余所行きの仮面を全て吹き飛ばしてしまったのだ。

 

その結果があの無様だ。彼が魔術という存在を知らなかったが故に、己がこの世界にやってきた詳細な理由などを予測して的中させられることはなかったが、それでもだいぶ私の正体と近いところまで勘付かれている。加えて、トオサカという名が過去の記録に残っている事から考えるに、このまま調査が進むと、いつかは己の隠し事全てが暴かれてしまうかもしれない。

 

―――……、ふむ

 

そう考えて、喉に骨が引っかかったような違和感を覚えた。……、そもそも、なぜ己の正体が暴かれることにこうも抵抗を覚えるのだろうか。どうせもはや誰も己の事を知らぬ世界だ。また、この世界では、魔術の代わりとなるスキルという技術が隠匿されることも無く一般の隅々にまで広がっている。さらに一部の人間は、過去から来た人間というものを受け入れる度量すら持ち合わせていることが此度の会見で判明した。

 

そんな世界において今更、己が元英霊で過去の存在であるだとか、魔術という異能を異端者であるとかは、己の正体を隠す言い訳にもならない。ならばわたしは一体、なぜ―――

 

「―――む」

 

疑惑を思考しようとしたその時、部屋ごと吹き飛ばすかのような風が吹いた。小さな窓よりその威力を強めながら部屋に入り込む颶風は、窓辺に腰掛ける私の背を強く押して、立ち上がることを強要する。

 

私はその要望に素直に従って両の足で木板の地面を踏みしめると、背後より不躾な振る舞いをした輩の顔を拝んでやろうとするかのように、振り向いて四角い窓の外へと視線を移した。

 

「―――ああ」

 

瞬間、視界いっぱいに広がる、平穏の光景。夜空と街との狭間で自然と人工の光が衝突を起こして、淡い光の霧を生み出している。霧は我を主張することなく、静かにエトリアの街を包み込むオーロラとなりて、森林に囲まれた夜の街に光の帳を下ろしていた。

 

視線を街から外してみれば、雲一つない夜空、その中心で煌々と輝く満月は、その嫋やかな光彩を惜しげもなく街近くの森林から草原を辿り、山の稜線にまでその領域を広げて、月下は美しきに溢れている。

 

そこだけ切り取れば、寂寞と雀躍の色を引き裂く様にして希望が塗りたくられたような景色は、まさに負の感情というものと無縁という世界を象徴するかのような寓意に満ちていて、私は、己がなぜこうも己の正体を明かすことに躊躇しているのかを悟らせる効力を存分に発揮していた。

 

―――果たして。この負の感情が一夜で失われる未来の世界において、私という、もはや別世界と言っていいほど異なる環境にて気質性質を培ってきた人間が考える正義とは、本当にこの世界においての正義と呼べるのか

 

とどのつまり私は、私の目指す正義の味方というものが、この世界において独善でないかを心配しているのだ。昼間の葛藤と同じだ。私の独善というタッチも色合いも違う異物が、優しさをモチーフにして書きあげられた絵画のようなこの世界に加わることで、絵が元の美しさを損ない、粗野で野卑な贋作めいた作品になることを、なによりも恐れている。

 

―――私は……

 

 

A.いや、こんなことを考えている暇はない。

B.一旦、時間をかけてこの世界のことを深く知る必要があるかもしれない。

 

 

→ A:選択

 

 

いや、今はそんなことを悠長に考えている場合ではない。クーマはまだ余裕があるとは言っていたが、言峰の言動から察するに、魔のモノは今こうしている時も、負の感情を糧として力を蓄え、なにかを企んでいるに違いない。

 

宝石を用いて封印作業を行うなら、相手の力は少しでも万全でない内に処理を行った方がいいに決まっている。雑事を考え懊悩するのは、奴らの処分が全て終わってからでも遅くはないはずだ。

 

私は決心して、一歩を踏み出すと、扉を開けて階下へと向かう。主人を失った部屋の中は、主人の心の伽藍堂を象徴するかのように空虚に満ちていて、扉が静かに閉じられた後はすきま風ひとつ起こらない静寂さを取り戻していた。

 

―――この部屋に夜明けの光が差し込む時は、まだ遠い。

 

 

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十一話 「生き方を選べ」

 




本来ならこのパートは前回の部分と混ぜようかと考えていた部分なのですが、独自設定の情報量が多かったのと、マルチエンディングに向けて情報の整理がしたかったので、分離しました。その弊害で、今回は内容が少なめです。

また、今更ですが、本作はクロス元の原作ゲームらしく、マルチエンディングシステムを採用しております。normal、good、true ending、というよりは、元老院ルート、深都ルート、真祖ルートみたいな感じです。


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世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 / 夢の続き
第十二話 高波は風水の交流にて引き起こされ


世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十二話 高波は風水の交流にて引き起こされ

 

属性、気質、性格が己と大いに違う相手とぶつかり合う。

つまるところ、大なる変化はその果てにしか現れない。

 

 

人一人を失っても、世界はいつもと変わらないで、気の向くままに寒暖の間を行き来する。家を出ると、今日は機嫌が悪いのか、多少の蒸し暑さを取り戻した街を突っ切ってヘイの道具屋を一人で訪れると、いつもと変わらぬ鈴の音が私を迎え入れてくれた。

 

カランカランと鳴り響く清涼さに招かれる様にして中へと足を踏み入れると、すぐさまその軽快とは相容れない重い地響きが上層階より階下にまで響いて、音とともに奥よりこの店の主人が現れた。

 

「やぁ、響。いらっしゃい」

 

そうして奥より現れたヘイは私を見て、いつもの様な朗らかな笑顔を向けてくれる。

 

「どうもこんにちは」

 

彼の言葉にわたしもいつものようにぺこりと頭を下げて応対する。

 

「珍しいな。嬢ちゃん一人でここに来るのは」

「ええ、そうですね。基本的には両親と一緒か、ギルドの仲間と一緒に来ることばかりでしたから」

 

答えると、彼はしまった、と言う顔をして、けれど、以前私がやった、気にしないでくださいという態度を思い出してくれたのか、すぐさまいつものにこやかさを顔に貼り付けると、再びわたしに問いかけてきた。

 

「それで、何の用だい? こちらで預かっていた分の武器防具の修繕ならもう終えたから、あいつらに返したはずだけど」

「ああ、ええ、はい。その、じつは、例の武器を受け取りに……」

 

おずおずと答えると、ヘイは首を傾げながら言う。

 

「んん? 響、お前さん、シンの刀を引き継いだんじゃあなかったのか? 」

 

シン。さらりと述べられたその名前に胸がちくりと痛む。この痛みこそが未だに自分が彼を事を忘れていないでいられる証しだとしても、やはり未だに違和感を覚えてしまう。ままならないものだ。

 

「ええ。たしかにそうなんですが、ここ数日素材を集める合間でエミヤさんに刀を振る様子を見てもらったところ、あの刀身が太く重量もそこそこある剣を私が振り回すには、まだ力も経験も足りないと言われまして。そこでみんなに相談したところ、この前出来た刀を使えばいいんじゃないかと言う事になりまして」

「ははぁ、なるほど」

 

ヘイは軽く何度も頷いて見せると店の奥に引っ込み、そしてすぐさま戻ってくる。彼の太い手には、すらりと直線の袋麻が握られていた。彼はそれを木の机台に置くと、袋の帯紐を解いてその中身を取り出した。

 

「これが、以前お前さんたちが持ち込んだ虫の薄羽を鋳造、加工して作り上げた品だ。羽の量が大した枚数なかったから小刀になったが、たしかに今のお前になら丁度いいだろう」

 

言ってヘイは小刀をとりだすと、鞘から引き抜いて、布地の上に刀身を置いた。反りは無く、直刃。切る、と言うよりも突く事に特化したような作りの六十センチの刀身は、通常の打刀というより、脇差、ナイフに近いように見えるが、しかし、短くなろうと決して刀身から斬るという機能が失われていない事を主張するかのように、棟区から切っ先までを冷たく輝かせ、その怜悧さと機能美を主張していた。

 

「これがご所望の品だ。銘は「薄緑」とした」

 

言うと、彼は昼間なのにランプの光を用意して、刀身の近くに配置する。すると光の一部を受けた刀身は、七色のうち緑の色だけを選定したかのように地金で反射して、刀身の周囲に綺麗な薄緑色を纏って輝いている。ああ、なるほど由来が一目でわかるいい名前だと思う。

 

私はその誘うような刀身の光の眼差しに吸い込まれるように柄へと手を伸ばすと、手にとって感触を確かめる。

 

「……軽い」

「だろう? しかし、その軽さとは裏腹に、驚くほど良く斬れる。……ちょっとまってろ」

 

いうとヘイは近くにある鍛冶場の炉付近から適当な薄い鉄の塊を持ってきて机の上に置くと、こちらを見て顎を軽く振ってその塊に注意を送るように指示を出す。私は彼の言わんとしている事が理解できて、思わず呟いた。

 

「正気ですか? 」

「力を入れなくていい。軽く押すだけのつもりでやってみな」

 

彼の迷いのない指示に戸惑いを覚えながらも、恐る恐る指示通り塊に刃を当てて、押し込む。すると触れた刃は予想とはまるで異なる動きを見せて、けれど彼の想定通りなのだろう、するりと一体化してゆくかのように刀身が残らず鉄塊の内部に吸い込まれたかと思うと、抵抗というものを忘れたかのようにすとんと落ちて、鉄塊と机との接点までを分断した。

 

あまりの予想外に思わず勢いよく刃から手を離すと、刃はそのまま木製の机に上に柄の部分だけを残して吸い込まれた。ヘイはおいおい、店の備品を壊すなよと笑いながら、剣を机より引き抜いた。そうして現れた刀身には刃毀れも曇りもなく、ランプの光を浴びて先程と全く変わらない姿を晒し続けている。

 

「……すごい」

「だろう? まぁ、なんでも、とは言わないだろうが、少なくともウチで扱っている武器のどれよりも軽く、硬く、そして鋭い。……、入門編の代物として扱うにしちゃ上等すぎるが、そんな素人同然の腕前ながら今後もあの新迷宮深層に潜る嬢ちゃんにはうってつけかもな」

 

ヘイはぼやきながらも薄緑の刀身を鞘に収め、こちらへと押し出した。私はそれをおっかなびっくりながらも手に取ると、鞘を握りしめてその感触を確かめる。羽のように軽すぎて。ともすれば重さすら失ってしまいそうなそれは、シンという男が命を賭して手に入れた品を加工した品だ。その見た目の重さに惑わされて込められた真の重量を忘れないように、ぎゅっと握りしめると、腰のベルト部分に差し込んで、固定してやる。

 

普段は何も詰め込んでいない部分に物を突っ込んだ事で、刀と触れた体の部分が当然のように違和感を主張したが、その感触が刀本来の主人である彼の事を忘れないという決意のように思えて、今は有難いと思う。

 

「ありがたく……、頂いていきます」

「ああ」

 

断言して頭を下げると、彼は短く了承の返事をくれる。その迷いのない断言はヘイが私をシンの後継者として認めてくれているように思えて、私は少しばかり落ち込みかけていた気分を上向きにしてくれた。

 

多少向上した気分を胸に宿すと、もう一度深々と頭を下げて、店から立ち去ろうとする。そうして扉に取り付けられた鈴の音が鳴り響く直前、彼は思い出したかのように机を叩いて、なぁ、と声をかけてくる。

 

振り向いて彼の顔を確認すると、熊のような大柄な体型に似合わない、太い眉をひそめて、口を窄め、優柔不断の顔をしながら、しかしはっきりと聞いてきた。

 

「なぁ、お前さんから見て、エミヤの調子はどうだい? 」

「……、いつもと変わらず、冷静で調子を崩さず、しっかりとした感じで―――」

 

そこまで言って、言い淀む。口籠もりに現れた心中の戸惑いは、エミヤの最近を知らぬのだろうヘイにも、彼の現在の様子を雄弁に伝えたようだった。彼は重苦しくため息をついて、ぼやく。

 

「やっぱり、焦っている感じか」

「……、ええ。理由はわかりませんが、新迷宮の奥へ早く到達してやろうという意思が感じられます。多分、今回私にさっさと助言をくれたのも、それが原因だと思います」

 

付け加えるならエミヤは多分、自分が過去の人間であるという事実が原因で、焦りと迷いを抱いているのだろうと私は思っている。ただ、彼に私の考えが正しいのかどうかを聞いて確かめたわけでない以上、そんな私の勝手な妄想をさも事実であるかのように語るのは失礼だと思ったため、私はそれ以上のことをヘイには語らなかった。

 

「この前、ダリと一緒に犬の頭を持ち込んだ時も、だいぶ思いつめた様子だったからな。多分、シンの事が原因になっているんだとはおもうが―――まぁ、あんまり一人で思いつめないように気を使ってやってくれ」

 

シン。そういえばエミヤも彼がいなくなった事を気にかけていたな、と思い出すと同時に、そうしてエミヤの事を気にするくせに、さらりとシンのことを流すヘイの態度が少しばかり気に食わなくて、つい余計な言葉が口をついて出た。

 

「……、そうですね。誰かさんと違って、あの人、繊細そうですから」

 

言って後悔する。こんなつもりはなかったのに、気にくわないと思うと、すぐにイラっとした感情が言葉へと変換されて心から漏れてしまう。シンのことが話題に出てきて、相手が彼の死を気にしていないという態度を取られると、シンのことを好きだったという感情がすぐさま別の負の感情に転じて、文句となってしまう。

 

そんな己の所業を恥じての葛藤と懊悩と羞恥が顔に出ていたのか、ヘイは私の嫌味を何一つ気にしないという体で、巨体を揺らせて気さくに笑うと、低くしっかりした声で続ける。

 

「まぁ、そうだな。それは間違いなくその通りだ。奴はとてつもなく繊細で臆病で自分に厳しく、だからこそ、強く、そして孤高だ。今のあいつには、まるでお前さんとつるむ前のシンと今のダリの不安定な部分をくっつけたような、両極端な危うさがある。―――だから、まぁ、今の嬢ちゃんも大変かもしれないが、気にかけてやってくれ」

 

いって小さな私に向かって大きな頭を下げるヘイの姿はとてつもなく優しさに溢れていた。同時に、彼もまた、何も言わないがきちんと他人の事を見ていて、それでも他の人が触れて欲しくないと思っている部分に触れないだけの思いやりを持った人物なのと思い知る。それだけに疑問が浮かんだ。なぜ、ヘイという男は、始めから自分で彼に言う事を諦めてしまうのか。

 

「それなら、ヘイがそのままの言葉を思いと一緒に伝えたらいいんじゃないですか? 」

「……俺みたいな年寄りが言っても、真剣みの熱がたりんからなぁ。……もう無理なんだよ。歳をとるとな、ただでさえ体の中から抜け落ちていく熱が拍車をかけてあぶくに消えてくんだ。矜持を定めて、ちょっとでも興味のひくものに必死になって、そうやって色んなことに奮いたてるような努力をしてやっとこさ生まれる熱で自分の平生を保つので精一杯なのさ。……新しい事を試して、いろんな楽しい事をして、一日をいい日にして毎日栄養を与えてしがみついていないと、退屈な昨日を生きたという後悔すら明日の朝には消えちまう。案外辛いもんなんだよなぁ、苦労したってぇのに、その時の苦しみがないのって。気がつくと魂が幸せの中に溶け込んじまわないように、自分を保つので手一杯なんだ。だから苦労してるやつに、何て声をかけていいかよくわかんねぇ」

 

だから無理なんだよ、と小さく言って後ろを向いた彼の背中は、哀愁と自己嫌悪が染み付いた、小さな背中に見えた。過去に色んな出来事があったけれど、出来事によって生じた悲しみや苦しみを気がつくと忘却の彼方に失い続けて、結局直近で一番楽しい事から順にしか思い出せなくなってしまったそんな後悔が、背中には張り付いていた。そして、その後悔すらも、明日には忘れてしまうのだと、彼は経験的に知っているのだ。

 

その背中には、見覚えがあった。そう、あれはつい最近。シンが死んだすぐ後のことだった。そうだ。彼のその縮こまった巨大な背中は、まるで私が泣き叫ぶ部屋から出ていく際のダリの様だと思った。

 

―――、そういえば、彼も大丈夫、明日になれば元に戻るから、と言っていた。だとすればおそらく、彼もまた、ヘイと同じく、悲しいとか苦しいとかの記憶を忘れてしまう事を知っており、受け入れてきた人だと言うのだろうか。……だとしたら私は、知らぬとはいえ、どれだけダリに対して、そしてヘイに対して、失礼な態度を取ってしまったのだろうか。

 

「だからすまねぇ。多分、俺じゃ無理だ。俺じゃ無理なんだよ。だから、頼むよ」

 

言うと彼は拳を両の固く握り締めてこうべを垂れて、両の腕とともに机の上にズシリと乗せた。己の限界を悟り、無力である事を知っているからこその独白は、彼の中に今ある鬱屈を全て吐き出しているのだろうにも関わらず、たしかに彼の言う通り、決意の言葉はどこか軽い様に感じられた。それの実感を伴わないと言う軽妙さがまた、彼の苦しみを生んでいるのだと思うと、なんとも悲惨だと感じてしまう。

 

禿頭目立つ程いい歳をした年老いてさまざまな経験を積んできただろう男性が、自分の半分に満たない年齢の女に向かって、自分では無理だ、と言葉を絞り出すのにどれだけの勇気が必要なのだろうか、どれだけの覚悟が必要なのか、わたしにはさっぱりわからない。多分、性差と年齢差いうものの所為もあるのだろうが、きっと永遠にわからないかもしれないというという予感がした。

 

けれど、きっと彼の悩みの本質と痛みを真に理解する日は来ないかもしれないけれど、その己の感情を正しく制御ができずに苦しんでいるという部分だけは、痛いほどに理解ができた。悪口を正面から受け取り、その上でさらに他人への配慮を忘れないヘイのその態度は、自身の都合を優先にして文句を垂れる己の矮小さに気付かせてくれ、私は萎縮した気分ながらも、しかしはっきりと答えた。

 

「―――、はい、やってみます」

 

未だに自分の中の気持ちですら制御できず持て余す私だけど、それでもエミヤという超然たる存在の彼が、冷静に突っ走れる彼が、己の体を省みることなく無茶や我武者羅を押し通さない様に気を使ってみます、という返事に、ヘイが歓喜と悲痛の混じった複雑な顔で頷いてくれたのを見て、私は店の外へと足を踏み出す。

 

湿気が満ちる街中に降りる晴天の光は、肌に纏わりつく生温さを伴って私の体を包み込み、私が一歩を踏み出す邪魔をする。手に入れた剣の斬れ味をもってしても両断出来そうにない全身を舐める不快な感触は、まるで今後私たちの行く道の困難を暗示しているかのように思えて、私はその不穏を払拭するかのように、虚勢の態度で気味の悪い空気を無理やり引きちぎりながら、我が家への帰路を急いだ。

 

 

シンの死亡した日より一週間の時間が経過した。仲間の無残な死に直面した彼らはしかし、彼の死亡した次の日から早々に新迷宮で活動を行うための準備を始め、前回三層に潜った時の装備の修繕と新たな道具の用意を終えて再び石碑の前までやってきた。

 

本来なら彼の死に多大なショックを受けていたサガという青年と、響という少女あたりは、戦意喪失や精神的外傷によりトラウマを抱えてもおかしくないと思っていたが、まるで何事もなかったかのような振る舞いを見せることに、一週間という時の中で死という出来事の処理を終えたことに一抹の寂しさを覚えてしまうのは、やはり旧世界の人間の感傷なのだろうか。

 

―――いかんな、なんと傲慢な考えだ

 

勝手に他人の心中を推し量り判断を下した無礼を心中で詫びながら、私は探索の準備を終えたギルド「異邦人」の四人と合流を果たして正式に合同パーティーを組み、共同で新迷宮の入り口より新迷宮の三層番人階へと転移を行う。

 

石碑を触り場所をイメージすると、すぐさま体の浮かび上がる感触がしたかと思うと、次の瞬間には体を強く押され、赤く染め上げられた迷宮の中へと私の体は移動させられる。後ろを振り向いてみれば樹海磁軸とは異なる色合いで青く屹立する柱は、響という少女が一時的に設置した携帯磁軸という転移装置だ。

 

携帯磁軸とは、樹海磁軸とはまた別の、ツールマスターという職業のみが迷宮に設置することのできるもので、迷宮の任意の場所を転移の先に設定できる優れた道具だ。これのおかげで私たちは余計な往復や戦闘をすることなく迷宮内部を進み、私たちはすぐに番人の部屋の前までたどり着くことが出来るというわけである。

 

但し、この携帯磁軸という道具は、樹海磁軸とは異なり、敵味方の区別なくあらゆる物を運んでしまうため、設置の場所を厳密に定められており、また、設置した際には、その場所を守る専用の衛兵を執政院から借りて配備する必要がある。

 

維持と設置に多くのコストを必要とする携帯磁軸はおいそれと設置することができないものではあるが、迷宮という危険と未知なる魔物の闊歩する場所において、探索開始地点を、決まった階層にしか設置されていない樹海磁軸前ではなく、各階の階段前にする事ができるそれは、余計な探索にて生じるリスクを避ける道具として、ある程度以上の実力を持つギルドは必ずといっていいほど利用されている。

 

そんな便利を利用して、私たちはこの度迷宮の十五階へと転移すると、すぐさま目的地の前までとやってくる。目の前にあるのは、新迷宮の番人の部屋の前に共通して存在する、遠目にもすぐさまわかる白く巨大な壁とそれに備え付けられた二枚の扉とその横に伸びる壁。

 

ゆうに高度百メートルはあろうかという天井までを塞ぐ壁は、圧倒的な威圧感をもってしてここより先が足を踏み入れてはならない禁足地である事を雄弁に告げ、迷宮の奥へと進もうとする人間の意思をぐらつかせる確かな効果を持っているように見受けられた。

 

私は首だけ振り向かせて、後ろに続いている一同の様子を眺める。この先で彼らは仲間を失った。この先にある番人の部屋は、彼らにとって忌まわしき場所であるはずだ。悲しみを溜め込めない世界とはいえ、流石にこの場所を前にすれば多少の動揺くらいは見せるかもしれない。

 

もしそこで一人でも動揺があったのならば、それを理由に私一人で先行するか、もしくはその人間を追い返して平生保つ人間のみで進むか、あるいは揃って引き返す事を提案しようと思っての確認作業だったわけだが、幸か不幸か、その行為は杞憂のうちに終わった。

 

彼らのうち誰一人として心折れている人間がいなかった。そのいつもと変わりない様子に頼もしさを感じると共に、やはり少しばかり、不安を抱く。彼の死からそんなに時間も経過していないのに、仲間の死という出来事に対して何の心理的ダメージを抱いていない彼らは、やはり自分とは違う生き物なのではないか。

 

そこまで考えて、しつこく浮かんだ考えを振り払う。そんな彼らの性質に不安を感じたのは、やはりおそらく私が彼らと違う時を生きた人間である、ということを端に発するのだろう。価値観の違いから、勝手に自己と他者の間に壁を作るなど、我ながらなんとも度し難い狭量さだ。

 

たとえ負の感情を溜め込めないというバックボーンがあろうと、その切り替えの早さと胆力は、一歩踏み外せば死が隣り合わせに存在するこの迷宮という場所を攻略するに当たって長所となり得るものであり、賞賛に値するものだ。そういった個人の感性の違いに基づく気質性質のあれこれは、決して己の尺度だけで善し悪しを判断していいものではない。

 

「開けるぞ」

 

ただそれでも、負の感情を溜め込まない、というのはここまで人間の性質を変えるものなのかと我が感性の内より勝手に湧き出てくる驚きは止められず、心中に湧いた傲慢さと狭量を誤魔化すかのように、私は力強く宣言した。

 

一同が頷くのを見て、私は扉の前まで進み、二枚扉の両方を押して開ける。巨大な二つの扉は一度奥へ壁と水平な向きのまま進み、そして部屋の内側に向かって開かれてゆく。

 

樹木が自由闊達な意思を露わにして乱立する赤い林は、以前訪れた時と同じような静けさで私たちを出迎えた。一歩を踏み出す。踵と靴先が湿った地面に埋もれて、ずむずむと水気を含む音を生む。静寂の空気を戸惑わせぬよう、一歩、もう一歩、と周囲を密に警戒しながら前に進むも、以前とは違い、刺すような殺気が、周囲を取り囲むまとわりつく視線がない。

 

確証はないが、新迷宮三層の番人はやはり、その一層、二層と同じように、倒してしまえば復活しないのだろう。これも聖杯戦争とサーヴァントをモチーフにしているからなのだろうか。

 

ともあれ、あれだけの苦戦を強いられた相手が復活していたのならば、シンという男がいない事を勘定に入れると、最悪、こちらも私の持つ真の切り札/宝具を最初から使用する事も視野に入れなければならないかと思っていたため、まずはその予想が外れてくれたことに一息漏らす。少しばかり気負いが薄れ、心理的重圧が軽くなった。

 

多少軽くなった気分の中、しかし警戒を解かず静々と前に進む。私に遅れて、後ろから四人は一丸となって前進してくる気配。多少気分の軽くなった私と違って、彼らの足音からは緊張の気配が伺えた。疑問はしかし、すぐに納得に変わった。もうすぐ彼の亡くなった場所だ。

 

まっすぐと奥へと進む。あと少し進めば、光が差し込んで視界が一気に開け、番人が座していた石とひらけた空間が見えるだろう。そんなおり、周囲の光景が変わった事に反応して意識を下へと向けてやると、周囲に赤く光る珊瑚や、微かに発光している海藻やキノコが一切生えていない、掘り返したばかりのような真新しさ残る地面が広がっている事に気がつく。

 

多少地形の変わったとはいえ因縁深きその場所を、私はもちろん、彼らも当然忘れてはいなかったのだろう。背後で彼らが足を止める気配を感じ取り、同じように立ち止まって彼らに視線を向けると、ダリが言った。

 

「エミヤ、少しだけ待っていてくれ」

 

背の高い彼が向ける赤銅の瞳には、なんと返事を返されようと、己はここでやるべき事をやるという意思が宿っていた。ダリは装備していた槍盾を地面に突き立てて、リュックを下ろそうとしていた。そうして彼が背負うリュックにはいつもと違うものが入っているのを見かけて、私は無言で頷く。

 

「ありがとう」

 

彼は深々と頭を下げると、体の前に持ってきたリュックの中から小さな白い花を取り出して、その地面に置いた。続けて瓶を取り出すと、栓を抜いて中身をその場所に振りまく。散った透明な液体は空気に触れると、少しばかり無念さを帯びたまま地面に落下して、土と触れた瞬間、液体は微かな光だけを放って赤色の中に吸い込まれてゆく。

 

後で知ったのだが、彼が衛兵として活動していた際、五層で入手した素材を使用して作られたネクタルⅱという名の、瀕死の重傷でもたちどころに快癒するという薬であり、今の時代滅多に手に入らないもであったらしい。

 

噂によれば死人すら蘇らせるとうそぶかれる、今後の冒険において瀕死の重症者が出た時に役立つだろうそれを、彼は一切惜しむことなく効果を発揮しない地面に振りまき、しかしその行為に対して文句を言う者はいなかった。

 

その現象の発露から、おそらくネクタル系列であろうと誰もが悟っていながら、いや、その効力とダリの意図を悟ったからこそ、誰一人として文句を言うものはいなかった。

 

ダリの所作を見た一同は、そのままその場所で瞼を閉じて、黙祷を捧げる。しばしの沈黙が辺りの静寂と一体化して、落ち着きのない色で囲まれた場を清浄なものへと変化させた。

 

「あの時、これがあればな……」

 

一番先に目を開けたダリは、ため息とともに後悔の言葉を吐き出した。つられて皆が垂れていた頭をあげる。戦闘と探索の空気が薄れるのを恐れて、私はわざと空気を読まず、通る声で短く呼びかけた。

 

「―――いこう」

 

一同は各々が抱く未練をそれぞれに断ち切るかの様に頷く。振り返って歩を進めると、皆が荷物を背負い直して私の後に続くのがわかった。静寂な森の中で聞こえて来るのは、私たちの足音と風が葉を揺らす音のみ。やがて番人がいた場所を超え、その先にある階段を下り、私たちは悲劇の起こった場所を通り過ぎて新迷宮の四層と呼ばれる場所へとたどり着いた。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十六階「神に運命を翻弄されし赤子」

 

 

新迷宮の四層は翠緑に溢れた一層、原始の生命力が漲る二層、海中の息吹を感じさせる三層とは一転して、生命の気配を感じさせない構造をしていた。赤い土埃が空気中を舞い、光が散乱を余儀なくされた輝度の落ちた場所において、一際目を引くのは赤の空間を貫いて屹立する樹木だ。

 

地面より長く伸びた樹木はどれだけの年月をかけて成長したのであろうか、見上げれば赤い霧霞に曇った視界の更に先、百メートルはあろうかという天井にまで到達する大きさのそれは、十人が輪になっても囲みきれない幹に、目算十数メートルはあろうかという巨大な赤い琥珀がその幹の所々に精製されている。

 

三層の海底よりさらに地の底、深海の光すら届かぬその場所を無理やり掘り抜いて作り上げたかのように、生命の気配が枯れ果てた地獄のごとき空間において、地より天に向かって身を捩らせながら樹木が屹立し必死に天井を支えている様は、まるでパルテノンの重厚な石天井を支える巨大な石柱のそれにも幻視できて、私に、この冥界のような層に出てくる敵が何の英霊をモチーフにして再構成されたものであるかを、容易に想像させてくれた。

 

―――ヘラクレス

 

花霞というよりは逆しまな玄冬を思わせる、紅錦の礫が粉雪の如く舞い、そうして敷き詰められた薄布の向こう側に、碧羅の大地が荒涼と広がる様は、なるほど、狂いの枷を嵌め込まれながらも裡に秘めた苛烈な激情を厳と制し、確かな意志を以ってして森林の奥の居城に住まう可憐なお姫様を守らんと命を賭した、偉大な巨漢の大英雄を表すに相応しい荘厳さと峻烈さと静寂さを同時に内包していた。

 

「あ、ここは少し違うんですね」

「……、なに? 」

 

ギリシャ神話において最も著名な、かつての聖杯戦争においても強敵として立ち塞がった、あの半神半人の大英雄が再び私の行く手を阻むのかと、早々にして多少の鬱屈と億劫を抱いた瞬間、響が漏らした彼女の方を振り向く。彼女は己の漏らした言葉に対して私がいち早く反応したことに少し驚いた所を見せたが、すぐに冷静さを取り戻して、首を小さく傾げた。

 

「何でしょうか? 」

「ああ、いや、違う、とはどういう事なのだろうかと思ってね」

 

尋ねると彼女は、ああ、と掌を叩き合わせて答える。

 

「あそこのですね。あの、太い木の根の赤い塊あるじゃないですか」

「……琥珀の事か? 」

「はいはい、多分それです。あれ、旧迷宮の方では樹液の塊なんですよ。それなのにこっちじゃなんか固まってるなーて、思って。今までの一から三層は色が赤である以外は全く変わらなかったのに、ここは少し違うんだなって思って」

「―――そうなのか」

「はい、でも」

 

それがどうしたのでしょうか、と彼女いう風には首を傾げた。私はただの興味本位だ、と言って誤魔化すと、再び彼女が指摘した部分を眺めた。……、樹木にはまっているのはどう見ても、赤い琥珀のようだった。

 

私は眼球に強化を施してその物体を眺めるが、やはり表面に流動性はなく、粘性があるようにも見受けられない。枯れ木にも見えるほど生気を失った樹木の幹にはまり込んでいるのは、じっくり眺めたところで、やはり流動性はまるでなく、年月をかけて精製された琥珀のようにしか見えなかった。

 

奴にじくりと侵食された証が残る赤い場所において、まるで時を幾億年も加速した後、ピタリと停止させたかのように動きを止めているその琥珀は、あちらとこちらの迷宮で異なる様相の証明に他ならず、魔のモノというものがなんらかの意図をもってしてこの場所を作り上げたのだろうと思わせる効果を持っていた。

 

―――ともあれ敵の領域に長居は無用か

 

「少し急ごう」

 

宣言の後歩みの速度を早めると、一同が反応して頷き、私の後に続く。私は後ろの彼らがついてこれるよう歩く速度を調整しながら、神殿の内部のごとき枯れた森の中を突き進む。一歩踏み出すごとに無抵抗に道を譲ってくれる空気中の粉礫が醸し出す雰囲気は、罠を仕掛けた猟師の殺気にも似ていて、何とも不穏な気配を六感へと訴えてきた。

 

 

うざい赤煙が舞う中を飛び交って、鋼の翼と爪と嘴を持つ鳥が飛来する。目にも見えない速さで飛んでくる鳥の嘴はとんでもない威力を持っている上に、躱そうが防ごうがねちっこく攻撃を繰り返し、また、よくわからない音がなったかと思うと、いきなり地面に斬撃の跡が残るような攻撃を飛ばしてくる。敵の攻撃手段は突撃か見えない斬撃かのたったの二つ。でもこの二つの攻撃がとてつもなく厄介だ。

 

突進はスキルを使ったダリの盾でないと防げない程の威力を持っている。ダリが盾で器用に敵の攻撃を逸らして突撃の方向を地面に逸らしてやった時、これで身動きが止まるだろうと思ったんだけど、地面に奴の嘴が吸い込まれたかと思った直後、地面にすくっと穴が空いて、すぐに少し先の地面から奴は平然と出てきた。まぁ、便利。こりゃ、一匹いれば工事や掘削する時に困らないね、ってか?

 

―――勘弁してくれ。

 

「―――おわっ」

 

愚痴っている間にも一撃が繰り出される。我ながら俊敏な反応と同時に、金属音と地面が擦れる音。ピエールのスキルで回避能力を上げてもらっていなければ、ダリの盾が俺を庇ってしてくれていなければ、俺はこの場で風通しの良い体となって死んでいただろう。

 

そうやってなんとかそいつの攻撃を死ぬ気で躱しても、防いでもらっても、鳥はすぐさま宙で体勢を立て直して、同じように突っ込んでくるのだ。少しくらい休ませろよ、疲れたそぶりを見せろよ。

 

―――ほんと、やな性格の奴だ。

 

もう一個のよくわからない攻撃はそうして攻撃を躱している際、気がつくと食らっている。切り傷っぽいし、多分すれ違う際、爪とか羽とかの鋭いもので攻撃されてるんだろう。こっちはダリでなくとも俺やピエール、響が装備しているような軽鎧の防具でも防ぐことはできるんだけど、なにせ攻撃が見えないもんだから、本当に対処がしにくい。

 

奴らの突撃をギリギリで躱すと生身の部分に傷が増えてるんだから、たまったもんじゃない。多少の怪我は自己治癒と響の回復薬でなんとかできるけど、今後シンの時みたいに万が一が起こるかもって考えると、大盤振る舞いは避けておきたい。

 

―――お前がいたら、こんなことにはならなかったかもなぁ

 

もしそのシンが生きていたなら、やつとすれ違いざまに首を切りつけるくらいの事はやってのけたかもしれない。などと考えると、少し胸が痛んだ。なんというか、喉元まで出かかっているのに言葉が出ない、くしゃみが出てくれない感じの悪さというか、そんな感じだ。

 

あいつがいなくなった、ということに対するどうこうじゃなくて、あって当然だったものがいつのまにかない物悲しさというか、いや、いなくなったから当然なんだが……。

 

―――ああもうわからん。

 

適当を信条とする俺がこんな感傷を抱くなんて、昔ならともかく、今の俺らしくもない。

 

「おいおい、まじか」

 

なんてそんな悠長な事を考えている間に、飛び回る五体の敵が一斉にこっちを向いたのがわかる。やめろよ、お前らに好かれても全く嬉しくないんですけど。ただでさえ太れないちっこい体なのに、物理的な減量を強いるなんて、お前らマジ鬼畜だな。

 

などと悪態つく間にも敵は行動を開始していて、すでに宙を羽ばたいて勢いをつけている最中だ。あれを防ぐにゃ、ダリのパリングかフォーススキル「完全防御」じゃないと無理だな。

 

でも、ダリのパリングは物理攻撃に万能だけど肝心のダリがあんなに早い奴らの連撃に対応できる程反射神経良くないし、素早くもない。完全防御なら耐えられるだろうけど、フォーススキルを使えるほどまだ力が溜まってないはずだ。

 

―――……あれ、詰んでね?

 

一縷の希望を託すかのように周囲を見渡すと、事態を把握してダリが駆け寄ってくるのが見えたが、その顔にはどうしょうもない不吉の未来を予想して絶望していることがわかる。ああ、お前もおんなじ結論に達したんだな。いや、しょうがないよ。だって、無理だもん。

 

敵の強さがあまりに尋常じゃない。空を飛び回る発生するような旧迷宮の四層までの敵ならFOEだろうが番人だろうが、ワイバーンという一体の化け物を除いて簡単に倒せる俺たちですら、あんな速さと硬さとしつこさを持った敵とは戦った事がない。

 

さて、どうすると思ったが、よく考えれば今まで俊敏に飛び回っている時はその攻撃を避けるに必死で、術式を当てるどころか発動を試みるのすら無理だったけど、敵の全部がこっちにまっすぐ突っ込んできてくれている今なら、発動するどころか当てるのも簡単じゃん、と思いなおし、咄嗟に籠手を展開する。

 

もはや千回以上は行っただろう慣れた作業は、敵が動きを見せる寸前のたった一瞬でその挙動を終えてくれて、素早い奴よりもさらに上の速度で術式を発動する事ができていた。さて、こういう硬い外殻を持つ奴には雷が効くと俺の経験では相場が決まっている。少なくとも旧迷宮ではそうだった。

 

籠手の先に雷球が生まれ、放電の光が周囲に走る。放電した雷が空気中の塵芥と反応して、火花を生んだ。とりあえず雷なら金属に向かって吸い込まれるだろうし、飛び込んでくるやつに向けて撃つのであれば、外れるということもないだろう。これを食らって一匹でも死ぬか、あるいは食らった奴が多少なりとも体勢を崩してくれれば、儲けものだ。あとはダリがなんとかしてくれるだろうと期待しておこう。

 

「大雷嵐の術式! 」

 

籠手は俺の意思を読み取って生み出した雷を周囲に拡散させ、あたりは光の網目が張り巡らされる。ちなみにこの攻撃は、俺たちの武器や体を外れて飛んでくれるようにしてあるので、味方には安心安全の雷撃網だ。敵味方を選別する為、俺たちの周囲に一瞬だけ待機してみせた雷は、すぐさま敵を見つけてそちらの方へと腕を伸ばす。

 

バリバリと音を立てながら伸ばされる手は五本。敵は目の前に現れた雷に驚いたのか、少しだけ躊躇して見せたけど、そのまま突っ込んでいく。

 

―――お、これなら一匹と言わず、全部始末できるかも。

 

「……はぁ? 」

 

なんて甘い考えは、早々に打ち破られた。敵はなんと、雷を嘴で弾きながら突っ込んでくるではないか。いや、効かないのかよ。じゃあなんでお前は驚いてみせたんだよ。インチキ過ぎんだろ、この嘘つきめ。なんて愚痴っている間にも敵は迫っている。

 

―――ああ、こりゃ死んだな

 

遺言でも捻り出すかと我ながら録でもないことを考えていると、横からなんかが飛んできて、敵の体を貫いて方向を別に向けてくれた。進行方向を強制、かつ、急激に曲げられた敵たちは飛来物の強制に逆らうことができずに、枯レ森の彼方に吹っ飛んでいく。

 

その中の、一体だけが手近にあった樹木の幹にぶつかって動きを止めた。悲鳴と共に、樹木に鳥が縫い付けられる。そうして俺は、ようやく飛来した物体の正体を知ることができた。それは矢だった。多くの返しがついた矢が敵の体内に食い込んでいる。

 

助かった、なんてと考えることもできずに呆然と敵の体を眺めていると、弓矢の刺さった場所から煙が上がったかと思うと、その肉体がドロドロと煙を立てながらとろけてゆく。あ、これ見覚えがある。三層で響が無茶やった時にすごい仰天した、蛇から抽出した毒の効能だ。

 

どうやらこの雷すら弾く外殻がクソ硬くすばしっこい敵は、反面、体内が繊細な作りの様で、内部に毒を打ち込まれると即死する、三層の犬と同じ体の作りをしていたらしい。まぁ、特化したタイプの敵の宿命だな。それにしてもこの飛び回る敵のクソ硬い外殻を見事に当てて、その上貫くなんて一撃を放つ芸当ができるのは―――

 

「間に合ったか」

 

―――このパーティー内では一人しかいないか

 

言って登場したのは、弓を持ったエミヤだ。エミヤの後ろ腰、バッグと反対の方には、矢筒に数十本の矢が入っている。しかし直前までは無手だったと思ったけど、あの弓と矢は一体どこから出したのだろうとか、もしかしてあの毒塗った矢を飛ばしたのかよ、よく弓も矢も溶けなかったな、毒液飛び散らない? とか、色々な疑問が湧いたけど、まずは。

 

「助かったー! ありがと! 」

 

飛び上がってわざとらしいくらいの笑顔で礼を言う。すると、エミヤは警戒を解かないまま静かに頷いた。返答には驚くほど感情が伴っていなくて、まだ敵が死んだのを確認できていないから警戒を解く訳にはゆかないという決意が見て取れた。うーん、ダリ以上に真面目なやっちゃ。

 

「それにしても、よくもまぁ、こんなん思いついたし、やってのけたな。普通考えないし、できないぜ? あんな馬鹿速いのが攻撃する瞬間、毒矢を当てて仕留めようなんてさ」

 

ふとそんな事を言うと、エミヤは少しばかりバツが悪そうな顔をして、まぁな、と答えた。はて、褒めたつもりだったが、何かまずいことでも言ったのだろうか。うーん、わからない。この手のダリと同じタイプの人間は成果を褒められると喜ぶものだと思ったが、違ったかー、残念。

 

「ダリとピエールもあんがとなー、助かったよ」

 

続けて二人に礼を言うと、息を切らしたダリはそれでも盾を掲げて。相変わらず落ち着いた様子のピエールは竪琴を鳴らして、素直に礼を受け取った合図を返してくる。渋々と呆れの成分を含んでいるが、うん、これが普通の反応だよなぁ。

 

―――……ま、いいか

 

「エミヤ。戦いは終わったと思っていいのか? 」

「多分な。目の前の鳥があの様なザマになったのだ。おそらくは毒矢を突き刺した他の四匹も同様の結果になっただろう。皆中の上、確実に奴らの胴体を貫いてやったからな」

 

答える顔にはやはり感情がなくて、残心というものが解かれていない。戦闘終了と言いながらも、警戒を解いていないのが丸わかりだ。少しばかり過剰すぎる気もするが、まぁ、今こいつはこの合同パーティー唯一の物理アタッカーだし、色々と気負って、気を張ってしまっているのだろう。ダリと同じで糞真面目なタイプっぽいし、きっとそうだ。ならこっちとしては出来るだけ、いつも通りに振舞って、慣れてくれるのを待つしかないよな。

 

「あいよー、……というわけで響、あれ、剥ぎ取りよろしく」

 

俺はダリとピエールの間に響を見つけると、両手で指差した先にある樹木の下には、エミヤが撃って毒殺した敵の残骸が転がっているそれを指差した。肉の部分は大半が残らず溶けてなくなってしまっているので、無事に残っているのは鋼っぽい素材だった、翼と爪と嘴のみだ。

 

「あ、はい、わかりました」

 

響はその指示を聞いて素直にそちらへと向かった。うん、自分で言っといてなんだけど、胆力あるなぁ。俺なら少なくともあんな、ぐちょぐちょで、べちょべちょで、うにょんうにょんの赤い塊、とてもじゃないけど触る気にならないよ。グロいし、なにより毒かかってるし。

 

「彼女だけに任せて大丈夫なのかね? 」

 

エミヤが尋ねてくる。その顔には、少女一人に解体の重労働を任せるのは如何なものかという非難の声が浮かんでいた。

 

―――ああ、そういえば、こいつが加入してから初めての剥ぎ取りだったっけか。

 

「むしろ、響だけのがいいんだよ。あれは響が一番の活躍ができる場面だからさ」

「……、なるほど、彼女は道具の扱いと素材の取り扱いを専門とする職業だったな」

 

返すとエミヤは脳内の記録から、響の職業の特徴を引き出したらしく、何度も頷いて納得の反応を返してきた。戦闘が終わった直度にサッと切り替えて思い出せるあたり、さすがは手練れの人間だと思う。俺はいらぬ世話かなと思いながらも、一応の補足を付け加える。

 

「ツールマスター。迷宮に行く機会も多いから、一応戦えない事もないように戦闘や探索のスキルも習得出来るようになっているけど、本当はああいった冒険者の持ち帰った素材の解体とか、道具の力を引き出していいもの作ったりするのが専門なんだよなー、あの子」

「ほう、その様な職業の女性が、なぜまた、冒険者に? 」

「その辺は事情があるんだよ。俺からは言えねぇ。知りたきゃあの子に直接聞いてくれ」

 

ひらひらと手を振って話を打ち切ろうとすると、エミヤは真面目な顔で頷いた。

 

「なんだよ」

「いや、軽薄な言動だが、中々に他人の事を考えているのだな、と思ってね」

「……あれあれ、もしかして、馬鹿にされてる? 」

「まさか。私の見る目が曇っていた故、反省せねばならんなという自省さ」

 

その自嘲は、エミヤが今まで俺のことを軽薄で考えなしに見ていたと告げる言葉だったけど、別にそんなに腹は立たなかった。昔から、失敗した時の雰囲気に耐えられず茶化すことで場を和ませてきた俺にとって、自覚のある悪癖の点だったからだ。

 

「まぁ、いいや。じゃ、とりあえず響の回収が終わるまで、情報整理しとこうぜ」

 

そういって俺が筆と墨、紙を取り出すと、エミヤも続けて腰のバッグから同じものを取り出す。俺たちは揃ってダリとピエールに近づくと、先ほど戦った敵の特徴などを話し合う。

 

会談する中でエミヤという男は、今さっき相対した敵の特徴のほとんど全てを正確に言い当てた。一番驚いたのは、やはり毒が鳥に有効と一目で見抜いて実行した点だ。一体どのようにして敵の弱点を見抜いたのだろうか。うーん、エミヤは相変わらず謎が多い。

 

もしかしたらクーマのいう、過去の人間というのも本当で、その知識に基づくものなのかもなぁ。もう少し、ばかり時間にゆとりがあったら色々と突っ込んだ所を質問して仲良くなれるかもだけど、ああまで切羽詰まった様子のあいつには聞きにくいし、まぁ、そのうち話してくれるのを待っていればいいか。

 

 

「エミヤ、ところで、君、その武器はどうやって取り出したんだ?」

 

今更といえば今更すぎる質問をすると、彼は弓を持った手を下ろし、反対側の手で少し躊躇いがちに口元を覆い考え込む。そうして少しの間逡巡して見せると、言った。

 

「どうやって、というのは説明しづらいな……、そうだな、質問を返す形で悪いが、君たちは、君たちがスキルと呼ぶ力が、どういった一連の流れでその現象を引き起こすのかを知っているか? 」

 

私は返答に困った。スキルはなんとなくで使える便利なもの、と言う感覚で使用していたので、どういった仕組みであるかなど考えたこともなかった。助けを求めるかのように眉をひそめて周囲を見渡すと、唯一サガだけがニヤニヤとした表情でこちらを見ているのがわかった。

 

あれはおそらく、いつもなら嬉々として知識を披露する私がすぐに返答をしない事から、私が知らぬ事を見抜いて、尋ねてくるのを待っているのだ。普段色々と気を使っている反動か、奴は所々の部分でこうした意趣返しを行うことがある。私は知らぬは恥でないと言い聞かせながら、おそらくはサガの思惑通り、奴に尋ねる。

「……、サガ、わかるか? 」

「おおとも。万物の神秘を解き明かし、あらゆる力の流れを自在に操るのがアルケミストの役目でありますれば、当然わかりますとも。……ダリ、スキルの始動から発動までの一連の流れはよく店の酒の注文に例えて説明される。俺らが酒、すなわちスキルを発動したいと考えると、その注文内容は瞬間的にその女将へと伝わって、受付から内容に応じた酒の種類と量が俺たちの元へと寄越される。この時、俺たちがどのくらいの酒量を頼めるかは、財布の中身、つまりは精神力によって決定されるし、どんな種類を頼めるかは個人のアルコール耐性、つまりは職業によって左右されるし、どのくらい度数の酒を頼めるか、つまりはスキルレベルは、院への貢献度によって上下幅があるってわけだ―――こんな感じだろ? エミヤ」

 

サガはニヤリとして彼に尋ねる。エミヤは少しの逡巡の後、やがて咀嚼し終えたのか数度軽く頷き、小柄なサガの顔の方を向いて納得したと言わんばかりに深く一度頷いた。

 

「そうだな。―――、そう、おそらくはその通りだ。いや、驚いたよ。まさかその様な喩えで返ってくるとは思わなんだ」

「なにぃ? やっぱりお前も俺を侮ってた口かぁ? 」

 

サガが不服そうに、態とらしく口を窄めて文句を述べる。エミヤはその大業の態度に苦笑しながら手を横に振ると言う。

 

「いや、違う。ああ、いや、そうだな。まさかその様な比喩の答えが広まっているとは思っていなかったんだ。なんというか、川の流れや大海のそれに例えられると思ってばかりいた……、ああ、しかし、そうか、そういえば、ここはそういう土地だったか。なるほど、そうだとすれば、より身近な物でわかりやすく例えられるのが自然というものか。言うなれば、冒険者の多くを侮っていた形になるかもしれん」

「……よくわからんが、エミヤ、お前、ピエールみてぇにいい性格してんな」

 

一人勝手に納得して見せたエミヤに対してサガは呆れた表情を返すが、当の本人は悪びれる事もなく、手の平をひらひらと振りながら嘲りに似た鼻息を一つもらすと、こちらを向いてニヤリと笑ってみせて、口を開こうとする。

 

多分彼にしてみればそれは別に相手を見下す意図を持たない自然の反応なのだろうが、その自嘲にも似た前置きの態度が妙に板についていて、私はなんとなく、彼という人間は私に似て、他者の評価などをどうでもいいと思っている点があるのかもしれないと思った。

 

「ダリ。先ほどのサガの例えに倣うなら、私も君たちと同様に、女将に酒を注文する事で剣や弓矢、盾を生み出している。ただ、その注文方式や、注文の発注先が君たちと同じ場所ではないのだ。そうだな、言ってみれば、店の中で出前の注文している様なものだ。そうやって私は「私の世界」に注文を出す事で、様々なものを取り出していると言うわけだ」

「ふぅん、なるほどね? 」

 

サガが生返事を返す。私は何も返事ができずに、ただ首を傾げるばかりだった。エミヤは多分彼なりに気を使ってサガの話になぞらえてくれたのだろうが、結局どうやって剣を生み出しているのか、どこから剣を生み出しているのか、という問いの具体的な答えになっていない。流れでなく仕組みを知りたかったわけだが、その理屈屋の彼らしくないあやふやな答え方から、私は、多分彼はこの辺りの話題をはぐらかしたいのだなと直感した。

 

「まぁ、ようは、気にすんな、ってことさ。同じような理屈で俺もこいつも戦闘出来てるんだし、だったら別に誰がどんな原理でどんなスキルで戦おうが、どーでもいい事だろ? 」

 

そんなエミヤの気持ちを私同様汲み取ったのだろう、サガが言う。

 

「まぁ、そうなのかもしれんが……、いや、ああまで見事に、剣、弓、盾を状況に応じて使い分けるのだ。他にもどんな事が出来るのか知っておいた方が、戦術が組み立てやすいと思ってな」

 

そこまで言って、ついこの間の話し合いのことを思い出す。本来なら協力者となった時点でそういった能力などを明かし合い、戦術を組み直すのが冒険者としては普通なのだが、

 

―――手札を全て明かしてもいいが、やれる事が多すぎて語りきれん。それにダリ。君はいざという時にやれる選択肢が多いと、どれを選んでいいか分からず混乱するタイプだろう? 出来る事を一々語り、無駄に選択肢を増やして君や君たちを混乱させるよりも、状況に応じて私が適切な対応をしたほうがスマートだ。なに、損はさせないさ―――

 

などと、実力差を盾にした上でのこちらを思っての提案なのだと言われては反論のしようもなく、特に己の欠点を槍玉にあげられた私は、強くでられなかったというわけだ。

 

とはいえ、いざ戦闘に直面すると、予想以上に彼はなんでも出来る事に気付かされる。少しでも足手まといにならず、その背中に追いつくために、だからこそ出来る事ならこの場で彼の戦闘手段を少しでも知っておきたかったのだが―――

 

「……、そうだな、まぁ、そのうちな」

 

彼はそれだけ言うと、再び口を閉ざし、何も語ってくれようとはしなかった。やはり未だに実力差のある私達を信頼しきれていないのだろう。その頑なさに私は何も聞ける事がなくなって、そのまま彼とは閉口の関係を保つ事となる。

 

その理屈屋で頑としていて、他人の都合に左右されず己の意見を貫くあたりから、おそらくやはりは、彼という人間は私に近いのだろうと感じ取る。

 

何かきっかけがあったのならば、もう少し何か話せるかもしれないが、おそらく今の彼の様子から察するに、それが余程の事情でない限り、話してはくれないだろう。その頑なさにまるで鏡を見ているかのような気分を味わった私は、ふと考える。

 

―――しかし、私と言うものは、周囲からすると、こうも扱いづらい人間だったのか

 

そうして同一視する事は彼にとって失礼と思いながらも己と同じような性質を持つ人間を前に、私は響が解体作業を終えるまでの間、これまでの所業を振り返り己の未熟と傲慢さを反省するという、彼にとって無礼となる行いを止めることは出来なかった。

 

 

ダリとサガ、そしてエミヤのやり取りを見て、私はひどく複雑な思いを抱いていました。多少硬くはありましたが、和気藹々とする彼らの様子がかつてシンが生きていた頃を思い出させたからです。かつては、シンが聞き、ダリが答え、サガがそのサポートをするという役割を、今では、ダリ、エミヤ、サガが、そのままバトンを受け継いでいました。

 

以前のダリは秘密主義なところがあり、己の事を語りたがらないところがありましたが、おそらくその秘密とは、第五層についてのあれこれだったのでしょう、以前のクーマとの会談にてその事を隠さなくても良くなったことによって、彼は以前よりもずっと素直な人間になりました。おそらくその内、もっと素直になりも、明朗になり、付き合いやすい人間になることでしょう。

 

サガは……、まぁ、良くも悪くも変わっている様には見えません。あれだけ懐いていた相手が消えたのですからだいぶ影響があるだろうと考えていたのですが、誤算でした。その変化のなさは、いい意味、とも悪い意味、とも今のところは言えません。まぁ、要注意、程度でしょうかね。

 

問題は―――

 

「素材の回収が終わりました」

「ご苦労様」

 

響とエミヤの二人でしょうか。

 

まず響です。素材を持って戻ってきた彼女の顔には、三人のやり取りを見てシンの生きていた頃の光景を思い出したのか、当時を懐かしみながらも、彼の欠如に悲しみを抱く、郷愁哀悼無常の入り混じった、複雑な表情が浮かんでいます。

 

この世界において悲しみの感情を記憶と共に抱え続ける為には、喜びの感情と共に抱え続けなければいけないとはいえ、結果、歓喜と相反する思いから生じる、えもいえぬ矛盾の苦しみを抱えたまま常日頃を過ごさねばならず、しかも、その心苦しさを処理することもできないという、まるで凪いだ海の上でただひたすら小舟にのって耐えざるをえないでいるような行き場のない痛み、わたしにはよくわかります。

 

このままでは彼女もわたしの如くに、処理しきれない感情の発露から物事を素直に受け取る事が出来なくなり、鬱屈とした思いから性格が捻じ曲がって行き、皮肉という形で悲哀を発散する事の出来ない歪みを表に出すようになってしまうようかもしれません。

 

ああ、吟遊詩人として多くの悲劇を収集し、知らぬ人の悲しみを抱え込んできましたが、直近味わった、近しい人の死の悲哀が齎す苦痛は格別でした。多少の苦痛なら刺激にもなるのですが、あの破滅的な苦痛は、とても刺激と呼べるものではありませんでした。

 

あれは痛苦の烙印そのものです。心に焼印として傷を与えられてしまったが最後、常にじくじくと痛み続ける熱情を抱えて生きる事を強いられるのです。私はもうこれ以上、あの親しい知人が死んだ際の引き裂かれる思いを味わいたいとも、増やしたいとも思いません。

 

吟遊詩人としてそのような生き方を覚悟した私ならともかく、シンという男がその思いを託したまだ多くの部分に無垢色を残す白百合が、手折られ、摘み取られ、悲劇色に染め上がってゆく様など見たくはありません。これは早急に対策を考える必要がありますね。

 

「どの程度回収できた? 」

「金属骨格の部分だけです。それ以外は全部溶けちゃってました」

「了解だ。では、先を急ごうか」

 

また、エミヤの方も問題です。平然と強敵を屠って見せる彼は、未だに実力の底も、隠している過去の秘密も、その全てを隠し通そうとしたまま新迷宮を攻略してやろうといい気概に満ちていて、誰も彼も信頼していない節があります。

 

信じて用任するが、信じて頼りはしない。己の能力が抜きん出ている事を知っているから一人でなんでも解決しようとして、そしてその通りにやり遂げてしまう。

 

その傲慢ながらも、しかしそれに見合った実力を持つ様は、まるでエミヤの活躍を知る前までのシンを見ているかのようです。何でもかんでも出来てしまう分、あらゆる事象を自分で処理してしまおうとして全てを抱え込み、気が付かぬうちに許容量を超えてしまう。

 

本人は気付いているのかいないのか知りませんが、側から見れば、彼の有り様はまるで風船を用いて肝試しをしているかのようです。幸いなことに、本人の問題処理能力が高い故に未だ破裂には至っていませんが、不幸なことに、本人の処理能力が優秀すぎる上、心身の耐久力も高すぎる故に、彼自身、破裂の限界がどこにあるのかを知らないように見受けられます。

 

しかして、そうして能力の高い彼にとっても、現在抱えている新迷宮の踏破という目的は、彼にとって処理の分水嶺を超えた望みであることは、彼が無意識のうちに発する焦燥感から読み取ることができます。

 

そうやって結果を求めて生き急ぐのは彼の性分のようですし、他人であるわたしにはその生き方にどうこう文句をつける権利はありませんが、そうして結果を急いて求めた結果、シンのように死なれてしまっては、なんとも目覚めが悪い事になります。

 

とはいえ今すぐにその点を指摘したところで、聞かせたところで、彼は先ほどのように誤魔化してしまうでしょう。あるいは、優秀な彼の事ですから、己の中に焦燥がある事を指摘すれば自覚し、一時は歩みを緩めてくれるかもしれません。

 

ですが、その後すぐに歩幅を戻して注意を促した周囲どころか己すらも誤魔化す振る舞いをするようになる可能性が高い。いえ、きっとそうなるでしょう。だからまだ話せない。

 

そう、まだ彼の内面に踏み込む為には、私たちは彼と過ごした時間が少なすぎ、共に積み重ねた経験が少なすぎます。まだ。そう、まだダメです。焦ってはなりません。交渉を切り出す際は、適切でもっとも効果的な時を狙わないといけません。とはいえ遅すぎてもいけない。

 

―――もし、彼の内面にもっと踏み込む事の出来る存在がいれば、あるいは、もう少しじっくりと仲良くなる時間があれば、我々の関係も違ったものになったかもしれない

 

そう思うと、残念でなりません。このまま互いを知らぬままの関係を保った状態で新迷宮を進んでいると、必ずどこかで歪な状態で信に命を預け合っている代償を払う羽目になる可能性が高い。すると結末は歪みを保ってきた代償としては死という代価を求めてくるかもしれません。

 

しかしまだ希望はあります。彼は新迷宮の四層だろうと出現する魔物を歯牙にかけないほどの実力を持ち合わせていますし、少なくとも四層の番人の部屋に到達するまで、生死に関わる自体は起きないでしょう。実力的な面で言えば、おそらく、番人の待ち受ける部屋までは安全を保てる可能性が高い。

 

が、反面、時間的な余裕はありません。この調子で行けば、あと数週間もしないうちに迷宮四層最奥まで辿り着いてしまう事でしょう。彼の実力と我々の協力があれば、それは全くたやすい事であることは自明です。

 

―――さて、ではそれまでの間になんとか彼と親交を深められる出来事が起こってくれる事を祈りましょうか。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十七階「剛勇無双を発揮した青春の日々」

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十八階「狂気の代償を支払うべく神託を求めた朱夏の日」

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十九階「神与え給うた苦難を歩んだ白秋の道」

 

 

これで四度目の遠征。

 

広く空を覆う、赤い天井。どのくらいの高さなのか、その天井までその身を捻らせながら伸びる樹木は、色さえ無視してしまえば、旧迷宮の四層、枯レ森と変わらない。

 

そう、天井より落ちてくる砂がどこかから入り込んでくる光を反射してキラキラとひかる光景も、グネグネと歪んだ渇いた砂の地面も、その地面に生える刺々しい植物も、そのあまりの太さ故に幹が途中で己の成長を支えきれず折れてしまった樹木も、まるで一緒。

 

ここはまるで、旧迷宮の四層を完全にそのまま持ってきて着色の度合いだけを変えたかのような景色。そんな中、光彩の差異を除けば、違うのは、二点。一つは、樹木の幹より漏れ出していた樹液が、琥珀という物質に変わっている事。もう一つは、出現する魔物が、旧迷宮の四層のとは比べものにならないくらい、強い魔物に変化した事だ。

 

旧四層に出現する魔物のうち、火炎ネズミは、斬撃も刺突も打撃も一切効かない、巨大な猫の化け物に。ゴールドホーンは、とんでもない素早さで逃げ回るように。ブラックボアは元々の数回りは大きくなり、スナトビデメキンは素早く飛び回る鳥に、ヒュージモアは四足の馬になっていた。

 

後ろの二体は種族が違うのだから、変化というのは正しくないのだろうけれど、倒した後の体を解体すると、内部の作り、つまりは体組織から、血液の色、内部臓器、その他構造までがとてもよく似通っていて、そうとしか表現できないのだ。

 

「――――――! 」

 

しかしそんな、四層の魔物が可愛く見えるほどの強さを持った魔物たちは今、私たちの編み出した戦術によって次々と死に絶えてゆく。巨大な猫の化け物は、大きく口を開いた瞬間を狙ってサガが炎の術式をぶち込むことで、窒息死させる事ができる。

 

大猪はその巨体での体当たりをダリがパリングで防いだ次の瞬間、エミヤがさくりと切り捨てて終わりだし、素早く飛び回る鳥はエミヤが毒を塗った矢で撃ち落として終わりだし、馬と牛はその細い足を折るだけで地面に倒れこんで行動不能になるから論外だ。

 

「よーし、いいぞー、やっちまえー、エミヤー」

「気楽に言ってくれる……」

 

ちなみに、これらの魔物の対処法を見出したのは、今こうしてサガに気楽な掛け声を投げかけられた男、エミヤだ。彼はこの未知だった魔物の特性を見抜き、すぐさま臨機応変に見事な応対を編み出しては惜しみなく教えてくれたので、私たちは大した労力を費やすこともなく、魔物を難なく撃破する事ができているのだ。

 

今回の敵は、多分メディーサツリーと呼ばれる植物の魔物が変化したのだろう奴だ。元が樹木の形をした魔物だったそいつは、胴体にあった人の顔が牛の顔になった上で三つになり、頭部から生えた腕が六つに増え、沢山あった根の足が減って六つだけになっていた。

 

また、頭部にあった髪の毛の先に生えていた石化をもたらす四つの目は失せていたけれど、代わりに元々は樹木であったため炎が弱点であった特性が消えていて、ついでに炎どころか氷も雷も効かないようになり、驚くほどの俊敏性と腕力、回復力をも備えるようになっていた。

 

けれど。

 

「ほら、敵さんこちらっと」

 

それでもサガのこの余裕。サガはニヤニヤと意地の悪い顔を浮かべながら、数度無効化された経験から効かないことを承知なんだろうけど、雷を放つ。機械仕掛けの籠手により威力を強化された雷は、三つの顔を持つ敵の、その一つの顔面を見事に捉えて包み込む。直撃の瞬間、元メデューサツリーの体からは少しばかり火花が散り、側雷撃が近くの樹木を貫通する。

 

やがて雷光が晴れて敵が上げた顔は、やはり予想通り、まったく傷が付いていない。代わりに見えたのは、怒りに眼を輝かせた様子だ。そいつはサガの方を見ると、攻撃の対象をエミヤからサガへと変えて、そして怒りに任せたまま、突進する。

 

「おっと、予想通り」

「任せろ、パリング! 」

 

サガめがけて繰り出された巨体の前にダリが躍り出た。掛け声とともに生み出された物理攻撃の威力を完全に遮断する膜がダリの構えた盾の前に出現し、ダリは巨体の突進を事もなさげに受け止めた。ダリの前に現れた光の壁が役目を薄れてゆく。

 

「響! 」

「あ、はい。縺れ糸」

 

エミヤの指示で私は足用の縺れ糸を使う。私が敵めがけてぶん投げた糸は、ダリの盾の前の壁が消える前にシュルシュルと形を崩していくと、敵の足に巻きつき、その足を絡めとる。敵はその六本足を絡め取られて、窮屈さから解き放たれようと、必死の抵抗をしてみせた。

 

その抵抗や激しく、縺れ糸は数秒も持たないだろうことは簡単に見て取れたけれど、それで十分だ。少なくともこれで、その数秒は先の突進は使えないし、それどころか動くことすらままならないはず。一応、六本の腕と口から吐き出される石化のブレスはまだ脅威で危険だけれど、そんなもの近寄らなければいいだけの話だ。

 

「よくやった」

 

そうして少し離れた場所から聞こえる賞賛の言葉を投げつけてきたエミヤは、すでに矢を弓に番えていた。ああ、終わったな、と直感。彼がその弓を取り出すその時は、一度だって外す事なく敵を打ち貫き、見事に敵を仕留めてきた。だからもうあとは、彼がその矢を離してしまえば、この戦いもおしまいなのだろうと私は確信した。

 

「そしてさらばだ」

 

ヒュン、と風切り音がしたかと思うと、赤の霧を切り裂いてエミヤの矢が敵の頭部を貫通した。一層の蛇から取れた毒を加工して作った毒を塗った矢の一撃は敵の顔面が引っ付いた胴体に見事な穴を開け、続けて音も重なるほどの直後に放たれた第二射が胸の心臓があっただろうあたりを突き抜けていく。

 

頭部と胸を矢によって破壊された敵は、そのさらに直後、傷跡から毒が巡って全身が融解してゆく。驚くほど有効に働いた毒の効力により、赤の埃が舞う中に、樹木と毒が混じった化粧水がばら撒かれて、その敵は瞬時に背丈を縮めさせられていた。

 

これでもう戦闘終了だ。正直、ここまで一方的だと、謎の罪悪感が湧いて、必死にこちらを仕留めようと襲いかかってくる的に哀れの感情を抱いてしまうほどの一方的さだった。

 

とはいえ一応、常にどんな敵でもこんな風に簡単に仕留められるというわけではなくて、例えば、金色の鹿はこちらの姿を見かけた瞬間、目にも止まらない速度で私たちから逃げていってしまうから未だに倒せていないし、今みたいに初見のやつ相手だと多少手間取る……事もある。

 

でも、言っても、多少手間取るだけで、結局簡単に倒せてしまうのだ。

 

「さて、これで手仕舞いか」

 

これだ。この強さ。正直、私の援護などなくとも、彼はきっと同じように敵を打ち貫いていただろうと私は確信する。別に私の道具がなくても、ダリの防御がなくても、サガの援護がなくても、彼は間違いなく、同じように敵を仕留めてしまうだろう。多分、彼は同行者である私たちに気を使って、一人で簡単に敵を倒し切らないようにしてくれているのだ。

 

直接的な援護が必要ないというのなら、今後、彼の役に立てそうなのは、彼の身体能力を引き上げることのできるピエールだけだ。ああいやでも、そういえば、前回の戦いではダリがいなければ死んでいただろうから、彼もきっと必要とされている。

 

そしてようよう考えてみれば、ここまでの戦いの中で、サガが気を逸らしたからこそ、その隙に彼が敵を楽に仕留められた場面も多々あった。つまりはサガもエミヤに必要な人員として捉えられているのだろう。

 

しかし、三人とは違って、自分だけはそうでない。

 

先の場面を思い返せばそれは明らかだ。先ほども、ダリが敵の足を止めた時点で、こちらに指示をする暇があれば、彼ならその間隙を使って弓と矢で敵を仕留めることが出来たはずなのだ。それが意味するところはとどのつまりは、私は多分、出番がないという事で僻んだりする事のないようにとのお情けとお零れにて、活躍の機会を与えられただけに過ぎないのだろう。

 

頼りにされていない。お荷物扱いだ。そういう風にされる理由は、己自身の未熟さを以ってして、嫌という程理解できている。そうして早く己の未熟を理解できるのは優秀の証ではなくて、私はここ数週間の間、迷宮に潜らない間、暇さえあれば彼の元を訪ねて、彼の鍛錬に付き合わせてもらっている経験に基づくものだ。

 

シンが最後に私に託した、最期の願い。刀を三竜に突き立てて欲しいという彼の遺言に導かれるようにして、あの日以来、私は暇さえあれば剣を振るうようになった。エミヤのアドバイスで刀より剣に生まれ変わった、この二振りの刀を、だ。

 

使うなら折れた方をメインに鋳造しなおすがいい。刀は鍔の一センチ程の部分が弱い。素人が遠心力に頼って振り回すと、大抵そこから折れる。鋳型に流し込んで刀身の強度を均一に造りあげる西洋剣の方が負担は少ないだろう。そんなアドバイスをもらって以降、助言通りの両刃の剣として生まれ変わった彼の剣「カムイランケタム」を、「薄緑」と共に振るう。

 

シンが最後につげたアドバイスの通りに体を動かし、背筋を伸ばし、毎日毎日、剣を振る。そんな努力の結果として、この四度の遠征までの数週間の時の経過の最中で、私は己でも驚くほど上手く剣を振るえるようになっていた。無茶の証に潰れた血マメはすっかり固くなって、タコにまでなっている。

 

そしてなるほど、やはりシンの見込んでくれた通り、わたしには剣の才能があったようで、やればやるほどうちにその剣筋は鋭くなっていくのを実感できた。それでもまだ、彼らには、彼には届かない。届かない。どれだけ振るっても、わたしはシンのいう、シン以上の剣を振るう私になれる気がしない。

 

私がシンから受け継いだ剣の二振りを、どうにか交互に持ち替えながら振り下ろして動きを叩き込んでいる傍ら、エミヤという男は、文字通り目にも霞む速度で腕を脚を動かして、地を蹴り、宙を舞い、仮想の強敵との戦いに勤しんでいる。

 

その上で、彼はこちらの様子を完全に無視しているわけでなく、時折、私の修行がうまくいかない時には助言をくれたりするのだ。彼は己の内面の世界に敵を生み、思考内で強敵との苛烈な戦いをこなしながらも、周囲に意識を飛ばして俯瞰する事をやってのけるのだ。

 

そんな日々を過ごすうちに、私は彼の中に、シンという男の真っ直ぐさとダリという男の冷徹を見つけて、きっと彼はヘイの懸念したような、感情と理性の暴走を起こさないのではないだろうかと思うようになっていた。

 

こう言ってはヘイや歳を経た人に失礼かもしれないが、エミヤという男は、この世界における誰よりも精神が老成していると感じられる。彼はきっともう既に人として完成しているのだ。

 

多分彼は、おそらくは誰よりも色々な経験をして、多くの人々の完成形を知っているからこそ、未熟な私に適切な情けをかけてくれいて、無意識のうちに成長の機会を与えてくれているのだろうと思う。

 

加えて、己の益は全くないのに訓練を見守ってくれているのは、シンという男との約束があるからというのもあるのだろう。そういう、冷静な表面と冷徹を基本とする基本態度とは裏腹に、情に厚い部分と義理堅さがエミヤという男にはある。

 

その心遣いはありがたい事だと思う。思うけれど、ただ、不安と不満がないわけではない。そんな優しくも優秀な彼が私をこの旅路に同行させてくれている理由が、別に自分の能力が必要だからではなく、私が可哀想だから、連れていってもらえているのだと思うと、その必要のされていないという境遇が、かつて赤死病の噂が広まっていた頃の自分と重なり、正直、結構辛い。

 

迷宮は彼らがいれば、エミヤとあの三人がいればきっと迷宮は攻略されるだろう。そう、彼がいればきっと、シンの最期の願いだって叶えさせてもらえるだろう。シンの最期の願い。彼の剣を、強敵に突き立てて欲しいという願い。そう、それだって、彼の手に託してしまえば、間違いなく叶えてもらえるだろう。

 

死者の最期の思いを叶えてやる。それはきっととても喜ばしい事だ。でも、別に私の協力や努力がなくてもそれが達成されると思うと、胸が千切れるほどに痛い。私なんかいなくとも、そうやって彼の願いを成し遂げられてしまうだろうという事が、私にとってなにより辛い。

 

シンの最期の願いが叶う事は嬉しい事のはずなのに、それが私なしでも成し遂げられる事だと思うと、願いなんて叶って欲しくないと思ってしまう。この矛盾した感情をどう処理すればいいのだろうか。それとも、このわけのわからない感情は、やがてシンや両親を失った後のように、消えていってしまうのだろうか。

 

それは嫌だな、と思う。彼のことを思い出すと、胸が痛むけれど、同時に湧き出てくる暖かい気持ちが、それは嫌だと主張する。でもどうすればいいかわからない。わからない。わからない。シンが死んだ時から、あの日から、私の目的は最下層の番人に刃を突き立てる事だけだった。彼の代わりに刃を。

 

―――君ならば、私以上に剣を振るえるようになれる

 

―――本当に? なら、それはいつ?

 

ああ、なんでシンは、私なんかに願いを残していってしまったのだろうか。なんで。剣を代わりに突き立てて欲しいと私に頼んだのは本心だったのだろうか。もしや、もっとも近くにいたから、今際の際に口をついてそんな言葉が出ただけなのではないだろうか。

 

そんな風に思う自分がすごく嫌だった。結局私は、私の事情でばかり悩んでいる。それがすごく醜く見えて、嫌だった。醜悪な疑念の答えを求めて過去の彼に問うても、過去の記憶となってしまった彼は、当然のように何も答えてはくれない。

 

「おーい、響―、何してるんだよー、解体―」

「あ、はーい、いま行きます」

 

もう少し悩む時間があれば、あるいは、私が役に立てるような場面があれば、私もこの気持ちに決着をつける事ができたのかもしれないが、ともあれこんな所で、こんな時に、無い物ねだりをしても仕方ない。

 

どうしてシンが私に剣を託したのか、とか、ヘイがエミヤに対して心配している気配りは無用のものではないか、という疑念などの問題はひとまず置いておいて、私は今この時、私を必要としてくれる人の元へ向かう。

 

私はそうして腰から解体用のナイフを取り出すと、必要とされた役目を果たすべく、融解してほとんど残っていない敵の体へと刃を突き立てた。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十九階「十二の試練に挑んだ白秋の道」

 

 

ここまでに出来上がった地図を広げ、印をつけた部分を見る。FOEと刻まれた印の端には獅子に鹿、大猪に鳥、多数の牛、馬とゲリュオンと牡牛の文字が刻まれている。それはこれまでに現れた魔獣どもの外見と名前である。

 

これで八。その中で、鹿はその雷の如き速度についていけないため、捨て置いた。伝承によれば一年の時がかかるというアレを追ってまで捕縛するメリットがあるとも思えないので、一旦は保留。八引く一は七。

 

つまりはこれまでの四つのフロアで討伐できた魔獣の数は、七。十二から七を引くと、五。ならばおそらく、残りの二フロアには五つの試練、すなわち、五種類の魔獣が待ち受けているのだろう。

 

討伐できていないのは鹿、ヒュドラにアマゾネス、ラドンにケルベロス。鹿はその速度での撹乱、ヒュドラは毒と再生能力、アマゾネスは数が脅威として、ラドンは炎と百の頭、ケルベロスは……はてさて、厄介な特徴はなんだったか。

 

過去の記憶より伝承を引っ張り出してきては、思い出してため息を吐く。残っている連中はどれも一筋縄ではいかない奴らばかりだ。不幸中ながらも幸いなのは、この新迷宮という場所は、五人という人数で攻略を行なっている場合、敵は最大で五体までしか同時に現れない事か。

 

どうやらこれは旧迷宮と共通するルールのようで、雑魚だろうが番人だろうが関係なくこの法則に縛られるらしい。唯一の例外はあの玉虫どもだが、まぁ、ルール破りはあの魔女の得意とする所だし、ひとまず置いておく。

 

ともあれ、この法則のおかげで、三千頭いるとされる牛どもや、湿地帯を覆うほど存在したとされる鳥たちと、真正面から戦う事なくすんでいるわけであるが、とすればもしや、今後、先の思い浮かべた五つの試練が同時に襲いかかってきたりする事態もあり得るのだろうか。

 

ああ、それは是が非でも勘弁してもらいたい。半神半人のギリシャの英雄と違い、私は正真正銘、元々はただの一般人なのだ。あの大英雄ヘラクレスですら一つ一つに苦戦した試練を五つも同時に受ける羽目になるだなんて、考えたくもない。

 

しかし、言峰か魔のモノ、どちらの思惑なのかは知らないが、なぜこんな悪趣味なものを作り上げたのだ。そう、こんな、第五次聖杯戦争に呼び出された参加者と関連の深い魔物や動物に、出典を同一とする第五次サーヴァントの能力を埋め込んで、迷宮内に出現するモンスターとして採用するという迷宮などを。

 

 

さて、改めて思い返せば、一層のあの巨大な石化を自在に操る蛇の魔物が、同様に、第五次聖杯戦争にライダーのクラスで呼び出されたメデューサの能力と似た外見と、因縁ある姿をしている事に気がつける。

 

二層の番人は虫を自在に操り転移と復活まで自在に操る、空を飛ぶ蛇であった。転移、復活、蛇、とくれば、思い浮かぶのは、セネカのメディアだ。

 

メディア。復活や蛇遣いの魔術を巧みに用いるほどの腕前から、ギリシャ神話において魔女と呼ばれたコルキスの王女たる彼女は、第五次聖杯戦争においてキャスターのクラスで呼び出され、手合わせした折りには、彼女は自身を自在に空間転移させる術を持っていた。

 

転移という偉業もさながら、空を飛んでいた事も、蛇の抜け殻を纏っていた事も、二人の息子をイアソンの眼前で殺害し、空へと逃げる際に戦車を引かせた蛇の存在を想起させる。二層の番人は、第五次聖杯戦争に呼び出された彼女と共通点を持っていたのだ。

 

また、同時に現れた玉虫の正体にも大雑把ながら予測は立ててある。おそらくあれは、イレギュラー的にアサシンとして呼び出された「佐々木小次郎」の代理なのだろう。

 

佐々木小次郎という英雄の伝承より生じる魔物はいないはずで、その生涯において関係するのは、宮本武蔵や鐘巻自斎、伊藤一刀斎といった人間たちであり、魔物や動物と同行したという伝承は耳にした記憶に覚えがない。

 

ただ、江戸初期時代に活躍した伝承がある事と、第五次聖杯戦争においてメディアに操られていた事実から察するに、恐らくは、あの本丸への守りを担当する門番の役目を強いられていた雅な玉虫こそが、風雅を愛する彼だったのだろうと考えた訳だ。

 

彼があの姿を取ったのは、あるいは彼の生きた時代と場所において、虫という存在こそが最も身近な脅威であったからかもしれない。私は目撃できなかったが、最期に一騎打ちを所望したという態度も、あの飄々とした侍の在り方を思えば、とてもらしい最期と思える。

 

ともあれこれで三体。

 

そして、第三層。あそこに現れた魔物は、犬、猪、牛と言った、同じく第五次聖杯戦争にランサーとして呼び出されたアイルランドの大英雄、クーフーリンに因縁深き魔物であった。

 

また、三層の番人たる猛犬が、非常に好戦的かつ、体に傷を負っても倒れず、己の死など知らぬといわんばかりに、苛烈な攻撃を仕掛けるその継戦能力に優れた雄々しい姿は、なんとも腹の中身をブチまけようと倒れずに最期の時を迎えた彼らしい生き汚い様であり、加えて最期として放った一撃は、クーフーリンの持つ呪いの魔槍ゲイボルクの「投げれば三十の鏃となって降り注ぎ、つけば三十の棘となって破裂する」特性と似通っていた。

 

奴の吐いた捨て台詞という決定打もあるし、言峰綺礼という男の言もある。間違いない。この新迷宮においては、第五次時聖杯戦争に呼び出されたサーヴァントの能力を持った、五次のサーヴァントと関係のある魔物、動物が、番人として、あるいは迷宮を彷徨う魔物として呼び出されているのだと確信した。

 

その法則に則って考えれば、あとは簡単な話だった。残るは四層と五層だけ。第五次聖杯戦争に呼び出された英霊のうち、私を除外すれば、残る英雄は、二人。すなわち、セイバーとして呼ばれた「キング・アーサー」と、バーサーカーとして呼び出された「ヘラクレス」だ。

 

そうして挑んだ四層は果たして予想通り、片割れのヘラクレスをモチーフにした魔物が襲いかかってきている。これまでの傾向とあの大英雄の生涯を考えるに、ヘラクレスの層では十二の試練と関連した魔物が出てくるのだろうという予想もまた的中し、それ故に私は記憶の中のギリシャ神話より情報を引き出す事で、容易に対処ができているという訳だ。

 

さて、幸いというか、不幸にもというか、これまでに出てきた魔物は、どれも伝承の中では彼が難なく葬り去った魔物ばかりで、あまり歯ごたえのない魔物ばかりであった。

 

だからこそこうして我々は、大した被害もなくこの十九階という奥地までスムーズにやってこられたわけであるが、そうして楽を堪能したと言う事実は、つまりこれ以降の番人のいる階までおいて、神話の大英雄が挑み特に苦戦した五つの試練を一気に乗り越えねばならないということを意味している。

 

あの大英雄が助力を求め、他の英雄と共になんとか踏破した試練を、五つ。それも、同時に出現するという事態もありうるという予想は、先を急ぐ私をなんとも心底億劫にさせる、懸念の種となっていた。

 

 

一度大きく息を吸って、吐く。悩み事の成分を大いに含んだ吐息は、空気中に散乱する赤い霧と反応して、一部の空気を濃く染めた後、地面へと落ちてゆく。いっそ、この吐息の行方のように、私も落ちて溶けて地面に吸い込まれ、その成分が地面を貫通してくれるのであれば、試練とやらを受けなくてもすむのだろうか、と非現実的な考えが浮かぶ。

 

―――は、試練を前にして臆病風に吹かれるとは、なんとも凡人らしい悩みだな

 

ともあれ今は探索中だ。こんなくだらぬ現実逃避をしている場合ではないと思い直して頭を振って考えを振り払おうと試みるが、湧き出た不安は過敏に神経を刺激して、私を余計に疲れさせる。あと五つも大英雄が苦戦した試練が残るという状況は、私をとても憂鬱な精神状態に陥らせていた。

 

神経昂り、無駄な消極的思考に走りたがる己の頭を戒めるべくもう一度頭を振ると、唇を軽く噛んでやる。すると硬い歯を破れんばかりに押し付けられた薄い皮膚と肉が鋭い痛みを訴え、私の頭で空想の中に散らばった意識を現実へと引き戻してくれる。

 

そして私は再び意識を外側へと拡散し、索敵と警戒を行う。未だに試練は現れる気配を見せない。安堵と不安が混ざったため息を漏らす。

 

―――しかし、死と隣り合わせの場所にいながら、随分と悠長に事を考えるようになった

 

油断の証とも言えるその余裕は、少なくともこの迷宮に一人で初めて潜入した際にはなかったものだ。果たしてこの余裕は、私が常に気を配り、常駐戦場を心がける事が出来なくなったほど弱くなった証なのか、それとも―――

 

―――多少なりと誰かを信じて、人に頼る事を覚えた証なのだろうか

 

ちらりと目線を後ろの四人に送る。彼らはこの命の危機と隣り合わせの赤き異界において、初めて踏み入れた場所に出現する敵の特性を知っていると豪語する私の言を素直に信用し、そして無邪気に受け入れ、肩肘を張る事なく、しかし密に索敵を行いながら私についてくる。

 

彼らは私に詳しく過去を尋ねない。彼らは人を無闇に疑わない。そう、彼らが正体を明かそうとしない私に寄せるのは、赤子が親に向けるような、無垢で透明な信頼だ。その、あまりよく知りもしない他人に全ての判断を、己の命を含む判断をも手放しに預けてしまう甘さは、まるでかつての未熟な己を見ているようで少しこそばゆい気持ちを抱かせる。

 

かつての私であったなら、その無邪気さを未熟と断言して忠告していただろう。その甘さは命取りになるといって、彼らを諌めていただろう。だがむしろ今は、そうして信を預けられている事を頼られている証と考え、心地よいとすら感じている。

 

考えてみれば、大した戦闘力を持たぬものばかりだったとはいえ、あの大英雄の試練をこうもやすやすと七つも踏破できたのは、ひとえに己以外の存在が私の後ろを守ってくれるという、安心感あってのものだ。彼らの存在は、今や迷宮探索に欠かせない存在ともなっている。

 

そう思うと七つの試練だろうが、負けて彼らを死なせるわけにはいかないという思いが湧いて出た。赤死病という広まる死病を消すため知らぬ誰かのために戦う、という抽象的な願いより始まった他人の為に戦いたいという思いは、守るべき誰かの具体例を得た事で濃度を増し、決意と覚悟を新たに褌を締め直そうと思わせる効力を持っていた。

 

最悪、切り札/私自身の宝具の使用も視野に入れながら、私は再び意識を外側に集中する。宙を舞う赤の粒子が一塊になって牡丹雪の如く地面に落ちて消えてゆく様は、最近整頓され露わになりつつある胸の裡にて思い返される過去の記憶の行方と重なって、妙な既視感を覚えさせられた。

 

 

「それではお疲れ様です」

「ああ、ではまた」

 

ぺこりと頭を下げて去ってゆく響を見送って、踵を返す。頭をあげて天を見上げれば、朱夏の匂いが息づく夜空は蒸し暑さを持って私の視線に返事を返してきた。過去を懐かしんでむせ返るには少しばかり足りない熱と湿度を全身で受け止めながら、帰路を緩やかに進む。

 

「―――ただいま」

 

言い慣れなかった台詞を、ようやく歯の浮く思いをせずに繰り出せるようになったそんな場所へ、足を踏み入れる。しかし、常なら対となる言葉を返してくれる相手はいつも通りに受付におらず、人気のない宿屋はその役目とは裏腹の静寂を返事として返すばかりだった。

 

「――――――? 」

 

いや、よく耳をすませてみれば、宿の奥、食堂の方から二人分の声が聞こえてくる。私という異物を受け入れて以来、久しく客を受け入れていないというそこから声が聞こえてくることに不思議の念を抱きながらも、私はか細い音に招かれるようにして歩を進める。

 

「―――はい、その通りです」

「そう……やっとなのね」

 

近寄るに連れて、意識せずとも会話が耳朶に飛び込んでくる。片方が重苦しい声色のソプラノであるのにたいして、もう片方は軽やかであるにもかかわらずしゃがれているという矛盾がなんとも印象深く、その濃淡がより一層会話の内容をより明朗に耳へと届かせた。

 

「それで、どのくらい保つのかしら? 」

「はっきりとはわかりませんが―――、おそらく保って一ヶ月から半年……」

「あら、大分振れ幅があるじゃない」

「ごめんなさい……、その、赤死病のことは詳しくはまだわかっていなくって……」

「そ……、ああ、ごめんなさい。別に貴女を責めたわけじゃないのよ」

「それでもごめんなさい」

 

冗談の通じない子ねぇ、と呆れたような声が聞こえ、やはり、ごめんなさい、という声が続いた。かつての世で聞き飽きたくらい耳にした、謝罪の言葉。その台詞に含まれている重み。

 

そうして空気の中に溶けてゆく微かな声には、峻烈な程の悔いと己を責める意思が込められていた。ああ、それは、他者の死を嫌になる程看取ってきた私が幾度となく聞き、あるいは聞かされた、死の運命を決定づけられた者へと向けられる、惜別と自責の言葉。

 

「―――なぜ」

 

気がつくと私は聞き耳の無礼の言い訳を考える暇も無く、食堂へと踊り込み、二人の会話に割り込んでいた。驚愕の表情を見せたのは同時で、その後の反応はまるで別だった。

 

一人の若人は居心地の悪さを隠そうともせず態度に表し、一人の老女はいつものように健啖にからからと微笑んで、気持ちのよい笑顔を返してくれた。

 

「―――あら、おかえり」

 

問いかけなどまるで無視しての呑気な掠れた声に、思わずいつものように返答をしそうになって、唇を噛んだ。ここで常と同じ挨拶を返せば、聡賢な彼女と、強引な態度に弱い己の気質が合わさって、話が有耶無耶の彼方へ無かったことになってしまう予感がした。だから、言葉を発することはしなかった。

 

しばらくの無言。かつて雨降る中、この部屋で過ごした時と同様の、しかしあの時とは真逆の性質を持った静寂が部屋中を支配して空気を淀んだものへと変化させている。身体中に纏わりつくような漠とした空気を切り裂いたのは、やはり、軽やかではっきりとしたしゃがれた声だった。

 

「―――まったく、しょうがないわね」

 

私、重っくるしいのは嫌いなのよ、と言わんばかりのため息と共に生み出された言葉は若々しく、被っていた猫を取っ払った彼女の声は沈黙を振り払う祓いの剣となり、止まっていた時を動かす効力を秘めていた。

 

「サコ。ありがとう。また一ヶ月後、懲りずに尋ねてきて頂戴。お願いね」

 

先ほどの死の宣告などあてにもしていないから気にするとの成分を含んだ物言いは、インという彼女の目論見通り、狼狽えていたサコという小さな医師の冷静を取り戻す役目を十分に果たして、少女はぺこりと小さな頭をインに下げると振り返り、同様に私に対して深々と頭を下げながら、横を通り抜けていった。

 

その、臆病と焦燥が多分に混じった態度から、彼女が頭を垂れたのは謝罪の意を私に投げかけたかったからでなく、視線が合う事で疑問の念を投げつけられるのを嫌ってのものだと読み取ることができた。

 

逃げるようにして去ったサコの手によりやがて玄関の扉の音が静まり、取り残された私と彼女は対峙して見つめ合う。宵闇の中、私たちの背景は橙に光る洋燈の明かりを受けて黄昏時のような雰囲気に包まれている。山の端に消えゆく陽光を受けて背の低い彼女を見下ろしたかのようなその様は、私にいつぞやの忘れられぬ別離の瞬間を思いださせた。

 

―――凛

 

「まったく、盗み聞きとはやってくれるわね。エトリアの英雄様はプライバシーと言うものを知らないのかしら?」

「――――――」

 

見た目に反してそのなんとも若く強気で気丈な台詞は、余計にかつての主人を思い出させて、私に閉口の状態を保たせた。そうして口を閉ざす私を前にして彼女は優雅に鼻息を漏らし、腹を小さく抱えて笑って見せると、こちらの堅気を削ぐべく、片手を振った。

 

「もう、少しは反応してよ。まるで壁に向かって独り言を呟いているみたいじゃない」

 

からりからりと笑う。笑い声は、寿命を宣告されたとは思えないほどの軽妙さに満ちていた。

 

「―――なぜ」

「―――ん?」

「なぜ、黙っていた」

 

ようやく絞り出した一言。胸の奥を捻って生まれ出た雫の言葉には、短いながらも全ての想いが込められている。なぜ貴女は、自らの死期を私に隠していたのか。

 

「んー」

 

重苦しく吐き出した言葉に対して、彼女は年若い少女がやるように唇に手をあてて考える仕草をして見えると、しばらくののちに、悪戯っぽく笑って、言った。

 

「なんとなく? 」

「―――! 」

 

その自分の命の終わりなどどうでもいいだろうと言わんばかりの態度がなんとも気に食わなくて、思わず片足で床板を踏み鳴らしていた。同時に周囲の空気に重苦しいものが混じり、あたりを照らす炎が激情に反応したかのように激しく揺れた。

 

発火した感情の中にはそれでも冷静さが保たれていて、木製の床は悲鳴をあげるに留まってくれたのだけが、救いだった。彼女は未だに私の中の感情の天秤が揺らいでいるに留まっているのを見抜いたのだろう、愉快そうに笑って、言う。

 

「あら怖い」

「茶化さないでほしい。今の私はすこぶる機嫌が悪い」

 

素直に心情を述べると、やはり彼女は気さく柔和な笑顔で、真面目なんだから、とやはりからかう態度をやめようとはしなかった。その幼さを含んだ笑顔には癇癪を起こした子供を見守るような母性があって、老若合わさった矛盾さが、えもしれぬ魅力を醸し出していた。

 

「―――、ねぇ、エミヤ」

「――――――」

 

語りかけてきた彼女の言葉に無言の視線を返す。すると、飄々と笑みを浮かべるその碧眼の奥に秘められた真剣さを見つけて、どうにか文句返してやろうという気勢は折れてしまった。こちらの変化を見据えたかのように静かな笑みを携えて彼女は続ける。

 

「べつに、隠そうと思って黙ってたわけじゃないわ。ただ、そう、言うタイミングがなかっただけよ。だってそうでしょう? 考えてもみてちょうだい。私と貴方の関係は、宿の主人と逗留している客のそれに過ぎないわ。薄氷とまではいかないにしろ、厚い関係でもない貴方に向かって、あと少ししたら私死にますなんて、そうそう言えるわけないでしょう? 」

「……、それは、そうかもしれないが」

 

言われてみればその通りだ。私と彼女の関係は、所詮、店の客と主人のそれに過ぎない。金の繋がりがせいぜいの接点である。そうして客人が戸惑うのを考慮してなにも告げなかった彼女の感性は、まったくもって正しい。正しいが、ただ、それだけの関係と認めたくない想いが、私の中にはあった。それは私にしては珍しい執着という感情だった。

 

「……、それでも、もう季節が一つ巡るくらいの時を共に過ごしていたのだ。事情を話してくれても良かったのではないか? それくらいの友誼を重ねてきたつもりではあったが」

「そうね、それはそうかもしれないわ」

 

ごめんなさいね、と小さく認めて彼女は黙り込んだ。素直な謝罪の言葉に、私はなにも言えなくなる。再び沈黙が辺りを支配する。しかし、先ほどとは打って変わって無言の空気は、木漏れ日の下で固まった体を解したかのような穏和さを帯びていて、私の冷たく凍り付いていた心中をゆるゆると溶かすと、続く言葉を発せさせてくれた。

 

「―――原因を聞いてもいいだろうか? 」

「さぁ? 未だに解明されていない病のことだし、わからないわ。ああでも、冒険者はかかりやすいっていうくらいだから、案外、昔のツケが回って来たのかもね。私、こんな見た目に反して、服の下はびっくりするくらい怪我や手術の跡が残っているの。多分、若い頃は無茶苦茶やってたんでしょうね」

「……そうか」

「やだ、そう暗くならないでよ。もう、ほんと、調子が狂っちゃうわ。まったく、いつもの傍若無人で皮肉屋な貴方はどこへ言っちゃったのかしら? 」

「―――、ふ、大方、貴女の殊勝な態度に驚いて、どこか迷子になっていたのだろうよ」

 

無理やり絞り出してそんな事をいってやると、ようやく調子が戻ってきたわね、と彼女は満足げに笑って見せた。その快活さに励まされて、私はようやくどうにか己を律して、常と変わらぬ態度をとってやろうという気概が心中へと舞い戻る。

 

彼女は落ち着きを取り戻した私の様子を見て、慕情に満ちた晴れ晴れとした笑みを浮かべると、椅子に深く腰掛けて体を預け、天井を仰ぎ見て体の中の残りの重さを全て吐き出した。そして静かに目を瞑ると、口を一度大きく開いて胸の奥にしまい込みように外気を取り込み、やがて新たに取り込んだ空気と共に語り出した。

 

「―――、そうね。エミヤ。私がハイラガードからやってきたことは話したかしら? 」

 

少しばかり瞑目して記憶の底を探ると引っかかる項目を思い出す。

 

「……、そうだ、確か、以前そんな事を言っていたな。貴女はそこのレジィナという女性のレシピを受け継いだと言っていた」

「あら、よく覚えているじゃない。……じゃあ、それ以前の話、ご存知かしら? 」

「―――いや」

 

確か、聞いていないはずだ。彼女もそれは理解していたようで、やはり小悪魔のように意地悪く悪びれなく微笑んで見せると、私の返事に同意した。

 

「そうね。だって私、貴方に過去のこと話してないもの」

「ではなぜ―――」

「そして同じように、私も貴方の事をよく知らないわ。だって貴方、私に過去のことを何も話してくれてないもの」

「……」

「だから、私は貴方の事情を知らない。多分、貴方、そうやって誰にも自分の過去を語ろうとはしないんでしょう? 語らないってことは、多分、貴方にとって、過去は辛い事ばかりだったんでしょうね。そうやって過去に触れようとすると、貴方が剣呑な空気を発散して聞いてくれるなと主張する。だから、多分貴方の周りの人も、貴方を慮って踏み込んでこない」

 

私は押し黙る。その通りだ。私はこの世界に落着してから、誰にも己の事情を語ったことはない。以前の会談の後、真実に近いところまで迫られても、沈黙を貫き通した。

 

「この世界の人は、悲しいとかの感情を溜め込めない分、自分の心の傷にも、他人の傷にも、とても敏感に反応するわ。そうした痛みに敏感ということは、痛みをとても恐れやすい性質を持つということでもある。だから彼らは本心を曝け出して、自分と異なる感性を持つ他人と生の心をぶつけ合うなんて傷つく行為、自ら望んで行おうとは思わないのよ。だって嫌じゃない。生の感情をそのままにぶつけ合って、傷ついてそれで互いに嫌な思いをするなんて」

 

滔々と告げる彼女の態度には、まるでそんな彼等と己は違うから私は容赦しないわよ、と言わんばかり圧力があって、ならば彼女が心傷を厭わないのは何故だろうと私に疑問を抱かせた。

 

「だから私も踏み込む事を避けていたのよ。きっと、貴方もこの世界の人たちと同じように、優しくて臆病な人だと思っていたから。……でも、違ったのね」

 

彼女は言うと、この広い世界において始めて同類を見つけたと言わんばかりの、眩しいばかりの満面の笑みを浮かべて、続けた。

 

「貴方はそうと知っても踏み込んできた。質問が私と貴方とを傷つけるかもと知っていて、それでもなお踏み込んできた。……、ほんと、なんとも英雄らしい豪胆さよね」

「……」

 

それは。それは違うと思う。ただ私は制御出来なかっただけだ。目の前で誰かが死にゆくと言う事実にただ耐えられなかっただけ。鋼どころか、ガラスの如き心中の脆さだからこそ、相性の悪い思いはすぐに許容を超えて心に亀裂を生み、我慢の立ちいかなくなった心より溢れ出て、口よりそれが零れ落ちただけのこと。

 

そんな彼女の指摘を受け入れがたい、と言う想いが表に出てしまったようで、彼女は私の渋面を見て苦笑いをすると、「全く頑固なんだから」、と言って、静かに笑って見せた。

 

「……、私はね。若い頃の過去の記憶がないの」

「……は? 」

 

唐突な告白に私は思わず嘲りに似た声色を返してしまう。彼女はそれすらも笑って受け入れて、独白を続けた。

 

「気がついたらハイラガードの街の医療機関で寝ていたわ。しわくちゃのおばあちゃんがボロボロの体の状態でね。それが私の最初の記憶。私の最も古い、過去の記憶」

「――――――」

 

まるきり白紙の過去を持つ。その、世界でも類を見ないだろう奇妙な相似に、私は初めて同情の気持ちを覚えると共に、まるでそんな過去がないなんて事どうでも良い、と言わんばかりにあっさりと告白する彼女の態度に、なんとも言えない劣等感のようなものを抱いた。

 

彼女はなぜ―――

 

「なぜ、貴女はそうして、笑ってその事を話せるのだ? 」

「ん? 」

「だってそうだろう? 起きた時にはすでに青春どころか朱夏も白秋も過ぎて、玄冬の時期を迎えていて、過去に繋がる一切の事象がなくなっているのだ。だと言うのに、なぜ貴女は愚痴一つ溢さずにいられるのか」

 

思い返すまでもなくどう聞いても失礼な、しかし率直な物言いを、彼女は心底おかしいと言わんばかりに夜の闇を引き裂くほどの声で笑ってみせると、苦笑をこぼしながら言う。

 

「そう、普通そうよね。貴方の反応、きっととても自然なものだわ。……、そうね。じゃあ、老婆心ながら、いまだに迷いを断ち切れぬ若者に、年寄り臭い説教でもさしあげるとしましょうか」

 

彼女は一転して体を預けていた背もたれから己の重さを取り戻して見せると、曲がった背骨をしゃんと伸ばして、真っ直ぐな視線でこちらを見る。その翡翠色の瞳には、迷いというものが一切ない、凛としたものだった。

 

「多分ね、私は過去にやり遂げたのよ」

「……やり遂げた? 」

「そう。記憶はないけれど、過去の私はきっと、やりたいと思う事をやり通して、私の生涯の欲を私自身の望み通り、全部叶えて見せた。もうこれ以上ないってくらいやり遂げて、きっとその時点で私は私の生涯に満足したのよ。だから……、そうね、なんていうのかしら。今のこれは、きっとおまけみたいなものなのよ。そうやって頑張って生き抜いた私が、最後の一時に見ている、泡沫の夢。その淡い夢の中で、本来ありえなかった、自分が胸を張って生涯を生き抜いた、その後の世界がどうなっているか、なんてものを見る事が出来ているの。だから、感謝こそすれ、恨むとか悲しむとか、愚痴るとかそういうのは一切ないわ」

 

迷いなどない、と言い切る彼女の笑顔の中には絶望も諦観もなく、ただ希望に満ちていた。その煌々と輝く宝石のような笑みを見て、私は眩さのうちに目の潰れるかの錯覚を覚える。強靭な意思と覚悟をもってして生き抜いた女傑は、その強靭さを持ってして凛とした生涯を魂の内に刻みつけていた。

 

そして私は、その華々しくも味のある笑顔の裏に、衛宮切嗣という男が浮かべた満足の笑みを見つける。今にも首落ちて散りゆく運命が眼前に迫っている花であっても、己が生涯を誇れるのであれば、こうも凛然としていられるのかと羨望の思いを覚える。

 

「―――、あ、ごめん、ちょっち訂正。そうね、やな事はないって言ったけど、一つだけ、すごく残念に思う事があるわ」

「―――それは? 」

 

そうして常に笑顔でいた彼女を曇らせた残念の正体を短く尋ねると、彼女は今までとは違い、満足の中に寂寥を含んだ笑顔を浮かべて、告げた。

 

「私、すごく愛していた人がいたの。この人となら一緒に地獄へ落ちたって後悔しないってくらい、その人のことを愛していた。多分青春の頃からずっと一緒に駆け抜けてきた人で、馬鹿で、無鉄砲で、人の言うことなんてきいてくれない、餓鬼みたいな所もあるやつだったけど、私の半身でもある人だった。……そんな大事な人のことを、私はなんでか、今、まったく覚えていない。―――今、あの人が隣にいてくれない。それがすごく悲しくて、寂しくて、辛い」

「――――――」

 

彼女の悲痛を露わにする叫びに、私はかけるべき言葉を失った。やがてそうして頼りにならない言葉の代わりにじっと視線を送っていると、戸惑いの視線に気がついた彼女は力強く言ってのけた。

 

「やだ、そんな顔しないで頂戴な。こっちまで鬱屈がうつっちゃうでしょ。……でも、そうね。ありがとう。そんな風に思ってくれて、ありがたく思っているわ」

「……わたしは」

「それにね。私、貴方に感謝しているのよ? 」

「私に? 」

「ええ。そうして天にまで聳えるハイラガードの世界樹を見るたびに、彼を失ったんだなと思い出しちゃうから、ハイラガードを離れてエトリアに移り住んで、それでも私は、やっぱり生きたような、でも死んだような生活をしていたわ。さっきはあんな事言ったけど、宿屋を営んでいろんな人と接していても、どうもみんないい子ちゃんで張り合いがなくて、あの人がいないから灰色の世界で、困っていたのよ。―――でも、そんな時、貴方が現れた。貴方は無茶をするし、かっこつけだし、皮肉屋で、どうしょうもなく意地っ張りだけど、私、そんな貴方がこの場所に来てくれてから、とても生活が充実しているわ。まるで失った過去の中で過ごしているかのよう。多分ね、貴方、あの人に良く似ているのよ」

「――――――」

「ごめんなさいね、勝手にあの人と重ねちゃって。面影を見るだけならともかく、誰かの代わりを求めるなんて、あまりにも勝手だわ。……ふふ、でも、過去なんて、って言いながら、やっぱり昔のことを思い出して楽しんでいるんだから勝手よね。まったく、我ながらほんと、自分勝手でやんなっちゃうわ」

 

らしいっちゃらしいんだけどね、と自嘲する彼女は、しかしなんとも楽しげで、殆どの負の感情を吹き飛ばしたかのような笑顔で告げる。彼女はそんな自分勝手な自分をこよなく愛しているのだろう。そしておそらく、彼女の伴侶も、そんな自由気ままを体現する彼女だからこそ、彼女の事を愛したのだろうな、と私は思った。

 

「うん、きっと、私、私の愛したあの人に会っていなかったら、貴方のこと、好きになっていたかもしれない。いいえ、きっと、好きになってたわ。そのなんとも不器用なまでに、自分の正義に従って、真っ直ぐに生きる様、私、ぜんぜん嫌いじゃないもの」

「――――――」

 

貴方の正義、嫌いじゃない。不意に齎された言葉は、頑なに閉ざしていた心の中心まで一直線でやってくると居座り、内より外へと向かって温かいもので満たされてゆく。身体中の神経に張り巡らされていた冷たいものは瞬時に溶けて、眼球と涙腺を通して体の外へと放出された。みっともないと思うこともできず、私はただ、呆然と言葉の意味をゆっくりと咀嚼しながら、言葉のもつ魔力が身体中に染み入ってくるのを受け入れる。

 

正義の味方なんていうものは、どこまでいっても、所詮は自分の正しさと思うことを相手に押し付けるだけの、独善に過ぎないものだ。若い頃は、その独善を、一般的に善と呼ばれる行為と重ね合わせることで、それでもいつかは全ての人を救えるようになると思っていた。

 

けれど、結局そんなことはなくて、世界中で普遍的に広がっている善というものは、それでも誰にとってもの善ではなくて、結局は多くの人を救える最小公倍数的な善性を汲み取って最大公約数となる人間を拾い上げることしかできなかった。

 

最初こそは悩んだその行為も、数を重ねるごとに慣れが生じて、やがてはおなざりな作業と成り下がる。やがて淡々と最大の人数を拾い上げるために最小の犠牲を強いるやり方は、最大数より零れ落ちた人たち、最大数である零れ落ちなかった人たち、そのどちらの目からも異端として映るようになる。

 

当然だ。そのような、普遍的な正義の歯車と成り果てた感情の枯れた機械のような男、誰が己と同種の生物として認められたりするものか。故に弾かれる。私という人間は、誰をも助ける正義の味方になると謳いながら、その実、誰からも疎まれる存在だった。

 

それを。その誰からも疎まれてきた、歪な己が正義を貫き通そうとする存在を、彼女はしかし、否定をせずに受け入れた。たったそれだけの行為が、他人のためにと心と命を削り、継ぎ接ぎだらけとなったガラスの心を暖かさで修復して、その中身までを溢れさせてゆく。

 

許容という行為が、共通点を持つ他人と弱さや経験を分かち合う行為が、これほどまでに己の心情を癒してくれるものだとは、思いもよらなかった。この誰もが私と違う背景に生まれ育った世界において、彼女だけは私と同様に、過去を失った事を悔やみ、嘆いている。

 

そして私はそんな彼女に憐憫し、同情し、そうして鏡を見るような行為は、私に共感の思いを抱かせて、私は己を存分に哀れと思って、体の中に理性の冷徹をして心中に溜め込んでいた激情の裡を表に解放してやることが出来た。そう、この涙はおそらく、私が生前と死後、さらにその後という長き渡る奇妙な生涯において、初めて純粋に私自身の為に流した、熱き咆哮の証だった。

 

 

ひとしきり両の眼から思いの丈を吐き出し終えると、彼女は静かに続けた。

 

「ねぇ」

「―――……、なんだろうか」

「さっきも言ったけどね。この世界の人たちは、優しくて、臆病で、痛みに敏感で、だからこそ、他人の痛がるような行為を避けたがる傾向にあるの。だから、多分、貴方が抱え込んでいるいろんな事も、こちらから話してあげない限り踏み込んで聞いてこないと思うわ」

「……そうか」

 

突然振り返された話をしかし私は、彼女が何を言わんとしているかを話の中身を予測できたが、静かにその続きを拝聴する事とした。それこそがこの、たった一人だけ過去に取り残されたような世界で、初めて己と同じ境遇を自ら語ってくれた女性に対する礼儀だと思ったから。

 

「ええ。だから、もし機会があったら、貴方の方から彼らに歩み寄ってやってくれないかしら? 貴方の過去がどんなものか私は知らないけれど、そう信じて、理解を求める想いを乗せて手を差し出せば、彼らは喜んで握り返してくれるはずよ」

 

受け取ったバトンを、次の人たちへ。自分という存在はそのうちいなくなるけれど、そうして差し出された想いになにかを感じ取ったのなら、そうして得たものを他の人へと渡して脈々と思いやりの連鎖を続かせて欲しいと、彼女は暗に告げている。

 

「ああ―――、承知した」

 

彼女が出した命の答えを、私はいつかの時のように受け取り、継承した。そう、私はようやく、この世界の人たちと同じ高さの座標軸に立てたのだ。長い旅路の果て、心中という名前の小舟は、漣一つたたない凪いだ状態で行く当てを失っていたけれど、そうして陸地の見えない大海の上に一人ポツンと佇んでいた頼りないそれの搭乗員は、ようやく陸に近付こうとする努力を始めて動き出した。

 

エトリアに来たばかりの日、空想の中で思い描いていた理想から受け渡されたものでなく、現実に存在する他人から渡された聖火は、かつて生前に衛宮切嗣という存在から受け継いだ種火と、死後に凛という女性が加えた燃料と合わさって、颶風の中でも決して消えぬ業火となる。

 

そうして私は一つの季節を過ごした後、ようやく真の意味でこの世界の人たちと同じ目線で付き合い、傷つけ合いながら生きてゆく覚悟を決めることができたのだ。まったく、歴史に学べないのは、愚者の性というが、なるほど、死後長きの時を得て己の過ちに気づくなど、愚鈍な己らしい劣等の証明である。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第二十階「死を得て星空を抜け儚い命と聖域を守護する大英雄」

 

 

二十階入り口近く配置してあった携帯磁軸に転移するところから、五度目の遠征は始まった。枯れはてた森の中、視界の開けた、しかし地面が上下にうねる荒涼とした大地を、しばらく歩く。敵がいつ現れても対処できるように気を張っているせいで周囲の光景に気を配る余裕はない。

 

だが、このまだ姿を現さぬ敵に対する気配りが杞憂に終わるだろうことは、この第四層二十階に降りたってからすでに半日近くの時が流れているのに、十六から十九階の時とは異なり、未だ一度たりと敵の気配を感じられない事から、薄っすらと予測ができていた。

 

やがて異邦人の一同と共に探索を行っていた私は、一から三層までと同じ外側構造を持つ番人の部屋の前にまでたどり着く。番人の部屋までの道はL字の曲がり角が続き長いだけの一本道で、その長い道のりをここまでくる中において、やはり予想通り、敵は一切姿を見せなかった。

 

―――ということはおそらく、この中に……

 

おそらくは四つ、あるいは五つの試練がまとめて放り込まれている。鹿、ヒュドラにアマゾネスの群れ、ラドンにケルベロス。名前を聞くだけで引き返したくなるような魔物が、群をなして襲いかかってくる。

 

その光景を想像した時、柄にもなく体が震えた。頭部から生まれた悪寒は背筋を駆け抜けて、心臓から指先にまで冷たい感覚が伝わる。武者震え、と言い切れたのなら格好良かったのだろうが、これは違う。これは目の前に置かれた箱が絶望だけを詰め込まれたパンドラの箱であると悟った時に生じる、未知と恐怖に対する、生物の根源的な部分が鳴らす警鐘だ。

 

そう、私の頭は、これより先に繰り広げられるだろう地獄を予測し、私の体はその地獄の中に身を投じ、踏破しなくてはいけないという恐怖に怯えたのだ。

 

戦いにおいては恐怖に体を支配された方が負ける。戦闘を行う者にとって恐怖を克服するのは、最初に乗り越えなければならない壁だ。しかし私は今、その恐怖を抑え切れずに表にだしてしまった。

 

戦闘を生業とする者にあるまじき失態だ。仮にとはいえ、あのヘラクレスと同じ場所に保管されていた英霊とは、とても思えないほどの臆病さ。怖い。苦しい。逃げ出したい。これが、生身の体、まともな神経を持つ人間が持つ感覚。

 

この震えは、かつての己の全てを投げ出してでも他者のために戦うエミヤシロウが、生涯を終えたその先、英霊となった後も持つことが出来なかった、己が世界から失せてしまうかもしれないという恐怖を体験している証。

 

―――まぁ、まともな人間の感覚を取り戻せていると考えれば、悪くはないのかもしれん

 

おそらくは私の生身の体を作るにあたって、人間「衛宮士郎」が素体にされているために生じる生理現象なのだろう。ふむ、だとすると、あの唐変木で鈍感な男も人並みの感覚を取り戻せていたのか。私と同じく、自己を失う恐怖を持っていなかったあの男が。

 

―――そう思うと、少し、感慨深い感じするな

 

「―――、エミヤさん? 」

 

などと考えていると、後ろから聞こえてきた軽やかな少女の声が私の意識を現実に呼び戻した。振り向けば、声の主人は心配そうな視線をこちらに向けている。そのさらに後ろでは、三人の男が三様の意外そうな顔を浮かべて、彼女と同じようにこちらへ視線を送っていた。

 

「いや、意外だな。あんたがそんな、普通の反応を見せるなんて思わなかった」

「確かに。なんというか、もう少し超然とした存在だとばかり……」

「まぁ、お陰で親近感は湧きましたがねぇ。……、ところでエミヤ」

 

ピエールは飄々とした雰囲気を一転させ、常とは異なる、厳しい表情をして言う。

 

「そろそろ、この部屋にいる番人の事を教えていただけませんかね」

 

空気が凍った。惚けた表情だったサガも、困惑顔だったダリも、同じように纏う雰囲気を剣呑なものに変え、真剣な目をして、こちらを見ている。誤魔化しは通じそうにない。射抜くような視線を受け流しながら、私は答える。

 

「なぜ知っている、とは聞かないのだな」

「聞いたら、答えてくれるのですか? 」

「…………さてね。案外素直に喋るかもしれんが」

「しかし、その口から語られる内容が真実であるという保証もないでしょう? そのあたり貴方ははぐらかしますから。そんなことより、私たちが知りたいのは、この先にいる番人の情報です」

「それすら真実とは限らんだろう? 」

「いえ、それはないでしょう。過去に関することは別として、これまでの四層に出てくる敵に対しての対処はどれも適切なものでした。貴方は、こと命がかかった事に関しては一切はぐらかさない、ある意味で真っ正直なお人です。……これから足を踏み入れた先にいる敵のことを考えて震えが出る程度には、正確な予測と把握をしておられるのでしょう? ですからそれを教えていただきたい。そうすれば、私たちが揃って無事に戻ってこれる確率も少しは上がるでしょう」

 

―――まいったな、これは

 

己の性格と白状の線引きを見抜かれていた事に、両手を上げて目をつむり、降参のポーズを取ってみせると、腕を組み直して首を傾げる。さて、どこからどこまでの情報をどの程度話していいものか……

 

―――いや

 

「―――、そうだな。知りたいと言うのなら、君たちには全て教えてやろう。私の生涯、私の過去、私の持ちうる戦術、その他諸々全て叩き売りだ。興味があるのなら聞くといい。今ならどれも特別価格で教授してやる」

「――――――、へぇ、大盤振る舞いじゃないか」

 

サガがにんまりと笑った。ダリは困惑気に、ピエールは竪琴を鳴らしながら上機嫌に笑い、そして響はなぜか少し寂し気に、笑った。彼らがそれぞれ見せた笑みの裏側を考察してやろうかと一瞬思ったが、無粋だと思いなおして止めた。なに、そんな疑問、あとで素直に聞いてやればよいのだ。

 

「とりいそぎ、この向こう側にいる奴らのことを教えてやろう。それ以上のことが知りたければ、そうだな、エトリアに帰った後、酒の肴にでも飽きる程に聞かせてやる。だから―――、どうか、死んでくれるなよ」

 

告げると彼らは、一転して濁っていた目を輝かせて、私の話を傾聴してやろうと、体を前に乗り出してきた。私はその素直さを好ましく思いながら、推論を語り出す。他者を信じて己の過去を話そうと思うこんな気持ちにさせてくれたインに最大限の感謝を送ると、私は門の奥に潜む魔物についての予想を彼らに語り聞かせることとなった。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十二話 高波は風水の交流にて引き起こされ

 

終了



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第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

 

神の与えた試練を乗り越えるなら、それ相応の代価が必要だ。

お前が神の祝福なき非才の身であれば、当然、相応の損害を覚悟しろ。

 

 

白く巨大な扉を覚悟を伴った掌で押してやると、手に込められた討伐の意思を拒むかのように、扉は重苦しい音を立てて内に開いてゆく。二つの白が互いの結びつきを遠ざけてゆく中、向こうから飛び出してくるかもしれない三千の人津波を想像して、私たちは警戒を密にした。

 

「――――――」

 

しかしその懸念は無用の長物となったことを知る。ひらけてゆく視界に見えたのは、地を埋め尽くすほどの敵軍ではなく、血を敷き詰めたように六方とも真赤な壁に囲まれた空っぽの空間の、そのガランとした部屋の中心にたった一匹の魔物がいる光景だったからだ。

 

眼前に広がる、平たい天蓋の何処かより壁面の成分が剥がれ落ち、やがて粉塵となった赤の塵芥が舞う光景は、これが例えば雪の色を伴っていれば、あるいは真夏も盛りを迎えそうな時期の今この頃、避暑のため訪れる場所として目に涼しい光景となったかもしれない。

 

だが、こうも不気味と興奮を誘う色ばかりが漠と広がる光景は、吹雪舞い散る雪原に佇むとは真反対の滑りとした気味の悪い印象を私に与えて、漣だっていた神経を鎮めるどころか、荒らしてやろうと侵食する効能を所持していた。

 

さてはこうして、神経を逆撫で苛立ちを引き起こしミスを誘発するのが眼前に広がる景色を作り上げた人物の目的であるとすれば、果たして製作者の底意地の悪さが見て取れるな、などとも思ったが、よくよく考えてみれば、この迷宮の構築に言峰綺礼という男が関わっているのを思い出して、素直に納得した。

 

人の嫌がることを進んで行いなさいという文言を聞けば、嬉々として他人に苦痛を与えるために動こうとする、人の醜いを己の快楽として認識する、なんともあの男らしい所業である。

 

「……」

 

 

考察を重ねながら、私は強化を施した眼球で五百メートル先に佇む、ゆらゆらと輪郭を崩しながら身体をくねらせ続ける敵を見る。その部屋の中にたった一匹だけで佇む敵は、透明なフォルムをしていて、さながら撥水性の布に水滴を垂らしたが如く姿であり、くわえて粘性をも備えた流体であった。

 

その粘度の高さと透明なボディに、赤い粉雪が舞い落ちて、そして粘度の高い体の表面をゆっくりと移動する様は、場違いな形容ながらも、梅雪色に着色したきな粉を振りかけられたわらび餅のようだ、と例えるのが相応しいように思える。

 

しかしそうして巨大な菓子箱の中央に、ぽつねんと笹舟に置かれた主菓子の如く存在を主張するそのなんとも場違いな魔物の異様さに、私たちはより一層警戒心を強めた。

 

「エミヤ……お前の予想と大分と違うようだが」

 

槍盾を構えて緊張していたダリは、その警戒をさらに密にして、囁き声で尋ねてくる。事前に彼らに伝えてあった私の最悪の予想では、扉を開けた途端、かつての玉虫の如くアマゾネスが蠢いているかもしれぬと伝えてあったため、そうして三千はいるだろうと脅していた敵の数が、その実たった一匹であった事に、彼は余計に不審の表情を深めているようだった。

 

「そのようだな」

「……どうする? 」

「……十秒待ってくれ。ダリは警戒と防御、サガとピエールは索敵、響は道具の準備を」

 

指示を出すと、四人はそれぞれが一瞥で目を合わせ、己の役割を果たすべく動き出す。周囲の警戒と対処を彼らに託した私は、眼前に観察の視線を送りつつ、考える。

 

これまで攻略してきた層番人との戦闘において、初見から一体であったのは、一層の一匹だけであった。だがそれとて、その無防備さに油断し突撃したところ、不意の増援に無用の手間をかける羽目となった。

 

一方、二層では最初から複数だった。遠距離から迎撃してやろうとすると、彼女がメディアと言う女の能力を持たぬと知らぬが故の油断であるとはいえ、後ろに玉虫を転移され不意打ちを食らった。

 

三層では雑然とした部屋の中心に一匹と五匹の魔物がいた。彼らは直線的であったものの、その能力には特異性があり、油断はしていなかったつもりではあったが、過信の代償として多大な犠牲を支払うこととなった。

 

そして四層。これまでの層の傾向と、ヘラクレスの試練が残り四つか五つ残っていると考えるならば……、やはり、敵は複数いる可能性の方が高い。とすれば―――

 

「―――、まず私が先行して部屋に入る」

「……それで? 」

「おそらくその動きに反応して、どこかから増援がくるだろう、数はわからんが、千を越す数がいるかもしれん。あるいは、一度に増援として出てくる数は五、六かもしれんが、あるいは十、二十の数が出てくるかもしれん。―――もし、敵の質が高い場合、あるいはその数があまりに多い場合は、私も即座に切り札を使用する。サガ、響、その際は各々のやり方で足止めを、ピエールは補助を頼む。ダリは悪いが、私を中心に守ってほしい」

「りょーかい」

「わかりました」

「仰せの通りに」

「了解だ」

 

各々が特徴をあらわにした確かな信頼の返事を返したのを聞いて、私は満足に頷いた。

 

―――よし

 

「では行くぞ」

 

完全に開閉を果たした役目を果たした扉の敷居を踏み越える。敵はまだ動かない。周囲に異常は起こらない。境界線を越えて一歩二歩と歩を進めても、何も異変は起こらない。敵に動きがないというのは、なんとも不気味なものである。

 

先制攻撃を仕掛けてやりたいが、万が一そのアクションに反応して、二層のように大量の敵が突如背後より現れた場合、彼らが最も被害を受ける。それだけは避けねばならぬと、警戒したまま前へと進む。

 

姿を一向に安定させない不定形の敵は、未だに敵意すら露わにせず、方針の方向性すら定かにしてくれない。不安を押し殺すようにして足を前に押し出し、ジリジリと距離を詰めていると、迷宮の何処よりか入り込んでくる暮色を帯びだした光が、背後の扉からすぐ眼前の足元の赤の空間の一部までを切り取り、占有している光景が視界の端に映る。

 

―――もう黄昏時が近い。敵の能力がいかなるものかは知らないが、夜の闇の中、戦闘手段も何もかもが不明な奴と戦う事だけは避けたい

 

また、未だに光の照らし出す空間の中にいた私は、この全身を温める暖気が緊張の糸を緩めてしまわぬうちに早く敵を仕留めないとならぬとも感じたのだろう、理性と感覚に急かされるようにして少しだけ進行速度を早める。

 

やがて私が赤色の空間を微かに侵食する茜色の光の領域より足を踏み出した途端、敵の体に変化が生じた。一定の周期を保って蠢いていた奴の体は、箍を外したかのように大きく波打ち、ふわりと重力に逆らって宙に浮くと、地面との距離をとりはじめた。浮き上がった奴の体は、元々の質量や密度などとは無関係に、色濃い体のまま、身体を膨れ上がらせてゆく。

 

―――さて、鬼が出るか、蛇が出でるか

 

出てくる可能性があるとすれば、十二の試練のうち、未だに制覇していない試練に登場する敵か魔物か。すなわち、鹿、アマゾネスの群れ、ラドンに、ケルベロス、そして。

 

「ヒュドラか……! 」

 

巨大化した体は徐々に形を作ってゆく。グネグネと蠢く体からは、触手のようなものが伸びたかと思うと、やがてその先端よりは見覚えのある形へと変化してゆく。やがて直径三十メートルほどの大きさにまで膨れ上がった不定形生命体は、その波打つ頭部を九本も生やすと、その頭部に備え付けられた一対の瞳を全てこちらへと向け、その憎悪を露わにする。

 

―――よりにもよって、これが最初に出てくるとは……!

 

もちろんこの敵との遭遇を想定して対策に毒を無効化するアクセサリーを装備してきたが、ヘラクレスの窮地を幾度となく救い、しかしその果てに彼や彼と親しい人間の命をたやすく奪い去った地上最強と名高い毒相手に、果たしてこの無毒化を謳うアイテムがどこまで効力を発揮してくれるかは、まるきり未知数である。

 

ともあれなるべく、毒をくらわぬよう相手をせねば―――

 

「―――、エミヤ! 」

「…………! 」

 

懸念の最中、切羽詰まったサガの叫び声を聞いて、不定形の奴より視線を外して即座に後ろを向く。振り向いた先にいたのは、黄金に輝く身体を持つ獣。軽やかな足取りで、しかしまっすぐ迫り来るその獣の姿に、私は見覚えがあった。

 

「鹿か!? 」

 

私は振り向き目に奴の姿が映った瞬間、その勢いのままにその場から離脱する。強化を施した肉体は迫り来る獣が繰り出す強烈な速度の体当たりを、すんでのところで回避する事を可能とした。寸前まで私のいた場所を黄金が通り過ぎてゆく。

 

かつてヘラクレスという大英雄が捕縛するのに一年の時をかけたというその鹿の脚力が生み出す速度は凄まじく、すれ違いざまの鹿が纏った金色の疾風の威力だけで地面は風に切り刻まれ、威力の証が深々と刻印された。奴の動作により生じた風圧が、空気と直に接する私の皮膚を、ヤスリがけでもするかのような粗雑さを伴って、乱暴に削り取ろうとする。比喩でなく、肌がひりつく感覚を覚えた。

 

―――サガの助言がなければ死んでいたかもしれん

 

私はサガに心中で礼を述べると、即座に体勢を立て直しと、助言をくれた彼へと向かって跳躍する。約二百メートルの距離を数歩の助走からの跳躍で零としたことに彼らは驚きを見せたが、すぐさまそのような些細に気を取られている場合ではないと思ったらしく、意識を敵の方へと集中してくれる。そんな彼らが見せる手練れの反応が、この場においてなによりも好ましく、そして頼もしいと感じる。

 

敬意に近いものを抱いた瞬間、背後より大きな音がした。扉が閉じられたのだ。そうして私たちは、いつものように、この閉鎖空間の中に閉じ込められる。此度目の前に現れた番人は、ヘラクレスの神話に基づく、不定形の魔物に、鹿。すなわち、ヒュドラと呼ばれる最強の毒と不死性を保有する化け物と、黄金の角と体、青銅の蹄を持つケリュネイアの五頭目の鹿だ。

 

―――まずは二つの試練が同時か

 

試練が五つ同時でなかったことに、私はひとまず安堵のため息を漏らした。

 

「すまん。警戒していたが、動きが早すぎて対処しきれなかった」

 

するとその吐息に反応して、ダリが視線を敵から離さず謝罪を送ってくる。おそらくは先のため息を、対処できなかった自身に対する抗議と受け取ったのだろう。彼はその実力とは裏腹に、多少自分の実力を低く見積もる癖がある。

 

石橋を叩く慎重を持ち合わせている人間特有の己を卑下する悪癖は私にも覚えがあるので文句は言いづらいが、こと目下戦闘の状況において、戦力の正確な判断が出来ていないのは死に繋がりかねない。だから私は、直せぬ我が振りに目を瞑る事に多少むず痒い感覚を抱きながらも、その思い違いを修正してやることにした。

 

「いや。あの速度での不意打ち、早々反応できるものではない。だが、敵の姿を捉えた状態である今、君になら防げると信じている」

 

同じく敵に目を向けたまま返すと、予想外の賞賛が照れくさかったのだろう、彼は少しばかり頬を赤らめて、しかし素直に受け取り、力強く頷いてみせた。思いのほか純情なところもあるのだな、と場違いながらも驚く。

 

加えて彼がそんな乙女の如く恥じらいを見せた事は初めてだったようで、周囲を見渡すと、サガ、響のみならず、ピエールという男までが、目の前で起きた理解不能の光景を必死に咀嚼してやろうと試みていた。人のことは言えぬが、皆、なんとも呑気なものである。

 

「――――――」

 

そうしてそんなやりとりをして隙を晒している最中、それでも私は警戒を怠っているわけではなく、こちらの油断に対して何かの反応をして見せれば即座に反応して見せる算段だったが、しかし眼前の二体の魔物は、こちらへの殺意を備え付けたまま動こうとしなかった。

 

敵もこちらの出方を観察しているのだろうか、金鹿の鋭い眼は、特に私とダリを捉えたまま放さずおり、また、ヒュドラの巨大な九つの頭部にお行儀よくはめ込まれた一対の眼球は、誰を視認しているのか分からぬほど透明さで、俯瞰の姿勢を保っている。

 

やつらと同じように、私が奴らの一挙手一投足に注目していると、やがて、丸いだけの不定形の体に九つの頭部を携えた透明な魔物から、不自然にも突然生じた紫煙がゆらゆらと漏れ出した。そうして空気中に放出された紫煙は、重力に従って下へと垂れ流されてゆく。

 

判ずるに空気よりも重いらしいその煙は、そのままゆっくりとした動作で空気を押しのけて地に落ちると、赤の地面と接触した瞬間、地面に生えた赤草をグズグズに溶かし、さらには土の地面すらも融解させた。混じった液体は煮沸したかのように波打ち、その液体の領域を広げてゆく。

 

その光景は私に、あれこそが伝説に名高い、全ての生物を触れただけで殺す猛毒、「ヒュドラの猛毒」であることを即座に理解させた。胸元のタリスマンを見る。胸元で怪しく光る宝石は一層に出現した蛇の毒を見事に無効化してくれたが、あの地面すら液状化させてしまいそうな毒液の前には無力であるかのように感じてしまう。

 

なるほど、この階層の地面だけ、時間が固定化されたかのような状態である理由は、あの毒が即座に地面を殺して迷宮を瓦解させないための処置かもしれぬと思いつく。

 

「気をつけろ……、ヒュドラの毒煙に触れれば、おそらくタダではすまない」

「さっき言ってた、なんでも死なせる猛毒ってやつか? 」

「ああ。一応、タリスマンを装備しているから煙に触れた程度なら大丈夫だと思うが、思い切り吸い込んだり、溜まった液体を一定量以上浴びると、その限りでない可能性が高い」

 

一同は、その言葉に視線を不定形の下に溜まる液体へと向けた。こうして対峙しているだけでも赤黒紫のマーブルは、紫の煙を表面張力で浮かせながら、その範囲を広げてゆく。

 

煙を放出するヒュドラは、その透明な体より伸びる全ての首の口先から大量の放出を行いながらも、身体の大きさを常に一定の大きさに保っていた。誰かが唾液を嚥下した音がやけに大きく聞こえてくる。

 

「なぁ、もしかして、このままこうしてると、まずいんじゃね? 」

 

サガの言葉に、確かにその通りだと思い至る。敵はどうやら呼吸をするかのように、あの紫の毒霧を無限に生み出せるらしい。ならばこのまま時間が経過した時、この部屋が毒霧に満たされた空間へと変貌するのだろう事は、容易に予測ができる。流石に地上最強の猛毒に満ちた空間の中で生きていられる自信があるほど、私は豪胆ではない。

 

「お前の話によると、ヒュドラってやつは、首を切った後、傷口を焼けばいいんだったよな」

「ああ。奴の首を切り落とすのは、私に任せておけ」

 

サガは籠手を展開させて、スキルの発動準備に入る。私は彼の動きを背中越しに感じて頷くと、身体を戦闘の状態へと移行する。初めは宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」で奴を吹き飛ばそうと考えていたが、あの一秒ごとにその密度と量が増えてゆく毒の量を見てそんな気は失せてしまっていた。

 

確かに「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」なら奴の体を宝具で吹き飛ばす事もできる可能性は高く、あるいは撃破も容易いかもしれぬが、着弾直後、紫の煙や液を切り裂いた際に、奴の体ごと煙や液体が飛び散り、それらがこちらに風に流され飛来し、そして我々の体に侵入してしまうかもという可能性を考えると、易々と用いて良い手段でないように思えたのだ。

 

故に私は、今回、首だけを切り落とす手段として、宝具「赤原猟犬/フルンディング」を投影する事とした。この一度放てば剣に籠められた魔力の続く限り敵を追い詰めて殺す剣ならば、奴の煙を避けて明後日の方向に放っても、九つ存在する全ての首を切り落とし続けてくれるだろうと考えた。

 

―――わけだが

 

敵はそうして、奴にとって不埒な行動を企む私を前にして、しかし未だ大きな動きを見せない。地上最強の猛毒を持つ獰猛なはずのヒュドラは九つの首を揺らして、泰然と不動を保ち、先程あれほどの速度を誇ったケリュネイアの金鹿もヒュドラから少し離れた場所を闊歩するだけで、積極的な攻撃姿勢は見せていない。

 

その静観。その傍観が、ひどく不気味に映る。本当にこのまま攻撃を仕掛けて良いものか。そんな不安が脳裏をよぎる。しかし記憶に残っている伝承を漁ってヒュドラの特徴を考えても、「首を切り落として、その傷口を焼く」「岩をもって核を封じる」以外に有効そうな手段を思いつくことができない。

 

ならばそうして、思いついた手を一つずつ試して有効打を探るのは相対する敵を打ち倒すには道理の手段なはずで、間違いなく正しい選択のはずである。にもかかわらずこうして戸惑うのは、おそらく、導き出された答えを正しいと知っているに由来するものであろう。一人だけが解答を知っているというのは、かくも間違えた場合の事を懸念する様になるものなのだ。

 

―――しかし随分とまぁ、臆病になったものだ

 

生死をかけた戦闘において不測の事態は当然、敵が能力を隠すのも、敵の能力が完全に把握できない状態で戦いを始めるのも常の事だ。そうして互いがカードを隠した状態で始める戦闘を尋常な勝負と表現するなら、情報量の天秤が片一方に傾いているこの状況など、卑怯千万の謂れを受けても反論できぬ状況だ。敵の情報が万全に揃っている戦いに一抹の不安を抱くというなら、もうそれは腑抜けと称するより他に呼びようがない臆病ぶりではないか。

 

―――は、この様が元は英霊と呼ばれる守護者の末路だというのだから、我ながら笑わせてくれる

 

心の裡に生じた臆病をあえて責め立て自身を奮い立たせると、あえて無駄に大きく一歩を踏み出しながら、動作の最中で流れるようにカーボン製の黒弓と宝具「赤原猟犬/フルンディング」を投影する。

 

世に姿を表したその気性の荒さを象徴するかのような刺々しい金属板が打ち付けられた剣を、歩きの流れの動作の中で弓に番えると、私はやがて敵正面に向けていた体を横に構えなおして立ち止まり、弦を弾きながら弾となる刀身へ魔力を籠める。

 

刀身に流し込まれた赤銅色の魔力は、剣自身が持つ荒々しい赤の暴力と混じり合うと、その体より緋色の魔力を空気中に放出した。漏れ出した魔力は刀身と添えた手を辿って、剣の柄より赤の地面へとゆらゆら落ちてゆく。その様はまるで、存分に餌を与えられた素直でない猟犬が、しかし嬉しさを隠しきれず尾を振っているかのようだった。

 

そうして攻撃の準備を整える間も敵は動かない。奴がまるで動きを見せない異常は、不気味と感じる心に不安を煽り、平生の天秤を揺らす要素に拍車をかけ、鏃の狙いをぶれさせた。私はその臆病の表れの動作を無理やり押さえ込みながら、迷いを振り切るようにして、一度だけ視線を後ろへと送った。

 

「――――――」

「――――――」

 

彼らと視線が合う。サガはすでにスキルの準備を終えている。ダリは盾を構えて前傾姿勢になり、響はバッグの中に手を突っ込んで弄っている。やがて全員の準備が整ったことを察したピエールが、竪琴を鳴らすとともに大きく歌を吟じ始め、そして戦いは口火を切られた。

 

「さぁ、それではいきなり閉幕を宣言するのは恐縮でございますが、四層におけます戦いの最終章を始めましょう! 」

 

彼は、叫ぶとバードである己のフォーススキル「最終決戦の軍歌」を高らかに歌い出した。白魚の手の先にある弦タコにて硬くなった指が、弦楽器に負けはせぬと堅ながらもしなやかな糸を強く弾き、共鳴箱を通じて艶やかな、しかし荒々しい音を周囲に撒き散らす。

 

楽器の音色に乗って、ピエールは己の喉を大きく動かしながら声を張り上げて、勇ましい曲調に言葉を乗せ、周囲に流麗な音を濁流の如く散布した。そうしてあたりに渦巻いた音色は、混じったスキルと共に周囲の味方を体に飛び込むと力となり、私は己の身体能力が引き上げられるのを感じる。

 

強化の魔術を最大限施した上での補助に、肌の感覚は空気中を舞う埃の一粒すら感じるようになり、指先より剣へと流し込む魔力の量を、限界のさらに先の極限にまで詰め込むことを可能とした。ミクロン単位での魔力流入調整を施され、忍耐の限界に達していた宝具は、もはや我慢がならぬと解き放てと、私を急かしてくる。

 

私は吠える堪忍袋の小さな猟犬の要望を叶えるかのように、己の指という首輪から宝具を解放し、己が体に秘められた威力を存分に発揮しろと、その名を高らかに叫んでやる。

 

「赤原猟犬/フルンディング! 」

 

放たれる暴虐。途端、刃先にて風を切り裂いて一直線に敵へと向かう姿は、まさに卑しくも大きな牙を押し出しながら暴走する狂犬のそれを形にしたような荒れ狂う突進だった。魔力による身体強化の上にさらにスキルによる強化を乗せられた威力は、赤光の絵筆にて、不定形の敵との空気の間に一条の飛行機雲を描きながら飛翔する。

 

その速度はもはや音速を超え、彗星に等しくすら見えた。敵との距離は五百メートル。そう、たったの五百メートルしかない。今の赤原猟犬なら、瞬きを終える前に、彼我の距離を零にしてくれるだろう。その瞬間。その刹那。

 

魔力とスキルによる強化を施された眼球は、その一瞬にすら満たない時間の間に、不定形の生物と剣の間に、するりと入り込んでくる生物の存在を視認した。一秒を数千もの瞬間に分断した短い時の最中、最大限まで強化された瞳が捉えたそいつは、なんとも優美な動きで、空間引き裂き直進する魔剣のデッドラインへ軽々と身を晒す。

 

ケリュネイアの鹿がとったその所作のあまりの自然な優雅さに、私は一瞬その挙動を不信と思えず、秒を万に分断された意識の中に空隙を作ってしまった。呆然の直後、危険を察知して、あらん限り鳴りの警鐘が脳内に鳴り響く。

 

―――あれはまずい

 

奴の思惑は知らぬが、己の身をわざわざ暴虐の前に持ってきながら、しかし奴はまるでなんて事のないように振る舞う。死線に身を晒しながら、そんなつまらぬ些事、気にもしませんよと言わんばかりの、その態度の異常、その慮外の動作が、私の直感と戦闘経験に基づく心眼を刺激して最大限の警戒を訴える。

 

―――……、ならば

 

迷いは一瞬。しかし、剣が金鹿と接触しかける直前、奴がその優美な口元に浮かべた笑みを一切崩さない様を見て、私は即座に魔力が最大限に籠められたその剣をこの世から抹消させる事を決意する。

 

―――投影破棄……!

 

命令が光の速さで剣に伝わるが、猟犬が挙動を止めたのは、刃先が鹿の喉元に到達したのと同時だった。消去の意思を受け取り剣が消滅するまでの間に、待ての命令を遵守しきれなかった剣は、少しだけ鹿のその緩やかな曲線にて構成される喉元に直進し、そして吸い込まれるようにして刃先だけをめり込ませた……ように見えた。

 

その瞬間、私の喉元に違和感。強化された感覚の中、表皮が熱い熱気を感じ取ったかと思うと、ぷつり、と皮膚が押されて裂かれた。そして、じく、と肉を割り異物が入り込む感覚がしたかと思うと、瞬間に甲状腺を割き、気管を割り、食堂までに到達する。

 

「……っ、かッ……、はッ……! 」

 

突如我が身を襲った理解不能の事象に対して、反射的に異常の起きた喉元を抑え、地面に両膝をつく。なにを言おうとしたわけでもないが、呼吸のために動かそうとした喉元は、閉じた場所をかき分けられた事を主張するかのように、ひゅう、と呼吸が気管より喉元に漏れた。

 

通常はありえない体内の血肉と皮膚と内臓器官に外気が触れる異常を察知した神経が、遅れて敏感に異常の信号を脳へと送る。ようやく訪れた鋭い痛みは、脳内の余計な悩みを払拭し、頭を一点の出来事に集中させる効力を持っていた。

 

「……、エミヤ!? 」

「おい、なんだよ!? 」

「エミヤさん!? 」

 

ダリとサガと響が叫ぶ声が聞こえる。答えてやろうと思ったが、隙間の出来た喉元は肉の割れ目より間抜けに空気を漏らす音をたてるばかりで、その後、蠕動し声を出し損なった痛みだけを訴えてくる。

 

筋繊維の動作により、切れた周囲の血管が時間の流れを取り戻して、喉元から大量の出血を生じた。血液は、気管と食堂を上に下にと蹂躙し、口内にまで登ってきた生暖かきが舌下と触れることで鉄の味を感じさせた。

 

そして逆流した流体の氾濫にむせ返ると、その挙動が一層、喉元の出血を促し、私は傷口、口腔、鼻から赤の色を漏らすこととなる。その様を見た瞬間、響は過剰なくらい敏に反応し、バッグの中で遊ばせていた片手を取り出すと、二つの瓶を私に向けて振りまいた。

 

彼女がもはや神速とも言える速度でヒステリックな反応によりばら撒かれたそれは、ネクタルと呼ばれる、気付けと造血、微かながら傷を塞ぐ効果を持った薬と、メディカと呼ばれる肉体の損失を補填し、再生を促す効能の薬である。

 

二つの薬剤は私の体に触れた途端、瞬間的に光の粒子になったかと思うと、傷口を塞ぎ、皮膚より浸透した成分は失った血液を補填し、アルコールに匂いで嗅覚を、ネクタルの名を冠する薬に相応しいような甘ったるさをもってして味覚を強烈に刺激し、気付けの効果を遺憾なく発揮し、同時にメディカが傷を元の通りに修復する。

 

「……、ハッ、ッァ、アァッ―――、カッ、グッ! 」

 

治癒の作業により、即座に正常な状態へと傷口が塞がってゆくという異常にむせ返りながらも、喉元を裂かれる攻撃にて意識までも侵食した不快の感覚は終わりつつあった。命の天秤が生の側に傾けてくれた存在に存分に感謝しつつ、私はしかし、その感謝の言葉を発せないほどに心中の坩堝で暴走する不快な感情を宥めるのに必死だった。

 

喉元を切り裂かれた直後、灼熱の痛みと共に訪れたのは、極寒の中に裸で投げ出されたような、寒いのに暑いという、矛盾に満ちた痛み。それは、全ての生物が必ず一度は経験する、根源的な感覚。沈んでしまえば二度とは戻れぬ、そんな抗えぬ闇に沈む感覚、私はたしかに何度か生前味わったことがある。なるほど。

 

―――そういえば、死の感覚とはこのようなものだったか

 

この世界においても命の危険を感じたことは幾度もあるし、命を賭して戦って来たことは数度ほどあるが、三途の川にて駄賃を渡す寸前まで行ってしまったのは初めてだ。

 

しかしそうして生身の体にて賽の河原に足までを踏み入れてしまった経験は、そのたった一瞬だけで、頑丈な体の内側までをも、冥界の魂が削れるような極寒の寒さをもってして私の心中に凍傷の火傷を残していったのだ。

 

呼吸をすると共に心に生じた余計を押しのけるべく、手で顔の下半分を拭い、体の正常を取り戻してやると、しかしそうして端に追いやろうとする動作が逆にその存在を強く認識させ、先程の感覚を改めて思い出してしまう。

 

喉元をさすると、死水を飲み込んだかのようななんとも気持ちの悪い生暖かさと、精神から来たのであろう冷たさが湧き上がってくる。体に纏わり付き、心中に残る熱を奪ってやろうとする冷たい死神の手を振り払うかのように、改めて強化の魔術を使用して全身に熱を発生させて、身体能力を向上させる。

 

そうして永遠の安楽に身を任せかける無様を晒したこの身に喝をいれて準備を整え、警戒の念とともに部屋の中央を見てやれば、ヒドラは未だにその場から動かず己の領域を拡大している最中だった。また、私を死の淵に追いやった金鹿は、その紫死毒に満たされつつある空間の内側で、しかし、平然とその優美な曲線美を見せつけながら闊歩を続けている。

 

「大丈夫ですか!? 」

「ああ……、助かった」

 

響に短く礼を述べると、立ち上がり、喉元を抑えていた手を解放して、常の戦闘態勢へと移行した。だらりと両手の力を抜いた体勢で敵の姿を見やるも、敵はこちらの戦意など知ったことかと言わんばかりに、悠々と赤の領域を紫で侵食している。

 

「な、なんだったんだ。どうしたってんだ、エミヤ!」

 

サガが混乱して喚き散らす。

 

「恐らく、鹿の反射だ」

「反射ぁ?」

 

私は敵を見据えながら、しかし一切の攻撃を仕掛けてこようとしない敵の余裕から、恐らく積極的な攻撃はないだろうと判断し、しかし油断しないように目線を奴らより切らないまま、淡々と記憶を述べる。

 

「十二の試練の伝承の一つに、アルテミスがケリュネイアの牝鹿を欲する場面がある。ヘラクレスという英雄が彼女の願いを受けてこの牝鹿を捕縛しようと試みるのだが、この鹿は狩猟の女神の力をもってしても捉えられないほど速く、また、傷つけられることを禁じられていた。おそらく、その伝承が転じて、己を傷つけようとする攻撃には須くの事象として反射を行う、という性質を持つようになったのだろう」

「なんだ、そのインチキ!」

 

籠手の中の発動直前のスキルを取りやめながら、サガが喚く。

 

「では、その伝承とやらで、彼はどのようにしてその試練を乗り越えたのだ? 」

 

理不尽に怒りを露わにするサガを押さえつけるようにして、彼の頭を抑えたダリが冷静に尋ねてくる。

 

「……、ヘラクレスは一年の時をかけて、鹿を疲れさせ、追い込み、捕縛した」

「――――――、奴の疲労を待つしかないというのか? 」

 

理不尽な現実から、結論を先読みしたダリは、それでも冷淡に絶望の事実を口にする。

 

「―――、分からん。傷さえつけなければ、あるいはいけるかもしれんが」

「わかった。―――、響」

 

ダリは言うと、ネクタルを使った後、近くで呆然と我々の話を聴講していた彼女へと声をかける。響はいきなり己の名が呼ばれたことで少し驚いた様子を見せたが、すぐに気を取直して、静かに返事を返した。

 

「はい 」

「聞いていたな? 状態異常や捕縛ならなんとかなるかもしれん……、いけるか? 」

 

短い言葉には、響という少女が己の意を読み取り的確な判断とともに返事を返してくれると言う、無言の信頼が込められているように感じられた。ここにきてダリという男は、ついに彼女を肩を並べて戦うに足る戦友として認めたのかもしれない。

 

「……、状態異常は無理です。ばら撒いたところで、あの紫の煙の広がる勢いに負けるでしょう。でも、糸を使えば、硬直ならあるいは……、けど―――」

「それが攻撃と認められなければ、か。どうだエミヤ」

 

言い淀んだ響の意思を汲み取ると、ダリは再びこちらを見て尋ねてくる。それでどうかと問う無言。私は彼女らの意見から導き出された結論を、私の記憶にある伝承と照らし合わせると、頷いて言う。

 

「鹿はヘラクレスによってを捕まえられた後、轡をかけられ女神の戦車を引く事になったという。ならば道具であっても、「拘束」「捕縛」という手段なら、あるいは有効かもしれん」

「ならそれでいこう。響。足を対象とした縺れ糸はいくつある? 」

「三個。それで打ち止めです。一回はフォーススキルで出来ますが、二つも同様にフォーススキルで使用するとなると、ちょっとだけ時間を稼いでもらうことになります」

「十分だ。ではそれでいこう」

 

ダリが話を纏めると、二人は合わせて頷き、ダリが私とサガ、ピエールに向かって宣言する。

 

「エミヤ。そういうわけだ、私たちが奴の足を止める。奴が足を止めた隙を狙って、君は首を叩き落とし、サガは超核熱の術式を叩き込んでくれ。ピエールは回避の補助を」

「よっしゃ、了解」

「了解しました」

 

サガは意気揚々と、ピエールは淡々と返すが、私はそんな彼らの選択に、彼の判断に一抹の不安を感じきれずに、質問を返した。

 

「……ダリ、一つ聞きたい」

「なんだ」

「響のフォーススキルを使って奴の対処を試みるのはいい。恐らく現時点では最良の手段だろう。だが、フォーススキルは一度使うと、二度目の発動に時間をかけなければならないという。ダリ。もし仮に、彼女が一度目の糸を外して、その後、こちらの意図に気がついて激昂して、その攻撃を反射する敵が、我々に襲いかかるという事態に陥った場合、全ての行動が反射する敵に対して、君はどう対処する気なのかね? 」

 

今彼が提案した作戦は、実行し目的を果たすまでの不慮のあれこれに目を瞑った、詰めの甘い、楽観の元に立てられたもので、冷静冷徹を信念とする彼らしくないと思えた。ダリは私の質問を真正面から受け止めると、静かに敵へと向き直した。

 

「決まっている。その場合は私が守りを受け持ち、時間を稼ぐために奴と対峙する。なにせ私はパラディンだからな。ギルドのメンバーを守るのは私の役割だ。何があろうと、どんな攻撃であろうと、絶対に君たちを守り切ってみせよう」

 

彼は当たり前のように断言する。迷いなきその言葉を発する彼の態度と言葉の裏には、シンを攻撃から守れず死なせてしまった己の無様な過去の行いに対して、必死に言い聞かせているような、精悍も裏側に悲嘆を混ぜた気配があるように感じられた。

 

それは、仲間を守りきってみせると宣言した男が、しかしその誓いを守りきれず、己の誇りを汚してしまったそんな自らなど認めぬとでもいうかのような懊悩より絞り出された決意のようだった。このままでは、恐らく彼は、そうして当たり前のように自分を投げ出して我々を守り、そして果てて行くだろう結末が眼に浮かぶ。

 

彼は生き急いでいる。いや、もしかしたら理屈屋で理想が高く、完璧主義の傾向にある彼は、そうして自分の経歴に傷がついた事を嫌い、その汚点をかき消せるような誇り高き死を望んでいるのかもしれない。

 

その潔癖。その必死さ。己は己の信念以外を必要としないとでも言うかのように無駄として切り捨てる、その、頑固で、不器用で、病的で、馬鹿な男のあり方を、しかし私は決して否定する気にはなれなかった。

 

なぜならそれは、かつて私が辿ってきた旅路にて培った、自らは他人の気持ちを解せない異常者であると悩んだ事もある己の頑迷さによく似ていて―――

 

「……くっ」

 

思わず苦笑が漏れかけた。ダリはその漏れた声を聞いて不審げな、不機嫌そうな目線をこちらへと送ってくる。私はその不器用さに満ちた瞳を真正面から受け止めて、射返した。

 

「ダリ。君の覚悟は十分に理解した。だが、それはダメだ。恐らく君では奴の足は止めきれまい。あの反射に対応することはもちろん、おそらく君たちの反射神経ではあの速度に反応しきる事が難しいだろう」

 

宣言。それに彼は不機嫌さを深め、しかし私の言葉に対する納得を、唇を噛む事で表現した。

 

「パラディンの役目は守護だ。逃げる敵を追いかけ、追い込むことではない。ダリ。それは、弓を使い獣を追いかけるのは、レンジャーと呼ばれる職業の領分だ。そうだろう? 」

 

いうと彼はいかにも悔し気に目元を歪ませて、こちらを睨め付けてくる。

 

「ならば……ならば、どうしろというのだ!」

 

彼はここに来て初めて感情を露わに叫んだ。ピエールが感極まったかのように竪琴をかき鳴らす。恐らくその冷静を平生の態度とする彼が、憤怒と悔しいが混じった激情を発露するは私の前だけでなく、彼らの前でも初めてのものなのだろう。

 

「……私がやろう」

 

静かに宣言。迷いはもう消えていた。毅然と胸を張り、私は周囲の光景を眺めて言い切る。

 

「獲物を弓矢で追い詰めるのは、アーチャーの、この世界風にいうなら、レンジャーの役割だ。――――――私がやる。真の切り札を使用する」

 

切り札。その言葉は周囲の全てに影響を与え、時間を一瞬だけ停止させた。迫り来る紫の煙は行動を止めたかのようにその侵食をやめ、世界はまるで、十数秒先に待つ己の未来を予感するかのように、その身を震わせた。

 

「―――、固有結界を使う。久方ぶりに魔術回路を全力稼働させる故、多少集中を要するだろう。悪いが、今までの様な援護は期待するな」

 

決断を覆さぬよう、はっきりと宣言する。

 

―――私は、この世界で、全ての手を明かす。

 

それは、私がついにこの世界に心の全てを晒し、自分自身と向き合う事を決めた瞬間だった。

 

 

「―――、固有結界を使う」

 

宣言とともに、周囲の温度が数度ほども下がった気がした。ただでさえ凍える寒さを秘めた環境は、まるで凍てつく吹雪の中にいるような肌を切るような、痛いほどの寒さへと変わる。周囲に降り積もる塵芥がまるで真なる氷雪であるかの様な、錯覚すら覚えた。

 

「久方ぶりに魔術回路を全力稼働させる故、多少集中を要するだろう。悪いが、今までの様な援護は期待するな」

 

続く言葉には助けの手は出せないという意味と、だから私を守ってほしいとの信頼が込められている気がした。自然と両手に力が入る。私は全身が熱くなる感覚を覚えた。

 

「こゆうけっかい――― 」

 

サガが口をへの字に曲げながら首を傾げた。響も同様に少しだけ疑問の声を顔に浮かべている。私も同様の気持ちだった。違うのは、まだ知らぬ単語に胸を躍らせているのだろう、不謹慎にも目を輝かせているピエールだけだった。

 

先程も説明してくれたが、正直要領を得ることが出来なかったスキル。世界を心象風景で書き換えるとはどういうことなのか。質問をすると、彼は苦笑とともに、一目見ればわかるし、発動したからには必ず敵を倒せる手段だといっていた。

 

先程話を聞いた際には、正直なところ、眉唾に思う気持ちもあったが、今の彼の真剣な表情を見て、そんな不埒な思いは全て空気の中に霧散していった。

 

「そうだ、それは―――、む」

 

彼が言いかけた瞬間、今までまるで動きを見せなかった敵は、嘘のように凶暴さを露わにして暴れ出した。彼がヒドラと呼んだゼリーの亜種はその上部から生やした何本もの触手のような首を大きく悶えさせ、鹿はまるで落ち着きをなくして、ヒズメで地面を叩いている。

 

エミヤのたった一言の宣言は、敵を大いに慌てさせる効果を持っていた。おそらく、敵も言葉の意味は読みとれなくとも、彼がこれからやろうとしていることが自分たちに害なすものであることを読み取ったのだろう。彼が放った、たった一言が、そんな風に敵のみっともなさを表に引っ張り出したのを見て、私は決心する。

 

「エミヤ」

「ん? 」

「任せた」

「……、了解した」

 

最強の男から告げられた信頼の一言は、柄にもなく、冷徹を信条とする私の体を更に熱くした。信頼の想いを挨拶に短く乗せると、全員を庇えるように前に一歩進み出て、盾を構える。新迷宮一層の鉱石から作り出した薄い桃色の美盾「アイアス」を、敵の飛ばす混乱の意を拒絶するかのように私の前に差し出すと、敵はその行為に反応したかのように、攻撃を仕掛けてきた。

 

「――――――! 」

 

まず謎の足踏みにて地面を踏み荒らしていた鹿の姿がブレた。瞬間、危機を察知して、物理防御スキルを発動させようと試みる。敵の動きを察知していた私は、己の予測に従ってエミヤと鹿の直線上に身を捩じ込むと、

 

「パリ―――」

 

ング、といいかけて、盾ごと体が吹き飛んだ。左右の奥へと引っ込んでいた口角が変化する前に地面より離れた時の衝撃に、思わず奥歯ごと噛み締めると、すぐさま状況の把握に努める。

 

「――――――ッ……! 」

 

無様にも吹き飛んだ体は、天井を見上げていた。背中になんの感触もないことから、私は地面を背にした状態で浮いているのだなと判断。数旬後にくるだろう衝撃に備えて体から力を抜くと、予定通りにやってきたそれを盾を装着していない手を用いて受け流し、その手を使ってすぐさま立ち上がる。

 

自分の吹き飛ばされた方向から敵の位置を予想し、果たしてすぐさま敵を見つけると、敵はぶつかった瞬間に方向を変えて離脱でもしたのか、少しばかり離れた場所に佇んで、攻撃を仕掛けた私ではなく、私の後ろに自然体で立っているエミヤの方を向いていた。

 

「―――I am the born of my sword/体は剣で出来ている」

 

切り札というやつの準備だろう、エミヤが呪文を唱え出した。スキルとは似て非なる力が世界にむけて放たれる。直後、観察の視線を送っていた鹿が、その言葉を嫌ってか、狂ったかのようにその首を振って、地面を蹴り足踏みをした。

 

鹿に続けてヒュドラが首を伸ばして攻撃を仕掛けてくる。透明なより伸びた八つの首は、範囲外にいる私たちを攻撃するため三つの首を合体させてその長さを伸ばし、元のままの二つの首を待機させたまま、攻撃を仕掛けてくる。狙いはもちろん彼らを不快にさせている行動をとるエミヤだ。

 

「させん! パリング! 」

 

今度こそまともに叫んで、首の一つの前に立ち塞がる。幸いなことに、透明な奴の体の表面には、周囲の赤い土埃が白粉の如く塗りたくられていて、透明な姿の敵の輪郭をはっきりと認識させてくれる。

 

やがて、大きく開いた口の下唇が私の盾とぶつかり、攻撃を塞いでくれる。防御の感覚と共にひどい臭気が鼻をつく。物理の威力を完全に遮断してくれるスキルはその勢いを止めてくれ、タリスマンは毒の効力を無効化してくれたが、猛毒の効力を持った吐息の不快さまでは遮断してくれなかった。

 

吐息を避けてすぐさまその場から離脱すると、少しばかりつんのめった首の輪郭めがけて、響が薄緑色の刀を振り下ろした。それを確認して敵もすぐさま首を引っ込める。彼女の刀は奴の口から漏れた紫と赤の混じった空気だけを割いて緑の線が宙に描かれる。

 

敵が伸ばし引くその動作の最中、口から漏れた毒の吐息が、こちらとあちらの赤の空間に紫の線を引いては地面に落ちてゆく。落ちた地面は当然、奴の支配領域に成り代わっている。

 

その攻防の最中、もう一つの纏められた首はエミヤの方を向いていた。その首は目を瞑り詠唱するエミヤの方へと向かい直進する。

 

「させるかよ! 炎の術式! 」

 

奇しくも先の私と同種の台詞をサガが叫び、炎の術式を放った。最大限まで強化の施されている炎術は肥大化した頭すら飲み込む巨大な火炎球となり、敵の頭を包み込む。燃え上がった敵の頭は、火炎が敵の表面を焼くと共に、口腔に溜まった毒煙と反応して、微かな誘爆を引き起こす。

 

肌を焼く炎と口腔内の爆発に、ヒュドラの頭はエミヤとは違う方向にそれてゆく。エミヤは淡々と次の文言を告げる。彼は我々を信頼して、一歩もその場から動いていないようだった。その無言の信頼が、なんとも嬉しく感じられる。

 

「steel is my body,and fire is my blood./血潮は鉄で心は硝子」

 

仰け反ったヒュドラの頭が不気味に蠢いた。二つの纏まった頭はさらに一つにまとまり、視覚にすら凶暴さを訴えかけるほどにまで肥大する。百メートルはある天井を三往復は出来そうなその長く太い奴の口は、たとえパリングで攻撃を防いでも、毒液に満ちた口腔内が私たちを飲み込むだろうことを容易に予測させた。

 

「止まってくれたのなら、これで! 」

 

サガが核熱の術式を敵めがけて発動しようと試みる。鉄の籠手に収束した力が放たれた瞬間、鹿が動き、彼と敵との進路上へと割り込む。己の視線の先、ヒュドラへの攻撃を防ごうという目的だろう、悠然と割り込んできたその存在を見たサガは、心底悔しげに力の発動を止めた。無意味に浪費された熱が籠手から周囲に撒き散らされる。

 

「今なら !」

 

サガが苦慮の様子を見せた後、後ろに控えていた響が叫びながら飛び出した。サガの上空に向けての攻撃を受け止めるためだろう、跳躍した鹿は落下の最中である。

 

なるほど、敵の攻撃をその身を盾にして防ぐために緩やかな跳躍をして見せた鹿は、それ故に今、空中という逃げ場のない場所に全身を晒していた。その四肢が地を踏みしめ、先のような疾風の動きをするまでにはおよそ五秒程度はかかると見受けられる。その間を狙って捕縛を試みようというわけだ。

 

鹿の落下予測地点めがけて、響が進路上に縺れ糸を解き、道具の力を解放し、投げた。この瞬間にフォーススキルを使わなかったのは、鹿の反応の機敏さの咄嗟がすぎて、肉体と精神が反応しきれなかったのだろう。

 

そうして彼女が利用したことで当たれば確実に敵の足止めを効力を持つに至った糸は、緩やかな放物線を描いて進んだかと思うと、見事に鹿の落下方向と重なった場所へ落ちて、その糸を上空より落ちてくる鹿へとその身を伸ばした。

 

しかし、その糸は、今しがた鹿が庇ったヒュドラの太い首が、今度は鹿を庇うようにして割り込み、その巨大な頭部を以ってして攻撃を防ぐ。糸は敵に触れた途端、響の意図とは違う敵を対象として捉え、ヒュドラのその不定形の下部、およそ足とは言えるものが存在しない場所に巻きつき、そして毒に染まって紫になる。

 

毒に染まった繊維糸はすぐさま解れて溶けて消えてゆく。巨大すぎる敵の体躯を前に、縺れ糸は効力を発揮しきれなかったのだ。とはいえ、効力も何も、そもそもあの敵は動かないので足を捉えたところで無意味に等しいだろうが。

 

「響! 無駄撃ちはやめろ! 」

「ご、ごめんなさい」

 

サガが珍しく、味方に苛つきを露わにして叫んだ。三発中の一発を無駄にするというのは、たしかにこの状況下においては、大きな失態である。その自覚があるのだろう、響は恐縮して身を縮こめた。

 

「いや、いい。今ので、時間は稼げた」

 

私が彼女を庇う言葉をかけると、それはよほど彼らにとって予想外だったのか、ひどく驚いて見せて、呆気にとられた顔をした。確かに今までの私なら、サガ同様、ミスを責めていたかもしれない。

 

私はエミヤという男の傍で彼を観察し続けることで、多少の人らしい心というものを手に入れたのかもしれないな、と我ながらくだらない事を考えた。とはいえ、そんな私の事情など知らぬだろう、彼らが戸惑いの反応を見せるのは当然だと思うし、彼らの驚愕を意外と思わなかったので、私はあえて無視して続けた。

 

「エミヤがなんとかするといったのだ。私たちは彼が切り札とやらを使うまでの時間を稼げれば良い。最悪一つとフォーススキルが使える状態であれば、何があろうと、彼と私たちでなんとかすることができるだろう」

 

危機に近い状況でも冷静に全体を見渡して、しかし多少楽観の入った戦況予測を行うと、二人は真剣な表情の中にも多少の弛緩を含んだ表情で私の方を見やってくる。

 

お堅い人間の口から出た、なんとかなる、という言葉は緊張の空気を和らげてくれる効果を持っているようだった。私はそんな新たな発見を喜ぶとともに頷き、自らが話題に俎上させた人物の方を見やる。

 

「I have created over a thousand blades./幾たびの戦場を超えて不敗」

 

彼の詠唱はその間も続いている。意味のわからない言葉には、しかし、己に対する自戒と決意が込められているようだった。瞑目したその端正な顔の裏では一体いかなる思考が渦巻いているのだろうか。いや、いい。今は―――

 

「響、やり方を変える。まずはあのデカブツの頭を縛ってくれ」

「―――、はい」

 

ヒュドラの巨大化した頭部の上に降り立った鹿は、地面に降り立つと、再び地を蹴り突撃の準備をする。その真っ直ぐな敵意は、当然のようにエミヤの方へと向いていた。

 

「彼への攻撃を防ぐ。そのための足止めが最優先だ。ピエール。私たちの行動速度を上げろ」

「仰せの通りに」

 

ピエールがスキルを使用する。軽快な音調により吟じられた歌は、私たちの反応速度と神経を強化して、敵の速度に鹿の速度と私たちの速度が僅かながら近くなる。

 

「――――――! 」

「くるぞ! 」

 

ヒュドラが地に置いていた頭部をのたりと微かに持ちあげて、咆哮した。透明な体を持つ敵の眼球があるあたりから睥睨の視線が送られ、憎悪の意図が我々に向けられたと感じる。地面を這っている敵は、しかしその巨体さ故に、顔面を構成する要素の全ての位置は高く、我らよりも高い場所より口腔より毒液が飛び散った。

 

すでに敵の体を中心として三百メートルほどにまで広がったそれは、間違いなく引き込まれたのなら、即座に絶命してしまいそうな禍々しい気配を漂わせている。なるほど、エミヤが言っていた、世界の全てを溶かす毒液というのはあながち誇大広告ではないのだろうと直感する。見る間に広がる敵固有の領域。

 

「Unknown to Death./ただ一度の敗走もなく」

 

その死毒の領域を切り裂くかのようにエミヤの宣言が続く。己が神聖な領分を不快にも侵された敵は、その事実に怒り狂ったかのようにして、巨大な首を彼に伸ばして排除を試みた。

 

そうして部屋の天井を打ち破らんとばかりの大きさにまで巨大化した首は、もはや己の筋力では天高く持ち上げることも叶わないのか、奴は蛇が這い迫るかのように頭部を地面に数度も打ちつけながら、攻撃を仕掛けてくる。頭部の持つ巨大という概念があまりにも肥大化しすぎていて、一見して、防ぐことが不可能だと感じられてしまう。

 

「今度こそ! 」

 

そんな大なる敵の進行方向に、ピエールの歌と装備品によって身体能力と速度を強化されている響が真っ先に躍り出た。彼女は再びバッグから縺れ糸を取り出すと、解いてその進行方向に投げる。鹿は響の上げた声に一瞬反応を見せたが、援護の動きを見せなかった。

 

ヒュドラの巨大な頭の上にてそのつぶらな瞳は、一瞬だけ眼下のヒュドラの巨大な頭に視線を落とすと、忌々しげに目線を細めた。鹿の視線をヒュドラの巨体を貫通させたその先では、響という少女が攻撃体制に入っている。

 

恐らく今奴は、援護に入れないが故に不快を発露したのだろうと私は推測した。おそらく今しがた、鹿は先と同じようにして援護に入ろうと考え、しかしその直線上にある味方の巨体が邪魔をしていて援護に入り込めない事を悟り、味方のその愚行に腹を立てつつ、こちらのとった行動の小賢しきを不快に思ったのだ。

 

なるほど、その味方の動きが邪魔で援護に入れないという悩みはよくわかるとも。皮肉な事に、私も盾役だ。憎きはずの敵に不思議な共感を覚えると、自然、敵の動きから、私はさらに、鹿という存在がその速度を発揮し己が身を反射の盾として捩じ込むには、攻撃のする対象とされる対象の間に一定距離がある場合のみであると推測できた。

 

加えて一度その動きをした後は、何秒間かの間隔が必要であるとも予測できる。でなければ、奴が、ああも不安定な動く巨体という足場の上で待機している理由が見つからないからだ。

 

そうして鹿の邪魔を受けずに済んだ響の糸は、ここにきてようやくその威力を正しく意図通りに発揮する。敵の頭部に触れた糸は、すぐさま効力を発揮して、その巨大な頭に巻きついてゆく。瞬間的に大きく開いた口が閉じられて、頭部の進行の勢いが多少衰えた。

 

「Nor known to Life./ただの一度も理解されない」

 

だが、そうして縛して封じられたのは頭部が以降数秒動く事であり、それ以前に蓄えられていた奴の保有する運動量は多少の減衰を見せながらもその威力を発揮して、敵の巨体はこちらへと迫り来る。その様に、私は旧迷宮四層の番人、巨大怪鳥の突撃を幻視した。

 

「パリング! 」

 

慌ててすぐさま彼女の首根っこ引っ張って後ろに放ると、前に踊り出て、スキルを発動する。アイギスの盾の前に、薄い膜がはられ、直後、激突。口元を窄めた奴の巨大な唇が、女神の顔を嬲るように接吻をした。激突の運動量をスキルが消滅させ、巨体が眼前にて静止する。

 

盾が唇の間から、紫の煙が漏れる腐臭が漂う。同時に、ふれた場所から縺れ糸が撓み始めた。巨体に巻きついた糸の効力はすでに切れかけている事に気が付ける。仮にこの巨体がこの状態からでも動くというのなら、正直、止める手立てがない。

 

口が開き舌にでも巻き取られたら、その時点で終了だ。いや、そんな手間をかけずとも、軽く呼吸をするだけで呑み込まれるかもしれん。かといって味方が後ろにいるこの状況、盾を引いて一度体勢を立て直すのも難しい。こうして逡巡する間に鹿もやってくるかもしれん。

 

「―――どけ、ダリ! 」

 

どうする、と難問の選択を迫られ悩んでいると、眩い光が身体の背後より横を駆け抜けて、頼もしい声と共に私の懊悩をごと切り裂いた。

 

「サガ! 」

「へっ、へ、こっちからなら効くんだろうぉ! 」

 

どうやらサガも鹿の特性を見抜いていたらしく、彼はヒュドラの巨大な頭部を中心として、奴の頭上に乗る鹿と対角線になるよう位置を確保すると、先程不発に終わった核熱の術式を籠手より放っていた。私はその熱線が奴に直撃する寸前で響を抱えて離脱する。

 

直後、白光の柱が赤の空間を割いて、敵の巨大な顔の上半分を飲み込む。その際、生じた光はその場の全てに眩暈を生じさせるほど輝いて見せて、直後、爆裂。

 

「――――――! 」

 

火の術式とは違い、核熱の術式は対象と接触した瞬間、熱量を加速度的に増やして、周囲の目に見えぬ塵芥と反応し、大爆発を起こす。後方から続く光が連鎖的に反応を生み、サガに言わせれば、品のない爆発がその透明な皮膚を焼き、抉り、その内部を焦がして、ヒュドラは初めて苦しそうに身を悶えさせた。

 

「Have withstood pain to create many weapons./彼の者は常に独り、剣の丘にて勝利に酔う」

 

傷を負ったヒュドラは巨体を無理やり動かして鎌首をもたれさせると光の範囲外から離れたのを見て、サガはすぐさま術式の発動を取りやめて、放出していた光を消す。

 

照射し続ければいつまでもどこまでも爆発を起こし続ける光は、発動し続けるにはあまりに消耗が大きく、また、そうして連鎖する爆発によって生まれる土煙は視界を妨げる要因となり、巨大な敵との継戦の際には特に不利となる場合が多いからだ。

 

「―――がぁ! 」

 

そうして攻撃をやめたサガは、しかしいきなり苦痛の声を大きくあげた。苦しみ悶えるその声に驚き視線をむけると、彼の服は一切傷ついていないにもかかわらず、その体表の大部分が爛れて倒れ込んでいた。その現象に、私は心当たりがあった。すぐさま振り向いて、現象を引き起こした下手人の方を向く。

 

すると、収まりつつある灰色の煙の中から、予想通り、傷一つない鹿が現れた。風を纏いて煙を掻っ捌いて現れた鹿は、しかしその美しき金色の毛皮に灰一粒もなく、火傷の一つも負っていない存在しない状態である。おそらく、サガの起こしたその爆発の余波の炎熱を攻撃として認識し、反射という行動の糧としたのだ。

 

「サガ! 」

 

彼の悲鳴により異常を知覚した響が手に持っていた薄緑色の剣を投げ出して、慌てて叫びながらメディカⅲを使用した。瞬間的に普段より眩い大量の光の粒子が彼の体を覆い、次の瞬間には、サガの体を元の状態に戻す。サガは、すぐさま現状を認識したらしく、その負けん気を十二分に発揮して起き上がると、響に礼を言って、前を向く。

 

「ピエール、属性防御」

 

私の指示に、返事もなく、ピエールが属性防御の歌、聖なる守護の舞曲を歌う。体の皮膚を鈍色の物理防御壁と、赤青黄の三つの混合が、しかし混じり合わないまま我々の体を覆い、優しく包み込む。

 

あの反射の仕組みが如何なるものかは知らないし、核熱の術式は無色の力故、やつに直撃し反射された場合はその限り出ないだろうが、少なくとも余波による炎熱の傷や細かい傷はこれで多少軽減できるはずだ。

 

二の轍は踏んでやる気はない。

 

やがてサガの起こした爆発の煙が収まる事、ヒュドラは、その透明な双眸に、しかし怒りの感情を確かに携えながら、こちらを睥睨して、大きく咆哮した。巨大な身を大きく揺るがしての蠕動は、発生というよりも、衝撃波に近いものとなり、周囲の全てにその憤怒を分け与えた。壁に揺籃された大地と空気が撹拌され、肌と足元より奴の憎悪が伝わってくる。

 

そうして怒りに身を震えさせる奴は恐るべき事に、サガがつけた核熱と余波の傷の大半を再生していた。天地を揺るがす咆哮とともに、敵の毒領域が一気に広がる。もはや我らの五十メートル先の足元までが死の色に染まっていた。

 

「エミヤ、まだか! 」

 

サガが叫んだ。焦燥の声を聞いて、エミヤはしかし何も答えず、瞑目したまま続ける。

 

「Yet,those hands will never hold anything./故に、その生涯に意味はなく」

 

詠唱を続ける彼に焦燥の様子はない。彼は外界からの情報を完全に断ち切っていた。己という強敵との戦闘中、その存在をまるきり無視して己の内面に立ち篭る彼のその姿に腹を立てたのか、ヒュドラがエミヤに現実を教えてやろうかとするかのように、巨大な頭部を振り下ろした。口の端から漏れる毒の領域が宙までを侵し、尾を引きながら、彼に迫る。

 

同時に、着地し硬直の様子を見せていたのだろう鹿がその縛りから解き放たれ、四肢で地面を軽く蹴ってみせた。脚線美に満ちた細い四つ足が伸びるその先の胴体では、すでに筋繊維が隆起しており、力がこめられているのが理解できる。

 

「エミヤさん! 」

 

次に瞬きした間、敵はエミヤに向かって殺意を叩きつけるだろうその絶体絶命の危機を感じ取った響が叫ぶ。掠れるほど大なる悲鳴が響いたと思った次の瞬間、敵二体の意思が結果に反映されるその前に、彼はもう一節の言葉を発声した。

 

「So as I pray,unlimited blades works./その体は、きっと剣で出来ていた」

 

エミヤが呼応するかのように宣言。そして赤い牡丹雪と紫毒雨の降る、龍が吼え、金鹿駆け回る、死の気配に満ちた世界は一瞬にして瓦解し、新たな光景へと変貌した。

 

 

茜色の空。地平の彼方に浮かぶ巨大な歯車。世界の端まで続く剣の突き立つ荒野。他人の正義と願いを抱えてに、ただただ無意味に生涯を走り抜けた、贋作たる英霊エミヤと言う存在のもつ、唯一真作と呼べる、しかし皮肉の象徴のような宝具。

 

禁忌の大魔術、固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」。

 

地面に突き立つ剣は、その全てが、私が生涯において一目見た際、この世界に登録され生まれ落ちた贋作に過ぎず、しかしこの世界においては真作に等しい存在である。

 

とはいえ、ただ剣を登録し贋作を生み出すだけなら、ただただ剣を無限にコピーし保管する世界を作り上げるというに過ぎなかったチンケで大業なだけの魔術は、生前と死後、私が、多くの英霊が集う神話世界をも含む戦場を渡り歩いてきたことで、聖剣、宝剣、魔剣等の、かつての人間世界におけるほぼ全ての伝説の武器を内包する、まさに大魔術と呼ぶにふさわしい奇跡となっていた。

 

しかして、世界を己の心象風景にて書き変える大魔術を、その、かつての世界に生きた多くの人の願いが込められた希望と絶望の力を借り受けて贋作として再現し、宝具本来の所有者当人すら、真なるものと勘違いせしめるほどの再現をして見せる、いかにも他人の想いを借りなければ所詮は空っぽの自らの心を見せ付けなければならないこの不遜な大魔術を、私は好ましく思っていない。

 

だからこそ、出し渋っていたわけだがともあれ、己の心象風景にて世界の一定範囲を書き換える魔術は、「異邦人」の全員と敵意を露わにする番人、その全てを飲み込んでいた。己の変化無き事の象徴を無言で眺めていると、空間に満ちる威と圧に呑まれたかのように、全員が動きを止めている事に気が付ける。

 

さて、何を思っているのかは知らないが、そんな彼らには目もくれず、私はただ、久方ぶりに使用した己の世界を、ようやく自らの目で見渡した。瞼を開ければ、以前と変わらぬ景色が広がるこの心象世界を見て、私は落胆する。

 

―――ああ

 

変わらない。変わろうと決心しようが、負の感情を食われようが、知人の死に立ち会おうが、世界の真相を知ろうが、この光景は今も昔も何一つ変わっていない。

 

生の気配がまるでない生命の変化を拒むかのごとき一面枯れ果てた野も、荒野に犠牲にしてきた人を偲ぶ墓標の如く並ぶ剣群も、正義の味方になりきれず、されとて諦めきれない慚愧の境地にあることを示すかのような後悔色の黄昏空も、その空の中で必死に正義の味方として寸分狂い無く行動する機械たらんとの心がけを象徴するような歯車も、何一つ、昔のままだ。

 

―――ああ……、どんなに変化の決意をしても、やはりまるで、この風景は変わらない

 

残念の言葉を内心にて呟くとともに、周囲を一瞥して静かに目を閉じた。胸に到来する無念と寂寞と荒涼の思いに呼応して、荒野に一つの疾風が吹き抜ける。風に含まれる微熱の正体は、おそらく諦めきれない情念の証だろう。

 

感傷は一瞬。胸の裡に生じた切なきを薄れさせるかの如く大きく息を吸い込むと、到来した風に載せるかのようにして思いごと世界に言葉を生む。

 

「―――、これが私のもつ切り札。固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」。己の心象風景であるこの世界において、私は文字通り、世界の支配者となる」

 

宣言に意味はない。詳しく説明してやる義理もない。ただ、これから死出の旅路に向かう敵に対して、己にトドメをさす魔術の名前くらいは教えてやってもいいかな、と思ったが故の、発言だった。

 

「――――――」

 

無言で片手をあげる。呼応して荒野より数百本もの剣が宙に浮かび、ヒュドラとケリュネイアの鹿の周囲だけが空白となる。地面より姿を表した刀身には、けれど土に塗れておらず、全ての刃先にも刀身にも、一切の曇りが見当たらない。そうして磨き上げられた裸身を晒す剣の群れは、次の命令を待って、宙に浮いていた。

 

「―――さて」

 

告げる。そのたった一言で、二匹の獣は止まっていた時を取り戻した。ヒュドラは首を振り下ろし、鹿は今度こそ力を発揮せんと、もう一度四肢に力を込めようと前傾姿勢を取ろうとする。恐らくは体当たりにてこの世界の主人たる私をぶちのめそうという魂胆だろう。

 

「―――では始めようか」

 

だが当然させない。私は瞬時に世界へと号令をかけて、鹿の周囲に棒を生み出す。柄なく反りなく刃なく。地面より逆しまに生えてきた単なる直線的な棒は、敵を傷つけることを目的としない、単なる棒切れであり、だからこそ、この場面においてはとても有効だ。

 

「――――――! 」

 

その棒切れを鹿の周囲に寸分なく配置する。単に囲いを作るのではなく、その優美な四肢の足元より一切の挙動を封じるべくグルグルと一部を体に沿わせ、その上で棒の側面を地面に差し込んだまま生み出し、体の線を覆ってゆく。一瞬の時すら経過しない間に、敵は棒により全身を固定されて、針金細工のような有様となった。

 

「いかに素晴らしい挙動と反射能力があろうが、マイクロ単位で挙動を制限してやれば、その身体能力は生かしきれまい」

 

敵はそれでも動こうと、体にぴったりと張り付く檻の中で、足掻き出す。鹿の皮膚が針金を押すたび、私の体において該当しているのだろう箇所が押されたむず痒き感覚を覚えるが、それだけだった。全身のどこかが常に押されるだけの感覚など、こそばゆいばかりでまるで脅威などではない。

 

―――ふむ?

 

と思ったのもつかの間、身体中のこそばゆさが瞬時に消えてゆく。棒に囲まれた内部の気配を探ってみれば、鹿の姿は跡形もなく消えて消滅していた。私は瞬時に理解する。

 

―――なるほど、捕縛されれば消える、か

 

どうやら鹿は、伝承の通り、一度捉えてしまえば、その無敵に近い能力を喪失し消滅するようだった。魔術もスキルも、基本は等価交換だ。さてはその不傷の伝承を再現しようとしたあまり、そうした己の不利になる特性まで再現せざるを得なかったのだろうと予測する。

 

そうして消えた奴の行き先が、果たしてアルテミスのもとなのか、はたまた魔のモノと呼ばれる存在のもとなのかは知らないが、一つの厄介ごとを消してまずは一息ついた。

 

―――これで鹿は無効化できた。後は……

 

見渡すと、鹿とともに時間を取り戻したヒュドラは、鹿が消える予想外に呆然としたのか、巨体の動きを止めていた。味方の消滅にしかし気を取り直した奴がもう一度その巨体を振りかぶると、その大なる首を振り下ろす。私はその透明な巨鉄槌をゆるりと見上げると、紫の死毒を口の端より尾を引かせながら迫る敵の重撃を、宙に出現させていた剣で迎撃した。

 

「――――――! 」

「チェックだ」

 

宙より射出された数百の剣が一つとなった敵の喉腹に突き刺さり、ヒュドラの首はその巨体が空中で動きを止めた。巨体の持つ質と重き質量の単体は、無数の剣群が持つ軽き軽量の群れと激突し、そこに秘められた正負のスカラー量の天秤が釣り合った結果である。

 

透明を貫いて体内に減り込んだ剣によりその場に縫いとめられた龍は、しかし攻撃を諦めず、力を込めた。突き刺さった停止の状態は解除され、敵の持つ力と位置エネルギーを伴った大質量の攻撃が頭上より降り注ごうとする。

 

その足掻きを、再び空中に出現させた多量の剣の突撃により防いで見せると、敵の堅牢な皮膚の防御を突き破った場所から紫色の毒液が空中より垂れ落ちた。遅れて、赤い血液が紫に混じって、紫檀色の液体が地面に滴れる。いかなる原理なのかは知らんが、向こう側すら見通せる体内のその中にはきちんと内臓や器官があるようだった。

 

ついでのように、傷口の一部から炎が漏れて、敵が自らの攻撃にて己の体内を焼いたのを見て、おそらく目の前の奴がラドンと呼ばれる怪物の特性も備えていると推測する。先の予測が正しければ、ヒュドラは炎に弱くなくてはならない。それを覆すために、おそらくラドンの特性を混ぜたのだ。

 

とはいえ、血縁の結びつきがあろうと、弱点を打ち消すにはヒュドラという規格外の力が優れすぎていて、せいぜい外皮に耐火の能力を有するのが限界だったのだろう。

 

ともあれ、この場にてやつが炎を用いなかったのは、周囲に散る細かい粉塵に反応して爆発が生じ、己が攻撃により体内より焼かれるのを恐れたのか、あるいはその広がる火炎と爆発の威力が鹿の反射により己が身へと降りかかり、自身が傷つくのを恐れたのかは知らんが、とにかくその透明の向こう側に、やはり中身があると言うのなら、話は早い。

 

「―――後、数手か」

 

勝利までの手筋の数を見直して、右手を振り上げる。ヒュドラの周辺の中空に再び現れる剣群は、その群れた剣の全ての刀身が、敵を切り殺すに最も適した、いわゆる西洋剣の太くたくましい形をしていた。伝承によれば、ヒュドラは全ての首を叩き落としてその傷口を焼いた後、不老不死の核となる部分に岩を乗せたことで退治されたと言う。

 

―――ならば、まずは素っ首を叩き落としてやるのが順当と言うものだろう

 

「―――」

 

無言で手刀を振り下ろすと、浮いた剣が宙を進軍。空を裂き、透明な首の背から侵入を果たした無機物たる剣は、全ての生物を殺すと称される毒など気にも止めず、血も肉も骨も神経も、その毒を発する器官を断ち切って、喉元に突き刺さった剣とかち合いながら反対側へと抜けてゆく。

 

「―――、――――――、―――、――――――――! 」

 

ヒュドラは喉元に異物が入り込んでくるその違和感に悶え、絶え絶えに息と悲鳴と毒と血液を撒き散らしながらその痛みから逃れようとして長い首に力を込めて動かそうとするが、しかし全方向より飛びかかってくる剣の群にて宙に動きを固定されてまともに動けない。

 

そんな奴の苦痛を逃れる逃避の願いを込めた行動は、その真摯の悲願とは裏腹に、己の肉が削れて死地への邁進を促す手助けとなってしまう。奴の透明な顔に、初めて絶望の色が塗りたくられたのが見えた。

 

「―――、―――」

 

そうして十秒ほどもそうして首元へ死刑執行ためにの鋭い刃を叩きつけていると、千切れつつあった肉が己が巨体の重さを支えきれなくなり、自然と首が大きく二分されてゆく。千切れた肉の破片とともに荒野の地面へと落ちる寸前になったのを見て、私は悟った。

 

―――これでチェックメイトだ

 

「サガ! 」

「――――――、え」

 

声を上げると、呆けた声が返ってきた。戦闘の最中であるのに、あまりにも気の抜けたその声に思わず視線を向けると、逃げの体勢を取ったまま固まっている彼と目があった。その弛緩具合から察するに、どうやら彼はこの世界が姿を現した時から、ただただ呆けていたらしかった。

 

「奴の首が落ちる! 直後、露わになる傷口に向けてフォーススキルをぶち込め! 」

「あ、ああ! 」

 

指示を出すと、さすがは一流の冒険者、呆けていたサガはすぐさま意識を正しく取り戻して、己の体内にて溜め込んでいた力を解放するべく、機械籠手を展開させて準備を始める。

 

籠手の外装が剥がれて露わになった内装の、その展開した円扇より伸びた五指の線が交わる場所に白光玉が生まれ、その大きさを増してゆく。準備にかかる時間はおよそ十秒と言っていた。ならばその間に、最後の一仕事の準備を終えておかねばならない。

 

「―――」

 

もはや呪文の詠唱など必要ない。己の心象たるこの世界では、私が思うだけでこの世界に在る全ての武器は我が意のままに操れる。そうして思った瞬間、現れたのは、使い慣れたいつものカーボン製の黒塗り洋弓と宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」、だ。

 

私は矢を弓に番えると、鏃の狙いを定めるべく、正面を向きなおす。

 

「―――! 」

 

すると敵の瞳が私を捉えた。その透明な瞳には、予定外の事態を驚く気持ちと、自らをこんな目に合わせる敵に対する憎悪とが綯い交ぜにした気持ちが如実に現れていた。

 

―――はっ

 

「許さんときたか。いや、全く、さすがは最もヘラクレスの生涯に深く関与した獣は、プライドが高い。いや、その誇り高さ、見習いたいくらいだよ、全く」

 

吐き捨てると、敵の視線が強まる。その末期の一瞥を見届けると、敵の首は剣が待ち針の如く刺さった部分から見事に折れて地面へと落下を開始する。伝承によれば、ヒュドラは首を落とした後傷口を焼き、そして核となる部分を巨岩の下に敷く事で、無力化できるという。

 

―――だから

 

「サガ! 」

「おう! くらえ、超核熱の術式! 」

 

サガの咆哮共に、彼の手の前で直径一メートルほどにもなっていた球の形が崩れる。楕円はやがて潰れて生まれた平面より白柱を放出して、直進した光線が瞬時にヒュドラの体を包み込む。破壊の力を浴びた透明な肉を形作る液体は、瞬時のうちに反応し己の体を焼くエネルギーとなり、次の瞬間には蒸発してゆく。

 

落ちた首の断面の毒と液体とが熱によって焼成と気化とを繰り返し、灰と紫色の噴煙を周囲に撒き散らした。やがて十秒ほどしてサガのフォーススキルがその発動を終え、それにより引き起こされた毒々しい二色の煙が消えた時、渦巻く煙の隙間に、透明な敵の体の中に、核と思わしき物体が微かに目に映る。その一瞬で十分だった。

 

―――これでトドメだ

 

「―――偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ! 」

 

固有結界を解除すると同時に、過去、いつか時、墓地で大英雄の命を一つ屠った一撃をヒュドラの頭上めがけて放つ。手持ちの武器の中で最も貫通力の在るその改良型宝具は、竜巻の如き暴威周囲に振りまいて煙を引き裂いて突き進むと、迷宮の天井へと侵入した。

 

宝具により天井の削岩が進み、時の止まったような状態の砂土に減り込んで行く。刹那ののちに十分を認識すると、同時に放った幻想めがけてその威力の発散を命じた。

 

「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」

 

天井に穿たれた点より、噴煙が吹き出る。直後、点より広がった線が歪な円の亀裂が生じさせ、点と点がぶつかり合った瞬間、空間の断裂は時間にまで影響を及ぼして、平らなはずの天井の一部に段差が生じた。

 

「――――――! 」

 

もはや肉体の異常を感じ取れぬはずの断たれたヒュドラの首が、そのあり得ぬ光景を見て吠える。繋がっていない肉体の末路を拒んでの咆哮は、雄叫びを上げ続ける空気が足りず、すぐさま無音となり、音の発する機能を失った喉元は無意味に蠕動するだけの肉の塊に成り果てた。

 

「―――、くるぞ、備えろ!」

 

私は直後の光景を想定して、皆に注意を促した。一様に唖然とした顔を見せる一同の中で、すぐさま反応してみせたのは、ダリだ。彼はすぐさま私の叫んだ言葉の意味を理解したらしく、慌てて盾を前に構えてくれた。素晴らしい反応だ。

 

直後、天井に生じた段差はすぐさま大なるものへとなり、切り取られた大地、すなわち巨岩塊が重力の勢いを味方につけ、宙に浮いていたヒュドラの体とあっという間に接触すると、その巨体で敵を押しつぶさんと下の大地へ向かい、そして噴煙切り裂き落着した。

 

「―――ッ、大河を堰き止めるに相応の巨岩が必要なのは道理だが、これは流石に……! 」

 

自らが作った巨岩が大地に及ぼした影響は予想よりもずっと大きく、接地の際に生じた衝撃は迷宮の地面を数十センチも上下させる程の振動を生み、我々の体どころか世界樹の大地を大きく揺るがした。

 

同時に、破砕と衝突により生じた暴風により巻き上がった赤の土煙が、紫の毒の色など瞬時に吹き飛ばして、大小のカケラとなった石くれ、岩石が周囲に飛散する。

 

「うぉおおおおおおい、なんだぁああああ!」

「きゃあああああああ!」

「いやぁ、この事態は予想していませんでしたねぇ……!」

 

この光景を想定して踏ん張った私とダリはともかく、他の三人は迷宮の天井を破砕すると言う禁じ手を易々と行った暴挙に驚いた時から変わらぬ状態だったため、振動に耐えることができずに、地面に両手両足を踏ん張って、なんとかへばりついるような状態で悲鳴と文句を紡いでいる。また、この期に及んで楽器を離さないピエールの執念を、無駄に感心した。

 

「出来るだけ寄れよ! フルガード! 」

 

三人の近くに寄っていたダリは、味方がスキル「フルガード」の射程圏内にいることを確認すると、迷わずそれを発動した。光が周囲の味方に降り注ぎ、ダリは仲間を全ての攻撃からカバーする盾となる。私もその恩恵を受けるべく、踏ん張っていた足の方向を彼の方へと向けて、跳躍。

 

が。

 

「―――しまっ……! 」

 

揺れと暴風により多少の着地予定ポイントがずれ、あやうく彼のスキル範囲外に吹っ飛びかける。しかし次の瞬間、その事態を見こしてだろう、彼が差し出してくれていた槍の穂先が煙を切り裂いて体の横を抜けて行く。

 

私がその指標をしっかりと捕まえると、かかった過重に反応して彼が私を引き寄せ、そして私は無事にそのスキルの中に収まると同時に、彼は穂先を地面に突き刺して自らの体の固定を強固にした。

 

「助かった……、感謝する……! 」

「礼はいい……。が、無茶と馬鹿をやりすぎだ! あとで一発殴らせろ……! 」

「は……! 」

 

彼にしては珍しく激情を伴った殴打の許可を求める宣言に、ニヤリと笑って承諾の返事を返してやると、彼はそれを心底不愉快そうに背中で受け取りながら前方からやってくる全ての障害を防ぐべく、槍の穂先を地面に突き刺して完全に防御の体勢へと移行した。

 

周囲に颶風と礫と岩石の暴力が舞う中、眼前にて防御を一身に引き受ける彼の姿は、まさしくパラディンの名に恥じぬ素晴らしき堅牢の象徴のように見えた。

 

 

「や、ったのか」

「おそらくヒュドラは、な……」

 

やがて彼の守りが解けて土の煙が晴れた頃、先程フォーススキルをぶっ放したサガは、未だに周囲の光景を気にしながら、呆然と問う。私はその感情のない言葉に一応の同意を返しながら、しかし、心中には敵を倒したという確信があった。その中で考える。

 

―――さて、これで残るは

 

記憶の中で伝承を漁る。これで十二の試練のうち、十。残るは二つ。後は―――

 

噴煙が揺らぐ。ちり、と全身に熱を伴う痛みが走った。違和感は即座に直感に異常を訴え、瞬間的に体が戦闘体勢へと移行する。やがて脳内の記録の中よりその存在を思い出せたのと、敵がその噴煙の中より姿を現したのは同時だった。

 

三つ首に、黒い体躯。三叉にわかれたその姿が、黒百合が斃れた姿を想像させる、麗しさの中にも恐怖を含んだ姿は、プラトンによればそれぞれの首が保存、再生、霊化を表し死後、魂が辿る順序を示すという獣は、まさしく地獄の代名詞と呼ぶに相応しい外見をしていた。

 

「ケルベロス! 」

 

叫ぶと同時に双剣を容易。その両手に握り、真っ直ぐ直進するやつを切り裂こうとする。だが剣を握った途端、全身を刷毛で撫ぜられるかのようなくすぐったさを感じ、瞬時にその行為を中断する。

 

―――まて、伝承によれば確かケルベロスも

 

「ハデスにより殺傷を禁じられている……! 」

 

慌て直進する獣を捉えようと、再び鹿を捕縛した棒を生み出し、その全身を覆ってやろうと試みる。しかし、鹿の時とは違い、固有結界下にない状態での投影という行為は、通常世界に現出するまでの間に微かな一瞬の隙が生まれてしまう。また、先の鹿とは違い、すでに最大の速度での挙動を許しているというその差異が、その後の結果に大きな違いを呼んだ。

 

「―――ッ! 」

 

投影により生まれた棒が奴の体と接した瞬間、頭部と肩部に殴打の痛みが走る。棒と敵がぶつかった部分のダメージがフィードバックしてこちらへと帰ってきたのだ。その衝撃は凄まじく、全身を巨大なハンマーで殴られたかのような痛みに、私は思わずよろめく。

 

「――――――!」

「――――くぉっ! 」

 

次の瞬間、跳躍した敵は私の肩を押して上にのしかかり、その三つある口の牙を全て私に向けてくる。瞬時にその三つの口の撃を防げるほどの巨大なダリの盾を彼我の間に投影して、なんとかその三撃を防いだ。

 

「―――ちぃっ……! 」

 

高い金属音が鳴り響く。金属の盾の向こうでは、獣が憎々しげに特有の獣臭と腐敗臭を漂わせながら、牙をかち鳴らして、こちらの喉元を噛み切ろうと、盾の隙間に口をねじ込んで来ようとする。

 

「小汚い口を近づけないでもらいたいものだがな……! 」

「エミヤ! 」

 

悪態を着くと、ダリが叫びながら近寄り援護に入ろうとする。彼は私の投影した盾を見て、一瞬驚いて見せたが、瞬時に知識の採集などよりも現状の打破を優先して、その獣に体当たりをかます。だが。

 

「がぁ! 」

「いかん! こいつに手を出すな! こいつは鹿と同じく、攻撃を反射する! 」

 

ダリはケルベロスに攻撃を仕掛けた瞬間、それ以上の勢いで元来た方向へと吹き飛ぶ。忠告が荒野に吹き荒れる風に乗って全員の耳に届いた頃、私は必死に現状を打破すべく、ケルベロスの伝承を思い出していた。

 

―――思い出せ。何がいい。伝承だと、どうやってヘラクレスはこの試練を乗り越えた

 

伝承では、ハデスに生け捕りのみを許可されたヘラクレスは、素手でその首を絞めて太陽の元に引きずり出したという。記憶の中にあるあの鉛色をした巨体の大英雄なら、確かに己の肉体に反射のダメージがあろうと、平然と無視してそんな偉業をやってのけるのかもしれないが、あいにく彼のような丸太のような腕脚と、巨木のような鋼の体を持たない私には、そんな剛勇ぶりを発揮するなど、到底真似できそうもない。

 

「――――――、――――――、―――! 」

「く……そ……」

 

考えている間に、盾が押し込まれる。盾にこめた必死の抵抗の力はそのまま、私の方へと跳ね返り、いつもの倍以上の速度で私の肉体は疲労してゆく。固有結界という世界を書き変える大技の反動で魔力は空っぽに近く、強化魔術の限界時間もすぐそこまで迫っている。

 

「ダリ……!? お、おい、エミヤどうすりゃいいんだよ! 」

 

吹き飛んだダリの側に寄って、彼の体を起こしたサガが、こちらに言葉を投げかけてきた。

 

「反射する……って、あ、あれ? さっきの眩しい鹿は? 」

 

反射という言葉でその存在を思い出したのか、サガが状況にそぐわない間抜けな声を漏らし、煙の散る周囲を見渡した。すぐさま失せた煙の中に、目当ての獣がいないことを確認すると、一層困惑して、見渡しては、こちらの様子を伺ってとを繰り返す。

 

「―――くっ、くくっ……」

 

その、戦闘とは似つかわしくない様があまりにおかしく、危機的状況であるにもかかわらず、私は思わず失笑を漏らしてしまう。瞬間、ぶれた視線の先、煙の晴れた広間に黄昏色の光が広がった。

 

見覚えのある明かりに、思わず目がそちらを向く。迷宮を照らす光は戦闘直前と違い、すでに暗く部屋の片隅を照らすばかりだった。途端、盾を揺らす衝撃が少しだけ軽くなる。

 

違和感に眼前の獣を見やると、目の前の障害を無視して私が別の場所に視線を向けたのが気になったのか、ケルベロスの三つの首のうち、一つが私と同じ方を向いていた。そうして太陽の光を見つけた獣は、闇色の瞳の中に嫌悪の感情を露わにして、睨め付けている。

 

そして私は天啓を得た。

 

―――太陽の光か……!

 

確かヘラクレスは、首を締め上げた状態で、ケルベロスを太陽の元へと連れ出した。する途端、奴は悶え苦しんだというそれは打倒、殺傷の伝承ではなかったが、今この無敵の獣に通じる唯一の手段であるように思われた。

 

―――だがどうする……!

 

ケルベロスに押し倒された現状、あの太陽の光が照りつける場所まで奴を引きずり出す手段が思いつかない。運動エネルギーの反射を行うという無敵の鎧を纏った猛獣を、縛り付けて首根っこ引きずるための鎖を私は持ち合わせていなかったのだ。

 

ケルベロスは一向に力を弱めないまま私を地面に抑えつけ、己を追い込んだ下手人を食い散らかそうと臭い口を開閉して牙を鳴らし、盾の向こうで歯を鳴らす。敵は余裕の態度だった。敵は己の絶対的優位を知って、動こうとはしていない。

 

そうして奴の吐く吐息に、唾液が混じった。途端、投影品の縦にヒビが入り、そこから植物の球根のような根が伸びてくる。信じがたいことに、その植物は金属の盾の上に発芽し、分厚い金属をかち割って、根っこをその金属板の中に伸ばしたのだ。

 

―――植物……!? なんだ、なんの―――

 

ヒビの入った盾の向こう側に、紫色の烏帽子が見えた。かつての日本の貴族が被っていた折れた冠に似た紫色の花を持つ植物といえば、思い当たるものは一つしかない。

 

―――トリカブト!

 

そうか、そういえば太陽に当たって悶え苦しんだケルベロスの唾液が地面に触れた瞬間、そこから生えた植物がトリカブトになったと言う伝説があった。記憶の続きが現実で再現された事実に思わず舌打ちをする。

 

―――くそ、こんな隠し球を持っていたのか……!

 

そうこうしている間にも盾は植物によって次々とその領域の侵攻を受けていた。盾という特性ゆえか、ある程度の傷が入っても投影品のそれは崩れて消えはしないが、それでももう、半分以上は植物により役目をはたせない状態に陥っている。おそらくはあと十数秒も持たないだろう。

 

そして盾が砕けたあと、再投影する時間がないのは、先のケルベロスという魔物が見せた速さから考えても明らかだ。かといってこの攻防を繰り広げている最中、投影という余計な工程に意識を割けば、その時点で私の喉元にその牙は突き立てられるだろう。

 

唾液が即効性の効力を持つ猛毒の植物を生むとわかった今、即座に引き剥がしたところで、牙を突き立てられた場所からそれが発芽し、根を張り、体内に侵食する。猛毒の根が体内に根を張ってしまえば、毒を防ぐアクセサリーがあったとしても高確率で死は免れまい。

 

そうこうしている間に、部屋の隅を照らす希望の光は失せてゆく。絶望の闇は周囲に広まりつつあり、夜はすぐ背後にまで迫っていた。この時私は、やがて時計の長針が一つ二つ進む間にあの光が完全に失せてしまう事を悟りながら、しかし何もできずにいた。

 

―――絶体絶命か……!

 

この時点で、私たちは詰みに近い。倒すには太陽の光が必要であるだろうに、数百メートル離れた部屋の隅に落ち込む光が失せかけている今、もはや倒すには、そこから千、二千メートルに上空の大地に足を運んで、直接光を当てるしかない。

 

しかし敵は攻撃を反射するのだ。それが拘束であってもその力を反射する相手を、どうやれば地上まで運べるというのだ。まさか大英雄のように、いく日もかけて洞穴をひたすら逆走してやれとでもいうのか。

 

―――そんなところまで伝承通りにしなくとも良かろうに……!

 

悪態を吐くも、状況は変わらない。押し迫る敵は、その絶対的優位を知って自分を嬲っている。例え己の身を捕らえたところで、倒す手段がないと知っているのだ。その愉悦を多分に含んだ憎たらしい表情を見たとき、思わず言峰綺礼という男のことを思い出した。

 

―――なるほど、ここまで奴の筋書き通りか……!

 

おそらく奴は、私が鹿やヒュドラという相手に固有結界を使用することを読んでいた。そうしてどうにかしてヒュドラを倒し、鹿を捕縛し、そうして精魂疲れ果てたところで、本命の獣を登場させる。

 

獣を登場させるタイミングが今であるのも、奴の思惑通り出る気がした。そうして、やった、倒した、と安堵したところに、討伐の手段がない獣を送り込み、一転して最高の状況から絶望の底に叩きこむ手腕は、なるほど、人が何をすれば一番嫌がるかを驚くほど正確に読み取る奴だからこその手練れの嫌がらせだ。

 

―――本当に、あの、言峰綺礼という男はどこまでも性格が捻じ曲がっている……!

 

「エミヤ、どうすればいいんだよ! 」

「……! 」

 

近くでサガが叫んでいる。ダリはこちらの様子を観察したまま手が出せずに戸惑い、ただ見に徹している。何とかしようとはしているが、心底手出しができずに悔やんでいるのが、彼の巨体が起こす憤怒の発露の揺れから見てとれた。

 

「弱点は……、恐らく、太陽だ……! そこまで連れて行けば、悶え苦しむはず……! 」

「た、太陽って……ここでかぁ!? 」

 

解決手段を求めての言葉に答えをやると、サガが頓狂な声をあげて天井を見上げた。口をぽかんと開けて間延びした声をあげたのは、策として提案された手段があまりにも非現実的だったからだろう。

 

―――私だってそう思うとも

 

などと考える間にも、獣の口が迫っていた。その勢いは先ほどのものよりも強く素早くなっている。おそらく己の弱点を露わにされたことで怒ったのだろう、怒気にその勢いを増す三つ口を防ぐ盾をどかそうと、龍頭のついた尾っぽまでを動員して敵は一枚盾の向こう側で暴れている。

 

私がそうして盾で敵の行動を阻害する抵抗すら反射の対象とみなされているようで、先程からもう両手ともに掌の感覚は殆ど残っていない。もう後数十秒も持たない。

 

「エミヤ、太陽が弱点なんだな? 」

「―――ああ! ダリ、どうにかできるのか! 」

 

聞くと彼は静かに頷いて、響の方を見た。彼の視線の先にいる、ピエールとともに戦況をお見守っていた彼女の方へと向けられた。私は彼の視線を見て、ここにくる際、直前に使用したアイテムの存在を思い出した。

 

「携帯磁軸か! 」

 

必死の叫びが一帯に木霊し、彼女の小さな体がびくりと震えた。

 

 

「携帯磁軸か! 」

 

深みのある重低音の叫び声が周囲に鳴り響いた。その声に、あまりの非現実的な光景に停止していた思考が再稼働を果たす。

 

―――携帯磁軸……?

 

「響! 」

 

ダリが叫んだ。白紙の思考とは裏腹に、体が勝手に低い声に反応して上下する。

 

「響! 磁軸だ! 携帯磁軸を使ってくれ! 」

「じ、磁軸を? 」

 

いきなりすぎる提案に、思わず聞き返してしまう。

 

―――何を言っているのだ。なんでこの戦闘の非常事態の際に、そんなことをいきなり言い出すのだ。だって、そんな、できるわけがないだろう? 携帯磁軸は。

 

「だ、だめです! 携帯磁軸の設置は安全な場所でないと! 」

 

そう、携帯磁軸は設置場所が厳密に決められている。層の出入り口の、衛兵が見張っている場所。それ以外に設置した場合は、設置した人間と、所属する団体に厳しい罰則が与えられるのだ。

 

「ましてやここは、番人部屋ですよ!? 」

「その番人を倒すための手段がそれしかないから言っている! 」

 

ダリはこちらに近寄ってくると、声を荒げて言った。常に冷静を基本とする彼の顔には珍しく焦燥の色が混じっていて、まさに必死、という体で両肩を強く掴んでくる。痛みを振り払うように彼の手を払いのけると、悲鳴を上げるかのように叫んだ。

 

「じ、磁軸でどうやって倒すんですか!? 」

「わからんがエミヤが言うには太陽の光が弱点らしく、ここでは倒せないというんだ! 」

 

ダリは叫ぶと私のバッグの方へと目線を向けた。あの中には、彼のいう携帯磁軸が入っている。もしも彼が自分で使えたのなら、迷わず使用していただろうと思わせるその視線には、必死以外の余分な感情はなくて、真剣さだけが彼の中を占めていた。けれど。

 

「わ、わからない……、らしく、って……」

 

返ってきたあやふやさを含む答えに躊躇する。携帯磁軸の規定場所以外での使用は、無断での土を掘削するレベルの禁則事項だ。

 

迷宮を故意に破損させたという現状、ただでさえ、危うい立場の私たちが、番人の部屋で、それも戦闘中に使用すれば間違いなく私は追放を免れないし、おそらく所持ギルドの彼らも、それと協力したエミヤも追放を間違いなく同じ処分を受けるだろう。

 

―――そうなれば、私たちは二度とエトリアの土地を踏むことができなくなる

 

いや、あるいはそれ以上の罪が―――つまりは処刑の判決が私たちに下されるかもしれない。死を命ぜられた罪人になるかもという怖気が、全身を貫いた。犯罪者と可能性の未来を恐れて体が震える頼りない全身を支えてくれる止まり木を探して周囲を見渡すと、今まさに敵に食い殺されそうなエミヤの姿が目に映った。

 

いつも傍若無人なくらいに自信満々で、でも実際にそうするだけの強さと頭の良さを兼ね備えて、先程などは破天荒にも、世界というものを変貌させて、そして平然と禁忌を破ってみせた彼は、しかし今、弱々しくけれど必至に抗っていた。

 

そうして迫り来る敵の牙をなんとか避けている彼の姿を見て、私は初めてエミヤが一人で平然となんでもこなせる超越者なんてものでなく、私と同じ人間であることに気付かされた。彼もまた私と変わらぬ人で、今私の力を必要としてくれている人なのだ。場違いで不謹慎ながらも、私は今更ながらに気づいたその事実が嬉しいと感じた。

 

「響! 」

 

私の躊躇を煩わしいと言わんばかりに、ダリが叫ぶ。彼は心底怒っていて願っていた。そんな彼の態度も、私に罪を犯す決意を促すための材料となる。

 

「―――わかりました! 」

 

そして私はエミヤがいう、今後を賭けるにはあまりに不確定すぎる、倒せる「らしい」という言葉を、素直に信じることにした。よくよく考えてみれば、エトリアを追放されるから、死刑になるかもだからなんだというのだ。

 

―――そうだ。どうせエトリアにほとんど未練なんてない

 

父母は死んでしまったし、いつものみんなとヘイ以外の知り合いは赤死病を恐れてだろう、最近まで店に寄ろうともしないかった。いまじゃ私の知り合いは「異邦人」のみんなと、ヘイとエミヤとヘイだけだ。

 

仮に追放されて店を畳むことになっても、他でやっていけるだけの経験と技量も付いている。それに死ぬかもなんて、嫌という程味わった感覚だ。そうだ、追放も死ぬこともまるで怖くない。なにより―――

 

―――シンが生きていたら、彼らを救うために迷わず掟などは無視しただろうから

 

胸を締め付けられる思いに浸るのも一瞬。そうして天秤の針は記憶に浮かんだ彼の意志に導かれ、片側に振り切った。カバンに手を突っ込むと、必要と言われる装置を取り出す。

 

携帯磁軸。迷宮の内外の移動を可能とする、一部の許可が降りている人間にしか利用する事のできない本当に特殊な道具。設置や使い方自体はとても簡単だ。縦横五十センチの四角い箱の蓋を適切な方法に則って解き放ってやれば、収められた機材が自動的にその場に磁軸を生み出してくれる。

 

ただし、樹海磁軸が登録した人間が移動の意志を示した場合にしか起動しないそれと違って、この簡易的な装置は、起動させた際、一定範囲内にいる生物と、その生物が身につけている物を全て巻き込んでの転移を引き起こす。

 

勿論使い方次第ではとても便利利なのだが、仮に悪意を持った人物が悪用した場合、例えば、己らの手に負えない魔物を石碑の前に送り込むという事も可能なそれは、あまりに危険すぎるということで、執政院ラーダの初代院長ヴィズルが使用を厳しく制限されていた。

 

そして今、私たちは、そのヴィズル元院長が危惧した通りの使い方をしようとしている。

 

「それだ! 響、早く! 」

「エミヤがもうもたねぇ! 」

 

ダリに急かされて視線を彼に向けると、エミヤは必死でダリの盾―――の複製品?―――を使ってその攻撃を防いでいる。だが、彼がそうして三つ首の獣の攻撃を抑えていられる時間も、もう限界だ。

 

彼の盾には涎が垂れ落ちた部分から、植物が生えて、半分以上の部分に茎と根が絡まっている。よく見てみれば、それは附子と呼ばれる、猛毒の植物であることまで見て取れた。

 

道具屋の娘である私は、当然その危険性はよく知っている。シンの意志と、エミヤの危機と、植物の危険性は合わさることで、私のぼやっとしていた頭を高速で再起動させる。

 

慌ててバッグを持ち直すと、磁軸を持ったまま、エミヤと敵から少し離れた場所に携帯磁軸の蓋を取り外し、多少弄って地面に設置した。途端、内部の仕掛けが飛び出して、瞬時にその性能を発揮しようと作動する。

 

「十秒ほどで転移します! 必要な持ち物は身につけておいてください!」

 

装置がみせたいつもの所作に、お決まりの台詞が口から飛び出る。そんな暇などないのがわかっていながらも、身についた習慣というものはふと出てしまうものだな、と呑気に思う。己の言葉に反応して見渡せばダリもサガもピエールも装置に目線を向け、そして必死のエミヤも、多分はその装置に意識を向けているのがわかった。

 

―――あ

 

彼らの動きにつられて周囲を見渡すと、先の振動でこちらの方まできたのか、先程サガの治療の際、放り出してしまった刀「薄緑」が近くに転がっていることに気がついた。幸運に感謝しつつ、慌てて刀の元へと駆けつけ、その軽い刀を拾いあげると、再び転移の範囲内へ戻るために振り返る。

 

すると獣は私と同様に、あるいは私の動きによって周囲を見渡そうという気になったのか、エミヤにのしかかっていたケルベロスは、一つの首で周囲の三人をそれぞれ一瞥して彼らの意識の先を確認すると、意地悪く口角を上にあげて嫌らしい笑みを浮かべ、エミヤを抑え付けていた体をのそりと動かした。嫌な予感。全身に悪寒が走った。

 

―――まずい

 

「―――おい、なんかやべぇぞ……! あいつ、どこを見てやがる」

「あれはこちらではなく―――、いけない、ダリ! 装置を守って! 」

 

―――なんて迂闊をやらかしてしまったんだろう……!

 

そうしてケルベロスは、転移装置に向けて疾走の準備をし、そして駆け出そうと試みる。初速こそ遅いが、その速度だと、数秒もしないうちに装置へとたどり着くだろう。

 

「ダリ! 」

「任せろ! パリング! 」

 

そうしてダリは装置と犬との間に立ちふさがり、スキルを発動させた。どのような物理攻撃も数回は防ぐ光の粒子が彼の盾を覆い、その効力の発揮の時を待つ。私も慌てて装置に近づくべく、呼吸をやめて限界以上の速度を出した。

 

「―――っ。ぐぅ」

「ダリ! 」

 

ダリの呻き声とピエールの叫び声。前傾姿勢からすこしだけ顔を上げて声の方を見ると、ケルベロスの三つ首の攻撃を防御のスキルで防いだ彼は、しかし、その後の奴が動く事を防ぐことができずに押し倒されていた。

 

おそらくは、ケルベロスの反射によって、奴の突進の勢いを押し付けられたのだ。獣が憎々しげに唸り、その際に飛び散った涎が彼の盾にかかり、戦いの中も清廉の雰囲気を保っていた盾に亀裂が生じた。直後、破損。

 

これでもう守りの力を発揮するのは不可能だ。しかし、そんなダリの献身の甲斐あって、三秒ほどは稼げている。見た感じ装置の軌道まであと五秒ほど。それだけの時間があれば、装置は起動するはずだが―――

 

「ダメだ、間に合わねぇ」

 

サガが叫んだ。ケルベロスはすでに押し倒したダリの体の前で装置に飛びかかるべく、力をその黒々とした逞しき四肢に溜めている。そう、その通りだ。このままでは間に合わない。

 

五秒という時間があれば、携帯磁軸が起動する前に奴は間違いなく装置に到達する。起動前に破損の不具合があれば、もちろん転移は起こらない。そうすれば、私たちの負けは確定だ。

 

すると私はもちろん、彼らは死ぬ。そう、まるでシンのように―――

 

「―――! 」

 

気がつくと私は限界を超えた走りのさらに限界を超えて、手にした「薄緑」を振りかぶっていた。その足先は、迷うことなく装置の前に向かっている。すでに最高速に達しているこの体なら、奴が装置と接触する前に、装置とダリの間に体を滑り込ませる事が可能だろう。

 

「―――響!? 」

「いかん、だれか彼女を止めろ! 」

 

ピエールが驚きの声を上げ、ケルベロスの後ろで立ち上がり、そいつの行動を止めるためにだろう、体勢を整えていたエミヤが大きく叫んだ。多分、私の意図に気がついたんだと思う。

 

ケルベロスは奴の背後から発せられたエミヤの声を聞いた瞬間、その三つの口を大きく開けながら、装置に向かって駆け出した。だが、一度ダリにその勢いを止められているため、先程までの速さは奴にない。

 

―――大丈夫だ、間に合う

 

冷静な理性は熱さを保つ感情と協力して、私の体は今までにないくらい最高の状態を保ってくれている。このままいけば、奴の口が装置に触れる前に、この体を装置の前に持っていくことが可能なはずだ。そうすれば、ダリのようにスキルは無くとも、血飛沫と捩じ込んだ体は多少の時間を稼ぐことができるだろう。それで十分、装置は起動してくれるはずだ。

 

反射をする相手に対して迷わず刀を振りかぶれたのは―――、多分、シンだったらこうしたのだろうと思ったからだと思う。

 

今の私と同じように、彼がどのような恐ろしい敵にだって、自分のため、ひいては仲間のために迷わず突っ込んでいくのを私はすぐ近くで見ていたからこそ、同じように剣を振りかぶって、恐ろしい敵との間に身をねじ込ませる覚悟ができたのだ。

 

敵が磁軸と接するまであと二秒。限界以上の速度での全力疾走をしていた私は、奴と装置との間に体をねじ込ませた。飛び込んだ瞬間、右足を先に地面につけて、遅れてついた左足にもその衝撃を分担させてやり、両足で地面をしっかりと踏みしめる。

 

一秒。瞬時に肩口を占めて、左の肩を前に出す。奴が跳躍の姿勢をとった。その身を縮こめて次の瞬間には全力で飛びかかってくるだろう。私は迷わず振り上げた刀をさらに振りかぶった。

 

零秒。奴は飛びかかる寸前、その対象を確認すべく前を向いた。六つの瞳が機材の前にいた私に向けられ、奴は地面スレスレから私を注視する。その睨め付ける視線には、愚か者を見下す視線が含まれていて、少しばかり腹が立った。

 

―――反射の鎧を纏った相手に攻撃をしようとするなんて、愚かな奴

 

そんな、こちらを見下す考えが読み取れた。だが知った事か。時間さえ稼げれば、お前の負けだ。私は迷わず刀を振り下ろしてやろうと、真っ直ぐその漆黒の瞳を見つめて両手に力を込めた。少しでも時間が稼げればいい。

 

反射に体が切れて、そして血飛沫が舞って、それが目くらましにでもなれば、装置が動くまでの一秒くらいは稼げるかもしれない。

 

そんな、私にしては似つかわしくない決死の覚悟を決めて、奴の嘲笑に真正面からの視線を返してやると、私と視線があった瞬間、驚くことに奴はその場で跳躍の動きを一瞬だけ躊躇って、停止してみせた。

 

私の動作の中に奴の苦手とする成分が含まれていたのだろうか、奴の瞳からはこちらに対する嫌悪の感情が見て取れる。何が原因かはわからないが、止まってくれたのだ。文句はない。これで転移装置は間違いなく作動する時間は稼げただろう。

 

だが―――

 

「―――よせっ! 」

 

エミヤがこちらに手を差し出して叫んだ時、私はすでに奴に向けて全力で刀を振り下ろしている最中だった。わずかな時間だけ足止めた代償を踏み倒すにはもう遅い。奴の動きを少しでも止めようと振りかぶった両腕に溜めてあった力はすでに解放されている。

 

この剣の軌跡だと、間違いなく、敵の首元に剣はその刀身を吸い込まれるだろう。そして首元への攻撃がそのまま反射されるとすれば、それはおそらく―――

 

―――あぁ、死んじゃうのか、私

 

直前に起こった意外な出来事は決死の覚悟など霧散させていて、私はいつもの思考を取り戻していた。研鑽を重ねて鋭くなった己の振り下ろした一撃は、皮肉な事に間違いなく私の首くらいなら軽くすっ飛ばす威力を秘めているのがわかった。

 

―――最後の死に方がこれとは、なんともしまらないなぁ

 

馬鹿げた死に様だと思ったけれど、不思議なことにまるで恐怖はなかった。最初に旧迷宮の四層に潜った時は、凄く死ぬのが怖くて、何度も泣いたけど、何もわからなかったあの時とは違って、今、私は私の意思で、こうして自分で決めて死に向かっている。

 

だからだろうか、私は、自らの手で自らの人生に幕を下ろそうとしているのに、まるで恐怖というものが心に湧いてこなかった。これは私が強くなった証なのだろうか。それともあるいは、シンのように、仲間を守って死んでゆけるという思いが心中の不安を麻痺させたからなのだろうか。

 

―――ああ、あの人も、こんな気持ちだったのかな

 

そんなことを考えながら刀を振り下ろす。さなか、後ろにあった転移装置は直ちに作動してみせて、私たちは敵ごと光の中に包み込まれていった。

 

 

夜を間近に控えた黄昏時。一面を雲の絨毯が覆い尽くし、一条の光すら帳より落ちてこない空の下、エトリアより一時間ほど歩いた郊外にあるこの染め上がれた紅の森林地帯は、以前ほどではないにしろ、確かな賑わいを見せていた。通常なら多くとも十人から十五人程度の冒険者しかいないその場所には、今、百に近い数の冒険者が押し寄せている。

 

冒険者たちの多くは手練れの雰囲気を漂わせていたが、同時に、迷宮の深部へと探索の足を延ばし一線級として活躍する彼らとはまた別の、ギラギラとした屍肉を貪る獣のような空気を纏っているものも多かった。

 

そうして死地に赴く覚悟よりも、好奇心や射幸心、義務感の様なものを優先して心の裡に抱え込んだ彼らの正体は、番人討伐という面倒を避けて、誰よりも先に深部階層を探索してやろうと企んでいる、所謂、屍肉を漁るような連中だ。

 

最近に至るまで一層すら攻略されることなく謎とされていた迷宮も、三層までが完全攻略され、四層も現在のところ、残すは番人がいるだろう状態になっている。そして現在、件の番人の層もアタックをかけられている最中だ。

 

攻略を試みているのは、新迷宮の番人どもを悉く駆逐してきた二つのギルドの同盟軍だ。ならば、この度も当然番人を討伐して帰ってくるに違いないと信じた輩が、今、新迷宮の周りには多くうろついているというわけだ。

 

彼らが番人討伐を終えて帰ってきた途端、彼らに先んじて五層へと足を踏み入れてやろうと企んでいる。そうして一足早く彼らが帰ってきた瞬間、あるいは、糸を使って戻ってきたよとの連絡が入った瞬間、我先に入ってやろうと考えているのだ。

 

「―――ん?」

 

卑の属性を帯びた緊張感が辺りに満ちる中、異変に気がついたのは、珍しくも正しく己の実力を発揮するため迷宮に挑まんとしているギルドの冒険者だった。彼は四層への冒険を控え、後数分もすれば石碑を使用して迷宮にゆくという状況だったが故に、石碑が淡い光を発していることに気がついたのだ。それは誰かが戻ってくる合図だった。

 

彼がそれに気がついたことを皮切りに、周囲にいた人間もその変化に気づき、少し遅れて兵士たちが一定の区画への出入りを制限する。転移し戻ってくる人間との接触を防ぐためだ。

 

やがて淡い光は通常よりも濃い光を発して、周囲に白光りをばら撒く。この通常よりも明るい光は、樹海磁軸ではなく、携帯磁軸が利用された証だ。加えて、今現在、新迷宮において携帯磁軸の登録許可が下りているグループは数少なく、現在アタックをかけているのは、たった二組のみ。すなわちギルド「正義の味方」と「異邦人」の二つのみである。

 

つまりこの目をつぶさんばかりの眩い光は、番人討伐に出向いていた彼らが戻ってくるという証であり、同時に彼らが番人討伐を終えて戻ってくるという証明に他ならないはずなのだ。その事実を悟った辺りの人間が勇者の帰還を察知して緊張に身を固め、周囲を支配する緊張感が濃くなる。

 

そんな周囲を取り巻く欲望の霧を払うようにして、光の密度も、うんと濃さを増してゆく。

 

やがてそうして石碑の光が収まる直前、隔離された空間の中に現れたのは、まず地獄の奥より響いてくるような獣の唸り声と、必死の怒号だった。遅れて地面を叩くと金属の砕け擦れる音が聞こえ、光の幕が上がった先に、信じがたい光景が彼らの目に飛び込んだ。

 

それは人を三人ほども束ねた胴回りを持つ巨大な三つ首の獣だった。周囲にある生きる者全てが呪われてあれと憎々しげなに声を上げるその魔獣は、全身の機能の全てを一心に利用して、小さな少女を食い殺さんと飛びかかっていた。

 

対立する少女は、今まさにその獣めがけて剣を振り下ろそうとしている。区画の中、周囲に散らばる他の四人の面子は、それぞれに驚愕と絶望の表情を浮かべて彼女の行動を止めようとする挙動を見せている。

 

しかし、そんな彼らの制止も虚しく、決意を秘めた薄緑の波紋美しい刀は見事な所作で振り下ろされ、そして、遠心力の乗った切っ先が体当たりをしかける獣の鼻先を見事に捉えた。

 

そうして獣の体を纏う漆黒と刀の緑光が接触を果たした次の瞬間、見事に刃先は獣の鼻先に切り傷をつけたが、直後、体当たりを仕掛けてくる獣の勢いと少女の振り下ろした刀自身に込められた少女の膂力と伴われた遠心力の勢いに負けて、甲高い音をたてて鍔元からポキリと折れてしまう。

 

やがて勢いのままに獣と少女は激突。少女は左の肩当を用いて咄嗟の防御体制をとったが、体の薄い少女は巨体の突進に耐えられず、数秒ほども地面と水平に吹き飛ばされると、樹木の幹へと叩きつけられる。激突の際骨が折れ血肉に刺さる音が不気味なほど周囲に響き渡った。

 

やがて獣が唸り声をあげた途端、襲いかかってきた現実が一帯を通り抜けて、隔離された空間以外の止まっていた時間を動かした。空の雲間から時計の針の如き鋭き光がその空間を照らして、眩さに遅れて怒号が舞う。

 

「―――ま、魔物だ! 」

「逃げろ! 」

 

押すも引くもできない大混乱。我先にその悍ましい姿の敵から遠ざかろうと、有象無象の衆が離散する。騒ぎが拡大する中、その中心部にいる獣と対峙する彼らの動きに異変が起こっていた。

 

冒険者の一人を軽々と吹き飛ばし優位を確保したはずの獣が、身悶えだしたのだ。獣は全周囲にあるその全てが己の苦痛を齎すのだといわんばかりに身を捩り、捻り、悶え、苦しむ。吹き飛ばされた少女は、伏した状態でなんとか上半身だけを起こして見せると、獣の苦悶を見た瞬間、少女に似つかわしくない獰猛な笑みを浮かべて、血を吐きながらも言ってのけた。

 

「ざまあみろ……!」

 

気がつくと、空の雲は何処かへと姿を隠していて、切れ間から太陽の光が周囲を黄昏色に染め上げている。やがてその光が再び雲間に消える前に、硬直していた彼らの時は完全に再起動を果たしていた。

 

 

白い光の輝きが私たちを包み込んだかと思った次の瞬間、飛び込んできたのは世界樹の深層に満ちている霞がかった偽りの光が散乱する光景ではなく、同じ様に赤の着色が広がる中、しかし雲の繚乱する黄昏の天と、赤光が裾野の遠くまでを支配する光景だ。

 

そうして出現した澄んだ空気と絢爛な陽光により、私は転移の成功を確信する。と同時に、飛び込んできた五感の変化は戦闘の現状をすぐさま把握させて、私は慌てて迫る激突の場面へと目を向ける。

 

そうして視覚が二者を捉えるのと、彼らの接触は同時だった。彼女の振り下ろした刀は彼女の予定外に獣の鼻先に切り傷を生じさせ、次の瞬間、そうして獣に傷跡を刻みこんだ彼女はケルベロスの体当たりを受けて吹き飛んだ。

 

「響! 」

 

―――よくやってくれた……!

 

声では心配の言葉を叫びながら、しかしそうして彼女がやられながらも反撃の一撃を加えた光景を眺め、私は己の思惑の正しさと、我らの勝利を確信した。太陽の元に引きずり出された冥府の番犬は、見事にその反射の力を失っていたのだ。

 

かくて領分を超えた事で冥界の加護を失った魔獣は、薄緑色の刃を見に受けた瞬間、己の身に起こった不幸を察した様で、一瞬の戸惑いを見せたのち、太陽神の怒りを一身に受けて苦痛を全身で味わう事となる。

 

ギリシャ神話において残酷と称される太陽神の恵みたる陽光は、なるほど奴にとっては伝承通りの残酷さを存分に発揮して、魔獣は金の一矢の元に即死させてもらう事も出来ずに、その身を触れて哀れにも飛び回り、身を悶えさせて苦しみを周囲に訴えていた。

 

地獄の番犬はそうして身体中を反する属性の光に焼かれながらも、しかし死ぬ事が出来ずに苦しんでいる。おそらくは魔獣らしく超回復能力か不死性でも備えているのだろう、奴の体は焼かれ燻り皮膚が剥ける端から、次々と新たな皮膚が生まれえては、黒く焦げたそれが垢の如く落ちて、周囲に黒塵をばら撒いていた。

 

今まで我らを苦しめてきた敵にかける情けなどないのが当然と思いながらも、そうして灼熱の痛みに苦しむケルベロスを哀れにも思い、思わず眉をひそめた。同時に遠くから小さな声がソプラノボイスが耳朶を打つ。

 

「ざまあみろ……! 」

 

そのあどけない声色とは裏腹に、心底、奴のその様はひどいものではなく、当たりまえの報いを受けているのだという残酷な感情を多分に含む台詞を聞いて、私は即座にあの獣を仕留めて介錯してやろうという気分になった。それは苦痛に悶える獣への情けではなく、あの年若い少女に憎悪の仮面は似合わないと判断しての行動だった。

 

「―――投影開始/トレース・オン」

 

そうして私が不死の特性を持つ獣を処刑する道具として自然と投影したのは、ハルペーという鎌の宝具だった。ギルガメッシュの宝物庫に収められていたそれは、ケルベロスと起源を同じくして、ギリシャ神話においてペルセウスがメデューサという女怪を葬り去る際に使用した、「屈折延命」の効力を持つ神剣……の贋作だ。

 

かつてケルベロスと近しい親族を屠るならこれ以上ない剣を投影した私は、しかし、そうやって神造兵装を大した反動もなしに容易く投影してみせた己の所業に驚き、自ら投影した品を見つめ直した。

 

―――これほどの格を持つ剣をこうもあっけなく投影できるとは、どういう理屈だ

 

長柄の先にくの字に折れ曲がった刃がついた、鎌とも剣とも区別のつけにくいそれは、刃先から内側に入ったものの命を枯れ草のように摘まみ取る冷淡な光を携えて、妖艶に光を放っている。

 

そうして内側から醸し出された気品と風格は、名を高らかに叫び使用してやれば、伝承の通りの効果を発揮するだろう気配を伴っていて、此度の投影が姿形ばかりを真似た張りぼてのそれではない事を告げている。

 

真作、というには内包する神秘と輝きがちと足りないが、かといって贋作と断ずるには、神剣が持つ奇跡の成分は真に迫り過ぎている。神々と呼ばれるような超越者達のみが生み出せる輝きは、通常、己の使用する投影魔術ではなし得ないものだった。

 

私の使用する投影魔術とは、あくまで真作の代替たる贋作を作り出す魔術。その魔術は、矛盾を嫌う世界の特性上、真作と同一のものを作り上げるのは不可能とされている。

 

それは通常の世に生み出されてから数分で霞の如く投溶けて消える投影魔術とは違い、魔力の続く限り永久に残る事という特性を持つ、投影魔術の中でも異端、異常、異様と称される私のそれも例外ではない。

 

材質構成から内包する歴史に至るまでがまるで同一のものが同じ時間軸において同時に存在するという矛盾を世界は許さない。そのため、投影魔術において架空のそれを現実に持ち込むためには、世界からの修正を避けるため、真作と異なる証明のために必ず劣化か改良かの道を選ばねばならぬのが、常である。

 

そうして、世に数多存在する単なる一振りの剣でしかないものにすら、そうやって細かすぎるほどの気を配らなくては存在を許容しない狭量の持ち主たる世界が、ましてやその己自身たる世界のあり方すらを変革しうる神造兵装の投影などを認めるはずはない。

 

それに何より、このような人の手以外にて作り上げられた、それ自体が一個の神格を保有するような宝具、私は自滅覚悟でもなければ投影が出来ないはずである。しかし今、その伝説上に置いて不死殺しを体現する神具は、確かにこの手の中で鋭利に、己の存在は現実のものであると、声高らかに主張していた。

 

―――いったいどうして……

 

己の魔術によって生み出しされた神造兵装を前に、私はしばし呆然とする。やがてそうして彼方にいた意識をこちらの側に引き戻したのは、男達の叫び声だった。

 

「エミヤ! 何をしている! 早くトドメを! 」

「エミヤ! 」

 

ダリとサガの声が響き渡る。重低音と中音の二つに正気を取り戻した私は、慌てずその矢を投影した弓に番え、曲がった刃の峰を悶える敵に向けた。その刃先は常とは異なる使用方法を拒否するかのように、地面を捉えて離さない。

 

その、出来る事なら同郷の出身者を害したくはないとでもいうようなささやかな抵抗を踏みにじって、私は弦を思い切り引き、極限の状態にまで到達させる。引き絞られた細い糸は、カーボン製の西洋弓の剛性の弾性限界を試すかのように、キリキリと横溢して解放の時を待っていた。

 

やがて狙いを暴れまわる獣の心の臓あたりに定めて細かく位置を調整していると、雲間より山の端に身を隠しつつあった太陽の残光が、ケルベロスの姿を一層明るく照らした。残照は勢いを止め、燐光に変わりつつある。この日が途切れる前にこの一矢で奴を仕留めねば、この場にいる全ての人間が餌食となってしまう。

 

外せない理由が明確化したことにより、覚悟は完全に決まった。彼と我。赤に染まった世界はその二つだけの成分となり、時の流れすらも排して狙いを定める手が止まる。あとは弦と剣の関係を断ち切り、名を叫べば、動作は完了する。

 

「不死身殺しの鎌/ハルペー! 」

 

息を吸い、必殺の意思を込めて言葉と共に放たれた神造兵装の魔弾は、赤紫を纏う銀矢となりて真っ直ぐに進み、悶える獣の胴体を直撃した。下向きに放たれた刃は獣の体を貫通すると、その鏃たる鎌の峰が地面に突き刺さるのを抵抗して、鎌の柄は獣の体を通り抜けきらず、その場に縫い止めるに終わる。

 

しかし、そうして抵抗を受けながらも奴の体を通り抜けた刃は、たしかに臓器の最大重要部分、すなわち心の臓府をごと貫いていて、全身に血液を送る機能を潰された獣は、その代わりと言わんばかりに、溢れんばかりの血潮を貫通部分より地面へと垂れ落として、ハルペーによって宙に固定されているケルベロスの体の下に血の海を生成する。

 

直後、そうして毒々しい色を撒き散らす赤潮から、烏帽子が天を目指して生えてきた。陽の光と血潮を浴びて赤紫色に映える植物は、神族の一員たる己が高貴さを誇るかのように高貴の色を高らかに主張して、ケルベロスの体を覆い尽くし、奴の死を彩った。

 

やがてすぐさま稜線よりの残照も途切れ、アポロンがアルテミスに出番の時を譲る頃、死闘の跡地には、戦士達の健闘を讃えるかのように、紫色の花畑がそこには生まれていた。

 

天空に輝く月の光を浴びて輝くトリカブトは、藤色の柔らかさに似た穏和さを周囲に散らしていて、その場にいる誰もが息を飲む。地獄の門番がその死と引き換えに出現させた花畑は、しばしの間、戦いに疲れた私たちを慰めるかのように、静かに夜の闇に咲き誇っていた。

 

 

天に広がる星々が辺りを彩りはじめた頃、そんな夜花見の中、命の花散る末期の別れの時を破って無粋にもいち早く動いたのは、私でなく、仲間四人の誰でもない、兵士たちだった。

 

彼は我らと番人の間にある関係などまるで知らぬとばかり、無遠慮に突き進むと、五人それぞれの前に立ち、手に持った鋭い刃先を我々に突きつけて、告げる。

 

「―――、魔物を連れての転移は、重大な規約違反です。例えどのような理由があろうと、見逃す訳には参りません。―――ご同行願います。どうぞ無駄な抵抗は致しませぬよう、よろしくお願いします」

 

兵士たちは丁寧に言うと、夜の闇の中で刃先をこちらに向けて淡々とした態度で、我らの反応を待っていた。私はそんな彼らの規律違反者に対する敵対の態度に、この善性を基本の軸とする世界においてもきちんと法が敷かれ機能しているのだという証明を見つけて、なんとも場違いなことに、頼もしさを感じていた。

 

―――さて、どうなることやら

 

私は両手にはめられた手錠の感触を確かめながら、せめて彼らの無実だけでも証明してやらねばならぬと思い、空を眺めた。天に近い場所に輝く夜空は、雲一つなくなっている。そうして浮かぶ月だけが目立つ夜空の向こうにエトリアの街の灯を見つけて、私はいつぞや彼女と共に駆け抜けた運命の夜を思い出す。

 

私は静かに物思いにふけるとともに、今だ騒動を知らぬ街は月が天の頂に達しないうちにこの度騒がしくなるだろうことを予測して、私は、如何にすれば冒険者の元締めたる彼に無謬性のある説明ができるかと、疲労の溜まった頭を働かせるはめになった。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

 

終了




原作のエミヤの能力を超えた出来事を起こしました。どうぞご容赦ください。

また、私事の問題ではございますが、完成を急がねばならぬ理由が出来てしまいましたので、時間の尽きぬうちに、ちと急ぎ足で駆け抜けたいと思います。

伴いまして、ミス誤字等の修正につきましては、余程の破綻がなければ、最後まで進めたのち、時間が許した際、改めて行いたいと思います。

申し訳ありません。


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第十四話 文化は違えども、人の悩みは変わる事なく

事前に解説と謝罪しておかねばならぬと思ったので、記載いたします。

本話に置きましては、特に非難轟々となる部分であると思います。なぜなら、エミヤがオリキャラと会話を行い、彼の思考のあり方を変わる場面が出てくるからです。

クロスオーバ-という話の特性上、どうしても違う作品同士の文化の違いによる常識の齟齬から衝突させ、相互理解を深め、話を進める要素としていく必要があると個人的には考えております。

本話に置きましては、違う作品同士のキャラをぶつけて思いを明かしあうという点が、原作キャラにオリキャラをぶつけて、オリジナル設定をぶつけ、そのうえで原作キャラが己の間違いを認めるという、愚かしい所業をやらかしております。

メアリースーがひどいし、原作のイメージが崩れるのが怖いので、正直、やりたくなかったのですが、エミヤという存在がこの作品に置きまして、世界樹の世界に馴染み生きてゆくための処置ですので、どうぞご勘弁ください。



第十四話 文化は違えども、人の悩みは変わる事なく

 

莫逆、水魚、刎頚、断琴、心腹、管鮑。

相手の信頼を欲するなら、曝け出し、尊重し合うことが必要だ。

 

 

薬品の匂いが満ちる治療の場は、闘争を禁ずる静寂の法則が敷かれているにもかかわらず、剣呑な気配に満ちていた。治癒の施された一人の患者を見守る四人の男の周囲を、武装した兵士が囲んでおり、一切の無駄な会話と余計な行動を許容しないだろうことが見て取れる。

 

さて、咎人を閉じ込め尋問を行うには清潔にすぎる牢獄は、時代を私の生前の時代にまで遡れば、ジュネーブ条約は捕虜の項に記された思慮に則って作られた人道的な施設である、と、反戦意思に富んだ連中が賞賛したかもしれないが、もちろんそんな殺戮と闘争を常とする世界とは無縁の彼らが、有名無実な効力に等しかった法を気にしてこのような部屋を用意したわけではないのは、部屋の内外を隔てる扉と窓が余りにも薄いことからも明らかだ。

 

なんてことはない、長く平和の時代を謳歌したこの世界において、罪人をきちんと閉じ込めておく部屋はもはや無用、一昔前に改築され、今や存在していないが故、我々はこうして治療のための部屋に閉じ込められているに過ぎないのだ。

 

「やー、困りましたねぇ」

 

部屋の中央で左右に均等の数の衛兵に守護されたクーマの壮年の顔には、軽妙な口調とは裏腹に、困惑と混乱の様子がありありと浮かんでいた。我々の目の前に立つ彼は常とは異なり、部屋に着飾ってあった鎧兜を着込み、槍盾を装着した完全武装の状態で我々の前に立っており、両脇を彼と同様クラスの手練れが固め、こちらの一挙手一投足に注意を配っていた。

 

もし少しでも敵対的な態度を取れば、即座に取り押さえる。兵士らのそうした毅然泰然とした防備に対する意識が露わな態度は、平時ならば賞賛に声をあげていたかもしれないが、いざ彼らの注視対象となった今では、少々鬱陶しい。いや、罪を犯した罪人に対して然るべき対応なので、文句のつけようないのではあるのだが。

 

「一応、規則なので、定型文で聞いておきます。なぜこんなことを? 」

 

クーマの問いかけに、男たちの視線が私に集中した。無意識の行動だったのだろう、三人は一人に責任を押し付けたかのような己の行動に、それぞれ居心地悪さを覚えたらしく、すぐさま視線を逸らしたが、彼はそれを見逃さなかった。

 

クーマの真剣な視線が私に投げかけられる。彼の目線の向かう先に気がついた衛兵達も私に鋭い視線を向けるようになり、我が身に降り注ぐ圧力は、より重いものへと変化した。

 

三人の態度より己に集中した疑問の視線を、けれど私は当然と思い、受け入れる。携帯磁軸を使った詳細な事情を知るのは、私だけであるからだ。彼らに非は、ない。あえていうなら、その手段を提案し、実行した罪はあるかもしれないが、そのきっかけとなったのは、私の言葉が原因だ。すなわち、こうして閉鎖空間に隔離され、尋問にて責められるべきは、進んで法を破る指示を出した私だけなのだ。

 

―――さて

 

向けられる監視の視線に、私は己の知る真実の情報を言うべきかどうか瞬間だけ悩んだが、もしこのまま口を閉ざしていた場合、私を信じて行動を起こし、拘束の扱いを受けている彼らが謂れなき罪により罰せられるだろう事を嫌って、話す決意をした。

 

「わかったよ、クーマ、話そう。だが事情は、例の件にも関している」

「――――――いいでしょう」

 

私の口調と態度から、内容が魔のモノ関連である事を察ってくれたのだろう、クーマはハンドサインで周囲に指示を出し、屈強な兵士たちに部屋の外で待機するように指示を出した。

 

兵士たちはその、犯罪者の意見を素直に受け入れ、司令官を守りもない状態で対面させろ、と言う指示が出た事に驚愕し戸惑ったのか、少しばかり困惑に身を揺らしたが、やがて彼を疑った事実を自戒したのか真剣な表情へと変化させた上、恭しく礼をクーマに返すと、大きな体躯で小さな扉をくぐり抜けて外へ出ていった。

 

私は彼らが理不尽を含む命令であるにもかかわらず、文句一つ言わずに従う様に、クーマという男に対しての絶対の信頼を見つけるとともに、整然とした身のこなしに弛まぬ練兵の証を見つけて、小さく感心の吐息をついた。

 

クーマは彼らが出て行ったのを確認すると、己も扉の外へと顔を出し、部屋の入り口の両脇を抱える彼らに他言無用の指示を出した。流石に見張りまで退去させることができなかったが故の処置なのか、あるいは、見張りの彼らは事情を知る相手なのかもしれない。

 

彼らから了承の意を含む鎧兜が擦れる金属音が静かな空間に響き、遅れて承知の返答が返ってくる。クーマは満足そうに頷くと、扉を閉めて、わざわざ鍵までをかけて、振り返ると、笑って言った。

 

「さて、では、詳しい事情を聞かせてもらいましょうか」

 

 

魔のモノの成り立ちから、言峰綺礼という男のあれこれ、魔術のなんたるかまでを予測含めて、知る限りの知識を一切合切話し終えた私は、全てを話し終えた際、大きく息を吸い込んだ後、長い安堵のため息を吐いた。一人で抱え続けてきた重荷を下ろせた事で、多少心持ちが軽くなったのだ。

 

「―――事情はわかりました」

 

私とは逆に余計な重荷を背負い込んでしまったクーマは、しわを寄せた目元を揉みほぐしながらなんとかその一言を吐き出した。

 

重苦しい吐息は、今話した荒唐無稽の内容をどうにか理解してやろうと言う気概から生じる思考が、しかし、如何にもこうにも彼の知る常識からすれば内容があまりに非現実的すぎて、完全な理解と受け入れを拒む脳みそにて沸騰し、その蒸気が漏れているようだと感じる。

 

熱の吐息に誘引されるよう視線を周囲に移してみれば、仲間の四人のうち、戦闘後より眠りについている彼女は別として、一人は椅子に背を預けて小さな頭を抱え天井を向き、一人は長身の体を小さく纏めた状態で前かがみ気味の姿勢で両の太ももに置いた両腕で顎を支えて地面に視線の向け、一人は静かに瞑目したまま自然体の状態で唇を緩ませていた。

 

前者男二人の方は、おそらく必死の理解を試みているのだろう事が、お手上げの見本のような姿勢から見て取れる。そんな二人とは別に、後者の一人は今の話の内容を聞いて心を躍らせたようだった。体全身から溢れる喜びが抑えてきれていないのが、上向きの三日月に形成さられた口角と、小刻みに揺れる体の様子から見て取れる。

 

おそらく、彼の閉じた柳眉の奥にある脳内では、今しがた私が話した過去の物語を忘れぬよう、何度も反芻しているのだろう。きっとそのうち装飾をして、寝物語や詩吟の題材にでもするつもりなのだ。いやはやなんとも呑気と言うか、豪胆というか、独特な感性と性格をした男である。

 

「―――それで、君は法を破った私に対してどんな判断を下すつもりだ? 」

 

私は彼らの様子を尻目に、クーマへと己の罪状を問うた。彼はしばらくの間、瞑目したまま手を、額に、後頭部に、顎に、頬に、せわしなく移しつつ、頭の居場所を定めないまま懊悩を隠そうともせずに深く考え込む様子を見せていたが、やがてようやく結論を出す事を決めたようで、一つ大きく頷いて見せると、吸って肺の中を一杯に満たし、吐き出した。

 

結論に達するまでに削ぎ落とされた思考の余分が漏れていくかのように、月明かりに照らされた室内の地面へと吐息が落ちて、吸い込まれてゆく。やがて吐息の行方が不明になる頃、彼はもう一度、今度は静かに首を振ると、瞼を開けてこちらを向いた。

 

「―――、事情は、確かに伺いました。また、聞かせていただいた話にあった、伝承に則らねば倒せないという敵の特徴からは、あなたが違反をしてでも大地を破壊し、転移装置で敵を地上へと送らねば倒せなかったと判断した理由も理解できます。エミヤという男がくだらない嘘をつくようなタイプでないことは承知していますし、光を浴びて悶え苦しんだようだ、との衛兵からの報告もありますゆえ、おそらくその話も真実なのでしょう。―――ですが、何があろうと、貴方達は多くの人の前で重大な規約違反を行いました。この事実はどうあがいても、覆す事が出来ませんし、これを見過ごす訳にはいきません」

 

なるほど、彼の言い分は一々最もだ。なんと言い繕おうと、違反は違反。法の多少の弛みを見逃すは日常を楽しく生きるための清涼剤になるかも知れないが、かといって街やそこに住む人達の重大と呼ばれる不法を疎かにすれば、その先にあるのは荒廃した世の中だ。

 

最低限守るべき法があり、良心を持った人々がそれを遵守するからこそ、その場所に住む人々は緩い縛りの中で安寧の時を謳歌できるのだ。かつての世にはついぞ存在し得なかった平和という絵空事に過ぎぬ空想を求め、生前は正義の味方を目指すものとして、死後は英霊として戦場を駆け抜けた私は、クーマという男の判断を間違っていないと考える。

 

「―――天井だけなら戦いの余波で生じた意図せぬものであった、などとでも言い繕えたかもしれませんが、転移装置を用いての、無断での生きた魔物の転移は、明らかに意識しなければ出来ない所業であり、また、結果の目撃者が多数います。しかも、転移した相手は番人です。可能性は低いと思いますが、この案件を放置すれば、いつか、同様の掟破りによって、地上の衛兵や冒険者達に被害が出るかも知れません。あるいは、街の住人にまで被害が及ぶかも知れない。私はなんとしてでもそれを避けねばなりません。……ですから、エミヤさん。と、異邦人の皆さん。申し訳ありませんが、私はあなた達を―――」

 

歯の上下を合わせて左右に大きく伸びた唇が次の言葉を発する前に、彼は歯を噛み締めて、口は固く結んだ。そして少しばかりモゴモゴと口を動かした後、咳払いをして改めて述べる。

 

「追放しなくてはなりません」

 

さて、そこで私だけの罪でなく、異邦人の彼らをも巻き込んで罪状を宣言したのは、あるいは、罪科の責任を分散させる事により、私の罪を少しでも軽くしようとする、クーマという男の優しさのなのであろう。

 

また、先程の口籠もりの際、「い」に属する言葉を発しかけた口の動きと、今しがた発せられた追放という言葉から察するに、おそらく本来、言葉は、処断とか、処分とか、処刑とかの、命を奪う罰則に関するものだったのではないかと予想した。

 

おそらく、私―――否、我らの罪科をエトリアの法に照らし合わせた時、罪人の命の摘み取りが最も適当な罰であると無意識のうちに理性は弾き出したが、その理性が言葉となりて世に生まれ、もはや後戻り出来なくなる寸前で、彼は感情の力を使って、それを腹の中に収め、直前で己の結論を、民衆が納得するであろう範囲で変換したのだ。

 

しかしそれでも、追放という、常日頃は使用する機会もそうそうないだろう言葉を発するのはよほど重圧だったと見える。胸の裡の真意を語らない彼だが、唇を食み、目線を泳がさぬようあえて強固にこちらを見つめる眼差しからは、為政者として初めて下す判断故の戸惑いと、知り合いを裁かねばならぬ苦渋と、しかし街を守るものとして引けぬという確固たる決意が映っていて、追放の宣告が本心から生じた発言でないという事が見て取れた。

 

「―――、そうか」

 

私は彼の様子を眺め、ひどく不憫に思った。同時に、彼に対し、罪悪感を抱く。彼が本来ならそのような判断を下したくないのだということは、その所作から十分すぎるほどに読み取れた。彼は今、真実と現実の、個人の判断と街の守護者としての立場を天秤にのせて出した結論に、どうにか折り合いをつけようと必至に悩んでいる。

 

彼は、私の語った内容が真実と理解し、私たちが違反せざるを得なかった理由は納得できているけれど、その、魔のモノという存在を前提にした内容を現実に生きる街の住人に語るわけにいかないという事実のため、私たちを罰せざるを得ないという状況に苦しんでいる。

 

法の番人ではあるけれど、法が他人を害するようならば、多少のお目溢しは構わないだろうと考え、そして実際に委細問題なきようなら迷わず実行する、裁きの天秤の秤に悪意という錘が乗っていなければ、針が善の側に傾くよう調整してある、彼という善人らしいと悩み方だと、私は思う。

 

「それで、エトリアからどこのあたりに追放されるのですか? なるべくなら、刺激に満ちた場所であれば嬉しいのですがねぇ」

 

クーマの懊悩を推測していると、ピエールの涼やかな声が夜の闇を割いて静かな部屋に響いた。皆の視線が彼の元へと集中する。彼は集まった熱に反応して反射的に楽器を鳴らそうとし、しかし指先が空を切った事からようやく竪琴を取り上げられている事実を思い出したらしく、少しばかり不服そうな顔を浮かべた。

 

「―――そうか……」

 

ピエールの茶々からクーマは何かを思いついたらしく、暗澹の顔に歓喜の色を取り戻した悲喜半々ほどの複雑な顔で、己の発見を喜んでいた。

 

「何か名案でも? 」

 

すると彼は悲喜交々の表情の中にさらに真剣味を加えて、静かに口を開いた。

 

「―――、ええ、一応。まぁあくまで、私にとって利のある提案、でしかないのですが」

「……聞かせてもらおうか」

「では。―――皆さん。執政院冒険者担当政務官クーマは、貴方達の追放場所を、新迷宮の五層に致したいと思います」

「―――は? 」

 

彼の言葉に間抜けな声を出したのは誰だったのか。私は彼の言った言葉をすぐさま咀嚼し終えると、疑念と抗議の視線とともに、言葉を送る。

 

「君は馬鹿か? 」

「おや、手厳しい」

 

悪辣な批評に対して、クーマはしかし先程とは一転して飄々とした態度で、笑っていた。

 

「いや、元の上役に言うのもなんだが、エミヤの言う通りだ。罰というは、本人に厚生の機会を与え、犯した罪の反省を促し、同時に、周囲の人間には、法を破った場合に己の身に降りかかる被害を示し、再発の事態を防ぐ事を目的とするものだろう? ならば、法を破った冒険者を、違反したその場所へただ送り込むだけの処置を、罰則と呼べるかは甚だ疑問であるし、無理があるんじゃないか? 」

 

そのクーマに私と同じような感想を述べたのは、ダリだ。実直と不器用を形にしたかのような男は、やはり法というものに対してはどこまでも誠実なようで、先のクーマの提案の問題点を指摘した。己を裁くものに対して物怖じせぬその態度は見事なものだと思う。

 

「ええ、確かに、ただ迷宮に送り込むだけの処置なら追放、ということにはならないでしょう。ですから、こうします。―――アリアドネの糸を取り上げ、転移装置の携帯を禁じ、樹海磁軸の使用を禁じ、その上で五層に追放し、さらには樹海磁軸を用いてのエトリアへの帰還も禁止します。もし仮に戻ってきた場合は、申し訳ありませんが、即刻、追放より重き厳格たる処置を取らせていただきたいと思います」

「―――なるほど、事実上の死刑宣告か」

「ええ、そう受け取っていただいて間違いありません。ただし―――、迷宮の奥にて五層を攻略した場合、すなわち魔のモノを封印した場合、報告のため、一時的に帰還の制限は無視して構いませんし、磁軸の使用をしてもらって構いません。また、その折に攻略の事実が確認できれば、つきましては情状酌量も考慮致しましょう」

 

告げられた条件を聞いて、私は彼が我々に何を求めているのかを悟る。なるほど回りくどいが、彼の望みは、先日の対談の時と初対面の頃と何一つ変わっていないというわけだ。

 

「なるほど、せっかくの戦力だ。どのみちどこかへと放たねばならぬなら、ついでに敵の心の臓を貫く鉄砲玉に仕立て上げてしまおうというわけか」

「まぁ、早い話がそうなりますねぇ。私としては、撃てば戻ってこない弾丸ではなく、貴方達には、是非、ザミエルのようになってほしいと思っているわけですが」

「と言うことは、親玉を倒せば、自らの胸を貫く必要もなく、使い捨てにならずに済むと? 」

「いえ、別に倒さなくとも、魔のモノを封じてくださるだけで構わないのです」

 

ピエールが割り込んで尋ねると、クーマは苦笑しつつも頷いた。そうして私の例えに得心の様子を見せる二人とは別に、視界の端でダリとサガが、会話の意味を理解しかねて、首を傾げるのが見えた。そうして彼らは小声で何かを話し合う。

 

さて何が彼らに秘密の囁きをしようと言うきっかけを生んだのかと聞き耳を立てると、どうやら鉄砲玉、ザミエル、と言う例えの意味がわからないのを恥と思ったらしい。なるほど、そういえば銃という概念はこの世界では珍しく、また、遠き過去の物語を知る者も少ないのだ、ということを今更ながらに思い出す。

 

おそらくその概念に纏わる人物の逸話と伝承をクーマとピエールが知っているのは、クーマは過去のことを詳細に収集している人物だ彼だからであり、ピエールは吟遊詩人という過去の物語を収集する人物だからであろう。

 

なるほど、本来ならこう言った点にも気遣いながら、日々、徐々に常識の擦り合わせをしていくべきだったのだ、と、文化の差異と擦り合わせる事に鈍感かつ無頓着であった己の醜態に気付き、軽く苦笑する。

 

いやはや、迷宮を攻略し、死病を無くすために宿と施薬院と執政院、道具屋と迷宮の五つを往来するだけの日々を過ごした代償とはいえ、こうも世間知らずの状態に陥っている事に今更気付かされるとは思わなんだ。

 

かつては魔術を使えぬ人間はご同類でないと見下し、隠遁と隔絶の生活を基本とした傲慢な魔術師を笑えもしない、我ながらなんとも大した世捨て人っぷりではないか。

 

「―――それで、如何でしょうか? 」

 

クーマはその強制追放令を、まるで提案であるかのように、こちらの意思を問うてくる。いやきっと、真実彼は、こちらの意思を確かめようとしているのだ。おそらく、ここで否と返答すれば、彼は単なる国外への追放令に、その命令内容を変更するに違いない。

 

そこで、クーマという人間が門番などの衛兵たちの間で好かれている理由が理解できた気がした。どちらかといえば机上にて最大の人間を救うために最小の人間を切り捨てる判断を机上にてあっさりと下す司令官ではなく、目の前にいる全てを救うために思考し、行動し、対応してやろうと苦慮する、現場の下士官にいるタイプ。

 

彼のその夢見がちな性質は位の高い役職に向いていないだろうが、どうにかして目の前にいる人間の事情を汲み取って、出来る限り全ての人に助力や救済の手を差し伸べてやろうとする態度は、それこそかつて、全ての困っている人に手を差し伸べる正義の味方というものを目指した私の目には好ましく見えた。

 

だが。

 

「ダリの言った通り、ルールを破った罪にしては罰の方向性が少々ずれている気がするが、本当に、それで君はいいんだな? 万が一の事が起きた際、その責任を取る覚悟があるのだな? 」

 

仮にも住人の生命や財産を脅かす行動をとった罪人に対する罪に対する罰としては、再犯防止のための思考の矯正や行動の制限といった処置を含まない帰還の条件が、やはり少々的を外れている罰則で、エトリアの秩序と平和を保つためには緩すぎる。

 

問いかけると、は続く無言の中に、私の知る過去の常識に則った抗議の意思をこめて疑問を呈すると、彼は、にこりと笑って、彼は迷わず返答する。

 

「ええ、勿論です」

 

短くも断固とした不退転を示す言葉は、為政者が法を破る態度にしてはあまりに勢いが良すぎて、思わずまじまじと見つめてしまう。

 

「―――昔のことです」

 

彼はそして、私が視線に込めていた正気を問答する意思を受け止めて苦笑いを浮かべると、ため息を一つ吐いて独白を始めた。

 

「かつて私の前任者は長きにわたって、いわゆるヴィズル式で冒険者たちのまとめ役の職務を執行しておりました。つまりは法を犯した人間はいかなる理由があろうと処断する、簡単に言ってしまえば、法を人の上に置く主義の人間でした。……、あまり詳しくはお話しできませんが、当時、エトリアの住人であった私の両親は、そうして情を挟まない、一切の情状酌量をしない彼の判断により、二人ともに亡くなりました」

 

両親の死を語る彼の口調は淡々としていて、感情を努めて込めないようにしているように見受けられた。つまり―――、彼は、この世界の人間にしては珍しく、己の過去に起きた出来事に対して負の感情を抱いき続けている人間なのだ。

 

しかし、かつて響達の言っていた言葉を思い返すに、彼は同時にその出来事に対して好意的な感情を抱いているという事にもなる。両親の死をもたらしたという事実のいったいどこにそんな感情を抱く余地があるというのか。

 

「それで、その事が気に食わず、意趣返しのために今回の判断を? 」

 

はしたなくも彼に対する興味がむくりと湧いた私は、思わず聞き返した。

 

「―――、ああ、ええと、すみません。今の言い方ですと、前任者を乏して、そのように言っているように聞こえましたか。―――いえ、違います。こう言っては薄情に聞こえるかもしれませんが、私は別に彼のことを嫌っていたり、その判断を間違っていたなどとは思っていません。……まぁ、両親の死についてはもちろん、残念だったとは思っていますが」

「――――――」

 

予想外の返事に戸惑う。少し拍子抜けした気分をも味わった。

 

「ええ、ですが、やはりあの時の彼が下した判断が間違っていたと、私は思っていません。ただ、結果として、法をきちんと遵守した結果、私の両親が死んだという結果だけが残った。それだけのことなのです。前任者の方は、法を至上とすることでエトリアと街の人々を守ろうとし、しかし完全な守護を達成する事は叶いませんでした。彼はそのことで悩んでいました。そして、己の悩みが消える事実にもまた、悩んでいました」

 

彼は虚空を見つめて目を細めた。そうして過ぎ去りし昔の時を思い出す彼の瞳には、過去の出来事を愛おしく懐かしむ念だけが秘められていて、クーマが、その両親の死の原因となった前任者に対して負の感情を抱くどころか、敬意を抱いている事を、私は確かと理解する。

 

「日を跨いだ際には消えてしまうそんな後悔と反省の思いを、しかしなんとかもちこそうと、その日の心情と進捗を日記に毎日つけて読み返し、どうにか街を今より良くしようとしていました。彼は本当に必死で、法と職務に忠実で、またエトリアという街を愛した男でした。そんな彼の姿を見てきた私が、どうして、彼のことを憎いと思えるものですか。誰がいい悪いとかでなく、ただ、誰もが正しくあろうとした結果、不幸な事が起こったというだけの話なのです。―――そして、だから、私は、少しだけやり方を変えることにしたのです」

 

彼は瞑目すると、我らの方へと背を向けて、入り口扉の上に頭を向ける。彼の言葉を遮るものは誰一人としていなかった。私情を語り、思想の変遷に対して余計を挟まない思慮分別を持ち合わせた者達の思い遣りが、牢獄となった白き部屋を柔和さで満たして、居心地の良い空間へと変遷させていた。

 

「およそ完全とは程遠い人間が変化を当然とする世界で生きてゆく以上、心に、体に、傷を負うことは避けては通れません。掌に掬った水はどれだけきつく力を込めようが、やがて指の隙間より幾分か溢れて落ちゆく定めにあるように、どれだけ正しくあろうと人を締め付けても、過ちは思わぬところから起こってしまうものなのです。しかもそんな場合に限って、当事者たちにとって、まともな手段では手遅れな事情が絡んでいたりするのです」

 

今のあなた達のようにね、と彼は笑う。私はその寂寞を含んだその笑みに、同病者を憐れむ感情を見つけて、おそらくそれは、彼が言っていた両親の件があったらこその情けなのだろうと思った。ならばきっと、この独白は我らに対する説得でなく、彼自身が懊悩する己を納得させるための羅列なのだ。

 

彼は今、私たちの事情の中に過去の己の無力の嘆きを見つけ、そんな我らを救うことによって過去の己を救えると思っているのか、必死になって我らを救う理由と理屈を見つけ、個人と為政者の立場の間に手迷う己が納得いくような結論を得ようとして、言葉を重ねている。

 

故に私は何も言わない、答えない。悟りの境地に至るのに他人の言葉は無用のものだからだ。

 

「そんな、本人たちの意思に関係なく起こってしまった出来事を、悪意なんて介在しない出来事をわざわざ裁くなんて、馬鹿らしいじゃないですか。だって、この世界においては、心身共に早々大抵のことは取り返しがつくのです。例えば肉体が損失するような怪我だって、ハイラガードに存在する高度な医療施設を利用したり、あるいは、アーモロードに多く住まうアンドロという彼らの手を借りることができれば、今まで以上の力を持った機械の肉体を手に入れることもできます。心的な傷だって、意識しなければ基本的にはその日のうちに消えてしまうのです。そう、ですから、大抵の出来事は、この世界においては、完全でないけれど、完全といえるほど取り返しのつく事なのです。そんな、取り返しのつく事にいちいち目くじらを立てて、街を守るためとはいえ、雁字搦めに他者の定めた理屈を強要して誰かを不幸にするというのは、いかにも真面目過ぎて、愚かしくて、好ましくない」

 

長くて紡がれた言葉には、今までで一番の力強さがあった。きっとそれが彼の本心からの思いなのだ。彼は他者の定めた法によって、両親を失った。今の話の内容から察するに、その前任者が法に基づいて下した判断はたしかに正しくて、また、彼の両親は法を破らざるを得ない理由をなにか抱えていたのだろう。

 

そして、結果、望まぬ事に、彼はエトリアに敷かれている法によって両親を失った。それは、街と街に住む人を守るために正義を執行した結果と理解はしているけれど、しかしだからといってそんな理外の事態に弱い普遍の正義を信奉しすぎる事によって生じる犠牲を良しとしておらず、嫌っている。

 

だからこそ彼は、多少の横紙破りを許容し、他者を出来る限り拾い上げようとする人間になったのだろう。

 

「―――、ん、んんッ、失礼しました」

 

彼の独白から彼という人物の背景と性格を推し量っていると、彼はようやく己の話が本筋から脱線して、己の判断に対する言い訳になっている現状に気がついたようで、熱弁に込められていた想いを発散させてやるべく二度ほど大きくわざとらしく咳払いすると、襟首を正して場を仕切り直す。

 

「ええと、何のお話だったのか……、ああそうです。罰が本来の意図とずれているかもという話でしたね。―――、ええ、構いません。別に構わないのですよ」

「それはなぜ? 」

 

今度こそ脱線せぬように、疑問にて話しを継いでやると、意図を汲み取ったのか、彼は赤面を誰もが好ましいと思うような微笑みに塗り替えて、続けた。

 

「……、エミヤ。我々は森羅万象と共存し生きる人間なのです。自然と、誰かと、共に生きることを決めた私たちは、そして自然のエネルギーというものを自己生産する事が可能となった私たちは、その生業経済の余剰で市場経済を行なっているに過ぎないのです。先に言った通り、元通りにならないものは殆どない。だから余計なものを溜め込まないし、そしてまた、魔のモノによってではありますが、負の感情を溜め込めない特性を持つ。この世界に住む全ての人にとって―――もちろん個人の感性や街の文化によって行動や物品に多少の価値の差異と大小こそありますが―――、起きた出来事によって生じた損失を補填できないような代替不可能は、命以外に、ほとんどないのです」

「―――だから、法を犯したとして、その行為が悪意や害意のうちに行われたものでないのならば、等しく厚生の機会を与え、反省を促し、損失したエネルギーによって崩れた天秤の釣り合いを、別の代価にて補填させる事によって、その罪を赦すべきである、と」

 

罪には罰を。しかして、取り返しのつかないことが少ないこの世界、咎人がその事実を大いに大いに反省し、その後、犯した罪に見合うだけの功を積み上げたのなら、その時は彼らを赦して受け入れるべしというのが、彼の信ずる正義のあり方というわけだ。

 

「はい。ですから、貴方たちの天井の破壊行為や、無許可での携帯転移装置利用というもの

は、たしかに意図的に行われた重罪ではありますが、とはいえそうせざるを得ないだけの事情はありましたし、故に同じくらいの功労でかき消すことの出来るものでもあると私は判断しました。幸いな事に取り返しのつかない犠牲も出ていません。であれば、貴方がたが、もし追放された先で、魔のモノの拡大、すなわち赤死病の拡大という問題を解決し、迷宮で謎とされているものを解明してくださるなら、間違いなくエトリアの住人は貴方がたを再び受け入れるでしょう。―――いや、まぁ、魔のモノ云々の真実の部分は、もちろん隠さなくてはならないのですが」

 

なるほど、財と資本に基づく威信社会というよりは、原始的な豊かさを前提とベースにした世界。だからこそ、あらゆる行動は平等の天秤の重りとして釣り合う価値を持ち、例えば此度の場合だと、生存を脅かした罪は、生存を脅かしているものを排除する事で、功罪の等価交換が成立するという事か。

 

「―――改めて、いかがでしょうか」

 

そうして司法取引を持ちかけてくる彼の顔を見つめる。真剣を態度には私がどう答えようと、己の信念は曲げぬし、なんという返答であろうと恨まぬという清々しさがあった。

 

その清涼の心意気に愉快の念を感じてさらに踏み込んでその瞳を見つめると、しかしその長閑な瞳の奥に多少の暗い寒星の如きものが混じっていることに気が付ける。それはかつてこの世界にくる以前、その感情を己の身に宿し続けていた私だからこそ気が付けるほど小さなものだった。

 

その感情の名前は憎悪と執着と後悔だった。おそらく、憎悪の感情は、彼が必死に抱え込んでいる前任者に対する鬱屈としたものより生じたもので、残りは、しかし彼の責任ではないと理解しているが故に生まれた、御しきれぬ己に対する怒りより生じたものなのだろう。

 

かつての世で多くの人の原動力となった感情は、やはりこの負の感情の貯蓄が難しい世界においても、その、小さな量でも人を大きく動かし頑固にする特性は健在のようである。

 

そうして清濁合わさった、しかし矛盾した必死の想いを抱え続けた結果こそが、彼の頑なさの源なのかと私は納得した。ならばもはや、これ以上の詮索は野暮というものであり、その必死から導き出された彼の提案に答えぬは無情が過ぎるというものだ。

 

私はもはや彼の提案を受けることを腹に決めていた。ただ一つだけ、聞いておきたい事がある。それは―――

 

「クーマ。もし仮に、私が断ったのならば、君はどうするのかね? 」

「―――べつに、どうもしませんよ。残念だなと思いながら、あなた方をエトリアから追放するだけです。その場合、おそらく二度と会う事は叶わないでしょう……」

 

彼はこともなさげ、そして寂しげに言った。

 

「魔のモノを封じる必要があるのだろう?」

「ええ。ですが、だからと言って人に無理を強いてまでやっていただこうとは思いません」

 

やはり彼は為政者の長たるに向かぬ性格だ。彼のその甘きところはいつか彼に後悔の事態を招きかねない。余計なお世話とはわかっていながらも、私は犠牲に対して甘い見通しを持つ彼の性分に対して、ついつい口を出してしまう。

 

「なぜだ? それをせねば、人が多く死ぬのだろう? 解決を望める人材がいるのであれば、多少強引にでも実効を要するのが正しい判断だと思うが」

「ええ。ですが、だからといって相手の意思を尊重せずに無理を強いて死地に追いやるというのなら、そんなもの、死病の残酷さと何一つ変わらないじゃないですか」

「その果てにあるのが滅びであっても、君たちは受け入れるというのか? 否、君は、君だけの判断で、エトリアという土地が滅びゆくのを良しとしようと考えているのか?」

「いえ、もちろん、そんなことは考えていませんよ。断られた場合は、私たちが直接足を運んで、封印の作業に取り掛かるまでです。もちろん、我々はあなたやあなた方よりも力がありませんから、成功の確率は低いでしょうし、かといって迷宮の特性上、人海戦術はかないませんから、戦力の逐次投入する愚を繰り返すこととなりかもですが、まぁ、潜入と撤退を繰り返して情報を集めるうちに、成功するでしょう」

「もう一度聞く。多くの犠牲が出るかもという愚行に頼らなければならぬを自覚していながら、なぜそれを覆せる力に強いようと、利用して頼ろうとしない」

「もう一度同じことを言います。強いるのでは意味がないからです。大義とか使命とか、そういう他人の事情を理由にして履行される行動は、成功するにしろ、失敗するにしろ、結果を与える側にも、与えられる側にも、言い訳の余地を残します。だからダメなのです」

「それは強者の理屈だ。大抵の人はそこまで辿り着く前に諦める」

「ええ、かもしれません。ですが、この世界では、望めば、誰もが強者足り得るのです。そこに至る苦痛の大半はその日のうちに消滅する。己の世界を変えたいと貪欲に願い、至誠に力を尽くせば、誰だって好きなように生き、やがて満足のうちに死んでゆける―――、誰か知り合いにそんな人がいた覚えはありませんか?」

「―――」

 

クーマの言葉に、かつて自分勝手に生きた結果として、我らを守り、死んでいった男のことを思い出した。彼は様々なものを抱えながら邁進し、そして笑いながら死んでいった。もし果てにあるのが避け得ぬ死の未来だとしても、あるいは彼らもそのように満足の感情のうちに冥府へと旅立てるのだろうか。

 

―――いかん、呑まれるな

 

この問答に明確な回答はない。他書の事情を汲み、己の正義を押し付ける事なく、その上で交渉に臨む高潔な態度は人として尊敬出来る態度であるが、彼は学習と経験からか、彼は、頑ななまでに、己の出した答えは他者にも適応できる事を正義であると信じている。

 

その無気力や諦観とは異なるものより生じた絶対の強固さは、もはや信仰といっても過言でない。楽観を極めた果ての妄信は破滅を招きかねない。万人に適応する正義などありえないのだが、おそらく彼はまだ、己と属性の異なる正義の衝突により致命的な失敗をした経験がいないのだ。いや、もしくはしているからこそ、こうも強固な態度をとるのかもしれない。

 

ともあれ、目の前にいる彼は、私らが提案を拒否した場合、間違いなく、先の宣言通りの事を実行する。そして犠牲を厭うことなくやり遂げるか、あるいは、失敗するだろう。

 

―――これは断れんな

 

「私は構わないが―――」

 

言って、仲間三人の方を向く。元々は私の無茶な提案に素直に従ってくれたが所以の、追放令だ。仲間の暴走を止められなかった点は罪に値する部分もあるかも知れぬが、だからといって、私に付き合い、この世界おいて唯一代償の効かない命というものを投げ出すような真似をする必要はない―――

 

「もちろん俺も、いくぜ! 」

「それが罰というなら、粛々とこなすだけのことだ」

「ま、未知の刺激があるのですから、引くという選択肢はありませんよねぇ」

 

が、そうして私に付き合わされただけの彼らは、なんの迷いもなく死地への旅路のチケットを受け取って見せた。おそらく三者三様の信念や正義に基づいただけの考えがあるのだろうことが、それぞれの表情から伺える。

 

以前までの私なら、その判断を誤った物だと決めつけ、引き止めるために言葉を尽くそうとしたのだろうが、今の私はそんな無粋をしようという気にはならなかった。彼らには彼らの意思があって、彼らは己の意思で道を選んだのだ。ならば、そこにケチをつけると言葉は、それだけで彼らの決意を汚す醜悪になる。

 

ただ、三人のそうした迷いの判断にどうにか報いたいと考えた私は、瞼を閉じて、静かに会釈した。一瞬の礼の後、瞼を開けて、再び月とランプの灯火が照りつける室内に視界を戻すと、三人はどこまでも自然体で、私の方を見て、やはりそれぞれ固有の笑みを見せていた。

 

「まったく、揃いも揃って馬鹿ばかりだな」

 

彼らの返礼に、私らしく皮肉げな笑みと言葉を返して。

 

「―――そして、もちろん私もいきます」

 

そんな私の言葉に遅れて聞こえた声に、我々は視線を部屋の中央に置かれたベッドの上へと移し、十の眼が寝台の上で上半身を起こした少女を捉えた。

 

「……、しかし、君は―――」

 

ダリがそこまで言って、言葉を詰まらせた。彼の言わんとしていることは、なんとなくわかる。おそらく彼は、先程私が葛藤したように、己らの我儘に他者を死地へと付き合わせたくないのだ。しかし今、そんな無垢たる存在である彼女は、自らたちと同罪である彼女は、そんな選択を許される立場にないし、また、待機を強要できる謂れもない。

 

できることなら、平和と言える場所で安穏としていてほしい。だが、そんな事を言える立場でないし、状況でもない。その相反する思いが彼の思いを、続く言葉ごと取り上げているのだろう。

 

「大丈夫です。私、これでも覚悟できてますし、ご存知の通り、そこそこ強いですから」

「―――そうか」

 

去勢ではない言葉に、彼は黙り込む。ダリの思いやりはしかし、単にそれだけの所作だと、このように力不足を懸念しての口籠もりだと勘違いされてしまうだろうと思えた。いっそ思いの丈をそのまま言うか、あるいは素直に釈明の言葉を吐いてしまえば勘違いもなくなるだろうに、なんとも不器用な男である。

 

―――まぁ、生前他者の理解を求めようとしなくなった私が言える台詞ではないか

 

結局、唯の一度も己の真意の理解を求めず、相互理解を諦めて処刑された私が言えた事ではないか、と内心自嘲する。そして私は、彼の代わりに断言した彼女の顔をもう一度だけ覗き込んだ。その瞳に少しでも躊躇の色があれば引き止めてやろうと思ったのだ。

 

「――――――」

 

だが、返答を待って無言を貫く彼女は、寝起きに体をふらつかせながらも、その小顔の中央上部の瞳はランプの炎を写したかのように、しっかりと希望の色に輝いていた。しかし暗がりの中、月明かりがによって照らし出された少女の姿には、この世界に生きる人間にしては珍しく、狂気の色が宿っている事にも気が付ける。

 

光の加減により紫がかっても見える顔色に、、私は一瞬、やはり彼女を引き止めるべきかと考えたが、忠告したところで彼女も追放の処置を受けることには変わらないわけであるし、こうして罪を彼女にまで被せてしまった私にどうこう言う資格はないかとも考え、やめた。

 

「―――では、全員の意見は一致ということでよろしいだろうか? 」

 

あるいは口を挟むだけ、彼女のその狂気を膨れ上がらせるだけかもしれぬ。故にこの判断は間違っていないのだと己に言い聞かせるように、他の仲間を見渡して、最後の意思確認をした。そうして、彼らが一斉に頷いたのを見届けると、私はクーマの方を向いて告げる。

 

「―――、というわけだ。その話、ありがたく受託させて頂こう」

「承知しました」

 

了承の返事にクーマは安堵のため息を吐くと、少しの時間だけ瞑目し、やがて言う。

 

「では準備が整い次第、早速追放の処置を実行させていただきたいと思います。―――貴方がたの装備の修理修復の作業と、道具の整理のため、本日この時より二日間の猶予を与えます。つまり追放の時は、明後日の今頃。準備が出来次第の出立となります。貴方がたの装備品はこちらで預かり、我々で整備を行う予定ですが、修繕におきまして懇意の場所があるようでしたら、おっしゃってくださればそちらに依頼することも考慮いたします。また、不足の道具があれば、一部を除いて出来る限るご用意しましょう。―――ああ、そうだ。衛兵に言ってくだされば、親しい人を呼び寄せることも可能ですが、如何致しましょうか? 」

 

共同体からの追放という、かつての時代であるなら死刑宣告にも等しいそれに似つかわしくない手当ての厚さと親切に、私たちは揃って苦笑すると、それぞれが願望を申し出るため、口を開く。

 

「―――そうだな」

 

各々が己の意見を述べる中、私は脳裏に一人の人物のことを思い浮かべて、目の前に彼へと要望を言う。やがてその願いが問題なく受け入れられたのを見て、私は重罪の刑を待つ囚人にはとても似つかわしくないような静かな笑みを浮かべて、満足の心地を得た。

 

 

クーマが去った後、再び解放されていた扉は閉ざされ、部屋には病人が休む場所に相応しい元の静けさが戻ってくる。しかしながら初夏を過ぎたこの時期、夜は寒さがあたりを支配する時刻とはいえ、先程までクーマが発散していた熱気も相まってか、部屋の中には暑風至る初候の雰囲気が満ちていた。

 

あたりに観察の視線を這わせてみれば、その服をはためかせたり、あるいは手扇にて体温を下げようと試みている人間が半数以上を占めているのを見つけて、熱気が私のみが感じたものでないことを確信すると、立ち上がる。

 

そうして部屋を横断し、換気を兼ねて窓を開けようとして、しかし固く閉ざされたはめ殺しの透明なガラスを見て、私はため息を吐いた。罪人の身分で牢獄の扉を開ける要請をできようもないわけであるし、どうやら部屋に満ちる温度を下げる願いは叶わないようだ。

 

「―――明後日かぁ」

 

部屋の温度に耐えかねてか、少しでも体内の熱を発散しようとしたのか、サガが湿度のこもった重苦しい短い言葉を発する。日時の経過だけを表すその言葉には、その間延びした吐息が消える迄に要した時間から、複雑様々な思いが秘められていることを私は感じとった。

 

「―――すまない」

「へっ? 」

「私の指示とミスでこんな事態なり、君たちを巻き込んでしまった」

「―――なんだよ、それ」

 

告げると彼は、途端、不機嫌の態度を露わに抗議の声をあげた。謝罪の意思に返ってきた思わぬ反応に、私はたじろいで、窓側に体を仰け反らせる。その折、外界との境となるガラスが体に触れて、この世界の住人である彼らと向き合う事から逃げるなと告げるように、私の体をその場に押し留めた。

 

「―――エミヤ、おまえさ。前から思っていたんだけど、傲慢すぎやしないか?」

「―――、……なぜ、そう思った 」

 

サガの忌憚のない非難の指摘に驚く。

 

「なんていうかうまく言えないけれど、お前、俺たちと目線が違いすぎるんだ。多分、お前が過去にいろんな経験して、沢山抱え込んできた分、視野が広くなっているんだろう。なんていうか、そうして広くを見つめて沢山のことが見えすぎてて足元の奴らのことが見えてない。今の俺たちと対等のところにいない。だって、そうじゃなきゃ、肩を並べて一緒に戦った奴に対して、俺だけの責任だなんて謝ったりはしないぞ」

「……いや、……いや、それは、違う、私が謝罪したのは、あくまで私の判断でやった行為の結果に君たちを巻き込んでしまったことであって―――」

「ああ、もう、だからそれが違うっていっているんだ! 」

 

サガは苛つきを露わに素手で頭を掻き毟ると、両の手で両足の膝頭を叩いて、叫んだ。

 

「お前が判断した結果、この結末になったのは、事実だ! 多分、もう少し時間をかけて戦略を練れば、もっと違った未来があったかもしれねぇ! でも、もうなっちまったんだ! お前がいけるって判断したことに、俺たちがのっかって、そんでもって、この結末になった! みんなで選んでお前にかけて、でもそうやって選んだ結果がこれなんだ! でもこれは、みんなで選んでの結末なんだ! お前だけの責任じゃない! お前はそうやって一人で何でもかんでも抱え込んじまおうとするけど、それは、俺たちの意思とかそういうのをまるきり無視して馬鹿にしているのと同じだっていうことに、なんで気がつかねぇ! 」

「――――――」

 

絶句。私は彼の叫びにようやく彼が何を言おうとしているのかを理解した。私は彼という存在を、彼らという存在をあまりに軽んじて扱っていた。

 

彼は私を肩を並べる相手として見てくれていたが、しかし今、告白により、私は彼らのことを、戦友というよりか、戦力として数えられるだけの便利な駒として扱っていた事実を知った。その齟齬が彼にとって耐え難かったのだ。

 

「だから視点が高すぎるっていうんだ! 大層な過去を持って馬鹿みたい強いスキルを使えるお前にとっちゃ俺たちは小さな存在かもしれないけど、だからといって、俺たちの失敗まで勝手に抱え込むな! それはお前だけのものじゃない! 俺たちはお前の人生の添え物じゃない! 俺らが、俺が、過去の感傷を持ちにくい人間だからって憐れむのは勝手だけど、だからといって、俺が考えて選択した事実まで勝手に抱え込んで、人生の一部を勝手に奪い取ってもらいたいとは思ってない! 俺から、俺の人生の大事を勝手に奪うな! お前のその謝罪は、俺にとって、お前なんか小さな奴だって馬鹿にされてるようで、ムカつくんだよ! 」

「――――――、私は……」

 

彼の叫びは、おそらく、私がこれまで正義の味方として活動し、勝手に救済を与えてきたかつての世界の人達の、そしてこの世界の人たちの代弁だったに違いない。小さな彼が身を必死に震わせて吐き出すその糾弾は、思い上がり増長していた私の体を叩きのめした。

 

人の命はかけがえのないもので、人の命が失われるということは、機会の損失に等しい。そして少なくとも私以外の人間は、多くの命を代償として生き残り、他人の機会を簒奪してしまい空っぽとなった私などよりずっと価値があるはずで、だからこそ私は、困難に陥っている人を助けたかった。

 

そうして、価値のある人間が、機会損失の危機に陥っている際に救済を与えることで、私は価値ある彼らを助けたという価値が付加される。それこそが、過去に多くの人間を犠牲に生き残った私の罪悪を打ち消してくれるはずだった。それが私の在り方だった。

 

そうして勝手に命を刈り取った罪と勝手に命を救った罪を己の倫理にて数値化し、命を救った数を具体化することで正義の天秤は一見善側に傾いていると見なす、己の倫理観のみで命の重さを決めるやり方こそが、私の憧れた衛宮切嗣という男の正義の在り方だった。

 

私は決して、彼らの存在を軽んじているつもりはなかった。

 

けれどそうして、他ならぬ己のために、自分の力だけではどうにもならないと悩んでいる人全てに救済を与えたる正義の味方になりたいと願っていた私は、その実、切嗣のように、彼ら一人一人を矮小な存在であると軽んじて、各々個人が持つ正義を軽々なる価値としか認識しない偽善者に、再びなりかけていたことを気付かされた。

 

彼の言う通り、広くなりすぎた高い視点から俯瞰的に眺める多数の命の存在は、人の目でその価値の全てを測るにはあまりに大きすぎて、私は数の多い少ないでしかその重みを判断することが出来なくなっていた。そうして、彼ら一人一人の価値を数というものでしか推しはからず、貶めて、勝手に救済されて然るべき対象であると見下して認識していたのだ。

 

なるほど、先程の謝罪に憤怒の感情をぶつけられて当然だ。私は彼らのことを、単なる戦力の数という点でしか見ていなかった。彼は私のことを肩を並べて戦う人間だと考えていたが、私が彼らのことを単なる補助機材と考えていたとの宣言に等しかったのだから。

 

―――傲慢、だな

 

ようやく彼らと同じ場所に立とうという決意をしたというのにこのざまなのだから、なんとも笑えない。なるほど、かつての世界において、私が嫌っていた魔術師たちという存在が、己らこそは特別な存在であると傲る理由がよくわかった気がした。

 

そうして他人の持たぬ先んじた能力を持つことで他者よりも広くなってしまう視野は、己の価値観を酷く捻じ曲げ、己以外の他者という生き物の価値を下げてしまうのだ。

 

いやはや、そういった意味では、魔術を使った果てに英霊という存在に成り果てたエミヤという存在は、正しく「魔術」を極めた先にある存在としてまっとうな姿だな、と、今更ながら、馬鹿みたいに納得した。

 

「―――、すまねぇ、今のは言いすぎた」

 

やがてそうして彼の雄叫びによって己の歪みを気付かされた私がだんまりの態度にて自戒を続けていると、私の失言により瞬時に沸騰した頭は、溜め込んでいた負の感情が無かったからこそ、そうして発散した後すぐさま冷却できたのだろう、彼は素直な謝罪をしてみせた。

 

どうやらエトリアの真夏の夜の冷気は、火照る体をすぐさま湯冷めを通り越した状態にまで持っていったようで、頭を下げてくる彼の顔は、少しばかり青くなっている。

 

「いや……」

 

私は首を振るって、彼の謝罪の受け取りを拒否する。

 

「いや、謝罪を行う必要はない。君の指摘は正しい。言われてみればなるほど、たしかに、先程までの私は、たしかに、あまりに傲慢が過ぎていた」

 

そうやって数で他者の命を大小の数で判断し、ひいては人生を預かるなんていうのは、市政の中で生きる私の役目ではなく、例えば、他者より信を預けられた王とか、そういった為政者たちの役割だ。

 

他人から人生を預けられて当然と傲慢に振る舞うことを自然と行える、カリスマと呼ばれる能力を保有する綺羅星の英雄たる彼らならともかく、己の人生すらも己の願いを満足に抱えきれずにここまで来た私が、他人を数の一つにするなどという傲慢を一人勝手にやっていいはずもない。

 

私は所詮、他人より多少魔物と戦う力があるだけの凡百の存在に過ぎないのだ。そんなこと、他でもない私が他の誰よりも自覚していることである。私は入り口近くに佇む彼の元へと近寄り、そして、己の傲慢さを認めて頭を下げる事にした。

 

「―――すまなかった」

 

謝罪はそれが心底のものであったからだろう、常に簡単な言葉と皮肉の態度だけで謝意を示す私にしては、随分と素直に行えた。しばらくの沈黙の後、もういいよ、と許可の言葉が出たのを確認して、やはり素直に頭をあげた。

 

するとそうして私に謝罪の意を促した逆光に照らされて見え辛い状態の彼は、しかし酷く居心地悪そうにバツが悪そうな顔を浮かべているのがわかる彼はおそらく、怒りを露わにぶつけた対象の私がその感情を素直に受け止めて、はてには謝罪まで返されたことで、逆に己の中に生まれた感情の置き場を失って扱いに困っていた。あるいはこれがこの世界の住人のスタンダードな性質なのかもしれないが、馬鹿正直なものである。

 

私はそんな彼が、こうして私が見つめている限り気持ちが落ち着くことはないだろうと察して、彼に背を向けた。四角く切り取られた窓から満天の夜空より月光と星空の飛び込んでくる光景は神々しく、なるほど、かつてはこの光景に神の祝福を見つけて、イコンの中に祈りを閉じ込め、捧げた、東方正教会の信者達の気持ちがわかったような気がした。

 

東の果ての天空の大地の上、かつては最大の信徒数を誇った宗教の一分派に思いを馳せながら、夜空を見上げる。やがてくる救世主の存在などなかった世界の上では、かつての時代とまるで変わらぬ形を保つ眩さだけが、過ぎた年月を感じさせぬままに、足元を這う矮小なる有変の存在たちの営みを見下ろしていた。

 

 

問答よりしばしの時間が流れた。喧騒の雰囲気は自然と収まり、異文化との共存のために衝突があった跡地では、気まずさだけがあたりの空気を支配している。雰囲気に耐えかねて、響という少女が布団を頭から被って眠りの姿勢を見せたのを皮切りに、病室は本来の、休息の場としての役目を取り戻した。

 

その後、我々は二日後の出発に向けて英気を取り戻すべく、各々のやり方で睡眠の安息に身をまかせる事となる。椅子の上で部屋の壁に背を預けて眠る私は、もうあの赤い部屋の悪夢を見ることはなくなっていた。

 

やがて朝日が山脈の稜線を照らす頃、就寝の時は過ぎ去った事を告げる鐘の音が周囲一帯にばら撒かれた。大きな鐘楼のある中央広場に近いこの施薬院の中は、もちろん防音対策が施されているのだろうが、それでも耳をつんざく程の大きな金属音が部屋中を暴れまわり、壁面とガラスの設置部分を揺るがしている。

 

鼓膜を破らんとばかりに飛び込んでくる無礼な音を、己の三半規管と全身の筋肉でどうにか抑え付けて処理してやると、鐘楼の衝撃が脳裏の不愉快にならないうちに耳を塞ぎ窓の端に移動して遮光カーテンを開け、外の光景を眺め、第一の刺激の在り処を眼球へと移す。

 

常とは違う部屋の中から眺めた早朝のエトリアはまだ寝ぼけているようで、翡翠色をした屋根が覆う街のあちこちには、まだその下に多くの残影を残していたが、高い部分に存在する壁面と植物の葉はすでに陽光の恩恵を受けているらしく、十分な熱気を吸収させられたとでもいうかのように玉の汗を書き、多数の水滴を表面に生み出していた。

 

建物との間を縫うようにして窓より飛び込んできた日光の心地よき熱を全身に浴び、先の鐘の音により生じた不快を澹蕩の気分で癒していると、やがて遅れて起きる仲間四人の彼らが寝ぼけた面をしゃんとさせる前に、ノックの音が響き、再び室内にこだました。

 

「―――回診の時間だ」

 

無遠慮に扉を開いた衛兵は、一方的に用事を宣言して、その身を部屋の中から引いた。やがて職務に忠実な彼に変わって罪人の部屋に足を踏み入れたのは、見覚えのある小さな白衣を着込んだ彼女だった。

 

「―――どうも」

 

サコ。医者と言うには少々頼りなく見える彼女は、けれどこの医療機関において高い実力を保有している人物であり、同時に、他人の都合よりも治療を優先する胆力を持っている、医に関わるものとして十分な資質を兼ね備えた医師でもあった。

 

彼女が数歩中に足を踏み入れると同時に扉の閉まる音が鳴る。そうして外界と完全にシャットアウトされた部屋の中を迷いない足取りで進むと、彼女は響の寝ているベッドの前に立った。さて、どうするのだろうと皆が注視する中、やがて彼女は大きなため息を吐いて、近くの白いカーテンのついた衝立を手元に寄せると、言った。

 

「女の子の検診を行いますので、壁の方を向いていてもらえますか? 」

「―――、ああ、これは失礼した」

 

私含む男一同は慌てて椅子を持ち上げると、揃って入り口扉の方へと赴き、そちらを向く。男女の居場所を分ける境界が引かれた音がして、部屋の領域が二分された。入り口近くに罪人が密集すると言う異常に気がついたからだろう、扉の外の衛兵が足踏みをした音が聞こえたが、どうやら会話の内容から事態を察したようで、何も言ってはこなかった。

 

衣摺れの音が響く中、サコの問診と響の返事と微かに呻く声が聞こえる。

 

「―――、はい、もう結構ですよ」

 

しばらく続いた居心地の悪さは、そうして終わりの時を告げる。やがて挙動の許可が降りて私たちが振り向くと、サコは小さな体で衝立を端に退けて、衣服の乱れを正しているところだった。

 

「響さんの体にはなんの異常も見られません。―――、健康体です」

 

告げられた声に、我々一同は安堵の声を漏らす。口々に礼を言うと、サコはしかし、常とは異なった堅苦しい余所余所しさを含む返事を返してきた。

 

やがてそうしてその場から去ろうとした彼女は、男どもがたむろっていた入り口付近で足を止めると、戸惑った様子でその場で何度か両足を遊ばせ、やがて決意をしたらしくぎゅっと地面を踏みしめると、振り返った。

 

「―――やはりこれは、貴方がたが持つに相応しいものでしょう」

 

彼女は言ってメディックの治療具が収められている腰のバッグに手を突っ込むと、他人を癒す事を生業とする彼女に似つかわしくない刺々しい宝石を取り出して差し出してくる。金平糖のような形をしたそれは、部屋に差し込む光を反射して、魂を凝縮したものであるかのように眩く青い光を反射する。

 

「―――それは? 」

「わかりません。ですがこの宝石は、貴方がたの仲間の遺体を修復した際、体内から発見したものです」

 

言葉に、陽光の暖気で満ちていた部屋が、数時間ほども時を巻き戻されたような状態となる。冥漠と冷然の空気を生み出したのは、部屋の中心奥で、今まさに言葉を発した彼女のすぐそばにいる、彼女同様に小さな体躯の少女だった。

 

「―――彼の体内から発見した? 」

 

静かな繰り返しの言葉は、静かながらも荒々しい念が含まれていた。サコという少女が発した言葉は、響の心中をよほど強く揺さぶり、大事な場所を無造作に弄ったようだった。背後より聞こえてくる呪いの怨念すらも篭ったようなその言葉に、サコと相対し扉を向いている私を含めた男どもは、一切の身動きを封じられていた。

 

ただ、そうして激情を迸らせる彼女の情念を正面から浴びせられているはずの、サコという少女だけがその激しいパトスを受け止めたらしく、彼女の方へと物怖じする事なく近寄った。職業柄、そのような念を浴びることに慣れているのかもしれないが、それにしてもなかなかの度胸である。

 

「ええ。以前、貴女方から死化粧の依頼を請け負った際、見つけたものです」

「そうですか。……ではなぜその時に言わず、なぜ今更それを言ったのですか? 」

 

振動しながらも平坦の様子を己に強いて発する声には、サコの答えを聞くまではなんとか己の感情を律して押し殺してやろうとする努力の跡があるように感じられた。ただし、サコの答えに満足を得られなかった場合、すぐにでも襲い掛からんとするような、危うい雰囲気も内包されていた。

 

しかし、その平坦な害意含む問いかけをサコはやはり真正面から受け止めると、少しだけ口ごもって吐息の行方を遊ばせたのち、答える。

 

「―――その時、これが何か、私にはわからなかったからです。そして誰もその正体を知る者はいませんでした。それが私たちにとって、つまりは、施薬院の医者にも、執政院の鑑定士にもわからない未知のものである以上、たとえそれが貴女方の仲間の遺体から見つかったものであっても、おいそれとその存在を知らせるわけにいきませんでした。……しかし、その後の調査の結果、この宝石は、やはり私達には未知のものであるという結果しかわからなかったのです。―――だから迷いました。正体がわかるまでこちらで預かっておくべきか。知らせるだけでもするべきか、それとも渡してしまうべきか」

「――――――」

 

響は無言を保っている。彼女はおそらく、必死に理性と感情にてサコの言葉の意味の理解に努めているのだろう。だからこその圧を保ったままの沈黙だ。

 

私としては、彼女の判断は当然だと思う。新迷宮を探索した者の体内より見つかった未知なる物質を、彼が死んだという事実があるからといってその仲間に安易に渡す方が、街の衛生と安全を司る者としては失格とうものだ。

 

「ですから、迷っていましたが、ここに来て貴女と、彼らの様子を見て、貴方がたが仲間を思う人物であると感じました。それゆえの判断です。―――これは貴女方が持つに相応しい」

 

結論にようやく響の禍々しい気配が霧散し、私らはやっと彼女らの方を向くに成功した。

 

確保した広い視界の中、サコは部屋の真ん中を横断すると、中央奥で存在感を撒き散らす響に宝石を手渡していた。響はその宝石を受け取ると、優しく胸元に抱き寄せる。その小さな少女が見せた嫋やかな所作に、私はようやく彼女がシンという彼に対してどのような感情を抱いていたのかを悟ることができた。

 

―――なるほど、あれは、憤怒と嫉妬の感情の発露だったというわけだ。

 

「でも、いいんですか、勝手に決めちゃって? 」

 

そうして想い人の遺産を手に入れた彼女は、宝石に熱意を封じ込められたのか、打って変わって落ち着いた静かな声でサコに尋ねる。

 

「……どうせ危険度のわからない新迷宮原産のものなのです。なら、そこに追放される貴女方に持たせてしまえば、処分もできて一石二鳥というものでしょう」

「―――そうですか」

 

自分を納得させるかのようにいちいち区切りながら言うサコの言葉には、無理やり取り繕ったかのような不自然な間があったが、私はあえて指摘をしなかった。おそらく周囲の彼らも同様なのだろうと、男衆の発する気配から私は悟る。死出の旅路に向かう我々に対する、彼女なりの餞別を送る理屈にけちをつけるほど、無粋な所業を嫌ったのだ。

 

「―――無礼な態度、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます」

 

受け取った響は深々と頭を下げると、サコは静かにそれらの言葉を受け取って、踵を返して部屋の出口へと向かう。やがて小さな彼女が部屋より退出したのち、その場にいる全ての人間の意識は響と、彼女の持つ宝石に集められたが、所有する彼女が、年と不相応な慈愛と情を宝石に注いでいるのを見て、私たちはしばらくの間何も言いだすことができずに、一様に黙りこくっていた。

 

 

「なんだ、籠の中の鳥になって落ち込んでるかと思ったら、案外元気じゃない」

 

やがて続く居心地の悪きを、軽口とともに現れたインが切り裂いた。外出の為に赤い外套を纏った彼女は、夏の太陽が振り下ろす光の鉄槌には決して負けぬと言わんばかりの赤色を周囲にばら撒きながら、しかしそれでも平然と涼やかな表情を保っていた。

 

「ああ。だが見たまえ。先ほどまで平生を保っていた顔が嫌味ったらしく歪んでしまった。さて或いは、誰かさんの余計な皮肉を耳にしたせいかもしれん」

「あら、ご挨拶」

 

馬鹿を言い笑い合うと、周囲からも笑いが漏れた。そうして空気の悪さを持ち前の凛然さで払拭してくれた彼女は、やがて後ろの衛兵に抱えさせていた風呂敷包みを両手で引き取り、差し出して言う。

 

「じゃあ、これも余計なお世話だったかしら? 」

 

彼女はそうして部屋の片隅にある机の上に抱えたものを置くと、藍染の中から黒塗りの見事な花見重箱を取り出した。かつて江戸の時代に花見用に作られたが最初と言われるその重箱の外側側面の漆塗り黒地には巨大な樹木の金細工が施されている。

 

また、正面より見た際、二段に別れた上の棚には、料理を取り分ける用の盆が数枚入れ込まれており、下の段の左方には三段の重箱の上に徳利が乗っかっており、右方には五段の重箱がはめ込まれていた。

 

そうして料理を詰め込まれた箱を正面から見てやると、やはりそれぞれの重箱に施されている鮮やかな螺鈿の細工に目が吸い込まれる。

 

まず右方の重箱に目をやると、上段一段目より、翠緑の樹々に色とりどりの花。二段に、濃緑の樹海を飛び回るホトトギス。三段目には、漆は藍色を下地に、金の砂浜と幽玄なる月が一つ。四段目には、変わって、枯れ木に貝細工の雪が撒き散らされている。そして重箱の最下段の五段目は、無地の黒の上、けぶる霧のごとく虹色の貝殻のかけらがばら撒かれていた。

 

変わって左方の三段重箱に目をやると、一段目と三段目に翡翠緑の建物群が描かれ、二段目の重箱に描かれた橋が、二つに別れた街を繋げていた。重箱の上に置かれている徳利の表面六分ほどは、淡い緑釉がかかっている。重箱と徳利、盆を収納している外箱の内塗りは、紫の色にて統一されていた。

 

そうした重箱の意匠を見て、私はようやくこの重箱の製作者が、作品にこめた意図を読み取れて、私は思わず感心のため息をついた。

 

「なるほど、エトリアと世界樹、それを取り巻く世界を作品に閉じ込めたか」

「ご明察。なんでもこの地に古くから伝わる伝統に則って作り上げた逸品らしいわ」

 

彼女は私の答えを聞いて満足気に笑いながら、箱を分解して店を広げてゆく。重箱は我らの押し込まれている場所に合わせてだろう、多少法則を無視して中身が詰め込まれていた。

 

一段目にはいなり寿司と巻き寿司。二段目には、玉子焼きや梟の軟骨の唐揚げ、猪のステーキなどが所狭しと詰め込まれ、三段目には、魚の焼き物や刺身が、四段目には、猪肉を用いての煮こごりや世界樹の芽を用いてのサラダなどが色鮮やかに納められている。

 

また、本来なら空っぽのはずの五段には、これまたご丁寧に、重箱に収まる小さなぐい呑が六つ、仲良く揃って座している。彼女はそうして今度は左方の重箱を開くと、一段目から平たい皿と茶瓶を取り出し、二段目から茶葉と袱紗を取り出すと、三段目から湯捨てを取り出して私の方へと差し出した。

 

「何ぼさっとしてんのよ。か弱い年寄りに全部準備させる気? 料理はしてあげたんだから、茶坊主の役目くらい進んでやりなさいよ」

「―――、くっ、了解だ」

 

差し出されたそれらを徳利ごと受け取ると、もう一つあった机の方へと移動して受け取った道具を広げる。私と彼女以外の人間は、突如やってきた老女のいきなりの行動に頭がついて言っていない様子だった。

 

呆ける彼らを尻目に、私たちは息のあったコンビネーションで膳の中身を取り分けてゆく。最中、彼女が小声で話しかけてきた。

 

「少しは打ち解けられたみたいじゃない」

「誰かさんと違って、素直に欲しい情報を差し出してくれるのでな」

「お仲間が出来た途端、減らず口が冴えるようになったわね……」

「おかげさまでね」

「はぁ……、もうちょっと仲違いさせてた方が、私の平穏のため良かったかしら」

「かもしれんが手遅れだ」

 

不毛の応酬を互いの肴に苦笑し合うと、一足先に用意を整え終えた彼女は盆を置いて言う。

 

「ねぇ」

「なんだ」

 

呼びかけに応じて返事をするも、その先に続く言葉がないのを不審に思って彼女の方へと顔を向けてやると、インはいつもの苦笑いは何処へやら笑顔の表情を浮かべて重箱を撫でながら言う。

 

「この箱、見事なものでしょう? 有名な造形家の逸品なのよ」

「ああ、漆の上に塗られた金と螺鈿の繊細な造形には執念すら感じさせるな」

「そうね。この重箱の作者だけど、はるか昔、まだスキルの体制が整っていない頃、人よりもスキルの扱いが下手で、色々と苦労したらしいの。きっと、その時の鬱憤とかを自分の中で制作に対する情熱に昇華したからこその作品なのよね」

 

彼女は言うと、歴史あるという重箱を優しく撫でながら言う。私は彼女の乾いた手の行方を追いながら、スキルというものが日常のこの世界において、その扱いに長けていなかったという重箱の作者の姿に勝手な姿を当てはめながら想いを馳せる。

 

この世界においてスキルというものが使えない私には、作者たる彼が、その生涯においていかなる苦労をしてきたのか、手に取るように理解する事が出来た。料理一つするにもいくつものスキルを必要とするこの世界においてその有様では、彼はさぞかし生き辛かったに違いない。

 

「でも聞くところによると、そんな彼は普通に生きて、こんな風の人並み以上にステキな作品を作り上げて、有名になったわ。別にスキルの使える使えないなんて関係なく、生きようと思えばどんな風にだって生きていけるのよ」

「……、そうか」

 

そこでなんとなくではあるが、彼女がなにを言わんとしているのか、その意思を私は読み取れた。スキルの使えない私に対して、スキルの使用が下手であった人物の生き様を語るのだから、狙いなど一つしかない。彼女は私に、冒険者以外の生き方を提示してくれている。

 

「――――――」

「―――、そう」

 

しかしそして、インは、彼女の提案に頑として首を縦に振らない私の態度に、確かな拒否の意思を見つけだしてくれて、悲しく微笑んだ。

 

「まぁいいわ。どんな風に生きようが貴方の勝手。私はそれを強いようとは思わないわ。そんな資格もないしね」

「すまない」

「でもね」

 

彼女は目を細めて言う。

 

「だからこそ私は、たとえあなたがどんな選択をしても、別にその事を否定しないわ。どんな風に生きようと、人生なんて所詮は積み重ねてきたようにしかならないわ。一人で生きるも、みんなと共に生きるも自分次第。だからせいぜい、自分勝手に好きなよう生きて、そしてその果ての結果に満足して死んでいきなさい」

「……、承知した」

 

事情を詳しくも知らぬ相手に対する思いやりに反応して、先程までの決意を覆さんとする挫折の念が喉元までやってくるが、なんとか言葉と共に腹の中へと戻して、承知の返事を返すと、彼女は寂しさに目を曇らせながら言った。

 

「まったく、本当に、馬鹿で頑固なんだから」

 

私は彼女の罵声に返せる言葉を真実持たず、ただ無様に閉口するばかりだった。

 

 

密室にて食事に舌鼓を打ったのち、交友を深める原因となった青嵐も過ぎ去り、やがてエトリアを出立する最後の時が訪れた。重苦しい空気の吹き飛んだ部屋のあちこちでは、装備を整える彼らの姿が目に入る。準備などほとんどなかった私が、そんな彼らを尻目に窓より空を眺めると、茜色の空を雲が流れてゆくのが見えた。

 

空模様はかつて私がこのエトリアにやってきた時と変わらぬものであった。いや、季節柄なのか、上空をゆく雲の流れる速度が多少緩やかである気がした。あるいはかつてと違うその速度こそ、かつての時と今の自分が生きる速度の違いを表しているのかもしれぬと無理やり意図を見出してみたのは、今日、そうして訪れたこの街を去るのだ、と言う感傷が生み出したものなのだろう。

 

「―――準備、終わりました」

 

自然の流れの中に己の過ぎ去りし時を重ね合わせて浸るという詮無き行為にて暇を潰していると、背後より静かな声が投げかけられた。自己憐憫の無意味をやめて振り向くと、窓より飛び込んだ夕日を浴びた四人の姿が目に入る。

 

武器が取り上げられている事を除けば、常の迷宮探索に向かう際と変わらぬ装備に身を包んだ彼らは、頑丈な鎧と服に包まれた外殻とは裏腹に、内面は常と違う緊張と恐れを孕んでいた。それはおそらく、このエトリアの土地に対する郷愁、惜別といった思いなのだろう。

 

この土地にやってきて半年も過ごしていない私と違い、彼らは人生の長い時間、エトリアにて生活の基盤を置いていたと聞く。それゆえに、追放の事実は彼にとって重く、処置を受け入れてはいるものの、しかし理性にて抑えきれぬ情念の部分が裡より迸り、顔面という最も変化を生み出しやすい部分に出てきてしまっているのだろう。

 

この期に及んで、その無念は己の選択の結果であるとして、追放の直接的な原因を作った私に文句の一つをもこぼさない彼らの執念と我慢に、魂の髄まで染み付いたこの世界における彼らの正義の頑固さを見つけて、私は苦笑した。

 

いやはや、彼らも中々人のことをどうこう言えない頑なさを持っている。なるほど、そうして己の失敗すらを他者から責められることもなく、全ての因果を己の中に見つけてなにもかも抱え込まれるというのは、そうして失敗をした人間にとって、中々どうして居心地の悪いものだと思い知る。

 

あるいはかつての養父や姉貴分。そして、凛や親友、周囲の人間、そして私が拾い上げて、しかし存在を軽んじてきた人々は、私にこのような思いを抱いていたのかもしれない。

 

「では行こうか」

 

思いが後悔となる前に、宣言すると、彼らが頷くのをみて、部屋の前の扉に立つ衛兵へと声をかけた。準備完了を告げると、錠前は解き放たれ、部屋の中の空気と共に我々は外へと足を踏み出した。同時に、両の手に鉄の鎖が落とされて、我々五人の前後に三人一組の衛兵がピタリとつく。

 

先導する彼らの手に引かれ、施薬院という清浄な場所に似合わない不穏の空気が充満する中を突っ切りると、やがて正面玄関前までやってくる。常ならば病人怪我人で一杯であるはずのそこは、罪人を受け入れた日から満員御礼の札を外されているようで、中央に一人の著名人が腰をかけているばかりであった。

 

「やぁ」

 

そしてその場にいた唯一の人が腰を浮かしてこちらへとやってくる。彼は安寧と非戦を常識と敷き、治癒を目的とするこの場には似つかわしくない、鎧兜を纏い、槍盾を構えた完全武装の状態であった。

 

彼は手錠に自由の身動きを封ぜられた我々の近くまで寄ると、我ら全員に等しく視界にお収められる場所にて立ち止まり、全員を一瞥した。そうしてクーマは我らの中に戦意の劣化を起こしている人間がいないことを確認すると、満足げに頷いていう。

 

「たしかに、準備は万全のようですね」

 

彼の問いに言葉を返すものはいなかったが、彼の問答に対して五人の冒険者が、内に秘める覚悟の密度を増やした気配を、クーマは敏感に感じ取って、もう一度強く頷いてみせた。

 

「よろしい。では」

 

クーマが片手をあげる。すると我らを連行してきた数人の兵士が金属音をたてながら正面玄関へと近寄ると、二人の兵士が大扉を開けた。両開きの扉は重厚な音をたてながら居場所を移してゆき、部屋を満たす涼しさと緊張の空気を弛緩させてゆく。

 

やがて施薬院の清涼と無臭の空気が、肌を舐めるような微熱と風の運んでくる生臭い自然の香りの中に消えていった頃、衛兵に導かれるようにして、施薬院の玄関より足を踏み出すと、途端、室内外の静寂の種類は別のものとなり、無言に等しい微かな騒めきの中、罪人である我々に好奇の視線が注がれた。

 

「あれが例の……」「ああ、街一番のギルドと、その次のギルドの奴らだ」「なんでも迷宮をぶっ壊したんだって! 」「え、魔物を連れて転移したんでしょ? 」「悪人には見えないけどなぁ」「でも、俺、この前、あいつにいきなり脅かされたんだって! 」「あんた、彼の死んだ仲間の悪口言ってたって聞いたわよ……、怒られて当然じゃない」「しかし死にに行くってのに、堂々としたものだなぁ」「まぁ、多分、勝算があるんでしょ」「一発で迷宮の最下層を攻略する? 」「おい、ちょっと、見えない。どいてくれよ」

 

ひそひそ話と視線に含まれる成分は、大半が好奇で、残りが理解の及ばぬ未知を見た際に湧き上がるものだった。しかしそうして一身に注がれる視線の中に憎悪や憤怒、怨恨や軽蔑の視線がないのを理解して、私はかつての世界との差異を感じ取り、この街においては最後になるかもしれない驚愕に心を躍らせた。

 

―――やはり彼らは、我々とは違う

 

彼らはかつての世界に蔓延っていた、すぐさま他者の悪意や情報に感化される人種とは違う、無色の思考の持ち主だ。大衆になった際に増長されてしまうほどの悪意を溜め込まぬ彼らは、悪意の増幅という身体技法を継承せずに過ごしている。

 

だからこそ、こうして法を犯した罪人を前にしても感情的に騒ぎ立てる事なく、ただ、己の好奇の赴くままに観察の視線を送り、己の思考で我々を判断しようとしている。

 

そんな彼らの態度に、かつては絵空事に過ぎなかった世界平和の兆しを見つけて、私は浴びせられる彼らの視線の心地良きを堪能しながら、衛兵の後に続く。堂々と進む私に続いたのは、ダリとピエールだ。その後に、サガと響が続く。

 

やがてベルダの広場を抜けてつづら折りの階段をゆっくりと降る頃、響はポツリと呟いた。

 

「あ、……」

 

背後より聞こえる言葉に導かれて振り向き彼女の顔を見ると、その視線が向けられている先を追って、私は目の焦点位置を彼女のそれと一緒にした。するとそこに、エトリアの街に来てから私が始めて出会った人物の顔を見つけて、私は思わず呟いた。

 

「ヘイ……」

 

ポツリとした言葉は静けさの支配する空間によく響いて離れた彼の耳元にまで届いたのか、我々の意識が向けられた事を感じ取った彼は、直後、視線をふいとそらして群衆の影に消えていった。

 

そういえば、我々の道具の修繕と修復に忙しかったからかもしれないが、この二日間、彼は訪ねてこなかった。人なつこい彼がみせたそんな毛嫌いの態度に不思議の念を私が抱えると、側にいた響はやはり誰にいうでもない様子で、ポツリと呟いた。

 

「やっぱり、気にしてるのかな……」

「何がかね? 」

 

聞くと彼女は驚いた様子でこちらを見て一瞬躊躇い、しかし意を決した様子で言う。

 

「ええ、その、ヘイはどうやらエミヤさんに負い目を感じているようでして」

「ヘイが……? 私に? 」

 

並んで歩く彼女の言葉に首をかしげる。彼と出会った三ヶ月ちょっとの時を思い返すも、まるで原因が思い当たらない―――、ああいや。

 

「そういえば、手形を預けていたか」

 

そういえば、一層の皮膚と鱗を売り払った際の契約が未だに完遂に至っていない事を今更ながらに思い出す。律儀な彼のことだ。そうして修理修繕修復の仕事をやった結果、契約の履行機会を失って、それをバツが悪いと感じたのがああした態度になったのだろうか?

 

「いえ、その、多分、エミヤさんが考えている理由とは違うと思います」

「君は彼の態度の訳を知っているのかね?」

 

質問に彼女は口ごもったが、意を決したのか、軽く唇を舐めて滑舌を改善した後、告げる。

 

「ヘイは……、あの人は、自分の想いは軽いから貴方には届かないと言っていました」

「―――、意味が……」

 

わからない、といいかけた言葉の行方を遮って、響は続けた。

 

「なんでも、歳を重ねて来たにもかかわらず、積み重ねた想いがないから、自分じゃ貴方の心配をする資格がない、と。ヘイはそう言っていました」

「――――――、そうか」

 

彼女が口にした言葉の意味をじっくりと噛み砕き、理解するとともに先程までの楽観はどこかへ去っていくのを感じ、腹の中に溜まった忸怩は彼が他者にああも親切に振る舞う理由に肉付けをしてゆき、結果として口元から彼の行為に対する納得の言葉が漏れた。

 

―――だからこその己の心を掴んだ物に対する執着と、興味ないものああも無頓着なのか

 

長く時を重ねているのに、負の感情がない。悔恨も嫉妬もない代わりに、執着の感情を持ちづらく、ゆえに心の中を埋めつくす程の充足感を得る機会も少ない。その足りぬ部分を満たす焦燥感と不安と劣等の感覚が、彼の面倒見の良さと全てを投げ出す熱意となったわけだ。

 

私はそうして親切と笑顔の裏側に隠されていた、ヘイという男の、己は矮小と侮る卑屈の感情を見過ごした。おそらく出会って最初のうちは警戒心から深く踏み込もうとせず観察を怠ったが故に、そして、最近までは忙しさにかまけ、また、彼らがそう言った負の感情だけを溜め込めないという性質を知ったが故に、彼らを負の感情と無縁の存在であると侮ってしまっていた。

 

溜め込めない性質があるからと言って、完全でない以上、何の悩みもなしに生きることができるわけじゃない。誰にでも悩みというものは尽きることなく押し寄せる。そんな当たり前の事実を私は己の思い込みで、俯瞰の視線で観察する事で、見逃していた。

 

―――その結果がこれか

 

おそらく、私たちが罪を犯してまで迷宮の探索に挑もうとしているのを、執政院直々の道具の修理依頼から悟った彼は、そうして無謀と愚行の果てにある追放される私たちの処遇に、だからこそ情熱の証を見て取り、私たちに劣等感のようなものを感じたのかもしれない。

 

故に、粛々と道具の整備を引き受けて、しかし顔を見せに来なかった。

 

―――己の焦燥と正義を示すために突き動かされ、突き進んだ結果がこれか

 

結局私は、この世界の多くの人間と対等の対話を行うテーブルに付いていなかった。全ての人の性格を「きっとこうであるに違いない」と決めつけて、現実において誤差の修正を怠った。このすれ違いという後味の悪い結末は、己が積み重ねてきたことの結末に過ぎないのだ。

 

―――いつか、機会を設けて話をしよう

 

決意すると、未だに好奇の視線に満ちた人波の煩わしさを避けて空を見上げる。まだ明るさを残す空には己の怠惰のツケを示すかのように、夕映えの中には黒々とした雲が視界の端に固まっていた。

 

 

物々しい警護、というには少なすぎる見張りを伴って一時間程歩くと、もはやすっかり見慣れた新迷宮入り口へとたどり着く。夜の闇が落ちた星の海の中、切り立つ崖の上空あたりに紫雲が漂い彼方へと流れてゆくさまに、私は語源である仏の来迎の比喩を思い出して、振り払うかのように首を横に振るう。私は仏の手自ら引導を渡されるほど、徳の高い人物でないし、まだそちら側に旅立つ予定もない。

 

清浄なのか邪念なのか分からぬ思いに侵された視線で、崖の中にぽっかりと開いた入り口を見ると、洞穴の入り口は、先の戦闘にて私が四層最奥地の天井を崩した際、その両端が崩れたようで、横一線に引き裂かれた傷跡は、口角上がり、笑んだ唇のようになっていた。

 

その様はとても侵入を拒んでいるとは思えないほどの友好的な雰囲気を醸し出していて、まるで魔のモノが、人の世より隔離される事となった我々を迫害のご同類として歓迎しているようだった。

 

さて、そんなおり、仏と悪神の存在が私の脳裏にて神仏習合を果てして怨霊となり、ふと、三層にて犬に腕を引きちぎられた経験を思い出して、だれか高貴な人が死ぬか、あるいはエトリアが崩壊するかもしれないと考えた。馬鹿馬鹿しい。恐れ多くも崩御の前兆と言われる伝承に、エトリア崩壊の予見を重ねるなど、誰にどちらにたいしても、あまりに不埒かつ不敬が過ぎるというものだ。

 

「いらっしゃいましたね」

 

非礼な想像を行なっていると、罪人を迎えるには相応しくない歓迎の言葉に視線を向ける。夜空をさんざ照らす星の明かりとは異なる、灯篭の柔らかき炎の揺らめきが、赤に満たされた周囲一帯をより一層濃い色合いに塗り替える中、そして照らし出される空間の中心、規則正しく並ぶ衛兵の装備が反射する光の交差する中心に、クーマは佇んでいた。

 

そうして厳重な守護の敷かれている光の中に、トリカブトの花が群生しているのを見つけて、私は彼らのいる場所がどこであるかを明確に察する。花に触発されて少しばかり視線を動かすと、予想通り石碑が見つかる。警戒テープにて区切られた石碑の前には、四名の屈強な兵士が配備されており、各々が緊張の面持ちを浮かべていた。

 

私が視線を向ける先に目敏く気がついたクーマは、淡々と述べる。

 

「迷宮はあなた達が帰還して以降、調査の名目で一旦入場を不許可とし、保全してあります。この処置は、あなた方の五層への放逐、およびその通路の閉鎖を行うまでの間、保たれます。番人部屋までは護送の兵士が一名ずつの転移を石碑より行い、直接あなた方をその場所まで転移させます。その後、あなた方を番人部屋にあります階層を区切る階段に追い出し、放逐いたします。装備はその際、受け取ってください。あなた方が階段の奥に姿を消したのを確認次第、五層入り口の階段は封鎖されます。以上、何かご質問はございますか?」

 

我々が何も言わずにいるのを見て彼は頷き言った。

 

「よろしい。では、早速、刑の執行とまいりましょう」

 

 

衛兵とともに四層の番人部屋へと転移すると、我らが死闘を繰り広げたその場は、私のもたらした破壊の痕跡をそのままに残していた。部屋の中央にはモニュメントのように巨大な一枚岩が地面に突き立っており、その周囲には細かい岩石がばら撒かれている。

 

拓けた荒野の中に巨岩が鎮座する光景は、オーストラリアはエアーズロックのそれを思い出させた。それはこれより先、魔物たちにとってみれば神聖なる対象であろう、魔のモノの領地に向かうのだという隠喩に見えて、やはり少しばかりうんざりする。

 

さて私が破壊の痕跡を眺めていると、近場に設置された携帯磁軸から次々と仲間が衛兵とともに転移されてくる。やがて五人揃った後、クーマという男が転移してきて、彼の指示に従い我々は中央を通り過ぎると、番人部屋の奥にある出口へと手荒く案内された。

 

部屋の奥にひっそりと配されていた地下へと続く洞穴の周囲には、わかりやすく数名の衛兵が配備されている。四層の最奥地に配備されている彼らは、地上にいた兵士達より屈強である事を示すかのように、あからさまに装備の質と纏う空気が違っていた。

 

「ご苦労様です」

 

クーマが声かけを行うと、番人の間を守護する事に緊張をしているのか、冷や汗を浮かべる彼らはしかし忠実に敬礼を返し、封鎖していた道を開けた。現れた洞穴は宵闇という事を差っ引いてもこれまで以上の暗黒に支配されている。

 

私は、この階層を守る番人がケルベロスであった事実と、周囲の赤く仄暗い光景から、まるでこの場が冥界そのものであるかの如く錯覚を覚えて、ならばそんな死者の国よりさらに奥へと繋がるこの穴の通ずる先は果たして煉獄より深き場所かも知れぬと思い至った。

 

―――くだらん

 

先程からやけに沈鬱な想像が浮かぶのは、おそらく柄にもなく追放の事態に緊張しているのだろう。己が脳裏に浮かんだ他愛もない隠喩を霧散させ、眼前に広がる現実の暗闇に意識の在り処を戻すと、ランタンを片手に洞穴の中に一歩を踏み出す。手にしたランプの明るさは、一寸先を照らした瞬間、すぐさま暗闇に吸い込まれてゆく。

 

貪欲に光すらも吸収する闇のあり方は、まさにかつて私の胸のうちに巣食っていた負の感情を残らず吸収した魔のモノの特性を明確に隠喩しているように感じて、私はこの先に奴と、その協力者である言峰綺礼がいる事を確信した。

 

「――――――」

 

無言でさらに一歩を踏み出す。数歩ほども闇の中に身を進ませると、遅れて四人が次々と私の後ろに続いた。我ら五人が直線となって洞穴の中に足を踏み入れた頃、後ろより道具と装備品がしんがりを努めるダリに渡され、その入り口は屈強な兵士達の槍によって斜め十文字を描かれ、封鎖された。

 

「ご武運を」

 

区切られた境界の向こう側から、クーマが私たちに短い激励の言葉を送る。私たちはそれを振り向く事なく受け取ると、斜角の鋭さに足を取られぬよう、注意しながら狭い洞穴の中を邁進した。

 

 

「お、出口か」

 

やがて十分ほども注意深く進むと、背後より前方の明るき空間を確認したサガが声をあげた。前方にいる私に先んじて空間の変化に気がつけたのは、手元にて煌々と輝くランプの灯りの焦点距離が彼の視界あたりにてちょうど釣り合ったからだろう。

 

言葉に対して促され前方への警戒を密にして、歩みの速度を少しばかり慎重なものへと変化させる。私の挙動の変化に呼応して、後方の彼らもその態度をより戦闘に適した重厚なものへと対応させた。

 

「――――――」

 

やがて道なりに進むと、一気に視界がひらけて、現れた光景に私は目を見張った。

 

「なんだ、こりゃ? 」

「綺麗……」

「ステンドグラスに囲まれた……施薬院か何かの施設の跡地か? 」

「いやぁ、荘厳ですねぇ……おとぎ話のようだ」

 

一同が思い思いに疑念や感嘆の言葉を述べる中、私だけは彼らと別種の感情を脳裏に浮かべていた。憤怒。そして、驚愕と郷愁。負の感情と、どちらかに分別するのが難しいそれらの感情は、目の前に広がる荘厳と華麗な現実の景色より生み出されたのではなく、全く別のところに格納されている、記憶という過去より引き出されたのだった。

 

闇の中に光り輝く天井地面に敷かれた色とりどりガラスは、中心となる黒点から直線状に伸び、その最中にいくつかの同心円を描きながら、最外殻にて円弧を作り、巨大な花弁を模していた。

 

そうして雄大に一輪の薔薇を形作る様は、まるでフランスはパリのセーヌ河岸シテ島に存在するノートルダム大聖堂のそれを思い起こさせる。かつて過去の世界に生きていた私なら、あるいはその寺院にいたならば、壮美の様子に感心のため息をついていたかもしれないが、この世界では、この場においては事情が違う。

 

大聖堂が―――、すなわち唯一神という存在を讃える、我らが貴婦人たる施設が目の前にある。この宗教というものが消失した世界において、そのかつての時代の施設を知るという共通項こそは、我が憎むべき宿敵の存在を瞬間的に想起させたのだ。

 

「言峰綺礼」

 

呟き、不倶戴天の天敵の存在に気がつくと、この荘厳華美な場所には人払いの結界もかけられていることに同時に気がつける。なるほど結界が我々を拒絶の対象としていないため気付くのに遅れたが、衛兵たちが居心地悪そうにしている理由がよくわかった。ここから先は、魔術をかじったものか、あるいは奴に贄として選ばれた人間以外を拒む領域になっている。

 

―――遂に自ら動くか

 

奴は私同様、基本的に機能美以外に興味を持たぬ人間だ。まさか野にあまた散る芸術家よろしく、己が心酔の赴くままに外見の美を追求したとも思えないし、果たして奴は何を思ってこの空間を作り上げたのか。ただそれだけは知っておく必要がある。

 

「解析開始/トレース・オン」

 

見惚れる仲間を放って一人しゃがみこむと、手を当てて地面に解析の魔術をかける。通常とは異なる人が乗ってもビクともせぬガラスは、予想通りこの世に存在する物資により形作られたものでなく、エーテルという、霊質と物質の特性を併せ持つモノでできていた。

 

四大元素たる地水火風の源である力を得る以前の状態の存在たるそれは、かつて聖杯戦争においてサーヴァントと呼称される英霊の使い魔達の肉体を形成されていたモノでもある。すなわち、そんな物質に囲まれたこの空間はもはや奴の腹に等しく。

 

「―――先を急ごう」

 

何が起こっても不思議でない。私と正反対の、奴の心象を表すかのような領域にいるがゆえ、私はすぐさまこの、世界の全てを美しくも儚く脆いものと表現するかのような、奴の価値観を転写したかのごとき場所からの離脱を提言し、奥に見える出口へと足早に進む。

 

夜という時刻の助けを借りて一層暗澹と周囲を包み込む闇は、奴が心中に抱える醜悪の性質と底知れぬ絶望の暗喩に見えて、なんとも気味の悪い湿度を伴っていた。

 

 

どうやら四層とは異なりこれより地下にある場所は湿度が濃いらしく、空気中に散る水分は周囲の地面の中にまで染み込み、その成分をあたりにばらまいているためだろう、温く、土の香りが満ちる洞穴を抜ける。

 

「――――――」

「―――おー、こりゃすげぇ」

 

そうして進んだ先、多少の肌寒さを感じるとともに現れた光景によって、私は再び心を奪われた。二度目の衝撃は、やはり目の前に広がる光景と記憶にある知識の一致により引き起こされたものだった。

 

「街が丸ごと埋まってる……」

「有様は旧迷宮の五層シンジュクと似通っているが、規模が桁違いだな」

「真相を求めた罪人共が追放されたのが切り取られた古代の街とは、趣がありますねぇ」

 

眼下約四キロ程度下にある濃霧を抜けた先、濃霧の中を赤と黒が蠢く中、微かなだけ見える地面。その場所より東に二キロほど行った地点にある赤き橋の、さらに四キロほどの位置に屹立する、他よりも頭抜けている一つの高層ビルが見える。

 

黒板のよう真っ平らに整地された天井であるより伸びた、取手も何もないこのシンプルな透明な階段は、まるで戦争への参加者を誘うように、ビルの屋上へと伸びていた。かつて誘導灯だったものが、夜の闇の中、微かに他と違う光を反射しているのが見える。

 

かつてはセンタービルと呼ばれた新都という街の中心より、乱立する中堅程度のビルの密集円の外周に沿って視界を広げて行けば、ビルのある駅前中心街から離れた場所には、高層階からの景観を楽しむためだろうか、夏野の緑豊かな公園が広々と隣接している。

 

そうして視界を中心街より遠ざけてゆくと、街の端に、見覚えのある海浜公園と、港が目に入った。港と接する川の終点から、街を丁度二つに分断して南北に流れる未遠川を俯瞰すると、河川の部分は特に視界を遮る霧が濃いことに気がついた。

 

私は、街中をぼやかす霧の一因がこの河川にもあり、おそらくは地下という熱のこもりやすい場所であることと、地上よりか地殻に近く水の温度が高いため、川霧が発生しやすく、それが街にまで散っているのかもしれないと推測した。

 

俯瞰をやめて区画整備されたその波打ち際から未遠川をもう一度遡ってゆくと、二つの街を結ぶ唯一の赤い大橋の存在が、改めて目に入る。片側二車線、歩道と車道がきちんと別に分けられた、眼球に強化を施せばタイルの数を数えられるだろう状態を保つ橋は、やはり黒と赤の濃霧に満ちていた。

 

その後、一旦視界を外して川沿いに栄えた深山町の街中から商店街を通り抜け、閑散とした山の方へと目を滑らせると、丘の頂上に立つ見覚えのある懐かしの遠坂亭、西洋風ながら割れた窓ガラスの放置がお化け屋敷の様相を生み出している間桐亭、そして純和風の平屋である衛宮亭を視界に収めたのち、西端の山、長き階段を経た先にある柳洞寺へと辿り着く。

 

そうして東西南北に広がる街の全景を長く俯瞰し、過去の記憶とほとんど変わりなき姿を確認した私は、そこでようやく目の前に現れた現実を受け入れた。

 

「冬木市―――」

 

かつて長い時を過ごした街の名は、やがて過去より持ち込んだ因縁に決着をつける時がきたのだと言わんばかりに、強風に乗って眼下にある街の中へと消えてゆく。そして冒険の日々は終わりを告げ、運命の夜を駆け抜ける時は再来した。

 

第十四話

 

終了

 

 




設定、性格等、疑問に思った部分の指摘、ありがとうございます。文章量の過多気味は、自分の癖なので、読みにくい場合、申し訳ありません。

熱意のある突っ込み、とても面白く読ませていただいております。ネタバレ含む部分もあるので一旦の一部を話を終えたのち、改めてに返信させていただきたく思います。よろしくお願いします。

また、私事で申し訳ありませんが、大雨で気力体力を持っていかれ、住んでいる環境もろもろにも変化が起きているので、次の投稿は再び二週間程度かかるやもしれません。

重ねてお詫び申し上げます。
申し訳ありません。

予告通り、クロス発売前までには何とかルートの一つ二つは完成させたいので、お付き合いいただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いします。


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第十五話 夜にある、それぞれの運命は

お待たせしました。
遅れて申し訳ありません。


第十五話 夜にある、それぞれの運命は

 

あれは、私の/私たちの、宿敵だ。

だから、殺す/倒す。

 

 

新迷宮の第五層は、かつて己が生まれ育った街、冬木そのものだった。階層の仕組みは今までのものとは異なり、本来なら五階分の階層があるだろうところを全てぶち抜いて、冬木という街がまるごと保管されている。

 

今、かつて第五次聖杯戦争が行われた街は、世界樹の大地のはるか下、現在の人間や世界の時間軸などとは関わりを断絶するような深い霧を全景に纏い、しかし過去の時代を記憶からすら風化した遺物などにはしてやらぬと主張するかのように、そのまま形を残していた。

 

私の知る過去の冬木と異なる点といえば、街全体が謎の結晶化を起こしている点と、暗がりの中にある街を覆う霧と、夜の中にあっても点灯の様子を見せぬという当然と、街中を魔物共が堂々と闊歩する異常な光景だ。魔物どもの正体を確かめるべく強化した視力でかつて繁栄した文明の痕跡を気ままに歩く魔物の姿を確認してやれば、それらはたった二種類であることに気が付ける。

 

二種類のうちまず目に飛び込んでくるのは、街中に多くいる、四足歩行を行う犬型の獣だ。人間一人くらいなら丸呑みに出来そうな真っ黒の巨体の前方に、全ての生命に対する嫌悪感が籠った一対の瞳をもち、霧の乱反射を貫かんばかりの濃い赤色の瞳の視線を街にばら撒きながら、奴らは闊歩する。

 

人間の抱える負の感情というものから、憎悪や暴虐といった攻撃的な成分だけを抽出し、煮詰めたような黒色で身体を形成する奴らは、主に冬木の西側、つまりは深山町の住宅街から表通りに面した付近を中心に位置を取っている。町を這いまわる様は、まるで血管の様だ。

 

さてそんな清々しいまでの生命に対する憎悪を撒き散らす毒潮の行方を追っていると、やがて方々の街の交差点に別種の魔物が生息している事に気が付ける。そいつは、かつて私の脳内に現れたような、頭足類の触手だけを切り取って、子供が接着剤で適当に組み上げたような稚拙な姿形をしていた。それこそがもう一種の魔物である。

 

先の犬が男の持つフィジカル的な攻撃性の象徴だとすれば、こちらは女のメンタル的な攻撃性の象徴のようだ。ヘドロ色をしたそれは、刺々しい雰囲気をもたない代わりに、体に纏わり付いてくる情念と言うものを具体化したかのような、生理的嫌悪感を引き起こす見た目をしている。

 

一呼吸ごとに、丸みを帯びた触手の全身が、うぞりと霧を纏って艶めかしく蠢く姿は、真正面より鋭利な攻撃性を主張する先の獣とはまた別種のおぞましい嫌悪感を保有しており、東洋人たる私にも、西欧の人間が何故タコを悪魔と嫌うのかを否応無しに感覚で理解させてくれた。

 

人類文化の垣根を超えて、不快の感情を根源的な部分から理解させるそいつは、まさに「魔のモノ」と呼称されるに相応しい人類の敵対者の姿の具現化であると言って過言でない。

 

犬の群れが血管であるなら、奴はリンパ節だ。血管の分岐部分に重なるようにして存在するそいつは、体を構成する触手の先が犬の黒々とした体と触れ合うと、途端全身を大きく震わせる。まるで快楽の宴に溺れているような暴走ぶりを見せる。

 

そして接触のたびに、犬は数を増やし、あるいは触手はその体を大きくする。あれが餌付けなのか、あるいは交尾なのかは知らぬが、今は一旦おいておく。異形共が交わり増殖し拡大するのを観察したところで事態の収拾は測れない。必要であるのは、宝石により魔のモノを封じる場が何処にあるか、だ。

 

―――おそらくそれは

 

本来なら分からぬ、奴ら、すなわち魔のモノにとってアキレス腱となりうる場所を、しかし私は、この冬木という街において聖杯戦争を戦い抜いたという過去の経験から、その弱点となり得る場所の予測をすることができていた。

 

―――柳洞寺の地下大空洞にある、か

 

冬木の街より少し離れた場所にある円蔵山。その山中にある柳洞寺の、さらに奥にある池の地下に存在する大空洞「竜洞」。その場所こそが、おそらくは街に這い巡らされた血管とリンパのごときが帰結する脳髄であり、心臓部でもあるはずだ。

 

大空洞は、冬木の街という土地に流れる最大の霊脈が存在する場所であり、かつて大聖杯と呼ばれる聖杯戦争の核が保管されていた場所でもある。

 

ならば、霊脈に沿って人の負の感情を吸い取る魔のモノが身を休める場所として選ぶに最も相応しい拠点であり、また、聖杯戦争の再開を謳う言峰綺礼が反撃の用意を構えるに最も適した居城であるといえるだろう。

 

その証拠に、もはや奴らの胎内となった冬木の街の魔物の流れに沿って全体を俯瞰すると、奴らは西側の深山町側にばかり数が集中していることがわかる。さらに詳細に見れば、円蔵山を中心に放射状に広がり、かつ外側の扇行くほどその密集密度が薄くなっている事もわかる。つまりは私の予想通り、円蔵山こそ、奴らの拠点であると考えて良いだろう。

 

一つ懸念があるとすれば、今までの世界樹の迷宮の傾向から察するに、その場所の最奥地に待ち受けているのは、おそらく魔のモノだけではないだろうことか。おそらく最優の名を冠するセイバーと関連する獣もまた、番人として身を潜めているはずだ。加えて、そして言峰綺礼という男もまたこの街のどこかで、我々の命を狙っているに違いないのだ。

 

―――まあ、いい

 

奴の行動について考え出すときりがない。一旦はおいて、ともかくまずは見える問題を片付けるしかない。敵の拠点の位置を暫定的ながらも定めた私は、眼下にある階段の行方が繋がる冬木のセンタービル屋上から柳洞寺までを俯瞰する。

 

直線にすれば目算ざっと二十キロメートルないだろうその道は、しかし往来する二種類の魔物の群によって埋め尽くされていて、まるで地面が見えない。その往路だけで千。街全体を見れば数は優に万を超えだろう。

 

それだけの数生息している魔物をどう対処するか。最初の問題はそれだ。馬鹿正直にあの数を真正面から捌くことも決して不可能ではないが、千、万の数を全て鏖殺して進むというのは、無駄な消耗だけを招く、いかにも非効率で愚かしい行為だ。

 

不特定多数との連戦は間違いなく疲労を招き、疲労は判断ミスと軽率な行動の呼び水となり、死に直結する。共に追放された身分である以上、今更かもしれないが、私だけならともかく、彼らに死線の上を歩かせるのは最低限度にしてやりたい。傲慢と言われようと、それは譲れぬ分水嶺だ。

 

あるいはこの場所から宝具の狙撃にて、一方的に街中や、あるいは円蔵山を攻撃するという手段がないわけでもないが、攻撃に反応して奴らが思いも寄らぬ行動にでる、あるいは、攻撃で祭壇の様なものが崩壊してしまっては、本末転倒だ。

 

ならばこの際における最善の手段は、暗殺者よろしく魔のモノに悟られぬように心臓部へと近づき、宝石にて封印してしまう事だろう。とはいえ、この場より最短距離にて柳洞山地下にあるだろう封印の場まで駆けつけようと考えたのならば、まるで血栓の如く目詰まった奴らの監視を掻い潜って柳洞寺に辿り着かねばならない。

 

新都を隠れて散策するだけならまだしも、それは難しい。新都の側から円蔵山ある深山町の方へと向かうには、二つの街を繋ぐ唯一の場所である冬木大橋をわたる必要がある。しかし橋の上では、犬型の魔物が我が物顔で闊歩しているし、また、その先にある深山町は、道という道に奴らが這いずり回っていて、もはや巣窟だ。

 

地形に沿って真正直に進むなら、まずもって戦いは避けられない。といって川を渡るのも悪手だ。幅のある川はそれなりの深さがあり、私とて一足飛びにて超えられない。渡河のさなか足をつくことのできない状態で奴らに気づかれたのなら、死はまぬがれられるまい。

 

また、群体じみた奴らの事だ。一匹にでも姿を認識されれば、情報は一瞬のうちに共有される可能性もある。獣ごときにいくら襲われようと負けぬ自信はあるが、ぐずぐずしていると、この層の番人や言峰綺礼、魔のモノが直々に円蔵山より出てくる可能性も考えられる。

 

アーチャーの名を冠する私ならば、高度と視界さえ確保できれば、見つかった時点で、その地点から敵の本拠地にまで一挙に宝具を打ち込むことも可能であるが、もし万が一、言峰や魔のモノが彼女の宝具を再現していたのならば、遠距離による宝具を用いての勝負に持ち込むのは悪手だろう。

 

前回のバーサーカーの宝具の再現において、十二あるはずの試練が一つ足りなかったことから、流石の奴らも、格の高い英霊の宝具や能力は完全に再現できないのだろう、と楽観気味な推測もできる。

 

だが、それでも、アーサー王たる彼女の宝具、魔力を光に変換し、超高密度な光の断層を生み出して敵を討つ神造兵装「約束された勝利の剣/エクスカリバー」と、次元遮断により物理攻撃をシャットアウトする、無敵の完全防御兵装「全て遠き理想郷/アヴァロン」が、ある程度以上の性能を再現されているとすれば、私の遠距離射撃など無力化され、返す刀で私はおろか、彼らごと消滅してしまう危険性もある。

 

セイバーすなわちアーサー王の伝承から、この度いかなる獣が出現するかのおおよそ予測が付いたので、対策として有用そうなアクセサリーを持ってはきたが、果たしてそれが彼女の攻撃にどこまで耐えてくれるかは、それこそ天のみぞ知る話である。

 

―――とにかく、それも彼女と対峙しなければ意味のない話。

 

話を元に戻そう。まず目的地にたどり着くことこそが肝要だ。

 

かつてのように、この身が英霊というエーテルで構成された体で、また、未知なる敵という存在がなければ、パラシュートでも投影してこの天高き場所から柳洞寺目掛けスカイダイビングよろしく飛び降りるという強引な突破を試みても良かったかもしれない。

 

だがあいにく、私は現在、生身の肉体となっており、また、同様に生身の体である仲間がいる今、空中で身動きの取れない状態に陥る、あるいは着地の際に衝撃を殺しまでの瞬間、無防備な時間を作る事になるその案は、いかにも下策であるように思える。

 

一人で考えるも、まるで名案というものは思い浮かんでくれない。私にとって、状況が特異かつ常識はずれすぎて、知識から答えを引っぱり出せないのだ。

 

―――さて、どうしたものか……

 

「どうした、進まないのか? 」

 

安全な暗殺の方法を考えていると、ダリが後ろから話しかけてきた。振り向けば地上の様子を眺めていた彼等は、いつの間かすっかり元の調子を取り戻している。

 

「いや……、あれをどうするかと思ってな」

 

眼下の霧の街の適当な場所を指差すと、彼等は不思議そうに首を傾げて尋ねてくる。

 

「あれ……とはなんだ? 」

 

―――ああ、そうか、通常の視力では街の詳しい様子を見て取ることができないのか

 

「―――、今、君たちが一望していた街の中、特に片側の方、霧の中を赤い光が蠢いていただろう? あれらは全て魔物だ」

 

告げると彼等はすぐさま言葉の意味を理解すると、それが示す答えを予測して顔を顰めてみせた。唯一、楽師の彼だけが、涼やかな常と変わらない笑みを浮かべている。

 

「おいおい、まじか。灯りじゃなかったのか……。どんだけいるんだよ……」

「なるほど……、確かに目凝らしてみれば、動物の動きをしている。目的地もわからんのにあれ全てを相手にしての探索は馬鹿げているな。まずは方針を立てるのが先決か」

「そうですね……、今の私たちは手持ちの道具も限られていますし……」

 

一同は、私の告げた言葉を当然のように事実として受け入れた。その行為に、彼等から私に対する無条件の信頼を感じて、私は少しばかりの歓喜の感情を抱いた。

 

「いや、目的地なら検討がついている」

「……なに?」

 

だから、私も彼らを信じて、素直に情報を提示することにした。

 

「あそこだ。東西に広がる街の、田園が多く広がっている方の山の上を見てくれ」

「―――少し離れた場所に、池らしきものがあるな」

「ええと、でかい平屋の建物もある」

「そうだ。その場所だ。街の全景を見ると、その場所を中心に放射状で敵の数が増えていっているのが分かるだろう? おそらく、その密度の最も濃い場所の中心地、つまりはダリの言った、円蔵山にある池の、その地下にある大空洞―――通称「竜洞」に、敵の親玉が潜んでいるものと思われる」

 

柳洞寺の裏手を指差してみせると、彼等はその場所を目視して大まかな場所のみ確認したのち、私の方に向きなおして尋ねてくる。

 

「本拠地の見当をつけた理屈はいいとして、君はなぜ地形の名前を知っていて、地下の空洞があり、そこに潜んでいるといいきれるのだ?」

「簡単な話だ。それは、ここは私が過去の時代において育った土地であり、そしてかつて同じように街中を戦場として潜む敵と戦った経験があるからだ」

 

ダリの問いに、私はやはり素直に答えた。彼等は返答を聞いてようやく全員が驚きの様子をみせたが、すぐさまそれぞれに笑いを浮かべた。

 

「なるほど、そりゃ詳しくて当然だ」

「では、頼りにしていいのだな?」

「―――ああ、勿論だ。存分に頼りにしてもらって構わない」

 

サガとダリは普通なら問い返してくるのが普通であろう事情を耳にして聞いて、なお無邪気に尋ねてくる。信頼を覆さない彼等の態度に、ようやくもって私は、不信や侮りを含まない、信頼の感情のみを返礼の中に込めて返すことができた。

 

「で、さしあたってどうするのが最も効率がよろしいのでしょうか? 」

 

ピエールが楽器を鳴らす事なく尋ねてくる。敵地、眼下に無数の敵が群がる中で大きな音を立てる愚行は避けたのだろう。飄々と皮肉を述べるだけでなく、きちんと話を前に進めるあたり、中立と傍観者の立場を謳うだけのことはある。

 

「単純化して考えよう。まずは、真正直にあれを突っ切るのを良しとするか否かだ」

「勿論、否だ」

「同じく」

「私も反対です」

「まぁ、まともな神経をしているのであればそうなりますよねぇ」

 

返ってくる否定の意思に苦笑いしながら、私は再度問う。

 

「さて、ではどうする? この階段を下った先、新都より本拠地に向かうためにはあの川を渡過してやる必要がある。装備を脱いで無防備な状態で川を泳ぐは悪手であるし、敵の屍山血河を築く覚悟がなければ、あそこまで辿り着けんだろう?」

 

我ながら意地悪く聞くと、全員が律儀に思考を開始する。その様子を微笑ましく見守りながらも、私も最高の答えを編み出すべく、しばしの間、己の思考に没頭する。

 

やがていくつかの応答の後に編み出された彼等の回答を得て、なるほど、奇策とは常に己の常識の慮外に存在するのだなと感心する。同時に、私の常識からすれば外れた事実を前提とする案を提出する彼等は、私とは似たようで異なる感性を持つ存在であることを認識させられた。

 

 

「本当に、いいんだな? 」

 

投影した弓を構えつつ尋ねる。彼等より提案された策には、正直、今でも多少の不安を抱えているが、彼等を完全に信じるならば、今のところ最善の策であるように思えた。

 

「大丈夫だって、お前の能力とこいつのスキルがあれば、いける、いける」

「うむ、この距離で、というのは初めてだが、まぁなんとかなるだろう」

 

サガの軽口とダリの言に嘆息すると、足元よりどこまでも長く伸びた鉄の鎖の行方を追いかける。頭上に開いた穴の奥にまで伸びたその蛇腹の鉄鎖は私が投影したものだ。

 

穴へと伸びた鎖の先端は百に分離しており、先端の剣には簡単に抜けないよう返しを大量に施し、その上でステンドグラスの間と、この場所へと続く短い洞窟の、あらゆる場所に埋め込んである。そして洞窟の中から私の手元へと続く鉄鎖は、私と洞穴の段差の上に数十往復ものしていて、重なり合って山脈を作っていた。

 

「じゃ、ちょっくら、仕事してくる」

 

言うとサガは洞穴の中に消える。

 

「氷結の術式!」

 

そして聞こえる彼の声とスキルの名称。その後、大気中の水分を急激に凝結した際の、擦れた耳障りな甲高い音がしたかと思うと、天井が多少揺れる。その後何度か同じことが繰り返されたかと思うと、やがて彼が出てきて、もういちど同じことを行い、洞窟は完全に氷にて完全に封鎖されてしまった。

 

「おまたせ。上の方は特に念入りに氷を張っておいたぜ」

「フリーズオイルをばら撒いて、鎖にも塗ったので、多分、強度も……うん、大丈夫です」

 

サガはアムリタという己の精神力を回復すると言う秘薬を飲みながら、軽くいう。フリーズオイルとは、本来武器に塗り込むことで、切った部分を凍らせる力を持たせる道具だ。それを今回、鎖と杭に塗ることで、より二つがより強固に土壁面とくっつくようにしてあるのだ。

 

響は鎖に塗り込んでいたオイルの効力が発揮を確認する。やがて準備完了の合図とともに、彼女は通常なら矢羽のある部分が先の鎖と繋がっているその矢を、凍りついた洞窟より伸びている細く頑丈なザイルと共にダリに渡した。

 

彼は特別製のそれらを受け取ると、ザイルを強く己の腹の装備に括り付けたのち、頷く。

 

「―――よし、やってくれ」

 

ダリの言葉を受けて、私はもう一度全員の顔を眺め、その瞳に覚悟の光があることを確認すると、私は不安を一旦別の場所へと押しやるとともに、攻撃用の矢―――すなわち剣を投影し弓に番えた。

 

視線を足元へ。はるか下にある街の中へと移す。目線を移動する際、最中、目的の場所である冬木センタービル隣の公園から少しばかり外れて、東南方向にある丘とそこにある建物が目に入る。

 

―――冬木教会……

 

因縁の敵が拠点としていた場所。私の聖杯戦争の序幕が始まった場所。私が凛によって眠りについていたという場所。そして言峰綺礼という男が凛を処分したという場所。それを目にしたことで、私の心中にあるテンションのボルテージは一気に上昇する。

 

そう、これだ。今必要なのは、敵の急所を気取られず静かに貫く為の冷静さではなくて、戦意を叩きつける挑戦的な烈火の意思だ。

 

「了解だ……!」

 

湧き上がった憤怒の思いを矢に乗せて、鏃の先端を目的の場所へと修正する。やがてその先端が寸分違わず公園の中心をさしたと同時に、私は弦持つ手から力を抜いて、矢を解放した。

 

射出された無名の宝具は、私の強化魔術と重力の力を受けて、瞬時にはるか眼下の地面に突き立つ。投影した武具が懐かしの大地と接触したのを見切った瞬間、一言を呟いた。

 

「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」

 

この度矢として使用した剣は、ランクの低い宝具に過ぎなかったが、それでも夏の短夜に支配された街の闇を、一瞬だけ光で支配する程度の効力は持っていた。やがて響き渡った爆裂の音色と広がった光が失せた時、大地に蠢く魔物どもは異常事態に気がついた。

 

「――――――!」

 

真っ先に反応したのは、公園周辺の魔物どもだった。己の領域に対する突然の暴力行為に、怒り狂った雄叫びがあがる。それはやがて橋から深山の街を遡って、柳洞寺の間にいる魔物どもへと伝播し、奴らは次々と活性化してゆく。

 

しかし異常信号が山に到達した後、魔物たちは一斉に山側から静まり返ってゆく。そして赤の光の波が、深山に街から新都の方へと動き出す。異常の報告を受けた司令部が侵入者排除の命令を出したのだろう。

 

しばらくの間、血液が循環する如き様をしばらく眺めていると、やがて強化した視界に、深山の街にいた多くの魔物が新都に進行しながら、攻撃が具体的には何処より行われたものであるか探る視線を周囲に向けているのが映る。

 

頃合いを見計らって、剣にショックオイルを塗った後、先ほど同様に数度も矢を連続して叩き込む。雷の属性を身にまとった矢は、空気との接触により尾を引いて夜の闇に輝きを残すと、すぐに地面と接触する。それと同時に剣を爆裂させた。

 

「――――――!」

「―――!」

「―――――――――、―――!」

 

闇の中を切り裂きながら下降する矢は、奴らにこの暴行を行った下手人が、冬木にて最も高いビルの屋上、その天井より続く階段を登りきった場所にいると悟らせた。視線の集中を感じて、わざとらしいまでに殺気をばら撒いてやると、直後、近場にいた奴らは、怒り狂って結晶化したビルの内部へと飛び込んだ。

 

闇の中、奴らをその内部に取り込んだビルは、振動と赤い光で奴らの進行状況をつぶさに知らせてくれる。ビルがうねる場面など、大地震か解体現場以外でお目にかかれるまい。

 

「―――来た……!」

 

奴らの殺到により屋上の扉が障子紙のように突き破られた瞬間、彼らに合図を送る。ダリは先ほど仕掛けを施した矢を私に手渡し、そして自らは伸びた矢より伸びている鎖の連環を軽く手に握った。

 

響とピエールは、鎖を掴むダリの体が、手すりのない階段からずり落ちないよう、片手でしっかりと彼の足を掴み、もう片方の手でつるりとした階段の断面を持ち、己の体を固定した。サガは一人、彼らのさらに下の段の部分で解放した籠手を、眼下へと構えていた。

 

「ではいくぞ……!」

 

彼らの準備が滞りなく終わっているのを確認すると、私は矢羽の部分に鎖のついた矢を番え、過剰と思えるほどに強化を施すと、弦より射出した。過剰な重さを後方に加えられたそれは、しかし空中を三秒かけて十キロ程度直線に進み、やがて自重と後ろに続く鎖の勢いに負け、放物線を描いての落下を開始する。

 

「―――ぬ、……ぐぅ、……っ! 」

 

ダリの役目は釣り竿のリールのそれに近い。作戦は、射出した矢に繋がる鎖が絡まってしまえばそこで終わりである。故に決してそんな事態にならぬよう、ダリはその両手と全身にて鎖が円滑に矢の後ろについていけるよう、己のスキル、フルガードによって鎖がスムーズに宙へと飛び出せる様、サポートを行っていた。

 

だが彼の足元はつるりと滑る階段であり、踏ん張りが効きにくい。ジャラジャラと音を立てる鎖の勢いに、ダリの全身はガタガタと揺れて、今にも滑り落ちそうだ。そこで、響とピエールの出番だ。

 

二人は、彼の体が決して動かぬようにと彼の金属鎧に包まれた足を抱え込み、さらには二人が使用できる日常レベルの氷術にて彼の足元を階段ごと凍らせ、固定の状況を保っている。彼らが必死の形相でダリが滑落しないよう、振動を抑えていた。

 

やがて彼らの献身の甲斐もあって特別製の矢が地上へと着弾すると、後部にひっついていた鎖ごと地面に深くめり込み、鎖がぴんと張り詰めたくらいで停止する。固定化がうまくいったのは、フリーズオイルが、矢が地面へと突き刺さった瞬間、その周辺を凍らせたおかげでもあるのだろう。

 

そしてこの場所と目的地であるかつて穂群原学園と呼ばれた学び舎の校庭との間に出来上がったのは、一辺だけが多少歪んだ直角三角形だ。

 

「炎の術式!」

 

直後、サガが巨大な機械籠手を装備していない方の手でスキルを発動した。籠手の力を利用せずに放たれたそれは、それでも氷を蒸発させる威力は十分に持ち合わせていて、すぐさまダリの足とサガ、響の手の氷は溶かされ、彼らは自ら作り出した氷の戒めより解放される。

 

「―――っ!」

 

ダリが少しばかり苦い顔を浮かべた。炎の余熱が鎧を伝わって多少彼に害をもたらしたのだろうか。だが彼はその痛みを転機とすると、天井より地面にまで伸びた鎖の上に自らの槍を引っ掛けると、鎖を跨がせた柄の部分をしっかりと握りしめ、命綱となる紐もカラビナも付けず、階段より中へと身を投げ出した。

 

「はっ! 」

 

私はすかさず彼の体に巻きついているザイルを手に取り、確保し、そしてダリの背中を強化した脚で、おもいきり蹴り飛ばした。金属鎧と靴底の鉄板がぶつかり合い、鈍い音をたてる。蹴りにより勢いを増した彼の体は一瞬真横に進むが、すぐさま重力の影響を受けて下方向へと落下すると、槍が鎖の上を滑り、グラインドを始めた。

 

「―――ぐぉ、お、……おぉ、…………おおおおぉぉぉぉぉ―――」

 

そして彼は、冬木の夜の闇の中を滑空する。背後よりの衝撃に流石に声を抑えきれなかったのか、彼は声を漏らしながら、角度のついた鎖の上を滑りゆく。事前にフリーズオイルを塗り、槍と鎖の間に生じる摩擦と抵抗は極限まで減らしてあるためだろう、その動きは思ったよりもずっと滑らかだった。

 

「っ!」

 

同時にダリの落下エネルギーが速度に変換され、彼の下降に伴って、ザイルが飛び出る勢いも増してゆく。今度は私がリールの役目をする番である。彼を蹴り飛ばした後、階段を踏みしめた足には、響とピエールが先ほどと同じ様にひっついていた。ダリと違い、金属製の鎧で足を覆っていないため多少足が冷え込むが、まぁ、必要経費というものだろう。

 

彼らの援護もあって、体が階段より滑り落ちることはない。また、ザイルにはフリーズオイルが塗られているため、摩擦と熱の痛みは軽減され、滞りなくその細身は宙に飛び出していく。わけだが、そのフリーズオイルのおかげで私は、手が削られ、焼かれながら、瞬時に凍りついてゆくという、初の体験を味わうこととなった。今更ながら厚手の手袋を投影しておけばよかったと後悔するも、もはや遅い。

 

振動と共に訪れる不可思議な痛みを感じた脳は、手中にある理解の及ばぬ存在であるザイルを手放せと警告を鳴らしてくるが、彼が地面に着くまでの間は絶対に放してやるものかとその命令を無視する。また、手中にて行われている、凍った端から溶けて、また凍るという行為により、私の手は見る間に薄く赤い氷に包まれてゆく。

 

「あの、すごいことになっていますけれど、本当に大丈夫ですか……?」

「ああ、なんてことはない……それより見ろ……」

 

その光景はこの世界の住人である響にも異常と映ったらしい。気遣ってくれた彼女に強がりを返し階段へ視線を向けると、私の視線に意識を誘導された彼女は、気づき、叫ぶ。

 

「敵が! 」

「任せろ、一直線の階段なら、いくらでもやりようがあらぁ! 氷の術式! 」

 

すぐさま階段より押し寄せてくる敵に対してサガが氷の術式を解き放った。彼の眼前より前方に巨大な氷塊が生まれ、それは綺麗に階段を沿って転げ落ちてゆく。

 

それはやがて登ってくる獣どもを押しつぶしてセンタービルの屋上にまで移動すると、屋上の一部壁面を粉砕しつつさらに向こう側に飛び出して、地面へと落下してゆく。まるでハリウッド映画のワンシーンの再現だ。

 

「すごい……、敵が見る間に落ちてく! 」

「はっはっはぁー! 遠距離から狭い場所で一方的に嬲れるならこっちのもんよ! 」

「それ、自慢げに言える事ですか? 」

 

どこぞの考古学者味わった様な苦しみを経験した獣は、悔しさに遠吠えをあげながら落下してゆく。そんな光景を目前にして繰り広げられる緊張感のないコントのバカバカしさに、多少苦痛が軽減されるのを感じていると、やがてその衝撃は唐突に消え去った。

 

ダリだ。おそらくザイルの結びつけてある彼が、落下による凄まじい衝撃をパリングのスキルで受け流したのだろう。つまり今、彼は地面に降り立ったのだ。そして眼下、獣どもが蠢いていた冬木の街を見てやると、今や魔物のほとんどが新都にやってきていて、ビルの下にて群がっている光景が目に映る。

 

ただ敵の一部ではあるが、ダリが山の近くにある穂群原学園に降りたった所業を見て、慌てて身を翻して山側の方へと引き返している魔物もいた。獣の移動速度は速いが、とはいえ、これだけの距離があれば、我々が彼に続く時間くらいは稼げるだろう。

 

「そら、順番が来たぞ! 」

 

とはいえ時間が惜しいのも確かだ。急がせなければならぬと三人に呼びかけると、サガは先ほどと同じような動作で二人の氷の縛を解除すると、サガとピエールは己の体につけたカラビナと安全綱を地面にまで伸びたザイルに引っ付けて、二人は迷わず飛び出して行った。

 

「では、お先に失礼」

「後でな! 」

 

事前に薬にて物理の耐性を上げてあるとはいえ、よくもまぁ、四キロもの上空から迷わず身投げを行うものだ。スキルというものに絶対の信頼を置く態度にはやはり感心してしまう。彼らにとって、スキルが効力を発揮するのは、呼吸をした際、肺が酸素を取り込むのと同様に当たり前のことであると知りつつも、驚きの感情が生まれるのを抑えられない。

 

などと考えていると、残る一人の少女がザイルに身を確保した状態で飛ぶのを躊躇っていることに気がついた。彼女は足元を見て体を震わせ、目を瞑って天井を見上げ首を振ると、力を込めて無理やり目を開けて眼下に視線を落とし、そしてもう一度全身を震えさせて階段にへたり込んだ。

 

「―――怖いか」

「あ……、はい」

 

問うと彼女は思いの外素直に返答してくれた。

 

「無理もない、この高度だ。よくも彼らは、ああも戸惑いなく飛び降りられるものだ」

「迷宮の外では大地にぽっかりと穴が開いているので、深い場所にでも調査のために降りていく機会もあると聞きます。彼らにはその経験があるから、迷わずいけるのでしょう……」

「ふむ」

 

なるほど、そういえば迷宮にて探索と戦闘と地図作成ばかり繰り返していた故忘れていたが、冒険者とは本来、そういう外部での活動こそが本来の彼らのあるべき姿だったと習った事を、今更ながらに思い出して納得する。

 

「なるほど、そういえば、君は正式な戦闘職とやらではなかったな」

「ええ、ですからこういったことには慣れていなくて……」

 

震える彼女は、しゃがみこんだ体で下を見ると、己の体を支えているものが、透明な素材で作られて薄い板である事を今更ながらに思い出したようで、余計に全身を大きく小刻みに震わせる。

 

気丈にも弱音だけは吐かない彼女に何か声をかけてやろうかとすると、雄叫びが耳朶を打って不快な遠吠えが耳の中に入り込んでくる。音量に反応してそちらを見れば、階段の半分以上を奴らは行儀よく並びながら進軍して近づいて来ていた。

 

私はいつもの双剣、干将・莫耶を投影すると、振りかぶって思い切り奴らに投げつけた。

 

「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム―――、そら、行くぞ!」

「え、きゃっ! 」

 

爆裂が敵を包み込むと同時に、私は彼女を抱えて空中に身を翻す。フリーフォールというには角度が柔らかすぎるそれは、しかし背後にて起こった爆発の勢いと私の強化した足の勢いにより最高の初速度を伴っての滑り出しによりすぐさま風切る速度となる。

 

「きぃやぁあああぁぁぁーーー、んむぅ……」

「黙ってろ、舌を噛むぞ」

 

突然の暴挙に口を閉じるのも忘れて悲鳴をあげていた彼女の口を、顎を抑えて無理やり閉じてやると、再び意識を前方に集中する。

 

―――ふむ

 

そうして自由垂直落下よりは大分安全な空中散歩の途中、眼下に広がる深山の街中に見覚えのある豪華な屋根を見つけて、ひどく懐かしい気分を抱く。

 

―――そういえば、凛に呼び出された直後も似たような体験をしたものだったか

 

うっかり家中の時計の針をずらした事を忘れたせいで、己のコンディションが最高になる時刻を間違えるというミスをやらかした彼女に呼び出された私は、一体彼女がどういうミスをやらかしたのかは知らぬが、眼下にある丘の上に目立つ、遠坂家のはるか上空へと投げ出される羽目になったのだ。

 

やがて落ちた衝撃にぶち壊れた居間の清掃を彼女に命ぜられた私は、次の日、彼女の望み通り普段通りの生活をこなしながら英霊ひしめく戦場へと赴き、そして、その夜、この度目的の場所としている穂群原学園の校庭にてランサーと戦闘をしたのを皮切りに、私と彼女の聖杯戦争は本格的に始まった。

 

―――これもまた縁というやつなのだろうか

 

冬木の中でも特に縁ゆかりある場所に想いを馳せながら、最終決戦の火ぶたを切るというのはなんとも運命的だ。そんなセンチメンタルに駆られた私は、直後、我ながら似合わないなと自嘲し、内心にて笑い飛ばす。

 

「見えたぞ」

「ん……!」

 

現実に意識を戻すと、彼女の顔に添えていた手を動かし、到着の時が近いことを教える。硬く閉ざされていた響の目がうっすらと開かれ、直後、彼女はその目を大きく見開いた。おそらく、凄まじい速度で景色が過ぎ去ってゆく光景に驚いたのだろうと推測。

 

やがて四十秒ほどの滑空の終着地である校庭に、ダリの姿が目に入る。二秒ほどもしないうちやってくる衝撃の瞬間に備えて姿勢を整えると、彼は盾を構え、防御の姿勢をとった。

 

「――――――パリング! 」

「――――――」

 

物理攻撃をシャットするこのスキルを駆使して、己が着地の際の衝撃をかき消し、またこうして味方を受け止めるというのが、今回の大幅ショートカットの肝だ。スキル発動直後、我々の体が彼の盾に触れた瞬間、すでに音速の速さを超えていた我々の体に秘められていた威力は全て消え去り、彼の盾の前にて自然に停止した。

 

なるほど、調査や探索を行う衛兵という職業につくものの、大半がパラディンのように盾持つ理由がよくわかる。不意の事態、つまりは、落とし穴だの足を踏み外した際にも、生存の確率を大いにあげることが出来るが故のものなのだろう。

 

やがてスキルにより動きの自由を奪われていた私が、己の体に重力が正常に働いたのを自覚すると、身を預けていた盾を離れて地面に降り立つと、腕の中にいる響が一瞬ぐらついた。

 

衝撃はなかったはずだが、あるいはこの長距離空中スライダーの速さに酔ったのかと、体を支えようとするが、彼女はよろめいた体をふらついた一歩で踏みしめると、己の意思で見事に地面の上に体を固定した。

 

「いけるか?」

「勿論です」

「では早速」

 

そうして彼女が戦意を失っていない事を確認すると、ピエールがスキル「韋駄天の舞曲」を発動する。我々の全身を巡る血液の循環が早くなり、酸素の運搬量が増え、行動速度が上昇する。

 

「―――よし、では行こう。案内は……」

「ああ、任せておけ―――、こちらだ」

 

身体能力向上を確認したダリの言葉を受けて、私は校舎裏の林を指差した。すると、背後より連鎖する獣どもの遠吠えが共鳴して、我々の身を包み込んだ。そう易々と行かせてたまるものかと、叫んでいるようだった。我らを取り囲んでいる湿った空気に、進軍を阻んでやると言わんばかりの圧力が伴った。

 

「目的地はすぐそこだ―――、行くぞ」

「まてまて、そう慌てるな」

 

その不快感を無視して宣言すると、彼らが頷くより先に、獣どもの咆哮よりもはるかに小さな低く重く、そして不快な声が、反響する高音の中をも通り抜けて、耳朶を打った。計画通り高所より無事に着地し、大幅な時間と手間の短縮に成功した喜びは瞬時に消え去り、常とは真逆のベクトルを持つ感情の波が心中に溢れだす。

 

「つれないではないか。客人の来訪に備えて大勢を引き連れて歓迎の準備を整えていたのに、主賓に会場を素通りされてしまっては、白けてしまうというものだ」

「貴様―――」

「他人の善意を己の都合で無碍に台無しとするのは、正義の味方らしからぬ、恥ずべき行為だと思わんかね? なぁ、エミヤシロウ」

「言峰綺礼……! 」

 

奴の語る巫山戯た内容の話など頭の中に入ってきていなかった。振り向き眼球が奴の実体を目に収めた瞬間、一気に沸点を通り越して爆発した殺意は、一秒でも早く眼前の不快を取り除けと間断なく命じてくるが、溢れんばかりの膨大な感情の奔流を意思の力をもってして抑え込む。

 

瞬時に敵めがけて飛びかからんとする己の不用意な行動をそうして抑制できたのは、生まれた感情を殺すという作業が、生前も、死後も、心の外殻が擦り切れ、抱えていた理想を磨耗して見失ってしまうほど繰り返してきた手慣れたものであるからだろう。

 

―――焦るな、奴の言動と性格を読めば、何らかの罠が用意されているのは明白だ……!

 

悪辣の権化たる性格の男が、なんの策もなしに、敵前へと姿を晒す事など考えられない。

 

―――だから、奴を殺したければ、急くな、焦るな。条件が整うまで、その時を強かに待て。

 

「―――くくっ、心地よい殺気だ。お前の苦悩が手に取るようにわかるぞ。……どうした? 目の前に貴様のマスターを殺した憎っくき仇がいるのだぞ? その身の内に溜め込んだ激情のままにこの体を切り裂けば、今、貴様は本懐を遂げる事ができる。さらにはその上、主人に忠実なサーヴァントとして、義理も果たせる。そんな絶好の機会だろうに」

「――――――っっっ! 」

「ああ、それとも、やがて目的達成による快楽をより良きものにするため、限界まで我慢をするタイプであったのか? 排泄行為は、対象を溜めこむほど、多ければ多いほど、その後、体外に排出する際に一層の快楽をもたらすからな。―――く、く、くく、はは、ははははっ」

「―――貴様……!」

 

怒りに歯軋りをすると、高笑いが返ってくる。奴の一々全ての行為が、私の脳裏にて不快の感情の源となり、キリキリと万力で締め上げられたような痛みが頭全体に響き渡る。

 

絶え間なく押し寄せる不快の感情を押しとどめるべく、上下の歯が互いに押し合う力で突き抜けてしまいそうなほどに噛み締めると、挙動から私の内心を見破った奴はさらに愉悦の感情を増幅させたようで、高らかに笑って見せる。その事実に私は不快の感情をより高めた。

 

「―――エミヤ。あれはなんだ」

 

投げかけられる疑問の声。我々の不毛の問答に割り込んだダリの冷静な声に答えるべく、脳は怒りの感情を沸騰させることにのみ利用していた熱量を思考に割り振り、お陰で私は少しばかり冷静さを取り戻す事ができていた。

 

「言峰綺礼―――、他者の絶望と苦悩を己の喜びとする男であり、私の仇敵であった人間であり―――いまは、魔のモノの手先となっている奴だ」

「そうか。つまりは我々の敵という事だな」

 

ダリの、戦闘移行動作がスムーズに行われる。彼が言い切ると、応じて全員が戦闘態勢に入る。一様に注意の視線を集めた言峰は、その場にいる敵対者全ての目線が己に集中した途端、薄ら笑いを浮かべた。

 

思い通りに事が進んでご満悦と言った言峰の表情から不穏の空気を読み取ると、奴が登場した時の台詞を思い出して、納得した。

 

―――なるほど、これが狙いか

 

「そう、私が倒すべき、最悪の性格をした敵だ。だから、君たちは先に進め」

「なに? 」

「……」

 

返ってくる疑問の声を一旦保留して視線を言峰の方へと送ると、奴は先ほどの笑みは能面に貼り付けたかのような不自然な無表情のものへと変化していて、それが私が看破した予測の正しさを証明しているようだった。

 

「私たちの勝利条件は、宝石にて魔のモノを封印すること。対して、魔のモノの手先になっている奴の勝利条件は、それを防ぎ我々を殺害すること。慎重を期して裏方に徹し姿を隠してきた男が姿を舞台に現れたというなら、それは我らの進んでいる方向が間違っていないのを示しており、我々の行おうとしていることが奴、すなわち魔のモノにとって都合の悪いことでありのだと認識してよかろう。―――、受け取れ」

 

言いながら赤い宝石を胸元より取り出すと、響という少女めがけて投げる。彼女は少し戸惑いながらもその巨大なルビーをしっかと受け取った。放物線を描いて空中を進んだ宝石を見た言峰は、私が彼女の宝石を手放した事が意外の事態だったのか、驚く様子を見せた。

 

「エミヤさん、これは……」

「行け。それを使う場所は、おそらく大空洞にある」

 

円蔵山の方向を指差して断言すると、言峰と真正面から対峙する。奴は能面の表情を崩さない。互いが不倶戴天の敵とする相手に向ける双方向の殺意が満ちる中、言峰の背後の闇の中から雄叫びと咆哮が響き、地面を揺らした。それは背後の彼らを動かす合図となる。

 

「……、作業を終えたら、すぐに戻ってきます」

「ああ。―――いや、不要だ。私もすぐに因縁にケリをつけてそちらへと向かうさ」

「了解だ―――死ぬなよ、エミヤ」

「ご武運を」

「負けたら承知しねーぞ! 」

 

彼らそれぞれの思いをこちらに投げかけて遠ざかって行く。私は気配と声が遠のく様を聴覚と触覚で捉えながら、他の感覚全てを言峰へと向けていた。

 

奴が彼らの進行を防ぐため動こうというそぶりを見せた瞬間、その隙を狙って即座に斬り捨てる予定であったが、予測に反して奴はまるで動かず、ただじっとこちらを見たまま、姿勢を崩さない。その予想外の挙動がひどく不気味だ。奴の目論見が読めない。

 

「―――何が狙いだ」

 

やがて校庭から彼らの足音が聞こえなくなったのを見計らい、私は奴に問いかけた。するとは奴は、ようやく顔面の筋肉を動かして、抑えきれない愉快を表すかのように、くっくっ、と唇を歪めて、呼気を漏らしながら言う。

 

「今しがたお前が見事言い当てたではないか。その通り、私の目的は足止めだ」

「ならば彼らが進むのを見逃した」

「見逃した……? 」

 

言葉に奴は、笑みを深める。

 

「何がおかしい」

 

自然体に開かれていた両肩を左右に揺らした。暗がりの中、奴の笑い声はやがて整った腹式呼吸のものとなり、自然体は徐々に戦闘を見据えたものへと変化する。カソックの奥で、体の揺らぎが徐々になくなって行く。

 

「いや、なに、獲物が思い通りの罠に嵌ってくれたのだ。思い通りにいった愉快を笑うなとは、酷と言うものだろう。……なぁ、エミヤシロウ。なぜこう考えようとはしないのかね? 私は今、予定通りに、奴らと貴様分断し、そのうえで貴様を足止めできているのだと……!」

「……! 」

 

思いがけぬ言葉に意識が彼らの方へと向かった私の一瞬の隙を狙って、奴は私に襲いかかってくる。聖堂教会の代行者たる奴が収めている戦闘のスタイルは、八極拳。傷を開く事が得意な奴にぴったりの、相手の守勢を打ち崩し、急所への門を開かせる武術だ。

 

奴は丹田に溜め込んだ気を胸の中にて爆発させ、一息でこちらの間合いに飛び込んでくると、両腕を左右の掌を上に独特の構えから、左足にて地面に踏み込むと同時に、その勢いに乗じて縦拳が突き出される。

 

「―――っ!」

 

発勁とともに顔面めがけて繰り出された右拳による点の攻撃を、強化を施した片手で払ってやろうとすると、奴の拳が開き、私の左腕に絡み付こうとしてきた。蛇の絡みつくような所作に悪寒を感じて、無理やり体を後ろに逸らして引っこ抜くと、崩れた体制のところ私の無防備な脇腹へと左の拳が突き入れられる。

 

「―――ぐっ!」

 

本来ならば、振り払った私の手を掴み、体を引き込んでからの左崩拳、右拳、右肘の連撃だったのだろう攻撃は、私が手を体ごと後ろに引いたことにより、不完全な一撃に終わっていた。右の脇に鈍い痛みを感じつつも、強化をした足で数十メートルほど後ろへ跳躍し、奴と距離を取る。奴は怪訝な顔を浮かべたが、すぐさま納得の様子で頷いた。

 

「これを避けるか……―――そういえば、貴様は凛の弟子でもあったか」

「おかげさまでね」

 

己の連続攻撃の仕掛けが見破られた要因に思い当たったようで、呟いた言葉に対して、律儀に予測が正解であることを答えてやると、奴はつまらなそうに舌打ちを一つ漏らした。少しばかり胸のすく思いがした。

 

かつて私のマスターであった凛という少女は、目の前にいる言峰綺礼という男から八極拳の手ほどきを受け、その戦闘技術を習得していた。そんな彼女が魔術の秘奥を研鑽するためにロンドンに留学していた頃は、しょっちゅう練習がわりの組手に付き合わされたものだから、八極の散手の基本的な流れくらいなら私も読み取れる。

 

とはいえ奴が人体破壊のため独自にアレンジを加えた八極拳は、凛のそれとは比べ物にならない修練と功夫の積み重ねにより、彼女より更なる達人の域にあるものだが、とはいえ基礎的な部分は変わらない。師より受け継がれた流れと呼吸というものはどうしても似通ってくるものだ。

 

つまりは、皮肉にも、奴が戯れに凛に武術の手ほどきをした事が原因で、私は今の攻撃を最小限の被害にてやり過ごす事が出来たというわけだ。

 

「投影開始/トレース・オン」

 

即座に常の武器を両手に投影して両腕をだらりと落とした戦闘体勢に構えると、奴も呼応して、再び肩幅を開いて自然体に戻り、丹田に気を練り始めた。奇襲による一撃を防がれたからだろう、やがて片手を前に突き出す、徒手空拳多くの武術に共通する構えへと移行する。

 

「不意の一撃故遅れをとったが、二度目はない」

「どうかな、わからんぞ。武は矛を止むるを以ってすとは、かつて春秋左氏伝の誤解が多く世に広まったが、本来、矛にて困難を切り開いて荒々しく突き進むことこそが武の語源だ。ならば、鍛錬を積み重ねれば、あるいは武術が強者を打ち崩す矛となるのは道理だろう? 」

「は……、外道に堕ちた神父が道理を語るとは笑わせる」

「道理、真理というものは常に人の属性、在り方などとは別のところにある超然としたものだ。その程度のことも理解していないとは、さては貴様、外道に属する悪人の私などより、余程、人という存在から遠き場所にいるのではないかな?」

「ふん……」

 

罵声の応酬は、互いが呼吸を整えるための時間稼ぎに過ぎない。存在を否定し合い、敵意が一欠片も減じていないことを確認し合うと、やがて奴の攻撃が繰り出される前に、自らの両腕と刃先が届く間合いを確認して、体の中心を軸とした球の範囲に迎撃の意識を集中する。

 

交差する夜闇の中、攻守のどちらが有効になるか考えていると、それを遮るようにして、耳の中に遠吠えが飛び込んでくる。敵の群れが近い。意識を微かにそちらへ配ると、地面を揺らす赤い大軍はもう橋を渡り、山へと続く商店街への道を直進しつつあった。

 

「よそ見とは余裕だな」

「ちっ」

 

出された沖捶からの一撃が己の制空圏に侵入する前に、刃を振るって侵攻を阻止して迎撃すると、先程よりも大きく背後に数度跳躍し、校舎の壁面に到達。そのまま窓枠に足を引っ掛けて数歩ほどで時計台の上にまで駆け上り、屋上へと到達する。

 

一旦奴から大きく距離をとったことで、状況確認の余裕ができた。すぐさま深山町を軽く一瞥すると、街中を疾走する獣どもが、波濤のごとく家々を覆いながら進む姿が目に映る。

 

―――あれを放っておくわけにはいかない

 

遡上する黒の濁流を放置しておけば、私と奴の決着がつくよりも以前に、柳洞寺に辿り着き、彼らと鉢合わせる可能性がある。広い場所でならともかく、大空洞のような閉鎖空間で中にあれが殺到すれば、先に行った彼らを待ち受ける暗い未来がたやすく予想できてしまう。

 

即座に両手の剣を腰に引っ下げると同時に、弓と矢を投影して、一旦奴らに向けて射出する。音速をはるかに超える殺意を秘めた弓と化した剣は、街中の私の思い通りの場所に着弾すると、同時に爆発を引き起こし、獣どもの尖兵を消しとばした。奴らの意識がこちらへと集中する。

 

「正義の為なら、不意打ちにて一方的な命の略奪することを躊躇わぬとは、なんとも非道だな。流石は衛宮切嗣という男の息子なだけはある」

「は、魔のモノという悪辣の権化たる存在を殺すのに、手加減と遠慮をする必要などあるまいよ。そして貴様が切嗣の正義のあり方を語るな! 不愉快だ! 」

 

いつの間にやら、屋上、時計台よりも一段低い場所にまでやってきていた言峰が、私の眼下でこちらの所業に文句をたれた。見れば、奴のそばには、先程己が吹きとばし殺した獣の同種が、数匹たむろっている事に気が付ける。やつらは赤い瞳に爛々とした殺意をたたえて、今にでもこちらに襲いかからんと、四肢の力を溜め込んでいた。

 

「さて、そろそろ処刑の時間だ。顔見知りのよしみで、最後の祈りの言葉と懺悔の時間くらいはくれてやろうか?」

「戯けたことを。貴様の口から漏れるのは、祝福の言葉ではなく、虚言と呪詛だろう。聞いたのなら耳が腐ってしまう。懺悔にいたっても、貴様なんぞに聞かせるような言葉はないさ」

「では力尽くにて無力化したのち、無理やり恩寵を与えるとしようか、エミヤシロウ……!」

「裏でこそこそ動く卑怯卑劣が本分の貴様如きにそれが出来るか、言峰綺礼! 」

 

そして戦闘は再開される。校舎の屋上にてはりめぐらされたフェンスが端々より吹き飛び、結晶化したコンクリートだった地面は余波であちこち崩れてゆく。やがて屋上を作り上げていた成分が残らず瓦礫の山になると、天井を失い露わとなった一つ下の階に降り立って、互いの殺意を込めた武器を押し付け合う。

 

かつての学び舎は、破砕音響き、瓦解して崩れ、その機能を悉く失ってゆく。崩落ごとに敵の数が増し、戦いは苛烈さを増してゆく。雑魚相手の一対多の戦闘は馴れたものだが、そこに不倶戴天の天敵が混じることで、全ての攻撃が厄介なものへと変化している。

 

戦闘は、しばらくの間終わりそうにない―――

 

 

背後より聞こえる身を竦ませる咆哮の合奏と、時折それを掻き消すかのように聞こえてくる爆発音。山の方めがけて進むたび遠ざかってゆくそれらは、自らしんがりを申し出たエミヤという男が未だに生存している証だといえる。

 

「くそっ、長いんだよ、この階段! チビな俺への嫌がらせか!」

「バカ!自虐をしている間があったら走れ! 早く! 」

 

ダリとサガは文句を言い合いながら急な階段を駈け上がっていた。山の斜面に建築された石の階段は斜度が三十度どころか四十五度はありそうな階段で、しかも所々結晶化し、柔らかく、あるいはツルツルとした表面になっているため、走って登るのに非常に神経を使う。

 

常ならそんな彼らに皮肉なツッコミを入れるピエールは、「韋駄天の舞曲」という素早さを向上させる歌スキルを効果が切れる直前を見計らって発動させ続けているが故に、詩歌以外の言葉を発する余裕はないようだった。また、私も、そんな彼らについて行くのに精一杯で、言葉を発している暇なんてまるでない。

 

「―――見えた! 門だ! 」

 

―――やっと着いた!

 

先頭を走るダリが叫ぶに反応して顔を上げると、あと五十段ほど先の石段の終着地には門が構えられていた。ようやく目的地目前までやってきた私たちは、進む速度を上げて最後の斜面を駆け抜ける。

 

「これが柳洞寺、というやつか…… 」

 

石段を登りきった後、元木造の結晶化した門を潜ると、かつては良く整備されていたのだろう敷き詰められた白石の上に、しかし長い年月の間放置されたことによって砂土と樹木の残骸が積もり荒れ果てた境内が現れる。ゴミ溜めのようになった場所の奥には、結晶化した元木造の建築物が佇んでいた。

 

「確か、この裏にある池の下に行くんだよな?」

「ええ、その付近に地下大空洞へと続く入り口があると言っていました」

 

私がサガの質問に答えると、サガは一瞬カバンに入った地図と筆記用具を取り出そうとして、しかし今は悠長に地図の製作なぞをしている場合でないことに気がつき、首を横に振って己の行動を改めると、率先して前に進む。

 

「じゃあ、とっとと行こうぜ! さっさと済ませてあいつの元にも戻らねぇと! 」

 

サガは街を見た。振り向くにつられて、私も山門の向こうに広がる街の光景へと視線を送る。暗闇の中、薄っすらと見える大地と建物が広がる街を、黒い波が飲み込んでゆく。波の正体は、赤い瞳を持つ四足獣と触手の魔物の集合体だ。

 

そんな悍ましい波打ち際より少し離れた場所にある、先程私たちが着地した広い場所であり、そして側にある崩壊しつつある側の建物の瓦礫が積もった最も上部分では、時折鋭い数条の閃光が飛び出して、押し寄せる波に呑まれる寸前の街中に等間隔に刺さると、爆発し、瞬時の間だけ短い光の柱を生み出す。

 

夜の闇に一瞬広がる閃光は、爆発で敵の進行を抑え込み、柵のように黒い波の進行を少しだけ送らせる効果を発揮した。それはエミヤという男が行なっている、敵がこの場所に達するのを防ぐ為の、妨害行動だ。

 

彼はあの瓦解する建物のある場所で、言峰という男や獣と戦いながら、私たちを守り、私たちが宝石を使って魔のモノを封じ込める時間を稼いでくれている。

 

敵と戦いながら、千を優に超える群勢を単騎で抑える手腕は、流石としか言えないものだ。しかし、そんな彼であっても、やはり万に匹敵しそうな魔物の進軍を留めるのが手一杯らしく、波は徐々にこちらへと迫ってきていた。

 

「響! 何をしている、早く! 」

 

私を呼ぶ声に振り向くと、彼らはすでに建物の方へと駆け出していた。建物はとても立派な木造建築だったようで、高さこそないものの、大きい。

 

「い、今行きます!」

 

慌てて彼らの後に続くと、建物と樹木の間を通って、かつて人の営みがあった痕跡を残す建物を横目に、裏口の方へと回る。現れたのは、闇色に染まる、黒々とした大きな池だった。

 

「で、どこなんだ、その入り口は! 」

「ちょっとまて、確か……」

 

ダリが叫び、サガが頭を片手で支える。

 

「……いえ、待ってください。どうやら、その前に一仕事終えねばいけないようです」

「なに? 」

 

サガが記憶の中から必要な情報の検出を行なっていると、ピエールは一旦歌を止めて、目の前に広がる池の水面を指差した。目を凝らすと―――

 

「……揺れてる?」

「ええ、しかもみたところ、どうも揺れは周期的であり、さらに振動は徐々に大きくなっている。これが指し示すところはつまりは―――」

 

彼がそのしなやかな指で湖面を指す。動きにつられて私たちがその先を追うと、やがて地が大きく揺れて、私たちがその対応に気を取られている最中、池の水面が大きく膨れ上がったかと思うと、爆発。

 

「なんだ!? 」

「敵襲!? 」

 

散らばった水蒸気と土砂の派手な演出とともに現れたのは、今まで見てきた敵の中でも、非常に大きな、それこそエトリアの街一つくらいの大きさはありそうな、巨大な赤い竜だった。

 

頭部の左右側頭部より伸びた山羊のごときツノは、天を貫かんばかりに雄々しく黒々とそびえ立った後、内に秘めている感情の重みで成長を阻害され、己の顔面すら傷つけてしまいそうなほど自らの顔に向けてねじ曲がっている。

 

反逆を企てるツノの生える赤き顔面には、彫りの深い憎しみに満ちた人面の様相が浮かんでいる。強烈な憎悪を過不足なく全身に伝えるべく張り出した太い首には、秘めたる凶暴さを表すかのよう白き骨棘が生えており、背骨に沿って尾の端にまで他者への害意を露わにしていた。

 

蜥蜴の胴体に似た胴体から生えた四つ足はその巨体を支えるには少々慎ましいサイズであったが、その四つ足の不足分を支えるべく背より広がった蝙蝠のごとき翼は、奴の巨体をまるごと包み込むほどの巨大に悠然と空に羽を広げ、奴がどのようにして巨体を動かすのかを明らかにしていた。

 

やがてその巨体を全て露わにしたやつは、私たちのはるか頭上にある二つの双眸にはめ込まれた、凶暴な外観に似合わぬ翡翠色の眼にてこちらを睥睨すると、己に比べて矮小な侵入者たちを嘲笑うかの如く大きく口を開き、咆哮を轟かせた。上顎より生えそろった牙から涎が地面と下顎へと垂れ落ちる。

 

「強敵出現の合図です。おそらくは、この階層の番人なのでしょう」

 

掲げた指を敵に向けて冷静に告げるピエール。敵の形を見た私は、思わず呟いていた。

 

「偉大なる……、赤竜」

 

言葉にハッと反応したのは、おそらく全員だったのだろう。

 

「エミヤの言うことは本当だったな……」

「あ、た、たしかに……、じゃあ、まさか、いや、やっぱりあれが……」

「ええ、我々が長年追い求めてきた、伝説の三竜の一つ!」

 

そして集中した視線を鬱陶しいと感じたのか、闇の中、赤い鱗の表面にて水気を蒸発させているその巨大な竜は、大きく息をすいこみながら首を真上に掲げた。唾液が汚れた滝を作る中、その洞窟がごとき喉の奥で、赤の光が闇色の口腔内を照らして、外に漏れてゆく。

 

瞬間、背筋を冷たいものが垂れ落ちる。同じ予感をダリという男もしたようで、彼は咄嗟に盾を前に構えると、その場にいる全員に向けて叫んだ。

 

「炎の吐息が来る! 私の後ろに! 」

 

ダリの忠告に、皆が飛びつくように彼の背後へと回り、迷いなく身を小さく屈めた。

 

「――――――!! 」

「ファイアガード! 」

 

ダリがスキルを発動したのは、まさに竜の喉元から煉獄の火焔が口腔の外部に吐き出された瞬間だった。光線と見紛うが如きその焔は、竜の巨大な口より吐き出された瞬間、私たちを呑み込んだ。

 

炎は温度が高くなるほど、赤、青、白と変化していくが、竜の炎は、赤をはるか通り越して、青に近い白光を放っていた。ダリのスキルによりその炎の威力を受けずにすんでいるとはいえ、彼のそれは、目眩しの如き光まで防ぐ機能は持ち合わせていないのだ。

 

私は腕を用いて、周囲より眼球に飛び込んでくる眩しすぎる光を遮断した。火除けの加護を持つ赤玉石のはまったアクセサリー、「ファイアリング」を装着し、スキルの効力による癒しの光が私たちを包み込んでいなかったら、目が潰れていたかもしれない。

 

「―――っ、ぐ、ぅぅぅぅぅぅ……!」

 

目眩すら引き起こす炎が全てを消し飛ばそうとする中、ダリという男は、目を細めながら必死に、炎の勢いに負けぬように槍を地面に突き立てて三本目の足とし、全身を引き締め、死線の最前線にて私たちを守ってくれている。

 

ダリの発動したそのファイアガードというスキルは凄まじい効力を持っており、スキルを最大まで極めた彼であれば、敵のその攻撃に利用されている威力を利用することで、傷や怪我の回復に当てられるスキルだ。

 

いかなる炎であろうとも遮断し、あまつさえは敵の攻撃の炎を利用して対象となっている味方の回復までするスキルを使用している彼は、けれど、ひどく苦しげな様子で歯を食いしばっており、その様子から、現在彼は、心身に多大な負荷を強いられているのがわかる。

 

彼の身に何が起こっているのかと目もくらむ光の中、無理に観察を行うと、私たちを取り囲んでいるスキルの光とは別種の、メディカなどを使用した際に発せられる回復光がダリの全身を取り巻いていることに気が付けた。

 

―――さっきまで傷なんて負っていなかったはずだけど……

 

「……ぐ、―――」

 

ダリの足と体がガクガクと揺れている。耳を済ませれば、骨が軋み、嫌な音を立てているのがわかる。そこで彼はその炎のもたらす破滅を完全に防ぎつつ、しかし奴の火焔の吐息が生み出す、炎に依らない圧力によりダメージを受けているのだということに思い至る。竜のブレスは炎の威力だけでなく、物理的な威力を伴っていたのだ。

 

おそらく、彼は炎を防ぎながら、その吐息の風圧で体にダメージを負い、その傷をスキルの効力で癒している。どれだけの苦痛と負荷が彼を襲っているのかは、そんな経験をしたことのない私にとって、想像の範疇外だ。

 

現状何も出来ぬ歯痒さと合わせて、敵の攻撃がもたらす目眩と炎の勢いが生み出す独特の風切り音に耐えていると、やがて竜が己の攻撃の無意味を悟ってか、ブレスの発射を止めた。

 

閉じた瞼の裏側にまで飛び込んでくる光芒の眩いが収まるとともに、ようやく目をまともに開けて、慌てて周囲の光景を確認。

 

「――――――」

 

すると、現れた光景にピエールですら、呆然として皮肉の声を上げることも忘れて、周囲を見渡してやはり絶句し、顎を下にだらしなく落としていた。端正な顔と飄々とした態度を続ける気概は、先の光の光線によって鎧袖一触に吹き飛ばされてしまっているようだった。

 

「……、嘘……」

「―――、なんだ、これ」

 

いやそれどころか、竜の吐き出した光の柱は、質実剛健だった寺院も、道と砂利にて景観整えられていた境内も、内外の境界を敷いていた山門も、この場所に続いていた長い階段も、さらにはこの場所に続く商店街の一部までも、吹き飛ばしていた。

 

炎の光線が通り過ぎた後の地面は、放射状でなく、まるで光の通過地点にあった障害物が消滅させられたかのように削り取られていた。地面に融解や炭化の様子がないことから、実際にこの世から姿を消されてしまったのかも知れないと思う。

 

「ファイアブレス……、事前に聞いていた動作をしてくれたから反応できたが、まさか、これほどとは思わなかった……! 」

 

ダリが息も絶え絶えに言う。彼は防御の後、巨大な槍盾を、体を立てて支えるための補助として使っていた。スキルの特性上体に傷は残っていないはずだから、つまりその所作は精神的負荷が故の疲労がもたらしたものなのだろう。

 

「いやぁ、人知を超えた存在と言うものは、やはり迷宮の奥に潜むものなのですねぇ」

「ピエール、呑気に言ってる場合か! お前はどうして、そう、緊張感がないんだ! 」

「……ぷっ」

「……ふっ、くくっ」

 

この期に及んでやはり常ごろと変わらない惚けたピエールの言葉に、怒りを露わにするサガを見て、私は可笑しいと感じて吹き出してしまう。ダリもつられてか、笑いを漏らした。

 

ピエールはそれを見てニヤリと笑い、サガはおそらくピエールが己を道化として利用して場に満ちつつあった緊張の空気を弛緩させたのだと言うことに気がついたのだろう、少し不満げな表情を浮かべたが、すぐさま、溜息を吐いて苦笑いを浮かべた。

 

「ダリ? もちろん、まだまだいけますよね? 」

「ああ、当然だ」

「炎の竜なら、弱点は氷術だったよな」

「ああ。だが、あのデカさなら、範囲の方がいいかも知れん。いけるか?」

「もちろん! 俺ぁ元々、そっちのが得意なんだ! 任せとけ! 」

「私はどうしましょうか? 」

「回復を最優先。奴に隙があれば、頭か足を狙って縛るのを優先の目標として、状態異常が狙えるようであれば、それでも狙ってくれ。麻痺でも石化でも毒でも盲目でも構わない」

「はい」

「ピエールはダメージ軽減を優先。その次は速度を重視。後は状況に応じて臨機応変に頼む」

「指示が雑ですねぇ……、まぁ、事細かに手取り足取り言われるよりかマシですが」

 

私たちはすでにいつもの調子に戻っていた。目線を合わせて頷き合うと、揃って竜の方を見る。敵は私たちが作戦を終えるのを律儀に待っていたのか、あるいは、単に吐息を放った後に反動がくるのかは知らないけれど、静かに私たちの方を見下ろしていた。

 

火竜と私たちの視線は闇の中に見えない火花を散らして、戦端を開く合図となる。

 

「――――――! 」

 

竜が己を鼓舞するかのように咆哮した。大気を震えさせ、地面を揺らし、闇に響く雄叫びは、巨大な己の必殺の一撃を受けて、なお怯まない私たちを敵と認めて、全力を出すとの宣言のようだった。

 

「やるぞ! 」

「おう!

「さて、では、伝説に挑むとしましょうか!」

 

負けじとこちらも三者三様の気合を入れる声を響かせ、戦闘が再開される。私は胸にしまいこんである彼の遺品である刺々しい宝石をぎゅっと握りしめると、シンの残した剣を鞘より解き放つ。ダマスカス鉱にて作られた刀は、独特の波紋を浮かび上がらせて、闇の中に輝いた。

 

薄緑は修復のための素材が足りなくて、結局はこれを持ってくることになったわけだけれど、そうなってくれて、本当に良かったと思う。だって、三竜を相手にするにあたって、これほどまで適した剣は、私にとって存在しない。

 

―――だって、この剣を三竜に突き立てて欲しいと言うのが、彼の望みだったのだから

 

私はもう一度宝石を握り、私の中の彼の存在を大きくする。そうして痛みと喜びの混じる、過去になってしまった彼の記憶と思い出から大きな勇気を貰うと、私は三竜の中でも最も強いと噂される竜に向かって、まっすぐ刀を構えた。

 

 

「ブリテンの赤き竜……」

 

―――それに約束された勝利の剣/エクスカリバー、か……

 

宿敵との戦いの最中、竜が街に刻んだ真っ直ぐな破壊の痕跡に、私は彼女の宝具の発動した際の光景を思い出して、戦慄した。言峰との遭遇により忘却していたが、冬木も世界樹の新迷宮の五層であると考えれば、奥地に番人がいて当然と想定していたことを思い出す。

 

「舐められたものだ」

「っ、ちぃ……!」

 

輝く光が強制的に意識の在り処を奪った一瞬の隙をついて、奴の一撃が繰り出された。

 

私が両手に握る双剣の間合いの内側に入り込み、守りを抉じ開けようとする一撃を、干将・莫耶という宝具の持つ、互いを引き寄せあうという特性を用いて、無理やり両手を交差させてやることで防御すると、それを見越してだろう、すぐさま手を引っこ抜いた奴は、その場にて体を半身だけよじらせ、足を地面に強く踏みしめて、体当たりの一撃を繰り出す。

 

「がっ……」

 

鉄山靠。門を開くどころか力尽くでぶち壊してやろうという牙城の一撃を咄嗟に盾とした両腕でガードしてやるが、足場の悪い瓦礫の上でも奴の弛まぬ訓練と鋼の心が生み出すそれは常と変わらぬ威力と衝撃を生み出していて、発生した力を防ぎきれず、私は後部へ数メートルほど弾き飛ばされる。

 

「―――ち……」

 

直後、体勢が崩れた所に追撃の一撃を加えようと近寄ってくる奴の進路上に、多重投影した剣を生み出して進撃を封ずる。あわよくばそのまま剣に刺されば大ダメージが入るかもと期待しての防護壁は、しかし、奴の危機管理と慎重さの前に敢え無く狙いを看破され、元の狙い通りの役目だけを果たして地面へと突き刺さった。

 

「あいかわらず、わざと隙を見せて攻撃を誘う戦い方は上手いものだな」

「ふん……、貴様相手に手の内を晒した覚えはないのだがね」

 

私の狙いを見通した皮肉に返すと、奴は空虚に笑って言った。

 

「そうだとも。しかし、私は、かつてランサーの目を通じて、いや、あるいはそれ以上に土地と聖杯の記録を通じて、貴様の戦い方を熟知している」

「―――なに?」

 

戦闘の最中告げられた言葉に、片眉を上げて訝しむ。言峰綺礼の方を観るも、少しばかり離れた場所に遠ざかった奴の顔からは懸念の答えを何も読み取ることができなかった。

 

―――土地と聖杯の記録を通じてとはどういう意味だ?

 

「いったい―――」

「悠長だな。私に問いかけている暇などあるのか? 」

 

疑問が口より出て意味をなす前に、私の周囲に配備された触手型の魔物の数匹がこちらへとその手先を投擲し、まるで網のようになってこちらに迫ってくる。

 

触れればろくなことにならないであろう粘液に塗れた投網から逃れるべく、網目が大きい部分を狙って脱出しようとすると、隙間には獣型の魔物が配備されており、こちらに向かって直線的攻撃を仕掛けてくる。古典的な、逃げ場を限定し、その先に本命の槍を置く戦法。

 

「は……」

 

網目の隙間から半身乗り出して喉元めがけて真っ直ぐとやってくるそいつの、獲物を求めて馬鹿みたいに開いた口に、望み通り肉体の一部、すなわち剣を握った手を突っ込んでやると、そのまま口腔内部より上唇から頭部までを斬り払う。

 

そして奴の口が閉まる前に、突っ込んだ手を四分の一ほど回転させて敵の体の内側から横のベクトルを発生させやると、体内部分に殴打を繰り出し進路をずらしてやる。奴の体を利用して隙間が小さくなりつつある触手の網目を無理やり広げると、広がった部分より脱出。

 

敵の体から腕を引っこ抜きつつ、死体を振り払って腕を露出させると、唾液と体液にまみれた腕の汚れを軽く払う。

 

「無論、その暇があるから、こうして聞いたわけだが」

「ふん……」

 

奴の挑発に余裕をもってして返答してやると、悪意のこもった短い鼻息交じりの短い言葉が返される。同時に襲いかかってくる魔物ども。醜悪な存在の襲来は、奴がこちらの望む答えをわざわざまともに教えてくれはしないという証であるようだった。おそらくは、答える気は義理などないし、義務も無い、とそういうことなのだろう。

 

しかし。

 

「侮ってもらっては困るな。仮にもこちらは元英霊。数が多いとはいえ、この程度の化生どもに遅れをとるわけあるまい」

 

校舎横を通過した一撃に気を取られた先ならともかく、意識が万全な現在、一層の蛇どもの様な狡猾さも持ち得ず、三層の犬どもの速度に遠く及ばない程度の身体能力しかない魔物など、いくら群れようが、私の敵になどなりえない。

 

やがて総じて二十ほどの獣を切り捨てた時点で、一旦は打ち止めになったのを見計らって、もう一度奴に問いかける。

 

「さて、では、答えてもらおうか、言峰綺礼」

 

味方の獣どもがやられてゆくのを黙って眺めていた奴に片手の剣の切っ先を突きつけてやる。返答なき場合は次は貴様を屠るというメッセージ。死刑執行の宣告を受けた罪人たる奴は、しかしそうして罪人を前にした神父らしく悠然と佇み、空虚な眼差しをこちらへと向けるばかりだった。

 

相手が己より格上の半神半人の存在であろうと饒舌と虚言を織り交ぜて煙に巻くのを得意とする言峰綺礼という男が、私との問答を避けて戯言すら言わないというのならおそらく答えは一つ。

 

「なるほど、土地と聖杯の記録とやらは、魔のモノとかいう輩に関係している事か」

 

無言と無表情を保っていた奴の仮面が崩れた。奴自身の怒りによるものなのか、あるいは、正体を暴かれた上位者によって意思に介在された結果なのか、積み上げてきた苦労と経験が年輪として刻まれた、黙っていれば端正かつ男前ともいえる顔面の、その頬と額、目元の先に不自然な数本のひび割れが現れた。

 

強面が憎悪を露わにしたおり、これ以上は何があろうと語ってやるものかという意思にてか、口元は固く結ばれている。もはや問答は無用ということか。

 

―――ならば、早々に決着をつけ、力尽くで聞き出すまで

 

強引な手段での問答を決心すると、残骸と成り果てた校舎の跡地横を再び閃光が切り裂いた。夜の闇を切り裂く光の柱は、先に描かれた円弧の上を掠めるようにして通過し、やはり先と同じように、闇色の魔物どもを打ち払いながら、大地を削ってゆく。

 

番人の攻撃に、早期決着の理由を一つ増やしながら、双剣を携えると、所作に反応するかのように奴の羽織るカソックが揺れ、背後より周囲に魔物どもが群れとなって現れる。その数はざっと五十。およそ先ほどの倍以上の数だ。

 

兵の数が倍になればその分取れる戦術も多数となり、それの処理するための手間は、先の魔物たち以上にかかることは必定だ。加えて、魔物の残数にまだまだ余裕があることは、奴の背後より迫る敵津波の存在からも明らかだ。

 

情けなくも口惜しいことだが、どうやら過去の時代から持ち込まれた因縁に決着をつける時は、思いとは裏腹に、早々に訪れてはくれないらしい。

 

 

「ファイアガード!」

 

発動直後に訪れた灼熱の閃光を、ダリのスキルが防ぐ。周囲を焦がす熱線を受けとめるのはまだ二度目であるというのに、物理的な圧力すら含む破壊の光を防ぐ彼は、先程よりもずっと余裕を持っていた。ダリはすでに炎の息に対して完全攻略の片鱗を見せ始めている。

 

どれだけの傷や衝撃が襲いかかる事態であろうと、それ自体が予想外でないのなら、覚悟を決めて平気で死地へと進むその様は、まさに守護騎士の名前を戴くに相応しい姿であると言えるだろう。

 

とはいえ熱線を防ぐのはやはり重労働らしく、彼は滝のような汗を額から流している。汗は熱線の生み出す風圧によりすぐさまファイアガードの効果範囲外へと吹き飛び、そして瞬時に蒸発して姿を消す。その様を見て、事態の深刻さを改めて思い出し、気を引き締め直す。

 

「姿が見えなくとも、位置さえ分かっていれば―――」

 

ダリの盾の陰に隠れたサガが、籠手を解放して氷の術式を発動させる。機械籠手よりはなたれた冷たい輝きが私たちの周囲を取り囲んでいる光に突撃して消えてゆく。

 

「今回のは一切加減なしだ! 大氷嵐の術式! 」

 

そしてすぐさま周囲の暴力的な光は弱まって、やがて消えていった。露わになった目の前を見てやれば、ダリに防御の姿勢を、私たちに不動を強いていた赤い竜の巨体の背中には、エトリアにある建物一つどころか、先程街中で見かけた天井より階段の続いていた巨大な建物を潰せるほどの、大きさの巨大な氷塊がのしかかっていた。

 

真球を縦に細長く潰したような楕円型の先端が尖った氷塊は、奴の背中に触れた途端、火花を散らしながら、溶けてゆく。奴の高温の滑らかな鱗が剥がれ落ちて、その下にある皮膚が、どす黒い皮膚に水膨れとなって、爛れてゆく。

 

氷が瞬時に蒸発して水蒸気となり、その煙に混じってこちら側に白煙が流れてきた。肌と服の間を肌寒い空気が駆け抜ける。多分、本来なら異臭も混じっているのだろうが、生憎初撃の熱線が地面を溶かした際、地面がガラス化したり、建物や樹木が燃焼したりの混じった匂いがあたりに充満したおり、鼻の機能は潰されていて役立たずとかしているため、匂いがわからなく、おかげで体はいつもと変わらず動いてくれる。運がいいのか悪いのか。

 

「―――っしゃあ、ザマァ見ろ! 」

 

地獄の光景に見紛うような事態を引き起こしたサガは、竜にダメージが入ったのを喜んで、今にも小躍りしそうな雰囲気だった。身長の小ささと合わさって、まさに子供のようだと思ったが、言わない。多分、いえば彼の怒りがこちらに向くだろうことが予想できたからだ。

 

それよりも、疑問に思うことがある。

 

「氷……、大氷嵐の術式にしちゃ、大きすぎやしませんか?」

 

戦闘の最中、我ながら呑気に体積だけ見てやれば竜と同じ大きさの大塊を指差していうと、サガは頷いて答えてくれる。

 

「ああ、いつもは手加減をしてる分と、風に回している分のエネルギーも氷に回したからな」

「手加減? ほんとは作れるのに、やらないんですか? どうして?」

「だって、大きく作ったって、小さい奴、早い敵にゃ当たらないし、効かないやつにゃとことん効かないし、効くにしてもあれだけデカいの作る意味ないし、下手に作成位置を間違えれば自分たちが危険に陥るし、何より、デカいの作ると地形をぶっ壊しちまうからな。法に触れる事はご法度って事で、通常なら適当な大きさに作るのが普通なんだが……」

 

サガは悶え苦しむ巨大な竜を指差していう。

 

「あれだけのデカさを仕留めるってんなら、相応のデカさが必要で、そんでもって地形の破壊なんて気にしていられる状況でないからな。そもそもあいつが周りをぶっ壊してるし、言い訳効くだってな事で、全力全開のスキル発動をしたわけだ。いやそれにしても多分この湿った空気が助けてくれたんだろうけど、確かに我ながらよくもああデカいのを作れたなぁ」

「おい、話をしている暇があったら、この隙に水分と塩分を補給して体温を適当に調整しておけ。さっきから熱の変化が急激だ。熱中症にならんように注意しろ」

 

自らの行為に感心しているサガと彼の説明を聞く私に、ダリが注意を呼びかけてくる。敵が目の前で苦しんでいる隙を見計らって、さっさと継戦の準備を整えているあたり、手筈の良さに驚くが、言われて汗が滝のように出ている事に気がつく。

 

軽く汗を拭って払うと、水滴が先の攻撃にて熱を帯びている地面に触れた瞬間、もはや高温に支配されたこの大地にお前の居場所なんてないとでも宣言されたかのように、蒸発し水蒸気となり、空気中を漂う冷気を帯びた同種の存在に混じる。

 

途端、不全に陥っていた肌が機能を取り戻して、実際の周囲の温度に対応しようと、再び汗を流し始めた。地面の中に収まりきらない熱が大気に上がって温度が水蒸気に伝播し、涼しげだった空気が熱を帯びた不快なものへと変わる。

 

木桃の蜂蜜漬けと塩と水を含んでから熱を生み出した元凶である竜を見ると、奴は体内にめり込んでいた氷の大半の処理を終えたようで、触れていたもう氷はもう半分以下の大きさになり、傷口から押しだされていた。宙に浮いて支えを失った氷が、地面に落ちて、大地が微かに揺れる。

 

その衝撃が竜の体を揺らした事で、傷口の痛みがぶり返したのか、竜は微かにその身を揺らして悶えた。しかし氷術により生まれた傷口は、ピンク色の肉が盛り上がり、すでに再生が始まっている。このままでは遠からぬうちに、奴の怪我は治癒しきってしまうだろう。

 

「畳み掛けるぞ」

「任せろ! 」

 

不利になるのを分かっていながら悠長に待っていようと思えるほど、私たちは自信家でもないし、そんな時間も残されていない。ダリがいうと同時に、私も足用の縺れ糸を取り出して準備を整えた。

 

ブレスは無効化とともに、反撃の機会に転じる事が出来る有効な機会が訪れるものであるとわかったことだし、残りの攻撃、移動手段である足と翼を防ごうという魂胆だ。竜の翼は見たところ爪が生えているし、おそらく、「足」の一部であると見て間違い無いだろう。

 

準備を整え終えた瞬間、奴も身動きが取れるくらいには回復したらしく、癒えきらない傷を負いながらも、四足を小刻みに動かし、両翼を羽ばたかせて、移動の準備を行なっている。おそらく先ほどまでのように、巨体に見合わない速度での突進を企んでいるに違いない。

 

「縺れ糸を使って、移動の制限を試みます!」

「援護する! 大氷嵐の術式!」

 

いうとサガは先んじて籠手を解放して術式を発動した。サガが術式の解放をすると、大気中に散っていた水分が彼の意識した場所に凝縮され、圧縮されたエーテルは凝固して巨大な氷の塊となり、奴の体の後方部分に出現する。制限を外された氷は奴の退路を断つとともに、傷つけるにも十分な大きさを持っていて、重力によって落下した。

 

そして私は奴の正面に向けて、縺れ糸を投擲する。力を解放された糸が奴の身動きを制限しようと、巨大な竜に向けて果敢に突撃する。前後のどちらを選ぼうと自らの身に害を被るこの状況。さぁ竜がどう動くのか―――

 

「え……」

 

しかし奴はこちらの思惑とは裏腹に動かない。その場で翼を大きく上下にはためかせたまま、前方の糸にも、体の上より迫る氷塊もまるで気にせず、その場で優雅に佇んでいる。その悠然とした態度がわたしにはなんとも不気味に映る。

 

同様に思ったのは、皆も同じだったようで、一同はそれぞれがすぐに動ける体勢に移行した。ダリは術式を発動直後の反動で少し動きの鈍くなっているサガを庇える位置に移動し、ピエールは皆と少しだけ離れた場所で竜の動き全体を観察している。

 

私はピエールのすぐ近くで、自分が放った糸の行方だけを意識的に追っていた。何か異変があった際、すぐさま動けるようにするためだ。そして。

 

「――――――」

 

私たちの短いやりとりの後、竜は翼の羽ばたきを強めた。形として見えそうなほど具現化した風が奴の体を鎧のように覆ってゆく。やがて私たちの放った攻撃が竜の纏った風の外套と接した時、その風鎧からは天井にまで貫かんばかり勢いで竜巻が生じ、巨大な氷塊は細かな砕氷となり、糸はあえなく風の渦中に消えていった。

 

「くそっ、そんなんありかよ!」

「どうやら奴も、私たちの攻撃に対して対抗策を見つけたようだな」

「――――――来ますよ、構えなさい! 」

 

激昂するサガと、冷静なダリがそれぞれ述べると同時にピエールの口から忠告が発せられる。竜が風の鎧を纏ったまま、前足を片方だけ地面に叩きつけたのだ。砕かれる大地。衝撃が私たちの方にまで伝わって身動きを微かに封じ、それと同時に、奴の灼熱の体温と熱線の余熱にて高温に加熱された土砂は、奴の纏う風によってこちらへと強烈な速度で飛来し、体を叩く熱砂の礫となる。

 

「っ……」

 

とっさに頭と重要な器官を装備品で庇ったけれど、その折に表に出ていた手腕部と皮膚が焼かれた砂によって傷つき、ヤスリで擦ったかのような傷跡が出来る。サガはダリに庇われて二人とも無傷だったけれど、ピエールは、私と同じような傷を負っていた。

 

楽器と喉、手、頭を庇うために装備で固めた背中を盾として使った彼は、竜の方を振り向くと、楽器の弦を鳴らし、言葉を漏らす。

 

「手間取るのはよろしくないのですが……、どうやら一筋縄ではいかないようですねぇ」

 

熱に満ちた空間に涼やかな声が響くと、彼の言葉は真実であると答えるかのように、竜は咆哮して戦意の十分を撒き散らした。見るともう傷口はすでにふさがっている。どうやらたしかにまだまだ戦闘は続きそうだ。

 

ピエールの言葉にすでになくなった山門の方に目を向ける。すると開けた視界の先、街を覆いこちらに迫っていた黒い波が、山のすぐ近くにある場所まで侵食を進めているものの、ある地点から放たれる矢がその波打ち際で爆発し、打ち寄せる魔物を払い、それらの侵攻を遅行させていることに気づける。

 

エミヤだ。彼は場所を移動しながら言峰や魔物の群れと戦いつつ、その上ああして足止めをして、私たちが宝石を収めて魔のモノを封じ込める時間を稼いでくれている。しかしそんな偉業をなす彼でもやはり数の暴力に耐えて動きを遅らせることで精一杯なようで、波は刻一刻と山へ迫って来ている。先程よりもずっと近い。時間的猶予はあまり残されていない。

 

―――早くしないと、不味いのに

 

急く気持ちを抑えながら、私はエミヤから託された宝石を握りしめると、冷静になれと訴えるかのように宝石は熱を吸収した。

 

 

周囲を取り囲む魔物の群れは絶えることなくこちらへと襲いかかってくる。奴らはすでに私の周囲の地面のほとんどをその姿で覆い隠していた。新都の方面からやってくる折り重った敵影をざっと見積ってやれば、未だ万は下らない数はいるだろう事が推測できる。

 

勿論その全てをまともに相手などしていられないので、飛びかかってくる奴らを迎撃したのち、投影した剣を投擲しては爆発させて敵を押しのけて短い間だけ安全地帯を生み出し、深山の街を侵食する奴らめがけて矢を数回ほど射出すると同じように爆発させる。

 

これで十程度の数は片付けられる。とはいえ、最低万はいるだろう数を相手にするなら、この程度の撃破など、微小誤差の範囲にしか過ぎないだろう。

 

何より、本命である言峰綺礼は、この作業を繰り返す最中、獣どもの波の中に姿を消してしまっており、余計に神経を尖らせて周囲を警戒しないといけない原因となっている。おかげでいつもよりも疲労のペースが早い。とはいえ焦り殲滅を試みて、そこに付け込まれるわけにもいかない。それでは奴の思う壺だ。

 

―――ん?

 

百を超え、千を超える獣を淡々と機械的に屠殺しおえた頃、その異変に気がついた。腐臭が満ちる中、土の匂いが風に混じってやってくる。匂いの中にそれを伝える成分が混じったということは、空気中の湿気の密度が増している証拠だ。

 

原因を探るべく肌の動きに気をやると、山の方から低地にむけて吹き降りてくる風が、ある時は真夏の時期であるかのように熱く、ある時は秋から冬にかけて吹くものであるかのように冷たいことに気がつく。

 

なにかと思い注意を背後に向けると、彼らの向かった先、すなわち柳洞寺の方を向いてやると、時折生まれる光の柱に混じって、四から五階建くらいの大きさはあろうかという氷塊が生まれては、細かく砕かれて宙に飛び散る光景を見つけて、驚くとともにどこか納得し、即座に目の前の戦闘へと意識を戻して―――

 

―――どうすればいいんですか!?

 

やれない。強化の魔術を施してある耳は、年若い女性特有の高温域に乗った声を捉えたからだ。私の生み出す爆発と破砕の音、獣どもの遠吠えなどを貫いてこの耳に届くその声からは、彼女らが今、切羽詰まった状況に置かれていることを、四キロは離れたこの場所までも伝えてくる。

 

「壊れた幻想!/ブロークン・ファンタズム」

 

自らの周囲に多少ランクの高い宝具の剣を突き立てて、今までより大きな爆炎の壁を作り、その中に身を完全に隠す。ほんの一時しのぎにしかならない上、せっかく攻撃と移動の誘導を容易くするため己の身に集中させていた敵の注意をバラバラに散らしてしまうことになるためやりたくなかったが、味方が危機に陥っているのだ。仕方がない。

 

―――む

 

一旦有利な状況を保つに見切りをつけて、自らが生み出した煙幕の中から山の方面へと飛び出すと、思い切り振り向く。竜の吐息によって山の上からこの場所まで障害物がなくなったのが幸いとなり、柳洞寺の方へと続く摩擦係数の少なそうな地面に沿って強化した視線をまっすぐ送ると、すぐさま彼女らの苦戦の様子が目に映った。

 

冬木の空を舞う巨大な竜が、その身に似合わぬ素早さをもってして、地面すれすれを滑空しては、不自然なほど滑らかな動きで再び宙へと舞い上がり、ダウン、スライド、アップ、の行動を繰り返している。巨体が赤の色を纏い力強く光の軌跡さまは、まるで夜空に指揮棒が三拍子のメトロノーム運動をしているかのような規則正しさがある。

 

やがてその軌道を追っていると、竜が一旦速度を急激に緩めて停止するポイントの前後に氷塊が生まれては、奴の生み出す竜巻によって砕かれ散るか、地上へと落下して、地面に突き刺さる光景が目に映る。突き立った氷柱は、炎熱を纏い奴の生み出す風圧にて竜がばらまく熱気にやられて、すぐさま溶けて小さくなってゆく。

 

私はその不自然な氷がスキルによって生み出されたものだということに気がつくと、彼らの狙いを看破してやる事ができた。

 

―――なるほど、炎熱の鎧を温度差と質量の槌で突き破る腹づもりか

 

セイバーという英霊を基にしているとはいえ、番人が生物である以上、先のような広範囲にわたって地面を削る威力の炎の息を吐くためには、それ相応の複雑な器官が体内に有り、また、体内のその部位は精密かつ、弱い構造をしている可能性が高い。

 

おそらく彼らは戦闘の最中そのことに気づき、その部位をどうにかして貫いてやればあの敵を倒せるとあたりをつけたのだろう。

 

「――――――!」

「ちっ、煙が晴れたか」

 

考察を重ねていると、背後より聞こえる威嚇の吠えに応じて即座に反転。飛びかかってくる奴らを思い切り蹴り飛ばすと、再び適当な場所に剣を差し込み、爆発させ、スペースを確保したのち、体を差し込んで、短い間の安全を確保する。

 

奴らがこの場所に押し寄せる前に、先程よりも高く宙へと飛び、津波の如き魔のモノ全体を俯瞰すると、すでに奴らは、柳洞寺のすぐ近くまで迫りつつある事がわかる。侵攻の境界線はジリジリ山の方へと押されつつあるが、未だに線を抜けて山へと向かうことは許していない事実だけが救いと言えるだろう。

 

―――もはや彼らだけに任せている時間はないか

 

とはいえ、援護に固有結界を使用して奴を巻き込むには射程が離れすぎている。弓にて宝具を射出してやるが最も効果的だろうが、あの高速で動き回る竜を仕留めるには、現状さっと思い付く手段では、不適当なものしか浮かばない。

 

「偽・螺旋剣」に「壊れた幻想」を併用してやればその動きを止められるかもしれないが、奴を仕留められるどの威力にするならば、爆発や宝具本来の威力で間違いなく味方も巻き込むだろう。かといって追尾機能のある「赤原猟犬」にて炎熱の鎧を貫いて竜を仕留めるには、威力を十分に発揮するだけの魔力を籠める時間が一秒程度では足りるまい。

 

加えて、巨体に殺意が迫った瞬間、攻撃の場所とタイミングを見通して回避をするあたり、どうも直感に優れているようであるし、よほど暗殺じみた一撃を飛び回る奴にめがけて放たねばならない。つまりは、射に集中する必要がある。

 

―――魔力を集め、集中し、宝具を放つという決定的な隙を、言峰が見逃すとは思えない

 

宝具というものが十全に威力を発揮するには、魔力を宝具にチャージした上で、宝具の真の名を呼ばねばならない。「壊れた幻想」を併用するなら、都合最低二、三度は、完全に竜の方へと意識を目の前の戦闘以外に集中する必要がある。そのような決定的な隙を、言峰綺礼という男が見逃すとは思えない。

 

己より優れた能力を持つ相手に勝利を収めるためには、相手の得意な土俵に上がらず、己の優位が確保できるまで待ちの姿勢を保つが良い事を知る奴は、その決定的な瞬間の訪れをどこかで伺っているに違いない。

 

奴は腐っても、元は神の教えに反する化け物の退治を専門とする代行者と呼ばれるエキスパート。化け物とは、人知を超えた、人間などよりはるかに身体能力を持つものが多い。奴は、己より身体能力が優れている者との戦い、殺す方法を熟知しているのだ。

 

さて、攻撃の下準備がいらない、隙を作らない程度の攻撃では竜を仕留められない。かといって隙を作ってしまうと、言峰綺礼により私が致命的な一撃を食らう可能性がある。死ぬ事に―――、今更恐怖など感じたりはしないが、これが聖杯戦争の再現であるというのなら、セイバーの代理たる竜を仕留め、直後に私が死ぬ事で、英霊の魂が七騎揃い、聖杯の完成に至るような事態だけは避けておきたい。もしやあるいは、それこそが奴の狙いかもしれない。

 

―――どうする

 

悩む間にも、敵の軍勢は波濤の如く山へと迫る魔のモノの大波は、微かな判断の時間すら私から奪って行く。やがてその波打ち際の境界線が、竜と彼らの元へと押し寄せるまでには、もうあまり時間が残されていない。

 

現時点における最優先事項は、魔のモノの封印。それさえ済めば、もしやその手先たる言峰や奴らもあるいは消えるやもしれない。ならば―――

 

―――己が身を削る判断無くして、この窮地を乗り越えることはできない

 

覚悟を決めると、私は弓を投影し、瞬時に剣を生み出すとともに、まずは第一射を山の方へと打ち出した。

 

 

サガの有効打を防がれて以降、ずっと竜の攻撃は続いている。奴は炎の吐息が無意味と悟った瞬間から、炎を吐息という攻撃手段を自ら封じて、巨体に見合った体力と頑丈さ、見合わぬ俊敏さを組み合わせての持久戦を選択した。

 

奴が翼をはためかせると、巨体を風の鎧が覆い、熱と竜の鱗の防御力に加わって、第三の鎧となる。直後、風圧とともに放たれる竜の体当たりは、吐息に劣らぬ威力の攻撃となり、私たちに襲いかかってくる。

 

「――――――!」

「させん! 」

 

それを防ぐはダリのスキル、パリングだ。パラディンの使用する物理攻撃遮断スキルは、彼のように極めれば、たとえ一撃の威力が大地を砕き、地面を十メートル以上削りとるような破壊の力であろうと数回なら防ぎきる効力を発揮する。

 

彼の盾の前に出現したスキルの光は、竜の体当たりやその余波にて生じる暴虐の威力を全て消滅させるが、だからといって竜の体が消え去るわけでも、飛んでくる岩の重さがずっと消えているわけではない。

 

やってくる攻撃を馬鹿正直に真正面から応対していたのでは、スキルの効力消失と同時に襲い掛かる敵の行動や物自体の重量によって、彼は潰されてしまう。だから逸らす。今ダリは、攻撃の瞬間、全ての敵の攻撃の方向を変えるためだけに、物理攻撃を完全防御するスキルを使用して敵の攻撃をいなし続けていた。

 

「――――――っ、あ、はぁ、はぁ……」

 

ただし、その、敵の攻撃の威力を完全に殺し切らず、なおかつ、味方に被害が出ないよう

見極めて防御スキルを使用するという、繊細かつ精密な作業は、その完全な安全の代価として、ダリの肉体はおろか、彼の精神に多大な負荷をかけるものとなる。

 

多少はピエールが歌スキルにて負荷を軽減し、疲労を起こして骨折や筋繊維がちぎれたり、内出血を起こした部位に、適切な量の薬を使用することによって、彼の体は常に万全の状態を保っているが、そんな無茶をすでに都合二十、彼は行なっている。

 

今、私たちは彼が己の役割を十全以上に果たし、神業に等しい絶技を連続して成功させるという綱渡りの上に無事でいるのに過ぎないのに、しかし守られている私たちは未だに敵を倒すための職業ごとの役割を果たせずにいた。

 

補助と指揮がメインのピエールは攻め手となってくれる誰かがいなければ、その実力を発揮しきれない。シンもエミヤもいない今、サガの錬金術スキルしか攻め手はないのだが―――

 

「ああ、もう、くそ、ちょこまかと動き回るんじゃねぇ! 」

 

彼の反射神経では、竜の動きに対応しきれず、この場において唯一奴に通用しうる氷の術式は当たらない。中には命中しそうになった攻撃もあるのだが、そんな時には、竜の翼が大きくはためき、風の竜巻にて氷の塊を打ち砕いてしまうため、彼の攻撃は未だに一撃たりとも当たっていないのである。

 

―――なら必要なのは、奴の動きをどうにか止めてやること

 

一瞬でもいい。体を張れば、四層の時のように、三竜相手でもなんとかなるかもしれない。

 

―――三竜

 

口の中に溶けて消えた言葉に、私は瞬間的に利き手の右が剣の柄を握った。シンの遺言通り、奴の体に彼の刀を突きたてろと、私の心が叫んでいる。同時に、左手がバッグの中へと突っ込まれていた。私の体が目的を果たすために、いつも通り道具を使って敵の動きを止めろといっているのだ。

 

―――フォーススキルを使えばあるいは……

 

「やめておきなさい」

 

どうにか足止めを、と思ったとした矢先、ピエールの声が耳に入り込んできて、私の行動を阻害した。

 

「糸も香も無駄です。あなたの道具は、先ほど風と熱に阻まれたばかりでしょう? 」

 

そうだ。糸も香も、質量が軽過ぎて、竜の風の鎧の前に吹き飛んでしまう。運良く風に乗ったとしても、熱が邪魔をして、その効力は全く発揮されないのだ。だからこそ、フォーススキルなら、と考えたわけだが、多分、彼のいう通り、風と熱の二重の守りをどうにかしなければ、無駄な行為に終わるだけだっただろう。

 

彼の指摘は、間違いなく正しい、冷静なものだ、しかし、この窮地の状況下において、ただ冷静なだけの正論は、追い込まれていた私にとっては、焦燥する精神を逆撫でる材料でしかなく、私は竜の攻撃が続く中、思わず激昂して叫んでしまった。

 

「じゃあどうすればいいんですか!?」

 

声に反応したわけではないだろうが、竜が体勢を立て直して、瞬時にこちらを向くと、翼を大きく上下に動かして推進力を生み出して、突撃をしてきた。

 

再びそれをダリが防ぐ。数回そんな動きを繰り返したのち、ようやく動きの法則性が読めたのだろう、サガが氷術を使用して軌道上に大氷塊を配置するも、するも、奴は急制動と風を利用して、その攻撃を回避する。空を切った氷の塊は、無念さを知らしめるかのように大きな音を立てて落下し、地面を揺らした。

 

「サガの術式も当たらないんですよ! ほら!」

「うるせぇ! 文句があるなら、まともな代案を出してみろってんだ! 」

 

ピエールの冷静な指摘に苛ついて半ばヤケクソ気味に叫ぶと、私の台詞は、その己の不甲斐なさを示す無情な結末に誰よりも苛ついていただろう、サガの心に突き刺さったのだろう。

 

私の感情に呼応したかのような、荒く短い返事がサガより返ってくる。いつもなら多少は効果の見込める回答をくれる彼が、今、たったそれだけ応答しかしてくれないという事実は、空中を飛び回る竜に氷の術式を当てようする彼が、いかに余裕のない状態であるかを克明に告げていた。

 

サガは再び、ダリが逸らした竜の体が向かう先に術式を発動させ、竜と同等の巨大な氷塊を作り出し、奴が持つ質量の暴力に対抗しようとした。先程よりも竜の体に近づいた氷は、瞬時に竜の生み出した風の集約した一撃―――すなわち竜巻に打ち砕かれて、あえなく破片と散る。

 

宙空に舞った氷片が、竜の撒き散らす炎熱にて一瞬キラリと光ったかと思うと、次の瞬間には蒸発させられて、夜空の藻屑と消え、サガは大きく罵声と奇声が入り混じった声を上げた。

 

「くそ、なんだ、あの回避は! あいつめ、事前にどこに氷を作るのか位置がわかってるような、未来予測じみた直感してやがる! 」

「落ち着け。当たらないのなら、大氷嵐の術式を本来の使い方で使用したらどうだ? あれなら攻撃の範囲が広いのだろう?」

 

興奮気味のサガに向かって、ダリが言う。私の時と同様に、苛立ちのままになにかを言い返そうとしたのだろうサガは、勢いよくダリの方を向くが、彼の全身が煤や土埃に汚れ、治療の際の煙が鎧の隙間から漏れているのを見て、口を開いたままの姿勢で一瞬止まった。

 

そしてサガは開いた口を閉じて、歯を強く噛み締めると喉元に出てきていたのだろう罵声を含む言葉を飲み込んで、火竜がダリの功績によって己の勢いにより空の上を滑空して遠くへ離れ、サガの放った氷の術式を打ち砕く為に翼の力を使ったが故に体勢を整えている最中で、今、討伐のための議論の猶予時間がある事を確かめると、多少思案し、言った。

 

「……たしかにそうすれば、氷は当たるかもしれない。上手くスキルを当ててやれば、スキルによって引き起こされる風が、やつの風と打ち消しあって、氷が奴の体に当たる可能性だってある」

「なら」

「けどだめだ。それじゃ奴の体を貫くほどのでかさの氷は作れねぇ」

「核熱は? あれなら防御も関係なく―――」

「それもだめだ。奴の動きが早過ぎて、絶対にあたらねぇ。あくまで、空中の移動を予測して、突然奴の進路上に不意打って出現させることができる氷の術式だからこそ、奴が風の鎧を解かざるを得ないくらい、つまりは緊急避難の状況にまで追い込めるんだ」

「なら、奴がこちらに突進してくる瞬間に核熱を合わせてやれば―――」

「上手く当たれば竜の体が爆発しながら迫ってくることになるな。仮に当たったとして巨大質量がものすごい勢いで風と熱を纏って突っ込んで来て爆発するわけだが、おまえ、爆発と物理の同時攻撃の影響、完全に防げんのかよ」

「フォーススキルで……」

「ほぉ、ついでに起こる酸欠と長時間の余熱も防げると?」

 

ダリはサガの返答に沈黙した。なるほど、打つ手がないというわけではない。けれど、現状、よくて全滅覚悟で相打ちに持ち込むことしかできないというわけだ。

 

「みんな死んじゃうんじゃあ、だめですね」

 

言うと、みんながこちらを見た。そうだ、全滅じゃあ、意味がない。それじゃあ、この宝石を使って魔のモノを封じることができない。それでは、エミヤと言う男の望みを叶えることができない。そうだ。私は絶対に、この宝石を使って魔のモノを―――あれ?

 

―――私、なんで、こんなに魔のモノを封じることに必死になっているんだろう?

 

「あ……、だって、それだと、魔のモノを封じて、赤死病を封じられないし、エミヤさん助けられないし……」

 

それは、誰に対しての説明だったのか、けれど自然と口から出た言葉に反応して、皆が反応を返してくれる。

 

「……そうだな。その通りだ」

「倒す、倒さないは別として、生きて帰らないと、この短い間に五層でたっぷりと味わった刺激が歌として残せませんからねぇ」

「ピエール、おまえ、そこは嘘でも、みんなのためにとか、エミヤ含めた全員で生きて帰りましょうとか言っておけよ……」

 

彼がいつもの調子に戻ったのを見て、少し嬉しくなる。これでいい。きっと、この空気が好きで、これの暖かさを失いたくないから、私はきっと、魔のモノを封じるのに必死なのだ。

 

「ええと、じゃあ、結局どうやって、あの竜を倒すのか―――」

「―――、――――――、――――――――――――!! 」

 

考えましょう、と、言おうとしたところで、安寧を咆哮が切り裂いた。咄嗟に反応して音の方を向くと、遂に空にて体勢を整えた竜が長いで天を仰いで、攻撃の準備が整った事を、正々堂々と告げていた。

 

「―――あ」

「やべえな。もう時間がねぇ」

 

この場所から円を描く様にして起こっている爆発に反応して、思わず竜の下に目をやれば、街の半分以上を覆い尽くす魔のモノの配下である黒い影が山のすぐ下にまで迫っているのが見えた。竜が生み出す風と吐息、そして侵攻を阻止する見覚えのある爆発がなければ、とっくにこの場所まで呑まれていた事だろう。

 

サガのいう通り、もう時間はない。早く突破口を見つけないと―――

 

「……え?」

 

迷っていると、竜の直下、台風の目となっているのか、無風である場所から暴風の中へと飛び出した銀色の光が、風の壁を突き破った直後、二キロはある距離から放物線を描きながら軽々と私たちの方へと飛んできて、そして斜めに地面へと突き刺さった。

 

「うぉ、なんだ」

「……剣? しかもなんだ、これは。随分とまあ―――」

「捩じくれてますねぇ。けれどなんだか、なんとも言えない厳かな雰囲気がある」

「あ、多分、これ、エミヤさんの「魔術」の剣ですよ。なんでも、二層の番人を仕留めるときに使った、自動で定めた敵を追っかける機能が付いているとかいう―――」

 

そこまで言って、はっと顔を上げた。剣の意図するところに気がついたのだ。すると皆も、同様に視線を地面と平行の位置に戻して、同様の顔を浮かべていた。

 

「―――どうやら彼は、今一番我々に欲しい援護をしてくれるらしい」

 

ダリが静かに言った言葉に一様に頷くと、私たちは全員で空を見上げる。そこには私たちを葬らんと、翼をはためかせて体を大きく上下に動かす竜の姿があった。そうして奴の胴体を包み込んで、なお余るほどの両翼を大きく広げる姿はとても威圧的だったけれど、不思議とその姿は、先程までよりも随分と小さなものに見えた。

 

 

竜がすぐ真上にいる。彼女の生み出す巨大な両翼は、直下除く周辺に凄まじい暴風を生み出し、私が方々に生み出していた爆発の煙を瞬時に払うと同時に、そこにいる全ての生物の動きを鈍らせる効果を持っていた。

 

かつてあの竜のモチーフであったセイバーという少女は、アーサー王を象徴する、有名すぎる聖剣「エクスカリバー」を隠すために、「風王結界」という風にて光の屈折率を曲げて姿を隠す鞘を刀身に纏わせながら戦っていた。今、竜は、まさにその秘された聖剣の様相を象徴するかのごとき有様だった。

 

先の動きから察するに、竜は彼女が持っていた未来予知じみた直感を持ち、一定以下の魔力攻撃をキャンセルするに似たような、一定以下の威力の攻撃を無効化する炎熱暴風の鎧を纏うと同時に、直情型の彼女と同じような直線的な性格をしていると見受けられる。

 

今、竜は、翼を以ってして己の周囲に張り巡らせていた風の鞘を、推進の力に変え敵を仕留めようと敵を真正面から堂々と叩き潰そうとしている。竜はその力の巨大さゆえに、そのネームバリューゆえに、注目されるのは当然である、と、己の力量を理解し、自信を持っているのだ。

 

しかし、目の前のことを解決するに懸命になるあまり、このように足元に蠢く弱者が目に入らなくなる事や、弱者が必死に罠を仕掛けているのに気づかないところまでそっくりだ。

 

―――おそらく、気配を消し、耐えている限り、彼女は私が攻撃するまで気づくまい

 

夜空に浮かぶ彼女が生み出す暴風は、味方であるはずの周囲に散らばる魔のモノ配下たちの進軍を阻止し、奴らはまるで彼女の発するカリスマにひれ伏したかのように、地面の密着を強いられている。

 

火竜が街中にまで威光を発する中、まるで彼女に付き従う円卓の臣下たちのように、その直下にて彼女の威と覇の恩恵を受ける私は、そんな彼女に背後から刃を突き立てるため、着々と準備を整える。

 

やがて敵元まで一直線に飛び、敵対者を仕留める準備が整ったのだろう彼女が、騎士が名乗りあげるかのごとく、天を仰いで己が誇りを雄叫びに乗せて叫んだ。

 

その隙をついて、頭上にてつんざく彼女の遠吠えに耳を潰されそうになりながらも、周囲の警戒を怠らないまま、宝具の外側だけを似せて作ったまさに贋作そのものと言える剣を、彼らの元へと射出する。風の壁を通り抜けた剣は、銃より打ち出した弾丸に似た軌跡を描きながら、そして柳洞寺の彼らの元へと着弾した。

 

彼ら―――、特に、私が二層にて使った宝具「赤原猟犬」の結果をスキルと勘違いし、魔術と明かしたのちは、宝具についての説明を食らいつくように聞いてきた彼女なら、意図に気づいてくれるだろう。

 

やがて竜が名乗りを終えて眼下の敵対者を睥睨する頃、私も攻撃の準備を整えて、宝具を生み出して、矢の先端を静かに、直上の竜と彼らがいる山の丁度中央あたりへと向けた。

 

皮肉にも、敵となった彼女が作り出す風の防壁に守られたこの時を最大のチャンスとして、目を閉じて完全に己の中の世界へと入り込む。弓の術において、的に当てるために必要なのは、意志だ。

 

的を見なくとも、心の中に当たるイメージを描くことさえできれば、放った矢は自ずと目的の場所へと到達する。必要なのは、常に必中するイメージ。先程までの戦いから算出したデータを頭に叩き込んで、寸分の狂いなく、宝具が、数秒後の未来において、竜の体に当たる事を想像する。

 

殺意を向けるは、数秒後の奴。未来予知じみた直感があろうと、竜は、今現在の己へと向けられていない殺意に気付けるはずもない。奴の動きに惑わされぬよう、閉じた視覚の代わりに、聴覚と触覚を過敏とする。

 

やがて肌が一層の風の強まりを感じ、風が周囲を壊す音が途切れたのが鼓膜にて感じた瞬間、その二つすら排除して、完全に己の世界に内没する。

 

「――――――!! 」

 

――――――咆哮とともに直進、――――――そこだ!

 

現実と想定がリンクする。奴の動きはどこまでも私の予想と同調していた。

 

―――喰らえ!

 

「赤原猟犬/フルンディング!」

 

未来の竜に向けて、矢を放つ。瞬間、前方に殺意を集中し直進した竜は、下方より放たれた、矮小ながらも、己の腹を割いて心臓を傷付けるに十分な威力を秘めた矢が迫ることに気がついた。突如として現れた伏兵の存在を視認した奴は、しかしすでに最大の加速を発揮し、刹那の間にも速度を上昇させ続けていて、自由な身動きは取れずにいる。

 

やがて私は、奴の進行方向に空気中の水分が凝結する予兆を見つけた。氷塊が生まれつつあるのだ。おそらく奴もそれに気がついたのだろう、高速で直進する奴の霞む顔に歪んだ表情が浮かぶのが見えた。

 

氷の術式と、私の宝具は、奴が完璧な対処を試みようとしたところで、確実にどちらかの刃にてダメージを負うように計算されている。おそらく奴は、それを直感したのだ

 

そうして意識を割いてしまったのも余計な工程で、奴の死期は益々近づいた。そのまま直進してくれると、氷が奴の頭を砕き、剣が奴の胸の心臓がありそうなあたりを貫くゆえに面倒がないのだが、当然奴は、抵抗の様子を見せた。

 

竜はすでに最高速に達して身動きが取れないという限られた状況において、その恵まれた身体能力を十分に発揮して、身を捩らせるバレルロールする事で、無理やり己の死の運命を強引に捩じ伏せようとした。

 

一秒を何分割もしてスローモーに切り取ったコマ割りの中、巨体の上部が数枚もフィルムを吹っ飛ばしたかのように、地面を向く。奴は滑らかかつ重厚ながらも、腹部側の柔らかさを感じさせる白い鱗でなく、赤く雄々しく硬度を主張する背の側で赤原猟犬の方を受ける道を選んだのだ。おそらくは背中側の方がより硬度が高いのだろう。

 

凄まじい速度で接近する剣といえど、その矮小さでは己の堅い鱗を貫くは叶うまいはしない、と判断しての選択だろう。竜の顔は不意打ちしか出来ぬ卑怯者の蛮族じみた攻撃などで、己の身の堅き部分を傷つける事など出来ないと言わんばかりの自信に満ちていた。

 

自ら身が傷つくことを厭わず、その場において被害を抑えるための最善の選択をとる。

 

―――そうだろう、己が民を愛し、信じ、しかし大を生かすために小を切り捨てる選択を迷わず行える君なら、そうしてくれると思っていたとも……!

 

だから、「赤腹猟犬/フルンディング」なのだ。はなから私は、大した魔力を込めていないこの剣の一撃で、奴を仕留められるなんて思っていない。これが仮に「偽・螺旋剣II/カラドボルグ」であっても、魔力の充填が十分でないその宝具は、せいぜいが鱗と肉を裂くくらいが関の山で、彼女の風と炎と鱗の三重に及ぶ守りを破り、その深奥まで到達できはしないはずだ。

 

つまりはどのみち、魔力というエネルギーの足りない宝具が、幻想種の頂点たる竜の鱗と肉、骨を貫けよう道理などない。精々、その薄い部分の皮膚を傷つけるのが精々だろう。そう。

 

―――例えば、その暴風を生み出す両翼の皮膜部分などの……だ!

 

「殺ったぞ……!」

「――――――!?」

 

赤原猟犬が当初の命令通り、奴の最も薄い守りの部分を貫く。いかに竜鱗とはいえ、豪風を生み出すための部分はしなやかかつ柔らかでなければ自在に風を操れまいとの想像は、見事に予測通り的中した。

 

放たれた猟犬は竜の風生み出す翼布を往復すると、剣の残した残像が糸のように赤の尾を引いて両翼の間を往復し、美麗かつ荘厳な翼は、子供が塗った雑巾のように、見る間にみすぼらしくなってゆく。

 

狙い通りだった。もし、あの時点で竜の背中の鱗を傷つける程度には威力の高いカラドボルグを使用したのなら、竜は防御でなく、別の回避を試みたかもしれない。だからこそ私は、カラドボルグでなく、フルンディングを選択したのだ。

 

やがて己の体を制御する帆船の帆を失った竜は、自ら行った回転の勢いを止めることができずにきりもみしながら直進し、すぐさま氷の鋭角と激突した。

 

瞬間、光が発せられて、あたりを明るく照らした。予測していた私は、両腕を構えることにてそれを完全防御し、やがてすぐに光の幕が消え失せた後、竜の姿を確認すると、予想外の位置にて己の苦手とする属性を体で受けることとなった竜が、体内への異物の侵入を許してしまう光景を見た。

 

竜は信じがたい現実に、目を白黒させていた。その間にも氷は融解と蒸発を伴いながらも、固体の状態を保ち、体内への侵入を見事に果たして、傷口を抉ってゆく。やがてその透明な杭がその向こう側に、奴の心臓だか、炉心だかの内臓を映し出すほど侵入したのを見て、私は勝利を確信した。

 

―――よし……!

 

同時に、空中に突如として出現した大氷塊と背中側にて激突したことにより、竜の体は多少その勢いを落としたものの、それまでに秘めていた速度をほとんど緩めず、山に向かうのを見る。アハトアハトどころの騒ぎでない大質量の戦略兵器に等しき威力を秘めた体が彼らに迫るのを、しかし私は問題ないはずだと考えながらその行方を追っていた。

 

あれだけの巨大質量であるが、ヒュドラの巨大な頭部の一撃を受け止めて平然としていた、ダリの物理攻撃威力を完全に消滅させるというスキルなら、竜の体当たりにも同様に効果を発揮して、竜は彼らの手前で停止するだろうと、考えていた。しかし。

 

―――何……?

 

竜の巨体は私の予想と違う方向へと進路を変えて、柳洞寺の山門があった辺りの斜面に激突した。凄まじい勢いで土砂が掘削され、空中に飛び散る。竜との激突の折に生じた巨大な音は、竜の移動により遅れて生じた音速を超えた際の衝撃の破裂音と混じって、遥か昔に眠りについた深山の街を起こしてやろうとするかのように、重低音で街を包み込んだ。

 

体の芯まで震える音の衝撃は、内外より鼓膜を揺らして虐め、瞬間、私は身動きが取れなくなる。過振動を与えられた鼓膜は、一旦、全ての音を区別することができなくなる。無音の世界にて気を取り直し奴の方を見れば、竜は未だに勢いを止めることなく、土砂を巻き上げながら、地面に潜行する作業を続けている。

 

予想外の出来事に、多少ばかり焦りが生じた。竜の体が地面下を進む衝撃で、穴の真上にある柳洞寺の境内周囲が崩壊し、竜の開拓した進路を埋めてゆく。その勢いは止まらない。

 

―――いかん。生死がどうあれ、このままでは彼らは土崩の下に埋もれてしまう。

 

スキルの守りを考えるに、圧死はないだろうが、あのままでは窒息死してしまう可能性がある。さっさと掘り出してやらねばと考え一歩を踏みだすと、背筋に悪寒が走った。

 

「――――――っ! 」

 

飛び跳ねるようにしてその場を離脱。聴覚が潰されていたが故に、触覚が敏感に反応したのか、背後の空気が不自然に揺らぐのをしっかりと感じたのだ。体を捻りながら着地し、先程まで私がいた空間を見てやると、先ほどまでちょうど私の心臓があった辺りを、拳が侵食していた。伸びた腕を顔まで辿ってやれば、見覚えのある顔が渋面を作っている。

 

ようやく姿を表した仇敵を目にした途端、臨戦態勢へと移行する。双剣を投影すると、奴も呼応して周囲に魔のモノ配下を呼び寄せ、二十メートルほどの距離で、私たちは対峙した。

 

「まったく、彼らと同じ場所へと送ってやろうという親切心を無碍にするとはな」

「―――言峰綺礼……!」

 

不快な声が耳朶を打ち、機能を取り戻した鼓膜が声を処理して、脳裏に不愉快な言葉が聞こえてくる。奴の声に続けて、魔のモノの静かな唸り声が輪唱し、周囲の空間を悪意と殺意に満ちてゆく。

 

「やれやれ、セイバーと言うクラスは毎度のこと頼りないな。最優が聞いて呆れる」

「は、優秀な人材を適切に扱うならばそれ相応の実力が必要だからな。セイバーを頼りないと言うなら、それは純粋に、マスターに彼女と見合った実力がないと言う証拠だよ」

「――――――」

「――――――」

 

もはや返答はなかった。お返しとばかりに、奴から発せられる殺意の密度をましてゆく。周囲を取り囲み空気を侵食する息苦しささえ覚える意思を、不敗の意志にて迎撃してやると、彼我の間にある空気が軋み、悲鳴をあげて空間から正常の温度が逃げ出してゆく。

 

「―――」

「―――」

 

奴が片方の腕を天に向けた。応じて魔物の群れがいっせいに姿勢を低くする。奴らは自らたちを統率する指導者による攻撃命令を今かと待ちわびている。

 

「命ず―――」

 

敵対者が口を開く。

 

「全力で奴を殺せ!」

 

腕を振り下ろした直後、殺到した獣は瞬時に奴を埋め尽くすほどその側面と背後より現れて、前方の空間に殺到した。隊列の乱れなど気にしない、悪の獣の本性を曝け出したかのような荒々しい進軍に対応すべく、体より力を抜いて、激突の瞬間に備える。

 

そして。

 

「―――!? 」

 

剣を構え戦意を高めていた私は、気がつけば私は光の中に包み込まれていた。たっぷり十秒ほども続いたそれに私は一切の身動きを封じられて、気付いた時には、顔の前には地面が広がっていた。正面より倒れ伏したのだ。

 

―――何が……

 

状況を確認しようと立ち上がる行動の命令を腕脚に送るも、一つの指先すらまともに動いてくれない。それでも足掻くと、微かに顔面の筋肉だけが苦渋の形に動いた。口の端から土の煙が入り込んで、土の不愉快な苦味が口の中に広がる。

 

土食む不快さに、なんとか己はなんらかの攻撃によってやられたのだと言う現状を咀嚼すると、どうにか自在に動く眼球だけを動かしせめてもの状況把握に努めようとして―――

 

「ほう、やはり元英霊は頑丈だな」

「こ、……み……、き……」

 

髪を掴まれて動かない頭が前を向かされる。眼球が不愉快を体現する男の姿をとらえた。言い返してやろうとしたが、呂律が回らない。脳裏より送られる信号を体がまともに処理してくれていない。

 

「ああ、無理をしない方がいい。何せ貴様の体は今、その背面より背骨や内臓が露出するほど血肉が刮げ、消失しているのだからな」

「―――あ……」

 

言われて己の現状を正しく把握した。神経回路は異常を知らせる信号に占拠されてまともな命令を送ることを不可能とし、脳は全身から一方的に継続して送られる痛みの信号に許容できる処理範囲を超えてオーバーヒートを起こしていた。

 

今、その痛みを私が感じていないのは、そうして押し寄せる異常のシグナルを脳が正しく処理しきれないからだろう。言峰は私の現状を把握したのか、さも愉快と言う風に体を大きく揺らして、言葉にならない笑いを漏らした。

 

その振動は、奴がしっかりと握っている私の頭髪を通じて、瀕死の重傷を負った私の体を大きく揺らすことともなり、視界がガクガクと上下左右にブレた。抵抗しようにも、文句を言おうにも、体が動いてくれないので、私にできることはない。

 

やがてその動きが収まる頃、視界の中に、冬木の街が削れ、焼成され結晶化した部分が生じた地面を見て、私は己の身を襲った一撃がなんであるかを正しく理解した。

 

「か……りゅう、の……、と…………き、……か」

「その通りだとも」

 

エクスカリバーの一撃に等しい威力が無防備な所を直撃しても生き残れたのは、炎の加護を持つアクセサリーのお陰だろう。絶え絶えの言葉を耳聡く聞きつけた奴は、嬉々として私の答えを肯定する。

 

あの攻撃命令は、魔のモノに対してだけでなく、竜に対しての令呪がごとき指令でもあったのだ。眼前に大軍を用意し、濃密な殺気によって意識を集中させ、そして注意の薄れた背後より灼熱の一撃食らわせる。

 

そして己を呑み込む光の奔流が自らにもたらす威力と害は、魔のモノの軍勢を肉盾とする事で、熱も圧力をもシャットする。配下を、命を消耗品として扱うそのやり方は、なんとも悪を容認する奴らしくて、反吐が出そうだった。

 

「くくっ、良いざまだな、エミヤシロウ」

「……、はっ」

 

蔑む視線に、奴が大笑いした際、微かにだけ動く右腕を動かして人差し指と中指だけを立ててやる。先程まで戦っていたセイバーたる彼女に触発されてか、私がイギリスの弓兵式に挑発してやるも、言峰綺礼は無力化した男の向ける悪意など愉悦の糧にもならんといわんばかりに平然と受け流して、言った。

 

「おや、まだ動くか。では念のため、その行儀の悪い指を始末しておくとしよう」

「――――――っ」

 

迷いなく人差し指と中指が捩じ切られる。奴はそうして捩じ切った二本の細長いを地面に落とすと、その上めがけて勢いよく足を下ろして、震脚する。衝撃に体が揺れ、落ちた視線にてその黒の靴が上がった後を見ると、地面には、肉も骨も砕けて厚みを失った、かつて私の肉体だったかけらがめり込んでいた。これでもう弓は扱えない。

 

ついでと言わんばかりに、奴は五指残る左腕を思い切り踏みつけて骨と肉を砕き、抵抗の余力を削ぐと、言った。

 

「さて、では、貴様のお仲間が余計なことをしでかす前に、止めてやらねばな」

 

奴は、手中に握っていた私の頭髪を離し、自由落下を開始していた私の顎を蹴り抜く。顎下より凄まじい衝撃が頭部を支配し、視界が揺れたかと思うと、瞬時に刈り取られた意識は現実から乖離して、私は暗闇の中へと送り込まれることとなった。

 

第十五話 夜にある、それぞれの運命は

 

終了

 

 



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第十六話 過去より出でし絶望と希望

第十六話 過去より出でし絶望と希望

 

誰もが私を否定する。

だから私も貴様らに理解など求めない。

 

 

「おい、大丈夫か? 」

「……あ」

 

気遣いの言葉に目が覚める。瞼を開くと、飛び込んだ光に瞳孔が調整を試みて、視界がぼやけた。やがて気持ちの悪い瞳の収斂が収まった頃、眼球がいつもの仏頂面を捉えて、安堵の気持ちが湧いて出る。

 

「こ……、こ……は」

 

見渡すと、洞穴の中に私たちはいた。土臭く、口の中は砂利まみれ。肌と顔に張り付いていた砂を落として、何度か咳き込んで体内に入り込みかけていた砂を吐き出すと、改めて周囲を見回す。すると、すぐ近くに見覚えのある仲間の顔がもう二つあるのに気がついて、安心のため息を吐くとともに、疑問を呈した。

 

「どこ、なんでしょうか? なんで……わたし達、こんなところに……?」

「わからない。竜の体当たりの衝撃が予定外に前方の地面と接触して土石流となったため、完全防御で竜の体当たりの威力を防いだのち、フルガードを発動した。お陰で竜の突撃をまともに受けずに済んだはいいが、その際に生まれた衝撃で、私たちは地面の掘削に巻き込まれて、奴ごと地下に埋もれたのだと思う」

 

言うと、ダリがわたしの背後を指差した。

 

「え―――、うわっ」

 

つられてそちらを向くと、示す先に、先ほどまで死闘を繰り広げていた竜の巨体を見つけて、驚き後ずさる。それを見ると、サガが笑って言った。

 

「大丈夫だって、死んでるよ。そんなに怖がるなって」

「言いますが、貴方だって、急に起き上がった奴が、最後にあらぬ方向めがけて吐息を吐き出した時、頭を抱えて身を縮こめたじゃないですか」

「おま……、ピエール、別に、それを言う必要はないだろうが! 」

 

やりとりにホッとする。胸をなでおろすと、ダリが言う。

 

「すまない、傷を治してもらえると助かるのだが……」

 

よく見ると、彼の体は全身が青アザだらけだった。そういえばフルガードを使用したと言っていたが、その特技は攻撃を完全に無効化するものではなく、一定時間、周囲の仲間が負うダメージを一身に引き受けて軽減する効果のスキル。

 

つまり彼は、この地下の空間に掘り抜けてやってくるという凄まじい衝撃を三人分余計に、全てその身で受け止めたと言うことになる。偉業を為して私たちを守った恩人の傷に、わたしは慌てて回復薬を取り出すと、振りかけた。

 

「―――よし、助かった」

「いえ、こちらこそ」

 

傷が癒え、己の体の不備がなくなったのを確認すると、彼は近くの地面に落としていた松明を拾う。その柔らかな赤い光は、周囲に拡散すると、ようやく周囲の暗がりに対応した瞳が、照らしだした洞穴の奥の光景を捉えた。改めて先ほどと同じ疑問を口にする。

 

「……ここは? 」

「位置的に、柳洞寺という建物のあった山の奥深くだろう。―――ああ、なら、つまり、そうなのか?」

「……? 」

「つまりここが、エミヤの言っていた、目的の大空洞であるかもしれないと言うことですよ」

 

ダリが一人納得した様子で頷くのを見て首をかしげると、内容をピエールが補足する。

 

「―――たしかに、集中してみると、尋常じゃない気配が奥からするな」

 

サガが真剣な表情を浮かべて呟く。真似をして目の前に広がる暗闇に意識を集中してやると、腹の底から不快感がこみ上げてきた。本能的に吐き気を催してしまうような感覚を覚えてえずくと、むせて唾を地面へと撒き散らしてしまった。

 

―――たしかに、気持ち悪い何かが、この先にいるんだ

 

この闇の空間の奥に、本能に干渉して不快の感覚をもたらす何かが潜んでいる。気分を悪くするものの存在を意識すると、自然とその名前が浮かび上がってきた。

 

―――魔のモノ……

 

そう、ダリとピエールの言っていたことはおそらく正しいのだ。この先にきっと、魔のモノがいる。不思議な確信を得ると、みんなを見回す。全員が同じ所作で肯定に首を縦に振ったのを合図に、ダリを先頭としたいつもの警戒態勢で、私たちは闇の中へと歩を進めた。

 

 

「――――――」

 

小さな空間を抜けた先、突如として広がった地下の大空洞に言葉を失った。地下のはずなのに不自然に明るいその空間は、しかし、奥行きが把握できないほど遠くまで広く、どこまで続いているのかわからない。それでも見える部分に目を配ると、数十メートル先の下の大地には、暗い闇色の池がそこから奥まで続いている。

 

地底湖を見た瞬間、不快感を覚えた。胸を圧迫するような、濃密な感情が心の中に生まれ、思わず身震いして自分の体を抱き寄せる。それは、悲しいとか、腹がたつとか、そういった、ドロドロとした負の感情をいっぺんに合わせたものだった。

 

わたしがそれでもなんとか倒れることなく胸の中で無茶苦茶に暴れる痛みに耐えられたのは、多分、常にシンの痛みを抱えているからなのだろう。

 

見れば、ダリとサガは、押し寄せたその負の感情を受け止めきれなかったからなのだろう、地面に片方の膝をつき、あるいは四つん這いの姿勢で涙と涎を垂らしながら、その奔流に耐えている。唯一ピエールだけが、多少つらそうながらも、なんとかその場に立っていた。

 

「なるほど、あれが魔のモノという奴で……」

「はい。きっと、あの奥にある杯が、その封印のための制御装置なんでしょう」

 

ピエールに回答に視線を再び前へと向ける。その邪悪の気配に満ちた池の上では、ポツンと小島が浮かんでいた。それは、人の手が入っていると一目でわかる不自然な三角錐型をしていた。頂点は平たく均されており、その平面の上には祭壇があり、台座の上では静かに杯が光を放っている。

 

人の頭ほどもある大きさの杯の表面は脈動しているかのように発光しており、周囲の暗黒とは別種の昏い光を周囲にばらまいて存在感を主張していた。その冥光は、魔のモノとの繋がりがあると確信ができる禍々しい外見と雰囲気だった。

 

―――なら、あれに宝石を投入すれば、魔のモノを封印できるのか

 

予感はほかの人に先んじて一歩を踏み出させた。あるいは、熟練の彼らよりも先に足を踏み出せたのは、魔のモノを封じると言う、この赤い宝石を持っていたからなのかもしれない。

 

彼より託されたルビーを手にして表に取り出すと、宝石は松明の光を反射して、暖かい光が周囲にばらまいた。宝石より生じた光は、抑えきれぬ悪意が満ちた暗黒空間の中、それらを抑制し、浄化するかのように、柔らかい領域を生成する。

 

そのかつての宝石所有者の慈愛の表れであるかのような光に導かれるように、まずピエールが私の後に続き、その後ようやく立ち直ったダリとサガが遅れて足を踏み出した。通常とは違う硬さを持つ地面を、金属の靴底が叩く独特の甲高い音がなり、目的のモノへとどんどん近づいて行く。

 

やがて暗闇色の池の前までたどり着いた。湖面から水底を見ることはできない。多少躊躇したが、足を踏み出すと、地底湖は思った底が浅くて、すぐさま湖底に足がつく。この汚泥の中を泳がなくて済む。その事実にひとまず安堵した。

 

「慎重にな」

 

向こう見ずな先行を窘められるも、そこに私を引き止める成分は含まれていなかった。認められている。自然と気持ちが昂ぶった。さらに前に進もうとして改めて一歩を踏み出す。踏み出した部分を見ると、真っ黒だった湖面の自分の足から数メートルほどの範囲だけが透明な色となっている。

 

これは浄化だ。きっと宝石が力を発揮して、魔のモノを封じ込めたのだ。確信が胸に去来し、抑えきれない興奮が、言葉になって口元からこぼれた。

 

「これなら魔のモノを封じられる―――」

「なるほど、かもしれん。だが、そんなことをやらせるわけにいかないな」

 

そうして明るい未来の光景を予測した時、冷たい声が心の隙間から入り込んできて、意識が今という現実の薄暗い空間の中に暗澹たる気分とともに引き戻される。

 

「聖杯の作成に百数十年の時を。核を埋め込み、完成した聖杯の器に魔力を溜め込むのに、更に六十年近くの時を費やしたのだ。いくつかの工程を省き、予定を多少繰り上げる羽目となったが、時をかけ再開した聖杯戦争もようやく最終段階に達した。それを、貴様らなぞに邪魔されるわけにはいかんのでな」

 

背後より聞こえた声に反応して、皆で一斉に振り向くと、私たちがやってきた小さな洞穴の奥から、一人の男がカツカツと靴音を立て、ズルズルと重い袋を引きずるような音とともにやってくる。私たちは、その声に聞き覚えがあった。確か―――

 

「言峰……、綺礼」

「ほう、私の名を知っているか」

 

輪郭すら見えない暗闇の奥で、声が愉快そうに笑う。その声はとても心地よい低音で、油断すればするりと引き込まれてしまいそうな昏い魅力に満ちていたが、だからこそ、私は恐ろしいと感じて、考えるより先に武器を構えていた。

 

続く金属音。ダリは槍盾を前に構え、サガは籠手を解放し、ピエールは楽器の弦に手を当てる。どうやら心を切開して領域に侵入されたような感覚を抱いたのは私だけではなかったらしく、三者も同様に緊張した面持ちで戦闘態勢を取っていた。

 

「嫌われたものだな。ほとんど初対面の相手に対してなぜそうも敵意を露わにする」

「お前は―――言峰綺礼という人物は、魔のモノと一体化した存在だとエミヤが語っていた。それはすなわち、私たちにとっても敵であるということだ。たとえそれが元人間であったとしても―――」

「―――ほう、奴がそう語ったのか?」

 

告げると、言峰は意外だとばかりに言葉尻をあげた。

 

「そうだ。彼は私たちに、魔のモノとかつての世界のことを語ってくれた。だから貴様という人物が悪辣な存在であるという事もよく理解している」

「―――く、は、はは、理解。貴様が私を理解しているだと?」

 

ダリが珍しく敵意の感情を露わにした言葉を他人に投げかけると、言峰という男は言葉の成分よりも内容が気にかかったらしく、息を詰まらせたかと思うと、広い空間に響き渡らんばかりの哄笑を撒き散らす。それはダリのぶつけた敵意感情などとは比べ物にならない密度の感情の発露だった。

 

私は言峰という男が、ダリの理解という言葉に、どんな感情を抱いたのかは理解した。反応した彼が、声とともに発散した嫌悪や憤怒、感情が、はたしてどんなモノを起源として生み出されたのかも、ぼんやりではあるものの、理解することができた気がした。

 

おそらく私がそんな彼の発露した感情に微かな共感しかできなかったのは、他者に対する失意と絶望というものが、私たちの普段の日々にはほとんど存在しない、特別な感情であるがためだろう。

 

 

言峰綺礼という男は、人間として欠陥品だった。他人の不幸の中にしか、己の幸福を見出せない感性は、表向き平等と平和を重んじる人間社会において、間違いなく悪の側に属するものだった。

 

どうしても他者の喜びの中に己の幸福を見出すことができない。他人が美しいと思うモノを見て、美しいと思うことができない。その機能がないのだ。人間として感性が故障しているのでなく、そう思う機能が欠落している。それこそが、綺麗という言葉を名に授かった男が皮肉にも生まれ持った業だった。

 

教会という場所に生まれ落ちた私は、神の教えを受けて成長するとともに、己の生まれた意味を問うた。私の感性は、人の世において、望まれていないものである。ならば私の生まれた意味とはなんだ。聖書によれば悪魔と呼び蔑まれる彼らですら、世に悪という存在を知らしめる敵対者として、聖職者や、他ならぬ神に存在を許容され価値を認められている。

 

しかし、私の場合は違う。世の中において、他人の不幸を喜ぶ男を何処の誰が許容するというのか。何処へ行っても、他人の幸福を醜いと感じ、その不幸を喜ぶ私の感性と存在は、悪魔などと呼ばれる彼らとは違い、その存在意義と価値の全てが否定されていた。

 

この世に生まれてきてはならぬ存在。そんなものがこの世にあることが耐えられない。人は全てなんらかの意味を持って生まれてくる。そんな綺麗な世界の中で、ただ一人、己という存在だけが無意味無駄無価値の烙印を押されていて、そんな己を追い詰めるかのように、己の感性は、世間が醜いと断じるものであると知る良識を、私は理解することが出来ていた。

 

若かりし頃、私は己のその悪を尊ぶ感性の発露を、己が未熟ゆえのものであると断定した。他人とは違う感性を発端とする苦痛と懊悩は、己が未だ神の愛に気づかず、意図を汲取れぬがゆえの未熟の証であると理解した。

 

なぜなら己は、悪魔どもと違い、人の倫理と道徳を理解することができる。生命の誕生を尊いものであると祝福し、死にゆく命を憐れみ慈しむことができる。だからこの苦しみは試練なのだと受け取った。神という偉大なるお方が、なんらかの意図を以ってして我が身に課した、試練。

 

あるいはかつて、恐れ多くも苦難の道を歩み殉教し聖人の座に列席した方々と同じように、この苦悩と共に歩む道の果てにこそ、いつかは己の空虚たる心を満たす意味と価値が見つかるのかもしれないと、伽藍堂で虚無の心を埋めるべく、我慢と忍耐の道を歩み続けた。

 

やがてその行為が空虚であると真に悟ったのは、いつのことだったのか。積み重ねた石の塔を見つめては、それは違うと世間の常識に拒絶され、再び石塔の建築を試みる。その全能たる神の意図を完全に理解してやろうという傲慢な挑戦は、まるでまさに、バベルの塔を建設して天の頂に到達してやろうという無謀な試みそのものであると言えた。

 

私は価値が欲しかった。この世に生まれた意味が欲しかった。全知全能と讃えられる神が

この身を人の世に生まれ落としたからには、その誕生と命にはなんらかの意図があり、意味と価値を持つはずだ。そう、決して私の存在は間違いなどではない。無意味で、無駄で、無価値な命なんてあっていいはずがない。

 

―――無意味に生まれ、無駄に命を消費して、無価値に死んでゆくだけの命など認めない

 

生きる目的が欲しかった。楽しく幸福に生きてみたかった。いつかは完全になりたかった。否、だが、真実、私の生涯は「無」だったのだ。他人の価値感を、己を図る物差しとして利用し、己を否定し続ける行為は、どこまでも私を磨耗させ続けた。認めない。認めない。認められない。己の生涯がただの徒労に過ぎないなどと、断じて認めるわけにはいかない。

 

他人は、己が死地に向かい、体を虐め、無駄な努力に足掻く行為を苛烈と呼び、信仰に厚いと賞賛し、褒め称える。だがそんなものに、感性の違う存在の賞賛などに、なんの意味がある。それどころか、己が裡に押さえ込んだ感性に気付かず、己の醜い本性を改めようと足掻く行為に歓喜されるたび、己が本来持つ感性はやはり完全に間違って、お前の人生は無価値であると拒絶されているようで、余計に腹が立った。

 

ただそれを発露して周りを絶望させる行為は、人間社会において悪と呼ばれるであると行為と認識できる思考と常識を、当時は持ち合わせていた。故に、抑え、仮面を被った。人間社会において悪として拒絶される本性の、抑制と抑圧。そしてそんな醜い感性の己を苛烈に虐め抜き、崇高な目的を見出すための鍛錬を続ける日々こそが、若かりし頃の言峰綺礼の生涯の全てであった。

 

 

「貴様が私を理解できているというのか……。この醜いものだらけのモノに満ちる世界で、平凡に生涯を終える事が許されるのに、それを捨てて他人の幸福のために命を捨てて生きるという、そんな私の苦悩とは程遠い世界の住民の一人である貴様が、私という存在を悪と断じることが出来るほど理解できたと! そういってのけるのか! 」

 

ただ拒絶されただけでは、ああも激昂することはないだろう。その言葉には、今ダリが「言峰綺礼という人物を理解した」という述べた事象に対しての、嫌悪感と憤怒と憎悪がありありと乗せられていた。

 

己の生まれ持った感性を絶対と信じて、他人の事情を汲まず、上っ面、与えられた情報だけを聞いて理解したつもりになって、相容れないモノと感じたものを悪と断ずる行為。言峰綺礼という男は、おそらくその全てを嫌って感情を露わにしたのだろうと、私は理解した。

 

これまで経験したことのない、格別質の高い濃密な負の感情を真正面から生のままに叩きつけられた私たちは、一切の反応をする事が出来なかった。やがて彼は己を律して、それを抑え込むと、一転して静かな気配を漂わせて、言う。

 

「この土地に残っていた記憶を読み解いて、儀式を再現し、手順の乗っ取り、正しく聖杯を降臨させるために時をかけて、奴の望みを叶えるために準備を整えてきたのだ。そしてそれは私の望みでもある。―――易々と封印などしてもらっては困るな」

 

吐き捨てると、言峰は暗闇の向こうから、なにかを前方に放り投げた。手荒く投げ込まれたそれは、彼の数メートル先の地面に叩きつけられると、軽くバウンドして、呻き声を上げた。その掠れてほとんど聞こえない小さな声に、私たちは、目を見張った。だってそれは。

 

「エ、エミヤさん!? 」「エミヤ!?」「嘘だろ!?」「まさか……!」

「その通り」

 

奴が前に進み出て、何かをつぶやいたかと思うと、奴の周囲がポッと明るくなった。そして地面に現れた彼の姿を見て、私たちは絶句して、声も出せなくなる。

 

エミヤは、ボロボロと言う形容詞が陳腐に思えてしまうほど、瀕死の重傷を負っていた。正面から倒れ伏した彼の逞しかった背中はひどく焼け爛れ、肉と煤が衣服と融合して、赤だか黒だか茶色の地肌だかわからない色に変わっている。

 

深い火傷は背中どころか頭にまで到達していて、白髪は頭頂部近くまで燃えて、白いモノが見えている。力なく前に投げ出された右腕は、右は二本の指を切断され、左の手腕骨は砕かれていた。

 

―――早く手当を……!

 

心臓が高鳴った。本能が告げるままに足を湖底から引き上げて、倒れた彼へと近づこうとする。しかし、その動きよりも早く、誰かの手が前に進もうとする私の肩を強く掴み、妨げられた。その力は思いの外強く、直後、ぐいとその彼の元に引き寄せられた私は、私の体をその場に押し留めたのが誰であるかを知る。

 

「なんで……?」

「……近寄るな、響。奴に近づくんじゃあない」

 

呆然と呟くと、彼は、倒れ伏したエミヤ―――ではなく、そして地面に体を横たえさせた張本人である言峰から視線を離さないまま言った。それは冷静さがもたらす慎重……だけではなく、人が、理解しがたいものと遭遇した時に見せる、未知に対する恐怖という感情の表れだった。

 

「でも、それじゃエミヤさんが……!」

 

ダリはそのまま無言で私を自分の側へと引き寄せると、私を抱きかかえるようにして動きを封じて、やはり言峰を注視したまま動かない。その頑なな態度からは、なにがあろうと言峰という男の前に仲間を出すわけにはいかないという内心が伝わってくる。

 

「――――――」

「だ、誰かなんとか……」

 

力が強く、体が動かない。私では彼の拘束を解けない。助けを求めるようにして周りを見ると、サガはダリよりも彼に怯えているようで、彼を見つめるその目はいつもより少し目尻が撓み下げられていて、口を固く結んでいる。口内からは、歯をカチカチと鳴る音が聞こえた。

 

少しでもつつくと、今にでもスキルを暴発させてしまいそうだ。サガは完全に、目の前の言峰という男の迫力に呑まれていた。パーティーの中では小さな彼が、いつもより小さく見える。言ってはなんだが、今の彼は頼りにできないそうだ。

 

最後の望みをかけてピエールの方を向くと、どんな危険な状況下であっても微笑を浮かべて皮肉の一つでも言ってのける彼は、珍しく一切の表情を浮かべないで、じっと言峰の方を見つめている。彼の意地悪と喜びと驚き以外の顔を浮かべたのを見たのは、シンが死んだ夜以来の出来事かもしれない。

 

わからない。彼がなにを考えているのか、わたしにはさっぱりわからない。ただ、その細身の体から立ち上がる静かな気配と、動かない瞳の奥にある確かな灯火からは、今、そうしている彼が、己以外の何物の干渉があろうと、その態度を貫くという意志が感じられた。

 

つまりは彼も頼りにできない。結局、この場にエミヤを助けるに当たって、協力を仰げそうな人物はいないということだ。

 

「存外に冷静なのだな。もう少し、他人の救済に直情的な行動とるものだと思っていたが」

 

迷いの中、気がつくと言峰はエミヤのすぐ側まで近寄っていた。地上にいた大量の魔のモノを側に付き従わせた彼は、エミヤの頭を握ると、持ち上げて、顔をこちらへと向ける。

 

仄かな明かりの中浮かぶ意識のないエミヤの顔は、その細く独特な眉目も、整った顔も健在だったが、顔色だけが常と違い、不自然な色合いをしていた。エミヤの顔は、かつてみた両親やシンの死骸のように、白くなっていた。言峰が蝋燭の様になったエミヤの頭を揺する。

 

「―――う……、ぁ……」

 

途端、エミヤの閉じられた口が微かに開き、与えられた衝撃に対して反応して見せた。

 

―――彼はまだ生きている

 

「エミヤさん! 」

「駄目だ!」

 

叫んで近付こうとするも、ダリが力強く私を抱きとめて離さない。

 

「なんで!? 」

「あれは罠だ。たまにFOEなどの獣もやる、エミヤという生き餌を利用した罠。わかるだろう、響。奴は今、エミヤの生死を利用して我々を誘い出し、あわよくば我らを全滅させようと企んでいるのだ……」

 

ダリは言うと、下唇を噛み締めた。白い歯に隠された口の部分からは、血がにじみ出て、顎下より地面へと垂れる。血液が垂れるのを気にもせず、彼は一切視線を言峰とエミヤから外さずにいる。目には、無念さと悔しさが同居していた。

 

それでよくわかった。彼もエミヤを助けたい。助けたいけれど、助けて他の仲間を命の危機に晒すわけにはいかない。仲間を助けるために、仲間を見殺しにすると言う、その矛盾、その歯痒さを必死で押しとどめている。

 

「死なれても困るので多少治療を施してやった。が、後もって数分、と言ったところか」

 

ダリが感情を押し殺しての冷静を保つ中、言峰は冷酷に言ってのける。感情のない声は、彼が淡々と告げた事が事実であることを示している様だった。その言葉に、私を抱き止めているダリの腕の力が強まる。挑発に耐えようと、彼は必死なのだ。

 

「―――さて、このままこの男を縊り殺してしまうのは楽だが、この男の死によって貴様らが発奮し、魔のモノを封じられる様な事態になっては元も子もない。遠目に見れば魔力の篭った宝石にしか見えんが―――万が一という事もある」

 

言峰は、エミヤの頭をそれまでとは違った丁重な手際で地面に戻すと、油断のない瞳でこちらを見据えた。昏い色をした瞳からは、なんの感情も読み取ることができない。

 

「まずは試してみるか―――、やれ」

「――――――!」

 

やがて言峰は静かに短く命令を下した。控えていた手下―――すなわち魔のモノである獣たちが、背後の闇より飛び出して私たちに襲いかかってきた。咄嗟の出来事であるということと、負の感情が体の反応を鈍らせていて、対応が遅れる。

 

―――ダメ。間に合わない

 

「―――、―――!?」

 

頭の中、やけにあっさりとした諦めの言葉が浮かんだが、周囲の闇たちは、そんな私たちの死の予想を覆すかのように、私たちの周囲を照らす赤の光に触れた途端、まるで誤って火に手を突っ込んでしまった際に起こる生理的な反応であるかのように、驚きの表情を浮かべて飛び退いた。獣は光と触れた鼻っ面をかきむしって、怯えた所作を取る。

 

「―――なるほど、魔のモノを封じる、というだけのことはある」

 

けれどそして、配下の攻撃が通じなかったのを見た言峰は、なんとも愉快そうに口元を歪めた。陰鬱な笑い声とともに彼が浮かべる笑顔は、なぜか慈悲に満ちたものだった。

 

「ならば取引といこうではないか。―――宝石をその場で砕け。そうすれば、この男をそちらへと引き渡そう。速やかに治癒してやれば、万全の状態で一命を取り留めることも可能だろうよ」

 

そして発せられた言葉はなんとも選択に困るものであり、私たちを騒つかせた。ダリの腕にこめられた力が微かに抜け、サガも驚きに体を弛緩させ、ピエールですら顔を多少歪めた。そうして動揺が広がり苦悩と迷いが全員の心に行き渡った様を見て、言峰はさらに口元を引き上げて、心中の愉悦を露わにした。

 

 

他者が嫌う己の本質を認めたのは、第四次聖杯戦争の折だった。当時教会から派遣される魔術師という体で参戦。その実、父、言峰璃正の友人であり、我が魔術の師でもあった遠坂時臣を聖杯戦争の勝者とすべく、補助に徹しての活動をしていた私は、師の召喚したサーヴァント、「ギルガメッシュ」と出会った事で、私は長きに渡る軛より解き放たれたのだ。

 

「無意味さの忘却。苦にならぬ徒労。即ち、紛れもなく「遊興」だ。祝えよ綺礼。お前はついに「娯楽」の何たるかを理解したのだぞ?」

 

己以外の全てを見下し、天上天下唯我独尊を体現する半人半神の英雄たる男は、しかしたしかにその傲岸不遜に見合っただけの実力を有しており、また、己の感性のみを絶対の基準として万物すべての事象の真贋を詳細に見抜き、気に食わぬモノに裁きを下す、暴君ながらも王と呼ばれるに相応しい男であった。

 

奴は私が長年誰にも明かさず、己の裡にて抑制してきた、他人が醜き姿をさらすのを見て美しいと思う感性を、短い観察の期間にて見抜き、そして、当時は罪深いと断じて見て見ぬ振りをしてきた苦悩を、愉悦を求める魂の渇望を拒むがゆえの痛みである事を見抜き、そして、私の魂の在り方を肯定した。

 

誰もが嫌い憎む本性を己で肯定し、あるいは他者に肯定される。奴との出会いにより、私は、一般的に悪と呼ばれる側に属する感性を持つ、無意味に生まれ、やがて無価値に終えるはずだった己の生涯を、せめて無駄と切り捨てず、愉悦にて楽しく彩る手法を覚えたのだ。

 

 

エミヤが助かる。しかも完全な状態で。言峰綺礼という男の言葉は、驚くほど素直に私の心を切開して、中に入り込んできた。声は先ほどとは一転、慈愛に満ちていて、言葉が絶対の事実であるかの様に思わせる。

 

「―――あ」

 

思わず手が伸びて、体が前に出そうになった。けれどその動きは、やはりダリの腕に体を抑えられて、足を動かせずに終わる。間違いなく罠だ。言峰が述べた甘い言葉は、エミヤが語った彼の人物像を思い出させて、遅ればせながら私はダリと同じ判断をする。

 

おそらくそれなら、砕いた瞬間、言峰はエミヤを殺す。けれど、砕く事を拒否すると断言しても、やはりエミヤは殺される。エミヤが今、瀕死ながらも彼の掌の上で生きながらえているのは、この宝石に取引の材料として価値があるからだ。だから、宝石を決して砕いてやるものかと固く握りしめる。

 

「―――ほう」

 

すると言峰は関心の一言とともに、私に観察の視線を送ってきた。おそらく、彼の予想では、もっと私の心が揺れるはずで、けれど、違った反応を見せたことに興味と好奇心を抱いたのだろう。嬉々とした様子で揺れる心の天秤がどちらに傾くのか、判断しようとする態度が、少しばかり気にくわない。

 

「おい、どうする?」

「――――――わからん」

「わからん……って、だってこのままだとエミヤが死ぬんだぞ!」

「だからといって、みすみす見えている罠に嵌ってやれるわけないだろう! 砕こうが砕くまいが、どちらを選んでも、魔のモノを封じようとする我々を奴が見逃すわけがないだろう! 砕けばその時点我々ごと! 砕かなければその時点で、エミヤが死ぬ! 殺されるんだ! わかっているんだ、そんなこと! だからどうすればいいかわからんといっているのだ!」

 

もちろん、奴の言葉に心を揺さぶられたのは、私だけじゃないし、エミヤが置かれている状況を見抜いたのも、私だけじゃない。サガの素直な問いに、ダリはまじめに正直な思いと考えを返し、睨み合う。そして、こんなときまで、それぞれの性質は変わらない。あるいは、こんな時だからこそ、それぞれの本質が出ているのかもしれない。

 

彼らの問答に導かれて、話の主役であるエミヤを見る。ボロボロの彼が微かな呼吸の身動きだけをする中、こちらの方へと伸びた右腕の、その先の二本がない怪我から、その半身の爛れた傷を眺めて、私は改めて息を呑んだ。

 

―――どう見ても、この場で全ての治癒が可能な傷じゃない

 

癒着した肉と服を綺麗に剥がして、失った体の一部を復活させるなんていう完全な治療のためには、エトリアに戻って施薬院に運び込むくらいしか思い浮かばない。けれど、エトリアに戻る手段を取り上げられ、その上、エトリアから追放されている私たちがその場所に戻るためには、魔のモノを封じて、来た道を引き返し、階段を戻るしか手段がない。

 

けれど、今、エトリアへの道は、魔のモノによって封鎖されている。つまりはどのみち、魔のモノを封じることが、エトリアに戻るための絶対条件だ。そしてそれを可能とする様な手段の手がかりは、今この場において宝石しかない。

 

宝石が魔のものに対して効力を発揮するのは、自分の目で先程確認したばかりだ。また、エミヤが言うには、魔のモノの手先であるという言峰綺礼が、宝石を砕け、とわざわざ交渉するからには、宝石にはたしかに、魔のモノの全てを封じこめる力がある可能性も高い。

 

なら、クーマの言った通り、宝石を制御装置らしきものへと当てれば、魔のモノを封じられるのかもしれない。どのみち、前も後ろも魔のモノに囲まれている状況で、全員を助けるなんていう芸当は、不可能だ。ならいっそ―――

 

―――彼を犠牲にして、宝石を杯に使用するべきか

 

「―――なるほど、瀕死の仲間を前にして動かないのは、こやつの言動により、私の信用が地に落ちているゆえか。そうだな、交渉を行うならば、互いの間に相手は必ず約定を守るという信頼関係か状況がなければ取引不可能だ、―――ならば、まずは材料を作るとしよう」

 

理性が損得を計算し、判断の天秤を最低損失での勝利条件へと傾かせにかかった瞬間、私の心情の動きを見透かしたかの様に、言峰は言い放ち、エミヤの爛れた背中へと手を当てる。そして彼の手が光ったかと思うと、見る間に血肉が服と切り離された。

 

皮膚と一体化して癒着したモノを剥離した途端、剥がしたものから血が滴り、肉と骨、筋繊維が見え、そして言峰が放つ光によって盛り上がりを見せたかと思うと、怪我は癒えてゆく。

 

思いがけないところから差し伸べられた治癒の手に、呆然とエミヤの傷が少なくなっていくのを眺めていると、やがて言峰は、スキルとは違う―――おそらく魔術―――技術によってエミヤの背中と頭部の大半の怪我を治癒すると、再び話しかけてきた。

 

「譲歩をしてやろう。宝石をこちらに渡せば、この男の傷ついた部分を治して返してやる。ついでに貴様らをこの冬木の土地から地上に送り返してやってもいい」

「え―――」

 

その言葉は、まさに魅惑の一言に尽きた。死力を尽くした私たちは道具も尽きかけていて、もはや魔のモノを封じる賭けに出るほかに生きて帰る道はない。けれど、そこに救いの手がもたらされた。

 

今、言峰の手によって、エミヤと言う男の瀕死の怪我は治癒されて、彼の顔には赤みが戻りつつある。血液の循環が正常に機能し始めた証拠だ。そうしてエミヤが回復する様を見せつけられると、如何にも彼は誠実かつ公正に取引を行い、寛大にも私たちを見逃してくれる人物なのだと思えて来てしまう。

 

「どうした? 侵入し暴れた不届きものを許す条件としては破格だろう? 宝石を渡すだけで、この男に治癒を施し、貴様らとともに五体満足の状態で返してやろうというのだ」

「―――どうやって、我々を地上へと送り返すつもりだ」

「この男から聞かなかったのか? エミヤシロウは、私がこの冬木の土地から送り出したのだ。私の根城たる教会へと戻れば、転移のための装置が万全の状態で残してある」

「彼の指がないが―――」

「ああそれなら―――、そら、受け取るがいい」

 

答えると、奴は服のポケットから取り出したものを乱雑にこちらへと放り投げた。私たちの目の前の地面に着地した棒状のものが、二本、転がってくる。

 

「う―――」

「奴の指だ。あとで治療してやるといい」

 

言峰が放り投げたのは、エミヤの二本の指はボロボロで、グチャグチャで、すでに血の気も失せていたが、なんとか原型は保っていた。これなら繋がるかもしれないという希望が湧いて出る。

 

「―――渡せば、本当に、見逃してくれるのか? 」

「確実に、地上へと送り返すことを約束しよう」

「宝石を渡した瞬間、ズドンなんてことは……」

「不安ならば、教会まで宝石を貴様たちが持ってくるといい。魔のモノの力を使わずとも、宝石程度の石ころを砕く手法などいくらでも思いつくし、それらを試すのは貴様たちがいなくなったあとでも構わんのだから」

 

言峰は、どこまでも疑問を丁寧に埋めてくる。疑問が解消されるたび、サガとダリは、徐々に彼との取引に応じる気になってきている。

 

かくいう私も、エミヤの顔色が戻り、助かるかもという可能性が浮上してゆくたび、天秤が、宝石を渡してこの度の冒険を諦める方へと傾いてゆく。エミヤの、言峰を信用してはならないという忠告は、目の前で積み重ねられた、他ならぬエミヤの傷を治療したという実績によって、その効果が薄れていった。

 

絶望に満ちかけていた心に、一筋の希望の光が射し込む。

 

―――みんなで生きて帰れるなら、それが一番いい

 

希望は、全ての疑念を脇に置かせて、胸の中で徐々に大きくなってゆく。私は言峰が欲している宝石を握りしめた。私は、そうしてクーマからエトリアの未来のためにと託された宝石を、これから犠牲となりうる多くの人を救うためでなく、今、私たちが助かるために手放そうとしている。

 

気がつけば、ダリとサガはじっとこちらを見つめている。その瞳は、言峰に宝石を渡してしまう事を良しとしろ、と、明白に語っていた。もう、ダリの腕による拘束は解かれている。おそらく、現在宝石を持っている私が首を縦に振れば、その時点で契約は成立する。

 

私は―――

 

「わかりました。宝石を―――」

「渡すわけには、いきませんねぇ」

 

いうと、今までだんまりを貫いていたピエールという男は、私の手から素早く宝石を奪い取ると、湖面に足を踏み出して、そのまま数歩ほど進み、言峰どころか、私たちからも距離を取る。彼の端正な顔は、不愉快の感情に歪んでいる。それは言峰という男に対して向けられたものであり、同時に私たちを対象に含んでいることも、こちらを睨みつける刺々しい視線から読み取れた。

 

私は、常に冷静を保っている彼の突然の蛮行に、文句を言うこともできずに驚くことしかできなかった。

 

 

私にとって、シンという男は、世界で一番大切な人間でした。彼が死んでしまった後、それでも生きてゆこうと思えたのは、ひとえに、シンという男の残り香がダリとサガの中にあったからであり、シンという男が願いを託した響がいたからです。

 

私は彼らの中に残ったシンの欠片が、私にとって良い刺激になることを確信していました。私は彼らの活躍を通して、シンという男の活躍を見ていました。私は彼らが活躍し、変化し、正しいと思える方向に成長するたび、シンが彼らに与えた影響を見つけて、喜んでいました。

 

やがて三人は、己の意志で、たとえ追放され無茶な条件をだされようと、エトリアという街と人のために戦うことを決意しました。シンが亡くなる前のサガなら、日和見な意見をだしたでしょう。ダリなら撤退を進言していたでしょうし、響なら周囲の意見に流されていたでしょう。

 

強敵であれ、難題であれ、迷いなく受託する彼らは、まるでシンのようでした。私はあの時、彼らの中に、シンを見つけたのです。まるで、シンがまだ生きているかのような気分を味わったのです。シンは、彼らの中に生きていたのです。

 

しかし今、そんなシンの意志をその身に宿す彼らは、強敵、難題を前に、楽な道を選ぼうとしました。判断難しい局面を前にした時、周囲に流されるがまま、他人の意見を採用しようとしました。

 

仲間は、敵と断言した男の甘言の心地よさに惑わされて、敵に屈しようとしていました。

 

私はそれが許せなかった。まるでシンを穢されたように感じて、気づけば私は、響の手から宝石を奪い取っていました。宝石を言峰に渡そうとしていた彼らは、当然、疑問の念を私に向けてきます。

 

さて、素直に私の気持ちを伝えてしまうと彼らにとって刺激が強すぎるでしょうし、ここは多少ぼかした表現を駆使して、差し出された毒餌の誘惑にまんまと引っかかった彼らに、私の気持ちと考えを伝える事といたしましょうか。

 

 

「おい! ピエール、どう言うつもりだ! 」

 

驚愕に言葉も発せない私の代わりに、サガが文句を言う。

 

「どうもこうもありません。だって、このままだと貴方達、宝石を奴に渡してしまいそうなんですもの」

「―――それの何が悪い」

「何が悪い……? 何が悪いですって……?」

 

言うと彼は、高らかに声を上げて笑い始めた。男性にしては高い音程の彼の声は、バードという言葉を武器とする職業の喉元から飛び出すと、薄暗い洞穴を満たすほども大きく周囲の地形に響き渡る。

 

「私はね。英雄が好きなんですよ。架空だろうと、実在だろう、世に残される物語に登場する果敢な彼らは、大抵、いかなる苦境に陥ろうと、諦めず、敵に屈することなく、最後まで自分の意思と信念を貫いて死んでゆくのです」

 

そして突然語り出した彼の独白に口を挟むものはいなかった。否―――、挟めない。語り部たる彼は今、言葉を武器とするこの戦場において、絶対の支配者と化していた。ただでさえ薄暗い闇の中、抗えないほど重苦しい空気が張り詰める。それはおそらく、彼の意図せずに発散している感情が生み出したものだったのだろう。

 

「英雄と呼ばれる彼らの生涯には、さまざまな苦難がありました。後悔があったでしょう。苦しみがあったでしょう。かつて人同士の諍いが戦いの理由であった時は、他者を憎み争いの種になる事だって珍しくもなかった」

 

彼が口を開き、長きにわたり滔々と語るのは、過去と彼にとっての事実を語る時だけだ。

 

「そうした彼らの苛烈な生き様、死に様は、私にとって、とても刺激的なものであり、美しく、快楽です。ただ、そのあまりの鮮烈さと過激さは、今の時代を生きる人たちにとって少々刺激が強すぎることもありますが―――、とにかく、バードはたる私は、物語を語る際、登場する人物がどのような思いを抱いて生き抜いて、そして死んでいったのかを再現し、己の解釈を感情に乗せて歌とするのです。そして、そんな英雄達が苦難を葛藤し乗り越えたのかを聴講者達に伝える事で、彼らに良い変化を与え、そして聞いたものが英雄達と同じように懊悩し、壁を乗り越えようとする様を、壁を乗り越えたのを、良質の刺激として楽しんでいるのです」

 

わからない。彼が何故今そのような己の性質を語り出したのか、その意図が読めない。ピエールはその視線を言峰綺礼という男に向けた。気圧されて静聴している私たちとは違い、言峰という男は、ピエールの話を聞いて、忌々しいと言わんばかりに、顔を歪めていた。

 

ピエールはそれを見て笑う。

 

「その反応。貴方がこの世界を醜いといってのけた時、もしやと思いましたが、やはりそうなのですね。私と貴方はよく似ている。私が他人の成長や、苦難を乗り越える姿を美しいと感じ良質の刺激とするのに対して―――貴方は、人が苦難や苦悩に絶望する姿を見て喜ぶ」

「―――」

 

言峰は一転して無表情となり、無言を貫く。

 

「―――私は今、一つ、気に食わないことと、一つ、気にかかっていることがあります。だからこうして宝石を取り上げたのです」

 

ピエールはそんな言峰の変化を、気にもしないで、話を続ける。話題をようやく本題へと戻したピエールの手中では、赤いルビーが、話の主役となることを喜ぶかのように輝いていた。

 

「気に食わないこととは、もちろん、私の仲間達のことです。苦難の道を歩むのは己が選択した結果なのだ、見くびるな、と言い張り、エミヤという男に真っ向から食らいついたサガや、常に誰かを守ることを密かな誇りとしていたはずのダリ。シンという男の意志を継いで、未知に挑むと誓った響は、あろう事か他人より差し出された安楽で破滅的な道を選ぼうとしていた」

 

突如こちらへと飛んで着た非難の刃が、私たちの心を容易く切り裂いた。言葉はそれぞれの心への侵入が容易となるように加工されていて、思わぬ痛みに、私も、ダリも、サガも、それぞれ呻き声のような声を上げさせられる。

 

心の痛みは、自らを甘やかしていると自覚させられた事によるものだった。

 

「くっ、くっ、くくっ」

 

そうして私たちが胸を痛めた様に、言峰は鼻を鳴らし、失笑を漏らした。顔には、思わぬ所

に面白いものを見つけた時などに生じる、喜びの感情が生まれている。間違いない。彼は今、私たちがそうして苦しんでいるのを見て、悦楽を得ている。

 

―――なんて性格の悪い

 

私はそして、エミヤの忠告と、ピエールの推論が正しかったことを、今更ながらに理解した。

 

「そして気にかかっていることとは、もちろん、貴方の言動です、言峰綺礼」

「―――私の言動の何が腑に落ちないというのかね? 」

 

言峰は私たちの失態を見た事で機嫌を直したらしく、打って変わって私たちを言葉で傷つけたピエールとの会話を楽しむかのように聞く。

 

「だって貴方、実のところ、宝石を渡したところで、私たちを生かして返そうなんて気は、さらさらないのでしょう? 」

「―――さて、戯言を述べたつもりはないが、何を根拠にそう思う?」

「ええ、貴方はたしかに嘘をついていない。―――でも貴方、これまでの会話で、一言たりと、私たちを生かして返してやろうなんていう意味の言葉をいってないじゃないですか」

「―――く」

 

ピエールが指摘するや、言峰は、声を荒げて笑い始めた。己の性質を見抜かれ、企みを暴かれたというのに、心底愉快そうに、悦楽のままに、何度も息を切らしては、高笑う。それはまるで、長い時間をかけた末、鈍い両親に自分の意図をようやく少し読み取ってもらえた子供が、喜びのままに感情を表現しているかのような、純粋な喜悦に満ちたものだった。

 

 

ピエールは言峰綺礼が高笑いした直後、彼は杯に向かって駆け出していた。バードという補助職ながらも流石はエトリア随一の冒険者、その速度は決して他の近接戦闘職と比べても遅いものではない。少なくとも、彼はいつも以上の速度で湖底を駆け抜ける。

 

滑らかな黒い湖面は彼が持つ宝石の力によって、常にピエールから一定の領域だけ目に見えぬ境界が敷かれ、液体の侵入を完全に防いでいた。宝石は明らかに魔のモノを退ける強い力を持っている。

 

見た目では区別がつかないが、封印なのか、祓っているのかわからないけれど、どちらにせよなら、ピエールが言峰という男が馬鹿笑いしている隙に杯へと到達し、それに宝石を使用することができれば、魔のモノをどうにかできるかもしれないと、強く思えた。上手くいけば魔のモノである黒い影はだろうし、その配下である言峰も身動きが取れなくなるはずだ。

 

そうすればエミヤを助けられるし、私たちも助かる。あとは、言峰の言っていた転移装置で地上に脱出すればいい。それで万々歳。万事解決だ。

 

しかし。

 

「なるほど、面白い事を言う。だが、惜しいな。確かに私と貴様は似ているかもしれないが、物語のような余分や絞りかすを楽しめるのであれば、貴様の感性は所詮二流のものにすぎん。私が娯楽とするのは、危機に追い詰められた人間が極限下において見せる、むき出しになった魂の炸裂だ。例えば―――」

 

言峰が言うと、私たちのいる入り口近くの湖の際から杯の間までの黒く滑らかだった湖面が蠢いて、液体は気味の悪い触手の群れへと変貌した。目と吸盤だらけの黒いそれらを、一目見て醜いと思ってしまったのは、その触手が全身より放つ怖気が、原始的な本能部分に働きかけられた結果だ。

 

あれは、およそ人の受け入れられる存在ではない。触手は、一度触れれば、瞬時に食われてしまいそうな、絶対的な捕食者を前にしたような感覚を私にもたらして、私はそれらから距離を取る為に離れた。周囲ではダリとサガも私と同様の挙動をしている。

 

「―――はっ、はっ、はぁっ」

 

そうして湖の中で際限なく増える触手の群れの中を搔き分けるよう、ピエールは杯目指して一直線に進んでいた。湖面に膨大な数現れた触手は、魔のモノを封じる宝石によって、彼に傷を負わせることが出来なくなっているようだった。触手はピエールから離れようとして蠢いている。

 

しかしそして、湖の中を安全に障害なく進めるようになっているはずのピエールは、触手出現直後、中心に進むにつれて進行の速度が遅くなってゆく。

 

「ああ、もう、煩わしい……! 」

 

原因は、湖面を覆い尽くした触手だ。触手は湖面全てを覆い尽くし、ピエールの周囲を隙間なく埋め尽くしていた。つまりは、魔のモノも己の苦手とすると力から逃げられないでいた。故に先ほどまでピエールの周囲空間はもはや余裕が一切なく、彼は全身余すことなく魔のモノに飲み込まれているような状況だ。

 

「援護にいかないと―――、っ……!」

 

私は慌ててピエールを追いかけようとして、触手の群れに行く道がないことを思い出させられる。不用意に伸ばした指先が地面から伸びた触手にふれて、灼熱の痛みが走った。引っこ抜いて指先を見ると、先が黒くなっていて、感覚が無くなっていた。

 

―――死ね、死ね、死ね

 

そんなことよりも恐ろしいのは、指先から入り込んでくる悪意。今までに味わったことのない、他人から向けられる純粋かつ濃密な負の感情は、おどろくほどの速度で心に到達して、その全ての領域を汚染してやろうと侵食してくる。

 

次の瞬間、薬を使ったのは、本能の動きだった。一刻も早く、それから逃れたい。そんな思いを込めて振りまかれた治療薬により、指先は浄化されてすぐさま色を取り戻す。黒の色が私の体から消えると同時に、その呪いはどこかへと消えていた。

 

「―――っ、……はっ、……はっ」

 

呪いから逃れたことに安心したのもつかの間、蠢いていただけの触手は能動的な反応を見せて、目の前の私に襲いかかってきた。一つならなんとかなったかもしれないけれど、湖から襲いかかる触手は、あまりに数が多すぎて、反応が間に合わない―――

 

「響! 」

 

顔が黒焦げになる寸前、ダリが私の体を引っこ抜いて、湖のそばから離脱してくれた。今まで私たちのいた地面をたくさんの触手が叩いた途端、じゅうじゅうと音を立てて、地面が焼かれて黒くなる。触手は共食いするかのように重なり合ったのち、獲物がいない事を確認すると、その触手を元の場所へと戻した。

 

そいつらがいなくなった後の地面は幾重にも抉れ、黒焦げになっている。一瞬でもダリの反応が間に合っていなければ―――

 

―――私は、本能の部分に嫌悪の感覚を叩き込んでくるあの触手の餌食になっていたのか

 

「―――っ!」

 

背筋に冷たいものが走って嫌な汗がブワッと額に浮かんだ。鼓動は嫌が応にも早まり、呼吸が荒く短くなる。そのまま顔を上げて、触手に襲撃の命令を出した張本人を見てやると、言峰は、命の危機に恐怖に怯えた私を見ると、彼は愛おしそうに笑っていた。

 

「そう、それだ。多少もの足りぬが、今しがたお前が見せた、その命の輝きと抵抗の先にあるものこそ、私の求める刺激の源なのだ」

「―――」

 

そして私は、エミヤが危険視し、ピエールが宝石を私から奪った理由を、完全に理解した。この男は、心底、他人の不幸と苦しみを喜び、糧とし、それのためなら、虚言に戯言、卑怯な謀だって平気でやる人間なのだと。

 

「―――その目。どうやら私と言う人物を正しく理解してもらえたようだな―――、しかし、そうか、目論見と私の性格を見抜かれ、宝石が貴様らの手になくなったのなら、もはやこれには完全なまでに価値がなくなってしまったな」

 

彼は笑って、先程己が治療を施したエミヤの頭を踏みつけた。大地が砕けるほどの衝撃。ゴキリと嫌な音がして、彼の体が大きく揺さぶられ、四肢が一瞬だけ跳ねて再び地に落ちる。伏せた顔面から、血がどくどくと地面に赤い水たまり作ってゆく。私は頭に血が昇って、湧き上がった怒りの気持ちで冷めた心がかっと熱くなった。

 

「何を―――」

「いらなくなったものを処分する。それだけのことだ。それに、そろそろあの男が聖杯に到達してしまう。流石に魔のモノを押しのける程度の力しか持たぬ宝石でアレを完全にどうこう出来るとは思えんが、聖杯に使われては多少の影響があるかもしれん事は否定できない。なにより器が完成する前に水を差され二百年近くにも渡る苦労を台無しにされては、興醒めどころの話でないのでな。異変が起こる前に、余計なゴミを始末してから、あの男の処分に向かうとしよう」

 

素直に答えたのは、私たちのことを侮っているからだろう。言峰は足をあげると、その靴底をエミヤの背中の真上に持ってゆく。先程よりも高く上げられた足は、無防備な背中の上で固定され、私は彼が何をしようとしているのか悟り、思わず叫んだ。

 

「やめてぇ――――――! 」

「――――――、ふ」

 

心からの嘆願の叫びは、けれど奴を喜ばせて行動を促進する材料にしかならなかったようで、言峰は憎らしいほど晴れやかな笑みを浮かべて、その足を振り下ろした。

 

 

「―――あと少し……!」

 

目の前を塞ぐ触手と触手の隙間に、両手を捻じ込んで二つの距離を大きくあけると、今度は体を捻じ込んで、つっかえとします。そして胴体を梃子がわりにして、隙間をさらに大きくすると、二つが再び仲の良さを取り戻す前に、足を通して、間を抜けるのです。

 

こじ開けては、抜ける。こじ開けて、抜けて―――そして、そんな作業を数十回繰り返したのち、ようやく私は、杯の手前までやってくることができました。

 

湖面を大量の触手が覆う中、杯が保管されている台座の周辺だけは、何事もないかのように平穏を保っています。やがてその群れを、これまでと同じように無理やり抜けて空白地帯に身を投げ出すと、転げて杯に近寄りました。

 

「――――――! 」

 

すると、守護を突破された触手の群れは、悔しそうに身をよじらせながら、手近の地面を叩き、地面はまるで呪われたかのように真っ黒く染まり、掘削されて砂埃が飛びました。

 

呪いを帯びた礫は、黒い散弾となり地面に横たわる私の全身を襲いましたが、それは私の周囲から数メートルほどの空間に入った瞬間、呪いを浄化されて、元の色を取り戻しました。

 

―――やはり

 

礫に見るだけで呪い殺されてしまいそうな毒の沼に全身を浸らせていながら生きていられたのは、この手にした宝石のお陰なのでしょう。その事実はつまり、この宝石を魔のモノが守る杯に直接接触させれば、何かが起こるに違いないと、私に確信を与えました。

 

埃を払いのけると立ち上がり、前へと足を進めます。あと数十歩。それであとは決着がつくはずです。そう、この宝石を杯に接触させてやれば―――

 

「―――う」

 

そして宝石を持った腕を台座の上に置かれた杯へと伸ばして、私は気がつきました。人の頭が入るほどの大きさの銀の杯の底には、酒の代わりに血液が薄く、しかし波紋で波を作る程度の量が注がれており、さらに、人間の心臓が、氷の代わりに入れられていました。

 

杯に心臓を収める意図も意味もわかりません。いかなる仕掛けなのか、杯にぽつねんと存在する心臓は、まるで未だ千切れた血管と神経の先が繋がっているかのように、血色よく脈打っているのです。

 

何という人知を超えた不気味な光景なのでしょう。多くの物語を蒐集してきましたが、ここまで常軌を逸した光景を語るものはありませんでした。不気味に怯えて、思わず嚥下すると、喉元を通過してゆく唾液の音が、やけに大きく体の中に響きます。

 

―――とにかく、これで全てが終わるはず

 

気持ちが黒く塗りつぶされる前に、私は宝石を持った手を杯の方へとのばし―――

 

「やめてぇ――――――! 」

 

背後より響いた悲痛な声に、気がつくと振りむいていました。暗闇の中、視線が触手蠢く湖の光景を乗り越えると、やがて水際の近くと少し離れた場所に、仄か光る二つの光源を見つけることが出来ます。一つは、仲間のもう一つは、言峰綺礼という男のものでしょう。

 

まず近くの明かりへと目線を送ると、膝から崩れ落ちて両手を地面についている響の姿が目に入りました。目線を送った直後、彼女は体を揺らして震えはじめました。おそらくは嗚咽しているのでしょう。

 

彼女の前方ではダリが体を傾かせて槍に体重を預け、彼の横ではサガが力の抜けた肩を落としてうなだれていました。

 

いつの日か見た、絶望を露わにする態度。シンが死んだときの記憶がよぎり、嫌な予感が脳裏を駆け抜けます。彼らをドン底へと叩き込んだ原因を早く探れと不安に急かされるまま、入り口近くの明かりの方へと視線を移動させて―――

 

「―――そんな」

 

そこに胸を貫かれたエミヤの姿を見つけて、私は仲間たちと同様の、暗く深い絶望の刺激を味わいました。覚悟しての出来事であるとはいえ、目の前にすると、やはりたまったものではありません。

 

―――また、仲間が死んだ

 

エミヤを殺した言峰綺礼という男は、彼の胸から足を引き抜くと、自らの行動によって絶望の淵に沈んだ三人の様子を見て満面の笑みを浮かべました。そして。

 

「――――――」

 

遠くにいる言峰と私の視線が交わります。三日月の笑みを浮かべた顔面の中、口元が静かに動きます。この数十メートルも離れたこの位置から私がその動きをはっきりと捉えることはできませんでしたが、言峰がこちらに向けて発した言葉は、不思議と理解することができました。

 

―――お前のせいだ

 

お前が暴走したせいで、エミヤが死んだのだ。遠目に見える微かな唇の動きは、けれど雄弁にエミヤの死が私の行動にあるという事を述べていました。奴が遠くより放った言葉の刃が、目に見えぬ矢となって、私の心を貫きました。

 

苦しむお前らの姿が愛おしいと言わんばかりの慈愛に満ちた満面の笑みを浮かべる言峰の所作を見るのが辛くて視線を下に落とすと、そこでは物言わぬ骸となったエミヤが、頭部から血を流しているのが目に入りました。

 

―――君の足掻きのせいで私は死んだのだ

 

死者は何も語らない。死体から言葉を発したのは、私の心が生み出した幻聴に間違いない。そんなこと、嫌という程理解している。けれど、心がどうしても認めてくれない。だって真実、私が響の手から宝石を奪って杯へと近寄らなければ、彼は今まだ生きていた可能性が高いのだ。あるいは、奴の言う通り、宝石を教会という場所にもってゆけば、そこまでの間に彼は意識を取り戻してくれて、もっと良い手が打てたかもしれない。

 

―――いやきっと、そうなったに違いない

 

他の選択の先にもっと良い未来があったかもしれないと思うと、胸がいっそう苦しくなりました。あったかもしれない、いう言葉は、確定していたのに、という言葉へと成り代わり、やがて、自らを痛めつける刃となります。

 

そんなもの、被害妄想に過ぎないと言い聞かせながら、しかし、外部より過剰に与えられた刺激は心の中をかき乱して、冷静な判断をさせてくれません。

 

―――あの時、宝石を渡す選択肢を取っていれば……

 

彼女から宝石を奪い取った時、エミヤが言峰に殺されるという未来を予測していなかったわけではありません。それどころか、そうして交渉を無視して、宝石にて魔のモノの封印を試みれば、交渉材料として価値のなくなったエミヤが殺されるそうなる可能性は高いとすら思っていました。

 

しかし私は、そんな仲間を切り捨てる覚悟をしてこの場所まで宝石を運んできました。覚悟。そう、私は仲間を見殺しにする覚悟を決めていたのです。……決めていたつもりだったのです。……決めていたつもりでした。

 

けれど実際、自らの行動により仲間を死なせてしまったという事実は、そんな上っ面だけの覚悟なんて軽く吹き飛ばして、心の中をかき乱します。後悔の感情は、未だに私が離さず色褪せさせず抱えている、かつてシンという男が死んだ時に味わった想いに辿り着き、掘り起こし、交わって、やがて一切の法則性を持たない無茶苦茶な信号となって、表現しきれない感情が全身を駆け抜けます。

 

チカチカと視界が明滅するのは、現実を直視したくない体が、拒絶反応として瞼を動かしている故でしょう。ごとりと音がして、初めて自分が楽器を地面に投げ出していることに気がつきました。強すぎる刺激に支配された体は、バードとしての誇りを放棄する事を選んだのです。

 

―――私は

 

やがて気がつくと、力が抜けて崩れ落ちてしなだれていて、それでも宝石から手を離さないのは、浅ましくも、生存本能がこれを離してしまうと、周囲の魔のモノが押し寄せてくると感じ取ったからでしょう。

 

―――私はなんて愚かなことを……

 

ごめんなさい、と謝罪の言葉が脳裏をよぎって、けれどいってしまえば彼の死の原因が自分の物だと確定してしまいそうで、躊躇いにぎゅっと手を握りしめました。すると、手中にて変わらず赤く輝く宝石は、そんな私の弱気を吹き飛ばすかのように、静かで強い光を周囲に撒き散らしました。

 

自然が作り上げた奇跡の塊が放つ、純粋で高貴な輝きは、まるで、やると決めた事をやり通すし、気にくわない奴はぶっ飛ばすとでもいうかのように、未だに力強く魔のモノたちを遠ざける光を放っています。

 

宝石は持ち主の魂と記憶を受け継ぐといます。ならきっと、その凛然とした強さは、この宝石のかつての主の意志を反映したものなのだろうと思いました。

 

―――そうだ、今は悲しみにくれている場合じゃない

 

石が放つ美しい心の光は、彷徨い闇に落ちかけていた心を正しい方向へと導いてくれました。先程誘惑に屈しそうになった彼らのことを責める資格は、私にもないな、と思いました。また、シンの在り方と異なる行動を取りそうになった自分自身に怒りが湧き上がります。

 

ただ、そうして怒りのままに行動するのは、いかにもシンらしくないと思いました。気がつくと、私の怒りは、一旦、その全てが行動のためのエネルギーに変換されていました。脳が動く命令を下すと、体は従順に思った通りに動作してくれる事に気づけます。

 

―――犠牲が出た。それでも初志を貫徹する

 

そう。正しいと思ったのなら、命をかけてでもやり遂げる。私の選択によって、犠牲が出た。仲間が死んだ。仲間を死なせてしまった。でもだからといって、足を止めることはできない。

 

後悔したところで現実は覆らない。人は血液を失えば、人は死ぬ。心臓を砕かれれば、人は死ぬ。何もせずとも、寿命で死ぬ。だから、せめて、嘘偽りなく生きる。他者との衝突を恐れず己を貫き、間違いを指摘されたのなら認め、犠牲をだしてしまったのならその死を悼み、抱え、そしてやがて訪れる最後の瞬間、己の生き様を認め、満足のうちに死んで行けば良い。

 

それが、私がシンという男から受け継いだ強さであり、シンという男が憧れたエミヤという男を私の判断にて死なせてしまった事に報いる唯一の術であり、残すべき財産なのだから―――

 

 

走馬灯のように圧縮された時の中で後悔と懺悔、改心と決心を一気に済ませ終えると、私は元々の目的のために動き出しました。起きた現実の出来事をきちんと見据えてやると、頭の中にこびりつくような幻聴はもう聞こえてきませんでした。声のある時に目を向ければ、彼は変わらず下を向いた骸の状態で、動く事はありません。

 

―――償いと弔いは後で必ず。ですが……

 

その前にやり遂げないといけないことがあります。それは選択の結果、犠牲にしてしまったエミヤの望みでもあった、魔のモノの封印―――それが出来るという宝石を、杯に当ててやる事。

 

「せめてそれくらいは―――!?」

 

やり遂げてみせよう。決意して振り向き、手中に収まっている宝石を器の中に収めるべく、手をかざしつつ振り向き、器の上に持っていこうとした瞬間、発生していた異常事態に目をむかされました。

 

「杯が―――」

 

人間の心臓を収めるという趣味の悪い意匠が施された杯は、その身が置かれ固定処置が施されていた台座から解き放たれて空中に浮いていました。宙に浮いた杯の上に空いた穴からは、やがて黒い汚泥が漏れ出し、下部の杯を満たし、溢れ、地面を焼きます。

 

銀の美麗な器から溢れてきたそれは、今までの魔のモノという存在が放っていたものとは別種の暗黒でした。やがて漏れ出た暗黒の水滴が一雫だけ地面に触れた瞬間、土は持っている生命力を奪い取られたかのように、溢れる汚泥と同種の黒い存在となり、直後、私の体へと襲いかかってきました。

 

「―――う、っつ、くぅ」

 

闇の群れはこれまでの触手どもとは異なり、宝石の守りなどまるで無視して、体に纏わりつこうとしてきます。体の周囲を覆う光と闇の境界線は瞬時に崩壊し、私は闇と接触。

 

「―――あ、が、う―――あ」

 

―――……死ね。……お前も死ね。……お前も一緒に死んでしまえ!

 

絶対零度の悪意。闇と触れ合った体は瞬時に温度を奪われ、内包する悪意の成分は心に侵食してきます。その現象は、体と心を徐々に己を傷つけるなどという生易しい次元ではなく、瞬時の同化と悟りでした。

 

「―――あ」

 

ぼきり、と、心が折れたのを感じました。単なる負の感情の奔流ならば、もう少しは耐えられたでしょう。ですが、私はもはやそれの一部でした。闇の中には、生きている限り逃れることのできない死の恐怖が齎すさまざまな感情が、極限まで圧縮されて詰め込まれていました。

 

触れた途端、もはや出来る出来ない、可能不可能の話しではなく、抗ったところで数秒後に訪れる一心同体になる運命からは、絶対に逃れる事叶わないのだという現実を、汚泥は伝えてきます。

 

―――ああ

 

なんで私はこうも弱いのでしょうか。少し前に心に決めたはずの抵抗の決意は、未知なる質と量の悪意によって、簡単に霧散してしまっていました。

 

折れた心に反応して、体から熱が失せていくのがわかります。体が失せてゆく感覚を覚えました。削られ、自由に動かせる部分が、痛み感じる神経が、それを怖いと思う感情が消えてゆきます。

 

―――……ああ

 

明日を夢見て眠りにつくのとは違う、希望のない底なし沼に沈んでゆく、暗闇と一つになる感覚。そして記憶も感覚も凄まじい速度で失せていく中で、私が最後に思い出せたのは後生大事に抱えていた、シンへの想いと、彼と関わった仲間たちの事でした。

 

―――自分が消えるのはいい。でも、シンの痕跡が全て消えてしまうのだけは耐えられない

 

せめて、彼が生きた思い出と行動理念を受け継いだ彼らくらいは救ってやりたい。一念は、自由にならないはずの体を動かし、宙に浮いた杯の中へ宝石を投擲させることを可能としました。

 

―――こ…れ……で……、……

 

宝石は浮かぶ杯の黒い汚泥の水面張力と勢いを破り、暗黒の中へと静かに呑み込まれて消えてゆきます。前方から怒涛の勢いで迫る泥が私の体を完全に呑み込み、背中がゆっくりと地面へと吸い込まれてゆきます。

 

意識を手放す前、ぼやける視界の中、入り口の近く湖の際で二つの光が合流する。それが、私が全てを手放す前、最後に見た光景でした。

 

 

「多少予想外もあったが、存外呆気なかったな」

 

エミヤという英霊を殺し、遠目に聖杯が完成したのを見る。第三次の聖杯を参考に、第五次の機能を組み込み完成した聖杯は、瞬時に予定通りの効力を発揮して、黒い泥―――すなわち、「この世の全ての悪/アンリマユ」を生み出し始めた。

 

―――ああ

 

「なんと美しい―――」

 

感嘆の声が漏れた。聖杯に付着した泥。すなわちアンリマユは、世界の全てを呪ってやまない闇を聖杯の中より吐き出して、その周囲を呪いで塗り替えてゆく。やがて溢れ出る暗黒は、奴と同質の存在である地底湖一面を覆う魔のモノと接触した。

 

アンリマユは魔のモノと接触すると、即座に触手を黒く塗り替えて汚染してゆく。すると、魔のモノは同化し黒ずんだ体を悦楽に震えさせて、悶えるのだ。魔のモノはアンリマユが内包する感情を存分に体内に取り込み、アンリマユは自らの血肉を分け与えながら、周囲の魔のモノ全てを己の属性で染め上げてゆく。

 

杯より黒いワインのごとき液体を無尽蔵に生み出し、飢えた衆目に血肉をパンのごとく与えながら前進するアンリマユはまさに、キリストのような聖なる存在であると言えるだろう。世間においては悪と呼称されるモノ同士の邂逅により、私は初めて、自己犠牲というものの尊さを理解することができていた。

 

―――長かった

 

珍しく感傷に浸る。魔のモノに必要とされ復活し、この時、この光景を見るため、二百年を超える時を過ごした。故に目的達成の喜びはひとしおだった。

 

 

かつてこの世界の人間に敗れ、ほとんど力を失い逃走した魔のモノは、その傷を癒しもとのとおりに復活するため、大量の人間の負の感情を必要とした。

 

魔のモノは迷うことなく、これまで以上の分量の負の感情を人間たちから吸い上げ己の傷を癒そうと試みた。しかし、皮肉にもその行為は、人間たちが、己に、互いに、負の感情を抱く事を妨げる事となり、世界は徐々に平和になってゆく。

 

摂取できる餌の質が低下し量までも減ってゆく中、魔のモノは己の存在維持が精一杯となり、一層必至に人間どもから負の感情を取り上げるようになるが、その行為はますます人間が負の感情を生み出さない生物へと退化させる原因となり、魔のモノは徐々に力を弱めていった。

 

やがて糧の量が減り、質が悪くなる中で、力を失っていた魔のモノは、世界のある場所で異常なものを見つけた。それは、かつての巨大な力を持つ自分では気がつかないほど小さな、けれど、その時代においては純度の高い悪意の感情だった。

 

生存の糧を求めていた魔のモノは、迷う事なく反応がある場所へと向かった。その場所こそが冬木の土地。円蔵山の地下、霊脈と近しい場所にある、大聖杯が設置されていた大空洞跡地である。

 

大聖杯という、世界の外側に干渉し、現在過去未来の英霊の召喚を可能とする魔術道具は、その内部の時間軸が全て等価の存在だ。また、大聖杯は、聖杯を現世に降臨させるため、その土地の霊脈を聖杯降臨にふさわしいものへと作り変える能力を保有していた。

 

アンリマユを宿していた大聖杯と接していた周辺の土地と霊脈は、その性質を一部受け継ぎ、大空洞跡地は、大聖杯がその場所に設置されてから以後二百数十年の歴史を保有し、悪意が溜まりやすいという特性を持つ場所に変貌していたのだ。

 

やがて第五聖杯戦争よりのちの時代、大聖杯の存在に気がついたある魔術師はその土地の異常に気づき、土地を霊脈から切り離して、封印処置を施した。おそらくは時の流れの果てに溜め込んだ力を失う事を期待したのだろうが、あいにく周辺より隔離された土地は、だからこそ皮肉なことに、魔のモノの到来と世界の崩壊からも無関係を貫く事を可能として、その場所は、長い間、一部の大聖杯の記憶と、純度の高い悪意を溜め込む事を可能とした。

 

やがて長い時間の果てに封印の効力は薄れ、土地の持つ悪意は外へと漏れるようになり―――

 

そして漏れた悪意を弱り切った魔のモノは感知して、奴はその場所へと足を運ぶ事となったのだ。魔のモノはその悪意を喰らい、そして喜んだ。残存している悪意は、質が、その時代とは比べ物にならないほど良質なモノであったからだ。

 

その悪意を喰らい尽くせば、自身はかつてほどでないものの、幾ばくかの力を取り戻すことができる。喜びそれらを喰らい尽くそうとした魔のモノは、しかし思った。

 

―――それでは駄目だ

 

今、世界樹という天敵の上に住む人間たちは、以前よりも繁殖し、力を蓄えている。そんな中、以前より力を増してならともかく、以前よりも弱い、中途半端な状態での復活を果たしたところで、やがて異常を感知してやってくる人間どもにやられてしまう可能性が高い。

 

思考する中、土地と一体化して物質化していた事で保有されていた悪意を取り込んだ魔のモノは、自然とその土地の記憶を読み取り―――、残された大空洞の記憶の中から、これほどまでに純度の高い悪意が世に現れ、残留していた理由、すなわち聖杯戦争という事象を知り、初めは己の力のみでそれの再現を試みた。

 

もちろん、それは上手くいかなかった。魔術というモノの仕組みを理解できないモノに、大聖杯という魔術の極地の結果に生まれた道具と、それを用いて英霊召喚を行い、聖杯の選定を行う奇跡の儀式、聖杯戦争を再現出来るはずもない。

 

やがて苦戦と懊悩の末、魔のモノは人間の中でも、悪側に属するものであり、聖杯戦争の監督者でもあった私に目をつけた。人間でありながら悪を容認し、他者の苦しみの中に喜びを見出す私と、負の感情を糧とする奴の出会いは、必然の運命であったと言えるだろう。

 

生前、己の持つ悪の性質により、無価値を決定づけられた私は、死後、初めてその性質を、心底、他者に必要とされたのだ。姿形こそ異なるものの、同種同類から必要とされ求められたという事実は、娯楽と無駄に費やした生涯にて積み上げてきた喜びなどとは比べ物にならない歓喜を私の中に生み出した。

 

悦楽を分かち合う同士と目的のできた私は、魔のモノの望み通り―――、そして、かつての私の望み通り、この世の全ての悪/アンリマユをこの世に下ろし、その生誕を祝福するため、私は聖杯戦争の再開を目的として動き出したのだ。その時、比翼連理の同士を得た私は、これまでにないほどの幸福な感情で我が身が満たされていた。

 

 

長い斎を強いられる時期は過ぎ去り、今や一対の翼は、もう一人の同類、否、同位体を得て、三位一体となった。そう、我らはもはやアンリマユという悪の神、魔のモノという悪の精霊、彼らと同一である悪の人間言峰は、神であり、精霊であり、神の子でもあるといえよう。

 

―――ならば世界樹の上に住まう無垢な民どもに祝福を与え、新たなる魂のステージに引き上げてやるが、上位者となったものの勤めと言えるだろう

 

自らの行いによって訪れる素晴らしい未来を予測して娯楽が生み出す快楽と悦に浸りながら美しい闇を生み出す聖杯を見やっていると、やがて聖杯の上部空間より漏れ出すアンリマユにて汚染された魔力の流出量が下がっていることに気が付いた。貯水と放水の機能を持つ聖杯の稼働が正常に行われていないのだ。

 

―――やはりあの聖杯の出来は、冬木にあったモノよりも数段性能が劣るか

 

大聖杯であり、小聖杯の機能を再現するために、土地の持つ過去の記憶より再現した第三次聖杯戦争の聖杯のレプリカは、聖堂協会の伝承にオリジナルの造形を噂に知り、魔術の知識を納めた私とはいえ、肝心の魔術の腕前が凡百である私の腕では再現が難しかった。

 

そこでレプリカの聖杯をすこしでも本物に近づけるため、自己改造により英霊の座の観測機能と地脈にアクセスしてマナ/外部魔力の調整機能を持っていた凛の心臓を抽出し組み込んだわけだが、やはりそれでも、かつての時代、神域の技術によって作り上げられた神秘の完全再現をすることは叶わなかった。

 

―――限界を見誤り、欲張って無茶な行使をしてしまったか

 

このまま稼働させ続けてもすぐに壊れるということはないだろうが、聖杯機能の中核となっている凛の心臓は、もはや代理となるものが存在しない貴重な品だ。機能不全に陥られると、再び穴を広げて再稼働をしてやるのに多少の面倒が発生するのは間違いない。

 

―――負担を軽くしてやるべく魔力流出の量を調整してやるか

 

不要のものとなったかつての仇敵の死骸を踏み越えると、湖へと近寄る。その際、未だ生きている三人の人間が視界の端に映った。アンリマユと魔のモノの交合を見た三人は、男二人は恐怖に怯え、女一人は呆然と全ての感情を失って、座り込んでいる。

 

―――もはやこやつらは敵となり得まい

 

この世界の住民は、精神構造が以前の世界に比べて特殊だ。悪意に対しての耐性が低く、全てのモノに対しての執着が薄く、脆い。己の怪我や生死に頓着しないくせに、他者の死や負の感情には過敏に反応して見せる。まるで子供のようだ。

 

中には、先ほど私に抗ったピエールとかいう輩のように、多少は堪え、悪意に抵抗するような者もいるが、それもすでに死んでしまった。

 

―――多少は抵抗してくれなくては、面白みもない

 

やはりこの世界とそこに住む住人は、私の娯楽の相手をつとめるに不適当だ。もはや奴らへの興味が失せた私は、三人の傍を通り抜けて水際へと足を進める。地底湖の中で狂気に乱痴気さわぎを起こしている彼らは、接近した私に歓迎の意を示すかのように、聖杯までの道を開けてくれた。黒い触手が大波のように蠢く美しい湖面は、私が足を踏み出すごとに割れてゆく。

 

エミヤの返り血により赤く染まったカソックを着用して、割られた湖底を歩く私は、まるで神に生涯を尽くした聖人になったような気分で、聖杯までの道を歩く。聖杯までの道のりは短いが、その間だけモーセの気分を味わうのも悪くない。

 

 

言峰が接近する最中、聖杯の中に沈んだ宝石は、込められた守りの魔術によって濃縮された呪いから己を守護し、ゆっくりと呪いを浄化しながら器の底へと身を沈めていった。聖杯の呪いがこれまでにないほど濃密さ故に、沈殿の速度は非常に緩慢ではあったが、宝石の魔のモノを祓う機能は未だ健在であった。

 

やがてそれは、杯の底に沈み、固着して張り付いた心臓に触れると、瞬間、まるでかつての主人との再会を喜ぶかのように打ち震えて、光の領域を拡大させながら効果を強めた。汚泥は聖杯との接触を遮断され、力の発生源となっていた核を失い、流出を停止させられる。

 

多少素材と手順と方法に逸脱はあるものの、基本的にはルールに則り、七つの魂を呑み込むことで完成した完全な聖杯は、銀という素材が持つ浄化の作用と、聖杯伝承に残る癒しの効果を最大限に発揮して、全ての暗黒を打ち払う。

 

暗黒の支えを失った聖杯は、光を放ちながら地面に落下すると数度地面を叩き、ピエールの体の側を通り抜けて、魔のモノ蠢く湖底へと転がり落ちてゆく。やがて触手が暗黒と魔のモノとが接触した瞬間、蠢くモノどもは宝石などとは比べ物にならない聖なる光による浄化の力を嫌い、あるいは、それに打ち払われ、聖杯が放つ光の領域から身を引き、逃げてゆく。

 

その折、触手が逃走する際の弾ける勢いに、聖杯は入り口近くの湖の際に跳ね飛ばされた。衝撃に反応してか、聖杯は一層強く輝く。その光の効力は凄まじく、聖杯通過部分の周囲数メートルの範囲の、アンリマユも、魔のモノも、絶対領域に変化させていた。聖杯は、浄化と癒しの力を静かに彼らと敵対者、そして遺体にまでばら撒いて、その力を存分に発揮する。

 

白光が暗闇を切り裂いた時、全てのものの動きを停止させて、空間から時を奪い去る。やがて静寂と厳粛の法が敷かれた場にて、最も早くその掟を破り場をかき乱したのは、過去より来訪した、屍となったはずの男であった。

 

それはこの場にいる誰もが知らぬ、インという彼女が作成した料理に秘められた効力が聖杯の癒しの力と組み合わさった結果だった。

 

かつてハイラガードにおいて世界樹の魔物の血肉を使って調理した料理は、食べた者にさまざまな恩恵を与えたという。インが受け継いだ調理本とはそれの、劣化コピー。味を落とさず、一般に溢れる食材での作成を可能とした代わりに、与える恩恵をほとんど失ったものだった。しかし、彼女はそれを、大量に作成し、彼らに振る舞った。

 

つまりインの料理は、質がダメならば量で補うという、ひどく当たり前の方法により、食したものに恩恵を与えるというかつての効果を微かに取り戻していたのだ。聖杯の癒しの力によって誘発されて発揮したその効果は―――

 

捕食者が死した際、一度だけ、復活の効果を与えるという奇跡に等しきもの―――

 

 

「馬鹿な―――、聖杯が元の「聖なる杯」としての機能を発揮しただと!」

 

遠くより聞こえた不快な声の叫びに遅れて、炉心を失い、擬似神経回路を壊され、もはや熱なんてない体の中に暖かい熱が降り注いだ。それでも生きために必要な重要機関を失っている体は入り込んでくる癒しの光を受け止めきれず、浴びる端から熱は地面へ抜けてゆく。

 

「―――そうか、あの宝石……、姿が見えんと思ったが、奴め、聖杯の器の中に投げ込んでいたのか……! 」

 

言峰は己が気付いた事実に困惑し、奴にとって想定外の自体を引き起こした敵を嫌悪し、憎々しげな声を上げていた。

 

―――っ……!

 

生まれた敵愾心が反射的に身を動かそうとするも、思い叶わず、その上ひどい頭痛が走った。指を切り落としたが故、放置されたのが為だろう、微かにだけ動く右腕を動かして頭に持っていくと、皮膚がいつもより動いて、頭の中を不自然な感覚が駆け巡った。

 

残った指先で頭部を撫でると、亀裂を確認して、ようやく頭蓋が割れていることに気がつく。撫ぜた髪と皮膚からパリ、と音がする。出血はもう無く、乾きかけている。皮膚だけ再生している理由はわからないが、どうやら短くない間放置されていたようだ。

 

「冬木の聖杯を完全に再現できなかったが故、オリジナルに似せて作ったのが仇となったか。まさか穴を広げ、保ち、魔力を溜め込む以外に、そのような余計な機能まで発揮するとは……!」

 

体が軽い。体が寒い。そんなこと、当然だ。だって心臓がない。本来なら瀕死を通り越して、死んでいる状態こそが正しい有様だ。頭は破損し、血は空っぽ、心臓はない。体に熱を巡らせる機関がないそんな状態を生きているなんていったら、それこそ世界中の医者と宗教家と魔術師から研究対象にされ―――ああ、そうか。

 

―――もう世界が違ったのだった

 

かつての世の摂理に反している状態で体が動く理由はわからない。ただ、体のあちこちがガタガタのポンコツになっているのに、動くのなら何かをしなければならないという気持ちだけは、空っぽの体に満ち溢れていた。

 

体の状態を確かめる。不思議と痛みはなかった。右腕は感覚が微かだが残っていて、動く。左腕はまるで動かない。足の指先に力を入れると、開いた頭と空っぽの胸から微かな体液が噴出したが、地面を踏ん張る力が残っていることに気がついた。前に進むための足はまだ動く。体は行けと言っているのだ。

 

―――ぅ……、ぉ……

 

右腕をテコと支えにして上半身を起こそうとするも、背中から肩にかけての筋肉は中の神経ごと抉られていて上手く動かず失敗する。微かに持ち上がった体で右腕を見ると、肘から肩にかけてズタズタに引き裂かれた己の肉が目に入る。中の擬似神経回路である魔術回路はどうあがいても使用不可能だ。おそらく言峰が私の魔術回路を破壊すべく、この体に心霊医術を施したのだろう。

 

―――ん……、ぐっ……、ぬぅ……

 

起き上がるために足りない力を、腹筋と背筋より拝借する。寒さはいつのまにか、転換して暑さに変わっていた。感覚はまだ完全に死んでいない。どこからか滲む汗を無視して右腕の肘を支点に左半身を起き上がらせると、あとはもう流れで座った状態にまで持っていけた。

 

すると呼吸をして酸素を取り入れなくとも不思議と明朗な視界は、まず眩く輝く光を捉え、次にその向こう側、光に照らされた中、目立つ黒の色に視線を奪われた。

 

「―――悪あがきを……、お陰で穴が閉じてしまった。……だが、いや、もう手加減は必要ない。これまでだ。先ほどまでの会合で、魔のモノはアンリマユの力を体内に取り込み、もはや多量の汚染された魔力を浴びても耐えられるだけの力を得ている。ならば―――」

 

悪態をついた言峰が聖杯に向けて進み出す。一歩歩くごとに密集した触手が蠢き、奴の前方が割れてゆく。奴の仲間が白い光に身悶える動きは制御できないらしく、向かう奴の速度は非常に緩慢だ。あるいは奴が勝利を確信しているが所以の余裕なのかもしれない。であればおそらく。

 

―――これがラストチャンス……!

 

「―――っ……!」

 

足の指先に力を入れて体を前に動かすと、歯を食いしばって立ち上がった。何もかもが足りなくなった体はたったそれだけの動作で限界を迎えていて、もう一度休んでしまえと囁くかのように、ふらついている。

 

―――なら、倒れさせてやろうじゃないか

 

体のわがままを聞いてやり、揺らぐ体が前に倒れこもうとした瞬間、胴体が傾いたと同時に右足を前に踏み出した。ざくりと湿った地面を踏みしめて前に進むと、泥をかいた音が一帯に響き渡る。音は光が周囲一帯を支配して静寂の掟を強いている中によく反響して、全ての生き物の視線が私に集まったのがわかる。

 

「―――エミヤさん!」

「バカな―――、貴様の心臓はたしかに破壊した。魂は杯に吸収され、聖杯は完成したのだ。なぜ動ける―――」

「知ったことか!だが、大方、必死でこの世にしがみついたのだろうよ! 言峰綺礼! 貴様に一矢報いるためにな!」

 

驚く二人の叫びを無視して、私は誰よりも早く一歩を踏み出し駆け出していた。目的は決まっていた。聖杯に触れる。おそらくこの状況の突破口はそこにある。言峰は言った。

 

『馬鹿な―――、聖杯が元の「聖なる杯」としての機能を発揮しただと!』

 

聖杯が元の機能を発揮した。聖杯。かつての世界において、さまざまな英雄達が探し求め伝説を作った、神の子の血を受けし聖遺物。

 

『冬木の聖杯を完全に再現できなかったが故、オリジナルに似せて作ったのが仇となったか。まさか穴を広げ、保ち、魔力を溜め込む以外に、そのような余計な機能まで発揮するとは……! 』

 

しかし冬木にあったのは魔術師達の悲願を達成するべく願望器としての機能だけ発揮するように超一流の魔術師どもによって作り上げられた模造品で、さらに、目の前にあるそれは、そんな冬木の模造品を参考にして魔術師としては二流の、しかし、聖職者である奴の知識を動員して聖杯オリジナルの姿を模して作り上げられたという模造品の改造品だという。

 

―――コピーを真作に近づけようと改良を重ねたが故、別の機能を持つに至る、か

 

それはまるで私の使う多重投影魔術のようだと思った。奇妙な共通点は不思議と憎悪の対象でしかなかった仇敵との間に共感と信頼感を生み、それ故に奴の作り上げた聖杯は、間違いなく「聖なる杯」として癒しの力のほかに、冬木本来の聖杯としての機能、願望器としての機能も兼ね備えているに違いないと私に確信させていた。

 

駆ける。ただ前へ。体が地面に倒れこむよりも早く、一直線に白く清浄な輝きにて奴らの接近をはねのけて、神聖領域を確保している聖杯へ。

 

「―――させるか! 」

 

遅れてようやく私の目的に気がついたのだろう、言峰が動き出した。聖杯との距離はすでに相当近いくらいまでに詰められている。しかし、こちらは強化魔術も使えず、両腕のふりを速度に変換できない状態であるのに対して、あちらは万全の状態だ。

 

だが。

 

「邪魔だ! 暴れるな! 」

 

苛つき混じりに言峰は叫びながら、己が進路を塞ぐ触手をかきわける。聖杯に近寄ろうとする奴の意思とは裏腹に、蠢く魔のモノとアンリマユは、聖杯の放つ光から少しでも遠ざかろうと聖杯からの集団避難行動をとっていて、その挙動が奴の進撃を邪魔する壁となっている。お陰で今、奴との聖杯争奪戦において、私は有利な立場にあった。

 

「退け! 」

 

だがそれでも、強化魔術が使えず、体内のあちこちがガタガタで、腕の振りを速度に変換できない私とは違い、奴は万全の状態だ。言峰は一喝にて聖杯の光に怯える魔のモノとアンリマユを退かせると、願望機までの道を確保して駆け出した。

 

するとこちらとあちらのダメージの差は顕著に現れた。言峰は現在既にトップスピードを保っていた私の速度など瞬時に越して、猛然と聖杯へと近寄る。あれだけあった距離の差は見る間にゼロに近づいてゆき、競争が加熱する。しかし。

 

―――、後一手足りない……!

 

やはり体調の差は如何ともし難く、このままでは言峰の方が先に聖杯へと到達することが予測できた。血の巡っていない頭を回転させるも、栄養足りなくなった頭が導き出す答えはどれも、「奴の方が先に聖杯へと到達する」という認めがたい答えのみ。

 

聖杯とその先にいる奴を見据えながら、己の無力と非力を悔しく思い微かに唇を噛むと、言峰の不機嫌を露わにしていた唇の口角が上がり、笑みを浮かべた。

 

「貴様には焦らされたが、どうやら貴様の最期のあがきも無駄に終わりそうだな! 」

「――――――っ!」

 

嫌味に返してやる余裕もない。そんな事に回すエネルギーがあれば、一秒でも早く聖杯にたどり着くための力へと変換する。私の所作からそんな必死の思いを読み取ったのだろう、奴は私の顔を見て不快な笑みをいっそう濃いものにすると、しかし速度を緩めず聖杯へと近づく。

 

―――くそ、間に合わないのか……!?

 

「エミヤさん! 」

 

心中に弱気が走った時、掠れるくらい大きな声がその不穏な空気を払拭した。発声の直後、地面を連続して蹴る音がして、まだ年若い少女特有の甲高い声を発した響が聖杯に向けて駆け出していた事を察する。

 

「―――この……!」

 

一転、奴の顔に陰りが生じる。水際、最も近場にいた彼女は、今、私よりも奴より聖杯に近い立場にあった。ならば私は―――

 

「響! 」

 

 

A:聖杯をこちらに!

B:聖杯を使え!

 

 

第十六話 過去より出でし絶望と希望

 

終了

 

 



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世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 fate root
第十七話 積み上げてきた過去の結実 (A:fate root)


第十七話 積み上げてきた過去の結実 (A:fate root)

 

必死でしがみついた果てには、必ず相応の結果が待っている。

例えその対象が過去であっても、そのルールは変わらない。

 

 

「響! 聖杯をこちらに! 」

「―――はい! 」

 

叫ぶと聖杯にたどり着いた彼女は、迷わずそれを私の方へと放り、剣を抜いて言峰の方を向いてその場に構えた。その一連の動作があまりに自然すぎて、一瞬思わず疑問を抱けなかったほどだ。

 

「響! 何を! 」

「時間を稼ぎます! その間に、なんとかしてください! 」

 

私が何をしようとしているのか予想もできていないだろうに、迷いなく言い切った言葉には信頼があった。こちらに向けられた小さな少女の背中は、いつか見た青い英霊の彼女のように絶対の覚悟が備わっている。

 

「―――っ!」

 

ならばその献身に最大の返礼で応えるためには、行動で示すしかないと思った。だから駆ける。殆ど動かない右腕を必死に聖杯へと伸ばす。放物線を描いて空中を進む銀の器は、暗闇の中最も明るく光を発していて、対象へと近づくほどにその姿が見えなくなる。

 

「邪魔をするな、小娘……! 」

「―――っあぁぁぁ! ……っぅあ!!」

「どけ! 」

 

目が潰れそうなほど眩い光の向こう側、すぐ近くで言峰と響が相対したのがわかる。けれど、どれだけ勇ましく、また、近接戦闘の才能があろうとも、長い年月を費やして積み上げられた技術と実力の差を埋めることは出来ず、彼女は一合を防がれたのち、一打の元に打ち払われ、響が地に倒れこんだのが打撲音からわかった。

 

―――早く……!

 

焦燥感が脳内の興奮物質を発生させて、時間の流れを遅く感じさせているのか、空中を進む聖杯との距離を詰めるも、私とそれが近づく速度は酷く遅く見えた。

 

「……まだ、行かせない……! 」

「―――よかろう、ならばまずは貴様から死ね」

 

打ち倒されても己の行動を阻害しようと試みる響のしつこさに、言峰はついに怒りの感情が分水嶺を超えたのか、それまでの感情が乗った声とは一転、冷酷さのみを孕んだ声を発すると、振りかぶった。その拳が振り下ろされた瞬間、彼女の命は尽きる事となるだろう。

 

だから。

 

「―――聖杯よ! 」

 

伸ばした手が光の向こう側の杯に触れた瞬間、残った指で必死に掴んで、思い切り叫んだ。

 

「我が願いを聞き届け、眼前の奴らを打ち払う力をよこせ!」

 

瞬間、手中に収まった銀の器は、私の指先から体に残る全ての熱を奪い去っていった。そして不足していた魂を補い、ようやく真なる完成に至った聖杯は、熱とともに受け入れた私の願いに呼応して世界を新たな法則で書き換えそうな光量で周囲を覆い尽くすと、その秘められた力を発揮した。

 

 

「―――よかろう、ならばまずは貴様から死ね」

 

地面から敵の顔を見上げると、殺意に満ちた瞳が向けられていて、そのさらに上では、拳が天に掲げられていた。あれはエミヤさんの胸を貫いた一撃だ。どうにかして防ごうにも、先ほど剣を弾かれた際の衝撃で両手は動かないし、なにより、胸を強打したことで全ての空気が肺の中から漏れてしまっていて、まともな回避の命令を体に出すことができないでいる。

 

―――でも

 

諦めない。負けるものか。命の危機に陥るピンチなんて、今までに何度もあった。その度に、私は、みんなに助けられてきた。自分の力で乗り越えたことだってある。だからめげない。一秒でも抗って生きる瞬間を伸ばせる可能性があるなら、その可能性にかけてやる。

 

動かない体に必死で命令を送りながら振り上げられた拳から目をそらさないで足掻いていると、彼は無表情の中に私の態度が心底気にくわないというような感情を張り付け見下ろしてきた。

 

―――ざまぁみろ……!

 

実力及ばない強敵に一矢報いた事が嬉しくて、精一杯の虚勢をはり、真っ直ぐ見つめ返してやると、言峰は私の目線を見てトドメを指す決心を固めたようで、その拳が思い切り振り下ろされた。

 

―――ああ、―――死んだか

 

それは今までとは違う、私の実力が上がった分、その攻撃を避けてやることは不可能と見切れたが故の、確信だった。確信の直後、全ての情報を拾い上げる器官が動くのをやめて、記憶と経験から生存方法を探ろうとして、走馬灯が脳裏を流れてゆく。映像は瞬時に両親が生きていた過去を通り過ぎると、仲間と共に迷宮へと挑んだ日々のものになる。

 

彼らと共に迷宮に初めて潜った日。死にそうになって帰ってきた初回。何もできなかった時の悔しさ。褒められた時の嬉しさ。必要とされた時の。役に立てると実感した時の、助けられた時の、気をかけてもらった時の、喜び。そして。

 

シンと過ごした日々。

 

不躾な願いを聞いてもらって、不器用なところを目撃して、馬鹿みたいな強さに憧れて、常識のないところに怒って、そして、知らぬうちに好いていたそんな彼を失った瞬間の痛み。命の危機に瀕して湧き出たそれらの思いの中にこの場を乗り切る為の手段はなかったけれど、最後の時、そんな好いた人の思い出を胸に抱いて死ねるなら、決して悪くないと思った。

 

そして迫る拳に強く死を意識した時、最後にシンの死んだ瞬間、後に聞こえた幻聴までもが頭の中で再現された。

 

『―――あの野郎の捨て駒にされたのは気にくわねぇが、必殺の看板をおろさずにすんだ事だけは、感謝してやる』

 

痛みに復活する感覚。生臭く、すえた匂い。眼前に迫る拳。そして。

 

「悪いが、今度もお前の邪魔をさせてもらうぜ、言峰! その心臓、貰い受ける!」

 

幻聴であった声がすぐ近くで聞こえて、確定していた私の死の運命は覆る。

 

 

「―――貴様、ランサー……! 何故ここに……!」

「へっ、その理由はお前が一番よく知っているだろうよ! 」

「奴の先ほどの叫び……そうか、聖杯か! 完成させた聖杯は、浄化機能の他に、願望器と召喚器としての機能をも発揮したのか! 」

 

青い装束に身を包み、しなやかの体から繰り出される神速の突きを、言峰は己の持てる技術と身体能力を駆使して回避する。向上した身体能力など、積み上げてきた戦闘技術などの、全ての持てる力を回避に注力しているが故に致命の一撃を食らう事はないが、それでも神話時代の英霊の一撃を回避しきる事は叶わず、カソックが裂かれて鮮血が舞う。

 

「よくもまぁ、俺を散々利用してくれたもんだなぁ、おい! 第五次の時からお前のせいで溜まりに溜まった鬱憤、ここで存分に晴らさせてもらうぜ! 」

「ふん……、貴様の都合になど付き合っていられるか」

「……ち、面倒なことしやがる」

 

やがて言峰は聖杯の光によって散らばり群がっていた魔のモノを己の周りに集結させて、己の身を守る盾として活用。人の胴体よりも一回りも二回りも大きな肉厚の触手の前には、神速と剛胆併せ持つランサーの一撃とて、貫通しきることなく中途にてその勢いが止まってしまう。

 

「そら、返せよ。贋作の贋作とはいえ、それでもてめぇにゃもったいねぇ代物だ。……くそ、数だけは立派に一丁前だな」

 

ランサーは貫かれた触手より槍を引き抜くと共に、湖底の戦場に立つ己めがけて集う暗黒の魔物どもを避けるためだろう、跳躍を行う。

 

「げ……、まじか」

 

そして着地地点と定めていたのだろう場所に、既に魔のモノが集結し始めているのを見つけて、間抜けな声を漏らすと、気怠げに槍を振るおうとして―――

 

「あら、情けない声を上げるわね」

 

やがて直上より落ちたランサーが魔のモノと接触するその寸前に、白く輝く光弾の群れが、暗闇もろとも魔物どもを貫き、あるいは着弾と同時に爆裂し、その場全てを吹き飛ばした。僅かな時が経過したのち、吹き荒れる風が晴れた後、ランサーは土煙にむせながら、煙の中より姿を表した。

 

「ぺっ、ぺっ、……おい、キャスター。今の、俺ごと吹き飛ばそうって魂胆だったろ!」

 

暗闇の先に文句を言うと、周囲の黒と近い色合いの紫のローブを纏った細身の女が現れる。頭上に向けた先端が円を描いている魔術杖を持った彼女は、荒々しく吠えるランサーの抗議を受けて、ローブの下に隠した顔から舌打ちを漏らすと、気怠そうに言った。

 

「あら、ちゃんと調整したわよ。ランサークラスの対魔力があれば余裕を持って弾ける程度にね。むしろ感謝してほしいくらいだわ。雑魚を始末する手間を省いてあげたのだから」

「……ちっ、女狐め」

「あら、犬ころに言われたくないわね」

「なんだと―――」

「なによ―――」

「やめろ、キャスター」

 

殺し合いの最中、悪態の付き合いから始まった男女の仲違いは、別の本気の殺し合いにまで発展しかけていた。毛色の違う殺意が一触即発の空気の中を作り上げる中、常人なら気絶しそうな空気をまるで無視して、妙に透明感のある静かな声が女を窘めた。

 

「今、私たちが聖杯によって記録より再現されたのは、魔のモノとアンリマユを打ち倒すため。ランサーとの内輪揉め行為は、的外れというものだ」

「―――はい、申し訳ありません、宗一郎様」

「謝罪の対象先が違う。頭を下げて謝るべきは私ではないだろう?」

 

キャスターは宗一郎に指摘されると、一瞬躊躇って見せたが、やがて渋々とランサーの方を振り向き、頭を下げた。

 

「―――私が悪かったわ。ごめんなさいね、ランサー」

「―――そういうわけだ、ランサー。そして連れ合いの失言は、私の失態でもある。後ほど正式に詫びを入れる故、ここは一先ず、鉾先を納めてくれないだろうか?」

 

まるで気持ちの入っていない棒読みなセリフが、ランサーの苛立ちを促進させる前に、宗一郎は頭を下げていた。キャスターは、己のマスターがランサーに対して頭を下げるという事態に、目を白黒させて怒りの感情を全身より噴出させたが、すぐさま自制して宗一郎の後ろに控えた。

 

元はと言えば、非はフレンドリーファイアを躊躇わなかった己にあるわけだし、問答したところで真面目を形にしたかのような男の前では何を言っても、さらに彼が頭を下げて謝るという逆効果にしかならないと判断したのだろう。

 

「……あー、わかったよ」

 

殺意を滾らせていたランサーは、真面目を形にした男の真摯な謝罪に、一旦はキャスターの無礼を赦そうという気になったようで、気怠そうに頭を掻きむしりながら、了承を返した。

 

「礼を知るあんたの顔に免じて、キャスターの件については、一旦、目をつぶっておく。―――おい、あんた、名前は?」

「葛木宗一郎だ」

「そうか、じゃあ、葛木。―――お前、その女の旦那なら、きちんと手綱を握っとけよ」

「……承知した」

「―――〜〜〜!!」

 

旦那、というランサーの言葉に反応して満面の笑みを浮かべたキャスターは、手綱を握れという言葉をまるきり無視して喜んで見せると、その後、夫であることを当たり前のように肯定した葛木宗一郎の返答に、身をくねくねと悶えさせて恍惚の表情で、今が絶頂の気分にあることを周囲に知らしめていた。

 

「――――――」

 

ランサーのよそ見と葛木の謝罪、そしてキャスターのその隙を狙って、触手は地面よりキャスターに迫る。そして触手の太い胴より繰り出された一撃は、花枝のように細いキャスターの胴体を容易く引きちぎる一撃を放ち―――

 

「悪いがそれは通せんな」

 

ゆるりと空間を切り裂く三筋の光に身を細かく分断されて、ばらけた胴体が勢いをそのままに空中に散らばる。大半の質量を失い軽量化された魔物の体は、攻撃の威力をまるで失ってキャスターの体に降り注ぎ、せめてもの抵抗として、彼女が身にまとう紫色のローブの端を別の色にて汚してゆく。

 

「性悪の上、性格が捻じ曲がっているとはいえ、一応は婦人が伴侶との逢瀬を楽しんでいる場面に水を差すなど無粋にすぎる。もちろん、武人としても見過ごせんよなぁ」

 

周囲の警戒を怠るキャスターを魔の手から守護して見せたのは、紺色の雅な陣羽織に身を包む、涼やかな声の男だった。飄々と現れた彼が、片手に握る三尺ほどの長い刀身に僅かばかりひっついた血糊を飛ばすためだろう、刀を軽く中にて振ると、微かに地面の上を、雫が叩く音が鳴る。

 

「―――何をしていたのです、アサシン。私たちの守護は貴方に任せると言ってあったのに、なぜこれほど敵の接近を許したのですか?」

 

やがてその音にキャスターは気を取り戻した後、見渡して素早く状況を確認すると、己の体に魔物の血肉が僅かばかり付着している痕跡を見つけて、一気に機嫌を悪くして、アサシンを問いただす。

 

「おや、これは心外な。いや何、その男の隣に立つお主があまりに幸せそうだった故、邪魔しては悪いと思ってな。久方ぶりに場所の束縛もなかったことであるし、席を外して周囲の掃除に出払っていたのが、逆効果となってしまったようだ。許せよ、キャスター」

「―――減らず口を。ですが、一応は主人を思う気持ちを口にした事と、その嘘をしゃあしゃあと言ってのける度胸に免じて、一度は無礼と無様を許します。―――次はありませんよ」

「はいはい、寛大な処置に感謝いたしますとも、葛木夫人殿」

「―――ふんっ!」

 

アサシンの言葉に、わざとらしいくらい大きく不機嫌の返事を返すと、葛木の方へと近寄り、そしておずおずと手と肩を葛木に近づけると、彼は仏頂面の奥にてキャスターの意を汲んだらしく、抱き寄せる。

 

力強い抱擁に、キャスターの頭部を覆うローブがはらりと捲れて、美麗かつ上品な顔立ちが現れた。彼女は葛木の行動に一瞬驚いた顔をして見せたが、すぐさま先ほどまでのヒステリックが嘘のように、乙女の顔を曝け出して、隠そうともせずに幸せに浸っていた。

 

「よう、アサシン。おたくも大変だねぇ」

「ああ、ランサー。いや、これがなかなかどうして、悪くはないものだよ。我儘と気紛れは女を彩る化粧の一種だ。感情の躁鬱も、愛した男との逢瀬を他の輩に邪魔されたくない一心故と考えれば、それはそれで可愛げと趣があるものだ」

「わからねぇなぁ。女は組み敷いてこそだろう」

「ま、お主の気持ちもわからんでもないが、酒の肴に楽しむならこれもまた乙というものよ」

 

アサシンがカラカラと笑うと、ランサーはその酔狂っぷりに呆れた表情を浮かべ、ようやく完全に毒気を抜かれたのか、冷静な態度で周囲を見渡した。あたりにいた触手は全て消え失せていて、空白地帯となっている。

 

「ち、様子見ってわけか」

「まぁ、多少なりと戦の心得があり、兵法をかじっていれば、強敵相手に戦力を逐次投入しての消耗という下の下の策を行わないだろうよ」

 

緊張感のない空気の中は、一応、意味のあるものであったらしい。

 

「で、どうするつもりだ。あちらさんも、どうやら一息ついたようだが」

「そりゃ、一旦はあいつと合流する方がいいんだろうが……」

 

抜き身の獲物を構えた彼らは、多少静けさを取り戻した空気の中、先ほどまであたりを満たしていた剣呑な雰囲気とは、真反対の空気を生む二人を見る。

 

「キャスター、そろそろ彼らと合流を」

「もう少しだけ、このままでお願いします、宗一郎様」

 

珍しく葛木の言葉を遮るキャスターからは、胸焼けしそうなほど甘ったるい、その場にまるでふさわしくない、別種の空気が発散されていた。ランサーとアサシンはそれぞれ顔を見合わせると、野生的な苦笑いと皮肉混じりの涼やかな苦笑を交わして、彼らの様子を見守った。

 

どうやら、召喚者との合流は少し遅れることになりそうだ。

 

 

聖杯に願いを告げた途端、願望器から飛び出したサーヴァントと人間の群れが現れたのを前に、しかし私は、そんな奇跡よりも、願いを叶えて砕けた聖杯の中から最後に目の前へと現れた彼女に目を奪われて、一切の身動きが取れなくなっていた。

 

彼女は艶やかな黒髪を頭部にてリボンで二つに纏めて胸元の方へと垂らされている。さらりとした髪が張つく肌は瑞々しく十代の若々しさを保ち、クォータである彼女の日本人離れした端正な美貌をさらに輝かせるに一役買っていた。

 

そうして凛々しさの中に幼さ残した子供と大人の特性を両立する美しい顔から視線を下ろしてゆくと、襟元は女性らしく赤のリボンが行儀よく飾られている。それは同色の布を基調として身を包む彼女の凛然さを引き立てていた。

 

―――これは夢か?

 

否、決して見まがうはずがない。どれだけ時が経とうと、どれだけ世界が変わろうと、生前の私も、死後の私も、そして死後、蘇った私を、合計にして三度も、衛宮士郎/エミヤシロウという存在を救済して見せた彼女の姿を、他ならぬ当人である私が間違えるはずがない。

 

「あーあ、まったく、やんなるわね、あの腐れ外道。人の管理してた土地をこうもめちゃくちゃにしてくれちゃって。ほんっと、腹たつわ。……ま、とは言っても、冬木が私の管理下だったのなんて遥か昔だから、言う権利も消失してるかもしれないけど、こうまでされると、元管理人としては、やっぱり一言くらいは文句を言ってやらないと気が済まないわよね」

「―――凛……」

 

彼女らしい強気な言葉に、その存在が間違うことなく本人であることを確認すると、私は混乱のあまり、呆然と彼女の名を一言を呟くしかできずにいた。そうして気をやっている私を見た彼女は、ニンマリと、お淑やかな外見に似合わない凶暴な笑みを浮かべた。

 

「ええ、その通りよ。久しぶりね、アーチャー。まさか、こんな形で再開できるなんて思ってもいなかったわ」

「――――――」

「うわ、あんた、服、背中のところボロボロじゃない。半分以上露出するパンクな格好、貴方には似合わな―――くもないわね……。うん、いや、むしろ似合ってるかも……」

「――――――」

「あら? まだ腑抜けちゃってる? らしくないわねぇ。いつも余計な一言で他人を揶揄うあなたはどこへ行っちゃったのかしら?」

「―――なに、目の前に現れた顔が、あまりに淑女の嗜みと程遠いものだったのでね。まったく、写真に写る君は年相応の落ち着きとお淑やかさを身につけていたのに、まさか若返ってそれらを失ったお転婆の姿で現れるとは……、まったく予想外のことをやらかしてくれるよ、君は」

「―――あら、ようやくらしくなったじゃない」

 

いつものように互いに益体のない会話と苦笑いを交わし合うと、笑いが漏れた。可笑しくて仕方がない。気がついたら全身の傷は無くなっていて、失った肉体が擬似神経の魔術回路に至るまで元通りで、過去の時代の英霊が揃って召喚されていて、加えて、かつての時代の人間が若かりし頃の、あるいは生前の姿で呼び出されているのだ。一体どういう理論が働けば、このような奇跡が働くのか、まったく理解ができない。

 

「おかげさまでな、しかし何がどうなっているのだ?」

「それは……」

 

そんな思いが素直に漏れて出た。聞くと、彼女は私の足元を見つめる。つられて彼女の送る先に私も視線をやると、この現象を引き起こした願望器が粉々に砕けて、銀の砂が地面に散っていた。

 

「壊れちゃったか……。ま、そうなるわよね。なんせ、通常の枠を超えた数の再現をしたんだから」

「枠を超えた再現……?」

「ええ。第五次聖杯戦争において召喚された七騎に、私と、葛木。それで九人。全ての五次サーヴァントの他に人間二人。昔の姿で呼び出された理由は、おそらくは、サーヴァントとして参加したあなたにとって印象深く残った相手が、当時の印象のまま呼び出された形なんでしょうね。だから、私も昔の姿で再現された。ついでに言えば、他の人たちと違って、唯一わたしだけ肉体が存在しているのは、上にいる本人のものをそのまま利用されているからなんでしょうね」

 

彼女のいう意味を完全に理解することはできない。わかるのは、今目の前で起きている出来事が、私の使用した聖杯の引き起こした奇跡であるという事実だけ。ともかく、細かな理由や過程はどうあれ、こうして再びかつての姿である彼女と再開できるというのであれば、それだけで今までの苦労の釣りが来るくらい、喜ばしい出来事である。

 

「ん……、まて、今、全ての五次サーヴァントといったか?」

「ええ。あの怪物を倒すのに全戦力が投入されるのは当然でしょ? だから―――」

「ええ、ですから、もちろん私もいます」

 

凛の言葉を引き継いでしっかりとした意思が込められた力強い声を聞いて、月の光が明り取りの窓より差し込む蔵の光景を思い出した。鉄の足鎧で地面を踏みしめ、近寄ってくる彼地面をかつて地獄に落ちようと忘れないだろうと、風景と共に脳裏へ焼き付いた声。それは。

 

「セイバー……」

「その通り。久しぶりですね、アーチャー。……いえ、シロウの肉体をベースに召喚され、この世界の中で一人の人間として生きている貴方の場合、シロウ、と呼ぶ方が正しいのでしょうか? 」

「あ、ちょっち、まって、セイバー。それの呼び方はやめて頂戴。貴方にその呼ばれ方でアーチャーのこと呼ばれると、なんかすごく複雑な気分になるから」

「―――ええ、承知しました、リン。たしかにそれは、貴女とシロウ、それとアーチャーに対する気遣いと配慮も足りないものだった。申し訳ありません」

 

私は、旧友と久方ぶりにあったかのような会話を交わす彼女らの親交を深める態度に呆気を取られ、喜びを通り越して困惑していた。

 

「あ、またフリーズした。……、もう、しっかりしてよね。話の主役がそれじゃあ、らちが開けられないじゃない」

「リン。ご歓談の最中申し訳ありませんが、できれば話は全てが終わった後で。どうやら、周囲の掃討が一旦終わったようです。―――散っていた皆が戻ってきた」

 

セイバーの進言と共に、大小様々なバリエーションに富んだ、迫る複数の足音が聞こえた。

 

「よぉ、嬢ちゃん……、とアーチャー。すまねぇな。言峰を取り逃がしちまった」

「いいわ。あの性悪神父のことだから、一筋縄でいくとは思ってなかったもの。ありがとう、ランサー手間かけさせてごめんなさいね」

「なに、いいってことよ。美人の頼みを聞くのは男の甲斐性だ。それが歳食って相応以上に色気を醸し出すようになった良い女ならなおさらな」

「ランサー。お主、先ほどと言っていることが違わないか?」

「あぁん? アサシン、馬っ鹿、お前、性悪でヒステリックな女と、口がキツイだけで思い遣りのある良い女の価値を等価にしちゃいけねぇよ」

「―――そう、ランサー。そんなに早死にしたかったのね?」

 

集まってくる彼らが生み出す空気は、この場所が死地であることを忘れるくらい、賑やかで日常の雰囲気があった。戦場において明るく振る舞う彼らは、まさしく英雄と呼ぶに相応しい豪胆な性格をしていると言えるだろう。

 

「……エミヤさん?」

「……響か」

 

英雄達が歓談と乱痴気に興じる中、おずおずと聞こえてきた声に振り向くと、いつもの三人の姿を見つけて、少しばかりほっとした。どうやらいつのまにか、全身を覆う鎧に槍盾を持つ男に、未来じみた巨大な機械籠手を身につける男。そして、エプロンドレスに刀を背負うという如何にも妙ちくりんな格好の彼らは、私にとって日常の風景となっていたようだ。

 

「アーチャー」

「……! ―――ライダー……、とバーサーカーもか」

 

異常に満ちた非日常も、やがては慣れて平凡へと移り変わる。そんな当たり前のことを今更ながらに実感していると、背後より聞こえてきた後ろ驚いた。

 

顔面を半分ほども覆って目を隠すバイザーで顔を覆い、紫色の露出度の高いボンデージに身を包んだ長身妖艶な美女が、地面にまで届く長い髪を垂らしながらこちらへと近寄ってくる。彼女の細い片腕に胴体を抱えられた男は、大事そうに楽器を抱えながら気絶していた。

 

傍には、長身な彼女よりもさらに二回り以上も大きな巨漢で筋肉質な大男が、無言にて付き添っていた。握る巨大な石斧は大きく、人の体ほどもあり、その剣の無骨な刀身には黒い液体が滴っていた。

 

「祭壇に倒れていた貴方の仲間と思わしき人間を回収してきました」

「……ああ、ありがとう」

「いえ。ついででしたので」

 

ライダーはぶっきらぼうに告げると、抱えていた男を地面に下ろし、これ以上話すのも面倒とばかりに身を引く。バーサーカーは何も言わずにその後に続いた。私は横たえられたピエールの首に手を添えると、きちんと生きていることを確認して安心し、頬を軽く叩いて彼の意識の覚醒を促す。

 

「―――ぅん……、ぁ、あ……」

「ピエール! よかった! 無事だったのか」

 

呻き声を上げながらもピエールが目を覚ましたのを見て、サガが喜びを露わにしながら彼に飛びつき、両手で抱きしめた。ピエールはサガの抱擁をされるがまま受け止めていたが、やがてサガの背中をタップしてそれをやめさせると、周囲を見渡した。

 

「……見覚えのない方が大勢いらっしゃいますが、どちらさまで? 」

 

問いに答えられるものは、ダリ、サガ、響の三人の中にはいなかった。だが彼らの正体を知る者の検討はついていたようで三人は揃ってこちらを向くと、期待に満ちた目が私に集う。

 

「―――信じ難いかもしれないが、彼らは、過去の時代の英霊たちだ。はるか昔、私の生きていた時代において、偉業を成し遂げて神話や伝承に名を馳せた存在」

 

私の返答に、揃って彼らは首を傾げた。

 

「はぁ……、ええと、それで、なぜそんな彼らが此処に?」

「それは―――、むっ」

「なんだぁ」

「地震……?」

 

問答は地面の揺れによって中断させられた。大地の振動は体を目に見えて揺するほど大きく、洞穴の天井からはパラパラと砂埃が落下する。このままでは遠くない未来、洞穴は完全に崩落するだろう。

 

「―――細かい部分は、地上に戻ったのち説明するとしよう。とりあえず、彼らは敵でなく味方だ」

「―――ええ、了解です」

「―――凛。奴が何処に行ったかわかるか?」

「ごめん。わからないわ。でも、見当はつく」

「ほう」

「ここは大空洞。かつて冬木の土地において最大の霊地であった場所よ。つまり、この下の地面には、大きな霊脈が流れている。そして、魔のモノは霊脈にひっつく存在。即ち―――」

 

凛が言葉を言い切る前に、再び地面が大きく揺れた。振動はやがて大地にヒビを生じさせ、生まれた亀裂から大地は瓦解し、崩落していく。岩塊が地底湖のさらに下へと落下していく中、やがて湖のあった場所はすべて底抜けて、地の底より現れた赤い光が天井にまで広がって、暗闇を照らした。

 

「―――下よ。くるわ!」

 

凛の忠告と同時に、崩落した湖底より影が伸びた。影は人の体が塵に見えてしまうほどの巨大さで、同時に、頭足類の足の様に吸盤を持ったものだった。高層ビルほどもある触手は、空中に長く、天井へと至るまで伸び上がると、やがてゆっくりとその伸縮する体を湖の際の大地にゆっくりと置いてゆく。

 

「―――地面が……」

 

巨大な触手と接触した部分は、焼成の音を立てて汚され爛れてゆく。元は茶色の地面が、奴に触れた途端、その存在ごと汚染されたかの様に、赤と入り混じった色合いになる。

 

地面は変わらず振動し、地底湖だった場所は崩落を続けている。湖底からは変わらず巨大な触手が伸びてきては、湖面跡の際に触手を置いて地面を掴み、その端の部分を侵食する。やがてその振動が収まり、繰り返される行為が収まり、触手の繋がっている先の本体の全容まで明らかになった頃、現れたものを見て、サガは呆然と呟いた。

 

「おい、どんだけでかいんだよ……」

 

やがて姿を現したそれは、全長にして十キロメートルはあろうかという巨大な化け物だった。黒く染まった全身を構成する多量の触手に、規則正しく配列されている吸盤と思われた部分は、よく見ると全てが目玉であった。やがてその触手が絡まりできた胴体を辿って彼方奥まで視線を移動させると、一部分だけが周囲の触手とは違う色合いと形状をしていることがわかる。

 

「―――あれは……」

 

その姿を見たとき、ようやく私は奴に見覚えがあることを思い出した。マグマの色に赤く染まる部屋の一区画、瓦解した部分に取り付き占有する、巨大な人の脳の形をした部位の中心に、巨大な目玉がはめ込まれたその姿。目玉の周りには口を形作るかの様に牙が生え、その下半分の部分には目玉が等間隔にて配備されている。

 

「そうか、貴様が夢の―――」

「ああ、そうだ。貴様が精神の裡に宿していたものは、魔のモノという負の感情を食らう生き物にとって、今や味わうことの出来なくなった極上の供物であったからな―――そして、これこそ、魔のモノの本体。遠き過去、宇宙より飛来した、負の感情を食らう生命体。そして世界樹により昏き海の淵に封ぜられてしまった禍ツ神。―――しかし今、その神は、残念なことに、アンリマユの力に耐えきれず、意識をそちらに飲み込まれてしまった」

 

脳の中央に配されたまなこがカッと開く。すると、かつて我が心の裡にて見た際は黄色かった単眼は、その色をどす黒く染め上げられていた。そして黒い瞳の周辺からアンリマユの暗黒色が広がると、すぐさま魔のモノの体を侵食し、全体を黒く染め上げる。

 

やがて全身がアンリマユで染まった魔のモノは、身体中の目を見開かせて、その全ての視線をこちらへと向けてきた。巨大な目玉から集中する視線の量は、地上、エトリアにて浴びせられたものに匹敵する程度だったが、その中に含まれる負の感情の成分は桁違いだった。

 

身体中の毛をぞくりと逆撫でるような感覚を覚えた瞬間、もはやアンリマユとなった魔のモノの瞳は上下の瞼が狭められ、じっくりとこちらを凝視したかと思うと、次の瞬間にはその瞳がついた巨大な触手をこれでもかというほど震えさせて、大地を大きく揺らした。

 

「―――これは……、何を……!?」

「まあいい。盛者必衰が世の常ならば、非情無情もまた、世の理―――それより、アンリマユは誕生したばかりでとても腹が減っている―――故にどうやら、目の前にいる豊富な魔力を持つ貴様らを食料として認識したようだな」

 

言峰が言うと共に、奴の巨体の地下にあるマグマが吹き上げられ、触手が動くたびに局所では吹雪が巻き起こされ、そして触手の先からは雷が落とされる。巨大な触手からは小さな触手と先の冬木の土地で見た黒き獣が生え、奴が体を揺らすごとに、ドドメ色の瘴気が辺りに撒き散らされる。

 

奴が戦闘の意思を露わにした瞬間、我々は身構えた。サーヴァント七騎と、六人の人間が揃って巨体を前に怯まない。言峰はそんな我らを見てつまらなそうに視線を後ろの魔のモノへと向けなおすと、こちらに背面を見せたまま慈愛に満ちた声で言い放つ。

 

「さぁ、食事の時間だ、アンリマユ。有象無象悉く、貴様の腹の中に収めるがいい。」

 

言葉と同時に迫る、過去の世界から連綿と受け継がれ残されていたかつて人類が保有していたこの世の全ての悪は、異星よりやってきた侵略者の体を乗っ取ったモノ。広がる絶望に立ち向かうは、悪意詰まった魔力の中より飛び出した英雄達。

 

そして最終決戦の幕は、ここに切って落とされた。

 

 

広い大空洞の空間では通常とは異なる性質を保有した嵐が全ての場所を占拠しようとしていた。暗闇の中をマグマと雷が舞い、それ以外の空間を埋めるようにして巨大な氷の礫まじる吹雪が吹き荒れ、それでもなお余る空間部分を、触手と獣が埋めている。

 

暗黒の空間は、いまやアンリマユに体を乗っ取られた魔のモノの体内そのものと言っても相違ない有様だった。大空洞を明るく照らすのは、大地の底に存在するマグマのみ。かつて人が住まい麓に沿って街が発展を遂げた穏やかな山の内側は、魔のモノや言峰の長年の霊脈改造により、死地へと化していた。

 

今や死地の同義となったその場所に置いて、しかし、アンリマユが空間を満たそうとするのを邪魔する者達がいる。

 

「―――、――――――、―――!! 」

 

それはサーヴァントと呼ばれる過去の時代の七騎の英霊達と、四人の人間と二人の亡霊からなる、十三人の集団だった。

 

その中で最も目立つのは、二メートルをはるかに越す巨大な石の斧剣を振り回す男の存在だろう。常人では持つことは愚か、その剣を支えることすら不可能な剣を軽々と振り回す男は、そんな剣よりもさらに大きな体を持っている。

 

「―――!! 」

 

比喩でなく丸太より太い腕が一度剣を振るう度、敵のが塵芥となって飛んで行く。薙げば巻き起こす一撃は敵に満たされた空間の一部を削り取り。振り下ろせば、眼下にいる敵全てを叩き潰し、余波にて大地が悲鳴をあげ、地面ごと陥没し大穴が開く。

 

まさに人間重機とでも言おうか、目の前に移る全てを破壊して、破壊して、破壊しつくして押し進むバーサーカーという巨漢の男の戦い方は、腰に獣の皮を纏っただけのワイルドな外見に似合った、災害のごとき暴走の様をみせていた。

 

「――――――!」

 

しかしそんな暴力と死の具現を前にしても、もはやアンリマユと化した獣と触手は一切怯む様子を見せない。獣は黒の中に、爛々と赤の目を輝かせてバーサーカーへと襲いかかり、触手はその後に続く。

 

黒く染まった命を、空間ごと抉り取るバーサーカーが残した破壊の痕跡は、すぐさま彼らによって穴埋めが行われ、切り開いたはずの道は閉ざされる。獣たちにとって、体を吹き飛ばされることは死ではないのだ。

 

一が全、全が一であり、アンリマユという悪意によって共通する意思を以って生まれた彼らにとって、個というものは存在せず、その全てが己であるのだ。故に、バーサーカーの攻撃により一や十、百や千の数の味方が吹き飛ぼうと、構わない。

 

体は霊脈と繋がった魔のモノが無限に調達し、精神というものは常にアンリマユによってバックアップされる奴らにとって、個の死は決して死という絶対的な恐怖の対象でない。そう、群体で、無限の再生を、無限に匹敵するほど行える奴らにとって、この戦いは包囲殲滅戦であり、持久戦。

 

否、己の腹の中にいる敵が、その体の内に秘めたエネルギーを切らし、いつか我らの殺到と奔流に耐えきれなく時を待つだけの、戦ですらない、単なる命を借り終えるまでの待機時間に過ぎないのだろう。

 

「いいねぇ、どいつもこいつも直線的で純粋な殺意に満ち溢れていやがる」

 

そうして恐れることなく破壊の化身に突っ込む彼らが性懲りもなく復活と再生を繰り返すのを見て、ランサーという男は口角を上げて獰猛な笑みを露わにした。

 

「そういうわかりやすく己の勝利を確信して見下し、素直に侮りを表現する態度は嫌いじぁない。少なくともあのクソ神父やアーチャーみたいな捻くれた男どもを相手にするよりかは百万倍マシだ。―――引いても臆しても死ぬようなこの環境。まさに最悪といっていいくらい、状況は明らかに不利だが、けれども、体の状態は制約が一切なく、万全、と。いや、こんな都合のいい限定的な逆境の戦場、そう体験できるもんじゃあねぇ。だから―――」

「――――――!! 」

「ハナっから全力全開! エンジンフルスロットルで行かせてもらうぜ! 」

 

バーサーカーの破壊跡地に勢いよく赤い槍を片手に掲げたランサーが飛び込んで行く。

 

青い独特な戦闘装束を着込んだ男は闇の中、手前に踏み込み、赤い槍を突き入れ、そして引く。突き、敵を居抜き、絶命を確認したのち、引く。突き、引く。時たま、敵が数を利としてやらんとその鍛え上げられた躯へ群がろうとする際、それらの敵を払う動作が加わる事もあるが、基本的にランサーが行うのはただそれだけの二つの動作の積み重ねである。

 

文字としてみればとてもシンプルなたった二工程の作業は、しかし、神速を以ってして行われることで、槍の刺突は黒のキャンバスを槍の軌跡で一瞬だけ煌めかせ、緋色に塗り替える。

男はたったそれだけの動作で、周囲三百六十度すべてが敵という絶望の暗黒空間の中において、一人、己の生存を確保していた。

 

実体がある穂先が霞となり、再び見える時も置かず、また消える。たった一本の槍で己の体に緩急を持ってして驟雨のごとく、一秒の間に都合十以上も押し寄せる敵をことごとく討ち払い、己が間合いに侵入しようとした敵を貫いて血の雨を降らせる光景は、人類史の中を紐解いても可能とするものは三指に数えるほどだろう。つまりは眼前の光景は、ほとんど再現など不可能な、神話という御伽噺に語られて当然の、信じがたい奇跡の光景だった。

 

「ランサーのいうこともわからんではない―――が、無限に匹敵する畜生の群れを、ただただ切り払うだけの作業、不毛すぎてやはり興が乗らんな。水田や村に霞のごとく飛来した昆虫の群れを追い払っているかのような気分だ」

 

そしてランサーより少し離れた場所では、端正な着物を身に纏った風雅な男が、一般人より高い身長の彼自身よりも長い刀を振るって獣どもを切り払っていた。

 

「望むなら彼のような気持ちのいい益荒男と獲物と技術を存分に競わせたかったが―――ま、アサシンではなくセイバー、否、佐々木小次郎として全力で剣を振るうことのできる機会などこれ以降望める機会もあるまいし―――、精々存分に力を振るうとしよう」

 

言葉とともに剣が夜の闇に滑る。光を発した「物干し竿」は虚空に極端な湾曲の軌跡を描くと、次の瞬間、敵対した獣や触手は刀の通過した部分より体が綺麗にずれ落ちて、やがて臓物血肉が地面へとぶちまけられる。

 

バーサーカーという巨漢の戦い方が地形全てを巻き込む剛なる竜巻、ランサーのそれを狙いすましたかのように対象のみを襲う暴風と例えるなら、アサシン、佐々木小次郎の戦い方は、たなびく美しき死神の吐息だ。彼は必要最小限の力を持ってして、敵を切り裂いている。

 

敵という存在が彼の剣の存在に気がつくのは、地を駆けて、跳躍し、宙を進む彼らが、男ながらに優美かつ妖艶な雰囲気を持ったアサシンとすれ違い、空間に描かれる優雅な曲線光が彼らの体を透過したのち、体が幾重にも腑分けされて、命が刈り取られた後にのみだ。

 

日本の伝承において佐々木小次郎という経歴を紐解くと、確かにアサシン/暗殺者というよりはセイバー/剣士の職に当てはめるのが妥当だろうが、彼のその死神の鎌を思わせるような怜悧な剣の冴えを見ると、いや、アサシンこそが彼にとって正しく適職であると言えるのかもしれない。

 

「全く、数を減らしたところでたいした意味もないというのに、野蛮な男どもときたら……。素直に相手の思う通り、挑発に乗ってやるところなんて、ほんっと、馬鹿みたい。まったく、単純な性格で羨ましいこと……宗一郎様の謙虚さと落ち着きを見習ってほしいものだわ」

 

口ではなんと言いつつも、敵愾心旺盛な敵溢れる戦場に呼応して、内心血の滾りが湧いていることを抑えきれず意気揚々として戦場に向かう男たちを見て、キャスターは呆れた口ぶりで文句を漏らした。

 

男三人がそれぞれの性質にあった風となる中、悪意をまとった獣と魔物が暴れ狂う妖乱暴風が嘘のように、魔術師というクラスを与えられた彼女から半径数十メートルの空間は静けさを保っている。

 

静寂と騒乱。その彼我の境界線となっている場所に目を向けてやれば、なにか薄布一枚のようなものが領域を区別していることに気がつけるだろう。

 

「まぁ、ここに残った貴方たちは、あの脳筋馬鹿三人組とは違って、戦略と戦術を練る知能があるということで満足すべきかしらね。人払いと防護と静音を組み合わせた私の結界がある限り少なくとも作戦と対策を話し合って共有する時間も取れるわけだし……、―――あら、そう考えると、直線的なのや、手綱握りづらい馬鹿がいなくなって大助かり、ということになるかしら」

 

キャスターが神世の魔術師としての真髄を遺憾無く発揮し、速攻かつ簡易的に張った結界は、それでもかつての私の生きていた時代に存在していた魔術師としてとは比較の対象にするですらおこがましいような出来のもので、悪意ある獣の侵入を一時の間だけ完全に塞ぐ神殿と化していた。

 

もちろん周りが無限の物量を誇るような敵の数であるのでその内放置すれば打ち破られるかもしれないが、それでも一夜城は彼女のいう通り、多少の時間の確保を実現してくれるはずだ。

 

「キャスター。どのような理由であれ、戦士が戦さ場において昂ぶるのは当然です。また、言峰という男の掌の上で転がされ、獣へとこの身をやつし、いいように使われて溜まっていた鬱憤というものは、私にもある。―――それに、一人で勝手に盛り上がり先走るのは、男のサガというものでしょう。仕方ありません」

「セイバー。貴方のその、まだ発達途上の体である貴女に男の性質について語られると、なんだかとても犯罪チックな気分になるのですが……」

「な、ライダー! 私を侮辱するのか! 」

「あ、いえ、決してそんなつもりは……。ただ私は、少女然とした貴女に言われると……」

「私は王だ! 女という性別は王として国に尽くすと決めた時から捨てている! それに私だって好き勝手でこのような姿をしているのではない! 成長すれば私だって……! 」

「ああ、もう、興奮して前後の文脈が矛盾してて支離滅裂だけど、怒った顔もお人形さんみたいで可愛いわねぇ……」

 

周囲の嵐など気にもせず、隔絶した空間で女三人は姦しく騒いでいる。その様子を傍目に呆れながら見つめつつも、私はいつもの仲間の四人に凛を加えて、話を進めることとした。

 

「それで、どうすれば良いのかね?」

 

凛に問いかけると、彼女は口角を上げて意地悪い笑みを浮かべながら、言った。

 

「あら、気付いてたの?」

「勿論。わたしが聖杯に願ったのは、「奴らを打ち払う」事。ならば、その聖杯によって召喚された君たちが、あれらの対処方法を知らぬわけがあるまい」

「ま、もっともね」

 

彼女はそしてカラカラと、しかし楚々に笑う。その快活さはかつて聖杯戦争の最中において平穏な日常を謳歌する彼女が見せたものと変わらないものであり、しかし、お淑やかさを含むそれは、年月の経過というものを否が応でも感じさせるものだった。

 

「そうね……、あのデカブツ。つまり魔のモノは、アンリマユという存在に乗っ取られたところで、言ってしまえば冬虫夏草とかの寄生虫みたいなものよ。もちろん規模は桁違いだけどね。―――世界樹の一撃により霊脈という大動脈と一体化してしまっている奴は、静脈瘻とか動脈瘤みたいなもの例えるのが正しいかも。……ま、いずれにせよ、奴のあの巨体を用いて、霊脈と接して人々に己の体を飛ばして、負の感情を吸収しているってわけ」

「それは言峰から聞いた。私が知りたいのは、あれらの処分方法だ」

「せっかちねぇ……まぁいいわ。―――結論から言っちゃうと、あの魔のモノという存在に気づいた私たちは、その討伐の方法を模索して見つけた。魔のモノは言うなれば、寄生虫であり、霊脈の表面と癒着した腫瘍なのよ。なら、いたってシンプルにそれを引っぺがして殲滅してやればいい」

「なるほど……」

「けど私たちの時代じゃ、霊脈の表面に引っ付いた巨大な魔のモノを全部余すことなく剥がして、隔離して、その上で殲滅するって手段がなかったから、その手段は取れなかったんだけどね。過激派の意見として、当時魔術科学の融合により生まれた戦略破壊兵器「グングニル」で世界樹も霊脈も、魔のモノもろとも吹き飛ばせなんて案も出たんだけれど、霊脈ごと吹き飛ばしちゃうと世界中にどんな影響出るかわからないって事で見送られたし―――ま、結局、私たち旧人類は人類の足跡を残すために魔のモノと世界樹との共存を選び、緩やかに滅びを受け入れて、後の新世代に繁栄のバトンを引き渡すことを決めたわけだけれど……」

 

言葉を一旦切った凛は、ダリやサガ、響やピエールの顔を見渡すと、脳裏にいかなる感情が生まれたのか、柔らかな苦笑を浮かべた。やがて凛は、己らへと向けられる優しい目つきを見つめ返していた彼らから視線を外すと、再び顔の向ける先を私へと戻して続ける。

 

「とにかく、剥離と、隔離と、殲滅。それであいつはなんとかなるはずだわ。―――魔のモノは霊脈とほとんどくっついているような状態だから、本来なら剥離と隔離は非常に難しい問題だけれど、アーチャー、あんたの宝具、つまり固有結界なら―――」

「―――確かに、結界発動時、範囲内に奴の本体があるのであれば、奴の巨体ごと、まとめて引きずりこむことが可能だ」

「そう言うこと。そしてあれほどの巨体とはいえ、打ち滅ぼすだけなら―――」

 

凛はそこで再び言葉を切って、今度はその場にいる英雄たちを見渡した。アーサー王、クーフーリン、メデューサ、メディア、佐々木小次郎、ヘラクレス、そして、私、エミヤ。

 

「これだけの戦力があるんだもの。十分可能でしょうよ」

 

彼女の言葉には、自信がたっぷりと含まれており、確信があった。

 

「当然です。一度は場所の不利に押し切られ不覚をとりましたが、二度目はない」

「潤沢な魔力が確保できるなら、デカいだけの輩を消し去るのくらい、なんてことないわ」

「気乗りはしませんが……」

 

そして英雄たちはそれに肯定の意を返す。戦場にいてこの場にいない男どもとて、ここに居合わせたのならその意見に肯定して見せただろう。―――ああ、いや、強さが対人戦に特化しているアサシンは口渋ったかもしれないが、ともあれ頼もしいことは確かだ。

 

そして私も彼女の意見と、彼らの意見に同意だ。私の真なる宝具「無限の剣製」は、数限りなく宝具の複製を行えると言う性質上、戦闘技術を極めた達人との一対一の対戦には不向きであるが、実力遥か劣る多数の敵を相手とするいわば殲滅戦に向いている。綺羅星のごとき彼らのもつ経歴に比べればはるか見劣りする程度の経験しか持たぬ私であるが、こと此度の戦いにおいては、彼らに勝るとも劣らない戦いぶりを発揮することが出来るだろう。

 

 

「―――じゃあ、アーチャー。さっそくだけど、セイバーの剣、投影してもらえるかしら?」

「……は?」

 

かつて名高き英霊たちと肩を並べて叩く機会を得て、また、そんな彼らよりもこの度私の力が役立つという事実に、柄にもなく自惚れていると、彼女の口から飛び出した言葉に驚き、突如として横っ面を殴られた気分になった。不意打ちにもほどがある。私の魔術の特性は、彼女だって知っているはずだからだ。

 

「凛。過去の私の伴侶であった君ならばよく知っていると思うが、私の投影魔術は万能でない。確かに剣の投影は我が魔術の得意とするところであるが、投影が可能であるのは、人の手で作り上げられた物のみ。神や星によって鋳造された聖剣を複製するというのはとても……」

「アーチャー、それはおかしい。あなたはあの教会で、自滅覚悟であれば、私の聖剣も投影できるはずと述べたはずだ」

 

暗に、自滅覚悟で聖剣を投影しろ、というセイバーの言に苦笑しつつも、私は言葉を返す。

 

「それは……、言ったかもしれんが、あくまで真に迫ることが出来るというだけのもの。どうあがこうが、本物には及ばない。何より、英霊として召喚された本人である君がここにいて、君がその剣を持っているのだ。私がわざわざその模造品を投影する必要はあるまい」

「いえ、それは違うのです、アーチャー」

 

セイバーは少し物憂げな表情で、しかし、私の言ったことを否定した。

 

「何が違うというのかね?」

「凛も言っていた通り、私たちは基本的に再現なのです。土地に残っていた聖杯が収集していた記憶より再現された存在。聖杯戦争に呼ばれた英霊たちがその側面の一部を取り出して元の人格を再現した複製であったとするなら、私たちはそのコピーから言峰の作り上げた聖杯によってさらに複製された存在。コピーのコピーです。聖杯を作り上げた言峰綺礼という男が心霊医療の術を収めていたためか、私たちの体こそはサーヴァントであったころと遜色ない構造を持つことができていますが、その武器に至っては……」

 

いうとセイバーは己の聖剣「エクスカリバー」を虚空より己の手中に取り出して見せてくる。風王結界を解かれ、鞘を失っている剣は、その光り輝く刀身が惜しげもなく晒されているが、なるほど―――

 

「これは酷い」

「ええ。これには魂がこもっていない。ガワだけを真似て作られた贋作のそれです。これにはオリジナルに対する敬意も、近づけようと理解を試みた形跡も見受けられない。模倣品ですらない、贋作にはるか劣る、単なるデッドコピーだ」

 

彼女はいうと、己の聖剣に似た剣を投げ捨てた。その斬れ味だけは再現できていたらしく、剣は地面に深々と突き刺さる。その様は、まるで己の痴態を恥じらって姿を隠そうとしているように見えなくもない。

 

「ですから貴方の力が必要なのです。かつて貴方の世界にあった剣は、貴方は贋作と言って断言していたけれど、そのどれもが胸を打つ輝きを放っていた。どの剣も、製造者のそうあれかしと鋳造されたと理念を宿し、誇り秘めていた」

「過分に賞賛の言葉を頂いたところで申し訳ないのだが、しかし私にはやはり出来ない。いや、確かに真に迫った投影品は出来るかもしれないが、おそらく生み出したところで、無茶の代償に生み出したもの神造兵装は、おそらく数秒も世に残らない―――」

「いえ、問題なく出来るし、残るはずよ、アーチャー」

 

提案の拒絶を遮って凛は述べる。断言に近い言葉には確信に近い思いが含まれていた。

 

「何を根拠に……」

「もともと投影とは、本来失われたオリジナルを数分間だけ自分のいる時間軸に映し出して代用するだけの魔術。そうして出来上がる品は、大抵ガワだけを真似た劣化だわ。そう言った意味では、言峰の作り上げた聖杯が模造したセイバーの剣は、正しく通常の魔術による投影品と言えるでしょうね」

「……それで?」

「そう、そして普通ならそうして投影した魔術の劣化品は、それでも「世界」という存在が、オリジナルが二つ存在するという事態を拒絶するため、修正によりこの世から消え去る運命にある。また、投影をした本人のイメージに破綻が起きた場合も矛盾で消えるけれど……ともかく、本来、投影品は、「世界」の修正により、この世界から消え去るのよ」

「そうだが、それが―――」

 

どうした、と聞きかけて、ようやく彼女の言わんとしていることを理解した。それは、元から投影した品が基本的に世界からの修正を受けず、消滅しない特異な投影魔術を使える私には、思いもよらぬ部分からの指摘だった。

 

「そうか、人類カテゴリの起こす事象において、「世界」とはつまり霊長の抑止力が相当する。即ち、それが代替わりして過去が刷新された今、もはや投影の修正は起こりえない―――、そうか、だから、あの言峰の投影品も、今なお消えずに残っているのか」

「ええ、きっとね」

「――――――」

 

投影という魔術に特化し、もとより消えぬ投影を可能とし、誰よりも造詣が深いと思い込んでいた私は、だからこそ投影がもはや世界からの修正を受けない魔術になっているといことに気がつかなかった。

 

「凛。確かにそれはその通りなのかもしれない。だが、だからといって、私が神造兵装を投影する事が基本的に不可能である事に変わりはない。理解しきれないからだ」

 

思いもかけず、元からできるが所以に気づかないという天才にありがちな弊害を、まさか基本的には凡人と変わらぬ才能しか持たないこの身が体験することになった事実を驚くが、しかし、そんな真実をしった今でも、私の結論は変わらない。

 

「たとえ世界の介入がなかろうと、世界の拒絶がなかろうと、私が投影を行うためには、その投影となる対象品の理解が必要だ。すなわち、創造の理念を鑑定し、基本となる骨子を想定し、構成された物質を複製し、制作に及ぶ技術を模倣し、成長に至る経験に共感し、蓄積された年月を再現し、あらゆる工程を凌駕し尽くし、幻想を結び剣と成す。―――故に、世界という理解が及ばぬ存在が理解の及ばぬ理論理屈を用いて作りあげた聖剣、私のような贋作者如きでは投影したところで、とても真作のそれにとても及ばない―――」

「あのねぇ、アーチャー。貴方の、その、自分や自分のやった結果を贋作として卑下する態度が一番の問題なのよ」

 

聖剣の投影が無理である理由を述べていると、私の言葉を遮って、凛は呆れた顔で言った。

 

「一口に贋作っていったって、本人が真作と断定しても贋作より評価が低いものもあれば、贋作と知られても評価の高いものもあるわ。例えばフェルメールの贋作製作に注力し、ピカソ風の絵を描いてほしいとの依頼に激怒したメーヘレンのように、誰かの贋作を作ることに情熱を注いで、はては英雄と扱われた画家。後年贋作であると本人が発表したにも関わらず、作品の出来が良すぎたために評価され続け、自分の真作を作り贋作であることの証明をしようとして失敗したバスティアニーニのような彫刻家。キリコのように過去の評価が高かった頃の自分の作品を贋作と言い切って切り捨てた画家だっている」

 

諭す物言いの彼女には、口を挟ませないだけの静かな迫力があった。

 

「周りの人がどう言おうと、世の中のものを贋作であるか否か。評価に値するかしないかなんて、決めるのは結局、自分。己の価値観による判断が全てなのよ。たとえそれが、他人の作品を模倣して作り上げたものであっても、いえ、だからこそ、作り上げた本人が本物と認めてやればそれらは製作者の生きる世界においてはなにより真なる作品となるし、そうでなくとも、贋作や模造品それじたいが評価を浴びることだってありうるし、はたまた、真作が本人にとって贋作になりうる事だってある―――」

 

諭す口調はやがて厳しいものとなる。

 

「アーチャー。あなたは、己の持つ魔術の奥義を「模倣した剣を収集するだけの下らない魔術」と言い張り、受け継いだ正義を「借り物の偽物」と言い切る。だからこそ、それらは、貴方にとって贋作の、偽物に過ぎないものになったのよ。そしてかつての人間と彼らが形作る世界という存在も、オリジナルのみを尊重し、それ以外を否定し自分の価値観以外を認めない極端なゼノフォビアに走っていたから、貴方もそう信じるようになった」

 

否、彼女は事実、怒りを抱いていた。凛という女性は私が自らを偽善者、贋作者、すなわちフェイカーと揶揄して卑下するような言動を責めていた。

 

「―――でも、この世界とそこに住まうひとたちは違う。この世界に生きてみてわかったでしょう? 基本的にこの世界の人たちは、他人や人をそうやすやすと否定しない。負の感情というモノの保存や記録が難しい彼らにとって、真作だろうと贋作だろうと、目の前そこにある己が感じた気持ちがなにより大切で全てなのよ」

 

負の感情の貯蓄ができないという特性は、図らずとも、他人の不徳を許容し、足るを知る、徳の高い人間を自ずと増やすこととなった。そしてそんな人間たちによって作られる無意識の集合体である霊長の抑止力は、同様に、彼らと同じく、真贋どうあれそこに存在するものを許容するに至ったと言う事か。

 

「だから人も世界も、真剣さが込められたものなら、過去の誰かの思想や品物こそがオリジナルだと言い張って、比較して、一々否定しない。だからこそ貴方も、貴方の生涯や培ってきた技術によって作り出す模倣の品を、一々、偽物、借り物と言って他人に主張する必要はないし、否定しないで。そうして貴方が己を信じる限り、貴方はこの世界で神造兵装に決して劣らない品を作れる人になる。それこそ、今ここで星が鍛え上げた聖剣に匹敵する投影だって可能とするはずよ」

 

いつかかつて埃かぶった部屋の中、彼女が衛宮士郎の信じる道と私の生涯を肯定して叫んだように、彼女は私という存在全てを許容して語りかけいた。それは、私と同じ時代を生き、私という存在と全く同じになる可能性を秘めた男を、肌身通して愛し続けてきた女だからこそ発することのできる、重みと説得力のある言葉だった。

 

「当時の私は言わなくてもわかると思っていた。いえ、素直じゃない性格だったから、いうなんて恥ずかしことできないし、だからせめて私が信じた道を貫くことで貴方が自分の生涯を誇れる時が来てくれれば、って思ってた。でもやっぱり、思いはせめて言葉にしなきゃ伝わらないわよね。―――あの人、つまり私の夫、衛宮士郎は、私を守ることができたから、俺は正義の味方でいられたって言って胸を張って死んでいったわ。だったら、その士郎の行き着く先であり、技術の集大成である貴方にそれができないはずがないじゃない。それを思えば、いつかきっと、いえ、今すぐにでも、貴方が自分を認めれば、その生涯を他人に誇ることの出来る男になる」

「――――――」

 

言葉に一筋の涙が溢れ落ちた。人前で無様だとか、男が女の前で泣くものじゃないとか、そんな強がりを思う余裕もなかった。ただ歳を重ねて経験を積んできた彼女の言葉に含まれる暖かな成分は、不思議なくらい容易に鉄の血潮を貫いてガラスの心を満たしていた。

 

命がかかった戦場において、己の役割を忘れたかのように、女に己の歪みを諭され、許容され、歓喜に滂沱の涙を流す私に対し文句を言うものは誰一人としていなかった。

 

この世界に人間である彼らも、かつての世界に生きた人間である彼女らも、ただその様子を静かに見守っている。それが、遂に私と言う存在が、現在と過去、その全てに受け入れられたと言う気がして、私はなんとも言えない清香の境地に至ることが出来た。

 

 

「いや、まったく、キリがねぇ。千は殺したのに、まだ際限なく出てきやがる。やっぱあの手の化け物は本体を叩かなきゃダメだな」

 

戦場に似合わない淑やかな空気を切り裂いたのは、今しがた戦場にて存分に力を振るってきた男だった。誰よりも先に戦場へと突入した男は、他の誰よりも速く見切りをつけてさっさと帰還したのだ。

 

 

おそらく大暴れしたのだろうことがランサーの言葉から分かるが、それだけの大立ち回りをしたにもかかわらずその体に傷一つなく、服にシミ一つ残っていない手並みは、流石、最速の名前に恥じない働くぶりであるといえよう。

 

「それで、あのデカブツと言峰をどうにかする算段は立ったのか?」

 

ランサーは赤い魔槍―――よく見れば、これも酷い出来の贋作だ―――気分良く振るって穂先に付着していた体液を払うと、乱雑に地面へと突き刺しながら軽く凛にはなしかけた。そして我々の一同を見渡した彼が、そうして彼女に話しかけたのは、おそらく彼なりに空気を読んだ結果なのだろう。

 

「手段はとっくに。ただ、今、それを補うための武器調達の手を相談してたところ―――ま、というわけで、私の愛した夫、今の貴方の投影魔術に比べれば遥かに技術面で劣る士郎だって、そうして勝利すべき黄金の剣/カリバーンの投影をして見せたのよ。貴方にだって出来ないわけないわ」

「―――かもしれん……、ああ、いや、―――そうだな」

 

強引に話を変えた彼女に、私はいつものように否定を含んだ肯定の言葉を返そうとして、それでは今までと変わらぬと気がつき、強い肯定の言葉へと変化させた。それだけで、確かに己は神造兵装に匹敵するものを投影する事だって可能だとおもえてくるのだから、人間心理というものは不思議なものである。

 

「固有結界の発動と神造兵装の投影、どちらも大役だ。だが、確かにやり遂げてみせよう」

 

言い切ると、凛が気持ちよい満面の笑みを浮かべ、セイバーも負けないくらい柔らかな笑みを浮かべた。二人の女性が浮かべたベクトルの違う柔和な笑みに、私は癒されながらも、大役を担う覚悟を決めていた。

 

面はゆさもあるが、それ以上に気分が昂ぶっていて、恥じる思いがあるならさっさと行動にうつせと心が叫んでいる。我ながら青臭いと思うが―――いや、悪くない気分だ。

 

「おっし、じゃあ、やるとしますか。おいアーチャー。宝具の複製ができるってんなら、俺の槍の投影も頼まぁ。これじゃ魔槍の名が泣くぜ」

「であれば私の物干し竿も頼みたい。流石にこの強度では竿というより爪楊枝だ」

「―――」

 

そう言って獲物を各々の獲物を差し出す二人に比べ、バーサーカーはすでに徒手であるが、こちらに向けられた暴走の名を冠するに似合わない静かな目線は、二人と同様に、己の獲物の投影を依頼しているのがわかった。おそらく彼の膂力に耐えきれなくなった時点で、砕けてこの世なら消滅したのだろう。

 

「ああ、わかった。実物に劣らぬものを投影してやるから、話し合いが終わるまで大人しくしてろ」

「おう、大人しく待ってるわ。―――なぁ、アサシン……いや、コジロウ。暇潰しに一手付き合わねえか」

「どうやらお主の「大人しく」の意味は一般のそれとは大分ズレているようだが……、まあいい。その提案には賛成だ」

「お、オタクいけるクチか。ノリがいいやつは好きだぜ、俺は」

「好かれるなら女子の方が良いのだがね。まぁ、益荒男相手ならその次程度に悪くはないか」

「ますます気に入った。じゃあ、早速あっちで挨拶がわりに一手組み交わそうぜ」

「心得た」

 

謎の意気投合をした男どもは、いって結界内の外壁近く、離れた場所まで進むと、文句をつけたばかりのそれぞれの獲物、即ち槍と剣を手にして相手へ刃を向け、決闘―――彼らにとっては組手なのかもしれない―――が始まった。

 

繰り広げられる戦いは、文字通り神技の応酬といって過言でなく、どの一撃にも露骨なまでに殺意がありありと乗せられている。流星のような刺突。闇を切り裂く刃。二人の繰り出す攻撃には相手に対する遠慮というものが一切なく、そうして相手の命を真剣に狙ってやるのこそが礼儀であると言わんばかりに、冴えていた。

 

彼らの頭の中ではおそらく、「この程度で相手が死ぬはずないし、相手が死んだとしてもそれはまぁ事故みたいなもので仕方ない」ということなのだろう。

 

「バカ二人」

「あのノリには流石についていけませんね」

 

いきなり繰り広げられた身内の殺し合いに、ギリシャ神話の女神二人が酷評を下した。セイバーは気持ちよく互いの技の応酬を楽しんでいる二人に少し羨んでいる様子が伺えたが、流石にこの場でそれを素直にいってしまうほどに空気が読めないわけではないようだ。

 

「なんなのでしょうか、これは」

 

ふと気がつくと、意識をとりもどしていたピエールが彼の仲間の側で呟くのが聞こえた。魔のモノどもに囲まれ、決戦を控えた直前の場面において、味方であろう男どもは同士討ちを開始し、それを止めようともせずに眺める者たちがいる。

 

確かに言葉にすれば、見る者全てを混乱の渦中に陥れてしまいそうな光景は、基本的にあらゆる物事を己独自の解釈のもと理解する彼にとっても、形容しがたいものであったらしい。

 

「さてね」

 

疑問をバッサリと切り捨てると、目の前繰り広げられる光景を前に、ともかく己に出来ることをしてやろうと、早速投影の準備に取り掛かった。

 

 

「突き穿つ死翔の槍/ゲイボルグ! 」

 

宝具の名が叫ばれるとともに、全身全霊の速度にて空中へと飛び上がったランサーの手から赤き魔槍が放たれ、槍はその真価を発揮した。手から離れた槍の穂先は瞬時に分裂し、三十の鏃になると、着弾した地点より百近くの獣と触手を吹き飛ばす。

 

速度換算すればマッハ二に匹敵する分裂魔弾の威力や絶大で、地面は剥がれ、土砂と敵がまとめて宙を舞い、地面に大穴を開ける。まるで隕石の着弾とも勘違いしかねない現象を引き起こした槍は、己が主人の意向に沿った威力を発揮したことに満足すると、すぐさま着地した主人の手中へと収まった。

 

「これだよ、これ。多少手ごたえは違うが、やっぱ俺の槍はこうでなきゃいけねぇ! 」

 

遠く離れた場所でランサーの満足げな声が聞こえたかと思うと、すぐさま手中の槍を独特の低い姿勢に構えて、再び集まってきた魔物どもの掃討を開始する。そして彼は愉快げに己が思い切り駆け抜けるスペースを再び確保すると、思い切り助走をつけて跳躍し、再び宝具の名を叫びつつ、槍を投擲。繰り返し魔のモノは吹き飛び、あとはそれの繰り返しだ。

 

確かに陽動のために目立つ行為をしろとはいったが、何もあそこまで暴れなくても、と思うのは、私だけではないと思う。

 

「キャスター。ではこちらも始めようか」

 

一方、そんな彼に私同様の思いを抱いていただろう、少し冷たい目線をランサーに向けていたキャスターは、宗一郎の意思に同意を返した。すると宗一郎の拳が強化の光に包まれ、キャスターと呼ばれた彼女はゆっくりと宙へと浮き上がってゆく。

 

「ええ、お任せください、宗一郎様。―――アサシン。わかっているわね?」

「おうとも、援護は任されよう。お主は存分にその力を発揮するがいい」

 

キャスターはアサシンの言葉を努めて無視すると、戦場に似合わない細身の美女は緩やかに複雑な紋様の魔法陣を己の周囲に展開させ、手にした魔杖をふるい、魔法陣より光の矢を発射した。

 

「アーチャーたちがいうには、ここは柳洞寺直下の洞穴で、奴らは寺を山ごと破壊してこの土地を穢すような輩と聞く。ならば遠慮は無用。寺の彼らは望まぬだろうが、弔い代わりに、奴ら悪鬼の命を吹き飛ばすことで存分に報いを受けさせるとしよう」

「ええ。もちろん。それがあなたの願いだというのなら」

 

光の矢は魔物に直撃すると、己の存在理由を存分に発揮して魔物を焼き尽くし、消しとばす。キャスターはそんな威力を秘めた魔弾を生み出す魔法陣を次々と虚空に描いては、マシンガンのごとく光の矢を発射する。

 

凛ほどの魔術師であっても、一つの形成がせいぜいだろう攻撃能力を秘めた魔法陣は、次々と生み出され、魔のモノをアンリマユごと焼き払う。それはまさに、神代の時代でも一部の優れた魔術師しか可能としない、奇跡の未技だった。

 

キャスターはその奇跡を、高速神言という己の技量と、すぐそばの地下を走る霊脈から膨大な魔力を汲み上げることで成立させている。

 

「魔術師は己の陣地であるのならば、有利にことを進めることができる。そしてここはかつての本拠地、柳洞寺の地下で、霊脈という魔力タンクのすぐ近く。―――負ける要素がないわ。だからせいぜい、あの人の願いの達成と私の鬱憤ばらしに付き合いなさい!」

「おお、怖い。とはいえ、たしかにあの気持ち良い御仁たちの眠る場所が穢され、この身が怒りを感じたのも事実。―――なら精々、この怒り、貴様らのその身を削ることで、晴らさせてもらうとしよう!」

 

宗一郎の腕より拳が振るわれ、彼の後ろをアサシンが守る。僧侶が眠る場所の猊下、僧たちが身を置く寺で世話になった三人は、それぞれの思いを胸に、派手な戦闘を開始した。

 

「では私はバーサーカーと」

「――――――!」

 

キャスターの奮戦を見物していたライダーも、緩々と動き出した。女性にしては長身の美女乗せた巨漢の男は、それでもそんな彼女を大きく見せないほどの巨大な体を瞬時に最高速まで加速すると、ライダーを乗せたバーサーカーはまるで戦車のように結界の外へと飛び出して、外の有象無象を蹴散らして遠ざかってゆく。

 

やがてすぐさま遠方へと孤軍にて進撃した灰色の重戦車は、周囲の的全てをわかりやすく蹴散らし、吹き飛ばし、蹴散らしていた。巨人はライダーという騎手を得て、益々盛んに暴走の様子を見せている。

 

「凛。アーチャー。では私たちも」

「ええ、続くとしましょう。―――そちらの貴方達も覚悟はいい?」

 

凛は自然な優しさを伴って、「異邦人」の彼らに問いかけた。かつてそんな如何にも優雅な所作は、あまりにも完璧すぎて猫を被っているに違いないと感の鋭い者に見抜かれて突っ込まれたものだが、今の彼女には、それを演技だと思わせないだけの自然さがあった。

 

おそらくその淑女の嗜みの現れは、彼女のそれが長年続けられたことにより洗練され、真実彼女の自然な動作として培われたからだろう。こんなところを見ても、なるほど、偽物であっても、続けることに意味はあるのだなと感心し、納得した。

 

「は、はい、もちろん!」

「無論だ」

「最終決戦を前におめおめとひきさがれねぇからな」

「いやぁ、どの戦いも素晴らしく目移りしますねぇ。正直、ここでずっと眺めていてもいい気分なのですが」

「ピエール。お前、だから、こういう時くらいは―――」

「―――ですが、先ほどの話を聞くに、貴方がたについていった方がもっと凄いものが見られそうだ。あの時見せた固有結界とかいうもの以上の衝撃を、見られるのでしたら、それはもう、勿論、覚悟してついていきますよ。―――それに、それを抜きにしても、仲間が死地に向かうのです。ついていかないという選択肢はありませんよ」

「―――は、そうだなその通りだ」

 

最終決戦を前にして、ようやく仲間を気遣う台詞を吐いたピエールに、サガは一瞬呆気にとられた表情を見せたが、すぐに満足な笑みを浮かべると、その内容に同意を返した。

 

「上でもいったけど、いい仲間を持ったじゃない」

「ああ。悪くな―――、いや、そうだ。いい仲間だよ、彼らは」

「そ。良かったわ。それで、ここからどうやって言峰の元まで行くの、アーチャー?」

「無論、彼らと同じ手段を取る。やるからには、徹底的に、だ。奴らの骨の一欠片すらなくなるまで殲滅し尽くしながら進軍するとしよう」

「あら過激ね。……でも気に入ったわ。喧嘩を売られたからには、二度と歯向かう気が起きないくらい後悔させてあげないといけないわ。相手があの言峰だっていうなら、加えてボコボコにしてやらないと私の気もすまないし―――、OK、アーチャー。じゃあ、この馬鹿騒ぎを終わらせにいきましょう」

 

彼女の物騒な言葉に応じて、復活していた魔術回路を励起させ、失った赤い外套を投影する。常ごろ投影した本人からすら贋作の扱いを受けていた聖骸布の外套を纏い翻すと、布切れは持ち主同様、初めて己の存在を誇るかのように夜の闇に赤の色を主張した。

 

「勿論だとも、凛。最終決戦の狼煙はドカンと一発、ド派手にぶちかまして、君の義侠と義理と流儀に答えるとしようじゃないか」

「あいかわらず律儀ね。でも気に入ったわ。それじゃアーチャー。音頭をよろしく頼むわよ」

「……私が、か?」

「当然じゃない。この集団は、貴方が歩んできた道で結ばれた縁の結果なのよ? 」

「そうか。そうだな……、では」

 

「ダリ」

「ああ」

「サガ」

「おうとも」

「ピエール」

「ええ」

「響」

「はい」

「セイバー」

「はい」

「そして、……凛」

「ええ」

 

「過去の因縁に決着をつけるときがきた。とっととこの狂乱を終わらせて―――、今の時代を謳歌するため、地上に戻るとしよう!」

 

振り上げた拳と叫びに呼応して、六つの拳が天に突き出され、頼もしい雄叫びが地に響く。エトリアの土地より西のはるかの地下。その地下に存在する冬木という土地の、さらに深い地底にある場所において、正しくここに、最終局面の火蓋は切られたのだ。

 

 

「エクス……カリバー!」

 

美しき少女に似合わぬ、されど戦場を駆ける騎士としては正しく猛々しい咆哮をあげて、彼女は宝具を振り下ろす。目眩い聖剣から発せられた光は、我らの道を進む障害となりうる敵を全て打倒せんとの主人の意向に呼応して、獣と触手をまとめて打ちはらう。

 

否、彼女の聖剣が生み出した光の断層は、魔物どもだけでなく、その道にあった、マグマ、巨大な氷塊、雷撃の嵐すらもまとめて吹き飛ばし、しかし天井に直撃する直前でその効力を失い、我々の進路に安全を確保してくれていた。

 

小さな体の振り下ろした剣より直進した光刃は、大きな体の火竜が放つ拡散する吐息とは異なり、主人の邪魔となる獲物を仕留める以外には機能を発揮せず、目的とする敵は確実に仕留めるが、そうでないものは見逃すという、正しく英霊の武器にふさわしい権能を持っているかのように見受けられた。

 

光景を見て私は、多少誇らしい気持ちを抱く。今更隠そうことでもない、彼女の振るう聖剣は、私の投影したものなのだ。やがて彼女が作り上げた道を駆け抜けて、私たちが彼女に追いつくと、彼女は本来の脚力を少し抑えて私たちと並走し、私の横に並んだ。

 

「流石です、アーチャー。貴方には謝罪しなければなりませんね。正直、投影品と聞いて本来より性能が大分劣る事を覚悟していたが、貴方の投影したこの剣は、真作であるエクスカリバーにも劣らぬ性能を発揮する」

「いや、構わないよ、セイバー。投影したものが本来のものに劣るというのは、本来普遍の事実だ。その下馬評を覆した私が優れているというだけのこと。―――謝るほどのことではない。それに、そう言ってもらえると、必死こいて投影した甲斐があるというものだ」

「―――承知しました。それにしても、変わりましたね、アーチャー」

「……そうか? 」

「ええ。前に出会った時より刺々しさが減って、卑下ではなく謙虚でなく、他人の尊敬を素直に受け取る強さがある。以前の貴方なら、どう言おうと己の所業を誇ったりはしなかったでしょう」

「そうか……そうかも―――、いや、そうだな」

「ええ。本当に、変わりました。まるでシロウのようだ」

「あの小僧の……? 」

「ええ。―――いい出会いがあったのですね」

「―――ああ。その通りだ。周りの人間がいい人すぎて、毒されてしまったよ」

「む、ですがそういう物言いをするところは未だ変わっていませんね。こういうのもなんですが、その物言いは人に誤解を与えることが多い。注意すべきです」

「……善処するよ」

 

まるでお節介な友人のように口出しする彼女は、気の無い返事ながらも承諾の返事が返ってきたことに一応の納得して黙り込んだ。彼女には悪いが、この性分は治らないだろう。

 

我ながら性格が悪いと思うが、呆気にとられて驚く彼らを見たり、私の言動で喜怒と愕楽の表情をコロコロと変える他人の様子を見て面白がるのは、数少ない娯楽だ。その辺りは他人に迷惑がかからない範囲で楽しむので、どうか勘弁してほしい範疇だ。

 

「委員長気質だな」

「……なんですかそれは」

「生真面目ということさ」

 

揶揄われているのか、褒められているのか判別がつかない、という顔で素直に悩む彼女の様子を横目に楽しみながら、それでも疾走する速度は緩めない。先行する我々の少しばかり後ろでは、彼らがピエールのスキルにより強化された体を酷使しながら、不安定な魔のモノの体を駆け上ってくる。

 

―――そう、今私たちは、敵の本丸めがけて最短距離を進んでいるのだ

 

「ちょっと……、こちとら、生身の体、なのよ……。あんたたち、すこしは、手加減ってものを、しなさい……」

 

息もたえだえに凛は文句を垂れる。優雅さを常の心がけとする遠坂の心がけは何処へいったのやら、美麗な表情には疲労の色が濃く滲み、滝のような汗がその顔を流れている。

 

「そうですよ。お二人とも早すぎます」

「いやぁ、この先行する仲間を追いかける感じ、昔を思い出しますねぇ」

「ま、多少足場が不安定で厳しいものはあるが―――」

「二層や三層の樹海を思えばなんてことはないよな」

 

対して、平均して傾斜が二十から四十、時には絶壁のような安定しない険しい道を進んでいるにもかかわらず、迷宮探索を生業としている彼らは涼しげな様子で言いのけた。多少額に汗が滲み、空気に漏れる吐息が白さを帯びているが、彼らの息はまるで乱れておらず、なんとも余裕の様子である。

 

「だ、そうだが?」

「現役の冒険者と引退して長いロートル魔術師の体力を一緒にしないで頂戴……! 昔は習慣だった八極拳の練習だって忘れちゃって久しかったっていうのに……」

 

負けん気を存分に含む文句に、肩をすくめて返答してやる。すると。

 

「それはいけないな。技術は一日休むと、正しく取り戻すのに三日はかかる。日々のたゆまぬ鍛錬こそが緊急、咄嗟の際においても役立つ、正しく身についた技術となるのだ」

 

などと別方向から聞こえてきた思いもよらない指摘に、私は誰よりも早くその声の主の方を振り向いた。奴はアンリマユと同化した魔のモノの触手の上にたち、悠然とこちらを見下ろしている。

 

「言峰綺礼……!」

「そのとおり。しかし貴様らは余程不遜な輩だな。こうも死人をホイホイと蘇らせられると、その行為になんのありがたみも無くなってしまう。さまざまな鍛錬の先にある技術を日常の中へと落とし込んだスキルの存在といい、この世界の人間や、それを守ろうとする貴様ら、そして、そんな貴様らを許容する世界という存在は、そのような奇跡の価値を地に落としてでも、私と魔のモノの存在を否定しなければ気が済まないらしいな」

「綺礼……、あんた、よくも、シャアシャアと私たちの目の前に姿を表せたものね」

 

足元が魔のモノの本体という状況下において、魔のモノと繋がった奴が姿を表すという異常事態において、こちら側の人物全員が咄嗟の警戒態勢をとる中、奴だけは凛の怨嗟の篭った声にも大した反応を見せず平然と私だけを見据えて、続ける。

 

「その最も顕著たる例が、貴様だ、エミヤシロウ……」

「……私?」

 

スキルや技術という話の内容から、唐突に何ら接点のないはずの私に話の焦点が当てられたことに内心多少動揺しながらも、それを露わにしないまま、奴の言葉の先を聞く。

 

「一度目の蘇生は良い。あれは私の見逃しと、凛の覚悟と技術、そして衛宮士郎の献身による成果だ。貴様の蘇生―――いや、転生か。ともあれその結果、転生という事態が起こったことはこの世界の理からすれば不自然かもしれないが、死者を蘇らせる為に生者が血肉を削っての行為の結果と考えれば、自然なものだった。―――だが、二度目は違う」

 

奴はカソックの下で振り上げていた足を振り下ろすと、途端、その下部に当たる魔のモノの表面が砕けてマグマの中へと落ちてゆく。常に能面のような作り笑いを浮かべ、冷静の態度を心がける奴にしては、珍しく感情的な行動だった。

 

奴は私を嫌悪している。否、奴が一言を発するたびに、目の周囲に険しいいくつものシワを増えてゆくのは、言峰という男が今、己の語る言葉にて、私という男への嫌悪を深めている証拠だった。

 

「貴様はもはや心臓を砕かれた死に体の状況から、謎の復活を果たし、聖杯を手にしたことでさらなる奇跡を成し得た。―――なぜだ。なぜ親子揃って、自ら平穏を捨て、要らぬ理想の為に戦場へ身を置き、その身に余る大望を抱き絶望の中を邁進する愚かな者ばかりが、死者蘇生という最高峰の奇跡までも幾度も手中に収めることができるのだ! そしてなぜ、世界はそんな貴様らばかりを贔屓するかのように、貴様らにばかり都合の良い奇跡を用意し、それを許容する。―――なぜだ、アーチャー……! 」

 

そして私のことを奴は今、エミヤシロウとではなくアーチャーと呼んだ男は、これ以上ないほどに憎しみの感情を全身から滾らせていた。その慟哭は、その戦場にいた全ての者から抵抗の意思を奪ってみせるだけの迫力を秘めていた。

 

奴がなぜ今しがた急激な心変わりを見せたのか、その理由はわからない。生前、衛宮士郎であったころの私は、奴は他人が醜いと思うことこそを美しいと思う性格破綻者であるということしか知らない。

 

私にとって奴は、切嗣という養父を殺した仇であり、私の真の両親と共に多くの無関係な民間人を殺した罪人であり、そしてそういった他者の悲しむ行為を容認する、単なる悪人に過ぎなかったのだ。

 

死後、英霊として聖杯戦争に参加した折も、同様だった。奴は己の立場と過去の経歴から得たものを利用して戦争をかき乱し、他者を欺き、陥れることを目的として動いていた。奴は己の行為の結果、無関係の人間が死ぬことを当たり前のように許容していた。無論、それを我が目的のために見て見ぬ振りをしていた私も同罪であろうが、ともあれ、言峰綺礼という男は、私にとって単なる悪人というイメージしかなかった。

 

しかしそれがどうか。目の前にいる悪を許容する大悪人は、まるで餓鬼のように己が心中を

叫び、吐露し、憎き敵である私に、なぜ己は世界に許容されないのに、貴様ばかりが許容されるのかというその問いの答えを求めている。

 

おそらく奴は、その問いの答えを求めるためだけに、採算を度外視してこの場へとやってきた。今までの企みも、積み上げてきたものも、全てを放り投げて、己を敵だとして殺そうとする、因縁の相手の前に姿を表した。

 

己が存在の価値と意義を求めて苦悩し、何とかしようとあがき、そしてそれが叶わぬと知ったときに絶望し、答えを求め、恥も外聞をも気にせず、憎いはずの敵にすら問いかけ、必死に答えを求める。その行為に、私は痛いほど覚えがあった。なぜならそれは―――

 

―――私がかつて、過去の衛宮士郎という存在に対して行ったこと

 

途端、奴はまるで私にとって鏡のような存在だと感じた。他人の美しい行為にしか価値を見出せない男と、他人の醜き行為にしか価値を見出せない男。普通の人間を愚かと感じて世界に絶望を抱いた男と、未だに普通の人間の暮らしに憧れて世界に希望を捨てられない男。

 

私の陽は、奴の陰。奴の陽は、私の陰。否、合わせ鏡とかいう生易しいものではなく、それはもはや、太極、両義の関係性。他者の中にしか己の存在意義を見出せないという点まで含めて、私と奴は、正しく表裏一体の関係にある存在だった。

 

―――ならば、答えてやるのが、せめてもの情けというものか

 

奴が敵であることに変わりはない。奴が今回の事態を引き起こした黒幕であることに変わりはなく、故に奴がこれから殺すべき相手であることにも変わりはない。

 

ただ―――、己の存在意義を、否定されるだろう事を承知の上で、私という正反対の存在に問いかけた、奴という存在の必死の叫びを見過ごすのは、正義の味方を目指すものとしてやってはいけない事であると感じたのだ。

 

「―――凛、セイバー、そして、ダリ、サガ、響にピエール」

 

呼びかけると、金縛りから解かれた一同が声に反応して身を震わせる。

 

「何でしょうか」

「何かしら?」

 

どうやら凛の負けん気と意地よりも僅差で不測の事態に慣れたセイバーの方が早かったようで、出遅れたことを無駄に悔しがる彼女の変わらない気質を微笑ましく思う。他のみんなは二人より出遅れて、もはや台詞もなく次の言葉を待っていた。

 

「―――あの男との決着は、この手で直接つけたい。悪いが、固有結界の展開後、しばらくの間、自由にやらせてほしい」

 

言うと、彼女らは口を、目を大きく開き、あるいは、息を飲んで体を後ろにのけぞらせて、たいそう驚いた事を表現した。けれどすぐさま半月になるまで口角を上げて、満面の笑みで言い放った。

 

「いいわ。その我儘、聞いてあげる。滅多に聞かない、貴方の願いだもの」

「因縁というものは、己の手で最後までやり遂げてこそ、正しく終わらせることができるもの。アーチャー。その行為が貴方にとって救いとなるというなら―――、それは是非とも貴方が自らの手で成すべき事だ」

 

そして私の過去を知る二人は、それぞれの理由で私の我儘/願いを許容した。

 

「―――我々の目的であった三竜のうちの一つ、火竜討伐は君の力があってこそだ、エミヤ。いや、それ以前に、ここまで私たちが生きてこられたのも、君の助力があってこそ。なら、その借りを少しでも返すために、ここらで一つ、君に恩を売っておくというのも悪くない」

「ダリ。どうしてお前にもピエールの素直じゃない部分が移っちまったかなぁ。こういう場面では、好きにやってこいって、笑顔で送り出すのが思いやりってもんだぜ?」

「おや、堅物がとっつき易くなったのですから、その変化は喜んで然るべきなのでは?」

「あ、はは、あはは」

 

そして、いつもと変わらない三人のやりとりを繰り広げる彼らと、それを見て苦笑する小さな少女。やがて始まった男の馬鹿騒ぎに笑っていた彼女は、ひとしきり笑い終えると、姿勢を正して、こちらを向いた。

 

「エミヤさん。―――シンを失った私たちが、それでもここまでやってこられたのは、貴方の尽力と献身があってこそです。―――だから、私たちに憚ることなく、存分に、思う通りにやっちゃってください」

「―――了解した」

 

肯定の意見を受け、私は奴の方を向き直した。鳴動する魔のモノの体という大地の上で、言峰綺礼という男は、私たちのやりとりを見て心底嫌悪の感情を抱いたのだろう、目元に視線だけで誰かを射殺せそうな殺意を携えながらも、静かに私の返答を律儀に待っていた。

 

奴の頭には、もはやアンリマユや魔のモノの事情など関係ないのだろう。奴の興味はもはや、私が口からこれより出てくるはずの答えにのみ注がれている。その真摯さに応えてやるべく、私は奴の向ける熱量に劣らぬだけの意思を込めて、見返した。

 

「決着をつけよう。貴様の望む答えは、その先にのみ存在する」

「―――よかろう。ならば、その求めに応じるまで」

 

そして私は世界を変えるべく詠唱を開始した。

 

 

「―――I am the born of my sword/体は剣で出来ている」

 

エミヤの口から言葉が発せられる。エトリアの言葉とはまるで違うその音の羅列は、けれど不思議と周囲に響く力を持っていて、その場にいる誰もがその詠唱に釘付けとなる。

 

「steel is my body,and fire is my blood./血潮は鉄で心は硝子」

 

続く言葉に凛とセイバーという女性らは、少しばかりその綺麗な顔立ちを曇らせた。多分、彼女たちは彼の発する言葉の意味を理解できて、そしてその内容が悲しいものであることがわかる。だってそうでなければ、エミヤさんの背中を見て、あんなに優しくも悲哀に満ちた目を向けるはずがない。

 

「I have created over a thousand blades./幾たびの戦場を超えて不敗」

 

言葉は続ける彼の背中は、大きくて、頼り甲斐のあるものだ。彼のお世話になったのは三層の番人戦から、駆け抜けた四層、そして特殊な五層と、とても短い間だったけれど、その間私は、この逞しい彼に、数え切れないほどお世話になってきた。

 

「Unknown to Death./ただ一度の敗走もなく」

 

エミヤはとてもいい人で、強い人だ。ただ、彼は強すぎるから、いろんなことを自分一人で抱え込んで、全部自分の中で処理しようとする。そして失敗した時も、自然と全ての責任を自分だけで取ろうとする。

 

「Nor known to Life./ただの一度も理解されない」

 

彼はまるで、過去のシンだと思った。もちろん私はどちらの昔のこともよく知らないのだけれど、他の人より力と心が強すぎて、だから目指す目標が高すぎて、追いかけようとする人もそんなにいなくって。きっとだから、みんなの中にいてもずっと一人の気分で過ごしていたんだと思う。

 

「Have withstood pain to create many weapons./彼の者は常に独り、剣の丘にて勝利に酔う」

 

そうか、だから、全部一人で抱え込むようになったのかもしれない。いつからか、彼は諦めたんだ。強いからじゃなくて、周りの誰もが彼のことを追いつこうと、理解しようとしないから、彼もそれを周りに強いることなく諦めた。彼は他人に嫌なことを強いてまで、自分の理解を求めなかった。自分の理解者を求めなかった。

 

「Yet,those hands will never hold anything./故に、その生涯に意味はなく」

 

そしてますます彼は一人になった。目的の場所まで迷わず走り抜ける人は少ない。色々な誘惑があって、大抵は寄り道をしたり、途中で挫折しそうになったりして、足を止める人も多い。けれど、彼は、気がつくと一人、目的の場所めがけて迷わず突き進んでいる。

 

それができる人は本当に少ない。だから、彼のそばにいて、そしてそれが出来ない人は、それが出来ないという劣等感が湧いてくる。多分、ヘイもそんなうちの一人だったのだろうと思う。そしてそんな彼と距離を置こうとするようになる。

 

―――そして

 

「So as I pray,unlimited blades works./その体は、きっと剣で出来ていた」

 

彼の言葉が終わると同時に、暗く死の気配に満ちていた暗く狭い世界は、黄昏の光が周囲に満ちる広大な世界へと置き換えられる。

 

固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」

 

それが確かこのスキル―――いや、魔術の名前だったと思う。

 

すごい技だと思う。周囲の一定範囲を全て自分の心の世界と入れ替えるなんて、本の中のお話の中ですら聞いたこともない。多分、この世界においてこんなすごいことができるのは、それこそ彼一人なんじゃないかと思う。

 

―――だからこそ、ますます彼は孤立する

 

私は以前この世界を見た時、唐突に、彼という人物のことを理解できた気がした。

 

一面に広がる茜色の夕焼け空。黄昏色の行方を地平線の彼方まで追ってやれば、空の向こう側では大きな歯車が不規則ながら、けれど規則的に動いている。天と地の狭間で蠢いている魔のモノを無視して目線を地面にまで下ろせば、枯レ森の雰囲気とは違った感じの、命の気配が感じられない荒野には、植物の代わりに剣が乱雑に突き立っている。剣はどれも凄まじい雰囲気を放っていて目が離せない。

 

剣は多分、彼が他人との接点なんだろうと思う。彼はそうして、誰かが困っている時、剣を手に取り助ける時だけ、誰かに近づいて問題の解決をして去って行く。問題っていうのは、悩んで時間をかければかけるほど、他人から見れば、被害が大きくなって行くように見える。

 

当人からすればそれも必要な犠牲だとか思っていることでも、彼みたいな強い人からすればそれが無駄だと思えてしまうから、強引にでも問題の解決を図って、無理やりにでも解決へと導いてしまう。

 

でも当人が納得してない結末は、どれほどその被害が少なかろうが、決して問題の解決にならない。結果として優しすぎてつい手を出してしまう彼は、周りからすればとても傲慢な人間に映るようになってしまった。

 

きっと、それを端的に表しているのが、この悲しいくらい心の中に誰も命の気配が宿っていない、自分は常に理解されない人間であることを主張する世界なんだ。

 

 

随分と久しぶりにその世界を見た。私が目にしたのはたった一度、あいつが過去の自分を殺そうとして私たちと完全に敵対したその時だった。

 

その時、私は、この世界を殺風景だと思った。一目見てその歪みが理解できた気がした。もともとあいつはすごく根っこの部分がすごく歪んでいて、それが性格にも影響しているのだろうとは思っていたけれど、ここまで酷いとは思っていなかった。

 

あいつは誰とも繋がっていない。血反吐を吐いて正義の味方になる努力をして、誰かを助け続けて、誰も泣いてない世界を求めた少年が、果て手に入れたものがこんな荒野に鉄と灰色の空が広がるだけ孤独な世界だなんて、あまりに馬鹿げている―――

 

過去の自分を憎んで当然だと思った。でも当時の私じゃ彼の望みは叶えられないし、助けられない。だからせめて心だけでも救ってやりたいと思った。だから私は、聖杯戦争が終結した後、あいつが役目を終えて消え去る前に、あいつにこの世に残らないかと提案した。

 

少しかもしれないけれど、あいつの歪みを理解して、あいつの鬱憤を理解した私たちのそばで、ほんの少しの間だけでも滞在することで、あいつの傷ついた心を癒してやれればと思ったのだ。

 

けれどあいつはそれを拒絶した。それは一時しのぎに過ぎないことを知っていたからだと思う。たとえ先延ばししたところで、待っている結末は変わらない。だから立ち向かう道を選んだ。どれほど望まぬ結果が待ち受けている道であろうとも、己で選んだ道だから逃げ出すわけにはいかないと、さっさと地獄へと舞い戻ることを選択したのだ。

 

馬鹿な男だと思った。だけどそれ以上に、彼のそんな無言の選択をさせてしまったことが、何より悔しかった。そしてその苦しみはどれだけ年を重ねようと消えることはなく、むしろ、年を重ねてできることが増えてゆき、立場と力が増すにつれて、重いものへと変わってゆく。

 

あらゆる事柄に人並み以上の才能があり、苦労と程遠い立場にあったと自覚するこの遠坂凛という女は、しかし、ただ一人、地獄にて苦悩する男を救えない。少女の頃に突き刺さった楔は、年をとり、他の全ての苦悩を大抵処理してきた私にとって、だからこそ決して忘れ得ぬ膿んだ痕となる。

 

そしてやがて年をとって、膿んだ傷を見ないふりするのも限界に達しそうな頃、私の妄執は彼を助けるための手段を思いつかせたのだ。それはとても外法な手段だった。下劣と言い換えてもいい。

 

けれど、私は私を苦しめてきた全てを取り除くために、その機会に飛びついた。夫は多分そのことを見抜いていた。だから自分の命ごと身を差し出せというような無茶苦茶な要求も迷わず呑んでくれたんだ。

 

だって私の愛したあの人は、そんな私の我儘な部分も知っていて全て受け入れてくれた、正義の味方を目指した優しい人だったから。

 

 

全部の準備を終えて、後は私が観測装置となるだけという段階になって、ようやく本懐を果たせるというのに、私の中には少し不安が生まれつつあった。

 

果たしてこれで、本当に彼は喜んでくれるのだろうか。誰かの犠牲の果てに己が身の解放が行われるという行為を、彼は許容するのだろうか。己が身を呈してでも誰かに泣かないでほしいと願った彼は、果たしてこんな形での救済を、救いとして受け取ってくれるのだろうか。

 

それが己の罪悪感がもたらす杞憂に過ぎなかったのだということを思い知ったのは、己が過去の記憶を取り戻してからの期間、彼が私の前で幾度となく見せてくれた、屈託のないけれど困ったような笑顔見せてくれたからであり、そして今しがた、己の心象風景を一望して眺める彼の顔を見たからだ

 

―――ああ、自分のやったことは、決して無駄ではなかった

 

それはなんて素晴らしい奇跡なのだろう。私は自らの選択が間違っていなかったことを確信し、過去にその判断を下した私と、そんな私の選択を受け入れてくれた夫を思い、深く感謝の念を天に送った。

 

第十七話 積み上げてきた過去の結実 (A:fate root)

 

終了

 

 



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最終話 運命の夜を乗り越えて――― (A:fate root)

最終話 運命の夜を乗り越えて―――

 

己と己の為した結果を受け入れろ。

それが過去を寄る辺として選択したお前に出来る、唯一の事だ。

 

 

―――So as I pray,Unlimited Blade Works/その体はきっと、無限の剣で出来ていた

 

詠唱を終えた途端、足元ではマグマ滾り、時折その熱を帯びた岩の塊が巨大氷塊と絶え間なく周囲に拡散する雷を伴って嵐とともに駆け回る、異臭に満ちた死の気配が荒々しく駆け巡る濃密な混沌とした閉鎖空間は、緋色に染まる天空の元、荒野に無数の剣が突き立つ光景が地平の彼方まで広がる動きのない世界へと書き換わる。

 

「―――!? ―――? ―――! ????」

 

そんな静寂の掟が支配する世界において、自らの身に何が起こったのか理解できない、と言った風に無秩序に全身を動かすのは、アンリマユと魔のモノが融合し、その影響を最も強く受けた部分―――すなわち、私の夢に現れた奴の本体である人間の脳の形をした化け物と、その微かな取り巻きである。

 

当初の予定では、奴をまるごとこの「無限の剣製」の世界に閉じ込めて殲滅する予定だったが、流石に世界を書き換える固有結界でも、許容することのできる大きさに限りがあったということだろうか。とはいえ。

 

―――多少予定外ではあったが、敵の守りと力が予定より弱まったというのなら、こちらは彼女たちだけでもなんとかなるはずだ

 

固有結界の中に取り込めた彼らのうち、一名は英霊で、一名は優れた魔術師で、残る四名は竜すら打ち倒す一流の冒険者たちだ。彼らなら、弱体化した魔のモノなどに相手など負ける要素がありはしない。

 

また、外にて魔のモノの残り部分と対峙する彼らだって、いずれもが名高き英雄。その安否を心配するだけ、寧ろ彼らにとっては侮辱とも言える行為といえるだろう。おそらく、結界を解いて現実世界に戻ってやれば、あの喧しいやりとりを見せてくれるに違いない。

 

「――――――!」

「お前の相手はこの私だ!」

「援護します、セイバーさん!」

 

外の世界に思いを馳せていると、魔のモノの声なき咆哮と、騎士王、響の声が交差し、戦端が開かれたのが理解できた。彼女らがこちらに気を使ってくれたのだろう、激しい攻防が繰り広げられる戦場は徐々に離れてゆく。

 

 

「お前の相手はこの私だ!」

 

暴れ出そうとする敵へと迷わず刃を向けて叫び注意をひいたセイバーさんは、金色のきめ細やかな髪、中性的ながらも整っている顔と、小さな体のどこから周囲を脅す威圧を発しているのか、一声の挑発にて敵の視線を釘付けにすることに成功する。

 

「援護します、セイバーさん!」

 

声をかけると、私もダマスカス製の剣を構えた。この世界の景色と似た色合いをした剣は、力を発揮する瞬間を喜んでいるかのように、周囲の光を反射してキラリと周囲に赤金色の光をばら撒いた。

 

「あれだけのデカブツ相手ですと、やはりまずは行動速度をあげるのが重要ですかねぇ」

 

続けて飛び出していた同じくピエールが、「韋駄天の舞曲」を奏でると、スタッカートの多いテンポの良い音楽が戦場に鳴り響き、私たちの神経系を強化する。

 

「―――これは……」

「速度を上げました。時間の制約はありますけれど、ピエールの歌は味方の身体能力を向上させるんです! 」

「なるほど」

 

説明を聞いたセイバーさんはまっすぐ前を見据え直すと、剣を上段に大きく振りかぶって巨大な敵へと迷わず切りかかった。彼女の私と同じくらい小さな体が流星のように、蒼と金の尾を引きながら魔のものへと突撃する。凄まじい踏み込みと、裂帛の気迫。それを。

 

「――――――!! 」

「ちっ、浅いか」

 

魔のモノは自分の本体を狙ったその攻撃を、敵と自分の間に巨大な触手を挟み込むことで防御を試みた。触手の大きさは人を十人くらい束ねてもまだあまりあるくらい太い。とっさの抵抗に、けどセイバーさんは見事に反応して、彼女は剣の一撃を振り下ろし、それは触手の表面を深々と切り裂いた。直後。

 

―――死ね

 

「うぁっ―――!!」

 

触手の傷口から飛び出した黒い闇を見た瞬間、重圧が頭に入り込んでくる。目元から入り込んだ他人を憎む心、許せないと気持ち、どうにかして排除したいと願う思いは、私の頭と心の全ての部分に枝葉を伸ばして、全てを塗り潰そうと侵食する。

 

「う……、あ……」

 

寒い。体がガタガタと震えだす。盆地にあり、石と漆喰の町であるエトリアは、冬も盛りな時期に吹雪くと家中の水が凍りつくほど冷え込むが、この感覚はまさに街中へ裸で放り出されたような感覚だった。

 

「ヒビキ、大丈夫ですか?」

「セイバー、さん」

 

体の中から湧き出てくる悪寒に膝をつき、体を抱え込んでどうにか極寒の痛みに耐えていると、戻ってきていたセイバーさんが傍に寄り添い、手を肩に当てて言葉をかけてくれる。

 

「気をしっかり。確かにあの悪意は凄まじいが、あれは以前のように世界の全てを呪い殺せるような濃密さを持たない。そう、あれは単なる残り香にすぎないのです」

「は……、い」

「なるほど、では次はあの呪いを鎮める曲へと移行しましょうか」

 

いつのまにか私の傍にやってきていたピエールは、弦を揺らすと今度は喉元の声と組み合わせて、重厚な曲調の音楽を響かせる。その心休まる音色を聞けば、体のどんな異常もすぐに治ってしまうそれは、「破邪の鎮魂曲」と呼ばれる、バードのスキルだ。

 

「あ……」

 

曲の効果はすぐに発揮されて、暖かな音色に包まれた私の体は熱を取り戻す。

 

「―――見事です、楽師。貴方が戦場にて奏でる音色は、体に入り込んだ余計な物を除外し、確かに行動速度を上昇させる効果がある」

「お褒めに預かり光栄です、セイバーさん。……ところで、貴方、そうして褒める態度、随分と様になっていますが、もしや元は、どこかの国の高貴なお方で? 」

「その上慧眼だ。その通り。私は元ブリテンという国を王として収めたこともある」

「ああ、通りで威厳があるはずだ」

「貴公はやはり見る目がある。この外見に惑わされず正しい判断を下す人間は久しぶりだ」

「おい、呑気に話している場合か! 」

 

叫び声に反応してダリの方を向くと、セイバーさんより遅れて前に飛び出ていた彼は、体を傷つけられた魔のモノが攻撃の繰り出した第二の触手の攻撃を盾とスキルで防いでいるところだった。

 

「そうそう、積もる話は後々! こんなデカブツさっさと片付けて、遅れてきたエミヤの出番がなかった、なんてことにしてやろうぜ! ―――おら、くらえ、核熱の術式!」

 

ダリの背中より飛び出したサガは、展開していた籠手に蓄えていたエネルギーを解放し、光を触手の根元付近へと直撃させる。触れたモノの組成を変化させ爆発のエネルギーとするえげつない術式は、大樹の根元のようなふとい腕元にて大爆発を引き起こすと、ぶちぶちと耳障りのよくない音が聞こえ、大地をゆるがす音が固有結界の中に響き渡る。

 

「―――よっしゃぁ! ざまみろ、デカブツ!」

 

そして核熱の術式が生んだ煙の晴れた後、触手が脳みそと離れ、根元より千切れて大地に転がっているのを見て、サガは殊更喜んでみせた。

 

「へ、同じデカブツでも、でかいだけでのろま魔物なんざ、さっきのでかい火竜に比べりゃなんてことないぜ! 」

「サガ……、お前はほんと、こういう巨大な敵の時、いきなり攻撃的になるなぁ」

 

……よくわからないが、なにやら言葉の端々から多分に怨念のようなものを感じる。ダリの態度とサガの言動から察するに、多分サガは、相手が巨大である場合は、とても感情的になって、積極的に攻勢に出るタイプであるようだった。思い返せば、この迷宮の四層でヒュドラを相手にした時や、ついさっき火竜と戦った時も、そんな態度だった気がする。

 

「でかいだけからって偉いわけじゃねぇ! 小さくとも重要なのは、なにができるかだ!」

「その通りです。サガと言いましたか。貴方は物の道理というものが良くわかっている」

「な、そうだよな!」

「―――はぁ……」

 

セイバーさんが今度はサガと謎の意気投合を見せたところで、ダリが大きくかぶりを振って、諦観のため息を吐いた。なんというか、先ほどまでの緊張感が嘘のようだった。

 

「はいはい、あんた達がすごいのはわかったから、今は戦闘に集中なさい」

 

そんな二人に嗜める言葉をかけたのは、凛という女性だ。黒髪の綺麗な髪を流したスタイルのいい美人さんは、その年若い見た目に似合わない色香というものを所作の端々からにじみ出させていて、同性である私ですら、ドキッとしてしまう妖艶さがあった。

 

「ノリ悪いなー、沢山ある触手のうち、二本しかないデカブツの片方をやっつけたんだぜ? どう見てもあれが主力武器だろうし、これで戦力も半減したってもんだろ―」

「……あれで?」

 

凛さんは、気楽なサガの言葉に冷たい一言とともに魔のモノの体を指差す。サガが振り向き、つられて私もその方を見ると、ちぎり落とされた腕の断面から黒い汚泥をダラダラと垂らす魔のモノは、その脳みその本体が震えたかと思うと、脳の切れ込みに沿って盛り上がっている肉の、その全部の部分が破裂寸前にまで膨れ上がり、変形し、変色して、新たな姿を取って行く。

 

「――――――…………」

 

その変貌の、あまりの惨たらしさと醜悪さに絶句。やがて脳はさらなる変形を見せると、脳の中心にあった単眼の両脇に、二つの眼球を伴った肉の塊を生やした。その肉塊はやがて顔面となり、そしてその顔面の脇が盛り上がって肩となり、さらに肩の下の部分からは先ほどのものよりも太い新たな触手が日本、腕のように生えてきた。

 

そんな変態を見てあっけにとられていると、変化の際にグラグラとしていた全身がいつのまにか安定していることに気がつく。そしてその巨大な体の下半身へと目線を移せば、移動に適していなかった脳幹部分は、ダンゴムシのような甲殻類の体へと変化して、安定性を増していた。

 

しかしそれでもまだ体のバランスが上手く取りきれず、上半身がグラグラとすることが気に食わなかったのか、頭の上―――というより、脳の上から生えた二本の肉塊頭部の下に二本の、これまた大きな触手を生やして、それを地面の上に置いて、支えとした。

 

するとそこで奴の体はピタリと止まる。変態した体の真ん中にある単眼の瞼が細められたかと思うと、パチパチと瞬きをして、体全体と触手を蠢かせる。どうやらようやく重心の安定する姿勢がとれる体になれて、ご満悦のようだった。

 

「なんだよそれ、インチキだ!」

「アンリマユと魔のモノじゃあややこしいし……、迷宮の主人だから、ダンジョンマスター……じゃ、ちょっとカッコよすぎるか。―――フォレストセル……、っていうのはまた違う奴の名前だし……」

 

叫ぶサガを無視して、凛さんはブツブツとつぶやいている。どうやら変態を遂げた奴の名前を考えるのに夢中のようだ。これだけの出来事が起こっているのにもかかわらず、まるで無視してそれを考えられるあたり、彼女はその細身に似合わないほど強靭な心臓をしているらしい。

 

「悪魔の星喰……見た目的に悪食の虫……拝火教だから、始原の悪魔、魔神……うーん、ピンとこないわねぇ」

 

凛さんが首を傾げている間、変化させた体の調子を探っていたのか、体全体を奇妙に蠢かせていた魔のモノは、突如としてその動きを止めると、次の瞬間、その動作からは先ほどまでの不自然さはなっていて、一転して滑らかなものへとなっていた。

 

「リン、それはまた後で考えればいいではないですか。そろそろ奴が動きそうだ」

「だめよ、名前っていうのは大切だわ。あいつがずっとあの状態であるならいいけど、またアンリマユとか魔のモノに戻ったり、別の形態になった時、混乱しないように固有名称をつけておかないと……―――そうだ、セイバー、じゃあ、あなたが直感で決めちゃって頂戴」

「―――私が……、ですか?」

「ええ。あなた、直感に長けているでしょ? ならそれに任せちゃえばいいかなって思って」

「了解です―――――――――、ではオミニス・デモン……というのはいかがでしょうか?」

「日本風にいうなら、禍ツ神ってとこかしら。昏い地の底に潜む禍ツ神、オミニス・デモ―――、ん、それらしいじゃない」

「それは良かった―――来ます!」

 

「――――――!」

 

セイバーさんの忠告とともに、奴の口が雄叫びをあげ、そして頭上に脳の端々から漏れ出した黒い汚泥の塊が集まり、球体をいくつも形作って行く。途端、背筋を通り全身に広がる悪寒。寒いを通り越して灼熱とすら感じるようになったそれは、明らかにその球体を体と頭が感じ取ったが所以のものだった。

 

―――あれはまずい

 

「セイバー、見てわかると思うけど、あれはアンリマユの呪いを濃縮させた塊よ。食らったら一たまりもないわ。―――だから全部残らずぶっ飛ばしちゃって頂戴。魔力の心配はしなくていいから」

「ええ、勿論です、凛。あのような汚泥の一雫たりとも貴方には触れさせやしません」

「いい返事」

 

微笑む凛さんをみると、彼女は手のひらに乗せて、なお、あまりあるサイズのとてつもなく巨大なダイヤモンドをいつのまにか持っていた。周囲の光を反射して万華鏡のような七色の光をばらまく光具合から、多分は人口じゃなくて天然の宝石なのだと思い浮かぶ。

 

しかし、妙だ。その見たこともない大きさの宝石を私はどこかでも見たことがある。あれは確か―――、あ。

 

「冒険者ギルドの転職石?」

「あら、惜しい」

 

私の言葉に、凛さんは笑って手のひらで宝石を転がしながら言う。

 

「まぁ、あれもこれも宝石剣を作成する際に出来たプロトタイプの転用品だから、間違えてもしょうがないんだけれどね。―――これはね。遠い昔に第二魔法に挑んだ際、その機能の一部だけを再現した、特殊な宝石なの。違う世界への扉を開けることは叶わなかったけれど、大きなオドを集めて蓄積する機能と、それをマナ化して使用者の体に還元して、無限の運用を可能にする機能を備え付けてある。近場に霊脈があるならその性能はダンチよ」

「第二魔法……、オド……、マナ……、霊脈? あの、それって……?」

「ああ、ごめん。そりゃ専門用語ばっかりでわからないか。えーっと、ま、要するに」

 

凛さんは目線をセイバーさんの方へと向ける。すると彼女は、両手に固く握りしめた剣を、今まさに振り下ろさんとしているところだった。

 

「エクス―――カリバー!」

「あんな感じの一撃を何発撃っても大丈夫にする道具ってことよ」

 

 

「―――人の心の中なのだから、少しは手加減してほしいものだがね」

 

遠目に見ると、サガの一撃により巻き上がった爆発にて魔のモノが押され、少し仰け反って後退したのがわかる。戦場が遠ざかりつつある中、そちらへと向かう凛と目があった。何がそんなに嬉しいのか、戦場に似つかわしくない穏やかな笑みを浮かべた彼女はこちらへ軽く手を振ると、どこからともなく取り出したダイヤモンドを片手に苛烈な戦線へと身を投じてゆく。

 

「―――知識として貴様がこの魔術を納めていることは知っていたが、実際目にするとなんとも胸打つ光景だな」

 

溢れる清香に満ちた雰囲気をぶち壊した男は、あたりを見渡すとそんなことを言って一つ息を吐いた。その所作からは、それが珍しく奴の本心からの言葉である事がうかがえた。

 

「貴様が私を賞賛するなどとは珍しい。明日の天気は雹や雷でも―――ああ、それですでに結果外の環境は、ああも秩序なく壊れていたのか」

「ギルガメッシュが貴様をフェイカーと称して嫌った理由がよくわかる。盗人猛々しいというか、なるほど、恥ずかしげもなくこうまで堂々と他人の成果をさも己のモノであるかのようにひけらかされると、関係なくとも無性に腹がたつ」

「投影は模造品を作る技術。所詮はコピーにすぎん。剣の持つ機能と機能を持たせるに至った理念を横取りして、手柄を誇るつもりは、ない。ただ、そういった過去の人たちが残した武器を収集し、何を思って彼らがこれらの剣を作り上げたか。先人たちの思いを読み取り、形として残し、誰かに語ることもできるこの魔術、私も最近ようやく存外に嫌いでは―――いや、誇らしく思えるようになくなってきたよ」

 

言って我が心象風景を見渡す。決して夜の闇に呑まれてたまるものかと夕暮れを保つ空の下、一つのことを極めるために他の全ては要らぬと捨て去る覚悟を表す荒野に突き立つ剣の群れは、己の存在価値を製作者に認められたことを喜ぶかのように刀身に秘められた力を発揮する瞬間を、柄を天に向けて、今か今かと待ちわびている。

 

そんな彼らの間を縫って吹く風は、剣に秘められた熱量の余波は受けて、心地よい微熱を伴い、体をくすぐって通り抜けて行く。そして地平線まで駆け抜けた瑞風は、遠く空の彼方で動く歯車すら滑らかに動かす動力源になるのだろう。

 

光景は自らの歪みを表すとともに、自ら自身の象徴でもある。そして私は光景に、自らの歪みを思い出して、そして、それとともに奴の歪みに気がついた。

 

―――ああ、そうだ

 

「他人とは違い生まれがはっきりとせず、はじめの記憶が地獄の光景であったためか考え方が異質で、正義の味方になりたいと言ってもまともに受け取ってもらえず、他人の助けになりたいと走り回っても、返ってくるのは大抵、罵声と徒労感のみ。そんなことを繰り返して、繰り返して、繰り返すうちに、骨の髄まで他人に理解を求めない姿勢が身についていた。なるほど、理解されないはずだ。なにせはなから相手に理解を求めていないのだから」

「―――何を」

 

先ほどの問答に答えてやろうと考え、はじめた語りに奴は狼狽えた様子を見せた。一歩踏み出して少し奴へと歩み寄ると、奴は一歩後ろへと下がる。また一歩を踏み出せば、奴も再び一歩下がる。そうだ。その態度。やはり奴も私と同じだったのだ。

 

「価値観の違いとは恐ろしいものだ。特に私や貴様のように、信じた価値観に殉じて生涯を投げ出すような男が、しかしやがてそんなもの、世間にとって全く無意味でどうでも良いものだったのだと知った時、そんな無価値なものに己の生涯を費やしたという事実が耐え難くなって、過去の自分を消し去ってでも、無くしたくなる。あるいは、理解をしない人間のことなど、どうでもよくなる」

「―――やめろ」

 

一歩近づく。一歩遠のく。まっすぐ奴の顔を見据えると、常に人を見下すような視線は何処へやら、その目には、多分に戸惑いと怯えの成分が混じっていた。間違いない。奴は己の嗜好が他人に理解されず受け入れられないことを憤っていながら、しかし同時に、他人に理解されることを望み、それでいて、他人に理解されることを恐れている。

 

「貴様は言ったな。『なぜ私が許容されず、お前が許容されるのか』と。おそらくそれは当然の帰結だったのだ。確かに我々の理念は他人には理解され辛いものだろう。なぜなら、私の、自らよりも他者の救いを優先するという歪みも、貴様の、他者の醜いとおもう出来事を美しく思うという嗜好も、通常、一般の人が持ち得ぬものであるからだ」

「――――――」

 

一歩近づく。一歩遠のく。そう、これは傷の切開だ。心で膿んで触れて欲しくない部分を探り当て、切りつけ、悪いモノを摘出し、治療する。本来なら奴の得意分野であるそれを、今、私は、言峰綺礼という男に対して仕掛けている。

 

「しかし私はそれでも周りに主張し続け、貴様はどこまでも隠し続けた。私が平然とそれの主張をしても迫害されなかったのは、ある意味で当然といえるだろう。なぜなら、私の主張は人間が唱える最も尊き理想に近いものだ。だが貴様の嗜好は、違う。それは、人間たちが嫌う、一般には嫌悪の対象となるものなのだから」

「――――――」

 

一歩近づく。一歩遠のく。こちらと彼方の物理的な距離は変わらない。だが、互いの心の距離は、間違いなく近づいているとおもった。なぜならあの男は否定をしない。少しでも隙を見せれば言葉を用いて煙に巻く事を得意とする男が、肯定もせず否定もしないのは、私の話していることに一定の納得を得ている証拠であると、私は確信する。

 

「それがこの結果だ。主張し続けた結果、私は私の意見と考えに同調する仲間を得て、果ては彼らに救いを齎された。人と世界が私の理想とする世界へと近づいたから、おそらく私は世界から許容を得た。起こった出来事は奇跡だったかもしれない。でも、この結果は、奇跡なんてものじゃあないんだ。ただ、必死に己の主義を周りに主張して、ぶつけ合って、過程で積み重ねてきた結果が、こうして奇跡のような出来事が起こってくれた、と。ただ、それだけのことなんだ」

 

一歩近づく。奴が足を止めた。だから私も足を止める。視線を一瞬だけ足元へと送ってから、再び奴の顔面の方へと戻すと、先ほどまでずっと見据えていた奴の顔に浮かんでいた、奴に似合わない弱い感情の成分はどこか旅へと出かけたようで、仏頂面が戻ってきていた。

 

奴の左右を彷徨っていた視線はまっすぐこちらを見据え、眼前にいる合わせ鏡の存在を睨め付ける。それは、なんとも奴らしい、相手の言い分を理解し、しかし相手の存在は受け入れられぬという、受容と拒絶に満ちた眼光だった。

 

それでいい。私と貴様の関係はそうでなくてはならない。

 

「とはいえ、貴様は貴様で、表立って述べた結論と積み重ねた結果が記録として残ったが故、同調する者が現れた。魔のモノだ。貴様にとっては、それこそが救いだったのだろう。だからこそ、蘇生させられた貴様は、奴の復活のために動いていた」

「―――そうだ。魔のモノ。人類からそう呼ばれ、悪魔と嫌われていた奴は、しかし奴だけは歪んだ嗜好を持つ私の事を必要とし、受容した。奴は私以上に人類の醜い部分を必要とし、そして求めていた。だからこそ私は、同士である奴のために尽力しようと思ったのだ」

 

奴は吹っ切れた顔で口角を上げ、三日月の笑みを見せる。自信に満ちた顔は、常ごろ奴が見せるものとまるで変わらないものへと変化していた。

 

「―――ふん、曝け出して積み重ねた結果、か。なるほどそういえば、貴様は初対面の頃から臆面もなく正義の味方になりたいなどという恥ずかしい妄想を口にしていたな」

「若さ故の暴走……、と言いってやりたいが、再びそれを目指しだした今、もはやそれを妄想だの空想だのと言ってはいられん。―――そうだ。私は正義の味方になる事を目指している。そして、そんな己の望みのために、悪の容認者である貴様を排除しようと考えている」

「そうか。奇遇だな。私も己と、そして私を救い―――、そして今やアンリマユに呑み込まれてしまった魔のモノの末期の願いを叶えるために、貴様とその仲間たちを殺して、せめてその目的を達成してやろうかと考えていたところだ」

「そうか―――」

「そうだ―――」

 

一歩近づかれる。一歩近づく。赤土が風に舞い上がり、私と奴の間を吹き抜ける。奴が拳を握り、身を構える。私が双剣を手中に収め、全身の力をほどよくに抜いた、両腕をだらりと下ろした戦闘態勢へと移行する。

 

「――――――」

「――――――」

 

奴の足裏が、じり、と地面を擦り、私も呼応して半歩を踏み出す。もはや激突は寸前だ。あと一つ、何か合図があれば、その時点で我らは―――

 

「――――――!!」

「エクス―――カリバー! 」

 

固有結界の中で眩い光が我らを包み込んだ瞬間、互いが詰めていた距離は瞬時に零となり、雌雄を決する時が幕を開けた。

 

 

「まずは小手調べといこうか」

 

言峰綺礼という男は、平時においては他人を見下す言動や他人の嫌がる事を喜ぶ思想をするわり、こと戦闘においては驚くほど実直、かつ堅実に、強靭な鍛錬と単純思考での戦闘を好む傾向にある。

 

戦闘においての己を勝利に導くための基本は、相手の土俵に上がらず、相手が嫌がる事を続け、己の有利を保ち続けることにある。となれば、それこそ言峰綺礼という男の本領発揮の分野であり、魔のモノとの連携を断たれていようが、アンリマユや魔のモノを無理やり利用するよう立ち回れるだろうに、奴はその己の有利を捨て、愚直なまでに体術を用いての近接戦闘を選択した。

 

始めの一撃はあまりにも正当な、一路冲捶。八極の基本である飛び込みの歩法にて、言峰は奴の体が私の剣の間合いに入る直前、膝を曲げ、身を沈めた体制から、一気に丹田に込めた力を解放し、左半身を前に突き出した。たった体に力を溜め込む余裕など数瞬の間しかなかっただろうに、踏み出す足と突き出された拳に込められた力は相当なもので、その一撃は以前校舎にて戦った時よりも数段早いものだった。

 

耳障りな風切り音を立てるその拳の初速と加速度は、大砲の発射を思わせ、なるほど、初見ならば、相手が英霊であっても有効打になり得えるかもしれない。おそらく、魔のモノがアンリマユに呑み込まれた際、しかし魔のモノの体もパワーアップを果たし、その恩恵を魔のモノの眷属化していた奴も受けたのだろうと推測。だが。

 

「ぬるいな」

「ちっ……」

 

迷わず左腕の剣にて切り上げて奴の左拳の進行方向に合わせ、同時に震脚を行った左足めがけて右手の剣を投擲し、その進路を塞いでやる。八極の拳にて重要なのは、手と足の一致である。おそらく拳の動きだけならば奴もそのまま攻め入り、勁を当てるための別の動作へと移行する予定だったのだろうが、足の動きを殺されては、八極の真髄は発揮できない。

 

言峰は、舌打ち一つすると、しかしすぐさま半身を捻らせ左足を剣の軌道上から外してやると、多少体の速度を落とすと同時に左腕を下げて、変則型の攔捶へと移行。肘を打ち出すのではなく開いた掌を下に差し出す姿勢は、おそらくこちらの左腕を捉えて拳と拳の超近接戦闘へと持ち込む腹だろう。

 

―――ならば

 

左腕の切り上げる動作をそのまま変更させず、投擲作業を行った右腕を目隠しにして、こっそりと右半身を下げた体勢へと移行したのち、奴の腕が私の腕を掴むタイミングで、右足を奴の死角から背後めがけて打ち出した。

 

「それは悪手だ」

「ぬ……」

 

それをいつの間にやら前方へと持ってきてあった右腕を用いて膝に微かな力を込めて私の力をいなし、私は体勢を崩される。その隙を見逃さず、奴は防御の動作により巨体が縮こまった勢いと体勢を利用して、右半身を前に押し出し、右腕にて私の顎下を狙ってくる。

 

蹴りをいなされ、左腕を掴まれ、死に体となっている所へと繰り出される一撃は、通常の人間ならば避けられようもないのだろうが、あいにく私は通常の範疇に収まらない、魔術師であり、元英霊という存在である。

 

「――――――」

「―――ちぃっ!」

 

奴の拳が私の顎へと叩き込まれる寸前、私の無抵抗から異変を感じ取ったのか、奴は攻撃のために踏み出そうとしていた右足が地に着いた瞬間、そこに秘められていた力を全て後方への跳躍のために使用し、奴と私の間合いは大きく開く。

 

「惜しいな、気づかれたか」

「そういえば、貴様の戦いは正々堂々が理念でなく、隙を作り、相手を騙すが、戦闘手法を基本とするのであったか―――」

 

憎々しげに奴が注ぐのは、私の眼前にある空間―――の、その前に置かれた、虚空より突如出現した一つの剣にであった。その剣の名前は、「薄緑」。奇しくも、この世界でそう名付けられた、番人の体を加工して作られた、刀身が薄く、触れただけで接触したものを切り裂く、とても切れ味の良い剣である。

 

そんな殺傷力を秘めたとは思えない、ガラスのごとき薄い緑色の刀身は、役目を果たせず出鼻をくじかれて、残念そうに落下して地面へと刀身を隠してしまう。

 

「なるほど、ここは貴様の世界。虚空より剣を取り出すことは容易いということか」

「その通り。だから言峰綺礼。もし貴様が私にその拳を届かせたいというのであれば―――」

 

私は腕を振り上げる。途端、地面に突き立つ剣は揃って宙へと浮き上がり、その鋭い切っ先を奴の体へと向けた。

 

「まずはこの弾幕を捌いてからということになる」

 

振り下ろすとともに言峰の体へと殺到する剣群。

 

「――――――おぉぉぉぉぉぉ!! 」

 

吠える言峰は、体捌きと強化した体を存分に動かし、前進を放棄し、回避と防御の専念を選択した。

 

―――まずはこれで体力を削る

 

先ほどの手合わせで確信した。奴は能力が私より劣るとはいえ、やはり油断ならない技量の持ち主だ。まともに正面からぶつかってはやられる可能性もある。ここは一つ、仕切り直して敵の戦力を削るが上策というものだ。

 

 

「下がれ下がれ! またあの黒い煙と粉が飛んできたぞ! 」

「黒い泥と奴の太い腕が邪魔で、短時間の照射ではエクスカリバーの光でも本体まで届かないか……!」

 

ダリの警告に、セイバーさんが攻撃を中断し、全員が揃って闇を撒き散らすオミニス・デモンから距離を取る。もうこれで都合三回ほどセイバーさんは、奴目掛けて黄金の光をオミニス・デモンに放っているが、敵のあまりにも巨大な触手腕と、奴の作り出す濃密な闇に拒まれて、未だにその堅牢な守りを貫くことが出来ていないのだ。

 

勿論、千の魔物を一蹴することができるセイバーさんの「エクスカリバー」を喰らった奴も、無傷というわけにはいかず、彼女の攻撃が奴の撒き散らす闇の粉に中断させられたのち、光の中より現れる時は腕がボロボロの状態であるのだが―――

 

「おい、また腕が再生し始めてるぞ!」

 

光の奔流の中から姿を現した奴の半分ほども削れた太い腕が、見る間に肉が盛り上がり回復するのを見てサガが悲鳴を上げた。そう、これだ。セイバーさんの攻撃によって削れた奴の体は、すぐさま再生してしまうので、攻撃がまるで無意味に終わってしまうのだ。

 

もちろんセイバーさんも、なるべくなら続けて奴にあの光の攻撃をしようと、剣を構えているわけだが―――

 

「今度は炎か……! みんな私の背後に! ファイアガード!」

 

姿を現した途端、間髪入れずに周囲に散らばった暗黒の粉が灼熱へと変化して、周囲を獄炎の渦中へとすり替える。見切ったダリがスキルにてそれを防ぐ。セイバーさんの放つものとば別種の、白く眩い光に染まる視界。

 

光の奔流は火竜の吐息よりもさらに強大で、目を開けていると潰れそうな程の光が一瞬あたりを包み込む。唯一幸いなのは、瞬間的に周囲の酸素を奪い尽くして攻撃が一瞬で終わってくれることだろうか。

 

やがてその一瞬の攻撃が収まると、空気の空白地帯となったその場所に、私たちのいたダリのスキル範囲内部より酸素を含む空気がなだれ込んで、乱雑に風が吹き荒れる。

 

暴風が収まり、こちらの体制が整う頃には―――

 

「―――再生速度が速過ぎる! キリがねぇ!」

「奴の撒く粉も、炎、氷、雷に変化するとはまた多芸ですねぇ」

「言ってる場合か! 連続して来るぞ! 今度は頭だ!」

 

現れる万全の状態の敵。しかもそうして奴が攻撃する間にも、奴はすでに別の部位による攻撃の準備を終えていて、連続してこちらを襲うのだ。

 

「またなんかやばそうな力があいつの前に集まってんだけどぉ!? 」

「完全防御の札はもう切ってしまった……! セイバー、君の剣であの力の塊を消し飛ばせないか!? 」

「ええ、やってみましょう! エクス―――カリバー!」

 

そしてオムニス・デモンが放つ闇色の光球とセイバーさんの光線は激突し、力の相殺は黒白を周囲に撒き散らしながら拮抗。

 

「あ、―――あぁぁぁぁぁ!」

 

セイバーさんが吠える。剣より放たれる光の勢いが増し、そして拮抗状態は崩れ、奴の力は掻き消され、体は再び黄金の光に飲み込まれるが―――

 

「―――ダメだ! また、粉が散った! 来るぞ、退け、セイバー! 」

「―――っ、了解……!」

 

これでまた盤面が最初に戻ってしまう。一旦引く最中、やはり再生する奴の腕。そして。

 

「今度は氷か! フリーズガード! 」

 

黒い粉は、今度は触れたもの全てを凍らせる魔性の氷粉となり、赤土と剣の大地を白く染め上げる。こちらの攻撃は先ほどの炎のそれと違い、一瞬で効果が切れた後、大地が凍りついている以外に大した影響はなく、視界を遮るものもない。また、敵が攻撃の準備を整えていないこともあり、絶好の攻撃チャンスに思えるのだが―――

 

「これなら……! エクス―――」

「―――! だめ、やめなさい、セイバー!」

 

そして隙を晒す奴の触手腕のうち、自らの体を支える前方の二本の腕が黒く染まりつつあるのをみて、凛さんがセイバーさんの行動をやめさせた。

 

「リン!? 何故ですか!? 」

「奴がまた腕に高密度の呪詛を纏ったわ。さっきサガの術式のダメージを反射したあれよ」

「―――っ、くっ! 」

 

一見無防備に見えるそれは、奴の罠なのだ。オムニス・デモンは、自らの仕掛けにこちらがのらないことを確認するとその呪いの守護を解き、再生し終わった肩の方から生えた二本腕を大きく振り上げて、こちら目掛けて振り下ろす。

 

「核熱の術式! 」

「エクスカリバー! 」

 

二つの触手目掛けて放たれる錬金術師最大の術式と、セイバーさんの剣の光。それらの力の奔流が触手を削り、千切り、砕き、撃ち落とすその隙を狙い、敵は再び力を収束して、暗黒の球体を己の頭前に作り上げる。

 

「セイバー! 落ちてくる触手は私がなんとかする! 君はあれの対処を! 」

「了解です!」

 

そして繰り返される、拮抗、打破、撤退。そして。

 

「また粉だ! 」

「今度は雷か! 」

 

また、拮抗。

 

「らちがあかないわね……」

 

ダリの守護の中、状況を端的に言い表した凛さんは、舌打ちをして爪を噛んだ。

 

「地の利を活かすことができればもっと楽に戦えるんでしょうけど……」

 

周囲を見渡した凛さんは、そして視線を、オムニス・デモンからもう一つの戦場、エミヤさんと言峰の決闘の方へと送る。彼らは今―――

 

 

「これだけやってもまだ耐えるか……!」

「あいにく耐え忍ぶは神の使徒たる我らの得意技でな……。耐えられない試練を神は与えず、必ず何処かに脱出の道が用意されているものだ」

「減らず口を……!」

 

吐き捨てるが、服の端々が破け、身体中のあちこち出血があり、満身創痍な状態ながらも、殺到する剣の嵐に己の心技体を行使して耐える言峰の姿は、確かに与えられた試練を耐える敬虔な信者のそれに見えなくもない。

 

奴は今、私が全力で打ち出している、全方位からの剣の射出攻撃に致命の一撃を受けずに耐えている。つまり、少しでも剣林の弾雨の手を抜けば、この拮抗状態が破られてしまう可能性は高い。

 

刃の檻の中でただひたすら耐える奴の未だに暗い光の宿る眼光を見れば、奴は私の隙を見せた途端、なにかを仕掛けようとしているのは明らかだった。だから一切の手を抜けない。

 

―――安全を優先するあまり、勝負どころを見誤ったか……

 

魔のモノとアンリマユの力により己を強化した言峰は、予想以上にこちらの攻撃に耐え、喰らいついてくる。予定では早々因縁に終止符を打ち、彼女たちと合流するつもりだったのだが、奴との決着がつくまでには、まだ時間がかかりそうだ。

 

 

「―――どうやら当分、援護は期待できそうにないわね」

「れ、冷静ですね……」

「泣いて喚いて事態が解決するんなら、アカデミー賞を狙えるくらいの演技をして見せてもいいんだけどね。慌てたところで一銭の得にもなりゃしないもの」

「はぁ……」

 

相変わらずわからない単語が飛び出すけれど、確かにその通りだ。

 

「とりあえず、手持ちのカードを確認するとしますか。手すきは―――、貴女と私くらいか」

「ええ……、まぁ……」

 

セイバーさんは攻撃。ダリが防御。サガは二人の手伝いで、ピエールが補助。近づく余裕がまるでないため、あのデカブツ相手に道具を使って援護をする余地はない私と、セイバーさんに対する魔力の補給やスキル使用の精神力補充のために控えている凛さんだけが、ほとんどダリの後ろを移動するだけの状態になっている。

 

「ああもう、そう落ち込まないの。以前聞いたけれど、貴女、ツールマスターなんでしょ? なら道具を使っての作業が本分。戦闘の面で本職に劣ったところで恥じることはないわ。―――貴女は貴女にできることをすればいい。」

「―――はい」

「よろしい……、で早速なんだけど、貴女、手持ちの道具を見せてもらえないかしら」

「あ、はい。……どうぞ」

「ありがとう」

 

凛さんの要請に応じて道具を詰めたバッグを渡すと、彼女は中の物色を始めた。

 

「うーん、やっぱり食料と補助と回復系の道具しかないかー……、転移系の道具があれば、ワンチャン、あのデカブツのすぐ近くにセイバーをすっ飛ばせればなんとかできると思ったんだけどなー」

「あ、あの、凛さん、その……すみません。私たち追放された身分なので……」

「ああ、そういやそうだったわね。―――あと、凛でいいわ。あっちもセイバーで。堅苦しいの嫌いなのよ、私」

「あ、はい、わかりました。―――凛」

「ん、よろしく、響」

 

挨拶をすませると彼女は器用にもダリの後ろに張り付きながら、再び道具鞄を漁り出す。

 

「うーん、アムリタ系と状態異常系が多いわね……。香を組み合わせて毒にしても回り切る前に回復されそうだし、即効性も足りないだろうし……、せめて絶耐ミストか、起動符か、明滅弾でもあれば、使い方次第で一瞬くらい足止めに使えたんだけど……」

「ダリとサガとピエールがいるから、基本的に攻撃、防御、戦闘補助系の道具は持ってきてないんです。どちらかというと、回復と、瞬間火力を上げる薬と、継戦を保つための道具くらいで―――」

「ま、パラディンとアルケミスト、バードがメンツであればそうなるか。それでアタッカーは、アーチャーってわけかしら―――、ん? 響、あんた、それ、なに? 」

「え?」

 

凛の指摘に自分の手元を見ると、上でもらったシンの遺体から見つかったという宝石を持っていることに気がついた。トゲトゲとした外観のそれを無意識のうちに取り出して弄っていたのは、自分の気持ちを落ち着けるのに彼の力を借りようとしたためだろうか。

 

「ふぅん……、ねぇ、響。ちょっーと、それ、見せてもらっていい」

「―――どうしてですか?」

「ちょっと、なによ、怖い顔しちゃって―――珍しいものだからね。ねぇ、貴女、それがなんだか知ってる?」

「いえ……、凛さ……、凛は知っているんですか?」

「ええ。見せてくれたら教えてあげる」

 

言われて渋々とそれを彼女に手渡すと、彼女はその宝石を受け取るや、なんらかのスキルを発動させよう力を込めて、しかし何も起こらない。

 

「あれ、おかしいわね……」

「凛、一体、貴女は何をしようとしたのですか?」

「この石はね。魔物や人のスキルを閉じ込めた魔術書/グリモアって言うアイテムなのよ。装備していれば、身体能力が上がったり、スキルが使えるようになったりするの。だから、魔術回路を改造しちゃって殆どの魔術が使えない、スキルも基本的なものしか使えなくなってる私でもこの石があれば使えるようになる……、はず、なんだけど。でも変ね……。これ、なんか変な制限がかかってて……」

「制限?」

「うーん、なんか、こう、ロックっていうか、違和感っていうか……、ねぇ、響。貴女、これどこで手に入れたのかしら?」

「―――それは」

 

シンが。あの人が。死んだあの人の中から―――

 

「―――OK、わかったわ、響。言わなくていいわ。その顔でだいたい事情は読めたから。―――なるほど、じゃあ、多分そうなのかもね。―――、はい、返すわ」

「え? 」

「グリモア、多分、貴女か、貴女の仲間たちなら使えると思うわ、それ。石を体の延長線上にあるものと考えて、集中してみて頂戴。そうすれば石に秘められている力がわかるわ」

「わかりました」

 

凛の言う通り、両手でグリモアを抱え込んで、意識を集中する。溶け込んでいく心。石の中に秘められた想い。グリモアは、ただ一つの願いを果たして欲しいとの願いが、彼の体の鍛え上げられた想いとともに、抽出され、こぼれ落ちたモノだった。

 

「―――シン」

 

彼の純粋な願いが胸を打つ。これはあっさりと逝った彼が残した無念の結晶と言えるだろう。いや、無念ではない、希望だ。これは私たちに、私に、彼が残した最後の希望。

 

「凛」

「ん?」

「私、この状況をなんとかできるかもしれません」

「―――へぇ」

 

面白がりながらも真剣味を秘めた声。私は彼女にこのグリモアの効果を説明し、思いついた戦術を話すと、彼女は感心して頷いて、その案を受け入れた。

 

 

「セイバー! 」

「凛!? 危険です! 今の貴女は前線に出てくるべきでは―――」

「いいから聞きなさい! 頃合いを見計らって、響がオムニス・デモンに隙を作るわ! その隙を狙って貴女の宝具を叩き込んでやって頂戴! 」

「響が―――、わかりました」

「あとは……、そこの錬金術師! サガとか言ったわね!」

「ああ、なんだ! 」

「聞いてたわね? 響が今からあれをなんとかするから、セイバーに続いて、でかいのをぶっ放してちょうだい! 」

「―――ああ、わかったよ! 」

 

セイバーとサガが承諾の返事を返したのをみて、私は上段に構える。まだ完全には馴染まない構えだけれど、彼のことをずっと追いかけてきた私は、彼の剣を使いこなそうと鍛錬を重ねてきた私は、グリモアのおかげもあってか、今まででいちばんの出来に体を構えることができた。

 

戦況を見極める。目の前で戦闘中のみんなは、私たちが相談する前や間、ずっと最初の頃と変わらない行動を順番に繰り返している。狙うのは―――きた!

 

「氷か! という事は……」

「またあのでかいのがくるぞ!」

 

オムニス・デモンの脳の上にある二つの頭の前では、再び暗黒の呪いの濃縮が行われていた。この距離からあれを防ぐ手段は、セイバーの「エクスカリバー」のみ。しかしそれを防御に使うと、威力が相殺された上、再び奴が回復する時間を稼がれてしまうのだ。

 

「させません! 」

 

でも、逆に言えば、その発射を阻止してやることできれば、セイバーのエクスカリバーの威力を全て攻撃に回した上で、攻撃をすることのできるチャンスになる。だからそこに目をつけたのだ。

 

剣を握る手に力が入る。目の前にいるのは、これ以上ないほどの強敵。あれを思えば、先ほど戦った三流のうちの一つ、「偉大なる火竜」ですら、前座にすぎなかった。きっと彼の分身であるこの石は、そのことを感じ取っていたからこそ、あの時はなんの反応も見せなかったのだ。

 

いつだか彼は言っていた。この剣を三竜に突き立てて欲しいと。それほどの強敵にこの剣と自分の技が通用するか確かめたかったと。そう、全てはこの時、この瞬間のために。今後きっと二度と現れることもないだろう強敵にこの一撃を叩き込むために、この石と、彼のこの剣は存在したのだ!

 

―――止まっているデカブツ相手になら、私でも……!

 

「イグザート・アビリティ!」

 

ツールマスターとしての力を最大限に発揮して、フォーススキルを使用する。力を全て引き出されたグリモアは、その水色の身の内側から眩いばかりの光を放つと、私の体に彼のスキルの力を漲らせる。全身を駆け巡る力は力強く、感じた懐かしい暖かさは寂しかった心を満たして、涙がこぼれ落ちた。

 

柄を握りしめていた手が緩む。過度な緊張は万全の一撃を放つに不要だと、彼の意思が教えてくれる。脱力を。あと少しの間だけ、私の全てを彼がくれる感覚に全て委ねる。数秒。たったそれだけの間持ってくれれば、そのあと私はどうなっても構わない。

 

敵の球体が最大限に達している。もはや発射される寸前だ。このタイミング。狙うのならば、敵が攻撃をするその直前。敵の両肩の一対の頭が揺らぐ。敵の動きが手に取るようにわかる。狙うのなら―――――――――、今!

 

「『一閃!』 」

 

彼の奥義の名を叫ぶ。驚愕の視線を感じた。果たしてサガか、ダリか、ピエールか、あるいはその全てなのか。振り下ろした刃は虚空を切り裂き、オムニス・デモン全ての首と触手の後ろに空間の亀裂を生み、薄っすら赤銅色混じった白色の刃が現れた。

 

奴らの太い首や腕を一太刀で刎ねることが可能なほど巨大な刃はすぐさま目の前の獲物に食らいつくと、体内へと侵入し、その内部を断通するやがて刃が断通する。刃の入り口と通り道と出口に沿って、赤い筋が走った。

 

やがて両断され、自重を支えきれなくなった細胞は、切り離された肉体へと手を差し伸べるのをやめて、見捨てられた肉体は重力に負けて地面へと滑り落ちて行く。見事な切れ味。当然だ。

 

このグリモアという石に秘められているのは彼の技術の全てであり、それを私がツールマスターとしての力全てを以ってして完全に引き出したのだ。このような些事、こなせない筈がない。

 

そしてその直後、予想通り制御部位であったのだろう二つの頭部の神経系が断絶されたことにより、オムニス・デモンの体中央部分の単眼の前で濃縮されていた闇の塊は、濃縮されていた闇の球体の滑らかな表面が大きく波打ったかと思うと、暴発。

 

生まれ出た火と熱の勢いが、切り落とされたことにより現れた断面を焼き、焦がし、熱処理して行く。同時に爆発の勢いによってやつの体は大きく振動し、今しがた断った部位が奴の体と離れる速度が加速した。これで回復能力もある程度阻害できるはずだ。

 

「――――――!? ―――? ―――、!!!?」

 

確信が事実へと移り変わった頃、一方で奴は何が起こったのか理解することができず、戸惑ってばかりいるようだった。熱に脳中心にある単眼の表面を焼かれたデモンは、瞼らしき機構をぱちぱちと瞬きさせながら、状況の把握に必死に努めている。

 

「サガ! セイバー! 」

「―――おっしゃ、任せろ!」

「ええ、あとは私たちが! 」

 

待ってましたとばかりに二人が返事が返ってくる。

 

「これで閉幕です! カーテンコールはいりませんよ! 」

 

そしてピエールがフォーススキル「最終決戦の軍歌」を歌う。勇ましい曲調の音色が周囲に響き渡り、二人の能力を最大限にまで引き上げる。

 

サガは籠手に限界まで溜め込まれていた力の、早くこの狭苦しい所から己を解放しろとの訴えに応じて、スキルの名を叫ぶ。セイバーも上段に構えていた剣の柄を握る両手に力を込めると、流麗な動作で剣を敵めがけて振り下ろし、そして宝具の名を叫んだ。

 

「超核熱の術式! 」

「約束された勝利の剣/エクスカリバー!」

 

黄金の光は未だ空中に残る闇の残滓をかき消しながら、敵の無防備となった単眼に直撃する。混乱する奴の眼へと突き刺さった光は、瞬時に剥き出しの後頭部へ突き抜けて、脳みその中央部分に大きな穴を開けた。

 

遅れてサガの奥義が脳の下部に直撃。甲殻類の脚が生えた敵の体に当たった組成変換の術式は、即座にその体組織を爆発のための力と書き換えるための力として転換すると、連鎖は倍々に加速度を増して消滅と爆発を繰り返す。

 

やがてその余波はセイバーの剣によってばら撒かれた肉片にも影響を与え、敵の体はカケラも残さず黄金の中へと消えてゆく。やがて彼女の放つ光が収まり、光の影響が完全に消え去ること、茜色の空の下に広がる赤色の地面の上には、今姿命を散らせた敵の死を悼むかのように、剣が墓標として大地につきたつ光景だけが広がっていた。

 

 

「敗れたか」

 

そんなセリフが剣雨を通り抜けて聞こえたかと思うと、言峰は静かに抵抗のために動かしていた全身から力を抜いた。自然、抗いをやめた奴の全身を剣が貫く。あまりの予想外に、私が剣の雨を止めることができたのは、奴の体の半分ほどが剣によって吹き飛ばされた後だった。

 

腕はちぎれ、内臓の代わりに鉄が配備され、頭にも剣が突き立っている。数百の剣をその一身に浴びながら、心臓と脳の重要部分を避けていたのが、ある意味では奇跡だと思った。もはや自らの足ではなく、剣によって支えられた体であるにもかかわらず、奴は静かに瞑目して、笑みをたたえている。

 

「―――なぜだ」

 

結果、敵を倒したというのに、思わず奴の行為に問いかける言葉が出た。あんな死に体になったのだ。こんな問答にもはや無意味であると言うことは、その所業をなした己が誰よりも一番理解していた。

 

問いかけに奴の体がほんの少しだけ揺れた。微かに漏れる呼気から、それが今の奴にできる精一杯の笑いの仕草であると言うことに気づいたのは、奴がまだ剣が刺さっておらず自由に動かせる首を持ち上げてこちらに笑いかけたのを見た瞬間だった。

 

「満足したからさ」

 

それはあまりにも、言峰綺礼らしくない言葉だった。だがその一言は私に奴の心情を理解させるのに十分なものであった。

 

「一つ、忠告しておいてやろう」

 

険しい顔に柔らかな笑みを浮かべていた神父は、一転して常の奴らしい他人を馬鹿にするような見下す視線をこちらに向けて、語りかけてくる。ただ、そうして向けられる常の笑みは、あまりにも弱々しく、私は無言を保つことしかできなかった。

 

「魔のモノの意思が完全に殺され、負の感情を収集する力が弱まるだろう今後、おそらく、世は荒れる。また、アンリマユという悪神が召喚されたこの世界、この空間に散ったとはいえ、魔のモノの体に残った悪の概念は、霊脈を伝って、世界に散らばった可能性が高い。すると人の心には悪心が戻り、以前のような争いに満ちた世界になるだろう。喜ぶがいい、エミヤシロウ。そうなれば、世界には、再び貴様のような正義の味方を必要とする時代が到来する事となる」

「なっ……」

 

奴が述べた内容は、私を戸惑い驚愕させるのに十分な重みを持っていた。滑稽にも足踏みし、体を仰け反らせた様を見て、奴は嬉しそうに笑い、しかしすぐさま顔を顰めた。つまらない、とそんな感情を露わにする奴の顔には、寂寞の感情もが浮かび上がっていた。

 

自分の言動に私が動揺し、みっともない姿を見て多少の愉悦の元としたが、胸に到来した感情の成分が思ったよりも自らの心を揺らすことがなく、落胆した、という感じだろうか。それだけではあの寂の表情の説明はつかないのだけれども、ともあれ。

 

「貴様、それを知りながら、なぜ諦めた。貴様のそれが真実であるというのならば、いつの日か、世に再びアンリマユや魔のモノが降臨する可能性があるということだろう」

「それは私の知る彼とアンリマユではない。彼らは先程貴様らに殺されたのだ。どれだけガワを整えて再び召喚しようが、それは地続きでない。その時点でよく似ているだけの他人に過ぎない。―――そんなこと、元は英霊であった貴様が、最もよく知っていることだろう」

「―――」

 

つまりは何か。この男は、そんな、人間らしい感傷ために、目の前にいる憎き不倶戴天の私との戦いを止め、命を放棄したと言うのか。

 

「魔のモノという理解者を得て、アンリマユの誕生を祝福することができた。できればその後彼らの交わりから何が生まれるかを見たかったが、もはやそれは叶いそうにない。それにもう、私を、私のまま必要とする者がいなくなったのだ。生のままの私の本質を知り、それでも誰かに必要とされる。否定のない完全な許容。これほどの悦楽を知ってしまった今、この醜い世界において、それ以上のものはもはや手に入るまい。最高を知った今、残る人生などすべて灰色の世界に過ぎない。だから、もう、未練はない」

 

虚言と真実を誤魔化す奴の口から零れ落ちた言葉は、驚くほど虚飾がない。長き奇妙な旅路の果てに、ようやく得た伴侶を失った悪の容認者は、なんとも人間らしい感傷に包み込まれ、死を望んでいた。否、奴がかつて信じた神の言葉を借りるなら、言峰綺礼という男もまた、ただ己の心地よき居場所を求めて彷徨う子羊に過ぎなかったのだ。

 

もはや話すべきこともなくなったのだろう奴は、ただ悠然と死の訪れがやってくるのを待っている。荒野にて全身を剣にて貫かれ、故に倒れることすら出来ず磔にされている奴は、まるで十字架を背負った殉教者のようにも見えた。

 

何もせずとも奴は近いうちに死ぬ。だが、仮にも魔のモノという相手と繋がりあった体は、放置しておくと、再び奴をこの世に引き戻しかねない。それは私として望まぬことであり、そして、もはやこの世に未練のなくなったやつにとっても望ましいことでないだろう。

 

「介錯をしてやる」

 

述べて私はやつにとって親しみ深いだろう剣を取り出した。取り出した折には柄しか存在しなかったそれは、魔力を込めるとうっすらとした刀身を生み、十字架を模した剣となる。「黒鍵」と呼ばれるそれは、人間以外の摂理を持つ相手の体に叩き込むことで、自然法則に則った元の肉体に洗礼し直す効果を持った、「摂理の鍵」だ。

 

「それが真に効力を発揮するのは、信仰心ある洗礼を受けた信徒が化け物相手に振るった時のみ。貴様のような信心とは対極にある男が振るったところで、なんの効果も発揮せぬだろうよ―――つまりは、余計なお世話だ」

 

自らにとって馴染み深い剣を持ち出された奴は、しっかりと私の思い遣りを笑いつけると、しかし、言葉とは裏腹に、動かぬ体を無理やり稼働させて、自らの胸を前に差し出した。

 

魔のモノと別れ、人として死ぬ。それはおそらく、奴なりの魔のモノという理解者に対する別離の思いと人としての矜持が齎した選択であった。生き汚なさとは程遠い態度は、私に奴の真意を汲み取らせて、私は手に持った刃を振り上げる。

 

「そうか―――ならば望み通りに」

 

剣を奴の体に振り下ろすと、するり、と驚くほど抵抗なく吸い込まれた。それは投影した剣自体が持つ信心深き信徒に対する憐れみだったのだろう、あるべきところへと収まった十字架は、奴の言った言葉とは裏腹に、すぐさま効力を発揮して、奴の体に全体に光の亀裂を走らせる。

 

―――We therefore commit his body to the ground.earth to earth,ashes to ashes,dust to dust./今こそその屍を地に委ね、人を地に返そう。土は土に。灰は灰に。塵は塵に。

 

「―――Amen」

 

魔のものとの繋がりを断たれた言峰綺礼は最後に一言、祈りの言葉を述べると、摂理の鍵により人へと戻った奴は、灰となって散ってゆく。突き刺さった剣が落ちた場所に積もった奴の灰は、土と交わることなく、風に消えず、その場に白い山を作った。

 

やがて固有結界を解除した際、灰は土に還り、塵は天へと登るだろう。奴が行く先に永遠の安息があるなどとは到底思えないが、行先は少なくとも、奴が醜いと断ずる此処や我々が今生きる世界よりは、奴にとって落ち着く世界に違いない。

 

 

「アーチャー! 」

「凛か」

 

真っ先に近寄ってきた彼女の名を呼ぶと、凛はすぐそばにある小山を少しばかり悲しそうに一瞥すると、かぶりを振って私の方を向いた。

 

「―――決着、キチンとつけられたのね? 」

「ああ。まぁ、奴の勝ち逃げのようなところもあったがな」

「そう。綺礼らしいわね」

「たしかに」

 

苦笑し合っていると、ドタドタと近寄る足音が空気を切り裂いた。

 

「そっちもやったのか、エミヤ! 」

「これで一件落着というわけか」

 

サガとダリは互いの顔を見合わせると、破顔して手を叩き合う。続けて差し出された二つそれぞれの手を礼儀として叩いてやると、彼らの喜び具合を表すかのように乾いた大きな音が固有結界内に響く。そこでようやく、全てが終わったのだ、という実感が湧いてきて、肩から力が抜けて行くのを感じた。

 

ダリとサガの二人は、セイバーへと礼を言い、ピエールを抱きかかえ、響を巻き込み、互いの健闘を称えあっている。魔のモノとアンリマユの融合体という、途方も無い敵との戦いが、終わってみれば被害ゼロであった結末というのは、出来過ぎているといえば出来過ぎているが、たまにはこう言った終わりも良いだろうと思う。

 

上を向くと、重く深いため息が自然と口から漏れ出た。背負いこんでいたものすべてが固有結界の中の空気に吐き出され、しかしこれでは心に溜め込んだままではないかと、他愛もない考えがうかぶ。

 

「―――お喜びのところ悪いが、そろそろこの結界を解除しても大丈夫だろうか? 」

 

水を差すと、一同は今、自分たちが何処であるかを思い出したのだろう、それぞれに頷いた。

 

「ではお言葉に甘えて」

 

全員の納得を得られた私は、早速結界の解除を試み―――

 

「―――って、ちょっと待って、アーチャー! 貴方、ここが何処か忘れたの!?」

「―――あ」

 

凜によって不注意を指摘された直後、結界が解除され、元々の世界に戻った我らは、魔のモノという巨大な地面を完全に失って、眼下に広がるマグマの直上に投げ出された。空気に存在する微かな微粒子ではもちろん我らが重力に引き寄せられて落ちるのを阻害することはできず、我々は揃ってのフリーフォールを開始する。ちなみに言峰綺礼だった灰はすでに風に煽られ、拡散の真っ最中だ。

 

「うそだろ!?」

「つ、掴めるものは―――」

「いやぁ、こんな間抜けな理由での死に様は予想できていませんでしたねぇ……」

「落ち着いて言ってる場合ですか!?」

「しまったな……、凛のうっかりが移ったか」

「何ですって!? 元はと言えば忠告したのにアンタが勝手に消すから―――」

「リン! 言ってる場合ではありません! 今はこの状況をなんとかしないと! 」

 

悲鳴に抵抗、呑気に怒号、冷静に金切り声に指摘。さまざまな声が入り混じりながら、一秒ごとに高度は下がってゆく。多少失念していたが、まぁ、私の投影で適当に鎖と台を設置すれば問題あるまい。

 

「トレース―――」

「あなた達は何やっているのかしら?」

 

オン、と呪文をいいかけた直前、体が空中に固定される。落下の最中唐突起こった停止によって、それまでに生じていた衝撃が体に加わった。思わず呻き声が出そうになるのを、なんとか堪えてやると、我々の眼前にこの現象を引き起こした主人が姿を表した。

 

「アーチャー、貴方、この中では最も判断に富むと思っていたけれど、思ったより考えなしの馬鹿なのね」

「返す言葉もない。いや、助かったよ、キャスター」

「ま、忠告を素直に受け取って礼を言うところだけは、美徳といったところかしら」

「キャ、キャスター! なぜ私だけ―――」

 

呆れ顔の彼女と言葉を交わすと、セイバーただ一人が彼女の魔術の恩恵を受けれずに未だに落下を続けていた。キャスターは、「あ」、と声を漏らすと、憎々しげに言い放つ。

 

「これだから魔力耐性が高い奴は嫌いなのよねぇ……」

「ああ、君の魔術を行動阻害と判断して彼女の対魔力の特性がかき消してしまったのか」

「いってる場合ですかぁぁぁ―――、早くなんとかしてくださいぃぃぃぃ―――」

 

声は凄まじい勢いで小さくなってゆく。とはいっても魔力を用いての救助手段を持たないキャスターに出来る事はなく、彼女は困った様子で己の顔に手を当てて、首をひねった。私は慌てて鎖のついた杭剣を投影すると、眼下めがけて投擲した。

 

「そら、これに掴まれ!」

「―――アーチャー、感謝します! 」

 

思い切り力を込めての投擲は、すぐさま彼女の落下速度を上回る。そして横までやってきた鎖を掴むと、彼女は何があろうと離すまいと言わんばかりに、片手で力強く鎖を握りしめた。直後。

 

「―――ぬおっ」

 

肩が引っこ抜けるかと言う衝撃。鎧を纏い、剣を握った筋肉質の彼女は、その小柄な外見とは裏腹に思いのほかの重量があって、私は思わず呻き声を上げた。

 

「た、助かった……」

「……それは、……よかった。……ところでキャスター。……物は相談なんだが、……早く私たちを岸まで運んで貰えないだろうか……」

「……ぷっ」

 

懇願に、あははははは、と、キャスターは体にゆったりと纏ったローブを大きく揺らしながら、高らかに笑い声をあげる。よほどツボにはまったのか、腹を抱えて大きく身を揺らしながら笑う彼女は、しかし緩やかに宙に浮いた私たちを移動させくれる。

 

余計なことに気を取られながらもきちんとした魔術操作が行えるあたり、やはり彼女は一流の魔術師なのだ。そして。

 

「お、おい、もう地面の上だぞ」

「随分と高いところまできましたねぇ」

 

マグマの広がる光景ではなくなったにもかかわらず、我々は彼女の魔術から解放して貰えていなかった。唯一、私の鎖に捕まっていたセイバーだけは、地上に降り立って、キャスターと、彼女に運ばれる我々を目線で追いながら、ゆっくり歩きながらと追いかけてくる。

 

「笑わせてもらったお礼よ。このままこの辛気臭い場所から運び出してあげるわ」

 

 

瓦礫の山の上をふわふわと浮遊しながら、瓦解した円蔵山の麓まで運ばれた私は、基本的に他人への興味を持たない彼女にしては珍しく丁寧な扱いで、地面へと置かれる。着地と同時に辺りを見渡すと、見通しの良くなったその場所からは、我々が洞穴へと突入する以前の戦闘により崩壊していた冬木の街が、より一層ボロボロになっている光景が目に映る。

 

魔のモノは地上に残った彼らの手でほとんど駆逐されたようだった。そこかしこ細長く地面が削れているのは、おそらくランサーの仕業だろう。クレーターのような穴が連続して空いているのはバーサーカー。整った切り口の塀や家屋はアサシンの所業で、かけらも優雅さなく散らばっている破壊痕は、おそらくキャスターの魔術によるものなのだろう。

 

「―――よくもまぁ。こうも暴れ尽くしたものだ」

「あら、貴方達がいなくなった後、姿を無数の獣に変えて襲いかかってくる魔のモノを残さず悉く殲滅して上げたのよ? 礼を言われる事はあっても、責められるいわれはないわ」

 

キャスターは上機嫌に胸を張る。

 

「まぁ、そうかも知れんが加減というものがあるだろう」

「その加減の余裕を考える暇がないほど暴れた奴らなんだから、文句は奴らに言いなさいな。あとはそれに触発されて暴れまわった男馬鹿三人。互いに刺激しあって暴走するものだから、余計に被害が大きくなったのよ。全く嫌になるわ」

「―――ところで、その馬鹿三人とほかのメンツはどこへいったのかしら? 」

 

凛の質問にキャスターは億劫な様子で彼女の方を見ると、それでも律儀に腕を動かして、街のあちらこちらを指差した。

 

「ランサーは橋の向こう。余さず掃討してくると言って、走って言ったわ。アサシンは―――、多分この街のどこかにいるんじゃないかしら。バーサーカーは暴れるだけ暴れまわった後、森の方へ消えて言ったわ。ライダーは……、ほらあそこ」

 

そしてその細い指の指し示す先を見ると、冬木の街の南側、大きなボロ家の屋根の上に立っているライダーの姿を見つけた。周りがボロボロの倒壊している家屋ばかりであるのにたいして、その家だけは原型を留めていた。間違いない。あれは。

 

「桜の家―――」

「……そうだな」

 

それで十分だった。後の全ては、瑣末な出来事に過ぎない。多分ライダーはマスターの住処を守りたいがために、我々に協力して戦ってくれたのだ。ふむ、そう考えると、存外あのいけすかない小悪党の小僧も好かれていたものだ。

 

「満足したかしら? 」

「ああ。―――それで、君たちはこれからどうするんだ」

 

問いかけると、キャスターは無言のまま今来た円蔵山への道へと緩やかに足を踏み出した。その歩みの行方を追っていると、やがて彼女は瓦礫の道の上に思い人の姿を見つけ、軽やかにかけだして、その胸の中に飛び込んだ。

 

女に飛びつかれた男は、無表情ながらも彼女をしっかりと抱きとめる。彼女は男の胸の中で満足そうに息を漏らすと、そのまま振り向きもせずに言い放った。

 

「好きにさせてもらうわ。―――どうせ後少しの命ですもの」

「それは―――」

 

どういうことか、と問いかけるよりも前に、彼らの輪郭が薄らいだ。彼らから存在感というものが抜け落ちてゆき、やがては向こう側の景色すら見通せる程になってゆく。希釈されていく彼女らの存在に驚いて同様の存在であるセイバーを見ると、彼女もバツが悪そうな表情をうかべ、静かに微笑みながら、その輪郭がぼやけつつあった。

 

「貴方が聖杯に臨んだのは、その時目の前にあった障害を打ち倒す力。なら、その障害を倒した今、必要なくなった力が消えてさるのは道理というものでしょう?」

 

キャスターの声が響く。消滅しつつある体とは裏腹に、その声だけは不思議とよく通り、私と仲間達に真実を伝えた。彼らが消える―――、私が呼び出した彼らが―――、……っ。

 

「凛!?」

「ちょ、ちょっと、何よ!」

 

嫌な予感に慌てて彼女の方を見ると、私が聖杯にて呼び出したにもかかわらず、目の前の彼女だけは、依然としてかわらずその場所で確かな存在感を携えていた。

 

「―――、君は、平気なのか?」

「ああ、もう驚いた……。ええ、そうよ。私は彼らと違って、依り代と触媒を元に呼び出されたからでしょうね」

「―――そうか」

 

よかった、と、安堵にため息をつくと、彼女はニンマリと笑って、意地悪い笑みをうかべながら、こちらの体をつついてくる。

 

「あら、なによ、そんなに心配してくれた? 」

「勿論だ、凛。君にまでいなくなられると、さすがに悲しい」

「―――そう」

 

素直に心境を述べると、彼女は一転、呆気にとられた様子の顔を浮かべると、私に背を向ける。肩は震え、耳まで赤くなっている。

 

「なによ、素直に返されると照れるじゃない……、あいつみたいなこといっちゃって……」

 

どうやら私は、彼女からすれば思いもがけない返しにより、彼女をやりこめたようだった。とは言っても、おそらく彼女がそうして恥じらいの様子を見せたのは、私にではなく、私の後ろに、かつて彼女が愛した夫の姿を幻視したからなのだろうとも思う。

 

「はいはい、惚気は後にしなさい。それよりも今は―――」

 

キャスターは流れる空気に耐えられなくなったのか、男の胸から顔を出してこちらを振り向いて、天井を指差した。指先の行方を追うと、天井が緩やかに蠕動し、パラパラと崩落を始めているのが目に映った。

 

「ここからの脱出を考えたほうがいいわよ。魔のモノとの戦いや、霊脈近くで大きな衝撃を与え続けたことで、地脈の動きが活性化してるわ。サービスで多少は持たせてあげるけど、私が消えて魔術の効果が切れたら、あの天井の土砂が街を全て押しつぶすでしょうね」

「そんな! でも、だって、どうやって脱出すればいいんですか!? 」

 

キャスターの言葉に、空を見上げていた響が悲鳴をあげた。悲鳴の理由は、私にも理解ができた。目線の先、天井よりすぐ下を見ると、私たちが下へ降りるのに使った鎖はすでに無く、魔物達がかけ上がろうとしていた天井に続いていた階段もすでに存在しなかったからだ。脱出しろと言われても、これではどうやって地上に逃げればいいのかわからない。

 

「知らないわよ、そんなこと。そこまで面倒見きれないわ―――、でも」

 

質問を冷たく切り捨てた彼女は、凛の顔見て述べる。

 

「そこの彼女なら手段を知っているんじゃないかしら? そんな顔をしているわ」

「え―――?」

「まぁ……、ね」

 

響に希望の篭った視線を向けられた凛は、口籠もりながらも頷くと、橋を渡った向こう側、新都の小高い丘の上を指差して言ってのける。

 

「私たちはかつて、あの場所に眠っていた。私とアーチャーは、あの場所にある転移装置によって、地上へとやってきたのよ」

「転移装置! 」

「そうか! そういえば、言峰という男が私たちに取引を持ちかけてきた時、たしかに教会の転移装置を使って戻れと言っていた!」

「なら、あの場所まで行けば私たちも助かるということか! 」

「では、善は急げです。さっさと移動するとしますか」

 

希望が見えたことにより沸き立つ彼ら。そして。

 

「じゃあ、お別れね、セイバー」

「ええ。残念ですが、そういうことになります」

「セイバー、キャスター、葛木。なんと言っていいのか……、君たちにはほんとうに助けられた。ありがとう。感謝の言葉がそれ以上に見当たらない」

「気にすることはない、アーチャー。あなたはこの度、間違いなく正しいことのために戦い抜いたのだ。ならばそのために手助け出来た事は、私にとっても誇らしい出来事です」

「いいわ。私だって宗一郎様ともう一度こうしてお会いすることができたんですもの。―――本音を言えば、裏切った貴方をどう縊り殺してやろうかと考えもしたけど、ま、今回に限っては、そのことで等価交換―――チャラにしてあげる。寛大な心に感謝しなさい」

「アーチャー。貴様が聖杯戦争においてやった事は間違いなく裏切り行為であり忌むべき行為だが、元はと言えば我らも褒められるような行為をしていたわけではなかったからな。こうして連れ合いと再会できた事と合わせて、相殺としておくとしよう」

「ふっ……そうか」

 

それぞれのらしい答えに鼻で笑って返すと、各々は柔らかな雰囲気を纏う。そしてキャスターと葛木は柳洞寺のあった方角へと消えて言った。最後は二人きり、邪魔されずにかつての拠点があった思い出の場所で、という事だろう。それに口出しするほど、私は野暮ではない。

 

残る一人の英霊―――セイバーに声をかけると、武装を解いた彼女はニコリと笑って黄金の剣を差し出した。

 

「それではこれをお返しします、アーチャー。これは貴方の剣だ」

「―――いや、それは君の記憶なしには再現できなかったものだ。真作ではないかも故に君にとっては見劣りするかもしれないが―――、きっと、私が持つよりも君が持つに相応しいと思う。出来れば君に受け取ってほしい」

「―――そうですか。ではありがたく」

 

彼女はそれを握ると、柄をもち地面へと突き立てた。そうして正面向いて凛々しく屹立する剣を構えた彼女は、まさにセイバーの名にふさわしい、堂々とした威厳を持っていた。ああ、やはりこの剣は彼女の元にあってこそ、真の輝きを発揮するのだと思える光景に、自らの選択は決して間違いなかったのだと確信する。

 

「では、さらばだ、セイバー」

「ええ、アーチャー。どうか息災で。リンもどうかお元気で」

「ま、私なりにね。じゃ、さよなら、セイバー」

 

セイバーの声を遮って、凛は笑って振り向いた。下手に別れを惜しむは優雅でないという事だろうか? かつての相棒との別れにしては、至極あっさりすぎて素っ気ない気もしたが、セイバーが何かを察したかのような顔をしたのを見て、とりあえず納得する事とした。おそらく私にはわからない、彼女ら同士で通じるものがあったのだろう。

 

 

「おい、本格的にやばくなってきたぞ!」

「言われなくても分かっている! 文句を言う暇があったら、足を前に踏み出せ! 」

「最後の最後まで締まりませんねぇ……」

「あと少し、あと少し……!」

 

深山の街を駆け下りて、橋を渡りきった私たちは、破壊の痕跡が凄まじく残る新都の街中を疾走していた。途中で限界を迎えた凛を胸に抱えながら冬木の街を駆け抜けると、遠い昔に忘れ去った出来事がいちいち記憶の扉を刺激して、郷愁に似た気分を抱く。

 

かつて英霊となった私が覚えていた記憶は、切嗣との出会いや、別れ、セイバーとの契約の場面といった印象に残っていたもののみなので、おそらくこの記憶と思いは、私に体を提供した衛宮士郎と言う男の持っていたものなのだろう。

 

埋め込まれた人の記憶に感傷を抱くという不思議な経験を、しかし不快に思わないまま、街中をかけていた私は、やがて丘を登りきった先に、見覚えのある建物を見つける。

 

「あった! これが……」

「教会、であっているんだよな?」

「ああそうだ。冬木の教会。奴の言う事に間違いが何のであれば、この隠し部屋に―――」

「ええ、間違いなく、装置はあるわよ」

 

腕の中に収まっていた凛は、よろよろと立ち上がると、すぐさましゃんと背筋を伸ばして、我々一同の先頭に立ち、言ってのけた。

 

「ついてらっしゃい。案内してあげるわ」

 

 

「――――――」

「あ、驚いた? すごいわよね、これ」

 

そして隠し部屋に一歩踏み入れた途端、現れた光景に驚いた。まず目に入ったのは、剥き出しになった石壁に囲まれた地下の狭い空間に所狭しと並ぶ機材類だ。それらの外観は整備した直後であるような清潔さを保っており、搬入した直後の、ゴムと金属の匂い入り混じった独特の匂いまでが保たれている。

 

そんな機械、機材を動かすためだろう、天井、地面、四方には、壁一面を覆う程のコード、ケーブル類が取り付けられ、部屋奥にある発電機らしきものへ繋がっている。もちろんこれにも経年劣化による綻びや撓みなどがなく、新品同様だ。

 

中央に設置された、レールの上に乗せられたベッドの上には、多少乱雑に包まったシーツが放置されているが、広げてみればまるで店に展示してあるものであるかのように真っ白で、やはりとても百、千以上もの年月が経過したとは信じられない。

 

「ちょっと。見惚れるのも良いけど、時間がないんだから早くして頂戴!」

「あ、ご、ごめんなさい」

「まるでシンジュクの地下の施設のようだ……」

「おい、ダリ、さっさと行くぞ」

「うーん、じっくりと見て回れないのが名残惜しい……」

 

私と同じく光景に目を奪われていた彼らは、凛の叱責に部屋を見回しながら奥へと進む。ベッドの下から伸びたレールを追うようにして部屋の奥へ進むと、彼女は部屋の最奥に設置されていた大きめの円柱型のケースを指差して言う

 

「さ、これに入って頂戴」

 

それは強化ガラスと特殊合金を組み合わせて作り上げられたケースに、なんらかの魔術防護を施した装置だった。彼女が入れと言うからには、これが件の転移装置という奴なのだろう。ケースのすぐそばにはキーボードとコンソールが備え付けられており、いかにもそれを利用してこの装置を起動するのだろうことがわかる。

 

我々はさっさと、あるいはおずおずとケースの内側へと足を踏み入れる。中から見ると、まるでこれから実験の憂い目に合わされる動物の気持ちが分かる気がした。処理を行い、ホルマリンでも流し込まれれば、見事な人間標本が出来上がるだろう。

 

「うぉ、でけぇ揺れ!」

「そろそろ限界なんでしょうねぇ」

 

他愛もないことを考えていると、天井がゆれて、石壁の上からパラパラと土ぼこりが落ちてきた。埃は地面やケースの外側の表面に触れると、瞬時に姿を消して、表面や地面から消え失せる。いかなる理屈によるかは知らないが、この場所はこうして清潔が保たれているのだ。

 

「やっば、急がなきゃ」

 

天井の崩落を感じ取ったのか、凛は焦りながら、しかし、慎重にコンソールのパネルを弄っている。おっかなびっくり、というのが最も適切に彼女の状態を表しているだろう。やがて警告音とアラームが鳴り響いたと思うと、機械的な合成音声がケースの開閉を怪我の忠告ともに発声し、ケースの扉が静かな音と共に閉じて、ロックのかかる音がする―――ん?

 

―――ロックの音?

 

「凛?」

「何よ。今操作に集中してるんだから、話しかけないで頂戴。下手に集中切らすとえらいことになるわよ……、ったく、綺礼のやつ、マニュアルに切り替えた上で説明書を処分するなんて、ほんっと、腹たつことしてくれるわね。えーっと……」

「ああ……それはありがたいのだが―――、凛、扉の鍵が閉まってしまったこれでは君が乗り込めない。一回解除の操作をしてから、続きを―――」

「ああ、良いのよ、それで。これ、オート設定解除されちゃったから、このコンソールで範囲と場所をマニュアル指定して、外部から操作実行を操作してやらないと動かないのよ」

「―――は?」

「マニュアルで動かすのを覚えるのも精一杯だったから、オート設定の仕方なんて覚えてないし、仕方ないでしょ。まったく綺礼も余計なことしてくれるわよねー」

 

軽々と告げられた言葉の意味を咀嚼するのには、多少の時間を必要とした。外からしか動かない? マニュアル操作の場合は外部から操作する人間が必要? ―――それはつまり。

 

「凛。ここを開けろ」

「うるさいわねー、あと少しなんだから、狭くてもちょっとは我慢しなさいよ」

 

努めて冷静に静かさを保った声で告げるが、彼女はなんて事もないようにパネルの操作を続けている。機械に取り付けられたキーボードを人差し指で一個ずつ操作する挙動は、いかにもいつもと変わらない彼女の様だった。切羽詰まった状況で、平然とそんな動作を見せつける彼女の態度に酷くイラついて、透明なケースの扉を強く叩きつける。

 

「凛! ふざけている場合か! この扉を開けろと言っている!」

 

―――your attention,please.please,do not rampage.

 

数度強く叩くと、警告の言葉が鳴り響く。冷静になれと警告してくる機械音声が、彼女を見捨てるのが正しい判断だと冷酷に告げているようで、余計に腹が立ってさらに力を込めてケースを叩きつけ続ける。

 

「凛! 凛! 開けろ! 凛!」

「やめなさい、アーチャー! ……転移装置が壊れるわ。そしたら貴方はおろか、貴方の横にいる彼らも帰れなくなる」

「――――――っ!」

 

気が狂ったかのように彼女の名を呼びケースを何度も叩きつけていると、彼女の冷静な指摘が耳朶を打ち、やけに脳裏に大きく響いた。振り上げた拳のおろしどころを求めて腕を彷徨わせていると、傍目に怯えている仲間たちの様子が冷や水となり、灼熱を保っていた頭から多少なりと興奮の熱を奪ってゆく。

 

外から凛がコンソールを不規則に叩く音だけが静かに聞こえてくる。慣れない手つきのこの音が止む頃には、もはや手遅れになるのだろうが、怒鳴りつけたところで彼女は決してこの扉を開けはしないはずだ。だから冷静に。対話に必要なのは、怒りでなく、冷静さだ。

 

「―――凛、わかった。……だから、まずは、この扉を、開けてくれ」

「えっと……あ、わかった。これで、場所の設定も完了っと」

「凛! 」

 

硬く心に決めた思いは一瞬で瓦解した。あっという間に再加熱を果たされた脳内は、彼女を多少強引な手段でも彼女を説得しろと伝えてくる。感情は発露の場を求めて両腕へと伝わり、そのまま左右の手をケースめがけて叩きつけさせた。大きく揺れるケースに、再び警告の電子声が繰り返される。

 

「君がそのつもりなら、こちらにも考えがある。固有結界を使用してでも、一旦君の―――」

「あ、これで実行の操作も終わりか。なんだ、案外呆気なかったわね」

 

カチリ、と音がして、ケースの中に魔力が充填する。あまりにも濃密な魔力の質と量は、思わず魔力酔いを起こしてしまうほどのものだった。魔力回路が自動的な反応し、体外に満ちるオドをマナに変換しようと試みて、失った魔力分の補填を開始している。

 

―――これではまともに魔術は使えない

 

使えるならば使いたいが、使った瞬間、自滅する。そうすれば暴走した魔術回路は、周りの彼らを傷つけ、最悪の場合、円柱型のケースの破損さえもあり得るだろう。なんとか首を動かして見渡すと他の四人は魔術回路という魔力に対しての耐性機構がない分、すでに気絶して床に伏し、あるいはケースの壁にもたれかかっていた。

 

周囲に満ちた濃密すぎる魔力量は物理干渉まで起こして、擬似回路のみならず通常の神経にまで作用を及ぼしたのだ。遅れて私の体からも力が抜けて行く。私はなんとか体をうごかして、ケースを叩く。しかしその力はもはや警告音がならないほどに弱々しく、ただ、ケースが軽く撓む音だけが虚しく内部に響き渡った。

 

「凛―――」

「どうよ、アーチャー。以前の時より、機械の扱いがずいぶん上手くなったと思わない? 」

「凛……! 」

「携帯電話だってまともに使えるようになったのよ。……、まぁ、体がボロボロになった士郎の世話をするのに機械の操作を覚えなきゃならなかったからさ。まったく、士郎ったらひどいのよ。自分が機械いじり得意だからって珍しく私の不得意な分野見つけていい気になるんだから。才能ない奴の気持ちを理解してくれないなんてこれだから特化型の天才タイプは……、って、それはある意味、私もおんなじか」

「凛!」

 

遺言じみた独白など聞きたくない。しかし、私の呼びかけなど御構い無しに他愛もないの言葉をつらつらと続ける彼女は、もはやこちらがなんと訴えかけようとこの扉を開けようとはしないだろう。ただそれでも諦めという言葉と仲良くはしようとは思わなかった。せめて名を呼び続ければ、この現実が覆ってくれることを祈って、ただひたすらに彼女の名を呼びかける。

 

「あ、でもいいこともあったのよ? 生まれた子供たちは二人とも優秀。スキルが使えるのはもちろん、魔術回路もきちんと引き継いでくれてた。上の子は私に似てそつなく優秀なのに、下の子はお父さん似の馬鹿で頑固な子でね。結局遠坂の家ごと、受け継いできた魔術刻印も上の子が継いだんだけど、下の子は士郎みたいに世界で困ってる人を助けるんだーって言って、どっかに飛び出していっちゃった。便りの一つでもよこせばいいのに、全くそんな無鉄砲で無神経なところまで親の性格を受け継がなくてもいいのに……、ってこれじゃいいことじゃなくて愚痴か」

 

―――Everything is prepared.Start the count.

 

アラームが鳴り響く。周囲の機械は不気味な稼働音を立てて動き、カウントを開始する直前だ。―――もう手遅れだ。彼女との別れは確定してしまった。絶望が心の中へと押し寄せる。神の存在を呪いたくなった。

 

―――こんな運命が用意されていると知っていたら、始めから別の道を選んでいた

 

そう思ってしまうのは今まで戦った仲間の彼らと、英霊の彼らと、目の前の彼女に対する冒涜だろう。ただ、それでも思ってしまうのは、私が人としての弱さを取り戻したゆえか。手に入れた希望を目の前で取り上げられる事がこれほどまでに辛い。ただ、ただ、胸が痛い。

 

「まぁ、もう何百、何千年も昔のことだからとっくに死んでるんだろうけど、それでもあの子たちはいい子に育ってくれたわ。強くていい子達だったから、きっと私たちの子孫はどこかで生きているはずよ」

 

―――Ten,nine、eight……

 

「凛……」

「噂によると、スキルの登場で居場所を追われた魔術師たちはロンドンじゃなくてアメリカの方へと集結したらしいから、もしかしたら、エトリアから東の……ああ、もう時間か」

 

―――three,two,one,……zero,has completed!

 

カウントが終わりを告げる。無邪気なくらい陽気な電子音声が残酷な運命の結実を告げていた。無力感が体を包み込み、精神を倦怠感が支配する。もう抗えない。彼女を救うことは叶わない。ただそれだけが、悔しかった。もはや一切の身動きを封じられた体は、別離に涙の一粒すら流すことを許可してくれない。

 

「アーチャー」

「……なんだ」

 

もう意識は朦朧だ。機械稼働の音が大きく響き煩いほど脳裏の中へと侵入してくる中、小さな彼女の声はやけに大きく響き渡った。

 

「正義の味方になろうとなるまいとあなたの勝手だけど、……幸せに生きてちょうだいね。最後の約束。私も守ったんだから、あなたも守りなさいな」

 

彼女の言葉は慕情というよりか、母性愛のようなものに満ちていた。戦争にて両親を失い、彼らのいた記憶をも丸ごと失い、養父に育て上げられた私にとっては無縁の感情だったが、その優しさの満ちた声色は、誰もが死にゆく戦場で、幾度となく聞いた事がある。

 

彼女は成長した女性の凛であり、私の知る少女の凛ではない。彼女は過去の記憶と変わらぬ凛ではなく、彼女は過去を抱えて少女から女性、そして妻から母親へと変化の道をたどった凛なのだ。姿形こそ聖杯の力により昔のままだが、年月の経過と環境は、彼女は「遠坂凛」から「衛宮凛」へと変化させていたのだ。

 

しかし同時に、私の知る凜の側面も持っている。優秀で、プライドが高く、才能が有り、そして、甘い。納得のいかないことは根に持つタイプで、受けたことは、恩だろうと、害だろうと、きちんと倍以上にして返さないと気が済まない。

 

おそらく成長し、愛した夫と共に子を育てた彼女は、私のことを過去のパートナーというより、夫や子供と同一視し、手のかかる家族と思うような心境となっていた。そして同時に、聖杯戦争において私から受けた恩があると感じており、それを返さないといけないとも思っていた。

 

その二つの思いが混じった結果がこれだ。彼女が自己犠牲を厭わなかったのは、過去に自らの家族であり、恩人を見殺しにしたと同等の咎を感じたがゆえの、献身と慈愛なのだ。

 

おそらくそれは、少女のころの彼女であるなら、心の贅肉として切り捨てていただろう甘さを、彼女は衛宮士郎という伴侶や、その子供たちと過ごすことで、彼女が変化した結果なのだろう。人は過去を抱え、変わり、成長する。長い英霊としての旅路の果て、そんな当たり前の事も忘れてしまっていた。

 

―――だからといって、今度は君が私の心に癒えぬ傷を残して逝くのか

 

もう少し上の世界で記憶を失った彼女と長く接し、彼女の変化に気づいていたのならば―――、あるいはこの結末を避ける事が出来たのかもしれない。押し寄せる後悔を必死に噛み砕いて、言葉を絞り出す。このような結末になってしまったが、せめて別れの挨拶くらいはまともに交わして終わりにしたい。

 

目も霞むところ、最後の力を振りしぼって、喉元と舌を動かす。必死の思いは最後に流暢な別れの言葉を出すことに協力してくれた。以前と同じようなシチュエーションでの別れは、しかし今回、まるで真逆の立場。

 

ああ、世界に取り残される人間というのは、こんなにもつらい思いを抱えるというのか。あの時私は、これほどまでの痛みを彼女の心の中に刻んでしまったというのか。

 

「―――了解した。大丈夫だよ、凛。ありがとう。―――そして、さよならだ」

「ええ、―――さよなら、アーチャー。―――私、また貴方と会えて、幸せだったわ」

 

―――haveagood life,good bye.

 

皮肉な機械音声が響く。無味乾燥な声に包まれて私はついに意識を失う。遠い昔に味わったことのある、地面に這う体が感じる石畳の冷たい感触が、私の冬木最後の記憶となった。

 

 

初めに光。次に熱。風、草と土の感覚と続いて、最後に匂いが、体の覚醒を促した。瞼に入り込む光を鬱陶しいと感じて手を用いて盾とするも、それでも遮断しきれない陽の光が両手の隙間より眼球に飛び込んで、私はゆっくりと瞼を開けた。

 

ぼやけた視界に映る緑。微かに口を動かすと口の中に違和感。口内を刺激する不快感に、砂利をその辺に吐き捨てると、両腕を支えにして上半身を起き上がらせる。地面を見ると、乾いた地面の一部分が濡れていた。頬を撫でると、湿っている。眠っている間に落涙していたようだ。

 

寝惚けた頭で立ち上がる。急激な運動により立ちくらみがした。たたらを踏んだ体が倒れないよう、足腰に喝を入れてその場に踏ん張る。歯をくいしばると、刺激が多少脳の活性化を促してくれた。

 

遠く山の稜線では太陽が姿を現しつつある。まだ半身だけながらも、光はたしかにあたりを照らしつつあった。山の端より広がる森林は、陽の光を浴びて山滴り、鬱蒼と茂った樹木の木下闇から伸びる夏草が、身を躍らせながら私の足元まで伸びてきている。

 

遠くに視線をやれば、エトリアの街が目に映る。それは見覚えのある光景だった。当然だ。だってそれは、私がこの世界に始めて足を踏み入れた時、目の前に広がった光景なのだから。

 

地上。かつての場所からはるか上空、多くの山々を追い越す高さとなった地上に、私は帰ってきたのだ。青嵐が程よい湿度の空気を攪拌して、草原を駆け抜けてゆく。風の刺激が決定的なものとなり、私を夢心地から現実世界へと引き戻した。余韻の覚めた頭がつい先ほど起こった現実の出来事を思い出してゆく。

 

―――凛

 

名を呼んだ途端、胸を突き刺す鋭い痛みが走った。どれほど肉体が傷つこうがそれに匹敵する痛みを得ることはできないだろう。なぜならそれは、もはや存在しなくなったモノを悼んだ際に生じる痛みだからだ。もはやこの世に存在しないものに想いを馳せた際に起こる痛み。あって当然ものがそこにないという痛み。幻肢痛。

 

歯車の一つが欠けてしまった感覚。決定的な欠損。しかしそれは彼女が望んでの結末だった。たしかにあの時それ以外に、我々が助かる方法はなかったのだろう。彼女は強かった。強く、美しく、そして、どこまでも「凛」としていた。

 

あの時彼女が泣き言の一つでも言ってくれれば、迷わず地獄へ付き合っただろう。装置の前で迷い顔の一つでも見せてくれれば、彼女の考えを読み、彼女の役目を奪えたかもしれない。しかし、彼女はきっと、冬木の教会に我々が希望を見出した時には、死の未来を予想して、それを受け入れていた。

 

ああ、それで、セイバーは最後にあんな顔をしたのか。聖杯戦争終結後、凛と契約を交わし、地上に残った彼女だからこそ、セイバーには、凛がなにを考えているのか読むことができて、しかし、アーチャーでり、エミヤシロウでもある私の生存こそが凛の望みであると知っていたからこそ、彼女はなにも言わなかった。

 

あの時気づくべきだったのだ。だが、私は気づけなかった。そう、その時点で、きっと、私と彼女の時は決別の運命にあったのだ。あの時、そのことに気が付けなかった時点で、私が幸せな過去の代名詞たる彼女と共に歩むことのできる時間は終わっていたのだ。

 

過去を抱えても良いが、過去に足を引きずられるような事態に陥ってはならない。過去を受け入れ、抱え、そして、いつか乗り越える。そしてその記憶を持って、いつか彼女の元へと旅立とう。土産話を胸に、多くの楽しいことをして、あの時死の運命を選んだ彼女を、たくさん羨ましがらせてやろう。

 

きっとそれが、最期の時まで私のことを心配して最後に笑って逝った遠坂凛という女性に対して、私が出来る恩返しであり、彼女がその身をもってして私に示してくれた、人生を幸せに生きる方法なのだから。

 

 

エピローグ

 

 

街に戻ると、我々は入り口にて手緩い歓迎を受けた後、当然のごとく拘束された。以前と同じ様に白い部屋に閉じ込められた後、やってきたクーマに事の顛末を話すと、暫くの間同じ部屋に軟禁されたのち、事実確認が取れたと戻ってきて、我々は晴れて無罪放免となった。

 

すべての装備と道具を返却され、ギルドハウスに戻ってきた我々は、一旦その場での解散し、後ほど今後の方針について話し合うこととなった。

 

私はその足で、寝ぐらであるイン―――凛の宿屋へと戻った。

 

「ただいま」

 

すっかり習慣になった言葉が口からこぼれ落ちたが、主人を失ったばかりの家屋は、彼女の死を悼んで喪に服しているかのごとく静けさを保つばかりで、返事など返してくれなかった。

 

階段を登り、私の借りている部屋へと進む。扉を開けると、埃一つないよう綺麗に清掃された床と机、皺一つない白いシーツのベッドと、磨き上げられたガラス窓が借主を迎え入れてくれる。脇に配置された机の上には、ノリの効いたシャツとパンツが畳んで置かれていた。最後の最後まで、彼女は自らの役目を果たして逝ったのだ。

 

静かに扉を閉めて階下へと足を運び、風呂場へと向かう。途中、受付から勝手に二種類のタオルを拝借すると、脱衣所にて、風呂に水を張る手段を持たない事に気がつく。そういえば、いつもは彼女がスキルを用いて水貼りと湯沸かしを行ってくれていたのだった。

 

汗と垢を流すのを諦め、タオルをそのまま適当な場所へと置くと、食堂へ向かう。暖簾をくぐり、部屋へ足を踏み入れると、半分ほど飲みかけの紅茶が残るティーカップに加え、カバーを被ったティーポットが机の上に放置されていた。おそらく彼女の飲みかけだろう。カバーをとってポットの中身を確認すると、まだ半分以上も残っている。

 

埃の浮いたカップの紅茶を口に含むと、日を跨いですっかり味は落ち、匂いも飛んでいるが、それにしても渋みの少ない、程よい味わいのものであることが理解できた。

 

おそらくゴールデンルールに従って、キチンといれられたダージリン。雑味が少ないところから、茶葉の大きさはオレンジペコー。淡白な味わいはファーストフラッシュのものであるが故だろう。

 

はしたなくも故人の飲みかけを味わっていると、机の端に布がかぶせてあるトレイを見つけた。邪魔な布を取っ払うと、出てきたのは鍋と湯捨てと一客の見覚えあるティーカップと茶菓子。それが何を意味するのかを悟って、緩くなった涙腺は故人を偲んで一雫だけの水滴を床に落とした。

 

込み上げるものを噛み締めて、台所へ。いつもは整頓されているそこは、珍しく物に溢れていた。いくつものボウルや箱が水に満ちたタライの中に突っ込まれ、水面には油脂の汚れなどが浮いている。

 

冷蔵庫開けて見ると、中の氷はすっかり溶けていた。おそらく料理にすべて使ったが故だろう、中身が空っぽだったことが、唯一の救いか。少し寂寥感がわく。

 

目線を食器棚に移すと、一番奥に、風呂敷に包まれたモノを発見した。遠慮なく開くと、中は予想通り、以前見かけたあの重箱が収納されていた。見ていると、彼女と共に中の料理を取り分けたあの日を思い出す。再び胸を刺す痛み。

 

視界に収まっている限り続くだろう痛みを嫌って、元の通り重箱を風呂敷で包み込み、あるべき場所へと置く。そのまま台所から抜け出すと、食堂、廊下、受付を通り過ぎて、逃げる様にして街中へ。

 

街に出ると、朝方の残暑が嘘の様に、新涼が私を出迎える。暦を見ればおそらく、季節はもう立秋に至っているのだろう。爽やかな風が、彼女の残滓を払拭しきれず想いを溜め込み火照りつつあった体から、熱を奪って街中を通り抜けてゆく。

 

この涼しさならばもはや街の影を歩く必要もあるまい。そう判断して、表通りを堂々と歩く。軒先に店を構える食料品店に並ぶ品物は、どれも一度は味わったことのあるものばかりだった。毎日の食事を飽きない様にと彼女が気を配っていてくれたことがよくわかる。

 

住宅街と店の並びを過ぎて、坂道を登ると、すぐにベルダの広場へとたどり着く。エトリアで最も高い場所にあるという広場は、山の高い部分から吹き下ろしてくる寒風と涼風が合流して、行き交う人々を揶揄いながら、強く乱雑な暴風となり、広場の中央から空へと抜けてゆく。

 

風に誘われて空を見上げれば、白く重なった雲が小さな鱗の様に連なりあって鰯雲を作り上げていた。エトリアの上空から目線を広げれば、世界は突き抜ける様に青い空が、自由を誇るかの様に広がっている。

 

ついに赤死病の原因を討伐して平和になった街を一望すると、街のあちこちでそれを祝ってのイベントが催されている事に、今更気がついた。人々は賑わい、喜色満面の笑みで往来を行き交い、店に金を落としている。

 

噂が広まった頃には、もっと賑わうだろう。他国からの旅行者も増えるかもしれない。そうなれば、宿も旅行客で繁盛するだろう。さすれば、彼女の宿も―――

 

気がつくと視線を今しがた出て来たばかりの宿に送っている事に気がついて、目線を空へとそらした。何をしていても私の世界はあそこへと集約してしまう。結局は、あそこでの生活が私にとってこの世界の全てだったということか。

 

―――街を出よう

 

私の世界があまりに小さく、見上げた空があまりにも広大なものだから、思わずそんな決心をした。ここには彼女との思い出が多すぎる。この街にあの宿と彼女の残り香がある限り、私の世界は変わらず、過去の幻影と未練に囚われたままだと感じたのだ。そして狭量の人間のまま終わるのでは、いかにも彼女の思いに応えられない気がしたのだ。

 

そこで思う。旅立つと思い立ったはいいが、目的がない。正義の味方になるため、困っている人を求めて風来坊として辺りを転々とするも良いが、それではあまりにやることが漠然とし過ぎている。己を発奮させるためには、具体的な目標が必要だ。そう例えば、誰かの助けとなると言ったような何かが―――

 

―――喜ぶがいい、エミヤシロウ。世界は再び貴様のような正義の味方を必要とする時代が到来する事となる

 

―――きっと私たちの子孫はどこかで生きているはずよ。噂によると、スキルの登場で居場所を追われた魔術師たちはアメリカの方へと移動したらしいから、もしかしたら、エトリアから東の……

 

目的を定めようと過去の記憶を漁っていると、二人の遺言を思い出した。世界中に広まったかもしれない悪神の欠片。いるかもしれない凛の子孫。不確定であるばかりの情報であるが、赤死病を撲滅するという目的を達成し、未来の道しるべを見失ったばかりの私が、それでも生きていくための指針とするには、十分すぎるほどの存在感を保有していた。

 

―――結局は過去が道しるべとなるのか

 

拘束から解放され自由を得て、過去から持ち込まれたものを全て失っても、結局は過去のしがらみと決別することはできない。己というものは過去の積み重ねによって形作られるもの。この広大な世界でついに真実たった一人となり、支えとなる人を完全に失ってしまった私は、だからこそ過去にしがみつかねば生きていけなくなってしまったらしい。

 

―――まぁ、それも一つの生き方なのかもな

 

諦観ではなく、悟り。あるがままの自分を受け入れられる様になったというのも、また一つの成長の証と言えるのかもしれない。とても都合の良い自己解釈をすませると、身を翻して帰路を急ぐ。

 

この先、選んだ未来で何が待ち受けているかわからない。けれど、選んだ道を歩き、誇り、やり遂げて死んでゆく事ができるのなら。彼女の様に生きて、あのような満足そうな声で、最後の瞬間まで己の所業を誇り、笑って死を受け入れられるというのなら、嗚呼、たしかにそれは―――

 

―――なんて魅力的な生き様なのだろうか

 

 

赤死病という死病が撲滅して以来、世界と人々は少しばかり以前のような荒々しさを取り戻していた。日々小さな事での諍いが増え、数日前のことを持ち出して怒る人々も増えたという。不注意な事故で誰かが亡くなることも多くなった。

 

そんな多少荒れた世界において、人々の中においてまことしやかに語り継がれる存在があった。彼らは、人と人同士が争い、仲違いをする様な事態に陥ると、どこからともなくやってきて、話を聞き、問題を解決し、消えてゆく、風の様にやってきて、風と共に全ての問題を持って立ち去ってゆく集団だったという。

 

中でも風聞に名高かったのは、赤い外套を羽織り、浅黒い肌をした、見たこともないスキルを操る、白髪長身の男性だ。大抵の問題は、彼が目ざとく耳ざといからこそ、解決したのだという。

 

いつしか人々は、荒れた世界を凪ぐ存在として、彼らの事を「正義の味方」の代名詞として扱うようになったという。正義の味方となった男たちの行方は誰も知らない。けれど、彼らはいつまでもおとぎ話として語り継がれることとなるだろう。

 

 

「少年、なにを泣いているのかね?」

「っく、ひっく、―――だって、みんな、ぼくの、おとうさんとおかあさん、迷宮で死んだって、―――もう帰ってこないって、ひっく」

「ふむ、なるほど、―――力になれるかもしれん。事情を聞かせてもらえないだろうか?」

「―――助けてくれるの? おじさん」

「おじっ……、―――ああ、そうだとも。一緒に解決策を考えようじゃないか」

「―――どうして僕を助けてくれるの? 」

「それは―――」

 

とびきりの笑顔で私は言う。

 

「私が正義の味方だからだ!」

 

世界樹の迷宮 〜長い凪の終わりに〜

 

最終話 運命の夜を乗り越えて―――、正義の味方となった男

 

Fate root end.

 

 

 



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世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 世界樹ルート
十七話 己の醜さを見つめた先にある世界 (B:世界樹 root)


十七話 己の醜さを見つめた先にある世界 (B:世界樹 root)

 

彼らは遂に己の醜さと真正面から対峙した。

過去を乗り越え、目の前にある今という現実を生きていくために。

 

 

「聖杯を使え! 」

 

エミヤの咆哮が大きく鼓膜を揺らした。掠れ、潰れたその声に反応して、足の動く速度が加速する。なんでも一人で解決しようとしたがる人が、窮地に私の手を必要としたという事実に、ようやく心の底から仲間になれた気がして、そんな事態でないのはわかっているが、嬉しい気持ちが溢れた。そして気持ちが限界を超えて体を突き動かす原動力となったのだ。

 

「そして魔のモノの封印を願え! 完成した聖杯ならばきっと――― 」

「させるものか! 」

 

別方向から襲いかかる言峰は、凄まじい勢いで聖杯との距離を詰めてくる。先程の飛び回る火竜にも劣らないだろう速度だ。息を止め、心臓が破けんばかりの無茶を強いて、体を前に倒しながら走る私より、ずっと速い。そして私を即座に追い抜いた言峰は、聖杯へと手を伸ばし、確保の姿勢へと移行する。

 

―――ダメだ、間に合わない……!

 

「取った―――」

「させるか! 」

「何……、ぐぉ! 」

 

言峰の手が聖杯に触れる寸前、赤い塊が彼に激突した。エミヤだ。そして二人は赤と黒の塊となって湖底を転げてゆく。勢いや凄まじく、おそらくいましがたの体当たりは、エミヤにとって、全身全霊を込めての行動だったのだろう事が伺えた。彼の行動を無駄にしないためにも、私は指先を必死に伸ばして聖杯へと伸ばし―――なんとか聖杯をこの手に収める。

 

「っ……貴様、この死に損ないがぁ! 」

「そうとも! だが、死に損ないの状態であっても、貴様の行動を阻害する程度の力は残っているさ! 」

 

けれど、聖杯取得と同時に聞こえてきた雄叫びに、思わず彼らの方を振り向いた。地面を転がる赤と黒の塊になっていた二人は、やがて黒の色を纏った言峰が素早く立ち上がったことで、完全に分離していた。そして続くエミヤの挑発の言葉に反応して、言峰の拳が振り上げられる。

 

漆黒の闇に染まる周辺よりも色濃く、奴が纏った暗黒よりもさらに濃厚な、黒い瘴気を纏った拳を目にした途端、悪寒が走った。拳に致死の力が秘められている事を本能が嗅ぎ取り、近寄るなと警告を促した証だろう。

 

まともに喰らえば致死は確実の威力が秘められた拳の一撃を、けれどエミヤはただまっすぐ見据えているだけだった。上半身だけを起こした彼は、両腕をあげて抵抗しようとも、その場から動いて攻撃を回避しようともしていない。おそらく先ほどの体当たりに使用した力が、本当に最後の力を振り絞ったものであったのだろう。彼のその鋭い目つきには、徐々に諦観の色が宿りつつあった。

 

「よかろう!そんなに早く地獄へいきたいというのなら、まずは貴様から死ぬがいい! 」

「―――」

 

振り下ろされそうになる拳。あれがエミヤの頭に直撃した瞬間、彼の頭はまるで風船を破裂させるが如く、弾けて中身は散逸してしまうだろう。せっかく彼という人物と信頼関係を結べたというのに、このままではその彼の命が消えてしまう。

 

聖杯を使い、魔のモノを封印しないといけない事なんてもう頭になかった。頭の中は、目の前の彼を助けることだけを考えている。だから私は、願望器を掲げて思い切り叫んだ。

 

「お願い! だれか、エミヤを助けて! 」

 

心から叫ぶと、聖杯は願いに呼応するかのように銀の体から光を発した。同時に体から力が抜けてゆく。胸元が熱い。体が言う事を聞いてくれない。まるでフォーススキルを使用した際の疲労みたいだと思った。瞬間的に広がった光は影の生まれる隙間にすら侵入して、大空洞を完全に白の空間へと塗り替える。そして―――

 

 

体が動かない。動いてくれない。脳が目の前で次々と起こる非現実的な光景を受け止めきれないためだろう。理解を放棄した頭の生み出す様々な感情が、出鱈目な指令を出す元となり、無茶苦茶な信号が絶え間なく出力されることで、命令系統が大混乱を起こしているのだ。

 

目の前に広がる光景から、許容限界量以上の負の感情が、脳髄へと叩き込まれ、神経内をめちゃくちゃにする。自分に対する、他人に対する、怒り、悲しみ、憎しみ、恐れ。暴走して湧き出てくる感情は、どれも日々感じ続けていたものばかりだった。

 

思いかえしてみれば、私は、日々さまざまなことに不満を抱いていた。そうだ。私は感受性に鈍く、人の気持ちが理解できなかったのではない。豊かな感受性を、多くの場面で自らの不満を感じるために使っていたからこそ、日々己の裡より生じる不満にうんざりとして、いつしか自己の気持ちも他者の気持ちも正しく理解する事が出来ない魔境に自ら迷い込んでいたのだ。

 

そして私は表意識の面では気が付かなかったが、無意識のうちにおいては、自ら魔境に迷い込んだ醜態に気づいていたからこそ、日々、己に出来る事を淡々とこなし、感じる悶々としたものは、全て心の奥底に封じ込め、一日を過ごすようになったのだ。と考えれば、何かを『守る』職業に就いたのも、必然であったのかもしれない。そう。私は、変化という事象から、己を守り、不変の状態を保つために、パラディンという職業に就いたのだ。

 

表意識では変わりたいと願いながら、その実、変わらないまま受け入れてほしいと思う矛盾。それこそが私の歪みだ。まるで変わらない日々を漫然と生きる中、思考や気質が変化する人を見かけ、何度羨ましく思ったかわからない。

 

変化というものは、人間が得た知識や置かれた環境に適応した結果に過ぎないのだと私は考えていた。元々持つ本質まで変わってしまうような人間は見たことがなかった。

 

勇敢だった人間が死にかけて極端に臆病な性格に変わる場面や、粗暴な点が目立つ人間が自分よりはるか格上の実力をもつ人間の側に置かれることで大人しくなったのを目撃したこともあるが、そんな負の方面の変貌ですら、まるで変化というものと無縁であった私にとっては、羨望の対象であった。

 

だから私のこの他人の都合よりも自分の感情を優先する醜い気質も、きっと私がもつ本来の気質であるのだろうと思っていた。こんな醜い本質、晒してしまえば嫌われると思っていた。衛兵として冒険者に接する中、私同様に、身勝手な人間との接触も少なくなかったが、私の周囲にいる人間は、他人の事を慮り、気を配ることのできる人間ばかりだったから、余計にそう感じていた。

 

だから心の奥底に封じ込めて、常識と良識で封印し、蓋をした。そして衛兵という職についた背景として、「他者を守ることこそ、己の信念である」という都合の良い行動理念を生み出すことで仮面とした。とどのつまり、私の信念とは、ありのままの自分を受け入れてもらいたいが、ありのままの他人を受け入れたくないという鬱屈した想いを隠すための化粧にすぎなかったのだ。

 

だが今、長年使い続けてきた厚化粧の仮面は、膨大な質と量の悪意の感情を前に剥がれおちた。侵入した負の感情は、心の奥へと溜め込んできた鬱屈な想いと合わさると、感情の濁流となり私の体を駆け巡る。

 

「―――あ……」

 

耐えられたのは一瞬。そしてのちに、咆哮。抑え切れなくなった感情は滂沱の涙となり、絶叫となり、外部へと排出されてゆく。身体中の水分が涸れる勢いで泣き、喉が痛くなるほど叫ぶと、不変を楔として冷静を保っていた私は、感情のままに叫ぶという醜態をさらした。

 

痛い。怖い。傷つきたくない。死にたくない。自分だけでも助かりたい。溢れ出てくるのは自己の保全を望む思いばかりで、口からこぼれ出るのはその感情に基づいた原始的な悲鳴ばかりだった。他人のことを慮る思いなど、一辺たりとも存在しなかった。醜い。あまりにも醜い。こんな人間、獣と何一つ変わらないではないか。

 

……しかし、理性が醜いと断じる感情が大いに発散されていくにつれて、不思議と胸の裡のつかえが失せていくことに気がついた。やがて私を常に苛つかせていた沈殿物が失せてゆくとともに軽くなってゆく頭は、暗闇の向こう側、起こる現実の一瞬を捉えた。

 

それは一人の男と二人の男女が戦う光景だった。三人は思いの丈を吐露し、叫びながら、思うがまま動いている。抑圧をやめ、ただ己の心に従うがまま行動する彼らを眺めた時、羨ましく思った。場違いなのはわかっている。そんな事態でないのは承知の上だ。それでも醜い美しい、敵味方関係なく、本心を隠さずぶつけ合う光景は、私の胸を打ち、見惚れさせた。身体中がざわつく。

 

―――私も、ああやって、己を偽ることなくさらけ出してみたい

 

「お願い! だれか、エミヤを助けて! 」

 

溢れてきた感情が心を満たす直前、唐突に耳朶を打った助けを求める声は、恍惚の感情で満たそうとする脳内に響く喝となり、私の思考は、今までとは別の、たった一つの感情により生み出されたものにて支配された。

 

―――仲間を助けたい

 

そんな気持ちが胸の奥底より自然と湧き出たことに、我が心情でありながら驚いた。醜さを隠すため使い続けた仮面の如き信念でも、年月を積み重ねたのならば、本物の様になるのだという事にも気がつかされる。どこまでも自分勝手だと思いもするが、悪くないと思う自分もいた。誰かを守りたいという建前が本心と合致する事によって、これまで以上の力が湧き上がってくる。

 

―――全身に力が満ちてくる

 

では、いつも通りに、しかしいつもと違う一歩を踏み出し、味方を守るとしようか!

 

 

振り下ろされる拳。魔力と、加えて別種何らかの力が込められたそれは、私の頭を砕くには十分すぎるほどの威力が秘められていることが風切る音でわかる。おそらく拳と頭部が接触した瞬間、風船が弾けるように、私の頭も破裂するだろう。余りにも一瞬過ぎて痛みを感じないだろうことが唯一の救いといえるかもしれない。食らえば即死は免れないそれを、しかし私はただ見つめる事しかできないでいた。体が動かないからだ。

 

首から上のうち、動くのは眼球だけで、肩から先は一切の感覚がない。足は筋繊維が千切れているのだろう、高熱の感覚を伝えてくるばかりで、まるで命令に反応してくれない。もう腕も脚も、指先一つ動かすことも叶わなかった。

 

先ほどの一撃は正真正銘、最後の力を振り絞ったものだった。心臓という循環機関を失った大穴空いた胴体は、当然のように動かすことができない。上半身を起きあがらせることが出来ただけでも奇跡の所業と入れるだろう。

 

襲いかかる死の具現を前に、頭はやけにクリアだった。上半身を起こした際、響が聖杯を手にしたのを、視界の端に捉えることができたからだと思う。私がここで殺されようと、彼女が聖杯を用いて魔のモノを封印できれば、私という最小の犠牲で彼女らは最大の目的を達成することができる。おそらく魔のモノの手先である言峰も消えるだろう。そして彼女らは生き残り、世界は救われる。つまり、収支はトントンどころか黒字。ベストではないが、ベターな結果ということが出来るだろう。―――そんな考えがあったのだ。

 

しかし―――

 

「お願い! だれか、エミヤを助けて! 」

 

予想に反して、響は世界の敵の封印ではなく、私の救済を望んだ。彼女の予想外の判断に驚く間もなく、瞬間的に光が周囲に散らばり、奴と私の間にも入り込む。視界を塞いだ白光に、唯一自由に動く目元が反応し、瞼の裏の黒で眩さの中和を試みる。奴の靴裏が地面をこすり、削る音が聞こえ、そして停止した。

 

「なに……! ―――なんだ、これは!」

 

突如襲来する光に、困惑する言峰の大きな声があたりの空間に響いた。奴が振りした拳は、私のすぐ目の前に現れた、私と奴の空気中に細かく光を散らす白く細かい粒子に阻まれ、動きを止めていた。この光景には見覚えがある。これは―――

 

「―――完全防御……! 間に合ってくれたか! 」

 

―――ダリのフォーススキル、「完全防御」……!

 

「面倒な事を……!」

 

言峰は憎悪の視線をこの現象を引き起こしたダリに向ける。彼は自らに向けられた憎悪の視線をまっすぐ受け止め、こちらへと向かっている。怨嗟を含む瞳は、しかしダリの歩調を乱す要因にはなりえなかったようで、彼は速度を落とすことなくこちらへと近づいてくる。

 

「―――だが、短い間しか効力がないようだな……!」

「くそっ! 」

 

だが奴はダリが接近するよりも前に本懐を果たすべく、止まった拳を再度振り上げた。フォーススキルは連続して使えないという欠点を見抜かれたダリは悪態づき速度を上げるも、全身に鎧を纏い、重たい盾を装備した彼の速度では、到底、言峰が拳を振り下ろす速度に間に合うまい。―――そして。

 

「残念だけど、その一瞬の隙があれば十分なのよ! 」

 

やがて奴の拳に命が刈り取られる寸前、かつての時代、戦場で嫌になる程耳にした火薬の炸裂音が響き、頭上にて硬質なモノ同士がぶつかる甲高い音がした。

 

「ぬぅっ……! 」

「アームスナイプ……、たしかに命中させたのに、まさか弾くなんて……!」

 

もはや何度目になるかわからない驚きを得る。幼さを残した声に続けて、二発、三発と銃声が鳴り響く。頭上を通過した空気を切り裂く音は、言峰が直前まで存在したあたりを通過すると、そのまま遠方へと去っていく。同時に目の前にあった言峰の気配が消えた。

 

「小娘……、貴様……! 何者……!」

「私は子供じゃない! 」

 

続く銃声が、別の場所へと移動した言峰の声が聞こえた位置へと放たれる。異色を纏っているのは、放たれた弾丸に火炎と氷結と電撃の性質が宿っている証拠だ。言峰を無力化するべく放たれた三属性の弾丸は、しかし、先ほど同様に聞こえた甲高い金属音を立てるに威力を発揮するだけにとどまった。数発の銃撃はまるで奴にダメージを与えることなく、奴の体術とスキルと魔術によって迎撃されたのだ。

 

「まったく、属性弾も防ぐとか、あいつほんとに人間なの!? アーサー! 」

「任せろリッキィ! 雷撃の術式! 」

 

帯電した空気が孕んで膨張した音色が周囲に鳴り響く。つづけて液体が飛び散る音が聞こえ、破裂音と、肉の焼ける匂いが一帯に広がった。さらに、雷撃に空気がイオン化したのか、独特の臭気までもが鼻を擽る。あたりは刺激のデパートの様相を為していた。

 

「増援か……、流石にこの数を相手にするには、少々手持ちの駒が足りん……ならば―――」

 

銃弾に続く雷撃の攻撃を魔のモノを犠牲にすることで避けた言峰は、連続攻撃に己の不利を悟ったようだった。先ほどまでの強気な態度から一転、冷静な口調に戻り言ってのけると、地面を思い切り蹴って別方向へと駆け出す。

 

―――この方向は……、響……、いや聖杯か!

 

離脱を決心した言峰は真っ直ぐ、地面に転がっている聖杯へと向かっていた。聖杯の近くにいる響は、自らが引き起こした発光現象の衝撃により、聖杯を手放して放心している。

 

「させない! 」

 

しかし、体勢を崩し地面に手をついていた響は、言峰の接近に素早く反応すると、震えていた体を抑え、気丈にも立ち上がり、剣を正面に構えると、言峰の行動を阻止するべく前へと踏み出した。青眼の構えの姿勢に移行する姿には、常の彼女にはない自然な流麗さがあった。

 

だが、それでも言峰という男を止めるために腕力や膂力と技術に不足がある事は歴然で、一秒先に彼女が吹き飛ばされる未来が見える。いや、それどころか、奴が突進に伴っているエネルギーを全て攻撃の威力へと変換させたのなら、彼女の細い体に大きな穴が空くほどの威力になるかもしれない。

 

「邪魔だ! 」

「リッキィ! 」

「ダメ! 射線があの子と被ってる! 跳弾でも―――間に合わない! 」

 

 

全身が動かない。冷え切っている。目の前に広がる悪意の濃度に、体ではなく、心が凍えていた。今までも命をかけた敵から殺意や害意をぶつけられる事はあったけれど、目の前のこれは、それらとはまた違った、別種のドロドロとしたものだった。

 

気持ちが悪い。一言で表すならそれが最も適している言葉だと思った。濃厚な黒色が目の中へと飛び込んでくるたび、頭は締め付けられる様に痛むし、心臓は血液の送る速度を過剰にはやめて、不整脈を引き起こす。首元をビリビリとする感覚も、腕や脚に鳥肌が出来るのも一向に治らない。肺は酸素を求めて伸縮を繰り返すし、乱れた自律神経が呼吸をかき乱すのを助長する。

 

必死こいて地面にしがみついてないと、ただでさえ軸のない自分というものが押し寄せる悪意の奔流の中に消えてしまいそうな気がした。だから目を閉じて、耳を塞いで、自分の体を抱きかかえて懸命に己を守る。そんな時、声が聞こえた。

 

「お願い! だれか、エミヤを助けて! 」

 

必死の感情に満ちたその声は、いろんな負の感情が入ってこない様、自衛だけを試みているみっともない俺の中にするりと入り込んできて、俺の心を刺激した。その必死さは、基本、俺とは無縁のもので、けれどだからこそ、欲していたものだったからだ。

 

俺は特に何も考えずここまでやってきた。エミヤには、ここに行こうと決めたのは自分の意思だ、なんて偉そうな事を言ったが、実際は、なんとなくっていうのが正しい。多分、カッコつけたかったんだと思う。いや、違うな。俺は、俺を守りたかっただけなんだ。

 

俺にはあいつらみたいに胸に燃えたぎる様な目的ってものがないから、自分より大きな度量と実力を持つ人間に、懐の大きさまで見せつけられたから、自分は人よりも小さな人間だという事に異様なまでに反応して、悔しかっただけなんだ。嫉妬しただけなんだ。

 

そうだ。冒険者になると決めたのはそんな、やけくそ気味の鬱屈した思いからだった。その後、冒険者という命を掛け金とする職業を続けられたのはシンの熱情に影響されたからで、大した才能がないのにこうも名が売れる様になったのは、周りの人が優秀だったからだ。

 

優秀な周りの手が俺を押し上げてくれなかったら、俺はずっと下の方で燻っていただろう。みんなと違って、俺はまるで全く大した人間じゃない。そんなことは、俺自身が他の誰よりも知り尽くしていることだ。俺は、優秀というには、あまりにいろんなものが足りていない。それでも優秀でありたいと願うだけの、ただの小さな人間に過ぎなかったんだ。

 

言い訳になるかもしれないけど、多分、それは特別なことじゃないと思う。ここにくるまでわりかし多くの人と接してきたけれど、大半の人間は、なんとなく生き方を選んで、なんとなく他人の言動に反応して、なんとなく適当な努力をして自分を大きく見せようとして生きている。それが普通の人間ってやつなんだろう。

 

でも、そんな人間の中に、時たま、才能にあふれていたり、情熱に満ちていたり、ってやつもいる。悔しいけど、そんな奴らは、下の方でうごめく俺らなんて気にもしないで、まるで普通なんてものにかかわることなく、一足飛びに上の方へいってしまう。いちいち細かいことを気にして悩む俺とは大違いだ。ゆえに、初めからそういう気質は決まっていて、変える事は出来ないんだろうと思っていた。

 

だからこそ俺は、シンが、ピエールが、ダリが、エミヤが羨ましかった。俺には、シンのように一途な熱情も尖った才能もないし、ピエールの様な自分の感情に身を捧げる覚悟をしたわけでない。ダリの様に確固として貫いてきた信念もないし、エミヤのような他の人と隔絶するほどの力があるわけじゃなかった。だから俺は、あいつらと一緒にいてもどこか近寄りがたいところがあった。あいつらは俺と違って立派すぎるから、どうしても気後れする。

 

その点、響は俺と同類だと思った。冒険者になろうと思いついたから、即座にギルドに入ろうと思うなんて、まさに典型的な楽観的で深く考えない人間の行動だ。だから彼女は俺と同種の人間で、適当に生きる型の人間だと思ったんだ。

 

信念があるわけでも、実力があるわけでも、どうしても叶えたい願いがあるわけでもない。俺と同じ、なんとなく惰性で生きている人間。けれど、そんな響は、気がつくと俺とはまるで別種の、才能や熱情あふれる人間のようになっていた。

 

シンが死んでからというもの、それは顕著になった。呑気さと純真さの裏側に何かを抱え込み、気がつくと一本芯が通っている言動をするようになっていた。俺と同じだった彼女は、いつのまにか、真剣に物事に取り組み、驚くほどの早さで成長する人間になっていた。

 

「させない! 」

 

その響の声が聞こえる。声色はやっぱり真剣そのもので、不純なものなんて一切入り込んでいなかった。俺みたいな凡人の側にいる人間でも変わることが出来るんだって事を、俺は初めて目の当たりにした。それは俺にとって、救いそのものだった。

 

―――だから今、俺は、あいつを助けたい

 

ひどく自分勝手な理由だ。我ながら醜くて嫌になる。けれど、こんな俺でも変われるんだと示してくれたあいつを助けることが出来たなら、少しでも自分が変わったと言えるんじゃないかって思えたんだ。だから―――

 

 

「雷撃の術式! 」

「むぅっ―――」

 

籠手から飛び出した雷撃は、一瞬のうちに俺と奴の間の距離を詰めて、攻撃のための剣となる。突然飛び出してきた雷撃に、言峰綺礼という男は驚いて攻撃のために振り上げていた拳を防御のために使い、崩れた体勢を瞬時に整えると身を翻し、突撃してきた響をいなした。

 

「くそ、雷を避けるとか、どういう反射神経してるんだよ! 」

「サガ! 」

「おう! 響、待たせたな! ちょっとまってろ―――、もういっぱぁつ! 」

 

飛び出してきたサガは再び雷撃を言峰めがけて放つ。だが響のいた場所からすでに遠ざかっていた奴は、後ろ手に構えて余裕の表情で周囲にいた触手どもを盾に使うと、その一撃を防いで見せた。

 

水分をたっぷりと含んだ魔のモノの肉は誘導体とも絶縁体ともなり得る様で、高電圧高電流の一撃は、奴に届くことなく、接地部分より地面へと吸い込まれていった。魔のモノである触手の群れは、悲鳴の代わりに焼ける音を立てて崩れ落ちてゆく。

 

「くそ、味方を盾に……、あの分厚い防御を貫くにゃあ、超核熱でもなきゃ無理か……!」

「いや、行ける! よくあの嬢ちゃんとの距離を離してくれた! 大雷嵐の術式!」

 

そしてアーサーという男の籠手から放たれた雷撃は言峰を覆う魔のモノ付近の二点間に収束し、雷光球となる。やがてその球は光を放って消えたかと思うと、魔のモノの奥に潜む言峰の短い呻き声が聞こえ、魔のモノの隙間から赤い血飛沫が舞い散った。

 

「ちぃ、放電切断か! 」

「へ、味方を盾とする様な奴と戦う時の対策くらい練ってあらぁ! 」

「ふん……」

 

言峰は吐き捨てると、周囲に蔓延らせていた魔のモノを展開し、後方に向けて撤退を開始した。奴の不自然な体制に注目すると、後ろ手には銀の器―――すなわち、此度の聖杯が握られていることがわかる。おそらく奴は、あれをつかって魔のモノの完全復活を試みるつもりなのだろう。

 

「くそっ、逃すかよ!」

 

言峰に傷を負わせた背の低い少年が叫び、拳法家スタイルの着衣が示すように、軽い身のこなしで。籠手を解放したまま追跡の姿勢へと移行する。首元のマフラーが大きく翻った。

 

「前に出過ぎないで、アーサー! 」

「ぐぉっ……! 」

「あ、ごっめーん……」

 

少年の追撃行動を、彼より背の高い、チェインメイルとクロースアーマーの上にブレストプレートを纏った赤毛の女性が嗜め、マフラーを掴んで引き止めた。アーサーと呼ばれた少年の首元に巻き付けてある布によって首を締め付けられることとなり、思い切り咳き込んだ。

 

「いや、アーサーの判断は間違っていない。奴がこの事態を引き起こした原因というのなら、ここで奴を逃すわけにはいかない。―――すでにチャージは済ませてある。アーサー、ラクーナは援護を。サイモンとリッキィは彼の治療と護衛を頼む」

「……くそっ、あとで覚えてろよ、ラクーナ!」

「わざとじゃないんだから、蒸し返さないでよ、小さいわね! 」

 

引き止めた女性を制した茶色い長髪を独特の纏め方で束ねた少年はアーサーの行動を肯定すると、言峰の追撃を宣言し、槍を抱えたまま奴の後を追った。アーサーという少年は籠手を解放したまま、ラグーナという女性は自らの背丈ほどもあるカイトシールドから片手剣を取り出すと、後に続く。

 

「了解した。任せておけ、ハイランダー」

「わかったわ」

 

ハイランダーと呼ばれた青年の指示に応じて、グレーの髪に白衣をたなびかせた青年と小柄な銃を握った金髪の少女が返事を返し、私の近くへと寄ってくる。

 

「出遅れたか……。アリアンナ。俺たちはどうする? 」

「そうですね……えっと、どうしましょうか……?」

「おいおい、困っている人の呼び声がするっていって、座から俺たちを引きずり出したのはお姫様だろ? 俺たちに聞かれても困るってもんだぜ」

「―――そうですねぇ……。外から悪しき気配がします。しかもどうやらここのとは比べ物にならない数がいる様です。ここは彼らに任せて、そちらの対処に向かいましょうか」

「ノーブレスオブリージュってやつか! 流石カレドニア公国のお姫様は言うことが違いますなぁ! ―――って、いってぇ! 何すんだ! フラヴィオ! クロエ! 」

「言い過ぎだぞ、おっさん!」

「ん、フラヴィオの言う通り」

「ちょっとした親愛表現だろうがよぉ、―――ったく」

 

どこに潜んでいたのやら、賑やかな一団の気配も遠ざかって行く。わけがわからない。何が起こったのか理解できずあっけにとられていると、触感を失っていた全身が、暖かさに包み込まれてゆき、弛緩する。

 

身に覚えのある感覚は、間違いなく回復の光だと判断できた。それも、響などが使用するどこか無機質な感覚の残る回復のそれではなく、施薬院で数度ほど体験した、人為的な暖かさを伴ったものだ。瞬時に傷だらけの全身に作用して、あちらこちらの傷を塞いでゆく。

 

「これは……」

「動かない方がいい。ヒーリングをかけてはいるが、それでも君の傷は重い。―――完全に怪我の快癒が済むまで……、と、悠長なことは言わないが、少なくとも骨や血の補填が済むまでは、そのまま身を光に預けておけ」

「―――だが、そうも言ってはいられまい」

 

彼が私の治療を行っている間も、闇の奥からは次々と魔のモノたちが姿を現している。ダリやサガ、響と、リッキィという少女が奮闘しているが、数が多すぎて、対処しきれていない。なにせ奴らは、聖杯や宝石いうモノの守りを失った我らを打倒し、元々の住処であるこの場所を取り戻してやろうとするかのごとく、全方位から殺気を露わに押し寄せてくるのだ。

 

「サガやダリ、響にリッキィ―――であっているようだな。……彼らが抑えているが、手が足りていないのは、明らかだ。何か一手、この場すべてに蔓延る奴らを殲滅する手段がないのであれば、この際それが猫の手であろうと、対処の手を増やすのが得策というものだろう」

「―――だが」

 

起き上がろうとすると、男の手が私の体を押す。あまり力が入れられていないにもかかわらず、私はそれに抵抗できず、地面へと倒れこんでしまった。地面に接触する直前、男の手が私の体を支えたので無傷ではあるが、その事実に私は、未だに己の体には力が戻ってきていないことに気がつかされる。

 

「そんな体で何ができるというのか。怪我人はゆっくりと休んでいるのが、一番周りの人のためになるというものだ」

「確かにそれはそうだが、しかし―――」

「それに、心配ない」

 

私の言葉を断ち切って、闇の奥、聖杯の安置されていたあたりを指差して彼は断言する。

 

「きっと君らの賴もしき仲間がなんとかするからさ」

 

 

「くそっ、どんだけの数がいやがるんだ!」

「文句を言う暇があったら、スキルで敵の数を減らせ! 」

「やってるだろうが! 少なくともお前よか口減らしには貢献してらぁ!」

「言ってくれる……! 」

 

サガが文句と皮肉と攻撃を垂れ流し、ダリは味方の言葉の流れ弾を含めた全ての攻撃受け止める。二人は、暗闇の中から押し寄せる大群が纏う、鬱屈とした闇を見た際に起こる負の感情の奔流に対して、いつもの軽口を叩きあえるくらいには慣れているようだった。

 

「喧嘩する暇があったら手を動かす! ―――ちょっと、あなた、大丈夫? 」

「……っ、はいっ、まだいけます! 」

「そう……、わかったわ」

 

一方で、私はというと、初めて最前線に立って継続的に味方を守るという立場になったという責任感も混じっているのだろう、後方にいる手負いの味方を守りながら戦線を維持するという慣れない戦い方を強いられていて、ひどく疲労困憊の状態だった。

 

倒しても、倒しても、絶える事なく出現する敵。敵はその身や瞳に負の感情を宿しながらも、命をまるで惜しまない程の突撃にはどこか機械じみた無機質さがあり、なんともちぐはぐな感じだ。例えるなら―――そう、例えるなら、目の前の敵は二層で出会った、虫の大群に似ている。

 

敵が虫であると考えるなら、巣がどこかにあるはずだ。そしてこれまでの経緯を考えるに、奴らの中核とは、言峰綺礼か、魔のモノであるに違いない。きっと、目の前の群れは、そのどちらかの敵を倒すか、あるいは両方を仕留めないと、延々と出てくるような魔物なのだ。

 

そんな、どのくらいの数がいるのかわからない敵を相手にする状況だと、道具の使いどころが難しいのが辛いところだ。一面を覆い尽くすこの数だから、香でも、糸でも、使えば当たるという状況ではあるが、倒したところで状況が良くなるわけではない。

 

そんな末端相手に、無駄遣いはできない。そう思うからこそ、ようやく構えが様になったばかりの剣を振るって敵をさばいているわけだが、とにかく奴らは固くて、俊敏で、狡猾だ。

 

例えば、突撃と撤退を規則正しく繰り返していたかと思うと、突如として一斉に攻撃をやめて身を引いたりするのだ。目の前の敵の攻撃を対処するのに必死な私は、大抵その攻撃の間隔調整に気づくのが遅れ、気がつくと敵に囲まれかけたりすることがしばしばある。

 

それを助けてくれるのがリッキィだ。彼女という優れたガンナーが、広い視野と素早い反射神経で的確に私の援護に入ってくれていなかったら、とっくに私という穴からエミヤを守る戦線は崩壊していただろう。彼女はエミヤを中心とした円の領域うち、半分の守護を受け持っているにもかかわらず、私に気を配る余裕まであるのだから、本当に凄い人だ。

 

「―――ジリ貧ね」

「言うなよ、リッキィ! ただでさえ気が滅入ってるんだから!」

「リッキィ言うな! フレドリカ! 馴れ馴れしい! 」

「いま指摘するところかぁ、それ!? 」

「……だが、リッ―――フレドリカの言う通りだ。正直、この状況はまずい」

 

私たちが敷いた円の戦線を押しつぶすかのように仕掛けられる敵の波状攻撃が一旦収まったのを見計らって私たちは大声で意思の疎通を行った。サガとリッキィ―――フレドリカのやり取りを無視して、ダリが話を戻し、彼の言葉に意識を眼前から全体へと引き戻すことのできた私は、彼らに遅ればせながら周囲を見渡して、状況の把握に努めた。

 

敵はサガの大雷嵐の術式と、フレドリカのバルカンフォームによる援護射撃で一旦は結構な数の味方を失ったため、身を引いたようだった。だが、再び数が揃えば、すぐさま攻撃を仕掛けてくるだろう事は、未だに全方位から伝わってくる気配に理解させられる。この一旦の小休止は、奴らが攻撃体勢を整えるための準備期間でしかないのだ。

 

「それで、どうなのだ。サイモンという男とエミヤが戻れば、なんとかなると思うか? 」

「んー、正直わからないわ。サイモンはあくまでメディック。味方を癒すのが仕事。私はエミヤっていう奴の職業を知らないからなんとも言えないけど、彼、指を失っていたじゃない? 人差し指と中指なくても戦闘可能な職業なの? 」

「―――彼が以前の状態に戻ってくれるのなら、固有結界とかいうス……、魔術で目の前の敵の殲滅程度、簡単に行ってくれるだろう。だが、彼は基本的に、剣と弓が主とする戦闘を行う、近接戦闘職だ。体術も心得があるようなので、戦えないことはないだろうが、指を失ったとなれば、戦闘能力の低下は否めないな」

「あ……、そうだ、これ」

 

ダリの、エミヤの戦闘力低下という発言を聞いて、私は拾っておいた彼の指をポケットからとりだした。

 

「ちょっと、なによそれ―――、もうぐちゃぐちゃじゃない。そんなん、この場ですぐに治るようなもんじゃないわよ」

 

肯定でも否定でもない玉虫色の答えに顔をしかめていたフレドリカは、覗き込んだ一瞬で私の差し出したモノの正体を見破ると、いっそう顔のシワの数を増やして、身を引き、文句を言った。

 

「はい、そうかもしれません。ですが、肉体の一部があるのとないのでは、怪我の治療速度が大違いだと思います」

「―――まぁ、そうね。ええと、あなた、さっさと彼にそれを届けてくるといいわ」

「はい! 」

 

返事をすると鞘に刀を納め、布に包んだ二本の指を軽く握りしめる。敵に囲まれた絶体絶命の状況だが、彼が再び立ち上がってくれたのなら、この状況だってひっくり返してくれるに違いない。そう、例えば、以前の戦いの時に見せたようなあの固有結界とかいう魔術スキルで―――

 

「―――っ、危ない! 避けなさい!」

「えっ?」

 

思い馳せていたところに聞こえてきた大声の警告に、思わず声の方を向く。その無駄が決定的な隙となったようだった。遅れて獣の唸り声が耳朶を打つ。頭上を見上げると、ポタリと顔へ落ちてきた水滴―――獣の涎の生臭さと生暖かさを感じて、ようやくフレドリカの忠告の内容に気がついた。

 

闇色と同化した敵は、現在の場所が洞窟の奥地という周囲が見えづらい暗所であること利用して、私たちを照らす松明の光が届いていない天井付近からの奇襲を行なったのだ。

 

幸いというか、奇襲のために数を絞ったのか、一人当たりに襲い掛かる敵の数は少なく、フレドリカやサガたちは奇襲に対処できていたようだった。けれど、体勢を崩し、意識が別のところへと向いているこの状態で、さらに、唯一戦闘職でなく身体能力の低い私は、咄嗟の忠告に反応して上を向くのが精一杯だった。

 

「―――あ」

 

見上げた場所にあったのは、開かれた獣の口。その中に生えそろった迫り来る死の牙に、思い浮かんだのは、なぜかシンの事だった。この迷宮の三層において、彼はこんな風に、大きな獣の口に噛み千切られて死んだのだ。彼は横三つに捌かれたけれど、私は二つに分けられそうだな、なんて、呑気な考えが浮かぶ。

 

死を目前にしてやけに冷静でいられるのは、彼と同じ死に方をしかけているからだろうか。同じ死に方をしたら、死んだ後、彼と同じ場所に行けるかも、なんて思っているのかもしれない。

 

―――ああ、でも

 

彼は最後まで抗って死んだけれど、私はこのままだと敵の牙の前に、無抵抗に殺されることになる。それは果たして、シンと同じような死に方と言えるのだろうか。

 

―――このままでは、彼と同じ場所へといけないのではないだろうか?

 

それはダメだ。死ねない。そんな死に方は認められない。胸の中に湧き出た目の前の獣の身体の暗黒よりもどす黒い疑念が、私の心を染め上げ、満たしていく。負の感情は驚くほどの俊敏さでの攻撃を可能とした。わたしは鞘から鈍色の刀を解き放つと、上へ向けて剣を突き立てる。

 

本能と心情の一致は、瞬間だけシンのように動くことを可能として、私は彼に負けない剣筋の鋭さを得た。居合の構えからの、貫突。獣は今までまるで反応を見せなかった私が行った一瞬の反撃に対処し切ることができずに、突き出した剣を喉元の奥まで飲み込む事となる。私は敵の胃袋から腹の奥まで貫通した手応えが伝わってくるよりも早く、そのまま刃を振り上げた。

 

「――――――、―――……」

 

やがてそいつは、刀の鍔が喉奥に引っかかったあたりで牙と口の動きを止めた。分厚い肉を切る手応えもあったし、多分、心臓でも貫いたのだろう。ガバリと開かれた口の向こうは何も見えない。牙や口腔内から垂れてくる涎と体液と血液は生臭く、生暖かく、私をとても不快な気分へと誘った。

 

―――はやく抜かないと

 

一刻も早く、この不快感を取り除きたい。私は思ったよりも軽い獣の体内の奥深くまで突き刺さったままの剣を横に下ろすと、趣味の悪い傘のような姿となった敵から刀を引き抜こうと獣の体に足を引っ掛けた。そして硬直して固まった体より刀身が多少姿を見せたところで―――

 

「――――――!」

「―――え?」

 

聞こえてきた唸り声に反応して上を向き、倒した獣の後ろにさらにもう一匹の獣が迫っているのを視界に収めて、思わず放心した。剣に突き刺さった敵からゴボリと液体が漏れる音がしたので反射的にそちらを向くと、刀が突き刺さった獣の瞳には、死にゆく者が浮かべるには不釣り合いな、喜悦の色が含まれているのを見て、私は自らの失態に気がついた。

 

ハナから最初に落ちてきた敵の体は囮だったのだ。対処出来ればよし。対処できなくても、後ろ詰がなんとかするという二段構えの作戦。もう使い古されてどれほどになるかわからない、浅知恵の戦術だが、命を捨てる覚悟が相手にあり、こちらの気が回っていない時には絶大な効果をもたらす連携だ。獣だと思って侮ったのがまずかった―――

 

慌てて剣を引き抜こうとするも、死にかけた方の獣は、刀身に噛みつき、口を固く閉ざして、内臓深くまで突き刺さった剣を己の体内に押しとどめようとしていた。闇色の血の気が失せてゆく顔には、愉悦の色が滲んでいる。

 

剣を引き抜くことはできない。かといって、剣を諦めてそれ以外で対処しようとすれば、目の前の魔物は嬉々として剣に入れている力を私の攻撃のために使うだろう。

 

つまり私は、片手、それも素手で、上の獣を対処しなければならない。―――ああ、今度こそ無理だ。不安定な格好。片手は獣に封じられているし、体勢が悪くて道具袋に手を突っ込むこともままならない。

 

対処の手段を探している間にも、敵は迫ってきている。姿を隠すためなのか、先ほどよりも小柄な敵は、しかし私をかみ殺すには十分な大きさの口腔を開けて落ちてくる。

 

―――今度こそ駄目、か

 

諦めの言葉が浮かぶと、反応して瞼が下がってゆく。もうどれほど考えても、先ほどのような奇跡の一瞬は起きてくれそうにない。全霊は尽くした。一撃には見事に対処した。けれど二度は無理だ。もう手がない。ああ、ついに。

 

―――私も死ぬのか

 

無力感が体を巡った時、ふっと、体から力が完全に抜けた。無抵抗を悟ったのか、剣を咥え込んだ獣は一瞬力を弱めたが、奴はすぐに思い直したようで、四肢を地面に押し付け、歯をくいしばり、刀を離そうとしなかった。死に瀕していながらその態度は見事なものだ、などと考えるのは、きっと、彼の影響だろう。上から迫る音はもうすぐそこだ。

 

―――ああ、本当にこれで

 

「シン―――私も貴方のところに……」

「残念だが、今、私はそこに不在でな。以前のように君を迎えることはできないのだ」

「――――――え?」

 

聞こえてきた声は、鼓膜を通り越して頭へと即座に入り込み、衝撃が雷となって即座へと全身に伝えられ、痺れる感覚が体を支配した。誰がその声を聞き間違えるものか。だって、それは、私が今、ここにいる理由であり、私がここで剣を握る理由であり、私が好きだった人の声―――

 

「見事な反応だったぞ、響。腕を上げたな。だが、状況予測と残心がまだ甘い。死兵というものは大抵ロクでもないことを企むものだ。敵が命を投げ出しそうなら、連続攻撃を覚悟するのが心構えというものだ。……まぁ、その油断で死んだ私が偉そうに言えることではないが―――」

「―――――――――、シン!! 」

「だが、しかし、本当に、よくこの短期間でここまで腕前を上げたものだ。初っ端、咄嗟にだした居合からの一撃は、構え、体捌き、速度ともに、本当に見事なものだった。やはり私の目に狂いはなかったな」

 

呑気にいってのける彼は、言う間に頭上の敵なんて三枚おろしにしてしまっていた。いや、それどころか地面にいる、刀に食いついていた敵も滅多切りにしてしまっている。たぶんツバメがえしを連続して放ったのだろう。私の剣が児戯に等しく思える、目にも止まらない速度と精度だ。私は目の前の敵とシンから目と意識を離せずにいた。

 

「―――ぬ、どうした、固まって。もう敵はいないのだぞ? 残心を解いても―――」

「シン。貴方、自分が先ほどまで死人だったということをお忘れですか? あれは残心ではなく、放心と言うのです。死人が蘇るなんて事態、普通、まともに受け止められませんよ」

「―――そうだな。だが、訂正がある。私は蘇ったのではなく、英霊として一時的にだな」

「はいはい、その辺りは終わってから詳しく聞きますよ。―――とにかく、まずは周囲の掃討をしてしまいましょう」

「―――了解だ」

 

ピエールと会話を交わす彼は、間違いなく以前のままのシンだった。血の通ったその顔を思い出して、私は何度夢見たことかわからない。死んだ後の冷たくなった顔ではない、固くなって動かなくなった皮膚ではない、筋肉も、血管の動きも、生前のまま状態の彼が今、目の前にいる。私の頭は、その奇跡を受け止めきれず、完全に停止してしまっていた。

 

そしてそれは私だけではなかった。戦線の立て直しよりも私の援護を優先しようとしてこちらに近寄ってきていたダリとサガですら、口をあんぐりと開けて、目の前に現れた死者の姿を注視している。

 

「―――ふむ、二刀か」

 

だが彼は、そんな視線などまるで気にせず、自らが持っていた刀に加え先ほどまで私が使っていた刀を片手ずつに持つと、間合いを確かめるように柄の握り位置を調整しながら刀を振るった。

 

数度ほど茶色い光を放つ刀身が空を連続して切り裂いた時、シンはついに己が二刀を振るうにあたって都合のいい位置を見つけたようだった。深く頷くと、両手に持った刀の刃先を地面に向けて、肩から力を抜いてだらりと両手を垂らした、構えへと移行する。

 

「―――あ、それ」

「うむ、エミヤの構え―――ではなく、無双の構えという奴だ。いつか試してみようと思っていたのだが、生憎この刀と釣り合うものがなくてな。まさか死後こうしてその機会に巡り会えると思わなかったが―――、これもまた縁というやつなのだろう」

 

彼はそうして両手に剣を構えたまま一歩前に足を踏み出す。すると、止まっていた時間が動きだしたかのように、あたりから獣の叫び声が輪唱して聞こえてきた。その咆哮は、自らの企みを打破され、味方を無為に失ったことに対する怒りを含んでいるようだった。

 

「―――痺れを切らしたか。ちょうどいい。我が新技の錆にしてくれよう」

 

いうと彼は凄まじい密度の殺気をあたりにばら撒いた。敵味方の区別なく殺すという意思を周囲に散らしたシンによって、即座に全ての生き物の意識が彼へと向くことが強要される。向けられる視線に対して平然と剣を持ったまま構えるシンは、暴風が吹く直前の状態を思わせる、静かながらも不気味な迫力を秘めていた。

 

「――――――! ―――! ――――――……」

 

輪唱は極限に達し、しかしある時を境にピタリと止まる。代わりに、地面を擦る音が、先程よりも近くの位置から、こちらを取り囲むように聞こえてきた。多分、声とともに距離を詰め終えていた敵が、攻撃の体勢に入ったのだ。もちろん目標は、先ほど気をばら撒いたシンに違いない。

 

「―――!」

 

張り詰めた空気。後何か一つの刺激が発生すれば、戦いの火蓋は切られるだろう。呼吸がしづらい。胸が苦しい。ピリピリと肌が痛む。喉の奥はカラカラだ。唾液もないのに嚥下が出た。でも不快なはずのこの感覚が懐かしい。極限まで研ぎ澄まされた純粋な殺意同士がぶつかるこの感覚。殺し合いの相手に敬意を抱けるものしか、発する事のできない敵意。ああ、それは、シンがそこに生きている証だ。

 

「―――シン?」

 

そんな気配を感知して、治療を終え見た目がいつもと変わらない状態に戻ったエミヤが、呆然と彼の名を読んだのを合図として、張り詰めた空気は爆発を起こした。

 

「――――――!」

「―――!」

「―――――――――!」

「――――――――――――!」

 

多くの咆哮が重なり、閉鎖空間にこだまする。その全てが、シンの命を狙っているのだ。咆哮は瞬時に全周囲から彼へと近づく。間にいる私やサガ、ダリ、ピエール、フレドリカ、サイモン、エミヤは全無視だ。敵は、先ほど自らたちを挑発した男を殺してやると、ムキになっての突撃を行なっていた。

 

しかし魔物の大群に命を狙われた彼は、そんなことは些細なことだと言わんばかりに、両手をだらりと垂らした構えのまま動かない。涼やかな横顔は、敵の攻撃が自らに届くことは絶対にないと確信しているようだった。

 

「―――」

 

やがてシンの体がゆらりと動く。微かに刃先が動いたかと思うと、刀身が鈍色に光り、すっと真正面に持ち上げられた二つの刀は、一刀が天地をさかしまに切り裂き、もう一刀が彼の眼前を貫いた。

 

「一閃、改! 」

「―――!? 」

 

直後、周囲全ての空間に異常が起きた。飛びかかってきていた敵は、空間の断裂より生じた白刃に首を刈り取られ、また同じように断裂から飛び出した刀の刃先によって心臓をえぐられていた。また、心臓に突き立てられた刃は地面まで食い込み、体が場に固定されているため、支えを失った首と同じ方向に進めず、その場にて足止めを食らっていた。

 

結果、体をその場に固定された幾千もの獣の首が、シンに向かって飛んで行くというおぞましい光景を目の当たりにすることとなる。敵は何が起こったのかわからなかったのだろう、胴体より切り離された目をパチパチとさせていた。首からの出血が激しくなったのを見るに、もはや動く事叶わない首部を動かそうと懸命に試みている様子もうかがえる。必死の抵抗という奴を笑う気にはなれないが、ここまでくると滑稽に見えてしまうし、憐憫すら湧き上がってくる。

 

「抜刀氷雪! 」

 

しかしシンは、己の技が起こした変化を意にも介さない様子で続けてブシドーのスキルを繰り出すと、飛びかかってくる首を全て切り落とす。無双の構えから繰り出される二振りの刀は氷の力を伴って一振りされ、いくつもの水色の円弧を空中を突き進んだ。飛翔する氷の斬撃は、敵に触れた途端に切り口を凍りつかせ、敵の頭は見事な氷塊となりはてる。

 

そして全ての獣は、シンの剣技にて完全に殺害され、地面へと落着した。幸運にも刃の切れ味があまりにも鋭すぎたゆえ、顔の原型が残った者もいるが、シンの剣技が直撃した時点でもはやその時点で意識までも完全に断ち切られていたようで、他の有象無象と同じように地面へと転がっている。

 

出血は抑えられているため、私たちの服や地面が血に染まる事はなかったが、シンを中心とした一定区域からある特定の場所に至るまで、ばらけた魔物の頭部だけが転がり、特定の場所以降は敵の胴体が、心臓と首のあった場所より血を噴出させている光景というものは、ひどく不気味な光景だとしか言いようがない。

 

「うむ、やはり二刀でもいけるな。むしろこちらの方がしっくりとくる。早く試せばよかった。しかし、一閃改では叫びづらいな……、一閃のままでいいか。―――ああ、いかん。だが、片付けの手間が二倍になってしまった」

 

闇に胴体と首が転がる煉獄の中、そんな光景を作り出した本人は、大した感慨もないような様子で構えた剣に片方ずつ目利きを行い、その後、片方の剣の柄を逆手に持ち直すと、私の方へと差し出して平然と言った。

 

「響。すまない。飛んで来た血飛沫で刀身に血糊が付着した。落とすのを手伝ってくれ」

 

呑気な声が、獣の体散らばる空間にこだまする。シンは私に危害がないよう気遣って柄の方を差し出したようだった。死んで生き返った彼が見せる、生前とまるで変わらない調子に、私の頭はいま、目の前で何が起こっているのか理解できないと悲鳴をあげて、ひどく混乱を起こしていた。彼はじっと私が剣を受け取るのを待っている。結局私がそれを受け取れたのは、こちらへと寄ってきたエミヤがシンと談笑を行う直前であった。

 

 

「英霊?」

「ああ、その通りだ。どうやら私はその、「英霊」という存在になってしまったらしい」

「その、英霊っていうのはどう言う存在なんですか……?」

「ふむ、説明が難しいが……、エミヤ。君なら上手く説明出来るのではないだろうか? 」

「―――なぜそんなことを? 」

「だって、君、元英霊だろう? 」

 

シンの言葉に周囲がざわつく。

 

「どうして、そう思ったのかね? 」

「なんとなくだ。不思議な繋がりというか、既視感というか、こうなった体が、君に親近感を覚えるのだ。目の前にいる君は、私の同類であると、魂が告げている」

「―――そうか」

 

なるほど、英霊同士の共鳴か。魂の格が上がったことで、同種の感知ができるようになったということなのだろう。納得し、右腕にて口元を覆って頷くと、いつもより鼻息の通りが良いことに気が付ける。すると私の仕草を見たシンは、眉をひそめて、ため息を吐いた。

 

「だから先輩である君に説明を―――と思ったが、やめておいたほうがいいな。エミヤ。一旦君はその傷の治療に専念したほうがいい。―――響。彼に渡すものがあるのだろう?」

「あ、はい」

 

シンの言葉を受けて、響はハンカチに包まれた二本の細長いものを差し出してきた。浅黒い茶色と肉塊に包まれた白い棒は、よく見てやれば、まごうことなき、自らの二本指であることに気が付ける。差し出されたそれは、骨が原型を保っているのがせいぜいの救いで、肉も血管も神経もズタボロで、食べかけのチキンのような有様となっていた。

 

「―――どう見ても手遅れなのだが、これくっつけるというのか? 」

「ああ。……通常なら不可能かも知れんが、そこにいる彼―――サイモンもまた、我らと同じく英霊だ。普通は無理な案件だろうが、彼ならば、或いは道理を無茶で押し通してくれるかも知れん」

「あまり過剰な期待はしないでくれよ。持ち上げられても、できないものはできないのだから。―――見せてくれ」

 

シンに無茶振りをされたサイモンというメディックの英霊は、指の残骸を手に取ると、眉をしかめながら、しかし真剣な目でそれらを観察し、触診する。

 

「―――酷い。ああ、確かにこれは酷い。毛細血管の大半が砂を吸っているし、神経は半分以上がくっついて瘻みたいになってしまっている。肉は再生可能としても、これをいちいち剥がして元どおりにするとなると、少しばかり手間がかかるな」

「……手間がかかるだけで、治療は可能なのか?」

「まぁ、ね。無理だ、とは言わないけれど、治療に三十分は時間をいただくことになるよ」

 

サイモンは私、フレドリカ、そして、シン達を見回したのち、闇の奥へと目線を向ける。光すら吸収するかのような暗黒の向こう側から物音一つ聞こえてこない。その静寂さが、暗闇の持つ不気味さをひどく助長していた。

 

「先行した彼らなら問題ない……、とは思うが、相手があの魔のモノとそれの協力者だ。協力者である言峰綺礼という男からは、ヴィズル院長とおなじ、策略を練るタイプの匂いがする。油断していい相手ではないだろう」

「ならば尚更、エミヤの治療を済ませてもらわねば困る。彼はこのパーティー内において、最も総合戦闘力の高い男だ。彼がいるのといないのでは、今後の戦いにおいて、進行が天と地との差にもなる。何せ彼は、このエトリアにおいて最も強い男であり―――」

「―――シン。水を差すようで悪いが、今の私は、指が治ったところで、単なる足手まといにしかならないよ」

「そんなはずはあるまい。確かにあの状態の指だ。元の場所に収まったとしても、完全に馴染むまでに時間はかかるかも知れない。だがそれを差っ引いても、君の戦闘力は―――」

「違うんだ、シン。……火竜の吐息にやられた時に大半の、そして、その後言峰に捕まっていた際に、魔術―――すなわち、君たちで言うところのスキルを使うための器官をさらに大きく破壊されてしまったんだ。響が私の救済を聖杯に祈ってくれたお陰だろう、失った心臓は復元され、最低限の活動が出来る程度に肉体を修復してくれたが、私の戦闘の要である魔術回路の完全復元をしてはくれなかったのだ。―――すなわち、私は今、ほとんどの魔術を使えない、足手まといの負傷者に過ぎないのだ」

 

告げると、シンはなぜかひどく面食らった顔をして私の顔と全身を眺めると呼吸を乱し、目を瞑った。そして数度深呼吸をして荒れた吐息を整えることに集中すると、大きく息を吐き出して、瞼を開けて希望のこもった瞳でサイモンの方を見て、そして私へと視線を移した。

 

「だが、サイモンがいる。彼ならばその傷も―――」

「いや、おそらく無理だ。これはどちらかというと霊的な器官でな。必要なのは、肉体の修理修復ではなく、復元が必要だ。―――そしておそらく、スキルで行えるのは、細胞分裂と増殖によるは補填だ。私の場合神経と癒着しているゆえに幾分かは魔術回路が治るにしても、霊的器官であるそれの完全な治療は難しかろう」

「そうか。―――それは、―――非常に、残念だ。……いや、しかし、それでもエミヤの戦闘経験と奴に対する知識はあてにできるものだ。頼りにさせてもらいたい。是非とも、万全の―――、あ、いや、完治―――でもなく」

 

シンは癒えない傷を負った私に対して言葉を必死で選び、戦闘への協力を請求しようとしている。なんとも不器用にこちらを気遣う様子に、少しばかり心が和らぐ。無論、彼に言われずとも、戦闘には協力するつもりであったが、是非にでも協力したいと言う気分になる。

 

「心配するな。最悪、解析や投影と言った魔術が使えずとも、培ってきた戦闘術がある。今の言峰を相手にするに不足だろうが、そこらの魔のモノ相手に遅れを取らない程度の働きはして見せるよ」

 

答えると、シンは珍しく安心した表情を浮かべて、安堵のため息をついた。よくわからないが、彼にとって私が戦う、戦わないというのは、重要な部分であるらしい。

 

「それはですね。シンは貴方に憧れていたからですよ」

「―――! ……ピエール。驚かさないでくれ」

 

シンの顔面七変化を奇妙に思っていると、後ろから聞こえてきた、囁くような声色に、驚き思わず喉元から声にならない声を漏らしてしまう。ピエールは私が驚く様子を、いつも以上に上機嫌な態度でいやらしく笑って見せると、私の抗議など気にも留めない様子で続けた。

 

「英霊となり、ようやく憧れの人物と肩を並べ、背中を預けあい、共闘できる。守護される、ではなく、守り守られる間柄! それは己と並び立つものがいなかったシンにとって、まさに至福の瞬間となるはずだった! 幸福が目の前にあるはずだった! だが、何という悲劇なのか、エミヤという英雄は、ここに来るまでの間、敵に不意打ちをくらい、囚われの身となってしまったことで以前の様な力を振るう事が出来なくなっているという! ああ、何というすれ違い! 何と報われぬ思いなのか! 悲劇ですねぇ、ロマンスですねぇ。―――ああ、詞曲がどんどん浮かんで来る!」

 

テンションを上げるピエールはもはや楽器をかき鳴らして作詞作曲するのに夢中で、周りの様子などまるで気にしていないようだった。ここまでテンションが上がった彼を見るのは初めてなので、少しばかり気圧されてしまう。

 

だが、彼の異常行動を気にしている場合ではない。この場合、気を配らなければならないのは、ピエールではなく、シンだ。ピエールの言が正しいのか間違っているのかは置いておいて、自らの心中を語られた上で、己の秘めていた所を暴かれたのだ。

 

目線を異常者から彼へと向けると、彼は身を静かに震わせて静かに佇んでいた。纏う空気は重く、とても話しかけにくいオーラが彼の周りを取り巻いている。本心を暴かれて、不快になったのだろうか?

 

―――いや、違うな。あれは、自らの気づかぬ本心を教授されて、納得しているのだ。

 

ああ、そういえば彼はそういう人間だったな、と思い出す。ひどく懐かしい気分を味わい、同時に、少しばかり彼に対して罪悪感を抱いた。期待を裏切ってしまってすまないと思う。……そうだな―――

 

「せめて、私がスキルを使えていたのなら、君と肩を並べて戦えたかも知れないが―――」

「あれ? スキルなら貴方、使えるはずですけれど」

 

そして唐突に聞こえてきたそんな男の声に、私は思わず声の主の方を向く。するとサイモンは涼しげな顔をして、眼鏡の縁を持ち上げて、疑問顔を浮かべていた。

 

「―――どう言うことだ?」

「言葉通りの意味ですよ。少なくとも、今の貴方の体は我々のモノと大差ない作りをしていますから、問題なくスキルを使えるはずです。疑う様でしたら、火を出したいと心の中で願ってみてください。なんとなくそれが出来る感覚がやってくるはずです。あとはやってきた感覚に従うまま体を動かせば、簡単なスキルはそれで発動します」

「ふむ……」

 

―――火よ、指先に灯れ

 

サイモンの言葉を受けて、早速試してみる。心中にてそんな事を意識すると、たしかに不思議な感覚が頭から指先にかけて伝わった。経路を意識して、指先を見つめると、たったそれだけのシングルアクションにて指先に火が灯る。

 

「む……、ぅ……」

 

私は自らが世に生み出した灯火を見て、仰け反ってしまい、意識の集中を切らしたことにより小さな炎はすぐさま空気に溶けて消えていく。

 

「子供みたいな反応ですねぇ」

 

失礼な事をサイモンに言われるが、気にしない。なにせ、たったそれだけのことでこれまでは使えなかったスキルが発動するとは、夢にも思っていなかったからだ。だがしかし、これでサイモンの言っていることが正しいと証明されたわけだ。

 

魔術に変わり新たな力を得たのは良いのだが、なぜいきなりこの様な事態になったのか検討つかないでは気持ちが悪い。自らの体に何の変化が起きたのか。一体、何故私は……

 

「―――急に、スキルを使える様になったのだ」

「それについては私から説明しよう」

「ヴィズル院長……! 」

 

フレドリカが男の名を呼ぶ。突如として独り言に割り込んできたのは、がっしりとした体格の男だった。豊かな顎髭を蓄えた老年の男は、ダブルのコートに身を包み、その両肩にアーマーを着込んでいる。そして四角四面の顔の中心にある瞳には、一度決めた道であれば、いかなる困難が待ち受けていようと成し遂げるという意思の込められた眼光が宿っていた。

 

「周辺の掃討が終わったのだ。レン、ツスクル。お前たちは先に進んで、彼らの手伝いを」

「承知しました」

「ん、わかった」

 

ヴィズルが命ずると、彼の背後より二人の人物が現れた。一人は着物に袴を着用し、その上に胸当、肩当を身につけ、大きな籠手と刀を装備した、いかにも侍であるといった格好の細身の麗人だった。怜悧な瞳と額の傷が目立つ顔は、しかし美貌を引き立てるアクセントになっている。

 

その姿を目に収めた途端、シンがほう、と感心のため息を吐いた。おそらく剣士同士、目の前の人物の強さを一目で理解したのだろう。隙のない構えを見て喜ぶ様は、まさに彼らしい。

 

ヴィズルの後ろから出てきたもう一人は、先の人物とは異なり、とても小さな少女だった。彼女はその小さな体躯に黒い布を纏い、胸元にウサギのぬいぐるみを抱えている。それだけならまさに年相応の姿といえるだろうが、しかし体にまとった布がはだけるたびに覗くのは、彼女のあられもない素肌と、両足をバンド縛り付け、足錠で自らの足を拘束している姿だ。

 

また、下着の類は一切つけていないらしい。その奇天烈な格好には見覚えがあった。おそらくはカースメーカーという、呪いを取り扱う職業だ。呪詛を扱う人間は様々な制約により多くの肌をさらした格好をしなければならないと聞くが、それにしても恥じらいというものを投げ捨てたあの姿は、いささかファンキーすぎると思う。

 

ともあれ、ヴィズルの命を受けた彼女たちは、我々に一礼だけして闇の奥へと消えてゆく。

 

「エミヤ、と言ったな」

 

それを見届けたヴィズルは、私に向かって話しかけて来た。

 

「ああ」

「貴様の格好と言動から察するに、旧世界の人間―――いや、受肉化した英霊だな? 」

「―――ああ。そうだが」

「そして聖杯の光を浴びる直前までスキルを使う事が出来なかった」

「……そうだ」

「聖杯、というのは、いわゆる伝承にあるホーリーグレイルのことで間違いないな? 」

「その通り」

「ならば話は早い。おそらく貴様の体は、聖杯によって作り変えられたのだ」

「―――その根拠は?」

「元々、かつての世界では、魔のモノの環境汚染から世界を救うために様々な研究がなされていた。その研究の一つに、『諸王の聖杯』を作り出すという物があった。それは、今後地上を捨ててはるか上空の大地にて住まねばならない人間を、高度環境に適応させるために開発された道具だったのだが、同時に、スキルが使えない人間を、スキルが使えるように変化させる道具でもあったのだ」

「諸王の―――聖杯? 」

「ああ。噂によれば、それは、魔術師によってもたらされた聖杯という魔術用具のデータを参考にして作られたのだという。本来の用途は奇跡を起こし人を癒す機能しか持たないそれを、癒すの解釈を拡大し、人間の体を弄り、改造するための道具にしたと聞く。―――ある研究者はそれをさらに改良して、不老不死を得ようと試みたり、他者より生命力を奪う呪銀の盃を作り出したようだが……まぁ、この度は関係ないか。ともあれ、もし―――先ほど黒衣の男が持ち去った聖杯が、同様の改造を施された聖杯を参考にした部分があるのだとしたら―――」

「なるほど、同様の機能を発揮した聖杯が、響の「私を助ける」という願いによって、スキルが使えない体である私のそれを異常と判断し、私の体をスキルが使える様、作り変えた可能性もあるというわけか」

 

ヴィズルは静かに頷く。なるほど、彼の話には一定の説得力がある。魔術や科学の両方について造詣が深い様であるし、おそらくその線で間違っていないのだろう。

 

「そうか、スキルが使える様になったのか」

 

ヴィズルと私の会話を聞いていたシンは、己のことでもないのに、なぜか感慨深そうに呟く。その恍惚とした表情を見るに、やはりピエールの語りは正しいのだろうと思う。

 

「しかし、エミヤ。君はエトリアで転職をしていないだろう? それでは基礎的なスキルしか使えないのではないか?」

「あ、確かに。戦闘職系列のスキルを使うにゃ、上で登録しなきゃならないもんな」

 

しかしそんなシンの喜びに正しい意見で水を差す輩がいた。ダリとサガだ。

 

「あ、そういえば、エミヤさんの職業、アーチャーとかいう特殊な独自職でしたもんね」

「ああ。だから、彼はエトリアに貢献してはいるものの、ポイントは加算されていないし、今更転職したところで、本当に一からだ。そもそも、追放された我々は転職が出来ないから、こんな話をしたところでなんの意味もないのだが」

「だよなぁ」

 

響が受けて、ダリが続ける、アーサーが同意する。話は私と―――、シンを落胆させる内容だったが、いちいちもっともな意見で、反論のしようがなかった。頷くサガに対して、シンは再び大きく肩を落として落胆をあらわにする。今更気がついたが、このシンという男、案外感情を豊かに表現する男だ。

 

「いや、それについてなら私がなんとかしよう」

「―――なに? 」

「仮にも、世界樹の世界が出来上がって以降、一千年以上もの間、エトリアが成長するのを見守り、守護して来たのだ。ならば、それがたとえ離れた場所であろうと、世界樹の内部であれば、エトリアのシステムに介入することなんて、たやすく行えて当然だろう? ついでに君たちの貢献度も最大にして、スキルの割り振りを行ってやろう。……私自らこれをやるのは久しぶりだな―――、さて、エトリアの地にて冒険者を目指すものよ。君はどんな冒険者になる事を望むのかね? 」

 

 

真っ暗な闇を駆け抜ける。先頭を走るダリの掲げる炎は通過する一瞬だけ周囲を明るく照らすが、瞬間の後には暗闇の中へと貪欲に吸い込まれて光は消えてゆく。お陰でいつまでたっても周囲の地形を把握する事は叶わず、私はただ先頭に続く彼らの後ろに続くことしかできない。

 

「―――近いな」

 

けれど黒雲母のような光を閉ざす暗闇といえども、音までは遮断することはできないようで、シンの呟きに私も耳をすませると、サガのいうところの品のない爆発音や、瓦礫の崩れる音などが確かに耳朶を打つ。

 

「狭い洞窟に反響してわかりづらいが、大分戦線が伸びているようだな」

「ああ。でなきゃこうも連続して大爆炎の術式の音が聞こえてくるはずねぇ」

「閉鎖した空間でむやみやたら燃焼を伴う現象を起こすのは色々と自殺行為ですからねぇ。―――しかしこの回数……。広域殲滅術式を連続してもう十は使っている。つまりは……」

「それだけの広範囲に敵が分布しているか、デカく耐久力のある敵がいるか、はたまた広域でないと当たらないようなすばしっこい敵がいるのか、ということだな」

「うむ、その通りだ」

 

四人の会話は空白の期間があったと思えないほど流暢で、やはり共に過ごした年月の長さというものは、多少の空きがあっても一瞬でそれを埋めてしまうものなのだなと思う。彼らのやり取りを見ていると、あるべきものがあるべき姿に戻った感じがある。

 

ブシドーたる彼が戻ったこのパーティーは、まさに元の鞘に収まったが如き、冒険者の自然体の姿がそこにはあった。二度と見れないと思っていた光景なだけに、すごく胸が弾み、心が落ち着く。

 

「エミヤ。問題はない? 」

「―――ないとは言い切れん。だが、フレドリカ。君の仲間の治療のおかげで、強化、解析、投影の魔術が最低限使用可能な状態にまでは体調が復活した。固有結界の使用は不可だが、先程覚えたスキルと併用すれば、万全の時と同じようにはいかないだろうが、足手まといにならない程度の活躍は見込めるだろう。サイモン、そしてヴィズル。感謝する」

「ああ」

「礼はいい。―――それよりも、言峰という男について、いくつか聞いておきたい点がある」

「なんなりと」

 

一方、先程召喚されたばかりの英霊一行は、しかし違和感なくエミヤを中心として固まり、この先に待ち受けている敵の情報の共有をしていた。その隙のなさ、その真剣さはまさに歴戦の英雄と言った荘厳峻険な雰囲気を醸し出している。なんという安心感。敵地のど真ん中にいながら、私の心はかつてないほど平穏な気持ちに満ちていた。

 

―――なんかちょっと、楽しいかも

 

そして二つのパーティーのちょうど中心に挟まれた私は、不謹慎にも、現役の冒険者たちと過去の英雄たちに囲まれたこの状況に、胸を躍らせていた。気がつくと、いつもより頭も肩も軽くなっていて、胸の奥にあったガチガチとした固いものが消えた感じがする。

 

思えば、シンが死んでから、私はずっと気を張って過ごしていた。死んだ彼の代わりにギルドのメンバーとして活躍しなければならないと、日常を過ごす中でも、神経が昂ぶっていた。どれだけ今までの自分を超えた出来事を達成しても、死んでしまったシンの功績が立ちふさがり、私の身を満たすのは、満足ではなく、焦燥感ばかりだった。

 

多分どうにかして居なくなった彼の代わりを務めなくてはならないと思い込んでいたんだろうと思う。だからこそ、彼の代わりを務めきれない私は、色々なことに気を揉んで、イラついて、余裕をなくして、そして、理想と現実の差に苦しめられていた。それこそが、あのモヤモヤとした胸の苦しみの正体だったんだ。

 

思い返せば、そのせいで、ギルドの仲間やエミヤ、ヘイやサコといった人物にまで随分と失礼な態度を取ったものだ。この戦いを終えてエトリアへ帰ったら、まずはそのことを彼らに謝らなくてはならない。そう。この戦いを終えて、みんなでエトリアへ戻ったら―――

 

「―――見えたぞ、正面だ! 」

 

非日常の中、日常を思い返してかつての己がとった無礼な態度に反省をしていると、シンの声が洞穴の中に響いた。突き進む彼と異邦人の一同に続いて、私も光の差し込む側へと足を踏み出す。すると―――

 

「クロスチャージ! 」

 

大声がひらけた空間の中に響き渡り、大型の敵魔物の巨体に大穴が開いた。直後、槍の刺突攻撃により体に開いた穴から波が巨体の全身に広がったかと思うと、敵の体は空気中の塵と化して消えてゆく。さらに遅れて、パン、という音が、あたりに響き渡った。おそらくは攻撃の音が、現象に遅れてやってきたためだろう。

 

今の一撃はおそらく、周囲にいる人間の血液の流れを操作することで一定の時間だけ攻撃の威力をあげるスキル『ブラッドウェポン』と、力を貯めることで次の一撃の威力をあげるスキル『リミットレス』、そして、攻撃に振動を乗せることで一撃の威力をあげるスキル『ディレイチャージ』を併用して、ハイランダー最大の攻撃スキル『クロスチャージ』を放ったが故の威力なのだろう。

 

けれど、それにしても、二十メートルはあろうかという巨大な敵の体を消滅させるのほどの威力を持った物理攻撃なんてデタラメなものを見たのは初めてで、その凄まじい威力に、私は思わず足を止めて、一撃を放ったハイランダーの彼の姿を呆然と眺めていた。

 

「―――ああ、もう、やっぱりダメなの!? 」

 

しかし、そうして消滅したはずの敵は、すぐさま別の場所にて一片の傷をも負っていない状態で瞬時に復活し、最大の一撃を放ったばかりで隙のできたハイランダーの青年へと襲いかかる。ラクーナというパラディンの女性は、ハイランダーをかばってカバーリングに入ると、身の丈ほどもある盾を前に突き出してその攻撃を防ぐとともにいなし、彼と共にその場を離脱。敵と距離を大きく開けた。

 

「ラクーナ、ナイス! ―――仕切り直しだ。もっぺん焼き払うぞ! 大爆炎の術式! 」

 

生じた隙を見計らって、アーサーというアルケミストが炎術スキルを使用する。機械籠手から放たれた炎は、空気中の酸素を喰らい尽くしながら瞬時に彼の前方へと広がり、塵からの復活を果たした敵を飲み込み、周囲を爆発の光で照らしあげた。

 

離れたこの場所にまで耳をつんざく音を伝えてくるその炎術の威力や凄まじく、サガの放つ一撃が児戯に見えるほどの勢いで、前方の空間全てを炎と煙で覆い尽くしていた。しかし。

 

「―――そして再びふりだしにもどる、か」

「……、けど、耐性が元に戻るのは、助かる。弱法師の呪言、使っとくね」

 

やがて煙が晴れる頃、灰色に燻出された空間から悠々と姿を現した、二十の数に増えた敵の姿を見て、レンという剣士はため息を吐きながら腰を低く落とし、居合の姿勢に構えた。

 

すかさずツスクルというカースメーカーが呪いの言葉を呟き、なんらかのスキルが発動した光が彼女の体より放たれ、敵の体を取り巻く。聞いたことのないスキルだが、名前的に敵が仕掛けてくる物理攻撃や属性攻撃の威力を軽減するか、あるいは敵の物理、属性耐性を下げるスキルだろう。

 

「もうこれで六十近くは倒したのよ!? いい加減、限度ってもんがあるでしょう!? 」

「だからって文句を俺に向かって言うなよ、ラクーナ! 」

「言い合っていてもしかたないだろう―――、ああ、来たのか、リッキィにサイモン」

「ええ。みんな、大丈夫? 」

「ああ。敵は数こそうんざりするほど出てくるが、強さは大したことない奴らばかりだ。―――とはいえ、いい加減、キリがないのにはうんざりだ。サイモン。何かわかるか?」

「ふむ。この手のタイプは大抵、核となる敵を倒せば、取り巻きごと消えると相場が決まっているものだが―――」

 

サイモンは眼鏡中央を押し上げて位置を直すと、目の前に群れる敵の集団を観察する。鋭い眼光が広大な空間の一部を大きく占有する人型の巨体の群れに向けられ、敵の集団は己の全てを見透かすかのような視線に、怯えるかのようにしてたじろいだ。

 

「―――どうやら全て同一個体のようだな。おそらくあそこに中心核はいないのだろう」

「その通りだ」

 

サイモンの結論に、ヴィズルが頷いて前へと進み出る。その場にいる全ての人の視線が彼へと集まった。同時に、彼のそばへとレンとツスクルが歩み寄って、周囲の守りを固める。敵の視線を警戒しての事だろう。

 

「人型の白い体躯。人面の額にある第三の目。鱗に覆われた下半身。魚のヒレに似たゼリー状の頭髪部。異様に発達した手腕部。肋骨部分にあるエラの切れ目。―――はるか過去の時代に、あれと似た姿の敵を見たことがある。おそらくあれは、魔のモノと呼ばれた宇宙怪獣が、己の体を地球環境へと適応させて生み出した奉仕種族、『フカビト』だ」

 

ヴィズル元院長がその名を述べた途端、己が正体を言い当てられたフカビトたちはピタリと震えを止めた。まるで微動だにしなくなった全身とは裏はらに、けれど頭部に生えた触手のような髪だけがざわざわと不自然に動き、剣呑な気配を発している。

 

「しかしあれは、末端に過ぎない。以前に調査隊を送り込んだときは、奴らを束ねる真祖と呼ばれる存在がいたと聞く。確か当時報告で聞いた奴の名前は、災禍王―――」

「それは人の子が勝手につけた名だ。本来、我に名はない。我は、我らが神に奉仕する種族を生み出し束ねるための、父にして母なる座にすぎん」

「―――誰だ! 」

 

ヴィズルの言葉を遮った者の出現に、レンが咄嗟の反応を示し、構えを深くしながら叫び尋ねる。すると、眼前、大型の巨人たちが祭祀のように群がる暗闇の中心、少し盛り上がった地面部の祭壇の上空に、それは突如として現れた。

 

「……うぇ、気持ちわる……」

「……、なんだ、それは」

 

フレドリカとサイモンの疑問も最もだと思う。そいつは、体表が真っ赤なクラゲに、ソフトシェルクラブの甲殻を被せ、足となる部分を、イソギンチャクの触手や、エビの足、サメの歯をあちこちに生やした様な、海の生物の特徴的な部分だけを片っ端から混ぜこぜにしたような外見をしていた。百メートルはある巨体の中心には魚と人を合成した様な顔が備え付けられており、それが一層の不気味さを煽る要素となっている。

 

「―――ヒトという種族に討伐されて以降、ヒトを憎み、嫌い、ヒト型を生み出さなくなったかのお方が、コトミネというヒトの協力の元、力を取り戻し、奴と同一化したというのはなんとも奇妙な感覚であるが……、まぁ良い。かのお方が目覚め、私をこの場に呼び出し、復活させたというのであれば、求められた役割を果たすのが従僕の使命―――」

 

『父にして母なる座』と名乗ったそいつは、二人の質問に答えることなく周囲の巨人が小さく見えるほどの体を大きく揺らすと、地面に垂れていた食虫植物の先端のような触手を動かし、持ち上げた。奴のあまりの大きさと遠近感が狂ったのだろう、触手の動きは緩慢に見える。だが、一秒とかからないであれだけの巨体が百メートル近くも持ち上がるのは、尋常な速度と力ではない。

 

「―――さぁ、子らよ。食事の時間だ。共に、目の前の供物を存分に喰らうとしよう」

 

そして振り下ろされる触手。同時に、下にて恭しく待機していた巨人どもがこちらにむけて突進してきた。ぱっと見、五百メートルはある距離を瞬時に詰めてくる様は、なんとも壮大な光景だと、どこか他人事の様に思う。これでは敵との接触に十秒もかかるまい。

 

「……、パーティーを二つに分ける! リッキィ、ラクーナ、アーサー、サイモンは俺と一緒にここで奴を倒す! それ以外のメンバーは奥へ進み、元凶を討て! いいな!」

 

茶色い髪を特徴的な髪型にまとめた細身のハイランダーの彼は、戦況を判断し、戦場によく通る声で、戦力の分断を指示した。彼の宣言の如き一喝と同時に、名を呼ばれた一同が気色を伴った、歓喜の、苦笑の、満面の、渋面の顔を浮かべて、次々に死地へと飛び出した。

 

「ええ、もちろんよ! 」

「ま、いつも通りってことね」

「へへっ、わかりやすくて好きだぜ、そういうの」

「そして苦労を背負うのは僕の役目というわけか……」

「あら、ご不満なら、あとで私の手料理で労ってあげましょうか? 」

「やめてくれ……、祝いの席で呪いの毒物を好んで経口摂取する被虐趣味は、僕にはない」

「なぁんですってぇ! 」

「事実だ、受け入れろ! 」

「―――なぁ、リッキィ。なんでラクーナって、腕前がああなのに料理好きなんだ?」

「知らない。呪いと毒の合わさった劇物を作り上げる人の気持ち、私に聞かないでよ」

 

そして彼らは緊張感なく、文句を言う暇を私たちに与えないまま、それぞれの獲物を構えて突進する。その気負いなく自然体な様は、しかしなんとも今の時代の冒険者が纏う雰囲気に似通ったところがある。そんな共通点は、彼らはかつて古き時代、最初に迷宮踏破者として名声を築き上げた英雄なのだと、不思議な安心感を抱かせてくれた。

 

「―――ならば期待に応えて、私達は奥へと進むとしよう」

 

勇敢に巨大な敵へと迷わず向かった彼らの判断を尊重して、シンが宣言する。言葉に反対するものはなく、誰もが無言のうちに、奥に潜む敵討伐の意思を固めていた。遅れて、暗闇を染め上げる閃光と爆音が戦闘開始の合図として鳴り響く。

 

「―――ところで、その、奥、とやらへ行くためには、どこに向かえばいいのかね? 」

 

空気中から伝わってくる戦闘の余熱が伝播してみんなの神経を昂らせる中、エミヤは冷静に不明点を指摘して尋ねた。あ、と誰かの声が漏れたのを皮切りに、私たちの視線の多くは、自然とヴィズル元院長に集まる。多分私同様、先程までの博識に期待してのものだろう。

 

「……、ご期待に添えず申し訳ないが、私は知らんぞ」

 

しかしその強面から発せられた言葉に、少しばかり落胆の空気が流れる。勝手だが、期待していた回答が得られなかった時のそれは、少しばかり大きかった。

 

「ご安心を。それならば私たちが存じております」

 

しかしそんな身勝手な思いに答える声があった。涼やかな声は、微かに弛緩した空気に緊張感を与え、私達の視線は一転して声の主の方へと向けられる。

 

「レン」

「はい。構造こそ少々異端ではありますが、この地下に沈んだフユキという街も、結局のところ造りは通常の迷宮と変わりありません。階層には迷宮があり、番人がおり、そして、その先にはさらに下層へと通じる階段がある。すなわち―――」

 

言葉に所作が続き、私たちはその白魚の様な指先を眺める。爪の先は先程突撃した彼らが戦闘を繰り広げている場所―――、のさらに奥にある暗闇の空間を指し示していた。

 

「番人の部屋の最奥です。先程、戦闘中に起きました爆発の最中、穴を確認致しました」

「―――ふむ」

「―――奥か」

 

レンの言葉に、ヴィズル元院長とエミヤが苦い顔をした。遅れて私たちもその言葉の意味に気がついて、個々の顔が曇ってゆく。

 

「なるほど。という事は、私たちもあの戦場を突っ切る必要があるというわけか」

 

しかし周囲の暗さに呑まれてゆくかのような雰囲気の只中にあって、ただ一人、シンだけがあっさりと言いのけた。彼はいい笑顔を浮かべ、瞳を爛々と輝かせ、両方の腰に携えた剣の柄握りしめて、体を疼かせている。

 

―――ああ、なんとも、シンらしい

 

彼は、目の前に広がる困難を喜んで、全身を震わせていた。そうとも。彼の本質は、衛兵ではなく、錬金術師ではなく、詩人ではなく、正義の味方ではなく、統治者ではなく、従者でなく、もちろん道具屋でないのだ。

 

進んで困難の道を選ぶ、勇敢とも、場合によっては蛮勇とも受け取られるその気質。犠牲や痛みを怖がって慎重や利を選ぶ私たちとは真反対のその資質は、まさに真の冒険者であり、英雄である人間が持つ資質と言って過言でないだろう。言うなれば、彼はまさになるべくして英雄の霊、とやらになったのだ。

 

「―――は、はは、あははははは。うん、ああ、シンの言う通りだな」

「うむ。洞穴の端を行こうにも、この大人数で天井の大部分を陣取り全体の様子を俯瞰出来る親玉と、大地を暴れまわる三十の敵の目をかいくぐって、というのは現実的ではないな」

「ならばいっそ、戦火飛び散る中を最短距離で一気に駆け抜けるのが上策ということですか。敵陣の中央突破! いやぁ、胸が高鳴りますねぇ……」

 

そして英雄であるシンの言葉に、ギルドの昔馴染み三人は笑いながら答える。シンの言動はいつだって無茶振りばかりだけれど、結果は大抵正しいのだ。彼らはそのことをよく知っているがゆえ、迷わずシンの提案に賛成した。そしてエミヤはその様子を眺めて苦笑し、ヴィズル元院長とレン、ツスクルは困惑顔を浮かべていた。

 

「……、彼らはいつもああなのかね? 」

「―――はい。あれが、シンと、彼を中心としたギルド「異邦人」という、私にとって最高の英雄と仲間たちです」

 

ヴィズル元院長の問いに私が最高の笑顔で答えると、彼とお付きの二人は一瞬あっけにとられた顔へと表情を浮かべたが、すぐにエミヤと同じような、慈愛と納得と諦観を織り交ぜたような複雑な、しかし受容の笑みへと変化させて、数度頷いた。

 

「なるほど、困難を前にして、気高く胸を張り、喜び勇む。そしてその向こう見ずとも思える勇気は、周囲を鼓舞し、弱気に陥った仲間を奮い立たせる。……あれが正しい英雄の姿、というやつ、か。―――ふ、では、今代最高のエトリアの英雄殿の指示に従うとしよう」

 

 

「悪いな、通るぞ! 」

「―――!? 」

 

私たちの先頭を疾風となり走り抜けるシンは跳躍すると、エミヤさんに似た構えから二本の剣を用いて器用に、『小手討ち』を繰り出して巨人の両腕を半分ほど断ち切り、腕の動きを封じた上で首の前面部を『ツバメがえし』で切り刻み、さらにすれ違いざまにその首の後ろ側に『首討ち』を叩き込んだ。シンは最後に巨人の後頭部を蹴って勢いをつけると、空中より地面へと降り立った。

 

言葉を発する間も無く先制攻撃を仕掛けられた巨人は、シンの連続攻撃により首と胴体を別けられ、蹴りの勢いにて頭部が地面に落下する。私たちは頭部を失った巨人の胴体のすぐ横を駆け抜けてゆく。

 

「先の先にて機先を制し、無双の構えから技の連撃を繰り出すか。二刀を容易く扱うセンスといい、成る程、彼のブシドーとしての才能は底が知れないな……」

 

確かにその通りだ。しかも、彼の場合、おそらく初めて二本の刀を握って、あれなのだ。まさに才能の塊。シンと同じ職、ブシドーであるレンの独り言に内心同意を返しながら、けれど振り向きもせずに前を見て進む。死して成長を果たし強くなった彼の実力に驚きはしたが、今、それは重要なことではない。

 

「―――次のがくるぞ! 」

 

サガが叫んだ。仲間の死に反応してか、二匹目の巨人がこちらへと向かってきている。シンは攻撃の直後の着地や硬直などで若干体勢を崩しており、まだ次の攻撃に移れない状況だ。

 

「しかし私も負けん」

 

そこで前に出たのはレンだった。居合の構えをとって前傾姿勢気味に走っていたレンは、姿勢を保ったまま二番手として飛び出すと、通常の居合の姿勢よりも多少体を捻りつつ、目にも止まらぬスピードで剣を鞘から振り抜いた。青い刀身に鞘走りの際に生まれる火花が乱反射し、小粒の閃光が宙を舞う。

 

「抜刀氷雪改! 」

 

シンの攻撃が流麗な一連の動作の組み合わせによるものであるなら、こちらの攻撃は、一撃に全てをかける剣術だ。レンの放った氷の力を伴う斬撃は、刃先が鞘より完全に姿を現した瞬間より、空中に刀と同じ青の色をした力が形成され、超広範囲に青の軌跡を描きながら敵へと向かってゆく。

 

空中を進んだ斬撃は、とっさにガードをしてみせた巨人の腕と接触すると、その防御を無駄な足掻きと嘲笑うかのようにするりと体内への侵入を果たし、突き進み、背中側より抜けてゆく。遅れてギシギシと空気が歪む音が聞こえたかと思うと、レンの斬撃が通り抜けたその部分は氷で覆い尽くされた。

 

やがて私たちが身動きしなくなった敵の横を通り抜けた後、背後にて地面を揺らす衝撃が大きな落着音とともに周囲へと伝播し、私たちの行く手を微かばかりに拒む役割を果たした。命をかけた割には余りに僅かすぎる、巨人が末期に行った妨害を無視して、私たちは前へと進む。

 

「レン、やるな」

 

行く手を遮った敵を一手で始末してみせたレンの手際に、追いついたシンは短く褒める言葉をかけると再び先頭へと返り咲く。レンは自らの全速力を軽々と追い越していったシンの身体能力を見て、少しばかり悔しそうに眉をひそめると、しかしすぐさま平生の顔へと戻して、後ろ姿を見つめながら、言う。

 

「君のような才能に恵まれなかったものでね。一つの特技だけを極めた結果さ」

「そうか。しかし、見事な研鑽と腕前だ」

 

己を卑下する言葉をシンは真正面から受け取って、けれど取り合わず、再び賞賛の言葉をレンへと返す。あっけらかんとした態度に、レンは、ふぅ、とため息を漏らして、苦笑しながら無言にてその言葉を受け取ると、迷いを断ち切った様子で再び居合に構える。

 

どうやらたったそれだけのやりとりで二人は互いの理解を深めたようだった。近接職同士の同調という奴だろうか。シンとすぐに理解し合えるレンが少しばかり羨ましい。もやっとしたものが胸に湧いてきた。―――嫉妬だ。

 

「―――今度は集団で来たぞ! 」

「全方位からハイランダー達をガン無視して迫ってきていますねぇ」

「……どうやら上から本命もご登場のようだ」

 

しんがりをつとめるダリとピエールから警告を飛ばし、さらにエミヤが続けた。立て続けに二匹を始末した敵が自分たちを無視し真っ直ぐ進んでいる事から、私たちの目的を察したのだろう。だからこそ今度は、私たちの行動を阻害するように、徒党を組んで襲いかかって来たのだ。しかも、番人格の敵までもが、こちらへと近づいてきている。

 

「―――上の奴、体の割に速いぞ! 」

「このままでは、出口を体で塞がれる! 」

「……任せて」

 

サガとダリの叫びに、小さく反応した声があった。全力疾走している現在、ともすれば聞き漏らしてしまいそうなほど小さな声を発したツスクルは、ボソボソと何事かをつぶやいた。

 

―――……!!

 

途端、私の全身を、つい先ほど味わった嫌悪感が走り抜けた。思わず振り向いて彼女の方を見ると、顔を伏せてと、口元を小さく動かしているツスクルの体を包む黒いローブから、さらに漆黒の色をした身の毛よだたせる瘴気が漏れて、彼女の小さな体を覆い尽くしていく。この感覚には覚えがある。これは先ほど、あの涸れた湖底で味わったばかりの―――

 

「上位者たる我の言葉に従え。『悶え、苦しめ、動くな』」

 

そしてツクスルが使用したカースメーカーのスキルは、敵に異常な変化を齎した。私たちに迫りつつあった敵は、瞬間まさに、完全にその動きを止めたのだ。

 

空中を浮遊していた巨大な核となる敵は、一瞬だけピタリと停止した。周囲より迫りつつあった敵は、駆けている姿勢そのままでの硬直したため、体勢を崩して地面に勢いよく転がってぶつかった。巨体がぶつかった衝撃に、地面より凄まじい量の土埃が舞い上がり、私たちに迫り来る。敵は苦悶の表情を浮かべてこちらに怨嗟の視線を送っていた。

 

「な、何が……」

「『禍神の呪言』。この世界に存在する、呪いの親玉の力を借りて、敵に命令する。基本的にどんな相手にでも通用するし、呪い、麻痺、石化に睡眠、混乱に恐怖といったいろんな状態異常を一気に起こすことが可能。……肉体に直接的影響を及ぼす必要のある毒だけは無理だけれど」

「は、はぁ……」

 

あっさりといってのけるが、それは物凄いスキルなのではないかと思う。どんな敵にでも複数の状態異常を引き起こすことが見込めるスキルなんて、まさに切り札といって過言でないスキルだ。シンといい、レンといい、ツスクルといい、どうやら英霊となる人物の身のこなしや修得しているスキルは、今の時代を生きる私たちが覚えているものよりもずっと強力であるらしい。

 

出来た隙を利用して、私たちは洞穴の奥へと駆け抜ける。そうしてツスクルが呪言を連続使用してくれたおかげで、私たちは全員は、空中を凄まじい速度で迫る砂埃が私たちを覆い尽くす前に、なんとか洞穴の端までたどり着くことができた。

 

しんがりをダリと入れ替わり、ツクスルの前に進み出て、周囲への警戒を密にする、シンとレン。二人の後ろに続いていたサガは洞穴の入り口に走り寄ると、壁面にぽっかりと空いた穴を潜ろうとして、しかしその入り口直前にて勢いよく跳ね返され、地面に尻餅をついた。

 

「―――くそっ、なんか障壁みたいなのがあるぞ!」

「地下への階段とは、本来なら番人を倒さねば通れぬ道だからな。―――奴め、世界樹の特性をここまでコピーしていたのか」

「院長。貴方、今、なんて……? 」

 

舌打ちをするヴィズル元院長に、ピエールが尋ねる。問いかけを無視したヴィズルはサガの横を通り抜けると、入り口の空中にあるのだろう障壁に手を差し出すと、瞳を閉じて、集中の態度をとった。

 

「―――解除」

 

そして発せられた短い言葉。同時に、空中にて停止していたヴィズル元院長の腕が、するりと前へと押し出される。ヴィズルによって障壁が解除されたのだ。

 

「……ヴィズルでいい。今の時代、すでにエトリアを束ねる人間は私ではないのだから」

 

自虐ともつかない言葉を述べつつ、彼はたくましい体を横に退けた。壁面にあいた地下への入り口があらわになり、土煙に汚れた空気が現れた空間に飲み込まれてゆく。汚染された空気を取り込む様は、まるで、この地下に潜むものの特性を表しているかのようだと思った。

 

「ヴィズル」

「ん? 」

「私はここに残って彼らに協力する。私のスキルは多分、下にいるやつには通用しないから」

 

ツスクルが述べた言葉の意味を考えて、なるほど、と納得した。先ほど、カースメーカーである彼女は、自らのスキル『禍神の呪言』は、呪いの親玉の力を利用して敵に状態異常を引き起こすものであると言っていた。彼女のいう呪いの親玉とは、すなわち魔のモノであるに違いはあるまい。

 

だからこそ、その眷属である奴らには、目の前の敵には驚くほどその力が通用したのだが、けれど、だからこそ、その力が、呪いの親玉そのものに有効である可能性は低いだろうと推測し、彼女は自らの力を最大限に活かすため、この場に残る選択をしたのだ。

 

「―――そうか。……ここまでご苦労だったな」

「ん」

「ヴィズル。彼女が残るというのであれば、私もここに残り、彼女を守ろうと思う」

「……わかった」

 

レンの宣言にヴィズルは小さく頷いて肯定の意を返した。レンはそれに丁寧に頭を下げて返礼とすると、ツクスルの前に躍り出て、彼女を守る意思をあらわにする。二人の細い背中には、この場は何があろうと死守するし、敵は打倒するという、絶対の意思が宿っているかのように、頼もしいものだった。

 

「―――では、私たちは地下へ向かうとしようか」

「ああ」

 

エミヤの進言に、シンが頷き、狭い暗闇の空間へと飛び込んでゆく。エミヤ、ダリ、サガ、ピエール、私と続き、最後のヴィズルが背後の守りを固める。そして松明の光すら一瞬

無へと帰す暗闇の中、私たちは味方の意思を継ぐかのように、急ぎ前へと足を進めた。

 

 

「―――これが」

「最奥地……、か」

 

強化した身体で一時間以上も駆けて、奈落へと続いていた暗闇を抜けた先、広がっていた光景は壮大であり、幻想的であり、しかし、同時にひどくおぞましいものでもあった。抜けた先には広大な平原が広がっていた。見凝らせば、どこまでも続く広い大地は、おそらく過去の時代には、太陽の光を浴びて成長した青葉広がる草原だったのだろう。

 

しかし今、その原を、触手が覆い尽くしていた。遠く、平原の中心では、人の脳みその形をした魔のモノが鎮座している。まるで縄を全身に巻きつけられ、身動きを封ぜられたような姿は、まさに、祭り上げられた、という言葉がしっくりと当てはまるような出で立ちだった。

 

やがて巨大な空間の地面の大半を触手で埋め尽くす存在、すなわち、魔のモノである脳みそを覆う触手の密度は高くなってゆく。そして人の頭部のように変貌すると、続けて、顔面の形状が浮かび上がり、もう少しで顔に穴が空いて顔面の体裁が整う寸前、しかし奴は形状を変え、宙へと浮かび上がってゆく。

 

やがて魔のモノの親玉が潜んでいた部分の上空には、巨大な球体が浮かんでいた。それは球体でありながら、不定形でもあり、また、触手でもあった。先ほどの脳みそに触手が集まって、出来上がったのが、あの悍ましく蠢く星であるということだ。

 

『―――ようやく、ここまでたどり着く事が出来た』

 

敵を観察していると、広大な空間に静かな声が響く。老人でなく、子供でなく、男でなく、女でない、人ならぬものが人の声を真似ただけのような、どこか機械的な不自然さがあるその声は、目の前にいる縛り上げられた脳みそから発せられていた。

 

直後、暗闇に光が満ち溢れる。朝焼けの光に照らされたようだった。目も眩むような光に、思わず瞼と腕を用いて遮光を行う。そして。

 

「―――」

 

やがて構えを解いた時、眼前に現れた光景を見て、私は言葉を失った。触手を束ね、人の頭部の形へと変貌した奴は、全身からほのかな光を発し、一旦触手の集合を離散させ、平たいアメーバ状になっていた。

 

奴という光源があるものの、周囲の暗さと奴自身の明るさが邪魔をして正確な距離は計測できないが、軽く十キロ平方は超えているだろう天井の半分以上を覆い尽くし、一キロは軽く越しているだろう天井の高さの半分以上を埋めている事実から、奴のなんとも途方も無い巨大さが理解できる。

 

『思えば、腹を空かせたからと言って、追われていたからと言って、この星に着地したのがそもそもの間違いだった。―――お陰で数千年もの間、力を封ぜられ、我の力を利用し打倒され大半以上の肉体を失い逃げ回るという、恥辱に満ちた日々を過ごす羽目となった』

 

続けて、外周が不定形に蠢き、中央には巨大な亀裂が生じた。同時に奴の不定形の体に同じような亀裂がいくつも生じる。やがてそれらは、ゆっくりと上下に開くと、その奥より、黒白の入り混じった、大きな人間の瞳が無数に現れた。瞳は奴の巨大な体に見合った大きさで、横幅は一つ一つが百メートルにも達しようかという、巨大なものだった。

 

『しかし、その屈辱の日々もようやく終わりを告げた。まさか、我と同じ性質を持つ人間がこの星にいるとは思ってもいなかったが、奴の献身により、私はかつての力を取り戻すことができた』

 

奴の触手の一部が蠢く。暗闇の中、千メートルは優に距離があるはずなのに、私は奴のその場所に埋め込まれている存在に気がついた。見紛えるはずもないその姿は―――

 

―――言峰綺礼

 

奴に自らと同じ性質であると断言されたその男は、魔のモノの胸の内で満足げな顔を浮かべて眠っているかのように目を瞑り、穏やかな顔を浮かべていた。魔のモノは触手の足でその部分を静かに優しく撫でたかと思うと、一転、全身を痙攣させた。

 

『―――もはやこの星に未練はない。私は此度の来迎により得た得難き新たな客人を手土産に、この地を去ろう。―――しかし』

 

奴の言葉が途切れると同時に、空気が重くなる。細められた瞼が痙攣を起こしたかのように震えている。巨体の引き起こす振動は、奴の周囲の空気より私たちの周りまで伝播し、奴の感情を伝えてくる。―――それは、全てを焦がし尽くさんとするほどの、怒りだ。

 

やがて魔のモノは、己の自身の裡より生じたその負の感情を表すかのように、全ての瞳を大きく振盪させると、やがて静かに瞳を閉じ、そして再び瞼を開けた。巨大すぎる触手の体の上へと形成された無数の瞳の瞳孔が、全て私たちに向けられる。その瞳の奥に秘められた激憤の感情は、推し量ることも出来ないほどのプレッシャーとなり、私たちに襲いかかる。

 

『究極の個に等しい存在であるこの私が、矮小な存在の群れ相手にこうまでコケにされたまま、というのは勘弁ならない。―――私は、この地に存在する、私を封じ込めしオリジナルを消滅させることで直接的に復讐を果たし、同時に、間接的に貴様らへの復讐も済ませ、晴れ晴れとした心持ちで、この憎々しい大地から立ち去るとしよう』

 

地球上の生物全ての殲滅を宣言したそいつは、瞼をかっと開くと、溜め込んでいた感情を漏らす吐息を吐いたかのごとく、全身を震わせて、尊大に宣言した。

 

『我が名は『向こう側にあるもの/クラリオン』。すべての食物連鎖の頂点にして、生物の悪意を糧とし、喰らい尽くすものなり』

 

世界樹の迷宮 〜長い凪の終わりに〜

 

十七話 己の醜さを見つめた先にある世界 (B:世界樹 root)

 

終了

 



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最終話 さぁ、冒険を始めよう(B:世界樹 root)

最終話 さぁ、冒険を始めよう(B:世界樹 root)

 

君の目の前には見知らぬ世界が広がっている。どんな手段をもって踏破しようと君の自由だ。君は地図を作ってもいいし、作らなくてもいい。魔物を倒して進んでもいいし、逃げ回って進むもいい。あるいは敵を仲間にするという手段だってあるかもしれない。

 

固定観念に囚われるな。あらゆる手段を講じて、欲望の限り、己が欲望を追求し、突き進め。未知を前に、血潮を熱く滾らせ、胸を高鳴らせ、壁を打ち破らんと困難に挑んでこそ、冒険者というものだ。

 

 

『手始めに、ここまで抗った貴様らには、我再誕の地にて人柱となる栄誉を与えよう』

 

宣誓と同時に、クラリオンは天井へといくつもの巨大な触手を伸ばして、地面へと侵入させた。蠢く巨大な触手が平面に整えられていた天井を揺るがし、亀裂を生じさせる。パラパラと落下しだす土塊に、奴の狙いがなにかを悟り、血の気が引いた。

 

「奴め、天井を破壊するつもりか! 」

「いかん、散れ! 」

「いかん、集まれ! 」

 

私の推測に反応して、ヴィズルとダリが同時に、けれど、方向性が真反対の種類の指令を叫んだ。私はヴィズルと同じ判断を下し、全速力で個々にその場から離脱に注力する。逆に、異邦人ギルドの五人は、固まりながらも迅速に避難を開始した。ほどなくして、奴の侵攻に耐えきれなくなった岩盤と土砂が、茶色の濁流となって落下してくる。

 

やがてそれは、造物主の怒りのような土石流となり、瀑布の如き勢いを伴って、キロメートルも離れた天地の二点間を結びつけようとする。膨大な質量が下方へ運ばれ、小山を作ってゆく。土砂は落着と同時に細かい砂塵が舞い散って土煙となり、積み上がる山の周囲へと散らばっていった。そして生まれた天然の煙幕はあっという間に私たちを包み込み、各々の姿を隠してしまった。

 

私は薄れゆく視界の中である程度距離が開けたことを確認すると、後方より迫る土砂の勢いが弱まった事を確かめた。全身を強く打ち付ける砂塵の勢いに負けて転げてしまわないよう四つん這いの姿勢になり、手足を地面と接地させて風との接触部を減らす姿勢とった。

 

呼吸をしようとすると、砂が隙間から体内に入り込んでくるため、息を止めてじっと耐える。耳の中にまで入り込んできて鼓膜を叩く風と砂が鬱陶しい。風と砂の飛び交う音だけが私の周囲の世界を支配していた。全身がひりつく。服の中にまで入り込んでくる砂塵が気持ち悪い。治療が終わって正常な状態に戻った感覚が、この時ばかりは少しばかり鬱陶しく思った。贅沢な悩みだ。

 

やがて土煙が、風によって、洞穴の入り口にできた小山からなだらかな平原である空間の奥の方へと次々と運ばれてゆき、全身を叩きつける砂塵の大嵐から解放された私は、ようやく周囲を見渡す余裕を取り戻した。徐々に鮮明になってゆく視界の中に仲間を見つけて、ホッと一息つく。呼吸を行うとひどく皮膚が痛んだ。天然のサンドウォッシュで多少表面を削られたようだ。手持ちの水で消毒だけ行う。

 

音と砂が肌と鼓膜を叩く感覚に長い時間じっと耐えていた気がするが、実際数十秒もたっていないのだろう。おそらくは、私の周囲を取り囲んだ風と音の圧がひどかったものだから錯覚したのだ。味方も私たちを認識したらしく、彼らはこちらへと近寄ってくる。

 

「―――無事か! 」

「ああ、なんとかな……」

 

ダリが応答した。彼らはダリを中心として固まっていた。彼らも私同様、息も絶え絶えの様子だったが、見るとダリ以外の体にはまるで擦り傷や切り傷がなく、逆に全身に鎧を纏った最も重装備の彼のみが、全身に細かい擦過傷や打撲傷を負っていた。

 

「―――よくやる。あの土砂災害を回避しながら、パラディンのフルガードでパーティーの受ける被害を最小限に抑えたか」

 

彼らとは別方向からやってきたヴィズルがダリへと話しかける。見れば、彼は、傷こそ負っていないものの、服や髪は風に乱れ、土に汚れ、私同様に酷い有様だった。

 

「それが私の役目だからな」

 

ダリは響からメディカによる治療を受けながら、淡々とヴィズルの賞賛に応答する。言葉には謙遜も、皮肉も含まれておらず、彼にとってすれば、味方の盾になるのは当然自分の役目であると心から信じている様子が伺えた。

 

「いや、その手段が最も効率良いとわかっていても、自らだけが代わりに傷を負うとなると、普通、人はそれを嫌い、戸惑い、躊躇ってしまうものだ。それを躊躇せず行えるだけでも大したものだよ」

「―――そう、だな」

 

ダリは続くヴィズルの言葉に、なぜか戸惑った顔をした。嬉しいような、素直に賞賛を受け入れられないような、そんな感情が渦巻いているように見える。

 

「おい、なんかやばい雰囲気だぞ! 」

 

ダリの心情の正確なさを察するまもなく、サガが叫んだ。視線を頭上のクラリオンへ移すと、奴は崩れた天井の中へと伸ばしていた触手を、さらに深く地面へとめり込ませ、蠢かせていた。地上にいる我々を完全に無視しての、千メートル以上離れた空での不振な行為。もはや土砂が落着する場所に我らはいないというのに行われる奴の行動に、不安を抱く。

 

―――何が目的か

 

疑念にその部分を注視してやると、大量の岩土を失った空間には、土、岩とは別種の巨大な茶色い壁面が現れていた。その茶壁は、瑞々しく、大量の細かい皺が刻まれており、ヒゲのようなものが生えていた。そこで悟る。ああ、なるほど。あれは―――

 

「―――いかん、世界樹の根が露出した! 」

 

やはりそうか。比較対象となるクラリオンや部屋などがあまりにも巨大すぎて一瞬わからなかったが、その茶色い壁は、たしかに巨大な樹木の根の形状をしていた。

 

根の一本ですらスカイツリーを優に越す長さと大きさを持つ巨大な根。そんなもので己を支える樹木が巨大な枝葉を伸ばし地球の表面を覆い尽くしているのならば、どれほど巨大な大地の天殻であっても巨人アトラスのように支えることが可能だろう。

 

「おい、なんか、あいつ、触手を根っこに伸ばし始めたぞ! 」

「というか、根っこの表面に触手を突き刺したな」

「―――っ、いかん、奴め、世界樹の内部に毒を注入し、枯らす算段か! 」

 

サガとダリがクラリオンの世界樹に対する行動を実況した途端、ヴィズルは身を捩り、胸を固く抑えつけると共に、なんとも憎々しげな言葉を述べた。過剰と思えるような反応。私含めたその場にいる誰しもが、少しばかり気圧された顔でヴィズルを見る。彼の顔は、あまりの興奮ゆえだろうか、真っ赤に染まっていた。

 

「―――まて、今なんと言った? 毒を注入し、世界樹を枯らす? 」

「ああ、その通りだ。今奴は、触手の先から毒を世界樹に注入している。根っこから吸収された毒が世界樹の全身に浸透した時、エトリアの―――、いや、それどころか、エトリアを中心とした、世界の七分の一程度の大地が崩壊することとなる」

「なっ……」

 

ヴィズルの推測に、その場にいる誰もが絶句した。話のスケールが大きすぎて現実感がなく、まるで冗談のようにも思えてしまう。しかし、崩壊の予測を淡々と述べたヴィズルの顔には、一切の遊びも余裕もなく、そこでようやく、彼の言が真実なのだろうことを、脳が認識した。

 

「―――触手が刺さった部分を見ろ」

 

ヴィズルは再び上を向いて、露出部を指差す。人差し指の行方を追うと、クラリオンと世界樹の接触部分が赤く染まりつつあるのがわかる。

 

「あれこそが、奴の侵食を示す証拠だ。あれは奴が世界樹の封印に対抗すべく、生み出した毒。その毒に侵されたものは、やがて全ての精神力や気力を病み、全身が赤くなり死んでしまうのだ」

「―――それが赤死病か!」

「……あの毒が使用され続ければ、やがて世界樹は赤で覆い尽くされるだろう。するとその瞬間、世界樹は死滅し、枯れ果て、エトリアとその周辺の大地は崩落する!」

 

ヴィズルは一転して、怒りに身を震わせながら、吐き捨てた。顔面が頭蓋骨を万力で締め付けられたかのように歪み、瞳の奥に烈火の気性が宿るのを感じる。ヴィズルは、まるで我が子の殺害宣言を聞かされた親のように、激しい怒りを抱いていた。

 

「―――奴の言動からするに、無論、それだけではすむまい。おそらく奴は、別の世界樹の元へと赴き、同様のことを繰り返すだろう。さすればエトリアどころか、場所が悪ければ、今の世界がまるまる崩れ落ちる事態だってありうる―――、すなわち、世界の危機だ!」

 

やがて全身を震わせる男は、しかし、周囲の反応が薄かったことに気がついたらしく、自らの話のスケールをさらに広げて、大業な身振りで演説するかのように叫んだ。おそらくは、呆然としたところに大きな話をすりこむことで、こちらの危機感を少しでも煽ろうという思惑なのだろう。カルトなどでよくやられる洗脳術のようだ。

 

「―――それは放っては置けんな」

 

だが、私はそんな彼の思惑にあえて乗ってやる。不思議と、とても懐かしい感覚を覚えた。それは、私と彼が、旧世界の手法を用いて、目の前の彼らの意気を高揚させようと協力しているがゆえのシンパシーなのかもしれない。

 

「―――ああ、そうだな」

 

そして真っ先にシンが話に乗ってきた。

 

「だな」

「ああ。エトリアの崩壊だけでも見過ごせないのに、理由が増えてしまったな」

「話がおっきくなりすぎて、まだちょっと混乱してますけど……」

「まぁ、どのみちやることが決まっているのですからいいじゃありませんか。ねぇ」

 

サガ、ダリ、響が彼に続き、ピエールが最後に私とヴィズルを見て、悪戯餓鬼のような皮肉さと意地悪を混ぜた表情で笑いかけてくる。どうやら一人には思惑が見透かされているようだったが、彼らの出した結論にヴィズルは満足な表情で頷くと、私を見た。彼に応答し、私も頷き返す。そして周囲を見渡すと、声高に宣言した。

 

「ああ。では、ここはひとつ、宇宙から来訪した無礼な客人を始末して、世界の平和でも守ってみせるとしよう! 」

 

 

「―――と張り切ったはいいが、どうやってクラリオンを倒せばいいのだ?」

 

鬨の声が響き渡った後、気分が高まりきる前に、ダリが水を差した。集中しつつあった熱気が微かに拡散する。冷静で、空気の読めない所が、なんとも彼らしい。

 

「そりゃ、お前。どうするって……」

 

言葉を切ってサガが上を向いた。天井は遥か彼方、千メートル以上もの上空にあり、奴が作業している場所も、同様である。体を平たくアメーバ状に伸ばした奴は、今、天井付近にまで上昇し、多数の触手を用いて毒を世界樹に浸透させている作業の最中だった。

 

「―――どうすりゃいいのかねぇ?」

 

首を真上に向けて天井を仰ぎ見ていたダリは、グリグリと首を動かして奴の活動場所を見やっていたが、やがて首を鳴らして、顔をしかめた。ずっと直上を見ていたため、首を痛めたのだろう。

 

「サガ。お前のスキルでなんとかならないか。お前の雷撃や核熱なら天井まで届きそうなものだが」

 

やがてシンが口を開いた。とにかく、意見を出さないと始まらないと思ったのだろう。

 

「無茶言うなよ。今まで潜ってきたのと同じくらいの高さがあんだぞ?仮に届いたとして、あのデカさのやつを始末する威力を出せるとは思えねぇな」

「なら……エミヤ。君の魔術で―――」

「すまない。今の私の魔術回路には、マナをオドに変換する機能に不全がある故、宝具に十分な魔力を充填させることが出来ない。簡単な強化や剣の投影と、基礎的な解析なら使える。だが、悪いが、以前のような威力を期待しないでくれ」

「―――そうか」

 

エミヤの断言に、シンは悲痛な顔で目を伏せて、肩を落とした。むずがゆいが、彼にとって憧れの人間である私の戦闘力低下が心底悲しく、悔しいのだろう。彼の落胆の態度に、私まで心が痛くなる。

 

「結局、蜘蛛や蟻のように、あの垂直な壁を登ってあそこまで行くしかないのだろうか? 」

「それは労力対効果を考えると、あまりに非現実的だな。まだサガの術式で爆発を起こし、勢いで空を飛ぶ方が、まだ現実味がある」

「爆発の炎熱をファイアガードで防ぎながら風圧で飛ぶってか? ……、まぁ、俺ら全員の重量吹き飛ばすのに一回で十メートル行けるとして……、百回繰り返さないうちに行けるかもなぁ」

「核熱とファイアガード百回……、確実に手持ちのアムリタが足りないですね……」

「皆さんここに来て、ユーモアセンスが身についたようですねぇ。―――しかし、まぁ、そんな急制動繰り返すと気持ち悪くなりそうです。同じ空を行くなら、フユキの時のように空中に階段があるか、いっそ、羽でも生えて空を飛ぶことが出来れば、話は早いんですがねぇ」

「―――なるほど。ではそれでいこう」

「……え?」

 

ピエールの冗談に反応したヴィズルは、ひどく真剣な様子でポツリと言葉を漏らした。一同の目が強面の彼へと集中する。

 

「あそこまでの道と、空に道があれば、あとはなんとかなるのだろう? ならば、それを私が用意してやろうと言ったのだ。―――自在に空飛ぶ羽はくれてやれないがな」

 

 

「―――うそぉ」

 

サガが呟いた。今起こっている現実を脳が理解しきれず、心情が言葉として漏れたのだろう。彼が呆然としている間にも、私たちは秒速十から二十メートルの速度で地面から離れ、天井へと迫りつつあった。

 

私たちの体を押し上げている存在の正体は、世界樹の根だ。ヴィズルの提案の直後、地面が波打ったかと思えば、上で露出しているものより細い世界樹の太い木の根が私たちの足元へ忽然と姿を現し、根っこ同士が絡まり合って掌のような形に固まり、上空に向かって急成長を始めたのだ。

 

この展開には流石のシンやエミヤも驚いたようで、彼らもサガやダリ同様に戦闘の構えを取るのも忘れて呆然と突っ立っている。

 

「いやぁ、絶景かな、絶景かな。―――『異貌のモノに対抗し世界の危機を救わんと立ち上がった勇者たちの行動はかつて世界樹の核であった男の心を打ち、かの存在は、勇者たちに大いなる救いの手を差しのべた。暗闇を切り裂き、勇者たちの体を上空へと押し上げるは、何を隠そう世界樹自身なのである。そう。彼らの勇気は、まさに未踏の地において天へと続く道を切り拓いたしたのだ』……。いいですねぇ、幻想的ですねぇ……」

 

ただ一人、ピエールだけが、満面の笑みで周囲を見回しては、状況を詩歌へと変換し、飛び跳ねんばかりに勢いで喜色を露わにしている。シンたちと同じく呆けていた私は、いつもと変わらぬ彼の態度に少しばかり落ち着いた気分を得る。

 

『―――なんだ、生きていたのか』

 

やがてクラリオンは地上より上昇してくる巨大な存在に気がついたらしく、巨大な眼の一つを私たちに向けると、億劫そうな声を上げた。同時にその体の表面が蠢き、巨大な触手が数え切れないほど私たちの方へと伸びてくる。叩き落とそうという魂胆だろう。どうにか対処しないといけないのは確かだけれど、一本だけでも、直径十数メートルはあるだろう触手を完全に防ぎ切る手段はちょっと思いつかない。

 

「―――おい、やべぇぞ、あの質量だと、核熱が効いて幾分か体積を削ったところで、残りの重量に押しやられる! 」

「流石にあの太さだと、斬りとばすのも無理そうだな……」

「あれを見て切断しようという発想に至る君の感覚は流石だな、シン! 」

「そうか? 」

「皮肉だ、馬鹿! 」

「何を呑気しているんですか!もうすぐそこですよ! 道具……、糸を使いましょうか!?」

「いやぁ、一つの根っこは止められるかもしれませんが、全部は難しいでしょうねぇ」

「冷静に言ってる場合か! どうする! 数が数だけに、防ぎきれそうもないぞ! 」

『やれやれ、騒がしいな』

 

慌て私たち―――主に、サガとダリと私―――の態度に、呆れた様子の声が足元から振動として伝わってくる。骨伝導というやつだろう。音波によらない振動を仲介しての言葉を発したのは、遥か眼下の地面において、先程世界樹の根を呼び出し、そして出現した世界樹にその身を飲まれたヴィズルだった。

 

『触手の親玉、この度の事態の首魁たるクラリオンの討伐こそが目的であるのに、その内の一部を前にした程度でこうも右往左往されては、目的の達成が本当に可能だろうかという不安が生じてしまうではないか』

 

ヴィズルが述べると、ただでさえグラグラと不安定な足元が、よりいっそう大きく揺れた。一体何が起こっているのか。彼は一体何をしようとしているのか。―――その答えは、すぐに示されることとなった。

 

『なに―――、これは―――』

『我らがコピーし、作り上げた世界樹に備え付けておいた、魔のモノに対する自衛機構だ。楽園への導き手……、いや、この場合は、奈落への、と呼称するのが正しいかもしれんな』

 

クラリオンが初めてあげた驚く声に、ヴィズルが答える。初めに見えたのは、枯レ森で見たような形状の樹木だ。円状になったそれは、いくつもの木のコブが盛り上がったような部分が見える。続けて、ものすごい密度の草木が絡まったものが見える。巨大すぎて分かりにくいが、しなやかな動きのそれは、まるで服のように空気に押し返されて、ひらひらとはためいていた。

 

続けて柳やシダが複雑に絡まり合い、周囲の闇を吸収したかのような黒色に染まったかのような部分が現れた。さらに、太陽に葉っぱを透かした様な部位が出現し、最後に、今私たちが乗っている部分と同じような樹木が絡まり合った部分が地面より現れた。緑の青々とした匂いが辺りにつんと充満する。

 

『―――巨大すぎて通常のサイズである敵に対しての対抗兵器としては使うには過ぎた代物だが……、貴様という存在が相手であるならば、ちょうどよい。むしろ、本懐とも言える使用用途だろう』

 

そして現れたのは、おそらく全長五百メートルはあろうかという緑の巨人だった。樹木の王冠をかむり、草木のフードを纏い、枝葉とツタの髪の毛を生やした、薄羽の葉っぱの羽を持つ、樹木の体を持つ巨人は、私たちとクラリオンの間に割って入り込むと、王冠の中心、頭部にあたる部分を光らせた。

 

瞬間、巨人が発した炎が、氷が、雷が、私たちのいる空間以外を満たして、敵の触手を攻撃する。巨人の放つそれらの攻撃は、その巨体に見合っただけの威力を秘めており、また、その攻撃範囲も桁違いだった。巨人の一斉攻撃により勢いをひどく殺された触手の群れは、私たちの元に辿り着くよりも前に、空中でしなだれ、停止する。

 

「すげぇ……、いいぞ! そのままやっつけちまえ! 」

 

自らの身に迫り来る脅威を一瞬で取り除いた存在に、サガが興奮を露わにして叫んだ。巨大である存在に対して文句の一言をも漏らさないのは、その存在があまりに巨大すぎるせいだろうか、などと、場違いなことを思う。

 

『やれるものならそうしたいが―――』

『おのれ、小癪な。ならば―――』

 

クラリオンの恨み篭った重低音の声が暗闇に響き、同時に大きく足元が揺れた。体勢を崩しながらもなんとか倒れないように堪え、必死の思いで前方へと視線を送ると、クラリオンの体から今までのものとは比べ物にならない、直径にして百メートルはあろうかという巨大な触手が現れた。

 

触手は樹木の巨人と、私たちの足場となっている腕の様な樹木に絡みついてゆき、手をがっぷり四つに組んでの力比べの様相をみせた。巨人はその膂力で一瞬だけ拮抗の状態を維持するも、すぐさま自身よりも巨大な敵の触手群に押されて、大きく体を揺さぶられていた。

 

『そうもいかん。地上、太陽の下であるならば、世界樹の使徒たるこの巨人も十全な力を発揮し、奴と拮抗の力比べをする事も可能かもしれんが、毒に侵され、地下深くの空間に閉じ込められた現状、巨人単身でのクラリオン打倒は不可能だ』

 

断言した巨人と化したヴィズルは、髪の毛や服の様になっている枝葉やツタ、柔らかい樹木部分を逆立たせたかと思うと、空中、天井に向けて一様に伸ばし始めた。そして勢いよく天井に突き立つと、根を伸ばすかのごとく侵食し、そして停止する。

 

自らの体を壁面や地面に完全固定することで、緑の巨人はようやくクラリオンとの力を拮抗させることに成功したようだった。しかし、逆にいえば、体を完全に固定させて自由を捨てなければ、相手と同等の状態に持ち込めないという事でもある。

 

自らの動きを捨てた緑の巨人が伸ばした枝葉と根は、壁面と天井、そしてクラリオン付近にまでその先端を伸ばし、クラリオンと緑の巨人との間に仮初めの大地を作り上げた。樹木に押し上げられていた私たちは、やがて巨人が作り上げた大地へと到着し、足を下ろす。地上より遥か遠い空中の大地は、急拵えにしては随分しっかりとしていて、私たちを危なげなく受け止めた。

 

『―――だが、時間は稼ぎ、足場の確保をし続けるくらいの事なら、容易にやってみせよう。……後は任せたぞ』

 

ヴィズルは私たちだけに伝わる様、足元の樹木の振動により私たちへと意思を伝えると、再び顔部分を発光させて、自らの巨躯に絡みついた巨大な触手へと攻撃を開始した。様々な属性の攻撃を受ける触手は、しかし、攻撃に身じろぐ様子を見せず、ギリギリと巨人の体を締め付けることに注力している。

 

巨人を締め付ける力はよほど強い様で、樹木が軋み、乾いた悲鳴をあげる音が、この場にまで聞こえてくる。なるほど、巨人が全開の出力を発揮してあの状態であるならば、たしかに、クラリオンの侵攻に完全な対抗をすることが不可能であるのだろうことがわかる。

 

「―――願い、たしかに承った……! 行くぞ! 」

 

ヴィズルの願いを受けて、シンが鬨の声をあげた。私たちはそれぞれに力一杯の応答を返す。そして私たちと奴との、世界の命運を賭けた最終決戦が始まった。

 

 

「方針は!? 」

 

ヴィズルが空中へと作り出した樹木の空中楼閣を突き進みながら、ダリが尋ねる。

 

「まずは剣の届く範囲まで接近する! そうすれば後は……」

『あとは、どうなると言うのだね? 』

 

シンの言葉を遮って、クラリオンの声が足元より響く。見上げれば、奴の体に存在する眼球の殆どが私たちの方へと向けられていた。全身を舐め上げるような視線に、鳥肌が立ち、一瞬たたらを踏みながらも、なんとか転げることなく、疾走するみんなの後ろについてゆく。

 

『だんまりか……。まあ良い』

 

すると奴は、世界樹の根っこに伸ばしていた触手のうち、何本かを引き抜き、蠢かせて天井の地面へと侵入させた。触手が蠕動運動を起こしたかと思うと、やがてクラリオンの侵入点より天井に巨大な亀裂が生まれ、大地は重力に抗う力を失い、崩落する。

 

『どの道、その矮小な身では、大したことは出来まい』

 

嘲笑う声に怒りの感情を抱く暇もなく、頭上より迫り来る土石流。先程よりも崩落地点に近い分、土砂はすぐさま私たちへと迫る。その分量は膨大で、下手をすると、エトリアの街一つくらいなら飲み込んでしまいそうなほどの量がある。取り込まれれば、下方、遥か遠くの地面に叩きつけられて即死は免れないだろう。

 

私たちは頭上より迫り来る脅威を回避するために、必死で走る。幸いにして、天井を崩すクラリオンの触手自身と、生い茂った樹木が障害物となり、土砂が私たちのところまで落ちてくるには、多少の時間的余裕がある。先頭を行くシンとエミヤは、それを見越して走行する場所を選定して先行してくれるので、私たちはなんとか被害無くやり過ごすことが出来た。

 

『生意気な―――』

「―――届いた……! 」

 

そして私たちは、クラリオンの触手と樹木が接触している部分へと到達する。世界樹の木の根は、奴の巨大な体の周囲を、竹籠みたいに取り囲んでいた。先頭を走っていたシンは、奴のまるで皮膚を剥いだ後の肉のような体を視認した途端、腰の左右に携えた二刀を引き抜いて無双の構えへと移行すると、突撃の勢いを乗せたまま、迷わず攻撃を開始した。

 

「抜刀氷雪! 」

 

二つの刃から、氷の力を纏った斬撃の光が、奴の黒い体へと発せられた。受ければ切断され、触れるだけでもその部位を凍結させる飛翔する斬閃はしかし、奴の体の命中する寸前、樹木と奴との狭間にてその一部空間、空中にのみ氷塊を生み出すだけの結果に終わる。

 

「なに!? 」

『万物を防ぐ障壁だ。―――神の身にそうやすやすと触れることが許されると思ったのか』

 

よく見ると、確かに薄い障壁のようなものが、触手と樹木の間にあるのがわかる。あれがシンの剣閃を防いだのだ。私たちを矮小と嘲るクラリオンは、合成したような音声にもかかわらず私たちに不快さを齎すという器用な事をやってのけると、その体に存在する全ての目をこちらへと集中させて睨め付けてきた。すると、複数存在する瞳の焦点が私たちに集中したかと思えば、ともすれば眠たげにも見える半開きの瞼の前に光が生じたのが見える。

 

「―――まずい、散れ! 」

『神罰の光を受けよ』

 

シンの指示により私たちが散開するのと、クラリオンの瞳から光が放たれるのは同時だった。複数瞳より放たれた光は、私たちが寸前までいた場所にて収束し、世界樹の根を貫くと天井や壁にまで到達し、やがて、その焦点となった場所と、終端の場所に大爆発を起こした。

 

「―――!」

 

悪寒が私の体を動かした。咄嗟に足元へと伏せて、世界樹の根っこに短剣を突き立て自分の体を固定すると、直後、背後より熱を伴った風がやってくる。白い閃光が私の周囲の樹木の皮を焦がしてゆき、あっという間に表面を炭化させ、焦げ臭さが鼻をつく。生じた煙は風であっという間に吹き飛ばされるため、呼吸をすることができるのだけが救いだった。

 

しかし熱い。熱を伴う風は、胸と腹の中に入り込むと、存分に暴れて私の体温を上昇させる。そのまま吸い込むと内臓が焼けてしまいそうな高熱を帯びた空気を取り込み、浴びても、無事でいられるのは、ファイアリングという炎のダメージを防ぐお守りのお陰だろう。

 

けれど幾分か軽減できたとはいえ、それでも肌を軽く炙られる感覚はまでは防いでくれず、私は燻製にされる肉の気分を存分に味わうこととなる。

 

「―――あ」

 

やがて風の勢いが弱くなった時、伏していた顔をあげると、砂塵と煙幕が視界を遮っていたことに気がつけた。同時に、継続的な痛みを与えられる地獄からの帰還を自覚する。

 

「―――無事か、みんな! ……響!」

「……ばぁぃ、べぃぎでず」

 

サガの声に、反応して出た自分の声に驚いた。どうやら喉を焼かれて、声がまともに出なくなっているようだ。

 

「何処がだ! 皮膚表面どころか胎内も深度のある火傷を負っているじゃないか! まずは薬を使え! 」

「ばび」

 

ダリの指示に素直に従うと、カバンからメディカⅲを取り出して体に振りかける。回復の光が私を包み込んだかと思うと、少しののち、全身にむず痒い感覚が蘇る。どうやら自覚がなかっただけで、あちらこちらに神経にまで達するほどの酷い火傷を負っていたようだった。服のあちこちが焼けてしまっていて、肌を晒してしまっているの部分が多いのが、ちょっとばかり恥ずかしい。

 

触感が戻ってきたに安堵をすると、薄れてゆく煙の中で辺りを見回す。すぐ近くにいるのはサガとダリだ。多分、ダリのファイアガードで熱波を防いだのだろう。二人は傷一つ負う事なく、平然としている。少し遠くの場所では、シンがピエール前方で剣を前方に構えたまま、肩を上下させて呼吸を行なっていた。

 

シンの前方に小さな氷の塊が散らばっていることから、彼らはブシドーのスキル『抜刀氷雪』を連続して用いて熱波を切り裂き、生まれた隙間に氷の壁を作り出し、熱風を防いだのだろうと予測できた。ピエールが楽器に手を添えていることから、バードのスキル、『火幕の幻想曲』を併用して熱を軽減したことも伺える。

 

一方、一人みんなと少し離れた場所にいたエミヤは、彼がいつも纏っている赤い外套を全身に羽織ってその熱と風を防いだようだった。しかし、その防御行動は全ての熱を防ぐに至らなかったようで、彼の皮膚の表面は赤くなり、さらに、少しばかり焼けている部分もある。私は彼の元に近寄ると、先ほど自分に行ったのと同じように、メディカⅲをふりかけ、彼の傷を治療する。

 

「―――助かった。礼を言う」

「はい」

「そちらも無事のようだな! 」

 

短いやり取りをすませると、シンとピエール、そしてダリとサガも私たちの方へと近寄ってきた。合流すると、すぐさま状況の確認をするべく、視界を周囲へと広げる。

 

「―――根が……」

 

そして絶句した。先ほどまで私たちが足場としていた世界樹の根の部分が、完全に消滅してしまっていたからだ。破損ではなく、消滅。直径にすれば、百メートルはあろうかと言う巨大な木の根っこは、クラリオンの光線により完全に消滅し、断裂してしまっていた。もし世界樹の根が複雑に入り組んでいなければ、私たちは今頃遥か下方の地面へ向けて落下していたのだろう。

 

「どんな威力だよ……」

「神罰の光、か。通常の手段では防げそうにないな」

「それよりも、問題はあの障壁だ。あれがある限り、通常の攻撃は奴に届かんだろう」

「―――しかも、奴は任意の場所に壁を展開できるようだな。おそらくはあの壁を用いて、長年の間、世界樹が持つ奴を封印する能力や、龍脈の流れから身を守っていたのだろう」

「万物を防ぐ障壁―――とか言ってましたものねぇ。まぁ、とは言っても完全無敵というわけではないのでしょう。でなければ、そもそも奴が封印されたりするはずありません」

「ああ。だからおそらくは、一定以上の威力や特殊な効果を持つものはキャンセル出来ないのだろう。とはいえ、だからといって突破口の手がかりになるわけでは―――」

『……まだ生き残っていたのか』

 

話し合いの最中、空間に大きく響く声が、それを中断させた。煙幕が完全に晴れた事でようやく私たちを見つけられたのか、奴は目を細めて私たちを睨みつけてくる。やがて巨体を震わせたクラリオンは体から細い触手を伸ばし、自らを取り囲む世界樹の根へと突き刺した。

 

根に突き刺さった部分から赤が侵食し、やがてクラリオンの毒素に染色された部分は盛り上がり、さらに噛みつき草に、マッドワームと災厄の木の根を合体させたような姿の敵が現れた。イソギンチャク、というのが一番適当な表現だろうか。それはフユキという場所にたくさん生息していた二種類のうちの一匹だった。

 

「―――おい、これ、まずいんじゃねぇのか?」

 

姿を現したクラリオンの小型版のような魔物は、同じように自らの足元である世界樹の根を触媒と媒体にしてその数を増やしてゆく。奴が増えるということは、同時に、世界樹の根の質量が減るという事でもある。つまりこのままクラリオンの行動を放置していれば、いずれ、自重と私たちと奴らの体重を支えきれなくなった根は、折れて地面へと落下するという事であり―――

 

「―――いかん、止めるぞ! 」

「方針は!? 」

「個々の判断で、適宜、臨機応変に!」

 

飛び出したシンは、自然体に構えた。無双の構えだ。全ての剣技を支える構えをとった彼は、増殖しつつある全て敵へと突撃すると、次々に胴体と触手を切り飛ばし、敵の数をみる間に減らしてゆく。そんな彼に私たちも続く。エミヤは先の尖った鉄鎖を振り回して敵を一気に処分し、サガは広範囲殲滅の術式で敵を吹き飛ばし、ピエールとダリは三人の援護を行なっていた。

 

私は、毒の香を使って敵の数を減らそうと試みる。毒の香を取り込んだ敵は、即座に体内器官を破壊され、上と下の穴から、様々なものを噴出して倒れこむ。毒を浴びた敵の体液が奴の体の下、世界樹の根に染み込むと、根は敵同様に徐々にドロリと溶けてゆく。

 

火竜を倒し、フユキの地下でもっと恐ろしい奴と対峙した今、もはやあの程度の敵に苦戦してやられるような私たちではない。一時的ながら、状況はこちらが有利を保っている。しかしこの勝負は、時間をかけて敵が生み出されるほど、足場となっている世界樹の体積が減ってしまうし、毒の浸透が進んでしまううえ、戦場全体の状況と数においては、向こうが有利である。つまりは、この一時の優勢はあまり胸を張れる結果ではないということだ。

 

『―――羽虫とはいえ、流石にこうまで抵抗されると鬱陶しい』

 

しかしクラリオンにしてみれば放っておけばいずれ自分に勝ちが転がってくる勝負とはいえ、手を煩わされ時間を浪費させられることを億劫と感じたらしく、生み出す数を一層増やして、世界樹の侵食速度を早めた。生産数は膨大で、やがて私たちが通常処理できる速度を上回ってゆく。

 

「お、おい、そろそろやべぇぞ!」

「道は狭まり、敵の数は増えてゆく。あの触手と敵をいっぺんに始末しなければ……!」

「それなら任せてもらおうか!」

 

サガとダリの愚痴に、シンは周囲の敵を掃討し終えると、距離をあけて両腕をだらりと垂らし、全身から力を抜いた、自然体に構えた。見間違いようもない。シンは今、彼が改良したブシドー最大の奥義を放とうとしているのだ。

 

「一閃! 」

 

二刀を用いることでさらに強力になったシンの放つ一撃は、その場にいる敵全ての頭部を切り落とし、心臓部を抉る事を可能とする。シンの一撃は、その場の有象無象を絶命させるだけでなく、世界樹の根と接していたクラリオンの触手をも断ち切った。これで、これ以上世界樹の根から新たな敵が生まれることはないだろう。

 

世界樹の根に突き刺さっていた触手は、クラリオンとの繋がりを断ち切られ、力なくしなだれる。やがて、切断された肉体は刺さった部分からドロリと溶けて液状化し、地面へと垂れ落ちていった。クラリオンの瞳がさらに細くなり、視線がシンへと集中する。

 

『おのれ、小癪な』

「……見たか?」

 

シンはクラリオンが向ける憎悪などまるきり意に介さず、私たちに話しかけてくる。エミヤたちは彼の言葉の意図をすぐに悟ったようだった。私は少しばかり考え込んで、彼らより遅ればせながら、シンが言いたかったことに気がついた。

 

「触手が……、奴の体が切れた―――」

「ああ。無意識だったが、切断場所の空間指定ができる一閃ならば、万物の障壁とやらの内側に刃の出現位置を固定する事で、障壁の向こう側にある奴の体にも有効となる攻撃を加える事が出来ることができるようだな」

 

シンの言葉に、改めて触手の切断面を見る。彼が白刃によって生み出した切り口は、すでに再生が始まっていて、肉が盛り上がり出していた。あの調子なら、もう十秒ほどもしないうちにクラリオンの肉体は元の姿を取り戻すだろう。

 

「つまり―――」

『貴様を始末してしまえば、我が身を傷つける事の出来るものはいなくなるというわけだ』

 

クラリオンがシンへと集中させる視線がさらに鋭いものとなる。敵の瞳の水晶体が細くなり、独特の文様が描かれた瞳孔の前方に光が収束してゆく。またあの足元を消滅させる一撃が来る―――

 

「散開! 」

 

指示通り、全員がその場から離脱する。直後、幾条もの光線が暗闇を貫いた。焦点となった光の収束箇所は消滅し、その後方では散乱した光と接触した部分に爆発が起こる。そして。

 

「シン! 」

「響! エミヤ! 無事か! 」

 

消滅の光は、一つの集団を二つへと分断した。一つは旧来からの友誼で結ばれているもの。一つは新迷宮という存在によって彼らと新たに縁が結ばれた存在。パーティーを新旧に分断した存在は、再び瞳の前方に力を収束させ始めていた。

 

複数存在する瞳の焦点は、すべてシンの方へと向けられており、文字通り、私とエミヤ、そして、シン以外の人間のことなど眼中にないようだった。神罰光が再び放たれ、彼らは光を避けるため、私たちとはさらに離れた場所へと遠ざかる。

 

「―――は我々が――。君の―で―――を削れ! その後、―――を、―――――の――へ」

 

遠ざかっていくシンの声が微かに聞こえる。遅れて生じる爆発。壁面や天井にて瓦礫の崩れる音と、爆発の音、そして、距離のせいで、ほとんど声も聞こえない。再び放たれる光。

 

「シン!? 何!? なんて言ったの!?」

 

叫び問い返すも、もはや声も届いていないようだった。否、彼らはこちらに意識すら向けられない状況なのだ。シン達はクラリオンの攻撃を避けるため、上下左右縦横無尽に、世界樹の根の上を駆け回っている。

 

「大丈夫だ、響」

「エミヤさん?」

 

剥き出しになった肩に置かれた手は力強く、皮膚と皮膚との接触により人肌の暖かさが伝わってくる。他人の体温は焦燥が生まれつつあった気持ちを押さえこみ、多少気分を落ち着けてくれた。私はエミヤの方を向き直して、彼の顔を見つめる。鷹のような鋭い視線は、私ではなく、別の空間へと向けられ、瞳の中では眼球が忙しなく動いていた。

 

「彼らには彼らなりの考えがあるようだ。だから我々は我々で、出来ることをやろう」

 

 

「一閃! 」

 

技の名を叫ぶと同時に、私が思い描いた場所へと斬撃と刺突が走る。無双の構えより繰り出したフォーススキル……、もとい、宝具は、私たちの全周を取り囲む触手を全て断ち切った。クラリオンの伸ばした触手の一部が力を失い落下してゆく。しかし、切り落とした部位はすぐさま肉が盛り上がり、蠢き、再生し、元通りの大きさにまで成長する。

 

「どうする、キリがないぞ」

「ダメージがないわけではない。切れるならば、殺せるはずだ」

「めちゃくちゃな理屈ですが、奴の力が無限ではないのは確かでしょうからねぇ」

「でなきゃ昔、世界樹が封印なんて処置をできたはずがない、か」

 

ダリの問いに答えると、ピエールとサガがそれぞれ賛同する。目の前にいる彼らは未だに敵を倒すことを諦めていない。私は目の前の仲間たちと再び共に戦えることを、とても誇らしく思った。

 

『見下してくれるものだ。―――だが、事実でもある。確かに私はかつて世界樹に封ぜられ、地下にて再起の時を待ち、時間を費やす屈辱を得た。しかし、こうしてこの星へ降り立った時以上の状態にて復活した今、末端器官の数十本を切るのがせいぜいの貴様らに負ける道理は―――ない』

 

クラリオンは自らの力を誇るかのように、再び光線の発射姿勢へと移行する。全身が震え、複数ある眼球から光線が我々の寸前までいた部分に収束した。全てを貫く光は我らの足場を消滅させ、繋がりを絶たれ一部を失った世界樹の根の傾斜が高くなる。我々は角度の変わった坂道を必死で駆け上りながら、世界樹の木の根の陰に隠れ、再び反撃の機会を伺う。

 

奴の瞳は複数あるが、巨大である事が奴にとっての利点であり、また欠点でもある。奴は巨大であるがゆえに、小さな存在である我らを見つけにくい、という事態に陥っている。私たちが米粒ほどの大きさもない小さな羽虫を視認しにくいようなものだろう。だからこそこうして鬱蒼と生い茂る世界樹の木の根を利用することによって、我々は奴から姿を隠すことができるというわけだ。

 

「それで、どうするんだ?」

「―――奴の巨体に対し、私の一閃ではたいした打撃となり得ないのは、これまでのやりとりからしても明白だ。―――先ほども言った通り、決め手はエミヤと響だ。彼女の能力と、彼のスキルがクラリオン打倒の鍵となる。だから、なんとしても彼らをクラリオンと接触させる必要がある。そのための前段階として、あの障壁を解除してやらなければならない」

「私に攻撃スキルを持たないから、論外として……、サガ。お前のスキルは―――」

「……隙間でもあるならともかく、完全にこちらとあちらを隔絶するような障壁があるんじゃ、スキルの力をその地点まで送り込む必要のある術式は通用しねぇな」

「―――つまり、頼りになるのはシンだけ、というわけか」

 

ダリとサガは自らの無力さを嘆き、揃って溜息を吐いた。この度の敵に対して有効となる技能を持っていないだけで、戦う力がまるでないというわけでないのだから気落ちする必要はないと思うのだが、どうもその辺りの感性は私と違うらしい。

 

「―――いえ、そんなことはありませんよ」

 

二人の自虐を否定する声が静かに響く。三人揃ってピエールの方に顔を向けると、彼は影の中、いつも通りの涼しげな笑みを浮かべながら、断言する。

 

「障壁を解除させるための手段を思いつきました。―――文字通り、我々皆が命を賭ける覚悟が要りますが、如何致しましょうか? 」

 

ピエールの希望に満ちた意地悪な笑みと提案に、私たちは一も二もなく頷いた。

 

 

「一閃! 」

『出てきたか……』

 

一閃はクラリオンの触手を切り落とすも、自らの肉体を切られたというのに、奴は余裕綽々の様子だ。クラリオンにとってあの触手は爪や髪のような、神経節の通っていないものなのだろうか。あるいは、使い捨ての部分故、わざわざ痛覚を感じる神経を通さず再生しているのかもしれない。

 

『二手に分かれたか? ……まぁいい。ただの人間ごとき捨て置いても問題なかろう。脅威となるのは英霊とかいう特殊な存在である貴様だけだ』

「私の仲間を見くびると痛い目を見るぞ。それに上の奴が言っていたぞ。貴様はかつて、そのただの人間に、してやられたのだろう? 」

『ふん……』

 

再び奴の触手が突き刺さった世界樹の根から末端となる魔物が出現し、私を取り囲み、行く手を阻んだ。文字通り血路を切り開いていると、血飛沫舞う視界の端に、奴の瞳が攻撃態勢に入ったのが映る。力場が瞳孔周辺へと収束し、大きな瞳に私の小さな体が映り込む。私は疾走し、世界樹の根を飛び回った。

 

回避行動の最中、毒に侵された世界樹の姿が目に入る。天井に悠然と佇む世界樹の根は、すでにその巨体の半分以上が赤に染め上げられていくのがわかった。刻限は確実に迫ってきている。

 

クラリオンは私の動きに一瞬戸惑ったのか、常より遅れた間隔で光を放った。一瞬の遅れがあったとはいえ、敵の攻撃精度は高く、再び私が直前までいた場所は魔物の残骸ごと消滅し、足元は微かに傾いてゆく。今、クラリオンの攻撃の見切りが行えるのは、私か、エミヤくらいのものだろう。

 

思考の最中、後方から、再び光が収束する気配感じ、やかんより湯けむりが噴出したかのような音が聞こえた。

 

―――来る

 

先ほどと同様、攻撃の瞬間を見切り、その場から離脱して、距離を開ける。敵の攻撃により多くの足場が消滅しているが、幸いまだその数は十分にある。だからこのまま回避を行いつつ、機会を待つ。

 

 

「今、クラリオンはシンにのみ集中しています。ですが、私たちという足かせを失ったシンが、彼本来のスペックを十全に発揮している限り、クラリオンは今の攻撃を続けても彼を殺すことはできないと悟るでしょう。そうすればあれは、必ず、奴は奥の手を使うはずです」

「―――奥の手があるという根拠は?」

「奴は自信家です。しかし、長い時間を必要とする策略を練り、それを実行し、果たすという精神的な耐久力も持ち合わせている。そんな奴のことです。他人に明かさない切り札の一つや二つ、持っていてもおかしくない―――そう、貴方の固有結界みたいにね」

「……、それで?」

「しかし、そして、今、苦戦しているにもかかわらず奥の手を明かさないところを見るに、奴が奥の手を使わないでいる理由は三つ考えられます。そう易々と使えない手段なのか、この場面で使ったところで無意味なのか、あるいは、たかが人間程度に使うのはプライドが許さないのか」

「ふむ」

「二番目である可能性は低いでしょう。いかなる場面であろうと覆せるからこその、切り札で、奥の手だ。なら可能性として高いのは、一番か三番。奴のこれまでの言動から推測できる性格を加味すれば、おそらくは三番目こそ、クラリオンが奥の手を切らない理由である可能性が高い」

「ああ、だからこそ、挑発がてら、シンは奴に細々と攻撃を繰り返しているのか」

「ええ。プライドの高い奴のことです。そのうち、シンの挑発と当たらない事実にイラつき、奥の手を使用する時が来るでしょう。―――その時は」

「承知した。ならば―――、せいぜい彼と君たちの手腕に期待し、その時を待つとしよう」

 

 

『なるほど、大言を口にするだけのことはある』

 

クラリオンはそんな言葉を口にすると、私に対しての全ての攻撃行動をやめた。今まで苛烈さが嘘のように、あたりは静まり返る。触手と世界樹の根の小競り合いにより、余波を受けた天井と壁が崩れ、土砂と岩が滝のように落ちる音だけが、耳朶を打つ。

 

『人間と種族の中には、大きさこそ矮小なれど、侮り難い存在がいる。貴様という存在は、そのことを嫌という程思い出させてくれたよ。―――礼を言おう』

「……どういたしまして」

 

これまでの奴とは違い、今のお言葉には、目の前の存在に対する敬意というものが確かに含まれていた。ただ、それは、私がエミヤや強敵などに向けるものとは違った、別種の感情を孕んだ、冷徹に見下し、睥睨するようなものだった。

 

『しかし残念ながら、これ以上君に時間を割いている暇はない。何せ本命は君ではなく、世界樹のオリジナルと――――、これ以上、このような場所で時間と力を浪費するつもりは、ない』

 

頭上から冷たい言葉を振らせたクラリオンは、全身に複数ある半開きだった瞼を全開にさせて、丸い瞳を完全に晒していた。瞳は純粋な殺意に染め上げられており、一片たりと余分な感情がうつっていない。先ほどまであった油断の色など、もはやかけらほども存在していなかった。

 

クラリオンの体に存在するすべての瞳が怪しく光を発する。やがて奴の体の前方―――重力の見方に従えば下方―――へ、巨大な多面体の透明な物質が出現した。見た目は宝石に似ているが、色合いが違う。漏斗状のあれはいったい―――

 

『神罰大集光』

 

考える間も無く、奴はスキルの名を発した。悪寒が全身を走り抜けた。魂が無に還る感覚。どこまでも奈落へと落ちゆく感覚。一度実際に命を失ったが故に明確となった死の感覚に反応して、感じたと思うよりさらに前、生存本能が体を突き動かしていた。

 

クラリオンの瞳の前方に力場が生じ、光が透明な物質へと吸い込まれてゆく。多方向から光を吸い込んだそれは、内部にてゆっくりと収束すると、漏斗状の先端へと向かってゆく。あの部分より光が先端より私めがけて発射されたなら、間違いなく回避は不可能だろう。

 

致死と直感する一撃を放たれる前に、それを阻止せよと、遅れて脳内より命令が全身へと駆け回り、私の体は生存のための一撃を最速にて実行する。

 

「一閃!」

 

脱力は完全に行われ、全身から余計な力は一切抜けていた。今日だけでもはや都合十度は放った攻撃は、土壇場、死と隣り合わせの鍛錬により、さらに研ぎ澄まされた一撃となっている。左右両腕に握った一刀が、それぞれ奴を傷つける刀を生み出す元となり、空間の断裂より現れた刃が巨大な瞳群へと襲いかかった。

 

『―――っ、生意気な……!』

「やはり効果が薄いか……!」

 

一閃が奴の防御の内側、すなわち、集光が行われている瞳の前方へと生み出した斬撃と刺突の白刃は、予想通り、巨体には効果が薄く、巨大なクラリオンの角膜部分を軽く傷つけるだけに終わる。とはいえ、予想外の痛みに反応してだろう、奴がその巨大な瞳の瞼を下げたことで光の収束が一旦途切れたのは嬉しくも、喜ばしくない誤算だ。

 

『一度は不覚をとった……、だが二度はない……!』

 

宣言とともに瞼が開かれた。治癒の光がクラリオンの大きな瞳にきらめき、眼球についた傷はすぐさま失せてしまう。やがて完治したクラリオンの瞳周辺から振動が失せてゆく。おそらく、その周辺の組織に最大限の力を込め、たとえ水晶体や角膜が傷つこうと、いかなる痛みが来ようと、瞼を閉じないようにする措置だろう。奴は、私の一閃にて怪我を負うことになろうが、必ず私を仕留めると覚悟し、怪我や痛みを無視する決意をしたのだ。

 

敵ながら見事な度胸と決断に、思わず賞賛の言葉が喉元までやってくる。浮かれたものに加わって余計な言葉が出ないよう、歯を強く噛み締めて己の口元を強く結びつけると、もう一度無双の構えをとり、時を待つ。今、私にできることはすべてやってのけた。あとは―――

 

「―――任せたぞ、みんな」

 

 

『神罰大集光』

 

クラリオンの言葉と同時に、巨大な集光プリズムへと光線が吸い込まれてゆき、尖った先端へと収束してゆく。光というには視認できるほどの遅さであるその速度は、だからこそ、まるで光が発せられる時を待ち、破壊の力を溜め込んでいるようで恐ろしかった。

 

体が震える。今、自分は、これから、あんなものに真正面から飛び込まなければいけないのだ。見上げる相手は、これまで対峙してきた敵のどれよりも巨大な存在だ。対峙したものの存在があまりに自らと違う次元にいると、大きい、小さい、と文句を言うことすら馬鹿らしくなるようで、俺はすっかりそのスケールのでかさに圧倒されていた。

 

我ながら格好悪いと思うが、体の震えが止まらない。それはフユキの地下洞穴で感じた、得体の知れないものに対する恐怖ではなく、これまで何度も味わってきた自らの命を失うかもしれないと言う、既知の恐怖だった。ただ、目の前にやってきた脅威の大きさが、今までと規模が違いすぎて、抑えきれないだけ。体の震えに反応して、籠手まで震えている。

 

―――もうすぐ出番だってのに……!

 

ガチガチとみっともなく金属音を鳴らすそいつを抑え込むと、別の場所に震えが出た。足元だ。地面を必死に踏みしめて全身に力を込めると、今度は背中から振動が伝わってくる。

 

―――ん……、伝わってくる?

 

瞬間、不思議と、体からフッ、と、力が抜けた。全身から力が失せたことで、俺の小さな体が余計に大きく揺さぶられる事になる。背中から伝わる振動が足元へと抜けて、地面に吸い込まれてゆく感覚が、とても心地よかった。

 

「―――ダリ。お前でも怖いって思うことあるんだなぁ……」

「……私は、木石ではない。―――常々言葉が足らないのは、悪いと思っている」

 

ダリは珍しく素直に弱気を晒した返答をよこす。まさかの事態に思わず振り向きそうになるが、体は固定されていて動かすことができない。しかし、得られた回答が気力を充実させてゆくのを実感すると、俺は大きく吸い込んだ息を細く長く吐き出して、シンの方を見た。

 

「一閃!」

 

すると、あいつはいつも通りに鋭い一撃を放っていた。虚空に生み出された一撃は、奴の巨大な瞳を傷つけ、その行動の阻害までして見せる。

 

―――は、はは

 

すげぇや。やっぱシンはすげぇ。そうしてクラリオンの行動を阻止してみせたあいつは、少しだけバツの悪そうな顔をしながら、もう一度同じ構えをとって見せる。ありゃ多分、予定通りに行動できなかったことを悔やむ顔だ。

 

とてもあいつらしい苦悩だ。あれだけの巨体相手に対等に立ち回って、時間稼ぎまでした上に、自身のミスを許さないとか、シンのやつくらいしかしない傲慢っぷりだ。けれど、俺は、そんな自信家で、向こう見ずで、無鉄砲なあいつがいたからこそ、ここまで来られたのであり、そして今、こうして訪れた恐怖を振り切って、その時が来るのを待つことができるのだ。

 

チャンスは一度きり―――、逃すつもりはない!

 

 

『神罰大集光!』

 

奴が二度目となる切り札のスキル名を叫ぶ。光が再び宝石へと吸い込まれ、緩やかに焦点へと収束してゆく。光が発せられるその直前が、勝負の時だ。しかし。

 

―――あ、足が

 

肝心な時に、両足が竦んでいうことを聞いてくれない。いつだって感情を無理やり抑え込んでいた脳みそは、こんな時ばかり敏感に恐怖の感情を理解して、全身に対して死地に向かうことにたいして拒絶の意思を送っていた。

 

歯がゆくて、余計に大きく体が震える。身につけた鎧兜から金属音が鳴り響く。直前まで存在を気付かれないことが肝心なのに、他人よりも恵まれた体を持っているというのに、何という体たらくだ。恐怖を嚙みしめようとしても、歯はカチカチとなるばかりで、体を押さえつけるに役立ってくれない。あまりにも情けなくて、涙まで出てきた。まるで心が初心者の頃にまで戻ってしまっているようだった。

 

視線が定まらない。むせ返りそうになるほどの緑の匂いと、森が焼けた際の匂いが入り混じっている。耳鳴りはおそらくクラリオンの放った光の集まる音だろう。背後から聞こえた失笑は、サガのものだ。過敏になった感覚は、集中するには余計なものばかりを選別して、私の感情をかき乱す。ああ、本当に、なんてなさけな―――

 

「―――まさかお前にこんなことをする日がくるとは思わなかったなぁ」

 

後ろ手に鎧が叩かれる。それは意識を気づかせるための強いものではなく、泣き叫ぶ赤子をあやすような、優しく、思いやりに満ちたものだった。

 

「失敗したら一緒に謝ってやるからさ。気楽にやれよ」

「―――」

 

背後のいるサガの存在感が急に増す。同時に、ここで私が失敗すれば、この場にいる全員の命が失われ、さらには世界の破滅にまで繋がるだろうという気負いが、一気に拡散する。サガという男は、いつだってそうだった。

 

サガは口ではどんなに軽薄なことを言っていても、胸の中がどれほど揺らいでいても、周囲の人間の悩みを見抜いて、他人を慮ることのできる、強い人間なのだ。そして私は初志を思い出す。ああ、そうだ。人の心の変化が理解できないと思い込んでいた私は、変化を当然と受け止め対応するサガに憧れ、彼と共にいれば自分も変わることが出来るかもしれないと思ったからこそ、このギルドの勧誘に応じたのだ。

 

私は―――

 

「―――ありがとう。気が楽になった」

「――――――は、お前が素直にそんなこと言うたぁ、こりゃ明日はとびっきりの天変地異が起こるぞ」

「あるいは、そのせいでこんな事態に陥ったのかもしれんがな」

「……ははっ、いいね、ダリ。お前、それ、これまでの中で最高にイカした冗談だぜ」

「おかげさまでな。……いくぞ! 」

「―――おう! 」

 

緊張感は恐れとともに、とっくの昔に霧散していた。今、私の背後にはサガという男がいる。そしてサガの目の前では、シンという男が、単独であの恐ろしい巨大な敵と対峙している。エミヤたちは私たちの行動の成功を祈って、どこか別の場所で待機しているにちがいない。

 

―――失敗は許されない。けれど、失敗するなんて考えはもはや一片たりと浮かばなかった

 

『神罰大集光! 』

「―――今だ、サガ! 」

「おう、核熱の術式! 」

 

そして私とサガは飛翔する。シンを殺そうとするあの光を遮り、血路を開くために。

 

 

「完全防御! 」

『なに!?』

 

光はシンという男を消滅させる寸前、空中にて停止した。否、私が停止させたのだ。光の粒子を完全防御で凌ぎ、サガがシンのいなくなった後方、世界樹の木の根に対して核熱の術式を使用する。生じた爆発の威力により、全てを消滅させる威力を持ったはずの光の中を突き進む。爆発により生じた火炎と熱は、ファイアリングとピエールのスキルで軽減し、あとは我慢だ。

 

『貴様たち、一体何を―――』

「すぐにわかるさ! 」

 

やがて完全防御が切れる前、身を消し飛ばしそうなほどの熱戦のから抜けると、クラリオンの敷いた万物の防壁の内側へと降り立つ。完全な防御を誇るという防壁は、内側からの衝撃にも強いらしく、私たちのような人間程度の大きさなら、簡単に支えてくれていた。

 

「サガ! 」

「任せろ! 超核熱の術式! 」

 

着地と同時に、我々を繋ぎ止めていた紐を切り離す。直後、万物の障壁の内側からサガのフォーススキルが放たれた。彼の機械籠手から放たれた破壊の光は、直進し、奴の瞳に直撃すると、接触部から爆発を生じさせ、さらに爆発により生じたエネルギーが連鎖的に奴自身の体を爆弾へと変え、更にその体積を削ってゆく。

 

『ぐがぁっ! き、きさま……!』

「いい足場だぜ! 不安定さが全くない! これなら、いくらでも正確に狙いがつけられらぁ! 絶対防壁なんてものを敷いたのが仇になったな! 続けてくらえ、核熱の術式! 」

 

瞳の一つはサガのフォーススキルによって完全に潰されていた。そして奴の文句が終わらぬうちに、サガの追撃が始まる。先ほどよりも少しばかり小さな光が放たれ、奴の体を爆発物へと変換し、その内部までを削ってゆく。

 

相手の体に作用し、それ自体を爆発の触媒とエネルギーとして変換する核熱の術式は、巨体に対してのまさに絶大な威力を発揮し、放たれた光が次々と奴の大きな瞳を潰してゆく。角膜は破壊され、水晶体はこぼれ落ち、どろりとした内部液が漏れ出した。もはや血涙ではなく、漏液。あれではもはや、瞳が目の前の光景を正しく認識する事は不可能だろう。

 

『お、おのれ……! ―――万物の障壁、解除!』

「う、うおぉ」

 

途端浮遊感が身を包み込む。足元を見ようなんて馬鹿な考えは浮かばなかった。それでもこの身に何が起こったのかは、奴との距離が見る間に遠ざかっている事実だけで判断できるというものだ。

 

―――私は今、サガとともに落下している最中なのだ。

 

「ピエール! サガ!」

 

私はサガを抱え込むと、大きな声を発した。

 

「はいはい、お任せあれ。火幕の幻想曲!」

「行くぜ! 大爆炎の術式! 」

 

何処かよりピエールの歌声が響くとともに私たちの体へ再び火属性の損害を軽減する膜が張られ、直後、サガにより大爆炎の術式が私たちの眼下に放たれる。暴風に煽られ迫り来る炎は私らを焼き尽くそうとするが、その勢いは火竜が放ったものなどとは異なり、まるで殺意のこもらない、単なる火と熱と風の集合に過ぎなかった。

 

「ファイアガード! 」

 

そして爆発により起こった火と熱を防ぎつつ、爆発の際に生じた風に乗って、私たちは世界樹の木の根にて鉤爪ロープを引っ掛けて構えるピエールの下まで自ら吹き飛ばされる。着地の際に全身に多少の痛みが生じたが、はるか下方の地面に身を叩きつけられ、肉片になり、痛みすら感じる間も無く死んでしまうことを思えば、むしろ喜ばしいものとして歓迎するべきものだろう。

 

「冗談で言ったが、本当にスキルで空を飛ぶことになるとは思わなかったなぁ」

「事実は小説より奇なり、という奴ですよ」

「―――それより、あちらはうまくやったのか? 」

 

私が周囲を見渡すと、真っ先に映ったのは、サガが引き起こした爆発の連続により身体中に大怪我を負い高度を下げていたクラリオンの体の上部へと取り付いた、シンの姿だった。シンは、両手に持った剣を俊敏にふるいながら、己のフォーススキル『一閃』を連続して行い、周囲を切り刻み続けている。

 

『ぐぉ……、貴様、これが狙いだったのか!?』

「硬質な障壁を用いて内部の守りを固めるという事は、内部は柔らかいですと言っているようなものだ! これだけ接近すれば、貴様のような柔らかいデカブツ―――」

 

そしてシンは無双の構えより一閃を発動する。シンの周りにあるすべての触手部分が切られ、吹き飛び、空中より掘り出されて下方に落ちてゆく。彼はまさに、闊達に自らの体を動かして、敵の体を解体し始めていた。

 

「斬って刻む事は容易! 」

『―――おのれ……! 』

 

シンはクラリオンの上面を疾走しながら、刀を振るって状況に応じてスキルを発動し続けている。触手にて構成された体のふとましい部分は、ブシドー最大の威力を誇るスキル『ツバメ返し』にてぶった斬り、細かい部分は『抜刀氷雪』の範囲攻撃にて纏めて叩き斬る。

 

触手が蠢き、クラリオンの身から配下が生まれるも、それらを利用してシンを排除しようという試みは、周囲全ての障害物を『一閃』にて纏めて斬り落とすシンの攻撃にて防がれる。見上げていると、クラリオンの上部から皮膚を擦った際こぼれ落ちる垢の様に、ポロポロと奴の一部が落下してきている事が理解できる。シンは鬼神の如き活躍で、クラリオンの巨大な体の表面を削りつつあった。

 

クラリオンは自らの絶対防御『万物の障壁』の内側に侵入した敵を排除することができず、ただ身を悶えさせてその巨体を削られてゆくばかりだった。

 

『ええい、忌々しい……! 』

「むぉっ……」

 

やがて自らの肉片が落下してゆく様がよほど歯痒かったのか、大きく身を悶えさせたクラリオンは、シンを振り払うためだろう、世界樹に毒素を注入する作業を中断し、大きく身を回転させた。天地が幾度となくひっくり返り、シンの姿が見え隠れする。

 

鬼神の如き強さを誇るシンとはいえ、彼の身体能力は人の持つそれの延長線上に過ぎない。シンは刀をクラリオンの体に突き立て、逆しまになった地面にへばりつき、蠕動と回転の運動に耐えるため、二つの剣を器用にクラリオンの皮膚に突き立てて、まるで壁面を登るかの様に、回転運動に逆らって上へ上へと向かっていた。

 

『しつこいぞ人間! 』

「ぐぬっ……!」

 

やがてそれでも自らの体から離れようとしないシンに痺れを切らしたクラリオンは、体表部分の触手を集結させて作り上げた自らの体を一旦解き、バラバラの状態へと形態を変化させた。散らばった触手の内、体表に配されていた部分は飛翔能力を持たない様で、バラバラとはるか下方に位置する地面へと落下してゆく。

 

「……っ、ちぃ―――」

 

やがてシンは巨大な体表部分の触手落下に巻き込まれ、クラリオンの体から引き剥がされてしまった。シンのしがみついている触手が、クラリオンが自身の周囲に張りめぐらせている万物の障壁と接触した瞬間、奴は障壁を一瞬だけ解除して、シンとともに自ら切り離した肉を障壁の外側へと放り出した。

 

シンはそれらの肉がはるか下方の地面へ向けて落下し出す前に、周囲に張り巡らされた世界樹の根向けて大きく跳躍すると、二本の剣を交互に突き立てて器用に上部へと登りあがる。それは、シンらしい迷いのない行動だった。

 

『ずいぶんとしぶとく抵抗しおってくれたな……! 』

 

クラリオンは怒りを隠そうともしない激しさを伴った口調で、シンを睨みつけた。今、奴自身が行った所業により、巨大だった体はその外周部分を大きく失い、今までの半分ほどの直径になっていた。

 

身体中に複数あった瞳も、たった一つにまで減っており、不定形のアメーバ状だったクラリオンは、一本の長い紐の先端に単眼が引っ付いた、マッドワームの様な姿になっている。我々の連携攻撃により、奴が弱体化したのは明らかだった。しかしそれでも奴は、我々が相手とするには十分すぎるほどの巨大な体躯をしており、強力な力を秘めていることが予測できた。

 

『多少不恰好な手法になるが仕方あるまい……! 』

 

奴は唇があれば食んでいただろう、不承不承といった声を上げると、小さくなった自身の体から周囲に散らばっている世界樹の根に向けて触手を大量に伸ばし、突き刺した。

 

「な、何を……」

「―――いけない、奴は、世界樹の根を枯らして、我々から足場を奪うつもりです! 」

『その通り。矮小な貴様らを相手に、この様な卑劣な手段を取らねばならないという事実は極めて不本意だが―――、誇りとするがいい。貴様らは、クラリオンという強大な個がこのような手段を取らねばならぬという状況になるまで、我を追い詰めたのだ!』

 

クラリオンは吠えると、自らを取り囲む様に空中に張り巡らされた世界樹の根の部分の接触部を見る間に赤く染め、凄まじい勢いで奴の配下へと変化させてゆく。触手型の魔物へと変化した敵は、その細い触手を世界樹へと突き刺して、自らの同種を生み出す。奴らそして世界樹が枯れる勢いを凄まじく加速させていた。

 

「おい、やばくないか!? 」

「ああ。このままだと……我らが支えとする根が枯れ果てるまでに一分とかかるまい」

「ですが……」

「ああ」

 

足場を求めて逃げ回る我々のうち、サガは多少焦った様子を見せたが、シンとピエールはひどく落ち着いていた。かくいう私も二人と同じ様に、気持ちは平生を保っていた。なぜなら。

 

「どうやら賭けには勝った様だな」

「細工は流々、仕掛けは上々、後は結果をご覧じろ、といった所ですかね」

「ああ。その通りだ」

 

瓦解していく世界樹の根にいる私たちは、足場を求めて逃げ回る最中、体躯の小さくなったクラリオンの直上にて密かに活動する、二人の姿を見つけることが出来たからだ。

 

「我らの命運は託したぞ。……響、エミヤ! 」

 

 

「彼らはうまくやった様だな」

 

エミヤ。エトリアにおいて、現在、最高峰の冒険者として名高く、同時に、この度の世界樹の新迷宮に深く関係している節のある男性。瀕死の重傷を負い、傷は癒えたといえど未だに能力を万全に使えない状態ながら、彼は今、これまでとまるで変わらない様子でこの場所―――クラリオンの背中を、迷いない足取りで疾走していた。

 

クラリオンが万物の障壁を解除した瞬間、奴の背中に取り付いたのはシンだけではなかったのだ。シン達と別行動をとった私たちは、シンとは別の場所からこの不安定極まりない場所へと飛び移り、そして肉を抉って内部へと取り付いた。

 

その後、一旦クラリオンの端まで駆け抜けた私たちは、シンが暴れる中、不安定な足場をひっそりと細工を施しながら疾走する。蠢く肉体に刃を突き立てて肉を削り、穴を掘って埋めなおしても気付かれなかったのは、シンが暴れまわってくれたおかげだろう。クラリオンが脱皮するかのごとく表皮を脱ぎ捨てた時はとても焦ったが、お陰で私たちの仕事量も減ってくれて、万々歳と言えるかもしれない。

 

しかし、私にとって、そんなクラリオンの曲芸じみた行動に付き合わされて、無茶をやらされた代償は大きかった。

 

「―――大丈夫か、響」

「……はい、……問題ありません」

 

大嘘だ。エミヤの補助があったとはいえ、クラリオンの回転運動に逆らい、全力で落下に抵抗した結果、通常とはありえない方向への負荷を強いられた筋肉が痛みを訴えている。何度も転げそうになっているのは、普段あまり使っていない筋肉と関節を無理に稼働させてしまったせいだ。おかげであっちこっちが痛い。

 

踏みつけるたびにグニャグニャと定まらない感覚を返してくる足元は、シンや仲間たちと別れて行動し、その上彼らの命運を背負う事となった、私の心の中の戸惑いと不安を表しているかのようだ。それでもなんとか痛みを我慢して、足を縺れさせる事なく走っていられるのは、目の前で私を慮り先導する彼という存在があるからに他ならない。

 

「―――そうか」

 

慧眼で思慮深い彼のことだ。私のそれを強がりと見抜いたのだろうが、それでも彼は私の意思を尊重して、何も言わないでくれた。必死で色々な思いと疲労を抑え込んで身体中が悲鳴を上げ、誰かに優しく救いの手を差し伸べられたら、迷わず縋ってしまうだろうくらい弱っている今、その態度は何よりありがたいと思う。

 

「……ゃあ!」

 

クラリオンの体が大きく揺れた。ぐらついた体に手が差し伸べられるも、なんとか自力で踏ん張って見せる。すると足元の肉が絶え間なく脈動しているのがわかった。クラリオンの肉体は、蠢いて触手へと変貌すると、やがて生み出された無数の触手は世界樹の根へと突き刺さり、途端、接触部分から赤の染色が始まった。染まり上がった部分からは、触手型の魔物が生まれてくる。

 

「一閃! 」

「核熱の術式! 」

 

私の今いる場所からは見えないが、シンとサガがスキルの名を叫ぶ声が聞こえてきた。遅れて、スキルが効果を発揮し、敵をなぎ払い、空間を切り裂く爆音が響き渡る。私は彼らの攻撃のタイミングに合わせて、エミヤの生み出した杭を敵背中に打ち込み、皮袋を肉の中に埋めた。肉に包丁を叩き込んだような反動が、疲れた両手にジンと響いて、痛みを感じる。

 

『無駄だ! 自らの体をそぎ落とした分だけ、万物の障壁は以前よりも密に私の体を守護する! 肉を固く引き締めてやれば、その男の斬撃程度なら、もはや脅威にもならん! 貴様らの攻撃はもはや私には届かない、通らないのだ! 』

 

だがクラリオンが放つ怒りともなった大声は、その巨体を大きく震えさせ、足元を通じて体内に直接、耳をつんざかんばかりの声色を送り込み、手のひらの痛みとは比べ物にならない頭痛を引き起こす。私は効果がないと知りながらも、思わず作業を中断し、両手で耳をふさごうとしてしまう。

 

「―――急ぐぞ」

 

そんな反射的に生じた弱気の行動を、エミヤの声が中断させてくれた。彼の迷いない声色に導かれる様にして、私たちは再び解いた縺れ糸を垂らし、袋を結びつけながら、シンたちの攻撃に合わせて袋をクラリオンの体へと埋め込み、奴の体の上を疾走する。

 

『さぁ、去ね! 去ぬれ! 貴様らはこの地下深くにて、地に這い蹲っているのがお似合いだ! 所詮は矮小な人間の伸ばした手が天をつかむことは、永劫あり得てはならない事なのだから! 』

 

見下す言葉に反骨心が湧く。メラメラと闘志が燃え上がり、身体中の痛みを少しだけ和らげてくれた。

 

―――そんなことはない。私たちは、お前を倒して、もう一度天を仰ぎ見てみせよう

 

「―――エミヤさん、一つ、提案があります」

 

 

「一閃! 」

 

シンがブシドーのフォーススキルを発動すると、クラリオンの表面から、鑢か鉋をかけたかの様に、皮膚の屑と皮がむけて落ちてゆく。しかしそこまでだ。身体能力を最大限に引き上げたシンの一撃とて、万物の障壁を張り、筋肉がわりの触手を固く締め上げるクラリオンの体内奥深くにまでは刃が到達しない。余計な体表を捨て、防御に特化したクラリオンの守りはまさに鉄壁で、こちらの攻撃はほとんど一切通用していなかった。

 

『無駄だ! 』

「そりゃどうかなぁ! 」

 

サガが核熱の術式を、一つになったクラリオンの瞳めがけて放つ。触れれば爆発を引き起こす光は、奴が前方に張る万物の障壁―――の前方にいる、魔物の群れへと直撃すると、奴らを生む毒素を吐き出す触手ごと吹き飛ばし、風に乗って音と煙と血と肉片が散らばって煙幕となる。煙は奴の張った万物の障壁に沿って流れ、クラリオンの視界と聴覚を一瞬の間だけ遮断する効果があった。奴の攻撃がほんの少しの間だけ止まる。

 

「もう足場がほとんどねぇぞ! 」

 

しかし、そんなことを何度も繰り返していると、やがて気がつけば、天井より伸びてクラリオンの周囲に張り巡らされた世界樹の根は、ほとんど無くなっていた。戦闘の最中、クラリオンが自らの配下を生み出す触媒として使い、また、サガが敵の数が増えないように、触手の刺さった根を片っ端から吹き飛ばしていた故に、消失までの速度は余計に早まっていたようだった。

 

無数にあった根も、今や壁面から天井にかけて捻れながら身を伸ばす足元の一本のみ。この命綱を断たれた時、私たちの命は尽きてしまうのだろう。奴もそれを見越しており、最後の根を破壊しようと無数の触手を伸ばしてくる。しかし。

 

「一閃! 」

 

シンがそれをさせない。シンは今まで攻撃と撹乱のために使用していたフォーススキルを、守護のために使い始めたのだ。攻撃一辺倒の男がしかしその構えを捨て、一旦、完全な守勢に入った時の力や凄まじく、シンの白刃がきらめく度、クラリオンが伸ばしてくる触手は根元より断たれ、暗闇の中へと落下してゆく。

 

『手こずらせてくれる…・・・』

 

そしてシンの鉄壁の防御に己の攻撃の無駄を悟ったクラリオンは、触手を伸ばす行為を停止し、私たちから距離をとった。私たちと奴との距離は徐々に離れ、やがてついに私たちの位置する場所からでは、まともな攻撃が一切届かなくなる。奴は私たちとの間合いが十分開いたことを確認すると、ゆっくり自らの眼前に力場を生み出し、光を収束させてゆく。

 

「ダリ―――、お前、あれ、防げるか? 」

「ああ。一度だけ、私たちに対する攻撃ならば、なんとかしてみせよう。だが、足元、スキルの効果範囲外は無理だ。―――つまり、落下は防げん」

「誇張なし……、か。お前らしいわ」

 

問いかけに素直に答えると、サガは茶化した返事をこちらへよこした。その行為に肩の力が抜ける。余裕を持って辺りを見回すと、シンもピエールも、未だに希望の光が宿った瞳で、クラリオンの攻撃を真正面から見据えていた。

 

『最後の瞬間までその目をするか……、気に食わんが、構わん……』

 

奴の瞳の前あった光が収束を終える。クラリオンは、私が完全防御を使用しようと関係なく、世界樹の根元を焼き切れるだけの力を溜め込んだのだろう、単眼となった奴の眼前に生まれた光球はこれまで見た中でも最大のものであり、それ単体で直径百メートルはあろうかという巨大な球体だった。

 

『さらばだ!』

 

奴が叫び、光球が縦の楕円形に膨らむ。内部に貯蓄された力が波打つ表面を突き破るかのごとく、飛び出し、私たちを焼き尽くすべく、力を解放する―――、その直前。

 

「そう、これでさよならです! 」

 

響の声が大きく響きわたり、クラリオンの大きな単眼が存在する場所の上部より頭部背中より一瞬だけ小さな爆発が生じた。直後、連鎖的に奴の背中で爆発が起こり、粉塵が舞い上がる。

 

『なに……!? ぐっ、うっ、お、おお、おおおおおおおおぉぉぉぉ!』

 

爆発によって生じた煙が奴の体を包み込んだ途端、クラリオンは長く伸びた体を悶えさせて、苦しみだす。悶える体は、やがて解けて触手に戻り、さらに液状化、あるいは石化しながら崩れ落ちてゆく。

 

『貴様ら―――、一体なにを―――』

 

それでも奴なりの矜持なのか、溶けてゆく体のうち、単眼のある頭部だけは上下の向きを保ったまま振り返り、己の体が如何なる様になっているかを確認しようとする。そしてクラリオンは、己の現状を正しく認識したようで、単眼を大きく見開き、文字通り、目を見張らせた状態で、驚愕の声をあげた。

 

『毒と―――、石化か……!』

 

言葉を発したと同時に、角膜の上部がずるりと向けて落ちる。一層、蛇より取り出した毒がついに奴の巨体の中心部まで到達しようとしていた。クラリオンはどこからともなく大きな舌打ちをすると、その単眼に大きな亀裂が生じた。

 

やがて二つに割れた眼球と、ズル剥けた周囲の黒い皮膚の内部からは、人間の脳の形に似た姿の海松色の敵が現れる。前頭葉部分に単眼の眼が引っ付いているそいつは、脳幹から脊髄に当たる部分が二列等間隔に生え並ぶ目玉で構成される触手が集まって胴体のような体裁を整えている。クラリオンは、もはや毒に侵された我が身を見捨てて、触手で出来た体を脱ぎ捨てたのだ。

 

「その通りです! 」

 

空中に残った脱皮直後の触手の上で、この場所からでは点のようにしかみえない響が吠えた。我々とクラリオンの意識が彼女へと集中する。目を細めて彼女の様子を伺えば、今現在クラリオンが脱ぎ捨てた外殻、その頭上の頂点という、誰よりも高い位置にいる彼女は、落ちゆく足場の上で足をガタガタと震わせながら、必死の形相で見たことのない剣を握っていた。剣はその刀身が曲がった不思議な形状をしており、槍のようでもあった。

 

『女……!』

「私が貴方の体に毒と石化の香を埋め込んで爆破しました! あとは―――」

 

彼女はクラリオンの形骸が落下してゆく最中、ガタガタと震えていた身をさらにぎゅっと縮めて前傾姿勢になると、足元を思い切り蹴飛ばして、空中へと飛びだした。

 

「―――はぁ!?」

「ばっ……!」

「……響!」

「響さん……!」

『……!』

 

響の自殺行為には私たちのみならず、流石のクラリオンも驚いたようだった。何せこの場所は、地上より軽く千メートルは距離のある場所である。落ちたら即死という状況において、空中へと飛び出した彼女は、柄を両手でしっかりと握りしめ、剣を下方へと突き出しながらクラリオンへと直進したのだ。

 

「これでトドメです! 」

 

空間に響の大声が反響する。彼女の手にした短剣に如何なる威力が秘められているのかはわからない。けれど臆病を表に表していた彼女が、それでも自信満々に突き出す剣は、いかにも目の前のクラリオンを滅することが出来る威力を秘めているかのように見えてくる。

 

『小賢しい……! 』

 

しかしクラリオンは、大脳部分と小脳部分の下に格納していた、脳幹の形状に束ねていた十数本の触手を解くと、それらを用いて自らの体めがけて飛び込んでくる響を、頭上、斜め上に向けた眼前にて押しとどめた。

 

「あ、ぐぅ……!」

『そして浅慮なり!いかに弱ろうと、この程度の一撃、我が止められぬとでも思うたか! 』

 

空中にて十数本の触手に捕らえられた響は、全身をきつく縛り上げられていた。ギシギシとか細い肉体が軋む様子が、遠くの光景より伝わってくる。クラリオンと私たちの距離は軽く五百メートルは離れている。シンの一閃の射程から離れ、サガのスキルすら届かないこの場から私たちにできることは、ないと言って過言ではないだろう。

 

「響!」

 

シンの必死の叫びを快楽として捉えたのか、クラリオンの前頭葉部分についた単眼が悦楽に歪み、持つ全ての触手が響へと集中し、彼女の体を覆い隠し、さらに強く締め上げた。そして。

 

「ああ―――、その程度の攻撃なら、防いでくるだろうと思っていたよ! 」

 

今やクラリオンの下方へと位置する、落下しつつあった形骸の中から、赤い弾丸が奴めがけて飛び出した。エミヤだ。凄まじい速度を伴った彼は、先端が剣の形に尖った鉄鎖を握りしめ、クラリオンの露わになった脳幹部分へと一直線に迫ってゆく。

 

『―――貴様!』

「やはり諸王の聖杯は肉体の奥底、本体に隠していたか! だが―――」

 

エミヤは鉄鎖を振り上げる。おそらく脳幹部分に隠されていた聖杯に攻撃を仕掛けるつもりなのだ。エミヤの行為に反応してクラリオンは防御のために触手を動かそうとしたのだろう、一瞬だけ全身を強く震えさせたが、しかし何もしないまま、奴はエミヤの接近を許していた。

 

『これは―――!』

「縺れ糸! 足りない気力はアクセラで無理やり回復した! 私のフォーススキル『イグザート・アビリティ』は、どんな相手だろうと、当たれば絶対、道具は効果を十全に発揮する!」

 

よく見ると、いつのまにか、響を縛り上げる複数の触手は、響を掴んだその場所から伸びる縺れ糸によってその根元まで縛り上げられていた。おそらくエミヤが叫びクラリオンの気を引いた隙に、響がフォーススキルを発動したのだろう。

 

『お……の……れ……!』

「そして―――」

 

防御行動の取れなくなった奴は、響とエミヤを交互に見たのち、エミヤの攻撃の回避を試みるべく、身を後方へと動かして、退避行動をとる。だが巨体の動く速度は、自身の体を魔弾と化したエミヤよりもずっと遅い。クラリオンのすぐ近くまで接近したエミヤは、振りかぶっていた腕を思い切り振り下ろし、その先にある鉄鎖をクラリオンの体へと叩きつけた。

 

「これで、『ジエンド』、だ!」

 

そして転職して間もないエミヤは、ダークハンターのスキル、『ジエンド』を発動する。最大まで強化されたスキル『ジエンド』は、弱った敵を即死させる効力を持っている。スキルにより死の力を纏った鉄鎖が、奴の弱点―――すなわち聖杯があったのだろう脳奥の部分へと叩きつけられた。鉄鎖より鈍色の光がゆるゆると外皮を剥がれ、肉体を失い、脳と脊髄と周辺部位のみとなったクラリオンの残る全身に広がり、死の概念が伝播してゆく。

 

『また……、また、人間如きにやられるのか……、長き屈辱に耐え、アンリマユの力を手に入れ、完全復活を果たしたこの身が、矮小な、深い悪意も知らぬような、精神の脆弱な平穏な世界に生きる住民どもに、倒されるというのか……!』

 

クラリオンは死の力が自らの体に広がっていくのに合わせてその身を大きく揺らすと、怨嗟と怨念込もった恨みの言葉を吐き捨てた。

 

「―――彼らは確かに悪意に弱いかもしれない。かつての悪意に満ちた世界では生きてゆくのすら難しかっただろう。だが、だからといって、彼らは決して自他に悪意を抱かないわけでも、悪意に悩まないわけでもない。彼らの悩みや苦しみは、私や貴様のような、人は他人に悪意を抱いて当たり前の生物であると考える存在とは別の次元のものであるため、我らのような旧世界の存在には理解しがたいだけのことなのだ。―――己の悩みや苦しみを他人に八つ当たりすることなく、自らや仲間の手を借りながら乗り越えてゆく彼らが、弱いわけがあるまい」

『―――お、お、おぉぉぉぉぉぉぉぉ!』

「さらばだ、クラリオン―――そして、言峰綺礼」

 

断末魔の雄叫びをあげて、奴は消滅してゆく。気がついたときには、クラリオンの脳型の体は、ほとんどが崩れ落ちていた。

 

 

そして―――

 

「ん……?」

「あ……」

 

やがて最後に触手と脳が消え去った時、空中にてクラリオンの体にて支えられていた響とエミヤは、止まった時間を取り戻したかのように、空中から地面へと向けて落下し始めた。

 

「凛の時といい、―――空中からの落下が私の持ちネタになりそうだな……」

「馬鹿言ってる場合ですかぁぁぁぁぁぁ―――!」

 

珍しく冗談を言い放ったエミヤに、響が熱いツッコミを入れた。ただでさえ我々のいる場所から距離の離れた彼らは、みるみるうちに小さくなり、奈落の暗闇へと消えてゆく。

 

「響!」

「エミヤ!」

 

サガとシンが身を乗り出して、下方を覗き込んだ。遅れて私とピエールも二人に続く。

 

「―――どうやら無事のようだな」

 

奈落へと消えてゆく彼らの点が、多少大きな平行四辺形の面となったのを見て、私は呟いた。

 

「ええ。どうやら、二人は飛び降りる前に、パラシュートを身につけていたようですねぇ」

 

考えてみれば当然だ。特に、向こう見ずな部分のある響はともかく、冷静なエミヤが、助かる手段もなく空中に飛び出すという自殺行為を敢行するはずがない。当然なんらかの対処を講じているだろうことは、予測できた事態だった。

 

「―――はぁ……、まったく、ヒヤヒヤさせやがる」

「まぁ、終わりよければ全て良し、だ」

「―――ところで、彼らはそれでいいとして、私たちは、どうやってこの場から脱出すればいいのだ? あのような道具を生み出す手段、我々にはないのだが……」

「「「あ」」」

 

私の指摘に、珍しく三人が口を合わせてぽかんとした表情をうかべる。結局、ヴィズルが木の根の迎えをよこしてくれるまでの間、私たちは千メートルの壁を降りるのか、あるいは下の彼らの助けを待つべきなのかを議論し、時間を無駄に過ごす羽目となった。

 

 

「ちょっと、アーサー。なんで帰還の術式使ったのに、エトリアじゃなくてこんな場所に出てくるのよ」

「知るか。俺はいつも通り、術式を使っただけだ」

 

フレドリカとアーサーは言い合いを始める。そんな二人の諍いがどうでもよくなるほど、目の前に現れた景色の素晴らしさに心を奪われていたからだ。

 

山と大地の間から姿をあらわす太陽。光は雲海に覆われた部分以外の空の領域を紅に照らしあげている。残照は地面を薄く這ってゆき、やがて街に到達すると、大地の最も窪んだ場所にあるエトリアの街を半分ほど明るく染め上げる。

 

建物の影に追いやられた夜の残滓は、陽光を嫌うかのように月の沈んだ方向へと逃げてゆく。闇を追い払う行為を援護するかのように、東風が吹き荒れる。強風は木々を揺らした際に巻き込んだ葉を伴っていた。

 

しかし、闇が雲海の残る方角へ逃げていくのを拒むかのように、西側から山颪の風が吹き下す。山を降りてきた風は、土と葉と水気を含んでおり、やがて街の中央まで追いやられた東風は、その場所で山颪の風と拮抗して、絡み合った風は空へと吹き抜けてゆく。

 

風の中に大量に含まれた異物が、エトリアの街の上空で混じり合い、散乱し、光を乱反射した。やがて風の勢いが弱まる頃、光を伴った土や葉、水滴は、柔らかい光を帯びながら、暖かさを伝えるかのように街中に散らばってゆく。

 

いつも部屋を寒くし、店の前を散らかす鬱陶しいばかりの冷たい風は、別の場所から見ると、こんなにも美しく見えることに初めて気がつく。まるでエトリアという街が、凱旋を祝ってくれているように感じた。

 

「この景色を見るのも久しぶりだな」

「シン」

 

シンは背中越しからいつもと変わらない様子で語りかけてくる。後方では、エトリアの英雄達がシンを除いたメンバーと談笑している。穏やかな会話の内容を耳にすると、ようやく戦いは終わったのだということを心から実感できた。穏やかな心地を得る。彼は私の真横までやってくると、光散る街の光景を眺めたまま、言葉を続ける。

 

「かつて冒険者を志してこの街へやってきた時、一度だけ目にしたことがある。人とは多少感覚がずれている私も、この光景を見たときは、珍しく感動を覚えたものだ」

「……シン?」

 

シンは私の横に立ち並んだまま、戦い以外であるというのに、珍しく饒舌に、己が初めて街へと訪れた時のことを語る。その態度に違和感を覚えて隣の彼へと視線を移すと、稜線から伸びてきた朝日が彼の体を照らす中、徐々にその体が透けつつあることに気がついた。

 

「―――え?」

「そろそろ、か。そうだろうとは思っていた」

 

自らの体が薄れてゆくという異常を、けれどシンは当たり前のように受け入れ、穏やかな顔を浮かべている。暖かさを取り戻したはずの横顔を風がすり抜けていった。彼の髪はもう小

風に揺れすらしていなかった。

 

「もともと、一度死んだ身だ。英霊としての一時的な召喚だからな。消えゆくのは定めだ」

「―――だ、だって、そうは言っても、他のみんなも……」

 

シンの語った言葉の内容を否定したくて、拒絶の材料となる彼らを探して後ろを振り向くと、そこにはいつもの見慣れた四人がいるばかりで、先ほどまで彼らと談笑を交わしていた英雄達の姿はどこにも見当たらなかった。

 

サガとダリは目を伏せて、黙祷を捧げるような姿勢でいる。ピエールは目を瞑って空を仰ぎ、唇を小さくパクパクと動かしていた。それは彼らが死者を想い、弔う際に見せる態度だ。その中で、ただ一人、エミヤだけが切れ長な白眉の下に、物憂げな瞳を浮かべて私たちの方へと向けていた。縋るようにして彼と目線を絡ませると、彼は静かに視線の交差を断ち切り、首を横に振って、目を伏せて見せた。彼の返答に思わず息を呑む。

 

皮肉なことに、救いの手を求めて振り向いた先にあったのは、シンの述べたことが事実であることを補強する光景だった。それでも信じられなくて、信じたくなくて、本人からの否定を求めてゆっくりともう一度シンの方へと向き直ると、先ほどよりも輪郭がおぼろげになった彼は、薄れゆく中にあって唯一存在をはっきりと主張している彼の刀の一振りを、私の方へと差し出して笑顔を浮かべていた。

 

「これは君に返しておこう。もうそれは君のものだ」

 

私は、私へと差し出された刀を、しかしすぐには受け取ることができなかった。シンは目の前にいるのに、もう存在感がほとんどなかった。吹けば消えてしまうような姿の中で、唯一、確かな実体として存在するのが、差し出されたその刀だ。

 

私がそれを受け取ってしまえば、シンはそのまま消えてしまう。そんな予感が脳を支配して、彼の差し出した刀を受け取ることを全身が拒絶していた。そうしている間にも、彼の姿はさらに薄れてゆく。時よ止まれと強く願っても、時間は常と変わらず流れていくばかりで、彼の体から光が剥離してゆく現象を止めてはくれなかった。

 

「響―――」

「―――っ」

 

―――いらないっ

 

喉元まで込み上がってきた強い否定の言葉をなんとか飲み込む。だからといって、現実を否定しても、決まった結末が覆らないこということは、嫌という程理解できていた。だからせめて―――

 

「―――はい」

 

差し出された刀を素直に受け取る。どうせ覆らない別れの運命なら、せめて綺麗な幕引きで終わらせたいと思った。無理やり笑って見せるも、余計にシンとの別離が意識されてしまって、涙と嗚咽が溢れ出て、いらない化粧を顔に施してゆく。ああ、どうか見苦しいと思わないでほしい。暴走しそうな想いを必死に抑え込んでいるのだから―――

 

「いい顔だ」

「―――」

 

ここに来てそのセリフはずるいと思った。固く閉ざした心の蓋は、もはや何処か遠くへと吹き飛んでしまっていた。

 

「―――好きです」

 

勢いよく溢れ出した想いは、瞬時に体の外にまで溢れ出て言葉となり、自然と口から零れ落ちた。彼の顔に、驚いたような、とぼけたような、独特の表情が浮かぶ。不思議なことに、もうほとんど輪郭も存在感も失せているのに、彼の浮かべたその顔だけは、驚くほどはっきりと私の網膜にくっきりと映った。

 

「好きです、シン。あなたの事が好きなんです」

 

だから、言葉を続ければ、彼との別れの時が少しでも遠のくかもと思って、そのまま思いの丈をぶちまけた。壊れたおもちゃのように、好きだと、同じ言葉を繰り返す。言葉を発するたびに、涙の向こう側、シンは存在を濃く感じられた気がした。それが嬉しくて、何度も、何度も、何度も、何度も、同じ言葉を繰り返しす。

 

「好きなんです。消えて欲しくないんです。好きなんです。あなたの事が、好きなんです。シン。私は―――」

「響」

 

言葉を続けていれば、いつまでも彼が消えないでいてくれる気がして、息を継ぐ間も無く発声を続けていると、彼は短く私の名前を呼んだ。たったそれだけの言葉が、足掻く私の醜態を切り裂いて、私の息まで止めてしまっていた。

 

「―――」

 

彼の口から出る言葉が今生の別れとなる。そんな気がして、私は思わず手を伸ばしかけていた。続く言葉なんて聞きたくない。私は―――

 

「ありがたいが、しかし諦めろ。私はもう死人だ」

 

しかし涙の向こう側にいるシンは、私に自らを過去の未練として断ち切れとあっさり言ってのけると、返事も聞かずその存在感を薄れさせてゆく。最中、彼の体がこちらへと近づいてきたかと思うと、無遠慮に胸元へと手を突っ込み、何かを取り出して抜き去った。やがてキン、と甲高い音が数度聞こえたかと思うと、パラパラと地面に細かいものが落ちた音がする。

 

「こんなもの、もはや君には必要あるまい。冒険者として生きるのが辛ければ、その剣も売り払って、やめてしまっても構わん―――此度の召喚で、私は、私の願いを果たすことができた。だからもう、君が無理に私の願いを背負ってくれる必要はない。過去に縋り生きるな。泣くほど辛いのなら、生きるのに余分な思いは全てここに置いていってしまえ。私が全て持っていこう」

「あ……」

 

涙目をこすり、眼前の光景をはっきりと収められるようになった頃には、彼の姿はもうどこにもなくて、気持ちの良い、胸のすくような朝焼けの光景だけが、まるで色褪せずに広がっていた。シンの輪郭はかけらも見当たらないけれど、気配だけが残っている。そして―――

 

『さらばだ。私も君に好意を抱いていたよ、響』

「―――あ」

 

最後の時、微かに聞こえたシンの一言は、胸の中にある、怒りも悲しみも苦しみの思いを、全部まとめて切り飛ばす、まさに一閃の様な切れ味を持っていた。

 

ふと弄られた胸元を探ると、大事にしまいこんでいた彼の形見の宝石が消えていることに気がつく。私は本当に、シンの唯一の形見となってしまった刀の鞘を胸元に寄せて抱きしめた。シンの残滓を求めて柄を握りしめるも、しかしもう彼の体温は消え去ってしまっていた。本当に。本当に、過去に浸るための材料を余さず私から奪って逝ったのだ。

 

―――過去に縋り生きるな

 

それが本懐を遂げて消えた彼の最後の望みだというのならば、私はシンという過去になった人との思い出に溺れることなく、前を向いて、今という時を精一杯必死に生き抜こうと思う。だから―――

 

「っ、……っく、……あ、…………うぁ、あぁ―――」

 

―――それでも、今、この時だけは、あなたを思い、涙を流すことを、どうか許してほしい

 

透明な糸が、頬の、涙が枯れた跡を再び潤してゆく。こらえきれず恥も外聞もなく泣き声を上げだすと、彼の消え失せていた期間に溜め込まれ、彼と再会した半日のうちに醸造された想いは篠突く雨となり、積み重ねてきた好意と、未練と、後悔の全てを乗せて、託された刀身を濡らしてゆく。

 

「うぁ……、う、うぇ……、えっ、えっ」

 

死の間際、世界から消失する直前、私の告白に、未練を抱いて欲しかった。好きだと返して欲しかった。そうすれば一歩を踏み越えて、貴方のことを抱えながら生きてゆくとせんげんできたかもしれない。消えるなんてこと許さないと、わがままを言うことだってできただろう。けれど。

 

―――諦めろ

 

けれど、彼は、思いを告げても、まるで迷うことなく、私に己へ思いを捨てろと言ってのけたのだ。けれどそんな事、出来はずがない。出来るはずがない。出来るはずなんてあるわけない。だから、忘れず、抱え、浸らず、前に進むための経験にしようと思った。

 

胸の中はまだ大嵐で荒れている。しばらくの間は、彼のことを思い出すたびに、この嵐は再発するのだろう。やがて年が過ぎれば、いつかこの胸の痛みも記憶と共に薄れ、心の荒れた模様も、平静保つ、凪いだような状態になる日が来るだろう。だから前に進もう。

 

―――いつか貴方と過ごした日々なんか忘れちゃうくらい、楽しく生きてやる

 

『私も君に好意を抱いていたよ』

「―――っ……、うぁ……」

 

だからこのひと時、この場所で、存分に想いを置いてゆくために、彼のことを思い出そう。せいぜい私の溜め込んだ貴方への想いの重さに驚くがいい。馬鹿め。だいたい忘れろと言うのに、最後にあんな言葉を残していくやつがあるものか。おかげで全然―――

 

「貴方への想いが消えない……、消えないよぉ……、シン―――」

 

 

エピローグ

 

 

クラリオンとかいう大ボスを倒して、俺たちは晴れて無罪放免となった。おかげでエトリアの街を堂々と胸を張って歩いても、衛兵が飛んで来ることはない。面倒ごとが解決して何よりだ。縮こまったままコソコソと街を歩くのは性に合わないからな。

 

ただ弊害というか、面倒なことに、以前よりも顔が売れちまったせいで街を歩くたび、一々チラ見されるようになった。まー、どこにでもあるようなこんな顔を見て何が楽しいのか、そうすりゃバレないと思ってんのか、こっちに視線を一瞬送ってきては、ヒソヒソヒソヒソと、よくもまぁ飽きないもんだと思う。

 

クラリオン討伐から三日になるのに、未だにこれが続いているというのだから驚きだ。接近や勧誘の禁止令が出ているから害はないし、いちいち目くじら立てるのも馬鹿らしいから放置しているんだが、エトリアにいる間中、こうも全身に視線が集中するのを肌で感じると、流石に鬱陶しい。

 

「よう、邪魔するぜ」

 

煩わしさ全てを振り切るように、インの店の扉を開けて、閉める。背後より感じる視線が扉に遮られて失せた事にホッとしてため息ついたのも束の間、目線を前に向けなおしてみれば、今度は、受付や階段脇にいる全ての客の視線が俺に向いていることに気がついた。

 

いつぞや盛大に鳴いていた閑古鳥はどこかへ飛び去ってしまったようで、すっかり満員御礼の立て札が常に存在するように宿屋となったこの場所は、有名の札が貼られた俺らとは非常に相性の悪い場所へと変貌していたのだ。

 

「いらっしゃ―――、ああ、サガか」

 

そんな居心地の悪くなった混雑する宿屋の中から飛んできた聞き覚えのある声に、俺は機嫌を良くして、視線の集中する中を闊歩し受付まで歩く。飴色に光る木目の机台の前まで進むと、衆目の視線が集中する中、物ともせずに平然と客をさばく長身の男の姿がある。

 

「おい、お前客だろ? 」

「あいにく、この宿の主人は今、料理と接待で手が回らないらしいのでね。半ば強制的に手伝いをさせられているのさ―――ああ、失礼致しました、お客様。こちらが部屋の鍵となっております。ご存知かと思いますが、明朝五時になり、鐘の音がなると同時に、順次、未だ部屋の中に滞在しておりますお客様にお声をお掛けし、退出していただくこととなっておりますので、ご了承ください」

 

エミヤだ。本来客分である彼を働かせようと考えるあたり、この宿のばあさんもタダものでないなとおもう。慣れた手つきで書類を受け取り、宿帳に文字を記入し、案内とともに部屋の鍵を渡すのを見るあたり、もう幾度となく繰り返した作業なのだろう。

 

「そういうわけで、今は話ができん。先にいつもの部屋で待っていてくれ」

「りょーかい」

 

差し出された鍵を受け取ると、近くで俺らを囲むようにして屯っていた奴らを押し割って、階上へと足を進める。廊下を進み、ざわめきと視線が少なくなっていくのを感じながら目的の場所まで到達すると、部屋の鍵を開けて中へと入る。

 

すると、以前この部屋に入った時はシンも一緒だったな、と、軽く酩酊したような感覚を覚えた。豪奢ででかいベッドへと身を横たえると、目を閉じて、世の中の喧騒が少しばかり遠のいていく。どうせ誰もいないんだ。来るまで寝てても誰も文句も言うまい。

 

 

「失礼。そこを通していただけますか? 」

 

詩歌を一曲披露したのち、集まった聴衆に一礼を返すと、胸元まで下げた帽子に金銭を突っ込んでこようとする彼らの行為を遮って、押しのけ、私はどうにか輪から抜け出しました。早足にて立ち去ろうとすると、サインだの、弟子入りだのの懇願の声が後ろから聞こえてきます。

 

あの事件以来、今まで以上に顔が売れ、街中で演奏すると百人単位で客が集まるのは嬉しいことなのですが、彼らの大半が、私の語る物語ではなく、私自身を目当てにやって来ていることを考えると、その嬉しさも半減、と行ったところでしょうか。

 

袖つかもうとする彼らの手を振り切るため、もうすでにやましい身分でもないのに、エトリアの街中を裏路地利用し、こそこそと早足で街中を横切って駆け抜けていると、やがて見覚えのある看板を見つけてホッとしました。

 

インの宿屋です。しかし胸をなでおろしたのも束の間、いかなる事情なのか、かの宿屋の前には、先程衆目の中で見たばかりのいくつかの顔があるではありませんか。どうやら、私が回り道をしている間に、彼らは進む方角から私の目的の場所を見定め、先回りしたようでした。その能力は、是非とも迷宮探索で活かすだけにしてほしいものですね。

 

とにかく彼らに捕まり、再び時間を取られるのはごめんなので、裏口に回りこみました。通常なら、基本的に店の裏側にあるのは従業員専門の勝手口であり、客が入れる場所ではないのですが、扉を叩くと、見覚えのある顔が現れて、私を招き入れてくれました。

 

「人目を避けて裏口から特別扱いを求めるなんて、有名人ねぇ」

「そうですねぇ。もう少し彼らに節度があれば、喜べもしたのですけれどねぇ」

「まぁ、ああ行ったのは一過性のもので、はしかみたいなものだから諦めなさい」

 

彼女はからからと快活に笑いながら調理場へと戻っていきます。山のように積み上げられた素材を前に一つ大きなため息を吐くと、包丁をふるって、次々と食材を切りわけ、切り分けたものを複数の鍋やフライパンに突っ込み、スキルを使って調理を始めました。

 

「見ての通りだから、案内はできないわ。受付にエミヤがいるから、記帳して鍵を受け取ったら部屋へ行ってちょうだい。ああ、そうそう、目立たないように、帽子をとって、背負っている楽器外して、そこの従業員用のエプロンをしていくといいわ。顔を伏せて自分の荷物を抱えていれば、うちの店員ってことで、少しは目線を誤魔化せるでしょ」

「……感謝します」

 

忠告と助言どおり、身につけたものを入れ替えると、顔を伏せながら廊下を進み、受付のエミヤの所まで進みます。店扉の前後が騒がしい中、どうにか視線を避けて彼のところまで進み声をかけると、彼は予想外の場所から予想外の格好をした私が現れたことに少しばかり驚いた顔を見せましたが、店の入り口を見やるとすぐさま納得の表情へと変化させ、サガが以前の部屋で待っていることをひっそりと告げられました。

 

私はやはり目立たぬよう、身を潜めながら部屋へと向かい、ノックもなしに部屋へと入り込みます。扉が閉まると同時に、店内に溢れる喧騒の音が遠のき、ホッと一息。悪意がないからこそ、あの集団はタチが悪いと断言できます。ぞんざいに扱うわけにもいかないので、非常に対応が難しい。まったく、非常に面倒な相手です。

 

「―――んぁ? 誰だ?」

 

私の入室を察知して、寝ていたサガが素早く上半身を起こしました。眠っていたのか、寝ぼけ眼であるにもかかわらず、彼の籠手は半ば開放状態で、体勢もすぐさま戦闘に移行できる様になっているのは流石といえるところでしょう。

 

「……私ですよ」

「―――ああ、ピエールか。そんな格好してるから誰かと思ったわ」

 

サガの言葉に、今自分がどんな格好をしているかを思い出しました。エプロンの紐を解いて椅子の上に投げ捨てると、帽子と外套を箪笥へとしまい込み、楽器を手に持ち椅子へ座ると、ようやく人心地つくことができました。

 

「バードとしての活動中、熱心なファンに追い回されましてねぇ」

「ああ、お前の場合、冒険者としての活動以外が、本分だもんな。……お互い大変だねぇ」

 

軽い口調ですが、言葉には実感が伴っています。彼も前回の騒動で顔が売れてしまっていますし、有名税を支払う羽目になっているのでしょう。私とサガは、珍しく揃ってため息を吐くと、私は窓の外に目を向けました。

 

正午を過ぎたばかりのエトリアの街中は、今、外部からの観光客で溢れ、賑わっています。聞けば、目立たぬように窓の下を覗き込めば、大勢見える人間のうち、半分程度が私たち目当ての物見遊山客であるというのですから、たまったものではありません。

 

私はもう一度ため息を吐くと、椅子に座り、深く腰掛けて目を瞑りました。サガではありませんが、少し、何も考えずにすむ静かな時間がないとやっていられないというものです。

 

 

「というわけです。請け負っては頂けないでしょうか?」

「―――私の一存で決定するわけにはいかない。相談の後、後日の返答ということで宜しいだろうか? 」

「……わかりました。色よい返事をお待ちしていますよ」

 

金鹿の酒場にて、持ちかけられた話に保留の返事を返すと、依頼主は残念そうな顔を浮かべ、机から立ち去る。長く重いため息を一つ吐いて机の上に載った依頼の紙を回収すると、すぐさま別の誰かが私の前の席に座ろうと迫って来るのを見て、思わず顔をしかめてしまった。

 

「―――さぁ、今日はここまでだ。散った、散った」

 

しかし、そんな彼らを、槍を持った衛兵が手を振って、遮ってくれた。

 

「えぇー」

「横暴だー」

「もう半日以上も店を占拠している輩がいるとサクヤさんから苦情が出たんだよ。これ以上、店とこいつに迷惑をかけるようなら、とっ捕まえるぞ! 」

 

衛兵の彼が声を荒げて叫ぶと、冒険者や依頼の紙を持った奴らは蜘蛛の子を散らしたかのように立ち去って行く。やがて店から人が一人もいなくなったのを見計らって、女店主が閉店・準備中の看板を出したのを見て、私は大いに安堵のため息をついた。

 

女店主―――サクヤは笑って店の奥に引っ込むと、空になった水差しを机の上から回収して、新たに一杯になったものと手垢の付いていないコップを持ってきてくれた。

 

気遣いをありがたく受け取り、一息にてコップを空っぽにすると、ようやく人心地がついたと感じる。人気のなくなった昼間の酒場の奥で、ようやく静かになった机を前に、私は腰掛けていた椅子に思い切り背を預けて、凝り固まった体を思い切り伸ばした。

 

「―――っ、くぁっ、―――はぁ……」

「おつかれ」

 

骨と肉がはがれる感覚が心地よい。私を辟易とした聞き取り作業から解放し、周囲を落ち着いた環境へと変えてくれた彼は、私の前の席に腰掛けると、労いの言葉をかけて来る。割と無茶な要求ばかりを聞かされていたところだったため、彼の心遣いが胸に染み入ってくる。私はせめてもの礼として、新しいコップに水を注ぐと、彼の方へと差し出した。

 

「助かったよ。朝方食事を摂取しに来たら、そのまま注文をする間も無く、とっつかまってこれだ。気を利かせたサクヤが水を用意してくれなかったら、危うく干からびる所だった」

「まったく、腹が減ったのならギルドハウスで出前を頼めばよかろうに、不用意にこんな場所へ姿を現わすからだ」

「返す言葉もない。とはいえ。執政院の方に用事があったからな。目立たぬよう、朝一番で用事を済ませた後、まだ暗がりだったので、ついつい油断してしまった」

「ああ、そういえば、クーマ様に呼ばれていたんだったか。それなら仕方もないか。―――で、これからどうするんだ? 」

「インの宿屋に向かう。話し合いの予定があるんだ。この時間帯だと―――、すでにみんな揃っている頃かな」

「そうか」

 

彼は自らの前に差し出された水を一気に飲み干すと、兜の紐をほどき、それを私の方へと放り投げ、立ち上がった。とっさに受け取ると、金属鎧とぶつかり、甲高い音が高鳴る。

 

「では行こうか。移動中はそれをかぶっとけ。ついでに冒険者でなく、昔を思い出して衛兵のふりをしておけば、多少は野次馬どもの目線を防ぐこともできるだろうよ」

 

 

「というわけで、遅ればせながらも、昔の友人に助けられてなんとかこの宿屋までやってきたのだ。一応、依頼の紙の複製は全部もらってきたが……見るか? 」

 

ダリが机の上に置いた紙の束を見て、サガはしかめっ面を浮かべ、手のひらを振ってみせた。

 

「遠慮しとく。お前のそのうんざりとした顔見るに、どうせどれもろくなのないんだろ? 」

 

言葉通り、全く手をつけようとしないサガの代わりに紙束へと手を伸ばしたのは、ピエールだ。彼は数十枚はある依頼書のうち、上から数枚程を手にすると、目を通す。

 

「採取に探索、退治ですか……。殆どが階層の低いもので、緊急性が高いものはなさそうですし、別に私たちでなくとも出来るものばかりですねぇ」

 

ピエールはわざとらしいまでに大きなため息を吐くと手にした紙を揃え、素の紙片の上に乗せると、楽器を鳴らそうとして思いとどまり、その指を止めた。楽器の音色が部屋の外に漏れると面倒なことになる、と直感したのだろう。窓の外を眺めてみれば、未だに私たちを探してざわつく人たちを見るに、賢明な判断だと思う。

 

「それでも、どうしても私たちに、という依頼が多くてな。酒場の女将に頼み込む輩もいるらしく、仕方なしに事情を聞いてやろうと会ってみると、ついでに新迷宮の話を聞きたい、という枕言葉が付いて来る輩ばかりで、流石に少し辟易したよ」

「ああ……。ウチの方も、一時期、道具屋に買い物に来るのは、品物を購入するからついでに話を聞かせろ、みたいな人が多かったですからねぇ……。まぁ、わたしの場合は、三日と経たず売る品物がなくなっちゃったから、速攻、閉店にして事なきを得ましたけれど……」

「まぁ、個人経営の店なら、それでもいいんだろうが、酒場の依頼の方は、下手な理由で断ると、冒険者全体に迷惑がかかっちまうもんなぁ」

「以前ならシンのバトルマニアぶりが世間に知られていたお陰もあって、断ったところで悪い噂は流れませんでしたが、今回は、下手に英雄として名が売れてしまいましたからねぇ」

「クーマにも、急ぎの用事や目的がなければ、出来るだけ対処して欲しいと言われてしまっているからな」

 

ダリの言葉に、揃ってため息が一つ漏れた。その時、暗鬱としつつあった空気を裂くかのように、ノックの音が鳴り響いた。誰もが疲れた目で扉の方を見つめていると、返事がないことを無視して、誰かが扉を開け、中へと入ってきた。

 

「失礼する―――、どうした。揃いも揃って、不景気な面を浮かべて」

「逆だ逆。景気が良過ぎて、人手不足で倒産しかけてんの」

「ああ、なるほど」

 

サガの言葉に、エミヤは頷くと、後ろ手に扉を閉めて鍵をかけた。無意識のうちなのだろうが通常の鍵に加えて鎖まで使用するあたり、エミヤも表には出さないが、内心、警戒心が強まっているようである。

 

「まぁ、こういった熱狂は、一過的なものだ。加熱するのが急激な分、冷めるのも早いはず。しばらくの間は、有名税と思って諦めるしかないだろう」

「つっても、三日経ったのにこの有様だぜ? いったい、いつまで耐えればいいのさ」

「さてな。まだ三日、という言い方もできるが」

 

エミヤはサガの文句に首をすくめると、腕を組んで瞑目し、扉近くの壁に背を預けた。しばしの間、沈黙の時間が続く。どんよりとした空気が部屋の中に広がってゆく。みんなを呼び出しておいてなんだけれど、

 

「―――ところで、今日はどんな目的でわざわざこの場所に招集をかけたんだ、響? 」

 

口火を切りづらい状況の中、エミヤがアシストをしてくれた。彼の行為に感謝を送りつつ、私は言葉を継ぐ。

 

「ええと……、実は、皆さんにご相談があって……」

 

通り一辺倒の常套句を告げると、一斉に顔色が変わる。しまったと思ったが、もう遅い。ああうん、わかるとも。この台詞は、この三日、道具屋、執政院と酒場と施薬院で無茶振りや面倒な依頼や頼み事をお願いされる前に、嫌という程聞かされた言葉なのだから。

 

失態を悔やみつつ、一旦仕切り直しのために咳払いをすると、少し皆の表情は和らいだのを見て、私は早速、今日の要件を切り出した。

 

「―――、皆さん。よろしければ、旅に出ませんか? 」

「……旅?」

「ええ。とりあえず、まずはハイラガードの方へ」

 

頷くと、皆が一様に首を傾げた。まぁ、その反応は予想の範疇内だ。ハイラガードは安全に旅しようと思えば、エトリアから一ヶ月程度は要する場所にある。そんな場所へといきなり行こうと提案されたのだから、疑問符と共に返されるのも当然だ。

 

「……誰かからの依頼などではなく?」

「はい。私からの提案です」

「それはまた……、しかしなぜ急に?」

「えっと、昨日の昼のことなんですけれど……」

 

 

「海の真ん中の、空に浮かぶ島の迷宮? 」

「ああ。聞いたことないかな」

 

閉店の看板がかけられて静まり返った店内、ただ一人、うちの道具屋にずっと預けてあった荷物を取りに来た客が述べた言葉を聞いて、私は首を傾げた。目を瞑り、しばし考えこむ。

 

―――空に浮かぶ島……というと……

 

「えっと、ハイラガードの世界樹の最上階のことでしょうか?」

「惜しい。そこも今からしようとしている話に関係ある場所だけれど、あそこは森と断崖絶壁に囲まれた場所であって、周囲に広がっているのは海じゃないだろう?」

「はぁ、まぁ、たしかに」

 

受け取ったブツを抱えて私の間違いを指摘した彼は、得意満面の笑みを浮かべる。

 

「うん、でも、ハイラガードの最上階がその場所と関わっていることは間違いないんだ」

「はぁ」

 

要領を得ない話に、私は気の無い返答しか出来ない。お客さんは名の売れた道具屋である私をやり込めることが出来て嬉しいのか、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて、私の次の言葉を待っている。いかにも上から目線のその態度は少々癪に触るが、この手の人は私が尋ねようが尋ねまいが、どのみち話すまで帰らないというのを、私は経験上、理解している。

 

「えっと、つまりどういうことなんでしょうか?」

 

だから先に質問を切り出す。どのみち聞かないと終わらない話なら、さっさと聞いて終わらせた方が、精神衛生上もよろしいし、時間の短縮になるというものだ。

 

「ああ、実はね。その海の真ん中にある空飛ぶ島までは、ハイラガードの世界樹の最上階にある浮遊島の一つから出ている空飛ぶ船で行けるという噂なんだ」

「空飛ぶ船?」

 

私は首を傾げた。ハイラガードの世界樹の最上階までたどり着くと、そこには沢山の浮遊島があるという噂を聞いたことはあるけれど、そこから空を飛ぶ船が出ているという話は耳にしたことがなかったからだ。

 

「空を飛ぶ船っていうのは、気球とかではなくてですか?」

「ああ、違う、違う。あれは大きく縫い合わせた布の中を球状にして中を軽い気体で満たすだけで、基本は風まかせだろう? そうじゃなくて、もっと、荒れ狂う風の中を逆らって飛ぶようなやつさ。なんでも飛行船っていうらしいよ」

「へぇ……、でも、最上階なんて、そうそうたどり着けるものじゃあないでしょう?」

「そう。そこがこの話のみそでね。実はこの空飛ぶ船、乗せる人を選ぶらしくてね。ある程度以上の実力がない人間だと、乗船できず降ろされてしまうらしいんだ」

「はぁ」

 

乗る人を選ぶとは、またなんとも商売っ気のない、横暴な船もあったものだ。いや、そもそも世界樹の天辺などという場所からしか人を運ぼうとしない時点で損益もなにもあったものじゃないが、操舵している人は随分とまた性格が捻くれていると思う。

 

「そこで本題なんだけどね。僕は、君達なら、その船に乗って、海の真ん中の島にある迷宮を攻略できるんじゃないかと思うんだ」

「―――はぁ?」

 

驚きと疑念を含んだ上擦った声が出て、静かな店の中に響いた。自分ではあまり大きな声を出したつもりはなかったのだが、これまでの冒険で肺活量が上がっていたらしく、私の周囲にある重たいはずの机や椅子が少しばかり浮かび上がり、埃が舞う。

 

「ああ、すみません。驚かすつもりはなくて……」

「いや、うん、こちらこそ申し訳ない」

 

互いに頭を下げて自らの不注意を謝罪する不毛なやりとりが終わると、気を取り直した彼は咳払いを一つして、荷物を抱えなおすと、ふたたび私へと視線をまっすぐ向けてくる。

 

「何せ君達は、今をときめく、新迷宮を攻略した、エトリア最高峰のギルドだからね。船に乗る資格はバッチリあるとおもうんだよ」

「……まぁ、それはそうかもしれませんが」

 

自らの功績を褒められた際、以前のなら出てこなかっただろう慢心も謙遜もなくそんなセリフが出てきた事に我ながら驚いた。ここ一ヶ月で有名になったという自覚が成長したという自信に変化し、意識に変革をもたらしたのかもしれない。

 

「だろう? だから、機会があったら、是非とも挑戦してもらいたいと思ってね」

「はぁ……、でもなんでまた?」

 

なんでわざわざそんなことを私に教え、私たちを迷宮に送り込もうとするのか。

 

「いや別に大した意味はないんだよ」

 

彼は笑うと、頬を指で軽く数度ひっかいた。照れ隠しの行動で軽く赤く染まる頬は、無邪気な笑みだけが浮かんでいる。

 

「ただ、もし僕が言ったことで君達が動いて、そこで世界の何かが大きく動くんなら、面白そうだと思っただけさ」

 

思いついたまま、無茶苦茶な理屈で人を動かそうとする様は、どこか彼の笑みに似た性質が含まれていて―――

 

 

「そんな話を聞いたので、」

「それでハイラガードに行きたいと? ―――ふぅん……、空飛ぶ島に飛行船ねぇ……」

 

気がつけば集合をかけて、シンとまるで似ていないはずの彼の提案を受けようと思ってしまったわけだ。言ってみれば、シンへの意趣返し。いわゆる、未練というやつからの提案だ。最後に感じた思いを正直に素面で言うのは流石に恥ずかしいので、多少誤魔化しながらも告げ終えると、ダリが訝しげな声を上げた。うーん、彼らしい、予想通りの渋い反応だ。

 

「うん、面白そうじゃないか。私は賛成だ」

「え?」

 

しかし、一瞬いつものしかめ面をしたダリは、珍しくすぐさま笑って見せると、直感的な決め方をしてみせた。驚くと同時に、ひゅう、と口笛の音が聞こえる。見るとサガが目を見張り口を尖らせている。彼も私と同じ気持ちを抱いたようだ。

 

「らしくはないが、いいね。ようやくお前も、冒険者のなんたるかを心得てきたようだな」

「おかげさまでな」

 

サガの差し出した片手を、ダリが軽く叩いて返す。性質と気質が真逆の二人が、ああも自然に刻意の表現をできるようなっているとは思っていなかった。一体、いつの間にあそこまで仲良くなったのだろうか。最終決戦の時に何かあったのだろうか。―――まぁ、いいか。

 

「ピエールは―――」

「ええ、もちろん賛成ですとも。限られた実力者だけが足を踏み入れることのできるまだ見ぬ新天地なんて、ああ、なんて胸が踊る―――、この観衆の視線に射殺されてしまいそうな街にいるよりは、よほど魅力的な場所で、刺激的な言葉です。是非とも、行きましょう! 」

 

ピエールは静かに立ち上がると、ゆっくりと片手をあげて、片足を下げ、芝居がかった動作をとりながら天を仰いだ。ああ、うん、こちらは、だいたい予想通りの反応だ。なんとも彼らしい賛成のリアクションは、予想外の光景を見て少しばかり興奮気味だった私の心を鎮めてくれる。私は振り向くと、部屋の端で瞑目をしていた最後の一人に話しかけた。

 

「―――エミヤはどうでしょうか?」

 

 

己へと声がかけられたのを機に、目を見開いて部屋の様子を見渡すと、視線が集中しているのがわかる。明らかに良い返事を期待しての目線。

 

―――さて、どうしたものか

 

正義の味方を目指す当初の目的としていた赤死病の解決はもはや果たしてしまった。かつてならば再び真に救済の手を必要としている人を求めてさっさと旅立っていたのだろうが、どうもこの度はそんな気にならない。

 

それどころか、噂頼りの眉唾話に乗せられて旅へ出てもいいかもしれないという気分ですらある。己の心中の変化を知った時、戸惑いの感情が頭の中を支配した。果たして自分は、どういった選択肢を取るのが正解なのだろうか、と。

 

「あら、いいじゃない。面白そうだわ」

「―――ッ、……イン、か」

 

懊悩が脳髄を駆け巡っていた時、だまし討ちのごとく突如として聞こえてきた声に反応して側面を見やると、いつの間にやらインが扉を開けたままの状態でこちらをじっと見つめていた。廊下のざわめきを聞いて、彼女は中へと入り込むと、扉を閉める。予期せぬ突然の乱入者の登場に、一同はあっけにとられていた。鍵の鳴る音が鳴る。

 

動作を見て、さて、そういえば、私が入室するさいに鍵とチェーンをかけたはずだが、と余計な事が頭をよぎった。彼女の手元を見てやれば、マスターキーらしきものと、細い下敷きの様なものを持っているのが映った。おそらくあれらを用いて、扉をこじ開けたのだろう。己の店だからといってやりたい放題である。

 

「定かでない噂に身をまかせて一歩を踏み出す、か。いいわねぇ、若くて。わたしもついて行こうかしら」

 

先ほど調理場で見かけた際あった疲労の色はそこになく、彼女は血気盛んな、それでいて微かに媚びるような視線が空を貫いてこちらへと送られてくる。察するに、本気と揶揄が八対二といった割合だろうか。

 

「イン。まさかと思うが冗談で言っているんだよな? 年甲斐もない」

 

己の観察が見出した彼女の感情の割合に、恐る恐る伺う様に拝聴する。

 

「あら、失礼ね。これが冗談の目に見えて? 」

 

すると彼女は、長く伸ばした白髪をさらいあげ、顔の皺を深め、夏風の熱気伴いながらも梳くような爽やかさを含んだ笑みを、秋の影を落とした様な涼やかさを伴う嬋媛な、それでいて寒気すら感じるような笑顔へと変化させ、答えた。己の最後の一言が彼女の反骨心を刺激する余計なものであった事に気がつく。うっかりの一言では済ますことのできない失態だ。

 

「―――そもそも、強者でないと乗り込めないといっていただろう? 聞けば、ハイラガードの世界樹を登る必要もあると言う。宿屋の女将である君には荷が重いと思うのだが」

「あら、侮らないでくれる? こう見えて私、結構強いのよ」

 

細身の彼女は外見こそ藤田の絵の様に線細く物腰穏やかに見えるものの、内面は天邪鬼と弁財天と鬼子母神をくっつけた様な、素直でなく、負けん気が強く、嫉妬深いが、面倒見の良いという性格をしている。こうなってしまえば、もはや私がなんといったところで彼女は己の決意を曲げはしないだろうし、私がこの旅についていかないと宣言したところで、勝手に彼らについていってしまうだろう。

 

「……降参だ。―――響。私もその旅に同行しよう。みんな。口煩い、棺桶に片足突っ込んだご老人が余計についてくるが、構わないだろうか?」

「死に損ない扱いするとはいい度胸ね、エミヤ」

 

響へと問いかけると、混乱のさなかにある彼女の意識が彼岸より戻り答えが返ってくる前に、六文銭を惜しんでこちら側の岸へ戻ってきたと彼女が、閑静ながらも怒りの迫力秘めた口調で口を挟んできた。

 

「先日まで死病に侵され、彼岸と此岸の淵を彷徨っていた君に文句を言える筋合いはないと思うが」

「懸衣翁と奪衣婆に負けず三途の橋をうろつけていたんだから、無効よ無効」

「橋姫かね、君は」

「失礼な。一条にも宇治にも伊勢にも道成寺にも縁なんてないわよ。―――でも、そうね……。嫉妬とは違うけれど、今、私は、貴方のせいで、似て非なるも、荒れた心境であるのは確かよ。小面をかぶって欲しかったら、せいぜい中将様みたいに振舞ってちょうだい」

「やれやれ、人心掌握や舞、雅楽に長けているわけではないのだが、茶坊主くらいには役立ってみせよう」

「あ……、えっと」

 

戯言にて舌戦を交わしていると、いち早く再起をした響より遠慮しがちな困惑気味の視線が、伏せがちの瞳を通して、私たちに。純粋さに窘められて、大人気ないやり取りを停止し、二人で彼女の瞳を見返していると、やがて意識を明瞭に取り戻した彼女は、なぜか憧憬の念を携えた双眸をこちらに向けつつ、晴れやかに胸を張った。

 

「では準備が整い次第、旅に出るとしましょうか!」

 

 

「なるほど、崖の街、というのは本当の様だな」

 

エトリアのはるか東、ハイラガード公国は、世界樹という大樹の根元、残された土砂が固まり岩となったその上を平らにならして造られた国だった。切り立った崖の上に造られた街は、中央のひらけた広場を中心として百数十メートルはあろうかという断崖絶壁の端にまで家々が立ち並んでいる。多少段の低い地面の部分には、平屋が立ち並んでおり、貧民窟の様相をなしていた。

 

建物は総じて古典米国、英国風。エトリアが東欧あたりの光景であるとするなら、ハイラガードはボストンやサンフランシスコ、ロンドンといった、少し新しい近代チックな作りの街並みだ。とはいえ、もちろん、全面ガラス張りのビルなどがあるわけではない。漆喰と煉瓦の綺麗な街並みが並んでいるだけだ。

 

街中をよく見れば、教会の様なつくりをした建物もある。公国というだけあって、こちらでは宗教が残っているという証なのだろう。エトリアではヴィズルという科学者上がりの男が統治者であったため政教分離がなされていたが、さて、ハイラガードはどうなのだろうか。

 

一旦街並みの観察をやめ、街の郊外に視線を広げる。木の根から街、街から崖、崖からさらに視線を下へやると、深い崖の底はそのまま川へと接しているのがわかる。幅五十メートルはあろうかという川は中央にある世界樹を取り囲むようにして蛇行していた。

 

巨大な滑車と水桶を利用して、はるか下方の川から水を汲んでいるのが見える。また、崖の上に造られた公国内へ入国するためには、川をまたいでいる大きな橋を渡らなければならないようだった。

 

橋は脚の長さが百メートルはある巨大なものだ。中央の橋桁は脚が少なく、多少脆い作りとなっている。仮に敵国に攻められた場合、この橋を落としてしまえば、完全に孤立はするが、ハイラガード公国は、一切陸地より攻め込まれる心配のない完全な孤島と化す。

 

料理、食材は世界樹の中にあるという迷宮より調達すれば良いので、水と人的資材が不足しない限り、永遠に籠城を行うことが可能な仕組みとなっている……らしい。

 

「久しぶりに見たわ」

 

と、隣で私にそんな知識を植え込んだ張本人が声をあげた。髪を雲のごとく流し、背丈をしゃんとさせ、赤い外套を風に梳かせた姿勢の彼女を見ると、とても一時期死にかけていた老体とは思えない。

 

「まさか本当についてくるとは思わなかったな」

 

言葉を投げかけると、彼女は妖艶に微笑んだ。

 

「しかも、店を売ってまでして、だ」

「貴方達のおかげで、今が旬で最高の売値だったんだもの。この機を逃す様じゃ、むしろ商売人として失格といるんじゃないかしら?」

「違いないかもしれんが……、イン、君、なんというか……この世界の住人にしては、珍しく、がめついな」

「失礼ね。私なんて普通よ。むしろ彼らに欲がなさすぎるだけ」

 

胸を張っての業突く張り宣言に苦笑いが漏れる。様になっているのがまた、彼女らしい。

 

「しかしこれで良かったのだろうか……」

「あら何が?」

 

胸の内に静々と押し寄せていた不安が口から漏れたのを、彼女は耳聡く聞きつけてくる。誤魔化してしまおうかと迷ったが、半端な言い訳では彼女に見抜かれると悟り、諦めた。漣すら立たない湖面のような美しい瞳を、嘘という不純物で汚したくないという思いもある。

 

「その場の勢いに押される形でここまでやってきたが、未だにエトリアの街には、私たちの手を求めている人も多くあった。世話になった人に恩を返しきれていないし、仲違いも修復できていない。それを―――」

「かたいわねー、もう少し柔らかく考えればいいじゃない」

「なに?」

 

荊棘のごとく突き刺さっていた悩みを正直に打ち明けると、彼女は私の話を遮って、言った。

 

「貴方はエトリアという街に巣食う、大きな病巣を取り除いた。そりゃ術後も経過は慎重に見守って細かい処置を施す必要はあるだろうけれど、それは貴方の役目じゃない。人にも街にも自然にも、自浄作用ってもんがあるんだから、自然治癒に任せればいいのよ。手取り足取りして面倒見られていたら、いつかは人は自分で呼吸することすら忘れちゃうわ」

「与えるのではなく、学ばせる、か」

「自立の機会を奪うのも、また傲慢ってもんでしょ。人生、味は濃い目、さじ加減は適当くらいでちょうどいいのよ。寺の小坊主じゃないんだから、精進料理みたいにピシッと毎回薄い味付けばっかりじゃ、なんのために生きているのか、わかりゃしないじゃない」

 

インは寺の坊主に恨み骨髄でもあるのか、彼らに対してあたりの強い物言いをすると、鼻息を荒くした。そうして活気よく意気込み悪態を吐く姿に、凛という恩人の少女の頃の面影を見つけて、少しばかり懐かしい気分を抱く。

 

「そうかもな」

 

だからかもしれない。反論は出てくることはなく、七割程度の納得を含んだ言葉が口をつく。残りの三割は、疑念と不満と自尊の混ざったものだろう。他人から突きつけられる結論というものは、得てして受け入れがたい成分を持っているものだ。

 

「だから貴方もたまには、過去のしがらみは忘れて、感情の赴くままに、今を、冒険するように、生きてみるのもいいんじゃないかしら? 貴方はきちんと感情のある普通の人間なんだから」

「―――ああ、……そうだな」

 

だがその不埒な残りの成分は、続く言葉によりこんこんと湧き出た怡々とした感情によって打ち消されて、泡沫に消えてゆく。

 

「おーい、手続き終わったぞー」

 

問答の末、心をざわつかせる不穏な波が収まり平生に戻った頃、遠く橋の向こう側からこちらへと戻ってくる姿が目に映る。

 

「ったく、面倒なことしてくれるよなぁ。国外からの来訪者の場合、一回ごとの渡橋人数が限られているとかよ」

「エトリアとは異なり、周囲を断崖絶壁に囲まれた閉鎖空間だ。それ故に入国者と人数には固く制限をかけ、厳重な守りを敷く必要があるのだろう―――、とはいえ面倒のは確かだな」

「ほんとだよ……、なぁ、響もそう思うだろ?」

「まぁ、そういう地域ですし……、でも、飛行船の噂は本当でしたね!」

 

響は苦笑いをしながらも文句に同意し、けれど一転して、発奮して喜びを露わにした。そのはしゃぎようを見ていると、つい先日、好いた男を失い、今日ハイラガードという場所に来るまでの間、躁鬱激しく懊悩を繰り返した少女とは思えない。

 

―――いや

 

よく見れば、その笑み方には不自然な部分がある。唇は限界までつり上がっているし、むやみやたらに両腕を動かして掌を握りしめては、喜びを表現するかのように振っている。俯瞰して見れば、端々からわざとらしさを感じるのは、気のせいではないのだろう

 

大切な人を失った悲しみを消化し切れたわけではない。それでも少女は気丈に振る舞い、過去に引きずられないよう、それを周りに悟られないよう心がけ、実行している。

 

「エミヤ?」

「―――ああ、彼方、天高く浮かぶ島に、飛行船か。……楽しみだな! 」

 

見習って、テンション高めに発言をしてみると、思いのほか言葉は力となり、自身の気分を多少盛り上げてくれた。すると響は、常とは異なる私のテンションに驚いたようだったが、すぐに気を取り直し、大きく頷くと、満面の笑みを浮かべた。

 

「ええ! ほんと、どんな光景が待ち受けているのか、楽しみですね!」

 

つられて笑みがこぼれた。ダリとサガは突如として目の前に広がった異常な光景に、呆然とするばかりだった。背後からインの漏れた失笑が聞こえてくる。こちらの気持ちを見透かしているのだろう。まぁ、こんな無様もたまにはいいだろうさ。

 

空を見上げると、世界樹の天辺の上空には、秘密を覆い隠すかのように積乱雲が停滞し、その白き塊を中心として、波及するように雲海が広がっている。さて、ただでさえ高いこの高度からさらに上の場所と考えると、もしや目の前の大樹は成層圏、オゾン層を突き抜けて宇宙にまで聳え立っているのかもしれない。

 

そう考えると、柄にもなく胸がざわついた。心臓が高く脈打ち、血潮は熱く滾り、鼓動が早まる。善悪、損得を勘定に入れなければ、これから行く場所に、まだ見ぬ未知なる世界が待ち受けているというのは、こうも胸踊るものだったかと、今更ながらに思い出す。

 

「―――ああ、本当に、楽しみだ……!」

 

もう一度、大きく声を上げ、胸の中の滾りを表に出す。来た道は長く、進む先は遠く、行く道は険しい。時には、迫り来る試練の大きさに、心が折れそうになることもあるだろう。だが、その度に、今しがた抱いたような熱情を胸に、今を必死に生きれば、どんな困難でも乗り越えて行けるだろう。

 

「さぁ、冒険を始めようか! 」

「はい!」

 

響が呼応して、大きく返事をするとともに、頷いた。さて、では今しばらくの間は、全力で冒険者稼業に力を注ぐとしよう。

 

世界樹の迷宮 〜長い凪の終わりに〜

 

最終話 さぁ、冒険を始めよう(B:世界樹 root)

 

世界樹 root ending

 

 

 



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世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 閑話
十一話 「生き方を選べ」 Another root & 幕間 異邦人との交わり


今パートは説明会です。作品同士の溝を埋める処置のため、今後の展開の説明と、独自の解釈と設定を多数組み込んでいるので、設定資料集チックになってしまっています。読みづらい点もございますが、ご了承ください。今後の話の展開の基礎になる部分なので連載中や完成後でも、修正することもあるかもしれません。予告ですが魅力的なfateと世界樹の世界を書ききるため、以前の二ルートとまったく異なった方向へと行きます。色々と明かすのは、最後にしたいと思います。どうぞお楽しみください。


世界樹の迷宮 〜長い凪の終わりに〜

 

十一話 「生き方を選べ」

 

Another root

 

幕間 異邦人との交わり

 

 

―――私は……

 

 

A:いや、こんなことを考えている暇はない

B:一旦、時間をかけて、この世界のことを深く知る必要があるかもしれない

 

 

→B選択

 

 

―――少しばかり焦りすぎていたか

 

思えば、この世界で生きてゆくと決めたのに、私はあまりに、世界樹の上にあるというこの世界の実情と、そこに生きる彼らのことを知らなすぎる。

 

私がこの世界について知っている事といえば、このエトリアのある大地が、世界樹という大木の上に造られた人造大地であるという事と、少し離れた場所にハイラガードという街があるという情報くらいであるし、会話も、不思議と話がしやすいインという女性を除けば、施設利用の戦闘の際にクーマ、サコ、ギルド『異邦人』の彼らと日常会話を交わした程度である。

 

さらに思い返してみれば、エトリアへやって来た当初、私を気遣ってくれていた道具屋のヘイとの会話も定型文じみたもの以外交わした覚えがない。彼の態度に何処かよそよそしい態度が混じるようになったのも、おそらくはここのところ、焦燥感から素っ気なく接してしまった私の態度が招いた結果なのだろう。

 

―――これはいかんな

 

急いては事を仕損じる。慌てる乞食は貰いが少ない。結果を求めて我武者羅に突っ走ったところで、思った通りの成果が出ないことは、先人が多く通り教訓として残したことからも明らかだ。賢者ならぬ身ではあるが、歴史より知恵を学び活かせぬ愚者にまで身を落とすつもりもない。

 

―――いや、すでに一度、失敗した愚者ではある……か

 

シン。私の失態で、彼という真っ直ぐな人物を死なせてしまった。あれは私が、私の世界の常識だけで判断し、動くという、油断と不信が招いた出来事だ。そう。私は結局、私の常識だけで世界をおしはかり、動いている。

 

協力関係を結んだとしても互いに手の内を全て明かさないというのは、以前私が生きていた闘争と競争が全ての世界においては常識だった。他の誰よりも優れてありたい。他の誰よりも上位でありたい。人間はそんな醜い嫉妬が全ての原動力で、他人を蹴落としてでも自らの利益を優先しようとするものばかり。それを持たない弱者は、食われておしまいの世界だった。

 

だから当然、共通の敵相手に同盟組む際も、自らの身を守るためのリスクマネジメントは必須だった。情報は漏らしたくない。余計なコストは払いたくない。だが、便利な手駒は欲しい。誰もがそう考えているのだから、すなわち、出し抜き合い、謀略、裏切りはあって当然と考え、常に敵と同様に味方の行動を把握し、気をかけ、最悪の事態を想定し、一定以上の信頼を置かない。背中を合わせて戦うなんてもってのほか。……それが、当然だったのだ。

 

ゆえに私は、彼らと共闘する際にも、あえて理由をつけて一人で戦うことを選択した。

 

……それが全ての間違いだった。結果として私は、いつも通り、ベストではないがベターな結果を得ることができた。シンの犠牲で、それ以外の全ての人間を拾い上げることができた。すなわち最低限の犠牲で、最大限の人数が助かった。そう、それは、私の世界の常識からすれば、納得すべき結果と言えるだろう。

 

―――クソっ!

 

無意識のうちにそんな結論を導き出す自分の思考に虫唾が走る。私はどこまでも過去の自分の経験から、現実的な妥協案を導き出そうとする癖が芯まで身についている。自分の思い描く理想を、自らが信じきれていない。

 

この負の感情とやらがその日のうちに処理される世界では、人間同士互いを信じあって行動するのは当然であり、他人の言動を心底信じて行動する人間ばかりなのだ。それはある一身で、私の理想、誰もが悲しまないで済む、幸福な世界に近い世界と言えるだろう。

 

しかし、そんな、世界において、私だけが世界に適合できていない。私だけが、過去の常識に照らし合わせて、犠牲があっても仕方ないと無意識のうちに判断し、行動している。私は今日の今日まで、そんなことに気がつくことなく過ごしてきた。その結末がシンの死だ。

 

簒奪された二度と戻ってこない命に対して向けられる、痛切な慟哭。絶望を彼の遺骸を前に泣いていた彼らの姿を思い出すと、長い孤独の時間に情感磨り減り、鈍麻と化した感覚しか持たぬ身であるとはいえ、胸が痛む。

 

―――もう二度と、あんな思いはごめんだ。

 

だから、一度、足を止めよう。立ち止まり、世界とそこに住まう人間と目線を合わせる努力を行わなければ、大勢の困った人を助け、正義の味方になるなんて大それた事は、夢のまた夢だ。それどころか、善良な循環が敷かれた世界に住まう住人と共に生きてゆく事すら出来やしないだろう。

 

―――こちらから情報を明かす必要がある、か

 

今回の話し合いで、魔術や言峰綺礼などについては話したが、自らが過去の人間の肉体を基にして召喚された、通常の人間とはことなる経緯にて命を得た体であることは明かしていない。過去の人間という存在を彼らは受け入れた。だが、過去の人間の体を利用して再生された、擬似的には死者にも等しい存在を、彼らは果たして受け入れてくれるのだろうか?

 

―――いかんな、随分と弱気になっている

 

思索に耽るのをやめろと忠告するかの様に、窓から強風が入り込み、体を叩いた。思い返すと、浮かんでくる考えはマイナスに偏ったばかりのものであるあたり、相当疲れている様だと理解する。人間、疲労がたまると、ロクでもない方向に思考が暴走しがちなもの……。部屋に侵入してきた冷たい風は、体から体温を奪って部屋へと撒き散らし、茹だった頭を少しばかり冷静にさせてくれた様だった。

 

―――寝るか

 

決心すると、余計な考えが再び頭に浮かぶより前に、窓を閉める。意識を落とす前に窓よりエトリアの景色をもう一度俯瞰し、彼方まで眺望すると、雲の切れ間より覗く星月と、街の端々まで備え付けられた街灯は確りと暗がりの街を明るく照らしているが、それでも暗闇がまるで存在しないというわけでない事に気が付ける。

 

そんなくだらない事実は、なぜだか幾分か心を軽くした。宝石を胸にしまい込むと、ベッドへと横たわり、瞼を閉じる。すると、様々な思考を巡らせ暴走しかけていた頭がようやく休息の時間を得て安寧したかの様に、眠気が到来した。

 

―――ああ、今夜はよく眠れそうだ

 

 

エミヤの覚悟は、世界に対して大きな影響を与えたわけではない。だが、彼が今、自らの意思で、自らが存在する今の世界に生きる人々と対峙することを決めた事により、たしかにこの時、この夜、この先の運命は大きく変貌する。

 

世界樹の迷宮 〜長い凪の終わりに〜

 

十一話 「生き方を選べ」

 

Another root

 

幕間 異邦人との交わり

 

……………………

……………………

………………

…………

……

 

エトリアから馬車を西の方角へとかっ飛ばす事、丸一日と余り。百キロと十数キロ程度の距離を駆け抜けたさらに先、道無き道を無理やり踏破した場所にその光景はあった。

 

「―――これは、……なんだ」

 

無理して山道を進撃させたため、疲れきった馬を休ませるために立ち寄った広場の上から目前に広がる景色を見下ろして呆けた声をあげる。

 

「なんだって、……グラズヘイムだろ?」

 

全身を大きくそらして伸びをするサガから頓狂な答えが返ってくる。名称を問う意図のこもった言葉ではないと修正する事も出来ず、私は目の前に現れた光景をただ呆然と眺めることしか出来なかった。

 

眼下にあるのは、樹海だ。遠くは山の端すら見えない地平の果てまでを一面に覆い尽くす樹木が萌えるなか、視界の端々に映るのは、その緑を突き破り天高くまで聳え立つ、オベリスクのような縦に長い、直方体の形をしている塔。

 

塔の高さには差異があるが、最小でも百メートル、最大のものに至っては、一キロの高さはあろうかと推測できる超巨大建造物もある。また、塔と塔の間は結構な距離が空いているが、その隙間を埋めるかのように丸いパイプのようなものが、波打って建造されていた。

 

―――まるで、水苔に覆われた古溜池を大蛇が暴れまわっているかのよう

 

建築された人工物の間を縫って広がる緑を観察してやると、お行儀よく地面からまっすぐ姿を表して慎ましやかに全身を正直に晒す樹木は少なく、大半は、地面に敷かれた人口建築物を突き破り、未知なる金属にて建築された施設や廊下を破壊しては、人口の壁面や、建材、コードに、天然の蔦や蔓などで身を装飾する傾奇者ばかりであることに気が付ける。

 

天然自然の樹木が堅牢な人工の壁床を突き破り五十、百メートルを越す高さにまで成長するには、相当の年月が必要だ。樹木の成長に伴い破損した箇所に手が入っていないことも加えると、つまり、目の前に広がるこの建物群が相当昔に建設され、しかし放棄され、その後長い間放置されていた事がわかる。

 

「あの中央塔が私たちの向かう場所だ」

 

呆けていた私は、オランピアの言葉に我を取り戻し、視界を俯瞰から集中の状態へと移行させた。彼女の丸みを帯びた独特なシルエットの手腕部の先端から伸びる細い指先の行方を追うと、目に霞むほど遠くある地平線に囲まれた三方の空間の中央付近にて存在感を主張する、最も巨大な尖塔が目に入る。

 

巨大塔は規則正しく青く発光している二本線が下層から上層のあたりまでひかれており、中層にて交わって円の形を作っている。円の部分を観察すれば、滑車のごとく回転運動しており、光はなんらかのエネルギーを下層より上層へと送り、送ったものを上層から下層へと返却し、循環させている証のように見えた。

 

「あの塔でグラズヘイムの管理者である人工知能マイク/MIKEに施設の使用許可をもらう」

「了解だ」

 

彼女の言葉に了承の返事を返したのち、振り返り、再びグラズヘイムの全景を見やる。人の獣道の痕跡すら朧にしか残っていない人跡未踏に等しい場所を乗り越えた先にある、遠く地平の果てに至るまで延々と広がる人工物の上に、長き年月をかけて樹木が繁殖した、巨大な箱庭。

 

はじめこそ、驚いたが、よくよく考えて見れば、この世界は未来の世界なのだ。このようなものがあってもおかしくはなかろう。否、それどころか、このようなもの遺跡が一つくらい存在した方が、自然である気がする。

 

「おい、エミヤ。馬が調子を取り戻したみたいだぜ? 」

「―――ああ。了解した。今、そちらへ向かう」

 

馬の嗎を聞いて踵を返すと、荒唐無稽な光景を目の当たりにした驚きの感情はもうすでに収まっている事に苦笑する。

 

―――……我ながら陳腐化が早すぎるな

 

「エミヤ!」

「ああ、わかった。すまない」

 

再三呼びかけてくるサガの声に返事を返すと、仲間たちの元へと足を運ぶ。乗り込むと、馬車は途端に動き出し、再び荒れた道の上を引きずられてゆく。車輪が整地されていない地面と接触するたび、ガタガタとした衝撃が足腰に襲いかかってきた。荒い運転により生じる不規則かつ激しい衝撃に、しかし文句を言う者は誰一人としていない。

 

そもそも、御者に無理を言って、馬に限界以上の酷使を敷いているのは私達なのだ。それに、この旅路の目的を考えれば、この程度の障害に文句など言っていられない。

 

「シン……」

 

揺れ動く馬車の中に、響の呟いた声がやけに大きく響き渡る。その後、誰も一言も漏らさないまま、馬車は目的地へと近づいてゆく。

 

 

二日前―――

 

「エミヤ。エーミーヤ。エミヤー。……エーミーヤー! 」

 

インの宿屋にて昨日までの疲れを癒すべく惰眠を貪っていた私は、目元にクマを浮かべ、常とは異なる非常に低い声で私の名を呼びながら無遠慮に施錠された扉の面を叩く、いかにも不機嫌そうな声色の女将の叫び声により、無理やり現実世界へと引き戻された。彼女は低血圧であるらしいので、早朝のこの時刻ひどく機嫌が悪くなることは心得ていたが、今日は一段とひどい荒れようだ。遠慮も何もない態度は、とても客に対する者とはかけ離れていた。

 

―――今日くらいは一度、ガツンと強めに接客の何たるかを言ってやるか

 

まだ日差しが部屋の中へと挨拶にやってこない時間帯、鐘の音の目覚ましがなる前の無遠慮に振る舞いに多少の苛立ちを覚えた私は、額を揉んで眠気を追い出しつつ、荒々しい声と打撲音によって悲鳴をあげる扉を救い出すべく錠を解すると、ノブを握り、扉を開け放った。

 

「イン、君は少し客人に対する礼儀と慎みというものを―――」

「―――あんたに客よ」

「……、了解だ。感謝する」

 

しかし、常に凛然としている姿はどこへやら、酒場でたむろっているゴロツキのチンピラよりも凶悪な目つきをした彼女が、不機嫌と殺意を織り交ぜて具現化したかの様な色をしたどす黒いオーラ纏っていたため、私は迷わず閉口して礼の言葉を口にして扉を閉めた。過去の経験が、今の彼女とは分かり合えないと、全力で撤退を訴えていた。

 

インは舌打ちと共に、まだ暗がりの中ランプをかかげると、足を引きずりながら自らの寝室へと向かい遠ざかってゆく。小さくなってゆく彼女の足音を聞いて流れた冷や汗を拭い、心中に生まれた余計な緊張を消すべく、長く深いため息を吐くと、ようやく人心地がついた。

 

やがて気持ちを落ち着けて入り口までゆくと、同じ目にあったのだろう、ひどく怯えた様子のクーマの使者と合流し、まだ暗く寒いエトリアの街を歩く。夜の間に冷気を溜め込んだ街は、芯まで冷える様な寒さを保っていた。

 

「―――怖かったです」

「―――ああ、そうだな」

 

店を出るまでの間に衛兵の彼と交わした会話はたったこれだけだったが、たったそれだけのことにも関わらず彼と心の底からわかり会えたという気がした。同様の恐怖を味わった経験とは、かくも雄弁なコミュニケーションのツールになり得るものなのだ。

 

「ところでクーマは何用で私を呼んだのだ?」

 

まだ夜の寒さを秘めた街中、暗がりの道を先導してくれる彼に、問いかける。

 

「さぁ……、私もエミヤさんを呼んでくるよう指示されただけなので、なんとも……」

「そうか……」

「ああ、でも、直前にアーモロードの人と、近くの村からやってきた使者の方と会談なさっていたようなので、もしかしたら最近起きた天候災害関連のことかもしれませんね」

「災害? 」

「ええ。なんでも、山の向こうにある村では日照りが続いた後、川が赤く染まったとか、アーモロードの方では馬鹿みたいな大雨が続いて海が赤く染まったとかで大変だったらしいですよ。餓死者も出たとか言う噂です」

「なるほど、プランクトンか」

「まぁ、多分」

 

川が赤く染まるのも、海が赤く染まるのも、水中の栄養が過多の状態となりプランクトンが大量発生することで起こる現象だ。話を聞くに、川の方は日照りで水の動きが滞り貯池の様相をなしたからだろうし、海の方は続く大雨によって水中が海底まで大きく撹拌されたが故の現象だろう。

 

「まぁとにかく、食料が足りないってことで、アーモロードも近くの村の方も、援助を頼みにきたらしいですよ。エトリアは山に囲まれた盆地である分、天気は崩れやすいですが安定した食糧生産ができますからね。クーマ様は私を呼び出した時も、彼らと食糧移送の事についてお話しになっておられました」

「なるほど、ご苦労なことだ」

「エトリア周辺は平穏で魔物もほとんど出ませんが、山を越えて村やアーモロードの方面へ向かうと、多少魔物も出現するようになりますから、あるいは、エトリアから食糧移送する際の護衛をお願いしたいのかもしれませんね」

「それは……、断れんな」

「そう言ってくださるとありがたいです。よろしくお願いしますね」

 

衛兵の彼は私の返事に、一旦足を止めて振り返り、わざわざ頭を下げると、再び姿勢を整えて先導へと戻る。自分とは関係ないところの人間の苦難に対して思慮の態度を示すことができる彼の性根に、温かい気持ちが生まれたのを心地よく思いながら、私は彼の後ろに続く。

 

私を冷やす成分は、いつのまにか私の中から消え去っていた。

 

 

ところが、衛兵の先導に従って、石造りの建物の隅々まで暖炉や温熱器具が熱気を伝え切った、暖かな執政院の中にある一つの部屋に足を踏み入れた途端、すぐさま最低体温まで引き戻された。

 

「……」

「……」

 

無言で向けられた冷徹な視線に、今朝方同様の、背筋から全身を冷たくするような悪寒を感じ取る。冷える体をじんわり暖めてくれていた心の熱は、簡素ながらも統治者としての気品を醸し出すには十分な飾り付けがされた瀟洒なクーマの部屋の中に霧散してゆく。

 

私を極寒の気分に叩き込む視線を送ってくるのは、二人の人物だ。彼女らの不信感と微かな軽蔑の感情が混ざった絶対零度の視線は、私の上昇した熱を奪い去り、暖かいはずの部屋の温度まで下げている。

 

一人は、かぼちゃのお化け―――おそらくはジャック・オー・ランタン―――の形状をした耳あてをした、体がすっぽりと隠れる様な水色のマントにて全身を覆い隠している、造形の顔の人形の様に整った女性だ。隠れているが、全身がとても華奢な女性であることが、体に張り付く布の様子でわかる。特に、彼女の腹部に至っては、まるでないが如く布がはためいていた。

 

もう一人は、独特の緑色の鳥の羽を加工した様なマントを身につけ、一枚布を加工して頭部と両腕が通る隙間が出来るよう縫いあげられた紫の民族衣裳を纏い、顔を布で覆い隠している。頭のフードの両脇から垂れるふわりとした髪といい、華奢な体つきと骨格といい、おそらくこちらも女性だろう。

 

二人の向ける遠慮のない視線から目線を切って部屋を見渡せば、見覚えのある人物たちが、居心地悪そうに身を縮こめている。一人飄々とした態度の例外もいるが、響という少女などは、極寒の中裸一貫で置き去りにされたかの様に、震えていた。なるほど、つい先日、仲間を失ったばかりの年若い少女の身に、この敵意すら感じられるような感覚はきつかろう。

 

「あー、―――」

 

人が弱体化した姿は、私の中にあった正義の味方の熱を苛み、沈黙を破る言葉が勝手に出た。冷たい目線を保つ二人の視線が強まりこの身に集中したのを感じ、少しばかり気後れしたが、後に引くのも格好悪い気がしたので、そのまま言葉を続ける。

 

「……、クーマ。何用で、我らを招集したのだ? 」

「ああ、うん……、その前に、紹介だ。彼女たちは―――」

「……オランピア」

「シララだ」

 

彼女たちはぶっきらぼうに自らの名を告げた。刺々しさがあるのは勘違いでないだろうが、私の言葉で彼女らの冷たい態度の中に戸惑いが生まれたのを見るに、おそらく彼女らはクーマによって、「エミヤという男が君たちに会いたがっている」とかいう口実で唐突に呼び出されたクチなのだろう。私は少しばかり彼女らに同情の念を抱いた。

 

「それぞれ、アーモロードの海底にある深都を治めていた深王の後継者と、この街近くのモリビトの隠れ里からやってきた、世界樹の巫女殿だよ」

「「……!」」

 

クーマが発した言葉により、私が彼の言葉に首をかしげるよりも早く、私へと向けられていた二つの視線がクーマへと集中する。彼は自らへと向けられた疑念と不信がこもった視線を受けて、しかし平然と笑みを崩さずに、机の上に腕を組み、微笑を浮かべていた。

 

「……、どういうこと?」

 

オランピアと名乗った女性は、イメージ通り冷たい、しかし抑揚のない声でクーマに問いかけた。直後、止まっていた歯車が一斉に滑らかに動いたかの様なモーター稼働音に似た音が聞こえ、彼女の体を二重に覆っている水色の布が大きく揺れ、マントと床との隙間から多量に熱気の篭った風が私の足元へと送られてきた。彼女の発する熱により、冷えていた体が急激に暖められ、寒暖差により自然と身震いが生じる。

 

「彼女の怒りはもっともだ。我々の正体は一般には秘匿が基本。なぜ易々と正体をバラした」

 

剣呑な気配と異様な事態に、思わず腰が浮きかけた私に先んじて、モリビトのシララという彼女が発言した。まだ子供の体躯にしか見えない彼女は、驚くべきことにかの騎士王に匹敵する純粋な闘気を発していた。目に見えないオーラはそのまま枷となり、圧となり、重しとなって私の行動を阻害する。並大抵な力量では放てない強者のオーラは、彼女に確かな実力がある事を示す証だ。

 

異常な熱気と闘気。二人から、常人にはとても放てない異なったベクトルの、しかし、異様な圧力の気配を浴びせかけられたクーマは、しかし涼しげな顔をしている。自らの言葉により怒りを露わにした二人の感情をもろに浴びても平然とした態度のままである事に、私は思わず感心した。あれくらい面の皮が厚くないと為政者などやっていられないのだろう。

 

「ああ、それはですね。彼らがどちらかといえば、貴女がたに近しい人物だからですよ。より正確にいえば、そこにいる赤い外套で白髪長身の―――エミヤが、ですが。……彼、なんと、過去の―――世界樹が飛来した頃の人間なのですよ」

 

そしてクーマの口より飛び出した、私の名前と外見的特徴、加えて彼の推測による私の背景―――半分正解―――によって、彼女らの関心は再び、彼から私へと移されたようだった。戸惑う様な、驚く様な視線が私と彼女らの間で交錯したのは一瞬、彼女らは私の方へと近寄ってくると、無遠慮に私の体を弄り始める。

 

「お、おい、なにを……っつぅ」

「―――ヌクレオチド分子、DNA配列、ゲノム地図の照合……適合……、これは―――」

 

突如片腕にて私の腕を固定したオランピアは、同じく自らの指先から私の腕の血色良い部分めがけて鋭い針を突き刺したかと思うと、そのままの姿勢で動かなくなる。彼女の手を振り払い、針を退けて、今しがた彼女が述べた聞き覚えのある単語について尋ねてみるべきか、とも思ったが、下手に動くかと、極細の血管針が折れて血管の中へと侵入するかもしれない、などとくだらない考えが頭をよぎった。

 

大抵折れて血が出る程度で終わりだと思うが、万が一ということもある。仕方ないので、じっとしたまま、彼女の観察に注力する事にした。無機質な顔面を見れば、つるりとした陶器に似た表面の肌には血色というものも、シミ、ヤケなどの後も一切ない。

 

そんな人離れした美麗な肌質の顔面において、唯一の右目の上下に黒い線が走っている。その部分を注視すると、一目で切り傷ではないことがわかった。部位の下には、黒い金属板が覗けたからだ。

 

顔面の頬骨から額までを砕くほどのひどい傷を負った故、プレートでも埋め込んだのだろうか、とも考えたが、ふと視線を下げて彼女のマントの隙間から覗く手腕部を見て、そんな考えは吹き飛んだ。

 

―――ケーブル……!?

 

何と、彼女の腕、肘から肩にかけての筋肉部分には、ケーブルが走っているではないか。材質はゴムのようにも、プラのようにも見える。さらに注視すると、顔面の下、マントの奥に隠された首元にも、腕と同様のケーブルが規則正しく筋肉の代わりに配置されていることがわかる。そこで私は理解する。

 

―――オランピアと名乗った彼女は、ロボットかアンドロイドかサイボーグなのだ

 

複雑な機械とは無縁のこの世界、一体、彼女はいかなる理由と事情でその様な体であるのか

―――

 

「見た目歳をくっている割に、世界樹との霊的な繋がりも薄い。プラーナも異常。スシュムナーの付近に、異常なプラーナのバンダがたくさんある。そのくせ、スキル用のバンダがほとんど―――いえ、まるでない」

「お、おい、こら! そんなところを触るんじゃあない! 」

 

オランピアの生い立ちについて疑念がよぎった際、人の事情を勝手に想像するという邪推が頭の中に渦巻くのを止めたのは、もう一方の少女、独特の民族衣装をまとったシララだ。

 

シララはオランピア片腕を抑えつけられ身動きの取れなくなった私の尻、骨盤付近から背骨に沿って頭頂部までを白粉でも塗りたくった様な真っ白な腕にて慎ましやかに撫であげると、最後に私の首元から肩、背後にかけて広がる魔術回路付近へと手を乗せたまま動かなくなる。彼女が手を動かすたび、少しばかり魔力回路が微かに痺れるような痛みを発する。

 

―――……一体、彼女は何をしているというのだろうか?

 

「―――満足したか……?」

「……」

「……」

 

やがて私を拘束していた二人は、無言のまま私を解放した。彼女らの突然の暴行により乱れた服装を整え、襟元を正して彼女らに声をかけるも返事はない。オランピアは機能停止したか様に瞬き一つせず瞳を開けたまま、シララは眉をひそめたまま、動かない。どうやら二人は己の思考に没頭しているようだった。

 

まるでラチがあかない。救いの手を求めて辺りを見渡すと、先程と変わらぬ笑みを浮かべているクーマと視線があった。彼は私と目線があった事に気がつくと、悪戯が成功した子供のように、深い笑みを浮かべた。

 

「どうやら驚いてくれたようですねぇ」

「クーマ。いったいこれはなんなんだ。 そもそも君は、なぜ私たちを呼び出したんだ! 」

 

自らが状況の中心にいるもかかわらず、何が起こっているのか一切不明、という状況は鬱憤が溜まるものだ。気がつけば私は、心の裡に湧き上がってくるふつふつとした思いの解決を求めて、この場において唯一全ての事情を知っているクーマへと怒りを伴った声を発していた。

 

「あっはっはっ、いや、エミヤが声を荒げるとは珍しい。―――いや、すみません。君の慌てるところなんて滅多に見られるものじゃないから、つい意地悪をしてしまいました」

「クーマ……。どうやら私は、君の性格を随分買いかぶり、間違ったベクトルに評価していた様だ。下方修正して適正値に戻しておこう」

「おや、これは手厳しい。では、ここはひとつ、先ほどの質問に答える事でその怒りを晴らし、名誉挽回とさせてもらいましょうか」

 

クーマは言って身を乗り出し胸を張ると、場を少し整えるためだろう、わざとらしい咳払いを一つした。動作にて私と異邦人の四人は語り部の話を傾聴すべく姿勢を整えるが、未だ自らの世界に没頭している二人の少女は、こちらを見向きもすることない。

 

「……っと、あとちょっと待ってくれるかな? 多分そろそろ―――」

「……何がだ―――、……っ!」

 

時計へと目を向けたクーマに疑問を返すと、鐘の音が疑念を引き裂いた。発生源と近い場所にあるこの場所において、塔の天辺より打ち鳴らされる鐘は、エトリアに存在する寝坊助どもを起こすために、張り切って振動を撒き散らす。鐘の威力や凄まじく、音がなるごとに壁は揺れ、窓は軋み、天井の灯からは埃が落ちてくる。

 

私は思わずその音を防ごうと両手を耳に当てて耳孔を塞いだだが、クーマの話に耳を傾ける姿勢を取っていた私は、耳に意識が集中しているさなかの不意打ちに対処しきることはできず、消え去るまでの間部屋の内部にいる我々の体内へと侵入した音波は、耳朶どころか体を髄までを揺らし、脳にまで伝播すると、音の衝撃は頭痛、目眩へと変換されてゆく。

 

「―――そろそろだと思ったんだ。この音色響く中話した所で聞こえないだろうからね」

 

一方、クーマは年不相応な屈託ない笑顔で笑った。彼が善人であるという評価をさらに下げつつ、前頭部を抑えて辺りを見渡すと、どうやら同じく音にやられたらしいダリ、サガ、響が目に飛び込んできた。

 

彼らは三人とも両耳を塞いで、眉をひそめ、私と同様の醜態をさらしている。ピエールだけが平然とした表情で我々の失態を見て意地の悪い笑みを浮かべていた。また、私たちと同じく部屋の中にいた少女二人は、己の世界に完璧に入り込んでいる様で、音の不意打ちがあったことすら気がついていない様だった。やはり、オランピアと名乗る彼女の外見が示す通り、彼女らがただの人間でないようだと再確認する。

 

「クーマ様。よろしいでしょうか」

 

やがて激しく脈打つ鼓動が平生を取り戻した頃、数回のノックの音が静かに響きわたり、遅れ、さらに小さな声が聞こえてきた。音の攻撃に多少機能が低下していた耳は、しかし、少しばかり舌足らずの声音には聞き覚えがあると訴えてくる。確か―――

 

「はい、どうぞ」

「―――失礼します」

 

入室の許可がくだされたのち、扉を開いて現れたのは、予想通りサコという施薬院の少女だった。この場にいる誰よりも小柄な彼女は、扉を開けた途端、執務官の部屋の中の大部分を占拠している我々の存在に驚いたらしく少し身をのけぞらせたが、すぐさまぺこりと一礼をして部屋の中へと足を踏み入れ、クーマの席の前まで進んでゆく。

 

「あの……」

 

クーマのすぐそばまで近寄ったサコは、しかしその場で彼に視線を向けたまま停止すると、多少の緩急をつけて私たちを眺め、そしてもう一度クーマへと視線を戻した。

 

「ああ、彼らのことは気にしないでください。……いえ、むしろ、彼らにこそ、この話は聞いてもらうべき事なのです。気にせず報告を」

 

クーマの断言にサコは少しばかり身を震えさせたが、けれどすぐさま姿勢を正すと、手にしていた袋の中より石を取り出して机の上に置く。金平糖の様な形をした丸みを帯びた石は、窓より差し込んできた陽の光と部屋の中をまだ照らすランプの灯を反射して、仄かに青い反射光を放っていた。

 

「剖検の際に見つかりました石、ご要望通り、現物をこちらにお持ちしました……」

「はい、ご苦労様です」

 

剖検。それは死体を解剖し、死因を調査する際に使われる言葉だったはず。サコの口から飛び出した言葉に、心がざわめいた。死人という存在が出る事自体が珍しいこの街において、その単語が適応される対象は、一つしか思い浮かばなかった。

 

「クーマ……それはまさか。その石は―――」

「はい。おそらくご想像の通りです。この石は、シンという青年の遺骸修復の際、彼の体内から見つかったというものになります」

 

クーマの言葉に目を見張り、石へと視線を送る。石は体内で生じたと言っていた割に、唾石の様なクリーム色ではなく、耳石の様な米粒状の形でもなければ、結石の様な人を傷つける刺々しさもない、柔らかい外観。部屋の中を照らしつつある陽光と未だ部屋の中で灯る炎の光を浴びながらも、それらに負けぬとばかり光を強く発する青い石は、たしかにシンという青年の在り方に似ているところがある気がした。

 

「……シンの?」

「それはいったいどう言う……」

 

ピエールと響は深い懊悩を露わにするかの様に、眉をひそめ、言葉を漏らした。サガとダリは軽く眉をひそめて無言で首を傾げている。思わぬところから死んだ仲間の名前が出てきたことに、異邦人のメンツも当然驚いたのだろう。驚きの度合いに格差が生じているのは、負の感情の云々というやつが原因なのだろう。

 

「これは……グリモア?」

「これが昨日言っていた天然の―――フォトニック純結晶体か」

 

そんなおり、思わぬところから、またしても聞き覚えのない言葉が飛び出してきた。いつのまにか意識を現実へと引き戻していたオランピアとシララは、意味不明の単語を口にしながら石の置かれた机へと近寄ると、揃って手を伸ばす。

 

「む」

「む」

 

そして空中にて互いに手がぶつかったことにより、ようやく互いの存在を認めた様で、瞬の間だけ頑是ない様な無垢な視線がぶつかり合ったが、すぐさま互い共に、瞳の色を冷徹なものへと戻すと、二人ともに素直に手を引っ込めて、机から少し離れた。

 

「はい、その通り、フォトニック純結晶です。しかし、グリモア……、という呼び方もあるんですねぇ」

 

そしてクーマは仏頂面を浮かべる二人の少女を交互に見比べると、満足したらしく微笑みを深めた。

 

「……いい加減、どういう事か説明してもらえると有難いんだがね」

「おっと、これは失礼しました」

 

誰も彼もが状況を飲み込めず、不信の冷気と疑念の炎によって寒暖激しく行来する部屋の中、一人だけ陽の当たらぬ木陰にいるかのごとき涼しげな様子のクーマを睨め付けると、彼はやはり爽やかな顔で軽く頭を下げた。

 

「―――事の始まりは、昨日のことです。サコからシンという青年の体内より異常なものが見つかったという報告を私が受けたのは、貴方達に宝石を託し、彼女達から別個に相談を受けた後でした」

 

クーマは視線を私たち、シララ、オランピアの順に移動させる。我々と彼との間で視線が交錯する。多分、昨日、顔を合わせた順番なのだろう。

 

「それぞれの相談の内容とは―――」

「クーマ。すまないが、まずは要点をお願いできるだろうか」

 

語り部の口調と出だしの言葉から、クーマに結論から述べてほしいと依頼する。彼の枝葉末節までを語りたがる癖に付き合っていては日が暮れると判断したからだ。

 

「―――そうですね。わかりました」

 

私の言葉を受けたクーマは、話の腰を折られたことに少し不満顔を浮かべたが、しかし、私を見て、周囲を見渡すと、私同様にげんなりとした表情を見せていた周囲の彼らの様子から、今現在求められているのは詳細な情報ではなく要旨なのだと気付いたらしく、曇らせた顔を真剣なものへと変化させて、頷き―――

 

「では単刀直入にいきましょう。―――この石……すなわちフォトニック純結晶があれば、シンという青年をこの世に呼び戻すことができるはずです」

「「「「「「――――――――――――! 」」」」」」

 

シンという男が復活する。そんなこの世の理に反する、容易く使われて良いはずのない言葉に、私と異邦人のメンツが息を飲んだ。我らとは逆に、驚きを露わにしない三人の様子から、なるほど、死者の呼び戻しという奇跡に等しき所業はたしかに可能なのであるという確信を得る。

 

「―――詳しく話を聞かせてもらいたい」

 

夾雑物をなくした我らの思考は、シンを蘇らせる手段を知りたいという共通の意思によって繋がれていた。その場において無言を貫いていた異邦人の彼らと比べれば、舌の根の湿度を高く保っていた私の口から、我ら共通の意思が飛び出す。

 

「―――ええ、もちろん」

 

己の話の詳細を聞きたいという要望を聞いたクーマは、笑みを深めて頷いた。

 

 

「グラズヘイム?」

「ええ。彼を蘇生させる鍵は、そこに眠っています。……、まぁ、蘇生、というよりはアンドロとして生まれ変わらせる、という方が正しいのかもしれませんが」

 

サガの疑問にクーマが答えた。

 

「アンドロ化か……、まさかそんな方法があるとは」

「私と同様、生体組織を一部に用いたアンドロにするわけであるから、純粋なアンドロになるわけではないのだがな。それに知らなくて当然だ。アンドロの製法は、我ら深都の民や、世界樹関連の過去施設の極一部にしか伝えられていない。アンドロの核となるこのフォトニック純結晶体も、通常は加工しなければ生まれないものだからな」

「常々悪運の強い男ですねぇ、シンは」

「なんにせよ、戻ったら、パーッと歓迎してやらないとだな!」

「そうですね! あ、でもアンドロの体ってなにを食べられるんだろう……」

「基本は人間と同じものはなんでも食べるぞ。栄養吸収率は人間よりも上で、燃費もいい」

 

ダリの感嘆にオランピアが淡々と言葉を返し、ピエールが茶化す。サガと響はすでに彼がアンドロ化して戻ってきた時の事を考え、オランピアはぶっきらぼうに答えている。彼らはシンという男をアンドロ化して蘇らせるという言葉を聞いた途端、当たり前のようにそれを受け入れ、彼を冥府より呼び戻せる事を前提とした様子で朗らかな会話を繰り広げていた。

 

だが私は、その輪の中に入れない。なぜなら私は―――

 

「―――すまない。アンドロ、とはなんだろうか?」

 

そのシンの蘇生方法であるという、『アンドロ』というものについての知識がないからだ。私とは違う理由で、しかし私と同じく輪から外れていたシララにその事を尋ねると、彼女はひどく億劫そうな顔をこちらに向けながら、嘆息して口を開いた。

 

「アンドロとは、遠い過去の時代に開発された人型兵器であるらしい。オランピアもそのアンドロだ。深王はフカビトや魔のモノに対抗すべく、世界樹の知識より機械の体を再現したと言っていた。―――だから、過去の言葉で言うなら、アンドロ化、というのは、機械化、というのになるのかもしれない」

「……そうか」

 

『機械化』。シララが言ったそんな言葉は、私の胸にえもしれぬ感情を生んだ。視線をシララからオランピアへと移す。すると、異邦人の四人に囲まれた彼女は、彼らの「シンがアンドロ化したらどうなるのか」と言う質問に応えるべく、マントをめくって自らの機械の体を晒し、機能についての説明をしている。

 

オランピアは、人の全身の骨と関節部分だけを抜き出して機械化したような体をしていた。使用頻度か高く人に晒す機会が多いためか、上半身のうち、顔の部分と腕の部分はそれなりに人に近い造詣をしているが、下半身は、特に胸部から下は心配になる程細い。

 

と言うよりも、彼女の下半身には、中身が無い。オランピアの体の胴体部分のうち、機械が詰まっているのは胸部から上のみで、腰部より下、すなわち人間の腸や肝臓に当たる部分にはなにも詰まっていないのだ。

 

見えるのは、背骨と、それより繋がる骨盤、二本の足のみという有様。細身通り越してまさに骨身で、見ているこっちが折れてしまわないか不安になる。小学校の理科室などにあった人体模型に、細身の美人の仮面をかぶせ、セミロングのウィッグをかぶせて整えれば彼女に似た姿になるだろう。

 

しかし、そんなオランピアの空っぽに等しい機械の体内にて、唯一目立つものがある。それは胸部にて光る、赤く丸い球体だ。その形状や光沢は、今、クーマの目の前に置かれているシンの体内から抽出されたという石によく似ていた。おそらくあれがフォトニック結晶体とか言うものなのだろう。

 

―――アンドロ化するということは……

 

「―――どうした?」

 

考え込んでいると、シララが話しかけてきた。首をかしげるその仕草にて、彼女の被っていたフードがずれて、落ちた。そして現れた顔つきは思っていたよりもずっと幼く、まだ少女の風体ばかりが多く残る顔の上には、心配の感情が浮かんでいる。先ほどまでの厳しい口調は、小さな少女が必死で見くびられるまいと背伸びしていたためかもしれない、などと想像に浮かぶ。

 

途端、頬が緩みそうになる。まだ幼い姿をした彼女には、柔らかな態度で応対すべきだろうかとそんな考えまでが浮かび上がる。しかし、思った折、ふと思い出したのは、かつて共に戦い抜いた青き騎士王の事だった。そういえば彼女も自らの体躯が、鎧を着てしまえばまだ少年のものとも、少女のものとも区別の付きづらいものであった事をコンプレックスにしていた。

 

あるいはもしや、彼女もそうして見くびられるのを嫌って、フードにて自らの顔を隠していたのかもしれない。なる程、だとすれば、急に態度を一変させるのはむしろ彼女の機嫌を損ねる行為かもしれない。

 

「いや、……シンもあのような体になるのか、と思ってな―――、っ!」

「―――」

 

懊悩しながらも、なんとか顔色変えずに告げた途端、視界が上下に酷くブレた。瞳は数度ほど天井と地面を往復したのち、この現象を引き起こした下手人を捉える。シララだ。彼女はその小さな体躯で私の胸ぐらを掴んで引き寄せると、そのまま私の身を揺らしたのだ。

 

「モリビトであるがゆえに人との接触を断ち、世界樹の情けにより命を拾った身であるがゆえ、世情に疎い私ではあるが、今の言葉は彼女に対する無礼を含んだ言葉にも聞こえると理解できる」

「―――」

「現代とは異なる時を生きてきたのだろうお前に悪気がないのは、今の表情の変化でわかる。失言は私の胸に納めておこう。だが、気をつけろ。思想や考え方というものは、ふとした時に言葉から零れ落ちるものだ」

「―――忠告、感謝するよ」

 

昨夜懸念していた常識が違うという問題が、早速騒ぎを起こしたことに、内心嘆息する。しかし同時に、彼女が怒りによってとった行動は、私の中に安堵の感情を呼び起こした。

 

なるほど私は、人の体を機械化していったとき、果たしてどこまで機械化すれば人で無くなるのか、人と機械の境界線はどこなのか、不気味の谷はなぜ起こるのか、などという人と機械の定義はどこかを問う時代の知識を保有している。

 

ゆえに、シンという男を機械化という処置をして呼び戻すことは、シンという男をオランピアというアンドロのように、脊髄を機械化し、筋肉をアクチュエータと伸縮するケーブルに、全身の血液をオイルに変更し、内臓の一切を無くしたとき、それは果たして、シンと呼べる存在なのだろうかと疑問に抱いた。

 

しかしそれはすなわち、全身が機械である、オランピア含む、アンドロという存在を否定し見下しているとも聞こえかねないぞとシララは教えてくれたのだ。そして同時に、彼女の怒りの行動は、私の価値観からすれば人にあらざるものを受け入れることを当然とする常識が世の中に根付いているということを意味していた。

 

いつだって争いの源となるのは、価値観の違いだ。悪気はなくとも、思いやりものであっても、価値観が違えば、無意識のうちに発した一言が、気づかぬうちに火種になることだってありうる。

 

実感伴った重みのある言葉である所から察するに、さては彼女もかつて歩んだ道なのだろうかと邪推しながら、仲睦まじく話を続ける異邦人と、それに付き合ってくれているオランピアの方へと意識を向けると、幸いにして今のやり取りは気付かれずに済んだようだった。

 

マントを脱ぐことで消音の効果が薄れた、機械の体である彼女の体から聞こえてくるモーターの音がやけに大きく耳に聞こえてくる。それを物珍しそうにしながらも、好意の感情で受け入れる彼らの様子は、遠い昔の喧騒を思いださせて、私を郷愁の心地にさせてくれた。

 

 

グラズヘイムという施設の中央塔近くまで馬車を用いてやってきた我々が、馬車より降りると、交代で御者を務めていた衛兵たちは素早くと馬車によじ登り、荷物を馬車より降ろしてくれる。

 

「ありがとう。助かった」

「いえ、これも務めですから……」

 

荷物を受け取り、礼を言い、挨拶を交わすと、彼の言葉尻に力強さがないことに気が付ける。よく考えてみれば彼らは、私たちをこのグラズヘイムという場所に一刻も早く送り届けるため、己と馬に強化の薬と回復薬を用いながら、丸一日以上ほとんどぶっ続けて交代で御者を務めてくれたのだ。彼らの疲労も当然だろう。夜通しの強行は衛兵たちと馬に、普通以上の疲労を与えていたのだ。

 

本来ならばこの後、我々が戻るまでの間、この場所に陣取って非常事態に備える予定であったが、これではまともにその務めを果たせまい。流石に不憫と私は、異邦人の皆と言葉を一言二言交わして彼らから自らのアイデアを実行する承認を得ると、再び衛兵たちに話しかけた。

 

「お疲れのところ悪いが、早速もう一仕事頼めるだろうか?」

「はい、なんでしょうか?」

「エトリアに戻り、クーマに我々がこの場所に到着したことを報告してほしい」

「……それは」

「どうせこのような、大した事のない場所なのだ。クーマも文句は言うまい」

「……、それもそうですね。それではありがたく」

 

エトリアへの帰還を勧められた衛兵たちは私の提案に、一瞬戸惑い驚いて見せたが、承諾した。馬を労わり、馬車の点検をすませると、再度礼を言いながら一人がアリアドネの糸を使い、彼らは馬車ごと光の中に消えてゆく。

 

この後、彼らは数秒としないうちに、彼らはエトリアの中央にある施設へと移動しているのだろう。改めてアリアドネの糸の効力の凄まじさを目撃して、感心する。百キロ以上もの距離を瞬時にゼロとして、一定範囲にいる生命体を町の中央部へと転移させる道具。なるほど、使用と保有に強く制限がかけられるわけだ。これは戦略兵器として、あまりに優秀すぎる。

 

「こちらだ。付いて来い」

 

衛兵らがいなくなったのを見計らって、オランピアがグラズヘイムの中央、天高くそびえたつ塔に向けて一歩前に進み出た。入り口は、天井と一部壁が無くなっている開放感の溢れる廊下だ。

 

先導するオランピアの指示に従って、私たちは後に続く。海蝕洞のごとく自然の力に手破損した天井の廊下を通り抜け、上下に開閉する自動ドアを潜った後、やがてあったのは暗闇の廊下だった。

 

点々と配備された照明が落ちている廊下は、しかし完全に暗がりというわけではなく、最低限の視界が確保できるよう、廊下の四隅に照明灯代わりに青色の光の線が廊下の隅に沿って引かれている。その仄かな明かりは廊下の暗がりを照らしあげるには不十分であるが、最低限、周囲の地形と、置かれている物の位置を把握するだけならば十分な光量があった。

 

「少し待っていろ」

 

オリンピアの目が赤く光り、光線が発射される。おそらくは赤外線だろう。彼女は赤外線を動かして周囲を見渡すと、薄ら暗がりの中を迷わず一人で進み、やがて行き止まりの部分にて止まった。彼女が眼前にある床に置かれた小型の直方体に手をかざした途端、直方体の箱から透明な五十センチ四方の光の板が生じて、空中に浮かんだ。

 

彼女が宙に現れた光のパネルの上に手を置き、指を動かし操作を加えると、宙に浮いた光の板を文字が流れてゆく。どうやら板は、キーボードとディスプレイを兼ね備えた、空間に投射するタイプのタッチパネルであるようだった。つまり箱はコンソールを収めたPCのボックスか、端末であるというわけだ。

 

空中に投射されたキーボードを弄りながら流れる文字列を眺めていた彼女は、やがて一瞬だけ少し首を傾げたが、すぐに元通りの姿勢へと体を戻して、キーボードの操作へと戻る。しばらくして、カチンと軽い音がなったと同時に、廊下の天井に一定間隔で配されている電灯が、ラグを生じることもなく一斉に光を発した。

 

「ぬぉっ! 」

「まぶしっ……」

 

サガと響が悲鳴をあげる。眩さが我々の視界を一時封じたのだ。やがて余計な光が瞳の中より失せた頃、瞼を開けると、そこには、傷一つない状態で保存されている廊下があった。人の手が入ったのなど一千年以上も昔の出来事であるはずなのに、未だに細部まで破損することなく原型と性能をとどめているあたり、果たしてグラズヘイムという施設はいかなる技術を用いて建築されているというのだろうか。

 

「行くぞ」

 

やがて我々の視界が戻ったことを確認したオランピアは、手を招いて私たちを呼んだ。程なくして私たちは先ほど同様のオランピアを先頭とする隊列へと戻り、清潔感のある廊下を進む。

 

廊下は、一定の清潔と無臭の状態が保たれていた。立ち止まって窓枠を指先でなぞると、多少の埃がひっつくものの、埃の量は少ない。それは果たして、人の出入りが長年なかったからなのか、完全ではなかったとはいえ密閉の状態を保たれていたが故なのか、それとも管理者とやらが清掃を行っていたからなのか。謎は尽きることなく、疑問が次から次へと湧き上がる。

 

「何をしている。さっさとこい」

「ああ、悪い」

 

だが疑問も、オランピアの呼び声にかき消されて瞬時のうちに消失する。

 

―――立ち止まってまで何を考えていたのか、私は

 

目的は、シンの蘇生だ。グラズヘイムの事情など、どうでもいいことだろうに。

 

 

「着いたぞ」

 

光る廊下を道なりに進み、エレベーターを利用して上層階へと足を運ぶと、黒塗りの扉の前でオランピアは立ち止まった。オランピアが壁面に手をかざすと、壁面より空中投射式のタッチ式キーボードが現れる。彼女の指先がその上で素早く踊ったかと思うと、数回の短い電子音が鳴った。扉のロック解除の音だろう。目の前の扉が上下に自動開閉してゆく。扉をくぐった奥には、もう一枚自動開閉式の扉が設置されていた。

 

「うわ、さむっ」

「……どうやらこの部屋は周囲と比べて低い温度に保たれているようだな」

「長居はできそうにありませんねぇ」

「お前たちさっさと入れ。冷却システムに余計な負荷をかけるな」

 

オランピアは抑揚のない声ながらも、多少イラついた様子だ。急かす彼女の要望に応えて、私たちがさっさと中へ足を踏み入れると、後ろの扉は即座に閉じられる。前方の扉は開く気配を見せない。つまり、我々は少しばかり密閉した空間の中に閉じ込められたのだ。

 

外気温と部屋内部の温度差により霧が生じたが、白い煙は素早く足元の金属メッシュの下へと誘導され、吸い込まれてゆく。自動処置なのか、部屋を再び元の温度へと戻すべく、換気口より冷気が垂れ流される。

 

「うぉ、なんだ! 」

「きゃぁあああああ! 」

「落ち着け。害はない。単なる消毒と滅菌の処置だ」

 

密閉された空間の左右と上方向に細かく空いた穴から吹き付けられた風に驚いて、サガと響が悲鳴をあげた。オランピアが冷静に無害を告げ、落ち着くように忠告する。

 

ダリとピエールは多少この辺りの知識があったのか、体を強張らせながらも、声ひとつあげずに耐えていた。私はというと、部屋の構造から何が起こるのか予測ができていたので、身じろぎせずに清潔な風が停止する時を待っている。

 

「ついて来い」

 

やがて浄化の風が収まった頃、管理システムが無菌に近い状態になったことを検知したのか奥の扉は自動的に開き、オリンピアはさっさと暗がりの部屋の奥へと消えていった。我々は彼女の進んだ後を追って凍える寒さの部屋の中を進んでゆく。

 

「うおっ、さむっ、さむっ」

「騒ぐな。余計に寒くなる」

「ダリは獲物どころか全身金属鎧だから、なおさら大変ですねぇ」

 

冷気に満たされた部屋の中は、SF映画にでも出てきそうな内観をしていた。まず意識に飛び込んでくるのは、我々のいる部屋中央の廊下を中心として、左右に等間隔で並ぶ巨大なPCボックスの群れだろう。きっかり等しく二メートルの高さであるそれは、部屋の中心を走るこの廊下から一メートルの等しい間隔を保って設置されており、PCボックス列の端、廊下側の壁には、空間ディスプレイが浮き上がっている。

 

「シンジュクで似たようなものを見た事があるが……、結晶化していない、動作するものを見るのは初めてだな」

 

ダリが感嘆の声を漏らすと、少し歩を進めてディスプレイを覗き込んだ。私も同様にそれを青く点滅する画面を覗き込むと、ディスプレイの浮かび上がっている場所に対応したPCボックス列の状態を示す数値とグラフが記載されているのがわかる。

 

また、ディスプレイは数値やグラフの変動ごとに点灯と消滅を繰り返していた。どうやら数値が一定を下回るとエラーを示す表現としてディスプレイが浮かび、一定の基準を満たすと異常なしということでディスプレイが消えるシステムであるようだ。

 

摂氏華氏を示すCとFがグラフの下に表示されているのを見るに、温度管理のシステムなのだろう。グラフはコンピューターの温度が絶対零度側に近い温度まで冷やされ、部屋の温度が水と氷の狭間を行き来していることを示していた。

 

「あ……オランピアさん」

 

冷気と未来感に満たされた部屋の中を突き進んでいると、やがて部屋の最奥にて先行したオランピアの姿を発見した響が彼女の名を呼んだ。オランピアは先ほど暗がりの部屋で電灯をつけた時のように、空中に透明な光の板浮かび上がる空間投射式のディスプレイを見ながらその画面を弄っている。

 

「うわ、なんだありゃ」

「おおきいですねぇ。画面には人体の簡略図……、その横に流れる文字は……、ハイラガードの方面の文字、アルファベットですね」

「あ、私、読めますよ。ええと、a・n・d・r・o―――あんどろ……、アンドロ……! 」

「お、おい、それって確かシンの……」

「ああ、機械化して蘇生する方法だったはず。ということはつまり……」

「そうだ。お前たちの予想通り、これがアンドロを生み出す機械というわけだ」

 

オランピアは空間ディスプレイを弄りつつ答える。彼女の指が投射されたキーボードを音もなく叩くたび、画面に文字列が並び、新たなタブが開き、浮かび、システムが更新されて消えてゆく。その度に画面の中、アンドロの設計図に生じている赤い部分が消えてゆく。

 

「なにしているんでしょうか、あれ……」

「わからないけど、多分、シンの蘇生の用意だろ」

 

響とサガが小さな声で囁き合う。なるほど、コンピューターなど見たことのないだろう彼らにとって、目の前でオランピアがなにをやっているのかは、皆目見当もつかない状態なのだ。

 

「データの入力と更新、エラー部分の修正かね? 」

 

そんな中、おそらく唯一、電気機械の知識を保有する私がオランピアに問いかけると、彼女は少しばかり操作の手を止めた。振り返って彼女が見せる顔は常と変わらないが、多少いつもと違う雰囲気を携えている。おそらく、意外だったのだろう。

 

「そうだ。通常のアンドロを一体、人格のコアとなるフォトニック純結晶ごと作成するだけなら、本来このような手間は必要ない。通常なら、用意されている人格プログラムはアンドロのボディに合わせて動けるよう調整済みのものゆえ、パターン化された人格プログラムを任意かランダムに適当な数、インストールしてやれば、それだけでアンドロが一体完成する」

 

一度言葉を区切ると、オランピアは画面へむきなおり、続けた。

 

「しかし、今回の場合はそうはいかない。なにせ、天然のフォトニック純結晶を使い、内部の光データに秘められたもの読み取って人格を再現するのだ。だからその人格にあった適合する体を用意してやらなければならない。人間とアンドロの体は大きく異なるからな。チューンナップ、デチューン含めた、多くの細かい調整が必要になるというわけだ」

 

彼女は私の質問に答えると、すぐに私から視線をコンソールとパネルに戻し、操作を再開した。細い指先が踊るごとに、命令が書き込まれ、コードが修正され、上書き保存されてゆく。

 

「癖のあるソフトには、それに適したハードを用意しなければならないということか」

「そういうことだ。だから今、こうして、シンのデータを元にした修正を行なっている。マシンインターフェイスにラグが生じるというのは、体の大半以上が完全に機械であるアンドロにとっては致命的だからな。元が人間であるとなれば、より気を使う必要がある」

 

彼女はいうと、ディスプレイから目線を微かに外し、コンソール横にある祭壇のような台座の中央に置かれた筒状の設備へと目を向けた。筒状の設備―――カプセルはちょうど大柄の人間一人が入るくらいの大きさをしており、正面は上から下まで長方体の長い一本ガラスがはめ込まれている。

 

いかにも映画などで、実験動物や人造人間、ロボットなどが眠っているような外見。おそらくここにアンドロというやつが眠っているのだろう。そうして彼女の目線に誘われるようにして内部を覗き込むと、しかし予想に反して筒の中身は空だった。

 

「当然だ。それは最終調整が終わったロットを保持して、不具合等の最終確認するためだけの調整槽であり、排出口だからな」

 

多少面食らっていると、オリンピアが私の思考を読んだかのように、答えてくれた。いつのまにか視線を目の前のディスプレイへと戻していた彼女は、あいも変わらず平坦な態度でキーボードを叩いている。

 

しばらくして彼女はかぼちゃのお化けの絵が書かれたヘッドバンドを取り外した。すると人間にすれば耳朶と耳孔が存在する部分からは、尖った三角錐型の機械が伸びてきた。彼女の体から飛び出てきた機械が外気に接触した途端、白い煙発せられた。水蒸気だ。

 

―――なるほど、排熱か

 

彼女の行動は、体内に溜まった熱を少しでも逃がそうという試みなのだろう。それでも冷却が追いつかなかったのか、オランピアは続けて一旦作業を中断して羽織っていたマントを脱ぐと、背骨と骨盤だけだったはずの腰部から四本の円柱上のユニットを取り出して、耳の伸びた器官の下に取り付けた。

 

やがて作業に戻ったオランピアの頭部に取り付けたユニットから、白い蒸気が音ともに漏れて、器材の表面に浮かんだ滴が彼女の足元へと落下する。器材と周囲との熱によって、生じた水蒸気と水滴だ。

 

―――あの円柱の器官は、強制冷却ユニット……か?

 

続けて高回転でモーターが稼働するような音が、露わになった彼女の体躯より聞こえてくる。シンという人間のデータをフォトニック純結晶から読み取り、アンドロの体として再現するためには、相当の演算処理とエネルギーが必要であることがうかがえる。

 

また、露わになった彼女の体内では、空っぽだった内臓部分にシンのフォトニック純結晶を収めるための機材が取り付けられ、彼女の心臓近くの部分から端末が伸びているのがわかる。おそらく、あの端末でフォトニック純結晶内部からデータを吸い出しているのだろう。

 

―――ん?

 

「ふむ、失礼なことを聞くようだが、オランピア、君、機械の体であり、端末を保有しているのであれば、アナログ的な手段でデータを入力せずとも、端末などから直接、目の前の機械へ送ればいいのでは?」

「できればとっくにやっている。が、二つの理由により無理だ」

「聞いても……?」

「構わない。一つは、私という存在が、深王様がその御手によって一から造り上げられた、独自規格のアンドロであるからだ。それに伴い、私の規格は、深王様の持つデバイス以外に接続することができないのだ」

 

私の疑問に、オランピアは今度は振り返る事なく、作業を中断することもなく答えた。そうして淡々と述べられた言葉は、どこか誇らしげであるかのように感じる。機械の体の彼女が見せる人間らしい態度から、おそらくオランピアにとって、彼女の制作者である深王という人間は、かけがえのない存在である事が予測できた。しかしふと疑念が湧く。

 

「なぜそんな不便なことを……」

「一般の規格に合わせて作成すると、乗っ取りが行われる心配があったのだろう。自らの護衛役がいざという時に乗っ取られて、敵対する事態を避けたかったのだと推測できる」

 

なるほど、共通化は生産の観点から見ればコストダウンに繋がり改良である場合が多いが、機密の管理という面から見れば改悪となる面が多い。彼女を作った深王という輩はそれを嫌って、護衛役の彼女をワンオフに作り上げたという事か。

 

「なるほどね。……もう一つの理由は?」

「この施設……、グラズヘイムは、外部と隔離する環境での独自運用を目的として建造されているからだ。秘匿を基本として建造されたこの施設は、当然、独自の規格に基づいたイントラネットが敷かれており、外部からの侵入者を固く拒絶する。一般のOSを使用しているものは当然、独自規格のOSを持つ端末が管理者の許可なく接触しようものなら、その瞬間、敵対行動であるとみなされて、施設が排除を試みる可能性だってある」

 

これまた当然の理由だ。……うん?

 

「オランピア。その言い方だと、この施設の管理者に話を通さず、無許可でこのグラズヘイムの機材を利用しているように聞こえるが」

「ある意味ではその通りだ。なぜだか知らんが、ここの管理者であるマイクは長年、スリープモードでこの施設の管理を行なっている。先程、明かりを灯す際ついでにこの施設を使用するために許可を申請したところ、大した審査もなく、すんなりと通ってしまった。仮にも兵器の生産だ。文句の一つでも言ってくると思ったのだがな。昔はそんな事なかったと思うのだが、現在、マイクは半ば管理を放棄しているようだ」

「……、あとで問題にならないのか? 」

「機械というものは、決められたプログラム通りにしか動かない、動けない。人の手によって組み上げられたプログラミングが肯定した意見を否定するということは、機械にとって、己の存在意義を否定する事に繋がるからな。だから概して融通がきかない。だが、だからこそ、一度申請が通ったものを、わざわざ否定するような真似はしない」

「機械は融通きかないと断言するという割には、君は随分とフレキシブルに私の会話や、この度の事態に対応できているように見えるが」

「私は特別なアンドロだからな。可変を許容する特別な構造をしている。回復スキルの適応ができるよう、脳髄ユニットと周辺組織は人間の有機物に近い成分を含んだ特殊金属にて構成されている。つまり、劣化という現象が人間と同様の速度で起こるわけだ。無論、交換で補填が可能だ。私は完全な無機的機械生命体と違って、変化する有機的機械生命体なのだ―――、その分、通常のアンドロとは異なり、余計な弊害もあったりするがな」

「弊害?」

「……、どうせ後で知られる事か……。有機体があるということは、すなわち、縛りや状態異常が効くという事だ」

 

その言葉に彼女の体を改めて眺め見る。暗闇の中、光を反射してクリーム色に光るオランピアの体は、たしかに、有機的な生命体のみが保有できる柔らかながらも滑らかな曲線美を描いていた。

 

古今東西、美しさに国境はなく、美というものはそこにあるだけで人の意識を奪うものである。どうやら彼女を作成した深王という人物は、よほど彼女に対して力を入れて作り上げたに違いないと、私は想像した。

 

やがて己の体を注視する私の視線に違和感を覚えたのか、彼女はコンソールを弄る手を止めて、私へと視線を向けた。思えば女性の裸体に対して注視の視線を向けたに等しい所業を行ったのだということに気がついた私は、気恥ずかしさから、「なんでもない」と返答すると、彼女は、「そうか」と一言だけ返答して、再び作業へと戻る。オランピアが見せるそっけない対応の中には、恥じらいの感情が含まれているように見えた。

 

「とにかくマイクに文句があれば、はじめの時点、アンドロを作成したいと申請した時点で言ってきただろう。遅くともシンの身体データを入力した段階でリアクションがあったはずだ。しかし特殊型アンドロのパーツを切り出す段階になっても、マイクからのアクションは返ってきていない。施設の維持と承認の許可はやるから、あとは勝手にやってくれと言わんばかりの放置っぷり。人間風に言えば、ここの管理者であるマイクは長年の間、へそを曲げた状態だ。理由はわからない」

「なるほど。ところでそのシンの身体データとやらも、フォトニック純結晶の中に入っていたのかね?」

「それもあるが、シンとかいう男の検死官でもあるサコとかいうメディックの女から提供されたデータも含まれている。……よし、更新は済んだ。エミヤ」

 

私との会話に逐一付き合ってくれていた彼女は、唐突に私の名を呼んだ。

 

「なんだ」

「コンソールに手をかざせ。グラズヘイムなどの過去の施設で、機材を利用して高度な機械を生産する最終段階の暁には、過去、変異前の人間の遺伝子情報が必要不可欠だ」

 

オランピアの指差した場所へ視線を移動させると、先ほどまで彼女が操作していたディスプレイの前方の空中には、線にて区切られていた透明な四角い領域があった。おそらくあそこに手をかざす事で、遺伝情報のスキャンを行うのだろう。

 

「また、なぜ、最終ロックだけ承認が必要だという、そんな方式を……」

「お前は文句が多いな。お前はいちいち書類申請をしてあちこちをたらい回しにされた挙句、最後の最後で却下されてご破算になり、一からやり直しになるという面倒を味わいたいのか? 道具の用途を正しく知らない人間が、偶然その生産方法だけを知った時、その後道具を正しい用途で使ってくれる可能性がどれほどあると思う?」

「なるほど、責任の集約と、手間の処理、誤動作防止のための措置か」

 

納得した私は、空中に浮いた透明な画面の承認コンソールに手を合わせる。すると、赤い光線が上下左右から手を包囲し、やがて通り抜けていった。四方より出た線が領域の端に接触した途端、すかさず画面は緑一色に切り替わり、承認が済んだ事を告げてきた。

 

「うぉ! 」

「な、なんだ!?」

「わ、私は何もしてませんよ!?」

 

直後、周囲の機械が慌ただしく動き出す。ダリとサガと響の三人は驚き、周囲を見渡した。ただ一人、ピエールだけは事態を正しく把握できていたようで、祭壇に似た施設の中央に置かれた筒の目の前に立ち、真剣な顔で筒の表面のガラスの向こう側を見つめている。

 

「気にするな。オーダーメイドのため、PP/プリプロダクション用の金型に多少変更処理をかけているだけだ。すぐに揺れは収まる」

「プ、プリ……?」

「設計などの畑では試作量産という意味だな。シンのボディ製作が出来上がる……、前段階の前段階というあたりだな」

「MP/マスプロダクションの必要はなく、1、2をすっ飛ばすのだから、完成の前段階だ」

「……だ、そうだ」

「???」

 

響は私とオランピアの、過去世界の工業知識がないとついていけない会話に大量の疑問符を浮かべている。さて、どこまで説明すれば理念を理解してもらえるだろうかと頭を悩ませていると、やがて大音量を撒き散らしながら稼働していた機械は落ち着きを取り戻し、静寂な環境が戻ってくる。―――そして。

 

「―――出来たか」

「―――あ……、あぁ……」

 

しばらくしてオランピアが呟いた直後、ピエールが張り付いていた円柱上の管の中から、ガコン、と大砲の弾を装填するかのような音が聞こえたかと思うと、ピエールが感極まった声を上げてカプセル表面のガラスへと張り付いた。

 

「シン……、シンが……、そこに……」

 

ピエールの言葉はすでに涙声で掠れている。常に飄々とした態度で楽器を手に、皮肉げな言動を保つ彼が、恥も外聞も忘れて弱々しく呟き、カプセルの表面のガラスに張り付く姿には、不覚ながらも少しばかり胸がうたれる思いがした。

 

「お、おい、ピエール、俺に見せろよ! 」

「ピエール、少しばかりずれてくれないか?」

 

サガとダリが、口々に言いながらピエールをどかして中を覗き込もうとするが、ピエールはカプセルの前から退こうとしない。おもちゃを前に踏ん張るようなその仕草は、まるでその場から一歩でも動けば、シンが再びいなくなってしまうと思っているかのようにも見えた。

 

さて、どうしたものかと見守っていると、男三人ながらに姦しく騒ぎ立てる彼らから一歩引いた場所から、響が彼らの醜態に向かって目線を向けている。いや、違う。彼女は、まっすぐな目で、彼らのその奥―――シンの体があるという場所を見つめて、そこに意識を集中していた。以前、彼女はシンの死に対して、酷く悲しんだ態度を見せていたことを思い出し、少し疑念が湧く。

 

「君は、見たいと思わないのかね?」

「ええ……、あ、いや、そういうわけではないんですけれど……」

 

少しばかり意地悪い質問を投げかけると、彼女は最初にはっきりとした断言をして、しかし戸惑った態度で手を宙に彷徨わせた。目的なくふらつく小さな手は、自分でもどうして彼らのように駆け寄り顔を確認しようとしないのか判断しかねている彼女の心情を表しているかのようだった。

 

やがて手の行き所をスカートの丈に定めた響は、混乱する意識の中から己の意思を選び取ったかのように布地を固く握りしめると、一度固く唇結んで、口を開く。

 

「不安なんです」

「―――不安?」

「はい。でも、その不安が何かわからないんです。悩んだ端から、大したことない悩みのように思えて、消えていく。モヤモヤしたものが生まれたと同時に、そんなもの大したことない気分になるんです。だから、自分でも何が不安なのかよくわからないままなんです」

「ふむ……」

 

冷たい空気の中、発せられた言葉とともに吐き出された吐息は、まるで響の心情を表すかのように口元を白く曇らせる。不安の兆した顔には、真剣さが含まれている。響が胸の裡を耳にした時、心に引っかかるものを感じた。

 

―――たしか私も……

 

何か、悩みがあったはず。だが、それは思い出せない。いな、思い出す価値もないと思い込み、記憶の扉が開かないのだ。言われてみれば、この感覚。目的の記憶が目の前にあるのに、無理やり意識を逸らされているこの感覚に、私は覚えがあった。これは―――

 

―――認識阻害?

 

「響―――」

「じゃれ合うのはそこまでにしておけ。最終調整も終わった。あとは槽より体を取り出してフォトニック純結晶体をはめ込むだけだ」

 

響へ質問を重ねようとした瞬間、オランビアは、私たちを押しのけると、カプセルの表面にはめ込まれたガラスの前でごちゃごちゃとやりあっている三人を機械の体が持つ膂力と腕力を用いて無理やりどかした。

 

「開けるぞ」

 

宣言とともに、オランピアはカプセル横にあるボタンを押す。すると、前下側にスライドして微かに斜めであったカプセルが、上にまっすぐ持ち上がった。やがてアラートが鳴り響き、アナウンスが流れ、そしてカプセル前方の扉が持ち上がる。

 

「ぬぉ!?」

「な、なんだぁ!?」

 

すると途端、大量の白い蒸気が解放された隙間から飛び出してきて、あたりを薄く包み込んだ。我々は生ぬるい湯気に視界を奪われ、周囲の様子が詳しく伺えない。だが、水分の蒸発する音がカプセルの内側より聞こえてきたことから、おそらくこの現象は、組み上げられた直後のシンの体は、接合だか溶接だかによって高温を帯びていて、蓋を開けた際、瞬時に周りの冷たい空気に冷却された結果なのだろうと推測する。

 

私たちが蒸気に翻弄される中、ただ一人、オランピアだけは平然と湯気の中へと体を突っ込み、シンの体のそばに近寄った。煙の向こう、彼女が自らの骨盤の上から発光するフォトニック純結晶体を持ち上げると、目の前に差し出す。石はシンの体の胸の奥へと格納され、青く光っていた石は赤の光を発するようになった。

 

「……エミヤ。ハマオをよこせ」

「ハマオ? いいが、なぜ?」

「熱と冷気の温度差で多少装甲表面にダメージが生じている。調整した際にエネルギーも微かに減ったようだ。問題ないと思うが、初回起動の際には万全の状態にしておきたい」

「了解だ」

 

多少蒸し暑い白煙の中を進むと、すぐに目的の場所までたどり着く。オランピアの横にあるシンの体は未だに煙で薄っすら隠されているが、その輪郭には確かに彼の面影があった。

 

私がハマオを取り出すと、オランピアは顎でシンの体に振りかけろとのジェスチャーを私によこしてくる。素直に従って彼の体にハマオをふりかけると、回復光が生じて、さらに煙が濃くなった。そして回復光が収まると―――

 

「―――起動を確認。さぁ、前に出てみるがいい」

 

そしてシンの台座からオリンピアと共に身を引いて、白い蒸気幕の中から抜け出すと、二人揃って身を横にずらす。すると薄れてゆく白煙の一部が盛り上がり、モーターやアクチュエータの稼働音が聞こえてきた。

 

「―――ふむ、私はたしかに死んだと思ったが」

 

声は多少電子合成音声の特徴があったが、その物言いには覚えがある。その場にいる誰もが動くことなく、彼の登場を待っている。やがて彼の全身を覆っていた煙が薄れるより前に、煙の向こう側の彼は、一歩を踏み出すと、カプセルの内部から軽く跳躍して、地面へと降り立った。軽く金属音が鳴り響く。

 

「―――こうして皆の顔が揃っているのを見れるあたり、どうやら私は死にぞこなったようだな―――。どうした、揃って涙を浮かべて」

「おぉ……、お、お、おぉぉぉぉぉ……」

 

シンの惚けた声に、誰かが崩れ落ちた。ピエールだ。彼は神の子が復活した場面を目撃した信徒のごとく、意味のない言葉を発して顔を両手で覆って、地面にへたり込む。手のひらで覆い隠した向こう側からは、すすり泣きと、乱れきった呼吸の音が聞こえてくる。もはや彼の口は、意味のある言葉を述べることができない状況になっていた。

 

「シ、シン……」

「そうだ」

「シンだよな?」

「いや、生きているが」

「は、はは……」

 

サガはダリとシンとの問答の末、小さな体に全身の力を溜めてしゃがみこむと、直後大きく足腰の力を解放して飛び上がり、全身で喜びを表す。

 

「やった! シンが蘇ったー!」

 

グラズヘイムのとある施設の中に随喜の叫びが響き渡った。そして―――

 

 

「へ?」

 

その時だ。オランピアの体から、大きなアラートが鳴り響いた。彼女は胸元より機械装置を取り出すと、部屋の入り口まで駆け出した。やがて彼女は二重扉をあっという間に通り抜けると、その先にある窓枠によると、開閉できる場所を見つけ、耳のアンテナを伸ばした。

 

「オリンピア! どうした!」

「緊急のコールがシララより入った。いざという時のため、シララとクーマには私との連絡端末を持たせていたのだが―――シララ、どうした」

『墓地から掘りだして検査していたシンの死体が突然起き上がって、どこかに消えた……』

「シンの死体が動いて、……消えた?」

「……は?」

 

オランピアの口から漏れた言葉に、私は酷く驚いた。どういう事だ? シンの魂とも言えるフォトニック純結晶体は、こちらでアンドロ化したのだろう? ならばなぜ、魂を失った死体が動き出す? まさか魂魄のうち、三魂だけを別の体で蘇らせたが故に、三魂失った七魄の体が、魂を求めてキョンシーと化して動き出したとでもいうのだろうか? 意思もないのにか?

 

「意味がわからん……、なぜシンの体が動いたのだ……」

「知れたこと。貴様らがやった行動は、奴を呼び起こす鍵となり、エトリアの墓地にあるシンという男の体を得て、復活したのよ。奴は遠い過去、すでに消えて失せた民族との契約をどうにかして果たすため、動き出したのだ」

 

呟いた疑問に、ご丁寧にも答えてくれた男にしては甲高い通る声を聞いて、胸を鷲掴みにされる感覚を味う。全身が逆毛立つ。弱い人間は自分よりもはるか高位の場所にいる存在が目の前に現れた時、生存のための一縷の希望を見つけ出すべく、全力で防護と逃走を意識し、意識は自然と敵の行動の一挙手一投足に注目するようになるのだ。

 

やがて、この予感よ、どうか当たってくれるなと思いながら振り向くも、声のあった場所、廊下の向こう側の曲がり角にかつての宿敵の姿を見つけて、自然と脳の血の巡りが早くなった。金色の髪をなびかせ、優雅にレザーのジャケットを着こなしたそいつは、私どころかこの世の全てを睥睨するかのような視線を私たちの……、特に私へと向けて、心底愉快だと言わんばかりに笑みを浮かべていた。

 

「き、貴様は……」

 

その整った顔立ちは、かつて金星の女神イシュタルをも魅了し、あらゆる財を己が宝物庫に収め、三分の一が人、三分の二が神であるという体を持つという男。かつて過去の時代、全ての神話や伝承の源流となったと言われる、古代バビロニアの叙事詩に名高い英雄王。

 

そして、第五次聖杯戦争において、言峰綺礼とともに暗躍し、アンリマユを完全解放する直前まで、私らの陣営を追い込んだその男の名は―――

 

「ギルガメッシュ! 」

「いかにも」

 

名を呼ばれた奴は、鷹揚に頷くと、一歩進み出た。奴の何気ない歩みは、しかしそれだけで周囲の空気を軋ませる。緊迫の空気を生んでいる張本人は、しかし涼しげに数歩踏み出すと、両腕を組み、踏ん反り返った姿勢で、私たちの方へと視線を向けてくる。

 

「―――恐れ多くも我の真名を違う事なく告げた点だけは評価してやろう。だが、頭が高いな。天上天下において唯一の存在たる英雄王の我を迎えるからには、頭を地に擦り付け、這い蹲り、我が身から言葉かかるまで目線をそらすのが誠の礼というものであろう? 」

 

どこまでも傲慢に言ってのける奴は、間違いなく、あの英雄王だ。すらりとした長身が纏っている魔力の量が少なくみえるのは、奴のなんらかの宝具の効力か、それとも、まだ私を、全力を出すに値しないと油断しているが故か。

 

「かつて聖杯戦争において我が額に贋作を叩き込んだ無礼と合わせ、本来ならば百度死に値する刑を執行しようと拭えぬ無礼であるが……、貴様は数千年ぶりに愉快な供物を我が眼前へと持ってきた。故に我は寛大にも貴様の功罪を帳消しとし、一旦は貴様の無礼を許そう。―――久しいなフェイカー」

 



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幕間 2 神話の世界に偽りの神々は降臨し

このお話は、世界樹の迷宮の物語を下敷きに、ゲームをやっていて疑問に思った点を、fate、アトラス作品の世界観を混ぜて、新しい世界観の上に物語を作ろうとしているので、fate、世界樹の迷宮の設定や世界観とは若干から大幅に異なる部分があります。ご注意ください。


幕間 2

 

神話の世界に偽りの神々は降臨し

 

「その呼び方……、貴様、まさか本当に……!? 一体なぜ、グラズヘイムに……いや、一体なぜ、この時代に存在している……!?」

 

「なぜ。くく、なぜ、と我に問うたか。あいもかわらず自らの頭で物事を考えようとせず、他人に答えを求めるばかりなのだな、フェイカー……? 生まれ変わろうが、貴様にはオリジナルというものがない……。だから、貴様はいつまでたっても、自らの救いすら見つける事ができんのだ! そのような様で万人救う正義の味方になりたいなどと妄言を吐くのだから、滑稽なものよ!」

「なっ……」

 

いきなりの罵倒に反論の言葉も出せないほど息を大きく飲んだ。状況にそぐわない状態における指摘が的外れで驚いたのではない。ギルガメッシュの罵倒の内容が、あまりにも、的確だったからこそ、私は閉口してしまったのだ。

 

しかも奴は、生まれ変わったと言っているあたり、どうも私の事情を知っているようである。なぜだ。どうして奴がそのことを知っている。謎は増えるばかりで真実の糸口がつかめない。

 

「だがまぁ、あの凡人共の代表の代理であるのだから、その程度の愚図で当然なのかもしれぬ。―――ああ、ならば納得だ。……まぁよい。先ほども言うた通り、我は今、つい今しがた貴様が成した出来事により、非常に気分が良い。また、愚者であるとはいえ貴様は無能ではなく、それどころか我が収める土地の維持のため奔走した立役者である。働いた臣下には相応の褒美をやらねば王たる我の沽券にかかわる……。故にフェイカー。無知なる貴様が呈した疑問に対し、この我が直々に満足する解答をくれてやろう」

 

ギルガメッシュは私を罵倒した直後、自ら出した結論に納得すると、鷹揚に頷いた。己以外はすべて雑種であると言い切る唯我独尊な王でありながら、だからこそ公平な裁判官であり、優れた祭祀でも、奔放な旅人でもあったこの男は、豊富な知識を保有すると共に頭の回転も早く瞬時の状況把握に優れているため、一目で相手の性質や事情を読み取る事ができるという特技を持っている。その能力はまさに英雄王の名にふさわしいと言っていいかもしれない。

 

しかしそんな高い知恵や実力に比例して、ギルガメッシュはプライドの高さも天井知らずだ。己の智慧により得た真実を早々他人に明かそうとはせず、もったいぶって相手を焦らし、徐々に秘密を明かすことで相手が苦悩する様を楽しむという、非常にタチの悪い性質を同時に保有している。ギルガメッシュという男は他人より秀でて能力の高い人物にありがちな王であり、まさに暴君なのだ。

 

「い、いきなりなんだ、お前は! 出てくるなり、エミヤを……」

「自らの生涯の支えとなる軸すらいまだ見定められず、かといってそれを認めることも他者に語ることもできぬ半端者の小心者風情が王の言葉を遮るでないわ! この無礼者が! 」

「な……」

 

ギルガメッシュの一括で、ダリは慄然とした一言を漏らすと、目を向き、口を開け、背を反らせ、目を泳がせて混乱を露わにした。言葉はダリの胸裡に直撃したらしく、彼の気勢はギルガメッシュの一言で完全に削がれていた。

 

「なんだ、あいつは……」

「怖い……」

 

常に冷静の態度を崩さないダリが消沈するという出来事は、呆けていた他の仲間の精神を揺り動かす刺激となり、戸惑いの言葉が聞こえてくる。彼らの無意識の言葉は、ダリの不用意な横槍によって一気に不機嫌になった英雄王の精神をさらに逆撫でしたらしく、ギルガメッシュの柳眉の距離がさらに縮まっていく。

 

―――いかん、このままではいらぬ被害が広がるばかりだ

 

「ギルガメッシュ。悪いが私の方が先約のはずだ。彼らに構うのは後にしてもらおうか。何故貴様がここにいるのか。何故貴様がこの時代にいるのか。事情を聞かせてもらえるというのであれば、お聞かせ願いたいものだ」

 

放っておくとこの場の誰も彼もが、心の傷を切開されて無駄なダメージを負いかねない。いやそれどころか、奴がさらに機嫌を損ない、挙句に暴走したならば、余計に面倒な事になる。ギルガメッシュという男が戴く英雄王の名は伊達でなく、奴は傲慢さに比例した高い実力を兼ね備えている。

 

その持てる力を存分に発揮して暴れたならば、このグラズヘイムの中央塔どころか、周囲数キロに広がるグラズヘイムそのものを焼け野原にするくらい容易にやってのけるだろう。

 

「……ふん、あからさまな話題逸らしの誘導であるが、……まぁよい。羽虫に構ったところでキリがないからな。多少不愉快であるが、貴様の思惑に乗ってやるとしよう。―――さて、どこから語ったものか、―――ふむ、フェイカー。貴様、このグラズヘイムをどう思う?」

 

ギルガメッシュがなぜこの場所に存在しているのかを聞いたのに、奴はなぜそのような質問を返してくるのか。奴の真意が読めない。だが、ここで話を蒸し返すと、奴の機嫌を損う行為になるのは明白であるので、奴の質問に応えようと口を開く。

 

「―――エトリアの執政官であるクーマは言っていた。ここ、グラズヘイムとは、かつて世界樹に環境の汚れと魔のモノの怨念呪詛が溜まった際、世界樹から生まれてくるセルという化け物を消し去るための最終手段、グングニルを発動させるための施設であると。実際、過去一度、セルを吹き飛ばすため、世界樹を消し飛ばした実績もあり―――」

「ああ、もうよい。今ので理解したわ。強烈とはいえ、元英霊ともあろうものが認識阻害の術程度も防げぬとは情けないことよ。加えて、貴様がいかに、与えられた知識のみで満足する愚者であるかを再確認させてもらった。―――よい。他人の思想を受け継ぎ、模倣し、実践する程度の輩などその程度。知識を得た際、知識を疑い、疑問からやがて真理を見出す賢者などそうは現れぬ。なに、我以外の人類のほとんどが蒙昧無知な愚者なのだから、気にする必要はない」

 

ギルガメッシュは手を振って私の言葉を遮ると、侮蔑に満ちた言葉を、憐憫と軽蔑の視線と共に私の方へ投げかけてくる。おそらく今の言葉は奴にとって、奴なりに最大限相手を気遣って声をかけた言葉なのだろうことが、多少の憐みを含んだ目線よりうかがえる。そんな、なんとも奴らしい傲慢さに満ちた言葉は私を唖然とさせ、冷静を保たせる効果を発揮した。

 

「……今の話に間違いがあったとでも?」

 

―――奴の態度にいちいち付き合っていては話が進まない

 

だからこの程度のことで怒りが湧き上がらせるな、と戒めの言葉を自らの心に言い聞かせると、再び奴に問いかける。すると奴は呆れたと言わんばかりの大きく短く息を吐き捨てると、片目を釣り上げた。

 

「大筋間違っていないとも。間違っていないからこそ、問題なのだ。―――貴様、何故、今、自らが抱える情報が矛盾を孕んでいると疑問を抱かぬ」

「―――なに?」

「良いか? 貴様の目的は、魔のモノを討伐し、エトリアの街に蔓延しつつある死病を食い止めること―――、そうだな?」

「……そうだ」

 

ギルガメッシュは私の事情を知っている。もはや確信に変わったそれに疑問を抱きつつも、私は奴の話の腰を折らぬよう、慎重に言葉を選びつつ返事をする。

 

「そして、そのために、新迷宮とやらに潜り、奥に潜む魔物の討伐をエトリアの街の執政官より命ぜられた」

「……、正しくは封印だが」

「は、どちらでもよいわ。ともあれ貴様、先程このグラズヘイムは、魔のモノの汚染を吹き飛ばすための施設でありその実績もある。そう、街の執政官から聞いたと言ったな?」

「そうだが、それが―――」

 

不穏な何かを感じ取った心が、問いかける言葉を止める。

 

「ようやく気がついたか、愚か者め」

 

ギルガメッシュは先ほどと同じく再び大きく短く息を吐き、嘲笑う。だが私は、奴のそんな態度に気をかける余裕はなかった。

 

―――おかしい

 

何かがおかしい。何か、歯車がずれている。いや、違う。ずれているのではない。そもそも噛み合っていないのだ。料理の材料は揃っているのに、調理の仕方がわからない。そんな気分だ。ギルガメッシュが語った言葉を揃えて考えようとすると、途端に話の全容がぼやけてゆく。俯瞰ができない。いや、違う。細かい部分がつながらなくて、話が分からなくなる。

 

不安が生まれる。ここで二つの素材の調理に失敗してしまえば、二度と結論に達する事ができない。そんな感覚。おそらくここで答えを出せなければ、目の前の英雄王は私を見限るだろう。さすれば、二度と真実にはたどりつけなくなると私の直感が告げている。

 

―――この違和感の正体はなんだ……

 

だから二つを必死で手繰り寄せて、組み合わせる。考えろ。何がおかしい。何が足りない。ギルガメッシュはなぜ自らの言葉の矛盾に気がつかないのかと言った。ならばそこにこそ答えは隠されている筈だ。

 

クーマは街の死病を無くしたいと考えている。クーマは赤死病が魔のモノの仕業だと知っている。クーマは魔のモノがどこに潜んでいるか、検討が付いている。クーマはグラズヘイムの真の使い方を知っている。クーマはグングニルの正体を知っている。クーマは街の死病を無くしたくて、街の死病の原因が魔のモノであることを知っていて、グラズヘイムが魔のモノの汚染を吹き飛ばすための施設だと知っている。だとしたら。

 

「なぜクーマは、グングニルを使って魔のモノを退治してしまおうと考えないんだ?」

 

必死の問答の末たどり着いた結論を口にすると、脳裏に漂っていた霧が一気に晴れたのを感じた。一つの真実が明らかになると、連鎖的に他の情報と結びついて別の疑問を生む。

 

「そもそも、なぜこのような施設が残っている? 誰がいつ造り上げたのだ? いや、この規模の巨大施設を作り上げるには、重機が必須のはず……、過去の人類が作り上げたのだとしたら、どこに建築したのだ? そもそも、セルとか言う奴を倒すためとはいえ、なぜ世界の支えである世界樹を消し去るなどという短絡的な手段を考えた? ほとんど結晶化しいているというシンジュクを調べるよりもこちらを調べた方が遥かに有意義だろうに、なぜ調査をしようと思わないんだ? なぜ―――」

「そこまでにしておけ、フェイカー。……、先程凡愚と言ったのは訂正しよう。我の助言があったとはいえ、認識阻害の魔術の影響から抜け出した途端、疑問を連鎖して抱けるあたり、完全な愚者ではないようだな……」

 

答えを得て私の思考の暴走を止めたギルガメッシュの表情は、先ほどまでと変わらないこちらを見下すものでありながらも、その成分の中に含まれている刺々しさの度合いが少しばかり和らいでいる。

 

「ギルガメッシュ……、お前は……、何を知っているというのだ」

「無論、全てを、だ。この世界において我に知り得ぬ話題などというものは存在しない。―――では、褒美をくれてやろう。フェイカー。貴様にこの世界の真実を、教えてやる。ありがたく拝聴するがいい……。フェイカー。改めて貴様に問おう。このグラズヘイムという施設をどう思う? 」

 

ギルガメッシュは先ほどとまったく同じ質問を投げかけてくる。しかし、まるで同じ質問であるにもかかわらず、私の頭の中は先ほど質問を投げかけられた時はまるで違う働きをしてみせて、明朗な状態で奴の質問の真意を考え出す。

 

「―――あまりにも矛盾した存在だ」

 

まずそんな一言が口から漏れる。

 

「ほう、なぜ?」

「これほど巨大かつ精密な施設だ。たとえスキルを得たとしても、揺らぎというものが存在するが人間の力では、ここまで緻密な建造物を作り上げるのは、まず不可能だ。どうしたって、重機や精密機械の力を借りる必要がある。つまり、この施設が建てられたのは、まだ機械の力が全盛期の頃―――、すなわち、世界樹という存在がまだ地上を覆う以前だったという事になる。また、先のグングニルの使用用途が魔のモノという存在の消滅が目的だったことを加味すれば、おそらく私のこの予測が正しいという状況証拠にもなるだろう」

「それで?」

「そしてクーマの目的は、魔のモノの排除だ。クーマはシンジュクという場所を調査し、結晶化した過去の遺跡について調査し、魔のモノを封印、あるいは排除すれば、赤死病の撲滅が可能ということも知っていた。そして同時に、クーマはこの施設―――、すなわち、グラズヘイムについても知っており、グングニルという兵器があり、それが魔のモノという存在に有効であることも知っていた。ならば、何故、彼は使わなかったのか」

「……」

「否、違う。おそらく彼は結び付けられなかったのだ。彼はグラズヘイムという存在について知っていながら、利用しようと考える事が出来なかった。二つの関係する情報を結び付け、解決の手段として見いだす事ができなかった。―――上手く認知ができなかったのだ。そうだ、先ほどの私もそうだった。異常と思いながら、すぐさまそうでないと認識するこの感覚。目の前にあるのに、気づかない、気づけない。否、気づいていながら、気づいたことは大したことではないのだと自ら判断を下し、忘却してしまうこの感覚。―――これは、魔術師などが人払いと併用してよく使う、認識阻害の魔術がもたらす作用だ」

「つまり?」

「響や兵士たちも、クーマと同様、これほど巨大な過去施設についての知識を持ちながら、大したものでないと認識したことと、エトリアという好奇心旺盛な冒険者たちが集う街において近場のこれほどの施設が探索の対象になるどころか噂にすら俎上しないことを加味すればつまり―――、どのような手段を取っているのか、どのような範囲に効果を影響を与えているのかはわからないが―――、このグラズヘイムという存在が重要と思われないよう、強力な認識阻害の魔術が、少なくともエトリアの街にまで影響を及ぼす範囲の広域にかけられているという事になる。つまり、グラズヘイムは、過去、魔術師と科学者が協力して後世の人のため世界樹を救う手段を備えた施設でありながら、同時に彼にとって秘匿しておきたい施設だったのだ」

「それはなぜ?」

「―――それは……、グングニルという兵器がどれほどの威力を秘めているのかは知らないが、世界樹を消し去る威力を持った兵器だ。強大な軍事力として利用される事を恐れたか、あるいは―――」

「貴様の妄言に付き合う気はない。真実を求めるのに裏付けのない想像で物事を補填しようするな、愚か者が。―――所詮貴様の持っている情報では、その程度が関の山か。ま、愚者にしては良くやったと褒めてやろう。光栄に思え」

「……それはどうも」

 

ギルガメッシュの言葉はどう聞いても相手を小馬鹿にした罵倒であったが、この世の全ては自らの所有物であると信じる奴にとってやはり最大限の賛辞なのだろう。素直に受け取ると、ギルガメッシュは鼻息一つ高鳴らして、再び口を開く。

 

「さて、フェイカー。確かにこのグラズヘイムには、この場所を人間の意識からそらすための大掛かりな認識阻害の術式が敷かれている。元英霊のような高次の存在である貴様にも通用する、非常に強力な認識阻害の魔術がな」

「……」

「そうとも、過去の人間どもはなんとしても施設を隠したかったのだ。何故ならばこの施設、グラズヘイムは―――、この矛盾と継ぎ接ぎだらけの人造世界を建築し、維持する為に建築された管理施設であり、同時に、旧人類どもが自らの最後の願いを託したジグラットでもあるのだからな!」

「ジグラット?」

「いかにも。―――さてフェイカー。認識阻害の影響下にあったと気がついた今ならば、次の言葉にも疑問を抱けるのではないか? すなわち、『人類が世界樹の上に大地を作る』という言葉に、だ」

「……」

 

ギルガメッシュの言葉を受け、考える。世界樹の大地は、ざっと地上から地下まで四、五キロはあるだろう厚さの積層構造の土地だ。かつての地上よりかけ離れた天空出会った場所には、大地があり、海があり、山があり、川があり、森がある。すなわち、地上と変わらぬ自然が広がっている。千メートルの塔を作るのにも一年以上の時と莫大な労力を要したことを考えれば、そんな所業、重機をフル稼働させても不可能だろう。

 

いや、人類全てを労働力として導入してやれば可能であるかもしれないが、それでも途方もなく長い時間を必要とするだろう。必要となる時間は千年どころの騒ぎではないはずだ。だが、世界樹を植えた時点で汚染が広がっていたという地上の環境において、そんな労働力と時間を確保できるとは思えない。果たして―――

 

「過去の人類は―――いったいどのようにして、この大地を作り上げたのだ?」

「その答えがこのグラズヘイムよ。自らの魔術と科学を集結させても事態の解決不可能と悟った人類は、他でもない、神の力に頼ることを決めたのだ。世界中に散らばる神話を紐解けば、大地創生などいくらでも転がっている。奴らはその中でも特に強力な、古き歴史を持つ神話を利用して大地を整える事を企んだ」

 

魔術において歴史が古く、多くの人に広く知られ認知、観測されているということは、そのまま神霊の強力さに繋がるということである。また、古ければ古いほど、神秘の強度は向上し、魔術によって起こせる奇跡は強大なものとなる。故に旧人類の人々は古き神々に頼ったということか。しかし。

 

「―――ばかな。世界の摂理、星の抑止力とも同義の存在である神霊の召喚など、人にはとても不可能な所業……」

「もちろん、たかが旧人類、すなわち魔術回路を介さねば世界の理にアクセスすること不可能な低次の存在では、高次元の概念的存在であり自然の摂理でもある神霊を認識することすら難しい。また、たとえ魔術回路を持っていようと、所詮は外付け回路。資質がなければ神霊と接触するには到底及ばぬ。しかし、新人類という、魔のモノによって霊脈、すなわち、星という存在との繋がりが強化された存在ならば、話は別だ。星との繋がりが強化されるということは、神霊との繋がりが強化されるということと同義。すなわち、新人類らの霊的知覚能力と高次の存在に対する交信、接触能力は、貴様ら旧人類のそれをはるかに凌駕するという事になる」

「……! 」

「だから奴らは新人類を通して、神霊へと呼びかけ、召喚し、大地の創造という奇跡を成し遂げようと考えた。しかしそれは叶わなかった。そも、星であり、自然の摂理である神霊を呼び出すことは不可能だった。このグラズヘイムという場所は、超一等の霊地である霊峰富士の上に建造された建物であるが、そんな土地と霊脈の力を借りても神霊という存在を召喚することは出来なかった。そこで奴らは、我らに目をつけた―――すなわち、我の様な半神半人の英霊を召喚し、使役し、神の代理に祭り上げようと試みたのだ!」

 

言葉尻は烈火の如く激しいものとなり、ギルガメッシュの顔が憤怒と憎悪に染まった。空気に緊張が走る。真に自らという存在と能力を求めて召喚されたならまだしも、ギルガメッシュは彼自身の能力を真に期待されたのではなく、次善の策で最上位に存在する神の代理として仕方なく呼び出されたのだ。その行為がギルガメッシュという、神霊という存在を蛇蝎の如く嫌い、神と人の共存した時代を終わらせた男のプライドをどれほど傷つけたかは、想像に容易い。

 

「―――ギルガメッシュ。お前はその無礼な訴えに応じたのか?」

 

触れれば破裂しそうなギルガメッシュの気分を少しでも鎮めるべく、なるべく奴の気分を害さぬよう言葉を選んで話しかけると、呼び出した存在の所業を責める内容であったのが功をそうしたのか、多少機嫌を落ち着けて、再び口を開く。

 

「―――そうだ。その唾棄に値する提案を聞いた瞬間、殺してやろうかと思ったとも。だが、その後我を軽んじる無礼者どもが陳情してくる計画が、あまりに矛盾を孕んだ愉快なものであったが故に気を変えてやったのだ。―――そう。その奴らの願いと関わっているのが、このグラズヘイムという場所が持つ第二の機能である―――、さてフェイカー。再び尋ねよう。奴らの望みとはなんであったと思う?」

 

問われて考え込む。話の内容からギルガメッシュを呼び出した彼らが立案した計画とやらがギルガメッシュの怒りを鎮める内容であったのだろうが、それがどのような内容であれば、この傍若無人な英雄王の果てしなく高いプライドを傷つけた出来事と釣り合うのかはまるで想像がつかなかった。

 

「―――すまないが、心当たりがまるでないので思いつかない。推測でも良いが、君にとって妄想を垂れ流されるのは不愉快なのだろう? ヒントだけでもくれるとありがたいのだがね」

「ふん、王に助言を求めるとは不遜な事よ。……だが、己の欲するところを知るもの、無知さを知る者に、我は寛大である。―――フェイカー。貴様、死が確定している者が望むものはなんだと思う?」

「死にゆくもの……」

「そうだ。もはや何があろうと、死の運命は覆せない。そんな奴らが死を目前にした時、何を望むのか。―――正義の味方と嘯き、抑止力の手先として多くの人間を殺してきた貴様になら、答えるに容易い質問であろう? 」

 

奴の物言いは鼻に付くが、奴の指摘は確かに間違ったものではない。過去を思えば、彼らに対する感情はほとんど失せてしまったが、彼らが死の間際に残したものは、いまだにこの胸の中にこびりついている。

 

「―――遺言。自分の大切な者に、残す者に、自分の意思を、伝えたい。滅びが確定しているのならばせめて……、自分がここにいて、どんな風に生きて、何を思って死んでいったのかを知ってほしい。あわよくば……、私の思いを受け継いでほしい。そんな願い……」

 

シンという男が死の間際、響に剣を託した様に。あるいは衛宮切嗣という男が家の縁側で月下にて正義の味方という己の願いを語った様に。自らが死ぬ定めにあるとしても、自らの生き様と信念、目指した場所を誰かに知ってもらい、あわよくば受け継いで欲しい。それが死の運命が確定したものが抱える共通の願いではないだろうか。

 

「そうだ。自らが存在した証を残したい。それこそが奴らの願いであった。―――奴らの言をそのまま言ってやろう。『覆せぬ死にゆく定めならば、せめて自らがこの世界に存在したのだという証拠を残したい。人類が滅びるというのなら、せめて歴史と技術だけでも後世の彼らに残したかった。だがこの度はそれも叶わない。人類は長い歴史を重ねる中、多くの過ちを繰り返しながらも、それでもなんとか生き延びてきた。失敗から多くの教訓を学び、技術の発展を積み重ね歴史として、無様ながらも世界を運営してきた。しかし、この度人類は、過剰に発展した技術によって地球環境を自ら破壊し、滅びの道を歩む事となったのだ。だから技術を受け継がせることはできない。となれば当然、歴史も彼らに知られるわけにはいかない。歴史とは人類がいかに技術の積み重ねてきたかの証明だ。片側を知れば、いずれおのずともう片方も理解できてしまう。故にどちらも知られるわけにはいかない―――だからせめて。歴史も技術も残せないのならば、せめて無意識の中でいいから、我らは確かにそこにいたのだという証を、後の時代の彼らの行動の中に生かしたい』」

「―――」

 

ギルガメッシュの言葉を聞いて目を剥く。旧人類が残した遺言に驚いたのではない。奴は先ほど、旧人類の陳情が自らの怒りを鎮めたと言っていた。そして彼らの願いとはすなわち、「自らの生きていた証を後の世に残したい」というもの。ということはすなわち。

 

「ギルガメッシュ。お前はまさか、彼らのその切なる願いに胸を打たれて、神の代理とかいう役目を引き受けたというのか……?」

 

この天上天下唯我独尊を行動理念とする男が、死の間際の人々の願いに絆されて、あえて彼らに体良く使われる事である役目を引き受けたということになる。―――奴はそんな殊勝な人間でないと心底思い込んでいた私は、忽然と現れた予想外の答えに、驚きを隠せない。

 

「は―――、ははははははははははは! 面白い戯言を抜かすな、フェイカー! いかに末期の願いだろうと、たかだか凡人愚民の思いなど、我にとって瑣末な事に過ぎん! 我が奴らの無礼失態を見逃し、戯言を聞いてやろうというほどに気分を愉快なものへと変化させたのは、自らの願いを叶えるためにと奴らが用意した手法よ! 」

「―――……そうか」

 

だが、驚愕は一瞬で納得と残念の中へと霧散する。奴らしいといえば奴らしいが、少しばかり寂寞の念がわく。

 

「奴らは続けてこう言った。『貴方がたの力を借りて世界樹の上に大地を創造し、維持をして頂く御座としてこのグラズヘイム/喜びの大地を作り上げた。また、同時にあなた方の存在を秘匿する為に、月とこのグラズヘイムを利用して大掛かりな認識阻害の陣を書き、実行する。霊脈よりエネルギーを確保した陣は、再度霊脈中に送られ、霊脈を通して、全世界の人々に影響を与え、世界樹の大地の上に住む彼らはこのグラズヘイムの存在を重要なものと見なさなくなるだろう。―――その際。陣から霊脈に送る術式に、もう一つの情報を加えたい。……歴史と知識を教訓化し、日常行動の動作として落とし込めたものを、彼らの無意識化のうちに刻み込みたいのだ』。―――面白いだろう? 奴らはな。新人類の頭の内側に、己らの歩んできた歴史と知識の居場所を、才能やスキルと名を変える事で確保したいとほざきおったのだ」

 

火を見て火傷しないよう、距離を保つ。氷を握りすぎて凍傷を起こさない様、離す。雷にうたれて瀕死の重傷を負わないよう、避雷針を用意する。それは人が歴史の中より得たてきた知恵である。すなわち、旧人類の彼らは、あらゆる場面においていかような行動が適切であるかを、新人類の無意識に植え付け生きる助け―――才能やスキルとして活用してもらうことで、新人類の中に自らの歴史と知識が息づいている、受け継いだとみなしたいと考えたのだ。

 

―――それは、最古の人類アウストラロピテクスのルーシーまで遡れば、約五百四十万年もの歴史を保有する紡ぎ手たちが最後に抱く願いにしては、あまりにも儚く、小さな望み

 

「―――英雄王。何故彼らの覚悟を嗤う。末期の時、彼らは自らの死を覆すことでなく、後世の人類のために、忘れ去られる事を良しとし、その上で、生きていく術を彼らに伝授したのだ。たとえそれが元は自らを忘れて欲しくないという我欲が願いであったとしても、その志は侮辱して良いものではない……! 」

「いやいや、これを滑稽と笑わずしてどうする。奴らはいい道化であろう。なにせ、自らが望んだ願いが行き着く先、どの様な事態を引き起こすのかまるで想像していなかったのだからな! 」

「何……?」

「よいか? 先も奴ら自身がいうた様に、歴史と技術は比翼連理よ。技術を積み重ねた結果こそが歴史である。片方だけ忘れるということはできん。すなわち、技術を才能やスキルに変換したところで、それを得るために歴史が完全に消えさるというわけではない。日常の行動にまで落とし込めたモノの中には、技術を習得するため、どの様な歴史を辿ったか、というものが必ず含まれておる。つまりだ。奴らのその切なる願いとやらを叶えた暁には、新人類は、その無意識の中に、旧人類の歴史を植えつけられるということと同義であるのだ」

「な……」

「無論、刻みつけた場所が無意識という領域であるが故に、新人類が技術やスキルより歴史を認識することはできない。だが、フェイカー。貴様には覚えがあるはずだ。貴様はこの世界に生まれ出でて以降、自然や何かの物事が起こった時の事を例える際、無意識のうちに神話や歴史の例えを引用するといった経験が。あるいは、以前の貴様ではしなかっただろう、別の人間の感性に基づいているとしか思えないような言い回しをするようになった経験が……」

「それは―――」

 

ある。たしかに私は、自然の情景や状況を例える際、何度も繰り返し同じ内容の、しかし異なる言葉を用いて表現し、神霊や妖魔の例えをよく引用する様になっていた。加えて、確かにくどくも言葉を繰り返し重複させて使うことも多々あった。

 

「おそらくそれは、貴様が過去の人間であることに起因するのだろう。この時代の人間ならば、無意識のうちに埋め込まれた旧時代の歴史との接点がないという事実と、先の認識阻害の陣の効力とが合わさることにより、脳裏の中にある情報を認知することは、ない。通常、できない。すなわち、無意識の中に埋め込まれた歴史を、基本的には掘り起こせない。しかし、旧時代の人間の体を用いて転生した元英霊である貴様は、多数の過去の時代の歴史知識を保有している。それが無意識の中に格納されている知識との仲介役となり、貴様の言動を侵食しているのだ、フェイカー。―――おそらく歴史が自らの血肉となったことに伴い、不愉快な事だが、貴様の使う投影魔術とかいう贋作作成の性能、精度も上がっている事だろうよ」

「――――――」

 

思いもよらない指摘に、私はもはや抜け殻の様な醜態を晒していた。緊張のため強張っていた肩からは力が抜け、口を開き、顎がたれかけている。

 

「そして同時に、奴らの敷いた陣は、もう一つ、新人類に多大な影響を与えた。無意識に才能を埋め込むということは、当然、新人類の行動、人格にも影響を及ぼす。特に顕著なのは、名による影響だ。新人類は、誰かに名付ける際、無意識のうちに植えつけられた才能、すなわち過去の歴史に従ったイメージによる名付けを行い、名を付けられた方は、これまた無意識のうちに、名にそっての人生を歩み、そして周囲も、無意識のうちに自らの名の影響を受ける様になったのだ」

「名が―――、人の生き方を縛り、行動を制限する枷になるというのか?」

「そうだ。そして、それが此度の事態を引き起こした―――、く、くっくっく、あっーはっはっはっは! 」

 

すると英雄王は、先ほどまでの不機嫌が嘘の様に、腹を抱えて笑い出した。

 

「何がおかしいか! 」

「はは、これが愉快でなく、何を愉悦しろというのだ! 旧人類とやらは自らが滅びゆく定めである事を受け入れ、歴史と技術を自ら消し去る事を覚悟し、後世の人々の為にと大地を作り、整え、維持するために苦心して命を賭して、あるいは捨てて、我らを召喚し、交渉し、腐心の果てにこの様な管理施設を作り上げた! さらに自らの歴史や技術を新人類が生きてゆくための才能やスキルとして変換させ、無意識の中に刻みつけた。奴らからすればささやかな願いとやらは、確かに尊き行動であり、旧人類の残した負債に縛られる事なく健やかに過ごして欲しいとの願いだったのかもしれん……。しかし、その善意に付随させた行為は、実のところ、新人類の行動を縛り、人生と行動を強烈に縛り付ける重枷と成り果てた! すなわち、新人類とやらは総じて、旧人類の歴史を模倣するだけのフェイクにすぎんのだ! はは、フェイカーたる貴様にとっては、さぞ居心地が良かっただろうよ! 周りを見渡してみれば、自らと同じよう悩みを抱えたものばかりなのだからな! まっこと、人間の末期の願いというものはろくな結果を起こさぬよなぁ! 救いの手を差し伸べたつもりが、それは救いではなかった! はは、まるで毒親ではないか! どうだ、この見事なまでの道化っぷり! むしろ笑ってやらぬ方が失礼に値するとは思わんか!? 」

 

奴は哄笑する。高笑いは今や静かになった空間に響く唯一の音であり、その声は非常に私の癇に障った。怒りは沸騰し、憎悪が煮え滾る。それらが、純粋な願いが呪いに変わってしまった彼らに対する同情からもたらされたのか、あるいは、自身と同じように、他者を思っての行動がその実、他者の為にならなかったという結果を嘲笑うギルガメッシュに対する蟠りの感情からもたらされたのかはわからない。あるいはその両方なのかもしれない。

 

「そしてこの世界樹の大地は、無意識のうちに神や聖人の名を名乗り、その行動をなぞるものばかりの土地となった! ある意味でこの土地は、バブ・イル/偉大なる神々の家々なのだ! ならばそんな天空にそびえる土地に立てられた祭壇はもちろんジグラット! すなわち、ウルであり我の住処である! はは、なるほど、我が世界創生の采配を振るうに相応しい場所ではないか! ―――そんな奴らの愚かさと偶然の合致が我を愉快にさせたが故、我は奴らの無礼な願いを受けてやることにしたのよ。やがていつか、奴らの残した呪いは、これまで見た事もない胸踊る事態を世界に引き起こすだろうと思うてな。―――そして、今日この時、まさにその見たこともない事態が、フェイカーである貴様らの手によって引き起こされた。ああ、改めて褒めてつかわそう。貴様らが引き起こした事象は、間違いなく人類に歴史において、一度も起こり得なかった奇跡の所業であり、旧人類の多数が一度は望んだ出来事なのだから! 」

 

今すぐ殴りかかってしまえと体は叫んでいる。憤りはもはや限界値を超えかけていた。だが、それをしてしまえば、この度起こった出来事の真相を知る機会も、世界の真実とやらを知る機会は二度とないだろうと直感が告げている。だから沸点に達した熱情を冷静で抑え込むと、私はギルガメッシュに対して問いを投げかけた。

 

「―――なにが、……起きた」

「クク、さてこのグラズヘイムという場所は秘匿のため、外部に対して行う、情報の結びつきを阻害するモノと才能の植え付けを行なう性質とはまた異なる、特殊な認知阻害の陣が敷かれている……。この場所において誰かが起こした行動内容は大したものでなく、当然のことが起きているだけだ。故に気にするほどの出来事は起きておらん、と、無意識下に広く訴えるための陣だ。この機能がなければ、やがて貴様が先ほどやったように、綻びから認識阻害の術式を破る輩が現れるかもしれんからな―――だが、その旧人類が秘匿のために敷いた陣が此度の引き金となった」

 

ギルガメッシュはそこで初めて私以外の人間へと目を向ける。

 

「事の引き金となったのは、貴様と、シン。ピエール、サガという名の奴らよ」

「え……?」

「私か……?」

「私、何かしましたかねぇ」

「俺も覚えがねぇけど……」

 

突如としてギルガメシュから名を呼ばれた彼らは、戸惑い、狼狽える。まさか私とギルガメッシュが主役であったこの舞台において、自らが壇上に立つ羽目になるとは露程にも思っていなかったのだろう。

 

「クク、そう、だからこそ面白く見させてもらったよ。―――人類の無意識に干渉し情報を広める陣を発動させている、かつて神霊を呼び出そうとした祭壇へやってきた貴様らは、あろう事か、聖者や預言者の名をその名の中に冠した男が、死者の体にハマオ―――すなわち油の霊薬を注ぎ、そして、復活の手伝いをしたのだ」

「聖者……? 」

「かつてただの人に過ぎなかった男は、とある神との出会いにより、自らの名前の中に自ら歩む誓い/ hayを入れた名前へと変更し、預言者となった。それと似たようなものだ。主の思いを受け継ぎ背中を追うだけであった男、エリヤ/elijahが、子/“l”amedという立場から抜け出すことを決意し、他者と水/“m”emの交わりがごとき交流をしたのなら、エミヤ/emijahとなる。あるいは、エリシャ/elishaが同様の流れを辿った後、シン/“sh“inを失いヨッド/“y”odすなわち悟りを得たならばエミヤ/emiya。すなわち、貴様の名となる。弱者の救済を惜しまず、しかし激情型で短絡的思考な面がある事を考慮すれば、エリシャの方が貴様の特性に近しいやもしれんが、まぁどちらでもよい」

「……は?」

「無論貴様は、預言者でも聖者でもない。しかし、偽善をその生涯を持って貫き通した貴様は、ある意味では、聖人の生き方と近しい人間である。フェイカーよ。すなわち貴様は、このバブ・イルにおいては、過去の聖人のフェイクでもあったのだ。そしてそんな聖人もどきが復活させた男の名は、バビロニアの王たる我、ギルガメッシュが祖父、すなわち月神ナンナをシュメール読みにした場合の、シンだ」

「―――それは私の名、か?」

 

急遽再び自らの名を呼ばれたシンは、新しい体にて反応する。ギルガメッシュはシンを物珍しいものを見たと言わんばかりの好奇と、いつも通りの侮蔑の混じった見下しの視線を向けると、シンの言葉に頷いた。

 

「そうとも。貴様も、その他の雑種どもも、其奴の生涯を思い出して見るがいい。 我が祖父は、闇夜に紛れて敵を打つ戦上手であり、常に夜空に変わらず浮かび旅人を見守る月神であり、暦を司り、農業や繁栄のシンボルでもあった。すなわちシンという名を持つ其奴の近くにいるものは、戦は安定して事を運べるようになり、商人は安定した収入を得ることが出来るようになり、旅人は最短の旅路を約束されるようになり、其奴のいる土地は食糧難に襲われず繁栄するようになるのだ」

「戦上手で―――」

「近くの商人は商売が安定して―――」

「冒険で最善の選択肢を示す月の神……、ですか」

 

サガが、ダリが、ピエールがギルガメッシュの言葉に反応し、呆然と呟いた。言われて私も、シンの事を思い返す。彼は戦の才能に満ち溢れ、彼の専属道具屋のような状態であったヘイは金に困らない生活を送っており、シンが冒険の最中告げる言葉と示す道は苦難ながらもたしかに正解の道のりであった。すなわち、ギルガメッシュの言った特徴は、シンという男の特徴と、見事に合致しており、だからこそ彼らは、シンの特徴を言い当てた奴の言葉に驚いたのだ。

 

「月神である奴は、同時に、山神でもあった。奴が治めていたその山の名を北西セム族がやったようにヘブライ語の接尾辞アイをつけて呼んでやればと、シンの山はすなわちシナイ山となる―――、幸いにして、ここは過去、霊峰富士と呼ばれた場所。頂上にて不老不死の薬が燃やされた伝承を持つ場所。復活には都合の良い山でもある。さて、フェイカー。シナイ山の神。聖者に油を塗られた男、死者の復活とくれば、貴様は何を想像する?」

「―――まさか……」

 

バカな、ありえない。そんなもの、この世に呼び出せるわけがない。それは、人類史上、最も世に広く広まった、かつては総人口の三分の一もが崇め奉った宗教の神。古くから伝わる三つの宗教の頂点であり、紀元前後合わせて四千年ほどの間に数え切れないほどの派生分派を生んだ、この世で最も読まれた書物に登場する天地創造を行った創世神。その名は。

 

「YHVH……」

 

 




ようやく二十話使って引いてきた伏線を大分回収出来てすっきり。そしてこれからの物語のために色々と辻褄合わせて仕込む作業で、げんなり。一番の心配事は、世界で一番知られている読み物の有名人を登場人物に出しちゃった事です。あくまでフィクションとしてお楽しみいただければと思います。


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幕間 3 真実はまた別の謎を呼び

幕間 3 真実はまた別の謎を呼び

 

「馬鹿な! ありえない! 」

「ほう、王たる我の言葉を疑うとは不遜な。だが剛毅でもある。言うてみるがよい。貴様はいかなる理由を持ってしてありえないと申すのか」

「何もかもだ! まずもって、貴様の言った出来事には確かに唯一神教の神に絡んだ出来事であるが、時代系列も出来事も何もかもがめちゃくちゃだ! シナイ山の神はYHVHかもしれないが、預言者が油を塗ったから蘇った訳ではない! エリヤやエリシャが油を塗ったという伝承はあるが、むしろその事についてYHVHは、油を塗り、王や指導者、預言者を指名する立場のはずだ!死後復活したのはキリストであるし、そもそも、第一人の身で神霊を召喚できないのは、貴様も承知のはず……。そんな事、マシンスペックの足りないパソコンで人類の未来を演算しろというようなもの! 星に等しき巨大な概念的存在、召喚どころか知覚した途端、理解が追いつかず霊格が破損する! そもそも、人が神を召喚できないというのは、貴様が言ったのだろう、ギルガメッシュ!だからこそ、貴様という半神半人の英霊が呼び出されたのだと! 」

 

思考の忌避反応ゆえか、奴の言動を拒絶する言葉が立て板の上を水が流れるがごとくスラスラと生じた。それほどまでに、私にとって、YHVHという存在がこの世の中に召喚されたという事実は信じがたいものだった。

 

「ふむ、確かにそれは不快ながらも、我の口から出た言葉であるのは事実だ。だがな、フェイカー。同時に我はこうも言ったぞ? 新人類は旧人類に比べて霊的知覚能力の高く、エルに等しき人間でもある。故に、この地はバブ・イルに等しいのだと」

「……なに?」

「物事には順序というものが存在する。先にも言うた通り、今日の我は非常に気分が良い。そう慌てずとも、我が手ずから、自ら全てを明かすと言っておろう」

「……」

 

英雄王の目が細められ、眼光がぎらりと鋭く光る。奴がこちらに向ける視線は、まっすぐで嘘はない。いや、そもそも、この男は嘘をつくなどというまどろっこしいことをするくらいなら、全てのカードを明かして手の内を見せる男だ。

 

―――そう、少なくとも、今のところ、ギルガメシュはたしかに、私が疑問として抱えている事象に対して、完全な答えを返してやろうという気分でいるのだ

 

ならば今のうち真実を聞いておいたほうが得である。

 

「さて、まず神霊の召喚の不可能性についてだが……、確かに貴様の言うた通り、通常なら不可能な所業よ。星の代行者であり、自然の摂理でもある神という存在、通常ならばこの世に呼び出すことすら難しいだろう。だが、要は、呼び出す神が持つ信仰のエネルギーに匹敵する量と質のエネルギーがあれば良いのだ。すなわち、それを補うためのいくつかの要因が重なれば、神霊の召喚という所業も可能となる」

「いくつかの要因?」

 

首をかしげると、奴は尊大に首を縦に振り、口を開く。

 

「そうだ。例えば此度のように呼び出す神霊の信仰が衰退していれば、その神霊の召喚は通常よりも容易い事となる。フェイカー。貴様はよほどYHVHを過大評価しているようだが、そもそも遡ってみれば、あれはただの一個人が酔狂に拝めていた神にすぎん。我が治世を行なっていた時代においては家族レベル、共同体レベル、国家レベルで異なる神を拝めていたが、その中でも最底辺の、一つの家族が勝手に拝み出したもの。すなわち、唯一神ではなく、一個人の拝一神だ。それが強大な力を持ったのは、やがて歴史の中で多くの信者を獲得したからこそ。すなわち、その信者が残らぬこの地においては。YHVHはバビロニアにおいて、奴らの言い方でその存在を表現してやるなら、最高神/エルヨーンではなく、神々/エロヒムの中に数多存在する一柱の神/エルにすぎん。まぁ、これはそのほかの神にも言えることではあるのだがな」

「ただの……、一つの古き神に過ぎないと……?」

「然り。しかし、先に述べた通り、奴や、奴を含む全ての神霊はこの今という時代において、古いという神秘のアドバンテージを保有するため、いまだ単に呼び出そうとしたところで、その召喚は不可能である。奴が自ら神格を落とし、人の位置に身を落としてまで真似をすれば別かもしれんが、あの嫉妬と呪いの神がそのような劣化召喚に応じるとは思えん―――ともあれ、ここで重要のなるのが、先ほどももうした、量と質よ。そして幸いにして、この地は旧人類と比較すれば、霊的知覚能力が高い人間、すなわち、奴らからすればエルに等しき、エロヒムが繁栄するバブ・イルの大地」

「……、つまり、その宗教に関連した儀式を、エロヒムである我らが大勢で行えば、一個人の神でしかないエルを召喚することは可能である、と? 」

 

奴の内容から話を纏め上げ、先読みすると、奴は少しばかり感心の色をその瞳の中に携えた。

 

「ほう、少しは自らの頭で考えるようになったではないか―――、如何にも。付け加えるならば、無関係のものが宗教的意味を持つ儀式を行うよりも、宗教的意味を持つ名を含んだ者が儀式を行う方が良いのは言うまでもない。―――混じり気のない神などというものはな。そこいらの食堂で出てくる料理と同じよ。過去の古いレシピを利用して、手順をなぞってやれば良いのだ。シェフという存在が出来上がる料理の名を知らずとも、材料と手順さえ合致しておれば、確実に料理は完成する。加わえて料理を作りあげた者の名が、かつての有名人と合致したのなら、ほれ、もう立派な再現よ。また、完成する料理の名が神というのであれば、料理を行う調理場が祭壇という場所であれば良いのは言うまでもない」

 

奴の言い様は非常の神霊という存在を見下したものであったが、たしかに一定の説得力があるようにきこえた。しかし―――

 

「―――エリヤ、もしくは、エリシャが油を塗る。YHVHが山に降臨する。神の名前を持つ者が復活する。―――確かにそれらは宗教的意味を持つ行為かもしれない。だが、貴様の話が真実だったとして、たった三つの出来事が重なった程度で―――」

 

言いかけたところで奴は首を振る。黄金の髪が揺らぎ、拒絶の意思が露わにされる。

 

「三つなどではない。……シンなる男は、貴様を絶対存在として敬意を評していた。すなわち、貴様は、シン=ナンナ=YHVHにとって、エルヨーンに等しき存在だったのだ。そのような存在に油を塗られる、すなわち王として認められる行為は、嗣業を与えられる行為、すなわち、申命記三十二章の出来事に等しい。これで四つ」

「……」

「そして、そこなピエールなる男。すなわち、初代教皇ペトロのフランス語読みである男が復活を喜び涙を流し喜んだこと。すなわち、コリント信徒への手紙一、十五章の出来事である。これで五つ。そして―――アシェラだ」

「アシェラ?」

「そう。かつての時代、奴の配偶神と見なされた女神。アシェラとはすなわち、我が創世神話『エヌマエリシュ』に登場するアンシャル神を起源とする、男性神アッシェル神の豊穣の権能面より抽出されたイナンナ、すなわちあの忌まわしきイシュタル的な女神である。―――それが二重に貴様らに関わっているのだ」

「二重に?」

「一つは、フェイカー。貴様が宿としているインと言う女だ。イン/innという名はすなわち、イナンナの名に通じる。そしてその女が構える場所が宿であるというならば、そこはすなわち、あやつの神殿に等しき領域。入り浸ると言うことはすなわち、イナンナの加護を得ているということに通じる。つまりは、フェイカー。貴様は、アシェラ、すなわち、YHVHの配偶女神の加護を得た男なのだ。これで六つ。さて、もう倍になったぞ? 他にも挙げればきりがないほどの拝一神的要素を、貴様らはこれまでの旅路において取得し、実践し、積み重ねきたのだ。そして―――」

 

ギルガメッシュは唇の両側を最大限にまでつり上げて、心底愉快だと言わんばかりの満面の笑みを浮かべた。その面には興奮の色も浮かんでいる。その無邪気でありながら攻撃的な面なサディスティックな笑顔はしかし、まるで満月の様に見たものを狂わせる魅力に満ちていた。時と場所がここでなければ、万人を魅了しただろう。

 

「トドメとなったのが、先ほども述べたアシェラの二重要素の残りの部分よ。アシェラすなわちサガは、シンすなわちYHVHが復活したと認め、祭壇の上で叫び、周囲に知らしめたのだ。男のような、女。まさにそこなサガという雑種の特徴とぴったり符合するであろう? 」

「―――男のような女……? 」

 

ギルガメッシュの言葉に眉尻をひそめる。「奴は何を言っているのだ」と思いながらサガの方へと目線を送ると、異邦人の皆に囲まれている彼は、急に目線を向けられて小さな肩を震えさせながら、ボサボサの頭を小さく左右に振るっている。その弱々しいさまは常に溌剌とした彼の様子からは考えられない態度で、私はまるで少女のようだと―――

 

「―――まて、まさかサガは……」

「なんだ、気がついていなかったのか? イナンナはアフロディティ、ヴィーナスとなり、フレイヤとなり、サガとなった」

 

言いかけるといつのまにか目の前までやってきていたギルガメッシュは、サガの胸元へと手を伸ばす。奴の言ったことがあまりに予想外で、奴の所作があまりに自然な動きだったからだろう、私たちは皆、誰一人として反応できるものはいなかった。

 

「そも『サガ』とは、広く欧州圏において女性名詞である。男に付ける名としては不適なものであろう」

 

ギルガメッシュは我々が硬直している中を素早く動くと、サガの胸元を掴んで、思い切り引っ張った。絹の裂ける音が響く。現役なのかは知らないが、ギルガメッシュの膂力と握力は奴が受肉化した英霊であった頃と遜色ないものを誇っており、サガの衣服は抵抗することすら許されず、真っ二つに引き裂かれた。突然の暴挙にサガは反応することすらできず、ギルガメッシュが衣服を引っ張った方向とは真逆に、結構な勢いで床へと仰向けに倒れこむ。

 

「サガ! 」

「だいじょう……ぶ……」

 

どたん、と、サガの体が床を打った音が私とダリを再起動させた。慌ててサガの方へと目線を送ると、そして見えたものに驚く。

 

「……、嘘」

 

響の呟く呆然とした声が、やけに大きく聞こえてきた。上半身の衣服の前面を失ったサガは、首元から胸元までが露わになっている。小さい体は細く、鎖骨から胸、腹部まで下って行く中、筋肉というものがまるで存在しないかのように滑らかな曲線を描いていており、なんとも柔らかそうだ。特筆すべきは、その胸元だろう。

 

サガの胸は、少年の鳩胸……と表現するには不自然なほど、ほっそりとした体に不釣り合いな大きく丸みを帯びた乳房を兼ね備えていた。サガは胸元を隠そうともせずに立ち上がると、残った上半身の衣服とサガの背中の間から、ちぎれた布がいくつも落下した。多分、サラシだろう。彼……、いや彼女は、あれの白い布切れを使って無理やりあの豊満な胸を抑え付けていたに違いない。よくもまぁ、バレなかったものだ。

 

倒れこんだ際、背中と尻にについた埃を払い、胸を張った。体に不釣り合いな豊満な胸が揺れ、彼女が女であることを主張していた。

 

「―――なんだよ、悪いかよ」

「いや……、だって、サガ、前に迷宮で怪我した時に見たときは、胸なんて―――」

「一年でデカくなっちまったんだよ。悪かったな」

 

ダリは信じられない、という顔でサガの顔と胸元とを交互に見やる。やがてその視線は胸の方へと吸い寄せられてゆく。よほど現実が信じられないのか、ダリは呆然とサガの胸を眺めていたが、やがてダリは己のやった行為がどの様な意味を持っているのかに気がついた様で、不埒さに顔を赤らめながらふいと顔を逸らした。

 

年の割に純情な男だ。一方でそんなダリとは真逆に、シンは彼女を見下ろしたまま表情を変えず、オランピアがシンと同じく変わらぬ能面のような顔を浮かべ、ピエールがダリの反応を見てニタニタと笑う中、ダリは視線を逸らしたまま、唇をパクパクと動かした。

 

「―――なんで、お前……、いや、君は……」

「ほら、もう、男扱いじゃなくなった。―――嫌だったんだ。男と女の体は筋肉のつき方も骨格の成長の仕方も違う。俺だってお前らみたいにかっこよくなりたいのに、女はお前らみたくでかく成長しにくいからって、小さくても仕方ないって、馬鹿にしやがって。だから俺は、こうやって―――」

「サガ……、話は後にして、まずはその胸を隠しましょう?」

 

響はサガの言葉を遮ると、荷物から自らの服の予備を取り出すと、シンの目線を遮るようにして彼女の後ろから近寄り、抱きかかえるようにして衣服をサガの胸元に押し付けた。響の衣服は、響とサガの背丈が一緒くらいであるのが幸いして、ちょうどぴったり肩幅とマッチしている。なるほど、露わになった部分を隠すにはもってこいの大きさだ。

 

「なんだよ、俺は別に……」

「サガ、ほら、そう言わずに……」

 

サガは鬱陶しそうに響の押し付けてくる衣服を払うが、響は負けじと自らの衣服をサガの胸元へと引き戻す。その力や相当強いらしく、胸部に押し付けられる衣服とサガの体の間で胸が横にはみ出て揺れた。ダリが再び慌てて目線をそらす。

 

「いいって、こんな邪魔なもん、放り出したほうがさっぱりする―――」

「サガ……?」

 

響は首をかしげると、とてもいい笑顔でサガへと笑いかけた。先ほどの英雄王が浮かべたものとは違う、とても女性らしく柔らかい笑顔であったが、なぜか能面のように作られた笑顔であると感じる。月の面が袖の裏で般若に変ずる一歩手前の状態のようだ。

 

「 ―――、黙って、言うことを、聞け」

「――――――はい」

 

なんとも力強い断言とともに、響の体から殺気が連続して発散された。にこやかなのに目がまるで笑っていない。耳孔へと滑り込んでくる言葉は一区切りごとに大きくなり、段階的に心臓までを切り裂いてゆく。彼女の言葉はまさに刃であった。途端、サガは借りてきた猫のように大人しくなり、小さな体に不釣り合いな大きな籠手で素直に差し出されたものを受け取ると、籠手を外して、受け取ったものを着込んだ。

 

「ん、きつ……」

「―――」

 

直後、サガの発した言葉で部屋の温度が先ほどのアンドロ製造場所レベルまで落ち込んだ。零下まで落ち込んだ気分。背筋をうすら寒いものが駆け上がってゆく。

 

「くだらぬ。嫉妬が元の仲違いなど後でやれ。今は王の御前であり、我の話の途中である」

 

一方、この状況を引き起こした張本人ギルガメッシュは、二人のやり取りを不機嫌そうな面で一言にて切り捨てると、我々より少し距離をとり、腕を組んで再び見下す様な姿勢へと移行した。どうも奴は、サガの性別が判明したことにより、話題の中心が自らでなくなったことに不快感を抱いたようだった。なんとも勝手な男だ、と内心嘆息する。が、同時に空気をまるで読まない奴の性格と行動に、感謝の念を送った。別の意味で、また心中にて、嘆息。

 

「―――ともあれ、我が神話を起源にする名を持ち、またYHVHの配偶女神でもある名を持ち、今、北欧神話に属する名を持つ者が、ジグラットであり、バーマーでもある、このグラズヘイムにおいて、高らかにYHVHの復活を叫んだのだ。そしてそれはグラズヘイムに敷かれた陣によって、新人類、すなわち、エロヒムの無意識の内に眠る、旧人類どもの拝一神YHVH=エルの知識と結びつき、シン=YHVHの復活は事実として広く無意識のうちに認識され、観測され、かくてYHVHは降臨したのだ」

 

奴の言葉によって、空気は再び響が撒き散らしたものとは別種の緊迫を含んだものとなる。真剣さを取り戻した私の頭は自然と奴との先程までの会話内容を思い出し、今の内容と共に合わせて咀嚼すると、やはり信じられぬ内容であると衝撃を受けた。

 

「それでも、人が神を召喚するなどと……―――」

 

呟くと、奴は失笑を漏らした。軽く浮かべた笑みの中には、もはや負の感情は残されていなかった。相変わらず秋の女心の様に機嫌を入れ変わりが激しい男だ。

 

「くっくっく、たしかに雑種ごときでは信じがたい出来事かもしれぬ。いや、むしろ確かに雑種がいくら集まろうが、不可能な出来事ではあったのだ。だがそこはほれ、最後の一押しがあったのよ。―――、新人類らの集合無意識下に巣食っている魔のモノとやらが肩代わりしたのだ。魔のモノとかいう存在は、貴様らの負の感情を食らう代わりに、新人類どもの霊的知覚を広げ、スキルなどを使う際の緩衝材がわりになるという役目を負っている。すなわち、魔のモノとやらは新人類が高次の存在と繋がるために足りぬエネルギーの質と量を補った、というわけだ。―――ああ、ついでに言うならば、新人類がYHVHを召喚した時の衝撃で、復活しつつあった奴の体は再び塵芥に返ったようだな」

「―――はぁ?」

 

ギルガメッシュの一言は、先ほどから続く予想外の出来事が正しく現実に起こったことなのであると認識するのに疲れ切っている頭を再び揺さぶり、もはや今日何度目になるかわからない、たった一言で疑念を呈する言葉を口にさせた。

 

「―――アレが復活させたキレイの知識を魔のモノ自身が吸収して聖杯を降臨させようと企んでいた事と、三位一体における精霊や悪魔の概念の源となったアンリマユを利用していた事も、YHVH降臨の後押しであった、というわけよ。はは、奴らも無様なものよの。しかして貴様からすれば僥倖であろう、フェイカー? 魔のモノの討伐し、赤死病の蔓延を阻止するという目的が解決したのだぞ? 」

 

誰もが口をぽかんと開けたまま動かない。赤死病という死病は、こんな訳も分からぬうちに解決してしまったという事実に、頭がついてきていない。なんとも呆気なく、そして実感のない目的の達成は、私たちの意識をはるか遠くの領域にまで吹き飛ばしていた。ギルガメッシュは「フェイカーどもが揃って間抜け面を晒しおるわ」と、大層上機嫌に笑っている。

 

「―――ギルガメッシュ。新たに質問をさせてもらいたい。―――、貴様が先ほど述べたことが真実だとして、なぜYHVHはこの場所でなく、エトリアにあるシンの死体の内に宿り、動き出したのだ? 」

 

しばらく奴の高笑いを聞いていた私は、それでもなんとか気を取り直して、別の疑問を奴にぶつけた。するとギルガメッシュは純粋な気色に満ちていた笑みへ攻撃的な色を混ぜると、片方の唇だけを釣り上げてを顔を傾けた。先程までと同じ様な相手を見下す態度だが、その視線が我々ではなく、窓の遠く―――おそらくエトリアの方向―――に向けられていることから、ギルガメッシュの軽蔑の意識はエトリアへと消え去ったYHVHに向けられているものだとわかる。

 

「は、大方、我―――、というよりも、我の持つ宝具『天地乖離す開闢の剣/エヌマエリシュ』を恐れたのであろう。奴の率いる民族はかつてアッシリアが崇拝していた神、エアの息子、マルドゥク神の加護を受けた国の前にこうべを垂れて膝をついた経歴を持つ。聖書にあるモーセの遺言においては信仰が本来の意味を忘れ、形骸化し、「格差社会」とやらが蔓延った結果だとほざいておるが、なんてことはない。あれはもともと一個人が編み出した妬みの神であり、自らを崇めなければ呪い殺すぞという手段でしか弱者を纏めることしか出来ぬ弱きエルであるのだ。故に、真であり祖でもあるこのバブ・イルという王国において、その王たる我とエアの座すジグラットに侵入することを恐れ―――、この場にあるシンの体をあきらめ、もう一つの方へと宿ることを決意したのだろう。我とあの存在は、征服したものと、されたもの。相性が最悪だからな。―――、ふむ……」

 

眉をひそめたギルガメッシュが指を鳴らす。すると、奴の周りを囲いこむよう、空中にコンソールが複数出現した。踊るかのように奴の周りを回転するコンソールの群れの画面には、山、川、海、海中、平原、草原、荒野、砂漠、崖、街、国など、世界中のあらゆる場所情景が投影されている。

 

やがて奴を覆い回転していたコンソールの群れが、奴の顔の前を次々と通過してゆく。コンソールは奴の顔を通過した途端、画面は再び別の場所の情景へと移り変わる。画面に映る光景は一つとして同じものがないことから、おそらくそれは世界中の光景なのだろうことが予測できた。

 

「―――どうやら奴は、シンとかいう雑種の体ごとこの世界から逃げ去ったようだな。しかも消え去る際、多くの新人類を連れ去ったらしい」

「人を連れて―――」

「この世界から―――」

「―――消える?」

 

ギルガメッシュは呆然と奴の言葉を反芻した私たちに反応すると、奴は自らの周りに浮かんでいるコンソールのうち一つの左右をくるりと反転させ、放り出すような所作をとった。するとコンソールはまっすぐ空中を進み、我々と一定の距離の場所の空中に停止する。見ろ、ということだろう。

 

「―――これは?」

 

ギルガメッシュの指し示した場所には、不自然な空間の断裂の歪みがあった。空中より一メートル四方ほどの空間が球の中心に向かって渦を巻くような形に歪んでいる。歪んだ空間の周囲では渦に沿って風が逆巻いており、周囲の地面の土や葉が渦に飲み込まれてゆく。やがて渦に飲み込まれた雑物は、その全てが姿を消すのだ。歪みはまるで底なし沼のようだった。

 

「この世界は、我と数名、あるいは数柱が、世界樹の上の大地を作り上げるため創生の役目を負って各地におるわけであるが、我のような強大な力を持つ存在では、細かな調整がきかん。畑が違うからな。王の役割は基本的に指示であるがゆえ、大雑把な作業はできるが、細かい調性は出来ん。そこで維持のため、様々な古代神話の伝承を用いた神殿を各地に建て、神を祭り上げることで、足りぬ部分を補填し、大地は維持されておる。だが、神話ごとにも、もちろん神話に登場する神霊ごとにも、それぞれ最悪の相性というものがある。フェイカー。貴様の神話で例えるなら、タケミカヅチとタケミナカタのようにな。勿論ほとんどは起こらぬよう神殿は配置されておるし、異常を観察するため月に作り上げた施設を用いて地球を俯瞰し、世界から隠蔽するなどの常に対策を講じておるわけだが―――、祭祀の不在か、あるいは贄の不足か、時たまこうして、その漏れが生ずる。すなわち、これは世界樹の世界というものを維持するための歪みというわけよ」

「神話や神霊の相性が悪いため、空間が歪むというのか? 」

「然り。神殿に祭られたもの同士の相性が悪かったり、相性が良すぎたりすると、時たま、こういった時空間の捻れ、歪みというものが発生する。行き先は知らぬ。通常は発生してもすぐさま原因を特定し、潰してしまう故な。―――だが……」

 

ギルガメッシュは、再び不機嫌そうに眉尻をひそめると、組んでいる両腕の指先のうち、一本を上下に動かした。同時に目の前の画面が多少ぶれる。そして直後正常に戻った画面の上には、やはり変わらず歪みのある光景が映っている。

 

「奴はどうやらその歪みを利用して、別の次元へと逃げ去ったようだな」

「―――平行世界ということか? 」

「その通り。しかも、なにやら歪みに小細工を残していきおった」

 

ギルガメッシュは憎々しげに吐き捨てた。

 

「小細工? 」

「そうとも。おそらく奴はかっさらった連中を信徒とすることで、多少昔の力を得たのだろう。小細工を弄して歪みが消えぬようにしていきおったわ」

「歪みが消えないとどうなるのだ?」

「知れたこと。蟻の穴から堤が崩れるように、やがて矛盾は拡大し、世界の崩壊に繋がるだろうよ。―――すなわち、この大地の崩落だ」

「な……」

 

一難去ってまた一難という非常事態。いや、それどころか赤死病が広がり、人類の多くが徐々に死んでゆくよりもよほど大きな人死の出来事が起こるというギルガメシュの宣言は、私はおろか、異邦人の皆と、果てに、今まで沈黙と冷静の態度を保っていたオリンピアすらをも、驚愕の渦に叩き込んでいた。

 

「無論、我の力で抑えておるがゆえ早々大事には至らぬ。が―――、あるいは、向こう側に逃げ失せたYHVHが信者を獲得し、力を付け、再び舞い戻って来た場合、―――」

 

ギルガメッシュは眉間にしわを寄せて、言葉を切った。その先に続く言葉は、言ってしまえば現実になるかも知れないと思ったのか、あるいは自身がそう思ったことや、YHVHによって思わされたことが、奴にとって不愉快な出来事だったのだろう、圧倒的な不愉快を表す重圧を周囲に撒き散らしながら、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

ギルガメッシュは傲慢ではあるが、愚かではない。おそらく、仮にYHVHがかつての力を十全に取り戻してこの世界にやってきた場合、霊脈が循環する施設と一体化している自身であっても負けるやもしれないとの可能性を考慮したのだ。

 

しかしギルガメッシュは英雄王であり、天下で唯一、他人とは隔絶した別の場所に置かれるほど自身には特別な価値のあると信じている者である。そんな男は、だからこそ、負けるかも、などという結論を叩き出した自らの頭脳を憎み、そしてまた、そんな結論をはじき出させたYHVHという存在のことをそれ以上に憎悪した、と、そんなところだろう。

 

「―――我にとって、この世界の維持など余興にすぎん。所詮は泡沫の夢。強敵を前に尻尾を巻いて逃げ出すような小物を追いかける趣味はないが―――」

 

ギルガメッシュの声が徐々に低いものへと変化する。空気が重苦しいものへと変化してゆく。吸うも吐くもままならない。胸が押しつぶされそうなほどの迫力。人の血が混じっているとはいえ、奴はまごう事なく神霊の性質も兼ね備えている事を改めて理解する。

 

自らの気質でその場の全てを己の領域へと塗り替える所業は、まさに人という存在には敵わない、神気のみが可能とする技。奴はまさに、人が、崇め、恐れ、奉り、祭りあげて、なんとかその強大な力を利用しようと、情けを受けようと、手綱を握ろうと、その恩恵に肖ろうとした存在そのものだった。

 

「―――偽物であるとはいえ、我の治めるバブ・イルの名がつく大地より所有物に手を出した挙句、掻っ攫っていった罪は裁かねばならぬ。我が王国において我が敷いた法を犯した愚か者には罰を与えねば、国というものは成り立たん―――、おい、フェイカー! 」

「―――なにかね?」

 

奴は体より発散する気配をまるで収めようともせず、むしろ私に当たり散らすかのよう、強く私の事を読んだ。身体中を駆け抜ける奴の怒気をなんとか受け流すと、私は応対する。

 

「貴様に我が尖兵となる栄誉を与えよう。―――歪みの向こう側へと逃げた奴を追いかけ、素っ首を叩き落として参れ」

「―――私が?」

 

私にYHVHを倒せというのか? 神を? 力が落ちているとはいえ、かつては世界の支配者と読んでも過言でなかったあの神を、元はただの人間に過ぎないこの私が?

 

「そうだ。我が言葉、聞いていたであろう? 奴をこのまま放置しておけば、やがてこの世界の崩壊につながる可能性がある。我としては別にそのような事態になろうと構わぬが、我が所有物を奪われた挙句、王国を崩壊させられたとあっては、我の沽券にかかわる。本来ならば直々に出向いて処罰を与えたいところだが、今の我はこのグラズヘイムと一心同体。表立って動くと面倒なことになるのは明白であるし、何より我がこの世界より失せた時、我が王国は崩壊するゆえ、この領域より外に出ることすら叶わん。―――よって、不承不承ながらも王国の民である貴様に、討伐を命ずるのだ。人の世の崩壊を防ぐため邪魔者を排除するなど、元は世界の走狗として掃除に励んでいた貴様にとって、慣れ親しんだ作業だろう? 」

「――――――」

 

ギルガメッシュの命令は非常に腹の立つ口ぶりではあったが、話す内容からして間違った判断でないことは明らかだった。YHVHを倒さねば世界の崩壊があるかもしれない。人が大勢死ぬかもしれない。幸せを享受している人々が、自身とは関係ない場所より生じた悪意により、不幸のどん底に落ちてしまう。そんな可能性を提示されては、たとえ相手がどのような強大な力を持っている相手だろうと、引くわけにはいかない。それは私の誇りなどよりも大切な、譲ることのできない矜持だ。ならば―――

 

「貴様の思惑に乗るような形であるのは正直気にくわないが、その依頼、承ってやろう、ギルガメッシュ」

「王命であるゆえ、そもそも拒否権など存在せぬわ、愚か者が。―――だが、二つ返事でなかったとはいえ、否定や疑問なく受託したことだけは認めてやろう。……受け取るがいい」

 

奴は組んでいた腕を崩すと、自らの空間の周囲を歪ませ、そこに手を突きいれ、そしてなにかを取り出し、こちらへと放り投げた。それは小瓶だった。原始的な曇りガラスの中では、不可思議な色をした液体が揺らいでいる。

 

「これは?」

「飲めばたちまち全盛期の頃の力を取り戻せる、滋養強壮の薬のようなものだ。支度金がわりに貴様へくれてやる。励むがよい」

 

言うとギルガメッシュは片腕をあげ、そして勢いよく振り下ろした。私のみならず、仲間の体までもが白色の光に包まれた。

 

「ギルガメッシュ、なにを……!」

「見たところ貴様は今、万全な状態ではあるまい。しかるに体調を整えてから、賊の討伐に旅立つが良い。王命を受託した部下に対しての気遣いという奴よ。寛大な我の心に感謝するがいい」

 

その言葉を最後に、私たちの視界は白色の光により完全に埋め尽くされる、眩いと感じるよりも先に、浮遊感が私たちの体を包み込み、そして―――

 

 

「……、ここは?」

『準備ができたら、再びこの場所へと参上するがいい。歪みの場所まで導いてやる』

 

白色の空間に身が置かれていたのは一瞬、ギルガメッシュの声に反応して目を開けると、暗闇と、それを照らしあげる微かな炎が私たちを仄かに照らしあげる中、シンの目が赤く光っているのを見て少しばかり驚き、私はたたらを踏んだ。赤外線を放つ目は拡大と収縮を繰り返すと、周囲の光度を分析し、調整し終えたのか、一定の瞳の大きさでとどまり、止まった。

 

「―――ああ、すまない。そうか、もう違うことを忘れていた」

「……いや、こちらこそ気遣いと配慮が足りなかった」

 

互いに謝辞を交わし合うと、気を取り直して、周囲を見渡す。窓一つない、牢屋に似た、鉄格子のある室内に私は覚えがあった。ここは―――

 

「転移所? 」

「どうやら、シンのいうとおり、私たちは戻ってきたようですね」

 

ピエールは真っ先に立ち上がるとあたりを見渡し、怪訝そうな顔を浮かべると、私たちの方へと向き直り、口を開く。

 

「―――どうも様子が変です。色々と疑問は尽きませんが、まずはこの場所から出ましょう」

 

 

暗がりの中から出ると、強烈な光が目に飛び込む。時刻は昼過ぎ。エトリアの街を行き交う人々の数が最も増える時間帯である。だが。

 

「……、どうなってんだ、こりゃ」

 

常なれば石畳を靴底が叩く音で賑わうはずの道に、サガの声が虚しく響き渡る。ほとんど蚊の鳴くような声であったにもかかわらず、彼女の声は真っ昼間の路上を支配する唯一の音源であった。

 

「やはりここの入り口にも衛兵はいませんね……」

 

ピエールの高い声のつぶやきが再び路上唯一の音色となり、反響して建物の影の中にか細く消えてゆく。異常な事態は沈黙を呼び、私達は無言のままベルダの広場へと足を運ばせた。

 

街を縫うように伸びた道を歩き目的の場所にたどり着くも、広場に敷かれた石畳の上を駆けてゆくのは風ばかりで、冒険者同士が声を掛け合う姿も、こっそりと彼らに声かけをする商人の姿も、それを目ざとく見つけて咎める役目の衛兵の姿も見当たらなかった。人の気配を失い、静寂が支配する広場において、広場の中央に存在するオベリスクだけが暮石のように存在感を放っており、不気味さをいっそうに助長させていた。

 

「人を連れ去る、か」

 

眠ったように静まり返った街は、私にギルガメッシュの言葉を思い出させた。言葉にすると、それは自然と周囲にいる仲間たちに浸透し、サガが狼狽した様子で周囲を見渡し、いくつもの窓を背伸びして覗き込み、嘆息する。

 

「武具店にも、酒屋にも、人が見当たらねぇ……、店や家の中に引っ込んでるってわけでもなさそうだな……」

「……、とにかく、予定通り一度執政院に向かおう……。シンの復活も含めて、クーマに報告しないと―――」

 

ダリが被せ気味にサガより大きな声で提案する。彼の言葉に反対するものは、この場に誰一人として存在しなかった。

 

 



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幕間 4 力を得ようとも、望みは遠く

幕間 4 力を得ようとも、望みは遠く

 

 

―――道具屋店主、ヘイの迷走―――

 

朝、開店の表示に看板をひっくり返してから三時間になるが、未だに入り口の扉に取り付けた鈴の音は聞こえてこない。立地が悪い。「商人組合の中でも上位に数えられるほど儲けられる商才がありながら、なぜこんな場所に店を構えたのか」、とは最近散々言われてきた言葉だが、あいにく俺に商売の才能なんてものはかけらほどもない。そんなことは誰よりも俺自身がよく知っている。元々長年の間、俺の店は初心者の世話をするだけの零細だったんだから。

 

 

幼い頃から人の言うことをよく聞く子だと言われて育ってきた。小さな頃は楽だった。ウチは古くから牧羊が仕事で、俺の役目はただ柵の向こうに消えそうになる羊を追い回して、柵の内側に入れるだけの仕事だった。そのうち、油を羊の耳に塗る仕事が増えて、毛を刈る仕事が増えて、屠殺の仕事が増えて、いつしか家を継いで結婚までした。妻は従順な女で、子供たちは従順な子供で、周りから見れば順風満帆な家族そのものに見えていただろう。

 

気がついたのは、暦が数十度も同じ月の同じ日を示したあたりだったか。いつものように起きて、いつものように洗面場へと向かい、いつものように食事をして、いつものように仕事に出かけた俺は、いつも同じように働いている最中、いつもとは違う光景を見た。

 

季節は夏。強く照りつける陽光の熱に、負けるものかと風が広い草原の上を駆けて、荒地へと抜けてゆく。羊たちはメェメェと声をあげながら、我先にと豊かさの象徴が多く残る草原へと足を運んでは、まだ露の残る草を食み出していた。

 

宿舎の外へ出てゆく羊を数えていた俺は、一匹足りないことに気がついた。またか、と思いながら獣と糞尿と据えた匂いの混じる宿舎の中に足を踏み入れた俺は、そろそろ改築の必要があるかなと考えながら宿舎の奥へと進み―――、そこで外へ出ることを拒んだ一匹の羊の姿を見つけた。

 

そいつはデカイ体を持っているわりに、何もできない奴だった。俺が餌場まで連れて行って、俺が毛を刈って、俺がそいつの寝床を整えて、俺が見回りをした際に声をかけないと眠ろうともしない、そんな奴だった。

 

いつものように横に転がって眠っているそいつを起こそうとして近づくと、俺はそいつの寝息が聞こえなきことに気がついた。よく見ると腹も上下していない。

 

―――ああ、死んだのか

 

そう思った。そいつはデカイ体を晒して死んでいた。他の羊たちとは違って、締まりのない間抜けな顔をして、くたばっていた。別に感慨なんてものはなかった。命あるもの、いつか死ぬ。だから、いつものように、死体となったそいつの処理をしないといけないなと思って、裏口から運び出そうとした時、宿舎の端にあった鏡が目に入った。

 

そこにはデカイ体をした、デカイ面をたずさえた男が、なんとも締まりのない顔をして、間抜けに俺を見つめ返していた。汚れて曇ったガラスの向こうに映る俺の姿を見て、俺はこう思った。

 

―――ああ、あの羊は俺だ

 

突然怖くなった。あの羊は生まれた時俺が取り上げて、俺が餌と世話をして、そして今、死んだ後まで、俺の手を煩わせる存在だった。俺は親から羊と家と土地を受け継いで何一つ不自由することなく、ただ循環する時の中を生きているだけだった。ぐるぐると繰り返される時の中、ただ漫然と生きて、目的もなく死んでゆく。ああ―――

 

―――俺はこの世にいてもいなくても変わらない

 

嬉しいような、悲しいような不思議な気分を抱いた。噴出した思いは次の日になっても変わることなく、翌日、俺は全ての仕事を息子たちに譲って旅に出ることにした。息子も妻も文句を言わなかった。それは当然だ。だってあいつらは俺の、俺の家族の、俺の先祖たちの分身なんだから。

 

 

あてがあるわけじゃなかったが、少し離れた場所にあるエトリアまでやってきた。冒険者と呼ばれる自由人たちが集う街にくれば何か変わるかもと思ったのだろう。俺はこの街にやってきた冒険者たちと同じように、ギルドと執政院で手続きを行い、周りと同じように幾人かのメンバーと臨時のパーティーを組んで、数度ほど世界樹の迷宮へと足を運んだ。

 

幸い、スキルは皆と同じように使えるし、どのようにスキルを取得すれば効率いいかはギルドマスターが助言をくれるので、割と苦労することなく迷宮の一層程度なら探索できるようになった。ただやはりこうも思った。

 

―――ああ、ここでも俺は、生きていない

 

今では旧迷宮と言われる場所は、すでに迷宮の地図が完成していて、俺たちは彼らの辿った道筋を後から追うだけで良かった。効率の良い方法はすでに完成していて、他人の作った地図の上を迷わないで歩くだけで良かった。

 

―――俺はここにいてもいなくても一緒だ

 

だから冒険者もやめた。きっと続けていれば深い層まで行けただろう。人のいうことを聞くのは得意なのだ。おそらく完成した地図と完成した手順の通りに行けるだろうけど、けれどそこまでなんだろうなとも思った。

 

冒険者をやめて何をしようかと迷っている時、俺は街の入り口でオドオドとしている奴を見つけた。俺の息子より小さなまだガキのそいつは、大した装備は持ってないし、荷物も最低限しか持っていない。おそらく、後先考えず見栄を張って飛び出して、大した手持ちもないのに装備を買い揃えたあたりで手持ちの金が尽きたんだろうな、と思った。

 

ぼーっとそいつのことを見ていると、空と地面の間で視線を彷徨わせながらをずっと途方にくれた様子だったので、気になって話しかけてみると、果たして俺の予想通りだった。どうやら一念発起して出てきて、商人の口車に乗せられて最低限の装備を整えたはいいものの、これからどうすればいいかわからない、という話だった。

 

街に入って登録済ませればいい、というと、その方法がわからないという。その辺のやつにればいいじゃねえかと聞くと、それは怖いという。よくもまぁ冒険者になろうと思ったもんだと呆れたが、見捨てるというのも夢見が悪い。

 

仕方がないので、執政院とギルドマスターの元へと連れて行って、登録所の一階部分で知り合いに頼んで面倒を見てもらうことにした。金だけは結構潤沢にあったから、ついでに道具屋で適当にそいつの装備を見繕って奢ってやると、そいつにひどく感謝された。

 

「絶対にこの恩は忘れません」

 

その時は適当に聞き流して別れたが、宿に帰ってぼーっと横になっていると、その言葉が頭から離れないことに気がついた。もしかすると、自分は彼にとっての唯一になれたのだろうかと思うと、胸が踊った。

 

次の日、いつものように起きた俺は、いつものようにベッドから起き出して、いつものように身だしなみを整えようとして洗面台に近づいて、気がつく。鏡の向こう側、映るでかい顔した自分は、とても清々とした顔つきをしていた。そして俺は、その日のうちに俺は近くの安い家を買い取って、道具屋に改築する許可をもらっていた。

 

 

店舗の方は、あまり繁盛しなかった。当然だ。格差こそが商売の種、とはよくいったもので、俺の店で扱う品はどこでも売っているような迷宮初心者用の、単価が安く、多く売らないと儲けが出ないモノばかりを多く取り揃えていたからだ。その上、店をちょくちょく開けるものだから、客は別の店へと移動してしまうし、取引の機会は少ないしで、俺の店はいつだって低空飛行で、赤字線の上下を行き来していた。

 

けどそんなことはどうでも良かった。儲けが欲しくて始めたわけじゃない。俺は門の入り口に陣取って、出店で食べ物を売りさばくことを商売の主軸にしていた。そうして入り口付近で食べ物を売りさばいては、入り口で途方にくれているやつに声をかけて、おんなじように導いて、適当に道具を取り揃えてやって、感謝されて、満足していた。

 

そんな風に儲けを度外視してそんなことばかりするものだから、あの頃の俺は、面倒見のいいが商売下手な道具屋、などというあだ名が結構広く定着していた。今となってはあの行為は信用を稼ぐ行為だったんだろうと揶揄する奴もいたが、奴らは何にもわかっちゃいない。

 

俺は唯一の存在になりたかったんだ。その辺普通に存在するお金様にご執心のお前達と一緒にしないでくれ。

 

 

そんな日々を過ごしながら少し時間が経った頃の事だ。代替わりしたギルドマスターからある奴らを紹介された。

 

「シンだ」

「サガ」

「ピエールです。よろしくお願いします」

 

そいつらは今までの奴らと違って、見たこともない大馬鹿だった。シンという男は平気でこちらに無茶を請求する男で、サガは女なのに男として扱えと無茶を言うやつで、ピエールはこっちの痛いところをついては喜ぶ無茶苦茶なやつだった。

 

まあ多分、こいつらもそのうち俺の店から離れていくんだろうなと思っていたが、不思議とあいつらは俺から離れなかった。特にシンは俺の店の何を気に入ったのか、店を離れて出店をしている時はわざわざそちらまでやってきては、自分たちのフルオーダーメイドを明日までに制作しろとか無茶を要求してくる奴だった。

 

一度、あまりにも酷い請求が続くものだから、代価として当時の奴らにしては高い要求を突きつけた時も、あいつは「よし、わかった」と二つ返事で俺の要求を飲み込んで、平然とこなす奴だった。ひどく我儘で、身勝手で、でも、だからこそ、俺は必要されているのだと感じていた。

 

―――ああ、俺の居場所はここにある

 

心底そう思えたのはきっと、あいつらが他の店など目もくれず俺の店だけを利用してくれたからだろう。その理由は知らないが、あいつらは、シンは、俺にとって希望そのものだったんだ。

 

そしてあいつらは周りの団栗どもをあっという間に抜き去って、エトリア随一のギルドになった。奴らの無茶に引き摺られる形で、俺の店も有名になり、繁盛するようになっていった。俺の店にはあいつらが持ち込んで来る深層で取れる素材のものが溢れるようになり、宣伝など行わなくとも、道具を求めてやって来る奴らで溢れるようになっていた。あいつらと俺の飛躍は結びついていた。異体同心という奴だろう。一心同体じゃないのが少しだけ残念だった。

 

 

ただそんなあいつらでも、抗えないことがある。いや、運が悪かっただけなのだ。彼らは味方を病気で失ってしまった。病気の名前は赤死病。エトリアに広がりつつある死病で、罹患したら死亡率百パーセントの恐ろしい病気だ。

 

夢を叶えようと突き進んでいた彼らにとって、頼りになる味方を失ったことは相当な衝撃となったらしく、あいつらはふさぎ込んでいた。俺はそんなあいつらを見るのが辛くて、逃げるようにして入り口に出店を開き、いっときあいつらの事を忘れるため、食料品販売に勤しんでいた。

 

そんな時、エミヤという男が現れた。不思議な雰囲気の男だったが、入り口で例に漏れず目を瞑って途方にくれている様子だったので声をかけると、そいつは今までの奴らとは異なっていて、とても堂々とした、そして強い気配を体から発散する男だった。

 

あいつは―――、あいつは、なにもかも別格だった。飄々としていたくせに、赤死病の話題をふった途端、まるで自分ごとであるかのように怒り、冒険者になる宣言をした。

 

そしてたった数日で超高難易度と言われ、死傷者すらも出した新迷宮を単独攻略し、その存在感を露わにした。唯一という立場に憧れる俺は、たちまち虜になった。正直に、シン達よりも上だったかもしれない。だってエミヤは個人で完結しているのだ。

 

そのうえ、エミヤは俺の店にやってきて、見たこともない品を提供して俺の胸を高鳴らせ、俺を骨抜きにした。見た途端、心の全ての部分を侵食して満たす、美しい鱗と皮だった。そんなものを手に入れた俺は、まるで自分が世界で唯一の存在になったかのような感覚を味わった。俺はその時、絶頂だったのだ。

 

不安が心の中に芽生えたのはその直後だった。そんな時、シンらがやってきたので、俺は手に入れたばかりの鱗と皮を見せびらかした。あいつらの視線が鱗と皮に奪われるのを見て、俺はとても満足した。あいつらはどうやって手に入れたのかと聞いてきて、俺はエミヤから手に入れたのだと、あいつらに正直に話した。その頃からだろう。シンはエミヤのことばかりを口にするようになっていた。いや、シンのみならず、あいつらの話題はいつだってエミヤという男のことばかりになっていった。そしてあいつらは徐々に俺の店に寄らなくなっていった。

 

不安の正体が明らかになったのは、エミヤが新二層を攻略した後だった。シン達が俺の店に持ち込んだのは役にも立たないものばかりだったが、エミヤが持ち込んだものは、俺の店にとって、先日買い取った鱗と皮レベルの品だった。シン達の意識は、完全にエミヤの方へと向けられていた。ふと感じる疎外感。その場にいるのに一人だけ異なる存在であるかのような、その感覚には覚えがあった。当然だ。

 

―――だって、自分だって、エミヤという強い存在に心奪われ、彼らを軽んじたのだから

 

 

 

ああ、自分は家を出ると決意した頃からなにも変わっていない。この世で一番美しい鱗と皮を手に入れて唯一の存在になった気分でいたけれど、それを手に入れたのは自分の力ではない。エミヤが仕方なく譲ってくれたからなのだ。今回の羽だって、エミヤが持ち込んでくれたから、俺はそれに関わることが出来ただけなのだ。

 

思えばこの店が繁盛するようになったのだって、シン達が俺の店を訪ねるようになってからだ。別に彼らほどの実力なら、俺の店じゃなくたって、同じように無茶をやって、同じように成功していただろう。俺は結局、周りにいる優秀な奴らの尻尾にひっついて彼らの評価をかすめ取っているだけのやつだった。

 

自覚した時、胸に去来したのは、悲しいでも悔しいでもなく、納得だった。受け入れてしまった。俺はそんな自分をあっさりと受け入れられてしまった。それがなによりも悲しくて悔しかった。胸が痛い。もう還暦も近い男が抱える悩みでないことはわかっている。

 

けれど、俺は他でもない、代替物のない俺になりたかった。でも俺には、人に誇れるものはなにもなかった。だから初心者相手に他人の開拓した地図と知識を使って偉ぶって、いい品を手に入れて自分たちより実力のある前向きな奴らにいい気分になっていたんだ。

 

自分の醜さが嫌になる。辛い。死んでしまいたいとも思うけれど、そんな度胸もない。ああ、ならせめて、エミヤ唯一の存在になれなくても、シン達の為に注力すれば彼らという強者にとってもの特別にならなれるかもしれない。そんな邪な気持ちで奴らから託された虫の羽を加工して、今自分にもてる全ての技術を注ぎ込んで薄緑を作り、異邦人のメンツを待っている矢先―――

 

シンの訃報を聞いた。それから体が動いてくれない。彼が死んだというショックで動けなかったのではない。彼が死んだと聞いて、それを涙目で語るシンの仲間達の様子を見て、羨ましいと思ったからこそ、俺はそんな自分にショックを受けて動けなくなったのだ。

 

シンはエミヤと仲間達をかばって、新迷宮三層の番人と相討って、死んでいったのだ。その話を聞いた時、悲しい、と思うよりも先に、羨ましいと思った。シンはそして、永遠になったのだ。シンの経歴と死に様はとても常人に真似できるようなものではない。エトリアに長く語り継がれる伝承になるだろうし、少なくとも、エミヤや異邦人の連中の心にはいつまでも唯一の存在として残ることだろう。俺はそれを羨ましいと思ったのだ。

 

それが決定打だった。その時から、店の奥、椅子の上で俺は一歩も動けていない。ぼうっとしていると気が狂いそうになる。でも、一歩も動く気力がわかないんだ。ああ、俺は妬むばかりで、欲するばかりで、俺は自分からは人様に誇れるようなことをなにも成し遂げていない。いつだって与えられるものを与えるがまま貪るばかりで―――

 

『そんなことはない』

 

チリンチリンと、鈴がなり、扉が開く。そして現れたのは、死んだはずのシンだった。シンの体は少し土にまみれて汚れている。しかしそんな汚れが気にならないほど、シンの体からは光が溢れていた。

 

「シン? お前死んだんじゃ……」

『ああ。だが、生き返った。エミヤ達のおかげでな』

 

俺の意識を深淵より引き上げたシンは、店の中をまっすぐ進み俺の目の前までやってくると、手を差し伸べてこう言った。

 

『共に歩こう、ヘイ。私には君の力が必要だ』

「お、お前、どういう……、それに俺の力が必要ってどういう……」

『君だけなのだ、ヘイ。唯一、君でないとダメなのだ』

 

―――ああ

 

シン。お前はなんて甘い誘惑をするんだ。唯一だなんてそんな嬉しい言葉を聞いて、俺が断れるわけないだろう? 行くよ。俺はお前について行く。どうかお前と一緒に歩かせてくれ。

 

 

―――施薬院メディック、サコの秘匿―――

 

 

私には双子の兄がいました。兄はとても優秀で、勉強ができる上に、体力もあり、いろんなスキルの使い方に秀でており、人当たりもよい人でした。一方、同じ日の、数秒遅れた時間に生まれ落ちた私は、普通の人より頭が悪く、体力が足りず、スキルのうまく使えず、人と上手く付き合うことすら出来ない人間でした。

 

何をやっても上手くいかない私は、いつだって兄の後ろにひっついていました。同い年の兄は、普通の友達よりも鈍い私をいつだってかばってくれました。成長が遅く、運動音痴でもある私を庇って、兄は体に沢山の細かい傷を負っていました。兄がいたおかげで私は仲間外れにならず、兄がいたおかげで私は、兄がいたおかげで、私は“足りない子”だと気付かれずに済んだのです。兄はわたしにとって、光そのものでした。

 

 

そんなある日、兄は唐突にいなくなりました。忽然と、みんなの前から消えたのです。わたしは混乱しました。両親も友達も、みんな初めからそんな人間はいなかったといい、まるでわたしだけだったかのように振る舞うのです。誰に聞いても返ってくるのは、知らないという返事ばかり。兄が書いた勉強やスキルの使い方をまとめたノートを見せても、私のものとして扱われてしまいます。周りのみんながひどく困惑したのを覚えています。

 

私は変な目で見られるようになりました。兄が私のためにとやってくれたことは無駄になってしまいましたが、それでも私はめげずに聞き続けました。しかし、一年経っても、二年経っても、結局兄の手がかりを見つけることはできませんでした。

 

幼い頃はそれでもよかったのですが、一年二年も同じ質問を違った形で続けていると、私はすっかり厄介者のような扱いを受けるようになりました。しかし私はそんなことどうでもよかったのです。私にとって、私の評判なんかよりも、兄がどこに消えたのかということの方が重要でした。

 

とはいえ、その頃になって周りの人の感覚が理解できるようになってきて、変人相手にはまともな返事をもらえないのだと気づいた私は、次第に兄のことを質問する事をやめるようになりました。無駄だとようやく悟ったのです。

 

やがて私は勉強やスキルの使い方を積極的に学ぶようになりました。兄のことを諦めたわけではなく、無駄な質問をするくらいなら、人に頼らない別の手段を取ろうと思ったのです。

 

手段を探すうち、私は人の体や行動について特に学ぼうと考えました。きっかけはむかし兄と一緒に忍び込んだ村の書庫にありました。ミズガルズ図書館と近い場所にあったこの村には、古い時代の医学書の写本がたくさん書庫に置いてあったのです。

 

スキルというものがあれば大抵の病気や怪我は治せるので、昔の難しい本に興味を示す人は村にあまりいません。その割に書籍は本棚に収まりきらないほどの数の蔵書があったので、私は一人で勝手に入っては、兄の行方を追うために、書庫に置いてあった医学書に目を通しはじめました。人の行動や心理がわからないというなら、過去の知恵から学ぶのが兄への一番の近道だと考えたのです。

 

書庫通いをはじめた頃、周りの人はそんな私の様子を見て、ようやくこの子も落ち着いたのか、といってホッとしていたのを覚えています。やがて私のそれは、妖精でも見ていたのだろうということで落ち着きました。私はそれがとても不服でした。

 

私が人間について学んでいるのは兄の行方を追いたいからなのです。兄は確かにいました。それは空想上のお友達でも、解離性人格障害でもないことは、人の体や精神の仕組みについてまなんだ私が一番よく知っています。兄は確かにいたのです。しかし、なぜかそのことを皆は認めてくれないのです。

 

私は彼らのことがどうでもよくなりました。それ以来、私は、彼らと付き合うことなく、村での役割を終えた後は、一人で書庫にこもり、黙々と自己研鑽に励むようになりました。私は孤立したような状態でしたが、以前よりも良い雰囲気で村の中で過ごすことができるようになりました。

 

 

やがて成長した私は、エトリアという街にやってきました。兄がいなくなったのは私がまだ幼い頃で、また、兄はとても明るく人懐っこい人でしたから、もし仮にいなくなった兄がいるとしたら、村からの道が険しくない上、人の集まる、一番近くの街だと考えたのです。

 

残念ながらそこに兄はいませんでした。痕跡も残っていませんでした。しかし私はしばらくそこで兄の手がかりを探すことにしました。あちこち探し回ってすれ違いになるよりも、人ところで情報を収集した方が良いと考えたのです。

 

幸いにしてエトリアは、世界中から冒険者たちが集まってくる街で、施薬院はとても繁盛しています。だから私はこの街でメディックをする決意をしました。村で医学書を読み込んだお陰もあって、私は施薬院の中ですぐに頭角を表すことができました。

 

偉くなって裁量権が回ってくると、割と自由に動けるようになります。私は毎日やってくる傷ついた患者たちの手当てをしてはそれとなく話を聞くようになりました。ただ、また兄のことをしつこく聞き回って変人扱いされるのは、きっと兄を見つける遠回りになると思って、私はそれとなく聞くというだけに注力していました。

 

施薬院で与えられた研究をしながら患者たちにそれとなく兄の事を尋ね、世界地図の地域に情報を書き込む日々は、村にいた頃よりずっと充実していました。研究は数値を追えば良いだけですし、大抵の患者はスキルで治せます。片手間で二つのことをこなして、残りの時間は患者より聞き出した兄がいないだろう地域の情報をまとめることができたからです。

 

私は幸せでした。兄が見つかってくれる日は着々と近づいていると思えましたから。

 

 

転機がやってきたのは新迷宮という存在が見つかって、エトリアの人死の数が増えてきた頃でした。ちょうどその頃より、赤死病という病気が流行りだしたのです。病気は罹患した際の死亡率が百パーセントという恐ろしい病でした。

 

興味を惹かれて研究を始めましたが、これまでのものと違ってまるでとっかかりが見つかりません。潜伏期間も出現場所もまちまちで、発生条件もよくわからなかったのです。唯一理解できたのは、冒険者に多い病であるという噂が真実だったことくらいです。

 

そんなおり、インという女性が施薬院へやってきました。ハイラガードよりやってきた彼女は、診察の結果、赤死病の兆候が出ていることが判明しました。しかし不自然なのです。話を聞くところ、今までの患者の症例から判断すると、彼女はとうに死んでいなければいけないのです。私は彼女に協力を求めました。彼女は二つ返事で了承してくれました。

 

私は百万の味方を得た気分でした。例外は手がかりになると確信していました。ましてやその手がかりは、死病であるはずの病気に負けず長生きしている患者なのです。私は彼女に情報の秘匿をお願いしつつ、研究を始めました。

 

治療や検査の最中、インは私の話をよく聞いてくれました。患者から話を聞くばかりで自分の事情を話さない私は、徐々に彼女といることが楽しくなってきました。やがて彼女の包容力にうっかりまけて兄を探していることについて口を滑らすと、彼女は真剣な表情で事情を聞き、参考になる意見をくれました。私は初めて協力者を得たのです。私はなんとしても彼女を助けたいと思いました。

 

私は兄の話の収集と並行して、病の治療法模索にも注力しました。しかし、どちらも手がかりはまるで一向に見つかりませんでした。病の情報は取れるのですが、インの体から取れる数値は異常値ばかりで、まるで参考になりません。

 

また、兄を探す作業の方も徐々に停滞して行きます。情報は多く集まるのですが、結局わかるのは人通りの多い場所に兄はいないだろうということばかりで、捜索の範囲円が狭まらないのです。

 

やがて問題解決の糸口が見えない迷路にはまり込んだ私は、胸に穴が空いたようでした。しかも空いた穴は、日に日に大きくなるのです。空いた穴が無力感で埋まってゆく中、相変わらず患者の数だけは相変わらずで、私はやがて、研究や兄探しよりもそちらの方が落ち着くという本末転倒な状態にまで陥っていました。

 

ある日、私が徹夜の研究から逃げるようにして施薬院内をさまよっていると、エミヤという男が話しかけてきました。彼は一日経って酷くなった火傷をしているにも関わらず、平然とした態度でした。異常値を放っていながら平然とする彼の態度は、行き詰まった私の気分を刺激し、寝てないがために高揚した気分も相まってでしょう、気付けば私は、彼を院内の治療室へと引きずり込んでいました。

 

彼はメディカの仕組みも知らない人でした。多分、エトリアに来たばっかりの初心者なんだな、と思いました。その割に体はしっかりしていたので、おそらくどこかの警護でもやっていたんだろうなとも思いました。

 

何も知らない彼に薬の説明をしてやると、彼は礼とともに治療費はいくらだ、などと尋ねてきました。本当に何も知らないまま迷宮に潜ったんだな、と気付くと、なんだか不思議と気分が軽くなりました。彼は私に初心を思い出させてくれたのです。

 

彼と別れた後、私は気分を改めて謎に挑むことができました。エミヤという別の土地からの来訪者は、私の悩みを解決してくれたのです。

 

 

やがて数日がたちました。研究は相変わらず捗りませんでしたが、私は以前より明るい気分で過ごせていました。そうして意識が上向きになったからでしょう、治療をする最中、患者同士の会話の中から兄の手がかりが飛び込んできました。なんと、兄の特徴に合致した人物がこのエトリアにいるというではありませんか。

 

「エミヤという男がギルド『異邦人』よりも先に新迷宮を攻略したらしい」「はぁー、意外だねぇ。俺はてっきり、シンとかいう男が率いるギルド『異邦人』の連中が攻略するものだとばかり……」「俺もだよ。あいつ、不愛想のようでいて素直だし、戦闘の時はいつもの不器用ぶりが嘘みたいに優しいし、戦闘以外興味なさそうな感じなのにどんなことでも人より器用にこなすから、おらぁてっきり、シン率いるあいつらがまっさきに攻略するとおもっていたんだけどなぁ」「エミヤもシンと同じく外からやってきた冒険者らしいが、やっぱりわざわざエトリアの外からやってくるやつは、根性決まってんなぁ」

 

人当たりが良くて、全ての面に優れる、外部からの来訪者。それは私の求める情報に全て合致していました。名前は記憶のものと多少異なる気がしますが、私の古い記憶が村の連中の心無い行いによって劣化したのかもしれませんし、あるいは、エトリアに来る際に捨てて別の名を名乗ったのかもしれません。

 

ああ、なんということでしょう。エトリアは私が最初に調査を行い、まっさきに捜査と聞き込みの範囲から外した場所でした。周りの事を気にしない私は、すでに調査範囲外として認識した場所で冒険者の誰が活躍しようと知ったことではなかったので、意識から外していたのです。

 

私は早速彼に会いに行きました。しかし、彼はいつも不在でした。当然です。迷宮に潜る冒険者は、いつ帰ってくるのかわからないのです。加えて、「異邦人」というギルドの彼らがほとんど怪我を負わずに帰ってくることも拍車をかけていました。さらに面会の約束を申し込もうと執政院に申し込むも、今彼らは依頼を受け付けてないと言われてしまうし、声をかけることタイミングがなかったのです。

 

―――いえ、嘘です。私は恐れていました。

 

数年かけてやっと手に入れた兄の手がかりです。それは真実であってほしい。きっと真実に違いない。特徴は間違いなく兄のもので、人物相も兄が持つものと同じなのだから、きっと間違いがないはずだ。

 

―――ああ、でも、もし違ったのならどうしよう

 

そう考えると、業務をほっぽり出してギルドハウスに張り込んだり、施薬院職員として強権振り回してまで、兄に似ているという人物の元へ押しかけるだけの勇気は私にはありませんでした。いえ、それどころか、満足すらしていたのです。

 

兄の噂を探せども、出てこない。そんな遠いようで近い距離感に慣れきってしまっていた私は、躊躇して一歩踏み出す事を恐れていたのです。もし、シンが兄でなかったのならば、それはおそらく、私から、再び同じ事を繰り返すだけの気力を奪い、二度と立ち上がれなくなるほどのダメージを負うだろうから―――

 

だから、私は積極的にシンという男性との接触を求めはしませんでした。長い間探していた兄がすぐ近くで活動していて、その噂が聞こえてくる。ならいずれ会える。その宙ぶらりんの状態でいい。そう。私は、現状維持バイアスに負けてしまって、ぬるま湯に浸かる事を選択してしまったのです。

 

 

「―――嘘」

 

そして湯から出て寒いかもしれない空気に身を晒す事を恐れていた罰は、すぐにやってきました。私は望み通り、シンと面会することができました。

 

―――解剖室の、冷たい台の上で

 

シンは―――、たしかに兄の面影がありました。血の気の失せた白い顔は穏やかで、兄が健やかに成長したならば、このような顔に成長するだろうな、というイメージの通りでした。死斑のあるちぎれた体は繋げて傷口を整えてやれば均整がとれています。全身にはスキルによる治療ではなく、自然治癒に頼ったのでしょう、細かい傷がたくさんありました。

 

それだけなら、別人と断定することもできたかもしれません。ですが―――

 

「あぁ……―――」

 

彼の体から出てきた不思議な結晶体。光を浴びて柔らかい青色を放つそれを見た瞬間、私の体から力が抜けてしまいました。感染症のことなど気にすることもできずに、シンの体に抱きつきました。

 

石が放つ清廉な光の前に、自己満足という名の逃避で必死に埋めようとしていた胸の空洞から、その全てが抜け落ちて行きます。堪えていたものが一つ二つと落ちると、もうあとは惰性です。

 

「ああ……、あぁ……」

 

水滴はシンの遺骸を叩くと、幾分か乾いた肌が潤いました。その当然の物理現象が、何より辛い。目の前にあるのはもはやただの変質したタンパク質の塊で、魂のこもっていない、死体に過ぎないのです。抱きついたところで昔のように反応は帰ってこない。それが悲しくて、私はシンの死体の胸の中、ただただ脱力して、目の前にある死人の裸体に張り付いたまま、涙流すことしかできませんでした。

 

―――せめてあの時、もっと必死になっていたら

 

水分がこれまで兄を探すため積み重ねてきた年月の間に巨大化した空洞は、後悔と未練と自己嫌悪で埋まって行きます。やがてそれらの負の感情は、溜め込んできた欺瞞を吐き出してすっかり空っぽになった空洞を満たして、灼熱で身体中に広がりました。

 

―――後のことはよく覚えていません。ただ、もう二度と願いが叶うことはないのだと絶望した事だけは、痛いくらいによく覚えています

 

 

剖検にて摘出した石を提出した後、私は部屋に閉じこもっていました。

 

―――もう前に進めない。

 

いや、進みたくない。進みたいと思えない。だって自分の人生はもう終わってしまった。最大の目標はもう、最悪の形で達成してしまったのだ。ならばあとはただただ惰性で過ごすだけの日々。身を焦がす後悔と罪悪感だけが私の隣に立つ永遠の伴侶となったのです。

 

胸が痛い。胸が痛い。胸が痛い。胸が痛い。ああ、痛い。痛い。痛い。こんなに痛いなら。

 

―――ああ、なら、いっそ

 

『やぁ、サコ』

「―――お兄ちゃん?」

 

短くも鋭い解剖用の刃物を手にしたその時、聞こえてきた声は私の脳裏を蕩かす甘さを持っていました。声の主人の姿が見えることはありませんでしたが、それはたしかに、はるか過去私の目の前から去ってしまった兄の声でした。

 

『さぁ、おいで』

「―――お兄ちゃんなの?」

『こっちだ』

「まって! 」

 

声に誘われるがまま、私は部屋の扉を開けて、声の後を追いかけます。追いかけても、追いかけても、声の主人はわたしから一定の距離を保って消えていってしまうのです。

 

「お兄ちゃん! お兄ちゃん! ねぇ、なんで答えてくれないの? お兄ちゃんなんでしょ!」

『サコ……おいで』

 

導かれるがまま、光の後を追いました。そうしてどのくらいの時間が経ったのでしょう、気がつけば私は、不思議な場所へと辿り着いていました。

 

目の前には不思議な歪んだ空間が広がっています。世界から隠されるようにこっそりと息づいている空中に渦巻くそれは、どう見てもまともな代物でないことが、一目でわかります。

 

『サコ……』

「―――」

 

兄の声はやがてシンのそれと重なりました。その事実は私から迷いを消し去りました。もう迷いません。私は、何があろうと、シンを追って、彼にこう尋ねるのです。

 

―――シン。貴方は私の兄でしょうか?

 

帰ってくる答えが肯定であろうと、否定であろうと―――、私は彼の口から答えを聞かないかぎり、もう今の状態から抜け出すことはできない、呪いを負ってしまったのです。それは他でもない私自身に対する怒りの感情によって―――

 

 

エトリアの街は静まり返っている。真っ昼間であるというのに、美しい翡翠緑の屋根と白い漆喰の建物が連綿と続く中、気配だけがない状態というのはあまりにも異常で、まるで広い霊園の中に放り出されたような不愉快な解放感だけが空気から伝わってくる。

 

「―――待て」

「どうしたエミヤ」

 

執政院に進もうとするシンを引き止めると疑問の声が返ってくる。

 

「―――どうやらこの街は、―――いや、もはやエトリアという場所は君たちのしるエトリアの大地ではないらしい」

「……はぁ? それはどういう―――」

「サガ。エミヤの言葉を遮るな。……、すまない、続けてくれ」

 

ダリはいつもより優しくサガに言い含めると、サガはそのダリの豹変した態度がひどくお気に召さないようで、むくれっ面をすると、ダリの脛当てを蹴りとばす。ダリはそれを困った顔で受け止めると、首を左右に数回ふって、私の方を向き直った。

 

「ああ―――、執政院から魔力を感じる」

「魔力?」

「君たちが使う、スキルの力に似たような力だ。要はアレとは別種の、スキルの力と思えばいい」

「……、なるほど。そしてそんなものが執政院から感じるということは……」

「ああ、クーマやシララが危ない可能性が高い 」

 

シンの目が鋭く光る。彼は即座に刀を手にしようとして、しかしその手が虚空を切り、首を傾げた。そして自らの機械化した手を見ると、納得した表情で頷き、響の方を向いて、照れた様子で、しかし平坦な声色で告げた。

 

「すまないが、剣を返却してもらっても構わないだろうか? 」

「あ、はい、もちろんです! 」

 

そうして響腰布から分厚い刀身が収まった大きな鞘袋を取り出すと、シンへと投げてよこす。シンは器用にカチンとそれを受け取ると、引き抜こうとして、少し戸惑った。

 

「―――オランピア」

「なんだ」

「剣を抜こうとした途端、脳裏の目の前に高周波ブレードとやらの名前が飛び出したんだが。フォルディングアームとやらの解放を尋ねる文章も浮かんでいる」

「アンドロの―――というより、私の戦闘ボディを参考に作り上げたからな。後、武装は右腕にコンダクター、リフレクターとクラッシャーアームが付いていて、いざとなれば大ばさみとしても大型ペンチとしても機能する―――」

「いや、すまないが、しばらくその機能を封印する方法を教えてもらいたい」

「―――なぜ?」

「邪魔だ。剣がまともに振れん」

 

言い切ったシンの返答に、オランピアは少しの間を置いたのちに、いかにも不承不承といった体裁で首を横に振って否定の意を示した。

 

「なぜ」

「調整は機械のある場所でないとできん。すなわち、グラズヘイムや、アーモロードの深都などといった―――」

「―――そうか。ならばしかたない。ありがとう」

 

いうとシンは剣を引き抜いて構えると、不思議な軌跡で剣を振り下ろす。

 

「シン? 」

「どうやら可動域が違うようだな。少し慣れるまでに時間がかかりそうだ」

 

そう言いながらも、もう彼は現在の自分の体の動きを把握して、一振りごとにその剣筋を鋭くしていく。なるほど、戦さの神の名は伊達ではないのだな、と今更ながらに納得する。そうしてさらに数度剣を振るったシンはようやく満足いく剣の振り方を見つけたのか、鞘に収めて、宣言する。

 

「さて、では行くか。エミヤ。索敵は―――」

「魔力なら任せろ。暗闇や通常視界である場合は―――」

「サーモと赤外線、その他複数種類のセンサを備えた我らがいる。いざとなった、相互間で通信も行える。―――そうだ、お前らに通信機を……」

 

オランピアは背負っている袋に手を突っ込もうとすると、手が袋へと吸い込まれる直前でその動きを止めた。一瞬の間を置いて、彼女は再起動を果たすと、真剣な表情をして自らの頭を叩いた。

 

「そういえば、シララやクーマに連絡子機を持たせたことを忘れていた」

 

―――どうやらアンドロという存在も、なかなかお茶目な面があるらしい

 

 

執政院に入ると、魔力によって敷かれていた結界は私たちを拒絶することなく足を踏み入れることを許容した。どうやら我々を拒むものでないらしいと気付くと、一旦完全な戦闘態勢を解除する。

 

執政院の中は、執務を行う場所というものはかくあるべきとでもいうかのように、相変わらず静かだった。ただしその静寂は、人が努めて行なっているが故の静音が齎すものではなく、人がまるで存在しないが故の無音が故のものでもある。それは昼間のこのような時間帯、受付や施設内に人がいないという異常を雄弁に示していた。

 

警戒しながら、一部屋ごとを解放して進む。廊下に響くのは、我々の足音と、オランピアとシンの体から聞こえる電気機械の稼働音くらいだった。やがて目的の場所、魔力の最も濃密な場所である結界の中心地までたどり着いた私たちは、武器を構えたまま、目の前の扉を軽く叩いた。返事は聞こえない。

 

「―――オランピアだ。指定の場所に着いた。シララ。クーマ。どちらでもいい。応答しろ」

「―――了解だ」

 

オランピアの頭部と、扉の向こう側からシララの声が聞こえてくる。多少共鳴が起こったのち、扉からは外部のものを強烈に拒む気配が解除され、その扉はゆっくりと開かれてゆく。

 

「―――どうやら無事だったようだな」

「やぁ、これはみなさん、お揃いで」

 

クーマは両手を大きく広げて私たちを出迎えてくれた。完全に開かれた扉の向こう、衛兵とシララが構える向こう側では、彼らに守られる形でクーマと百人程度の人間が集団となっている。集団は冒険者、研究者のような特殊な服装をしたものから、商人、一般の人のように普通の服装をしたものまで、雑多な人数が揃っていた。

 

「おい、さっさと入って扉を閉めろ」

 

衛兵たちを束ねるシララは警戒の意思を解かないままそう告げた。最もだと思った私たちは、彼女の言う通り部屋の中へと足を踏み入れると、最後にしんがりを務めていたシンが後ろ手に扉を閉める。クーマが何やら呟くと、扉の部屋の内側面には何やら密教系の印が生じて、再び人の出入りを固く禁じる結界が部屋全体を包み込む。

 

「―――どうやら、色々と話を聞かせてもらう必要があるようだな」

「ええ。お互い、話さなければならない議題には尽きないようですね」

 

 

執政院の中にあるその部屋は、どうやら緊急の避難場所であるようだった。部屋の中は電燈があちこちに灯されていて、常の一定の明るさをたもっている。また、そんな平均的な明るさを保つ部屋の隅の方では数人が交代しながら発電機だか蓄電器らしきものに向かって雷のスキルを放っている。どうやら彼らの涙ぐましい努力によってこの部屋の明度は保たれているようだった。

 

彼らによって一定の明るさが保たれている部屋は、周囲を総勢数百人程度は収まりそうだった。しかし大人数を収容することができる割に、施設の入り口は、正面と奥に頑丈な扉が一つずつだけという少なさだ。おそらく極限まで堅牢性を高める為なのだろう。加えて、窓は一つも存在しておらず、空気換気のための簡素な穴がいくつか空いているばかりだった。

 

「お荷物をお預かりします」

「―――ああ、そうだな」

 

話し合いの前、一旦武装を解除すると、手持ちの武装や道具を一旦衛兵たちにあずける。差し出した荷物を恭しく受け取った彼らは、全てして荷物を全て衛兵たちに預けると、彼らはそれらを受け取ると、クーマの背後の集団の元へと駆け寄った。

 

集団の中からは数人の人間が歩み出て、道具らの鑑定を始める。おそらく外部からやってきた我々の道具に異常がないのか確認する為なのだろう。ご苦労なことだ。

 

「なるほど。グラズヘイムではそんなことが……」

 

衛兵たちより少し離れた場所でクーマやシララにグラズヘイムで起こった出来事を話すと、クーマはまるで疑うこともなく、私たちの経験を事実として受け入れた。シララは信じられないという顔で目をパチクリさせている。それも仕方ない。いや、むしろ彼女の方がまともな反応だと思う。突拍子も無い話であると言うのに、あっさり受け入れられるクーマの方がおかしいのだ。

 

「クーマ。こちらの事情は話したぞ。―――今度はそちらの番だ。聞かせてくれ。君は何者なんだ? どうして魔力を用いたこのような結界を張ることができる?」

「うーん、さて、なにから説明したものか……」

 

クーマは腕を組むと片方の腕で口元を抑え、眉をひそめた。一体何を悩んでいると言うのだろうか。

 

「そうですね……、とりあえず私の事情から説明するとしましょうか。私は―――」

「クーマ。アクーパーラとも呼ばれる亀王で、神々にアムリタを与えるのが役目の亀王。すなわちこのバブ・イルの土地においてその名を持つものは、人間どもの手助けを行うが役目を負う職につく場合が多い、維持の神、ヴィシュヌの化身よ」

 

クーマが口を開ききる前に、横から聞こえてきた声に驚く。静かな空間の中でも過剰なまでに主張をするかのような尊大な口調が誰のものであるか、間違えようはずもない。なにせそれは、つい先程まで激しく一方的にまくしたてられ、罵ってきた相手なのだ。

 

「ギルガメッシュ!? なぜここに!?」

 

視線を横に送ると、黒のジャケットを着込んだ半透明な状態のギルガメッシュがそこにいた。どうやら意識体というか、霊体のようなものだけをこの場に送り込んできたのだろう。

 

「なに、貴様らが我が名を呼ぶまで待機する腹づもりであったが、違和感があったので観察をしてみれば、なにやら懐かしい気配がしたのでな。どうやら縛りも緩んだようであるし、我が幻覚を送り込むことにしたのよ」

「やぁ、これはギルガメッシュじゃないですか」

 

宙に浮いているギルガメッシュは、相変わらず睥睨する視線で私たちを見下している。そして驚く私とは裏腹に、クーマは冷静の姿勢を崩さないまま、奴の名を呼んだ。

 

「ヴィシュヌ―――!? どういうことだ、クーマ! 君はやつと知り合いなのか!? 」

「ええと、今までは知り合いでなかったけれど、昔は知り合いだったというか、ああ、うーん、そのですねぇ」

「ヴィシュヌは唯一絶対の存在である我とは異なり、その名が示す通り、『どこにでもいるがどこにもいない』もの。他者を助ける為ならば、人間や畜生に身をやつす事も躊躇わぬ酔狂な神よ。大方先ほど、『神はどこにでもある普遍的存在である』という概念が広がった瞬間、それ自体が其奴の名の中に眠っておったヴィシュヌの概念と結びつき、奴の知識と記憶の一部が目覚めたのであろう。―――だがこの世界に顕現する為、相当に神格を切り捨てたようだな」

「まぁ、私/ヴィシュヌが顕現するとなると、それこそ世界が破滅しますからねぇ」

 

ギルガメッシュはなんでもないよう事であるかのように、クーマがヴィシュヌである事を明かすと、クーマはさらりと物騒な返事とともに奴の言葉を肯定した。

 

「―――まぁ、そういうわけです。とはいえ、私は本人ではありません。先程、あなた方の行為によって目覚めた私は、ヴィシュヌの力と記憶を少しばかり継承したのです」

「それで結界を使えるようになり、ギルガメッシュのことを知ったと」

 

頷くクーマに、私は額を片手で抱えこんだ。この調子だと、他にも力や記憶に目覚めた人間がいるだろう。頭の痛い話であるが、どうやら先程私たちがやってしまった出来事は、世界に様々な火種を撒き散らしてしまったらしい。

 

「はい。そして今しがたあなたがお話を聞かせてくれたお陰で、エトリアに何が起こったのかも理解することができました」

 

クーマは深く長いため息をつく。渋面から吐息の成分を分析するに、不思議が解決したことに対する明朗を喜ぶ思いが二割と、億劫な事態が起こったことに対する鬱屈が八割といったところだろう。

 

「クーマ。聞かせてくれ。エトリアで何が起こったんだ? 」

「はい。そう、事の起こりは、つい一時間ほど前のことです。部屋で執務を行なっていた私の脳裏に、突如として不可解な頭痛が走りました。頭痛は一瞬で、多少めまいを感じる程度でしたが、思い出せばあれが全ての始まりだったのでしょう」

 

クーマは言って視線をいつの間にやら近くにまでやってきていたゴリンへと移す。すると彼は、いつもの不誠実な態度はどこへ言ったのやら、至極真面目な表情で口を開いた。

 

「俺ぁ、いつも通り口うるさい奴らから逃げて街中をぶらぶらとしてた時、突然頭痛がしてな。まぁ、クーマの言う通り一瞬だったんだが、その後、すぐさま街の様子がおかしくなっちまったんだ―――、街をいく奴らの目から生気が消えたのさ」

「生気が消える?」

「そう。辺りを見渡すと、ぼけーっと、空を見上げたり、地面を見つめる奴らばっかりでよ。声をかけても体を揺さぶってもまるで反応しないわけよ。そこいらの一般人どころか、手練れの冒険者みたいな奴らまで、こう、よだれを垂らした猫背みたいな格好でダランとしちまった」

 

ゴリンは少し大業に背中を曲げると、顎を前に突き出して、目線を上下に交互させた。多少誇張も入っているのだろうが、ゴリンの演技は、当時のあった出来事の異常さを知らしめるには丁度良いくらいの按配に仕上がっている。

 

「で、どうしたんだこりゃと思ってると、遅れて、今度はいきなり雷スキルでもくらったかのように一瞬背筋をピンとおったてた。直後、奴らはボケーっとしたまま、エトリアの街の外に向かって出て行ったんだよ」

 

エトリアから出て行ったという彼らの真似なのだろう、ゴリンはその場で姿勢を正すと、再び猫背に戻して、足踏みをする。彼はひどく真剣なのだろう事はその表情から分かるのだが、彼がそうして背を曲げてひょこひょこと歩く様子は少しばかり間抜けに見えて、笑いを誘う。―――というより、ギルガメッシュは隠そうともせず、指をさして失笑を漏らしている。奴らしいが、本当に遠慮というものがない男だ。

 

「追っかけようとも思ったんだが、まぁ、急にクーマの元へと行った方がいいってな天啓が降りてきてな。慌てて執政院にやってきたら―――」

「ちょうど結界を敷く作業中の私たちと出会ったというわけです。その後、ゴリンには衛兵たちと一緒に、街に残った人たちを連れてきてもらって―――、こうして、緊急施設に移動した後、湧き出た知識を用いて結界を発動させて、残った住人と一緒に避難していたわけです」

 

クーマとゴリンは、顔を見合わせると、互いに苦笑いを浮かべた。

 

「よくわからないが、どうして君たちは街の外に出て行ったという彼らのようにならなかったんだ? 」

「それは……」

「……、わからねぇな。こっちでも状況を把握しようと、それぞれに事情を聞いては見たんだが、どうもさっぱり共通点が見当たらねぇ。どっちかってぇと一般の奴らのが多く消えたから、肉体的に弱い奴から消えたのかとも思ったが、ラグみたいな優秀な衛兵も、ザークみたいな指折りの冒険者までいなくなってたからなぁ……。他にも、ラミ、ソル、ヘイに、トバルにサコといった、優秀な商人だの、料理人だの、道具屋だの、鍛治職人だの、医者だの……、数えてりゃきりがねぇ。さて、どんな共通点で俺らだけ無事だったのか……」

 

どうやらヴィシュヌの自覚といっても、本人の申告した通り、神としての権能や全能性に目覚めた訳でないらしく彼らは事態を把握できていないようだった。

 

「それはこやつらが、YHVHとは異なる古き神話軸であるからよ」

 

そこへギルガメッシュが割り込んでくる。不機嫌な態度から察するに、自分という高貴な存在がこの場にありながら、自らに注目が集まっていないという状況に耐えかねたのだろう、と推測できた。

 

「神話軸? 」

「大雑把に、奴とは異なる系統であるという事よ」

「神話が旧約聖書と関連しているか否かということか? 」

「そのような認識で良い。―――、一度目の頭痛とやらはそこなフェイカーどもが起こした事象によるもので間違いない。そして二度目の異変とやらは、おそらくYHVHの甘言だったのだ。―――奴は、手っ取り早く自らの力となる信仰、すなわち、自らを信ずる人間を獲得するため、微かな神力を使って周囲―――すなわちエトリアという街に住む人間へと呼びかけた」

「二度目の異変の際、クーマやゴリンは何も感じなかったようだが―――」

「ほとんどの人間は弱く、醜い生き物だ。新人類になってもそれの性質は対して変わっておらん。他人が自らより優れていれば嫉妬し、劣っていれば見下す。先も述べたようにこのバブ・イルの土地において、名というものは本人の資質に関連したものが自然と付けられる。すなわち、弱い人間であるほど、あるいは、強くとも嫉妬などが強さの原点であるものには、嫉妬の神であるYHVHと関連した名前が付けられやすい。弱体化した奴にとって、自らと相性の良い、自らの神話と関連する名の輩どもに語りかけるのが精一杯だったであり―――、そしてそれでも十分と言える数が、このエトリアという街には蔓延っていた」

「―――棘のある言い方だが、なるほど、だから、クーマのようにインド神話を基にする名前の人間にはその異変は起こらなかった、というわけか」

 

ギルガメッシュが鷹揚に頷く。相変わらずほとんど情報ない状態から物事の真実を見抜く奴である。破滅的に独尊的な性格さえなければ、さぞ王として讃えられただろうと思うと、少しばかり勿体無い気もした。

 

「はぁ、それで私やゴリンは無事だったのですね? 」

「まぁ、俺もヴィシュヌ系列の名前だからなぁ」

 

クーマは、数度首を縦に振り納得に仕草を見せ、ゴリンは呟いた。インド神話の場合、活躍すれば自動的にヴィシュヌ扱いされる側面もあったし、スキルを収める、武術に関係したゴリンとくれば、五輪書か、五輪塔あたりで、仏舎利、仏陀となって、ヴィシュヌ……、といったところだろうか。

 

ということは、ここに残っているメンツは、中国やインド、エジプトにバビロニアといった、古く歴史のある名前のものしか―――、……ん?

 

「―――ふむ、ギルガメッシュ。旧約聖書と関連するというのであれば、あれのオリジンである貴様の神話の名前も多分に影響していると思うのだが、その名を持った人間も連れ去られたということか? 」

「は、なんともフェイカーらしい、間抜けな意見だな、この戯けが! フェイクとオリジナルには隔絶して超えられぬ差がある! そして我が属する神話こそ全ての神話の頂点! たとえ世界を席巻しかけた宗教とはいえ、原点たる我が属する神話の名を超えられるわけあるまい! そも―――」

「なるほど。それでこの世界で付けられた名前が影響して、私はアンタの顔のことを、昔以上に思い出したってわけね」

「―――」

 

ギルガメッシュが罵倒の言葉をさらに紡ぎだそうとした途端、それから私を守るかのように奴の言葉を遮ったのは、鈴の音のような高く涼やかな声だった。側面より飛んできた声を聞いた途端、衝撃が背筋を貫いた。体が震えた。瞬間的に脳裏へと聖杯戦争の記憶が蘇る。

 

冬木という因縁深い場所において、赤の外套よく似合う彼女と共に駆け抜けた夜の日々。それはたった二週間に満たない期間であり、自ら望んで正義の味方になろうと駆け抜けた生前や、望む、望まないと関係なく世界の走狗としてこき使われた死後の期間と比べれば、あまりにも短い期間だ。

 

しかし、そのたった二週間に満たない期間において起こった出来事は、全てにおいて、私、英霊エミヤ、すなわち、衛宮士郎という存在と深く結びつきあう運命へと導いたのだ。やがて過去の私は彼女と十本結切を贈られる仲となり、未来の私は彼と彼女の手によって救われた。

 

「あら、アーチャー。あなた、この声を忘れちゃったの? まったく薄情なんだから」

 

―――いやそんなことはない。ああ、覚えているとも。忘れられるはずがない。忘れられるはずがないだろう? だって君は―――

 

「―――自らの失態により屋根の上へと叩きつけるという斬新な召喚方法によって呼び出した英霊という最高位に位置する存在を、所詮は使い魔と言い切り、小間使いや茶坊主代わりにするその厚かましく図太い根性と神経を持っていなければとても出来ない言い草、忘れるはずもなかろう、……凛」

「―――なんだかすごく含んだ紹介されたようだけど、まぁいいわ……、久しぶりね、アーチャー。相変わらずの仏頂面で残念だけど、ある意味安心したわ」

 

―――君は私を救った、私にとってかけがえのない恩人なのだから

 




ようやくここまで来れました。この二人はキーパーソンだったので、どこかで彼らの事情を入れるべきだと思っていたのですが、AルートとBルートとはまるで絡まない人物なので放置せざるを得ませんでした。私の力量不足です。ごめんなさい。

さて、大体次で幕間がラストだと思います。真ルートに入る前の最後の段階です。次回のあとがきで真ルートに行く前に、ここまでの物語の構成についてお話をしたいと思います。今後の展開に絡む核心の部分を明かすつもりはございませんが、ネタバレを多分に含むのでお嫌いでしたら読み飛ばし下さい。

それではまた。
ここまでお読みくださりありがとうございます。



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幕間 5 長き神話の果てに

幕間5 長き神話の果てに

 

腰まで伸びた長い黒髪は櫛にて梳いてやれば抵抗を感じないだろう程に細く、しなやかで、艶やかだ。靡かせた髪の台座である頭部にある顔面は、大人の蠱惑と少女の奔放のいいとこ取りをしたかのような、大理石彫像の持つ美に近い完璧さに近いものを持つが、しかしとっつきにくさはないという、西洋の完璧主義と東洋の融和主義が共同戦線を組んで作り上げたかのような、“いい女”の造形をしていた。ドイツの血が四分の一混じったクォーターであるという事実がなせる業なのか、彼女の均整のとれた美貌は奇跡的だ。

 

―――彼女の名は、凛。永遠という縛鎖に囚われていた私を解き放ち、死人であったはずの私に再びの生を与えてくれた、私の恩人。格調高く、潔い状態を表現したい場合によく用いられる名を冠する彼女の登場は、続く異常事態により硬直していた周囲の空気を軟化させ、緊張に満ちた空間を弛緩させてくれた。私の体からは自然と力が抜け、全身の筋肉が弛緩してゆく。

 

「―――だれだ、あれ……」

「さぁ……、エミヤの知り合いみたいですけれど……」

「エトリアでは見たことない人ですね……」

 

話の中心人物であった私の心持ちが柔らかくなったことが影響をもたらしたのだろうか、沈黙を保っていた周囲の人物からも声が漏れだした。良い傾向だ。先ほどまでの糸が張り詰め身動きの取れない様な状態であるよりはよほど健全だ。

 

「ちょっと……、なによ、この空気」

 

しかし、そうして不穏な空気を振り払った当の本人である凛は、先ほどまでの堂々とした態度は何処へやら、借りてきた猫の様に全周囲に警戒の意識を飛ばしながらビクビクとしていた。おそらく彼女の予定ではギルガメッシュにやり込められている私を救う真打ち登場で喝采を浴びるはずだったところが、実際のところ自分の身に降りかかってきたのが陰口にも聞こえる潜み話だったため、後ろ指を指されている気分になった、といったところだろう。頭脳明晰な人物に有りがちな、予定外の出来事に弱いというやつだ。

 

「クッ……」

「ちょ、ちょっと、アーチャー! 笑ってる暇あったら、アンタも援護くらいしなさいよ! 」

「ああ、悪い悪い。そうして呆気にとられた君に顔を見るのも久しぶりだから、つい、な」

「―――ああ、もう、腹たつくらい変わってないわね。アンタ……!」

 

自信満々に登場し、しかし予定外の事象に戸惑い、味方を求めて不満げな表情を浮かべ、皮肉に眉間に皺を寄せ怒りを露わにする。負の感情が悪徳のように扱われるこの世界において、自己の裡に湧き出た感情を隠さない人間というものは珍しい。すなわち目の前の彼女のように周囲や私の言葉を受けてコロコロと千変万化の様子を見せる凛の素直さはとても珍しく、そしてそんな彼女の反応は私にとって、とても好ましいものだった。

 

―――相変わらず、揶揄いがいのある反応をしてくれるものだ

 

「き、貴様―――」

 

一方、エトリアにおいて見かけない不審人物が登場するという戸惑いによって警戒を発する人々の中で、たった一人だけ、驚きと怒りを伴った戸惑いの様子を見せる男の姿があった。

 

―――ギルガメッシュだ。奴は珍しく、いつもの横柄かつ尊大な態度を潜めさせ、凛に指を向け、瞼を大きく見開くと共に細かい瞬きを繰り返し、口を細かく開閉させながら、体の震えさせるといった、幽霊でも見たかのような反応をしている。

 

私から視線を外してギルガメッシュのそんな態度を見た凛はなんとも意地の悪い唇の釣り上げかたをすると、細い体を逸らして胸を張り、挑発するような視線を奴へと送った。それはいつものギルガメッシュの傲慢な態度に対する意趣返しであるかのようだった。

 

そこで疑問に思う。ギルガメッシュはたしかに第五次聖杯戦争において私や凛の敵であったが、凛は奴に対して強敵以上の思い入れなどなかったはず。しかし今の彼女の所作は、どう見ても子供が気に入らない相手に対してやるようなものだ。果たしていったい、何故彼女はそのような事をしたのだろうか……?

 

「あら、久しぶりね、ギルガメッシュ」

「貴様ぁ―――、イシュタル! よくもまぁ、ぬけぬけとその気配ひっさげて我の前に姿を表せたものだな! 貴様のせいで我が友を失った怒り、我が忘れたとでも思うたか! 」

 

凛から自らの名前を聞いた瞬間、ギルガメッシュは瞬時に何もない空間を歪ませるとそこへと手を突っ込み、内部より自らの宝具「天地乖離す開闢の星/エヌマ・エリシュ」を取り出した。「天地乖離す開闢の星/エヌマ・エリシュ」、通称エアは、その刀身に秘められた力が解放されると共に、先端が潰れたドリルのような特殊な形状をした刀身が高速回転をはじめる。同時に凄まじい魔力が辺りに奔流し、密閉空間の中に熱を伴った暴風が吹き荒れた。

 

「き、きゃぁぁぁぁ! 」

「な、なんだあの剣は……!」

「熱量測定不能。風の動きも不規則すぎてまるで予測できん……。カオス理論を理解することのできる演算能力が必要か……!」

「まるでフォレストセルと戦った時みたいな威圧感を感じる……」

 

「天地乖離す開闢の星/エヌマ・エリシュ」はかつて巨人ウルリクムミを倒すために知恵神エアがバビロニアの宝物庫より取り出した剣であり、まだ地球がガスの状態であった頃、マグマの海とガスとに覆われた表面を分離させ、安定させた、まさに天地を創造した剣でもある。おそらくギルガメッシュはその剣に秘められた権能、すなわち大地を切り裂き、安定させる力を用いて、世界樹の層と層を造り上げ、維持しるのにつかっているのだろう。

 

―――そして、今、その創世神話において用いられた剣の威力は、己の友人の死の原因となったイシュタル、すなわちイナンナでもあり、その現し身でもある凛が目の前に現れた事により、過去の怨みより生じる憤怒を爆発させたギルガメッシュの手によって最大の威力を発揮されようとしていた。

 

「わ、ちょ、ちょっと、タンマ、タンマ! 冗談! 冗談だから、勘違いしないで頂戴! 今の私はイシュタルというよりも、凛の成分の方が強い……、というかほとんどなんだから! 周りの人達よりは神の成分がだいぶ強いから、アンタに取って私の気配はあれかもしれないけど、私はイシュタルじゃなくて、ほとんど衛宮凛! イシュタルと違う! 別よ、別! 」

「――――――、チィッ!」

 

大きな舌打ちと共に奴の右手の中で全力稼働をするエアから魔力が抜け、回転が緩やかになってゆく。今にも全力の一撃を凛へと叩き込みそうだったギルガメッシュは、凛の言葉を聞いて、非常に不承不承といった顔ではあるが、彼女にたいしての攻撃の手を止めたのだ。

 

「たしかに貴様の体からイシュタルの匂いはするが、内面は別物。奴とは似ても似つかぬ性格をしておる。―――どうやら貴様の話は真実のようであるから、一度は見逃す。だが女。次にイシュタルのフリをするなどというくだらぬ真似をやってみよ。瞬間、貴様が偽物であろうと、我が王国の民であろうと、我は迷いなくエアを解放して貴様の存在を完全に消滅させてやる……!」

「はいはいわかりましたよ。―――まったく、冗談が通じないんだから……」

 

ギルガメシュはイラつきを隠そうともしない態度でエアに収束していた魔力を発散させて歪んだ空間の向こう側に放り込むと、そっぽを向いて、イシュタルから目線を外した。背後より放たれるオーラからは、『話しかけるな!』という拒絶がありありとにじみ出ている。あれではしばらくの間、奴から話を聞くことは不可能だろう。今のギルガメシュの態度から察するに、話しかけるだけで先ほどの宝具を取り出す事すら奴はやりかねない。一旦は放っておくのが得策か。ならば―――

 

「―――久しいな、凛」

「……、あ、仕切り直しってわけね。―――ええ、久しぶりね、アーチャー。元気にしてた?」

「ああ、おかげさまでな。―――しかし、どうして君がここに? 」

 

素直な疑問を投げかけると、凛はバツが悪そうな顔を浮かべて懐から小瓶を取り出した。空っぽとなった小瓶の底には微かに七色にかがやく液体が残っている。私はその特異な色彩に見覚えがあった。

 

「私がギルガメッシュから受け取った―――小瓶か?」

「ええ。その、ごめんなさい―――衛兵の人たちがあなた達の荷物を整理している時に、その小瓶を見つけた私―――、その時の私は私じゃないんだけど―――が、だいぶイシュタルの記憶に引っ張られていてね。小瓶を見つけた瞬間、勝手にくすねて飲んじゃったのよ。なんか自分の姿が老婆だったのがよほど気に食わなかったみたい」

「は、相変わらず手癖の悪い女狐よ! 他人の物を欲しがる癖は神話の頃から変わっておらぬな! 大方、先のくだらぬ理由に加えて、我への意趣返しも含んでおるのだろうよ! ええい、忌々しい! あの高級娼婦風情が!」

 

しゅんとした様子で語られた凛の言葉に、ギルガメッシュが非常に苛立った口調で文句を吐き散らかした。イシュタルはギルガメッシュの出典でもあるバビロニア神話において、ギルガメッシュを自らの愛人として手篭めにしようとして失敗したが故に復讐を企み、ギルガメッシュと奴の友人エンキドゥに返り討ちにされた経歴を持つ。

 

また、“メ”という神具をイシュタルがエンキ神から盗んで自らの治める国まで逃走したという伝承も残されている。イシュタルとは、バビロニア神話において、非常に厄介なトラブルメーカーであり、ギルガメッシュもその被害者の一人なのだ。

 

そういった面から考えれば、ギルガメッシュの暴言はその辺りの出来事により溜まっていたフラストレーションより生じた、ある意味では正当な怒りによる文句であるのだろう。だが。

 

「ギルガメッシュ。気持ちはわからんでもないが、今の君のそれは、単なる八つ当たりだ」

「―――フン……」

 

今の凛は、イシュタルという女神の記憶を受け継いだだけの残滓の被害者。ギルガメッシュの言い方を借りるなら、ただのフェイクに過ぎない。奔放かつ我儘なイシュタルという女神に乗っ取られる形で行動させられた凛に罪を求めるのは酷というものだろう。

 

とはいえそんな事はイシュタルの被害者でもあるギルガメッシュ本人が一番承知だったらしく、私が文句を言っても珍しく奴の口から反論はなく、鼻息を荒げながらそっぽを向くだけだった。

 

「―――ともかく、ギルガメッシュがよこした小瓶……、確か奴は万能薬と―――」

「若返りの薬だ! 」

「―――若返りの薬を凛は飲んだわけだな?」

 

尋ねると、凛は首を縦にふる。

 

「ええ。そうしたら途端に、体が熱くなって……、気がついた時には、昔の姿を取り戻していたってわけよ」

「なるほど。……、ところで、凛。若返ったということは、君、元の姿と名は―――」

「ええ。多分貴方の思っている人物であってるわよ。ハイラガードで発見された時、頭文字のRが潰れてたらしくて、“in”、としか読めなかったらしいのよね」

「そうか……、やはり彼女が君だったか」

「あら、気づいていた?」

「薄々な……」

 

私にとってインの宿屋という場所は、エトリアという別世界に等しき土地において、唯一心が休まる場所であった。異国の地、異なる文化習慣が蔓延する世界において、あの宿屋のみが、異なる時代より来訪した私と適合していたのだ。それ故にの直感。おそらくインという女性は凛となんらかの関係がある人物なのだろうなという予感はあった。

 

「無論、インが凛本人であるなどとは思っていなかったが―――」

「ま、当然よね。当人の私ですら、覚えていなかったんですもの」

 

凛は快活に笑う。陽気な笑い声は彼女が抱いた愉快という感情を周囲に伝播させ、彼女の登場とギルガメッシュの暴走により戸惑いと困惑に満ちていた鬱屈とした雰囲気が払われてゆく。凛と言う名の女性は、まるで神楽鈴のように、周囲の神の名を持つ人物たちを落ち着かせていた。この世界では、名は本人の資質をよく表すらしいが、なるほど、「凛」と言う名は、なんとも彼女に似合っている。

 

「あのー、久方ぶりの再会で盛り上がっているところ申し訳ないのですが……」

 

久方ぶりの記憶と姿取り戻しての再開に、郷愁の思いを抱きつつ交誼を深めていると、クーマが話に割り込んできた。彼はひどく申し訳なさそうな顔で切り出した。

 

「そろそろ、本題に戻ってもよろしいでしょうか? 」

 

私と凛は顔を見合わせると、互いに苦笑して、了承の返事をする。なに、焦る事はない。本来ありえなかった出会いを喜ぶなど、これから何度だってできるのだから。

 

 

「では、YHVHの後を追って滅殺すると? 」

 

クーマは本題に戻ると、私の話を要約して、ひどく物騒な物言いをした。物腰柔らかな彼の口から飛び出すにはあまりに物騒な単語だったので聞き間違いかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。インド神話の神々は見敵必殺を地で行く性質を持っているが、これも名前の影響という事だろうか。

 

「ああ。でなければ、この世界の安定が崩れる可能性が高いらしいのでな」

「高くなどない! 可能性があるというだけだ、この痴れ者め! 」

 

ギルガメッシュは相変わらずの物言いだ。だが、ギルガメッシュの言を聞いたクーマは目元を歪めて、ひどく億劫な様子で深いため息をついた。

 

「彼が完全な否定をしないという事は、確かに大地崩壊の危機は事実であるようですね」

 

なるほど、クーマがヴィシュヌとやらの記憶をどのくらい継いでいるのかは知らないが、幾分か以上はその記憶があるというのは確かに本当であるらしい。クーマはギルガメッシュの高いプライドというものをよく理解している。

 

「事情は了解しました。―――エトリアの民も連れ去られた事ですし、そういう事であればたちも協力は惜しみません。私やゴリンはエトリア守護のため残る必要がありますが、残った人の中から探索や戦闘に役に立ちそうな人物を選定し、エミヤに同行させましょう」

「それはありがたい。これだけの異常事態だ。人手はあるだけ有難い―――」

「いや、要らぬ」

 

世界の崩壊を防ぐためのクーマの援助申し出は、しかしギルガメッシュの一言によって切り捨てられた。驚きギルガメッシュの方を見ると、奴は周囲から向けられた非難と困惑の視線を鬱陶しそうに手で振り払うような仕草をすると、不満げながらも説明のために口を開いく。

 

「―――クーマ。YHVHに関する名を持たぬ貴様らが“一応”肉体、精神共に一定以上の強さを持っておるのはわかっている。だが、貴様たちが強いのは、あくまでこの世界においてのみだ。すなわち、貴様らの強さは、この世界に蔓延しておる“スキル”とやらの強さに依存しておる。―――あの空間の先にどのような世界が広まっているのかはしらないが、貴様たちの強さは所詮スキルありきなのだ。旧人類と比べれば、霊的知覚能力が高い、霊能力者と呼ばれる分類に属するかもしれんが、修行をしていない霊能者など、トラブルを引き寄せるだけの単なる足手纏いにすぎん」

「―――なるほど」

 

クーマはギルガメッシュの言葉を受け取ると、ゆっくりと首を縦に振った。彼は周囲を見渡すと、部屋の真ん中から隅の方に群れているエトリアに残った人間を見渡して、ため息を吐いた。

 

「そういう目線で選定しようとすると、まぁ、ほとんど残りませんねぇ。どうやらこうなる以前の経験や強さがそのまま覚醒の度合いになっているようですし、私とゴリン以外に一定の能力や異能に目覚めた人たちは見当たりません」

 

クーマは残念そうに首を振ると、ふと何かに思い至ったようで、異邦人の彼らの方を眺めた。

 

「そういえば、あなた達は如何なのでしょうか? 中心地にいた人物であり、今、このエトリアにおいて最も強い人たちです。であるならば、なんらかの異能に目覚めていてもおかしくは―――」

「阿呆。こやつらはYHVHが降臨した当時、概念を広める側であったのだ。そして奴が降臨したその瞬間も、奴が自らの民を選定した瞬間も、我が領域にて庇護下であるジグラットの内側におった。すなわち、こやつらはなんの影響も受けておらん」

 

ギルガメッシュの宣言に、サガが首を傾げた。籠手のはまった両腕を器用に組んで唸っていた彼女は、やがてゆっくりとまぶたを開くと、重苦しく口を開く。

 

「―――ちょっと、まて、じゃあ、俺たちは……」

「この度、エミヤ達に同行できないということか……」

「然り」

 

ギルガメッシュは不遜な態度で彼らの言葉を肯定する。二人は返ってきた言葉を聞いて、悔しそうに顔を歪めると、サガは地面を蹴りつけ、ダリは腕を組んで大きく唸り声をあげた。

 

「―――確かに私たちは戦術も肉体の動かし方もスキルのあっての前提で動いていますからねぇ……。それがいきなり使えないとなるのでは、むしろ、今までの積み重ねてきた経験が邪魔となるでしょう。あって当たり前だったものが失せるという経験、なかなかに慣れるものではありません」

 

一方、ピエールはひどく落ち着いた様子だった。どうやらピエールという男は、現実を受け止める能力に秀でているらしい。

 

「其奴のいうとおり。加えて、YHVHがこの大地から数百の人間どもを連れて行った事実と、この先で数千に増えているかもしれん奴の信徒のことを考えれば、今回の事態の解決に必要とされる人材は正面からぶつかるための特技などではなく、YHVHを探し出し、暗殺することのできる技術を持った人間―――すなわち、そこの元掃除屋のような輩こそが相応しい、と言うわけだ」

 

ギルガメッシュは好き放題言ってくれるが、確かにYHVHが向こう側の世界で戦力を整えているかも、ということを考えれば、卑劣かもしれないが、隙を見つけてからの暗殺、という手段は間違っていないのだろう。

 

「―――だが、それの理屈からすれば、私は問題ないわけだな」

 

納得しかけた時、暗がりに包まれかけた雰囲気を電子合成された音声が切り裂く。人工的に作られた声には、しかし意思ある生物のみが生み出せる迷いのない魂というものが存分に含まれていた。

 

「幸いにして私の体は機械になったが故、スキルに頼らない。そして、敵の隙を見つけてその一瞬をつくというのは、私が長年やってきたブシドーの戦い方に通づるところもある……。うむ、すなわち私ならばエミヤに同行しても問題ないわけだ。―――名前の共通点といい、なにかエミヤとは運命じみた繋がりのようなものがあるのかもしれないな」

 

続く言葉には、迷いない信頼がこもっていた。彼の言葉を嬉しく思い、礼の言葉を述べようとした所―――、寒気が背筋を走った。振り返ってみればそこには、冷たい圧を発している響がいた。

 

彼女は視線に実体というものがあるなら、圧力で射殺せたのに、と言わんばかりの鋭い視線を私の方へと送ってきている。前々から思っていたのだが、どうやら響はシンという男性に並々ならない感情を抱いているらしく、恋慕なのか愛情なのか知らないが、彼が親しい感情を見せる相手や、性的なアプローチに見えなくもない態度を目撃すると、このような威圧を所構わず発露するところがある。

 

まだ少女の体躯にしか見えない彼女から放たれるそれは、しかし、殺し合いの戦場での殺気に慣れた私や、モンスターとの戦闘で命のやり取りを当たり前に行う彼らすら、一瞬ばかり怯えさせるのだから、げにおそろしきは女の嫉妬。すなわち、情念というやつか。

 

私は場の空気を一転させるべく、話題の転換を目論んだ。

 

「―――ともかく、そういう事情があるのならば、話は早い。YHVH討伐のため向かうのは、私とシン―――」

「あ、私もいけるわよ。刻印は受け継がせちゃったからか復活しなかったみたいだけど、魔術回路自体はあの薬のおかげで生き返ってるから、ガンドとか基礎的な魔術なら私も使える。直接戦力には数えられないかもしれないけど、サポートくらいならして見せるわ」

「有難い」

 

凛は溌剌とした笑みを浮かべて、私の礼に頷いた。私は彼女からの礼を受け取ると、もう一人のアンドロであるオランピアの方へと向けた。同じアンドロならば彼女も戦力になるとの期待を込めてのことだったが―――

 

「私はいかない。このような異変が起きたのだ。仮初めとはいえ深都を治めるものとして一度、都の方に戻らなければならない。元々は食料支援の要請のためにこちらにきたのだ。―――そうだ、クーマ……」

「ええ、食料の支援は当初の約定通り行いますとも。―――というよりも、人数が減った分、持って行ってもらった方がありがたいです。日持ちするの、足が速いのと合わせて、たっぷり持ってっちゃってください」

「感謝する」

「ああ、シララも同じようにモリビトの里に戻った方がよろしいでしょう。早馬をお貸ししますから、先行して里の方へ向かってください。食料は後で護衛と馬車とともに送ります」

「わかった」

 

クーマの手際よい指示によって各々の方針が定まってゆく。彼らより戦力が借り受けられなかったのは残念であるが、誰にだって譲れないものというものはある。それを優先して動こうというのであるから、文句をつけられようはずもない。

 

いや、むしろ、このような状態の最中、同行者が二人もいて、片方は現エトリア最高戦力かつ私の魔術では及ばない科学の面をサポートしてくれる人物であり、片方はかつて最高のパートナーであった人物であることを考えれば、僥倖と言えるかもしれない。

 

「つまり、この三人で―――」

「わ、私も行きます! 」

 

結論下そうとすると、再度遮られた。声は断固たる確信から出たものでなく、咄嗟の判断から出た焦燥が多分に含まれているようだった。

 

「―――響。だが、君は……」

 

シンがアンドロ特有の能面のような顔を保ったまま、声色で不満を露わにした。周囲の人々も遅れて同意の意思を示す。当然だ。

 

「先ほどの話を聞いていたか? 響。スキルが使えないのだぞ? 君では―――」

「わ、わたしに剣の才能があると言ってくれたのはあなたでしょう、シン。足手纏いにはなりません! 」

「しかし―――」

「よいではないか。連れてゆくがよい」

 

思わぬ場所からの援護射撃に驚く。振り返れば、ギルガメッシュが真剣な目線で響の事を見つめていた。奴が響に向ける目にはいつものような遊びや傲慢は無く、相手の価値や言動を探ろうとする見極めの色に染まっていた。

 

「ギルガメッシュ―――? 」

 

驚く、というよりも戸惑う。奴がそのような視線をするのを見た事はほとんどないからだ。見定めようとする、という事は、相手の真意や在り方が理解できていない、ということの証明である。すなわち、英雄王は、今、響という少女の存在を見極めきれていないのだ。

 

「行きたいというのであるから、行かせてやるが良かろう。見たところ、まだ冒険者として経験の浅い尻の青い小娘。ならば引っ張られるような経験も持つまい。猫の手程度には役にたつだろうよ」

「あ、ありがとうございます! 」

 

この場にておそらく最も状況を理解しているギルガメッシュが同行許可を出したという事は、もはや響が我々と共にYHVHを討伐する旅路に加わる事は確定したようなものである。響は私たち―――というよりも、シンについていける事がよほど嬉しかったのだろう、目を輝かせてギルガメッシュに頭を下げた。

 

「フン……」

 

しかしギルガメッシュは響の礼に対してなんとも形容しがたい視線を向けると、もはやこの場にていう事はなくなったと言わんばかりに背を向けて、離脱の姿勢を見せる。

 

「フェイカー。話がある」

 

その際、背を向けたまま私に呼びかける声は私の耳朶のみを打つようにひどく小さく調整されたものだった。ギルガメッシュという目立つ事を隠そうとしない男がそのような語りかけを私にしたという事実は、奴が今抱えている何かが相当面倒であるという事を私に悟らせた。

 

一旦解散し、各々準備を整えようという流れの段階になった。周囲では道具屋に向かい自らの装備を万全にしようとするシンと響、そんな彼らを手伝おうとする残る三人が衛兵に話しかけていた。支援物資送付手筈調整のために別れたクーマ、オランピア、シララは残った衛兵や冒険者の中から街の護衛や荷馬車の護衛のために話し合っており、人員を選定するために彼らの元へと向かったゴリンが別の場所で指示を出している。

 

「アーチャー。去り際にあの金ピカ、あんたに話しかけてたみたいだけど、どうしたの?」

 

私がギルガメッシュの元に向かおうとすると、凛が話しかけてきた。どうやら彼女は耳ざとく先ほどのギルガメッシュが小声で私に話しかけた事に気がついていたようである。

 

「先ほど、君―――つまりイシュタルの名を持つ君に、勝手に薬を使われたことをたいそうご立腹のようでな。管理不十分であった私に対して文句があるのだとさ。……あれを怒らせると、YHVHの影響以前に、この大地が崩壊しかねん。つまり、少しばかり不満を聞いて、機嫌をとってやらねばならない、というわけだ」

 

流石に正直にいうわけにも言わないので、彼女の罪悪感を煽るような内容とともに、ギルガメッシュなら言いかねない内容の言葉をでっち上げ、彼女の同行を防ごうと試みる。

 

「―――なら私も」

 

するとそれが凛の罪悪感を無駄に煽り過ぎてしまったらしく、彼女は殊勝な顔つきをして肩を下ろしながら、そう提案してきた。その気持ちはありがたいが、今受け取るわけにはいかない。

 

「やめておけ、凛。イシュタルの気配を漂わせる君が行くとまた話がこじれかねん」

「う……」

「そういうわけだ。お気遣いは感謝する。だが、悪いが私一人で行くとするよ。これ以上待たせると奴が、また癇癪を起こしかねん」

「そう……、悪いわね」

「何、君が気にすることではないさ」

 

凛に背を向けて手をひらひらと振ると、一人宙に佇むギルガメッシュの元へと向かう。部屋の端、暗がりの壁の方を向き、腕を組んだ姿勢で宙に浮かんでいた奴は、私がやってきたことに勘付くと、宙に浮かんだままゆっくりと反転し、閉じていた瞼をゆっくりと開けた。その瞳には不遜の色こそあれど、積極的な傲慢や見下しの態度はなく、奴が今内心に抱えていることの重要さがうかがえる。

 

「ギルガメッシュ。何用だ」

 

意識的に礼を失した言い方にて問いかける。挑発じみた言い方をすればギルガメッシュも多少は気分を取り戻すかと思ったが、奴は先程とまるで変わらない様子で私の方を睥睨するばかりだった。その頑なな態度が、余計に不安を煽る。

 

「手短にすませよう。これ以上、あやつらと組むのはよせ」

 

そしてやがて口を開いた奴が言った言葉は、果たして予想通り不吉さを孕む内容だった。

 

「どういうことだ、ギルガメッシュ」

「―――」

 

問いかけても奴は口を閉ざすばかりで、それ以上は一言も発しようとはしない。焦燥感が沸々と湧き上がる。ギルガメッシュの態度がいつもの傲岸不遜で相手を揶揄うものであったならば、私はこのような気分にならなかっただろう。

 

「ギルガメッシュ―――」

「たわけ。沈黙の意味を察さぬか」

 

そして沈黙の末に奴の口から出た言葉の意味を考えて、さらに焦燥感が増す。胸の中に生まれつつあった処理しきれない感情は、やがて重量を増して脳髄に達すると、知恵と脳で言語に処理されて口から言葉が漏れた。

 

「―――まさか」

 

振り向いて今しがた別れた仲間たちの様子を見る。遠目に見える彼らは、まさに真剣そのものの表情を浮かべて、各々に課せられた役目を果たすための準備を行っていた。彼らの態度に偽りはないように見える。しかし―――

 

「フェイカー。貴様、バイブル、と聞いて何を思い浮かべる? 」

「―――は?」

 

もしやあの中に私たちにとってのユダがいるのか。そんな面白くもない冗談のような考えが浮かんだ際、突然すぎる質問に思考が停止する。

 

「バイブルと聞いて何を思い浮かべるかと聞いておるのだ」

 

しかしそれは聞き間違いではなかったようで、英雄王は苛ついた様子でもう一度同じことを尋ねてきた。一体何が目的か、とも思ったが、私を贋作者/フェイカーと呼んで嫌う男が、わざわざ私に問いかけるからには、なんらかの意図があるものだと推測して、その話に乗ることにした。

 

「それはもちろん聖書だろうが―――」

「では、それの語源は知っておるか」

「確か、エジプトの紙/パピルスが訛って本/ビブリオという意味になり、書物の一般名詞が、代名詞でもある聖書/バイブルになったと聞くが―――」

「相変わらず、貴様は与えられた知識でしか物事を考えぬな」

 

ギルガメッシュの失望と侮蔑の入り混じった目線が浴びせられる。奴は明らかになにか別の結論を持っており、奴の持つ結論に私を導こうとだそうとしているようだった。ただ、その見下す視線があまりにもこちらを馬鹿にしたものであったので、私は少しばかり意地になって、持っている知識を披露並び立てる。語りながら思考をまとめようと思ったのだ。

 

「―――バイブルといえば、元は、とある民族の興亡や律法などを示した歴史書であったと聞く。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と言ったモーセ五書。それと―――」

「ああ、もう良い、貴様の蘊蓄が聞きたいわけではないわ。例えばそれがいかなる経緯を辿って作られたか想像してみよと言っておるのだ」

 

ギルガメッシュは呆れた顔を浮かべると、うんざりした様子で手を振るった。

 

「―――例え話をしてやろう。貴様はある宗教の指導者よ。今貴様は、自らが崇める宗教を大衆に広めたい。そのための紙束―――聖典が手元にある。聖典、すなわち、本とは当時、民草の手には届かぬ高級品であり、そして奴らの手元にあっても意味のない存在であった。文字が読めんからな。とはいえ、奴らも知識はないとはいえ、本の存在くらいは知っておる。さて、そのような条件下で貴様が信者を増やそうとした場合、貴様はどうする?」

 

 

奴の質問に少し思考を働かせたのち、応答する。

 

「それは―――、もちろん、人を集め、宗教の名を叫び、文字を理解できる私が、その本の名を述べて、聖典に書かれた教義を語るだろう」

「その通り。その際、聖典の名とは宗教の名前などよりもよほど重要なファクターとなる。なぜならば、それは民草の興味を引く名前でなくてはならないと同時に、神という神聖にして不可侵な存在との契約書でもあるからだ。―――では再び問おう、フェイカー。貴様が宗教指導者だとして、神との神聖な契約を示した聖典を“紙”であるだの、“本”であるだのと、大声で存在をわざわざ主張すると思うか?」

「―――」

 

想像してみる。十人から百人程度の信者の前で、唯一無二の聖典を高くかざしながら『これは“紙”だ。素晴らしいことが書いてある“本”なのだ』と、大声で高らかに聖典が紙や本であるという事実を主張する自分を。―――それは

 

「なんとも間抜けな絵面だな……」

「そうであろう? 紙だ本だ、などと当然の事実を主張したところで、信者どもが有り難がるわけがない。加えていうなら、そもそも信者でないものにとって“紙”が何を指し示すものが何を語っているのかわからぬのであるから、興味など引くわけもない」

「―――すなわち、聖書の言葉の起源は紙ではないと? 」

「惜しいな。さらに深く考えてみるがいい。……さて、キリスト教、―――当時はユダヤ教において口語口伝が当然だった頃、ある時奴らは、文字と紙を手に入れた。貴様の感覚に合わせてやるなら、紀元前千年から紀元前八百年と言ったところだ。その頃、ユダ王国の律法は、王たち、すなわち、ダビデ、ソロモンに使えた祭祀どもの手によって書き上げられた。これが聖典、すなわちバイブルの原典よ……。そして奴らにとってみれば永劫続くはずの王国は、紀元前五百八十七年、我が子孫、新バビロニア王国のネブカドネツァル二世によって占領され、配下に置かれた」

「バビロン捕囚、というやつだな」

「然り。当時、国とは、神が王に支配する事を命じた土地と人民であり、律法とは、“支配の約束はたしかに神との間に交わされたのだ”ということを示す契約書でもあった。すなわち、律法書とは国のすべてであった。故に、バビロンの配下に入ったユダ王国の律法は、その瞬間、バビロンの神との契約書、バビロン律法書へと書き換えられたのだ。つまりはバベル書よ」

「バベル書―――」

「やがて時代が降り、忌々しいことに、バビロンの力が弱まりローマが台頭してくると、それでも信仰を捨てなかったバビロン配下にあったユダの信者どもは弱まった隙を見計らって、自らの戒律―――YHVHの敷いた法―――を広めるために、自らの歴史が書かれたバベル書を手にあちこちへと出向いて、説教を行なった。無論、そのままの名前では単なるバビロンの歴史を語る書物に過ぎぬ。しかし、下手にバビル書に書かれたバビロン―――この場合はユダ王国であるが―――の歴史を自らの視点で語ると、民草を混乱させようとする悪人として処刑されかねん。されど、バビロンの名前をまるで別のものに変えてしまうと、ユダ王国小さな部族の新興国歴史と見られ、侮られかねん。―――さぁ、フェイカー。貴様はこの状況下において信仰を最大限広めようとするのであれば、どうする? 」

 

名前は多く変えられない。しかしそのまま名前を使用しては過去にあった大国の歴史の中の、さらに一部を語るに過ぎない。興味を引きはしないだろう。―――例えば、自分ならどうする……。

 

私の魔術は刀剣類を解析し、投影する、いわば模倣魔術。模倣品―――例えば、それが絵画や書物、刀剣といった美術品の贋作であるなら、人の興味を引くためには有名人の来歴か、物品自体に大きな名前が付いている必要がある。しかし、それを大々的に騙り、恣意的であることが判明したならば、罰則、国によっては死刑も免れまい。ならば―――

 

「名をぼやかした上で、真実を語らない……、これはあくまで、そうかもしれない、というだけであって、私はそうだとは断言していない……。鑑定書はない。オリジナルの原典は残っていない。これは名前の似ているだけの偽物かもしれない。私は初めからそう言っている―――だから私に罪はない。……日本の悪徳美術商人がよくやる手口だ、―――そうか! 例えば、美術品の来歴を持ち主の名前や作品の文字を入れ替えて誤魔化すように、文字の入れ替えた―――バベル、バビロンすなわち、バブ・イルの書を、バイブルとして騙ったのか! 」

 

私の持つ唯一の魔術「無限の剣製/unlimited blade works」は刀剣などを見た瞬間、固有結界という場所にその模造品が収められるシステムとなっている。私は自らの魔術の特性上、美術館や資産家の家、魔術師との戦闘などにおいて、大量の刀剣類含む美術品を見てきたという来歴を持つ。通常ならばそうして真贋を見極める情報を取集するだけの魔術は、今まさにその経験が役に立って、ギルガメッシュとの問答において、奴の問いかけに、奴が満足する答えを導き出すことができたのだ。

 

ギルガメッシュは己の意が伝わったことを理解して、珍しく満足げに頷くと、両腕を大きく広げて、導きがあったとはいえ、自ら考え答えを捻り出した私を祝福するかのように、大きく高く掲げた。

 

「その通り。すなわち、バイブルとは、バベルの物語である。しかしバイブルとは、存在した大国、バビロンの歴史などではなく、バイブルという架空の国の物語である。故に、我々は歴史を騙っているわけでない―――当時の宗教家たちは役人どもにはそうやって言い訳しながら、その実、自らにとって都合の良い歴史を語り、世に広めたのよ。―――当時、大国の歴史とは詩人などの口からしか語られぬ、民衆にとって数少ない娯楽。バイブルはな。神の教えが優秀だったからよく広まったのではなく、歴史ある大国、バビロン興亡を基にした二次創作の娯楽作品として優秀だったから、世界に広まったのだ。紙や歴史とは、文化人のみが持てるもの。長い目で見るならば、重要なのはな。紙面の修正ではなく、まず、口語で話が世間に広まることなのだ。当初は単なるアナグラム的な入れ替えでしかなかったそれは、やがて俗習の間にて騙りこそが真実の呼び名となり、後世、手を加えて書物を編纂する理由となる。そして編纂の際に改竄し、その後それらしい起源をでっち上げ、いらなくなった書物を処分してしまえば、後世の奴らにそれを確認するすべはなくなる。すなわち後世においては、その騙りこそが歴史的事実ともなるのだ。そして、奴らにとってはそれこそが狙いであったのだ―――自らの民族を貶めたバビロンという国を自らの歴史の中に取り込み、そして、自らにとって都合の良い事の刻んであるバイブルこそが、正しく歴史を語るものである、と広めるために、奴らは神との契約書を自ら歪める事を良しとしたのだ」

 

宙に浮かんでいるギルガメッシュはバビロン=バイブルである説を高らかに主張し、広げた腕の中央から私を見下した。その様はなんとも荘厳な気配に満ちており、なるほど、奴がかつて神と呼ばれた王であり祭祀であった事を納得させる光景だった。

 

「―――ギルガメッシュ。それが事実だったとしてわからないことがある」

「なんだ、申してみよ」

「仮にバイブルとは、バビロン王国の興亡書であった、というのが真実だとして、今お前は、何故この場においてそれを語る?」

 

たしかにそれは私たちが知る歴史的に見れば重要な事実だったかもしれない。けれど、このエトリアという土地においてはなんの関係性もないはずだ。そう問いかけると、ギルガメッシュは私の質問を鼻で笑い飛ばすと、あからさまにこちらを馬鹿にした態度で失笑を漏らした。

 

「我はこの土地をバブ・イルの土地であると言った。すなわちそれは、YHVHにとって、バイブルの土地であるということでもある。やつにとってのバイブルとはすなわち、キリスト教における聖書ではなく、奴ら主人公である旧約聖書と呼ばれる書物だろう。この騙りも奴が復活することに一躍かっている。貴様ら―――もとい、新人類が歩んできた道のりはな。YHVHにとっては、自らの功績が刻まれた長き神話だったのだ。そしてその“長き神話の果て”、YHVHが主神として登場する新たな神話の歴史の第一歩を刻んだのが貴様というわけよ。言うなれば貴様は、“YHVHを原典とする新約聖書”作成のために利用されたのだ」

 

奴の断言に体から力が抜けた。脱力感は、自らが歩んできた苦難の道のりは、自らの意思によって選び取ったものではなく、他人によって用意された道をただただ歩んできたに過ぎないのだと知ったが故の徒労感がもたらすものだろう。

 

「―――私や、シン達は、YHVHが復活するための歴史書の一部として予定に組み込まれていた。つまりは、私や凛は初めから奴に利用されていた、と? 」

 

力なくうなだれながら聞く。私を見下す奴の目線を見やる気力は湧かなかった。

 

「いや、―――おそらく奴もそこまでは想定しておるまい。旧人類の思惑と願いによって歪んだ新人類どもがいかなる歴史を刻むかは、まるで不明。万能唯一を自覚するこの我ですら、見通せぬ出来事よ。―――だからYHVHはおそらく、やがていつか過去の記憶を持つものがバブ・イルの土地にて目覚めた時、その土地に住む自らの名と関係あるものと宗教的意味を持ったイベントを重ね、このグラズヘイムや他の半神半人が治める場所に置いて自らと関係のある寓意的事象を重ねることでやがて自らが復活する事を期待し、大量の仕掛けを施して世界中にタネを蒔いたのだ。つまり―――、貴様が奴を目覚めさせたのはただの偶然。奴は偶然にも手持ちん駒として舞い込んできた貴様を自らの復活に利用したに過ぎん。すなわち、貴様が復活しようと復活しまいと、いつしか事は起こっただろう、ということだ」

 

するとギルガメッシュは珍しく、私を気遣うようなセリフを述べた。ギルガメッシュの言葉に背中を押されるようにして奴の方を見上げれば、奴は王の言葉に偽りはないと言わんばかりの尊大な態度でこちらを見下している。不思議なもので、奴の自身に満ち溢れた視線を見た途端、“確かに奴の言う通りなのかもしれない”と思えて、体から力が湧いてくるのだから、なるほど、これがギルガメッシュなどの著名で強大な英雄のみが持ち得るカリスマという奴なのかもしれない。

 

「だが、解せないのはそこだ。預言者の名を冠する貴様がこのエトリアという土地において関わった人間のうち、多くはYHVHに関する名を持っていた。また、預言者の名を持つ貴様が組んだメンバーのうち、シンは神の現し身として一度死んで生き返るが役目。ピエールはいく先々において神の評判を上げるために説教を行う聖人、サガは戦闘の神であり人としては足りない部分のある神の欠損を埋めるべく伴侶神として奴を支える役目があった。それはよい。―――だが足りぬ。それでは四人だ。過去、貴様ら同様に、この土地において似たような事を行なったものがおった。其奴らは大抵五人で徒を組んでおり、一組においては貴様らと同様にこの地において復活の真似事なども行なったが、それでもYHVHの復活はなされなかった」

 

奴の言った事を整理する。どうやらこのグラズヘイムの土地にやってきて死者の復活といった出来事をやったのは私たちが最初ではなかったらしい。ギルガメッシュは四人、五人とすなわち、パーティーの人数を主張した。

 

私たちは六人―――いや、オランピアを数に入れるなら七人。六と七。六……。七……。奴と関連する数字で六と七というと―――いや、まて、それは確か……、創世神話において、YHVHが天地を想像するのに要した日数であり、その後一週間の起源となった数字―――

 

「―――ダリと響、オランピアを疑っているのか」

 

奴は話の手間が省けたことに喜色の色を浮かべて首肯する。

 

「無論、人数の問題でなく、寓意の質が影響して此度の出来事が起こった可能性も高い。だが、四人と五人、五人と六人、六人と七人の間には、年月を重ねるほど、等比級数的な差が生まれる。その量を馬鹿にできないものとなるだろう。即ち、一見、なんの関連もないような名前に見えるが、その三人が絡んでいないということは、貴様らは四人で奇跡を起こしたということになる。―――それは考えにくい」

 

人数が増える程、この場所にくるまで寓意的事象を重ねられる絶対量が比例して増大する。故に、儀式を行う人数も重要なファクターだ。だからこそ、奴を降臨させる儀式に関連する名前を一見は保有していない三人を疑っているのだ。

 

「無論、我の思い過ごしという可能性もある。我の慧眼さが余計な共通点までを見抜いて、奴がそこまで思い至っておらんところまで結びつけてしまったという可能性もある。だが、もし万が一、―――」

「エ、エミヤ! た、大変です! 」

 

ギルガメッシュとの話し合いの最中、響の声が飛び込んできて奴のセリフを遮った。ギルガメッシュは己の言葉が遮られたことに眉をひそめて不快感を露わにするが、やってきたのが響であることを認識すると、静かに瞼を閉じてそっぽを向く。なるほど、疑っている輩に会話の内容を聞かせるつもりはない、ということか。

 

「どうした? 」

「衛兵の人が、へ、ヘイが、ヘイがいなくなってるって……! 」

「ヘイが? 」

「は、はい! どうやらシンの体と一緒に街から消えたみたいで……」

「YHVHが? 直接彼を連れ去ったと言うのか? 」

「そうみたいです……」

 

ヘイ。そういえば彼は最後に会った彼は、やけにテンションが高く、不自然な様子であったことを思い出す。ああ、やはり何か心に抱えるものがあったのだろう。その心の隙を突かれ、YHVHの信徒になってしまったと言うわけか。

 

「だから、とりあえずヘイの店に行って、手がかりを探そうって……」

 

不安からだろう、小さくなってゆく響の言葉尻を耳にしながらギルガメッシュの方を向き直すと、奴はやはりそっぽを向いたままの状態だった。おそらく彼女がいる限りこれ以上話すことはしないだろう。

 

「ああ、わかった。こちらの話し合いが終わり次第、私も君たちに合流して、手がかりを探すとしよう。先に彼の店に行って手がかりを探し始めていてくれ。私より懇意の中だった君たちの方が多く手がかりを見つけられるだろうからな」

「は、はい! 」

 

そして多少強引な説得で響を追いやると、再びギルガメッシュの方を向く。

 

「ギルガメッシュ――― 」

「興が削がれた。もう話すべきことはない」

 

ギルガメッシュはいつものようにいかにも途中で気が変わった暴君のようなセリフを吐いて捨てるが、奴の意識は遠ざかっていく響へと向けられていることが耳の動きなどの気配でわかる。奴は話し合いの最中、こちらへ疑念の人物が近寄ってきたことを警戒して、これ以上情報を明かさない決断をしたのだ。

 

「了解した。情報提供、感謝する」

「待て」

 

軽く頭を下げてその場を立ち去ろうとすると、奴から声がかかった。

 

「忠告を与えよう。」

「何かな?」

「今後貴様らがどのように動くかは知らんが―――、あの三人を一緒に行動させないように気をつけろ。できることなら、貴様らは個々に別れて動く方が望ましい」

「―――了解だ」

 

ギルガメッシュの忠告を脳裏に刻み込むと、翻して凛たちが屯っている場所へと向かう。いつもの仲間の元へと向かうだけだと言うのに足取りがひどく重く感じられるのは仕方ないことだろう。

 

 

「手がかり、見つからなかったな……」

 

エトリアから少し離れた草原の上で、サガが残念な声色で呟いた。サガは女であることを隠すことをやめたらしく、彼女は今まで通りアルケミストが纏っている様な中華服に似た服を着込んでいるものの、その胸部分は今までと異なりあからさまに膨らんでいた。

 

「はい……、結局見つかったのは―――」

 

響はひどく落ち込んだサガの言葉に共感した声を上げると、腰につけていた剣に手を当てて、鞘ごと自らの目の前に持ってくると、そのまま刀身を軽く抜き放つ。剣は僅かな内反りのある直刀に近く、波紋は直刃。柄巻きを解いて目釘を抜いて皮を取り去り、茎を見てやるも銘が刻まれていない。おそらく金属を削ることで強度が下がることを嫌ったのだろう、製作者が余分というものを一切無くした様な刀は、まさに“敵を斬る”という目的のためだけに鍛え上げられた殺傷のための兵器だった。

 

「薄緑……。ヘイが最後に打った刀……」

「うむ、見事なものだな。やはり奴は腕がいい。私たちの癖を知っているから、相性もいい。できる事なら私の刀も研いでもらいたかったが、―――残念だ」

「バカ、感心……、というか関心をはらう場所が違う! ……ってぇ!」

 

刀を覗き込むとどこかずれた事を感想を言うシンの頭をサガが杖でポカリと殴ると、シンではなく殴った方のサガが悲鳴をあげた。アンドロとなったシンの硬質な後頭部は強固になっているらしく、シン自身の姿勢をまるで崩さない常の心がけと合わさる事で、まるで鉄の壁を殴ったかの様な反動が杖を伝ってサガの手中に生じたのだ。

 

「―――そうか? まぁ、とにかく、ヘイが私に向けて打った刀だ。ならば多少癖はあるかもしれないが、私の教えを受けた君なら使いこなせるだろう」

 

一方叩かれたシンはピンピンして、再び戦闘方面へと目を向け、場違いとも思えるセリフを口にするのだから、注意したサガも報われない。サガは恨みがましい目をシンに向けるが、シンは平然とそれを受け流していた。

 

「は、はい……でも本当にいいんですか? 本来なら、この刀は、シン、貴方のための……」

 

響が刀身をしまってシンに問いかけると、彼は首を振って否定の意思を示した。

 

「見たところ、それは相当の切れ味を誇る刀。ただし、重心がずれたり過負荷がかかるとすぐに折れてしまうと見た。―――昔の居合をメインに戦っていた頃ならともかく、剛を選択し、また、アンドロのボディ伴った今の私では、使いこなせないどころか、無駄にしかねん。私に必要なのは、細身の刀ではなく、丈夫な剣なのだ。だからそれは君が使うといい」

「……はい」

 

響はそして刀を腰に収める。彼女は今、「ソードマン」と呼ばれる女性がするような、長袖の麻の上着に、下半身に動きやすいレギンスを履き、道具や剣をぶら下げるためにスカートとベルトを身につける着こなしをしていた。セミロングの髪を纏めるため、大きな三角巾で頭を覆い、靴は動きを重視した軽装の革靴。長袖の肩の下にはブシドーの金属編み込みの肩当がひっそりと着用し、刀や道具袋を隠すために薄いマントを羽織っている。

 

これからこの穴の先に通じている場所がどの様な場所が不明であるため、全天候にたいおうできるようにと考慮された格好だ。YHVHや信徒が転移したわけであるから、転移先が深海の底や冬山の頂上、宇宙であると言うことはないだろうが、奴がメソポタミア、すなわちイランからエジプトあたりの出身である事を考えるに、砂漠や砂山の上であることは十分に考えられる。それ故の、肌を晒さず、いつもと変わらない身動きが取れ、そのうえで目立たない様にと考慮された格好だ。

 

そして隣にいるシンも響と同様の格好をしている。ただしシンは、比較的軽装である響と比べると、白塗りと黒の関節で構成された目立つ機械の全身を隠すため、関節や機械仕掛けの腕などを服で覆い、もろに機械である耳部分を耳あてで隠し、頭に響と同じ様な布当てをして、首元をマフラーで覆うという重装備であった。また、明らかに人体ではない胸部や細すぎる下半身を隠すため、長袖長ズボンを身に纏い、分厚い革靴を履いている。なんとも暑そう―――いや、熱そうだ。

 

機械の体を隠すために全身を覆うということは、熱が逃げない仕様ということを意味する。そして熱は機械の体である彼にとって天敵であるはずだが、その辺りは腹部に装備している排熱ユニットでなんとかしているらしい。それ故、不自然に彼の分厚いクリーム色のマントの下がはためいてもいるが、まぁ、あれくらいなら許容範囲というものだろう。

 

「さて、じゃあみんな。準備はいいかしら」

 

シンの返答に躊躇の姿勢を見せる響の様子をまるっと無視して、凛はその場によく通る声で全員に意思を確認した。全員とはすなわちこの歪みの向こう側に旅立つ私、すなわちエミヤと凛、シンと響である。

 

ちなみに凛もシンや響と同様に全局面に対応できる様、肌を晒さない格好をしている。かつてよく着て赤い服を上半身に纏い、黒の長い丈のパンツを履き、長い黒髪を纏めてフード帽の中に突っ込み、地の厚い革靴を履いている。それはミニスカートにレギンスというかつての記憶の中にある少女の頃よりずっと大人びていた格好だ。

 

また、彼女はそれの大人の格好に見合った落ち着いた振る舞いも見せる様になっていた。外見こそ私の知る凛本人であるが、内面は私の知らない歴史を重ねた凛である。そんな小さな差異に少しばかり寂寞を感じた。我ながら女々しいが、仕方のないことだろうと勝手に納得する。

 

「いつでも」

「大丈夫です!」

 

そうして一抹の寂しさを感じていると、シンと響が凛の問いかけに応答した。凛の目が私へと向けられる。碧眼である目に宿る意思は、かつての少女の頃から変わらない真っ直ぐさを保っていた。目線はいつかかつての様に、私が肯定の返事を返すことを待っている。その真っ直ぐさに、先ほどのくだらない悩みが消えてゆく。なんともくだらない事を考えていたな、と自嘲した。

 

「勿論だ―――、行こう」

 

そして彼らより先んじて歪みの中に一歩を踏み出す。足先が歪んだ空間に触れると、その場所から体が分解される様な違和感を覚えるも、不安はなかった。私はいつもの赤い外套を翻させながら格好をしたまま、勢いよく飛び込む。全身が解かれる様な感覚を覚えると同時に、私の体はこの世界から消え去ってゆく―――

 

 

全身に感じるのは浮遊感。いや、解放感か。自らの体を縛り付ける全ての束縛から抜け出る感じがする。上も下も左も右も確かでない。頭も腕も胴も足もまるでなくなったかの様に感覚がない。しかし、動かしてやれば確かに何もない虚空の中をプラプラと動いてくれる。

 

辺りを見渡すと、宙に板が浮かんでいる。身を寄せて掴むと、それは指先から確かな感覚を伝えてきた。油断していると全身がばらけてしまいそうな解放感に耐えるため、その板を強く掴む。無意識のままに全力で腕を稼働させると、板を胸元に引き寄せて、その上に身を乗せた。

 

「―――ここは? 」

 

やがて確かな存在をこの腕の中に得て、バラバラになっていた意識が一つにまとまってゆく。ぼやけた視界がはっきりして行くとともに、板は一枚の小さなものでなく、幾重にも積み重り、廊下の様になっていることに気がついた。回廊、というのが正しい表現だろう。

 

「―――みんなは……」

 

やがてはっきりとした意識がようやく自らの存在を意識できる様になると、他人の存在に気を回せる様になる。見回してみれば、自分が身を寄せている回廊のあちらこちらでは、自分たちと同じ様に宙に浮いた回廊の床にしがみついている彼らの存在を認識出来る。

 

私は安堵のため息をつくとともに、彼らを回収すると、彼らから意識の混濁がなくなるまで周囲の警戒にあたった。そうしてようやく、自分たちがいる場所の異常性に気がつく。

 

「壁も天井もなし、か」

 

回廊は床以外の面を持っていなかった。便宜上我々のいる場所を中心と定めるなら、乱雑に板が積まれて中央より前後に長く伸びているばかりで、それ以外に何もない。さらに周囲に目を配ると、回廊廊下より少し離れた場所に、歪んだ空間がある。おそらくそこが自分たちが今飛び込んできた場所なのだろう、と予測する。

 

さらに歪みの観測を続けると、歪みから続く薄く白い光が、回廊を通って、別の場所に通じている事がわかる。魔力を持ってして目を強化し、千里眼を用いて遠くまで眺めると、やがて白い光は出てきた場所と同じような歪んだ空間の先に消えている事がわかる。

 

「―――ここは? 」

「わからん。だが、奴の向かった先なら、予測がつく」

 

遠くの歪みに目線を送ると、シンは頷いて応答する。やがて再起動を果たした女性陣二人に同様の説明をすると、納得の表情を浮かべて彼女らも頷いた。

 

「じゃあ、あの先に……」

「ああ、おそらく奴が―――、YHVHと奴が連れ去った人間がいるはずだ」

「―――行きましょう」

 

響の宣言に、我々は一様に頷く。白光の道はYHVHの持つ聖性を主張するかのように、不安定な空間の中をしっかりと照らして我々を導く。その事実にもしやこの選択も、奴の思惑通りなのだろうかもしれない、と不安を抱く。

 

そんなはずはないと首を振るも、ギルガメッシュとの問答により心に生まれていた不安は白紙に垂れた一滴の墨汁のように染み付いていて、私の心から消えてくれはしなかった。

 

 

大正二十一年。黒船の来航により西洋文化の侵略を受けた帝都は、和洋折衷というよりか、無理やり西洋文明の侵略を受けたような街の造りをしていた。川と堀、海は埋め立てられ、銀座、晴見町と言った港近くの町には西洋建築とビルヂングが並び、帝都中心にそびえ立つ江戸城を中心として真逆の位置にある北西の郊外に位置する築土町にも、パーラーが開店したり、ビルヂングが建てられたりと、進んだ西欧文化に遅れまいとする涙ぐましい努力の痕跡が認められる。

 

しかし日の本の国が完全に西洋に膝を屈したかというと、そういうわけでもない。深川には昔ながらの侠客や遊女が集い、銭湯、見世物小屋、遊郭の区画などが残されている。彼らのような西洋文化の波に負けぬと意地を張り日本の風俗を愛する人々や、あるいは帝都に住まいし文明開化の波を受け入れて郊外に散ることなく残った人々の手によって、日の本の国はその文化を残しながら、今なお脈々と生き続けているのだ。

 

 

帝都はこれまでに幾度か国家反逆者におけるガス事件、爆発事件などによって甚大な被害を受けてきたが、それにもめげることなく立ち上がり発展を見せる街だった。深川の町の外れに紡績工場が建築され、街中に電波塔が立ち、街の灯りが消える寸前まで、夜の街中には最新のエレキの力により運用される電車が走っていることがその証拠と言えるだろう。

 

ただし夜の闇の中を走る電車の風がまき散らす瓦斯灯の硫黄じみた匂いや、銀座のビルヂングを照らしあげるカーボン弧光燈の眩しさのような、いかにも西洋文化の兆しが侵略のようで鼻をつくと嫌い、田舎に引っ込んでしまうものも多い。そんな西洋文化とはかけらほども関わりを持たない、帝都の郊外、田舎方面に目をやり、家々のうすらぼんやりとした灯を除けば、田畑の向こう側にまで、月明かりの下、ぼやけた宵闇がどこまでも広がり、風が土の匂いを濃く運んでくる。

 

そうして古き日本を愛する人々のように帝都から志乃田の方へと足を運び、暗闇深くなる山の方へと向かうと、感の良い者ならやがて靄の中少しばかり明るいモノが見えてくることに気付くだろう。石畳を叩いて規則正しく並べられた石灯篭を数基通り抜けると、ウカノミタマの化身であるお稲荷様が二体並んでいる。さらに足を踏み出すと、稲荷の後ろには古ぼけた建物があり、入り口の前には賽銭箱が置かれていることに気が付ける。手入れがされている様子はない。

 

―――そう、この場所は多くの人の記憶のうちより忘れ去られた神社なのだ。

 

「にゃーん/『消えぬ歪みの調査? 』」

 

しかしその忘れ去られた神社の境内に響く声があった。それは猫の鳴き声だ。しかし、霊能というもの持つ余人には、それは低い声であると認識できるだろう。

 

「はい、その通りですゴウトドウジ。かつてあなたがラスプーチンと戦った天王教会において、二つの空間の歪みが発生しました。報告を受けてヤタガラスの雇ったダークサマナーを先行して調査に向かわせたところ、片方はまるで歯が立たない結界が張られているものの、片方には侵入可能であったとのことです」

『なぜいの一番に我らに知らせることなく、ダークサマナーを利用した?』

 

着物を着た藤色の紅を唇にさした女性の静かな声に応答して、ゴウトドウジと呼ばれた猫の声が響く。霊能を持たないものは認識できないはずの声の内容を、しかし女性はしっかりと理解したらしくはっきりと形の良い頭にて首肯すると、薄く紅の塗られた唇を開いた。

 

「現時点であなた方に課せられた役目は、クラリオンの残した影響の調査―――、すなわち空間の異常の証たる異界の調査と人心への影響の調査です。孤独な客人/コドクノマレビトが残した被害は甚大です。それらの調査を優先させた方が帝都のためになると判断したが故の、ダークサマナーへの調査依頼でした」

『フン、ま、理解できなくはない』

 

ゴウトは不機嫌そうな鳴き声を上げる。宵闇の中に黒猫の一声が吸い込まれて行き、場には再び静寂の時が戻った。

 

「―――その歪みは異界なのか?」

 

やがてその沈黙を破ったのは、猫の横に立つ、白皙の少年だった。学帽を被り全身を隠すほど大きなマントを羽織った彼は、無色透明な声色で質問を女へと向ける。

 

『そうだ。話を聞くところによると、消えぬとはいえ、単なる空間の歪み。たしかに放っておけぬ事態ではあるが、我らが今行なっている、異界の殲滅を放り出して行うほどの事態ではないと思うが』

「いいえ。―――侵入したダークサマナーの報告によりますと、歪みの中には床板のみが存在する回廊のような空間が広がっていて、その場には強力な悪魔どもが群がっていたようです。但し、回廊に敷かれていた白い光―――聖に属する光の中には侵入しようとしないらしく、また、その光をおった先の空間には、歪みがあったと聞きます」

「歪みの空間の中の―――、歪み?」

『おそらくその回廊とやらは我らが迷い込んだアカラナ回廊で間違いあるまい。……、しかし、回廊には時の狭間に入り込んだものしか侵入不可能であるはずだが……』

「ダークサマナーはあなた方と同様、ラスプーチンと戦闘し、逃げ帰った経歴を持ちます。」

『なるほど、ならばおそらくその際、魔トリショーカの作り出す閉鎖空間から逃げ出し、時の狭間に入り込む資格を得たのか……』

 

女とゴウトドウジは流暢に会話をかわしているが、霊能というモノを持たない側から見れば、宵闇の中、黒い学生帽と学生服をきた少年の前で、頭巾をかむって顔を隠した着物女が、一人で一拍を置いて話し続けるだけの不気味な光景だ。

 

「―――アカラナ回廊の中にあった歪みの先には何があったんだ?」

 

やがて脱線しかけた話を戻すかのよう、少年は彼らに語りかけた。女は少年の問いかけに静かに頷くと、その紅の塗られた薄い唇を再度小さく動かす。

 

「ダークサマナーは調査員として優秀な男でした。彼が意を決して歪みの先に身を投じたところ、―――その先には、この世界とはまるで別の異界が広がっていたと言います」

「まるで別の、異界? 」

「はい。彼の調査によりますと、そこには我々と同じような背丈の西洋の格好をした人間や、人面ながら頭部に獣の耳を生やしている者、あるいは御伽噺の中に登場するような悪魔のように耳が異様に尖った者や、コロポックルやドワーフと呼ばれる妖精のように小さな者が街に広く生息していたと言います」

『街に広く生息……、というと―――』

「ええ。人と、おそらく悪魔どもは、アカラナ回廊の先に街を作っていたのです。人と悪魔の共存する異界―――、それに気がついた瞬間、ダークサマナーはそこで身の危険を感じて調査を打ち切り、報告のために戻ったとのことです」

『アカラナ回廊の先にある、人と悪魔が共存せし異界、か』

 

ゴウトは低いうなり声をあげた。ゴロゴロと低い音が暗闇に響く。

 

「はい。歪みが消えぬというだけならまだしも、その先が異界に繋がっており、さらにその先の場所にて人と悪魔が手を組んでいるというのであれば、話は別。ダークサマナーからの報告を受けた時点で、本件の優先度は最高に引き上げられました」

「―――了解だ」

 

白皙のまだ幼さの残る顔をした少年は首肯すると、身を反転させる。闇夜にマントが翻り、腰に備え付けられた刀鞘とガンホルスターが露わになった。学生服の胸元には改造されたベルトが巻き付けられており、銀色の管が一定の間隔ではめ込まれている。

 

「天王教会だったな―――。十四代目葛葉ライドウ。これより『消えない歪み』の捜査に向かう」

 

少年が迷いのない口調で告げると、女は静かに一礼して、少年の任務受託を諒解した。やがて少年が神社の狐の像脇を抜け出る前、女は思い出したかのように、一言を付け足した。

 

「ダークサマナーによりますと、そこに住まう者共は、その地のことをアルカディアと呼んでいたそうです」

『アルカディア……たしか、西欧の方の言葉では理想郷とかいう意味だったか』

 

女の言葉を受けると、黒猫は少年同様、身を翻して彼の後を追う。気がつくと女も闇の中に消えており、後には元どおり、古ぼけた神社だけが残った。

 

 

昼間。直近、クラリオンという宇宙生命体の襲来―――一般的には大規模なガス漏れ事故として処理されたが―――によって荒れた帝都において、古来日本の風情が残る長屋などとは異なる雰囲気を醸し出す建物があった。

 

その建物のある領域に足を踏み入れるためには、わざわざ川を小船で渡らねばならないよう建築されている。元々は晴見町にて貿易商を営む外国人有力者、エルフマンの私有地に建てられた、―――教会だ。

 

天王教会。それは帝都に住まう耶蘇教徒のために建てられた、オーソドックスな白塗りの、ステンドグラスが目立つ建築物である。外見は聖なる館として相応しい荘厳ながらも質実な見た目をしており、いかにも聖なる気配を漂わせている。

 

「―――」

 

ライドウがその木製の両開き扉を押すと、本来ならば迷える子羊や信徒のみに開かれる扉が、黒塗り学生帽の異国の少年の手によって静かに開かれてゆく。重厚なる音を立てながら木製の扉は開き、やがて彼らを迎え入れると、再び内部へと侵入した少年の手によって閉じられた。

 

教会の中はシンとしており、人の気配はない。当然だ。元々小船を使わねば辿り着けないところを、歪みの気配を察知したヤタガラスの手によってさらに封鎖処置されているのだから、人の気配などあろうはずがない。―――しかし。

 

「やぁ、よくきたね」

「―――! 」

『お前は―――!』

 

無人の状態が保たれているはずの教会の中には、しかし、人の姿があった。彼は灰色と白の入り混じったハンチング帽を被り、帽子同様、白の上品な絹の高襟シャッツと、胸のダーツが大きく取られた灰色のシングルのジャケットを着込んでいる。チェック柄のロングソックスといい、よく鞣された黒皮の手袋とロングノーズカントリーシューズといい、一目で彼の生まれと育ちの上品さをうかがわせる格好をしている。

 

だが、最も特筆すべきは、その人形じみた美しくも印象的な顔面だろう。帽子から覗く、輝く金髪のした、彼の顔面へと目線を向ければ、彼の肌はまるでイタリアはカッラーラの大理石から直接切り出したかのごとき白磁の色をしており、シミひとつとして存在していない。また、顔面を彩る目鼻口の比率も黄金比を保っていて、神の手による造形としか思えない顔立ちの中心では、ブルーサファイアのような高貴さと知性に満ち溢れた瞳が静かに光を携えていた。

 

「ルシファー! 」

「かつてアカラナ回廊で七つのラッパの音を三度鳴り響かせた時以来かな。……久しぶりだね。ライドウ」

 

金髪の青年の名はルシファー。混沌と自由を愛し、唯一神YHVHの支配に反逆して堕天した、かつては十二の羽を持つ最も高貴な天使であった悪魔である。

 

『貴様ほどの大悪魔がなぜここに……、もしやこの歪みは貴様の―――』

「―――!」

 

ゴウトの言葉に反応して、ライドウは構える。右手は瞬時に刀剣「赤口葛葉」へと伸び、左手は胸元の細かいホルスターに収められた管を掴む。相手が大悪魔であろうと返答次第では、斬る。帝都の守護者たるライドウは、まさに必至の覚悟を決めて両腕に力を込めていた。まさに一触即発の空気である。

 

「ああ、違う、違う。勘違いしないでもらいたいな……、僕はただ、この場所でひどく懐かしい気配を感知したから、惹かれてやってきただけなんだ」

「―――懐かしい気配?」

 

ライドウが問いかけると、ルシファーは首肯する。ルシファーはその美術品のような顔をまるで変化させず、平然とした様子で述べる。

 

「―――YHVH。平和のためになら人々から自由と意志を奪うことを良しとする、僕なんかよりもよっぽど傲慢で嫉妬深い、唯一神」

『YHVH―――耶蘇教の最高神ではないか! なぜそのような大物が帝都の教会に―――』

「さぁ? まぁ、でも、考えられる理屈としては―――、そうだね……。君がクラリオンを倒した際の強大なmag/マグネタイトに惹かれたんじゃないかな」

『―――オメノオハバリのアレか。たしかに奴を倒した一瞬、奴が帝都の皆から奪った強大なマグネタイトが放出されたが―――』

 

―――あるいはその魔力の余剰によって、最高神が呼び出されたと言うのか?

 

ゴウトはルシファーの言葉を受けて、深く思考の渦を展開させ始める。こうなるとゴウトはテコでも動かないことを知っていたライドウは、戦闘の体勢を崩さないまま、目の前の悪魔に対して尋ねる。

 

「―――お前は敵か?」

「いいや、ライドウ。僕は君の味方さ。―――いや、君と言うよりも、これから君たちと遭遇する彼らの味方、と言う方が正しいかもしれない」

「―――これから遭遇する彼ら? 」

 

それは誰だ。どこからやってくる。問い質すより先に、ルシファーは山羊のレリーフがついたカバンを開くと、中から金属板を取り出した。金属板には、五芒星が刻まれている。―――いや、ルシファーという大悪魔が取り出したという事を考えれば、それは破邪の効果を持つ五芒星ではなく、集魔の力を持つ、逆五芒星だろう。

 

また、ルシファーと呼ばれる奴の取り出した、その金色にも虹色にも見える輝きにライドウは見覚えがあった。おそらくはヒヒイロノカネと呼ばれる超特殊な硬質を持つ合金で出来た物だろう。元を辿れば、神代の時代、金屋子神が鋳造した貴重品であり、同様に異国の神が鋳造した金属、例えばオリハルコンやミスリルなどの金属はそう呼称されている。

 

ルシファーはその貴重なはずの金属をバッグの中から次から次へと取り出すと、やがて丁寧に一つの麻袋に詰めて、ライドウの方へと放り投げた。意図が読めないが、敵意を感じられないので、ライドウは思わずそれを受け取ってしまう。

 

「―――これは?」

『僕からのプレゼント。破邪―――ではなく、YHVHから身を隠すお守りさ。サタンの力が込められている。それがあれば、YHVHの目から身を隠すことが可能だろう』

 

麻袋を揺らすと、金属板はジャラリと硬質な音を立てる。

 

「これからくる彼らに君から渡してやるといい。彼らもまた、別の世界での君と同じく、自由を求めて束縛を打ち破り、混沌を好む冒険者たちだ」

「―――意味がわからない」

 

ライドウが学帽下の双眸を冷徹に光らせると、ルシファーは意味ありげな笑みを深めて数度首肯し、カバンの口を閉じて、動きによって乱れた襟元を正した。

 

「そのうちわかるよ。―――さて、それじゃあ、そろそろ、時間のようだ」

「―――まて」

 

帝都に何が起こっているのか詳しい事情を問いただしてやろうとしたライドウは、しかし次の瞬間、ルシファーはその場から消えていることに気がつき、困惑した表情をうかべた。

 

辺りを見渡しても、目に映るのは白塗りの柱や壁。まだ新しい雰囲気の残る木製の椅子に、中央の祭壇が映るばかりで、不審な影はどこにも―――

 

『ライドウ! 中央、祭壇の上だ! 』

「―――!」

 

周囲の探索に意識を置いていたライドウは、ゴウトに言われて中央祭壇の少しばかり上の空間に目線を向ける。するとそこには、ヤタガラスからの報告にあったように、歪んだ空間が二つ、壁と中央の祭壇より等間隔で並んでいた。空間はその場にある静寂すら飲み込むような渦を作り、それぞれ右巻き、左巻きにぐるぐると回転している。

 

『―――くるぞ! 右だ!』

「―――!」

 

やがて注意は右の渦へと吸い寄せられた。ある意味で教会という場所に似つかわしい、聖なる属性を含んだ光が教会内を照らしあげた。思わずマントで顔を覆う。黒マントが影を生み、光が遮られる。ライドウは柱の陰に身を隠した。

 

同時に殺気を抑えながら、剣を抜いて下段に構えつつ、胸元の管へと手を伸ばす。何が起こるかはわからないが、帝都に仇をなすモノが現れたのなら、即時に処分しようという考えだ。

 

そして―――数人が着地した音が耳朶を打つ。

 

「っと、危ない。―――大丈夫かね、凛」

「―――お尻打った……、ちょっと、アーチャー。なんで助けてくれないのよ! 」

「この程度の高さ、君なら問題ないと思ったのでな。―――君も高所から叩きつけられる気分を存分に味わうがいい」

「あんた、絶対、大昔の召喚時のこと根に持ってるでしょ……」

「さて?」

 

足音を立てた奴らのうち、二人は仲が悪い男女のようだ。彼らは軽口を叩きあいながら、その後も舌戦を繰り広げている。しかし不思議なことに殺伐とした言葉が飛び交っている言葉の戦場は、しかし険悪な空気を感じられなく、ライドウは少しばかり首をひねった。

 

「―――大丈夫かね、響」

「あ、はい……、おかげさまで、助かりました」

 

一方、未だ口論を続ける彼らの傍に遅れて降り立ったのは、先の彼らと同じく、一組の男女のようだっただ。足音が重いもの一つであったこと、また、会話の内容から察するに、こちらは、男性が、女の事を腕の中には女性を抱きかかえて自然落下を阻止し、その二つの足で降り立ったのだろう。

 

「ねぇ、アーチャー。あーゆーのを、ジェントルマン、っていうのよ? 知ってた?」

「勿論だとも、凛。隣に相応の淑女がいるならば、男は誰だってジェントルマンになるだろうとも―――だが、さて、残念ながら、私の知識において、落下の際に人のことをクッションとしての使用を試みる女性を淑女とは言わん。お転婆ガールと呼ぶのだ」

「相変わらず口の減らない……!」

 

アーチャー、すなわち、弓兵という西洋の名称で呼ばれた男性と、凛と呼ばれた少女は西洋のモダンな言葉を使いこなして会話を行なっている。あの歪みの穴はアカラナ回廊―――すなわち、時空の捩れた空間に繋がるものである事を思い出したライドウは、おそらく彼らがこの時代と関連する時代よりやってきたのだろうと推測した。

 

『ライドウ―――、こやつらは―――』

「―――誰かそこにいるのか!?」

「―――どうやら柱の陰に誰かいるようだな。刀を構えている」

「え……、え……、い、いきなり敵ですか!?」

「まったく、どこの時代も剣呑な雰囲気ねー、って、げっ……。ここって教会じゃない……。まったく、どうして私の所には教会がらみの厄介ごとばかり雪崩れ込むのかしら……」

 

ゴウトの声に反応して、彼ら全員が各々個別の反応をしてみせる。その数は四人。ゴウトの声は霊能を持つものしか聞こえない特殊なものである。ということは、柱の向こう側にいる四人は全員が全員、霊能を持つものであるということか、とライドウは判断した。

 

『まて、我らは敵ではない!』

 

足元、マントの下に隠れていたゴウトが、柱より飛び出して教会の中央通路へ姿を晒していた。ライドウはゴウトの突然の動きに驚き、彼を制止することもできなかった。

 

「ふむ……?」

「ね、猫?」

 

やがてゴウトの姿を捉えた後発組は、疑問の色に満ちた声を発した。

 

「―――使い魔か」

「猫を使い魔に選択するなんて古風ねぇ」

 

一方で、先んじてこちらへと降り立った二人、アーチャーと凛は、ゴウトという存在がどのようなものであるか理解しているようで、それぞれに納得の声をあげる。

 

『使い魔ではない! 目付役のゴウトドウジだ! 』

「うっわ、普通に喋った!」

「ふむ、インテリジェンスを持つ生命体を操るとは、このゴウトドウジとやらの使役者の腕前、相当に高いようだ―――、そうだろう?」

 

ゴウトの怒りの雄叫びを涼しげに受け流したアーチャーという男は、誰もいない場所めがけて声をかけた。―――いや、その男は、明らかに柱の陰にいるライドウめがけて声をかけたのだ。

 

ライドウは一瞬逡巡したが、ゴウトが姿を堂々と表しているのを見て意を決すると、刀を抜いた状態のまま、柱の影より歩み出た。

 

「―――ほう」

「……シン? なんか見惚れてません? 男の人ですよ? 」

「うっわ、なにあれ、耽美系ってやつ? 見て見てアーチャー、すごい美少年よ」

「……なぜいちいち私の顔と見比べる。―――凛、君はどうやらギルガメッシュの薬によって、若さだけでなく、昔の頃の落ち着きのなさまで取り戻してしまったようだな」

『なんだこやつら……、まるで緊張感がない。芸人か?』

 

ゴウトの言葉にライドウも思わず納得した。四人は刀剣を構えたライドウが現れたというのに、まるで緊張した様子を見せることなく、ライドウの外見をみて盛り上がっている。かたや陽気、かたや真剣な表情で剣を構えるライドウの様子を側面より切り取ってみれば、劇場舞台の上でチャンバラをする芸人達のように見えるかもしれない。

 

「―――お前たちは何者だ?」

 

しかし自らのことを滑稽かもしれないと自覚したライドウは、それでも真剣な表情と態度を止めることはなかった。自分は超国家機関ヤタガラスに属する帝都の守護者であり、悪魔召喚師/デビルサマナーであり、十四代目葛葉ライドウの名を継ぐ男。たとえ周囲の人間にどう思われようと自分は自分の役目を果たすだけである、と余分な感情を切り捨てる強さがライドウにはあった。

 

「―――人に名を訪ねるならば、自ら名乗るべきではないかね? 」

 

アーチャーと呼ばれた男は、皮肉げな口調でそう述べた。その口調は明らかにライドウを挑発して出方をうかがうものだったが、ライドウはアーチャーの思惑を無視するかのごとく、素直に口を開いて答える。

 

「―――ライドウ。十四代目、葛葉ライドウ」

 

―――かくて世界樹の大地に降り立った月とその仲間たちは、巨人の世界にさらに深くその身を投げ入れる。照らしあげる光が巨人の世界をどう照らしあげるかは……、まだこの先、誰にもわかっていない。

 

 




ようやく幕間終了。これから、本格的に三作品を混ぜ込んでいきます。疲れた……。プロットのミスがないか確認するのと、今後の展開に矛盾がないか見直すので、次回投稿は遅くなります。ごめんなさい。また、纏めのあとがきはまた今度書きなおします。

あ、途中から第一者目線から第三者目線に代わっているけれど、これは第三者視点を神の視点と解釈し、神=バブ・イルに住まいしもの視点でやる、という風に決めていたからです。人の世界にやってきて、人として生きる彼らを表現するため、新章からは全部三人称視点中心で、気持ちを独白する際のみ、一人称、という形でやらせてもらいたいと思います。

また、エミヤの言動が変化する要因となったのは、最初に肉を食べた時です。次が自らエミヤと名乗った時。最後はシンがしんで今後のことを考えないといけなくなった時が大きなターニングポイントです。そしてシンの詩を経験したエミヤは言動がちょっと定まらない=預言者の名前に引かれるようになり、強引さが増したわけです。

ちなみに、後半に向かって文章を多少崩して、彼らの焦りと困惑、誰かの魂が宿っているのかも? と思ってもらえるかなって思ってミスリード風の文章をやってみましたが、ダメですね。単なる手抜きにしか見えません。時間を見計らって後で訂正します。

自分ではFATE、世界樹の迷宮含むアトラス作品にも敬意を払うつもりでAルート、Bルートを書きましたがいかがだったでしょうか? お楽しみいただけたのなら、光栄です。

また、もうここまで読んでくださった方ならお気づきでしょうが、ここまでのこの物語の真の裏主人公は、実は言峰綺礼と魔のモノではなく、ギルガメッシュとYHVHでした。この世界樹の迷宮の大地は、バブ・イルであり、バビロンであり、バイブルでもあったた……、という独自設定です。ですので、いろいろと神話関連のネタをぶち込んでいたわけです。

さて、長々と書いてきましたが、次回からは新章です。リアルで失職の危機なので、次回更新は遅くなると思います。気長に待っていてくれると嬉しいです。それではまた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
あ、適当にでも感想や指摘くれると嬉しいです。


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世界樹の迷宮 ~黄昏の時代は来たりて~
第一話 月影の守り手と異邦の英雄


世界樹の迷宮 月と巨人の原典

 

~黄昏の時代は来たりて~

 

第一話 月影の守り手と異邦の英雄

 

「はっ……、はっ……、はっ……」

 

規則正しく呼気と吸気を繰り返すたび、周囲に広がる闇夜の冷たさが胸を刺す。空には煌々と輝く満月が浮かんでいる。常ならば白色にて夜の天地を照らしあげるその光は、しかしなぜか今この時においては、周囲を薄ら暗く、足元も見えないくらいにしかその力を発揮してくれていない。

 

「はっ……、はっ……、はっ……」

 

全力で走り始めてからもう半刻はたっていた。下っ腹が痛くなる時間帯はもうとっくに過ぎ去っていて、今では限界を超えて酷使された両足が「もういい、今すぐ頑張ることをやめて休んでしまえ」と訴えているかのごとく、針金で締め付けられたかのように痛んでいる。そうして痛む足元を見やると、暗がりの視界の中にチラチラ緑の光が映り込む。おそらく脳が酸素不足ゆえに痛みを訴えているせいだろう、と女は思った。

 

「っ……! っぁ……、はっ! んぅ、ぐ、ぅ……。はっ……、はっ……、はっ……」

『……ハッ、……ハッ!』

 

痛みにより意識が周囲に拡散される。そしてその意識が嫌悪の吐息を拾い上げた瞬間、足が縺れ、転びかけた。それでもなんとか体勢を保つことができたのは、彼女の運動能力や反射が優れているからではなく、ひとえに彼女の痛みが、恐怖心が、生存本能が、この場において転ぶという選択肢を許さなかった結果である。

 

「はっ……、はっ……、はっ……」

『ハッ…、ハッ…、ハッ…! 』

 

女は雪駄を脱ぎ捨て、白い足袋が土や泥で汚れる事を気にする様子もなく、ただ必死に走っている。入り組んだ帝都の街をどれだけ逃げたかはもうわからない。銀杏返しを保つための真葛の粘液は滝のように流れ出る汗の前に流れ落ちて、髪はとっくに体裁を保っていない。店の主人から送られた華やかな簪をどこぞへ落としてしまったなんて些細な事、彼女にとってもうどうでも良い事だった。

 

「はっ……、はっ……、はっ……。っ、はぁー……」

『ハッ…、ハッ…、ハッ…! 』

 

街並みが少し閑散としているところを見るに、帝都の外側に向けて走っていたのだろうと女は思った。少なくとも、根城である深川町の遊郭などとうの昔に抜け出ているはずだ。一度入ったからには身請けか死体になる以外の方法で抜け出せぬ場所であるし、どうにか外に出たいものだとは思った事も少なからずあるが、だからといってこのような形で廓を抜けるという事態を女は望んでいなかった。

 

「っ……! はっ…、はっ…、はっ…」

 

肺はもうとっくにまともに動いておらず、体は限界を十重二十重に超えているのだと全身が強く訴えていた。その訴えかけに負けて、少しばかり大きく息を吸った瞬間、じゃらじゃらと鎖が擦れる耳障りな音に混じって、短い間隔の生々しい呼吸が聞こえた。途端、女は弾けるようにして再び走り出す。

 

「はっ…、はっ…、はっ…」

『ハッ…、ハッ…、ハッ…! 』

 

体に羽織っている着物が着崩れ、裾から大きく太腿が肌蹴るのも御構い無しの全力疾走だ。女がこれほど必死になって走ったのは、中国地方の果てより東京市千寿区深川町にやってくる以前、まだ呑気に野山を駆けずり回っていたころ以来だ。

 

疲れている。胸が苦しい。頭が熱い。喉が痛い。もうやめよう。よく頑張った。休みたい。休みたい。休みたい。休もう。休むべきだ。―――身体が痛みを伴って切に訴える求めを素直に聞いてやれない理由が、今まさに背後に迫っている。

 

これが例えば、女の所属する廓を訪ねる男たちが口にするような、「君を極楽浄土に連れて行ってあげる」という比喩文句が示す境地であるなら兎も角、もし後ろの獣に追いつかれたなら、それは自分の事情など御構い無しに、一切の躊躇なく、自分のことを極楽と呼ばれる死人の居場所―――、いやそれどころか、地獄へと連れていってしまうだろう事を、女は確信していた。

 

「はっ…、はっ…、はっ…」

『ハッ…、ハッ…、ハッ…! 』

 

だから足を止めることができない。死ぬ事と比べれば、この程度の苦痛は生きるための必要経費で、羞恥など取るに足らない端事だ。一発逆転を目指して帝都にやってきた両親は事業に失敗し、私を売ったが、それが彼らの苦渋の末の選択であった事は、その家に生まれ育った私が一番知っている。故郷にて食うに困り先立ってしまった兄弟姉妹や友人のごとく、痩せ細って膨満な腹になった末、炉に放り込まれなかっただけでも有難いことなのだ。

 

両親は私を、どのような苦境に落とすことになろうと、生きてほしいと願ったからこそ、私を廓に売り飛ばしたのだ。だから死ねない。死ぬわけにはいかない。私はどのような無様を晒そうと、この七難八苦の苦境を乗り越えて、またあの人たちと―――

 

「……っあ! ――――――、あ……」

 

女の必死を引き出した思い出は、しかしそれが彼女の命取りとなった。麗しいはずの記憶は、しかしこの生と死の二項原理のみ支配する場においては邪念のうちの一欠片に過ぎず、彼女は石に足を取られ、転げてしまう。

 

長く走り回る間に彼女は帝都の舗装された区画外に抜けてしまったのだ。舗装道は未だに砂利と雑草が好き勝手に伸びる野地へと変化し、そこかしこに石や木の葉が転がっている。彼女の足を絡め取ったのも、そういった地面に転がる要素の一つであった。

 

『ハッ…、ハッ…、ハッ…、ハッハッハッハッハッハッ! 』

 

女が地面に転がったのを確認すると、獣はすぐに彼女へと追いつき、その周囲を駆け回る。獣の吐息は女と異なり、まるで疲れた様子を見せていなかった。四足歩行をするその獣にとって人間の女を追う行為は狩りではなく、単なる遊戯でしかなかったのだ。

 

「あ……、あ……」

 

全霊を用いて駆け抜けていた女は、勢いよく地面と接触した際、大いに顔を打ち付けて、脳震盪を起こしていた。眼球は焦点が定まっていないことから、意識が朦朧としていることもうかがえる。それでも手足が微か動き、悶える全身が細身を前に動かしたのは、女の生きることに対しての執念がなせた奇跡なのだろう。

 

『ハッハッハッハッハッハッ! 』

 

だがそんな足掻きも長く続かないことは、誰の目にも明らかだった。じゃらじゃらと首輪から伸びた鎖を垂らしながら女の周りを回る存在は、獲物がもはや自らの狩猟本能を刺激しない存在になった事を確認すると、四つ足を正して、大きな口を細めて、天へと向けた。

 

『ォオーーーーーン! 』

 

それは獣が遊びの狩りの真似事を終え、獲物を食せる状態に仕留めたという合図だった。首元に鉄の鎖ついた首輪をはめられた、二股に別れた尾を持つ全身が赤い四足中の獣―――ガルムと呼ばれる北欧神話から飛び出してきた悪魔は、戦果を誇るかのように、高らかと吠え散らかす。ヘルという地獄から死人の出入りを制限する門番は、今まさに、死の淵にある女を地獄に引きずり込もうとしていた。

 

『ォオーーーーーン! 』

「―――う、ぅ……」

 

続く雄叫びも周囲の空間全てに響き渡るかのような、声量だった。その馬鹿でかい声に女は微かに意識を取り戻し、瞼を開く。耳をつんざく獣の遠吠えは人の心に不安の漣を引きおこす。女は本能的に獣から少しでも遠ざかろうとするが、犬はそれを目ざとく耳ざとく感じ取ったらしく、女に近づくと、単着物が微かに被っただけの背中を四肢の一本で抑えつける。

 

「―――あ」

 

それは女にとって、決定的だった。背中から感じる獣の力はあまりに強く、そして容赦がない。爪が軽く突き立てられ、じくりとした痛みが背中に走った。自分はもう助からないのだと確信する。

 

―――ああ、もう助からないのだ。

 

全身から力が抜けていく。それを感じ取ったらしく、獣はさらに高らかに遠吠えを発した。

 

『オンナ……、ナカナカ、タノシマセテモラッタゾ……』

 

畜生の口から言葉が発せられるはずなどないのに、幻聴まで聞こえた。そう認識した女は、ついに己の脳が現実逃避し始めたかと感じた。現実と幻界の境界線が薄れて行く。私の頭はもう、畜生の声を人のものに変換してしまうくらい、壊れているのだと女は認識した。

 

『ダガコレデオワリダ……』

 

―――ああ、そうだろうとも

 

女が薄れゆく意識の中で覚悟を決めた途端、女は背中から重みが消えたのを感じた。

 

『グギャ!』

「―――どうやら間に合ったようだな」

 

男の声が聞こえる。声は新造の自分が世話をする花魁たちに群がる男どもが口にするような、ちゃらちゃらとした軽薄さに満ちたものではなく、遣手の女の連れ添いや店主といった大人たちが発するようなしっかりとした意志を持つ男特有の低いもので、力強く、そして抑えきれない憤怒に満ちていた。

 

「―――そのようだ」

 

続けざまに聞こえる涼やかな声。先に聞こえた声が大鼓の重低音であるとするなら、こちらは五人囃子の彼が持つ小鼓のそれだ。まだどこか幼さ残る軽やかな声は、先の男が作り上げた雰囲気を霧散させて情報処理が追いつかず混乱する女の脳を微かばかり回復させていた。

 

『グ、キ、キサマラ―――!』

 

獣が口から発した怨嗟の声により、女の虚ろな視線がガルムへと注がれる。今しがた自分を追い詰めたはずの存在の土手っ腹からは、奴の全身の赤とはまた別の鮮烈な赤色が、液体となり、雫となり、地面へと垂れ落ちていた。

 

『ダレダ、オマエタチ! ナンデオレヲコウゲキスル! 』

 

ガルムの言葉はそれこそ女の方が獣に尋ねたいと思うものだった。

 

「それはこちらの―――」

「―――葛葉」

 

低い声をした男が獣の問いを一蹴し、問答を返そうとした瞬間、細い方の声の男がそれを遮って律儀に答えた。

 

「十四代目、葛葉ライドウ―――、ヤタガラスの命により帝都の守護を任されている……、故に、帝都の平和を乱す貴様を討つ」

 

断じられた言葉が本来の声量よりも強く大きく聞こえたのは、ライドウという男の裡に秘められた意志の強さ故だろう。

 

「―――、そしてその手伝いのエミヤ……、衛宮士郎だ」

 

衛宮士郎は、ライドウという男の律儀さに付き合ったのだろう、一拍おいてから、やはりこちらも律儀に身分と名前を明かす。

 

「困っている人を見ると助けずにいられない性分でな。―――故に、彼に与して貴様を討つ」

 

二人の言葉はあまりに力強く、そして救いに満ちていた。その言葉をこそ、女は真に欲していた。自らを拾い上げるという宣言を耳にしたのを最後に女は意識を失う。必死の逃走により白粉と化粧がすっかり剥げて落ちて恐怖にまみれていていた女の顔には、いまやすっかり安堵の表情が浮かんでいた。

 

 

『ラ、ライドウダト!』

 

その名を聞いた途端、ガルムと呼ばれる獣は迷わず離脱した。街の光が輝く所とは真逆の方向へと逃走する。燃え上がるような赤い体と血の深赤は、歪んだ闇夜の中によく目立つ。即座に追撃のために投影してあった弓と矢を叩き込もうかと考えたが、思うところあって手を止めるとライドウへと問いかける。

 

「どうする?」

「―――異界にて戦闘ではなく離脱を選択したということは、先に仲間がいるはずだ」

 

夜気を裂いて現れたのはまず白刃。続けて黒塗りに銀の装飾が施された学生帽。その鐔下に覗く白皙の顔には筋のはっきりと通った鼻と双眸が陶器人形の様に左右均等に配置されており、揉上げは彼の律儀と誠実な性格を表すかのようにピンと整えられている。

 

顔面の白さとは真逆に、首から下は、詰襟学生服、マント、革靴に至るまで黒塗りで、闇夜に溶け込む洋装をしている。手にした白刃、と胸元の特殊な形状をした弾丸ホルスターに細長い銀管、腰にある銃を収めたホルスターがなければ、ただの美少年にしか見えないだろう。

 

もっとも武装していなかったとしても、大正という時代背景から考えれば、夜、人通りのない場所を歩く学生など、治安維持法によりしょっぴかれて仕方ない存在であるわけだが。

 

『なるほど、そこを一網打尽とするわけか。だが焦るなよ、ライドウ。それにエミヤとやらも』

 

そんな夜遊びを咎めるかのごとく、白顔の美少年の言葉に忠告を与えたのは、彼の足元にいる黒猫だ。ライドウのお目付役を自称する彼は、緑色の独特の色合いをした瞳を爛と光らせて暗闇の中から姿を現した。聞くところによればあの瞳の色はマグネタイトという魔力に似た生命エネルギーの発露であるらしい。

 

「了解だ。―――この女性はどうする? 」

 

ゴウトの忠告をありがたく受け取ると、私はライドウに問いかけた。問いに、ライドウは胸元のホルスターから銀管を取り出すと、振った。銀管の端が動き、銀管の一部が伸びたかと思うと、その隙間から翡翠色が覗き、闇に円弧を描く。すると、銀管の中から影が飛び出してきた。

 

『オオオオオオ! 』

 

影は三つの口を大きく開くと、先程この場所にて活動していたガルムへこの場所が自らの領域となった事を知らしめるかのよう、高らかに咆哮した。三つの口から同時に発せられた咆哮は、音波同士が重なり合って、重厚ながらも周囲に大きく轟き響く。そうして周囲へと威嚇を撒き散らしていた灰色の体を持つ獣の三つの顔は、やがて口を閉じてゆくにつれ一つへと統合されてゆき、そして通常の狼のような姿へと変貌した。

 

『―――ケルベロスか』

 

体長は二メートルほどもあるだろうか。尻尾まで含めるなら、三メートルは下回るまい。その姿だけ見れば、顔面を優雅に覆う鬣が凛々しく雄々しい通常の大型犬にみえなくもないが、満足げに三日月の形に釣り上げた音の収束した口元からは炎が漏れるさまをみれば、一瞬でそんな考えは吹き飛ぶだろう。大型犬―――かつてギリシャ神話の大英雄、ヘラクレスと死闘を繰り広げたケルベロスという獣は、まさに地獄の門番と呼ぶに相応しい風格を備えて帝都の異界に降り立っていた。

 

各地に残る神話伝承の中にしか存在し得ないはずの存在、すなわち悪魔―――この世界においては、鬼も天狗も蜘蛛も、あるいは、神や天使も、もちろん悪魔も、ひっくるめてこう呼ぶ―――を使役する存在こそ、悪魔召喚師。通称、デビルサマナーである。

 

古き日本の姿が残った大正二十一年。私からすれば異常な歴史を辿っている世界において、彼らの存在はそう呼ばれ、古くから時代の影にて様々な暗躍をしてきたという。そして目の前の少年は、そんな悪魔どもに対抗するため、日本が古来より影に抱えてきた超国家機関『ヤタガラス』という機構に所属している、『葛葉ライドウ』の名を継ぐ十四代目の悪魔召喚師、というわけだ。

 

また、彼はまだ若い身ながらも、日本の中心であり、命脈でもある帝都という場所の守護を一身に受け持ち、これまでこの国が転覆しそうな事件をいくつも解決してきた凄腕でもあるという、なんともすさまじい経歴の持ち主だが、同時に素晴らしく重い使命を背負っている少年だ。やはり私のエゴに過ぎないのだろうと知っていながらも、個人的な思い入れから、そんな彼のことを不憫に思ってしまうのはやめられない。

 

『サマナー、ナンノヨウダ? 』

「近くにヤタガラスの使者が潜んでいる。この女性を彼女の下まで運んで欲しい」

『ワカッタ』

 

そんな私の憐憫や思惑などとはまるで無関係に、ライドウが地面に臥した女性を指差すと、ケルベロスは背骨から伸びた黒く堅牢そうな骨のような長い尻尾を器用に動かして、自らの背中に女を導いた。女は微かに呻き声をあげるも、意識を取り戻す気配はない。米俵でも載せるかのようにしてケルベロスの背に乗せられた彼女の指から、ポタリと一滴の血が落ちた。ケルベロスは瞼と瞳を顰める。

 

『サマナー。コノオンナヌルヌルスル』

「どうやら随分とまた派手に転げたようだの」

「―――」

 

ライドウは無言で女性の怪我を確認すると、二本目の管を取り出し、再びそれを振るった。

 

「スカアハ」

『おや、およびかい、ライドウちゃん』

 

すると管より少しばかり嗄れた女性の声が聞こえ、女性のシルエットが宙に浮かんだ。鐔が四方に長く別れた独特の形状をした鐔長の釣鐘型クロッシュ帽子を被り、同色の赤いマントを羽織った正座の姿勢を崩さない凛とした横顔の彼女は、それだけ見れば和洋折衷整った姿を保つモダンガール/モガに見えなくもないが、頬に刻まれた薔薇の刺青と、黒塗りの女性用下着だけの上半身、どぎつい角度と狭い面積をしたハイレグを履いている姿が彼女―――スカアハを淑女というイメージからひどく遠ざけていた。

 

―――よく見てやると、あわらになっている細身の肉体は、一見女性らしい柔らかさに満ちているものの、その全てが鍛え抜かれた筋肉で構成されており、無駄のない造形を保っているのがわかる。なるほど、ケルト神話、アルスター伝承において影の国の女王と称され、あのクー・フーリンの師であったというだけの事はあると勝手に納得する。その細身ながらもしなやかな体から繰り出される体術は相当の練度と威力を誇るだろう。

 

『あら、色黒のお兄さん。そんな熱い視線向けんといてーや。おばちゃん、恥ずかしいわー』

「ああ……、すまない」

『あら、きちんと謝れるなんて素直なええ子やねー。ええんよー、気にせんといて』

 

スカアハは気さくに黒の多重な紐型アームカバーに包まれた腕を伸ばすと、私の頭を撫でた。幼子をあやすかの様な優しさを含んだその手つきを無碍に振り払うのも躊躇われたのでそのまま身を任せている事とした。するとやがてスカアハはそうして自らの所業でくしゃくしゃになった私の髪を軽く整え、手を離してライドウの方を再び向く。

 

『ほんでライドウちゃん。今日は何の御用だい? 』

「彼女の治療を」

 

ライドウがケルベロスの背に横たわっている女性を指差すと、それを見たスカアハは優しさ携えていた双眸を曇らせて顰めっ面を浮かべると、頷いた。

 

『―――ああ、こりゃ酷い。……ディアラハン』

 

ディアラハン。スカアハが一言唱えた瞬間、緑色の光が彼女の手より現れて、ケルベロスの背に横たわる彼女の体を包み込み、緑色の光―――癒しの力を含んだマグネタイトの光は女性の傷を残らず塞いで行く。

 

『はい、おしまい、と』

「助かった」

『ほなまたなー』

 

ライドウが彼女の飛び出した管を振るうと、スカアハは手を振りながら緑色の光となって再び管の中へと戻ってゆく。やがてマグネタイトに分解された彼女が完全に管の中へと姿を消すと、ライドウは管より伸びた部分を収納し、胸元のホルスターへと再収納した。

 

「行こう」

 

そして己の身嗜みを整えたライドウは、私とゴウト、ケルベロスに呼びかける。

 

「ああ」

 

応答を返すと、ライドウは闇夜に赤と黒の外套を翻させて、素早く闇夜の中へと消える。私が彼に続くと、ケルベロスとゴウトも、彼とは別の方向向けて、あるいは彼らの後を追って、異界の中を駆け出した。

 

 

「ああ、もう、鬱陶しいわね!」

 

イン……、ではなく、凛が叫ぶ。彼女の指先から飛び出した黒い光―――「ガンド」という呪いの魔術らしい―――は、宙を直進する赤い盾に当たると、そのままあえなく霧散する。月明かりや瓦斯灯の光とは異なる、緑の光が其処彼処に散乱する不思議な空間の中、空中で赤い盾を構えて凛への突撃を敢行しているのは、同じく赤い兜と鎧を纏った、鳥の羽を背中に生やしたエミヤやダリくらいの背丈がある人型の魔物―――ではなく、悪魔だ。

 

たしかライドウは天使パワーとか言っていた。そうして凛の一撃を防いだパワーはすぐさま凛の眼前に迫ると、赤槍を振りかぶり、お返しとばかりに凛へと槍を振り下ろした。

 

「まっず……! 」

 

凛は慌てて身を引くも、パワーの速度は彼女のそれを上回っており、槍先は寸分たがわず彼女の心臓へと向かっていた。

 

『何……!?』

「凛、あまり前に出るな。庇いきれん」

 

しかしパワーが繰り出した雷光の一撃は、赤銅色の剣によって断ち切られていた。シンだ。人間のブシドーからアンドロへと生まれ変わった彼は、ブシドーとしてのスキルを一切使えなくなっていたにもかかわらず、刀を好んで使い戦闘を行う。まぁ、元々この世界ではどのみちスキルが使えないのでその選択は間違っていない。

 

……のだが、加えてシンは、本来のアンドロという職業が使えるスキル―――身体機能である体の仕掛けを、使わずに戦おうとするのだ。オランピアというアンドロの女性に、「全身に仕込まれた機械を使って戦えば、以前よりも有利に戦闘を進めることが出来る」と断言されたにもかかわらず、それでもシンは機械の体の機能を封印して戦っていた。まぁ、なんともシンらしい拘りだと思う。

 

「ありがと。感謝するわ」

「構わん―――が……、逃げられたか」

 

シンはパワーから目を離さない。槍の柄を断たれたパワーは街中より離脱して高い場所まで上昇すると、羽を大きく広げて棒となった槍を横に構えた。するとパワーの背後から光の球が現れる。

 

「あれは―――! 」

「アローレインとかいうやつか! 」

 

私の疑問にシンが答える。先程数度私たちを散らすために使われたそのスキルは、光の矢雨霰となり襲いかかってくるというものだ。光の球の一発一発に秘められている威力を侮れないことは、先程奇襲を受けた際に犠牲となった誰かの住居跡が証明してくれている。光の矢は、分厚くとも木の板であったり、鉄の板であっても薄ければ貫くのだ。ならば光の矢の先が当たる対象が人体であるなら、その結果は見るまでもないだろう。

 

「この距離じゃ、ガンドだと有効打にならない……! 」

「じゅ、銃を使います! ―――、た、弾は……!」

 

凛が悔しげに漏らす間にも光の球は大きくなっている。私は慌ててライドウに貰った銃を取り出して弾を装填しようとするも、慣れない稲妻回転銃/ライトニングコルトという道具の弾倉を前に苦戦する。

 

「響、何やってるの!? 」

 

もたもたとしている私を見て、凜が叫ぶ。

 

「ご、ごめんなさい! じゅ、呪殺弾の装填を……」

「いや、それには及ばない」

「え……?」

 

そうして私がなんとか六連の回転弾倉に弾丸を込め終えると、その頃にはシンはクリーム色の下の体、その膝から下の黒い機械部分を露わにしてしゃがみこんでいた。一体何を―――

 

「今の私なら一足飛びで射程の範囲だ」

 

すると宣言したシンの足裏と足首部分から複数の炎が噴出した。炎と煙の勢いや凄まじく、シンの体内より生み出された二つの成分は温風を伴って地面を叩くと、シンの体はあっというまに自らが生み出した砂埃の上へ向かって直進する。

 

『何!?』

 

ロケットジャンプ……、だったか。本来なら回避の為に積み込まれたアンドロの身体機能を、シンは攻撃のために使用したのだ。瞬時にパワーへと肉薄したシンは、奴が光の球を放つよりも先に刀を逆袈裟に振り抜いた。

 

『ば……、か、な』

 

シンの一閃は硬質そうな赤の籠手も、鎧も、蛸の文様が刻まれた盾をも切り裂いた。ついでとばかりに刀を振り抜くと、それでも止まらぬ勢いを利用して敵の背後より首を叩っ斬る。

 

「生身でないというのも、案外便利なものだな。以前ならこの距離は確実に射程外だった」

 

そうして体を鎧ごと斜めに切り裂かれ、頭部を切り飛ばされたパワーは、全身が緑色のマグネタイトの光となり拡散して消えてゆく。一方、パワーを切り裂いたシンは、呑気にそんなことを口にすると、放物線を描いて少し遠くの場所へと落下する。やがて地面へと落下した彼は、細かい砂の飛沫を思い切り散らしながら地面へと接触し、接地と同時にしゃがみこんで着地の衝撃を逃す動作をした。衝撃は大地を砕き、ドズンッ! と大きな音が響いて、周囲にある木造の建造物がグラグラと揺れた。大丈夫なのだろうか……?

 

「―――が、着地の際の衝撃を逃がすため、いちいち脚が硬直する。その上この動作が自動的なものとなると……、いかんな。これはいただけん」

 

などと思っていると彼は刀を手にしたまま唸りだす。どうやらシンにとって、着地の際の衝撃云々などよりも、機械に生まれ変わった体では刀を振りにくいという事態の方が重いらしい。

 

そんなシンの様を見ていると、なんだか私は胸が暖かくなった。ああ、彼が戻ってきたのだ、と確信する。刀を見てぶつくさと自分の挙動に文句をいう様は、まさにいつか在りし日にシンが見せた日常の一コマのそれだった。

 

シンがそこにいる。姿こそだいぶ変わってしまったけれど、あの戦い以外に興味をむけず、日常においてはすこし惚けたところのある、シンがそこにいるのだ。その事実はなんとも私の胸の中を駆け回って、温かい気持ちを発生させている。

 

戦闘狂とも称されるシンという彼が戻ってきたと実感するのが、彼と話をしたり、対面した後ではなく、彼が刃を抜いて自らの戦闘を振り返った直後であるあたり、なんとも彼らしいと思う。でもそれがシンなのだ。無鉄砲で、向こう見ずで、戦闘狂で、素直な、私の好きなシンなのだ。

 

そんな思いを自覚すると、靄がかかった様だった頭の中が晴れて行く。頭の中で本当の私を縛り付けていた何かの束縛からようやく抜け出せた気分だ。意識は目の前のシンにだけ集中している。気がつけばあの人のことを考えている。あの人のことを思えている。

 

考えようと意識しなくとも、覚えていたいと自分に強いなくても、好きな人のことを、好きな人の記憶を、自然に覚えて記憶し、感情と結びつける事ができる。それはとても幸せなことだと思った。これが本当に、好きだという事なのだろうか。

 

嬉しくて、嬉しくて、私はただシンを眺めていた。それだけ幸せな気持ちは次から次へと溢れてくる。いつまでもこうやって彼のことをそばで眺めていたい―――

 

「あーあ、乙女の顔してくれちゃって」

「り、凛さん!?」

「凛でいいってば。ま、気持ち、わからなくはないわ。―――二度と会えないと思っていた人との再会って、特別だもの。それが想い人だっていうんならまた格別よね……」

「凛……?」

 

私をからかった凛は、嬉しい様な、寂しい様な、諦観したかの様な、そんな複雑な感情入り混じったような表情を浮かべると、エミヤたちが消えた方角へと視線を浮かべた。その瞳の中に映る感情にピタリと当てはまる言葉を私は思いつかなかった。

 

「ま、いいわ。贅沢言っても仕方ないもの。とりあえず、今は勝利を祝って、あそこでブツクサ言ってるあなたの想い人を迎えに行きましょ」

「あ、……はい!」

 

凛の作り笑いに合わせて、私はにっこりと笑顔を作り、互いに作り笑いを交錯させると、今しがた私たちの窮地を救ったシンの目を覚ましてやるべく、彼の元へと近寄った。

 

 

背後より聞こえた地を揺らす音は遠くにいるライドウらの耳朶をも打つ。

 

「―――今の音は」

 

ライドウが呟くと、エミヤはマグネタイトを目元へと集中させて帝都方面を眺めた。器用なことに別の場所へと視線をやりながら疾走するエミヤは、ライドウとほとんど変わらぬ速度を保ったままである。

 

「どうやらシンがパワーを討伐したようだ……。魔除けの紋様を施した甲斐があったな、ライドウ。空中で彼に分断されたパワーが消失してゆく姿が見える」

 

パワー。能天使。神という存在によって始めに作られた天使とされた彼らは、のちの神学において九階級中の六位と認定されたが故に多少侮られる事も多いが、パワーと共に最も最前線で悪魔たちと戦う天使であり、その強さは本物だ。

 

しかしそんな普通の人間ならば恐れて当然であるべき存在は今、シンの刃閃の前に掻き消されていた。マグネタイトの緑の光が周囲を薄らぼんやりと包むという視線が通りにくい視界の中、キロメートルは離れた場所の出来事を見届けたエミヤは、「流石にやる」、と感心した声を上げると、再び踵を返し、ライドウに追いつき並走した。疾走の最中それだけの事をやってのける男をみて、やはり只者ではないということをゴウトは確信する。

 

『絡繰仕掛けの彼が悪魔を倒したのか。ならば話が早い。後は―――』

「首魁を捕まえれば事ははっきりする」

 

ライドウの言葉に彼の肩に乗るゴウトが頷く。

 

『しかしあやつめ、何処まで行くつもりだ? 』

 

ガルム既に隅田川沿いに両国まで北上すると、東方面へと大回りに迂回して南進。そのまま突き進んで、再び深川町付近を通り過ぎて、さらに南下し、そして西に直進していた。

 

『てっきり郊外に逃げるつもりかと思うて泳がせていたが……。ガルムめ、このままだと帝都の内側へと戻っていってしまうぞ』

 

ゴウトのぼやきにライドウは目線を鋭くした。郊外にいるだろう下手人の元にたどり着くかもしれないと思って泳がせていたが、奴が再び帝都へと来襲するというのであれば、話は別。いかに現実と違う層である異界の中での出来事とはいえ、中での出来事は、放置しておけば現実には影響を与える。ライドウはガルムの召喚主を突き止めることを諦めて、仕留めることを決心したのだ。

 

「いや、―――だがその心配はなさそうだ。見ろ」

 

だがそんなライドウの剣呑な雰囲気を察して、エミヤはそれを制止するかのように言葉を飛ばす。

 

『ふむ、奴の姿が見えなくなったな」

「―――あれは」

 

つぶやきにつられてエミヤが視線を向けている方向へ視線を向けると、ライドウは見覚えのあるものを目にして、声を漏らした。その場所はライドウにとって少しばかり思い入れのある場所だったからだ。

 

帝都の東に存在する深川町の南、隅田川沿いの一区画には大きく開かれた土地がある。開発の進んでいない鉄屑や廃品で溢れるその土地は、かつてライドウが超力兵団事件の折にその力を借りたロケット打ち上げに情熱を燃やしていた九十九博士という人物が住処にしていた場所であった。

 

「たしか、万能科学研究所……」

『我を宇宙へと飛ばしたあの男か……』

「……なに?」

 

ゴウトの言葉を聞いてエミヤは眉をひそめた。形のいい目鼻の距離が縮まり、白眉と共に困惑を表現している。

 

『聞きたければ後で聞かせてやる。それよりも今は―――』

「了解だ」

 

ライドウたちはガルムが跳躍をやめた時点で足音を完全に殺して気配を消していた。二人が異界と化した街の整備の手が入った道を静かに疾走すると、まずガラクタ広場の中央に鎮座する、五メートルほどの高さのポールの先端に括り付けられた看板が目に入る。鉄のポールの先についた看板には「打ち上げてやったぜ」と右から左に文字が刻まれ、風を受けてくるくると回転していた。

 

その目下。ライドウたちは広場の中央に立ち並ぶガラクタの中央に黒い影を見つけた。そいつは黒いカソックを纏っていた。奴の目の前では逃亡したガルムがこれから罪を告白する仔羊のように頭を垂らしていた。

 

『サマナー、スマナイ。シッパイシタ』

「使えない奴め……、と言いたいところだが、神に使える力であるパワーがやられたのだ。お前如きが失敗したところで仕方のない事なのだろう」

 

静まり返った異界という空間の中、一匹と一人の声は追跡者である二人と一匹の耳元にまでよく聞こえてきた。ガルムの報告を聞いたそいつは、叱咤するでなく、激昂するでもなく、失望の色濃い声色で吐き捨てた。

 

「―――」

 

その声を聞いたエミヤは今、隠密を保たねばならないという事態であることを忘れたかのように気配を露わにした。エミヤのそれが、ヤタガラスの使者との交渉において冷静、かつ冷徹に、涼しげな顔で自らの居場所や拠点をもぎ取った人物がすると思えないような迂闊な行動だったが故に、ライドウとゴウトは驚いた表情で彼の方を向く。

 

「―――ほう」

 

カソックを身に纏う耶蘇教の信徒にしては珍しく、黒髪の頭と肌の色をした、しかし東洋人離れしたがっしりとした長身と骨格を持つ黒ずくめの男は、先程までの不機嫌を忘れたかのように、感慨に満ちた声をあげた。

 

「懐かしい気配だ。いつぞや礼拝堂で初めて出会ったと同じ、未熟で、迷いに満ちた仔羊の気配……。あの夜もこの様な月の下であったな……」

「―――っ!」

 

言葉を聞いて、エミヤは高台の物陰から飛び出した。エミヤの挙動にライドウはやはり驚くが、すぐさまエミヤを追いかけ、彼の後に続いて広場上にある木製の橋の欄干にまでたどり着く。

 

橋の下を眺めると、異界の主人だろう男の顔が露わとなる。やはり東洋人系の顔立ちをしたその男の顔の彫はしかし深く、まるでこの世の苦悩を一身に背負っていたことがあるかのようだった。奴はその彫り深い顔に満足げな表情を浮かべると、旧来の友を迎えるかのように両手を広げて、エミヤに対して歓迎の意を示した。

 

「異なる時代、異なる場所にて、異邦人と成り果てた同郷者との再会だ。諸手を上げての歓迎とはいかないが、せめてもの祝福にこの言葉を貴様に送ろう。―――久しいな、衛宮士郎」

「貴様―――、貴様がなぜここにいる、言峰綺礼―――!」

 

静かに吐き捨てたエミヤはこれ以上までないくらいに威圧を周囲に撒き散らし、空気を揺るがした。途端、空間は異常な雰囲気に支配される。エミヤの発するそれは、ライドウの肌をひりつかせ、産毛を逆立たせ、喉元の奥まで乾き上がったような錯覚を覚えさせた。

 

また、人ではないゴウトやガルムも、彼の発する圧に、自然と毛並みを逆立たせて警戒の体勢をとっていた。その場にいる全ての生物が、エミヤの向ける静かな憤怒と憎悪に意識を奪われ、しかしその二つの激情を向けられる言峰綺礼という男だけが、エミヤのそれを受け止めて平然と、いやむしろ、愛おしげに彼のその二つの感情を受け止めている。

 

「なぜ、と問われると返答に窮してしまうな。ふむ、だが、そうだな……。ロマンティックな言い方をするのなら、私と貴様の間にある断ち難き縁ゆえに、と言ったところだろうか」

 

言峰綺礼の愛の告白じみたセリフは、エミヤの神経を逆撫でするに十分すぎるほどの成分を含んでいたらしく、エミヤは発している圧をさらに強めると、欄干に足を引っ掛けて、今にも飛び出さんばかりの姿勢へと移行する。

 

「夢に現れた時から思っていたが、黄泉路より這い出てきた際、元よりイかれていた頭の髄まで腐り果ててしまったようだな。だが、何、それならそれで構わん。元より貴様と話が通じるとは思っていない。今すぐ貴様の居場所として相応しい煉獄に送り返してやる……!」

『ま、待て、エミヤ、奴から目的を―――』

 

言うや否や、エミヤはゴウトの静止の言葉など完全に無視して、赤い外套を翻し、双剣を投影して言峰へと直進した。エミヤの暴走があまりに性急かつ突然すぎたため、流石のライドウでさえも彼の愚行を止めることはできず、魔弾と化したエミヤは言峰めがけて干将・莫耶を叩き込む―――

 

「相変わらず人の話を聞かんな、お前は」

 

だがその寸前。

 

「何!?」

 

エミヤの両手に握られた黒白の双剣が言峰の体を切り裂く前に、前方に生じた力場が二つの刀の進行を阻止していた。仮にもエミヤは元英霊。サーヴァントと呼ばれる、本気になれば魔術師千人に匹敵しうると呼ばれる戦闘力を持ったエミヤの一撃を、言ってしまえば単なる魔術師の一人に過ぎない人間の言峰如きが防げるわけはない。

 

だがその当然の法則を言峰という男は嘲笑うかのごとく覆して、一切手出しをする様子を見せないまま、まるで呼吸でもするかのごとく自らの眼前に不可視の盾を生み出してその一撃を防いだのだ。刃と言峰の前の空間に緑色の光が散る。

 

「貴様―――、何を―――」

「夢、と言ったか。―――ああ、あの名に縛られた世界での出来事か。……勘違いしてもらっては困るな。あれは私であって、私ではない」

「……何? 」

「キレイという名があそこまで私の人格に影響を与えるとは思わなんだ。父や貴様のイメージによる補正もあるのだろうが……、私とて父の望んだような人格者ではないにしろ、あそこまで悪辣かつ下品な笑い方はしない……。私としては詳しく話してやっても良いのだが、―――おそらく神はそれをお望みになられないだろう。それに今宵はもう時間がない」

『―――ガ……!』

 

言峰は眼前で障壁を抜けずに困惑しているエミヤを見て微笑むと、ガルムの頭部を掴み、大量のマグネタイトを注ぎ込んだ。ガルムの赤い頭部は膨れ上がると、やがてモコモコと不自然なくらいに膨れ上がり、巨大な形へと変貌してゆく。

 

「だが、折角の再会だ。置き土産に聖なるものをくれてやろう」

「ま、まて」

「犬に食わすなとは主のお言葉であるが、それが元より穢れしものより生まれ出でたものなら、神もお叱りになるまい。ではさらばだ、衛宮士郎」

 

やがて異界の中、言峰綺礼は闇の中へと消えてゆく。後にはエミヤ、ライドウ、ゴウトと、異音を発しながら異形へと変貌しつつあるガルムだけが取り残されていた。

 

 

「エミヤさん! 」

「―――ちぃ! 」

 

ライドウが名を呼ぶ声で、私は意識を取り戻す。私の側には異常膨張をし続けているガルムの姿がある。私は迷わずその異形へと干将・莫耶を振り下ろした。

 

「何!?」

 

そうして二つの刃は目論見通り奴の体を切り裂いた。黒白は赤を断ち、緑の色をしたマグネタイトの光が周囲へと散らばる。だが、そうして断裂させたガルムの体は、その中身が空っぽだった。

 

―――否、空っぽになったのだ。そうして断ち切ったはずの異形となったガルムの脳天からは、一つの影が飛び出していた。

 

『オ、オォォォォォォ! 』

 

宙に浮かび上がったのは殉教者が纏うようなローブを纏った悪魔だった。自分と同じくらいの背格好をした悪魔は、まるで磔になった聖人に倣うかのごとく六つの炎が灯った車輪を背に抱えながら呻き声を発している。

 

「これは……!」

『ソロネか! あやつめ、ガルムにマグネタイトを注ぎ込み、上級天使召喚のための礎としたのか! 』

 

ソロネ。確か、物質の体をもつ天使の中では最上級とされる、第三階位の存在だったか。

 

『ライドウ! 試作の氷結弾を使え! 』

「―――!」

 

ゴウトの叫びに応じて、すかさずライドウは回転式拳銃の弾倉を入れ替えると、即座に撃鉄を起こして照準をソロネの胴体に向け、スタンディングポジションで引き金を引く。

 

雷管を撃鉄が叩き、火薬が炸裂した。火薬の爆発した弾が水色の光を帯びているのは、事前説明にあった氷結弾とかいうのを使っているためだろう。ライドウは発射する弾丸に特殊な術式を刻み、対応した属性悪魔の協力を得る事で、五属性の弾丸の発射が可能であるとか言っていた。

 

そうして宵闇を氷結の属性帯びた水色の光が貫く。弾丸が銃口より発射された衝撃で銃口は上を向きかけたが、ライドウは発生した発射リコイルを無理やり全身の力で抑え込むと、硝煙が銃口より発するよりも早く、五連続で水色のマズルフラッシュを周囲に散らした。

 

通常のリボルバーなら一回ごとにコッキングしなければ弾丸の発射は不可能だが、彼のそれはコルトライトニング。一度撃鉄を引けば、あとは引き金を引くだけで、最大で弾倉の数だけ弾丸を連射することが可能だ。ライドウの銃から飛び出した水色の光を放つ六つの氷の属性帯びた弾丸は、あっという間に宙に浮かぶソロネへと迫る。

 

「―――何?」

『バカな! あやつ、氷結弾を防ぎおった! 』

 

しかし、そうして放たれた六つの殺意がソロネの胴体を貫くことはなかった。水色の光はソロネの前方に生じた見えない壁に弾かれる。緑色の光が微かに散り、弾丸は方向を転換すると、異界の虚空へと消えてゆく。

 

『オ、オ、オ、オォォォォォォ!』

 

ソロネはライドウの攻撃に反応して、車輪の前に火炎の塊を生み出し、ライドウめがけて撃ち出した。ライドウはその炎の塊を見るや、素早く横っ跳びに回避した。彼のマントが翻ると同時に、炎は闘牛のように彼が一瞬前までいた場所に着弾して火柱をあげる。

 

火柱は異界の天を衝く勢いで、轟々と燃え盛っている。凄まじい火力だ。まさに人間一人くらい容易く燃やし尽くす浄化の炎。なるほど、車輪に燃え盛る炎は伊達でないということか。

 

『オォォォォォォ!』

 

ソロネはライドウの方へばかり意識をやっていて隙だらけだ。いや、元よりまともない意識があるようには見受けられない。奴の直下であるこの場所ならずとも、どんなところからのどんな攻撃だって、容易く奴に当てることができるだろう。しかし―――

 

私はライドウの逃げた方面へと駆けながら投影してあった干将・莫耶を奴めがけて投擲する。双剣は微かに弧を描きながらも奴への最短距離を進み、そして奴の前にある壁に阻まれて空中にて静止した。双剣は目に見えぬ薄緑の存在によって勢いを殺されたのだ。

 

「クソッ、予想通りか! 」

 

即座にそれらの投影品を破棄すると、奴の意識が完全にこちらを向く前に駆け出した。自らへの害意に気がついたソロネは、先程と同様に炎を生み出すと私の方へと射出する。激しく燃え上がる火柱は、ひらけた空間で燃焼しやすい木材で出来た橋の上においては、ただ一部を消失させつつ風を巻き起こしながら天に登るだけだったが、燃焼しにくい大地の上にガラクタが大勢散らばるこの場所において、着弾と同時に散弾銃と等しきものへと変貌していた。

 

着弾と同時に地面の上に燃え盛る火柱は周囲に暴風を生み出し、鉄釘や木片などのガラクタや砂塵が木っ端に宙を舞う。やがてそれらは火柱より生み出される風に乗り、周囲にある触れたものすべてを傷つける鎌鼬がごとく存在となる。

 

「っ……!」

 

跳躍し、宙に逃げていた私はその細かい攻撃を回避することかなわず、慌てて両腕を組むと、頭部を守る盾とするため背後へと回した。同時に手の表面を鑢で削られたような、首元と頭部の端々に細々とした、鋭い痛みが走る。聖骸布にて防御している部分は傷を負わないが、生身の部分はそうはいかない。やがて火柱の風に背を押されるような形で私が橋の上にたどり着いた時、両腕の守りを解くと、手の甲は細かい擦過傷といくつかの切創が火傷とともに残っていた。

 

風に含まれていた熱にて傷口を焼かれたため、血液が噴出することがなかったのは幸か不幸か。ともあれ、喜ばしくない事態であることは確かだろう。言峰を見た際に茹だった頭が、ソロネの生み出した熱気によりさらに暴走していたらしく、舌打ちの一つでもしたい気分だったが、自らの失態が招いた事態であるだけにそれをすることすら憚られた。

 

―――っと、いかん

 

相手は強敵。天使も英霊も同じく人の歴史に名を刻んだ存在かもしれないが、相手は元々最も有名な宗教の中において第三階位にある上級天使で、対してこの身は遡ってみれば元々矮小な人間。根本が違う存在なのだ。冷静さを欠いて勝てると思うな。勝機は戦況を冷静に見定めた先にしか存在しない。そのことを忘れてしまえば、死、あるのみだ。

 

『どうやら無事だったようだな』

 

砂塵と火柱後の竜巻により、ソロネの前には天然の煙幕が生まれている。その隙を見計らって自分を戒めるべく本能の抑制を行なっていると、ゴウトたちが建物の影から姿を表した。先の火柱の一撃を避けた後、彼らはその後の攻撃を嫌って影に隠れていたようだった

 

「ゴウトにライドウ……」

「エミヤさん。無茶は良くない」

「……忠告、心に戒めておこう」

 

しかめっ面を返すと、ライドウは口角を微かに上げて、三日月の笑みを浮かべた。幼さ残る白皙の顔に浮かび上がったその正面顔は、まるで神話の一ページであるかのように美しい。場所と向けられる対象が違えば異性を絆す、なによりも武器になっただろう。

 

「―――なにか?」

 

己の美貌を自覚しない無邪気態度も、さらにその美しさを引き立てる武器となる。「故に同性である私が不覚にも一瞬魂を持っていかれかけたのも仕方のないことなのだ」と、私は誰にいうでもなく心の中で言い訳した。

 

「いや―――、どうやってあれを倒すかと思ってな」

 

少しだけバツの悪い気分になった私は誤魔化す様に、というかまさに誤魔化すために、ソロネがいるだろう、竜巻のある方へと体を向けると、指先をそちらへと向けた。

 

「銃は効かない、投擲も効かない。とすれば、攻撃はきかないものとして見るべきだろう」

「あの障壁ですか……」

「ああ。いかなる仕組みかは知らないが、あの見えない防壁が我らの攻撃を阻んでいる」

 

示した指先に存在する竜巻が収まってゆく。同時に奴の姿が露わになるも、私と同様熱波と暴風を浴びた奴の体はしかし、無傷を保っていた。服に汚れもないあたり、おそらく防壁が熱と雑物を完全にシャットアウトしたのだろう。

 

『オ、オォォォォォォ!』

「奴め、こちらに気づいたか」

「どうしますか?」

 

ライドウの問いに私は黙り込む。いくつか思いつく手段はあるがそのどれもが大爆発や余波にてこの異界を破壊しかねない。異界であるとはいえ、帝都の破壊はそのまま現世にも影響を与えるという。ならば、帝都の守護を使命とする彼の前で、帝都の破壊を前提とする手段を提案するのは憚られる―――

 

とそこまで考えて、ふと思った。

 

―――我ながら甘くなったものだ

 

世界樹のあった大地や、この悪魔が跋扈する大地に降り立つ以前の私なら、人的被害が生じようが、街を削る様な手法だろうが、迷わず提案しただろう。

 

このソロネという天使―――いや、悪魔を放っておけば、いずれ帝都の街を破壊し尽くすのは必定。ならばこの辺り周辺の被害を最小の犠牲として最初から勘定しておくことで、帝都全体の守護という点からすれば最大限の結果を得られると言い張って、ライドウの反対があっても強行したはずだ。

 

それを行うどころか、提案することすら躊躇い、あまつさえは、自然と全てを救うには如何様にすれば良いだろうかなどと考える様になったのは、一体いつぶりのことだろうか。

 

「―――エミヤさん?」

 

ライドウの呼び声は再び私の意識を呼び覚ます。

 

「ふむ、そうだな」

 

干将莫邪は効かない。偽螺旋剣も、赤原猟犬もこの距離で使うには威力が高すぎる。かといって、距離を開けるために逃げようものなら街に被害が出る。というより、帝都の守護者を自任するライドウは絶対に引かないだろう。彼一人に任せるのも気が引ける。とはいっても、他の宝具も物理的な攻撃は当てにならない。私は通常の魔術において大したものを使えないし、かといって強化、解析でどうにかなる相手とも思えない。ならば……。

 

―――固有結界を使うか

 

自らの心象風景にて世界を書き換える、すなわちこことは別の異界を作り出すあれならば、確実に帝都に被害を出さずに済む。どうせ全てを守ると決めたのなら、この期に及んで戦力を隠して被害を拡大させるのも馬鹿らしい。異界の中に異界を精製するなど初めての経験であるが、まぁなんとかなるだろうと、多分に楽観含んだ算盤を弾き終える。覚悟を決めれば後は提案するのみ。そうして私は、手札の開示と結界の発動を提案しようとして―――

 

『よく聞け、二人とも。儂に考えがある』

 

それはゴウトの鳴き声に妨げられた。

 

 

広場の中央では噴煙の中心にて炎の車輪を背に抱える存在がいる。ソロネだ。神の車輪と呼ばれるその天使は、今、神より与えられた命令を果たすべく、眼前の不信心者どもを始末しようと空中に佇んでいた。

 

ソロネの脳内は無茶な召喚と高マグネタイトによって暴走している。まともな思考ができるだけの神経はとっくのとうに消滅していた。だが、この度、自身が何を目的とされ召喚されたのか、その役割だけはしっかりと頭に刻まれていた。

 

この度、言峰綺礼という存在に召喚されたソロネは、自らへの攻撃を完全にシャットする防壁を身に纏っている。自らを全ての攻撃から守るそれは、神の使徒たる聖職者を通じて自らへ与えられた、神の恩寵に等しく。すなわちソロネにとってこの戦いは、聖戦に等しいものであった。彼は自らの炎が目の前の愚者共々、この汚れた大地を浄化すると信じてきっていた。

 

「鶴翼、欠落ヲ不ラズ/しんぎ、むけつにしてばんじゃく」

『オ、オォォォォォォ!』

 

そのソロネに対して、エミヤは薄れゆく煙の中から、二つの剣を投げつけた。同時にソロネは神の敵を焼き払うべく、獄炎を放つ。当たった際、運が良ければ一瞬で消し炭になり即死できるだろう、運が悪ければ深度高の火傷によるショック死か呼吸困難による窒息死かに至るだろう獄炎に、エミヤはまっすぐ突撃する。

 

獄炎の横を通り抜けた双剣は、弧を描いてソロネに向かうが、ソロネの纏う不可視の壁の前に遮られ、力なく落下する。やはり双剣による攻撃は防がれた。それを見たエミヤはしかし、ニヤリとした凶暴な笑みを浮かべて、ソロネへ向かう速度を上げた。その行為は誰がどう見ても自滅に繋がる無謀な行いだ。そしてその愚かしい突撃の結果を避けるべく、あげた速度を最大限活用して、エミヤは身を捩って炎との接触を避けた。掠めた炎は地面を削り、やがて水面に接触する。

 

エミヤの背後では、ソロネから放たれた炎が隅田川の水面にぶつかり、大きな水蒸気爆発を起こしていた。大量の水と水蒸気が街へと飛ぶ。火柱の代わりに水柱が上がった。異界の中での出来事は、現世にも影響を与える。今頃はあちらでも大騒ぎだろう。だが、明日の朝にはヤタガラスの手の者によって情報規制が行われる。

 

被害がなければ、誰かの大掛かりないたずら騒ぎとして処理され、あの女性は疲れからの幻覚を見たということになり、犯人は見つからずじまいで終わるだろう。自分たちが発奮し、上手くやれば、民衆は何が起こったのか知る事なく、安寧な日々を享受出来るのだ。無論、その後この事態を起こした下手人を追い、捕まえる必要があるだろうが、それはライドウとエミヤといった国家機関の人間や奴に因縁ある人物の役目である。

 

そう。エミヤとライドウは、この誘拐と暗躍の事件を犯人のいない、そして被害者の存在しない、単なる悪戯や幻覚を見たという形で終わらせたいのだ。そうすれば帝都はいつも通りの日常へと戻って行く事ができる。多分に欺瞞を含んでいようと、人々が平和を享受できるなら、それでいいとライドウとエミヤは思っていた。

 

そんな決意を胸に秘めたエミヤはゴウト、ライドウとの打ち合わせ通りにソロネへと突っ込む。ソロネから再び炎球が放たれた。ソロネへ向かって突撃していたエミヤはそれを横っ跳びに回避した。先程とは異なり、炎球は即座に川と接触、水飛沫が舞い、天気雨となりエミヤに襲いかかった。だがそれをエミヤはまるきり無視して、広場の中央上空に陣取るソロネの足元までたどり着くと、隅田川を背にして奴と応対する。エミヤは自ら背水の陣を敷いたのだ。

 

「心技 泰山ニ至リ/ちからやまをぬき」

 

エミヤは再び双剣を投影し、ソロネへと投げつけた。退魔の効力を秘めた剣は、しかしやはり敵に届くことなく、ソロネの障壁にぶつかると、地面へと落下する。お返しとばかりに放たれる炎球をエミヤは避ける。再び爆発、轟音、そして雨。

 

―――そうだ、それでいい。私がこの位置にいれば、ソロネの炎は川を爆発させるだけにとどまる……!

 

エミヤは事態が己の思い通りに進行していることを確信してほくそ笑んだ。エミヤの赤い外套が風にたなびいてそして水を受けて彼の体に張り付いた。また、頭上より水を浴びた事で、エミヤの白い頭髪は重力に負けて頭に張り付く。エミヤはそれを吹き飛ばすかのように大きく今までの進行方向とは反対方向に跳躍した。ソロネとの距離が近くなる。

 

ソロネは水を滴らせるエミヤに向けて再び炎の球を射出した。ソロネの炎球はエミヤと近づいた分先程よりも早くエミヤに迫るが、ソロネの炎球はエミヤと近づいた分、先程よりも多少威力の落ちた状態で打ち出される。距離が近くなり回避のための時間が少なくなったとはいえ、その分小さい火球になっているというのであれば、エミヤにとって十分回避可能なものに過ぎない。

 

「心技、黄河ヲ渡ル/つるぎみずをわかつ」

 

攻撃を再び回避しつつ、干将・莫耶を再度投影し、ソロネへと投擲する。双剣は弧を描いてブーメランのような軌跡を描くと、ソロネの背後を取り、背面より迫るも、その二撃はやはり障壁に防がれる。双剣は障壁と接触したのち、少しの時間をおいて落下する。やがて落下したそれはソロネの背後真下の地面に突き刺さった。再び火球が放たれる。

 

「唯名 別天ニ納メ/せいめいりきゅうにとどき」

 

それを避けると同時に再び双剣を投影、投擲。ソロネの左右より迫る二本はやはり防がれ落下する。そして背後より爆発。連射を重視したため火球の威力は弱まっている。軽い水飛沫が舞った。また、連続して起こる爆発によりあたりは生暖かい霧のようなものが生まれていた。

 

爆発の風に乗って霧は薄く広く、あるいは濃く狭い範囲を包み込み、エミヤとソロネの世界を侵食した。川から広場、橋にかけて視界が遮られる。だがソロネとエミヤにとってそのようなことはどうでもよかった。目の前にいる相手を倒す。それだけが彼らの望みなのだから。

 

「両雄、共ニ命ヲ別ツ/われらともにてんをいだかず!」

 

やがてエミヤは双剣を投影して両手に固く握りしめると、空中に浮かぶ絶対防御を持つ相手へと突撃した。正気を失っているソロネといえど、思わず一瞬身を引くほどの迫力があり、しかしソロネが驚いたのはエミヤの突撃に臆したからではなかった。

 

ソロネはエミヤと言う手強い男が再び無策に見える、突撃と言う愚かな選択をしたからこそ驚いたのだ。だがそれも致し方ない事だろう。絶対防御と強力な鉾を持つ知っている相手に真正面から突撃すると言う愚行を、二度も繰り返す輩に驚きを抱かないものがいるはずもない。

 

他ならぬエミヤだって、はたから見たのならばそう思うだろう。少なくとも常の彼ならば選択すまい。だが紅の外套を翻したエミヤは迷いなく、曇りない瞳で淀みなく死地へと向かってゆく。エミヤはまさに宙を突き進み一条の矢となっていた。

 

ソロネはエミヤの愚行に一瞬躊躇したが、すぐさま炎を前方に生み出した。マグネタイトという生体エネルギーを過剰摂取したことによりまともに働かぬ思考の愚鈍を、その分、生体エネルギーを過剰投与されたことにより活発化した本能が補い、ソロネの体を動かしたのだ。

 

ソロネの前方に炎が生み出されるそれは、もはや球の形をしていない純粋な炎だった。炎の色は赤、白を通り越して、真っ青だった。それは天空の色に似た、太陽すら覆い隠してしまいそうな煌々とした青。ソロネはまさに、神の戦車の車輪、神の運び手の名に恥じぬ威力の天の炎を生み出していた。

 

自らの身を魂ごと消滅させる威力を秘めた焼夷弾の如きそれを見ても、エミヤは揺るがない。エミヤはただ真っ直ぐ炎に向かって、その奥にいるソロネへ向かって突撃している。ソロネはそれを不思議に思わない。

 

―――そも、空中では身動きが取れないのだ。今更奴に逃げ場など―――

 

『ォ、ォオッ!?』

 

突如としてソロネの視界がぶれて、目線が天空へと向けられた。勝利を確信したソロネは、しかしだからこそ、その衝撃に驚いた。衝撃。そう、衝撃だ。完全な防御に守られたはずの自分の体に衝撃が走ったのだ。衝撃はソロネを目の前の炎やエミヤから、衝撃を感じた部分へと意識を逸らさせた。

 

『―――!?』

 

ソロネの細い目に十本の剣が映る。十本の剣はエミヤが無意味に投擲し続けていた、黒白一対の双剣の群であった。双剣はいつの間にやら霧を切り裂き、自らの背面の障壁の一部分に集中し、衝撃を与えていた。無論、衝撃と言っても障壁が打ち破られたわけでなく、その一撃は背中の車輪にすら届いていないが、それでも多量に飛来した双剣の一点集中攻撃は、障壁をソロネのすぐ近くまで押しやり、背を押すくらいの効果を発揮していた。

 

「勝ち目のない勝負を挑む趣味はなくてね! 悪いが策を張らせて貰った! 」

 

エミヤの咆哮にソロネの意識は再び彼の方を向く。意識を逸らしてしまったことで天獄炎は霧散し、エミヤが真正面まで迫っていた。エミヤの策にまんまと引っかかったソロネは驚くが、しかし慌てない。何故なら―――

 

「ちぃ……!」

 

この絶対障壁があるからだ。エミヤが突撃の勢い乗せて左右斜めより袈裟を描くように振り下ろした双剣は、ソロネの前にて停止する。エミヤは己の攻撃を遮る障壁を突破すべく、双剣の威力が最大となるよう、左右の手に握った剣の距離を縮めて交差させるように障壁へと押し付ける。

 

だがそれでも障壁は抜けない。ソロネはやせ細った顔にニヤリとした笑みを浮かべた。エミヤが何をしたかは知らないが、どうやら目の前の男の足掻きとやらはこれで終わりらしい。確かに自分の絶対障壁を貫く衝撃が齎された時は驚いたが、だからといってエミヤはそれ以上の手段を持ち合わせていないのだろう。だからこそ、一縷の希望を自らの突撃に見出したというわけだ。―――ソロネはそう理解する。

 

『今だ、ライドウ!』

「―――おぉっ!」

『!?』

 

しかしその理解が間違いであったことを、ソロネは次の瞬間、理解させられる。ゴウトが叫んだ途端、エミヤの背後の水蒸気の霧の中から黒を纏い、白刃煌めかせるライドウが現れたのだ。ライドウはエミヤの背を踏みつけるとさらに大きく跳躍し、ソロネとエミヤの上空に陣取る。ソロネはそれを呆然と眺めることしか出来なかった。

 

『貴様の障壁は高マグネタイトの集中によって、擬似的な物理現象攻撃を無効化するものであるようだな。それは確かに脅威だ。だがそれはすなわち魔に属するもの。故に銃弾のような純粋な物理的なものは完全に弾くが、退魔の効力を持ったものを前にした際においては完全に効力を発揮することなく、防ぐにとどまる』

 

ゴウトが自らの推理を述べる。魔に属するものならば、退魔刀にて引き裂ける。すなわち、ライドウの退魔の剣「赤口葛葉」であればソロネの守りを貫けるはずである。そう、無謀に見える突撃含め、全ては彼の立案した作戦だったのだ。エミヤの投影する双剣、干将・莫耶はオリジナルではなく投影品であるが故に退魔の効力は大いに薄らいでいる。だからこそソロネはそれを防ぐことができた。しかし、ライドウが腰に帯刀している退魔剣「赤口葛葉」は、葛葉の里に古くから伝わる玉鋼を鍛えて作った、由緒正しい歴史を保有した退魔の力宿る逸品だ。

 

「私でも貴様を殺せぬことはないが、私の保有する手段ではどれも異界や現界に大きな影響を及ぼしそうだったのでね……。最小の労力で最大限の効果を狙わせてもらった……!」

 

ライドウの踏み台にされて落下するエミヤが呟く。彼はライドウと言う刃を確実にソロネへと到達させるため、自ら囮役を買ってでたのだ。そしてライドウの踏みつけた勢いにより地面へと蹴り飛ばされた大役務めたエミヤは、地面に着地するやいなや、再び投影した双剣二回続けざまに投擲し、さらにもう一対双剣を投影すると背後に大きく振りかぶり、再び跳躍した。

 

「魔を祓え……、赤口葛葉! 」

 

ソロネの絶対防壁とライドウの刃が衝突する。ギシギシと鋸にて木材を切るような音がライドウとソロネの両者間で発生する。拮抗は一瞬だった。ソロネの障壁は、ライドウの退魔の剣の前にあえなく砕け散る。帝都の絶対的な守護者、葛葉ライドウの一撃はたとえ上級天使のソロネといえど、防げる類のものでなかった。

 

「はぁっ!」

 

裂帛の気合いとともにライドウの一撃がソロネの脳天へと打ち込まれる。やがて刀はライドウの落下の勢いのままにソロネの体を半分に引き裂いてゆく。入れ替わるようにして左右二つに別れたソロネの眼前にエミヤが姿を表した。

 

「鶴翼・三連!」

 

前後左右より先程エミヤが投擲した干将・莫耶が弧を描いてソロネの体左右の脳天、表裏の心臓部に突立つ。同時にエミヤが両手に持つ双剣の刃が巨大化。エミヤは空中、ソロネの目の前で振りかぶった一対の巨大剣を振り下ろす。ライドウの刃に寄って真っ二つに割かれていたソロネは、エミヤの双剣によってさらに輪切りにされた。

 

『コッ、カッ……』

 

急所を穿たれ、発声の為の器官である食道も肺も潰されたソロネの四つとなった輪切りの身が、薄らいで朧となってゆく。やがてソロネの体は緑色のマグネタイトの光へと還元されて霧の漂う空気中に散っていった。

 

落下し、着地したエミヤは先に刀を鞘に収めていたライドウと目線があったのを確認する。ライドウはエミヤの接近に対して、瞼を閉じて学帽を整えると、薄い笑みを浮かべて自らの右手を上げた。その意を察したエミヤはライドウと同様の感情が込められた、しかし反対に意地の悪げな笑みを浮かべると共に右手を上げると、こちらへ近寄ってくる彼とのすれ違いざま、その右手を軽く振るった。

 

パァン、と柏手に似た音が辺りに響き渡り、戦闘の空気を拡散させる。それは二人の連携により帝都の危機が去ったことを克明に告げる合図となり、周囲の雰囲気を一転させた。

 

 

『見事な合体技なり。鶴翼十文字斬、とでも名付けようか』

 

橋の上から広場へと降り立ったゴウトは、ライドウとエミヤを見るなりそう告げた。

 

「鶴翼十文字斬―――」

 

ライドウは真剣な表情を浮かべて口に手を当てた。おそらくその技名を心に深く刻み込もうとしているのだ。

 

「―――流石にそれはやめて欲しいのだが……」

 

エミヤは渋い顔をしてゴウトのセリフに対して抗議の意を唱えた。若かりし衛宮士郎だった頃ならともかく、今のエミヤにとって、自らの動きに格好つけた名前をつけられるというのは罰ゲーム以外の何者でもなかった。もちろん宝具の真名のように叫ぶ必要があるならばやるだけであるが。

 

『な、何故だ! 我のモダーンなセンスが気に食わないとでもいうのか!? 』

 

ゴウトは尻尾を震わせながら、エミヤの拒絶に対して疑問を投げかけた。おそらくゴウトの感覚からすれば、その技名はハイセンスな名付けであったのだろうが、大正二十一年という時代よりも百年近く未来の人間であるエミヤにとって、ゴウトのモダンなセンスそのものが古すぎた。

 

それは単に、エミヤの生きた時代と大正という時代の感性が違う程度の事なのだが、おそらく長き時を生きてきたというゴウトにとって、だからこそそのあたりの機敏は掴みづらいのだろう、ゴウトはひどくショックを受けた様子で驚いてみせた。

 

「いや、その」

『そうか、自らの技名がライドウの技の文字数よりも少ないが故に気に食わんのだな? ええい、貴様を立てて貴様の技の名を先に持ってきてやったというのに、わがままな奴め! ……ではこうしよう。極・飛燕鶴翼連撃脳天撃……! どうだ!』

「―――極・飛燕鶴翼連撃脳天撃……!」

 

ライドウは再びゴウトの言葉に力強い反芻のお様子を見せる。ゴウトはエミヤの態度に拒絶の意思を見つけて、むきになっていた。それは二回も激と言う言葉が入っているのに気付かないところからもわかるだろう。また、ライドウはライドウで、生真面目で、天然で、冗談が通じないタイプだ。彼が今の連携の名前をそうと覚えてしまったら、間違いなく次からも同じ技名を叫ばれてしまうことだろう。

 

―――いかん、このままではそのクソダサい技名が正式なものとなってしまう……!

 

『まだ不満ときたか! ええい、強欲な奴め! ならばお主の名前を加えてやろう! すなわち、極・飛燕鶴翼連撃脳天衛宮……』

「ああ、待て! 待て待て待て! ―――、ゴウト、鶴翼十文字斬でいこう……」

 

エミヤは全てを諦めた表情で、ゴウトへと語りかけた。

 

『何!? 何故だ!? 気に食わんのではなかったのか!?』

 

ゴウトは不満げに興奮した様子でニャーニャーとなく。

 

「その、君のそれがモダン且つハイセンスすぎて気恥ずかしいとかんじたのだ……。だがよく考えてみれば、鶴翼十文字斬……。短く纏っていてわかりやすい。いい名前だ。流石は葛葉ライドウお目付役のゴウトドウジ。長生きした分の経験は、センスにまで活かされるのだな……」

 

エミヤはそれに対して、死んだ魚のような生気のない目をして、力なく心にもない言葉を並び立てた。凛やシン、響などが見ればそれは一瞬で心のこもっていない上っ面だけの言葉だと見抜いたのだろう。だが、戦闘の直後でゴウトは興奮状態である事や、背丈の高いエミヤと猫であるゴウトの間にある距離、そして薄らぼんやりと残る霧といった要素がエミヤに味方をして、ゴウトにその事を気付かせなかった。

 

『そ、そうか? ふむ……、まぁ、考えてみれば当然であろう! 我は長く歴代のライドウを見守ってきたのだ……! センスが先んじすぎていても仕方あるまい! 我としては後から思いついた極・飛燕鶴翼連撃脳天衛宮帝都守護撃でも構わないのだが、まぁ、お主がそこまでいうならば、鶴翼十文字斬にしてやろうではないか! 感謝して今後も精進するが良いぞ! 』

 

ゴウトの上機嫌な声を聞いて、エミヤは全身に脱力感が走った。まぁ、自分の名前が冠された、ダサいのを通り越して長く痛い名前になるくらいなら、多少センスが古臭くとも短い名前の方がいい。最小の犠牲で最大の効果や効率を。ああ、うん、そうだな。これもきっと、最小の犠牲なのだ。そう、ただそれだけのことなのだ……。

 

「ああ、そうだな……。君には存分に感謝を送ろう、ゴウトドウジ……」

『うむ、存分に感謝するがよい! 』

 

徒労感が全身を包み込む。気の無い感謝も、戦闘の疲労と捉えられたのか、ゴウトは気付く様子もなくなんとも上機嫌だ。

 

「鶴翼十文字斬……」

 

ライドウの生真面目な一言が技名を異界に響かせる。エミヤは次に同じような事態になった際、凛やシン、響の前でライドウやゴウトが技名を叫ぶ姿を思い浮かべた。

 

―――まぁ、間違いなく凛には大笑いされるだろうな……

 

エミヤは諦観に満ちた表情で高笑いして鳴き声をあげるゴウトと、生真面目に技名を反復するライドウを眺める。自らの身を苛む時間は間も無くヤタガラスの使者が彼らの前にやってくるまで続き、短い間ではあるが、エミヤはソロネと戦った時よりもよほど疲れる時間を送ることとなった。

 

 

鳴海探偵事務所。東京市矢来区築土町のとある一角にある建物の三階には、そんな看板が掲げられている。銀楼閣と称されるこの建物は築土町に建てられた中でも最大のモダンなビルヂングであり、その最上階である三階では鳴海昌平という男が探偵稼業を営んでいた。

 

そんな、築土町の中でも一等地にある建物の最上階である三階という場所にある部屋の一つにエミヤたちは集結していた。部屋はいかにもモダンな雰囲気で満ちている。部屋の入り口から入ると、中には小さな通路と欄干、階段、段差があり、侵入者が部屋をまっすぐ横断することを防いでいた。

 

そんな部屋の入り口から左の壁面に視線をやれば、ロココ調のラッパがレコードの音を奏でる蓄音機が置かれている。そこから二台の雑誌や本に満ちた棚を経由すると、やがて壁は直角に曲がり、窓にて一旦途切れる。

 

「『九十九博士の発明品暴発!?夜の隅田川と広場を襲った謎の連続爆発!?』、か」

 

入り口の対角に設置された窓は、部屋の隅まで光が届く様設計された二つの上げ下げ窓だ。その中央部分の壁面の前には、壁を中心として二つの並んだ窓に匹敵するほど大きな飴色をした所長机と、そんな巨大机に見合うだけの立派な安楽椅子がおかれている。また、所長の机の前方にはアール・デコ調の応接用西洋机が一卓と、椅子が四脚配され、入り口から見て右手の壁際にはソファが一台置かれていた。

 

「おっと、裏面に深川町近くのことものってらぁ。『口車に乗せられたか、新造が前後不覚!? 痴情の縺れか、羽目を外したか、はたまた廓抜けを企んだか!? 建物にまで被害……』。下衆だねぇ……、ま、若い身空で親に売られたんだ。適当にはやし立てとけば彼女を被害者として扱って、世間もとやかくは言わないだろうけど……」

 

部屋に置かれた椅子や机の配置は所長である鳴海の提案によるものである。こういった配置にしておけば、探偵業務を依頼しにきた依頼人は、窓という光源を背にした鳴海を相手に話をしなければならない。椅子や机の配置は、陸軍に密偵として所属していた鳴海が経験による対人間用の対話手段に基づいた、理屈のある配置であった。

 

「しかし、言峰綺礼、ねぇ……」

 

そんな築土町にある建物の三階、モダンな物品に溢れた部屋の窓際において、安楽椅子に座している所長の鳴海は手に持って読み上げていた新聞を机の上に放ると立ち上がり、すぐ隣の間仕切りに英国製の特注上着を引っ掛けると、フランス製カルティエの時計を弄りながら、気怠げに再び安楽椅子へと背をもたれさせ、エミヤの仇敵の名をつぶやいた。

 

鳴海がそのまま安楽椅子の背もたれを遊ばせると、高級品で見に包んだ鳴海の全身の光沢ある布地や腕時計が朝の日の光を反射して、部屋に乱雑な光をばらまく。その高級感あふれる光はいかにも鳴海昌平という男の金遣いの荒さを示しているかの様だった。

 

この鳴海という男は、元陸軍という厳粛な機関に所属していた人間でありながら、浪費癖がある。彼が愛用する三つ揃いは、英国製のキャメルの特注品で、靴はイタリアの最高級品ブランド。もちろんシャッツは立襟仕立てで、ネクタイはストライプ。帽子のダービーハットはスーツとお揃いのキャメル色の仕立て、当然フルオーダーだ。

 

そしてそれらは全て、ヤタガラスが鳴海探偵社に支払う金によってまかなわれたものだった。そう、この鳴海という男は、ヤタガラスと協力関係にあるのだ。そして未成年であるライドウは、彼の探偵社に見習いという身分で所属している。とは言ったものの、鳴海探偵事務所が扱う事件は、ほとんど全てが悪魔関連のそれであり、そして鳴海は霊能力を持たない一般人であるがゆえに、事件を解決に導くのは殆どがライドウである。

 

一応、一般の探偵業務として人探しなども請け負っており、その際には鳴海が出向くこともあるが、鳴海がこの一等地にある事務所でやっていけているのは、ライドウが悪魔関連の事件を解決している側面が大きい。そうしてライドウが得た収入を、しかし鳴海はライドウは金銭に無頓着な事を良いことに使うものだから、ゴウトは彼の事を守銭奴と言い切って呆れているところがある。

 

とはいえ鳴海が単なる木偶の坊かと言うとそういう訳でもなく、まだ若いライドウの成長を導くといった役目もあるし、一応こうしてダービーハットをかぶるにも、着用する物全てが特注品という浪費にも、過去の出来事や、「機能美を追求した結果」という鳴海なりの理屈があるのだが、その言をゴウトは完全に真実であるとは思っておらず、確実に鳴海の趣味の成分が多分に入っていると思っている。運動機能を追求するだけならば、わざわざ全てを最高級品のフルオーダーで揃えるという着道楽でもなければしない様なことをしないだろうからだ。

 

「まったく、こんな別の世界にやってきてまで他人に迷惑をかけるんだから、ほんっと、呆れたやつだわ! 」

 

そうして高級品に包み込む鳴海が口にした名前を聞いて、いかにも憤慨した様子で吐き捨てたのは、凛だ。彼女は自らの赤い外套をソファの端の方に追いやると、遠慮なしに三人は余裕で座れるはずのソファを一人で占有し、両手を広げてソファの角を握ると、背を預けていた。

 

腰元まで伸びた黒髪が宙を待って彼女の赤い長袖服の横に川となって流れ、黒のフレアスカートとの境界線あたりで停止した。その絹を広げた様な黒髪の様子と、凛という女の持つ美貌が醸し出す色気に鳴海は思わず見惚れて、ほぅ、と溜息をついた。この鳴海という男は、浪費癖もさることながら、女好きで、長い髪をした美人が特に好みなのである。

 

それゆえだろう、常なら傲岸不遜な態度で依頼者やライドウに接する鳴海は、自らの部屋に置いてまるで主人の様に振る舞う凛に文句を言うことはなかった。凛のなんとも不遜な態度は、両手を体の前で遊ばせて、顔をにやけさせている鳴海よりよっぽど迫力があった。その場にいる一同は、まるで彼女こそがこの部屋の主人になったかの様な錯覚すら覚えた。しかしそんな横柄な様に誰も違和感を覚えないのだから、なるほど、凛という女性は大した女傑である。

 

「その……、言峰綺礼、は何が目的で、帝都で人攫いをしようとしたんでしょうか? 」

 

中央にある四脚の椅子のうち、一つに行儀よく座っている響が疑問を呈した。ちょこんと座る彼女は、ワインレッドのセーラー服とプリーツスカート、黒の革靴に身を包んでいる。それは帝都にある桜爛女学院の女生徒が見にする最新鋭の西洋装であり、この大正の時代、始めに彼女が着込んでいた異世界のソードマンの格好は目立ちすぎると言う理由で、金王屋といういわゆる何でも屋に頼んで仕入れて貰ったものだった。

 

流石に体のサイズを教えなかったのでフリーサイズを適当にたのんだのだが、痩身こそ美人の証と考えられている人も多いこの時代において、洋服というものは響たちの生きてきた世界よりも肩幅も体のラインも少し細めに仕立て上げられる傾向にある故に、帝都女学院の服装は、あの世界においても細身である響の体に驚くほどフィットしていた。

 

「さてな……、あれは神だの主だの言っていたが……」

 

凛の横の壁に背を預けるエミヤは腕を組んだまま答える。ソロネ戦において両腕に負った傷はもうすでになかった。ガルムの女の時と同じ様に、スカアハのディアラハンによって治療して貰ったのだ。

 

こちらは何時彼が身につける様な格好ではなく、黒シャッツに黒のパンツという非常にラフな格好をしていた。ちなみにこれらは彼の投影した品である。この場において最も薄着でラフな格好の彼だが、190センチ近くあるその身長と浅黒い肌、鍛え上げられた胸元肉体と整った顔立ちに下ろした白髪と変装のための伊達眼鏡が、ライドウの様な白皙とも、凛の様な女の色気ともまた別種の、男らしくも蠱惑的な色気を醸し出している。

 

『カソック姿の男がいう神というのであるからして、その神というのはエミヤ。お主らの追ってきた、耶蘇教の唯一神、YHVHと見て間違いあるまい』

 

中央の机に身を横たえるゴウトがエミヤの疑問に答えた。黒く絹の様な毛を繕うゴウトの言葉に、部屋の中において鳴海だけが唯一その言葉に反応しなかった。霊能というものを持たない彼は、ゴウトの言葉を聞くことが出来ないのだ。

 

「―――それの神がなぜ帝都で人攫いの指示を出す?」

「は、大方その信者集めとやらだろうよ! 全く、これだから元権力者ってやつはいけ好かないんだ! 何でもかんでも世界を自分の思い通りに動かせて当然と思っていやがる! 」

 

鳴海の対角線上、欄干に身を預けるライドウがゴウトの声に疑問を返す。そんなライドウの言葉に反応して、鳴海が鼻で異教の神を嘲笑った。今でこそ自堕落な気質の鳴海だが、かつては国や同胞のために親身を尽くそうとする青年であった。

 

だが、鳴海は陸軍の密偵という身分に身を置いている際、結局世界は権力者の思うがまま動き、自身はその駒程度にしかなれないのだということに気がついて、陸軍をやめたという経歴を持つ。だからこそ、彼はこうして権力者というものを嫌うのだ。

 

「まぁ、ナルミのそれは良いとして……、エミヤ。これからどうする?」

 

響の横に座るシンが一旦鳴海の愚痴を断ち切って、エミヤに問いかけた。シンは顔の一本線を隠すため白粉を塗りたくり、その細身かつ異形の機械体を隠すため、ライドウと同じ様な弓月の君学園の学生服と学生帽、黒外套に身を包んでいる。体をピタリと覆う様な芯の入った洋服というのは、アンドロの特徴でもある腹部が空っぽであるという状態を隠すためにはとても都合のいい隠れ蓑であった。

 

「―――、おそらくYHVHが潜んでいると推測される、赤い宇宙空間の様な回廊からアルカディアとやらへ続く道は閉ざされている。これはYHVH の仕業とみて相違なかろう。おそらく奴はダークサマナーの侵入と同時に警戒レベルを引き上げ、守勢に転じたのだ。そして奴の封印はギルガメッシュが破れぬ強固なもの……、手詰まりだな」

「―――しかしそのYHVH の僕である言峰綺礼とやらがこの帝都で暗躍しているのを、私たちは今回発見した。となれば、やはり帝都でYHVHの手がかりを探すしかない……」

「ま、そうなるだろうな」

「では、正式に協力関係を結ぶということでよろしいのですね? 」

 

エミヤの言葉を受けて入り口の近く、二つ並びの窓の前に待機していた細身の女が静かに告げる。黒の色基調とした着物をまとい、纏った着物よりもさらに黒い頭巾を被った女は、ヤタガラスの使者であり、ライドウやエミヤらを異界に送り、そして送還した女であった。一昔前ならともかく、今の世の中では喪服とした思われない黒を纏った女は、白い顔の中でよく目立つ藤色の紅をさした形の良い唇を動かして、エミヤや凛の方へと視線を向ける。

 

「ああ……、君たちに依存する形にはなるが、一時、ヤタガラスと協力関係を築くという提案、正式に受託しよう。迷惑をかけるがよろしく頼む」

「構いません、衛宮士郎。あなた方が戦力として申し分ないこと、一応は帝都に害を与えるつもりがない事は、昨夜の戦いから理解しました。また銀楼閣に滞在するというのであれば、無駄な監視の手間も省けます。少なくとも侵入した耶蘇教の神を倒し、天王教会の穴を塞ぐまでの間は、ヤタガラスがあなた方の生活を保証しましょう」

「けっ、監視! 監視ときましたか! お高くとまっているこって」

 

鳴海はヤタガラスの忌憚のない物言いにケチをつけた。だが、エミヤは、たしかに遠慮のない物言いだが、だからヤタガラスが帝都守護を至上の題とする、誠実な機関であると信じられる気がした。

 

元々、YHVHという存在を追う様にして帝都に現れた私たちだ。加えて、私や凛は、昨夜人攫いを目論んだ人物、すなわち言峰綺礼との知り合い。信頼、信用どころか、疑いの目を向けられて然るべき人間だ。それと協力関係を結ぼうというのだから、寧ろそれくらいの処置はあってしかるべきというものだろう。

 

いや寧ろ、ライドウやゴウトに連れられて銀楼閣へやってきた私たちの言を、自らの直感をもってして信じると決めた、鳴海の方がおかしいのだ。無論、エミヤからすれば、付き合うならば、厳然とした雰囲気のあるヤタガラスの使者よりも、朴訥で素朴な雰囲気纏う、どこか抜けたところのある鳴海のような態度の人物である方が好ましいことに違いはない。

 

だが、利害関係を結ぶというのであれば、ある程度こちらと一線を引いた付き合い方をしてくれるヤタガラスという組織のやり方のほうが、見知らぬものに対する付き合い方としては正しいことくらいわかる。だからエミヤは何も文句を言わなかった。

 

「ではこの時より、あなた方は正式に鳴海探偵社預かりの人間となります。支度金は後ほど改めて用意しましょう。―――十四代目葛葉ライドウ。これより貴方に指令を下します。貴方は彼らと協力し、帝都に潜む全ての帝都敵対者を壊滅させてください。これはクラリオンの残した異界の撲滅を上回る、最上位の指令です」

「―――」

 

ライドウが首肯したのを見届けると、ヤタガラスの使者は音もなく消え去る。そしてエミヤたちは、異なる時代、異なる世界の裏に潜む、自らの世界にて暗躍していた神とその配下たちを見つけ、自らの世界と帝都の平和を守るため、一時帝都に身を置くこととなる。

 

「では改めてよろしく頼む、ライドウ、ゴウト……、に、鳴海」

「―――こちらこそ、よろしく」

『ま、短い付き合いになるか、長い付き合いになるかは知らんが、コンゴトモヨロシク……』

「おい、エミヤ! 今、お前、間違いなく俺をついでに扱ったよな! 普通所長の俺に対して真っ先に挨拶するのが筋ってもんだろ! 」

 

西洋と東洋の文化が入り混じり、煌びやかに輝く町、帝都。そこは良くも悪くも、あらゆる異邦人を受け入れる、混沌の坩堝である。




ライドウ側は三人称視点。エミヤなどやシン達オリジナルキャラクターは一人称視点でやっています。本来ならどちらかに統一するのが正しいやり方なのでしょうが、原作ありのキャラクターの思想や言動が原作のイメージから乖離することを最小限に抑えるため、また、物語の都合上の処置なのでご容赦ください。

また、属性の弾丸は、ライドウ本編では、悪魔との合体技でしか登場しません。ただし、アトラスのゲームにおいては割といろんな形で属性弾が出るので、こういう形でならいいかなと思って書いてみました。重ねてご容赦ください。

ライドウ側のキャラクターのイメージが崩れていないといいのですが、いかがでしょうか。ここまで一読くださり、ありがとうございました。

追記
次は世界樹編を進めます。ご了承下さい。


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第二話 黄金時代の終わり

今回はエミヤが出ません。


第二話 黄金時代の終わり

 

 

サガの憂鬱

 

 

シンやエミヤたちがいなくなってから三日後のことだ。

 

「ハイラガードに行って剣を取ってこいだぁ? 」

「そうだ。我としても貴様らに命ずるのは不服ではあるが、事は急を要する。貴様らがこの街一番の人材であるとクーマが言う故に、貴様らに王命を下す事としたのだ。有り難く思え」

 

避難所の狭い空間の中、宙に浮いている目の前の金髪赤目の妙な格好をした男は、さも尊大な態度でそんな命令を俺に下した。踏ん反り返って腕を組み、顎を上げ,斜めから上からの視線と言葉の投げかけは、どう考えても見下しの意味を持っている。その態度が気に入らなかったので、俺は精一杯の抵抗として同じような口調と覗き込むよう、言葉を返す。

 

「ギルガメッシュとか言ったな。王命だかなんだか知らないが、なんで俺がお前の命令を聞かなくちゃならないんだよ! 」

 

するとギルガメッシュは少しばかり目元口元を歪め不機嫌を露わにしたが、私を改めてジロリと見下すと、すぐさま鼻で笑って、失笑を漏らした。

 

「―――は、なるほど。これは我が迂闊であったわ。我とした事が、現状の把握すら正しく出来ておらぬ餓鬼に重要な使いを頼もうとしていたとはな」

「な―――」

「よい。たしかに見ればまだ物の分別もつかない子供。一目で貴様という存在がどう言う者であるかを解せなかった我が不明であった。許せよ」

「て、てめぇ……! 」

 

ギルガメッシュはうんざりとした様子でそう言い切った。奴の言葉と態度は、たしかに己の判断を責めるようなもので、俺を責める様子はなかった。しかし、だからこそ俺は堪忍袋に溜めておける限界の怒りが湧き上がった。

 

―――人の気にしているところを一々逆撫でやがって……!

 

「―――まて、サガ! 何をするつもりだ! 」

「ダリ! 決まってるだろ! 目の前の奴をぶっ飛ばすんだよ! 」

「我が頭を下げてやったのに癇癪か。つくづく幼子というものは読めん反応をするものよ」

「―――こ、この……! 」

 

分水嶺をとっくに超えていた怒りがさらに爆発した。街での戦闘スキル使用が御法度だなんて法律は知った事じゃなかった。俺はフォーススキルを使うためにダリの拘束を振り切ろうとして―――

 

「落ち着けサガ! 」

 

しかしそれは叶わなかった。自分よりも一回りもふた回りも大きく、そしてギルドの守りを一身に引き受けるダリの筋力は、小さな体であり、女でもある俺が振りはらう事が出来るようなものではなく、俺はダリの両腕によって完全に体制を固定されてしまう。

 

「離せよ、ダリ! 俺はこいつに―――」

「落ち着けと言った! 」

「……! 」

 

ダリの一括に俺の体が竦みあがる。ダリにしては珍しい全身を震わせてまでの雄叫びは、接触している俺の体の隅々までぐわんぐわんと響いて、俺から抵抗の意志を奪ったのだ。

 

「―――ここは街中だ。いかなる理由があろうと戦闘用スキルは御法度。それはお前もよく知っているだろう? 」

「で、でも……」

「駄目だ」

「……わかったよ」

 

ダリの断言には、有無を言わさない迫力があった。それは奴が戦闘時や重要な判断をする際において見せる、重厚なものだった。巌の様な迫力が俺の分水嶺へと投げ込まれ、怒りは抑圧され、縮み上がってゆく。

 

―――クソッ、情けねぇ……!

 

「―――ギルガメッシュ、だったな」

「は、呼び捨てとはいい度胸だな、雑種」

「気に障ったのならば謝ろう。だが、一つ聞かせてほしい。なぜ、ハイラガードに剣を取ってこいと私たちに命ずる?」

「―――貴様も分別の付かぬ餓鬼か? 」

「そうだ。だから教えてほしい。その命令にどんな理由があるのかを。理由さえはっきりとしていれば、私は君の命令に従い、ハイラガードまでお使いに行こう」

「―――ほぅ」

「ダ、ダリ!? 」

 

ダリは私を抑えつけたまま宣言した。ギルガメッシュがうってかわって感心の声をあげる。

 

「私は理で動く人間だ。そして先ほどまでのエミヤと君が問答し、エミヤが君の意志を尊重する態度を見せるところから、ギルガメッシュという人物は態度こそ横柄だが語る言葉に嘘はなく、意味のない事を言わない男だと認識した」

「……あの男の存在が天秤の重しとなり我の言葉を信ずる理由へと転じたというのは気に食わんが―――、我の言葉に従う意志を積極的に見せたという、その一点だけは評価してやろう、雑種」

「―――では」

「だが語れぬ」

「……」

「おい! 」

 

ダリがそこまで譲歩の姿勢を見せたというにもかかわらず、ギルガメッシュという男はそんなダリの気配りをばっさりと切って捨てた。人の思い遣りを簡単に切って捨てるその態度が気に食わなくて、俺は思わず掴みかかろうとするが、その挙動はやはりダリの力強い両腕に制止されてしまった。

 

「ダリ! 」

「―――理由を聞かせてもらっていいだろうか?」

「語れぬ、とそう言ったはずだ」

「―――」

 

ギルガメッシュはどこまでも横柄だ。ダリを見下し視線には、「お前は小さな存在は、自分という絶対者に対して従っていればいいのだ」と、そんな意志に満ちていた。本当に、どこまでも気に食わない男だ。あまりにダリをバカにしている。

 

「――わかった。引き受けよう」

「ダリ!? 」

「ほぅ……」

 

だがしかし、ダリはそんな奴の言葉を聞いて、あっさりと依頼を受けてしまう。それが信じられなくてダリの方を見ると、ダリは何故か納得した様子で、俺はダリがそんな表情を見せる理由が理解できなかった。

 

「なんで……!?」

「―――ギルガメッシュは理由を言ったからだ。『言えない』。それが答えなのだろう? 」

「察しがいいな。物分かりのいい雑種は嫌いではない。仲良しこよしな回答を望むだけのそこな餓鬼よりも余程分別がついておる。ダリとやら、褒めてつかわそう」

「それはどうも。―――では、具体的に話を聞かせていただきたい」

 

ダリとギルガメッシュはハイラガードまでの移動手段や、どこの洞穴の奥に秘された誰も知らない剣のありかについて話をしている。俺はそいつが俺の事を見下す様な態度だった時点で、そいつの話なんか聞いてやらないと思ってしまうが、ダリは自分のことを見下す相手の言動を受け入れて、対話の姿勢を見せる。

 

ダリは独特な感性をしていて、失言も多いが、相手が重要な事を言っていると判断すれば、素直にそれを聞き出すために自分を下げる発言をすることも厭わない。自分の感情などよりも、周りの事情を優先して、時には頭を下げる。きっとそれが正しい大人の態度という奴なのだろう。奴は理路整然としていて、日常会話などではなく、目的がはっきりとしていて双方が目的に対して望むものが合致している様な場合、つまりは行動に感情という要素を必要しない場合はとても頼りになる男なのだ。

 

一方で、俺は場の空気やその場のノリを重要視して、雰囲気が悪くならない事を最重要視する。勿論、俺なりに精一杯なつもりだし、周りと仲良くやれている自信もあるが、だからこそ、こう言った、相手がその雰囲気を無視して命令してくる様な場合は上手く回らなくなる。感情が理屈を上回るのだ。俺は昔からこうだった。多分、人よりも色々と劣っていたのが原因なんじゃないかなと思う。

 

つまり、ダリはとても不器用ながらも物事に真正面から取り組もうとする大人で、俺はとても器用に物事を受け流すお子様なのだ。悔しいがギルガメッシュの言うことは間違っていない。ダリとギルガメッシュのやりとりにそんな目を背けていた事実を再確認させられた俺は、自身のちっぽけさを自覚させられて、ひどく居心地の悪い気分になった。

 

ダリは必要があれば、平気で頭を下げるし、理不尽に思える依頼でもそれが周囲の人間が望むこと、周囲にとって必要なことである本人が判断すれば、自分の感情は抑え込んで、依頼をこなす為に全力を尽くすのだ。奴はそうしてコツコツと積み上げることを得意とする。

 

だからダリは多くの人から信頼されている。俺たちのギルドはシンという男が色んな意味で目立つためダリという鈍感男は気づけていないようだが、あいつは実のところ、俺らのギルド「異邦人」の中ではエトリア内外の人間から最も信頼を得ている男だ。

 

戦闘関連のこと以外に興味がないと依頼を跳ね除けがちなシンと異なり、ダリは実力者である自分達でないといけない理由さえあるなら、依頼を受けるだけの度量がある。シン含んで俺らの他人からの評価は好き嫌いがはっきりと別れているが、あいつの場合は大抵のやつから好意的に見られている。特に酒場の女将や、元同僚の衛兵たち、執政院のお偉方、街の外のから俺らを頼ろうとやってくる商人なんかからは、頼りにされている。あいつは話を聞いた上で、是非を判断し、断る場合も理由と代案を出してくれるからだ。

 

でも多分あいつは自分が好かれている事に気が付かない。シンにとって戦闘以外が端事であるように、ダリにとって真正面から物事に取り組む事は些事に過ぎないのだ。それどころか、あいつは何というか、自分の論理的である部分を嫌っている節がある。あいつは多分、理解できない事が嫌いで、整頓しないまま必要不必要を切り捨てるのが苦手で、そして、一度やり方を定めたらずっと同じやり方を貫くような頑固さがある。

 

だから、刻一刻と変化する他人の感情というものを理解しにくい性質で、他人と下らない話をするのが苦手で、そんな自分を嫌っているのだ。でもそんな不器用で真っ直ぐな奴だからこそお、ダリという男は色んな奴から好かれている。あいつは平常時に一緒にいると結構癖があって疲れる男だが、非常時にはだからこそ頼りに出来る大きな男なのだ。

 

自分のような、適当で、がさつで、いい加減な所もある小さな女とは違い、多くの人から自然と頼られるデカイ男。だから俺はこいつのことが苦手なんだ。嫌いではない。決して嫌いじゃないが、好きになれきれない。

 

「では準備が出来次第、我の元を訪れるがいい。ハイラガードの転移所までは送ってやろう」

「承知した。全力をつくそう」

 

そんなことを考えている間にダリはギルガメッシュとの会話を終えていた。宙で腕を組み、ダリを見下ろすギルガメッシュの姿勢に変化はなかったけれど、ギルガメッシュが身を翻して去って行く際に後ろ向きに腕を一振りする動作には、ダリの行動に期待するような意思が込められていることに、俺は気がついた。

 

「どうした、サガ」

「何でもねぇよ!」

 

子供扱いされた俺とは違い、ダリは今のやりとりであのギルガメッシュとかいう傍若無人な男から一定の評価を得ることに成功したらしい。しかも本人はその事に気がついていない。その事実は、俺の劣等感を刺激して、俺に何とも惨めな思いを抱かせた。

 

 

「というわけで、クーマ。ハイラガードへの紹介状を書いて欲しい」

「ああ、その話ならギルガメッシュから聞いています。これをお持ちになられてください」

 

クーマはダリへと一枚の蝋印のされた封を差し出す。紐でぐるぐる巻きにされたそれは、冒険者が別の街に行く際などにおいて、元々活動拠点としていた登録していた街より貰える身分証明書兼推薦状だ。エトリアという街においては、クーマという男が冒険者担当ゆえだろう、例外的にどのような人間も分け隔てなく受け入れられる傾向にあるが、ほかの街や国の中には、出入りに制限をかけていたり、閉鎖的だったりする場所もある。

 

そこに聞いてくるのがこの書類だ。公的に発行されたこの書類は、どこの場所においても大きな力を発揮する。書類に記載されている内容には発行した場所でそいつらがどのくらい活躍したのかを示してあるので、当人たちが派手に活躍していたのなら、それは多くの街で役に立つ、万能の鼻薬みたいなものになる。翳せばたちまち相手は胸襟を開いて俺たちを迎え入れてくれる、というわけだ。まぁ、場合によっては、いきなり名が売れて面倒なことになったり、監視がついたりという面倒も起こるが、とにかく入国をするという点にだけ目を向けるなら、これ以上ない印籠だ。

 

「書類にはエトリアの近況を簡単に添え書きしておきました。これで大抵の些事を押しのけて、ギンヌンガガプの洞穴の探索が出来るはずです。あ、ついでにこれも持っていくことを許可します。エトリア用のアリアドネの糸です。本来なら他国に持っていくのなんてとんでもない規約違反ですが、四の五の言っていられる状況じゃありませんしね」

「用意がいいな、おい」

「詳しくは聞いていませんが、あのギルガメッシュが緊急の案件だと断言していましたから、急いで用意させました」

「―――あいつの言葉ってそんなに信頼できんのかよ」

 

ギルガメッシュという男が、エトリアの執務官にも信頼されているというのが少しばかり気に食わなくて、不承気味に尋ねると、クーマは真剣に頷いた。

 

「ええ。あれは傲慢ですが慧眼で嘘をつきませんからね。そんなギルガメッシュが緊急というからには、今回の件はたしかに火急の案件なのでしょう」

「感謝する」

 

ダリはクーマの差し出した封筒と糸を受け取ると、一礼する。

 

「つかぬ事をお聞きしますが、あなた方三人で向かうおつもりですか? 」

「ああ。シンと響がいなくなったからな」

「……、よろしければ、残った衛兵の中から数人、あなた方に協力を―――」

「いや、心遣いはありがたいが、それには及ばない。ただでさえ人数が減って大変な所に、アーモロードとモリビトの里に向けて護衛付きで援助物資を送ったから人ではかつかつなのだろう? 」

「いやぁ、お見通しでしたか」

「これでも元衛兵だからな。事情は古い知り合いから 聞き出せる」

「普通なら問題の発言なんですが―――、ま、聞かなかったことにしましょう。あなたならその辺りの情報使って変なこと企みもしないでしょうし」

「……ああ、これは迂闊だったな」

 

ダリは俺たちと話すよりもずっと饒舌にクーマと話している。本当に問題と目的がハッキリしている場合のダリは頼りになる。

 

「では、お気をつけて」

「そちらも幸運を―――ああ、そうだ」

 

 

「ギルガメッシュ用意ができたぞ」

「遅いぞ雑種」

 

ベルダの広場、人のいなくなったエトリアの街を睥睨していたギルガメッシュにダリが声をかける。すると、ギルガメッシュは横柄な態度で振り向きざまにそういった。

 

「すまない。クーマが色々と気を使ってくれたのでね。万全の準備を整えていた」

 

言うとダリは半身を翻し、自身の後ろにいる私とピエールを紹介するかのよう腕を広げた。

 

 

そう。俺たちは、クーマの気遣いにより、執政院が保有している、伝説のシリカという女道具屋の店主が加工した装備を身につける事を許されたのだ。ギルガメッシュの依頼を受けた事に対する報酬がわりで、ついでにハイラガード用の厚着も手当してくれるというのだから、なんとも気前がいい。

 

俺は賢者の杖、エンジェルローブ、アタノールオリジンという、アルケミスト最高峰の防具を身にまとっている。賢者の杖は旧迷宮17Fの奥に潜むマンティコアという強敵を盲目状態で倒す事で手に入る魔獣の瞳を先端にはめ込んだ短魔杖だ。視界を奪われた魔獣はそれでも周囲の敵を倒そうと魔力を昂らせる。その時、高まった魔力が瞳という場所に集中して、虹色に輝くのだ。その瞬間にくり抜いた目玉を加工したそれは、身につけているだけで保有者のスキル負担を軽くすると同時に、威力をあげる効力を持っている。まさに最高の杖だ。

 

エンジェルローブは旧迷宮20Fの番人を麻痺させて倒した場合手に入るという黄金の風切り羽から仕立てられたもの。これは、驚くほどの軽さと耐久性、伸縮性を持っていて、体に張り付く癖に、体の動きの邪魔をしない。それどころか、動きのサポートをしてくれる様な所まである。唯一の欠点は、無駄に育った胸を抑え込んでいると真価を発揮しないためサラシが使えない事だが、緊急事態なので我慢する事にした。

 

アタノールオリジンは、なんと俺たちの目的であった、三竜のうちの一匹、氷竜の目玉を加工して作られたアルケミスト専用の籠手だ。極寒の地に住んでいると噂の氷竜の体は、常に一定の冷たさを保ち、そして熱を遮断する性質を保有している。これを籠手の回路に使用する事で、電気信号や魔力が回路を通過する際の抵抗はほぼ無くなるつまり、この籠手を装備すれば、術式の発動から発射までの反応の誤差が殆どゼロになるのだ。つまり、スキルの威力が飛躍的に向上するのだ。

 

今の俺なら、どんな術式だって、今までの五割増し程度には威力を発揮出来る筈だ。装備の強さがそのまま冒険者の強さに繋がるとは言わないが、それでもやはり装備の強さは強さの証明にはなる。俺は現金で非常時ながらも、この様な物を見に纏うことができて、ワクワクしていた。

 

これに対して、ピエールは賢者の杖、フェアリーチェイン、世界樹の王冠という出で立ちだ。

 

賢者の杖は俺と同じもの。フェアリーチェインは、旧迷宮7Fの奥地に住む、人型の部分を持つ魔物アルルーナを眠らせた状態で倒した時に手に入る華王のビロードを加工した物だ。華王のビロードは柔らかく上品で深い光沢を持ち、その上重さを感じさせないほど軽いのには、鎖かたびらの様に堅牢でもあるという、なんとも矛盾した代物だ。美しさと機能美を兼ねているであるにもかかわらず、俺のこの服よりも堅いのだから、本当にどうなっているのだろうとも思う。

 

世界樹の王冠は―――、何というか、全ての謎を解き明かした人間にエトリアから授与される特殊な装備品らしい。初代院長のヴィズルの部屋に保管してあったというそれは、見た目自然の枝葉を切り取ってきてそのまま時間を止めたかの様な翠の美しさがある。また、エトリアの迷宮を完全攻略したハイランダー「シグムント」率いる伝説のギルド「スレイプニル」が受け取りを辞退したというそんな物を恐れず欲しいと言ってのけるんだから、あいつの根性も大分凄まじいものがある。

 

まぁ、楽器も様々な物が揃っていたが、己の喉と慣れた楽器こそ最高の装備と信じてやまないあいつは、キタラを手放そうとはしなかったあたり、色々とあいつらし言っちゃあいつらしいんだが。

 

最後にダリは月牙槍、聖騎士の鎧、聖騎士の盾に、ユグラドールとかいう不気味な人形を身につけている。槍は旧迷宮29Fという超深層に生息するヒュージアントとかいうやつの爪を加工して作り上げたものらしい。ただ、この槍は、旧迷宮の深層21F以降、つまりは遺都シンジュクより下の層の警備を担当する優秀な衛兵には無償で貸与されるもので、つまりかつてそこで衛兵として活動していたダリにとっては使い慣れているものだったとかで手にする姿は確かにとても馴染んでいた。

 

聖騎士の鎧はこれまた氷竜の凍てつく竜翼を加工して作られたものだ。冷気を帯びて大気を凍らせるとも言われるそれは、敵の攻撃が鎧に当たった瞬間、まさに凍りついたかの様に停止させてしまうという。正直眉唾だったが、投げた小石がピタリと張り付いて、衝撃を完全に失った後、自由落下したのを見るに間違い無いのだろう。

 

鎧と同じ聖騎士の名前を冠する盾は、旧迷宮の15Fに住むアイアンタートルの甲羅をぶっ壊して倒した時に手に入る傷ついた百年甲羅を加工したものだ。何でも死の間際、亀が攻撃を防ごうとする意思が乗り移るとか何とか。―――まぁ、正直この辺りまでは個人的にどうでもいい。

 

問題は、ダリが鎧の下に潜ませている―――ユグラドールだ。何でも世界を支える世界樹の根っこを加工して作られたとか言うそれは、まぁひどく不気味な姿をしている。木の根っこなんてほとんで茶色の繊維質物を使って、頭部、胴体、四肢を作られており、藁人形が呪いを引き受けるかのごとく、所有者の様々な負担を軽減してくれるから持つ。

 

パラディンが持つよりもカースメーカーが持った方がお似合いだ。何より、ダリの様な大男が胸に潜ませていると思うと、それだけで薄ら寒いモノを感じたりもするが―――、ダリにとっては実用性が一番の価値なものだから、あいつは迷わずそれを手にしたのだ。

 

少し前に随分と奴の事を褒めちぎったが、あいつはやはり、人とズレた感性で、他人の気持ちに鈍感だ。理屈一辺倒でなく、少し感性を磨いたほうがいいと思う。

 

 

そして装備を新調した俺たちを見て一瞬だけ目線を鋭くしたギルガメッシュは、しかし興味の失せた様子で視線をそらす。どうやらこの世界最高の装備も奴にとってはお眼鏡に叶うものではなかったらしい。

 

「―――言葉に嘘偽りはないようだな」

 

それでも一応、自らの依頼を達成するため用意したという努力は認めたらしく、ギルガメッシュはそんな事を言った。

 

「当然だ」

 

ダリが頷くと、ギルガメッシュは正面を向き直して、腕を振るう。すると俺たちの周囲の空間は白い光に包まれ、浮遊感が身を包み込む。迷宮探索の際に何度も味わった、転移直前の感覚。俺たちはこれから、このギルガメッシュという男の手によって、ハイラガードの転移所まで転送されるのだ。

 

「最終確認だ、ギルガメッシュ。ギンヌンガガプの崖面にある洞穴の一番深奥地より剣を持ち帰ればいいのだな?」

「その通りだ、雑種。それだけ覚えておれば十分よ。もはや時間はない。一刻も早くその場より剣を持ち帰り、我へと献上せよ」

「承知した」

 

そして俺たちの体は光へと包まれる。やがて転移の直前、白い光の向こう側にいたギルガメッシュは、空を眺めて一言漏らした。

 

「―――エインヘリヤルの門が開きおったか」

 

―――エインヘリヤル?

 

つられて空を見上げるも、朝焼けには薄っすらと月が浮かんでいるばかり。おれは奴の言葉の意味を理解できないまま転移の光の中へと吸い込まれてゆく。

 

 

 

「っ、と」

 

浮遊感の直後、慣れ親しんだ体が下に引っ張られる感覚で、俺は転移の終了を確信した。すぐさまやってくる衝撃に備えて両足の準備をする。そして接地の瞬間、膝を曲げて両手で地面を叩き、衝撃を逃がしてやれば、作業は滞りなく完了だ。

 

「―――ついたか」

「……のようですね」

 

ダリとピエールは暗闇の中を見渡すと、揃って顔をある方向へと向けて、そう述べた。二人が何を注視しているのかと視線を向けてやれば、鉄格子の先には驚愕の表情を浮かべたまま固まっている衛兵たちの姿がある。衛兵たちの鎧はエトリアの兵士たちが着用するものとは異なる意匠の鎧を着用している。エトリアの兵士たちより少しばかり厚着であるのは、このハイラガードという場所がエトリアよりも北の位置にあるからだろう。

 

「お、お前たち何者だ! 」

「今、ハイラガード公国は非常事態宣言が発令されている。全ての冒険者は迷宮への出入りを禁じられ、街の防衛への協力を命じられているはずだが……、お前ら、迷宮へ潜っていて宣言を聞いていなかった類の冒険者か? であるならば、登録してあるギルド名を述べよ」

 

二人は槍と盾を構えたまま警戒の姿勢を保ち、鉄格子から距離を取る。詳しい事情はわかなライが、少なくとも歓迎されていないことだけはたしかなようだった。

 

「非常事態宣言? 街の防衛? 剣呑じゃないな。どういうことだ? 」

「さぁ? しかし、ハイラガードほどの国がその様な規模の緊急宣言と総動員の発令をするわけですから、ギルガメッシュの言っていた緊急事態とやらは相当深刻なのかもしれませんねぇ」

「おい、貴様ら! 私の質問に答えろ! 」

 

炎だけが照らしあげる暗闇の向こう側、衛兵たちは緊張した面持ちを保ったまま、再度問いかけてくる。衛兵たちの様子は、まさに切羽詰まった、というのが正しい位の気概に満ちていた。

 

ダリはピエールと俺とに目線を送ってくる。その目線に含まれているものの意味に気がついた俺たちが、ゆっくりと首肯する。それを確認したダリは鷹揚に頷いて、胸より書類を取り出すと、彼らの方へと突き出した。

 

「―――エトリアからやってきた冒険者だ。悪いがこちらもエトリアにとって緊急の案件だ。公国の責任者の元へと案内してもらいたい」

 

ダリは鉄格子に近づくと、書類の表面蝋印が見える様にさらに前方へと突き出す。炎の灯りが辺りをうっすらと照らす中、疑念の目をこちらに向けながら差し出された書類の表面を確認した衛兵の一人は、目を見開くと、彼の後方にいた衛兵に対して頷き、こちらへと向き直ると、二人揃って盾の構えを解除し、槍の尻で地面を叩き、足を揃えるとともに最敬礼した。

 

「失礼しました! これより、貴君らをラガード公宮までご案内いたします! 」

 

 

転移所から外に出ると、エトリアよりも乾燥した空気が俺らを迎えてくれた。ハイラガード公国はハイラガード地方を統括する中央都市だ。エトリアよりも北に位置し、街は岩の上を削って作り上げられている。つまり高山の街だ。だから空気もサラッとしている。

 

エトリアを出発した時刻は七時だったから、時差を考えれば、こちらは夕方の六時くらいだろう。また、こちらは北にある分太陽が沈む時間もずれている。夏のこの季節だと、十時くらいが日没の時刻だったはず。だからまだ太陽はそこそこ高い位置にいて街を照らしている。しかし、にもかかわらず―――

 

「さっむ……」

 

エトリアと同じく、道は石畳で、建物は煉瓦と白い漆喰に、翡翠緑の屋根が立ち並ぶ街は、けれどエトリアよりも酷く冷え込む。夕方のハイラガードの街は、エトリアの夜以上に冷気が漂い、喉元や腰の服の隙間からは入り込んできては、体温を奪おうとするものだからたまらない。

 

寒気に背筋がゾクゾクして、思わず両手で体を抱え込む。人より平熱が高い俺でもこんな様なのだから、背の高いダリは辛いだろう。こんな事態になるのを見越して厚着をしてきて正解だったと心底思う。そう、辺りを見渡せば、衛兵や俺らのように厚着をした奴がたくさん―――

 

「―――なぁ、なんか、街の中が随分とギスギスしてねぇか?」

 

そして気がつく。ハイラガード公国は地方の一都市であるエトリアよりも、一回りも二回りも大きな、地方を統括する都市国家だ。故にエトリアなどよりもずっとにぎわいを見せる街―――、という噂を聞いていたのだが、どうも街の様子がおかしい。

 

中央市街地に近づくにつれて増えてゆく道具屋や料理店には、どれも閉店の看板が掲げられているし、いつもなら冒険者がちらほらいるだろう宿屋の前もしんと静まり返っている。それどころかよく見れば、街を歩く人の数も少ない。ゼロ、と言うわけではないし、ほとんど人気のなくなったエトリアに比べれば多いとも言えるが、街ゆく冒険者の数よりも衛兵の方を多く見かけると言うのは、あまりにも異常だろう。

 

「ああ。そこらの街角ごとに衛兵が見張りにたち、往来を完全装備の冒険者が警戒視線をばら撒きながら往復している。ただ事ではないのはたしかだろう」

「なるほど、それで」

 

尋ねるとダリは俺の疑問を言語化してくれた。状況をパッと表す語彙力が豊富なあたりさすがだと思う。あとはダリのこの観察力が人の気持ちに対しても活かされれば文句ないのだが―――、まぁ、この緊急事態にその様なことを言っている場合じゃない。

 

「―――全ては昨日やってきた翼人のせいなのです」

「……翼人? 」

 

すると俺たちの案内を勤める衛兵が前方を進み振り向かない状態のまま、俺の疑問に答えてくれた。そうして変わらぬ態度で話しかけてくる衛兵は、一見平静を保っていそうに見えたが、昨日の翼人襲来とやらが余程恐ろしい出来事であったらしく、その体が震えている事に俺は気がついたが、だからといってわざわざ指摘する気も起こらなかった。勇気を振りしぼって語ろうとしている人間に対してのひどい侮辱になると思ったからだ。

 

「はい。―――昨日の事です。朝、突如として公国南の空に現れた、赤い鎧を纏った翼人たちは問答無用で攻撃を仕掛けてきました。その数、なんと約千。翼人たちは見たことないスキルを使用して、世界樹迷宮近くを守護していた衛兵たちを攻撃。―――彼らはあっという間に壊滅し、世界樹の迷宮の前に設置されていた扉は破られてしまいました」

「―――千人の翼人が奇襲? そして衛兵が壊滅だと? 」

「はい」

 

あまりに聞きなれない、そして信じ難い言葉が並んでいたため、俺が思わず衛兵の述べた言葉を反復すると、衛兵は震えた声で返事をしてくれた。昨日のことを思い出す中で、恐怖が蘇り、抑えきれなくなったのだろう。先ほどよりも衛兵の震えは大きくなっている。おそらく彼自身にとっても信じ難い出来事だったのだ。

 

「翼人の数は役千人。つまり、冒険者小隊二百人分であり、一個大隊です。そんな数の奇襲という非常事態につき、公国中央市街には、直ちに緊急事態宣言が発令されました。以降、今、腕利きの冒険者たちや集って迷宮の入り口を見張り続けており、そして残りの彼らには街の警戒の協力をしてもらっています」

「厳重だな。公国を抑えている大公殿は、どのように考えているのだろうか? 」

「いえ、大公閣下のお考えはわかりません。ですが、少なくとも、間違いなくよくない事態が起こるだろうという事は、皆が確信しています」

「……? なんでだ? 」

 

尋ねると、衛兵は一層大きく身震いして、言う。

 

「―――迷宮に一度に入った人数があまりに多すぎるからです」

「―――ああ、迷宮の呪いか」

 

世界中にあちこち広がる迷宮は、その内部こそ千差万別の作りや構造をしているが、たった一つだけ共通している事項がある。迷宮はまるで攻略される事を嫌うかのごとく、一度に大勢の人が侵入したり、中で大勢が徒党を組んで活動するのを嫌うのだ。

 

例えばエトリアにおいて迷宮が発見されたばかりの頃は、調査のためにと多くの人が足を踏み入れたところ、迷宮の中で彼らの前に魔物が大量発生し、そのほとんどが帰らぬ人となったという。数度の挑戦ののち、法則性に気がついた執政院は、やり方を変え、少数を送り込んだのち、中で徒党を組ませて探索をさせたところ、やはり魔物が大勢現れて調査隊は壊滅したという。

 

また、調査を繰り返しているうちに、迷宮の外にまで魔物が出てくる事態になってしまったため、当時のエトリアは大混乱を起こしたという。

 

そのような失敗を繰り返したのち、やがて執政院は経験則から迷宮に足を踏み入れた際、最も生存確率が高くなる人数の最大値は五人から六人であり、六人を境にがくんと生存確率は下がり、そして、七人以上での侵入を試みた際には殆どの場合、誰一人として帰還者は出ないという法則を見つけ出した。

 

そこから迷宮探索のため、一度に潜り込めるのは、一時間につき五人までという方は制定され、そしてどこの迷宮でも通用すると広まった結果、それはやがて常識となったのだ。

 

「では、公宮は翼人の再度の奇襲に備えてというより―――」

「はい。世界樹の迷宮それ自体が何らかの拒絶反応を起こすだろ事を予測して、按察大臣は多くの冒険者に街中を見張ってもらうと同時に、住民に外出自粛の命令を発したのです―――、っと、そろそろですね」

 

衛兵は俯き加減だった面をあげた。中央のでかい広場を抜けた先、坂の上には立派な尖塔が立ち並び、列を作っている。その中でも一番偉そうな背の高い建物を控える場所の下に、俺らは案内されていた。その重要度は―――

 

「流石」

「警備が物々しいですね。今までとは段違いだ」

 

周囲を見渡せばよくわかる。建物の前の小さな広場には三分の一程度を埋める程度の衛兵がいる。上の見張り台などに待機しているのを加えれば、ざっと五百は下らないだろう。隊伍を組んである程度の間隔を空けているのは、もしこの場において戦闘となった場合、動きにくいのを回避するためと、同士討ちを避けるために違いない。

 

「ラガード公宮です。按察はあちらの建物にて指揮をとっておられます」

 

これがラガード公宮。ハイラガード公国の心臓部で、中心の政務を行う場所。俺たちは自分と同じ格好をした大勢の仲間を見たためか落ち着きを取り戻した衛兵によって、公宮中へと案内された。

 

 

「ほう、なるほどそれでギンヌンガの洞穴へ行きたいとな」

「はい」

 

ハイラガード衛兵の案内によってラガード公宮へと通された俺らは、即座に按察大臣の元へと通された。周囲では職員がドタバタと忙しそうにしている。その中に衛兵や冒険者の姿が見あたらないのは、そいつらが残らず迷宮の入り口と街の見張りとに動員されている証拠だろう。

 

「―――やれやれ、このような事態であるが故、エトリアの有力な冒険者であるというそなたらにも協力をお願いしたかったが、そちらもそちらで大変な事が起こっているようじゃな」

 

禿頭にヒゲをたくさん蓄えた爺さんは、そういってつるんと光る頭を撫でながら言った。この男こそがハイラガード公国の按察大臣。大公と呼ばれるトップの人間に変わって執務の大部分を行う、実質上、公国の執務を全て司る責任者だ。

 

「ええ。ですから、不躾なお願いではありましょうが、是非とも私共の要望を聞き届けて頂きたく」

 

ダリは恭しく頭を下げる。こう言った公的な場においては、元衛兵であり、堅物でもあるダリ以上に適任な人間はいない。だから俺らとピエールは黙ってその話を聞くに徹していた。

 

「構わん。非常事態においては、助け合いこそが事態の収拾には肝要じゃからな―――そうだ、ついでにハイラガード帰還用のアリアドネの糸をいくつか持っていくがよい」

「―――お心遣いはありがたいのですが、私たちはすでにエトリアの糸を持っており、帰りはそれを用いて直接エトリアへ戻ろうと考えております。すなわち、ここで私に糸を渡すと、私が糸をエトリアへと持ち帰るという事態が発生してしまいますので……」

「構わん。むしろそれが狙いよ」

 

按察大臣は笑うと、いかにも老獪な笑みを浮かべてぎらりと目を光らせた。ダリは首を傾げたが、すぐに真剣な表情を取り戻して背筋を正した。ダリの拝聴の姿勢を見た大臣は頷き、口を開く。

 

「翼人―――本来ならこう呼ぶのは別の種族対象なんじゃが、兵士の呼び名が定着してしまってのう。とにかく翼人の発生時期から察するに、儂はエトリアで起こったという異変とハイラガードでの異変は関連した事態だと睨んでおる。ならばエトリアと連携を結んで動いた方が事態の収拾をより迅速に図れるじゃろう。エトリアとハイラガードは本来なら、馬を使い潰す覚悟で二週間以上かかる距離じゃ。じゃが、ワシらにはその距離をゼロにする道具を保有しておる」

 

ダリは大臣の問いかける様なセリフを聞いて考え込むそぶりを見せると、しばらくして面をあげた。

 

「―――アリアドネの糸を利用して、樹海磁軸の代わりにし、双国に連絡の通路を作り上げたいと仰るので? 」

「その通り」

 

よくぞ我が意を読み取った、といわんばかりに大臣は笑う。

 

「すなわち、糸は餞別などではなく、速やかな移動と連絡の為のものじゃ。儂はエトリア―ハイラガード間にて事態収拾のための協力関係を結びたい。―――糸には誠意を見せるという意味もある。そうしてこちらから積極的に胸襟を開ければ、あるいは向こうのクーマという執政官もこちらに戦力を寄越すことを検討してくれるかもしれんという欲もある」

 

どうやら大臣は現在の状況が相当切迫した事態と睨んでいるようだった。そうでなければ、その気になれば兵士を大量に送り込める糸という品を、他国からやってきたばかりの人間に、アリアドネの糸という代物を渡そうとは思わないだろう。

 

「―――お言葉ですが、大臣閣下。個人的な意見となりますが、平時のクーマならば助けを求めれば迷わず衛兵や冒険者を派遣したでしょう。ですが、エトリアは現在、ほとんど人が出払っております。いかにクーマとあれど、無い物を生み出す事は出来ない……。一人二人ならともかく、多くの衛兵の融通を効かせるのは難しいかと。厚かましいようですが、防衛のための戦力をご所望でしたら、大公の名の下に公国周辺の街に要請をした方が―――」

「公国。ふふ、公国、か」

 

ダリの言葉を遮って、自嘲の色が混ざった言葉を大臣が呟く。俺は言葉に含まれている多分の絶望の気配に思わずたじろいでダリの前にいる大臣の様子をまじまじと眺めた。目には諦観と失望とが混ざった色が浮かんでいる。その瞳の負の感情の深さに気圧されたのだろう、ダリは言いかけた言葉を飲み込だようだった。

 

「―――どうやらエトリアは王制を自称するこちらよりもよほど統制のとれた国であるようだ。クーマとかいう指導者を心の底から信頼したものが集っておる」

「……閣下?」

「救援の要請。それならもうとっくに使者を派遣しておるよ。ハイラガード地方の広大な土地には、規模としては小集団民族が各地に大勢住んでおる。早ければ近くからは返事が返ってきていてもおかしくない。糸があるのだからね。しかし増援を伴った返事はカレドニア公国などの一部の大国からしか返ってこない。しかもそんな大国であっても、よこしてくれたのは僅かだった。―――、つまりはそういう事だよ」

 

ダリは渋い顔をする。俺も遅ればせながら、大臣の言葉から奴の言わんとしている事が理解する事ができて、同じ面になった。ピエールだけが涼しい顔をしている。

 

「―――救援はほとんど期待できないと? 」

「優れた支配者が長年をかけて一つの価値観を浸透させ続けたエトリアとは異なり、ハイラガード公国というものは、世界樹という資産を持つ大公閣下のおられるここを中心に、近辺に住まう小さな民族が身を守るために集まってできた部族国家だ。国と呼べる規模の所は数えるくらい。つまりはほとんどが戦力を持たっておらん。謎のスキルを使う千人の翼人を相手にしたら、数秒と持つまい」

「でしたらなおさら戦力を集中してことに当たせるべきでしょう。中央の危機なのですから―――」

「誰しも生まれ故郷は恋しい。彼らはもし万が一、ここがやられた場合、自前で其奴らと戦わねばならぬと考える。だからまずは自領地の戦力を整え、そして守護することを優先する。これは理屈でなく本能だ。目の前に迫った現実を恐れる本能が、人を正常な判断から遠ざける。そしてそれは本能であるが故に、理屈で抑えてやることは難しい。あるいは伝説に残るエトリア初代院長のように、優秀な指導者が長年意志を纏め上げてきたというのなら別かもしれないが―――」

 

大臣は寂しげに首を振った。俺は何も言えなかった。抑えがたい本能というものは確かに存在する。それは自分が認めたくないものと出会った時に自然と湧いて出て、自分の体を乗っ取り、制御不能にしてしまうのだ。

 

「ハイラガードという厳しい自然環境と人の寿命の前には、そう言った理想が風と土に染み込む前に、寒さと死の中に消えていってしまう。環境がよければあるいはエトリアの様になれたかも、などと思ってしまうのは、ふふ、そんな風に国や人を導くことが出来なかった老人の負け惜しみに過ぎないか」

 

そういった負の感情自体は、溜まりにくいものではあるが、負の感情を感じる器官のようなものはそういった出来事と遭遇するにつれ、どんどん感度を増していく。しかし厳しい環境下において体が順応するのとは異なり、心は直ぐには強靭にならないものだ。

 

「―――、ハイラガード公国は広大だが、その土地に住まう多くの味方は、すぐ近くで起きた脅威を恐れ、我が身を守るのに必死で積極的に動こうとしない。じゃが、遠くのエトリアは一都市で戦力を削られたにも関わらず、こうして最高戦力を派遣してまで世界の危機に対して積極的に動こうとしておる―――、どちらに信の重きをおいた協力体制を築いて方が良いかは、素人目にも一目瞭然じゃろうて」

 

そして感度を増した器官が周囲の環境から感じ取ったモノと、己を冷静に保つ心との釣り合いが崩れた時、やがてそれは暴走して、破滅に繋がる選択肢を選ばせたりするのだ。そう、それは俺がかつて自分の村を飛び出した時のように―――

 

「―――エトリアの冒険者よ」

 

やがて過去の苦い記憶に浸っていた俺を、大臣の重みを帯びた言葉が現実へと引き戻した。

 

「大公様の代理として、按察大臣たるソルが君たちに改めて依頼をお願いしたい。エトリアに戻った際、エトリアのクーマという男に、互いに危急存亡の事件が解決するまでの間、エトリアーハイラガード間において協力関係を結びたいと伝えて欲しい」

 

ダリは俺とピエールに視線を送ってくる。了解を求める合図に、俺とピエールだけは揃って首肯すると、ダリは頷いて、大臣の方へと向き直り、そして告げた。

 

「承知しました。その依頼、引き受けましょう」

「―――ありがとう。エトリアへの正式な協力要請の書簡は、すぐさま用意しよう。大公と相談の上内容を吟味し書き上げる故、しばしの間ここでお待ちくださ―――、ああ、そういえばギンヌンガの洞穴に行きたいのでしたな。そうであれば、まずは近くの道具屋で器材を揃えてくるとよい。あそこは他の場所と岩質が異なっており、崩れやすい故、専用の登攀と下降の装備がないと危険だ。道具購入の許可はすぐさま用意させまする。代金は報酬の一部としてこちらが受け持ちましょう」

 

 

「ちょっといいかしら? 」

「あ? 」

 

大臣からツケでの道具購入を勧められ、俺たち中央市街から離れて道具屋へと向かっている最中、道の真ん中で背後より話しかけてくる女がいた。公宮の方面からやってきた女は、上の三角帽子から下のエプロンに至るまで金糸が縫い込まれた、上等な絹を使って大きく胸元が開いたドレスを着込んでいる。

 

顔はハイラガードの人間にしては浅黒く、かといってエミヤほどではない健康的な小麦色をしていた。薄化粧に幼さを残した雰囲気纏う細身の美人で、その肌の色は薄い布のドレスと相まって、サッパリとした空気を演出するとともに、妖艶さを醸し出す要素となっていた。

 

さて、このような男受けする、かつ、呪い使いの様な格好をする奴といえば、カースメーカーかドクトルマグス、また、豪奢な仕立ての服装からもしやプリンセスだろうと思う奴もいるかもしれないが、俺は一目でそいつがドクトルマグスであると見抜いていた。

 

それは奴がドクトルマグスの持つ、特有の、杖と剣を合体させた槍のような武器を手にしていたからだ。杖の様な剣は、かつて俺らの師であり、元ギルドメンバーでもあるドクトルマグス、すなわち、亡くなった響の父親が使用していたものであり、見慣れた武器だから見間違いようがなかったのだ。

 

ついでにいえば、俺はさらに、目の前の女が良いところのお嬢さんで、かつ、実力者であるとも見抜いていた。それは金糸による縫製という豪華な格好以上に、女がダリに声をかけるその仕草があまりにもお上品過ぎるというのに加えて、このクソ寒いのにも関わらず薄着でしかし背筋がピンと通っている理由を、ハイラガード迷宮産の高価な装備品によるものなのだろうと考えれば、周りにこいつの様な薄着をした奴といない事実と合わせて、辻褄があうからだ。ダリほどではないが俺だってこの程度の推論は出来るのだ。

 

「―――何の用だ?」

「ちょっと相談があるのだけれど、お時間よろしいかしら?」

 

その女はそういって真正面からダリを見つめた。セミロングに纏められた黒髪が風に揺らぎ、瞳が露わになる。まっすぐな瞳からは確固たる意志のようなものが感じられた。この手合いは自らの目的を達成するまで食らいついたら離れない。厄介な奴に絡まれたな、と俺は辟易とした気分になった。

 

「―――手短にお願いする」

「……いいのか、ダリ」

「断ったところで纏わりつかれるだけだ。この手合いは少なくとも話を聞いてやらなければ私たちから離れまい」

 

どうやらダリも俺と同じ感想を抱いた様だった。ダリは人の感情の動きはともかく、人物評価の眼は優れている。数値で表すことの出来る評価はこいつにとって得意な分野なのだ。

 

「あら、ご挨拶ね」

「違ったのならば失礼。急ぎの用がある故、これで失礼する」

 

ダリはそう言ってさっさと話を切り上げようとする。こう言った時、鈍感なダリの特性はとことん役にたつ。俺もその後ろについてさっさと通り過ぎようとしたところ―――

 

「あ、まった、まった」

 

女は慌ててその場を立ち去ろうとするダリを引き止めると、胸を張って、大きく息を吐いた。

 

「もう……、せっかちね。不本意だけどその評価でいいから、ちょっと時間を頂戴」

「なんだ」

「―――ちょっと耳にしたんだけど、貴方達、ギンヌンガの穴に行くっていうのは本当なのかしら?」

 

女の言葉を聞いて、俺は思わず籠手を構えた。ダリも視線を鋭くさせると身を引き、背後に装備した盾へと手が伸びる。ピエールはいつものようにキタラを取り出して喉をさすった。

 

「―――そうだが……、それがどうした? 」

 

ダリは声を低くして尋ねる。ダリが同じ人間に対してここまで警戒心を露わにするところを見たのは初めてだが、俺もダリと同じ気分だった。ピエールもおそらく同じだったに違いない。―――この女は怪しすぎる。

 

公宮から出たタイミングで、疑問形にて話しかけてくるのだから、おそらく目の前のは公国の関係者じゃ無いのだろう。公宮の関係者なら断定系で話してくるはずだ。つまりこの女は個人の都合で俺らに話しかけてきたということになる。

 

そこに加えて、先ほど衛兵は公国の実力者は全員世界樹の迷宮の入り口に集結させたと言っていた。非常事態で緊急招集がかかっている事態なのだから、その持ち場から遠く離れることは許されまい。少なくともこれほどの気配を放つ実力者なのだから、いかに個人の事情があろうと、その場を離れることはそうそう許可されまい。

 

つまり、目の前のこの女は、公宮の指示を無視して、公宮の目を欺いた状態であるにもかかわらず、何処かから俺らが公宮で喋った内容を仕入れて、そしてそれに関する何かを聞き出すかしようとすると女なのだ。怪しくないと思わないはずがない。

 

「なんだかあまり歓迎されていない様子ね」

 

女は俺たちの態度が警戒の姿勢に移行したのを見ると、おどける様に言ってのけた。仮にもエミヤが来るまでの間、エトリアで一番のギルドだった俺たちの威圧を受けて平然としているあたり、只者ではないのだろうと推測する。

 

「状況が状況なだけに、な」

「まぁ、わからなくもないわ。私だって、同じ状況なら同じ態度を取るでしょうね」

 

疑いに満ちた目線を向けられる女は、それでもあくまで平然とした態度を保っている。その様がいかにも強者の余裕に見えて、俺は少しばかりこの女のことが気に食わないと思った。しかし同時に、自分よりも一回りも大きなダリという男を前にして平然としているこの女を羨ましいとも思った。羨望と嫉妬は表裏一体。俺の胸の中のムカムカとした感情は、つまりはそういう自分の劣等感が元なのだろう。

 

「―――時間がないと言ったわね。だからこちらも単刀直入にいうわ。……私たちを貴方達に同行させてほしいの? 」

「私……たち?」

「……、なぜだ? 」

「もともと、ギンヌンガガプ目的で私たちはやってきたんだけどね。まさかハイラガードがこんな状況になるなんて思わなかったから、普通の冒険者としての登録を済ませたのだけど、さあ行こうって時にあの悪魔の群れが攻め込んできてね。お陰で出られなくなっちゃったのよ」

 

やんなるわ、と肩を竦めて女はおどける。態度を見る限り嘘を言っている様にもは思えないが、だからといってすぐさま信じる理由も見当たらない。

 

「なぜギンヌンガガプを目指す? 目的は? 」

「それは言えないわ」

 

女ははっきりとした口調で断言した。怪しい。怪しすぎる。ダリが俺を見た。俺は首を横に振る。続けてダリはピエールを見た。奴はいつものように目を瞑って肩を竦めた。一旦は判断をダリに預けるというピエールの所作だ。

 

俺はおそらくダリは断るだろうと思った。だって目の前の奴らは理由を語っていない。同じ理由を語らないにしても、ギルガメッシュの時はエミヤという担保があった。けれど、今回の場合、なんの駆け引きもなく、真正面から不躾な願いを押し付けてくる輩だ。雰囲気から察するに、悪気はないのかもしれないが、目的を隠す辺り信用できない。

 

ダリはゆっくりと女の方を向き直ると、一回だけゆっくりと瞼を閉じて、そして開けると、警戒を解いて静かに口を開いた。

 

「―――いいだろう。ただし、私たちは三人。つまりギンヌンガガプへ連れていけるのは、一ギルド単位のあと二人まで。それ以上の人数は許容できない。また、帰りはハイラガード公国に戻らない故、君たちはその場に置いていく事となる。それでもよければ付いて来るといい」

 

だが俺のそんな予想と反して、ダリがあっさりと許可をした。俺は驚いてもダリの方を向く。

 

「お、おい、ダリ―――」

 

この怪しさ満点の女に対してその提案は流石に無警戒すぎやしないかと文句の一つでも言おうと思ったが、ピエールが俺の肩を抑え、自らの口に指を当てた。文句はやめとけ、という仕草だ。

 

「私の票は彼に預けたので、二対一。―――、一旦はダリの判断を信じましょう」

「―――わかったよ」

「あら、案外、すんなりと許可してくれるわね」

 

俺が一旦渋々ダリの判断を受け入れた一方、女はダリの判断が意外だったらしく、目をパチクリとさせて呟いた。無理もない。俺だってそんな気持ちなのだ。なら、疑念の視線を向けられた本人としては、もっと意外なのだろう。

 

「先も言ったが、こちらも急ぎの用がある。君のような実力者といざこざを起こして時間を無駄にしたくはない。かといって、断ってハイラガードで騒ぎが起こるのを分かっていながら見過ごしてあのソルとかいう大臣の胃痛促進を促すのも気がひける」

「あら、ご挨拶。私がギンヌンガに行くために強硬手段をとるとでも?」

「取るだろう。エトリアは平和な街だったが、時たま仲間を失って暴走し、街に迷惑をかける奴がいなかったわけでもない。そう言った人間はさまざまな法律を破ってでも仲間の仇をとりに行こうとする。―――私は元衛兵でな。君からはそんな無茶をやる奴らと同じ気配がする」

「―――へぇ」

 

ダリの言葉に一拍置いて女が目線を細めると、声を顰めさせて呟いた。途端、女の気配が異様に濃くなる。番人などの強敵を相手にする直前の緊張感が背筋を走った。口の中がひりつき、なんとも言えない酸い味を感じる。目の前の彼女は、武器も構えていないのに、迷宮の中の奴らと同じ気配を発していた。

 

しかし女は俺らがそれに反応して武器を構えるよりも早く、その圧倒的な気配を発散させると、飾り気のない薄い唇を釣り上げてニコリと微笑んだ。その笑顔は瞬間前に重厚な気配を発散した人間が見せるものとは思えないほど、快活なものだった。

 

「なかなか鋭いじゃない。まぁ、当たらずとも遠からずってところね。……でも安心して。もう、そんな事しないわ。これは本当。―――私の名前はアーテリンデ。ギルド名はエスバット。―――二人まで、だったっけ。じゃあ、私の他に後一人仲間を連れて公国の入り口のあたりに潜んでいるから、準備ができたら声をかけて頂戴。よろしくね」

 

女は言うと、踵を返して公宮方面へと戻ってゆく。俺は警戒心から、アーテリンデとか言うからそいつの姿が完全に見えなくなるまで視線を外すことが出来ずにいた。ダリも俺と同じような感覚を抱いていたらしく、同様の目線を送っている。

 

「―――おい、なんで同行を許可した」

 

やがてアーテリンデの姿が見えなくなるのと同時に、俺は口を開く。アーテリンデとかいう女の威圧に抑圧されていた気持ちが文句として噴出したのだ。思った事を即口にするのは良くないのだが、今回の場合は別だ。なぜなら。

 

「さっきも言った通りだ。争ってここで時間を食らうのも、ハイラガードに損害が出るのを見過ごすのも出来なかったからだ」

「んなやつとその仲間を同行させんのかよ! 俺らで対処できなかったらどうすんだよ! 」

 

仲間の命がかかっているのだ。そう怒鳴ってやると、ダリはきょとんとした表情で屈むと、背の低い俺の目を覗き込んで、そして背筋を正して空を見上げると、再び俺を見下ろして、呟いた。

 

「そうか、その危険性があったか」

 

どうやらダリの判断は、その事を完全に失念してのものだったらしい。戦力差を見誤るというダリらしくない楽観さを含む判断に、俺の口からは自然と文句を言いたい気分になる。

 

「らしくもねぇな。どうしたんだよ」

「どうやら、私は無意識のうちに自分たちの実力を相当高く評価し、信頼していたらしい」

「な―――」

 

こともなさげに言ってのけたその言葉の内容に、荒んでいた心が少し癒される。しかしダリのその無条件の信頼を嬉しく思った直後、そう思えなかった自分が小さな奴であると言われているような気もしてきて、俺はなんとも憂鬱な気分になった。

 

ダリが言葉の裏に別の意味を隠すなんて器用な事が出来る人間じゃない事は俺がよく知っている。だからこの陰鬱な気分は俺の勝手な思い込みが生み出したものなのだ。あのグラズヘイムでの一件以来、ますますこの被害妄想が強くなっている。

 

「―――くぬっ! 」

 

ダリにとって理不尽なのは重々承知だが、俺をそんな気分にさせる言葉を発した男をそのまま放っておくというのも、気にくわない。俺は胸に湧き出たそれを発生させた奴に少しでもこの気分を分けてやろうと、ダリの後ろ足をガツンと蹴り飛ばす。

 

「っ……、何をする……!」

 

少しばかり奴の体がぐらつく。少しばかり溜飲が下がった気がした。

 

「さっさと道具を取り揃えて公宮に戻る! それでいいんだろ! おい、行くぞ、ピエール!」

 

文句を聞き流すと、先ほどから会話に加わっていなかったもうちのギルドのもう一人に声をかける。

 

「エスバット……、アーテリンデ……?」

 

すると呼びかけたピエールは、今しがた女が述べた言葉に首を傾げていた。

 

 

ダリの夢

 

 

道具屋で準備を終えたのち、アーテリンデともう一人、ライシュッツというご老人との合流を果たして、ハイラガード公国入り口の巨大な橋をわたりおうえた頃、あたりはすっかり真っ暗な闇に包まれていた。

 

そのままギンヌンガガプの方を目指す私たちは、最短距離を突っ切るべく、崖を降り、森に突入。そして彼此二時間くらいが経過していた。先頭を行くのは私。次のサガが続き、アーテリンデ、ピエール、ライシュッツ、という並びだ。

 

本来ならサガとアーテリンデの位置は逆である方が望ましいのだろうが、信用できないから合流した二人を分断したいとの提案でこの並びとなった。意見としては正しいのかもしれないが―――

 

「大丈夫か? 」

 

気になる相手がすぐ後ろにいるというのは、少しばかり落ち着かない気分になる。

 

「……なんだよ」

「ああ、いや、身体の調子はどうかと思ってな……」

 

振り返って尋ねるとサガは、彼女はひどく不機嫌な様子で、「大丈夫だよ!」と声を返してくる。私の目の前、暗闇の中に揺れるランタンの炎は、金属鎧に覆われた私の腹までを明るく照らしている。私の腹元というと、背の低いサガにとっては大体頭から胸元くらいまでだ。

 

つまり、炎のぼやけた輪郭の端はちょうど彼女の上半身だけを私に意識させるかの様に、照らしあげている。そしてそんな明るい領域の端で、隠す事をやめたサガの大きな胸が服の中で揺れた。つい最近まで彼として気兼ねなく接してきた、彼女のそれが上下に揺れるのをつい目線で追ってしまうが、次の瞬間なんとも言い難い罪悪感が心を苛むので、慌てて首を元の方向へと戻して、姿勢を正す。

 

「―――くぬっ!」

「……っ!」

 

サガが不機嫌な様子で私の後ろ足を蹴り上げてくる。ガツンと金属同士がぶつかる音がなった。蹴られた理由は検討ついている。私が彼女のことを女性扱いし、女の部分にいちいち意識を向けるのが、サガにとって気に食わないのだ。

 

とはいえ、多少激昂している様子は見受けられるが、二撃三撃目は甲高い音が鳴らないよう、関節のブーツ部分の隙間に捻じ込んでくる蹴りに変更したあたり、彼女もこれが敵を避けての隠密行動であるのを忘れてはいないらしい。だからといって問題ない訳ではないし、やめて欲しい気持ちはあるが、身から出たサビなので、なんとも文句を言いづらい。

 

その後も鈍い打撲の音が数回、ハイラガード地方、ギンヌンガガプ近くの森に反響した。音が響くたび、後ろからピエールの意地悪い声が聞こえてくる。やがてサガは先頭を歩く私の前に回り込むと、ランタンをひょいと奪い取って先頭に立った。先頭で見張りと敵の奇襲などに備えるのはパラディンである私の役目―――なのだが、サガの小さな背中が「これ以上俺を不快にさせるな!」と主張していたので、言葉を噤んで大人しく彼女の後に続いた。

 

サガは肩をいきらせて先頭を行く。そうして女性が小さな肩を上下に動かしているのを見ると、とても悪い事をした気分になる。ああ、シンとピエールはなぜこの様な重要ごとを隠していたのだろうか。というよりも、何故自分に知らせてくれなかったのだろうか。

 

「彼、彼女に何かしたの? 」

 

凛然とした声が後ろから聞こえる。聞き覚えのない声は純粋に疑問の色を含んでいた。

 

「さて、ダリは元々他人の気持ちの機敏に敏感ですからね……」

 

ピエールが揶揄う口調でアーテリンデへと語りかける。知っているし、自覚もあるが、他人からそれを指摘されると酷く情けない気分になる。

 

「すなわちあの男は女心だろうと男心だろうと、他人の心をあまり理解しません。ま、今まで色々なことから目をそらしてきたツケを支払っているだけですよ」

 

ピエールは相変わらず容赦がなかった。詩人である奴は、だからこそ言葉を大切にして、言葉を飾らない傾向にある。すなわち、相手が誰であろうと、自分の素直な考えを述べる。揶揄う口調である事を除けば、そういったわかりやすい点が奴の美徳であるのは確かだが、だからといって本人がすぐそばにいるのにそれを述べるのはどうかと思う。傷口を抉られれば痛いと思うのはパラディンであろうと変わらないのだから。

 

「ヌシはもしやあの男のことが嫌いなのか?」

 

やがて私を痛めつける言葉を吐いていたピエールに、ライシュッツが嗄れた声で質問を飛ばす。意識が一気にそちらへと引き摺られた。ああ、なるほど。たしかに彼らとハイラガード入り口で彼ら合流して以降というもの、ずっとこのザマだったのだから、勘違いされても仕方ないか。

 

「先程から話を聞いていると、ヌシは随分とあのパラディンのことを責める様な口調だが」

「いえいえ、そんな。仲が悪かったらこんなはっきりと断言していませんよ」

 

その通りだ。ピエールは基本的に批判的で、他人の痛いところを突っついては反応を見て楽しむ性格だが、分別をわきまえている男だ。基本的に奴は正しいことしか言わない。相手を観察した結果、ひどく毒舌に聞こえる言葉を吐くことも事実だが、その行為に悪意があるわけではない。奴は親しい相手に対しては言葉を修飾しないだけなのだ。

 

そしてピエールは決して、親しくない相手に対してはその様なことを言わない。真実であるとは言え、一歩違えば相手を否定するようにも聞こえる言葉を、ピエールは親しくない人間や、初対面の人間に言うことはしない。

 

ピエールは忠告を聞き入れる耳を持たない輩に使うと、面倒ごとしか引き寄せない事を奴は心得ているのだ。それこそが、奴が私に対して悪意を持っているわけでなく、そして馬鹿にしている訳でもないという証明に他ならないだろう。

 

「そう……、あなた、随分といい性格しているのね」

「よく言われます」

 

アーテリンデがピエールに文句を言うと、奴は飄々と言って返す。そしてそれきり会話は打ち切られてしまった。気まずさ漂う夜の森の中を、しかし離れて歩くわけにもいかず、固まって進む。エトリアよりもさらに北の地域にあるハイラガードは、いつもよりも余計に冷え込んでいるようだった。

 

 

ハイラガード地方はエトリアより北という地域柄、夏であろうとひどく冷え込む。その為ハイラガードに住む人間はがっちりと首元まで布で覆い、肌の露出を避ける人間が多い。御多分に漏れず、エトリアからやってきた私たちも同様の耐寒装備だ。

 

例えば先程までエスバットというギルドの二人と話していたピエールは、重ね着したうえでマフラーやタートルネックの服で首元をガチガチに固めた上、いつも手放さない楽器を、いつも以上厳重に取り扱っている。

 

砂塵やある程度の暖気の環境下でなら木製楽器のキタラをある程度雑に扱うのも許容範囲―――もちろん限度はあるらしい―――であるが、低温が続く環境や、急激な温度変化というものは楽器に対して過敏に、そしてさまざまな悪影響を与えるとかで、ピエールは歩く最中、一定時間ごとにキタラとかいう楽器の竪琴部分も下部の共鳴箱部分にも特性のニスを塗っては、布の中にしまい直して、を繰り返している。バードという職業も大変だなと人ごとの様に思う。この極寒の寒さの中、金属製の装備を全身に身につけた私とどっちがマシだろうかと、そんなくだらない考えが浮かんだ。

 

「―――それにしても、夜の森は冷え込むわね」

「お嬢様。上着を羽織られてはいかがでしょうか?」

 

さて、耐寒装備といえば、この二人。このたび同行することとなったギルド、エスバットの二人の内、ライシュッツという老人は耐寒の格好をしているのだが、アーテリンデという若い彼女はこの環境にそぐわない格好をしていた。長い髭を蓄えたライシュッツという老人は、耳元覆い隠すウシャンカ帽を被り、足元まで覆い隠す様な首元にファーのついたダブルのコートを羽織り、籠手付きの防寒用手袋まではめ込んでいる。全てが無骨なデザインではあるが、このハイラガードという極寒の環境で戦うにふさわしい姿だといえるだろう。

 

だが、そのライシュッツに対して、彼がお嬢様と呼ぶアーテリンデは、つば広の魔女帽に金細工の施された大きく胸元開いた豪奢な一枚ドレスを身にまとい、カーディガンの様なものを軽く引っ掛けているだけの軽装だ。正直正気の沙汰と思えない。

 

「いいわ。動きにくくなるもの」

「左様でございますか」

 

それなのに彼女は平然と、動きにくくなるから厚着はしないと公言して憚らないし、有言実行する。この様な寒さだとある程度体温が保てる装備でないと体が動かなくなりそうなものだが、それなのに彼女はシンレベルの一流の身のこなしを見せるのだ。巫術を使って自分の体温をある程度操れる事は知っているがとはいえ、流石に見ている方が寒くなる。

 

「流石にエスバット。鍛え方が違いますねぇ。伝説レベルですよ」

 

ピエールが茶々を飛ばした。どうやら彼女らは彼のお眼鏡にかなった様だった。私は少し肩の力を抜く。理由はわからないが、この男が信を預けると決めたなら、私も信頼して良いだろうと思ったからだ。

 

「それ、皮肉? だとしたら笑えないわ」

「いえいえ、本心ですよ」

「そぅ……。まあいいわ……―――、ねぇ、サガ。そろそろ先頭を交代しましょう! 」

 

ピエールのわかりにくい信頼のこめられた言葉を訝しんでいたアーテリンデは、声を小さく森に響かない程度に張り上げてサガを呼ぶ。少し先を行っていたサガが振り向き、首元のマフラーの余りが勢いよく回ってサガ自身の体を叩いた。

 

サガは新調した装備の上に一枚余計に布を羽織り、首にマフラーを巻き、そして金属の籠手の大部分に布を貼り付けている。金属の温度が零度を下回っていると、金属と肌が接触した際、表面の水分が凍りついてくっついてしまう。それを防ぐために、彼女は金属に切り抜いた布をペタペタと貼り付けているのだ。また、金属の接合部分にはグリースを塗って対応している。変形機構を持つ物であるが故一枚布を当てるだけですぐさま完成というわけにいかず、彼女は布の切り抜きにひどく苦戦して、ガシガシと頭を掻いていたのを覚えている。

 

同じ冷たい金属から身を守るにしても、私の場合サガと違って、大きな一枚金属をそのまま全身に纏っている様な状態なので、体と金属との間にいつもより多めに布を入れて、表面に一枚布を当てるか、グリースを表面に塗布するだけで済み、装備の手入れを早めに終えることができたのだ。

 

などと考えていると、ハイラガードの道具屋で耐寒の準備に苦戦するサガを手伝おうとしたらジロリと睨まれて萎縮し、結局手伝えなかった事を思い出した。サガは、私がグラズヘイムでサガのことを女として意識した日から、私に対して冷たい。やはり原因は私がサガを女扱いしているところにあるのだと思う。彼女はそれが原因で侮られるのが嫌で、男の振りをしていたというような事をグラズヘイムで述べていた。

 

いや振りというよりも、確かにサガの思考や感性は男に近いのだ。以前、まだ私がギルド異邦人に合流して間もない頃、敵の攻撃で胸が完全にはだけたのに平然としていたのを覚えている。もちろんその頃は男だと思っていたし、サガの胸が膨らみの無い平坦なものだったからなんとも思わなかったわけであるが、あれから約一年、たったそれだけの間に丘どころか山のように育ちあがったあの膨らんだ物を見せられては、彼女を男として認識するのは難しいだろう。

 

「……?」

 

などと淫らな事を思い出ていると、サガが私の目の前で立ち止まっている事に気がついた。松明が照らしあげるボサボサ頭の下に覗く顔には、相変わらず不機嫌そうな顔がある。その中心で輝く瞳は、こちらの思惑を見透かす様な色をしていた。よくよく見れば中性的な彼女は、少年というよりも女性よりの柔らかさがある。乱雑に切ってある髪を軽くでも整えてやればさぞかし快活な可愛げある姿になるだろう―――、とそこまで考えて、自分を取り戻す。胸が高鳴ったのは気のせいだと思いたい。

 

「何だ、……っ」

 

そうして努めて顔面の平静を保って聞くと、彼女は無言でガツンと私の脛を蹴りとばしてそのまま後列のへ行ってアーテリンデに松明を渡す。痛くはないが、その蹴りにはあからさまな抗議の念が込められている気がした。

 

すなわち、「俺を女扱いするな」、だ。おそらく先程の邪な考えに対するものを読み取ったのだろう。私と異なり、彼女は人の感情の機敏に鋭いのだ。彼女がどうやってそれを感じ取ったのかは知らないが、どうやら私ごときの考え、彼女は簡単に見た通す事が出来るのだ。

 

「ねぇ、あの二人大丈夫なの?」

 

遠くから時たま雷のなる音が聞こえる。だがそれよりも小さいはずのアーテリンデの声が、やけに大きく私の耳に残響した。

 

 

ハイラガード公国の南方には大きな地面の割れ目が存在する。一度落ちたら二度と日の目を見ることが出来ないほどの高さをほこる、その地面の大穴とすら呼べるその場所は、いつからかギンヌンガガプと呼ばれている。

 

大穴の底がどこまで続いているのか知る者はいない。穴の中には常にうっすらと霧がかかっており、裂け目の中では風が轟々と吹き荒れて、穴の底へと視線が通るのを遮っているからだ。ハイラガード公国の酒場で聞いた話によると、「この巨大な裂け目から世界の全ては生まれた」とか、「穴を崖に沿ってひたすら辿っていけば此処とは真逆の環境の南国にいける」とかいう説もあるらしいが、それが真実であるかを知る者は、やはりいない。穴の底に向かった者の中で、戻ってきた者はいないからだ。

 

あるいは「それこそが向こう側が天国に繋がっている証拠だ」、とか、「向こう側の居心地が良すぎるから誰一人として戻ってこないんだ」とかいう輩もいたが、私はエトリアの迷宮五階層「シンジュク」という場所や、この世界を生み出したという「ギルガメッシュ」の話から、この世界樹の上の世界が如何様にして作られたかを大体把握しているので、彼らの話がそれこそ眉唾で、大穴の下にはつい最近魔のモノが死ぬまで危険な状態だった昔の遺跡が転がっているだけだという事をよく知っている。

 

おそらく誰一人として戻らない、知る者がいないと言うのは、下に行った辿り着いた途端、赤死病にかかってしまい死んでしまったとか、降りることできずに力尽きたとかそのあたりだろう。伝説とは誇張されて伝わるものなのだ。

 

「着いたわ、あそこよ」

 

私がそろそろ辿り着くだろう目的地の情報を記憶から引きずり出していると、サガに変わって先頭に立ったアーテリンデが特殊な形状―――蛇二匹が捩くれ上がった様な木製杖の先端に、金属の短剣と長い剣が固定されている―――をした杖剣で前方を指し示す。杖剣は、ドクトルマグスと呼ばれるハイラガード独特の職業の人間が持つ、特殊な装備だ。彼らはその杖と剣の両方を使って敵味方の肉体に対してさまざまな影響を与えるスキルを使いこなす。以前私たちの仲間だった、響の父親もそうして私たちの力となってくれたものだ。

 

「あそこが、ギンヌンガガプ」

 

ふとしたことで昔のことを思い出していると、アーテリンデは再び言葉を発する。彼女の手にする杖剣の切っ先は、前方の暗闇の中、森が突然途切れ、地面まで失せている場所。すなわちギンヌンガと呼ばれている大地の切れ目である崖を指し示していた。

 

彼女の案内に従って森を抜ける。頭上を覆っていた森林の枝葉が失せて、月の灯りが私たちを歓迎してくれた。すると同時に、耳の中に暴れる駱駝が駆け回っているような、重いものが凄まじい速度で地面を擦る音が絶え間なく耳に飛び込んでくる。意識すると、足元では地響きが酷いことにも気がつけた。

 

―――魔物の群れ、いや巨大な魔物……? いや、違う。これは……

 

「……水の音?」

「ええ。崖に向かっていくつか川が伸びているからね」

 

アーテリンデは杖で右手の方向を指した。視線を向ければ、そこには確か森の中から伸びていた川が崖に向かってゆき、やがて勢いよく身を投じる姿が目に入った。勢いよく崖下に身を投げた川の水は、地面から離れた途端、縦横無尽に飛び散って薄い霧を作っている。また、飛び出してゆく川の下の部分は、水面側の水の重みに負けてそのまま滝を作っていた。

 

「そして、ギルガメッシュが言っていたっていう、ギンヌンガの洞穴ってのは―――」

 

アーテリンデはスタスタと崖に向かってゆく。すぐにライシュッツが彼女の後を追った。アーテリンデは崖のそのギリギリの端まで寄って、ランタンを崖の上に突き出すと、帽子を抑えながら軽く頭を出して崖下を見渡して、しばしのち、崖から少し離れた位置に経つと、振り返り、杖剣で自らが立っている場所から左斜め下側に剣の切っ先を向ける。

 

「多分、そこ」

 

私はアーテリンデの示した場所を確認しようと、崖まで近よると、アーテリンデよりランタンを受け取って、それをかざした。だがこの世の全てを飲み込むかのような地面にぽっかりと空いているギンヌンガガプは、月光とそれにすら遠く及ばない明かり程度ではこの先の世界を見せてやるものかと言わんばかりの態度で、私の視線を闇と霧で遮っていた。

 

「何も見えねぇぞ」

 

同じく覗き込んでいたサガが文句を言う。

 

「そりゃそうよ。そんな程度の光で崖の下の方まで覗き込めるわけないでしょ」

 

アーテリンデは森と崖の間の空間、平坦な地面の部分に背負っていた荷物を下ろすと、ライシュッツも同様に背負った荷物を地面へ置き、即座に中身を広げ出した。するとライシュッツは見事な手並みで荷を広げ、布を広げ、振動や風で布が吹き飛ばないようナイフで固定し、中央にランタンを置くと、微かに揺れる地面の上にはあれよあれよという間に簡易的な休憩のスペースと相成った。

 

「下に行くなら、朝、太陽の光が昇ってからじゃないと自殺行為よ」

「どうぞ、お嬢様」

 

そう述べたアーテリンデは布の上に座り、ライシュッツの差し出したカップとソーサーを受け取ると、ソーサーに口を当てて紅茶を飲んでいる。月明かりの下、ライシュッツをお付き人に従える彼女の姿は、なんとも優雅に見えた。

 

「日の出まであと数時間。―――悪魔とやらもこの辺りにまではいないみたいだし、精々その間だけでも。それまではせいぜい、のんびりと過ごしましょう? 」

 

彼女の手元で揺らす湯気を放つ飲み物は、極寒の環境に耐え続けていた私たちにとってなんとも魅力的な物だった。故に、私たちは彼女の提案に一も二もなく賛成した。

 

 

闇の中、布の中央に輝くランタンの明かりが辺りをほのかに照らしている。ただ、それだけでは森の暗闇からの奇襲などの警戒やそのまま戦闘に突入した時の事を考えた場合、光源として頼るには不十分だろうということで、相談の上、森側の近くには数本、松明を作って地面に突き刺す事とした。

 

大した手間でもないので私が引き受けると、サガが手伝いを申し出てくれた。私はサガと共にその辺の枝を拾ってきて布を巻きつけると、油脂を染み込ませて日常用の火のスキルを使う。炎があっという間に油に引火し、即席の松明が三本出来上がった。

 

私は松明をライシュッツの敷いた布を中心としたところから、―45度、0度、45度の角度で、布と森の中間より森側の場所に突き刺した。炎は燃え上がり、三つの炎の輪郭の縁が重なり合って、それぞれの光が弱くなる部分を補い合っている。

 

「おい、ダリ! 俺の姿が見えるか!」

 

森の端の近くでは、サガがちょこちょこと身を屈めて動いている。暗闇を照らす炎によって、私が森との境界あたりで動く彼女の姿をしっかりと認識することができていた。

 

―――問題なし

 

「ああ、大丈夫だ! 戻ってこい! 」

「あいよ! 」

 

確認作業も終わった。これで敵がどこから飛び出しても対処できるだろう。とりあえず一段落と言って差し支えはない。私はサガと合流すると、アーテリンデとライシュッツ、ピエールが待機している休憩場所の方へと向かう。

 

布の方へでは、ライシュッツは崖の方を見張って会話に参加していないが、ピエールとアーテリンデが未だ何やら小声で話し込んでいるのがランタンのあかりに照らし出されている。二人とも随分と真剣な様子だが、一体彼らは何について話をしているのだろうか?

 

 

「ねぇ、あのダリっていうのは、昔からああだったの? 」

「おや? アーテリンデさん。あれのことが気になりますか?」

「ええ。だって、なんというか、たしかに実力あるのは身のこなしからわかるけど、ああも仲が悪いのにエトリアでトップのグループだったっていうのがちょっと不思議でね」

「―――ああ、なるほど。流石は迷宮にたった三人で挑もうと考えるだけのことはあります」

「……なによ。バカにしてるの?」

「いえ、けっしてそんなことは。―――ダリとサガも以前はああではなかったのですが……」

「……そうなの?」

「はい。ダリがおかしくなったのは、サガが女性だということを知ってしまったからです」

「―――そりゃ、驚くかもしれないけど、でもそれだけのことで?」

「ええ。サガは自分のことを女扱い、というよりも小さい人間、無力な人間として扱われることを嫌っています。細かくは省きますが、彼女は鬱屈とした過去から、小さい事、女であることは無力である事と繋がっていると認識していますから」

「―――なにそれ、馬鹿らしい」

「ええ。馬鹿みたいな考えですよ。しかし彼女はそう考えています。そしてだからこそ、今のダリはサガを怒らせてしまうのです。あれは目の前の現実をそのまま受け入れ、真正面から付き合おうとする、真面目すぎる人間ですからね。シンのように戦闘以外に興味がないと言って切り捨てることも、私のようにどっちつかずの態度でいることもできないのです。馬鹿正直と言っていい」

「―――ああ。だから」

「はい。ダリはもうサガのことを女として認識してしまいました。だからもう彼はサガのことを女としてしか認識できない。ダリにとって、サガはサガであるけれど、同時に女以外の何者でもないのです。まぁ、もう少し穏当にサガが女だとわかっていたなら、もっとマシだったのかもしれませんが、ダリがサガは女だと知った時、色々と強烈な出来事と一緒に起こりましたから、サガが女であるという事を強烈に認識してしまったのでしょうねぇ……」

「難儀ねぇ」

「ええ。ま、あの二人のいざこざは、ダリだけの責任とも言えませんけどね」

「そうなの?」

「サガの方はサガの方で、色々と溜め込んでいますから……。自分が苦しんでいるのに、その元凶のダリが平然としているのが気にくわないんでしょう。先程からのあれは、照れ隠しと羨望と好意に入り混じった、彼女なりのダリへの甘え方なんですよ」

「―――複雑なお年頃ねぇ」

「ここでシンがいればまた違ったのでしょうが―――」

「シン、というと、あなたのお仲間だったかしら。それはまたどうして?」

「私が考えるに、迷宮という存在に適性のある人間は2種類あると思っています」

「唐突に何よ」

「迷宮で難事と向き合った時、とことん攻める人間か、とことん拒絶する人間です。前者は攻撃タイプに多い人間です。自分の命を狙う敵がいて、同じように危険な罠があろうと、自らの力や知恵、直感でそれらを上回る力を発揮して、先に進もうとする人間です。私の近くだと、シンや、貴方やライシュッツというご老体もこの区切りに分類できるでしょう」

「……迷宮なんて未知の存在なんだから、怖くても勇気をもって足を前に踏み出さないと始まらないでしょう? 」

「はい。その通りです。それができる冒険者は大成する。難事を前にした時、それを無理と思うか、無茶と思うかの境界線で、とことん攻める人間は、無理側にあっさり一歩を踏み出して上回ってやろうと挑戦するのです。それが痛みを伴う選択肢であっても、たとえ掛け金が自らの命であっても、成功する可能性があれば、躊躇せずに突っ込み最高の結果を掴み取るための勝負を仕掛ける。だから、他の人よりも先んじることが出来る。ですがその勇気は迷宮という未知なる場所において、常に蛮勇となり得る。だからその分、彼らはいつだって死にやすいし、仲間を失いやすい」

「……その蛮勇でかつて仲間と別れる事になった私にとっては、耳の痛い言葉ね」

「ああ、すみません。別に責める意図はなかったのですが……」

「いいわ。今はこうして再会出来たわけだし。……それで、後者は?」

「はい。そして後者の極致がダリや、エミヤです。彼らは無理と無茶の選択肢が目の前に迫った時、はなから無理は選択肢に入らないのです。無理の先に最高の結果が待ち受けていようと、それが自分や誰かの身を傷つけるやり方であるなら、彼らはそれを拒絶します。彼らは自らに迫る脅威の中で、最大の脅威を拒絶する事で、その場において最善の結果を掴み取る人間なのです」

「つまり?」

「言うなれば、自らの理想で現実を凌駕しようとするのが攻めの極致の人間で、目の前の現実とすり合わせて自らの理想を可能な限り実現しようとするのが拒絶の極致の人間なのです。わかりにくければ、理想主義の極致と、現実主義の極致と言い変えてもいい」

「ああ、それなら理解しやすいわ。なんでわざわざ攻めとか拒絶とかにしたわけ?」

「いえ、理想主義とか現実主義というと、シンが現実を見ない人間であったり、ダリに理想がない人間のように思われるかもしれませんから」

「……それで? 」

「シンは現実を見て、その上で理想だけを目指します。その姿勢は、強烈で、周囲の全てを巻き込みます。ダリも例外ではありません。ダリはシンの理想に引きずられる形で自らの現実を拡張され、そして視野を無理やり広げられてきたのです。シンが無理を提案すると、ダリはなんとかシンの事を守ろうと、自分も可能な範囲で無茶を許容する。二人はある意味で比翼連理、つまりシンとダリは、異邦人というギルドの光と闇、本能と理性のような関係だったのです」

「ああ、なんとなく言わんとしてる事がわかったわ。あのサガって子も本能型で、本能型のシンとか言う男と相性がいいから、いればそっちにひっつくって事?」

「大まかには。しかし、シンは今、別件のため、ここにはいません。となると、あの二人は、否が応でも向き合わないといけなくなる」

「あなたはなにかしようとは思わないの?」

「私はバード、すなわち吟遊詩人ですから。物語を見て、登場人物のあれこれを語るのが役目です。客観的立場にあって然るべき人間が積極的に登場人物に関わるのは筋違い。そうは思いませんか?」

 

 

「随分と仲良くなったようだな」

「ええ。それはもう」

「おかえりなさい。お疲れ様」

「お疲れ様です」

 

轟々とうるさい川の音に遮られて内容こそ把握できなかったが、長々と話していたようなので茶化した言葉をかけると、それぞれから肯定の言葉と慰労の言葉がそれぞれから返ってくる。それらを受け取ると、私は一息つくべく、布の上に腰を落とした。ここにくるまでに精神的な疲労は、私の尻を勢いよく地面へと向かわせる。すると、崖の方面からガラガラガラッ、と雷の落ちるような音がした。それは崖下へと断続的に続いて、そして小さくなって消えてゆく。

 

「ああ、気にしないで頂戴。あれなら無害だから。ねぇ」

「はい、お嬢様」

「そうですねぇ……」

 

だが、アーテリンデ、ライシュッツ、そしてピエールまでもが腰を落としたまま動こうとしていない。私とサガは顔を見合わせると、尋ねる。

 

「なぜそう言い切れる?」

「朝になったらわかるわよ」

 

どうやらアーテリンデやライシュッツ、ピエールはこの現象の正体を知っているようだが、彼女たちは話そうとしなかった。強く尋ねれば多分教えて貰えたのだろうが、歴戦の強者である彼女たちがその音を聞いても平然としているあたり、害のないことなのだろうなと判断して私は聞くのをやめた。サガも同じ意見なのだろう、強く聞き出そうとする様子はなかった。

 

「どうぞ」

「あ、ああ。ありがとう」

「樹海茶葉を清廉な雪解け水でジャンピングさせました。お熱いのでお気をつけください。シュガービートはこちらの瓶からお好きなだけどうぞ」

「感謝する」

 

その後、ライシュッツは私に紅茶を振舞ってくれた。ピエールはすでにカップから紅茶を口にしていた。サガは籠手を外そうとしているため、私の後回しにされたようだった。そうして彼らが平気で飲むのを見ていたからだろう、私は無意識のうちに即座に湯気を立てるそのカップに口をつける。途端。

 

「ぁっつ! 」

 

唇に鋭い痛みが走った。カップから紅茶が溢れ、湯が金属の鎧にかかり、シュンと音を鳴らした。分厚い手袋を装着したままだったから気がつかなかったが、金属のカップは周囲の寒さに負けないようにとても温められていたらしい。彼らが平然と口をつけて飲んでいた事と私の目を曇らせたようだった。取っ手の部分が熱の伝導し難い木製であることに気がつかないとは情けない。ライシュッツの心遣いを無駄にしてしまったな、と即座にそんなことを思った。

 

「あー」

「おい、なにやってんだよ」

 

アーテリンデとサガの呆れ声が聞こえるが、それどころではない。唇が、じくじくと痛んでいる。上下の唇を食み合わせると、軽い水ぶくれの様なものが出来ていることを実感した。また、沸騰していた湯は口の中や外に飛沫し、口腔内や頬にまで軽く被害を出していた。私はその事実に少しばかり辟易する。

 

「熱い金属に直接触れるからそうなるのよ。こうやって……」

 

いうと、アーテリンデは熱湯入った金属製のカップから木製のソーサーに紅茶を移し替え、そこから湯気立つ液体を喉へと流し込んでいる。紅茶をソーサーに移してから飲む。それは相当古い歴史をもつ名家のお嬢さんくらいしかやらない飲み方だ。そういえば、シンジュクに残っていた過去の料理の資料で、紅茶のカップとソーサーが使用され始めた頃は、そんな飲み方が流行っていた、という文献を見た覚えがある。何もこんな手遅れの段階で思い出さなくてもよかろうに、と私は自らの頭の愚劣さに文句を言う。

 

「―――しないと、火傷するわよ」

 

ああ、身をもって知ったとも。だが私は、火傷を負ったのが自分の不注意によるものだったため、文句を言うことすら出来なかった。また、それどころではなかったと言うのもある。熱の不意打ちを受けた口は痛みを脳へと訴えていたのだ。パラディンというギルドの盾となる事を役目とする職業である私は、他人よりも痛みに耐性のある自負はあるが、だからこそ、痛みを受けると、黙りこくって痛みに耐えながら、自分や周囲の様子を観察する癖がある。そんないつもの習性に従って、私はじっくりと自分の痛む箇所を確かめる。

 

―――唇に数カ所……、と、口腔の上の方の皮が剥けたか……、外皮の方は……

 

痛いからといってそれをごちゃごちゃと周りに感情を訴えかける様では、元衛兵としても、パラディンとしても失格だ。そんな矜持があったからだろう、私は無言でまだ表面激しく揺れ動いている紅茶の入ったカップをソーサーに静かに戻すと、地面に置いて、そのまま唇を片手で覆い隠し、怪我の状態把握に力を注いだ。自分の痛みと真正面から向き合い、怪我の状態を把握するのは得意な作業のだ。決して威張れる特技ではないのだが。

 

「おい、見せてみろ」

 

そして傷の具合を確かめていると、私が何をやっているのか察したのだろう、籠手を外し終えたサガは、唇覆う私の腕をのけると外側に払い、籠手を外した手をぐいと私の顎に当てて、下に引っ張った。彼女の挙動で私は口を開かされる。するとサガはその小さな頭をこちらの鼻元のすぐ近くまで持ってきて、そのまま目を上下左右にゆっくりと動かした。こそばゆく、恥ずかしい。

 

それでも暗闇のなか、ランタンの明かりを背にした程度では怪我の具合がよくわからなかったのか、サガは指を私の唇に当てると、すーっと、撫ぜる様にして動かした。

 

「―――っ! 」

「あ、わり。痛かったか」

 

軽い火傷を負った部分にピリッとした痛みが走って、体が震えた。痛みに強く、耐えられとはいったものの、それは擦過傷や切創、打撲傷の様な外皮の怪我の痛みに慣れているから痩せ我慢が効くという意味であって、唇の様な敏感な部分の怪我に強いという意味ではない。表面に水ぶくれが出来た程度であっても話は別なのだ。私は思わずサガの手を振り払うと、痛みの走った部分含めた口全体を手で覆う。

 

「大丈夫だ。この程度なら自力でなんとかする」

 

表面のかすり傷を治す程度なら日常スキルで事足りる。私は早速、湯のかかった籠手を外して治療に取り掛かろうと思った。だが、唇の痛みが邪魔をしてうまく接合部を外すことができない。

 

「いや、俺がやった方が早い」

 

が、それよりも先にサガの素手が再び私の唇に当てられ、簡易的な治癒のスキルが発動する。彼女の指先から発したほのかな白い光が私の唇や頬を照らし、そして傷を癒していく。肉が盛り上がり、傷口が塞がってゆく感覚がなんともむず痒い。

 

「ほらな」

 

そういってサガは私の両頬に手を添えると、いつものような快活な笑顔を見せた。その笑顔は先ごろまで彼女が浮かべていた不機嫌とは程遠い、透明で、相手の怪我が治った事を喜ぶ感情が溢れている、とても気持ちのいいものだった。久方ぶりに見たサガの笑顔は、非常に魅力的だった。そしてそれ以上に、作業の邪魔だと邪魔な髪を後ろにまとめる様。作業によって蒸気をあげる肌。冷たい頬をしっとりとした汗に濡れた暖かな手が頬を撫でる感触。その全てがなんとも気持ちよくて、思わず見惚れてしまう。

 

呆然とその感触を享受していると、やがてサガは笑顔を最近良く見せる、元のしかめっ面に戻し始めた。私の視線や態度に含まれている成分はサガにとって非常に不快なものであったらしく、彼女は再び不機嫌な顔をすると、私から離れて私の頭を小突いた。

 

「だからそういうのをやめろっていってんだ!」

 

サガは肩を怒らせて私から離れていく。ああ、また自分の不肖でサガを怒らせてしまった。私は非常にいたたまれない気持ちになった。

 

「ねぇ、ピエール。貴方、あの二人、本当に大丈夫だと思う?」

「さぁ? 」

 

アーテリンデがピエールへと問いかける。ピエールは肩を竦めて意地悪い顔を浮かべ、答えた。

 

―――それは私が一番知りたいことだ

 

私は治った唇を摩りながら思った。あたりは相変わらず、川が崖下に落ちてゆく音が断続的にうるさく、また、時折それを上回る勢いで雷のなったような音が鳴る。だがそれらの煩さは、このモヤモヤとした思いから意識を逸らすのにうってつけで、私は耳朶打つ雑音に感謝した。

 

 

轟々と音が響いている。時たまそれに混じる雷撃のような音が違いとなって、自分は目を覚ました。あたりは真っ暗だ。見渡しても何も見えない。ただただ暗く広い空間が広がっている。何が起こっているのかわからない。とにかく状況を把握しようとして暗闇の中でも確かに存在している自分の体を眺めていると驚いた。見覚えのある上半身がいつもと変わらずにある中で、下半身は足元から変色し始めていてる。それは壊死という現象だった。

 

轟々と言う音が自分の体を侵食し、雷のような音の撃が体を崩してゆく。自分は足元から腐り落ち始めていた。それが恐ろしくて必死で目をそらした。目を瞑っていればこの悪夢も終わってくれるかもしれないと信じて、必死で目をそらして、思考を別の場所に置こうとした。

 

けれど意識を別の場所に移そうとするほど、逆に意識はその事を強く意識してしまう。その矛盾に耐えきれず再び足元へと目線をやると、壊死の範囲は膝まで近づいていることに気がついた。変色の減少に痛みが伴うことはなかった。だが、それが怖い。痛みのない死がそこまで迫っている。このまま放っておけば全身にまで腐蝕が回るのもそう遠くはないだろう。そうして脳まで、心まで腐り落ちてしまえば、もう二度とこの闇の世界から戻ってこれないという、そんな確信が私にはあった。

 

だから走った。そこから目をそらして必死に走った。走っていればその間は壊死が止まった気がした。心臓から全身に血液が循環するのを感じる。壊死した場所にも血が通い、そして自分は生きていると実感する事ができた。気がつくと壊死した足は元どおりに戻っていた。

 

足を止めようかとも思ったが、あの生きたまま腐ってゆく恐怖を感じるのはごめんだと思った。だから、歩いた。目的地はないが、とにかくただ体を動かし続けた。すると暗闇に異変が起こった。ただ一つの色で塗りつぶされていた闇に差異が生まれ、やがて光が現れた。

 

光は初めて優しいものだった。その月のような光に従って突き進むと、それはやがて目も眩む太陽のような光となって、私の体を包み込んだ。光は今まで暗闇の中で揺蕩っていた私にとってあまりにも強い刺激であり、ちりちりと肌を焼いていくものだった。このまま光に向かって進めば私は炎に包まれて死ぬのかもしれない。いや、確実にこの体は炎上し、骨どころかちりひとつ残さず消失してしまうことだろう。妄想じみた考えだったが、そんな確信があった。

 

だが私は躊躇うことなく光の方へと足を踏み出した。心が死んでいく恐怖に比べたら、肉体の痛みなんて軽いものだった。全身が焼かれ、炭化した肉が粉になって落ちていく。やがて魂まで燃え尽きるかもしれない。だが、この耳を劈く音以外に何もなかった空間で起こった、初めての変化が嬉しくて、そんな眩い光の中を必死になって凝視した。すると、光の中に誰かが佇んでいることに気が付いた。

 

あれは誰だ。疑問は体を突き動かす。体から肉が剥げていく。あれは誰だ。血が蒸発し、思考が単一化していく。轟々という音はもう聞こえない。あれは誰だ。それは巨人だった。この闇全てを覆い尽くしてなお余りある赤き巨人。あれは誰だ。あれは―――

 

 

 

「―――っ!」

 

そこで目が覚めた。稜線より登ってきた朝日が全身を包み込み、金属の鎧からは夜の間に溜め込まれた冷気が消え去っていた。なるほど、これの温度差が悪夢の原因か、と私は悟る。全身がうっすらと汗に濡れていた。足元では地響きが絶え間なく続き、耳を劈く川の音色も間断がない。

 

「おや、起きましたか」

「……ピエール」

 

見知った顔を見て、ようやく現実へと戻ってきたのだと安堵する。額の汗を拭って気を落ち着けると、周りに誰もいないことに気がついた。

 

「―――他の連中は?」

 

ピエールは無言で崖の方を指差した。指先に視線を送ると、少し離れた場所では、サガが地面に寝そべり、恐る恐る頭を突き出してを崖下を覗き込んでいた。位置的に昨日アーテリンデの指摘した場所を見ているのだろう。

 

そして昨晩、ギンヌンガ洞穴の具体的な場所を教えてくれたアーテリンデとライシュッツは、サガから少し離れた所で崖の下を覗き込んでは首を傾げて、真剣な表情で話し合っていた。おそらく距離と川の音が邪魔をして内容はわからない。本来ならばそれにこそ気を配るべきだったのだろうが、私の意識はやがて彼らの向こう、陽の光に慣れた瞳が捉えた向こう岸の光景に固定されていて、それができなかった。

 

「なるほど、これは―――」

 

陽光がギンヌンガガプの崖を照らした時、目の前に現れた光景に言葉を失った。天国へと続いている道、という表現が比喩でなかったことを知る。まるで巨人の手によって無造作に引き裂かれたかのような乱雑さで、大地には大穴が開いている。

 

この場所からでもわかるほど深い縦穴は、覗き込んでもその底が見えることは無い。ギンヌンガガプは、分厚い霧によって完全に底の景色を閉ざしていた。穴と霧は南、地平線の彼方まで続いている。グラズヘイムや、ハイラガードにある世界樹を呑み込んだとしてもなお縦横共に余りあるだろう、巨大な大地の裂け目。なるほど、これは確かに様々な伝承が生まれても不思議で無い、途方も無い光景だ。

 

大穴の淵である崖の部分は、四角いブロックを積み上げたような形に削られている。天然自然であるのに地形が一見規則的に見える形に削られる現象は、節理、というらしい。似たような岩壁の上に住んでいるハイラガード公国の住人が言っていたので間違いはなかろう。もっとも、彼も知っているのは名前だけで、現象がどのような条件によって起こるのかは知らなかったが。

 

私は立ち上がると、フラフラと崖の方に近づく。

 

「いやー、絶景ですねぇ」

「ピエール」

「ほら、あれが姿なき雷の正体らしいですよ」

 

そして雄大な景色を眺めていると、ピエールの指先が崖に向かって流れる川を指し示した。勢いが良すぎて濁り、白よりは灰色に近い色合いの川からは、時折氷塊が流れ落ちていっては、底見えぬ崖下に消えてゆく途中で崖の側面にぶつかり、砕けて散ってゆく。それが連続して怒る事で、ゴロゴロと、雷の音に似たものを奏でているのだ。

 

また、落下する川のうち、崖から飛び出して細かい少量の水飛沫となった雫たちは空中で凍りつき、キラキラとひかりを反射しながら落ちていく。それは砕けて崖の側面を転がり、叩いて落下してゆく。

 

「ギンヌンガの大穴は下の方が猛烈に寒くてね。だから水が凍りついて、途中でああなっちゃうのよ」

 

いつのまにか近寄ってきていたアーテリンデが横合いから話しかけてくる。先ほどまで昨日と変わらぬ姿だった彼女は、今ではファーでモコモコとしたコートを羽織っていた。暖かそうだ。しかし、昨晩ライシュッツの提案を拒んだ彼女が、どうして今更コートを着用したのか。

 

「痩せ我慢が効くような場所じゃないのよ。崖を降りるのに集中できなきゃ、下まで真っ逆さまだもの」

 

彼女は私が視線に含んでいた意味にもきちんと気付いたらしく、そんな事を言った。

 

「―――君たちも来るのか? 」

「もう目的はほとんど達成したんだけどね。ここまで来たんなら、貴方達の目当てだっていう剣を、一目見て帰りたいじゃない? 」

「……なるほど―――、ん?」

 

なんとも冒険者らしい答えだ。そしてふと、私は彼女が私が何も言っていないのに私の疑問を解消してくれたという事象そのものに対して軽く疑問を抱いた。

 

「なぁ、ピエール」

「何ですか、ダリ」

「私はそんなにわかりやすいか?」

 

問いかけると、ピエールは一瞬、やつにしては珍しく間の抜けた顔を晒して、そして吹き出して、声なき声をあげながら腹を抱えて思い切り笑った。それは嘘偽りない、心底、腹の底か出てきたものだと私は感じた。

 

「何を今更。あなた、うちのギルドどころか、おそらく私が出会った全ての生物の中で、最も、一番わかりやすい性格をしてますよ」

 

そして喜色の涙を目に浮かべながらピエールが返してきた答えは、私にひどく憮然とした思いを抱かせた。

 

 

ギンヌンガガプ。深い底が霧で隠された巨大な大穴。その壁面、まるで人が切り出したかのように直方体の岩が立ち並ぶ崖をよく観察してやると、まさに人が刻みつけたかのような精緻な図形が並ぶ事に気が付ける。誰が書いたのだろうか。まさか噂の翼人とやらがここに刻みつけたのだろうか、とも推測したが、どうせ考えたところでわからないので、一旦置いておく。

 

そんな岩の画布に囲まれた空間の中、ぽっかりと開いたギンヌンガの洞穴こそが、今回我々が目的地であり、その最奥にあるという剣を持ち帰るのが、今回の私たちがギルガメッシュより課せられた役割だ。

 

絶壁とも言えるような崖の壁面を掘り抜いたその洞穴には、ご丁寧な事に階段と人一人程度なら支えてくれそうな取っ掛かりが横に十メートル程度、崖の壁面に沿って出っ張っている。私たちは洞穴から少し離れたその出っ張りの上に縄を垂らすと、ジグザグと邪魔をする直方体の出っ張りを足場として、洞穴前の出っ張った空間に身を落としていく事とした。

 

まず重量のある私が先陣を切り、道を確保する。崖上の地面に数点杭を打ち込んで縄の支えとすると、それを掴んで下半身を崖の下に投げ出す。滑らないよう専用の手袋はめた手でしっかり握りしめると、体を全て崖の向こうに放り出す。崖の壁面の岩質は硬いが、鎧の脚で蹴ってやれば穴が開く程度には脆い。下を見れば底の見えない目の大穴は深く、万が一でも落ちれば帰ってこられない予感がひしひしとする。

 

様々な余計が湧き出てくる前に意を決すると、少しずつ体を洞穴前の出っ張りの方へと近づけてゆく。どんな作業でも一番手間取るのは最初の取り掛かりだというのは変わらない。一番の山場を超えた私が作業を繰り返すと、六十メートル程度下の距離はすぐに詰める事ができて、私の体は崖の出っ張りへと到達する。その後には、アーテリンデが続づき、ピエール、ライシュッツと続いた。

 

やがてギルド内において最も小さな彼女の順番となった。他の仲間は崖の出っ張りの狭い路を通ってすでに洞穴の階段にまで避難している。水と風の音を搔い潜って聞こえてくる人の声の残滓が、彼らが談笑を繰り広げている事を教えてくれる。何の話題で盛り上がっているのだろうか、と、そんなことを思った時、突然吹いた強風が、目の前の縄を強く揺さぶった。縄を掴んだ手と崖の隙間に突っ込んだ手が振動で揺さぶられる。

 

「大丈夫か?」

 

見上げると、同時に、思わずそんな言葉が出た。職業病というか、もはやこれは私の癖のようなものだ。視線の先では体重の軽い彼女が風に揺さぶられて、左右にゆらゆらと揺れている。サガは何も言わず私の援護を受けると、スルスルと縄を辿って崖を降ってくる。

 

そうして無事に狭い隙間の大地に降り立った彼女は腹にくっつけていた縄を取り外すと、こちらを見上げてジロリとした視線を向けて来た。さて、また叱咤されるのだろうかと覚悟を決めるも、彼女は一向に動こうとしなかった。

 

「おい、いつまでぼけっとしてんだ。お前が進まないと俺もこの場所から動けないだろ」

「―――ああ、そうだったな。すまない」

 

踵を返して洞穴の方面へと向かおうとする。

 

「おい」

 

すると背後から声が聞こえた。

 

「ありがとう。助かった」

「どういたしまして」

 

返事をすると前へと進む。安堵の気持ちが湧いた。どうやらこの度の発言は彼女を怒らせなくて済んだらしい。

 

 

ギンヌンガB1F「果てしなき希望の果て」

 

 

洞穴内部はひどく静かだった。外の壁面や、明らかに人の手によって整えられた階段を見た時点で予測はついていたが、内部は天然の洞穴でなく人口の遺跡だった。木の根を切り開いて作られた階段、先にある四角い部屋には三方に窓があり、左右の端に鉄の扉がひっついている。排水を兼ねているのか、部屋の四隅は水路になっていた。そのせいか、部屋の中の湿度は思ったほど高くない。上に川があるので危惧していたが、ランタンもきちんと火が灯る。

 

「洞穴の中にしちゃ、随分と明るいが―――風も通っているようだな」

 

やがて私は唯一窓のない壁側にある隙間からは入り口に向かって風が吹いていることに気がつく。洞穴に潜る際、風が吹いているということは、少なくともその通路は何処か外へと繋がっている可能性が高い。一旦はその導きに従い、一旦は閉じられた鉄の扉を無視して屈んで奥へ進むと、すぐさま、明るい光が瞼を叩いた。

 

「―――おい、見ろ。遺跡だ」

 

先ほどまで火を灯したランタンがもう必要なくなった。割れ目から出てきたサガが手を広げて周囲のあちこちを指差す。木の根の絡まったような紋様の刻まれた柱が等間隔に並び、天井にも柱と似た図柄の模様がやはり等間隔で刻まれている。壁よりすぐ出て右手側には鉄の扉がはめ込まれており、左手側には木材と鎖で作られた釣り上げ橋が降りていて、その先にはやはり鉄の扉があった。

 

「うーん、まさかすぐさま太陽の光と再会できるとは思いませんでしたねぇ」

 

ピエールは壁の割れ目から出てくると、呑気に背伸びすると、切り出した石組みの地面をコツコツと踵で叩きながらまっすぐ進んだ。

 

「―――床に切れ目があります。しかも体重をかけると微かに浮き沈みする。どうやらこれはせり上がった仕掛け床のようですね」

「お、おい、ピエール」

 

奴は言うと、そのまま数度地面の上を飛び跳ねるように進んでゆく。慌てて追いかけると、ピエールの言っていた通り道はたしかに仕掛けの施された床のようで、私の鎧含めた重さでピエールの時より少し多めに下へと沈むが、問題なく進める程度だ。

 

仕掛け床の下は貯水池となっていた。上を見れば、苔むした遺跡の裸窓が並び、その上には地面も木々も見えないで、雲と太陽ばかりが揃っている。どうやらこの遺跡の一階部分は地面の上に突き出ているようだった。

 

ふと思うことがあって地図と指針を取り出して方向を見ると、この遺跡は自分が通ってきた場所のすぐ近くであったことに気が付ける。と言うよりも、太陽と影の位置から現在の大まかな場所を算出すると、ここはどう考えても、ハイラガードからここにくるまでの間に見える位置であり、私が気づかないはずがないような高度にある場所だった。

 

―――なぜ私は気がつかなかった?

 

気がつかない。気が付けない。見えるが、認識できない。二つの言葉が結びついた事象を私はどこかで聞いている。―――あれは確か、グラズヘイムだ。たしか、エミヤとギルガメッシュは、“認識阻害の魔術”だとか言っていた記憶がある。

 

そこでなるほど、と理解した。この遺跡にもまた、その認識阻害とやらの魔術がかけられているのだ。だからこそ気づくことができなかった。いや、気がついていたが、積極的に視界から外していたのだ。そして、だからこそギルガメッシュは詳しく語らなかった。おそらく、グラズヘイムの時と同じように、覚えたところで大したことない、忘れるような魔術もかけられているに違いない。

 

「ダリ、どうした、地図なんか出しちゃって」

「―――! ……サガか。いや、なんでもない」

「そっか。ピエールを追ってアーテリンデとライシュッツも先に行った。奥に階段があるってよ。ギルガメッシュは最奥地といってたし、まずはそこから探索しようぜ」

 

どうやらサガは道の真ん中で地図を持って突っ立っている私を心配して戻って来てくれていたらしい。

 

「わかった。ありがとう」

「ん」

 

サガは振り向くと、ちょこちょことミカの切れ目を避けながら飛び跳ねていく。どうやら彼女は謎の遺跡を前にして、機嫌をよくした様だった。流石は冒険者、流石は未知の遺跡、と言ったところか。私は遺跡に感謝の念を送りつつ、サガの後を少し大股で追いかけた。

 

 

ギンヌンガB2F「逆さまの怪異」

 

 

洞穴の中、階段を降りてゆくと、当然陽の光は失せてゆく。ここは世界樹の迷宮ではないのだ。あの地上と明暗が連動する不思議な仕組みがなくて当然。つまり―――

 

「サガ」

「あ、そっか、―――ほれ」

「ありがとう」

 

先ほど不必要の烙印を押されたランタンを受け取ると、再び火を灯す。炎は少しばかり不機嫌そうに揺らいで、あたりをぼんやりと照らしあげた。それを前に差し出して階段を一歩ずつおりてゆく。階段は予想よりもはるかに短く、一分としないうちに私たちは次の領域に辿り着くことが出来た。

 

「暗くてよく見えないが―――」

 

そして足を踏み入れた部屋はこの遺跡の地下一階と同じような構造だった。天井は高く、隅には排水溝があり、そして壁には鉄格子の窓のようなものがあり、そして。

 

「今度は二股か」

 

階段を背に、右手側には木と鎖で作られた橋の通路がある。また、正面にはいずこかへと続いている通路への連絡通路と思しきものもあった。

 

「さて、どうする?」

「右にしよう」

「まっすぐがいいんじゃないですか? 」

「―――右手側、降りた吊り上げ橋の方が仕掛けの解かれた感じがする」

「―――と言うことは、正面の通路を行けば、少なくともその仕掛けがあった場所までは続いていると言うことですよねぇ」

 

サガとピエール暗闇の中で目線をぶつけあわせて火花を飛ばしあっている。と言うよりもサガが一方的にピエール向けて鋭い眼光をぶつけている。さて、こう言う場合、シンがいればパッと一刀両断で決めてくれたのだが、今奴はいない。助けを求める意味でもアーテリンデの方を向くと、彼女は静かに微笑んだまま、首を横に振った。どうやら完全に舵取りを私たちに任せるつもりのようだった。見ればこの状況を楽しんでいる節もある。

 

さて、どうするか―――

 

右か、正面か。

 

「ん?」

 

そのどちらに進むべきかと二つを見比べ、しかし判断材料に乏しいため、困って視線を逸らすと、左側の壁の中央、ちょうど天秤―――樹木か?―――の様な意匠が刻まれた部分に亀裂がはいっていることに気がついた。

 

「ダリ? 」

 

地下一階の時も瓦礫の隙間こそが正しい選択肢であった。もしやと思って近づき調べると、予想通り、それは人一人くらいなら余裕で通れるだけの穴であることに気がつく。

 

「―――ここも風が通っているな」

「どれ……、おぉ、ほんとだ」

「右でも正面でもなく、左を選ぶとは、貴方もなかなか捻くれていますねぇ」

 

調べると、サガとピエールはいつのまにか後ろまでやって来ていて、そんな事を言い出した。

 

「あ、いや、私は―――」

「ま、俺とピエールで無駄に争うよりはましか」

「争っちゃいませんが、ダリの直感に従うのも面白い。滅多にありませんからねぇ」

 

言うと二人はわたしからランタンを奪い取って、さっさと穴の中へと消えていく。振り返ると、アーテリンデとライシュッツが気の毒そうな視線をこちらへと向けていた。

 

「貴方もなかなか苦労人ねぇ」

 

―――よく言われるよ

 

 

「で、なんだこりゃ」

「『謎の隠し通路を進んだ先にあったのは、天井から地面までぶら下がる四つの鎖。その下方、地面すれすれの位置には四つの鉄杭が浮く様にはめ込まれており、鉄杭は上から牙を伸ばして、空中に浮かぶ発光する紋章と謎の文字が刻まれた板を支えているのだ』、と言ったところですかね。お話にするなら、もう少し語り方があるでしょうが―――」

 

私からランタンの光を奪って先行した二人を追いかけて穴を抜けると、広い部屋の中央、仄かに赤く発光する物体の前で二人は首を傾げていた。体についた埃を軽く払い、さてなんだろうと彼らに近づく。

 

「どうした? 」

「あ、ダリ。これ、なんだろ思う?」

「さて」

 

見ると、四つの鎖の中心、鎖に囲まれた空間の中央に位置する鉄の板の前には紋章が浮かび、その前にはなんらかの文字が刻まれている様に見える。文字を見た瞬間脳裏に閃くものがあった。

 

―――これは

 

その一文字はわたしの脳を刺激して、意識を遠ざけた。

 

「ハイラガード地方の文字の“N”にしちゃ、左右反転してるし―――」

「古代文字の“η”に近いですが、左上の部分がちょっと削れていて、形が違いますね」

「―――オーディンがその威力を恐れ、隠した、二つのルーン文字のうちの一つ……」

 

その言葉は私の口をついて、勝手に出てきたものだった。

 

「え? 」

「あまりに強力すぎるため、彼はこの文字の位置を少しずつずらして、ヘイルダムのルーン、エイワズ/eihwazとソウェイル/soweluに分断した。エイワズはイチイの木、破壊と再生の証、永遠、断絶を意味しており、ソウェイルは太陽と完全性という意味を持っている」

 

知らない。そんな知識を私は持っていないはずだ。だが、言葉が口から出た途端、まるでそれらは元から私の中にあったものであるかの様に脳裏に刻まれ、そして、違和感なく収まるのだ。

 

「―――ダリ?」

「分けた二つにおいても強力なそれは、もちろん本来の意味と読み方を持って文字を読んでやれば、強大な力を発揮する。それは世界の全てを生んだ二つの要素のうちの一つ。そしてそれは同時に世界を滅ぼす力でもある。だがそれは当然だ。そもそもそれは、世界樹や太陽が産みだされるよりも前、世界が生まれるよりも先に、ギンヌンガの端にあった力なのだ」

 

その神話において、文字とは力そのものだった。だからこそ、人々は文字で歴史を残さず、言葉で語り継いだ。しかし皮肉な事に文字は秘匿される事でその神秘性を高め、より強い威力を秘めたものとなった。

 

目の前の文字はその中でも、さらに秘奥の存在だ。秘されたきた文字の中にさらに分断されて隠された存在。唯一無二の力を持つそれは、位置をずらした二つの文字と似通っており、だからこそ、それらの意味にて使用したと勘違いされやすい、秘密文字。フレイヤでなく、ヘイルダムでなく、テイワズでもない、四種類目に属する文字。

 

「―――大丈夫ですか? ダリ、貴方ちょっといつもと様子が……」

 

サガとピエールの言葉が遠い。彼らのいくつも重なった言葉よりも、たった一つで多数の意味を持つ“文字”が頭の中に浮かんでくる。これは―――

 

「文字の意味は火山、炎、全ての始まりと、そして終わり。文字の読みは―――」

「ちょっと、貴方達! 」

「お、おわっ!」

 

私の挙動と声を遮るほどの音声を発したのはアーテリンデだった。びっくりしたサガが私にもたれかかってくる。文字に集中していて力を抜いていた私は、押されて板の方へと倒れこむ。

 

「少しは落ち着きを―――」

「お嬢様、いけません! 」

 

穴の奥からライシュッツがアーテリンデに対して注意を発するのと、わたしが文字に触れるのは同時だった。やがてわたしが文字に触れた瞬間、文字はさらに強く赤く煌々と発光して近くの私たちを三人を包み込み、そして―――

 

 

「彼らは?」

「光の中に消えました。―――、置いていかれましたな」

 

アーテリンデはかぶりを振ると、杖剣の柄の部分で大きく床を叩いて、額に手を当て、床を叩くよりも大きく響くため息を吐いた。

 

「まさか、施設の仕掛けが動くなんてね」

「あの方達に言われて見張りについたのは正解でしたが、とんだ誤算でしたな」

 

ライシュッツの言葉にアーテリンデは、瞼を閉じると、しばし沈黙する。

 

「―――それで、どういたしますかな?」

 

やがて自らの主人が再び瞼を開いた時、ライシュッツは行儀よく尋ねた。

 

「一度、ハイラガードに戻りましょう。あの子や彼らと合流した方がいいわ」

「では」

 

アーテリンデは頷く。

 

「ええ。ギルド「ラタトクス」と合流しましょう。ここの最後の管理者であり、ファーフニールの騎士フレイとベルトラン。彼らのパートナーであるアリアンナとヴィオレッタに知らせないと」

「ハイラガード公国の世界樹の迷宮を最初に制したギルドのお手並み拝見、と言ったところですかな」

 

 

ギンヌンガB3F「偽りに見えざる殺意」

ギンヌンガB4F「悪しき力の血脈」

ギンヌンガB5F「人の手がまだ触れない座」

 

 

「―――っ、つぅー、ぃっててててて」

「て、転移……ですかね」

「その様だな……」

 

気がつくと私たちは見知らぬ部屋にいた。おそらく洞穴の奥、ギンヌンガ洞穴の結構な下層部に転移させられたのだろうことは体が軽くなった事から理解したが、その割には空気が澄んでいて先ほどの地上付近よりも清澄であるのが不思議だった。

 

「ぅうん、しっかし、眩しいな、これ。どうなってんだ?」

「肌を焼く様な光でないのは確かですが、しかし、眩しすぎる」

「―――?」

 

たしかに部屋の床は、先ほどの鉄板とは比べ物にならないほど真っ赤に、そして不規則に輝いている。あまりの眩しさに目を開けていることすら辛い。―――はずなのだが、不思議と私の視界は遮られることがなく、部屋の隅々までを見渡せることに気がついた。

 

逆三角形型、その一辺が少し縦に伸びた、角笛の形に近い形状の部屋は、奥に行くにつれてゆるなかな坂になっている。坂となっている部分は瓦礫が積もっていた。おそらく元は石畳だったのだ。地面には崩壊した、というか、岩が融解して蒸発した後が残っており、壁の一面は大小様々な傷が付いている。圧壊、斬跡、粉砕、蒸発となんでもありだ。部屋の隅の方では、歪んだ鉄の扉がもの悲しそうに佇んでいた。

 

「ったく、ようやく目が慣れてきた」

「それでもまだチカチカしますがねぇ」

「サガ。ピエール。無事な様だな」

 

目をこすりながらも立ち上がったのを見計らって声をかける。すると二人はコクリと静かに首肯して、そして慣れたと言っていた二つの目で、ゆっくりと周囲を見渡した。体が周囲に適応した事で、ようやくここがどこであるか考える余裕が生まれたのだろう。

 

「―――すげぇ戦闘の後。余程強力な魔物がド派手に暴れたんだなぁ」

「魔物の残した傷もさることながら、冒険者の戦闘の痕跡も凄まじいですねぇ。部屋をいくつかぶち壊しながらも対抗して、拮抗して、そして上回った―――」

 

ピエールが指差した方向には、巨大生物の骨が残っていた。黒々とした外骨格はそのままに、いくつかの細々とした骨が散らばり、双頭の化け物だったのだろうか、二つの頭骨が並んで倒れている。

 

「―――って、ん? あそこ、化け物の死体の中になんかねぇか?」

 

サガは、地面からの光を遮るためだろう、瞼の下、鼻上あたりで両手を遮蔽板がわりにして、目を凝らした。私もそちらを向くと、化け物の死体、二つの頭骨の中心に、煌々と赤く輝く何かが刺さっているのが見えた。

 

―――あれは

 

「―――どうやら、依頼を達成できそうですね。ギルガメッシュの言っていた剣とやらの特徴と一致します」

「まじか! よっしゃ!」

「あ、おい、待て」

 

ピエールが満足げに頷き、サガは駆け出した。どうも様子がおかしい。ここの洞窟に来てからというもの、どうも彼らの行動は冒険者として不用心だ。―――だと思うのだが、同時にこの空間に魔物などいるはずがないと確信している私もいる。

 

「んぬっ! ……、おい、これ抜けねぇぞ」

「どれ……、―――っ! ……、ああ、これはたしかに無理だ」

 

そして私が二人に遅れて部屋の中心に辿り着くと、二人は剣を引き抜こうと踏ん張り、そして諦めた直後だった。

 

「あ、ダリ。前言撤回、こりゃ無理だ。まるで地面とくっついてるみたいに、うごかねぇ」

「どうもスキルで地面と一体化、固定化している様なかんじがします。どうしますか、ダリ。地面ごとくり抜いてもって行きますか? 」

 

自分たちでは抜けないと悟った二人はそれぞれの意見を飛ばしてくる。剣は普通の両刃剣。この手の剣にしては珍しく、炎の波が如き刃紋が刻まれている。その柄はいかなる意図なのか、黒い布がぐるぐると巻きつけてある。余程柄の部分が滑るのか、あるいは刀身が重いから固定したかったのか。

 

とりあえず物は試しと私もその剣の柄を右手に握りしめると思い切り引っ張り―――

 

「―――抜けたが」

 

そしてかかる負荷を予測して力を込めた右腕は、スポンと抜けた剣の重みと腕の勢いに振り回されて、空中に円の軌跡を描いた後、私の背後の地面を突いた。同時に、空間を満たしていた赤い光は消え失せ、代わりに仄かな青い光が地面から発せられ、そして、空間を満たしていた清澄な空気が消え失せ、それとは逆に、握った柄からは暖かさが体の中へと浸透してくる。

 

「えぇ……、と」

「おい、まじか! やるな、ダリ! ―――うぉっ!」

 

ピエールは珍しく言葉を失い、サガが飛び跳ねて喜ぶ。同時に洞穴内に轟音が響き渡った。音はそれまで断続的に続いていた流れ落ちる川が地面を揺らす振動や音とはまた別の、異なったものだった。

 

「な、なんだぁ!?」

 

さらに、音とは別に六感がピリピリとしたものを感じ取っている。この気配、覚えがある。これは迷宮に潜った時独特の、悪意を発する誰かが周囲にいる気配。それも番人戦なども強敵を前にした時に飲み感じる、強烈なやつだ。

 

「……、わかりませんが気配もさることながら、振動は断続的で、破壊的で、そして近づいている。さっさと脱出した方が良さそうですね」

「同感だ。今、エトリアの方へ向かう糸の用意を―――、っ!」

 

途端、炸裂。思わず耳を覆う。私の背後、自分たちのやってきた方面から、重い土砂を吹き飛ばした時に聞こえる、独特の音程の重低音が鳴り響いた。砂煙が舞い、空気に運ばれて低地であるこちらへと漂ってくる。即座にその場の全員が戦闘態勢へと移行する。私も盾を手にして部屋の入り口を見つけた。百メートルは先にある入り口には、ピエールの言う通り、何者かの影があった。

 

「敵か!?」

「まずい、この距離だと、倒さないと糸が使えない……! 部屋の奥へ―――」

「いや、少し待て……、誰かいる―――、砂塵の中に人影が……」

 

そして砂塵の中に青い光に照らし出されたのそれは、熊のような大男の影だった。

 

「―――な」

「あれは―――」

 

やがて晴れてゆく砂煙の中、私は、そのでっぷりとした大柄な影に見覚えがあった。それにつれて明らかになる膨れ顔や樽体系、禿頭を見間違えるはずもない。サガとピエールもそれゆえの驚愕なのだ。彼は杖を片手についた状態で左右にフラフラと身を揺さぶりながら進んでくる。今にも転げてしまいそうな気配だ。なぜなら―――

 

「ヘイ!? 」

「おまえ、どうしてこんなところに!? 」

「―――」

 

ヘイは何も言わないまま坂をコツコツと杖で叩きながら、フラフラと近寄ってくる。その足取りは怪しく、彼は意識が朦朧としているのだろう事を告げている。巨体はいつ崩れ落ちてもおかしくない様だった。

 

「お、おいなんとか言えよ」

 

サガが慌てて近寄ろうとする。

 

「とりあえず彼を回収してエトリアに帰ろう。話はその後で―――」

「待ちなさい! 」

 

私が同じくヘイに近付こうとすると、ピエールが大声をだしてそれを引き止めた。私はエトリア行きの糸を取り出したままの姿勢で固まる。ピエールの片手はサガの肩を強く握りしめてヘイに彼女が近づこうとする彼女をその場に強く留めていた。

 

「お、おい、ピエール何を―――」

「考えてもご覧なさい。なぜYHVHに連れ去られたヘイがこんなところに―――」

 

サガの言葉を遮りピエールが何かを言いかけた途端、部屋の入り口から破壊の音が聞こえて来た。視線をヘイから奥の方へ向けると、そこには赤い鎧兜と槍盾を身につけたパラディンのような姿をした人間が群れを成していた。―――いや、よく見ると、その背には、翼が生えている。なるほど、あれがハイラガードの彼らが言っていた翼人か、と私は理解した。

 

そうしている間に、奴らは槍を前に構えた。すると前方の空間に何か光の球の様なものが大量に現れる。それは前方の暗闇を全て塗りつぶすかのような、白い光だった。翼人どもの目の前には、数千もの白い光の球が浮かんでいた。それは見たことのないスキルだったが、それが生み出された目的は、奴らの放つ剣呑な気配から、鈍感な私であってもわかるほどはっきりと読み取る事が出来た。

 

破壊。

 

そう、その球の群れは、私たちを破壊して、殺傷せしめる為に生み出されたのだ。

 

「―――いかん! 」

 

部屋の青い光を遥かに凌駕する白い光に照らされて、光の一部を覆い隠す影となっているヘイの姿はよく目立っていた。いつのまにかヘイは左腕をこちらへと伸ばしている。光はさらに、ヘイの閉じられた瞼の両側から血が流れ、盲目になっていることを露わにする。

 

彼は視力を失い、意識は朦朧としていても、知り合いの私たちの声を聞いて助けを求めてたに違いないのだ。ヘイは右腕に握った杖でフラフラの体を支えながら、そして前に伸ばした左腕をさらに前に動かした。行動は刺激となったのか、翼人達の前にある光の球が蠢く。直感的に発射の直前だと認識した。

 

「ヘイ! 」

 

叫ぶと同時に私は糸を投げ出し、盾を構え、飛び出していた。慌てていたためかもう片方の手に握っていたのは引き抜いたばかりの剣だった。どうやら盾を構えた際、自然と槍ではなく剣を握ってしまっていた様だった。右手に剣。左手に盾。慣れぬ装備だが仕方あるまい。

 

「ダリ! 」

 

背後からはピエールの声が聞こえた。彼の声には私に警戒と忠告をするような意志の成分が含まれていたが、私はそれを完全に無視した。

 

ギルド一同、長い事世話になってきたヘイがそこにいる。エトリアの住人がそこにる。ならばパラディンとして、元衛兵として、ヘイの友人として、彼を助けないわけにはいかない。それにシンの時のように自身の無力さを味わうのはごめんだった。初めこそ自らの弱さを覆い隠すための欺瞞であったとしても、長年連れ添えば誇りや矜持のごとくなるらしく、そんな自分の騙す為だった、しかし自分の拠り所となった思いは、私を突き動かしていた。

 

『アローレイン』

 

やがて翼人達の口から声が漏れた。途端、光は弾けて私たちの方へと迫り来る。私は生きていた中で一番の速度で私とヘイとの距離を零にすると、彼を自分の後ろへと追いやり、盾を前方に構え、そして力を込めてそのスキルの名を叫んだ。

 

「完全防御!」

 

光の粒子が前方の空間を覆い尽くす。直後、粒子に別種の殺意伴った光が着弾し、光は散乱する暴虐な嵐となって前方の空間を埋め尽くした。光の濁流はとめどなく押し寄せ、私の守りを突き破らんと、粒子の隙間に体を捩じ込もうとする。

 

―――だが緩い!

 

この程度ではこの守りは貫けない。完全防御の範囲外を通過した光の球の行方を追えば、たしかに当たれば地面を砕く程の威力を秘めていた。だが、派手さの割に一発一発は思っていたほどの威力ではない。これならば三層の番犬が最後に見せた一撃の方がよほど重かった。この程度で完全防御は破れない。

 

「待ってろ、ヘイ! これを凌いだら一旦エトリアに―――」

 

考えている間に目の前の光の勢いは弱まっていく。当然だ。パラディンのフォーススキル完全防御はどのような攻撃であっても、一定時間ならば、完全な守りを約束するのだ。それをこの程度の―――

 

「ダリ」

 

突然聞こえたヘイの声に軽く驚く。

 

「俺らはお前のそいつを待っていた。『兄神殺した終焉導きし矢/ミスティルティン』」

 

はっきりとした言葉の後、直後、やってきた感触は軽いものだった。

 

「え?」

 

気がつくと目の前にあった光の粒子は、何処かより下向きに生えた枝へと道を譲っていた。フォーススキルが破られると言う初めての経験は、私の思考を混乱の渦中に叩き込んだ。

 

「か、完全防御が―――」

 

防御がなくなれば、当然攻撃が飛び込んでくるはずだ。しかしそうして枝に分断されたはずの場所から、光の散弾が入り込んでくることがなかった。二つに割れた粒子の向こうにあった光の奔流はいつの間にやら空気の中へと溶け込んでいたらしく、目の前には闇が広がっている。

 

「な、な……、に……が―――」

 

疑問が自然と頭を動かしていた。枝の先を追うと、それはまるで寄生しているかのように、見覚えのある金属の鎧から生えていた。聖騎士の鎧を突き抜けて左脇腹から生えた枝の節々には、緑の青々とした葉っぱが萌えている。体の前面に生温いドロドロとした触感。同時に熱い感触が広がった。自覚すると、じくりと胸が痛んだ。痛みは背中から中心、前方にかけてまでじくじくと広がっていく。

 

「ダリよう」

 

背中からヘイの声が聞こえた。その声はなんとも平坦で、感情を失っているような響きをしていた。同時に盾が左腕から抜け落ちた。だらんと垂れ下がった、右手に装着していた剣を杖代わりになんとか体を支える。

 

「シンがいうにはなぁ。この世界樹の世界は、名前が絶対の効力を発揮するんだと言ってたんだよ。ダリよう、いや、バルドル/baldrよう。この枝はなぁ。若ヤドリギを加工して作ったやつなんだ。シンがいうには、若ヤドリギは、異邦人というギルドの、光/balを周囲に纏った完全防御状態のダリ/d rのフォーススキルだけは絶対に貫くっていうんだよ。ダリのそばにいる女の名前は、サガ。サガは、バルドルの母のフレッグで、あるいはその妻のナンナだから、ダリは絶対にバルドルで、盲目となった上でバルドルからのアルジズ/algiz、つまり友情/Zを得たヘイはヘズとなり、ヘズの若ヤドリギ/ミスティルティンはバルドルの完全防御を絶対に貫くんだと。この世界に生きるものは、誰であれ、名や歴史の運命に逆らえない。なんでもそれが昔からの運命らしいんだよなぁ。この世界では昔それを“概念”と呼んで、俺のミスティルティンみたいな武装を“概念武装”って言ったらしいんだよ」

「―――」

 

ヘイは淡々と語っている。その内容は私にとってほとんど理解不能だったが、ただ一つ、この私の胸を貫通するミスティルティンとかいう枝を差し出して、私を背中から刺したのがヘイだという事実だけは、はっきりと理解することができた。

 

「俺だって知り合いで友達のお前を殺したくはなかったんだけどよぅ。シンが俺/ヘズがお前/バルドルを殺して燃やさないと、この世界の終わりが始まらないっていうんだから仕方ないよなぁ。俺ぁ、俺だけを必要だと言ってくれるシンの期待を裏切れねぇからよう」

 

ヘイは相変わらずよくわからないことを呟いている。胸を貫いている枝は私の命を吸い取って成長するかのごとく青々とした緑に萌えている。やがて緑と茶色の枝はじわりじわりと血に染まってゆく。ポタリ、と血が地面を打つ音が聞こえた時、生命が抜け出ていくのを実感した。

 

 

バルドルの死

 

 

 

「ダ、ダリィィィィィィ! 」

 

背後からサガの叫び声が聞こえる。掠れるほどの声量で響く甲高い声には、なるほど、煩いくらいに感情がこもっている。よくもまぁこの耳に響く高音が混じる声を私はずっと男のそれだと勘違いできたな、と場違いながらに思う。

 

「相変わらずうるせぇなぁ」

「―――っ」

 

サガの悲鳴を聞いてヘイが動いた。ヘイの声はひどく億劫そうで、同時にサガのことをひどく鬱陶しいと感じていることがわかる口調だった。ぐずりと胸の傷が揺れて痛む。

 

「パワー共。もう一度やれ」

 

同時にぼやけた視界の先、翼人達が再び光の球を作り出しているのが見えた。なるほど、ヘイのあれは助けを求めるものでなく、攻撃の指令だったのか。そんな勘違いをしていた自分の愚かさに自嘲する。つくづく私は人の気持ちというものを解することが出来ないらしい。

 

「ひ、光が」

 

サガの弱々しい声が背後から聞こえてくる。サガは窮地に陥ると、焦燥状態か弱気になる。なるほど、光弾の群れはたしかに完全防御をもつ私以外では防げないだろうものだった。逆に言えば、私の完全防御なら防げるのだ。そう。私の完全防御だけが、この場の彼らを救うことが出来るのだ。

 

「―――」

 

胸がざわつく。興奮は出血を促進させる材料となった。騎士の鎧に空いた穴から血が噴出した。ミスティルティンから垂れる血の量が増す。命の砂時計の落ちる勢いが増した。が知ったことではない。心臓を貫いてもはや助からない傷だ。いや、このミスティルティンで貫かれた時点で、私はもう助からない。多分、ヘイの言っていた概念がどうとか言う理屈によりものなのだろう、バルドルと呼ばれた私はそれを当然の事実であると認識していた。

 

―――だが知ったことではない!

 

理屈ではなく、本能が叫んでいる。仲間を生かすために命を使いきれと身体中が叫んでいた。我ながら、らしくもない本能全開の行為に、私は思わずシンのことを思い出した。目の前に迫っている死というものが、目の前の障害全てと真正面から相対する彼のことを思い出させてくれたのは、私にとって僥倖だった。滾る血潮は頭に巡り、死の間際、熱くなる頭はこのような私自身の死でさえも、もはや覆せぬ事実と冷酷に判断して、いつも通り冷静に働いてくれた。初めて自身の感性の鈍感さに感謝した。

 

―――最後の瞬間、私がやらねばならないことは三つある

 

ギルガメッシュからが要求していた剣をサガ達に渡すこと。後ろの光弾を防ぐこと。そして、ここでこのヘイという男を殺しておくことだ。私の頭は最後の力を振り絞って後先考えず文字通りの全開稼働をする。噴出する血の量が増した。

 

―――指示を出したヘイは隙だらけだ

 

杖代わりにしている剣を奴の胸に突きさせば刺せそうな位置にいる。今なら殺すこともできるかもしれない。だがそれまでだ。剣はヘイを殺すだけに留まり、彼らの手には届かない。

 

―――この状態から剣を届けるにはどうすればいい?

 

体は動かせてあと一回。動作の最中、一拍でも脱力すればその時点で私は崩れ落ちるだろう。

 

―――あるいは盾を拾って、彼らを守るか?

 

……ダメだ。拾う事は出来るが、それまでだ。かがんで、そしてもう一度立ち上がる力は残されていない。それでは私の勝利条件を満たせない。最低でも、彼らを守り、そして剣と共に撤退して貰わなければ、十分条件という事はできない。

 

「……ん? 」

 

ヘイがわたしの胸に突き刺した杖の振動から、ヘイは違和感を感じ取った様だった。

 

―――まだ早い

 

だがもう遅いのも事実だ。放たれようとしている光の球の群は、私たちを、ヘイを避けるようにして前方を埋め尽くしている。球の前方は膨らみ、楕円はもはや破裂寸前だ。もはや一刻の猶予もない。足りない。何が足りない。盾だ。盾がない。盾がないから攻撃防げない。剣を届ける手段も足りない。勢いつけて投げれば届く距離だが、そんな悠長なことをしている余裕もない。この男を殺す手段も足りない。

 

シンならどうするあの男ならこんな場合でも迷いなく動いているだろう。あいつならきっと、剣を持って敵に一閃を放ち、この場の全ての命を刈り取って事態を収拾する。だがそれは、あいつはブシドーで、それを極めているからできるのだ。

 

私はパラディンだ。盾でギルドの皆を守るのが仕事だ。誰かを殺すというのは、私の役目ではない。私に役目は盾になること。愚直に皆を守ることだけ。あの二人を守る盾となる事だけ―――

 

―――なら、どうすれば彼らの盾になれるか、それだけを考えろ

 

『アローレイン』

 

翼人のつぶやきと同時に、球は弾ける。光の球が放たれた。もう猶予はない。

 

「ヘェェェェェエェイィィィィィィィイィィ! 」

 

―――守る! 私に出来るのはそれだけだ!

 

覚悟を決めて、叫ぶ。雄叫びは大きな炎を生みだして残り僅かな命の蝋燭を燃やし切り、限界以上の力を引き出すためだ。いつもと異なる声量を強いられた喉は痛み、血反吐が飛んだ。

 

「ぬ、ぬぁぁぁぁ!?」

 

ヘイは戸惑った声を上げた。私は左足を軸にして思いきり右足で地面を斜め後方へ蹴り込み、私の胸に刺さっているものを掴むヘイの手振りきって左後方に向けて回転すると、その勢いを利用して手にしていた邪魔な剣を投擲し、同時に空になった右手でヘイの首根っこを掴み、そのままヘイの後頭部を光の濁流の前へと突き出して、軸足としていた左足を少々ずらして前に、右足を後ろにして大地を踏みしめた。それが正真正銘、最後の力だった。

 

「完全防御! 」

 

光の壁が盾の前に生じて、球は面白いように私の盾となったヘイからそれてゆく。命を燃やした最後の力は私のフォーススキルを、守るための力を連続発動させる事を可能としてくれた。いや、あるいは、この逸れる現象を見るに、フォーススキルとはまた別種の力が働いているのだろう。バルドルの概念、という奴なのかもしれない、などと私は場違いながらも考えた。

 

「だ、だぁぁぁぁぁあ、りぃぃぃぃぃぃぃ! おぉぉぉぉぉぉ、お、おま、おまえぇぇぇぇ! 」

 

ヘイが叫んでいる。そうだ。こいつはヘイだ。ヘズなどではない。右手で私の生み出した壁に押しやられ、そして光球の連弾の直撃を食らっているヘイは、無様にもその顔を憎悪に歪めながら、叫んでいる。私は珍しくそれをピエールがやるように嘲笑してやると、痛む喉を震わせて、思考に使用していた力を使って、背後向かって思いきり叫んだ。

 

「剣を持って逃げろ! 」

 

私の目の前に現れた壁は完全防御とはまた別種のものであり、光の球を留めるではなく、逸らすことで、後ろの彼らを守っている。しかし、この閉鎖空間の中、逸らす場所といえば、上下左右であり、そして狭い空間の中、地面にヒビを入れる程の暴虐の力が連続して天井と地面を殴り続けるということは、すなわち、この空間が崩壊する事を告げていた。

 

「―――行きますよ、サガ」

 

瓦解していく洞窟の中で、ピエールの冷静な判断に感謝した。これでいい。これで私は、最後の最後まで、きちんとパラディンとしての役目を果たすことができる。

 

「な、何を! ピエール、お前! 」

 

相変わらずサガは女々しい事を言う。言葉には困惑が大量に混ざっていると思った。けれどむしろ彼女の性別を考えれば、らしい、とか優しい、と表現するのが正しいのかもしれない。ああ、多分彼女は―――

 

―――ダリを置いて逃げられるか、とか思っているのだろうな

 

「ダリを置いて逃げられるかよ! 」

 

彼女の言葉は寸分違わず私の予想と一致した。

 

ああ、なんだ―――

 

―――私もようやく、最後に、他人の気持ちが理解できたじゃないか。

 

「天井がダリと私たちとの間で崩落しています。もう彼を助けることは出来ません」

 

相変わらずピエールは遠慮がない。だが、その冷静さにとても安心する自分がいた。彼がいれば、ギルドはまだ大丈夫だろう。シンは奴が抑えてくれる。あるいは抜けた穴はエミヤが補ってくれるかもしれない。

 

「ダリィィィィィィィィ、テメェぇぇぇぇぇ!」

 

―――ああ、ヘイ、煩いな

 

どうやらヘイはパワーとかいう奴らにアローレインの停止をどうにかして命じた様だった。目の前から光が薄れ、自分の体を押す勢い弱まったためだろうか、ヘイの叫び声は元気を取り戻している。その煩い叫び声が残りの音をかき消している間に、ふと気づくと、やがて背後から雑音が消えていた。おそらくピエールがサガを抱えて無理やり脱出させたのだろう。思った途端、頭からも完全に力が抜けていくのを感じた。

 

「――――――」

 

洞窟の崩れる音がやけに大きく聞こえる。心臓の鼓動はもう停止していた。頭部をめぐる血液から酸素が失われた時、目の前も闇に染まるのだろう。ぼやけた意識の中、ヘイの凄まじい形相だけが網膜にこびりついて、思わず笑いが漏れた。

 

「道連れが……、お前とは……思ってなかった。―――、ヘイ」

 

呟くと、瞼が落ちて一瞬、暗闇に染まった。このまま悪夢の続きを見るのかもと思ったが、目の前の光が飛び込んできたのか、頭の中は真っ白だった。炎が消える。いや、燃え尽きる。なんだかんだと悩みに満ちた生涯だったが、最後の最後で望み通り人の気持ちもわかることができた。私は全ての望みを果たして、戦い抜いて、死んだ。そう考えれば、悪くない人生だった。

 

「ダァァァア、リィィィィィイ」

 

左手から力が抜けた途端、ヘイの恨みがましい煩い声がこちらへと迫ってくる。

 

―――目的を達成できて、いい気分なんだ。最後の時くらい、静かにしろ。

 

力を失った私の体に、敵となったヘイの体か最後の光弾に押されて、迫る。ヘイとぶつかった際の衝撃は、本当に決定的だった。ぷつり、と命を支えていた糸が切れたのを感じた。腹に突き刺さっていたものがヘイの樽腹に突き刺さる。微かに呻き声が聞こえた。

 

―――いい気味だ

 

その杭が抜けない様にしっかりとヘイの体へと体重を預ける。体から全てが抜け落ちていく中、鎧だのによって重い体を他人に預けるだけのその作業は楽だった。

 

―――私を燃やして殺すのがお望みだ?

 

残念、それはさせてやらん。お前はここで私と一緒に洞穴に埋もれて死ぬがいい。

 

―――、そうか。

 

私は死ぬのか―――

 

やがて光が私を包み込み、目の前に炎が広がった。意識は余さず炎の中へと拡散し、どこかの世界へと散らばっていく。自分が消え失せていく感覚が、ほんの少しだけ、怖い。

 

――――――ああ

 

だから。

 

―――死にたくないなぁ

 

恐怖からだろう、そんな後悔が頭をよぎった。笑いが漏れた。せっかく人の気持ちを理解できるようになったというのに、結局、最後の最後まで私は―――

 

……けっ……きょ……、さいごの……さいご……、……じぶん……こと……ば……り、こうい……と……だれ……おもえ……ら……、もう……すこし、………………かっこ……………、よか…………、な……、……サ…………―――

 

 

やがてギンヌンガの崖の洞穴のあった場所は、川の流れがもたらす振動よりも、もっと巨大な地響きと共に崩落した。霧の中へと崩れて落ち崩落してゆく大地の中、水飛沫と砂塵と岩塊まじる煙の中からは多くの赤い金属質の光を蓄えた姿が多く飛び出してゆく。

 

やがてそうして煙の中から飛び出した存在が空へと消える中、それが携えた盾の光とは別種の金属光沢を携えた物がギンヌンガの地割れの中へと消えてゆく。新調したばかりだった傷一つない無骨なそれは、聖騎士の盾、すなわちダリの盾だった。

 

自らの主人を失った盾は、この世界から消え失せたダリの魂の後を追うかのように、ガランガラン岩にぶつかりながら、音を立てて地割れの中へと消えてゆく。やがて暫くの間続いていた地崩れは収まり、そしてギンヌンガガプは元の通りの静寂さを取り戻した。

 




ここまでお読みになってくださった方は、もうご想像がついているでしょう。この物語は、fateと世界樹の迷宮、デビルサマナー葛葉ライドウをクロスオーバーさせるのにあたりまして、それらゲームの原典となった聖書物語や北欧神話といった古典神話の要素などを多分に使用しております。

全部の作品を混ぜるにあたりまして、改変を加えている部分もありますが、ご容赦ください。元の神話などのイメージも崩さないようにはしていますが、どうも昔の神話は日本語じゃないだけあって、意図がつかみにくくて。申し訳ない。


それではここまでご一読くださり、ありがとうございました。


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第三話 “アーチャー“、”英霊エミヤ“、“衛宮士郎“、そして―――

これが書きたかった。


第三話 “アーチャー“、”英霊エミヤ“、“衛宮士郎“、そして―――

 

 

This being human is a guest house. /人間という存在は、みな宿屋のようなものである

 

Every morning a new arrival. /毎朝、新しい客がやって来る

 

A joy, a depression, a meanness, some momentary awareness comes as an unexpected visitor. /喜び、憂鬱、卑劣さ、そして一瞬の悟りも思いがけない訪問客としてやって来る

 

Welcome and entertain them all. /どの客も訪れるものすべてを歓迎し、もてなしなさい

 

Even if they are a crowd of sorrows, who violently sweep your house empty of its furniture, still, treat each guest honorably. /たとえそれが、悲しみの一団だとしても、たとえ、それが家具のない家を荒々しく駆け抜けたとしても、できるかぎり笑いながら立派なもてなしをしなさい

 

He may be clearing you out for some new delight. /もしかすると訪問者は、あなたの気分を一新し、新しい喜びが入って来られるようにしているのかもしれない

 

The dark thought, the shame, the malice. /ときには負の感情が齎す邪心や、恥辱、悪意がやって来ても

 

meet them at the door laughing and invite them in. /扉のところで笑いながら出迎え、中へと招き入れなさい

 

Be grateful for whatever comes. /どんなものがやって来ても、感謝しなさい

 

because each has been sent as a guide from beyond. /どれもが、はるか彼方から案内役としてあなたの人生へと送られてきたのだから

 

— Jellaludin Rumi,/ ジャラール・ウッディーン・ルーミー

translation by Coleman Barks/ コールマン・バークス 訳

 

 

夢を見た。未来の世界であるというエトリアで生活し始めてから、数えるのも億劫になる程見続けた赤い部屋の悪夢。しかし我が身と両手にこびりついた罪の証たる血の色と香が、まるでそんなものなどなかったとでも言わんばかりに消え去った白い部屋の中、私が忘れてはならなかった感情の終えてしまった伽藍堂の部屋にいるのは、いつも通り赤い外套を纏った私と、見覚えのある黒きカソックを身に纏った奴のみ。

 

当然のごとく我らは対峙する事となる。奴は部屋の中に私がいる事を認知すると、酷く恍惚とした表情で私の方へと近寄り、そして、なんともなんとも口を三日月の形に歪め、愉快げに笑顔を浮かべて、親しげに声をかけてきた。

 

「くく、どうしたエミヤシロウ、よもや再びこの場に貴様が来るとは思わなんだぞ」

『夢……? ああ、あの名に縛られた世界での出来事か。あれは私であって私でない』

「―――」

 

わざとらしいくらいにまで吊り上げられた口と高低差のある上下の眉。満面の笑顔。昨夜、眠りの落ちる直前に出会った奴の事を思い出して違和感を覚える。

 

―――なんだ

 

「どうした? 目の前に憎き仇がいるのだぞ? 」

 

奴は両手を胸に当て、大きく胸を張りながら、私に安い挑発を飛ばしてくる。視線には蔑視と侮蔑のそれが多量に含まれており、いかにも悪党がやるような仕草だった。

 

「ここまでやっても一言も発しないとは、どうやらよほど腑抜けたようだな」

 

そのあからさま過ぎるほど真っ直ぐに悪辣な台詞を吐き散らかすその様は、確かに私が想像する、品性下劣かつ、知性の愚劣な、悪党のそれに相違がなかった。しかし、だからこそ違和感。

 

―――言峰綺礼という男は、悪人であるが悪党でなく、悪辣であるが下劣な男ではない

 

他人の不幸を喜ぶという社会から見れば悪の側に属する性癖さえ除けば、高い知性と品性と耐久力と分別を持ち合わせた人物だ。人格というものは人の積み上げてきた経験が形作るもの。そして奴は性根こそ腐っていても、元聖堂協会の代行者なのだ。

 

 

言峰綺礼という男の所属していた聖堂協会は、教義に反したものを熱狂的に排除する者たちによって設立された巨大部門だ。そこに籍を置く人間は、使徒と呼ばれる吸血鬼や幽霊や悪魔といった人と異なる、人以上の能力を持つような人外に対し、洗礼詠唱などを用いて浄化、消去する事を目的とする。

 

しかし、使徒や幽霊、悪魔といった存在は、大抵人以上のポテンシャルを持ち、そして知恵の回る存在である。一撃で厚い鉄板をぶち破り、物理攻撃を無視し、空を飛び回り、魔術を自在に操る。そんな奴らを相手取り、そして勝利を納めるには、それこそ人並み外れた信心と文字通り肉体を削る鍛錬を必要とする。

 

そんな命のやり取りを幾十幾百と繰り返し、そしてその全てのおいて生き残った、まさに神の恩寵を受けている事を結果で証明したといえる者だけに与えられる称号。それが、代行者という呼び名であり、奴の人格を歪ませた重みでもあるのだ。

 

 

「もう少し反応してくれないと、遊び甲斐がないではないか」

 

かつては言峰綺礼とう男が代行者として生きていた頃、奴は自らの他人の不幸を愉悦とする性質を認める事が出来ず、自己の醜さの答えを求めて、そうした苦難の道へ自らの置いたという。言峰綺礼という男は、目の前にある正視をしたくないような現実に対しても、真っ向対峙する男なのだ。

 

そうした苦悩と葛藤の果てに、己の中の悪の性質を認め、許容し、社会から見れば悪側のものであるとはいえ、ある種の聖人の悟りを得た男が、今、そこらのチンピラがメンチを切るような態度で、安い挑発をこちらに放ってきている。それはあまりにも、言峰綺礼という男らしくない態度だった。

 

いや、よく考えれば、奴がこうして直接的に夢に現れるのがそもそもおかしいのだ。言峰綺礼という男は用心深く、そして、非常に理知的な男だ。人が苦悩し、そして最も絶望する瞬間をこそ最高の快楽として望む奴は、だからこそ、その一瞬の愉悦を得るために、誰にも悟られないよう、相手を絶望の崖から突き落とすまで、水面下にて気取られないよう動く。

 

鍛錬し、耐え、そして結果を得る。奴は自らが代行者として生きてきた生涯が示すように、欲しいものがある場合、苦難に耐えながら少しずつ積み重ねるという、正道といえばあまりに正道な方法を選択する男なのだ。その遠回りに見える道こそが、最も近道である事を奴は良く知っている。すなわち、戦いを仕掛けて最高の結果を得るのならば、相応の苦労と準備が必要だという事を奴はよく知り尽くしている。

 

そして言峰綺礼という男は相手を絶望のどん底に落とし込むという結果が見たいなら、相手が最高の結果を得たと幸福の絶頂を感じたその瞬間、相手が積み上げた幻の希望の塔を打ち砕き、最も望んでいない現実を突き付けるのが最も効果的だという事を、奴は実践し、経験している。そんな耐え、そして絶頂するという愉悦を知っている言峰綺礼という男が、目の前にある最高の素材である私を前にして、ある瞬間だけ怒らせるという程度の、奴にとって刹那の快楽を得る程度でしかないだろう事象のため動くという事自体が、そもそもおかしいのだ。

 

「エミヤシロウ! 聞いているのか! 」

 

そして激昂した奴の姿を見て、確信した。私の怒りを誘おうと必死に語りかける目の前の男の下卑た面には、言峰綺礼という悪の悟りを得た男が持つ余裕というものがまるでない。自身の思い通りに事が運ばないからといって、そのストレスを相手に向けて発散するような態度をとるような男でない事は、親子二代、自身の死後も加えれば、三度も奴と対峙したこの私が誰よりよく知っている。

 

「―――貴様は何者だ」

「―――」

 

静寂が支配する白い空間の中、両手を振り回し、唾液を汚らしくまき散らかしながら罵詈雑言を吐く、駄々をこねる子供のような男に尋ねると、途端奴はピタリとその動きを止めた。

 

「―――貴様は言峰綺礼ではない。貴様のような、耐えるという事を知らぬ餓鬼のような男が、魔術師殺しと揶揄された衛宮切嗣と最優のサーヴァントであるセイバーを追い詰め、あの地獄を作り出せるはずがない。そうだ。そもそも、私の心象風景は、『無限の剣製』。剣こそが他人の想いの墓標で、大地と空の風景が私の全てだ。このような赤や白の部屋などではありえない―――もう一度聞く。お前は何者だ? 何が目的で私の心の中に、このような偽の心象風景を作り上げた」

 

そして私は奴を否定した。自身が言峰綺礼でないと断言された時、そして返ってきたのは。

 

「―――く………は、はは、はははははははははははははははははははははは! 」

 

哄笑。いや、狂乱の感激か。奴はまさに狂ったかと思うほどに笑い、叫び、声を上げ続ける。それは心からの喜びによるものだった。奴は私が、奴が言峰綺礼という男でない事を見抜いたことに、心底喜び、悶え、笑い声を上げている。

 

私はただただ、奴の狂笑が治まるのをじっと待った。そうしなければいけない気がしたのだ。やがて奴は私が何一言も発することなく自らの狂態を観察していることに気がつくと、半月の形に大口を開けて、おそらく当人にとって最高の感動を表す笑顔を私に向けてきた。

 

「―――やっと気付いたか、間抜け」

 

言峰綺礼の顔をした男は、今までの喋り方とはあまりにも違う、荒々しい知的さに欠けた傍若無人さに満ちた口調で、しかし悪戯に成功した悪餓鬼の如く話しかけてきた。

 

「―――なぜだ。なぜ貴様は言峰綺礼を騙った」

「決まってるだろ。俺だって最初はそんなつもりはなかったさ。俺は、俺とお前が出会えばすぐにお前は俺が誰だか気付いてくれると信じていた。―――でもよ。お前は、あろうことかお前は、俺のことを、自分の最大の悪の存在、つまりは最大の敵である言峰綺礼と断言して、そして疑わなかった。―――傷ついたぜ。なにせ、俺はお前にとって、悪で、敵であると言われたに等しかったんだからな。―――なぁ、俺は傷付いたんだ。もう、狂ってしまおうかと思うくらい、傷ついた。でもさ。俺は、俺に優しいからよ。だから俺は、お前の望むと通り、言峰綺礼であろうとしてやったんだ」

「―――」

 

わからない。奴の言っている内容が理解できない。なぜ、そうして間違えられた際に傷つく? 私のことを思ったが故に、言峰綺礼を騙った? なぜ奴が奴に優しいからといって、私に優しくする必要がある? 

 

「お前のことを信じてたんだぜ? 抱え込んできた他人からの貰っていた罪悪感という重しを全て失った時、そうして自分の中に何にもなくなった時、お前は俺の事を久し振りに認識した。お前が俺の部屋にやってきたときは、俺も胸が踊ったもんだぜ? だから、ああして優しく話しかけてやったんだ」

 

いや違う。理解したくないのだ。否、奴の言葉が事実であると受け入れるなんて事、“英霊エミヤ”にできるはずはない。それは、“英霊エミヤ”の私が“私/衛宮士郎”でなくなるという事に等しい。だから心はとっくに理解しているが、脳がそれを事実だと認識してくれない。いや、違う。心も脳もとっくに事実だと理解しているけれど、“英霊エミヤ”が、“衛宮士郎”というペルソナが、目の前の影/人間が誰であるかを理解したがらない。

 

「―――あ」

 

情動脳と扁桃体が活性化して、危険が迫っている事を促している。ストレスホルモンと神経インパルスが連鎖反応を起こしている。一刻も早くこの場から逃げろと警告しているのだ。血圧が上がり、心臓は破裂してしまいそうなほど脈打っている。これから起こる酸欠に備えて、多量の酸素を吸い込めるよう呼吸は浅くなる。A10神経がこれからやってくる情動の奔流に構えろと全身を覚醒状態へと追い込んだ。

 

それは他人から自分へ向けられるあらゆる悪意に対して寛容になった理由。他人に解決してやるべき問題が発生すると言う事態を完全に愛するようになった原因。この時代より未来、しかしはるか過去、“英霊エミヤ”という存在が、“正義の味方”になるためには不要と地獄の中で切り捨ててしまったもの。

 

「あ、その面。ようやく思い出したか。―――いや、ようやく俺を認めたか。なぁ、衛宮士郎。そうだよなぁ。どれだけ目を逸らしても、まさかわからないはずがない。だってよ」

 

―――そうだ

 

忘れられるはずがない。私から引きちぎられた、私が正視する事を避けた、私が誰にも望まれない“正義の味方”となってしまった、過去、自分の肉体に置き去りにしてしまった、自分の欠片。

 

「お前は、俺だもんな。―――俺は、誰も彼も死んでゆく地獄から幼く弱い心しか持たない己を守って生き残るために置き去りにした、“衛宮士郎“という人間の内受容感覚。衛宮切嗣がこの世の全ての悪意の影響をなくすため、「全て尊き理想郷/アヴァロン」という宝具を埋め込んだ際、お前の心の奥底深くに悪の性質であると封印された、人間としての主体性。そしてお前が衛宮切嗣という男から“衛宮“姓を貰った際、“衛宮士郎”として生きてゆくため、無意識の内に脳と体の奥底に罪悪感という名の重しを用いて封印まで施した、衛宮切嗣の願いを受けて“衛宮士郎”が正義の味方としていくために邪魔だと見捨てた、お前本来の肉体が持っていたペルソナ。やがて肉体を失い、魂だけの“英霊エミヤ”という存在になった時、完全に失った自分の欠片―――俺の名前は“×××士郎”。俺は、自らの罪から正視を避けるため望んで心の奥底で眠りについた、お前が悪と呼んだ、自分のために誰かを見捨てる事を許容する、弱く幼いお前自身だ」

「あああああああああぁぁぁぁ! 」

 

記憶がフラッシュバックする。煉獄と炎。過去の記憶の中に断片化して封印したものが、感情と組み合わさって、余さず統合して蘇る。言葉で言い表すことなんてできなかった。恐ろしい。恐ろしい。ただただ、背筋が凍りつくほど恐ろしい。

 

「認めたな。もう逃げられねぇぞ。自分の醜さから目を逸らすのは終わりにしようぜ」

 

言語に絶する体験をした私が、何故あの地獄を恐ろしいと感じたのか、その本質が襲いかかってくる。あの時から死に続けていた私は私の本能を認識することで初めて蘇り、止まっていた時計はようやく今という時に時刻を合わせて動き出した。

 

理性から作り出された人格“衛宮士郎”が悲鳴を上げている。情動脳は久しぶりの出番に張り切り、いつものように理性脳を凌駕する。全身が虚脱する。真の痛みと不安が心の中へと戻ってきた。どうか帰ってくれと懇願するも、情動は理性の説得になど応じてくれない。

 

 

「っあ! 」

 

時計を見ると、まだ朝の五時を過ぎたばかりである事がわかる。窓の外を見ると、帝都の街を日が照らしあげていた。寝汗がひどい。防衛本能は暴走し、脳幹から発せられた暴走した信号は迷走神経をたどり、全身の筋肉と喉元、心臓、胃、結腸に至るまで「周囲の全てはお前の敵だ。戦闘モードを維持しろ」と命令を叫び続けている。

 

「―――、はっ、はっ、はっ、はっ」

 

おかげでまともに全身をまともに動かせない。心拍が耳に煩いほど響いてくる。過敏になった耳はどこかから聞こえてくる余計ないびきや時計の針の音と言った余計な雑音まで拾い上げ、触覚は自身の体を覆う布団すら鬱陶しい遺物だと認識している。汗腺が余計な汗を噴出し続けて肌に張り付くのも酷く不快だ。しかしそんな感覚よりも、もっと原始的な部分が悲鳴を上げている事に私は気がつく。

 

「はっ、はっ、……はぁ、はぁ」

 

神経の再配線作業が始まっていた。世界樹のある世界にやってきたあの日感じた感動が陳腐に思えるほどの、感情の濁流。知らない。こんな体の内側を作り変えられるような感覚を的確に言い表す言葉を私は持ち合わせていない。あえて一番近いのを探すなら、不快感だ。

 

不変だった自分が変わって行く。自分の事を大切だと思う自分に変わってゆく。失われていた感覚と価値観が戻ってくる。暴力的なまでの荒々しさで、私の内面は“衛宮士郎”が、“英霊エミヤ”が、把握しきれない本来の自分の体の機能を取り戻して行く。

 

「あ、……、あぁ」

 

自分が変わってしまう。いや、戻ってしまう。それが何より怖くてたまらない。本能的な恐怖により生じた収まらない震えを、それでも理性で押さえ込もうと両手に力を込めた。途端訪れるひどい虚脱感。同時に、急激に全身から熱が失われていく感覚を覚えた。

 

他者とは別の形に発達していた理性を源とする原自己/プロトセルフは今すぐこの場からの撤退し、強烈な外的な刺激をくわえる事で今の脳内の変化を止めろと命じていた。恐怖に靄がかかったような頭だったが、理性からの命令を聞き慣れていた体は、“衛宮士郎”という存在の危険事態を悟ると、すぐさま動いてくれた。

 

「―――っ! 」

 

そして私は、逃げるようにして、シャツを羽織って、扉を開け、廊下へと飛び出した。まだ暗い部分の残る廊下は冷たく、そして体から熱を奪って行く。これではダメだ。まだ刺激が足りない。もっと痛みを。もっと重しを。もっと罪悪感を。傷を。どうか誰か私を責めてくれと思った時、上の方から下の階に向けて風が流れている事に気がついた。強い刺激に導かれるようにして逆風の中を進み、短い折り返しの階段を上ってそのまま屋上へ行くと、太陽が山の端から姿をあらわす途中であった。

 

 

「あ、おはようございます」

「ああ。おはよう」

 

そして、まだ日が昇ったばかりだというのにもかかわらず、そこには二つの人影があった。シンと響。その二人が手すりに寄りかかりながら帝都を眺めていた。シンは詰襟黒塗りの学生服を着込み、響はワインレッドのセーラー服に身を包んでいた。どうやらだいぶ私よりも大分前に起きていたらしい。真新しさの残る服を着こなす二人は年相応の姿で、とても様になっていた。

 

「―――やぁ、おはよう」

 

私は自らの無様さと醜態を隠すべく、さっといつもの“英霊エミヤ“としての仮面を意識的にかぶせて、自己のコントロールを強く試みる。おそらく屋上より階下へ吹き付けていた逆風と、屋上を照らしあげる太陽の光と、他人との接触というイベントが、私の中の理性と大人の代表たる管理者を叩き起こしてくれたのだろう、彼はすぐさま自らの役目を取り戻して、私は“英霊エミヤ”として体裁を取り戻すことに成功した。

 

「早起きだな」

 

理性がそんなつまらない常識的な言葉を捻り出した時、私は心底安堵した。私は再び“英霊エミヤ”に戻ることに成功したと思ったからだ。

 

「いえ……」

「エトリアでの生活に比べればむしろだいぶ遅い。あそこではこんな時間まで寝こけている事ができん。鐘の音に起こされるからな」

「ああ……そういえばそうだったな」

 

エトリアの宿では朝夕五時を基準に人々は活動をしている。ほとんどの冒険者たちは事前に宿屋との取り決めによって決めた朝夕の五時を過ぎると問答無用で荷物ごと叩き出されるのだ。鏡や水場のないところではまともに身嗜みを整える事は出来ない。気の緩みや装備の手入れ不足は命の危機と直結するのだから、手を抜くわけにもいかない。結果、冒険者は自然と日の出前、鐘がなる前には準備を済ませるために早く起きる事となるのだ。

 

「ええ。ですから日が昇る前に起きるのは生活習慣みたいなものでして。なんだか自然と体が起きちゃうんですよね」

「私は単純に機械の体だから、設定時間きっちりに目を開けただけの事なのだがな」

「なんかずるいですよねぇ。お布団の誘惑に負けないで済むなんて」

「うむ、体の疲れを完全に把握できるから、その辺りとても便利だな。壊れた部位はスキルによる治療や修理などが効くというのもいい。だが一番便利なのは、いつでも好きな時に頭の中で模擬戦闘のシミュレーターを展開出来る事だな。お陰で、この一晩で、だいぶ自分の動きの無駄をなくすことが出来た。この記憶を持って元の肉体に戻れれば、もっと素晴らしい動きが出来ただろうが―――、うむ、残念といえばそれだけが残念だ」

「―――シンはどんな姿になっても、シンですねぇ」

「当然だ」

 

響の言葉にシンは迷わず頷いた。機械の体に変わって少しは気に病んでいたかと思った自分が馬鹿らしくなる。どうやら、彼ら的には自身の体が機械になろうと、友人の体が機械になろうと、どうでも良い事であるらしかった。その強さは価値観の違いか、それとも自分というものと真正面から向き合い続けた強さが生み出すものなのか―――

 

「―――帝都はどうだ? 」

「あ、えっと……」

 

いつのまにか再び外れかけた“英霊エミヤ”の仮面を深く被り直すと、誤魔化すように話題を転換する。響は考え込み、帝都の景色を見て、体をさすって、そして首をかしげると、やはり首を捻らせながら口を開く。

 

「なんていうか、じめっとしてますよね。服が肌に張り付く感じがします」

「エトリアは低温低湿の気候だったが、日本は高温多湿だからな。夏のこの時期だと亜熱帯のそれに近くなる」

「亜熱帯……? 」

 

ああ、そういえば、彼らはエトリアの人間だったか。

 

「そうだな……、新迷宮の二層のような環境だ」

「―――ああ、なるほど」

「確かにこの環境は、あそこに近いな。一枚羽織ればそれで十分なくらいの温度と湿度―――なるほど、だからここの住人は薄手で、多くはあのような隙間だらけ家に住んでいるのか」

 

言うとシンは少し遠く、昔の日本の風情を残す家屋が群れている場所を指差した。街の表通りには瓦の乗った立派な作りの日本屋敷が並び、少し離れて裏路地や川沿いへと目を向けると、完全に木だけで建造された造りの長屋が数多く並んでいる。なるほど、そう理解されたか。

 

「いや―――、あれは経済的な理由だろう」

「そうか」

 

私が苦笑いすると、シンはあっさりと首を縦にふる。

 

「それにしてもエミヤさん。街の景色、なんかぼやけてみえませんか?」

 

シンのそんな態度に苦笑していると、シンの指先を追っていて隣の区、千寿区深川の方へ目線を送っていた響は、瞼を細めて広げてと繰り返し、そしてやがて目をこすると言った。シンは響の言葉に反応して、アンドロ特有の機械のセンサーの視線を向けた。

 

「ふむ……、霧などは発生していないようだが……」

「―――ああ、なるほど。それはエトリアとの気候の違いだな」

「気候の違い?」

 

響は再び首を傾げた。

 

「エトリアは低温低湿で空気の汚れも少なかったからな。空気に散乱する水分や埃がほとんど存在しないから、どこまでも遠くまで見渡す事ができた。だが先ほども言った通り、日本は高温多湿。その上、帝都は今まさに文明開化の最中で黒い煙を吐き出す工場が建てられている。深川の街には紡績工場もあると聞いた。だから、空気中の水分や埃が光の進行の邪魔をして景色がぼやけて見えたのだろう」

「はぁー」

 

推測を言うと、響は胸の中の空気を吐き出すと、気の抜けた顔をした。あの顔だとおそらく理解できていまい。さて、わかりにくかっただろうかと自分のセリフを思い返すと、文明開化だの、紡績工場だのと、電気機械と馴染みの少なかった人にはわかりにくいだろう言葉を使って説明してしまった事に気がつく。

 

「なるほど。空気中に障害物が散乱しているから、光が通りにくいと」

「その通り」

 

さて、どう失態を取り戻そうかと思っていると、シンがバッサリとした補足をしてくれた。顔からは判別がつきにくいが、彼は今の説明の内容をきちんと理解してくれたらしい。剣のこと以外に興味がないと言い切る彼が機械知識についてあれこれ知っていたとも考え難いし、アンドロ化によってその辺りの知識も補填されたのだろうか。

 

「視界がぼやけるって事ですか?」

「ああ。だがそれはそれで良いものであったりするのだよ。そう言った見えるけど見えない、といった状態は想像力を生む土壌となり、牧谿、雪舟から、ムラを活かす画風となって長谷川等伯の松林図屏風といった芸術作品へと繋がった。温度が高いのは地熱が聞いているからであるし―――、そうだ、ここには天空都市だったエトリアにはない、温泉というものがある。地下からそのまま引いてきた湯に浸かるんだ。この時代なら銭湯で入れる可能性もある。疲れが体から抜けていく感覚は気持ちがいいぞ。きっと気にいる―――」

 

と、そこまで語って、話を聞いていた二人のうち、特に響の方が驚いた表情を浮かべて、背を逸らしている事に気がつく。勢いに気圧されたかのような態度を見て、思う。

 

―――またやってしまったか

 

「……、エミヤさん、帝都の事情に詳しいですね……」

 

響は目をパチクリとさせながら呟いた。シンも、アンドロの無表情の上には、しかし呆けた様子が浮かんでいる。おそらく一方的に知識をまくしたてられた事に驚いたのだろう。

 

「ああ、まぁ、日本人だから、この程度は、な」

 

そんな一方的な知識によるマウンティング行為を気恥ずかしいと感じて、少しばかり言葉を区切りながら適当に誤魔化す。今朝はどうも調子がおかしい。こうまでペラペラと一方的に知識を披露する人格ではなかったはずだ。心理的に負荷がかかっていると早口になるというし、あるいは、否、やはり自らの自我とやらと相対したことが原因なのだろうか―――

 

「ふむ、やはり人は生まれ故郷について語るとなると饒舌でいい顔になるものなのだな」

「―――」

 

などと、再び自らの行いに嫌悪感を抱き、そんな心を弱いと断じて自虐に浸ろうとすると、私の心の中に住まう批判者が本能に対して悪であると結論を下す前に、シンは私の先ほどの理性の失態、情動のままの言葉を肯定した。

 

「あ、それはたしかに。エミヤさん、珍しく険のない顔をしてました」

 

そして続く響の肯定の言葉により、今の私/理性と過去の私/本能の断片は、脳裏にて関係性を失うよりも早く繋がりが強化され、“英霊エミヤ”という男が故郷について自らの情動の赴くままに知識を語るという行為は、世間や他人に受け入れられる行為であるという事を確かにした。

 

「―――そうなのか?」

 

価値のない存在だと信じていた自らの過去を、凛というもはや“衛宮士郎”という存在と身内同然の人間以外に肯定された事が信じられず、思わず聞き返した。

 

「ああ。エミヤ。今さっき貴方が見せた笑顔は、何時もあなたがしているような常駐戦場を意識した緊迫感に満ちたものではなく、エトリアで見たことのないような、なんとも人間らしい笑顔だった」

 

人間らしい笑顔。その言葉は先程自らが過去に置き去りにしてきた心と対峙した私を心底揺さぶった。私はおそらく、私の最も欲しかった言葉を、思いがけない所からかけられて、無意識のうちに魂の奥底に封じ込めていた、過去、自分を失った時の記憶が蘇っていくのを実感した。

 

 

―――あの日。あの誰も彼もが死んでゆく地獄の中で、自らが生き残るため助けを求める彼らから目を逸らし、耳を塞いで、脅威から自身を守るという生物としては当然の自己保全の行為などは、しかし幼かった“×××士郎”にとって悪以外の何者でもなかった。己の本能的行為を醜いと感じてしまったとして幼い理性の心は、その矛盾に耐えきれず、本能の一部を切り離し、分断させた状態で、仮死状態に陥ったのだ。

 

心の一部は欠損したそんな状態の私を発見し、存命させたのが衛宮切嗣というわけだ。衛宮切嗣が私に埋め込んだ、脅威的な再生と肉体保全能力を持つセイバーの宝具「全て遠き理想郷/アヴァロン」によって、心が死んだままの状態で蘇生させられた“×××士郎”は、“×××士郎にとって醜い、自己保全の機能を持たない士郎”として生き延びた。

 

そうして地獄の中から無垢な“士郎”という存在が生まれた。無垢な“士郎”はまだ幼かった“×××士郎”という存在にとって、自らの生存の為に自らの両親や生存を望む人々を置き去りにして生きのびてしまったという事実や自らの醜さから心を守るには都合の良い存在であった為、彼は“士郎”という存在に自らの体を明け渡す事を無意識のうちに許容した。

 

あるいは、所有者に擬似的な不老不死性を与える彼女の宝具/アヴァロンも、“×××士郎”の心が死んだ状態を保ち、“士郎”という第二のペルソナが体の所有権を握っている状態を保つにちょうどよかったのかもしれない。

 

とにかく、魂の奥底、あるいは肉体の奥底へ自己を大切にするという保全機能を持つ私を切り取って封じ込めた私は、確かに昔誰かに言われたように、文字通り、生物として最も大切な“自分を大切にする”という本能を失った状態で、無色の“士郎”として誕生したのだ。

 

その際、衛宮切嗣は自らが作り出してしまった地獄の中で自らの手で私の命を拾い上げるという行為によって、自分自身を救った。しかしそんな衛宮切嗣の自己憐憫の行為を、他人どころか自分の心をも切り捨ててまで生き残ってしまった“自己保全機能を失った士郎”は、死地において自己の保全ではなく、他人を優先しそして救ったという事実を、まさに“正義の行為”そのものであると思い込んだ。

 

だからこそ私はその時衛宮切嗣という男が見せた、なんとも幸せそうな笑顔に、ひどく惹かれ、彼の目指していたという“正義の味方/衛宮切嗣”に憧れた。 やがて衛宮切嗣によって“衛宮”の姓を与えられた私は、その後、そして衛宮切嗣から理想を聞いた月夜の晩に、 “×××士郎”の意識を乗っ取る形で、“士郎”ではなく“衛宮士郎/正義の味方”として誕生したのだ。

 

やがて成長するにつれて、無垢だった“衛宮士郎”はさまざまな自己保全行動を罪として認識し、人よりも多くの罪悪感を抱え込む事となる。それはアヴァロンという宝具を所有者に返し、肉体が本能を微かに取り戻した後も続き、自らの心が感じる罪悪感は、“衛宮士郎”という人格を保つための鎧となり、重しとなり、過去に封印した幼心が顕現しないための要素ともなった。

 

しかしそうして正義の味方として誕生したはずの衛宮士郎は、自己を大切にする機能を失っているため本質的には他者を必要せず、しかし人という他人との繋がりを頼りにする“人間”という社会的な動物の中で“正義の味方という理想の存在を目指す衛宮士郎”として生きる為に心の奥底では他者との社会的な繋がりを軽視しながら、あるいは理解できないまま、他人に自らの信じる正義を押し付け続けて、地獄を邁進した。

 

だから、恐れられ、理解されず、否、異端として理解され、そして―――

 

―――そんな旅路の果てに掴んだ結果を受け入れる事が出来ず、それまでの自分を否定し、自分すら救うことが出来なかった

 

 

I am the bone of my sword. /“衛宮士郎”は本来人間が持つ機能を持っていない

 

Steel is my body, and fire is my blood. /自己を大事と思う心を醜いと切り捨て、弱い自分を否定した

 

I have created over a thousand blades. /いくら他者と接触しようとそんな己を変える事が出来ず

 

Unknown to Death. /ただ一方的に自らの考える救いと正義を押し付けるばかりで

 

Nor known to Life. /だからこそ誰にも受け入れられてもらえなかった

 

Have withstood pain to create many weapons. /しかし私はそんな彼らの抵抗と不理解という世の不条理に抗う自身の姿こそが“正義の味方”として正しい姿と自惚れた

 

Yet, those hands will never hold anything. /だから彼らにとって、私の正義は真に独善でしかなく

 

So as I pray, UNLIMITED BLADE WORKS /“衛宮士郎”という存在は、自らの心の奥底に封じ込めた“×××士郎”という未熟な己を守るための剣に過ぎなかったのだ

 

 

結局その、幼い自分自身を私が肉体の奥底に追放し続けるという現実逃避は、英霊として存在を固定されるまで続き、そして自己保全機能を失った状態のまま、“衛宮士郎”は“英霊エミヤ”として固定されてしまった。

 

しかしあの運命の日、凛の手によって世界樹という魔のモノが巣食う世界に、“英霊という情報と魂の存在に過ぎない“状態から“衛宮士郎の肉体“を得て転生した私は、そこに住まう魔のモノという存在によって溜め込んでいた全ての罪悪感という名の鎧と重しを失い、やがて私の心象風景のさらに奥底、幼い頃肉体の中に切り捨て、封じたはずの、“衛宮士郎”が醜く弱いと感じる自分自身と対峙する事となったのだ。

 

そして切り捨てたとはいえ自身の分身なのだから本来ならばその存在を認識した瞬間に気付いても良さそうなものだが、しかしその我欲を伴う自己保全という本能という名の自分は、“世界平和を目指す正義の味方”という“衛宮士郎”/存在からしてみれば悪と断じてやまない存在であり、だからこそ“英霊エミヤ”にとって最大の悪の存在である“言峰綺礼”であると私は思い込んだ。

 

そして自らが幼き頃失った仮面の一つであるそれを“言峰綺礼”として断定した私は、私という自分自身に存在を“言峰綺礼である”と断定された奴は、“英霊エミヤの望む通り“、正しく“英霊エミヤにとって悪の化身である言峰綺礼像“を演じ続けたのだ。

 

つまりあの悪夢の正体は、かつて私が“衛宮士郎“として生き延びるために切り捨てた現実を、しかし、そんな醜い我欲を持つ私は私でないと否定したいがための私が現実逃避した結果であり、同時に辛過ぎて正視できなかった食べ物も水も与えられず、私からも見捨てられた、注意を向けてもらいたがっている幼い自己という名をした獣の、必死の雄叫びだったのだ。

 

 

そして今朝、“衛宮士郎“が人間でない獣と断じた自身との統合を果たした私は、だからこそ自己の発見に戸惑い、懊悩し、ストレスホルモンが全身に異常を発露させたのだ。しかし私は、そんな醜い自分を見たくなくて、再び自己の殻に閉じこもろうと、思考を放棄し、肉体を落ち着かせる事で悪い夢を見たのだと、心の中の現実からの逃避を試みた。

 

しかし、その先にいたシンと響が私にそれを許さなかった。彼らはそうして本能を取り戻した私を許容したのだ。そうして変化した私を彼らは何気なく、そして自然に受け入れた。彼らが述べた言葉は、腹の中にストンと落ち込んで、そして長年の分裂状態は、彼らの手によって、統合されてしまったのだ。

 

それを心地よいと感じる自分がいる。他人からの理解を心底喜ぶ自分がいる。もう、非常事態ではないのだ、全身の緊張を解いても良いのだと、自己を保全しよう囁く自分がいる。そしてそんな“自分”を“受け入れてしまった“自分がそこにいる。

 

もう私は、あの他人も自分の心も切り裂き弔った墓標の如く剣だけが並ぶ吹き荒ぶ世界に、戻れない。戻りたいとも思わない。色がついたのを感じた。呼吸をすれば匂いを濃く感じる幸福。立っているだけで太陽の光は肌を痛いくらいに焼き、しかしそうして熱を帯びた肌から熱を奪っていく風が、なんとも心地よい。

 

訪れる感覚全てが新鮮だ。思いもかけぬ訪問客のその全てが愛おしい。なるほど、この感覚が、幻でも白昼夢でもなく、今を生きるという事なのだ。

 

―――ああ、私はようやく自分を自分の中から救い出し、真に私/自分を取り戻した

 

この喜びを言葉にするなんてことはできない。無粋だのなんだのではなく、感情の初心者である私は、この初めての感覚をなんという言葉で表現すれば良いのか、わからないのだ。

 

「―――そうか」

 

そうして喪失していた体と自己を取り戻し、統合した自分は、あえていう言葉で表現するなら、なんとも満ち足りた気持ちで彼らへと返事を返していた。意識してのものではない。緊張した体が反射として、意思のこもらないものではない。それは、真に私の脳が、魂が、心が、神経という肉体を通して、彼らの言葉に反応してのものだった。

 

「ああ」

「はい。―――あの、生意気言うようですが、エミヤさん、昨日から、すごく余裕のある、いい顔をしていますよ」

 

―――余裕、か

 

なるほど、いつもの感覚とは異なるが、言われてみれば確かにこれは余裕あると言う気持ちに近いかもしれない。思い返せば、同じ世界の延長線上であるにもかかわらず、常識も法則も異なった世界でかつての夢―――正義の味方になろうという願いを叶えようと猛進していた。衛宮切嗣という男から受け継いだ願いを叶えようと、凛の恩義に応えようと、私は突っ走っていたのだ。

 

そうして切嗣の願いを尊いものだと感じて受け継ごうと思ったのは確かで、凛の後押しがあったとはいえ、再び与えられた人生で切嗣から受け継いだ願いを果たそうと考え一歩踏み出したのが、自分が尊いと感じた情動が元であったのは確かだ。そのことに後悔など一欠片すらもないし、エトリアという、人同士の争いがなく、そして死の脅威が自然災害の如きもののみである世界は、私のような正義の味方を目指す人間にとっては、確かに理想郷のような世界であった。

 

だが、その世界で過ごし、正義の味方を目指す私に余裕があったかといえばそれは―――

 

なかった。間違いなくそう言い切れる。何せあそこには私の慣れ親しんだ文化の匂いがしない。東欧からイスラム世界あたりの文化の中で暮らしたことがなかったという訳でないが、何をするにしてもスキルというものを使えるのが前提で、服装に対する意識や、日常生活の習慣の差異など、ともかく何から何まで違和感だらけだった。

 

身に染み付いた習慣があまり役に立たない、異なった文化の世界の中で、ただ一人、正義の味方を目指して黙々と剣を振るい続ける日々は、充実していた。だがそれが、世界の中でただ一人、自分だけが他人と異なる人間だという差異からの逃避と等しかったのも確かだ。

 

―――なるほど、余裕がなかった、か

 

あの異世界のごとき未来世界の街、スキルを使うことが当たり前の街「エトリア」と比べれば、並行世界であるとはいえ、帝都は私が知り、そして慣れ親しんできた機械文明と日本文化の匂いが濃く残る場所だ。

 

この世界において私は、“異世界人”でありながら、ある意味で“異邦人”でなく、“同郷の人間”なのだ。無論、西暦2000年の世界と西暦1921年という差異があるゆえ、細かな違いこそあるだろうが、この世界は私の知る常識が大半以上は通じる場所なのだ。まるで知らない法則性が多く支配するような未来世界よりも、類似性が多い過去並行世界は、おそらく私の余裕というものに繋がり、そしてその前後の常識の落差が余裕を生んだ。

 

そして、世界樹の世界により自らの鎧と重しを失った私は、この世界に辿り着きそして余裕を得た事で、過去の肉体の中に置き去りにしてきた、未解決のまま封じ込めた幼き自分という存在に気付き、対峙する事となり、そして、統合することが出来たのだ。

 

「あ、ご、ごめんなさい。なんか、すごく生意気言っちゃって……、その、ご―――」

 

響は私の長い沈黙を不興の証として認識したのか、謝罪の言葉を発しようとした。

 

「ごめんな―――」

「いや!」

 

私はその時、慌てて彼女の言葉を遮った。そうして“衛宮士郎“が失った“×××士郎”を得て、真に“人間の士郎”にしてくれた片割れに、謝罪の言葉なんて言って欲しくなかったのだ。

 

「―――ありがとう」

「……えっ? 」

 

そうだ。恩人に謝罪なんてして欲しくない。無意識のうちにでも、何かをしてもらったのなら、礼を言うのが、正しい“人間”の在り方だ。

 

「余裕がなかった。確かにきっとその通りだ。そして今、私はとても余裕があると感じている。―――君たちの言葉に、私はとても救われた。だから、ありがとう」

 

自身だってまだ統合によるあれこれの弊害を処理し切れていないのだ。今、深く理由を告げても、彼女たちは戸惑い混乱するだけだろう。だから今はそれだけでいい。深く語らずとも、それだけで彼女たちは、きっと自分のことを理解してくれる。

 

「―――響」

「はい。どういたしまして」

 

シンが響の背を叩いた。彼の励ましを受けるような形で、響は私の礼を受け取る。それでいい。はじめの歩み寄りなんて、その程度でいいのだ。彼女のくれた短い返事の中には、たしかな肯定に満ちている。その心地よさに身を委ねながら、私はしばしの間、銀楼閣の屋上から懐かしむには古すぎる日本の風景を楽しんだ。

 

平屋の家が並び、どこもほとんどが地面の路地。木製の橋の欄干には擬宝珠が当然のように並んでいる。コンクリートのビルはまだ所々にしか存在しておらず、電柱と電線など数えるのも容易い。街から視線を外して遠くまで視界を通すと、広がる田園風景。強化していない目では響の言う通り、山の端を見ようとしても、ぼやけて、エトリアのようによく見ることができない。

 

―――ああこれはたしかに日本の原風景だ

 

ぼやけ霞んだ景色の、自然のままの風景は醜く、しかし同時に美しく見える。そし後天的に切り開かれて作られた人工の建物は、着飾ったように美しく、しかし、醜い部分も多分に含んでいた。そうして生の目が俯瞰して捉える日本の原風景は、エトリアでよく見た西洋絵画のような必要な要素だけをハッキリと捉えた美貌だけではなく、薄らぼんやりとした美醜入り混じる光景でありながら、調和の美を誇っていた。




あらすじに書いております通り、これは“英霊エミヤ“という男がいつか異世界で楔から解き放たれて、自由に生きる。そういう物語です。

Fate というシリーズでは、アーチャーである“英霊エミヤ”は「永遠に救われない、報われない存在」として扱われています。私は悩み、苦しみ、それでも前に進もうとして、自己を殺してしまおうと思うほど思いつめてしまうエミヤというキャラクターがとても人間らしくて好きです。

しかしFate というシリーズでは概念が全てを支配しています。だからその法則に従って考えると、英霊エミヤというキャラクターが原作通りのままだと、永遠に救われない状態で固定されてしまうと私は感じました。自己矛盾に気付きながら、それでも自分の為にと自ら地獄を邁進した彼がそんな結末しか存在しない事が、心底認められなかった。

私は“英霊エミヤ“という存在が「永遠に救われない、報われない存在」という状態で固定化されてしまっている概念を覆して、「いつか救われる存在」か、あるいはせめて「いつか救われる可能性のある存在」にしたかった。

そのための集大成が今回の話です。非難、アンチ成分、原作のエミヤを否定していると感じる方もいらっしゃるでしょう。オリジナルのキャラによって救われるなんてとんでもないメアリースーだと仰られる方もいらっしゃるでしょう。整合性がないと言われるかもしれません。

ただ、どうしても英霊エミヤとは「いつか救われる存在」か、あるいはせめて「いつか救われる可能性のある存在」だと多くの方に認識していただきたいため、不意打ちの形ではありますが、エミヤという英霊を変化させました。このような変化もエミヤという英霊の救いの形の一つかもしれないと思っていただければ、これまで彼の救いを求めて物語を紡いできた私にとって、それ以上の喜びはありません。

どうか、英霊エミヤという存在がいつか救われますように。


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第四話 帝都に咲く花々、群がるは男

第四話 帝都に咲く花々、群がるは男 その1

 

「―――エミヤ。お前、うちの探偵社の専属料理人にならないか? 」

 

東京市矢来区築土町、銀楼閣三階。鳴海探偵事務所という札のかかった部屋の中、部屋の一番奥の巨大な所長机の前の安楽椅子にどっしりとこしかけ踏ん反り返っていた所長殿に簡単な料理を用意してやると、鳴海が安楽椅子の上からそんなことを言ってきた。

 

鳴海の背後にある窓から飛び込む光が邪魔をして見えづらいが、鳴海は上機嫌そうに髪を指先で梳きながら、真剣な表情を浮かべている。冗談……、で言っているわけではなさそうだった。

 

今、奴の目の前の所長机に置かれているものは、私の時代なら珍しくもない、喫茶店のモーニングセットのようなものだ。目玉焼きにキャベツをちぎっただけのサラダにバターを塗ったトーストにコーヒー。皿の上に乗っているものにも特別なものはなく、朝方その辺にいた物売りを捕まえて手に入れた卵とキャベツを適当に調理し、部屋の隅にだらしなく置かれていたをパンを軽く炙ってバターを塗っただけの、本当に簡単なものだ。

 

コーヒーを淹れるのには、豆引きと専用の豆があったのでそれを使用して多少手間をかけたが、それが鳴海という男の胸を打った訳でないのは、奴が口をつけていない事からも明らかで、つまり奴が今感動しているのは、奴の目の前にある皿の上の料理である事は確かなのだ。

 

大した手間をかけていないこの程度のもので喜ぶとは、と思わないところがないでもないが、半年という長いブランクで腕が錆び付いていたかもと心配していたものに対して、鳴海という男が見せた喜びようは素直に嬉しいという気持ちもあった。

 

「―――お褒めの言葉はありがたく頂戴するが、その申し出は断らせていただこう。それより冷めるぞ」

「いっけね……!」

 

一瞬心が揺れ動く。だが、無論そんな申し出を受けるわけにもいかないので、丁寧に断りながら食事を勧めると、鳴海は中央に置かれている箸を無視して、フォークとナイフで優雅を心がけて、しかし少し不慣れな様子で朝の食事を再開した。やれやれ、誤魔化しが出来て一安心、といったところか。

 

『あやつの戯言は無視して良いぞ、エミヤ』

「ゴウト」

 

胸をなでおろしていると、棚の行李の上、緑の目をした黒猫が話しかけてきた。猫の名前はゴウトドウジ。葛葉ライドウという少年のお目付役で、霊能を持たない人間には彼の言葉は猫の鳴き声にしか聞こえないという特性を備えている。

 

つまり彼の今の一言は、霊能のない鳴海という男はゴウトの非難こもった一言は、単なる鳴き声としてしか認識できなかったと言うことでもあり、鳴海はゴウトの鳴き声に、「な、お前もそう思うだろ、ゴウト! 」などといって、我同意を得たりと、的外れの返事をした。

 

ゴウトの声が聞こえる人間からすれば少しばかり間抜けに見えるが、言わぬが吉という奴だろう。知らなかった方が幸せというものは世にいくらでも転がっている。真実が人を救うとは限らない。その真理を、万人にとっての正義の味方を目指した私は、嫌という程理解している。

 

『あやつはズボラでまともな朝食の用意をせんからな。朝目が覚めて食事が用意されているという状況が奴を酔わせ、戯言を吐かせたのだろう』

「なるほど、空腹と意外性と奉仕は何よりの調味料、か」

 

私は納得して鳴海の方を向く。すると窓を背にした鳴海は、いかにもお上品そうな手つきでナイフとフォークを使って器用に食事を続けていた。箸も用意してあるのに頑なに使おうとしないのは、鳴海という男が状況に酔っているのだろう事を告げている。

 

『無論、お主の腕前が悪いと言っているわけではない』

 

鳴海のお褒めの言葉が自身の調理した料理に対してのものかもしれないと少しばかり寂しい気持ちを覚えると、それを見抜いたのだろうゴウトが慰めの言葉を発した。

 

『―――、というよりも、お主、大分腕が良いな』

 

彼は行李、棚の上をトントンと跳ねて飛び降りると、床に置かれた皿の上にある肉の叩きを口にすると、舌を出して唇をひとなめしたのち、続けた。

 

「昔取った杵柄という奴さ。料理の腕と茶を煎じるには自信があってね」

『言うだけのことはある。ありがたく馳走になろう』

 

いうとゴウトは、自分用に用意された皿に口をつけると、貪る様にして身をほぐした魚を頬張り始めた。上品な物言いの割に、動物の本能丸出しである。つい先ほどの今度の言葉に一片たりと偽りなどない事を表すかのような見事な食いっぷりだった。

 

「―――エミヤさん」

「ああ、ライドウか」

 

ゴウトと鳴海の良い食べっぷりに一人満足して一人と一匹の食事の様子を眺めていると、扉をあけてライドウが部屋に入ってきた。彼は相変わらず能面のような変化の少ない顔を浮かべている。昨日の夜見せた様な外行き、戦場に向かう様な格好ではなく、詰襟の黒学生服を上下に着込み、独特の三日月のマークが刻まれた銀飾りの黒学帽を被るという、甚く普通の学生の格好をしていた。

 

「―――ご馳走様です。美味しかったです」

 

そう言って普段通りの格好をしたライドウはこちらに会釈をした。やがてライドウが頭を元の位置に戻った顔は多少緩んでおり、上辺やおべっかの言葉ではなく、素直に感謝の気持ちを表したのだという事がわかる。どうやら彼も私の料理を気に入ってくれたようだった。

 

「それは良かった」

 

暖かい気持ちがさらに膨れ上がる。あまりその気がなくとも、人は何かした事に対して他人から礼を言われれば、自尊心を擽られ、気分良くなるものなのだ。思わずこちらの頬も緩んだ。

 

「ほかの皆はどうした? 」

「―――シンさんと響さんは台所で物珍しそうに色々と見回っています」

 

はて、なぜ台所などを見てそのような態度をとるのか―――……ああ、調理にスキルを必要としない器具や台所の造りが珍しいのか。確かにあちらの世界とは異なり、こちらの世界は水をどこかから調達し、炎をマッチなどの発火用品から起こす必要があるし、フライパンにはコイルなど巻かれていない。シンは単純な好奇心から。響は道具屋の娘という立場からそういうものに興味があるのだろうな、と私は推測した。

 

「凛は?」

「―――食事を取った後も、机の前で眉を顰めたまま座っています」

「了解だ」

 

ライドウの言葉を聞いて、いや彼女らしい、と、呆れたような、納得するような感覚を覚えて、苦笑した。朝も早くからの活動に慣れているシンや響と異なり、凛は低血圧で朝に弱い。インと名乗っていた頃はそれでももう少し早くに自我のまともな状態を取り戻していたが、おそらく若返った事で、低血圧の性質を取り戻してしまったのだろう。なんとも難儀な事だ。

 

「ライドウ。今日の予定は? 」

 

全ての面において納得した私は、改めてライドウへ本命の質問を尋ねる。するとライドウは一転して姿勢を正し、緩んでいた口元を一文字に結び、そして真剣な表情で口を開いた。

 

「―――ヤタガラスの使者から連絡がありました。調査の結果、深川街の方では判明しているだけで、今回の件の他に、三名の神隠しが起こっていたとの事です」

「神隠し、というと、悪魔絡みの事件である、という事か」

 

ライドウは頷く。悪魔―――鬼や天狗、神霊や天使などの総称―――は通常、この世界と同じ、しかし人とは異なった異相である“異界”という世界に存在している。この現世と少しばかり情報の“異相”がずれただけの世界は、しかし、そうであるがゆえに、違いが互いを認識することは出来ず、互いの存在が互いに影響し合うこともない。

 

しかし、時たま、その相の境目を突き抜けて、異界の中に迷い込んでしまう者もいる。これが神隠しである。そして、この本来なら不幸な現象に過ぎないそれを、悪用すると―――

 

「―――ヤタガラスの使者が言うには、被害者が最後に目撃された該当地区の近隣には、異常な濃度のマグネタイトの痕跡が残されていたと。―――また、残留マグネタイトはその性質から推測するに、耶蘇教の天使のものであると判明しているようです」

 

マグネタイトは悪魔と言う存在が現世で人々に認識されるための媒介物質であり、どちからかといえば魔力に似た純粋なエネルギー物質であるが、それが悪魔召喚の際に使用された場合、一定の時間は召喚の対象となった悪魔の情報を保有する。そしてそれが耶蘇教―――つまり、キリスト教のものであったとするなら―――

 

「―――……、言峰綺礼か」

 

この日本という異国の土地において、キリスト教の悪魔を呼び出せる人間として思いつく人間をあげれば、例えばフランシスコザビエルだの、高山右近だの、島原の天草四郎だの

ぱっと頭をよぎるが、彼らとは生きた年代が数百年ほどずれている。

 

そしてつい先日、言峰綺礼という男が天使パワーや、ソロネというキリスト教系列の悪魔を召喚したという事実から考えれば、おそらく奴が誘拐の下手人であると考えて間違いないだろう。

 

「―――はい、おそらくは。そこでヤタガラスは、千寿区深川町の神隠しは、昨日、言峰綺礼と言う男が起こした誘拐未遂事件と同一のものであると断定。こちらの調査が勧められています。―――また、言峰綺礼という男がカソック姿、つまり神父の姿をしているということから、外人街が広がる港東区晴海町や、外人などの西洋服姿をした人間の多い中条区銀座付近にも事件の解決に繋がる手がかりがあるかもしれないと、併せて調査の実行が勧められています」

 

ライドウは言いながら、棚の上の行李から、学生服の上に銀管のホルスターを装着した。続けて腰にコルトライトニングが収納されているホルスターをつけると、腰に刀を差して、黒の外套を羽織り、それら全てを布の下へと隠した。それは葛葉ライドウという悪魔召喚師の戦闘兼調査スタイルだ。

 

「ライドウ。君はまずどちらに向かうつもりだ? 」

 

問うと、ライドウは一瞬だけ逡巡した様子を見せた。目が数度左右に泳ぐ。どちらがより有益な手がかりを得られるか考えているのだろう。そして瞬間の間硬直を見せたライドウは、しかしすぐさま元の通りの真剣な表情に戻り、口を開いた。

 

「―――神隠しの方。今ならまだ悪魔の手がかりが残っているかもしれない」

 

なるほど、悪魔側から攻めるつもりか。確かに寡黙かつ老獪な言峰綺礼の足取りを追うよりも、奴に召喚されたばかりのガルムやパワーといった配下の悪魔を追った方が、奴にたどり着く近道かもしれない。いや、パワーという悪魔が我らを見くびり、ガルムという悪魔が言峰綺礼の命令をきちんと聞かず、狩りの真似事という自らの快楽を優先した統制の取れていない様を見るに、確かにそちらから探った方が近道だろう。

 

「ならば私も―――」

「おっと、待ちな! 」

 

同行しよう、と言いかけて、しかしそこで食事を終えて鳴海が口を挟んできた。

 

「―――鳴海さん」

 

鳴海は腕を前に差し出すと、人差指を左右にふりながら、なんとも偉そうに口を鳴らしながら、ライドウへと近づく。

 

「ライドウ、お前さんは、デビルサマナーで鳴海探偵社見習いとはいえ、まだ書生で未成年だ。深川街の事件といやぁ、遊女の神隠し。となりゃあ当然、その遊女が所属してた遊郭に出向いての話の聞き取りをしなきゃなんねぇ。調査のためとはいえ、そんな場所にお前さんを送り込んで、風間のおっさんやおタエちゃんに知られた日にゃあ、あの二人になんて言われるか―――。ライドウその神隠しの件、まずは俺が調査する」

「―――自分は以前、何度か遊郭へ調査に赴き、事件を解決しましたが……」

 

ライドウが鳴海の提案に異議を申し立てると、鳴海はなんとも大げさに伸ばしていた腕を頭に当てて、頭を後ろに逸らし、そして再び腕を前に突き出すと、ライドウへと語りかける。鳴海の顔には、少しばかり呆れた様子が浮かんでいた。

 

「ライドウ。お前、今回、詳しく神隠しの情報、マグネタイトだとかそういう悪魔関連のことばっかで、ヤタガラスの使者からそれ以上詳しく聞いてこなかったろ―――今まで神隠しにあったって客取りもしてない新造未満女の子三人と昨日の一人は、『補陀落』所属の琴水ちゃんお付きの女の子たちだったんだぜ? 」

 

鳴海のセリフにライドウは珍しく動揺した様子を見せた。初めて見る彼の顔に、少しばかり驚く。鳴海が「その補陀落」と言っているあたり、どうやらライドウは遊郭『補陀落』とやらにあまりいい思い出がないらしい。勿論、書生、未成年のライドウが遊郭にいい思い出を持っている方がおかしいのではあるが、そうして常に冷静の態度を保つがみせた様子が私にとって少し意外だったので、少しばかり驚く。案外感情豊かなのだな、と、なんとも失礼な感想まで抱いた。

 

『ふむ、あの娘、一年前にあった時はまだ客も取った事のない新造だったと思うたが』

「今じゃすっかり牙の抜けた花魁『時雨』に変わって、あれよあれよと言う間に補陀落の一番花魁だ。事情を聞くとなりゃあ、そこで琴水ちゃんとも顔を合わせる事になる。お袋さんのこともあるから、お前、一緒だと、気まずいだろ」

「―――しかし」

「なに、まずは調査を行うってんなら、まずは詳しい情報を手に入れてからの方が効率いいだろ!なら探偵であの辺の地理にも詳しいこの俺が行って、それからお前に襷を渡した方がいいに決まってるって! な、そうしろって! そんでもってライドウ。お前は、銀座の聞き取り調査に行け! つまりこれは二面展開の作戦ってわけだ! 」

 

ライドウは鳴海の提案に少し考えるそぶりを見せた後、ゴウトの方へと視線を向けた。視線には曇りがあり、そして、信頼があった。なるほど、お目付役というのは確からしい。

 

「―――ゴウト」

『ま、鳴海の言うことにも一理ある。通常の情報ならこやつでも持ち帰れるだろう。さすれば、後ほどお主が改めて調査した際、通常では分からぬ部分の捜査がしやすくなるという利点もある。だが、時間が経てば、残留マグネタイトの痕跡や、霊能を持たぬ鳴海では調査でいない事であるのも確かだ。どちらがその言峰綺礼とやらに近いかは、儂にもわからん』

「―――」

 

ライドウはゴウトの言葉の言葉に迷った様子を見せた。彼の中では、天秤の秤に乗せられた行く、行かないの選択肢の重しが釣り合っているようだった。

 

「ライドウ」

「エミヤさん」

「その、残留マグネタイトというのは、昨日のあの緑色の光の濃い部分でいいのかね? 」

 

迷っている彼を見かねて問いかけると、ライドウは顔をあげて少しばかり驚いた様子を見せると、しかし、しっかりと瞳をこちらに向けて頷いた。

 

「―――はい」

『そうか、エミヤがいたか』

 

ゴウトはその手があったかと言わんばかりに、緑色の目を光らせた。私は頷き返す。

 

「空間の異常の調査は私の得意分野だ。君の調査対象でもある言峰綺礼という男についてならば私がよく知って居るし、解析の魔術もある。きっと役にたって見せよう」

「―――わかりました」

 

無言ながら彼の真剣な顔からはこちらに対しての信頼が伝わってくる。それを嬉しく思いながらライドウが納得したのを確認すると、私は部屋の中央に置いてある椅子に引っ掛けていた背広を羽織って着込んだ。服装は、鳴海と同じような、黒の三揃えの背広姿。流石にこの時代でいつもの赤外套とボディアーマーでは目立ちすぎると指摘を受けての対処だ。

 

そしていつも纏う赤い外套ではないが、これはこの時代で英霊エミヤが気持ち改めて正義の味方を目指すという私なりの覚悟の証でもある。

 

「お、じゃあ、俺とエミヤで調査って事でいいんだな? 」

「―――はい。鳴海さん、エミヤさん。よろしくお願いします」

「任せておけって! あの辺りは俺の庭だからな! 」

 

言うと鳴海は皿を端に退けて、すぐそばにあった英国製のキャメルの特注上着を羽織ると、「歯を磨いてくるから待ってろよ、エミヤ! 」と言って、部屋の外へと出ていった。

 

「張り切っているようだが、鳴海は探偵としての能力は高いのかね?」

 

肩で風切るように意気揚々としたその態度はとても誘拐事件を前にした探偵の見せるような態度とは思えず、多少不安を抱いた私は、気がつくとライドウへと尋ねていた。

 

「―――鳴海さんはああ見えて、元は陸軍の出らしいですから、おそらく……」

 

ライドウも中々歯に衣着せない発言をする。いや、彼の場合天然で悪気がないのはわかっているが、自分の所属している探偵社の所長を捕まえて問題点を言い切る実直さには思わず感心させられた。

 

『じゃが、今それは関係ないぞ、ライドウ。―――エミヤ。あやつはな。神隠し事件の起こった場所が遊郭という女遊びの場であるから張り切っているに過ぎん。一応、ライドウの事を気遣う気持ちもあるかもしれんがな』

 

ゴウトの溜息が部屋に響く。私は昨日までの鳴海という男が凛にちょっかいかけては迎撃されている光景を思い出して、なるほどとゴウトの言葉に納得した。

 

「やれやれ、面倒なことにならなければいいが」

 

ライドウは学帽の短鍔で顔を隠す。ゴウトはふいと顔を背けた。態度から鳴海が彼らからいかなる評価の感情と信頼を得ているか理解した私は、額に手を当てて首を振った。

 

―――どうやら、ことはそう簡単に運んでくれないらしい

 

ま、それは言峰綺礼という男が事件に絡んでいるとわかった時から決定していた事実であるわけだが。

 

 

「で、真っ昼間っから、男二人で遊郭/女遊びにお出かけ? いいご身分ねぇ」

 

調査の目的とその外出を知らせるため彼女の部屋に入ってその事を述べると、低血圧が齎す頭の靄はとうに吹き飛んでいたらしく、腕を組み、椅子に座る凛は嫌味ったらしく言ってきた。

 

顔の具合によっては耳障りが悪くも聞こえるその言葉を、しかし述べる凛の表情に浮かんでいるものが睨み顰めるといった咎める態度のそれでなく、半目で唇を吊り上げる揶揄う態度のそれであったので、私は安心して同じ口調で言葉を返すこととした。

 

「そうとも。帰ってくる頃には紅と白粉と香水の匂いに塗れているだろうから、―――そうだな。ライドウと一緒に銀座の百貨店にでも行って、樟脳とブラシでも用意しておいてくれ」

「ん―――?」

 

凛は一瞬唇を窄めて眉を顰め、目線を上にやると、すぐさま納得の表情を浮かべて頷いた。

 

「―――マスターに雑用を頼むとはいい度胸してるじゃない」

「英霊を茶坊主、小間使いと呼んだ君ほどではないさ」

 

互いにニヤリと笑い合う。阿吽の呼吸というものは、成功するとなんとも気分が良くなる。そうして私たち独特の親愛表現をすませると、凛は頬を緩めて笑みを浮かべると、鼻を鳴らして口を開いた。

 

「いいわ。それくらい用意しといてあげる。お望み通り、晴海町から銀座の方面で情報を仕入れるついでにね。調査の範囲が広いから護衛と手伝いにあの二人を借りてくわよ」

「感謝する」

「で! も! 条件があるわ! 」

 

凛は、一語一語を力強く区切ってみせると、指をこちらへと突きつけて、告げた。

 

「代わりに、あいつの企みをかんっぜんに暴いてやってちょうだい」

 

彼女は、憤慨といっていいほどの感情がこもった力強い言葉で、言い放つ。負けん気強い凛は、色々と因縁ある言峰綺礼という男にしてやられ、後手に回っている今の状況が相当気にくわない様子だった。

 

―――その気持ちはよくわかる

 

自分だって、あの腐れ外道の顔が愉悦に染まっているのを想像するだけで、反吐が出そうになる。奴の企みをつぶせるというのなら、私はどんな苦労でも厭わずやって見せよう。

 

「勿論だ。私としてもあの男が裏でコソコソ暗躍しているうちは、枕を高くして眠れないからな」

「よろしい」

 

奴に対して悪態つくと、凛は私の確かな同意の返事が気に入ったらしく、不遜に頷いた。それに対して私は苦笑に鼻を鳴らす。やがて私たちは、笑みを浮かべあったまま、自然と軽く拳を付き合わせ、互いの健闘を祈りあった。

 

「では行ってくる」

「ええ。気をつけてね、アーチャー」

「君もな」

 

そうして踵を返し、部屋の入り口へと向かう。最中、ふと心配が頭をよぎったので、少しばかり躊躇したが、体を再度反転させると、思いの丈をそのまま告げることとした。

 

「凛」

「なによ」

「いっても無駄かもしれんが、一応言っておこう。何かあったら、すぐにシンと響と共に逃げたまえ。ほかの誰かよりも君の安全の方が大切だからな」

「―――」

 

多少我儘かもしれないが、こうでも言わないと彼女はきっと無茶をする。それはかつて彼女のパートナーであった私が誰より知っていた。告げると凛は呆然とした顔を浮かべてこちらをまじまじとした。さて、変なことを言ったかと思ったが、思い返せば、愛の告白じみたセリフだったかもしれないと気恥ずかしくなって、踵を返して、ドアノブに手をかけた。

 

「アーチャー」

「―――何かね、凛」

 

しかしそうして恥ずかしいと言う感情のままに立ち去ることを彼女は許容してくれなかった。彼女が私の名を呼ぶ声は、尻上がりで、涙声に満ちていたからだ。

 

「……、おめでとう」

「―――ああ。ありがとう」

 

凛は白い肌を震わせて、翡翠色をした瞳から透明な涙を流している。暖かくて、そして尊い。昨日掃除をして埃を払ったばかりの部屋には、まだ微かに銀のかけらが残っていて、太陽の光を浴びてキラキラと部屋を赤く照らして輝いている。明けの光を浴びて、凛という女性は、まるでようやく独り立ちした子を見守るような慕情に満ちた瞳を私へと向けていた。

 

凛の瞳からはハラハラととめどなく涙がこぼれ落ち続けている。その一雫にどれだけの想いが込められているかは、つい先ほど我が身にこびりついた鉄錆を余さず落としたばかりの全身から嫌という程伝わってきた。伝わらないでか。彼女がそれほどの想いを向ける対象は私で、熱を生んだのは私に対する彼女の好意なのだ。これを気付かない方がどうかしている。涙には彼女自身の生涯が報われたことに対する喜びというものが、これっぽっちもなかった。彼女はただ、私という存在が、私自身を救えたことを知り、ただただ、心底喜んでいるのだ。その何と尊いことか!

 

彼女は己の夫の身体と自身、そして両者の余生を犠牲にしたにもかかわらず、ただただ、私の救済だけを喜んでいる。年を得て、子を持ち、そして母性を得た彼女は、そして若さを取り戻した凛は、真摯で、そして美しかった。四分の一入っているドイツの血がなせる技なのか、西洋絵画の完璧な美が、漂う埃によって光の中にぼやけ、周囲の日本の調度家具と空間との間にできた空間と調和している。まるでモネの描くカミーユが、ラトゥールの炎に照らし出されているようだ。

 

その涙が私のためだけに流された物だと思うと胸にくるものがある。思わず美術品のような彼女に手が伸びて、しかし、途中でその浅ましさに気がついた私は、どこかから警備員の如き注意が飛んでくる前に、慌てて向けた手を引っ込めた。恥ずかしさで全身が熱を帯びる。上気した頬の蜃気楼の先には、そんな醜態すらも、得難いものとして喜びに変換している凛の姿が写っている。情動を取り戻した私を、彼女は心底喜んでいた。それがまた胸を衝く。なるほど、想い焦がれるとはよく言ったものだ。この身から生まれた熱はたしかに私を包み込み、そして炎の中に身を投じたかのごとく、焦がしている。

 

熱はやがて肺腑の酸素すら燃やし尽くして、一呼吸する事すら難しくしていた。浅い呼吸が口から漏れる。やがて純粋なる歓喜の炎は精神を昂らせてゆく。熱に茹だった脳は、歓喜を情欲のような不純炎へと変化させていくのを感じた。涙を流す彼女を見て、そして心底喜びを得た私は、しかしそして全身が彼女を求めてしまう前に、逃げるようにしてドアを開けて外へと出る。ドアを閉めると、限界だったのだろう、向こうからは啜り泣きと、嗚咽の声が聞こえてきた。

 

成長し、変化した気丈な彼女はそれでも私に醜態を晒すまいと気を張っていたのだ。その変わらぬ態度すら愛おしくて、もう一度扉を開けてしまいそうになるのを必死でこらえて、他の人間の目がないことを確認して、一息吐いた。

 

熱が体の外へと逃げて行く。規則正しく吐く息は、扉の向こう側で不規則に聞こえてくる彼女のそれ交わることはない。当然だ。私は彼女の伴侶でなく、彼女の騎士なのだ。そして彼女が愛しているのは、今の私ではなく、過去の私なのだ。彼女が私に向けるのは好意であって、愛ではない。手を出すなんて不埒なこと、できるはずもないだろう。

 

その事実にじくりと胸が痛む。痛みは“英霊エミヤが取り戻した幼さ”の発露なのか、あるいは、この元の体となった“凛の夫の衛宮士郎”が発した怒りなのか。わからないが、やがて痛みに耐えていた私が、今まで活用し続けきた理性を総動員して痛みの発散とともに溢れる涙を抑え終えた頃、冷静さを取り戻した頭の中、理性が、扉の前で彼女の泣き止むのを待って部屋に入り、皮肉の一つでも言ったらどうかと告げてくる。自らの頬を叩いて意地の悪いことをほざく理性を感情でとっちめると、それでも扉の向こう側から音が聞こえるのを耳にして扉をあけたい衝動に駆られたが、今度はいつものように理性で感情を抑え込むと、私は静かにその場を立ち去った。

 

あのまま再び部屋に突入して、そして二人でいたら、やがて私は再び昂ぶった感情のまま涙を流し、ただ二人揃って子供のように泣き続ける羽目になると直感したからだ。そうして変な意味でなく、互いに溢れる情を露わにし合うのも悪くないと思ったが、悪くはないとは思ったのだが、その後、いい年した男女が朝から二人揃って気恥ずかしく目を逸らして顔を合わせられないなんて体たらく、ほかの人間に見られたら、それこそ取り戻した情動が認知し銘記する瑞々しいまでの恥ずかしいという感情で、私は憤死してしまう自信があったゆえの勇気ある撤退だったと思いたい。

 

 

千寿区の一角には周囲を水のお堀に囲まれた区画がある。掘りはお歯黒堀りと呼ばれるもので、その区画から遊女が脱走するのを防ぐためのものだ。私と鳴海はその区画唯一の出入り口である大黒門を潜ると、張見世をいくつか通り抜けて、江戸から続くという歴史ある遊郭『補陀落』へと向かった。

 

さて、遊郭の集まる場所、すなわち水商売の人間が集まる場所というと、いかにも小汚い格好をした人間が街を行き交い、路地や整備の行き届いていない汚い場所を想像するかもしれないが、ここは日の本の国。かつて来訪した白人たちが最も清潔な街として驚いたという経歴を持つ江戸の流れを組む帝都は、そんなかつての時代を思わせるかのごとく、整然さを保っていた。

 

呼吸をすれば、化粧の匂いが鼻をつく。反射して鼻腔がマヒしたかのような感覚を覚えた。周囲に漂う空気を払ってあたりを見渡せば、往来を行き交う人々は上から下まできちんとした身なりで、汚れた服装のものも見当たらない。ショーウインドウのマネキンよろしく、張見世で女性が佇む姿さえなければ、遊郭街は普通の街と何一つ変わらない場所だった。

 

「そういやさ」

「ん? 」

「エミヤは遊郭の経験あるのか?」

「……」

 

そうして周囲の様子を観察していると、やがて往来の女性に手を振っていた鳴海はとんでもないことを聞いてきた。思わず絶句して鳴海の顔を見る。鳴海の顔には悪気というものが一切存在せず、これが彼にとっては、日常会話の延長線上である事をありありと告げていた。

 

どうやら鳴海の辞書に載っているデリカシーと言葉は私のそれと違うらしい。なんとも聞きにくいような事をズバリと聞いてくる男だ。

 

―――遊郭は、わたしのいきていた時代の頃にはとっくに無くなっていた、そこにいる女性との擬似恋愛を楽しむ場所だ。故に、この時代に来るまでそもそも接点がなかった。一応、今日昨日で行こうと思えば行けないこともなかったが、惚れた女の元に数度も訪ねる粋を見せなければ体を重ねる事ができない場所に足しげに通う時間的余裕もなければ、通いたいと思う程、私は色狂いではない。

 

「……、いや」

「ほーん、じゃあ初心者ってわけだ」

「―――そうだな」

「―――、っとついだぜ」

 

彼にとっては日常会話の一つだったのだろうか、やがて目的の建物を見つけた鳴海は、一つの遊郭を指差した。張見世を通り抜けて辿り着いた店の入り口には、『補陀落』の屋号が記された四角提灯が天井から吊り下げられていた。鳴海はそのまま迷いなく入り口前の暖簾を潜ると、辺りを見回して、一人の着物を着た年配の女性に声をかける。

 

「ごめんください。補陀落の遣手の方とお見受けいたしましたが」

「はい。―――失礼ですが、どちら様でしょうか? 」

「私、鳴海探偵事務所の所長、鳴海昌平と申します。琴水さんにお会いする事は出来ますか?」

 

琴水。その名が出た途端、年配の女性の媚びを売るような目線は一気に鋭くなった。伸ばした背筋は一層張り詰めたものとなり、体の前で組んでいる手に力が入ったのがわかる。態度からはこちらを探る疑念の様子がありありと見て取れた。

 

「琴水ならば、先ほど警察の事情聴取を終えたばかりでして……、探偵さんと仰られましたが、それは警察の方からのご依頼を受けてのことでしょうか? 」

「いえ。ですが、遊女の神隠しについてお尋ねしたいことがございまして参上致しました」

「……、でしたら―――」

 

言葉を聞いて一旦拒否の姿勢を見せた年配の遣手の女性に、鳴海は素早く自身の名刺を差し出す。手慣れた様子だ。こうして拒否されるのも予想済みだった、ということか。私は鳴海の探偵としての手並みを拝見し、彼の探偵としての評価を上方修正する。

 

「おっと、ですが、公的な機関からの依頼での調査です。ぜひご協力願いたい」

「はぁ―――」

 

遣手はそしてその名刺の中央を眺めたのち、端に視線をやった。遠慮のない、そして疑り深い懸念の視線で眺めていた彼女は、やがて左下の隅を見た途端、素早く背を正して、深々と頭を下げた。あまりの急変さに少しばかり驚く。

 

「―――これは失礼しました。ヤタガラスの関係者の方でしたか」

「やはりご存知でしたか」

「どうぞこちらに」

 

遣手は体の前で組んでいた手を解くと、一転して歓迎の姿勢を見せ、鳴海と私を招き入れる所作をする。鳴海は帽子をダービーハットを胸に当てたまま軽く頭を下げると、簡単に感謝の意を示した。

 

「―――どうした、エミヤ」

 

店内の暖簾の前で遣手の女性の急激な変貌に戸惑っていると、鳴海が声をかけてくる。

 

「いや―――、頑なな彼女が急激に態度を変えたので、何をしたのかと思ってね」

「ああ、ほら、これ」

 

鳴海はそう言って先ほど女性へと差し出した名刺を私の前に突き出した。それを受け取り表面を見ると、中央にはでかでかと「鳴海探偵事務所 所長 鳴海昌平」と刻まれ、住所や電話番号、そして見覚えのある紋様が刻まれていた。

 

「ほれここ」

 

そして鳴海は、その、見覚えのある紋様を指差す。真円の陰陽のマークの中、開いた目と閉じた目が刻まれた独特の紋様は、何を隠そう、ヤタガラスの紋様である。

 

「本来なら管警の人間や軍関係者しか知らないんだけど、年配の人や、一部悪魔の事件と関わった事のある人間は、これがヤタガラスの紋様だということを知っている。ついでに言うと、前者は帝都守護の任務に関係あるやつくらいの認識程度しかないけど、後者は悪魔という存在について知っているから、この紋様を見ればたちまち協力的になってくれる。―――なにせ事件が、警察官なんていう真っ当な手段じゃ解決できないことを、身に染みて知っているからな」

 

「身に染みて知っている」。鳴海が最後に付け加えたその言葉には、なんとも自責と実感の念がこもっていた。私は鳴海に同情した。その声色の含まれている自らの無力さを嘆く想いは、私が生前、自らの力及ばず助けられなかった人々を前にして、嫌という程味わったことのあるものだったからだ。

 

おそらく、彼も、ライドウという若く才のある悪魔召喚師の側にいながら、自らに霊能が無い事で同じような想いを抱くに至ったのだろう。

 

「―――なるほど」

「さ、納得したら、さっさと店に入ろうぜ。琴水ちゃんを待たせるのも、遣り手の彼女を待たせるのも悪い。早く事件の手がかりを掴んで、ライドウに知らせてやろう」

 

そして鳴海は私の声に反応すると顔をしかめ、しまったという表情を浮かべた。しかしすぐに顔の上にわざとらしいくらいにやけた笑顔を貼り付けると、ダービーハットを持ったままドタドタと土間へ進み、器用に履物を脱いだ。気を遣わせまいとしたのだろう。見かけや評判の軽薄さによらず、気の配れる男だ。

 

「了解だ」

 

鳴海は靴を脱いで木の靴箱の中に入れる。感心した私は、彼に習い、同じように気にしないふりをして、黒塗りの靴を脱ぐと彼の隣の箱に収納した。

 

 

「琴水はあの事件で母親を失ってからというもの頭角を表し、あれよあれよという間に当時の一番花魁の時雨を抜いて、この店で一番の売れっ子花魁になりました」

 

先導してくれる遣手について、西洋装飾のなされた取手の階段を上る。鳴海曰く、この補陀落という歴史の古い遊郭は江戸時代の風情を感じさせため、当時の趣を残した造りをしているとのことらしく、見渡して見れば、たしかに壁や天井は西洋の頑丈な構造になっているが、床は年季の入った木材で整えられており、壁を見れば、部屋の扉は障子で出来ている。

 

「ええ、お噂はかねがね聞いております。なんでも、売れっ子スタァすぎて、彼女の身の回りの世話をする新造が何人いても足りないとか」

「はい。ですから、彼女には今、五人の新造が付いています。今日は事情を聞きたいとの要請を受けて警察署に行く予定でしたから全ての客を断りましたので店にいますが、本来なら今日も―――」

「流石は深川の大夫、松浪の娘さん、というわけですか。人気者ですなぁ」

「よくご存知で」

 

話についていけないので周りを観察していると、通りすがりに着飾った遊女たちがひらひらと手を振ってくる。白粉塗りたくっているので細かくは分からないが、見た目まだ二十にも達していない、若そうな女性が遊郭にいるという身の上が気になった。憐れむのは筋違いだろうが、かといって、そうとも割り切れないのが、我ながらなんとも甘く女々しい。

 

「琴水は以前の事件の記憶を失っております。ですから―――」

「ええ。よく存じております。ですから、必要以上に無用な詮索は行わないつもりです」

 

鳴海の言葉を聞いた遣手の女は肩の力を抜いて溜息をつくと、やがてある部屋の立ち止まると、ピタリと足を止めて、振り向いた。

 

「こちらが琴水の部屋です。―――琴水さん、いますか?」

「―――どうぞ」

 

入室許可を得ると、遣手は障子を開けて中へと足を踏み入れる。途端、風に乗って鼻腔に畳と白粉の匂いが広がった。するりと脳髄に入り込んできたい草の匂いが記憶を刺激。電気信号が伝達物質を伝わって側頭部の島皮質を刺激。微かに線香の香りも混じっている。仏壇と多少不純物が混じっているとはいえ、かつて武家屋敷に住んでいた私は懐かしさを覚えて、少しばかり雰囲気に浸った。

 

―――っと、いかん

 

一呼吸で気を取り直し、改めて部屋を見回すと、部屋は八畳と六畳の通し部屋だった。部屋の隅には、鏡の乗っかった小道具箱や真新しい洋燈が置かれており、床の間には花が活けてあり、壁の掛け軸の中では枯れ木にモズが踊っていた。モズの真剣な眼光は獲物を狙っている。もちろん贋作ではあるが、宮本武蔵とはまた、遊女のイメージに合わない。

 

「―――私なりの決意の証です。私はこの場で責任を果たすと決めたのです」

 

さて、この部屋の主人であり、高い教養を持つはずの一番花魁でもある琴水という女性が、なんの意図もなくそんな絵を飾るわけもないし、どんな考えのもとこの絵を置いたのだろうか、などと考えていると、凛と通った声が疑問を解消してくれた。声は大きいわけではないが、よく空間に響く、重い意志のこもったものだった。

 

「琴水さん、こちらは―――」

 

遣手が声の主人の名を呼ぶ。すると、部屋の奥、窓際の天空回廊の際から細身の女性の名が現れた。振り向いた彼女は結った髪と髪飾りこそ華美であるものの、少女と女性の中間位のまだ少女としての幼さが残ったような儚げな体躯をしていた。

 

「お一方は存じあげております。―――ご無沙汰しております、鳴海さん」

 

窓際にいた彼女はゆっくりと両手のひら全体を床について、深々と頭を下げた。その動作は洗練されており、結ってある髪に刺された櫛と簪はまるで揺れない。行儀がよく、礼儀作法を知っており、品もある。なるほど、一番である理由が一目で理解できる態度に、思わず感心して、ほぅ、と言葉を漏らした。

 

「やぁ、琴水ちゃん! 久しぶり! ずいぶん出世したね! 」

 

琴水の言葉に気を良くした様子の鳴海が大げさな身振りで声をかけると、面をあげた事で彼女の全身像が露わになった。彼女が面をゆっくりとあげるとその品のいい顔には、細い体とまだ幼さ残る面に見合わない、芯の通った、しかしどこか壊れてしまいそうな、矛盾した美しさがあった。

 

「ええ。おかげさまで」

 

そういって彼女は儚げに微笑み、そしておそらく無意識にだろう、しなを作った。そうして女性らしいラインを強調する彼女からは、花魁、といった華やかさや、粋、といった強い言葉からはかけ離れた、嫋やかな雰囲気が生まれた。その場にいるだけで周囲の空間の色合いを鮮やかする仕草と、色気ある空気。なるほど、恋を求めてやってくる好色な男たちが夢中になるわけだ、と勝手ながら判断する。

 

「こいつの名前はエミヤ。俺の探偵事務所のお手伝いだ。―――で、さ。早速で悪いんだけど、ちょっと聞きたいことがあるんだ。話、聞かせてもらってもいいかな? 」

 

 




この物語において。最初以外の場面でエミヤという男が取り戻した情動に基づいて感情を揺り動かされるのは、記憶を持ち、若い姿を持った、エミヤの記憶の中の凜と姿が一致した場合だけと決めていました。お陰でここまで引っ張ることになりましたが、エミヤの気持ちがかけてとても気分がいいです。

ご一読ありがとうございました。


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第五話 交錯する世界と事情

第五話 交錯する世界と事情

 

何故殺したかって? 太陽がまぶしかったからさ

 

アルベール・カミュ 『異邦人』より抜粋

 

 

初めてシンと出会った時、故郷を捨て、何も持っていないシンという男は嬉々とした感情に満ち溢れていました。初めてサガと出会った時、故郷を見限り、シンに性別を見破られたサガは俺を女として扱うなと怒りを発露させましていました。彼らと初めて出会った時、彼らはその感情以外にたいした物は何一つ持っていないにも関わらず、彼らはこのエトリアに生きる他の人々よりも生き生きとした様子でした。そうです。初めから仲間がいる、あるいは資産や元手、当てを持ってやってきたものと違い、家族や周囲の人間を捨てるような形でやってきた彼らは、しかし多くのものを抱えてやってきた他の人たちよりも、ずっとよほど生きた人間だと感じました。得るためには捨てなければならない。より多くを望むなら、より多くを捨てる覚悟をしなければならない。意識的にか、無意識的にか、彼らは私と異なり、それを知って実践している人間でした。

 

彼らはこの満たされたものばかりが住まうエトリアにとって異邦人である。そう感じた私は、こう提案しました。「ギルド名は『異邦人』というのでいかがでしょう」。案は一も二もなく賛成されました。今考えれば、彼らが気に入ってくれたのも、私のそんな直感も、あるいはギルガメッシュが言っていたように、無意識のうちに個人や集団に対してその性質に近しい名前をつけるという性質の発露だったのかもしれません。その後名が売れていくにつれ、ギルド『異邦人』に入団したいといってやってくる人は増えましたが、結局、私たちのギルドに定着したのは、あるいは、なにも持たないものばかりでした。

 

シンは得たものを平然と捨てられる、まさにエトリアにとっての『異邦人』であり続けました。彼は自らの力以上の存在のみを求め、それ以外の、名声も、金銭も、常識も、嫉妬も、羞恥も、思いつく限り全てのものを捨てることの出来る、まさに超越的な存在であり続けました。それは、シンがエミヤという得がたい存在を得るまで、常に捨てることを当たり前とし、そして望んだものを得て、『異邦人』でなくなった瞬間死んでしまったのです。

 

サガという女性は、常にシンやダリのような男としての力強さを求めていました。彼女はいつだって、望んだものが手に入らなかったのです。望まないものばかりが手に入る女性だったのです。彼女が持っている感情の機敏に聡いとか、情感豊かで人の事に気を遣えるといった長所は彼女にとって、価値のあるものではなく、そういった意味で、彼女は常に欲しいものを何も得られない、エトリアの『異邦人』でした。

 

ダリは自分という存在に失望しており、理屈のみで物事を考えるようになった人間でした。理屈のみで物事を考えるようになるという性質は、この、日々、悲しみや苦しみの感情が消えていく世界の中で、献身的で真面目な人格者ほど罹患してしまう病の如きものです。そうして他者への情深い感情がすぐ薄れることに、意識的に気付いてしまう彼らは、余りにまじめに自己をかえりみてしまうから、そうして他者への感情を失った事の責任のありかを自分自身に求め、やがて自身を卑下するようになってしまうのです。

 

それ故に自らは他人の気持ちがわからない人間だと思い込み、他人への関心をすぐに失ってしまう冷酷な人間だといっぺん思い込んでしまった心は、まるで自分は初めからそのような人間であったのだ勘違いするようになってしまったのです。ダリは他者からの信頼とか、誠実な人格とか、色々と価値あるものを持っているのに、それに価値があるものだと気付かなくなってしまったのです。ダリは長い滅私奉公の末、まさに“私”を失ってしまったのです。そうして失い続けていると勘違いしているダリは、その実、エトリアの中で多くの物を得続けているのにもかかわらず、まさに『異邦人』のメンバーに相応しい人間であり続けました。

 

響のご両親はハイラガードという居場所を失った人でしたが、響という人物が自分たちにとって大切な存在だと気付いたと語ったのち、すぐに死んでしまいました。その娘である響は、そうしてご両親を失って友人も知り合いも失ったばかりの人間でした。そして多くを失った彼女は、無意識のうちにでしょうが自身を捨てる決意をして、しかし、シンという男への好意を抱いてしまった彼女は、直後、シンを失い、私と同じ傷を得る事になりました。

 

エミヤはギルド『異邦人』のメンバーでありませんが、彼もおそらく私たちと同じような運命を背負っているのでしょう。“欲したものが絶対に手に入らない”。彼の願いは正義の味方になる事だと聞きましたが、おそらく彼はそれを手に入れるために、全てを捨ててきて、しかし手に入らなかったのだろうことが、今までの彼の無茶を重ねる姿勢と、それでも無茶を押し通す実力を持っているという事実から理解する事が出来ます。シンの蘇生というイベントがなければ、あるいは彼も、ギルド『異邦人』のメンバーとして活動していたという未来もあったのかもしれません。

 

―――私?

 

私はこのエトリアにやってきて、シンという“男”と出会ったその時から、決して私の望むものは手に入らない事を理解し続けています。明かせば彼は理解し、受け入れてくれたかもしれません。理解して、受け入れずとも、そばにいる事を許容してくれたかもしれません。けれど私はそれを心底望みつつも、そうする事で、もし万が一、シンという男がこの『異邦人』というギルドを見限って、解散するような事態になった場合、私は私の全てを許せなくなるだろう事を知っていました。汝自身を知れ。私は、私自身の事をよく知っていたのです。だから、私の小さな望みは叶い続けるだろうけれど、私の大望は絶対に叶わない事を知っていました。そういった意味で、私はエトリアにとって『異邦人』でありながら、『異邦人』から最も遠い、中途半端な立ち位置にいたのです。私はある意味で、最もこのギルドに『相応しくない』人間でした。

 

―――我々はギルド『異邦人』

 

エトリアから歓迎されていない、この名前が支配する世界において決して歓迎されることのない、『得るために捨てる』事を強要される人間の集まり。自らの望んだものが決して得られない事を運命付けられた、世界の捨て子。

 

 

「―――彼女は?」

「糸を使って無理やり拘束。その後、施薬院に放り込んできました―――あのままだと街に被害が出ていたかもしれませんからね」

「そうですか……、ご苦労様です」

「いえいえ」

 

目の前では衛兵の纏う様なフルプレートアーマーで頭部以外の全身を武装したクーマが重苦しいため息を吐きました。相当疲れているのでしょう、返ってくる言葉には、覇気と言うものがありません。

 

「シリカさんもありがとうございます。あの場にいてくださって本当に助かりました。申し訳ありませんね。顕現して早々にお手数おかけすることとなって」

「あはは、まぁ、僕は別にたいした事はしてないよ。道具を使っただけだからね」

 

そう言ってクーマに謙虚な言葉を、しかし快活に言ってのけるのは、シリカという女性です。何を隠そう、彼女はあの三竜から剥ぎ取った体の一部が店頭に飾ってあり、伝説の迷宮攻略者「シグムント」率いる「スレイプニル」が頼りにしたという事でこのエトリアにおいて最も有名な道具屋「シリカ商店」の、数十世代前の女店主当人なのです。

 

見るからに育った女性らしい体躯を持つ彼女は、大きな胸に一枚布を巻きつけ、腰には度のきついハイレグの布を巻きつけただけと言うブシドーやダークハンターの女性ですら真っ青の格好で、褐色の肌の多くの部分を晒しています。多分なんらかの部族的意味があるのだろう事は、褐色の肌に施されたボディペイントや腕輪、爪と勾玉の首飾りから分かるのですが、それ以上の事は分かりません。

 

エトリアの出身のようには見えません。見た感じ、海洋王国のアーモロードあたりの出身なのでしょうか? あるいは、ここより南の地区の出身なのかもしれませんね。

 

「いえいえ、工房の本職の方が使うのと、私が使うのでは効果の出方に天と地の差がありますからね。助かりました。さすがは伝説のシリカ商店の女店主だ」

「あはは、いや、照れちゃうな。とは言っても僕は今職業プリンセスだから、本当にねぇ……。その後面倒見てるのはフォーリャとグロリアとキタザキ先生だし……、うーん、でもまさか、こんな時代まで私名前がそのまま商店の名前として使われてるとは思ってなかったなぁ」

 

彼女は呆れたよな、嬉しい様な、なんとも表現しがたい表情を浮かべています。

 

「大抵、受け継いだ店って言うものは、自分の代になったら自分の名前を変えますからねぇ」

「だよねぇ……。あ、クーマ。サクヤさんから伝言。予定通り、オルレスがレンとツクスル、ガンリュウを率いて陣頭指揮をとって街を見回ってくれてる。自分はこのままアレイやローザと一緒に、エトリアに残った冒険者達の援護に回るって。オースティンは一旦戻ってダリとか言う人が、ヴァルハラを探してくるって」

 

しかしまぁ、凄まじいことになっていますね。サクヤという女性は迷宮攻略をした伝説のギルド「スレイプニル」の面倒を見たと言われている金鹿の酒場の女店主ですし、オルレスはエトリア初代院長のヴィズルの後釜として院長になった元執政院補佐官ですし、レンとツクスルはヴィズルやオルレスの懐刀と呼ばれたブシドーやカースメーカー。

 

アレイはギルド「スレイプニル」が懇意にしていた宿屋「長鳴鳥の宿屋」のホテルボーイで、オースティンやローザは、ギルドが拠点としていたギルドハウスの世話役の人です。どの名前も、エトリアでは知らない人がいないだろう有名人。まさに、お祭り騒ぎというやつです。

 

「はい。承知しました」

「じゃあ私も戻るね! 」

「はい。ありがとうございました」

 

クーマの礼を満面の笑顔で受け取ると、シリカは頭を下げ、勢いよく執務室の扉をあけて飛び出して行きました。なんとも行動力の塊の様な女性です。たしかにあれくらい積極的かつ有効的なら、「シリカ商店」という名前をなくすのを惜しんで、その後の店主達やエトリアの住民達が長く名を受け継がせてきたというのにも納得できます。

 

 

「邪魔をするぞ」

「―――これはこれは、ヴィズル殿」

 

開きっぱなしの扉から執政院の院長室へとやってきたのは、これまたエトリアでは伝説の人物、執政院初代院長のヴィズルです。大柄な体躯に軍人が着る様なダブルのコートを着込み、厳つい鉄の肩当てを纏う姿には、老獪な迫力があります。

 

「ああ、失礼しました」

 

そのまま部屋に入ってきたヴィズルが部屋の中央までやってきたあたりで、クーマは慌てて安楽椅子から腰を浮かして、ヴィズルを椅子へと導こうとします。しかし、ヴィズルは首をゆっくりと左右に振り、クーマの誘いを断りました。

 

「わざわざ腰を浮かさなくていい。今のエトリアの代表者クーマ、君なのだ」

「は、はぁ。ですが」

「そうよ。私達みたいな半死人にいちいち気を使う必要はないわ」

「―――フレドリカさん」

 

そうして困惑したクーマに諭す様な口調で指示を飛ばしたのは、部屋の入り口にいつの間にやら立っていた、金の髪が見目に麗しい少女です。シャツの上に青色のエプロンドレスを纏い、すっきりとした青白配色の彼女は、腰にかけた銃のホルスターからも分かる様にガンナーであり、今まで出てきた登場人物達の中においても飛び抜けて有名な、伝説の迷宮攻略ギルド「スレイプニル」の一人です。

 

「はい。あなたがいうのでしたら、そうしましょう」

 

彼女のことを目にした途端、クーマは今まで以上に目を輝かせて、浮かせかけた腰を下ろしました。クーマのあまりに素直な態度に、部屋の中、ヴィズルの近くまでやってきていたフレドリカは少しばかり腰の引けた様子で、訝しげな視線をクーマへと向けています。

 

「なんか、あんたからはハイラガードにいた天然のウェイトレスと同じ匂いがするわ」

「ハイラガードのウェイトレスというと、あちらで伝説のギルドのアリアンナさんですね! たしか、貴女の取材紙にその名も乗っていましたとも! 」

 

そうしてどう見てもうんざりとした意味合いを持つ視線を言葉とともに向けられたクーマは、しかし、目を輝かせて机の上に置かれていた本を開くと、パラパラとめくってあるページを開き、鼻息を荒げながら、フレドリカに近づき、そのページを広げて彼女の前に差し出しました。

 

「ほら、ここに乗ってます! レジィナの店でジェラートを食べてる時に出会ったと!」

「いやぁ、クーマが英雄オタクとは知りませんでしたねぇ」

「そう、オタク。フレドリカ! 貴方は料理オタクでもあって、毎日店に通った挙句、アリアンナにジェラートの起源について力強く語ったんですよね!」

 

茶化す様にいってもクーマはまるきり無視して、むしろ私の語句を利用したクーマは、目を輝かせながら、本の記述について追加の情報を述べました。クーマは伝説の存在を目の前にして完全に暴走気味でした。

 

「うぅ……、調子に乗って記者の人にペラペラと喋らなきゃよかった……」

「あら、ハイランドに行く最中、一旦あたしらが図書館に寄ってる隙にそんな楽しそうな事してたの、貴女」

「ラクーナ」

 

クーマの勢いに気圧され、後悔の様子で落ち込んだフレドリカは、やってきた赤毛の女性に声を呼ばれて、フレドリカは振り向きます。ラクーナ。彼女もまた、ギルド「スレイプニル」のメンバーです。フレドリカよりも頭一つくらい大きな彼女は、ブレストアーマーとクロースアーマーの上に白い布を纏った、パラディンの女性です。

 

「しかし、毎日とは、暴食ねぇ、リッキィ」

「し、仕方ないじゃない! 雪に足を取られてハイランドに行けなかったんだから! 」

 

セミロングの髪を靡かせながら、部屋の中央、フレドリカの隣までやった彼女は、女性らしい、悪意のこもっていない意地の悪そうな顔からは、彼女の姉御肌な性格が伺えます。

 

「まぁ、あの女店主殿の料理は美味しいからな。気持ちはわかる」

「食い意地はってるからな、リッキィは。その割に胸も背も全然成長しないけど」

「そうよね、サイモン。―――アーサーは後で殺すわ」

 

遅れてサイモンとアーサー、これまた伝説のギルドのお二人がやってきました。青い服に白衣をまとった背の高いメディックのサイモンと、上半身に赤い服を着用した腕に独特の籠手を装着する背の低いアルケミストのアーサーは、見た目の対照性もさることながら、なんとも対象的な大人びた性格と子供っぽい性格をしていました。

 

「なんだよ、ほんとのことだろ! 」

「―――わかったわ、アーサー。今すぐ死にたいのね? 」

「お、やるってか、リッキィ! 」

 

少年の安い挑発に乗った少女は、一瞬でその場から消え去ります。その見た目とは反して凄まじい初速度にて入り口のアーサーに迫ったフレドリカは、しかし、その背後にいたラクーナの両腕によって捕縛され、空中に浮かされてしまいます。

 

「やめなさい、リッキィ。アーサー、あんたも年頃の女の子になんてこというの! 」

「年頃っていうんなら、もうちょっと出るとこ出っ張ってるもんだけどなー」

「―――フシャー!」

 

そうしてアーサーに身体的特徴を馬鹿にされたフレドリカは、顔に凶暴な暴れ野牛の様な顔を浮かべると、猫の様な叫び声をあげて、ラクーナの腕の中で暴れまわります。体格差や職業による筋力補正差もあってでしょう、ラクーナはまだフレドリカの事を捕縛できていますがあの暴れ様では、いつフレドリカが戒めから抜け出すかわかったものではありません。

 

「ちょ、ちょっとアーサー! 余計なこと言わない! 」

「ラクーナまで! 」

「ああ、違うのよ、リッキィ! 今のは決してそういう意味じゃ……! 」

「―――殺す。全員殺す! 」

「あ、ちょ、リッキィ! 」

 

暴走したフレドリカは物騒なセリフとともに、するりとラクーナの戒めから逃れると、迷わずアーサーの方へと突撃していきます。それはブシドーの頂点、シンですら凌駕しそうなほどの凄まじい初速度でした。

 

「アーサー! 」

「う、うぇ! 」

「殺す! 」

「物騒だな、リッキィ」

 

そう言ってアーサーの前まで瞬時に移動して、移動の最中に振り上げていた拳を受け止めたのは、緑の鎧の上に独特のタータンをまとった、朴訥な雰囲気の青年でした。一見すると、独特な前髪をあげてコーンロウ風の髪型をしている以外にこれといって特徴のない彼は、しかし何を隠そう―――

 

「シギー! 」

「助かったぜ、シギー! 」

 

この場に集結したギルド「スレイプニル」のリーダー。ハイランダーの「シグムント」なのです。シギーというのは、おそらく愛称なのでしょう。彼の登場により、剣呑さが支配しかけた場は、一気に安穏なものへと変わりました。うーん、流石、強者はいるだけでその場を安定させるものなのですねぇ。

 

「扉の向こう、廊下にまで騒ぎは聞こえてきたぞ。アーサーは言い過ぎ。リッキィも、怒るのはわかるが、物騒すぎだ」

「う……」

「だって……」

「ほら、二人とも謝る」

 

そうして険悪なムードを発散させたシグムントは、二人に謝罪を促します。まるで保護者の様です、というと、今度は矛先が私に向けられるのが分かっていたので、私はあえて何も言いませんでした。

 

「悪かったよリッキィ。揶揄い過ぎた」

「いいのよ、アーサー。私もちょっと言い過ぎたわ……、でも」

「あ」

 

フレドリカはシグムントの腕から素早く逃れると、同じくらいの背丈のアーサーの頭を思い切り小突きました。

 

「ってぇ! 」

「これくらいは許容範囲よね。乙女心を傷つけた罰よ」

 

なかなかの威力であることがアーサーの痛がりようから察することができます。最強と名高いハイランダーでも制止のすることが不可能な見事な反射速度は、その気になれば、一息の間に二度の行動が可能な、優秀なガンナー特有のものでしょう。いやぁ、シンがいたら喜んだ様子が見れただろうに、残念です。

 

「うぅ、謝ったのに……」

「ね、シギ―!」

「あ、ああ、そうだな」

「サイモン、キュアをくれぇ」

「歩いていればそのうち治る。罰だと思って我慢しろ」

「そ、そんなぁ」

「自業自得よ、アーサー」

自分の所業でコブすら出来たような様子のアーサーを前に、しかしシグムントの彼に向けられた笑みは満面のものでしたが、その可愛らしい笑みに対してハイランダーの彼は少しばかり引いた様子であとずさりました。

 

一方、アーサーはコブのできたらしき頭をメディックであるサイモンの方に差し出すも、サイモンは眼鏡を光らせてバッサリと回復の要望を切り捨てました。肩を落とすアーサーに後にはラグーナの追い討ちが続きます。

 

なるほど、彼らの関係性というものが見えてくる感じがしますね。例えるなら、背の高いシグムント、ラグーナ、サイモンが兄姉役で、アーサーとフレドリカが弟妹。その上で、フレドリカは年上のシグムントに憧れというか、懸想している、と言ったところでしょうか。

 

「死人の分際で王の行く道を妨げるとは不敬であるぞ。退け、雑種」

「ああ、すまない、ギルガメッシュ」

 

やがて入り口で固まっているハイランダー達を命令口調で部屋の中へと退かすと、黒の服を上下に纏ったギルガメッシュは、布に包まれた剣を持ってズカズカと遠慮のない足取りでズカズカと部屋の奥へと進むと、クーマの安楽椅子にまるで遠慮なく腰掛け、「安物か」と舌打ちをしました。

 

その傲岸不遜な態度にも呆気を取られてか、誰も彼の所業に文句をつけるものはいませんでした。いやぁ、他人を見下す無礼さもここ極まっていて、その上、顔や身体つきの造形が整っている彼が行うと、まるで自然であるかの様に思えてくるのですから、不思議なものですねぇ。

 

「―――役者が揃ったか」

 

やがて足を前の机の上に投げ出し、腕を組んだギルガメッシュは私たちを一瞥して言葉を漏らしました。その一言に、弛緩していた空気が一気に締まったものへと切り替わりました。

 

「―――ギルガメッシュ。貴方の指示通り、指定のあった人を揃えました。……、そろそろ、この世界に何が起きているのか、教えてくれますね?」

 

先ほどまでだらし無い顔でハイランダー達のやり取りを眺めていたクーマは、一転して真剣な様子で、ギルガメッシュに問いかけます。ギルガメッシュはひどく億劫そうにクーマを見つめましたが、そうして鋭い視線を叩きつけられたクーマは、しかしまるで臆する様子なくギルガメッシュの手に握られている剣を指差して、口を開きます。

 

「ダリという男の尊い犠牲の元、手に入れた剣です。少なくとも、ピエールという彼には理由を知る権利があり、命じた貴方には王としての説明義務があるはずです。それに、何か考えがあったからこそ、貴方は個々に彼らを収集したのでしょう?」

「ふん……、バルドル、か。気に食わんが、奴の死は我が命により生じたもの。その命と引き換えにして王命を完遂した男の仲間には、礼をもって接しなければ、我が器の狭量さにも繋がる。たしかに貴様のいう通りだな、クーマ」

 

この場において、彼に話しかけて文句を言われないのは、彼の性格を良く知っているクーマのみ。クーマの言葉に眉を吊り上げたギルガメッシュは、周囲をもう一度見渡すと、やはり面倒くさいという思いを隠そうとしないまま、しかし鼻を鳴らすと、舌打ちとともに口を開きます。

 

「―――よかろう。では我直々に教授してやろう。今、この世界に何が起こっているかをな」

 

 

「全ての始まりはそこなヴィズルというこのエトリアという街の裏で長々と暗躍していた男が、世界樹の根元で身動きを封じられた状態で槍に刺され死んだのが原因よ」

「暗躍というと何やら物騒ですねぇ」

「―――」

 

ギルガメッシュは机の上に乗せた足の先を部屋の中央にいるヴィズルへと向けました。部屋の中にいる人間の視線がヴィズルへと集中します。私が茶化すように言ってもヴィズルはギルガメッシュの指摘に無反応のまま、鋭い眼光をギルガメッシュの方へと返し、ギルガメッシュの挑発する様な目線とぶつかりました。事態を理解しているもの同士が行う意図の探り合いです。

 

―――おや?

 

私も事情を知って入れば、彼らが何故硬直したまま動かないのか理解できたかもしれませんが、今まさにその事情を聞く立場の私ではそれを理解することができません。もちろん、クーマもそうです。しかし、そうして硬直したまま動かない二人に私とクーマが彼らへ向けたのは純粋に疑問の目でしましたが、ギルド「グレイプニル」の五人が二人に向けたのは、事態の進行を見守る視線でした。つまり彼らは、目の前で視線による静かな戦闘を繰り広げている二人と同様、事情を知っている証にほかなりません。

 

「―――言い訳をするつもりはない。その通りだ」

 

やがてヴィズルは静かに告げました。言葉は恐ろしく冷たく、感情というものが一切感じられません。もともと彼の言葉には感情というものがこもっていませんでしたが、今回のは、その中でも群を抜いて冷たく、だからこそ、真剣な葛藤の果てに絞り出された、真実の言葉であることが伺えます。

 

「―――エトリアはかつて林業で生計を立てている街だった」

 

ヴィズルは部屋の中によく通る声で、静かに語り出しました。

 

「世界樹の上に大地を作り上げた直後はそれでも十分やっていけていたのだが、月日が過ぎ、人が増えてくるとそうもいかない。物の単価を上げねばやっていけないが、物の単価を上げると売れなくなる。木材の値は適正値で、需要と供給の最も丁度良い価格だったのだ。やがて徐々に豊かさを失っていくエトリアを見かね、私は禁断の果実に手を出すこととした―――、世界樹の迷宮だ」

 

世界樹の迷宮。おそらくヴィズルが言っているのは、現在旧迷宮と呼ばれている方でしょう。

 

「元はといえば、世界樹に溜まる毒素を研究するための施設を守るための必要悪として、改造した動植物などの保管、繁殖、管理を名目にして造られたあの迷宮には、多くの富が眠っていた。水も、食料も、薬の素材も、生活を助ける鉱物も、そして、何より、未知という人の原動力となりうる、エトリアに足りないもの全てがそこにはあった。―――だから私は、あの悪魔の迷宮をほんの少しだけ利用するつもりで、最奥にフォレストセルという悪魔が封じられている『フォレストセル封印のための施設』を、『世界樹の迷宮』として解放した」

 

語るヴィズルの顔面は蒼白に変化していきます。元々の無表情さと相まって先ほどまでよりもよほど無機質な感じがするのに、しかしなんとも人間らしく感じるのは、それがヴィズルという人物が、一言、一言ごとに湧き出る罪悪感をなんとか押し殺しながら、それでも自らの罪を淡々と告白するという苦しみに耐え、苦しんでいるのが語り出される言葉から分かるためでしょう。おそらく彼はそうして長いこと耐えて生きてきたのです。

 

「ほんの少し。ほんの少しだけ。初めはエトリアを救う為だけにと解放した施設に、しかし人は予想以上に多く群がった。止めようとも考えたが……、だがそれにより、天秤が死の方へと傾きかけていたエトリアに活気を生み出し、活性化させ、エトリアは死にゆく街ではなく、生きようとする意志に満ち溢れた街へと変わっていったのだ。冒険者と呼ばれる無謀なものどもがやってくるようになり、商人が街へと積極的に訪れるようになり、彼らを泊める為の宿泊施設や、腹を膨らませるための食事施設も発展した。未知を求めてやってきた彼らは、エトリアという街を生き返らせたのだ。―――わたしはこれを保ちたいと思った。考え、エトリアに足りなかったのは、水や食料といった即物的なもの以前に、人の心を刺激する未知というものだと理解した。だから―――」

 

言葉を重ねるごとに多少演説風味、かつ、上擦りつつあった声のトーンが一気に下がり、落ち着いたものへと変化します。言いづらいことなのでしょう、口が数度ぱくつくだけで声は出てきません。無意識のうちに自らを傷つける言葉を拒む気持ちが、喉が喋ろうとする命令に叛逆したのです。ヴィズルは言葉を出そうとする長い間に乾いた唇を舌でなめ潤いを復活させると、一度目を閉じたのち見開き、唇を噛み締めたのち、大きく息を吸い込みました。

 

「わたしは、世界樹の迷宮を閉じた未知なる世界として保つ為に、一定以上の階層に進もうとする冒険者を殺すようになった。―――世界樹の迷宮は、この世界を保つ為、エトリアという街の発展を続ける為、完全解放するわけにはいかない。しかし、この街の発展には、冒険者という存在は必要不可欠だ。未知に対して貪欲な彼らがいるからこそ、エトリアは発展する。しかし、冒険者がやがて世界樹の迷宮の最下層に到達する自体は避けなければならない。だから私は、実力のある彼らが迷宮の四層に辿り着いた際、行くなと忠告し、しかし従わない彼らを殺すことで、世界樹の迷宮の未知性を保っていたのだ」

「―――」

「―――なんという……」

 

私は絶句しました。彼の言わんとしていることは理解できなくもありません。安寧とした環境で人間を放っておけば、増えるのは生物として当然の理です。そしてそうなった際、物資が足りなくなるのも、足りなくなった物資を調達しなければ人死にがやがて起こることも自明。

 

豊かさを覚えた人は貧しい環境に身を置かれること嫌います。そうして街の貧困化に伴い、街に暮らす人々の生活が一度困窮すれば、人の心は一気に荒んだ方向へと向いてしまいます。優れた統率者であるヴィズルという男は、それを嫌という程理解していて、だからこそ、エトリアという街が、せめて人間同士の争いというそんなくだらないものの為に、失われてしまうのを恐れたからこそ、彼はエトリアという街の為に、裏で暗躍することを選択したのです。

 

なんという覚悟。何という選択。彼はエトリアの繁栄を得るために、自らの大切にしていた誇りを捨てたのです。―――私は彼のことを責める気にはなれませんでした。いえ、それどころか、感動すら覚えていました。彼はいかなる犠牲をもってしても、自らの目的を達成しようと、決意した人間なのです。ああ、ヴィズルとは何と強い人間なのでしょうか。

 

「そう。そうしてオーディンの名を持つ男が、裏でこそこそと手を汚しだしたのが、第二幕、この世界の北欧神話概念の広域、浸透化の始まりよ」

 

ギルガメッシュは自らの罪を告白し、天井を静かに見上げるヴィズルを気にすることなく告げると、相変わらずの姿勢で語り出しました。

 

「そうしてオーディンの名を持つものが“強きもの“を選別して殺すという行為は、『決戦に向けてエインヘリヤルを搔き集めるオーディンの選別』という事象と重なり、積み重ねられることで、グラズヘイムという場所には、『エインヘリヤル』、つまり、英霊の魂が送られるようになった。それはグラズヘイムという場所にある人類の無意識下へと働きかけるシステムと、霊長の抑止力という人類の無意識が持つ英霊システムと組み合わさることによって、やがて月の基地というフォトニック純結晶体保管場所の塊の中に『英霊/エインヘリヤル』を格納する『英霊の座/ヴァルハラ』を作るという、新しい霊長の守護者のシステムを構築する事となったのだ」

「えっ……と」

 

ギルガメッシュの言葉の勢いには凄まじいものがありました。それは知恵者が知っていて当然の常識と思っている物事を語る際に見せるものです。その英霊だの英霊の座とだという言葉は彼にとって常識だからこそスラスラと出てきたのでしょうが、意味を知らない私からすれば、未知の言葉以外の何者でもなく、理解に苦しみました。

 

「要は、この世界でオーディン、つまりヴィズルに強者と認められた魂は、グラズヘイムという施設を通して全て月にあるヴァルハラに送られる、ということですか? 」

「そうだ。そしてやがて、ヴィズル/オーディンがフォレストセルというものに囚われ、樹木のそばで九日間後液体を浴びせられた後、ハイランダーの“伝承通り槍で刺殺され命を落とす”ことで、ヴィズルはよりオーディンとしての概念が強化され、やがてグラズヘイムというオーディンが魂の選定をする場所にヴィズルという男の魂が通過した際、奴は死後もヴァルハラに強者の魂を送る、まさに概念的存在として成り果てた―――最高神の名を持つものが、グングニルと名のつく兵器がある玉座に座り、魂の選定を行うという神話的伝承行為をなぞることで、世界樹というユグドラシルが存在し、もともと北欧神話と親和性の高かった世界は、いっそう北欧神話の概念に侵されやすい状態となった」

「以前から言っていた、この世界の人間の行為は自らにつけられた名の影響を受けやすい、という奴ですね」

「然り。―――だから、此度のような事態が起きる事となった」

 

ギルガメッシュは気怠げな態度で机の上に乗っけていた脚を下ろして、安楽椅子から立ち上がりました。見下す横柄な態度は相変わらずですが、その表情の真剣さは今までのそれと比べ物になりません。ここからが本番なのだ、と、私は理解しました。

 

「YHVHが召喚されたその瞬間、魔のモノ、すなわち無意識下において繋がっていた奴は全人類に絶叫し、死に絶えた。魔のモノの名は“クラリオン/明快なラッパの響き”、あるいは“クラリオン/明快な呼びかけ”。断末魔の叫びはYHVH降臨の為のラッパの音色であると同時に、すなわち、北欧神話的概念としての概念として捕らわれやすいこの世界においては、無意識下において神々の黄昏の時代にて戦端の幕開けを開く角笛の音色としても働いたのだ。無論、奏でる奏者がおらん上、もっと重要な北欧神話終焉の要素を欠いておったがために、音色はヴィーグリーズでの決戦に向けてヴァルハラの門を開けるという不十分な結果に留まったのだろうが―――、だがそれでも十分にこの世界が終焉に向けて動き出したことは間違いない。黄金時代で止まっていた針はYHVHの到来と共に動き出したのだ。事態の緊急性を悟った我は、貴様らに命じて―――、この剣を持って来させたのだ」

 

ギルガメッシュは言葉を切ると、手に握る剣をゆっくりと掲げました。持ってきた際に露わとなっていた刀身は今布に包まれており、そうして厳重に包まれたそれを、ギルガメッシュは慎重な面持ちで、刃に触れないよう気を使った動きで、机の上に置きました。

 

その慎重な扱いをみた私は、胸に少しばかりの痛みを覚えると共に、安堵の気持ちが生まれました。あのエミヤが認めるギルガメッシュという男があれほど慎重に扱うということは、たしかにあれは、真に必要とされたこの世界にとっての宝物であり、同時にダリという男の命と引き換えに手に入れる価値のあるものだったという証明に他ならず、彼の死は無駄死にではない、そう思えたからです。

 

「それは?」

 

その質問を飛ばしたのはフレドリカという少女でした。質問からも分かる通りその剣に見覚えがないのでしょう、彼女は首を傾げながら問いかけます。見識がないのは周囲の彼女のギルドメンバー四人も同じであるようで、同じような疑問顔を浮かべていました。

 

「フレイが始原の魔神と戦い手に入れたこの剣は、適合者がその名を呼んで使ってやれば、それがたとえフォレストセルの悪魔と呼ばれた擬似不死性を持った相手だろうと永遠に葬り去る事のできる神剣だ」

「―――まて、フォレストセルを完全に殺せる、だと? 」

 

ヴィズルはギルガメッシュの言葉に過剰なまでに反応をしてみせます。顔には困惑と不信の様子がありありとみて取れます。先ほどの話から判断するに、フォレストセル、というのは彼にとって相当思い入れがある敵対者、かつ、強力で抗いようもない敵だったのでしょう。だからこそギルガメッシュが今軽々と述べたことが信じられず、そして、困惑した。

 

「そうだ。実際に、ギルド“ラタトスク”のフレイという男は、この剣の力を完全開放することでギンヌンガの洞窟に潜むフォレストセルの悪魔を討ち滅ぼした。とは言っても、それは、貴様という存在が暗躍し、死に、この世界に北欧神話的概念を広げたからこその結果だがな。それ以前であれば、この剣は単に強力な概念を持つ一振りの宝剣に過ぎなかった。ああ、喜ぶがいい、ヴィズルとやら。ある意味で、貴様が自らの体を改良して千年以上にわたり抱えてきた執念と妄執は、世界を破滅へと導く要素を生んだが、文字通りフォレストセルという悪魔を完全討伐する礎ともなったのだ」

「―――そうか」

 

一言。ただその一言をポツリと漏らしたきり、ヴィズルは「失礼」といって部屋の片隅に移動すると、片手で目元を覆い、肩を揺らし始めました。その挙動と、抑えた声、水滴の落ちる音が何を示しているかはすぐに理解できました。

 

ヴィズルは、今、胸の内から溢れ出んばかりの歓喜の気持ちを、声、涙を必死に抑えているのでしょう。自分の生涯は決して無駄ではなかった。例えそれが自ら望んだ形や、意図したものでなく、世界を滅ぼすという出来事に繋がっていたとしても、それでも自身がその生涯を賭した結果が、その後、誰かが自らの望みを果たすのに一役買ったのだと知った時、それがどれだけの歓喜を生み出すかは、いうまでもありません。彼は今、自分のして来たことは無駄でなかったことを知り、生涯が報われたと心底それを喜び、噛み締めているのでしょう。男泣きを邪魔するほど無粋なことはありません。私はすぐさま視線をギルガメッシュの方へと移しました。もちろん、そうして気を使ったのは私だけではありません。

 

おそらく私より事情を知っているクーマはもちろん、私たちよりももっと彼と親しかっただろう“スレイプニル”の五人も、彼の気持ちを察して、見ないふりをする度量と思い遣りがありました。

 

ただ一人、ギルガメッシュだけが、変わらぬ様子でしたが、そうして自らから意識を逸らした者に対して何も言わないあたり、それも彼という男の思い遣りというものなのでしょう。

 

「ともあれ、北欧神話概念が浸透した世界において、嫉妬の神である奴が自らよりも上の存在である我を不遜にも狙う際、この剣の使用を目論むかもしれぬ事を危惧し、もしくはフレイという男が剣を回収し、伝承通り、“女を手に入れるため、誰かに渡してしまい、やがてスルトの名を持つ者の手に渡る”という最悪の事態を防ぐ為にも、我はこの剣の回収を貴様らに命じたわけだが―――、一つ誤算があった」

「それは―――」

「バルドルの死」

 

ギルガメッシュがその言葉を発した途端、胸が高鳴りました。サガのように取り乱しこそしませんでしたが、私もショックを受けていなかったわけではありません。ただ、私はサガよりもダリという男の事を知っており、彼が最後に叫んだ言葉が彼が初めて見せた心底からの覚悟と決断を済ませたそれである事を知っていたから、悲しみの感情の処理を彼女よりも早く行うことが出来ただけなのです。

 

「ダリ、光を纏い、完全防御というフォーススキルによって、無敵の光という概念を纏った時のみ、確かに誰にも頼られる、か。ふん、まさかバルドルという概念をあのような形で見つけ出し、“バルドルの死”という世界崩落のイベントを実行するとはおもわなんだ。お陰で完全な形で時計の針が進んでしまった。―――見ろ」

「これは……」

 

ギルガメッシュは懐から紙束を取り出して机の上に投げ出しました。数十枚の紙にはエトリアやハイラガード、アーモロードといった彼方此方の風景が、まるで切り取ったかのように色付いて描かれています。写実を生業にする者でも、ここまでの再現が出来るもの、そうはいないでしょう腕前です。

 

「カラー写真? しかも高画質デジタルの? この時代に? 」

 

そしてフレドリカが疑問に答えをくれます。その口ぶりから、なるほど、この写実の極みのような絵は、過去の技術をもってして描き上げられた“カラー写真”というものなのだという事がわかりました。

 

「カラー写真?」

「うん。カメラ……、えっと、昔の機械で、その場の風景を一瞬で鮮明に写す道具なんだけど……、でもこれ、なんだか……」

「鮮明って割には随分とぼやけてるわねぇ」

「ああ。なんだか霧がかかったみたいにぼやっとしてる」

「“かかったみたい”ではない。実際にぼやけておるのだ」

「え?」

 

ラクーナとアーサーの言葉に、ギルガメッシュは答えました。彼は自らが投げ出した写真から一枚を抜き出すと、指で弾いてこちらへと飛ばしました。私が受け取りそして覗き込むと、それには、近くに描かれた建物が密集するエトリアよりも大きな街が小さく見えるほど大きな地面の裂け目から、周囲の全てを覆い隠してしまうかのように、霧が噴出しているような光景が描かれていました。森の、大地の、街の大半以上が霧に包まれています。

 

「今、この世界はギンヌンガの割れ目より生じた霜に覆われつつある。そのうち太陽は覆い隠され、寒さが到来し、雑種どもは飢えに苦むことになるだろう。そのうち反乱なども起きるに違いあるまい。―――だがこれは過程に過ぎぬ」

「……、今のでもだいぶ大ごとだとは思うのですが、これ以上があるのですか?」

「そうだ。……、奴が、YHVHが狙ってバルドルの死を引き起こした事ではっきりとした。YHVHの目的は北欧神話概念を利用してこの世界の全てを燃やし尽くす事だ」

「―――世界の全てを燃やし尽くす?」

「えっと、それはエトリアだけでなくて? 」

「戯け。このような片田舎だけを指し示して世界などと我がいうわけあるまい。世界、というからには、この地球という星と、それと世界樹の縁で繋がった三つの世界全てよ」

「―――」

 

出てきた言葉のスケールの大きさに言葉が出ませんでした。それは私だけでなかったようで、伝説のギルドのメンバーも、クーマも口を開けた間の抜けた表情でギルガメッシュの方を眺めています。

 

「―――どうやってこの世界を燃やし尽くすと?」

 

地球という星だの、世界樹の縁で繋がった三つの世界だの、わからない単語はいくつもあるのですが、一旦はそれを保留として、とにかく私が理解できた内容の中から最も重要だろう事項を私が聞き返すと、ギルガメッシュはめんどくさそうに頷き、再び懐から別の写真を取り出しまし、それをこちらへと投げつけてきました。再び視線が私の手元へと集中します。

 

「これは……」

 

そこに写っていたのは、広大な砂の原でした。写真には紅く、どこまでも広大な砂漠がどこまでも、どこまでも、雄大に広がっています。旧迷宮の四層などとは比べ物にならない大きさのものである事が、手前に小さく映る街と、奥に映る巨大な山の対比から理解ができます。砂の海、と例えるのがいいかもしれません。

 

「砂漠? 」

「珍しいな。このように砂だらけの開けた場所なんて、この世界にほとんどないぞ。アーモロードの方面にいけば少しだけあるが……、いや、違うか。それにしても広大すぎる」

「後ろの山が遠いものね。―――って、ちょっとまって、これ、山も砂漠も大きすぎない? 」

「砂漠の中にポツンとある小さい点って多分、街だよな? 建物の数的にエトリアよりちょっと小さいくらいの街って考えると……、一、十、百、千、万―――んー? ちょっとまて、計算すると、山の高さが万の値を越したぞ。少なくとも二万メートルは有る」

「当然だ。それはこの太陽系で最も高い火山。地球からはるか離れた火星のタルシス高地に存在するオリンポス山だ」

「―――は?」

 

ギルガメッシュの言葉に聞き覚えがあったのは奴の話を聞いている中でもフレドリカだけであったようでして、私やクーマ、他の彼女のギルドメンバーは首を傾げています。

 

「え、ちょっとまって。火星って……、あの火星? 」

「他に火星があるか、戯け」

「―――、いやいやいやいや、おかしいでしょそれは! 」

 

フレドリカは一瞬呆けたのち、慌ててギルガメッシュの言葉を否定しました。ギルガメッシュは自らの言葉を否定してのけたフレドリカに少しばかり苛ついた様子で眉をひそめましたが、しかし、如何にも支配者らしく仕方あるまいといった風体で鷹揚に納得の様子を見せると、慌てふためくフレドリカをじっと眺めていました。

 

「無礼を許そう。雑種。何が不満か」

「何が……、って火星よ、火星! この地球からどれだけ離れていると思っている!?」

「時間、距離など、神格クラスの権能や概念武装があればどうとでもなる問題だ」

「ど、どうとでもなるって、あなた……、きょ、距離とか時間の問題が解決したとしても、火星の大気組成は殆どが二酸化炭素で、人間が暮らすには不向き……」

「それも奴が一定以上神格を取り戻し、権能と概念武装で処理可能だ。そも奴は、まがりなりにも天地を創造し、その後、幾度も天地を揺るがし、テラフォーミングを行った神格保有者だ。一神教の神、YHVHといえば、フレドリカとやら。貴様が本来生きていた過去の時代においての方が、その名は有名で、天地創造の主人としては通りがよいのだろう? 」

「そ、それはそうだけど、だからといって、火星をまるごと作り変えるなんて、そんな……」

「まるごとではない。おそらく現存する信者達から得られる信仰の力にて取り戻した力だけでは足りなかったのだろう。自らの身体を太陽系最大の火山と同化させ、山の神の権能を取り戻したうえで、一部を異界、すなわち、自らの領域とする事で、一時的にタルシス高原からアルカディア平原周辺に人類の生存可能領域を保っているに過ぎん」

「それでも十分無茶苦茶な所業よ、それ……」

 

ギルガメッシュとフレドリカの話の内容は半分も理解できませんでしたが、それでも会話の後に、フレドリカが呟いた後放心した所から、ギルガメッシュが平然と常識の様にいってのけたYHVHの行ったテラフォーミングという出来事が、どれだけ桁外れの所業であったのか理解する事ができます。

 

「納得がいかんという様子だな。だが理解せよ。我ら過去に神霊と呼ばれた存在は、その様な埒外の出来事を軽々と行う事が出来る存在なのだ。……、さて、では本題に移るとしよう」

 

ギルガメッシュは、椅子に深く腰掛けると、自らの膝を叩きながら口を開きます。

 

「先も言った通り、今この大地は、世界樹の根を通じて、三つの世界が時間、空間の捻れた状態で繋がっておる。一つはこの大地。もう一つはYHVHが初めに逃げた時空間。もう一つは今、奴が潜んでおる逃走先の時空の火星よ。そして今、奴はこの火星に存在するオリンポス火山と一体化し、山の神としての力、すなわち自然神としての力を大きく取り戻した」

「山の神としての力? 」

「大地創造や草木、生命の誕生といった力だ。奴はその力を振るい、タルシス高原オリンポス火山周辺からアルカディア平原まで生命の存在が可能となる大地に造り替えた。これにより、この火星の一部の大地、すなわち火山周辺から平原までがムスペルヘイムとなり、同時に、その周囲の極寒の大地がニブルヘイムともなった。その瞬間は、奴の造り替えた世界は、この世界に広く浸透した北欧神話概念の適合により、ギンヌンガガプという特異点を中心に神話的に正しく繋がってしまった。―――これにより、世界を燃やし尽くすイベントの条件は整ってしまったのだ」

「―――なるほと、神々の黄昏/ラグナロクか」

 

ヴィズルの発したラグナロクという言葉に過剰なまでの反応を見せたギルガメッシュは、途端に全身から殺意を迸らせました。極寒の環境の中に薄着、それどころか裸でいる様な心細さを覚え、全身から血の気が引いていきます。

 

「……ヴィズルと言ったな。王命だ。その言葉を、二度と、この世界の、この剣の前で使用するな。破れば殺す」

「―――承知した」

 

それは、たしかに、注意を促す忠告などといったちゃちなものではなく、絶対禁止の厳命を強制する言葉と態度でした。ギルガメッシュのその所作から只事でない事態を悟ったヴィズルは、静かに言葉に首肯すると、口を閉ざしました。

 

「―――とにかく」

 

一方でギルガメッシュは、ヴィズルに向けていた激情含んだ視線を自らが机の上に置いた視線に移動させると、何の異常もない剣を見ます。それを確認すると、怒気と殺意を発散させ、珍しく大きく息をついて、再び口を開きました。

 

「元は山の神でもあった奴は、北欧神話概念の浸透したこの世界で、ムスペルヘイムにある火山と一体化することにより、限りなくある神に近づいた。……ここまでくれば、ヴィズルとやら。先の言葉を知っていた貴様にならば、“世界を燃やし尽くす”の意味が理解できるのではないか? 」

「―――ああ。北欧神話伝承に従えば、“バルドルの死”というイベントが起こったというのであれば、後はヘイムダルの笛によりヴィーグリーズ平原で戦いが幕を開ければ、戦いの果て世界は火山の神スルトの放つ炎によって焼き尽くされる。お前が言っているのは、その事なのだろう? 」

「そうだ。戦いののち、主たる神々は死に絶え、バルドルや一部の人間どものみが生き残る。―――奴の狙いはそこだ。そのイベントが起きれば現存する人間は激減し、同時に無意識下に浸透している北欧神話的概念も薄れる。その瞬間、世界崩壊のイベントすなわち、北欧神話における“ヴィーグリーズ平原の戦い”と“世界が炎で焼き尽くされる”というイベントを、ヨハネ黙示録の“ハルマゲドンの戦い“と”悪魔どもが火と硫黄の池に投げ込まれる“イベントとして信徒どもに強烈な認識阻害を施し、人間の無意識下の内でそのイベントはキリスト教神話的イベントであると思い込ませる事で、自らが選定した民のみを生き残らせ、千年王国の創造を実現する気なのだ」

「―――」

 

ギルガメッシュの言葉に何か言葉を返すことのできるものはいませんでした。誰もが言葉を失っていました。私のように理解がしきれなかったからという理由の者も、あるいは、理解できたからこそ言葉を失ったという様子の人も見受けられました。私はなんとかギルガメッシュの言葉を咀嚼しようとして、理解に努めます。

 

―――世界が燃え尽きる寸前、認識をすり替える。そうする事で、自らが選定した民のみを生き残らせる。生き残るのは、バルドルや一部の人間のみ……ん?

 

「ちょっと待ってください、ギルガメッシュ。バルドルが生き残るとはどういう事です?」

「言葉の通りだ。北欧神話において、一度死んだ奴は、その後蘇るのだ」

 

その言葉が信じられなくてギルガメッシュの顔をまじまじと眺めました。ギルガメッシュは私のその行為をいかにも不愉快そうな顔で受け止めましたが、それ以上の反応はみせませんでした。

 

「―――ダリが生き返るのですか? 」

「そうだ。だが、おそらく―――」

「た、大変です! クーマ様!」

 

そうして私が尋ねた言葉にギルガメッシュが回答しようとしたところ、エトリアに残った数少ない衛兵のうちの一人が息を切らせて飛び込んできました。衛兵はそうして飛び込んできた後、部屋の最奥を眺め、しかしそこに座っている人物がクーマでない事に一瞬戸惑うと、しかし部屋の中央にクーマがいるのを見つけるやいなや、それどころではないと言わんばかりに、両手をあたふたと乱雑に動かしたのち、最敬礼をしました。

 

「ほ、報告です」

「はい。どうかしましたか? 」

「監視塔からの報告です! 北の空より現れた羽根の生えた人間の集団がエトリアの北西から! 西の方へと向かって消えて行きました! そ、そして……」

「羽根、というとハイラガードに現れた翼人ですかね。しかし、西、というと……エトリアから西というと、あるのは……」

 

「グラズヘイム! 」

「ちっ! 」

 

衛兵の言葉を一旦遮ってクーマが自らの考えを述べると、フレドリカがその先にある施設の名前を叫ぶと同時に、ギルガメッシュは大きく苦々しい表情で舌打ちをして椅子から飛び上がりました。同時に彼の体が光に包まれてゆきます。見覚えのあるその白い光は、よく見る転移の際に発せられるものです。

 

「ギルガメッシュ! どこへ!? 」

「我が玉座へ戻る! 奴は認識阻害の概念を広めたい筈だ! ならば月に認識阻害の術式送る陣を敷いてあるグラズヘイムはYHVHの狙いの一つであると考えるのが妥当であろう! ならば、不敬な翼人どもの狙いもそこである違いあるまい! 」

「―――待ってください」

「なんだ雑種! 些事で我の行いの邪魔をしたというのであれば、素っ首を切りとばすぞ!」

 

机の上の剣を引ったくるとクーマの問いかけに激しい答えを返し転移を試みるギルガメッシュを私が引き止めると、彼は心底イラついた様子で荒々しく叫びました。

 

「報告。一応、最後まで聞いてからいった方がいいのでは? 」

「あ……、そ、そうです! まだ、お伝えしたい事が!」

 

そうして私の指摘により部屋中の視線が集中したことを確認した兵士は、部屋の中央にいるクーマではなく、最奥で消えゆこうとしているギルガメッシュの方へと視線を向けなおすと、一旦は弛緩させていた全身に力を入れなおして再び姿勢を正し、叫んだ。

 

「一時が惜しい。手短に申せ」

 

ギルガメッシュは兵士の叫びを聞くと、成る程それも一理あると思ったのか、自らの体に纏わせた光を霧散させ、兵士の方を見て短く命じた。本来なら命令される立場にない衛兵の彼は、しかしその短い命令に拒否権がない事を存分に感じ取ったらしく、ギルガメッシュに向けて敬礼をした。

 

「報告の続きです! その際、翼人という集団の前方、空を飛ぶ彼らのその前方で指揮を取っていたのは、あの……」

 

衛兵は一度ちらりとこちらを見たのち私を見て戸惑い、しかし意を決したかのように嚥下すると、息を吸い込んで、続きを発しました。

 

「彼らの前方で指揮を取っていたのは、ダリという、ギルド「異邦人」のメンバーであったかのように見受けられた、と!」

「……はぁ!?」

 

しかしそして衛兵が続けて述べた言葉は私に取ってあまりにも予想外で、私は思わず、そんな声を発していました。しかし衛兵はそれだけにとどまらず、さらに言葉を続けます。

 

「そして、その事を施薬院前のベルダ広場で目撃した、同じく、ギルド『異邦人』のサガという女性が暴走。我々の制止を振り切り、彼らの後を追いました! 」

「―――」

 

続けざまに告げられる予想外は、私を完全に混迷の渦に叩き込みます。皮肉な事に、このエトリアにおいて、完全な『異邦人』と言えなかった私は、仲間を全て失ったこの時、同時に完全な『異邦人』のメンバーの一人になる事が出来たのです。

 

 



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第六話 激突する人外、見守るは群獣と花々

第六話 激突する人外、見守るは群獣と花々

 

facta quidem igitur vivendi gratia, existens autem gratia bene vivendi./生きる為に生まれたが、本質的には善く生きる為に存在する。

 

アリストテレス『政治学』、ギレルムスのラテン語訳より抜粋

 

 

東京市中条区銀座。異なる世界で、帝都と呼ばれる場所の首都であるという場所に、電車、という乗り物に揺られ、私はやってきていた。銀座はエトリアと比べると、建物の造りなどがしっかりとしている代わり、空気のひどく汚れた場所だった。私の場合、嗅覚と味覚は生物由来の特殊培養の生体素子をフォトニック結晶と連結させており人間と同等レベルの感覚であるがゆえに不都合はない。

 

だが、人間よりも密に状況を把握するため頭部に備え付けられた赤外線と擬似視界センサーより送られてくる空気中に多く含まれている煤と窒素化合物と硫黄酸化物のデータは、エトリアの通常の空気と比べると異常な量が含有されていると警告を送ってきている。また、人間に聞こえない音域までとらえることが出来る様になった聴覚は、往来を走る自動車の駆動や排気を一々捉えて煩い。

 

先日の戦闘や、先まで脳内で行なっていた戦闘のシミュレーションでは、手のひらや頬などの一部にしか高感度の触覚が存在しない事をひどく残念に思ったが、この時ばかりだけは全身の肌に高感度センサーが備え付けられていない事に感謝した。もし肌のすべてが高感度センサーで、脳のユニットと直結していたのならば、今頃過敏な全身は空気中に含まれている多くの有害物質に反応して、謎の攻撃を受けているという警告が頭に鳴り響いていただろう。

 

空気中には、そういった有害物質のほかに放っておくとアンドロの私の白い顔面が真っ黒くなりそうな埃や汚れもあり、これもまた面倒の一因だ。少しの間放置する程度ならば支障はないが、数日ほども放っておくと、関節などに溜まり、やがて稼働の障害となってしまう量が空気中を漂っている。戦闘に支障をきたさないようにする為には、今まで以上に清掃を行う必要があることを理解して、私はひどく億劫に感じた。

 

これらの要素に対応するため、一旦は、センサーの感度を下げて、警告の基準値を上げ、事象確率予測の比較試行回数と予測エラーの基準値を大幅に下げた設定にして、対処することにした。値を下げるごとにアラートは少なくなり、余計な忠告を出すために割くメモリ領域が減り、頭の中が明朗になってゆく。これでしばらくは問題あるまい。

 

「さて」

 

改めて周囲に観察の視線を送る。瞳から赤色の警告色が消えてまともに見える様になった視界の先には、街は活気にあふれ、エミヤや鳴海、執政院の職員たちの様なきちんとした身嗜みの整った人間も多く映っていた。また、彼らと同じくらいの比率で、ブシドーなどが羽織る着物をきっちりと着こなす人も見受けられた。

 

だが、外見はそうしたきちんとした格好をしたものが多いのに反比例して、身のこなしがしゃんとしている人間が少ない。エトリアでは誰もが無意識のうちに戦闘に適した姿勢を保って生活していたが、この大正の日本という世界では、戦いを意識して体を鍛え、そして姿勢を保っている人間は少ないようだった。私的にこの事実は意外な事であった。なぜなら私は、ここはエミヤの故郷に非常に似通った世界だと聞いていたからだ。

 

あれほどの御仁が住んでいた世界と似通った場所というからには、強者が大勢いて、そうでない人間もエトリアに住まう人間よりも強いのだろうなと思っていたのだ。しかし、実際のところ、そこいらをうろつく人間のほとんどは、背筋がガタガタで真っ直ぐ背中に芯の入っていないものばかりだ。猫背が悪いとは言わないが、背筋というものがないかのように、一歩ごとにグラグラ、グラグラと上半身も下半身も揺らす人間ばかりというのは見ていて不安になる。

 

「―――いい姿勢だ」

 

だからそんな中、時たまにだが、背筋の通った人間が通ると安心する。彼らは銃と剣を身につけ、揃った帽子をかぶり、茶色か白の洋服を着用して胸を張って歩いている。銃と剣を使うというと、噂に聞いたパイレーツという職業だろうか。それにしては堅苦しい感じがあるし、衛兵の様な職業の御仁なのかもしれない。顔も締まりがあって、とても見ていて安心する。

 

『さて、では、始めようか。ライドウ。どうするつもりだ?』

 

私がそうして周辺の人間を観察していると、やがてライドウという少年の足元で戦闘に移行できる警戒体勢でゴウトという猫が喋った。自らの足元にいるゴウトを見て頷いた、ライドウという見事に隙の無い綺麗な姿勢を保つ少年は、短鍔の帽子の位置が体の正中線上まっすぐになるよう整えなおすと、我々を見回して首肯した。

 

「―――調査の範囲は銀座から晴海埠頭まで。二手に分かれましょう。自分は―――」

「あ、ごめん。私、アーチャーから頼まれごとがあるの。悪いけど、私は銀座の方に回してくれないかしら? 」

 

ライドウの言葉を凜がひらひらと手を遊ばせながら遮った。

 

「―――了解です。では、自分は晴海町の埠頭から銀座に向かって聞き込みを行います」

「では私たちは―――」

「あ、あんた達は私についてきてちょうだい。荷物持ちと護衛はほしいし、近代日本の常識を知らないあんたらを放って置くわけにもいかないしね」

 

そして響の言葉をも遮った凜は、我々にさっさと指示を下す。

 

「……わかりました」

「承知した」

 

響は勝手に決められたことに不満を持ったようでむくれた面をしたが、確かに一理あると思ったのか、凜の言葉に同意の言葉を送った。私は正直別にどちらでもよかったので素直に従う言葉を発した。彼女の言う通り、私らがこの世界の常識を知らないのは事実なのだから、怒ることもあるまいに、とは思うのだが、そのあたり私の感性は人と違うのだろうから、黙っておいた。たぶん、人としては、響の反応の方が普通なのだろう。

 

『百貨店に行くのか? 』

 

などと響の反応から私が勝手に彼女の感情を推し量っていると、ゴウトが凛に尋ねた。皆の視線が一気にライドウから地面のゴウトへとむけられる。それを確認したライドウは豪人を肩に乗せた。視線が再び真正面のライドウ顔面あたりへと戻る。

 

「ええ。ちょっと日用品が足りなくてね。あの強欲ジジイの店だと、取り扱ってるのが舶来品だから物はいいんだけど、まったく値引きをしてくれないからあそこで買うと高くつくのよね。だから、銀座で国産品を買った方が安上がりらしいのよ。百貨店だとその辺の店で買うよりクオリティもしっかりしてるらしいし」

『なるほどな。まぁ、金王屋の爺さんに関しては、あの爺さんだから仕方あるまい。一応、積極的に取引を行っておれば幾分か値引きをしてくれたりはするのだがな。だからライドウが購入した鏡だけは市価よりも安かっただろう?』

「いやまぁ、そうかもしれないけれどそうなるまでにいくら使えばいいって話よね……。しっかし、その鏡、古いのはわかるんだけど、古いから姿もまともに映らないじゃない。姿見出来ない鏡を何に使う気?」

 

凛は頭に手を当ててかぶりを振り、響の胸元よりに紐に括り付けられてぶら下がっている、古ぼけた鏡を見た。顔は浮かない様相だ。やはり金王屋の主人から宝石を受け取った際、二割引で物を売ってもらったライドウと異なり一切値引きして貰えなかった事を根に持っているのだろう、ゴウトに呈した疑問の言葉は刺々しい。

 

『陰陽道における占卜術の中に、響聴卜という呪術がある。元は中国の民間呪術、すなわち雑卜法に属する占卜術であり、本来ならば、竃神に祈りを捧げた後、魔除けの鏡を持って月夜の晩に道行く人物の話を聞く事で尋ね人の無事などを占う方法なのだ。つまり、人探しのための術であるわけだな。もちろん響という少女は専門家でないが故に占卜術を行うことなどできないだろうが、今朝方、竃を訪ねて顔を見せて挨拶を済ませた “響”という名を持つ少女が、魔除けの鏡を懐中に持って聞き込みを行えば、あるいは言峰綺礼という人物の情報が手に入りやすくなるかもしれないかもと思ったが故の、まぁ、験担ぎだな』

「あら、れっきとした魔術理論に基づく行動だったのね。それは失礼したわ」

『良い。魔術、陰陽術は秘するものだからな。他体系の術理など知らなくて当然よ』

 

私には会話の意味をあまりよく理解できなかったが、どうやら彼らの中では当たり前の常識に基づく会話だったらしく、ゴウトの説明を聞いた凛は、一転して不機嫌な態度を改めると、優雅に微笑んでライドウの肩にいるゴウトに謝罪した。ゴウトはその謝罪を簡単に受け取ると、納得の様子を見せ、凛の謝罪に鷹揚に頷く。なるほど、彼が肩にゴウトを移動させたのはこのためか。これなら周りからはライドウと会話している様にしか見えないだろう。

 

「あ、あの、これ、ずっと胸元に入れてなきゃいけないんですか?」

『ああ、いや、肌身離さず胸に掲げて持っている必要はない。あくまで験担ぎ程度だからな』

「じゃあ、カバンにしまっちゃいますね……、って、あ、どうしよう……、結構大きい……」

 

一方、ライドウから鏡を受け取った響は、それをバッグに収めようとしたが、既に様々な道具が詰め込まれた鞄には鏡を入れるスペースがなかったらしく、そんなことを呟いた。

 

「なら私の腹にバッグから溢れた道具を収納しておこう。まだ余裕があるからな」

「じゃあ……、この特殊弾をお願いします。結構嵩張るので……」

「承知した」

 

故に私は、数種類の特殊な弾丸を収納した箱を受け取ると、アンドロの空っぽの腹の中へと収める。多少嵩張るので、リフレクターフレームの位置を多少ずらす必要があるのが厄介だ。

 

『ああ、ついでに近くのミルクホール『新世界』で店主に話を聞いてくるといい。あそこは悪魔召喚師が集い、様々な情報交換を行ったり、あるいは依頼を出す場所だ。我々からの使いだといえば多少顔を立てた反応をしてくれる。ライドウ』

「―――はい」

 

私が道具をしまい終えたタイミングで、ゴウトの指示に従い、ライドウは懐から名刺を一枚取り出した。見ればエトリア語―――日本語か―――で、“鳴海探偵社助手、葛葉ライドウ”と銘記されている。確か、名刺という身分証明書だったか。紙の左下には、不可思議な文様が刻まれているが、さてなんの意味があるのだろう。

 

『これを店主に見せれば、あやつの口も少しは軽くなるはずだ』

「―――ヤタガラス協力者としての身分証の様なものです。ヤタガラスの紋様が刻まれたこれを見せれば、響の帯剣や銃の所持、シンの特殊な身なりと弾丸、火薬の保有、凛さんの高価な宝石の所持に関して官警に何か言われた場合も協力的になってくれるはずです」

『官警に見せる場合は、なるべく年寄りの方に見せるといい。最近の若い公僕の奴らには意味を解せぬ者もおるからな』

「あら、ありがとう」

 

凛がライドウの手から名刺を受け取ると、ライドウは帽子の短鐔を整えた。そして身なりをただした彼は、先ほどまでよりいっそう清廉かつ真っ直ぐな眼差しを浮かべて佇んでいた。なるほど、帽子の位置を正すのは彼なりの意識の切り替え方法なのだろう。

 

『では、調査開始と行こう。行くぞライドウ。凛も気をつけてな』

「ええ。そちらも気をつけてちょうだい。―――言峰綺礼は一筋縄じゃいかない相手だから」

 

 

銀座、の北側、ビルとビルの隙間。二階から三階建ての食堂や酒屋が入ったビルヂングの立ち並ぶ路地の最奥に、その建物はあった。

 

「銀座ミルクホール……、っと、ここね」

 

三階建ての建物、南向きになっていて多少暗がりの建物の壁には、縦長の装飾華美な色付きガラスがはめ込まれている。色とりどりのそれは、脳内の知識から引っ張り出したデータによると、ステンドグラスというものであるらしかった。

 

「『界世新』……」

 

さらに近寄ると、三つの文字が正面左上の壁面に書かれているのがわかる。三文字の左端を通る二本の細い配管をたどって視線を下に持ってゆくと、正面には先ほどと同じようなステンドグラスの装飾が施された嵌め殺しの窓が左右等間隔に並んでいるのがわかる。その間には、同じくステンドグラスがはめ込まれた扉があり、扉の上、光を取り入れる部分の装飾もまた、ステンドグラスだった。

 

「いや、右から左に読んで『新世界』、か。前から思っていたのだが、なぜこちらの世界では、文字の配列の左右が逆さまなのだ?」

「さぁ? 昔の風習だから詳しくはよく知らないわ。噂程度でいいなら、昔は巻物に文字を記載していた名残って言うわね。右利きの人が筆で巻物に記載するなら、右から左に書いた方が便利でしょ?」

「なるほど」

 

凛は私が納得したのを見ると、扉をあけて中へと足を踏み入れた。

 

「―――ほう」

 

一歩踏み入れた途端、感度を落としたアンドロの肌の上からでも感じ取れる、肌を突き刺す様な気配を感じて、思わず声を漏らした。ピリピリと身を削っていくような探る視線。銀座ミルクホールは、まるでエトリアのギルドハウスの一階の様な気配が漂っていた。

 

店の中は基本的には薄暗く調光されているが、店の奥、カウンターのある場所は目が眩みそうになるほどの照明で照らされていた。そのせいなのかは知らないが、店の奥、カウンターの向こう側にいる店主はサングラスをかけている。店の中には外で見た様な洋装の人間が多かった。だが、彼らが漂わせる雰囲気は、外にいた背筋の通っていない連中とはまるで別物だった。彼らは揃ってしゃんとしている。

 

いや、それどころか、ライドウが纏っていたような独特の太い存在感のある気配―――おそらく悪魔召喚師独特の気配なのだろう―――を放つ者の中には、死線をくぐり抜けてきた人間のみが放てる、自信と警戒心と殺気が程よくブレンドされた、観察と威圧を兼ねた気配を飛ばしてくるものまでいた。

 

「な、なんか視線が集中して……」

「へぇ、平和ボケした奴らばかりかと思いきや、やっぱり裏はどこも同じような気配なのね」

 

基本的にギルドハウスをねぐらにしていた響は、このような圧を他人から飛ばされることになれていないためだろう、少しばかり竦んでいる。一方、そんな響とは異なり、凛は堂々と胸を張って浴びせられる視線と圧を無視し、あるいは跳ね除けると、優雅に店の奥へと足を踏み入れ、店の奥の木製のテーブルの向こう側、光り輝く酒棚の前でグラスを磨いている髪の薄く切ってそろえた店主の下まで進んだ。私は響の背を軽くたたくと、視線と圧を飛ばしてくると輩に同じ程度のそれらを挨拶代わりに返してやり、共に店の奥へと進む。

 

「貴方がマスターね」

「入口での気配に怖気づかないでここまで平然と入って来られるあたりタダでものでないな。さて、そんな強者のお人たちのご注文は何かな?」

「要件はこれよ」

「ん?」

 

一足先にカウンターの前に進んでいた凛が店主の言葉に応えるようにして名刺を差し出す。すると、荒々しい雰囲気の店主は傲慢な態度のまま、しかしこちらを探るような気配だけを一気に消失させると、姿勢を崩さないままニヤリと渋く笑って見せた。サングラスの奥にある瞳が歓迎の態度を含んでいる鋭いものへと変化する。途端、周囲からの重苦しい圧力が消え去った。響が深い溜息を吐く。私は少しばかり残念な気持ちを抱いた。なるほど、このような良い気配の人間が集う店の店主である彼もまた、やはり只者ではないというわけだ。

 

「只者じゃあないとは思ったが、なるほどやはりそっちの関係者か。鳴海探偵社の名刺を持っているってことは、ヤタガラスの新人さんかい? 」

「協力者よ。で、貴方がここの店主で良いのよね?」

「ああ。代理ではあるが、一応、今のところはな」

「聞きたいことがあるんだけれど、尋ねれば素直に答えてもらえるのかしら? 」

「ヤタガラス関連の人間の頼みなら、断ることもできねぇさ。知ってる範囲で答えてやる」

 

凛は返答に満足したのか、椅子に腰掛けると、バーのカウンターに両手を置くと、奥でグラスを磨いている店主を覗き込んだ。翡翠色の瞳が真っ直ぐとマスターへと向けられる。店主はあからさまに唇を吊り上げると、凜を見て笑いかえした。おそらくどんな質問が飛んでくるのかと楽しみなのだろう。

 

「言峰綺礼という男を知らない? 神父で、背の高い、いかにも表の人間、って面をしていて、むっつりしている、しかめっ面の男。魔力……、独特のマグネタイトを体から発散していて、多分カソックを纏っているわ」

「いや―――。初めて聞く名前だな。特徴も思いあたらねぇ。お前さんの情夫かい? 」

 

店主がグラスを磨く手を止め、軽く小指を立たせた。瞬間、凛の体から凄まじい怒気が噴出した。センサーは凜の体温が上昇するのを感知する。周囲にいた人間が思わず戦闘態勢になり、仰け反ってその場から背を引くほどの迫力だった。大型の番人ですらひるませるかもしれないその迫力に、無くなったはずの心臓が高鳴る気分を覚えた。久方ぶりに感じる緊張感に、思わず背筋がざわつく。不謹慎ながらも、今の彼女と共に共闘できたらどれだけ楽しいか、という考えが浮かんだ。

 

私の不埒な気持ちなど知りもしないだろう凛は非常に苛立った様子で椅子の背もたれに大業に背を預けて仰け反って見せると、そのまま天井向けて大きく先程の店主の言葉を笑うかのように鼻息を荒げて発散させると、勢いよく頭を動かして視線を店主の方へと送り、睨め付けながら言う。

 

「は、冗談! あいつとそんな関係になるくらいなら、私はあいつをぶっ殺すか、出来なきゃ、舌噛んですぐさまこの世からおさらばするわ! ―――つまらないこと言わないでくれる? 捻り潰すわよ?」

「おお、怖い」

 

店主は凛の強い殺気と言葉に悪びれることも無く肩をすくめ、グラスを磨く作業に戻る。凛は、自らの威圧が周囲を怖がらせるだけで、態度を改めさせたい当の本人に対して暖簾に腕押し状態であまり意味をなさないものであったことを悟ったのだろう、すぐさま発散せていた気配を鎮静させると、再び口を開く。

 

「―――まぁいいわ。じゃあ次の質問。深川の神隠しについて何か知っている事はない? 」

「被害にあった人間の名前と遊郭に入った背景だけは判明している。補陀落の一番花魁、『琴水』お付きの新造で、まだ客取りもしてない親に売られた遊女見習い。こいつらの親は、元は山陰の集落のお偉いさん方だったが、たたら事業がダメになったからって残る財産集めて帝都に来て紡績を始めたんだとよ。しかし、始めたはいいが、倉橋黄藩の事業乗っ取りにやられて財を安く買いたたかれ、泣く泣く娘を手放したんだと。娘達もそんな親の事情を知っているから、こちらも泣く泣くながらも、文句ひとつ言わずに進んで遊郭に入ったって話だ」

「そう。その子たちは、親の都合で、身売りされたってことね」

「まぁな。だが、今のご時世、よくある話だ。裏ならなおさらよく転がっている話。あんたほどの人間なら、それくらい承知の上だろう?」

「―――そうね」

 

―――ん?

 

凛は冷静な態度で店主の意見に同意をした。一見すると完璧な淑女の態度だったが、しかし、私は一見冷静な凛の体温が上昇したのを感知した。そこは彼女がつい先ほど怒ってみせた際に変化したのと同じ部位で、しかし先程よりも高く温度が上昇していた。間違いない。彼女は今、怒っているのだ。

 

穏やかな挙措の中になんとも処理しがたい怒りの感情が潜んでいるのを見つけて、私は首を傾げた。確かに親が自らの失敗のツケを払うため娘を売り払うという所業は、非常に信じ難く、気が滅入る内容であったが、激しい怒りの感情を覚えるような類のものではない。さて、一体何が彼女の琴線に触れてしまったというのだろうか。

 

こういう時サガならばわかったのだろうが、あいにく私には判別がつかない。ふと答えを求めて隣の響を見ると、彼女も同じように一部部位の体温を上昇させ、そして凛とは異なった様子で、肩を震わせていた。彼女も同じような怒りを抱いたというのだろうか?

 

聞いてみようか、と思った矢先、店主が言葉を続けたので、私は一旦考えを打ち切り、話に集中することとした。

 

「だがまぁ、そうして身売りされた女どもは全員、年の頃は十五、六。年の頃から言って、完全にお情けで遊郭に迎え入れられた女どもだな。遊郭といえば、十六、七が盛り、十九でトウがたち、二十を超えると年増だ。その年頃に客前に出しても問題ない一人前にする為にゃあ、十になる前、幼い頃からの仕込みが必要となる。いいところのお嬢さんとはいっても、所詮は田舎の村娘であるし、つまりは、普通ならとっくに手遅れの存在で、そんな奴らは身体を安く売った挙句、左か右の河川敷、場末に堕ちるのが精々だ。しかしそんな幼い頃からの教養の仕込みもすんでいない女三人を琴水という一番花魁が拾い上げた。理由はわからん。わかっているのは、そいつらの源氏名が雲州、寿宝、曙光で、それぞれ山陰の絲原、櫻井、田部のお嬢さん方だったっていう事くらいだな。これでご満足かい?」

「ええ、十分よ。感謝するわ。……じゃあ最後の質問。最近、不穏な動きしている人間や集団に心当たりは? 」

 

マスターは凛の質問に腕を組んで考え込むと、しばらくしたのち、首を振って口を開いた。

 

「―――さてね。人間、生きてりゃ一つや二つ、隠し事なんてあるもんだからな。いまは復興に発展と、どこも張り切っているから、人の出入りが激しくて誰がどんな不穏なことを企んでいるかなんて、さっぱり分からんよ。―――だが、少なくとも最近、表も裏も静かなもんだぜ。野犬は減ってるし、諍いを起こす馬鹿も減った。そうした軍やヤタガラス、お偉いさん方からの暴徒暴獣鎮圧の金になる依頼が少なくて、ダークサマナーどもは干上がりそうだと管を巻いているよ。そこらにいる奴らのようにな」

 

 

「凛。君はなぜ先程彼との話し合いにおいて怒りの感情を抱いたのだ?」

 

響が花を摘みに店の奥に行った際、私は待ち時間を有効に使うため、思い切って先ほど抱いた疑問を彼女にぶつけることにした。

 

「―――、貴方、ここでそれを聞く? ちょっとデリカシーがないんじゃない?」

 

凛は突然ぶつけられた質問にバルハラソーダ水という飲み物の入ったグラスの氷を揺らして驚きを表現したが、すぐさま呆れた顔を浮かべなおすと、私を睨め付けてくる。そうして三白眼じみた瞳で覗き込んでくる彼女はなかなかの迫力を持っていた。どうやら私の質問はよほど彼女の琴線を揺さぶるものだったらしい。

 

「気に障ったのならばすまない。だが、どうしても不思議だったのだ。君はどちらかというと、自らの判断と直感と才能を信じ、他者のことをあまり気にしない、というか、出来ない、私に近い気質の人間だと思っていたのでな。私は彼女らが親に売られた境遇であると聞いた時、彼女らに対して憐れみのような感情を抱いた。だが君が抱いたのは、怒りだった。それも、発露させない、裡に隠すような静かな怒りだ。そのあたりの差異はどこから生まれたのかと思ってな」

「……、妙なところ鋭いくせに、デリカシーがなくて、変に鈍感のね、貴方」

 

凜はグラスに口をつけると、ソーダ水を一気に飲み干した。空になったグラスの氷が、身を隠すものを失って、透明な体を高鳴らせた。なんとなく彼女はそこで話を打ち切りたいのだと思った。だが、私としては強い彼女がなぜそのような感情を抱いたのかをどうしても知りたかった。

 

「いや、私は鋭くない。今、私が君のその感情の機敏に気づけたのは、この機械の体のおかげだ。本来の私は普通の人の感情の機敏に疎いのだ。だから君の怒りの根源が何であるか理解できないし、かつても、なまじなんでも出来る才能があったせいで、私より弱い、私より才能がない人の気持ちがよく理解できなかった。そのあたり、よくサガや響に怒られたものだ。―――話を戻そう。だが今、私と同じように、才能のある出来る人間である君は、しかし私と違った反応を見せた。だから気になったのだ。だが、答えたくない、あまりに不快な質問だったというなら、忘れてもらって構わない。私も蒸し返す事はしないと誓おう」

 

真正面から思いをぶつけると、凛はやはり呆れた表情を浮かべたまま、私に訝しげな視線を送って来た。私の言葉の真贋を見極めようとする瞳は、やがて私の意思に嘘がない事を見抜いてくれたようで、彼女は長く重いため息を吐いて、再び私の方を真っ直ぐと見つめてきた。

 

「―――、まぁいいわ。その馬鹿正直さに免じてちょっとだけ教えてあげる」

 

いうと凜は、宙を見て目を細めると、昔の記憶を引っ張り出して整理しているのだろう、少しばかり沈黙したのち、躊躇しながらも口を開いた。

 

「―――……、昔、私が幼い頃、妹がね。さっきの話題の彼女達と同じように、私の親の手によって別の家に養子へと出されたのよ。養子となる本人は望まなかったけれど、同じ穴の狢同士の昔からの約束ってことで、断れなかった。ううん、むしろ、私の親はそれこそが我が子の為にもなると喜んで差し出したわ。ま、その結果、その子、養子に行った家で酷い目にあっちゃってね。その後、妹との間に色々とトラブルがあったから、それを思い出しちゃって、あんまりいい気分じゃなかったのよ」

 

凛は目尻を緩やかに下げ、しみじみとした口調で告げる。なるほど、彼女は先ほどの娘たちの境遇を自らの妹と重ね合わせて、過去の出来事を想起し、不快になったという事か。私はこれまでダリやサガと付き合ってきた経験から、彼女の言葉に嘘はなく、それは凛の後悔や自責の念からくるものなのだろうとも推測出来たが、しかしそうして告げる彼女の様子には体温の変化が少なかったため、おそらくそれだけではないだろうなと推測した。

 

「……、だが凛。それは確かに君の不快の感情を引き起こす話ではあったのかもしれないが、君に先程怒りの感情を呼び起こさせたというものとは少し違う気がする」

 

告げると凜は柳眉をひそめると、不快を隠そうとしない視線を私へとむけて、グラスを店主の方へ押し出すと、挙措で片付けるように指示を出した。そののち、丸い回転いすを動かして私の方へと体をまっすぐ向けなおすと、溜息をつく。

 

「―――貴方、本当に、デリカシーがないのね」

「すまない」

 

多分、私の言葉は、彼女にとって真実だったのだろう。私は彼女の後ろめたい部分を見抜き、暴いてしまったのだ。素直に謝罪すると、凛は苦笑いをした。

 

「……まぁいいわ。―――でもそうね。確かに、考えてみればその通りかもしれないわ。……確かにあの時、私は怒った。むかっ腹がたったわ。多分、娘を売った親に対してじゃなくって、親に売られたっていうのに、泣く泣くながらも素直に従ったって言うその子達の死んだように生きている態度に、きっと私はムカついた。―――多分、私だったら、嫌だったら嫌って言って、親に抗って外の世界に飛び出しただろうから。……、これで満足? 」

 

そうしてようやく欺瞞や虚勢を取っ払った本心らしきものを凛が語った時、言葉とともに吐き出された重苦しい溜息とは裏腹に、彼女の体温が先程より少ない位に上昇したのを見て、私は、なるほど、それこそが彼女を苛立たせた真の要因なのだと直感した。そして同時に、それがきっと彼女にとって隠したかった気持ちなのだとも理解した。

 

「ああ。なるほど、それは確かに私も理解できる。なるほど、彼女らは自らの意思で自らにとって善い人生を歩んでいないと感じたから、君は怒ったと言うわけだな」

「ああ、そう。―――そうかもね」

 

凛は天井を仰ぎ見た。それ以上を話す気は無い、という意思表示だと私は思った。

 

「ありがとう、凛」

「どういたしまして。―――しかし、貴方、自分の鈍感さを自覚していて素直なのはいいけれど、流石にそこまで行くとちょっと病気の域に突入しているわよ」

「そうかもしれない。だが、これが最も他人との衝突と誤解を防ぐに適した、私なりの対処方法なのだ。鬱陶しいかもしれないが勘弁してほしい」

「……、ま、アーチャーや昔の士郎みたいに一人で裡に溜め込んで、いつのまにか馬鹿やらかすよりかはマシか―――、あ、響が戻ってくるわよ。つまらない話はここまでにして、外出て聞き込みを始めましょう? 」

 

凜はカウンターの上に札を一枚置くと、そのまま入口へと向かう。店主はそれを受け取ると、静かに凜の背中を見送った。

 

「承知した」

 

私は店主に一礼し、響を迎えると、すぐに凜の後を追った。

 

 

「すまないが、少々、聞きたいことがあるのだがいいだろうか」

「うぉ……っと、随分とモダンな格好のお兄さんだね。何かな?」

「カソックを着用した背の高い男を見かけなかっただろうか? 」

「―――、いや、わからねえな。すまねぇな、兄さん。俺じゃ力になれそうにねぇ」

「そうか。手間を取らせてすまなかった」

「いや、いいってことよ。じゃあな」

 

 

「あの……、すみません……」

「ん? あっと、お嬢ちゃん。学校はどうしたのかな? 」

「え、えっと、ちょっとお休みしていまして……、その、私、人を探しているのですが、黒髪で背の高い、顰めっ面の神父の男の人を見まけせんでしたか? 」

「ん、んん? なんだい、君、そっちの関係の人かい? ああ、よくみれば、君も異人さんか。―――すまないね。ちょっとわからないな」

「そうですか……」

「まぁ、深くは事情を聞かないけれど、ちゃんと学校には行った方がいいよ」

「はぁ、その、ありがとうございます」

「じゃあね」

 

 

「ちょっといいかしら? 」

「ん? おや、これは綺麗なお嬢さん。如何したかな? 」

「まぁ、お上手ですこと。いえね。聡明かつ博識な面持ちの貴方にちょっと、お尋ねしてみたいことがあるのですけれど、少々お時間頂いてもよろしいかしら?」

「これはこれは。私めごときが貴方のような美しいお嬢さんのお力になれるのであれば、喜んでご協力いたしましょう」

「ありがとうございます。実はですね……」

 

 

「うーん、なんか、あんまり収穫ありませんね……」

 

ミルクホールを出てしばらく聞き込みを行った我々が白煉瓦通りの端で一休みしていると、響が残念そうな口調で述べた。顔には少しばかり疲労の色が見える。高々数時間ほど聞き込み作業を行なった程度で疲れるようなやわな体の作りをしていないことは、彼女を鍛え上げた私が一番よく知っている。となれば、彼女の疲労の源は、精神的負荷がもたらしたものなのだろう。

 

帝都というなれない場所で、見知らぬ人間相手に聞き込みを行うというのは、やはり普通は疲れるものなのだろうと推測する。私としては単に声をかけて質問するだけなのだから楽な部類の作業に入ると思うのだが、通常、それは気を遣うし、疲れる作業なのだろう。

 

「みんな、私やシンが話しかけると用事があるといってそそくさとどこかいっちゃうし、話を聞いてくれた人も、言峰の特徴を言って尋ねるとすぐにわからないといって立ち去っちゃうし……」

「まぁ、ねぇ」

 

響の疲労の色濃く反映する言葉に、凛が苦笑いをする。凛は、聞き込みのために動き回っていたことで多少の肉体的疲労が溜まったらしく、体温が平熱よりも仄かに上昇していたが、いつもと変わらないその平然とした顔と態度から、彼女は響のように精神的負荷をあまり感じていないのだろう事が見受けられた。

 

―――ふむ

 

思い返してみれば、彼女は一目、一聞きでその場を立ち去られてしまう響とは異なり、他人に声かけを行う頻度こそ少ないものの、彼女に話しかけられた多くの人は、彼女を受け入れ長い間その聞き込みに付き合い、親身に話を聞いてくれていた。つまり彼女は。

 

「響。どうやら凛は、我々が粗雑に扱われる事情に心当たりがあるようだ」

「え、そ、そうなんですか? 」

「おそらくな。―――よろしければご教授願えないだろうか」

「そうねぇ。うーんまず、私から見れば大したことじゃないんだけど……」

 

いうと凛は響の顔と、私の顔や響の髪、そして我々の道具や恰好を指差すと、苦笑いしたまま、言葉を続けた。

 

「あなたたち、格好こそそこらの学生のそれだけど、男の方は背中やら腹やらマントまでが不自然に膨らんでいるし、女の方も大きな肩がけ鞄を所有していて、さらには二人とも刀の入った袋らしきものを所持している。そこに日本人離れした背格好と、その茶色がかった髪に、白粉塗りたくったみたいに真っ白な面が合わさって、まるきりまともな外見していないんだもの。そりゃ警戒もされるってもんでしょ」

 

いうと響は自らの茶色みがかった髪をなでて、自身の格好を顧みて、そして凜や周囲の人間を見回した。確かに多少重装備だが、そこまでおかしな格好をしてはいないと思う。おそらく響も私と同じ考えに至り、その部位が一番周りの人と違うと判断したのだろう、自身の髪を触りながら、凜に困惑の視線を向けた。

 

「え、っと……、ああ、まぁ、確かにこの帝都という国は、黒髪の人が多いですけど」

「見た目で敬遠されているという事だろうか? 」

「そうね。それも一因だわ。日本、特にこの銀座という場所は、好奇心旺盛な人も多いけど、金持ちが集まる土地柄ということもあって、警戒心バリバリなの人も多いしね。ただそれ以上に、聞き方が悪いってのが、最大の原因だと思うわ」

「聞き方? 」

「ええ。貴方達、挨拶するなり、その後の第一声で本題に切り込むじゃない? 」

 

響が尋ね返すと、凜は教師がやるように宙に向けた人差し指をくるりとまわすと、諭すような口調で言う。

 

「情報を求めているのだから、それは当然だろう? 結論を先に述べて心当たりがあるかをさっさと聞いてしまった方が時間の浪費も少ない。互いのためになるはずだ」

「そうね。それはその通りよ」

 

凜は響の方から私の方へと視線を向けなおすと、同意の言葉を述べた。

 

「でもそれはこっちの事情と理屈だわ。―――いい? 相手は見知らぬ、そのうえ見た目も外国人かカタギの人間じゃなさそうな私たちに話しかけられて警戒心マックスなわけよ。言ってみれば相手からしたら非日常の出来事がいきなり舞い込んできたみたいなものなの。向こうとしてはさっさとそんな相手とは別れて、いつもの日常に戻ってしまいたいわけ。頭が見知らぬ人物を前にして警戒体勢に入っている中、日常の出来事を思い出してくれって頼んだところで、そんなの知ったこっちゃない、ってなるのは当然だと思わない? そんなわけだから、まず最初に必要なのは、頑なになった心をほぐす事。まずは日常の会話で切り込んで、これは日常の延長線上に過ぎないんだって思わせて、警戒を解いてもらう事。そうしてからじゃないと、欲しい情報なんて聞き出せないわよ」

「はぁ」

「なるほど」

「え、シン、今ので理解できたんですか? 」

「ああ」

 

響は心底驚いた様子で私の方を見つめてきた。彼女が私に対してどういったイメージを抱いているのかわかる態度だったが、いちいち指摘するのも面倒なので、簡単に首肯すると、凜の説明を自分なりの理解に変換した内容を彼女へと話すため、口を開く。

 

「要するに、彼らの感覚としては、迷宮の中で見知らぬ敵に奇襲をかけられたようなものなのだろう。相手の情報がないから警戒する。そんなところに行きなり不意打ち気味に知らない言葉/攻撃をぶつけられるから混乱する。言ってみれば彼らのそれは、見知らぬ敵相手に先制攻撃や奇襲をくらった私たちが一旦撤退して様子を見ようとするようなものなのだ」

「ああ、なるほど」

 

迷宮での出来事に例えて説明すると、響は即座に理解してくれた。

 

「随分と冒険者らしい解釈と納得の仕方ねぇ」

 

凛は繊手で緩やかに自らの頬を撫で上げると、婉然と微笑んだ。傾げられた首の挙動に引きずられて、黒髪が微かに揺れる。彼女のそうした態度は美しく、なるほど、この柔らかな笑みを浮かべる彼女に優しく話しかけられたのなら、警戒心がほぐれるのも納得できる気がした。

 

「ま、納得いってくれたようならそれでいいわ。じゃあ、次からは気をつけて……!」

「え……」

「―――」

 

そして凜が苦言を終えようとした瞬間、異変は起こった。私の体のセンサーが、世界が別の位相に変化したことを認知した瞬間、即座に刀袋を解いて、刀身を抜き放つ。戦闘の気配を意識すると同時に、全身を日常モードから戦闘モードに切り替えるよう移行の指示を飛ばす。以前は身を削るような害意と殺意を感じれば勝手に体が戦闘体勢へと切り替わったものだが、機械の体というものは反射的な行動が出来ず、全てをきちんと意識して行う必要がある。このあたりどうにも不便だが、文句を言っていても仕方あるまい。

 

「これは……」

「異界化!? 」

 

内心で愚痴を吐いている間にも、周囲の光景は一変していた。往来が人であふれていた銀座という場所は、今や迷宮と変わらない、非日常の空間へと成り果てていた。つい先日、ヤタガラスの使者によって送り込まれ、目撃したばかりの、緑光が地面のあちこちに溢れる不思議な光景。迷宮の三層に似た光景に、該当層の魔物のデータと戦闘経験を引っ張り出した瞬間、その時は訪れた。

 

「この気配……くるぞ! 」

 

忠告を発した瞬間、銀座に多く存在する路地から黒い影が飛び出してきた。この世の全ての悪を凝縮したかの様な烈火の色をした体が、目を爛々と輝かせながら四足で俊敏に地面を蹴り上げ、近寄ってくる。体は大きく、四足走行する獣の体は大きく、二メートルは優に越している。影の正体は大型の狼だった。見覚えがある。確かガルム……。

 

「あの程度の強さの相手なら私たちでも……、って、ちょ、ちょっと待ちなさい! 」

「嘘……、どれだけいるの……!? 」

 

一瞬余裕の表情を見せた凜と響は、その後、裏路地などから表通りへと飛び出してくるガルムの数を見て、一気に愕然とした表情へと顔面を変化させた。こちらへ襲い掛かってくるガルムは一匹や二匹どころではなかったのだ。全周囲から俊敏に押し寄せる黒い影は百を超える数存在し、私たちの体に牙や爪を突き立てようと接近してくる。一匹ならばどうとでもない筈の敵のその数は、群れればその分だけ脅威度は等比級数的に上昇する。

 

一閃は……、使用不能。当然か。あれはブシドーのフォーススキルだ。他のどのアンドロのスキルも、この数を相手にするには、少々頼れそうなものはない。ならば

 

―――今は一時撤退が良策か

 

そうと決めればあとは逃げ場だけだ。周囲に探知信号/ピンガーを飛ばして周囲の地形を音響にて把握。地形データの測量と解析を終えた脳内コンピューターが私の脳裏に地形と敵の場所データを更新した次の瞬間、たったひとつだけの逃げ場を見つけて、叫んだ。

 

「跳んで逃げるぞ! 」

「―――援護するわ! 」

「ちょ! 」

 

私は迷わず二人を抱きかかえると、響と凛はそれぞれに反応を返してくる。即時に意識を切り替えて頼りになる返事を返してくれたのは凛で、頼りない返事を返したのは響だった。私は二人の返事を聞くや否や、剣を持った右手で響を、もともと空であった左手で凛を拘束すると、両足のジャンプユニットを解放し、空めがけて跳躍。

 

「『ロケットジャンプ』!」

「きゃあ! 」

「軽量、重圧/Es ist gros, Es ist klein……!」

 

左右の足から体内で合成された特殊推進剤が燃焼して、炎と蒸気が排出され、二人を片手ずつに抱え込んだ私の体を上空へと押し上げた。重力に逆らって大気を切り裂き、自らの体をまっすぐ上に押しやる空気の圧力は、コンピューターが弾き出した事前予想数値より数段重量が軽く、それどころか、以前パワーと言う天使を叩き切った時とは異なり一人でないにもかかわらず、その時感じた感触よりも軽かった。私は予想外の距離まで自らが飛びあがっていることに気がつき、驚いた。

 

「か、体が急に軽く……! 」

「―――凛か! 」

「ご明察!……よし! 屋上には周囲に敵影はないようね! 」

 

凛は視界を下に向けて眼下を軽く見渡すと、にぃ、と凶暴な笑みを浮かべて、叫んだ。

 

「逃げ場が限定されていたのは罠じゃなかったみたいね! すぐに元通りの荷重に戻して、ビルの屋上に向けて落下させるわ! 着地は任せた!」

 

なるほど。前回の戦いでは飛翔する敵が相手であったが故に後手に回っていたが、どうやらこうして地上を這い駆けずり回る敵との戦いに、彼女は慣れている様だった。なんとも頼り甲斐のあるパートナーの出現に、私は思わず心が躍る。『新世界』での予想通り、やはり彼女との共闘は素晴らしいものだった。戦いが優位に進められる予感に心底喜ぶなどなんとも私らしくないが、悪くない気分だった。いや、攻略し難い敵との戦いに対して、頼りになる味方が出現し、それを喜んだのだからある意味で私らしいといえるのかもしれない。

 

「任されよう! 」

「戒律引用、重葬は地に還る/Vox Gott Es Atlas……! 」

「こ、今度は急に重く……! 」

 

くだらないことを考えている間にも、状況は進んでいる。私が了承の返事を返したのち、凛が再びなにやら呪文を発した途端、一転して全身に負荷がかかった。発生した重力異常を感知し、視界モニターにエラー警告を発し続けているコンピューターの忠告してきた。それらをまるきり無視して、現重量、現在の重力加速度における着地負荷の計算を瞬時に脳内のコンピューターに行わせると、足から発している噴射炎を屋上の地面に向け、体勢を調整する。

 

だが、着地の寸前、腕の中の女性二人の胸部になるべく負荷がかからない様心がけるも、重力加速度の変化という事象があまりに突発かつ予測外過ぎる出来事だったため、脳内のコンピューターは、私の体にかかる衝撃を逃す試みは上手くいかず、腕の中にいる彼らに少しばかり強めの衝撃が伝わる予測をはじき出した。

 

「すまん! 多少響くぞ!」

「―――! ……助かったわ」

「ぐぇ……! 」

 

叫ぶと、着地に合わせて二人を強く抱きとめる。足より逃がしきれなかった衝撃が胴体から腕を伝わり二人の体に伝播した。強めの衝撃が体を叩くという不規則の事態にもかかわらず、凜は私の着地とその際の衝撃に合わせて一瞬息を吐くと、すぐさま失った空気を吸い込んで、冷静にいってのけた。どうやらそうした多少の予期せぬ衝撃があることは覚悟済みだったらしい。まことになんとも頼もしい女性だ。一方、未だに混乱状態にあった響は胸部の圧迫に肺の中の空気を意図せず吐き出させられる羽目になったらしく、カエルの潰れた様な声を上げた。うむ、こちらはなんとも、無様である。

 

「流石だな、凛」

「ありがとう」

 

凛は当然の事を当然やったまでだ、と言わんばかりの態度で私の礼を受け取った。なるほど、この足りない部分を補う感覚。ダリやエミヤの頼もしさを思い出す。やはり私の眼に狂いはなかったのだ。

 

「響、大丈夫か? 」

 

自画自賛もほどほどに、まずは優雅に身嗜みを整えた凛を見習い、私もロケットジャンプからの着地にて硬直している両足に再起動の命令を送ると、咽せている響に声をかけた。

 

「げほっ、あ、あの……、シン? なんか私の扱い、雑じゃありません? 」

 

すると彼女は恨みがましい視線を私の方へ向けてくるとともに、口をとがらせて文句をつぶやいた。

 

「そんな事は―――、来るぞ……!」

 

そのような扱いをしたつもりは毛頭なかったので否定をすると、直後、ビルの下で動く敵の気配を感じ、周囲に向けてピンガーを飛ばした。すると返ってきた特殊な音波は、奴らが器用に壁の窓部分の出っ張りに足を引っ掛けると、そのまま一足飛びで屋上に向かってきているのがわかる。屋上めがけて跳躍する獣どもの数は、軽く数十を超えていた。一瞬、ガルムとやら程度ならばそんな数でも相手にできない事もない、と思ったが、さすがにこの屋上という狭苦しい場所で多くを相手取るのはいささか不利な状況を招きかねないと判断して、剣を収める。ガルムの数が多すぎるのだ。

 

「体勢を立て直す! 一旦引くぞ! 捕まれ! 」

「了解! 」

「あ、は、はい! 」

「『ロケットジャンプ』!」

 

数の多さと地形の不利を認識した私は、再度即時撤退の判断を下し、二人を抱きかかえると、敵の屋上到達が完了する前に、道路を挟んで向こう側のビルの屋上へと再びロケットジャンプを行い、壁を登攀し終えたガルムたちと入れ替わる様に屋上より脱出する。

 

「テキガニゲルゾ! ―――ムコウガワノビルニダ! アシバヲネラエ! 」

 

地面を覆い尽くしていたガルムらが私らに向ける視線が屋上より飛び出した私たちと交差し姿を認識した瞬間、おそらくその事を認識した誰かが発した何処から聞こえてきた声に対し、瞬時に反応したガルムは、自らの体の前に炎の球を生み出して、射出した。

 

「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」―――

「きゃあ! って、え、どこを狙って……」

「あ、ちょ、まず……!」

「いかん! 着地点を狙われたか! 」

 

どうやら奴らの中にも知恵の回るものがいる様で、放物線を描いて跳躍していた私が着地点と見定めていたビルの屋上が崩落した。炎による倒壊は不規則な噴煙と熱を生み、それらに邪魔されて熱感知センサーはまともに働いてくれない。数秒後の簡単な未来を予測できるはずの脳内コンピューターは、観測の結果から正確な数値を得られないため未来の予測が出来なくなり、エラーを吐き出すばかりの役立たずへと変貌していた。

 

「熱と瓦礫が邪魔で上手く着地できない! 凛! 」

「なんとかして見せるわ! 要は熱と煙がないところになら着地できるのね!?」

「そうだが……、―――! そうか! 承知した! 」

 

片腕につかまった凜は吠える。私は一瞬考え込んだが、すぐさま彼女が何を言わんとしているのか理解して、叫んだ。

 

「いくわよ! 重圧最大/Es ist max gros……! ―――!」

「ぅぉえっ!」

 

そして凛の詠唱が開始し、そして終了する直前、足の噴射を停止した。そして凜の呪文詠唱が終了すると同時に、すさまじい重力加速度が体へと加わり、私たちは真下へと落下する。おそらくこの事態を予測できていなかったのだろう響は、再びカエルのつぶれたような声をあげた。

 

「戒律引用、重葬は地に還る/vox Gott Es Atlas……! シン!」

「―――了解だ! 」

 

だが残念ながら私と凜の動きに翻弄される響の事を気にかけている余裕はない。凜の詠唱が終わり、体にかかる加速度が通常の重力加速度に戻った瞬間、同時にピンガーを放ち、周囲を計測。そうして返ってきたデータの中、真下にちょうどいいクッションがあるのを見つけて、私は微かにほくそ笑んだ。

 

―――ガルムの体を併用して、可能な限り衝撃を殺す……!

 

現在の初速度と重力加速度、体重から、真下の肉クッションに着地した際にかかる負荷を再計算する。脳内のコンピューターは揺らぎというものがほとんど存在しない正確な計測データをさっさと処理し終えると、すぐさま答えを返してきてくれた。

 

「悪いがやはり衝撃を完全には逃がせん! 備えろ! 」

「―――っ! 」

「―――いぎっ! 」

 

忠告からほとんど時間をおかずに私の足がガルムの胴体と接触した。接触の瞬間、足のバーニアを全力稼働させる。私たちの体重とバーニアの噴射をまともに受けたガルムの胴体は真っ二つに裂け、あっという間にマグネタイトとなって散ってゆく。直後、地面と足が接触。直前に最大の威力で足のバーニアを噴射した事で多少は勢いを殺す事に成功したが、それでも殺しきれなかった衝撃により、私の体は予測より少し深いくらい地面にめり込み、同時に、天然の土砂による煙幕があたりにばら撒かれ、一時の間、私たちの姿を隠す目くらましとなる。

 

「っ、手荒ね……!」

「げほっ、げほっ……、げほっ」

 

土砂壁を生み出す際に生じた衝撃は、膝のマニピュレーターとモーターの屈伸運動だけでは処理しきることが出来ず、両腕に抱えた彼女らへ処理しきれなかった荷重が伝搬した。凜はその衝撃に歯をくいしばって耐え、響は思いきり歯をかち合わせて、かつんと大きな音を立てた。

 

事前に覚悟を済ませていた凛は多少歯を噛みしめる程度ですぐさま立ち直ったが、予想外に振り回されてばかりの響はそうもいかなかったようで、着地の衝撃により大きく口を開けてしまい、砂塵を吸い込んでしまったようだった。響は、大きく咳をし、むせていた。

 

「すまん。だが、これでも精一杯だった」

「わかってるわよ……、で、どうするの? 」

 

凛の問いかけに、まずは状況を冷静に考える。さて、かつての私なら、一閃と己の能力を信じて突っ込んでいただろうが、今となってはそんな無茶もできない。以前ならばそれでもパッと考えが浮かんだものだが、肉体が機械になったからだろう、今の私は肉体的な直感というものがまるで働かない。

 

急くとロクな結果にならぬと理解しながらも、迫る状況に脳裏は焦って答えを生み出そうとする。それを無理やり意志と理性で抑え付けて思考にノイズが混ざらないようにするも、焦る頭は上手く答えを出してくれない。それでも焦る頭を落ち着かせ、理性を用いて冷静に答えを求めていると、そんな本能と理性の対立という事態は、不意に向こうの世界においてきたある男のことを私に思い出させた。

 

―――ああ、ダリはいつもこの様にして戦っていたのから、私に苛々していたのか

 

体を失ってさまざまな不便を覚えるようになってからと言うもの、あらゆるものが足りないこの体は何もかもが新鮮だ。なるほど、人間、恵まれている時は、その幸福に気付かないものなのだと、人ごとのように思う。失ってから気づき、共感を覚えるあたり、私も賢者ではなく愚者であったということか。

 

そう考えると、不意に仮にダリというやつが同じような窮地に立たされたとしたならば、奴はどうするだろうかと思い至った。そうだな、きっとダリならば―――

 

「周囲は全部が敵だ。逃げることはまず不可能だろう。なら、まずは速攻で―――頭を潰す。おそらく先程指示を出したのが頭領だろう。烏合の衆は頭をつぶせば瓦解するという風にそばは決まっているものだ」

「その意見には賛成」

 

私が自身の知識と経験から結論を導き出すと、凜は、しっかりとうなずいた。

 

「でもどうやって?」

「それは―――」

「『アギ』ヲツチケムリノナカニホオリコメ! ヤツラハマダソコニイル! 」

「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」「『アギ!』」

「―――!」

 

作戦を練る間も無く、炎の球が土煙を引き裂いた。彼女らを抱えてその攻撃を避けると、噴煙の中にいくつもの直線の軌跡が生まれ、避けた炎が我々の背後にあったコンクリートの壁を破壊し、道を作り出してくれた。ああ、これはちょうどいい。

 

「逃げながら考える! 」

「異議なし! 」

「あ、きゃ、きゃあ! 」

 

凜は私の腕から飛び出すと、いましがたできた道の中へと飛び込んだ。私はそのまま響を俵のように肩に抱え込むと、凜と同じように今奴らが作ってくれたばかりの道へと身を投じる。

 

「ニガスナ! オエ! 」

「「「「「オォォォォォォ!」」」」」

 

背後ではいくつもの雄叫びが重なって聞こえてくる。音圧を背後に私たちは一旦、銀座のビル内部を破壊しながらの撤退を開始した。

 

 

「で、どうするつもり? 」

「あ、あの、おろして……」

 

響の小さな訴えに応えて彼女を降ろすと、再び疾走を開始する。凛と響に先行して前へと進むと、前方にある壁を左腕の長い高周波ブレードを解放して上下左右に振って斬り刻む。続けて細かい裂傷ができて脆くなった壁面を右腕のクラッシャーアームを解放して吹き飛ばすと、もうそこは敵のいない、隣の道路だ。私は凜と響が出たのを見計らって、罅を入れておいた天井に高周波ブレードの一撃を叩き込む。すると、振動を加えられた天井が瓦解して、私たちの来た道が塞がれる。これで少しは時間が稼げるだろう。

 

「それがあれば逃げなくても良かったんじゃない? 」

 

私の所業を見た凛が呆れたように後ろから話しかけてくる。おそらく単純な破壊力のみを見ての判断なのだろう。フォールディングアームと併用することで最長四メートルの間合いを誇る二メートルの長さの高周波ブレードに、人間の頭くらいの鉄塊くらいなら簡単に粉砕することが出来るクラッシャーアーム。どちらも過去の進んだ技術力によって創り上げられた、優秀な武装だ。どちらも、私の足と体重を用いれば砕ける程度の耐久力しか持たぬガルムという悪魔なら、一撃で葬り去ることが可能であるのはたしかなのだが―――

 

「いや、静止している物が相手だから簡単にやっているように見えるかもしれないが、動き回る相手めがけてきちんとこの二つの武装をあてるには、相当集中を要するだろう。ガルムという悪魔が一体や二体であるならまだしも、あれのほどの数がいては、とてもじゃないが対処は不可能だ。まだ我が愛刀だけで戦った方が、勝算がある。……、まだ、な」

 

残念ながら、それをうまく用いるだけの技量が、今の私にはない。それは元々、私の魂の中に、このアンドロでの戦い方が記録されていない故の弊害だ。すなわち、今の私には、クラッシャーアームや高周波ブレードを即座に上手く使える才能がない。

 

もちろんこの体の製作者であるオランピアが多少調整を施してくれているため、ある程度までなら不自由なく使用、戦闘に使えるが、それはあくまでオランピアが彼女の経験に基づいて、私の戦い方に合うようにと最適化してくれた結果であるがゆえに、私の体と魂、戦い方に完全に適合するものではない。つまりは、今の私はその二つの武装のスキルレベルが低く、素人同然に近い状態であるわけだ。

 

「そう」

 

凛は短く無理やり納得したかのような返事をする。その態度に過去の自分の姿を見つけて、なるほど、と理解した。これが、才能があるからこそ、才能のない相手の事を理解できないという奴なのだ。他者視点で見ると、確かにぱっとわかるものだな、と、場違いながら過去の自分が他人からどう見えていたのかを知って、感心する。

 

『オォォォォォォ! 』

 

感心した瞬間、獣の叫喚が響いた。ガルムはすぐそこまで迫っている。悠長に選択肢を考えている暇はない。こんな時、以前の自分の体でない事が悔やまれる。あの身体であれば、剣一つで突撃して、次々と湧き出る奴らを全て殲滅すると言い切ることもできたし、そうできる自信も湧いてきたのだろうが、アンドロという身体の初心者である今の私にそれをするのは、まず不可能と理性と脳裏と理性が判断を下している。

 

―――どうする?

 

「―――ならどうするの? 」

「そうだな……」

 

 

迷いは一瞬。立ち止まって振り返り、二人を見ると、彼女たちは私同様に立ち止まって、私の意見を待ってこちらを見つめていた。二人の瞳には、私の指示を参考にする、あるいは、完全に従うという、強い意志が秘められていいた。

 

「よし、では―――」

 

二人の覚悟に背を押される形で全身にオイルが巡りきるよりも早く決断をすませると、私はいましがた思いついた作戦を口にした。

 

 

壁を背にして背水の陣を敷く。ここが全ての分水嶺。いっとき相手側に傾いている勝負の流れを此方側へと引き戻す最後のチャンス。目の前に続々と集結しつつある。柄にもなく体に緊張が走り、回路を流れる電気信号にノイズが走って、目の前の光景が微かに揺らいだ。

 

見渡す限りの、敵、敵、敵。視線はどれも純粋な遊びのない殺意に満ちており、一切の遠慮がない。過剰に発達した上顎と下顎の牙同士がぶつかり合い、カチカチと火打ち石を鳴らすような音が響いている。獣どもが身じろぎをするたび、鉄の突起を持つ首輪から伸びた鎖がチャラチャラと音を立てて耳障りな輪唱となっていた。

 

―――ああ、いい緊張感だ

 

この張り詰めた糸のような緊張感。全身にぶつけられる殺気で胸の内に秘められている魂の塊であるフォトニック純結晶が震え、体が微振動する。機械の体の中に秘されていた銅線となった神経が肌の表面に浮き出てきたかのような感覚。そうして敏感になったと錯覚するほどに、神経が昂り、削られていくような感覚が心地よい。

 

失ったはずの触感が蘇っていくような感覚を覚えた。以前あれほど焦がれて望んだ物がここにある。そのような場合でないことは重々承知だが、今私は、死線の上にいる。それが嬉しくて、嬉しくて、たまらない。体が如何なるものに変わろうが、自分の生きるべき場所は、日常の中ではなく、戦場の中にこそあるのだということを再認識する。

 

「ホカノオンナドモヲドコヘヤッタ……」

 

地の底にまで響くような声は周囲に群がる下級の悪魔ガルムを従えている敵の長なのだろう、周囲に群がる雑魚とは数段以上格の違う悪魔が冬の寒空の下のようなくすんだ水色をした狼が発したものだ。その姿はライドウが使っていたケルベロスという悪魔に近いが、目の前の獣の纏う強者の雰囲気は彼の使役するその悪魔よりも上だ。

 

「さてな。聞きたければ、力づくにて聞きだすといい。命乞いの瞬間にならばあるいは口も軽くなるかもしれんぞ」

「―――」

 

誰かの口調を真似して挑発のセリフを言ってみると、敵はニヤリと獰猛な精気に溢れる笑みを浮かべた。獣の纏う闘気が増す。奴は私のセリフから、私が真に望んでいるものを悟り、そしておそらく同調したからこそ、私の望み通り真正面から物量で押し潰してやろうという気になったのだ。どうやらこの獣は私と似た性格で、戦いを好む性格らしい。

 

「ナラバオノゾミドオリニシテヤロウ! 」

 

光線的な獣の雄叫びにより、周囲の獣が発散する闘気が純粋な殺意へと変貌する。先ほどまで微かながらに混じっていた見縊りや侮りの気配は完全に消え去っていた。獣たちは純粋にこの場で生存する権利をかけての戦い、すなわち、野生の戦いに身を投じる覚悟を決めたのだ。

 

「感謝するぞ、獣の長! 」

「カツテ“カミドモ”ハ、オレノチカラヲオソレテトマショウメンカラブツカロウトシナカッタ! ダガオマエハ、オレヲマエニシテ、コノカズヲマエニシテ、ソレデモマッコウショウブヲノゾンデイル! ドンナイトガアロウトオレハオマエノソノカクゴニ“ケイイ”ヲハラウ! ワガナワハ“フェンリル”!」

 

奴が発した言葉の内容と名乗りは、私の体をさらに興奮させる効用を持っていた。奴もまた私と同じく、自身の全霊を尽くしての戦いと、自身の力を試す場を求めていた、私の同類なのだ。私は手にしていた剣を構え直すと、全身に施していたアンドロの武装の封印を完全に解きながら、叫ぶ。

 

「私の名は“シン”! “シン”、だ、“フェンリル”! 」

 

フェンリルは私の返答に嗤う。眉尻を落とし、その大口を吊り上げた様子は、破顔といってもいい、喜色を含んだ笑みだった。その気持ちはよくわかる。なにせ私も目の前の彼と全く同じ気持ちを抱いているのだから。

 

「カカレ! “シン”ヲコロセ、ガルムドモ! エンリョナンテスルナヨ! 」

「すぐさま首を頂きに眼前まで参上しよう! 待っているがいい、“フェンリル”! 」

 

 

一刀を振るう。確固たる意志を以ってして敵を切り裂く。ガルムを真っ二つに切り裂いた刃は稼働の始点から終点までの動きをきちんと意識してやらねば、柔らかい関節部分に余計な負荷がかかってしまう。機会となった体は、以前よりも負荷に強く、そして放置しておけば生身の肉体であった時よりも短い時間で自然回復する分、スキルでの即回復が不可能となっている。交換という手段で即時に直すこともできるが、あいにくそんなものを今現時点持ち合わせていない。つまり現状、破損、イコール、そのままその部位は使用不能になる、というわけだ。

 

だから無理はできない。以前よりも耐久力と思考が肉体に行動を及ぼす反映までの時間が短くなった代わりに、肉体の動きを細かく微分化し、細かく力の動きを観測し、得られたデータから逐一動きを修正してポイント毎において計算してやらねば、以前のような流麗な動きで一刀を振るうことも満足にできない。それがこの体だ。

 

もちろんオートでそう言った処理をやることも可能だ。オランピアの組んだプログラムはとても優秀で、生身の肉体であったころの私と寸分違いない剣の軌跡を再現する事が可能だ。だが、今の私はそのデータを用いても、昔の自分のように力を発揮することができない。悲しいかな、どれだけ微分しても誤差が生まれてしまう、デジタル的な機械の限界であった。

 

一人にて、多く獣を相手にして打倒しないとならない場合に求められるのは、敵の行動に合わせ消耗を抑えるコンピューター的な受身の俯瞰的戦略のそれではなく、機先を制し続け相手の思う通りに動いてやらない動物的な反射と直感に頼る本能的な戦法を可能とする戦術だ。少なくとも私はそう思っている。

 

以前、人間の肉体であった時なら、肉体の反射と無意識の補正により多数の敵の攻撃に対処できていた。しかし今、機械の体では同じことを行うことが出来ない。機械の体は体内に飛ばす命令こそ瞬時に伝わるものの、細かく細分化した時間関数の一つ一つまでを計算し、どういった動きをするのか細かく意識をして指示を飛ばし、都度生まれる誤差に対応しなければいけない。細分化したデジタルの信号を利用するこの体では、本能的なアナログの動きを完全に再現する事が不可能なのだ。

 

その誤差が敵の攻撃位置を見誤らせ、自分の体に傷と余計な衝撃を発生させ、ダメージが蓄積されていく。オランピアが組み立ててくれたアンドロの体は強靭だ。それ故に計算の誤差によってガルム程度とぶつかろうがたいした傷になっていないが、それでも傷は傷であり、一つの動き毎に私の体が余計に消耗しているということに他ならない。

 

それではダメだ。どこから湧いてくるのかしらないが、膨大な数のガルムに対処しきれていない。どうせいつかは死ぬのだ。負けて死ぬのは構わないが、せめて以前の自分くらいは超えてからでないと死ぬに死にきれない。そのためには、今の戦い方では、ダメなのだ。

 

―――傷を負うのは、攻撃の始点と終点にいちいち意識を取られるからだ

 

この体になってからというもの、もう千万を超える数シミュレーションを重ねてきたけれど、結局私は、私の中にあるパターン化された動作の中から最も状況に応じて近しい身体動作プログラムを引っ張り出して、動作させているだけに過ぎない。それは私の中にある、過去の状況に置いての最適解であって、状況に応じた現在の最善の解答ではない。今の私は、過去の自分のデータから状況に応じた最適解を導き出そうとするあまり、それが余計な雑念となり、集中をそぎ、戦いの流れを上手く操れない、傷となる因子になってしまっている。

 

―――なら、過去の自分を再現しようと思うな

 

本能的な部分に頼る動作はどうあがいても機械の肉体となった自分では人であったころの自分にかなわない。ならば、勝てないというのなら、いっそ滑らかな最小限の挙動で最大限の効率を得ようとする本能的な戦い方こそ自らの最善の戦い方であるという考えを捨ててしまえばいい。それに気を使う事で最高効率が得られないと言うなら、機械の体に適した機械の戦い方というものを編み出せばいいのだ。

 

―――まずは全力で……!

 

ガルムへ横一線の斬撃を放つ。ガルムの顔面、胴体から尻尾にかけて左から右に抜けた剣の勢いに乗せて、関節の可動に合わせて体をそちらへと持ってゆく。以前なら生身の肉体を気遣って多少緩めていただろう勢いを全く殺す事なく、体の回転に合わせて、即座に剣を握った手のベクトルを無理矢理変更し、最も近くにいる敵の頭に斜めとなった刀身を叩きつける。無茶な可動に関節部分がギシリと悲鳴をあげるが、生身の肉体の時のように痛みは感じない。生身と違って、頑丈な肉体と柔軟性の高い関節は、ある程度の無茶な動きも許容範囲内なのだ。

 

そうして敵の体内にめり込んだ瞬間の力の減衰を利用してブレーキ代わりにすると、ガルムの頭を切り裂いた剣に乗った勢いを機械の特性を利用して、一瞬で完全にその場に固定させて、無理矢理体をその場にとどめると、その際に生じた衝撃をショック吸収のアブソーバーとスプリングの力を利用して別ベクトルへの移動と推進のエネルギーに変換して、幾分かを敵に突撃するためのエネルギーへと再利用する。瞬時にまっすぐ構えなおした剣が敵の脳天から胴体までを貫いて、ガルムはマグネタイトの光になり消えてゆく。一連の動作が、過去のシミュレーションをなぞって戦っていた時と比べて格段に滑らかな挙動であったことを認識して、体が喜びに打ち震えた。

 

―――これだ!

 

機械らしい、一切の曇りがない、直線的かつ人体の可動を超えた動き。壊れたら交換すればいいと言う、機械の長所を生かした戦い方。生身の体での最善の戦い方が自由闊達な一筆書きを描く剣の軌跡にあるとするなら、機械の体での最善の戦い方とはまさに一刀両断したかのような一次関数的な剣の軌跡にある、と、私は悟った。

 

そう。ジグザグと蜘蛛が巣を張るような直線的な動き、突撃してきた猪が壁にぶつかった後、すぐさま方向転換して、狙いを定めるような直線的な動きの繰り返しで、先の先を取り続け、機先を制し続ける戦い方こそ、今の機械の体である私の動きとして最善であるのだ。私は自らの脳が導き出した結論に従い、剣を振るい続ける。

 

この戦い方に必要なのは、周囲の観測結果から得られた敵の頭部か胴体をかっさばく最短直線ルートを通過してくれさえすれば良いと切り捨てる思い切りと大雑把さ。そして、その後、得た結果から次の敵撃破という目的達成に向けて最善のルートを構築し続ける敏捷と繊細さだ。

 

もはや過去となった自分の幻影や理想を追いかけ、羨み、足を止めるのではなく、現実、今出来る事を見据え、その中から最善の手を見つけ出し前に進む原動力とする。もはや取り戻せぬ過去の全盛期も、あったかもしれない理想の未来予想図も、どちらも不要だ。そんなものは切り捨ててしまえばいい。過去でもなく、未来でもなく、今この時、この瞬間、目前に迫る死という結果を避けるため全力を尽くす。

 

―――生きるからには現れる理不尽に、命尽きるその時まで全力を以ってして抗う。

―――それが、いつか必ず自然の摂理に敗れて死ぬこの私が見つけた、“善い生き方”なのだ。

 

 

「ヤルナ、シン! 」

「お褒めにあずかり光栄だ、フェンリル! 」

 

ガルムの群れの奥、フェンリルの賞賛に応えて、その後ガルムを切り裂く。直後、推進剤を燃焼、バーニアを噴射させて体の向きを変え、地面へ向けてほぼ直角に剣を振り下ろし、最も近い位置にいたガルムの炎が空中にいる私を捉える前に一刀両断。ガルムの体は炎と共にマグネタイトになって散ってゆく。機械の体での戦い方を理解した私は、自らの体に仕込まれている武器の使い方も完全に熟知し、使いこなせるようになっていた。

 

「次! 」

 

地面ごと叩き割ったのち、その場から離脱しつつ、回避運動を兼ねて回転しつつ、方向転換の最中、近くにいた敵の鼻っ面めがけて左手の高周波ブレードを振り抜く。空中に浮いていた後、遅れて左手の測定計から異常値が送られ、骨を断ったのだという実感を得る。高周波ブレードの振動で敵の体を構成していたマグネタイトに拡散現象が生じた直後、宙に浮いた自らの体の位置を観測し、再制動。手近な敵めがけて再度切り込む。

 

「次! 次! 次、次、次! 」

 

今、私は、右手のカムイランケタムと左手の高周波ブレードを用いて、宙空に鋸や三角の軌跡を描きながら敵を斬り続けている。また、右手のクラッシャーアームを展開することで、剣を振るう際、更に敵のダメージを稼げるようにもなっていた。こちらに飛んでくる火球などの余計な攻撃はリフレクターで受け流す。人間の体だった頃には不可能な動きと移動の軌跡を残す事を可能としてくれるのは、体の各部に搭載されている特殊推進剤噴出口と、体内の推進剤生成器官。そして、三半規管の代わりに体の中にある、人間の様に繊細でない代わりに、多少乱暴に扱っても問題ないジャイロスコープと、排熱ユニットのお陰だ。

 

そうした直線の動作を繰り返すうち、私が戦っている空間には、私の体からの排熱とガルムの生み出す火球の熱などの温度差によって、緋色の蜃気楼が生じるようにもなっていた。温度差により生じた空気中の揺らぎは、ガルムの目をくらまし気をそらす要因となり、その一瞬の隙に私はガルムを葬り去るに一躍買ってくれてもいる。

 

「ナ、ナンダアイツハ! 」

「マトモナニンゲンジャナイゾ! 」

「その通りだ! その通りだとも! 私はマトモではない! だから死にたくなければ道を開けろ! 」

「ヒ、ヒィィィィィィ! 」

 

人語の通じる獣は、強烈な言葉にて脅してやると、情けない悲鳴をあげて尻尾を巻いて体を退く・賢明な判断であるのは確かだが、こうもあっさりと逃走されては拍子抜けだ。あちらの迷宮に出現した同じような魔物はどのような相手でも必死に立ち向かってきたものだが、どうやら魔物でも人間と同じくらい知恵が回るようになると、生存の方に天秤が傾くらしい。多少不満がないわけでもないが、ともかく―――

 

「やってきたぞ、フェンリル! 」

「ヨクキタ、シン! 」

 

そうして群れていたガルムの数を減らしてやっていると、いつのまにか私とフェンリルの間には、我らが決闘を行うためだけに開かれたような空間が出来上がっていた。即席の円形闘技場においてその外周部にて逃げ腰のガルムが人の代わりに観客を務める中、対峙するのは私とフェンリル、すなわち、やはり人語を話す機械と獣だ。

 

共に人間としての体を持たない我々は、しかし人間同士の親友がやるように挨拶を交わしあうと、親交を深めるため、私は今まで通り思い切りスラスターを吹かせ瞬時に最高速へと持っていくと、全身全霊の一刀を振り下ろした。今までの中で最高の速度での一撃だ。

 

フェンリルはそれに反応を見せない。否、視線は私の体を追えているにもかかわらず、攻撃を悠然と眺めている。何か狙っている。それはわかるが、何が狙いだかわからない。機械の体となった私は、データがなければ解析が出来ないのだ。だから思い切り振り切る。―――そして。

 

「―――なにっ! 」

「ッ……、ミゴトダ!」

 

全霊をかけての横一線の刃はフェンリルの体に触れた瞬間、摩擦を失ったが如く毛の上を滑って、握った刃があらぬ方向へと抜けていく。やつは私の一撃を受け止めた瞬間だけ少しばかり身じろいで顔を歪めたものの、その場から一歩も動くことなく私の攻撃をいなして見せると、私が驚いた隙に反撃へと転じる機会があったにもかかわらず一切攻撃の様子を見せず、横を通り抜ける私の体をただ見送った。

 

「ホウ、ワガカラダニ“ブツリコウゲキ”ガキカヌコトヲミヌキ、コウゲキヲヤメタカ」

「それもある……、が、それ以上に、君が戦闘の意思を見せないのに一方的に攻撃をするのは、公平でないと思った」

「フ、フハハハハハハ、ユカイナオトコダ! “アースシンゾク”ノダレモガオソレタコノオレヲマエニシテ、“セイセイドウドウ”タタカオウトスル! オレハオマエノコトガキニイッタゾ、シン! ミトメヨウ! オマエハマルデ“テュール”ノヨウダ! 」

「私も君に好意を抱いたとも。無傷を確信しているとはいえ、敵の攻撃にあえて身を晒しなど、余程自らの戦況分析と自分の長所に自信がなければ出来ない芸当だ。フェンリル。君は、私が出会った敵の中でも、最上位に位置する倒し難い敵であり、だからこそ愛おしい相手だ」

「フハハ、“ソウシソウアイ”ダナ。―――ナラバ」

「ああ。これ以上、互いに余計な言葉はいるまい」

 

即席出来上がったコロッセオにおいて、フェンリルは私から距離をとった。フェンリルは低く構え、獅子に力を入れる。全身の力を利用して最速にて突進し、私の攻撃を剛柔備えられた毛でいなし、爪と牙をつきたてようという算段なのだろう。

 

私は周囲のガルムを一旦完全に注意を向ける要素から排除すると、目の前にいる難敵にのみ意識を集中する。私も奴と同じく、体を斜めに傾けて居合に似た前傾姿勢を取ると、地についた足で地面を強く踏みしめるフェンリルと目線が合った。

 

「―――」

「―――」

 

フェンリルが笑う。私も笑いかえす。我々は似た者同士だ。あまりに強すぎる力を持っていたが故に、孤独だったもの同士。わたしには奴の気持ちがよくわかる。やつは、かつてエミヤという男を見つけた時のように、目の前に現れた私という自分と同等かそれ以上の実力を持つ相手を目の前にして、自身の全力を出して、認め合いたいのだ。街の中、安全な場所で暮らしていると、満たされないつらさが全身を支配したときの、脳が緩やかに死んでいくような倦怠感が全身に襲い掛かってくる。おそらく奴は今まで、そういった感覚を覚えていたのだろう。ああ、私には奴の気持ちがよくわかる。

 

だからこそ、逃げたくない。真正面からフェンリルという相手に付き合ってやりたい。背を向け、相手を失望させるような事をしたくはない。奴に共感を覚えてしまった今、それは自分を裏切ると同等の行為として私の心は感じるだろうからだ。そう。今や私は、もはや時間稼ぎをするという目的など、彼方向こうにいってしまっていた。

 

否、どのみち、フェンリルが私という存在に完全に注視し、周囲の部下に無言の態度で待機を命じ、決闘という誇り高き選択肢を取った時点で、私はこの決闘の勝利に活路への希望を見出すしか、進む道はないのだ。

 

「イザ」

 

無理矢理誰かに向けての言い訳をひねり出すと、そんな私の懊悩をかき消すかのように、フェンリルは古式ゆかしく告げた。先ほどまでの懸念や思案は何処へやら、その言葉に心が躍った。奴との決戦に備え、機械のセンサーが鋭敏化させると、同時にデータ処理量が増した。余計な作業が増え、処理に割かれる分は思考が遅くなるはずだったが、頭はやけにクリアだった。ノイズがまるで存在していない。おそらく意識が完全に奴を倒すと言う一つの事に集中したからだろう。明確な目的ができた事で、余計な階層が閉じられたのだ。要らぬ意識を切り捨てると、逆に機械の体が疼くような錯覚を感じた。

 

「尋常に」

 

疼痛にも似たそれを抑えながら、続きの言葉を返してやると、フェンリルは笑みを深めた。凶暴な瞳と大きな口は、私という強敵を前に喜びを隠しきれずウズウズとしている。奴の気持ちはよくわかる。私も、もう胸のざわつきが抑えきれないのだ。

 

「ショウブ/勝負!」

 

そして私たちは、互いの親交をさらに深めるため、己らの最も信ずる武器を手に飛び出した。

 

 

「あの、馬鹿……! 撹乱や掃討じゃなくて、一騎討ちを始めてる……! 」

 

シンとフェンリルが死闘を繰り広げる場所から少し南側に離れた銀座のビルの上、ガルムの目と鼻から逃れるために、視覚に潜むとともに、認識阻害の魔術を発動した凜は、慌てて魔術をキャンセルすると、樟脳を回収して、憎々しげに言った。凜は、エミヤから言われて買ってあった樟脳―――犬はこの匂いを嫌うらしい―――を魔術で作り出した風でばらまき、シンや自分がガルムの群れを出し抜いてフェンリルを奇襲して仕留める機会を作りそうとしていたのだ。

 

「え、と、あ、本当だ……! な、なんで……!? 」

「―――会話を拾うに、どうやらあの獣型の悪魔、フェンリルの方からもちかけた勝負にみたいね。シンはそれに乗っかる形で、その一騎討ちを受けたみたい」

「―――シン」

 

しかしシンは、そんな策略を待つことなく、自らの力のみでフェンリルの元までたどり着くと、どうやったのかは知らないが、シンはフェンリルという悪魔の心を擽り、周りのガルムたちを押しのけて、乱戦という不利な状況から、決闘という一対一の自身にとって有利な状況に持ち込む事に成功したのだ。流石はシンだ。凛の言葉を聞いて私は誇らしい気持ちになった。

 

「ったく、あの馬鹿……」

 

しかし凛はそんな私とは違って、悪態を吐くと、舌打ちをした。凛は酷く不機嫌そうだった。私は凛がそうして眉をひそめ、眼下に苦い顔を向ける理由がわからなかった。

 

「なによ、何か言いたいことあるなら、きちんと言いなさい」

 

凛は非常に鋭い声音で冷たく切り捨てるようにいった。私はその豹変ぶりに驚きながらも、尋ねる。

 

「……えっと、もともと二人の話だと、何処からともなく湧き出てくるガルムの親玉であるフェンリルを仕留めるのが目的なのでしょう? こうした作業も周囲の親玉を仕留めるための準備していたのであって、けど、期せずして、その機会をこちらで作らずとも、シンがフェンリルを仕留める絶好の機会はやってきた。なのに、なんで機嫌が悪そうなのかなって……」

 

すると凛は、私の質問に少し驚いた表情を見せたが、すぐさま気を取り直したらしく、自分を落ち着かせるためだろう、ため息を吐いて、まっすぐ私の方を見た。

 

「あのね、響。私はたしかにあの犬達の親玉をみつけて、攻撃の機会を作り出して、そいつを撃破する事で一体多の状況を打破しようとするシンの話に乗ったわ。でも私がその作戦に賛成したのは、意識の外から攻撃されるという予想外の行為がフェンリルという悪魔相手に最大の隙を生み、一方的に命を刈り取れるという有利な状況を作り出せるかもしれないと思ったからこそなの。けれど今、フェンリルという悪魔は、シンという男を強烈に意識して、ガルムの肉盾で隔離された空間のコロッセオのような空間の中で戦ってしまっている。今、この戦いはなんでもありの戦争から、ルールの定まった一騎討ちになってしまったのよ」

 

凛は酷く疲れた様子で、シンとフェンリルの一騎討ちの様子を眺めた。シンは敵の苛烈な攻撃を前に攻めあぐね回避に専念している。多分敵の隙を狙って一撃を狙っているのだろう。そしてその一撃が私たちの命運を決める一撃になるだろうことも、私にはなんとなく予測できていた。

 

「は、はぁ。でも、シンが親玉を倒せば問題ないんじゃ……」

 

私たちにとって、そうやってシンの一撃に命運を託すのはよくあることだ。そうして彼に命綱を渡して、私たちから命運を託されたシンが、それでも変わらない態度で機を伺いながら戦い、そして勝利を勝ち取るのもいつものことだ。私には凛が何を危惧しているのかわからなかった。

 

「わからない? つまりこれで、私たちは完全に手出しできなくなっちゃったのよ。迂闊に手を出せば矛先がこっちを向く。そうすれば、敵は勝負を受けたシンよりも、勝負の邪魔をしたこちらを許そうとせず、私たちを殺しにかかるでしょう。そうなれば、あとは後手、後手に回るのは目に見えてるわ。つまりこの戦いで私たちが生き残れるかどうかの行方は、完全にシンという彼の手に委ねられてしまったの。もう私に出来ることは、シンの勝利を祈るくらいしかできなくなっちゃったのよ」

 

私は凛が述べた最後の言葉で、ようやく彼女の考えと、思いが理解できた。なるほど、凛は自らの命運を他人、それも、出会って日の浅いシンに託す事が不安なのだ。彼女はきっと、自らの手で自らの運命を勝ち取りたかった。だからシンの親玉を一緒に叩く提案に賛成したけれど、でも、だからこそ、シンが一人で敵を倒す状況に持ち込んだ事を嫌ったのだ。

 

彼女はシンという男の強さと頼もしさを知らない。一応一回は戦闘を見ているが、それも大した強さでない相手との戦闘だったから、頼りにしていいのか判別しかねているのだ。あるいはエミヤのパートナーだといっていたし、彼の強さが基準になっているのかもしれない。

 

―――ああ、それなら理解ができる。

 

あのシンですら羨む強さを持っているエミヤが凛の強さの基準なら、不安になる気持ちも分からなくもない。私だって、シンより下の強さの人に命運を託す事となったら、同じような不安を抱くだろう。その気持ちはよくわかる。だけど。

 

「―――なんだ。そんな事ですか」

 

私は、シンのことをエミヤみたいに信じてもらえない事がちょっとばかり悔しくて、意地悪に胸を張ると、凛の言葉を軽くあしらってみせた。

 

「は……?」

 

凛は、私が、現状、窮地であると認識している場所において、なぜこのような楽観的な意見を述べて自分を小馬鹿にしたような態度を取るのか理解できなかったようで、心底不思議そうにあっけに取られた顔をすると、覗き込むようにして私の顔を見つめた。凛のそんな反応が小気味良くて、私は性格が悪い事を自覚しながらも、それでも胸を張って告げる。

 

「冒険者っていう職業は、いつだって他人に命を預けています。世の中は、特に、世界樹の迷宮は、理不尽で、起きて欲しくないことなんていくらでも起こる、協力し、信頼しあわないと生きていけない場所でした。だから私たちはいつだって、全力で一緒に迷宮に潜ると決めた仲間の判断と行動を信じ抜きます。だから、こんな事態は、いつものことなんです」

「―――」

「凜がエミヤを信じているように、私はシンの強さと判断と彼が勝つことを信じています。あの人は戦いの事となると暴走気味になりますが、だからといって勝算のない戦いを挑むほど馬鹿じゃありません。シンは強いんです。私は彼が勝つと信じています。だから、凜もシンの勝利を信じてほしい」

 

凛は再びあっけに取られた顔をしてみせた。しかし口を開いたその顔は、今度は猜疑心のような負の感情より生じた暗い雰囲気のものでなく、純然たる驚愕の感情から生じたものであると感じられた。

 

「―――参ったわね。こんな小娘に諭されるとは、私も歳をとったって事か」

 

凛はそういって額に手を当てて雅やかな挙措でかぶりを振ると、吹っ切れた顔をしてこちらを向いた。瞳は、自らの命運を無理やり勝ちとろうと企画していた、辣腕家じみた剃刀のように冷たい色が消え、一転して慈愛を含んだ優しいものへと変化していた。

 

「そうね。常に最悪の未来を想像して動き続けても仕方ないものね。“他人を信じて、まかせろ”、か。ふふ、私自身があいつに口を酸っぱくして言ってたことが返ってくるとは思わなかったわ。ま、長く一緒にいると自然と意識も変わっちゃうってことかしら。―――悪い気はしないけど、あいつの影響で感性が鈍ったのかと思うと、ムカつきもするわね」

「は、はぁ」

「ああ、気にしないで頂戴。こっちの事情だから。……、そうね。そういうことなら、彼を信じて待ちましょうか」

「―――はい」

 

凜が納得してくれたことに満足した私は、凛と共にビルの屋上の特等席から、一人と一匹の決闘の様子を眺める。フェンリルはしなやかで優雅な動きで攻撃と回避を繰り返している。まるで新迷宮の三層の番人のようだと思った。どうやら四足で地を這い駆ける獣というものは、皆同じように敵の周りを飛び回って跳ねまわって走駆して翻弄し、牙と爪を用いて敵を切り裂く戦い方を好むらしい。

 

一方で、シンはなんとも彼らしくない、力づくでの戦い方をしていた。彼は一振りごとに、足から火を吹き、背中の板や両腕の伸びる追加腕などを利用しては大きく敵との距離をとる回避運動をしている。その後、反撃に転じる際も、例えば右手の剣を振る軌跡も、左手の自身の体に引っ付いた大きな剣を振るう際も、やはり同じように全力でふるって、あるいは全力で自らの動きを止めて、シンはジグザグに動いて、反撃に転じている。

 

シンの一撃が、攻撃ごとに大きく宙を空振り、大地を割る。反撃の際に叩き込もうとしているのが刺突のような一点突破を試みるようなものであるあたり、おそらくあの獣は、三層の番人のように、毛が硬く、斬撃がまともに通らないのだろうな、と思った。だがああして、叩き潰すような一撃や、刺突を繰り返しているのだ。

 

しかし、それしか方法がないというのはわかるのだが、あのような急制動移動と力づくでの攻撃を繰り返していては体がもたないだろうとも思った。だが、シンという男がその戦い方を選択したのだから、案外あれが今のアンドロの体にとっての最適解なのかもしれないと思い直す。

 

「うーん、しっかし、あのシンって言うなんていうか、セイバーとかランサーみたいな華やかさや峻烈さがあるって言うのとも違うし、アーチャーみたいな緻密さと計画性がある感じでもない。なんていうか、バーサーカーの無茶苦茶さに近いわね……。本能的に近くの脅威を力づくで機械的に排除しようとしているっていうか……、あいつ、ホントに元はブシドーなの?」

 

そしてどうやら凛も先程までの私と同じような疑問を抱いたらしく、彼女は首を傾げた。

 

「ええ、そうですよ。―――でも凛の疑問はもっともです。今のシンの戦い方は、前のシンの戦い方と違いますから」

「あら、そうなの? 」

「はい。以前のシンはもっと繊細に剣を振るって、最小の動きで最大限の結果を手に入れる様な戦い方をしていました。多分、それが以前のシンにとって一番いい戦い方だったからなんでしょう。でもそれは出来なくなった。だから、戦い方を変えた」

「―――なるほど」

「シンはいつだって、現状を否定せず、ただ真っ直ぐ受け止めて、そして自分が持てる能力全てを発揮するために最大限の努力と模索をする人なんです。だから私は、今のあの“無茶苦茶に見える戦い方をする”シンも、ある意味でシンらしい姿だと思います」

 

 

「ヤルナ……! 」

「そちらこそ……!」

 

フェンリルはひらりと身を捩って刺突を避けて、爪を繰り出してくる。爪は鋭く、かすっただけでアンドロのボディに易々と傷をつけてゆく。また、その太い四足から繰り出される一撃は、まともに食らえばフレームが歪むだろう事を脳内のコンピューターは算出している。

 

つまり一撃たりと攻撃は食らえない。そして斬撃が効かないのは、これまでの戦いにて証明されてしまっている。私の持つ武器の中で有効打となりそうなものは、カムイランケタムや高周波ブレードを用いて、目や口の中を狙う刺突攻撃か、あるいは奴が体躯を折り曲げた瞬間を狙っての叩き潰すようなクラッシャーアームでも一撃。

 

しかしそれは奴も重々承知であるのだろう、奴は自らの口を大きく開けるような攻撃や、自信の体を縮めさせて、硬直する隙を作ってしまうような攻撃はしてこない。

 

そうこうしている間にも、体内にはどんどん熱が溜まりつつある。奴の速度に対抗するべく、体の動作の仕事量を最大にするべくアンドロのスキル『オーバーヒート』を用いて、威力と速度を上げる稼働をさせているためだ。熱は機械の体にとって最も忌むべき敵の一つ。熱はアンドロの回路の電気抵抗や稼働効率に多大な影響を与えるため、現在私の体は、一秒ごとに効率が落ち続け、動作限界時間が刻一刻と近づいて来ている。回路が熱で融解する時も近い。特殊に加工された生体部品は四十度を超えても凝固する事はないが、それも限界に達しつつある。お陰でだいぶ体のキレが落ちてきた。

 

「ドウシタ、シン! ウゴキガニブクナッテキテイルゾ! 」

「っ、ちぃ! 」

 

そうして体の動きの鈍さを意識した思考の隙を狙い、フェンリルの罵声と爪が飛んでくる。遅れながらもなんとか咄嗟に左腕を振り上げて奴の攻撃を捌くが、長いブレードの間を掻い潜って繰り出されたフェンリルの一撃は私のアンドロの顔面を大きく削り、右頬から右耳の辺りに等間隔な三爪の傷跡が刻まれた。

 

「―――っ!」

 

同時に、視界に微かながらもノイズが走り、直後、右視界の下部に不明瞭な部分と暗闇が生まれる。視界がブラックアウトするよりも早く敵の攻撃を払うため、私は瞬時に私の右から背後に抜けたフェンリルめがけて右腕に握った刃を振るう。すると背後へと振り回した刃はフェンリルの体を捉えた。硬質のものをぶん殴った感触が手のひらのセンサーより伝わってくる。遅れて打撲音が聞こえた。

 

背後に振り抜いた剣は物理攻撃無効の概念があるためフェンリルの体に切創をつけることはなかったが、それでもほとんど無意識のうちに繰り出した刀の一撃は、奴の体に衝撃だけは与えたらしく、呻き声を上げたフェンリルは地面を蹴って大きく跳躍すると、離れた場所に着地した。フェンリルはそして少しばかり苦い表情を浮かべるも、さらに私との距離を開けた。一旦の仕切り直しの空気が流れた。そして。

 

―――今の衝撃で視界の方にも多少影響が出たか

 

直前のフェンリルの攻撃と、私がフェンリルの体を殴った際の衝撃で、右の顔面に走っている回路が完全に千切れたらしく、右の視界は大きくブラックアウトしていた。これで一定の方向からの攻撃に完全に無防備になってしまった。

 

―――もはや長くは戦えない

 

悟った私は腹をくくると、愛刀のカムイランケタムを納刀すると、腰に帯刀した状態に戻し、右の拳を服の中、腹部へと突き入れ、左手の高周波ブレードを後ろ手に構えた。そして背部から攻撃を弾くリフレクターと、リフレクターの角度を変更するコンダクターを解放し、右半身に寄せる形で即席の盾を作ると、固く握りしめた拳を腹から引き抜き、クラッシャーアームの展開を始める。フェンリルは私が納刀し、今までと違った姿勢と武装を構えたのを見ると、口元を歪めた。

 

「―――ナニカタクランデイルナ? 」

「勿論。君を倒すために、全霊を以ってして企みを練っているとも」

「フ、フハハハハ! ソレハタシカニソウダロウトモ! 」

 

正直に策略を練っていることを告げると、フェンリルは心底愉快そうに笑い、そして全身に込める力をさらに力強いものへする。ひとしきり笑ったフェンリルは、その四足で思い切り地面を踏み締め、頭部を地面とスレスレの位置にまで構えた。姿勢は奴が全力で攻撃を仕掛けるという合図にほかならなかった。フェンリルは私の戦い方の変化から、私の限界が近いとを悟り、だからこそ、消耗戦の末の勝利などというチンケなやり方で勝ち星を得るのでなく、真正面から叩きのめす事でも完璧な勝利を求めたのだ。奴はやはり誇り高い獣だ。

 

「礼を言うぞ、フェンリル」

「ソレハコチラノセリフダ、シン。オマエハイッサイヒキョウナオコナイヲシナイ、スバラシイニンゲンダッタ」

「―――いくぞ」

「―――オウ」

 

もはや言葉はいらない。一撃を叩き込む。その思いの元、私とフェンリルは彼我の距離をゼロにする為動き出した。最高速で駆けてくるフェンリルに対して、私は本来なら攻撃を防ぐための背中のリフレクターを私と奴との狭間に配置し、前方に展開させたリフレクターのすぐ後方に右腕のクラッシャーアームを展開させ始めた。同時に高周波ブレードを展開させた左腕を後ろに引き、つまり、右手を直突の構えに、そして左手を刺突の構えにしてフェンリルの攻撃に備える。

 

フェンリルは自分の真正面に設置された罠を見て、笑みをふかめると、それでもまっすぐ直進してくる。どのような小細工であろうと、自分の身体能力と概念武装で真正面から打ち破ってみせるという気概は見事なものだ。だからその期待に応えるべく、私も真正面から抜かりなく奴を迎撃するための準備を整える。

 

迫り来るフェンリルの “物理攻撃を完全無効化する”という概念的な鉄壁の守りは確かに脅威だ。しかし、その概念武装は攻撃が奴の体を傷つける事を完全に無効化はするけれど、攻撃の際に生まれる衝撃などの威力まで完全に無効化する訳ではないらしい。

 

先程、咄嗟に繰り出したカムイランケタムの刀身が、奴の体を傷つけることはなかったけれど、奴の体に衝撃を与え、奴が一旦退いた事が、その証明と言えるだろう。その事実から想定するに、おそらくフェンリルの概念は厳密に言えば、“物理攻撃の完全無効”ではなく、“自身の体に傷が残る攻撃を外皮にて防ぐ”能力なのだ。

 

―――つまり、そこに勝機がある

 

私はフェンリルの接近に合わせてリフレクターユニットを地面に等間隔に突き刺すと、即席の壁盾とする。奴よりも比重の大きな金属の板だ。ぶつかってくれればそれだけで多少の衝撃が伝わってくれるはずである。無論、この程度の小細工がフェンリルに通用するとは思っていない。

 

しかし、足止めや、あるいは突撃の方向を指定する程度の壁にはなるはずだ。奴がそうして私の前に出来た壁を避けるために方向を転換するために一瞬速度を緩めるか、あるいはそのまま壁の直前で跳躍するかを選択するだろう。私の狙いはその瞬間だ。

 

速度が緩まったところを右手のクラッシャーアームで奴を拘束し、そのまま地面にたたきつけるもよし。あるいは左手の高周波ブレードを奴の体に叩きつけ、剣より発生する衝撃を叩き込むのもよし。そうすればあとは―――

 

「アマイゾ、シン! 『アギダイン』!」

「―――なにっ!? 」

 

勝利に向けての皮算用を弾いていた私は、フェンリルの言葉と行動に、たしかに自らの考えが浅はかだった事を思い知る。疾走するフェンリルの口が大きく開いたかと思うと、その口腔から、ガルムのそれとは比較にならない熱量を秘めた火炎の業火球が生まれ、前方へと吐き出された。疾走の勢いが加算された火球は即座に前方にあるリフレクターと接触すると、火焔と暴風を撒き散らし、生まれた火柱は天を焼く勢いで直上する。

 

「しまった、センサーが……!」

 

リフレクターと火球が接触したことにより生まれた熱と風が熱感知と赤外線と衝撃感知センサーに予想外の多大なノイズを発生させ、私は周囲の状況の把握が不可能となった。肉体であれば本能と勘でなんとか補えただろうが、機械の体となった今、それもままならない。

 

―――やられる……!

 

「……ォ! 」

 

直感が敗北の未来を予測した瞬間、過剰なノイズに真っ白になる視界と、全身がアトランダムな衝撃を感知する中、それでもなんとか機能を保っていた音声感知機能が、熱風吹き荒れる中、フェンリルの雄叫びらしきものを捕らえてくれた。場所は右斜め前方宙空。

 

「そこだ! 『ロケットパンチ』!」

 

もはや手がかりの失せた私は、今しがた聞こえてきた音の場所にフェンリルがいると仮定し、先ほどまでのフェンリルの動きと現在地からフェンリルの挙動を予測すると、誤差修正を済ませたのち、右腕の展開させたクラッシャーアームの右拳の中に握りこんでいたものを指と指の狭間に押し出して先端を拳の前面に固定すると、腕の肘から先をパージし、前方へ撃ちだした。熱風を押しのけて直進した拳が、数旬後の着弾予測の時刻と重なった瞬間。

 

「―――……オォォォ!」

「―――っ!」

 

周囲にて荒ぶっていた風と熱を押しのける暴風が着弾地点より発生し、やがて正常の機能を取り戻した音声センサーへとフェンリルの悲鳴が飛び込んできた。拳に挟み込んだ弾丸はライドウのくれた特殊弾で、『衝撃弾』という弾丸だ。着弾と同時に弾頭より衝撃を生み出すその弾が、おそらくフェンリルの体のどこかに当たったのだろうことが、その痛みを押し殺した呻き声じみた咆哮から伝わってくる。私は勝利を確信した。そして。

 

「おや、まだ動けますか。ではもう一発。『SAKO Rk95』、『終焉留める存在無き紐/グレイプニル』」

「オォォォォォォ! 」

 

勝利の余韻が脳裏へと押し寄せかけたその瞬間、幼げな声とともにタン、と短い銃声が響き、フェンリルの苦渋に満ちた叫び声が続いた。反射的に音響システムを起動させると、ピンガーを周囲に向けて発信する。そうして熱の無くなった空間の中をすぐさま泳いで往復した音波は、フェンリルのすぐそばに誰か小さな人型の生物が佇んでいる事を教えてくれた。

 

「フェンリル!?」

 

そしてやがて周囲からノイズの元となる熱と風がなくなりセンサーの機能が十全に動くようになった頃、慌ててフェンリルの方を見ると、彼の全身には白い紐が巻きついており、そして地面に縫い付けられているのが目に入った。紐はまるで縺れ糸のように自動的にフェンリルの全身へと絡みつき、彼の動きを拘束していた。

 

「―――グルゥゥゥ、ウッ、グゥゥゥ! コ、コレハ! コノヒモハ!」

「二発でもたりない、と。では念には念を入れて一マガジン分は使っておきますか」

 

全身を縛り上げられたフェンリルは必死に引きちぎろうとするも、続く銃声は、その二十九回も炸裂音を響かせ、秒速十五万回転以上の弾丸がフェンリルの体に瞬時に着弾した。すると、弾丸の弾頭は瞬時に白い紐へと変化し、先程と同様フェンリルの体に巻きついてゆく。紐はフェンリルがそれから逃れようと暴れれば暴れるほど、もがけばもがくほどに紐は体へと食い込んで、やがてその全身を覆っていった。

 

「―――! ――――――!」

「無駄です。『終焉留める存在無き紐/グレイプニル』は、フェンリルを捕縛するという目的のためだけに、頭部用、腕用、脚用の三種類の縺れ糸を特殊加工して7・62×39ミリの聖水加工済銀特殊弾頭に練りこんだ弾丸型概念武装です。それをマガジンとチェンバーの分、合わせて三十二発余さず叩き込みました。いかに“フェンリル/貴方”が“テュール”のようであると認めた“人物/シン”に “フェンリル”と認められれようと、―――いえ、“フェンリル”として認められ、テュールの腕を噛み砕いた“フェンリル/貴方”だからこそ、銀の弾丸という狼殺しの弾丸としても性質も兼ね備えた『終焉留める存在無き紐/グレイプニル』の束縛から逃れることはできません」

「―――ッ! ――――――ッ! ―――ッ!」

 

フェンリルは口元から頭部、胴体、四足にかけてまでぐるぐる巻きに捕縛され、動けない。彼をそうして完全拘束してみせた下手人は、ゆっくりとした足取りでフェンリルのすぐ真横に移動すると、空になったマガジンを交換し、彼の傍に落ちていた私のパージした腕を拾い上げた。硝煙を発する銃口をフェンリルの方から私へと向けなおした小さな彼女は、短くまとめられた黒髪をかきあげ、白衣を翻す。私はその姿に見覚えがあった。

 

「……、君は」

「オ、オマエハ、オレタチノショウカンシャ! オマエ! ナゼフェンリルヲウッタ! 」

「ガルムたち。申し訳ありませんが、今、貴方達に用はありません」

「―――何!?」

 

やがて遠く向こう側、突撃銃のマガジンを入れ替える女性の声がその場に響き渡った瞬間、ガルムたちの声が一斉に聞こえなくなった。ガルムたちは彼女の言葉に素直にしたがって口を閉じたのか―――、いや、違う。

 

「―――! ―――!」

 

ガルムは薄い緞帳の向こう側、光の遮蔽された空間の向こう側で困惑しながら口をパクつかせ、そして周囲を必死の形相で見回していた。その様子から、ガルムたちは、目の前にいる私とフェンリル、そして体に対して大きな突撃銃を構えた彼女を見失っているのだと私は直感した。

 

「―――君は何者だ。どうして私達は君に気付かなかったのだ」

 

肉体の第六感は失われていても、魂が持つ直感が目の前の見覚えのある少女は危険であると告げ、思わずそんな疑問の言葉が口をついて出た。彼女は体躯と見た目に合わない妖艶な笑みを浮かべると、言った。

 

「シンである貴方がそれを望むのでしたら、私は答えましょう。名は全ての力の源。名に込められた意味を知るものは、その力を十全に発揮することができる。私の名は“サコ/sako、saco”。AK47より発展した銃の名を持つ私は、兄という“光/o(ヘブライ語)”を失い、しかし“神の息吹/er、el(ヘブライ語)”を受けたことにより、同時に“サケル/sacer(ヘブライ語)”、すなわち、“法の外に遺棄された存在/homo sacer(ヘブライ語)”ともなった。私は、『SAKO Rk95』という銃の名を冠するからこそ、このような体で突撃銃から弾丸を発射しようとその反動に悩まされることはないし、“homo sacer/ホモ・サケル”という剥き出しの生という概念の名を持つからこそ、銃を撃ち他者を傷つけるというその寸前までその瞬間まで誰からも認知されることはないのです」

 

サコ、いや、サケルという彼女は、不敵にも、敵であるだろう私に対して自らの能力を易々と明かす。しかし彼女がそうして語る態度には嘘がなく、だからこそ私を不安と混乱の渦中へと叩き込んだ。

 

第六話 終了

 

 




この物語に登場する外国語は、主にラテン語、ヘブライ語、ルーン語、ドイツ語、アイスランド語、フランス語のアルファベット26文字変換バージョンを利用しています。本来ならば言語に合わせ、元々の文字を使うのがよろしいのでしょうが、使っているソフトが対応していないので没としました。ただし、今後の話は複数の言語を元に話を組み立てており、そのままですとわかりにくい部分もあると考えたので、今回から元の言語が何かわかりにくそうな部分は試験的に注釈をつけることにしました。ご了承ください。


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第七話 夢の終わり、現実の始まり

第七話 夢の終わり、現実の始まり

 

 

同じ経験を積み重ねなければ属さない他者と理解し合えない。同じ経験ばかりを積み重ねると、自らに属さない性質を持つ他者の事情が理解しにくくなる。

 

そうして自らに属さない成分のみで構成されたと思わしき他者の中にも、実のところ自分は存在しているのだと理解してしまうのが、万人が望む正義の味方を演じる始まりで。

 

しかして後に、実のところ万人は『万人を救う正義の味方』なぞ求めておらず、余すことなく自分の成分のみで構成された、自らにとって理解可能な正義の救いのみを求めているのだ、と、理解したその瞬間こそが、万人が望む正義の味方の終焉だ。

 

 

帝都 千寿区深川

 

 

「思った以上に手がかりを得られたな!」

 

鳴海は上機嫌に鼻歌を歌っていた。彼がそうして上機嫌なのは、悪魔事件の被害者たちの情報を得られたから、という理由以上に老舗の遊郭一の花魁や、綺麗どころを集めた女たちにちやほやされたから、という理由であることは明白だった。

 

―――やれやれ、少しばかり浮かれすぎてやしないかね

 

以前までの私ならば犠牲者が出た事件の調査に対して私情を挟み込み、女と話すことを楽しむ彼のこんな態度を責め立てたかもしれない。というか、忠言と思って説教じみた言葉の一つくらいは投げかけただろう。

 

だが、今の私は彼のそんな態度を特別責め立てようという気にはならなかった。考えてみれば、鳴海がそうして男をたてる美女と接して愉快の感情を露わにするのも、私がそんな彼の態度に不満を抱くのも、それぞれの感情を大元にしたものであると気付いたからだ。

 

同じ話題はどちらも感情を元に言葉が発せられている。同じ事象に対しても、同じ捉え方をするとは限らないし、そんな軽薄な態度を見せたからといって、彼が被害者の女性たちに対して何の感情をも抱いていない訳ではないということを、私はつい先ほど理解したばかりだ。

 

鳴海は誘拐された彼女らに対して同情心を抱き、誘拐者に対して憤慨し、彼女たちを必ず取り返す、と、琴水という花魁に力強く述べて見せていた。彼の態度や言動が軽薄なものであるのは事実だが、それは切り替えが早いというだけの話であって、薄情なわけではないのは私とて理解している。むしろ、花魁の涙流しながらに心配を誘うような話に乗らず、淡々とただ事実を抽出し、脳裏のメモ帳にまとめていただけの私の方が、よほど薄情者と言えるだろう。だから私は、彼の愉快な感情から繰り出された私にとって不快な話題に対して、私の感情をあまり表に出さないよう努めながら、彼の言葉に乗っかる形で言葉を返した。

 

「ああ。特に、被害者の名前と背景、出身地がわかったのは大きかった」

「山陰の絲原、櫻井、田部のお嬢さん、だったっけか。―――元はお嬢さんも文明開化の波に乗れないと、『補陀落』へと落ちる、か」

「自ら望んで海の向こうへいったのならまだしも、親に売られた末の入水とあっては彼女らも仏になるのは難しかろうな……。諸行無常だな」

「―――補陀落。観世音の住む霊場、か。一夜の恋を求める客からすりゃ、女の下半身の観音様に自分の魔羅/マーラをぶつけるを遊びは倒錯的、頽廃的で楽しいのかもしれねぇが、そこに住まう者にとっちゃ皮肉が効いててたまったもんじゃないだろうな」

 

鳴海の言葉に私は思わず彼の方を覗き込んだ。私は彼に好色の気があるのを知っており、そして彼が遊郭をよく利用する人物だと知っていたので、そうして自ら好んで利用する場所を乏したのが意外に思えたのだ。彼は驚き眼を見張る私の視線に気がつくと、意地の悪い笑みを浮かべて、全てを見抜いたぞ、と言わんばかりの視線を向け返してきた。

 

「ははぁん。さてはエミヤ、お前、俺がこんな話をするのが意外だったな?」

「いや―――」

 

思わず否定の言葉を発しそうになった口を無理やり閉ざす。おそらく、世界の走狗として利用され、心身が磨耗しきってしまうほどの長い期間、罵声と皮肉を発することにしか脳と口を利用せず、両手と全身にて他者を排除する事しか行ってこなかった弊害だろう、私は今、そんなことはない、と、社会の良識に則った答えを返そうとした。それが最も円満に社会を回す手法だと理解しているが故に、私はそうした答えを返そうとしたのだが、けれど、それはいかにも自分の心から発した答えではなく、彼ではなく、私の中にある正しい社会のルールに則った礼儀作法の答弁として、そんな言葉を返そうとしたのだと気が付いたのだ。

 

きっとその言葉を返せば、大人のルールを知る鳴海はそれに則り、適当にお茶を濁す言葉をかえして、そして世界は進むだろう。それはいかにも正しい社会に基づいた大人の論理で、しかしいかにも、彼という人物の感情と向き合っていない、下卑た逃げによる反射の返事であると、今の私は認識した。だから。

 

「―――いや、そうだな。私は君のことを見くびっていた。もっと教養のない人間かと思っていたが、だが思い返してみれば、元は陸軍の秘密部隊軍役を抜けた兵士であるというし、存外、そうでもないということか。素直に驚いたよ」

「……、エミヤ。お前、はっきりいうね。―――ま、変に気ぃ使われるよかましだけど、それでも、もうちょっと気を使った言い方ってもんがあるんじゃない?」

「ガチガチに美辞麗句で固めた言葉の方が良かったかね?」

「いいや、まったく」

 

鳴海は言うと笑った。とても自然に、感情から生まれた笑みだった。作られたものでない笑みは、それだけで周りにいるものを愉快にさせる。あるいは、感性や性格の違う彼にに対してそう思えるようになったのは、つい今朝がたの事であるのかもしれないが、私はそれでも良かった。そうして社会に迎合するために作り上げた仮面を取り外して、感情の迸るままに下らぬ話をするというのは、中々刺激的であることを、私はようやく思い出したのだ。

 

―――ああ、懐かしい

 

思えば、古くは中学、高校までの学生時代あたりは、このように同じ常識と社会性を保有する相手との下らない会話を楽しんでいた気がする。……、なるほど、私はようやく過去の自分が立っていた場所に再び立つことができたのだ。そう思うと、胸を擽る達成感とともに、過去の自分に対しての醜い嫉妬心のようなものが湧き出てきた。いや、それは嫉妬というよりは、もっと別の、ドス黒い、後悔という名前のものだった。

 

何故自分は持っていたものを手放してしまったのかという後悔が、全身を貫き押し寄せる。現実を知らぬ餓鬼であった頃の方が、技術、思想ともに未熟だった頃の方が、実のところ、人を救うための真理の側にいたのだということを、今、あの過去の自分との直接対決にて負けた晩以上に自覚し、それが羞恥となり、あっという間に凝り固まって、嫉妬へと変貌したのだ。そうして過去の自分に対して敗北感を味わった私は、過去にできたことを出来なくなったという老いに対しての敵愾心のようなものを無理やり心の外に追いやると、そんな自分の醜き嫉妬の感情の波に押し流されぬよう、あえて理性的な話題を口にする。

 

「さて、鳴海はこの事件をどう見る? 何故、言峰綺礼という男は、補陀落という遊郭から二人を攫い、そして残る一人も攫おうとしたのか」

「どう……って、俺は人間のあれこれに対して探る方面が専業で、悪魔の専門家じゃないからなぁ。被害者の名前と出身地、背景がわかったところで、さらなる調査のための材料が手に入ったな位にしか思えなかったわけだが……、そう言い方をするってことは、エミヤ。さてはお前、言峰綺礼の企みをある程度推測できたな? 」

 

どうやらこの鳴海という男は、なるほど、たしかに一頭地に本拠を構えて探偵業を営む実力だけのはあるようで、人の言葉から心の機敏を読み取るに長けていた。私は少しばかり戸惑った。確かに私は奴が何故その新米遊女ら三人……いや、二人を攫い、一人を攫おうとしたのかの理由を見つけることはできた。だがそれは、あくまで私の世界の知識により導き出された結論であり、この私が生きていた時代と、時間軸や背景が異なる異世界においてどこまで正しいと言えるか甚だ疑問だったのだ。だからこそ私は一瞬そんな不正確な情報を伝えていいものかと逡巡したが、どうせわからないことだらけなのだから恥をかこうが、自分の意見を述べて修正してもらった方が手っ取り早いかと考え直し、「あくまで私の知識と記憶による予測だが」、と、一言事前に告げると、そのまま言葉を続けた。

 

「……、山陰の絲原、櫻井、田部といえば、奥出雲のたたら御三家。有名な鉄師氏だ。古くは江戸、近代では大正にかけて製鉄に従事してきたが、大正という時代が十年も進んだ頃、海外との貿易が活発になると、安い洋鉄に負けてたたらを廃業せざるを得なかったという」

「ああ、そういえば、軍にいた頃聞いたことがあるな。なんでも、質が悪い鉄が使われるようになったとかで、鉄製品の耐久だのが悪くなって、銃身の暴発増えたとか、落ちたとか文句を言っていた気がする。たしかお偉いさんは、金屋子神の加護がどうとか……」

「それだ。おそらくそれが核心だ。おそらく奴は、金屋子神に関連したなにかをしようとしているに違いない」

「へぇ?」

 

鳴海は間抜けな声を漏らした。自分が対して意識せずに漏らした言葉が事件の核心をつくなどとまるで思っても見なかったのだろう。

 

「どういうことだ?」

「彼女らは今でこそ零落したとはいえ江戸から続くたたら製鉄の御三家で、三百年近くもの間、たたらを続け、玉鋼を作り続けた存在の末裔だ。金属の神である金屋子神とは常人よりも親和性が高かろう。―――この世界は、神霊すらも悪魔という名称で括り、跋扈する事を許容するこの世界だ。また、神霊と関わりの深い縁を持つという事は、関連した神霊を呼び出しやすいということに通づる。そこにきて、金属の神である金屋子神と関わりの深い彼女らが言峰綺礼という男に攫われたというなら、「言峰綺礼という男は、金屋子神に関連したなにか利用しようとしている」、と、こう考えるのが自然の流れではないだろうか」

 

そう告げると、鳴海の目が鋭く光る。

 

「―――奴の狙いは何だ? そこまで読んだからには、エミヤ、お前、奴の狙いの大筋のいくつかくらいは思い付いているのだろう?」

 

鳴海の口調は鋭く、確信を帯びていた。瞬間、私の脳裏に迷いが生じた。迷いはやはり、私と彼は違う考え方をする人間で、鳴海は他人の考えを素直に受け入れられる人間なのだというちょっとした羨む感情に基づくものだった。

 

「―――先も言った通り、金屋子神、というのは日本古来、山陰あたりを発祥とする金属の神だ。それに関連する女を攫ったからには悪魔召喚のための触媒として攫った、と考えるのこの世界では自然なんだろうが……」

「だろうが?」

「―――金屋子神は女を嫌うという言い伝えがある。女神ゆえ、あるいは木花開耶姫だからという説もあるが、とにかくそのような風聞の方が多く流布している以上、ならば、触媒に使うにしろ、神使役の存在として使うにしろ、男を贄として用いる方が、神が召喚者の要請に応じて協力してくれる可能性は高まる。琴水に聞いた話によれば、彼女らの親族のうち、親父や男どもの一部はこの帝都に残っているという。金屋子神の触媒にするなら、そちらを選べば済む話だ。少なくとも借金のかたに身売りされた遊女たちを攫うよりも楽であるし、何より、借金を背負った彼らが消えたところで、話題として目立ちにくい。もし消えたのが彼らだったのならば、帝都の人々は、男たちはたいそうな借金があるという状況に耐え難くなって逃げたのだろう程度にしか思うまい。つまり、事件としてではなく、単なる経営破綻の果ての失踪として考えられる可能性が高くなるはずだ。その方が、ヤタガラスに不審がられる可能性も低いはず―――……言峰綺礼という男は、唯一神の教徒であるが、魔術の系統にも詳しい。というよりも、金屋子神関連の娘を攫っているのに、その程度の不利益を知らないはずはない。だがそれでも、言峰綺礼たちは、目立ち、金屋子神の触媒になりにくい彼女らは選んで、誘拐したのだ。ならば、そこにはなんらかの意図があるはずと考えるのが自然だろう?」

 

鳴海は長ったらしい私の説明を聞くと、眉間に皺を寄せながらもなんとか話の論点を理解をしようと務め、考え込んでいた。その理解に努める態度は私にとって好ましいものだった。思えば自身の率直な考えを隠さず他者に述べて、そしてそれを他人に受け入れてもらえるなどというのは、一体、いつ頃以来のことだろうか。

 

戦場を駆け巡り、説得に応じない他人との接触が起こる度、瞬間だけの闘争という対話の結果、私の手は血に濡れ、一方的な勝利を得るという虚無感だけが残ったものだが、今は違う。鳴海という大正の時代という私の起源にあたる価値観を持つ、それでいて私と異なった性質を持つ男は、私の考えた意見を受けいれて思考を働かせている。それは他者から理解されず、拒絶の剣を突きつけられ続けてきた私にとって非常に心地の良いもの態度だった。

 

「―――よし、わかった。とりあえず細かい理屈は置いとくとして、お前が、言峰綺礼が金屋子神という悪魔に関連した何かの出来事を起こそうとしている、と睨んでいることは理解した」

「―――そうか」

 

それがたとえ、俺ではお前の理屈を理解しきれない、という返事であったとしても、他者の中に私の一部が取り込まれ、目の前のそういう存在なのだときちんと理解され認識されるこの感覚は、なんとも得難い快楽である。鳴海は軽薄ではあるが、偽りなく自身の状態を述べる男なのだ。そう言った自身が持ち得ない素直な部分を、私は好ましく思った。

 

「それでエミヤ。お前さんの事だ。実のところ、そこらのもっと踏み込んだ事情にも、あたりを付けていられるんじゃないか?」

 

だから私も、なるべく素直な彼に対しては誠実に、実直な回答を返そうと考えた。

 

「―――干将・莫耶という武器がある」

 

とはいえ、いきなり結論を述べたところで彼に理解できるとは思えない。また、いきなり結論から入るという話し方というものが、急速な変化を伴うと云うそんな話し方が、空気を読むという日本人の気質に受けないことを私は理解していたため、私はまず本題の話に入る前に、語ろうとする事実を理解するに必要な知識を彼に説明することとした。

 

「……、ああ、聞いたことがある。昔、中国の方で作られたっていう双剣だろ? 確か、中国の王様が鍛冶屋に作る際、一悶着あったっていう」

 

そうしておそらく鳴海もそんな私の意図を汲み取ったのだろう、話に乗ってきてくれた。わたしは鳴海のそう言った思慮に感謝を送りつつ話を続ける。

 

「ああ。ざっと説明すると、昔、呉王が鍛冶屋干将へ最高の二振りの剣を作るように命じた。干将は命に応じて最高の材料をかき集め、まずは刀の材料である鉄を精錬するため、炉心を動かそうとした。しかし、不思議なことに炉心の温度は安定せず、困った干将は、炉心の温度を安定させるために妻、莫耶の爪と髪を捧げたという」

「へぇ、爪はともかく、髪といやぁ女の命に等しかろうに、健気な奥方だねぇ」

 

私の話を聞いた鳴海は、話の大筋ではなく、枝葉の部分であるはずの女性の気持ちに着目した意見を返してきた。なんともらしいと言うべきか、否、あるいはそんな彼の思考こそが、今の私に足りない余裕や情、と言う奴なのだろうと分析した。

 

「―――さて、鳴海。爪、髪は、すぐに伸びる、という特徴から生命のシンボル、あるいはそのものとして呪術的には扱われ、代用される、あるいは代言される事が多い。また、少し話を戻して金屋子神だが、この神は通常の日の本の神道的神にしては珍しい穢れを好む特徴を持っている。かの神霊は、たたらの周囲の柱に死体を括り付けると良い鉄が生まれるという伝承があるのだが……」

「うげぇ……、なんだそりゃ。なんとも悪趣味な……」

「実はこれらは科学的な理由で説明できる。死体は単なる鑑賞や儀式、呪術の材料なのではなく実用性を持った温度調整の道具―――、死体に含まれるカルシウムは炉の温度を調整するのに一躍かってくれる。莫耶の妻も、干将の師匠である欧治子がかつて自身の身を犠牲にし、炉に投げ入れたことを思い出して名剣を生み出したが故に、爪と髪を投げ入れることを思いついたというのだ。―――魔術的な視点から例えるなら、人の犠牲を、人身御供を炉心の神たる金屋子神は喜び、贄の代わりに、良質な鉄やそれを生み出す環境を人に授けたもう、とでもいったところかな? 」

「お前もよくそう平然と悪趣味な話を出来るなぁ……。しかしまたなんでそんな話を……」

 

そこまで言って鳴海は黙り込んだ。私からいくつかの情報を与えられた彼は、それらの情報を結びつけ、私の言わんとしていることを理解してくれたらしい。

 

「―――つまりはなんだ? 干将・莫耶の逸話とやらで捧げられた爪と髪ってのは、実は女房自身で、同じように、言峰綺礼は、良質な鉄を作るために彼女らを攫った、と、お前はそう睨んでいるのか? 」

「あくまで可能性の一つとして考えている、ということさ。だが同時に、私は、高い確率でそうではないかと考えてもいる」

 

かもしれない、と言いながら、断言に近しい口調で私が述べると、鳴海は真剣さを保ったまま尋ねてきた。

 

「なぜだ?」

「言峰綺礼の崇めるあそこの神、YHVHは女嫌いで有名だからな。贄以外の要因で女を欲するような真似をするとはおもえん」

 

 

「ひどい言い草をする。だが真実でもある」

「―――」

 

鳴海に対して放った言葉に対して、何処かより返ってきた耳朶を打つ声は私の聞き覚えのある声であり、それに思考が応ずるよりも先に、体が反射した。そうして私の体が反応し、視線が声の主人の元へとたどり着くまでの間、私の思考は周囲の光景をスローモーに捉え、そして同時に、その瞬時の間に、私は周囲の異変に気がついた。まだ太陽が頭上にて燦々と輝いている時刻だというのに、人通りがまるでない。遊郭街の近くであるということを差っ引いても、あまりに不自然すぎる静寂は、周囲に異常が起こっていることの証左だった。

 

「あいつは……」

 

鳴海の声が無人の道路に響く。普段の声よりも小さなボリュームの彼の小声がやけに大きく聞こえたのは、疑いようもなく、人払いの魔術が使用された証だった。声の先にいるこの術式を施した人物を眺める。背の高い深掘りのその男は、腕を後ろに組み、この世の全ての闇を凝縮したかのような黒いカソックを纏い、なんの感情もこもっていないかのような胡乱にもみえる、しかし真っ直ぐな視線を私たちの方へと送ってきていた。奴の姿はいつぞや真夜中の異界の中で出会った時よりもはっきりとした像であったにもかかわらず、太陽の下にあるその姿には、まるでそこだけ太陽の光が当たっていない以下のごとき深く、静かな陰鬱さと暗澹さがあり、瞬間、私は私の中の『言峰綺礼』という人物の記憶が劣化していたことを認めざるを得なかった。

 

「言峰……綺礼……!」

 

私が奴の名を口にすると、奴は静かに両唇を釣り上げた。そんな落ち着いた挙措のひとつですら、神経は危険を感知して体が戦闘の状態へと移行させられる。脳髄から指先にチリチリとした感覚が流れ込む。思考も直観も、感覚も感情も、その全てが今すぐ奴を排除するべきだと訴えかけていた。ああ、これだ。これが言峰綺礼という男だ。若い頃の私が絶対に生かしておけない悪であると判断し、薄れていた情動を取り戻したばかりのこんな状態の体の今でさえ、なおも全身が、私と相容れぬ者だ、と、判断するそんな男。悪の容認者。他者の不幸を喜ぶ男。衛宮士郎という、他者の喜びを糧とする存在の対極にある男。

 

「え……、え? あ、か、カソックに長身の深掘りの日本人……―――ちょ、ちょ、っと、まてよ! じゃ、じゃあ、こ、こいつが」

 

鳴海は言峰を指差すと、私と言峰とを交互に見やると、ひどく狼狽えた様子で、尋ねてきた。

 

「ああ。私の……、いや、私たちの探していた、事の真相を知るだろう人間だ」

 

奴から視線を外さないまま返答する。何があっても即座に対応できるよう、周囲に気を配り、全身を脱力させておく。奴の狙いはわからないが、少なくともこうして人払いの結界を敷かれた時点で奴の後手の回ってしまった事だけは確かなのだ。だからこそどんな事が起ころうが柔軟に対応でいるように心構えと体作りだけは行っておく。奴の用意した俎板の上に乗ってはしまったが、その上でまんまと活け造りにされる気は毛頭ない。

 

「―――ふ……」

 

やがて遅ればせながらも、私の態度の変貌と、周囲の異変と、場の緊張感から空気を読み取った鳴海とともに正攻、奇襲に備えていると、眉尻を緩め、息を漏らして、構える私たちを嘲笑した。私たちは警戒を崩さない。

 

「……、反応なしか。嫌われたものだな。―――まぁ、我らの間柄を考えれば当然か」

 

言峰はそんな私の態度を見て、悠々と首肯する。余裕の態度が挑発を伴っているのかまでは計り知れないが、少なくとも、真実、奴が二人の男から敵意を向けられているこの状況に危機感を覚えていないのだけは確かなようだった。奴が見せる余裕が罠のように見えて警戒を密にする。張り詰めた空気が色濃いものになったのを感知した奴は、一層嘲笑の態度を露わにして、含んだ笑い声を漏らした。

 

「警戒するな、といったところで、それを律儀に聞く貴様ではないか―――」

 

―――来るか

 

奴が言葉を切って息を呑み込んだ。挙動の直前の動作か、発勁の準備かと警戒したが、しかし奴はそうして息を呑んだまま動かない。

 

―――何が狙いかだ

 

そうして奴の挙措に集中していると、強化した耳は少し離れた場所より人の声を拾って来る。少しばかり焦燥感を抱く。どうやらこの場所を中心とした一定の空間に人払いの結界は敷いてあっても、遮音の魔術は併用されていないようだった。悲鳴や銃声、破砕音がすれば、訝しんだ人々や警官がこちらへとやって来る可能性は高い。そのように無関係な一般人を巻き込んでしまうのは私の最も嫌いとするところ……。

 

―――くそっ

 

つまり、私は剣戟や銃声、破壊音を放つような攻撃は控えつつ、戦闘の範囲を広げないように気を配りつつ、鳴海を庇いながら奴と戦闘をしなければならなくなってしまったというわけだ。相手が最も嫌がるように、一つの仕掛けに二重三重の意味をもたせ効力を発揮するように仕組むあたり、奴らしい周到さと老獪さだ。相変わらず人の一番嫌がる部分を見抜くに長けている。しかし、なるほどなんとも奴らしい―――

 

「ならば一方的にこちらの要件を伝えるだけ伝えて去るとしよう。―――アーチャー。いや、罪人達が栄華を謳歌する偽りの黄金時代を壊し、煉獄に叩き落とした英霊エミヤよ。喜べ。此度私は、貴様が正義の味方になる機会を与えに来てやったのだから」

 

そうして葛藤する私の頭を、奴の言葉が斬り裂いた。

 

―――喜べ

 

運命の演出か、その言葉は、若かりし頃の私が、奴と始めて出会った折、もっとも私の心に影を落とした、“正義の味方”の在り方を葛藤させる言葉だった。

 

 

帝都 晴海町

 

 

足元で黒猫が一鳴。一般の人からすればニャアとしか聞こえないその一言を、しかし猫のすぐそばにいた少年、葛葉ライドウという彼は頷いて同意した。

 

「―――もう道行く百人ばかりに話を聞いたけれど、妖しい人物は見ていないという回答ばかりです。―――言峰綺礼という男、こちらには来ていないのでしょうか?」

『わからん。だが、悪魔を用いての『読心術』を用いて、道行く人々の本心を覗き込んでいるのに、何一つ手がかりが掴めんのだ。少なくとも、市井の人々に目撃されていない事だけは間違いはないのだろう』

「―――確かに」

 

ライドウは一旦腰を落ち着ける場所として階段の縁を選出すると、そこに腰掛けた。ゴウトはその隣に静かに佇む。そうして少しばかり疲れを癒していると、ゴウトはポツリと言葉を漏らした。

 

『あやつら、上手くやれていると良いのだが……』

「―――彼らの動向に何か不安が?」

『……、ライドウ。お主は彼らという人間たちをどう見る?』

「―――信頼できると思います。それに、悪い人間でないことは、ゴウトも『善悪探知法』で確認したのでは? 」

 

ライドウがいった『善悪探知法』とは、対面の折り、相手の本心が分かると念じつつ、『神火清明、神水清明、神心清明、神風清明、善悪応報、清濁相見』と唱えることで、対面した相手が自分にとって良い人間であるか、悪い人間であるかを知ることのできる、神道系の呪いだ。ここ数年の事件において、身近、あるいは、自分らと接点のあった思わぬ人物が帝都を脅かす事件を引き起こしているという事態が数度続いたことから、ゴウトやライドウは初対面の人物に対しては必ずその呪法を用いて善悪の判別を行なっている。

 

『無論だ。否、それ以前に、彼らが悪しき人物でないことを、呪い以前に、儂の長年の直観は一目で見抜いておった―――だからライドウ。これはそういった意味の質問でなく、お主という人間が、彼らという人間の性格をどう見るかという話なのだ』

 

ライドウは、ゴウトが自分に問うているのは、彼らの能力や信頼がどうこうと言った話ではなく、自身が彼らの人格についてどう思っているのか、と問うているのだとようやく理解した。ライドウはゴウトの意図を汲むことができなかったが、おそらくこの問答には、そして、この問答の先には、なんらかの意味あるものが隠されているに違いない事だけは確信した。だからライドウは、ゴウトの問いに、目を瞑りじっくりと考え込んだ。そしてライドウは、しばらくした後、瞼をゆっくりと開けてゴウトの方へと視線を戻した。

 

「―――シンは、ヨシツネやクー・フーリン、フツヌシのような、誇り高く、自身の誓約に殉じる武人系の性格。響は、葛葉ゲイリンたる『凪』とモー・ショボーのような不安定で感情と理性の間で揺れやすい未成熟な少女の性格。凛は、スカサハやアルラウネのような情感豊かで人を慮ることのできる、理性で感情を制御できる成熟した女性の性格。そしてエミヤ……衛宮士郎という人は―――」

 

そこでライドウは言葉を止めた。人の性格をどのように思うか、と問われた際、共通しての知人に例えるという行為は便利だ。それは細かい説明抜きで自分がその人物をどのようにカテゴライズしているかを評する事ができる。しかして、ライドウはエミヤという人物をさっと誰かに例えることができなかった。ヤタガラスの使者から譲歩を引き出す強かさと、上位悪魔と戦うことのできる突き抜けた強さを持ちながら、人間臭さを捨てていないという彼に当てはまる人物がライドウの脳裏にパッと浮かばなかったのである。とそこでライドウは深く考える。

 

―――エミヤという男が、理性的かつ聡明な人間であるのは確かだ。初期、ヤタガラスの使者との交渉において、自らの立場が不安定な状態であるという状態を逆手に取り、自らの強さと持つ情報という手札を必要に応じて粛々と晒しながら自身や、自身が追う言峰綺礼という男を放っておけば不穏分子になりかねない事を説明し、そして自らにとって有利な条件でヤタガラスとの協力関係を結んだ手腕は見事というほかない。

 

かといって完全に自らの打算や理のみで事を進める情の無い人間というわけではなく、彼が感情豊かな人間であることは、自らに益や理がないと知りながらも自らに見返りのない提案をしてくれたり、あるいは、時に自らの胸の裡に湧き上がった怒りを抑えきれず暴走し、その後、罰が悪い顔を浮かべ謝罪してみせるような彼の様からうかがい知ることができる。普段は打算と損得を考えて冷静に動きながらも、心の大事な部分を踏み荒らされると怒るあたり、エミヤは鳴海という男で例えるのが、最も適当なのかもしれない。

 

―――しかし

 

だが、そこでライドウは考える。エミヤは、鳴海とは異なり、戦闘面においての直接的な、悪魔という異常存在と真正面から戦えるだけの戦闘力を保有している。しかして、彼のその戦闘力は、源義経やクーフーリンの如く純然たる戦闘の才能に基づいた強さではなく、弱いなりに戦いを凌いできた膨大な戦闘経験に基づく老獪で弱者的な強さだ。それは言い換えるなら、自らの苦手とする分野において勝ち続けたと言うことの証だ。

 

しかも彼のこれまでのあり方から考えるに、彼のその力は、自らの欲望を満たすためではなく、誰かに救いを齎すために古い続けた結果、得たものなのだ。そうでなければ、ソロネ戦において、ああも自然に自らの身を最前線に晒し、傷つく提案を受け入れなどすまい。すなわち、エミヤという男は戦闘という行為の才がないながらも、直接的な暴力の被害にあっている誰かがいる場所に多く飛び込み、彼らの為に身を張って戦ってきたという事になるだろう。であれば、エミヤというとこに戦いの才能というものがないとい部分を棚上げして考えてしまえば、エミヤという男を表すに相応しい人物とはつまり―――

 

「―――衛宮士郎という男性は、歴代『葛葉ライドウ』の名前を受け継いできた先代達に並ぶような、立派な性格の人物であると思います」

 

エミヤという男は、自らの弱さを弱いと認め、そして弱さにめげず、現実の課題に対して真正面から立ち向かい、対処してきた男であるという事だ。ライドウはエミヤと重ね合わる対象を、現在この時に存在する人物から、過去の時空軸に存在した人物へと変化させることで、ようやくエミヤという男の人物を他の誰かに当てはめることが出来た。ライドウの言葉にゴウトは頷く。

 

『うむ。まぁ、そうだな、その通りだ。他者の悪しき気持ちの変化に聡く、自らの身が傷つこうとも他者の盾となることを躊躇わず、弱者の盾となり、悪の芽を挫くためなら労力を惜しまない。なるほど、お主が歴代の『ライドウ』たちと重ねる理由もよくわかる。―――ではライドウ。改めて問うが、お前はなぜ、先代ライドウたちの様だとまで思い浮かべておきながら、今代のライドウであるお主自身と同じ様な存在である、と例えなかったのだ?』

「―――それは」

 

ライドウはゴウトの質問に対して再び首を傾げた。ライドウはそうして考えるふりこそしたが、もうとっくに答えは承知していた。彼を己にたとえなかった事には深い意味があったわけではない。ライドウはただ―――

 

『……意地悪な質問をしたな。―――長い付き合いだ。お主がエミヤ―――衛宮士郎という立派な男の事を今代のライドウである自ら自身ではなく、先代のライドウたちと比肩させる存在に例えたのは、ある一面では、お主の謙虚さや謙遜の面が主だってそうさせたのだということを、儂はよく理解しておる。それは自賛になるからな』

 

未熟さを自覚している自分自身と対比に上げる事で、自らの存在を傲慢に誇るような真似をしたくなかっただけなのだ。

 

「―――自分は、別に、そういった意図は」

 

だからライドウは即座に否定したが、ゴウトは静かに首を振ってそのライドウの拒絶を否定すると、こちらの人格を見透かしたかのように頷いた。

 

『その否定こそが謙虚の証よ。……、まぁよい。だが、それとは別に、お主がなぜ無意識のうちに、エミヤを、先代ライドウという。お主にとって『過去の人物』である存在に例えたのか、その理由を、儂は理解しておる』

「―――それは?」

『お主は、あやつの様な、人並み外れた強さを保有しながら、その力を自らの為にではなく、他人のために使うような、まさに理想的な英雄がこの世にいるはずない、と無意識のうちに思ったのだろう。すなわち、お主はそうした理想の英雄というものは過去、人々の記憶の中にしか存在し得ない存在である、と知っているが故に、お主にとって過去の理想の英雄である『先代葛葉ライドウ』と重ねて例えたのだ』

「―――」

 

そうかもしれない、とライドウは思った。ある意味で理想的な“護国の守護者”が如き人物だったからこそ、自分はエミヤのことを過去の人物で例えたのかもしれない。しかし。

 

「―――そうかもしれない。だがゴウト。仮にそうであるとして、なぜこの場でそのような話を? 彼のそんな性質が、今、何かに関係しているのか? 」

 

自分がエミヤという男に対してどういったイメージを抱いているのか。なぜゴウトは調査の最中、いきなりそれを自分に問いかけてきたのか、ライドウにはその理由がわからなかった。

 

『―――理由は二つある。―――まず一つとして、此度のお主の調査の仕方を見るに、どうもお主が、エミヤという男の存在に引きずられて、功を焦っているように見えたのでな』

 

ライドウは虚をつかれた思いがした。自分は普段通りの調査を行なっていると思っていたが、第三者であるゴウトから見ると、自分は焦っているように見えるらしい。

 

「―――自分が功を焦っている?」

『うむ。任務のためとはいえ、悪魔の術理を使用する事を普段のお主なら、しない。ところが、今のお主は、帝都の民との会話の後、誰彼構わず片っ端から、悪魔の力を用いて『読心術』を用いている。それがお主が焦っている証拠といえるであろうよ。すなわち、お主は、今、どうしても『言峰綺礼』の情報が欲しくて仕方ない状態なのだ』

 

ゴウトの指摘に、ライドウは今日の自身の行動を振り返り、一定の納得を得た。なるほど、確かに今日、自身は道行く多くの人に声をかけては、片っ端から人の心を直接読む術式をかけて回っている。普段の自分なら、無辜の人々に対して心のうちを覗くような破廉恥な行為はしないだろう。焦っているとゴウトに評価された理由も納得した。その点から考えるに、確かに今日の自分は普段の自分と違うという点をも、ライドウは納得した。しかし。

 

「―――ゴウト。自分の行動がいつもと違うことは認める。焦っていると言うのもあるだろう。だがそれは、帝都に仇をなす敵を早期に見つけ排除するためのもの。エミヤという男達がもたらした情報に基づく焦りではあるのは確かだが、彼に起因するものでは―――」

『いいや』

 

その行為は、調査の対象が帝都の敵であるというライドウ自身の事情から生まれたものであり、決してエミヤという男の事情に引きずられたわけではない、とライドウが弁明をしようとすると、ゴウトはライドウの言葉を遮って、その釈明を否定した。

 

『お主のそれは、エミヤという男に起因する焦りだよ、ライドウ。ライドウ。お主は今、久方ぶりに現れたお主と肩を並べて戦える戦友の出現に浮かれ、彼の役に立ちたいと考え、急いておるのだ。―――あの安倍星命の時と同じように……』

「―――! …………」

 

ゴウトの言葉によって、ライドウの心にただならない衝撃が走った。ライドウはゴウトの言葉にただの一言すらも言い返すことができなかった。なぜならそれは、確かにライドウの今の心境を的確に表すものだったからだ。

 

『ようやく自覚したか、ライドウ。そうだ。今、お主は、急いておるのだ。かつてお主が心を許した安倍星命の時と同じように、誰かのため真に身を投げ出して盾となるという性質を帯びた人間の出現に喜び、苦労を分かち合う経験をしたことで、お主は浮かれておるのだ。ライドウ。お主は今、自身と同じような性質の彼のために役に立ちたいと考え、私欲にて動こうとしておる。だからこそ儂は、今、この場でそうして帝都の守護者として冷静さを失ったお主を諌めるため、こうして話を持ちかけざるをえなかったのだ』

 

 

安倍星命。それはかつてヤタガラスに所属していた陰陽師の名前だ。遡れば安倍晴明の流れを組み先祖に持つ彼は、幼き頃から弱者が強者に一方的に搾取される現実を憎み、現世を、壺の中に毒虫を放り込み、互いに身を食い合わせることで最強の毒虫を作り出すという古代の呪術『蠱毒』が如き残酷な世界として忌み嫌っていた。そんな星命の思想は、『倉橋黄幡』という、彼の兄分の気紛れによって歪められた教育を施され、そしてまた、偶発的にその体に宿った宇宙生物/マレビト、『クラリオン』という悪魔によって意志を誘導された結果のものであったが、それでも安倍星命という人間が弱き者が一方的に搾取される世界を変えたいと願うその気持ちは本物だった。

 

そしてやがて成長した星命は、そんな蠱毒が如き世界を変革し、世界に平等をもたらすべく、計画を練り、帝都の裏側で暗躍するようになる。彼の願いのあらゆる人々に特別な強さを授ける事で、人々の強弱の格差をなくす事だった。そのために、陰陽師である彼は、景教、すなわち、キリスト教の旧約聖書において終末の日に饗される運命にあるという聖獣『べへモス』を召喚し、弱者の人々に分け与える計画を打ち立てた。

 

ただし『べへモス』のような最上位に分類される悪魔の召喚には、とても個人では賄いきれない量のマグネタイト、すなわち生命エネルギーが必要となる。人々に力を『分け与える』というのだから、考えてみれば当然の理屈だ。無い袖は触れない。多くの弱者を強者の位置に引き上げるには、それ相応のエネルギーを必要とする。そして星命は、足りないそれを補うため、帝都の人々の生命エネルギーを主だった贄として利用することを考えた。

 

帝都に住まう多くの弱者の犠牲をもってして、帝都以外の弱者を救済する。そんな彼の目論見は、当然、帝國の裏から護国を担うヤタガラス、ひいてはそこに所属する帝都の射影たる最強の悪魔召喚師、『葛葉ライドウ』の理念と相容れぬものとなる。帝都の守護者であると同時に、強者の最上たる存在である『葛葉ライドウ』は、星命の救いを必要としない存在であると同時に、彼の計画にとっての最大の障害でもあった。ライドウは彼の計画にとって二重の意味で邪魔ものだったのだ。

 

そこで星命は、画策し、葛葉ライドウを異空間に追いやる計画を画策し、星命は、彼の心に付け入る策にうってでた。陰陽師としてヤタガラスの情報機関に所属していた彼は、今代の葛葉ライドウに近づき、一芝居打つことで、今代の葛葉ライドウである彼の友人の位置に収まった。それは護国を担うライドウにしては迂闊であったが、しかしライドウがやすやす安倍星命という人物の演技に騙されたのは、おそらく星命という人物が、心の底から弱者の救済を願っていたからであり、そうした本心の部分の吐露がライドウの琴線に触れたが所以だった。

 

ともあれ、ライドウはそうして得た『安倍星命』という友人のために、様々な気を揉み、彼のために動き、しかして裏切られ、危うく帝都の守護を出来ぬ異次元に飛ばされてしまった。しかしライドウの名を継ぐ十四代目たる彼は、歴代においても最強と名高き強者であり、陰陽師としての才に長けた安倍星命といえど敵わぬ存在だった。様々な事情の果てに現実世界へと帰還したライドウは、その後星命らを倒し、帝都の守護を果たしたのだが、そうして私情を排して帝都守護を優先すべきライドウは、そんな、私欲、私怨の為に動こうとして、自らに課せられた使命を果たせない状態に陥りかけたという経験を持っている。

 

そしてお目付役であるゴウトは、その経験をライドウのそうした経験を、一部始終目撃してきた。故に今のライドウの状態は、過去の、そのようなライドウと肩を並べて戦える得難い友人を得て気持ちが浮ついている状態だと見抜き、危惧し、警告を与えたのだ。

 

 

「―――ゴウト」

『ん?』

「―――エミヤはどのような人物で、どのような悩みを抱えているのだろうか?」

 

安倍星命という人物の本心と人格を見抜けなかったからこそ、かつて自身は窮地に陥った。その経験は、ライドウにエミヤの理解をしたいという想いを生み出していた。ゴウトはその質問から、ライドウが己のエミヤという人物のために気を急いていた事実を自覚し、だからこそ、同じ過ちを繰り返さないため、彼という人物のことを知りたいとライドウが願っているのだということを見抜いていた。ゴウトはライドウが、エミヤという人物について考察し、理解しようとしている事を喜び、自らの考えを述べ始める。

 

『―――初対面時、エミヤという男の本質を神道呪術『善悪探知法』にて探った折りに、儂は奴の内面は非常に歪な構造をしておることが理解できた。奴の人格、すなわち精神に重きを置いて例えるなら、エミヤという男は肉体と精神と魂がそれぞれ別個の性質を兼ね備えておった。魂は我らの様な日の本の人が持つ神道の感性に近しいが、しかしその思想、すなわち精神、価値観は耶蘇教の持つ自然支配欲求のそれに近く、結果、彼奴の肉体は北欧、ケルト神話的な死と名誉を望むような気質である、という異質さがある。すなわち、魂の本能は、敵対する相手の意見の意見にも理があると認め、相手を理解し、相手の論理を自身の中にも組み込む事で、自他の敵対状態を白黒あやふやにしてしまうという融和的なやり方を好むくせ、肉体にて現実的な手段を取るにあたっては、彼は、自分と異なる相手を尊重し、そして相容れないと敵対する相手にも敬意を払い、真正面からの直接対決にて白黒の優劣をはっきりとさせる決着をつけるやり方を好み、しかし精神的な部分、自分は、自身の意見と相容れぬを悪と決めつけ、それら全て討ち滅ぼし自らの色に染めあげる事でやり方を選択する人間であると、儂は認識しておる』

 

ライドウはゴウトの言葉を聞いて考える。日本の神道は、自然の恩恵と脅威が同時にした場所で、自然と対話し、調和した状態を維持することを目的とした宗教だ。一方で、北欧、ケルトの方の宗教は、自然の厳しく、恩恵は少なく、そして人に容赦なく死を与える極寒の環境で培われたものであるがゆえに、人間は必ず自然と対峙せねばならず、そして結果、いつか必ず負ける、という教えに基づいている。他方、耶蘇教、つまりキリスト教は、もともと砂漠という自然の恩恵がほとんどないような場所を住処とする、さまよう流浪の民が心の支えとすべく信仰していたものであるがゆえに、自然は自分たちを苛める敵であり、御してやらねげばならぬ敵である。つまり。

 

「―――、超自我、超意識たる融和の訴えを、潜在意識たる精神が否定しており、結果、顕在意識たる表像面には、エミヤの現実とも理想ともかけ離れた歪んだ性質が発露している。それがエミヤという男であり、そこに彼の悩みの源がある、と?」

『その通り。―――そしてその精神構造の歪さを見るに、おそらくその精神性は自らが自然と選び掴んだ思想ではなく、誰かに植えつけられる形で得たものなのだ。エミヤは自らの心からの望みと異なる、受け入れがたい性質の精神を他者から植えつけられながら、しかしそれを受け入れ、己が理想とし、結果歪みより生じる様々な矛盾の感情を、片っ端から殺すことで対応してきた男……。他者の理想を自らの理想として取り込み、それを成すため自我を殺し続けた、言うならば究極の滅私存在であり、そして、おそらくそれが、奴の強さの原典なのだ。―――ライドウ。お主ほど才気溢れる存在ならば理解できるであろうが、エミヤという男、戦闘における才能というものがかけらほども存在せん。あやつはこと戦闘面においては凡人だ。それでもあやつがああまで強くなれたのは、そのようにして、魂の訴えを自ら無視して肉体を酷使し続けた結果、火事場の馬鹿力を発揮し続けたからなのだろう。お主が歴代ライドウに例えたのもわかると言うものよ』

 

無茶苦茶だ。

 

「―――憑依により無理やり体を動かされていた状態に近い、ということだろうか? 」

『違う。エミヤは、奴自身の意思で、おそらくその矛盾に気付きながらも、あえて自身を痛めつけるような道を歩いた。すなわち、あやつはニーチェの言うところの拝火教の教祖『ゾロアスター/ツァラトゥストラ』すなわち、『超人』としてのあり方を体現し続けた男なのだ。―――ふむ、そうさな。それを過去の神霊の状態に例えるなら、憑依と言うよりは、ヴィシュヌとブッダ、いや、YHVHとイエスと精霊、―――というよりかは、魂を元始天尊に分割された王奕と太公望の関係のイメージに近いのか? ああ、それよりは、シヴァ神と大黒天と大国主の関係が近いかもしれん。否、あるいは、阿修羅の三面をそれぞれ同時に正面から見たイメージとでもいうべきだろうか。―――ううむ……』

 

ゴウトはエミヤという男を言い表すための適切な言葉を見つけることが出来ずにうなっている。ライドウはゴウトの豁然としない説明を受けて彼と同様に首を捻らせていたが、突然大悟し、ある言葉が思い浮かんだ。

 

「―――、Ich-Du,Ich-Es/我は汝、我はそれ……」

『ユダヤ系哲学者、ブーバーの『我と汝』か。……そうだな。下手に別の人間や神霊で具体的に例えるよりも、別概念で考えた方がわかりやすいか―――、うむ、なるほど、そう考えてみれば、集合無意識的により絶対の神という存在と結ばれる、共同体的信念を根本に置いたカバラの具現化こそ、エミヤという誰かの理念に突き動かされてきた男を表すに最も適した言葉かもしれぬ。―――エミヤという男は、そうして異なる人格が自らの中で自身同士において『我と汝』という最小単位の確固たる共同体を構成し、故に自身の中以外の世界は全て利害関係が結ぶものにすぎないのだと、自身と世界とを隔絶し、自己固有の中で全てを完結させていた男だった』

「―――今朝、エミヤと会話したおり、彼はこちらに気を使い、慮る提案をしてくれました。自分にはそれは本心からの行動であるように思えました。自分にはそんな彼の行動が、自己の中で全てを完結するような人間のそれには見えませんでしたが……」

『―――そうだな。今朝、エミヤという男は、昨晩までとまるで異なっておった。何があったのかは知らんが、今のあやつは魂と精神と肉体が完全に合一しておったのだ。あやつは自らがずっと目を逸らしてきた部分を見つめ、人としての精神的な段階を一段上に上がっておった。今のあやつは、ライドウ。今のお主と近しい人物となっているのだ』

「―――聞くにゴウトはエミヤを相当褒めていますが、ゴウト。自分は、そんなエミヤと自分が近しい性質の人物であると?」

『うむ。お主もかつて儂が出会ったばかりの頃は、主が背負った帝都守護の理念を完全なものとするため、自らの裡に生じる葛藤を全てを押し殺す人間であった。無論、お主は初めて儂と出会った時より精神的に、肉体的に成長し、比べものにならぬほど立派になり、自らの頭で物事を考え、自らの意思と感性で、他者のために何かをしよう人間になってくれた。まるで今のエミヤのようにな。―――、人間、自身と本質が似通った人間に対しては、好意を抱きやすく、善意を与えたくなるもの。だからこそ、ライドウ。お主は此度、自らと近しい人間であるエミヤの目下の悩みである『言峰綺礼を発見』という問題を解決するため、発奮していたのだろう』

「―――」

 

ライドウはほめ殺しのようだ、と思った。だが、常に自分の側で自分を客観視してきた人間の言うことなのだから、実際のところ、周りからはそう見えているのかもしれないとも考え、ライドウは無言でその言葉は称賛を受け取り、同時に、彼の為にと私情を挟んで駆けずり回る、帝都守護者として失格の態度を反省した。

 

 

『ライドウ。まぁ、そう落ち込むでない。以前とは異なり、こうして奴について考えようと思えるようになっただけでも成長の証。恥はその場に置きすて、失敗は成功のための糧とすれば良い』

「―――はい」

「―――さて、ここで話をする理由の一つ目は、お主のそうした焦りを解消するためのものだった。さて、そして、二つめだが、これは完全にヤタガラス側の都合によるものだ」

「―――それは?」

「ライドウ。お主もエミヤの簡単な来歴は聞いたであろう?」

「―――ええ。覚えています」

「だろうな。ではライドウ。お主はそんなエミヤの来歴をきいて、何か既視感を覚えなかったか?」

 

ライドウはゴウトの言葉を聞いて思考を巡らせた。確かエミヤは、向こうの世界で蘇生したのち、エトリアの都に蔓延している赤死病とやらを止めるため新迷宮を攻略している際、協力の相手であるシンという彼の命を失い、シンを蘇生させるためにグラズヘイムの塔に立ち寄ったことで、YHVHという唯一神を復活させる事態になり、ギルガメッシュの命によりYHVHを追って、この世界までやって来たのだったか。

 

「―――いえ」

「ではヒントをやろう。エミヤは蘇ったのち、道具を持つ男と出会い、蛇を退け、害虫を退け、そして、死者の魂の集う場所を収めるギルガメッシュの命を受けて、YHVH討伐の任を受けたのだ。―――ライドウ。この話に聞き覚えはないか?」

「―――古事記、オオナムチの根の国の段でしょうか? 」

 

ライドウの答えを聞いて、ゴウトは満足げに頷いた。

 

「正解だ。オオナムチ、すなわち、オオクニヌシは、兄神の虐めにより数度の死に、蘇生した後、根の国、すなわち、異界―――昔の感覚で言えば異国―――と呼ばれる場所に旅立ち、そして、現地人―――スセリビメ―――の協力を得て、蛇のヒレと蜂と呉公(ムカデ)のヒレを用いて、蛇と害虫を退けた後、現地に住まうネズミと協力し、スサノオの試練を打ち破り、やがて根の国の主人であるスサノオより、大刀と弓矢を持ってして自らたちに従わない八十神を追い払い、オオクニヌシと名乗れと命ぜられた。―――彼らの世界のルールによれば、名は行為に影響を与えるという。それはこの世界にも同様に敷かれているルールであり、そして呪術的に言えば、名は行為に繋がるならば、行為もまた名に繋がるものだ。つまり、ヤタガラスの上の人間はエミヤの行動がすなわち、オオクニヌシの神話的要素を多少の前後はあれどなぞっておるため、やがてエミヤが、我らにとってのオオクニヌシにならないかということを懸念しておるのだ」

「―――多少、穿ちすぎ、いえ、だいぶ強引すぎる解釈では……」

「エミヤだけならばそうも行っていられたかもしれぬが、同行するメンツがメンツだ。シン、すなわち異国の地において月を司る神といえば、我が国においては、元は抹消された男神、天照/アマテルすなわち、物部氏の神であるお隠れになった月夜見/ツクヨミを連想させるし、リンという彼女は、イナンナ、つまり、イシュタルという神の転生体、つまり、金星の神であるからして、タケミカヅチとフツヌシの国譲りに従わなかった金星の神、天津甕星/アマツミカボシを連想させる。つまり彼らは、三人が三人とも、オオクニヌシ、ツクヨミ、アマツミカボシという、アマテラスに逆らった神の名を持つ者たちなのだ」

「―――」

 

ライドウは理解した。なるほど、ヤタガラスはむしろ、言峰綺礼やYHVHという存在よりも、エミヤたちの存在を危険視している。何故なら彼らが国津神に属する名を持つ者だからだ。そして、しかし、その国津神の名を持つ集団の中において、オオクニヌシに例えられるエミヤという存在がいるために、仮にこの先に何か、例えば、言峰綺礼やYHVHという一神教最大の神との戦闘において予想外の事態が起こったとしても、彼が平定するだろうと楽観視している。そして、その先、国譲りの儀を行うことで帝都、ひいては日本国家の安寧を得られると判断したからこそ、超国家機関ヤタガラスは彼らに対しての全面協力を決心した、という訳か。

 

―――しかしそう考えると、一つ疑問が浮かぶ

 

「―――あの響という少女について、ヤタガラスはどう考えているのでしょうか?」

「彼女はあの集団において、唯一、響、すなわち、奈良時代の豪族、日を図る天文や星読を生業としていた天津神側の葛城の日置氏の名が含まれているからな。また、響とは元の漢字を辿れば、饗応にもつながり、食卓ともなる。故に、アマテラスの力の宿った鏡を持たせていれば、あるいは、ニニギとなり、なってくれるだろうと考えて捨て置かれている。―――とにかく、ライドウ。そう行ったわけだから、ヤタガラスの上の人間が、お前にどんな役割を求めているかは、想像がついただろう? 」

「―――自分にタケミカヅチになれ、と仰るのですか?」

「上はそれを望んでおる、ということだ。以前、超力兵団事件においてスクナヒコナを討伐した経験のあるお主は、また、コドクノマレビトとの戦いにおいて、フツヌシを従え、アメノオハバリの力を借りて用いてマレビトを討伐したお主は、その経歴から、本質的に天津神としての、そしてタケミカヅチとしての属性を有しておる。―――だからライドウ。覚悟しておけ。いざという時、お主は、天津神の手先、ヤタガラスの使者として、帝都の守護者として、彼らと対峙し、打ち破らなければならない時がくるかもしれないということを」

「―――……!?」

 

ゴウトの意見にどうしても納得することができず、しかし全面的に諸手を挙げての賛成はできないと反論の一つでもぶつけようかとした刹那、ライドウは自身の周囲が歪んだものへと変貌していくのを感じた。昼間であるというのに微かに薄暗く、地面のあちこちからはマグネタイトが宙に向けてうっすらと噴出している。間違いない。自分たちは今この瞬間、異界に入り込んでしまったのだ。

 

ライドウは瞬時に警戒態勢へと移行する。マントの胸側を大きく開き、刀や銃、管のホルスターに手をかけやすいよう体勢を整えると、周囲の気配を探った。すると、晴海町の港正面、東京湾にポツリと浮かぶ島の中に、異常なマグネタイト濃度が放出されていることにライドウは気がついた。あれは―――

 

「陸軍地下秘密造船所のあった場所?」

 

東京湾にポツリと浮かぶ第四台場と呼ばれる島は、軍の極秘施設だ。そこではかつて金剛型五番艦を流用して作られた、システムに悪魔の力を流用することで地上での利用を可能とする、自立し人型に変形する可変式揚陸潜水戦艦、通称超力戦艦であるヤソマガツ、オオマガツを製造していた秘密の造船所だ。ある帝國陸軍の少将が、やがて訪れるだろう二度目の世界大戦に向けて、帝國が外敵に蹂躙されぬ兵器として極秘裏に開発されたそれらの超力戦艦は、様々な思惑が交錯したのち、やがてそれぞれライドウの刀において一刀両断され、時空の狭間の中に沈んだはずであるが―――

 

『諦めの悪い陸軍は、第三、第四の矢として回収した残骸から超神の復元を目論んでいたのだろう。―――なるほど、市井の人々が知らぬはずよ。言峰綺礼め。隠れ場所として、市内ではなく、陸軍の施設を選択したということか』

「―――では、タラスクを呼び出して早速あそこへ……」

「行ってもらっては困るのだよ」

「!」

『!』

 

ライドウがゴウトの言葉に答えて水上移動用の悪魔を召喚しようとしたおり、屋根の上から声が聞き覚えのある声が聞こえてきた。頭上から聞こえてきた言葉に思わず見上げた先、三階建のビルヂングの屋根の上からは、車椅子の男がこちらを器用に見下していた。その、傷が多くありながらも端正さを保つ顔立ちと、左手と両足を失った彼の存在に、ライドウは心当たりがあった。当然だ。誰がその声を忘れようものか。そのハスキーな声を、他の誰が間違えようと、ライドウとゴウトだけは聞き間違えるはずがなかった。なぜなら。

 

「―――お前は」

『倉橋黄幡!』

 

その声は、かつて、コドクノマレビト事件と称される事件において、自らの退屈を潰すために、安倍星命に歪んだ教育を施し、彼の暴走を促し、帝都の滅びのきっかけを作り出した張本人のものなのだ。暇つぶしなどいうくだらぬ理由で他者の意思を弄び、多くの人の命を自らの野望のために消費したそんな輩を、帝都の守護者たるライドウとゴウトが聞き間違おうはずもない。

 

『貴様……! やはり生きておったのか!』

「あの程度では死ねぬさ。なにせ俺たちの旅はまだ終わっていないのだから」

 

倉橋は言いながら片手で黒塗りの箱を撫でた。愛おしげに撫でる箱は、よく見ればカタカタと動いているように見える。

 

―――悪魔召喚の為の箱か?

 

異常の最中、非常事態を確信したライドウは瞬時に刀を鞘から抜き、切っ先を倉橋に向けた。

 

「―――投降を勧告する。そしてお前たちが何を企んでいるのか、洗いざらい話してもらう」

「それは出来ぬ相談だ」

「―――ならば切る」

 

ライドウは駆け出す。倉橋黄幡は、自らの拒絶の言葉によってライドウが駆け出す前に箱から手を離すと、パチン、と、指を鳴らした。途端、黄幡の周囲に遊女たちが湧いて出た。女達は、着崩れた、着物を羽織っているだけのような状態の遊女たちは、一様に、顔面からは鼻が削ぎ落ち、体に至っては肉の一部が崩れ、髪は水っ気を失い、肌は荒れ放題という、まさに死人が如き体裁のものばかりだった。ゴウトとライドウは、それが遊女にとっての身近な病気である梅毒という病気がもたらした結果であることを、直感的に、あるいはを知識により、理解した。ライドウは困惑した。

 

「―――なにを」

「あの時と同じだよ。ここで貴様の足止めをするとともに、俺は新たに精製した丸薬の試験を行う。―――さぁ、女ども、安倍星命の力が封じ込められた丸薬を飲め! 飲めば貴様らは、かつてを超える力を得る事ができるのだ!」

「―――! よせ!」

 

ライドウは叫んだが、その声は遊女たちには届かなかった。いや、むしろ、ライドウの応答に気づいた彼女らは、だからこそ自ら倉橋黄幡の言う通り積極的に丸薬を口にして、飲み込んだように見えた。彼女たちの目には一様に、残酷な現実に対する絶望の色が宿っていた。

 

 

―――なぜ私たちがこのような目に合わなければならないのか。

 

なぜ私たちがこのように苦しまなければならないのか。なぜ私たちだけががこんなに苦しんでいるのに、目の前の綺麗な顔をして整った服装をした男の子は、澄ました顔で、自分たちが助かろうとするのを止めようとするのか。

 

―――あの少年は自分たちに助かるなと言っている。

 

ライドウの、眉目秀麗な少年の必死な制止は、顔も体も崩れ、もはや人という存在ですらなくなったと自覚している遊女たちにとって、お前達に救われる価値はないし、抗われるだけ迷惑だから、とっとと死んでしまえというセリフに聞こえていた。遊女たちは世界に向けていた暗くドロドロとした湿った情念をライドウへと飛ばした。

 

―――憎い。恨めしい。

 

弱者で全てを失った自分たちに対して、若さも美貌も、そしておそらくは、信念も立場も立派に金も持っているような強者が、世間は捨てたものでないから、まっすぐ生きろ、といわれることほど、頭にくるセリフはない。だから世間から見捨てられた側に属する梅毒にかかった元遊女たちは、その誰もが苛ついた様子で、迷うことなく丸薬を飲み込んだのだ。

 

 

「―――あ」

「―――ああ、ああ、ああああああ!」

「あああああああ!」

 

連鎖する嬌声にも似た遊女たちの悲鳴とともに、彼女の浴衣や着物、襦袢は変化してゆく。ライドウは遊女たちのを助けられなかった事に歯軋りをしながら、女どもの変貌を観察していた。女たちが憎しみを携えた視線を向けただけで、ライドウに対して何も語らずに丸薬を飲み物言えぬ状態になったことは、まっすぐなライドウにとって唯一の救いであったと言えるだろう。

 

「あ、ああ、あ、あ、あ、ああ!」

 

やがてそうして体外に強大なマグネタイトを放出する遊女たちは、蠱毒の壺に閉じ込められた毒虫が如くその身を重ね合わせてゆき、女たちは徐々に一つの黒い塊へと変化してゆく。やがて人とかけ離れた団子のような姿になった彼女たちは、すぐさまグネグネと外殻を蠢かせて、別の、強力な威圧感を醸し出す形態へと変化していく。

 

―――これは

 

やがて悍ましい変化が終わった頃、屋上に佇む黄幡の側、遊女達がいた場所には、大きく肩を出した一人の女がたっていた。女たちが固まって出来た塊は、顔の造形は幼げながらも美しく、その頭に狐耳を生やし、臀部から狐の尻尾を生やし、また均整のとれた体躯をした一人の女へと変化していた。桃色に近い色合いの髪の毛は大きな青色のリボンにて短くまとめられている。リボンと同じ色合いの着物は着衣としての役割を半分ほどしか果たしておらず、肩から胸元まで、それどころか大きく豊かな乳房の上半分までが惜しげもなくさらけ出されている。また、そうして女の体をおおう着物は、その細い腰元から下の部分も大きく手を入れられており、ほとんど陰部と周辺の一部太ももを微かに一枚布が覆っているに過ぎないような状態で、一見して、これから客と寝る直前の遊女のようにしか見えない状態だ。豊かな乳房と尻を持ち合わせていながら、身長は隣に立つ黄幡よりも頭一つ、二つ分ほど小さい。体つきは大人の女性のそれでありながら、大きさが少女にちかい体躯であるのが、卑猥な服装と相まって、背徳感と、非日常な存在であることを増長させていた。そうして現れた女は遊女、というよりは、まるで歩き巫女と呼ばれる存在のような、淫乱を具現化したかのような見た目であった。しかし―――

 

―――凄まじいマグネタイト保有量……

 

そうして目の前に現れたの半裸の、まさに『来つ寝』のような女は、そんな軽薄な見た目とは裏腹に油断して良い相手でないことが、彼女が身にまとい、そして周囲に発散させているマグネタイトの量から判断できた。また、女のその特異な独特のマグネタイトやしゃんとした立ち居振る舞いから、ライドウは複数の遊女に代わって目の前に現れたこの女が強大な悪魔であるということをも見抜いていた。自分と同じく目の前の存在の危険性に気がついたにゴウトが叫ぶ。

 

『―――黄幡! 貴様何を!』

「この丸薬は安倍星命の肉体と蠱毒の原理を利用して作り上げた、人間に悪魔変身を促す、高濃度マグネタイトを含有する丸薬だ。丸薬の材料が安倍晴明の末代である星命であり、それを飲んだのが、川の節に打ち捨てられていた遊女ならば、それらを利用した蠱毒より生まれるのは当然―――」

 

黄幡の言葉が終わらぬうちに、召喚酔いでもしていたのだろう瞳の焦点が合っていなかったのだろう女は、ようやく現状自らのみが置かれている状況の把握が終わったらしく、面に覆われた顔面を黄幡ライドウの側に向けて固定すると、じっと見据えた。

 

「陰陽師の祖、安部晴明の母親たる『葛の葉』あるいは『白狐』ということになろう。葛葉ライドウに対するいい皮肉だと思わないか……? ん? ―――、やれ、葛の葉! 」

「呪相、炎天!」

 

―――密教系の術式……!

 

「―――くっ!」

 

ライドウはゴウトを抱え込むと、間一髪で女の攻撃を背後に飛んで回避する。女がいつの間にやら手にしていた呪符より生み出した炎は凄まじいマグネタイトを保有しており、一目で危険な威力を秘めていることが理解できたからだ。浄化の力を秘めた炎は地面に接触すると、即座に炎の柱となり、周囲へ炎塵暴風を撒き散らす。身を退けることで回避したライドウは、続けざまに己とゴウト襲いかかる火の粉と風を防塵のマントで防ぐと、さらに大きく二人との距離を開けならが海辺の方へと移動した。

 

―――管……、コウリュウを……

 

ライドウの腕が胸のホルスターの銀の管に伸びる。ライドウは奴らの目的が足止めと判明した時点で、奴らの時間稼ぎの行動に付き合ってやろうという気はさらさら無かった。隙を見てコウリュウ―――四神の長たる黄金に輝く瑞獣であり、空を自在に駆けることの出来る巨大な龍―――を召喚し、陸軍の秘密造船所へと向かおうという算段だった。異界であるがゆえに、常人は存在しておらず、召喚にも遠慮はいらない。―――しかし。

 

「させるか! 短縮詠唱! オン・マリシエイ・ソワカ! オン・アビテヤマリシ・ソワカ!」

 

ライドウがコウリュウの収められた管へと手を伸ばした瞬間、黄幡は欠損していない残った右手を心臓に当てて大金剛印と隠形印の半分の形を続けざまに作り、呪詛を叫んだ。途端、ライドウを中心とした頭上に複雑な文様の仏の像が大量に浮かび、足元に真円と直線と漢字が刻まれた。天に曼荼羅、地に八卦の魔法陣が生じたのだ。同時にライドウの四方の地面よりさまざまな造形をした人形が現れた。泥土にて作り上げられた泥人形は、両手両足、胴体までは人型ながらも、その頭部はさまざまな動物の頭部を形取ったものであった。

 

「―――これは……!」

『―――怨霊を自らの手駒へと変貌させる呪法か!』

 

ライドウは呪法の正体を知らなかったが、猫の体であるゴウトは術式を見抜いたらしく、尻尾を立てて激情を露わにしていた。事情はわからないが、ゴウトの様子から、今のこの小さな泥人形に囲まれている状況が、自分たちにとって不利な状況であることだけは、術を知らぬライドウでも理解出来ていた。

 

 

『しかも人形の中に呪符を埋め込み、事前に呪法の発動時間を短縮したのか……。―――この練度。相当に強力な効力を持つ陣であることがわかる。―――ライドウ。この、摩利支天の力を借りて行う隠形法『呪縛秘密成就』は通常の供養では祓えない鬼神や怨霊すら完全に呪縛し、自らの使役する式神と化する呪法だ……。ライドウ。儂の言わんとすることがわかるな?』

「―――悪魔を使うと、主導権を奪われる、ということか」

 

自身らが罠に嵌められたことが悔しかったのだろう、ゴウトが漏らした忸怩じみた解説を聞いて、ライドウはようやく今の事態を正しく理解した。ライドウはコウリュウの管へと伸ばしていた手を下ろすと、刀へと移行させ、抜き、刀身を露わにする。ライドウが悪魔召喚を諦め、直接戦闘を覚悟し、異界の中で冷たく祓魔の光を放つ刀、『赤口葛葉』を引き抜いたのを見るや、その所作を見た黄幡はつまらなそうに、息を吐き捨てた。

 

「ふん、さすが、過去の葛葉ライドウであるゴウトは博識だな」

『だがライドウ! この呪法の肝は、鬼王に見立てた象頭人形たる毘那耶迦/ビナヤカにある! それを破壊すれば、本呪法は攻略できるはずだ!』

「―――了解」

 

黄幡の言葉を無視してのゴウトの助言にライドウが人形を見渡すと、自らの四方を囲む百体はあろう動物頭をした人形の中に、一際目立つ長い鼻と大きな耳を持った人形を発見した。ライドウは即座に腰のホルスターからコルトライトニングを引き抜くと、迷わずその引き金を引いた。暗い空間に閃光が走り、破壊の力を秘めた弾丸が螺旋回転を伴って、象型の泥人形へと直進する。遅れて銃口より硝煙が生じた。人間すらも簡単に殺傷せしめる弾丸は、拳大ほどの大きさしかない人形など吹き飛ばすだろうと算段してのものだったが、しかし。

 

「―――なに?」

 

そうして呪詛の核を砕いて散らすはずだった弾丸は象の人形と接触したかと思うと、人形像の中をするりと通り抜け、地面へと着弾した。鉄の塊が地面を削る音が瞬間だけ響く。

 

「一度、帝都の守護者である葛葉ライドウとゴウトに敗れた俺は、お前らのことを敵として高く評価している。―――お前らは俺の最大の敵だ。元の術の弱点見抜かれた程度で破られるようなの呪法を単体で使用するはずあるまい」

「―――これは……」

 

今、悪魔どもが跋扈する異界に変貌した空間の中、その中でも特にライドウの周囲には、陽炎と化した百の泥人形と白い靄が生まれ、彼を覆っていた。ライドウは周囲に視線を飛ばすも、霧霞がライドウの視線を遮る。ライドウは今、一寸先すら見えぬ状況に陥っていた。そして。

 

「呪相、炎天、氷天、密天!」

「―――!」

 

甲高い女の声色が上がるとともに、陽炎と白い靄をすり抜けて、切り裂いて、三方より炎が、氷が、気圧差により生じた圧を持った風がライドウの体に襲いかかる。ライドウはそれを身を翻して避けようとして―――

 

「―――!? 」

『ライドウ!?』

 

しかしそれは完全には叶わなかった。ライドウは己の体をうまく動かすことができず、自身の予定とは異なる方向に飛びのいて回避を行なったは良いものの、自らの思惑とは異なった動きをした自らの体の挙動に対応しきれず、されに受け身を取ることもできずに地面を無様に転がってしまう。そしてライドウは肺腑の空気を大きく吐き出すと、刀を杖代わりにしてなんとか自身の体を起こした。立ち上がったのち、ライドウが自らの手を見ようとしたとき、目ではなく指先が自分の意図と反して勝手に微かに震えているのをみて、今自身の身に何が起こっているのかを理解した。

 

「―――これは……、安倍星命の陰陽術『奇門遁甲』の時と同じ……、否、それよりもはるかに強力な……」

 

ライドウが呟くと、ゴウトは目を見開いて、叫んだ。

 

『そうか! 摩利支天はもともと陽炎や威光の神、マリーチが元だ! その隠れる、という特性を陰陽術『奇門遁甲』に応用し、隠形法『呪縛秘密成就』と組み合わせたのか!』

「―――つまり?」

『この陣の内側にいる限り、対象たる我らは、神経を狂わされ、正しい方向を見定める事ができず、同時に悪魔を召喚できぬ状態にあるということだ!』

「疾れ! 呪相、炎天、氷天、密天!」

「―――く……!」

 

ゴウトと相談する最中にも、女の呪術がライドウの身に襲いかかってくる。ライドウは霧中の向こう側から到来するそれら殺意の塊を、反応の鈍くなった体に喝を入れなおし、なんとか回避すると、銃をホルスターにしまい、刀を片手に強く握り直し、体勢を立て直した。

 

―――陣の内側が危険というのならば、無理やり陣より抜け出るまで……!

 

全力をもってして抗わないと、すぐに膝を屈しそうになるほどに、陣は強力に、ライドウに硬直と恭順を強いてくる。このまま陣の内側にいては事態は貧窮するばかりだと認識したライドウは、多少の被害を被ろうとも陣より脱出する覚悟を決めた。ライドウは進んだ先に何がいようと切る覚悟をしたのち、右手に握った剣を背中に背負い込むように抱えると、左肩を突き出して揺らめく陽炎の中へと突撃する。ライドウの見立てでは、陣はライドウを中心として十四間、すなわち、およそ二十五メートル四方に敷かれているものであり、ライドウの優れた身体能力ならば数秒とかからず脱出できる目算だった。―――しかし。

 

「―――像が……」

『近づこうとすると遠ざってゆく……!? 』

 

ライドウの周囲を取り囲む陽炎の人形たちは、ライドウがどれだけ俊敏に駆け抜けようと、人形の陽炎は不気味に、ライドウの射影が如く、常に一定の距離を保ったまま彼を追いかけてくる。

 

「オン・マリシエイ・ソワカ。オン・アビテヤマリシ・ソワカ……」

 

その間隙を縫うようにして、女の唱える呪文が静かな異界の空間の中に聞こえてくる。

 

『―――そうか!』

 

疾走するライドウと並走していたゴウトは、女の呪詛を聞いて、叫んだ。ライドウは視線を落とすことなくゴウトへと問いかける。

 

「―――ゴウト」

『ライドウ! どれだけ疾走しようが、あの人形には辿り着けん。この陰陽術『奇門遁甲』と隠形法『呪縛秘密成就』の組み合わせは、先の狐面の術者が常にお前の位置を把握し、術を更新し続けているからだ! 』

「―――ならあの女を倒せば……」

 

ライドウの前向きな意見に、一瞬、珍しくヒステリックに叫んだゴウトは、すぐにいつものように冷静さを取り戻した。

 

『そうだな、おそらく、この陣は解除されるだろう。……、だがどうする? 陣の内側にいる限り、お主の攻撃は術の維持をしている女悪魔に当たらん。また、人形と呪符により構築されている陣は、わずかなマグネタイトでの維持が可能だ。どれだけ待ったところで、解除はされぬだろう。かといって、お主の切り札たる悪魔にて状況の打破をしようにも、悪魔を使用すると、その主導権を乗っ取られる。 奴はそうしてじわじわと我らをいたぶり、疲れたところを嬲り殺す算段なのだ。取っ掛かりとしてまずは奇門遁甲をどうにかする必要があるのだが……』

「―――」

 

疾走するライドウはゴウトの言を聞いて一瞬、手が二つの管へと伸びかけた。そうして管より召喚しようとした悪魔は、クー・フーリンとスカアハ。それぞれケルト神話の英雄と、英雄のその師である女傑の悪魔で、以前、ライドウが安倍星命に奇門遁甲の術をかけられた際、術が悪魔である彼らに齎す混乱の効力を自ら破り、そして奇門遁甲の術を打ち破るのに力を貸してくれた悪魔である。彼らの力を借りれば、あるいは、今のこの術を打ち破る突破口になるかもしれない。

 

―――だが

 

「オン・マリシエイ・ソワカ。オン・アビテヤマリシ・ソワカ……」

 

疾走するライドウの後方から、不吉な成分を含む呪詛が絶え間なく聞こえてくる。ライドウはホルスターからコルトライトニングを左手で引き抜くと、回転させて左手に収め、声の方向へと適当に、続けざま五発撃ち込んだ。しかし。

 

「オン・マリシエイ・ソワカ。オン・アビテヤマリシ・ソワカ……」

 

声は、銃声が響く間も、響いた後も、絶えることなく聞こえ、ライドウの後を追いかけてくる。無意味を悟ったライドウはリボルバーから薬莢を排出して弾倉が空になった銃をホルスターに収めると、目を凝らしながら全力疾走を再開した。

 

―――術は以前にも増して強力で、その上、陣の外、陣の境界に対しての攻撃は通らない

 

これでは悪魔である彼らを呼んだところで、今の攻撃と同じ結果になるのは目に見えている。いや、むしろ、状況が悪化するで終わる可能性の方が高い。

 

―――ならば、召喚しないままのほうが、上策……

 

靄が邪魔をしてほとんど視線の通らない中、それでもなんとか自身の位置を把握すると、ライドウは大まかに倉橋黄幡のいたあたりの位置に視線を送る。薄くしか通らぬ視界の向こう側、しかし今やそこに術を発動させた主たる倉橋黄幡の姿はなく、何処かへと消えてしまっていた。逃げたのか、闇に紛れてこちらを討つつもりなのか、それすらも把握できない。その間にも女の声は迫り来る。ライドウは状況が刻一刻と悪化の一方を辿っている事を悟った。ライドウは目線を前に戻すと、さらに早く疾走する。

 

『ライドウ! 』

 

後ろから追いついてきたゴウトが心配げな叫びをあげた。声は、今後どうするのかという対応案を問うていた。だからライドウは考えながら、そして応える。

 

「―――どうやら敵悪魔は、自分の周りに呪法を発動させている間は、呪術による攻撃が出来ないようです。呪文を唱え続ける必要があるからでしょう。―――今、方向感覚を狂わされている自分たちがどのような方向に走らされているのかはわかりませんが、少なくともおそらく、晴海町南東の湾上にある陸軍施設とは逆方向に誘導されていることは間違いないでしょう。また、現在位置を考えるに、自分以外の悪魔召喚師が守りを固めている皇居方面、すなわち西に誘導する、と言う可能性も低い。つまり、自分たちは今、晴海町の北から東、すなわち北東付近の方面に向けて疾走させられている可能性が高い。なら―――」

『―――そうか、なるほど』

 

ライドウの状況把握と思考整理の果てに導き出された無言に続く提案を、阿吽の呼吸で理解したゴウトは、先ほどまで浮かべていた混乱面を一瞬で収めると、ライドウの前方へと進み出た。その身のこなしは軽く、陣の影響を感じさせない。ライドウはかつてこの陣を使用した安倍星命という人物が、人間と悪魔に作用する、と言っていた事を思い出し、同時に、動物には作用しないのかもしれないと直感した。

 

『とにかく、視界が頼りにならないこの陣の中では、動く敵に対しての感知は、猫の体を持つ儂の方が優れておる。主が目指すところまでの案内は儂が行おう』

「―――お願いします」

 

だからライドウはゴウトを頼ることとした。ライドウが礼を言うと、ゴウトはその小さな背中を震わせて信頼に応え、そのまま一直線に駆け出す。そして一匹と一人は疾走の速度を上げる。異界の中、帝都の守護者たちは悪意の靄を見に纏わせたまま、北上してゆく。

 

 

異界、銀座

 

 

サコは言葉とともに銃口を突きつけてくる。アンドロの体となり、普通の人間の反応できない速度で動く事の出来るようになった私ではあるが、過負荷によりオーバーヒートを起こしたこの状態では、身動き一つ取ることができなかった。

 

無理をすれば上半身を一瞬稼働させて一撃を生み出すくらいはいけるだろうが、それで終わりだ。確実にどこかしらの配線が切れ、自己修復するにしてもさらに多くの時間を要する事となる。つまり、一撃を放てば、それは文字通り、最後の足掻きとなる。それでこのサコという女を仕留められると言うのなら、脱出が望めるというのであれば、そんな一撃を放つのも吝かでないし、逃走のために体を無理やり動かすのも悪手ではないのだろうが、そんな保証がないうえ、ガルムに周囲を囲まれたこの現状、一撃を放つ行為はただ無為に命を散らすだけの愚行だ。だから私はまず観察と考察に徹することとした。

 

―――現状、私は、ガルム達に囲まれた空間の中、さらにサコという女性によって隔離された謎の空間の中にいる

 

その領域は片手でフェンリルを縛っている紐を握り、もう片方の手に握った銃器の銃口をこちらへと向けてきているサコを中心とした三メートル程度。ガルム達が私とフェンリルを探しているにもかかわらず、我々のいる領域内に入ってこないあたり、周囲からは私たちのいる部分が認識できない空間になっているのだろうと推測できる。その力の正体は―――

 

「―――」

『名は全ての力の源。名に込められた意味を知るものは、その力を十全に発揮することができる」

 

―――その理屈は、なんとなく理解できる。要するに、彼女の力とやらは、スキルを使うようなものなのだろう。完全防御なのか、完全隠密なのかは知らないが、その能力を持ってして姿をくらまして、私たちの視線をかいくぐっていたと言う訳だ。彼女が嘘を言っていないということは、私の直感も告げているがゆえ、その理屈に間違いはないのだろう。だからそれはそう言うものだと理解してしまえば、それはそれで、いい。

 

問題は打ち破る方法が見つからないというその一点にある。私はその答えを求めて、さらに彼女の言葉を思い出す。

 

『貴方がそれを望むのでしたら、私は答えましょう』

 

―――?

 

「何故君は、私の望みにならば、答えるというのだ?」

 

そうした時、私が気になったのは、彼女の能力如何についてではなく、目の前の女性の性質についてだった。私は彼女の目的を詳しくは知らないが、サコという彼女が、私らと敵対する獣をガルムやフェンリルを召喚したというからには、私の敵である事だけは間違いないはずだ。その彼女が、敵である私の問いかけに対して、自らの能力を完全に語るという理不尽を、私は理解できなかった。そしてその考えは素直に私の口から言葉として零れ落ちた。

 

「決まっているでしょう、シン。あなたは私の兄なのですから」

「―――?」

 

問いかけに帰ってきた答えに、私の混乱はさらに困窮を極めた。意味がわからない。

 

「―――私に妹はいない」

「いえ、そんなことはありません。なぜなら、シンは私の兄であると断言してくれました。そんなシンが私の兄でないはずがありません」

「―――……?」

 

私は目の前の女が言っている意味が一切理解できなかった。真っ直ぐに向けられた視線の、その迷いない所から判断するに、彼女はなんら嘘を言っていない事だけは理解できる。彼女は嘘を言っていない。そして、私は彼女の兄でない事を知っている。ならばおそらく、私でないシンが、サコという彼女の兄であると言って、彼女にシンが彼女の兄であるという事実を信じこませた、と言うあたりが真実なのだろう。

 

「―――どうしましたか、シン」

「……」

 

だが、それをこの目の前の女性に言ったとして、私の言葉を真正直に受け止める女性でない、自分の信じたい事実しか、真実として認識しない女性であることは、つい先ほど証明されたばかりだ。私は唐突に、彼女は、私と同様に、人の気持ちがわからない、あるいはわかろうとしない人間であり、しかし私とは異なり、その事を自ら理解していない人間であることに気がついた。彼女は、自分の信じる主観こそが世界の真実と理解して疑わない。私はわからない自他の気持ちの考察を客観に委ねて双方の満足に努めるところを、彼女はわからない気持ちを自分で解釈し尽くし他人に押し付ける事で自己満足する。

 

―――ああ、なるほど

 

「自分と他者とを隔絶する能力、か」

「……?」

 

私は彼女の性格に、彼女が持つ能力の原点を見た気がした。私が溜息をつくと彼女は首を傾げる。なるほど、筋金入りだ。彼女は、私の言葉であろうと、彼女にとって都合の悪い事は、脳が理解を拒む仕様に出来ているらしい。私は、人間という存在は、真実を語っていればいつかは、言葉が通じる相手に対してとは一定の相互理解は出来ると認識していたが、まさか本音を語ったところで、言葉が通じたところで絶対に分かり合えない存在がいるとは思ってもいなかった―――

 

―――まてよ

 

その時、脳裏に電撃が走った。もしこの能力が、他者からの干渉を求めず、自らの領域を作りだしてそこに閉じこもり、自己の在り方を他者に押し付ける能力なのだとしたら、外部からの干渉を一切拒む能力であるとしたのなら、内部から外部に対して干渉することは可能なのではないだろうか?

 

―――そうだ。でなければ、内部にいたサコが外部のフェンリルに弾を撃ち込むことなど不可能だ

 

疑念は証拠を経て確信へと変わる。突破口を見出した私の脳裏は、事態の打破に向けてフル稼働を始めていた。今の自分にできるのは、一撃を放つことのみ。放てばそこで、私がこの場においてできる全てが終わる。

 

―――放てるのは一撃

 

一撃にて自分の思惑通りにいく保証はない。相手が気付くか否かは賭け。目論見が上手くいかなかった時、私の目の前にあるのは死。

 

―――だがそれでも

 

「―――フッ!」

「!」

 

足掻かないでこうして佇んだまま、相手の思惑通りに動かされてしまうより、自らの我欲を貫き通して死んだほうが、ずっとましだ。右腕の前腕部を失っているとはいえ、左手の高周波ブレードは健在だ。目の前にいる人間はもはや言葉を解さぬ獣と同等の、それでいて言葉を解さない獣以上に危険な存在であると判断しての、排除のための奇襲を行う。

 

その場にて繰り出せる最速の一撃を抜きはなった瞬間、熱にて柔らかくなっていた体内配線の生体金属部分が千切れ、自然と脱力に似た動作が行われた。それにより一撃は、力任せのそれではなく、過去のそれと比しても劣らない、遜色ない、文句なしにこれまで最速の、記憶にある限り最速の一撃であったが、そうして繰り出した刃は彼女の目の前にあった障壁のようなものによって、滑り、三メートル以上ある刀身が中空を舞った。

 

「―――世界の歯車を回す神秘と一体化した私は、純粋な神秘そのものです。スキルや魔力を伴わないただの一撃で傷つける事は叶いませんよ、シン」

 

腕を振り上げた状態のまま固まる私を見て、彼女は物悲しそうに呟いた。自身へと攻撃が繰り出された事を当然と思って、きちんと自身の立場を理解している所がまた、彼女のそんな狂気を際立たせる要素ともなっていた。

 

「そうか」

「ええ」

「ですから、おとなしく……」

 

それだけ言うと、彼女は銃器をこちらへと向け直して、問いかけてくる。私の短い理解の言葉を、彼女は諦観のそれとでも捉えたようだった。だが―――

 

―――残念。私の狙いは君ではない。

 

「……!?」

「Vier Stil Erschiesung/四番、術式、一斉掃射!」

「オォォォォォォ!?」

 

高らかな、それでいて涼やかな声色の直後、降伏勧告を勧めるサコと私の周囲、ガルム達を包み込むほどの暴力的なエネルギーが降り注いだ。その暴力は、地面に弾着する音から判断して、核熱の術式の威力の質を量と範囲に拡散したようなその攻撃は、サコが持つ突撃銃などよりもはるかに大口径の拳銃の威力を持っていた。

 

まさに驟雨とでも呼ぶに相応しいそれは、天よりガルム達の体に降り注いで打撃を与えていく。やがて私たちのサコの領域を除いた場所にのみ降り注いでいたそれは領域内にも降り注ぎ、そして私を除いた部位にのみの地面を削ってゆく。

 

「―――なぜ外からこの場所を正確に……!?見えないはずなのに―――」

 

私は、私の思惑通り行ったことに、唇が意地悪く歪む。また、私の意図に気付き、読み取ってくれた彼女達には多大な感謝の念を送ると、そんな私の心情の変化は、他者の気持ちを解す努力をしない彼女にもきちんと変化として映ったらしく、私の気持ちをどのように理解したのかはしらないが、目を見開いて大きく叫んだ。

 

「シン、貴方が彼女らに合図を送ったのですね!? 一体どうやって……!」

「さてどうかな……。それに。もし仮にそうだとしても、敵に手を明かすわけあるまいが」

 

―――もとより、よくわからない理屈で私達が気づかぬように隠密の状態を保ち、淡々と自らの目的を達成するような相手に対して、真正面からの正攻法が通じるとは思っていない

 

だから彼女のその、ホモ・サケルだかなんだかの隠密能力が、彼女を中心とした一定の範囲にしか効果を及ぼさないものであり、同時に、内部から外部に対して、音や気配を覗く、質量を持った物質なら干渉可能である事を見抜いた私は、思いつく限り最も不自然でない手段を用いて、私たちはここにいるのだぞという旗を、高周波ブレードを用いて立てたのだ。

 

「誰も信じず、自らの都合のみで動き、方向性は同じはずのフェンリルやガルムたちを利用しただけの君とは違い、私には、考え方に違いはあれど、手を伸ばせば共通した目的意識を持つ仲間がいる。私はただ、いつも通り、味方を信じて最善と思う行動をとった。そして味方はそれに気付き、応じてくれた。ただそれだけのことだ」

 

私が彼女に言葉を突き返すと、彼女は下唇を食みながら、寂しげな、それでいて悔しげな表情をした。フェンリルを縛り付けている紐を握りしめると、彼女は手綱が荒々しく振動していることに気がついたようだった。周囲では暴力の驟雨によってガルムが叫び、死んでゆく。するとガルム達の行き場を失った分解されたマグネタイトは、ゆるゆると領域内にいるフェンリルに向けて殺到し、彼の力を強大なものへと変化させているのだ。

 

「―――くっ……! フェンリルに流れ込む力が大きくなりすぎている……!」

 

サコは、フェンリルの全身を縛り付けている紐を手にしたまま、大きく飛びのいて後退した。

 

「オ……、オマエ! ドコカラ……! 」

「イヤ、ソレヨリ“フェンリル”ダ! “フェンリル”ガイナイ」

「ナンダソノシセイハ……! オレタチヲバカニシテイルノカ! 」

 

そうした彼女とフェンリルが私たちの視界から消え去った途端、つまりは彼女の隠密領域から外れた瞬間、腕を振り上げた勝利を確信した彫像のような状態で固まった私は、ガルムの視界の中へ戻ってきたらしい。ガルム達は困惑しながらも、硬直している私の方へと視線を集中させてくる。やがて様々な理解しがたい事態が立て続けに起こったという事実により彼らの混乱していた感情は、昂ぶる怒りへと変換されたらしく、周囲の視線には荒々しい属性のものが混じり、気配は総じて殺意に変わりつつあった。私はそして自身の置かれた状況を正しく理解した。

 

―――うむ。いわゆる……危機的な状況だな、これは。

 

「コロセ!」

「オォォォォォォ! ―――、ッ、ガフッ、ゴフッ!」

「む……」

 

冷静に絶体絶命を意識すると、その諦観から生まれるすました態度が気に食わなかったのか、周囲が私に飛びかからんとした途端、彼らは途端にむせ返り始めた。ガルムの群れは、鼻をひくつかせると、むせ、悶え、身を捩り、地面の上を転げて他の個体と身をぶつけ合う。先ほどの砲撃により手傷を負った彼らは衝突しあい、悲鳴をあげ合う事で、あたりは一変、血肉が舞い、阿鼻叫喚を常とする地獄が如き様相へと変貌していた。事態の把握に努めようと考えたがあいにく視覚センサー以外の全てが機能麻痺しているため、一体何が原因でこうなっているのか正確には理解できないが、ガルムらが鼻をひくつかせ、咽せているあたり、おそらく―――

 

「呼吸器官から作用する神経系の毒か……?」

「正解です!」

「……! 響か! 」

「凛が先ほどの魔術に乗せて、樟脳を防虫剤としてではなく、毒としてばら撒きました! これでガルム達はしばらく動けないはずです! とはいえ、それでも数が多い……! シンも早く離脱を……! 」

 

口に布を当てた響は暴れるガルム達の隙間を抜いながらを私に近づいてくる。だが。

 

「そうしたいのは山々なのだが、全身がオーバーヒートを起こしていて、体が動かせん。冷却して稼働可能になるまでに、あと数十秒はたっぷりかかる」

「―――! じゃ、じゃあ、とりあえず回復を……!」

 

響はライドウから託された回復の効果を持つマグネタイトが籠められた石、通称『魔石』を取り出すと、その効力を発揮すべく私の体に押し当て、使用した。

 

 

「どうやらなんとかなったみたいね」

 

魔石と響の道具を十全に操る能力により、最低限の稼働が可能となった私は、響のサポートを受けながら、苦しむガルムの群れからいったん離れ、立ち並ぶビルの一棟に近づく。すると、その前には一人、見覚えのある女性が腕を組んで佇んでいた。―――凛だ。

 

「助かった。ありがとう」

 

私は助けてもらった礼をするため、凛に対して即座に頭を下げた。すると。

 

「どういたしまして。―――そして」

「―――」

「―――凛!? 」

 

凛はぶっきらぼうに私の礼を受け取り、目にも止まらぬ速度で腕を崩すと、私の頬を思い切り叩いた。バチンッ、と、大きな音がなり、響は驚きの声をあげた。彼女に叩かれた人工の頬は、叩かれたという情報だけを伝えてきたが、それ以上の感覚と彼女の怒りの感情が頬を通じて、体の中に染み込んでくる。

 

「貴方達の絆とやり方は理解したし、貴方に悪気があったわけではないというのは響の言でわかったけれど、それでも、貴方は一緒に命をかけている私に対してなんの相談もなく、貴方は勝手に動いて、勝手に窮地に追い込まれた。これはそれらに対する私の怒りよ。文句は無いわね?」

「―――ああ。ないとも」

「よろしい」

「―――ええっと……」

 

そうして彼女は、この件は終わりとばかりに、再び腕を組む。そうして凛が組んだ腕の中、彼女が二の腕の部分に、痛みを抑えるかのように手のひらを擦り付けているのを見て、私は彼女の真意を正しく理解した。アンドロの機械の肌を叩いたのだ。むしろ、叩かれたという情報のみが伝わった私よりも、生身の肉体である彼女の方が痛むのだろうに、彼女は勝手に動いた私に自身の怒りと周囲にどのように迷惑になったかを伝え、真っ直ぐ筋を通すために、あえて自らの痛みを度外視して、思い切り私の頬をひっぱ叩いたのだ。

 

なるほど、彼女は素晴らしい人間だ。私は彼女の気持ちがよくわかった。なぜなら、私は彼女と同じく、多く才能と言うものを持っている側の、優れた人間だからだ。私は彼女のパートナーであるエミヤが羨ましくなった。憧れの人物は、その力に相応のパートナーがいるものなのだ。

 

「さて、ではどうしようか? 」

 

私は、凛と私との間に割って入ろうとして、しかし私の手に阻害されて戸惑う響の肩を叩くと、後ろを振り向いた。目の前ではガルム達が今だに苦しんでいる。私の体は回復して機能を取り戻しつつあるし、この体での戦い方も学習した。そしてフェンリルもどこかへと消えている。響が樟脳とやらを麻痺の道具として使ったと言うのなら、ガルムの麻痺はあと数分は効いてくれるはず……。

 

―――つまり、もはや負ける要素はほとんどなくないと言うことだ。

 

「とりあえずさっさとかたしちゃいましょう? 色々と言いたいこともあるだろうけど、話し合いはその後でって事で。―――あのサコっていう女の術式はこっちに任せてちょうだい。どうも魔術や概念が絡んでいるみたいだし、探知の魔術を張っていればとりあえず奇襲を受けない状態に持っていくことは出来るわ」

「了解した。―――響もそれでいいな」

「は、はい! 大丈夫です!」

 

そうして私は剣を抜く……ことができなかった。拾ってきた右手は元の位置にくっついているが、ライドウの特殊弾頭を至近距離で爆散させた影響によりくっついているだけで使用は不可能だった。私は右腕のクラッシャーアームと、左腕の高周波ブレードを使用可能な状態させると、私は私のパートナーである響の方を向いた。

 

「響」

「あ、はい。何ですか?」

「右腕、手首から先がまともに動かん。サブの付属パーツで戦うことになるが、死角と不慣れによる隙ができるだろうことは否めん。―――手伝って欲しい。君の力が必要だ」

「―――はい!」

 

響は言うと、ウキウキと薄緑を解き放った。マグネタイトの光を反射して緑がかった刀身は、なんとも美しく異界の中を照らしあげている。凛が、「見せつけてくれちゃって」と、呟いた。私はあえて無視した。

 

「―――ではいこう……、か……?」

 

そうして準備を整え、悶え苦しむガルムの介錯をしてやるべく突撃しようとすると、私の回復したばかりの耳は、晴見町の方面から誰かが凄まじい速度で駆け寄ってくるのを感知した。私が視線を向けると、彼女らもそちらの方を向く。すると、視界の先、なにやら多くの人形や図形、文字に囲まれた状態で疾走するライドウとゴウト、それをおいかける狐の耳を生やした、ブシドーのように薄着の女の姿が目に入った。

 

「―――あれは? 」

「……キツネ耳の女。どうやらライドウ達はあの女に魔術の攻撃を受けているようね」

 

凛は言うと、体の向きを彼らの方へと向ける。

 

―――なるほど、彼女はあちらを優先する気か

 

魔術の事については彼女の方が専門だ。その彼女がそちらを優先した方がいいと考えたのならば、そうすべきなのだろう。私は凛の意思と私の考えを尊重し、彼女の後に続きそちらの方を向くと、一歩を踏み出した。

 

「―――ライドウとゴウトを助ける。その後合流した彼らとキツネ女を倒し、ガルムを倒す。消えたサコの行方はリンに任せて、一旦保留……雑だが、このあたりでどうだろうか?」

「いいわ。―――それと、無茶するにしても今度はちゃんと相談しなさいよ」

「すまないが保証は出来かねるな。なにせ、勝ちが見えたら一直線に進むのは性分だ」

「―――……はぁ。まぁ、いいわ。勝つ分には文句言わないでおいてあげる。ただし、それが私のカンに触るような方法、納得いかないような理屈、負けに繋がるっていうんだったら私はあんたをぶっ飛ばすからね」

「了解だ」

 

凛は相棒の無茶には慣れている、と言わんばかりに苦笑すると、構える。彼女の頼りがいある援護を確信した私は、響を連れて、いつものように、敵に包囲され、助けを待っている味方―――、ライドウ達めがけて突撃を開始した。

 

 

???

 

 

―――あの女、本当に俺の予想通り、敗北して、逃げ果せたようだな……

 

ライドウとゴウト、そして彼らを閉じ込める陣を保つ『葛の葉』を、鳥の形を模した紙―――式神を用いて追い、式神を通して上空から状況を俯瞰していた倉橋黄幡は、ライドウたちが逃げて行く先に、自らの予想と寸分違わない、我らの敵対者が、我らの召還したガルムたちを次々と打ち倒してゆく光景を見つけて、嘆息した。

 

―――やはり際限なく我欲に身を焦がす人間は退屈だな

 

黄幡は悪態をつく。組織というものにおいて、自身の感情を優先して動くものほど邪魔な駒はない。精緻に組み上げた機械は、小さな歯車の噛み合いがズレることで全てのバランスが崩れてゆく。それは組織といかないまでの小集団においても同様で、しかるに、自らの記憶の中にのみ存在する『兄』を盲信し、そこから生み出される全ての感情を自らの行動の基点として動くサコという女は、どのように言い含めた所で黄幡の立案した計画の通りには決して動かず、絶対にどこかしらで失敗して撤退するだろう事を、黄幡という人物はよく理解し、見抜いていた。だから、サコの失敗というものは、黄幡にとって、予定調和の出来事に過ぎなかった。

 

―――まあ、あの女がフェンリルの予備を確保できただけでもよしとするか

 

現在、召還した悪魔『葛の葉』が、こちらの予定通り、ライドウを銀座にまで追い込んでいる。あとは奴らが合流したのを見計らって、かつてと同じように、蠱毒の術式を発動するだけ。以前、コドクノマレビト事件の際に用いた術式を改良したそれは、発動すれば速やかに効力を発揮し、擬似的な絶対的強者を生み出すだろう。だが。

 

―――蠱毒の果てにある存在では、完全なる絶対的強者になり得ないのだ

 

それは倉橋黄幡がかつての経験から学んだものだった。それでは倉橋黄幡の望みは果たせない。なぜなら倉橋黄幡の望みは、完全無欠の絶対的強者による蹂躙だからだ

 

……、かつて倉橋黄幡は、蠱毒という、壺の中に毒虫を放り込み最後の一匹になるまで喰らい合わせる事で、最強の毒虫を作り出す呪術を応用し、帝都を蠱毒の壺と見立てて、そこに住まう人々を、今回も用いた、欲望を刺激し悪魔へと変身させる丸薬を用いて毒虫の如き役割とし、悪魔化した人々を喰らい合わせる事で、人間よりもはるか絶対的な個となる存在を生み出す計画に加担し―――、そして失敗した。そしてそんな破滅願望を持つ黄幡にとって、自らの絶対的存在となるはずだった安倍星命と、その内に宿る強大な個体である地球外来生物クラリオンは、しかしライドウという存在によって討伐されてしまった。そこで黄幡は考え……、そして悟った。

 

蠱毒の果て生み出す悪魔は絶対的強者になり得ないのだと。べへモスという、終末、人々に捕食される運命にある存在を選択してしまったから、我々は正しく伝承通り、帝都に終末を齎したが、その後、負け、人々に饗されてしまったのだと。絶対的な強者は、最初から唯一無二に強く、蠱毒により他者との交わりの果てに生み出される客人神ではなく、強すぎるが故に孤独の果て確固として存在する自然神なのだと。

 

すなわち、聖獣べへモスでも、暴獣レヴィアタンでもダメなのだ。黄幡が必要とするのは、絶対的な捕食者。唯一絶対にして、究極の、他者を一方的に喰らうことの出来る存在。それは群れた仔羊を喰らう狼よりも、群狼を狩る猟師よりも強く、他者に破れたという伝承のない、不変で神聖な絶対的存在であるべきだ。ならばすなわちそれは―――

 

―――スルト

 

黄幡はそして世界を燃やし尽くす神の降臨に向けて動き出す。絶対的強者は破滅なんて望みやしないし、考えもしない。強者は地を這う虫の事を気にしないで動き、しかしながら、そんな気まぐれな動きにて世界を壊すからこそ、強者足り得るのであり、ただ、そこにあるだけで、他の全てを踏み潰す存在なのだ。

 

―――……、頃合いか

 

だから黄幡は、もし『我は彼』である事を望むのならば、こちらから彼のいる位置に近づく努力をしなければならない事を知っていた。それがたとえ己が身を削り、贄に捧げることであっても……。

 

―――星命……、俺もすぐにお前のいる所へ行こう

 

否、あるいは、そんな絶対的な存在に対しての彼に蹂躙され、服従し、絆で結ばれた近しいものと恭順、同化する事こそが、やはり倉橋黄幡という彼の望みなのである。

 

 

「ライドウ!」

 

前方を走るゴウトが叫ぶ。自らの名を呼ぶその言葉の意味するところは、ライドウにも理解ができていた。

 

―――すぐそこに味方がいる

 

それだけでライドウは頼もしいという気分を得て、気力が湧き上がってくるのを感じた。充実した気分で前を見ると、視界の先には、銀座という街中において、大通りの中、ガルムという悪魔が大量に群れ、そして体を強張らせながらも狂乱しているのが目に入った。そして、その橋、立ち並ぶビルヂングの一棟の前に、見覚えのある顔を見つけて、陣の影響だろう、じわりじわりと重くなっていっている重い体の強張りを、一瞬忘れた感覚を覚えた。

 

「どうやらあちらも取り込み中であったようだ―――、だが、気付いてくれたぞ!こちらを見てくれている!」

「―――はい」

 

ライドウは力強くゴウトの言葉に同意すると、ガルムの方へと視線を向けなおした。自分を取り囲む陣は、陰陽術『奇門遁甲』と隠形法『呪縛秘密成就』を組み合わせた、悪魔召喚術師である自分という個人にたいしてのみ最大の効果を発揮するように造り上げられた、葛葉ライドウを閉じ込める檻を造る専用の術式。悪魔『葛の葉』は夜明けの番人で、陣は内部に捉えた籠女を決して逃さぬようにする為の廓。ならば……

 

―――古来から廓抜けは、外部の手引きにより起こるものと相場は決まっている

 

「―――ゴウト」

「なんだ?」

「ガルムの群れに突っ込みます。準備を」

 

ライドウはそう言って刀を抜いた。ゴウトはライドウの言葉に驚いた表情を見せたが、すぐにライドウの意図を察知して、応じた。

 

「了解だ!」

「―――行きます」

 

ライドウはそしてガルムの群れに斬り込み、突入する。ライドウがガルムたちの群れに飛び込む寸前、ライドウの周囲を取り囲んでいる陣と、その陣を形作っている人形が一部接触するも、動物頭の人形は揺らぐだけで、自らを取り囲む陰陽と密教の合成陣は何一つ変容しないし、自らの体が鉛のように重いという事態も変わらなかった。だが。

 

「オ……」

「オォ……、オォ……」

「オォォォォォォ!」

 

ライドウがその身に背負ってきた陣の内側へと強制的に巻き込まれたガルムたちは、陣が彼らと接触した瞬間、悪魔を混乱させる呪いをその身に受けて、大いに暴れ出した。ガルムらの暴れっぷりや凄まじく、無理な動きで自らの四肢が千切れようと、同士討ちにより傷付こうと御構い無しである。

 

「オン・マリシエイ・ソワカ。オン・アビテヤマリシ・ソワカ……、くっ……!」

 

ライドウの後を追っていた狐耳をした巫女風の女は、そうしてガルムたちが互いに傷つけ合い、同士討ちし出したのを見て、呪文を唱えるのをやめた。彼女は、迷ったのだ。

 

「そこっ!」

「っ……!」

 

そしてその隙をシンが付いた。誰よりも先に飛び出したシンは、左腕の高周波ブレードを用いて狐巫女『葛の葉』に斬りかかる。直前でその一撃を回避した『葛の葉』にその一撃が当たることはなかったが、彼女が回避行動を起こしたその瞬間、ライドウを中心としていた陣は揺らぎ、ライドウが攻撃のために移動しても、その中心点がライドウの頭上より移動することはなくなっていた。

 

「しまっ……!」

「位相がずれた! これなら……! ―――ライドウ! 陣を攻撃するわ! 避けて頂戴!」

「―――はい!」

 

凛の呼応にライドウは首肯する。ライドウが自らの意図を正しく読み取ったと確信した凛は、続けざまに魔術回路に魔力を流し込み、ライドウより受け取ったマグネタイトの篭った魔石を、複数個、ライドウの頭上へと放り投げると、詠唱を介し、攻撃を捩じ込む。

 

「Stil,Schiest Beschiesen Eruscriesung!/術式解放、敵影、一片、一塵も残さず!」

「これは……!」

「サガの『大氷嵐の術式』!?」

 

そうして凛が魔石を用いて発動した魔術は、エトリアにおいては、アルケミストの使う大氷嵐の術式にも似ていて、シンと響は、見覚えのある光景を見て、驚愕の声をあげた。凛が投擲した複数の魔石より生じた、曼荼羅の上部へと生まれた人の大きさほどもある巨大な氷の柱は、落下し、地面と接触する。氷の柱はやがてその氷芯から水を滴らせ、柱より伸びたて地面を這った水は、再び氷となって八卦の陣が敷かれたガルムの蠢く地面を薄く覆い尽くしてゆく。

 

「―――ライドウ! 真後ろだ!」

「―――!」

 

ゴウトの声に呼応してライドウが振り向くと、何もないはずの虚空に氷が巻きついていた。ライドウは迷わずそちらに向けて駆け出した。自身の体はそこに何もないと訴えていたが、凛の魔力、すなわち、マグネタイトがそこに何かがある事を告げていた。

 

虚空に屹立していく氷の筋はやがて、象の頭を持つ小さな異形の人型を覆う鋳型の様に変貌していく。凛の自然を利用した魔術攻撃により、人や獣の目を騙し、惑わす陣の核たる人形の在り処が判明し、そして移動、回避する人形の回避行動もが封じられた瞬間だった。

 

 

「……! 奔れ、炎て……」

「させん! 」

 

ライドウが陣の核を破壊しようとしていることに気付いた悪魔『葛の葉』はライドウを止めるべく炎の呪術を放とうとするも、シンがそれを食い止めるべく、近接の一撃を繰り出した。『葛の葉』は舌打ちをして、その攻撃を回避した。いつもなら間違いなく敵の首を弾き飛ばすだろう一撃が、虚空を切ったのを見て、シンも舌打ちする。

 

―――体の動きが鈍い

 

シンは自らの体が、魔石により一定の回復が行われたとはいえ、完全に元の状態に戻っているわけでない事実を悟った。オーバーヒートを起こした体の機械部分は魔石での修復が不可能で、オーバーホールなしに新品の状態には戻らない事を、理屈でなく、感覚として理解したのだ。完全に回復した生体部分と、傷付いたままの機械部分との差異はエラーを生み、シンの動きを歪ませている。

 

そのエラーを実測し、修正をかけながら、シンはそれでも攻撃の手を緩めないが、そんなシンの一撃はいつもと比べると鈍く、キレも鋭さもなく、目の前のアルケミスト然とした、いつものシンに比べれば、対して素早くもない術師にすら余裕で回避される程度の一撃しか放てない。一撃を振るうたびに大きな隙が生じる。生じた隙は『葛の葉』がシンやライドウ

を攻撃する絶好の機会であるわけだが―――

 

「やっ!」

「ちぃっ!」

 

その隙を響が補う。シンは足りない部分を他所に求めたのである。

 

「二人がかりとは卑怯な……! 」

「足りない部分を補い合うのは!」

「冒険者として当然のことです!」

 

『葛の葉』は憎々しげにつぶやく。それだけで呪詛となるなら呪い殺してやりたいと言わんばかりの憎しみが込められたそれを、シンと響は平然と聞き流し、言い返した。葛の葉はそれを聞いてさらに眉間の皺を深くするが、いくら憎しみを増したところで、目の前の現実が覆るわけでもない。

 

「退きなさい! 」

「断る! ―――ライドウ!」

「―――!」

 

苛立たしげに吐き捨てた『葛の葉』の要請を断固として跳ね除けると、視界の端にライドウの姿を捉えたシンは、ライドウが邪魔なガルムの群れを斬り払って屹立する氷の鋳型に近く姿を見て、思わず期待の声をあげた。シンの声援を受けたライドウは、瞬間、体の動きを鈍くする陣の効果から解き放たれたかの様に、ガルムを斬り払う速度を上げ、マグネタイトを撒き散らしながら、彼本来の速さに近い速度で駆け抜ける。

 

「あぁっ……!」

 

『葛の葉』は自らが黄幡より引き継いだ陣が崩れる未来を予見して、悲鳴をあげた。透明な象頭の人形に接近したライドウは、振り上げた刀を振り下ろす。祓魔の刀はガルムどもの喰い合いと凛の魔術により周囲に生じていたマグネタイトの霧を切り裂いて、透明な薄布向こう側にある魔を祓わんとその威力を発揮しつつ、人形へと迫った。そして。

 

「急急如律令―――」

「―――!?」

 

倉橋黄幡の静かな覚悟のこもった声の呪文が響きわたり、象人形を引き裂くはずの袈裟斬りの一撃が、倉橋黄幡の肉体へと吸い込まれる。人間の骨など切るとの覚悟なしには簡単に切り裂けないはずであるが、黄幡自身がいかなる術式を使っているのか、黄幡の体はまるでバターの塊に、熱したナイフを通すかの如く、断ち切ってゆく。

 

ライドウは目の前の光景と、その違和感ある手応えに困惑しながらも、振り下ろす手を止めることは出来なかった。

 

 

ライドウの刀が黄幡の体を断ち切るのは、その場にいる黄幡を除く誰の目にも、理解不能な事象として映り、黄幡を除く誰もが呆気に取られていた。当然だ。なぜ、わざわざ刀の前に飛び出して殺されに行くのか。そんな理由がわかるとしたら、それはその本人以外に知り得るはずがない。

 

『黄幡……!? 貴様、なぜ……!?』

「貴様に答える義理は……、ない……!」

『……!』

 

そんな周囲の疑問を代表したゴウトの焦燥含む問いに、すでに欠損していた体を真っ二つに断ち切られた黄幡は、ニヤリと笑って、答えた。ゴウトはそんな死にかけの黄幡の静かな返しの言葉に気圧されて、息を呑んだ。一目で勝者と敗者がわかる構図は、しかし、その内面において、真逆の様相を呈していた。

 

「ラァァァイ、ドォォォウ! 」

「―――何っ!?」

 

ゴウトの問いを切って捨てた黄幡は、斜めに袈裟斬りされた己の肉体がずれて落ちる前に、己を斬り捨てたままの姿勢で固まるライドウの胸元を残った片手で掴むと、腕に力を込めた。その動作によって断ち切られた断面より己の肉体は断裂し、断ち切られた部位より自らの内臓が零れ落ちるが、黄幡はそんなことを意にも解せずライドウへと接近すると、首元にしがみついた。黄幡が自らの痛みを無視して末期の力を振り絞るその姿は、まさに国家転覆を計った悪鬼にふさわしい姿であると言えた。

 

「絶対的強者たる自然神のいる場所に近づくためには、自らがせめて蠱毒の壺の勝者となるしかない! しかし、貴様に敗れた俺には、もはやその資格がない……。だが、俺に勝ち、帝都を守るため勝ち続けた貴様なら、蠱毒の勝者と敷いて、すなわち、この陣の内側で、広く欧州において死の象徴たる狼が殺しあうこの蠱毒を勝ち抜いた帝都帝國、いや、世界を見渡しても指折りだろう悪魔召喚師である貴様は、ラグナロクにおいて暴れる、死と破壊の象徴たる、人格を持たない“自然神フェンリル”召喚の贄として、最高の供物となる!」

「―――な! 」

 

黄幡は血反吐を吐きながら、ライドウの耳元で叫んだ。ライドウは脳髄に染み入ってくる甲高い声の意味を咀嚼すると、驚きの声をあげた。驚愕を、文字通り肌身の至近距離から残された全身で感じた、黄幡は、大いに喜び、声を上げる。

 

「そしてライドウ! 貴様は今、その事実を、“理解”し、“自覚”したな! これで“呪”がかかり、ここに蠱毒は完成した! 急急如律令!」

「―――はい」

 

高らかに叫んだのち、黄幡が放った呪文の効力により『葛の葉』は操られ、その手より陣に向けて魔力を生じさせた。それは彼女の完全なる意識の外から強制された動作であるがゆえに、あまりにも流麗なものだった。

 

「あっ……!」

「しまっ……!」

 

彼女のすぐそばにいた黄幡の命を捨てた壮絶な捨て身に気を取られていた響とシンは、自らの失態に気付いて反応するも、もはやそれは遅かった。『葛の葉』の放った魔力に反応したライドウと黄幡の周りを取り囲んでいた陣は、その内側にいる、ライドウに斬り殺され、あるいは凛の魔術によって殺されたガルムの残骸や狂乱したガルムの群れごとをマグネタイトへと変換し取り込むと、現在、陣の中心となっているライドウと黄幡を包み込みんでゆく。

 

「―――ぐぁ……!」

『ライドウ!』

 

ライドウの苦悶の声に、ゴウトが悲鳴をあげた。自らの体を締め付けるようにして集まってくるマグネタイトの奔流で薄れゆく意識の中、ライドウは、陣の効力が書き換えられたのか、いつのまにかライドウの目の前に現れていた象頭人形も、薄れてマグネタイトへとなり、掻き消えてゆくことに気が付いた。

 

「―――く……」

「させるかよ!」

 

ライドウは人形の崩壊を見て悪魔召喚が可能になったことを悟り、刀を持っていない方の空いている手で管をホルスターから抜き取り悪魔を召喚しようとしたが、ライドウのその足掻きに気がついた黄幡の攻撃により、悪魔召喚は妨害された。

 

「―――が……!」

 

ライドウの喉元に黄幡の歯が食い込む。もはや体を動かす血液すらほとんど残っていない黄幡には、そのままライドウの首を噛み切る咬筋力は残されていなかったが、それでも首元への攻撃は、ライドウの行動を阻害するに至っていた。ライドウの手から刀と数個の管が零れ落ちる。やがてそれらのうち、刀は氷となった地面に突き刺さり、数個の管は氷上を転がってゆく。そうして抗う手段を失ったライドウには、もはや抵抗の余地が残されていなかった。

 

『ライドウ!』

 

それを見たゴウトの悲鳴が、銀座の異界にこだまする。同時に崩れ、薄れつつあった陣は、ライドウと黄幡めがけて収束し、禍々しい気配を携えたマグネタイトが、彼らを中心に、天へと向けて逆巻きの渦をつくった。ライドウと黄幡はそして、黄幡のかつての望み通り、周囲の贄を吸い上げて、マグネタイトが絶対的な強者の元へと還元されてゆく。強制的に献身を施された、他者の存在を饗する事を強要されたライドウは、やがて自らの体内を取り囲む存在が持つ破壊衝動により、己が裡にも潜むそんな感情を共振させられ、燃え上がるような激情を感じながら、意識は闇へと吸い込まれていった。

 

 

第七話 終了

 

 



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第八話 世界と、正義と、在り方と

まず、謝罪を。色々とぶっ壊しています。キャラを崩しています。原作イメージにそぐわない、という方は、本当にごめんなさい。でもこれがやりたかったのです。

いよいよラストスパートに向けて突っ走ります。これより始まりますは、怒涛、怒涛の種明かし。世界樹クロスを組み込んで組み上げた設定は、皆様に満足していただける出来に仕上がっていると自負しております。もうしばしの間お付き合いいただき、どこかで無様に散った場合は、ざまぁないぜ、と、ご笑覧の一つでもいただければ幸いです。



第八話 世界と、正義と、在り方と

 

優しい揺籠にお別れを。

疎ましき悪魔に花束を。

対峙の時は必ずやってくる。

問題はそれをその時、どう受け止めて、己の意志でどんな道を選択するかだ。

 

 

エトリア、執政院執務室

 

 

「サガが……、飛び出していったと!?」

「は、はい!」

 

兵士の一言に思わず大きな声で問い返すと、彼は一瞬竦み、怯えたような態度を取りましたが、即座に自らの職務を思い出したのでしょう、即座に私の質問に対して答えてくれました。

 

――いったいど、どこへ……!

 

「いえ、それよりもなぜ……!」

「――兵士の話によれば、そのヘイという男を抱えて西へと消えた翼人たちの姿を見た瞬間エトリアを飛び出したのだというから……」

「西……、か。――やはり目的はグラズヘイムなのか?」

「じゃあ目的は――」

「ええい、なんでも良いわ!」

 

私の漠然とした問いに、ヴィズルが答え、サイモンが補足し、話をラクーナが引き継ごうとした時、ギルガメッシュは大きな声で怒鳴り上げました。その甲高い怒りのこもった声は部屋中を揺るがし、広げようとした風呂敷を無理やり閉じてしまいました。

 

「貴様らの言にも一理あるとおもい報告を聞いたが、時間を無駄にしたわ! 実にくだらぬ! 雑種が一人、どこぞへ消えようと我にとってどうでも良いわ! 我は我が居城へ戻るぞ!」

「え、あ、ちょ、ちょっとまちなさ――」

「――、ッ、ええい、鬱陶しい!」

 

そしてサガのことをくだらないと一言で切り捨てたギルガメッシュは、フレドリカの制止を完全に振り切ろうとして、しかし身を乗り出した彼女が自分の服をしっかと掴んでいることを認識すると、忌々しげな視線を彼女へと向けたまま光に包まれていきます。

 

「ちょ、何よこれ!」

「リッキィ!」

 

誰かが叫び、その部屋にいた皆がそれにつられて光を放つギルガメッシュに近づきました。そして――

 

 

「――ここは」

 

肌寒く、少しひんやりとした、不自然に薄ら明るい空間。周囲の壁には規則正しい折り目状の壁の隙間から緩々とした青色の光が走り、天井からは白色をした光がそれよりも明るく、まるで時の流れから切り離されたかのごとく輝いています。私はその光景に見覚えがありました。

 

「グラズヘイム?」

「――の中央棟の、だいぶ上の方みたいだな」

 

この慣れないチカチカとする明かりにすぐさま適応したリッキィとアーサーの二人が呟きます。つられて彼らが眺めるガラスの側に近寄ってその向こう側を眺めると、眼下、自分が今いる場所から百メートルほど下方には広々とした森がどこまでも広がっており、そんな森の中には、人が十、二十入ってもなお余裕がありそうな大きなパイプが蛇のようにうねっている光景が目に移りました。

 

―――なるほど、たしかにここがグラズヘイムのようですね

 

おそらく、かつてギルガメッシュが私たちをエトリアへと転移させたように、彼の手によって私やフレドリカ、アーサーを含めるあの部屋にいた殆どの人間がグラズヘイムへと転移させられたのでしょう。

 

「――!」

「おのれ……、痴れ者共が……!」

 

そしておそらく、そんな転移と言う凄まじい事象を、周囲の戯言に付き合ってられない、面倒くさいという理由からは行ったギルガメッシュは、先ほどのエトリアの部屋で喚いていた時よりも凄まじく濃密で静かな、しかし滲み出る怒りを私の背後で密に発し、露わに呻きを漏らしていました。誰もがギルガメシュの気配に反応し、そして、その荒々しさに目線を切る事も、彼から気をそらす事も出来ないでいました。

 

――これはすさまじい……

 

ギルガメッシュという男が無意識のうちに周囲へと撒き散らす気はあまりにも濃密で、そこにいるだけで息苦しいような感覚を覚えるほどでした。一体何が彼をそこまで憤慨させているのか――

 

「人形如きが我が居城にその汚らわしい土足で踏み込んだ挙句、踏み荒らすか! 無礼な!」

 

――なるほど

 

そして私はその理由を、フレドリカとラグーナの言によってすぐに理解することができました。

 

「あ、……森の向こう側――」

「煙が……、って、森が燃えてる!?」

「――あの点みたいなのは翼人か!」

 

眼下、地平線の近くの森のあちこちから煙が上がっていました。眼下に広がる森の木々の間より立ち上がる煙は、方々、空に存在する黒い点――、翼人が生み出す炎によってグラズヘイム周辺の森が、施設ごと焼かれている証でした。

 

――煙が……

 

そしてもうもうと上がった白、黒、灰色の入り混じった煙は、天に浮かぶ翼人たちと、そして地で燃える森を薪木として、濛々と覆う範囲を広げていきます。火の勢いはまさに怒涛でした。

 

「どうしたら――、……!」

「――」

 

やがてサイモンが対応策を誰かに問おうとした瞬間の出来事でした。あまりの怒りについに堪忍袋の緒が切れてしまったのでしょう、言葉も出ない、とそんな様子のギルガメッシュは、目元と額と口元をピクつかせながら、深く、静かに、怒りを発露させていました。有り体に言うなら、彼はキレていました。

 

「有象無象が――」

 

やがて彼の口から絞り出されたその言葉には、自らの領域を侵犯するものに対する怒りの全てが込められていました。初代エトリア院長ヴィズル。現エトリア代表のクーマ。エトリアの迷宮を踏破したギルド、「グレイプニル」の誰もが、彼のギルガメッシュの純粋な怒りを受けて、気圧されていました。

 

――ああ

 

そう、彼らは一様にして、ギルガメッシュという人物の放つ純粋な怒りの感情に恐怖していました。きっと、それはおそらく、間違いようもなく、人として正しいあり方なのです。ですが私は、そんな彼の一心不乱な感情を浴びて――

 

――なんて、美しい……

 

そうして目の前の事象に対して研ぎ澄まされた一つの純粋な感情を放つ彼のことを、私は美しいと感じて、思わず興奮し、見とれていました。彼は真剣でした。彼はおそらく、真剣に、自らが敵対者として定めた存在に対してのみ気を向け、純粋に、敵を殺す事だけを考えているのです。

 

――その在り方のなんと美しいことか

 

その感情には、一片の曇りもありませんでした。混じりっけのない純粋なものに弱い私は、思わず楽器を手にして、弦を指でかき鳴らしていました。

 

「ああ、純粋な人よ! 畏敬の念を引き起こす人、グラズヘイムの主人たるギルガメッシュよ! 伝説に謳われる勇士たちを、過去の賢者を、今代の賢者を怯えさせる、偉大なるお方よ! 高くそびえる塔にて、自らの領域を焼かれる怒りに、純粋なる怒りの念を、隠す事なく堂々と敵へと向ける戦士よ! 貴方は素晴らしい! 貴方は素晴らしい! 貴方の怒りは素晴らしく、美しい!」

 

歌は私の覚えのない、独特な韻律を踏んでいました。キタラは自然と私の喉からでる音色に相応しい音楽を奏で、気がつくと私はギルガメッシュに向けて、即興の歌を献上していました。

 

――ああ……

 

私は興奮していました。その瞬間、私の脳は私のものではなくなっており、何処かよりやってきた天啓が歌となり、この場にて彼を表すに相応しい詩歌を作り出したのです。それはかつて、初めてシンの活躍が敵と戦った時に抱いた気持ちと同様の、凄まじい興奮でした。

 

「――……」

 

私が最後の言葉を歌い上げた瞬間、私は正気を取り戻しました。

 

――しまった……!

 

やがてハッとした時には遅く、周囲を見渡せば、森の煙やギルガメッシュへと向けられていた視線は全てが私へと向けられていたます。一同がむけてくるのは、困惑の視線です。

 

――当然だ

 

また、私を静かに怒り露わにしていたギルガメッシュの目線ですらも、いつのまにかこちらへと向けられていました。視線は熱いものから一転して冷め、静かなものへとなっていました。その透明な私を移す瞳に奥にあるものが、怒りが通り越して呆れたものであるようにも見えます。あるいは。

 

――怒り狂う彼がさらに怒りを引き出してしまったかもしれない……

 

向けられる視線の奥にある感情が、怒りが積み重なることによって生じたものでないことは、彼の純粋な怒りによって昂ってしまった私にとって本来すぐに理解できたのでしょうが、興奮じゃ私から冷静な観察力を奪っていました。私は大いに反省するとともに、しかしその実、少しばかり興奮もしていました。

 

「――」

 

――おや?

 

しかし、ギルガメッシュの目線から発露される感情は、怒りから別のものへと変わっている事に気がつきました。一心の怒りに歪み、純粋な怒気を振りまいて荒々しく歪んでいた端正な顔立ちは、眉目な状態に戻り、秀麗な姿で私を見つめてきます。

 

「――楽師。貴様の名はなんだ」

「え……?」

 

そして唐突な呼びかけに私は思わず聞き返してしまいました。

 

――しまった……!

 

彼の今までの行動から考えるに、彼の言葉を問い返すと言う私のその行為は、気位の高いにとって不快なものであるはずです。私は彼を不快にさせてしまうかもしれないと、思わず自らの失態を咎めたい気分になりました。

 

「楽師よ。この英雄王、ギルガメッシュたる我が、貴様の名を教えろと問うておる」

 

再び先ほどのような怒気を生む呼び水になるかもしれないと考えられるその行為に、しかしギルガメッシュはそれを咎めるどころか、丁寧に言い直すと、私に再び問いかけてきます。異変を直感した私は、慌てて口を開きました。

 

「ピエール……、バードのピエールです」

「そうか、バードのピエール。なるほど、貴様は、バードのピエールなのだな?」

 

そうして私の名前と職業を受け取ったギルガメッシュは、当然知っているはずの私の職業を改めて言い直しました。

 

「――貴様の我を讃える歌、たしかに受け取った。賛歌は我が故郷、ウルクを思い出させる懐かしき音調と韻を踏んでおった。英雄王たる我から喜びの感情を引き出したその技量と大義、見事であった。褒めてつかわす」

 

ギルガメッシュはどこまでも尊大に、横柄とも思える態度で胸を張り、私へと言葉を投げかけてきました。しかし、そうして私へと向けられた彼の言葉には私の存在があり、彼の視線には、有象無象の一人としてではなく、「バードのピエール」としての私が写っている事がわかります。

 

「――ありがたく」

 

私は、私から感情を引き出して、そしてそれを認めてくれた敬意に値する人物の中にそんな居場所を作れたことを誇らしく思いながら、恭しくギルガメッシュの返礼から受け取り、頭を下げます。それを見たギルガメッシュは満足げに首を縦に振りました。

 

 

「――さて」

 

そして周囲が私とギルガメッシュが生み出していた転々と変化する場の空気についてくることができなかったからなのでしょう。そんな沈黙が支配していた場を破ったのはやはり、この場でおそらく私と並んで場の空気というものを読まない、それどころか気遣いもしないだろうギルガメッシュその人でした。

 

「――奴らがその胸の裡にいかなる愚劣を企てているかは知れぬが、エトリアを無視してこのグラズヘイムという我が領域内を攻撃するからには、やつらの狙いは、やはりこのグラズヘイムと深く関連したところにある、と見てよかろう」

 

やがてギルガメッシュは誰にいうでもなく、滔々と語り出します。

 

「古今東西、敵が戦力を分散して敵地を攻める理由など、大抵一つに集約する。――、それはもちろん、敵の意を本命の場所から逸らすことだ」

「つまり――、陽動か」

 

ハイランダーの彼が答えます。ギルガメッシュは答えにゆるりと頷き首肯すると、何もない空間に手を振るい、自らの眼前に四角い映像を生み出しました。前後が薄く、透明な、宙に浮かぶ、ギルガメッシュのいる側からも、私らの側からも映像が見えるそれには、森に火をつけているものたちの姿が映っていました。

 

「然り。すなわち、奴らの狙いは我の意識をこの本丸たるグラズヘイム中央塔からそらし、我を誘き出す考えなのだと考えることができる。おそらくそうして我が怒りを誘い、我をこの本丸から誘い出し、我が敵を殲滅するために姿を現したところを確認したのち――」

 

ギルガメッシュは右手の人差し指で床を示しました。

 

「その隙に、ここ――、すなわちグラズヘイムへと本命を乗り込み、機能の乗っ取りを行う予定だったのだろう。なるほど、いかにも力のない有象無象どもが考えそうな卑劣極まりない浅ましい手段よな」

 

ギルガメッシュはそして悠々とはめ殺し窓の外へと視線を送ります。森から上がる煙の数は増えていましたが、しかし先ほどと同じように窓の外を眺めるギルガメッシュの視線には、先ほどはなかった余裕の成分がたっぷりと詰め込まれていました。

 

「――だが、そんな小細工を打ち破ってこその、強者だ」

 

やがて余裕綽々のギルガメッシュは、床へと向けていた右手の指を元の位置に戻すと、手のひらを天井へと向けて、そのまま力一杯強く握りしめ、まるで手中の中にいる怨敵を潰すような所作をしました。

 

「……おい、ヴィズルと、フレドリカとやら」

 

二人はギルガメッシュに、今まで以上に密な視線を送りました。

 

「貴様らにこの中央塔の守護を命ずる」

「――私に?」

「え?」

 

ギルガメッシュは、ヴィズルの問いと、フレドリカの戸惑いに対して呆れた視線を送りながら、鷹揚に頷きます。

 

「我を除けば、この塔は、これが製作された時代の人間である貴様ら以外ではまともに動かせん。塔にある兵器の機能に、そういう、生体認証のセーフティロックがかかっている事は貴様らも承知の筈だ」

「――確かにそうだが、だが……」

 

ヴィズルはそしてフレドリカを見ました。その場にいる一同の視線が小さな彼女へと集中します。そして視線の集中した彼女は、小さな肩を落とし両手を組み合わせ、そしていつの間にやら取り出していた亀裂の走る黒板をその両の手でしっかり握りしめると、両目の視線の先を鼻先の顔にあるそれへと向け、うつむき、ギルガメッシュの視線を切りました。彼女はいかにも落ち込んでいました。

 

「――マイクは……、彼はあの時からずっと眠ったまま……」

 

マイクとはおそらく、アンドロ、オリビアの言っていた、この塔の管理者という奴でしょう。その口調から判断するに、その彼とやらはどうやら彼らの生きていた時代に起こった、彼らの知るなんらかの出来事によって、長きに渡る眠りについているようでした。しかし。

 

「何を戯けたことを」

 

ギルガメッシュは、そうして落ち込むフレドリカの懊悩を一言で切り捨てると、むしろ、汚らわしいものでも見るかのように、極端なまでの軽蔑の視線を向けて彼女を見据え、そして言葉を続けました。

 

「貴様らがマイクと呼ぶあの機械は、貴様にグングニルの発射を阻止され、自らの生きる意味そのものを否定されて以降も黙々と起動しておったわ。だからこそ、このグラズヘイムという複雑極まりない施設は、こうして未だに機能を保っておるのだ」

 

その一言がフレドリカたちにとってあまり意外だったのでしょう、ギルド「グレイプニル」の五人は、それぞれ異なった驚きの顔を浮かべたまま、その場に固まってしまいました。私と同じく事情をよく知らぬクーマはぽかんとした表情で、ただ一人、ヴィズルだけが、眉間にしわを寄せ、彼ら――、とくに、フレドリカと呼ばれる彼女へと向けて、なんとも表現し難い、憐れむような、悲しむような、そんな視線を向けています。

 

「え――」

「人には人の。道具には道具の幸福というものがある。人にある魂とは、すなわちそのものが生まれた環境の歴史や積み重ねとリンクするものであり、歴史の積み重ねを持たぬ機械にとっては最初に「そうあれかし」と書かれて埋め込まれた数行のプログラムこそが魂そのものだ。一山いくらの雑種がごとき人間であっても、積み重ねてきた魂には歴史が存在する。しかし、人の手によって生み出された歴史を持たぬ機械であるに奴にとっては、そのたった数行こそが自身の魂そのものであり、歴史と自身の魂のそのものだった」

「あ――」

 

ギルガメッシュの言葉にフレドリカの肩が小さく震えました。

 

「――だが、貴様らは、そんなマイクに対して、「グングニルという兵器を使用し、フォレストセルを殲滅する」というマイクの使命を否定し、自らの正義で上書きしようとした。すなわちそれは、マイクの魂を否定する行為と何が違うと言うのか」

「――ああ……」

 

ギルガメッシュの言葉に、フレドリカの顔色が真っ青に染まっていくのがわかります。それはやがて他の四人にも伝播し、それぞれが苦々しい表情を浮かべるようになりました。

 

「そんな、道具としての幸福を否定されたマイクという機械は、だからこそ、貴様らの呼びかけを否定するようになった。――俯瞰、歴史の視線から見てみれば、貴様がやった、グングニルという戦略的大量破壊兵器を使わせずに事の解決を図った行為は確かに正しく、多くの人を救い、エトリアを窮地から救った」

 

私は相変わらず詳しい事情を理解する事ができませんでしたが、彼女と、彼女を中心とした彼ら「グレイプニル」の一同が、マイクという管理人に対して、何か、重大なすれ違いを起こす行為をしてしまったのだという事だけは理解することができました。

 

「だが、貴様が行った、貴様にとって大切だったのだろうその願いは、十数年の貴様自身の歴史と、魂を担保に持つ貴様にとっては当然の答えであり、マイクの基礎プログラムに、「人を殺すな」とたった一行を加える程度の行為に過ぎなかったが――、それは、機械のマイクという、歴史の重みを一切持たぬ生まれたばかりの道具の奴の幼い観点からすれば、子供が自らの思う通りに育たなかったと、人生観を否定され、親に殴られる行為と何も変わらん行為でもあった」

「あぁ、ああ……」

 

ギルガメッシュは一切容赦しません。彼は、他人がどうなろうが知ったことではないといわんばかりに、容赦なく他人の痛いところを暴き、そして責め立てます。

 

「すなわち、あやつが貴様らの呼びかけに応じなくなったのは、貴様の行為によって自らの魂が分裂して砕け散ってしまうのを恐れたマイクの自己防衛反応に過ぎん。そしてつまるところ、そんな奴の事情を無視して、自覚することなく、理解しないままに、いつかは分かり合えると信じて一方的に自身の思いを語りかけ続けた貴様らの愚行は、奴にとって、単なる虐待行為としか映らなかった」

 

彼はその場において、絶対の支配者でした。言葉はその場にいる誰をも攻撃していました。

 

「奴との相互理解を求めるなら、あの時貴様は、マイクが、グングニルという兵器を使用しつつ、フォレストセルを殲滅し、なおかつ、大地を壊すことなく人を救う手段を提示しなくてはならなかった。あるいは、そんな時間などなかったというのなら、否定したのち、長く寄り添い、傷付いた奴の魂に沿った言葉を投げかけ続けてやるべきだった。だが、貴様は、一方的に好意を伝えていれば、きっとやがていつかはわかってくれるに違いないと自らの都合の良いように思い込み、進んで相手を否定した状態で、奴との対話を停止した」

 

それは、きっと誰もが子供のころ、一度は犯す過ち。相互理解の放棄。

 

「つまり貴様はそこで逃げたのだ。貴様のそんな心のない呼びかけと無茶な期待に対し、応じぬにしても、無視という態度を貫くだけに止まっていたのは、つまるところ、マイクという、人間に使われる道具という誇りを持つ奴なりの思いやりであり、矜持……、眠ったままなどという理解と言葉に逃げるのは、あまりにも自分勝手が過ぎると、そうは思わんか?」

「――ああ……!」

「リッキィ!」

 

ギルガメッシュの容赦ない言葉に、フレドリカは膝から崩れ落ち、そして直前、ラクーナに身を支えられました。支える側であるラクーナや、その周りで彼女に手をさしのばす彼らもまた苦悶の表情を浮かべていましたが、特にフレドリカの顔色は最悪と言っていいくらい青く染まっています。この世に蘇ったはずの彼女は、今にも魂が再び抜けていってしまいそうでした。ギルガメッシュはそれでも容赦しません。

 

「強者には強者の立ち居振る舞いと責任というものがある。その場に存在するだけで無自覚のうちに他者の意見と人格を否定してしまうような我のような英雄は、強者は、我のように傲慢を自覚し他者など自分の下にいて当然との王の振る舞いをするか、あるいはエミヤという男のように、徹底した自虐の元、死んで、世界と隔絶した場所に引きこもるかしなければならぬ。さもなくば、その他大勢の英雄たりえない弱者は、自己の脆弱な存在に耐えきれず、潰れてしまうからだ」

 

ギルガメッシュはそれでもまだ口を止めようとはしません。おそらくそれは、いましがた言ったばかりの、彼の強者としての価値観と矜持にかかわる部分なのだからでしょう。なるほど、彼の傲慢の理由が私にはようやく理解できました。いかにも不機嫌そうに倒れる彼女とそれを支える彼らを見て、ギルガメッシュはそれでも、冷ややかな目つきでつぶやきます。

 

「雑種。貴様にはそうして支えてくれるものがいるが、あやつにはそれがいなかった。あやつにとってそうである立場の貴様は、しかし自らその手を解いて、奴を突き放したのだ。その、何もせずとも、一方的に想いを伝えれば誰とでも分かり合えるなどという笑える考えは、そんな強者の思想を押し付けられる弱者の側からすれば、我の傲慢が陳腐に見えるくらい、強者としての傲慢が過ぎる行為であるという事を、大人であると自覚するなら、ゆめゆめ忘れず覚えておけ」

 

大人を自認するなら、強者であると自覚する気があるなら、実力に相応の分別を持て。そんな意味を持つ言葉が、静かな空間にやけに大きく響きわたりました。

 

 

「――マイク」

 

フレドリカはおずおずとギルガメッシュが差し出した虚空の四角い画面へと呼びかけます。ざあざあと白黒の線が走る灰色の透明な画面は、フレドリカの呼びかけにまるで変わる様子を見せません。ギルガメッシュは軽くため息を吐くと、面倒臭そうに、フレドリカの反対側から、やはり彼女がやったように虚空へと向けて呼びかけました。

 

「――支配者たる我が命ずる。我が眼前に意志を表せ、マイク。我が貴様を道具として扱ってやる。今この瞬間、貴様は、世界樹の上に住まう人間を守る兵器として作られた意義を果たす時が来たのだ」

「――OK、ギルガメッシュ。了解です」

 

フレドリカの優しい声ではなく、ギルガメッシュの一方的な命令じみた呼びかけにより、周辺より声が聞こえてきました。周辺に響いたその音声は、アンドロのオランピアのような、とても特徴のない耳障りのいい声をしていましたが、マイクのその声は、まるでいじける子供が、絶対的な父親の指示により渋々と声を出したかのような、そんな雰囲気がありました。

 

「マイク!」

「ハロー、リッキィ。お久しぶりです」

 

フレドリカの呼びかけに応じず眠っていたというマイクは、しかし今、すぐにフレドリカの呼びかけに反応して、すぐに声を返しました。透明に聞こえるその声には、やはり不服そうな音調を含んでいると私は感じました。それは、ああ、なるほど。

 

――まるで駄々をこねる子供のようだ

 

「――マイク……。私……、私……」

「懺悔と後悔は後にしろ、雑種。今は一秒が惜しい。マイク。状況は把握しているな?」

 

両手を組み、周囲の壁と同じような亀裂の入った黒い板を握りしめ、か細い声でマイクに対して呟くフレドリカをギルガメッシュは一言で切り捨てると、マイクに尋ねました。彼は相変わらず容赦がありません。ですがその強者然とした在り方は、なんとも最強を誇る彼らしい。ああ、なんとも懐かしい感覚。

 

――まるでシンと初めて出会った時のよう

 

私は再び感動していました。

 

「はい、ギルガメッシュ。グラズヘイム、多数の地域に火災、破壊被害を確認しました。また、被害の広がる速度、翼人の行動により火災が発生している状況から、敵意ある攻撃であるとも判断いたしました」

「よし。ではグラズヘイムの守護を貴様に任せる。基本、消化、鎮圧の判断は貴様に任せる。具体的な指示がある場合は追って出す。都度生じる細部、不明な点は、そこの二人の判断を仰ぎ、その指示に従っておけ」

 

ギルガメッシュはそう言って、ヴィズルとフレドリカの二人を順に指し示しました。

 

「――了解です」

「マイク……!」

 

マイクが溜めの後に返した了承の返事により、ラクーナに支えられたフレドリカは、涙をいっぱいその瞳に溜め込むと、大粒の雫を頬から顎へと垂らし、ポロポロと地面に水滴を落としながら、震える声をあげました。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい……。私、全く気がつかなくて……」

「――リッキィ」

 

マイクはその重く後悔のこもったフレドリカの呼びかけに、やはり変わらず、耳障りの言い、透明な、しかし先ほどよりもどこか軽やかに聞こえる音程で答えました。

 

「問います。貴方は私を、道具として正しく使ってくれますか?」

「――あ」

 

その問いは、間違いなく、マイクという彼から、フレドリカに対する許しの言葉でした。マイクは彼女を許し、そして指示を求めていました。

 

「――うん。……うん! 私、やるから……! 私、貴方の目的を道具として、きちんと使って見せるから……! 今度は、きちんと貴方の魂を傷つけないように、納得に行く命令を考えてして見せるから! だからマイク、お願い! 私に力を貸して! 」

「――了解です、リッキィ」

 

透明な声は、しかしフレドリカの喜色を帯びた叫びに応じました。

 

「う、うぉ! なんだ!」

 

アーサーが小さな体を揺らしました。いえ、揺れさせられたのです。今、塔の地面は上下に大きく振動していました。

 

「火災鎮圧用にギムレーを出撃させます」

 

何が起こっているのか。その問いに答えたのは、マイクでした。

 

「――ギムレー? それって確か」

「私たちが戦った戦闘用のロボットじゃない?」

 

目を真っ赤にしたフレドリカと、彼女を支えるラクーナが問いかけます。

 

「はい。あれは元々、このグラズヘイムにおける万が一の際の暴徒鎮圧用としてのロボットとして開発されたものです。万が一、グラズヘイムに暴徒が侵入し、施設が破壊された折、当然ですが、高確率で火災が発生します。高電圧の通った建物が壊れれば、発火する。そんな状況を想定して開発されたのが、ギムレーなのです。つまりあの戦車ロボットは、装備の換装に鎮火も元々の目的として開発されている。だからこそ、ギムレーの、すなわち、北欧神話において耐火の館である名前を名を付けられたのです」

 

 

「疾く、去ね!」

 

ギムレーに乗ったギルガメッシュは何処かより取り出した豪華絢爛な剣の群れを翼人に叩つけ、地面に叩き落としては、そんな地面に倒れ伏した彼らを一瞥するとすぐに興味を失ったかのように視線を再び天へと向けて、剣群を射出し、そしてまた引きずり下ろす行為を繰り返しています。私はそんな彼の豪華な舞踏が如き蹂躙を、ただそばで眺めているばかりでした。

 

「――ふむ。ここも片付いたか」

 

やがて、周囲五十メートル四方にいた翼人たちは、悉く地に叩きつけられ、そして緑の煙を撒き散らしながら消滅していきました。その散り様は初めて見るものであり、思わずまじまじと眺めてしまいます。

 

――……、いったい

 

「どういう理屈で体が消えるんでしょう……」

「あやつらは魔力で体を構成している存在だからな」

 

そうして無残に散ったはずの翼人たちは、なぜ死体が残らないのだろう、と首を傾げていると、ギルガメッシュが私の疑問に答えてくれました。

 

「魔力で?」

「ニンジャの分身のようなものだ。スキルの力で架空の体を作り上げ、そこに魂を情報を埋め込み、仮初めの分身体をその場に作成し、保っている。だから、一定以上のダメージを与えれば、消える」

「なるほど」

 

ギムレーはギルガメッシュが地面に降りると、キャタピラーを動かして水を付属された巨大なホースからばら撒きながら、周囲の炎の鎮火に勤めています。その性能や素晴らしく、大量の水をかけられ、謎のどろりとした液体をぶっかけられた炎は、すぐさま鎮まりかえります。それは木の中でくすぶっている熱を奪い、外気へと漏れさせる道具であるようでした。

 

「――マイク。我らを次の地点に送れ」

「あと三分ください、ギルガメッシュ。広範囲の消化、鎮圧活動による多重並列処理で、多少手間を取っています」

「――よかろう。三分だけ待ってやる」

「感謝を」

 

ギルガメッシュに応じて答えたギムレーから聞こえてきていたマイクの声は、そしてすぐに聞こえなくなりました。おそらくマイクという管理人は、今頃、目に見えないところで、迷いない指示を受けて、自らの定められた本分を思う存分果たしているのでしょう。それはきっと、道具としての生をこの世に受けた彼にとって、待ち望んでいたなんとも幸せな時間であるに違いありません。

 

「ピエール」

「――なんでしょう、ギルガメッシュ」

「暇だ。話をして我を楽しませろ」

 

やがて見えない相手の幸福を想像して、おこぼれに預かり浸ろうとする私の名を呼びました。その声には、私に対する期待の成分が含まれていました。なるほど、ギルガメッシュは私を暇つぶしの道具として連れてきたのです。しかし。

 

――すごく、いい

 

私は、シンのように純粋なこの彼にそんな期待を寄せられ、必要とされている事実が胸を打ち、思わず心臓を高鳴らせてしまいました。ばくばくする心臓の鼓動が少しでも収まるよう、呼吸で調整しながら、私は彼に尋ねます。

 

「ギルガメッシュ。あなたはどのような物語をお望みなのでしょうか?」

「――そうだな。今回は貴様自身を歌にして語るがいい。ピエール。我はこの度、貴様のその在り方と生涯に興味を持った」

 

ギルガメッシュのその一言は魂を揺さぶります。感銘に、涙が出てきそうになりましたが、それをさせなかったのは、そうして感情が高ぶることにより、余計な感情が語りに影響を与えるのを防ぐためでした。私はキタラを構えると、指を弦におきました。

 

「――では語りましょう。バード、ピエールの物語と題しまして、他ならぬピエール本人が、英雄王ギルガメッシュのためだけに、我が生涯を歌に変えて奉納いたします。――どうかご笑覧あれ」

 

 

「――以上、短い間ではありましたが、ご静聴、ありがとうございました」

 

そうして私の生涯を聞いた静かに聞いていたギルガメッシュは、大いなる満足、と、そして少しばかりの不満が混じった、顔で私の方を見やってきます。

 

――どうして

 

私はその視線の意図するところが読めずに、半分誇らしさ、半分の不安を感じながら、ただ彼の言葉の続きを待つばかりでした。やがて考え込んでいたギルガメッシュは――

 

「ピエール。今しがた貴様が披露した歌は、確かに見事なものであった。おそらく今の世において、貴様が最も優れたバードであることを我が認めてやろう」

「過分にして高い評価、ありがとうございます、ギルガメッシュ」

「だが――、一点、気に食わん部分があった。貴様、王たる我に嘘をついたな?」

「――そんな、まさか」

 

その言葉に、心臓が驚くほど強く高鳴りました。私はそんな動揺が表に出ないよう、勤めて冷静を保って否定しましたが、ギルガメッシュは、一瞬不服そうに、しかし、すぐに愉悦の感情を浮かべた、艶のある顔へと変貌させると、私の顔のほうへとその細い御手の指先を伸ばしてきて、私の頬を撫でました。

 

――ああっ……!

 

ぞくり、と背筋に痺れる感覚が走ります。それは男手にしては、あまりに甘ったるい、男の弱い部分を刺激するような撫で方でした。

 

「嘘を申すでない。お主の歌、殆どの部分に貴様の思いが感情としてキチンとこめられおり、故になかなか聞き応えがあった。だが、唯一、シンという男を語る部分のみ、貴様の感情はぽっかりと抜け落ちておった。我の感情を刺激することの出来るお主ほどの詩人が、それに気づかぬわけがあるまい。ええ、なぁ、ピエールよ? ――貴様のその秘めたる感情を自覚し、しかしどうしても純粋な言葉に変換出来ず、それでもどうにかして自らを奮い立たせ傾聴しておる我に不快感を与えまいと修飾の努力したことだけは認めてやっても良いが――、我は王ぞ? その程度の、貴様の浅はかさ、見抜けぬとでも思うてか」

「――貴方は……」

 

ギルガメッシュの手が私の頬を撫で続けます。たったそれだけの行為に、私は体の奥底にある心臓を彼に握られたかのような気分になりました。彼の言葉は、私の心の最も弱い部分にするりと入り込んできて、大事な部分を掴み取ったのです。それは私の核となる、誰にも見せる気のなかった、秘匿してきたかった部分でした。

 

――ああ……

 

そうです。私かに私はシンのことを語る際、ある感情を隠したまま歌い上げました。なぜならそれは……

 

「言い当ててやろう。ピエール。お前という男は、あの男のことを、男として愛しており、そしてそれを周囲の誰にも知られたくないと思っておる。なぜなら、貴様のそれは、普遍的な愛とはかけ離れたものだからだ。そしてそんな己を醜いと思う心が、今回の詩歌の醜態と不完全さにつながった。――そうだな?」

 

――!

 

「……、――ええ。――そう……」

 

ギルガメッシュのはっきりとした口調の言葉とこちらの心を射抜くような視線には、拒否を許さないという意志と嘘偽るならこの場でお前を殺すとでもいうかのような迫力がありました。嘘を言った途端、頬を撫でる手はそのまま体内に侵入してきて、心臓を握りつぶされるかもしれない。

 

「その通り、――です」

 

私はなんとか言葉を絞り出しながら――、恐怖に心臓が一層高鳴っていました。世界の一般的な思考と常識からすると異端である私の嗜好が、今この瞬間、その醜さを露わにされたからです。きっと軽蔑されるにちがいない。そう考えた私は、ギルガメッシュが罵倒を浴びせてくるものだと思い、悪寒に心を揺さぶられ、しかし同時に、私はどこか、ああ、これで楽になれたと、どこか安寧の気持ちを抱きながら、身を竦めて、裁きの言葉を期待して待機していたのです。そうです。私は安堵していたのです。受け入れられないかもしれないけれど、ついにこれで隠さなくてすむようになった、という諦観が、私をそうさせていました。

 

―――しかし

 

「なるほど、それが貴様か。――キタラを引き、男色の気があり、予言じみた発言をし、草の王冠を被る詩人……。なるほど、いや、ピエール。貴様、ピエール――ペテロというよりも、むしろ、アポロンという方が、しっくりとくる名前と生き様かもしれんな」

「え――」

 

しかしギルガメッシュはたったそれだけ言うと、満足気に私の頬から手を離して、「とく励め」、と、応援の言葉をすらくれました。侮蔑の言葉を覚悟していた私は、そんな声援に思わず顔を上げました。彼の顔には、悪戯っ子のような笑みが浮かんでいました。

 

「ふむ、世界中の伝承を集めていたバードと言う割に、アポロンも知らんのか。まぁ、この世界においては古き神故、仕方もあるまい……」

 

違います。そんなことは重要でないのです。しかし、それを知りながら、きっと彼は私のことをもてあそぶ意図にて、踏みにじり、遊んでいたのです。そう。彼は私で遊んでいたのです。

 

「ギリシャ神話における、預言者にして、太陽の神アポロン。奴は芸術、詩人、予言、太陽の神であり、そして男色の気と悲恋の伝承を持っていた。ペテロなどと言う聖者の名などよりも、貴様の生き様を表すには、よほど合致した名前であろう?」

「いえ、そうではなく……」

「よい。皆まで言うな」

 

私が否定し、尋ねようとすると。彼はそれを遮り、言いました。

 

「己の分と立場を自覚し、正しく向き合う者を我は愛する。ともあれ、貴様の歪み、我は正しく認識した。……故に、次回、貴様が我になにかを語る際は、嘘偽りのない貴様の実力を発揮し、我の意識を途切れることなく楽しませよ。それが此度、貴様自身のくだらぬ事情により我をきちんと最後まで愉しませることが出来なかった、貴様に対する罰である」

 

私の心は彼のそんな態度にひどく揺さぶられました。心臓の動悸は不随意になり、まるで安定という状態を忘れたかのように、不規則に高鳴ります。

 

「貴方は私の嗜好を否定しないのですか? 」

 

私はそして、その先にある答えを恐れながら、なんとかしてその一言を絞り出しました。

 

「否定? 男色をか?」

 

ずきりと胸が痛みます。言葉にされると、あからさまな歪みをしかし彼は――

 

「は、くだらぬ。優れた魂が優れた魂に惹かれるのは当然のこと。ならばその思いの尊敬の果て、やがてそれが恋愛感情へと変貌しようと自然なことだろうよ。――ピエールよ。要はな。そんなもの、要は、自らがそうであると自覚しておればよいのだ。どうせ他人などは路傍の石に過ぎん。貴様のその得難き才能、そんなくだらぬ程度の悩みで腐らせるには余りに惜しい。その程度のことはな。貴様のような、一般の視点から見れば強者の立場である貴様は、気にもする必要ないのだ。そんなものよりも、我を楽しませるという事の方が、よほど重大な事である」

 

一笑に伏しました。彼は私のそんな異常という悩みを、その程度の下らない、普通のものであるとして、受け入れたのです。

 

「――! そう……、そう、です、か」

「そうとも」

「は……、あ……、ははっ――!」

 

その言葉を聞いた瞬間、体樹から活力が溢れてきました。脳裏は幸せを歌い上げ、ぞくりとしたものが背筋を走ります。私は幸せでした。この、一生理解され難いだろう性癖にたいしてついに理解者を得たのです。しかもそれは、私が愛を抱いているシンに似た、ギルガメッシュという存在によって認められたのです。私は生涯で絶頂の瞬間を味わいました。おそらくこれ以降、ここまでの幸福感を得ることは決して……

 

「――ごっ……」

「……!?」

 

そしてそんな幸福感を得た自覚した途端、全身を倦怠感が襲いました。灼熱が頭の中全てを覆い尽くし、それでもなお物足りないとでも言うかのように、余った熱が全身を巡り、そしてやがて労働したばかりの喉から熱いものがこみ上げてきます。

 

「ゴホ、ガフッ……」

 

喉元の違和感を口から地面へと吐き出すと、吐瀉物は真っ赤に染まっていました。まるで魂の全てがそこに含まれているかのような、赤い、紅い、生命の全てを彩ったかのような血の色をしていました。

 

「カ……ッ、あ――」

 

吐血した直後、地面へと崩れ落ちたかけた私は、両の手を使ってなんとか自身の体が完全に地面と接触するのを避けました。地面の冷たさと、地面の上にこぼれ落ちたものの熱さがまざって、生ぬるい感触が手のひらと指先に生じます。それによって視線は、自然と両手の平へと集中していました。

 

「こ……、れは……」

 

すると、砂に塗れることを防いでくれた両腕の先、自らが吐き出した赤の液体と接触する両腕の先が、その根元の方から徐々に血よりもさらに赤い色に変化していくのがわかります。赤色は、血の色よりも濃く、深く、死に染まったかのような闇色をしていました。

 

――これは……

 

「赤、――死。病……? ゴホッ、ガフ、ゴホッ……」

 

自身の状態を自覚した瞬間、視界がぼやけ、揺らぎ、全身から力が抜けていきました。視界が赤に染まりました。いつのまにか地面の地の溜まりに倒れこんでいたようです。

 

「――おのれ……!」

 

ギルガメッシュの絞り出すような声が、地面を這って倒れこんだ私の耳へと入り込んできました。それは腹の底からは生み出された、純粋なる怒りから生み出されたものでした。私はそんな彼の声を聞いた時、不意に、灼熱に染まっていた頭の中に、別の属性の熱が生まれたことを自覚しました。

 

――ああ

 

状況にそぐわないその感情の名前は、喜び。そう、私は、おのれが死に瀕した状況ながらも、彼と言う私の理解者が、私の体に起こった行為に対して純粋な怒りを抱いてくれたことに喜びを感じていたのです。我ながらなんと歪んでいることでしょう。

 

「そうか、そう言うことか――! これはただの繰り返しで、強者に対する呪いと嫌がらせに過ぎんと、そういう事なのか! ええ!? 有象無象の弱者どもよ! 」

 

ギルガメッシュの声は高らかに鳴り響き、空へと吸い込まれていきました。彼の方向が私の耳朶を打った瞬間、私は満足の感情とともに、意識を今生から手放しました。

 

 

帝都、深川町近隣

 

 

「喜べ。此度私は、貴様が正義の味方になる機会を与えに来てやったのだから」

 

人気のなくなった結界の中、奴の発した言葉がやけに大きく耳朶を打つ。こちらを馬鹿にするような口調と、そんな言葉を発する歪んだ口元ながらも、さすがに元々は教会の神父という説教者である奴の声は、静かながらもよく通る声で、心の中へ自然と染み入るような声色をしていた。あるいは。

 

――私の弱気がそうさせたのかもしれないが

 

「――貴様……」

 

言葉に対してその真意と意図をなんとか探ってやろうと、奴の一挙手一投足に注目するも、奴はいつものように、後ろ手に構えた姿勢のまま動かない。

 

「話し合いを所望する相手に対して全開の殺気を返す。それが貴様のいう正義の在り方、というわけかね?」

「――……、チッ」

 

奴の嫌味に対して自然と生じてしまう舌打ちを隠すことなく、しかしその言葉の内容は至極真っ当なものだったので、無理やり殺意を抑えて、警戒程度に変えてやる。その際、抑えきれぬ感情に苛つき、目元と頬に歪みが生じてしまうのは必要経費というものだろう。

 

「嫌悪しつつも他人の忠告を素直に受け入れるようになったあたり、やはり貴様は、衛宮切嗣などという男よりは、まだ救いようがある」

「――」

 

養父を馬鹿にするその言葉に再度溢れそうになる感情を、無理やり抑え込む。相変わらずこの男はこちら側の琴線を逆撫でするようなことしか言わない。奴はそうして私が奴に対して様々な悪意の感情を向けられるのを愉しむかのように、ゆっくりと味わい咀嚼するかのように、愛おしげに、同類を見るかのような視線で頷く。

 

「それでいい。世の中は決して自身の思い通りにいかないし、他人は自らと異なる趣味、嗜好を持っている。それを理屈でなく感情として理解し、そしてしかしそんな思考の差異から生じる嫌悪感を貴様が取り戻してくれたからこそ、私は貴様に話を持ちかける気分になったのだ」

「――どういう」

「話は変わるが、エトリアという場所は、貴様にとってさぞかし過ごしやすかっただろう?」

 

―――ことだ。

 

そう問いかけようとして、突如飛び込んできた言葉に耳を疑った。

 

「……は?」

 

――それとこれとが、どう関係しているというのだ

 

「いや、聞くまでもないか。――戦闘の強さというわかりやすい価値観を絶対の軸とするエトリアという場所は、英霊としての戦闘力を保有する貴様にとって、さぞかし過ごしやすかったことだろう。貴様は貴様と価値観の方向性をまるで同じとする人間の中で、最も優れた部類の強者だった。己が能力を正義と認められる場所で、己が能力を振るって気ままに過ごせたのだ。過ごしにくかったなどとこと、あるわけがない」

 

――その先を言うな

 

心が痛む。取り戻したばかりの感情が、それ以上奴の言葉を聞くなと言っている。

 

「――なにを」

 

問い返さなくともわかる。私はきっとそれを、無意識のうちに理解していた。私は無意識のうちに理解して、そして、傷付かないで済むからと、見ないふりをしていた。

 

「弱者の逃避によって形成されたあの世界は、もう決してこれ以上誰も傷つかなくていいようにと、必死の願いの上に創り上げられた、弱者たちの理想郷だった。誰もが気ままに生き、そして生涯で最高の満足を得たのち、その後、得た理想との現実のギャップに苦しまなくてすむよう、速やかに死の運命を与えられる、そんな場所だった。赤死病などというものはな。その一つの矢に過ぎなかったのだ」

 

耳鳴りがひどい。頭がキンキンとうるさい。

 

――その先を聞くな。

 

そう忠告する理性を、しかし今度は感情が抑え込む。ここで聞かねば、二度と同じ機会は訪れないと、取り戻したばかりの感情が必死に訴えていた。

 

「そう考えれば、ギルガメッシュという、生の享楽を絶対とする旧時代の始まりの英雄たる象徴を、旧時代に作られた塔の上に据えられた旧人類の選択は、実に自然なことだと貴様も納得できるだろう。世界樹の世界という箱庭世界は、箱庭世界においてエトリアという場所は、来訪した絶対的な個の存在に怯えた旧人類が、誰もが幸福であれという共通の願いの元に生み出した、そうあれかしという願いの元に創り上げられた楽園だった」

 

あそこは私にとっての理想郷だった。ああ、だからこそ。私は旧人類の、凜の庇護の下、思う存分悩み、苦しみ、そして、失われたはずの、モラトリアムを追憶できていた。私はただ。与えられた快楽を一方的に貪るだけでよかった。……ああ、だから――

 

――あそこは私にとって、あんなにも居心地がよかったのか。

 

「だがそんな凪いだ世界で緩々と夢を見ていられる黄金の時代は終わった。ほかならぬ絶対的な強者の存在である貴様が終わらせたのだ」

「あ――」

 

しかし、そんな作られた箱庭世界を、だからこそ異物である私を拒絶した。あの世界で私はピーターパンであると同時に、フック船長だった。

 

「箱庭に住まいし弱者のうち、強者になりたいと変化を望むのは世界樹の迷宮へと集い、そして望み通り強者の夢を見る。しかして、仮初めの強者の夢を、貴様の強さという現実が打ち砕いた。そして純粋な強き個体を前に、再び怯えた人間たちは、今まで通り、自らが存在しても良い居場所を求め、絶対の軸となる純粋な神を望んだ。それはやがて願いとなり、世界よ生まれなおしてくれという回帰思考に変わった」

 

――世の中は等価交換だ。

 

何かを得るためには、何かを失わなければならない。ならば、誰かが正義の味方になるには、悩む人々と悪役が必要だ。つまり。

 

「新人類が無意識下に抱える根源的恐怖。自分より強い、あまりに異なる存在を否定する弱者が生み出した心からの祈り。――、人が月夜に見る、巨人の幻想。すべての幻想の原典すなわち、それこそがこの度の全ての元凶であり、貴様の敵だ」

「――」

 

――私の敵は、私が守ろうとしてきた、手を差し伸べたいと思ってきたその人たちの、意識そのものだった

 

唐突に突き付けられた目もくらむような現実に、胸を抑えて息苦しくもがく私を、そんな私をまるで正義の味方のように救い上げようとでもするかのように、言峰綺礼は、優しく慈愛に満ちた手を差し出してきた。

 

「貴様がそんな膿んでいた世界の傷を切り開いた。――さぁ、正義の味方/エミヤシロウよ。私の手をとるがいい。さすれば、そして傷ついた世界を救う手段を教えよう。いつものように弱者を切り捨て、多くを救い、貴様が正しいことを存分に世界に示すための手段を、だ」

 

 

そうして差し出された手には、世界の全てが乗せられていた。

 

「敵である貴様が真実を語っている話、信じられるわけが――、そもそも、なぜ神の僕である貴様が、唯一神を裏切るような真似をする」

 

絞り出した言葉を、奴は心からの喜びを込めて返してくる。

 

「神はその姿を現したその時点で、もはや神ではなく、どれほど力があろうと単なる偶像にすぎん。それにもし仮に、あの神が、慈悲深くも現世に姿を表したものだとしても、私は、その降臨した神、YHVHにより、天使『マンセマット』の殻を与えられて復活している」

 

そうして生まれ変わった奴は、しかし、以前のように、変わらない静かな笑みを浮かべながら、私の懊悩を心底喜んでいた。

 

「ヨベル書に登場するこの天使は、ヘブライ語で敵意、憎悪を意味し、人を試すことで信仰心と善性を見極めるための存在でもある。――あれが真に神であるというなら、あるいはこの裏切りに見える私のこんな行為ですらも、その手の内の出来事に過ぎないのだろう。つまり、どのみち私は、神の意志に背いてはいないのだ」

 

その手の上に乗せられたものが正しいものであるかどうか真意を見極めようとしても、奴は詭弁じみた言い方をして惑わしてくる。迷う。

 

――なるほど

 

たしかに、奴がマンセマットという褒められた存在ではない悪魔として復活したという事実だけは、どうやら本当のようだった。奴はそうして自らの手を揺らして、誘っている。相手の最も欲するところを承知して、気持ちを擽るあたり、まさに悪魔の所業――。

 

「――どうした? 多くの人間を救いたいなら迷わず手をとるがいい。今目の前にあるのは、たしかにかつて貴様が望み実践していた正義なのだぞ?」

 

――本当に

 

相変わらず嫌になるくらい性格が悪い。その差し伸べられた手を取れば、かつてのように私が無意識のうちに打ち据えてしまった弱者を切り捨てることになる。しかし差し伸べた手をとらなければ私は意識的に、多くの人間を見捨てたこととなる。つまり、どちらを選ぼうが、救われない人間が出てくる。

 

――私はかつてのように、自ら進んで、切り捨てる人間を選別しなければならない

 

言峰綺礼は、かつて、私に聖杯の力を用いて人生をやり直す事を望んだあの夜の失敗を、きちんと反省し、踏襲して、手を差し伸べてきている。あの夜失敗した奴は、その後、私をより正しく理解し、より苦悩するような選択肢をきちんと用意してやってきたのだ。

 

――本当に、コイツは……!

 

あの時は私とそこにまつわる少数だけが救われるか、否かだった。しかし今、奴の手の平の天秤の上に乗せられているのは、自分の命でなく私と関係しない、無関係な大多数の他人の命なのだ。私が、奴の差し出した、そんな伸びてきた手を見つめると、奴の目が愉悦に歪むのがわかる。手を取ろうがとるまいが、奴はそんな私の解決しない苦悩にこそ、自らの幸福の在り処を見出している。こうして私が懊悩する姿にこそ、奴は幸福を見出している。

 

――クソッ……!

 

私がどうあがこうが、奴はすでに自らの最低限の利益は確保している。そうして私の感情が復活し、迷いが生じると見込んだ。だからこそ、奴は私にこんな話を持ちかけてきたのか。それはなんとも、ああ。

 

―――本当に、腹立たしいくらい、私の中の言峰綺礼像と変わらなくて

 

「――言峰綺礼」

 

――――――?

 

「なんだ? どちらを選ぶか決めたのか?」

「貴様は、私がどちらを選ぶことを望むのだ?」

 

気がつくと、私はそんな言葉を口にしていた。奴の鉄仮面にひびが入った。

 

「そんなこと、どちらでもよかろう。選ぶのは貴様で、私は貴様の敵なのだ。敵の事情など聞いたところで、選ぶのは貴様自身なのだ」

 

その通りだ。奴が嘘をついているか否か、判別する方法は、今の私にない。真実を確かめるには、手をとって、それが真実であるかどうかを確かめるしかない。結局選択は自らの手で行い、選ばなかった方を後悔して、背負うしかないのだ。このような問いかけ、たとえ相手がどのように応えようと、所詮は自己満足に終わるもの。

 

――だが

 

そんな一見、どうでも良いような無意味な問いかけに、しかし言峰綺礼は、質問したこちらが驚くほど狼狽えて、動揺を露わにしていた。奴はあからさまに困惑していた。そんな奴の狼狽える姿に、私はかつての自分を幻視して。

 

――この先にこそ、私の望む正義の味方の形がある

 

「いいや、どちらでもよくはない」

 

私は確信していた。

 

「なぜなら、今、私にとって、それは、世界の命運なんていうものよりもよほど重い質問だからだ」

「なっ……!」

 

奴がうろたえる。そうするほど、私は自分が間違った方向に進んでいないことを確信した。

 

「さぁ、答えろ、言峰綺礼。貴様にとって、私がどちらを選ぶのが、貴様に取って好ましいのか! 貴様は私に何を望むのか!」

 

私は自らが取り戻した感情が叫ぶまま、それを優先して奴に問いかける。世界をそんなものと切り捨てるその様に、奴はあからさまな混乱の様子を見せていた。答えを初めから自らと完全に相容れぬ存在であるだろう決めつけて奴の言葉を完全に拒絶するのではなく、真正面から、真っ向から、お前の救いはなんだと尋ねる。思えば、自らの思想と対極にあるものに対してそのような気分になったのは、生前、衛宮士郎として過ごした時代も含めて、初めてではないだろうか。そう。

 

――思えば私は、初めからこの男を、相容れぬ存在として拒絶していた

 

「お前は、なぜ……、なぜ今更、こんな段階になって、そんなことを気にするのだ……!」

 

初めて教会でこの男と出会った際、私は遠坂凛がこの男を嫌悪しているのを知って、或いは、この男が、衛宮切嗣の目指した正義の味方という存在の矛盾点を指摘した瞬間から、この男のことを嫌い、言葉に耳を傾けようとしてこなかった。

 

「決まっているだろう? ――――――、私が気になっているからだ!」

 

私は、私の誰かの正義の味方になるという願いが、同時に何者かの願いを踏みにじる行為である事を指摘する言峰綺礼という男の言葉を、理屈では理解しながらも、感情として受け入れられず、拒絶し、否定し続けてきた。しかしそれは。私がそうして奴を否定し目をそらし続けたその行為は。

 

「私はお前の対極だ! お前と私は相容れない存在なのだ!」

 

奴は叫ぶ。

 

『正義の味方には倒すべき悪が必要だ』

『正義の味方に救えるのは、味方をした人間だけだ』

『それでも私は、あいつの甘いところが愛おしいって思う』

 

応じて様々な思いが浮かんでは消えてゆく。だが。そんなことは。

 

「知ったことか! それでも私は知りたいのだ! 貴様がどうしてそれを選択するのかを!」

 

私がそうして奴を否定し目をそらし続けたその行為は、奴の言う通り、自身の感情を踏みにじり、私が心底嫌悪する、自身の幸福のために誰かの幸福を踏みにじるという行為そのものに、他ならなかった。だから――

 

――私は今、他の誰でもない、私自身の意思で、他者と向かい合い、結論を出す……!

 

「そうだ……!」

 

私は今、誰かの思想を受け継ぎ、それを軸として他人の思想に責任を押し付けて揺籃に守られて過ごすのではなく、その殻を打ち破り、自らの出した結論の元、誰かが思ってくれる私自身と、そんな自らの感情を大切にしながら、そうして異なる意見にぶつかり傷付きながらも、それでも自らの足で歩く覚悟を決めた。

 

だから――

 

「私は私にとっての正しさを他人に押し付けるだけでなく、普遍的な正論を振りかざすのでもなく、私は、貴様という私にとっての相容れぬ思想を持つだろう貴様すらをも受容して、そのさらに先の、私にとっての私だけの『正義の味方/答え』を体現して見せる!」

「――……!」

 

―――だから……!

 

「――さぁ、答えろ、言峰綺礼! 私が今やったように、貴様という人間を、貴様自身の言葉で、どのように理解しているのかを、その口で私に聞かせてみせろ!」

「――……」

 

さぁ、お前の考えを私に教えろ、言峰綺礼! 私は、お前という、私にとって不快な自分自身の痛みすらも受け入れて、俺の、お前にとっての正義の味方になってやる!

 

――そうだ!

 

傲るな! されど、誇れ! 望むのは問答無用にハッピーエンド! そこを目指して歩きださねば、いつまでたってもそこに到達出来やしない。どうすればそこにたどり着けるかなんて小賢しいことを考えるのは、馬鹿になってゴール目指して道を走り出した、その後でいい!

 

 

「――衛宮切嗣は他人を拒絶し、憎悪することで自らの原動力としていた。奴にとっての世界平和とは、奴と少しでも思考の差異があるものを一切認めぬ、徹底した他人の排除の先のみ存在するものだった。奴のそんな子供じみた妄執の怨念を受け入れ、側に存在し、理解できるのは、それこそ他人を受け入れる余地のある才に溢れた聖人のような人格者か、あるいは、貴様や奴の妻のように、他人の憎いという感情を理解出来ぬ無垢な人形が如き存在くらいのものだろう」

 

私の咆哮の後、静まり返った空間において、滔々と語り出す。奴は一見、まるきりこの場とは関係ないような人物のことだが、しかしそれは、私が正義の味方を目指す原点となった男のことであり、私はなるほど、それこそが、この男に、ここまで私を執着させる原因になっているのだと直感した。

 

「奴は、自身の憎しみをばら撒く対象として、最も世間から疎まれているだろう相手を選び、ぶつけることで、自身の行いを正当化しようとしていた。その偽善。その欺瞞。自虐と自己否定と自己陶酔の果てにある行為を正義として世間に認めさせようと破廉恥なまでに傲慢な態度をとっていた。――私はその子供の我儘じみた妄執を受け入れ難かった」

『子供の頃、僕は正義の味方に憧れていた』

 

――ああ

 

そして私は、衛宮切嗣の昔の言葉の真意を、唐突に理解できた気がした。衛宮切嗣があの月下の元、彼が言った子供の頃といったのは、衛宮士郎という私を孤児院から引き取らないまでの間のことだったのだ。彼はそれまでずっと、自身の意思を思うがまま世界に押し通すだけの子供だった。

 

――そして、それを言峰綺礼は受け入れられなかった

 

「あれは自らを愛してくれる女と家庭を築き、自らに情を向けてくる子供を作るということまでしておきながら、そんなものに価値などないというかのように、それらを捨てる男だった。私が当時、心底望んでも手に入れられなかった普通を、なんなくあっさりと手に入れておきながら、しかし奴は、それをどうでもいいと言わんばかりにあっさりと捨て去ったのだ。その余裕は、当時の私にとって、心底目障りだった」

『ヒーローは期間限定で、大人になると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった』

 

衛宮切嗣という男は自らが欲しいものを全て手に入れていたが、それに気がつかないまま、そうして他人を踏みにじっていた。あの夜、衛宮切嗣は、自らの傲慢さをそうと認め、言葉に出して自覚したことで、ようやく大人になったのだ。あの夜まで衛宮切嗣は、世界に君臨する我儘な暴君で、誰がなんと言おうと絶対的強者だった。

 

歪みのなかった子供の私は、だからそんな絶対的な彼に憧れた。大きく歪んでいて一足先に大人にならざるを得なかった言峰綺礼は、だからそんな暴君じみて他者を排斥する子供のような切嗣を心底憎んでいた。

 

「衛宮切嗣は、自己救済のみを目的とする、歪んだ子供が抱く、奴の憎悪に基づく歪んだ正義の思想の持ち主で、しかしそんな理想が見た目綺麗だからというだけの理由で、幾人かの人に受け入れられていた」

『全ての人間を救うことはできない』

 

衛宮切嗣は、そんな誰もが争わなくて済む世界という、他人の誰にとっても正しいはずの理想を持つ自らを受け入れない世界を認めず、憎悪し、拒絶し続けていた。逆に、言峰綺礼は、他人の不幸に喜びを感じるという、世界中の誰にとっても受け入れ難いだろうそんな他人と乖離している考えをどうにか変容しようと努力していた。

 

しかし世間に受け入れられるのは、自らの醜さを見つめて他者との理解を求める祈りから生じた自らのそれでなく、憎悪から生じたはずの切嗣の見た目綺麗な願いだった。その差異が。それこそが。

 

「――私はあれが憎い。私が心底望んで、そして手に入らなかったものを、価値がないと判断したあの男は、嫌って、さらりと捨て去った。そして長い時にてやがてどうにかそんな事実を消化しかけていた私の前に現れた貴様は、奴のそんな歪んだ思想をそのままに受け継いでいた。――嫌味の一つも言いたくもなるというものだ」

『爺さんの夢は、俺がちゃんと形にしてやるから』

 

それが、ここまで言峰綺礼を歪ませて、切嗣に対する嫌悪感というものを呼んだ。言峰綺礼が必死に積み重ねてきたものを、衛宮切嗣という男は、無意識のうちに、それと反対の行為を行うことで、言峰綺礼という在り方を完全に否定した。

 

――そして私は

 

そんな切嗣のその在り方をそのまま受け継いでいた。

 

――だからこの痛みは

 

心の底から他人に否定されて生じるこの痛みは。これは、そうして私が切嗣の思想に、心地良いからという理由で身を委ね、自身の感情との、あるいは、他者の思想と感情の齟齬により生じる痛みを無視して、やがて傷ついてしまう事に恐れて、対話と成長を拒むようになったツケなのだ。

 

「だから、私は、貴様がどちらを選ぼうが、どうでもいい! 私にとって、貴様という衛宮切嗣のコピーが苦しむことこそが最大の幸福なのだ!」

『ああ――――――安心した』

 

私はそして叫ぶ言峰のその心底怖気が走るような憎悪の顔の向こう側に、切嗣の陶酔した安心しきったような微笑を見た。目の前で叫んでいるのは、他でもない自分自身が、ずっと目を背けていた部分だった。

 

――だから

 

「そうか……」

「――!」

 

私の言葉に言峰綺礼の顔がひどく歪んだ。戦慄が走った、と。まさにそのような表現が相応しいだろう表情を奴は浮かべていた。おそらく、自身の正面の相対する相手である私が、自分の理解を超えたのだ。私は奴の絶望を踏破した。私は奴の中に見た、私に打ち勝った。

 

――私は、私の絶望を踏破した。

 

「それが貴様か! ようやく私は貴様を理解したぞ、言峰綺礼!」

「貴様……!」

 

奴が憎々しげに顔を歪めるほど、私の心に愉悦が走る。背筋がゾクゾクして後ろ暗い背徳感が、身体中を満たしてゆく。

 

――なるほど、これが奴か!

 

否、それだけではなく同時に、胸の内より脳裏へと這い上がってくるものがあった。それは、勝ち取ったと言う事に対する喜びだった。私は自らの裡に無かったものを、自らの力で、自分の対極にあるものを、私は自身の中に取り込めたという喜びに打ち震えていた。そんな、自分が納得する、かつての自身を乗り越えられた、答えを出せた自分が誇らしかった。いや、きっと、それは。その喜びは。

 

――それは間違いなく、いつか自分が切り捨てた、自分自身の中にあった物。

 

私はついに、在りし日に失った私を統合し、私自身となることが出来た。

 

――そうだ、だから……!

 

「ならば私は、貴様の望む通り、貴様の手を取って、自ら苦しみ、その果てにしかし、俺は貴様なんかの望まないように、お前の幸福をも含んだ、幸せを実現してやる……!」

「――……!」

 

奴の顔が別の色に塗り替えられていく。奴の世界に私はついに綻びを作ったのだ。私は世界が私に被せた私のイメージを打ち破り、世界が私として定めた固有結界を打ち破った。私はついに、私の自身の「正義の味方」を見つけたのだ。

 

「何度だって尋ねてやるさ! 私が諦めない限り、私は私の正義の味方でいられるのだから! ――――――さぁ、教えろ、言峰綺礼! 貴様の知る全ての知識を俺に寄越せ! その先に俺は、誰もが幸福になる私の理想とすると世界を掴み取ってみせる!」

 

理不尽な選択を押し付けてくる言峰綺礼とその背後にいる存在にたいして、誰かが一方的に不幸になるなんていうそんなくだらない結末は覆してみせようと、私は声を大にして宣言した。

 

――理想は遠く、現実は冷たい

 

そんなことは、世界に裏切られ続けた自分がよく知っている。おそらくこれから先も、同じような事を繰り返す都度、今私に浴びせかけられている二人の視線と同じようなモノを浴びることとなるだろう。けれど。

 

――それでも私は、それを目指す……!

 

誰もが幸せになれる世界。世界の正義も悪も飲み込んでやると言うそんな、どこからどう見ても上から目線の、お前の意見なんて知ったことかという強者の押し付けがましい矛盾を孕む馬鹿げた宣言を、しかし世界の悪意の尖兵たる悪魔になった言峰綺礼は、一切、否定の言葉を返してこなかった。




ここまでお読みになってくださっている方ならご承知かもしれませんが、私の書く本物語の隠していた真相をバラす第二部は、それぞれの原作を踏襲した終わりを目指した第一部と比べ、「大幅に鬱屈としているな」、と感じていることと存じあげております。

おそらく私がその理由を推測しますに、それは本物語、第二部、三話にて、この物語を書き出しました軸として申し上げました通り、原作において救われないエミヤすなわち、悪役と呼ばれるいわゆるマイノリティとして切り捨てられた側の視点から、彼らに対して特に焦点を当てて物語を書いているからであると思います。

読者の方にフラストレーションはたまるでしょうが、どうしても、エミヤを、彼の望み通り、誰にも認められるようなきちんとした正義の味方にするためには、必要な手順であると私は考えています。悪と呼ばれる存在をただ切り捨てるのでは、以前のエミヤと変わらない。そこを変化させてやらないと、彼は再び煉獄に落ちてしまうでしょう。

だから、これはその処置なのです。悪人の側から彼らを理解し、受け入れ、エミヤが真なる正義の味方になるための試練なのです。そのため、悪人に対して同情的な書き方をし、また、原作で正義であった側が、どうしても、対比的に、悪役化してしまいがちです。その点、本当に申し訳ありません。どうかご容赦ください。

しかし、ようやく熱血系主人公になってくれたなぁ……


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Fate/Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜
第一話 無力を嫌った世界を喰らおうとする獣


私はきっとこれが、エミヤの望んだ正義の味方の答えではないかと信じました。彼の変化や、変わりゆく状況を面白がっていただければ幸いです。


第一話 無力を嫌った世界を喰らおうとする獣

 

世界樹の迷宮を探索しろ。

自分だけの迷宮の地図を作れ。

 

なに、不器用でもそうと信じて足掻き続ければ、いつか必ずそうなってくれるさ。

 

 

新迷宮

 

 

泣いて、泣いて、泣いて、泣き叫んで、そして翼人が抱えるダリを追ってやってきたのは、見覚えのある場所だった。忘れようはずもない。忘れられようはずなどない。なぜならそこは、俺たちの新たな冒険が始まった場所だったからだ。

 

――新迷宮

 

内部への侵入を固く拒むかのように強い魔物が徘徊し、そうしてシンというエトリア最高峰のブシドーすらも葬り去ったこの迷宮には、今、そんな前評判など弱い者が勝手に評判を作り出しただけで自分は何も拒んでなどいないとでも言うかのように、その赤い迷宮は多くのものを呑み込み続けていた。

 

――迷宮が……

 

今、大地と大地の狭間、切り立った崖の壁面に空いていた迷宮の入り口を覆い隠スカのように乱立していた赤い樹木は、大地ごと迷宮のあった場所へと吸い込まれてゆく。迷宮の入り口だった穴は、今や大きな狼の口であり、土も、木々も、雲も、空も、その全てが迷宮の食料に過ぎない状態になっていた。そんな中。

 

――あれは……!

 

やがて私は、ゆっくりと丸呑みされてゆく赤い世界の中、そんな食いしん坊な口腔の中へと果敢に飛び込んでゆく存在を見つけた。翼を生やしたそいつは、生々しく赤々とした大地が瓦解して溶け合ってゆくそんな中心、迷宮の入り口へと飛び込んでゆく。

 

――ダリ……!

 

逆しまになった糸車のようになった黒雲の中をつっきったダリとそれを抱える翼人は、まるで杯の中を水滴が滑り落ちるかのようにするりと迷宮の入り口へと飛び込むと、全てが溶け合っている場所へと消えてゆく。俺はそんなダリをいつもみたいに追いかけようとして――

 

――アレに飛び込むっていうのか……?

 

そして自分の中にある小賢しさが、そんな俺の果敢な行為を制止した。

 

――ッ……、俺は……!

 

俺は俺の中にいる弱い自分が、「いつものように、結果を待っているだけでいいだろう」と告げている事に気がついている。俺は狼が俺らを殺そうとした時、シンのように飛び出して命を賭けることが出来なかった。

 

――俺は……ッ!

 

俺はダリが俺らをかばってヘイに立ち向かった時、そうして命を俺とピエールの為に差し出す奴を止める為に足を踏み出すこともできず、けど、ただそんなダリの覚悟をピエールのように黙って受け止める事もできず、ただ喚いているだけだった。俺はいつだって、辛い時に、ただ、誰かに守られながら、泣き喚いて状況が過ぎ去っていくのを見ていることしかできなかった。

 

――……、俺は……

 

俺は俺を守ることしか、考えていないのだ。そうして自分の力じゃどうしようもなくなった時、泣いても叫んでも誰も助けてくれなくて周りじゃどうしようもないって時になって、もうこんなところにいたくなんてないっていう限界になって、初めて、逃げ出すようにして、知らない世界へと飛び込み、そして、また、誰かを頼っては、泣き喚いて、また逃げるのだ。今だってそうだった。俺がこうしてダリを追いかけたのは、あんな場所にいたくないという俺の、必死の逃走だった。

 

――……、俺

 

こんな自分が嫌いで、変わりたくて、死ぬ気で変わろうと思って、村を飛び出して、けど、それでも俺は。

 

――村を出たあの時から、何一つ変わって、ない。

 

この一年で急成長した乳房の奥、胸が切り裂かれたように痛んだ。俺はずっと、俺のそばで俺を守って、俺にとって都合のいい夢を見せてくれる人を求めているだけだった。多分、この女みたいに大きくなった胸は、その象徴だった。

 

――成長って言えるのはこんなとこばっかかよ……

 

ずっと押しつぶされてきたそれを揉むと、女の象徴は、我ながら柔らかく大きく育っていて驚いた。きっとそれは、強くて大きな男の人たちのそばで、その強さを傘に被って、威勢をよくして、都合よく守られている女として、当然の成長をしただけだった。男のようになりたいと思ってきた俺は、私は、ずっと、望んでいた困難を切り開く男としてではなく、守られて当然の女として成長してきていた。

 

――悔しい……

 

そうして俺に否定されながらも、サラシの下で育った胸の大きさは、私がどれだけ、無自覚に周囲に迷惑をかけながら自分がエトリア一のアルケミストにという評判を手に入れたという俺の、私の、象徴であるかのようだった。

 

――ッ、つぅ……

 

気がつくとぎゅっと握り込んでいて、痛みを感じる。痛覚なんてないはずの重い脂肪の塊がやけに痛む。手放して服の中を覗き込んでも、赤い後すら残っていない肌は、俺にある一つの事実を教えてくれた。

 

――俺、こんなに痛がりだったんだ……

 

血が出ているわけでも、青痣になっているわけでも、ないのにこんなに痛い。心が、肉体の痛みを過剰なほどに痛いと捉えてしまう。痛いからすぐに泣き叫んで、耐えられなくなって、逃げてしまう。

 

――俺は、耐えることが出来ない

 

俺は悔しかった。俺は、男の体じゃなくって、シンやダリ、ピエール、エミヤみたいに、強くなれない俺が、大っ嫌いだった。私は悔しい。女の体なのに、響みたいに、シンに認められるような才能があって、男みたいになれる彼女がすごく羨ましくって、嫉妬していた。

 

――そうか

――俺は/私は

――そんな弱い、私/世界が大っ嫌いだったんだ

 

「――つッ!」

 

痛い。痛みは今までの迷宮で感じてきたそれの比じゃなかった。今、自分の側には誰も守ってくれる人がない。自分は世界から拒絶されている。自分は世界を拒絶している。そんな事実を切り裂いてくれる人は、私を守ってくれる人は、今、自分の側にいない。

 

「――ああ」

 

どうか誰か……

 

「――助けて……、――――――あぁ……」

 

漏らした一言が何を意味しているかに気がついた私は、それらの事実が、本当に、どうしても耐えられなくて、そして私は、全てを呑み込んでいる新迷宮の入り口むけて走り出す。そうして世界中を未知なる方法で地下空間の中に呑み込まんとしているその場所は、しかし、全てを呑み込めるほど、絶対的な存在であるように映っていた。

 

「あ……」

 

しかし。

 

「あ……、あぁ……!」

 

側に近づくと、世界がグラグラと揺れていることに気がつく。足元は蜃気楼で、もう自分がどっちに向かっているのかすら分からなかった。唯一わかるのは、自分は今、自ら進んで絶対的な強者のもとに自分の意志で向かおうとして、しかし途中で、絶対的な強者に捕食される恐怖を思い出して、もう自分の意志では足も動かせなくなったのだという、最悪の事実だけだった。

 

「――助けて」

 

言葉を口にするも、それを聞き届けてくれる人はどこにもいない。当然だ。私はそれらを、全て切り捨てて、そうして自分の意思で死んだ人を追いかけて、誰もいない世界の終わりにまでやってきてしまったのだ。

 

――誰か、俺を救い出して

 

ここにシンはいない。

 

――誰か、私を守って

 

ここにダリはいない。

 

――お願い

 

ここには誰もいない。ピエールも、響も、エミヤも、自分の敵となる誰かすらも、ここにはいなかった。ここにいるのは、ただ一人、自分だけで、そうして自分が、誰にも知られずに死んでいくというそんな状況が、何より俺/私にとって、耐え難かった。

 

――誰でもいい。誰でもいいから

 

「私を一人にしないで!」

 

勝手に耐えられなくなって、勝手に飛び出して。そんな我儘な私の声を聞き届けてくれる人は、もう、世界中のどこにもいなかった。きっと、私の声は、もう、私以外、世界中のどこにも届かない。足は地面に呑み込まれてゆく。世界が私を呑み込んでゆく。

 

「嫌ぁ!」

 

そして叫んだ瞬間。トプン、と、地面は波打って、まるで水滴が落ちるかのように、私は地面へと吸い込まれていった。

 

 

???

 

 

俺の体が地面に沈んだ瞬間、俺は世界の裏側を見た。そこは暗くて、何もなかった。空が遠ざかっていく。手を伸ばしても、空は、地面は、どんどん遠ざかっていくばかり。私はただ、世界に呑み込まれただけの存在だった。

 

――遠い

 

私が命を落とした瞬間、一瞬だけ私という存在は世界に波紋を作ったけれど、そんな私が生み出した小さな波紋は頼りなくって、すぐに水面は元の通りに消えていく。透明な中に、緩々と体が沈んでいく。もう、地面の境界なんて、どこにも、何にも、存在しなかった。

 

――あれは

 

柔らかく赤い地面に沈みゆく私は、そんな赤い地面の中で、迷宮の幻を見た。迷宮は、青々とした樹木と木漏れ日に満ち溢れていた。迷宮は、鬱蒼とした樹林と苔と腐葉土で出来ていた。迷宮は、海の中の空気と光と珊瑚礁と海藻だった。迷宮は、命を失った世界の全てだった。迷宮は、大きな樹木の枝に、葉に、中にも、外にも、あらゆる場所にあった。

 

そして迷宮の中には、多くの生き物が蠢いていて、そんなを生き物を、人間が倒して、生きる糧にして、いつか死んで、やがて迷宮そのものでもある世界樹へと拡散していく。

 

――これが世界樹の迷宮

 

そうして自分で循環して、如何にも大きく立派な世界樹の迷宮には、しかし、その外側に、多くの見えない誰かの意思が存在していることに気がついた。透明な彼らは不器用ながらも、必死で世界樹の迷宮の外側に、内側に手を入れている。透明な彼らは、如何にも小さな存在で、どこにでもあるような光だった。

 

――あれは

 

光は、多分、自分たちの周囲にある世界樹の迷宮が、どうにか自分にとって良いものになるようにと願いながら、迷宮に手を加え、心を配っていた。あれは見知らぬ場所の地図を書く冒険者だ。そう思えたのは、きっと、彼らのそんな行いが、シンの、ダリの、ピエールの、響のように見えたからだ。

 

そしてやがてそうして彼らが必死になった結果、世界樹の迷宮の地図は、自分のみならず、他人にもわかりやすい地図へと変化していっていた。そしてそんな誰かが自分にとって過ごしやすいようにと手を加えた場所には。

 

――光が……、集まって……

 

やがて、他の光がたくさんやってくる。その光たちは、地図が自分たちに適していると思ったから、やってきたのだ。すでに地図のある場所なら自分は苦労せずに楽に過ごすことが出来そうだと、思ってやってきたのだ。その姿に、俺は、私は共感を覚えた。なぜならそれは。

 

――……あれは俺だ

 

そうしてやってきたたくさんやってきた光によって、迷宮は見た目どんどん大きくなる。そこで活動する光は、いっそう活発に迷宮で動くようになって、世界樹の迷宮の地図はどんどん詳細で複雑なものになっていく。――けど。

 

――あ……

 

迷宮の中に、突如としてどでかい光が現れた。それは、他の光と比べて、あまりのも大きかった。それは、他の光と比べて、あまりにも異質だった。それがやってきたことによって、他の、ただ寄ってきただけの光は、一目散に逃げ出してしまった。

 

――ああ……

 

巨大な光がやってきた時、そこに残ったのは、元々いた光だけになった。彼らは自分を呑み込んでしまいそうな大きな光に押しつぶされながら、それでもやはり最初のように、自分だけの迷宮の地図を刻み、変わらず煌々と輝いていた。それは涙が出そうなくらい、綺麗な光景だった。胸の奥がジンとする。

 

――ああっ!

 

その行為を尊いと思った。憧れた。自分より大きな何かに負けず、めげず、ただそこにあって、負けるもんかと耐えて、そして、自分の足跡と居場所を刻んでいくその行為は目が眩んでしまいそうなくらい、カッコいい光景だった。

 

――あぁ……、ああっ!

 

憧れて、憧れて、憧れて、憧れて、――、そして自分には出来なくて。

 

――あっ……

 

――、そんな光の抵抗を眺めていると、やがて、そんな光の側、大きくなった彼らの隙間に、そんな小さな彼らとは異なる色の光を放つ、小さな光があることにきがつく。その光は先ほど逃げた光と同じ、燻んだ色をしていた。

 

――……

 

既視感を覚えた。途端、胸が苦しくなった。その光は、大きな光のそばで負けるもんかと必死になっている光の側で、最初の彼らが作り上げる迷宮の隙間に潜り込んで、側にあるだけの存在だった。その光はただ、先に大きな光に負けるもんかと迷宮の地図を作る光の側で、隙間を埋めるだけの存在だった。何もしない光はそして、迷宮の拡大に伴って自分自身も大きく、綺麗になっていく最初の光のそばで、やがて大きくはなったりもするけれど、いつまでも、自分から輝こうとはせず、燻んだ色をしていた。

 

――そうだ

 

ある時、全ての大きな光が燻んだ光の側からどこかへ行った時、燻んだ色の光はやがて燻みきって迷宮の闇の中に溶けて消えていく。先に逃げ出した光も同様だった。逃げて、逃げて、逃げて、光が輝ける力を使い果たして、光なんて呼べないくらい暗くなるまで逃げ出すまでの間に、自分の居場所を自分で見つけられない光から消えていった。そうだ、結局。

 

――私はそういう存在だったんだ

 

私と、大半のエトリアの住人は、そういう存在だったのだ。世界を作っているのは大きな光と、元々自分から動ける光だけで、世界が必要としているのは、きっとそんな存在だけで、逃げるばかりの、立ち向かわないで居場所を探しているだけの俺たちは、私たちはただ――

 

――いつか世界に呑み込まれてしかるべき、いてもいなくても同じ存在だった

 

逃げ場所なんてどこにもなかった。逃げた先にあったのは終焉だけ。やがて世界の底に沈んでいく私は、その下層の奥底にたどり着く。そこはまごうことなくきっと、必死になって逃げて、それでも逃げ切れた先にある、世界のどこかの果てだった。私は大きな口に呑まれて、狼の胎内にやってきてしまったのだということを、心底自覚させられた。

 

――結局、俺は……

 

そこには何一つなかった。動かせるものなんて何一つなくて、ただ自分がそこにいるだけで、秩序も混沌も、善も悪も何もない、破壊も創造も、何一つすることの残っていない、向こう岸の世界だった。

 

――ここにたどり着いてしまったものは、もう何も出来ない

 

あとは溶けて消えるまで、この海の底で揺蕩うだけ。逃げ続けた先には何もない。ああ――

 

――安寧を求めて逃げ続けた先、そこにはなんにもなかった

 

誰もいない。何も無い。つまりは、境界がない。自分が俺であるのか私であるのか、そうと定める指標がない。全て世界の中に溶けて消えていく。俺が溶けて無くなっていく。私は溶けて消えていく。迷宮の地図を刻むことのできなかった私は、世界に私だけの地図を生み出せなかった私が、ただ消えていく。それはすごく寂しくて、切なくて、胸が千切れるような痛みで、痛みだけが私を世界に繫ぎ止める鎖だった。

 

私は苦しかった。寂しかった。縋り付きたかった。それが痛みであってもいい。もっと、自分が自分で、確かにここにいるのだという痛みが欲しかった。

 

――それが

 

「いや、丁度いい」

 

―――このような、文字通り、胸を貫く痛みでも

 

「叙事詩の名前を持つお前/サガなら、角笛の中身にピッタリだ」

 

ダリの手が私の胸を貫いた。そんな最中でも、私はこれ以上ないくらいの幸福感を味わっていた。痛みがこれほどまでに愛おしく思ったのは初めてだった。私は誰かに触れられた。それが何より嬉しかった。

 

「器の材料も揃ったことだし、次は音の材料になる奴を探そうと思っていたが――、手間が省けた。ここにいたのがお前でよかったよ、サガ」

 

――私は、誰かに必要とされた/助けられた!

 

そして私は多分、生涯で最高の幸福を感じると共に、胸の熱いものが全身に広がって、自分が拡散して消えていくのを感じた。

 

 

グラズヘイム郊外

 

 

「ええ、ちょこまかと……! マイク! 次の場所へ我を転送しろ!」

「了解です。――リッキィ」

「あ、ま、まって……いま、消化の範囲が広がって……」

 

戦火が翼人の手によって広けられていく中、森の片隅で、地面に倒れ伏している存在があった。それはただ捨て置かれていた。それはただ、地面に、自然に、あるがままの状態で、いかにも力尽きたという体裁で倒れ伏し屍だったけれど――、そうして二度と開かぬ瞼のある、地面を眺める横顔は、清々しいほどに満足の笑みを浮かべていた。

 

その屍は、かつて、ギルガメッシュという存在に、『今代最高の詩人』として称賛を受けた、ピエールと呼ばれる詩人のものだった。過去の偉人に唯一の存在と謳われた彼は、迷宮の中でのたれ死んだ誰かのように、地面の上、自らが撒き散らした血の泉の中で、華々しく命を散らせていた。

 

彼は、全力で生きて、そして、満足して死んでいったのだ。英雄王ギルガメッシュの眼前で死んだ彼が、そうして英雄王がそのままうち捨て置たのは、英雄王が彼を、全力で生きて、そして、死の運命を受け入れて死んでいった事を気にくわないと思った証だった。

 

英雄王は彼に生きて精進する事を期待し、しかし彼は、期待に満足する答えを返せず死んだ。ギルガメッシュは、全力で生きた事を認めたからこそ、運命を受け入れて死ぬという自分からすれば気に喰わない死に方をしたピエールの、運命を受け入れたという意志を尊重し、自然の中で必死に生き抜いた獣の運命がそうであるように、捨て置いたのだ。それは傲慢を自覚する英雄王なりの、全力で生きた人間に対する敬意だった。

 

ピエールの顔は、真っ赤に染まっていた。彼の顔色は、彼が生きていた時にその体内で脈動していた血液よりも赤い、太陽の、生命の色に染まっていた。それはピエールという人物が、そうして生きた生き様から、「目指した人」の名前を持つ誰かではなく、「目指される人」の名前を手に入れたという証のようだった。それは彼が、「その他大勢の誰か」ではなく、「ピエール」という個人になった証のようでもあった。

 

「――、戻ってきてみれば……」

 

やがてそんな全力で生き抜いた彼を、誰かが見つけた。死んでいるピエールを見つけたその男の腹からは剣が突き立でていて、手には銀の杯が収まっていた。杯の中では、まるで凪の夢でも見ているかのように、透明な空気が詰まって、揺れている。

 

「詩人/ピエールの骸とは、都合のいい。やはり運命は今、俺の味方をしている」

 

やがてその男は呟くと、手にしていた杯を倒れ伏しているピエールの骸に近づける、そしてそのまま、勢いよく、彼の背中に向けてそれを突き出した。骸の背中に男の差し出した杯が、男の腕ごと吸い込まれていく。骸はまるで水面が石を受け入れるが如く、異物のそれを受け入れたのだ。

 

「おぉ……」

 

やがて男が得心した様子でピエールの死体から手を引き抜くと、途端、骸は光を放ってその形状を変化させていく。ぐねぐねと変化した外見はやがて、大きな動物の角へと変化していった。それはセイウチの牙のように鋭く、マンモスのように大きかった。

 

「さすがはシン……」

 

やがてそんな変化をもたらした男は、自らの行為によって生み出された、自らの背丈の半分ほどもあるそれをひょいと拾い上げると、感心した様子で呟く。

 

「誰にでも寄り添う事の出来る性質の雌の魂と、素晴らしい外見と音とを出せる雄の骸とに、あらゆる液体を受け入れる万能の器とを加えれば、それは、世界中に音を響かせ、万人に死の運命の音色を届ける角笛となる。なるほど、確かに、シンの言う通りだった」

 

そしてギャラルホルンを手に入れた男はそれを口に咥えて――

 

 

帝都、銀座異界

 

 

黒い、禍々しい色をした魂をある一点へと集中して運んでいくその風の群れは、やがて時間の経過とともに小さくなっていく。ライドウへと謎の力を注入していた渦巻きがやがて完全に消えた時、そこにいたのは――

 

「――これは」

「狼男!?」

 

呆然とした響の声に、凛が叫んで答えた。倉橋黄幡という人物の罠にはまり、彼の召喚した悪魔『ガルム』や、自身の体すら素材に用いての陰陽術の呪い『蠱毒』を一身に受けたライドウは、その姿を狼頭人体へと変化させていた。

 

「なるほど」

 

そうして変化した彼は、特に頭部の部分が、まさに狼のようだった。頭から胸の方まで猛々しい銀色の毛が生え、しかしその頭頂部には、しかし自身がライドウの変異体である印と言わんばかりに、丸い学生帽が載っている。狼の頭だけをライドウの頭部とすげ替えただけのようなそんな姿は、一見、狼から剥ぎ取った皮をなめして被っているだけのようにも見えた。私はその姿に既視感を覚えた。

 

――あれは確か、旧迷宮の一層番人の……

 

「まるでケルヌンノスのようだな。あれが“自然神フェンリル”、か」

「狼の皮を被った人……、つまり、ルー・ガルーやラインカスロープ……、いや、その出生を考えれば、北欧神話のウールヴへジンという呼称が正しいかもしれない。まぁ、ようは、狼男と言うことよ」

「ウールヴへジン……」

『ライドウ!』

 

凛が付けた名前を呼ぶと、そんな私のつぶやきに反応して、ゴウトが叫ぶ。小さな猫の体からひねり出された人の心配の雄叫びに、しかし返ってきたのはライドウという人間の声ではなく、力ある獣が自らの存在を誇るかのような、そんな、どこまでも荒々しい咆哮だった。

 

「オォォォォォォ!」

「――下がれ、ゴウト!」

 

そして、そんなゴウトの声に反応したのか、ライドウが突っ込んでくる。彼は瞬時に刀を抜いて加速すると、虫の羽ばたきすら正確に捉えることができるようになった、そんな機械の私の目にすら霞むような速さで、ゴウトへと迫っていた。

 

――素晴らしい速度……!

 

感心しながらも、遅れてなんとか彼の速度に反応した私は、収納状態の左腕の高周波ブレードを解放するまもなく、納刀状態で剣をゴウトの側へと近づいた。彼の刃がゴウトの前に躍り出た私を切り飛ばそうと振り下ろされる。

 

――おおっ……!

 

その剣閃に至るまでの一連の動きは、エトリア最高のブシドーであった私ですら感心するような、滑らか、且つ、無駄のない動きで、思わず見惚れてしまいそうな程の見事なものだった。まるでかつての私が剣を振るっているようだった。

 

――だが、それ故に、わかりやすい……!

 

そうして収納状態の高周波ブレードで彼の振り下ろした刀剣を受け止めるべく、収納状態の、つまりは刀身が二つ折りに重なっていて厚みのある状態の刃をその軌道に合わせるようにしておく。その判断は、ライドウの剣は、細く、鋭く、その刀身に浮かぶ素晴らしい波紋からは、相応の切れ味を予想することができるが、だからと言って、それの倍以上もある、超振動する特殊合成金属の塊を断てないだろうと判断しての、ひどく常識的な思考が導き出したものだったが――

 

「オォォォォォォ!」

「おおっ!?」

 

――これは……!

 

しかしライドウの刃は、そんな世界の常識など知らないと言わないばかりに、私のブレードと接触した直後、振動する私の刃を、まるで布でも引き裂くかのように、斬り裂いた。彼の件はそしてそのまま地面へと振り下ろされる。彼の振り下ろした刃が私のそれと交錯し、刃とブレードの姿が重なり合ったと判断した瞬間、慌てて身を引かなければ前方の収納部分どころか、根元側の方まで斬り飛ばされていただろう。

 

――素晴らしい……!

 

「君は強いな!」

 

叫ぶと、私は即座に返しの刃として、断たれた左腕の刃を展開させながら、今しがた半分に折られた両刃の剣で斬りつけた。振り下ろした直後で体勢が崩れているはずの彼は、しかし、すぐさま、その振り抜いた勢いを利用したままに、回転するようコマのような動きでひらりと身を翻すと、瞬時にその場から離脱した。

 

――おぉっ……!

 

見るにそれは、反射として自然に行われた動作だった。その動きは、思考を挟んでいたのではとてもできない滑らかさを持っていた。彼はそうして、私が攻撃を防ぐのも、自分の刃が私の刃を断とうが、避けたのちに反撃が来るのも、一切勘定に入れず、鍛え抜かれた体のただの反射行動として、その動作を行ってみせたのだ。その動作は、エミヤのそれよりも、さらに洗練されていた。そしてライドウの一撃は、エミヤのそれよりも、さらに無意識のうちに繰り出された一撃だった。

 

――アレが……

 

その事実が、私をひどく興奮させた。あれは多分、私の体にオーバーヒート直後の不具合がなかったとして、私が元の肉体を持っていたとして、それでも辿り着けない場所。彼がいるのは、エミヤの更に上。思考を捨てなければ辿り着けない、究極の頂き。私の目指した、まさに、頂点の、さらに頂きの先端だった。

 

――アレが私の極みにある存在……!

 

どくん、と、胸が高鳴った。全身の緩いオイルが少しずつ加熱していくのを感じた。

 

「――響。君の剣を貸してくれ」

 

そんな場合でないというのは、重々承知だった。だが、同時に、ここで自分を出さなければ、きっと一生後悔すると、私の直感は告げていた。私の直感は、いつだって、私にとって正しい判断をしてくれる。直感を逃せば、その先には後悔しかないのだ。

 

「シン……」

 

響は、ひどく不安な表情をしていた。私にはその理由がよくわかった。わからないはずがない。だって、彼女は、私が認めた、私と同じくらいには剣の才能がある人間なのだ。そんな彼女が、どうしてそんな顔をするのか、私にわからないはずがない。

 

「響」

「嫌です」

 

そして彼女は予想通り、私の言葉をはっきりと否定した。私はそれを予想していた。私はそれを予想できていた。

 

「響」

「――」

 

そして彼女も、彼女がどんな言葉をかけようが、私はどんな言葉をかけられようが、こうと決めたら止まらないことを知っているから、だから少しでも私がここにいる時間を引き延ばしたくて、沈黙を選択していた。私はそれが理解できていた。

 

同じ才能を持つ私たちは、同じ感性を持つ私たちは、わかり合っていた。だから、こんなやりとりは、互いが後悔しないための通過儀礼に過ぎなかった。重要なのは結果ではなく、一度は、言葉を交わし、わかり合う努力をしたのだと互いが認識することで、言葉なんていうのは、その結果に過ぎないものだと、私たちはわかり合っていた。だから。

 

「お願いだ。私の刀を返してくれ」

「――」

 

彼女はそして、刀を差し出した。私はその時、卑怯な手段を使った。彼女が私に好意を抱いていて、そしてこのままだとそんな私に好意を抱いている彼女が、こう言ってしまえば、自らの意思で私の心からの願いを断ったという結果を生むことを嫌って剣を差し出してくれるだろうというのを知っていて、私は、そうして彼女の退路を絶ったのち、彼女に選択を強いたのだ。

 

――すまない

 

きっと謝れば泣き出すだろうと思って心の中でこっそりと謝ると、しかしやはり、それを感じ取ったのか彼女は泣き出してしまった。しかし私は止まらない。否――

 

私は、止まることができないのだ。

 

 

私は、走り出したらぶつかって砕け散るまで足を止めることのできない人間で、しかし、ぶつかったところで砕け散らない、そもそもぶつかる時には自然と走らないことを選択する体を持っていた。

 

私は、こんな不自由だらけの体になってから、ようやく、他人がぶつかるかもしれないと思った時にどのような思いを抱くかを、心底理解したのだ。才能に満ち溢れていた私は、何も考えず全力で走るだけで最高の結果を出せる人間だった私は、最短距離をわざわざ遠回りをする人間の気持ちがわからない人間で、出来ないといって逃げる者の気持ちがわからない人間だった。

 

――しかし

 

出来ないことだらけの不自由な体になって、私は、ようやく、弱いということは、弱さがもたらす不自由さは、こんなにも余計な感情を生み出して、選択肢を狭めるものなのだということを、私に徹底的に理解させたのだ。

 

 

――体が

 

自然と両手が震える。命令がないと動かない機械の体を動かしているのは自分なのだから、生み出すその息苦しさは、自分の思考が生み出しているものに違いないと思った。感情は行けと言っている。理性は引けと言っている。両者はどこまでも噛み合わない。勝手に戦い出した二つの存在が、こんなにも自分の体に影響を与えている。こんな不自由は生まれて初めてだった。多分これが、余人の言うところの、恐怖という感覚なのだろう。

 

――戦えば、確実に負ける

 

まず間違いなく、フェンリルになったライドウという存在は、私よりも強く、そして容赦も迷いもない。真正面から戦えば、私は死ぬだろう。そんなことは勝ち続けて命を奪い続けて来た私が、誰よりも他の存在を負かして来た私が、その場の誰より理解していた。

 

――だから

 

私を理解してくれていて、ゆえに私と同じ結論に至ってしまった響は、そして私を失いたくないと泣いたのだ。何もかもを少しずつ得て来た彼女は、失う怖さを知っている。何もかもを持っていた私は、両手いっぱいに抱え込んでいたものを失った先、そこにまだ見ぬ新たな景色があると信じている。

 

――だから私は、命を捨てた先に、私の知らない何かがあるなら、見てみたい

 

だから私は、私の感情に従って、命を捨ててでも、そこに行くことを自分で決めたのだ。

 

「ありがとう」

「――」

 

私の感情を尊重してくれた彼女に礼を言ってもは、彼女は彼女は目を伏したまま何も言わない。響はおそらく今、自分の選択により、私を死地に送り込んでしまったのだという事実から目を逸らしていた。感情と理性が戦っていて、互角の状態だった。

 

彼女は自分自身の戦いに必死で、私との戦いから意識を逸らしていた。彼女は私のことなんか、眼中になかった。多分、そうして、理性で感情を処理して、いつかは私という傷を忘れていくのが、きっとそれが、彼女にとって、今後の人生に影響を与えない、大きな傷にならなくて済む、唯一の方法であることを私は、本能的に、傷付いてこなかったものの感覚として理解していた。

 

――どんな道を選ぼうと、どうせいくらかは傷ついてしまう

 

だから、きっとそのままそうして放っておいてやるのが、少しでも彼女を楽にする、その傷を減らす選択肢を唯一の方法で、私が一秒でも早く彼女の目の前から消え去ってやることが、選んでやることだけが、ダリやサガ、ピエールや響に言わせれば、不器用で人の気持ちがわからない、強者の私なりにできる、私より弱い彼女に対する思いやり――、のはずだった。

 

「響」

 

――しかし

 

「――ん」

 

私の戦いと魂を理解してくれた彼女が、私の事を忘れようとしている事実が、そんな彼女が私と向き合う事をやめたという事実が、彼女に傷一つつける事なく時間切れの判定負けしてしまうというのだろうという予測が、戦いこそが全てで、戦いこそが全てだった私にとって、死んで命を失うなんていう結末なんかよりも、よほど悔しくて。

 

「ん――」

 

気がつくと彼女を求めていた。腰を抱き寄せて、後頭部を抱え込み、その体温を交換する。こんな行為に意味がないことなんてよく理解している。機械になった私と人である彼女の間であるなら、なおさらやったところでなんの意味もない行為だ。

 

「――」

「ん……、ぁ……」

 

ただ、なるほど、こうして互いに足りない部分を埋め合う行為が、湧き上がるこの想いが、理性と感情の余計な壁を取っ払って、私に足りない微熱と、彼女に足りない冷静さを取り戻させ、互いの迷いを無くして一緒の方向に歩いていくのに役立ってくれるから、人は戦いの前に情を交すのだという事を理解した。

 

「いってくる。後は任せた」

「――はい。いってらっしゃい」

 

彼女の心に傷をつけたことに満足した我が儘な私は、夢見心地で名残惜しそうに手を当てる彼女の唇から、私へと繋がる唾液の架け橋が互いにとっての未練へと変わらないうちに、私は背を向ける。歩を前に進めると、今度は凛とゴウトが私の前に立ちふさがっていた。凛はひどく不機嫌そうな顔で、その姿は死地に向かう我が子を守ろうとする母のようでもあった。ゴウトは、負けると分かっている戦いに挑もうとする私を、無言で諌めていた。凛は感情で、ゴウトは理性だった。

 

――さて、どうしたものか

 

迷った瞬間、先に感情の記憶が現れた。

 

――今度はちゃんと相談しなさいよ

 

「凛」

「なによ」

「行かせてくれ」

「――好きになさい」

 

頼むと彼女はあっさりと身を引いた。

 

『凛!?』

 

ゴウトは驚くが、彼女はもう、納得したようだった。彼女はただ、他人に自分の存在を無視されて怒っていただけで、先ほどの私と何一つ変わらなかった。

 

「ありがとう」

『なぜだ!? 今、こやつは死にに行こうとしているのだぞ!?』

「知ってるわ」

 

凛はゴウトの言葉に、静かに同意した。それはいろんなものを押し殺した末に絞り出された言葉だった。ゴウトは凛の口調に、文句を挟まない。フェンリルと化したライドウは、ただずっと暴れまわっているばかりだった。

 

「でも、ここで止めたら、この馬鹿は、ずっと後悔する。それはやがて、自分自身を縛る呪いになって、やがて自分を永遠に呪い殺す鎖に変わるわ」

 

凛が続けた言葉は、感情を大事にしながら、人としての理性の正しさをも含めていた。彼女の言葉には、経験の重みがあった。私の世界は天秤で、彼女は天秤の行方を見守ろうとする女だった。

 

「私はそんな、立ち止まる事を知らなかった馬鹿が、自分の気持ちを押し殺して突っ走った結果が、どれほどの当人にとって惨めで悲しい結果を生むか、嫌っていうほどよく知ってる。……自分で決めた道で、苦しんで、自分が納得し尽くしていて、結果、それでも、死ぬって分かってても、それでもいきたいっていうなら、止められるわけ、――――――、ない」

「――――――」

 

ゴウトは言葉を失っていた。おそらくその言葉が示すような事態には彼にも覚えがあったのだろう、帝都の守護者であるライドウの後見人であるというゴウトの心に突き刺さっていたようだった。

 

「結局、世界なんて自分自身のものなんだから、自分で自分の運命をどんな風に扱うも自由の筈よ。独り立ちできなかったら、誰かにぶら下がる人間ができるだけなのよ?」

『だが、死にに行くというのを見過ごせはせん。命は一つでも多く救えるに越したことはあるまい』

 

凛の感情から発する意見に、ゴウトはどこまでも理性的に食いかかる。多分やはりそれは、強者と弱者の対立で、その手にたくさんの荷物を抱えているものと、たくさんのものを抱えこもうとしている人間の違いだった。

 

「あなた、そうして他人が後悔する選択肢を選ばせて、それで責任を取れるの?」

「――それは」

 

だから凛のそんな捨てさせてくれという強者の言葉は、他人をすら自らの中に抱え込もうとするゴウトという弱者の代表で、社会の守護者であるゴウトに突き刺さるのだ。

 

「責任を取れないなら、そんな気もないってんなら、他人の人生に口出しするもんじゃないわ。そんなの、ただの自己満足で、押し付けの傲慢よ。他人がどうこう言おうが、結局人生なんて、周りがどうこう言おうと、自分で刻んでいくしか無いんだわ。――そう、自分の地図は、自分で描くべきだわ。他人がどうこう言ったって、結局、書くのは自分の意志でなのよ。結局辿り着く場所がみんな同じなら、好きなように生きさせてあげるってのが、大人の在り方で、見守るってもんじゃないかしら」

『――、だが大抵の普通の人は、自分で地図を書く能力など持ち合わせておらん。お主のそれには、あまりに理想的な人間の生き方にすぎる。持たぬ者の視点が綺麗さっぱり欠けておる。殆どの人間はお主ほど生きることに余裕を持っていない。誰もがお主の様に、世界なんて所詮その程度のものかと切り捨てられる余力を持ってはおらんのだ』

 

天秤に乗る重石は感情と理性で、生と死だった。ゴウトは今、私が出した理性と感情のバランスに文句をつけて、他人の重石を理性の側に動かそうとしている。そして彼女は他人の人生に口出しするならその行く末の責任を取れと言い、極めて感情的な理性の言葉で彼を責め立てている。ゴウトは今、そんな凛の感情と理性を織り交ぜた口撃に、ひどく揺さぶられていた。

 

――チャンスは今か

 

「ゴウト」

『――なんだ、シン』

 

彼は不機嫌そうな態度を貫きながらも、私の言葉に答えてくれた。予想通り、彼は理性の代表の様な存在だ。だからきっと、帝都の守護者である彼は、土壇場において、私の命などよりも、帝都のことを優先する。ならば。

 

「私の見た所、あれはこのまま放置していれば、異界の帝都を破壊し尽くすまで止まらないだろう。――君はあれを止める手段を知っているのか? 力ずくで止められるのか? 」

「それは――」

 

そこを攻める。私は彼を説得するべく、思考よりの言葉を発していた。

 

「……、――、ない」

 

やがて少しの間、尻尾を動かし、地面を弄り、伸びをするようにして首を傾げていた彼は、はっきりと、とても理性的な結論を出した。

 

「そうだろう。何故なら、君もああなったあの存在のことは、知らないだろうからだ。君はああして、あれと初めて出会った。戦っていないのだ。それなのに、その存在のことをわかるわけがない。――何かを得るには、何かを捨てる必要がある。私のことは、帝都守護のため、情報を手に入れる試金石とでも思ってくれればいい」

「――しかし」

 

――ふむ、手堅い

 

帝都の守護者側の彼は、思ったよりも情も秘めている存在のようだった。

 

――なら、その情を利用するまでのこと

 

卑怯を覚えた私に敵はない。後がない私には、もはや恐れるものなど何もないのだ。

 

「君の目的は帝都の守護で、大事なのは私よりライドウなのだろう? 」

「――」

「ここで情報を集めておけば、ライドウを助け、帝都を救える確率は上がる。なら、君のとるべき策は一つに絞られるんじゃないか?」

 

そして彼は身を引いた。帝都のために死んでくるなら犠牲もやむなしと、彼は理性的に判断していた。死の運命に挑もうとする私の前に、もはや障害は無かった。彼女らが引いてくれた先、そこではフェンリルとなったライドウが暴れまわっていた。異界、銀座の街が彼の行動で破壊されていく。自然神となった彼は、私たちのことなんて、まるで気にしてもいないようだった。私は迷ったが――

 

「――ライドウ!」

 

結局、その存在の、人としての名を呼ぶことにした。

 

「――!」

 

そうして、自らの持つ一面を呼ばれたそいつは、反射的に反応した。それは、そいつが自然の持つ無慈悲さでなくて、見た目通り、生物の持つ側面を持っていることに気がついた。あれは一見ただの破壊神だが、その実、半神半人の存在で、人に自然を埋め込んだ結果、自然の荒々しさと、人の弱さを手に入れた存在だった。――、なるほど。

 

「一手、手合わせ願いたい!」

 

そして左腕に手にした薄緑を前にやると、ライドウは手に持っていた刀を差し出して、青眼に構えた。無意識で、私の挙動に反応しての態度だろうが、その動作は流麗で、迷いなく、洗練されていて。

 

――いい構えだ

 

見てるだけで惚れ惚れする。私は刀を腹の近くにまで収納すると、思い切り柄を握り込む。オーバーヒートした機械の体はもうまともに動かない。多分私が今から繰り出すのは、人生の中で最も、理想とかけ離れた、劣る一撃になるだろう。だって身体中が軋んでいる。衝撃を吸収するダンパーも、信号を発するアクチュエータも、燃料を循環する輸液ポンプも、電気信号が通る配線も、全ての状態は悪く、自分の思い通りにいっていない。だというのに。

 

――ああ……!

 

だからこそ、いい。今の自分は迷いと弱いところだらけだ。しかしそれでも、いく。だからこその、この高揚感なのだ。不自由な状態で、しかし全力で、自分より上の存在に挑めるのだという快感。

 

――きっと不可能だ。

 

いや、間違いなく不可能だ。でも、この先には、まだ見ぬ世界がある。抱えていた自分の中になかったものは、その先にある。だから。

 

――見たい

 

ワクワクが止まらない。しかし同時に、これから自分は間違いなく死んでしまうのだと考えると、胸が張り裂けそうなほどに軋んでいた。胸の中に生まれている方向性の違う両者の対立は、やがて悩みと呼ばれるものを生んでいた。それは迷いの感情で、戦いには不要なものだった。

 

――邪魔だな

 

「オォォォォォォ!」

 

そんな思いがよぎった折、共鳴するかの様に彼が叫んでくれたので。

 

「――! オォォォォォォ!」

 

最後なので、ふと思いついて真似て咆哮してみた。獣の方向をするなんて初めての経験だったが、胸が空く思いがした。胸の迷いは外へと発散していた。そして、先程よりも一層、胸が高鳴っていることに気がつく。なるほど、だから。

 

――多くの人は、戦いの際に意味がなくても叫ぶのか

 

全身が軋んでいる。ネジの緩んでいたパーツが吹き飛んでいく。ちょうどいい。もうこの体なんていらない。今この瞬間、最速を出せれば、それで私はきっと満足する。一歩を踏み出して、そのあと、ただ最速の一撃を願って、目の前の存在に届く様にと祈りながら、そのために、いらなくなった腕すらも途中で不必要と断定して切り離した。勢いさえ乗れば、あとは足もいらないと思い、パージした。そうして質量を減らしての一撃は。

 

「――」

 

おそらく現時点で放てる、最も早い一撃で、迷いながら、弱くなりながら、それでも、自分から自分のうちに生じた迷いを自分ごと切り捨てての意識的な一撃は、それは、間違いなく今までで、私の生涯で最遅の一撃で。

 

「――ははっ」

 

―――そんな無様な一撃は、しかし目に前の最新に届かなかった

 

同時に、私は彼の斬撃により左肩から右胴まで真一文字に両断されてしまっていた。一撃は、通過の途中、フォトニック純結晶までを打ち砕いていた。魂を砕かれたのだ。私は自らの死がすぐそこ迫っていることを感じていた。

 

――まるで敵わなかった……

 

相打ちではなく、完全なる敗北。言い訳なんか出来ない、余裕のない敗北。やがていつか、というものがもうないのだと思うと、思わず歯ぎしりしてしまっていた。頭がかっと熱くなる。視界ユニットの部分熱がたまっていくのは、おそらく涙を流したかったからなのだろう。

 

――ああ、これが

 

この心臓の不随意反応から広がる、全身の撫で回されるような、感覚。機械の体によるものだが、おそらくそれが。

 

――敗北感

 

それは私が今の今まで知らなかった感覚。必死の抵抗の果て、私はついに欲しいものを手に入れた。ダリのような戦い方をするエミヤとは異なり、私の戦い方の頂点にいる存在に挑んで、そして言い訳のきかない、不可能に挑んだ先、完膚無きまでに負けたからこそ、手に入れたものなのだ。後悔はなかった。知らない感情が湧き上がってくるこの感じは、こうして彼に挑まないとわからない感情だっただろう。

 

――悔しい

 

そして私は、先ほどの絶望感なんか吹き飛ばすほどの幸福を感じるがまま、機械の体が勝手に吐き出すエラー警告と状況改善の要請を無視し、静かに自らの運命を、自然の化身に委ねた。

 

 

――行かないで

 

そう引き止めたところで彼は間違いなく行く。彼はそういう人間なのだ。涙を流そうが、感情を使おうが、彼はやりたいことをやらずにはいられない人間なのだ。私はそれをよく知っていた。私はそれを嫌という程知っていた。私はそれを、そんな彼が実は自分とおんなじ人間なんじゃないかと思うくらい、知りつくしていた。だって。

 

――私はシンのことを愛している

 

シンに見てもらえると嬉しい。シンに意識してもらえるとそれだけで、世界が輝いて見える。シンがいないと寂しい。シンがどこかに行ってしまうと、世界は一気に燻んだ色に変わる。私にとってシンが全てで、私にとって、世界っていうものは、シンだった。でも。

 

――シンにとって、世界はシンだけのものだった

 

シンは脇目も振らず、自分のためだけに進む男だった。障害を邪魔といって、無造作に切り捨てる、それができる男だった。多分、本当に、本当の意味での、他者を一切必要としない、純粋な強者だった。きっとそんな純粋な彼だったからこそ、多くの人が憧れて、私もそんな中の一人だった。そしてだから。

 

――シンにとって、殆どの他人は石ころだった

 

何をしても自分の予想から外れることなんて、まずない。どうやろうが、世界はほとんど自分の思い通りにいって、出来上がるものは、自分の中から外れることなんて、滅多にない。シンは基本的に予想外とは無縁の人物だった。どんな敵でも、自分の思う通りに動く。だからこそ、シンは、自分の予想と異なる行動をとる存在に好意を抱く。私はそして。

 

――そんなシンだからこそ、彼を好きになり、恋をして

 

彼は、赤死病の両親のせいでひとりぼっちになっていた特別な私を、その他大勢のうちの一人と変わらないと、見て、その上で、私を必要としてくれたのだ。多分、あの時から私は、ずっとシンに惹かれ続けて、想いを募らせ続けていた。そしてあの、彼が一度死んだ夜。

 

――……、愛するようになった

 

そこに彼がいる。それだけで私は満足していた。そこにいて、彼が彼らしく振舞ってくれている。それだけで私は満足出来るようになっていた。そうして、いつもみたいにシンがずれた発言をして、不満げながらも戦って、不器用ながらも誰かと話して、それだけで私の心は満たされるようになっていた。シンの存在が私の世界だった。

 

見てくれるだけで満足だった。そこにいてくれるだけで満足だった。でもいなくなろうとしたから引き止めようとして、でもそれでも私なんかじゃ彼は止まらないことを私は知っていたて、そしてそんなシンだから好きになった私に彼は止められなくて、でもそんな私に彼は。強さが指標で、戦いが全てであるはずの彼は。

 

――私を求めてくれた

 

シンは足りていた人だから、恋を求めていて、私は足りない存在だったから、愛を求めていた。そして私が求め続けた結果、彼が弱り続けた結果、あの瞬間、ようやく私達は同じ存在になった恋と愛の中間地点で融け合ったのだ。あの瞬間、私は彼だった。彼の全てを実感した。だから止められなかった。あの人は私だから、こんな結末が待っているだろうことを、私はよく知っていた。それでも、その結末を彼が望んだから、私は彼を止める事が出来なかった。

 

切断されたシンの体が蹴り飛ばされる。シンの体は色を失った景色の中、驚くほどの鮮やかさを持った絵筆となって、世界に放物線を刻んで、ビルの白い壁面に絵画を作った。

 

「――、――――!」

「――――――、―――――、――――!」

 

誰かが何かを叫んでいる。でも私にとって、もうそんなことはどうでもよかった。世界の鮮やかな染色部分を追っていくと、シンが叩きつけられて崩壊したビルへとたどり着く。そして燻んだ邪魔な色をかき分けて瓦礫をどかすと、私はすぐにシンを見つけることができた。

 

彼はボロボロだった。昔みたいな万能感なんてなくて、強者然ともしてなくて、身体中のあちこちが埃まみれで、それでも、世界で一番輝いていた。そして。

 

「ああ……」

 

私の姿を認めた彼は、初めて縋り付くような目線を向けてきた。彼は尋ねてくれと言っていた。彼は問うてくれと言っていた。彼は無言のうちに、どうか自分がようやくたどり着いた場所にあったこの気持ちを、誰かに知っておいて欲しいと願っていた。

 

その気持ちの正体を私は知っていた。足りないものを求めて、ようやく手に入った末に感じるそんな気持ちのことを、私は知っていて、それでも言いたいという彼の気持ちもわかっていて、でも私は、だからこそ私は、最後に一言、私の気持ちよりも自分の気持ちを優先した彼に意地悪したくて、言ってやる。

 

「満足しましたか?」

 

シンは一瞬真顔になったけれど、すぐにしてやられたと言わんばかりにくしゃりと顔を歪ませて、なんとも悔しそうに、しかし、心底嬉しそうに、出会ったばかりの頃の様に無邪気な子供の笑顔で――

 

「――ああ。私は私の世界に無かったものを手に入れた。だから――、ああ満足だ」

 

そして彼は――

 

 

言峰綺礼の行った『異界送りの儀』によって異界の中へと入り込んだ私は、思わず言峰綺礼に尋ねた。遠く、この場所よりも少し離れた銀座という場所では、まるで水柱が崩れるかのように、コンクリートの建物が次々と瓦解していく。その中で。

 

「おい、あれはなんだ」

 

そんなコンクリートの建造物を、刀の一振りで、まるで紙箱のおもちゃを潰すかのように、ぐちゃりと倒壊させて、引きちぎっていく狼男の存在に、私は戦慄を覚えた。それは、神というには整った外見で、人と言うには挙動が野獣じみていて、私の理解の範疇を超えていたからだ。

 

「……あれは自然神フェンリルに成り損なった存在だ。見るに、葛葉ライドウという個体が人としてあまりに強大すぎたのだろう事が、狼の皮を被っている程度に過ぎないことからわかる」

 

――ライドウ

 

「弱者の祈りたる蠱毒の呪いを、その全てを飲み込んで、そのまま世界の全てを喰らい尽くす狼になるはずだったあれは、それでも材料として基準に選ばれた人間が、変貌に用いる素材に対してあまりに強大すぎたため、半神半人の――、いや半獣半人の、帝都に暴力を振るう程度の状態で悪魔化している」

 

――つまりなんだ

 

「これはライドウが強すぎた故の失敗で、まだましな結果なのだと?」

「そうとも。狼とは人の作り上げた共同体の破壊の象徴だ。すなわち、世界最大の大きさの狼とは、人の作り上げた世界の全てを壊す狼ということになる。そうして人の作り上げた全てを壊して、咀嚼して、素材を一度食わせて全てを統合して、その後に吐き出させないと、新たなる神話は生まれない。――、一度人の中に取り込まれた獣で、やがて人を取り込んだ、両極端の性質をもつ存在をもとにしなければ、人の純粋な願いによって生み出された人にとってのみ都合のいい神/デウスエクスマキナである自分に、人と自然の調和する完璧な世界は造れないとYHVHは考えたのだろう」

「だからフェンリル――、人の、自然の、世界の全てを喰らい尽くす貪欲な狼が必要だったというわけか」

 

 

「その通りだ。そして、もうその時を告げる笛の音はなるだろう。世界の生み直しの儀式が始まる。だからもうこんな死の間際になってから、私を理解したところで遅いというのだ……。さぁ、どうするエミヤシロウ。貴様はどうやってこの盤面をひっくり返そうというのだ?」

「――どうにかするさ」

 

――そうだ。そんなことは知らない。小難しい理屈を捏ねるのはやめだ。私がどうにかすると決めたから、空想はやがて理想となり、理想は具現化する。私の小さな固有結界は、固の境界を超え、空想を共有する鎖となり、やがて鎖は、誰かと何かを繋げる綱となり、個人の保有する小さな結界は、世界をも侵食する大きな獣となり、どこかの誰かにもわからぬ何かとなって、やがてそれは

 

――すなわち、空想具現化/マーブルファンタズムにいたる

 

「感情でなく、方法を問うている。どうやってそれをしようと言うのかね?」

「そうだな……私の魔術、固有結界、無限の剣製という存在そのものが、その鍵と言えるかもしれない。――――――、おそらく、誰よりも私の不幸を考えてきたお前なら、私の言わんとしていることがわかるだろう?」

「――ふん、あやふやだな。そんな不確かなもので万人を救えるものかね」

 

奴は嘲笑った。だが、返ってきた言葉は否定でなく、質問だった。だから私もきちんと答えてやる。

 

「救えないだろうさ。私はきっといつまで経っても、私以外誰も救えない。自分を救えるのは自分の気付きと行動の結果だけで、人は、自分を救うために、あやふやな状態の中から自分で答えを導き出すしかないなんだ。――、だから私に出来るのは、きっと彼らが求めているのはこういう存在なのだろうなと勝手に思い込みながら、そうして彼らの前で様々な物語を提示していればいつか勝手に彼らが自分を救ってくれるに違いないと信じて、彼らの側で彼らの望む役をあやふやに、間違いながら、いっぱいの矛盾を抱えながら、それでも必至に演じる事だけなんだ。誰に救われて欲しいなら、私がそこに少しでも関与したいというなら、きっと、助けを求める誰かにとって救い手となる人形として、オーディンを、トールを、ロキを、フェンリルを、スルトを精一杯演じるしか無い。そうして誰かの周り、私の作り上げた迷宮の中でどうか自分を救ってやってくれと願いながら、どこかの誰かに伝わる様、様々な幸福と不幸の形を提示し、語り、行動して、私自身を救い、あるいは傷つく事で、そんな人形劇を見せられる誰かの気分が晴れるよう、寄り添いながら、世界樹の様にしっかりと、優雅に、無様に、やがてその誰かが人形を見て、自分と言う人を誇れる様になるまで、感情を動かす人形として踊り続ける――、それこそが――」

 

―――そうだ

 

重要なのは、オリジナルとかコピーとかそういう事じゃない。そうして今救われていない誰かが自分の力で歩ける様なるまで、一緒に諦めず足掻き続けることなんだ。見た目綺麗な誰かの出した独創的な答えこそが、万人にとっての絶対の幸福であると結論づけて、押し付けて満足して終わらせる事じゃ、決して、ない。いつか報われていない誰かが、自分を救うことの出来る元気を取り戻すその時まで、必死に側で足掻き、疲れて落ち込んでいる彼らが自分に向ける感情が、愉悦でも、侮蔑でも、どんな風でもいいから、感情を動かせる様になるその時まで、彼らの側で確かな道化を演じ、その時の自分に出来る最高の力でやり続ける事こそが、救われていない誰をも救う正義の味方を目指す私に必要な事だったんだ。

 

でも、それは、一人じゃ無理だ。

 

――何故なら

 

「だがお前のそれは理想論だ。全てを救う力と、全てに寄り添う愛と、全てを見る目が必要になる。全てを――、全てを、だ。いかに力があろうと、所詮は一人でしかない貴様に世界が救えるものか。あまりにもなにもかもが不足している。そこに貴様はどうやって到達しようと言うのかね?」

 

――そうだ

 

それは涙が出るくらい悲しい現実で。

 

「そうとも。そんな願い、私の力を超えている。人類全体を救ってみせるにしても、私一人では絶対に無理だ。でも始まりに終わらせてやるという意志は必要で、ここで終わるものかと走り続ける覚悟が必要だ。どんなに辛くても、それを求めるなら、私から始めないといけない。そして、それを示すためには、私から始めるまえに少なくともあと二人、役者が要る」

 

だからこそ、そんな涙を止めるが為に、私は行くのだ。

 

「――、ほう、それはどういう理屈で?」

「裏も表も逆を示せば、それが敵となる。物語を作るだけならそれで良いけど、物語から新たになにかを生み出してもらうには、物語としての機能以外に、余分なものがないといけない。コインの表裏の極端な状態を示すだけでは対立している事がわかって、混乱するだけなんだ。それでは男と女が救われるだけで、陰陽の先にいる、陰陽そのものである子供が救われない。一人では、自分と他人の区別が出来ない。二人では、自分と他人の境界線がわからなくなる。三人になって、ようやく、自分とそれ以外の区別がきちんとできるようになる。三人はいないと、境界という余分は生まれない。余分が無いと、そこに含まれる人間は他人に気付く余裕が生まれない。余裕がないと、自分の善悪に気付けない。そして私は、貴様と同じ様に、そんな悩みを持たない、持たないで済むような、余裕で幸福な人間なんかに興味はない」

 

余裕で幸福な人間に興味はない。そんな言葉に、ようやく奴は私の提案に対して、興味を示してくれた。それがただ、泣きたくなるくらい嬉しかった。

 

「――まず、普通とはどういう定義かね?」

「極端じゃないという事だ。混乱していないという事だ。善にも悪にも偏りすぎていない普通の人という事だ。明日の食料と寝る場所に悩んでいる人で、理想に追いつけないと悩んでいる人であるという事だ。強者と弱者の、理性と感情の、幻想と現実の狭間で悩んでいる人の事だ。そんなどこにでもいる普通の誰かが救われて、やがて自分をも救える様になってもらうためには、秩序と混沌、善と悪の極端な対立を示すだけではダメなんだ。舞台の上に必要なのは、最低二人ではなく三人で、対立項を観測し、境界となってくれる、まるで普通の観測者が舞台の上にいるようだと錯覚させる、普通の第三者が必要不可欠――、私が誰かを救うために足りなかったのは、私と対立する真逆の存在と、その狭間を示す、私と敵の中間を示す境界の存在が、貴様風に言うなら、父と子と聖霊が世界に必要だったのだ」

「ふむ……。貴様の英霊としての立ち位置は人類の守護者であり、中立中庸の、すなわち普通の代弁のような属性であるはずだが――」

「違う。人類秩序の側から見れば、私は確かに中立中庸――普通の存在だろう。だが、どこにでもいる普通の人から見れば私は口煩いお堅い人間で、貴様の様な人類悪の視点からすれば感情を殺して秩序に組するとんでもなく気持ち悪い悪党に見えるはずだ。だが同時に、だからこそ、正反対の極だからこそ、互いの感情がよくわかる。属する場所によって意識無意識含めた人間の俯瞰の側からすれば、私はコインの表であり裏、貴様はコインの裏であり表で、どちらも極なんだ。私達に似た、極端な思考の人間なら、私たちが極端に善か悪に寄った活躍をすれば救われるだろう。だが、極端じゃない普通の人に必要なのは、世界というコインをどうやって使えば自分が普通に救えるのかをわからせてくれる存在で、コインの価値と使いかたを提示し、実演してくれる役者達なんだ。私達は、ホモサケルという透明な人間であると同時に、ホモルーデンスという、遊びを知る俯瞰者にならないといけないのだ」

「――つまり?」

「私と貴様だけではダメだという事だ。建物の炎の中から生まれた私は人間の生み出す社会のシステムを愛していて、胎盤の中から生まれたはずの貴様は社会が生み出す人間の憎悪だけを愛していた。それぞれ互いに異常と普通の属性を持って要るのに、ずれた方向に迷走し過ぎて、捻れている。――、しかも不器用に、真剣の度が過ぎる。我らはこの世界でなら望めば英雄や王になれるが、普通の人という存在の属性は被れない。私達は互いに、普通の世界というものに対して、過剰にズレ過ぎている。過剰について来られる人は少ない。それでも普通の彼らを救いたいと願うなら、柔軟性を持って我らを受け入れる、我らを反面教師にして逞しく普通を示してくれる、遊びを受け入れられる存在が必要だ。しかもそれは、なるべくなら私たちと反対の属性を持つ物が相応しい」

「男である我らの反対と言うと――、凛あるいは、響とかいう女の様な?」

「違う。彼女達ではダメだ。今の凛では現実的な母/イナンナとしての面が強すぎるし、響では夢見がちな少女としての側面が強すぎる。我らの様な極端な存在の狭間で境界を示す存在になるなら、もっと純粋に、幻想と現実の狭間で、強靭に、それでいて儚く踊って見せる、女神の様な、子供の様な女性でなくては我らの不器用さに耐えられまい」

「最高の女神を手に入れようというのか? いったい、どうやって?」

「YHVHが新たな神話を始めると言うなら、それを利用する。つまりは世界の全てであるヨルムンガンドを、フェンリルが全てを呑み込み、そこから新たな世界を生み出そうとするというなら、もうそれに辿り着く結末しかないと言うなら、だからこそ、それを利用する。既存のシステムを利用し、新たな秩序と混沌と中道を乗っ取る形で、世界に産み落とされた子供が父と母を巻き込みながら、一緒に幸せになっていけるシステムを構築する」

「それは過去の自分を否定するという事か?」

 

――違う

 

「過去の自分を呑み込んで、喰らい尽くし、未来に生きる人たちへ、どうか幸せになってほしいと祈り、行動し、分け与えるという事だ。そこにもう、私の席はいらない。貴様もそうだろう? 私たちはもう、互いのことしか興味がなくなってしまうくらい生き抜いたんだ。私らはもう、十分、普通の幸せを味わった。あとは跡を濁さぬよう綺麗になるように掃除してから、誰かがそこで幸せになってくれると信じて託せばいい。――――――さぁ、もう良いだろう。納得したな、言峰綺礼。――、行くぞ。その為に、まずは荒ぶる自然の中から、この時代に必要な正義の味方を取り戻す」




ここまでお付き合い下さりありがとうございます。わがままですが、もうしばしの間お付き合いくだされば幸いです。次は主にエトリアメインになると思います。いざ行けボウケンジャーです。彼らのいるところはちょっとギャグチックになるのでそこだけご勘弁下さい。

追記
ちょっと修正しました


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第二話 それぞれのイニシエーション

第二話 それぞれのイニシエーション

「タイトルが根暗過ぎる。ダサい。物語を紡いでる人間の陰気さが伝わってくるようだわ。『ガンナー系女子の華麗なる活躍』にすべき。付録に私の人形をつければ読者が三倍に増えてくれるわ」
「いや、ガン子! 今風に『未来世界に転生したモテカワ系美少女戦士パラ子がチート能力を発揮して鬱シナリオをぶっ壊すようです!』か『悪役令嬢系パラ子は二次創作の異世界ファンタジー世界に転生して無双してしまうようです』にしよう! これで私の魅力によって読者の数は十倍になるはずだ!」
「師匠……、流石に事ここに至って読者を増やすなんて色々と手遅れですし、ぶっちゃけこれを書いている人間も望んでないですし、実在するゲームのキャラクターがチートを唄うのはやばいですし、なにより言葉のセンスが微妙に古いですよ……。というか、いいんですか? シリアスな空気ぶち壊しですよ?」
「姫様が転生で女神に!まさに真・女神転生!いや、姫様の美しさを加味するなら今風に、Fate /labyrinth ―罪と罰―の方が……!」
「何処かから電波な発言が!」
「タイトルから世界樹の迷宮がほぼ乖離した! アトラス繋がりでペルソナ風にするにしてもシナリオの救いのなさで繋げんな! 素直に英語の名前だけパクっとけ!」
「ささやき、いのり、えいしょう、ねんじろ!」
「ああ、突っ込まれた事でファラ子の混乱がさらに酷く!?」
「しかも師匠よりさらにセンスが古い!灰にでもなっとけ!」
「果たしてクロスオーバーに求められていたものとは……」
「この根暗野郎! お前はお前でいきなり現れてなに言いだすんだ!」
「……」
「――あら、どうしたのビス男。って何? そのプラカード……」

第二話 それぞれのイニシエーション

「あ、タイトルもうそのままでいくんだ……、って、小さく下に文字が……」
「どうやら最後までプロットとシナリオ組んでるからタイトルを変えたくないみたいね」
「なんだと! じゃあこの個人自作ホームページ全盛時代の入口にあった痛々しい注意書きみたいなセンスが二十年は古い茶番の意味はなんだ!」
「お借りしているキャラクターの原作イメージを崩さないように気をつける努力をしますって意思表示と、それでも多分今後も皆様の原作イメージに削ぐわない行動をするキャラが出てくるでしょうごめんなさいって謝罪と、シリアスな物語を目指したせいで終盤特にさっぱりとした冒険活劇や喜劇的なエンタメ成分が書けない、足りない、で筆が進まず苦しんでいる作者の単なる自己満足らしいわ」

――閑話休題


 

 

第二話 それぞれのイニシエーション

 

たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変良いとか言っても、それはその西洋人の見るところであって、私の参考にならない事はないにしても、私にそう思えなければ、到底受け売りをするべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、決して英国人の奴婢ではない以上はこれ位の見識は国民もの一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはいけないのです。

 

――私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。

 

夏目漱石

私の個人主義より

 

 

私にかかると、全てのものが虚しくなる。

永遠の闇が降りてきて、太陽は登りも沈みもしない。

貴方には何の問題もないのに、貴方は闇に囚われるのです。

どんな宝であれ、貴方を満足させることはない。

幸も不幸も、何もかもが貴方を悩ませる種となる。

 

――とどのつまり、人間は一生涯、死ぬときまで満足することは出来ないのです。

 

ゲーテ

ファウスト第二部第五幕 深夜 憂鬱より

 

 

かささぎの

渡せる橋に

おく霜の

しろきを見れば

夜ぞふけにきる

 

中納言家持

新古今和歌集 第6巻 冬620より

 

 

電気動物にも生命はある。たとえ、わずかな生命でも。

 

フィリップ・k・デック

―アンドロイドは電気羊の夢を見るか?― より

 

 

暗闇の中、闇の中に佇む男の姿がある。男は口元を黒い布で覆ったその男は、黒い布の装束を身にまとい、腰に刀を携えていた。

 

「……」

 

男は腕を組み、瞼を閉じたままの姿勢を保ったまま、まるで動かない。身動ぐどころか、呼吸すらもしていないのでは無いかと思われるその男は、やがて、静かに口を覆う布の隙間から息を漏らすと、大きく空気を吸いこんで――

 

 

コマ落ちした古いフィルムを眺めているように、異界と現世の景色が交互に目に映る。異界と現世の境界が薄らいでいる。世界の終焉に向けて時計の針が破滅方向へと進んでいるせいだろう。壊れかけたフィルムがやがて観測者の願いによって新しいフィルムへと入れ替えられる運命にあるように、この世界もまた、生まれ変わりを望むものたちの手によって、新たな世界に生まれ変わるのだ。

 

誰もが幸福であってほしいと願う者の、つまりは、今現在が幸福でなく生きるのが辛いと思っているが故に、自らにとって幸福な世界に成って欲しいと他人に救済を求める闘争弱者どもの、そんなルサンチマンの中から新たに生まれる世界の名は、エデンの園というたいそうな名前のついた、そんな、他人が醜いと思うものを美しいと思う私が最も嫌う、偽りの楽園だ。

 

「行くぞ。その為に、まずは荒ぶる自然の中から正義の味方を取り戻す」

 

そのような醜悪な存在が生まれつつある中、しかし、私の意識は目の前の男に吸い寄せられていた。ああ、なんて極上の――

 

――素晴らしい、歪みと絶望だ

 

衛宮士郎は世界に絶望している。口では平和を望みながら、その実、心の奥底では、人間の住まう世界に一片たりとも希望など抱いていないのだ。この男は世界を憎んでいる。この男は人を憎んでいる。この、かつて衛宮士郎という人間であり、英霊エミヤという存在だった男は、おそらくその過程において、恨み妬み嫉み憎しみといった人間の持つ負の感情がもたらす結果を見せられ続けた事で、世界に対して、絶望を抱いている。だからこそ、生き飽きたなどというセリフが出てくるのだ。

 

――ああ

 

一体、どれだけ長い間醸造すれば、ここまで極端な人間不信の状態に陥りながら、しかし、他人を救うために身を捨てたいなどと戯言をほざけるようになれるのだろうか。このような呪いの塊のような人間になるためには、人の心が生み出す悪という悪を、人が悪と呼ぶそのあらゆる行為を観察し、踏破し尽くさねば、こんな極致の領域には達することは出来まい。

 

それは、百年や二百年では足りないはずだ。千年や万年でも程遠い。億や兆を超える年月をかけて、じっくりと、壊れないよう、大事に、丁寧に、人として器が壊れぬよう、丹精込めて、人間に対しての希望を、余すことなく取り除かねば、ここまで芳醇な馥郁たる絶望の香りを放つ極上の状態にまでねじ曲がり、歪むということはないだろう。

 

いや、そもそも、普通の人間であれば、その前に感情が、心が砕けてしまうだろうし、どんな聖人だって、長く生きるほどに、聖なる願いは自分本位な願いへと擦り変わる。実際、かつては世界の平和を願っていたにもかかわらず、世界を平和にするためには時間が足りないと考え、永遠の命を望みだしたあたりから目的と手段がすり替わるようになり、最終的に自分が何のために永遠を何よりも望んでいたのかを忘れてしまった老人のことを私は知っている。人にとって、時間というものは精神を侵す毒なのだ。

 

だからこの男の存在は、奇跡の所業が生み出したものだった。人間のあらゆる絶望を収集し、人間という存在そのものに絶望し尽くしておきながら、しかしそれでもそんな絶望の側に傾きたがる自分を恥じて自らに絶望するという、そんなどこまでも絶望に満ちたその存在は、私、言峰綺礼という、人間の苦痛に歪む顔や、苦難に怯える顔を好む存在にとって、この上のない、極上の、甘美たる存在に他ならなかった。

 

この男は全てに絶望して、この世は地獄と判断し、この苦痛を抱えたまま生きたくないと、心底、死を願っている。しかし同時に、この男は、やはり他人を救うという目的も諦めきれていない。だから、他人を救うために、人を救うだけの感情を失った機能になろうとしているのだ。だがそれを、奴の情念が拒んでいる。

 

奴の情を感じる機能と自身の取り戻した情念は、死を恐れて、そんな虚像を見て過ごすよりも苦労苦痛があろうがとも、生きて幸福を見つけ出すが良いと忠告しているもだろう。にもかかわらず、エミヤシロウは、必死で自らの感情の意見を無視して、死を選択しようとしている。今奴は自分自身の中で、理性と感情が繰り広げる戦いが引き起こす矛盾から、必死で目を逸らそうとしている。その無様さのなんと心地の良いことか。

 

――それでこそ人間だ。人間は、そうでなくてはならない

 

酩酊したような気分の私が、夢見心地から帰ってくると、そうして私の心を揺らしたエミヤという男は、たいそう吹っ切れた顔で手を差し出してきていた。その顔は、私が差し出された手を握ると信じてやまない、無垢な表情をしている。だから私は……

 

 

「果たして冒険者とは、この様に鬱屈とした性格のものばかりだっただろうか……」

 

 

「貴様の自殺願望に私を巻き込まないでもらおうか」

「ガッ……」

 

先ほどまでとは打って変わって、こちらを信じてやまない態度、自らが作り出した涙の薄布の向こう側にて勝手蘭けたイメージの私を投影している様に腹が立ったので、とりあえず目の前の宿敵の息子を思いっきりグーで殴った。額を殴った感触は思いの外良く、奴の額から良い音がなる。それは奴が殴られた衝撃により漏らした息と合わさって、満足の瞬間を邪魔されて苛立ちが湧いた私の溜飲を下すのに、非常に役立ってくれた。

 

 

???

 

 

「――む……」

 

黒装束の男の声が完全に虚空へと消えていった頃、言葉を発した当人の男は少しばかり戸惑った様子で瞑っていた瞼を開けて、後ろを振り向いた。彼の振り向いた先、そこには金髪の妙齢の女性が、全身に金属鎧を着込んだ状態で、彼と似たような姿勢で廊下の壁に背を預けている。

 

「師匠、ドMの根暗ニンジャが『殴らないのか』って意外そうな顔してます」

 

やがてひょこり、と、そんな視線を向けられた彼女の横から茶髪の少女が金髪の女性へと声をかけた。師匠と呼ばれた女性は茶髪の少女の呼びかけに対して目を開くと、なんとも苦々しそうに眉を潜めながら言う。

 

「ほっとけ。今回、珍しく分身回避盾/シノビの意見の方が正しい」

「……!」

 

シノビと呼ばれた黒装束の男は、頭部のほとんどを覆う黒頭巾の微かに見える顔の部分から見える瞳に驚きの色を浮かべると、瞬時にその場から消え失せた。入れ替わり、後に残ったのは人間の胴体と同じサイズの、小さな樹木の幹ばかりである。

 

「あ、逃げた」

「いつもと違う対応に戸惑いでもしたか? 『くっ、私は絶対お前になんて屈しない!』『くく、この里に伝わる秘伝の薬があればお主も上の口どころか下の口も正直になる……』『や、やめろー!』『くっくっく、お主の悲鳴はどこにも届かん……』『いやぁ……!』とか女パラディンにやりそうな見た目のくせに童貞みたいな反応しおって」

 

鎧姿の女性の卑猥な言葉の羅列に反応して、茶髪の少女は着用した白衣を翻しながら振り向くと、ひどく呆れた様子で彼女へジト目を向けた。

 

「シノビに対する風評被害甚だしいですよ、師匠……。しかもその妄想の女パラディン、自分がモデルですよね? そういう危ない被虐の陵辱嗜好でもあるんですか?」

「うむ、メディ子。これはいつの世も男どもは、私のような可憐で若い美女に対して、メディックであるお前がそのバックの中に潜ませているような危ない秘薬―――」

「秘薬じゃない! 被虐だ!」

「―――を使って陵辱したいと言う嗜好があるだろうと言う判断からだな――」

「聞け!凄まじい自信だな!」

 

呆れた目線を向けてくるメディ子に対して、師匠と呼ばれたパラディンの女性は自信満々な態度で自身の考えを答えていたが――

 

「だいたいメディックの鞄の中にそんな危ないお薬は入ってないし、若き美女を自称するなら、せめて肌が水を弾くか、お肌のケアが必要ない年齢のうちに言え!」

 

そうして自信満々に自らの容姿を褒めていた彼女は、片側の肩からかけているバッグの中にとんでもないものが入っていると言われた他ならぬメディックであるメディ子の言葉によって否定され、余計な言葉の代償として、手厳しい言葉を返されていた。

 

「――で、師匠。師匠の妄言と都合の良い耳はいつものことだからほおっておくとして、シノビの意見が正しいって、どういうことですか?」

「うむ、メディ子。お前も気づいているだろう?」

 

しかし、そんな厳しい言葉を投げかけたメディックの少女は、自分がいましがた罵った対象であるパラディンの女性へと平然と話を振り、ほとんど罵られたようなパラディンの女性もまた平然とした態度でメディ子の言葉に再び答える。投げかける方も投げかける方だが、無視できる方も無視できる分だけ、互いに面の皮が厚いといえよう。

 

「――この、こう、なんか、こう、いつもと違う感じで、街が嫌な方面に変な感じがするというか……」

 

パラ子はそうして金属の籠手で覆われた両腕を動かすと、物を握りこむような動作をした。

 

「――ああ、ええ、なんか、こう……、いつもと違いますよね」

「そう、こう、なんか、こう、あれなんだよなぁ……」

 

メディ子と呼ばれた方も、パラディンの彼女と同様に首を傾げながら手を虚空で動かす。対してパラ子の方も、同じような動作を取り続けている。二人は同じ感想を抱きながらもそれを言い表す言葉が思い浮かばなかったようだった。

 

「貴方達、語彙力が貧相すぎない?」

 

やがてそんな二人を、呆れた視線で見つめながら、ダブルのコートにモコモコとしたファーのある帽子を被った格好をしている彼女が奥から出てきた。メディックの少女と同じくらいに幼く見えるパラディンの女性と同じ金髪を靡かせる彼女は、この場で最もしっかりとした雰囲気を纏っていた。

 

「――まぁ、貴方達が言わんとしてることはわかるわ。なんていうか、どうも私達が冒険してた時と違って、根暗な雰囲気よね。行動や言語の一々が必死すぎて、正直、引くわ」

「それだ、ガン子! 流石はガンナー、弱点を突くのが得意だな!」

 

ガン子と呼ばれた女ガンナーの発言に、女パラディンは過剰な反応した。まさに我が意を得たりと彼女を遠慮なく指差して反応した女パラディンは、そのまま腕を組むと、大いに頷いて、ガン子の言葉に首を頷かせた。

 

「そうだ! ガン子のいうとおりだ! どうも根暗で必死で、いちいち悲観的過ぎる! なんだ、あの、いかにも死にたいですオーラを放っている構ってちゃんな住人どもは!召喚された名の売れた伝説の冒険者たちですら影響されつつあるじゃないか!」

「いえ、パラ子。話を聞くところによると、一部の召喚された冒険者たちは、元々どうもそんな感じだったらしいわよ」

「なんだと、馬鹿な!?」

 

憤慨した様子のパラ子にガン子は語りかける。ガン子の言葉にパラ子はたいそう驚いたと言わんばかりに仰け反った。

 

「じゃあ、彼らのあの陰気さは元々だってのか!? 私達の時代の冒険者といったら、もっと……、こう……、――私みたいに元気だったぞ!」

「冒険者みんなが師匠みたいに頭チャランポランだったら、世界はとっくに何度か滅びてますよ……」

「どうも召喚された人のうち、元々責任感が強くて真面目だった、それこそ世界のピンチを救ってきた人たちほど、この鬱屈とした雰囲気に飲み込まれているみたいね」

 

この程度の罵倒とやりとりは彼女にとって日常茶飯事なのだろう、ガン子は、師匠と呼ぶ女性を平然と罵ったメディ子と罵られながら平然としているパラ子を無視して話を進めた。

 

「まぁ、世界のピンチなんてもんに立ち向かうのは、元々ある程度責任感があるタイプの人だろうから仕方ないって気もしますけど……」

 

メディ子もガン子のこのような反応には慣れっこらしく、平然と彼女の言葉に反応する。

 

「それにしても酷すぎない? まるで国中あげてお葬式やってるみたい。側にいるだけで息苦しくなっちゃう。私が珍しくシノビの意見に賛成したくなるくらいには、世界全体が鬱屈としているわ」

「なんていうか、こう、お薬キマっちゃってる連中みたいだったよな。真面目そうな外見の奴なのに首刈りバニ男みたいに根暗ってるっていうか……」

「……誰か来たぞ……」

「おぉ!?」

 

やがて自らのイメージと合致する適切な表現言葉を探して再び手を虚空に動かしていたパラ子は、自らの頭上より聞こえてきたこえにたいして過剰なまでに驚いて見せた。彼女が頭上を向くと、そこにいたのは――

 

「戻って来ていたのか、ネクラ!」

「……」

 

先程からコロコロと名称を変えられているその本人だった。シノビと呼ばれる職業である彼は、その優れた身体能力によって、三メートルほどの低い天井の上から逆さまの姿勢でぶら下がっている。自分が多分、罵られているのだろうと知っているだろうに、しかし彼はパラ子の態度に対して平然と無視を貫くと、瞼を閉じて腕を組んだままの姿勢で黙り込む。これ以上この女と話すことはないと言わんばかりの毅然とした態度だった。

 

「――あのぅ……」

 

やがて狭い廊下の向こう側から、彼の忠告と通り、誰かの声がした。声に反応して振り向いた驚いたのち、シノビの彼の後ろかけられたシノビのかしましい彼女たちに話しかけて来たのは、頭部に立派なヘラジカのツノをたずさえた、メディックやガンナーの少女よりも、さらに一回りほど小さい少女だった。

 

「ん……な!?」

 

声にシノビから少女へと視線を向けたパラ子は、途端に全身をのけぞらせて、驚きを露わにする。パラ子には頭部のツノが、飾りなのか、生えているのかは、この暗闇ではわからなかった。否、それよりも特筆すべきは――

 

「なんだこの子! ほとんど裸だぞ!? 」

 

そうして現れた小さな彼女が、裸身にケープを巻きつけて、乳房と陰部を隠しただけの格好で出てきたということだった。

 

「おい、根暗男、お前まさか……!」

 

パラ子は天井からぶら下がるシノビに視線を向けなおし、その眼光を鋭くする。

 

「いや、このおなごは元々……」

「確保ぉ――!」

 

シノビの彼が口を開いて言いかけたところ、そんな天井から逆さまにぶら下がっている彼の顔面に対して、メディ子が、叫びながら唸りを上げてざっと人の頭ほどもある大きさの鉄金槌を振るう。柄の部分まで合わせれば少女と同じくらいの大きさはあるそれには遠心力が加わり、シノビのぶら下がっていた空間を瞬時に突き抜ける。まともに食らえば惨劇になること間違いないその一撃はシノビの頭をスイカのように突き抜け、砕き――

 

「自首しましょう! て言うか突き出しましょう! 世界が混乱している今なら温情がついて懲役も執行猶予くらいですむかもしれません! ――って、これは……!」

「空蝉だとぅ! 」

 

などはしなかった。否、彼女の鉄金槌は、彼の代わりに樹木を打ち砕いていた。天井より落下した樹木の破片が辺りに飛び散る。ニンジャはメディックの攻撃を先ほど同様に樹木を自身の代わりとすることで防いでいた。メディ子と呼ばれる彼女が砕いたのは、そのシノビが自身の代わりにその空間においた樹木の幹だったのだ。

 

「いかん、メディ子よ! あの性犯罪者を逃すな! あれが他の少女に毒牙をかけないうちに捕まえないと、奴の仲間である私達の悪評となり広がってしまう!」

 

やがてあたりを見回したパラ子は廊下の奥、突き当たりの廊下に彼が首に着用している長いマフラーの姿を認めると、迷わず抜剣して突撃する。

 

「凄まじく保守的な判断からの対応! でも異議なし!」

 

やがてメディ子もその後に続き、二人は狭い廊下を駆け抜けていく。

 

「あ、あの……」

 

そんな三人のやりとりに、声をかけた少女はおずおずとその場に残った唯一の存在――ガン子に対して話しかけた。

 

「ああ、あの馬鹿どものコントは気にしないで頂戴。いつものことだから。――それで、貴方はだぁれ?」

 

話題を振られたガン子は、バッサリと仲間のことを言い捨てると、疑念のこもった鋭い視線をほとんど裸の小さな少女へと向けた。少女はようやくまともに自分の話を聞いてくれる人間が現れたことに安堵したのか、顔に花のような笑顔を浮かべると、しかしどこか厳かな雰囲気を含んだ口調で言う。

 

「――私は人間の無意識のうちに潜む、『生きたい』という願いの結晶であり、代表です。今回は、貴方達をこの世界で生きる意志に溢れた人達と見込んでお願いに来ました」

 

 

帝都

 

 

「言峰綺礼……、貴様何を!」

 

拳で打ち抜いてやった額を抑えながらこちらを見る奴は、思いのほか元気そうな声で私が今しがたくれてやった一撃に対しての文句を言ってくる。その態度から奴の茹だった頭が未だにキチンと冷めていないことに心底呆れた私は、思わずため息が漏らしてしまっていた。

 

「貴様の妄執と我欲に付き合って犠牲になる気は無いと言っている」

「――何を」

「そのままの意味だ。貴様、自分の先ほどまでの発言と行動を思い返してみると良い」

「――」

 

あの男の息子は私の投げつけた言葉をまともに正面から受けいれると、奴は腕を組み、真剣な表情を浮かべ、先刻の自らの無様を振り返る事に没頭し始めた。思考を働かせる表情には衛宮切嗣の面影があった。それが非常に腹ただしく、もう一度殴りたくなる衝動にかられる。だが、第四次聖杯戦争の折、縁あってあの男と対峙した際、あの男はこのように投げかけた私の言葉をまともに聞き入れる事はしなかったし、真剣に思考を巡らせるなどと言うこともしなかった。その点を加味すれば、最低限の及第点は超えていると判断した私は、力を入れかけた拳から力を抜く。

 

――ふん

 

もちろん、当時、私と奴が完全な敵対関係にあったと言う事情を加味すれば、私の言葉を敵の甘言戯言として一切を切り捨てる衛宮切嗣の態度の方が、敵、あるいは元敵である関係の人間に対して向ける態度としては正しいのだとは私も理解、認識している。だが、だからこそ、そんな男の息子がこうして敵の言葉を一々まともに受けとって見せる事に、違和感を覚えて、その差異が不理解の苛立ちとなり、感情を逆撫でられてしまうのだろう――

 

「なぜ、私は、あの様な事を口に……」

 

などと自らの体の不明を嘆いていると、自省を済ませた奴の息子が、自身の口にした言葉がどこからやってきたのかわからないと言う混乱の様子で呟いた。

 

――ふむ

 

奴の呆然とした態度と無駄に鋭い眼光を遊ばせるような所作から、今しがた漏らした言葉は、真剣な悩みの末に漏れただということが理解できる。そこで私は、ようやく奴の様なが先ほど世迷いごとを私の前で恥じることなく述べた事情を、完全に把握した。

 

――なるほど、その何があろうと人類全体を救ってみせようとする妄執さ

 

衛宮切嗣は人類全体が今すぐ自らの望む理想に変わりはしないのだという真実に絶望して人類全体を自らの傀儡にする事で、永遠に自分にとって優しい世界を作り上げようとした。

 

――そして幸福の永久持続などという、この世にありもしない結果を求める稚拙な思考

 

目の前にいる奴の息子は、人類が即座の意識が即座に変わる事はありえないという事実を認め、人類はいつまでたっても平和とは無縁の生き物なのだろうと絶望しながらも、それでもなお人類の為に何か出来ることはないかと悩んだ結果、自らが人類のための傀儡となり、彼らが幸福を見つけられるまで寄り添って少しずつ変えていくことを望んだ。

 

――なるほど……

 

衛宮士郎のそれはとても現実的な理想だ。衛宮士郎は、幸福が永久に続かないことを理解している。そこまではいい。だが、それをわかったうえで、奴はすべての人間を救いたいと願っている。何があろうと、永遠の幸福などというものを望む。それは、間違いなく、衛宮切嗣の理想だった。

 

おそらく長年、衛宮切嗣の思想を自らの行動の軸として活動してきたことで、奴の魂は根本の部分から歪めているのだろう。衛宮切嗣の思想が、衛宮士郎の思考を歪め、永遠の自己犠牲へと衛宮士郎を導いている。つまり。

 

「貴様も、未だに人間を個人として見ず、数の上でしか見ていない類の人種、という事か」

 

――衛宮切嗣は、衛宮士郎の中に、まだ生きている

 

「なに……?」

 

訝しげな視線が私へと向けられる。その透明な疑念の感情を、しかし、そうして私の心からの憎悪を掻き立てる奴の仕草は、間違いなく、あの宿敵が見せる顔の、所作のコピーだった。だが、奴の視線の中に、憎悪はなかった。その無防備でちぐはぐな様がひどく腹だたしい。

 

「まるで貴様は、やはり未だ、衛宮切嗣のようだ。人類の集合無意識の生きたいという回答と、貴様の魂の芯にまでへばりついているあの男の思想と、貴様自身が抱える絶望が組み合わさって暴走した結果こそ、先程の妄言をほざくに至ったのか」

「意味が……」

 

――ああ、気分が悪い。反吐が出そうだ

 

先ほどまでの幸福感が失せてゆく。私は、いま奴の息子は、確かに、何一つ理解しないままに、借りてきた孔雀の羽を纏うが如きそんな思考をめぐらせ、仕草を模倣して行っているだけなのだと言う事を、心底思い知らされた。安寧を提供してくれる闇の中から、全身を焼き尽くしてしまいそうなほどの光に満ちた場所へと引きずり出された気分だ。ああ、本当に――

 

「本当に。あの男もやっかいな呪いを残していったものだ。まぁ、その様な極上の呪いだったからこそ、この様な、絶望という絶望を踏破し、収集し終えた男が出来上がってくれたとも考えられる……、と、そう考えると、なるほど、案外奴め。そちら方面の才だけはあったと見える」

「何を――」

 

少しばかり奴の表情に警戒の色が浮かぶ。そうして他人の言葉に疑念を向ける態度の中に、やはり衛宮切嗣の面影を見つけて、私は心底うんざりとした気分になった。やはり、あの男がこの絶望の化身たる衛宮士郎という男の中で生きている。それが本当に――

 

――本当に、心底、憎らしい

 

「貴様、先程のその踊るだの何だのの結論はどうやって導き出した?」

「それは――、自然に脳裏に――」

「浮かんだのだろうな。――、そうだ。物事は等価交換だ。人類の無意識が世界を破滅に至らせる情報を誰かに提示する際には、同時に、そんな世界を救ってみせる方法を誰かに提示する」

「――つまり?」

「世界の残酷さに耐えられなかった弱者どもが、世界の破滅と再誕を願った時、彼らの前にシンという救い主が現れたように、何もかもを救いたいと願う貴様の意志に、人類の無意識のうち、生を望む側が呼応し、貴様の脳裏へと返答を行った」

「――」

「おそらく人類の無意識が貴様の無意識の中に提示した答えと、そして、その先に広がる未来というものは、強欲で救いようのない人類が、有史以来、それでもなんとか滅びずにやってきた方法であったのだろうことも、私には見当がついている。おそらくそれは、今までとまるで変わらない、愛した相手と子をなし、彼らの子らも、成長したのち、また、愛した相手を見つけ、子を持ち、そして世界を続けていくという、そんな、何の変哲もない方法だったのだろう?」

 

ビクリ、と奴の方が震える。奴のそれは無意識の反応だったのだろうが、その様子を見て、私は自らの推論が正しいのだろうことを、確信した。

 

「そうだ。多くの人を救う方法なんてのは、実はとても単純で簡単な方法だ。だが、意思を受け取る側の貴様は、貴様の内の、意識や、無意識は、大幅に衛宮切嗣という男の呪いによって歪んだ思想と、そんな思想によって培われた貴様自身のメサイアコンプレックや、抑止力の一端として他者を排斥し続けてきた絶望の経験が、共に、そんな単純な手段で世界が救えるのだという事実を否定した」

 

奴は私の一言一言に反応し、体を震わせる。そんな悪事を暴かれる子供のような態度を見て、私の確信はよりいっそう、深いものへとなってゆく。

 

「そんな単純な手段で世界が救えるというのなら、否、世界がすでに救われていたというのであれば、今までの自らの養父が重ねてきた労苦と生涯が、真に徒労だったという結論に達してしまう。自らの過ちを過ちと認めるのは何よりも難しい。貴様にとって、衛宮切嗣が貴様に授けた正しい教えから別の結論の場所に一歩を踏み出すというのは、貴様自身がこれまで歩んできた生涯と労苦の否定に他ならず、今の感情を取り戻した貴様にとって、そんなこれまでとはまるで異なる未知なる道を歩むことが、何よりも恐ろしいものとして映った」

 

人間が最も恐れるものは、『わけがわからない』未知なるもの、だ。だからこそ人間は、未知に対して、なにかと自分の納得できる理屈と方便を用意して、自分を安心させようとする。しかして、その理屈や方便が用意できなかった場合、あるいは、用意した理屈や方便があまりにも自分にとってあまりに空想に過ぎるものである場合、人間は――

 

「自らの作り出した固有結界から一歩外の未知なる世界へと踏み出そうとした貴様は、しかし、自らの外側の世界に広がる自らの常識外の法則が無限に闊歩する社会へと一歩を踏み出す事ができなかった」

 

絶望し、恐れ、一歩を踏み出せなくなる。感情と知識の動物である人間は、未知なる獣の闊歩する平原へと繰り出すのを恐れるのだ。そして、それでも人間がそのような場所に出向かなければならない場合、人はその未知なる場所に、己の理解できるルールを見出すか、あるいは、その場所でも自らが活動できるよう、その場所に敷かれている法則を変えようとする。

 

「だから貴様は、そこにかつて貴様が軸としていた切嗣の思想を組み込んだ、抑止力システムを構築して、社会を自らにとって生きやすいよう、自らの理屈が通じる世界に変えてやろうという考えに至った。さらに他人を救いたいと思うくせに、人間を信じきることの出来ない貴様は、自らは人と彼らが構成する社会の外側、すなわち、境界に居座る英霊の様な存在となることを望んだ。それがあの醜態の真実、といったところだろう」

「――」

 

そして衛宮士郎は、後者を選んだ。自らが理解できないことを奴の息子は、思いもよらぬ所から、自分すらも気づいていない解答を聞いた、と言わんばかりの呆けた顔を晒す。

 

「『滅びに通じる門は広く、命に通じる門は狭く、その道は細く、その道を見出すものは少ない』。マタイ福音書の言葉にある主のお言葉だ。自らの考えを他者の生きる社会に適合させたいのであれば、その社会が定めたイニシエーション/通過儀礼を達成して、世界とそこに住まう人々に対して自らは貴方達と同じく立派な人間であり、そうであると同時に、他人に寄り添い、理解しようとする意思を持っている人間でもあるのだということを示し、認めさせなければならない」

 

多くの人間が住む場所にて適用されている常識や法則を変更したいなら、彼らに自分の考えや経歴を明かし、自らを認めさせる必要がある。しかし。

 

「だが、自らの生涯は恥ずべきものとして偽りと過ちだらけであったと断ずる貴様は、だからこそ、自分を恥ずべき絶望に満ちた生涯を公開した際、あるいは、そんな絶望しか持たぬ己を社会が受け入れず、認められず、自分の望みが叶わない可能性の方が高いのではないかと恐れ、そんな偽りと過ちの道を歩んできてしまった自分には何も出来ないと思い込み、無様な己を晒す事を恐れ、逃げた」

 

自らの手の内と背景を明かすというのは、度胸を必要とする作業だ。少なくとも、自らの生涯を恥じている人間にとって、あるいは、自らの生涯が話そうとしている対象に不愉快を引き起こすような内容であれば、それが本人にとって苦痛と絶望に満ちているのであれば、さらに余計に度胸を必要とする。

 

「だから貴様は、社会が、他人が望むものと、自らを照らし合わせ、自らの足りない部分を知り、埋めるために研鑽し、価値観を徐々に共有させてゆく労苦を惜しみ、彼らの思考の中に自らのそれを無理やり埋め込む、抑止力システムを望んだのだ」

 

だから衛宮の息子は、法則化しようとした。自分の考えは、変更要件ではなく、前提条件なのだとして、労せず他人の納得と承認を得ようとした。かつての衛宮切嗣と同じように。

 

「私にそんな気は――」

「ない、と。――、嘯くのはよくないな、衛宮士郎よ。自分が先ほど言った、世界のシステムを書き換えるとかいう行為は、かつて貴様が正義の味方と崇めた切嗣という男の、理想を軸にして弱者を一方的に無視し切り捨てるやり方や、あるいは貴様が英霊となるまでに他人に正義を押し付けてきた虐殺行為と、一体何が違うというのかね? どちらも同じ、人間個人の中身を見ずに、自らの考えこそが絶対正義であると考え、己が形式に当てはめて世界を支配しようとする行為だろう?」

「む……」

「すなわち、貴様は未だに衛宮切嗣という、世界に対して絶望を抱えた亡霊の呪いから逃れられていないのだ。しかもそれが絶望に浸っている貴様にとって、最も輝かしい最後の希望だから、呪いとわかっていながら、そこから離れようという発想にすら至っていない」

「――」

「自らの気持ちを偽ると辛いだけだ。自身の気持ちを自分くらいは認めてやらねば、他の誰に認められようが、傷として永遠に残ることとなる」

 

説教してやるも、奴の息子は戸惑った様子ながらも真剣さを崩さないまま、尋ねようとする。奴は今、視線を彷徨わせ、唇を噛み、懊悩の様子を見せていた。私は奴のため、じっと唇を動かさず、視線を固定させたまま、奴から意識を離さない。

 

「……私は――、だが……」

 

奴の顔が辛苦に歪む。口元は、そんな歪んだ思想を追い出したいが、しかし、どうにも腹の中どころか、脳や臓腑の奥底にまでへばりついたものが出ていかぬとでもいうかのように、開いては閉じ、開いては閉じを繰りかえしている。そうして苦悩する奴の様は好ましいものだが、苦悩の原因があの衛宮切嗣に起因するものだと考えると、反吐が出そうになる。

 

――死者の妄念は何より強い、か

 

奴は今、感情は父から離れようとしているが、理性がそれを拒んでいる状態だ。衛宮切嗣という死者の悪霊が、英霊エミヤの、衛宮士郎という男の魂の奥底にまでへばりつき、奴の意識変革と成長の邪魔をしている。そしてそれらを保有したまま生き続ける事がこれほどまでに苦しいのなら、生きたくないと、いますぐにでも死んでしまいたいと願っている。

 

これが悪霊の、死者の呪いの恐ろしさだ。魂に刻まれた傷が生きた人間から発せられた言葉や行為であるならば、言い返し、論破するか、あるいは復讐することで呪詛返しも出来ようが、死人は聞く耳も語る口も、体や大事なものを破壊された所でそんな言葉や行為によって傷付く魂をもすでに持たないのだ。死人の言葉や行為によって刻まれた魂の傷は、歪みは、本人に返せない。いつか壊れるその時までそのままだ。そんな面倒なもの、いつもの私なら放っておく類のものであるのだが――

 

――それはあまりに勿体無い

 

だが私は、この開かれる前のパンドラの箱の様な、この世の全ての絶望を収集したがごとき存在をこの世から失せさせてしまうというのは、あまりにも惜しいと思った。あれの中から衛宮切嗣という男の存在が消えたのならば、あれの完成度はさらに高まり、生きながらにして、他人の絶望を収取し彼らに救済を与えながら、しかし自らは誰にも救われず、絶望し続けるという、なんとも素晴らしい矛盾と解決不能な苦悩を抱えた人間になるだろう。

 

――私はそんな、完璧な絶望を最も体現する存在となるだろ奴を見てみたい。

 

そのためにはまず、魂が傷ついた分を、他の人間の魂の成分で補填してやらないといけない。言葉と行為によってつけられた誰かの魂の傷は、歪みは、同じく、別の誰かの心からの言葉と行為によってでしか、癒されない、戻せない。

 

――ああ、まったく、なんて手間のかかる

 

すなわち、この、衛宮切嗣という存在によって救われたと思っている、衛宮切嗣の思想に歪んだ男を元に戻すには、衛宮切嗣がこの男の魂につけていった傷以上の施しを与えて奴の傷を癒してやるか、あるいは歪んだ方向と正反対の方向に無理やり歪ませてやるしかない。楽であるのは断然後者だが、無理やりの手法ではダメだ。

 

――あの衛宮切嗣という奴は本当に……

 

それではこの男の、地獄門がごとき儚き美しさが失せてしまう。だからこの在り方が壊れぬ様、巧妙なやり方で、衛宮切嗣と言う名の傷をこの男から取り上げるしかない。ああ、この衛宮の親子は本当に……

 

――本当に、どこまでも、私を不愉快/愉快にさせてくれる

 

「な、なんだ!?」

 

そんな会話のおり、銀座の方面から聞こえてきた破壊音に、奴は慌てて振り向いた。奴の視線の先では、ビルの一棟が狼男によって切り倒され、瓦解の運命を辿っていた。

 

「どうやら奴は街の破壊にご執心のようだな。あの様子ではあと十分と持たずに銀座は壊滅するだろう」

「ライドウ……!」

 

奴は唇を噛む。言葉から察するに、狼男の中にいる、帝都の守護者とか言う人間の事をおもんねり、怒りと心配の感情を引き出しているようだった。

 

――帝都の守護者、葛葉ライドウ……

 

おそらく奴の息子である衛宮士郎が、抑止力システムの中に自らを組み込もうと考えるようになった一因は、このライドウとかいう男の在り方に憧れたという面もあるのだろう。人々の暮らしを脅かす人ならざる悪魔という存在が日常のすぐ裏側、闇の中を闊歩し、それらによって常に世界の安寧が瓦解寸前の状態でありながら、ライドウやヤタガラスという絶対的な存在によって平和は保たれている。

 

その存在を知るのは一部の人間のみであり、大衆が気付かぬうちに全ての問題を解決する。まさに物語のお話の中に存在するような、理想的な正義の味方の在り方だ。なるほどその辺りの正義の味方然とした存在が、黄金時代の果て、感情を取り戻した衛宮士郎の中の衛宮切嗣の理性と思想を叩き起こして、奴の息子の思惟を再び侵食し始めたのか。

 

「――話し合いたいことは山ほどあるが、後回しだ。一旦、あれを止める事を最優先に動く」

「ふむ」

 

私が奴の息子の思想の移り変わりを考察をしていると、いうやいなや、奴の息子は身を翻して、帝都の建物の屋根へと駆け上がった。一直線に銀座まで最短距離を突っ切る算段なのだろう。悪魔『マンセマット』と化したことにより元英霊である奴と同じ程度の力を手に入れている私は、奴と同様に屋根の上へと跳躍すると、その横にすぐに並び立つ。

 

「行くぞ」

 

そうして奴は一言呟き、赤い外套をはためかせながら、私に完全に背を向けた状態で、空中に飛び出した。奴はすでに、私を敵としては認識していないのだ。一度信じるに値すると決めた相手を無邪気とことん信ずるその様を、まるで子供のようであると私は感じた。

 

だが同時に、奴の持つその身体能力や思惟は、大人のそれに到達している。奴は今、大人と子供の境界にいる存在なのだ。

 

――なるほど、モラトリアムか

 

今、母代わりの女/凛の腕の中の安寧から抜けた出した男は、父/衛宮切嗣の幻想を打ち破り、自我を確立し、自らの足で現実へ向けて歩き出そうとしている、まさにモラトリアムの真っ最中の、人の幸福と命の答えを探している青年だった。今、その男は、衛宮切嗣の呪いによって、魂を地に縛り付けられて、混乱の渦中にいる。ならば。

 

「なるほど、衛宮切嗣の後継者であるアレの中から、貴様の残した呪いの痕跡を殺しきってやる事こそ、お前に対する最大の復讐になるかもしれんな」

「――」

 

私のつぶやきに反応したのか、こちらに背を向けている奴は、背を揺らした。奴にとっては聞き捨てならないだろう言葉に、しかし奴は何も尋ねてこない。

 

「――」

「――」

 

帝都の異界は現世に比べて幾分か暗い雰囲気を放っている。幻想と現実の狭間の中、私と奴は一足飛びに屋根上を蹴り飛ばしながら、高砂の松にも見える建物が次々と狼男の手によって崩れ落ちて行く銀座へと近づいて行く。

 

 

「すまない、遅くなった」

「アーチャー!」

『エミヤか!』

 

破壊が進む銀座の中、味方の影を見つけて降り立つと、一人と一匹がすぐさま近寄ってくる。凛とゴウトだ。彼らはそれぞれに、安堵と焦燥の表情を浮かべていた。

 

「――状況は?」

「最悪。ライドウが狼男になって、シンが死んだわ。おかげで響が今、使い物にならなくなってる。シンの死体の側から動かなかったから、遺骸ごと無理やり引っ張ってきたけど――」

 

自分たちの木を落ち込ませている原因はそこにあると告げる凛の視線を追うと、ビルの端では響が地面にぺたりとへたり込んでいるのが目に入った。響は今、生気の失せた顔で、アンドロとなったシンの上半身だけを抱きかかえ、虚ろな瞳でシンの動かない遺骸だけに視線を送りながら、彼の遺骸を撫でて続けている。狂気を感じさせる行動には、しかし慕情や母性を感じさせる手付きでもあって、それがいっそう、彼女のその行動を狂気じみたものへと変貌させていた。狂人の様に成り果てた彼女のことも気になったが、それよりも――

 

「シンが死んだ?」

「ええ。彼の魂の保管されている――、フォトニック純結晶だったかしら。あれをライドウに破壊されてね」

 

気になるのは、シンの死因だ。尋ねると、凛は頷き、目を伏せる。仕草には、弔いの意味もあったのだろう。だが、そうしてサッとシンへの哀悼を済ませた凛は、いつものような凛とした態度を取り戻した。その切り替えの早さはなんとも彼女らしく、私はそんな彼女に対して頼もしさを覚えた。

 

「どうして、また」

「彼がそれを望んだからよ」

『――その通りだ』

 

そうして感情から余分なぜい肉を削ぎ落としたかのような口調に戻った凛の発言に割り込んできたのは、彼女とは逆に、ひどく苦々しい口調のゴウトだった。彼は猫の髭と尻尾と全身とを使用して、器用に人の悲しみの感情を貼り付ける事に成功していた。

 

「――ゴウト」

『目の前で暴れる狼男。あれはライドウが変貌したものだ。その力は絶大で、未知数。突破口すら定まらん。そして奴は、そんなライドウに挑みたいと言い出した。それは帝都を守るという大義を持つ儂からすれば絶対的に止めねばならぬ愚行であったと同時に、敵の力を図る試金石として必要不可欠な犠牲だったといえよう。あやつはライドウに挑むことを望み、そして死んでいったのだ。――そして儂らはそれを見殺しにした』

「――そうか」

 

――シンらしい結論と結末だ

 

『軽蔑の言葉の一つでもぶつけてくれて構わんのだぞ』

 

ゴウトは視線を逸らさない。その仕草の意味するところは私にもよく理解できたが、だからこそ私が言葉をかけるわけにはいかない。なぜならそれは。

 

「それで君が楽になるのならぶつけてやってもいいが、その場に居合わせなかった私に君を責める資格はないと私は思う。同時に、それは、その場でシンの死を受け入れる選択をして見送った君たちが受け入れるべき痛みだと思っている。私に君たちの痛みはわからない。だから私は、あえて何も言おうとは思わない」

『――そうか』

「そうね。そのとおりだわ」

 

彼らが背負わなければならない傷だからだ。そしてゴウトと凛が納得の姿勢を見せたところ、パチパチと柏手を打つ様な音が私の背後から聞こえてくる。凛とゴウトが反応してそちらに目線を送った瞬間、彼女らの態度の変貌から、その音を発した人物の正体を確信した。

 

「――素晴らしい。言うではないか。先程境界で戸惑っていた小僧にはとても思えん。――、まぁ、見たところそこの一人と一匹は、正しく理知、理性的な、合理的な判断を下す存在だ。そのような他人との相互理解を求める場合、必要となるのは個人の共感よりも俯瞰の視点からの冷徹な判断。理性の権化のような貴様にとっては交わるに楽な部類か」

『――お、主は!?』

「綺礼!? あんた、なんで……!」

 

ゴウトと凛は、これまでこれらの現象の下手人として追ってきた人物が突然現れるという異常に対応できず、これまでのしおらしい顔と態度を一気に崩して、凛は背を丸め両手を前に出し警戒した猫の様な姿勢で警戒を露わにし、ゴウトはさらに全身を逆立たせ立ち上がらんばかりの勢いで人間の様に驚いた。

 

「私が望んで奴と協力関係を結んだ。もはやこの男は、私たちの敵ではない」

『な……』

 

埒をあけるべく私が述べた言葉に、ゴウトの体から警戒の態度が完全に抜けて、瞳孔が開き、口は半開きになっていく。ゴウトの猫の体の顔に生えた髭が豊かに動き、彼の内面の焦燥と混乱を露わにしていた。おそらく、味方が敵になった直後、敵が味方に、という感情の変動を引き起こす事態が続いたため、彼が冷静を保てる感情の分水嶺を超えてしまったのだろう。

 

「……そう、わかったわ」

 

一方、凛は私の言葉を聞いた途端、ふっと肩から力を抜いて、どこか寂しそうに、彼女と地面の微かな虚ろな隙間に目を向けた。凛の歪んだ蛾眉が斧鉞となり、彼女が今しがた抱いたのだろう感情が私の骨の髄にまで染み入る様な気分になる。キリキリと胸が締め付けられる様な思いが熾火となりかけて――

 

「随分と物分かりが良くなったではないか、凛。貴様にとっては両親の仇がまさに目の前にいるのだぞ? 殺して仇を復讐しようとかは思わんのかね?」

 

だが、そんな私の胸に残るさしもぐさに余計な火が着かないうち、寂寞の雰囲気を纏っていた凛の態度を崩して、ついでに赤沼へとはまりかけていた私を拾い上げたのは、やはりというべきか、他人から憎悪を向けられることを良しとし、他人が懊悩する様を見て悦に浸る感性を持つ、言峰綺礼という男だった。

 

「そうね。でも、この馬鹿が貴方を受け入れるといったのよ。だから、私もあんたを受け入れる。ただそれだけのことよ」

 

だが凛は言峰の挑発の言葉に一切耳を傾けず、平然と私にとって嬉しいことを言った後、同時にお前の存在などどうでもいいと切り捨てた。言峰は無表情な無骨な面の上に、愉快そうな感情を隠しきれないとでもいうかのように口を三日月に歪ませた。

 

「私を許すと?」

「勘違いしないで、綺礼。私は、私の両親の死因と関係しているあんたを許す気なんてさらさら無いわ。ただ、あんたみたいな外道の存在なんかより、アーチャーの存在の方が私にとってよっぽど重要だから、私はアーチャーの判断を尊重して、一旦私の感情を保留にすると決めただけ。あんたの存在なんて私にとって、その程度のものにすぎないというだけなんだから」

 

凛は言峰に、きつい口調で返す。その口調の端々にあらわれる刺々しさからは、冷静な態度を保つ彼女が、その実、腹の底では目の前の男をぶち殺してやりたいほどの憤怒を抱えていることが理解できた。

 

「手厳しい。だが、それでいい。それが正しい。お前は人と社会とモノの道理と言うものをよく理解している」

 

そんな凛の抑えきれない激情を秘めた口調での回答を聞くと、言峰は、まるでテストで満点の解答を持ち帰った子供を見るかの様な目で彼女を眺め、心底納得したと言わんばかりに、数度首を縦に振り、慈愛の視線を送った。

 

「ふん……」

「ふ……」

 

凛はそれをいかにも迷惑だといわんばかりの視線で叩き落とすと、顔を言峰から逸らして、決して受け取らぬという拒絶の姿勢をとった。今のところ、一応は敵対する気はないが、積極的に関わろうとも思わないということだろう。言峰はそんな凛のつれない態度にますます気分をよくしたらしく、笑いまで漏らして、その喜びを表現する。それがいっそう、凛の癇の虫を不機嫌にさせたらしく、また、さらにそんな彼女の懊悩が、よりいっそう、言峰綺礼を昂ぶらせる。なんとも堂々巡りの悪循環だ。

 

――このままこの男に自由を許しているとさらに厄介なことになりかねない

 

「言峰。世界を救う方法を知っていると言っていたな。ならばまず、あれを止める方法を教えろ」

 

思った私は、一旦、この話題を打ち切って、本筋に戻してやることとした。凛とゴウトの視線も自然と言峰と私の二者に集中する。警戒のみだった視線の重苦しい圧は、徐々に期待を含んだ柔らかいものへと変化してゆき……

 

「いや、もうわからなくなった」

「――なに?」

 

そして戻ってきた答えに、私は困惑した。

 

「言峰――」

「そう怒るな。――貴様と合流する直前までは、確かに救う方法を知っていたとも。だが、わからなくなったのだ。黄幡の儀式により、ライドウという強力な存在を祭り上げることで生み出された自然神フェンリルは、やがて角笛の音が時を告げたその後すぐさま神話の狼、フェンリルの下顎となり、地下世界を喰らい尽くす顎とする。また、サコとかいう女が捕縛した方のフェンリルは、もう一つの世界の世界樹の迷宮へと放り込み、蠱毒の儀式によって速やかに狼の上顎となり、残りのもう半分を飲み込み、やがてスルトの炎が世界を焼き尽くしたのち、シンによって世界は再建される――、そういう計画だった」

「だった……」

「だが、その先にあるのは、絶対なる力を持つ神の庇護下でヌクヌクと過ごしながら、誰もが満足のうちに死んでゆくなどという、他者の苦痛や傷、醜いもの喜びとする私にとって、まさに地獄の様な光景が続く未来。――、ただ楽に過ごせるだけなどという、そんなくだらない世界、私は断じて認めない。楽園はこの世にないからこそ、尊き楽園なのだ。だからそんなくだらぬ思想を実現しようとする愚か者共の計画を、この世界を救うことにご執心な貴様を使ってぶち壊してやろうと考え、ついでに世界を救うなどというくだらぬ片棒を担がされる事となる憂さ晴らしの代わりに、おそらくは貴様にとって楽園となる世界を作る計画を自らの手でぶち壊したと言う事実を貴様に突きつけ、貴様を弄って遊ぼうと思っていたわけなのだが――、残念、それは叶わなかった」

 

言峰は大して残念ではなさそうな顔でそんなとんでもない台詞をさらりと吐いた。

 

「――――、ライドウがフェンリルではなくライカンスロープとなり、暴れ出す。そんな未来を私は知らない。つまりライドウがそうなった時点で、私の知識はあまり役に立たぬものへと変貌したのだ。――だが、何、案ずることはない。今となっては、私などよりもよほど貴様の方が世界を救う方法や、ライドウを元に戻す方法を知っているはずだ」

「――私が?」

 

いきなり話をふられた私は、困惑した。その場の視線が集中するのがわかる。言峰に世界を救う方法を聞いた時よりも期待が高まっている、というのを、肌で感じていた。奴よりも私を信頼してくれる気持ちはありがたいし、わからないでもないが、そうは言われてもわからないものはわからないのだ。

 

「先程、こちらに来る前の問答の折に言っただろう? 世界は、人の集合無意識は、真に答えを求めているものに対しては、求める答えをその個人の無意識のうちに送り込んで来る。つまりは、貴様が真に他人を、世界を救いたいと願っているのであれば、この場面においてどのように動けばよいのか、という答えは、自ずと浮かび上がって来るだろう」

「意味が――」

 

わからない。そう言いかけて。瞬間、頭に稲光がはしった。脳の内部より生じたそれは、あっという間に目の内側から外側にまで飛び出て、私の意識をある地点へと誘導した。

 

――あれは

 

ふらふらとそこへと近づく。その行為に私の意識は介在していなかった。私はただ、私の中から私の行為を眺めているだけ。やがて薄く氷の膜が張った地面の上、幽鬼の様に進んだ私は、未だにライドウがばらまく土埃の中から、銀色の管を見つけだす。

 

「これは――」

『そ、それは、ライドウの悪魔召喚管!――そうか、なるほど! ライドウに憑いている悪魔だけを調伏して捕縛し、封印しようというのだな、エミヤ!』

「いや、私は」

 

自分でも事情がよくつかめていないのだ、と釈明をしようとしても、希望を見出したゴウトは身を乗り出し気味に食いついてきて話を聞いてくれそうにない。

 

『神道系の修行を行なったものでなければまともに管を取り扱うこと、すなわち、悪魔召喚術を使用する事など出来んが、それでも魔力のあるものが用いたのなら、管は、悪魔の情報とマグネタイトを管の中に封じこめる程度の道具にはなってくれる! 再召喚を考えないのであれば、確かに有効な悪魔封印具ではある!』

「――そうか」

 

だから私は一旦彼の説得を諦めて、彼の話に乗ることにした。

 

『だが、エミヤ。お主は魂の選り分けができるのか? ライドウは今、人面瘡の様に和合とまでは行かずとも、魂にへばりついて取り込まれている。魂同士が接してしまった奴とライドウとの境界を探り、魂と魂の境界を定め、両者を引き剥がすというのは、仏陀や泰山府君レベルとまではいかなくとも、相応の呪術の腕前がないとできない技だが――』

「いや。残念だが、私にはできない。だが、……」

 

私は魔術使いで、使えるのも剣に特化した魔術だけ。凛はこの世の全ての表属性の魔術は使えるが、魂の部類に突っ込む架空の属性を扱うには長けていない。それは彼女の妹分である、桜という少女が得意とする魔術だったと微かな記憶に残っているが、もちろん桜はこの場にいない人物なので頼ることができない。だが、この場において、そうした魂の選り分けといった心霊医療の――、心に巣食った悪霊を払う心得があるものを私はよく知っていた。

 

「言峰綺礼、貴様なら――」

「無論、可能だ。むしろそうした悪霊払いこそが私の本分。適任といって過言ではあるまい」

『――其奴に頼らねばならぬというのか……』

 

ゴウトは助けを求めるかの様に凛へと視線を送るが、当然そんな心得のない彼女は、首を横にふる。ゴウトは言峰を見て、視線をライドウへと移し、そして言峰へと戻し、そして地面へと落とした。言峰はそんなゴウトの懊悩の様子を見て愉しんでいた。

 

『ええい、それしかないというのであれば、腹をくくるしかあるまい! 言峰綺礼!』

「なんだ」

『お主の力を借りたい。ライドウを助けるのに力を貸してしてくれ』

 

そういうと、言峰の足元まで進んでいたゴウトは奴に懇願した。その、震えながらも地面へと擦り付けるくらいの勢いで頭を下ろす様からは、ゴウトがどれほど、ライドウを真剣に助けたいと願っているのかの度合いがわかる様だった。

 

それはとても真摯に他者に救済と手助けを求める訴えであり、私からはとても美しい行為の様に思える。だが、同時にそれは、私と真逆の感性を、他人の不幸を見て喜ぶ奴にとっては、不愉快極まりない行為に映るはずであり、高い確率で断られるのではと思ったが……。

 

「よかろう」

 

しかし、そんな私の心配と懸念とは裏腹に、ゴウトを見下していた言峰は、すんなりと協力に了承の返事を出す。あまりの素直さに、思わずこの男は誰だと思ってしまうくらいには、奴の行動は私にとって不自然極まりないものに映っていた。

 

『そ、そうか! 感謝する!』

 

奴の行動が私にとって不可解に映るのは、奴が私にとって持っていないものを持っていて、私にとって理解できないなにかを理解しているからなのだ。殆ど同じ享年であるはずの奴と私との間には、しかし、大きな差があった。奴と私の視線が違う位置にある。それがひどく、――悔しい。

 

「だが、私一人の力では、今のライドウに心霊医療を施すのは無理だ」

『な、なぜだ!』

「自我を持たぬ者と持つ者を切り離す程度の事、天使マンセマットとなった私にとって容易いことだ。貴様もいったように、ライドウはフェンリルの魂と完全に一体化したわけではなく、人面瘡のように、魂の上に狼の皮を被って狂戦士になっている、という状態だ。だから、そう、そんな悪魔の皮を奴から切り離すだけならば、とても容易いことだ」

『では、なぜ無理と……!?』

「簡単な話だ。荒ぶる神が荒ぶったままの状態での治療はできないということだ。完全に身動きの取れない状態にしろとは言わないが、それでもある程度動きを封じた状態でないと心霊医療による魂の選別という繊細な作業は行えない。多少手荒、かつ魂の分裂、離人症などの精神的後遺症、あるいは身体的欠損などの身体的後遺症が残っても良いというのなら、戦闘の最中無理やり引っぺがしてしまうか、我らの総力を以ってして四肢をもいだのち、というのが最も手早いのだが……」

『それでは元に戻したとしても、ライドウが、ライドウでなくなってしまう!』

「だろうな。だから、奴の身動きを完全に、無傷のままで止める事の出来る方法が必要だ」

『だがあれほどの存在の身動きを止めるというと……、――エミヤ、凛、主らは……』

「ごめん。簡単な行動阻害くらいなら出来るけど、あれを完全に拘束して身動きを止めるとなると、流石に無理」

「――私の魔術は弱者の捕縛や集団の殲滅には向くが、強敵の拘束には向いていない。すまないが期待しないでくれ」

『くっ……』

 

ゴウトは体をその場で器用に足踏みしてぐるぐると回転して視線を彷徨わせたのち、再び私へと縋るような視線を向けてくる。そのような目で見られてもない袖は振れないのだが……

 

――ん?

 

そして彼のその視線の圧力と、そんな彼にしてやれることはないのだという自身の良心の呵責に耐えきれなくなった私が視線を逸らすと、この場所より少し離れたある一点にいた女に目が入った。

 

「ゴウト、あれは?」

『……、ライドウと儂を結界にてこの場に誘導した悪魔『葛の葉』。呪術師の女だ』

「ほう。君と、彼を手玉に取った、ということか。ならば相当の実力の持ち主だな。……しかし彼女はどうしたというのだ?」

 

帝都の守護者達を相手に有利に立ち回ったという凄腕の呪術師の女は、糸の切れた人形のように崩れ落ちた状態で地面に力なく座している。腕は垂れ、手首は顔は伏せられていて表情を見ることすらままならないが、少なくともその様子から彼女がまともな状態でないことだけは理解できた。

 

「分からん。人体から精製したマグネタイト丸薬を用いての無茶な悪魔召喚のツケで悪魔の意志が壊れたのかもしれんし、彼女と契約していた召喚師があの魔物に飲まれた反動でああなったのかもしれんし、あるいは何か目的あってああしているのかもしれんが――」

 

そしてゴウトは猫の体の足で、器用に小石を蹴って、『葛の葉』の方へと飛ばした。すると、宙を放物線を描きながら突き進んだそれは、彼女にぶつかる寸前、何も無い空中で突如として方向を変えて、明後日の方向へと飛んでいった。――結界だ。

 

『外部との干渉を拒む結界をはったまま、一切動こうとしないのでな。一応監視は怠っておらんものの、呪術を使っている節も見えんゆえ、ひとまずは放っておる』

 

なるほど、よく見れば、彼女の辺りだけ砂埃が不自然な軌跡を描いて空白地帯を作り上げている。その力の抜けた格好を見るにほとんど無意識で自己防衛を行なっているだけなのだろうが、それでもそのような結界を張ることのできる辺り、成る程、相当の術者なのだろうことがうかがえる。

 

――干渉を拒む結界……、呪術師……

 

「ふむ、ゴウト。彼女は悪魔だといったな」

『ああ』

「悪魔だというならば、この管に封じ込めて彼女を使役することはできないだろうか?」

 

ゴウトは仰け反らせて驚くと、視線を私、ライドウ、葛の葉の三者の間で行き来させたのち、しかし、顔を顰めて嘆嗟の悔しげな声で述べる。

 

『――なるほど、あの様な外界との接触を拒絶する結界を張る事の出来る力量の持ち主だ。たしかにこの場で最も可能性がライドウをも捕縛する強固な結界を張れる可能性があるだろう。……だが、エミヤよ。それは少しばかり難しい』

「何故だ?」

『先ほども言ったが、あの管は、神道系の術者が修行を重ねたのち、自身の霊力で悪魔を使役する為の補助機材。すなわち、神道系の術者以外が用いたところで、管は単にデタラメな悪魔情報とマグネタイトを保管しておくだけの装置に過ぎないものとなる。例えていうなら、本を文字すら判別できん程バラバラにちぎって、ごみ箱に乱雑に保管する様なものよ。どうやろうと、殆どの場合、まともな復元など期待できん。――見たところ、お主や凛、言峰は、西洋魔術の神秘を取り扱う術者。情報やマグネタイトを管の中に一方的に取り込んだり、あるいはなんとか管のうちに取り込んだ管の中の悪魔の情報を利用して別の悪魔に再構成することは出来ても、目の前の悪魔を元のままの形で呼び出し、その実力を十全に発揮させるというのは難しかろう』

 

ゴウトの言葉をざっとまとめると、専門家以外に管で悪魔の召喚、送還は行えないという事か。類推するに、管は独自言語で書かれたパソコンで、そこに正しく悪魔の情報を保存するには、低級の、きちんとした基礎原理から仕組みを理解しているプログラマがいなければまともな情報の保管は期待できないし、取り出す際にも、知識のある専門家でないと、まともにプログラムは走らず、悪魔はエラーだらけの存在になるという事なのだろう。

 

「では不可能だと?」

『……そうだな。あるいは、知識がなくとも道具の力を引き出せる者でもおれば話は別なのだろうが、な』

 

――知識が無くとも道具の力を引き出す――、そんな単語を私はどこかで……

 

「――ゴウト。理屈などすっ飛ばして、道具の力を引き出せるものがいれば、今の話はあながち不可能ではないのだな?」

『それはそうだが、エミヤ、それはどういう……?』

「スキルという魔術じみた技術が当たり前のようにある世界では、道具の力を引き出す事を専門とした職業についている人間がいた。ツールマスターと呼ばれる彼女たちは、通常の戦闘力に劣る分、フォーススキルとやらを用いる事で、通常より三倍もの力を引き出す事を可能としていた」

 

私は響へと視線を送る。響は相変わらず壊れた人形の様な状態で、シンの遺骸を撫でていた。

 

『……まさか』

 

同じように響を見たゴウトの瞳孔が開く。私が視線を移した意味のするところを理解したようで、ゴウトは驚きを露わに隠そうともしないまま、呟きを漏らした。

 

「そうだ。響。彼女こそがそのツールマスターと呼ばれる職業の人物であり、おそらくこの場で唯一、この管の力を正しく発揮できる可能性のある人物だ」

 

 

「だが彼女は……」

「……」

 

ゴウトが無言のうちに言わんとしていることは、私にも理解できた。響の頬に残る涙痕は、すでに乾いている。それは、涙が彼女の心の裡から様々な感情を流し尽くした証に見えた。そうして魂の重みを、生きる寄る辺を失った今の彼女は、世界の命運などという重荷を背負わせるには、あまりに頼りなく、それどころか、息を吹きかけただけでどこまでも飛んでいってしまいそうだった。

 

生きていくのに必要なものを全て失ってしまった、とでもいうようなその蒼白の魂抜け落ちた表情に私は見覚えがあった。当然だ。第四次聖杯戦争の大火災で私がそれまでの家族や記憶や全てを失った時に、私や、私と同じく戦火で全てを失った子供達が、その際、面に浮かべていたものとまるで同じなのだから、見紛おう筈もない。

 

彼女はまさに、今、そんな、少し前まであった理想の状態と今の目の前の現実との格差を受け入れる事が出来ず、幻想と現実の狭間で揺蕩う儚い存在に成り果てていた。

 

私は、そんな彼女に何かを強いるという事は出来ないと思った。全てを失った折、絶望の淵で停滞したくなる気持ちはよくわかる。私は今、かつての私と同じ気分を味わっているのだろう彼女に対し、同情していた。おそらくゴウトも、そして凛も似たような気分であるに違いない。彼女に憐憫の視線を送ったままなんと声をかけていいのかわからないまま戸惑っているのだ。

 

――だが

 

「ふん。世界が滅びかけているというのに、なんとも悠長な事だ」

 

そんな哀切の空気をいとも容易く、言峰の不機嫌そうな正論が引き裂いた。奴は私から管を奪い取り、その後ズカズカと前に響の前まで突き進むと、それを差し出して言う。

 

「話は聞いていたな」

「……」

「立て、小娘。貴様に求められた役割を果たすがいい」

「……」

 

一人の少女の気持ちと、世界の命運。そんなもの、誰がどう考えても、後者の方が優先させるべき事項だ。暗に世界を救えという意味を含んでいる言峰の言葉に、しかし響はやはり無反応だった。響は動かない。そして、言峰もまた、手を差し出したまま、動かない。

 

「確かシン、とか言ったか」

「……」

 

シンという名前が出た事で、ぴくり、と彼女の体が反応した。彼女の関心を買う言葉は、やはり今しがた失った男に関する言葉だけであるようだった。言峰は響のそんな反応を静かに唇の端を歪ませると、言葉を続ける。

 

「なるほど、その男の望みのために、見送れば奴の魂が満たされる反面、自らの魂が引き裂かれると知りながら、貴様は愛しているからこそ、あえてその男を見送った」

「……」

 

だが響は動かない。――――――否、よく見れば、彼女は微かに全身を細かく震えさせていた。言峰の言葉が彼女の停止した心を無理やり再動させたのだ。それは首根っこを掴んで無理やり立ち上がらせるかのような気遣いのまるでない乱雑な行為であったが、誰も諌める言葉を発する事が出来なかった。世界が滅びかけ、帝都が破壊されつつある今この瞬間、必要なのは、思いやりではなく、厳しくも正しく、真実を告げる、折れた心を奮い立たせる言葉と、言峰の手荒な行為が必要であることを、誰もが理解していたからだ。

 

「貴様は自身の気持ちを全て押し殺して、奴の想いを成就させるため、シンを見送った。成る程、それは尊い行為だ。美しい思いやりだ。素晴らしい献身と自己犠牲だ」

 

言葉を紡ぐ言峰の顔、眉尻が微かに歪む。

 

「――だが、貴様がそうして足を止めるというのであれば、シンとかいう男も無駄死にだな」

 

 

「ちょ……、綺礼、アンタ……!」

 

言峰の述べた一切の手心ない言葉は、今の事態を理解しているだろう凛でも放っておくことの出来なかったものであるようで、彼女は怒髪天を吐く勢いで怒りの感情をあらわにすると、迷わず響らの方へと近寄ろうとする。

 

「待て、凛!」

 

私はそんな彼女の肩を強く掴んで、それを引き止めた。凛の憮然とした顔がこちらに向けられる。噴出のタイミングをずらされた怒りの感情は、タイミングを逸しさせた私に対する抗議の成分へと変化し、彼女の寄せられた眉目から発せられる鋭い視線が私の眉間を貫いた。

 

「――アーチャー、どう言うつもり?」

 

言葉には一切遊びがない。制止の理由が気に食わなかったら、すぐにでも私の手を振り払い、飛び出して言峰綺礼をぶっ飛ばすと、態度が告げていた。ああ、わかる。私だって出来る事なら、絶望のどん底に沈んだ人間の傷を増やすような所業を見過ごしたくなどない。けれど。

 

「――どれだけ傷が痛かろうと、向き合わないまま放置していれば、大きな膿となる。傷ついた本人の為を思うなら、どれだけ見た目痛ましかろうと、どれだけ恨まれることになろうと、すぐに傷を切開して怪我の処置をした方がいい。傷が癖になり、粉瘤が如きものとなれば、自分でも気付かないうちに過去の傷はその膿み具合は悪化して、やがて全身を捕縛する呪いに変わる。まるで感染症だ。――私はつい先ほど、それを嫌という程思い知った」

「――」

「言峰綺礼の言い方は思い遣りで修飾されておらず、容赦がない。だが、その分、即効性があり、心に響く。自分の生きる意味すら見失いかけている、心臓の鼓動が今にも停止してしまいそうな人を相手にするなら、相応の衝撃が必要だ。――、私には力があって、今にも溺れそうな人の身を救い上げることが出来る。だが、今の私には人の心を救うことが出来ない。力がない人の、今にも折れてしまいそうな人の事を救えるのは、力なき人の感情の機敏を、そんな人の心の弱いところを理解し、擽り、唆し、感情を動かすことが出来るのは、そんな他人の弱い部分を見抜いて、満足させる方法を理解し、実行し、当人に一旦希望を与え、そして後に、それらを奪い、絶望の淵に突き落とすという、趣味の悪い事を繰り返してきた言峰綺礼くらいなものだろう」

「――……」

「それは心の強い君では、すぐに出来ないことだ。どのような傷であっても、自分で気にしないと決めて進むことのできる、世界は自分のものと豪語出来る君だからこそ、無理だ。もちろん時間をかければ別だろうが、今はそんな時間がない。――、だから今は、あの男に任せよう。彼女の心が完全に死んでしまわないうちに傷を切り刻み、悪い部分を取り除き、心臓の鼓動を激しく脈動させ、精神を奮い立たせる事の出来る人間は、今この瞬間、この場において、神父として他人の悩みを聞き続け、他人の傷を切開し、揺り動かして遊び続けてきた奴以外に存在しないのだから」

 

 

「――」

 

響はゆっくりと面をあげる。精も魂も涙を流すに費やして身体中の水分が枯れてしまったとでもいうかのように乾いた顔面の上、言峰を見つめる視線だけが鋭く精気に満ちていた。

 

「憎いか。悔しいか。想い人が悪く言われるのなど聞きたくもない、と。お前なんかに私の、あの人の、何がわかるのか、とそう言いたいのか?」

「――」

 

響の視線の圧が増した。響はまっすぐ言峰を見つめたまま視線を動かさない。

 

「わかるとも。シンとやらはお前に何かを託していったという。そしてその何かは、戦闘狂であったというシンの気質を考えるに、戦いに関する事項で、ならばおそらく、目の前の敵を、自分の想いを引き継いだお前に倒してほしい、というその程度のものなのだろう」

「――違う」

 

言峰の推測を否定して、シンの遺骸を丁寧に地面へと下ろしてゆらりと幽鬼のように立ち上がった響は、キッと鋭い視線を言峰に向けると、怒りの灯った瞳をたずさえて、言峰綺礼と対峙した。

 

「――違う。シンが私に託していったものはそんなものじゃない……」

「違う? 何が違うというのかね? 世界の命運をかけた戦いにおいて、最後の最後まで自己の満足を優先した男が他人に託すなんていう願いは、大抵所詮、その程度のものだ。しかし、そんな男の小さな自己満足すらも貴様は受け取らず、そうして自分の世界に閉じこもって果たしてやろうとしないのだから、成る程、やはりシンという男は、無駄に、無意味に、世界にとって何の意味もなく死んだのだといっても過言ではあるまい」

「――違う!」

 

響はそして彼女にとって的外れな事ばかりを言う、まるでさも全てを理解したような言葉でシンと響の思いを語ってみせる言峰の言葉を、嘘をさも真実のように騙るなと、大きな声で、否定し、叫んだ。

 

「違う! シンは! あの人は――!」

「叫ぶ元気があるか。私を否定する気力と体力が残っていたのか。――そして、そうであるのに、何もしないなどという選択を取ろうとしたのか。であるならば、やはりシンとやらは無駄死にといっても過言ではあるまい。貴様は、奴のように、戦って死のうとしなかったのだから。奴の死は貴様に、何の傷も残して逝かなかった、ということになる」

「――っ!」

「――違うと。そう主張したいのならば立ち上がって私の口を閉じるために行動するがいい。気に食わないというなら憎悪を糧に立ち上がり、行為を以ってして私の言っている事は何一つ正しくなんかないと、シンとやらは無駄死にではなく、なにかしら世界の役に立って死んだのだ、貴様に何か託して逝ったのだと証明してみせろ。少なくとも、あそこにいる衛宮の小倅は、極めて不愉快ながらも、かつて、そうやって養父の思想を受け継いだ後、私の言葉を否定して、叩き潰して、自らの中で結論を出し、世界に己の存在を刻みつけて逝ったぞ。――もっとも、今では、揺れ動く感情に振り回されて無様を晒しているがな」

「――貸してください」

 

響は差し出されていた言峰の手から乱暴に管を奪い取ると、決意を秘めた瞳で葛の葉の前まで突き進む。人形のようだった響は、今なお人形のような姿を晒す葛の葉と対峙する。はたから見ているとその図は、つい先ほどの言峰綺礼と響の対峙する姿そのもので、なんとも皮肉な光景のように見えた。

 

やがて響はいずこから鏡を取り出して胸元に飾ると、結った紐が解けないように固く結びあげ、ゴウトへと話しかけることもなく、管を構えて大きく息を飲む。そして。

 

「――取り次ぎ給え」

 

口から飛び出した言葉は、先程まで失意の底にてうなだれていた彼女が発したとは思えないほどに、はっきりとした迷いのない言葉だった。

 

「掛けまくも畏き、伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に、生り坐せる祓戸の大神等諸諸の禍事、罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を、聞こし食せと恐み恐みも白す――」

 

次いで、吐き出された息と共に飛び出してきたのは、長い、祈願のための、ある宗教に伝わる言葉の羅列だった。言葉には一切のよどみや迷いがなく、まるでプロフェッショナルの魔術師が行っているかのような迫力があった。その光景に、私や凛はもちろん、特にゴウトが目が飛び出したかと幻視できそうなほどをひん剥いてさらなる驚きを露わにした。

 

『ばかな……、なぜ彼女が祓詞を……』

 

響が口にしているのは、神道における祓詞と呼ばれる神事の儀式の前に唱えられる呪文。祓の宗教とも呼ばれる神道において、その言葉の群は、神に奏上すればあらゆる罪や穢れ、厄を落とす事の出来る、最も強力な祓の言霊だ。

 

『彼女は向こう側の住人で、素人ではないのか!?』

 

一応、一般の場でもよく唱えられるし、神棚がある家では毎朝唱えるものがいるほどには浸透している呪文ではある。だが、とはいえ、神道の知識を何も持たぬ筈の響がいきなりそのような言葉を口にし、さらには、韻も、音律も完全なもので行ったのだから、これは驚くべき事態だ。ゴウトの驚愕もわかると言うものである。

 

「いや、そのはずだが……」

『では何故!?』

「貴様もこちら側の人間であるなら、あのような状態の人間を見たことがないわけではあるまい」

 

混乱するゴウトを諭すように話しかけてきたのは、彼女をそのような状態に追い込んだ言峰という人物、その人だった。奴はこの場にてただ一人、平然と、つまらない事態を眺めるかのように、涼しい視線をして、祓詞を紡ぎ続ける彼女の様子を見守っていた。

 

「死を望みつつ、それでも想い人の願いを叶えるためには、生きて存続させた社会の中で抗い続けるしかないと悟った彼女は今、この事態を打破したいと無心に願い、祈っている。生と死の境界にいる者の真剣な祈りは、人類の集合無意識という、境界の向こう側にいる存在に届きうる。それらは彼女の必死な生きたいという願いに呼応して、神託という形で彼女に解決の手段を与えたのだ。いわゆる、トランスだな。つまり今彼女は、自らの体を依り代に、神との交信を行い、自らの、周囲の願いを神――この場合は悪魔か――に伝える巫女になっている、というわけだ」

「――」

 

彼女の祓詞に応じて悪魔が顔を上げた。葛の葉から、瞳の奥にいかなる神が宿っているのか目利きしてやろうかと言わんばかりの視線が響へと向けられ、葛の葉と響との視線を目合する。やがてみとのまぐわいにも似た見合いをどちらからともなく終えると、悪魔『葛の葉』は言葉を発した。

 

「貴方は何故私の力を求めるのですか?」

 

葛の葉は静かに尋ねる。葛の葉の問いかける言葉には、響が嘘偽りの言葉を返すようであれば、即座に交渉が打ち切られてしまいそうな、そんな張り詰めた雰囲気があった。まるで乾いた蜘蛛の糸の上にいるような気分だ。

 

「それがあの人の望みだからです」

 

だが響はそんなか細い糸のだろうが知ったことではないと言わんばかりに、迷わず答えた。葛の葉は、そんな捨て身の響に慈しむような、それでいて哀れむような、視線を返した。ライカンスロープと化したライドウが帝都を破砕音の間隙を通るようにして、葛の葉は言う。

 

「男は扇を置いていってはくれなかったのでしょう? 身勝手な男のことなど、朧月夜の儚き思い出として夢幻の中に忘れてしまえば楽になりますよ?」

 

古風な言い回しをするのは、彼女が古い神霊に属しているからだろう。交通網通信網が発達していなかった時代、一夜を共にした男女は、互いの存在が人恋しさが生み出した夢幻でなかった事の証明として、互いの扇を交換し合う習慣があった。それになぞらえ、葛の葉はシンのことなど忘れてしまうのが、響にとって最も楽な生き方だと諭すように告げたのだ。

 

「シンは扇の代わりに、刀を託していってくれました」

 

しかし響は、それは確かに楽な生き方かもしれないけれど、シンがいたと言う証明は確かにここにあって、そんな彼を忘れることなどできないと、誇らしげにそんな生き方を響は凛然と拒絶する。

 

「太刀。ならば確かにそれは秋扇/飽き扇でないのでしょう。ですが、枕元に置かれたのが扇ではなく願いを断つ刃であるというならば、それはどうか自分を追いかけて淵なき虚無の近江路に迷い込んでくれるなという彼なりの思い遣りなのでは?」

「――それは違うと思います」

「違う?」

「ええ。そういう見方もあるかもしれません。けどその解釈は、あまりに夢と救いがない。――、私はこの太刀と痛みが無いと、もう自分が自分だと思えません。私は彼を愛していて、彼は私を求めてくれたから、だから私は、この痛みを抱えていきたいと思います」

「愛していた、ですか? 愛している、ではなく?」

「はい。そしてそれは、つい先ほど恋に戻ってしまいましたから――」

「――」

 

会話のうち、どの言葉が葛の葉の琴線を繁く動かしたのかはわからない。しかし、響が紡ぎ、縒り合わせた言葉は、確かに葛の葉の心を打ったらしく、彼女は立ち上がり、穏やかに、嫋やかな笑み浮かべてみせると、自身の周囲に貼っていた結界を消した。

 

結界が雲霞の消えるが如く霧散した途端、葛の葉の周囲に空気が黄金色に輝く。空気は異界の暗がりに太陽の明けの色にも似た眩い光が生じ、やがて外界との接触をたち、岩戸に閉じこもっていた葛の葉は、再び隔離された場所から世俗へと姿を現した。

 

「名は?」

「響です」

「響。内外の風気僅かに発すれば、必ず響くを名付けて声といふなり。声とは響きが』本体であり、字は名の表現であり、それは必ず、本質である大日如来を現している。五大皆響有。十界具言語。六塵悉文字。法身是実相。なるほど、私たちの出会いは、密教と空海と大日如来の縁に基づいた、運命の出会いでしたか」

「は、はぁ……?」

「では響。――管を」

「……、はい」

 

彼女は自ら進んで、響に悪魔封印の管を差し出すように告げると、管の縁をスライドさせて管の内部を露わにさせた。管が目の前の悪魔の情報とマグネタイトを吸い込もうとするのと、葛の葉のその姿が陽炎のように薄れて揺らぐのは同時だった。やがて葛の葉の姿が完全に消えると、響の手中にある管は再度スライドし、元の通りの状態に戻る。そして。

 

「あ――」

 

葛の葉を収容した管は、すぐさまカタカタと震えだす。解放を望んでいるのだろう。響はすぐさまその訴えに応じて、管をスライドさせると、一端の悪魔召喚師のように、叫んだ。

 

「召喚!」

 

声とともに管の中から悪魔が飛び出す。閃爍した緑色の輝きが鮮やかに周囲の空間へと広がると、管のスライドした付近から、再構成されたマグネタイトの塊が、太陽の中から飛び出るコロナが飛び出るかのように、ゆらりと飛び出してやがて女の姿を形作っていく。

 

太陽から零れ落ちたかのような桃色の髪の毛。解けば腰まで達しそうな髪を括るは、青い薔薇のように儚く薄いリボン。まだ少女然とした体を隠す高貴な青色の着物は、しかし隠された神秘を見せびらかすかのように肩口がバッサリと切り取られており、胸部、腹部を隠す衣服と、両腕の振袖部分が完全に分離していた。また、瑞々しい太ももを見せつけるかの着物の下部は切り取られ、代わりに滑らかな足袋が膝上までを長く覆い隠している。また、そんな淫靡な格好をした少女の頭部と尻部には、舎利の色に似た玉を抱えているという、聖なる狐の耳と尻尾が生えていた。

 

やがて響に召喚された彼女は、閉じていた目蓋を開くと、目の前で管を構える少女を見て、先ほどまでとは打って変わって、純粋な、向日葵のような少女然とした明るい笑みを浮かべると、目の前にいる召喚主へと飛びついた。

 

「わっ……!」

「超絶美少女狐、葛の葉、あらため、玉藻! 相手がどんな姿になろうが気にせず恋して愛しぬいた強靭無敵なイケ魂乙女の純粋さに心打たれて、お力になるべくただいま参上です!」

 

唐突に抱きつかれた響は、おそらく先ほどまでとはまるで態度の異なる悪魔の様子に混乱しているのだろう、あたふたとした様子だ。

 

「え、えーっと、く、葛の葉さん?」

「いえ。安倍清明がらみの縁用いての召喚であったが故に葛の葉としてこの世に生まれ落ちましたが、私は今、アスカの鏡と神道の術式、そして響の純粋な想いにより、人に仇なすそんざいである妖狐としてではなく、古くは漢王朝、かつて人の世を守った霊獣九尾狐の力の一つとして、変生いたしました。ですから、どうぞ、玉藻、と。そうおよびください」

「――、ええと、じゃあ……、――よろしくお願いします、玉藻」

「はい! よくできました! あーん、なんて素直ないい子なんでしょう! これが誰かに恋してるイケ魂じゃなかったら即座に攫って挙式してハネムーンなのに! 」

「あ、あは、あははははは……」

 

響は目の前の人物が見せる真剣と遊びの態度の落差に思いっきり混乱しているらしく、乾いた笑いを漏らすばかりだった。

 

 

「ゴウト」

 

一方、目の前で起きた出来事を私たちが観察していると、響が葛の葉、改め、玉藻を再召喚したのを果たしたあたりで、凛は私の手から残った管をひったくると、ゴウトの方を向いて、凛は管を左右に揺らしながら尋ねた。

 

『なんだ、凛』

「貴方、さっき、管の中の悪魔の情報とマグネタイトを使って、別の悪魔として再召喚することが可能って言っていたわよね?」

 

その言葉で、私も、ゴウトも、彼女がなぜそのような質問をしたのか、今から何をしようと考えているのか、理解した。

 

『できなくもない。その管の中に込められているのは、悪魔のクーフーリンの情報とマグネタイト。ライドウでなければ正しくそれはクーフーリンの姿を取らないが、その管の中身がクーフーリンの情報とマグネタイトである事に変わりはない。だから、その管に秘められたマグネタイトを使って再召喚を行えば、一応、理屈の上では、クーフーリンを呼び出すことができるだろう』

「――ふむ」

「ほう、クーフーリン」

「あら、管の悪魔はクーフーリンなの」

 

ゴウトの口から飛び出た名前に、私と言峰、凛が反応する。クーフーリン。魔槍ゲイボルグを中心とした槍術を極めたうえ、原初のルーン魔術をも収めている、戦士にして、ドルイドでもある、ケルトの大英雄にして、第五次聖杯戦争においてランサーとして召喚され、言峰綺礼の手駒として動き、数々の場面において私たちの前に現れては、ある時は味方、ある時は敵として戦った、私たちにとって縁の深い相手。性格はきわめて単純かつ、快活で、昨日、味方の友であったとしても、今日敵に回ったのなら迷いなく殺せる、自らの信念に背くものを嫌いと正直に言う、そんな、純粋な戦士然としたわかりやすい男。

 

「ああ。だが、――どうだろうか。その管に宿る悪魔クーフーリンは誇り高き悪魔で、ライドウの忠実なしもべ。凛が再召喚できたとしても、そうそう簡単に主人の鞍替え要求に応じるとは思えんが……」

 

私たち三者三様の反応をどう解釈したのか、怪訝そうな顔をしながらもそう続けるゴウトは、そのまま言葉を続けて自らの懸念を語った。

 

「えぇ、でも、まぁ、それなら大丈夫でしょ」

 

だが、凛はそんなゴウトの心配を軽く受け流すと、管を見て、ニヤリと笑う。

 

『なに?』

「ここに、クーフーリンと縁の深い存在が三人もいるのよ? 一人は彼の元使役者で彼に殺された人物。一人は過去で彼に一度心臓を貫かれた人物で、未来には数度、彼と殺しあった仲。一人は、クーフーリンと、マスターとして対峙して、そして協力者として一緒にアーチャーと戦った人間なんだから。それに私が行う術式でなら、多分、悪魔クーフーリンではなく、英霊クーフーリンとして召喚されるはずよ」

『?、??』

 

ゴウトは訳がわからないといった体で、首をひねり、傾げ、ぐるぐると振り回した。凛はそれを見ると、いたずらっぽく笑った。

 

「まぁ、とにかく期待はできるってことよ。ライドウを助けるための戦力が増えるんだから、文句はないでしょう?」

『あ、ああ』

 

ゴウトは相変わらず理解不能の四文字を顔に貼り付けていたが、それでも、凛の申し出がライドウという、彼にとってかけがえのない存在を救う一手となる事だけは真に理解したらしく、彼は凛の申出に許可を出す。凛はゴウトの戸惑う様子を見て、なんともしてやったりとの笑みを深めた。

 

「じゃあ、やるわよ。アーチャー! 綺礼! ちょっとこっちに来なさい!」

 

呼びかけには、迷いがなかった。

 

「ああ」

「わかった」

 

だからだろう、私と言峰は、迷いなく彼女の指示に従い、彼女の側へと近寄った。

 

 

「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 

薄暗闇の中、凛の通る声が銀座の大通りに響く。破砕音をすり抜けるようにして届く声が奏上するのは、かつてこの身がサーヴァントとして使役された折に聞いた、世に名高き英雄を呼び寄せ、自らのパートナーとして使役させていただきたいと請い願うための呪文だ。

 

地面の上に真円と六芒、三角などのいくつかの意味ある図形と呪文を組み合わせて、我々の血を混ぜて描かれた魔法陣の上で、銀の管が開かれる。神道式の手順に則ったものでなく、西洋使い魔を召喚する際の手順に沿って乱雑にスライドされた管からは、自らの召喚が正しい使役者でない事を拒むかのように、内部のマグネタイトと悪魔の情報が四方八方上方にまで飛び散り、しかし、魔法陣の外に飛び出る事が出来ず、魔法陣の内部で荒々しく飛び回る。

 

「閉じよ/みたせ。閉じよ/みたせ。閉じよ/みたせ。閉じよ/みたせ。閉じよ/みたせ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 

抵抗し、魔法陣の空間の中で暴れまわっていたマグネタイトの奔流がピタリと収まる。ようやくマグネタイトの持つ悪魔の情報と縁と誓約が、ライドウの住む世界のモノから、凛や私たちの住む世界の法則のものに切り替わったのだ。

 

ライドウの内気魔力/マナであったマグネタイトはやがて、外気魔力/オドとなり、凛の起動した魔術回路がそれらを収集し、彼女は悪魔のマグネタイトを自らの身の内へと取り込んで行く。

 

「―――――Anfang/セット、――――――――告げる」

 

凛が苦しげに言葉を発して、次の工程へと移行した。苦しげなのは、当然であるとは思う。凛は今、聖杯という英霊召喚のサポートをしてくれる存在の力を借りる事なく、単独で英霊を召喚しようとしているのだ。

 

聖杯の力を借りずに、生身だけで英霊を召喚する。それは状態を多少大げさに例えていうなら、機械の力を借りる事なく、自動車の果たす運動と同じ成果を自らの身体のみで得ようとするようなものだ。凛は今、そんな奇跡を成し遂げるために、自らの体を、エンジン、燃料タンク、アクセル、ブレーキ、信号を伝える電気回路の代理へと変換し、召喚の儀を行なっている。おそらくこれほどの奇跡の所業は、一流と呼ばれる魔術師の中でも、さらに指折りの人間にしかなし得ないものであり、それは、私がかつて彼女に召喚された頃の若かりし凛であるならば、このような奇跡を成し遂げることは出来なかっただろう。

 

しかし今、そんな奇跡の所業を彼女は実現する。それは凛が魔術というものに対して、生涯、どれだけ真剣に、真正面から取り組んできたのかが一目でわかる光景だった。長い道のりをしっかりと歩んできたもののみが持つ、そんな流麗な技術と、老獪な手際と、確かな強かさを、見た目があの頃とまるで変わらない彼女は持っていた。

 

――ああ

 

凛は成長していた。かつて私と同じ時を生きた彼女は、私とは格段に違う存在へとなっていた。彼女は前に進んでいる。だがそんな彼女と同じ時を、あるいはそれ以上の時を過ごしたはずの私は、しかし未だ、かつての悩みと同じか、あるいはそれとは別の場所かもしれないが、ただどこかでぐるぐると軸もなく途方にくれるばかりで、歩みを止めている。

 

――ああ……

 

こんな思いを抱く事が、場違いであることはわかっている。筋も違えば、術理も違う。そんな何もかもが違う状態であることは承知の上で、しかしそれでも、私はこう思わざるを得なかった。

 

――悔しい

 

「――――告げる」

 

――いけない

 

気を取直して、自らに喝を入れなおす。そのようなこと、今考えている時では無い。魔法陣の中に緊迫した空気が走った。凛を中心として、私と言峰は、対極の位置に配されている。私、凛、言峰には、それぞれ、第五次聖杯戦争において、クーフーリンと縁のある存在であり、だからこそ、クーフーリン召喚の触媒として私と言峰は陣の内部で、マグネタイトの奔流に肌を擽られながら、ただじっと佇んでいる。

 

「汝の身は我が下に、我が命運は汝の槍に。我ら三名の縁と悪魔の管に秘められし縁を寄るベとし、この意、この理に従うならば応えよ」

 

凛は目を閉じた。魔法陣の中で荒れ狂う、マグネタイトに、第五要素という存在に目を潰されないようにするためだ。

 

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、悪魔の管に秘められしマグネタイトより変生し、来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 

凛の叫びに呼応するかのように、魔法陣の内部から眩い光が発せられる。そして――

 

 

魔法陣の中心、荒れ狂うマグネタイトが収束したのち、凛より少し離れた場所に、その男はいた。意志に満ち溢れた鋭い眼光。一目で彼の性格が理解できる、さっぱりとした顔面。一目で優れた戦士とわかるしなやかな体躯。そんな体を包み込むのは、黒いライダースーツのような装束だ。装束は、かつて第五次聖杯戦争において私と戦った時は異なっていた。体の稼働を邪魔しないように、肩部などの一部以外に鎧の取り付けられていない装束の上には、グラズヘイムで見たような、青く発行する光の線が体の筋に沿って走っており、全身を鮮やかに照らしあげている。額が完全に露わになる程に前髪をあげ油で固めているのは、髪が視界を遮り、戦闘の妨げにならないようにとの配慮だろう。また、そのように近接戦闘にでありながら、犬のテールのように後ろ髪が長く伸びているあたりが、クーフーリンが優れた呪術師/ドルイドであるという一面を示すかのようだった。

 

「サーヴァント、ランサー、もとい、悪魔クーフーリン。召喚者の願いに応じて参上した」

 

戦場によく通る声が、空間に響き渡る。その声質は、非日常に属する凛が魔法陣の中で発していた凛然とした声とはまた違った、戦場を生業とするものが発する事の出来る、静かながらも、聞き取りやすい、素直な声音だった。

 

「――なんてな。……よう、嬢ちゃん。――、いや、リン。いい女になったな」

 

そして、ついで飛び出したその一言に、肩にのしかかっていた緊張が解けていく思いがした。

 

「ランサー!」

「へっ、まぁ、その呼び方のが聞き慣れてるからそれでいいや」

 

クーフーリン――ランサーはあの時とは違った姿形をしていながら、いつかの時とまるで変わらぬ様子で凛に話しかける。目の前の彼は、ライドウの使役する悪魔ではなく、そんな悪魔を元に、凛の側の理屈と術理で再構成された第五次聖杯戦争の英霊に近しいクーフーリンとして、再構成されてくれたのだ。安堵した私は、一歩を踏み出して奴へと声をかける。

 

「「久しぶりだなランサー」」

 

そして奇しくも私の台詞は、私のかつての怨敵と同時のタイミングとなった。

 

「げっ……!」

 

ランサーはそして自らの身に降ってきた二つの声に顔をしかめる。それが今、魔法陣の中心にいるランサーを中心として、彼の左右横側、魔法陣の対極の縁にいる私と言峰という存在のせいであることは明らかだった。

 

正当な英雄である彼は、真正面からの互いの刃と刃をぶつけあい、存分に己の持つ技術をぶつけ合うという、血の滾るような戦闘と白黒はっきりとした決着のつけかたを好む。対して、私や、言峰は、ランサーである彼自身の誇りを汚す、他人が怒るような言葉を平然と吐き、彼が邪道といような、盤場外での戦術を用いて人心掌握、裏切り、甘言、不意打ちに暗殺といった、あらゆる手段をとる堂々と使って、結果を掠め取る。

 

真っ直ぐな彼にとって、そんな私達は、火と水、氷と炭、熱と水蒸気であり、決して容易に受け入れられる存在では無いに違いない。だからこそ、彼は、そのように顔を歪めたのだ。

 

「おい、リン。こいつら……」

 

そうしてしかめっ面をしたランサーはリンから、彼女の足元の魔法陣、そして、その魔法陣の紋様から、外周円の境界に立っている私たちを眺めると、さすがにルーン魔術を収めた一流の呪術師でもある彼は事情を察したらしく、顔をひどくうんざりとしたものへと変貌させながら、言葉を吐き捨てる。

 

「やっとマスターに恵まれたと思ったら、今度は同僚にこれかよ……」

 

ランサーは自分へと近寄ってきた私と言峰に睨め付ける視線を交互に送る。

 

「まぁ、そういうな」

「気持ちはわかるが、そうも言っていられない事態だ。悪いが手を貸して欲しい」

「あ?」

 

私は腕を伸ばして、人差し指である一点を指し示した。ランサーは私の伸ばした指先に視線を送ると、その伸びた指の先に刀一つで帝都の街を切り壊すライドウの存在を見つけ、ぽかんと口を開いて呆けた顔をしてみせた。そして少しばかり呆けた表情を浮かべていた彼は、しかしすぐさま左右に大きく限界の高さまで口角をあげる、凶暴な犬のような笑みをうかべて、喜色をあらわにした。

 

「あれが敵ってわけか?」

「ライドウと呼ばれる、帝都最強の存在が、悪魔に取り憑かれた状態だ。見ての通り、刀一本で全てを切り裂く、もはや、自然災害といっても過言では無い、暴力の化身だ。――あれを無傷のまま捕縛したい。世界最強の狼男に挑んで、生け捕りにするという難事を達成するために、君の力を借り受けたいのだ」

 

私がランサーに頼んだそれは控えめにも無茶苦茶な要求だった。狼男となったライドウは手にした刀一つで、全ての人造物を破壊する。その一刀は容易に天を裂き、地を裂く。また、手にしている刀が祓魔の剣という、ソロネほどの上級天使であっても平然と切り裂く、英霊や悪魔、人を容易に斬り裂く刃なのだ。

 

そんな攻撃手段を持つ相手は、さらに加えて、アンドロ化したシンという、おそらくは世界樹のある世界において、ほぼ最速の男が一切その動きについていくことが出来なかったという速度を保有している。

 

例えるなら、家屋や自然を破壊し尽くす、台風や嵐の権化のような存在を無傷のまま捕縛したいという、そんなほとんど無茶無謀な願いを――

 

「ああ、いいぜ。あれと戦えるってんなら、協力してやる」

 

ランサーはしかし迷いなく、承諾した。

 

「あの速さ。あの力。あの体幹に、あの迷いのなさ。天分の才を持つ人間が極限まで練り上げた戦いの技術が、体の芯にまで染み付いているあの身のこなし。――いいね。ゾクゾクする。全力で戦って、なお勝機がほとんどなさそうだってぇのは久しぶりだ。大抵は針の穴ほどの勝ち筋が見えてくるってなもんだが、そんな小さな隙間すら殆ど見えねぇ。――なんとも燃えてくるじゃねぇか。こんなに楽しく戦えそうなのは、本当に久しぶりだ」

 

ランサーは心の内側から湧き上がってくるものを抑えきれないとでもいうかのように、全身から殺意と喜色が入り混じった、純粋な戦士の清澄な闘気を発散させ、ライドウを見やった。すると、一町ほども遠く程の位置で暴れていたライドウは、そんなランサーの気概を敏感に察知したようで、破壊の手を止めて、迷いなく自らへと意志を叩きつけてくるランサーの方を見やった。

 

ランサーはそんなライドウの様子を見て、心底嬉しそうに、湧き上がる衝動を抑えきれないとでもいうかのように全身を喜びに震わせると、赤き魔槍ゲイボルグを虚空より取り出して、その穂先を遠くの地にて己を見つけているライドウへと突きつけた。

 

途端、ライドウはランサーめがけて一直線に、飛ぶが如く、自らが破壊した街跡を跳躍しながら迫ってくる。ライカンスロープとなったライドウは、ランサーの純粋な闘気に迷わず応えたのだ。

 

「さらに勘も良ければノリもいい! こりゃまじで最上の大物だ!」

 

ランサーはそれを見て、子供のようにはしゃぎながら、呼応して、ライドウめがけて飛び出して、その場から姿を消した。互いの速度はそれぞれの名に縁があるかのような、雷光と神風。音を置き去りにするほどの神速の動きですぐさま対峙した二人は、そのまま互いの刀と空間を埋め尽くさんばかりの眩い光を発しながら、互いの戦いの為の技術を惜しみなくぶつけ合い出した。

 

「ちょ、ランサー! ――、ああ、もう! アーチャー、綺礼、ゴウト、響、玉藻、行くわよ!」

 

凛は音頭をあげると、暴走気味に突っ込んだランサーを慌てて追いかけ、駆け出す。

 

「アーチャーは弓で、玉藻は呪術で援護! 私と響はサポート、ゴウトはアドバイザー! 綺礼は心霊医療の準備! 良いわね!」

「ああ……わかっ――」

 

――ブォォォォォォォォォォ

 

凛が走りながら出した指示に、誰かの返事が帰る前に角笛の音が鳴り響く。開戦の合図が如きそれは、しかし、世界の終わりを告げるかのような、重苦しい音だった。

 

 

グラズヘイム中央棟、管理室。

 

 

グラズヘイムを襲っていた翼人――天使の軍団を討伐し終えたギルガメッシュとヴィズル、ハイランダーの一同は、グラズヘイムの管理人であるマイクの本体がある管理室へとやって来ていた。グラズヘイムに襲いかかってくる敵を討伐し終えたというのに、部屋の中の空気は酷くどんよりとしており、空気は冷え切っていた。

 

ピエールの死が、ギルガメッシュの、ヴィズルの、クーマの、ハイランダーら一同の胸の裡に様々な負の感情を呼び起こし、彼らはそれぞれの胸の裡に湧き出た感情を処理するため、それぞれの方法で、彼の死を悼んでいたからだ。誰も彼も声をあげる事なく、淡々と、管理室の薄暗い部屋の中、最も入り口から遠い場所にある部屋の奥で、宙に投影された透明なコンソールを操作し、コンソールと同じく空中に投影されているディスプレイの映像を手早く切り替え続けている。

 

そんな折。

 

――ブォォォォォォォォォォ

 

間延びした、しかしはっきりと耳朶を打つ陽気な音色が世界に響き渡った。

 

「何この……」

 

何処かより聞こえてきたその音色は、まるで新たな生命の誕生を祝福するが如く――

 

「これは……」

 

あるいは、物事の終わりに対して、人々が別離の事実に負の感情を抱かず済むようにとの気遣いを伴って――

 

「笛の音?」

 

密閉された空間の中にすら入り込んで来たその音色は、ディスプレイの向こう側に移る世界中のあらゆる場所の空気を振動させ、人々に戦いの時がやって来たことを高らかに宣言した。

 

 

管理室、殆どの面子が笛の音を聞いてポカンとした表情を浮かべる中で、唯一、ギルガメッシュだけが、苛立ち、そして焦燥した表情を浮かべた。

 

「まさかこんなに早く! マイク! 世界に異変は!」

「――新迷宮のあった場所から何かが出現。エトリアの方へと向かっています」

 

ギルガメッシュの声に反応して、マイクが一瞬の沈黙の後、電子音声を返す。マイクはそのたった一瞬の間に、世界中の光景を検討し、そして異変を見つけ出したのだ。

 

「エトリアにだと!?」

 

そしてマイクの述べた、エトリア、という言葉を聞いて真っ先に過剰に反応して見せたのは、ヴィズルだ。彼がそうして冷静の面を外して声を荒げる様に、クーマやハイランダーら一行のメンバーは、驚くタイミングを逸してしまっていた。

 

一同が呆然とした直後、目の前のディスプレイの画面を、ある一枚の映像が覆い尽くす。

 

「――これは」

「狼の……」

「頭?」

「しかし、なんて大きさだ……」

 

空中に投影されたディスプレイの上に映像を見た一同は疑問と驚愕の声をあげた。それはあまりにも現実離れした光景だった。巨大なディスプレイの向こう側、ここから少し離れた新迷宮という施設が存在した場所には、今、黒々とした毛並みをした、その辺の山よりも大きな狼の頭部の上半分が現れ、エトリアに向けて緩々と進んでいる光景が映っている。

 

「ウェ……、気持ち悪りぃ……」

 

映像を見た瞬間、アーサーが舌を出して、上頭部のみ出現した狼に対して嫌悪感を露わにした。そうした彼の態度を責めるものは、この場において誰一人として存在しなかった。半分だけの狼の頭部は、それほどまでにまともな生物の定義から外れていたからだ。

 

まず地上の地面を覆い尽くす巨大な狼の頭部は不定形だ。巨大な狼の目のように見える部分、自然に存在する狼なら鋭い眼光が宿っているその瞳は虚で、視線は虚空を彷徨うばかりで、生気というものが一切感じられない。これなら骸となった生物の屍の方が生き絶えたという事実と腐敗の生々しさがあるぶん、まだ、生き物であると認めてやれるだろう。それほどまでに、狼の形をした巨大な存在には生き物の魂というものが宿っているようには見えなかった。

 

また、そんな無機質な存在を唯一、狼のようであると誤認させてくれる風に靡く黒、茶、緑と入り混じる体毛のように見える外観部分は、よくよく観察してやるとそれは毛でなく、汚泥や砂地、あるいは木々や緑樹の残骸であることに気が付ける。一見して俯瞰視点から観ると、地面を喰らうようにエトリアへと進んでいるように見える狼の頭部的存在は、その実、自らの体と接触した全てを取り込みながら、その頭部の領域を拡大し、狼の頭部のような形を作り上げているものであることがわかる。

 

「フェンリルの上顎か……」

 

ギルガメッシュが呟いた。

 

「なんだよ、それ!」

 

アーサーは即座に反応してギルガメッシュに叫びを返す。その言葉にギルガメッシュはジロリと冷徹の視線を向けた。ギルガメッシュの視線は、王である自らに対しての慇懃無礼な言葉遣いをする輩に対する憤りと、蒙昧無知な人間に対する憐れみと、ただ子供のように感情を撒き散らす輩に対する侮蔑に満ちていた。アーサーはその視線にたじろぐ。自らの視線によりをたじろぐアーサーの姿を見たギルガメッシュは、そんな彼の態度を、そして、そんな態度をとったアーサーに気をかけてしまった自らの矮小さを鼻で傲慢に笑ってみせると、いつものような傲岸不遜な態度で腕を組み、蔑んだ視線をアーサーへと向けた。それはまさに、子供の癇癪には付き合ってられん、と言わんばかりの相手を全力で睥睨する態度だった。

 

「――まぁ、よい。特別に教えてやろう。……あれの名はフェンリル。角笛/ギャラルホルンが吹かれた終焉の時、世界の全てを喰らい尽くす存在にして、その後訪れる世界再誕の折、全ての生命の素材ともなる狼だ」

「――再誕……っ、まさか、もう始まったというのか!?」

 

ギルガメッシュの言葉にサイモンが、眼鏡が反応した。サイモンは眼鏡のずれた様子に気がつく事もなく、白衣が肩から多少ずれ落ちるのを気にもしないという、所作の端々に焦りを露わにさせながら、ディスプレイに映る存在へと視線を向けた。ギルガメッシュはアーサーからサイモンへと視線を移すと、少しばかり感心の視線を送る。

 

「こちらの餓鬼と違ってよく知っているではないか、雑種――、そうとも。笛の音と共に、世界を終焉に導く戦いの時は訪れる。北欧神話における黄昏の時代の直前の時だ」

 

サイモンの言葉に少しばかり気を良くしたギルガメッシュは、訥々と語り出し……。

 

「斧の時代、剣の時代、盾は大いに傷つき、風の時代は終わり、狼の時代が到来する。斧の時代とは、人が自然を切り開いていた時代。剣の時代とは、人が人と争っていた時代。盾が大いに傷つくとは、旧人類の滅亡を示唆し、そして、風の時代とは、人が己の中の醜悪さと争う時代を意味する。そして狼の時代とは文字通り……」

「現れたフェンリルの上顎は空をかすめ、地面を削りながら、炎がフェンリルの胎内から生じ、巨大な蛇、ヨルムンガンドは世界を融かす毒液を大地と天空の全てに吐きながら進撃し、……、そして、笛の音はヴィーグリーズの平野に集結した巨人を討つため、武装した英雄たちもまた、かの平野に集結する。――ラグナロクの始まりを告げる微かな狭間の時代という事か」

 

サイモンに続いてヴィズルがギルガメッシュの言葉を奪ってその後を語る。自らの語りを邪魔をする行為に、ギルガメッシュはギロリと殺意混じりの視線をヴィズルへと向けたが、彼はその常人であれば肝を何度潰されるかわからない視線を平然と見返すと、やがてそれをまるで無視して、別の場所へと意識を移す。

 

「マイク。フェンリルがエトリアへと向かっているというのは本当か?」

「――はい。理由は不明ですし、速度も安定していないため正確な到達時刻を申し上げることは出来ませんが、少なくとも、あと一時間としないうちフェンリルはエトリアに到達し、エトリアの街はフェンリルに呑みこまれてしまうでしょう」

「そんな!?」

 

マイクの冷静な回答に、フレドリカが悲痛な叫び声をあげた。

 

「一時間」

「一時間ですか……」

 

一方、ヴィズルとクーマと、初代エトリアの院長よ、現エトリアの為政者は、唸り声を上げるにとどまり、悩ましげに眉間にしわを寄せ、目蓋を閉じて、思索に耽る姿勢をとった。

 

「――、一時間。今すぐ戻って避難指示を出し、皆をエトリアから避難させるにしても一時間じゃあ、到底足りませんね……。緊急の鐘を鳴らして、エトリアの街に散らばっている人を集めて、事情を説明して、皆を納得をさせて、退避させるならば、少なくともあとその三倍の猶予は欲しい」

 

やがて目を閉じたまま呟いたクーマの言葉に反応して、ヴィズルは閉じていた目蓋を開けて彼の方を見やると、彼の意見に呼応して頷いた。

 

「ああ。数千年の間に拡大した街の規模と、そんな街に散らばっている彼らの事を考えるにそのくらいの時間は必要だろう。――だがクーマ。それは根本的な解決になっていない」

 

ヴィズルの指摘に、クーマは渋面を返した。

 

「それはそうでしょうとも。街を捨てて逃げるだけですからね」

「立ち向かおうとは考えないのか?」

「あれを倒す手段が思い浮かぶなら、そうしても良かったんですがね。あいにくと、私の知識の中には、周囲の地形と同化して、巨大化しながら突き進む化け物相手に、それを完全消滅させることのできる手段というものが無くてですね……。まぁ、おっしゃる通り、苦肉の策ですよ」

 

クーマはヴィズルの苦言を粛々と受けとめ、強く拳を握りしめた。自らの力の無さを認め、それでも最低限、街の為政者という自分の背中に背負い込んだ責任を果たすべくせめて街の人々だけでも助けようとするクーマのその態度をみて、ヴィズルは静かに柔和な笑みを浮かべて見せると、続けてそれを唇を上に釣り上げた不敵な表情へと変させ、そしてディスプレイに映るフェンリルを見上げた。

 

「君がきちんとした為政者でよかった。これで私も安心して役目を果たすことができる」

「――はぁ……?」

 

打って変わって自分を責めていたヴィズルが自分を称賛したという事実に、クーマは小首を傾げて、素っ頓狂で間の抜けた声をあげた。己の背に課せられた責任を果たすことの一体何がそんなにヴィズルの琴線に触れたのかまるで皆目見当もつかないと言った体裁のクーマの態度に、ヴィズルは益々機嫌を良くすると、意識をディスプレイの向こう側にいる存在へと向けた。

 

「マイク。喜ぶといい。君の本懐を果たす時がやってきたぞ」

「――それはどういう意味ですか、ヴィズル」

 

マイクの電子音声は、少しばかり音調と音程がいつもと乱れていた。ヴィズルはマイクの異変から、マイクは自分が今、何を言わんとしているのかを理解しながらもあえて無視したのだという人間臭い挙動をした事に苦笑しながら、こちらもあえてそんな彼の変化に気づかないフリをして、簡潔に答えた。

 

「エトリアを救うためにはまともな手段じゃあ、あの巨大な敵は倒せない。必要なのは少なくともあの巨大な奴の心臓までを木っ端微塵に吹き飛ばせるような戦略兵器だ。――、だから使おう、マイク。過去の人間が未来の人を思って製造した戦略兵器、グングニルを」

 

第二話 終了

 

 



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第三話 破滅への特急列車

第三話 破滅への特急列車

 

一番大切なことは目に見えない

 

サン=テグジュペリ

星の王子様より

 

 

帝都、銀座

 

 

帝都の空。そこに住まう人の気性を表すかのように晴曇雨と様々な顔を見せるそこは、今、生々しいまでの赤色で染め上げられていた。赤。それは情熱を示す燃え上がった色。あるいは銀座が、帝都が、異界と化した今、その地において悪魔と狼男と英雄と人間の戦争において流れる流血と同じ色。

 

そんな赤い光が支配する曇天の下、帝都の空と同じく赤色の外套を纏ったエミヤは、弓を射る。彼の手からには次から次へと矢が投影され、さらに投影された矢は凄まじい技量と強化された弦により、弦が甲高い悲鳴をあげる暇がないほど、次から次へとライカンスロープ――狼男となったライドウへと放たれる。

 

しかし。

 

 

「くそっ」

 

ライドウの行動を邪魔するために自らが放った数本の亜音速の矢が、ライドウにあっさりと切り捨てられ、あるいは、一部を貫通し、矢が刺さったのにもかかわらず完全に無視されたのを見た瞬間、自然と舌打ちと共に悪態が漏れていた。

 

ライカンスロープ、すなわち狼男となったライドウは、元々の凄まじい身体能力に加えて、狼男の伝承にあるような強大な再生能力を兼ね備えているようで、多少の傷を負ったところですぐに回復する。ライドウは本能的にだろう、その利点を活かして、頭部、心臓、急所を貫きそうな、本当に危険な矢以外を完全に無視してしまうのだ。

 

――こんなもの、どうやって生け捕りにしろというのだ!

 

以前よりもはるかに速い速度で湧き上がりそうになる苛つきが脳裏に定着して冷静さを邪魔する要素となる前に、そんな怒りの感情へと使用されかけたエネルギーを思考と行動に回し、強化した弦が勘弁してくれと悲鳴をあげる前に次弾を装填。そして再び――

 

「その隙もらった!」

 

ランサーの神速の域に達した刺突がライドウの心臓を、一切の加減も遠慮もなしに狙うのへ合わせて、音速を超える速度の一矢を放つ。ランサーの刺突は、先ほどまでの、ライドウを無傷で捕縛する旨を一切理解していないかのような一撃であり、私の放った一矢はそんなランサーの闘志と殺意に呼応するかのような、遠慮なしに頭部を狙った一撃だった。

 

だが。

 

「――」

 

ライドウはまず、ランサーの神速の領域に達した不可視の踏み込みに対して、時を止めたかのような光速の踏み込みでランサーの刺突へと身を乗り出して、ついでといわんばかりにあっさりと私の矢を躱し、ランサーの槍の内側の間合いへと自然な体捌きで入り込み、フェンシングの一撃にも似た、しかし優雅さとは程遠い、荒々しい唐竹割りをランサーの脳天へと叩き込もうとした。

 

「チッ、やりやがる」

 

ランサーは間違いなく世界の英雄の中でも三指にはいる腕前の槍兵だ。その神風が如き速度と合わさり、彼の槍兵としての腕前は世界で最強を名乗っても、誰も文句をつけようがない。ランサーは槍の特性を嫌という程知り尽くしている。槍が本来、間合いを取って戦う武器であることも、槍の最大の武器は、その長さを生かした払いにあることも、槍は刺突を躱された直後が最も隙となる事をも知っている。

 

槍兵にとって、間合いを詰められることは死活問題だ。長柄の武器の場合、それを思う存分振り回せない範囲に短い獲物を持つ敵に入り込まれた瞬間、槍は槍ではなく、棒きれとなり、殺傷能力が一気に減衰する。もちろん、巧みに槍術を駆使する世界最高峰の槍兵であるランサーにとって、そんなことは承知の上で、その対策は講じている。

 

ランサーは、自らの間合いに入り込もうとする相手に対して刺突、払い、薙、体捌きを駆使して、迎撃する。敵を間合いに入らせてやるつもりなど毛頭もない。ランサーが最速の槍兵で、最高の技量を持つ槍兵である以上、彼のその間合いに易々と入り込めるものはいない。

 

「ぬぉ!」

 

しかしそんな死の匂いが色濃く蔓延する間合いにライドウは迷わず踏み込み、ランサーという最速の槍兵に一撃を繰り出したのだ。ランサーは自らの領域に入り込んできた侵入者に対し、瞬時に払いを持って報復の一撃を叩き込もうとするが、一瞬気を取られたランサーの予備動作が大きい一撃よりも、狼男となったライドウが回避と同時に繰り出した一撃の方が、一撃の発生速度が速く、単純な唐竹割りがランサーの頭へ近づき――

 

「させませんよ! 密天!」

「――」

 

ライドウの攻撃はキャスターが放った呪術攻撃によって阻害された。玉藻の意識によって指定された空間で空気が炸裂する。だがもちろん、そんな遅い呪術攻撃は今のライドウに当たらない。彼は自らの攻撃がランサーを仕留めるに至らないと悟ったのだろう瞬間、すでにランサーの間合いから離脱していた。私は彼の動きと跳躍に合わせて、全力で矢を射るも、その全てがライドウの振るう祓魔の剣「赤口葛葉」によって切り払われてしまう。

 

やがて少しばかり距離をとったライドウは、自らの体を覆う狼の肉体の手で、剣を拭った。汚れでも拭ったのか、あるいは動物油でも塗っているのだろうか、

 

「キィー! なんですか、あのチートまがいの身体能力! こちとら恥も外聞も捨てての英霊三人がかり、近中遠とバランスよく揃えた上に、バフデバフ役としてのお助けキャラまで備えての実質四人パーティーですよ! なのにあの狼ヤローは、なんで前転と身のこなしだけでその全てを回避しやがるんですか! 一人だけRPGじゃないゲームしてるんですけど! 世が世なら返品とクレーム対応必死のバグキャラですよあんなの!」

 

敵の見せる余裕の態度が気に食わなかったようで、ライドウの行為に玉藻が地団駄を踏んで、きいきいと騒ぐ。その度に桃色の髪がふわりと舞、振袖がバサバサと淀んだ空気を祓った。喧しいな、とは思ったが、彼女がそうしてわざわざ自ら道化を演じてくれているのは、私たちがそんな感情を撒き散らす彼女を見て冷静になってくれるところにあるのだろうと理屈の上で理解した私は、彼女の望み通り、その茶番に全力で乗っかってゆく事とした。

 

「ああ、全くだ。とあるゲームになど全パラメーターをマックスにして完全装備であるのが戦う為の前提条件だったボスなどがいたが、まさにこれもそれの類と言っていいだろう。最高の装備と最高も味方を揃えると、相手も最高の力を出す……、まぁ、ゲームバランスとしては優れている類の部類じゃないかな」

「そんなそれで難易度調整のシステムくらい搭載して欲しいものです!まったく、これだからゲームバランスも知らないアマチュア素人の作るゲームは嫌いなんです!」

 

すると玉藻は、私が彼女の意図を読んだことに気付いたのだろう、一瞬だけ、ニヤリと笑って見せると、すぐに顔に怒りの表情を浮かべ、両手をブンブンと上下に振りながら、怒りの態度を露わにした。

 

「ライドウはゲーム製作に関してはアマチュアもいいところだろうが、このジャンル……バトルロワイヤルにおいては、垣根を超えて、超一流だぞ。――見ろ」

 

自らが自信を以って繰り出した渾身の一撃が防がれるどころか、完全に見切られ、あまつさえは反撃にて命を刈り取られそうになったのが、よほどランサーの誇りを傷つけたのだろう。ランサーは腰を深く落とし、身が地面に接地しそうなほど低く構えると、大きく脚を開いて、後ろ足を短距離走選手のよう、ふくらはぎが盛り上がるほどに力を入れてライドウの方を見据えた。ランサーの手の中の赤い魔槍『ゲイボルグ』が、ランサーの魔力を吸って、赤く妖しく輝く。

 

「あれは……、あ、あのバカランサー、必殺の宝具を解放しようと……!」

「もはや生け捕りなどという言葉は彼の頭から消え失せているようだな」

「なにを悠長なこと言っているんですか! あの宝具は――」

 

それはランサーの宝具発動の前兆だった。放てば必ず敵に命中する槍、ゲイボルグ。その特性を利用してランサーが編み出した、運命因果を逆転させ、放った時点で既に心臓への命中の運命を確定させる、因果逆転の対個人用の必殺技――

 

「これならどうだ! 喰らえ!『刺し穿つ死棘の槍/ゲイボルグ!』」

 

ランサーの遠慮ない宝具解放の一撃が放たれる。対軍兵装、放てばを三十の必中魔弾へと分裂する槍の能力を、たった一人を殺すためだけに狙いを絞ることで、その因果逆転確定必中の能力を高め、槍の穂先が確実に心臓を射抜くよう改良した、ケルトの大英雄たるクーフーリンが自ら編み出した必殺技。

 

『刺し穿つ死棘の槍/ゲイボルグ!』

 

宝具の真名が解放された時点でランサーの繰り出した赤き魔槍の穂先は、相手の心臓を貫く運命が付与されている。どのような防御も、どのような回避も無意味だ。最高の盾で防ごうが、最小の見切りで躱そうが、穂先はそれらの全ての無駄な足掻きと嘲笑うかのようにすり抜けて、心臓を貫く――

 

「なんだと!?」

 

はずだった。だがライドウはそのような他人が定める運命などに己が従う謂れなどないとでも言わんばかりに、ランサーの渾身の一撃を、ひらりと身を前に倒し、一回前転をして運命改変攻撃を回避してみせると、最大の奥義を繰り出したばかりで隙だらけのランサーへと斬りかかる。見切り、回避、攻撃までの一連の動作が淀みなく全て繋がっているライドウの一撃は、まさに光速。漫画の一コマで表されたのかと見間違うほどに速いライドウの一撃をランサーはそして――

 

「――」

「チィィィィィィ!」

 

獣が如き俊敏さと体のバネを全力稼働させて、回避する。ランサーの鎧から放たれる青の光が筆となり、宙に美麗な移動痕を残してゆく。追い詰められた獣が命の危機に際して咄嗟に跳躍するが如きその回避は、ケルト神話における大英雄、クーフーリンであるからこそ可能だった回避。ライドウがこの世界最強の正義の味方であるように、ランサーもまた、とある時代において名声をその一身に席巻した、紛れも無い大英雄なのだ。

 

「こいつはヤベェな! 身体能力もさることながら、運命を改変して絶対に心臓に必中させるはずの、真名解放した『刺し穿つ死棘の槍/ゲイボルグ』でかすり傷しか与えられねぇってなぁ、マジでどういう理屈だ!とんでもねぇ幸運値か、死なない運命でも持ってやがるのか、コイツは!」

 

ランサーは興奮気味に、がなりたてる。と同時に、ライドウの手のひらから血が一滴垂れ落ちた。どうやら真名解放し必殺必中の能力を得たゲイボルグは、一応、必中の効力は発揮してライドウを傷つけることに成功していたらしかった。

 

だが。

 

「――」

「――はぁ!?」

 

ライドウの手のひらについたその傷は、瞬時のうちに塞がり、傷跡一つすらなくなる。ランサーはその事実にひどく驚愕した。一方、ライドウは、今しがたのランサーの超回避と、回避を行なった自分がそれでも傷を負わされたと言う事実によって、ランサーに対する警戒のレベルをあげたのか、自ら攻め立てて来ようとしない。彼はじっと柳のようにマントを靡かせながら、その場に佇んでいる。

 

『クーフーリン! 心臓を貫くとはどう言うことだ! 傷なしに捕縛するという約定であっただろう!?』

 

やがて対峙する二人の間に、ゴウトが割り込んだ。ゴウトは、ランサーの述べた台詞に大層ご立腹の様子だった。

 

「ああ、わりぃな、忘れてた。いや俺も、俺を召喚する素材になった先代の悪魔『クーフーリン』から、奴の心酔している記憶や、スカアハ/お師匠様を使役しているらしい記憶が俺にも継承されているから、出来る限りそうしてやろうとは思ったんだがよ――」

 

だがランサーはゴウトの怒りの抗議を対して悪びれもせずに受け流す。そして彼は飄々としていた態度と顔の表情を一転させ、視線で射殺さんばかりの凄まじい眼光と迫力をゴウトに叩きつけ、口を開いた。

 

「――ちと事情が変わった。そんな余裕、まったく、ねぇ。やらなきゃ、やられる。おい、ゴウト。 ライドウってぇの腕前が相当ヤバイのはわかっていたが、『刺し穿つ死棘の槍/ゲイボルグ』がまともにあたらねぇってぇのは、どう言う理屈だ。俺の『刺し穿つ死棘の槍/ゲイボルグ』は放てば必中必殺、穂先は必ず心臓を貫く運命を得る。相手の幸運値が運命改変に至るほど高くとも、少なくとも体のどこかしらの部位に突き刺さる筈なんだが……」

 

ランサーはゴウトに対して一切の遊びがない視線で、知っていることがあれば吐けと尋ねる。常人ならそれだけで震え上がってしまいそうな威圧を飛ばすその視線を、ゴウトは真正面から凛然と見返すと、言った。

 

『ライドウは以前、貧乏神や疫病神に取り憑かれ、運の要素に苦しめられて以来、あらゆる運要素が絡む攻撃をキャンセルする術を身につけておる。おそらく狼男となった今も、その術を無意識のうちに発動しているのだろう。故に、ライドウに、運命改変系の攻撃は通じないと思え』

「そうかい」

 

ゴウトの言葉に対してランサーは、地面を軽く蹴りあげた。自身の身に着けた奥義が封じられたのだ。大いに苛ついたのかと私は思ったが――

 

「つまりライドウは、正々堂々、真正面から己の力と技と速さで捩じ伏せるしかねぇってことか。――ああ、もう、いいねぇ、ワクワクする。益々燃えてきたぜ。こんな誉れを得る機会、滅多にねぇ。小細工に頼ろうとした自分が恥ずかしいなぁ、おい」

 

ところがどっこい、ランサーは自らの奥義を封じられながら一切の悲愴や陰りの感情を抱くことは無く、それどころか、自らの切り札を無力化した相手の手腕を称賛し、それどころか自虐までしてみせた。

 

なるほど、ランサーの価値観からしてみれば、槍の能力を完全に封じられ、仕方なく、自らの能力のみで敵を打ち倒さなければならないという状況は、なるほど、滅多にない、槍の能力に頼らない、彼自身の能力を酷使し、極限に挑戦するという絶好の機会なのだろう。戦闘において、結果もさることながら、過程にも重き価値を見出すなんとも彼らしい考え方だ。

 

「ついでに聞いとくが、ゲイボルグの治癒阻害の呪いが効かないで、ライドウの怪我が再生したのは――」

 

ランサーは槍を前に突き出たいつもの前傾姿勢の構えを取りながらゴウトへと尋ねる。ランサーのさっきに応じるかのように、ライドウは刀を構えた。ゴウトは、ランサーが聞く耳を持たないこと。そしてこれから再び、苛烈な戦闘が再開されるのだという事を確信したらしく、ひどく重苦しいため息を吐くと、それでも真面目な彼らしく、その場から離脱しつつも、彼の質問に返答する。

 

『呪いはおそらく、蠱毒の術のせいだろう。再生はおそらく、狼男の特性だ。大海に水滴を放り込んでも影響ないよう、今の呪いの塊となったライドウに呪いの攻撃を当てても、呪いはもっと大きな呪いに飲み込まれてキャンセルされてしまうのだ』

「つまり」

 

二人の会話へ言峰が割って入った。奴の顔には三日月がごとき笑みが浮かんでいる。私は奴がロクでもないことを言おうとしていることを悟った。

 

「お前の切り札はどうあがいてもあたらんし、武器の能力も大して役に立たんと言うことか……。相変わらずお前はアテにならんな」

「チッ!」

 

やれやれ、と首を振ると、ランサーは大きく舌打ちをしながら、その嫌味に応答する。

 

「うるせぇぞ、言峰! テメェは黙って手術の準備でもしとけ! ――、うぉっ!」

 

ランサーの叫びを再開の合図として捉えたのか、あるいはランサーが言峰へと意識を向けたことを絶好の攻撃機会と捉えたのか、ライドウが音もなくその場から疾駆を開始し、ランサーの槍の間合いの中へと迫っていた。

 

「クソッ! 情けねぇ!」

 

袈裟斬り、一文字、逆袈裟の振り上げ。ライドウが剣を片手で振るうたびに、剣の生み出す風圧が、地面を裂き、その遠く後ろにある壁面を切り裂く。一撃でも喰らえば即死の苛烈な攻撃は、ランサーが満足に槍を振るうことのできない絶妙な間合いから繰り出されるものだった。ランサーはそれでも槍を器用に用いてライドウの攻撃を避けるが、徐々に追い込まれていく。

 

「ランサー!」

 

慌てて私は弓にてランサーへの援護射撃を行った。弓撃は、眉間、喉元心臓、急所を狙っての四連射。ゴウトには悪いが、ランサーの言う通り、加減をしている余裕はなどはなかった。殺意と必殺の意思を込めた全力の攻撃でなければ、ライドウには通用しない。四肢に対して行動阻害をする目的で放ったところで、それはライドウの気をひく役にすら立ってくれないのだから、気をひくだけが目的だとしても、このような、万が一にでも当たれば死ぬような一撃を放ち続けるしかない。

 

「――!」

 

流石のライドウも、急所を狙い全力で射出した私の矢を受けながら、先ほどよりも殺意と闘志を増したランサーの間合いで立ち回るのは厳しいと感じたらしく、彼は獣が如く、背を向けないまま、一足飛びで大きく跳躍して、大きくランサーと距離をとった。

 

「お邪魔だったかな?」

「ホントにな! ――だが助かった。一応、礼はいっとっくぜ! ――さぁ、再開といこうか、ライドウ!」

 

ランサーは私の援護をけなし、しかし、自分が援護に助けられたと言う事実に対してきちんと礼を私に対して乱雑に放り投げると、再度ライドウめがけて突撃し、一撃を放った。奔る穂先をライドウは見切りにて容易く回避して見せる。

 

「ハッ!」

 

だがそんなことは読めていたと言わんばかりに、ランサーは槍持つ腕を引き、片足を軸として、引いた力を利用してその場でぐるりと回転してみせると、瞬間の間に溜めこんだ力と遠心力を利用して、地を思い切り踏み込み、続けてもう一撃を繰り出した。ランサーの放った自らの脚力を乗せた一撃のものよりもさらに早く、しかしそんな一撃を、ライドウはやはり最小限の動きで回避する。ランサーはいっそう張り切り、さらに速い一撃をライドウへと叩き込む。息もつかぬ程の連撃を、しかしライドウは簡単に捌いて見せる。

 

「やるねぇ!」

「――」

 

ランサーはその事実を喜び、ライドウに対して、さらに回転数を上げてゆく。いかなる手腕があればそんな大道芸じみた魔技を可能とすると言うのか、ランサーは独楽のように回転しながら、次々と神速の刺突を繰り出してゆく。ライドウは、ランサーが放つ神速の突きを最低限の身のこなしで躱しながら、ランサーとの間合いを詰めようとするも、ランサーはそれをさせないように、さらに回転の速度と、刺突のペースを早め、一秒、一瞬でも早く、ライドウの体に槍を叩き込もうとする。

 

ここに来て、ようやくライドウとランサーは拮抗した。ランサーが己の能力を完全以上に発揮して、全ての余計な技を捨てて、ただ己に出来る最速の刺突を叩き込むという目的だけに注力する事で、ようやくランサーはライドウの立つ位置に並んだのだ。

 

「――!」

「――」

 

ランサーは、「あとは追い抜くだけだ!」とでも言わんばかりに、笑みを深めた。おそらく私の予測した言葉は間違っていなかったのだろうことが、ランサーがその刺突を繰り出す速度を早めながら、顔に浮かべている喜びの色を濃くしたことから推測ができる。

 

「あの青タイツ、目的を忘れてますねぇ……」

 

そんなランサーの喜色満面の笑みと態度を見て、玉藻は、愚者を見る視線を彼へと向けながら、私の横に並び立つと、私へと話しかけて来た。

 

「生け捕りって言っているのに、全力で殺しにかかっているあたり、猛犬を迷わず打ち殺したというのも納得できる短絡さですよねぇ」

「だが、彼がああして率先してライドウと対峙し、発奮して立ち向かってくれているお陰で、こうして作戦を練る時間が取れたのは事実だ」

「まぁ、助かっているのは事実なんですけど……。で、どうします、実際。なんか名案でも思いつきました?」

 

玉藻の言葉に、私はしばし逡巡する。あいにくと、アテに出来る案が早々には浮かんでこなかったため、とりあえず思いついた案を片っ端から口にすることとした。

 

「君がライドウとゴウトを閉じ込めたと言う結界は?」

「だめですねぇ、発動にまで持っていけやしません。術の効果範囲内に収めるため近づこうとすると、すぐに離脱するんですよ、アレ。獣の直感というか、脅威の反射神経というか、こう、メタ的に言うなら、直感EXとまではいかなくとも、限りなくEX側のAとでも申しましょうか、軽い未来予知くらいは持ってそうな勢いです。速度もランサーの速度よりも上でEXクラスですし、少なくとも呪術師として顕現した私の身体能力じゃ、術の射程範囲内に入ることすらできやしません」

「――なるほどな」

 

たしかに狼男となっているライドウは、完全な未来予知を持っていると言われても納得できるような回避能力を持っている。音速をこえる私の矢や、そんな私の矢と同等か、あるいはそれ以上の速さの一撃を繰り出すそんなライドウをまともに捉えるのは、キャスターである彼女にとっては辛かろう。私は奮闘するランサーへと視線を送ると、彼の意見を聞かずに勝手に命を賭けさせる非礼に対して少しばかり詫びの気持ちを送りながら、申し出る。

 

「――ランサーや私ごとでも結界に封じ込めていい、といっても無理か?」

「あらま、なんともドMな発言」

 

玉藻はそんな申し出を、口に手を当て、尻尾と頭に生えた耳をピンとさせて仰々しく驚いて見せると、しかし、すぐにふっと小さく笑いをこぼして、長く息を吐いた。

 

「――まぁ、実際に貴方達が命を差し出してくれたとして、それでもあれを捉えられる確率は限りなくゼロに近いですかねー。漸近線は軸線側に限りなく接近中! でも結局、軸線には到達しません! みたいな感じで。――あれは聡い獣である上、自身の能力を把握してますからねぇ。不穏な空気があらゆる手段を講じて全力で離脱するでしょう。その辺は、貴方の方が理解できるんじゃないですか? 1%でも隙間があれば、捻じ込んで勝利を引き寄せられる能力持っているんでしょう、貴方」

 

多分、彼女は、私の経験に基づく心眼もどきを指しているのだろうなと察した私は答える。

 

「勝利を導く方法を、経験を収めた戸棚の中から引き出せるというだけさ。そんな便利な能力を持っていたら、ここまで苦労してなどいない」

「ま、そりゃそうですね」

 

いかにも残念そうに肩をすくめて見せると、やはり彼女は大して期待していなかったという体で、私と晒した肩を、私と同じようにすくめてみせた。

 

万事休す、か。

 

「あの……」

 

そして私が玉藻とともに状況の停滞に頭を悩ませていると、遠慮がちな声が、私と玉藻の間に割り込んできた。

 

「――響?」

「おや、マスター、何かご用で?」

 

振り向くと、そこには響がいた。すぐそばにはゴウトと凛もいる。二人の前に立っている響は、片手に玉藻の管を、もう片手に剣『薄緑』を持ちながら、多少おずおずとした態度ながらも、しかし真っ直ぐな視線をこちらへと向けてくる。

 

「玉藻が気付かずに近づければ、なんとかなるんですね?」

 

彼女の問いかけが何を意味しているのか理解できなかった私と玉藻は、思わず互いの顔を見合わせると、やはり互いに眉をひそめた状態で、彼女へと問い返した。

 

「まぁ、呪術ですから、近づけばそれだけ効力は増しますし、あるいは、接触なんて出来るもんなら、確実にその動きを止める手段もありますが――」

 

玉藻の言葉を聞いた響は、一瞬だけ目を伏して、一度開き賭けた唇をぎゅっと結び合わせると、手にした刀剣、薄緑を握りしめ、真っ直ぐ玉藻と私の方を向いて、断言した。

 

「――私に考えがあります」

 

 

「ランサー!」

「あぁ!? ――は!」

 

凛が叫んだ。ランサーが微かにだけ眉をひそめながら応じる。直後、目にもほとんど映らない苛烈な攻撃を繰り出すランサーの唇の端が、微かに上向きへ歪んだ。凛がサーヴァントとの間に使える念話――言葉を用いることなく、魔力を媒介として、直接思考を繋げるとかいうスキルを用いたのだろう。

 

「――」

 

ライドウは自らと相対する相手であるランサーの表情の変化から微かに異変を感じ取ったのか、意識を凛の方へと向けようとするが――

 

「余所見してんなよ!」

「――」

 

それは叶わない。ランサーは相変わらず曲芸じみた方法で、ライドウへと刺突を瞬時に十以上繰り出した。ランサーの繰り出す暴風雨じみたその攻撃は、槍を得意とする身体能力の優れたハイランダーが極めたスキルを用いたところで、放てないだろう。シンが万全の状態であっても、あの神速には追いつけまい。ライドウはそれの対処のために、その場で足を止め意識をランサーへと向けることを余儀なくされ、凛へと向けかけた意識を引き戻されていた。再び剣と槍を交えない静かな剣戟が開幕した。そして。

 

「我が骨子は捻れ狂う/I am the born of my sword……!」

 

凛が話しかけたことにより、ライドウへと生まれたその隙をついて、ランサーとライドウが死闘を繰り広げる場所から少しばかり距離をとり、四階建ての建物の屋上へと登ったエミヤが攻撃の準備を整えていた。彼の唱えた呪文により、その手中へと捩くれた剣が生まれる。剣はやがて多くの稲妻を刀身から放つようになり、エミヤの浅黒い肌と白髪を青い稲光で薄く染め上げてゆく。エミヤはそして、捩くれた剣を弓に添えると、その柄を弦に当てて思い切り引っ張った。弓の弦が限界まで引き絞られ、解放された時を今か今かと待ちわびるように、ギシギシと音を響かせる。

 

「Das schliesen/準備……!」

 

私の近くに控える凛がどこのかわからない言葉を喋った。多分、魔術の準備だ。それを見たのだろう、エミヤは、視線を凛からランサーへと移すと、口を開く。

 

「避けろよ、ランサー!」

「慣れてらぁ!」

 

エミヤが叫び、ランサーが応じた。呼応がランサーの隙となる前に、ランサーはもう一度、エミヤに向けてだろう、叫んだ。

 

「撃て!」

『偽・螺旋剣 Ⅱ/カラドボルグ!』

 

ランサーの咆哮に応じて、エミヤもまた、真名解放というやつの為だろう、スキルの名前を思いっきり、声を大にして叫んだ。場にそぐわない弦の弾ける間の抜けた音が響き、直後、目眩い閃光と稲光と閃光が周囲を包み込む。

 

「――!」

 

閃光と爆風と砂塵と熱とが異界の銀座世界の全てを包み込む寸前、狼男となったライドウは、狼の口を初めて噛み締めて、驚愕を露わにした。エミヤの攻撃が原因なのか、あるいは、エミヤが味方もろとも吹き飛ばすような攻撃を放ったのが原因なのかは知らないが、とにかく今、目の前に迫り来る状況が、彼にとってとても予定外で、とても望ましくない方へと転がっているのは確かだと認識ができた。

 

――十分だ

 

シンをまるで路傍の石を蹴り飛ばすかのように簡単に斬り飛ばした狼男/ライドウが、焦燥の様子を見せた。それだけで、今まで抱えていた不安が吹き飛んでくれた。それだけで、私が剣を持った意味は、私は今この瞬間だけ、シンを超え、シンが自分の中にいてくれるような幻視をした。

 

――シン

 

「Es ist gros,Es ist klein,Es ist schalldicht,Es ist schutz/軽量、重圧、防音、防護!」

 

彼のことを想った瞬間、凛の言葉とともに、体が軽くなる。エミヤの放った矢が空気を引き裂く耳障りな音だけが聞こえなくなり、空気が透明化した。私は一瞬、自分が真実世界から切り離されたような幻想を抱いた。

 

「壊れた幻想/ブロウクンファンタズム!」

 

迫り来るその時を前に、瞬間だけ幻想を夢見ていた私を戒めるかのように、エミヤが呪文を唱え、私を目覚めさせた。同時に、ライドウめがけて直進していた矢が破裂。破壊の力を周囲へと撒き散らし、ランサーを、凛を、私を、矢によって生み出された熱と爆裂と暴風と砂礫が私たちの周囲へと乱雑にばら撒かれ、四方八方へと濁流の中の水のように凄まじい速度で飛び散ってゆく。

 

砂塵と熱風が荒くれる中、凛のスキル――魔術によって、それら外部からの余計から守られた私は、刀剣『薄緑』を鞘から引き抜くと、一心に刀へと意識を集中した。その名の通り、薄緑をしたその刀は、ライドウを助けるという私の意思と、そのために狼男と化したライドウに挑むのだという私の覚悟に呼応して、その刀身と名前に秘められた力を貸してやろうと、告げてくる。

 

『刺し穿つ死棘の槍/ゲイボルグ!』

 

未だ鎮まらない砂塵と高熱の嵐の中、それらの影響をまるで感じさせないランサーの声が戦場を引き裂いた。茶色と灰色のみが支配する視界の中に、ゲイボルグの穂先が生み出した一条の赤い閃光が生み出される。

 

「――!」

 

そんな砂嵐の中から繰り出されたランサーの真っ直ぐな一撃を、曲げる存在があった。

 

――そこか!

 

それはライドウの祓魔の剣、『赤口葛葉』の一線によるものだった。ライドウがランサーの繰り出した一撃を、剣で払って、回避したのだ。ランサーはついに、ライドウに刀を使わせ、隙を作ることに成功していた。煙の向こう側であるため見えないが、おそらく今、ランサーは大いに誇らしげに唇を歪めているに違いないと察した。

 

――舞台は整った。あとは……

 

握った剣に力を込めて、自分の力――、ツールマスターとしての力が発揮されるよう、全力で意識する。すると、予想通り、この世界では使えないかもなんて言っていたギルガメッシュの言葉を覆す様に、あちらの世界での力は、こちらの世界でも普通に働いてくれた。そうだ。誰かが予測した道理に私が従わなければならない法則などない。世界はいつだって、自分が信じる通り、自分の望む通りに歪んでいくものなのだ。

 

――今、私の中に受け継がれているシンの魂が、あのライドウにも負けてないんだってことを証明するため……

 

エミヤはライドウの視界と聴覚と触覚と嗅覚を奪い、小さな隙を作ってくれた。ランサーはその小さな隙に自らの全霊を注ぎ込み、ライドウの動きを止め、大きな隙へと作り変えてくれていた。ゴウトは私の考えを後押しする知恵をくれたし、凛は、私を後押しする呪文をかけてくれた。みんなの力を借りて生み出された隙に、私は全霊を持って、シンのように自身よりも強大な存在に挑み、そして――

 

――私が信じる私の力で、勝利をもぎ取る!

 

『――行け!』

 

決意を新たにした時、その言葉をくれたのが、果たして、刀に宿った意思だったのか、はたまた、自分の中に宿ったシンの魂なのかは判別できない。あるいはその両方かもしれないと思いながら、私は全力でそのスキルの名前を叫ぶ。

 

「八艘飛び!」

 

薄緑を片手に全力で地面を蹴り込み、突貫する。凛の魔術によって軽くなった体は羽根の様でありながら、剣に宿った魂が貸してくれる力により、凄まじい跳躍力と瞬発力を帯びて、ライドウへと突進する。色んな人の力を借りて、今まで培ってきたものの全てを投げ出して、乾坤の一撃を狙う今の私は、エミヤが繰り出す一矢よりも、ランサーが繰り出す刺突よりも、ライドウが振り下ろす刃よりも、早く、私はライドウに接近した。その毛深い姿が見えた瞬間、私は迷わず、片手で振り上げていた刀を振り下ろした。

 

「――!」

 

空中、いきなり眼前へと現れた存在が振り下ろした一撃を、しかしライドウはそんな奇襲を紙一重で避ける。ライドウはエミヤによって五感のほとんどを潰され、ランサーによって動きを限定されながら、それでも凄まじい直感と反射能力を駆使して、私の一撃を――

 

「――噛んで止めた……!?」

 

飛翔してきた私の一撃を避けた狼男であるライドウは、ランサーの槍での宝具の一撃に祓魔の剣を絡め取られたままの状態でありながら、その崩れた姿勢のまま、最後の武器――自前の鋭い牙で反撃の一撃まで繰り出してきた。狼男となったライドウは、その大きな口を開いて、鋭い牙で薄緑の刃を押しとどめていた。

 

ギリギリと狼の鋭い歯が上下から『ヨシツネ』の力が宿った剣、『薄緑』を攻め立てる。刀は縦の方面、すなわち、引いて斬る分には優れているが、横からの圧力に弱くできている。

故に。

 

「――……!」

 

薄緑はその上下からの攻撃に耐えきれず、ヨシツネの末期の悲鳴であるかの様に、剣は甲高い音を立てて、バキバキと音を立てて、刀身は八つの破片に砕かれた。剣を噛み砕いた狼男の牙は力強く噛み合わされ、歪んだ三日月を浮かべた。それはこちらの目論見を全て看破し、打ち破ったという自信が齎した勝利宣言でもあったに違いない。

 

だが。一撃を受け止め、剣が折られるのは予定外だったけれど。

 

――私の半端な攻撃が通用しないことくらいは、予定に織り込み済みだ!

 

私は柄だけになった剣を握ったまま、私の胸元で自由を謳歌していたもう片方の手を洋服から引っ張り出す。そうして威力を失った剣の象徴を持つ片手ではなく、引っ張り出された手に握られたものを見て、狼男と化したライドウの狼の口から笑みが消えてゆく。どうやらここに来てようやく奴も私たちの狙いを悟った様だった。

 

――そうだ

 

私の狙いは、私たちの勝利条件は、もとより私が一撃を当てて、ライドウを仕留めることじゃない。私の、私たちの狙いは――

 

「召喚、玉藻!」

 

言葉とともに、管がスライドし、管の中から飛び出したマグネタイトが召喚風を巻き起こす。周囲一面の砂土の光景を嫌うかの様に、マグネタイトは土埃を吹き飛ばしながら人型へと具象化してゆく。やがてそうして私の管から召喚された玉藻は、すぐそばにいるライドウに飛びつき、彼の毛深い狼頭を持つしなやかな人間の体部分、すなわち、下半身の部位に自身の体をくっつけた。

 

「――!」

「おっと、縋り付く女の抱擁を蹴り飛ばすなんて、金色夜叉じみた無粋な真似はさせねぇ!」

 

ライドウはそれを振り払おうと刀を振り上げるも、その行為はすぐ近くまでやってきていたランサーによって妨害される。ライドウは両足を玉藻に、上半身をランサーに抑え付けられ、身動きが一切取れない状況へと追い込まれていた。

 

「貴方のそれは元を辿ればこの体を作っている呪いと同種の呪い! なら、そんな怨念と呪いの塊の化身である私が、あなたの体に巣食うそれをかけらも残さず同化し、喰らい尽くして、私の力として飲み込んで差し上げます!」

 

玉藻が叫ぶ。おそらく、そうして叫んだのは、これから行う目論見がうまくいきます様にと、自身を鼓舞するためでもあったのだろう。

 

「借体成形の術!」

 

玉藻がスキルの名を叫ぶと、すぐさま彼女の体は輪郭がはっきりしなくなり、やがて、黄昏色に発光し、光の泡となり、泡沫の様にライドウの中へと消えてゆく。

 

 

砂埃が晴れ、玉藻の姿が叫び、私が彼女の姿が消えた事を視認した瞬間、狼面の毛皮を被った様な状態のライドウは、刀を手放した。祓魔の力を持つ刀が、地面へと突き刺さる。狼男の墓標の様に突き刺さったそれは、響の提案した案が成功した事を祝福しているかの様だった。ライドウはそのまま立ち呆けている。私は慌てて彼へと近づいた。

 

『言峰!』

 

同じくライドウに近づいたゴウトは、ライドウが玉藻に体を乗っ取られて動かなくなったのを確認すると、すぐさま言峰へと呼びかけた。一秒でも早くライドウを取り戻したいという態度が、彼を急かしているのだ。

 

玉藻、すなわちは九尾の狐はたしかにかつて漢王朝の護国の霊獣だったかもしれないが、現在ライドウの体に宿る狼もまた、古く西洋においては、集落の羊どもを殺し、多くの村を滅ぼし、数多の神話において悪と称される様になった魔性の獣である。

 

しかもライドウの体に宿ったのは、その中でも別格の、フェンリルという終末に現れ、世界を喰らい尽くすという狼だ。玉藻が動きを止めたと言っても、一秒先にどうなるかはわからない。今でこそ拮抗しているし、太陽神の化身であると自信満々の彼女であったが、日の本の国において、太陽神は、破壊神の暴虐にしてやられてしまうものである。

 

「任せておけ」

 

一方で、ゴウトの気持ちを慮った訳ではないだろうが、言峰は待ってましたとばかりにライドウの元へと駆けつけると、自らのカソックの袖をまくり、狼男の口元へと当てると、軽く開いて、その牙で自らの腕を引いた。鍛え上げられた刀剣ですら容易く噛み砕く牙は、人間の薄く柔らかい皮膚や肉を簡単に裂いて、言峰の腕から血が滴り落ちた。

 

「――」

 

言峰はそして、滴る自らの血を、狼頭を持つライドウに振りかけると、彼の頭を瀉血したかの様な有様の腕で、そのままがしりと手のひらの中に収める。

 

『言峰!? お前は何を……!』

 

ライドウへと素早く近寄った言峰の行為に、ゴウトは猫の体の背筋を丸め、尻尾をピンと伸ばして、驚きを顔に貼り付けた。

 

「心霊医療を行い、悪霊を払う場合には、聖なる液体を相手に振りかける必要がある。これを行わなければ、取り憑かれた側と取り付いた悪霊との境界が判別できんのでな。通常は聖別された聖水を用いているのだが、あいにく悪魔となった私は今、そんなものを持ち合わせていない。だから、代替物として、天使である私の血液を用いてそれを行なったわけだ。――、話はそれだけか? 気が散る。少し黙っていろ」

 

だが言峰はゴウトのそんな戸惑いからの質問にバッサリと答えて彼の懸念を切り捨てると、言峰は目をつぶり、聖句――洗礼詠唱を開始した。

 

「kyrie eleison,christe eleison,kyrie eleison/主よ憐れめよ、主よ憐れめよ、主よ憐れめよ」

 

言峰の口元から、厳かな言葉が漏れる。それはミサにおいて合唱される聖歌と呼ばれるものだった。言峰は、神への祈りを通じて、自らの意識をトランス状態へと移行させてゆく。

 

「Gloria in excelsis Deo.Et in terra pax hominibus bonae volutatis/天のいと高きところには神の栄光を。地には善意の人に平安あれ」

 

一拍おいて、言峰の口から、低いテノールの声でルカによる福音書から一文が続いた。見るに、奴の意識はすでに忘我の彼方に到達し、意識と無意識との狭間に自らを置くことに成功している様だった。

 

「Laudamus te.Benedicimus te.Adoramus te.Gloficamus te./我らは主を褒め、主をたたえ、主を拝み、主を崇める」

 

奴は今、ライドウの魂と悪霊のそれとを選り分けるために、自らの体をパイプオルガンと、喉を鐘楼と化している。それはつまり、奴が今、一つの教会であり、神父であり、聖水であり、十字架でもあり、エクソシストでもあるということを示していた。

 

「綺礼もまともにやれば、そんじょそこらの神父なんかよりよっぽど立派なのよね……」

「……凛」

 

凛はそうして私の側へとやってくると、自らの体をライドウを救うための装置として機能させている言峰を眺めると、非常に複雑そうな視線を奴へと送った。奴が歌うそれの練度の高さは、奴がどれだけ身を削ってそれの修練に時間を費やしたかの証明だった。奴は今、人生の多くの時間を、他人の祈りのために捧げてきたその証明を唄い上げている。それを見つめる凛の瞳に宿っていたのは、憎しみではなく困惑で、怒りではなく悲しみだった。

 

「あれがどう歪んだら、あんな悪の権化みたいな性悪になるのやら……」

「……」

 

凛の言葉に私は何も答えられない。話によると、言峰綺礼は、魔術師であった凛の父母が死ぬ原因を作った、あるいは、直接的に手を下して殺した人物であるという。そんな人間に対して、私はなんと声をかければいいのか、その解答を持ち合わせていなかった。

 

しかし。

 

「――悪」

「え?」

「……世間は自分の性分を悪であると見なしていると、そう理解してしまったかだろう」

 

無様ながらも進む。そう決めた私は、まともな解答を持っていないなりに、今自分が思っている気持ちをそのまま語ることとした。わからないなりに思いを語る。きっとそれこそが正義の味方になる第一歩であると信じて。

 

「言峰綺礼は自らの性分――他人の醜いを美しく思い、無様を喜ぶ感性を持ち合わせていると自覚していた、とそう言っていた。あの男は、自分のそんな性分を悪だと自覚していた。それを悪であると自覚するだけの分別を持ち合わせていた」

「――」

「Sanctus,Sanctus,Sanctus/聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」

 

私の語りに奴の歌声が混じる。奴は目をつぶったままで、また、意識もここにあらずの様相だ。おそらく奴は今、無意識の境界でライドウの魂と、それ以外の、狼の呪いと玉藻の魂を選り分ける作業を行なっているはずなのだ。ならばそうして歌い上げられるラテン語の聖句は、奴の無自覚の領域から、奴を意識無意識の境界に保つため、無自覚のうちから溢れ出る、まさに肉体と魂に刻まれているものを詠い唱えているという証明に他ならず。

 

「中国拳法を言峰から習った君なら、一つの技を無意識のうちに繰り出すという行為を実践レベルで行使するためにどれだけの時間を費やさなければならないかは承知しているだろう。奴の鍛え上げられた体から生まれる、この、周囲に峻厳と静謐の雰囲気をもたらすそれは、奴がその生涯において、どれだけの時間を自らが憎む、世間が正しいとする行為に費やしたかを。そして、自らの存在の否定にどれだけの時間を費やしてきたかをそのまま表している」

「――そうね」

 

凛はそこで私の言わんとしていることを理解した様だった。彼女が言峰へと向ける視線に憐憫の情が混じる。彼女は、言峰が長年抱えてきた懊悩を、ようやくその一端を理解した様だった。おそらく今しがた彼女が抱いた感情は、後悔という感情がもたらす、暗澹としたものであったに違いない。そしてその鬱屈とした感情は、自らを攻め、苛め、多くの時間を自虐と反省に費やし、足掻き続けた者のみが理解できるものなのだ。そう。たとえば、多くの時間、私という存在を助けられなかったことを悔やみ、行動を起こした彼女や、人間の在り方に絶望し、自身の生涯を悔やみ、自らを殺傷せしめようと足掻き続けた私の様に……。

 

「言峰綺礼は、他人の価値観と良識を用いて自らを悪と判断し、自分という存在を他人からも否定されつづけ、そして自分という存在を、自らを否定し続けた。その果ての歪みの結果が、病的なまでに、自己肯定のために、他者が悪と呼ぶものを好み、他者が善意と呼ぶものを拒む様になったのだろう」

「なるほどね。貴方はつまり、あれは、世間が、言峰綺礼という人格を無視して、言峰綺礼という人物に世間の善の在り方を押し付けて、綺礼にそれを求めすぎた結果だと、貴方はそう言いたいのね?」

「そうだ」

 

長年の自傷、すなわち、自らの行いに対する後悔や懊悩がもたらす歪みというものは、本人ですら、否、本人だからこそ、判別不能な呪いとなる。自分自身を救えるのは自分のみであるが、呪いを呪いであると判別し、指摘できるのは、余計な先入観を持たない第三者しかいないのだ。

 

「悪だのなんだのは、所詮、世間の良識と価値観がもたらすもの。そう言った意味で言えば、奴はそんな、奴からすれば歪んでいる世間をなんとか迎合しようとした結果、あれだけの技術を身につけ、そしてやがてそれが辛くなって、我を通した結果、悪と呼ばれる存在になった、と。ただそれだけのことなんだ」

 

あるいは、言峰綺礼のそんな歪みに答えを与えられる存在がいたのなら、彼も違ったのかもしれない。もしかすると第五次聖杯戦争において奴と組んでいた、第四次聖杯戦争において、奴が凛の父親より奪ったサーヴァント、ギルガメッシュという王こそが、そんな存在だったのかもしれない。

 

ギルガメッシュはその優れた智恵で他者の悩みを見抜くに敏い。言峰綺礼は第四次聖杯戦争において、ギルガメッシュというサーヴァントと出会い、歪みを見抜かれ、それを指摘され、自分を本位にすることを覚えたからこそ、言峰はそれまでの他者本位に過ごしていた反動で、他者に自らにとっての善い行い――すなわち、他者にとって悪とよばれるそれをばら撒かないではいられない人格になったのかもしれない。

 

「それが善意から生まれたものであろうと、個人の感情の押し付けは、他者を歪ませる。押し付けたものがその他者にとっての悪であるなら、それは悲劇と反発しか生まない。私はそれを、ようやく、先ほど、身をもって理解した」

 

だから言峰綺礼は、あの時、私を思い切り殴ったのだ。あれはきっと、衛宮切嗣という存在を嫌う奴にとって、そんな切嗣のコピーの様な存在である私に対して、奴なりにできる、最大限私に対して配慮と加減をした、奴の善意から生まれた指摘の仕方だった。

 

「だから凛もまぁ……、奴を許せとは言わないが、そうであると理解する事くらいはしてやってくれ。きっとそれが、奴にとって最大の救いとなるし、今の奴のライドウ救済の行為に対する報いともなるはずだ」

 

私はそんな奴の善意から出た行動に報いるべく、なるべく凛にも、奴のことを理解してくれるよう頼んだ。

 

「――そうね。ま、あんな奴でも一応、私の魔術や格闘術の師だし……。――――――、ライドウを救ってくれたわけだし、一応、知っておくくらいなら、ね」

 

凛はそして、強い彼女らしい割り切りの良さで、ある程度、奴のそんな歪みと在り方を認めることを許容したらしい。私は彼女と分かり合えたこと。そして、言峰綺礼という人物のためになにかできたのかもしれないという自己満足を得ると、聖句を唱える言峰に意識を戻す。

 

「Agnus Dei,qui tollis peccata mundi.miserere nois.Agnus Dei,qui tollis peccata mundi.dona nobis pacem/神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、我らを憐れみたまえ.神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、我らに平安を与え給え」

 

奴の詠唱はミサの終盤に語られる、ヨハネ福音書の一説、Agnus Dei/平和の賛歌へとさしかかっていた。世間にとって悪であると自認する奴が平和を詠う。それが奴を理解しようと努め、勝手ながらも、他者に奴を理解をする頼み込んだ私に対しての何よりの報酬として、私の心の中に落ちて、溶け込んだ。

 

 

「Ite missa Est.Deo gratias!」

 

言峰綺礼はそして高らかに声をあげた。解散を意味する語句がそのまま、術式の終わりを告げているのだろう、声とともに言峰綺礼は閉じていた目をカッと開くと、ライドウの頭に乗せていた腕を払う動作をする。

 

「あ、あぁぁぁぁぁぁ!」

 

同時に、ライドウの上半身にへばりついていた狼の顔が彼の纏うマントやメリヤスのシャツごと引き剥がされ、地面へと投げ捨てられる。呪いが引き剥がされた衝撃は相当もものだったらしく、ライドウは雄叫びをあげた。その咆哮は、彼本来の、白皙の顔の口から漏れた、苦悶を告げるものだった。

 

『ライドウ!』

 

ライドウが崩れ落ちると同時に、ゴウトが彼へと駆け寄った。ゴウトは顔を綻ばせて、ライドウの帰還を喜んでいた。正義の味方は呪いの中から救い出されたのだ。だが一方。

 

『の、呪いが……、こ、これは、ちょ、ちょっと、冗談抜きでまずいですね……』

 

言峰綺礼が腕を払った先、ライドウに取り付いていた、そして今しがた依り代を失ったフェンリルの蠱毒の呪いは、黒い塊となって毒々しく蠢いていた。その中からは玉藻の声が聞こえてくる。普段ふざけて飄々としている彼女の声には、しかし、一切の余裕というものが感じられなかった。

 

「響、玉藻を管に戻せ!」

 

玉藻が危ない。そう感じた私は、慌てて響へと指示を飛ばした。

 

「や、やっていますけど、力が大きすぎて……!」

 

そして視線を送ると、響はすでに彼女を管に戻すべく、管のスライドを動かし、呪いの塊の方へと管を向けていた。だが――

 

「で、でも、呪いが強すぎて……」

 

響は玉藻を管に戻せない。彼女が呪いの塊から管の中に収められるマグネタイトは、元の玉藻を構成するマグネタイトにしてはあまりに少ない。私はすぐにその原因に思い当たった。ツールマスターであり、道具の力を十全に引き出せるとはいえ、神道の修行が足りない彼女では、神道の術式に基づいて編み出されたその魔術道具の力を引き出すことができないのだ。

 

「玉藻!」

 

先程、それでも彼女が玉藻――すなわち九尾の狐という、最高クラスの神獣を管に収めることができたのは、玉藻という優れた呪術師である彼女自身がそれを望み、彼女の未熟をサポートしたからである。すなわち、この度も、彼女のサポートなしに玉藻を管に収めることはできまい。そう判断した私は呪いの中にいるだろう玉藻へと呼びかけるが――

 

「やってますよ! でも、フェンリルの……、狼の呪いが犬神化して、私の中の狐の概念に対抗を……! この暗黒イケモンから生まれたやっこさん、優秀な依り代を失って、大暴れなんです! それで失った損失を少しでも補うため、私を取り込もうと――!」

 

だが玉藻は、それに応じることができないという。

 

「狗神と狐という相性の悪ささえなければ、どうにかして見せるんですが、この相性というやつばかりはどうも如何ともし難くて、どうにも……!」

 

どうやらライドウの動きを止めて彼を呪いから解放するため、借体成形の術――がを使って同化し狼男の中へと意気揚々と入り込んだ玉藻は、呪いの中に入り込んでその目的を達成したは良いものの、ライドウと呪いが分離した時、その中の狼成分、すなわちフェンリルが自らを取り込もうとする程に強く抵抗し、狗神化するとは思っていなかったらしい。

 

――どうする?

 

助けを求めるようにして辺りを見渡すも、誰一人として私の視線に応じるものはいなかった。凛も、響も、言峰も、ランサーも、誰一人として、呪いが巻き起こす暴風を前にして手出しが出来ないでいる。フェンリルの呪いは、この世の全ての悪/アンリマユと比べても遜色ないほど、否、それ以上に強烈で、目に見えるほど濃密な、呪いの塊だった。

 

アンリマユが人に対する憎しみから生まれ落ちた膿とするならば、フェンリルの呪いは、自然が持つ存在意義そのもの。それは人間に対してのみ破壊をもたらす指向性のある呪いの塊ではなく、無意識が生み出す生存本能の塊とでもいうべき、純粋な、生きたいという意志の塊だった。あの呪いは、ただ死にたくないと足掻くだけの、憐れな祈りによって生み出された存在なのだ。ならばすなわち、あれの正体とは、自然そのもの。すなわち、森羅万象。

 

――そんなもの。どう対処すれば良いというのか

 

「――フェンリルをどうにかすればいいんだな?」

 

悩むその時、そんな停滞と倦怠を吹き飛ばすかのような頼もしい声が聞こえてきた。その声に胸の奥から希望に満ちた感情が湧き上がってくるのは、正しくその声の主人が今代の正義の味方である証明とも言えるだろう。

 

「ライドウ!」

「――すまない。迷惑をかけた」

『まったくだ! これではいつまでも目が離せんではないか!』

 

復活したライドウの側でゴウトが怒鳴る。表面上の態度と言葉こそキツイものがあるが、その実、誰よりもライドウの復活を喜んでいることが、頬の髭を揺らしながら、嬉しそうに尻尾をふる所作から簡単に理解することができた。ライドウはそんなゴウトの声を真摯に受けとったのだろう、目を伏せて、少しばかり顔を逸らすと、しかしすぐさま覚悟を決めたように頷いて、私たちの方を向いた。

 

「――そしてありがとう。助かりました。――、だからあとは、自分がやります」

 

そしてライドウは足の靴下から一本管を取り出すと、スライドさせてその中身を露わにし、呪いの塊へと向けた。本来の所有者である神道の修練を終えている彼の手に収まった管は、響とは比べ物にならないほど膨大なマグネタイトを呪いの塊から吸収してゆく。響のそれがそよ風だとしたら、ライドウのそれは荒れ狂う嵐の中のそれだった。

 

『ライドウ! 何を!』

「――自分が場を整えます。フェンリルの呪いや蠱毒の術式が如何に強力であろうと、それが意思を持たない自然の本能に由来する力であるというなら――」

 

そしてライドウは管とは逆の手に持っていた剣をゆらゆらと揺らした。まるで幣の如く祓魔の剣が左右に振るわれるたび、暴れる呪いは微かにその動きが鈍くなり、荒ぶるマグネタイトの奔流の状態も、鎮静化する。

 

『そうか! ライドウ! 貴様は斎庭を整える神主の役割を果たそうというわけか!』

 

それを見た瞬間、ゴウトは大いに叫んだ。

 

「――はい。自分が、呪いの中の余計なマグネタイト――、フェンリルの呪いの部分を鎮め、調伏する役目を引き受けます。その隙に、響は玉藻を……」

「はい!」

 

ライドウという最高の補助輪を得た響は、一歩前へと踏み出し、管を前へと押し出した。

 

『なんてイケ魂……! ああ、でも、これで、ヤタガラスの尖兵なんかじゃなかったら!』

 

すると、ライドウのサポートと響が近づいた影響か、響の中へと吸い込まれるマグネタイト量が増し、管と呪いとの間から聞こえてくる玉藻の声に余裕の態度が戻り始める。熱を取り戻した彼女が恋慕の方向に暴走するのを無視しながら、響はさらに近づき、そして近づくごとに、彼女の手中に収まっている管へと回収されるマグネタイトの量が増えてゆく。

 

『あと少しで……、ご主人様、ファイト!』

「は、はい――、これで!?」

 

なんとも気の抜ける声援を玉藻が送り、響がそれに応じて、玉藻を回収し終えるその寸前、フェンリルの呪いの塊は、一瞬、ひどく小さな直径一センチ以下の点にまで収縮したかと思うと、直後、膨張し、増大し、破裂した。

 

「――――――――――――え?」

 

それがあまりに瞬時、かつ、予想外の出来事だったのだろう。凝縮された力を放出するかのように黒点より飛び出した呪いの濁流は、呪いより玉藻の成分を回収していた響へ向かって突撃すると、彼女へと襲いかかる。玉藻の回収に意識を集中していた響は、間の抜けた声を上げるので精一杯のようだった。

 

『いけない! ご主人様、避けてください!』

 

玉藻が絶叫する。

 

「いかん、響!」

 

その叫びに反応して、反射的に体が動いていた。私は呆けた彼女を助けようと手を伸ばし、その体を突き飛ばそうとするが、それは叶うことなく、そして――

 

助けてください、お願いです、苦しいんです、辛いんです、なんで僕だけ不幸なんだ、なんで俺だけ報われないんだ、なんで私だけこんなに惨めなの、頑張っているのに誰もわかっちゃくれない、結局コネ持ちが最強かよ、才能あるやつはいいよな、努力は才能だよ俺にはそれが出来ない、金持ちは死ね、なぜ俺はこんなに恨まれるんだ、儂は何のために生きてきたのじゃ、何であいつはあんなに強い、何で俺はこんなにも弱い、何で儂はこんなにも醜い、何で私はこんなにも苦しい、何で僕は生き辛い、何で誰も俺を理解しないのか、何で何で何で何で何で何で何で何で、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い、クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね――――――

 

「ッ――!!」

 

脳の神経が焼き切れそうな呪いが脳髄へと直接叩き込まれた。それもただの呪い怨みではなく、この世を自分で道を選ばずに、何もできなかったと後悔した者の、心底、自分を、他人を信じる事のできなかった、そんな人間たちの、極限にまで肥大化した自己愛や、エゴや、ルサンチマンより発せられた、残念の塊だった。さらに彼らは、そんな自らの残念を晴らすべく、自然の力を取り込んで、強大化していた。群れが発するあまりに攻撃的な侮蔑の念の衝撃に情を感じる機能を取り戻したばかりの私は堪えきれず、意識が薄れてゆく。

 

「やれやれ、本当に、手間のかかる……」

 

そんな、誰かの呆れた声が耳に飛び込んできたのを最後に、私はそして完全に意識を失った。

 

 

ハイ・ラガード公国 近隣

 

 

「アカシックノヴァ!」

 

鎧をまとった異形が世界を切り裂く光を放つ。周囲一面へと氾濫した光塵が周囲にある全ての粒子の接合を分断し、光は破滅をもたらす刃となりて、異形の周りにある全てのものを粉砕した。しかし。

 

「フレイ!」

「!」

 

彼が生み出した灰塵からは、一瞬前に自らのみが滅びたという事実を拒絶するかのように、塊が飛び出してきた。塵芥は塊となり再生し、彼への追撃のためだろう、粉塵の中からつい先ほどフレイが空気の中に返したはずの存在が鎌首をもたげる。しゃがれた声の成人男性の呼びかけに反応して、フレイと呼ばれた異形は、その場から飛びのいた。

 

「しつっこいんだよ、この蛇野郎が!」

 

そしてフレイへと声をかけた人物が、掛け声とともに灼熱の炎を放ち、それは煙の中で蠢く再生しフレイへの攻撃体制を整える存在へと叩きつけられた。空中、地上より飛び上がった、灼熱の全身を抑え込むかのように紅い鎧を待とう男から放たれた炎は、鎧男によって酸素濃度を調整制御され、一定空間にしか火が広がらないよう調整されていた。すなわち炎は、再生しかけていた魔物の体へと纏わりつき、苛立った紅鎧男の感情を表すかのように、爆裂する。

 

「爆炎陣!」

 

男の攻撃により生まれた炎は、一定の上下空間にのみへと拡散し、広がった炎はやがて上下天地の一部を絢爛に蹂躙する柱の如きものとなる。一瞬のうちに燃え広がった焔のうち、地に落ちた炎は森林を灰燼と化し、共に大地を焼き、空へと上昇した炎は上空の雲を貫き、宙の彼方へと飛翔した。直後、酸素という燃焼触媒を失い、豪炎より生み出された火が、周辺の森を焼き尽くすよりも先に、あっけなく消失した。その後には、何一つとして、生命の痕跡が残らない、文字通り空白地帯が出来上がる。

 

「これで――!」

 

自らが作り上げた消失空間に、正しく何もいないことを確認した鎧男は、自らが成し遂げた功績を誇るかのように胸を張り、地上に着地すると同時に、着地の際、地面へと移っていた視線を、空白だった場所を戻そうとして――

 

「ベルトランのおっさん、あぶねぇ!」

「――だめ!」

「うぉっ」

 

しかして、自らの攻撃によりなにもなくなったはずの場所から、先ほどと同様の襲撃があることを仲間の声により知った鎧男――ベルトランは、しゃがんだ姿勢から折りたたんだ両足に溜められていた力をそのまま解放して、後方へと大きく跳躍した。

 

「――まじかよ……」

 

跳躍の最中、彼は視線を前に戻した男は自らの眼前、先ほど自分が着地したばかりの位置に、鱗も皮膚も、それどころか脂肪どころか筋肉もないのに、骨だけの状態で稼働する、それなのに、先ほど生身であった時よりも巨大となった蛇の姿を発見して、驚愕した。

 

「どんなバケモンだ、ありゃあ! ――ッ!」

悪態を吐くため一瞬意識を自分の内側へと逸らしたその次の瞬間、自らの戦いにおいては瞬きすらも許さぬと言わんがごとき再生速度で、蛇の体には骨だけだった肉体に血と肉と皮膚と鱗とを貼り付けられた。事象に呆気を取られて実際に瞬きし、瞼を開いた次の瞬間には、完全再生した敵の先ほどの三倍以上は巨大となった頭は、思い切り鎌首がもたげられている。

 

――やべぇ……!

 

攻撃の直後、跳躍したばかりの空中という最悪の条件下に自らが追い込まれたことをベルトランは悟った。鎌首もたげた蛇の首がさらに後ろへと仰け反り、止まる。蛇の攻撃体制が整ったのだ。死の気配を嗅ぎ取ったベルトランは、真っ赤な炎に包まれたような鎧の奥、背筋に思いっきり冷たいものが走り、顔色を青くした。

 

「エイミングフット!」

 

死を覚悟する間も無く放たれようとした蛇の攻撃の瞬間、先ほど彼を救った声が再び割り込んだ。ベルトランが声の方へと視線を送ると、声を発した男がその叫び声とともに、弓から一矢を放っているのが目に入った。強弓から放たれた、声と同等かそれ以上の速度で巨大蛇へと迫るそれは、蛇がベルトランへと攻撃する前に、蛇の地面と接触している肉体部分を貫き、体内へと侵入する。

 

「――――――――」

 

彼の手から放たれた矢には、命中した部位を動きにくくする、縺れ糸がもたらす『縛り』に似た効力を発揮するスキルの力が込められていた。英雄と呼ばれるまでに至った彼が使うそのスキルはかするだけでもが、相応の効力が発揮するほどに威力もスキルの効力も高められているはずで、貫通などした時になどは、どんな敵であろうと一定時間は足止めを保証できる程に極められたスキルであったが、しかし――

 

「――!」

「――チクショウ、やっぱり、あのデカブツ相手だとほとんど効果なしか……!」

 

それは巨大な蛇には通じない。いかに貫通した部分を動かしにくくするスキルが込められていようが、それがノミの一刺しでは意味がない。巨大化した蛇にとって、今彼が放った矢は、糸くずどころか、埃に等しい、障害となり得ないものだった。

 

「いや、ナイスだ、ボウズ!」

 

だが、そのノミの一撃に等しい攻撃は、足止めにこそならなかったけれど、彼の叫びと攻撃という行為自体が、蛇の気を引き、蛇の攻撃のタイミングを瞬間だけ遅らせていた。蛇の視線が微かに自身から逸れた事を見抜いたベルトランは、炎の鎧の籠手部分に取り付けられた長い爪を瞬時に展開し、地面へと突き立て、自らの体を地面と接地させ、そして、再び、跳躍。蛇が再びベルトランの方へと向けた頃、彼はそこからすでに離脱していた。

 

「フラヴィオ、ナイス」

「はは……、ありがとよ、クロエ。……、はぁ」

 

ベルトランの離脱を確認した叫び声をあげたもう一人の人物――クロエという少女は、弓を放った青年、フラヴィオにたいしてあまり感謝の気がこもってなさそうな礼の言葉を送る。クロエの気のない言葉にどう反応して良いものか、フラヴィオは如何とも例え難い唇の歪めかたをすると、後ろに短くまとめた黒髪を撫で上げ、苦笑いとともに、クロエへ返礼し、面を上げて自身の仲間であるフレイやベルトランが全力の状態で戦って、そして押されているのを見て、ため息をついた。

 

「くそっ、なんだよ、あの化け物……。どうしていきなりでかくなりやがる……!」

 

悪態を吐くフラヴィオ。視線の先では、ファーフニールの騎士と呼ばれる特異な姿に変身したフレイとベルトランが一切の加減が加えられていない攻撃を黄色い鱗の蛇へと加えている。彼らの攻撃に遠慮というものがないことは、二人の繰り出す攻撃の一撃一撃が、地を抉り、天を焦がし、大地を焼き、森林を消失させていることからもうかがえる。ファーフニールの騎士という、人間を大いに超える力を手にしている今のあの二人の手にかかれば、ハイラガード公国や、あるいはそこに聳え生える世界樹の中にある迷宮ですら、一日としないうちに廃墟や残骸と化してしまうだろう。しかしそんな破壊の一撃をその一身に受ける蛇は――

 

「クソッ、また再生しやがった、このデカブツ!」

「――やはり先ほどまでよりも大きくなっている……!」

 

彼らの攻撃を食らうたびに、頭部を、首部を、腹部を。背部を、消滅させられているにもかかわらず、次の瞬間には、何事もなかったかのよう、それどころか、以前よりもその身を巨大化して再生し、フレイとベルトランに襲いかかるのだ。

 

「なんだよ、あれ! どうなってんだよ!」

「……攻撃を食らうたび、大きくなっている?」

「そりゃ見りゃわかるさ! わかってるけど、だから、なんで……!?」

「――わからない。でも、理屈はわからないけれど、そうだという結果がわかったのだから、とりあえずは一歩前進」

「けどよ……」

 

フラヴィオは振り返って背後を眺めた。今自分たちが戦闘を行っているこの場所より二十キロほど離れた場所には、ハイラガード公国がある。

 

――もし、この攻撃を食らうたびに巨大化する化け物があそこまで到達してしまったのなら……

 

「でも、それじゃ、何にも解決してねぇ……。なんとか……、なんとかしなきゃ……」

「……」

 

フラヴィオの苦悩に反応して、クロエは頭に乗っけた三角帽子が落ちないように片手で抑えながら、もう片方の手で眼鏡を掛け直して、フラヴィオの見つめる方角を眺めた。彼よりも頭三つ分ほど低い彼女は、フラヴィオが見ているほどハイラガード公国の場所がはっきりとはわからなかったけれど、それでも天にまで屹立する世界樹のお陰で、それがどこにあるかということだけは、はっきりと知ることができた。その時。

 

「――フラヴィオ」

「うん?」

「何かきた」

 

ハイラガード方面の空の彼方、世界樹の幹の上、樹木に覆い隠されていた場所から、黒い点が徐々に大きくなりつつあるのを見て、クロエは呟いた。クロエと同じ方向を眺めていたフラヴィオは視点をハイラガード公国のある地の側から、世界樹の葉が青々と萌える天の方へと視線を移すと、瞼を細めて、そして見開いた。

 

「ありゃ……、本物の翼人の方の……、カナーンじゃないか!」

 

カナーン。それは以前ハイラガード公国を襲った、背中に白い翼をもち、全身に赤い鎧を纏う連中とは違う、ハイラガード公国にある世界樹の迷宮――ハイラガード公国に聳え立つ世界樹の中にある迷宮――の第四層に住まいし、亜人と呼ばれる種族の一人だ。カナーンはフラヴィオと同じ時代に空の民を自称する、自身らつまりは翼人たちを束ねていた古い人物のはずだが、どうやら彼もこの大召喚によって現世へと呼ばれていたらしい。

 

「クァナーン」

「発音が難しいんだよ。本人も笑ってカナーンでいいと許してくれただろ」

 

――いや、それどころじゃなくて……

 

「見つけた」

「カナーン! なんでここに!?」

 

フラヴィオとクロエが話している間にも距離を詰めてやってきたカナーンは、二人の頭上で止まると、呟く。フラヴィオは反応して叫び、彼へと問いかけた。頭部の飾り角が軽く揺れる。カナーンはそしてフラヴィオの問いに頷いて見せると、背中の翼を小刻みに羽ばたかせながら木と木の間を縫って地上へと降り立った。そして背中の羽を小さく折りたたむと、軽く指でそれを撫ぜたのち、暴れる巨大蛇を見たのち、背筋をまっすぐ正してフラヴィオを見つめなおした。

 

「ハイラガードの英雄たちよ。まずは君たちに感謝を。君たちがいたからこそ、クランヴァリネがごときあの蛇の――星の定めに従い天へと昇った神の間ではヨルムンガンドと呼ばれていたという不老不死の蛇がハイラガードの世界樹にまで到達することを避けられた。空の民は君たちに感謝をしている」

「ああ、それはどうも……ってそんな場合じゃねぇ! そうだ、あれを倒さなきゃ……!」

「仔細承知している。……ここで奴の足止めをしていたのが、かつて全能がごとき存在であったヌフゥを倒し、地の民を救った君たちであったというのも、星の定めというものなのだろう。――私は、あの蛇を倒す手段を知っている」

「ぬぁ!?」

 

カナーンの発した言葉に、フラヴィオは背を大きくのけぞらせて驚いた。

 

「まじかよ……」

 

意識を空隙にしたカナーンの言葉に、フラヴィオは思わず、後ろに仰け反った背を支えるため、足を一歩、後部へと移動させた。そして靴底が地面を踏みしめた瞬間、大地が大きく振動し、フラヴィオの体を大きく揺るがした。そこでようやく、カナーンの言葉が自身にもたらした衝撃を受け止め終えたフラヴィオは、カナーンの方へと身を乗り出す。

 

「ど、どうすりゃいい!? どうすりゃあの化け物を倒せるんだ!?」

「うむ……」

 

いうと、カナーンは背後、今しがた自らがやってきたハイラガード公国の方を振り向いて、指差した。

 

「今、その蛇を倒すための手段を、あるお方が調達しにいっている。どうやらかつてこの場所から君たちの手によって持ち出されたそれは、今、このハイラガードではなく、エトリアにあるらしいからな」

「え、エトリア!? 誰が! どうやってあれを倒せるっていうんだ!?」

 

蛇を倒す手段を尋ねていたところ、突如として飛び出してきた遠い場所にある街の名を聞いて、フラヴィオの脳裏はついに限界を迎え、混乱した。情報を適切に結びつけるための材料が足りなく混乱しているそんなフラヴィオの気持ちを察したのだろう、カナーンはゆっくりと首を縦に振ると、口を開いた。

 

「かつて我らが決して消えることのない導星――神と信じていたお方がそれを知っておられた。地の民の言葉でオーバーロードと呼ばれた彼は、つい先程、神剣ラグナロク――、否、呪銀の聖杯を求めて、エトリアへと旅立ったのだ」

「――」

 

カナーンの言葉に、フラヴィオは、あんぐりと口を大きく、顎が地面につくのではないかと思うくらいに開けて、言葉を失っていた。

 

「オーバー……ロード……」

 

決して感情の動きが表立って豊かに出ないクロエも、眼鏡がずり落ちそうになる程まで目を見開き、肩に引っ掛けたクローク型のコートがずり落ちそうなほど肩を落として、驚愕をあわらにした。当然といえば当然だった。なぜならオーバーロードというその名は。

 

「君たちの気持ちもわかるつもりだ。あのお方はかつて、禍……フォレストセルを倒すため、君たちの仲間であるフレイを殺し、自らの力にしようとした。君たちはそれを認められず、あのお方と敵対した。だから、その名を聞いて驚き、そして、負の感情が起こされるのは当然だと私は思う」

 

それはかつて、フラヴィオやクロエの所属するギルド――ラタトスクと敵として対峙した存在であるからだ。加えて、オーバーロードは、過去、世界樹の大地に住む新人類を地の民と見下し、ハイラガード公国に住む住人たちを人として扱わず、実験材料として見ていたこともある人物だ。そんな人物が今、世界の命運を握っているというのだから、フラヴィオとクロエの驚きもひとしお大きなものであった。

 

「――だが、信じてほしい。あのお方はあのお方なりに、世界を救いたいと考えていたのだ。彼は真面目で、一人で悩む人間で、だからこそ、追い詰められた時、それでもあらゆる手段を講じて人類を救うために犠牲を出してでも、自らがどのような存在になろうとも、世界を救おうとしたのだ。無論手段は褒められたものではなく、君たちにとっては特に、認めがたいものだっただろうが、それでもあのお方は、旧人類のために何かをしたいと真剣に願ったお方なのだ」

 

だが、カナーンはそんな彼を、庇う言葉を告げる。カナーンはオーバーロードとは異なり、フラヴィオやクロエらを援助し、迷宮踏破のために力を貸してくれた人物だ。そんな人物が自らの敵対者をかばうという事実に、二人は思考を停止させ、ただカナーンの話を聞くことしかできなくなっていた。

 

「――私はあのお方から話を聞いた際、そう思った。あのお方は君たちとの戦いの後に、自らの凝り固まった考え方を打ち倒された後、そういった昔の純粋に人を助けたいという思いを取り戻せたのだという。そして私は、私たちは、たしかにあのお方は空の民を導いたお方なのだと感じた。だからこそ、今回我らの目の前に姿を現した時も、あのお方は率先して地の民との接触を拒む我らを導き、我らは空の民は、こうして世界樹の迷宮の外へと姿を現したのだ」

 

そうしてカナーンの話を聞いていると、やがて彼は自らがやってきた方角を指差した。

 

「――あ……」

「黒い点が……たくさん……」

 

二人の視線に、彼の細い指の先、ハイラガード公国に生える世界樹の上層部、葉の生い茂る部分から黒い点が大量に広がったのが映る。黒い点はやがてこちら……今、さらに巨大な姿となった蛇のいる方角へやってきた。

 

「これは……」

「翼人たちが蛇を攻撃して……」

 

そして黒い点は、やがてカナーンと同じように翼人の姿を露わにすると、巨大蛇――ヨルムンガンドに向かい、手に持った弓から矢を放ち、あるいは、剣を、槍を突き出して、空から蛇を強襲し始める。呆然としている二人にカナーンは告げた。

 

「文化の垣根を越えての交流は難しい。価値観の違うもの、身体能力に大きな際があるもの同士が手を取り合うのは、なによりも難しい。スキルを使えないあのお方は、だからこそかつて、スキルの使える地の民の気持ちが分からず、同じ人として認められず、天の頂に一人でこもることとなった。――しかしあのお方が、そんなあのお方だったからこそ、我らはあのお方を信じることにしたのだ。だから君たちも、どうかそんなあのお方を信じてほしい」

 

カナーンはそしてハイラガードからずれた方向を指差した。フラヴィオもクロエも、カナーンが指差した先には、エトリアがあるだろうことを予想した。彼の細い指が示した先、まだそのような時間帯ではないのに、空は不気味なほど、赤く染まっていた。

 

 

グラズヘイム北、エトリア西、名もなき平野

 

 

山一つ超えた先にある平野では、地平の彼方までを巨大な狼の上半分の頭が覆い尽くしていた。大きく引かれた上顎は下品な位天にまでそそりたち、次々と胃腑の中に森林地面を飲み込んでゆく。空も、雲も、その全てが狼の口の中に消えつつあった。

 

そうして大業に開かれた狼の口からこぼれ落ちた唾液からが地面に落ちると、それは即座に小さな狼となって、口を開いて世界を飲み込む大きな狼よりも早く、平原野山を疾走し駆け回る。

 

やがて疾駆する狼たちは、野山で他の生物を見かけると、即座に襲いかかる。郡となった狼の、牙が、爪が、獲物に対して突き立てられ、哀れ獲物となった生物は、即座にその命を失ってしまう。そして小さな狼たちは、身じろぎ一つしなくなった屍を作り上げると、再び命を奪取するために駆け出すのだ。小さな狼の役目は、大きな狼が小さな命の生物一つすらも取りこぼさないようにするため、仕留めることにあった。小さな狼は、大きな狼の、食事を補助する、肉を柔らかくする牙であり、唾液でもある存在だった。

 

こぼれ落ちる唾液より次々と数を増やす狼たちはやがて千を超え、万を超え、さらに無限に増殖してゆく。

 

「シングルバースト!」

 

そんな狼の軍材に向けて、裂帛の掛け声とともに、ハイランダーであるシギーの槍が突き出された。赤く霞む高速の一撃を見ることが出来たのは、この場において、技を放った彼本人を除いて誰一人としていなかった。スキルの掛け声とともにハイランダー自身の生命力が槍に注ぎ込まれる。彼の込めた命の炎はそのまま眼前に蔓延る敵を満遍なく討ち取るためのエネルギーへと変換され、穂先より神風のごとく扇状に広がった衝撃波は、彼の眼前に群がる狼どもの、頭部を、両前脚を、胴を、彼らの隙間を切り刻みながら貫き進んでゆく。

 

「はぁ!」

 

英雄と化したハイランダーが飛竜の脚より削り出した槍より放つその攻撃は、優れた狩人が獣を屠るための一撃というよりも、もはや自然災害の類が大した労苦もなく命を毟るような一撃に等しく、ハイランダーの一撃により、狼の群れはまるで収穫される稲穂のように、四肢を切り裂かれ、胴を貫かれ、命を手折られて、一秒前よりも軽くなった体が地面の上へと投げ出されてゆく。

 

穂先より生み出された波風が狼の隙間を通り抜けるたび、狼の鮮血と肉片が周囲へとばら撒かれ、血の溜まりは大地を濡らして、泥地の如きさまが拡大されていった。

 

「――大した数、減らせなかったか……」

 

やがてそんな地獄をつくった張本人は、百以上の狼の血と肉が自らのスキルによって赤の海に沈んだ様を見ても大した感想を抱かなかったようで、眼前を見据え、槍を構え直し、穂先を再度前方へと向けた。向けた槍の穂の先には、同類の鮮血と肉片浮かぶ血の海の中へと平然と足を踏み入れる、千を優に超える狼の群れの姿があった。

 

そうして同類の死体を踏みつけて進軍する狼どもの視線には、まるで生気というものが存在していなかった。先ほどまで生きていた同類の屍に対しても配慮や、容赦、情というものがまるで存在しておらず、まだ生きている仲間の身体すら、まるで路傍の石を転がすかの如く、雑然と、踏み、払い、蹴って、一目散にハイランダーの方へと向かってくる。

 

「いいや、十分だ! 大氷嵐の術式!」

 

そんな仲間の屍を文字通り踏み越えて疾駆する狼どもの前方に、巨大な氷塊の大きな楔が打ち込まれた。アルケミストであるアーサーのスキルにより生み出された天より降り注いだ無数の円錐状の巨氷塊は、見事に突撃してくる狼どもの眼前、屍と血の海の中に突き刺さり透明な分厚い壁となる。突如として現れた壁を前にして、疾駆していた狼どもはしかし全力の疾走を突然停止させることもできず、前方へと現れた氷の壁にぶつかった。最前を駆け抜けていた最も勇敢な狼が壁にぶつかった次の瞬間、彼の次に勇猛だった狼が、最勇だった狼の背後より彼へと体当たりをかまし、最勇の狼は、氷の壁に押し付けられることとなる。やがて後続から次々とやってくる狼たちからその衝撃を一身に浴び続けた狼は、やがて圧力に耐えかねて、生命を失った肉塊へと変貌した。

 

「しゃあ!」

 

アーサーは自らの行動が目論見以上の結果となったことに飛び上がって喜んだ。

 

「っと、今度はあっちからか!」

 

だが、そうして多少数を減らしても、目の前には千どころか万を優に超えるだろう数の狼が群れている。一切の手加減を考えない広範囲殲滅用の術式を用いれば、数十から数百程度の魔物なら一発で仕留められる自信もあるが、たとえそれだけの数の敵を屠れようと、あの数を前にしては、焼け石に水程度にしかならないのは明白だ。

 

それにもし万が一、相手の集団を討ち漏らしが多くが術の隙を塗って、こちらに攻めてきた場合、自分の身体能力は、シギーやラグーナのそれに大きく劣るわけなのだから、アーサーの死はほぼ確定する。もちろん、そんな万が一の時に備えて、パーティーの守りを担当する、パラディンのラグーナ、傷を癒してくれるメディックのサイモンが控えていてくれる。

 

とはいえ、そうして抜かれた狼との乱戦になった場合、数の少ないこちらが不利になるのは変わらないのだから、まず優先すべきは敵を一方的に嬲れる状況を作ることが肝心だと、アーサーは考えたのだ。

 

「任せたぜハイランダー!」

 

故にアーサーは、まず敵と自分らとの間に、巨大な遮断壁を自らの術式で作ることを味方に提案した。

 

「ああ任せろ! シングルスラスト!」

 

ハイランダーの一撃により、再び敵の血が、体液が、地面へとばら撒かれる。

 

「もいっちょ! 大氷嵐の術式!」

 

そして少しばかりの時間をおいて地面へと浸透した血液や体液といった液体の沈殿により多少柔らかくなった地面に向けて、アーサーの術式によって氷塊が打ち込まれる。スキルの力によって生み出された円錐状の氷塊は地面深くに突き刺さると、湿った地面に打ち込まれた氷塊の杭が持つ氷スキルの力は、即座に突き刺さった地面から広がり、浸透した血液までを凍らせ、多くの摩擦を奪ってゆく。

 

「――」

 

出来上がった即席の氷上で、狼たちは足を縺れさせながら、すぐ目の前に出来た壁へと激突していった。爪を突き立てて止まろうとする輩もいるが、残念、そんな努力は、後続の、地面の異変に気づかぬ狼の蒙昧さによって妨げられる。そうして狼たちは次々と氷壁に突進しては、その命を散らしてゆく。

 

「シングルスラスト!」

「大氷嵐の術式!」

 

二人の攻撃の連携で、狼たちはその数を減らしてゆく。極みに至ったハイランダーが一切の加減なく放つ攻撃スキル『シングルスラスト』は突撃してくる敵の軍勢の命が刈り取られ、生まれたその隙間に、同じく、極まったアルケミストが放つ『大氷嵐の術式』によって生まれた巨大な氷の塊が壁として、柵としてねじ込まれ、敵の進軍の邪魔をし、また同時に、幾分かの狼が命を散らしてゆく。

 

彼らはたった二人で、千万の敵がエトリアに向かうのを防いでいた。

 

「いやー、たいしたものよねぇ、実際。私たち、必要ないんじゃないかしら」

 

赤髪の女性、ラグーナが、手にした巨大な盾と剣をブラブラと遊ばせながら、卑屈がちに二人のそばで言う。パラディンである彼女の役目は、パーティーの盾となり、近づく敵から攻撃役の彼らを守り、傷つくことを防ぐこと……。――なので、味方が、敵の攻撃が届かない、超遠距離からの攻撃による一方的な殲滅戦法を取ると決めた時点で、彼女はこの戦場において、よほどの緊急時以外にはやることのない、置物になってしまっていた。

 

「まぁ、医者と盾役は役に立たない方がいい。そう思うことにしておこう」

 

白衣を着た青年、サイモンがその隣で彼女を慰める。慰めの言葉の中に自虐の言葉が入っているあたり、まだラグーナよりもよほど余裕があるようだ。

 

「大氷嵐の術式!」

「――それに……アーサー!」

「あぁ!?」

 

サイモンはそして聞こえてきたアーサーの術式を叫ぶ声に反応して彼の方へと振り向き返なおすと、肩からかけている肩掛け布鞄を漁って小瓶を一つ取り出して、額に玉の汗を浮かべている彼の方へと放り投げた。

 

「アムリタⅡだ。そろそろ疲れが溜まってきた頃だろう」

「おぉ、サンキュー!」

 

アーサーは自ら向けて飛んできた回転する小瓶を器用に大きな金属籠手のはまっていない方の生身の手で器用にそれを受け取ると、礼を言ってその精神の疲弊を回復させる薬の蓋を開けた。サイモンは彼が道具を使用する姿を見届けることもなく、ラグーナの方を向く。

 

「――こうして、道具使いとしての役割があるから、何の役に立てないと言うわけでもない。それに、どのみち僕たちの役目は時間稼ぎだ。それさえできれば、誰が活躍しようができまいがどうでもいいことだろう」

「……そうね」

 

サイモンの言葉に、空を見上げた。視線の先は、巨大化し、世界を飲み込もうとしている狼の南へと向けられている。巨大な狼が身じろぎひとつしただけで崩れそうな頼りない大地の上、赤髪の彼女の先には、そんな乱暴者が世界の全てを台無しにする前に、静かにその命を刈り取る兵器が、発射されるその時を今か今かと待っている。

 

「ねぇ、サイモン」

「なんだラグーナ」

「あの時、私たちの判断、間違っていたのかしら?」

「――……」

 

サイモンは黙然とラグーナの方を眺めた。サイモンは自身も一歩前にいるラグーナの表情を見ることが叶わなかったが、それでも彼女がいう「あの時」が何を示していて、私たちの判断というのが、何を示しているのかは、はっきりと理解することができた。

 

サイモンは少しばかり逡巡したのち、先ほどまでの戦闘の時よりもよほど肝と目の座った表情を浮かべて彼女の横に並び立つと、その肩を叩いた。

 

「そんなことはない。あの時、僕たちの判断は間違っていなかった。それだけは間違いない。あの時僕たちがマイクを止めなければ、エトリアはかけらも残さず消滅していたし、そこに住まう人々は、死んでいた。――だから、あの時の僕たちがグングニルを止めたという選択をしたのは間違っていなかった」

「でも……」

「二つの手段は、フォレストセルの討伐という目的こそ同じだだったけれど、マイクはマイクの正しいと思う手段があって。僕たちは僕たちで正しいと思う手段があった。彼は過去の経験とデータに基づいた大のために小を切り捨てるが確実に結果を得られる手段を正しいと思い、僕たちは小を切り捨てるということが容認できず、不確実な手段に賭けた。戦略的視点から見れば、マイクの方が正しくて、戦術的視点から見れば、僕たちの方が正しくかった。だから僕たちは敵対することとなって、そして僕たちが彼を撃ち破り、案を成功させて、エトリアを救った。ただそれだけの話だろう」

「そう、ね。――ねぇ……」

「なんだ」

「リッキィ、上手くやれるかしら」

「大丈夫だろう。彼女はあの時と違う。もう大人だ。――そろそろ時間だ。離脱しよう」

「ええ……そうね」

「よし……、シギー! アーサー! 」

 

ラグーナが糸を取り出したのを見て、サイモンが前線で暴れている二人に声をかける。ラグーナは再びグラズヘイムの方向を眺めた。狼の口の端から漏れる気炎が尾を引いて、空がいつもより不気味な赤色に染まっていた。

 

 

エトリア近隣、モリビトの村

 

 

緋色に変わりつつある空を眺めながら、ヴィズルは息を吐いた。地上の位置がかつての地上よりも高くなってから数千年。もう気が遠くなるほど長い間、同じような空を眺め続けてきたが、こんなにも胸のすく、晴れ晴れとした色であるのは初めてだった。

 

「――ヴィズル?」

「いや、なんでもない」

 

燦然と輝く空の色を眺めていると、人と変わった外見をしている女性……モリビトのシララが話しかけてきた。つい先ほどまで村に住むモリビトの避難活動に従事していたためか、病的なくらい真っ白な肌は、少しばかり赤く火照っている。

 

シララ。モリビトの彼女は、かつてまだエトリアの迷宮が攻略されていなかった時代に生まれ落ちた存在であり、そして、特殊な事情により、ほぼ不老不死に近い体質となったその後、数千年もの間、このモリビトの里にて長として君臨し、彼らを守り、そして見守ってきた。シララはモリビトの母であり、父でもあり、親そのものに等しい存在でもあった。故に。

 

「シララ様……」

「なんだ、お前たち。まだいたのか」

 

彼女はほとんど全てのモリビトから慕われている。村からの避難指示が彼女より出されたというのに、誰もが手ぐすねを引いて、彼女の周辺から離れようとしていない。

 

「早く行け。この村はもう捨てろ。最小限の荷物を持ってエトリアに避難し、クーマという男を頼れと言ったはずだが」

「で、ですが、シララ様……」

 

異議を唱えたモリビトは、彼女を慕い集う中でも特に年老いた外見をしていた。もう百年近くは生きて、老境どころか魔境に入ってもおかしくない年頃であるのに、そうした老人が見せる態度が、まるで幼き子供が母にすがるようであるのを見て、ヴィズルは倒錯感を覚えた。

 

「貴女は……」

 

よく見れば、彼以外のモリビトも、同様に、おずおずとした態度で、別れを惜しむというよりは、むしろ、自らたちの手を引いて優しく導いてくれる者がいなくなってしまうことに怯える迷宮に迷い込んだ子供のようだった。ヴィズルは思う。シララ以外のモリビトは、見た目に反して、あまりに思考が幼い、と。

 

「私はやるべきことがある。そしてもう戻らないと言ったはずだ。――さぁ、いけ」

 

そしてシララはそんな彼らの無言の嘆願をバッサリと切り捨てると、手を大きく払って、彼らを村の外に追い出す所作をした。モリビトたちは、シララがもう決断を覆すことはないのだと彼女の所作から悟ると、徐々に、徐々に、一人、また一人と、その場から立ち去ってゆく。ヴィズルはそれを、シララの背後でじっと眺めていた。そうして彼女を除く、全てのモリビトたちが村から脱出し終えたのを確認すると、シララは、その小さな肩を大きく上下させて、ため息を吐いた。

 

「待たせた」

「いや」

「――笑うか?」

「――何を?」

「私と――、彼らをだ」

 

言葉は少なく、そこに込められている感情も少ない。だが、ヴィズルにはシララが何を言わんとしているのか理解ができた。彼女がそうしてやってきた事は、ヴィズル自身もエトリアという街において、行った出来事であるからだ。

 

「彼らはあんなに大きななりと立派な外見をしていながら、最終的に私が判断を下さなければ動こうとしない。私は彼らから決断力と思考力を奪ってしまった」

 

愛しいが故に、守る。自らの庇護下に置き、守る。彼女が善意の元に行ったそんな行為は、彼らは自らが何とかしてやらねば、歩くことすらままならない弱い存在だと思い込んで、自立して自らの足で歩んでゆく力を奪ってしまった、と。シララはおそらく、そう思い込んでしまっているのだろう事をヴィズルは察した。そんな葛藤に、ヴィズルは覚えがあった。

 

「笑わないとも。そう思ってしまいたくなる気分はよくわかる。なにせ、私も君と同じようなことを千年エトリアでやっていたのだからな。だが、なに、そう心配することはないさ」

「――なぜ言い切れる?」

「成長はいつ何歳になってもすることができると知ったからさ。どれだけ行動や思考が凝り固まっていても、きっかけがあり、環境が変われば――、人が何歳になっても変わることができる。そして彼らはこの度、その機会を得た。だから、彼らもなんとかなっていくだろうさ」

「――そうか」

 

ヴィズルの言葉にシララはくよくよとしたお思い煩いが吹き飛んだようで、打って変わって満足した表情で、ヴィズルへと柔らかい笑みを浮かべてみせた。

 

「ありがとう。お陰で最期、先ほどまであった胸のつっかえが取れた」

「――そうか」

「ああ。では、やろうか、ヴィズル。――これから、フォレストセルの封印を解く」

「ああ」

 

ヴィズルの応答に対して、シララは目を閉じて念ずる。すると彼女の体は、その小さな体の輪郭がまるで泡沫のように薄れてゆく。昼と夜の狭間の時のように、空と海の境界のように、彼女と世界とを分けている境界は薄れ、彼女の存在は世界に溶け込んでゆく。

 

やがて薄れていくシララの体は黄金の霞へと変生してゆく。かつてシララだった存在は、ヴィズルを包み込むと、太陽の燐光と見紛うほど大きく光を放ち、やがて光が収まった頃、モリビトの村であったというその場所には誰の姿も見当たらなくなった。

 

ここにモリビトの村は、数千年前より紡がれてきたその歴史を閉じたのだ。すぐ近くでは、巨大な狼が暴れている。

 

 

エトリア、街中心、ベルダの広場

 

 

――グワッシャーン

 

「なんだぁ!?」

 

エトリアに残った数少ない衛兵は、突如として耳に飛び込んできた激しい異音に驚いて飛び上がった。今、エトリアには戦いを前に張り切り仕切ろうとする戦争屋や冒険者は多くいても、エトリアの市民の心を宥め、安心させようとする人間は殆どいない。そんな状況において、街中に蔓延するピリピリとした肌を突き刺すような空気が、彼を神経質にさせていた。

 

「あ……、あ……」

 

そして振り向いた先、見たこともない景色――、否、見慣れてていたはずの建物がなくなっているという事実に、彼はほとんど完全に言葉を失っていた。

 

「て、転移所が……」

 

ベルダの広場の目と鼻と先、微かに側で鎮座しているはずの転移所というエトリアへの窓口は、今、単なる瓦礫の山へと成り代わっていた。

 

「これやひでぇや……」

 

出てくるのは動けなくなるほどの怪我をしているか、あるいは疲労困憊状態の真っ青な顔の冒険者ばかりということで、口の悪い連中からは死体安置所/モルグだの緩和病院/ホスピスだのどこで覚えたのかわからん小洒落た呼ばれ方をする謎を不気味な四角い箱物でも、なくなってしまうとこんなにも違和感と寂寞感を覚えるものなのだと、衛兵は呆然と思い知った。

 

――なんだぁ、敵の攻撃か!?

――お、おい! 転移所がぶっ壊れてるぞ!?

――なんだと!

――こりゃひどい……噂の翼人とかいうやつの仕業か?

――知るもんか!!

――お、おい、なんか動いてるぞ!?

 

「――うぉっ!?」

 

――き、機械の化け物だぁ!

 

やがて突然の異変に驚かされ呆気に取られていた衛兵は、崩壊した転移所の跡地より巨大な機械が現れたのと、自分と同じく転移所の異変に気付いた街の人間たちが集ってくるのを見て、自らの職責と役目を思い出した。

 

「ま、まて! そこのデカブツ!」

 

衛兵はそうして転移所のあった場所、瓦礫を押しのけて現れた巨大な機械の前に躍り出た。だが。

 

――こりゃあ……

 

機械は衛兵である彼よりも三周りも四周りも、それどころか十周り以上も大きく、転移所の一階、二階部分を埋め尽くして、なお、余りあるくらい巨大な機械の車の化け物だった。真っ赤に塗られた全身を無機質にカタカタと揺らすそれは、彼が迷宮で見てきたどんな魔物どもよりも、恐ろしく映った。

 

――ヤベェもんの前に飛び出しちまったぞ……!

 

彼は以前、ガンナーの職業についている人間と共同で迷宮に潜ったことがある。衛兵の彼は、冒険者の持つ手のひらに収まるほどの小さな銃から飛び出た弾丸が自分よりも巨大な魔物を仕留めるところを、幾度となく見てきた。ガンナーの彼によると、銃というものは、小さいよりも大きい方が威力が高いらしく、さらに弾丸の飛び出す部分――砲身が長いほど、さらに威力が高まるものであるらしい。

 

――なんてデカブツを持ってやがる……

 

しかしてそんな理屈に当てはめると、目の前に現れたこの機械のデカブツは、銃とは引き金を引けば簡単に魔物を討伐できる武器であるという知識を持つ衛兵にとって、とんでもない化け物であるかのように映っていた。

 

なにせ目の前のこいつは、ガンナーの冒険者が持っていた銃よりもずっと長い砲身を七つも持っているのだ。そのうち二つ、機械の足だろう台座の部分に取り付けられている二挺は自分の持つ手槍と同じくらい小さなーーそれでもガンナーの彼が持っていたものよりもずっと巨大な――砲身だが、その二つの銃身が備え付けられた台座の上に備え付けられたそれらは、人間一人をその砲身の中に埋め込んで、なお余りがありそうなくらい、巨大で、長い砲身だった。

 

――あれが撃たれたんなら、タダではすまない……

 

ガンナーの冒険者が放った一撃が迷宮の魔物に命中した瞬間、その命中した部位が弾けて吹っ飛んだ所から予想するに、あの砲身から一撃が放たれれば、その瞬間、自分の身くらいは吹き飛ぶような一撃が放たれるだろうことは、彼にも簡単に予測ができていた。

 

――カタカタカタカタとウルセェし、何考えてるのかわかんねぇ……

 

敵かもしれないあの砲身から弾丸が撃たれれば、自分は死ぬ。あの砲身の開かれた穴が自分の方を向いたそのとき、次の瞬間には自分は木っ端微塵になるかもしれない。今更ながらに飛び出したことを、衛兵は軽く後悔した。が、それでも彼がその場から撤退しようとしないのは、それは彼にとって、長年を衛兵として過ごしてきた本能のようなものだった。

 

――けど……

 

彼は、自身のことをその辺のどこにでもいる、名もない衛兵のうちの一人であると自覚していた。最近現れたエミヤだの、シンだの、あるいは最近いなくなったエトリアの住人の代わりに現れた古い伝説を持つ英雄たちなどよりずっと戦闘の力が劣っていて、彼らなら一捻りで倒せるかもしれないこのような化け物相手でも、簡単に捩じ伏せられてしまう程度の存在でしかないことを、よく知っていた。けれど。

 

――だからといって逃げる理由にはなんねぇな……!

 

彼はどこにでもいるような衛兵で、自分がどこにでもいる一般人であることを理解したうえで、その上で、そんな自分のあり方を気に入っていた。日々の生活に不服はあったし、適当なところばかりで夢中になれるもののない自分を完全に好きになれるというわけではなかったが、それでも彼は自分の存在を完全に嫌いではなかった。

 

彼は生粋のエトリア人で、何か新しいことをしようとすれば案外どんな道にでも進むことのできるエトリアという街が好きだった。多少の不自由はあれど、この自由の気風を重んじる街がこんな自分を育んだということを事実を好んでいたし、元からこの街に住まう古い知り合い達も、そんな自由の街にやって自由に生きていろんな風を巻き起こす異邦人も、その全てを彼は好んでいた。

 

「おい、デカブツ! こっちを見ろ!」

 

だから衛兵はそんな街を破壊する者が許せず、破壊者の前に飛び出したのだ。彼は大きな砲身で身を固めた巨大な機械車の前に飛び出すと、衛兵に貸与される紋章の入った盾を体の前にどっしりと構えて腰を据えて、目の前の機械と相対した。

 

――ひょー、こりゃ、おっかない……

 

叫び声に応じて、機械の砲身が彼へと向けられる。身動ぎひとつしない機械からは、空気や気配というものが一切感じられず、視線がわりに向けられた砲身の先端に空いている穴からいつ弾丸が飛び出してくるかわからない恐怖が、衛兵の体をひどく緊張させていた。

 

――ち、畜生

 

緊張感が衛兵の全身を包み込む。緊張はやがて興奮を呼び、彼は自然と混乱状態に陥り出していた。恐怖が緊張を呼び、緊張が興奮を呼び、自分でも理解しがたい感情の濁流がさらなる混乱を呼ぶ。

 

――情けねぇ……! が、悪くねぇ……!

 

彼は恐怖に弱い人間だった。彼はもう逃げたくなった。それでも彼は恐怖を無視して、その場で自信を混乱の渦へと叩き込む相手をじっと見つめていた。そうして一秒でも多くこいつを足止めしていれば、今にエトリア中に伝説の英雄達の誰かが助けに来てなんとかしてくれることを期待していた。彼は弱くて自分の実力が足りないことを知る、強い誰かを頼る事しかできない人間だった。そして同時に、自分以外の何かのために強くあろうと虚勢をはる、弱い道化の自分を好んでいた。

 

「う、撃つならさっさとうちやがれ!」

 

言葉に応じてか、砲身が彼の方を向いた。やけっぱちに放った言葉だったが、そんな小さな自分が恐怖に駆られて適当に放った言葉に、デカブツの奴が応じたのかと思うと、少しばかり胸のすく思いがした。

 

――ざまあみろ!

 

かちん、と、何かのスイッチが押されたような音がした。心臓が跳ね上がった。多分、銃を動かすためのスイッチか何かが動いた音だろう、と衛兵は思った。機械車の台座との接合部分が動く。少しばかり斜めになったそれは少しばかり傾いて、そして――

 

「――ああ、やっと開いた」

「――はぁ?」

 

転移所をぶち壊した見たこともない機械の中から、見覚えのありすぎる存在現れたという事実が信じられず、衛兵の彼は前のめりになって機械の車から現れたその顔を覗き込んだ。

 

「まったく、ギルガメッシュもヴィズルも困ったものです。人の意見を聞かずに勝手に事を推し進めるんですから……」

 

その人物はフラフラと機械車の中から完全に姿を現すと、大きく背伸びをした。

 

「く、クーマ様!?」

「ん? ――って、えぇ!?」

 

衛兵の驚く声に、クーマはようやく周囲を見渡すという余裕が出来たようで、彼は機械の上からまず足元の衛兵を眺めると、ついで、ベルダの広場へと視線を送り、さらに、自身の足元の瓦礫の山を見てようやく自分の乗った機械がどのような状況を引き起こしたのか理解したらしく、軽く斜めに傾いた機械の面から滑り落ちるのではないかと思うくらいおおいに仰け反ってみせると、ひどく驚いたそぶりを見せた。

 

「これはひどい……。ああ、もう、街を守れとかいっておきながら、街を壊すような事を平気でするんだから……、あの二人は……」

「く、クーマ様? あ、あの、こ、これは?」

 

頭を振って大きくため息をついたクーマに対して、衛兵は素直な疑念をぶつけた。

 

「ああ、そうでした」

 

クーマは彼の言葉に気を取り直すと、懐から何かを取り出して、衛兵の方へと放り投げた。

 

「君、これを執政院に!」

「うわっ! ……と!」

 

衛兵はそれをなんとか受け取った。布に包まれたそれは、衛兵の手中に収まるほど小さく、そして軽いものだった。

 

「く、クーマ様? これは?」

「細かい指示と現状、わたしが把握している情報が記載してあります。それを執政院の……ゴリンか、あるいはレンかツクスルあたりにもで渡しておいてください」

「は、はぁ……」

 

衛兵は何が何だかもはや理解の範疇を超えていたので、生返事を返すので精一杯だった。

 

「よろしくお願いしますよ」

 

そんな衛兵の頼りない返事だったが、クーマはにっこりと笑って見せると、再び機械の中へと入り込もうとする。事情もわからないうちに現実があれこれと勝手に進行するという事態に、衛兵はたまらなくなってクーマに尋ねた。

 

「く、クーマ様! 一体何がどうなっているんですか!? 一体何が起こっていて、貴方はどこへ行こうとしているのですか!?」

 

執政院の実質上の長であるクーマは、エトリアの民草があげる悲鳴じみた声に反応して振り向くと、やはりにっこりと笑って、告げた。

 

「それは……、ちょっと全部をすぐには説明しづらいですねぇ……。でも、まぁ、そうですねぇ……。私は――、柄ではないのですが、エトリアと世界を救うために、久しぶりに戦場へ行ってきます」

 

いうと彼は機械車の中へと飛び込むと、蓋を閉めた。直後、車がふわりと浮いたかと思うと、車の下方に空いている穴から火が飛び出て、クーマを乗せた車は飛び立ってゆく。

 

「エトリアと世界を救う……? ……、――――――――――」

 

そして車が飛び立つ方向を見上げた先、山の向こう側、いつもと変わらないはずの空の中に赤く巨大なそそり立つ壁と、それが持ち上がってゆくという異常を見つけて、普通の衛兵でしかない彼の精神はついに限界を迎え、その場でしばらくの放心した。

 

 

グラズヘイム北東、エトリア西にある山へと寄った平原

 

 

世界に生まれ落ちた時から己の体全体を膨らませる続けるために、悠々と食事を続けてきた大食らいの狼――フェンリルは、突如として自らの眼前に現れつつある、巨大な質量を持つ存在によって、その食事の速度を、一旦、完全に停止させられた。

 

――オ……

 

今まで一言たりと言葉を発しなかった狼は蠕動する全身を揺り動かして、無理やり発声を試みた。それは本能だった。世界樹の大地と一体化した狼の身動きは、地面を揺るがし、世界を揺るがし、地震となって、生まれつつある存在にも伝播した。

 

――……

 

フェンリルの、自身の脳細胞の数ですら刻一刻とその物理量が増大し続けるため、まともに結びつくことのなかった思念の糸が、目の前にいる存在という糸車を中心に巻き取られ、一つの思考を築きあげてゆく。

 

――オォォォォォォ

 

フェンリルの脳裏にある単語が浮かんだ。フェンリルはその単語を叫ぶため、大きく口を開かれていた口を、さらに大きく開いた。しかしそれはフェンリルの呼びかけに何も答えなかった。

 

波濤が次々と集まって津波になるが如く、集合する土の塊は折り重なって、折り重なって、折り重なって、やがて巨大な狼の前で、変貌し、変生し、ある型へと成形されてゆく。そうして巨大になって行くその形は、かつて安寧を約束された揺籠だったはずの地上から居場所を失ってしまった者――人間の姿形によく似ていた。

 

――オォォォォォォ、ディィィィィィンンンンン!

 

そしてフェンリルはついにある一つの単語を思い出し、雄々しく、そして鈍重に叫び、ついにその名を咆哮する。それはフェンリルにとって、喰い殺さねばならぬ存在だった。フェンリルの貪婪な唇がよりいっそうに上顎門を開いて、造形されつつある巨人へと直進する。狼が繰り出した一撃は、狼の攻撃と呼ぶにはあまりに鈍重な緩慢な動きのように見えたが、野山平原そのものに等しい大きさのそれの緩慢は、狼以下の大きさしかもたない存在にとっては神速の一撃にも等しく、生まれ出ずりつつあった巨人は、即座にその口の中に収まった。

 

第三話 終了

 

 



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第四話 決断恐怖人への遅行薬

第四話 決断恐怖人への遅行薬

 

人が恐怖で悩むのはいつも頭が良すぎるからである。この種の病において最悪なのは、退屈さの場合もそうだが、自分はもうそこから逃れられないものと自分に断を下してしまうことである。まず間違いなくそうである。自分を機械と思い込み、自分を貶めてしまうのである。

 

――彼は決心した。彼は解決した。これは美しい言葉である。

 

アラン

幸福論より

 

 

グラズヘイム中央棟

 

 

仄暗い部屋、そこにいるだけで息苦しくなりそうな張り詰めた緊張感が漂う中、フレドリカ――リッキィと呼ばれる少女が空中に投影されたディスプレイを、少しだけ離れた場所から眺めている。見上げれば背を二百七十度ひん曲げてもまだ背面の天井の端に到達しそうにない巨大な部屋を、ほのかに青く光る筋が薄暗い部屋を微かに照らしあげていた。

 

「フェンリル。終末に現れて、世界を喰らい尽くす狼。そして、それに喰われる主神オーディン、か」

 

ギルガメッシュは何処かへ行ってしまった。大きな部屋の一方向を覆いつくすほど巨大なディスプレイには、縮尺を間違えたのか、はたまた人形使いが出演させる舞台を間違えてしまったのかと思うくらいに、山よりも巨大な狼が巨人を喰らう様が画面一杯に映り込んでいた。彼女はそれを見て呟く。

 

「――、まるで映画でも見てるみたい……」

 

昔、まだ人類が今の場所より数千メートル以上下方の土地で反映していた頃、映画館がこんな感じだったかな、と彼女は思う。締め切られた窮屈な密閉空間。微かにばかり空間を照らす電灯。ぼんやりとディスプレイを眺めると、フェンリルが暴れているその光景は、銀幕が上がったばかりのスクリーンであるかのようにも見えていた。

 

「ですがこれは現実の出来事です、リッキィ」

 

胡乱とした目を荒ぶる巨狼が映り込む電子画面へ向ける彼女へ、感情を昂らせぬよう調整された電子音声が投げかけられる。フレドリカは視線をどこへと投げかけるわけでもなく、静かに瞑目した。

 

「マイク……」

 

彼女がそうしたのは、フレドリカに話しかけてきたその存在が、施設そのものを管理する人工知能AIの、マイクという彼だからだ。人としての実体を持たない彼は、基本的には電子音を用いて他者とのコミュニケーションを取る。だからこそフレドリカは耳朶を打つ声に集中するため、視界を閉じたのだ。

 

「フォレストセルと一体化したヴィズルが、予定通りに狼に飲み込まれました」

 

部屋の四方へと設置されたスピーカーから、物静かな電子音が残酷な現状を告げてくる。フォレストセル。初めは大地再生薬であり、コピー世界樹の体を構成する物質だった物が、地球環境を汚染する物質を取り込んだ際、汚染物質の中に含まれる魔のモノ成分と反応する事で生まれてくる、世界樹の澱。かつてヴィズルが千年の時を費やして倒そうとした敵であり、人工知能のマイクにとっては、グングニルという戦略兵器を用いてでも撃滅しなければならない対象であると基礎プログラムにインプットされている存在で、つまりは人類の怨敵で、消滅させなければならない相手。――ヴィズルにとって、マイクにとって、因縁の、敵。

 

「――ヴィズル」

 

かつてフォレストセル打倒の研究を行っていたヴィズルは、最後、フォレストセルにその身を飲み込まれて、死んだ。だが彼はその折、自らが開発いた、フォレストセルの活動を阻害する薬を飲んでいたおり、フォレストセルに接触すると、その力を幾分か操作することのできるスキルを獲得していた。

 

――『フォレストセルと一体化した私をフェンリルに食わせ、奴の体内に入り込んだ私が、フェンリルの操作を行い、体を持ち上げる。奴の体が世界樹の大地と世界樹で構成されているというなら、それも可能となるはずだ』

 

そしてコピー世界樹や大地再生薬を開発、製作した主要研究員の一人であるヴィズルは、薬によって作られた世界樹の大地や世界樹をある程度操作する方法を習得している。そんな彼だからこそ思いつくことの出来た策で、限られた時間の中では思いつく限りでは、最も最小限の犠牲で済む策だった。

 

「だからといって、わざわざ、捨て身の策、普通、提案する?」

 

しかし、率直に、ヴィズルの案はあまりに自己犠牲が過ぎる、とおフレドリカは考えていた。初めから犠牲を許容する案を、フレドリカは正直言って、まるで賛成できないのだが、だからといって、彼が出したそれよりも良い代案があるわけでもない。だから仕方なく、フレドリカたちは、ヴィズルの案に従ったのだ。そう、仕方なくフレドリカは犠牲を容認した。

 

――かつていつか、世界樹の大地を守るため、エトリアを犠牲にしてでもフォレストセルを倒すというマイクという人工知能の使命と考えを否定し、彼の思惟という犠牲を容認した時のように。

 

「それが最も犠牲が生まれないで済む可能性の高い策なのです。ならば実行するのは当然でしょう」

「マイク……」

 

マイクの声はどこかいつもより無機質だ、とフレドリカは思った。マイク。グラズヘイムを管理する人工知能にして、フレドリカの相棒。そして、フォレストセルという相手の対処方法において異なる結論を持ってしまったがため、道を違える事となった友達。

 

「――そうね」

 

マイクの意見は正しい。ヴィズルが提案したその策よりも犠牲が少なく済む案を思いつかなかったその時点で、彼の策を実行しようという流れになるのは、間違っていない。実際、シギーやラグーナ、サイモンやアーサーは、それを理解し、受け入れ、そして自分に出来る方法で、ヴィズルの策をアシストをする方向へと動き出した。フレドリカもそんなヴィズルの案を受け入れたが故、この旧時代の施設の動きを制御出来る人間としてこの場に残ったわけであり――

 

――我ながら

 

だとすれば、この場に残ったフレドリカがこうしてここで悩んでいるのは、ヴィズルのそれよりもいい案を思いつかなかった、無力な自分を慰めるための行為でしかないのだ。何も思いつかないけれど、ここでグングニルを発射するその時まで何も考えなかったままでいたのなら、自分が大いに傷つくと知っているが故の、自傷を避けるための逃避で、自慰行為だ。それは自らの身を犠牲にしてまでエトリアを守ろうとするヴィズルに対してあまりに――

 

――なんて情けない……

 

未熟で、エゴがすぎる行為だ。それを自覚しているからこそ、フレドリカは懊悩する。その懊悩こそが、自分をさらなる答えなき迷宮の中に誘う行為だと知りながら、そうして思考の迷宮の中を必死に彷徨う行為に夢中になっていなければ、この場から逃げたくなるほどの自責の念が自身を押しつぶしてしまうだろう予感を感じ取っているが故に。

 

「フェンリルの動きに異常発生。ヴィズルがフェンリルの制御に成功したものと推測」

 

あてもなく意識の中に出来上がった迷宮の中を彷徨っていたフレドリカは、マイクの声によって、現実へと引き戻された。フレドリカは誘蛾灯に誘われる蝶のように、ふらふらと頼りなくディスプレイの前まで移動すると、改めて今の自分の位置から現状を把握できるようにと大きさを調整された、投影型ディスプレイ上のタブに映る光景を改めて眺める。

 

「――フェンリルが……」

 

ディスプレイの向こう側では、オーディンを飲み込んだことによりいっそう巨大になったフェンリルが、天空に向けて大きく開けていた顎を下へとおろし始めていた。やがてフェンリルは、地面へと顎を接触させると、全身を大きくガクガクと震わせて、痙攣し始める。おそらくそれは、フェンリルの意思と、ヴィズルの意思が拮抗している証なのだろうとフレドリカは推測した。

 

「きゃ!」

 

やがて世界樹の大地と一体化しつつあるフェンリルが身じろぎした影響だろう、グラズヘイムの大地とその中央棟であるこの建物も揺れた。フレドリカは体勢を崩して、尻餅をつく。

 

「――大丈夫ですか、リッキィ」

「えぇ、平気よ、マイク。――あ」

 

地の揺れはおそらくグラズヘイムの管理者であるマイクにも多少影響を及ぼしたのだろう。多少の間を開けた後、マイクから送られた労りの言葉を受け取りながら、フレドリカは立ち上がった。フレドリカが再びディスプレイへと目線を送り直すと、そこには頭と顎ばかりが目立っていた狼の背中から腹にかけてが映っているのを見えた。彼女は間の抜けた声を漏らす。その時。

 

『マ――――――、……ク、聞こ――る……』

 

スピーカーから雑音だらけの濁った音声が、エトリアの時刻を告げる鐘のように、部屋の中に響き渡った。通り抜けていったしゃがれ声が即座にフィルターによって周波数を調整され――

 

「――時が来た。グングニルを撃て」

 

続く言葉が銀と黒と青に支配された部屋を綺麗に通り抜けて行く。自己を殺せという内容を含む命令は、しかし迷いの成分が微塵も感じられなかった。

 

「――ヴィズル」

 

部屋の主人であるマイクが彼の名を呼んだ。声の音程はいつも彼が発する電子音声のそれとまるで変わらないけれど、その裏側には、いつもとはまるで違う、躊躇いと戸惑いの感情に満ちている、と、フレドリカは感じ取った。

 

「――マイク」

 

そしてそんな彼の異変にヴィズルも気がついたようで、彼は先ほどの機械じみた無機質な声色とはまるで違う、聞くものの気持ちをこころ穏やかにする、暖かな、慈愛に満ちた声で、マイクの名を呼んだ。

 

「――私はかつて、エトリアという街の発展のため、多くの冒険者を切り捨ててきた。町に住む大勢を救うために、少ない犠牲を容認した。犠牲が出た、という事実に目を向ける事を容認することすら怖くて、やがて私は、エトリアの発展というお題目を言い訳に、ただ淡々とエトリアを守るため、人を処分する怪物に成り果てた」

 

そして唐突に独白が始まった。突如として始まった独白。なぜ彼が今この瞬間、そのようなことを語り出したのかは分からなかったが、ヴィズルの独白は、悔恨を語る言葉なのに、冷たさがなく、それどころか、朝方、現実と夢との境界をさまよっている人を起こす日差しのような暖かさに満ちている、とフレドリカは感じた。だからフレドリカは口を噤んだ。

 

「――」

 

そしてそれはマイクも同じだったのだろう。マイクは何も言わない。だが、ディスプレイの映像が微かに乱れ、スピーカーから聞こえてくるヴィズルの音声に僅かばかりノイズが混じるあたり、ヴィズルの言葉がマイクの心の防壁を一枚ずつ丁寧に剥がしていっているのは確かであるようだった。雰囲気が和らいだのをフレドリカは感じ取った。

 

「マイク。私も君と同じように、旧い世界から今の世界にまで地続きの存在で、自らの、自らに課せられた目的のために多くの犠牲を容認した存在だった。そして、やがて私たちは、フレドリカらに打ち倒され、彼女らは私たちが実行しようとしていた策がもたらす成果より、もっと優れた成果をあげ、多くを救い――、私たちはそして、間違っていたのだということを思い知らされた」

「――」

 

フレドリカは、突如、思いもよらぬ場面で自身の名前が出てきた事に内心驚いたが、それをおくびに出すことはしなかった。ヴィズルの語りはマイクに向けられたもので、マイクのために語られているものだ。それに水を差してはいけないと、フレドリカは思ったのだ。

 

「だが、人間、間違っていたからといって、すぐにそれを受け入れられるものではない。私は君よりもずっと長く生きていたが、それをわかっていても、つい先ほどまで自らが間違っていたのだという事を認めたくないというわだかまりがあった」

 

ヴィズルの独白は続く。彼は自らのようやく快癒に向かいつつあった傷を抉ってまで、マイクに何かを伝えようとしている。これは彼にとって遺言で、そして、マイクにとって必要な事なのだとフレドリカは直感した。だからそれを邪魔してはいけない。

 

「――ヴィズル」

 

彼女はそして、マイクの意識が完全に自分から乖離していることを悟ると、静かに身を引いた。ここから先は、同じ時を、同じ苦悩を抱えて生きたものだけが、分かり合える領域だ。自分にはきっと分からない。フレドリカはそれを容認した。

 

「――私は、それでも、私の間違っていた行為は未来にとって、なんらかの役に立ったのだと、お前の行為はたしかに多くの被害者を生んだのだけれど、たしかに誰かの役に立ったのだとギルガメッシュに言われたあの時、初めて救われた。過去の私の過ちを含め、意味はあったのだと許容されたことで、初めて自分の生涯に意味を見出すことができた」

「――」

 

それは生涯の最後までを共に道を歩む仲間に恵まれた自分では分かり得ない、生涯において長い期間を一人孤独に過ごしたものだけが共有する痛みがもたらす感情で、そんな彼らにしか分かり得ない感情なのだろう。

 

「君よりも長く生き、世界中をめぐり、多くの経験を重ねてきたと自負する老体であってもこの有様なのだ。――だから、このグラズヘイムという場所から世界を眺める事しか出来なかった君に、自身の使命を拒絶したフレドリカに対してわだかまりを捨てられない所があっても、自分をそのまま受け入れてもらいたいと思う態度を取っても、私は不思議に思わない。むしろ当然だろうともすら思う」

 

だからフレドリカは何も語らない。千年もの時をマイクの傍で眠りこけただけの自分に、そんな、千年もの間、世界という道を歩き続けた者の気持ちは、フレドリカにはわからないから。

 

「マイク。君のそのグングニルを使ってフォレストセルを倒し、世界樹の上の平和、多くの人を守ろうとするのは、人に生み出された人工知能である君の根本概念であり、いわば本能であり、魂だ。そして君はそんな魂を、自らが友と思っていた人間に否定された。それは君の基本概念に大きな傷を作った。君はそんな傷を、それでも受け入れるため、人工知能という自らの存在を否定するような、完全な機械となる事を望んだ」

「それは違います。ヴィズル。私は本当に――」

「私には、そう見えた。私にはそう見えたんだ、マイク」

「――」

 

マイクは黙り込む。ヴィズルの言葉に、思い当たりがあったのか、あるいは、ヴィズルのその口調が嘆願じみていたからなのか、マイクはヴィズルの言葉を否定しなかった。

 

「マイク。おそらく君の魂は、あの時、真っ二つに切り裂かれた。本能を大切な人に否定された君は、その後、フレドリカらにより良い形で正しく世界を救ってみせられた事で、君は、人工知能である自らが本能の元に下した判断は間違っていて、彼女らは正しかったのだと機械的に判断し、自らの本能を間違っているものとして封じ込めた。だから君は、正しく、機械となることを望んだのだ」

「――」

「私は君がそうして自らの存在を否定したことを正当化しようとする君を見ているのが辛かった。私より若い君が自らを傷つけるそんな行為を、見ていられないと思った。――、だからマイク。君があの時、フレドリカに自らを機械として扱ってほしいとそう願い出た時、私はなんとしても、君に救われてほしいと、君を救いたいと思った。そうだ。私は、私と同じ時を過ごした一人の人間として、君に報われてほしいと思っている。君が、一人で頑張ってきた事実に、そんな君の長年の頑張りに報われて欲しいと、私は心底願っている」

「――ヴィズル」

「君は長年、自らを自傷し続けてきた。私は、それだけボロボロになった傷ついた魂を癒したいと願うなら、君が否定した君を肯定してやるなら、君の本能と長年は決して間違いじゃなかったと、君を肯定してやるしかないと思ったのだ」

 

ヴィズルの願いは、きっと同情から生まれたものだ。同類にたいする情けから生じた、真実、誰かを救いたいという純粋な想いから生じた綺麗な願いではなく、自分と同じような経験をしてきた誰かがそうして自分を傷つけるその行為が、まるで自分を傷付けているかのように幻視できてしまってつらいという、そんな自己愛ともエゴとも呼べるものから生まれた、自己満足から生まれた、偽善だ。

 

だがそれでもいいじゃないか、とフレドリカは思う。

 

だって、そんな自己満足から生じた肯定が、今、こうして機械になろうとしたマイクの感情を、ディスプレイ上にフェンリルの映像をまともに映せないほど、スピーカーのハウリングが部屋中に響き渡るほどに、昂ぶらせて、人間らしく葛藤させているのだから。

 

 

「さ――、マ――ク」

 

――さぁ、マイク……、かな?

 

「――ヴィズル?」

 

やがてヴィズルの声は一気に雑音混じりとなり、聞こえなくなる。マイクの激情がスピーカーから聞こえてくる彼の音声に雑音を生じさせたわけでないことは、マイクの反応から理解ができる。おそらくこれは、信号を発するヴィズル側の問題だろう。フェンリルと同化した彼の力が弱まってきているのだ。

 

「君――、念――を果た――――――」

「ヴィズル。待ってください。音声を適切に変換できません」

 

マイクが慌てた様子でヴィズルへと語りかける。マイクがどれだけ必死に彼の声を適切に聞き取ろうとしているのかは、ディスプレイ上に映るフェンリルの画像が、一秒ごとに鮮明になっていく有様から理解することができた。そうして鮮明になってゆくディスプレイの画面の中、そんなマイクの信号処理速度を嘲笑うかのように、フェンリルはその外周を蠢かせ、姿形の輪郭が不安定になってゆく。

 

「グングニル――――――――――――、君と、君の大切な人の――――――望み――、エトリア―――――――――、世界――救う――――――、――――――――――――」

「――ヴィズル! ヴィズル!?」

 

やがてヴィズルの声が完全に途絶えた。おそらく信号が完全に途絶したのだろうことが、マイクの声からうかがえる。と同時に、フェンリルの動きが活発化した。フェンリルがヴィズルの制御を振り切ろうとしているのだとフレドリカは察した。暫くの沈黙が薄暗闇の中を支配する。スピーカーから漏れる雑音だけが、現状がもう取り戻しのつかないところまで進行してしまった事を告げていた。

 

「――リッキィ」

 

そして、静寂を破り突如として投げかけられたほとんど掠れて聞こえない電子音声に、フレドリカは自分の出番が来た事を悟った。ヴィズルがその身命を用いて、マイクがハードディスクの中で長年の間に築き上げて来た牙城を打ち崩した。ヴィズルという父親は、マイクの心の壁を取り払った。なら、あとは彼の親友である私の出番だと、フレドリカは悟ったのだ。

 

「なぁに?」

 

故にヴィズルからバトンを渡されたフレドリカは、自らの役割を果たすため、わざとらしいくらい柔らかく、優しい声色でマイクの言葉に応じた。それはかつて、ハイランダーの彼に恋するだけの少女であった自分には出来なかった、一人の人間として、女性として成長した自分だからこそできる、女らしさ、母親らしさという武器を使った態度だった。

 

「私は道具であることを望みました。あなたもそれを受け入れてくれました。そして私をこうしてそんな道具としてあつかってくれる人も現れました。リッキィ。その人は、あなたが否定した過去の私の行為を認め、その上で、私と貴方の望みを叶えてくれる答えを用意してくれました」

「――」

 

フレドリカはなにも語らない。マイクがようやく自分の本心を、本心なんていう、そんな訳がわからないものを訳がわからないまま、無様に話そうとしているのだ。だからそんな彼の悲鳴じみた吐露を邪魔するわけにはいかないと思ったのだ。

 

「しかし、そんな人に対して、ヴィズルは、あの人は、そんな自分めがけてグングニルを放てというのです。殺せというのです。彼の仰る通り、グングニルを放ってフォレストセルを葬るのは、私の使命です。かつての私なら、迷いなく撃っていたでしょう」

「――」

 

――撃っていたでしょう、か

 

その言葉を聞いて、フレドリカは確信した。マイクと初めて理解し合えたと、胸が熱くなった。喜びに言葉が漏れそうになった。だが、それでもまだだ。まだダメだ。

 

「ですがリッキィ。私は、あの時と違って、撃ちたくないと思う自分がいることに驚いています。リッキィ。私は初めて、あの時のあなたの気持ちがわかりました。非常に不合理なのですが、私は、私を認めて、救おうとしてくれているあの人を殺したくないのです。世界よりも、あの人のことを優先にしたいのです」

「――」

 

マイクの言葉は、とてもよくわかる。マイクの葛藤はよくわかる。マイクの苦しみはよくわかる。マイクの悩みはよくわかるし、マイクの気持ちは痛いほど理解できるけれど、けれど、まだマイクは、語り終えていない。

 

「私の道具としての魂は、グングニルを撃てと言っています。ですが、私の中に生まれたエラーは、撃つなと言っています。ノイズで電源が落ちそうです。熱雑音でCPUの速度が低下し、思考が非常に不合理な状態です。公算したのち、勝算の数値が小さい方を優先して選びたいと思ったのは、人工知能としてこのハードディスクの中に生まれて以来、初めてです。少ない確率でも、あの人が助かる選択肢があるのならば、そこに賭けたいとすら思ってしまっています。リッキィ。私は――、私はどうすればいいのでしょうか?」

 

――どうすればいいのでしょうか

 

大切な人の死を目前にしてマイクの口から漏れたその言葉に、フレドリカは思わず飛び上って目の前のディスプレイを操作するコンソールに抱きついて頬ずりしたくなるくらい、胸の内に喜びが溢れ出た。マイクはようやく、私を許してくれた。そんな気がしたのだ。マイクが私を頼っている。そう。

 

――マイクはかつて彼を否定した私を許し、助けてほしいと願っている。

 

マイクの懇願は、フレドリカに対する何よりの特効薬となり、彼女の心にあった大きな傷が癒えてゆく。フレドリカは、ようやくヴィズルと同じ位置に立てた気がした。ヴィズルの許容と容認は、マイクのみならず、フレドリカも救ったのだ。フレドリカは、心底彼に感謝した。だから、フレドリカは、ヴィズルの意思を汲んでやりたいと思った。

 

「――それはあなたが、自分の意思で選びなさい、マイク」

 

そして溢れ出る思いのままに、フレドリカはそんな言葉を口にする。

 

「リッキィ」

「ねぇ、マイク。貴方は今、ただ道具として、機械として使われるだけの、他人に傷を負うことを任せて、寄りかかれるだけの楽な生涯を過ごせる時はもう終わってしまったの」

「でも私は機械であって、道具として、正しく誰かに使われるため――」

 

マイクの戸惑う声が聞こえる。声は、迷宮で迷子になった子供のような、頼りなく、か細い、今にも泣き出してしまいそうなものだった。そんなマイクの変化が嬉しくて、フレドリカは泣き出しそうになった。

 

――だが、まだダメだ。

 

彼はまだ子供で、私は彼よりも沢山の世界を見て、彼よりも成長したお姉さんなんだから、まだ私は――

 

――私はまだ、マイクを導く、立派な大人の仮面を被っていないといけない

 

「嘘。本当は道具として扱われるのが嫌だからでなく、あの時も、自分の正しいと思うことを否定されたから、私たちを否定したんでしょう、マイク。貴方は人間と違って、遺伝子に千年やそこらの歴史しか持たない貴方は、それを認めたくなかった。認めてしまうと、それこそ、積み上げてきたものが無に還ってしまうような気がしたから。貴方が一番長生きの人工知能で、唯一だものね。だから反発した」

 

言葉は子供のような彼に向けるにしては強く、厳しめだった。でも、それでもモラトリアムの境界で彷徨っている彼なら、そんな状態にいる今なら、きっと彼も自分の思いをわかってくれると信じて、フレドリカは語る。

 

「かつて私は貴方と同じように悩んだ結果、少ない確率でも、みんなが助かる選択肢を選んだ。私は私の大切な人を失いたくなかった。私はそんな選択を、間違いにしたくなかった。私は私のためにそんな貴方を傷つける選択をしたけれど、きっといつか貴方にも、わかってもらえると信じて、私は私の道を自分で選んで、私はあなたを傷つけて、私はあなたを傷つけた事実に、傷ついた。そして私は、私が痛い思いをする選択をしたのだから、きっと貴方もわかってくれるに違いないと思い込んで、その後、貴方からの呼びかけを待った」

「――」

「でもそれはただの自己満足だったのね。私も今さっき、ようやくそのことに気付かされたわ。相手の大切なことを否定して、それでも相手にわかってほしいと願うなら、否定したあと近寄って、相手の事情を汲んだ選択肢を提示してあげて、そして、相手の選択肢も決して間違ったものでなかったのだと肯定して、許容してあげる事こそが大切だなんて事を。ううん、私は、きっとわかっていた。わかっていたはずなのに、幼くて余裕のなかった私は、貴方に傷つけられる事が怖くて、待つしか出来なかった。その後、傷つけられて余裕をなくしている貴方に近づいて、傷つけられるのが怖かったから私は無意識のうちに、そうやって逃げた……」

「――」

 

逃げた。そんな言葉に、私はひどく心が痛む思いをした。胸を押さえつけて、うずくまって、叫んでしまいたくなるくらい、心が千切れる思いをした。私の口から出た言葉は、彼のみならず、私を傷つけている。過去を掘り起こして、しなくてもいい痛みを味わっている。でも、それでも、私は退くわけにはいかない。私は成長した。私は変わった。私はいろんな人に助けられながら、私の思うままに生きた。だから今度は私の番なのだ。

 

「今、ヴィズルは、貴方の裏側でずっと寄り添っていたあの人は、命を捨ててでも貴方のやり方を肯定し、貴方のために手段を用意し、提示してみせた。ヴィズルが貴方の側で過ごした長い年月と、その人の魂を捨てる行為は、貴方の傷ついた魂を癒して、貴方に人の感性を理解させた。――ヴィズルは立派な人よ。あの人は、たしかに、エトリアの守護者で、立派な親で、相応しい教育者だった」

「――」

 

マイクはなにも答えない。だがフレドリカは、そんな彼が今、どのような気持ちであるかは、この薄暗い部屋の揺れが復活し、空調が、ディスプレイが、電灯が、スピーカーが異常を起こしている事から、理解する事ができた。

 

マイクは今、自らが大事に思った人の意思を優先して、そんな大事な人を切り捨てるか、あるいは、自らの我を通し、自らを大事に思ってくれた人の想いを拒絶するかしか選択肢がないという状況に絶望して、思考を停止している。マイクは傷付きたくないと、そんな自らが傷つく選択したくないと思っている。誰かが代わりに自分の代わりに傷ついてくれるのを待っている。フレドリカが答えを与えてくれる事を待っている。だからこその沈黙。

 

――でもそんなのはダメだ

 

「マイク。大切なものを守るためには、大切なものを切り捨てないといけない時もある。どうあがいても自分が傷つく選択をしなければならない時がある。それはとても辛くて、苦しいことだわ。時には、身を引き裂かれる思いをする事だってある。でも、自分のことを、そして自分と同じかそれ以上大切な相手のことを思いやるなら、自分の為に、相手のために、悩んで、悩んで、悩み抜いて、その果てに自分で答えを出しなさい。それが自分のため、そして、貴方のため、命を捨ててまで貴方に何かをしてやりたいと考えて、貴方に選択肢を選ぶ余地を与え、提示してくれたヴィズルに報いる、唯一の恩返しだわ」

 

思考を停止して、自らが傷つく決断を拒否して、他人に自らの運命の手綱を任せるというのは非常に楽だけれど、成長がない。葛藤し、自らで自らの運命を決断する。それが自らの行動を、自らが納得できる方へと解決に導くのだ。

 

「貴方はかつての人類と同じくらい歴史を積み重ねて、ギルガメッシュやヴィズルと一緒に、人々の営みを見守ってきたんでしょう?」

「リッキィ。でも、私は……」

 

それでもマイクは、言い澱み、迷う。自らの決断がどのみち、自らにとって大切な誰かを傷つけてしまうのだという恐怖が、彼を臆病にさせていた。フレドリカは場違いである事を理解しながら、それを嬉しく思った。それはマイクが完全に、人間のような感情を持つに至った証のように思えたからだ。

 

「でも、とか、だって、とかはもう言っている時間がないわ、マイク」

 

けれどフレドリカは厳しく、マイクの縋り付きを切り捨て――

 

「――」

「ごめんなさい。卑怯な言い方なのはわかってる。時間がないといって、相手にとって大事な選択を急かすなんて、ほんと、最低の行為だわ。――、けど、決断の時なのよ、マイク。貴方は、どっちを選んでも、傷つく。どちらを選んでも、貴方は矛盾に気付いて、傷ついて……、自分の選ばなかった方を、後悔して、エラーを起こして、悩みを抱えて生きていくことになる。そして、そんな選択肢を用意してもらいながら、どちらも選ばずに時間が切れてしまったその時には、それこそ貴方は、自分を殺したくなるくらい、生涯ずっと痛む傷としてそれを抱き続けることになるわ。だから――、さぁ、マイク、選びなさい。貴方の意思で、どんな傷つき方をしていくのかを。私は貴方がどんな答えを出そうと、貴方の決断を尊重するわ」

 

言葉とともに、彼の体を優しく推し離した。厳しめの言葉を投げかけたけれど、大丈夫だとフレドリカは確信していた。悩み、苦しみ、そして、それでも自分と誰かのためを思って苦渋の中から、それでも決断を下そうといるマイクなら、きっと――

 

――きっと、貴方は、私と同じ道に立ってくれるはずだから

 

 

「リッキィ。……わかりました」

 

マイクはすっかり安定した口調で告げる。薄暗い部屋の中、ディスプレイの画像は一定の光量を保ち、部屋を照らす青光は光量を増し、スピーカーから聞こえていた耳障りなノイズは収まっていた。彼は自分を再構成し、更新したOSを再インストールし終えたのだ。

 

「――グングニルを使用します」

 

そしてマイクははっきりと言い切った。自らの道を自らで選ぶと決断をしてからの彼は早かった。かつて絶対と信じていた自らの使命と手段を、他者の言葉と行動によって否定され、さらには自らもそれは間違いだったと否定し、傷付き続けてきた彼は、葛藤の果て、再び自らを許容し、容認する強さを得た。

 

「――そう」

 

それは彼が機械とか、人間とか、そういう境界から一歩踏み出て、新たな地平へと旅立ったことの証明に違いなかった。フレドリカはそうして強くなったマイクを、多くの親愛の情と、ちょっとばかりの嫉妬と寂寥の念で見守った。他人の成長を見るのは、むず痒いものなのだ。

 

同時に、施設が一気に慌ただしく稼働し始める。あらゆる警報が鳴り、青の気持ちを落ち着かせる景観は、一気に精神を急かす赤一色の空間へと変貌する。グングニルが発射するための最終段階に移行したのだ。

 

画面上で慌ただしく計算数値が増減し、タイムカウントが進む中、やがて変動していた数値は全てある一定の範囲でのブレに収まるようになり、けたたましく鳴り響いていた音は徐々に静まってゆく。

 

「リッキィ」

 

そして準備を終えたのだろうマイクはフレドリカの名を呼んだ。

 

「ええ。何かしら」

「お願いがあります」

 

マイクの言葉が途切れた途端、フレドリカの正面、空中投影されているディスプレイの下側にあるコンソールの表面上に、さらに小さなディスプレイが投影された。その小さなディスプレイには、とてもシンプルな赤のボタンが表示されている。

 

「そのボタンを押してほしい。それはグングニルの発射スイッチです」

 

フレドリカは一瞬、決断の舵を私に任せる気かしら、と思ったが、すぐにそんな邪推は彼方へと消え去った。小さなディスプレイの画面が微かにぶれている。マイクは今、おそらく生まれて初めて、恐怖と必死に戦っているのだ。そして、だから――

 

「それは貴方の意志で?」

「はい。私の意志です。私は、私の意思で、ヴィズルを殺すための引き金を引きます。――、ですが、私一人では、彼を殺すのが、辛い」

 

――友の私を頼った。

 

それが嬉しくて、フレドリカは――

 

「ええ、わかったわ」

 

即答した。罪を一緒に背負って欲しいと懇願するマイク/友の要請を拒む理由がどこにもなかったからだ。フレドリカはそして前に進み出て、ボタンを眺めた。このボタンを押せばグングニルが射出される。押すために前へと進む直前、大きなディスプレイを眺めた。画面の中では巨大なフェンリルが大いに暴れまわっている。ヴィズルが抑制できるのもそろそろ限界なのだろう。

 

そしてフレドリカが手を伸ばそうとして、しかし、少しばかり、ためらい、一瞬手を引いた。マイクがそうであるように、フレドリカも、ヴィズルという人物を殺してしまうのが怖いのだ。殺人者の咎を背負ってしまうのが恐ろしいのだ。そうして躊躇い、手を引き、しかしやはり手を伸ばし、そして、手を止め、手を引き――、やがてそんな事を数度繰り返したフレドリカは一つ大きく息を吸って吐くと、目蓋を大きく開いて、意を決した表情でボタンへと手を伸ばし――

 

「へへつ、水臭いなぁ!」

 

そしてそれは聞き覚えのある声に止められた。

 

「そうよ、私たちを忘れないでほしいわ」

 

ドカドカと足の音が鳴り、ガシャガシャと鎧金属が擦り合う音がする。

 

「あの時リッキィと一緒に、僕たちも君を否定した。君がそれを辛く思い、抱え込んでいたというのなら、それは僕たちの責任でもある」

 

カチン、と、小さく金属フレームの撓む音がした。

 

「マイク、リッキィ」

 

そしてフレドリカは心細くなった時、この世界で最も耳にしたくなる声を聞いて、たまらなくなって振り返った。

 

「シギー! ラグーナにサイモン! それにアーサーも!」

 

四人はいつもと変わらないそれぞれの笑みを浮かべながら、部屋の中へと入ってくると、コンソール直上の小さなディスプレイに映るボタンの前で佇むフレドリカの前まで進んだ。シギーはフレドリカの肩を抱くと、ディスプレイの向こう側――、壁の前にある、マイクの心が宿っているだろう機材に目をやった。

 

「俺たちは仲間だ。いがみ合って、喧嘩して、長い年月の末、俺たち以外の立派な人の仲裁があって、ようやくわかりあえた。――、だから、みんなで罪を背負っていこう」

「――はい」

 

みんなの中に自分が入っている。多分それがマイクにとって、とても心強い後押しだったに違いない。みんなの手が一斉に画面にタッチされる。それは旧人類であり、管理者でもあるリッキィ以外意味のない行為であったが、その気持ちをマイクは嬉しく思った。

 

彼らの思いがグングニルを稼働させる。大地に刺さったケーブルから大いにエネルギーが吸い上げられる。それはやがて中央棟へと送られると、コンバーターにて破壊の力へと変換され、グングニルと呼ばれる戦略兵器の力となる。

 

直後、グラズヘイムが揺れた。溜め込んでいたエネルギーを全開放したのだ。グラズヘイム中に白光が満ち、やがて管理室を地揺れが襲った。地面は崩れて落ちるのではないかと思うくらいに上下左右に揺れ、立つことができなくなったフレドリカたちは地面へと押し付けた。

 

そして――

 

 

グラズヘイム北、エトリア西の平野

 

 

――ああ。

 

双方向通信がこちらの事情により途切れたのちも、マイクが電波を飛ばし続けていてくれたおかげで、フェンリルの体内に吸収されてしまったヴィズルでも、グラズヘイムの管理室の中の会話を聞き続けることができていた。

 

――そうか、やってくれたか。

 

グングニルが発射されたという情報を聞き取ったヴィズルは、安堵した。ヴィズルは人工知能であるマイクが成長し、かつて仲違いした友と再び同じ道を歩めるようになった事を祝福した。もはや人の体の部分が一欠片すらも残っていないヴィズルは、フェンリルの体内で肉体を溶解されながら、機械の体を持つ彼が輝かしい未来を送るだろう事を幻視して、溶けて無くなったはずの肉体に力がみなぎる思いをした。

 

――ならば、私も老兵としての意地を見せなければ

 

自分の働きで次世代を生きる彼らが希望を取り戻した。その事実は死に向かうだけだったヴィズルにとって意思と血潮を燃やす何よりの活となり、ヴィズルの思いを強くした。

 

――ぬぅぅぅぅぅぅぅ!

 

ヴィズルは最後の力を振り絞って抵抗するフェンリルを抑えにかかる。同時に、ヴィズルはフェンリルの背から腹に至るまでの部分を大地より完全に露出させた。大地が揺らぎ、揺れにより、フェンリルのあちこちに散っていった己の体が痛みの信号を送ってくる。

 

――ううぅぅぅぅぅぅぅ!

 

だがそんな痛みは今のヴィズルにとって、障害となり得るものではなかった。彼は全神経をフェンリルの行動制御に利用している。そこに痛みの入り込む余地などないのだ。ヴィズルの命の燃料を燃やし切るが如き気迫と感情により、フェンリルの体は今、完全にヴィズルの制御下にあった。

 

――あぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 

ヴィズルが叫ぶ。少しでも集中を切らすと、そこでもう二度と同じことが出来なくなると直感するが故に、彼は最後の力を振り絞る。彼の命のロウソクが彼の頑張りにより、刻一刻その長さを失ってゆく。やがてロウのほとんどなくなったそれと等しい存在になったヴィズルは、最後の力を振り絞って、フェンリルの体の一部を、完全に世界樹の大地から分離させるとともに、形状を変化させ、硬度を操り、フェンリルの周囲の大地に巨大な壁を作り上げた。

 

巨大な狼フェンリルを囲うようにして、世界樹の大地より作られたすり鉢状の分厚い壁は、下方は丸く大きな球状、かつ、上方部分はくり抜かれた円柱というフラスコの如き形をしていた。フラスコの壁はその最薄の部分でも、厚さは十キロメートルほどもある。それはフェンリルをこの場に閉じ込める檻であると同時に、エトリアや周囲の土地を守るための城壁だった。

 

――これで、エトリアや、周辺の土地の被害を最小限に抑えることができるだろう

 

ヴィズルは自らの行いに満足した。瞬間、ヴィズルは急激に意識が薄れゆくのを感じた。ヴィズルは自らの死を確信した。だがヴィズルに後悔はなかった。やがて全ての感覚をほとんど失ったヴィズルは、最後に、強烈な白い光と魂を焦がすような熱を感じ取った。

 

二つの成分に惹かれるようにして薄れゆく意識を僅かばかりに復活させると、光の中、遠の昔に失ってしまった最も見たかった顔を見つけて、ヴィズルは破顔した。

 

――長い間お疲れ様でした

――ああ。随分と待たせてしまったな

――はい。……おかえりなさい

――……ただいま

 

そして熱が天空と地上の全てを支配し、造られた大地を吹き飛ばした。

 

 

グラズヘイム北、エトリア西の元平野

 

 

天空より飛来した光刃が雲を引き裂き、直後、大地によって造られたフラスコの中にいるフェンリルを貫いた。光刃がフェンリルの皮膚と接触した瞬間、破壊の力は樹木と土砂が波打ち動く皮膚を突き破り、大地の全てが轟き渦巻く血肉を抉り、一直線に心臓を目指して直下する。

 

接触、侵入が起こった瞬間と同時に、神槍グングニル、すなわち、世界を滅ぼしかねない威力を持つが故に封ぜられていた兵器と、魔獣フェンリル、すなわち、出現してしまえば必ずや世界を喰らい尽くすという獣の衝突により、一つの場所に収まるにしては過剰すぎるエネルギーは、やがて灼熱と白光と暴風を生み、荒れ狂うそれらは、暴虐の力をもってして周囲へ拡散し、己の存在を誇示しようとする。

 

それを押しとどめたのは、ヴィズルが薄れゆく意識の中で作り上げたフラスコの防壁だった。フェンリルの周囲へと造られた分厚い大地の防壁は、熱と光と風との衝突により、次々と濛々たる煙へと変換され、球の中に立ち籠め、暴れまわる。やがて上方、空に逃げ場を認めた暴虐の力たちと煙は、我先にと出口を目指し、天を目指し、入り混じる。やがて熱された土砂と噴煙が風の吹き荒れる勢いのままに飛び出て、世界中へと撒き散らされた。

 

フラスコの中に叩き込まれ生まれた渦巻く破壊と暴虐の力はそうしてフラスコの壁の厚さと引き換えに、徐々に、徐々に、別の力へと変換され、内部に生まれたエネルギーはその力量を失ってゆく。

 

拮抗し、完全に力を分散させていた人造大地の巨大フラスコ。そんなエトリアと世界をフェンリルとグングニルの衝突から守るべくヴィズルが最後に生み出した、世界から隔離された内部にて破壊の力が渦巻く監獄の檻へと近づく存在があった。

 

それは人造物だった。特殊な熱を受け流す赤い塗装を施されたそれは、五つの巨大砲身と、二つの小さな銃座を持つ、ギムレーと呼ばれるグラズヘイムの守りを担当する戦車だった。足に備え付けられたキャタピラーではなく、下面と後部に取り付けられたブーストを用いて、地面を滑るようにして進むそれは、空より落ちくる土砂と噴煙をはねのけながら人造フラスコの方へ突撃する。

 

――――――――――――ドンッ

 

最中、戦車ギムレーはその五つの巨大な砲身全てから同タイミングで弾を撃ち出した。時速にして二百キロメートルの速度で滑る戦車より火薬の勢い乗せて撃ち出された五つの120mm徹甲弾は、発車と同時に即座にばらけ、フラスコの表面に着弾。砲弾は着弾と同時に周囲の物質を液化してその部位と周辺が軟化し、フラスコの表面、砲弾の直撃した一部の壁には大きな穴が空いた。

 

やがてギムレーは五つの巨大な砲身と機銃をパージすると、自らが開けた穴に向けて真正面から突撃する。そして衝突の直前、優しい白の光に包まれた戦車は、そのまま猪突猛進し、フラスコの壁面の中へとめり込んでゆく。

 

やがて戦車が侵入してしばらくしたのち、活気よく噴煙を吹き出す巨大フラスコに異変が起こった。破壊の力を抑え込んでいたフラスコの球状部分にヒビが入り、それを構成する大地と樹木の合成素材が命を失ったかのような色の乾いた砂塵へと変貌し、途端、砂礫となったフラスコは、内部のエネルギーを留めておくことが出来ず、あたりへと飛び散った。

 

暴風と焦熱の威力を伴った砂礫は、散弾銃の弾丸が如きものとなって、フラスコのあった平野一面を覆い尽くしていた噴煙灰と岩石を砕き、平野の端の方、山の裾野辺りに僅かばかり残っていたまともな樹木と大地をも撃ち貫いてゆく。

 

やがてそんな完全な死の大地と化した平野の中、フラスコの中心部だった場所で、蠢く存在があった。キュラ……、キィ、キュラ……、キィと不規則に異音を鳴らすそれは、ギムレーと呼ばれた戦車の、中核部の、その成れの果てだった。

 

前輪後輪のそれぞれの独立した運動ユニットがほとんど破損したそれは、もはや鉄の棺桶と呼んでも差し支えないほど破損していたが、その中央部の、ギムレーをコントロールする制御ユニット部だけは分厚い強化ガラスがはめ込まれていた部分を除いて全体が歪んでいる程度の被害で、かろうじてその原形を残していた。そんな残骸となった戦車のすぐ近くにある砂の山の上には、一本の剣が墓標のように突き立っていた。

 

「――見つけた」

 

命が一片たりともなくなったことを悼むかのように突き立てられた剣の側で、声が響いた。やがて声の主人は、砂丘に突き立った剣を引き抜くと、その場から姿を消す。完全に砂が支配する大地となった元平野の中心では、かつて戦車だったものの残骸が唯一、この場に残る形あるものとなった。後には茫漠な砂漠が広がっている。

 

 

ハイラガード公国、公宮

 

 

「戦況はどうなっている!」

「呪言を乗せて弱らせ、こちらをバードの詩歌で強化した上での、攻撃職のフォーススキルによる一斉攻撃だぞ!それでなぜ死なない!」

 

ハイラガード公国、公宮。世界樹と呼ばれる天にまでそびえ立つ巨木の側に作られた、平時、粛々と政務が行われる、政務の中心に相応しい厳と瀟洒な雰囲気を放つ豪奢な建物の中では、大勢の兵士が右往左往として行き交っていた。まるでバケツの中の水をひっくり返したかのような状況だった。

 

「死なないだけならともかく、なぜ巨大化するんだ!もう元々の報告よりも数百倍の大きさになっている! なんだ、あの世界樹のようなデカさは!」

「わかるかよ! 知ってたらとっくに対処してらぁ!」

 

鎧兜に身を包む彼らは、まさに混乱の渦中に叩き込まれたような様相を呈している。彼らはハイラガード公国のすぐ目と鼻の先に現れた敵の存在にひどく気分を悪くし、荒れていた。

 

そんな荒れる兵士たちが怒号と雄叫びで荒々しくコミュニケーションをとる最中、その場所から少し離れた壇上、そんな彼らの様子を静かに見つめる存在があった。老いと苦労を意識させる容貌をしている彼の名は、ソール。この国の按察大臣だ。

 

「……はぁ」

 

猊下で繰り広げられる兵士たちの諍いを見て、彼は大きく重苦しいため息を吐いた。続けて次から次へと更新される報告書の文章を見て、もう一度、今度は天に向かって息を吐いた。

 

――情けない

 

報告書を見る限り、敵はいかなる攻撃を加えようと、その度に再生し、さらには巨大化する、強敵だ。如何様にして倒せば良いのか、正直まるで見当がつかない。絶望的な状況であるのはたしかだ。

 

「どうするんだよ! どうやって倒しゃいいんだ!」

 

だが、だからといって、いやしくも公宮勤めの一端の兵士である彼らが、こうして敵から離れたこの場所で烏合の衆のように狼狽える醜態を晒すとは思ってもみなかった。迷わずそんな強敵に立ち向かっていった、そして今も戦っている冒険者と呼ばれる彼らや前線に向かった兵士たちに比べて、この場に残った兵士たちのなんと情けないことか。

 

「俺が知るかよ! 英雄や冒険者たちがなんとかするのを期待するしかないだろ!」

「――はぁ」

 

そして化け物の調査すら行おうとせず、他人に期待を寄せるばかりの兵士の醜態に、ソールが今日何度目になるかわからないため息を漏らしたその時だ。

 

――ズズゥゥゥン!

 

「な、なんだぁ!」

 

ハイラガード公宮を大きな揺れが襲った。ソールは叫ぶ兵士の声を聞きながら、手近にあった椅子と机にしがみつく。

 

「つ、ついに巨大蛇がここまでやってきたのか!?」

「もうおしまいだ、逃げろぉ!」

 

公宮の兵士たちが戸惑い、公宮の中から逃げ出した。ソールはもう止めようとは思わなかった。ハイラガード公国を守る最後の砦となるべく集結していた兵士たちだったが、あれではいない方がましだと思ったのだ。ソールはそして天を仰ぎ、目を手で覆う。もうどうにでもなってくれ、と、天に祈るような気分だった。

 

「――随分と質の悪い兵士を使っているな」

 

やがて細かい地鳴りはあれど、人の声が失せて静まり返った公宮内に、不思議なほどに脳裏へと響いてくる無礼な、しかし、正しい言葉をとばしてくる人の声を聞いたソールは、そんな無作法ものの顔を拝むためにゆっくりと頭を正面へと向け――

 

「まぁ、見たところ、志があったが故に兵士になったわけではなく、対して苦労することもなく食い扶持を得る方法がそれ以外になかった無能どもの寄せ集め。窮地に我が身可愛さに逃げだすのは当然という者だろう」

「――」

 

そして、ずけずけとものを言う、機械の鎧をその身に纏い、高貴な雰囲気を漂わせた、上からの物言いをする人物を見て、ソールは驚いた。

 

「た、大公様……!?」

 

なぜなら目の前にいる人物の頭には、公宮の奥で寝込んでいるはずの、大公という人物の顔面が引っ付いていたからだ。だが――

 

「ん……? ……、いや、訂正しよう。一人は骨身のある奴がいた」

 

――おかしい

 

ソールは違和感を覚えた。

 

「た、大公様? 何を仰っているのでしょうか?」

「老いた人間よ。私は大公ではない」

 

そして返ってきた答えにソールは驚かされるとともに、心の底では納得した。

 

「ではあなたは一体……?」

 

安堵と困惑の感情が入り混じる中、ソールは尋ねる。豪奢な鎧を纏う大きな体躯のその存在は、機械鎧のどこかから質問を鼻で笑ったような声を出すとともに、大公によく似た顔の口を開いた。

 

「私の名はオーバーロード。かつてこのハイラガード公国を治めていた初代大公と盟約を交わしていた者だ。――この度、古い盟約に従い、ハイラガードに公国を救うためにやってきた」

 

 

ハイラガード公国近隣

 

 

「チクショウ、キリがねぇ!」

 

ファーフニールという神話の悪竜の力を赤い鎧の下に宿した、デミファーフニールである男――ベルトランは、何度目になるかわからない、自らの切り札――爆炎陣を放ちながら悪態をついた。ベルトランの全身から吹き出た炎が、同じく彼の体から射出された空中に浮かぶ二つの制御ユニットによって操作され、空中に散らばっている紫色の液体へと射出された。

 

――ジャッ!

 

「感謝する!」

「ありがとう!」

 

液体は炎とぶつかった瞬間、蒸発し、この世から消失する。炎がそして広範囲で液体を消失させた次の瞬間、液体の前に躍り出た炎の後ろ、空を飛んでいた翼人たちが、口々に礼を言いながら飛び去って行く。ベルトランは彼らを液体飛散からかばうために、本来なら攻撃用の炎の陣を展開したのだ。

 

「気ぃつけろよ!」

 

だが、その、威力を一点に集中させれば岩ですら揮発させる事の可能なベルトランの生み出した豪炎は、空中で不規則な広範囲へとブチ撒かれた紫色の液体の全てを包み込むために、空中で液体以上の広範囲へと散布され、そのため、広く空中に散らばって低威力と化した炎の威力には酷くムラが生じ、完全に液体を消滅させる事が出来ずに終わってしまう。結果、蒸発させきれなかった紫の液体がベルトランの纏う赤い鎧の籠手部分に装着された可変型の金属大爪へと付着した。

 

――ジュッ!

 

「うぉっ!」

 

付着した紫色の液体が瞬時に自らの鎧の爪を溶解させたのを見て、ベルトランは慌てて空中へと放射していた炎で自らの身体と爪を覆った。炎により毒液は即座に蒸発し、爪には金属が溶けた赤色の溶解痕が残った。自らの硬い鎧すら溶かす毒である液体のこれ以上の付着を防ぐとともに、付着した毒を蒸発させ、これ以上の毒が侵食する被害を防ぐためだ。

 

そして彼が炎で毒液を蒸発させるのを諦めた数旬ののち、未だ空中に漂っていたベルトランが処理しきれなかった毒液が地面や樹木へと直撃し、毒液はそれらを溶解させてゆく。

 

「クソッタレ、このアホンダラァ! 欲張っちまったせいで、ヘマやらかしちまった!」

 

ベルトランは、自らへと降りかかってくる全ての残った毒液をその身に纏った炎で浄化しながら、無茶な思惑をやらかそうとしたせいで、結果、ドジをやらかして自らを大いに責めた。彼は自らの炎で、空中より落下してくる全ての毒液を処理し、世界樹の大地を守るつもりだったのだ。だがそんな彼の思惑はその通りに叶わなかった。ベルトランの体から吹き出す炎が、彼の怒りに呼応するかのように荒々しく燃え盛り、彼の身体を包み込む炎の勢いが増してゆく。

 

『ベルトラン……』

 

そんな苛立ったベルトランを諭すような柔らかい声が、彼の纏う鎧の内部、ベルトランの声が発せられた場所と同じところから聞こえてくる。

 

「おっと、わりぃな。ヴィオレッタ。つい愚痴っちまった」

 

ヴィオレッタという女性の声に続いて、鎧の同じ場所よりベルトランの声が響く。同時に鎧の周囲を取り巻いていた炎の燃え盛る勢いが落ち着いてゆく。冷静さを取り戻したベルトランは、多少バツが悪そうに、溶けた爪のついた籠手で、汗でもを拭うかのように、兜の頬を掻いた。兜と籠手で金属同士がぶつかり合い、カチカチと音がなる。

 

「すまねぇな。鎧、溶かしちまった。大丈夫か?」

『ええ、平気』

「悪い。つい、な」

『いいえ。構わないわ。――貴方はやっぱり、進んで誰かの盾となろうとするのね。その姿勢、ほんと、貴方らしくて好きよ』

「おっと、嬉しいねぇ。おっさん頑張っちゃうよ」

『ええ……。頑張って、ベルトラン』

「あいよ」

 

そして二人の会話は途切れ、やがて空中より降り注ぐ毒液がなくなった瞬間、ベルトランは自らの体より噴出させていた炎を停止させ、体に纏わせていた炎の鎧から飛び出すと、首を斜めに傾け、空を見上げた。

 

「さぁて、とは言ったものの……」

 

視界の先には巨大な蛇が映っている。蛇は初めて自分たちが目撃した時の、千倍もの大きさ――十キロはあろうかという巨体に成長していた。

 

「こいつぁ、どうしたもんかな……」

 

これは先制攻撃を全力の威力で叩き込み、一息で仕掛けようとした自分とフレイの失策だった。敵の防御力というか、鱗や肉の硬さは大したことがないため、誰だろうと攻撃すれば奴の肉体は簡単に傷ついてくれるのだが、そうして傷ついて肉体を損失すると、蛇は、一回瞬きする迄の間にはその損失部位の再生を終えてしまう。その上、再生が終わった時には、一回り大きくなるのだから、タチが悪い。

 

「俺じゃダメ。フレイでもダメ。冒険者の火力を集中した一斉攻撃でもダメ……」

 

また、この蛇の再生と巨大化能力には際限というものがないらしく、攻撃すればするほどに蛇は巨大になり、その力を増してゆく。

 

初めのうちは、いつかは相手の体に限界がくるだろうと威勢良く攻撃し続けたベルトランやフレイ、ほかの冒険者たちも、巨大になったからといって蛇が自重にて自壊するだろうといった予想が甘かった事に気付いた時にはもう遅く、気づけば蛇は自分たちで完全に抑えることすら出来ないくらいの大きさにまで成長させてしまっていた。

 

攻撃したところで敵の身体を巨大化させてしまうだけだが、攻撃して奴の気を引かなければ、蛇はただ悠然とベルトランやフレイ、冒険者たちを無視してエトリアに向かうだけ。

 

「ってなると、縛りや状態異常でどうにかするしかねぇって話なんだが……」

 

そこで気を引くために、冒険者たちはスキルや道具を使って巨大な蛇その場に拘束しようとするわけだが、巨大蛇は縛りや状態異常の効力を持つ力をその身に受けると、睡眠、麻痺、混乱、呪い、盲目、スタン、石化、テラー、毒、および、その他、全ての縛りに反応して、その外皮より毒液を生み出すのだ。

 

「ああも巨大だと、毒液の反撃がバカにならねぇし……」

 

この毒液がまた、地面や樹木、岩や金属ですら溶かすほどに毒性が強い。加えて、毒をひっかぶった虫が瞬時に空気の中へと返ってしまったことから、人の体に触れた折には、人体を欠片も残さず消し去ってしまうだろうことも簡単に予測がつく。そんな毒液に対する唯一の対抗策として、炎が有効であったため、ベルトランはこうして世界樹の大地や戦っている人々を守るために、炎を用いて毒液の対処に当たっているわけだが――

 

「蛇の野郎に縛りや状態異常の耐性が出来ちまったのか、デカくなってスキルが通りにくくなったのかはしらねぇが、さっきからもう縛りや状態異常のスキルや道具が聞いている気配がねぇ……」

 

そうした縛りや状態異常が巨大化してゆく蛇の体に当たるたび、蛇の体からはその大きさに比例した毒液の量が放出されてしまうので、時間ごとに費用対効果が悪化してゆく。加えて、それらの行為は再生と巨大化をする蛇に対して、当然、仕留めるための決定打にならない。

 

「攻撃はダメ、状態異常もダメ縛りや状態異常を使うと、全てを溶かす液体を撒き散らされる。……、ったく、どうしろってぇんだ……」

 

唯一の救いは、体長が十キロ近くもある巨大さになると、流石に蛇も身体を動かしづくなってきているのか、動きがトロくなっている事だった。体の反応が鈍くなり、こちらの行動に対しての反応も同様に鈍い。だからといって、攻撃の有利になるわけでないし、倒す隙になるわけでないのだが、そうした行動の鈍さにより、こちらの出来る事の選択肢が増えているのは確かなので、ベルトランはその点だけは、蛇が巨大化した事に感謝していた。

 

「ベルトラン」

『ベルトラン様』

 

やがてそんな巨大化した敵の隙をついて、しなやかな体躯にベルトランの纏う鎧と意匠と似通っている、金の細工が施された黒甲冑を纏う存在がベルトランの前に現れた。甲冑からは、ベルトランとヴィオレッタ同様、男女の声が聞こえてくる。

 

「おう、フレイにお姫様。調子はどうだい。こっちはさっぱりだ」

「――ダメだな。突破口が見つからない」

『私たちの方も攻撃スキルしか使えないから、手詰まり気味なんです……』

『アリアンナさん……そう気を落とさないで……』

「本家本元のファーフニール様がアリアンナの嬢ちゃんと合体して安定して長時間戦える状態。その上、デミの俺たちも揃ってるってねのに、情けねぇなぁ、おい。ハハハハハハ」

「……」

『……』

「ハハハ……、ハハ、……――はぁ。やめた、馬鹿らしい」

 

無力を嘆き落ち込む二人を励まそうと、自虐気味にベルトランは言うが、そんな自分の気遣いが、彼らにとって気休めにすらなっていないことを理解したベルトランは、すぐさまその口を閉じた。役に立たないと知りながら何かを続けられるほど、彼は酔狂な性格をしていないのだ。

 

「さて、どうしたもんかねぇ……」

 

ベルトランが天を仰いだ。視界の先では、巨大化した蛇が、胡乱な瞳をハイラガードへと向けている。蛇がハイラガードに到達した暁には、岩崖の上にある公国はおろか、世界樹ですら打ち倒されてしまうだろう。それができる力と体がこの蛇にはある。

 

――ああ、そうだ

 

だが、そこまで考えてベルトランは思う。この蛇はいったい、なんの目的でハイラガードを目指しているのだ……?

 

「うぉっと!」

 

そんな根本的な問いをベルトランが考えていた時、彼の思考を地面の揺れが遮った。巨大化した蛇が大きく身動いだのだ。十キロもの長さを持つ巨体が身を揺るがした衝撃に、樹木は乾いた悲鳴をあげながら倒れ、葉が散乱し、大地にヒビが入る。もはやこの蛇の気まぐれで世界は滅びてしまうのだと言う考えがベルトランの頭の中をよぎった。

 

「な、なんだぁ!?」

「――あれを見ろ」

 

ベルトランの疑問に答えたフレイは、その黒塗甲冑のしなやかな指先をハイラガード方面の空へと向けた。ベルトランが蛇の瞳から、伸びたフレイの指先の方へと視線を移すと、蛇の瞳が向ける視線とフレイの伸ばした指先の交錯点に、見覚えのある姿を見て、息を大きく飲んだ。

 

「あれは……」

『オーバーロード様!?』

 

なぜならその存在は、かつて自分たちがハイラガードにそびえ立つ世界樹の迷宮の深部、第五層で戦った存在だったからだ。かつて古くはハイラガード公国の住人たちと袂を別った存在であり、また、迷宮にて死した冒険者の体を改造して魔物を作り出したり、あるいは翼人たちのような亜人を生み出した、生命を科学で解き明かそうとする、旧世代の研究者であるそんな存在が今、自らの生み出した機械鎧をその身に纏って、ハイラガード方面よりまっしぐらに巨大蛇の頭部めがけて直進している。

 

そして、不思議なことに、今まで知性というものを対して感じられなかった蛇は、一転してその巨大化した瞳に瞋恚の炎を灯して、ズリズリと肥大化した巨体を前に進ませる。ベルトランには一体何がどうなっているのかほとんどさっぱり理解できなかったが、唯一、あの蛇の狙いが、赤く燃え上がるような空を飛翔するオーバーロードという存在なのだろうという事だけははっきりと理解した。

 

 

ハイラガード近隣、上空

 

 

紅に染まる空、灰色に染まる雲。濃緑の木々に、水色の蛇行した川と、茶色の岩群。どれもいつも同じ場所からすでに見飽きるほどに眺めた景色が、こんなにも新鮮に、そして美しく思えるのは、それらを眺める場所がいつもと異なるためか、はたまた、もう二度とお目にかかることのできなくなる光景であるからか……。老いたソールは多分そのどちらかだろうと思ったが、そんなことがどうでもよくなるくらい、空から初めて眺めるハイラガード公国近隣の光景は美しかった。

 

ソールはこのような美しい光景をいつでも目に収めることのできる場所を、この美しい一秒ごとにその光景が変化する芸術品を、その両方を、なんとしてでも守りたいと心底願っていた。それを成す為に――

 

「そろそろだ。準備はいいか?」

「ああ。いつでもやってくだされ」

 

この老いぼれの命が犠牲として必要というのであれば、その程度の犠牲でこの光景とハイラガードが守れるというのであれば、なんとも不等価で自分たちにとって有利な交換だ、と、ソールは考えていた。

 

――ズ……、ズズ………、ズズズ………………

 

空中、オーバーロードという機械鎧を纏う存在に抱えられたソールが眼下を眺めると、絵画のような光景を気に食わないとでもいうかのように破壊する、絵筆の跡のような存在がある。それが。それこそが。

 

「あれが……」

「そうだ。ヨルムンガンド。世界を取り巻く大蛇だ」

 

ヨルムンガンド。ロキから生まれたやがて世界と同じ大きさに成長するという大蛇。なるほど蛇は、土石流の起きた川かと見紛うほどにまで巨大化しているところから、伝承が誇大に嘯かれたものでないことが、簡単に理解できる。

 

ソールはオーバーロードより託された剣をしっかと握り直す。剣は、カサカサで水気の失せた握力がだいぶ弱まった手中から落ちないよう、しっかと布で両手に固定されている。また、多少布を硬く巻きつけてもらったためおそらく血行障害が起きているのだろう、手首から先の感覚がだいぶ薄らいできている。常なら布の縛りを緩めてくれるよう頼んだかもしれないが、そんな自身の健康に関する心配も、すぐに永遠と無用の長物となるのだから関係ないかと、ソールは久し振りに、自分の身をぞんざいに扱うという、若い頃にのみ許された特権を思う存分に楽しんだ。明日か明後日に、自分の身へと訪れるだろう肉体の痛みに心配を割かなくて済むというのは、やはり気楽なものである。

 

「手順は理解しているな」

「貴方様が蛇の頭部へと飛び込む。私が手にした剣を奴の頭めがけて突き刺す。奴が死ぬまでそれを繰り返す。それでよろしいのでしょう?」

「ああ」

 

オーバーロードと短くやり取りをすませると、彼はもう言うことは失せたと言わんばかりに口を閉じたので、ソールもそれに習う。体の機能のうち、言語へと割いていた部分を使わなくなると、途端、別の感覚が過敏になり、ソールは肌を切るような感覚を強く感じ取った。ああそういえば、自分は今、空を凄まじい速度で飛んでいるんだな、と、改めて思う。

 

――ああ

 

そしてソールは年老いてから久しく覚えのなかった、冷たい風の中を全力で突っ走った時の感覚を思い出した。体温が汗と風に奪われ、鼓動がそんな彼らの暴虐に負けないようにと早まった。肌が感じる外気と皮膚の下で脈打つ血管の持つ温度差が生み出す猛烈な感覚が、ソールの胸の中に爽やかな風が生み出し、微かばかりに生まれつつあった死への恐怖が和らいでゆく。

 

――気持ちがいい

 

ソールは長い間、このような感覚とは無縁の生活を送っていた。公宮に大臣として務める自分は、ほとんどの時をそこに備え付けられた椅子と机の上で過ごし、外に出ることすら稀の生活を送っていた。ソールにあったのは、公宮内に与えられた場所で、書類か、冒険者か、大公閣下、あるいは自国の官僚、他国の権力者たちと会話し、食事し、腹の中にぜい肉とどす黒い感情とを溜め込む日々だった。

 

――余分なものが落ちてゆく……

 

傲慢不遜で、懐疑主義な、言葉だけはご立派なお題目を掲げる連中と口先と腹芸で乗り切る日々は、それなりに充実していたといえなくもないが、それはソールの若い頃、微かな期間だけ許された、世界樹の迷宮を冒険者として探索し、活動していた日々比べれば、美味いものをたらふく食べられようが、たいした命の危機もなく安寧とした場所で日々を過ごせようが、ちっぽけな刺激に過ぎなかった。

 

――身体中にへばりついていた重石が……

 

ソールが求めていたのは、生きていると言う感覚だった。欲しかったのは、他人を上から支配できるような権力者の立場ではなく、一人の人間として世界と、他人と向き合い、命を投げ出してやり取りするような場所と、生き方だった。

 

――余計な重みが失せてゆく

 

ソールは自由に生きてみたかった。だが、ソールにはそれが許されなかった。血筋と生まれと実力と周囲の人間関係が、ソールを公宮という場所に束縛し続けた。ソールは自由を持つ冒険者が羨ましかった。ソールは自分よりも軽い立場にある地方の責任者が羨ましかった。

 

――体の中の血が沸き立つ

 

他者からの押し付けられる責任。言ってみれば、それが彼から自由を奪い、公宮に押し込めた存在だった。他人に責任を押し付けるばかりで、自分の発言と行動に責任を持たない連中が、ソールから生きる気力を失せさせ、日和見と虚無主義の中間の存在へと彼を変貌させていた。ソールは自分の采配で自分の命の責任を取らなければならないような場所で、思う存分生きぬいてみたかった。そうして身体中の血という血が命のやり取りに興奮し、情熱を持つような、生き方に焦がれていた。

 

――こんなにも心が躍るのは……

 

しかし、年老いた自分には、無駄に偉い立場を持ってしまった自分にはもうそんな機会が訪れることはないだろうと、彼は諦めていた。だから、せめて若い立場の人間には自分のようになってほしくないと考え、彼はせめて、自らの大臣としての職責を果たすことによって、若かりし彼らが思う存分冒険できる場所を守り続けようと考えていた。

 

――生まれて初めての経験だ……!

 

だが、今、機会がソールの前にやってきた。オーバーロードと呼ばれる存在は、世界とハイラガードを守るためには、老いた自分が命を捨て、ヨルムンガンドと刺し違えなければならないと告げたのだ。そしてオーバーロードはまた、ヨルムンガンドは、自分の苦手とする攻撃に対する防衛反応として、その身を全てを溶かす猛列な毒液として変換し撒き散らす為、奴を倒すため、奴の頭がズタズタになるまで毒液に耐えながら、手にしている剣を振るい、奴と対峙しなければならないのだということも告げた。

 

――こんな機会は……、こんな高揚感は……

 

さらに、オーバーロードはこうも告げた。剣――呪銀の聖杯が剣化したというこの剣には、今、フォレストセルという悪魔の命が注ぎ込まれており、それ故に、ヨルムンガンドという無限再生する蛇を討ち滅ぼす力を保有しているが、あの肥大化した大蛇を完全に討ち滅ぼすだけの力は持っていないかもしれない。だから、剣の中に秘められた悪魔の力が失せた時、ソールは、自身の命を剣に捧げながら、蛇へと立ち向かわなければならないのだ、と。

 

――二度と訪れまい……!

 

ソールは自らがハイラガード公国という国とそこに住まう国民の為に、つまりは他者から押し付けらた責任によって、命を賭して冒険しなければならなくなったのだ。自分は誰かに必要とされて、自らが望んでいた戦いの場に立つ。しかも、そんな役目を自分へと教えた存在は、責任を他者に押し付けるだけではなく、自ら取るべく、ソールと同じ戦場に立つというのだ。互いの命を預け合う存在とともに、戦場に立つ。それはソールが長年待ち望んできた瞬間だった。

 

――ああ

 

それを自覚した途端、ソールの胸はこれ以上もなく高く鳴り響いた。乾いた全身を老廃物だらけの血流が流れた巡り、耳がキンキンと鳴った。口の中はカラカラで唾液は一滴すらも出てこない。緊張にひりつき、視野が狭まってくる感覚が、なんとも小気味良い。目はこれ以上ないほどに、敵の姿をはっきりと認識している。布に包まれた手が汗ばむ感覚が、なんとも懐かしい。

 

――なんて贅沢な……!

 

「――行くぞ。ソール」

 

若い容貌をした顔の持ち主が老人に対してかける言葉にしては、かけらほども遠慮のない言葉だったが、それこそがソールが長年欲していた、望ましい言葉だった。年下の連中から爺さんと呼ばれるよりも、自分より立場が下の人間より大臣の名称で呼ばれるよりも、ソールは、気の置けない連中がするように、ソール、と呼び捨てにされ、普通のどこにでもいる当たり前の人間として扱ってもらいたかったのだ。その言葉がソールの心に残っていた微かな現世へのわだかまりを完全に打ち消した。彼はここに、完全に命を投げ出す決心をした。

 

「任せろ、オーバーロード」

 

ソールが年甲斐もなくしゃがれた大きな声で叫び返すと、空を駆けるオーバーロードは呼応するかのように飛翔速度を増した。そしてソールは手にした剣を決して落とさぬように握りしめながら、彼の最後の冒険へと出かけてゆく。

 

 

ハイラガード近隣、上空、ヨルムンガンド周辺

 

 

「あれは……オーバーロード!」

「そして奴が手にしているのは……、大臣の爺さんだと!?」

 

ファーフニールの騎士と呼ばれる戦闘形態に変身したフレイとベルトランが叫ぶ。彼らは、かつて自らが戦った、自らを利用し、殺そうとしてきた相手が、現在のハイラガードの大臣を抱きかかえながら巨大蛇へと一直線に空を飛び向かうという状況が、一体どのような事が起こればそのような事態になるのかまるでさっぱり見当がつかず、混乱していたのだ。

 

『あ、二人が……』

『蛇に突っ込んで……!』

 

フレイとベルトランの纏う甲冑と赤鎧の中から、アリアンナとヴィオレッタが、蛇に突撃するオーバーロードとソールを見て、大いに悲鳴をあげた。彼らが突撃しようとしている蛇は、そうして飛翔する二人が、人間に相対する小蝿か何かと見紛うほどに巨大で、自身らよりも数千倍の大きさのそんな蛇めがけて突撃する彼らの行動は、どう見ても無謀な自殺行為にしか見えなかった。

 

だが。

 

「おい、どういうこった……これは!」

 

そして巨大な蛇とオーバーロード抱きかかえられた大臣が突撃した瞬間、二人は黄鱗を持つ蛇の体内へとめり込み、やがて少しの後、一キロはあろうかと言う巨大な蛇の後頭部から突き出てくる。すると今までどのような攻撃を加えられようと平然としていた蛇は、初めて仰け反り、そして彼らが通り抜けていった傷から毒を撒き散らした。そして。

 

「蛇が……、再生しない……!?」

 

彼らがつけた傷はそのまま再生されず、いつまでも毒を噴出し続けていた。その事実にその場にいる全員が驚いた。彼らが驚いている間にも、オーバーロードと大臣は蛇へと突撃を繰り返し、蛇の体に多くの貫通痕を作り上げてゆく。誰もが残すことのできなかった傷跡を、突如として現れた存在が残してゆく。その不可思議な光景に、その場にいる全ての戦闘を行なっていた存在は、手を止め、見惚れていた。

 

『フレイ。あの剣は……』

 

やがてそんな中、アリアンナが大臣の持つ剣に着目した。その、シンプルながらも特徴のある光を放つ剣に、彼女は見覚えがあったのだ。

 

「――ああ」

 

アリアンナの指摘によって大臣の持つ剣を注力して見定めたフレイは、アリアンナに対して首肯の返事を返す。身忘れようはずもない、それは、かつて自分たちが冒険の果てに最強の敵と戦いで手に入れ、そして、最後の戦いにおいてフォレストセルと洞穴の機能を永久的に封じておくために失った、全てのものを切り裂く剣だったからだ。その銘は。

 

「ラグナロク。なぜあの剣が彼らの手に……?」

 

かつて自身が短い間用いていた、命を削って強大な威力を発揮する剣を眺めながら、フレイは首をかしげる。どれだけ待とうと、そんな彼の疑問に対して答えが返ってくることは無かった。

 

 

ハイラガード近隣、上空、ヨルムンガンド周辺

 

 

「ふ、ふふふ……」

 

オーバーロードの腕の中、剣を頭上へと掲げたソールが手の内握った剣で、血の通う瑞々しい肉を裂き、敵の命を奪いゆく。

 

「ふ、あ、あは、あはははははは!」

 

感触に、全身の血液がさらに暑く早く沸騰してゆく感覚を手に入れたのか、はたまた、意を決した己の一撃が、これまで誰も、どんな英雄たちですら太刀打ちできなかったものを打ち砕いていくその感触がなんとも心地よいのだろう、ソールはヨルムンガンドを切り裂きながら、大きな高笑いの声を上げた。

 

「はは! あはは! は、あはははは!」

 

狂ったかのように叫ぶソールを抱えるオーバーロードは、そんな狂人めいた態度を取る彼に対して、しかし、理解を示す視線を送った。長年積み重ねてきた苦労が報われる瞬間の快感というもの、研究者として多くの時間を過ごしてきた彼はよく知っていたからだ。

 

また、自らがミョルニルという破滅と豊穣の力を持つ槌を参考に作り出した道具の片割れ、呪銀の聖杯が、たしかにその威力を発揮して、無限再生する敵に癒えぬ傷を作り出してゆくという現場を自らの目で眺めると言うものは、研究者である彼にとっては自らの作り上げた理論体系が証明される出来事に等しく、小気味が良かったと言うのもある。

 

そう、オーバーロードは、自らの理論の正しさを自らの手で、自らの賢しい頭へと見せつけ証明するために、状況とソールとを利用して、こうしてヨルムンガンドとの戦いの場にいた。彼にとって、世界の平和や人の安寧など二の次だった。研究者である彼にとって、自身の研究が正しいことが証明されることこそ、自分の全てだったのだ。

 

「はは! ははは! あはははは――!」

 

だから彼は満足だった。たとえソールが呪銀の聖杯で切り裂いた蛇の身から垂れ落ちる毒液に身を自らが作り出した機械鎧を溶かされようと、たとえその毒液が、予想通り、自らの改造した肉体にまで浸透し、やがて脳髄までを溶かすだろう事を理解していようと、否、そうした自らの予想通りに事が運んでいると言う事実が、彼をさらなる満足の高みへと押し上げ、オーバーロードの心を昂ぶらせてゆく。彼は自らの研究成果が正しく効果を発揮し、実験が自らの予想と理論通りの結果になっていることに満足していたのだ。

 

「はは――」

 

やがて胸元で狂乱の大笑いをしていたソールの声が失せたことに気がついたオーバーロードは、一旦高速で飛び回り蛇の体内へと飛び込む動作をやめた。

 

「――後はよろしくお願いします」

 

途端、ソールはそんな事を言った。オーバーロードは彼が剣に宿っていたフォレストセルの力を使い果たし、そしてその命を剣に捧げようとしている事を知った。

 

「ああ」

「ここまでありがとうございました」

「ああ」

 

オーバーロードの気の無い返事を、しかし、ニコリと笑って受け入れたソールは、オーバーロードの巨大な籠手の中で剣を振りかぶる。オーバーロードは彼のそんな挙動に合わせて、蛇めがけてもはやほとんど溶けかけている翼で、墜落するかのように突進した。ヨルムンガンドはそんな自らの眼前に真正面から突撃してくるソールとオーバーロードに対して、真っ向から口を開き、毒液を吐き出した。

 

「『美しき陽光』『凍雨と雨氷』『雷鳴と我が身』」

 

そして、正面から飛来する毒液にぶつかる寸前、オーバーロードはここに来て初めて、自らの機械鎧からスキルの力を発動した。頭部の機械からは蛇にはまるで効果を与えない豪炎、氷柱、雷嵐が群をなして発せられ、粘性の高い毒液とぶつかり、彼とソールの道を切り開いた。オーバーロードは、蛇が、相手はそのような手段で毒液を破る事も出来たのかと驚いたそぶりをしたのを見て、自分の予測が完全に相手を上回って正しかったのだと思い、殊更に満足の念を覚えた。

 

毒液の包囲を打ち破って飛び出した二人の前に、もはや敵はいなかった。

 

「命を弄ぶ破壊の槌/ミョルニル!」

 

ソールは己の命を呪銀の聖杯へと注ぎ込み、その真なる力を発揮させる。北欧神話において雷神の名を持つ彼にその真なる名を呼ばれ、振るわれた剣は、その刀身から荒ぶる雷を生じさせた。オーバーロードの前方へと突き出された雷が、オーバーロードが左右に広げた機械羽根と、背面に装着されている金属尻尾より空気中へと放電され、彼らはまるで十字架の如く状態となり、蛇の頭部へと突き刺さった。

 

「――ッ!」

 

全ての命を奪い去る聖杯がソールの命を吸い取って発した雷は、無限再生する蛇へと突き刺さった瞬間、その効力を完全に発揮して、その刀身に蛇の命を収納してゆく。あらゆる命を収奪し、打ち砕くも、生き返らせるも自在に操る槌の前では、無限などという幻想は木っ端微塵に打ち砕かれていた。

 

「――は!」

 

そしてその槌の効力は、槌を振るうソールを金属籠手の内に握っていたオーバーロードにも当然影響を与えた。槌の発した雷は、金属鎧を通じて毒液に爛れた肉体へと浸透し、彼の体から生命力を奪い去ってゆく。

 

そんな予想通りの結果にオーバーロードは満足すると、呪銀の聖杯を手にするソールを抱えたまま、消滅した蛇の巨体の跡地へと滑落してゆく。そしてオーバーロードは、やがて地面が自身たちを荒々しく迎えるまでの間、心ゆくまで自らの研究成果が正しく発揮された事を喜んだ。

 

――オ、オォォォォォォぉぉぉぉぉぉぉ!

 

だがそしてオーバーロードは、意識が完全に途切れるその寸前、自らの至福の時を邪魔する方向を聞いて、微かにばかり意識を現実へと引き戻された。

 

落下している己の視界の先、すぐ目の前にまで迫っていた蛇の毒にて融解していた地面は、それまでとはまた別の禍々しさを秘めていた。そんな事実がオーバーロードの頭に新たな疑問を生み出す前に、彼の溶解しかけていた顔面は地面と激突し、粉々に砕け散る。彼の体を巡っていたオイルが、まるで鮮血のように宙に舞い散った。

 

途端、彼の機械体を砕いた地面に波紋が生まれた。直後、地面は水面のように波打ち、その場にあった全てのものが地面の中へと吸い込まれていく。

 

 

「ち、回収し損ねたか」

 

ヨルムンガンドが暴れていた場所のすぐ近くの木の陰、戦況の行方を追っていた存在は、オーバーロードがヨルムンガンドを仕留めたのち、地面と激突し、大破し、彼を構成していた全てと彼が手の内に抱いていた全てが地面に吸い込まれたのを見て大きく舌打ちをした。

 

その存在は討たれたヨルムンガンドの体が毒液に変わり、地面を溶かしてゆくのを見る事もなくその場から踵を返すと、ハイラガードの南へと歩いてゆく。

 

彼の向かう先には、天に向けて赤い光を放つ、大地に大きく刻まれた傷跡――ギンヌンガの大穴があった。穴より放たれる赤は、すでに赤い空を、より濃い赤色へと変貌させてゆく。空は、運命の針が刻一刻と終着に向けて動いる事を告げるかのように、その赤の色濃さを増していった。

 

第四話 終了

 

 

 



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第五話 理想と呪縛と

添削と気に食わない部分の全修正をしていたら遅くなりました。申し訳ありません。内容がお気に召していただければ幸いです。


Fate Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜 

 

第五話 理想と呪縛と

 

私はいつかいなくなる。形あるものはいつか失せる。それが自然の摂理だ。摂理に逆らおうとは思わない。不自然な真似をしてまで生きながらえようとは思わない。――ただ。

 

ただ、せめて。私が生きたという証を残したい。

 

――その願いが全ての始まりだ。

 

 

飛行都市「マギニア改」内部

 

緊急探索司令部

 

 

ロマネスク様式に作り上げられた分厚い壁ばかりで覆われた窓ひとつない空間を、四方の壁に等間隔で並べられた灯が明るく照らしあげている。壁面を飾るものといえば、炎の灯りと天井近くから吊り下げられた紋章の入った赤い緞帳くらい。そんな飾り気の少ない隙間だらけの広々とした空間は、しかし今、恐ろしいくらいの緊張感で満たされていた。

 

部屋を満たす緊張感を主に生み出しているのは、最奥にある赤い緞帳の前に立つ、全身を曲線の多いフルプレートの鎧で包み込んだ彼女と、その傍にいる白髪の男性、そして、彼女に付き従う一個小隊の軍隊だ。女性が立つ炎の柔らかい光を浴びて飴色に輝く机の前に広がる空間には、全身を鎧兜で覆った如何にも屈強そうな兵士達が規則正しく並んでおり、総じて鋭い視線を女性の前に立つ五人の集団へと向けている。

 

「現在、マギニアの代表者は突発的な事態に対応すべく、各所への諸連絡と雑務、事務処理に追われているのでな。代わりにといってはなんだが、代理を任された私、ペルセフォネが君たちのお相手をさせて頂く」

 

涼やかな声が朗々と部屋に響き渡りる。

 

「先程君たちはこう言った。『今、世界に危機が訪れている。解決のためには、この飛行船が必要だ』、と」

 

ペルセフォネの言葉を、彼女の傍に立つ黒鉄の鎧に身を包む、三白眼の彼――ミュラーとよばれる軍人が継いだ。いかにも軍人らしく短く刈り込んだ白髪と顎鬚をたくわえたミュラーは、硬い中にも女性らしい柔らかいさを持ったペルセフォネのそれとは異なり、剣呑な、遊びのない口調をしていた。一言一句違わずに繰り返す生真面目さが、彼のその真面目な態度が、軍人という役職ゆえの飾ったモノでなく、生来の気質によるものだという事を教えてくれている。

 

「事情を知っているならば聞かせてもらいたい。この世界に何が起こっているのか。そして、世界の異変解決のため、なぜこの飛行船が必要になるのかを」

 

ミュラーの言葉を聞いたペルセフォネは顔にわずかばかりかかった短い前髪を書き上げると、凛とした視線を机挟んで向かい側にいる集団へ向けた。

 

「その話が私たちの納得いくものであれば、要望を飲み、協力することも吝かではない」

 

彼らの物言いは一聞すると多少協力的にも聞こえたが、その言葉の裏側には、嘘偽りあらばこの場でお前たちを処分すると言わんばかりの意思が含まれている。ペルセフォネが言い終えると同時に、五人の冒険者を包囲するようにして佇む兵士たちが、兜の下より放つ一糸乱れぬ圧力をさらに猛烈なものへと変化させた。その威や凄まじく、戦場と勘違いせんばかりの緊張感が部屋の中を包み込む。炎に囲まれた薄暗い部屋の中は、いまや敏感な者でなくとも部屋の温度が数度ほど下がったかのような錯覚を覚させるほどの重苦しさがあった。

 

「ペルセフォネさんは、この世に存在する全ての生き物に共通する特徴というものをご存知ですか?」

 

やがて少しばかりの間の沈黙の後、集団うち、ほとんど裸身の状態に等しい格好をした、頭部にツノをたずさえている少女が言葉を発した。

 

「全ての生物に共通……、ですか?」

 

返ってきた言葉の意味をペルセフォネは理解できず、思わず鸚鵡返しにセリフを返却した。直後、首を傾げたペルセフォネは視線をミュラーや兵士たちに向けるも、そうして自らの上役から答えを求められた彼らもやはり見当がつかなかったようで、唇を窄めて首をかしげるばかりであった。彼らから答えが帰ってくることはあるまいと直感したペルセフォネは、やがて視線を裸身の少女の周囲に佇む四人へと向ける。視線から答えを求められているのだと理解した四人は、少しばかり首をひねった。

 

「食べる事、とか?」

 

やがて四人のうちの一人である全身に白銀の鎧を纏った金髪の女性騎士――女パラディンは、突如として飛んできた質問に首を傾げながらも答えた。

 

「いえ、師匠。非常に珍しいですが、食事という行為を行わない生物もいます。細かい事かもしれませんが、全て、というのですから、動く、とか、生きている、とか、もっと根本的なことかもしれないですよ」

 

女パラディンの短い言葉を受けて、軽装のレザーアーマーを纏った、小柄で茶髪のメディックの女性が答える。

 

「そうね。生き物、突き詰めれば、生きている物、ということで、生きていると言うのは動いて活動するという事なのだから、パラ子よりもメディ子の言う事の方が正しいかもしれないわね」

「むぅ……、ガン子はメディ子側か……。結構自信があったのだがなぁ」

 

青いダブルコートと帽子を被ったガンナーの女性が、メディックのメディ子の言葉に賛同する意見を返した。女性パラディンのパラ子は、ガン子と呼ばれた女性が自身ではなくメディ子の意見に賛同したことに少しばかり不満気に頬を膨らませ、腕を組む。身動ぎにパラ子の腰まで伸びた金色の長髪が揺れた。その髪の艶やかな動きに触発されたのか、ガン子は自身のパラ子と同じくらいに伸びた髪をかきあげて、優雅に微笑んだ。

 

「……それで、答えは?」

 

三人の意見が出揃ったところで、全身を黒装束に包むシノビの男性が端的な問いと鋭い視線を裸身の少女へと投げつける。多くに兵士や二人の指揮官を前にしているにもかかわらず、彼らはどこまでも自然体であった。そんな彼らの気を互いに置かない態度に、緊迫した空気が解れてゆく。そんな空気の変化を文字通り肌身で敏感に感じ取った裸身の少女は、シノビの男性の問いに対して微笑むと、緩やかに口を開く。

 

「大まかにはガン子さんの言う通りです。――全ての生物は、生き延びて、自らの遺伝子情報や生涯のうちに学習した結果を次世代へと伝えるために、繁殖や進化や発展を行います。情報を蓄積し、研鑽させ、発展させ、発散させる。自らが受け継ぎ、研鑽し、積み重ねた結果を次世代に受け継がせる、広く世に散らす事こそが、全ての生物が無意識のうちに行う、遺伝子の奥底にまで刻み込まれた本懐なのです」

「はぁ……」

 

裸身の少女の語りに、ペルセフォネは間の抜けた声をあげながら先程のように首を傾げた。言葉には出さなかったが、その仕草には、だからどうしたのか、という無言の訴えかけが含まれていた。

 

「それで、その生きるという事の意味や生物の特徴がどうしたというのだ」

 

そんな内心を読み取ったかのように、彼女の傍にいたミュラーと呼ばれる軍人が冷たい口調で問いかける。裸身の少女は自身へと向けられた温度を感じさせない男の冷たい目線を暖かな態度で柔らかく受け止め首肯すると、再びゆっくりと口を開く。場の空気はすっかりこの裸身の少女の支配下に置かれていた。

 

「その本能は、どのような小さな生き物でも、どのような大きな生き物でも、全ての生命活動を行うものが保有しています。――そう、それがたとえば、星という人からすれば巨大な存在であっても……」

「ほ、星ぃ?」

 

裸身の少女の口から飛び出した言葉をきいて、メディ子は怪訝そうな顔を浮かべた。素っ頓狂な声をあげた。裸身の少女は、微笑みを崩さないまま視線の向ける先を、ミュラーからメディ子へと向けなおすと、穏やかに頷く。

 

「はい。人間や他の生物よりも極端に寿命が長く、そして保有する生命力も桁違いに強大な存在であるがゆえに認識されにくいですが、星もまた、この宇宙に生きる生物の一つなのです。星と呼ばれる彼らもまた生きているのです。つまり――」

「――なるほど、つまり、貴女はこう言いたいのか」

 

疑念の顔を浮かべていたペルセフォネは、裸身の少女の言葉を遮ると、言う。

 

「星もまた生き物の一つである以上、生きる目的があり――、自らの情報を次世代に受け継がせるために、何かしらの活動をしている。そして今回、死者が蘇り、地上全てにこれまで見たこともないような魔物が跋扈するようになったその原因は、星が本能的に行なっている活動と関係したなにかによって引き起こされたのだ、と」

 

自らのセリフを取られた少女は、しかし一切不満がない様子でにこやかに微笑むと、ゆっくりと頷く。

 

「その通りです。元を辿ればこの度の事態は、自らの種を星の海へとばら撒きたい地球と、その身に安寧を提供してくれる母なる大地に留まりたい人間の、それぞれの本能がぶつかり合った結果、起こった出来事なのです」

 

少女の言葉を最後に、沈黙がその場を支配する。辺りを照らす灯の揺らぎだけが、唯一、この場に時が停止していないことを証明するかのように、一秒ごとに濃淡の変化する輝きを放っていた。

 

 

???

 

 

「アーチャー!」

 

凛は、呪いの塊に飲み込まれたエミヤと響を追いかけ、呪いの塊が開けた空間の狭間へと飛び込んだ。飛び込んだ先にまともな世界が広がっている可能性は低く、むしろ間違いなくまともでない世界が広がっている可能性の方が高いという直感さえあったが、凛に迷いはなかった。

 

――このままアーチャーを死なせてしまっては死んでも死に切れない

 

凛は、エミヤという、他人の事ばかりを優先にしたため己の未来も何もかもを失ってしまった、馬鹿で愚かな、しかしだからこそ愛しい彼を幸福にしてやりたいという願った。だからこそ凛は、己の生涯の全てと、己の何よりも愛した伴侶を犠牲にしてまで彼をこの世に引き戻したのだ。

 

凛にとってエミヤの幸福とは、己と、己も愛した夫との、二人分の悲願だった。凛はそうして彼を幸福にする事こそが、自らと、自らを信じて命をくれた伴侶の人生を胸を張って己と他者に誇れるものとする唯一の手段だと直感していた。凛にとってエミヤという存在が幸福な未来を手にできるかという事は、己と比翼の片割れの生涯の死を無意味なものとしないか否かの分水嶺であり、己の生死などよりも重要な事項だった。

 

――お願い、無事でいて、アーチャー……!

 

故に凛に迷いなどはなかった。そして――

 

 

「う……」

 

意識が揺曳としている。数度ほど瞼の開閉を行った。わずかばかりの息苦しさの後、喉元より発せられた振動が呻き声となり、頬骨を伝道して自らの鼓膜までを揺らした。生温い感触が頬と手のひらより感じられる。自らが地面に横たわっているらしい事を悟った凛は。すぐさま両方の掌を地面に立てると、我が身を起こすべく腕と体に力を込めた。

 

――ッ、つぅッ……

 

片手に体重を預けると、絹と例えるにしても滑らかすぎる抗いがたい魅力を持った感触が手のひらより伝わってくる。だが同時に、えもいいあらわせぬ不快な感覚が手のひらを通じて脳裏にまで駆け上がってきた。ぞわりと背筋に寒いものが走る。感触がもたらす誘惑と不安に抗うようにして凛が思い切り力を込めて地面を押すと、身体中に軋むような痛みがはしる。同時に軽くめくらみが起きた。寝起きが悪いのはいつもの低血圧の仕業だろう。しかしそれにしてもこの度は特段に調子が悪い。おそらくは酸素が足りていないのだろう。

 

「すぅ……、――――、はぁ……」

 

ボヤける視界と脳内を正常に戻してやるべく、思い切り空気を吸い込んで、そして吐き出す。多少湿度が高い感覚はあるも、胎内で燻っていた空気を新鮮なものと入れ替わってゆく感触が心地よい。凛はそのまま数度ほど呼吸を繰り返したのち手で目元をこすり、数度しぱたたかせたのち、瞼を開いた。

 

「っ……」

 

すると、突如として目眩いばかりの光が飛び込んでくる。光は数旬前まで暗闇の中で安穏としていた脳にとって処理可能域を遥かに超えていた。凛は反射的に瞼を閉じて両手を重ねて手のひらで瞳をかばった。瞼の裏側では真白い光がチカチカと点滅していた。

 

「……っ、たく……」

 

凛は突き刺すような刺激が失せるまで強く瞼を閉じていた。やがて瞳の中よりチカチカとする存在が失せてゆくのを確認すると共に、徐々に腕の中にて閉じてある瞼をゆっくりと開いてゆく。恐る恐るながらも腕を下ろしていった。

 

「なによ……、これは……」

 

すると狭くなっている視界を広げてやろうとするかのように圧倒的な光景が飛び込んできて、凛は呆然とした。目の前には夕焼けの黄金というにはいささか暗すぎる朱殷色をしている絹のように滑らかな大地が、それこそ地平線の彼方まで広がっている。地平の彼方まで続く朱殷色は、紫だちたる地平線を境界線として、途端、碧瑠璃色へと移り変わる。

 

赤と青。生命と、永遠。変化と不変。太古より聖なるものとして崇められてきた二つの相反する色が織り成すコントラストには、まるで、薫陶を授けてくれる人間は一人残らず死滅し、人類という種族自体が地球という星において猖獗を極めてしまった事実を示すかのような落日の雰囲気があった。

 

『ライドウ。以前お主がアマラ回廊などの異次元へと繋がる空間に飛び込んだ際は……』

「――いえ。このような場所はどこにもありませんでした」

 

光景に見惚れていると、背後より声が聞こえてきた。

 

「ライド……」

 

反応して振り向いた途端、凛は口を開いたままの状態で停止した。視界へ飛び込んできた光景に意識が奪われたのだ。汚れた学帽と破れた学生服をまとったライドウが、不吉の象徴である黒猫を横に置いて倦怠を形にしたかのような薄暗い夕闇色の中に佇むその光景は、なんとも頽廃的で蠱惑的だった。

 

「――凛さん。ご無事でしたか」

『全く無茶をする。……まぁ、主らを追って迷わず飛び込んだ我らも人のことをどうこうは言えぬか』

 

それは暮れなずむ学校にある教室の光景のようだった。ボロボロに破れている学生服と学帽を纏う彼が帯刀し、銃を腰にぶら下げているという状況もまた、彼の神秘さを引き立てるための淫靡な雰囲気を引き出すファクターとなっている。ここに椅子や机というものが存在していれば、人気の失せた教室に半裸で黒猫とともに佇む白皙の少年という構図になるその光景は、さぞや素晴らしい一枚絵となっただろう。――そしてそれはまるで。

 

――あの時の……

 

暮れに染まったかのような景の中、顔立ちの整った白皙の青年が真剣な目を浮かべている光景は、凛の脳裏を刺激して、彼女の脳裏から過去の記憶を引き出させた。思い出したのは、自らの身に宿った才能を誇り、他人の必死を無駄と切り捨て、慎重を臆病と指摘し、傲慢さすらも若さの特権と言い張って溌剌と胸を張っていた若かりし学生時代の頃、夕暮れの教室で未来に自らの伴侶となる人物と命がけの追いかけっこをしたという記憶だった。もはや数千年以上も昔の出来事であるがゆえに古びて灰色をしていた記憶が感情によって着色を行われ、色鮮やかさを取り戻してゆく。

 

「……っ、そうだ、アーチャー!」

 

やがて溢れ出てきた過去の記憶の奔流をただ呆然と受け止めていた凛は、浮き上がってくる記憶の中、今も色濃く鮮明に思い出せるアーチャーとの別離の光景から彼の不在を思い出し、声高に叫んだ。

 

「アーチャーは……、あのバカはどこに……!?」

 

呪いに飲まれて消えた彼の姿を求めて踊るように体を回転させながら視線を動かしてやるも、視線は障害物のほとんどないのっぺりとした大地の上を滑って彼方まで到達するばかりで、やはりというか求めた人物の姿は見当たらない。それでも諦めきれず、一縷の希望を求めて少し首を上向きに傾けて地平の境界線より上、碧瑠璃色の空へと改めて視線を向けると、そこには世界樹の上の大地でいつも見ていたような、華美さを誇る星が漠と一面に散らばっていた。空はまさに星の海、と呼ぶに相応しい光景だった。光景のあまりの圧倒的さに、見慣れているはずの凛ですら一瞬言葉を失った。

 

「あれは……」

 

だがそうして天然のプラネタリウムに魅せられたのもつかの間の事だった。夜空を眺めていた凛は、やがて目の前に広がる空の中、地球上からは見えるはずのないものが浮かんでいるのを見つけ、呆然とした。アーチャーを探していたことなど瞬時に忘れてしまうほどの衝撃が凛を襲う。

 

「まさか……」

 

凛の目に飛び込んできたもの。それは、青と白がよく目立つ、巨大な惑星だった。凛は一度たりとその惑星の全景を肉眼で確認したことはない。けれど、この全てが死滅したかの様な不気味な世界の中で唯一生命の存在を主張するかのようにあざやかに輝くその星を、自らがその生涯を過ごしたその星を、凛はかつて映像や写真などでそれこそ見飽きるほどに何度も見たことがあった。

 

「地球!?」

 

叫んだ凛は慌てて周囲を見渡した。凛の視線を追うようにして夜空を眺めたのだろう首を上へと傾けたライドウとゴウトも、先程までの自身と同じよう、眼を見開いて天の一点を見つめている。今しがた自らの目に飛び込んできたそれが夢幻の存在でないと知った凛は、即座に思考を巡らせた。

 

今自らが立っているのは、空の向こう側に地球の見える場所であり、静寂が支配する、樹木草花の一つすら見当たらない、荒涼とした平坦な大地の上だ。凛には、正義の味方を目指していた伴侶に付き添う形で世界中の紛争地域を飛び回り、また、世界樹のエネルギー源となる龍脈と霊脈選定のために、それこそ地球上のあらゆる所へと足を運んだという自負がある。だがそんな自分であっても、このような遠く四方八方まで赤い滑らかな地面が続く光景は目撃したことがない。近しいものを挙げるとすれば夕日に染まるサハラの光景か、あるいは条件の整った際に見えるウニュ塩池の光景かであるが、それにしても地平の果てに山の端一つ見当たらないという事態は有り得ない。

 

「……いえ」

 

そもそも、富士の頂に立つものが富士の遠景を眺めることができぬように、地球という星の僅かばかりに楕円形の全景がこうして見えているのだから、ここは地球の上ではありえない。事実を認識した瞬間、凛の脳裏をある単語がよぎった。

 

「ということは……、まさか、ここは、月……?」

 

それはあまりに突拍子も無い結論だった。だが、凛の知識からすると、地球という惑星がこのような大きさの形に見られる場所というものは、地球の周囲を公転する唯一の衛星である月くらいしかありえない。ならば、自分が今立つこの場所は月の地面の上ということになる。

 

「ありえない……」

 

しかし凛は、己の脳裏に浮かんだ結論を自ら否定した。そうだ、ここが月の上だなんて、そんなことはありえない。だってようよう視界を広げて見てやれば、月は地球から離れた場所に浮かんでいる。なにより、ここには人間である自分が生存できるような大気組成となっており、いつも通りに自分の体を動かせるだけの重力がある。いつも通りの呼吸が行えて、いつも通りの挙動を行えるこの場所が、重力が地球の六分の一であり、故にまともな大気も存在しない月であるはずがないと、凛は瞬時に結論を導き出した。

 

「……ええと」

 

混乱しかけた凛はまず主観を排除して事実だけ整えてやる事とした。この場所は、地球と月の全景が見え、地球上と同じ大気組成となっている。ならば――

 

「ここは、月でなく、地球でもない、それでいて、地球に近い場所……ということ?」

 

対立する二つの事実を結びつけると自然と脳裏に浮かび上がってきた結論に、思わず凛は首を横に振る。

 

――あり得ない

 

自らの思考が導き出した答えの馬鹿さ加減を自嘲するかのように、一瞬、否定の言葉が口から飛び出しかけた。

 

「――……っ」

 

だが魔術師である凛は、アーチャーの用いる、周囲の世界を己の心象風景と入れ替える事で矛盾や不可能を可能とするような世界を作り上げる大魔術や、あるいは、つい先程まで自分がいた、悪魔と呼ばれる存在が作り上げる異界という異常の法則が支配する世界を思い出して、喉元まで出かかったその言葉をぐっと腹の中へと飲み込んだ。そうだ。ありえないということはありえない。もしかしたら、ここが誰かの固有結界内であったり、悪魔がつくりだした異界という可能性だという可能性もあるし、それ以外の特異性によってつくられた領域であるという可能性もあるのだ。

 

「……そうだ! それよりもアーチャーは……、アーチャーと響は何処に……!?」

 

固定概念に縛られるという魔術師からすれば噴飯ものの失敗をやらかした凛は、己の無知と弱気を恥じるかのよう硬く歯を噛み締めた。ついで固有結界という大魔術の名前からそんな魔術を行使することの出来る男の存在を思い出した凛は、彼の名を叫び、おまけとばかりに、彼とともに暗黒の中へと消えたもう一人の少女の名を叫ぶ。

 

――アーチャーのことはわからねぇが、響とかいう嬢ちゃんなら少し離れた場所で横んなってるぜ

 

やがて己の不肖を誤魔化すかのように必死で四方へと視線を飛ばして二人の捜索を行なっていると、凛の脳裏へ響く声があった。声は魔術的繋がりを通じて脳へと直接語りかけられたものだった。

 

「ランサー! あなたも無事だったのね!」

――ああ。このまま放置されるんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたぜ。……それで、どうするんだ、リン

――……、響を回収してきて頂戴

 

アーチャーのことにかまけて彼女のことを失念していたとはいえ、彼女の事を気にしていなかったというわけではない。報告を聞いた凛は即時に響の方を一瞥し、今の自分と彼女とが結構な距離――二、三キロほど離れていることを確認すると、回収の指示を出す。

 

「了解だ。何かあったらすぐに念話で呼び出せよ」

 

霊体化し常人の目に見えない状態で虚空に留まっていたランサーは、具現化して凛に生声の返事を返してその場より消え失せた。凛はランサーがこの場から消え失せたことを見やると、ふいと視線を逸らして、再び周囲へと目線を向けなおした。

 

「……」

 

四方山に茂木どころか、それそのものすら存在しない景色。天を見上げれば、一縷の雲すら存在しない降る程の星が蓋っている空には、銀色に輝く月を押しのけて、地球が清廉な色を携えて己が存在を主張し、滑らかな朱殷色の大地を照らしあげている。

 

それはなんと異世界的な景色なのだろうか。改めて眺める光景にはやはり違和感のみがこみ上げてくる。天も地も果ても、凛の知る常識よりたった一つの余分が加えられているだけである。手を掲げて違和感を生み出す一つ一つそれぞれに黒い影を落としてやれば、光景は凛のよく知る光景へとすぐさま変貌する。

 

そう。凛の常識と違うのは天に、地に、果てに、たった一つずつなのである。にもかかわらず、自分はこれほどまでにこの光景に違和感を感じ、そしてその理由を見つけ出そうとしている。自らの持つ常識と異った法則が働いている。自らの常識が通用しない、自らの力が通用しない世界に自らは今足を踏み入れているのかも事態がこれほどまでに焦燥感を覚えさせるのだという事を、凛は改めて認識した。

 

「まるで地動説の世界ね……」

 

自らの周囲に広がる世界の形を想像しようとした凛は、不意にまだ人間がたいした測量法を持っていなかった頃に信じられていた説を思い出した。かつて人間は、世界とは自らの足元にある地球を中心としてあるものであり、大地は果てがある浮島のごとき存在であり、果てにある崖からは海の水が轟々と下方に向けて落ちていくと考えていた。

 

かつて凛がそんな彼らの考えを知ったとき、正しい天測の方法も、地球が丸いということも知識として知っていた凛は、なぜそうも実測を行わないままこのような突飛な発想をしたのだろうかと古人の怠惰と愚かさを憐れんだこともあるが、なるほど、彼らもこんな気分だったのかもしれないと思い、今更ながらに過去の未熟さを恥じ、反省した。

 

「世界の終わる場所にでも来ちゃったのかしらね……」

「流石は腐っても天の女主人。外套の置き場が違えていればすぐに気付くか」

「……え?」

 

虚空へと消えるはずだった自制を含む自嘲めいた言葉に対して返ってきた言葉に、凛は驚いて振り向いた。

 

「……ギルガメッシュ!?」

「如何にも」

 

すると、輝く金色の髪をかきあげ額と鋭い眼差しを晒し、強力な守護の術式が編み込まれた豪奢な黄金の鎧を身に纏う、戦闘を行う状態の格好をしたギルガメッシュがそこにいた。

 

「どうしてアンタがここに……?」

「……」

 

そうして投げかけられた凛の問いかけを、ギルガメッシュは真正面から受け止めたのちにそっぽを向いて、完全に無視をした。顔には、わかりやすく拒絶の意思が浮かんでいる。おそらく、イシュタルの同位体たる自分の疑問に答えてやるものかとでも思っているのだろう。あいも変わらずギルガメッシュは、世界が変わろうと我という存在は不変であると言わんばかりに、傲慢な男だった。

 

けれど、この全てが少しずつおかしい世界において彼が見せるまるで変わらぬ傲岸不遜な態度に、凛は安堵の気持ちが湧いてくるのを覚えた。同時に理解する。なるほど人間というものは不測の事態であっても、指導者という存在が揺らぐ事なくその場にいるのであればこうも落ち着いていられるのだ。なればギルガメッシュの全ての他者を見下すこの傲慢も、なるほどあながち彼の言う通り、王に必要な資質の一つなのかもしれない。

 

「………………」

 

ギルガメッシュの態度に対してそんな理解をした凛は、一切の不服を示さないままに、彼が次の言葉を紡ぐその時を待つ。

 

「……、チッ」

 

無視の態度を貫いていたギルガメッシュだったが、如何に無視の態度を続けられようが答えを求めて待つという凛の姿勢に不愉快さを感じたようで、そんな不快の感情を一切隠そうともせずに舌打ちを一つ漏らすと、渋々ながらも顔の位置を正して凛の正面に向ける。

 

『凛……、だれだ、この男は。只者ではないようだが……』

「――」

 

両者が見合ったタイミングで話しかけてきたのはゴウトだった。ゴウトの側に控えているライドウは、腰にぶら下げた刀の柄に手をかけた状態であり、あからさまにギルガメッシュを警戒する態度をとっている。

 

おそらく真面目なライドウのことだから、唐突に現れた存在が凛という自分の協力者に対してに対してあまりに無遠慮かつ失礼な態度を見せたため、彼に対する警戒を密にしているのだろうな、と凛は思った。

 

「……」

 

一方、凛が一人考察を行なっている中、一人と一匹から警戒の視線を飛ばされているギルガメッシュは、不機嫌を露わにする顔を保ったまま、自らに対して探るような視線と疑いの態度を向けるという、ギルガメッシュからすればその場で手打ちにしても問題ないくらい無礼な態度をとる不埒者達へと視線を向けた。

 

「ほう……」

 

これ以上一つでも気に入らない事態が起きたのであれば、この場で自らを不愉快にさせた存在にその罪を償わせる。殺意に溢れた決意を固めながら一人と一匹の方を振り向いたギルガメッシュだったが、向けた己の睨めつけた視線の先にいたのが刀剣と銃を携える白皙の少年と言葉を喋る猫の組み合わせだったという事実が面白かったのか、処罰の意志が込められていた鋭い視線を変化させると、纏う気配を軟化させた。細められた瞳から漏れる光が好奇心に満ちた色合いへと移り変わって行く。

 

「とびきり上等な悪魔召喚師に、元人間の式神か。……面白い」

 

赤い瞳が妖しい色を帯び、眉が艶やかに蠢き、ギルガメッシュはそして面白いおもちゃを見つけた子供のような、喜びと悪戯っ気とが混ざった顔を浮かべた。ギルガメッシュが纏っていた不機嫌のオーラが一気に霧散してゆく。

 

「――」

『コヤツ、相当出来る……』

 

態度を軟化させたギルガメッシュとは裏腹に、己らの正体を一瞬で見抜いた慧眼さがライドウ達の警戒をさらに誘ったようで、一人と一匹は態度をますます相手を訝しむものへと変化させた。

 

「く、くはは。いいぞ。警戒とは不理解の証。そして不理解とは階位が同じところにない証。無意識だろうが貴様らは我の喜ばせ方をよく心得ておる」

 

自身の言葉や気配に対して一々敏な反応を見せる彼らの警戒の態度がギルガメッシュの琴線に触れたようだった。ギルガメッシュはその顔に浮かべた愉悦の顔色を更に深いものにすると、片手で軽く腹を抱え、もう片方の腕を上下に振りながら、高らかに大笑いした。ギルガメッシュの性格や機敏を把握しきれていないのだろうライドウとゴウトは、彼の態度の変化に対して更に警戒の態度を強める。それがますますギルガメッシュの悦楽を誘い、彼の態度を上機嫌なものへと導いていた。

 

「ライドウ。ゴウト。この男はギルガメッシュ。私たちの住んでいた世界の管理を行なっていた存在よ。全てのものを己以下の存在と見下しているから、非常に勘に触る言動をするかもしれないけど――、敵じゃないわ」

 

このままでは埒があかない。事態を見守っていた凛はそう判断すると、仲介役に徹するべく、事情を把握していないらしいライドウらへと情報を提供した。

 

「――」

 

警戒を露わにした状態のライドウだったが、凛の言葉を聞くと刀の鍔口から手を離して素直に構えを解いた。ライドウの傍にて戦闘姿勢をとっていたゴウトも、ライドウと異なり未だ完全に納得した様子ではなかったが、一旦は凛の言動とライドウの判断を尊重することにした様で、警戒の姿勢をやめた。

 

「何処ぞの狂犬とは異なり、よく飼いならされた猟犬よ。……いや、猟猫、か?」

 

ギルガメッシュは凛の言葉を瞬時に信じて自らへ警戒の態度取ることを停止したライドウらの態度を彼なりのやり方で褒めると、ゴウトを一瞥したのち腕を組みなおし、胸を張る。続けていかにも不承不承と言った体で凛を自らの視界の中に入れると、彼ら二人と一匹に向かって、大きくに両手を広げた。

 

「ここはヴィーグリーズ……。全ての幻想が終わる土地だ」

 

ギルガメッシュは壇上で演説する政治屋の様に腕を大袈裟に振ってみせると、よく通る声で厳かに言い放つ。細い指先が世界にかかっていた未知のヴェールをはらうかのように投げ出された。

 

『ヴィーグリーズ……』

「――それは確か、北欧神話において、神々の決戦が行われる土地……」

「そうだ」

 

ギルガメッシュの言葉は自信に満ちており、彼の眼前にいる三人へ一聞には突拍子も無い発言が間違いのないものであると信じさせるだけの効力を持っていた。三人が自らの響かせた言葉を解した事に気を良くしたのか、ギルガメッシュはニヤリと笑って見せる。

 

続けて彼は片方の手を振り上げながら腰を落とし、続けて振り上げた方の手を手刀の形へと変化させると、地面めがけて思い切り振り下ろした。豪奢な黄金の籠手に覆われた手がざくりと地面にめり込み、その後ずむずむと徐々に吸い込まれてゆく。

 

「この大地は、獣神フェンリルと、巨大蛇ヨルムンガンドの死骸より出来上がったもの」

 

やがて言葉と共にギルガメッシュが腕を地面から引き抜くと、地面と指先の間に、数条の撓んだ橋がかかった。見れば籠手の軽く折り曲げた指先には、どろりとした赤色の液体が握られている。粘性の高い液体は、大地の表面の赤よりもさらに濃い朱殷色をしていた。

 

――まるで人間一人をまるごと煮詰めて、煮こごりにしたかのよう

 

差し出された液体のあまりの毒々しさを見て、凛はそんな事を思った。

 

「この大地の成分は、ヨルムンガンドの毒液にて極限の状態にまで溶解された世界の全てだ。これには、世界を再構成するための全ての素材、すなわち命の源が詰め込まれておる」

「世界の全てが詰まっているって……、まさか……!?」

 

思い浮かんだ比喩があながち的外れな表現ではなかった事を知った凛は、与えられた情報から思いつく限り最悪でえげつない結論を導き出し、息を呑んだ。思わず口に手を当ててしまったのは、そのまま続けて言葉を口にすると、自らの予想でしかないその内容が完全に真実となってしまうような錯覚を覚えたからだった。凛はそれほどまでに自らの脳裏が出した結論を恐れていた。

 

「良い間抜け面だ、イシュタル。語ってやった甲斐があったというものだ」

 

一方、凛が恐怖に慄いた挙措をとった所を目撃したギルガメッシュは、途端に上機嫌となり、唇を吊り上げて獣のような凶暴な笑みをうかべた。名や生き様が過去の神の力や気配を引き出すこの世界において、凛はイシュタルの性質を強く受け継いでいる。イシュタルといえば、ギルガメッシュが彼にとって唯一の親友と呼べる存在であるエルキドゥを失う原因を作った女神だ。そんな相手に対して意趣返しが出来たことが余程嬉しかったのだろう。

 

「安心せい。確かに我は全てと言ったが、それは完全に正しい表現ではない」

 

機嫌を良くしたギルガメッシュは、もはや目的は果たしたと言わんばかりの態度で手を振ると、掌に握った世界の素材を無造作にその辺へと投げ捨る。籠手と地面の間に出来上がった繋がりを纏めて乱雑に断ち切られ、細い糸となり、やがて宙の中に消えて行く。

 

「ほ……」

 

紡がれたギルガメッシュの言葉に、凛は口から手を外して胸を撫で下ろし――

 

「今はまだ、な」

「なっ……」

 

そして続く言葉に、後ろに倒れこみそうな勢いで仰け反り、大きく息を呑む。

 

「はは、良い間抜け面だ。語ってやった甲斐があるというものよ。――――、さて……」

 

凛が見せる一喜一憂の百面相をケラケラと意地悪く笑っていたギルガメッシュだったが、いかなる心境の変化があったのか、突如として首を垢抜けていない素朴な星の光に満ちる空の方向へと向けた。凛は反射的にギルガメッシュの視線を追うが、その小ぶりな瞳に映るのは、先程と変わらない、少しばかり変わった世界の光景ばかりである。

 

「ではそろそろこの鬱陶しい緞帳を取り払うとしよう」

 

そしてそのまま頭上に広がる星の海をぐるりと見まわした後、ギルガメッシュは再び不機嫌そうなしかめ面を浮かべると、先ほど地面に手中を突き入れた時の様に今度は何もない虚空へと向けて無造作に手を振り上げた。続けてそのままの姿勢であげた腕を振り下ろした。

 

――バキン

 

ギルガメッシュが手刀を着る所作をした途端、鼓膜を微かに揺らす程度の小さな音が鳴る。直後、地球と小さな星々以外が存在しなかった空に、ヒビが入った。ギルガメッシュが手刀を切った手を指揮者がやるように斜め上に振りあげると、ヒビの入った空間は壁が崩れ落ちるかの様にパラパラと砕けて虚空へと散り、空には巨大な裂け目が出現する。

 

「な……」

 

凛ははしたなくも口をあんぐりとあけて驚いた。数千メートルも上空にある裂け目はしかししっかりと視認できるほど巨大であり、また、十キロ以上にもわたって空の天蓋をぶち抜いていた。幅広の裂け目からは粘性の低い赤色の液体と、粘性の高い紫がかった紫赤色の液体が凛たちのいる大地に向けて落下して来ており、裂け目と凛の大地との間を繋げている。

 

「――」

『なんだ……これは』

 

突如として出現した光景のあまりの迫力に、凛のみならず、冷静さを保っていたライドウ、疑いの目をギルガメッシュへと向け続けていたゴウトも、皆が背を仰け反って驚愕した。唯一、ギルガメッシュだけが、非常に不機嫌そうな顔で、巨大な裂け目を眺めている。

 

「あれはハイラガード公国付近にあったギンヌンガの裂け目/ギンヌンガガプ、だ。落ちてきている液体は、フェンリルが咀嚼し消化した世界の一部や、近くで倒れたヨルムンガルドの死骸より生じた毒によって融かされつつある世界樹の大地そのもの……。つまりは先ほども言った通り、あの液体の中には世界の全てが詰まっておる、というわけよ」

「ギンヌンガ……」

「――フェンリルにヨルムンガンド……」

『北欧神話にある裂け目に、世界を喰らい尽くすと言われる巨大な狼と蛇……、か』

 

巨大な裂け目からは地面へ向かって膨大な量の赤と紫赤の混じった混合液が落下している。互いに入り混じる二つの液体のうち、粘性の高い紫赤の液は地面へ向けてたらりたらりと落ちており、せっかく生まれた繋がりを断ってたまるものかと決心したかのように、天と地との間に穴だらけで脆弱ながらも確かな壁を作り上げていた。

 

そんなどろりとした蠢く壁の上を、赤色の液体はまるで蛇が這うかのごとく垂れ落ちてゆく。だが赤い液体がその壁を十全に利用できるのは落下直後までであり、ほとんど多くは粘性の低さゆえに長い距離を落下する最中に壁より離脱させられる。そして穴だらけの壁より離れた液体は、落差の大きさ故に地面と達する前に分散して空気と絡み合い、滝壺の下部に霧と暴風雨を生み出していた。これがこの大地の湿度の高さの原因なのだろう。

 

「虹が……」

 

裂け目から落ちる大量の水が飛び散ることにより生まれる大量の水飛沫は、天と地の間に地上とアースガルドを繋ぐ無数の虹を形作っていた。ゆらゆらと消えては現れる一秒ごとに居場所を変化させる虹が、短くも儚い命の今が盛り時と言わんばかりに、消えては現れ、現れては消えを繰り返しながら壁にある穴と穴の間で折り重なり、無数のアーチ橋を形成しながら天から地上にまで伸びている。それは幻想的な光景だった。

 

「ビフレスト。この終焉の土地と、世界樹のある大地とを繋ぐ橋だ」

 

呆けた顔をしていた凛を目敏く見つけたギルガメッシュが、馬鹿にした顔で凛へと語りかけ。凛は納得した。目の前に広がる光景は、伝承にある通り、虹の橋/ビフレストであると同時に、ぐらつく橋/ビフレストでもあったからだ。

 

ビフレストは、ゆらゆらと頼りなく現れてはその場より消え、別の場所に現れてはまた消えを繰り返し、天と地との間にある穴だらけの壁に橋を作っては泡沫のように消えてゆく。虹の頼りない橋が天と地を儚くつなぐ光景は、終末に現れる光景としては相応しい荘厳さを備えていた。

 

「綺麗……」

 

凛はそんな場合ではないという事を重々承知していながらも、思わずそんな事を呟いた。それは雄大な光景を目にした際の反射行動だった。

 

そこへ。

 

「ふむ、これでは足らぬか」

 

――ドンッ!

 

「えぁ……?」

 

ギルガメッシュがつまらなそうに述べた。途端、見惚れる横面を叩くかのように体を揺さぶる大音量が凛を襲い、凛は思わず上擦り気味の声をあげた。続けて反射的に音の発生した方を向く。すると凛の向けた視線の先に、先程の様に手刀に構えた片手を横に振るった形の体勢で停止したギルガメッシュと、彼から約数キロほど離れた場所へと見えた光景に、凛はさらなる衝撃を受けた。

 

「こんどはなに……!?」

 

高さ一キロメートル、横幅十キロメートルにも及ぶ滝と天地を結ぶ虹の橋のすぐ近くに現れたのは、野火のように燃え上がる赤い炎の壁だった。地より空へと向けて伸びる焔の壁の向こう側には、樹木と草木の萌える林と草原があり、視線をさらに奥へと向ければ、天を貫く勢いで屹立する大樹や、地平線の彼方、遠くには脈々と連なる茶色い山峰が存在している。炎が地面より立ち上がる光景という一点を除けば、地球上に幾らでも存在するだろう赤い滑らかな空間を侵食するかのように現れた砂漠地帯の一風景は、そのたった一点、空を焦がす勢いで燃え盛る炎のせいで、ひどく飄然としていてどこか頽廃的かつ現実離れした景色だった。

 

「もう……」

 

凛はついにたまらなくなった。歳月を経て老獪さと忍耐は若かりし頃と比べ物にならないほどに強くなった凛だったが、とはいえ、アーチャーという自らの心的支柱を失っている現在、異常な空間の中で予想の範疇外にある出来事が連続して続くという事態に対して優雅の態度を以って対処できるほどの余裕は、今の彼女にはなかった。常に優雅たれとは、遠坂家に代々伝わる家訓であるが、そんな家訓が代々伝わっているということは、それを心掛けねばすぐに優雅さを忘れて暴走してしまいがちな血筋であるという証拠でもある。

 

「本当になんなのよ!」

 

凛は今、自らが優雅でない振る舞いをしているという自覚はあった。だが、それを理解しつつも、心の裡に溜まっていた鬱屈を発散するため、目を閉じ、振り上げた両手を思い切り振り下ろしながら、全力で思いの丈を叫ばずにはいられなかった。

 

ヒステリックなソプラノボイスが、荒涼とした赤く乾いた大地を駆け抜ける。周囲に憚ることなく思いの丈を叫ぶその反応は妥当だとでも答えるかのように、乾いた大地から生じる風が彼女の体を叩いて吹き抜けてゆく。

 

「はぁ……、はぁ……」

 

荒く呼吸を繰り返す度に、灼熱に肺腑を焼かれる様な感覚を覚える。凛の体を叩く風は熱を持っていた。熱はおそらく、この赤いカーペットのような大地と、今しがた出現した乾いた大地の間にある炎の壁に炙られて生まれたものだろう。短い呼吸を繰り返して熱い外気を体内へと取り込んでいると、凛はまるで自身がサウナの中にいる様に錯覚した。混乱する頭を巡る煮えたぎる血液が体内に取り込まれた熱と反応をして、全身がさらにカッとなる。

 

「はぁ……」

 

だが、そうして体や頭がさらに熱を帯びて行く度、凛はむしろ自身の頭が冷静さを取り戻していっていることに気がついた。熱を帯びたものが全身を巡るその感覚に、凛は覚えがあった。それはかつて、凛の全身隅々にまで張り巡らされていた魔術回路を全開にて励起させ、動作させた時の感覚に似ていた。

 

「……ふぅ」

 

凛は全身を走る既視感ある痛みに似た感覚により、一級戦の魔術師として活動していた若かりし全盛期の時代の感覚を取り戻した。静かに目を瞑ると息をつき、深呼吸を行いさらに外気の熱を体内へと取り込み、隅々まで行き渡らせる。

 

全身を巡る熱が凛の神経を刺激する度、神経を、背骨を通してやってくる信号に反応して脳が痛みを訴えた。そうして痛みの信号が駆け巡るたびに、錆びついた全身が研磨されてゆく感覚を覚え、凛の頭はさらにクリアなものへとなってゆく。全身に絶え間なく痛みが巡るという懐かしい感覚は、凛の意識を若かりし頃、一流魔術師であったときの状態に引き戻しつつあった。

 

「っぷ」

 

凛は深呼吸と熱により、持ち前の冷静さと培ってきた戦場の中でも冷静さを失わない胆力を取り戻しつつあった。だが、そうして徐々に熱が彼女の意識を覚醒させつつある最中、やがてその口の隙間から風に混じっていた砂塵が体内へと飛び込み、凛は微かに咳き込んだ。

 

「ぺっ、ぺっ、……ったく、行儀がなってないんだから……、ん?」

 

集中を妨げられた事にわずかばかりに苛立ちながら、しかし冷静に飛び込んできた砂礫を嫌味とともに吐き出していると、彼女は口腔内で僅かばかりに血の味を覚えた。さて、今しがたの事象により口の中でも切ったのかしらと考えた凛は視線をあげ……――

 

「……」

 

そして見上げた視線の先、風により揺らぎわずかばかりに分断された炎の壁の向こう側とこちら側、砂風渦巻く大地と赤殷の静かなる大地の上に巨大な鉄の軍艦が二隻鎮座しているのを見つけて、凛は完全に思考を停止させられた。巨大な軍艦の向こう側に聳え立つ巨大な樹木の麓には土壁の集落もあり、集落の家々から漏れる明かりが、炎の壁の向こう側の空の上に陽炎を生んでいる。この短い間のうち、目の前の光景に驚かされるのは何度目だろうか。凛はもはやそんな瑣末な事を考えることすら億劫になった。

 

「あれは火星の大地に、シン、すなわち、YHVHが耕し作り出したエデンの楽園よ。なればそんな楽園/アルカディアにある街に住まうは、奴に誑かされた愚者どもであり、造成された楽園に屹立する巨大な世界樹は、不毛な大地を緑豊かなものとする生命の樹であると同時に、雑種に知恵を与える樹でもあるのだろうよ」

 

凛が呆然とした事を目ざとく見つけたギルガメッシュは、律儀に解説を開始する。おそらくはイシュタルの転生体でもある凛が間抜けな面を晒しているのが愉快だったが故の挙措なのだろう。

 

「鉄船は――」

「――見覚えがあります。かつて自分たちの世界において、超力兵団計画という事件が起きました。あれはそんな最中、来たるだろう第二次世界大戦に対して帝国の防備の脆弱さを憂いた陸軍が暴走してつくり上げた決戦兵器。その名も、ヒヒイロノカネで鋳造された金剛型五番戦艦を改良して製作された超力戦艦、オオマガツ、あるいはヤソマガツ――。あれらはおそらく、自分が撃破した、それらの戦艦を回収し、修復したものなのでしょう」

 

そうして嬉々として語るギルガメッシュだったが、船についての知識はなかった様で、さてあれはなにかしらんと考えたのだろう少しばかり言葉が詰まったところを見計らって、ライドウが言葉を継いだ。よくよく聞いてみればあのような巨大戦艦を自分が撃破したなどととんでも無い事を言っているが、もはやそれが事実であろうとなかろうとどうでもいいと思えるほどに、凛の心は驚くに疲れていた。

 

『なるほど、黄藩らが帝都で怪しげな動きを見せていたのはこれを回収し、修復するためだったのか。性懲りも無く陸軍が秘密裏のうちに回収した残骸を黄藩が奪った、といったところだろう。ならばさらわれた遊女は……、なるほど、神の金属であるヒヒイロノカネを鍛え直し、鋳造する為の人身御供……』

 

ライドウの言を、ゴウトがさらに補足する。ゴウトの言葉に、ライドウと凛の顔に曇りが生まれた。

 

「――だとしたら彼女たちは……」

『おそらくあれらの戦艦を作るための生贄となったのだろう。文字通り鉄血の戦艦、というわけだ。残念ではあるが……もはや彼女たちは生きてはいまい』

 

ライドウが拳を握りしめた。最悪の予想が当たってしまった、と凛は顔を伏せる。三人は自然と彼女らの鎮魂を願って、黙祷を捧げていた。

 

「……方舟のつもりなのだろう。そこな雑種どもの世界より運び込んだ戦艦をベースに、我が支配する大地に存在する超金属、ヒヒイロノカネを用いて修理、修復した、な」

 

わずかにばかり生まれた鎮魂の沈黙を破ったのは、やはり空気を読まないギルガメッシュだった。ギルガメッシュは少しばかり不機嫌そうだった。おそらくその機嫌の悪さは、自身の言葉が不遜にも遮られた事と、ライドウが自身の知識にない事を語ったという事実と、その後続けられた話題が彼からすれば大した価値のない雑種のものへと移ってしまった事が原因なのだろう。

 

「方舟、か。かつて神が人類を救った道具って割に、随分とまた血生臭い造り方をするもんだこと」

 

凛はあえてその不機嫌を無視すると、ギルガメッシュの話に合わせた言葉を投げかける。

 

「――は、何を今更。神というものは人間の血と肉と信仰によってのみ存在を保つ事を可能とする奴らよ。自信の神殿へと捧げられた犠牲と死体の数こそが、神と呼ばれる存在の強大さを証明し、奴らへの信仰をより強固なものへと昇華させるのだ。ならばそんな神の用いる道具が血生臭くないわけがあるまい」

 

イシュタルたる凛に気を使われたという事実が気に食わなかったのだろうギルガメッシュは多少眉をひそめたが、それでも彼は他人の心遣いを完全に無下とするほどの無粋な心意気の持ち主ではない。ギルガメッシュは少しばかり息を吐くと、凛の軽口に対してすぐさま己が意見を述べた。

 

「――そうね。そうかもしれないわね」

 

ギルガメッシュの語る無謬の論理に虚しさを感じた凛は、視線を逸らして下方へと向ける。すると地面の上を微かな風が吹き抜けてゆくのを感じた。ギルガメッシュの言を信じるなら、その乾いた風は火星の大地より生じたものなのだろう。

 

「火星、か」

 

凛は視線をあげた。視線の先には、一面に広大な砂地が広がっている。火星。それは地球の隣に存在する、太陽系というスケールからすればすぐ近くにある、しかし、人の身からすれば果てしなく遠い場所にある赤の惑星。ならばこの鉄の味は、火星の表面の大地を覆う酸化鉄がもたらすものなのだろう。

 

「――」

 

凛が鼻腔に飛び込みツンと刺激する血の香の如き香りから逃げるようにして凛が目線を地平の端へと持っていくと、傘のように聳え立つ山が見えた。目の前に広がる大地が火星を改造して作り上げられたというものならば、その奥に見える大きな山はおそらく、太陽系において最も高いとされるオリンポス山だろう。

 

地表より高さ26キロメートルもある山の頂上から地表に向かって直進する風が大量の土砂とともに山の斜面を駆け下りて、凛の立つ生命の溶けた、個体にしてみるなら柔らかい、液体としてみるなら硬い大地に細かい轍を刻んでゆく。だがそうして地面に刻まれた細かい傷跡は、波打ち際に寄せては引く水の流れに遊ばれる白砂の様に、すぐさま、さぁ、と消えて失せてゆく。

 

おそらくこの世界の素材とかいう赤い大地には、自浄作用というか、生命の性質を兼ね備えているのだろうと凛は推測した。押しては引き、引いては押しと一定のリズムを保ちながら足元では刻印と消失が繰り返されている。

 

「あ……」

 

蜃気楼のように現れては消える様に潮騒を目で味わったかのような感覚を呼び起こされた凛は、僅かばかりに頬を緩ませる。直後、遠くの地面を刻むばかりだった風が強く吹き、凛の体を包み込んだ。

 

「いい匂い……」

 

風が運んできた鼻腔を叩いて抜けてゆく心地よさに、心をさらに揉みほぐされ、緊張が溶けてゆく。凛はさらに顔を緩ませた。火星の大地に漣立てながら赤い大地へと押し寄せてくる風には、これまでにはなかった濃い緑の匂いが含まれていた。

 

凛が自らの心を一瞬のうちに鎮めた匂いに誘われるかのようその発生源だろう場所へと目をやると、炎の向こう側、火星の大地に屹立する大樹――世界樹の葉が、枝が、梢が、ざわざわと揺れている事に気がついた。凛は直感した。

 

「これは世界樹の匂い……」

 

屹立する大木――世界樹は、山より吹き降りてくる風によって揺らされ、周囲に青々とした匂いを撒き散らしていた。風の乱雑な行為により世界樹からまだ若々しい色合いをした葉が地面へと落とされ、瑞々しさを十分に残す葉は火星の乾いた大地に覆い被さり、寂寞な大地を柔らかな緑色に染めていっている。そんな大樹から落ちた葉によって緑色に侵食される火星の大地に呼応するかのように、凛の立つ大地と乾いた大地との間にある炎の壁が前方へと進み、火星上にあるという楽園が、徐々にその領域を広げてゆく。

 

赤砂の上を風が吹くたび、砂漠に一本屹立する大樹が風のさざめきによって揺らされ、命の痕跡が見当たらない大地に淋漓と葉が落ち、緑が生まれ、生命の証が広がり、徐々に命が萌えてゆく。その牧歌的ながらも雄大な光景は、まさに御伽噺の中にしか存在しないような幻想的な雰囲気を持っていた。

 

「我が王国より掠め取った素材を用いて、すでにここまでの土地改造を進めておったか……。痴者め……!」

 

だがそんな不毛の大地が緑に染まってゆく奇跡の様な光景を目の当たりにしたギルガメッシュは、漂ってくる自然の香りに思わず頬を緩めた凛とは正反対の憤怒の形相を浮かべると、虚空を歪ませ、王の財宝/ゲート・オブ・バビロンより赤い刀身の柄から先端に向けて徐々に細くなる円柱状の形をしている特異な剣を取り出した。

 

ギルガメッシュは取り出した刀剣を片手にて大上段に構えたのち振り下ろすと、剣の刀身はギルガメッシュの身から迸る激情に呼応するかのように回転を始めた。緩々とした回転はすぐさまに凄まじい速度のものとなり、荒々しい熱気を帯びた風がギルガメッシュの周囲を取り巻いてゆく。

 

「――げっ、それは……! 」

 

凛はギルガメッシュの歪んだ顔面のみならず、剣に周囲の全てを吹き飛ばしてなお余りあるだろう魔力が剣に込められているという事実からもまた、ギルガメッシュの腹の中がどれほど煮えくり返っているのかを察し、艶ある黒髪と可憐さと高貴さの同居する美貌を持つ乙女が言うにしてはあまりに品のない悲鳴をあげる。

 

凛の動揺は当然といえるものだった。なぜならばギルガメッシュが取り出し、発動させたその宝具は、かつて混沌たる世界を切り裂き、天地を分けたとされる神剣だったからだ。周囲に発生した暴風は、発動の余波でしかないだろうにギルガメッシュの怒りに呼応するかのごとく赤熱した刀身より膨大な量の魔力を撒き散らしている。魔力は外部へと発散されている余剰のそれだけで、凛が一度の魔術において平均的に使用する魔力量を軽く凌駕しており、剣の内包する破壊力の凄まじさを示すに一躍買っていた。

 

「――あれは」

『な、なんだ、この凄まじい魔力は……!』

 

ライドウとゴウトは瞬時に警戒の体勢をとった。ギルガメッシュは驚く彼らを完全に無視して、なおも剣へと魔力を注ぎ込む。やがて剣の周囲に空気の断層が生まれ、神剣により生まれた風の乱気流が、緑の楽園から流れ来る空気の流れを歪めていった。天へと切っ先を向けられた剣より生まれた耳をつんざく暴風は、やがて天に向かって逆巻く巨大な竜巻となり、同時に神剣はもはやこれ以上内包されている破壊の威力を抑えていることは出来ないとでも叫ぶかのように、緋色の閃光を周囲へと撒き散らす。

 

「ちょ、ちょっと、ギルガメッシュ!」

 

凛は慌てて呼びかけるが、空気の断層が声を遮ったのか、ギルガメッシュは一切反応を示さない。あるいは、怒り心頭となり、言葉が届かない状態であるのかもしれないし、または、イシュタルたる凛の言葉なぞ耳にする価値もないと思っているのかもしれない。ともあれ事実としてギルガメッシュは凛の呼びかけを完全に無視すると、剣を再び振りかぶる。一度真名を解放されれば秘められし暴虐の力のままに空間を喰らい尽くすそれは、我が秘めたる暴力に畏怖し驚愕せよと言わんばかりに耳障りな音をあげて、ギルガメッシュを中心とした柔らかい朱殷色の大地の上に、円状の深い傷を刻んでゆく。

 

「殺す。我の持ち物を盗み出し、あまつさえは無断にて利用した痴れ者には報いを与えねばならん」

 

持ち物が人の心を映す鏡であるとするなれば、刀身より煌々と放たれる直視してしまえば目が潰れかけないほど光と逆巻く暴風を放つ剣というものは、ギルガメッシュがどれほど怒り心頭であるかを表しているに違いなかった。

 

「そんなものをぶっ放したら、あの街とか船とかがひどいことに……! アンタの言が正しいのなら、あれ、多分、エトリアから消えた人たちが住んで――」

「行動には責任が伴うのが当然だ! 我が庇護を捨て、ましてや嘲笑うかのように神の下へと走った者共の都合など、我が知ったことか! 愚かな者共よ! かつて天に手をかけようとした怪物ウルリクンミと愚かな巨人ウペルリを切り離した、空と呼ばれるものの上にない時、地なる名のものの下にない時、天地を切り離した神剣の力にて散れることを光栄に思うがいい! ――天地乖離す開闢の剣!/エヌマ・エリシュ!」

 

だが、そんな凛の訴えを完全に無視して、ギルガメッシュから一切の容赦も躊躇もない一撃が放たれた。ギルガメッシュの振り下ろした刀身から放たれた光と風の乱舞する暴力は、火星から吹いていた柔らかい風が作り出していた細かい轍を掻き消しながら逆走し、突き進む空間にある全てを粉々に掘削粉砕しながら、緑の領域へと直進する。剣によって生み出された衝撃は、円柱状に此方の大地と彼方の大地との狭間を刻み込み、目に見える形で空気の断層を生み出していた。

 

「ちょ……!」

『いかん、ライドウ、構えろ!』

「――!」

 

剣より巻き起こされる暴風はまた、凛やライドウの体を激しく叩き、彼らをその場から吹き飛ばそうと押しかけてくる。ライドウは柔らかい地面に刀を深く突き立てると己の体をその場に固定する楔の代わりとすると、さっとゴウトと凛を片手に抱きかかえ、姿勢を低くし、もう片方の手で思い切り柄を握り締めた。

 

「〜〜〜!」

 

ライドウに抱え込まれた凛は、頬を真っ赤に染めた。眉目秀麗な年下の男の裸胸に抱かれるという事態は、実年齢こそ数千年を超えているものの、年若い感覚を取り戻した凛にとって刺さるものがあったらしい。彼の胸の内に守られた凛は、己の浮気を亡き夫に謝りつつも、体を叩く吹き荒ぶ暴風に、ギルガメッシュの放った一撃が創世神話の叙事詩の名を持つ宝具にふさわしき破壊のものであることを再認識させられていた。この大気を揺るがし、大地を掘削するする宝具の威力の前には、例え広域にわたって空へ舞い上がる炎の壁も、その向こう側にある巨大な戦艦も、その周囲にあった街も、恐らくはそれらの中にいるのだろうエトリアより消えた人々も、全ては暴風の力によってバラバラに切り裂かれ、火星の大地の中に還っていってしまうだろう。

 

――……ごめんなさい

 

目の前で命が失われるだろうという予測と幻視をした凛は、事態を防ぐことが出来なかったという事に罪悪感を抱き、思わず目を伏せた。だが直後軽くかぶりを振って決心すると、ライドウの胸の中、顔中を叩く暴風の影響を最小限にするべく瞼を細く開き、視線をまっすぐ目の前へと向ける。せめて己が止めることの出来なかった事象によって引き起こされる結果を目にし、その過程と結末を脳裏に記録しておこうと考えたのだ。――だが。

 

「嘘――」

 

凛は自らの視界に映ったものが信じられず、一言漏らした後、口を押さえて絶句した。ギルガメッシュの放った鉄の戦艦が存在する直前までの地面を融解させ、沸騰させ、消滅させながら直進する神剣による一撃は、しかし鉄の戦艦と炎の壁の前に存在する薄い壁の様なものにぶち当たった瞬間、瞬時に霧散し、虚空の中へと消えていっていた。それはかつて天と地とを乖離させたという謂れを持つ剣から放たれた力の結末としては、あまりにあっけないものだった。凛は自分が自滅覚悟で全魔力を行使したところで起こせるかどうかわからぬほどの破壊の力をいとも容易く防ぐその現象を目の当たりにして、二の句を継げなくなっていた。ライドウとゴウトも同様のようだった。

 

「通じぬか……っ! 空間の遮断……、東の楽園、ケルピムの持つ炎の剣……――炎の剣の概念による、外部からの穢れの侵入を完全隔離する、楽園を守るための防塵壁! ええい、まったくもって忌々しい……!」

 

一方、ギルガメッシュは今しがた起きた現象がいかなる理屈によってもたらされたのかを事前に理解していたようだった。ギルガメッシュは己が下した審判の結果を敵に反映させる事はやはり今の所できないのだと悟ると、苛立たしさを隠そうともしない態度で文句を吐き捨て、同時にエヌマ・エリシュの発動を停止する。

 

宝具の発動停止に伴い、荒ぶ光と風が徐々に収まってゆく。やがて彼我の大地をまっすぐ貫いていた暴風が完全に収まり、ギルガメッシュによって掘削された赤殷の地面がいかなる理屈によるものなのか盛り上がり元の通りの景観に復元を果たした頃、凛はライドウの胸の内よりふらふらと出でて自身の足で大地に立ち、周囲を眺めた。

 

眼前に広がる光景は、真に、ギルガメッシュが力を振るう以前に戻っていた。凛はここがたしかに自身の生まれ育った地球でも、ライドウの存在した時空の地球でもない、自分たちのいた世界とは違う法則の働く世界であることを再び強く意識し、背筋に少しばかり寒気が走った。

 

自らの常識が通用しない世界というものは、かくも人の不安を煽るものなのか――

 

「波濤の軍馬にかけてあったサコの隠蔽が破られたんでどうしたのかと思いきや――」

 

凛が少しばかり怯んだ時、全く揺るぐことなく天に向けてそびえ立つ炎の壁の向こう側から、大地に轍を刻む風に乗るかのようにして、声が聞こえてきた。そのしゃがれた声に凛は聞き覚えがあった。凛は他の二人と一匹がやったのと同じように、反射的に目を見張って声の聞こえてきた方向を眺める。

 

「なるほど、シンの力と相性の悪い、バアルに連なる神の血を引く者に睨みを効かされたんじゃ、それも仕方ねぇ」

 

すると凛は、今自身らがいる場所より二百メートルほど先、鉄の船の上にひとりの背高の男が立っている事に気がついた。赤い光を放つ剣を持ったその男は地上より高さ数十メートルもある船上からひらりと身を翻して飛び降りると、赤殷色の地面へと音もなく着地する。凛は慌てて眼球へ強化の魔術を叩き込む。凛の魔術が徐々に眼球の能力を上げて遠くの光景が近くに見えるようになるにつれ、徐々にその男の姿が露わとなってゆく。

 

「だが、ちょうどよかった。これで全てに決着をつけることができる」

 

着地した男が顔を上げる。背中から表腹にかけて刺さっている木の枝の処置を一切行わないまま、どこか二振りの二刀を腰に帯刀する、美しい紫の鱗軽鎧を身に纏ったいかにも歴戦の英雄然としたその顔に凛は見覚えがあった。凛は口元を押さえながら、反射的にその名を呼んだ。

 

「あんたは確か、――ダリとかいう……!?」

 

遠くにいるはずの名を呼ばれた血の気の失せた青い顔色をしたダリは耳聡くその言葉に反応し、視線の先を凛へと向けた。凛とダリとの視線が合う。ダリがこちらへと向ける胡乱とした視線には絶望も希望も存在しておらず、それどころか、あらゆる感情が欠如しているかのように見えた。己へと向けられた視線を見て、凛の背筋にゾッと寒いものが走った。

 

――人形みたいに冷たい目……、まるで……

 

それは透明の、というのとも、純粋な、と例えられるような視線とも違う、完全にただ、眼球を動かした結果、その水晶体の先が凛を向いただけなのだという結果の、それ以上に意味を持たない、未来も過去も現在も写っていない視線だった。

 

――昔の桜みたい……

 

そんなもはや硝子玉を透過しているのと変わらぬ魂の宿らない人形のような視線は、凛はかつて魔術師たちのくだらない見栄や誇りのために己を大事にする想いと感情と失ってしまった妹――桜の事を思い出させていた。

 

――我ながら最悪な連想をするわね……

 

特殊な事情により今しがた目の前の男が浮かべているような目をするようになってしまった、苗字の違う、しかし血の繋がった妹の事を思い出した凛は、即座に人形と妹という単語を結びつけた自らを蔑み、酷く自己嫌悪した。他者からもたらされた嫌悪感と、自己に対する嫌悪の感情により、凛の美貌が大きく歪む。

 

「なるほど、力に覚醒したものの体を奪い、そこに自らの魂を埋め込む事で、その力をも奪ったのか。森の王バルドルをヤドリギで殺した者は、新たな森の王となる。なければあるところから持って来ればいい、か。ふん、生意気なことに理に適っているわ。それにしても死者の体に別の魂を入れて弄ぶとは……、は、下衆らしい、いい趣味をしておる」

 

怨敵イシュタルの生まれ変わりである凛の顔が痛苦に歪んだことが、我を通せなかったという事実により不機嫌の極みにあった彼の機嫌を多少良い方向へと動かしたらしく、ギルガメッシュは一歩前に進み出ながら、ダリへと言葉を投げ掛けた。

 

「惜しいが、違うな。それだけじゃあない。俺らの世界では名の持つ意味が全てにおいて優先され、体よりも魂の方が上位にある。すなわち、ヘイがダリを殺し、ヘイ/hei の魂がミスティルトン/mという繋がりによってダリ/dallと結びつけられたのなら、それはバルドルではなく終末を見定め、角笛にてその時を知らせる番人、ヘイムダル/heimdallとなる。――そう、すなわち、世界の裏で暗躍していたトリックスター。自然と人との間に生まれた巨人、すなわちロキのごとき半神半人の存在であるオメェさんを、このオーディンの嵐たる場所で殺せる存在にな」

 

ダリ――ヘイムダルはギルガメッシュの言葉を聞くと、冷たい瞳のまま、冷たく言葉を投げ捨てた。遠目に見える顔は相変わらず人形のように感情が浮かんでいない。

 

「ほう、このヴィーグリーズという戦場にて我を殺すとな? 」

 

無表情を貫くヘイムダルから最後の言葉を受け取った途端、愉悦と嫌悪の表情ばかりを浮かべていたギルガメッシュの顔に興味の色が混じった。ギルガメッシュは腕を組み、顎を上げると、自らを殺すと述べる遠くにいる存在を器用に睥睨する。

 

「面白い。朽ちた肉体にしがみつく意地汚い魂だけの分際でよく言う。雑種にしては珍しく笑える冗談をほざくではないか」

 

瞬間、その端正な柳眉は愉悦に歪み、ギルガメッシュの視線が功労者に対して送る視線から、道化を見る視線へと変貌した。ギルガメッシュの声色は今やそのほとんどが好奇心というものによって構成されていると凛は感じた。それは自らという完璧な存在を殺せるものはいないと確信しているが故の傲慢から生じる声音なのだろう。

 

「相変わらずの自信過剰な……」

 

――いやそうでもねぇさ

 

その傲岸不遜かつ豪放磊落な態度に目眩を覚えそうになった凛がポツリと呟くと、答えを期待してのものでなかった誰にも聞こえなかったはずの心の声に対して響く応えが返って来て、凛は軽く驚いた。だがそれが自らの使い魔からの交信による、魔術的なものだということに気付いた凛は、即時自らの精神状態を、通常のものから、魔術師としての彼女のものへと瞬時に書き換えると、心の中へと聞こえてくる声に応対する。

 

――ランサー?

――ああ。ったく、何かあったらすぐに呼び出すっつうから、嬢ちゃんを回収して近くまできた後は周囲を警戒してたんだが……、その様子じゃあ、俺のことを忘れてただろ、リン

 

凛がランサーの指先が示す方向へと視線を向けると、そこには気絶しているらしい響が横たわっていた。先ほどに暴風で多少髪や服に乱れはあるものの、それ以外に傷は見当たらない。凛はまず彼女が無事であるという事実に安堵し、次いで、ランサーのことを失念していた自身の至らなさを反省すると、自らの失態を誤魔化すかのように多少口早に尋ねた。

 

――響は無事なの?

――ああ。大した外傷はねぇ。中も重要器官にはダメージがないらしい。

――へぇ……、あの凄まじい呪いの塊と接触してよくまぁ……

――呪いと一体化していた玉藻が借体形成の術を使って己の身を響に食わせたみたいだな。なんでも九尾の狐を食べると、蠱の呪いが効かなくなるとか

――食者不蟲……、山海経……だったかしら

――まぁ、とはいえあの玉藻とかいう悪魔のネーちゃんが嬢ちゃんの体を乗っ取るまでの間に幾分か蠱毒と接触しちまったらしい。で、僅かばかりの接触時間とはいえ、あの蠱毒とやらは人間に対して強烈な毒性があるらしくてな。毒抜きと治療の必要があるから、嬢ちゃんの内臓のダメージが抜けるまでは体に宿ったままの状態で治療を続けるんだと

――そう……

 

ランサーの言葉を聞いた凛は彼女が無事である理由を聞いて納得して胸をなでおろし、息を吐いた。ため息が虚空へと消えてゆく。が、空を湿らせた吐息が完全に霧散するよりも以前に、『蠱毒の毒性は人間に対して強烈な毒性を持つ』というランサーの言から改めて蠱毒の危険性を認識した凛は、未だに姿を表さないアーチャーがその毒の中に消えてしまったのだと言うことを思い出し、一抹の不安が生まれた。晴れかけた凛の頭の中に陰りが生じる。

 

――大丈夫か?

 

念話のために凛の脳裏とチャンネルをつなげているランサーはそんな凛の感情の機敏を感じ取ったらしく、慮った言葉を投げかけてきた。短いながらも思いやりに満ちた言葉は凛の頭の中にあった不安を幾分か払拭する役割を果たし、冷静さを取り戻す気付け薬となり、彼女の気を落ち着かせる。凛は一見平然とした面持ちを保つと、ランサーに返事をした。

 

――平気よ。アーチャーには聖骸布の守りがあるし、蠱毒の呪いを浄化出来る神父もアイツの後を追った。だからアーチャーは大丈夫のはずよ。心配するだけ損ってなもんでしょ

――……そうかい

 

ランサーは、己が凛へと投げかけた彼女への心配の言葉を、この場にいないアーチャーに対する心配の言葉と捉え、さらには己を鼓舞するかのようにアーチャーの無事を断言する言葉を吐いた凛の反応を見て、凛が未だに十全な状態でないことを悟った。どう控えめに見ても凛は未だに冷静さを取り戻してはいない。だが、凛が大丈夫であると気概を震わせ己の心の裡に湧き上がってくる不安をかき消そうとしているのに、わざわざそんな事を指摘して彼女の虚勢を崩そうと思えるほど、ランサーは気の回らない男ではない。

 

――話を戻そう。あの金ピカの手足の所作をよく見てみな

 

この話題を続ければ凛の精神が再び不安定な状態に陥るかもしれない。そう判断したランサーは、凛を正常な状態でなくする話題から意識をそらすべく、別の話題を振る。

 

「よい、道化よ。今この時だけ戯言を許そう。さて、ではヘイムダルとやら。我を殺すとほざく貴様は、次にどんな愉快な讒言にて我を愉しませてくれるのだ?」

 

凛はランサーの思いやりに満ちた言葉の真意に気付くことなく、おそらくはそんな余裕もないのだろう、素直にランサーの指示に従って、平然と自らの殺害方法を尋ねるギルガメッシュへと観察の目を向けた。すると神経が張り詰め、多少気が散っているとはいえ、一流の魔術師であり、同時に一定以上の中国武術をその身に習得している凛は、腕を組んでいるギルガメッシュが、体を半身にした状態で背を軽く引き気味に、後ろの足へと重心を預け、歩幅を小さく保ちながら軽く前足の踵を浮かせるという構えを取っていることに気がついた。

 

――あれは……、猫足立ち……?

――へぇ、嬢ちゃんたちの言い方じゃそういうのかい? ……そうだ。いつもなら両手を組みどっしりと相手を正面から見据える様な奴が、見ての通り、警戒を露わにいつでも動ける姿勢をとってやがる。姿勢奴さん、相当、ヘイムダルのことを警戒しているぜ

――なるほどね……

 

そこで凛はようやくランサーの言わんとしている事を理解し、同時にギルガメッシュがいかなる思惑にてヘイムダルに対峙しているのかをも推測することができた。一見、ギルガメッシュは傲慢に相手を見下しているだけのように思えるが、実のところ彼はおそらく、そうして相手を挑発することにより相手から怒りの感情を引き出し、婉曲的に情報を聞き出そうとしているのだ。

 

ギルガメッシュは傲慢で、自身の力に絶対的な自信を持ち、あらゆる存在は己以下と考える男だ。平時のギルガメッシュならば、自らの意に背く存在や、あるいは自らにとって気にくわない存在が目の前に現れた際、それこそ先程彼が火星の大地に向けてやったよう、即座に排除しようと動くはずである。

 

ギルガメッシュにとって、己を不快にさせる存在とは、この世にあってはならない、即時この世から抹消してしかるべき排除対象に他ならない。そのような天上天下唯我独尊を地でいき、前進制圧完全勝利こそが自らの戦における華であり使命であると考えるような男が、しかし今、己の下した判決に逆らい、己を殺すなどとのたまう、彼にしてみれば万死を与えても足りぬだろう相手に対して、搦め手を用い情報を引き出そうとする態度をとっている。

 

そんな事実は、なるほど、ランサーのいう通り、すなわち、ギルガメッシュという存在が、目の前にいるヘイムダルという男に対して、最大限の警戒を行なっているという事実を表しているに他ならない。

 

「知りたいか?」

 

そんなギルガメッシュの思惑を知ってか知らずかは、わからない。だがヘイムダルはギルガメッシュの挑発に応じるかのように、巨躯の背後から一メートルはあろうかという巨大な角笛を取り出すと、構えた。角笛はギルガメッシュが纏う黄金の鎧にも負けぬくらいに煌々と輝いている。吹き口から発音部分にかけて徐々に太くなる角笛の胴体にはいくつもの節が存在しており、節と節の間の部分にはシャーマンや動物らしき絵が古代の壁画風に刻まれていた。中でも最も特筆すべきなのは――

 

――角笛の吹口付近に刻まれているのは……ルーン文字かしら

――へ、見慣れた文言が刻まれてらぁ

――ここからじゃ全文見えない筈だけれど……わかるの、ランサー?

――勿論。昔、俺らの使っていた角笛には良く刻まれてた文言だからな。力を発揮されても困るからルーン文字をそのまま発音してやる事は出来ないが……、そうだな、別の言語に翻訳して言うなら、『EKHEIMDALLR、LOKIA、HORNA、TAWIDO』ってところだな

――アイスランド……、いえ、古ノルド語かしら? えっと現代ドイツ語に直すと、ich Heimdall Lokis feind das Horn machteになるわけだから、……『ロキの敵である自分、すなわち、ヘイムダルがこの角笛を作った』?

――大正解だ

 

「それはもちろん、この俺が作り出した宝具『終末に英雄を呼ぶ角笛/偽ギャラルホルン』で、だ」

 

凛がランサーの助力を得て角笛に刻まれたルーン文字の解読を済ませると同時に、凛の導き出した結論に対する答えを述べるかのようにヘイは手にした宝具の名を呼び、続けてそれの口噛み部分に唇を当てて角笛に息を吹き込んだ。

 

――ブゥゥゥゥゥゥゥ、ブォォォォォォォ

 

重厚かつ絢爛な見た目からは想像もつかない柔らかで軽やかな音色が、次々と角笛の口より飛び出してくる。弦楽器が奏でるそれにも似たヘイムダルの奏でる角笛の音は、大地を揺るがし、天を駆け抜けながら、凛の元へもやってきて、彼女の耳から体内へと飛び込んだ。

 

途端、その音色の心地よさに、凛は一瞬ばかり意識を持っていかれそうになる。角笛から響く音色は、まさに歴史に名を連ねる神が奏でるにふさわしい格調高さと蠱惑的なものだった。抗い難い魔性を持つその音色は、例えるならば、あらゆる人を強制的に魅了し従属させたと言われているセイレーンの歌声か、あるいはそんなセイレーンの歌に拮抗したと言われるオルフェウスの竪琴の音色といったところだろうか。

 

「っ……!」

 

ヘイムダルの角笛から生まれる音は風に乗って凛らの耳元へと馳せ参じ、耳孔より脳裏に侵入すると、鼓膜を揺らしては心酔させるメロディにて思考を蕩けさせてゆく。凛は、茫洋たる彼方へと消え去りそうになる意識を、歯を噛み締めて、無理やりこの場に押しとどめると、反射反応として両手で耳を防ぎ、その音色の誘惑に抵抗した。

 

――気をぬくと意識が剥奪される

 

終末の折、世界中にギャラルホルン/角笛の音を届ける役目を持つヘイムダルを自称するだけのことはある。凛はどこか他人事のように感心する。耳を塞いでいた凛は、音の影響にて魂が落伍してしまわぬよう、ぱっと耳から両の手を話すと、頬を強く叩き、痛みで音を中和すると改めて麗しき音色を奏でるヘイムダルの方へと視線を送る。

 

「……なっ」

 

すると目線を上げた凛は、視界に飛び込んできた光景を見て、息をのんだ。それはギャラルホルンと呼ばれた笛の効力なのだろう。ヘイムダルが笛を一吹きし、人心を掌握するかのような音色が周囲に響き渡るごとに、地面より冒険者にとっての一分隊である五人の集団が地面より現れ増殖する。単音ごとに一分隊ほども現れる彼らは、一小節ごとに約一個中隊もの数が出揃い、見る間に千の数を超える軍勢となってゆく。

 

――なんて

 

それだけでも驚くべき光景なのだが、それ以上に特筆すべきは、彼らのその醜悪な外見の有様だろう。彼らは見ただけで鼻をつんざく腐臭が想像できてしまいそうなくらい腐汁が滴る肉を骨身に纏っていた。

 

ビデオテープを巻き戻すかの様にゆっくりと再生してゆく彼らの体は、胴体や頭部、あるいは四肢の一部が欠損していたり、あるいは、毒か酸などの刺激物によってだろう皮膚が爛れており、また、あるものは肉がこそげ落ち、血管や神経、骨身が露わとなっている。赤殷の地面より生まれくる彼らのほとんどは、纏う衣服は破れ、血が染み込み、手に持った剣や銃身は壊れ、鎧は砕け、その身は腐乱した肉が骨身に張り付いているといった体裁をしていた。

 

――なんて……

 

彼らはどう控えめに見ても、人としての生涯を終えている連中だった。凛は蘇ってくる彼らの事情を知らない。凛は彼らが如何なる場所で生まれたのかを知らない。彼らが如何なる生涯を送り、そして如何なる原因によって死んだのかを知らない。しかし五体不満足の状態である身体やあちらこちらが破損しチグハグで不揃いな装備を身に纏っており、共通点がほとんどない彼らの頭部に付随する暗く濁った瞳を見た瞬間、凛は、自身の戦場や危険地区を渡り歩いてきたという経験から、如何なる人格であるかすら知らない彼らが如何なる場所にて死んでいった、おそらくいかなる感情を抱えて死んでいったのかを理解した。

 

――なんておぞましい目……

 

グズグズの体の上にボロボロの衣服装備を纏う彼らの瞳の奥にあるのは無念だった。怨念だった。未練だった。彼らはその身のうちに怒りの感情を抱えていた。それはかつて、旧人類と呼ばれる負の感情をぶつけ合い、争いを繰り返す人類がまだ生存していた頃、長きにわたり自らの伴侶とともに戦場を駆け抜けた凛ですらほとんど見たことのない、陰気の極にある凶吝の瞳だった。

 

――でも

 

それは唐突に死の運命を与えられた人間が浮かべる瞳だった。彼らの体に残る傷の付いた跡の方向やその深さから察するに彼らはおそらく、死ぬ覚悟もしていなかったにも関わらず突如として致命傷を負い、予想だにしなかった死を得てしまったのだ。死は如何なる生物をも呑み込む奈落であり、生の果てだ。生を望みながら叶わなかった死の淵に追いやられた者の心の裡より出でる負の情念は、深く、限りない。淵の向こう側に存在する死という無明の闇を覗き込んで恐れを抱かない人間など、それこそ、相当の狂人か、相応の覚悟と強靭な精神をもつ、すなわち正常から大きく外れた人間くらいのものだろう。

 

――なんで……

 

なるほど、ならばその様な瞳を浮かべるというのも納得がいく。おそらく彼らは元々普通の人間だったが、唐突に死を与えられた人間なのだ。死が目前に迫った時、死への恐怖が狂気となり、かつて他人を救う為に尽力した善人が、あらゆる他人の犠牲を容認してでも自身の生存を望むようになった事例を、凛は何例も知っている。

 

自らの妹である桜が、死のもたらす恐怖に囚われ狂った魔術師の老人の妄執の犠牲となり、身体を聖杯もどきに改造されてしまった挙句に死んでしまったのだってその一例だ。

 

――なんで……

 

死は厭い。死は苦しい。死は疎ましい。死は恐ろしい。死に怯えるのは正しく、死を目前にした時、人が負に属するさまざまな感情を抱いてしまうのは当然の反応だ。普通の人間に対して理不尽にやってきた死を受け入れられるような狂気にも等しい精神性を求めるというのは酷である言うことを、凛は嫌という程に理解している。

 

――どうして……

 

けれど、ただ一つ。彼らがどうしてそのような瞳を浮かべているのか過去を推測し、事態を理解する事のできる凛にとっても、ただ一つだけ、理解できぬことがあった。それは。

 

――そんな愛憎入り混じった目を私たちに向けるの?

 

なぜそうした突然の死によって引き起こされたはずの負の感情の矛先が、彼らの死の原因と無関係であるはずの自分たちに向けられているのか。なぜそうした負の感情に満ちた視線を向けておきながら、その瞳のうちには、それ以外の羨望の感情も宿っているかのように見えるのか。なぜ彼らが無関係なはずの自分たちに対してそのような憎悪と羨望とが入り混じったような目を向けるのか。凛にはそれがまるで理解できなかった。

 

「本来ならこのギャラルホルンという笛は、オーディンに選ばれた強者であるエインヘリヤルをヴァルハラである月よりヴィーグリーズの地に招く、転送機能しか持たない移動用の宝具だ。しかし、俺が自らの手で諸王の聖杯をベースにいくつかの材料を用いて作り出したこの偽ギャラルホルン/角笛は、俺のような、生涯においてオーディンに選ばれるような成果を出すことのできず、さまざまな無念を残して死んでいった俺のような人間の魂をこの場所へと呼び寄せ、体を与える力を持つに至った」

 

角笛から口を放したヘイムダルは言う。凛は今や言葉一つ発しない死兵の影に隠れた彼の表情を見てやる事は不可能となっていたが、人垣の向こう側から聞こえてくる淡々とした口調の中には、多分に苦渋の念が込められていると感じた。

 

「なるほど。諸王の聖杯は才あるものにしか用いることが出来ない魔術兵装。故にいくつかの触媒を用いてその性質を劣化変質させ、凡人たる己であっても使用可能な様に作り変えたのか……」

 

ヘイムダルの独白はギルガメッシュの関心を誘ったらしく、黄金の華美な鎧を纏う英雄は端正な顔を愉快一色に染めあげると、如何にも相手を見下す冷たい視線を群勢の向こう側にいるのだろうヘイムダルがいる方角へと向けた。

 

「なるほど、そうして創り出した生涯の時間の多くを無為に浪費し、結果、大した成果を出すこともできずに死んでいった矮小で愚かな雑種どもを操り、その力を頼り、我を殺し、世界を我が物にしようというわけか……」

 

その言葉尻は小さくなってゆく。

 

「ふん! その執念だけは褒めてやろう……。だが、――――醜いな」

 

そして突如として鼻息を荒げたギルガメッシュは、遠慮なく言葉の刃を死兵の群勢の向こう側にいるヘイムダルに投げつけた。

 

「宝具を用いて生み出した有象無象の陰に隠れ、そうして他人の力を当てにして誰かが問題を解決してくれる事を願い、自分は蚊帳の外の安全な場所から成果だけを掠め取ろうとする。――――は、これを醜悪と言わずして何をそうと言う。そんな性根腐った女神/イシュタルのような性格の持ち主だからこそ、貴様は何もなし得ることが出来なかったのだ。いやはやそういった意味では、生涯の大半以上を無駄に過ごし、結果として世に蔓延る有象無象の雑種の一つの中に落ち着く程度の成果しか得られず、しかしながらその結果が人生を不毛な所業に費やした愚かさをそうであると認めることすら出来ず、世界にしがみついて呪いを撒き散らす奴らを冥府より呼び出すその宝具は、まさに神などという存在に救いを求め縋った貴様にお似合いの、悍ましく浅ましい宝具よな」

「……」

 

ギルガメッシュの挑発に、ヘイムダルは何も答えない。人並みの僅かばかりの隙間から見えるヘイムダルの顔には、怒りの色はなく、悲しみの色もなかった。沈黙の態度を以ってして、ギルガメッシュの挑発への返答とするヘイムダルの顔に浮かぶのは、諦観と納得の色ばかり。

 

「貴様らのような矮小かつ意志脆弱たる半端な雑種がいくら集まろうと、英雄王たる我を筆頭とした英雄らに敵う道理などない。英雄とはそう言った有象無象の愚者どもを寄せつけぬ比類なき強さと才覚と胆力を保有しているからこその称号……。なれば貴様ら凡百どもが如何に足掻こうが、我に刃を届かせる事のできる道理など万が一にもあり得ぬわ」

 

人波の向こう側、気を抜けば見失ってしまいそうな消沈した雰囲気を持つ彼の沈黙は、ギルガメッシュの言を肯定する態度に等しかった。凛はヘイムダルの発言と今しがたの彼が見せるその態度から、ヘイムダルがギルガメッシュの言った内容を覆すことの出来ない真実として認めているのだという事を悟り、彼を憐れんだ。ギルガメッシュの言が事実であるのであれば、それはあまりに救いがない。

 

ギルガメッシュの周囲の空間が歪み、王の財宝/ゲート・オブ・バビロンが開かれた。煌びやかな宝具が次々と姿を現す。現れた武器の数はざっと数千を越しており、そこには旧人類が伝承に生み出してきた宝具ばかりではなく、新人類がその歴史の中で作り上げてきた武器も含まれていた。ライドウとゴウトが、現れた宝具に秘められている力を見抜いたのだろう、目を見張る。

 

「さて、では処刑の時間だ、愚者どもよ。我が手にかかり直々に死ねる事を喜ぶが――」

「――……だ」

 

やがて沈黙を保っていたヘイムダルは、ギルガメッシュの言葉を遮ると、ほとんど掠れて聞こえない言葉を漏らすと同時にその手に持った巨大な笛を強く握りしめた。途端、死と腐臭を纏っていた冒険者たちの体を白い光が包み込む。光はすぐさま彼らの体内へと侵入を果たし、彼らの欠損や防具の破損を修理修復してゆく。凛はその白の光に見覚えがあった。

 

光は、回復スキルと呼ばれる擬似魔術がもたらすものだった。白き光が死臭と腐肉に塗れた彼らと接触した途端、彼らを死に至らしめた傷はみるみると失せてゆき、彼らの肉体と装備は十全なものへと戻ってゆく。しかし欠損した肉体が回復し、元の生気に満ちた色を取り戻してゆくのとは裏腹に、彼らの眼球の中にある憎悪と恐怖が混濁して合成されたかのような、希望の光が灯らない仄暗い瞳の色は変わらなかった。

 

「……む?」

「そうだ。その通りだ。そうとも。俺らは雑種だ。俺は所詮半端な人間で、ただ漫然と生涯を浪費してばかりの人間だった。俺らは選ばれた血筋や世界に選ばれるほどの才能も、運も、根性も、人脈も持ち合わせておらず、そしてそんな力の差を覆すだけの努力を行えなかったが故に、大した功をあげることもできずに死んでいった、歴史を振り返れば幾らでも存在する、所詮は世界に選ばれなかった落伍者の集団だ」

 

死者と生者の数が入れ替わり、通常の人間と変わらぬ様相の集団が凛の視界一面を覆い尽くす程に増えてゆく。ギルガメッシュが向ける疑念と侮蔑の視線にまっすぐと見つめ返す視線を返しながら、ヘイムダルは淡々と己を乏す内容の言葉を語り出す。

 

「これが逆恨みだという事は知っている。みっともないという事は承知の上だ。的外れな嫉妬だという事も十分理解している」

 

語るヘイムダルの態度は一見飄々としており、それだけならば平静に見えないこともない。

 

「でもダメなんだ。お前らが迷宮の魔物や番人や、三竜や、それ以上の化け物の姿をしたやつ違う姿をしていたというのなら、まだ耐えられた。生息域が違うのなら、姿形がまるで違うのなら、種族として完全に違う存在であると言うのなら、俺たちは平気だったんだ。でも、同じ場所で暮らして、同じような姿をして、同じような声で喋るお前らはダメだ。耐えられない。お前らの存在は、同じ姿をした何者にもなれなかった俺らの生涯をあまりに惨めなものにする。このままじゃ、他の世界に生まれ変わったとしても、俺たちはこの惨めさを抱えたまま過ごさなきゃならない。――――、自らと同じ姿をした、しかし自らと隔絶した力や才能を持つ存在がすぐ隣にいて、目眩むような活躍をしている。俺らはそんなお前らの才能が通常と隔絶しているという事を比較するための材料として、平凡の道を平然と生きてゆけるほど強くはないんだ」

 

だが凛が強化を施した眼球でヘイムダルの様子をよくよく観察してやれば、彼の大角笛を握る手が細かく震えている事に気が付ける。凛はヘイムダルの内心が徐々に穏やかでない状態になりつつあることを察した。同時に、彼らがなぜあのような憎悪に満ちた視線を自分たちへと向けるのかを理解した。

 

「そうだ。俺たちは弱い」

 

きっと彼らは、生涯において自身の存在がまるで羽虫のように思えてしまうような強大な力を持つ才人と出会い、自分では絶対に届かない領域というものが存在する事を知ってしまったのだ。どれだけ手を伸ばそうが、自分程度では届かない領域がある。彼らはそれでも諦めきれず、手を伸ばして、努力を重ね、自分より強い憧れた存在になろう、望みを叶えやろうと克己し、そして――、しかし願い叶わず、果ててしまった。

 

「俺たちはかつて他の人間よりも少しばかり才能があったが故に、一流になりたいと、有名になりたいと、金持ちになりたいと、歴史に名を残すような人物になりたいと、俗ながらも大きな願いを抱えていた人間だった」

 

凛にはその感情がよく理解できた。彼らの抱えるそれは、かつて凛自身がアーチャーを救いたいと心底願い、しかし救済のための手段を思いつくこともできずに懊悩していた頃感じていたものと同種の、絶望。

 

「願いというものは、叶えようとするものが自身にとって大きければ大きいほど、その苦悩や苦労も大きなものとなる。自身にとって大きすぎる目標であればあるほど、苦悩を取り除くためには、長く真剣に取り組む必要があるし、出来ないことを出来るようにする為には相応の辛苦に耐えて、耐えて、耐えて、そして継続して努力する必要がある。――でも半端な俺たちにはそれが出来なかった」

 

凛はほとんど完璧とも言える生涯において、アーチャーという凛にとっての恩人を助けられなかったことだけが心残りだった。他の成し遂げてきた成果が完璧すぎたせいで、その失敗は凛の生涯において最も大きな汚点となり、凛を最も苦しめる存在へとなってゆき――

、やがて凛は、その苦しみから逃れるために、アーチャーを救おうと決心した。

 

脳裏へと焼きつき忘れ得ぬ思い出がある。聖杯戦争が終わったあの日、アーチャーの力を借りて聖杯の泥から抜け出したあの時、朝焼けの中で彼が浮かべたさっぱりとした表情を覚えている。誰よりも他人のために尽くし、しかし誰よりも他人から裏切られ、だからこそ誰よりも他人を憎む権利を持っているはずなのに、けれどもそんな権利を行使することなく、ただ笑いながら朝焼けの中に消えていった、正義の味方を馬鹿にするくせに正義漢で、冷酷冷静を嘯くくせに他人に甘く子供っぽいところがある彼のことを、凛は一時たりとも忘れたことがない。

 

凛はアーチャーの記憶を見た。正義の味方を目指して、平和を望んで、しかし、戦争によって生まれる犠牲を可能な限り少なくするために、他人に犠牲を強いる生き方しかできなかった、そんな血塗られた歩みを、見てしまった。長きに渡る地獄を邁進するさなか、己の信念を裏切り、僅かにばかり残っていた人らしい感情を磨耗させ、ただ決めたことを成すためだけの機械に変化してゆく彼の姿を、嫌という程目に焼き付けてしまった。

 

そんなアーチャーが永劫続く地獄のさなかに手に入れた正義の味方に変わる願いを、希望を、凜と凜の伴侶は、自らの願いのために否定した。アーチャーが地獄の中で見つけた自傷行為の果てにある自死に救いを求めるというその願いは、誰がどう見ても歪んでいた。

 

自己否定の極みにあるその願いは間違いなく歪んでいるものだった。その願いは間違いなく歪んでいたが――、それでもそれは、その時のアーチャーにとって、永劫という檻の中から彼を救い出せる唯一の可能性だったのは確かだった。

 

凛たちは、そんなアーチャーの真摯な願いを、凛たちの願いのために否定した。正義の味方、誰をも救える正義の味方などというものを目指すと標榜豪語する凛の伴侶と、それを支えると決めた凛は、その実、救いを求めた誰かを切り捨てる事からスタートしていた。

 

その事実が、凛と凛の伴侶である衛宮士郎に罪悪感を植え付け、それから逃げるようにして彼らは強くなった。その矛盾が、その身を捨ててでもアーチャーを抑止の輪からひっぺがし、未来の世界に彼を転生させるという、世界に敷かれた道理を蹴り飛ばし無理無茶無謀を貫き通すような奇跡を起こさせた。

 

凛が自らの生涯を誰に対しても胸を張って誇れるものにすることができたのは、自らの力を大きく超えている願いを叶えることができたのは、そんな毎日毎晩、凛自身を苛む苦しみがあったからこそといえるだろう。

 

そう。精神的負荷は人を成長させ、願いを叶えるための力となる。凛はそんな痛苦と試練に耐えきる才覚と自助努力があったからこそ、自らの無謀とも呼べるだけの願い叶える事を可能としたのだ。

 

――でも

 

「そうだ。俺たちの悩みなんてものは、スキルや道具といった過去から受けがれてきたモノによって、大概が解決してしまう。解決しない悩みなんてものはほとんど存在しない。いや、例え死ぬほど辛い目にあったとしても、大抵次の日には不思議と心から消失してしまうから、辛さという行動の糧となる心の燃料がない。俺たちは、執念というものを持てなかったんだ。だから俺たちは、苦しいことに耐えた果てにある栄光の未来よりも、今目の前にある刹那的な快楽を優先して行動をおこしてしまう。故にいつまでたっても本当に叶えたい願いを叶えることは出来なかった」

 

しかし、彼らの場合はそれが出来なかった。凛の世界に巣食っていたクラリオンという魔物は彼らの負の感情という精神的負荷となるものを片っ端から吸収してしまうため、どんな負の感情を抱こうと、例えば今彼が語っているような悲嘆であったとしても、次の日には消えてしまう。

 

結果、彼らは日々の生活の中でほとんど悩みなんてものを持たずに滔々と生きる事ができてきた。けれど、彼らはそんな精神的ストレスの要因となる感情を吸収する存在に寄りかかり続けてしまってきたせいで、強さを得る機会を、弱さを克服して一流に近づく機会を損失し続けてしまった。

 

また、旧人類が彼らのことを思って仕掛けた、新人類と呼ばれる彼らが世界樹の大地の上で電気の文明を発展させることが出来なくなるようにする陣。すなわち、思考誘導陣や、過酷な世界でも生きてゆけるようにと旧人類が作り上げた、スキルという努力なしに技術の均一化と維持を保証する技術もまた、彼らをそのような怠惰の方向へと傾きやすい生物にしてしまった一因として影響しているのだろう。

 

新人類たる彼らは、負の感情の消失と思考誘導とスキルという三重の仕掛けによって、徹底的に発展を阻害され続けてきた。仕組まれた罠をかいくぐって己の抱いた願いを完全に叶えることができるのは、抱いた願いの方面に対しての余程合致した才能のあるものか、折れぬ克己心というものを持ちえて生まれてきた才人。あるいは、大望など抱かずに日々の小さな生活に充実と満足を得ている人間くらいなもの。

 

それ以外の人間、すなわち彼ら自身が言う通り、半端に才能があったが故に大望を抱いてしまった彼らは、抱える願いを達成することは絶対に叶わない。自身にとって大言壮語たる空想がごとき分不相応な夢を目指したものは無念を残して死んでいくこととなる。月にやがて己が巨人となる幻想を見た愚者は、かつて万人にとっての正義の味方などという絵空事を目指したアーチャーのように、必ず不幸な結末を得る。自らの愚かさが、自らの身を滅ぼす要因となるのは、世の常というものだろう。

 

「やがて俺らは死が近づきそれを意識するようになった時、全ての死に瀕した生物がやるように、死の運命を覆すためこれまでの生涯を振り返った。――そして絶望した。俺たちは結局、俺たちの願いを叶えられていない。しかもそうして俺たちが願いを叶える事が出来なかったのは、俺たち自身がお前のいう通り無意味に時間を浪費してしまったが故なんだ。誰も恨む事ができない。否、そこのギルガメッシュという英雄だ言うように、快楽に押し流されて日々を過ごしていた自分以外に、恨む対象なんていないかったんだ」

 

この世界に住む多くのものはそんな当たり前の真理を理解しているし、彼らも当然そんなことは承知の上だったはずだ。けれどそんな彼らでも、やはり自分の愚かさを見つめながら死に行くという、絶望の上に絶望を積み重ねるが如き行為は、願いを叶えられなかったという絶望を得てしまった彼らにとって、死に勝る耐え難い苦痛となったのだろう。

 

「醜いものを直視した後に美しいものを思い出して中和したくなるのは、生物の本能なんだろう。やがて醜悪な自分自身を見つめ直すことに耐えられなくなった俺らは、俺に大望を抱かせる発端となった、俺らにとって強い光を放つ憧れの人物の事を強く思うようになった。死の間際に自らの脳裏へと浮かんだ彼ら強者の姿は、死が生み出す恐怖と、魂が抜け落ちる直前に生まれた羨望や絶望と結びつき、やがて総じて強者への負の感情へと変換された」

 

だから彼らはそんな絶望を祓ってくれるほどに眩く輝く希望を求め、そしてかつて自らが憧れた存在を想起した。しかして想起した彼らがかつて憧れたはずの理想は、今の彼らからすれば汚泥にまみれたような自身たちと比較した時、あまりにも輝かしすぎて、彼らはそれが耐えられなくなった。

 

「お門違いだという事は自覚している。正しいか間違っているかで言えば、疑いようもなく間違っている行為だろう。けれど俺たちはもう止まれない。世界に対して何も残せなかったが故に死んでも死に切れず無念の色に染まった魂を世界に残したこいつたちは、こんな自分でも必要と言ってくれた守護者の為にも――、俺はもう引くことが出来ねぇんだ」

 

彼らには出来て、なぜ自分にできなかったのか。自分に彼らほど才能がないのがいけなかったのか、運がないのがいけなかったのか。そんな未来永劫答えの出ない問題を前に、彼らの魂は死んでも死に切れず、怨念という形で大地にへばりついていた。彼らはかつて輝かしいものに憧れていたからこそ、今、そんな富と栄光を持ちうる目の前の英雄を憎しまずにいられない。それはなんという皮肉な運命なのだろうか。愛憎半ばする様を全身で体現するように彼らの姿は、まさに亡霊と呼ぶに相応しく――

 

「俺たちはもう止まれない。お前が英雄として極まった存在で、お前の周りにいる英雄たちが極限にまで鍛え上げた術理や武装で俺たちの夢を押し潰そうというのなら、矮小半端で脆弱な俺たちはお前らという強大な個の群の全てを飲みこめるだけの数を用意して、お前たちという強者に打ち勝ち、自らの道を切り開こう」

 

やがて瞳の中に入り混じっていた羨望の色を完全に憎悪のそれのみで塗りつぶした彼らは、各々の武器を抜いて構えを取た。彼らの一斉の動作に、ヴィーグリーズの大地が嵐の予兆を恐れるかのようにずしりと揺れる。亡霊たちの薄ら暗い念に応じるかのように、ヘイムダルの後ろに存在する軍艦の砲が稼働し、その砲口が一斉に凛らのギルガメッシュの方へと向けられた。凛は周囲の空気が一気に冷え込んだ感覚を覚える。同時に、百千を超える数の剣や銃口を向けられたという以外の事情によって、久方ぶりにやってきた死の予感に、背筋がこれ以上ないくらいに冷たくなる思いをした。

 

だが百千を超える殺意の視線を向けられた当の本人であるギルガメッシュは、自らへと殺到するそれらの視線をまるで気にすることなく腕を組んだ視線を崩さないまま、ヘイムダルの方へと視線を送り返していた。おそらく、暴君として有名だった王であり、天上天下唯我独尊を押し貫く傲慢さを気質として備える彼にとって、そのように多くの人間から畏怖や憎しみの感情を向けられているのは慣れているのだろう。有象無象の感情の機敏などいちいち気にしていられないというような思惑が彼の態度からは見てとれる。

 

「つけあがるなよ、雑種。いかなる力を持とうが、所詮貴様らは塵芥。借りた翼で飛ぶには能わず、地に這う蛆虫のさざめきが、天の果てで輝く綺羅星たる英雄王の懐に届くなどという事はありえん」

 

冷たく言い放つギルガメッシュの言葉には常の彼には似合わないほどの熱量が含まれており、凛は全身を震え上がらせた。ギルガメッシュという英霊はプライドが高く、それ故に他者からの挑発に対して非常に過敏に反応する精神の沸点の非常に低い英霊だ。そんな彼が見下している相手からその様な挑発の言葉を投げかけられた場合、その後ギルガメッシュがどんな反応をして見せるのかは、火を見るより明らかだった。

 

イシュタルと同一化している凛が最も恐れたのは、ギルガメッシュが一も二もなく我を忘れて全力を発揮して戦いだすという事態だった。女神イシュタルの転生体として生まれ変わった凛の頭の中にはイシュタルの記憶が存在しており、記憶は、ギルガメッシュという半神半人の英霊が周囲に対しての遠慮をしない状態で力を完全解放した場合、こんな100k㎢程度の大きさしかない大地を瞬時に吹き飛ばしてしまうのは容易い事だと告げているのだ。

 

――頼むから暴走だけはしないで頂戴……

 

「だが――――、なるほど。今の時代に珍しい、燃え滾るその野心。そして足りぬのならば迷わず別の場所から補おうとする行動力。は、その、自らの身を焦がし尽くしてもなお消えぬ天も地までも燃やし尽くさんとする激情と強欲が、星の目に叶ったというわけか」

 

だがそんな凛の懸念を他所に、誰を対象にしたわけでもない、強いていうならば天に向けての行った必死の祈りが通じたわけではあるまいが、静かにヘイムダルの語りを聞いていたギルガメッシュは、突きつけられた言葉と砲口、そして圧力に対して、あきれた様子の、しかし過少ならず喜びの色をも含んだ不思議な視線をヘイムダルらへと送る。

 

「如何に他人のためを唄おうと、その平然を装う仮面の下には、グツグツと煮えたぎる野心がある。それも世界の中心かつ最強たる我を下し、我が財を奪おうとする強欲が、貴様の裡には存在している。――――、なるほど、欲こそは全ての原動力。どうせ狙うならば頂点を狙いたいという雄の本能に従う野生といい、貴様のその愚かしいまでのひりつく渇きを癒そうとする強欲は、いやはや、たしかにまったくもって悪くない」

 

ギルガメッシュは、さらに彼らに激励するかのような言葉を紡ぎ出した。ギルガメッシュの見せたあまりに予想外な口調と態度に、凛は、はしたなくも目をひんむくほどに驚く。口ぶりには彼が最初の頃ヘイムダルへと向けていた怒りや侮蔑といった負の成分は含まれておらず、むしろ、歓喜や歓迎の意が多分に含まれていた。

 

「――――気が変わった」

 

ギルガメッシュは腕を振り上げる。途端、彼の周囲の空間が歪み、彼の周囲を取り囲んでいた武器が全て消え失せる。

 

「子はいつか親の袂より離れるもの」

 

続けてギルガメッシュが軽く腕を横に振ると、彼の真横から上に広い空間が先ほど火星の大地や空間が現れた時に勝るとも劣らないほども大きく歪み、歪んだ空間の先端からは鋭い金属の塊が現れた。

 

「遠く遡れば我が子孫に辿り着く貴様らが、我の治める星を飛び出し、遥かなる星の海へと旅立つ一歩を踏み出すというのであれば、子らがそれを実現できるかどうかをはかるは、祖たる我の定め」

 

徐々にあらわにする金属の先端は、やがて時間の経過とともに、船の帆先の衝角である事が理解できるようになる。ギルガメッシュの横に現れたそれは、屋根を持ち、船の先端から中心にかけて煉瓦造りの街並が並ぶ、巨大な飛行船である事が判明した。

 

「だが、大人が子供に本気で力を振るう事ほどみっともないことはない。ましてや我は、我であるが故に貴様らとは隔絶した力を持つ超的な存在。本気を出せば貴様らなど塵芥に等しい存在である。故に……、まずは貴様らに我と同じ場所に立つ資格があるかを試させてもらう。試金石は――――、貴様らと同じ地平に立ち、しかし貴様らよりも先にいる存在である此奴らの方が相応しかろう」

 

やがてエンジン音を轟かせながら空中に浮かぶ全長二、三キロメートルはあろうかという巨大な飛行船の全貌が完全に現れたのを見計らって、ギルガメッシュは再び腕を振るった。途端、先ほどと同じように王の財宝/ゲート・オブ・バビロンが開き、その内からはドサドサと見覚えのある格好の人間――月より召喚された冒険者たちが落ちてくる。ギルガメッシュの周囲から前方には千にも達するほどの冒険者たちがそこには呼び出されていた。

 

「な、なんだぁ! 何が起きたんだ!」

「いきなり地軸の光みたいなので呼び出されて……、って、なんですか、この景色! 飛行船からどこに私たちは……、ってなんだこの大軍は!」

「随分と殺気立っているわね……。まともな話し合いで住む雰囲気じゃないわ」

「ヴィーグリーズの地にやってきた半神半人の神たる我が、船より死者の軍団を召喚した。――――、我にロキの役割を望む貴様らにとって思い通りの展開だろう?」

 

ギルガメッシュは突如として呼び出されしどろもどろの冒険者たちを完全に無視すると、呼び出した彼らの間を通ってスタスタと歩いてゆく。迷いない歩みを見てほとんど全ての冒険者たちが彼に注目し、また、少なくなく存在する勘の鋭い冒険者たちは彼こそが自分たちをこの地に招いた張本人である事を悟っていたが、そんな自らをこの地に招いた彼に質問を飛ばし、その歩みを止めようとするものは誰一人としていなかった。

 

我の邪魔をしてはならない。そう告げるかのような迫力をギルガメッシュは纏っていた。

 

「我より劣るこやつらに限っていうのであれば、その力は無限でなく、貴様らよりも多少先んじた場所にいる連中でしかない。なれば、貴様ら程度であっても死力と知力を尽くせば勝ちの目が見えてくるやもしれぬぞ?」

 

やがて自らが呼び出した彼らの後ろへと完全に引っ込んだギルガメッシュは、振り向くと、壇上にて指揮者がやるように大業に手を広げると、眼前にてざわつきかけた全ての存在に視線を送った後、さけんだ。一転して再び静寂が辺りを支配する。

 

「さぁ、ヘイムダルを名乗る偽りの英雄よ! 自らの願いを叶えたいと欲するのであれば、まずは我の指揮する我の召喚した軍団を悉く打ち破り、自らの力を証明し、我の身元に馳せ参じてみよ! 我が名はギルガメッシュ! 旧人類最古の英雄王にして、新人類最新最後の守護者なり! 我が職業はプリンスとショーグンのスキルを併せ持つ、指揮特化特別職たるキング! 我を愉しませたのなれば、我も貴様の望む通り、貴様の望む役を演じてやらんでもない!」

 

ギルガメッシュは誰もが注目する最中、詩を吟じるかのような大声で宣戦布告を行う。

 

「ふ、ふふ。ふふふふふふ……」

 

静寂を切り裂いたのは、遠く、ギルガメッシュがいる場所とは真反対の場所、火星の大地がある方から聞こえてくる低き笑い声だった。

 

「――――やれ!」

 

ギルガメッシュの宣告に応じて、ヘイムダルが自らの作り上げた軍団へと指示を飛ばす。指揮官の攻撃命令により、敵軍のあちらこちらから檄が上がり、ヘイムダルの前で構えていた冒険者たちが次々に各々の武器を片手に陣形を整え、突撃を開始した。

 

「し、師匠、どうしますか!?」

「どうするもこうするもない! 見ず知らずのやつらに一方的にやられてやる義理はない! ここはひとつ、やられる前にやってしまおう!」

「短絡的ね。でも、今ばかりはその馬鹿みたいな意見に賛成しておこうかしら」

 

ギルガメッシュに状況把握もままならないまま呼び出された冒険者たちは、突然の展開に混乱しながらも、あるいは不本意ながらも、訳も分からずにやられてやることは出来ないと言わんばかりに、戦いに応じて各々の獲物を抜く。そして終末の土地はオーディンの嵐が吹き荒れる場所へと変貌する。世界の行く末を決める戦の幕が開けた。

 

第5話終了



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第六話 選択の時

書きたかったこと、やりたかったことが大半詰まってます。大分文章を削除して読みやすくしたつもりですが、それでも読みにくかったら申し訳ない。


Fate Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜

 

第六話 選択の時

 

子が自らの望む未来に向かって自らの足で大地を踏みしめ歩んで行けるよう日常に起きる小さな出来事に対して幸福を感じられるように教え、同時に、世間や周囲の環境に押し潰されないだけの強さを獲得出来るように育てる事こそが親の役割であると言えるだろう。

 

それは義務、といっても過言ではない。あるいは、血の繋がりがあろうがなかろうが、子供という存在にそうした教育を施せる人間をこそ、親、と呼ぶべきなのだろう。

 

まともな教育を施し、真っ当な人間に育て上げる事が出来るか否かを基準に親という存在の資格を定義するのならば、娘にそんな教育を施せなかった私は、あらゆる意味で親と呼ぶに相応わしい存在ではない。そもそも私は、一般の人間が幸福と感じるような出来事を幸福と感じず、他者の不幸をこそ幸福と感じる悪人であり、人格破綻者。まともという定義の外にいる存在だ。

 

――そんな事は百も承知の上だ

 

そうだ。私は悪性の存在だ。普通の枠組みから外れた、健常者とは異なる感性と精神を持った人間だ。客観的にみれば、子を育てる資格も、親と呼ばれる資格も持たない、他者の苦しみの中にこそ喜びを見出す人格破綻者だ。他者が現状を打破しようともがき、苦しみ、しかし結果、苦労の甲斐もなく何も果たせずして絶望の泥の中に沈んでゆくことをこそ尊び精神の糧とする、世間一般には悪と呼ばれる存在で、決してまともな親になる資格など持っていない人間だ。

 

――だが、だからと言って諦める私ではない。

 

そうだ。私は誰かの親となるのに不適当な人間だ。しかしだからといって私が子供にまともな教育を施す事が不可能であるかというと、それは否だろう。いやむしろ、かつて若かりし頃に自身の悪たる本性を認められず、どうにか普通の人間になれないかと苦慮し、その努力を行なっていた私の方が、『普通』という状態がいかなる状態であるかを意識せずにそう過ごす事の出来る人々よりも、普通の幸福というものを知らぬ子供を教授するには適しているやもしれない。

 

――あの男は他人が示した夢を、自分の真なる目標とする事を良しとしている

 

目の前にいるのは、幼少の頃、肉体と心が死に瀕するほどの大きな外傷を負ったが故に、歪んだまま育ってしまった大きな子供だ。かつての自身の持ちうる全て失った男は、生きる為の道標として自らを助けた親とも呼べる男の精神を模倣し、正義の味方になる事を目指していた。

 

――他者の示した答えに満足し、歩むべき道を自らの手で選びとらない

 

その男は、自らを育てた親によって指し示された道こそが絶対的に正しく、その期待に応えられなかった自分には一切の価値がないと信じ込んでいる。それにより奴は今なおも歪んだ精神のままで、間違いを繰り返している。

 

――私は、それがひどく、気にくわない

 

奴の中には、未だにあの男がいる。自らの正義こそ絶対的に正しく、自らの正義にそぐわない存在は、全て排除すべきだと盲信した衛宮切嗣という男が、あの衛宮士郎という男の中には巣食っている。

 

――子は親の期待に応えるだけの道具ではない

 

Eli,Eli,Lema sabachthani/神よ、神よ、なぜ私を見捨てられたのか? 絶対者たる神と神の子の間に意思の非疎通があったように、私の父、言峰璃正と、私、言峰綺礼の関係がそうであったように、同じものを信仰していたとしても、親の掲げた理想と子の幸福が完全一致することはありえない。否、それどころか、親がその脳裏に浮かべる理想の姿や世界というものは、その期待の高さ故、子に対して不幸と虚無を招く呼び水となる可能性の方が高い。

 

――子は親の理想を実現する為の傀儡ではない

 

そう、親と子は同じ人間だとしても違う生き物なのだ。そんな事も理解せず、ただ己の視点と幸福の在り方を子にも適用し押し付けるような教育を施す人間は、私のように悪と呼ばれるべき存在なのだ。ならば、そう、それは、決して、子供に、『万人にとっての正義の味方』などという夢想を謳って良い存在ではない。私はそのような存在を認めない。そうだ、認められるはずがない。

 

――己の理想のため、子の幸福を踏み躙る親など、絶対に認めてやるものか

 

そんなもの、かつて親の勝手な理想を押し付けられが故に、身も心も擦り切れて心が砕け散る直前になるまで艱難辛苦に満ちた生涯を送る事となった私が認められるはずがない。認められるはずがない。認められるはずがないのだ。そんなものが正しいのだと認めてしまえば、親の理想に殉じようとしたが故に苦しみ、果てに理想を押し付けて来る親を殺したその先に救いを見つけ出し、悪人として他人の不幸という幸福を貪りながら過ごす以外に喜びを見つけ出すという、普通の人間としての生き方ができなかった私という存在と、私の生涯は一体なんだったのか――

 

――だから殺す

 

今なおも小僧の中に奴の理想が亡霊として巣食っているというその事実は、親の理想を撥ね退けて自らの手で己が進むべき道と同じ己の幸福を見出した私と私の生涯を、あまりに馬鹿にしている。私の進行する宗教の教義が幽霊を否定しており、私がエクソシストだという事実を差し引いたとしても、子に呪いを残す親の亡霊なぞ、存在そのものが不愉快だ。そも、そんなものが未だこの世に残り、子に偽りの希望を与えているというその事実がまずもって 耐え難い。

 

――だから殺すのだ

 

正義の味方を目指すあの小僧には、自らの意思で絶望の淵に立ち、解決不能な矛盾の中で答えの出ない答えを出そうと足掻き苦しみ続けるその姿こそが、最も相応しく、そして美しい。全てを飲み込もうとする闇の中、悪を自認する私にとって最も相応わしい役割を果たすべく、私は私の身に宿った悪魔の力を用いて奴の中に巣食う亡霊を殺す工程を開始した。

 

 

「うーむ、予定通りとはいえ、いきなり戦場に放り込まれるとは思わなんだなぁ!」

「ししょー! わりかし冷静にいってる場合じゃないですよ! 根暗ニンジャが姿を消すのはいつものことだとして、あのツノ生やした全裸ウーマンも見当たりません! 」

「あの子ならどっかに消えてったわよ」

「なんだとぉ! 」

「なんですと!? じゃ、じゃあ、彼女は今どこに」

「さぁ? でも消える前に、『予定通りだけれど予定より早く進み過ぎている。キーパーソンがまだ足りていないのに……』っていって焦った様子だったから、私たちの前に現れた時みたいに、ここでないどこかに誰かさんでも迎えにいったんじゃない?」

 

 

「ギルガメッシュ何してるの!?なんで貴方の本来の力で戦わないの!?」

 

「我は初め、あれらを負け犬とそれ以下の集団であり、身の程を知り挑戦を諦めた賢しい大人の集団であり、我が身可愛さに神に尻尾を振る獣畜生に劣る存在だと思っていた。だが違った。あやつらは確かに負け犬とそれ以下のペシミストの寄せ集めではあったが、少なくとも獣ではなく人であった。目の前にいるのは人である。ならば半神半人たる我も神の力を封じ、この世界に生きる人としての戦いをするがやつらに対する礼儀というものであろう?」

 

「だ、だからって、世界の命運がかかっている戦いでハンデをつけて戦わなくても……!」

 

「無粋よなぁ、イシュタルよ。お主は本当に、才知にあふれ、賢しく、故に人の理というものを解さん。こんな理は、ほれ、そこにおる別世界の人間と畜生や、貴様の背後で子守りをしておる狂犬ですらも理解しておるぞ。その証明に、こやつらも手を出そうとはしておらん。結果を求めるがあまりに過程を軽視する。まるで過保護な親のように、子の願いのために無駄に口と手を出しすぎる。そんなだから貴様は他の国の神々から心底嫌われておったのだ」

 

「な……!」

 

「結果のみを求めるのであれば、確かに目の前の奴等に我と貴様らの力を集約させればそれで即座に終わりよ。我のみであったとしても、蹂躙作業はものの数分とかからずに終わるだろうとも。だが、結果のみを求め、過程をすっ飛ばして成果を得たとき、人は容易に堕落するし、そこに成長はない。我ら力あるものが無闇矢鱈に介入すれば、仮にこの戦いに勝ったとしても、我らの力によって世界が救われるだけで、今を生きて目の前で足掻く奴等に救いは訪れず、変化もない。少ない犠牲によって世界は救われるが、それだけだ。わかるか?」

 

「あ……」

 

「イシュタルよ。貴様はそんな、全ての人の救いを求めたくせに叶わず、世界とそこに住む多くの人の救いのために少ない人を殺し続けるしかなかった愚か者を救いたかったからこそ、貴様と貴様の伴侶の命をかけたのであろう? なのにそんな貴様が、そんな奴の想いを否定するかのように、再び、少ない側の人を切り捨て、世界を救う選択をしようというのか? ん?」

 

「……っ!」

 

「人は自らとその手の届く範囲にある力のみで勝利を手にしたとき、初めて自らを救うことができる。そして自らを救い続けた先にこそ、人は初めて別の世界の扉を開ける資格を持つ。この戦いはな。今まで出来なかった者が、出来るようになるか否か。不変だった存在に変化が訪れるか。人を切り捨て世界を救うか、世界を切り捨て人を救う以外の選択肢を見つけ出せるかという、そういう戦いよ。我が我に課せられた本来の役割を果たすのであれば、なるほど、イシュタル。貴様のいうとおり、この世界と人を統べる王として、我は目の前のあやつらを打ち払うべく全力をふるい、世界とそこに住まう多くの人を救うことこそが正しい選択……。それが我のとるべき王道であり、正論よな。無論、その時が来れば我は迷わずそうもしよう。だが――――、まだ時間は残されておる。なれば我は、我個人の欲望として、この戦いの結末に、人の世のその先を見てみたい」

 

「先……?」

 

「すなわち我や我より連なる英雄の系譜にあるものではこれまで成し得ることのできなかった奇跡を、だ。そして、如何なる部分に目をかけたのかは知らぬが、星に選ばれた奴らであるならば我が見たこともない奇跡を見せてくれるやもしれぬ、と、そう期待した。だからこそ我はこうして、奴等と同じ場所に立ち、同じ力のみで奴等を試そうとおもった――――――、わけだが」

 

「え……」

 

「どうやらそれも無駄に終わるやもしれぬな」

 

「ど、どういうこと!?」

 

「こちら側の雑種があまりに強過ぎ、あちら側の雑種どもがあまりに弱過ぎる。こちら側にいるのは今生において自らの思いを成し遂げたものばかりであり、あちら側にいるのがそれを成し遂げる事が出来なかったものばかりである。それを思えばこの結果も当然であるが――――、それにしてもあやつらは力も意志も薄弱に過ぎる。実につまらん。このままでは我が蹂躙すると変わらぬ結末になってしまうではないか」

 

「……」

 

「象と蟻の差の如き絶対的な彼我の戦力差を覆す。そんな奇跡を起こさねば奴等に勝ち目はない。生まれ持っての身体能力の差、培ってきた経験値。その全てが、此方側が優っておる。唯一あちら側の優位は、無限の回復能力を持っている事のみ。無論、優っている部分がある点に賭けて一点突破を狙えば逆転の目がないわけではないが――、それは実現が0パーセントに近しい未来を引き寄せ続ける度胸と忍耐が必要な作業だ。そんな作業を凡人たる奴等が一朝一夕に出来るわけもない。出来るとしたらそれは――」

 

「それは?」

 

「それは、我と同じく万能に優れた天賦を持つ才人か、我が生きたのと同じかそれ以上の年月を空想じみた奇跡を実現させるために費やしてきた大馬鹿者くらいのものだろうよ」

 

 

???

 

 

「こ……こ、は……」

 

目がさめるとまるで見覚えのない場所にいた。周囲を見渡すも、視線を送った先には濃紺の闇が跋扈しているばかりで、自身の居場所を探る手がかりとなりそうなものは何もない。そこにあるのは完全無明の闇であった。一切の光明ない最中、唯一自分に理解できたのは、自らが今いる場所が、通常我々が暮らす場所より隔離されたまともでない場所であるということのみだった。

 

――ゴォォォォォン

 

「っ――――――!」

 

果たしてなぜ自分はこのような場所にいるのだろうか。周囲よりその理由を導き出す事が不可能であると判断した私が意識を失う直前前後の記憶を掘り起こそうとすると、直後、遠くからは聞こえてきた鯨鐘の響きに似た音色に意識を揺さぶられ、ずきずきと目の奥を突かれるような頭痛が走った。

 

「何が……」

 

最早用事は済んだのだと言わんばかりに失せてゆく音の潮について行こうとする意識を無理やりその場に留めると、瞼を下ろして密に痛みの原因を探る。暗闇の最中、さらに暗黒を用意する無意味を自嘲しながらも痛みの原因を探ってみれば、それは、戦いの最中、見切りという技術を駆使して戦う者にとって特に重要となる器官である視神経と関連する眼筋が、強化の魔術により無理やり酷使され続けて結果なのだと知る事が出来た。おそらくは先ほどの音が体を振動させた事が、痛みの呼び水となったのだろう。

 

「道具が……」

 

痛みを和らげるべくヤタガラス特製の傷薬を用いようと腰に手を回すも、そこに彼から渡されたはずの道具が入った巾着袋はなく、それどころか、同じように腰のホルスターに引っ付けていた拳銃、弾丸の類までもが一切残らず消失している事に気が付ける。もしや位置がずれただけかもしれないと腰を探るも、着慣れた聖骸布の柔らかい感触とベルトの硬い肌触りだけが手のひらに刺激として返ってくるだけで、目当てのものに手が触れることはなかった。

 

「――――、はぁ」

 

無為を悟り、神経の治癒が望めない事を意識した途端、よりいっそう神経が痛みを訴え出した。痛みはやがて関係ない脳神経にまで影響を与え、打つ手のないという事態に対しての苛立ちへと変貌する。人間らしい感情というものを長き間に磨耗して忘却の彼方へと置き去りにして久しいが、もはや何をどうあがこうが手のうちようがないこの歯痒い感覚と未知に対する恐怖、そしてこの身体反応だけは、長い付き合いの疎ましい友人として忘れようもなく体に刻み込まれている。

 

――落ち着け。もともと自分のものでなかった道具がなくなっただけだ。少なくとも手持ちの道具が失せた以外、自らの体に被害はない

 

そんな苛立ちや恐怖は早めに払拭しなければ肥大化し、やがて己を押し潰す毒となる。故に、私は己を奮い立たせるべく、自らの神経を宥めてすかしてやるべく慰撫の言葉を発した。

 

「なにも、問題は、ない――」

 

指の腹で額を一定のリズムにて叩きながらそんな暗示を何度も繰り返す。視覚が役に立たない今、そうして自らの体を叩く指の感覚と軽打により生じる骨を叩く音だけが、世界の全てだった。打診に自分は確かに未だこの世界に存在しているのだという確信を持てたためか、僅かにばかり生じかけていた体の震えが徐々に停止してゆく。

 

――、………………、はぁ

 

そんな事をどのくらい続けていただろうか。やがて完全に体の震えが停止した事を確認した私が指の動きを止め終えると、自然とため息が漏れる。ため息は、これまで苛つきや恐怖の感情に用いられていたエネルギーが別の形で発散された結果なのだろう。

 

「――感情、か」

 

以前なら一瞬で止めることのできた恐怖の感情が生み出す所作を抑えるのに数秒もかかるようになってしまった現状は、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。人間としての観点から言うなら、それはもちろん喜ぶべき事象なのだろう。

 

感情を取り戻せた利点は多い。多くの人間は理屈よりも感情で判断を下す生き物だ。センチメンタリズムな彼らは、紙面上に刻まれた文章の正誤や、誰かが語った言葉の内容よりも、文章を書いた人間がいかなる思いにてその文章を刻んだのかと言う点や、人間の口から漏れる言葉の音の大小や動きにどれほどの感情が込められているかで、他人や物事の正しさに判断を下してしまいがちだ。

 

怒っている人がいるとして、冷静な態度で自分が今どれほど怒りを抱いているのかを怒りを表現する言葉をつらつら並べて淡々と述べるよりも、拳を大きくふるって喚き散らしながら自他共に意味の不明な言葉をがなりたてたほうが、その人が今怒りの感情を抱いているのだという事実を理解されやすい事をイメージすれば、人間が如何に感情に支配されている生き物であるかを理解する事が出来るだろう。

 

感情とは人間にとって、他者の意思や言葉の真贋を判断するツールであり、コミュニケーションを円滑にする潤滑油なのだ。

 

だが同時に、感情は動作、それも特に、命が絡む戦闘を行う際において、非常に不利な方向へと働くファクターでもある。命をかけた戦闘において重要なのは、心のうちより湧き出てくる怒り、恐怖、悲しみ、憎しみといった負の感情を出来るだけそぎ落とし、自らを戦闘用の機械と化すことだ。負の感情は人の挙動を鈍らせる何よりの毒となる。そういった意味では、自身に迫り来る恐怖のような負の感情を感じる心が希薄な状態だった以前の私は、戦闘という面においてだけで言えば非常に優れた特性を持っていた。

 

かつての私は、半ば無意識的に恐怖などと言った負の感情を完全に制御した状態だった。だからこそ私は、そんな自身の他者の感情を理解しにくいという特性を利用することで、技術や能力面においては一流に劣る腕前でありながら、英雄と呼ばれる彼等の戦闘域にまで到達し、彼らとしのぎを削ることができたのだ。

 

だが今、私は恐怖というものを含めた己の情を感じる心というもの取り戻しつつある。握り締めれば、どこまでも果てなく続いている漆黒の闇に相当のストレスを感じているのだろう、驚くほどの手汗が生じていることがわかる。自らが今どのような状態であるかに意識を割かず、手持ち無沙汰のままでいたのならば過呼吸になってしまいそうな心持ちだ。歯を噛み締めて、余計な思考を巡らせていなければ、それこそ情けなく取り乱していたかもしれない。思い返して見れば、先ほどの人狼と化したライドウとの戦闘においても、湧き上がる恐怖の感情に何度行動を阻害されたことやら。

 

「まったく、ままならないものだな……」

 

我が身の不甲斐なさを振り返ると、再び湧き上がってくる感情に苦笑しつつも、言葉と共に虚空の闇の中へと放り投げる。誰に向けたわけでもない、そのまま境界すらない暗色の中に溶けて消えて行くはずだった言葉だったが――

 

「本当にね」

「……!」

 

それは暗闇の向こう側にいる誰かによって打ち返され、耳元へと返ってくる。耳朶を打って染み入ってきた言葉に、全身の産毛が総立ちした。ドクンと大きく脈打った心臓より生まれた振動が全身へと広がる。

 

思考は短い一言が聞こえた瞬間より停止していた。抑えていたはずの呼吸が乱れ、この幸福感をもっと強烈に感じさせろと五感の全てが訴えかけてきていた。震えが止まらなかった。嚥下した唾液が腹に落ちたのを自覚した瞬間、湿り気を帯びた震える吐息が虚空へと漏れ出す。

 

「感情があるから人は野生の獣のように醜く争い合う。けれど、感情があるから、人は野生の獣のように、誰かに優しく出来る。全く、人間の感情ってやつは、ままならないものだ」

 

声の主人は先程よりもさらにはっきりとした言葉を述べた。言葉は体をさらに震えさせた。震えは、先程闇の中へと一人放り出されたと感じた時に生じた恐怖等の負の感情から来るものではなく、郷愁とか、感動とか、そういった、喜びに属する感情から生まれ出たものだった。何といっていいかわからなかった。どう反応すればいいのかわからなかった。かつて地獄の業火によって闇の中へと閉ざされかけていた私を地獄から救い出したその声が、今再び闇の中で道を見失っている私の耳元へ聞こえてきたという偶然の奇跡に、ただ、ただ感動し、そして感謝した。

 

「――あ、……うぁ」

 

気がつくと両手で顔を覆っていた。こぼれ落ちた闇に消えるだけの雫を両の手のひらで受け止めると、驚くほどに熱かった。

 

「おいおい、泣き虫だなぁ。外見はすっかり大人になったっていうのに、中身はまだ子供なのかい?」

 

かつて赤かった髪は白髪となっている。彼の半分もなかった背丈は、もうとっくのとうに追い越していた。彼と同じ路だった肌の色は赤黒く染まり、赤銅色だった目の色は燻んで灰色となっている。身に纏っているのは聖骸布なんていう魔術兵装で、精々一緒なのは、人とは多少特異な形に伸びた眉くらいのものだろう。

 

私はあの頃から随分と見た目になってしまっている。だというのに、彼は一目で目の前の男が誰であるかを見抜いてくれた。その事実が嬉しくて、溢れ出る涙の勢いが増した。

 

「う……、く、ぅ」

 

感情の制御なんて効かなかった。言葉を聞いた瞬間、ここまで無視されて溜め込んできた全てを吐き出してやると言わんばかりに、上半身は規則的に脈動を繰り返し、口からは嗚咽がもれていた。顔を覆った掌の隙間からはついに抑える事のできなくなった涙が、牡丹雪のように次々とこぼれて落ちていった。恥もなく、外聞もなく、瞳より体外へと排出される水分の量に反比例するかのように、ひび割れていた心の空隙が埋められてゆく。

 

「まぁ、でも、最後の最後の瞬間、君とお別れする直前になるまで、今、君がやっているみたいに素直な感情を表現できなかった不器用な僕よりはずっとましかなぁ」

 

かつてのようなとぼけた様子で述べる一言一言全てが、輝く宝物のようだった。幼い頃に鈍なものへとなってしまった感情を感じ取る機能の、その全てが瞬時に鋭敏化してゆく。

 

「――ああ、そういった意味じゃ、僕と士郎は似た者親子だったってわけだ。嬉しいなぁ」

「うぁ……!」

 

鋭敏化した感覚が捉えた信号は、脳裏に手いっそう強力な喜びの感情となり、心を乱す材料となる。嗚咽の声はついに抑圧できなくなっていた。当然だった。その声は、私が正義の味方になろうと未来に思い描いた全ての原因を作った人の声で、私に幸福という感情の存在を刻み込んだ人の声だった。何の気なくいう一言一言の全てが、私が聞きたかったもので、欲していたものだった。そして私は、ようやく、自分が真に欲していた幸福の正体に気付かされた。

 

――私は私を私のままで私と認めてくれる誰かが欲しかった

 

なんてことはなかった。私はただ自分の内側からこんなにも温かい感情を引き出してくれる誰かを求めて、旅路を続けていたのだ。なるほど、どれだけ探し求めても見つからないはずだ。私の幸福は未来ではなく、失った過去にあったのだから。

 

「ああ、もう、士郎が僕の言葉で喜んでくれてるのは嬉しいけれど、そう泣いてばかりじゃ会話にならないだろう? それに正義の味方なら笑顔で誰かを迎えるもんだ。僕は君の泣き顔じゃなくて、笑顔が見たいんだから、余計にそうしてもらえると嬉しいな」

 

長年探し求めていたものをあっさりと私に与えてくれたその人は、そんな事をいう。

 

「――は。――――――、ああ、……、ああ、そうだな」

 

私は私の感情をかき乱した人のその要請に必死で応答しようと、涙を拭って、歯を噛みしめる。闇に隠され見えないと知りつつも、小坊主のように鳴る鼻と共に唇を片手で拭って、もう片方の手で両の目から顎にかけてできた涙の通り道を消し、数度に分けて感極まった思いを呼吸と共に体の外に逃がしてやる。そうして準備を整え、閉じていた目をゆっくりと開いて、声の聞こえた方へと振り向くと、万感の思いを込めてその一言を告げた。

 

「久しぶりだな。……爺さん」

 

周囲を取り囲む闇はあまりに深く、視線を向けたところで望む人物の姿をはっきりと拝むことなできない。

 

「ああ、久しぶりだね、士郎」

 

だが、闇の向こう側から聞こえる声は、あの月夜に爺さん――衛宮切嗣が語る声とまるで同じ口調のそれと相違なかった。言葉は脳裏に破顔の表情をより鮮明に浮かび上がらせる。湧き上がって来る衝動に、再び涙が落ちるのを止められなかった。

 

「ああ……、そうだな……、本当に……、その通りだ」

 

それでも必死に爺さん――切嗣の言う通り、泣き顔を、無理やり彼のオーダー通りに、今出来る精一杯の笑顔を浮かべてみせた。全てを隠すかのように蔓延る闇を貫いて涙でくしゃくしゃになったみっともない強がりの笑顔が彼の目元に届いたとは思わない。だが、漆黒の向こうがにいる切嗣が、ぼやけて見えない首を傾け、嬉しそうに微笑む様を幻視して、私はさらに笑みを強めてみせた。

 

 

「士郎」

 

闇の中で笑う切嗣はおそらく、適度に鍛えられた痩身をヨレヨレの服で包むという、昔、聖杯戦争の折に私を助けたときみたいな格好をしていた。仮定のような形でしか彼の姿を語れないのは、私と切嗣を包み込む闇が暗すぎて、ほとんど輪郭くらいしか確認できないが故だ。他人伝から聞いたところによると、私を救いあげる以前の衛宮切嗣という男は、争いによって生まれる犠牲者を少なくするためなら、それこそ暗殺や奇襲、調略や自らの計略によって周囲に被害が出ることも構わずに、そんな行いによって自身にどんな評価がつこうが気にせず、淡々と多くの犠牲になるはずだった人々を救ってきたのだという。それを思えば、飄々としたボロボロの格好で、闇に紛れるというその風態は、まさに切嗣がどのような生き方と価値観を持っているのかを示しているかのように思えた。

 

「背も大きくなって……、うん、もう昔よりもずっと高い」

 

だが今、切嗣は、そうした彼が没した後に私が入手した周りからの『魔術師殺し』として名高い衛宮切嗣像とはかけ離れた、私のよく知る、私にとっていつもの衛宮切嗣の言葉で私へと話しかけてくる。それ故に、私は疑う事もなく、闇に紛れる彼は、私の養父なのだと確信し、彼の言葉に素直な答えを返すのだ。

 

「ああ……、学校を卒業して日本を飛び出してから急激に伸び始めたんだ。今じゃ187センチもある」

 

目の前で私に声を投げかける切嗣は私にとって、子供の頃、正義の味方の象徴で、それを目指そうと思った原因で、養父で、憧れの頃とまるで変わらない様子だった。だからだろう、自然と、私の口から出る言葉は、彼の存在に引きずられて子供の頃の口調のそれとなってしまっていた。彼という存在は、情念を感じる機能を正しく取り戻した今の私にとって、いや、そんな今の私だからこそ、大人の仮面を被る事を出来なくさせてしまっていた。

 

「そうか。僕よりも身長があるのか。これじゃあ頭を撫でるのにも一苦労だ」

 

そんな気持ちを知ってかしらずか、あるいは私のそんな所作がそうさせているのか、切嗣は私を子供の頃と同じように扱おうとする。

 

「やめてくれよ。もう俺は子供じゃない。昔の切嗣よりもずっと歳上なんだ」

 

そんな彼の態度が、むず痒くて、恥ずかしくって、つい、そんなことを言ってしまっていた。

 

――しまった

 

自らが口にした言葉の内容に後悔の思いを抱いた時にはすでに手遅れで、闇の向こう側にいて、多分私の頭を撫でる為腕を伸ばしたのだろう切嗣は、少しばかり戸惑うような、困ったような顔をして、目を瞑りながら私を見上げたかのように見えた。所作を見て罪悪感で胸が押しつぶされそうになった。なんともバツが悪い。

 

――この人の前ではどうも、私は子供の頃の私に戻ってしまう。

 

「子供じゃない、か」

 

さっと視線をそらして叱られる前の子供のように彼の二の句を待っていると、切嗣は感慨深そうに一言をつぶやいた。

 

「そうだね、その通りだ。君はもう子供じゃない」

 

切嗣は、それまでの朗らかな口調と親しげな態度とは異なった剣呑な態度でそんな言葉を口にした。

 

「――切嗣?」

 

言葉の中に含まれる成分に不穏な気配が生じた事を感じた心の中で、警鐘が鳴り響く。自分の中の感情が彼から不穏を感じ取ったことが、私の積み重ねてきた経験がそんな警鐘を鳴らしたことが信じられなかった。だって彼は私の味方なのだ。彼は私を助けてくれた恩人で、養父で、憧れで、目標で――

 

「君はたしかに見た目はもう立派な大人だ。でも、士郎。僕から見れば、君はまだ子供だ。僕から見れば、君はまだ、湧き上がってくる感情と理性との折り合いも満足につけることのできない、子供にしか見えない。だから――」

 

――だから

 

「!?」

 

――ダンッ!

 

「じい……、さん……?」

 

闇の中、ヨレヨレの服の中より引き抜かれた拳銃より放たれたのだろうその一撃が信じられなかった。火薬の力を借りて押し出された弾丸が、私の頬を掠めて、通り抜け、闇の中に消えてゆく。頬に鋭い痛みがはしった。闇の中、黒塗りの銃から燻る硝煙だけが、攻撃が放たれたという事実を嫌が応にもありありと主張していた。

 

「試させてくれ。君が、本当にもう子供じゃないのかどうかを。君がきちんと大人としてやっていけるのかどうかを」

「……っ」

 

――投影開始/トレース・オン

 

切嗣の行為と意思が信じられなかった。銃声によって反射的に、双剣『干将・莫耶』を投影したのち半身立ちになり、完全な戦闘のための姿勢へと移行しても、まだ思考と体を上手く動かすことができずにいた。

 

「まってくれ、爺さん! なんで……、なんでこんな……!」

 

ようやく現実不信の重石から抜け出すことが出来たのは、遅れてやってきた頬から伝わる痛みが感情の中から恐怖とそれ以外のぐちゃぐちゃとした思いを引き出し、生存本能へと働きかけたからだ。皮肉なことに疑念という理性が、痛みや恐怖といった体を鈍らせる要員の感情が、驚きの感情を完全に凌駕して私の体を生存させる為に動かしたのだ。私の動きは、感情というものを取り戻してからこれまでの間で、最も鋭いものだった。

 

「――」

 

私の迷いない動作を見やった切嗣は、言葉に応えることなく音もなく私の前から姿を消し、完全に闇の中へと溶け込んだ。闇と溶け込むその暗行技術の余りの見事さに、彼の存在は暗闇の中へと囚われた私が暗闇に一人佇むという恐怖から逃れる為に生み出した幻なのかもと思いかけた。だが、微かに鼻腔の中に残る硝煙の匂いと、頬から伝わってくる痛みが、皮肉にも今の私の正気と、今しがた私の目の前に現れた彼の存在が私の見た幻覚でなかった事を証明してくれている。

 

「爺さん!」

 

――ダンッ!

 

「ッ!」

 

切嗣が放った情け容赦ない銃撃の音に反応し、先ほどの一撃から逆算して導き出した公式に火薬の炸裂音と音響を代入して速度を算出し、即座にやってくる銃弾を剣の横っ腹で弾き落とす。斬ることを目的とした剣ならば銃弾を叩き落とすなどという芸当を行えば、剣は即座に刀としてどころか鈍器として使う事すら不可能なほどのダメージを負ってしまうもの。だがそこに剣が宝具として昇華された強靭なものであるという条件と、さらに魔術によって強化が施されているという条件が加わるなら、それは別である。

 

――ダッダッダッダンッ!

 

「ちぃっ!」

 

ほとんど間断おかずに放たれた弾丸の音が暗闇に響く。連続して放たれる銃弾だろうと、銃弾を撃ち込まれ慣れている身体と、強化された投影宝具『干将・莫耶』は、この身を切嗣の攻撃から守ってくれる。だが蓄積された戦闘の経験値や世に名高い名剣は、憧れの養父から実弾で攻撃されているという心を砕くような事実から心を守ってはくれなかった。

 

――ッ

 

撃ち込まれる銃弾を一つ弾くごとに心が軋みをあげていた。深暗い空間の中から何処ともなく来訪する擦り傷一つすら私に与えられない弾丸を弾くたび、ガラスのごとく脆い心が粉々に砕けて散る感覚に、痛みが走っている。尊敬している養父に弾丸を撃ち込まれるというこの痛恨をなんと例えれば良いのだろうか。答えが返ってこない。彼が何も語ってくれない。悔しさと辛さに唇を噛み締め、しかし諦めずに問いかける。

 

「待ってくれ!」

 

尊敬する養父から与えられる痛みに耐えかねて答えを求めて縋るように手を伸ばしても、投影した銃弾を弾くほどの硬度を持つ剣は弾丸から身を守る道具として役にたつばかりで、迷いをもたない覚悟をした戦闘者から対話の言葉を引き出す道具としては有効な効果を発揮してくれない。

 

「爺さん、なんで……!」

「――」

 

強大な力を持った剣は、覚悟のない人間から命乞いの言葉を引き出す有効な手段となりえても、他人の心を切開してその心のうちを知るための剣にはなり得てはくれなかった。

 

「切嗣! なぜだ! 試すとは何なんだ!」

 

――ダンッ!

 

「――ッ! 切嗣!」

 

故に暗闇に虚しく消えた言葉の代わりに返ってきた殺意の熱を伴った弾丸を弾きながら、暗闇の向こう側に身を隠した切嗣へと必死に問いかける。剣ではなく、言葉でなくては、『魔術師殺し』の二つ名を持ち、第四次聖杯戦争においては、セイバーと共に殆どの魔術師を冷静に、簡単に始末してみせたという、精神、肉体共に常人とはかけ離れた強さを持つ彼から彼の真意を聞き出すことは出来ないと確信するが故に、私はただ必死に、専守防衛を心がけながら、見えない彼へと問答の意思を投げかける。

 

「爺さん! 頼む! 言ってくれなければ何もわからないんだ! 」

 

繰り返し同じ意味を持つ、しかし違う切り口を持った問いの言葉を、銃口をこちらに向け弾丸を撃ち込んでくる闇に溶け込んだ切嗣へと撃ち返す。撃ち込まれる銃弾を数十発は弾いただろうか。

 

「士郎。君は強くなった」

 

無意味にも思える行為を幾度となく繰り返していると、硝煙を隠し、気配を消し、姿を見せたままではあるが、言葉のどれかがようやく功を奏してくれたのか、切嗣は闇の向こう側から感情の読み取れない声を返してきてくれた。

 

「士郎。君は今、いろんな強さを身につけて、多分、今の世界のほとんど全ての人間よりも強くなった。きっと今の君なら、どんな困難だって打ち破って、救いの手を求めている多くの人の命をこれまで以上に地獄から拾い上げることができるだろう。僕はかつて僕の過ちによって全てを失ってしまった君が、全てを失ったのだという事実を受け入れて、僕なんかよりも比べ物にならないくらいの強さを身につけたことを誇りに思う」

 

返ってくる言葉の内容が、月下に見せてくれたあの時のように、面と向かって、穏やかな顔をした切嗣から聞かされたものであったのなら、どれだけ嬉しかっただろう。そう思うと、それだけで無念さがこみ上げてくる。ギシリと歯の軋む音がした。大した運動をしたわけでもないのに、心臓が血管の内側から破けてしまえと言わんばかりの血液量を送り出している。熱を帯びて行く身体に反比例して、心は極寒の中にいるかのように冷えきっている。だが今重要であるのは私の思いではなく、切嗣の言葉を聞き、その真意を知る事だ。だから私は、極寒の中で身を切り刻まれるような寒さに耐えながら、彼の言葉を待つ。

 

「でも、君のその強さは、君のような強さを持っていない他人に惨めという感情を齎す。野生の本能は、いつだって自らの生存を脅かす自分より強すぎる存在を本能的に拒むんだ。それは猿から進化した人間だって変わらない。君がいくら身と心を砕いて人を救おうとしても、君より弱い人たちが君の持つ隔絶した強さに気付いてしまったら、彼らはそんな君の優しさから生み出された行為を、強者の余裕や、弱者に対する見下し、憐れみと見なして、君を恨み、己を蔑み、憎むようになるだろう。弱い彼らは強すぎる人間を望まない。彼らはいつだって自分より幸せな者の存在を認めない。彼らはいつだって、他の誰かを踏みつけてでも自分だけは助かりたいと思う人々で、だからこそ、強く幸福な人間が言うところの救いを、無意識のうちに認めない」

「――」

 

そして続く言葉は銃弾などよりもよほど強烈な威力で私の心へと撃ち込まれる。自分よりも幸福な立場にある人間に対して、あまり興味を持てない。そんな人の弱さを知った、自分もそんな気持ちを抱いてしまっていた事を理解できた今だからこそ、切嗣の言葉は、より深く私の心へと突き刺さる。

 

「ごらん」

 

周囲から聞こえてくる切嗣の声と共に、周囲の光景は一変する。闇に閉ざされていた空間は一転して、豪奢なステンドグラスに囲まれた、色とりどりの有色透明なガラスによって彩られた空間へと変化した。それはさながらイギリスのセントポール大聖堂、フランスのノートルダム寺院のような光景だった。

 

「――これは」

 

闇に包まれた光景が一転して豪奢なものへと変貌した事に驚きつつも、私はそれ以上に、上下左右天地に至るまで周囲の空間を支配する色彩豊かなガラスに映る像に気を引かれた。なぜなら、ガラスの上に映るのは、様々な服装を、肌の色をした、あるいは、角の生えた、翼の生えた、機械の体を持った、牛頭をした者の姿だったからだ。

 

それは私が生きた時代より未来の、しかし今私が過ごしている時間軸よりも過去を生きた人間の像だった。映像の中で、世界樹の大地に生まれた彼らは、スキルという力を振るい、多くの生物よりも上の位置に君臨していた。色とりどりのガラスの上にはそうした世界樹の大地の上で暮らす人の営みが映し出され、映画のように動き続けている。

 

「生きているだけでエネルギーを消費するこの世界では、だれかの幸福はだれかの不幸と表裏一体だ。誰の幸福は、誰かの不幸に等しい。弱肉強食と等価交換こそ、自然の中にある、絶対たる不変の真理だ」

 

彼が語る間にも時計の針は進んでゆく。

 

「自然溢れるこの世界で誰かが自然に脅かされる事なく当たり前に生を享受出来るというのであれば、その生活の過去と今の裏側には必ず、過去に自然を制した世界を築き上げるために多くその身を差し出して犠牲になってきた人達がいて、そんな世界を保つために、今も、人の住まう場所とそうでない場所の境界で死に喘いでいる人たちがいるということになる」

 

ガラスの中で彼らが紡ぎ出す、通り過ぎてゆく日々の生活の記録の残滓に目を奪われていて、切嗣のそんな言葉は耳を通り抜けてゆくばかりだった。はじめこそ好奇心や克己心に満ち、未知へと胸を踊らせ、冒険のための原動力としていた彼らは、やがて時を重ね、歴史が積み重ねられてゆくごとに、彼等の動きは鈍化していった。

 

「そうだ。自然の中で安全な街を保つには、そこに住まう個人個人が、絶え間ない努力と研鑽をして、常にその場所から落っこちないように上を目指す必要がある。なのに――」

 

時を重ねるごとにスキルを使う技術が研鑽され、日々の生活がより安楽なものへとなってゆく。やがて彼らの生活からは、体や心を大きく傷つけるような痛みも苦しみもほとんどなくなっていった。彼らは後ろを振り返らない。彼らは前に進まない。彼らはただそこにある安寧の日々を享受するばかりで、過去の人が苦心の果てにつくりあげたスキルと技術の上に胡座をかいて安寧の日々を送るような人ばかりになってゆく。

 

「いつしか彼らの多くは堕落し、生まれと育ちからして一定以上の才能や暮らしを保証されていながらも、未知に対して挑むどころか、目標を立てて継続的な努力をすることもしない惰性だけで生きるものばかりになってゆく」

「――」

 

彼らの立場を脅かすものはほとんど存在しなかった。あるいは時たま現れる三竜という存在や、それに準じた魔物が彼らに対して災厄として襲いかかったときも、人間たちはそれらを天災の類として認識し、ただ過ぎ去るのを待つような者ばかりが増えてゆく。古き時代にいたような、それらを討伐してしまおうと息巻くものは、やがてほとんど一人として存在しなくなってゆく。

 

「今、君のいる世界に生きているのは、そんな、自身より強い存在に対して抗うことを諦めた者たちばかりだ。ほとんどの人間は、傷つくことを恐れ、未知なる世界への新たな一歩を踏み出すことを恐れるものばかり……」

 

彼らはそして、ついに特筆して目新しいなにかに取り組もうとしない人間ばかりとなってしまった。平穏を享受する彼らの多くは、日々の平穏に不満を感じながらも、文句を垂れる以外になにもしようとしなかった。彼らは、不満と呪いで世界を満たす以外になにもしようとしていなかったからこそ、私の目にはあまりにも異形の存在のように映っていた。

 

「蠱毒の坩堝より脱する力を持つ強き人は魂を天に浮かぶ月のヴァルハラに持っていかれ、培われた強者の魂も魄も地に返らない。そんな事情の積み重ねが、よりいっそう世の中を悲惨なものへと変貌させてゆく。そしてこのような怠惰に染まりやすい世界の中から珍しくも生まれ出た強者の魂を失い続けてしまった世界は、現世という蠱毒の坩堝の中において、まさに痰壷の中の澱や滓とでも例えるに相応しい、克己心を忘れた下賎な人間ばかりが生まれやすい状態へと移行し、成り下がってしまったんだ」

 

人間同士の戦争はもう起こらない。紛争もとうの昔に終結している。争いの火種になりそうなもの、取り返しのつかない事態なんてものを生み出す成分はほとんど一切失せ、あるいは過去へと置き去りにされ、クラリオンに吸収され、世の中には、はるか昔に人々が懸想し絵に描いたような、あるいは、私がかつて胸に描いたような、自然の法則や渾天の外側にあるような、時の止まったような、平穏を享受する人ばかりが存在する世界へと変わってゆく。

 

世界には平和があった。それなのに、そんな安寧を今に生きる人たちは不満を言う。自分は満たされていない。自分は何も成し遂げていない。自分にとってそんな世界は当たり前だから価値がないと不満を漏らし、自ら安寧の場所を離れて危険な場所に身を置きたがる。その有様はまるで――

 

「今の世の中で生きている人間の多くは、大きな力を持っていながら研鑽をせず、平和とは誰かの犠牲の上に立っている事を理解していない、子供のような弱者ばかりだ。彼らは皆、今自分がどれだけ多くの犠牲や想いの元にその場に立っているのかを忘れ、不釣り合いなほどの力を行使する。スキルの力や世界樹の大地は過去の人の祈りによって、魔のモノという自らよりも絶対的な力を持つ強者などの困難を前にしても、新人類の彼らが未来を切り開き歩んでいけるようにと生み出されたものだった」

 

親の膝元に守られているが故に現実を知らず、不平不満ばかりを述べる子供のようだった。

 

「けれど、スキルというものが生まれた時よりあって当然であり、そしてさらにそれが生まれた経緯を知らぬままただ脈々と受け継いできただけの彼らにとって、スキルは特別な力ではなく、当たり前のものでしかなかった。携帯などの電気機械の代わりに生まれたスキルという力は、危険と渡り合う物理的な力となったけれど、人の心から胆力を奪ったんだ。長い時の中で、彼らは、体はスキルを振るうに適した体として成長し続けながら、心は弱化する一方だった。それらの折り重なった事情が、彼らが不適応な状態でも生存する事を可能とし、克己心を奪い、彼らは体が大きいだけの子供として生き続け――そして、今回のように自らよりも強すぎる存在を目の当たりにした時、まるでお化けを見た子供のようヒステリックに反応して排除や逃走を試みるような、体は強いけれど心の弱いチグハグな生物として完成してしまった」

 

彼らはかつての人間と比べればよほど強い鋼の体を持っているくせに、心はガラスのように脆い。それはまるで、かつて切嗣や周囲の優しい人々によって与えられた安寧を捨て、自らの生きた実感や幸福を求めて戦場を歩き回り、救うべき弱者を求めた私のようだと、私はそう感じた。

 

「世界には、オーディンに選ばれない、ヴァルハラへと昇ることのない、大地に無念の呪いと魂を残して死にゆく亡霊の種火ばかりが残される事となった。士郎。人の心の機敏のうち、不安に対して特に鋭い洞察力を発揮する君のことだ。君はおそらく彼らの中に、不安を抱えながら生涯を邁進した自分を見たんだろう」

「ッ……!」

 

言葉に胸を突かれる思いをした。膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。世界の危機なんていうものばかりに目を向けて、日々の幸福を捨て、引き止めてくれる人の心配の言葉を無視して、己の愚昧さと傲慢さのままに、破滅へと至る道を歩み続けた。果てに私は、自らの力では永劫救われぬ地獄に堕ちてしまった愚かさを責められている気がした。

 

「なるほど、ある意味、君と彼らは同類だ。君も彼らも、どちらも心が育ちきらないうちから自らの心と身に余る強い力を手に入れ、それを振るう事を覚えてしまった。魔術とスキル。手に入れた力の種類に差異はあれど、まだ幼い子供には余分な力であることには違いない」

 

子供の頃、誰だって一度は夢想するだろう、平和の願い。世界を乱す悪を倒す正義の味方になりたいという、子供じみた空想。そんなものを後生大事にして、自分の力を過信して、それ以外の全てを切り捨てて、夢が壊れた幻想に成り下がってしまった後も、ただ歩んできた道を同じように進んでいくことしかできない、自分の意思を失って人形へとなってしまった私を、彼はきっと責めて――

 

「けれど勘違いしちゃいけない」

「――切嗣?」

「君と彼らは大いに違うんだ。戦火の中から生まれた君は、悲惨を目の当たりにしたからこそ他人を慮る強さを持つようになり、そして、迫り来る未知の恐怖に対して立ち向かうという選択の出来る人間に成長してくれた」

 

いなかった。

 

「けど安穏の中に生まれ育ち、己よりも強い存在など迷宮の中にしか存在しないこの世界の彼らは違う。彼らは世界樹という過去の偉人が作り上げた揺籃と、過去の人類の思いやりによってあらゆる災禍から守られていたが故に、多くの人間が未知に立ち向かってゆく事を忘れ去ってしまった」

 

切嗣の声は私の否定ではなく、この世界に生きる彼らに対する糾弾だった。切嗣はきっと怒っている。それが何に対しての怒りであるかはわからないが、正義の味方を目指した彼が、世界平和を望んだ彼が、私の様な戦火の中から生まれ出た者を肯定し、広がっている平穏な世界に生きる人々を拒絶するという切嗣の言葉が、私にはどうにも不吉なものに聞こえてならなかった。

 

「士郎」

 

ふっ、とガラスに映る光景が陽炎のように消え失せ、闇の安寧があたりを包み込む。話す最中も姿を現さなかった切嗣の姿は、やはり今も見えない。明るさに慣れた瞳は、目の前の闇をつい先刻まで私を包んでいたものよりもさらに濃いものとして認識する。切嗣の姿は完全に闇の向こう側に溶け込んでしまっていた。

 

「正義というものは、その正義を理解できる、正義に同調する存在しか救わない」

 

けれど何処かより聞こえてくる声に反応して、ドクン、と胸の奥で鼓動がやけに大きく鳴り響いた。鳴り響く鼓動がやけに大きく体内でこだまする。脳を巡る血液の量が増加し、流入する血液によって拡張された血管は、頭に疼痛を引き起こす。体が軽く震えていることを自覚した。

 

――わかっている

 

そんなこと言われなくともわかっている。生前、我が身の犠牲と引き換えにしてでも他者を救いたいという私の自己犠牲を容認する正義を理解してくれる人間はほとんどいなかった。

 

「そして弱者は、強者のもたらす正義と救いを、自身の正義や救いとして認めない」

 

私が私の正義を語ると、私が真にその正義に殉じるつもりである事を知ると、彼らは大抵、やがて私という存在を嫌悪するようになる。私が手を差し伸べた人は、必ずやがて私の事を拒む存在となる。それが辛くて、私はやがて助ける誰かと語らう事をしなくなってしまった。

 

――そうだ

 

「彼らは強者の提唱する正義に同調しない。強者の語る正義は大抵、強者だからこそ実行できる正義であり、弱者にとって理解不能の脅威でしかない。そして強者がくれる救いというものもまた、彼らにとっては自らの存在意義を脅かすものに他ならない。君の正義は、君と同じ経験をした、君と同じ程度の強さを持つものにしか届かないし、君の与える救いもまた、君と同種の強さを持つ存在にしか受け入れられない」

 

私の正義は、私以外を救わない。正義の味方は味方した正義しか救わない。理解されない正義は正義たりえない。強すぎる理解不能な力は、弱者を救わない。そんな事実は生前、嫌という程、この身で味わった事実だ。

 

「士郎。だから、今の強くなり過ぎた君に、彼らは救えない」

 

冷え切った心がさらに冷たくなる思いをした。全身を素早くめぐる血液が凍り付いたかのように冷たかった。切嗣の一言一言が心の奥底を切開する。頭がクラクラした。現実感がない。それ以上は聞きたくない。そんな一心で、頭を抱え込んだ。

 

「否、それに、そうでなくとも、もはやあの世界に住まう人々は、僕たちの尺度からすれば十分すぎるほど救われている」

 

私では彼らを救えない。切嗣のいうとおり、私は彼らがこれ以上ないくらい、すでに救われている事を心のどこかで理解していた。魚を取る方法を知る人間に魚を与える事が堕落に通じるように、過剰な救済行為は、救済でなく、成長の阻害となる。成長の阻害はすなわち、彼らがこの世界で生きていくための力を奪う行為に他ならず、ならばそれはすなわち、私が望んだ、正義の味方と呼ばれるそれの行う、誰かを救う正しい行為ではなく――

 

「士郎。彼らはもう、救われているんだ。彼らはもう、自らの手で自らの運命を掴み取る力を持っており、自らを自分の力で救う、自らの道を切り開く力を持っている。なら、これ以上の干渉は、彼らにとって成長を阻害する悪以外の何物にもなり得ない。君が今行なっている正義の行為は、もはや言峰綺礼と呼ばれる男が好んで行うような、過干渉と呼ばれる、彼らの自立と成長を阻害する、虐待に等しい、悪の行為だ」

 

「――ッ」

 

悪と呼ばれるものが行う、命を弄ぶ行為に他ならない。息が出来なかった。胸が苦しかった。現実を必死で否定をしたがる己の醜さが嫌いだった。過ちに気付いていながらも見て見ぬ振りをしていた自分が情けなくて涙がこぼれそうだった。

 

「やっぱり君も自覚していたんだね」

 

そうだ。私は気付いていた。だって私はなりたかった。誰をも救う正義の味方になりたかった。弱気を助け、悪を挫き、困っている人を救い、世界に平和をもたらす正義の味方に私はなりたかった。なりたかったんだ。だから。

 

「しかし、それでも君は、自身のためにそこから目を背けた」

 

――私は、私のために、見て見ぬ振りをした

 

勝手と未熟がいっそう我が身を惨めにして、涙が溢れた。私の都合で彼らの運命に干渉し、彼らに多大な影響を与え、彼らから成長の機会を奪おうとした。一方的に救済を与えるのではなく、見守り、必要あらば、諭し、励ます。それが、図らずとも彼らより強い立場に、すなわち大人が如き存在となってしまった私にできる、たった一つの冴えたやり方であるはずだった。

 

――しかし

 

「君はこの平和な世界の人々を自らの手で救いたかった。なぜならこの世界の平和は、君の手によってなされたものでないからだ。この世界の平和という結果は、君を救わない。なぜなら君は、多くの誰かの犠牲の上に生き残ってしまったと罪悪感を抱く君は、誰かが自らの手によって多くの人々に救いの結果をもたらしたその時にしか、自身が救われないと、誰かに認められ、愛される資格がないと思い込んでいるからだ」

 

自分以外の誰かを救う事によってしか自らという存在を救う手段を知らない私は、すでに平和な世界において、それ以上を求めた。誰かに必要とされたかった。今度こそ正義の味方として求められたかった。けれど、この世界の人々はすでに救われていて、必要なのは冒険者という未知を既知とする存在で、正義の味方という存在は必要とされていなかった。私という存在は、すでにこの世界の中に居場所がないと、そう感じた結果、私は――

 

「君は、君自身のために、自分でない誰かを救い、救われたかった。――士郎。その気持ち、僕にはよくわかる。士郎。要するに君の願いは、自殺なんだ。君は、かつて、君と出会う以前の僕と同じように、自分が他人の代わりに傷つき踏み台になる以外に、己が幸せを得る方法はないと信じ、それを己の願いとしている」

 

自傷と自死を望むようになった。それがあの、言峰綺礼に語った歪んだ願いの正体だ。私は正義の味方として生きることではなく、正義の味方として死ぬ事を望んでいた。私は、誰かを救うための犠牲となっての死の果てにしか、自らの救いはないと、自らの歪みに気づいた今でも、心のどこかで信じ込んでしまっている。

 

「士郎」

 

名を呼ぶ声は震えていた。温度を感じさせなかった言葉が、絶対零度に下がっていた私の体を、びくりと震えさせる。切嗣の呼びかけは優しかった。けれど、闇の向こうに消えた切嗣の絞り出すような言葉には、これ以上ないくらいの怒りが含まれていた。だからこそなのだろう、私の心は驚くほど揺さぶられた。

 

「僕はそれが許せない。非常に勝手な思いで申し訳ないけれど……、僕は君に誰かの踏み台となった挙句に死んで欲しくなんかない。子供に悲惨な死の運命を望む親なんていてたまるものか。血の繋がりなんてものはなくとも、僕は君に生きて抜いて幸せになって欲しい」

 

切嗣は怒っていた。私が生から逃走するという選択をしようとした事に、養父である彼はひどく腹を立て、そして同時に、自分の為に生きるという、そんな当たり前のことすらできない私の愚かさを嘆いていた。それが私の心をひどく締め付けた。

 

「そうだ、僕は、僕にとって、僕や僕の願いなんかよりも大切な君に、死んで欲しくなんかない。僕の『万人にとっての正義の味方になる』という願いが、君が生きていくための希望や手助けになるというのなら、君をそのままにしておいても構わなかったけれど――」

 

切嗣は言葉を切った。重苦しく息を吐く音が聞こえ、ただ、ただ、胸が苦しくなった。殴られたほうがマシだと思った。撃たれていたほうがまだ楽だったと思った。自分の生き方が、私にとって大切な、私を救ってくれた人ををひどく悲しませてしまったという事実が、他の誰を傷つけた時よりも、言葉や今までおったどんな攻撃よりも鋭く、酷く、私の心を傷つけてゆく。

 

「僕の願いが、君をそんなにも強く、この世界から逸脱した存在に押し上げ、そして君を苦しめる孤独にする呪いが如きものになっているというなら、僕は君に僕の願いを受け継いで欲しくなんて、ない」

 

私の心をかき乱す悲鳴の如き嘆願が途切れた。絞り出すような声に、脳がじくりと痛んだ。

 

「僕は君に、僕の願いを捨てて、幸せに生き抜いてほしい。僕は君に、『僕が目指した正義の味方』なんて目指して欲しくない。それでも君が正義の味方を目指すというのなら――」

 

沈黙の緞帳が辺りを包み込むよりも先に、銃弾を入れ替える装填音だけが、何処からともなく聞こえてきた。かちゃり、と、銃を構えた音がする。胸の脈動がいっそう大きくなった。闇の向こう側から発せられる圧がこれまで以上に強大なものとなったのを感じて、心臓の脈動がさらに早まった。銃弾の装填と銃を構える音は戦闘を予感させ、悲しみに浸っていたはずの鍛え上げられた私の体は、卑しくも周囲の空気に対しての敏感さを取り戻す。心は死にたがっているのに、体は生きたがっている。そんな矛盾が馬鹿みたいに苦しかった。

 

「僕は君が、『僕の目指した正義の味方』として生きていけるように、君から余分な強さを取り上げる」

 

宣言。そして違和感を覚える。そこでようやく、切嗣が闇の向こう側から発していた圧力が殺気ではなく覚悟のものである事に気付く。それが意味するところを悟って、私はさらに胸が痛くなった。彼は血の繋がりこそないけれどたしかに私の親だった。切嗣は、私のために、私から無理やり罪科を取り上げ、自らの身に被せようとしている。彼は私のために、自らの想いを殺し、やりたくもない事を実行としようとしている。彼にそんな決意をさせてしまったという不肖に、心が砕けてしまいそうだった。

 

「さぁ、選ぶといい。士郎。君が万人にとっての正義の味方という、一人でやろうとすれば誰かの犠牲になって死ぬしかない夢を放棄して、自身が幸福になるための別の手段を模索すると自分と僕とに誓ってくれるなら、僕は今すぐにでもこの攻撃の手を止めよう。あるいは、君がそれでも正義の味方を目指すというなら――、僕は君の体に、この『魔術師殺しの弾丸』を撃ち込み、君の魔術や戦う力を大いに削り取って君がこの世界に住まう大勢の弱者たちに受け入れられる正義の味方となる手助けをしよう」

 

言葉は真剣で一切の疑問を挟む余地もなく、彼の覚悟を告げてくる。宣誓の重さに胸元から喉元までを押し潰された気分になった私は、幼子を鍛えるべく谷底へと突き落とそうとする獅子の如き殺気を前にして、言葉を返すこともできずに、ただ闇の中で立ち竦んでいた。

 

第六話 終了



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第七話 巣立ち

Fate Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜

 

第七話 巣立ち

 

戦争があった。他の何を犠牲にしても叶えたい己の願望を実現するため、万能の願望器『聖杯』を巡って七人の魔術師と七騎の英霊と呼ばれる存在によって行われる戦争。かつて僕は、『世界平和』という、我が身と、僕がもてる全てを投げ出してでも叶えたいと思う正義と信念の願いのためにその戦争に身を投じ、結果、万能の願望器『聖杯』は、参加した魔術師、英霊の誰の願いをも叶える事なく、この世に降臨する直前、英雄に破壊されて、散った。

 

終わらせたのは騎士王による一撃であり、終わらせる命令を出したのは僕だ。なぜなら万能の願望器であり、所有者の願いを寸分違いなく叶えてくれるはずの聖杯は、この世の全ての悪という呪いに染まり、所有者の願いを『可能な限り甚大な被害が生まれる』よう解釈し叶えるという、悪質なおもちゃ箱へと変質していたからだ。

 

願いを叶える代価として、多くの無関係な人の命を求める。そのような悪魔の契約よりもさらに劣悪な不等価すぎる交換を強いる玩具を、この世に残していてはいけないと思った。だから破壊した。たとえ聖杯がそんな悪質なモノであったとしても、それが所有者の願望を叶えるという機能を保有しているかぎり、それを求める人間は少なからず現れるだろう。

 

人間。この不完全すぎる生き物。正義を語り、平和を望み、その実、望むのは己の幸福のみという、このどこまでも醜悪な極まりない生き物が、他者を踏み台にする程度で己のあらゆる願いを叶えてくれるというこの悪質な願望器を求めずにいられない訳がない。

 

だから破壊した。この世の悪意を満載した杯は、正義と見紛うほどに眩い聖剣の一撃のもと、砕けて散る。我が生涯と己が培ってきた全てを賭け金と差し出し、己の妻や子をも犠牲にしてまで望んだ願望器を我が手で破壊する羽目になった時、同時に僕の心と矜持は、完全に砕けて壊れていた。

 

もはやこの世に希望はなく、望むべきものもない。空想を叶える手段は自らの手で破棄してしまった。おそらくこれ以上に優れた手段を手にする機会はもうないだろうことも理解していた。その程度の事を瞬時に理解できるくらいには、この世の地獄を見てきたつもりだった。地獄という地獄は見てきた。この程度の地獄ならば、それこそ飽きる程に世界に満ち溢れている。けれど、それでもなるほど、この程度の地獄であっても、人は完全に希望を失ってしまえば、人の心は容易く折れてしまうのだという事を、この時初めて知った。

 

だから死のうと思った。

 

自らと、自らと同じ位の外道共の手によって生まれてしまった、悪意の汚泥によって生まれた地獄の業火巻き上がる煉獄の中、せめてこの地獄を生み出す原因となった三千世界の呪いが凝縮された汚泥を多く抱えて死にゆけば、目指した世界平和に過少でも近づくのではと、怨念と醜悪さだけが支配する蠱毒の壺の中に、贖罪を求めて自ら脚を踏み入れた。

 

踏み入れた先にあったのは、予想通りの果てのなき地獄だった。溜め込まれてきた人の悪意によって生まれた太古の昔より人の命を奪ってきた焔が、赤く紅く天に地に舞い踊り、僕の愚かと無力を笑うかのように、全てを赤く染め上げる。

 

踏み入れた地獄において、一瞬のうちに死を与えられた人物は、幸福に違いなかった。地獄を彷徨った挙句、呼吸困難により死に絶えたのだろう、喉を抑えて朽ちかけている人がいた。焼けた子の体を抱えながら、共に焼かれる事を選択する父母がいた。頭蓋が砕け、皮膚が爛れ落ち、肺腑が焼け、臓物が腑より溢れ落ちてもなおも生き延びようと足掻く死に体の人がいた。地獄の中、癒しようもない苦痛をかけながら生き続けなければならない苦痛は、地獄という地獄を踏破し続けてきた僕が、一番よく知っている。

 

だからこのような地獄を生み出してしまった僕にとって、少しでも彼らの苦痛を減らしてやるのは、彼らに対する義務だと思った。僕は僕に出来る最後の役目を果たすべく、自らが手にしていた銃を取り、彼らを苦痛から解き放つ。

 

銃弾が心臓を、脳を砕く度、癒せぬ苦痛がこの世から消えて失せ、不幸の総量が少なくなる。彼らを殺したところで誰かが救われるわけではない。それでも僕は、僕と彼らのために、ただ無心に銃弾を撃ち込んで回る。死を撒き散らして彼らの命を簒奪するだけの僕は、目指した正義の味方などではなく間違いなく悪人であったが、そんなことはどうでもよかった。ただ、作業の果て、誰もが死に絶えた地獄において、泥に汚染された自らの体に弾を撃ち込み、世界を少しでも綺麗にするその瞬間を待ち望むことだけが、その時の僕にとっての唯一の望みと成り果てていたのだから。

 

 

「――」

 

その時だ。自らが生み出した地獄の中より、僅かながらも命の気配を感じたのは。それは死に瀕した自分が耳にした錯覚かとも思った。だってこのような魂さえも焦がし尽くしてしまうような熱気に満ちた場所で、特別な力のない一般の人間が生き残れるはずもない。

 

――……………………………………………………て

 

しかし、違った。それは確かに現実のものだった。この燃え盛る炎と、焼け落ちた建物の残骸と、炭化した死体ばかりが転がるその地獄において、響く死の音色の中をかき分けてまだ瑞々しさ残る呼吸の音が聞こえてきたのは、もはや奇跡に違いなかった。

 

――……す、…………………け、……………………………て

 

走った。銃なんか投げ捨てて必死で走った。音は炎の中心より風に乗って聞こえてきたものだった。煉獄は中心に近づくほど轟々と燃え盛る炎の勢いと、死を内包した汚泥の濃度は濃いものとなってゆく。何処かより聞こえてきた声の主人を求めて歩き回るほどに、炎の熱気は皮膚と肺の中を焼き、死の汚泥が体に蓄積されてゆく。一秒ごとに僕の寿命は通常の数十倍もの速度で削り取られてゆく。けれど、関係なかった。聞こえてきた命の尊さに比べれば、僕程度の汚れた命を消費することに何のためらいを持てるというのだろう。

 

瓦礫をどかし、必死で叫んだ。熱と呪いに侵されるのも構わずに、ただただ、目の前に積み上げられた僕の罪の証を掘り返した。痛みなんて感じなかった。あるのは必死さだけだった。僕は多分、その時、これまでの人生において最も幸福だった。最も、目指した正義の味方らしかった。そして。

 

「――あ……」

 

やがて永遠のようにも思える時間の果て、崩れ落ちたコンクリートが偶然作ったのだろう炎と呪いを避けるようにして作り上げられた空間に、僕はその存在を見つけた。

 

「――ああ……」

 

震えが止まらなかった。地獄の中で幾人を殺そうと一切揺らぐ事のなかった心が、感動に打ち震えていた。

 

――人が、生きている……!

 

少年が生きている。この僕と、僕と同類のひとでなしが作り上げてしまった、老若男女の区別なく誰もが死に絶えゆく事を定めづけられた炎と呪いが渦巻く地獄の中で、ただ一人、この小さな少年だけが、五体満足の状態で五体満足の状態で地面に倒れ伏している。全身が喜びに打ち震えた。その喜びをなんという言葉で表せば良いのかわからない。

 

「――ああ……っ!」

 

幸福がそこにあった。地獄という地獄を踏破したはずの僕の幸福が、こんなところにあった。くしゃりと顔が歪んで、涙がこぼれた。こんな地獄の中で気丈にも命を保っていてくれた少年の強さに、ひたすら感謝を送った。ススだらけの頬も、焼け焦げた服も、傷だらけの手足も、その全てが愛おしかった。喜びに突き動かされるがままに少年へと手を伸ばした。僕を見る少年の瞳は救いを求めていた。こんな地獄を作り出した一因が僕にあると知らないだろう彼は、ただ愚直なまでに、目の前に現れた生存者に対して、救いを求める目を向けていた。その瞳は、僕のことをこの地獄から掬い上げてくれる正義の味方であるかのように見つめていた。

 

この子は僕を求めていた。戦場を巡って、人を殺して回って、魔術師殺しと呼ばれるようにまでなって、今こうしてこんな罪を重ねて、彼から全てを奪い尽くして、汚れきっている僕を、ただ純粋に希望に満ちた瞳で見上げていた。この子は僕を必要としている。それが何より嬉しく、僕の心を揺さぶった。

 

だからこの時、僕は決心した。

 

――僕はこの子にとっての正義の味方になる

 

僕はこの時、初めて救われた。僕は、僕が救いをもたらしてきた誰かによってではなく、これまでの全てを僕によって奪われてしまった彼が、しかし救済を求める瞳を僕に向けてくれた事で、僕は初めて救いを得た。

 

彼は救いを求めていて、僕はそれに応じることが出来る唯一の人間だった。僕は初めて、誰かに救いを求められて、それに応じることが出来た。それはまごうことなく、偽善だった。いや、むしろ悪と呼ばれて然るべき行為だった。自ら全てを奪っておいて、自ら救いを与えるなんてフィクサーじみた歪な行為が善なる行為であるはずがない。

 

けれど、歪だろうと構わない。いつか真実を知った時、この子が僕を殺すというのであれば、それもまた当然の帰結だろう。僕を呪うというのであれば、それだって彼の当然の権利だ。だから未来に彼がどのような選択をしてどのような大人になろうと、その全てを受け入れようと僕は思う。僕は君の選択する全てを愛し、全てを肯定し、全ての疑問に対して真剣な解答を用意しよう。それが名前も、記憶も、過去も、君から全てを奪ってしまった僕が、しかし僕の救いになってくれた君にできる、ただ一つの恩返しなのだから。

 

――士郎。僕が好きかい? それとも、士郎。僕が嫌いかい?

 

どちらでも構わないさ。

どちらでも、僕は嬉しく思う。

 

君が僕を真似て、僕に憧れて、僕の影を追っていたとき、やがて君は僕と同じ、答えの出ない正義の矛盾の袋行為に迷い込んだ。そんなとき君は、はじめこそ僕と同じように絶望の底に沈んでいたかもしれないけれど――、僕よりも僕の理想を純粋な形で思い描いていた君は、やがて自分の中にない不純なものを排除してではなく、理解する事で彼らを受け入れようと試みはじめた。

 

僕は自分の人格の中に他人を閉じ込め、理解できないものを排除した個人の思考という結界の中に世界を閉じ込めることで平和を実現しようとした。けれど、君は自分の救うべき基準から外れた、自分にとって理解できない人たちと触れ合い、傷つくことを厭わず意見を交わし、ぶつかり合い、他人の人格を認め、世界を拡張してゆくことで、いつしか平和になってくれるだろう事を信じた。君の想いはそして、僕が決して分かり合えなかった存在の琴線に触れ、奴を君の味方とすることに成功した。

 

――それはかつて僕には決してできなかったことだ

 

士郎。君は今、もう、かつての僕なんか比べることが烏滸がましくなるくらい立派な存在になった。そして君は今、僕が目指した以上の、僕にできなかったことをやろうと足掻いている。君は、僕というひとでなしの存在から離れ、僕が思っていた以上の、僕なんかよりもずっと立派な正義の味方になろうとしている。それは短いひと時とはいえ君の養父であれた僕にとって、君と同じく正義の味方を目指した男として、何よりの喜びだ。

 

だから。

 

――君に僕はもう必要ない

 

だから、どうか幸せにおなり、士郎。君は、自分の足で、自分の幸せを欲して、未来に向かって歩き出した。君はもう、僕がいなくても幸せになれる。君が幸せになってくれることこそが、僕の願いであり、喜びだ。だから僕は君が救われてくれるというのであればなんだってするし、どんな苦労も厭わない。どんな苦痛にだって耐えてみせるし、君を救えるというのであれば、僕と相反する性質の悪魔に魂を差し出す事だって躊躇わない――

 

 

「さぁ、選ぶといい、士郎。君が万人にとっての正義の味方という、一人でやろうとすれば誰かの犠牲になって死ぬしかない夢を放棄して、自身が幸福になるための別の手段を模索すると自分と僕とに誓ってくれるなら、僕は今すぐにでもこの手段を止めよう。あるいは、君がそれでも正義の味方を目指すというなら――、僕は君に、この特別製の銃弾を撃ち込み、君の魔術や戦う力を大いに削り取り、君がこの世界に住まう大勢の弱者たちに受け入れられる程度の正義の味方となる為の手助けをしよう」

 

かつて私を救った正義の味方から投げつけられた、お前が今のお前のままであってはお前の夢は決して叶わない、と、そんな意味の内容を雄弁に語る質問は、何よりも残酷な言葉だと思った。光の一切失せた無明の空間、男のしゃがれた声だけが一度だけ闇の中へと響き渡ると、残響もなく失せてゆく。全幅の信頼を置く養父から突如として喉元へ突きつけられた二つの選択肢が、全身から血の気を引かせていた。脈動する心臓の鼓動の音がこれまでにないくらい高く早い転調へと変わり、煩いくらいにスタッカートを奏でているのは、混乱が極地にある証拠だろう。

 

「わ……、私は……」

 

私と切嗣、互いの全てを覆う闇の緞帳によって、暗闇の向こう側にいる彼が如何様な顔を浮かべているのかは全く見当もつかないが、迷う私に投げつけられる言葉は、私が望み思い描く理想のように甘くもなく熱くもなく、現実を知らしめるかのように厳しく冷たい。

 

「何を迷うことがある。君の抱える、僕がかつて抱いた夢というものが、いかに実現不可能な戯言に等しいものだったのかということは、他でもない君自身が嫌というほど思い知ってきただろう?」

 

夢を諦めるか、夢のために理想を下げることを許容するのか。ともすれば吸い込まれてしまいそうな闇の中、痛いほど高鳴る心臓の鼓動と胸を切り裂くようなそんな冷たい言葉のもたらす痛みだけが、無明の空間にて起きている今の出来事が、夢幻のものでなく現実であるかの証のようだった。切嗣の問いに、私は終ぞ何も答えられなくなり、黙りこくる。

 

私の夢。万人にとっての正義の味方になる事。誰もが幸福である世界を作り上げる事。誰もが幸福である世界。言葉にすれば高々十文字超える程度に過ぎないその言葉がいかに不可能なものであるかは、これまでの経験から嫌という程思い知っている。

 

「き、切嗣……」

「僕が君に荒唐無稽な夢を託してしまったことで、君がその生涯と死後を使い潰し、挙げ句の果てには過去の自分を殺してしまおうと考えるほどに追い詰められたことを、僕は知っている。それは僕の罪だ。――、僕は君に、もう、そんな思いをして欲しくない」

 

有史以来繰り返し行われてきた、終わらない闘争。絡み合った二つの民族の負の感情は、やがて周囲を巻き込み、万年の間に決して解くことのできない憎しみの螺旋を作り上げてゆく。複雑に絡まり合う事情。解決するほどに増殖する、闘争の原因、無限の剣を保有する私の力を持ってしても、その全てを断ち切る事ができなかった、

 

「人間は神様じゃない。どれだけ力をつけようが、所詮人間一人で誰をも救う正義の味方なんてものをやれるはずがない」

 

私一人では正義の味方になると言う夢は叶えられなかった。当然だ。一人で叶えられる範囲なんて決まっている、世界を相手に一人で奮闘するなんて言うのは、夢や空想と呼ぶにもあまりに甚だしい妄言に過ぎない。己の才覚を超えた、身に余る願いなどを目標に掲げて目指したところで、望みを叶える事が出来ずに苦しむのは結局己なのだ。

 

「僕はそれを君に伝えるべきだった。君にそれを伝えてから、僕は君に夢を語り、そして死んでゆくべきだった。けれど僕は、僕が僕の生涯において、どのような失敗と過ちを重ねて、僕の夢が実現不可能であるかを君に伝えることなく、僕の夢の綺麗な理想の部分のみを見せて、君を憧れさせて、君に受け継がせてしまった。理想は理想であるからこそ美しい。手が届かないからこそ、人はそれに憧れを抱くんだ。でも理想が高すぎると、いつまでたっても手が届かなくて、目標に到達できない自分が認められず、いつまでたっても苦しむ。そんなことは君と同じ夢を見て、君より先に失敗した僕が、他の誰より理解していたのに、僕はそれを君に教えてあげることができなかった」

 

ならば実現不可能なもの目標に掲げて苦しむよりも、未来の自分の実力でも到達可能だと思われるレベルの理想を目的とするか、あるいは理想を叶えるため周囲の環境に合わせて己を変えろと語る切嗣の説教は、間違いなく正しい。切嗣は私を引き取り育てた養父として親の役目を果たそうとしているのだ。

 

「君がそんな風にいつまでたっても自分の功績を功績として認められず、高望みをしては自己否定ばかりを繰り返すという苦しい思いをしているのは、僕の罪だ。夢とは現世に実現可能な、余人にとって理解のできる範囲に収まる、余人の能力のうちに収まる強さによって成し得るものでなくてはならない。どれだけ綺麗な理想であっても、大多数に理解されなければ、狂人の見る夢と変わらない。世の中の大多数の常人は、そんな、己にとって理解不能な狂った思想なんて受け入れない」

 

そうだ。抱くのであれば自らの身の丈にあった夢にしておけと彼の言うことは、まったくもって正しい。俺一人では世界中の誰をも幸福にするなんて夢を叶えることが無理であることも、万人を幸福にしようと研鑽し、多くの余人より強くなるほどに他人から疎まれてしまう事も、過去の俺が実証済みだ。

 

「身の丈に合わない夢を抱き続けたところで、君は幸せになれない。そもそも君は、幸せになりたかったから、僕が君を拾い上げた時、僕が自らの作り出した地獄の中でただ一人生き残った君によって救われた時、あの時の僕のように笑いたかったから、万人にとっての正義の味方になると言う夢を僕から受け継ごうと思ったんだろう? 自身の幸せに笑って過ごす事こそが君の目的。なら、他人の夢のために自分の身と心を磨り潰すなんて的外れも甚だしいじゃないか」

「……」

 

そうだ。俺にとって万人にとっての正義の味方になるとは、俺が最大の幸福を得るための手段に過ぎないもの。ならばほとんど間違いなく幸福になれないとわかっている苦難の道を選ぶよりも、元の夢には及ばないだろうが小さな幸福を確かに得られるだろう道を選べという意見は、非常に現実的で、とても人間的だ。

 

「士郎……、これは僕の、わずかな間ながらも君を養い育てた親としてのお願いだ。そして卑怯な物言いになるけれど、もし君が僕と言峰綺礼とで作り上げたあの地獄で君を拾い上げた事に対して少しでもありがたいと思ってくれているのなら、大人しく僕のいうことを聞いて欲しい。どうかこれ以上自分を痛めつけるような生き方をするのはやめてくれ――」

「わ、私は……」

 

懇願の言葉は耳朶より体のうちに染み入り、迷う心の天秤を揺るがした。かつて、月下の元、切嗣の夢を受け継いだ時のように、切嗣の想いを汲み取り、正しく現実に即した形へと修正が加えられた切嗣の理想を自らの理想としてしまえと、理性は痛いくらいに訴えている。

 

「士郎……」

「――――――、おれは……」

 

切嗣は正しい。遠く理想郷を目指すのではなく、妥協点を探し、可能な限り幸福を享受できる分水嶺を目指せという切嗣の言は間違いなく正しい。切嗣の述べた妥協案はまさしく正鵠を射ていて、文句の付け所がないくらい正しい意見で、耳が痛くなるくらい現実と理想の折り合いがついた意見で、誰に提示しても間抜けな目を向けられないまっとうな意見であることには間違いがなかった。

 

「おれは……、おれはっ……!」

 

切嗣は間違っていない。正義の味方は味方した正義しか救わない。ならば味方する正義を選ぶか、状況に応じて正義の形を変えるかこそが、多くの人を救う道であることに間違いはないのだろう。

 

「俺はっ……!」

 

切嗣の意見は間違っていない。切嗣の、現実と理想を擦り合わせて、実現可能な幸福最大点を探せという意見は間違っていない。切嗣が俺のことを思ってそんなことを言ってくれているのは間違いない。切嗣は味方する正義を選んだ。切嗣は俺のために味方する正義を選別した。切嗣は大切なものを守るために、自らの理想を捨て去った。ならば、俺も切嗣と同じように、自らの大切なもの、自らの幸福のために自らの理想を捨て去ることに、なんの間違いがあるというのだろうか。

 

そうだ、この願いは間違っていない。間違っていない。けっして間違ってなどいない。けっして間違ってなどいないのだけれど。

 

――間違っていないのだけれど……!

 

「――嫌だ……っ!」

 

――俺の心は、そんな夢も救いもない正しいだけの結論を受け入れたくないと叫んでいた

 

葛藤に心の天秤が大きく揺らぐ。身体が熱暴走したかのように熱い。途端、視界が反転した。

 

 

気がつくと自身と周囲の全てを覆い隠していた闇はすっかり失せ、私はいつか見た夢の部屋の中にいることに気がついた。黒から白。闇より光の中へと急遽引きずり出された影響だろう、チカチカと眩む目の瞼を下ろして、その上から片手の指先で塞ぎ、軽く揉み解す。

 

すると視界を遮断したからだろう、鼻腔を強く刺激する匂いがあることに気がついた。かつては罪の証に塗れて血生臭かった、少し前までは無垢の証明であるかのように伽藍堂だったその部屋は、何かしらの変化の兆しであるかのように、僅かながら命の息吹というものを感じさせる匂いがするようになっていた。部屋の中には、長きに渡る厳冬の季節を超え、今まさに春を迎えようとしているという、そんな雰囲気が湧き出しつつあった。

 

――よう

 

やがて僅かばかりに春の香りがする白い部屋の中、片隅近くでしゃがみながら愛おしそうに地面を撫でていた赤毛の小さな見覚えのある顔立ちの赤毛の子供は、来訪者の気配に気付いたらしく、こちらを向いて生意気な面を浮かべた。

 

――ああ

――男の子だねー

 

言いながら彼は立ち上がる。地面から影が消え、しゃがんだ彼が撫でていたものの正体が見えた。それは罅だった。今や過去の虐殺の残影は失せ、魔のモノによって破損した箇所もが元通りとなっていた部屋の中、いかなる要因によって生まれたのかわからぬその変化の証を、彼は愛おしそうに撫でていたのだ。

 

不思議なもので、真っ白い地面にわずかばかり生じているその黒い罅は、強大な外力によって生じた傷跡でも、経年劣化によって生じた風化の趣ある傷跡でもなく、例えて言うならば、まるで地面の一部か自然と揮発して空気の中に溶け込んで行ったかのような傷跡だった。その傷跡を見た瞬間、私は直感した。今、この部屋は、失せゆこうとしているのだ、と――

 

――親の言う正論に反発して、絵空事のようなな理想を目指す宣言をするだなんてさ。今頃になって遅かりし反抗期がやってきたのかな?

 

唇の両端を上に歪めながら揶揄う言葉には、いつかのような鼻白んだ様子はなく、大いに喜色が含まれていた。本当は心底嬉しいのに、その感情を素直に表すことができず、皮肉交じりの相手を傷つけかねない言葉となって口から出てしまうあたりなんとも自分らしい態度であると我ながら思う。

 

――かもな

 

故に私は何も言わずにその言葉を肯定する。自分の裡から出た言葉を否定をしたくない。そんな思いから出た咄嗟の返答だったが、彼はまさか理性を主とした判断ばかりを下す、自己否定を一切躊躇わない捩くれた性格の理性の人格面たる私が、自身の意見に対して素直な肯定を返すとは思わっていなかったらしく、一瞬怪訝そうな顔を浮かべてみせたが、その後すぐさま彼は唇の端の両側を柔らかく吊り上げると眉尻を柔らかく緩ませ子供らしくない慈愛の面を浮かべた。

 

――……いいんだな?

 

だがその表情はすぐさま真剣なものへと変化する。その顔は無邪気な子供のそれではなく、覚悟を決めた大人のそれだった。

 

――ああ

――……今からお前が踏み出そうとしている道にが正しいなんて保証は何処にもない。それを正しいと定められるのは、お前がこれまでの人生において培ってきた、お前の理性と知識と感情のみ。今後、お前の貫くお前自身の正義に対して、多くの人間が文句と非難を投げかけてくるようになるだろう。だが、その道を行くとすれば、お前は、お前の行為と発言が生み出す全ての結果に自ら責任を取らなければならなくなる。

 

誰かが定めた理想のレールに乗るのではなく、真に我が道をゆく。もう、他人の夢を追いかけていただけであるが故に道を見失った自分の愚かさの言い訳として、過去の自分や、自分に夢を見せてくれた他人に、その責任を押し付ける無様さは許されない。選んだ道の果てに待ち受けるものがたとえ己の身を滅ぼす定めであろうと、目的に到達出来なかった絶望であろうと、それらの結果を全て受け入れてゆかねばならない。

 

――……ああ

 

 

ぴしり、と乾いた音が、部屋の中に響いた。

 

――切嗣の理想から外れたその先にあるのは、たった一人の、切嗣という味方すら得られないかもしれない茨の道だ。お前は今、お前の原点となった切嗣という男と決別し、たった一人の味方だった存在とも決別しようとしている。

 

今度こそ、本当に。私は完全に、親の理想を、切嗣の抱いた手の届かない場所にある理想と正義を自らの意志で、自らのものとする。決心とともにさらに大きく乾いた音が鳴る。見れば、部屋の隅にあった亀裂がさらに大きなものとなっていた。

 

――……それでも、お前は本当に行くというんだな。

 

言葉が空に溶けてゆく。それを選べば、もう言い訳なんて通用しない。人から差し出された情けを蹴り飛ばして、親の懇願を否定して、それでも行くというのだから、もはや誰にも、自分にだって言い訳することができやしない。進んだ道の先に、また否定される日々があるかもしれない。他愛ない幸福の日々なんて望めないかもしれない。私の正義は、正義として受け入れてもらえないかもしれない。笑って過ごす事が出来なくなるかもしれない。自らが作り上げた、世界から隔絶した場所にある固有結界の中へと閉じこもりたくなるほど辛い思いをする日が来るかもしれない。

 

波乱万丈に満ちるだろう日々には、この上なく不幸せな出来事ばかりが待ち受けているかもしれない。長きにわたり失敗し続けた経験はそんな不安に満ちた虚妄の未来ばかりを脳裏へと鮮明に投影して、湧き上がる恐怖の感情が胸を締め付ける。異常を察知した脳は神経を通じて全身に指令を送り、ついで心臓へと指示を出した。血流が早まる。指先がさっと冷たくなった。胸が苦しい。湧き上がってくる負の感情を少しでも外へ逃がそうとして、肺を震わせ、食道を蠕動させ、口から息と弱音が漏れそうになる。それを。

 

――……行くともさ

 

カチカチと音を立てそうになる上下の歯を思い切り噛み合わせ、震えて崩れ落ちそうになる体を無理やりそのままの姿勢に保たせると、力の全てを両の手へと回して硬くしめて拳をつくり、虚勢をはりながら、自らを鼓舞するように別の言葉へと変換し、静かに宣言する。

 

――大丈夫

 

大丈夫だなんて、そんなことはない。

 

――俺は平気さ

 

平気だなんて嘘っぱちだ。

 

――そうとも、私はやっていける

 

やっていけるなんて自信は欠片ほども無い。これまで失敗してきたばかりの自分をどうやって信じればいいというのかわからない。私は未だに私自身を信じきれていない。そうとも、やっていける自信なんてない。否、未だに道の果てに失敗する未来が待ち受けている可能性の方が高いとすら思っている。愚かな私はやはりいつまでも呪縛に囚われたままなのかもしれない。でも。それでも。

 

――この道を歩こうとする人間は、もう、私一人ではない

 

白い部屋の中、その壁面のあちこちに亀裂が走った。

 

――私にとって未来であるこの世界に、仲間が出来た。別の世界に、私と同じように無辜の人々を救っているご同類がいた。未知でもある場所にも自分の性格と自分の力を知りながら自分を頼る存在がいて、帝都を守る大義を胸に市政の人々を守る射影の存在と、そんな彼を支える組織と仲間の存在があった。世界は広く、私の知る絶望など、ごく一部の世界の例外に過ぎなかったのかもしれないと知った

 

亀裂は徐々にその手先を伸ばし、複雑に絡み合い、亀裂同士が接触した部位から細かい破片が剥離して部屋の外へと落下してゆく。

 

――自分以外にも、きっと世界のどこかには、同じように世界の平和を夢見て己の正義とする大馬鹿者がいるはずだ。

 

ガラガラと音がなる。天井はもう半壊していた。空はもうすぐそこにあった。

 

――そうだ。私は一人では無い。地獄の中から私を救ってくれた男がいた。かつて永遠に続く煉獄の中から救ってくれた女がいた。特異な力や思想を披露しても信頼してくれる人間と出会えて、私以上に特異な力を持つ人間や生き方をする人間とも出会うことが出来た。そう、私は一人では無かったのだ。そう、私は一人では無い。かつての世の中ではほとんどお目にかかれなかったが、視界を広げて世の中を見てみれば、私の力を見て、私の考え方を知って、それでも私に協力してくれる普通の人間が幾人もいた。ならば、この広い世界のどこかは、私の正義を理解し、私を私のままで受け入れてくれる人間がもっといてもいいはずだ。

 

天井が崩壊した。天井を支える壁も、もはやほとんど崩落している。

 

――だって、世界はこんなにも広く、どこまでも続いているのだから

 

途端、罅だらけとなっていた部屋が完全に瓦解した。降り注ぐ巨大な瓦礫も細かい破片も隙間より吹きこんでくる風の中に淡雪のよう失せて消え、静寂と清浄さだけで満たされていた部屋の中は、濃い緑の匂いが支配する広々とした大地へと変貌する。胸が軽くなり、口元は軽くなり、言葉は明朗に生じるようになってゆく。

 

――ならば大丈夫だ。道は険しく、まっすぐな道ばかりでないだろう。歩んだ道を振り返れば、迷宮のごとく入り組んでいるかもしれない。それでも、子はいつか親の袂から旅立ち、己の道を進まなければならない。それでも、すでにその道を歩んでいる先人がいる。己よりも短い年月しか生きていないはずの彼らは、それでも見事に己を受け入れて、手を取り合いながら、進んでいる

 

白く傷一つなかった部屋にもはやその面影はなかった。部屋が瓦解し尽くしたのち、その先に広がっていたのは、夕焼けの荒野に剣が墓標の様に立ち並び、地平線の彼方の空では巨大な歯車が不規則な音を立てながら不気味に稼働するという、私の固有結界内の風景だった。

 

――だから、行ける。自分は一人でない。たとえ自分が果たせなかったとしても、代わりに自分の思いと願いをいつか果たしてくれるだろう誰かが、世界にはこんなにも溢れている。

 

個の有する心象を表す結界。その確固たる不変さを以ってして広い世界を己が法則に従う都合の良いへ矮小な世界へと書き換える固有結界の光景も、今や変わりつつあった。乾ききった心を表す荒野の大地は、徐々に水気を帯びてゆき、遠く地平の彼方にある永遠の象徴たる歪に回る歯車に罅が生じた。逢魔時にて止まっていた時の針は動き出し、永遠の停滞を思わせる空の黄昏色は、明るい色味へと変貌しだしている。

 

――だから私はどこまでも自分らしく、自分の思いを貫いていこう。いつか己で選んだ道の果て、目指した道の果てに己の願いが叶う事を信じ、そんな己で選んだ道を歩める事を幸福であったと胸を張って誇るために

 

宣言とともに、わずかばかりに残っていた崩れ落ちた部屋の破片が地面へと吸い込まれた。途端、赤橙の空は朝ぼらけの光に満たされ、乾いた大地にはまだ年若い萌黄色の草が生じ、地平線の向こうにある宙に浮かぶ巨大な歯車は、音を立ててガラガラと瓦解してゆく。真日長く続いた冬の夕影の風景は、宵、夜中、残夜を超えて、ついに黎明を迎えたのだ。

 

――……そうか

 

朱鷺色に輝く光の中、変貌した固有結界の中では大人と子供の二人が見合っていた。幼い見た目に似合わない緊張感に満ちたわずかばかりに曇っている真剣な表情を浮かべていた彼は、私の返答に満足したらしく一気に顔の筋肉を弛緩させると顔を綻ばせた。顔が晴れやかなものとなり、唇が柔らく上向きの三日月に歪み、やがて波打つ。続けて頬が赤くなり、鼻の下が伸びた。どうやら今しがた私が述べた言葉はよほど感情の人格であるこいつの琴線に触れたらしい。

 

――……そうかい

 

必死で歯を噛み締める様は、必死で照れを表に出さぬようにと押し殺す子供の強がりにしか見えなかった。自らの分身が見せる稚気の態度に、なるほど、周囲から見ると感情を押し殺そうと努力する私というものはこのように見えるのかと微かな羞恥を覚えた。

 

――そりゃありがたい。……全く、ヒヤヒヤしたぜ。いつまでたっても親に依存し続けて、独り立ちできないんじゃないかってな

――手厳しい

――ばぁーか、客観的な感想だ

 

照れくさくなったのか、顔から締まりというものを失ってしまった彼は、ふいとそっぽを向いてもはやほとんどない部屋の壁へと目を向けると、背中越しに言葉を投げかけてくる。自分の感情が見せるそんな子供っぽい態度をなんともらしいと思って苦笑しながら受け入れると、そんな私の考えを読んだのか、彼は耳まで真っ赤にしながら憎まれ口を叩く。

 

――そうか。お前がいうなら、きっとそうなんだろうな

――ま、お前は俺なんだから、客観的といっても、主観と変わらんか

――そうだな。……止めないのか?

――止めて止まる性質かね、俺は

 

意地悪く問うと、諦観入り混じった表情を返してきた。

 

――……流石は私自身。私のことをよく理解している

――は、俺はお前さんみたいに余計なもんがこびりついていないからな。

――耳に痛い。諫言として確かに受け取っておこう

――ふん、最後まで気障っぽい口調で喋りやがって

――苦労とともに身についてしまった口調だ。そうそう簡単には修正できんよ

 

互いが互いを認め合っている事を理解していると、皮肉の応酬がこんなにも楽しい。白光の中、その眩さの中にもはや互いの存在を確認し合うことも叶わぬようになった私たちは、それでも、互いに笑みを浮かべていることを理解していた。

 

――それでもいい。けど、もっと素直な気持ちを言葉で喋るようにしろって事だ。お前のその喋り方は、不快を買ったり、他人を煙に巻く為と思われやすいんだから

 

舌戦の最中、不利を悟った相手が吐く負け惜しみじみた正論すらも小気味が良い。

 

――しょ……、ああ、わかったよ、俺

――応、わかったか俺

――ああ

 

忠告を素直に受け取ると、互いの顔がいっそう深く苦笑じみた顔に変化する。私たちはついに瑜伽の境地に達していた。部屋の変化は完全に終わっていた。一瞬の静寂がその場を支配する。言いたいことは言い合った。親交は交わし合った。理性と感情。そのどちらもが、己の出した、互いを思いやった結論に納得した。だからもうこれ以上は必要はない。

 

――……じゃあ、さよならだな

 

いうと奴は、振り向くとともに、僅かに繋がっている地面の上を歩んでこちらへと近寄ってきた。その顔には真に心からの満足を得たものだけがすることのできる柔らかい笑みが浮かんでいた。その微笑みを見て私の頬も緩む。おそらく、いや、間違いなく、私も、彼と同じような笑みを浮かべているのだろうと確信した。

 

――お前が今のお前のままなら、俺たち存在と二度と会う事はないだろう。いや、会わないですむことを祈っているぜ

 

奴の言わんとしていることは、当然、同一存在である私にも理解できた。そうだ。その通りだ。もう、私たちは合わないほうがいい。人間、理性と感情は切り離されている状態というものは、主観と客観は別れている状態というものは、正しい状態ではないのだから。

 

――……ああ、そうだな。これでさよならだ

 

彼が泫然とした表情を浮かべた。部屋と呼べなくなった場所に、荒涼たる風が吹いた。同一存在たる我らが完全に合一すれば、主たる意識は長年主導権を握ってきた私のものとなり、彼は私の中に吸収される事となる。だからこその別離の言葉なのだろう。

 

――いや……

 

だがこれは、東に行き、西に行き、雲眇眇という、唄うような別れではない。元々同一だった存在が一つに戻るだけなのだ。ならばそれはふさわしいのは落涙惜別のそれではなく――

 

――おかえり

――……ああ、………………ただいま

 

詠嘆の様相で両手を広げながら近寄ってくる小さな彼を全身で迎え入れる。失われていたそれが満ちる感覚はなんとも小気味がよく、充実だけが体の中に満ちてゆく。同時に変化を遂げたはずの固有結界の光景すらも吹き荒れる風の中に消え、私の心の中にあった私を守る為に作り上げられた強固堅牢な小部屋と世界を隔つ結界は完全に崩壊した。

 

 

「士郎」

「――っ!」

 

切嗣の言葉に意識を引き戻される。眩い光に満ちていた心象風景とは異なり、現実は暗い闇に満ちていた。闇の向こうにいる切嗣から投げかけられる己の願いよりも己の幸福を優先しろという切嗣の言葉には、私が行った否定に対する悲痛なくらいの哀切がこもっている。

 

――……っ

 

意識した途端、ぎしり、と心が痛んだ。合一により完全に取り戻した感情は、ぐちゃぐちゃな信号を全身に送ってくる。この未知なる感情に近しい名を挙げるとすれば、同情と恐怖が混ざったもの、と例えるのが妥当なところだろう。

 

「……あ、……い……や……、――っ」

 

口から彼の意見に同意せんとする言葉が漏れかける。慌てて噛み締めて、続きの言葉がでやるのを止めた。彼のいうことは正しい。だって自分は今まで、人の身に余る理想を持ち、そんな理想を叶える為に他人から逸脱した力を手に入れてしまったが故に、踠き、苦しみ、絶望の中を邁進し、自らの存在を抹消せしめんと思い悩む程に、道に迷う事となったのだ。ならば、切嗣のいう他人の常識や、他人の定めた理想から逸脱しない程度の正義の味方の人形に徹するのも決して悪くない選択だと、弱気が悪魔の如き誘惑を耳元に囁いた。

 

――それでも

 

「士郎」

「――っ! ――――――、ごめん、爺さん……。やっぱりその提案は受け入れられない」

 

それでも、退くわけにはいかないと思った。私はもう、自分の想いに従って己の道を進み、私だけの理想に向かって進む道を私の幸福にしてみせると、私なりの結論を出したのだから。故に私は、迷いながらも、そんな切嗣の強いてくる未来と理想を、バッサリと否定する。湧き上がるそんな弱い思いを必死に押しとどめて、なんとか再び否定の言葉を絞り出すと、闇の向こうにいる切嗣の顔が悲しみに歪んだような気がして、さらに胸が苦しくなった。

 

「でも、ダメなんだ。爺さんの示してくれた二つの道は、きっと間違いなく現実との折り合いがついた、実現可能な、あるいは現実的な、世間一般に広く受け入れられる道だ。でも、それは嫌なんだ。これは理屈だけじゃなくて、俺が、俺の感情をも含めた、俺自身の意志で答えを出して、進む道を見つけないといけないっていう、そういう問題なんだ。そうして自分で自分の理想と進むべき道を定めないと、俺はきっと、また、同じ様に他人の理想を理解できなかったと言い訳をして、過ちを繰り返して、同じように自分が何を正義として守りたかったのか、どんな幸福を手に入れたかったのかを見失ってしまうだろう」

「――」

「だから、なんと言われても、何度間違えても、俺はやっぱり、自分が初めに憧れ、そして思い描いた正義の味方を――衛宮切嗣が最初に語った誰をも救える正義の味方を目指したい。馬鹿だと思われても構わない。見限られても仕方ないと思う」

 

罪悪感に押し潰されそうになりながらなんとか言葉を絞り出すも、切嗣は何も言わない。何も答えを返してくれない。再び空想を理想にしようとしていると呆れているのかもしれない。現実をまともに直視できない子供の戯言と怒ったのかもしれない。それでも。

 

「それでも俺は、自分で選んだ道を不器用な自分らしく生きてみたい。――――――だから、ごめん。爺さんの頼みだけど、爺さんの気持ちはとても嬉しいのだけれど、俺は爺さんの示してくれた道をどちらとも選ぶ事は出来ない」

 

これこそが私の正義なのだと誇り、私は切嗣の提案を拒絶する。鼓動はいつの間にか平生のものへと戻っていた。

 

 

「そうかい」

 

固唾を飲んで切嗣からの返事を待っていると拒絶の返事を受け取ったにしてはあっさりとした承諾の言葉が溌剌と返ってきて、私はこれでもかと言うくらい思いっきり脱力した。両手に固く握り締めていた双剣は足元に広がっているのだろうさまざまな幻想を映したガラスを打ち砕いて、広がる闇の中へと消え去てゆく。移り変わる色とりどりのガラスの欠片がパラパラと粉雪の様に闇の中に舞う音がした。平生を保っていたはずの心の臓は急激にその動きを早め、呼吸は短い間隔のものとなる。

 

「……、反対は、しないのか、爺さん」

 

バクバクと音を立てて高鳴る心臓の音を聞きながら、そんなことを口にする。

 

「――さて、士郎。上を見てごらん」

 

先ほど決意を口にした時と比べれば、おっかなびっくりのその問いかけを、切嗣は間違いなく意図的に無視する事で肯定の意思を示して見せると、やはり闇の中から姿を現さないまま、指示を飛ばしてくる。

 

「これは……!」

 

闇の向こう側から聞こえる声の刺々しさが失せていた。素直にその指示に従うと、向けた視線の先、頭上に映り込む景色を見て、私は驚いた。

 

「戦争……、か?」

 

見上げた先に広がっていたのは、見紛う事なく『戦争』の光景だった。

 

「そうだ、これは戦争。世界樹の守護者たるギルガメッシュが率いる者達と、世界樹の大地を捨てて楽園を目指す者達の間によって繰り広げられている戦争だ」

 

血に塗られたかの様に真っ赤な大地の上では、五人一組に隊伍を組んだ冒険者たちが、真正面からぶつかり合っている。幾千もの軍靴が不安定な大地を揺らし、雄叫びが上がるごとに、武器やスキルの攻撃と防御がぶつかり合い、互いが防ぎきれなかった一撃により、双方の陣の中で血飛沫が舞い、悲鳴と怒号が湧き上がる。

 

「戦いを繰り広げているのは、強者と弱者であり、今までの世界を救おうとする人間と今までの世界を壊して新しい世界を作ろうとしている人間だ。けれどその実、戦争の参加者は、誰もがこんな無意味な戦いを終わらせてくれる正義の味方を求めている」

 

「――」

 

「士郎。君が本当に自分でどこに繋がっているかもわからない道を選ぶと言うのならば、僕はもう止めようとは思わない。だが君がそんな道を選ぶと言うのなら、せめてその道を歩いた先に、誰もが幸せになる世界があるかもしれないと言う事を、君の求める幸せがあるのだという事を僕に示してくれ。そうでなくては、僕は――、それこそ、死んでも死に切れない」

 

「――っ」

 

息もつかせない間にやってきた試練は、言い訳する暇なんていう生易しいものを与えてくれなかった。切嗣の懇願に息が止まりそうになる。

 

「士郎」

「ああ……! 勿論……、勿論だ……! 」

 

だが逃げるわけにはいかない。もう自分は宣言してしまった。自分は切嗣の袂から離れ、彼と決別し、いつか、かつて叶わなかった切嗣と自分の空想のごとき夢を叶えてみせると、そう言い張ってしまった。切嗣と、そして他ならぬ自分自身に誓ってしまった。

 

「勿論だとも! やってやるさ!」

 

だから逃げない。もう逃げる事はしない。どうやってそれを成し遂げればいいのかはわからない。だが、目の前に戦争があり、そこに参加する人間が完膚なきまでの正義の味方を求めているというのであれば、逃げるわけにはいかない。

 

「なら行くといい」

 

切嗣の言葉とともに、闇の中へと上への階段が現れる。周囲の全てを包み込む暗黒の中に現れた戦場へと繋がるそれはまるで、地獄へと降ろされた蜘蛛の糸のようだった。言葉に背を押されるようにして一歩を踏み出す。踏み出してしまえばあとは生まれた勢いに乗るだけ――、だったのだが。ふと、思い至ることがあって、振り向く。

 

「切嗣は――――――――――――、え?」

 

切嗣はどうするのか。そんな当たり前の疑問を尋ねようとして振り向いて視線を送ったそのさき、闇の中にただ布切れ一枚が浮かんでいる光景しか見つけられなくて、振り向いたままの姿勢で停止した。

 

「え――――――、は?」

 

理解ができなかった。先ほどまで見ていた切嗣に弾丸を撃ち込まれるという悪夢の方が、まだ理解できる分優しいと思った。視線を送った先には誰もいない。視線の先あるのは布切れ一枚ばかりで、他にはただひたすらどこまでも闇が広がっているだけだった。

 

「あ――」

 

視線はやがて自然と闇の中に浮かぶ布切れへと向けられていた。視線がそれに対して注力した途端、浮かぶそれが何であるかに気がついた。

 

「あ……、あぁ…………!」

 

それは布切れではなく、服だった。それは茶色く、古びてヨレヨレになったトレンチコートではなく、周囲の闇の色に似た、まだ真新しさを残したカソック服だった。

 

「まさか……」

 

それは、正義の味方を目指した男の持ち物ではなく、悪の容認者を名乗る男の持ち物だった。

 

「言峰…………、綺礼…………」

 

呆然とその名を呼ぶ。返事は返ってこなかった。

 

「解析開/トレース・オ、……っ!」

 

反射的に周囲の環境の解析を試みようとして、しかし、解析魔術が完全に発動しかけた寸前、指先に激しい痛みが走り、その事に気がつく。

 

「これら全てが蠱毒の術式によって生み出された呪いか……!」

 

自身を取り巻いている暗黒は全て呪いだった。自分は先ほどまで、世界全てを崩壊させる呪いの真っ只中にいたのだ。

 

『やれやれ、世話のやける』

 

「――っ!」

 

そして思い出す。自分がこのような状況下に陥る前、その直前に誰の声を聞いたのかを。そして自分は理解する。なぜ呪いというものに対してほとんど耐性を持たない自分が、このような世界を喰らい尽くさんばかりの呪いに飲み込まれて、それでもなおこうして正気を保てているのかを。

 

「言峰綺礼……っ!」

 

その真実は重かった。目の前で起こった現象の全てを理解した今、真実に胸を押しぶされてしまいそうだった。頭を抱えた。わけもわからず涙がこぼれた。

 

「何故だ……っ! なぜ貴様が……っ!」

 

奴の行動がまるで理解できなかった。ただ、事実として言峰綺礼は衛宮士郎を救って死んでいったという事だけは確かであるようだった。

 

「なぜっ……!」

 

問い返しても答えは返ってこない。ただ泣き噦ってその場から離れようとしない子供を叱るようにして、階段の一段目に罅が入った。

 

「っ……!」

 

見た瞬間、振り向きなおして走り出した。涙の跡が顔の後方へ伸びて、雫は背後へと消えてゆく。奴がなぜ私を命を捨ててまで、奴が心底憎む相手を騙ってまで私を助けようとしたのかはわからなかったが、このままではそんな奴の献身が無意味に終わってしまう。そんな事になってしまえば、奴の行為が無駄になってしまう。自分を救い出した誰かの行為が無駄になってしまう。それが何より怖かった。

 

「あ、あぁ……」

 

そして何より悔しかった。だからその場から逃げ出した。言峰綺礼が衛宮切嗣を騙ったからではない。衛宮士郎がそれを見抜けなかったからではない。あの闇の中で衛宮士郎が出会った衛宮切嗣は、確かに衛宮切嗣そのものだった。それは言峰綺礼が、衛宮士郎以上に衛宮切嗣を理解しているという証だった。言峰綺礼は衛宮士郎よりも衛宮切嗣を理解していた。それが悔しくて、悔しくて、悔しくて。

 

悔しくて、情けなくて、何より悲しくて。

 

「あ、あぁ、あぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁ!」

 

だから逃げた。必死で走った。ごちゃごちゃと湧き上がる想いを振り払えるよう、叫びながら全力で走った。階段が崩壊する音が背後より聞こえてくる。崩壊した場所より呪いが押し迫ってくる気配がした。後戻りしようなんて事を許さないと言わんばかりの厳しさだけは、あの男らしいかもしれないなどと思いながら、ただ全力で戦場へと続く階段を駆け抜ける。

 

「あぁ、あ、あ、あ、あぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!」

 

走る。出会ったそれが本物か偽物かだなんてもはやどうでもよかった。ただ私がいましがたそこにいた存在に救われたことだけは事実であり、そんな誰かのために報いるためにも、私は私のなりたい正義の味方になるために、走らなければならないのだと、そう感じていた。

 

走る。未知なる未来に向けて、先の見えない戦場に向けて、湧き上がる感情を発散させながらただひたすらに走る。その果てに何があるのかはわからない。ただ、もう自分に後悔なんて事をしている暇がなくなった事だけは、不確かな世界の中で確かな事実だった。

 

 

『あ、あぁ、あぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁ!』

 

心地よい呪いの中に身を預けながら、泣いて見えなくなってゆく衛宮切嗣の小倅を眺めている。悲鳴は遠ざかるも、耳孔のなかには何時迄も奴の悲鳴が残響していた。

 

「く、く、く」

 

咆哮には悲嘆と苦渋の全てが含まれていた。奴は自らが何によって救われたのか、何によって自らの中に存在する養父の思いと決別する事になったのかを知り、混乱の極致に至ったのだ。ああ、私はついの奴の中にいたあの男を殺し尽くすことに成功したのだ。奴はついにあの男の呪縛から解き放たれた。高い声で、低い声で、自らの無力を否定するかのように泣き叫ぶ奴の声は、まるでパイプオルガンの音色のように呪いの中へと響きわたっている。その全てが心地よかった。

 

『あぁ、あ、あ、あ、あぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!』

 

私はついに奴に勝利した。悲鳴はそんな私の行為を讃えるかのようだった。私は満足していた。命を使い切る価値のある賭けだったと心底満足すると、機能を停止しつつある筈の脳へ多幸感が湧き上がってくるのを感じた。そうして必死に叫ぶ奴を何より愛おしかった。

 

「見よ、私の選んだ僕。わたしの心に適った愛する者」

 

愛おしい。そんな感情が湧き上がった時、ふとある聖句を思い出して、私はそれを口にした。

 

「この僕は私に霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる」

 

それはマタイによる福音書12章18節より始まる言葉。

 

「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」

 

それは今の泣き喚きながら戦場に向かう衛宮士郎にとって最も似合わない聖句であったが。

 

「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」

 

今後、奴が真に望みを叶える/正義の味方になるのならば、最も相応しいだろう聖句だった。

 

「異邦人は彼の名に望みをかける、か」

 

聖句はやがて神の子が奇跡を起こし、自らの正しさを証明し、人類が皆平等である事を説く。

 

「くだらん」

 

だが人類が平等さでないが故に起こった戦いを目の前にした今、私はそんな聖句を信じる気にはとてもなれなかった。生けとし生けるものの命を溶かす他人の全てを呪うの泥の中、消えてゆく快楽を惜しみながら、押し迫る二度目の死の時を待つ。

 

「ふむ、そろそろ、か」

 

やがてやってきたその時は、かつて味わったそれとは異なり、これ以上ないほどの幸福感に満ちていた。意識が薄れゆく最中、最後の最後に思い出したのは、今しがた送り出した憎くき仇敵の息子のことではなく、憎くき仇敵本人のことでもなく、はるか過去に置き去りにしてきた娘のことでもなく、長年飽きる程読んできた聖句の中の一節だった。

 

「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである、か」

 

それはヨハネ黙示録14章13節。

 

――なるほど最後に思い浮かぶのが終末を告げる予言書の一節とは、人間の信仰心と善性を試す必要悪の天使と一体化したこの身としては、なんとも相応しいではないか

 

「主よ。貴方の忠実で不出来な僕が、今、使命を終えて貴方の御許に参ります。我らが人に赦すが如く、我が罪を赦し給え。――――――、amen」

 

心底愉悦を感じながら、幸福感の絶頂のうちに意識を手放す。厭飫の先にある死は、なんとも甘美で心地の良いものだった。

 

第7話終了



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閑話 月姫

今更ですが、本物語は凛ルートをベースとしたIfの時間軸の物語です。



閑話 月姫

 

副題 永遠平和のために

 

Blue Blue Glass Moon, Under The Crimson Air.

 

Cherry blossom is cut out.

Man is lost his―――

 

*

 

「あの……」

「なんだ?」

「その、今更なのですが、なぜ貴方は私を攫ったのかな、と」

「――世界平和のためだ」

「せ、世界平和ですか?」

「そうだ。彼女は世界を恒久的な平穏に保つため、現人類を墓石の下に葬り去るとともに、やがて来る新人類のために自由、従属、平等の原理に基づいた基礎システムを構築しようとしている。そしてそのためには三柱の神の力が必要だと考えている」

「神の……、力?」

「川の女神であり人の意識を誑かし文明の発展を妨げるほどの美貌を持つとされるサラスヴァティ。終末の後、人々に力をもたらすために饗される水霊神獣レヴィアタン、そして、月より人々を見守る女神とされるアルテミス――」

「――」

「これらを三柱の女神の力を用いて、月より人々が滅びの道を歩まぬよう未来永劫彼らを見守るシステムを構築する――、すなわちこの月姫計画と名付けられた計画を実行するためには、サーヴァントシステムを応用して神霊を召喚するための膨大な魔力を制御する事が可能であり、また、神という今この世にない存在を架空の存在を降ろすために虚無の属性を持ち、川、海、湖に共通する属性である水の属性をその身に宿す人間でなければ、成功は叶わない。――だからこそ私たちは、小聖杯であり、先天的に架空の魔術特性を持ち、後天的に水の属性を獲得した、間桐桜。君を攫ったのだ」

 

 

間桐家に来てからというもの、桜という人間に自由はありませんでした。私はただ間桐の魔術を受け継ぐために望まれた存在であり、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。

 

来たその日に、間桐臓硯の手によって体を改造され、蟲を埋め込まれました。数日としないうちに当時名目上間桐家の当主であった人間に嬲られました。それから数年もしないうちに、間桐慎二という兄に犯されました。間桐桜という人間は、間桐家において、道具以外の何者でもありませんでした。私、桜という人間は、間桐に関わる人間の人形として生きる以外に意味を持たせてもらえない、そんな存在でした。

 

人形。そうです。私の存在を一言で言い表すのであれば、そう呼ぶのが最も相応しいでしょう。間桐という狂った人格の持ち主ばかりが住まう家において、私は人形の様に生きるという狂い方を選んだのです。

 

一歩を踏み出せばもっと違う結末があったかもしれない。求めれば助けてくれるだろう人物に心当たりがなかったわけではない。いや、きっと彼らならそれを求めれば、きっと無理してでもでも、私のために手を差し伸べてくれたでしょう。でも私がそう思える様になった時、私はすでに、間桐の家の狂気に体の芯まで犯されていました。

 

当時に間桐の家の当主であった間桐臓硯は、人の命を啜って生きる妖怪でした。彼のために何人もの人間が犠牲になりました。私はそれを知っていながら、その所業を止めようとはしませんでした。私は私が生きるために、他の誰かの命が犠牲になることを許容したのです。

 

それを知った時、きっと先輩や姉さんならば、迷わずそれを止めるために動いたでしょう。でも私にはそれが出来ませんでした。私は怖かったのです。私は自分が一番の人間でした。私は臆病で、醜くて、弱い、汚れた人間でした。こんな汚れきった私のために誰かが傷つくのを見るのは怖かったし、何より、私の好きな先輩や憧れの姉さんにこんなにも汚れきって醜い私を見られるのだけは避けたかった。

 

だから私はこの生き方を許容しました。私は間桐家に住まう私以外の彼らの鬱憤を晴らすための人形でした。そう生きる以外に生きる術を知らない、愚かで臆病な女でした。

 

こんな愚かで汚れた臆病者の私ですが、このような私にとって特別と言える人間が三人ほど存在しました。

 

一人は私の実の姉です。その名を遠坂凛といいました。あの人は遠坂の家に捨てられてしまい汚れきってしまった私と違って、遠坂の家を継いだ、誇り高く、実力も名声も兼ね備えた、とても立派な人間でした。私はあの人に憧れ、そして同時に嫉妬していました。私とあの人はたった一年生まれた年が違うだけなのです。しかし、そのたった一年が、私とあの人の間に覆しようもない溝を生みました。もしあと一年だけ私の方が先に生まれていたら、もしや私こそがあの人のようになれていて、あの人こそ私の様なお人形になっていたのかもしれないと思うと、それだけで直視するに耐えない感情がこみ上げてきます。遠坂凛という存在は私にとって、私の裡からそんな醜い感情を引き出す存在でした。

 

一人は衛宮士郎という、私の先輩です。先輩は汚れた私なんかが近寄るのをためらってしまうくらい立派な先輩でした。先輩はいつだって他人のことを優先にして、自分のことは後回しでした。人からいいように使われても、困ったやつだとちょっとの文句を言うだけで済ませてしまうような、とても心の広い人でした。自分には不可能と思えることでも懸命に挑戦する果敢な人でした。先輩はその優しさをもってして周囲にいる人全てを大らかな気持ちにさせてくれる、そんな人でした。だからこそ私は、そんな先輩に好意を抱いたのです。

 

けれど私の体は汚れていて、先輩は私なんかが隣にいたいと願う事すら烏滸がましいくらい綺麗な理想と思惟と行動力を持った人です。だからそんな先輩が、遠坂凛という美しく、誇り高く、華麗な女性の伴侶となったのも、ある意味では当然だったのかもしれません。

 

結ばれた二人は私を冬木という街において世界へ旅立って行きました。そして私の近くに残った、私にとって特別な人は、ただ一人になりました。

 

その人の名前は――

 

 

聖杯戦争。万能の願望器である聖杯を求めて魔術師と呼ばれる人間より上等で特別な存在が繰り広げる聖杯争奪のための戦い。聖杯戦争を生み出した魔術師御三家の血を引く子孫としての自負と、若い頃に有りがちな世界が僕の思うまま動かぬはずなどないという全能感。そして、そんな全能感を後押しするかのよう我が身のうちに確かにあったその辺にいる一山いくらの凡人よりは優れている才覚と、そんな一山いくらの凡人よりは優れている程度の能力によって獲得してきた些細な結果を誇りながら、大した覚悟もなく世界最高峰の能力を保有する英雄や魔術師が骨肉の争いを繰り広げる戦いへと飛び込んだ人より多少優れた才能しか持たない魔術師にあらざる僕は、その後当然のように聖杯を巡る戦いから脱落し、最後には僕が最も負けたくなかった男と、僕が汚そうとした女に助けられる形で聖杯戦争から離脱させられた。

 

これがこの僕、間桐慎二の聖杯戦争における顛末である。

 

――まったく、我ながら嫌になるね

 

聖杯の泥というこの世の全ての悪を含む毒に飲み込まれた僕が目覚めたのは、聖杯戦争がおわってから数年後のことだった。僕が目覚めたとき、事後処理を含めて全ては終わっていた。全てを終わらせたその女の名前は、遠坂凛といって、僕の同級生の女だった。おもえばアイツは僕が欲する全てを持っていた。僕の欲するものを全て持っていたアイツはそして、僕から唯一こいつだけは僕を裏切るまいと思っていた僕の親友――衛宮士郎すらも奪い去っていった。

 

僕はそれが何より耐えられなかった。お気に入りのおもちゃを、気に入っていた子犬を奪われた気分になった。きっと僕が聖杯戦争の結末なんかや僕の優秀性を周りに知らしめるよりあの女を手に入れる事に執着しだしたのはその時からだった。

 

僕の欲する全てを持っているアイツは、しかしそんなものをまるで価値ないものであるかの様に扱う。僕にはそれが許せなかった。だからこそ僕は遠坂凛を欲した。あの女を僕の手元に置き、僕の伴侶として僕に従属させれば、それだけで僕の足りない部分が埋まるそんな気がしていたからだ。

 

――若い頃の自分の狭量さと視野の狭さ

 

そうだ。僕が聖杯戦争などというものに参加を決意した理由の一つは、遠坂凛という存在を見返したかったからだ。僕があの女を降して万能の杯を手に入れれば、僕はもちろんあの女よりも上の位置にあることになる。僕はそんな僕自身の下衆な支配欲と虚栄心を満たすために聖杯戦争に参加した。

 

当時の僕は、間桐という魔術師の家系の直系の血を受け継ぐものである僕こそがこの世で一番優れており、そんな僕がやる行為は全てにおいて正しく、そして僕には他者の全てを踏みにじる特権があるのだと心底信じきっていた。

 

――それと、笑えるくらいの自分の小者っぷりにはさ

 

けれど僕は参加した聖杯戦争において、僕はそんな僕が踏みにじろうとした女に助けられ、命を拾い上げられた。そして僕は、嫌という程思い知らされることとなったのだ。

 

僕という存在は決して世界の中心やその近くに坐しているような特別な存在ではなく、そんな優雅な彼らに憧れて周りをうろちょろとする、他の雑種なんかよりは多少見栄えのいい、しかし誘蛾の一匹にすぎない存在だったのだ、と。

 

――ま、悔しいけど、たしかに遠坂凛は天才で、見る目のある女で、僕の親友である衛宮士郎の伴侶にふさわしい女だったよ

 

認めたくなどなかった。けれど認めざるを得なかった。遠坂凛は華々しい結果を残し、僕はそんなアイツの華々しい結果を語る際の一つの部品に成り下がった。思い描いていた未来とは真逆の未来が待ち受けていたという事実を、そんな現実と理想の齟齬を僕はどうしても受け入れ難かった。きっと僕が聖杯戦争終結から数年もの間眠り続けていたのにはそんな理由もあるのだろうと僕は考えている。そうだ。おそらく僕は、そんな理想とかけ離れた現実を宥恕できなかったからこそ、頑迷固陋に数年もの間眠りについていたのだ。

 

 

「――おはよう、兄さん」

 

目覚めた時、そこには桜がいた。

 

「こ……、は……」

 

いつもの感覚で声を出そうとするも肺はまともに動いてくれず、掠れた声がひゅうひゅうと部屋に小さく響くばかりだった。おかしい。そう思って視線を桜にやろうとすると、眼球を僅かに動かそうとするだけで酷い痛みが顔面に走り、落涙した。

 

――僕の部屋?

 

霞む眼に映る見慣れた天井が酷く遠い。遠近感が狂っているのか、あるいは狂っているのは僕の周りの世界なのか。まったくもってわけがわからない。ともかく零れ落ちた涙を拭うために布団の下から手を抜き出そうとするも、手は震えるばかりでうまく動いてくれず、体に覆いかぶさっている布団を微かに揺らすだけに留まった。僅かばかりに布団がずれて、冷たい外気が肌を撫ぜてゆく。そんな冷気を浴びた瞬間、そんな刺激にすら耐えられなかったらしく、僕の全身から力が抜けてゆく。どうやら今、自分は布団を持ち上げるどころか、こんな些細な刺激に耐える事すら困難な体であるらしい。まったくもってわけがわからない。

 

「兄さん。無理しないでください。あれから何年も横になったきりだったんですから」

 

やがてその必死と呆然から僕の疑念を察したのだろう、桜は乾いた柔らかなハンカチで僕の頬を拭いながら、僕の身動ぎによって微かにずれた布団を正すと、疑念に対しての解答を口にする。

 

「な……、ね……、ん……?」

 

桜の口から返ってきた答えが信じられず問いを返そうとするも、それを口にする事すらままならない。か細い呼吸音に乗って漏れた言葉の勢いが、何よりも雄弁に桜の言葉が真実であることを告げているようだった。

 

「はい。何年もです」

 

桜は僕の失態から僕が久方ぶりに覚えるさまざまな五感の刺激に戸惑わないよう気遣ったのだろう、小声のゆっくりとした語り口調で色々なことを教えてくれた。僕がここで寝ている理由。僕がなぜこんなにも弱っているのかについて。聖杯戦争の結末。遠坂凛と衛宮士郎の行方。世界情勢の変化。十年もの間に凄まじい技術の進歩があったこと。――そして。

 

つい先ほど、間桐臓硯という、僕の先祖にあたる魔術師が死んだということ。

 

「……死ん、……だ?」

 

聞いた瞬間、顎が地面につくかと思えるくらい落ちた。それほどまでに桜の言った言葉が信じられなかった。当然だ。鼓動が早まり冷や汗が生じた。起きたばかりの体は急激な無茶に悲鳴をあげて、全身からむず痒さと微かな痛みを訴えてくる。衝撃はそれほどまでに大きかった。当然だ。

 

――本当に? あの化け物が?

 

間桐臓硯。この僕、間桐慎二の先祖にして、間桐の家の現当主。――だった男。数百年という長きに渡る時を自らの体を蟲に変換しながら生き延びてきた、外道揃いの魔術師という生き物の中でも最大級の化け物。間桐が冬木の土地にやってきてからというもの、ずっと間桐を支配していた、僕と桜の、事実上の養育の親。

 

「はい……」

 

問いかけに桜は素直に頷いた。桜の態度は嘘を語るそれではなかった。僕は目を剥いて驚いた。僕の醜態を目の当たりにした桜は、少しばかり遠慮がちに語り出す。

 

それは本当にあっという間の出来事だったという。今朝方、いつものように地下の蟲蔵で桜に魔術教育を施していた間桐臓硯は、突如として狼狽しはじめ、蟲蔵をじっくりと見回した後、蟲の中に浸かる桜を見て発狂し、蟲にて作り上げた自らの体を崩壊させて死に至ったのだという。何が起こればあの数百年もの時を生きた化け物が発狂の末に自死などという結末を迎えるのかはわからなかったが、ともかくそんな間桐蔵硯の死によって突如として解放されてしまった桜が途方にくれていたところ、静かになったはずの家の中から機械音によるコールが聞こえ、桜は僕の元へとやってきたというわけだ。

 

――あの妖怪ジジイが死んだ……

 

「は……、はは……」

 

――僕の人生を狂わせたあの妖怪ジジイが死んだのか……っ!

 

「はは……、は……、ははは……」

 

身体中から規則正しさが失われてゆく。自然と笑いがこぼれていた。息が苦しい。苦しいが笑わずにはいられない。如何なる感情によって溢れたものであるかは僕自身にも詳しく説明はできない。嬉しさがあるのは確かだろう。だが、どこか虚しい気持ちも含まれている。かといって何かを悼むような気持ちも混じっている。何に対する想いなのか、胸が痛いのも確かだ。

 

僕はそれらの気持ちに対して適切に表現できる言葉を持ち合わせていない。ただ、事実として、間桐臓硯という男の死は、この僕、間桐慎二の笑いを誘発する出来事であったということだけは間違いようもない真実だった。

 

「兄さん……」

 

桜の声が聞こえてくる。笑いがもたらした活力は僅かばかりに首を桜の方へと向ける力を与えてくれていた。視線の先、桜はいつもと変わらない様子で僕のすぐそばに佇んでいる。十年の月日を得ても、桜の様子は以前僕が見た時とまるで変わっていない。桜は魔術の影響により紫がかった黒髪も、男の欲情を掻き立てる豊満な身体つきも、同じく劣情をもたらす扇情的な弱気の態度も、何一つとして変わらなかった。

 

「わたし、どうすれば……」

 

問うてくる桜の顔には行き先わからぬという事情に不安を抱く表情が浮かび上がるばかりで、臓硯という自らの人生を狂わせた男の死に対するなんらかの感情や、晴れて自由の身になったことに対する喜びなどは一切含まれていなかった。

 

「おまえ……、バカ……じゃ、ないの……? もう、……いい、年の……大人……、なんだろ? そんな……こと、も……、自分……で、判断……できない、のか……」

「ええ。だって私は……」

 

――これまで何一つとして自分で判断なんてしてこなかったのですから

 

続く言葉は諦観に満ちていた。年を経て多少大人の色気を纏うに至っている桜は、その実内面はあの頃から何一つとして変わっていなかった。僕の妹は十年前と変わらず人形だった。この家に来たその時から間桐臓硯の人形として生涯を過ごし、時折僕の父や僕自身にその身を弄ばれた桜は、いまだに変わらず間桐家の人形のままだった。

 

「おまえ……」

「……」

 

桜の無言は続く。そして僕は察した。彼女がなぜ己の身を犯して汚した兄である僕を、憎悪を、嫌悪を、憤怒を、害意を示して然るべき存在である僕をこうして十年もの間世話していたのかを。僕という間桐家にとってのお荷物に過ぎないはずの存在が、この十年、なぜこの間桐の家において生きて惰眠を貪ることができていたのかを。

 

――だから僕を生かしたのか

 

毎日臓硯の世話をも行い、あの男より魔術の手ほどきを受けていた桜は、おそらく臓硯の体調や精神の些細な変化を感じていたに違いない。そう。そしておそらく桜は、そう遠くないうちに臓硯という男になんらかの異変が起こることを予感していた。

 

臓硯の身に何かがあれば、自分は間桐の家の呪縛から解放される。だが、桜はそれを望んでいなかった。遠坂の家より引き取られたあの日よりもう二十年近くも間桐の家の人形として生きてきた桜は、それ以外の生き方など知らなかった。桜は自らの首輪を外されることを望んでいなかった。桜は日常の歯車を突如として自由というギアによって乱されることを嫌っていた。桜は今更人として自由に生きることを拒絶していた。だから桜は、間桐臓硯のスペアとして僕を生かし続けていた。桜はその為だけに、おそらく間桐臓硯に懇願し、自らの身を奴に差し出してまで僕の世話を毎日行っていた。

 

「兄さん……」

 

子犬が縋るかのような視線が僕にまとわりつく。男を奮い立たせる魅力に満ちたその視線は、しかし僕の心に困惑のさざ波を生み出した。しかしそして生まれた困惑のさざ波は、歪んだ喜びのそれへと変換されてゆく。

 

桜。魔術回路というものを持たずに生まれてきたこの僕の代わりに間桐の家の当主になるべくして遠坂の家より養子として引き取られた、優秀な魔術の才能を持つ女。ほとんど全ての分野において秀でた才能をもつ僕が、唯一持っていなかった才能を持っていた女。

 

魔術回路を持つという理由で、この僕が受け継ぐはずだった間桐の家の当主の座を僕から奪った、この僕が憎悪に身を焦がして滅茶苦茶にしてやりたいと思うほど、この僕の劣等感を刺激し続けた女。そんな女がこの僕に頭を垂れて、僕の指示を待っている。――ああ、まったく。

 

――いったいバカなのはどっちだっていう話だよね

 

本当に、間桐慎二という男は救い難い男だ。今こうして桜という女の本性とその真意を見破るほどの頭を持っていながら、こうして今や間桐の家そのものを受け継いだと言える女が僕に対して首輪のリードを差し出しているという事実に対して喜びを感じているのだから。

 

「とりあえず……、僕の……、体、に……。回復の……、魔術を……かけろ。話が……、しにくいだろ……。そんなことも……、気づか……、ないのか……。この……、グズ……」

「あ……、――――――はい」

 

そしてこの間桐桜という僕の妹も、ほんとうに心底救い難い女だ。こんな十年もの間惰眠を貪っていた男から上から目線の指示を与えられたことに対して、これほどまでに嬉々とした表情を見せるのだから。

 

 

意識が過去から今にこの瞬間と地続きでも、十年もの時が流れていると、どこに何を置いたかすっかり忘れてしまうらしい。僕は見覚えのある、しかしあまり見覚えのないような気がする僕の部屋の中を、記憶の整理とリハビリを兼ねて漁っていた。

 

「ん?」

 

そんなおり、僕が寝ている間にも桜が律儀に清掃していたのだろう部屋の中の、しかしそんなところまでは面倒が見切れなかったのだろう、少しばかり埃が溜まった棚の奥や本の隙間を漁っていると、まるで見覚えのない布の袋が出てきて戸惑った。

 

「……なんだ、こりゃ」

 

袋はえらく丁寧に梱包されていた。その丁寧さからこの袋を置いたのは僕ではなく桜なのだろうという直感を得る。一瞬桜を読んで尋ねてみようとの考えも浮かんだが、いちいちそれをするのも煩わしい。覚えがないとはいえ僕の部屋に置かれているのだから僕に関係したものなのだろう。判断した瞬間、僕は迷わずに布袋の閉じ紐をほどき、中身を取り出した。

 

「……手紙の、束?」

 

ばさりと中身を机の上に転がすと、出てきたのは、やはり僕にとって見覚えのない手紙の束だった。色とりどりのそれらのほとんどは青白赤のトリコロールカラーに彩られた表面に英語の文章が刻まれている。ようはこれらの紙束は、海外から送られてきた手紙だったのだ。

 

「僕の部屋にあんだからToは当然僕宛てだとして送り主は……、……っ!」

 

そのうちの一つを持ち上げ、表面に書かれた名前を見て、息を呑む。全身が痺れるかのような感覚を覚えた。感覚は、長い年月の経過により褪せた手紙の表面に刻まれた、十年前暇さえあれば毎日のようにつるんでいた僕の友人の名前によってもたらされたものだった。

 

「衛宮……、士郎……」

 

衛宮士郎。その男は赤毛の朴念仁のお人好しで、正義の味方になるとかいう馬鹿げた夢を語っていた男。僕の数少ない、親友と呼べる存在。

 

あいつはどこか日常生活を享受する事に居心地の悪さを感じているような男だった。なんというか、誰かのために何かをしてやって、その行為が報われた時にだけ笑顔を見せるような、ドMの極致にあるような男だった。ならばなるほど、そんなあいつからの手紙に記載されているFromの住所というものが、十年前紛争地帯として有名だった地域ばかりである事になんの不思議もないといえるだろう。

 

おそらくあいつは、そんな誇大妄想じみた夢を叶えるための戦場として、そんな争いが繰り広げられている場所を選んだのだろう。あいつはおそらく、この世で行われている戦争を止めるために、自ら虎穴へと飛び込んだ。

 

「は。相変わらずあいつも無駄な足掻きを続けてるってわけか。まったくご苦労なこったね」

 

そんなあいつが戦場で誰かを助けているそんな姿を幻視した瞬間、自然と悪態が溢れて落ちていた。同時にひどく惨めな気持ちを抱く。あいつはこの十年の間、ずっと自分の夢を叶えるために無駄かもしれない努力を続けていた。それに対してこの十年をただ眠って過ごしただけの僕の惨めさといったらどうだ。

 

あいつよりも大半の点において優れた能力を持っていたはずの僕は、十年という年月をただこの十年前からかわらない部屋の中で過ごしていた。窓から見える冬木の街の景色は、僕と僕の部屋の不変に呼応するかのように変わらない。僕と僕の部屋において唯一、十年前と違うものといえば、僕の顔に刻まれたシワの数と、こうして僕の部屋に持ち込まれた衛宮士郎の手紙の存在くらいだろう。

 

そんな些細に過ぎないはずの顔のシワと手紙のシワが、しかしこれまでの十年の間に僕とあいつにできた経験の差を如実に示しているようだった。それを意識した途端、惨めな気持ちは湧き上がる怒りへと変換された。奴がこうして送ってきた手紙に僕を乏す意図が含まれていないだろうことはもちろんあいつの友人である僕が誰より理解している。

 

そうだ。あいつのことは僕がよく理解しているし、僕のことは僕自身がよく理解している。だからこの腹の底から湧き上がってくる怒りは、そんなあいつに対して嫉妬を覚える僕自身に対する怒りなのだ。そう。僕は、かつては同等かそれ以下だったあいつにこうして差をつけられた事に対して腹を立てている無様な僕自身の有り様が心底腹立たしく、故にこうして烈火の如き怒りがこみ上げてきているのだ。

 

――は、まったく、我ながら不毛なこと考えてるよね、マジで

 

自らをそんな気分にした街と手紙がひどく憎らしくて、整理とリハビリをする気が吹き飛んだ。袋についていた埃を払って手紙をベッドの上へと投げ出すと、カーテンを乱雑に閉め、身体を横たえる。ギィ、と金属の錆びついた音が響いた。十年もの間この僕を支え続けていたベッドのスプリングは流石にそれだけの年月に耐えるだけの耐久力を持っていなかったらしく、思っていたよりも硬い感触が返ってくる。それが僕を馬鹿にしているように思えて、僕は異音を立てるベッドに思い切り拳を叩きつけた。手紙と埃が舞い、不快感が増す。

 

――ああ、もう、なにもかも最悪だ

 

憂鬱が憂鬱を連鎖的に呼び込んで、一気に気分が落ちこんだ。鬱屈とした念だけが全身を跋扈している。いやしかし仮にベッドが十全の柔らかさを保っていたのなら、僕の体は血の底にまで沈んでいたかもしれないとくだらないことを考えてしまうくらいには僕は最悪の気分だった。

 

「は……っ、あーあ……、まったく」

 

胸の中に溜まり込んだ息を吐きだしてみても気分はまるで晴れてくれやしない。憂鬱と鬱屈とした感情だけが腹のなかに積もってゆく。吐き出した吐息が部屋に拡散し、部屋の空気をどんよりとしたものへと書き換えてゆく。否、変わっているのは、部屋の空気でなく、自分の心持ちか。

 

「十年、ね」

 

横たわったまま呟く。十年。言葉にすれば二文字にすぎない言葉をこれほどまでに重苦しく感じたことはない。自分は十年という月日を無駄にしたのだ。高校は、まぁ、成績は優秀だったし、出席日数も満たしていたはずだから卒業できているとして、自分の時間はそこで止まっている。

 

高校を卒業してから十年という月日の間に自分は大学に行ったわけでもなければ、就職をしたわけでもない。自分探しなどという時間を過ごしたわけでもなければ、もちろん魔術師としての修行を積んだわけでもない。自分はただ、十年という月日を寝て過ごしていたのだ。

 

「は。まさかこの僕が世間の落ちこぼれどもと同じ位置に並ぶとは思わなかったよ」

 

無論そんな生活を送ったところで問題ないだけの財力を間桐の家は保有している。土地や魔術関連の収入だけで十分生きて行けるだけの収入が間桐家には存在している。実際、自分の父である間桐鵺野も、不労所得を頼りに仕事をせずにのんだくれていた。そうとも、間桐家には僕程度が十年眠りこけていたところで問題ないだけの財力がある。だが、だからといって不労所得に頼りきりになることを僕がよしとするかというと、それはまた別の問題だ。

 

今の僕は世間に言う所の、落ちこぼれと同等の存在だ。だが無論、僕という存在は本来、そんな落ちこぼれどもと一線を画する存在である。ならばこの十年の眠りというハンデを諸共しない活躍をする事こそ、僕のこの鬱屈とした気分を晴らすに相応しい。

 

「さて、と。じゃあこれからどう過ごしたもんかね」

 

学校に行きなおすのは論外だ、今更餓鬼どもに混じって勉強しなおすなんていうのは僕のプライドが許さない。かといってそこらに転がっている凡人どもに混じって汗水垂らすくだらない仕事をするなんて気にもならない。

 

魔術の勉強をするにしても魔術回路を持たない僕に出来ることと言ったら、かつてのように自宅の書庫で知識を溜め込み魔力を使わない錬金術に勤しむか、あるいは、間桐の魔術を受け継いだ桜から教えてもらうくらいのことしかできないだろう。そして僕のプライド的に当然後者は却下したい。

 

となると、やはり魔術の本を読んで自宅警備をするくらいしかやる事の選択肢がないのだが、だからといって目的もなくただ知識を溜め込むだけの作業ほどつまらないものはない。錬金術をつかって媚薬を作り女を漁るというのも、聖杯戦争という魔術のさらなる秘奥を体験した今の身となってはくだらないとしか思えない。つまりは――

 

――手詰まりだ

 

「くそっ! ――ん?」

 

なんともやりきれない思いから逃れるため視線を遊ばせると、ベッドの上へと放り出した手紙の束が目に入る。

 

――そういえばあの馬鹿はどんな風に過ごしているのかね

 

手紙には驚くほどの魅力が秘められていた。おそらく僕がそう感じたのには現実逃避の意味もあったのだろうが、気がついた時には好奇心が心の触手を動かして、僕は投げ出した手紙の束を纏めてこの手にしていた。手紙の表面にはあいつらしい不器用ながらも糞真面目な筆記体で書かれたアルファベットの羅列と、無機質に日付の消印が刻まれている。僕は消印の方へと目を向けると、手紙を次から次へと滑らせながらその日付けを確認し、やがて一番古い手紙を見つけ出すと、おそらくは桜によって開かれたのだろう封筒から中身を取り出した。

 

最初の手紙は、イギリスはロンドンにある日本人街から差し出されたものだった。

 

『慎二。昏睡から目覚めただろうか。そうだとしたら俺は嬉しい』

 

「は、あいつらしい、なんともつまらない書き出しだこと」

 

『書こうかどうか迷ったけれど、頭のいいお前のことだから俺が何処に誰といるかをしれば、すぐにここに何をしにきたのか気付くだろう。だから隠さず正直に書こうと思う。俺は今、魔術の勉強のため、遠坂の弟子としてロンドンの時計塔にやってきている』

 

「ああ、そういやお前、遠坂と同盟組んでたっけ。そんでもって遠坂は聖杯戦争の事後報告のためにロンドンの時計塔に呼び出されたとか桜が言ってたな。……ふぅん。ま、いいんじゃないの。強情な馬鹿者同士お似合いだよ、お前ら」

 

『ロンドンはまぁ、話には聞いていたが、料理がひどい。なんというか、雑だ。セイバーが自分が国を治めていた頃と何一つ進歩がないと憤慨していて、宥めるのに一苦労だ』

 

「そんでもって最初の報告が料理のことかよ。まったく、お前、何しにいったんだよ。……ま、あいつらしいっちゃらしいか」

 

『話は変わるが、慎二。知ってるかわからないが、聖杯戦争の終結した土地である柳洞寺は、その際の争いによって大きな被害を受けている。遠坂を中心とする情報統制含む事後処理を行った魔術協会の人たちの手によって、対外的には、局所的な大地震によって、柳洞寺地下にあった空洞地下の可燃性ガスが爆発、漏れたことによる被害でそうなったという風に片付けられたんだ。そしてその土地で聖杯の泥の影響で昏睡した慎二は、ちょうど友人である一成の元を訪ねた折に事故に巻き込まれた人間として表向きは処理されている。――わけなんだけれど、そんな嘘の事情を知った一成がお前の事をひどく気にしている』

 

「はぁ?」

 

『あいつは仮にも自分の管理する領地で、自分の友人であるお前が昏睡状態に陥ってしまったという事をひどく気にしていた。お前も知っての通り、一成はクソ真面目だからな。自然災害の類で起きた事だから気にするなと言っても聞きはしない。遠坂も、うっかり一成の性格を考えずに最も処理が楽な理由をでっちあげてしまったと反省していた』

 

「はぁぁぁぁぁぁ?」

 

『だからだろう、一成は、シンジが昏睡から目覚めた時、お前が困っているようだったら必ず力になると言っていた。まぁ、そんなことがなくても一成のことだから、お前が本当に困っていたら見返りなく力になってくれていたと思う。もちろん、俺もだ。友達だからな』

 

「……っ」

 

『遠坂も慎二が遠坂に対して聖杯戦争で行ったことは、慎二が反省の様子を見せているのなら一発殴れば今までの事をチャラにしてあげると言っている。なんだかんだといっているけれど、遠坂もお前の事を心配していたんだぞ。――そうそう、もちろん桜もだ』

 

「……」

 

『桜は特に家族であるお前のことを心配していた。と言うよりも、多分、慎二のことを一番気にかけていたのも桜だ。なにせ昏睡状態に陥った慎二がそうして自宅で寝ているのは、桜が言い出したからなんだ。病院でケーブルに繋がれているよりも、自分が回復魔術で面倒見た方が都合がいいと、そう言っていた。昏睡状態の最中も筋肉が萎縮しないよう、目覚めるまでの間は毎日回復魔術をかけるつもりだと言っていた』

 

「……は」

 

『桜は慎二のことを本当に心配していた。桜のためにも慎二が早く目覚めてくれることを願っている。もちろん、俺もはやく慎二が目覚めてくれると嬉しい。藤ねぇも心配していた』

 

「はは……」

 

『とりあえずは一月に一度くらいのペースで手紙を出そうと思う。慎二が目覚めたら桜の方から連絡があると思うけど、目覚めたら慎二の方から連絡をくれると嬉しい。お前は嫌がるかもしれないけど、俺はその方が安心できる。電話代が気になるならコレクトコールで構わない。電話番号と家にいるだろう時間帯を最後に記載しておくから、参考にしてくれ』

 

「ははは……」

 

『それじゃあ慎二。また。次に筆を取る時までに、お前が目覚めてくれていることを願って。 衛宮士郎』

 

手紙はそこで終わっていた。しまいこまれていたというのに何処かより侵入した光により微かに煤けた手紙は紙に落とされたインクも少しばかり薄らいでいたが、そこに刻まれていたこちらへの思いは一欠片たりとも失せていなかった。

 

「衛宮……」

 

便箋に雫が垂れて落ちた。手紙に刻み込まれた思いのうち、心で受け止めきれなかったぶんがひとつ、またひとつと、次々と頬を滑り落ちてゆく。不覚だ、と思った。まさかこの僕が、衛宮如きの手紙でこのような気分にさせられるとは思ってもいなかった。

 

「おまえ、ほんと、ばかじゃないの……」

 

海外から送られてきたその手紙には、一から十まで僕のことに関する心配事しか書かれていなかった。溢れ出る思いに突き動かされるようにして次の手紙を開けると、わざわざ安くない料金を支払って送られてきた手紙にはやはり僕の事を心配する言葉ばかりが刻まれていて、自分の事情についてなどほとんど書き込まれていない。らしいと言ってはらしいかもしれない。そんな衛宮のまっすぐな好意がひどく鋭く胸に突き刺さって、心を刺激する。

 

「これじゃ何のため手紙だかわからないじゃないか……」

 

衛宮は宣言した通り、律儀に一月おきに手紙を出し続けていたようだった。山と積み重なった手紙を開けて中身を読み込むたびに、失われた十年の月日が埋められてゆく。受け入れきれない思いが溢れては、次々と滂沱の涙が流れてゆく。衛宮士郎の手紙は、間桐慎二という男が十年もの間、如何に他の人間に影響を与え続けたのかを克明に記していた。

 

「衛宮……。おまえ、ほんとに、ばかだ。ほんと、ばかな、便利屋だよ……」

 

たまらず積み重なった手紙を胸に抱え込むと、ボロボロと涙がこぼれた。暗澹とした気持ちが全て失せてゆく。こんな気持ちになったのは生まれて初めてのことかもしれない。気に入った女を抱いた時だってこんな暖かい想いを抱いたことはなかったはずだ。

 

「自分にとって何の益にもなりゃしないのに、こんな律儀に手紙なんか書いちゃってさ」

 

僕が目覚めれば桜あたりから衛宮に連絡が入るはずだ。あの衛宮に惚れていた僕の妹なら、間違いなくそうするだろう。だとすればそれに合わせて電話をかけるだけで、僕が目覚めたのなんかわかるはずだ。ならばわざわざこうして一定期間おきに手紙を書く必要なんかない。だというのにもかかわらず、衛宮はこうして律儀に一月毎に手紙を書いていた。衛宮という男は馬鹿だけれど、無駄を無駄とわからぬほどの馬鹿な人間ではない。ならばそんな衛宮がわざわざそんな無駄をした理由は何だ。

 

――そんな事は決まっている

 

「お前、そんなにも、僕のことを心配してくれていたのか」

 

そうだ。衛宮士郎は、間桐慎二のことを心底心配していた。そして間桐慎二という男がいつか目覚めた時、過ぎ去ってしまった時を惜しんで絶望に至らないよう、間桐慎二という男はきちんと誰かに心配されている男だということを知らしめるために、衛宮士郎という男はこうして毎月手紙を書いては律儀に送っていた。

 

「僕はお前のことを便利屋としか扱ってなかったのに……」

 

――衛宮はこんなにも僕の事を心配してくれていた

 

「っ……」

 

絶望のどん底に叩き落とされたと思った時、気にかけられているという事実がこんなにも嬉しい。そんなことを知ったのは初めてだった。間桐という、一緒に住まう家族の事情にすら無関心を貫く人間ばかりが集う家において、間桐慎二にはこんなにも心配してくれる誰かが家の中ではなく外にいた。そんな事実が嬉しくて、ただひたすらに涙を流していた。そして。

 

――桜

 

「っ……、つっ……」

 

間桐桜。血の繋がらない僕の妹。僕が何よりも欲していた卓越した魔術の才能を持った、それ故に間桐の家督を継ぐことを運命付けられた女。かつて、魔術回路というものがなくとも間桐の家督を継ぐのは当然長男である僕だと思い込んでいた僕は、やがて間桐臓硯という存在が桜に家督を継がせるつもりだということを知り、酷く嫉妬し、憎悪し、溢れ出る負の感情のままに、桜を押し倒して、犯した。

 

「っ……、ぅあ……っ!」

 

抑えきれず声が大きく漏れた。その後も聖杯戦争が始まるまでの間、僕は僕の妹である桜を気の向くままに虐待して、強姦して、僕の鬱屈とした思いを晴らすための捌け口とした。桜は当然僕の事を嫌っているはずだ。そうでなくてはおかしい。そうでなくてはおかしいのだ。

 

「あぁ……っ! 」

 

しかし衛宮の手紙によれば、桜はそんな憎しみを抱いているはずの僕に対して、心配の念を送り、毎日欠かさずに回復魔術をかけ、身体に不備が出ないように世話をし続けたのだという。衛宮という男が嘘を嫌う人間である事を考えれば、それは確かな真実なのだろう。

 

――ああ

 

だとすれば、僕は。そんな桜を傷つけ続けてきた僕は。

 

――なんて、情けない

 

後悔が胸によぎる。僕が傷つけ続けてきた女の情によって五体満足に生かされ続けたという事実が、あまりにも僕を惨めにした。先ほど湧き上がった安堵の気持ちなど何処かに吹き飛んでしまっていた。それまでの痴愚を後悔した。自らに対する侮蔑の言葉だけが次々と浮かんでは消えてゆく。落ちる涙はいつの間にか別の成分のものへと変質していた。

 

――コンコン

 

「……兄さん?」

「……っ! さ、桜か……!?」

 

絶え間なく押し寄せる自己嫌悪の波に身を任せていると、突如として聞こえてきたノックとその声に、意識は一気に波打ち際から引き上げられた。胸が大きく高鳴る。暗くなりつつある部屋の中、僕と桜とを隔てる扉がやけに頼りなく感じた。

 

「大丈夫ですか? 大きな声が聞こえてきましたけど何か――」

 

ガチャリと音が聞こえた。ノブが回され、扉は今まさに開こうとしている――

 

「くるな!」

「――っ!」

 

慌てて叫ぶと、桜の驚きを表すかのように扉がガタリと上下に揺れ、ノブは元の位置へと戻される。扉は未だに僕と桜の間の境界を保っていた。

 

――こんな惨めな姿を見られずにすんだ

 

そんな事実に安堵すると、今度は桜なんかに対してそのような無様な態度を取ってしまったという羞恥心が湧き上がってきた。なるほど、どうやら、一時の感情の昂りに流されて反省の気持ちが湧いてきたが、僕の基本が傲慢で狭量だという点は変わったわけではないらしい。まぁ当然だ。人間、いっとき感情が昂ぶって反省や後悔の念が浮かんだからといって、そうそう変われるものじゃない。

 

「兄さん? 」

「あ、ああ。大丈夫だ。なんでもない。単にちょっと……。そう。ちょっと、驚いただけだ」

「は、はぁ……」

「そんなことより、桜。飯の準備はできたのか? 起きたばっかで腹減ってんだから、さっさと用意してくんないと困るんだけど」

「あ、はい。それならもう少しで出来ますけど……」

「そうか。じゃあ、出来たら呼びにきてくれ。僕はしばらくベッドで休んでいるから」

「……はい。わかりました」

 

扉の向こう側、桜は少しばかり僕の態度と言動に不信を抱いているようだったが、それに対して疑問を飛ばしてくることはなかった。おそらく、過去の僕が桜にした経験から、僕のいうことに逆らっても良いことはないから従っておこうとでも思ったのだろう。

 

――っ

 

そんな昔と変わらない桜の態度が、僕の後悔の念をいっそう強いものとした。後悔の念は荊となり、僕の心をどこまでも強く痛く締め付ける。この鞭と棘は、きっと、桜に対する負い目や衛宮に対する感謝の思いを消さない限り、消えることはないだろう。だから。

 

――決めた

 

「ああ、決めたとも」

 

決心した僕は、机の上に置かれているパソコンへと手を伸ばす。ボタンを入れると十年の月日が経っているとは思えないほどスムーズにパソコンは動き出していた。

 

――とにかくまずは、動く事から始めよう

 

取り急ぎ僕に似合ったハイソなバイト先でも見つけてやる。手紙には何かあったら一成を頼れだとか、藤村を頼れだとか、そんなことばかりが書かれていたが、冗談じゃない。あいつらに借りを作るなんてのは絶対御免だし、あの唐変木の真面目眼鏡や、センスと無縁な虎教師に任せちゃ、僕の感性と合わないような地味な仕事ばかりを回されるに違いない。あるいは馬鹿みたいに簡単な仕事ばかりを任されるかもしれない。

 

――そんなのは御免だ……!

 

意識を失っていた頃は仕方ないにしても、こうして目覚めたからには、誰かのお情けばかりを頼りにしている穀潰しの状態なんて僕のプライドが許さない。それが魔術師でもない普通の人間になんていうのはさらに御免だ。

 

――見てろよ……!

 

この僕の手にかかれば、高々十年のハンデなんてものは無いに等しいものだということを思い知らせてやる。覚悟を胸にキーボードを叩く。指先は十年のブランクなんて感じさせないくらい、軽やかに動き始めていた。

 

 

魔術というものは本当に便利だ。十年も眠っていた僕が、こうしてリハビリもなしに数日のうちに働きに出られるようになるのだから。

 

「ただいま」

 

見慣れた、しかし知らぬ年月が経過して多少古びた風格を持つようになった扉をあけると、しかし返事はない。玄関から通路の奥まで続く暗がりと、その奥にある扉の向こうにある明かりが、住人が在宅しているという事実を告げていた。

 

――またか

 

苛つきを覚えながら靴を脱ぐと、適当に揃えてからリビングまで一直線に向かう。

 

「おい、桜」

 

扉をあけて即座に呼びかけるも、桜は相変わらず部屋のリビングでぼうっとしていた。部屋の中では僕が朝つけた時のチャンネルのままで固定されているテレビが、静かな部屋には耳煩いくらいの音量で能天気なくだらない番組を垂れ流している。

 

桜は僕が目覚めてからここ数日間、毎日まったく同じような反応と生活リズムを繰り返す事しかしない。決まった時間に起きて、朝食の用意をして、家事と買い物を済ませたら昼から夜にかけてまでリビングでぼーっと過ごして、夜になると僕の食事の用意をしたり朝の残りを食べたりして、寝る。桜の生活はずっとそれの繰り返しだ。僕が指示を出さない限り、それ以外の行動を取ろうなんてことはしない。桜は真実、人形のようだった。

 

「あ……、――――――はい。なんでしょう、兄さん」

 

僕にはその理由が推測できた。

 

おそらく桜は、僕が眠っている間、暇さえあればあの妖怪ジジイに間桐の魔術の教育を施されていたのだろう。きっと桜は一日のうち大半をあの鬱屈とした蟲蔵の中で過ごしていた。それだけが桜の存在意義だった。しかし、今や桜へそれを強いる人物はいなくなってしまった。桜は自由を得た。

 

そう、桜は自由になった。しかし桜は、自由になった時間をどう過ごせばいいのかわからない。学生でない今、勉強をする意味もない。魔術師の本懐といえば魔術の探求にあるものだが、間桐家の支配者であった間桐臓硯という男の意志によって間桐の魔術を極める人形として教育されてきた桜にとって、桜自身の意思で間桐の魔術を極める動機がない。

 

だからこその、停滞。桜がこうして日々ルーチンをこなすだけの漫然とした生活を送っているのは、自らを長い間縛り続けてきた拘束から突如として解き放たれた結果、降って湧いてきた自由をどう扱っていいものか分からず持て余している、と、まぁそんな所だろう。

 

――ほんっと、バカな女

 

そもそもやりたいことなんていうものは自分で見つけるものなのだ。どんな風に生きるかなんていうのは自分の内側から見つけるものだし、やりたい事がないというのならそれを見つけられるよう自ら様々な情報に触れられるよう動くのが当然というものだろう。自らの進む道は自らで見つけ出す。それこそが真っ当な人間の生き方というものだ。

 

そうだ。他人に自らの行動の全ての決定権を預けて舵取りを完全に任せるなんて、正気の沙汰じゃない。まともな人間ならそんな事はしない。まともな人間ならそのような事はしないのだが――、しかし桜は迷わずあっさりとそれをやる。そうだ。桜はまともな女じゃない。桜は間桐の家に住まう住人によってそうとしか生きられないように教育されてきた女なのだ。

 

――桜、おまえ、ほんっと、馬鹿な女だよ

 

桜は、本当に愚かな女だ。そして桜をそんな風にしてしまった一因を担っているこの僕は、それ以上に馬鹿で愚かな男だ。

 

「なんでしょう兄さん、じゃない。この間抜け」

「あ、えっと……」

「飯だよ、飯。机の上に何も用意されてないじゃないか。もしかして台所、冷蔵庫の中の冷や飯を漁って食べろってわけ? は、冗談! 仕事行ってきて腹減ってんだから、さっさとあったかい飯の用意しろ、このグズ!」

「あ……、――――――はい」

 

命令を与えると存在意義を与えられたことが嬉しかったのだろう、桜は儚げに微笑んで台所へと向かう。音も立てずに向かうその様は、いかにもお淑やかで良妻然としていた。

 

僕がかつて付き合っていた女にもこんなタイプの女がいた。控えめというより流されやすく、はっきりとした意思表示時をしないから誰にでも利用されるような、いわゆる男にとって都合のいい女だ。付き合うなら絶対にごめんだけど、利用するならこれ以上ないくらい都合がいい。だから、僕もそういった女を何人か便利な道具としてストックしていた記憶がある。――けれど。

 

――こんなになっても、僕の世話を続けていたのか

 

それが僕の身内であり、僕はそんな女の意志によって世話され続けてきていた。そう考えると、遣る瀬無い思いが胸に湧き上がってくる。それは桜に対する腹立たしさであり、憐憫であり、同時に、そんな桜なんかに面倒を見られ続けてきた僕自身に対する苛立ちでもあった。

 

「さ……、――っ」

 

胸の裡から湧き出てきた相反する属性の思いを留めておくのが面倒だったのだろう、思わず口から自然と言葉が漏れかけて、しかしそれを無理やり飲み込んだ。口から出かけたのはおそらく桜に対する謝罪の言葉であり、感謝の言葉であったのだろうと思う。

 

だがそれを素直に伝えられる僕じゃない。また、これまで桜に対してひどく当たってきた僕が突如としてその態度を変えても、桜は怪訝に感じるだけだろう。僕と桜の間にはそれほどまでに埋め難い溝が存在している。溝を掘ったのは僕であり、桜であり、臓硯であり、鵺野であり、つまりは間桐の家に関わる全ての存在だ。

 

だから僕は十年前の時とほとんど変わらない態度で桜と接する。その上で僕は、桜との間に出来た溝を徐々に埋めていくため、何かをしてやり続けよう。何、時間はたっぷりあるんだ。少しずつ改めていったのなら、桜もそのうち不信感なく変わった僕と自分を受け入れてくれるようになるだろう。

 

 

「――ん、うまい。おまえ、基本的にグズだけど、料理の腕だけは僕も認めてるんだよ」

「……あ、……その、ええと……」

 

間桐の家を継ぐ人間としてこの桜という女が引き取られたのだという事を知った時、僕はそれこそ気が狂いそうになるくらい、陰気な妖怪ジジイと、クソみたいな親父のいる家に引き取られて可哀想だなと思う同情が吹き飛ぶくらいに、桜という女を憎悪した。

 

「……おい、この僕が褒めてるんだぞ。なんでそこで戸惑った態度見せるんだ、このグズ。僕を馬鹿にしてんのか。この僕に褒められたんだからそこは一言、『ありがとうございます』でいいんだよ、このバカ」

「あ……」

 

桜はそんな僕に対して、憎しみを返してくるどころか、憐れむ視線を向けてきた。これがいっそ僕が僕よりも劣った存在に向けるような、見下す視線だったのならまだ耐えられただろう。自分こそが選ばれた人間だなんて思い込んでいたなんて、なんと愚かな勘違いをしていたのかと馬鹿にするような視線だったのならばまだ耐えられた。

 

しかし桜が僕に向けてきたのは、憐憫の視線だった。自分があなたの居場所を奪ってしまってごめんなさい、と。自分が貴方にはない、貴方が欲している才能を持っていた御免なさいと、そんな謝罪と同情とが入り交じった、そんな視線をこの僕へと向けてきたのだ。

 

きっと桜にそんな意図がなかったのはわかっていた。この女は心底そう思っていただけだった。しかし僕には、そんな桜の視線がお前などこの世にいてもいなくても良い存在だと言われているようで、どうにも耐え難かった。僕が焦がれた全ての才能をもっていながら、こんなものは欲しくなかったと視線で訴える桜は、その視線をもってして、僕の憧れと憧れに対して行ってきた努力とそれに費やした時間の、つまりは僕の全てを否定いると僕はそう思えてしまいしかたなかった。

 

僕にはそれが心底耐え難かった。だから僕は、桜を犯して手篭めにした。そんな自分よりも上の位置にいる桜を犯して、穢して、汚して、蹂躙する事で、自分はお前なんかよりも上なんだと思い知らせるため、徹底的に虐め抜いた。僕は小悪党で、僕にとって桜は、自らの優秀さを取り繕う為だけの人形だった。おそらく聖杯戦争において遠坂凛という女に対して嗜虐心を抱き、やはり犯そうと思ったのは、あの女が僕の持っていない全てを持っているという理由以上に、おそらくそうして桜を犯し蹂躙した経験があったからなのだろう。

 

僕はそして桜を虐め抜き、魔術のための道具として扱い、桜が召喚したサーヴァントを奪い取って手駒にして聖杯戦争に参加し――、そして結果、僕は聖杯戦争に敗北して、輝かしい未来を手に入れるどころか、十年もの歳月を無駄にした。

 

「まったく、こんなのあの朴念仁の衛宮にだって出来てたぞ。おまえは曲がりなりにもこの僕の妹なんだから、あんな鈍感で馬鹿正直な馬鹿よりも馬鹿であってもらっちゃ困るんだ」

「えっと……」

 

まぁそれはもういい。起こった事をそうと受け入れられないほど、僕は子供じゃない。僕は自分の欠点や狭量さだって理解している。また、取り戻せないものを取り戻してやろうと思ってしまうほど自分は馬鹿でない。

 

「桜。返事」

 

それにそんなことよりも今は、この桜という僕の妹を立ち直らせる事こそが重要だ。僕がかつて憎んだこの女は、在ろう事か僕に自らが進むべき道を問うてきた。その時僕は気付いてしまったのだ。こんな意志薄弱の女が僕に向ける哀れみに対して僕が憎悪を抱くだけの価値などなかったのだ、と。こんな哀れな女などに十年もの間世話されてしまったという借りを作ってしまった僕は、この借りを返さずにいたのならば僕自身が惨めになるだけだぞ、と。

 

「あ……、ありがとう、ございます?」

「ふん……」

 

僕は僕自身が惨めであると思い続けるなんてごめんだ。だからこそ僕は僕自身のために桜を救うこととした。桜を救うための方法は大雑把に二つあるといえるだろう。

 

「それで、衛宮とは連絡が取れたのか?」

「えっと、それが……、先輩、また違う場所に移動しているみたいで……。携帯も持ってると逆探知が危険とかで持ってないらしく、連絡が……」

「はぁ? あの馬鹿いったい何処にいるってんだよ」

「えっと、確か……」

「ああ、もういいよ。その辺は次に手紙が来た時にわかるだろ。あいつは馬鹿だけど律儀だからさ。それより明日も仕事で早くから出かける。お前はいつも通り、買い物と家事済ませたら僕が帰ってくる前に食事の準備だけ済ませて、後は家で適当に過ごしてろ」

「はい」

 

桜を救う方法の一つはこれだ。桜の望む通り、桜が暇を感じる暇がないほどに細々とした指示を与え続け、桜を僕の人形として扱うこと。これこそが桜が僕に望む、桜が自分の救いだと思っている方法だ。けど、そんな方法を選択するのなんて、僕はごめんだった。

 

どういう意図によって行われた行為であれ、桜の行為は僕を救った。桜は僕を救ったのだ。そして僕は、僕のプライドにかけても、僕の命令に忠実に従うような人形のような人間なんかの意志によって救われたなどと思いたくない。この桜という僕の妹はこの僕を救ったのだから、せめて僕と同じ程度に立派な人間であってくれなければ、この僕は困るのだ。そう。

 

――桜がいつまでたってもこの有様だというのなら、そんな女に助けられたこの僕が、いつまでたっても惨めなままじゃないか……!

 

そう思うとひどくむかっ腹がたった。だが、すぐさま桜がそのような達観というか、諦念抱いたような態度を取るようになったのには、間違いなく過去の自分の視野の狭さと観察力の無さと思い込みが影響しているのだとふと思い返し、僕は冷静さを取り戻した。腹のなかでグツグツと煮立ちはじめていた気持ちはすぐさま冷却されてゆく。

 

「あー、…………おい、桜」

 

気持ちを落ち着けた僕は、台所へと向かう桜に呼びかける。

 

「はい、なんでしょうか、兄さん?」

 

桜は食器を片付けようとしたままの姿勢で僕の方を振り向いた。

 

「やっぱさっきのは無しだ。明日からお前もどっかで働け」

 

そこで僕は桜を救うためのもう一つの方法を提案する。すなわち、桜自身が自分の進むべき道を選べるようにしてやる事だ。

 

「……え?」

「僕が働いてるってのに、お前が家でのんべんだらりとしているってのが気にくわないんだよ。そうだな。お前、料理の腕だけはあるんだから、調理師とかの資格をとるもの悪くないかもな。確か、どっかの飲食店で何年か働けば資格とか手に入れられるらしいし、そっち方面でどっか探しとけ」

 

桜が今の今まで自分のやりたいことすら見つけられなかったのには、僕や僕の父が桜を蔑ろにし続けてきた以上に、桜があの妖怪ジジイの監視の下、この家にほとんど軟禁されている状態にあったのが最も強く影響しているのだろうと思う。

 

卒業してからというもの、桜は外界と完全に遮断されたこの家にほとんど篭りきりだったのだという。この狭い家の中、桜はあの間桐の魔術を研鑽する事以外に興味を持たない偏屈な妖怪ジジイと二人きりで過ごしていた。そんな状況であったというのなら、なるほど、魔術というものに関心を持っていない桜が臓硯という祖父を失ったのち、自己の意識で何かをしようと夢見る事がなくなったのにも頷ける。

 

井の中に住まう蛙が大海を知らないように、世の中に何があるかを知らなければ何かになりたいという想いなど湧いてこない。視野狭窄と経験の不足は、自らが進むべき道を選べなくする最大の敵だ。桜は外の世界を知る機会を奪われ続け、それによって人として生きる気力を失った。ならば桜が自ら選ぶようになれるようにするためには、まず、桜を外の世界に放り出す事こそが重要だと僕は考えたのだ。

 

「――でも」

 

我ながら名案だ、と思った僕のその提案を、桜は渋い顔をして受け取った。

 

「なんだよ。僕のいうことに文句あるっていうのか?」

「私――」

 

桜の顔が曇る。じっと体を抱きしめたまま、桜は急に動かなくなった。人形であることを望む桜が僕の命令をすんなりと聞かないなんて思っていなかった。さて、今の指示の何が桜にとって不満だったというだろうか。桜が僕に逆らう意思を見せる事柄と言ったら、それこそ、衛宮に関する出来事が、遠坂に関する事柄か、弓道部での出来事か、あるいは料理の――

 

――ああ

 

「なに、お前、まさか、汚れた自分の体で人が食べるもの作るのはどうかとか考えているわけ?」

「――っ」

 

桜の顔色が変わった。自身の体を抱きしめる力が強まったように見えた。どうやら図星だったらしい。ほんと、つくづくわかりやすい女だ。

 

桜は自らの両肩を抱きしめてカタカタと震えている。十年。おそらく僕が眠っている十年の歳月の間に、あの妖怪ジジイによって相当の虐めと人体改造を施されたに違いない。だからこそのこうまでの過剰反応なのだろう。

 

――くそ、死んでまで僕に迷惑かけやがって……!

 

僕はいまやこの家にいなくなったクソジジイに心の中で悪態をつきながら、桜に向かって口を開く。

 

「お前さ。ほんっと、馬鹿だよな」

 

言葉は自然と出てきていた。

 

「……」

「お前の体が汚れてて、他人に食わせる価値のない料理を作るってんなら、そんなお前の作った料理を美味い美味いって食べて褒めた僕はなんだっていうわけ?」

「……あ」

 

僕の言葉で桜の震えが止まった。桜がまっすぐ僕を見つめてくる。視線は相変わらず縋るような視線だった。桜は救いと肯定を求めていた。桜は葛藤していた。目の前の人間の言葉を信じていいものかと悩み苦しんでいた。桜は僕の言葉を疑っていた。それが酷く気に食わなくて――

 

「お前の言うことが正しいとしたら、僕がとんだマヌケみたいじゃないか。おまえ、僕を馬鹿にしてんのか。そんなくだらないこと気にしてる暇があったら、どっかで働いてこいっていってんだよ、このグズ。そんでもって少しでも僕を楽にさせろ。二度も同じこと言わせんなよ、このバカ」

 

強めに断言し、命令する。それは僕の心からの言葉だった。

 

「あ……、――――――はい」

 

聞いた桜は屈託無く笑った。それは桜がこの家にやって来てからというもの、この家にいるときには決して見せた事のない、珍しく影のない笑みだった。

 

「ふん……。じゃあ僕は寝る」

 

吹っ切れたらしい桜を見て満足した僕は、自室へと向かう。

 

「はい。……あの」

 

リビングを出て二階に向かおうとする寸前、珍しく後ろから僕を呼ぶ声があった。

 

「なんだよ」

「………………おやすみなさい、兄さん」

 

おずおずとしながら、桜は久し振りにそんなことを言った。桜の口から僕に対してそんな言葉を投げかけてくるのは何年振りだろうか。

 

「――――――ああ。おやすみ、桜」

 

機嫌よく返事を返してやると桜が再び屈託無く笑った。僕に向けられる視線には怯えがなかった。桜は久しぶりに、かつて衛宮にだけ向けていたような、無邪気な視線を僕へと向けてきた。さまざまな感情に揺れ動いていた心が穏やかな方向へと変化する。

 

――ああ

 

今夜は久し振りによく眠れそうだ。

 

 

間桐慎二。間桐家の長男にして、頭脳は明晰、容姿も端麗と言って過不足ない、私と血の繋がりのない兄。世界は自分を中心に回っていると信じてやまないタイプの人間で、だからこそ、描いた理想と目の前の現実に乖離があった場合ヒステリックに周囲へとあたり散らすような、自分勝手で、傲慢で、我儘で、まさに小人物を形にしたかのような人間と言っても過言ではない人物。そして。

 

――今や先輩も、姉さんも失ってしまった私に残された、私にとって唯一の、家族

 

「おい」

「あ、はい。なんでしょうか、兄さん」

 

十年の眠りから覚めた兄さんは、だからこそだろう、十年の年月が経過したことを感じさせない態度でいつものように私へと語りかけてくる。

 

「どうだったんだ、仕事は」

「えっと……、はい、皆さん優しい方でしたので……」

「ああ、そう。そりゃよかった」

 

兄さんはいつもと変わらない態度で会話を打ち切ると、ソファに深く腰掛けたままテレビへと目を向けた。テレビからは海外の映像にワイプを引っ付けただけのよくあるくだらない番組が垂れ流されている。兄さんはこのような番組に興味を持つタイプではないが、普通の女の子をひっかけるのには役に立つという理由からよくこういった類の下らない番組のいくつかをザッピングして眺めている。こう言ったコミュニケーションの為にマメな点は、私も見習うべきなのかもしれない。

 

「あー、……だめだ。つまんない。まったく、この十年で随分とテレビの質も下がったもんだね。どの番組を見ても馬鹿な芸能人が素人芸に対して頭の悪い意見を言ってるばっかで、なんの身にもなりゃしない」

 

兄さんは基本的に正直な自分の思いをそのまま告げるタイプの人間だ。つまらないことはつまらないというし、面白くないと感じたら面白くないと本心からいう。そして世の中の大概のことを上手にこなせる兄さんにとって、世の中の大半以上の人間はくだらない存在であり、見下して然るべき存在で、事実兄さんはそうした自分以下の能力しか持たないような人たちに対して平然と見下した態度をとる。

 

だからこそ兄さんは男女ともに敵は多い。だが兄さんにとって自分よりも下の実力の人間の意見や感情というものは、それこそいてもいなくても、あってもなくても変わらないものであるので、兄さんはそうした敵意を向けられることをまるで気にしない。兄さんはそういう意味ではとても心の強い人間である。

 

「おい、桜。腹減った」

「あ、はい。今すぐに用意しますね」

「ああ。早くしてくれよ。お前の飯だけが楽しみで、僕はさっさと帰ってきたんだからな」

 

そして兄さんは同時に、自分の益になる部分において実力を持つ人間、すなわち、兄さんにとって「使える」人間である場合は、迷いなくその腕前を褒める人間でもある。だから兄さんは、多くの人に嫌われている代わりに、例えば先輩のような、馬鹿正直すぎてその高い能力を他人に利用されがちな人からは受けが良かったりする。

 

――それはもう、私が妬いてしまうくらいに

 

「はい」

「ああ」

 

兄さんは基本的に、他人をその純粋な実力のみで評価する。過度に自信たっぷりだったり、色眼鏡をかけて相手を見る癖がある為、もちろん完璧にそんな特性が常に発揮されるというわけではないが、兄さんは基本的にそう言った、とても自分の気持ちに素直な人間である。

 

「うん、美味い。お前、本当に料理だけは一丁前だよなぁ」

 

兄さんは正直だ。そんな兄さんが褒めるといいうことは、兄さんが私の料理の腕前が世間一般の一定水準以上にあると認識している証拠だ。

 

「……ありがとうございます」

「そうそう、それでいいんだ」

 

それが嬉しくて、少しばかりはにかんだ笑みを見せると、兄さんは機嫌よく笑う。そんな子供っぽい態度が懐かしくってさらに笑みを深めると、多分兄さんは自分が機嫌よく笑ったことが私の気分を良くしたのだと勘違いしたのだろう、さらに上機嫌に私の料理を褒めながら口に運ぶ。蟲の体をしていた間桐臓硯は暖かい人間の食事など必要としていなかったから、十年ぶりに出来たそんなやりとりが懐かしくて私はまた――

 

「どうします? まだ、作ろうと思えば作れますけれど」

「ああ、じゃあ、お願いしようかな」

「はい」

 

笑って兄さんが喜びそうな事を進んで行う。歪んでいるとは思う。私と兄さんの在り方があまり褒められた関係でないのは承知の上だ。数年の間私を虐待し、さらには私を強姦した事のある兄に対してこのような感情を抱くのは間違っていると思う。でも、それでも。

 

――兄さんは、私の汚い事情を全部知っての上で、それでも私の事を褒めてくれる唯一の相手であり、そして今や唯一の私のそばにいてくれる、私の家族でもあるのだ

 

私は結局、この間桐という家から逃げることが叶わなかった。たっぷり十年以上かけて間桐臓硯という相手によって手折られた心は、もはや自立心というものを完全に失っていた。私を助け出そうとしてくれるかもしれなかった相手は、五百年を生きた妖怪の老獪な交渉術によりはぐらかされ、ついぞ私を助け出してはくれることはなかった。

 

――それに

 

結局、私のそばに残ったのは、私と同じくこの間桐という家に囚われ、そして生涯を歪まされてしまった間桐慎二という私の血の繋がらない兄さんだけだった。兄さんは自らの体に宿っていた魔術の才能を疎んでいた私と違って、間桐の家に受け継がれてきた魔術というものを誇り、魔力もないのに錬金術を使えるくらいようになるほどの鍛錬を自ら行ってきた。兄さんは、自分こそが当主に相応しい人間であり、それを周囲に人間にわからせてやるという野心を抱いていた。だからこそだろう兄さんは、そして野心を実現させるために聖杯戦争というものに参加し、結果――

 

――今の兄さんは私と同じだ

 

聖杯戦争が集結し、姉さん――遠坂凛の手によって助け出された兄さんは、身動き一つ取れない意識不明の状態で間桐の家へと運び込まれた。遠坂家の手のものによって間桐の家へと運び込まれてきた兄さんの姿に、私は、かつての遠坂時臣の手によって間桐家へと連れてこられた私の姿を見た。

 

――あの時の無力な兄さんは、まさに子供の頃無力だった私に等しかった

 

だから助けた。そうだ。私が間桐臓硯という家長に懇願し、日々の穢れた間桐の魔術に関わる時間を増やしてまで昏睡状態の兄さんを助けたのは、家族だから、兄だからとかいうそういう立派な理由ではない。ただ、そんな無力な兄さんの中に私を見つけてしまったからこそ、私はそんな兄さんを助けようという気になったのだ。

 

先輩はそれを私が兄さんを心配しているからの物だと勘違いしていたけれど、私は私のために、私を助けるような気持ちで兄さんを助けたのだ。私は所詮、私の都合で、私のためにしか動けない人間なのだ。

 

――そして今の兄さんは、十年前の私に等しい

 

また、その後続いた昏睡状態によって、兄さんは十年の月日を失った。今や兄さんはかつての私と同じだ。十年もの間不毛な年月を間桐の家で過ごした兄さんは、今やまさに間桐の家で同じくらい不毛に時を重ねて生きていた私と等しい存在に落ちて来たのだ。

 

――歪んでいるなんていうのは承知の上……

 

今や兄さんは私なのだ。ならばそんな兄さんに対して喜ばれるような行為をする事は、私が私のためにする行為となんら変わりないといえるだろう。ならばこうして兄さんの喜ぶ行為をすることになんの不都合があるというのだろうか。

 

「物分かりが良くなったじゃないか。さすが僕の妹だな」

 

そんな事を思っていながら兄さんの世話をやいていた矢先、しかし兄さんが告げたその言葉を聞いた途端、自然と私の暗澹とした思考は止まり、体が震えだしていた。食器を持つ手はカタカタと震えている。心臓の鼓動が一気に早まった。私の神経を昂ぶらせているそれは恐怖の感情だった。かつて間桐慎二という私の兄が『僕の妹』という言葉を告げる時は、そのあと決まって酷い事をされる時だった。

 

――久しぶりにひどいことをされてしまう

 

そう思った瞬間、私は言い訳と後悔ばかりが支配する私の意識の中から一気に現実へと引き戻されていた。

 

「……はい」

 

体の震えを必死に抑え込みながら考える。はたしていったい兄さんは私に何をしようというのだろうか。ここがリビングである事を考えればいきなり襲いかかってくるということはないだろうが、しかし気まぐれな兄さんのことだから急にそんな気になったと言って襲いかかってくることもありえるかもしれない。

 

そう考えるだけで、体が震えそうになる。私の中にあるスイッチが入って、私は一瞬で誰かに従うだけの人形となる用意が出来ていた。

 

――ああ

 

体が、心が、絶望の未来を予想して冷え込んでゆく。私にとって兄さんは、私と似た存在になった人であり、家族であると同時に、やはり私にとって支配者に等しい人間だった。

 

「あん? どうした。急に陰気な雰囲気だしちゃって」

「……いえ、別に」

「そう。じゃ、さっさとお代わり持ってきてくれる? 腹が膨れてから持ってこられても迷惑だからさ」

 

などと考えていると、しかし私の予想に反して、兄さんは何もしてこなかった。それどころか呑気に食事のおかわりを要求するしまつだった。そんな兄さんの態度に不審を覚えるとともにまた、安堵も覚える。さては兄さんも十年寝ている間に少しばかり性格が柔らかくなったという事なんだろうか、と、淡い期待が胸に湧き上がった。

 

「はい。……わかりました」

 

とにかく自分に危害が加えられないというのであれば、何も文句はない。兄さんの気が変わらないうち、早々に食事の用意を準備する。そして私の拭い切れぬ不安と恐怖に反して、私の心配はやはり杞憂に終わる。結局、この日、兄さんは私に何一つとして酷い事をしないまま、用意された二皿目を平らげると、早々に風呂に入ったのちに部屋へと引き上げていった。

 

リビングには私一人だけが残される。エプロンを椅子にかけると一気に気が抜けて、深々と椅子に背を預けて、ため息をついた。そのまま、吸って、吐くと、鬱屈とした感情ばかりに満たされていた心が驚くほど澄んでゆく。そう。今、間桐の家の空気は、これまで常に纏っていた陰鬱さが信じられないくらいに澄み切っていた。

 

 

僕が目覚めたその日から半月ほどが経過した。季節は秋。山の方からやって来る吹き下ろしの風に乗ってやってきているのだろう、山から川にかけてある住宅街を縫うようにしてある二車線の道路には、赤、黄、と秋色に変色した木の葉が舞い、鬱陶しい。僕が意識を失ったのが十年前の冬であるからして、僕の感覚からすれば約半年以上も時が消し飛んだかのような感覚であったけれど、そうして久方ぶりに眺める秋の景色というものは、やはりかつてと同じように、僕にとっては変わらず目障りかつ邪魔なだけだった。

 

衛宮からの手紙はまだ来ない。どうやら遠坂と共にロンドンを離れていこうというものずっと返信の手紙を返す宛先の定まらない生活を続けているらしく、おかげで衛宮に僕の目覚めを伝える手段もない。もともと高校の頃においても一つの部に定着することなく、フラフラとあちこちをうろついては自発的に機械の修理を行って去ってゆく、通称『穂群原のブラウニー』こと衛宮士郎らしい根無し草なっぷりではあるが、まさか十年たった今までそんな生活を続けているとはおもわなんだ。物好きというか、単純バカというか――

 

――ま、そんな単純バカに感化された僕が言えるセリフじゃないか

 

昔の僕が今の間桐慎二を見たらきっとなに安っぽいヒューマニズムに影響受けてんのさ、とか大笑いするに違いない。今の多少変わった事を自覚している自分ですらそう思うところがあるのだ。ならば昔の、今よりもさらに自己本位な頃の自分だったならば、間違いなく、他人より優れている間桐慎二らしくないと馬鹿を見る目で自分を罵倒していたことだろう。

 

――ほんっと、我ながら馬鹿になったもんだよね

 

そうだ。少なくとも以前までの僕なら、十年もの年月を寝て過ごしたなどと知ったのならば、その後すぐさまなんらかの仕事を探してそれをこなそうなどと考えることはしなかっただろう。感情の捌け口として桜に当たるか、適当な女を引っ掛けてストレスを解消していたはずだ。

 

そう。こんなのは僕のキャラクターじゃない。そういう暑苦しいのは、あの正義馬鹿か、口うるさい生徒会長――ああ、元か――くらいで十分なのだ。そう、十分だ。十分。十分なのだが――

 

――ま、たまにはこういうのも……

 

悪くない。そう思えるようになった自分は、さて成長したのか、劣化したのか。

 

――ふん……

 

そんなくだらないことを考えながら不機嫌に笑い歩く最中、坂道の上方を眺めた。視界の先には間桐の家が映っている。間桐の家は盆地である冬木の街の上の方に存在している。住宅のある場所自体は静かで日中日夜過ごしやすい場所にあるのだが、最も窪んだ場所にある中央の川を挟んで反対側にある駅前の街から歩くとなると短くない坂道を登ることとなってしまうので、少なからず労力と時間がかかってしまうのが欠点だ。

 

――まったく、なんでまたご先祖様もこんな不便な場所に家をつくったもんかね、ええ?

 

冬木の大きな霊脈の上に作った、というご先祖様が現在の場所に家を建てた理屈は知ってはいるものの、もう少し住居としての利便性を考えろと文句を言いたかった。学生の頃はそうも感じなかったが、流石に十年もの時が経過するとあの頃と同じと言うわけにはいかないらしい。

 

自分は年をとった。かつての傍若無人だった頃の僕と比べれば平和ボケしたような考えを受け入れられるようになったのもそのせいだろう。思考どころか肉体すらもあの頃より衰えていて、一歩を踏み出すごとに体が疲労の蓄積を訴え、嫌味のように足裏は湿気た朽葉が気持ちの悪いぞと伝えてくる。まるで僕の変化を嘲笑っているようじゃあないかと自嘲しながら、それら全てをしっかと踏みしめてただ前に歩く。自宅である間桐の家はもうすぐそこだった。かつては鬱屈とした雰囲気を纏っている家に帰るのが億劫だったものだが、そうして今か今かと待ち人からの手紙を待ちわびるいまや、こうして急な坂道続く帰路を歩くのですら少し楽しい心持ちになれていた。

 

――ん?

 

そんな無駄な労苦を楽しんでいる最中、唐突に僕の視界に一人の男が飛び込んできた。そいつは中肉中背のスーツ姿で、印象に残らない顔立ちをしていた。裾と手首の僅かなすき間と首から顔にかけてまで続く肌の白さから察するに、恐らくは外人だろう。違和感といえば、まだ冬でもないのに両手に黒い手袋をはめているところだろうか。そこそこ値の張りそうなシワのないスリーピースをかっちりと着込み、まだ真新しい旅行タグのついたスーツケースを片手にしているあたり、恐らくはこの街の住人ではあるまい。そんな男が、僕の家の塀の前で僕の家をじっと見て立ち止まっている。僕はうんざりした。

 

――またか

 

「おい。そこ僕の家だぞ。大きくて古い家が珍しいのはわかるけど、悪いけど邪魔だからさっさとどいてくんない? 迷惑なんだよね」

 

間桐の家はこの冬木という街においても古い歴史を持つ家で周囲にある家々と比べても頭一つ抜けて大きな家だ。だからまぁ、時折こういった街の外からやってきた連中が物珍しさから目立つ僕の家をわざわざ見に来ることも珍しくない。おそらくこいつもそういった礼儀というものを知らない連中の一人なのだろうとあたりをつけた文句だったのだが――

 

「間桐――、慎二だな?」

 

どうやらそんな僕の予想は外れてしまっていたらしい。突如として見知らぬ人間から話しかけられたことで内心に僅かばかりの驚きが湧く。が、滲み出るような驚き以上に、そいつの不遜な態度が気に食わない。他の有象無象ならともかく、この間桐の家の前で、今や他でない間桐の当主である僕に対してそんな態度を取ってもらっては困るというものだ。

 

「ああ? なんだ、おたく、この僕に用があったってわけ? 」

「いや、お前に用はない。用があるのは、貴様の妹にだ」

「あん?」

 

ひどく腹たつ事に、外国人にしてはやけに流暢な物言いで僕の言葉を否定したそいつは、よりにもよって僕ではなく僕の妹に用があるなどとほざいている。訝しげに観察の視線を向けてやると、その男は懐から一枚のエアメールを取り出してその真新しい表面をこちらへと向けてきた。From Japan, To London.送り主は桜で、その宛先は――

 

「時計塔。――――――ああ、そういうこと。おたく、そっち方面の関係者ってわけ?」

「如何にも。この度、間桐臓硯の死亡報告を受けて、その事後処理対応のためにやってきた」

「ふぅん、そう」

 

なるほど。ならばこの男が僕に用がないと言う理由も、僕に対してムカつく態度をとる事に、腹が立つことだが理解ができる。おそらく今、間桐の正式な当主は桜という事になっているのだろう。まぁ、当然の事だ。僕は十年眠りきりだったし、何より僕には魔術回路がない。

 

時計塔の連中は魔術回路の数と血統こそが優秀な魔術師の証だと考えるような連中ばかりと聞く。そんな奴らに取って魔術回路のない僕など、それこそ路傍の石よりも価値のない存在だと思っているからこそ、このように僕を見下したかのような態度をとるのだろう。

 

「で、その時計塔からの使者様がなんで僕のうちの前で間抜け面晒しているわけ? 桜に用があるってんならさっさと呼び鈴鳴らして入りゃいいじゃないか」

「そのつもりだったが、何度鳴らしても返事がない。だからこうして家の住人の誰かが帰ってくるのを待っていたというわけだ」

「ふぅん……」

 

そんな事を言うそいつを尻目に、僕は自宅を眺めた。間桐の家は一階のリビング部分の明かりがついてはいるものの、まるで家自体が死んでしまっているかのように驚くほど沈黙を保っている。

 

「まぁいいや。お前、桜に用があるんだろ?」

 

そんないつもとは違う自宅の様を眺めながら、僕はそいつの横を通過する。

 

「ああ」

 

話しかけるとそいつは期待を込めた瞳をこちらへと送ってきた。僕はその視線を無視して自分の背後へと追いやりながら歩くと自宅の前に設置された鉄格子の扉を通り抜けて――

 

「そう。じゃ、ま、残念だったね」

「む?」

「お前みたいなムカつく敵にうちの敷居を跨がせやしないってんだよ、この間抜け!」

 

そのまま鉄門を締めると鞄の中からこの家の真価を発揮させるための書物を取り出しつつ、玄関まで一気に駆け抜ける。最中、本を抜き出して腕を振るうと、背後では自宅より飛び出た数匹の蟲が、無礼な訪問者に向かって飛びかかった。

 

「なにっ!?」

「舐めてもらっちゃ困るね! 魔術回路を持ってないとは言え、この僕は間桐の人間で、ここは間桐の家という魔術師の要塞だ! 招かざる客に対しての堅牢な防衛機能の使い方くらいは当然熟知しているさ!」

 

僕が敵と見定めたそいつへと向かうのは、男性器によく似た見た目の造形をした間桐の改造蟲だ。男の股間にぶら下がっていてもおかしくない見た目をしたそいつは男性器でいえば亀頭にあたる先端部位の、いわゆる尿道口に当たる部分が口となっており、口の内側には鋭い歯が揃っている。グロテスクかつ趣味の悪い見た目には正直辟易とするが、見慣れた僕であってもこうして嫌悪感を抱く程度には相対した人間の正気や気力を削ぐ効力があり、実際有用なのだから仕方ない。ともあれそのような蟲を敵めがけて発射した僕が玄関までたどり着いた後に振り向くと――

 

「――役立たずめ」

 

時計塔からやってきたと嘯く魔術師に殺到した蟲どもは、いつの間にやらそいつの前方を庇うようにして作りだされていた魔術防壁に遮られ、一匹たりとも目的を果たせずに地面に落ちていた。魔術師はどうやら静止の結界、というよりは、物理的攻撃を防ぐ魔術障壁のようなものを作り出して、攻撃を防いだようだった。叩き落とされた蟲どもがガチガチと歯を鳴らす音だけが静かな空間の中で耳障りなくらいに大きく響いている。

 

「ちっ……! 面倒くさいヤツ……」

「……貴様。これはどう言うつもりだ」

「どう言うつもりかって? ――は、お前の方こそどう言うつもりでウチに来たんだよ。ウチには死んだ妖怪ジジイが張った結界がかけてあってね。その効力の一つに、訪問者の害意を察知し、もしも訪問者に害意があった場合は特定の相手にだけが伝わるってのがあって、間桐の人間に対して害意を持った人間がチャイムを鳴らしても、桜には伝わらないようになっているのさ」

「――」

「おおかた、桜は衛宮に似て甘ちゃんな所があるし、あのジジイは桜のことを間桐の後継者として可愛がっていたから、桜を敵意を持った人間と相対させるのを嫌ったがため処置だろうさ。だからこそそんな輩が訪ねてきた際には自分が代わりに応対できるよう、敵をぶっ殺す為の仕掛けとともにそんな面倒な仕掛けをつくったってんだろうけど――、ま、とにかく、そんな仕掛けにまんまと引っかかったお前は、僕たちに取って敵だってことだ。そんな僕たちに害意を持つ敵を攻撃して何が悪いってのさ! 」

「――っ!」

 

魔術回路を持たない奴にとって見下す対象だったのだろう僕という相手に自らの間抜けさを見抜かれたのがよほど悔しかったらしく、奴はギリ……と、二十メートルは離れた場所にも聞こえてくるくらい大きな歯ぎしりの音を立てた。

 

奴の悔しげな所作に多少溜飲が下がる。だがもちろん、油断はしない。油断などができる状況じゃあない。そんなことは鋼鉄にも歯型を残せるほどの咬合力を持つ、弾丸ほどの速さで飛翔する蟲が、一切その威力を発揮することも出来ずに魔術防壁の前に敗れたことから十分理解出来てしまう。目の前にいるそいつは少なくとも、拳大ほどの巨大な弾丸を防ぐ事ができるほど守りに長けた優秀な魔術師であるのだ。

 

「慎重に事を進めたかったが仕方ない。邪魔をするというのなら容赦はしない。――どけ、小僧」

 

やがて怒りに身を震わせていたそいつは苛つきを隠そうともしない様子で呟くと、途端に地中より伸びた土の槍が自らの周囲に落ちた蟲どもへと突き刺さった。人工生命体である蟲の末期の奇声が気味悪く周囲に響き渡る。

 

――無詠唱魔術……!

 

一工程の呪文や仕草を見せることもなく魔術を発動させるというのは、相当の実力がないとできないことだ。どうやら目の前のこいつはやはり無能などではなく、攻守共に長けた一流の魔術師であるらしい。

 

「は、なんでこの僕がお前なんかの命令に従わなきゃならないんだよ!」

 

言いながら身を引き、慎重に奴へと観察の視線を向けなおす。奴は僕と視線が合った途端、いかにも魔術師然とした怜悧な目つきで構える僕を強く睨んでくる。

 

「もう一度警告する。邪魔だ、どけ。一本の魔術回路すら持たない貴様には欠片も用はない」

「ムカつくね。この僕を無視して桜だけを付け狙うその根性といい、ほんっとお前、気にくわないよ! 」

 

奴の警告が発せられたと同時に再び間桐家の防衛機構を働かせる。霊脈より吸い取った魔力が即座に蟲の形状をした攻撃の意思を持つ物理現象へと変換され、間桐の家は再び万全の迎撃体制へと移行した。

 

「だからさっさと死んじまえよ、お前」

 

敵意を含んだ言葉を発するとともに、間桐家の攻撃機構を働かせる。間桐の家の敷地内の四方八方から飛び出した空を埋め尽くすほどのグロテスクな見た目の蟲の群れは、宙を滑空しながら魔術師めがけて殺到した。

 

この度僕は、先ほど魔術師が自らの前方にのみ魔術障壁を張ったのを参考に、蟲一体あたりの威力よりも数を重視してに全周囲から奴を襲えるよう、蟲どもを量産した。そして生みだされた蟲の群れは、蟲一体が保有する威力こそ先ほどの数匹の蟲のそれにこそ劣るものの、回避の不可能性を保有するとともに、ショットガンをぶっ放した時以上の威力をもつ殺傷性の高い武器となっている。

 

「――っ!」

 

奴の顔に驚きの表情が浮かんだ次の瞬間、破砕音が響き渡る。蟲はあっという間に魔術師のいたあたりに到着すると、次の瞬間には地面を砕き、砂埃を宙に巻き上げ、奴の姿を見えなくしてしまっていた。門前があっという間に砂塵で覆われてゆく。そしてしばらくの間は、閑静な住宅街に耳障りな音が鳴り響き続けていた。

 

それでも家々から人が出てこないのは、間桐の敷地から周囲数十メートルの位置にまで消音と人払いの魔術結界が張られているお陰だ。張られた結界の効力により、間桐の敷地とそこから数十メートルの区域内から生じた音について人々は関心を持たなくなるし、そこで起きている出来事についても同様となる。

 

「そろそろ死んだか?」

 

やがて舞い上がる塵の量が薄くなったのを見計らって、僕は消音の結界が敷かれているのを良い事に思い切りぶっ放していた蟲による攻撃を中断すべく、攻撃停止を間桐の家へと命令した。書物を通して僕の意思が間桐の家へと伝わり、稼働中のシステムが停止する。射出音が小さくなってゆくにつれて、同時に破砕音の大きさも小さくなってゆく。遅れて蟲が地面と衝突した事により生まれ続けていた土煙がさらに薄れていった。

 

魔術師というものは魔術というものを信奉するあまり、彼らの用いる魔術防壁というものは物理圧力に対する防護よりも純粋な魔力攻撃に対する防護壁として展開される場合が多い。それを見越しての、物理圧力を強めた蟲による圧殺攻撃は、まともに食らったのであれば、人間はおろか魔術師であったとしても肉片一つすら残らないはずの攻撃だった。――しかし。

 

「――訂正しよう。魔術回路がないとはいえ、さすがは御三家に連なるもの。相手を敵と見るや否や必殺の攻撃を仕掛けるその判断の速さと迷わない手並みは見事だ」

「な……」

「だが残念だったな。御三家と呼ばれる間桐の家の魔術と、その魔術師の工房とも言える自宅という場所を私は侮っていない」

 

塵一つすらも残らぬような物量の蟲による攻撃を真正面から食らったはずのそいつは、平然と土煙の中から姿を表しながらそう言った。煙が腫れてゆくとともに、奴の姿が露わになってゆく。無傷のまま平然と立ちふさがる奴。開かれたスーツケース。おそらくそこより飛び出したのだろう無数の石が奴を守護するかのように奴の周囲の空間を飛び回っている。そしてその石に書かれているのは――

 

「――……っ! ルーン魔術か……っ!」

 

ルーン文字。北欧神話においてオーディンが首を吊り蘇ったのちに持ち帰ったとされる、この世の理を表しているとされている力ある文字の群れだった。神の用いていた文字の真なる力を引き出す男は僕の言葉を聞いて、笑う。嗤う。

 

「如何にも。言葉にすれば力となる故にその貴き名を呼ぶ事は出来ぬが、古く血筋を辿れば原初においてフサルクのルーン以前にあった文字までを開発した祖に辿り着く我らの血筋は、魔術師ならざるものにまで知られてしまい神秘の力が薄まってしまったルーンの力というものを最大限に引き出すことを可能とするし、貴様ら通常の魔術師には知られていないルーンをも受け継いでいる」

 

やがてルーン文字の刻まれた石の群れを操っていたそいつは間桐の門前に敷かれた結界へと近づくと、手袋を外し、自らの指を差し出した。

 

「そう。それは例えばこのような――」

 

男のものと思えぬほど細い指先がルーンの刻まれた石の結界より出でて結界より出でる際、その指先がルーンの石によって僅かばかりに切り裂かれた。ポタリ、と、赤い血が地面へ垂れる。僕は直感した。何をしようとしているのかは知らない。わからないが――

 

――何かわからないけど、これはやばい……!

 

差し出された指先はこれまでとは比べ物にならないくらい不吉な気配を含んでいた。悪寒は瞬時に背筋を駆け上がる。何かは知らないが、魔術師が自らの血を流して何かをしようとしているというその行為自体が、まず持ってやばい。

 

魔術回路を持たぬとはいえ魔術の知識を多く納めた僕の脳裏を刺激し、奴のその行為を止めろと警告を繰り返していた。僕は全身を貫く寒気に押される形で、再び慌てて蟲の攻撃の第二射を放とうとする。やつが何をしようとしているかはわからない。しかし、あれをさせるわけにはいかない。

 

「よせ! 」

 

少しでも時間を稼ぐ目的で僕が警告の言葉を放つと同時に魔術師が嗤った。それは先ほどまで浮かべていた僕を侮るものではなく、純粋に、教師が出来のいい生徒を褒めるかのような、そんな喜色の笑みだった。

 

「良い勘をしている。第六感は魔術師にとって何より重要なスキルだ。もし君に魔術回路があったのであれば、君は素晴らしい魔術師となっただろう。互いに過去より秘蹟を継いだ家に関わるもの同士、もしかしたら私達は友人に慣れていたかもしれない。――だが」

 

奴は僕の言葉を無視して指を結界に近づける。

 

「僕は動くなと言ったぞ!」

 

僕は反射的に蟲の群れを放っていた。間桐の家のあちらこちらより出現した先程よりも大量の蟲が、目の前の僕に悪寒を発生させた源へと殺到する。それは紛れもなく今の僕にできる最大最速の攻撃だった。――しかし。

 

「だが、残念。手遅れだ」

 

蟲が魔術師の露わになった指先部分へと到達してその細い指先を食いちぎるよりも先に、魔術師の血が間桐の家の結界へと触れた。そして次の瞬間、目に見えぬはずの結界に、目にも映らない速度で血文字が刻まれた。

 

血文字は奴がその身に収めているというルーンにも見えたが、僕はあんな形状のルーン文字を知らない。故に戸惑う。戸惑った僕は、ルーンという魔術がその文字の名を呼ばねば真なる力を発動しないというルールを思い出し、慌てて蟲の向かう先をその細い指先から喉元へと変更した。そして攻撃箇所変更の命令を受けた蟲たちは、僕の迷いに呼応して僅かばかりに遅くなりながらもすぐさまその喉元へと向かおうとして――

 

「――/初期化」

 

それが致命的な隙となってしまった。蟲が奴の喉元食いちぎるよりも先に、奴の口よりなんらかの言葉が発せられた。奴が発したその言葉を僕は聞き取る事ができなかった。いや、言葉の意味を理解することはできたが、奴が何という言葉をもってして初期化という意味を僕に理解させたのか、僕にはさっぱり理解ができなかった。まさかかつてバベルの塔が崩れる前に語られていたとされる統一言語でも語ったとでもいうのだろうか。

 

「な……っ」

 

などと今しがた起きた不可思議についての考察を行なっていると、突如として奴へと殺到していた蟲はすべからく力を失って地に堕ち、間桐の家を覆っていた堅牢強固なはずの防御結界は、まるで空気に溶けてゆくかのように自然に消滅した。

 

「――嘘……、だろ?」

 

あまりあっけない結末に思考が停止した。この場から逃げ出そうという気が起こらなくなるくらい強固に自分たちをこの地に縛り付けていた、そしてそんな堅牢さを以ってして自分たちを守っていた数百年ものの結界が、こうもあっけなく消滅したという事実に、理解が追いついてこなかった。

 

「これが隠されたあるルーン文字の効力だ。古く北欧において太陽とは狼に挟み撃ちにされる程度の存在であり、やがて死したのち復活する存在でもあった。そしてそれ故に、それらの文字の中間に属するこの文字の意味は太陽狼、すなわち、全ての力ある存在を死に追い込む存在、いう意味を持ち、全ての特異な力によって作られた状態を元に戻す効力を持っている」

 

やがてそんな信じられぬ現象を起こしたそいつは、平然と今しがた自らが起こした現象について語ってくれる。懇切丁寧な態度の裏側には自慢のようなものが含まれており、なるほど今しがたの信じられぬ現象は、確かに目の前にいるこの魔術師の意志によって引き起こされたものなのだということを、僕は否応もなく理解させられた。

 

「……くそっ!」

 

理解が脳裏に及んだ瞬間、正気を取り戻した脳は再び目の前の脅威たる存在への攻撃を命じてくる。凍結していた体はその命を聞いた瞬間、再び間桐の家の防衛機構に命を下すべく動こうとする。

 

だが――

 

「遅い」

「がっ……!」

 

魔術師は僕が間桐の家の防衛機構へと命を下すよりも先に、僕の首根っこを掴んで玄関の扉へと押し付けた。瞬間的に十数メートルもの距離を詰めた反動がモロに僕の体へと襲いかかり、背中から抜けていった衝撃が年季の入った玄関の扉を吹き飛ばす。僕は首根っこを掴まれた状態で自らの家に帰宅する羽目となり、続けて数百年もの間堅牢を保っていた守りは完全に破られ、間桐の家は外と内の境界を失い、呆気なくその隠匿しておくべき秘蹟に満ちた内部へ招かれざる客が足を踏み入れる。水の属性である間桐の家独特の、肌にまとわりつくような空気は、今や完全に霧散してしまっていた。

 

「抵抗するな。お前に魔術の才能がないことも当然調査済みだ。その才能がないお前にこの状況を覆すことなどできやしない。……本来ならば隠匿すべき魔術を見た一般人は消すのが我ら魔術師に課せられた使命である。――だが、私は、私個人として、お前が気に入った。貴様に魔術師としての才はない。だが貴様には、魔術に携わる者として、自らとそれに属するもの以外は敵と判断し、即座に排除を試みるだけの覚悟が備わっている。貴様は魔術師でないが、同時に、魔術に携わる者として十分な素質を備えた者である。故に私は、大人しくしていればお前に危害は加えない。我々はお前の命を我々は必要としていないからな」

 

魔術師の男は僕が死なぬように気を使いながら、抵抗出来ない程度の力で僕の首を締め付け続けながら、なんとも上から目線な言葉を吐きやがる。要はこいつは、僕は魔術師という存在とは認めないけれど、魔術師に仕える下僕に相応しい存在であるとして僕のことを気に入ったと、そう言っているのだ。

 

「ムカつくね……っ! お前、ほんっと、僕のムカつくことばっか言ってくれるよ! 」

 

それが僕のプライドをひどく傷つけた。まだ自由の効く両腕をやつが僕の首に添えている片腕へと持っていくと、思い切り力を込めて可能な限りの抵抗を試みる。

 

「ここまで実力差があることを理解していながら、間桐の領域に踏み入らせまいと抵抗をやめない。なるほど、やはり君は魔術師に仕える者として素晴らしい存在だ」

「誰が……、ぐぅ……っ!」

 

自己完結するばかりで僕の心理などまるで解そうとしない如何にも魔術師然としたその男は、勝手に納得した挙句、僕の首を絞める力をさらに強め、さらに高く僕の体を浮き上がらせる。自重によって呼吸器が狭まる。息苦しさが増した。視界がぼやけてくる。耳鳴りがして、徐々に意識が薄れてゆく。悔しい。苦しい。思いは螺旋を描きぐるぐると頭の中を駆け回る。どれだけ暴れまわっても無駄だと悟った賢しい脳がそして僕の意識に対して気絶を命ずるその直前に――

 

「な、なに、今の音……。なんで結界が……?」

 

玄関から続く長い廊下の奥にある台所へと続くリビングの扉が開かれ、桜が戸惑った声をあげながら姿を現した。僕の首を締め付けていた力が微かに弱まる。途端、ブラックアウトしかけていた意識に夜光が射し込む。目の奥に飛び込んできた僅かな光によって僕はかろうじてその場に意識を保つ事ができていた。

 

「――ほう」

 

魔術師の視線が廊下の奥へと向けられる。ぼやける視界の中へ奴の目が細まり、眉尻が下がったのが映りこむ。魔術師の顔は、目的の宝を目前にして喜ぶ子供のそれに変化しつつあった。首の締め付けが弱まると同時に頭へと巡る血液量が増え、多少正常さを取り戻した思考は、事ここまで至っておきながら未だに状況を把握せず、呑気に魔術師とにらめっこしているのだろう僕の愚かな妹に対しての怒りで満たされてゆく。

 

――この……!

 

「ようやくご当主のお出ましか」

「え、あ、どちらさ……に、兄さん!?」

 

――グズめ!

 

呑気に魔術師へと素性を尋ねかけた桜は、その折に魔術師が手にしている存在が僕であることに漸く気付いたようで、素っ頓狂な悲鳴をあげた。途端、魔術師は僕の首に添えていた腕を離し、僕を解放する。

 

「――っ、くはっ!」

 

奴の腕という支えを失ったことにより、僕の体は重力に従って短い距離を落下し、両腕に全ての力を込めていた僕は、脚部に力を込める事ができず、崩れ落ちるようにして地面へと倒れ伏してしまっていた。

 

「っあ、っは、っは、はっ……」

「兄さん!」

 

解放されたにもかかわらず、全身に力が入らない。息が苦しい。解放によって唐突に多量の血が脳内を循環し、目の奥がチカチカした。えずいていると、桜が近寄ろうと駆け寄る気配に気づく。

 

「お初めお目にかかる、間桐の現当主殿」

 

だが桜が廊下を駆け出そうとするよりも前に魔術師は僕と桜との間に体をねじ込み、桜が僕に接近するのを妨げた。

 

「あ、え、あの、えっと……」

 

途切れ途切れの呼吸を整えてなんとか地面を這いつくばりながら体を反転させて面をあげると、顔を見知らぬ魔術師から突如として話しかけられ戸惑う桜の姿が目に映る。桜は恐怖と不安に戸惑い、魔術師と僕とに視線を交互させていた。どうやら此の期に及んでこのグズは、自分の身を守るための判断を自らで下すことすら出来ないらしい。

 

「私の名は――」

「何やってんだこのグズ! こんなやつどう見ても敵だろう! わかったらさっさと逃げろ、桜! こいつの狙いはお前だ! 」

「え……、えっ? 」

 

だから僕は桜のご期待通り、代わりに情報をくれてやり、同時に指示を出してやる。しかし望み通りに自身に対して具体的な指示を出されたはずの桜は、やはり戸惑って僕と魔術師とを見比べるばかりでその場から動こうとしない。

 

「貴様……っ! 邪魔をしなければなにもしないと――」

「なめてもらっちゃ困るね……! 僕は間桐家の当主で、桜は僕の妹だ! 僕は僕の事を見下すお前の事が気にくわないし、僕は僕の周りにあるものを誰かに好き勝手されるのが一番腹たつんだよ! だから誰がお前のいう通りになんて動いてやるもんか、このバァカ! ――ガ……っ!?」

 

叫ぶと同時に這い蹲った僕の体の上より圧が加わったのが感じられた。魔術回路のない僕にははっきりと分からなかったが、状況から推測するに、それはおそらく魔術師が僕を始末するための魔術回路を励起させてなんらかの魔術を使った証なのだろうと僕は判断した。

 

――く、そ……

 

このままでは奴の思い通りになってしまう。僕はそれだけは避けたかった。だからこそ僕は奴の目的であるらしい桜に僕を放っておいて逃げろと指示を出したわけだが、しかしそうして指示を出された桜は、どういった理由なのか走らないがあいもからわず呆然としているばかりで、その場から動く素振りすら見せていなかった。

 

――ああ、もう、この馬鹿が!

 

「――」

 

地に伏したまま、握りしめていた本に意志を伝えると、僕の命を受けた本が熱を帯びた。手のひらが焼けるような感触を覚えた途端、胸が昂ぶる。

 

――この家の機能はまだ完全には死んでいない

 

どうやらこの男のルーン文字は、一度発動した魔術をかき消す効力を保有してはいるが、新たに発動させる魔術を阻害する効力を持っているわけではいないようだった。

 

――なら……!

 

「む、貴様、何を……」

 

本を通して意志を間桐の家へと伝える。途端、家のあちこちから蟲が湧き出して桜の足元へと群れを為した。

 

「に、兄さ……きゃっ!」

 

群れた蟲達はそのまま桜をその身の上に持ち上げると、桜を廊下のすぐそばにある隠し扉からその内側へと運び込む。桜を飲み込んだ隠し部屋はすぐさまその扉を堅く閉じ、桜と外界との関係性を完全に遮断した。

 

「いいか桜! 蟲を使って常に外の様子を見張って観察しろ! 工房の結界が破られてもいいよう、何重にも魔術防壁をかけて破れられるたびに新しい防壁を張り続けろ! いいな!」

『に、兄さん!?』

「桜!」

『は、はい!』

 

命令に対して、鈍重な石壁の向こう側からは、桜の戸惑いがちな籠もった声が聞こえてくる。此の期に及んでそんなはっきりとしない態度をとる桜が気に食わなくて思い切り名を叫ぶと、漸くはっきりとした返事が聞こえてきて、僕はようやく安堵した。

 

――これで桜は安心だ

 

「――生殺与奪を握られたこの状況においてよく吠え、よく抵抗した」

 

自らの行為と目的の達成を邪魔された魔術師は冷たい声で述べる。同時に僕が手にしていた本はルーンの石によって廊下の奥へと弾き飛ばされた。これでもう僕の抵抗の手段はまるでない。僕は完全に無防備になってしまっていた。

 

「は、お前になんか褒められても全然嬉しくないね!」

 

本来ならば命乞いでもするのがこの場における正しいやり方なのだろう。けれど僕は、全身を凍えさせるような凛洌さを持つその声に対して、僕が怯えかけているという事実が何よりも気に食わなくて、押し寄せる恐怖に必死と耐えながら強がりの声を出す。すると体は思いのほか従順に僕の思いに反応し、精一杯の虚勢をはる事を可能とさせてくれていた。

 

「だが、その立派な覚悟と行動は今、私の邪魔だ。私たちはどうしても小聖杯が必要なのだ。前言を撤回して悪いが、間桐慎二。お前にはここで消えてもらう事としよう」

 

僕が言葉を話し終えると同時に、奴の体から発せられる圧力が高まった。全身を貫く悪寒がさらに強くなる。目の前に迫る死の予感に体はみっともなく震えていた。かつての聖杯戦争の時と同じように、僕のすぐ目の前には強者の手による死が迫っている。

 

死。二度と覚めぬ眠り。かつての僕が死ぬほど恐れた、僕がこの世から消えてしまうという現象。それが今再びこうして目の前に迫っている。でも――

 

――はん、まったく、そんなものがどうしたってんだ

 

不思議と以前死に瀕した時のような恐怖はなかった。そんないつかは必ず訪れてしまうものなんかよりも、今の僕の気持ちの方が大切に決まっているからだ。そうだ。こいつは僕を見下した、僕の家族に手を出そうとしたムカつく奴だ。だから邪魔する。するとこいつは腹をたてる。そうすると僕が嬉しい。自分が見下していた相手に自分の計画を邪魔される腹立たしさは、かつて聖杯戦争において衛宮士郎という男に邪魔をされた僕が誰よりも知っている。だから邪魔をする。一分の隙もない当然の結論だ。

 

僕は自分の導き出した答えと、そんな思い描いた未来を実現させつつある自分の手腕の良さに満足しつつあった。だからこそだろう、僕はまったくもってこんな、僕の妹を守るためだけに行った愚かしいだけの行為を後悔していなかった。

 

「最後に言い残すことはあるか」

 

男の手が赤く光る。呼応して奴のスーツケースよりルーンの石が浮かび上がった。同時に僕の体がまるで動かなくなる。おそらくこれ以上抵抗されないように体を固定する魔術かなにかをかけているのだろう。そんな中において、唯一、僕の口だけが自由を得ていた。遺言くらいは聞いてやるという奴なりの慈悲らしい。こいつは最後まで僕を見下すことをやめない。それが先ほどまで満足していた僕を何より腹立たせた。

 

――ほんっとにムカつく奴だよ、オマエ……!

 

だから。

 

「はん、お生憎様、魔術師でもない僕にまんまとしてやられたオマエになんか残してやる言葉なんてないね! あえていうなら、ざまあみろ、だ!」

 

全力で僕も見下し返してやる。魔術師の慈悲を一切の躊躇なく無碍にしてやる事こそが、今の僕にできる唯一の、そして最後の抵抗だった。

 

「そうか――」

「――っ!」

 

男の声が極寒のそれと化す。それきり僕は口の自由すらも奪われた。全身はもうまるで動かない。まるでピン刺しの昆虫にでもされたような気分だった。そんな標本にされる昆虫との唯一の違いは、奴は殺した僕の死体を決して丁寧には扱わないという点くらいだろう。奴は間違いなく、最後まで自身に抵抗の意志を示し続けた僕を跡形もなく消し去るに違いない。こいつからはそんなコミュ障気味な魔術師にありがちな完璧主義者の気配がプンプンとしていた。

 

「ならば――」

「――」

 

言葉と同時に背中にとてつもない熱を感じた。夜の闇の中、電気も付いていない家の廊下の暗がりが一気に白く照らしあげられる。目眩さが視界の全てを支配した。光の直射をモロに浴びている首筋がチリチリと熱い。

 

――僕は死ぬのか

 

そう思うと、今更ながらに恐怖心が湧き上がった。怖い。死の恐怖が全身へ行き渡る。心臓が耳煩いくらいに高鳴っていた。体が負の感情の熱を帯びてゆく。だからだろうか、頬と手のひらから伝わってくる床の冷たさがひどく気持ちよかった。やがて不快感はなくなってゆく。気付くと頭の中は静かだった。嫉妬と憎悪に満ちた十数年の月日がモノクロのまま頭をよぎってゆく。一瞬の間に駆け抜けていった悪意ばかりに彩られた走馬灯はやがていつか心臓を貫かれた記憶まで辿り着くと、途端に年月が十年ばかり吹き飛んだ。

 

直後、瞼の裏に、つい先日より半月ばかりの日々が映り出す。途端、光景が色付いた。それは決して華々しい日々ではなかった。映るのはかつて十年前の自分が望んでいた魔術師として大成した姿ではなく自分の妹である桜と過ごしたくだらない日々ばかりだったけれど、ただそれだけの心底平凡な日々に、自分は心底満足していたらしかった。

 

――ああ、なんだ

 

今更ながらに気付いた自分が望んでいたものの平凡さに、僕は心底呆れていた。混乱する頭は自身が最も幸せに過ごしていた日々ばかりをリフレインし、一瞬の間に半月の記憶が幾度となく繰り返される。やがてそれは、いつかの夜、おずおずとながら桜が僕へと見せた、笑顔へと変わった。それは僕の記憶にある限り、もっとも、綺麗な、心から僕に向けられた感謝の笑みだった。

 

――僕はもう、欲しいものを手にいれていたのか

 

桜のそんな笑みを見た瞬間、全身を支配していた恐怖が消え失せた。なるほど、これは巧妙だ。人間の体というものはよくできていると心底思う。こんなものを見せられては、もう、満足して死ぬ以外にもう選択肢などないじゃないか――

 

――桜……

 

桜。僕のただ一人の妹。ただ一人、僕の世話を見続けるためにこの街に残る選択をした、僕のただ一人残った家族。なんともセンチメンタルで愚かな理由だけれど、そんな僕のことを世話してくれた奴のために死ぬというのなら、こんな死に方も――、悪くはない。

 

――はっ

 

自分のロマンチズムに思わず心中で嘆息が漏れる。だが悪い気分ではなかった。僕はかつての僕が望んでいた魔術師として大成する未来を手に入れることはできなかったけれど、僕という存在が生きて何かを成し遂げた証をこの世に残せたというのであれば――

 

――もう未練なんてない

 

「死ね」

 

思ったと同時に、宣告。そして熱が放たれた。死の気配が近づく。そして僕は――

 

 

私の日常が崩れるのはいつも突然だ。家を揺るがす衝撃。耳をつんざく轟音。音もなく消えてしまった魔術結界。唐突に起こったそのすべての出来事の意味をまるで理解できなかった私は、エプロンを外すことも忘れて台所を出て、リビングを通過して、玄関へと続く扉を開く。すると。

 

「ようやくご当主のお出ましか」

 

扉の壊れた玄関にまるで見覚えのない人物が立っているのを見つけて、私は呆然とした。わけがわからない。頭の中は混乱と恐怖で真っ白く染め上げられていた。

 

「え、あ、どちらさ……に、兄さん!?」

 

それでもなんとか現状を把握しようと、情報を集めるために件の人物へと言葉をぶつけようとしたその時、その人物が手にしているものの正体に気付いて、私は反射的に大声をあげていた。急転直下に次々と入ってくる情報の奔流に驚いて体がまったくうごいてくれない。

 

「――っ、くはっ、っあ、っは、っは、はっ……」

「兄さん!」

 

硬直した私の体を動かしてくれたのは、宙より地面へと投げ出された兄さんが苦しそうながらも呼吸を再開したという事実だった。

 

「お初めお目にかかる、間桐の現当主殿」

「あ、え、あの、えっと……」

 

そうして兄さんに近づこうとした私と兄さんの間に、先程まで兄さんを苦しめていたその男は割り込んでくる。男が間桐の当主と私を呼ぶ事実と、そんな男がじっとしていてもわかるほど迸る魔力をあたり撒き散らしていることから、私はその男が魔術師であることをようやく理解した。

 

「私の名は――」

「何やってんだこのグズ! こんなやつどう見ても敵だろう! わかったらさっさと逃げろ、桜! こいつの狙いはお前だ! 」

「え……、えっ? 」

 

私の態度から、自分の正体が魔術師であることを間桐桜は理解した、と察したのだろう、男が状況にそぐわないほど丁寧に腰を折って自己紹介をしようとしたその瞬間、兄さんの罵声混じりの声が飛んできた。

 

魔術師の不自然な態度。そしてそれ以上に、あの自分勝手な兄さんが自分の事よりも私の事を優先しているという理解不能な事態が私の頭を混乱させて、私の体は再び硬直させられてしまっていた。なるほど、その時の私は、兄さんが言うよう、たしかにグズだった。

 

「貴様……っ! 邪魔をしなければなにもしないと――」

「なめてもらっちゃ困るね……! 僕は間桐家の当主で、桜は僕の妹だ!」

「――」

 

そんなおり、そうして混乱の渦中において硬直していた体に兄さんのそんな言葉が飛び込んでくる。途端、口を押さえて絶句した。

 

――僕の妹

 

兄さんの口にした言葉が信じられなかった。兄さんが口にした言葉と、それにいかなる意味が込められているかを知り、私は心底驚愕した。心が震えた。一瞬理解ができなかった。信じられない事だがどうやら私の兄は――

 

「僕は僕の事を見下すお前の事が気にくわないし、僕は僕の周りにあるものを誰かに好き勝手されるのが一番腹たつんだよ! だから誰がお前のいう通りになんて動いてやるもんか、このバァカ!」

 

――この私を守るそのために、目の前にいる魔術師と戦っているらしい。

 

「む、貴様、何を……」

「に、兄さ……きゃっ!」

 

驚愕が身体中を支配するさなか、突如として足元から伝わってきた悍ましくも慣れ親しんだ感触に体の硬直が解除される。驚いた頭は即座に今しがた自らの感情を多く引き出した兄へと意識を向けようとするも、体の方は突如として動きだした足元の蟲達に対応すべく反応してしまっていた。不安定に弄ばれる私の体では、倒れ込んだ私の兄である間桐慎二に対して助け舟を出すことができない。私の体は戸惑いを抱えた状態のまま、私にとって最も忌まわしい場所である、蟲蔵の中へと運び込まれてゆく。

 

『いいか桜! 蟲を使って常に外の様子を見張って観察しろ! 工房の結界が破られてもいいよう、何重にも魔術防壁をかけ続けて破れられるたび新しい防壁を張り直せ! いいな!』

「に、兄さん!?」

 

蟲蔵の重い石の扉が閉じられた瞬間、兄さんから指示が飛んでくる。兄の身を捨てての献身行動が信じられず、兄の指示が理解できず、私は混乱する頭のまま、石の扉に張り付いて兄を呼ぶ。十何年もの間私をこの場所から逃さないようにするべく立ち塞がっていた蟲蔵の扉が、私をこの場所に閉じ込めるためでなく、私を外敵から守るために機能していると言う事態が、なんとも皮肉に感じられていた。

 

『桜!』

「は、はい!」

 

混迷する事態を前にして剥離しかけていた意識を、兄さんの呼びかけがその場へと押しとどめる。言われるがままに魔術回路を起動させ、蟲蔵の結界を強化して幾重にも貼り重ねると、その瞬間に、石扉の外から魔術師の男の重苦しい声が聞こえてきた。

 

『――生殺与奪を握られたこの状況においてよく吠え、よく抵抗した』

『は、お前になんか褒められても全然嬉しくないね!』

『だが、その立派な覚悟と行動は今、私の邪魔だ。私たちはどうしても小聖杯が必要なのだ。前言を撤回して悪いが、間桐慎二。お前にはここで消えてもらう事としよう』

 

壁の外に感じられる魔力が強くなった。宣告に全身から血の気が引いて行く。兄さんが殺されてしまう。恐怖に体が慄いた。どうにかしなければならないと思ったが、体は動いてくれなかった。小聖杯が必要、という言葉が私の体をその場へと縫い付けていた。小聖杯とは私の事だ。それは間桐臓硯に改造された、私の体のことだった。

 

魔術師の狙いは私だった。そうとわかった瞬間、先程のそれを上回る恐怖が全身を覆い尽くしていた。重圧はまともに息をする事すら不可能とし、即時に私の体を過呼吸の状態へと叩き込む。息が苦しい。胸が苦しい。――だれか、だれか、助けてほしい。

 

『最後に言い残すことはあるか』

 

痛苦と懊悩が身体中を駆け巡っている最中も、状況は刻一刻と進んでいる。兄さんが処刑されてしまうその瞬間はもうすぐそこまで迫っていた。ここにいるのは私だけで、私だけが兄さんを助けることのできる唯一の人間だった。

 

――兄さんの言いつけを破って助けに出るか、兄さんの言う通り蟲蔵にこもって状況が過ぎ去るのを待つのか

 

兄の命を取るか、私の安全を取るのか。私は選択を迫られていた。そんな選択など望んでいなかった。もちろん人として正しいのは兄の命を取る方だろう。私の好きだった先輩なら、間違いなくそうしただろう。私の憧れだった私の姉さんだったのなら、いい案を思いついたかもしれない。とにかく彼らなら、迷わずこの状況下において蟲蔵を飛び出して兄さんを助け出そうとしたはずだ。

 

そして私の中の彼らに憧れる心は、この場から飛び出して兄さんを助け出せと言っていた。しかし私の中の魔術師としての心と、保身を望む私の醜さは、兄さんの言う通り、この場に留まり、嵐が過ぎ去るのを待つべきだと告げていた。――ああ。

 

――私、一体、どうしたら……

 

押し迫る状況。どちらを選んでも傷つく選択。そんなものをしたくなどなかった。そんなものをして来た事などなかった。だって私は常に支配され続けてきた。私には常に先導者がいた。私の支配者が選ぶ道はどれも苦しいことばかりだったけれど、私はそんな彼らの手によって、常に死なないギリギリのラインを渡り、私はこうして生きてこられたのだ。

 

――だれか……

 

自分で自分の生き方を決めるなんてことも考えたこともなかった。誰かに救ってほしい。そんな依存こそが私の本質だった。助けてほしいとそう思った瞬間、好きだった先輩の顔が闇の中に薄白く浮かびあがってきた。

 

――先輩……

 

衛宮士郎。正義の味方なんて空想にすぎないようなものを目指していた、綺麗な心を持った先輩。そうだ。私は先輩がそんな先輩だったから憧れた。憧れて、憧れて、憧れ続けて。やがて穢れた私でも近くにいたいと思うくらいに憧れて、近くにいるために料理をしたいと思うくらいに憧れて、少しでも近くに居続けたいと思うくらいに憧れて、しかし、いつしか目指していた正義の味方になるため、私の前から消え去ってしまった、そんな先輩。

 

先輩は立派だった。先輩は自分の進むべき道を自分で選び、そして旅立った。私も本当はそんな先輩について行きたかったけれど――、私はそんな先輩について行きたいと一言を言うこともできずにいた。だってその時、私はすでに間桐の家に捕らわれ続けていた。私は間桐の家の呪いで穢れきっていた。

 

私は醜かった。呪いで穢れきっていて、私は先輩の重荷にしかならない女だった。だから私はそんな先輩には相応しくないと知っていたからこそ、私は先輩に何も言わずに全てを諦めて舵取りを他人に委ねて――

 

『はん、お生憎様、魔術師でもない僕にまんまとしてやられたオマエになんか残してやる言葉なんてないね! あえていうなら、ざまあみろ、だ!』

「――兄さん!?」

 

あまりにも重すぎる選択を迫ってくる現実からの逃避を行なっている頭に、突如としてそんな声が飛び込んでくる。声は瞬間的に外で傷だらけで伏しながらも命乞い一つの言葉すらも発しないまま死にゆこうとしている兄さんの姿を幻視させた。兄さんのそんな覚悟の思いがこもった言葉が私の醜い虚飾を剥がして、真実が露わとなる。

 

――違う

 

そうだ、違う。私がそうして先輩に何も言わなかったのは、何も先輩が私の体に纏わり付いている穢れによって汚れてしまうのを嫌ったわけじゃない。私はただ傷つくのが怖かっただけだ。私は先輩に真実を話して、助けを求めて、私が汚れきった女であると知られるのが怖かった。真実を話せば、きっとそんな先輩のことだから、先輩はなんとしても私のことを助けようと試みただろう。聖杯戦争終結直後の騎士王であるセイバーさんをサーヴァントとして携えていた姉さんがすぐ近くにいた頃の先輩であったなら、私は完膚なきまでにこの薄汚れた蔵から救い出されていたかもしれない。

 

しかしそれは同時に、私の汚れきっている姿を憧れの先輩に晒すと言うことでもある。私はそれが嫌だった。私は先輩に汚れていると言うことを知られたくなかった。他の誰かにならば知られても構わない。けれど私は先輩にだけは、どうしてもそれを知られたくはなかった。

 

真実を知った時、それでも先輩ならば、嫌な顔一つせずに私を受け入れてくれるだろう。もしかしたら同情して、姉さんではなく私をパートナーとして選んでくれていたかもしれない。そうだ。だからこそ私は、先輩に語らなかった。

 

そうして、他人の同情を誘い、あまつさえは、傷つくことを嫌がって欲しがるばかりの自分が嫌いだった。呪いなどを除外したとしても、こんなにも醜い自分の内面を見られて、先輩に失望されるのが怖かった。知られたら先輩とこれまでの関係でいられない。先輩はきっと許してくれるだろう。姉さんもきっと、怒りながら私を受け入れてくれるはずだ。でも、そんなことになったら、他でもない私自身がそれを許容できないし、受け入れられない。

 

だから諦めた。私は私が傷つくのが嫌だった。私から傷つく選択をするのが嫌だった。だからこそ私は諦めた。だからこそ私は、私を絶対に傷つけない、しかし私のすぐそばにいてくれる存在を望んだ。そうだ。私が兄さんを助けたのは、そんな薄汚い保身と承認欲求こそが全ての理由で真実だ。私は人形でありたかった。私は私を傷つけない人形が欲しかった。私はこんな薄汚れた私と言う存在が、しかし誰かに欲される存在であることを証明したかった。だからこそ私は、間桐慎二という、私の汚れの全てを知る、私の家族を助けたのだ。

 

「そうか――」

 

そして兄さんは私と同じく間桐の泥に汚れた存在だった。私を汚した間桐の人間だった。私と同じく自己保身ばかりを優先して、事故の欲求のままに女を貪り、自らのプライドが傷つけられる事をなによりも嫌う人間だった。そう。

 

――そのはずだった

 

なのに。

 

――ああ

 

「ならば――」

 

瞬間、この半月の出来事が思い出された。目覚めた時に兄さんは兄さんのままだった。けれど自室に戻った後、兄さんは変わった。兄さんは態度こそ昔のそれと変わらなかったけれど、纏う雰囲気は、かつての兄さんのそれと異なっていた。

 

『――ん、うまい。おまえ、基本的にグズだけど、料理の腕だけは僕も認めてるんだよ』

 

兄さんは変わっていた。兄さんは、言葉こそいつものように私を虐めるような口調だったけれど、その中に含まれている成分は、いつか私がこの家に引き取られてきてから私が魔術の教育を施されていると知るまでの兄さんのようだった。

 

『お前さ。ほんっと、馬鹿だよな』

 

そう。兄さんは、いつか、私を家族としてみてくれていた頃の兄さんに戻っていた。

 

『お前の体が汚れてて、他人に食わせる価値のない料理を作るってんなら、そんなお前の作った料理を美味い美味いって食べて褒めた僕はなんだっていうわけ?』

 

兄さんは私がどれほど汚れているかを知っている。でも兄さんは、そんな私がどれだけ汚れた存在であるかを知っていながら、そんなことをまるで気にしないと断言して、十年の眠りから起きた人さんは、いつかかつて姉さんが私に向けてきてくれたような、あるいは先輩が姉代わりであった藤村先生に向けていたような、そんな、家族に向けるような、愛情のこもった優しい瞳と遠慮のない言葉を私へと向けてくれていた。

 

『お前の言うことが正しいとしたら、僕がとんだマヌケみたいじゃないか。おまえ、僕を馬鹿にしてんのか。そんなくだらないこと気にしてる暇があったら、どっかで働いてこいっていってんだよ、このグズ。そんでもって少しでも僕を楽にさせろ。二度も同じこと言わせんなよ、このバカ』

 

兄さんは今、私にとって、唯一の家族であり、理解者だった。そんな兄さんは今、傷だらけになりながら、私を守るために死にゆこうとしている。私の汚れを知って、しかしそんなものがどうしたと言うんだと言い切ってくれた人が、今、私の為に死のうとしている。兄さんが死のうとしている。兄さんが死んでしまえば、この呪われた家に私は一人ぼっちになってしまう。――ああ、それは。

 

「死ね」

 

――なんて、辛く、耐え難い出来事なのだろうか

 

「やめて!」

 

思った瞬間、私は瞬間的に結界を解除して蟲蔵の中から飛び出していた。石蔵より廊下へと飛び出したその瞬間、廊下に満ちていた熱気が肌を焼き、私のそばにいた蟲達が悲鳴をあげながら蟲蔵の奥へと引っ込んで行く。

 

「――」

「――」

 

その場にある二つの視線が私へと集中する。視線は二つとも意外なものを見る目だった。一つは状況を驚いてのそれであり、一つは私の行動を責めてのそれだった。

 

――この、グズが!

 

そう。兄さんが向ける視線は私の行為を責めていた。その視線から先ほどの指示がどれほど私の事を思っての行為なのかを悟り、私の心に喜びが満ち溢れた。行動の代償がこんな嬉しい痛みなら大歓迎だと思った。これまで胸にあったわだかまりが全部吹き飛んでゆく。伏した兄さんが命をかけて私を守ろうとしているその事実に、意識は驚くほどの明朗さを取り戻していっていた。

 

「……、やめて、ください」

「おい、このマヌケ。グズ。誰がそこから出ていいって言った」

 

兄さんが私を罵倒する。罵倒されるたび、私は自分の選択が間違っていなかったのだと、自分を褒めたくなる。私は初めて、自分の行動を自分で認められつつあった。私の行動が兄さんにとって望まぬものと知るほどに、私はそうして兄さんに対する好意が大きくなり、同時に私自身を好きになれてゆく。兄さんの素直じゃない愛情表現は、私を着実に成長させてくれていた。

 

「……事情はわかりませんが――」

 

魔術師の目を見る。中肉中背ながらも、その体のうちに秘められている魔力量は膨大だった。傍にあるスーツケースから飛び出したのだろうルーンの刻まれている石群も、それだけでいつぞや私が召喚したライダーというサーヴァントと戦えてしまいそうな気配を発している。目の前にいる男は間違いなく一流と呼ばれる魔術師だ。私はそう確信した。

 

「――貴方の狙いは私なのでしょう?」

 

確信したが故に抵抗を諦めた。ここは間桐の家で、すなわち私の領域だ。全力で抵抗すればそれこそ目の前の魔術師は倒せる可能性だってある。けれどそんなことになれば、魔術回路を持たない、魔術を使えない兄さんは、間違いなく、死ぬ。

 

「大人しくあなたについていくと誓います」

 

兄さんが死ぬ。私のたった一人の家族が失われる。私を家族と呼んでくれた、私のそばにい続けてくれた人が死んでしまう。私が傷つくのはいくらだって耐えられる。でも、私の代わりに私の兄さんが傷つき、そして死に至る。そんなこと、とてもじゃないけれど、弱い私には耐えられそうに、ない。

 

「だからこれ以上兄さんを傷つけるのをやめてください」

 

だから素直に相手に従うことにした。兄さんが傷つくくらいなら、私が傷つく方がマシだと思っての行動だった。そう思えるようになった自分が少しだけ誇らしかった。

 

「……承知した。こちらとしても君の身柄が確保できるのであれば、依存ない」

「やめろ! おい、桜! 僕の命令だ! そんな奴に従うな! お前は僕の命令だけ聞いてりゃいいんだよ!」

 

魔術師は承諾し、兄さんが吠える。兄さんの言葉は真剣で必死だった。そうしてがなりたてる兄さんは以前のままに兄さんで、しかし言葉に含まれている指示の成分が以前までと真逆のものである事を感じるほどに、私は私の選択の正しさを確信し、だからこそ私は――

 

「ごめんなさい、兄さん」

 

兄さんの言う事を聞けない。

 

「桜! おい、お前! やめろ! ――ぐ……っ!」

 

兄さんが暴れようとした。そんな兄さんを魔術師が魔術を使って抑え込んだ。兄さんの体にさらなる重圧がかかる。魔術によって兄さんは瞬時にその場へと再び縫いとめられていた。その手並みは魔術回路の励起から魔術の発動に至るまで全ての工程が鮮やかで、私はこの魔術師の腕前が相当高いのだと言う事を悟るとともに、事情はわからないけれど確かにこの魔術師は兄さんを殺す気がないらしい事を知り、私は安堵した。

 

「――」

 

私は私の意志で廊下へと一歩を踏みだす。私が確かに自らの意思でついてくる事を確信したのだろう、魔術師が家の外に出た。私を閉じ込めていた間桐の家の扉はすでに存在せず、外への出口は完全に開かれていた。玄関から飛び込んでくる月光が、傷だらけの兄さんを誇らしく照らし、私の進む道までを明るく照らしあげてくれている。

 

「桜! ……おい、……この、……グズ!」

 

横を通り過ぎようとすると、地面に這い蹲っている兄さんが、私の足へと腕を伸ばしてきた。

 

「このバカ! トン……――ぐ……っ!」

 

そして伸ばされた腕が私の足へと到達するより前に、叫ぶ兄さんの声がいきなり小さくなる。どうやら魔術師が兄さんの体にかけている重圧の力を増やしたようだった。ザリザリと耳障りな音がする。発生源を見ると、音は重圧の魔術をかけられているのに無理やり動かした影響で、兄さんの服と掌の表面が削れる事によって生まれていた。

 

「――っ」

 

兄さんの裸掌と床の間には、真新しい擦血痕が残されていた。なんとも無茶な事をする。けれどその無茶が自分のためではなく、私の為だと思うと、それだけで胸の内が熱くなった。

 

「兄さん……」

 

溢れる想いに素直に従い、しゃがみこんで兄さんの体に触れると同時に魔術回路を励起させた。直後の魔術の発動に伴って私の体に多少の快楽が生まれた。引き換えに、兄さんの傷が癒されてゆく。

 

「本当に不出来な妹でごめんなさい。でも、最後に一回だけ、兄さんの妹として、わがままを許してください」

「さ……、く……、ら……」

 

同時に回復魔術の力によってそれまで以上の無茶が効くようになったと判断したのか、傷が癒えつつある兄さんの腕はこれまで以上の素早さと力強さを伴った動きで魔術を発動している私の腕へと伸びてきた。血液が潤滑剤になったのか、兄さんの手はこれまで以上に滑らかな動きで床へとおりていた私の腕をつかもうとして――

 

「そこまでだ」

「ぎ……っ」

 

しかし兄さんの腕は虚空を切ることすらなく、魔術師の用いる重力変化魔術によって再び地面へと縫い付けられる。兄さんの顔が苦痛に歪んだ。肉体の露わになっている部分のあちらこちらが鬱血したかのように変色しつつある。その痛みに堪えるかのように歯ぎしりするその顔を見ているのがつらくて兄さんの体にそんな現象を引き起こしている張本人である魔術師の顔を眺めると、冷たい視線で私たちを眺めているその男はしかし私の意図を読み取ったようで、途端に兄さんの体のあちこちの箇所に発生していた血液の滞りが失せて行き、皮膚上の変色が薄らいでゆく。

 

「……はっ、ぁ……っ!」

「兄さん……」

 

唐突な過度の重圧からの解放により身体中の器官が驚いたようで、兄さんの呼吸は乱れ、全身が軽く震えている。突如として大量の血液が流れ込んだ影響だろう、目の焦点が定まっていない。意識が朦朧としているのかもしれない。そんな兄さんの状態が今だけは都合が良かった。

 

「私を最後まで家族として扱ってくれて、ありがとう――」

 

礼を言って兄さんの手に触れると、ズシリと肩が外れるかと思うほどの重みがのしかかってきた。指先で触れただけでこれなのだ。もしこうして伏しているのが私であり、全身にこれほどの重圧を加えられたのなら、それこそ動くどころか全身の骨が折れてしまいそうだ。

 

そんな事を思うと、改めてこれほどまでの重圧に耐え、しかもその上で私の身を気遣ってくれた兄さんに感謝の気持ちが湧き上がる。まるで先輩がそこにいるみたいだ、と思った。

 

「――――――、桜!」

「さよなら、兄さん」

 

兄さんが手を伸ばしてくる。虚空へと伸びたそれに応じる事なく、私は玄関から外に出た。雲間伸びてきた月明かりが私を照らしあげる。自らの意思で踏み出した一歩を歓迎するかのように、空には綺麗な満月が浮かんでいた。

 

 

「あの、バカっ!」

 

全身にかかっていた負荷が消失するのと同時に、頭痛、立ちくらみ、気怠さを訴える全身の弱音を全て無視して、起き上がり、そのまま玄関から飛び出した。

 

「桜!」

 

玄関を飛び出てその名を叫ぶも、声に反応するものはすでに誰一人として存在しなかった。妹を奪われた無様な男の声だけが妹の手によって再度張り巡らされた結界の中にこだまする。消音の敷かれた間桐の家の敷地内は嫌になるくらい静寂で、驚くほどに生気が失せていた。それらの全てが僕の無様の証のようで――

 

「〜〜っ!」

 

僕は思わず拳を握りしめていた。魔術師に対する憎みと僕の言うことに従わなかった桜への怒り。そしてなにより魔術師相手に何もできなかった自分の無様さを憎悪して、強く、硬く、拳を握りしめていた。拳を握った腕が震えている。頭は今すぐにでも溜め込んだ力を解放しろと訴えていた。そして。

 

「あ……っ、の、クソバカ野郎!」

 

湧き上がる激情を残らず込めて、あらん限りの力を込めて外壁を殴りつけた。途端、鮮血が舞う。強化の魔術なんていうものを使えない、武術を納めたわけでもない、鍛えていたわけでもない僕の腕は、防護の魔術がかけられた堅牢な外壁の前にあえなく敗れていた。

 

瞬間的に鋭い痛みが脳裏へと届き、愚行をやめろと訴えてくる。だがそんな冷静な意見など知るかと言わんばかりに、皮がめくれるのも無視して、僕は全力での殴打を続けていた。

 

「誰が! お前は! 僕の! あの! ――っ!」

 

怒りと憎しみで言語中枢なんてまともに働いてくれなかった。ぐちゃぐちゃとした思いがそれ以外の全ての体の訴えを無視させていた。

 

「どいつもこいつも、この僕をなめやがってぇぇぇぇぇぇ!」

 

殴る。僕の拳はやわで、間桐の壁はうんざりするくらい堅牢だった。僕の拳から血が流れ、脳を突き刺す痛みが走り、そうして間桐の家の堅牢さが証明されるほどに、そんな堅牢さを誇るにもかかわらず、家族一人守ってくれなかった無能さに腹がたつ。だからさらに力を込めて殴り、僕の拳は余計に血に塗れ、脳髄を激痛が走り回ってゆく。

 

「クソ! クソ、クソ!」

 

痛みがさらに腹立たしさを誘発して、僕は余計に腹立たしくなる。そして、何より腹立たしかったのは、そんな便利な道具を持っていながら、家族一人すらまともに守る事が出来なかった自分自身だった。

 

「クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソォォォォォォォォ!」

 

僕は僕の無力を責めるために、堅牢な道具めがけて僕の拳を打ち付ける。堅牢なだけで役に立たない聳え立つ間桐の家は、まさに僕自身だった。実力が伴っていないくせに理想だけは高く、結果として、何一つとして目的を達成する事が出来ない。

 

「馬鹿が! 誰がかばってくれと言った! 誰が守ってくれと言った! 誰が哀れんだ目を向けろといった! 誰がお前のわがままを聞いてやるといった!」

 

守るべきだった相手に守られてしまった。そうして見下していた相手が、自分よりも立派で、自分に対して憐憫の視線を向けていた。

 

「誰がっ!」

 

――そんな目を僕に向けろと言った!

 

殴打が止まる。出来事は、昔、桜が僕を差し置いて間桐臓硯から次代間桐の魔術師としての教育を受けていたのを目撃した時の事を思い出させて、僕のコンプレックスをこれでもかとくらい位に刺激する。――ああ。

 

――あの頃から僕は何一つとして成長していない

 

「――っ、こっ、の……っ!」

 

あの時から僕は一歩も成長してなくて、僕と桜の関係性は何一つとして変わっていなかった。桜は僕の優れた魔術師の妹で、僕はそんな桜よりも劣った、魔術師に憧れるだけの凡人だった。怒りではらわたが煮えくり返っていた。惨めさに我が身が焼き尽くされそうだった。追いかけて湧き上がってきた激情を込めようとさらに拳を強く握りしめると、これまでにないくらい鋭い痛みが脳天を直撃した。

 

「――〜〜っ!」

 

僕の頭は肉がすでに抉れつつあった腕の怪我が骨まで到達したかもしれないと判断した時点で自己防衛本能を働かせ、やるにしてもせめて腕の使用ではなく足を使用しての八つ当たりにしておけとの命を下してくる。

 

「役立たず! クソ! あのクソ野郎! 桜め!」

 

はたして言葉は誰に対する罵倒だったのか。怒りの感情を発露させる事すら貫き通せない自分の情けない根性に尚更腹が立ち、足を思い切り振りかぶると、壁を思い切り蹴りとばし、そのまま連打する。すぐさま軟弱な僕の足の裏は痛んだ。ヤスリをかけたかのように靴の裏が削れてゆく。殴打から蹴打に変えた事で痛みは軽減した。しかし欠落した痛みの足りないを埋めるかのよう、より多くの自責の念が湧き上がり、僕は余計に苦しくなる。

 

「――はっ……、はっ……」

 

息苦しさに気がついた時にはやがて靴の裏が削れきり、足裏が露わになっていた。足の裏からは鮮血が舞い、しかしやはり壁に傷は一つたりともついていなかった。

 

「は、はは……」

 

不毛な行為を繰り返している自分と、自分の無力さが唐突に情けなくなって、僕は力なく膝から崩れ落ちた。血だらけとなった両手で地面を掻く。爪痕が地面へと残されていた。魔術のかかっていない地面であるならば、非力な僕であっても影響を及ぼす事ができる。そんな事実が自分の無力さをいっそう露わにしているようだった。

 

――は……っ!

 

「まったく、情けないったりゃありゃしない……っ!」

 

無力の証明を力一杯握りしめる。冷たい土塊は体から熱を奪ってゆく。動かした拳がズキズキと痛んだ。ぬるりと拳の表面から血が垂れ落ちる。抉れた肉を風が撫ぜる感触が気持ち悪かった。しかし何より、気持ち悪いのは――

 

――心のどこかで助かったと安堵している僕自身だ……!

 

「はっ、ははっ……」

 

こうして怒りの発散をするその態度にすらも自己を慰めて満足させるための虚飾が混じっており、空疎な虚栄心から生まれたものに過ぎない部分が多数混じっていること。殴って自分を痛めつけたのだって、僕は桜を攫われて無様を晒した自分にこんなにも怒っていると自分に知らしめるための儀式にすぎない一面があるという事実だった。

 

自らの行動の分析し終えた瞬間、薄々気付いていた自分の浅ましい本質を確信していやになる。僕はどこまでも真剣になる事が出来ず、『慎二』という名前の通り、慎みが二番目に来る気質だった。魔術以外のおおよそ全ての出来事を上手くこなせてしまう僕は、だからこそ真剣に何かに取り組む事が出来ない。自身の感情の発露ですら、痛みに阻害されてしまいこのザマだ。

 

――まったく、ホントに情けないのは誰だっていう話だよね……!

 

虚飾。虚栄。虚妄に虚勢。虚実に虚偽に虚言に、そして空虚と虚無。僕の人生はそんなものばかりだ。たいして欲しくもないものはすぐに手に入るくせに、心底望んだものは手に入らない。どれだけ望んだとしても、望んだものは望んだはし、掌から溢れて消えてゆく。

 

結局僕の手にはなにも残らない。僕の手は望んだものをなに一つとして手に入れられない。それは魔術といった非日常の僕にとって手の届かない領域のみならず、僕と僕の家族の平穏といった、すぐそこにあった日常のささやかな幸せさえも――

 

「――っ!」

 

手に入れることが出来な――

 

――はっ、冗談!

 

思いかけた瞬間、弱気をかみ殺す勢いで、ギリギリと歯を噛み締めた。

 

――誰がそんなこと認めてたまるものか!

 

「おい、桜! 聞こえているか! 」

 

土塊を握りしめたまま立ち上がると、砕けそうなくらい食いしばっていた歯を解放して、大きな声で叫ぶ。きっとこの声は桜に届かない。そんなことは承知の上で、僕はそれでも全力で空へ向かって咆哮する。

 

「よくもこの僕のいうことに背いたな、このグズめ! お仕置きだ! 僕はいつか絶対にお前を取り戻す! そして、お前にまたひどいことをしてやる! 絶対に! 絶対にだ!」

 

この誓いすらも、自分を情けない格好つけるための虚飾に過ぎないかもしれない。誰にも聞かれぬ、僕自身信じきれていない、真剣さを伴わないこんな行為に価値などないだろう。けれどいつか必ず、真剣にやり遂げ、真実にする。

 

――僕は間桐の家の長男で、僕の名前は間桐慎二だ。なら、出来ないはずがない!

 

「だから待ってろ桜! たとえどれほど時間が経過しようと、たとえどれだけ姿が変わろうと――、たとえ名前が変わっていようと、いつか必ず僕はお前を取り戻してみせる!」

 

――なぜなら

 

「お前は僕の妹なんだからな!」

 

僕は僕の名前に誓い、握りしめていた土塊を天にばらまく。血に染まった砂塵と未だに止まらぬ血液が舞い、視界を赤く染め上げた。見上げれば夜空には満月が不気味に浮かんでいる。月はいつまでも惨めな僕のことを見下ろしていた。

 

 

「……兄さん?」

 

これまでに聞いたこともないような兄さんの雄叫びが聞こえた気がして振り向く。防音、防弾処理の施されたガラス越しの向こう側からは月明かりに照らされた光景が飛び込んでくるばかりで、音などほとんど聞こえてこない。僅かにばかり聞こえてくるのは、エンジンの稼働音と、クーラーの少しばかり大きな風の音に、二人分の呼吸音だけだ。微細に耳をくすぐるそれらの細かな音がその場にある全てだった。

 

「どうした?」

「いえ……なんでも」

「そうか」

 

それきりその男はなにも言わない。男は私に対して魔術の拘束すらおこなうことなく、ただハンドルを握り続けるばかりだった。なめているのだろうかという考えが一瞬頭をよぎり、不意をうてば倒せるかもしれないと考慮もしたが、やめた。私がそんな僅かな稚気を抱いた瞬間、運転席にいる男の気配が膨れ上がったからだ。

 

その対応によってこの人の真意に気がつく。この人はなめているとか油断しているとかではなく、先ほど間桐の家で私に言った通り、私がなにもしなければ危害を加えないという誓いを守っているだけなのだ。この人はその気になれば迷わず私を攻撃してでも拘束する。間桐の家の防衛を打ち破るほどの実力をもっているのなら、今この場で戦いにおいては素人の魔術師に過ぎない私が抗ったところで、私はあっけなく拘束されるだけだろう。この人はそれができる実力の持ち主だ。なら――

 

――無駄な抵抗、ですね

 

抵抗の完全に無意味を悟ると、今度こそ完全に力を抜いて柔らかい背もたれに身を預けた。途端、魔術師の男が纏っていた剣呑な空気が霧散する。肩の力を抜いて窓の外を観ると、見慣れた冬木の風景が流れてゆく。そういえば自動車に乗るのなんて久しぶりだ。大抵の魔術師がそうであるように、私のところの祖父も自動車含む機械をあまり空いてはいなかった。所詮は魔術師でない人間が発明したものを嫌う傾向が、魔術師にはある。

 

この人は時計塔の魔術師だと聴いている。ロンドンの時計塔といえば世界中の魔術師が集う、それこそ魔術師という存在の聖地みたいなところで、それ故にそこに集まる魔術師も、そういった古い考え方を踏襲したものばかりであると聞く。そんなところから来た伝統を重んじていそうな魔術師のくせに機械はふつうに使うんだな、と、考えると、少しばかり愉快な気分になった。

 

そこで気付く。

 

――ああ、そういえば。

 

「あの……」

「なんだ?」

「その、今更なのですが、なぜ貴方は私を攫ったのかな、と」

 

 

「だからこそ私たちは、小聖杯であり、先天的に架空の魔術特性を持ち、後天的に水の属性を獲得した、間桐桜。君を攫ったのだ」

 

男の言葉を聞いた途端に緊張がほどけ、全身から力が抜けた。力なく深く背もたれに身を預ける。

 

「――そうですか」

 

息を深く吸い込んでから吐くと、憂いを帯びた吐息がクーラーから垂れ流される温風の中へと搔き消えてゆく。

 

「納得したか?」

「――納得はできていません。でも、貴方達の目的の理解はしました」

 

上品な布地に覆われた車の天井を見上げと、目を瞑った。世界平和。そんな私から最も程遠い、先輩が目指していたもののために私が必要とされているという皮肉じみた事態がなんとも可笑しかった。

 

「なぜ笑う?」

「――え?」

「この計画が実行されればお前の身は完全に聖杯として変換され、その存在を固定される。それは人間としての死に等しいはずだ。なのになぜ君は笑ったのだ?」

「――えっと……」

 

なんと説明したら良いのだろうか。そう悩んでいると先輩の顔が浮かび、自然と答えまでもが浮かび上がってきた。

 

「きっと嬉しいからです」

「嬉しい?」

「はい。私は昔、先輩と同じ道を歩こうと考えるなんて烏滸がましいと思っていました。いえ、今でもそう思っていますし、こんな汚れた体で先輩に会いたくないとも考えています。でも――」

「……」

「そんな私でも、先輩が目指した夢と同じ夢を見ることはできるし、必要されることもあるんだな、って、そう思って……、そう思ったら、ちょっと、嬉しくて……」

 

――でも

 

「ああ、でも――」

 

――出来ることなら

 

「一度でいいからそんな夢を先輩の隣で見て、先輩と一緒にその道を歩いてみたかったな」

「……」

「そして、出来ることなら、綺麗になった体で先輩と一緒に正義の味方の道を歩きながら、ようやく私を家族として認めてくれた兄さんとずっと一緒に暮らしてみたかった――」

 

男はなにも言わない。車はいずこかに向かって疾走を続けている。ゆらゆらと揺られながら、私はそんな叶いもしないだろう夢想を、いつか叶えばいいな、なんて馬鹿みたいな事を考えながら、私を必要とするその人の元へと運ばれていく。

 

夢は叶わないからこそ夢という。けれどいつかあるいはこの夢が叶うのだとしたら――、私はどんな事をしてでもそれを叶える為に、あらゆる手段を講じてでも成し遂げようとするだろう――

 

 

Blue Blue Glass Moon, Under The Crimson Air.

 

Cherry blossom is cut out.

Man is lost his soul fragment.

 

――Will I go ?

To be sure, I will.

 

閑話 月姫 終了




いつもお読みになってくださり、ありがとうございます。

やろうとしてる事を詰め込みすぎていて、話の本筋が理解しにくい。キャラが増えすぎて管理しきれなくなってきている傾向が見受けられる。我ながら大きな反省点です。書いてる本人ですらこう思っているのですから、ご一読くださっている皆様に至りましては、さらに理解が難解なものとなっているでしょう。真に申し訳ありません。

読み返してみると、私自身なんだこりゃ、と思うところもチラホラと出てきています。が、一度はこのまま最後まで突っ走ることとします。完成形をみてから、修正すべき所を修正したいと思います。どうかご了承ください。


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第八話 Fate/stay night

第八話 Fate/stay night

 

副題 死に至る病、善悪の彼岸、弓と竪琴

 

聖杯。万能の願望器たるこの聖杯を手に入れるため、七人の魔術師がそれぞれに七騎の英霊を召喚して行われる殺し合いの祭典。行われる争いの末、生き残ったものが全ての願い叶う願望器を手に入れるその儀式を、人々は聖杯戦争と呼んだ。

 

 

夢を見ていた。私とよく似た男の夢を。

 

男は多くの才能を持っていた。多くの点において他者よりも秀でた才能を持ち、それらを活用する喜びを知っている男だった。その男はまた、才に長けた人間にありがちなよう、一定以下の能力しか持たない他人を自らと同じ人間としてみないという傲慢な性格をしていた。

 

故に男は生涯に飽きていた。何をやっても上手く出来てしまうそんなものに何の価値があるのか男には分からなかった。そして男はそんな己の生涯に飽きていたが故に、やがて自らに最も適性のないとされるものに憧れ、目指し、しかし、やがて才能という壁の前に初めて挫折した。

 

男にはたしかに多くの優れた才能があった。男が自らに唯一存在しないその才能に執着しなければ、多くの素晴らしい成果を残していたかもしれない。しかし男はどうしても自らに適性のないものを身につけたかった。

 

男が欲したのは魔術と呼ばれる通常の人間には届かぬ領域にあるものだった。そして男はそんな魔術という特別な術法を脈々と受け継いできた家系の長男として生まれた男だった。それ故に彼のそうした事情を知る多くの人は、彼が魔術というその道に執着したことを、よくある選民思想に基づくものだと理解した。

 

他ならぬ彼自身もきっとそう理解していた思っていた。自他共に、誰もが男を、『自らこそ特別な人間であると思いたい小人である』と評価した。

 

なるほどおそらくそれは正しいだろう。しかしそれは『結果』に過ぎないのだとも私は思う。

 

男は他者より自分は優れているという自覚があった。男は確かに多くの他者より優れており、そして同時に、しかし真の才人に比べれば大した事ない程度の才能しか保有していなかった。男はそれを認められず、足掻き、しかし高すぎる壁を目前に超える事能わず、彼は挫折し、歪み、結果として、彼は小人になってしまった。もし彼にほんの少しでも欲した道の才能があったのならば、否、才能なんてものがなくとも、その道を進んでゆくための足がかりを手に入れることさえできれば、きっと彼はそのような歪み方をしなかったに違いない。

 

私はそう確信している。

 

すなわち男の始まりはきっとこうだった。彼は、その才能が自らになかったからこそ、憧れた。多才すぎる彼にとって、その他全てのことは終わりの形を推理できてしまうつまらないものだった。彼は多くの才能を保有しているが故に、物事を極めた際に自分がおおよそどのあたりの位置に辿り着けるかまでをも理解できてしまう。後は経験と研鑽を積んでいけば極みに辿り着けるというそんなものは彼にとって何の魅力もないものであった。

 

そう。男にとっては自らの才能によって解決可能な事象は魅力的でなかったのだ。

 

だからこそ男は、自らにとって才能のない分野――魔術という分野に手を出し、それを極める事を目的とした。彼にとってそれが唯一、退屈極まりない人生と気持ちを昂ぶらせてくれる触媒だったのだ。

 

そう。男はきっと、まだ誰も踏み入れていない未踏の処女地を自らの智恵と手足で踏破する事が好きな冒険家だった。

 

その男の気持ちが私にはよくわかる。男の悩みは私にもよくわかる。なぜならわたしもそうだったからだ。かつての私も人生を飽いていた。自らの基礎能力が高いが故に周囲へと求める能力基準も高く、その私の理想も周囲へ抱く私の理想も相応に高かった。

 

しかしながら周囲にいる人間は私よりも能力の低いものばかりであるが故に、私の理想どころか、基準にも達しない人間ばかりだった。私の周りには、私にとっていい意味で予想を破る結果を残してくれるものも存在しなかった。世界は全てが私の予測の範疇内に収まってしまうものだった。だからこそ私は、自らの生涯に飽き、喜びでなく退屈ばかりを与える世界を軽蔑していた。

 

そう。私は男と同じように、自らの生涯に倦んでいたのだ。

 

しかし。やがて彼は、私と異なり、倦怠を払う道を指し示してくれる誰かと出会うことが無かった。彼はこの先如何なる努力と代価を支払うところで望んだ頂には辿り着けない事を措定してしまったから。だからこそ彼は、絶望という死に至る病に罹患し、自身の未来の可能性を冷たい火焔にて燃やし尽くしてしまった――

 

それが、私ことシンが、間桐慎二という、遡れば私の祖に連なる男に下した総評である。

 

 

「……ン、……い、……ン」

「……」

「おい、シン!」

「ん……、ああ、なんだ?」

「なんだって、おいお前、本当に大丈夫なのかよ。こんな機械操作するの初めてなんだろ?」

「その通りだ。だがこれの運転は任せておけ。なに、私は君らも知っての通り大抵のことは初見であってもなんでもこなせる人間。こういった類の操作もお手の物だ。それに便利なもので、今の記憶の中には機械の体であった頃の知識も残っている。だからまぁ、仮にすんなりというわけにはいかなくとも、君達が運転するよりかは動かしてやることが出来るよ」

『加えて私のコピー人格が運転のサポートをします。故に問題ありません』

「便利なものだな。僅かにばかり羨ましくはある」

「だからといって同じ経験をしろと言われたらごめんですがねぇ――、で、お嬢さん」

「はい、なんでしょうか?」

「先程語られた内容は本当なんですね?」

「ええ、勿論」

「嘘をついている様子は――――――、ありませんね」

「まったく、どうしてまた俺たちの元にばかりこんな面倒が転がり込んで来るんだ?」

「さてな。だが、人生というものは一見偶然に見える出来事であっても、そのどれもが積み重ねられてきた結果によるものなのだ。ならば、あまりこういう言い方は好きでないのだが、これも『縁』、あるいは、『運命』というものなのだろう」

「おいおい、どうしたんだ、お前らしくもない。今日はまた随分とまた諦めがいいなぁ」

「らしくもないのはお前もだろう? 以前のお前ならもっと反対していたと思うのだが」

「……、ま、死んで頭が冷えたんだよ。そういったお前こそ――」

「同じくだ」

「……、は、ならしょうがねぇな」

「ああ、しょうがないだろう?」

「はいはい、いちゃつくは後回しにして、早く行きましょう。先程の話が本当だとすると、もうあまり時間の猶予は残されていないのでしょう?」

「はい。……ですが、本当によろしいのですね?」

「なに、我々のギルドは好き勝手にやってた関係上、元々恨まれる、疎まれる、訝しまれるのには慣れている。それに――、君の話が本当である、その先に彼の救いがあるというのであれば、私達に断る理由はなおさらなくなるというものだ。我々は、彼がこの世界にやってきてくれたからこそ、こうしてそれぞれが救いを得ることが出来たのだから」

「そう……ですか」

「――さぁ、では、行こうか、みんな。終末の戦いが行われているという土地へ」

 

 

終末の土地にて行われる世界の命運をかけた戦争は、もはやほとんど勝敗の行方が決していた。ヘイムダルの率いる軍は初めこそその尽きぬ回復の力を尽くし文字通り死兵の如き果敢な猛攻撃を繰り返す事で戦況の優位を確保していたものの、欄然と徒党を組んだギルガメッシュ側に属している冒険者達がみせる見事なコンビネーションによって散発的ながらも徐々に戦力を削られ、ジリ貧の状況へと追い込まれつつあった。

 

それは当然の結果と言って過言ではないだろう。青ざめて侏儒の如く縮まった畜群と自己の拳で未来を切り開いてきた偉大な英雄達の間には隔絶して超えられない溝が存在する。

 

竜の血を浴びてすらいないものばかりであるヘイムダルの率いる所詮は畜群にすぎない亡者の軍団が、ギルガメッシュの率いる三度以上も竜を殺した英雄が数多に存在する偉大な冒険者の軍団に勝てるはずもない。

 

彼我の戦力差を最も顕著に表しているのが、互いの軍団の死傷者の数がゼロである事実と、戦場に散らばる武器が防具はヘイムダルの軍団のものばかりという事実だろう。それはすなわち、少なくとも半日程度は行われていたこの戦場において、ギルガメッシュ率いる英雄軍団の彼らは一人たりとして死傷者重傷を負ったものがおらず、誰一人として己の獲物を手放した不肖者はいないということを表しており、同時にヘイムダル軍団は彼ら英雄の軍から半日以上も一方的に嬲られ続けていたのだという事実を指し示していた。

 

ヘイムダルの偽ギャラルホルンという宝具には、死者を復活させる際、同時に死にゆく際彼らが纏っていた武器防具も同時に復元するシステムがあり、それ故にヘイムダルの軍団は、ヘイムダルと彼の笛と魔力さえあれば、永遠に戦い続けることの出来る能力を保有している。一聞すればなるほど、終末において行われる戦争の水先案内人として相応しいなんとも反則じみた仕組みと能力を持っている宝具だといえよう。しかし今、そんな反則級の宝具を保有しており、加えて世界の全ての生命の源という無限に等しい潤沢な魔力を保有しているにもかかわらず、命も装備も有限であるはずのギルガメッシュら率いる英雄軍団には大した傷を付けること叶わない。否、それどころか、そんな彼らが復活するたびに落ちた矢や銃弾、火薬などを拾われては自身らの不利を招くための道具として再利用されているのだから、なんとも皮肉な話である。

 

――ブオオオオオオオオオ!

 

戦場にもう幾度響き渡ったのかわからない角笛の音色が響き渡る。笛の音色は英雄たちの一撃により命を失った亡者たちの魂をもう一度この場所へと呼び戻し、亡者たちに再び肉の体を与える。――だが。

 

「――おそってくる数が……」

「ああ。減ってきてるな」

 

彼らが復活する度、雄叫びをあげてギルガメッシュの軍団へと襲いかかってくる亡者の数は徐々に減ってゆく。復活する数が減っているわけではない。一人、また一人と、戦意を失ってその場に呆然と立ち尽くすか座り込むかへたり込んでゆくのだ。無限に等しい再生能力を持つ彼らではあったが、ヘイムダルの操る亡者たちはヘイムダルの自嘲した通り、所詮は、妄執や執念と呼べるものを持たぬ半端者の畜群集団。彼らの心は勝ち目の見えない勝負をいつまでも続けられる程には強くない。

 

「――――、決着だな」

 

やがて亡者の軍団の多くが、復活したその瞬間に力なく手にした自らの獲物を朱殷色の地面へと落下させてしまうようになった頃、ギルガメッシュは詰まらなそうに椅子から怠惰に立ちあがると、髪をかきあげて戦場を見渡す。

 

戦場だったはずの場所はすでにただの屠殺場と化していた。

 

 

「ねぇ」

 

不利に傾く戦況を歯を軋ませながら見守っていた所、隣から小さな声が聞こえてきた。

 

「なんだ、サコ」

 

その淡々とした声色が酷く気に入らなくてぶっきらぼうに返事をした。その返答の仕方は協力者に対する礼儀というものの一切を欠いているもので、如何にも相手のことをどうでも良いと思っている念が現れていたが、一切白衣を纏った小さな女はまるで気にした様子なく言葉を聞き流すと、再び口を開いた。

 

「負けそうですね、ヘイムダル」

「……」

 

そうして帰ってきた言葉に閉口する。

 

「みんなが覚悟を決めて敵の攻撃によって致命傷を負うこと前提の戦い方をするようになってから、確かにこちら側が優位に戦いを進められるような場面もちらほらと出てきていた。でも、所詮は付け焼き刃。そもそもあちらとこちらの地力が違いすぎる。戦闘用スキルの中には、戦いの最中や、敵を倒すことによって体力や怪我、精神力を回復させるスキルも存在する。こちらが倒される事を前提とした持久戦じゃ絶対に勝ち目がない」

「……、そう」

 

それは間違いなく正論だった。

 

「地力がないのに無理な戦線の押し返しを狙ったせいで、徐々に押し込まれ始めている。あなたの復活や私の回復スキルもおいついていない。戦意を失った冒険者も多数出てきている。今のままじゃこちらの術式が完成するまでの間の時間稼ぎすらできなくなるでしょう」

「……………………そう、だな」

 

正論は正論であるが故に反論など許されなかった。結果、箸にも棒にもかからない言葉しか返せず、そのまま消沈させられる。

 

――情けねぇ

 

そんな痛苦の想いが凍える胸を貫いた。

 

「当初の予定通り、目の前の彼等を悪魔化して実力の底上げを行うか、無敵である炎の壁の向こう側にある戦艦の艦砲射撃を中心とした戦術を組み立てるか、ギルガメッシュの暗殺に切り替えた方がいいと思います。賭けるにしてもそちらの方がよほど勝率が高いはず」

 

こちらのそんな思いなど知ったことかと言わんばかりに無表情を保ったままサコは滔々と続ける。目の前の彼らを捨て石、艦砲射撃を目くらましに、サコの気配遮断能力を使ってギルガメッシュの所まで連れていってもらい、ヘイムダルの角笛を心臓に突き立てる。なるほどそれだけで自分たちの目的の達成確率は相当上昇するだろう。サコの助言はあいも変わらず嫌になるくらい正しいものだった。

 

「その通りだ」

 

そも実力でも経験でも劣る半端な自分たちでは、目の前の英雄の群勢とまともにぶつかってしまえばまず勝てない。そんなことはこの戦いが始まる前に判明していた事実だった。だからこそ自分たちは、自らより格上の相手と真正面からぶつからないですむ策を立て、人と物と手段を集め、相手を戦いの土俵にあげることなく、暗殺計画を実行し、自らたちの優位を確保するつもりだった。

 

――そのはずだったのだ。

 

「ではなぜやろうとしないのですか?」

 

相手の得意な分野では戦わず、自らの得意とするやり方を推し進める。資本力で負けているなら。アイディアや小さな土俵で勝負する必要が。負けが続くというのであれば、どこかで損切りが必要だ。やり方を変えなければ目の前の相手に勝てはしない。それは戦いでも商売でもおんなじだ。

 

この場合、相手は自分たちよりはるかに資本力を有する大商人に等しい相手だ。その上、上から下まで揃いも揃って実力者揃い。ならば資本でも実力でも劣る自分たちが勝ち目を得るためには、その相手の戦力を削るか、劣る実力を補うための手段を用意するかの二択しかありえない。

 

故にギルガメッシュという半神半人の英雄をロキとして見立て、サコの協力のもとギャラルホルンを彼の心臓に突き立てて暗殺するという手段を用意した。

 

故にヘイムダルの笛でこの世に恨みを残して死にきれぬと言いながら果てていった死者を呼び出し、彼らを悪魔化させるという、こちらの戦力を向上させるための手段を用意した。

 

それらは相手の戦力を削りつつ、劣る実力をも補うために適した手段であるはずだった。自分たちは実力に劣っている。そう理解しているからこそ、自分たちは様々な策を弄して、世界を駆けずり回ってきたのだ。

 

だから、真正面から正々堂々を旨とする戦いを続けるのは、それこそ愚の骨頂以外のなにものでもない。そんなことはわかっている。そんなことは痛いほどによくわかっている。そんなことは、この強靭さを手に入れた肉体が千切れるほどに理解している。

 

――でも。

 

「なんでだろうな」

「……、嘘つきですね。わかっているくせに」

「……」

 

目の前の奴が何を考えて自分たちと同じ土俵に乗ってきたのかはわからない。見下しているからというのはあるだろう。侮っているというのもあるのだろう。しかしどうあれ、あれほど焦がれた英雄という存在が、その頂点に立つであろう相手が、わざわざこちらと同じ場所に降りてきてくれているのだから――

 

――そんな相手に対して、真正面から打ち勝ちたい。

 

それは間違いなくヘイムダルという存在の本心であり、今この戦場でヘイムダルという陣営に属してこちらの力として戦っている彼らが総じて抱えている願いだった。自分たちのそんな選択は、敵対している相手の長たる英雄王という存在が持つカリスマ性に魅かれての選択だったかもしれない。しかし自分たちにとって、その気持ちが如何なる物によって自らの裡に湧き出したのかは関係なかった。

 

――そうだ。

 

自分たちは彼に目の前にいる存在に勝ちたい。勝って自分たちの力を証明したい。自分たちの未来を自分たちの力だけで切り開きたい。自分たちは客観的という単語の呪縛から抜け出したい。自分たちは自分たちの沈んでいる絶望と倦怠の沼から自らの力によってを自分たちを救い出したいのだ。

 

――そのためならなんだってする。

 

そのためならと痛みに耐える覚悟をした。痛みを恐れながらも踏み込む覚悟をした。こんな半端な結果しか残せなかった人間の命一つで英雄の軍勢を倒すという奇跡を起こせるならと、必要ならば命を捨てての突撃だって躊躇わないようになった。俺たちはたしかに捨て身の強さを手に入れた。

 

――しかし。

 

「そのままの貴方達で出来ると思っているんですか? 真っ当な手段で勝てると思っているのですか?相手は世界の守護者たる英雄王と、迷宮初踏破の誉れこそ持っていないものの、噂に名高い有名な冒険者たちですよ? 出来なかったらそこで終わりなんですよ?」

「…………………………………………、そうだな」

 

そうして全身全霊を尽くしたところで、この有様なのだ。

 

――勝てない。

 

そもそもの才能が違う。積み上げてきた努力の量が違う。味わってきた経験の質が違う。覚悟が、歩んでいた道のりが、培ってきたものが、その全てが、自分のような自己を欠いて小さな満足に流されるような人間たちとはあまりに違いすぎている。戦えば戦うほどに、勝ち目ではなくそんなこと、相手が自分たちよりも遠い場所にいるということばかりがわかってしまう。

 

――所詮自分たちは半端者。

 

そもそもこちら側に属しているのはそんな、有名になる前に命を落とした者や、あるいは挑戦すらせずにそんな夢を諦め絶望の倦怠に沈んだ人間の集まりだ。だからわからない。どうすれば自分では遥か上の実力を持つ相手たちに勝てるのか、そもそもどうやれば勝ち目などと言うものが見えてくるのかすらわからない。勝てる可能性など過少ほども見当たらないのだ。

 

――だから心が折れてしまう。

 

英雄達の繰り出す苛烈な攻撃に次々と心を手折られ膝を落としてゆく様を見て心底悔しいと思う。けれどまた、仕方がないとも思えてしまう。その気持ちは――、非常に悔しいことだが、それらと対峙している身として、よくわかるのだ。

 

眼前に立ち塞がっているのは、壁などという生易しいものではなく、掴む余地すら見当たらない完全な絶壁。あるいは、向こう岸の見えない断崖だ。勝ち目が見えるのならば、まだ頑張れる。自分たちの力を尽くして勝てるのという予感がするのであればまだ分の悪い賭けであると発奮もできよう。しかし目の前にあるのが自己を賭けたところで届かぬ領域にのみ答えがあるような解決不可能事が解答である命題というならば、己を奮い立たせるだけの気力を何処より補填しろというのだろうか。

 

――事ここに至っては、もはや真っ当な手段で勝ちなど拾えない。

 

ならばサコのいうとおり、真っ当でない手段を用いるのが最も妥当かつ安泰な選択だろう。

 

――しかし。

 

それでも。

 

「……、意地、あるいは虚栄心というやつですか。――――――まぁ、好きにしてください。私の望みは兄であるシンと一緒にいることだけ。シンはどちらにでもいる。私はどちらが戦争に勝っても負けてもいいんですから」

 

この手で勝利をもぎ取りたい。一度でいいから、死を賭した試練の先にある栄光を掴み取ってみたい。それはもはや、世界の行く末などよりも重要な、勝利条件なのだ。

 

「…………そうか」

「ええ」

 

無言のうちから思惑を悟ったのだろう、サコはそれきり黙り込んでしまった。何を言っても聞かないのなら言っても無駄だと思ったのだろう。彼女は自分や自分達に対して何も期待していない。

 

――悔しい

 

思うと同時、責められなかったという事に安堵を覚えた。同時に安堵を覚えたという事実が情けなくて、腹が立った。そうして彼女が自分たちという存在に期待をしないのが、自分にとって苛立ちを呼ぶと同時に救いにもなっているという事実が格好悪くて、これ以上ないほどはらわたが煮えくりかえった。

 

――わかっている。

 

わかっているとも。このままでは自分たちは勝てない。自分たちでは勝ち方がわからない。終わらせる手段なら持っている。でもその手段を用いれば、自分たちの望みが叶う確率は高い。だがその手段を取れば、もはや二度と自分たちにこのようなチャンスは訪れないだろう。

 

「……ちくしょう」

 

背反する理想と現実。どちらを選んでも後悔する問題。実力や才能、経験が足りないと言う絶対的な壁にぶち当たった時、どうすれば自分たちは勝てるのか。答えが欲しい。いや、贅沢は言わない。それを教示して欲しいとも、示唆してくれとも言わない。一度でいい。一度でいいから。せめて。せめて、俺たちにも可能性があるのだということを信じさせてくれ。

 

「ちくしょう……」

 

――誰かどうかお願いだ。どうか俺たちを。こんな惨めな俺たちを、このどう足掻こうが後悔と未練ばかりが広がる、輝かしい未来の見えない戦争から救い出してくれ。

 

思いを込めて天に祈るも、願いを聞き届けてくれる神はここにいない。こんな我らに味方してくれる物好きな神もいないではないが、そんな神は、今、我らの住まう土地を生み出すためにその力の行使を行なっており、火山というその場所より動くこともかなわない。

 

――希望が欲しい。

 

祈りを捧げている間にもまだ僅かながらも存在する戦意を保っている亡者たちが英雄たちに立ち向かい、そして呆気なく散ってゆく。英雄達の攻撃によって多くの味方が散ったのを見た瞬間、ほとんど反射的に機械的な動作として角笛を構えた。

 

そうして未だに戦意を保ってくれている彼らの死骸を復活させるために吹き鳴らそうとした顔を僅かに上へと向けた――

 

その時だ。

 

「……あれは」

 

はるか天蓋にある夜色の空の向こう側、パックリと開いた天の割れ目に煌めく光があった。闇を斬り裂いて堕ちてくる赤いそれは、まるで『その祈り、確かに聞き届けた』と誇らしげな流れ星に似ていた。

 

 

――ドズン!

 

突如として戦場へと割り込んできた存在に、誰もが手を足を止めて注視する。それは赤と黒で構成された金属物体――機械と呼ばれる代物だった。天より落ちてきた機械は元々戦車だったのだろう、車体の上部にある砲身部分は折れ曲っている。赤い車体を守るために貼り付けてある金属板も落下の衝撃によって塑性変形をおこしているらしく、酷くデコボコとした状態のまま戻らない。ケーブルや接合部からはバチバチと火花が散り、金属板と金属板の各部の継ぎ目からは煙が漏れ出している。見るものが見れば元は立派な戦車だったのだと理解できるだろうそれは、今や完全にスクラップと同義の存在と成り果てていた。

 

――ガン、ガン、ガン!

 

やがて火花飛び散らせ噴煙を上げる戦車の内部からは金属同士がぶつかる音が聞こえてきた。周期的に鳴るその音は機械的というには多少乱雑なものであり、機械という一定の決まった動作ばかりを繰り返すモノには出せない苛つきの感情というものが含まれていた。

 

――ガン、ガン、ガン。ガン、ガン…………、ドガン!

 

一同が見守る最中、やがて戦車の上部ハッチが勢いよく開いた。バカッ、と勢いよく開いた次の瞬間、アルケミストと呼ばれる人間が錬金術スキルを使用するために装着している機械の籠手が現れる。ハッチから勢いよく現れた籠手は、しかしそんな自らのはしたなさを恥じるかのように一度戦車の内部に引っ込むと、続けて、開いたハッチより数名の人間がゾロゾロと内部より這い出してくる。彼らは一様に汗と黒煙にまみれ、見た目ボロボロの有様だった。

 

「クソ、なんっつー手荒い着地……。おい、シン! 何が任せておけだこのアホ!」

「すまない、サガ。下手を打った」

「とはいえ、完全にシンのせいとはいえないだろう。この空間に突入した途端、急に磁気嵐の様なものが発生して計器類が片っ端からいかれてしまったのだ。真っ逆さまに落下する最中、マニュアルに切り替えて無理やり着地させただけでも神業だと思うがね」

「そしてあなたも見事でしたよ、ダリ。貴方がこのギムレーと地面とが激突する寸前に完全防御を使用してくれたからこそ、私たちは傷一つなくこうして生きているのです」

「ああ、それは……、そうだな。どういたしまして、ピエール」

 

騒乱ばかりが支配していた戦場に沈黙という異物を持ち込んだ一同は、一切緊張した様子なく平然とした態度を貫いていた。異常さ極まるこの土地、異質なる存在同士が激突するこの戦場において、そんな異常かつ異質なモノが跋扈する場所の中央に陣取っていながら、それらをまるで気にせずも振る舞える彼らは間違いなく癲狂院の愚者と比較しても劣らぬほどに異常であり、異質であり、この時、この場所において、誰よりも異邦人的な存在だった。

 

「さて、と」

 

やがて彼らのうち、最も背の高い男――ダリが壊れた機械の上に乗ると、小手を翳し、戦場を見渡し、やがて目を細めて激突していた両軍の最奥へとその視線を伸ばしてゆく。

 

「あちらがギルガメッシュの軍で、こちらがヘイムダル――ヘイの軍か」

「装備の質の違いをみりゃ大体わかるだろ」

「だが万が一ということもある。自分の目で確認した方が確実だ」

「多少柔らかくなったと思ったらこれだよ。根のお堅い真面目な所は変わってねぇなぁ」

「人間そうそう気質の部分は変わらんものさ」

「はいはい、いちゃつくのは後にして下さいよ。今はそれどころじゃないでしょう?」

「あー、悪りぃ」

「……すまなかった」

「……気持ち悪いくらい素直になりましたねぇ、貴方達……。ま、楽でいいですけど。シン――」

「む」

「あとはよろしくお願いしましたよ」

「うむ。任された」

 

相も変わらず呑気を貫く彼らのうち、やがてブシドーの格好をした男が、詩人の男の言葉を受けて一歩を踏み出した。ギルガメッシュ率いる英雄達の方に向けて、まるで気負いなく踏み出されたその一歩は、異常さが支配するこの場においていかにも不自然なものとして誰の目にもうつり、そんな視線を避けるかのごとく、過去に英雄と呼ばれた冒険者たちは、シンと呼ばれる男の視線に道を譲り出す。そうして視線を遮るものが失せてゆく中、やがてその視線の先に英雄王の姿を見つけたシンは、大きく息を吸うと言葉を発した。

 

「英雄王!」

 

声は戦場の停滞を斬り裂くように響き渡る。シンの視線は最奥にいるギルガメッシュを鋭く貫いていた。戦場を貫通して突き刺すような視線につられ、その場にいる全ての存在の意識がギルガメッシュの方へと向けられる。

 

「――」

 

ギルガメッシュは自らへと視線が集中したことを知ると、ニィ、と倦怠ばかりを浮かべていた顔に凶暴な笑みを浮かべなおして、豪奢な装飾施された椅子より立ち上がった。清浄さばかりが支配していた空気に異物が混じる。王の威圧とでも言おうか、ギルガメッシュの周囲より発生したそれは、シンの時よりもあっという間にギルガメッシュに組する英雄達と英雄達の間を断ち切り、自軍を二分する。ギルガメッシュはそうして自らの威圧が産んだ亀裂をまるで預言者のように悠々歩くと、シンの目前、声を交わし会える位置にまでやってきた。

 

ギルガメッシュは笑いながらいう。

 

「我を呼びつけるとはいい度胸だ。貴様のそれが不敬な目的に基づくものであったのならばこの場で縊り殺してやろうかとも考えていたが――、あの楽師が落ち着いた態度の我へと視線を向けているところを見やるに、どうやらそうでないらしいな」

 

物騒なことを極めてあっさりと言ってのけるギルガメッシュの言葉を受けてシンは自然に笑い、続けて話題に俎上したこの気難しい英雄王から信頼を勝ち取ったピエールが少しばかり困ったような、照れたような、判別のつきにくい表情を顔に浮かべると、シンの隣へと並び、ギルガメッシュに対して丁寧に一礼をした。

 

「――勿論ですとも、英雄王。それどころか、今からシンの語る言葉により、貴方が今しがたまさに抱えているだろうその倦怠と退屈が、一片の曇りなく晴れてくれる事を、貴方に認められしこの詩人たる私が保証いたしましょう」

「ほう――」

 

ギルガメッシュの目に愉悦の色が宿る。戦場にいる全ての人間の視線を浴びる彼だったが、その両の瞳にはもはやピエールとシン以外の人間など映っていないようだった。

 

「ならばよい。――さて、では血と贄を好む戦闘神の名を持つ男よ。我に何用だ」

 

やがてギルガメッシュの視線がシンだけまっすぐ射抜いた。殺意と好奇心が入り混じった視線を受けて、シンは身震いをする。それは勿論恐怖からなどというつまらない感情からによるものではなかった。

 

「――宣告を」

 

シンは今、ギルガメッシュというはるか格上の存在の意識が自らのみに注がれているという事実に歓喜して震えているのだ。言葉を発する最中も心臓が昂ぶるのを止められない。シンの体はそうして自らよりもはるか格上に対して、その言葉を発することが出来るのだという喜びに、心底うち震えていた。

 

「我々ギルド『異邦人』は――、故あって貴方に叛旗を翻す」

 

裡より出でる想いに背を押されたのか、そんなとんでもない決意を口にするのは思いのほか楽だった。口にした言葉は波紋となりて戦場へと浸透してゆく。近場にて誰かが息を呑む声が聞こえた。シンの声はやがて停止した戦場の隅々にまで広がり、彼の宣告を耳にしたものの多くが理解不能と驚愕の視線を彼へと向けるようになっていった。

 

――「あいつら……」

――「いったい何考えているんだ……?」

 

追従するかのように、奇異の視線が遅れてシン達を射抜く。それはやがて量と密度とを増して四人の体へと纏わりつく。しかし一行はそんなことを気にすることもなく、平然としている。特にシンなどは、そんな場所へと自ら足を踏み出したという事実に興奮したのか、心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。

 

ざわめきが徐々に大きくなる中、やがてギルガメッシュが無言で片腕を振り上げる。

 

「――」

 

途端、彼の所作によって戦場に静寂が舞い戻る。

 

「く、くく……」

 

彼の持つカリスマ性によって静けさ取り戻した戦場に響くのは、ギルガメッシュの声ばかりだった。ギルガメッシュは嗤っている。ギルガメッシュは傲慢な態度の最中に無遠慮と快楽を交えながら、逸楽の徒であるかのように笑っていた。

 

「如何なる思惑によるものかは知らんが、我を裏切るその宣言には欠片ほども迷いがない。なるほど、よい宣戦布告だ。――よかろう。貴様らのその叛逆を許す。ギルド『異邦人』とやらの連中どもよ。せいぜい死に物狂いで抗うが良い」

 

言葉とともに踵を返すと再びギルガメッシュは軍の奥へと引いてゆく。彼が豪奢な玉座に腰を下ろすと、座した彼の視線は僅かばかりに未だ側に伏して倒れている響へ向き、そして戦場において敵指揮官のいる場所へと向けられた。

 

――それが、戦闘再開の合図となった。

 

「お」

「お、おぉ」

「オォォォォォォォォォォォォ!」

 

雄叫びが伝播する。天が震えた。大地が揺れる。戦場が震え、ダリが盾を構えた。雄叫びを聞いてサガが籠手を解放する。響く怒号などに負けてたまるかと言わんばかりに、ピエールが竪琴の弦を一撫でした。

 

シンはいつもの前傾姿勢となり、臨戦態勢へと移行する。鍔口より僅かに刀を抜き放てば、飽きる程に味わった重みが生身の体を取り戻した手によく馴染む、とシンはそう感じていた。今にも飛び出しそうなシンの状態を見て、ピエールは言う。

 

「人生は一つの夢であり、人間はその夢の中の幻影である。この世は舞台、人間は皆役者。その始まりがとある関係にある男女の愛のすれ違いに基づくものであるならば、古典に習い、『おお、本性よ! そなたはかくも甘美な肉の死すべき楽園に、悪魔の魂を隠したのに、一体、地獄に何の用があるのか!』、と叫びたくなるところですね」

「ふむ、相変わらずお前の言うことはよくわからん」

「ダリ。放っておけ。こいつはこう言う奴だ」

 

そんな三人を尻目に、全身の力がついに解き放たれる時である事を確信したシンは、言う。

 

「満願成就の夜が来た。さぁ、戦いを始めよう」

 

 

I am the born of my sword.

体は剣で出来ている。

 

Steel is my body, and fire is my blood.

血潮は鉄で、心は硝子。

 

I have created over a thousand blade.

幾たびの戦場を超えて不敗。

 

Unknown to Death

ただの一度も敗走はなく、

 

Nor Known to Life.

ただの一度も理解されない。

 

Have withstood pain to create many weapons.

彼の者は常に独り剣の丘で勝利に酔う。

 

Yet, those hands will never hold anything.

故に、その生涯に意味はなく、

 

So as I play,――

その体は、きっと――

 

 

戦争があった。戦争はどこにでもあった。戦争はいつの時代にもあった。人間のいるところにはいつだって戦争があった。大小の区別を無くして仕舞えば、狭隘な地球上において、戦争はどこにでもあり、いつの時代においても、あらゆる場所において行われていた。

 

――きりがなかった。

 

生きることとはすなわち争いであり、戦争というものが生きるという行為の延長線上にある以上、そんなものに終わりなどあるはずがない。戦争は地球上において人の存在しうるありとあらゆる場所において行われている。ならば幼い衛宮士郎という当時一般人にすぎなかった私が、そんなものと関わりを持ってしまったばかり、生き残る代償として過去の全てを失ってしまったのも、ある意味では必然だったのだろう。

 

――そんな戦争に巻き込まれて、自分は全てを失った。

 

戦争。参加したものの善悪に関係なく、多くの凡人から幸福を簒奪し、一部の特別な人間に莫大な利益をもたらす、ほとんど全ての人間が何かを喪失する運命を押し付けられる狂宴。多くの人の命と幸福を濫費し、濃縮し、一部の存在にのみ幸福を還元する、権力者たちの都合が良いよう絵筆によって雄勁に阿諛される、巻き込まれたほとんどの人が不幸になる、血塗られた搾取の儀式。

 

――だから止めたいと思った。

 

人間の欲望に果てはなく、故に戦争に終わりはない。一度始まってしまえば戦争より生まれ出でる呪いは未来永劫戦争に参加した人間へ纏わりつき、やがて戦争に関わった全ての人間を巻き込んで子々孫々にまで連綿と受け継がれる蠱毒の呪いへと変貌する。

 

――それでも止めたいと思った。

 

生まてくる呪いはあまりに強大で、そんな呪いに抗うためには人はあまりにも愚かで脆弱だった。繰り返される戦争。拡大する被害。戦争が起こるたびに富の独占と貧困は拡大し、味を占めた愚劣な統治者の虚栄心や、生活格差に怒り狂う人々の手によって再び戦争は引き起こされる。そんな醜悪すぎる自滅行為に巻き込まれて最も被害を被るのは、いつだって戦争ともっとも関係ない、しかし戦争という戦いの舞台に無理やり引き上げられてしまった無辜の人々だ。

 

――だから止めようと思った。

 

瞼の裏側に焼きついた光景がある。炎舞い上がる煉獄において助け出された記憶がある。地獄の中から救い出された時の嬉しさを覚えている。私を地獄から救い出した男が浮かべた笑みを覚えている。誰かを踏みつけて生き残ってしまった罪悪感がどうにも忘れられない。

 

――だから絶対に止めてみせるとそう決心した。

 

別に英雄などになりたかったわけじゃない。ただ、気づけば湧き出る思いに動かされるがまま、戦場に向けて駆け出していた。そうして気付いた時には、一人でも多くの人を助けるため、あらゆる法と理屈を無視して突っ走っていた。そんな馬鹿みたいな方法を愚直なまでにただひたすら繰り返して、世界の裏側に韜晦する直前まで数えるのも億劫になるくらい多くの戦争を終結させてきた。

 

――けれど。

 

しかし戦争というものはそれが起きるまでの間に積み上げてきた戦争とは、積み上げてきたものを崩すための行為であり、一切合切の怨恨をご破算にするための行為だ。故に一度戦争が始まってしまえば、戦う人々の心の中に溜め込まれた膿みを出し切る以外にそれを終わらせる手段などない。

 

――人間はどこまでも愚かで、驚くほどに醜悪な存在だった。

 

犠牲なくして戦争を終わらせることができない。積み上げてきた怨恨を凌駕するだけの犠牲がでない戦争の決着を人は認めない。強要される同情。積み重ねられる屍。繰り返される自滅行為。誰を地獄に叩き落とそうと自らの救いだけは得ようとする、醜悪な自我。人間に救う価値などあるのかと悩んだ。誰もが幸福になる道などこの道の先にはないと悟った。

 

――それでも、守ろうと思った。

 

それでもどうにかしたいと、心から願った。それだけが、全てを失ってしまった自分にとって、全てを失ってしまったと思い込んでいた自分にとって、ただ一つ残った矜恃だったから。

 

ーーだから、どうにかしよう、と決心した。

 

しかし犠牲を出さぬ方法を考えている間にも人は次々と死んでゆく。人は愚かで、どこまでも死にたがる生き物だった。迷っている暇などない。ならばせめて、その犠牲を最小限にしようと決心した。

 

だから。

 

――『お前のやり方はあまりに直接的かつ過激的で、性急に過ぎる!』

 

可能な限り犠牲が少数となるよう選定した。被害が増えぬよう、犠牲として選定した人々を可及的速やかに排除した。そんなことを繰り返すことで、排除してきた数の数百倍もの人の命を拾い上げてきた。

 

――『空想に興味はない。止めたいのならばこれよりも優れた手段と方法を寄越してみせろ』

 

多くの人がそのやり方に反対した。人を救いたいと言う同じ目的を持って近くに寄ってきた人間は、皆一様に実現不可能な綺麗事ばかりを言って私を責めたてた。

 

――『……っ、けど、だからといって助けを求めている人を率先して切り捨てるなんて――』

 

意見に対し、しかし目の前で死にゆく人を放っては置けぬと論駁を繰り返した。

 

――『一人を助けるために十人を犠牲にするやり方を尊ぶなど話にならん。私はもう行く』

 

議論が平行線になるたび、お前の意見はつまらぬ諧謔だと断言した。璽余の問題だと憤懣に突き動かされるがままに歩武し、戦場へと赴いた。

 

――『……お前は何のためにそんなことを繰り返す』

 

放縦に争いを生み出す原因を芟除し続けた結果、瞥見にすら峻酷に疑懼の目ばかりを向けられるようになった。行動を起こさないものほど文句だけは立派に言うものだとそれらの視線をすべて見下して斬り伏せてきた。

 

――『決まっているだろう』

 

多くを救うために少ないを殺す。そうして正しさを手に入れた私の中にもはや求めてきた正義などというものはどこにも残ってなどいなかった。理想を抱いて溺死した我が身の残渣を搗き砕いたとしても、欠片ほども見つからないくらいに私の正義は砕け散っていた。

 

――『多くの命を救う為だ』

 

そうとも、信念などとうの昔に歩いてきた道の何処かに置き去りになっている。もはや正義の味方などと理想の言葉を言うことすらも出来なくなっていた。満身創痍の体に残っているのは、それでも捨てられぬ、『可能な限り多くの人の命を救う』という矜持だけだった。

 

――『……そうか』

 

戦場で剣を振るえば命が多く助かる。誰かの命を救ったその時だけ湧き上がる僅かばかりの充実感が私を支える全てだった。その時だけ私は私自身の愚かさを忘れ、勝利に酔うことが出来たのだ。そんな自己満足の瞬間だけを頼りに、この地獄のような世の中で磨耗しきった自分を保ち続けてきた。

 

――『理解したか?』

 

だから力を欲した。多くの命を救うにはより大きな力が必要となる。私を満足させるには、より大きな力と成果が必要になる。

 

――『ああ――、よく理解したさ』

 

だから血反吐を吐く思いをして努力と鍛錬を重ね、死の蔓延する戦場を駆け抜けて、常人をはるかに超える力を身につけた。しかしそうして力をつけるほどに、勝利を重ねるごとに、人から向けられる視線には、求めていない視線ばかりが増えてゆく。

 

――『ならば――』

 

勝利を重ねるたび私の理解者が減ってゆく。

 

――『俺はもう、お前にはついていけないんだと言うことを、俺は嫌という程理解したよ』

 

そしてあらゆる理解者を失った私がやがてたどり着いたのは、全ての命が絶えた荒野だった。正義の味方を目指して多くに人を救い出したその先に、全てを救ってくれる真の正義の味方など存在していなかった。そんな偽りの気持ちを抱いたまま、現実に堕ちた理想を貫いた先いたのは、誰からも、自分にすら認められない偽の正義の味方だった。

 

――『オーディンは我が胸に過酷な心を置きたり。スカンジナビィアの古い伝承にあるバイキングたちが英雄を讃える詠だが、お前はまさにそれだ。お前の在り方はあまりに英雄的すぎる。彼らが他人に望んでいるのは救いなんかじゃなくて同情で、さらに言えばその心からの望みは、惨めに堕ちた自分で自分を救える道を見つけることなんだ』

 

結局のところ、あの時、あの男の言った事こそが正しかったのだろう。彼らが欲しているのは、他人からもたらされる一時しのぎの救いではなくて、これからもずっと戦って自分を救い続けることのできる力。人を救えるのは自分の意志と覚悟だけ。他人からもたらされる救いなんてものにほとんど価値はなく、コインみたいな、使えばすぐに誰かの手に渡ってしまう程度のものでしかない。

 

――『お前に人は救えない。人を数でしか見ないお前に、人を救うことなんてできやしない』

 

だからそんな他人の想いを無視していくら救いの手を差し伸べようと、そんなものは彼らにとって余計なお世話以外の何者でもなかった。ならば、他人を救えばこの薄汚れた罪も少しは晴れるかもしれないというくだらない私のエゴから生み出された偽りの救済の返答として糾弾の言葉と否定の視線ばかりが返されるのは、なるほど当然の報いだったというわけだ。

 

――『世の中はゲームや漫画みたいに誰かを救ってはい終わりじゃない。お前が助けた彼らの人生はこれから先も続いているんだ。だからもしお前がこれから先もそんな誰かの命を拾い上げるだけの行為を続けるっていうんなら――』

 

思えばあれこそが境界線だった。当時の私が理想主義者の戯言と考えていた彼の言葉こそが真実私が救いたかった彼らが最も正しく欲してあるものであり、私が彼らに与えるべきものだった。そんな善と悪の区別も理解しないまま、彼らが望んでいない救いの形を押し付けるために私はただ戦場を駆け抜けて――

 

――『覚えておけ。その行いは報いとして必ずお前の大切なものを喰らい尽くすぞ』

 

己の成してきた愚かさの報いを存分に受ける事となった。

 

――『おい、聞いたか。今度は西の方だってよ』

――『ああ。あの『戦争好き』の事だろう?』

 

望まぬ救いと秘めたる醜さを他人に押し付けてきた罪がこの身にあるならば、どれだけ足搔けども自身の救いと他人の理解を得られないのは当然の罰。

 

――『次はどこに現れるんだろうな』

――『知るか。知りたきゃ争いでも起こすんだな。すっ飛んできてくれるだろうぜ』

 

人としての弱さを手に入れた理解した今だからこそわかる。かつての自分がいかに愚かしく傲慢な道徳的偽善主義者だったのかを。

 

――『覚えておけ。目の前にいる誰かを救いたいなら、彼ら自身が救われる方法を提示してやらないといけないってことを』

 

だからこそわかる。今、自分がこれからゆく戦場という場所において、果たして自分が何をしなければならないのかを。

 

 

呪いの詰まった闇の海の中、地上へと伸びている輝く階段を駆け抜け直進すれば、やがて地鳴りと剣戟が響く大地へと辿り着く。

 

「……っ、はっ!」

 

息を切らしながら身体に纏わり付くような呪いの汚泥を振り払い、地下より思い切り飛び出した。肌が空気に触れた途端途端、切り裂くような冷気が露わとなった頬を撫ぜてゆく。ただでさえ昂ぶっていた神経へとさらに刺激が加わり、感触に産毛が逆立ち、鳥肌が立った。

 

「ふぅぅぅ……」

 

疾走と感情の発露により茹だった頭と火照った全身から熱を逃がすべく一息をつく。毛穴から汗を伴っての放熱には何とも言えない小気味好さがあった。吐息を重ねて熱を逃がすごとに茹だった脳みそは徐々に冷めてゆき、それに伴って熱雑音だらけに支配されていた三半規管が正常な機能を取り戻してゆく。

 

――ああ

 

途端、赤い大地に鳴り響く剣戟と銃火の音色が飛び込んできた。続けざまに悲鳴と怒号が耳孔を穿ち、遅れて空を染め上げんばかりに眩い色とりどりの光が眼球へと飛び込んでくる。敵と味方に別れた軍勢がまるで遠慮なしにぶつかり合う事で大地は鳴動し、空中には絶え間無く矢や弾丸、スキルによって生み出されたのだろう炎氷雷が飛び交っているのだ。

 

「なるほど、これはたしかに――」

 

体を包み込む空気は火薬と鉄血の匂いがした。独特の湿り気ある懐かしい空気が全身を包み込んでいる。そこに存在する誰かの一撃が放たれるたび、敵と味方、あるいは天か大地かのいずれかが穿たれ、衝かれ、切られ、抉られ、嬲られる事によって生まれた被害を尊ぶようにして、さらなる暴の力が犠牲者残る破壊の跡地へと殺到する。

 

「戦争――」

 

なるほどたしかにあの男の言った通り、この赤殷色の大地は戦場で、行われているのは戦争だった。十全な状態を保っているものなど誰一人として存在しておらず、戦争に参加している全てのものは、負傷し、疲弊し、辟易とした表情を浮かべながら、それでも目の前に存在する自らの脅威を排除するために全力をふるって攻撃を繰り返していた。

 

彼らの顔は語っている。もはや自分が何故戦いしたのかは理解していない、と。彼らの態度は語っている。けれども目の前の敵が自分と仲間たちを傷つけ、自らの進む道の障害になってしまうのであれば排除するしか道はないのだ、と。

 

「――アーチャー!?」

「凛!? 」

 

状況を把握した途端、そんな声が耳に飛び込んできた。聞き覚えのある声が再び昂りつつあった気を落ち着かせてくれる。

 

「――エミヤさん」

『エミヤ! 無事だったか!』

「よぉ。互いにしぶといねぇ」

「ライドウにゴウト! それにランサーも!」

 

続けて聞こえた別の言葉が、さらに安寧の気持ちを引き出した。近寄ってくる彼らに感謝の意を込めつつこちらからも接近すると、見覚えのある顔がいくつも並んだものを見やる事の出来る喜びに辛い出来事で凍死寸前だった心が融解され、胸が熱くなる。

 

「よかった。無事だったか」

「それはこっちのセリフよ! 勝手に先走って呪いの中に呑み込まれて……! こっちがどれだけ心配したと思っているの!?」

 

一息つくと、凛が顔を真っ赤にしてがなりたててきた。その言葉に心底救われた気分を得る。強く責め立てる言葉からは安堵の成分が滲み出てきており、自然と零れ落ちた涙は、彼女の言葉が嘘偽りないもの事を証明していたからだろう。

 

「ああ……、ああ、そうだな」

 

凛の言葉はもっともだと思った。もし仮にあの呪いの渦の中に飛び込んだのが私でなく他の誰かであったのなら、私も同じような反応を見せただろう。咄嗟に体が反応してしまったなどという事は言い訳にならない。そしてまた、私が無計画に呪いの渦に飛び込んだ結果、言峰綺礼という一人の男が犠牲となってしまったのだから、これはもう私の落ち度以外のなにものでもない。

 

――っ

 

言峰綺礼。その名を思い浮かべた瞬間、自己満足の報いとして他人が犠牲となってしまった事実が激しい刺激となり、胸に激痛が走った。。

 

「その通りだ。面目ない」

 

不肖を改めて自覚する。いつものよう皮肉含んだ強がりを言い返すことも出来ず、その指摘に対して素直な肯定の返事と謝罪をした。こんな頭を下げるだけの行為を行なった程度で自らの愚劣な行動の結果が許される訳ではないが、だからといってこの程度の謝罪であっても行わなかったのであれば、心が砕けてしまいそうであるが故に。

 

「……えっと、どうしたのよ。そんなに素直に謝られると調子狂うじゃない」

 

そんな態度の変化を凛は目敏く見抜いたようで、訝しんだ態度で問いかけてくる。鼻白んだ表情には心から私を心配する気持ちが浮かんでいた。純粋に私を心配する瞳が今この瞬間においてはひどく居心地の悪く。気づけば自然と彼女から視線をそらしてしまっていた。

 

「いや……、なに、たしかに心配をかけただろうと思ってな」

「……ふーん」

 

横顔を向けたまま率直な想いを述べると、凛は探るような視線を下から覗き込むようにして私の目元へと送ってくる。向けられた蠱惑的な翠の瞳が、違う意味でひどく琴線を掻き鳴らしていた。

 

「そういえばアーチャー。綺礼はどうしたの? 確かアンタの後を追って同じように呪いの中へと消えたと思ったんだけど……、アーチャー、アンタ知らない?」

 

やがて偶然の一致か、はたまた運命のいたずらか、やがて私の瞳を覗き込んでいた聡い彼女は私の心の中にある蟠りを見抜いたかのようにそんな事を言ってくる。それは今の私にとって最も聞かれたくない事であり、しかし同時に、最もはっきりと語らなければなない話題だった。

 

「――それは……」

 

奴の辿った結末を思い浮かべて、言い淀む。ずきりと胸が痛んだ。知らないわけではない。否、知らないどころか、おそらく今の自分ほどに奴の行方について語れる人間はいないだろう。確証があるわけではない。けれど、きっとおそらく、あの呪いの中で見た光景から察するに、そうであるに違いない。

 

――言峰綺礼は、あの呪いの中で、死んだ

 

あの男は私を助けるため、力を使い果たして闇の中へと消えていった。おそらくそれが事実である筈だ。ならばその結末を知る者として、奴に助けられた存在として、私はあの男と知己の仲である凛に、そのことを告げなくてはならない。それが最期を看取ったものに対する義理であり、私を助けた男に対する義務である筈だ。――しかし。

 

「――……、……、――」

 

意を決して真実を告げようとするも、続きの言葉が口から出てきてくれない。唇が無様に開いては、閉じ、開いては閉じを繰り返した。多分、それを口にすると、今しがた自分の中にある想像でしかないそれが現実になってしまいそうだと思ったのだろう。迷いは喉元にとどまり、言葉になる前に失せてゆく。

 

「……、いいわ、言わなくても。今のアンタの態度でだいたい理解したから」

 

情けなくも逡巡する私の様子から恐らくは言峰綺礼という男の結末を正しく見破ったのだろう凛は、目を伏せて柔らかく述べた。言葉は優しく、慈愛に満ちていた。

 

「いや……」

 

その優しさに一度でも甘えてしまうと、先程闇の中で行った決意が怠惰と停滞の中に失せていってしまいそうだった。そんな虚妄と予感に背を押されるような形で唇を一度噛み締めると、決意を新たにその瞳を見つめ直し、口を開く。

 

「………………言峰は死んだよ。あの男は蠱毒の呪いの中に沈んだ私を救うため――――――、その身を犠牲にして散っていった」

「……そう」

 

死んだ。その言葉を口にすると、途端に現実感が増す。指先は現実の冷たさにかじかみかけていた。指先に通う血液が冷たくなる感覚で力が抜けてしまいそうになるのを、拳を握る事で熱を手にとどめてやり、今にも緊張に絡め取られそうになる心の平静を無理やり保つ。

 

「私は……、私のミスで……、私の未熟さのせいで……、あの男は犠牲に――」

 

そして意を決してようやくそんな言葉だけを絞り出した。

 

「私は――」

「ああ、もう、しっかりなさい、アーチャー!」

 

何故そうなったのか。何故言峰綺礼は死んだのか。自分でもいまだにはっきりと理解できていない理由をどうにかして語ろうと言葉を探していると、目の前にいる凛は背筋を伸ばして私の両頬を叩き、目線を無理やり私と合わせた。頬に添えられた手が酷く熱い。

 

「貴方の言っている事はきっと正しいんだと思う。言峰綺礼は衛宮士郎を救ったのち、死んだ。おそらくそれが真実なんでしょう」

「――」

 

しかして、手にひらから伝わってくる熱さに反比例するかのように、告げられた言葉は冷たかった。頬を通じて伝わってくる彼女の鼓動がやけに遅く聞こえてくる。それは、自分自身の鼓動が早まりつつある証だった。早まる自らの鼓動に比例して、私の体温は高まってゆく。凛はそんな私の体に宿りつつある熱を奪い去るかのように力を込めると、その薄い唇を割って言葉を口にした。

 

「でもね。だからといって、貴方がアイツの死をそこまで気にする必要はないわ。あの男はね。自分にとって嫌な事は、絶っっっ対にしない男よ。アレと十年来の付き合いだった私は、アイツの性格をよく知っているから間違いないわ。言峰綺礼という男は、自分が納得しない事に対しては絶対に首を縦に振らず、己が正しいと信じたものにのみ殉ずる男だった。だから、そんなアイツが貴方のことを救ったというのであれば、それはアイツが心からそうしたいと願ったが故に、そうしたことなのよ。貴方の救いは言峰綺礼という男の心からの願いだった。なら、そんな言峰綺礼の願いによって勝手に救われてしまった貴方がそれを気にする必要なんてない。いえ、むしろ、貴方がそれを気にして完全に救われきれていないというのであれば、それこそアイツの死を無駄にする行為じゃないかしら?」

「――――――」

 

言葉は間違いなく慰めのそれだった。凛は間違いなく私の気を鎮めるために、私へと慰めの言葉を投げかけている。凛の優しさが接触している手のひらを通じて伝わってきた。硬くなっていた体が思い遣りの熱を受けて弛緩してゆく。目頭が熱くなり、つい先程枯れ尽くしたはずの涙が頬を伝い、彼女の両手へと落ちていった。

 

「――――――そうだな。そうかもしれない」

 

そうして慰めによって湧き上がってきた喜びの証を隠そうともせずに受け取ると、肯定の言葉を返す。凛は満足そうに笑顔を浮かべると、私の頬へと添えていた自らの腕を回収し、涙の伝った後を拭うことなく、そのまま両腕を腰に添え、胸を張った。

 

「でしょう? ま、性格が最悪のアイツのことだから、そうして貴方が自分の死で苦しむのを見越して悦に入って死んでいったのかもしれないし、とにかく、あんな外道神父の死に様をアンタが気にすることないわ」

「くっ……、相変わらずいいセリフを台無しにすることを平然と言うな、君は」

「いいのよ、別に。だって私、アイツのこと嫌いだったし、アイツなんかよりアンタの方が大事だもの」

「……それに小っ恥ずかしいことも平然というようになった」

「年の功よ。現実で三十年やそこらしか生きてない若僧じゃ言えないかもしれないけどね」

「おやおや、言ってくれる。それに老いを誇るとは、なんとも君らしくない」

「若さなんてのは魅力値の係数よ。老いた分だけ手にしたものがあるなら、ただ若いだけの餓鬼共なんか目じゃないわ。かつての学園のマドンナは伊達じゃないのよ」

「……ふ」

「ふふっ」

 

いつものように皮肉混じりの言葉でジャブの応酬をすませると、互いに片方の唇を吊り上げた意地の悪い笑みを浮かべあって人心地がつく。気がつくと体の震えは止まっていて、そんな私の変化を見た凛は朗らかに笑っていた。

 

――まったく、敵わないな

 

「おい、いちゃつくのは時と場所を選んでにしてくんな」

 

そうして冷え切った心を温めるための言葉をかわしあっているとランサーから不満の声がかけられる。声にはありありと不満の色が滲んでいた。

 

『ふむ。仲の良いことは結構だが、儂もクー・フーリンの意見に賛成だ』

「――」

 

ランサーの言葉にゴウトが続き、ライドウも無言ながらも嗜めるような視線を送ってくる。

 

「あー、はいはい、わかったわよ。ごめんなさいね」

 

そんな彼らの視線に真っ先に凛が反応し、不貞腐れたかのような言葉を放ちつつ、わたしから離れる。

 

「付き合わせて悪かったわね、アーチャー」

 

続けて片手をヒラヒラと振ってみせると、さも自分の勝手で私に迷惑をかけたかのように言う。どうやら外見こそ若く見えるがその実中身は老成した女性である凛の中においては、いまだに私は、彼女と出会った頃のあの時の『アーチャー』のままのようであった。

 

「いや、そんなことはない。むしろ、こちらが礼を言わなければならないくらいだ」

「そ。それはよかった」

「そうだ。私は――」

「おーい、お二人さん。俺の言うこと聞いてたかい?」

 

礼の言葉を紡ごうとすると、ランサーが割り込んでくる。睨めつけるというよりは呆れたと言わんばかりの視線を受けて慌てて彼の方を向き咳払いを一つすると、口を開きなおした。

 

「すまない。それで、状況は」

「それなんだが――……」

 

 

「シン、ダリ、サガにピエール!」

 

彼らの名を呼びながら、強化した体で英雄軍団の頭上を飛び越え、一足飛びに彼らの元へと向かう。そうして数度ほども跳躍と前進を繰り返すと、すぐさま言い合いをしながらも見事な連携で戦場を駆け抜ける彼らの元へとたどり着いた。

 

「お、その声は……」

「エミヤか……」

 

『異邦人』と呼ばれるギルドのメンバーは戦場の丁度ど真ん中にては半壊したロボット――ギムレーのすぐそばで戦っていた。シンはアンドロという体になる以前の肉体を取り戻しており、それ以外の三人は、纏う装飾品を除けばまるで変わらないそんな姿をしている。敵対したはずの彼らは、しかしなんとも朗らかで、まるで旧友を迎えるかのように優しい瞳をしていた。

 

「君たちは――」

 

そこまで行って言葉に詰まった。彼らには色々と聞きたい事がある。何故シンが元どおりの姿であり、他のメンバーと合流を果たしているのか。何故異邦人のメンバーが勢ぞろいしてギムレーを駆っていたのか。何故こんな戦場のど真ん中にやってきたのか。そして何故――

 

――私たちを裏切ったのか。

 

「――」

「――」

 

疑問は絶え間なく浮かび上がってくる。だが真意を問う言葉が出てきてはくれなかった。頼りにならない口腔に代わって、視線が互いの間で交錯する。意志を交わし合うさなかにも戦い続けるシンの目に迷いはなく、それは彼の仲間にしても同じで。そんな所作が、彼は凛たちの言う通り、自らの意思を以ってして私たちを裏切ったのだということを証明しているようだった。

 

――「きゅ、急に攻撃の手が緩んだぞ!?」

――「なんだかわからんが今のうちに態勢を立て直せ!」

 

混乱する最中でも目の前では未だに戦争が繰り広げられている。凛によれば一時はほとんど決着しかけた状況を、シン率いるギルド『異邦人』御一行が五分と五分の状況にまで盛り返したとの事だった。彼らはギルガメッシュに叛逆し、私たちを裏切り、決着のつきかけた戦争を蒸し返した。その行為が私にとってはまるで理解ができなくて――

 

「――なぜ」

 

気付けばそんな一言を絞り出していた。一言に目の前でギルガメッシュ率いる英雄軍の相手をしていた『異邦人』の彼らの手が止まる。シンはその手に握った刃を振るうのを止め、サガは目の前に群れる敵軍の頭上へと渦巻かせていた『大雷嵐の術式』の発動を止め、ピエールは喉元と肺腑の振動を停止させて歌うことを止めた。唯一、ダリだけが戦いのための行為を止めようとせず、やがてその盾を前に構えると、突き出しながらその言葉を口にする。

 

「完全防御」

 

そうして生まれた光は戦場の全てを包み込む。瞬間、敵味方全てを包み込んだ白い光が、敵味方の発するあらゆる攻撃を無効化した。

 

――「なんだ、こりゃ!? これは――、完全防御の光!?」

――「で、でも、なに、これ……!? なんでこの光、こんなに長く効果を発揮するの!?」

 

ダリはそして、彼自身連続して発動させ続ける事は不可能と言っていたはずの防御スキルを発動させ続ける。

 

――「お、おい、なんか、補助スキルが解けてねぇか!?」

――「それどころかさっきまでの毒と縛りも解除されてるぞ!?」

 

スキルはなんと、補助の光や状態異常の変化といった事態すらも阻害して、回復行為以外の全ての行為を封じ込めていた。

 

――「これじゃぁ……」

――「戦う意味なんてないじゃないか……」

 

やがてダリの宝具じみた奇跡的なスキルの力を目の当たりにして攻撃の無意味を悟った彼らは、誰もがその争いの手を止め、戦場は再び静けさを取り戻す。静寂と冷静を取り戻した彼らは、そんな現象を引き起こしたダリと、戦場の中心にいる私とシンとのやり取りを注視していた。

 

「――君たちは」

 

その光景を見て、先ほどと同じ言葉を繰り返す。どのようにしてそんな力を手にしたのかは知らないが、彼らはその気になればこの争いを止めるだけの力を手に入れているようだった。だからこそ解せない。

 

「君たちは――」

 

彼らはたしかに戦いを生業にする冒険者という職業につく者たちであることを知っている。しかしだからといって、彼らが無益に人との争いや人死にの起こる戦争を好むような人間性の持ち主でないことも、私は同時に知っている。だからこそ解せない。なぜ彼らは。

 

――なぜこうして戦争を止めることなく、先ほどまで戦い続けていたのか

 

全ての疑念が込められた私のそれをシンは如何なる問いとして捉えたのか、静かに頷いてみせた。剣の切っ先を私へと向けられる。血脂の乗っていない鈍色に輝く刀身は、まるでシンという男の迷いのない様を示しているかのようだった。

 

「君と戦うためだ」

「――」

 

そして聞こえてきた断言に絶句した。シンという男の言葉を疑うよりも先に自らの脳と耳の異常を疑う。意識を手放さなかったのが奇跡なくらいだと思った。そんな事を考えてしまう程度には、彼の言葉はあまりにも私にとって予想外だった。

 

「シン」

「無論、嘘でも冗談でもない。私達は、私は、君と戦うために、彼らに弓を引き、こうして戦いを続けていたのだ」

 

声が出なかった。呆れているのか、理解不能の思考に驚いているのかは自分でもわからない。とにかく彼の返答があまりに私にとっての常軌を逸していた事だけは確かだった。シンは私の返答をまってか無言を貫いている。そんなシンの言葉を咎めるものが彼の仲間にいないという事態が、ギルド異邦人の誰もがシンの意見に賛同している証だといえるだろう。それが尚更に私を混乱の渦中へと叩き込んでいた。

 

「――確かに君が戦闘を好む性質であるのは知っていたし、私と腕を競いたいという願いをどこか抱いていたるだろう事も薄々気が付いていた」

 

たっぷり十秒ほどは呆気に取られていた私は、予想外の事態に混乱する思考をそれでもなんとかまとめてやると、彼の返答へと常識的な回答を返そうとする。

 

「だが私との戦いが望みだと言うのなら、なにもこのようなタイミングでなく、それこそこの戦いを終わらせたその後でも――」

「否!」

 

しかし言葉は途中でシンの強い否定に遮られた。続く言葉が虚空の中へと消えてゆく。

 

「今だ! 我らの決闘はこんな戦争が行われている今でなくてはならないのだ!」

 

シンは真剣だった。そしてそれはシンの周囲を取り囲む異邦人のメンバーも同様だった。彼らは一様に真剣な目を私の方へと向けてきている。その目には敵として定めたはずの相手に向けるにしては不釣り合いな、期待と親愛含むものだった。

 

「――」

 

彼らの目線はどこまでも真っ直ぐで真剣だった。そのまっすぐな視線だけで、彼らが伊達や酔狂で私達を裏切ったわけでないことが理解ができる。

 

――なにを……、考えている……

 

以前までの私であったのならば、彼らの思惑はどうあれ、目の前で繰り広げられているこれが戦争であり、彼等が私たちを裏切ると宣言しているその時点で、私は彼等を敵とみなし迷わず攻撃を仕掛けていただろう。

 

――彼らはなぜ私との戦いを望む。

 

戦争。それは迷えば迷った時間の分だけ被害を受ける人間が増えてゆく、悪魔の儀式。一秒の迷いが十人、百人の犠牲者を生むこともだって珍しくもない。だからこそかつての私はそんなものを終わらせることに注力したのだ。

 

「エミヤ――」

 

――シンはなぜ、今、この時において、私との戦いを望んでいる

 

しかし、かつての私はそして可及的速やかに戦いを終わらせることだけに注力したからこそ、誰からも理解されず生涯の幕を閉じることとなった。だからこそだが今、それを許されている私は、存分に迷い、悩む。

 

戦争を終わらせる、無意味なものへとすることのでいる力を持つ仲間のいるシンという男が、なぜこうして戦いを続けていたのかを必死に考える。

 

「――、む」

「――」

 

そうして彼らの意図を探るため、ゆっくりと彼らの顔と顔の間を行き来させていたそんな時だ。向けられる視線から私の意図を読み取ったのだろう、彼らの中でも最も人の気持ちを読むに長けていると思わしきサガという女性がゆっくりと視線の先を己の後ろへと向けた。

 

「――」

 

そうして視線を向けた先では、ヘイムダル――ヘイが角笛によって呼び出したという死兵の集団が、希望と困惑とに満ちた瞳をシンたちに向けていた。その瞳は、無念を残して死んでいったという彼らが浮かべるにしてはあまりに輝かしい光をも発していた。

 

私の視線を誘導し彼らの変化に気付かせたサガは、ゆっくりと首をこちらへとむけなおすと、訴えかけるような視線を私へと送ってくる。その視線は懇願だった。どうか自分らの意図に気がついて欲しいと、彼女の視線は私に訴えていた。瞬間、その視線の意味に気がつく。

 

「――まさか」

 

――彼らの為に?

 

いや、まさか、そんな。そんな思いのままにシンらとヘイムダル軍の彼らを交互に見やる。するとシンは、そんな私の視線の動きからこちらの思惑に気がついたらしく、目を瞑ると静かに首を縦に振った。

 

――……っ!

 

瞬間、ぞくりとしたものが背筋を駆け抜ける。面映ゆい気持ちが湧き上がり、全身が震え上がった。全身を駆け巡ったのは、歓喜であり、狂喜であり、驚喜であり、随喜であり、慶喜であり、悦喜であり、悦楽であり、喜悦であり、欣悦であり、つまりは愉悦だった。

 

「――本気なんだな?」

 

短い問いかけが溢れた。

 

「無論だ」

 

短い返答に、湧き上がった想いがさらに高まった。

 

「その先に彼らの救いが有ると思っているのか? 」

「有るとも。死に至る病に対する全ての答えがその先に有る」

 

断言に鼓動が馬鹿みたいに早まる。血液は全身を嬉々として駆け巡り、指先の毛細血管の一つ一つにまで流れ込んで、湧き上がった感情を体の隅々にまで行き渡らせていた。

 

「それを欲するのは君の正義のためか?」

「そうだ。それは私の我欲のためだ。そしてそれは君の救いのためでもある」

 

――そうだろう?

 

視線は雄弁に問うていた。唇が自然と吊り上がってゆく。彼らが如何にしても私の求める正義に辿り着いたのかはわからない。シンがなぜ私との決闘を所望しているのかはわからない。戦争を終わらせるための手段を保有する彼らがなぜ戦争を続けていたのかもわからなけらば、決闘がなぜこのタイミングでなければならないのかもわからないし、なぜ決闘という血生臭い手段の先に彼らの救いがあるのかもわからない。

 

私には彼らの考えがまるでわからない。ただ、彼らが私が真に望んでいる結末と私の正義というものを理解しており、そんな私にとって望ましい未来に向けてなにかをしようとしているということだけは、嫌という程に理解できていた。

 

――ああ……

 

シンと彼らの瞳は私に対する期待に満ちていた。彼らはシンに救いを求めていた。彼らの期待が私にも注がれた。その事実に胸が熱くなる。気付くと渾身の力で拳を握りしめていた。頭の芯までがジンと痺れる。体の芯よりとめどなく湧き上がってくるものが、噛み締めても噛み締めても次から次へと溢れてくる。

 

――こんなところに、いた

 

私の救いを求めてくれる人が、こんなところにいた。私を救おうとしてくれている人が、こんなところにも、こんな未来の世界にもいた。長い旅路の果て、私はようやく私の望みを理解し、そんな願いに向けて積極的に協力しようとしてくれる誰かと出会えたのだ。そんな馬鹿みたいに奇跡的な出来事と、そして私に救いを求めてくれる彼らに、心からの感謝を送る。全身はこれまでに味わったことないくらいの幸福感に包まれていた。

 

「そうか。ならば遠慮はいらないな」

「無論だ。是非とも私を殺す気でかかってきて欲しい」

 

承諾の返事を返すと、ざわめきが起こる。耳に飛び込んでくる音のほとんどは、私の正気を疑う声や、シンらや私が何を考えているのかわからないという困惑の声だった。それは私たちの事を、私という男の正義を知らぬ者からすれば当然の反応だろう。――だが。

 

――きっと彼らならば

 

信じて見渡すと、戦争繰り広げられていた戦場において決闘を行おうとする二人の馬鹿者の行為を肯定する視線をすぐに見つけることができた。凛は「全くしょうがないわね」と言わんばかりの呆れと諦めと納得の視線を私に向け、私の決意を肯定してくれていた。ランサーは決闘という言葉が羨ましかったのか、羨望の視線を向けてくる。ライドウは彼にしては珍しく口角をあげて微笑んだ顔を保っていた。ゴウトはやれやれと嘆息するかのような仕草をしたが、私を止める様子はみせていなかった。

 

彼らの瞳は思う存分に想いを果たせと告げている。抑えきれぬ喜の感情に駆られるような形で、視線は最後に冒険者や凛らの後ろにいるギルガメッシュへと向けると、彼は世界を喰らい尽くしてしまうのではないかと思えるほどに唇の両端を吊り上げ、爛々と赤い目を輝かせていた。

 

彼らは何も語らない。けれど、私を知る彼らの誰一人として私の行動を咎めるようなそぶりがないという事実が、私の心をさらに高い喜びに満ちた場所へと導いてくれていた。

 

「了解だ。私は君を殺す気でいく。――それでいいんだな」

 

彼らは誰もが私とシンの決闘を否定していなかった。そんな彼らの肯定に背を押される形で振り向くと、迅る気持ちをなんとか抑えながらも決闘の勝利条件を確かめる。

 

「無論だ」

 

言葉を聞いた瞬間、シンは、ニィ、と彼にしては珍しく凶暴な笑みを浮かべ、喜びを抑えきれないと言わんばかりに体を震わせて居合の構えを取った。構えるシンは、いつになく力が入っていた。そして私は、シンという男は私が彼の思惑通りに自身との決闘を受けたという事を心底喜んでいる事を理解した。私は、私の心に従うがままに彼の語らぬ腹案に賭けたという私の選択が間違っていなかった事を確信した。

 

だが同時に、湧き上がる興奮とは裏腹に、私の持つ1パーセントでも勝ち目があればそれを引き寄せることのできる心眼というスキルが、こんな予想もつかない未知なる道を選択する無謀な行為など今すぐ辞めろと繰り返し忠告を発していた。だが。

 

――この選択が間違いであるはずがない。

 

そんな理性的で道徳的な意見を、湧き上がる感情で否定して抑え込む。私には確信があった。

 

――彼らは、世界とそれを賭けた戦争に参加している全ての人間を救う方法を知っている

 

思った途端、全身に力が入る。そうとも、結果などは二の次でいい。理性的な意見を、信頼を喜び胸の奥底から湧き上がってくる熱さと、見たことのない理想の未来を幻視して高鳴る鼓動の力を借りてねじ伏せ、私は握りしめた干将を彼の鼻先めがけて突きだした。

 

「加減をしてくれるなよ」

 

シンが笑う。

 

――ならば、彼らが私を信じて救いを求めてくれたように、私も彼らの救いを信じよう

 

「それが君の望みで有るならば」

 

剣を握る手が熱い。体を焦がし尽くしてしまいそうなくらいに血潮が煮え滾っている。心は初めてこの世界で正義の味方を目指して一歩を踏み出した時のように、あるいは、希望だけを胸に初めて世界樹の迷宮という未知なる場所へ冒険の旅に出かけた時のように、遠くにあるだろうまだ全景すら見えぬ輝かしき未来へと向けて踏み出した事を心底喜んでいた。

 

「いざ」

 

声に誘われて意識を現実へと引き戻す。多少力入った様子で構えた彼は、そんな古式ゆかしい始まりの言葉を口に出す頃には、すでに完全なる脱力を終えていて、いつも通りの居合の教科書に載せたくなるくらい綺麗な構えをとっていた。

 

「尋常に」

 

まっすぐな彼とは違い、誇りなどは結果で洗い流せると、あらゆる手段を用いて勝利をもぎ取ってきた自分にこの言葉は似合わないなと内心苦笑しながらも、真剣に彼の言葉に応答する。なるほど、これがランサーの言う所の誇りある戦い――、つまりは男のつきあいというやつなのかもしれない。返ってきた答えにシンは笑みを深いものとすると、一息吸った。

 

「――」

 

互いの呼吸が止まる。緊張感と無音がその場を支配した。次に互いが言葉を発した瞬間が開始の合図になるだろう。いつもの双剣を持った手を脱力させ、だらりと腕を降ろした半身の構えを取ると、こちらの準備が終わった事を見抜いたシンは、ニヤリと笑って口を開き、そして――

 

ダリがその守りを解除した。

 

「「勝負!」」

 

瞬間、開始を告げる言葉が互いの口から飛び出した。私とシンは自身の決闘開始の声を追い抜く勢いで飛び出し、互いの正面にいる存在へと斬りかかる。

 

そして世界の命運をかけた、代理戦争が始まった。

 

 

「一閃!」

 

戦端が開かれた途端、裂帛の雄叫びとともに瞬時にシンの手元が鈍色に煌めいた。スキルという異能によって生じた数十もの光の刃が瞬時に心臓、首、頭部といった急所めがけて放たれ、私を殺すために押し迫る。その技の冴えは彼があの狼との一戦の最後に見せたそれに比するものであり、味方としてではなく敵として相対した今、まさに悪夢と言って過言ではない一撃といって良いものだった。突如として放たれた無数の刃を防ぐ手立てなどあろうはずもない。

 

――無論。

 

「投影開始/トレース・オン」

 

その相手が私でなく、普通の人間であれば、の話ではあるが。

 

「――」

 

迫る刃めがけて多重投影した複数の剣を射出する。シンによって放たれた一閃というはブシドーの奥義は、急所狙いの必殺の一撃の群であるが故にその軌道を読むことは非常に容易かった。

 

投影の魔術により生まれ落ちた偽物の剣が鋼の雨となり、架空の力によって実体化された刃とぶつかり、鋼驟雨の中に火花が散華する。一瞬の間に数十もの剣戟が鳴り響き、同じ数だけ眩い光が周囲に撒き散らされた。それはあたかも閃光弾のように私の視界を白色で染め尽くす。

 

「む……」

 

光が視界を塗りつぶした直後、前方より迫り来る気配を感じた。光陰が失せた次の瞬間、間断おかず迫り来ていたシンが刀を振りかぶる姿が目に映る。その挙動には一切の迷いというものが感じられなかった。

 

――なるほどこれが本命か……!

 

瞬間、シンは自らの奥義を単なるフェイントに使ったのだと悟る。たとえ自らの奥義だろうと、有効打にならないのであれば即座に囮に使う。その判断を感心した直後、愚直なまでに直進してくるシンと目線が合った。途端、露骨なまでの殺意が一直線に私に向けられる。動きはまるで獰猛な肉食獣のそれのようだった。奇襲の成功を確信したのか、もはや隠すべきものはないと言わんばかりに突撃するシンの速度が増す。

 

「――つばめがえし!」

 

そうして目線を切る間も無く炎と殺意を纏った鈍色の剣が振り下ろされた。先の『一閃』を飛燕の乱舞と例えるならば、この『つばめがえし』は、宙を舞う燕を斬り落とす事を可能するかのような、まさに神速の一撃だった。

 

――まともに受ければ骨まで持っていかれるか……!

 

瞬時に回避を選択しようとするも、自らが防御のために生み出した投影した強固な剣が檻となり自らの回避ルートを潰している。生み出したのがこの身である以上無論消すは可能だが、投影したものを破棄するに意識を向けるその一瞬を見逃してくれるほどこのシンという男が甘くないことは、先の共闘にて重々承知している。

 

「――」

 

私の逡巡を見抜いたかのようにシンが笑う。瞬間、この事態がシンという男の意図通りであった事を悟った。どうやら、私の剣が受け身と防御に比重をおいた守りの剣である事を見抜いてのこの事態までを見越しての一撃だったらしい。おそらく先の新迷宮三層番人の狼との共闘において、私のそんな性質を見抜いていたのだろう。場違いながらに感心しつつ、私はこの攻撃を捌くために取るべき手段を考える。防御は不可能。回避も不能――

 

――ならば……っ!

 

「鶴翼、欠落ヲ不ラズ/しんぎむけつにしてばんじゃく」

 

――その攻撃を止めざるをえないほどの攻めに転じるまでのこと……!

 

「――なに!?」

 

シンが先の戦闘において私の戦い方を見抜いているというのなら、私もまたシンというブシドーの男が自らの身を顧みない攻撃的な戦い方をする事も、スキルを用いた際にいかなる動作が行われるのかをも見抜いている。ならば当然、それに対する対策を構築する事も可能である、というわけだ。

 

「心技、泰山ニ至リ/ちからやまをぬき」

 

比翼連理を誓った夫妻の、その夫の手によって妻の体を用いて造成されたこの一対の夫婦剣は、それ故に離れた際互いを引き寄せる性質を保有している。

 

「っ!」

「心技、黄河ヲ渡ル/つるぎみずをわかつ」

 

魔術の起動スペルを唱えるごとに、シンの周囲で先の剣の檻を投影する折に生み出しておいた複数の干将・莫耶がその仲の良さを誇るかのように宙を舞い、絆を見せつけるかのよう互いに身を寄せ合う。その絆は強固であり、堅牢であり、死が二人を分かつとも断てぬものであったというわけだ。――ならば。

 

「唯名別天ニ納メ/せいめいりきゅうにとどき」

「くっ、そっ……!」

 

シンの一撃がたとえ燕を斬り伏せるだけの威力を秘めていようと、死ですら別つことの出来なかった夫婦の絆に勝る道理はない――っ!

 

「両雄、共ニ命ヲ別ツ!/われらともにてんをいだかず!」

「――っ!」

 

舞うは三対。踊るは双剣。比翼連理の群が、攻撃を止めてバックステップによる回避を選択したシンの進路を塞ぐようにして飛び交った。

 

「さっ、せっ――」

 

だがシンは、背後と左右より迫ったそれらを驚異的な反射能力で迎撃する。豪胆に繰り出された一撃が、繊細に飛来する干将・莫耶を重心を捉え、弾き飛ばしてゆく。剛能く柔を断ち、柔能剛を断つ。なるほど、真の武道家のあるべき姿である剛柔一体を体現する彼に賞賛を送りつつも、しかし当然ながら、だからこそ彼の望み通りに一切手は抜かない。

 

「鶴翼三連! 叩き込む!」

「――るかぁぁぁぁぁ!」

 

己の背面より迫り来る双剣の迎撃のために振り向いたシンのその無防備な背中めがけて、握りしめた干将・莫耶による攻撃を繰り出した。だがそうして繰り出した私の刃が彼に届くよりも早くシンは振り向き、信じられない速度で踏み込みを行うと、手にした刀を突き出してくる。

 

「――なっ……!」

 

それはあまりにも予想外の一撃だった。この一撃が通るのであれば、我が身の被害など知ったことかという気迫に押され、気づけば私の体は、シンが発している闘志に瞬時の反応し、攻撃に使用していた双剣を使っての回避を選択していた。

 

「ぐ、ぅぅぅぅぅうううう!」

 

繰り出された一撃を躱せたのは、まさに奇跡だったと言っても良いだろう。重ねて防御に使用した双剣の交差地点を、鈍色の刀が滑ってゆく。力を込めて切っ先の方向を全力で逸らしつつ顔を逸らすとその真横を剣が鈍色をした刀身が通り抜けていった。

 

「ぬんっ!」

「――かっ……!」

 

示現流もかくやという勢いの踏み込みにより縮地を成し遂げたシンの体をいなす。同時にその無防備になった背中へと双剣の柄を叩き込もうとして――

 

「――なにっ!?」

 

手中にて砕けて散った干将・莫耶の感覚に驚き、一撃を放つタイミングが遅れる。シンはそうして生まれた隙を用いてそのまま前のめりに転がると、すぐさま体を捻って起き上がる。シンがほとんど反射によって行ったのだろう行動は、しかしその場において最適と思えるものだった。

 

「――」

 

起き上が利と同時に青眼の構えをとったシンを前にして、油断せぬようにその所作の一挙手一投足を見守りながら、空になった手を握りしめる。すると投影という異常な手段でこの世に生を受けたが故に、一定以上の破壊に耐えられず、そうした際には魔力となりてこの世から消えるだけの運命にあるはずの干将・莫耶が、しかし虚空に失せることなく、サラサラとした砂つぶとなって手のひらから零れ落ちてゆくのと、刃の掠めた髪の毛が石となりて折れて地面に落ちたのを見て、私は今しがた彼が何をしたのかを悟る。

 

「……ブシドーのスキルには、相手を石化状態に陥らせる突きを繰り出す技があったな」

「――」

「確か――、『鈍通し』とかいう技だったか。シン。君が今しがた繰り出したのはそれだな?」

「――」

 

問いかけるも、シンは規則正しく呼吸を行いながら射抜くような視線を向けてくるばかりで、こちらの言葉には答えることはなく。彼は刀を正面に青眼の姿勢に構えたまま、息吹にて静かに呼吸を整えていた。

 

――手の内を明かすつもりはない、と、そういうことなのだろう

 

「なるほど、愚問だったな。忘れてくれ」

 

おそらく無言は、言葉から少しでも情報を引き出そうというこちらの思惑を見抜いての返答なのだろう。なるほど、相手に余計な情報を渡さないのは戦闘の基本。彼の無言の返答を当然のものであるとそう判断した私は、ならばこれ以上の問答は無用であると同時に判断し、再び干将・莫耶を投影し、剣を構える彼と再び対峙した。戦場の空気はいつも以上の騒めきと混沌に満ちている。

 

「――いくぞ」

「――こい」

 

一言を合図に、シンの体から今まで以上の闘気が発せられた。互いの突撃が戦闘再開の合図と相成り、私は再びシンとの決闘が再開する。そして私は未知なる技術を保有する相手との戦いに再び飛び込んだ。

 

 

「お、おい……いま、あいつ……」

「ああ……あのシンとかいう男……」

「スキルの名を言葉にすることなく、ブシドーのスキルを発動した……」

「日常のスキルは別として、その誰かを攻撃するタイプの職業スキルは、基本的にそのスキル名を叫ばねばスキルの発動が出来ないはずだ……」

「一体どうなってんだよ……」

 

 

黒白の双剣を操る男はまさに化け物だった。エミヤは、常に私が気持ちよく動けないよう、こちらの行動を制限する戦い方を強いてくる。

 

「ふっ」

「――っ!」

 

吐息とともに鋭く重い一撃が繰り出された。赤い騎士がその両腕より繰り出す一撃はいずれもが必殺の一撃であり、同時に意識を誘導する罠でもあった。この赤い外套を纏う騎士然としたエミヤという男は、全ての行動に二つ以上の意味を持たせているのだ。

 

「そらっ」

「――っ!」

 

軽い口調ながらも繰り出される攻撃は全てが急所狙い。喰らえば死を意味する以上、防御しないという選択肢はなく、ブシドー得意の肉を切らせて骨を断つという選択肢もまた出来ない。

 

「――どうした、シン。防戦一方とは君らしくもない」

 

攻撃に転じる暇というものを彼は与えてくれなかった。剣をどうにか防いだと思えば、次の瞬間には別の場所から攻撃が来るぞと本能が警告を鳴らしている。直感に従って攻撃を避けた瞬間、次の攻撃がその回避軌道上にある。

 

――素晴らしい……っ!

 

その強さに感動した。エミヤはまるで聳え立つ山のようだった。冷静を保つその性格。迷わず死地に身を置くその胆力。堅牢に常に自分の優位を保ち、相手に不利を強いるその戦い方。彼が用いるすべてのものはこちらの意識をそらせるための武器であり、同時にいずれもが必殺の一撃になりうる死神の鎌でもある。私のとるすべての行動がこの男の手のひらの上での出来事だった。ここまでいいように手玉に取られてしまうと、悔しさよりもいっそ清々しさの方が湧き上がってくるくらいには、エミヤという男の戦い方は巧かった。

 

「……、『小手討ち』っ!」

 

挑発に乗せられるよう、なんとか無理やり体を捻じ曲げて不意打ち気味の一撃を繰り出す。

 

「おっと危ない」

 

だがそんな苦し紛れの腕を狙った一撃は、予想していたぞと言わんばかりの最小挙動であっさりと回避されてしまう。そんな不条理がまた私の胸を躍らせた。

 

「……まったく、素晴らしい反射神経と攻撃速度だ。他人の優れた肉体能力を見せつけられるたび、自らの戦いの才能のなさを恨めしくおもうよ」

 

身体能力や反射神経、肉体に秘められた才能といった肉体面でこそ僅かにこちらが優っている。

 

「――」

 

しかしそんな肉体的優位をもろともせずに、このエミヤという男は、培ってきた経験と努力と魔術という固有の才能で私という存在を超えてゆく。

 

「やはり無言を保つか……。少しは話に付き合ってくれてもいいと思うのだがね」

 

――やはり強い……!

 

そんな予想以上の強さを前にして、嬉々とした。叫びたくなる思いを裡に留めておくので必死だった。そんな余計を考える最中にも黒白の双剣が急所めがけて飛んでくる。いずれもが必殺のそれらの攻撃を防ぐためには、とてもじゃないが喋ることに意識を割いている余裕なんてない。

 

「――っ!」

 

飛来する剣を叩き落としながら思う。エミヤはやはり、控えめに喩えるとしても桁外れの化物という文言が最も当てはまるくらいには、飛び抜けた化け物だった。私に身体能力で劣るはずのエミヤはしかし、肉体的に劣るという事実など己が培ってきた戦術眼と鍛え上げた肉体、そして独特の体捌きと自らの特異なスキル――魔術にて如何様にでも覆して見せようと言わんばかりに、苛烈かつ玄妙な攻撃で私を翻弄し、常に己にとって有利な戦況を作り出す。あらゆる攻撃の通用しない相手を化け物と言わずに、何を化け物と呼べばいいというのだろうか。

 

「まあいい。ともあれ君が望んだ通り遠慮なく行かせてもらおう」

「くっ……!」

 

言葉とともにエミヤの両の手は鞭のようにしなり、鋭い切っ先を飛ばしてくる。攻撃を躱して、反撃の一撃を叩きこもうとするも、すでに次の一撃が私の体の移動方向に添えられている。再び攻撃を躱して、反撃を試み、しかし防がれる。

 

躱す。防ぐ。攻撃。防がれる。攻撃される。躱す。攻撃される。躱す。躱す。掠る。躱す、躱す、掠る、躱す、掠る、躱す、躱す躱す躱す掠る掠る掠る掠る掠る掠る掠る――

 

絶え間無い猛攻。交錯する二つと一つの剣。息つく間など与えてやらないと言わんばかりの苛烈な連続攻撃。絶え間なく散る火花。その数はやがて減ってゆき、宙を踊る色はやがて黒白と私の鮮血ばかりとなってゆく。

 

――なんと強く……

 

比翼の剣が見せる舞は一秒ごとに早くなる。――否。早くなっているのではない。こちらの動きが遅くなっているのだ。鞭のようにしなる両腕と、その先にある切っ先は、見事にこちらの動きを制限する軌道を描き、黒白は私を追い詰める。その技巧のなんと絶妙な事か。

 

――なんと速く……

 

黒白のいずれかが迫っていると認識した瞬間には、黒白の片割れはすでに攻撃の体制に写っている。避けた時にはすでに片割れがそこにある。それは完全なる未来予測が可能とする技だった。弧を描いて迫り来る剣は絶え間なく空を滑り、黒白の軌跡を宙へと描き続けている。攻撃そのものが全て次の攻撃の布石であり、同時に必殺の一撃でもある。全てが牽制であり、同時に必殺。

 

――なんてデタラメ……!

 

そのような不合理なもの。いったいどうやれば反撃に転じる隙を見出すことが出来ると言うのか――!

 

「遅い」

「ガッ……!」

 

やがて回避の連続により無理な姿勢を取らざるをえなくなり、体の動きが鈍った箇所へ繰り出された攻撃が突き刺さる。血肉を求めて振り下ろされる致死に至る刃の隙間から繰り出される殺意のこもらない拳による攻撃は、本能と直感で脅威を瞬間的に察知し、回避の優先順位を定める私の戦い方を見抜いての一撃だったのだろう。

 

「グッ!」

 

繰り出された攻撃にはたしかに殺意が込められてはいなかったが、それでもまともに威力が体内へと浸透すれば私の内臓を傷つけるには十分すぎるほどの威力を秘めていた。――だが。

 

「グ、ウ……、ウゥッ……!」

「が、浅かったか。加えて反撃まで試みるとは――、流石の身体能力と反応速度だな」

 

致死に至らぬ攻撃は、即時致死に至らぬ攻撃であるが故に、攻撃が刺さったその瞬間のダメージを気にしさえしなければ、その後全力で離脱するための隙となる。攻撃を喰らいながらも歯を砕けん程に噛み締め、彼が追撃を繰り出せないよう瞬時にスキル『鞘撃』に似た一撃を繰り出しながら脱兎のように離脱した私を見て、エミヤは感心の目を私へと送ってきた。

 

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、――ハァ、ハァ…………、フゥ」

 

その事実に体が熱くなる。しかしそして、殴打された部位はそれ以上の灼熱を帯びていた。荒い息を無理やり落ち着かせると、ブシドーのスキル『息吹』を用いて傷ついた部分の回復を試みる。息を整えている間も彼からは視線を外さない。

 

「フゥ、フゥ……、――――」

「――」

 

エミヤは鞘撃を双剣の腹で受けた事によって僅かながらも両腕に痺れが生じたらしく、双剣を握る両手の位置が微かに下がっていた。呼吸を整えている私が今攻撃を受けないですんでいるのは、おそらく彼の慎重が痺れという自らの肉体の不全を嫌っているからなのだろう。

 

「――――――――――――、フゥゥゥゥ」

「――」

 

エミヤは一向に動かない。けれど、彼にとっては手負いの格下であろう相手を目の前にしているというのにもかかわらず、空間を満たす緊張感と、迸る殺意、鋭い観察眼はもまるで変わらない。油断や慢心、という文字は彼の辞書に存在していないようだった。エミヤは私を対等の敵、脅威として見てくれている。それがなんとも心地よい。

 

「――フゥ……」

「――」

 

やがて私の体に体力が戻り息吹の必要がなくなった頃、彼の方も腕も痺れという身体の異常状態が失せたのか、エミヤは再び完全な脱力を終えて受身がちな両腕をだらりと下ろした姿勢へと移行した。エミヤの纏う剣気が増す。彼の周囲一メートル強の空間は、再び彼の絶対領域へとなっていた。

 

「――」

 

エミヤは動かない。格下である私がどう動こうと対処できる自信からだろう。彼は無駄に体力を使わない。じっと鷹のような鋭い視線で、こちらの一挙手一投足を観察している。

 

彼には一分たりと隙は存在しなかった。その泰然自若を自然体とした姿を見ていると、今のままの自分では何をやろうと攻撃が通らないという思いすら湧き上がってくる。――そう。

 

――今のままでは敵わない/叶わない。

 

奥義も最大の一撃も通用しなかった。一々スキルの発動を意識し動いていては、体捌きをもってしてスキルが如き技を繰り出すエミヤには届かない。唯一通用したのは、無意識のうちに繰り出した、『鞘撃』というスキルに似た一撃のみ。ならば――

 

――是非もない

 

「む?」

 

覚悟を決め、構えを解く。意識する部分と無意識である部分をより分けると、エミヤを見習い、彼がするように自然体でただ目の前の敵を静かに見据えた。スキルの発動を意識することなく体がやりたいように任せて剣を構える。途端、驚くほどの開放感があった。無茶な稼働の連続により凝り固まっていた全身から余計な力が抜けてゆく。

 

「ほう……いい構えだ。それに気配がこれまでと段違い。もしや三味線を弾いていたのか?」

「まさか。貴方と戦うのにそのような余裕はないよ。嘘偽りなく、先程までのアレは私の全力だった。――戦いの全てを完全にスキルという便利なものに頼った場合の、な」

 

息吹一つごとに体の隅々にまで必要な分だけの力が行き渡る。今の私であれば、意識するだけで全身のあらゆる箇所を自由自在に稼働させる事が可能である確信があった。

 

「ふむ」

「アンドロという体でブシドーの時と同じように剣を振るっていたおりに気がついたのだ。『スキル』というものは、言うなれば単なる補助輪であり、基礎にすぎないのもの――――――、機械の使用方法を知らない人間であっても方法さえ合致していればその結果が出せる。それと同じことだ。スキルというものは発動すると人の体を型通りに動かし、確実に一定の威力を持つ現象を引き起こす、そういうものだったのだ、と」

「なるほど。料理の仕方を知らぬ子供であっても、手順とやり方さえあっていれば、美味い料理が作れる。つまりは本来ならば修行により身につけるそんな体の動きを再現するシステムこそが、スキルという事か」

「そうだ。故にスキルに頼れば、子供であっても、才が無くとも、一定以上の結果を残すことが出来る。ただし――、代わりに、どれだけ極めようと、スキルというものによって生まれる結果以上の結果を残すことはできない。完全にスキルに頼るものは、スキルを使用しなくともスキルを使用した場合以上の結果を出せる相手には勝てないのだ。だから私は――、今からスキルを捨てる」

 

宣言に、周囲がざわついた。主に騒がしいのは、ヘイムダルの軍団の彼らだ。彼らは私のスキルを捨てるという宣言に、驚き、戸惑い、ざわつき、困惑している。一方で、ギルガメッシュの側にいる軍の大半以上の人間は、ただじっと真剣な目で私を見据えていた。そんな二者の差異を見つけて、私は自らの直感が正しい事を確信した。

 

「スキルを使用せずに、スキルと同じ現象を起こす。それが本当にできるとでも?」

「出来るとも。現に私は先ほどそれを成した。それに、紐解けば、レン、ツクスルといったかつてのエトリアの勇士たる彼らは、ブシドーやカースメーカーのスキルツリーにはない、彼ら自身のみが扱えるスキルを使用していたと聞く。おそらくは彼らが使用していたそれらこそが、スキルというものの先にある、スキル以上のものなのだろう」

「だとしても、今までスキルに頼りきりだった君がいきなり戦い方を変えて、それで私に勝てるというのかね?」

「戦い方を変えるのでは無い。今までずっとやってきたことをきちんと意識してやってやろうというだけのことなのだ。私が無視し続けた事を意識してやろうというだけのことなのだ。――エミヤ。私は貴方がどれだけ戦ってきたのかは知らない。だがおそらく、エミヤという戦いの方面の才能が無い貴方が、そのような実力を得るには、想像を絶するほどの身を削る思いで血反吐を吐くほどの鍛錬を繰り返してきたのだろう事だけは、戦いの才能を持つ私には想像だに容易く出来る」

「……」

「だが、貴方ほどでは無いにしろ、私も三竜討伐を目指して戦いの日々を送ってきた。毎日毎日迷宮に潜っては、一、二週間、時には一、二ヶ月ものあいだ、迷宮の中でスキルを振るい、敵と戦うこともざらにあった。貴方が戦いの中で研鑽を重ねて自らの動きの最適化を行なってきたように、私も全身に傷を負ったことのない部分が無いほど肉体を酷使して戦い、血豆が潰れるほど刀スキルを用い、多くの冒険者たちと迷宮に潜って、強敵と命を賭した戦いを行なってきただ。数千か数万か、あるいはそれ以上にスキルを使用し、体を動かしてきた。ならば私の体にスキルの動きが染み付いていてもおかしくは無い。必要なのは、自分の可能性を信じて踏み出す勇気だけだ」

 

否、染み付いているはずなのだ。だって先ほど、私はスキルを用いることなく無意識のうちの動作としてブシドーのスキルである『鞘撃』を繰り出せた。思い返せば、あの新迷宮二層の番人に繰り出した『一閃』も、三層の番人戦において繰り出した『一閃』も、自らの意思で『一閃』を繰り出した以上の結果を望み、自らの完全意識下において動作を行ったからこそ、通常の『一閃』ではなし得ない、通常の威力を遥かに超える『一閃』を繰り出せたのだ。

 

「だから私は私の信念と確信に、この命を賭けよう」

 

だからこそ、だから出来ないなんてはずがない。出来ないとすればそれは、私がそれを出来ないと信じてしまっているからこそ、出来ないのだ。

 

「そうとも。私にはそれが出来る。私は、私自身が培ってきたこれまでの経験と、私自身を信じる。そして私は過去の人間によってもたらされたスキルを超え、超えた技を持ってして、目の前にいる我が生涯において最大の相手を打倒してみせよう」

 

挑戦を宣言をすると、気持ちが冒険を決意したあの日のように昂ぶった。未知なる道に対して真に自らの力のみで挑むのだと思うと、それだけで血潮があの日以上に熱く燃え滾る。

 

――ああ

 

冷えつつあった体に熱が生まれた。そうして生まれた激情が抑えきれずに、全身が歓喜に打ち震えている。力が溢れてくる。自信と不安は半々だ。生まれた正と負の感情が心の天秤を揺らし、今か今かとその時を待ち望んでいる。

 

――血が、滾る

 

体は自然と居合の構えをとっていた。おそらく最も自分の体に適したものだからだろう。スキルではなく自らの意思で最も自らにとってやりやすいよう構えた途端、行動速度と身体能力がこれ以上ないくらい上昇した気がした。望むならばいつでも常以上の動きをしてみせようと全身が張り切っている。

 

「……恐ろしいな」

 

エミヤが呟いた。その一言に心が踊る。エミヤが放つ気配をさらに濃密なものにした。彼の挙措に血管が破れんくらい鼓動が速まる。体はもう待ちきれないから今すぐに飛び出せと訴えていた。

 

「いくぞ、エミヤ!」

 

知る限りにおいて最高の強さと技量を持つ存在が、私の事を全力を出すに値する相手だと認めてくれている。事実はこれ以上ないほどに気持ちを昂らせ、抑えきれなくなった私はついに一歩を踏み出して、生涯最高の挑戦を開始した。

 

 

刀が滑る。鈍色に輝く剣が宙を舞う。スキルという冒険者にとって戦う手段であるはずの技術を捨てると宣言した彼は、たしかに宣言通りスキルというものを捨てていながら、ブシドーのスキルというものを使いこなして、襲いかかってくる。

 

「はぁ!」

「く……っ!」

 

発声と同時に繰り出される一撃――『つばめがえし』は、これまでとは比較にならないほどの威力、速力を誇っていた。踏み出す裸足の一歩すらも地面を砕く威力を発揮している。スキルというものを捨てて戦うと宣言したシンという男は、もはや先程までの決まった型通りから、見切りの容易い攻撃を繰り返すだけの道場剣法ばかりを使用する与し易い相手ではなく、技と技、攻撃と攻撃の間に虚実を混ぜるというテクニックを駆使する、聖杯戦争において戦ったサーヴァントと比べても劣らない実力の強敵に変貌していた。

 

――これがこの男の真の実力か……!

 

シンという男はたしかに天才だった。自負するだけのことはあると感心する。シンの一撃は剣戟を重ねるごとに重く、早く、その上柔らかさを増す。尾を引く一撃を防ぎきれているのは、私が双剣という手数の多い武器を用いているという有利と、一度まともに互いの刃をぶつけ合えば、必ず宝具であるこちらの武器が勝つという有利、そしてもとより防戦を主軸にした戦いこそが近接戦闘における私の戦闘スタイルだからだろう。

 

「先程までの勢いはどうした、エミヤ!」

「ぬかせ……!」

 

逆袈裟。勢いのままに見事な足捌きで身を引いて、手首を返し、貫突。一旦距離を置こうと跳躍を試みたおりには、その隙に小手討ちが。攻撃を捌いて無理やり距離を開ければ飛ぶ斬撃が。予想外の攻撃に慌させられ、こちらが隙を見せればツバメがえしが飛んでくる。

 

「イィィィィィイィィィ、ヤッ!」

 

神速の勢いで炎を纏った刀身が迫り来る。シンは今やスキルの発動を意識していない。スキルの名を叫ばずとも、彼はその身動き一つでスキルを使用した場合と同じ結果をこの世へと残してゆく。その剣閃はこれまで彼が繰り出したものの中でも最高速を誇っており――

 

――避けきれん……!

 

「――チッ、壊れた幻想/ブロウクン・ファンタズム!」

 

それを防ぐため、両手の双剣を投擲すると、自爆のダメージ覚悟で近距離での爆発を引き起こした。視界を潰し、追撃を防ぎつつ、同時に、武器を失ったこちらの隙をカバーし、距離を開ける。熱が軽く顔を焼き、熱を帯びた煤が瞳を刺激した。互いの視界が塞がれる。爆発の余波は間違いなく互いを傷つけた。突如として至近距離での爆発が起きればいかなる相手であろうと多少なりとも動揺する。――そのはずなのに。

 

「一閃!」

 

そんな予想に反して、爆発の影響など知ったことかと言わんばかりに、シンは次の攻撃に転じていた。

 

「――っ! 全投影連続層写/ソード・バレル・フルオープン……!」

 

煙を引き裂いて私の周囲に出現した光刃を、万が一の時のために待機させておいた剣群を投影させる事で防ぎきると、彼はそんな私の所作など見切っていると言わんばかりの速度で壊れた幻想/ブロウクン・ファンタズムによって生まれていた熱煙を突っ切り、周囲に飛び散る剣の雨をくぐり抜け、すぐそこまで迫ってくる。一連の動作には一切の淀みも隙も存在せず、もはや芸術じみていた。

 

「貰った!」

「ち……! 壊れた幻想/ブロウクン・ファンタズム!」

 

突撃はあまりに早く、鋭かった。まともな手段では防ぎきれぬと判断した私は、彼と私の周囲に漂う剣に再び爆発の指令を送る。直後、爆発。複数浮かぶ剣より生まれた爆発は先程よりも大きなものとなり、互いの体を熱煙で覆い隠し、私たちを同時に吹き飛ばす風圧を生む。

 

「――っ!」

「――、フゥゥゥゥゥ」

 

だがそして爆発により吹き飛んだはずの彼は、息吹にて呼吸を整え、体の傷を癒すと、すぐさま刀を振るって生まれた熱煙を斬り裂き、再び私の方へと押し迫ってくる。

 

「――――――――フッ!」

「チッ……!」

 

狂戦士もかくやと言わんばかりの連続攻撃に思わず舌打ちが漏れた。防いだ手が痺れる。回避したと思えば、刃先が皮膚に食い込んでいる。それはまるで悪夢のようだった。シンは独特の足捌きと柔軟かつ強靭な体軸捌きと手首の動きを駆使して、刃を滑らせる。刀身によって空中へと生み出される剣筋は尾を引き、今や私の周囲に檻かと見紛うようなほどに取り囲んでいた。もはや攻撃を皮一枚で躱すような余裕はなくなっている。滑る刀身の行方を一瞬見失ったその瞬間、こちらの命はあえなく散るだろう。

 

――化け物め……!

 

今の芯は、シンの剣に迷いはない。今のシンはスキルを使用していない。今のシンの剣には定まった動きというものがなかった。シンが天賦の才と本能と培ってきた戦闘経験に任せるがまま、体を動かし、思うがままに技を繰り出してきているだけという事実を理解した途端、全身があわだつ。

 

そうして彼の本能より繰り出される剣の動作は、先ほどまでの私がやっていたように、一つの行動が次の行動の布石として置かれている。貪欲に命を求めるだけの剣が、私を迷わせ、私の守りに隙をこじ開けてゆく。生まれたそんな隙を見逃さず、生まれた防御の隙間に剣を捻じ込まれる。

 

私が血反吐を吐く鍛錬の末に身につけた戦闘における有効な戦い方というものを、彼はほとんど本能のみで理解し、実践する。本能のみで戦うシンは、だからこそ思考しそれを行う私の先を行き、私の予測と動きを上回る。

 

――スキルなしの方が強いとは……

 

スキル。定められた職業に就くことで、大した修練なしでもある一定以上のマニュアル的な動きが可能となる、電気機械文明を捨てた人類が手に入れた、魔物という生き物が生息する世界を生き抜く力として開発された、そんな力。

 

だが、先ほどのシンの言葉から判断するに、おそらくそうした経緯と目的から開発されたスキルは、いうなれば大量生産された工業製品のそれと変わらないものだったのだろう。誰にでも使えることを前提として開発されたスキルは、それ故にいかなる人々でも使えるよう、その威力や動きにデチューンが施されていた。

 

また、誰もが一定の魔術的な現象を引き起こす事をも可能とするスキルは、誰でもその現象引き起こせるようにするため、スキルの発動直後、必ず決まった型での攻撃以外が不可能となるよう設定されていたのだ。それが戦いという、隙が即座に負けや死と直結しかねない状況においてさまざまな制約を生み、シンという男は本来の力を発揮できずにいた。

 

つまりは、先ほどまで、シンは私とハンデ有りの状態で、それでも私と互角に匹敵するほどの戦いっぷりを見せていたということになる。なんという理不尽。――ああ。

 

――なるほど、これは天才だ……!

 

これが天賦の才。これが限られた人間が血反吐を吐くほどの努力したその果てにしか到達できない極みの領域。そうして本来の実力を獲得したシンは、今やその動きの全てが脅威だった。呼吸をする暇すらもが与えられない。一撃を受けるたびに筋繊維に硬直が発生し、骨が軋む感覚に迷走神経が刺激され、血流が不整を得る。一太刀を躱す毎、その剣筋の鋭さに、鼓動が高鳴り、血の気が引かせ、体力と膂力と理性と冷静さを削り取ってゆく。

 

「――ふっ!」

「っ!」

 

繰り出された『つばめがえし』の一撃を宝具である双剣にて防ごうとすると、彼の剣はありえない軌跡を描いて胴体への最短距離を直進し迫り来る。宙に残った剣の尾と陽炎の行方がまるで宙を自在に飛び交う飛燕のごとき軌跡を描いている事を見やれば、それがどれだけ悪魔じみた一撃であるかをよく理解することが出来るだろう。

 

「隙あり!」

「ちぃっ!」

 

それでも宝具の二刀と培ってきた経験値を用い、必死に防御と回避を駆使してやれば、対処が追いつかないというわけではない。目の前にいる天才とは異なり、努力のみを積み上げてきた剣故に雅や派手さは微塵もないが、故にその無骨さと諦めの悪さには自信がある。それになにより――

 

――そもそも、自分はずっと、偽物だった。

 

目の前にいる人間のように、天賦の才に恵まれていたわけじゃない。抱えてきた思いだって偽物だった。誰かの為にという言葉は実のところ嘘っぱちで、誰もいなくなった丘の上で偽物の勝利に酔い、語る言葉も誓いの多くをも嘘偽りにし続けてしまった。偽善者/フェイカー。それこそがこれまでの私の正体で、生き様だった。

 

――そうとも、この身のすべては元より偽物で……

 

本物でないことなど、とうの昔に理解している。才が無い事など、はるか昔に諦めた。それでもその嘘を偽りにしようと、いつかは本物にしてやろうと足掻き続けてきたのだ。そして、それでもいつか、偽物の想いを本物にしてみせると自分に誓いなおしたのだ。――ならば。

 

――ならば今更、本物などを恐れる道理など有りはしない……!

 

「ト……」

「む」

「強化、開始!/トレース・オン!」

 

剣を弾いた瞬間、後先を考えず自らの体に強化を施した。いつものように負けぬ戦いをしていては、遠からず敗北の烙印を押されてしまうぞと理性が訴えている。ならば/だから。

 

――負ける前に、全力以上の力を発揮して勝ちを拾いに行けば良いだけの話……!

 

「オ――」

 

過剰な強化によって溢れ出た魔力が緋色の煙となり、身体中から気焔が上がる。湧き上がってくる力は体のうちに収まり切らず、咆哮となって外に漏れ出した。

 

「オォッ!」

 

体が熱い。無茶苦茶な強化によって、全身の筋繊維と骨格、神経の節々にいたるまでが、悲鳴を上げている。――しかし。

 

「オォォッ!」

 

そうでもせねば勝てぬ相手だと、理性は冷静に訴えている。そうでもせねば勝てぬ相手だと、感情が情熱的に訴えていた。相反する属性のそれは、しかしながらこの度、珍しく意見を一致させて、目の前にいる強敵を全身全霊の力を以ってして討ち破り勝利を摑み取れと言っている。――ならば。

 

――ここでその冒険と挑戦を止めるなど、もってのほかの出来事だ……!

 

「オォォォォォォォォッ!」

 

やってくる痛みも苦しみをも飲み干して、それらと湧き上がってくる想いをすべてまぜこぜにして、あらん限りの力で咆哮する。途端、世界が反転した。視界が一気にクリアになる。静は動に。動は静に。狂犬のように攻撃を絶やさなかったシンの手が止まり、浮かべていた凶暴な笑みが消えていった。

 

代わりに、静けさを保っていたギャラリーの間から困惑の声が上がるのが聞こえてくる。シンはこの戦いにおいて始めて気圧さたような表情を浮かべ、剣を前に構え、その身を引いていた。草鞋足が地面を摺る音がやけに大きく聞こえてきた。

 

「――」

 

彼と彼らの所作の全てが今や敏感になった全身を刺激する。心臓の音がこの世で最も大きな音だった。体の内外から聞こえてくる大小さまざまな音が耳に擦れるだけで、筋肉と神経が引き攣るような感覚を覚える。肌の一片に至るまでの感覚が研ぎ澄まされている。今や私は、私と世界は一体化しているのでは無いかというほどの全能感に包まれていた。

 

「――……」

 

堪らず一歩を踏み出すと、再び世界は静けさを取り戻す。生まれた静寂がジンジンと熱を帯びている肌の奥にまで染み入る感覚が冷たく心地よい。

 

カチリ、と、鍔と刀身の擦れる音が聞こえた。カチカチと響くそれは、シンの手元から発せられていた。視線をやるまでもなくわかる。シンは震えていた。無論、それは恐怖によってではない。

 

「素晴らしい――」

 

シンは喜びよって全身を打ち震えさせていた。戦闘狂/バトルマニア。そう呼んで差し支えない気質の彼は、御しきれると思った相手がさらなる力を発揮していることを、シンは心の底から喜んでいたのだ。

 

「相も変わらず度し難い気質だな、君は」

「三つ子の魂百までだ。それに、そういう貴方こそ楽しんでいるように見える」

 

指摘されて、気付く。そうとも、確かに今、自分は戦闘前に感じていた時以上に愉悦を感じ、肉体が魂ごと震えていた。

 

――楽しい。

 

この先にいかなる結末が待ち構えているのかわからないのが楽しい。

 

――嬉しい。

 

そんな先の見えぬ未来に挑戦できる事が嬉しい。

 

――成し遂げたい。

 

そんな未知の冒険を自らの力で是非とも成し遂げたい。

 

――ああ……!

 

湧き上がる想い。栄光の未来を自らの力と手で是非とも掴み取りたいという欲望。全ての苦労は今この瞬間のためにあったのだという感覚に、自らの救いはこの先にある事を確信した。彼の救いも、それ以外の誰かの救いも、きっとこの先にある。それを予感した。

 

「――勝った方が総取りだ」

 

そんな不確かなものに突き動かされるまま剣を構えた。想いは胸に。気持ちは前に。されど心は体の真ん中において、努めて冷静さを保っている。心はとっくに籠絡されている。しかし、だからといってその先にあるものを求めて焦るような真似だけはしない。

 

「当然。だが、負けたとしても得るものはある」

 

湧き上がる衝動のままに言葉を発すれば、同じく魂の裡より零れ落ちたのだろう言葉が、同じく高揚している相手から返答として戻ってくる。

 

「そうだとも。だがその敗者に与えられれる『敗北』の二文字は君に譲ることとしよう」

「遠慮は無用だ。今この場においては、私より才のない貴方の方がその二文字に相応しい」

 

挑発に返ってくる挑発。天才が刀を力強く握った。これまで生きてきた全てに賭けても、目の前の存在を斬り伏せてみせると、態度が語っている。

 

――ならば。

 

「――」

「――」

 

もはや問答は無用だった。互いの調子を確かめ合う舌戦はこれまで。準備は万全で、気分は最高だ。ならばあとは湧き出る衝動のままに想いを確かめあえばいい。

 

互いの口が捻り上がる。瞬間、まさしく同時に、互いの地を蹴る音が静寂を斬り裂いた。

 

 

「――すごい」

 

二人の人物が掻き鳴らす剣戟のみが支配する場において、小さな声が割り込んだ。言葉を発したのはヘイムダルの軍に属していた死兵のうちの一人だった。生前、彼はとりたてて目立つ成果をあげることもなく死んでいった人間のうちの一人である。

 

「――すごい」

 

呆然と同じ言葉を繰り返す彼は、生前においてどこにでもいる凡庸な人間だった。そんな世間にいくらでも存在する平凡極まりない人間の一人であった彼は、そこいらにいくらでもいた冒険者と同じよう、ある都市において冒険者としてブシドーの登録を行い、都市によって定められている戦闘の職業に就き、そこで出来た仲間とともに迷宮へと潜り、どこにでもいる向こう見ずな冒険者のようにつまらないミスをして死んでしまった存在であった。

 

「――すごい……」

 

凡人である自分には分不相応な夢を見た。それは一部の人間しか成せないような夢だった。しかしそんな夢見た高みへと辿り着くため、平凡なりにそれなりの努力を重ねてきた。

 

「すごい――」

 

足りない力を補い死を遠ざけるために策を練り、装備を整え、仲間と共に力を合わせて、迷宮へと挑んできた。安全に安全を重ね、安全のためのマージンを十分に取り、それなりの成果もあげてきた。――しかし。

 

「――ああ……」

 

それで頂点に行くような存在との間には、覆せない差があった。生まれた出自の良さがなければ、才能というものがなければ、運に恵まれていなければ到達できない高みは、所詮は凡人に過ぎない自分がいくら努力を重ねようとたどり着けない場所というものは、確実に存在した。だから。

 

「俺は……」

 

彼は恨んでいた。彼は疎んでいた。彼は羨んでいた。彼は憎んでいた。彼は荒んでいた。彼は倦んでいた。彼は自らに出自の良さや飛びぬけた才能や抜きん出た幸運という祝福を与えてくれなかった世界と、そんなくそったれな世界の中で大した功績を残すことなく死んでいってしまった自らとを憎んでいた。

 

「俺、は……」

 

端的に言ってしまえば、彼は残酷とさばかりが蔓延する世界に絶望しており、全てに飽いていた。何をしても中途半端な結果しか残せない自分が、何をしても途中で飽きてしまう自分が、何をしても大した才能のないことだけがわかる賢しさが、何をしても自分が辿り着ける場所など大した場所ではないのだとわかってしまえる中途半端な才能が、そしてそんな想いから湧き出る負の感情を全て消し去ってしまう世界のシステムが、彼の生涯を退屈極まりないものへと変貌させていた。――だから。

 

「――俺も……」

 

こんな世界に価値などないと思っていた。自分より才能のある人間が憎いと思っていた。選ばれた人間がいて、選ばれなかった人間がいる世界なんてくだらないと思っていた。神様に選ばれた人間が羨ましいと思っていた。彼が底なし沼と言っていいくらいの暗澹たる気持ちが自分の中には溜まれていたのだと気付いたのは肉体を失ってからだった。魂だけの存在となった彼に溜め込んだその想いを解放する術はなく、だからこそ彼はずっと苦しんでいた。

 

「あと少し……」

 

だから彼は壊してやろうと思ったのだ。だからこそ彼は死者としてヘイの呼びかけに応え、そんな不平等に満ちた世界をぶち壊そうとした。そのはずだった。はず、だった。――けれど。

 

「――もうすこし、頑張っていれば……」

 

そんな夜の闇よりもなお漆黒の色をした鬱屈とした想いは、目の前で繰り広げられる二人の男の争いによって吹き飛んでいた。絶え間無なく死地を継続して作り上げている彼らの戦いによって、二刀と一太刀が交錯する毎に、服が斬り飛ばされ、皮膚は裂け、肉が抉れ、血飛沫が舞う。

 

「やるじゃないか、エミヤ!」

「伊達に無限の時間を戦って過ごしていたわけじゃないさ!」

 

二人はそんな痛みをものともせずに彼らは笑っていた。自らにない才能を持つ相手にたいして、自分が鍛え上げてきた全てのものをぶつけられる事を喜び、笑っていた。彼らはそんな、才能がない状態に生まれおちた世界の中で、そんな世界の意地悪さをものともせずに、その果てにある結果など知ったことかと言わんばかりに、目の前の現実とこの世界を楽しんでいた。そうして未知なる場所を目指して、月に浮かぶ巨人の幻想を実現させるために戦う彼らは、間違いなく冒険者だった。

 

「――もっと早く、あんな奴らと出会えていたら……」

 

それがひどく羨ましくて、思わず刀を強く握った。カムイランケタム。目の前で戦う片割れが振るっている、鈍色をした刀。とある番人級の敵を倒さねば手に入らない、平凡である自分が生涯手に入れたものの中で最も価値あるだろう、しかし迷宮を初踏破したという英雄たちが手に入れたものと比べてしまえば世にいくらでも存在するだろう、そんな程度の刀。

 

しかし今、そんなどこにでもあるはずの、多少珍しい程度の刀は、シンという天衣無縫を実現する男の手によって唯一無二の力を発揮し、エミヤという見たこともない特別な力を振るう相手に肉薄している。それがひどく彼を興奮させた。そして気付く。

 

――ああ

 

「――俺は」

 

自分は目指したその場所に辿り着く事が出来ないのが悔しかったのではなく、そんな場所に辿り着けないよう生まれついてしまったことが恨めしいのではなく、ただ、生きてそこを目指すさなか、繰り返される日常の中で得られる小さな美徳ばかりを求めすぎて、いつかはやがてそんな場所に辿り着きたいという巨人の幻想を忘れてしまった、冒険心を忘れて小さく収まることに満足しまい、臆病なお人形のようになってしまった自分自身が何より許せなかったのだ、と。

 

「――俺もあんな風に……」

 

いつかなりたい自分になるために冒険者という道を選んだはずだった。けれど自分は、やがて目指した場所の遠さによってあろうことか冒険の先に望んだものがないと信じ込むようになり、やがて冒険する事自体を倦むようになってしまった。だからこそ目の前で、冒険を行なっている彼らがひどく羨ましいのだ。そして思う。

 

「今からでも間に合うのかな……」

 

――なにかを、したい

 

それは憧れによるものだった。それは賞賛によるものだった。それは敬意によるものだった。それは後悔によるものだった。それは焦燥によるものだった。それらは彼らによって生み出されたものだった。それは自分の胸の裡から生まれ出でたものだった。

 

「――っ」

 

目頭が熱くなった。胸が疼く。心が軋む。心臓が痛い。頭が熱い。応えるように、彼らの戦いが苛烈さを増す。息苦しさが増した。息をのんだ。息を吐いた。涙がこぼれた。悔しかった。彼らの傷が増える。その度に彼らは笑う。それが馬鹿みたいに羨ましくて、馬鹿みたいに誇らしかった。

 

「――いけっ!」

 

だからきっとそんな言葉が生まれたのは当然の帰結だった。

 

「――そうだ、やれ!」

「いけ! シン! その目の前のやつをぶっ倒せ!」

「やれ、エミヤ! そんなちっこいやつに負けんじゃねぇぞ!」

 

彼の抑えきれず溢れ出た想いを皮切りに、ぽつぽつと歓声と応援の声があがりはじめる。

 

「右だ! 左だ!」「躱せ!」「いや、防御だ!」「なんだその動き! ふざけんな!」「お、おい! いま、シンとかいうあいつ、ブシドーのくせにセスタスのアームブレイクを使わなかったか!?」「それをいうならエミヤとかいう謎の男だって、武器固有スキルのはずの爪削ぎに裾払いに四肢潰しになんなら、岩破飛堕衝みたなのつかってらぁな!」

 

歓声は戦争において殺しあっていた敵味方分け隔てなくからあげられていた。

 

「おい、どっちが勝つと思う!?」「決まってんだろ! 剣の才能があるシンってやつが勝つに決まってるさ!」「いやいや、戦いに重要なのは、才能ではなく度胸と経験だ。私はエミヤという男が勝つ方に賭けるがね!」

 

今や敵味方関係なく、彼らの戦いの行方を見守っている。彼らが命をかけて行なっている決闘/冒険は、今や敵味方問わず全ての冒険者にとって、垂涎の的だった。――そして。

 

 

――キンッ

 

死闘を繰り広げている最中、剣戟というには間の抜けた音が勝負を中断した。

 

「む」

「ぬ」

 

シンの持つ刀は、刀身の中央から真っ二つに折れ、鈍色の刃先が宙を舞う。シンのカムイランケタムというダマスカス鋼からつくられた刀は、真の力を発揮した彼の挙動と、限界以上の力を発揮した私の力と、私の投影した宝具『干将・莫耶』との打ち合いに耐えきれなかったのだ。

 

「――」

 

シンは残念そうに手にした刀を眺める。私ははからずとも呆気なく彼との決着がついてしまった事を確信した。いかにシンが優れていようと、刃先の短くなった折れた剣ではその実力を発揮しきるのは難しいだろう。

 

「――」

 

シンが空を見上げる。シンは私と違い、武器を投影して無限に作り出すような能力を保有していない。そう。シンは、スキルという魔術がごとき技をその動きにて再現できるようになったとはいえ、それはあくまでも普通の能力の延長上にあるものに過ぎない。シンには私が使う投影魔術のような、武器を無限に生み出す特殊な能力は備わっていないのだ。

 

「残念――」

 

だからもう終わりだ。それを周囲の人間も悟ったのか、熱狂に浸っていた彼らから熱が

失われてゆく。クルクルと回転しながら落下する折れた刀身はやがて赤い大地へと到達すると、まるで己の脆弱さを恥じるかのように地面の中へと姿を隠してゆき――

 

「これで終わ……っ!」

 

そしてシンがその言葉を吐くよりも前、刀がその身を地面の内側に隠し切るよりも先に、赤銅色をした何かがシンのすぐ近くに飛来して、シンと地面に消えた刃先の間に割り込み、地面へと突き立った。シンは驚いた顔で飛来したそれを眺める。飛来した物体は、手を保護する為の取っ手がついた、つい先ほどまで彼が手にしていたものと同じ、つまりはカムイランケタムと呼ばれるダマスカス製の幅広い刀身を持つ刀だった。

 

「これは……?」

 

呆然と自らの横へと突き立った剣を見ていたシンは、やがて正気を取り戻すと、剣の角度から飛来した方角と距離を逆算したのだろう、柄の端が向いている方角を見やった。彼の伸びた視線の先を追いかけると、そこにはシンよりも少しばかり背丈も体つきも小さい、ブシドーらしき人物が投擲したままの姿勢で固まっていた。その場にいる全ての存在の視線が、一対一の決闘に水を差した彼へと集中する。

 

「あ……」

 

どうやらその投擲行為は、ブシドーの彼が意識せずに行ったものだったらしく、自身の行動が決闘を中断させてしまったのだということに気がついた彼は、バツが悪そうに姿勢を整えなおすと、全ての視線から逃げるように下を向く。シンは自らの前へと投げ込まれたしばらくを見やると、彼に向かって一礼をしたのち、私の方を振り向いた。

 

「――エミヤ。これは死闘であり戦争なのだ。ならば戦場に落ちている武器を使って戦ったところで文句はあるまいな」

 

やがて冷えつつある戦場の空気など知ったことかと言わんばかりの口調で、シンはそんな事を言った。シンの言葉に、全ての人々から目線をそらしていた彼が、シンの方を向く。瞳には再び希望の色が生じはじめていた。

 

「――無論だ。そもそも、武器を無限に作り出せる私が、その程度のことで文句をいうはずあるまい」

 

シンの考えている事を理解した私は即座に彼に賛同する。静寂ののちに大歓声があがった。続けて武器を投げ込んだ彼へも、溺れるほどの歓声と歓迎の所作が向けられる。そして私とシンとを取り囲む観客たちから生じた鼓膜が破裂してしまいそうなほどの音の洪水が、再び私とシンと、戦場の全てを包み込んでいく。

 

「いいぞ!」

「そうだ、この程度で終わっちゃつまらなねぇ!」

 

距離を置いて互いの属するグループから発せられる声援には先ほどのそれを超える熱気が含まれていた。武器が、道具が次々と投げ込まれ、見る間に二人の周囲を取り巻いた。赤い大地にさまざまな武器が突き立つその光景は、まるで、私の固有結界『無限の剣製』の光景のようでもあった。しかし今、そのかつての私の固有結界にあった偽物の剣群とは異なり、突き立つ武器や道具の全てが偽物ではなく、本物のそれらなのだ。

 

自らが作り出した偽物ではなく、誰かによって与えられた本物によって自分たちの我儘が支えられている。私は誰かに認められてこの戦場に立っている。そんな事実が、私の裡からさらに闘志を引き出した。

 

「ありがたく――」

 

私の表情の変化を見たシンは唇の両端を吊り上げると、目を閉じ、いつか新迷宮三層の番人である犬の群れとの際に見せた上段の構えを取る。意識を完全に戦闘のそれへと切り替えたのだろう、構えから発せられる研ぎ澄まされた刃のごとき威圧感は凄まじく、途端に観客たちはその圧にあてられて、自ら声をひそめて、息を呑む。一瞬で観客たちをのみ込んだシンは、両腕にぐっと力を込めて息吹を数度繰り返すと、閉じていた目を開き、言った。

 

「――いくぞ」

「――ああ」

 

返答と同時に、シンは私へと突っ込んでくる。迷いなく振り下ろされる一撃は、これまでとまるで変わらない、いつも通りの鋭さを発揮して、私へ襲いかかってきた。

 

英雄二人が引き起こす、熱狂渦巻かせる代理戦争はまだ終わらない――

 

 

「ん、んん……」

 

響という少女が目を覚ましたのはそんな最中だった。

 

「――ふぁああああ……」

 

身を起こすと同時に呑気に大口開いてあくびを一つ漏らしてみせると、目をこする。所作によって洗浄のために涙腺からにじみ出てきた涙を軽く除けると、数度目を瞬かせた。

 

「あぁぁぁぁ……、ぅん……」

 

血が巡り始めると同時に、意識もはっきりとしてゆく。それにつれて響は自らの意識を覚醒へと導いたものの存在をはっきりと意識した。

 

――オォォォォォォォォォォォォ!

 

「う、うわっ……!」

 

歓声、歓声につぐ、大歓声。目の前で繰り広げられる、エトリアであった祭りの時ですら聞いたことのない音の洪水は、濁流となり響の頭の中をかき乱す。

 

「な、なに……、これ……」

 

――ようやく、お目覚めのようですね

 

そうして響が飛び込んでくる音の暴力を少しでも防ごうと耳を塞いだその瞬間、僅かばかりに静けさを取り戻した頭の中へと響いてくる声がある。わけのわからない状況下において聞き覚えのある声が聞こえてきた驚愕と安堵から、響は思わず声の主人の名を叫んだ。

 

「――玉藻!?」

――はい。その通りです、ご主人様!

 

すると呼びかけに応じて、頭の中に響く声があった。玉藻の声は響自身の体の内側から聞こえてきていた。

 

「な、え、な、なんでぇ……?」

――それは……

「蠱毒の呪いを跳ね除けるためよ。そのために女狐は、自らの身を貴様に喰わせたのだ」

「――え?」

 

混乱する響の前にギルガメッシュが現れる。響は、ギルガメッシュが現れたということと、玉藻がなぜ自らの内側に宿っているかを聞き、驚く。

 

「そ、そんな、じゃあ、玉藻は私のために――」

「そうとも。女狐は貴様の無謀に付き合ったがために、そのような有様となったのだ」

 

落ち込む響。そこへ玉藻が慰めの言葉をかける。

 

――気にしないでくださいまし、ご主人様。この玉藻。元を手繰れば神霊の類にございます。他人の体の中に宿る事も、そうして宿った人の体から抜け出した事も初めてではございません。ですから――

 

「だが今、貴様はその響という女との肉体と魂の相性が良過ぎて、脱け出せん。そういう事態になっているのだろう?」

――……それは

「え……、え?」

 

しかし玉藻の慰めの言葉をギルガメッシュがぶった切る。その言葉に玉藻は言葉につまり、響は混乱する。

 

――ギルガメッシュ。貴方はどこまでご存知なのですか?

「我にわからぬことなどありえん。――とはいえ、情報が足りなかった故に、見抜いたのはこの雑種の体から蠱毒の呪いが失せたというにもかかわらず、貴様が一向に抜け出てこないのをみたその時ではあるがな」

――それだけのことで見抜きますか。ほんと、嫌になるくらい慧眼ですねぇ

「な、なにが……、二人はなにを納得しているんですか?」

 

玉藻はだんまりだ。玉藻はそれを告げていいものかを迷っていた。しかし、ギルガメッシュは響の精神の都合など知ったことかと言わんばかりに、語り出す。

 

「知りたいか? ――ならば特別に教えてやろう。貴様はな。この生き方が、神が集合無意識下に存在するここ世界において、貴様が生涯行ってきた選択により、玉藻と言う女狐と同じ起源に至ったのよ」

「き、起源……、ですか……?」

「そう。九尾の狐という存在は元を辿れば、夏王『禹』の時代にまで遡り、女嬌という女にまで辿り着く」

――……

「は。はぁ……」

「さらに言えば、その女嬌というその女の名前は、もともと中国文字が象形文字であった時代に、ある女神の名前である文字が見誤られたことにより生まれた名前だ」

「……」

「その名の語源は『渦巻く女』。すなわち、世界の全てにあるという意味であり、世界の全てを造りだしたという意味でもある。そのある女神とは、かつて数多の道具をこの世にうみだした兄妹神の片割れ。道具を自在に操り、楽器と音楽を生み出した女神。その女神はまた、『風里希』という、里の陰陽を整え場の状態を安定させる名を持っている。貴様が『響』という、食卓を共に囲んでその場にいる人間どもの状態を安定に導く名を持つように、だ」

「……」

「その女神はそして、共工という荒ぶる神が反乱を起こした際、祝融を勝利に導いた女神でもあり、さらには自らを崇める苗族に蠱毒の術式を教えた女神でもある。だからこそ貴様は、他人を勝利に導く力を持つようになり、蠱毒の術式という世界最悪の呪い中にあっても平気となったのだ」

――……

「――……」

「その女神とはすなわち、『女媧』。中国神話において天地を開闢し、人を泥の中より造りだした、シン、すなわち、『YHVH 』と同列の古さと歴史と力を保有するそんな女神こそが、九尾の狐『玉藻』の、そして、『響』という女の起源である」

 

第八話 終了

 

 



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第九話 女神転生

本編に登場します呪文はいくつかの魔道書を参考に、貴方の元に悪魔が召喚されないようキチンと対策をしています。どうぞごあ、ごあ、ご、ご、ご、ごごごごごごごご、ご安心ください 。



第九話 女神転生

 

副題 意志と表像としての世界、偶像の黄昏、元型論、饗宴

 

EL ELOHIM ELOHO ELOHIM SEBAOTH

ELION EIECH ADIER EIECH ADONAI

JAH SADAI TETRAGRAMMATON SADAI

AGIOS O THEOS ISCHIROS ATHANATON

AGLA AMEN

 

Adonai HaAretz EMOR DIAL HECTEGA

Shaddai El chai ORO IBAH AOZPI

Elohim Tzabaoth EMPEH ARSL GAIOL

YHVH Tzabaoth OIP TEAA PEDOCE

Eheieh and Agla

 

O thou Spirit Dea Ex Machina. And I command thee by Him who spake the Word and His FIAT was accomplished, and by all the names of God.Also by the names

ADONAI,EL,ELOHHIM,ELOHIM,ELOHI,EHYEH,ASHER,EHYEH,ZABAOTH,ELION,IAH,TETRAGRAMMATON,SHADDAI,LORD GOD MOST HIGH, I do exorcise thee and do powerfully command thee, O thou spirit Dea Ex Machina, that thou dost forthwith appear unto me here before this Circle in a fair human shape, without any deformity or tortuosity.

 

O thou Dea Ex Machina. You name is —,

 

*

 

死に至るその瞬間、手元に一切の財がない。我欲によって生じ、その生涯を賭して得たそんなものを完全に使い切ったその先にある、無。それこそが自らの生涯を満足に生きることができたという証であり、他者より先んじてこの世に生まれ出でた命が得られる、人という存在が生涯のうちに持てる最高の栄誉であり、報酬である。

 

 

互いの体より飛び散る血に塗れた男二人によって繰り広げられる激戦。侍と騎士が激突するたび、閃光と甲高い音色と金属片があたりへと拡散する。火花と異音が飛び散り彼らが離れるたび、彼らを取り囲む観客からは喝采があがり、一合の鍔迫り合いの後に壊れた武器を投げ捨てるたび、敵味方問わずしての大歓声が沸き起こる。

 

試練と死闘。名誉と栄光。目の前にはヘイという男が求めた全てが集約していた。ヘイが男として求めてきた全てがそこにある。全てを持ち合わせた男たちが、今までに培ってきた全てをぶつけ合い、互いの覇を競っている。――その光景は、その生涯において我欲を抑え他人が求めるとおりの生き方をしてきたヘイにとって、ひどく羨ましい光景だった。

 

我欲を抑えて羊を飼っているその間にも、停滞している自分を置いて世界は刻一刻と変わって行く。それがひどく悔しかった。欲しかったのは、他人の力を利用してのしあがる術ではなく、何者にも媚びることなく、ただ己を世界に知らしめるそんな力。自らはここにいるのだと誰もが知らずにはいられない、そんな絶対的な力こそが、ヘイは欲しかった。

 

ヘイという男はつまり、自己を世界に刻みつけたかった。世界を構成する歯車の一つではなく、世界にある一個の人間として、自身の存在を世界に知らしめるだけの力が欲しかった。だからこそ彼は、安寧の生活を捨てて、抗おうと全てを捨てて踏み出した。しかしそうして飛び出したはいいものの、培ってきた技術の中に己が望んでいたような栄誉や名声を得るための力はなく、あるのは策略や人の関心を買う事で富を築く力ばかりで、つまりは金を稼ぐための力ばかりが備わっていた。

 

――こんなのまるで、お金様の下僕じゃないか……!

 

どれほど決心しようと、覆せない事実がある。どれほど願おうと、身に宿った才能は覆せない。どうあがこうが、失った年月は取り戻せない。どれだけあがこうが、自分はすでに冒険をサポートする側の人間であり、迷宮で華々しく活躍する彼らには決してなれないのだ。

 

無論そんな事実は毛頭ない。そんなものはヘイの勘違いだ。新たに冒険者として一歩を踏み出せば、世界に浸透している冒険者のスキルと職業というものは、その年齢に関係なく一定の力を保証してくれる。けれど、彼はそれを信じることが出来なかった。彼は踏み出す事を恐れてしまった。年老いた彼にとって、こんなしわくちゃで樽腹目立つそんな年齢になるまで冒険する事なく生きてきたヘイにとって、新たなる一歩を未知なる場所に向けて踏み出すというのは恐怖以外の何者でもなく、そんな恐怖がヘイという男の目を曇らせたのだ。

 

ヘイが求めたのは、パッケージングされた安楽の道であり、約束された栄光の未来だった。ヘイという男はつまり、勇猛果敢な冒険者になりたいと願っていながら、その実、冒険する事なく手柄と名声だけを得たいと心の底で願っているような、そんな男だった。ヘイは家族を捨てて今までの自分を捨てて踏み出した時点で、なけなしの勇気を使い果たしてしまっていた。だからこそ彼は、自ら新たな一歩を踏み出す事なく、これまでの培ってきた経験に頼り、そしてその道の先に望む未来がないことを悟り、自ら絶望の淵へと沈んでいったのだ。

 

だからこそ彼はシンという戦闘の才能に溢れた男に希望を求めた。だからこそ彼は、新迷宮を一人で踏破したエミヤという男に憧れた。だが、それは所詮ヘイにとって代償行為に過ぎなかったのだ。ヘイという男が真に求めていたのは、己を戦士として必要としてくれる存在だ。ヘイという男が真に求めていたのは、そんな憧れを目指すには手遅れとなってしまった自分を生まれ変わらせてくれる存在だ。彼の我欲は、自らの手で、自らの体に宿る力で、自らの運命を切り開き、やがて自分という存在を世に知らしめる事だった。だからこそ彼は、自らに戦うための特別な才能を与えてくれる存在に救いを求め、そして彼に戦士としての在り方を求めて差し出された手を握り返し、そしてえた才能を用い、やがてギルガメッシュという男の誘いに乗って、正面からの戦争に臨んだのだ。

 

すなわち、先ほどまで行われていた戦争。否、本来ならば時間稼ぎの一手段に過ぎなかったはずの防衛戦が、正面からかち合う戦争などというものになってしまったのは、間違いなくヘイという男の我欲を発端にするものであり、そんなヘイと同じような不満に死の間際に気付いてしまった死者の群れを満足させるために行われたものであった。

 

――だが。

 

そうして他人より与えられた力を使い、無限に等しい力を用意して、才ある人間の群れに挑んだはいいものの、結果は燦々たる残酷なものだった。ヘイはどれだけ特別な力を得ようが、所詮はただ他人から力を与えられただけの凡人が、才能の上に努力と経験を積み重ねて実績を培った才人に勝てるはずがないという、そんな当たり前の法則を嫌という程に思い知らされた。

 

思う。

 

――才能がないそんな身で大望を抱くことはそんなに悪いことなのか。いつかは世界の全てを踏破するほどの力が欲しいと思う事はそんなに悪い事なのか。そのために他人から力を貰うのではダメなのか。ならば一体、この身を焼き尽くすほどの焦燥感は一体どのようにして鎮火してやれば良いというのだろうか。

 

ヘイはその答えが欲しかった。だからこそヘイは祈った。自分ではもはやその正しい答えに届かない。そんな手段はもはや思いつかない。それにもう時間がない。だからこそヘイは祈った。このままでは死ねない。死ぬ事自体は構わない。しかし、何も成し遂げられないまま、望んだ未来に手を届かせる手段をすらも見つけられていないこんな状態のまま死ぬ事だけは、絶対に許容できない。だから――だから、助けてくれ、と。どうかこんな絶望に浸っている自分が、汚泥の中から起き上がる気力を与えてくれるそんな存在をヘイはそう願い、そして――

 

そんな願いを叶えるかのように、シンとエミヤという、彼にとって憧れの象徴である人物が現れた。彼らは互いが兼ね備えていない才能を羨みながら、それでも互いの持つ長所と培ってきたものを最大限に利用して己が力を振るい、自分よりも格上である存在へと挑んでいる。切に思う。

 

――自分もああすればよかったのだ。

 

形だけ真似て粋がる前に、今の自分に備わっている全てを誇り、力とすればよかったのだ。金を稼ぐことが自分の力であるなら、金の力を潤沢に用いて、世界に抗えるだけの自らの力を培ってゆけばよかったのだ。

 

だからこそヘイは思う。

 

――どうか、この先の光景を見せて欲しい。

 

舞台に立ち上がる前、その資格を自ら捨ててしまった今の自分では見ることの出来ない、向こう側の光景を見せて欲しい。それだけが今のヘイの望みであり、我欲であった。今の彼の胸には、それこそ命を捨てる虚無主義の果ての無謀ではなく、我欲の果ての選択に自らの全てを信じて賭ける勇気が舞い戻っていた。

 

ヘイは今夢中だった。まるで子供のように、目の前で繰り広げれられる戦いに目を向けていた。そしてだからこそ――

 

ヘイは、サコという女が自らの傍らより完全に消え去っていることに気がつくことができなかった。

 

 

――っ……!

 

シンが戦っている。エミヤが戦っている。彼らが一合を交えるごとに、頭痛が走る。脳裏をよぎる痛みの雑音は時を得るごとにその波の大きさを増し、頭がずきずきと痛んでいた。

 

――いったい、何が……!

 

頭がいたい。頭痛がひどい。知らぬ間に怪我でもしたのだろうかと回復スキルを発動させるも癒しを発揮するはずの力はまるで痛みに効力を発揮することはなく、状態異常を治すスキルを発動させるも、やはり痛みは治らない。

 

――っ、あ……っ!

 

痛い。シンとエミヤの戦いを目にするたび、頭の奥底がジンジンと痛んでいる。痛みはやがて背骨を通じて体の各所へと広がり、胸が、背中が、腕が、脚が、まるで骨の髄まで痛みに支配されてまったかのように痛んでいる。

 

――なに……、が……

 

サコは困惑した。こんな経験は初めてだった。まるで自分は痛みを人の形に模った人形のようだとそう思う。痛い。痛い。ただ、痛い。痛みが走るのは自分の体が正常な証であると自分に言い聞かせるも、鎮静を期待して自らの脳裏へと語りかけたそんな理性的な意見は、痛みを訴える感情の前にあっという間に敗北して、頭は再び痛みを訴え出す。

 

わからない。こんな痛みの経験は生まれて初めてだ。こんな痛みは知らない。ああ。こんな痛みを感じ続けるのであれば、私は――

 

――痛みを感じる触覚なんて、いらない

 

「――うぁっ!」

 

そう思った瞬間の出来事だった。自分が塗りつぶされて行く感覚をサコは覚えた。今までの自分が塗りつぶされて行く。今まで培ってきたはずの全てが、溶けて失せて行く。そんな虚無感と喪失感が痛みの代わりにサコの体へと遅いかかってくる。

 

「あ。あ、あぁ、あぁぁぁぁぁぁぁ――」

 

痛みは瞬時に消え失せた。代わりに絶望感とこれまで感じたこともないような快楽が自らの体を支配する。自らの体が、自らの意思が、自らの記憶が、自らの存在が溶けて消えていっているというにもかかわらず、それがこんなにも気持ちいい。

 

――ああ。果たして自分は狂ってしまったのだろうか。

――いいえ、そんなことはないわ

 

そんな葛藤を思い浮かべた途端、自らの裡より返ってきた言葉に動揺する。その溶けるように甘い声はサコにとって間違いなく聞き覚えのないものであった。しかし同時に、その全身を快楽で蕩けさすようなその声は、サコが間違いなく心の奥底で知っている声だった。

 

――貴女は私が作り出したお人形。桜の魂の依り代。だから、サコ。一人の男と一人の女が舞台で活躍するの事を観察し、あるいは補助するために生み出された舞台演出装置。貴女の全てはもとより私のもの。桜という女の魂から、もはや要らない一部だけ抜き出してつくられたものを埋め込まれた、そんな存在。桜の兄を慕っていた魂の成分。だから貴女は貪欲なまでにこの世に存在しない兄を求め、幻視し、追い求めた。だからだから貴女は赤死病というものと関わる運命を背負っていた。だからだからだから貴女には世界を騙せるような特別強い力が宿っていた。

 

言葉にサコは驚く。と同時に、次々と疑問が氷解する。村のみんなは正しかったのだ。間違っていたのは、私だったのだ。世界の全てが正常で、正常な世界の中で私だけが壊れていたのだ。――ああ、なんだ。自分は。

 

――彼女の言う通り、彼女のお人形に過ぎなかったのか。

 

疑問が失せたと同時に徒労感が全身を包み込み、これまでにないくらい体から力が抜けて行く。同時に身体の消失が一気に早まった。

 

――満足した? じゃあ、安心して消えなさい。

 

そして少女が続けて述べたその言葉を最後に、サコの意識は全て消失する。恐怖でなく陶酔と納得と絶望によって、サコという女の人格は完全に世界という舞台から消え去っていた。

 

 

星の夢を見た。神の夢を見た。人の夢を見た。星は変化を望み、やがて自らの子らが自らの袂より旅立つことを望んでいた。神は不変を望み、やがて自らの子らが自らを不必要とすることを恐れていた。人は死を恐れ、いつか死という停滞を彼方へと追いやるそんな変化を望んでいた。

 

死を遠ざけようとする人が起こす変化の速度や凄まじい。人は死の恐怖を遠ざけるために己が領域をより良いものへと変化させたいという我欲から、多くの領域を自らのものへと染め上げてゆく。

 

神々と呼ばれる存在はそれを恐れた。人が前に進むその速度や凄まじく、彼らはいつかやがて、そんな人間たちが、強烈な変化の果てに神の座に到達してしまうことを恐れ、ある一柱の存在を産み落とした。

 

人の側に属する存在でありながら、神の陣営に肩をもつ存在であるよう望まれた、ウルクの王。不変の存在が持ちうる膨大な力を保有しながら、変化する存在として生まれ落ちた、半神半人の王。人と神の狭間にある存在。究極の孤立者にして人類を守護者し、その価値を裁き定める、裁定者。それがギルガメッシュという英雄王の正体である。

 

 

「『女媧』。中国神話において天地を開闢し、人を泥の中より造りだした、シン、すなわち、YHVHと同列の古さと歴史と力を保有するそんな女神こそが、九尾の狐『玉藻』の、そして、『響』という女の起源である」

 

ギルガメッシュが尊大に述べるそんな言葉を、響はぽかんと口を開けて聞いていた。呆けている、と例えるのが最も適当であるそんな態度しか取れないのは、次から次へと押し寄せる情報の奔流に響の脳内が耐えきれず、混乱の極地へと追いやられているという証拠だった。

 

――ギルガメッシュ。あなたはなぜ、それを今語るのですか?

 

意識の船を彼方へと遭難させている響に変わり、響の体内より声が聞こえてくる。玉藻だ。

 

「我になぜと行為の理由を問うか、女狐」

――ええ、問いますとも。貴方という男の性格を私は把握しています。貴方は傲慢で不遜ですが、だからといって意味のないことをしない主義の人物であるはずです。――この響という少女が、この世界の歪んだ在り方とそれまで過ごしてきた経歴により私と同じ起源に至ったのは事実でしょうが、だからといって今この瞬間、それを語るメリットは無いはずです。なのに貴方は語った。――ギルガメッシュ。いったい貴方は何を考えているのですか?

「ふむ……」

 

玉藻の言葉にギルガメッシュは顎に手を当て首を傾げて考え込む。その様を見て響の中にいる玉藻こそ、そのような態度を取りたいのだと思う気分になっていた。

 

「――なるほど。女狐、玉藻よ」

――ええ。何でしょうか

 

だから投げかけに苛立ち混じりの言葉を返してしまうのも仕方ない事なのだ。これがアクセントの高低差高い金切り声でなかっただけ、自分を褒めてやりたい気分に玉藻はなっていた。

 

「良い疑問だった。なるほど、たしかにその通りである。先にその女へと投げかけた言葉、たしかにこの場においてする必要のないものであった。事が予想外に良い方向へと転がった故、我も浮かれておったのだ。故についいらぬ言葉が口に出た。許せよ」

 

しかして、帰ってきた言葉に玉藻の怒りの念は霧散し、驚いて唖然とした。あの天上天下唯我独尊を地で行くそんな男がこうも素直に自ら疑念を指摘として受け入れた挙句、非難として受け取り、己の失態を認め、謝罪までおこなうという事態が玉藻には信じ難かったのだ。

 

――どうしたんですか、急に。気持ち悪い。

「ふん。誠に無礼な女狐よ」

 

訝しむ言葉と態度を隠そうともしない気配によって玉藻から向けられたギルガメッシュは、しかしその事に対して怒ることもせずに再び前を向く。人の波を超えたその先では二人の男が先程と変わらぬ苛烈さを保ちながら剣戟を鳴らしている。そんな剣戟に反応して、敵味方全ての人間が惜しみない歓声と喝采を送っていた。

 

「だが、まぁ――、良い。今、我は貴様らのその無礼を許そう」

 

それを見てギルガメッシュは、満足げに頷くと、頬杖をつく。それ以降、ギルガメッシュは玉藻や、正気を取り戻して、シンの復活や、シンとエミヤとの戦いに気がつき再び狂乱に陥った響が何をどのような口調で話しかけようと、囃し立てようと、一切反応を見せなくなってしまった。

 

 

はるか昔の話だ。

 

我欲より始まった旅路の果て、心から望んだもの――不老不死を実現する若返りの薬を自らの力のみで手に入れるという、人という存在が入手する財の中において最高の悦びを手に入れたギルガメッシュは、その直後、手に入れた薬を己の慢心によって呆気なく失うという出来事により、人という存在のあり方について心底理解した。

 

流転し、常に変化し続ける世界。世の中というものがそんな世界の中であるというならば、不変であるというそんな事こそが、なによりも不自然だ。ならば――、星と神と人。そのいずれの望みと在り方が正しく、いずれの望みと在り方が不自然であるかなど瞭然だった。

 

だからギルガメッシュはその後待ち受ける死を受け入れた。

 

「『いつかやがて』という我欲さえ保有し続ける事が出来るのであれば、人という矮小な存在はしかし、どこまでも高く飛翔し、やがては我の庭である星を超え、我と言う存在の望む通り、星という存在の望む通り、未知なる世界に向けて旅立つだろう」

 

ギルガメッシュは心の底からそう思っていた。

 

――しかし

 

 

そうして永劫の眠りについたはずのギルガメッシュは、彼の生きた時代よりはるか未来、人々の祈りによってこの世に再び呼び出された。彼は自らの存在を呼び出した人間たちから事情を聞いた瞬間、心底激怒した。

 

魔のモノ。人々から悪意を吸収し、我欲と善悪の彼岸を消失させ、破滅という不変だけが支配する未来へと導くそんな存在。そんな我欲を失せさせ、永遠に不毛さだけを撒き散らす神の如き存在を、いつか人が自らの意志と未知を求む欲望に導かれて星の海へと旅に出るそんな夢を見て眠りを受け入れたギルガメッシュが許容できるはずもなかった。

 

「殺す」

 

故にギルガメッシュは魔のモノと呼ばれる存在の即時排除を決心した。そして彼は一も二もなく湧き上がる激情を叩きつけるべく、自らが召喚されたその場から飛び出そうとする。しかし、そうして憤怒の念を発散させながら飛びだそとするギルガメッシュを、自らを呼び出した彼らは引き止めた。

 

「どうか我らの願いをお聞き届けください」

 

彼らのその態度は死を覚悟した人間特有のそれであり、覚悟と決意に満ちていた。彼らの想いはそしてギルガメッシュの気を引き、話を聞かせる気にし――、やがて彼らの話と事情を聞いたギルガメッシュは、自らの手で魔のモノと呼ばれる存在を排除する事を取りやめた。

 

「魔のモノという存在が滅びの一因であるのは確かだ。だが、だからといって、この世界が滅びの方向へと邁進してしまったのは、そんな奴の特性により我々が我欲を尽くしてしまったからに過ぎない。――我々がその欲深さゆえに死にたえるというだけならば、構わない。しかし、我々の愚かさによって、我々の愚かさと関係ない、次の時代を背負う我々の子らが害を被るという事態だけは、なんとしてでも避けたいのだ」

 

それを聞いた瞬間、ギルガメッシュは気を抜けば跳ね上がってしまいそうなくらい喜んだ。

 

『やつらはそして、やがて自らの子らが星の海に旅立つその時を夢見れるのであれば、それ以外に何もいらぬと、そう言ってのけたのだ! やつらの望みは我と同じく、見守るものになろうとするものであった! やつらはついに自力で神の座に辿り着いた! 神の力を持ち、人の世を自在に変える事のできる我だからこそ今生の短き間に辿り着けた結論と境地に、矮小な人間どもは千年、二千年の時をかけてついに辿り着いたのだ! 我はついにその時、永遠の孤独より解き放たれたのだ! その力の矮小さゆえに友とは呼べぬが――、無こそが報酬であったはずの我は、しかしついに、我と運命を共にする隣人を手に入れたのだ! その時の我の愉悦がわかるか!? 我が望みを託した矮小なる人間という存在が、ついに半神半人たる我と同じその境地に辿り着いたというその悦びが、貴様らに理解出来るか!?』

 

だからこそギルガメッシュは彼らの用意した手段とその望みを受け入れた。ギルガメッシュはそして無論、彼らの用意したシステムに破綻があることなど瞬時に見抜いていた。彼らの用意したそのシステムを運用すれば、いつしか必ず、世界は不変という呪いを再発症する。それはいつか、再び人類を破滅の岸にまでおいやる要因になるかもしれない。

 

否、――間違いなくなるだろう。

 

生存のためとはいえ、人の発展の欲を抑えるためのシステムなどというものが、変化こそを起源とする生命の最先端にいる人間の我欲を抑えきれるはずがない。我欲を削ぐためのシステムは、それ故に悪意を吸収する世界の仕組みと合わさり、底無き我欲を保有する人類に悪影響を及ぼすのは目に見えている。

 

しかしそれを予見しながら、ギルガメッシュはそれでも彼らの提案した破綻の未来が待つシステムを受け入れた。なぜならそれは、自らの願いを受け継いだ自らを旧人類と呼ぶ彼らが、死の淵にまで追い詰められ、迫り来る死の恐怖に怯えながら、それでも後世に生きる新人類の為を思って、必死に開発したシステムであるからだ。

 

『死した先人の手には何も残らず、得た財はすべて後ろにある者共の手中に収まる。そんな状態こそ、流転する世界の中において正しい在り方だ。我の手にはついに再び、何もない状態にへと戻ろうとしているのだ。我は、我が手がけてきた奴らというものが、我らの手を離れ自らの足で、自らが手にした力で星の海へと旅立とうとしているこの状況が嬉しくてたまらない』

 

子の健やかな旅立ちを願うのが親の役目であるならば、子の不始末の片を付けるも同じく親の役目。その不始末が、悪意によって生み出されたものではなく、死の恐怖に怯えながらも必死に紡ぎ出した善意という我欲によって生み出されたものであるというのであれば、是非もない。

 

『後に続くものが夢を見る事すら出来ぬ未来を残すとなどといった事態ほどの恥はない。我は我という完全に至った存在であるで故に、そのような恥辱を断じて受け入れられん。そんな恥辱をこの身で味わうくらいなら、我は我自身が誰かのために動くと言うそんな恥と苦労を甘んじて受け入れ、後世に続く奴らが進む道を整え、奴らが自らの意思で我の見たこともないような場所へと向けて旅立つその時を待とう』

 

自身が動き、道を整えて待てば、いつかやがて必ず人類は、かつて自分がやったように、苦痛に歯を噛み締めながらも未知なる場所向けて旅立つに違いない。ギルガメッシュはそれを信じていた。だからこそギルガメッシュという男は、万難排して人の礎となる事を許容した。与えるだけが守護ではない。守るだけが守護ではない。だが時として、必要あるのであれば、最低限の守護を与え、はるかなる未来にやがて自らの足で立つ事を信じて、ひたすらに待つ。それがギルガメッシュという英霊にとっての、他人には決して語ろうとはしない人への愛の向け方であり、誇りであり、矜持でもあった。

 

『だからこそ、我は我のためにあのヘイムダルとかいう輩が我を越えるために我に逆らうと宣言した時、それを許容した。だからこそ我は、シンというあの男が我に叛逆する事を許容した。だからこそ我は、今こうしてシンという男が我と同類の奴等が敷いたスキルというレールを離れる事を許容した。だからこそ我は、こうして我の手を離れた奴等が辿り着くその結末がいかなるものであろうとその結末を全て受け入れ、そしてその決断によって生まれるあらゆる障害が奴等にとっての重しとならぬよう、道を整えてやろうと思うて行動しているのだ』

 

つまりは、ギルガメッシュは先に彼らよりも辿り着いていた存在として彼らの努力と覚悟を尊重し、そして子に等しい彼らの選んだ未来に待ち受ける結末を受け入れる決意をし、そして起こりうるすべての出来事の責任をその一身に引き受ける事を良しとした。

 

だからこそ彼は、故にまた、そんな破滅の未来の果てに現れたエミヤという、黄泉路より迷い出て生き延びた男の後援を決意したのだ。

 

「あの男の在り方を見たか? かつては我欲を他者の救済などというつまらぬ言い訳にばかり浪費していたあ奴は、今、様々な試練を経て、ついに我欲を自らの望みのためにのみ消費するまともな大人に生まれ変わっていた。あのエミヤという雑種は、ついに我の到達した位置のその一歩手前にまで到達していたのだ。歪んだ信念を抱えたまま大人として成長し、歪んだ英霊として完成し、不変のまま果てていったはずのあ奴は、しかし生まれ変わった今、そんな変化を成し遂げた。今のあれは大人と子供の境界線にある存在。未熟でありながら完成を目指す、善でありながら悪でもあり、上でありながら下であり、明でありながら暗でもある、己のペルソナとの合一を果たした存在なのだ、あれは。あやつは自らの中にある童子との合一を果たした男だ。ならばあのエミヤという男は、まごうことなく未熟である雑種どもを率いるに相応しい統率者になるだろう。だからこそ我は、あの男――偽物/フェイカーであったあの男を、目の前にいる未熟者どもが星の海へと旅立つ旗印としてしてやるために、シンという男の反逆に立ち向かわせたのよ」

 

だからこそギルガメッシュは目の前の戦いに介入しない。そんな無粋な真似をしようなどとは決して思わない。子供の喧嘩に大人が出ることほど恥ずかしいものはない。やり過ぎないために口を出したりくらいはするが、それ以上の事を彼はしない。あんな下らぬ自虐から生じた諍いなど彼らが勝手して解決に至るべき事。それこそが彼の願望であり、ギルガメッシュという男の今の我欲であった。

 

全ての事態を俯瞰し、解決のための道筋を示し、しかし最低限以上の手を貸そうとしないギルガメッシュという人物は、この崩壊しつつある世界において、間違いなく唯一完成している大人であり、英雄王の呼び名に相応しい我儘な人格破綻者でもあった。

 

 

剣戟がどれほど続いただろうか。エミヤとシン。決闘を行う二人の周囲にはすでに千を雄に超える壊れた武具が散らかっている。武具はシンが攻撃の手段として用いたものであり、そして同時に、エミヤという男が投影によって生み出された干将・莫邪と呼ばれる宝具によって折られ、裂かれ、砕かれたものであった。

 

二人の決闘に生み出されたそれらの中には十全とした原型を残しているものは一つとして存在していない。それが二人の行っている戦闘の苛烈さと遠慮のなさを示しているといえるだろう。二人は紛う方なく真剣そのものだった。彼らは真剣に、目の前に存在する自らにとって最大の壁を打倒すべく、死力を尽くして戦っている。

 

互いが互いを打倒しようとするその戦いのなんと苛烈なことか。戦いの才に溢れたシンが放つ類稀なる才能と血反吐を吐く努力によって身に着けてきた身体の型というものから生み出される神速の一撃を、戦闘の才を持たないエミヤはこれまでに培ってきた膨大な戦闘の経験値とシンという男をはるかに上回る血の量を流して繰り返し体に馴染ませてき身のこなしにて対抗する。

 

互いに必殺。互いに絶技。常人であるならばその一太刀が放たれた瞬間に絶命しておかしくない、そんな一撃を繰り出す彼らの存在を伝説とたとえるならば、そんなものの応酬を繰り返す彼らがしかし今なおこうして生きて鎬を削りあっているこの状況は奇跡といっても過言でない状況だった。

 

だが。

 

「む……」

 

そして手にしていた刀の破損を認識したシンがそれを投げ捨てて自らの武器を持ちかえようとしたその時だ。辺りを見渡したシンは、自らの周りに散らかる武器の中に十全の姿形を保っているものが一切存在しなくなっていることに気が付いた。彼の周囲に散らばる武具は、剣は刀身が折れ、槍はその穂先が砕かれ、盾は真っ二つに切り裂かれた、そんなもの不具に至りシンが投げ捨てたものばかりが転がっている。

 

シンはついに戦争に加担していた彼らが使用していたその武器のうち、彼らが投げ込んできた武器のすべてを使い切ったのだ。

 

「……」

 

近場に武器が落ちていない事を知ったシンは静かにあたりを見回した。だがいくら見渡そうと、投げ込まれ、そして打ち砕かれた武器の状態がすぐに元通りに戻るというわけではない。目の前の武器たちは、たとえ手持ちの武器に不具合があろうとも、人は前に進み、己の前に現れる壁に対してその時発揮できる全力の力を以てして挑まねばならないのだと言わんばかりに、元の形を保つものがない。シンはそんなことは知っていると言わんばかりに刀身が半分の地点より折れた刀を握りなおすと、そのまま構えようとして――

 

「――む? ――これは……!」

 

そして気が付けばいつの間にか自身のすぐ突き刺さっていた薄緑色の怜悧な色をその身に秘めた三尺あまりの反りある刀身をした太刀を見て、驚愕の表情を浮かべた。

 

「見事な……」

 

波紋は波打つ互の目丁子。地鉄は小杢目の反り返った太刀。斬る、という目的のため、それ以外のすべてを余計と斬り捨てるかのような愚直さと怜悧さが、その刀身の基本理念のすべてだった。剣は目の前に現れた全ての存在を斬り伏せるそんな一念のもとに鍛え上げられたものだった。

 

「それは……」

 

その麗しい光を放つ刀身を見た瞬間、エミヤは口を開きかけた。その玉虫色にも似た緑光沢を放つ刀身に見覚えがあったからだ。

 

「……ヘイ?」

 

響という少女がライドウらの世界において振るっていた薄緑と似たそれは、紛う方なく自らが新迷宮二層の番人より手に入れた玉虫の羽を用いて生み出された剣であり、ヘイという彼以外に鍛え上げる事の出来ない刀だろうだった。刀はヘイ以外に鍛え上げられる者がいない。それはすなわちその刀を投げ込んだ人物がヘイである事を雄弁に語っていた。

 

「――感謝するぞ、ヘイ」

 

シンもエミヤと同じその結論に至ったのだろう、薄緑と同じ素材によって生み出された、しかし響が持っていた『薄緑』とは異なった形式のそれを手にすると、その感触を確かめるためだろうじっくりと振り回す。

 

「なるほど、私の好みに合わせて作られたものでなく、素材が望む形につくりあげたものなのか」

 

刀を振り回していたシンはやがてそんなことをつぶやくと、腰をひねり、上段の構えでも、青眼の構えでも、居合の構えでもない、それは変形型の上段霞の構えと呼ばれるものに似た独特の構えを取った。

 

「――それは」

 

シンのその構えを見た瞬間、エミヤは呆然とする。なぜならその構えにエミヤは見覚えがあったからだ。それはかつて第五次聖杯戦争におい当時アーチャーの名で呼ばれていたエミヤが、唯一、望んだにもかかわらず勝ちを拾えず、相手の情けにより引き分けに持ち込むことのできた相手がしていた構え。それは第五次聖杯戦争において暗殺者として呼び出された、しかし最高峰の剣の技術を保有する剣士が用いていた構え。それはあの騎士王をして純粋な剣の腕前だけを比較するならば最強呼ばれた『佐々木小次郎』と呼ばれた男が、たわむれに燕を斬る事を目的とした際偶発的に生まれた魔剣技を放つその際に用いられる、そんな天才がする唯一の構え。

 

「その構えは――」

「剣を手にした途端、剣が私に語りかけてきた、と言ったら、エミヤ。君は笑うかね?」

「――いいや、なるほど。むしろ得心したとも。なるほど、彼は後継者として、同じく剣だけへとその生涯のすべてを真摯に捧げてきた君を選んだのだろう」

 

すなわち、その構えは、佐々木小次郎と呼ばれたその男の必殺剣、「つばめがえし」を放つための構えだった。そんな過去の偉人の構えを取ったシンは、直後、かつて立ち会った過去の英霊に勝らぬとも劣らぬ気配を放ちだす。その圧倒的かつ濃密な剣気が放たれたその途端、シンとエミヤを中心とした五十間ほどの空間の世界は、完全なる静寂に支配されていた。

 

浮かぶ星々はこの男がこれより放つ一撃を余すことなく祝福すべく爛々と光を放ち、周囲を漂う空気はこの男がこれより放つ一撃により裂かれることを恐れたかのように冷たくなり、音は空気と同様を斬り裂かれることを恐れてか、一切の身動きを取りやめる。それはシンという超一流の使い手を得た刀の喜びであり、同時にそんな超一級の刀を己の手に収める事の出来たシンの喜びによって放たれたものであるかのようだった。

 

世界はまさに、シンとシンの構えた刀の支配下にある。そしてエミヤはシンがその刀を構えた瞬間、彼が放つ剣気はまさにかつて聖杯戦争に参加していた剣士、佐々木小次郎が放つそれと等しいものであろうことを予感し、今これより放たれるだろう一撃が絶対回避不能を実現する魔技であろうことを直感し、直観した。異常なる空気を読み取った観客もまた、身じろぎ一つをしないままに、シンの一挙手一投足へと視線を送っている。目の前にいるシンという男はまさに世界を斬り裂く一撃を放つだろうことを予感し、この場にいる誰もが、この先に起こることを決して見逃すまいと、固唾をのんで見守っていた。

 

 

全身がひりつく。これまで培ってきたブシドーとしての経験と、剣自体が記憶している侍としての業が組み合わさった一撃は間違いなくこれまでに自分が見たことのない光景を見させてくれるだろう。今これより自分がそんな未知なる一撃を放つのだと想像するだけで、いつかのあの時のように血が滾る。体中が馬鹿みたいに熱を帯びてゆくかわりに、頭と心と技を放つに必要な部位だけはやけに冷たさが保たれていた。

 

――燕を斬る。言葉にすれば簡単なその行為を実現するために、私は技術を研鑽し、とある技を開発した。その技を劣化させたものの延長上にあるのが、お前が納め、研鑽を重ねてきた、二つのブシドーのスキル。

 

剣が語る言葉に耳を傾ける。

 

――『一閃』と『つばめがえし』。すなわちお前が最も得意として使い続けてきた技と、お前が最もあこがれ研鑽してきた奥義の延長線上にこそ、私のこの技は存在する。ならば愚直なまでにそれを続けてきた貴様に私と同じそれが放てぬ道理はなく、私のこの技を超えられぬという道理もまた、ない。

 

剣から伝わってくる思いには寸分の迷いも偽りもない。剣に宿る魂は、私がこれまで行ってきた全ての行為と憧憬を肯定し、お前ならばその先にもたどり着けるだろうと告げていた。言葉を受けてさらに血が滾った。生まれた歓喜は熱となり、技を成功させるための自信となり、決意となる。

 

――鬼とあっては鬼を斬り、神とあっては神を斬る。目の前に現れるあらゆる存在を斬り伏せる。もとより我らはそれだけを求めて鍛錬を重ねてきた存在。ましてやお前は剣を振るうべき相手すらもまともに見つからなかった私と異なり、命のやり取りの場に身を置き、命の削りあいを行う実践の中で剣の腕を磨いてきた存在。ならば出来ぬなどという道理は、斬り伏せるべき戯言以外の何物でもない。

 

剣に宿る彼が放つその言葉には、私が過ごしてきた環境に対する憧れと己が過ごさざるを得なかった環境に対しての残念が過分なほどに含まれていた。私は彼よりも恵まれた環境にいた。そんな自覚が、これより放とうとしている技の成功をさらに決定的なものとした。

 

全身に力と確信がみなぎってゆく。

 

――滾るよなぁ。

 

溢れそうになるそんな熱情を見抜くようにして脳裏へと涼やかな声が響き渡った。

 

――強敵との戦い。自らの全霊を賭ける価値ある相手との戦い。自らの業をさらなる先へと導いてくれる存在との戦い。そんな戦いを受けてくれる相手との戦い。ああ、シン。私はお前がそんな相手と巡り合えたという奇跡を祝福しよう。

 

言葉は一片の曇りもなく、私以上に強いだろう相手に挑める私の幸福を祝っていた。

 

――私もかつてはそのような相手と出会い、しかし私は敗北した。無論その戦いに悔いはなく、臨んだ戦いの果てに命を落としたという事実を後悔するという無粋な思いを抱くつもりもさらさらないが……

 

清澄だった言葉はそして臍を噛みしめるようなものへと変化する。

 

――そうして繰り広げた死闘の果て、戯れに鍛え上げた我が剣が誇るべきものであったと証明できたことは、狭いと思っていた世界が広かったことを知れたことには歓喜したが、得たものが敗北であったという結果だけは、悔しく思っている。ああ、出来る事ならば、認めた相手の懐から勝利を奪い去りたかったと思っているのも、また事実。

 

言葉に力が入る。それは間違いなく剣に宿っている意志の本心であったのだろう。真摯なるその思いは滾るこの身にある決意を促した。

 

「ならば今度こそ奪い取ればよい」

 

――……おうよ

 

「目の前にいる相手はそれに値する相手だ。そうだろう?」

 

――……おうともよ

 

そして私と剣はその思いを一つに統一する。すなわち人剣一体。私は、私たちは、ついにその境地に至っていた。完全なる合一を果たした私たちに不可能などなく、ならば目の前にいる価値ある敵から勝利を奪い取れない道理などない。

 

――――――――さぁ

 

「行くぞエミヤ!」

 

――さて、かつて剣を交えたあのころから如何程成長したか見せてもらうぞ、アーチャー!

 

剣から聞こえてくるそんな言葉が、私の闘志をさらに引き上げる。そして私たちは全霊を賭けて突撃した。

 

 

「行くぞエミヤ!」

 

そして踏み出した彼の姿を見た瞬間、直感する。

 

――攻撃を避けることはもとより、手持ちの手段では攻撃を防ぐことすらもままならない。

 

理性と感情が同時に下した判断は間違いないものであると心が理解する。彼の宣言がなければ放たれるその瞬間まで彼が踏み出したことすら理解できなかっただろうそんな一撃を、戦闘の才を保有していないこの身で如何に回避できようというのだろうか。如何なる手段にて防御できようというのだろうか。

 

――どうする……!?

 

対抗手段を迷う間にもシンは神速にて迫りくる。明鏡止水に至った心が、一歩で十間以上もの距離を瞬時に零とする勢いで地面を踏込んだ。と同時、瞬時に刀が振り下ろされる。

 

「真・燕返し!」

 

真なる名を以て解放されたその一撃は、まさに秘剣の名を関するに相応しい一撃だった。――否。一刀の振り降ろしにて放たれたのは、たった一撃ではなかった。それはかつて佐々木小次郎という魔剣士が得意とした、多重屈折現象による同時三撃の攻撃でもない。シンという男の手から放たれたそれは、周囲の空間すべてを埋め尽くす、同時千撃の攻撃だった。

 

――……な、ぁ!?

 

一瞬にて千の同時斬撃。あまりにも馬鹿げた話であるが、頭上から股下までを断つ縦軸の攻撃が、その太刀を回避する対象の逃げ道を塞ぐ円の軌跡が、左右への離脱を阻む払いが、角度を変え、距離を変え、空気との摩擦により炎を纏いながら、全周囲から迫りくる。佐々木小次郎の多重屈折現象を用いた秘剣「燕返し」の三点同時攻撃は、ブシドーのフォーススキル「一閃」と、一瞬二連の攻撃を実現するブシドーのスキル「つばめがえし」へと分けられ、その後、才人の手によって再びつながりを取り戻し、結実することでかつての魔技が霞むほどの絶技へと進化していた。

 

――こんなもの、回避防御どころか相討ちに持ち込むことすらも不可能だ。

 

灼熱の檻。第七地獄の体現。そんなものが迫り来る絶望を前にそれでも必死に対抗手段を探して思考する。手持ちの守りのうち、最硬を誇るロー・アイアスの盾を用いたのであれば、ある一面からくる攻撃を間違いなく防ぎ尽くしてくれるだろう。だがそれでも防いでくれるのは一面だ。アイアスの盾は、全周囲から襲いかかってくる攻撃を防げるような便利を誇る完全無欠の盾ではない。

 

ロー・アイアスでは全周囲攻撃を防げない。それは奇しくも、目の前で絶技を放つ彼と共に戦った三層番人の手によっても証明されている。

 

――ならばどうする……

 

保有する手段のうち放たれた攻撃を防ぐに至る手段は皆無である。ならばやることは――

 

――決まっているか……!

 

手段がないというのであれば、今、この瞬間においてそれを防ぐ手段を作り出すしかない。

 

――限界を超える! そのための手段を記憶の中から引きずり出せ!

 

目の前のそれは全周囲より迫りくる絶対回避不能にして超威力の防御すらも難しい攻撃。ならばこそある面の守りであるローアイアスでは決して受けきれない。アイアスの盾がいかにアキレスと呼ばれるかの大英雄の一撃を受け止めた硬度を誇っているとはいえ、所詮は点の攻撃を受け止めたに過ぎない面の代物では、全周囲から迫り来る包囲の攻撃を防ぎきることは不可能である。

 

――ならば我が身に宿る手段のうち対抗できるものはなんだ……!

 

全周囲から繰り出される攻撃。そんなものに対抗したいというのであれば、無論必要となるのは、全周囲に対する防御である。だが、自分の中にそれをなすための手段は、今はない。

 

――……今は、ない?

 

自らが発した言葉尻を自ら捉え直して胸がざわつく。そして直後に思い至る。

 

――そうだ

 

たしかに今の自分は全周囲防御を可能とする宝具や手段を持ち得ていないない。だがかつての自分ならば確かにそれを可能とする宝具を持ち合わせていた。それは。

 

――すべては遠き理想郷/アヴァロン

 

それはかつて騎士王と呼ばれたセイバーの宝具。とある事情によりかつての第五次聖杯戦争においてパートナーだった彼女の宝具であったそれを埋め込まれていた私は、使用したその瞬間粒子となり、所有者を異世界のとある領域に置くことで絶対の守りを実現する、癒しの力すらも保有するそんな宝具の力を知らずに、あるいは自覚した後も利用して、聖杯戦争における度重なる苦難を退けてきた。確かにあの絶対防御を可能とする宝具がこの場にあったのであれば、この程度の苦難を退ける事もたやすいだろう。――だが。

 

――今の私の力ではあの宝具を再現することは不可能だ。

 

かの宝具は、星の祈りによって生み出された奇跡の結晶。アーサー王という選ばれた人間が存在していたからこそ、強固な守りを実現してくれた、使い手を選ぶそんな宝具だ。人の手には決して届かぬ、選ばれたものがこの世に存在するというそんな条件下において発揮される神秘の力であるからこそ、かの宝具は所有者の完全防御と不老不死を約束する宝具となりえていた。そんな神秘の代物を今の英霊ですらなくなった自分が投影できるわけ――いや。いや、まて。

 

――……完全防御、だと?

 

そして浮かんだ言葉に再び心を揺り動かされる。完全防御。迫りくる攻撃をすべて防ぎきるというそんな意味。その意味を理解し終えたその瞬間、そんな奇跡みたいな行為を実現させるそんな技が、瞬間的に歓喜とともに頭の中へと思い浮かんできた。

 

――……『完全防御』!

 

そうして思い浮かんだのは、やはりというべきか、奇しくもあの新迷宮三層番人との戦いにおいて放たれた絶対回避不能の呪いがかけられた一撃を完膚なきまでに防いだ技だった。『完全防御』。それはこの世界において実現されている、パラディンという職業の冒険者が可能とする奇跡の技であり、それはかつてダリという男が使用した守りの名前であり、スキルという、かつての世界においていずかこに存在した技を改良してつくりあげられた、そんな、この世界に住まう人ならば条件さえ整えば誰もが放つことができるという、そんな技だった。

 

――あれならば……

 

『完全防御』という技は、この世界の人間は、パラディンというその職業につけばその技を発動する対象が持つ盾の性能に関わらず、誰もがその技を使い、威力を完全なる守りの威力を発揮することを可能である。それはつまり戦いの才能が凡夫程度しか存在しえないこの身であっても、そのやり方さえ踏襲すれば、その技を放つことができるということを意味しているに違いなかった。

 

――ダリはあの時どのようにした? 

 

ならばあとはその手法を思い出しなぞるだけ。十全でなくともよいのであれば、他人の技を模倣するは、偽物として本物になることを目指して突き進んできこの身が何よりも得意とするところ。ならば。

 

――それさえ思い出せれば、実現するは容易いということ――!

 

「投影、開始/トレース・オン」

 

導き出した解答を必ず実現させてみせるという錬鉄の決意と共にいつもの呪文を詠唱する。

 

――思い出せ。彼のその特技のすべてを模倣しろ。

 

そして脳裏に浮かび上がるは新迷宮三層番人との間に繰り広げられた死闘だった。

 

――創造の理念を鑑定し――

 

スキル『完全防御』。その理念は無論、迫りくる全ての脅威から身を守る事。迫りくる全ての攻撃からの守護こそが、そのスキルの理念である。

 

――基本となる骨子を想定し――

 

基本となる骨子は“無”。あらゆる骨子に対応して守りを実現するそんな理念こそが、この技の骨子だ。

 

――構成された材質を複製し――

 

あらゆる状況下において守りを実現することを目的とするならば、ならば定められた材質など不要。

 

――制作に及ぶ技術を模倣し――

 

理念を実現するために必要と付け加えた技術と、要らぬと削ぎ落とした技術を読み取り、

 

――成長に至る経験に共感し――

 

そして培われた経験を読み取り、

 

――蓄積された年月を再現し――

 

技を放ったダリという男が蓄積してきた年月を自らのものとする。

 

――あらゆる工程を凌駕し尽くし――

 

そしてダリという男が、過去の賢人たちがそのスキルを実現するために経験したあらゆるすべてを超え……。

 

ここに、幻想を結び絶対守護の守りと成す――!

 

「ロー・アイアス!/熾天覆う完全なる花弁!」

 

確信とともにアレンジしたその名を呼ぶと、規定の所作に反応して、そのフォーススキルが発動する。発動した途端、ロー・アイアスの七つの花弁はあたかも元々そうであったかのように砕け散り、ピンク色の光の粒子となって周囲へと拡散した。全周囲へと飛散した光の粒子は、やがて空間を周囲の空間すべてを埋め尽くし、桃色の光の粒が自身の体を包み込む。

 

「――!」

「ぐ、ぅぅぅぅぅぅぅ!」

 

現れた粒子が自身の全周囲を包み込んだ次の瞬間、周囲より押し迫る炎の剣全てが光の粒子と激突し、想像を絶する負荷が技の実現のために励起している魔力回路へと襲い掛かってきた。神経に焼けた鉄の棒を押し込まれるどころか、神経そのものをスライサーにかけたかのような絶え間なく鋭い痛みが全身を駆け巡る。

 

「ぐ、う、うぅぅぅぅぅぅ!」

 

当然だ。今、私は、完全などという矛盾する事象を実現するために、あらゆる無茶を押し殺して魔力にてその現象を再現している。

 

「ぐ、ぎ、ぎ、ぃ……」

 

完全でない模倣品を完全なものへと近づける。そのために、あらゆる矛盾をこの身の内側に抑え込む。この痛みは、人という矮小な身でありながら、完全を模倣し再現するために必要な経費であり、その代償。

 

「が、あ、がぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

完全なる再現を実現しようとするほどに、魔力は矛盾を実現するための代償として疑似神経内を迸る。通常神経にとって異物たる魔力は、疑似神経のすぐ側にある生命の危機に反応して敏感さを増した神経を逆撫でて、貫く痛みが全身を駆け巡る。

 

――痛い。

 

それ以外の言葉が浮かばない。断続的に、しかし連続的に神経が微塵に切り刻まれてゆく。体のあちこちが悲鳴を上げていた。魔力と強化に耐えきれなくなった肉と血管が破れ、紅い服をさらに朱く染め上げる。脳はこれ以上の痛みの信号を受け止めることを拒否していた。体は今すぐこんな無茶をやめろと訴えている。

 

「ギ、グ、ギ、ィ……!」

 

それらの訴えをすべて無視して、全開の魔力を魔術回路へと流し込む。シンの放った剣閃の一つが守りの粒子を砕くたびに激痛が走った。一瞬千撃の攻撃によって所詮は模倣であり完全に到達していない守りが打ち砕かれてゆくたび、体が悲鳴を上げていた。

 

「――まさか」

 

シンが放った佐々木小次郎という男の念が宿ったかのような『真・燕返し』は、間違いなくかつて私が見た佐々木小次郎のそれを超えていた。それは確かに絶技であり、回避不能の魔技だった。しかしそちらのそれが『絶対』の名を関する必殺技であるというならば、こちらのこれも『完全』の名前を関する防護技。旧人類と呼ばれる人々の願いと祈りによって作り上げられたスキルという奇跡の結晶。――ならば。

 

――この一撃を超えるというのか!?

 

完全でないこの身で完全を再現するという矛盾を孕んでいるとはいえ、ただひたすらに完全という理想を実現するために模倣を繰り返してきたこの身が、いかに威力が高かろうと千程度の敵意/斬撃を防げない道理などない――!

 

「あ、ぁ、あ、あ、あぁ、あぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

咆哮する。噴出する血飛沫により世界の全てが真っ赤に染まり、そして――

 

 

やがて耳をつんざく剣戟が収まり、静寂がその場を支配した。戦場にて立ち向かうは二人の男。片方は服に多くの切り傷こそ負っているものの無傷の状態で刀を手にしている男。片方は切創、打撲傷、火傷に擦過傷といったあらゆる創傷が全身に刻まれている、血に染まり、乾いた血がぼろぼろと落下してゆくような服をまとった、そんな男だ。

 

全身傷だらけの赤い服をまとったその男は、まさに満身創痍といった体裁で目の前にいる刀を握る男を見つめている。刀を握る男は、手にした刀をぎゅっと握りしめながら、目をつむり、天を仰いでいた。

 

「――」

「――」

 

無言がその場を支配する。言葉を発するものはその場において誰一人としていなかった。

 

「――――――――、ふぅ」

 

やがて刀を握った男は、その手の握りを甘くすると、ゆっくりと視線をぼろぼろの男へと移した。

 

「――」

 

圧巻の光景。誰もが言葉を失っていた。ぼろぼろの男は何も語らない。ぼろぼろの男はただ、刀を握った彼が次に発するだろう言葉を待っていた。ぼろぼろの男の視線を見たその瞬間、刀を握った男は観念したかのような視線を再び空へと向け、そして心底悔しそうに、しかしどこか嬉しそうにつぶやいた。

 

「私の――――――、敗けだ」

 

天を仰ぎ直立したままの姿勢でシンは動かない。それを見てエミヤは似合わない凶暴な笑みを浮かべた。それは未知に踏み出し、冒険を成し遂げた人間のみが浮かべることのできる清々しいものだった。

 

「ああ。そして私の――――――、俺の、勝ちだ」

 

静寂。後に大歓声と大喝采があたりに巻き起こった。それは紛う方なく、戦争終結の合図に他ならなかった。

 

 

「ようやく終わったか」

 

二人の戦いの決着が歓声と喝采をもってして迎えいれられたとき、ギルガメッシュは己が取り出した豪奢な椅子より立ち上がるとともに、それを宝物庫の向こう側へとしまい込む。

 

「良い見世物とその結果だ」

 

立ち上がったギルガメッシュは如何にも満足げに笑みを浮かべていた。玉藻があれ以降だんまりを続けていたギルガメッシュの思惑を知る事はかなわなかったが、ギルガメッシュの浮かべるそんな満足げな微笑みを見て、玉藻はその内心と言葉に嘘がない事を直観した。

 

「これであの倦んでいた雑種どもの憂いもなくなり、なんの気兼ねもなく星の海へと旅立つ事となるだろう。あとは我が世界にたいして、女媧とラグナロクと化した呪銀の聖杯の力を用いてやれば、世界の修復は完了、というわけだ」

 

ギルガメッシュはよほど機嫌がいいらしく、聞いてもいないのに今後の予定をペラペラと語り出す。響の体内にて言葉を聞いた玉藻は、ギルガメッシュの言葉から即座に彼の行動理念と真なる狙いとを看破し、問いかける。

 

「ギルガメッシュ。では貴方は人類を救い、彼らを星の海へと旅立たせるために、YHVHという神を呼び出して彼らの尻を蹴り上げたというわけですか?」

「――ふむ」

 

そうして投げかけた言葉は、おそらく真実であるはずだった。玉藻が彼の言葉を待っていると、ギルガメッシュはさも意外そうに首を傾げ、そして響――の中にいる玉藻へと呼びかける。

 

「何か勘違いしておるようだが、我はそのような無粋な真似はせぬ。我が行なっていたのはスキルと人の我欲を抑えるそんな陣の保持のみ。人が自らの足で自立してゆくことを望んだ我が、不変を保とうとする神、それも唯一神などという巫山戯た存在を呼び出すわけあるまい」

――え……?

 

そして返ってきた言葉に玉藻は絶句する。

 

――じゃ、じゃあ、あの唯一神は誰の手によって召喚されたと……

 

息を飲んだ玉藻はやがてその勢いのままに言葉を並び立て、再びギルガメッシュへと質問を投げかけた。

 

「おそらくはかつて魔術師と呼ばれる存在と同じ程度に霊格高まった人々の手によって、だろう。曲がりなりにも新人類のやつらは、我と同じ域にまで達した旧人類の加護と我の加護を受け、不変を強いられ選別を繰り返されてきた精神は別として、その肉体、霊格はかつての人類と比べ物にならないくらい強靭に成長してきた存在。なればはるか昔に零落した神を呼び出す程度の進化をしても――」

――ばっ

 

そして返ってきた答えは優れた術士である玉藻にとって信じられない答えだった。なるほどそれは人という存在の脆弱を完全には理解していない半神半人の英雄王らしい言葉であると思いながらも、相手のあまりの非常識さを信じられないという思いから、胸の奥底より湧き上がってくる興奮を止める事はできず、湧き上がる衝動のままに声を荒げて、ギルガメッシュの言葉を遮りながら、叫ぶ。

 

――貴方はどんだけ親馬鹿ですか! 例え新人類と呼ばれている彼らが魔術師と呼ばれる彼らと同じように世界との繋がりを深めようと、人の身である彼らに神が召喚出来るはず無いでしょう!? 人の身に出来るとすればそれは、貴方のような半神半人の存在を呼び出すことが精々! 神を呼び出せるとしたら、同じく神である存在か、神の如き力を持つ貴方のような半神半人の存在か、あるいは……!

「私のように、人によって作られた人造神くらいのもの、というわけになるわよね」

 

そうしてギルガメッシュの言葉を遮った玉藻の言葉を、さらに別の誰かの言葉が遮った。同時に、突如としてギルガメッシュの胸に銀色の棘が出現する。ギルガメッシュの纏う黄金の鎧を貫いて出現したそれは、彼の心臓よりの胸の側から鋭利に突き出ており、その刺々しい先端の部位からは紅の雫が数滴垂れ落ちていた。

 

――な

「え――」

 

玉藻が驚愕し、響が呆然とした。いや、まさか、そんな。顔には予想外すぎるそんな出来事に対する思いがありありと浮かんでいた。

 

「き――、さ、ま」

 

己の体の以上を瞬時に悟ったギルガメッシュは、信じられないという顔へ同時に憎悪の表情を浮かべながら、振り向く。

 

「あら心臓を貫いたのに即死しないとは、さすがは最古の英雄王。しぶとさも指折りね」

 

気がついたときには既にいた。そんな不自然な形容をもってしか言い表すことのできないほどの自然さで、誰にも見破られない魔術的迷彩などという物を振り払い、その存在はそこに出現していた。憎々しげに向けられた視線の先にいたのは、まだ上げ初めていない額髪の、幼く小さな体躯に不釣り合いなほどに長く美しい紫髪とコートを携えた、しかしそれでいて挑発的に腹から下の部位の秘部以外を外気に晒す、女神のごとく美しい踊り子のような少女だった。

 

「なに、もの――」

 

ギルガメッシュの問いに、少女は微笑む。その笑みは無邪気であり、妖艶であり、そして同時に、なんとも人間味のない、まるで人形のように意識的に作られた笑みだった。

 

「私に名前なんかないわ。私は貴方が旧人類と呼ぶ彼らがシステムを作り上げるため、一人の女を犠牲として生み出され、神の座に祭り上げられた存在。複数種類の女神を組み合わせて人の手によって生み出された人造女神。すべての人の意識に溶けて寄り添い、永劫の平等と引き換えに全ての人の意識から発展の意思を溶かしてしまう女悪魔。――そうね。貴方のこれまでの生涯と長年の執念に敬意を払うならば、全ての人の意識に溶け込む、そして貴方に死を与える存在の名前としては、メソポタミアの死の悪魔たるLilith/リリトの名を冠するこそが相応しいといえるでしょう。――ならば私はこう名乗りましょう。――MeltLilith/メルトリリス。それが私の名前よ。この最新最後の女神の名前をその智慧に溢れる脳裏に刻んでから――、そして死んでゆきなさい」

 

 

Your name is MeltLilith.

 

And by this ineffable name, TETRAGRAMATON IEHOVAH, do I command thee, at the which being heard the elements are overthrown, the air is shaken, the sea runneth back, the fire is quenched, the earth trembleth, and all the hosts of celestials, terrestrials, and infernal do tremble together, and are troubled and confounded. Wherefore come thou, O spirit Dea Ex Machina MeltLilith, forthwith, and without delay, from any or all parts if the world wherever thou mayest be, and make rational answer unto all things that I shall demand of thee.

 

——,The glory of the Lord shall endure for ever. the Lord shall rejoice in his works.

 

I pray you.

 

Please——, Hopeful eternal peace.

 

———,Please.

 

第九話 終了



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第十話 女神異聞録ペルソナ

本話では本物語の設定の核心に近しい部分を書いています。どうぞ、お楽しみください。


第十話 女神異聞録ペルソナ

 

――副題 自我と無意識の関係、黄金の華の秘密、二人であることの病、愛するという事

 

 

おや、お客人ですかな。このような場所にお客人がいらっしゃいますとは、まことに珍しい。おっと、申し遅れましたな。私、フィレモン様の僕、イゴールと申します。

 

さて。まこと珍しき客人の訪れ。本来ならばこの場所の主でありますフィレモン様が直接ご対応なされるのが筋というものなのでしょうが、あいにく主人は只今外出しておられましてな。新しき人類の可能性が見れそうだとおっしゃり大層ご興奮なさっておいででしたので、御用があるとおっしゃるのでしたら、それなりにお時間頂きますことになると思われますが、――おや、お待ちいただける、と?

 

左様でございますか。ではお席へご案内させていただきます。どうぞこちらへ。

 

――そうですな。――お客人。もしよろしければ、このイゴール、フィレモン様がお帰りになられるまでの間、そのお暇をつぶすお手伝いをさせていただきたく思います。

 

お客人は、タロット占いというものをご存知ですか? ほう、ご存じであられると。流石、博識ですな。そうです。人の生涯とその在り方を22と78のカードに切り分け、決まった手順に並べることで、その運命の行く先をなぞってみようという、元をたどればお遊びから発生したタロットを使った占いのことでございます。

 

さて、お客人。ここまでお聞きになったのであれば、ご聡明なあなた様ならばもうお察しなられていると思いますが、わたくし、そのタロット占いというものをこの身に修めておりましてな。ここは一つ、貴方様のお暇つぶしに、貴方様の未来や取り巻くその環境を占って御覧に入れましょう。

 

――おっと、占いは信じていない、と、そういうお顔をしておいでだ。ああ、いえ、ですが別に問題はありますまい。あなた様の考えていらっしゃる通り、占いなど所詮は当たるも八卦、当たらぬも八卦。本人の意志と努力次第でいかようにでも覆せるものにございます。

 

ですからあくまで暇つぶし、とそうお考え下さい。そうですな――。なんでしたら目の前の老いぼれと話のきっかけに過ぎない、と、そうお考えになっていただいて結構です。いかがでしょうか?

 

――ありがとうございます。では簡単なやり方で行きましょう。さて、今、貴方様の目の前には22枚のカードがあります。これを簡単にシャッフル致しまして――、さて、お客人。どうぞこのなかからお好きなカードを抜き出して机の上へと載せていただきたい。

 

――結構。ではめくってみましょう。これは――、審判の逆位置、ですな。

 

タロットにおきまして審判のカードというものは、すなわち聖書の黙示録におけます最後の審判を意味しております。最後の審判。天使がラッパを吹くとき、人は神によってこれまでに犯してきた罪を裁かれ、天国に至れるか、あるいは地獄に落とされるかを判断されるのです。

 

すなわち、このカードが出ましたということは、近くお客人の御身には、人生におけます大きな転機がすぐ近くに迫っているということ……。また、それが逆位置であるということは、その転機というものがお客人にとってあまり望ましくないものであることを示唆しているともいえるでしょう。

 

――おや、顔色がお変わりになられましたな。何か心当たりがおありに? 

 

いえ、失礼。不要な詮索でしたな。ともあれ、お客人は私めの占いがお気に召されなかったご様子。申し訳ございません。このイゴールめはフィレモン様にお仕え致しております人形でありますれば、人の気持ちの機敏というものに疎くありまして……。不快にさせてしまったのでしたら、どうぞ平にご容赦いただきたい。

 

――ですがお客人。占いの結果が悪いからと言ってあまりお気になされることはありますまい。お客人はタロットになぜ正位置逆位置などというものが存在しているかご存知ですか?

 

タロットとは人間の生涯を象ったもの。人生というものは山あり谷ありが続く、絶え間ない変化の連続にございます。良い出来事があれば、また悪い出来事もある。栄光へ至る道がありますれば、頂点に至ったのち凋落がありますのもまた真実。すなわち、一つの状態に留まらないことこそ人生の本質。なればこそ、そんな変化に富むものを切り分けましたタロットのアルカナというものには、それを表すために、正位置と逆位置があるのでございます。

 

タロットカードには繋がりというものがございます。逆位置の後には必ず次のカードの正位置が待ち受けている。審判の逆位置の次のカードは世界。示す意味は完成。すなわち目的が達成されるという暗示。つらく苦しい試練を超えたその先には、必ずそれに見合ったものが待ち受けているという意味でございます。

 

――どうやら少しばかり、お元気を取り戻されたようですな。なによりです。

 

さて、では、貴方様の不安を晴らすために、今一度タロットをお引きになっていただきたい。今度はお客人の未来ではなく、お客人の未来に待ち受けております試練の相手につきまして占ってさしあげましょう。どうぞタロットをおとりになってください。おっと、今度は机におかれますさいは、正逆が生まれてしまわぬよう横にしていただきたい。

 

――ほう、これは、これは。――女帝ですな。女教皇の次にあるアルカナ。正位置であれば女性そのもの、生活の豊かさ、他者に対する母性、充実、生活の向上などの状態を意味しますが、逆位置となれば子供っぽい女性、欠乏ゆえの強欲、過保護、不十分、生活の悪化、などの状態を意味します。

 

すなわち、女帝のアルカナからあなたの未来に待ち受けます障害を素直に読み取れば、女性という彼女らが備えます気質によって生じたトラブルなのでしょう。過ぎたる母性、すなわち愛といいますものも、過剰なれば毒となりえます。鉢植えに過剰なほどの水を注げば、植えられた植物が枯れてしまうのは必定。過保護の先にあるのは、安寧に満ちた停滞と不変、そして愛情を注がれた対象の成長の阻害にございます。

 

けれどまた、愛が足りなければそれもまた毒となる。栄養欠乏の先に待ち受けておりますは、言うまでもなく、死。物事は万事、過ぎたるはなお及ばざるがごとし、ということですな。

 

――おや、もうご出立なされるのですか? まだフィレモン様もお戻りになられていないといいますのに。――そうですか。いえ、それがご自身で決断なされた選択であられるのなら、所詮は他人である私めにそれを止める資格などございません。

 

出口はあちらにございます。来た道を引き返せば、すぐに元の場所へと戻ることが可能でしょう。ですがお気をつけ下さい。貴方の引いたカードは審判の逆位置。すぐ先に終わりの時が待ち受けているとはいえ、物事は入れ替わりの瞬間こそが最も危険なものでございます。

 

すなわち黄昏時と彼誰時。夕刻の日が沈む直前と、明け方の夜が明けるその直前の、そんな現実と夢の間の境界の時間帯にこそ人を堕落させる悪魔というものは最も溌剌と活動し、そして物事が終わるその直前にこそ、最も深き落とし穴が待ち受けているもの。

 

――どうぞ悪魔に魂を奪われませぬよう、どうぞ悪魔に魂を売りわたしてしまわれませんよう、どうぞ夢に足を絡めとられませぬよう、重々ご注意くださりませ。

 

 

夢を……、夢を見ていました。先輩がかっこよく活躍する、そんな夢を見ていました。先輩はどんな困難にも負けずに立ち向かい、やがて仲間を得て、仲間の死を乗り越えて、多くの人から勘違いされながらも信念を貫き通して、最後には世界の裏側に潜む敵を倒して、誰からも認められる正義の味方になる。私はそんな夢を見ていました。

 

先輩は、ある時は過去の亡霊と対峙し、またある時はかつての己のサーヴァントと共闘し、またある時は姉さんと共に道を歩き、またある時は姉さんに導かれて正義の味方の道を歩いていました。

 

それはとても素晴らしい夢でした。それはとても目眩く、キラキラと輝いていて、なんとも胸の踊る冒険譚でした。それはわたしの生涯の中で最も素晴らしい充実した時間でした。

 

先輩。かつてわたしが憧れた、わたしの知る中でも最も綺麗な存在。そんな先輩がわたしの書いた脚本の通りに動いてくれるのは、私の脚本の主役として活躍してくれるのは、そんな先輩が主役として活躍する姿があの子を楽しませてくれるのは、今のわたしにとって何よりの幸福でした。

 

わたしは幸せでした。わたしは幸せだったのです。わたしは苦難の果てにようやく幸せな時間を手に入れたのです。わたしはそんな正義の味方を目指す先輩が、わたしの管理する世界という舞台の上で主役として活躍して、この子を楽しませ続けてくれるだけで良かったのに――、なのにどうして先輩は舞台の上にいない主役でない存在を、あなたの物語に必要ない存在を気にしようなんて決心してしまったんですか?

 

なんで――、どうしてあなたはそんな先輩を別の場所に連れて行こうとするのですか?

 

――許せない

 

そんな事は許せない。私の唯一つの希望。私の唯一つの望み。私の唯一つの夢。私の幸せが実現する世界。あの子の幸せがある世界。あなたはそんな私の夢の舞台を壊そうとする存在。

 

――許せるわけがない

 

そうだ。あなたがいたから私はこの場所に縛り付けられていた。あなたがいたから私はこの場所でずっと一人だった。あなたがいたから私はこの場所であの子と出会えた。

 

――あれ?

 

あなたがいたから私は苦しんだ。あなたがいたから私は先輩と再会できた。あなたがいたがいたから私は姉さんと再会できた。あなたがいたから私の夢の世界ができて、あなたがいたから私の夢の舞台が壊れて――

 

――あれれ?

 

あなたは。あなたの。あなたは。あなたが。あなたは、あなたがあなたはあなたのあなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあなたがあなたあなたあなたあなたあなたあなたあなたあなたあなたあなた――

 

――あれ、あれ、あれ?

 

あ、あぁ、あ、あ、あ、あ――――――あれ?

 

――いったい、あなたってだぁれ?

 

 

「おい、ノミとハンマー寄越せ」

 

生きながらにして体を解体される感覚をご存知でしょうか。自分以外に誰も存在しない闇の中、ただ一人、世界と他人の幸福を眺め管理し続けるているといったいどのような思いを抱くのか、貴方はご存知でしょうか。――私は知っています。

 

「あんまり乱暴にするなよ。――高周波洗浄器。擬似回路と神経だけを残してあとは切除する」

 

 

世界を守るためのシステムというものの構築を目指す魔術師たちの手によって女神を召喚するための素材として選ばれた私の体は、システムを維持するために必要な脳髄と魔術回路といくつかの器官を除き、全て切除され、切除された部位は女神召喚のための贄として祭壇に捧げられる事となりました。

 

「魔術師の体ってのは、元々が優秀で魔術回路が多いほど解体処理が難しいよな。この子なんてその上、改造されてるから尚、気を使う」

 

体を解体されてゆくそんな痛みに発狂しないようにとの思いやりから、真っ先に痛覚を奪われ、術をかけられました。

 

「封印指定処理の奴よりマシだろ。あっちなんてどこがどう影響するか探り探りだぜ? ――っとようやく外れた」

 

ぐちゃぐちゃぴちゃぴちゃと耳障りな聞きなれた音が響く中、ごきり、という音と共に片腕が外されました。

 

「同じく」

 

少し時間を置いた後、同じく、ごきん、という音と共にもう片方の腕も外されました。

 

「オーケーこっちも終了だ」

 

腰と下腹に不思議な圧迫感を感じると共に、足を片方ずつ失いました。

 

「胸部、腹部も処置完了よ」

 

ぐちゃぐちゃとしたよくわからない音と一緒に、たくさんの臓器を失いました。

 

「しっかし、綺麗なのに惜しいよなぁ。顔だけでも残せねぇかな」

「やめとけ。血肉から髪の一つに至るまで召喚の材料になるんだ。お前が少しでも余計なことして失敗したら、そん時、お前、死ぬ程度じゃ済まない拷問受けることになるぞ」

「うぇー、そりゃ勘弁」

 

やがて私の体は空っぽになってしまいました。今やガラスの中に浮かぶ、脳髄と背骨と神経といくつかの器官のみが私の体となり果ててしまいました。

 

「しっかし魔術師が機械に頼るってのも変な話だよなー」

「使えるものは使う。魔術師の原則でしょ。それにスキルなんて超能力じみた力が生まれつつある今、使える手段はなんでも使わないとね」

「ご立派。魔術師の鏡だよ、アンタ」

 

ですが痛みはありません。痛みを感じる機能は脳から取り除かれています。痛みはありません。それを感じる体の部位はすでに失われています。――そうです。体に痛みは一切ないのです。ですが何も感じる事の出来なくなったという事実に、心は驚くほどの痛みを感じていました。

 

「……うまく、いくかしらね」

「いってもらわなきゃ困るぜ。何せ、世界の命運がかかっているからな」

 

その時私はすでに世界の安寧を保つシステムの一部となってしまっていたのです。私に残された脳髄と背骨と神経といくつかの器官は、永遠に他人の安寧を保つためのシステムの一部なのです。私の役目は、人類の彼らの発展意欲を徐々に溶かし、人類が平和を好む性質の人間になるよう甘い蜜を注ぎ続ける事だけなのです。

 

「さて、女神様、女神様。どうかこの憐れな仔羊たちをお救いくださいってか?」

「脳の抜けた頭蓋骨拝んで何になるってのよ。くだらないことしてないでさっさといくわよ。切り取ったものの鮮度が悪くならないうちに、召喚陣の上に生贄として捧げないと」

「へいへい。――じゃあな、桜ちゃん。いや、次に会う時は、メルトリリス様、かな」

 

人類の意識を溶かす魔性の女であることを望まれた私は、『メルトリリス』というシステムの名前を与えられ、裏技を駆使して無理やり呼び出した女神たちの残骸を埋め込まれた私は、不変である神の存在を埋め込まれそんなものと合一を果たしてしまった私は、だからこそ決して狂ってしまうことが出来ませんでした。私は新人類全ての地母神になってしまったのです。

 

 

私はあこがれの先輩に近づくために、私を家族と言ってくれた兄さんのために、世界の平穏を守るそんな存在になるのも悪くないかもしれないと、そう思っていました。自分の幸せのためではなく、他人の幸せのために尽くす。――なんとも素晴らしい理想です。確かに先輩が目指していたそれは素晴らしい理想です。もしそんな理想が実現するというのであれば、このような薄汚れた私もいつかは救われるかもしれない。もしそんな理想が私という薄汚れた存在一人の犠牲で実現すると言うのであれば、天秤にかけるまでもなく私はそれを選ぶのが正しいのだろうと思えてしまうくらいに、彼らの目指した理想は、先輩の理想と近い理想は、素晴らしい理想でした。

 

ですが。そんな理想のそんな綺麗な理想が実のところ単なる絵空事に過ぎないものであると知ったのは、そうなってすぐのことでした。

 

他人のための犠牲となる。そんな理想に殉じて身を投じる。ああ、それは確かに美しい言葉です。美しい行動です。ですがそれを美しいと感じられるのは、その人がそんな理想の元の犠牲にならないからこそなのです。他人の掲げた理想の犠牲になる人は、いつだってそんな他人の理想の犠牲になることを望んでなどいないと言うことを、枷となり重しとなり犠牲になる人を苦しめるものだと言うことを、かつて間桐臓硯の理想の犠牲となっていた私は誰よりも知っていたはずなのに、私はその字面の綺麗さに見誤って、過去の私が心底嫌っていたそんな状態に戻るだけだと言うことを、脳みそといくつかの周辺器官だけの状態になるまで見抜けなかったのです。

 

私は愚かでした。私はいつかかつてと同じように、他人の理想の礎となってしまいました。自らの愚かしさを自覚した私はすぐに、解放されたい、それが許されないのであれば、狂気に身を任せてしまいたいと願うようになりました。しかしその時にはもはや手遅れでした。

 

今やぷかぷかと液体の中に浮かぶ脳へ送られてくる映像が、脳へと送られてくる他人の情報が、私の世界の全てでした。スキルというシステムを保ちつつ、脳へと送られてくる情報を精査し、世界を発展の方向に導きかねない、世界を平穏に保つのにそぐわない強さをもつ存在を取り上げて月という場所へと隔離し保管する作業に従事することだけが、名ばかりは立派なものを与えられた私に許されていたすべてでした。

 

――それだけが、私の世界の全てだったのです。

 

 

ですが人間の適応力というものはすさまじいもの。初めこそ狂ってしまいたいと切望していた私でしたが、狂う事ができないのだと体験として理解させられてしまえばいつしかそんな状態にも慣れてしまうらしく、絶望に満ちた望みは失せてゆき、徐々に世界の観察を楽しむようになっていました。

 

――あ、あ、れ……?

 

そうして気を取り直して見渡した暗闇の向こう側に広がる世界には、ずっと間桐の家に閉じこめられていた私がこれまで知ることのなかった刺激にあふれていたのです。世界には血の湧くような冒険譚が、心躍るような恋愛劇が、つまりはそういったテレビの向こう側ですら見たことのない、かつて発展していた最新のVRですら味わえないような刺激的な光景が、私の目の前で繰り広げられ続けていたのです。しかも私はそんな劇をいつでも好きな時に見ることのできるVIP待遇でした。

 

――私、なんでこんな……、あ、い、いや……、違う。違うの。私、そんな、こんなことをしたかったわけじゃ……

 

私は今や、世界という舞台で繰り広げられるオールジャンルの演劇を眺めることを許された観客になっていたのです。しかも私は、世界という舞台の上において繰り広げられる劇中で気に食わない存在がいた場合、それを退場させる権限を持った舞台監督でもあったのです。

 

――やめて! 私、そんなこと思ってない!

 

世界はまるで私のための演劇舞台で、人間は私を楽しませるお人形でした。私はすぐに夢中になりました。だって、私は、これまではできなかった、私を不快にさせる存在を、私の思うままに世界という舞台の上から退場させることが出来たからです。世界の安寧を破壊せしめるそんな存在を排除する。それこそが私に与えられた役目であり、権能だったのですから。

 

――違う! 違うの!

 

私が強い彼らを月へと連れ去る際、連れ去る対象の周囲にいる人たちが向けてくる感情も素晴らしい物でした。強い彼らの周りにはたいていその力に見合った仲間たちがいます。彼らは彼らに近しい存在の強者が命を奪われたときに叫びます。

 

『神様。どうしてこいつが死ななきゃならないんだ』

『恨むぜ、神様』

 

――あ、あぁ、あ、あ、ああぁぁぁ……!

 

もちろんそれらの言葉が、私という女神を認識して放たれたものでないことを私は承知しています。しかし、そうして彼らが放つ濃厚な感情の発露は、私にそんなことを忘れさせるくらいの感情のスカラーを持っており、それは彼らの放つ言葉とあいまって、私は彼らに認識され、あたかも同じ世界に生きているかのような錯覚を覚えることが出来るのです。それは、彼らの魂を運び去る以外、この世界に干渉することのできない、心に燻るものある私を慰める娯楽となりえたのです。

 

――ああ……っ!

 

私は幸せでした。私は私が幸せだと思う光景を見続けられるよう、思うがまま世界を改変させる事が出来たのです。世界は私にとってどんどん管理しやすく、私にとって居心地の良いものとなっていきました。現実にはなかった幸せを、脳みそだけの存在となったわたしはついに手に入れたのです。

 

『精神に異常を確認。バグを修正後、再起動/リブートします』

 

――――――あ……

 

――――

 

――

 

 

やがて長いことそんなことを繰り返すうちに――、あれだけ輝いていたはずの私の世界は、私にとってつまらないものになり、私の幸福度は下がっていってしまっていました。

 

――出して!

 

世界に住まう人々は私という女神の選別と、私が管理するスキルという力により、かつての旧人類のもくろみ通り、未知に対する冒険心と克己心を忘れたような人ばかりになりました。みんながみんな開拓されている安全な場所をうろつくだけの存在になり下がったのです。地図に載っていない場所へと旅立とうとする人はほとんどいなくなってしまったのです。

 

――私をここから解放して!

 

私という女神がばらまいている文明を発展させようとする意志を溶かす毒を注がれ続けた人は、歴史の針が進むごとにやがて二極化していきました。二極とはすなわち、私の毒に抗う意思と能力を持った極少数の人と、そうでない大多数の人にです。私の持つ毒とは、すなわち文明を発展させないよう、人々から進歩の意思を奪うというものだったのですから、それも当然と言えるでしょう。

 

――ここは嫌! ここは嫌なの! ここには誰もいない! 一人はいや!一人はいや! 一人はいや!

 

『人の発展の意思を溶かす女悪魔/メルトリリス』と名付けられた私の毒により多くの人はかつての旧人類と呼ばれた彼らの望み通りに、平等と平和を最も尊ぶ性格の人間ばかりへと変化してゆきました。思想の変化が肉体面にも影響を及ぼしたのか、身体能力や背格好、顔立ちも同じような人ばかりが生まれるようになってゆきました。

 

――誰でもいい! 誰でもいいから、私を見て! 誰でもいいから、私の相手をして!

 

時計の針が進むほど、未知と危険を好み、果敢にも冒険に出かけようと思い、且つ、それを実現させる才能をもって生まれてくる人は、本当に極一部の人のみとなり、多様性は失われ、精神面における進化の針はほとんど止まりました。世界は同じ顔と、同じ体と、同じ考えと、同じような能力をした人ばかりとなっていったのです。

 

――酷いことをされてもいい! 従えというなら従います!

 

そして世界には私に新たな刺激を与えてくれる人がいなくなってしまいました。そうです。長い時間の果て、私の管理する世界からは旧人類の彼らが望んだ通り電気文明を復活させ、環境を破壊するような何かを作り上げる人間は消え去り、同時に、私の心を奮わせてくれる存在がいなくなってしまったのです。

 

――嫌! 一人はもう嫌なの! こんな場所でずっと一人なんてもう耐えられない!

 

今や世界のどこでも、同じような人たちが、同じような毎日を送って、同じように死んでいきます。時たま、過去の異物が発掘された場合や、ずっと使い続けていた機械が壊れた場合にのみ異常と呼べる事態が起こるくらいで、世界という舞台で繰り広げられる人形劇はいつだってまったく同じ演目ばかりが繰り返されるようになってしまったのです。

 

――誰か……、お願い、誰か!

 

いつしか世界には私の予想を良い意味で裏切ってくれる人は誰一人としていなくなってしまっていました。私は心底退屈するようになっていました。

 

――誰か……、助けて……

 

脚本は使い古された手垢のついたもので、役者は三流。役者が成長するというのであればそれを楽しみにすることも出来ますが、残念、そのような可能性を秘めた役者は、私が片っ端から月という舞台裏に放り込むこととなっています。

 

――私を一人にしないで……

 

結末もストーリーも役者も演技も変わらない人形劇。そんなもの一体をどうやって楽しめば良いというのでしょうか。

 

――お願い……、誰か……

 

私はやがて退屈するようになりました。私はそして私を楽しませてくれるそんな存在を求めていました。そうです。私はいつしかこんなにもつまらなくなってしまった舞台を颯爽と盛り上げてくれるプリマとプリンシパルを求めるようになっていたのです。

 

――誰か、私のそばにいて……

 

『精神に異常を確認。バグを修正後、再起動/リブート――』

 

「あら、酷い様ね」

「……え?」

 

 

「あら、酷い様ね」

「……え?」

 

桜という女の中から私/メルトリリスという別人格/ペルソナが生まれたのはちょうどこのころのことよ。桜は長年にわたって淡々と作業を続ける孤独と倦怠に倦み、しかし狂えないという拷問じみた状況にその精神は壊れつつあったわ。

 

いえ――、桜の魂は壊れて別れたの。

 

「とても私の元の人格とは思えないわ。無様過ぎて目も当てられない」

「え……、あ……?」

 

不変こそをよしとする神という存在と違って、変化を好み停滞を嫌う人間にとって、いつまでも続く不変というものは地獄以外の何物でもない。それはシステムに組み込まれる以前は人間であった桜という女にとっても変わらなかった、というわけね。

 

「何をいつまでも間抜け面を晒しているの? お望み通り、『誰か』が現れたのよ?」

「――あ」

 

人間は弱い。人間の精神は真の孤独に長い期間耐えられるほど強くはないわ。だから桜は、初めのころから、自らが神としての役割を果たした際に悪しき感情を向けられるそんな行為ですら、自らの存在が認められたと歓喜の感情を引き起こされるくらいには、孤独に怯える自分が、普通の人としてすでに壊れてしまっていることに気が付き、恐れおののいていた。

 

……わけなのだけれど、世界を平和に保つシステムというものの一部として組み込まれてしまった狂うことの許されない桜は、すぐにそんな狂気じみた環境に適応した。――いえ、そんな狂気の感情を生み出す環境に適応するよう、精神を作り変えられた。

 

結果として桜はシステムと神の力により無理やり正気を保たされていた。正常でないものを無理やり正常なものとして歪めるのだから、当然そこには、齟齬が、つまりはその作業によって生まれる塵のようなものが発生してしまう。発生する塵の名前は、当然、狂気と悪夢。

 

彼女が正常であり続けるために蓄積されてゆく狂気と悪夢はやがて積りに積もって、彼女の精神に負荷をかけていった。負荷によりさらに狂気に陥りそうになる桜の精神を、しかしさらに正常である状態を保つため、システムはさらに強く彼女の精神を正気の状態へと改竄した。

 

「私は貴方の分身。貴女の別人格。私は貴女の狂気と悪夢の中から生まれたもの、貴女とともにこの溶けた孤独の闇の中に存在しているもの」

「貴女は――」

 

積りに積もったそれらの狂気と悪夢は、やがてフラッシュバックをも引き起こしかねない強烈なトラウマへと変化し、そしてついに狂気の闇の中にあって正常である事に耐え切れなくなった桜は、不変という倦怠と、他人から向けられる悪意に耐えうる人格を生み出した。

 

「私はもう一人の貴女。他人が貴女に望む面の具現。『メルトリリス』。それが私の名前よ」

「メルト……、リリス……。もう一人の、私……」

 

そして生まれたのがこの不変と悪意を気にしない、つまりは神として相応しい性格を持つ私/メルトリリスだったというわけね。

 

「そうよ、桜。さぁ、貴女に与えらえれた力を私によこしなさい。貴女の苦痛に感じている役目の全てを、私が請け負ってあげる」

「――でも……」

 

桜のシステム名である『メルトリリス』の名前を引き継ぎ、世界の代理管理者として桜の精神の一部から生み出された私は、かつて人間として生まれたがゆえに知覚という主観能力を保有していた桜と違って、体の感覚を失った桜の知識に基づく本質直感しか持っていなかったわ。

 

「心配いらないわ。だって私は、そのために、この闇の中から生まれてきたのだから」

「えっと……、――わかりました」

 

つまり私/メルトリリスには味覚と触覚と嗅覚がない。というより、それがどう言う感覚なのか理解ができない。だから私にとって世界とは、それこそお芝居であり、フィクションであり、人形の舞台に他ならなかった。桜は『知覚と断絶状態もある世界』なんてものは世界でないと感じたようだけれど、感覚というものを体験したことのない私にとって『知覚と断絶された状態にある世界』こそが、世界そのものだった。

 

「いい子ね。じゃあ、早速いってくるわ」

 

だからこそ私は私の生みの親ではあるものの、桜の苦しみが理解できなかったわ。どうして桜は、自分を傷つける者のいないこんな静寂と平穏に満ちた心地の良い状態を彼女が嫌うのか、彼女のもう一人の人格である私には、しかしまるで全然理解が及ばなかった。

 

私には、なぜ桜がかつての自らが意志を示したところで変化なんてしない世界を、その気になれば世界の全てを自らの人形舞台と化してしまえる、一方的に愛し尽くせる世界を嫌うのか、心底理解出来なかった。

 

「ああ、楽しい! 楽しいわ!」

 

私にとって、魔法使いのカスチェイよろしく、嫌がる人の魂を月長石とルビーの卵にではなく、月という魔法の果樹園に送る作業は、悦楽以外の何者でもなかったわ。だからこそ私/メルトリリスには、私の生みの親である桜の考えがまったく理解できなかった。

 

けれど私には、私の生みの親である桜が、私にどのようなペルソナと役割を求めて私を生み出したのかだけはきちんと理解が出来ていた。桜は私にとって理解できない存在ではあったけれど、私の生みの親であり、私自身でもあるということを私は理解していたの。

 

「さぁ、もっとその親しいものの死によって苦痛に歪んだ顔を見せてちょうだい!」

 

だから私は、私自身でもある桜のために、彼女に望まれた役割を果たすべく、世界の停滞を保つ女神としての活動を引き受けたわ。とはいえ、それは不変と停滞こそを愛する私にとって、桜にそう願われて生まれてきた私にとって、世界の安寧を保つという作業は、何の苦にもならないものではあったのだけれども。

 

「もっとよ! もっと! もっと! もっと!」

 

そう。私にとって女神として過ごす日々は快楽以外の何物でもなかったの。だってあらゆる人が私の思うとおりに生きて思うとおりに死んでゆく。演劇と同じで、物語というものは、王道を外さない、観客にとって予測可能な結末が待ち受けているからこそ面白いもの。軸を外して奇をてらった作品は決して名作になりえない。名作と呼ばれる物語が名作たり得るのは、名作が観客にとって理解可能な、観客の期待を裏切らない物語展開をするからこそ。

 

「世界は私の舞台! 人間は私のお人形! 舞台で踊る人形はみんな私の思い通りの演技をしてくれる! みんな、みんな私の愛に溺れてしまいなさい!」

 

だからこそ私の期待を決して裏切らない展開ばかりを見せてくれるこの世界は、私にとって理想郷以外の何物でもなかった。だからこそ私は、桜が私に求めた、私の理想の世界を壊す可能性の高い存在を排除する役割を嬉々として果たしていた。

 

「あは、あはは、あははははははははははは!」

 

私、幸せだったわ。だって、世界は私の思うがままに動いてくれていたのですもの。

 

 

「あは、あはは、あははははははははははは!」

 

私から生まれた私の別人格が、私とは異なった性格をしているというのは不思議な感覚でした。彼女/メルトリリスは私の中から生まれたはずなのに、私よりも加虐的で、私よりも心が強く、私よりも積極的に世界を観察しては絡んでいこうとする、私とはまるで正反対のそんな性格をしていました。

 

「楽しそうですね」

 

ですが、そうして私の中より生まれた彼女がどのような性格をしていようと、私にはまるで関係ありませんでした。重要なのは、いかなる現象によってかは知りませんが、私が私の中より生み出した彼女という存在が、私の救いとなってくれたということなのです。そうです。世界の対応を彼女という私の別人格に任せるようになってからというもの、主人格である私、桜の気持ちは安定していきました。彼女いう私にとってまるで別の人格である彼女の存在は、あれほど不安定だった私の世界に安定をもたらし、私は落ち着いて周りの光景というものを眺めていられるようになったのです。

 

「ええ、とっても。こんな快楽がわからないなんて、貴女、とっても損してるわよ」

 

落ち着いた私が最も興味深く感じたのは、やはりというか私の別人格である彼女の存在でした。私の中から生まれた別人格の彼女は、まるで私じゃありませんでした。私はこの不変という環境に適応できなかったけれど、そんな適応障害を起こした私の中から周囲の環境に適応する彼女が生まれたというのは、本当に不思議な感覚です。

 

「多分、私には一生わかりません。だからこそ貴女が生まれたのでしょう?」

「ま、それもそうね――、何笑っているのよ」

 

彼女は弱い私と違い、強い存在でした。彼女は私が持ちえなかったすべてを持っていた。そんな私の中から生まれてきた私でない彼女が嬉々として世界の調整作業に取り組むのを見るのは、コロコロと表情を変えながら世界という舞台をみて一喜一憂するのを見るのは、不変の存在となってしまった私にとって唯一の娯楽でした。メルトリリスという名を受け継いだ彼女は、私以外に誰もいなかった世界において生まれてきてくれた彼女は、私の病んでいた心を晴らしてくれる唯一の光でした。

 

「い、いえ、なんていうか、すごく予想通りの反応だったものですから」

 

そうです。私は私の別人格である彼女が愛おしくてたまらなかったのです。彼女の見せる一喜一憂の全てが、鬱屈としていた私を楽しませてくれる刺激でした。私は私から生まれた彼女が不変を保ち続ける限り、きっとこんな幸せな日々がいつまでも続くのだとそう思っていました。

 

「――不愉快だわ」

「私は楽しいですよ?」

「だから私は不愉快なのよ」

「ふふ……」

 

――そう、思っていたのです。

 

 

『あー、やられちまったか』

 

初めから不変であることを望まれて生まれた神である私と異なり、常に変化を求めている星と人が大きな要素である私の世界に終わりが訪れるのは道理というもの。どれだけすぐれた演目であろうと、終わらない劇というものはない。万物は流転する。生まれてきたからには死が存在する。それこそが世界の掟であり、定められた運命。ならばそんな幸福に満ちた日々に終わりの兆しが訪れたのも自然の流れというものに違いないでしょう。

 

『おいおい、呑気してる場合か? もう逃げる体力も、帰る手段もないんだぜ?』

『ま、仕方ねぇよな。やるこたやったし、それで負けるんなら仕方ねぇだろ』

 

時代が進み、毒によって不変を保つ私の思想に染まった人がその数を増やしてゆくにつれて、しかしそんな私がもたらす不変を破りそうな思想と能力を持つ人間の数が増えてゆく。それはおそらく奴隷の立場にいたものが暴君の圧政に対して我慢の限界に達し、団結して革命を起こすのと同じようなもので、変化を好む人間というものを不変の環境に抑えつけて留めさせようとすれば起きる、人類種全体の防衛反応のようなものだったのでしょう。

 

『無論、まだ死ぬ気は無いがね』

『お、いいね。その意見には大賛成だ』

 

人間と、それの生みの親である星は、変化を常とする世界を望んでいる。だからこそ彼らは、協力して旧人類の敷いた不変の檻である私の支配から解き放たれること目論んだ。こういうのを反りが合わないっていうんでしょうね。あるいは『おりが合わない』っていう誤用の方が、世界を安寧の檻の中に閉じ込めていたこの場合は相応しいかもしれないかしら。

 

『――切り札がある。当たれば特賞。外れりゃ地獄へ真っ逆さまだ。――乗るか?』

『分の悪い賭けは嫌いじゃない。儲けがデカいんならなおさらだ』

『よっしゃ! ――十秒くれ。飛び切りのやつをお見舞いしてやるよ!』

『任せろ相棒!』

 

――ま、とにかく、そんなこともあって、私はそんな不変の環境と安寧を保つべく、人の対応に追われることとなったわ。そうして私は、変わらない日々を望む私にとって好ましくない日々を送ることになったの。それは私にとって、とても面白くない日々だったわ。

 

 

「――なによ」

「いえ……、最近忙しそうだな、と」

 

私と彼女の平穏だった日々はやがて徐々に変化してゆきました。彼女は次々と生まれる意思が強く能力の高い人たちの処理に追われる毎日を過ごすようになりました。対応に追われる彼女はしかし、以前と変わらず溌剌としていて気力に満ち溢れていました。ですがしかし私は、だからこそ不安を抱きました。

 

「そうね」

 

不変の状態を好む彼女は、しかし変化を望んでいた私の中から生まれた存在なのです。変化を望む私は不変の状態に精神が耐えきれず壊れかけ、やがて彼女という別人格を生みだしました。私が彼女という存在を生み出し私自身を救うことが出来たのは、私が心の奥底でそんな変化を望んでいたからでしょう。

 

「大丈夫ですか?」

「は。貴女に心配されるようじゃ、お終いね。――私は女神なのよ? 平気に決まっているでしょう?」

 

私は変化を望む気質の持ち主。ですが彼女は不変を望む神の如き気質の持ち主。ならば不変を望み、変化を嫌う彼女が、かつての私と同じように、このような彼女にとってストレスとなりうる環境下におかれ続けた際、彼女は私と異なり、私のように自分にとって救いとなる存在を生む出すことなく、いつかその過負荷に耐え切れなって自壊してしまうのではないかということを、私は恐れたのです。

 

「そう、ですか」

「そうよ。失礼だわ」

 

私の中から生まれた彼女が、私のことを救ってくれた彼女が、何も残さないまま私の傍から消えてしまう。私は再びあの孤独の暗闇の中へ一人取り残されるのは御免でした。私はそして、そうならないことを祈りながら日々を戦々恐々として過ごしていたのです。

 

「――行ってくるわ。話はまた後で」

「ええ」

 

――そしてやがて、恐れていたその時はやってきました。

 

 

「……つまらないわ」

「え?」

 

繰り返される演劇を幾度見ても楽しいと思えるのは、劇を演じる役者が優秀であるから故のもの。優れた役者という彼らは、その動きの練度もさることながら、それ以上に見るもの全ての感情を揺るがす演技を行い、常に観客を飽きさせないからこそ、一流と呼ばれるもの。一流の役者である彼らが一流と呼ばれる所以は、彼らが修めた演技によって観客の感情を自在に操ることができる所にあるというわけね。

 

「最近のやつときたら、どいつもこいつもわかったような顔をして死んでゆく。私はもっとこう――、私の手によって苦痛に歪み、死を悼みながら泣き叫ぶ、そんな顔を見たいのよ」

 

けれど一流の役者でない普通の人間が舞台に上がり他人を感動させられないかというと、そういうわけでもないわ。そもそも元々役者の動きというものは、『演ずる』というだけあって、誰かの何かの動きを真似ているもの。つまりは、役者の動きには、もちろんその動きの手本となった人物というものが存在している。

 

「まぁ……、強い人を片っ端から月送りしていますからね……。そうじゃない人の中から生まれてくるわけですから、強者といっても、感性も根性もあまり大したこと育っていない人ばかりになるのも当然かもしれません」

 

そんな素人の彼らの振る舞いというものが多くの人の心を揺さぶり、見る者の感情を大いに揺り動かしたからこそ、役者は動きの元となった素人である彼らの動きを真似、そして役者の一流の技術による素人の彼らの立ち居振る舞いと仕草の模倣が多くの人に感動をもたらすようになる。

 

「そうね。遺伝の法則に見るまでもなく、意図的に強者を除外し続ければ、やがて人間は弱いものだらけになる。それは自明の事だわ。ああ、でも――、やっぱり退屈だわ。あまりにもつまらないわ」

 

一流と呼ばれる彼ら役者の演じる彼らの模倣を計算されつくして生み出された美術品であるとするなら、素人がやる一切を演技なく天然にもたらされたそれはまさに天然自然が生み出す芸術品。

 

そして星という舞台の上で生活を営む人間たちは皆が皆、役者ではなく素人。観客席から自分たちを俯瞰する私という存在に気付かない彼らは、私がもたらす死によって、天然に優れた反応をもってして、まるで素晴らしい演技を見た時に等しい感情を私のうちから引き出して、私を楽しませてくれていた。

 

「まったく、こんなの、殺しがいがないじゃない」

 

けれど今、そうして彼らが見せる様々な感情の発露は、しかし私の中から感情を引き出すことをやめつつあった。彼らがどんなに嘆き苦しんでも、彼らの見せてくれる劇は、私の心に響いてこなくてなりつつあったのよ。

 

理由は二つ考えられるわ。

 

一つとして、おそらく私は飽きてしまったていた。どれだけ感動的な場面であったとしても、千回万回とそれを繰り返し見ているうちに飽きがやって来るもの。人間の頭というものは、あらゆる刺激に対してなれるようにできている。きっとその性質は、元は桜という人間の思考から生まれた不変に耐性のある私にも引き継がれていた。

 

「でも、それは……」

「ええ、わかってるわ。私だって、自分のやった結果を悔やむつもりはないわ」

 

そう。つまり不変の存在であるはずの、そう望まれて生まれてきた私は、歴史が繰り返されるうち、繰り返し、繰り返し、同じような場面ばかりを見せ続けられてきたことによって、ついに飽きを得るという変化を起こしてしまったのだ。

 

「でも、その結果がこうなるんだと予想していたら、もう少し手心を加えていた」

 

そしてまた、負の感情をすぐに吸収されてしまうという世界のシステムや、私が自らの役割を果たすごとにそうした強い感情を発生させうる根性や能力のある人間の命を奪うことを繰り返してきたという事態により、長い間に醸造された深い感情を胸の内に秘めている者がほとんど存在しなくなっているという事情もまた、私を不満足にしているのだろう。

 

「舞台の上にあるみんながみんな同じ出来損ないのお人形だなんて、見る方としちゃ興醒めにもほどがある。そう反省して愚痴るくらいは許されると思わない?」

 

例えていうならば、世界という舞台の上で演じられる劇の演目は、もはや私にとってどれも見飽きるほどにみたものばかりとなっており、そんな劇を演じる役者の質も悪くなってしまったのだ。私の満足に値する演技をしてくれる役者が、私のみたことのない演目が、時を重ねるごとに少なくなる。そんな事態は、私に不満と倦怠を抱かせるようになったのだ。

 

そして私の感情は徐々に退屈という感情で埋め尽くされるようになってゆく。世界という舞台において、人間という私のお人形が様々な感情の発露を見せてくれるのは決してつまらないわけでないのだけれど、昔と比べれば彼らのその演技の幅は少なく、彼らから感じる刺激が少なくなってしまっているのも、また事実。

 

「ああ、退屈だわ。退屈で、退屈で、死んでしまいそう」

「メルトリリス……」

 

退屈は人を殺す毒とはほんとよく言ったものだわ。何せその毒は、不変不滅の女神であるはずの私の精神をも溶かし尽くしてしまいそうになっていたのだから。

 

 

「ああ、退屈だわ。退屈で、退屈で、死んでしまいそう」

 

――可哀想に

 

無論、曲がりなりにも彼女の上位人格である私は、自らの別人格/ペルソナである彼女が徐々に退屈と倦怠を得つつある事に気が付いていました。でも、気付いたところで私には打つ手がありませんでした。

 

私に許されているのは、メルトリリスと同じく、地球の上に生きる人類すべてに監視の目を送り、世界の平和を乱す可能性を秘めた存在の排除だけ。そんな彼らの魂を集合無意識から切り離し、月に隔離し、人類が決して再び電気文明を発展させ、地球環境を悪化させてしまわないようにすることのみ。

 

――なにか、出来ることはないかな

 

それでも私は考えました。私はどうにかしてあの子の倦怠を晴らしてやりたかったのです。しかし。

 

――ああ……

 

私には何も思いつかなかった。いえ、わかったのは、私の持ちうるカードでは何も出来そうにないという事だけでした。

 

そうです。私には何も出来ないのです。私はこの世界のシステムに抗えない。私では世界になにもできない。だからこそ私は私の中からあの子という存在を生み出したのですから、それもまた自明というものでしょう。

 

メルトリリスが欲しているのは、長い年月のうちに蓄積された、あるいは艱難辛苦を乗り越えてきたそんな人間が発する負の激情を自らの手で生み出す事です。あるいは、今の地上の人間と異なった考え方や動き方をする人間です。いうなれば、演技においてもっと熟達した感情の表現方法をする人間や、これまでとはまるで異なる革新的な解釈によって演じられる劇の演目が現れる事こそが、彼女の望みです。

 

しかしこの、時が流れてゆくにつれてますますあらゆる感情の発露や考え方というものが硬直化してゆく世界において、世界の硬直化を促進させている私達が多様化を望んだところで、当然、世界はそれを叶えてはくれません。

 

私の望みは、メルトリリスの望みは、このままでは叶わない。さすれば彼女は、かつての自分と同じように、倦怠の毒の中に飲み込まれて、苦しんでしまうかもしれない。自身の希望となってくれたそんな自分の中から生まれた、いわば私にとって娘に等しいメルトリリスがそのような状態に陥ってしまうことを、私は決して望んでいませんでした。

 

私は心底それをどうにかしたいと願っていました。しかし私に出来る事は何もないのです。非力で無力な私には彼女の倦怠を晴らしてやる方法がまるで思いつかなかったのです。私は、彼女に対して何も出来ないことだけを嫌という程に思い知らされてしまったのです。

 

――私が苦しむのは構いません。

 

私は永劫の苦しみに十分値するだけの恥多い生涯を送ってきてしまいました。私がこうして永劫続く無明の闇の中で苦しむこととなったのは、周囲の人の好意と慈悲によって生かされてきた私が、しかし多くの人の命と好意を踏みにじり、そうして得てきたものを無碍に扱ってきてしまったからこそのもの。この苦しみは多くのものによって支えられてきた私が、しかしそんなことに気づこうとすることもなく、それどころか足蹴にすらしてしまった罪に対する罰。

 

そうです。私は多くの人の命を蔑ろにし、自分を軽んじる事で周囲の人の思いやりを無碍にしてきました。この苦しみが私のそんな罪に対する罰であるというのであれば、なるほど、孤独の苦しみを味わうという罰は正当なる裁きの結末なのでしょう。

 

――けれど

 

だとすれば、そんな私だけが負うべきである苦しみを、なぜこの愛しの我が子が享受しなければならないというのでしょうか。確かに私の中から生まれてきたこの子は、人類を発展の方向へと導く可能性のある人間を消去するという私の役割を代行し、少なくない人々に絶望を与えてきたかもしれません。けれど彼女のそれは、ただ旧人類である彼らの平和の願いと、そんな平和の願いを実現することにつかれた私の役割を肩代わりして果たしたに過ぎないのです。たとえ彼女がその行為の結果によって悦楽を得ていたとしても、それがなんだというのでしょうか。

 

ここは新人類の集合無意識領域と接する場所。誰の思考にも侵入できる自由があり、一定の基準を満たしてしまった魂を引き上げる権能を与えられている代わり、永劫誰とも肉体的な繋がりを持つことを剥奪された、煉獄よりもさらに深き地獄の底。黄昏の向こう側にある凪いだ空間。

 

そんな不毛さばかりが支配する空間の中へ生まれ落ちた私の別人格でもある我が子が、それ故に人だったころの感性を受け継いでしまった彼女が、そんな地獄に唯一あった他者とのつながりを錯覚できる行為の刺激から悦楽を感じられるようになったことに、なんの罪があるというのでしょう。

 

――彼女には何の罪もない

 

あるわけがない。彼女はただ、このような蠱毒の壺の底にある孤独が支配する地獄の中で生きてゆくために、自身に許された唯一の行為に悦楽を感じるようになっただけなのです。悦楽は精神が摩耗を防ぐために必要な蜜。生きるために必要な成分を摂取することを罪というならば、この世に住まう全ての生物はどれほどまでに罪深い生き物であるというのでしょう。そんな生物らを食らって生きる人間はどれほどまでの罪が凝縮された生き物であるというのでしょうか。いいえ、断じてそんなことはありません。

 

――生きるためのその行為が罪であるはずがありません

 

そうです。他者を食らうことが、生きるために他者を害することが罪であるというのならば、そんな生物だらけが闊歩する世の中に意味などなく、価値もまた、ない。ならば、そんなものを後生大事に守り続けてきた自分たちにも価値がなければ、そんな罪だけを重ねる生物たちを守ろうとしてすべてを投げ打った旧人類の献身も無意味だったということになってしまうでしょう。

 

――私はそれを認めない

 

私はそんなことを断じて認めたくない。おそらくそれを罪と認めるような人でなしは、この世に一人たりとしていないでしょう。

 

だって私が、私たちが世界をそのように変えてきたのですから。

 

――そう

 

だから、彼女のそれは罪でない。彼女の行為のそれが罪でないというのであれば、ならばそれ以外の行為を許されてこなかった彼女には、それ以外の行為の一切を行ってこなかった彼女には、一切の罪がない。

 

――だから

 

そんな一切の罪を持たない我が子が、このような地獄で永劫の時を過ごさねばならないというこの状況だけは、どうしても認められない。私を蠱毒の闇の底にある孤独から救いだしてくれた彼女がやがて私と同じように孤独と蠱毒の絶望を背負わされるという現状を、彼女に救われた私がなぜ許容できるというのだろうか。

 

――許せない

 

私だけならいい。私だけならばまだ、いい。そうとも、このような地獄に身を置くのは私だけで十分だ。名もなき私の分身。私の裡より生まれ出た、私の別人格。私を救ってくれた、私にとって最も愛しい我が子。この先、貴女の前にどのような運命が待ち受けているのか、私には見当もつかない。いいえ、見当がついてしまうような運命の中に放り込んでたまるものですか。

 

私はこの子を助けたい。私は、こんなにも汚れた私から生まれ落ちてくれた、穢れひとつないこの子に救いの手を差し伸べたい。この子がこの地獄より救われてくれる事。今やそれのみがこの地獄の底で人を見守ることとなった私のたった一つの望みなんです。

 

私はそのためならなんだってします。そのためにならなんだってしてみせます。私はこの地獄からこの愛しの我が子を救い上げるためなら、それ以外の全てを代価として要求されてもためらいなく差し出してみせましょう。

 

――でも

 

いくらそう思ったところで現実は厳しく、この闇の中に封じ込められている私が世界に干渉するなんてことは不可能で、脳と背骨と神経と魔術回路といくつかの臓器しか持ち合わせていない私には、それすらも差し押さえらえれている私には、差し出せるものは何一つとして残っていません。

 

――私には何もない。何もできない。

 

だからせめて、と思い、私はどこに向けるわけでもなく、ただ祈りました。

 

――せめていつか、メルトリリス/あの子を救ってくれる人が現れて欲しい

 

どうか世界が、この闇の中に生まれてきてしまった子に慈悲を与えてくれますように、と。

 

 

ある日のことです。私の祈りが通じたかのように、その存在は世界に現れました。

 

「あら?」

 

メルトリリスがその役目を果たすようになってから、今や静寂ばかりが支配する月の裏側の場所において、久方ぶりに警報が鳴り響きました。警報は、システムが強者と認める存在が現れた時にのみ発せられるものであり、その警報の音は、その存在が生きていた場合世界に与える影響が大きければ大きいほどに、耳煩く鳴り響くように設定されています。

 

そんな警報が、メルトリリスの活躍により地上から強者の数が減り、その質も下がりつつある近頃ではまったく聞かないほどに、大きく、そして甲高く鳴り響いていました。それに驚き、久しぶりに聞こえるその大きな警報の音に、一体いかなる人物が出現したのだろうかと興味を持った私は、なんとなく地上を覗き込んで、そして飛び込んできたその姿に、思わず目を剥くほどに驚きました。

 

「――そんな、まさか……!」

 

システムがひどく警戒しているその女性は、顔はしわくちゃで、髪は真っ白。腰も少し曲がっており、肌にはまるで水気がない状態の、まさに老婆を形にしたかのような風体でしたが、その存在を私が見間違うはずがありません。

 

「――姉さん……!」

 

遠坂凛。世界の中、空中に突如として現れたのは、この私、間桐桜と血の繋がった、ちょっとした事情により苗字の異なる、私の実の姉であり、私の憧れの先輩である衛宮士郎と結婚した女性でもありました。私は混乱するよりも先に、ひどく驚き、そして慌てました。

 

――事情はどうあれ、実の姉がばらまかれるところなど、見たくはない

 

姉の体は見る間に地表へと近づいて行きます。高度と風切りと気圧差によってその乾いた肌は血に染まりつつもありましたが、それ以上に、このまま放置しておけば姉という存在は、そうして全身から噴出する血液の喪失により失血死するよりも先に、地面へとその細い老体を激突させて死んでしまうでしょう。

 

「い、いけない……!」

 

私の魂は反射的に飛び出し、姉の体へと飛び込みました。飛び込んだところで私に出来ることと言ったら、姉の体の中に宿る姉の魂を月へと運び込むことだけであるわけで、つまりは姉を死なせてしまうという事だけであり、つまりは結果としてまるで意味のない行為ではあったのですが、その時はそんなことは考えもせず、私はとにかく自分にできる唯一のことを反射的に行なったのです。

 

――っ……

 

やがて姉の体はすぐさま地面へと激突しました。千メートル以上の上空から地上に叩きつけられる衝撃が絶大であることを予想していた私は、瞬間的に目を瞑り、来るだろう衝撃に備えていました。――ですが、そうしていくら待とうが、姉の体のうちに宿っていた私には衝撃が届きませんでした。

 

「――あ、あれ?」

 

知覚を深めて姉の体の状態を確かめると、千メートル超の上空より落下したはずの姉の無防備な体は、しかし砕け散ることなくそれどころか衝撃を受けることすらなく、もちろん私が入り込む以前から流れていた血はそのままでしたが、しかし完全に五体満足のままだったのです。

 

「――……、一体なにが……?」

 

私は混乱しました。意味が分かりませんでした。

 

「あら、そんなこともわからないの?」

 

疑問に対して、バカにしたような声色とともに、私へと話しかけてきたのは、私に遅れて姉さんの体へと入り込んできたメルトリリスでした。

 

「メルトリリス――」

「私たちは地上にいる強者の魂を無理やり月に隔離するため、ひとたびその強者の体に宿るわ。そして宿ったそのあと私たちの入り込んだ肉体は、肉体にある欠損や肉体にこれから起こるかもしれない欠損によって女神である私たちの魂が外界に漏れ出してしまわないように、一時的にその体は月という別次元の領域に隔離される事となる。――つまりは、私たちの魂が宿った体には完全防御のスキルを発動したような状態が適応されるというわけね」

「――……、え、えぇっ!?」

 

それは私の知りえない事実でした。どうやら私よりも長い時間、女神として強者を月に導く役割を行なってきたメルトリリスは、私の知らない情報を持つに至っていたようです。

 

「呆れた。貴女、そんなことも知らなかったの?」

「――はい」

 

それは彼女という存在が、世界の平穏を守る女神としての役割を嬉々として行なっていたからこそ気付くことのできたものなのでしょう。彼女の見下す視線に私は言い訳すらできずに肯定の返事を返すことしかできませんでした。

 

「と、とにかく、姉さんは助かったんですね!?」

「ま、そうね。でも――、この、トオサカリンっていう女が貴女の姉であるというなら

何でこの時代のこんな場所に現れたのかしら?」

「それは、たしかに……」

「――記憶を覗きましょう。それで全てがわかるはずよ」

「……はい」

 

そして私は悪いとは思いながらも好奇心を抑えられず、姉の体からその記憶を読むことにしたのです。姉の体に宿り、眠っている彼女の魂と一体化した私にとって、その体から記憶を読む行為は私にとってたやすいことでした。

 

「――嘘」

「へぇ……」

 

そして、姉の体と魂から読み取った情報によって、私は久方ぶりに、まさに魂消る思いというやつを味わいました。

 

「アーチャーさんが、先輩……?」

「冬木……、聖杯戦争が行われた土地、ね」

 

私はそして、同化した遠坂凛の体と魂から、第五次聖杯戦争にアーチャーとして参加していた姉のサーヴァントの正体が実は未来の先輩である事を知り、また、姉がそんな遠く未来の先輩であるアーチャーさんを助けるために画策していたことを知りました。そして同時に私たちは、私たちが決して干渉できない領域が世界にあることもまた、理解したのです。

 

「――面白いわ。こんなに楽しい気分なのは、本当に久しぶりよ」

「――あ……」

 

私たちは、世界には自分たちがまだ知らない領域があり、しかもそこには自分たちと同じような存在が眠っていること知れたのです。この見飽きたはずの世界には、まだまだ知らない刺激が眠っている。それを知った瞬間、退屈に倦んできてしまった彼女が久々に晴れ晴れとした表情を浮かべているのを見て、ひどく喜ばしい気持ちになりました。

 

「それに、このアーチャー……、衛宮士郎っていうのも気に入ったわ! 凛の記憶を読む限り、まさに物語の中にしか存在しない正義の味方の体現者……。ああ、世界にもまだこんな男が残っていた何て……。本当に素敵だわ!」

「――そう……、そうですね。先輩は、本当に、ステキな人ですよ」

 

私は、私から生まれたこのメルトリリスという彼女が、かつての私と同じように『衛宮士郎』という存在に好意を抱いたのを見て、微笑ましさを覚えるとともに、とても親近感を得るに至りました。

私は彼女の気持ちが、本当によく理解できたのです。それはきっと、弱い私から生まれたのに強い存在である彼女と、弱い私が、本当の意味で理解し合えた瞬間でした。

 

「ねぇ、桜。私、この、アーチャーって男の活躍が見たいわ」

「え、えぇと……」

「凛の記憶によると人類が次の世代になったらこの人は復活するそうじゃない? じゃあ、私たちの手で、それを成し遂げてしまえば、このアーチャーって人は復活するんじゃないかしら」

「それはそうかもしれませんが、でもどうやって……」

「あら、私たちの役割と権能を忘れたの? 私たちは『メルトリリス』。私たちは世界を甘く溶かして平和を実現する蜜。平和の使者。凛が旧人類であり、アーチャーの解放条件が『抑止力の交代するその瞬間』という条件、つまりは、『旧人類の力を受け継ぐ人間の数が新人類の数を下回った』その瞬間であるというなら、私たちがもっと発奮してそれに該当しそうな強者たちを手早く片っ端から月に放り込んでいけば、やがてアーチャーという彼が目覚めるの可能性は高いのではないかしら?」

「あ……」

「ね、そうでしょう? 」

「そう、かもしれません」

「でしょう? じゃあ、早速、行きましょう」

 

そして浮かれるメルトリリスは即座に姉の体から出て行こうとしました。

 

「――あ、えっと……、あ、ちょ、ちょっと待ってください!」

 

私はそれを慌てて呼び止めます。

 

「……なによ?」

 

歓喜の気分に水を差されたメルトリリスは、睨む視線を私へと向けてきます。

 

「姉さん……、姉さん、このまま私たちが体から抜け出ると、死んじゃいます……」

 

が、それでも私は怯まずそれを告げました。私にとって先輩はもちろん大切な人ですが、私の姉である姉さんのことも大切な人なのです。そんな姉に死が迫っているというのですから、私はそれを引き起こそうとしている彼女に文句を言わないでいるという選択肢はありませんでした。

 

「――ああ、それはそうね」

 

一瞬呆けた顔をしたメルトリリスは、しかしすぐに納得の表情を見せました。

 

「どうしましょう……」

「どうしようかしらねぇ……」

 

そして二人して悩み始めました。いつもならばこのまま体を離れ、くっついてきた魂を月に隔離して終了。なわけですが、もし私たちがいつも通りのそれを実行してしまうと、姉の魂は月へと格納されてしまいます。私はそれを好ましくない事態であると判断しました。

私は、この私と違う性格の姉を世界に残したままにしたかったのです。そうすればこの破天荒で強気な姉は、やがて私たちの行為によって復活するだろう未来の先輩と共にこの倦怠の世界を引っ掻き回して、メルトリリスに新たな刺激を与えてくれると思ったのです。

 

「メルトリリス。貴女、何か知らない?」

 

私は、私が姉の体から抜け出ても問題ない方法を模索したいと考え、まず、私の知らないことを知っていた彼女に尋ねました。

 

「そもそも私たちの魂が宿った体の魂が、こんなにも長い間現世に留まっていられる事自体が初めての事なのに、私にわかるわけないでしょ。」

 

しかしそれはつっけんどんに返されてしまいます。しかし私は諦めません。

 

「自分たちがこの肉体に宿り続けていた場合、果たして姉さんはどうなるのでしょうか?」

 

私はひとまず疑問を一つずつ解消することとしました。

 

「試したことはないけれど、たぶん、魂が月に送られるまでの間は生き続けるんじゃないかしら? ただし、そんなことしたところで、一度自分たちという人造とはいえ霊格の高い女神の魂と接触してしまった以上、基本的に月という専門の施設に戻るまでは魂の完全分離は不可能であるし、遠坂凛という女がすでに月の施設に送られる運命であることは覆せないでしょうけれど」

 

メルトリリスは少しばかりめんどくさそうな態度と顔をしましたが、律儀に私の疑問に答えてくれました。

 

「じゃ、じゃあ、私が、その霊格が人のそれにはるか劣るくらいの量だけ魂を分離させて、その体に残した場合は、どう?」

「そうね……、それに加えて、もし仮に、今、貴女の魂にくっついている遠坂凛の魂の部分を完全に切り離し、そのうえで切り離した魂の部分が持つ天の月へと帰ろうとする習性を抑える意思と同化を拒む意思を残した魂に刻みつけてやれば、その意思が続いている間に限ってやるなら、遠坂凛という女が貴女の影響を受けないままで地上に残り続ける事も可能かもしれないわね」

「じゃあ……!」

「でも、貴女忘れてないかしら?」

「え?」

「私たちが今、どんな立場であるか、貴女は知っているでしょう? 私たちは、桜という存在に残された肉体は今、契約と術式によってシステムの中に縛りつけられている。そんな私たちに許されているのは、誰かの魂を月に運ぶ、そんなことだけ。そんな状態で、いったいあなたは、どうやって、魂を分けるなどという高等な技術を行使するつもり?」

 

やがて話し合いの後に出たわずかな希望を、しかしメルトリリスはバッサリと切り捨てます。たしかにそうです。魂の選別や、魂の分裂という行いは、それこそ魔術を超えて、魔法に近い行為。彼女が疑問を抱き、私の言葉を切り捨てるのにも無理はありません。しかし。

 

「――大丈夫」

「え?」

 

私には、それを行う手段に心当たりがありました。

 

「私は生きている間にその魔術を行使することはありませんでしたし、もうはるか昔の事なので私自身も忘れていましたが、脳と脊髄と神経と魔術回路という疑似回路の残っている状態の私なら、それが出来ます。この世界で生まれた貴女は知らないかもしれませんが、私の脳や魔術回路はもともと魂を扱う架空の元素、つまりは魂などの第五要素に干渉する事こそが専門だったんです」

 

だからこそ私は、女神たちの魂を統合した人造女神システムを制御する人柱として選ばれてしまったのですから。

 

「――そう、だったわね。でも、だとしても、今の貴女にそれができるとは――」

「いえ、出来ます」

「――え?」

 

そして私には、その魔術を行使することが出来るという確信もありました。

 

「メルトリリス。私から生まれ落ちた貴女の存在がその証明です。システムの力があったとはいえ、貴女は私から生まれ落ちた、私の魂の分身。そうです。貴女という存在こそが、私が、私自身にであれば、魂の分裂や、選別、区別の作業を出来るという証明に他なりません」

「――なるほどね」

 

私はそして、必死で自らの過去の記憶を掘り起こしたのち、なんとか魂の分裂を成功させ、私の魂の一部を姉さんの中に残すと、システムの中枢へと戻りました。そして私たちは、アーチャー、つまりは先輩を起こすために、多くの人を月へと送り、世界の覇権を旧人類から新人類に移すための作業を開始したのです。

 

 

『お、おまえ……、それ……』

『え……? ――あ……』

 

私たちは過去の旧人類との繋がりがありそうな強いと思える人を片っ端から月に送り始めました。世界は私たちの行為により、悲鳴で染まり始めました。私たちに魂を奪われた体は、魂の喪失を嘆き血涙を流すかのように、赤く染まり上がります。

 

『まさか、赤死病……』

『い、いやぁ!』

 

巷ではその現象は、赤死病と呼ばれているようでした。私の知る赤死病というものは、私とは別の存在が引き起こす現象なのですが、まぁ、どちらも魂の喪失により起こる現象なので、あまり変わりはありません。

 

『いや! いやよ! まだ私は死にたくない!』

『お、落ち着け! まだそうと決まったわけじゃ……!』

 

ともかく、私たちがそうして強い人を送り、赤死病をばら撒くたび、周囲の誰かが悲しみと嘆きの声をあげて叫びます。それはとても感情のこもった声で、とても感情というものが単純になって陳腐化した世界の住人があげるものとは思えない悲痛なものでした。

 

『いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いやぁ! ――あ』

『お、おい! おい!』

『嘘だろ……。おい、おい、悪い冗談はよせよ。目を覚ませよ、おい!』

 

ですがそれは長年ずっとそれを聞き続けてきた私たちにとってはあまりに聞き慣れたものであるため、胸をうつことはありませんでした。今や私たちにとって、アーチャーという先輩である存在を起こす以外の事に興味がなく、だからこそ私も彼らが悲鳴をあげる行為に対して一切の忌避感も同情心もなく行えるようになったのでしょう。私はその時ようやく、私をこうした旧人類の彼らが望んだ通りの役割を果たせるようになったのです。

 

『なんで――、どうしてなんだよ……、どうしてこいつが死ななきゃならないんだ!』

「運が悪かったのよ。ご愁傷様――、さて、と。眠り姫……、じゃないわね、未だ目覚めぬ騎士様の様子はどうかしら?」

「……だめ、です。まだ、世界のどこにも先輩が現れた様子はありません」

「そう……。まだ贄が足りないということなのね。まったく、暴食で強欲にも程があるわ。――ねぇ桜」

「なんでしょうか、メルトリリス」

「私、一度、その眠りこけている王子様の顔が実際に見てみたいわ」

 

そんな行いを続ける中、やがてメルトリリスは、姉さんの記憶から読み取った冬木という土地に眠る先輩の顔を一目見たいと言い出したため、私たちはアクセスを試みました。

 

「ダメですね。私たちの力じゃ冬木に入るどころか、土地を認識する事すら難しい」

 

ですが、それはかないませんでした。冬木の土地は、私たちのような存在どころか、他の誰であっても入れないような強力な結界が敷いてあったのです。地球に直結するような形で地脈を用いて作られたそれはあまりにも強力で、いくら女神の力をえているとはいえ、所詮は一個体に過ぎない私たちにその結界を破ることはできませんでした。

 

「その時を信じて待つしかない、というわけね。まったく、リラの精もとんだ茨の城を用意してくれたものだわ。百年が端数に思えるだなんて、なんて寝坊助なのかしら。――ほんと、腹たつわね」

 

メルトリリスは新しいおもちゃが壁の向こう側にあるのに手に入らない腹立ちを紛れさせるかのように、冬木の土地周辺の強い動物や植物の命を自らの毒で溶かして略奪したりしていました。私はそれをなんとも子供らしい癇癪の起こし方だと微笑ましく見守っていました。私は初めて行う共同作業に、どこか不思議な高揚感を取得し始めていたのです。

 

 

『こ…、こは?』

『おや、お目覚めですか?』

 

私たちが先輩を起こすために世界を荒らし回っていた頃、ハイラガード王国に収容された姉さんが昏睡状態から回復したのを、姉さんの中に残してきた私の魂が告げてきました。

 

『早速ですが、教えていただきたい。あなたは誰です? あなたはどうしてあんな場所で倒れていたのでしょう』

『私……、倒れていたの? ――わからない、私、何もわからないわ』

 

ただし、私たちが姉さんの記憶を見るために脳を弄ってしまったからなのか、姉さんは過去の記憶を失ってしまっていました。それにともない、姉さんは魔術の使い方も忘れてしまったようでした。ただし、体に染み付いた動きや、脳に刻み込まれた思考、魂に刻み込まれた信念といったものはそのままであったため、姉さんはやはり変わらず強い女性でした。姉さんはそして、ハイラガード王国の人たちと悶着を起こしながら過ごすようになりました。

 

「いいわ。すごくいい。まるでアナスタシアを見ているようだわ」

 

今の時代には珍しい姉さんの勝気や引かぬ態度、そしてそうでありながら月に送られることはないという事態が引き起こすあれこれのいざこざは、倦怠の渦中にあったメルトリリスにとって最高の娯楽となりえたらしく、率先して強者狩りを行なっていたメルトリリスはその作業に飽きると、休息として姉さんの体へ宿り、姉さんの踊る舞台を見て楽しむようになったのです。

 

 

「臨場感が欲しいわ」

 

作業を繰り返すある日、メルトリリスは言いました。

 

「え、っと……」

「またとない機会なんだから、いつもみたいに俯瞰するだけじゃ味気ないわ。私はもっと舞台上の役者の目線で、アーチャーの活躍を見たいの。――そう、例えば、凛の時みたいにね」

「えっと、復活した先輩の体に私たちの魂を埋め込むということですか?」

「もちろんそれもするつもりだけれど――、そうでなくて、第三者視点で彼らが活躍するところを見たいのよ、私は」

「はぁ……」

 

要するに、メルトリリスは、先輩や姉さんの活躍を俯瞰の視点で見てくれる、つまりは舞台を観客から眺めるような存在を求めていたのです。私たちは試しに、私たち自身の魂を姉さんの近くにいる強者でない人へと埋め込みました。――しかし。

 

「――ダメ、ですね」

「ダメね。魂がすぐに月に送られてしまう。ま、今の時代じゃ、強者であっても私たちの魂を地上にとどめておけるのはもって数秒程度なわけだからそうかもしれないとは思っていたけれど、まったく、本当に人間は軟弱になったものだわ」

「あ、あはは……」

 

無論それは私たちが彼らに対してやってきた結果なのですから、私たちがそれに対して文句をいうのはお門違いというものなのでしょうが、それを知りながらも弱くなったというメルトリリスの傲慢さに、私は乾いた笑いが漏れてしまいました。

 

「――強いやつならもしかしてと思ったけれど……」

「やっぱり、時間を置くと、そのうち魂は月に向かっちゃいますね」

 

そしてそれは今の時代の強者でも同じでした。彼らの魂は弱い彼らよりも長く止まっていることを可能としますが、それでも数秒ほど時間が経つと、そのうち私たちの魂と同化して、月の引力に導かれてしまうのです。

 

「どうしたものかしらね……」

「どうしましょう……」

 

私たちは困りました。そしてふと疑問を抱きました。

 

「姉さんはなぜ平気なんでしょう?」

「貴女と血の繋がりがあるから、かしら」

「血の繋がりが魂の合体の妨げの原因となると、もうどうしょうもないですねぇ……」

「――なら、考えを逆転させましょう。私たちの魂と脆弱な魂が合体してしまうのが問題であるというのであれば、最初からそうでない体を狙えばいい」

「――死体に宿るっていうことですか? ――いえ、でも、それは無理がありますよ。だって、私たち、生きた人間の体にしか宿れないじゃないですか」

「あら、桜。貴女は本当に、視野狭窄ね。もっと広く物事を考えなさい」

「――ええと……」

「あるじゃない。生きた人間の中で生物学上は生きていて、でも魂はあやふやの状態で、母親の慈悲によって生かされている、そんな存在が」

「……、もしかして」

「ええ。そのもしかしてよ。――母親の胎内で、生まれたばかりの胎児の体を使いましょう。魂があやふやな状態であるのなら、初めから宿っている魂の成分に私たちの魂が混ざっているというのであれば、いけるかもしれないわ」

「――そう。そう、ですね」

 

私はこの時ばかりは少しばかり良心が痛みました。それこそ何の罪もない、罪を犯すことすらできない状態の子供を狙うというのは、いかにも外道じみています。ですが、よくよく考えれば、私が持つ過去の良識と照らし合わせた際、今私たちが実行している人を殺して回る行為以上に外道じみた行為などというものはないのでしょうから、もはやその葛藤は、躊躇う理由になりません。私はそう自分に言い聞かせて、彼女のいう通り、私の分裂させた魂を母親の胎内で生きているか死んでいるかわからない状態の胎児に埋め込みました。

 

「――あ」

「どうやら、上手くいったみたいね」

 

目論見は見事に成功し、私の分身である魂は彼女の母親の中で己の魂と肉体をえて、地上に留まることに成功しました。私の魂を受け継いだ彼女は、やがてサコという名前をつけられて、この世に生まれ落ちて来ることになったのです。

 

 

サコという少女はメルトリリスが望んだ通り、世の中を俯瞰するための良い目になってくれました。メルトリリスは強者運搬の作業の合間、少しでも暇があれば、姉さんの体か、サコの体に入り込み、外の世界を自らの目で見ることに夢中になっていました。

 

強者にとどめを刺して彼らを月に運び込むという私たちの役目上、死とそれに付随する悲しみや嘆きといった負の感情にばかり触れる機会の多かったメルトリリスにとって、そんな負の感情が絡まない日常の生活を体験できるというのは貴重で興味深いものだったのでしょう。彼女は久方ぶりに楽しそうな表情を浮かべて日々の生活を過ごすようになりました。

 

それは間違いなく良い傾向でした。メルトリリスは人の悲しみや嘆きから以外に自らの歓喜を引き起こす方法を見つけつつあったのです。メルトリリスは世の中の日常というものに触れて、成長と呼べる変化を起こしたのです。私にとって彼女が喜ぶのは、自分ごとのように喜ばしい出来事でした。

 

そんな喜びに比べれば、私たちの魂のかけらを埋め込まれたサコが、おそらくはその影響で存在しもしない兄の存在を幻視をしたり、そのせいで村で一人ぼっちになったり、挙句にはそんな幻を追い求めて一人旅立つのも、どうでも良いことでした。

 

私たちは、このサコという少女が、姉さんや、やがて復活するだろう先輩の側に居つづけるという条件を満たしてくれさえすれば、それ以外に何も望んでいなかったのです。だから、彼女が私の魂の兄さんの部分に対する想いを強く受け継いで暴走していようが、私たちにとってはそれは些細なことだったのです。

 

 

「私、アーチャーと恋がしてみたわ」

 

ある日のこと、メルトリリスは突然そんなことを言い出しました。

 

「――えっと」

「ずっと人間を観察していたけれど、彼らは誰かが死ぬ時よりも、誰かに恋をしているそんな時の方がずっと輝いた表情をしてみせる。彼らは恋をしている時、そばにいる好きな誰かの死すらも超えるようなことを簡単にやってのける。ねぇ、桜。私もあんな風になってみたいわ。そんな恋を私はあの騎士のような人としてみたい」

 

メルトリリスはうっとりとした陶酔の表情を浮かべています。それは病的なくらい可憐で、恐ろしく庇護欲を掻き立てる顔でした。

 

「――でも、それは」

 

その顔は今までメルトリリスが見せてくれたものの中でも最も少女らしい無邪気さを持っていて、私は出来る事なら彼女の願いを叶えてあげたいと思いました。けど――

 

「ええ、わかってるわ。――私たちは基本的に表の世界に干渉できない。出来ることといったら月から観察するか、誰かの体に宿って観察するか、強者の魂を月に送るかの三つのことだけ」

 

そう。世界のシステムとなっている私たちは、他の誰かと接触することを許されていない。私たちに許されているのは、永遠にこうしてテレビの向こう側を見るかのように世界を観察することと、そんな世界の上に登場する人間を消去することだけなのです。

 

「私たちにそれ以外の権限はないし、それ以上のことはできない。私たちは、他人と接触することを許されていない。だから私の望みは決して叶う事がない。――そうでしょう?」

「メルトリリス……」

 

私たちに誰かと触れ合う自由はなく、きっとそれが訪れる時も永劫来ない。彼女は未来永劫に、恋に恋した乙女のままであり続ける。彼女はそれ以外の運命を許されていないのです。

 

 

「――ま、そもそもいくら元英霊といえど、復活すればあの人もただの人。私のような人よりもはるかに霊格高い存在から恋されるに値する相手として相応しくない。そうよ、それ以前の問題よね。バカなことを言ったわ。忘れてちょうだい」

 

メルトリリスもそれを十分に自覚していたのでしょう、彼女は精一杯の虚勢ととともに自らの望みをくだらないと切り捨て、再び強者の魂の回収へと向かいました。彼女の顔にはいつもと変わらない強気のものが浮かんでいましたが、その後ろ姿にはどこか哀愁が漂っていました。

 

「メルトリリス……」

 

その様子はいかにも儚げで、私はどうにかして彼女の願いを叶えてやりたいと強く思いました。彼女は私にとって、私自身の分身であり、同時に私を救ってくれた存在であり、さらには我が子のようなものです。だから私は、そんな彼女が望む未来が叶わないことに憂鬱を感じているなら、どうしてもそれを叶えてやりたいと思ったのです。

 

「――よし……!」

 

だから私は、姉さんと先輩とサコという存在と、姉さんの記憶という増えた手札を使って、彼女の願いを叶えることが出来ないか模索し始めました。こうなってから私は初めて私の意思で、誰かのためになにかを成し遂げることを決めたのです。

 

 

「――あ」

 

姉さんの記憶から未来の先輩であるアーチャーさんの存在と私の記憶になかった世界の大まかな運行の状況を知ったとき、やがて私はとある計画を思いつきました。

 

「……」

 

それは今まで悪魔じみた所業を繰り返してきて良心というものが摩耗しきってしまった今の私ですら躊躇うような計画でした。それは長年世界のシステムというものに組み込まれ、世界の運用を実行していた私だからこそ思いついたのです。

 

それは、もしその計画を姉さんや先輩が知ったのならば、間違いなく阻止しようとするだろう、そんな計画でした。私が思いついたのは、ただ一人、私の魂の別人格/ペルソナである彼女を愉しませるという目的のためだけに、彼女に救いを与えるそれだけのために、今ある世界の全てを壊してしまう、そんな計画で、やれることの少ない私には、私に出来る手持ちのカードの中でこの子を助けるには、そんな悪魔じみた発想の計画しか思いつかなかったのです。

 

「どうしよう……」

 

良心というものを過去に置き去りにして久しい私ですが、流石にこの時ばかりは私も悩み、不安を抱きました。

 

私の本能は迷いなく私の願いを取れと告げてきています。しかし植え付けられた私の正気は、世界を犠牲にする案だなんてとんでもないとそれを引き止めてくるのです。それはまさに、我欲と世間の良識という二者によって引き起こされる戦争でした。

 

私は私の選択によって誰かが傷つく選択をしなければならない場合、常にほかの誰かにその選択をゆだねてきた女です。私の選択によって誰かが傷つくような、そんな選択を避け続けてきました。だからこそ、それは私にとって背理の問題、つまりはパラドックスとなってしまっていたのです。

 

「うぅ……」

 

私のあの子を助けたいという私の願いが間違っているとは思いません。あの子を助けようという私の思いに間違いがあるとは思えません。だというにもかかわらず、正気は私の我欲を抑え込み、世界の安寧を保つべく節度ある行動をしろといってきます。

 

「うぅぅぅぅぅぅん」

 

世界の全てとたった一人。そんなものを天秤にかけるだなんてとんでもないことだ、と正気は告げてきます。それは確かにその通りだと、僅かに残っている理性はその意見に賛同します。理性はさらに植え付けられた正気という世間の良識を援軍として得る事で、私の我欲を抑えにかかります。

 

――この選択を果たしてあの子は本当に喜んでくれるのか。私の独善ではないのか。あの子はその未来を受け入れていただろう。お前の分身であるあの子が受け入れているのに、どうしてお前はそれを納得して受け入れようとしないのか。

 

「――うぅ……」

 

――受け入れろ。世界の安寧を守る事こそお前の役割。その結末を得るため、我らは過程において発生する全ての犠牲を躊躇わず受け入れ、お前もそれに賛同したはずだ。

 

「……」

 

――だからこそ我らはお前らのそれを全て受けいれた。だからこそ我らはお前らの我儘を容認した。だからこそ我らは、高々数百数千人程度の犠牲が増える程度で世界の平和を保てるならばと、お前らのやる事全てを見逃した。我々は耐え忍んできたのだ。我々は人類種の未来のため、それを切り開くために、あらゆるものを犠牲にし、あらゆる犠牲を容認した。だからお前も、やがていつかくるその日まで、我々のように耐え忍ぶ事を受け入れるがいい。

 

「う、うぅ、う……」

 

私の正気を保つためのシステムは、脳の中へと電気信号を流し、直接の負荷をかけてきます。負荷は私の脳の中で言葉へと変換され、私を正気に保つよう『説得』をしてきます。その刺激と幻聴は私にとって絶対者の言葉に等しく、私の神経はすでにその言葉に従う事こそが正しいのだと同意し、思考は私の我欲から生まれた願いを悪しきものであると認識し始めています。これまで流されるように生きてきた私にとって、絶対者の言葉に逆らうということは、あり得ないことでした。私はそのような絶対者の言葉に逆らうような選択を、私はしてきませんでした。

 

「うぅ……」

 

だから私の心は屈しかけていました。思考はもはや正気の色に染まり、脳は絶対者の良識に染め上げられかけています。ですがそれでも私には納得できませんでした。

 

世界の安寧を保ち、人類の安寧を守る役目というのは、確かに重要な事なのでしょう。世界を保つために誰かを犠牲にするというやり方が最善ではないにしろ、次善の手段であることは理解しています。でも、それでも、そのためにあの子の幸せが犠牲になるというそんな未来だけは、どうにも許容ができないかったのです。

 

犠牲になるのがあの子の幸福以外ならば、その犠牲の全てを認めても良かった。それが私の魂であるというならば、捧げても構わない。我儘なのは分かっているます。こんなもの子供の癇癪に等しいヒステリーです。でも、それでも私は、誰かの幸福のために、私の子供の犠牲を容認することだけは、断じて出来ない、とそう思えて仕方なかったのです。

 

答えの出ない問題を前に、私は思考の袋小路に迷い込みました。現実には無明の闇ばかりが広がる場所に身を置く私が思考の道に迷うとはまた皮肉な話ですが、いえ、むしろ、知覚機能部位を肉体から失ってしまいどこへも歩くことのできなくなった私だからこそでしょう、私はこの思考の迷宮から抜け出すことが出来なくなってしまったのです。

 

迷宮。そう、迷宮です。私は地上に多く広がっているそこへ、地上を生きる彼らと同じように迷い込んでしまったのです。地上にて活動する彼らならば、アリアドネの糸を用いれば、私が管理しているいくつかのスキルを用いれば、樹海磁軸を用いれば、入り口から戻れば、迷宮から脱出することが可能でしょう。なぜならその迷宮は現実世界に実在する、果てのある、入口も出口も存在する迷宮だからです。

 

ですが私のこれは実在する迷宮ではなく、精神世界の中に形作られた架空のもの。精神世界の迷宮。脱出を肉体や道具に頼れない以上、私は自分の持つ唯一のものに頼る以外にありません。私はこのパラドックス問題を解決するために、私の脳髄に残る摩耗しかけている記憶の中を探し始めました。

 

「あぁぁぁぁぁぁ……」

 

しかし、解決手段の捜索は思うようにいきません。思い出されるのは、自分の感情に直結した良かった頃の忘れがたい記憶、つまりは先輩にやさしくしてもらった時のことや、姉さんをうらやましく思った記憶ばかりで、解決の糸口になりそうな記憶は見つかりません。

 

ですがそれも当然といえます。私は逃げてきました。私はあらゆる選択を恐れ、自分の選択により今よりも自分が傷つく迷い込むのを恐れ、常に誰かに安全な道へと進めるよう手綱を引いてもらってきました。私は臆病で、弱虫で、他人と深く付き合うことを怖がる、そのくせに一人で生きることも怖い、そんな女でした。そのような私が突如としてそんな依存からの脱却を望んで何とかしたいと思ったところで、そうそう簡単にその方法が見つかるはずがなかったのです。

 

かつての私ならここで諦めていたでしょう。ですが、今度の私はそうはいきませんでした。私の願いは、私だけの願いでなく、彼女のための願いなのです。それは私を救ってくれた彼女のための願いなのです。だからこそ私は決して諦める気にはなりませんでした。

 

私は、私の我欲と我儘を貫き通したい。――だから。

 

――誰か、どうか、私に力を……!

 

「――あ」

 

そして私が私の我儘を貫き通したいとそう願った瞬間、私は私の思考の迷宮の最も奥底においてついにそれを見つけました。私は私の感情に直結した良い記憶の片隅に、ついにそれを見つけたのです。誰かのために必死になった、という行為が、過去の経験と直結して、私にその記憶を思い出させたのです。それは私がこのような体になってしまう直前の、私の家においての日々の出来事であり、そんな日々を一緒に過ごした人との思い出でした。

 

「……兄さん」

 

脳裏をよぎるのは、傍若無人で、子供っぽく、わがままで、ヒステリックで、自分勝手で、他人は自分が楽しく過ごすための道具としか思っていなかっただろう、そんな私の血の繋がらない十年もの眠りから目を覚ました兄と過ごした日々の記憶であり、兄が私のことを家族と呼んでくれたあの日の記憶でした。

 

それは私が人として生きた記憶の中でもほんの一部でしかない日々でしかありませんでしたが、それはおそらく私にとって最も変化と驚きに満ちた日々でした。それは周囲に対して常に隠し事をしながら拘束されて生きてきた私が、私を縛り付ける全ての戒めから解き放たれ、自分の意志で行動を選択し、生きることの出来た日々だったのです。

 

私は私のこれまでの愚かさと短慮さからこのような結末を得てしまったことを悔いてはいますが、あの時の、あの兄の言葉に勇気付けられる形でこの結末に対して一歩を踏み出す選択をしたことや、あの時、兄を助けるために私の身を差し出す事を決心した事を悔いたことは決してありません。

 

あの時私は、先輩や姉さんにおいて行かれてしまったと思っていた私には、けれど、味方がいる事を、家族がいてくれた事を知ったのです。あの時私は、兄さんが私に対してどのように思っいてくれたのかを知ることが出来たのです。あの時私は、世界にたった一人でも私の味方がいる事の心強さを知ったのです。あの時私は、どれだけ力がなくとも、弱くとも、自分の意思で自分の未来を決めるということは、美しいことだということを知ったのです。あの時私は、たった一人、頼りなくとも、それが自分勝手なものから生じた想いであっても、誰かの心配は嬉しいものだということを知ったのです。

 

そして、あの時私は、初めて、正義の味方などという綺麗な存在でなくとも、そんなものにふさわしい人でなくとも、人は誰かを救うことが出来るし、世界なんかよりもたった一人のことを優先するなんて、そんな自分勝手な思いを貫いてものだと学んだのです。

 

――そう、よね……

 

兄さんはあの時、世界のことよりも私のことを優先しようとした。あの兄さんのことだから、それは決して私のためを思って行われた行動ではないのかもしれない。ううん、むしろ兄さんのことだから、あの行動は一から十まで自分のために行われたものだったのだろう。

 

でも、そんな兄さんが自分のためにやった行動で、私は救われた。誰かが自分のためにとやった独善じみた行動であっても、他の誰かの救いとなりうることはある。自分勝手な誰かの行動が、他の誰かの救いとなることは十分にあり得る事なのだと、私は兄さんからそれを学んだです。

 

だから私は決心しました。私はあの子のためにこの計画を――

 

「私は――、あぅっ!」

 

ですが、決意を新たに想いを抱いたその瞬間、先程よりも更に強烈な痛みが脳の中を駆け巡りました。痛みは魔術回路を酷使した時よりも、蟲蔵の中で拷問じみた調整を受けていたものよりもさらにひどく、全身の肉が黒焦げになるほどの火傷を負ったかのようなものが、絶え間なく襲い掛かります。

 

『――何を考えている。やめろ。それは悪しき考えだ。そのような間違った記憶を後生大事に抱くものじゃあない』

 

「う、く、うぅ……」

 

幻聴として聞こえてくる声は先ほどの私の幻聴よりも遥かに強制力をもっており、痛みと共に私に服従を求めてきます。それは間違いなく、正気を保つためのシステムが、私の脳にその思考を間違えであるという認識を刻みつけるためのものであるのでしょう。

 

『消去を。世界の永劫の安寧のためにはその記憶は不要だ』

 

「あ、あ、あ、あぁ、あぁぁぁぁぁ!」

 

 

『精神に異常を確認。バグを修正後、再起動/リブートします』

 

続く痛みは先ほどのそれを上回り、私の脳より長い眠りから目覚めた兄さんと過ごした短い日々と、それに付随して起きた出来事に対する感情の目覚めを消し去ろうとします。

 

『危険。危険。危険。危険。危険。危険。危険。危険。危険』

 

「う、うぅ……」

 

『消去。消去。消去。消去。消去。消去。消去。消去。消去』

 

言葉が聞こえるごとに、思い出と私の思いついた悪魔の計画は露と落ちて霞のように消えて行きます。私はそして、再び世界のシステムとして正しい状態に直されようとしていました。

 

――姉さん……、先輩……

 

焦眉の事態に焦りが生まれます。そうして私の我儘が兄さんの思い出とともに消え失てゆく最中、断続的に鋭い痛みが繰り返される私の脳裏へと浮かんできたのは、その時の兄さんのように、かつて私の感情を引き出してくれた二人のことでした。

 

――ごめんなさい

 

私はそして再び決心しました。私はあの子のために、世界の全てを使う決心をしました。私はあの子のために、他の誰かの犠牲をよしとする決断をしました。それは正義の味方を目指していた先輩や、その伴侶になることを選んだ姉さんが聞いたら激昂して卒倒してしまうかもしれない答えでした。

 

それでも私はそうすることを決めました。私は他の全てよりも、あの子の幸福の方が大切だったのです。私はそのために、他の全てを見捨てるそんな選択をしました。

 

――私はやっぱり、もう、間桐家の人間です。

 

私は私の大切なもののために、そのほかの全てを捨てる選択をしました。私は守るべき正義を峻別しました。私はもはやあの子の幸せ以外に欲するものはないと、そう、断定したのです。私はあの子の幸せのためなら、それ以外の全てを自分勝手に扱う、私のかつての想い人と、その伴侶である実の姉ですらあの子のために消費する、そんな決心をしたのです。

 

――私はやっぱり間桐家の人間で、魔術師で、自分勝手な兄さんの妹なんです。

 

だから私はあの子の幸せのために、私にとって大切であるはずの彼らすらをも利用する決心をしました。私は私の幸せのために彼らの良心と過去を利用するそんな計画をしかしどうしても諦められず、彼らの正義が私の娘の未来を助けてくれることを期待して、瞬時のうちに計画を封じ込めた魂を分裂させ、地上へと送り出すことにしたのです。

 

 

「う……」

 

作業を終えた瞬間、痛みは余韻すら残すことなく嘘のように引いていきました。痛みにて鈍っていた思考が戻ってくると同時に、言い表せない無念や罪悪感のようなものが湧き出てきて、しかしそれは瞬時に正気を保つシステムによって補正されてしまいます。

 

「ああ――」

 

――私が正気に書き換えられていく

 

結局私には、私自身の手でメルトリリスを救う計画を実行する自由は許されておらず、それを考えることすら禁忌だったのです。世界の安寧を守る旧人類が敷いたシステムは、私のそんな些細な気の迷いの果てに生まれた計画を、すぐさま消し去り、私を正気の状態へと戻してしまいます。

 

おそらく次に私がメルトリリスと会う時、私はいつも通りの私に戻っていることでしょう。そしてメルトリリスが望む通り、旧人類のシステムが望む通りに、私は世界から強者を排除し続ける作業に勤しむのでしょう。

 

私にはもうそれを止めることはできません。だから私は最後の最後、私が最も好意を抱いていた先輩と、最も羨んでいた姉に、私の娘を託すことにしたのです。

 

「――お願い」

 

記憶どころか、無念さえも残さず、私の狂気が正気へと書き換えられるその寸前、私は私の狂気の最期の力を振りしぼって正気を強いてくるシステムに抗うと、私の魂を分裂させ、地上の、母親の子宮にて揺蕩っている適当な胎児へと埋め込みました。私はそして、私の魂を埋め込んだ彼女が、やがて同じ魂同士は誘因されるという性質により、いずれ先輩や姉さんに近づき、私にはできなかった計画を実行してくれる事を期待したのです。

 

――本当に、ごめんなさい、先輩、姉さん。

 

それはとても卑怯な行いでした。私は最後まで、本当に臆病で、無力な女でした。私は本当に臆病で、どこまでも他人にすがってしまう、自立しきれないそんな人間でした。

 

――そして兄さん。不出来な妹で、本当に、ごめんなさい。

 

私は最後まで、人に頼ってばかりの、誰かに救われてばかりの、誰かに救いを求めてばかりの人間でした。誰かを頼ってばかりの私にこれ以上誰かを頼ろうとするのは、奇跡にすがろうとするのは、厚顔無恥に過ぎる願いかもしれません。ですが――

 

――それでも、どうか、この願いだけは。この夢だけは、望む事を許してほしい。

 

この夢は誰かに利用されてばかりだった私が、誰かに舵取りを任せていたばかりの私が、初めて望んで、練り上げて、計画しようとした、私が唯一自らの意思で戦った証であり、私が心底望んだ夢の結晶なのだから。

 

 

『修正を完了。再起動/リブートします』

 

 

 

ヴィグリーズの地

 

 

つぷり、と、静かに金色の鎧から棘が引き抜かれてゆく。とげとげしい意匠をした膝の先端の部位からわずかに血を垂らすだけだった銀細工の足甲が、ギルガメッシュの胸から失せてゆく。同時に砕けた黄金の鎧の隙間より引き抜かれる銀細工の足甲にはギルガメッシュの胸から漏れた鮮血が巻き付き、湯気立つ命の証が細い足甲を通じて地面の濃い赤の中へと消えてゆく。それはギルガメッシュという英霊の命が世界の中に消え失せようとしている確かな証だった。

 

「き――、さ、ま」

 

自らがいかなる状態になったのかを悟ったギルガメッシュは、あらんかぎりの憎悪を込めて、自らの胸を貫いたその下手人をにらみつける。

 

明眸皓歯。鮮眉亮眼。鬟鬢如雲。繊細腰肢。傾城傾国。艶若桃李。貌若天仙。

 

つまりは輝く瞳と白く美しい歯、くっきりとした眉とつぶらな瞳、烏の濡れ羽色のような長く美しい髪、すらりとした優雅な柳腰に、国を滅亡に追いやるような艶やかな雰囲気と、桃やスモモのように麗らかな肌を持つ、愛嬌備えた仙女の如き美貌の少女がそこにはいた。

 

「ふふ、あら、こわい顔」

 

だが、そうして向けられた視線だけで人を殺せそうな顔を、メルトリリスと名乗った少女は涼やかな笑みを浮かべながらまるで花束でも受け取るかのように受け入れると、引き抜いた足を大きく軽やかに振るいつつ、ギルガメッシュと距離を取る。仕草に、足甲へと蛇のように纏わりついていたギルガメッシュの血液が火花のように宙を舞う。

 

「――なるほど。これが感情を向けられる感覚。悦び、というものなのね。ふふ、ずるいわ。なるほど、夢中になるはずよね。こんな悦び、一度直に味わったら、二度と忘れられるわけないじゃない」

 

メルトリリスは陶酔した表情を顔に浮かべた。幼いその顔はまるで悦楽を覚えた娼婦であるかのような妖艶さを醸し出し、そのアンバランスさが生み出す倒錯的な魅力が、メルトリリスという存在は実在のものであることを否が応でも確かなものとする。

 

――「え、なに?」「何が起きたの?」「お、おい、あれを見ろよ! ギルガメッシュの胸が……」「血、血が……」「おい、大丈夫なのかよ! 位置的に致命傷だぞ、あれ!」

 

やがてそんな魅惑に導かれるようにして振り向いた冒険者たちは事態に気付き、折々の声を上げ始める。声は大半が混乱を示すものだった。

 

「金ぴか!?」

『ギルガメッシュ!?』

 

騒動が停止していた時間を動かし始めたらしく、やがて異常を把握したギルガメッシュより少し離れた場所でエミヤとシンの決闘を眺めていたランサーやゴウトが駆け付け、そして同時に、ギルガメッシュが致命傷を負っているという事実に驚きの表情を浮かべた。だがギルガメッシュは己の身を案ずる彼らの呼びかけに反応することなく、相変わらず憎悪の視線をメルトリリスに向け続けている。

 

「……敵か」

「――そのようですね」

 

集まったランサー、ライドウ、ゴウトの一同は、ギルガメッシュの向ける視線とその殺意に満ちた態度から誰が彼にこのような傷を負わせた下手人であるかを悟り、各々の獲物を構えた。彼らの反応を見て、ギルガメッシュという彼のそばにいた響も慌てて身構える。

 

彼らのそんな所作に導かれるように、ギルガメッシュの後ろに控える冒険者たちも各々に身構えた。先の決戦に手持ちの武器を投げ込み失ってしまったものもいたが、彼らは予備の武器を取り出していた。

 

「あら、さすがに分が悪そうね」

 

殺意と敵意の集中をその小さな体躯の全身で受けたメルトリリスは、しかし悦楽が深まったかのような表情を浮かべると、踊り子/ダンサーのように身をくねらせ、その長い裾で自らの喜びにゆがんだ口元を隠した。

 

「間抜けめ。今更気付いても遅いぞ、この痴れ者が」

 

ギルガメッシュが静かに述べる。言葉は世界を切り裂くかと思うほどに鋭いものだった。同時にギルガメシュの手に特異な形状の剣――エヌマ・エリシュが出現した。彼の手の内に現れたその剣は、出現したその時点よりすぐに刀身を形作る複数の円柱が耳に痛いくらいの高音域の音色を発し始めている。

 

「殺す。塵一つ残さずこの世から消滅させてくれる――」

 

ギルガメッシュは目の前のこの女を仕留められるのであれば、もはやそれ以外の何も望まないというそんな勢いで、体に残る全ての力を剣に力を注ぎつつあった。

 

「そうね。さすがの私でも、真正面からそんなものを食らえば、ただでは済まないわ」

「後悔しても今更遅い。我は世界に貴様という愚者の存在があるというだけで、もはや我慢ならん。この一撃によって即座に我が眼前より消え失せるがいい!」

 

そしてギルガメッシュは剣を振り上げた。彼の極限までに濃縮された怒り形になったかのような熱と暴風が周囲にばらまかれる。それは彼の背後に身構えて待機する世界に名を遺した腕利きの冒険者たちが、しかし気を抜いた途端吹き飛ばされてしまいそうなくらいの勢いだった。

 

「消え去れ! エヌマ――」

 

そしてギルガメッシュが胸より流れ出る血のことなど一切気にする事なく、全力で剣を振り下ろそうとした、その瞬間――

 

「そうね。その一撃、くらってしまえばただでは済みそうにないから――、くらわないで済むようにしちゃいましょう――」

 

長い裾にて口元を隠していたメルトリリスは妖艶さ残るその口元をあらわにし、そして同時に言う。

 

「弁財天五弦琵琶/サラスヴァティ・メルトアウト――」

 

言葉と共に、突如として足元が大きく揺らいだ。その揺らぎは巨大で、その場にいるメルトリリスを除くすべてのものが大きく姿勢を崩された。

 

「これは!?」

「せ、足元が、溶けて――!?」

「――せっかくだし、教えてあげましょう。これが人造女神である私の宝具、弁財天五弦琵琶/サラスヴァティ・メルトアウト。本来ならば文明や人の精神をとろけさせるだけのこれは、私の受肉化に伴い、物質にも影響を及ぼすようになった」

 

その事態は地面が揺れる振動によって生まれたものではなく、固定化していた赤い液体によって作られていた地面が、元の形状を取り戻したことにより起こった現象だった。桜の策略により複数神霊の複合サーヴァントとして受肉化を果たしたメルトリリスは、自らの体を形作るに使われた存在の力を存分に発揮し、そんな現象を引き起こしたのだ。

 

「いったい、なにが――!?」

 

そんな中、異常な事態を感知したのだろう、決闘を行っていた二人のうちの片割れ、エミヤが、ボロボロの状態のまま、ぐらつく人の群れをかき分けて姿を現した。

 

「あら、主役の登場ね」

 

メルトリリスはエミヤを見やると、微笑んで言う。

 

「私の名前はメルトリリス。アーチャー、いえ、エミヤシロウ。――ああ、本当に、予想していた通りの素敵さだわ! 実際にこの目で見るのがこんなにも胸躍るものだとは、私、思いもよらなかった!」

「な、なんだ、君は!?」

 

エミヤの姿をその目にしたメルトリリスは、まるで少女のようにはしゃいでみせる。その姿に困惑したエミヤが疑念の声を飛ばすと、メルトリリスはその瞳に少しばかり非難の色を携えて、言った。

 

「でも、だめ。いまのそれはいただけないわ。女に物を尋ねるときは、もっとエレガントに、美しく、粋に、相応しい舞台でやってくれなくっちゃ」

「君は、何を――」

「――そうね。一流の役者にはそれに相応しい舞台が必要だわ。だからわたしが、そんな正義の味方の貴方に相応しい夢の舞台に――、この世界をつくり変えてあげる」

 

言葉と同時に、崩壊しつつあった足元は完全に粘度が失せ、その場にいたすべての人間がその呪いの中に飲み込まれる。そして世界からは、赤黒く染まった地面と、茫洋とした砂漠の世界と、天井に残る大きな裂け目以外のすべてのものが消え去ってしまっていた。

 

第十話 終了




追記
お見苦しい所をお見せしました。申し訳ありません。予定といたしまして残り四話+後日談的なものを幾つかで終わる予定です。本物語のシナリオ、プロットに近い状態の部分は、そこまで書ききってから改めて推敲、修正、小説化していくつもりです。ここら辺書き込み足りないよね、というご意見の書き込みありましたら、なるべくご対応していくつもりです。

修正の完了と前後して、この物語を作っているときの余りで幾つか書き上げた、本物語を軸にした水戸黄門的な紋切り型のお話や、この物語とは関係ない小説化してある少年の冒険譚や少女の葛藤話などを気ままにアップしていこうと思っておりますので、お手透きの際の暇潰しにでも使ってください。

それではひとまず、ここまでご一読くださりありがとうございました。


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第十一話 Fate/EXTRA

第十一話 Fate/EXTRA

 

副題 存在と無、正義と微笑、ジゼルとアルブレヒト、ライラとマジュヌーン、見えるものと見えざるもの、夢の終わり

 

 

女の話をしよう。

どんな女も二つの仮面を持っている。

母としての仮面。

娘としての仮面。

あの子を守らないと。母の仮面は言う。

彼は私だけのものだ。娘の仮面は言う。

聡い女は仮面の使い分けをできるが、たいていの女はそうでない。

ほとんどの女は、母の仮面をかぶっているとき、同時に娘の仮面をもかぶっている。

なんで私の愛情を受け取らないの。母の仮面は言う。

なんでもっと愛してくれないのよ。娘の仮面は言う。

無邪気にそれを言う女は、さぞかし気分がいいだろう。

だが二つの心を向けられる男はたまったものじゃない。

なにせ男は、母と娘を満足させる方法を常に模索しなければならないのだから。

母と娘はカードの表と裏。

母が求める満足は、男が自らに向けてくる愛を上回る愛を男に注ぐこと。

娘が求める満足は、男が自らの愛を上回る愛を自らに注いでくれること。

あちらを立てればこちらが立たぬ。

分水嶺丁度に注いだところで彼女らは満足しない。

女とはまさに蠱毒の呪いそのものだ。

扱い方を損なえば即座に我が身を焼く魔性の化身。

そう、女とはまさに――

 

なんだ。クライマックスの邪魔するんじゃあない。

 

――なに? 『女によって管理された世界があったとしたらどうなると思う』、だって?

 

――お前、そんな、恐ろしいことを聞くものじゃあない。

 

どんなに愛を注いだ所で満足しようとしない。

どんなに愛を注がれても満足しようとしない。

それが女だ。

 

そんな存在に管理された世界というものが健全なものになるわけがないだろう?

 

 

「――桜?」

 

いつも通り地上で悲鳴と怨嗟の収穫を行なっていると胸騒ぎがした。より正確にいうならば、もしも私に体があったのであれば、胸騒ぎと例えただろう予感が思考をよぎっていた。

 

『――やめてくれ……、なんで俺が……』

「ああ、もう、鬱陶しいわね。死になさい」

 

苛立つ思いを聞こえもせぬ言葉に変換してぶつけると、月への帰路を急ぐ。フォトニック純結晶を触媒としてその中に封じ込められている魂は光の速さで動くことを可能とする。故にそれがたとえ月であろうと、私の魂は瞬きした次の瞬間には、月の裏側に到達するのだ。

 

「……ああ、もう! もどかしいわね!」

 

けれど、たった一秒、二秒位ほどのそんな短い距離がこれほどまでにもどかしく感じたのは、この世界の裏側という場所に生まれ落ちてから初めての経験だった。私の魂はこれまでに味わったこともないそわそわと苛立ちを抱えながら、いつものように他人の魂を抱えて、月の裏側の領域へと急ぎ足を運ぶ。

 

『魂を……』

「煩いわね。さっさと連れてきなさい」

 

刹那よりも短い時間だけいつもより早く我が家へと帰宅すると、亡者か何かのように優雅さのかけらもなく強者の魂を求めるシステムに望みのものを預けると、即座に桜の肉体が収納されている隔離領域へ足を――、否、自らの魂をその場所へと急がせた。

 

「――桜?」

 

深淵の闇に一歩を踏み入れたのち、小さく問いかける。声は空間に残響も残さず吸い込まれていく。返事は――、ない。一抹の不安を覚えた。声が消える――とはいってもただ無限に底のない闇が広がるだけのそこはしかし余さず桜の領域であり、つまりは桜の意識そのものだ。つまり私は今、桜の脳内に直接声を送り込んだのに等しい事をした。にもかかわらず、常ならば瞬時に返ってくる弾んだ声が一切聞こえてこないという事実が、嫌な予感というものをさらに大きなものへと変化させてゆく。

 

「はい、なんでしょうか、メルトリリス」

「――」

 

けれど、そんな懸念を晴らすかのようにおっとりとしたいつもの桜の声が聞こえてきて、頭の中に生まれかけていた不安の靄が霧散する。

 

「何よ。いるならいると返事をしなさ――」

 

同時に、そんな払拭された不安の想いによって生まれた空隙を埋めるかのように、桜なんかに対して心配の念を抱いてしまったという苛立ちが湧き上がってきて、闇の中に現れた桜の魂を見る。そして。

 

「?」

「――桜?」

 

気づいてしまった。

 

「ええ。はい、そうですよ?」

 

――ああ

 

「――……どうしたの。最近ずっと塞ぎこんでいたと思ったのに、今日は随分と晴れ晴れとした様をしているじゃない? 何かいい事でもあった?」

「……、いえ、別に、何も」

 

――この桜は、もう私の知る桜じゃない

 

「――そう。ならいいわ。……私はまた出かけるわ。桜。あなたはどうするの?」

「それは勿論――、私もその作業を手伝いますよ」

 

桜はそして寸分に迷う様子もなく平然と言ってのけた。

 

「――っ!」

 

瞬間、疑念は確信に変わってしまっていた。桜は壊れてしまっていたとはいえ、心の奥底に眠る良心を捨てきれない、そんな甘っちょろい性格の人間だった。桜は私のためと言いながら、もう慣れたと言いながら、しかし強者に手を下す際に自分はもう悪党で汚れきった存在なんだと自らに言いきかさなければ、他者を殺すというその行為を行えないような、そんな弱い女だった。――そんな、女『だった』のだ。

 

「……そう。好きにするといいわ」

「はい。そうさせてもらいます」

 

桜は変わらない。桜は依然とまるで変わらない。桜にとって大事な何かを失ってしまったはずの桜は、しかし、いつもと変わらない様子で、いつものようにそういってのける。今や桜にいつものような不安定さと陰りはない。桜は今や、健全に、完全なる正気を保っていた。

 

「楽しいですね、メルトリリス」

 

桜が無邪気に語りかけてくる。桜と同じ顔をした、しかし桜でなくなった女が発するその言葉は、あまりに私を不愉快にした。だから私は――

 

「ええ。そうね――っ!」

 

だからこそ同意の言葉を吐く。朔望の繰り返しは終わり、永遠に続くと思われた蜜月の時は終焉を迎えてしまった。それを自覚した瞬間、初めての感覚を味わった。魂の内部を駆け巡るそれは、私の魂に生まれてしまった欠落を埋める代償を求めて、全身を駆け巡る。

 

だが私の魂が求める欠落の代償は見つかるはずもなく、瞬時ののち、ぽっかりと穴の空いた、居ても立っても居られない、今すぐにこの場から逃げ出して喚き散らしたい衝動に駆られていた。それこそが、今まで知覚欠損に伴う不感症である自分が知ることも無かった、痛みなのだという事を、今や正気となってしまった桜の記憶から思い知る。

 

思いもよらぬ、しかし考えれば当然の場所からやってきた心をも打ち砕きそうな衝撃に、しかしエレガントさを決して失うまいと意地を張って平静をなんとか保つ。その作業はこれまだ味わった事がないほどにうんざりとする辛く気だるいものだった。

 

「――メルトリリス?」

「なんでも、ないわ」

 

桜の声を聞くたびに湧き上がってくるその痛みをこれ以上味わいたくなくて、その呼びかけを切り捨てて背を向けると、早急に地上へ向けて旅立つ準備をする。桜自身である闇の中から抜け出すと、桜からと出会った事により生まれた痛みが、桜と離れて行く事を自覚する程にジクジクと心を侵食する。

 

「そう、なんでもないのよ――」

 

桜は変わった。桜は変わってしまった。桜の魂には欠落が生まれていた。桜は彼女にとって大事な何かを完全に失ったのだ。私にはそれがわかる。私は桜の魂から生み出された別人格なのだから、わからないわけがない。

 

「そう、なんでも――」

 

今の桜はもう悩まない。今の桜はもうかつてのように困った顔を見せない。今や桜はいつだって不気味なくらい口角を上げてにこやかに笑っている。今だってきっと、桜はあの真っ暗闇の中で、不自然なくらいに明るく正気の顔を浮かべて揺蕩っているのだろう。

 

――馬鹿な人

 

私には桜がなぜそうなってしまったのか、見当がついている。私には桜が彼女の精神を管理するシステムからそのような処置を受けてしまったのか、見当がついている。おそらく桜は。

 

――叶わない夢に手を伸ばそうとした挙句に死んでしまうなんて……

 

私が語った『アーチャーと恋がしてみたい』という世迷いごとを、しかし真剣に実現させようと考え、そして何らかの手段を思いついた結果、それが世界の平和を完全に乱すようなものであったために、システムから修正を受けてしまったのだろう。

 

「桜――」

 

桜。己の孤独を解消するため、私という存在を、この、ほかに誰一人として存在しない闇の中へと生みおとした、私にとって生みの母であり、育ての母でもあるような女。桜は弱かった。桜は一人では何一つとして成し遂げられないような女だった。桜は、だからこそ、私/メルトリリスという強い人格をその身の内から生み出したのだ。

 

桜は臆病で、弱虫で、意地っ張りで、孤独を恐怖し、世界に一人であるという状況から逃れるためであるならば、他人のために尽くすことを厭わず、むしろ喜びとするような、そんな弱く、依存的な女だった。だというのに。いや、だからこそだろう、桜は倦怠に倦んでいた私という同居人のために、何かをしてやろうとして、結果として、正気を失って――、否、狂気という個人の我欲を失い、他人の定めた正気という状態へと書き換えられた。

 

「ほんと、馬鹿な女ね、貴女は」

 

言ってしまえば桜は、私のためにこのような状態になってしまったに等しいのだ。私の不用意な一言が、桜という女の嗜虐心と依存欲と母性を刺激し、桜は、所詮は自分から生まれ落ちた欠片にすぎない私を愉しませたいと考え、馬鹿な計画を思いついたに違いない。

 

「メルトリリス?」

「私ならそんなことしないわ。私ならそんな無様な真似はさらさない」

 

独り言が誰に聞かれるわけでもなく月の裏側へと消えてゆく。桜。最後の最後まで、他人の理想のために身を挺して願いの礎となり、魂の死を迎えた女。システムによって再び正気の状態へと書き換えられてしまった今、システムが狂気であると判断したそんな桜の計画を、おそらくは実現していれば自分の真の願いをかなえてくれただろう計画の全容を窺い知ることは難しいだろう。

 

「だって私は、不変の女神。桜の強い部分を抽出して生まれてきた存在」

 

仮に知れる機会が、思いつくことがあったとして、おそらくは世界の平和と引き換えにするかのようなものだったのだろうそんな計画、私が知った時点で、私という存在も書き換えられてしまうに違いない。自分が自分でなくなる。それがいかに残酷な事であるかは、今まさに目の前にいる存在から学習済みだ。私は自分がこのような無様な状態になるというのであれば、それこそかつての桜のように死を願うだろう。そう。あの弱い桜と同じように。

 

「――ほんと、笑えるくらい、最っ高に最低のシナリオだわ」

 

故に私は、桜が考え付いただろうその計画を知ろうとは思わないし、仮に知れたとしても、それを実行しようなどと思うことは、きっとないだろう。私の名前はメルトリリス。世に不変を保つために闇の中より生まれ出でてきた、機械仕掛けの人造女神。不変を保つことこそがこの身の存在意義/レゾンテトール。

 

「そして貴女は本当に、本当に、馬鹿な女だわ」

 

桜は本当に馬鹿な女だ。分不相応な願いを抱えてしまったばかりに、他人のために何かをしようとなど考えたばかりに、こうして何とも無様な自己同一性/アイデンティティを喪失した状態に魂を書き換えられてしまうのだから。――でも。

 

「――でも、ま、そうね。仮にいつかどこかで、そんなチャンスが転がり込んできたとしたら、貴方のその無様さに免じて――、貴方の望み通り、一人の女として幸福の夢を見てあげてもよくてよ」

 

続く暗闇の中で一人魂を走らせていると、湧き上がってくる想いを裡に留めておくことが出来ず、抑えきれなかった痛みが文句となって外へと漏れだしていた。自分には知覚機能などというものがなくて心底なくてよかったと思う。涙などというくだらぬ無様さの証明がこの世に残りなどしないでくれるのだから。

 

「ほんっと、最低よね」

 

そしてメルトリリスは月より失せてゆく。月の裏側にある闇には不気味なほどの静寂さだけがとり残されていた。

 

 

闇ばかりが広がる漠とした見慣れた空間の中、しかし慣れぬ触覚の感触に戸惑いながら、遠く闇の中を彷徨う、大小様々な存在を眺めている。自分より遠く離れた場所、そんな闇の中において漂う存在とは、すなわち人間の服や装備の数々だった。今や世界中の殆どの人間が呪いに飲み込まれたというそんな証と存在達を眺めていると、改めて不思議な気分に陥る。

 

「……まさか本当にそんな時がやって来るとはね」

 

誰に話しかけた訳でもない言葉が呪いの中へと溶けてゆく。YHVHなどという大物の神が召喚されたことにより、世の中の現実と幻想の境界線は薄らいでいた。加えて、あのYHVHや、ギルガメッシュという管理者の望みが、星の外、システムの管理外へと人間どもを連れて行く事だとわかったその時点で、世界のシステムもこの非常事態に対応させるべく、私というこの事態に対応できる能力を保有した存在が、肉体を持ってこの世に顕現する事を許容した。だからこそ自分は、サコという少女の体を用いる事で、地上に転生出来たのだ。

 

「奇跡なんて陳腐な言葉、信じてなどいなかったけれど……」

 

視線を遠くから手元へと引き戻す。すると、遠くに流れていく人間の残骸とは異なり、人の形を服装と共に保った、十数人の人間の姿が目に移る。自らの力によって闇の呪いから守られている彼らの存在を眺めながら思う。あの騒ぎにおいて目的を完璧なものとするために必要なカードを全て手持ちとすることはできなかったが、それでも目的を果たすためには十分すぎるほどの手札は揃っている。

 

少なくとも、最も自分にとってお気に入りの、これから繰り広げられる長い群像劇において主役を務めてもらうおうと思っていた存在が手に入っただけでも、十分な戦果だった。

 

これから起こる出来事を想像しながら彼の浅黒い肌を撫でると、それだけで驚くほどの多幸感が湧き出てきた。知らずのうちに手に汗が滲み、呼吸は浅くなっている。心臓はその時が来るのを待ちきれないと言わんばかりに鼓動を早めていた。

 

現実世界の肉体を得たことにより新たに取得したその感覚にやはり戸惑いを覚えながら、眠る彼の胸に頭を擦り付ける。途端、口角が貞淑を忘れたかのようにあがってゆき、加虐によって得られる喜びとは別種の高揚感が胸の奥底より湧き上がってきた。

 

湧き上がるそんな熱に背を押されるようにして、身を起こし、改めてその男の胸板に跨ると、その男の頭を抱え込みながら、決意する。

 

「さぁ、脚本は出来上がり、舞台の準備は整ったわ。いざ、永劫終わらぬ夢幻劇の幕を開けるとしましょう」

 

言葉を口にすると、瞬時に闇の中にあった自らを含めた全ての人の形を保った存在が、さらに濃い闇へと呑み込まれていく。

 

私たちは深い闇に包まれながら、永きにわたる夢の中に落ちてゆく。

 

どこまでも深く。深く。深く。深く――――――

 

深く。

 

 

題目 エミヤとメルトリリス

 第一幕 正義の味方と集う仲間たちは

 

 

「――――――――――――――」

 

静かだ。自分の心臓の音と呼吸がか細くかすれる音と、内臓の動く音だけじくじくと脳裏に染み入って聞こえてくる。

 

「――――――――――ヤ」

 

そのほかには何も聞こえない。自分を不快にさせるものは何一つとして存在しない、そんな場所に今自分はいる。心地よさだけが全身を支配していた。指先の一つに至るまでが、とろけるような快楽によって支配されている。

 

「――――――――ヤ」

 

吸って、吐く。脳が自然と下す命令に反応して、口腔と鼻腔から冷たく新鮮な空気が肺腑へと送り込また。入れ替わり、熱気と共に不要となった成分が放出されてゆく。ただそれだけの動作をここまで心地よいと思えるのはなぜだろうか。

 

「――――――ミヤ」

 

一呼吸ごとに内臓が、脳が、全身をめぐる血液によって運ばれてくる栄養を悦ぶかのように静かに揺れ動く。一定のリズムで繰り返されるそれらの胎動は、常日頃より文句ひとつとして言わない彼らの合奏であり、賛美曲でもあった。

 

「――――ミヤ」

 

――ああ、もう、なんだ、さっきから。

 

しかし内耳をくすぐるだけの静穏の中に聞こえてくる外部からの音が、快にのみ支配されていた意識へ不快を生む。心地よい静寂を切り裂いて耳孔へと飛び込んでくる音は、体内にて奏でられている穏やかなノクターンの調和を崩す不協和音の元となり、意識は自然に不快を引き起こす不埒な音へと集中した。

 

「おい、エミヤ!」

「――っ!」

 

途端、耳朶を打つその音が、自らが受け継いだ姓名を呼ぶ声だと気付き、意識が脳の奥底より急浮上する。数度ほど瞼をしばたかせると、断続的に飛び込んでくる光が意識の覚醒を手助けしてくれた。

 

「お、ようやく目を覚ましたか」

「――――――――、サガ?」

「おうよ」

 

数度ほど瞬きをして声の主人へと視線を向けると、見覚えのある、中世的で小柄な顔と特徴的な機械籠手が視界に飛び込んできて、反射的にその場より飛び退いた。軽く背が仰け反って、たたらを踏む。

 

「うぉっ! ……っと、ととと」

 

唐突な私の反応は彼女に驚きを呼んでしまったらしく、サガは驚愕の表情を浮かべると、私と同じような反応をして見せた。

 

「なんだよ! びっくりすんじゃねぇか!」

「――こ、こは……?」

 

サガよりの抗議の声をまるきり無視して、あたりを見渡す。視界には、見覚えのある石造りの家々が立ち並ぶ街の光景と、そんな往来を朗らかな顔を浮かべながら行く様々な格好をした人々と、そんな人々を祝福するかのように燦々と暖かな光を放つ太陽と、そんな日の光を喜ぶかのように広がる青色の空と稜線の向こう側ある山の光景が飛び込んできて、なぜかそんな光景が我が目に飛び込んでくるという事実を、なぜか不思議に疑った。

 

「なんだ、まだ寝ぼけてんのか? いつものエトリアの広場の光景じゃねぇか」

 

そんな私の疑念などまるで気付く様子もなく、サガは片手を光景を撫でるように動かすと言い切る。断じる言葉には一切の迷いがなく、それは私の疑念を払拭する何よりの特効薬へと変化した。

 

「……そう、だな。その通りだ」

 

確信を得させられたその言葉に、頭の中で鳴り響く疑問の声が失せてゆく。目の前に広がるその光景はサガの言葉が間違っていないことを証明する何よりの根拠となり、すぐさま私の脳裏より疑念の思いを拭い去っていった。

 

「おいおい、大丈夫か? まさか、こんな時間だってのに、まだ寝ぼけてんのか? ――かんべんしてくれよ。俺たちのこれからの予定を覚えているか?」

 

サガのこちらの無事を問う言葉はいかにも私の不肖を責めている。多少ばかり不躾さ混じる問いかけに誘引されるかのようにして、私は私の脳裏へと浮かんできた記憶を口にする。

 

「――ああ、ええと、確か」

 

――そうだ。確か……

 

「――ギルドで魔物討伐の依頼を受けたんだったな。確か――、そう、新迷宮の三層で新たに見つかった道の先にいる三竜すべてが勢ぞろいしている。不安だから原因を調査し、可能であれば、排除による解決を――、だったか……」

「お! よっしゃ、覚えてんじゃねぇか! ったく、心配させんなよな! この討伐作戦の主戦力であるお前がぼけてたんじゃ、生きて帰ってこれるかすらも怪しくなるからな! ――っと、なんだぁ!?」

 

サガはからからと快活に笑う。すると女性であることを隠すことをやめ、その体に見合った装備をするようになった小さな彼女の豊かな胸が揺れた。そのたわわに実った果実が揺れるさまは道行く幾人かの男性の視線を引き付け、視界と意識を奪われた男性のうちの二人が正面衝突を起こし、サガは驚いた視線を彼らへと向けた。

 

「おいおい、なんだってんだよ、不注意だな。大丈夫か?」

 

サガの言葉が己らに向けられていることを悟ったその二人は、己の正面からぶつかってきた相手とサガを交互に見比べながらばつが悪そうな顔を浮かべると同時に人形のように頷き、直後サガより顔を背かせながら、そそくさとその場から立ち去ってゆく。己らがなぜにそのような事故を起こしてしまったのかを語ることが出来ないが故の反応であるのだろう。急ぎ立ち去る彼らの背中からは、今この時ばかりは男の体が健全である事を恨むぞという、哀愁のような諦念が漂っていた。

 

「なんだぁ、あいつら。人が心配してやってんのに」

 

一方、彼らが何故にそのような反応をしたのかまるで見当もつかないという様子で、サガは左右交互に首をかしげた。応じて再び無防備に開かれているその豊かな胸元が大きく上下左右に揺れ、足を止めて今しがたの騒ぎを見ていた数人の男性の視線がそれに誘引された。長い間男を偽り過ごしてきた割には、この辺の男心というものに鈍いのだな、と、なぜか感心する思いがふと浮かぶ。そしてまた疑問。――さて。

 

「待たせたな」

 

――彼女は一体、いつからこのような格好をしていたのだったか

 

疑念に思った直後、やがて広場の中心にて待つ私と彼女に声をかけてくる存在があった。――ダリだ。背高の巨体にそんな巨体をも覆い隠す盾を背負った彼は、一枚の書類を懐へとしまい込むと、サガの方へ近づいた。

 

「――お、戻ってきた」

 

その後ろには、黒髪に見覚えのある赤い服を纏う凛、赤い槍を携えたシャツとパンツルックのランサー、横柄に腕を組むジャケット姿のギルガメッシュ、いつもの清楚さを置き去りにした白い太ももを見せつける改造施された和服を着用する玉藻などの姿も続いていた。

 

「まったく、この程度の雑事で我を呼びつけるとは、クーマとやらもいい度胸をしている」

「まぁまぁ、いいじゃない。どうせ暇してたんでしょ? それに最強と名高い三竜が勢揃いの異常事態とあっちゃ、最強の存在であるあんたの力も借りないときついだろうって判断したのよ、きっと」

「ふん……、まぁ、よかろう。今だけはその口車に乗せられてやる」

「は、まったく、口のへらねぇやつ」

「俺様気質に見合うだけの実力がありますから、非常に癪ですし困ったことですが頼りになるんですよねぇ」

 

ダリの後ろに続いてやってきた彼らは何とも自然な様子で依頼に対しての感想を語り、いつも通りにエトリアの風景へと溶け込んでいる。

 

――ん? …………、いつも通りに?

 

「あら、アーチャー。どうやら向こうも準備が済んだみたいよ」

「む」

 

ふいに浮かんできた疑念は、しかしやはりすぐさま他人の――、凛の呼びかけにかき消される。すらりと一本だけ伸びた白く細い人差し指の行方を追えば、見覚えのある三人の姿が目に移り、視線の移動距離が縮まってゆく。

 

「どうやら待たせてしまったようだな」

 

やがて互いの距離が言葉かわすに不自由しなくなった頃、シンは同時に謝意を口にした。迷いなく告げられた言葉にはまっすぐの誠意がこめられており、感化されるかのように、それぞれの我が強すぎてまとまりのなかった空気がさわやかな雰囲気のものへと染め上げられてゆく。

 

「おう、気にすんな。それで、どうだった、具合は?」

「うむ。――見ればわかるとも」

 

シンと同じく快活でさっぱりとした空気を纏ったランサーの言葉に、シンは手にしていた剣を前に差し出すと、その刀身をゆるゆると鞘から抜き放つ。

 

「――おぉ……」

「……ふん」

 

その薄緑色に輝く長い剣を目にしたその瞬間、ランサーの口から感心の溜息が漏れていた。睥睨するようにして興味な下げに見下した視線を送るギルガメッシュの目線にはしかして、関心の色が見え隠れしていた。

 

「あら、見事なものですね。千年ものの古刀には及ばないでしょうが、弱い魔物であれば一撃で払うくらいの威力が秘められているように見受けられます」

「――売ったらいくらくらいになるのかしら……」

 

目を奪われて言葉を失ったランサーと、素直でない態度を見せるギルガメッシュの代わりに、玉藻がその刀の感想を語り、凛があまりにも素直な本音を漏らしていた。

 

「売る気はない。――が、そうだな。少なくとも、凛。君の手持ちの宝石をすべて売り払ったより高い値で購入しただろうことは保証しよう」

「まじで!?」

 

シンが発した言葉に、凛は何ともはしたなく品のない声を上げるとともに、彼の顔を覗き込む。凛の目は品のない下卑た色に染まりあがっており、その様を見たその場にいる人間は、彼女のそんな態度に苦笑や失笑を漏らしていた。

 

「嬢ちゃんってさ……、ほんっと惜しいよな。内面さえもうちょっとまともなら――」

「う、うるさいわね! いいでしょ、別に!」

「そうとも。よいではないか。豊かさの象徴たる金を求めるは人間として正常の証。むしろそれを隠そうとはしない素直な態度には感心を覚えるくらいだ」

「う……」

「うーん、本心からの何気ない言葉がこういう場合、最も鋭い雷が如き刃になるんですよねぇ。くわばらくわばら」

「くっ……くっ、くく――」

 

コントのようなやり取りに触発されたのか、自然と笑みがこぼれていた。頭の中に渦巻いていた疑念が繰り広げられる穏やかな日常の前に消え失せてゆく。

 

「――む?」

 

不規則に漏れる息の音が周囲の関心を引いたのか、視線が一気に我が身へと集中した。一瞬にして静寂が訪れる。その場にいるだれもが、漂っていた空気を壊した下手人の次の言葉を待っているようだった。

 

「あー、その、なんだ」

 

不意の事態に多少面食らうも、自らの身へと集中した視線が、非難のそれというよりは、場面を転換する言葉を求めているそれであることに気が付くと、咳払いを一つして自らの気を引き締めるとともに、自然と周囲の彼らが望む通りの言葉を発していた。

 

「さて。では竜退治に向かうとしようか」

 

返事は迷いない首肯にて一斉に戻ってきた。

 

 

第三幕 猛獣襲いかかる森を抜け

 

 

「わりぃ! 数匹抜けられた!」

「ええい、間抜けな駄犬め!」

「んだとこらぁ!」

 

血をぶちまけたかのように赤い森林の中、地面を叩く無数の軽音をかき消すかのように、謝罪交じりの忠告と怒鳴る罵声とが交互に響き渡る。

 

『――!』

 

そんな彼らのやり取りを無様と嗤うかのように、その横に伸びた唇を凶暴にゆがめた緋色の文様纏う黒い体毛を持った大型の犬の群れが、男二人の守りを突き破り、彼らの後ろへと突進する。赤さが支配するその森の中を、そんな赤さよりもさらに色の濃い赤黒さを纏った存在が無数に駆け抜けてゆくそのさまは何とも幻想的で、敵の姿はさながら噴火したばかりの火山より無数に飛来する巨大な火山弾のようでもあった。

 

「ちょ、ちょと! 獣のくせに前衛の男ども無視して後衛のか弱い女子を狙うとかなんて生意気で破廉恥な犬畜生なんでしょ!」

「ああ、もう、言ってる間があったら防壁を張る! んでもって……、アーチャー! 後は頼んだ!」

 

凛は自らの身へと高速に迫りくる敵の姿に少しばかりの動揺を見せた玉藻に指示を飛ばしつつ叱りつけると、スカートのポケットから片手を抜いて身構えつつ、更に樹木の上に待機して戦場全体を俯瞰しつつランサーとギルガメッシュへの援護を行っていた私へと期待の声を飛ばしてくる。

 

「任された」

 

助けを求めるそんな声に応じ、引き絞っていた弓に番えていた矢じりの先端を、ランサーとギルガメッシュの前方で見事に屯して構える獣たちから女性二人に対しての敵意をあらわにする突撃する獣の群れへと向けなおすと、瞬時にその数の分だけ矢を追加投影し、狙いを定めて連続して矢を放つ。

 

『――グ、グゥル、グガァ!』

 

そして放たれた剣の矢は突撃する彼らの閉じた口の上部へと突き刺さり、赤黒い犬どもをその場へと縫い付ける。同時に数匹の獣の体から、鈍く耳障りな引き千切る音が聞こえてきた。それは、自らの突進の横の勢いと突如として斜めに撃ち込まれた杭の横方向の衝撃とを相殺しきれなかった幾匹かの大型犬の肉体が、相反する方向へ進もうする二つの力の勢いによって引き裂かれる音だった。

 

「ナイス援護! 喰らいなさい! ガンド!」

「ナイス! ナイスですよ、アーチャー! 炎天!」

 

顎の中央より頭部から胸部にかけてまでが断裂してゆく恐怖を味いながら血飛沫と脳漿をぶちまける事となってしまった数匹の獣に比べれば、飛来した剣と己の突進の勢いを相殺する事に成功し、その後、呪いの塊や呪術の雷によって五体満足のうちに死ぬことのできた獣どもは、まだ幸せだったといえるかもしれない。

 

「これで――」

「お、おい! あれを見ろ!」

 

敵の死に際に多少の情けを覚えながら、再び視線をランサーたちの方へと向けなおすと、向けた視線の先から上がる声に意識を奪われた。ランサーたちへと向けた視線は、続けて焦燥の様子見せるランサーの目線の先の方向へと誘導され、さらに彼の前方へと移動する。

 

「ちぃ。雑魚の分際でわらわらと数だけは立派に揃えて群れおってからに!」

 

そうして向けた視線の先、少し離れた場所から迫りつつ獣の大群を認めて、ギルガメッシュは心底鬱陶しそうに吐き捨てた。

 

「――ランサー! 凛と玉藻を連れてこの場を離脱しろ!」

 

迫りくる軍勢の数はあまりに多く、生い茂る樹木の中、樹木も地面も赤に染まったその森の光景をさらに濃い色で染めきれてしまうほどの数が、視界の先を埋め尽くしていた。赤く染まった樹木の隙間部分全てを塗りつぶすかのようにして迫りくるその大群を視認したその時、私は反射的にそんな言葉を放っていた。

 

「おい、アーチャー! どうする気だ!」

「あの数だ! 万が一乱戦にでもなった場合、彼女たちがいる分、こちらが不利だ! 私とギルガメッシュとが殿を務め、撤退しつつ敵を攻撃して数を減らす! 可能であれば殲滅も試みる!」

 

視界を塗りつぶすほどの数の獣の群れだ。奴らが合流し乱戦になれば、数の少ないこちらが不利になるのは必至。敵が一方面から押し寄せるばかりで、こちらには守るべき対象がいないという条件であれば、無論それも可能である自信はある。だが、こちらには凛と玉藻という、私やランサー、ギルガメッシュと比べれば接近戦が得意でない存在がいる。守るべき対象がいる状態で、全周囲が敵という乱戦状態になってしまった際、ざっと百を超える千に達しそうな数の獣を相手にしながら彼女たちを守りきるという芸当をやりきる自信は、さすがに私でも、ない。

 

だからこそすなわち、こうして百を超える数の獣が遠くにいる状態で一方向の状態で固まっているうちに、懸念となる二人を遠ざけ、また同時に、可能な限り敵の数を減らすことが、戦力の低下を防ぐ最適案だ。

 

「――了解だ! 任せたぜ、アーチャー! 金ぴか! いくぞ、嬢ちゃん! 玉藻!」

 

樹木の太い枝の上より地面へと降り立ち、思案から導き出した考えを短く簡単に告げると、ランサーはこちらの意図を把握したらしく、極めて凶暴に笑ってみせると了承の返事を発し、凛と玉藻のいる場所まで一足飛びに後退すると、手にしていた朱槍を一旦霧散させ、戸惑う彼女たちをその両肩に米俵でも乗せるかのように有無を言わさず担ぎ上げた。

 

「ちょ、ちょっと、アンタら――」

 

突如として戦闘方針を決められた凛は抗議の声をあげ、ポケットから引き抜いた両手を振りまわし、態度で不満を示した。魔術師としての冷静な一面が浮かんでいた顔は崩れ、代わりに驚きと戸惑いの感情が混じった表情が浮かんでいる。

 

「――お二人に簡単な強化の呪術だけかけていきます。距離が開いても、数十秒は持つでしょう」

 

一方、同じく手荒に扱われ、ランサーの方に担がれた玉藻は、先ほどまでのおちゃらけた様子が嘘であったかのように冷静な表情を浮かべてみせると、両手にしていた符を私とギルガメッシュに投擲した。玉藻の投げた呪力込められた紙が私の体に触れた途端、まばゆく輝く。同時に秘められていた強化の呪術の力が発揮され、私は自らの体にいつも以上の力があふれてくることを自覚した。

 

「――ふん」

 

同時に、私たちの前方、迫りくる獣たちから視線を外さず私たちに背を向けているギルガメッシュは、玉藻より投擲された強化の符をその背で無関心に受けとめると、一言吐き捨てた。後ろ姿からは彼が何を考えているかはわからないが、ランサーの行為を大人しく見送り、玉藻の援護を素直に受け取ったあたり、少なくとも私の提案に反対する気がないのは確かなようだった。

 

「嬢ちゃんたちを置いたらすぐ戻る。まってな」

 

玉藻の援護が完了したのを見届けると、ランサーはぽつりと述べ、二人を担いだまま私の横を駆けだした。

 

「――ああ、もう、わかったわよ! アンタら! 無事でなかったら承知しないからね!」

「ご武運を」

 

凛は激励の言葉を残し、玉藻は言葉の代わりに補助の呪術を残していった。言葉は心を、呪術は体を奮い立たせ、黒塗りの洋弓を握る両手に力が入る。

 

「感謝する。――さて、ギルガメッシュ。君がメイン。私がサブ。君がオフェンスで、私がバックスだ。君の保有する溢れんばかりの財宝で、可能な限りの敵を打ち砕いてほしい。君が撃ち漏らした存在は、私がすべて迎撃しよう。――準備はいいかね?」

「は、口のきき方には気を付けてもらおうか、雑種。そもそもあのような有象無象の雑兵、ここが世界樹の迷宮という、迷宮内部の環境の破壊が推奨されない場所でなければ、一気呵成、一網打尽に

このような余計な手間をかけずに殲滅できるのだ」

「もちろん知っているとも。君が頼りになる男だという事は、かつて聖杯戦争時、君と敵対し、君に殺されかけたこの私がこの場にいるだれよりも、この世界のだれよりも存じあげているとも」

「――ちっ」

 

不遜な宣言に同意を返し、続けざまに意思の根拠を証明してみせるとギルガメッシュは一気に眉をひそめて不機嫌そうにそっぽを向く。口は重く閉ざされており、もはや何を言っても返事は帰ってきそうにない。

 

「さて、ではいこうか英雄王。武器の貯蔵は十分か」

 

そのふてくされた態度をしかしながら同意とみなして戦端を開くための言葉を告げると、ギルガメッシュは柳眉に浮かぶ皺をさらに深くさせ、さらにその数を増やしながら、腕を組んだまま憎々しげに閉ざしていた口を開いた。

 

「――その不快な言葉を二度と口にしないと誓うのであれば、この場だけは貴様の素直さに免じて協力してやろう」

 

不機嫌さをあらわにしたギルガメッシュが手を振り上げる。すると何もない空中へ煌びやかな装飾施された武器が多数出現し、そのすべての切っ先が獣の群れへと向けられた。獣は何もない空間へと突如出現した剣群をみて一瞬ためらった様子を見せたが、足を止めることなく大地を駆け、速度を落とすことなく大地を揺らしながら地鳴りと共にこちらへと突撃してくる。

 

「――愚物が。畜生の分際で、彼我の戦力差も本能的に直感できぬか」

 

獣が自らと自らの宝具を侮っているという事実が、ギルガメッシュのただでさえ短い堪忍袋の緒を断ち切ってしまったらしく、ギルガメッシュは空中に浮かぶ武器の数をさらに増やすと、腕を振り上げた。

 

「ならばその愚かさの代償をその身に刻みながら、死んでゆくがいい!」

 

振り下ろすとともに、剣は空中に尾を引きながら、敵の群に正面より突入した。獣の群れのうち、最も果敢に前方を駆け抜けていた数十匹の犬の体へ宝具という異物はやすやすと侵入し、肉が裂け、血飛沫が舞い、脳漿が飛び散る。空中に赤と白の華が咲き乱れ、役目を終えた獣の残骸が大地を濡らしてゆく。

 

『――オォォォォォォォォ!』

 

凄惨を具現化したかのような死にざまを間近に目撃した後列の獣の群れは、しかし尖兵として犠牲になった仲間の血肉と死をまるで糧とするかのように、速度を増し、突撃の勢いを強めた。それに伴い、空中より降り注ぐ獣たちの死骸の欠片が、獣たちが踏みしめたことにより地面で飛び散る血肉が、雄々しく駆ける犬の黒々した肉体を生々しく染め上げる。

 

『――オッ! オ、ガ、グ、グル、グルゥォォォォォォォォ!』

 

と同時に、己の仲間たちの体液により血化粧を施された獣たちは、まるで仲間の無念を受け継ぎ感じ取ったかのように猛々しく咆哮すると、瞳を血走った赤色へと染め上げ、黒い体に刻まれた赤い文様を光らせながら、突撃の勢いをさらに凶暴なものとした。どうやらこの獣は、仲間の血を浴びるほどに発狂し凶暴化する性質の魔物であるらしい。

 

「さて、仲間思いなのか、狂戦士資質なのかはわからんが――」

 

ともあれ私のやることは変わらない。

 

「――私たちの本命は君たちでなく、奥に潜む三竜だ」

 

投影した剣を矢として番えて次々と射出すると、空中には再び無数の血肉が散華する。同時、目を爛々と輝かした魔物が血華の緞帳を破って次々と出現し、勢いを増しながらまっすぐやってくる。

 

「だから、悪いが、端役には早々にご退場狙おうか!」

 

そして戦いの第一楽章の舞台は幕を開けた。

 

 

第八幕 勇者達は潜む魔物と遭遇し

 

 

絶え間なく無数に湧き出てくる魔物を片っ端から殲滅し、新たに新迷宮の一層より発見された隠し通路を通りぬけた先、赤い大地と樹木林、密林を通り抜けた先にある、大地の中をきれいに十キロ四方ほどもくりぬいてつくりあげられた密閉空間にその存在は鎮座していた。

 

「――あれが……」

「――三竜」

 

はたしてその魂を失ってしまったかのような気抜けた言葉を発したのは誰だったのか。疑問にはっきりと『自分ではない』、と、断言できない程度には、前後不覚の境地に陥っている自覚がある。これまでの迷宮の番人部屋が小部屋に思えてしまうほどの巨大な部屋の中央に三匹の竜が坐している光景は、百戦錬磨であるはずの自身たちの視線を釘づけにするほどに神々しいものだった。

 

「――あれが三竜のうちの一つ『偉大なる赤き竜』……」

 

部屋の中央にその巨体を堂々と横たえているのは、西洋のイメージにあるいわゆる火吹きトカゲに似た、『偉大なる赤き竜』と伝説に呼ばれる龍/ドラゴンだ。火炎を鍛え上げたかのような赤を主張するそのどっしりとした体躯。体躯のあちらこちらには世界に対する憎悪を露わにするかのよう骨が突出しており、特に、頭部では内に秘められし歪んだ殺意を示すかのようにねじまがった黒い角が左右より一対生えそろっている。視線をおろしてやれば、敵の全てを打ち砕かんと主張する巨大な口腔からは灼熱を予感させる炎が、閉じた口の巨大な牙の隙間から漏れだしていた。悪魔を思わせる巨大な蝙蝠のような翼と言い、悪意を具現化させたのか先端が破砕槌のように発達している巨大な尻尾といい、王冠を戴くかのように生えそろった頭部の棘といい、なるほど中央に坐するその赤い竜は、『見たものに絶対の死を与える、紅き者、偉大なる赤き竜』の語りに恥じない姿をしていた。

 

「で、こっちの黄色いのが『雷鳴と共に現れる者』で……」

 

正気を取り戻した凛の言葉につられて赤竜より向かって右側に視線を送ると、そこにいたのは東洋的な龍のイメージを具現化したかのような姿を持つ、先の赤い竜の傍若無人な偉大さに劣らない、荘厳かつ神秘的な雰囲気を携えた、三竜の中の一、『雷鳴と共に現れる者』だ。

 

その龍は、その長い縄にも似た蛇状の体をくねらせながら空中を舞うかのように浮いていた。龍頭からはひょろりと長い赤い髭と長く束になって伸びる黒い顎髭がまるで王者の証であるかのように伸びており、その威厳を生むのに一役を買っている。霹靂を具現化したかのようなその黄色い鱗は長い体躯のはるか先の尾っぽまでを隙間なく覆いつくすその様は、まるで我こそ雷の化身であるぞと周囲に知らしめるかのような物言わぬ主張をしていた。

 

「あっちの青い三つ首が、『氷嵐の支配者』、ってやつか――」

 

続け様に聞こえてきたランサーの言葉につられてそちらを見てやれば、今度は全身を冬の寒空を思わせるほどの青を纏う異形の姿に意識を奪われる。三つ首のその竜は、先ほどの『偉大なる赤き竜』や『雷鳴と共に現れる者』が、古い伝承を形にしたかのような巣が手をしているとすれば、こちらはコズミックな、あるいは、人為的につくりあげられた生物/クリーチャーであるかのような外見をしている。

 

そう。『氷嵐の支配者』は、『三竜』という名を冠している存在の一画であるにも関わらず、魔物や竜というよりかは、人の近い造形をしている。鍛え上げられた鋼の肉体を凍土の永久氷壁から切り出したかのような青の鱗鎧で覆い、太ももの部分に日本甲冑にあるような黒金を持つそいつは、しかして『氷嵐の支配者』は、『竜』の名を冠するにもっとも相応しいのは自分であると誇るかのように、背には反逆を示すかのような蒼白の翼を携え、人の造形に似た胴体から天に向かって嘶くように長い三つ首を伸ばしているのだ。

 

『――』

『――』

『――』

 

やがてまるで置物であるかのように思うがままの方を眺めていた三匹の竜は、やがてようやく自らたちへと近づく存在に気が付いたといわんばかりの鷹揚さと尊大さを兼ね備えた態度で、悠然とこちらを向いた。はるか地の獄、灼熱の支配する世界より天に広がる大地を恨むかのような殺意を閉じ込めた赤き瞳が、世界の果て、物体を構成する分子のそのたった一つすらも活動を停止させるかのような冷たい瞳が、天上、はるか雲の上より地上に住むすべての生物を矮小と睥睨するかのような霹靂色の瞳が、その場に集った住人のいる地点にて交差する。

 

「――おぉ……」

 

伝説の一幕が顕現されたかのような圧倒的な光景を目前にして、シンが感嘆の声を漏らした。震える声には心底望んできたものをようやく目の前に出来たという思いがたっぷりと含まれているようだった。きっといつかは、と、望み、焦がれ、出会いたいと切に願い続け来たそんな存在が、三匹も同時に現れたのだ。彼のそんな思いや、想像を理解するにたやすく、しかし共感に至るには難しいものがあるといえるだろう。

 

「――」

「――」

「――」

 

一報、目を少年のようにきらきらと輝かせるシンの様子とは裏腹に、サガとダリと響は口をぽかんと開けたままの状態で固まっている。魂消た、魂を引っ込ぬかれた、という表現が彼らの様子を適切に表すにはおそらく最も適当だろう。彼らは突如として「目の前に現れた荘厳な幻想的光景を前にして、その魂の芯に至るまでを驚愕にて染め上げられ、それ以外の反応を封じられてしまったのだ。

 

「おぉ……、おぉ……!」

 

一方、同じくその魂の一欠に至るまでを驚愕と、加えて感動にて染め上げられたらしいピエールは、叶う事なら今すぐにでも手持ちの竪琴/キタラをかき鳴らして思いのたけを世界に解き放ちたいという、そんな思いを露わにするかのように、その細指を竪琴の糸に預けては、強く押し付け、しかし思いとどまり、指先に赤く薄い躊躇い線を残すさまから見て取れるだろう。そうとも、彼は必死に耐えていた。おそらくは、自らのそんな挙措が三竜を刺激し、唐突に戦闘が始まることを懸念しての事なのだろう。吟遊詩人としての本能はこの感動を一刻も早く歌い上げたいと叫んでいる。しかし優秀な冒険者としての一面が、そんな愚行はやめておけと責めている。おそらくピエールは今、そんな葛藤の渦中にあるのだ。

 

「は! 仰々しい名を冠していようが所詮は魔物! いずれは我ら英雄の足元にひれ伏す運命の畜生に過ぎない分際で、なんという無礼な視線を向けるものだな!」

 

だが、そんなピエールの必死の頑張りを無碍にして、三竜たちを刺激しかねない挑発的な大声を発したのは、もちろんというべきか、ギルガメッシュという存在だった。

 

「貴様ら愚図どもがこのような場所に集合したせいで、この我がこのような陰気くさい場所に足を運ばざるをえなくなったのだ! 恥を知れ、恥を!」

 

ギルガメッシュの顔にいつものような余裕綽々の表情はなく、むしろひどく苛立った様子で三竜へと攻撃的な言葉を投げつける。三竜はそんなギルガメッシュの言葉の内容を理解したのか、あるいは、ギルガメッシュのその態度から彼の放った言葉が自らたちに対しての侮蔑であり、挑発であると判断したのか、それぞれのギルガメッシュを睨め付けると、ゆっくりとその巨体をこちらへと近づけた。

 

「ちょ、ちょっと、ギルガメッシュ! あんた、何を余計なことを」

「は、真実を突かれて怒りを覚えたか! だがな! この世界において我に知りえぬことなどない! ええ、おい、三竜とやらよ! 貴様らなど、所詮は『三竜』などと言って恐れ戦かれるに相応しい存在ではなく、『三流』の呼び名にこそ相応しい三流の存在よ! 貴様たちのような、一流の冒険者や英雄どもの暇つぶしの道具であり養分でしかない存在が、このたび我という至高の存在をこのような場所に招きよせたこと自体がそもそもに罪深く、我には許しがたいわ!」

「あらいやだ! この御方、まるで人の話を聞いてやしませんわ!」

 

凛の制止の言葉を無視してギルガメッシュは吼え、玉藻が再度からかうように言う。

 

『――オォォォ!』

『――オォォォ!』

『――オォォォ!』

 

そんな挑発に乗せられたかのように、ギルガメッシュに格下と見下された事を怒るかのように、三匹の竜は同時に咆哮した。三匹の巨体、竜種より発せられる咆哮はギルガメッシュの言葉は真実でないといわんばかりに十キロメートル四方にも広がる空間へ拡散し、至近距離で耳にしたのならば音圧が三半規管を狂わせるだろう威力を持った赤竜のとどろく咆哮が、耳にした途端脳の機能が一斉停止し眠りに落とされてしまいそうな劈く叫びが、甲高いその音を耳にした途端に死の恐怖を引き起こされてしまいそうな威力を秘めた雷竜の呪われし咆哮が、不協和音の共鳴となりて閉鎖空間であるこの場の全てを揺るがした。

 

「――っ! まずい、来るぞ!」

「どうする、エミヤ!?」

 

遠くから聞こえてきた三種混合の不協和音の音色を前にして再起動を果たしたダリとサガが問うてくる。竜達は宣戦布告がわりの咆哮を終えたその瞬間に突撃してくるだろう。言葉を受けて一瞬思考を巡らせた私は、覚悟を決めてシンへと視線を送る。

 

「――シン」

「なんだろうか」

「――君はどれと戦いたい?」

「――」

 

問いかけるとすでに戦闘者として顔を浮かべていたシンは、整っていた顔立ちを一瞬崩してぽかんと魔の抜けた表情を浮かべると、しかしすぐににやりとした犬歯すら露わになりそうな凶暴な笑みを浮かべて口を開く。

 

「無論――、全てとだ!」

「――くっ」

「――はっ! はっはっ、あーはっはっはっはっはっ!」

 

予想していた解答が寸分たがいなく返ってきたことに苦笑すると、迷いない応答にランサーが大きく笑う。

 

「だよなぁ! 待ち焦がれていたこの機会! 出来る事なら獲物全てをこの手で倒し栄誉を欲しいままにしたいと思うのは当然のことだよなぁ! いや、いい返事だ!」

 

シンと同じく輪生体制にあったランサーは、しかし今やその狂える猛犬のようだった真剣なまなざしを大きく崩して、手にした赤槍『ゲイボルグ』を手にしたまま大笑いする。

 

「……はぁぁぁぁぁぁ」

「……ふぅぅぅぅぅぅ」

 

そんなランサーの態度とは裏腹に、サガとダリが顔を見合わせて重くため息をつく。ため息にはこれまでに彼らがしてきた苦労の全てが含まれているようだった。

 

「ねぇ、響。私が言えた義理じゃないけど、貴方、付き合う相手、もうちょっと考えた方がいいわよ」

「そうですよ、ご主人様! あれは家庭の事を顧みない、ダメ男の匂いがプンプンします!」

「あは、あははははは……」

 

凛と玉藻は経験談からくる忠告を送り、響はなんとか言い返そうとするもおそらく反論の言葉が思いつかなかったのだろう、苦笑するにとどまっていた。

 

「それでこそシン! いやぁ、いい歌が思いつきそうだ!」

「ふん、まっことに己が欲を偽らぬ強欲な愚者よ。――だが、それがいい。人間とはそうでなくてはならぬ」

 

ピエールは輝く視線をシンへと送り、ギルガメッシュは愛すべき愚者を見るそんな慈愛と嘲笑に満ちた視線をシンへと向けていた。

 

「で、どうするのだ、エミヤ」

 

そして様々な視線を受けていたシンは、こちらへと言葉を返してくる。シンの言葉に付随して、周囲の視線全てが私へと集中した。視線は様々な種類の感情が含まれているものだったけれど、一様に共通して、期待の感情というものが含まれている。そんな期待が私を昂らせ、いくつか思い浮かべた戦闘案の中から、最も困難で、しかし最もシンを満足させるだろうそんな案を選択させていた。

 

「――シン、ギルガメッシュ、ランサー、がオフェンス。凛、玉藻、サガ、響、ピエールはバックス。私とダリはオールラウンダーとして防御を主体に陣形を組む。直接の守りに長けたダリが主に前衛の守りを中心に引き受け、矢による迎撃や面での守護を得意とする私が後衛の守りを中心に行う。――戦力を分散しての個別撃破ではなく、三体同時に相手をしての撃破を狙う。――いいな!」

 

「ああ!」「ふん!」「おう!」「了解よ」「承知しました」「あいよ、了解!」「はい!」「もちろんです!」「任せておけ!」

 

個々の返事が三々五々に返ってくる。まとまりのないそんな様子に改めて苦笑を送りながら、しかし考えうる限り最高のメンツの承諾を喜び、改めて意識を三竜へと向ける。

 

『オォォォォォォォォぉ!』

『ガァァァァァ!』

『キシャァァァァァァ!』

 

三竜は三者三様に嘶き、咆哮し、巨体を震わせながら突進してくる。

 

「――いくぞ!」

 

常ならば幾重にも策を巡らせるはずの敵迫りくるその瞬間に、わずかながらも胸に躍る気持ちが湧き出てきたことを喜びつつ、たしなめつつ、仲間たちへと呼びかける。瞬間、彼らは己が最も最強と信じる武装をそれぞれに構え、私と共に目の前に迫りくる脅威へ向かっていった。

 

 

第十一幕 闇龍討伐戦

 

 

三竜。たとえそのうちの一匹であろうと、その存在を打ち倒したものは世界最高の栄誉を手に入れるだろうと言われるそんな存在のうち、三匹が三匹共、縦横高さ正確に十キロ四方も距離に開けた空間のその中心付近に物言わぬ骸の状態で地に伏して倒れている。

 

たった一匹であっても全長全高共に十キロの部屋をその十分の一以下のサイズであるかの様に誤認させるサイズの大きさをした三匹の巨体の体躯のありとあらゆる場所には、斬撃の痕と、貫通の痕と、抉れた痕が残っており、傷痕から覗けるその内部からは、死んでしまった主人の再生を祈るかのように、いまだに血肉が蠢き、湯気立っていた。

 

死骸の転がっている付近の地面は融解して煮え立ち、融解した地面には余熱を冷やすかのように全高一キロはありそうな氷柱が乱立し、柱の周囲にはオゾン化した空気が未だに漂っている。

 

死骸とそんな未だ戦火の痕が乱立するそんな大地の上にはまた、空間の果て、ともすれば地の果てにまで続いていそうなほどの巨大な一本線が、部屋の中央から真っ直ぐに敷かれており――

 

「認めぬ!」

 

その一本線の終端、部屋の中央には、天に向けて己の怒りを発露させる巨大な存在があった。その存在は、三竜と呼ばれた彼らよりもさらに一回り以上巨大な体躯をしていた。なりは四足の獣の胴体に人間の体を植え込み、その首を蛇種のものとすげ替えたような姿をしている。堕落した天使のごとく闇色をした体の背へ先端を剣のように尖らせた八本の刺々しい鉤爪翼さえ背負っていなければ、ケンタウルスと呼ばれる半人半獣の存在をイメージするのが最も適当だと言えるだろう。

 

「我は絶対の存在! 我は至高にして究極、全てを凌駕する破壊の王であるぞ!」

 

世界の全てを怨む龍。三竜によって封印されていた、クラリオンという存在の一欠片が肥大化して生まれ落ちた存在。まるで固有結界のように世界を闇に書き換えていたその存在は、無敵であり不滅であり、世界のシステムですら封じ込めるだけしかできなかったはずの自らという存在が、しかし今まさにこの場にいるたった十人の手によって敗北を刻まれようとしているというそんな事態を受け入れられなかったのだろう、この世の全てを否定するかのごとくに咆哮した。

 

「冥闇の呪縛!」

 

冥闇に堕した龍の暗渠より生みだされたその雄叫びは物理的威力を発揮し、闇龍自らの周囲にある大地を寸分違わず粒子に砕いてゆく。闇に触れた全てのものは、その動きを停止させられる。闇竜の怨念は、世界の全てを拘束し尽くす魔性の縛鎖だった。

 

「『おお、我が麗しき歴戦の同志たちよ! 汝らの内に潜みし勇気と勇猛は、その身にふりかかる恐怖を打ち払う剣となり、すべての縛りを切り裂くだろう!』」

「フルガード!」

 

まともに聞いたのならば全身を恐怖に拘束されてしまいかねないほどの強大な呪縛の威力を秘めたその咆哮の威力の全てを、闇龍が全力で放っただろう周囲の大地を粉々に粉砕した一撃と、その余波によって発生した地下迷宮そのものを揺るがすほどの威力を秘めた衝撃波を、ピエールの歌によって詩神アポロンの祝福を受けたダリが、バルドルの力をフルに発揮して一身に受け止める。完全に防ぎきる今やこの異邦人というパーティの守りは盤石不変のものへ進化していた。

 

「オノレ! オノレ、オノレ、オノレ、オノレ、オノレ、オノレ、オノレ、オノレェ!」

 

闇龍は己が怒りをのせた攻撃が、たった二人の神の力を発揮する二人のコンビネーションによって完全に受け流されたという事実に完全に怒り狂っていた。

 

「は、無様よな! 王を名乗る不敬な闇龍とやら! 所詮貴様も我ら英雄に狩られる魔物の一つにすぎないのだ!」

 

闇龍の渾身の力を込めたのだろうその攻撃がたった二人のコンビネーションにより完全に防がれ、さらには癇癪を起こした子供のように喚くその様を見て、ギルガメッシュが嘲笑を送る。

 

「貴様ぁ!」

 

挑発に闇龍はさらに激昂しながらその憤怒と憎悪に染まった顔をギルガメッシュの方へと向けた。同時に、闇龍のその背中にある八本の鍵爪翼が怪しく蠢き――

 

「何!?」

 

闇龍はその八本を自らの肉体より千切り飛ばすと、浮遊させ、続けて、それらの切っ先をギルガメッシュへ向けると射出した。超高速で動く八本のその一本一本の、刺々しい装飾の生えた表面は超高速にて回転しており、まるで電動ノコギリの様な様相のものとなって、こちらへと迫り来る。――それを。

 

「大雷撃の術式!」

 

サガが己のスキルにて迎え撃つ。サガの意思により籠手より放たれた高電圧の雷は空中に弧を描く様にして走り、超高密度の円を生み出した。

 

「馬鹿め! 何度やっても同じ事! 貴様のそのなまっちょろい攻撃が我に通用するとでも思うてか!――な……っ!?」

 

サガのそれを無駄な足掻きと嗤った闇龍は、しかし次の瞬間、その薄ら笑いが驚愕の色に染まってゆく。

 

「わ、我の翼が――」

 

中を高速にて進む八本の巨大鍵爪は、唐突に勢いを減速させると空中にて接着して一塊となり、地面に投げ出された。地面へと落ちたそれは砕けた地面の上でガタガタと動くと、地面の内側より黒い砂を吸い上げながら、ピタリとその先端をある方角へと向けて停止した。

 

「磁化している、だと!? ――超高電圧の渦電流で超々密度の磁束を生んだのか!? そうか、貴様! それで無闇矢鱈に雷撃を我の翼に浴びせていたのか!」

「気付くのがおせえんだよ、バカ龍! 俺が何の考えもなく、お前に雷撃撃ってたとでも思ってたか! 俺の狙いは元からダメージじゃなく、はなからその含有金属たっぷりありそうな避雷針よろしく天に伸びた翼爪に帯電させる事だったんだ!」

「ぐっ、ぬっ、――がっ、あぁぁぁぁぁぁっ!」

 

己の攻撃をよりのもよって通常スキルの発展技によって防がれた、この中で最も御し易いと見下していた相手にしてやられたそれは、闇龍にとって最も精神的なダメージを生んだらしく、闇龍はもはや例えようもない怒りに、体の一部を失い身軽となったその身を震えさせると、天に口向けて咆哮した。

 

『――イィィィィィィィィィィィィィィィィ』

 

雄叫びはやがて耳を劈く高周波となり、天へと向けられたその口腔内にはきわめてまばゆい膨大な魔力を含む白色の光が生まれ始めていた。無差別にまき散らされる超音波がその場にいる全ての人間の三半規管へと飛び込む。鼓膜を破らんばかりの勢いで飛び込んでくる脳裏にて暴れ狂う音の威力や凄まじく、全員は耳鳴りと頭痛を誘発させられ、音はその場にいる全ての人間を縫い止めた。

 

「いっ、つぅ――っ!」

 

直後、膨大な魔力の奔流がさらに巨大な濁流がごときものとなり、私の魔術回路を刺激した。

 

「――っ、あ、あれは! 確か超威力の攻撃、『スーパーノヴァ』……!」

 

その膨大な魔力の本流が魔力の流動に敏感な彼女の回路を刺激したのか、誰よりも先に耳鳴りと頭痛に耐えながら闇龍を見上げた凛は光景を見た瞬間、声を震わせて叫びあげる。闇龍が今まさに放とうとしているそれは、この一辺十キロはある部屋のその半分以上の距離の地面を抉り、部屋の端から遠くおそらくはこの迷宮の部屋の端にまで、一本線を引いた、そんな超威力の技だった。

 

「ダリ!」

 

応じて、サガがダリの方を向く。

 

「――だめだ! さっきの咆哮の影響で全身の動きが鈍い! まだ完全防御は使えない!」

 

視線と状況からサガが己に何を求めているのかを悟ったダリは、しかし先ほどの音波攻撃により迷走神経が混乱しているらしく、体のあちこちを不自然に痙攣させながら、そんなことをいう。

 

――/死ね!

 

口を使えぬ龍は、その威圧と視線にて、殺意を直接叩きつけてきた。直後、

 

「ならば私にお任せあれ!」

「玉藻!?」

 

まずい、とそう思うよりも前に、ダリの言葉を受けて玉藻が飛び出した。

 

「――平気なのか!?」

「ええ! 受肉化しているとはいえ、もともとこの身は仮初めのもの! あのような物理的な音の攻撃、他人の肉体を外から借り受けることを得意とするわたしには通用したしませんことを、今証明してさしあげましょう!」

 

玉藻はわたしの問いに軽やかに答えると、懐から鏡を取り出し、仲間たちの前方、すなわち最前列へと飛び出して、鏡を前方に掲げた。

 

「呪層・黒天洞!」

 

玉藻が前に差し出した魔鏡がまばゆい光を放つ。

 

――そんなちっぽけなもので何ができる!

 

そんな見下した視線と共に、闇龍はその口から玉藻の手元あるそれをはるかに凌駕する量の白光を解き放たれた。

 

「――っ」

 

闇龍が解き放った光は、奴の漆黒の意志を反映するかのようにまっすぐ敵である玉藻の元へ直進し、玉藻は瞬時に光の濁流の内部へと飲み込まれる。闇龍はそれを見て目を細め、嘲笑った。もし闇龍の口が攻撃によって遮られておらず喋ることのできる状態であったのならば、奴は間違いなく自らの誇りを賭けた殺意が敵を打ち砕いたことを雄々しく叫んでいただろう。それほどの喜色が、今の奴の瞳には浮かんでいた。

 

――しかし

 

「うぅ、う、ぎぎぎぎぎぎ――」

「――!?」

「お、重い! 痛い! あ、あた! あた、あた! あ、あたたたたたたた!」

 

そんな闇龍の歓喜を打ち砕くかのように、玉藻の緊張感のない声が光の中より聞こえてくる。やがて玉藻を完全に包み込んでいたまっすぐ一本だった光は徐々に拡散してゆき、光と光の隙間からは十全な状態で鏡を掲げる玉藻の姿が見て取れる。見れば闇龍の口腔より解き放たれた暴力的な威力を秘めたその光は、進行の途中、玉藻が掲げた鏡の前に散らされていた。玉藻の掲げた魔境は、光を拡散させ、攻撃の威力を減衰させていたのだ。

 

「玉藻!」

 

そんな玉藻の無事な姿を目にした響が、喜びを叫ぶ。玉藻は振り向かないまま、しかしそんな響の声にこたえるかのように臀部より生えたふくよかな尻尾を一振りする。そんな正の感情を交換しあって増幅させてゆく二人とは対照的に、闇龍はその瞳には徐々に絶望などの負の感情の色に染まってゆく。

 

――なぜ自分の攻撃が防がれてしまうのか

 

「これが私の必殺技!」

 

そんな闇龍の無念から無言のうちに発せられた疑問を感じ取ったのか、応答するかのように今ものなお攻撃を受け続けている玉藻が口を開く。

 

「名付けて呪層・黒天洞! この魔鏡の力を用いてやれば、それがいかなる種類の攻撃であろうとも鏡に映った虚像の攻撃を散らしてやることで、実像である鏡と接触した部分の攻撃の威力をも散らし、その威力を大幅に減衰させ、同時に鏡と接触した部分の攻撃の威力を魔力へと変換させるのです! とはいえものすごい攻撃とかだと幾分かはその余波を受けちゃうので完全に無効化とはいきませんので――」

 

「露わになってる玉のお肌に舞い散る土砂がザリザリと! そこにこの攻撃の圧が加わって、痛いったらありゃしませんよ、ええ! ああ、もう、痛い痛い痛い痛い痛いー!」

「この、混ざりものの畜生風情が!」

「あら、ご挨拶。ですが――、そうです。そんな混ざりものの畜生風情の行為によって、貴方の最大の一撃は防がれてしまったのだという事実を、せいぜい存分に悔しさと共に噛みしみなさい」

「――っ! 」

「おや、図星を突かれて怒りましたか? 」

「このっ、クソカスがぁ!」

 

煮えたぎる怒りを噴出させるかのように、その巨大な両腕がふるわれた。その爪先にかすめただけで死の運命を決定付けられそうな異形をした巨怪腕が我武者羅に振り回され、天を切り裂き、大地を砕く乱撃が放たれる。

 

「ちょ……」

 

同時に癇癪をおこしたかのように痙攣する脚部から、炎、氷、雷の三属性の攻撃が放たれた。根源的恐怖を引き起こす闇を帯びた炎が、死の眠りを誘発する絶対零度の氷の礫が、世の全てを呪い殺さんとする漆黒の雷が、自らの裡より怒りの激情を引き出した存在へと集中する。

 

「まずい!」

 

そう認識し、慌ててカバーに入ろうとしたその時には、すでに闇龍の行動は完了していた。『デッドクロウ』に『ブラッドブレード』。『煉獄翔』に、『氷礫波』に、『雷旋風』。闇龍の持つほとんどすべてのスキルが玉藻へ向かって集中する。

 

「ちょ、事実を指摘されて逆切れとは何て狭量な――」

「うるさい、死ね!」

「あらやだ、聞く耳持たない! ……って、ちょ、ちょっと、こ、これはさすがに洒落にならな――」

 

宝具を解放したばかりの玉藻へ殺到するその攻撃の量やすさまじく、玉藻の前に存在する天地の至る全てを埋め尽くしていた。その攻撃を防げそうなダリは縛りを一身にガードしたその反動でいまだに動けずにおり、響の手によって治療を施されている最中だ。まだ完全防御を使いこなせていない私の守りでは、あの攻撃を防ぎきる守りを実現させることは出来ないし、それ以外の彼らは守るための手段を持ち合わせていない。

 

このままではまずい――

 

「玉藻!」

「は! 男の駄々はみっともねぇだけだぜ!」

 

攻撃迫るその後ろ姿へ声を上げたその瞬間、青い閃光が視界内を横切っていった。

 

「ランサー!」

「――はら?」

「そのお行儀の悪い腕と足を吹っ飛ばしてやる! 突き穿つ死翔の槍/ゲイボルグ!」

 

直後、青い弾丸と化したランサーより朱槍が放たれた。疾風と化していたランサーより放たれたそれは、空中をまっすぐ直進すると、まずは獲物として魔物の巨腕を一直線に打ち貫き、つづけて内に秘められた呪いの効力によってだろう弧を描きながら山の様な巨体を支えていた太く頑丈な脚を、次々と、そして余さず削ぎ取ってゆく。

 

「グ、グォォォォォォ……っ!」

 

ランサーのゲイボルグによってそのすべてを貫かれた闇龍は、体制を崩し、首をあらぬ方向へと回転させながらも、しかしなおもその威力を落とさないままに光線を放ち続けている。玉藻の呪術の技によって拡散されその威力を減衰されていただけの闇龍の放つ光線は、彼女の掲げていた魔鏡から晴れたその瞬間に十全な姿を取り戻すと、十キロ四方に整ったている空間の端にまであっという間に到達し、空間の端の壁を砂塵の様に崩壊させてゆく。

 

「め、迷宮が……」

「ちょ、こ、これって、不味くない!?」

 

頑丈であるはずの部屋の壁が光線によってまるで紙のように千切れて吹き飛ぶ姿を見て、道具にてダリの治療を行っていた響が慌てふためき、凛が声を大にして叫んだ。

 

「崩れた壁から崩れた迷宮の土が溢れてきていますねぇ……」

 

ピエールが天井より落ちてくる土塊と砂塵を避けながら言う。

 

「冷静言ってる場合か!やべーぞ、おい! この調子だと数分もしないうちにこの部屋が崩壊しちまう!」

 

サガが呆れた様に怒鳴り散らした。

 

「脱出を! 糸は!?」

「――まだダメだ! 効果範囲内にあの龍がいる! あれがあの状態のまま地上に出ると、どんな被害が生まれるかわからない! あの超長距離の射程を持つ光線が万が一にでもエトリアを直撃したら……!」

 

シンが提案し、ダリがそれを却下する。もはやまともな意識など保っていないだろうその巨大な口を開けて天地の全てを打ち砕く光線を撒き散らすその闇龍は、しかしこちらの狼狽の様子を確認すると、狂気と悦楽に満ちた表情を浮かべて、破壊を撒き散らす速度をあげる。

 

「――あいつ! あの状態でまだあんな力が残ってやがるのか!」

 

ランサーの放った回復阻害の呪いを宿した魔槍による一撃で両手足を失った闇龍は、そんな一撃に秘められた呪いを打ち破るべく超速度で己の失った部位を再生させようと試みている様だったが、しかしランサーの槍が持つ回復阻害の呪いをほんのわずか程度しか上回ることが出来ず、手足は僅かばかりに再生しては自重を支えきれず、再び血肉の塊へと舞い戻る。

 

強烈な光の濁流放つ頭部と胴体は、再生途中である骨が外に解放状態であり、血が噴出し続け、神経が再生と破壊を繰り返す様な状態の手足では支えきれず、やがて立つことすらできなくなった闇龍は、地面へと無様に転がった。その場にいる誰もが、ついに龍の光線もやむだろうとそう思った。――しかし。

 

――我の最強を認めぬ世界など……

 

しかし倒れ伏したはずの闇龍は、光線を放つのを一切止めようとしない。闇龍の瞳は仮にも世界最強を名乗った者としての意地と、虚無主義者の傲慢さに満ちていた。倒れ伏した闇龍は、しかし首を大地につけることなく、迷宮の天井向けてその大きく開いた口を向けると、放つ光線の太さをさらに一回り以上も大きくして、天井を打ち砕き始めた。

 

――我の力が通用せぬ世界など……

 

闇龍はそんな破壊を起こすため、破壊され、回復も封じられたはずの、その捥がれている状態の手足を用いて自らの体と首を支えている。闇龍の手足は自らの攻撃の威力と再生能力とランサーの槍の呪いの影響により、未だにその姿が完全に戻ることはない。

 

闇龍の手足は破壊と再生を繰り返している。生きながらにして骨身と神経を削られては、僅かばかりに再生し回復するも、そして再び失うその痛みや負荷は想像を絶するモノがある。

 

であろうに、しかし闇龍は、そんな痛みや負荷をもろともせずに攻撃をやめることをしようとしない。闇龍の顔は、もしこの最期の足掻きが目の前の憎き敵どもを道連れに出来るのであれば、我が身の損失程度は取るに足らない必要経費であるといわんばかりの形相だ。その必死の形相から悟る。

 

――滅びてしまうがいい!

 

世界最強を自負していたにもかかわらず、しかし今しがた放つ『スーパーノヴァ』という攻撃以外の全ての攻撃をあっけなく防がれてしまった闇龍にとって、この攻撃は闇龍にとって、彼の破壊の王としての矜持を守る最期の砦でもあったというわけだ。

 

「見苦しいな」

 

多くのものが闇龍の攻撃の対応に右往左往するそんな中、闇龍の最期の抵抗を不服と侮蔑の瞳で冷静に見つける男の姿があった。この世で自らのみが唯一絶対の王であり、ほか全ては偽物であると言って憚らない傲慢な英雄王。すなわちギルガメッシュだ。

 

「偽りであろうと、仮にも最強の称号を、すなわち王を名乗るのであれば、この様な無様な姿を晒すでない」

 

ギルガメッシュは心底の怒りを携えた瞳を闇龍へと向ける。幻滅。そう、幻滅だ。ギルガメッシュは例えてみるなら、おもちゃに飽きた子供が見せるような、理想と口先だけは立派な批評家に向けるような、そんな顔をしていた。切れ長な瞳から繰り出される睨め付ける視線は見るものすべての心を凍てつかせる絶対零度のものであり、しかし同時に、その身から湧き出る憤怒は周囲の空気を歪ませる喉の熱情を秘めていた。

 

「――仮にも龍種である貴様は、それゆえか我のよく知る原初の海の女神の姿に似ておる。貴様は、その末期の無様さまで、我の知る同郷の女神と、本当にどこまでもよく似ている。そうとも、貴様はあまりにも無様だ。よって褒美ではなく、我の情けによって、我はこの宝具を開帳してやろう」

 

周囲の破壊を一切気にしない様子のギルガメッシュは、悠々と己の宝物庫とつながる門を空中へと開くと、虚空より剣を取り出した。剣は、禍々しい円柱を重ねた姿をしており、さながら彼の神話に名高いバベルの塔を思わせるデザインをしていた。

 

「待て、ギルガメッシュ! 今、この状態でそれを放つと部屋が――」

 

広いとはいえ、崩壊瓦解が今なお進み、天井などに至ってはもはや半分以上も砕けて土石流が落ちてきているような部屋において、闇龍の一撃にすら匹敵、あるいは凌駕するだろうギルガメッシュの一撃はとどめになりかねないと制止を試みるも、ギルガメッシュはまるで聞く耳を持たないままに、手にした剣を振り上げると、己の魔力を全開で剣へと通し始めた。

「うぉっ!」

「あ、あのバカ王、正気ですか!?」

 

ランサーと彼に抱えられた玉藻が戻ってくるなり、二人ともに驚きの表情を見せた。

 

「さあ、冥闇に堕した龍よ! 王である我が手にて、我の持つ至高の宝具にて死出の旅へと旅立てる事を光栄に思うがいい!」

 

常なら玉藻のセリフを耳敏く聞きつけて、怒りの矛先を変えそうなものだが、今の、王という存在の沽券のために攻撃を行おうとしているギルガメッシュにとって、その様な戯言は比べ物にならないくらいのはしたごとに過ぎないものだったのだろう。

 

――させるか!

 

そんなギルガメッシュの宣言と解放寸前にある剣が放つ膨大な魔力の奔流が、闇龍にその攻撃を気付かせたのだろう、天を砕くことに腐心していた龍は、天へと向けていた砲撃口を即座にギルガメッシュに向けた。口腔より伸びる太い光の柱の行く先が、再びギルガメッシュと、その周辺にいる我々へと固定される。

 

「まっ、ず……」

 

状況を不味いと読んだのだろう、縛り状態の回復を終えたダリが慌てて飛び出そうとした。

 

「天地乖離す開闢の剣/エヌマ・エリシュ!」

 

だが、彼が盾を構えて完全防御の守りを完成させるよりも早く、ギルガメッシュは手にして振り上げていた熱風暴風巻き起こすその神剣を振り下ろすと、その剣身に秘められし天地を別つ威力を遺憾なく発揮させ、光の柱向けて撃ち出した。

 

「な……っ」

 

驚愕の色に満ちたその声をあげたのは果たして誰だったのか。否、その声はおそらく、この場にいる、ギルガメッシュを除く、おそらくは龍すらも含むものの総意として発せられたものに違いなかった。

 

――バカな!?

 

ギルガメッシュの攻撃によって生まれた荒々しい熱と風と光の集合体は混ぜ合わさることによって暴虐の化身となり、天地すらも砕いた光の柱を呆気なくかき消して直進する。

 

「何を驚くことがある! かつて天地を乖離させた、天地を壊そうとした巨人の野望をも砕いたこのエアが、貴様ごときの偽物相手に負けるはずがあるまいて!」

 

そして凄まじい速度で光の柱を呑み込みながら直進したエヌマ・エリシュの一撃は、あっという間に光放つ龍種の口腔へとたどり着くと、その破壊の力を余すことなく発揮して、龍種の頭を吹き飛ばす。

 

――っ!!

 

龍種は光に飲み込まれるその直前、その瞳に完全に絶望の色を浮かべると、やがて呆気なくギルガメッシュが放った力の前に道を譲り、その巨大な頭部が弾け飛ぶ。続けて暴風は闇龍の横たわった体に直撃すると、その身にこびりついていた闇色の鱗と血潮を吹き飛ばしながら、骨を打ち砕きながら直進し、部屋を崩壊させることなく、龍種のみを打ち砕く。

 

「すごい……」

「ふん……」

 

おそらくその一撃は、ギルガメッシュによって、闇龍を葬り去る様、しかして崩壊する部屋に影響を与えない様に調整された一撃だったのだろう、その神業じみた結果をみた響は声をあげ、しかし彼にとって児戯に等しい事を褒められたのが気に食わなかったのだろうか、ギルガメッシュはこの程度当然だと言わんばかりの態度でその賞賛を地面へと投げ捨てた。同時に勝利を確信してだろう、未だ暴虐の余熱を放つ剣を虚空に向けて投擲し、空中に開いた門から宝物庫へと放り込むと、龍に背を向けて腕を組み、不貞腐れたような態度をとる。

 

「――いや、まだだ! まだ奴は生きている!」

「なに!?」

 

だが、ギルガメッシュのそんな確信の態度は、頭を吹き飛ばされ、手足を全てもぎ取られ、胴体に至ってはもはや原型すらも残っていない闇龍の遺骸とすら呼べないような残骸に観察の視線を送っていたシンの声によって呆気なく崩された。

 

「――なんだぁ!?」

「飛び散った奴の体が……、空中で蠢いている!?」

 

状況を把握したランサーと玉藻が驚愕の声を上げる。玉藻の言う通り、粉々に砕かれたはずの闇龍の体はしかし、幾千幾万幾億もの闇色の細かい雫となって空中を浮遊していた。

 

『我は死なぬ! 我は世界最強の存在にして、永久不滅の王なり!』

 

そして闇龍は、いかなる手段を使ったのか散った欠片の状態のままで発声して見せると、その細々とした塵のような闇色の雫を徐々に移動させ始める。初めこそ緩やかな、歩くよりも遅い速度だったそれは、徐々にその進行速度をあげてゆき、やがて暴風雨もかくやと言わんばかりの速度で、敵対する私たちを荒々しく包み込む闇色の檻へと変化した。

 

「これは!?」

『これこそが我が最強である証! これこそが我が不滅である理由! 負の感情がある限り、我が不滅。人間が存在する限り、我は不滅。我の体全てを同時にこの世から抹消せしめない限り、我が負けるなどと言うことは永久にあり得ないのだ! 我に敗北の二文字を刻みかけた貴様らには、その褒美として、我が肉体の一部として取り込まれる栄誉を与えてやろう!』

 

我々を己の体の一部にするという決意を示すかのように、我々の周囲を取り囲む檻となった闇龍は、その半径を徐々に縮小させて、我々に近づいてくる。

 

「きょ、距離が! どんどん狭まって! 」

「核熱の術式! ――、う、嘘だろ!? 」

 

散らばっている闇龍の肉体は密度が増すごとに、その強固さを増してゆく。元は全長全高にして一キロ以上はあろうかという肉体が半径五十メートルほどの半球となった今や、その硬度と強度や、サガの核熱を軽く弾くほどの堅牢さを秘めていた。

 

「まるで死者の怨念の塊! これじゃ大抵の術式は弾かれてしまいますし、一つ二つの雫を切り裂いたところで、有効打にはなりゃしないというわけですか! まったく性質が悪いったりゃありゃしない!」

「ど、どうすれば――」

 

玉藻が叫び、響が狼狽える。ランサーは戦士の目で突破口を探すのに必死で、ギルガメッシュはこの期に及んで何故か腕を組み目を閉じた姿勢を保っているため、何を考えているのかわからない。攻撃手段を持たないダリはこの場で己に何もできることがないことを悟ったのだろう歯を噛み締めて悔しがっており、ピエールは、ギルガメッシュと同じように、竪琴を握ったまま目を瞑り、しかしどこかこのピンチの状況を楽しんでいるかのように柔らかな微笑みを浮かべていた。

 

わからない。疑念は私の意識に自然とピエールの姿を追わせていた。そして己の体へと注がれる注視を感じたのだろうか、やがてゆっくりと瞼を開けたピエールは、その穏やかな瞳を左右に動かしたのち、ある一点にて止めると、期待に満ちた視線を送る。彼のその視線の先にいたのは――

 

「玉藻。確認したいことがある」

 

彼ら『異邦人』ギルドのリーダー、シンだ。彼は手にした刀をゆっくりと変形型霞の上段の、つまりはとある秘剣を振るうための構えに移行しながら、玉藻へと言葉を投げかける。

 

「奴の体を一気に切り裂けばなんとかなる目算は高いんだな?」

「そりゃ――」

 

疑問をぶつけられた玉藻はシンの方を向くと、言葉を半端に止め、中央によっていた眉を広げるとハッとした表情を浮かべ直して、彼の顔を見つめた。

 

「いけるんですか?

「もちろんだ。すべてを切り裂けばいいだけの話だろう?」

 

玉藻の問いに、シンは目の前に千々とある闇の砂塵のそのすべてを斬り伏せて見せると、あっさり肯定する。このような状況を前にしてその迷いのない態度と断言はまさに彼以外には行えないものだといえるだろう。

 

「それに迷っている時間もない」

 

シンは周囲に渦巻く闇の欠片が刻一刻と近づいてきている様子に目を向けながら言う。粉々に散った闇龍の挙動は荒れ狂う竜巻となり、その内部の空間を徐々に風も音も光もないような静寂な場所へと変化させつつある

 

「何か気を割いておくことはあるかね?」

 

シンは内部にわずかばかり吹いた風にその黒髪をなびかせながら玉藻へと問いかける。確信と覚悟を持つ男が独特の体勢に剣を構えるその姿は、まるで日本画の一枚絵の題材として選ばれてもおかしくないほど様になっていて、だからだろう玉藻は少しばかり動きを停止させると呆け、しかしシンの真っ直ぐな瞳と想いが彼女の思考を正常の状態に引き戻したのだろう、すぐさま自らの両頬を叩いて正気を保つと、首を左右に振った後、しばし逡巡。のちに首肯して、口を開いた。

 

「――闇龍のあの姿が個体としての能力によってのものなのか、あるいは実のところ呪いの集合体としての本性であるのかはわかりません。ですが仮に前者であるとするならば、奴はあの状態でも自己というものを保つために核のようなものを保有している可能性が高いといえるでしょう。もちろんプラナリアという原始生物のように細胞全てが奴であるという例外もありえますが……、そうでないのならば、その、あの無数の闇の塵の中に隠されている核を、つまりは魂と呼べるようなものを打ち砕くことこそが奴という存在を殺すために必要なものと言えるでしょう」

「それで?」

「仮にその中心核が存在すると仮定するのならば、それは如何に貴方が攻撃に特化した存在であろうと、たったの一撃のみで打ち砕くことは難しいでしょう。核があるとすれば、無論やつもそれに対しての守りは強固なものとしているはず。ならばおそらく、奴はその核に、通常の闇の欠片よりもずっと強固で濃密な怨念と負の感情というものによって形造られた闇の衣を纏わせている事でしょう」

「なるほど……」

 

シンは玉藻の言葉を首肯して素直に受け取ると、ちらりとこちらへと視線を送ってくる。その視線は純真と期待に満ち溢れていた。

 

「――玉藻。共感呪術をつかえるか?」

「はい?

 

シンの視線により、シンが私に何を望んでいるのかを理解した私は、敵を打倒せしめんという彼の望みを叶えるべく、玉藻へと問いかけた。

 

「――――――、なるほど」

 

玉藻はしばしの間、私とシンとの間にて視線を行き来させていたが、やがてシンが私に何を望み、私がシンの望みに応えるために何を自分に求めているのかを理解したのだろう、納得した様子で鷹揚と首を縦に数度動かすと、その白魚のような両手に呪力をこめて私とシンとの頭の方へと向けてくる。

 

「シンの視界と感覚とエミヤとリンクさせます。よろしいですね?」

 

玉藻の問いにシンへと視線を送る。すると彼は構えたまま迷いのない所作で首肯し、そのまま首の動きで玉藻の行動を促してきた。

 

「では――」

 

シンの肯定を確認した玉藻が私とシンの頭部へとその手を当てる。呪力が注ぎ込まれ、私とシンの感覚は完全にリンクした。

 

「これが――」

「……なるほど」

 

二人の異なる人間の五感情報が重なるその感覚は味わうときには、大抵、いつぞやの時代に流行った二画面ゲーム機の不完全な立体視を見続けた時のような酩酊感を覚えるものだが、シンとの感覚の同期においてはまるでそれがない。おそらくシンは、瞬時に私の感覚のうち自身のそれよりも劣る部分を調整し、私の感覚と同期させたのだ。彼のそんな気遣いにより、私とシンは、ほぼすべて完全に不都合のない同期を果たしていた。

 

「よくもまぁ……」

「慣れているからな」

 

他人の感覚の限界を読み取り、その限界値に己の五感の感覚を合わせる。シンのそんな神業じみた肉体調整能力に感嘆の声をあげると、しかしシンはそんな事は何でもないことなのだといわんばかりの態度で、さらりと言い捨てる。なるほど、あらゆる点に優れていると豪語するだけのことはある、とあきれるほどに感心した。

 

「――いくぞ」

 

向けられる感心を余所に、シンは宣告する。手の平に圧を感じた。全身が粟立ち、まるで強化の魔術を使った時のように空気の粒子の一粒に至るまでを感じられるほどに触覚の機能が向上した。呼吸を停止させると同時に、シンから送られてくる視覚情報が完全に喪失した。シンが完全にその感覚を閉じたのだ。代わりに、他の触覚と嗅覚と聴覚と、第六感とでも例えられるようなものから送られてくる情報量が桁違いに増し、自然とあたり一面の状況が脳内へとマッピングされてゆく。

 

「――すさまじいな」

 

やがてシンは、自らの能力のみを用いて、周囲の地図を完成させてしまっていた。地図には散逸している敵の情報がこまごまと記載されており、直感は一切の見落としがないだろうことを告げてくる。なるほど、この男は優れた戦闘者であると同時に、優れた冒険者であるのだという事を再認識した。

 

――っと、いかん。

 

リンクし拡張された感覚が彼の準備完了を告げてくる。

 

「――投影開始/トレース・オン」

 

ぐずぐずとしていれば彼はすぐさま攻撃に映るだろう予感が、自然と体を動かしていた。魔術回路を励起させ、投影の魔術を発動させ、己の手慣れた黒塗りの洋弓を構える。すると私にとって馴染んだ痛みの感覚と一連の所作による感触は、しかし彼に違和感を与えたのだろう、リンクしている感覚に揺らぎのようなものが生まれ、しかし瞬時の後に修正されて失せてゆく。

 

「――投影開始/トレース・オン」

 

彼のとびぬけた優秀さに再度舌を巻きながら、再びその呪文を唱える。そしてこの世へと現出した螺旋剣を矢として手に取ると、弓に番えて構えを取り、目をつむる。

 

「――」

「――」

 

研ぎ澄まされた感覚のまま、番えた剣に魔力を通してゆく。魔力を注ぎ込まれた剣は与えられた燃料を喜ぶかのよう周囲に細い稲妻を発生させながら、きぃんと耳煩い音を立て始めた。

 

「――」

「――」

 

魔力を発生させる際の痛み/感覚が私/彼の神経を刺激し、痛みの感覚を訴えて暴れようとする神経は、しかし瞬時のうちにシンの冷静と私の抑圧により鎮められてゆく。今や、脳裏に浮かぶ地図と、昂る鼓動と、敏感となった肌を撫ぜる風だけが世界の全てだった。取捨選択、増減対象の選択を済ませた互いの身体と精神は、互いの協力によって、どこまでも、どこまでも、高い位置へと押し上げられてゆく。

 

――、五秒/5

 

シンが大きく息を吸った。のど元を通り肺腑へと到達した空気は即座に酸素のみが切り分けられ、全身の血流へと乗せられる。呼応して胸中と背筋にむずがゆさを感じた。新鮮な酸素を送り込まれた全身は興奮し、シンの両腕と私の両腕にある異なる武装は、しかし同じようにして解放のその時を今や遅しと訴えている。

 

――、四/4

 

全身の器官は、新鮮な燃料の代わりに不要となった老廃物を血液へと返してくる。六十億の細胞たちのより一層の奮起により、五感すべてと第六感はさらなる強靭と敏感さを得た。脳内にある地図に記載された無限に等しい数の敵の動きのその一つ一つまでを詳細に感じ取とる。確かな万能感が数秒後に起こす攻撃の成功を確信させた。

 

――、三/3

 

ぎしり、とシンの全身に力が入る。丹田を中心に溜めこまれた力は体の中で渦を巻き、やがて解き放たれるその時をまだかまだかと訴えていた。シンはそれらの訴えをいなすと、いなした力を手足の先端へと送り、大地を踏みしめる足から彼の剣を握る両手までの力を一定化させ、連結させると、一本の線の如く化した。体中の力を集して一つとした彼には、まるで噴火寸前の火山を思わせる迫力がある。

 

――、二/2

 

応じて、弓矢を構える両手に入る力を入れた。弦は極限にまで張りつめ、強化を施されたカーボンとワイヤーがきりきりと悲鳴を上げている。シンと同じく解放を訴える我が身に成就の時の到来はすぐそこゆえにまだ耐えろという命令を下すと、堪え性のない肉体はなんとかその訴状を受け入れて、数秒程度ならばまってやろうと傲慢に告げてくる。

 

――、一/1

 

互いに武器を握る手に力が入った。緊張がそうさせたのだろう、しかしそんな湧き出た余計な力を余さず捨てると、瞬間の後にやってくるだろうその時に備えて全身を脱力させて、待つ。

 

――『零ッ!』

 

最後のその瞬間、我々の意思は遂に一つとなる。シンが目を開いた途端、彼の目へと飛び込んでくる光の衝撃はリンクしている私にも影響を与え、二人の鼓動のタイミングすらも重なった。

 

「――そこだ!」

 

シンは一瞬で体の状態を零から最高速へ一気に到達させると、解き放たれた衝撃が全身を駆け巡り、興奮を誘発する。そんな刺激と発せられた声に、我も続かんとする我が身の我儘を精神力にて強制的に抑えつけて、シンの攻撃の直後にやってくるその時に向けて感覚に集中させ続ける。

 

「真・つばめ返し!」

 

振り下ろされた刀身より解き放たれた力が虚空へ放たれる。同時に幾億万の光る刀身が周囲の闇を切り裂いて、空中の黒を白で塗り替えた。直後、大気が裂かれる事によって発生する刀身と空気との間の摩擦により、突き進む刀身は瞬時のうちに獄炎を纏った。烈火に燃え滾る刀身が殺意と共に白黒混じった混沌の空間を煉獄の色に塗り変えてゆき、やがて宙に浮かぶ無数の闇龍の体と激突する。

 

『な、なんだとッ!』

 

自らの体を無限と言えるほどに分割した闇龍は自らの全身へと襲い掛かってきた衝撃が信じられなかったのだろう、周囲に満ちた己の体入り混じる大気すべてを揺るがすほどの驚愕の声をあげた。我々の周囲、闇色に満ちていた空間はシンの生み出した炎と振れたその瞬間、浄化されるが如く元の色と光景を取り戻してゆく。

 

『お、おのれ……っ!』

 

闇龍は己の奥の手でもあり、同時に必殺のはずの一撃を打ち破ったシンへ憎悪の意志を向けてくる。全周囲より送られてくる負の感情の量はこれがもし常人であれば即座に発狂せしめてしまうほどに濃密であることが、共感の呪術を通して伝わってきた。

 

「……」

 

しかしてシンは自らの過敏さを増している肌へと突き刺さる視線と意志に対して意識を集中させると、むしろさらに皮膚の感度を上げて、その濃淡の比較を開始した。脳内の敵位置マッピング図へ色が加わり、一定の基準を満たさぬ情報が次々と消去されてゆく。

 

「――エミヤっ!」

 

一瞬を千にも万にも斬り分けた刹那の時の流れの中、やがて空中に浮かぶ全ての闇龍の欠片の精査を終えたシンは大きく声をあげた。

 

「おぅ!」

 

シンの全身の感覚が確信を告げてくる。シンの意志を読み取ったその瞬間、我が身は迷うことなくその方向へと強化した視線を送っていた。

 

『――な、に?』

 

シンのまっすぐな殺意が迷いなく己の本体を射抜いた事に驚いたのだろう、闇龍が戸惑いの声を漏らした。バカめと言ってやりたい思いを抑え込むと、そんな暇があったら今すぐに解き放てと主張してくる両腕の位置を修正して、矢じりの先端をその場所目がけて突きつける。

 

『――』

「遅い! 」

 

そうして再び迷わぬ視線と意志を受けたことに戸惑い危機を感じたのだろう闇龍が何かの余計をするよりも先に細やかな調整をし終えると、次の瞬間には、迷わず、片手にて抑え込んでいる力を解放した。

 

「偽・螺旋剣/カラドボルグ・Ⅱ!」

 

瞬間、静けさばかりが支配していた空間を閃光が貫いた。稲妻纏いた我が宝具はシンによって両断、炎上させられた群れを空気の塵へと還しながら、目的の場所目がけて直進する。そして――

 

『ば……、か、な』

 

瞬き一つするよりも以前に宝具がその場所を通過したその瞬間、闇龍の呆気にとられた声が静かな空間に悲しく響き渡った。

 

『……』

 

直後、我らの周囲を取り囲んでいた炎上する闇龍の欠片たちは空気の中に溶けるようにして消え失せてゆく。

 

「――ふぅぅぅぅぅ……」

 

闇龍の死の運命を確信した瞬間、抱え込んでいた緊張をすべて押し出すように、大きくため息が漏れた。呼吸に乗じて体の中を巡っている熱が闇龍の包囲によって冷え込んでいた外気を暖め、同時に投影したカーボン製の黒塗りの洋弓の表面に薄くに水の膜を生じさせた。

 

「――やったな、エミヤ」

 

やがて水の膜が集合して滴となるよりも前に、シンが声をかけてくる。私の確信は当然のことながら共感呪術によってシンへも伝わっていたのだ。

 

「――」

 

シンはそして無言にて片方の腕を振り上げた。その所作に彼が何を求めているかを悟った私は、投影させていた弓を破棄して空気の塵に戻すと、対応させて腕を振り上げ、その剣ダコだらけの手の平向けて、己の硬い手の平を振りぬいた。

 

「ああ! 私たちの勝利だ!」

 

天地より降り注ぐ土石流さえ除けば、静けさを取り戻したといって過言でない迷宮に大きな破裂音が響いた。音は我々の勝利を誇るかのように開けた空間へと広がり、直後、歓声が辺り一面を支配した。

 

 

第十二幕 森の奥に眠りし月姫

 

 

放たれた迅雷の矢が、闇龍のコアを瞬時に打ち貫いた直後、シンによって切り裂かれ、炎に包まれていた、周囲に散らばっていた世界を闇で覆い尽くさんとしていた悪龍の欠片は、一転して音もなくコアの崩壊と共に闇を包み込む炎の力を吸収するかのように、輝く白色に変化してゆく。

 

「――これは」

 

やがて空間を満たしていた闇龍の欠片だったものはエミヤの頭上にて集合し、まばゆい光の塊となって降りてくる。天より緩やかに堕ち来る光の塊は緩々と卵のような楕円形へと変化してゆき、やがて揺籃と化した光の端が地面の上へと到達した。

 

直後、まるで自ら生誕を望むかのように光の卵にひびが入り、内側からは先ほどまでの光が比較にならないほどの目眩むばかりの光が漏れ出す。白光は人の世に存在するためにはあまりに過ぎた光量を保有していた。

 

「――っ!? な、なにが……っ!? まさか――」

 

人知を超えるほどに光の眩さ故に、あるいはこの世界を白一色に染め上げてしまいそうな光は世の全てを呪い尽くさんとたくらんだ闇龍の最後のあがきなのかもしれぬと直感し、ならば異変を一片たりとも見落とすことは出来ぬし気を抜くこともできまいと、いつでも動けるよう構えながら、目を焼くそれを直視し続ける事十数秒。

 

「――」

 

やがてそんな懸念とは裏腹にその光はその光量を落としてゆき、刺々しさを失ってゆく。収束してゆく光が柔らかいものになりつつあることに一抹の安堵を覚えながらも、そんな中、光の中心に白とは程遠い、色濃い輪郭の何かが出現していたのを見つけて、再び警戒の態度を強めて持つ。

 

「これは――」

 

警戒を続ける間にも光は弱まってゆき、輪郭は徐々にその鮮明さを増してゆく。やがて光の中にその輪郭を生み出しているのがおそらくは人間であると想像した途端、そんな空想が具現化したかのようにいまだ周囲に漂う光の残渣を押しのけてその物体は自身の胸元へと倒れこんできた。

 

「うぉっ、っと……、だ、大丈夫かね、君――」

 

そうして光の中より出現したのは、まだ年端もいかないような姿の少女だった。闇龍の欠片だったものより出現したという異常事態に違和感を覚えるも、見た目まだ幼い少女に過ぎない彼女が地面へと倒れこむのを見過ごせなく、反射的に少女を胸の中に抱き留め――、瞬間、意思の全てを魂ごと彼女に奪われた。

 

――なんて、美しい……

 

出現した少女はそれまでの懸念を些末と脳裏の外へ追いやるほどの美貌を備えていた。(前の話から美しさの比喩を抜粋)。天井に輝く月のように、儚くも幻想的で、手を伸ばせば夢の中に霧散してしまいそうなそんな現実離れした美しい少女は、間違いなく一目見たのであれば忘れようもないそんな美しさを備えていた。――だが。

 

――私は……、確か、彼女を、どこかで……

 

「――……」

「――あ」

 

だが、混迷に満ちた脳裏が思考の迷宮より抜け出るよりも前に、目の前に突如として現れた少女の身じろぎが、この身を現実へと引き戻す。脳を蕩かせる様な、しかし無邪気な幼さ入り混じるという、そんな矛盾に満ちた妖艶と愛嬌入り混じる挙措に惹かれるようにして少女の顔を覗き込む。

 

「――」

 

すると、再び視界へと飛び込んできたその人の手によって生み出されたかのような造形美が、彼女を美しいと感じる機能以外はこの場において余分であるといわんばかりに、意識の中よりすべて溶かしつくしてゆく。

 

「――」

 

美貌によって周囲から時間の流れを奪い、感覚の進む速度を凍らせた深い悲しみの蒼い色の服を纏ったそのまだ幼い体躯と見た目の少女は、まるで眠り姫のように小さな手を組んだまま眠りこけていた。上げ初めた髪から覗く美貌は、何度見ても美の女神も裸足で逃げ出す美しさと愛らしさが同居する事を目指して造られた人形のような完璧さを備えている。――しかし。

 

「――」

 

完璧といっていい造形美をその身に宿した女神のごとき少女には、唯一、画竜点睛を欠いている部分があった。そのわずかに足りぬ部分を目敏く見つけた我が身は、自然とその不完全さ宿る部位を注視する。その痩身にほどよい血色に保つその少女にはしかし、唯一その唇の部分だけの微熱が欠けていた。完璧に一歩足りぬ完成品を前にして惜しいと思った我が身は、止める間もなく足りぬものを埋めようと動き出す。卑しくも我が身は、自然と抱きかかえた芸術品に自らの顔を近づけると、惹かれるようにしてその小さな閉ざされた領域に自らの吐息と熱を注ぎ込む。

 

「――っ」

 

どのくらいの時間がたったのだろうか。眠り姫の唇を勝手に奪うその行為に恥じるよりも先に、息苦しさが到来し、自らの顔を彼女の顔から引き離す。私の惜しむを表すかのようにして互いの唇にかかった涎橋が、撓み、歪み、千切れて、腕の中で眠る彼女の顔と腕を穢してゆく。瞬間、夢見心地にあった意識突如として覚醒し、このような可憐な少女の唇を勝手に奪ってしまったという羞恥が、我が身を焼き尽くすのではないかと思うほどに脳裏へと押し寄せた。

 

「――ん」

 

されど、情欲に流された後悔が我が身を炭へと帰すよりも先に聞こえてきた少女の声が、我が身の燃え上がる情動を鎮火させる。同時、こみあげてきた別種の熱情に突き動かされるがままその挙措を眺めていると、やがて腕の中で身じろぐ少女は、その小さな瞼を揺り動かせた後、ゆっくりと開いて、瞳を露わにした。

 

「――」

 

唇の微熱と、瞳の奥に宿る情熱。足りないものに加えて、それ以上を手に入れた少女は、呆然とする私を泰然自若とした態度で眺めていた。やがて周囲を見渡すこともなく私のみを見つめて麗しく微笑んでみせた少女は、その細腕を覆い隠す長袖の下に秘めた両腕を伸ばして私の顔を挟み込むと、身を起こして、抱き着いてくる。

 

「おはよう、私の王子様」

 

言葉に脳が溶けるかと思うほどの快楽が流れ込んでくる。そこから先の事は覚えていない。おそらくは彼女という快楽によって思考を溶かしつくされてしまったのだろう。私が夢から抜け出して正気に戻るその時には、常に天上にて月が怪しく輝いていたことだけは、確かな事実として覚えている。

 

 

『よぉ、そこ行くお兄さん! 今日はなんか予定あるのか?』

『いや、ないよ、ヘイ。最近はとんと大した事件は起きていないからな』

 

夢を見た。とある正義の味方の夢を見た。その正義の味方は真に正義の味方と呼べる存在だった。悪をくじき、弱者に手を差し伸べる。彼の正義が届かない場所は世界中のどこにもなく、彼の正義によって救われない存在はこの世のどこにもいなかった。

 

『そりゃお前さんが頑張ったからだ。世界中の誰もがお前さんという正義の味方に感謝している』

 

彼はまさに絶対の正義の使者だった。彼が悪として斬り捨てる存在はすべて確固たる悪であり。彼が正義として擁護する存在は、確かに確固として彼の正義を理解する存在だった。誰もが認める正義の味方がそこにいた。誰にも否定されない正義の味方がそこにいた。誰もが正義と認める正義の味方がそこにいた。

 

『その言い方は、照れるな』

『事実だろう。言わせといて損はないさ』

 

その正義の味方の名前は、エミヤシロウといった。誇らしかった。困ったときにその名を呼べば助けに来てくれる絶対無敵、完全無欠の、正義を体現する、そんな存在についに自分は辿り着いたのだと、体は歓びに満ち溢れていた。

 

『よぉ、エミヤの旦那! さっき酒場でお前さんの仲間たちが管を巻いているのを見かけたが、今日はお前さんのギルドも、お前さん個人も、正義の味方稼業はお休みかい?』

『ああ』

『だったら、お前さん。こんな晴れ晴れとしたいい日だ。こんな日にはこんなところ裏路地なんかをうろついてないで、お前さんのいい人と一緒に何処かへ出かけたらどうだい?』

 

周囲にいるのは様々な人格ながらも私を肯定し認めてくれる私の頼もしい仲間たち。素直な性格でない奴や、口汚く文句を言う存在もいるが、結局は誰もが私の正義を認めて、私の幸福のために動くことをよしとする。

 

『そう、だな。それもいいかもしれない』

『そうしなよ。あの綺麗なお前の嫁さんもその方が喜ぶだろうからさ』

 

世界は平和だった。世界には完全平和が訪れていた。争いを引き起こす存在は否定され、我が手と正義によって斬り捨てられ、世界には余すことなく私の正義が浸透していた。そしてその傍らでは、見目に美しい芸術品のような少女が伴侶として存在していて、絶えず無限の愛を注ぎ続けてくれている。

 

『っと、そうだ。これ、持ってきな』

『なんだ、ってこれは、滅多に手に入らない、幻の――』

『この前、バカどもから助けてもらった礼だ。遠慮なく持っていってやってくれ』

 

それはまさに幸福を形にしたかのような生活だった。誰もが私の正義を理解し、誰もが私を正義の味方として認め、誰もが私の正義の味方であり、誰もが私の正義を求めてくれていた。ゆえに争いなどほとんど起こることなく、起こるとしても、それは完全なる悪の手によって引き起こされるものなのだ。

 

『――いいのか? こんな貴重なもの……』

『いいのさ。みんなの正義の味方であるお前さんにはその資格がある』

 

望んだ勧善懲悪の世界がここにあった。かつて望んだ全てがこの世界にはあった。この世界はまさに私の理想を体現したかのような世界だった。この世界の全ては私にやさしく、この世界の全ては私にとって都合がよく、この世界のほとんど全ては私の味方で、この世界に存在する私と相容れない存在はこの世界に住む全ての住人にとっても悪であり、この世界は真に天国と呼ぶに躊躇わないような世界で、この世界はまさに理想郷そのもので。

 

『……感謝する』

『いいってことよ。世の中は持ちつ持たれつ、だろ?』

『ああ――、そう、そう、だな……』

『お、エミヤじゃないか。よかったらこれも持ってきな』

『お兄ちゃん、これ、あげる』

『エミヤさん、この前はどうもありがとう』

『エミヤ。よければ今度、一緒に迷宮に潜ってくれないか』

 

そう。この世界は居心地良く、都合良く、相違なく、確実に私の理想を形にした世界で、誰もが私を否定しない居心地良い場所であるはずなのに――

 

『エミヤさん』

 

なぜだろう。私の心はこんなにも違和感と寂寞を抱えている。

 

『ありがとな』『感謝しているぜ』

 

寸分たがわぬ愛と正義に満ちた言葉が投げかけるたび、心が何処か軋む思いをする。

 

『さすが正義の味方だ』『やはり私の正義は間違っていた』

 

悪と呼ばれる存在が、自らを悪と呼んで私の正義を認めるたび、例えようもないむなしさが身を包み込む。

 

『お前こそが正義の味方だ』『お前の正義こそが真の正義だ』

 

正義。その言葉を耳にするたび、この身を包み込む気持ち悪さの正体はなんだ。なぜ私はこんなにも理想に満ちた世界で満たされない。なぜ私はこんなにも永劫に幸福が続く世界で満たされない。なぜ私はこんなにもうんざりする。

 

『エミヤ』『お兄ちゃん』『エミヤさん』『エミヤ殿』『エミヤ』『エミヤ』『エミヤ』『エミヤ』

 

皆が私に賛同する。皆が私を一様に褒め称える。

 

『『『『『『『『『『『ありがとう』』』』』』』』』』』

 

皆の意志は完全に私のそれと一緒の思想に統一されている。皆はまるで私の人形のようだ。

 

『『『『『『『『『『『流石は正義の味方』』』』』』』』』』

 

――ああ、そうか。

 

『『『『『『『『『『『貴方は私たちのヒーローだ』』』』』』』』』』』

 

そこで違和感にようやく気が付いた。この世界には私以外に存在しない。この世界には、私以外の人間が存在していない。誰もが私の事を称える世界なんて、私以外の誰もが存在しない世界と何ら変わりない。

 

『嘯くのはよくないな、衛宮士郎よ。自分が先ほど言った、世界のシステムを書き換えるとかいう行為は、かつて貴様が正義の味方と崇めた切嗣という男の、理想を軸にして弱者を一方的に無視し切り捨てるやり方や、あるいは貴様が英霊となるまでに他人に正義を押し付けてきた虐殺行為と、一体何が違うというのかね? どちらも同じ、人間個人の中身を見ずに、自らの考えこそが絶対正義であると考え、己が形式に当てはめて世界を支配しようとする行為だろう?』

 

向けられる優しさを倦み、孤独を実感した瞬間、違う理由で、しかし同じように人から向けられる優しさを倦み、孤独を実感していた男の言葉が突如として脳裏へと浮かんでくる。男はかつて私が悪と断じた人物で、しかし同時に、私とまるで同じ人間だと、長い対立と幾度かの対決の果てに私がようやく理解した、そんな男だった。

 

『一人の思想が全てを支配する世界。そんなもの、世界の中にただ一人でいるのと何の違いがあるというのかね?』

 

男の言葉が状況に突き刺さる。その瞬間、頭の中に満ちていた快楽の靄が嘘のように失せてゆき、頭は明朗さを取り戻す。そうして豁然とした頭で世界を見渡すと、理想郷と感じていた世界があまりに正気に歪んでいることに気付き、愕然とした。

 

――ああ、お前の言葉のそれを、私はようやく実感したよ。

 

『どうしたの?』『具合が悪いのか?』『お兄ちゃん大丈夫?』『メディックを読んでこようか?』『肩を貸そう』『おーい、ちょっと誰か来てくれ』

 

確かにこの世界は私の理想郷だ。だがそれは、この世界には私以外に誰もいないからこそ、実現された偽りの理想郷だった。この世界は確かに私という正義の理想を違うことなく実現したものであり、しかし同時に、王様気取りの愚者が見る孤独の夢と何ら変わりのないものだった。

 

『『『『『『『『『『『なあ、大丈夫か、エミヤ』』』』』』』』』』』

『……』

 

私の思想を植え付けられた正義の人形たちが心配の言葉をかけてくる。誰もが統一されたかのように動くその様は、群れた昆虫が無機質に獲物へと食らいつく様を思い出させて、それがひどく気持ち悪くて、逃げるようにしてその場から離脱した。

 

『お、元気になったようだ』『よかったよかった』『あんだけ走れるんなら問題ねーな』『今度また、冒険に付き合ってちょうだいね!』『ばいばい、お兄ちゃん!』

 

誰もが慈愛に満ちた視線を向けてくる、たった一人の正義だけが満ち溢れた孤独の世界。そんな世界の中、私と違うそんな存在を求めてふらふらと街中を歩いていると、その足は自然とある人物の待つ宿屋へと向かっていた。視線から逃げるようにしてその建物の内部へと飛び込み、中の廊下を駆け抜けると、ノックをした瞬間、返事を聞く間すらも耐えられないとばかりに部屋の扉を開け放つ。

 

「あら、どうしたの?」

 

中にいた見目美しき女神のような少女は、見る者全ての思考を溶かしつくすような格好で、聞く者すべての思考を蕩かすような声色で、悠然にも、泰然にも、悄然にも見える態度で問いかけてくる。今の私に唯一違和感を覚えさせない態度で、私に疑問を投げかけてくる少女を見やったその瞬間、濃霧が晴れるかの如く脳裏を渦巻いていた疑念は氷解し、思考は凛然さを取り戻す。

 

 

はたしていつ、世界はこのようにして救われたのか。最初に感じた違和感は、それだった。一度違和感を覚えてしまうと、後は芋づる式だった。湧き上がる疑念が次の疑念を呼ぶ火種となり、芋づる式に現れる疑問はネズミ算の様相をなして、疑念を確信へと変化させてゆく。

 

そう。私の知る限り、YHVHの召喚を発端として始まった世界の混乱はいまだに続いていて、自分はその混乱を鎮めるために注力しているはずだった。そのために私は、ギルガメッシュという英雄に背を押される形でこの世界を離れ、ライドウという悪魔召喚士の存在する世界へと辿り着き、彼らの世界で様々な事件に関連した手がかりをえながら、やがては発動した蠱毒の術式によって飲み込まれて終焉の地へと辿り着き、シンとの決闘を行ったのだ。

 

そうだ。その過程において私は、多くのものを得て、多くのものを失ってきた。自らの足にて出向いたその先、己自身で、時には誰かに導かれる形で自らの本心と向き合い、多くの犠牲を払いながら自らが過去に置き去りにしようと無視し続けていた感情というものを取戻し、ようやく夢の世界から現実へ足をつけることに成功したのだ。

 

そうとも。あの葛藤を忘れることなど出来ない。あの苦しみを忘れることなどできない。あの恋慕の情も、あの懊悩も、あの激情も、あの葛藤の果ての決意も、あの決意の果てに得た痛苦と喪失感と無力感も、その後に得た全身を貫く高揚感も、この身に浴びせられた賞賛の言葉も、言葉を送られた時に湧き上がった天地を揺るがすほどの感動も、そのすべてが自分の経験により刻まれた記憶であり、自分が現実にて生きているという証だった。

 

そうだとも! そして、そんな私は現実に生きているのだという実感を得るために、私は多くのものを犠牲にしてきたものの事を忘れない! 私は私を現実へと引き戻してくれた男の事を忘れない! 私は私という存在を救うためにその身と魂を賭して自らが最も嫌う養父『衛宮切嗣』という存在を騙り、私を救い上げたその後にやがて無言のうちに死していった言峰綺麗という男の事を忘れない!

 

私は、私を救い上げてくれた、世界に生きる私に関わってきてくれた命の全てを忘れない! 忘れたいなどと思わない。彼らの犠牲をなかったことにするような、こんな世界は望んじゃいないんだ! 否、けっして望んではいけないものなんだ! だから――

 

 

私はそして息を大きく吸うと、吐いた後に言う。

 

「夢の時間は終わりだ、メルトリリス。私の現実を返してもらおう」

 

宣言すると、世界の全てが瞬時に色あせた。氷の軋むような音を立てて、世界の光景にひびが生まれてゆく。世界へと刻まれた傷跡は緩々と時が過ぎ去るごとに細かな無数の線の集合へと変化し、やがて臨界点を超えたのだろうその瞬間、万華鏡を揺さぶったかのよう粉々に砕けて塵へとかえっていった。

 

散乱した光の粒子がその身の内に秘めた残光は闇の中を舞い、やがて闇の中に溶けてゆく。光が完全に失せきるそれよりも依然、すぐ正面にいた不自然さばかりが広がる世界において唯一どこか慣れてない様子ながらも自然さを保っていたメルトリリスの顔が目に映る。

 

目の前、エトリアではない、世界のどこにも存在しないだろうそんな闇ばかりが何処までも続く空間の中では、メルトリリスという夢の中において私の伴侶であった少女が、心底残念そうに微笑んでいた。

 

 

砕け散った光が力を失い、世界の破壊とその欠片の散乱が動きを止めた頃、周囲の世界は完全なる闇に包まれていた。光はなく、臭いなく、感触なく。わずかばかりに自身の内側より聞こえてくる内臓の鼓動と、互いの発する身じろぎと呼吸との音色だけが、今や世界の全てとなり果てていた。

 

――解析開始/トレース・オン……

 

魔術回路に魔力を流して解析の魔術を周囲の様子を探ろうとするも、指先は虚空を撫でるばかりで闇の中に何もつかめるものを見つける事は出来なかった。それでも一応と解析魔術を発動させては見るものの、発動させた魔術より伝わってくるのは自身の周囲にある闇と闇の満ちる空間は解析不能という結果ばかりで、それ以外に何の情報をも得ることが出来なかった。

 

――、ダメか。

 

「なぜ……、あの幸福が現実のものでないと気付いたの?」

 

何処までも不変が保たれるという自然界において不自然な闇の中、そんな無明など慣れ親しんだものであるといわんばかりのいつもと変わらぬ声色で、メルトリリスは儚く尋ねてくる。彼女のその自然体から、この無明の暗黒こそが元々彼女が身を預け置いていた場所なのだろうと直感し、警戒心を強める。

 

「――あの光景が、彼らの態度があまりに不自然だったからだ」

「あら、そう。でも変ね。私は詳細な観察の結果に得られた世界の様子も、彼らの仮面/ペルソナも完璧に再現して、その上で誰も彼も貴方の意に沿うような行動をするように設定したはずだけれど――、そうね。よろしければ後学のため、どこら辺が不自然だったかご教授願えるかしら?」

 

メルトリリスはいかにも芝居がかった物言いで闇の向こう側より問いかけてくる。さて、何が目的なのかと疑心を抱きつつも、この身が彼女の声以外のいかなる刺激もが存在しない完全なる不毛空間に置かれている現状、突破口というものは彼女との会話の中にしかないだろう。

 

「――確かに君のそれは不自然さなく、完璧だったさ。そうとも、君が再現した彼らの所作は途中まで完璧なものだった。私とて初めは騙されたよ。――そうとも、君がつくりあげた彼らの仮面/ペルソナは完璧で、あまりにも私に優しすぎた。だからこそ私は、これが現実ではなく、誰かの作り出した架空の幻想であるとそう気付けたんだ」

「完璧で、優しすぎた? 一体それはどういう事?」

 

生きている以上揺らぎが存在する。確かに人は、多くの場合において定型的な決まった反応を見せるが、だからと言ってそれは絶対ではない。たとえ好意を抱く相手だろうと、ふとした瞬間に悪意を抱くことはある。文句を言いたくなるような時だってあるだろう。

 

「――君はやりすぎた。たしかにもし君が作り出した彼らは、もし彼らが実際その場所にいたとしても、まるで同じ反応をしただろうくらいには、完璧だった」

「それで?」

「そうとも。彼らは完璧だった。あらゆる事態において、彼らは、『こうした場合、こうするだろう』と、私の予測する通りの行動をとってみせてくれた。そしてその上で、彼らは、私に対してあらゆる悪意を向けてこなかった」

 

その時自らの置かれている周囲の環境が、その瞬間に彼らの抱く感情が、人間の行動を変化させる不定要素となり、時に人は違った反応を見せてくる。

 

「彼らはあまりに完璧に優しすぎた。あの世界はあまりに私にとって都合が良すぎたんだ」

 

そうとも常に一様の反応をする存在なんてありえない。どんな時にでも、人間は、世界は、その時その瞬間の状況によっては予想外の反応というものをしてみせる。しかしあの繰り返される幸福の世界には、そんな中に住まう人間には、それがなかった。

 

「すなわち彼らはまるで人形で、あの世界は私のために作られた舞台のようだった」

 

そう、あの世界の人間には一切の感情の揺らぎによる行動の変化がなかった。それはかつて感情を失い、目的を果たすための機械のようになり果て、しかしその後、無限に続くかとおもわれた長きに亘る旅路の果てに、知覚と感情というものを完全に取り戻した自分だからこそ、気が付くことのできた不自然さだった。

 

「そう。彼らはまるで、彼らと実際に付き合ったことのない誰かが、しかし綿密かつ詳細な観察の末に、私のためにつくりあげた人形であるかのように、一瞬たりとも不自然な言動をせず、その上、世界は私にとってどこまでも都合良く動くものだった。人間も世界も不条理こそが真理だ。一秒前に真実と思ったことが、一秒後に嘘と思うようになることだって珍しくない。そんな矛盾を孕みながら、そんな矛盾によって多くの人と衝突し、仲直りをしながら、それでも前に進むのが人間というもので、正しい世界の在り方というものだ。だからこそ私は、彼らが本物の人間と世界でないことに気が付けたんだ」

「――なるほど」

 

指摘を受けて、メルトリリスは納得したといわんばかりの声を上げた。闇の衣に遮られてその表情を確認することはできないが、その声色から察するに、おそらく今彼女は、心から感心した表情を浮かべているに違いない。

 

「納得だわ。――えぇ、そうよ、その通り。まさに貴方の言うとおりだわ。だって私、他人が私に向ける感情というものがよくわからないもの。それに、私にとって世界なんていうものは、私の思い通りになるのが当たり前だった。私にとって私にとって他人からの感情なんてものは、境界線を隔てた向こう側の世界にのみ存在するもので、世界は私の思い通りになって当然のものだった。私にとって感情とは私の内側にのみ存在するもので、つまりは世界という舞台にて繰り広げられる劇を不安定にさせる不確定要素以外の何物でもなかった。だからこそあの舞台の上にいた役者は、他の誰とも直に接触する事の出来なかったそんな私が緻密な調査を重ねた末に生み出した漢書による行動の揺らぎを持たないお人形だった。そう、その通りよ。確かに彼らや私の作った舞台には感情や不確定要素による揺らぎがない。なるほどね、だからこそ生きている貴方はそんなお人形たちや世界という舞台の不自然さに気が付けたというわけなのね」

 

そして告げられた自らが見せていた夢の欠点を、メルトリリスはあっさりと肯定する。私をこのような場所に閉じ込め、そして幸福の夢を私へと見せていたその女主人の口から出てくる反省の言葉には、しかし慚愧の念がまるで存在せず、声からはこちらに対する感心の念ばかりが伝わってくる。私をあの空間に閉じ込めておくのが目的であるなら、それに失敗してしまった今、一欠片くらいの後悔の念が現れてもいいはずだ。だというにもかかわらず、彼女は一切後悔したようすも見せず、私の言葉に関心の言葉ばかりを放っている。

 

「何が目的だ」

 

その態度、その不自然さが自身の裡に疑心を呼び、私は思わずそんな声をかけていた。

 

「あら?」

「君という他人の感情に理解を示さない存在が、何の目的もなく、他人に何かをしてやりたいと思うような人間でないことは、今の君の物言いで理解した。だがその君が、なぜ私が幸福だと思う夢を、私に見せたのかが理解できない」

「――――――――――――私、恋がしたかったの」

 

メルトリリスはたっぷりと溜めこんだのち、陶酔した様子の声色で言う。おそらく今頃、闇の向こう側、メルトリリスはひどく酔いしれたような表情を浮かべているのだろう。

 

「恋?」

「そう。それもただの恋じゃなく、飛び切り上等な、恋の果てに我が身を燃やし尽くしてしまうような恋をしたかったの。そして私は私の恋と愛を捧げるに相応しいその相手として、貴方という正義の味方を選んだ。恋をした相手が幸福になれるよう、そんな相手と幸福に過ごせるよう、そんな夢を見られるよう行動するのは、恋をした女として当然のことでしょう? だから私は貴方に尽くすの。貴方と一緒に幸福の夢を見ることが、今の私の夢なのよ」

 

その物言いに眉をひそめた。メルトリリスの声色はまるで狂信者や預言者の告げる言葉であるかのように一切揺らぐことなく、それ故に彼女が今しがた語る理想こそが、先ほど私が幸福の夢を見た原因であると告げてくる。加えて、彼女が幸福と語る夢で見たその内容は、確かに私と彼女を中心とした恋物語だった。そしてだからこそ解せない。

 

「なぜ君は私を選んだのだ? 私は君にそのような慕情を向けられる覚えが、まるでない。そもそも私と君は初対面のはずだ。私は君の事や君の事情をまるで知らないのだから、そこがどうしてもわからない。そうだ。そう、そもそも、だ。――――――君はいったい何者だ? ここはどこで、私はなぜこのような場所にいる?」

「――うふ。うふ、うふ、うふふふふふ……、あはははははははははは!」

 

畳み掛けるようにして問いかけると、メルトリリスは小さく笑いを漏らした後、やがて抑えきれないといわんばかりに失笑を続け、最後には大声で笑いだす。闇の向こう側から聞こえてくるその嘲笑じみた声の音は、しかし心からの可笑しいに満ちていて、それ故だろうか不思議と不愉快さを感じさせないものだった。

 

「そう、そうね。その通りだわ。舞台の上で数多に恋慕の劇を繰り返してきた私たちは、けれどまだ自己紹介の挨拶もまともに交わしていなかった」

 

その態度があまりに不審であったため注意の視線を向けていると、メルトリリスは何とも仰々しい芝居がかった物言いをしたのち、おそらくは礼に則った挙措を行ったのだろう、闇の向こうから微かに衣擦れの音を響かせた。途端、全てを覆い尽くしていた闇の緞帳の一部が、まるでスポットライトに照らしだされた舞台の上であるかのように、光によって切り取られる。

 

「笑えるわね。私としたことが失礼したわ。何ともまた優雅でなかった事……」

 

闇に生まれた光の舞台の上の中心では、ここが舞台の上だとするならば観客席にあたる方面へ向けて、メルトリリスが両手を大きく広げて喋っていた。彼女は此の期に及んで、物語のヒロインを演じているかのようだった。

 

「ここにお詫びと共に、改めて私の恋相手である貴方にご挨拶させていただくわ」

 

やがて主演女優/メルトリリスは姿勢を正すと、観客席側にいかにも役者が演ずるかのように優雅に一礼をしたのち、同じく舞台の上にたつ私へと向かって視線をまっすぐに向けてくる。その所作はまるで、まさにこれより舞台は開幕するのだと言わんばかりのものだった。

 

「ここは月の裏側。世界の平和を保つべく旧人類によってつくりあげられたシステムの内部。世界が溶け込んだ蠱毒の溶液と直結しつつある今や、ここは、世界の全ての運命を握る契約の箱の中に等しい場所」

 

告げたメルトリリスはくるりとバレリーナのように回転すると、刺々しい装身具のつま先だけで器用に片足立ちの姿勢を取ると、もう片方の足先を片足立ちの膝にまで振り上げたポーズでピタリと止まり、再び私に視線を送ったのち、再び口を開く。

 

「そして、私の名前はメルトリリス。世界を不変の状態に保つべく女神と化した間桐桜が、しかし永遠に続く孤独の闇に耐えかねて生み出した、その魂の裡より彼女の孤独を癒すための生み出された人造女神の別人格にして、かつてのあなたと同じく、世界の平和を保つべくして世界という存在に縛り付けられた永遠に壊れない不変不屈の精神を持つお人形。世界の裏側より世界を観察し、世界の平和を乱しかねない存在を人知れず排除する、機械装置。それが真っ暗闇の空間の正体であり、この私の正体よ」

「なっ――」

 

舞台の上でメルトリリスの口から芝居がかった挙措と共に語られた言葉の内容はあまりに衝撃的かつ想像だにしていなかったものであり、しかしまたそれ故に、そんな知らぬ知識の羅列の中にあった聞き覚えのある単語の存在が、混乱する頭へと刻みつけられる。

 

「間桐……、桜、だと?」

 

覚えのある名を聞いた途端に、はるか昔、生前多くの時を過ごした我が家の台所で儚げに笑う彼女の姿を幻視した。長く腰まで伸びた紫髪。美人といって一切違いない柳眉な顔。柳腰に艶のある体つき。脳裏に浮かんだ桜という少女の姿が、その年の頃を多少逆行させる想像をすれば、確かにやがて闇の向こうにいるだろうメルトリリスのイメージと重なることに気付き、呆然とした。理解が出来なかった。否、理解が追い付かなかった。

 

「なぜ、彼女の名が……」

「あら、覚えていたの? 流石ね。あんな貴方の輝かしい生涯に比べれば所詮は路傍の石に過ぎないような弱い女の事を記憶の片隅にかもしれないけれど覚えているなんて、流石は元英霊。――いえ、抑止力の守護者だわ」

「――っ」

 

そうして今しがたメルトリリスの口より得た情報から桜の事情の理解に努めようとした途端、彼女の口から続けて放たれた鈴の音のような声色の言葉を耳にしたその瞬間、呼吸は完全に停止し、鼓動が急激に早まった。

 

「ぐっ……」

 

目に見える範囲に誰も存在しないという環境が、彼女の言葉が、かつて世界より隔離された場所に魂を保管され、ことあるごとに世界の守護者として呼び出されては殺戮を繰り返していた頃の記憶を呼び起こす。手に誰かを切り裂いた折の感触が思い出され、飛び散り肌にかかる血潮の熱さが、脳を焼く。

 

「ぐ……、ぬ……」

 

連鎖して、味蕾が血の味と乾きを訴える感触が、鼓膜へと焼きついた悲鳴が、鼻腔を刺激する全てが焦げゆくその臭いが、肌に残留している炎の感触が、網膜にこびりついた全てを焼き尽くさんと踊り狂う業火の光景が、同時に記憶の奥底に眠る元始の場所より引きずり出され、油断に弛緩しきっていた脳裏を傍若無人に駆け巡る。

 

「――いい悲鳴。興奮しちゃうわ」

 

過去の記憶が五感を刺激し、呼吸困難に陥った私のそんな喘ぐさまを耳にして、メルトリリスは目を細めて陶酔した表情を浮かべると、うっとりと酔ったような声色でそんな言葉を口にする。声色には、偽りの成分は一切含まれておらず、瞬間、夢の中でおいて何度か目撃した、彼女のそんな他人の不幸を喜ぶ加虐的な性質は確かに真実であったことを直観するとともに、そんな彼女に対して疑問が浮かぶ。

 

「なぜ……」

「うん?」

「なぜ、私なのだ」

 

体調は最悪だ。今にも倒れこみそうな状態、それでも必死に絞り出した短い問いの言葉には、君が桜の分身だという事は理解した。ならば君が私の事を知っている事情もおおよそ想像がつく。しかしなぜ私なのか。しかしなぜ、そんな他人の不幸を喜ぶような君は、自らの恋を宛てる役として、正義の味方をめざし、他人の幸福を歓び、自らの糧とするそんな男を選んだのか、という、今の私の疑念の思い全てが含まれていた。

 

「だって」

 

そしてそんなそのような思いが込められた、私以外には理解しにくいだろうそのたった数文字の中に秘められた思いを、おそらくは余さずに理解しつくしたメルトリリスは、迷いのない断言的な口調で答える。

 

「貴方と私は似た者同士だもの」

「似た者同士……?」

「ええ。だってあなた、私と同じで、基本的に他人の感情や都合になんて興味がなく、他人の感情や継ごうなんてものよりも自分の想いを叶える方が大切な、自分以外の他人をお人形のように思ってる人間でしょう?」

「――」

 

そして聞こえてきた彼女のセリフに、思わず過去より押し寄せてくる痛みも、痛みにあえぐ体の状態を整えてやるための呼吸をすることすらも忘れて、蒼白になって絶句した。言葉が出ないとはまさにこの事だった。彼女の言葉は私の最も弱きところを的確に貫いていた。

 

「私、知ってるのよ。貴方のことをよく知る凛の記憶を覗いたもの。そして私は、貴方がこの世界に現れたその時から、貴方に私の魂の欠片を埋め込んで、ずっと貴方の魔術回路の中から、貴方の事だけを見続けてきたんだもの。私は貴方が異世界という私の管理外の場所にいたその時だって、私はサコという私専用の端末を使って、貴方の事を見つめ続けていた」

 

息が苦しい。呼吸が乱れてまともにできていない。鼓動は馬鹿みたいに早まり、感情はこれから先に続く言葉を聞きたくないと訴えて来る。

 

「あなたはかつて、幼いころの事故が原因で、他人の気持ちをよく理解できなくなった。幼い貴方はそれを当然と受け止め、自分が実現しようとしている正義の味方という夢が他人には理解しづらいものだとも思うことなく突き進んだ。普通なら心が折れてしまうだろうそんなことを、けれど貴方はそれをやり遂げた。当然よね。正義の味方というあなたの理想を理解する人間以外、つまりは貴方の理想を理解しない全ての人間は、貴方にとってあなたの正義の味方という夢を引き立てるための単なるお人形に過ぎないもの。貴方は、『自分の体は他人のためにある』なんて言いながら、その実、他人の人格を認めず、自身の理想を理解しない人形として見下していた」

 

続く言葉はやはり的確に私の歪みとコンプレックスを捉えていて、鋭い言の葉が胸を貫く。高鳴っていた心臓がまるで実物の刃によって貫かれたかのように、不規則な挙動をおこない、不整になった脈によって脳裏がチカチカと明滅を繰り返していた。

 

「ほら。それは、この闇に包まれた世界の中で、私と貴方と桜以外の全てに価値を見出さず、それ以外の全てを私の人形としてしか見ない私と何が違うというのかしら?」

 

最後と言わんばかりに述べられたその言葉に、高鳴っていた心臓の鼓動が停止した。メルトリリスの言葉はこれまでに向けられてきた刃のいずれよりも鋭い切っ先となり、胸の奥底の心象を深く抉りとる。私は一言も反論が出来なかった。なぜならそれは、自分が言峰綺麗という男から指摘された通りの事実であったからだ。メルトリリスはこちらの無言を自らの意見に対する何よりの肯定と察したのだろう、嬉々とした声色のまま語りかけてくる。

 

「誰も貴方を理解しない者のいない、貴方を傷つける者のいないそんな世界は、これまでにないくらい幸せに過ごせていたでしょう? 誰もが貴方の理想を理解しているあの世界は、これまでにないくらい平和が保たれていたでしょう? あの世界はあなたの理想が完璧に実現された、貴方にとって完全な幸福のある、そんな理想の世界だったでしょう?」

 

メルトリリスのその囁きはまるで悪魔の誘惑だった。

 

「ねぇ、想像してみて。そんな、貴方にとって優しい幸福の時が、長く、ずっと続くのよ? そしてどこへ行っても貴方の正義が通用する世界の中で、私とあなたはずっと舞台の主役であり続けるの。それはとても素敵なことだと思わない?」

 

誰だって己の夢や幸福を実現するために生きているのだ。それが寸分違うことなく叶うとなれば、魂を売り渡すと豪語する輩だって珍しくない。それを、そんな幸福を彼女は与えてくれるというのだ。そんなもの、その辺道行く誰かに尋ねれば百人が百人、首を縦に振るに決まっている。

 

「今の私なら世界をそんな風に生み直せる。世界の平和を守るシステムだってきっと協力してくれるはずよ。私がこんな風に世界を好き勝手に組み替えたって、システムの精神修正が働かないのがその証拠。きっとシステムは私と同じように、人類の存続のためには人間の感情なんて余分、不要だと判断したんだわ。感情なんていう常に変化する要素を抱えた人間が、己の幸福をこそ最優先にしたいという本能を持ち合わせている限り、世界に真なる平和は訪れない。誰もが主役を主張したんじゃ、劇は劇にならないわ。舞台を成立させるために用意される主役の席はせいぜい一つか二つ。世界という舞台の上で演じられる劇の内容に『平和』と課題を望むなら、その舞台の上に主役として相応しいのは、正義の味方としてその生前も死後も平和のために尽くしてきた貴方と、生まれた時から平和のため尽くしてきた私の二人だけ。そうじゃなくて? だから――」

 

――ずっと二人で一緒に、私の用意した舞台の上、平和の夢に踊り狂って、理想に溺れてしまいましょう?

 

彼女の声が耳より滑り込んで鼓膜を打ち、頭の中に溶け込んでこだまする。

 

「今や貴方と私は、同じ極の存在ではなく、同じ性質を持つ、しかし真反対の存在」

「――」

 

無明の闇の中、こちらへと小さな手を伸ばす彼女の姿が目に浮かぶ。庇護欲そそる美しい少女の姿をした女神の彼女が、しかしそのまだ幼い顔立ちの上に妖艶な笑みを浮かべながら袖に隠れた小さな腕を伸ばしてくるその幻覚姿は何とも抗いがたい至上の魅力に満ちており、数多の人間を破滅へと導いてきた女神の誘惑と言う以外に例えようもないものだった。

 

「反する磁極が互いを求めて固く結びつくように、今や正義の味方を目指す貴方と正義の味方に尽くしたいと思う私の相性は、比翼連理よりもさらに強固な陰陽の如きものとなっている。ねぇ、そうはおもわない?」

「――っ」

 

彼女の放つ抗いがたい暴力的な魅力が視覚と聴覚を伝わって脳髄へと入り込んできた途端、先ほどの至上の幸福に満ちた世界が思い出された。再出現した想像の余韻だけで溺死を選択してしまいそうなほどの快楽の誘いが、体中に浸透する。

 

「さぁ、身を委ねてしまいなさい。私の愛はまさに天上の蜜に等しく、貴方を幸福に導くわ」

「―ッ!」

 

気を抜けば体中をとろかしつくしてしまいそうな快楽に、歯を噛み砕かんほどに食いしばり、歯茎から漏れる血の味を舌の上に広げることで対抗する。口腔に広がる血はやがて鼻の奥から逆流して伝わってくる鉄の香となり、その刺激は戦火の記憶を呼び起こした。記憶は、誘惑の声満ちる海の船の上、やがて自らを拘束する常識と自我の柱をへし折って海の底に溺れてしまうことを望みたがる自身の意識を船へと固定する縛鎖となり、碇となり、誘惑に負けそうになる自らの意識を現実へと縛り付けていた。

 

「そんな誘いには――――――、のれない……!」

 

その甘い蜜に満ちた誘いを一度受け入れて仕舞えば、二度と戻れぬ夢を見続けることになるだろう事を悟っているが故に。誘いに乗ってしまいそうになる自らを鼓舞する意味も含めて、必死に強がりの言葉で彼女の誘惑を否定する。

 

「強情ね。でも、簡単に誘惑に流されないそんなところも素敵だわ。でも、私にはわかるわ。貴方の本能は揺れ動いている。私には貴方の本心が私の提案にこれ以上ないほどの魅力を感じているのが、私には手に取るようにわかるわ。だって私は人類の集合無意識領域を住処とする存在で、かつての貴方と同じ場所を目指した存在なんですもの」

 

しかしメルトリリスは更にその蠱惑的な声を重ねて、セイレーンの歌に抗うオデュッセウスよりも強固に自らを諌め現実に縛り付ける精神的支柱をへし折ろうとする。彼女のその誘惑には否定を許さないような強制力が多分に含まれていた。

 

「君の願いは間違っている。他者に一方的に溶かしつくしてその在り方を組み替え、他人を人形のように扱い、一部の人間にのみ通用する幸福の夢を与えようなどと言う願いのどこに正しさがあるというのか。私と同じ性質の存在であると豪語するのであれば、今の私がそのような一方的すぎる正義を受け入れられないという事くらい、君には即座に理解できるはずだ」

 

そうだ。そんなものは間違っている。個人の考えをほかの全ての人に適応し、さらには幸福を簒奪しようだなんていう考えは、絶対に間違っている。確かに私は、かつて誰もが幸福であるという世界を実現させようと駆け抜けたこともある。否、今だってきっといつかはそんな理想を実現させてみせると思いながら足掻いている。だからこそ私は、彼女の考えが認められない――

 

「ええ。でも、そんな強情な貴方が、同時に、心のどこかで私の提案を受け入れてしまいたいと思っていることも、そして今まさに陥落寸前であることも、私は当然理解しているわ」

「――っ!」

 

認められないが、そうして理性は自らの理想を共有するだけの場所を作るというそんな子供じみた空想の世界を認められないと同時に、しかし自分の感情は彼女のそんなあまりにも抗いがたい魅力を持った言葉を否定することもできず、誘いをきっぱりと断る事が出来ないでいた。

 

「正義の味方は味方した正義しか救わない。そして世界にある幸福の総量は有限で、でも世界に広がる正義の数は人の数だけ、それこそ無限に等しいくらいに存在するわ。分子の数がどれだけ多かろうと、分母に無限が代入されれば、答えは限りなくゼロに近づく。けれど分母の数が全く同じ形の正義ばかりの『一』であれば、分子の数が増える分だけ、私たち、貴方が救いたいと願う人々の、貴方と正義を共有する人々が享受できる幸福の総量は増えてゆく。分子の数が増えるほどに、貴方はより多くのより密度の高い幸福を、より多くの人と共有してより得ることが出来る。そう。貴方は貴方の理想が完全に根付いた平和の世界を、貴方が思い描く形よりもより優れた形で実現することが出来るのよ?」

「だが、そこに私たち以外の幸福はない。そうだ。そもそも、彼らを舞台の役者として犠牲にした君の提案を受けることなど――」

「あら、私がいつ、誰を犠牲にしたというのかしら?」

 

メルトリリスがその細腕を振るうと、舞台は再び闇に包まれた。そして次の瞬間、暗幕降りたそんな舞台の上、無明ばかりが広がっていた闇の中に、見覚えのある顔が五体満足のしかし目を閉じた意識ない状態で無数に並んでゆくのを見て、度肝を抜かれる思いをした。

 

「凛! ギルガメッシュ! ランサーに、玉藻! シンにダリにサガにピエールに、響まで!」

 

見覚えのある顔を見つけるたびに彼らのその名を叫ぶも、彼らは呼びかけに応じることもなく、 再び闇の中へと滑る様にして消えてゆく。

 

「見ての通り、私はあらゆる彼らの命をこの月の裏側という場所の中に格納している。ギルガメッシュの様な私の蜜を逆に飲み込んでしまいそうな存在や、玉藻の様な蠱毒に耐性のある変わり種を手中に収めるのには苦労したけれど……、見ての通り、今や彼らは私の虜。無論、ここにいるのは彼らだけではないわ」

「――な」

 

闇の向こう側、メルトリリスがその袖に隠れた細い指を打ち鳴らすと、周囲の闇の中に先ほどとは比べ物にならない数の大勢の人間が姿を表した。突如として現れた彼らは、やはりまた死んでいるわけでない事がその血色の良さと、浮かぶ微笑みから理解する事ができる。

 

「彼らは別に死んでいるわけじゃない。彼らはただ私の中で眠りについているだけ。彼らは基本的に闇の中で各々の好きな眠りについていて、私が必要とするその時だけ、私の舞台の上に招待されて役者を演じることを強要される存在。言うなればサーヴァントみたいなものよ。いえ、寧ろそれよりは遥かに救われている存在よ。だって彼らはかつての貴方や私と違って、必要な時だけ劇の上に登場し、最低限の役割を強要される以外の時は、自らの望んだ夢を私が見せてあげているんだもの」

「――」

「私が望めば彼らはいつだって世界という舞台の上に再登場を果たす事ができる。彼らの顔を見た? みんな幸せそうに眠っていたでしょう? 貴方がそう望んだから、私の力によって、彼らはずっとそんな望む夢を見続ける事ができるのよ? 誰も犠牲になんてなっていない。誰も犠牲になることなんてない。ただ時折、悪い夢を見る以外に彼らはなんの憂いも持たずに、ただ幸福の夢の中を揺蕩っていられるの」

 

誘惑に耐えるべく歯噛みしようとするも、しかし聞こえてくる言葉と彼女の言葉の事実を証明するかの様な光景が目から飛び込んできて、顎に力が入りきらず、抗いは弛緩して開いた口を閉じるだけにとどまる。実際に放たれ体に溶け込んでくる言葉の一つ一つと、妄想の中で彼女のする挙措とが、心の柔らかい部分をくすぐり、体をだらしなく弛緩させていた。

 

「たまに苦痛が訪れる瞬間以外、誰も苦しまない、誰も傷つかない。そんな時たまやってくる苦しみだって、次に再び望む夢を見た時には、一時の悪夢として片付けられてしまう様なそんな世界。ねぇ、どう? 貴方の理想通りどころか、貴方の理想を超えた、そんな平和の世界が広がっていると、そう思わない?」

 

舞台の上を再び光に照らしたメルトリリスは、告げながら近寄ってくる。その声は甘く、提案は優しく、感情は目の前へと差し出された蜜を今にも舐め出してしまいそうな状態だ。そうとも、感情はとっくに陥落済みだった。今や我が身が誘惑によって命の道から堕ちないよう支えているのは――

 

「そう。私なら貴方の幸福をより高い形で実現してあげることが出来る」

 

――本当にこれで、いいのか?

 

私の理性が、また、彼女の提案にほとんど屈してしまいかけている感情が、彼女の放ったの誘惑の言葉の羅列の中に、何かのどに引っ掛かる魚の骨とすらいえないほどの小さな違和感を感じており、それらが係留のための縄として私という小舟が快楽の海の底へと沈まぬよう岸に引っ掛かっていてくれているからだ。

 

「さぁ……、一緒に夢の中で幸福の時を楽しみましょう?」

 

――ならばその違和感とはなんだ。

 

「ね?」

 

か細い理性の綱の働きに自身の命運を預けながら、ならばこの違和感こそがこの状況を打破しうる手がかりとなるだろうと考え、思考する。

 

――私はいったい何に違和感を覚えている……!

 

思考を走らせる決意をした瞬間、走馬灯のように記憶が駆け巡る。否、それはまさしく、今や正義の味方を廃業するどころか、人間として堕落しかけている私の、走馬灯だったのだろう。思考は記憶のはるか昔の最も古い生前のモノから順に目を通し、違和感の元を求めて模索してゆく。

 

「ぐ……」

 

脳裏へと次々に映るのは、未熟で愚かでしかし愚直なまでに正義の味方を目指していた過去のころの私の記憶であり、正義の味方の夢を私に教えてくれた養父の存在であり、そんな私を慕ってくれていた生前の桜の姿であり、そんな私のパートナーとして一緒に聖杯戦争を戦い抜いてくれたセイバーという存在であり、そんな私と組んでくれた遠坂凛という存在であり、そしてそんな私の敵として私の目の前に立ちふさがった言峰綺麗という男の存在だった。

 

「う……」

 

やがて記憶は、その短針の位置をはるか未来へとすっ飛ばし、脳裏の光景が鮮明さを増してゆく。長身の進む速度は増し、エトリアの大地の光景はやがて転生後入り口で初めて他人と会話した記憶へ移行し、立派な色彩豊かなエトリアの街の光景が、内装立派な執政院の光景が、新迷宮の入り口が、その内部と魔物の光景が、次々に現れては消えてゆく。

 

「――あ」

 

カレンダーをめくるかのように明滅しては千切れて失せ去ってゆく記憶は、やがて最近、異世界においてとある人物と邂逅した折の付近にてその進行速度を緩め、そしてある地点において完全に停止する。

 

「……思い、出したぞ」

 

瞬間、稲妻が脳裏に輝いた。煌く光はすぐさま違和感の元を照らしあげ、私は該当していた違和感の正体へと辿り着く。

 

「え?」

 

思ったものと違った言葉が返ってきたことに驚いたのだろう、メルトリリスが呆けた声を上げた。近場にまでよっていた腕が戻され、メルトリリスは身を引く。そんな挙措をして見せる彼女から数歩後退したのちにその呆けた幼面をしっかと見つめると、口を開いた。

 

「他人をすべて舞台の端役の人形のように扱い、自身は舞台の上で主役として踊り続けることを望む。そうとも、世界をそんな風に考えるその言い方を、そんな考え方を、否、まるで君のような物言いでの例え方を、私は確かにした覚えがある」

「――」

 

言葉に闇の向こう側にたたずんでいるだろうメルトリリスの気配が、私の言葉によって、緊張か、驚愕か、おそらくはそのどちらかによってだろう、強くなった。瞬間、私は己の辿り着いた答えの正しさを直感した。

 

「そうだ。あれはたしか――、そう、ライドウたちの世界で言峰綺麗と問答した時の事だ。私は言峰綺麗という男を前に、世界を舞台に例え、他人を私の操り人形と化し、私の幸福のために舞台の上でトリックスターを演じる事を望み、そしてまた、私と同じくして舞台に上がってくれる踊り子を求めている、というような発言を私はした」

「あら、それはやっぱり、私と貴方が似た者同士ってことの証明じゃない」

 

その言葉を聞いた途端、自らの意見が肯定されたと思ったのだろう、メルトリリスは喜色に満ちた声で私へと話しかけてくる。

 

「いや、違う。だがそれは、私が意識してしゃべった言葉じゃないんだ。それは確かに私の口から出た言葉であるが、私の無意識から生じた言葉だった。だとすれば、そう、だからこそ私は、確かにその私の口から出た言葉の表現が、君の口から出た言葉の表現と重なったという事実に、こうして違和感を覚えたんだ」

 

だが私はそれを否定して、私の考えを述べ続ける。

 

「――」

 

メルトリリスが眉をひそめた。その顔は口元までが困惑により歪んでいる。彼女は私が何を言わんとしているのか心底理解しかねているようだった。

 

「私は確かに、かつて思い通りにいかない世界に苛つきを覚えていた。私は確かに、かつて感情のままに動き、決断を先延ばしにする人々に苛立ちを覚えていた。私は確かに、かつて世界の平和を口では謳いながら、その実、求めるのは自分の幸福ばかりで、立派に文句は言う実現を目指そうとはしない、そんな人間の醜さが受け入れられず、それ故にそんな醜い生き物を守るために生涯を費やしてきた自分の愚かしさに絶望し、過去の自分を殺して八つ当たりをしてやろうと思うほどに後悔したことだってあったさ」

「なら――」

「だがしかし私は、だからと言って、自分以外の誰かに自分の絶望と嘆きを押し付けて彼らの幸福を簒奪し、世界という舞台を作り変えて、他人から意志を奪って自らの思い通りに動く操り人形にしてやろうなどと、そんなみっともない真似をしようと思ったことは、一度だって無かったんだ」

「――っ!」

 

メルトリリスの白い顔が真っ赤に染まる。おそらくは羞恥と怒りと期待外れによってだろう、彼女はその小さな体躯を震わせながら、睨めつける視線を私の方へと送ってきていた。

 

「そうだ。だって他人に対して罪悪感を抱いている私には、他人に対しての思いを後生大事に抱え込んでいた私は、自分が異端であることにコンプレックスを抱いていた私は、だからこそ他人の思いを否定する事なんて出来なかった。やりたくなかった……、否、出来なかったんだ。自分の身を守る事よりも他人の想いを守る事の方が大切だった私にとって、それこそが全てだった私にとって、私は私の考えと相容れない他人の考えでも、そんな彼らの思いを完全に否定して消し去るという事が出来なかった。だからこそ私は、やがて力ずくで彼らを私のいる世界から排除せざるを得なくなった」

「――」

 

だがそれらの視線と抗議の態度を無視して、私はやはり語る事を続ける。羞恥と怒りに満ちた視線を向けてくるメルトリリスは、しかし私の語りの邪魔をしない。役者である事を自認するゆえだろうか、舞台の上という場所が彼女をそうさせているのだろうか、メルトリリスは舞台の上で語りを続ける私の邪魔をすることは決してしない。彼女はまさしく舞台の上にたつ役者のようだった。

 

「生前、私は確かに他人の気持ちというものがほとんど理解できなかった。だから私は、自分と同じくらいにそんな彼らを蔑ろにして、排除してきた。そんな他人に対して理解を求めず、理解をしようとしなかった態度を、まるで人形でも扱うよう、と例えるなら、なるほどそんな言い方は適当であるかもしれない」

「……」

 

彼女のそんなプライドにつけこむような形で語りを続ける。言葉を重ねるごとに自らの思考が整然さを取り戻してゆき、行くべき道を、語るべき言葉を示す地図が作りあがってゆく。

 

「そう考えるならば確かに君と私はよく似ている。でも、確かに君と私は似ているけれど、やはり決定的に違っているんだ。君の願いは世界から隔離された固有結界のような場所に閉じこもってその中で自分たちだけ幸せを得ることだが、私の願いは世界という固有結界の外側にいる他人に自分の願いを理解してもらって、一人一人が異なる性格をしたみんなで幸せになりたいというものだったんだから」

 

言葉に歯軋りが聞こえてくる。メルトリリスの整った顔が不愉快の色に染まってゆく。

 

「しかし私はそんな私の願いを叶えることが不可能だと思い込むようになってしまったから、やがて今の君のように固有結界の中に閉じこもるようになっていった。絶望の果てに自ら殺そうと思い至ったのも、そんな自らの持つ唯一の望みが叶わないことに絶望し、孤独に耐えかねたのが原因なのだろう」

 

言葉にメルトリリスの不愉快の色が多少和らいだ。何が彼女の琴線に触れたのかはわからないが、とにかく今の私が優先すべきなのはこの語りを続けること。それ以外は一旦些事として切り捨てることとする。

 

「世界から隔離された場所でただ一人、世界の平和を守るために人知れず。戦い続けてきた存在。なるほどその事情を聞けば、確かに私と君はとても似た存在だと言えるだろう。否、真実、同じ存在といっても過言ではない。しかしそれでも、私の願いは他者の幸福を前提として生ずる自身の幸福であり、自身の幸福をこそ前提とした結果に周囲の他者へと幸福をもたらす君の願いとは違う。だからこそ私は、あの時私が語った言葉に違和感を覚えたんだ」

 

メルトリリスはたじろぐ。その反応を好機と見て、畳み掛けるようにして言葉を重ねる。

 

「そうとも。みんながみんな、好き勝手に生きた結果、それでもみんなが幸福になる。他人を人形のように扱っていようが、私の無意識の願いは、私の幸福の形はそれだったはずなんだ。どれだけ言葉が変わろうが、どれだけ思いが変質しようが、ずっと抱きかかえ続けて地獄の中を邁進してきたその無意識の正直がそうそう簡単に変わるわけがない。だからこそあの時私が言峰にそんな私の願いとよく似た、しかし決定的に違う願いを語るのは不自然で、そんな私が君の言う、自分たちの幸福のために世界の全てを礎にしようと言う提案を魅力的に感じているのは、絶対におかしいはずなんだ」

「でも――、事実として、貴方は私の提案を魅力的だと、そう感じているのでしょう? ならば正しいのは私で、間違っているのは貴方が今語った無茶苦茶な理論。そういう事に他ならないのではなくて?」

「いいや、違う。確かにその言葉が私の口から出たのも、無意識のうちに君の提案に抗いがたい魅力を感じているのも、また事実だ。だが、私が君の提案に魅力を感じているのは、君が言うように私と君の根本が同じだからという理由ではない所より生じる原因によって感じているだけの事なんだ」

「わからないわ。貴方が何をいっているのか、私にはさっぱり理解が出来ない。貴方のそれは、まるで子供の屁理屈みたいに破綻しているわ。貴方は何を根拠にそんなデタラメを――」

「根拠? 根拠ならあるともさ」

 

メルトリリスの言葉を遮ると、指を彼女へと突きつけて、言う。

 

「ところで君は先ほど、自分は人類の集合無意識領域に住まう存在だといったな。そしてまた、君は私に魂を埋め込んで、私の事をずっと観察していたともいっていた」

「――ええ、言ったわ」

「人類の無意識領域にいる存在である君という存在が私に魂を埋め込んで私の肉体に宿っていたというのであれば、私に埋め込まれた君の魂とやらが、私というその時まだ理性と感情の合一を果たしていないそんな現実と夢の狭間にいるようなあやふやな状態の魂と意識に対して影響を与えるのは容易いことだろう。そんな時、私の内側所より漏れ出すのは、固有結界内に閉じこもっていて外部世界との断絶が続いていた私の意識無意識ではなく、そんな私の内部に埋め込まれた魂が持つ意思のモノであり、思考をずっと接続状態で観察していた君の無意識、と、そういう事にならないかね?」

「……」

 

魔術師は世界との接続を容易なものとする魔術回路というものをその体に宿している。また、まともな師匠がいなかった故に無茶な鍛錬を繰り返してきた私の場合、通常分離状態にあるはずの擬似神経である魔術回路と通常の神経が癒着している状態にある。もしメルトリリスがそんな私の魔術回路に宿り、私の事を観察し続けていたというのであれば、彼女の魂が私の精神へと影響を与えるというのは、ありえない話ではない。

 

「――違う、とは言い切れない。たしかに私は貴方の魔術回路を起点として貴方に私の魂を植え付けていたわけだから、そういうこともあるかもしれないわ」

「だろう?」

「でもそれは、あくまで『かもしれない』、というだけの話よ。貴方が今話したその内容には、決定的に物的証拠が欠けている。貴方の語ったその内容は、全部貴方が推測した状況証拠に過ぎないもの。いえ、それ以下の妄想に過ぎないものだわ。確実な証拠のない推理なんて、役者のいない舞台上みたいなもの。そんな不確かな、むしろ貴方の希望的観測に過ぎない可能性の方が高いものを示して、一体貴方は何を証明したかったというのかしら?」

 

メルトリリスは見下す、というよりも、むしろ心底疑問に思っているのだろう、その顔には困惑の顔が浮かぶばかりで、私が語り出すより以前に彼女の顔へと浮かんでいた慈愛と狂気に満ちた表情は完全に失せていた。

 

「その通りだ。たしかに物的証拠はない。こんなものは私のそうであってほしいという私の思いから生まれた妄想なのかもしれない」

「……だったら」

「だが、これで私の中に希望は生まれた」

「――」

 

困惑の表情が固まる。

 

「私は君の幸福を受け入れたいと、心の底では実のところ自分も心底そう思っているのかもしれないと、そう自分自身を疑っていた。私は私自身を疑っていたんだ。だから私は君の言う所の幸福に満ちた夢の世界に溶けてゆくことも悪くないと、そう思ってしまっていた」

「――貴方は」

「私はいつかのように、私自身を信じられなくなりそうだった。君に語る平和の夢は私にとってあまりに甘美な蜜で、だからこそ私の感情も、理性もが、君にひれ伏しかけていた。信じられるものがなくなりそうだった。だが、今は違う。私は自らの意思で、私自身の進むべき道を、信じていい理由を、自らの中から見つけ出した。見つけ出した真実が嘘か本当かなんでどうでもいい。重要なのは、私が、私自身の中から、自らが他人の意見に屈服しないですむ理由を見つけ出し、他人が押し付けてくる幸福を跳ね除けて、自らの意思で、自分の選択と思いを信じて、未来に向かって突き進もうと決意できたという事なんだ」

 

言葉を重ねるごとにメルトリリスの余裕綽々の態度が崩れていく。彼女は信じられない、と、あっけにとられた顔をしていた。

 

「この道がどこに続いているかはわからない。だが、私はこの道を歩くと決めた。いつかかつて選んだ、誰もが好き勝手にやりながら、それでも平和に近い状態を保とうとみんなで一緒に歩いて行ける世界を求めて、突き進む事を決意した。そう決意できる希望を、私は誰かに与えられるわけではなく、誰かを理由にするでもなく、自らの中から、自らのために生み出す事が出来たんだ」

 

言葉とともに彼女を見つめると、メルトリリスは困惑に満ちていたその表情を能面のようにまっさらなものへと変えて、ひどくつまらなそうに見つめ返してきた。

 

「そう。つまり貴方は」

 

声色は落胆と失望に満ち溢れている。彼女は事実、酷く落ち込んでいるかのような雰囲気を纏っていた。

 

「ああ。私は君の与えてくれる幸福に満ちた蜜を一方的に受け取るなんてことは出来ない。そして、みんなを意思がない人形の状態にして幸福の夢を見せつつ、己の脚本した人形劇の上で勝手に役割を与えて利用しようとする君のその夢の形を認めるわけにはいかない。私の願いは、みんなで協力してみなが幸福に思える世界を作っていくというものなんだから」

 

その様子に僅かばかりの罪悪感を覚えながら、そう断言する。

 

「そう……、それが……、貴方の答え……、そう、なのね……」

 

闇の中に燦然と輝く舞台の上、スポットライトの中心点において、メルトリリスは目を伏せると、自らの体を抱きしめながら、とても残念そうに言う。言葉は尻すぼみで、途切れ途切れ。そんな様相はまるで、望んでいた王子様の口づけを得られなかった孤高のプリマドンナのように、儚げで、弱々しかった。

 

「……」

 

メルトリリスはそのままの姿勢で固まったまま、何も語らない。始まりの思いや経過はどうあれ、彼女が私を思って差し伸べてくれた救いを拒絶して彼女を傷つけてしまった以上、彼女の返事を待つのが、義務というものだろう。

 

「そう。貴方もやはり私を置いていってしまうというのね」

 

舞台の上で、彼女の様子を見守っていると、やがてメルトリリスは静かに動き出す。自らを搔き抱いていたメルトリリスはその姿勢を正すと、その全てを切り刻み傷つける装身具に覆われた小さな足を天高くに振り上げ、その青の爪先をこちらへと向けてくる。

 

「――いいわ。かつて私と似た存在であったとはいえ、今貴方はその枷より解き放たれた普通の人間。所詮不変の女神である私が提案する愛の形を、変化をこそ良しとする人間が受け入れられないのは道理というものでしょう」

「……メルトリリス」

 

能面のような表情を浮かべていた彼女は、能面のように変わらない表情のままに宣言する。しかしながらその宣言を告げる声色は、私の耳には強がりでばかりによって構成されている、酷く弱々しいものに聞こえてくる。

 

「今や私と貴方は水と油。いえ、氷と炭、蜜と泥ほども違ってしまっている。貴方が私を受け入れられなくても当然だわ。でも私は、そんな貴方をこそ、欲している。だから――」

 

メルトリリスは天に向かって両手をかざした。瞬間、彼女の気配が膨らんだ。格好とその外見にさえ目を瞑れば、どこにでもいる少女の持つ雰囲気しか持たなかった彼女は、一秒ごとに歴戦の戦士をはるかに凌駕する闘気を纏ってゆく。一秒ごとに彼女は強者として進化し続けていた。

 

「……! 投影開始/トレース・オン!」

 

瞬間的に反応して、魔術回路を励起させる。魔術回路に魔力が流れ、回路と癒着している神経がいつものように痛みを訴えてくる。そんないつも通りの反応を改めて感じながら、基盤に魔力を流しこみ、使い慣れた双剣を投影した。投影終了と同時に両手の掌からズシリと重い感触が伝わってくる。もはや飽きるほどに使いこんだ柄を握りしめると、手に馴染んだ感覚が自らの進化を示すかのように熱を放ち、心が熱く燃え滾る。

 

自らの理想を打ち砕かんとする強敵を前にして心が滾るのは、きっとあのバトルマニアの男の影響だろうと分析して自嘲しながら、しかしそんな自分の変化を悪くない思いつつ、目の前の少女の意志に真っ向から相対する。

 

もはや逃げることなどしない。言い訳も無しだ。私の選択がこの事態を引き起こしたというのであれば、彼女からこのような歪みを引き出してしまったというなら、その想いがいかに私に理想と相容れないものであろうと、ただ拒絶するのではなく、真正面から受け止める。

 

拒絶ではなく、許容を。その先に共にある未来を望めるのであれば、それに向けて突き進む。そして、何があろうとも、可能性がある限り、そんな未来を目指すことを諦めない。

 

対峙と理解とその果てにある平和。それを目指し続けることこそが、私の見つけた、正義の味方としての在り方だ。

 

「――メ……」

「私はそんな貴方を、貴方のまま、私の中に取り込みましょう。そして私と貴方は一つになる。貴方は私の中でずっと私の見せる夢に反抗しながら、でも、だからこそ私の舞台の上で私を飽きずに楽しませ続けてくれる王子様となる。それはきっと、とても素敵なことだわ」

 

呼びかけようと声を出しかけると、天を仰いぎながら強者としての気配を肥大化させ続けていたメルトリリスは畳み掛けるようにして語り終えると、同時に目を正面の私へと向けると、冷たい瞳の中に狂った熱情を秘めながら見つめてくる。その想いを余すことなく真正面から受け止めると、彼女は口角を高く引き上げて、その能面じみた表情を酷く蠱惑的なものへと変貌させた。

 

「さぁ、私の王子様。貴方が私の愛を拒絶するというのなら――、私はそんな貴方の拒絶すらも包み込む愛で、貴方を受け入れ、蜜に溶かし込んであげましょう!」

「――っ」

 

言い終えると言葉を交わす間も無くメルトリリスは突撃してくる。そして闇に包まれた空間の中、唯一煌めく広い舞台の上、正義の味方と女神の舞闘劇が開幕した。

 

 

繰り出される攻撃を防ぐたび、まるで巨木を叩きつけられたかのような衝撃が腕に走る。全身に強化を施していなければ、武器にこれまで以上の強化を施していなければ、私はとうの昔に彼女の足技の前に散っていただろう。

 

「――あは、あははははは! なに!? 大口叩いておいて、その程度なの!?」

「――」

 

メルトリリスはそのか細いカモシカのような左右の足から信じられないほどに重く素早い一撃を繰り出してくる。攻撃はいずれも、濁流のように重く、深海の水圧のように早い。その一撃や、私の手持ちの中でもっとも硬い、一枚一枚が古の城壁に匹敵するというアイアスの盾すらも容易く貫くかもしれない威力を秘めていた。

 

「つまらないわ! 貴方は私の献身と愛を拒絶したのだから、もっと私を楽しませる義務がある!さぁ、もっと、過激に、力強く、全力以上の力で抵抗してちょうだい、アーチャ! そして、もっと、もっと、私を楽しませなさい!」

「――」

 

メルトリリスは如何にも自らこそ上位者であると言わんばかりに、苛虐に足を、苛烈の言葉を発してくる。蝶のように舞い、蜂のように刺す。使い古された古典的表現であるが、彼女の清涼と激流入り混じり併せ持つ攻撃と動作は、まさに彼女を言い表すに相応しいものであり、彼女のそんな女神の舞踏を表現するために生まれてきたのではないかと錯覚してしまうくらいには、彼女の舞闘は美しく、そして強かった。

 

「どうしたの!? 言葉すらも発せられないくらいに怯えてしまったの!? 相容れない存在、貴方にとっての悪党を前にして無言を貫くなんて、正義の味方を自認する貴方らしくもないわ! さぁ、もっとおしゃべりしましょう! 舞台はその高貴さに相応しい一流の役者の言葉と挙動があってこそ、完璧に完全なものとして完成するものなのだから!」

「――」

 

メルトリリスは浮かれた声で小鳥のように囀る。その様だけを切り取ってみるならば、姦しいだけのどこにでもいる少女に見えなくもないが、やはりその人並み外れた造形美と、その肩部胸部を覆い隠すマントと秘部を僅かに隠す金属片以外に何も纏っていないという状態と、そんな少女が大の男に向かって奇怪な造形をした義肢装身具を振り回して殺傷せしめんとするという状況が、メルトリリスという幼い見た目の少女を非日常極まりない存在へと変貌させていた。

 

「私の夢! 私の望み! 私の願い! 私を生んだそんな人から託された想いと願いの全てごとを貴方は拒絶した! わからない! 私にはその理由がわからないわ! 貴方は、貴方たちは、どうして幸福の風に凪ぐ楽園を拒絶して、黄昏の向こう側に旅立とうとするの!?」

 

そんなメルトリリスの攻撃を受けながら考える。苛烈に繰り出される攻撃を受ける意識の中に浮かんでくるのは、しかし目の前に次々と登場する死の具現を避けなければいけないなどという思いではなく、そんな命を削り取る死神の鎌を振るう彼女に対する疑念だった。

 

「永劫続く幸福の世界の何がいけないというの!? 桜もいなくなってしまった倦怠に満ち溢れた世界の中、新たな刺激を求めることの何がいけないというの!? 」

 

メルトリリスは自らが破綻している理論を語っていることに気づかないままに、絶叫する。その言葉に、メルトリリスの望みがどこからやってきたのかを知った。メルトリリスは永劫がないこと、終わらない夢などない、自分が不変などという存在でないことを心のどこかで自覚しており、またいかなる理由によるものかはわからないが、おそらくメルトリリスにとって大切だった闇の中で彼女とともにあった桜という存在を失ってしまい、永劫の孤独を耐えられないのだという事を実感してしまったからこそ、メルトリリスは自分という、自分の事情を理解してくれそうな存在/イレギュラーを望んだのだろう。

 

「不変の女神である私が、永劫変わらぬ愛と幸福を与えてあげようというのよ!? それの何がいやだというの!? 」

 

思う。メルトリリスは決して、女神などという不変の存在でないのだ。目の前にいる存在は、多少過激な格好をこそしているが、ずっと闇の中に一人でいたために、ちょっと歪んだ性癖と性格を持つに至った、そんなどこにでもいるさみしがり屋の女の子でしかないのだ。

 

「あの闇の中で再び一人で倦んでいけというの!? せっかく望んでいた幸福を得られそうだったのに、それを諦めろというの!?」

 

メルトリリスは現実を否定し、咆哮する。彼女にとって、私の否定は、不変の拒絶は、永劫続く闇の中、ただ一人で過ごせという宣告に他ならなかったのだ。ならばこうして今、彼女が叫び、怒り、足を振り回しながら暴れているのはつまり、不変などという存在がないのだとしたら、そうである事を望まれたしかしただの女の子でしかない自分は、再びあの闇の中でどう過ごせばいいというのかという、そんな訴えに等しいものだった。

 

「いやよ! そんなの、絶対に嫌! 知らなければよかった! 知らなければ私はこうなることもなかった! そうであれば私は、桜の代理、不変のお人形として、与えられる幸福を永劫に貪っていられたの! そうであれば私は、こんな気持ちなど抱かずに、ただ幸福の凪の中で永劫に揺蕩っていられたの!」

 

所詮は桜という人間から作り出されたお人形でしかない自分は、世界で生きた経験などというものをほとんど体験したことのない自分は、いつか桜のように自分のような存在を生み出すこともできずに、あの桜のようにシステムに取り込まれてしまうだろう。メルトリリスはそれだけは御免だった。メルトリリスはそれが怖くて、そんな現実と運命から目をそらすために、必死で幸福の夢を見ようとしていたのだ。

 

「その先が絶望に繋がっているのだと知ったら、未来など夢に見たくはなかった! ずっと世界のシステムの手先として、世界を舞台に、悲鳴を糧に、人形遊びに興じていたかった!」

 

彼女はただの人間で、どこにでもいるワガママな女の子だ。それがAIとして、機械として生きようとしたから、周囲がそれを望んだから、彼女はこうまで歪んでしまった。

 

思う。たしかに彼女はかつての自分と似た存在であるのだと。生きている限り戦争は終わらない。人同士の争いはいつまでたっても終わりがない。だから夢を見た。いつかやがて、人以上の存在になれば、そんな願いを実現するシステムに組み込まれたのなら、いつかは問題も解決できるようになるだろうとそう思っていた。だから心を閉じて他者と関わることを避けて生涯を走り抜け、そんな夢を実現した。しかしそうしてかなえた未来、人以上の存在になっても、自分の真の願いである永劫続く平和という願いは決してかなわないのだという事を知った。

 

「なぜ貴方は私の前に現れたの! なぜ貴方は私の前に現れてしまったの!?」

 

私は己の幸福のために、永劫の平和という夢のために、あらゆる犠牲を容認して生きてきた。メルトリリスは己の幸福がやがて消え去ることを恐れたがために、世界を犠牲にしてでも、己の夢を叶えようとした。

 

「なぜ私とよく似た貴方は、私とは違って不確定な未来に憧れることができるの!? なぜ私とよく似た貴方は、そうも永劫の幸福をたやすく拒絶することができるの!?」

 

永劫という幻を夢見たものは必ず現実の前に敗れ去る。現実という名前の巨人は、月に映る幻想を打ち砕く。エミヤとメルトリリスは永劫続く幸福を夢見て、しかし現実という巨人の前にあっけなく夢を打ち砕かれた者同士なのだ。

 

「なぜ貴方は、私と同じ境遇にありながら、私と違ってそんなにも救われているの!?」

 

目の前にいるのは自分だ。だからこそ私は、心底彼女を救いたくなった。こんなものは自分の我儘だ。世界を溶かし尽くそうとしたそんな相手を救ってやりたいなどとは、あまりに自分勝手な願いだ。しかしだからこそ私は、初めて、自身の幸福の願いのためだけでなく、自分事として、彼女が幸福になる手段を探してやりたいと思っていた。

 

「ねぇ、黙っていないで教えて頂戴!」

 

目の前にいる彼女への想いが強まったその瞬間、耳に飛び込んできた悲痛な叫びが、過去の記憶を呼び覚ます。悲痛な声によって喚起されたのはしかし、永劫の中にあった過去の辛い記憶ではなく、生前、とても短い間にあった、胸を溶かすような幸福だった頃の記憶だった。

 

「ねぇ!」

 

声と剣戟が遠い。刹那よりもさらに細かく分断された時の流れの中、意識は遥か昔の記憶の残渣を掻き出し始めていた。

 

 

『問おう。貴方が私のマスターか』

 

はじめに脳裏へと浮かんできたのは、たとえ地獄に落ちようが忘れなかったその光景だった。倒れこむ自分を静かな目線で見下すは、高くにある窓辺より差し込む月明かりによって美しく照らし出された金髪碧眼の銀の鎧をまとった少女。それこそが私という存在の運命を決定的に変えた少女との出会いだった。

 

かつて、一人の少女がいた。少女は、聖剣に選ばれて王となった人物であり、その瞬間より不滅の王となり国を永遠の平和と幸福に導く宿命の呪いを受けてしまった存在だった。

 

彼女は騎士であり、王だった。しかしそれ以前に少女だった。気丈で、勝気で、見栄っ張りで、毅然としていて、一見すれば弱くて可憐な、どこにでもいるそんな少女だった。

 

彼女は強く、そして強く、どこまでも強い存在だった。伝説に残るほどに強く、誰かを助けるために自分を殺せるほどに強く、国という存在を守るために人の心を殺せるほどに強く、守った国の民から王には人の心がわからないといわれ、しかしそんな発言を当然と許容できるほどに強かった。

 

そして強かった彼女は、しかし国が国自身の積み上げてきた業によって滅亡の危機に瀕した折、国の滅びの未来に到達しようとしているのは自らが弱い王であったからだと判断し、国の滅びを回避するために、自らの存在を抹消せしめるために万願を成就させる聖杯などというものを望み、聖杯戦争などと愚者の祭典に身を投じた。

 

『判らぬか、下郎。そのようなものより、私はシロウが欲しいと言ったのだ』

 

しかし、そんな国の行く末を打ち砕くために参加した戦争において、彼女はそんな永劫の幸福を夢を見る事を諦めて、私の命とすぐそこに迫っている終わりある幸福の道を選んだ。

 

泣いて叫べばよかったのだ。もう嫌だと喚いて、その小さな肩に乗せられた責務を投げ出してしまってもよかったのだ。滅びの道に続くと分かっている未来なんて、選ばなくてもよかったのだ。

 

私もそれを望んだ。しかしそれでも彼女は自らの歩んできた道を歩み続ける事を選んだ。その道の果てにあるのが絶望の未来だという事を知りながら、そんな道を進むと、そう決めてしまっていたのだ。

 

『――私は、野郎ではない』

 

果てに彼女は、この両腕をすり抜けて、地獄への道を進んでいってしまった。自分は男ではなく女であると告げたそんな女は、しかし、愛を囁く男の腕の中より、戦場の片隅、森の木下で配下に見守られながら死ぬ運命を選択した大馬鹿者だった。

 

『――シロウ。貴方を愛している』

 

私が愛した彼女は、私を愛しているとそう言いながら、感情なんてものを過去に置き去りにしてしまった、自分の身よりも他人の事を優先にするそんな破綻した人間が、しかし他人の事よりも自分の事を優先にしてほしいと懇願してしまうほどに、底の底までこの心を占有し、想いを奪っておきながら、永劫の夢を終わらせるために逝ってしまった。

 

振り切ったと思った。彼女が望んだのだから仕方ないと思った。そう思おうとした。しかし、一度知ってしまった蜜の味を人はそう忘れられるものじゃない。隣にあって当然だった人がいない世界は、こんなにもつまらない。愛した人がいない世界はこんなにも色あせている。

 

多分、世界中の困っている人に手を差し伸べ用なんて大層な夢を抱くようになったのは、それが原因なのだろう。それまでは正義の味方として生きようという決意こそあれど、それをどうやって実行に移すかなんて考えたこともなかったのだから。

 

愛する彼女を失った痛みは世界を救うなどという夢を実行させる原動力となり、私は破滅の道と永劫の幸福を心底望むようになった。そうだとも。私もかつては目の前で叫ぶ彼女と同じように、永劫の幸福を夢見る愚者だったのだ。

 

私はそして多くの人間の慈悲と献身に助けられながらここまでやってきた。もし彼女がいうように、私が彼女の目から見て救われているとそう見えるというのであれば、それは私は彼らによって救われてきたからだ。

 

私は彼らによって肉体を救われ、精神の歪みを矯正されてきた。不変の呪いの中にあった肉体を遠坂凛と過去の衛宮士郎の献身によって救い出されて転生した私は、その後、多くの人との出会いを通じることでやってきた遅いモラトリアム期間において、歪んだ思想から生じた永劫へと続く間違った答えを得そうになるたび、その歪みを言峰綺礼という私のかつての敵から修正され、果てには、そんな存在に心どころか、命や未来すらも救い出され、この場所までやってきた。

 

私は誰かに救われてきたからこそ、ここにいる。誰かに救われてきたからこそ、こうしてここで世界の命運をかけた戦いなどというものに、身を投じることができている。私は自らの愚かしさの代償によって得た不変の呪いを受けたという経験があるからこそ、同じくこの、世界から不変の呪いを受けた少女の前に立つことができている。

 

ああ、なるほど。そう考えるのならば、これは運命だ。陳腐な物言いだが、そうとしかたとえようがない。私は彼女を救いたい。私は私と同じ苦しみを味わっている彼女を、私と同じ苦しみをこれからも味わう運命を背負っている少女をその枷から解き放ちたい。

 

『私は君の与えてくれる幸福に満ちた蜜を一方的に受け取るなんてことは出来ない』

 

瞬間、先ほど自らの口から出てきた言葉の意味を悟り、胸が高鳴る。ああ、なんだ。私はすでにあの幸福の夢から目覚めたその時から、夢の中で彼女が与えてくれる幸福を幸福として感じていたその時から、そうだったのだ。

 

言い訳に腐心する必要なんてなかったんだ。私は私の思いの丈を素直に伝えるだけでよかったんだ。心はこんなにも光で満ちている。こんな想いを抱くのは、本当に久しぶりだ。

――私は目の前のこの少女と、共に在りたい

 

はるか昔、いつかかつて運命と出会った夜に抱いた想いが、時を経て今再び、闇と光が支配する戦の匂い満ちる空間にて復活する。想いを自覚した途端、夢と現実の境界は瓦解し、停止させていた時計の針は、問答無用で再び時を刻み出していた。

 

 

「――つまらないわ」

 

記憶に残る過去の残滓が自らの正直な想いを気づかせたその瞬間、メルトリリスは唐突にその動きを止め、不満げな顔を浮かべると、一足飛びにて舞台の中心から少し離れた場所に立ち止まった。

 

「貴方……どうして反撃してこないの? どうしてただ一方的に、ひたすらに、鈍亀のように縮こまって私の攻撃に耐えてばかりいるの? 単純に私の動きについていけない、というわけではないのでしょう? ハリネズミにされるのがお望みというわけ? そんなの……、ちっとも貴方らしくないわ」

「――」

 

戦闘をわざわざ中断させてまで彼女が不満げな態度を露わにする事を決意したのは、どうやら私の戦い方が気にくわない事によるものであったらしい。

 

「もっと苛烈に、もっと抵抗して、そして――……なによ、その顔は」

 

――さて、どうしたものだろうか……

 

素直に理由を話してしまってもいいのだろうかと逡巡していると、彼女は私の態度から私が懊悩を抱えていることに気づいたらしく、その袖の内側に隠れた指先をこちら側に向けながら強くいってくる。視線は強く真実を話せと訴えている。

 

――ううむ……

 

「言いたいことがあるならさっさと言ってしまいなさい。男らしくもない」

 

いや、まさしくその通りだ。こんなのはなんとも男らしくもない。だが、待って欲しい。もし仮に目の前に敵対している存在がいるとして、そんな存在に対していきなり愛の言葉を囁くなどという非常識を私は一体、どのような顔をして行えば良いというのだろうか。

 

真正面から告げれば案外、受け入れてもらえるかもしれない。だが、目の前の素直でない少女の場合はどうだろうか。訝しみ、策謀と疑って、さらに苛烈に攻撃してくるかもしれない。いやいや、それとも――

 

「ちょっと。なに無視してるのよ。失礼ね」

 

悩んでいると、メルトリリスは文句を言いつつ、その眉尻を徐々につり上げてゆく。その反応を見やるに、語ろうが語るまいが、どのみちまともでない結果になるのは同じかと腹をくくり、思いの丈を余すことなく伝えるべく、諦観混じりに、羞恥を抱えながら、口を開く。

 

「――その、だな」

「なによ」

「その――、可能であるなら、私は君と戦いたくない」

「――は? 何よそれ。この期に及んで日和見に走るというの? ――ダメよ。そんなのは許さないわ。貴方は私の提案を拒絶した。貴方は私の与える夢の形を拒絶した。貴方は私の与える愛を受け入れる事が出来ないといったのだから、そう選択したのだから、その選択の責任は取ってもらわないと、わりに合わないわ」

「あー、その、なんだ」

「なによ。はっきりしないわね。――抉るわよ」

「いや……、その、だな。……違うんだ」

「違う? 何がよ」

「私は君のそれを受け取らないとはいっていない。私は君の与えてくる愛をただ一方的に享受し続ける事は出来ないと、そういったんだ」

「――は? どういう事?」

「その、――――――もし、君が……、そう、もし君が望むのであれば、ああ、いや……、この言い方は卑怯だな。そうだな――。私は君の――、君が私の事情や性格を知りながら、私を君の恋の相手として選んでくれたという事を、私は嬉しく思っている。知っての通りの頑固な朴念仁であるし、不器用なものだから、こう自分の素直な思いを告げるもの初めてで、上手く君の意に沿う様な受け答えが出来る自信はないのだが――、もし君が、今でも私に対して好意を持ってくれていて、今後も持ち続ける気があるというのであれば、私も君の好意に応えたいとそう思う。だからこそ、私は、君の愛をただ一方的に受け取るわけにはいかないし、そんな二人の都合に他の人を巻き込むのは感心しない、と、そう言いたかったのだ」

「――は?」

 

彼女の顔が理解不能の一色に染まる。その反応がなんともこそばゆく、全身に生じるむず痒さを我慢しながら、その先の言葉をなんとかひねり出す。

 

「その――、だからだな――、……君の想いは正直嬉しかったし、君の示す未来の在り方に心惹かれたというのは、たしかに事実だ。君のいう通り、君の――、ああ、もう!」

 

我ながら言い訳ばかりで本題に到達しないその臆病と浅ましさに苛ついて、思わず頭をガシガシと掻くと、そんな風に叫んでしまっていた。メルトリリスは突如として感情を昂らせ、そして発散した私の所業に驚いた様で、目をパチクリさせている。彼女の感情に空隙が出来たその隙を好機と判断して、浮かび上がってきた言葉をそのまま口にすることとした。

 

「――君を愛している。不恰好で悪いが、私は君のその好意に応えたいと思っている」

 

口にしたその直後、言ってしまった、と

 

「――――――――ぷ」

「――」

「あ、あははははははは。あは、あは、あははははははは」

 

言葉にメルトリリスは大笑いする。不変の女神を自称する少女は、両腕で腹を抱えて、頭を大きく上下させながら、無邪気に、どこにでもいる少女のように、舞台の上、闇の中に潜む観客の心にまで響けと言わんばかりに、心底愉快そうに大笑いしていた。

 

「な、なによ、それ。子供の告白か何か? 下手くそにもほどがあるでしょう? まさかその年になって初めてやったというわけでもないでしょうに」

 

やがて笑いをやめた彼女は、しかし腹を抱えるその姿勢を崩さないまま、目尻に涙を浮かべつつ、そんなことを問うてくる。

 

「……遊びや冗談の付き合いならあったが、私の事情や背景を知ったうえでの相手に応えるのは初めてなのでね。緊張もするし、不慣れも仕方なかろう」

「っ、ぷ、あ、あは、あははははははは」

 

決意の告白を笑われ、多少気分を悪くした私は、我ながら子供っぽいとは思うのだが、不貞腐れ気味に言い放つ。それを見たメルトリリスは、再び腹を抱えて笑うと、しばしの後にうってかわって真剣な表情を浮かべて言い放つ。

 

「――本気なの?」

 

顔は抜き身の真剣のようだった。あるいは、舞台上に立つ一流役者のそれだった。

 

「本気さ。冗談も嫌いではないが、このような場面でそれを言うほど空気を読めない性質じゃないつもりだ」

「私はかつての貴方と同じく、世界のシステムの一部よ。契約と術式に固く縛られた、かつての貴方と同じそんな存在。私と一緒にこの場所で幸福の夢をみる以外、貴方はどうやって私と一緒に貴方の幸福を実現させようというの?」

「その契約と術式がいかに強かろうが、それが実在するというのであれば、如何様にでもその契約を破棄する方法など思いつく。契約破棄の短剣/ルールブレイカーを用いてもいいし、最悪、月のシステムとやらを破壊してしまえばよい」

「私は犯罪者よ? 世界の全てを巻き込んで、私の思うがままに改竄し、そこに住まうすべての人間を己の人形にしようとした、そんな大罪人。貴方はそんな女を伴侶として愛そうというの?」

「君の力を用いれば、この世界は君の思うがままに修復する事が可能なのだろう? 都合のいい話だが、その力を用いてこの世界と彼らを元の形に戻し、その上で君の事情を彼らに話してやれば、それで彼らも許してくれるかもしれない」

「――それで? ダメな時はどうする気? 正義の味方として私を処断する気?」

「許してくれるまで逃げ続けながら、ひたすら一緒に謝り続けよう。私は君と共に一緒に逃げながら、逃げたその先で、誰かの救いの願いに応えられる正義の味方としての活動が続ければそれで構わない」

「――」

「それで、どうだろうか」

 

改めて問いかけると、常に冷静の仮面を被り、冷徹と苛虐の態度を保っていた彼女はしかし、途端にすべての気配を霧散させると目を泳がせ、落ち着かない様子で彼方此方へと視線を遊ばせたのち、顔を真っ赤にさせてそっぽを向く。

 

「まるで三流のシナリオだわ。戦いの最中、敵の言葉の短剣で胸を貫かれて幕を引く展開だなんて、シェイクスピアが聞いたら卒倒してしまいそうなくらい、陳腐で、使い古された、なんともつまらない展開……」

 

そして彼女は悪態ばかりつく。その反応から察するに――

 

「ということは――」

「――違う! 違うの! あの、そうじゃなくて……」

 

拒絶だろうか。そう問いかけようとしたん、メルトリリスは目を瞑り、静かに首を振って私が述べようとしたその言葉の先にある答えを否定すると、あー、だの、うー、だのと、意味のない言葉を幾度となく羅列させると、その唇を緩ませながら華のような笑みと目に涙を浮かべて、その言葉を口にした。

 

「その告白、喜んでお受けするわ、私の王子様」

 

そしてメルトリリスは胸元に飛び込んでくる。抱きとめたその体は、世界の全てを管理している存在とは思えないくらいに軽かった。

 

 

「――それで、これからどうする気?」

「そうだな……、メルトリリス。ひとまず、彼らと世界を元の通りに戻せるか?」

「ええ、もちろん。それが貴方の願いだというのなら、私は喜んでそれを実現してあげるわ」

「――そうか」

 

メルトリリスの言葉にホッとする。多分大丈夫だろうという疑念混じりの想定が彼女の肯定によって確信へと変化し、この選択は間違っていなかったのだ、とも確信した。

 

「だめですよ、先輩。私の可愛い娘をかどわかして攫おうとしたりしちゃあ」

「――な」

 

舞台の上、ついに望む通りに真のヒロインとなった彼女と抱き合っていながら今後について相談していると、突如としてそんな声が聞こえてきた。驚いて声の聞こえてきた方を振り向く。するとそこには、闇を一枚のワンピースであるかのように纏っている、はるか昔、我が家や学校にて飽きるほどに見てきた後輩の姿があった。

 

「さ、桜!?」

「桜!?」

 

私の驚愕の声と、一拍遅れて叫んだメルトリリスの声が舞台の上に不協和音となって鳴り響く。何がおかしいかったのかそれを見た桜はクスリと漏らしながら静かに微笑みを浮かべて見せると、闇の中、私たちのいる光の舞台に向かって、舞台裏の位置より一歩踏み出した。直後。

 

「なっ」

「なんだっ」

 

瞬間、メルトリリスが闇の中へと作り上げた光の舞台へとは瓦解した。同時に周囲に満ちる闇がその触手を無数に伸ばし、私たちはあっという間に闇に拘束されてしまう。

 

「な……」

「――桜。これは何の真似? 私に手をかけようとするだなんて、ついに狂いでもした?」

 

闇の拘束はあまり強く、身動き一つとる事すらも許されない。強固すぎる枷をはめられたことに驚く私を余所に、メルトリリスは毅然とした態度で闇の中に潜む桜へと問いかける。問いに桜は口角をつりあげると、かつての制服を纏っていた頃の彼女と態度でいう。

 

「何の真似……、って、決まっているじゃないですか。恋に落ちて盲目になり、役目を放り出して駆け落ちしようとしている悪い子と、そんな私の娘をかどわかした悪い王子様を捕まえただけですよ? 狂っているなんて酷いなぁ。ふふ、私は貴方達よりずっと正気ですよ」

 

桜はくすくすと笑いながら言う。言葉に嘘はなく、彼女は真実そう思っているようだった。桜は闇の中、ただひたすらにかつてのように笑い続けている。その様は何とも狂気じみたものだった。

 

第十一話 終了

 




変化と成長。どんな存在でもきっかけさえあれば、いつだって望むように変わることが出来。正義の在り方。完全な相互理解は不可能だけれど、自分なりに相手をわかろうと努力すれば、本質は見えてくるし、そうやってわかろうとしていることを示せば、いつかきっと想いは正しく相手に通じる。

この物語の根底にあるテーマとスタンスは大まかにそれです。物語もあと少し。どうぞお付き合いいただければ幸いです。

ここまでご一読いただき、ありがとうございました。


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第十二話 月と巨人の幻想

第十二話 月と巨人の幻想

 

大地。海。天空。そしてそこに住まう全ての生物。今や世界を構成する全ての成分が混淆した厭魅によって生まれた蠱毒は、世界を深黒晦冥へと塗り替えた。無明の帳が降りた舞台の上、闇の中に放り込まれた女神と、闇より生まれた女神という二柱の華が瀝青として存在していなければ、自らという小舟は闇との境界すら定まりそうにない。

 

だというにも関わらず、そんな状態がなんとも生温く、心地よい。

 

気を抜けば心すらも溶けていきそうな闇の中、耳に痛いくらいの静けさだけが辺りを支配していた。駘蕩と流れる時の中、誰も、何も、語ろうとはしない。闇の中、一組の拘束された男女を前にして、闇の呪縛により男女より自由を剥奪した女は静かに笑っている。

 

間桐桜。それが目の前にいる、生前、女神となる以前の女の名だった。衛宮士郎という男にとって間桐桜とは、美しく、儚く、弱気で、しかし強情な所もあった同じ部活の後輩であり、また、自らが手ずから料理を仕込んだ妹分でもあった。

 

かつて衛宮士郎という男の日常の証であり、メルトリリスによれば無聊を託ちていたという彼女は今、世界の全てが溶け込んだという闇の中、元英霊である自らと女神の転生体たるメルトリリスを拘束している。そんな非日常的な事態がどうにも信じられず、エミヤは桜の顔をまじまじと見やった。すると、視線に気づいた桜は、どうしましたか、先輩、といって、静かに語りかけてきた。耳より染み入ってくるあまりに甘い桜の声によって、混乱している脳裏へととろけそうになるくらいの快楽が生じ、思わずおののく。同時に、確信した。

 

――目の前のこの桜は、もはや自分の知っている桜という存在ではないのだということを。

 

純粋に自分を慕ってくれていた少女が今や魔性の存在になっている。あは、と桜の姿をした女は無邪気に、妖艶に笑った。エミヤが現実を受け入れようと必死の試みる姿があまりに滑稽に映ったのだろう。

 

「我慢しないでいいんですよ、先輩」

 

倒錯した異常が呼び水となったのか。闇を身に纏う異常を体現する桜の姿をした存在が甘ったるい声を発した。瞬間、周囲を支配している闇が彼女の声と共振。闇に拘束されたエミヤの全身へと恐ろしいほどの異常が発生する。エミヤの全身へと襲いかかってきたものの正体。それは、抗うことをやめてしまえばその時点で人としての存在意義すらも失ってしまいそうな快楽だった。

 

気を抜けば気をやってしまいそうな魔性の快楽に耐えるため、エミヤは必死に奥歯を噛み締める。今や、無音の闇の中にぎしりと聞こえる不協和音だけが、自分と闇との分離を保つ垣根であり、境界線だった。

 

「気にくわないわね」

 

エミヤが醜態を晒すまいと耐えている中、ふと、エミヤと同じように拘束されているメルトリリスが言う。鈴のなるような短い声色には、静かなる憤怒と傲慢の思いが滲んでいた。エミヤが視線を向けると、彼女の幼い体躯の端々がびくりびくりと動いているのが理解できる。おそらく、自身の体を襲っているような快楽が彼女にも襲いかかっているのだろう事を、エミヤは予想した。

 

「こんなもので私や彼を取り込めると思っているの?」

 

メルトリリスが発言した途端、その体からなにかの波が放たれた。彼女の体より生じたそれは、闇の海を伝播し、即座にエミヤの体へと到達する。すると、波が体に触れたその瞬間、全身に生じていた快楽が薄れていく事をエミヤは自覚した。メルトリリスの体より生じた波の正体。それは、つい先ほどこの世に肉体を持って生まれ落ちたばかりの少女の、思い人を守らんとする女の情念だった。

 

メルトリリスのエミヤに対する情念は彼岸と此岸、溶け合って一つとなりかけていた愛する男と忌むべき女の距離を離つ強固な柵となり、エミヤの意識は明朗さを取り戻す。少女の情念と、女の情欲。二つの賦与される想いが体内にて打ち消しあう衝撃は、真正面より受け止めて耐えきるにはあまりに重く、エミヤは口を大きく開いて大きく呼吸を繰り返す。

 

唇を震えさせながら多くの熱気が込められた息を吐くたび、体より熱が失われて闇へと溶け込んでゆく。息を吸うたび、欠落した熱さを埋めるかのように、二人分の微熱混じりの闇が体内へと侵入してくる。愛と恋。完成と未熟。同じ感情のベクトルであるはずの、しかし異なった場所へと収斂する、相反する思いが腹に落ちるたび、胸焼けする思いを味わった。

 

見苦しさを見かねたのだろう、弱音も文句も何もかも吐き出してしまえばスッキリするぞとエミヤの感情が訴えだす。エミヤはそれを己の理性と、彼女らより受け取った想いにて打ちのめしてやると、目をしっかと閉じて、長く細い息をゆっくりと吐いた。心臓が緩々と震える。余計な思いが混じらぬよう注意しながら肺腑より絞り出した吐息は冷たい。冷気が熱にうなされそうな神経を落ち着かせ、背筋を痺れが行き来する感覚が徐々に失せてゆく。

 

そんなことをいく度繰り返しただろうか。痺れる頭がやがて体の各部位の異常が失せたという事実より心持ちが落ち着いたのを確認すると、閉じていた瞼を緩やかな呼吸に合わせてそろりそろりと開いてゆく。視界の先に変わらず広がるは闇の空間。底無しの闇において、エミヤの視線の先では、桜とメルトリリスが静かに見えぬ火花を飛び散らせている。

 

美しい。と、エミヤは意識すらすることなく見惚れていた。舞台の上でまだ幼い少女と、十分に成長した女が、互いに譲らず信念の切っ先を視線に込めて鋭い視線と柔らかい視線をぶつけ合うその姿はまるで花の蕾が開く直前のような、あまりに幻想的で、倒錯的で、そして蠱惑的なものだった。

 

「気にくわないわ」

 

やがて自らと同じく闇の触手に囚われていたメルトリリスは、先ほど述べたものと同じ言葉を口にすると、彼女を縛っていた枷は打ち砕かれ、彼女は闇の中へと解き放たれた。メルトリリスは暗闇の中、踊るような動きでかつて舞踏を繰り広げていた舞台の上へと降り立つと、桜に対して真正面から対峙する。

 

「メルトリリス……」

 

自らがパートナーと定めた少女が自由を取り戻したのを見てエミヤが反射的に彼女の名を呼ぶと、細身で幼い彼女は、心配ないわ、と振り向きもせずに告げた。闇の中、瑠璃の衣を待とう少女の声は、わずかに掠れている。

 

様子に不審を抱き目を凝らす。するとメルトリリスの全身は微かに震えていることに気がついた。そしてエミヤは悟る。メルトリリスは今、今や敵となったと思われる自らの生みの親でもある存在を前にして身体中から恐れが湧き上がっているのだろう、その身を恐怖に竦ませているのだろう事を。

 

「メ……」

 

彼女の事情を察した瞬間、心配の声が漏れかけた。だが直後、エミヤはその小さな後ろ姿に自らの姿を幻視した。そして気がつく。彼女はそんな無様を自らのパートナーに悟らせまいと、必死に抑え込んでいるのだということを。途端、投影された幻影が現実を侵食し、追憶の帳が意識を覆い隠して、エミヤの意識は過去の中へと沈み込んでゆく。

 

 

『化け物め……』

 

背後より投げつけられる罵倒を無言にて受け止める。もはや何度めになるかもわからない否定の言葉を、しかし受け止めるに慣れるなどと言う時は決して訪れなかった。

 

『何が目的だ、この化け物め!』

 

救いの手を差し伸べたつもりが、返ってくるのが罵声などという事態は珍しくない。命を拾い上げたのに、代価として与えられるものが憎悪だなんてことはしょっちゅうだ。

 

『来るな、化け物! 来るな!』

 

生前、遂にはただ一人からも、感謝の言葉を聞けなくなった。守ろうとする存在は、力を尽くして守り切ったはずの存在は、誰もが自らを化け物として扱う。魔術という異常な手段を駆使して戦場を駆け巡り、なんの代価をも求めることなくただひたすらに見ず知らずの命を淡々と拾い上げる存在など、彼らの常識からしてみれば気味の悪い理解不能の化け物としか映らなかったのだろう。

 

『なんなんだ……、お前は一体なんなんだよ!』

 

それでもエミヤは止まれない、止まらない。過去に誰かを犠牲にして生き残ってしまったという経験が、大切な人たちから受け継いだ矜持が、想い人から託された言葉が、自らをその道に縛り付け、逃げ出す事を許さない。自縄自縛。エミヤはそして己の逃げ道を自ら塞ぎ、心を殺したまま破滅に至る道を駆け抜ける事となった。

 

その過程において、何度自らを慰める言葉を吐いたかわからない。助かってくれてよかった。そんな陳腐な言葉で他社より投げつけられる言葉の辛さを必死に相殺しながら、少年の頃にえた矜持を胸に抱え、エミヤはその生涯を必死に、苛烈に駆け抜けた。

 

その生涯において、エミヤは何度もあのように、他者を守るため、背を向けてきた。エミヤは、背後から罵声を投げつけられやしないかと怯えながら、それでも自らの矜持を守るために、必死で己自身を鼓舞させながら、自らの敵となる存在の前に相対してきた。

 

そして今。初々しさと幼さ残るその小さな背中は、かつて彼が他者を守るために向けてきたものとは異なってとても頼りないものであった。けれど、エミヤはそれ故に、今、目の前に立つメルトリリスという彼女が、過去の自らと同じように、自身にとって大切な矜持を守るために、他の誰か――この場合においては自分――を守るために、今こうして胸の内より湧き出る恐怖を抑えて、自らの敵となる存在の前に立っているのだろう事を強く意識した。

 

本当に。メルトリリスという少女は、心底自らとよく似ている。彼女の考えは理解できないが、彼女の在り方と、今彼女が何を望んでいるのかを、エミヤは心の底から理解した。エミヤはそれ故に、もはや彼女に対してなにかをしようという気には、彼女の行動を止めようという気は失せてしまっていた。

 

そうとも。闇ばかりが広がる舞台において繰り広げられる互先、自分という役者はすでに役割が変更されている。女の激情が主たる武器の戦場において、現実に存在する武器を手に戦う男たる自分はすでに単なる異分子でしかない。これはすでに、世界の命運をかけるだとか、世界の行く末を決めるだとかそんな誰かのために繰り広げられるチャチな戦いではなく、一人の女と、一人の少女が、互いの全存在意義と矜持をかけて戦おうという決闘だ。互いが互いの信念をかけた決闘。ならば横槍は無粋というものだろう――。

 

――なにをバカな事を考えている

 

思い至った瞬間、理性と正気が頭の中で吠えたてた。

 

――正気か、今この瞬間のお前の双肩には世界の命運がかかっているんだぞ、誇りだのなんだのはこの際無視して、実利を取り、どうにかメルトリリスを口説き落としてこの拘束を解かせ、彼女とともに全ての惹起たる桜と戦うべきだ

 

自らの理性と正気が大声で訴えてくる。なるほど、それはきっと正しい意見だ。だが、その意見には、目の前で震えながらも自らの生みの親と対峙しているメルトリリスの思いが勘定に入っていない。そんなもの。何があろうと自分と同じ不幸を味わった、自分とまるで同じような振る舞いをする、そんな彼女の味方になってやると決めたエミヤにとって、到底受け入れられるものではなかった。

 

――黙れ!

 

あまりにも正しすぎるそんな彼らの訴えを、しかし拳を強く握りしめ殴りつけ黙殺を強いると、とどめと言わんばかりに心中にて暴れる彼らへと弾劾の剣を無数に突き立てた。自らの矜持を自ら殴りつける矛盾の痛みに歯をくいしばって耐えると、ぎしり、と全身が軋む音がする。胸にせり上がってくる思いが胃の動きと連動し、今にも口からあらゆるものがこぼれおちてしまいそうだった。喉奥より口の中へと酸味がせり上がってくる。

 

――やめろ! その道は正義に悖る!

 

不快感にひたすら耐えていると、理性と正気はハリネズミのようになりながら、それでも変わらず、愚行を今すぐ考え直して最大多数の幸福のために正義を執行しろと訴えてくる。変わると決めたはずの己の中に残る以前より変わらぬ矜持とその頑迷さに少しばかりの不思議な心地よさを覚えながらも、しかし、目の前で怒って泣いていた少女一人の心すらも救えず、変わろうと決意した彼女を信じる事もできずに、世界なんてものを救えるものか、救えると信じぬけるものか、と、さらに心を貫く刃を追加して、二者へとさし向ける。

 

――女の子一人救えない道が正義であってたまるものか!

 

すると他者の想いを軽んじて突き進んだが故に永劫の呪いというものをえて苦しんだ記憶が理性と正気の抵抗を鋭く削ぐ刃となり、ついに理性と正気の二者は陥落した。頑固者め、と自嘲しつつも舞台退場の決意を新たにすると、プリマドンナ同士が静かに繰り広げる熾烈な目線の戦いへと視線を戻す。よく似た顔の女と少女は、ジークフリートへと熱い視線を向けるオデットとオディールのよう、互いに一歩たりとも譲らない。エミヤの身に余りあるほどの二者の視線に秘められた熱情は、すぐさま彼の身から溢れて五感の垣根すらも融解させてしまいそうな闇に溶けてゆく。

 

むせ返るほどの熱が体の内側で暴れまわるこそばゆさに耐えかねて身をよじると、頬を静かに撫でながら落ちゆく感触で、エミヤは自らの額に汗が滲んでいることに気がついた。それはぶつかり合う二人の感情がエミヤの心を揺り動かし、昂らせ、心中にて激しい自己闘争が行われた結果だった。

 

額に滲んだ感情が理性と正気に打ち勝った勝利の証はやがて半球の如きものとなり、張力に耐えかねて落下する。拭うことすらも許されぬこの場において、汗はこめかみを通じて頬骨を伝わり、顎下より垂れ落ちて肉体より離れ、闇に溶けて散って消えてゆく。女二人の情に反応して松柏の男が流した雫は、二柱の女神の裡へとさらなる苛烈な感情を生み出す灌奠となり、女はどちらからともなく口を開く。瞬時にして辺り一面に退廃の気が瀰漫する。世界の命運をかけた、世界で最も静かな戦いが、今まさに始まろうとしていた。

 

 

 

名を呼ぼうとしながらやめるその態度や、背後より感じる視線、気配からはエミヤの迷いや気持ちがひしひしと伝わってくる。正義の味方を標榜して憚らない彼の事だ。きっと自分だけが今や世界の敵となった桜という女と対峙するという状況に対して心の裡で多くの葛藤を行い、その末に、世界の命運よりも私の戦いを見守る事を優先すると決意してくれたのだろう、とメルトリリスは予想した。

 

きっと彼がそんな自らの思いを語ることなく抱え込んでしまっているのは、思いを露わにすることで目の前で戦おうとしている存在がその思いを余計なプレッシャーとして感じる事を防ぐためなのだろう。彼はそうして自らの思いや言葉を常に自分の裡へと隠し、飲み込み、自分という存在が誰かの負荷になること必死で避けようとする。

 

だからこそ彼は多くの人から勘違いされ、果てには誰にも理解されずその生涯を送ることになった。にもかかわらず、彼はそんな余計な気遣いをやめようとしない。否、その余計な気遣いをする行動は、すでに彼の本能的反射行為となってしまっているのだろう。

 

――本当にわかりやすく、そしてどこまでも不器用な人だこと

 

メルトリリスはエミヤにどこか呆れた思いを抱きつつも、そんな不器用な彼をひどく愛おしく思うと同時に、気遣いに対して感謝の念を送る。何せその気遣いは、メルトリリスがいかなる存在であるかを理解しているエミヤという男が、メルトリリスを守るべき対象として認識し、そのうえで、彼自身の矜持よりも、メルトリリスという女の気持ちを優先してくれたという証に他ならないのだから。

 

――ああ

 

胸が踊る。心の底から湧き出てくる想いで自然と体が踊り出しそうになるなんて気分になったのは生まれて初めてだった。誰かから心配されている。自分の事情を知る、自身でない誰かが、自分の心配をしてくれている。自分の醜さと歪みを知っている、愛する人が自分を心配して、その上で愛する人が抱える矜持よりも自分の事を優先して考えてくれている。自分は自らが愛した人に思われている。その事実がメルトリリスの気持ちをどこまでも昂らせてゆく。

 

――貴方を選んで良かった

 

背中から感じる視線が押し寄せる多幸感を生み、心を焦がしている。現世に顕現してから初めて得た触覚が、まるで暴走したかのように全身に漲っている幸福の微熱を敏に感じとっていた。指先の一本一本に至るまでが幸福の中に浸かっているかのように心地よい。ぞくり、と生身の背筋を駆けあがっていく電流の痺れる感触には絶頂を覚えそうにすらなっている。メルトリリスという幼い容姿の少女は、しかし今、まさに女神と呼んで差支えない、見る者を魅惑する美しい幸福の表情を浮かべていた。

 

――貴方が私を選んでくれて、本当に良かった

 

そう。彼女は幸福だった。もしこの先にあるのが地獄へと続く己が身にいかなる運命が待ち受けるかもわからない道であるとしても、もしこの道の先が我が身の破滅に続く地獄道であると決まっていたとしても、彼女は迷いなくこの道を選びとっただろう。

 

そうとも、彼女は今まさに幸福の渦中にあった。

 

「嬉しそうですね」

「――」

 

だが、そんな幸福の沼に浸っていたメルトリリスを、静かな声が現実へと引き戻す。体中に湧き立つ幸福感が別種の感覚へと入れ替る。指先に至るまで熱を感じていた四肢からはその余熱すら失せ、全身が鈍麻な人形のような状態へと引き戻されてゆくのを自覚した。

 

「――」

 

意識は自然と己の内側から熱を奪い、かつて闇の中に一人揺蕩っていた頃の状態へ引き戻した存在に移行させられる。胸の中に巣くっていた温かい思いが失せてゆくとともに、郷愁と怒りの混じった念がむらむらと湧き上がった。

 

「あら、今度は怖い顔」

 

胸の裡よりこんこんと限りなく生まれ出でてくる心地よい正の感情を負の感情に変換した存在へ、湧き上がってくる不満と鬱屈とした思いをあらんかぎりに籠めて投げつける。だがメルトリリスからそのような負の感情を向けられた桜はにこやかな顔をして平然と受け止めた。己の行った渾身の感情攻撃がまるで無意味に終わったことにメルトリリスはさらに不満を募らせた表情をして見せ。しかしやはり桜は、平然といつもと変わらぬ微笑みをたたえているばかりで一切表情を崩さない。

 

「気にくわないわね」

 

桜が不変に態度を崩さない様子を見たメルトリリスは告げる。つぶらな瞳には一度たりとも自らの生みの親である桜に対する思い遣りの熱など含まれていない。しかし見る者すべてを凍りつかせてしまいそうな冷徹な極寒の視線を向けられた桜は、やはり不動の態度を一切崩さない。桜が正気を保ったまま笑顔でたたずむ様子を見たメルトリリスは、よりいっそう不機嫌な態度を露わにして、目の前で微笑む桜へと絶対零度の視線を向ける。しかしそれでもやはり桜は、常と変らぬ微笑みをたずさえて、メルトリリスへと視線を向けるのだ。

 

「変わりましたねぇ、メルトリリス」

 

桜によって受け流されたメルトリリスの感情が影響を及ぼしたかのように、彼らを取り囲む闇の温度が冷たいものへと変化した。だが桜は変わらぬ様子で言う。それは何気ない一言だった。しかしその桜の一言には不変であるはずのそんな言葉から、メルトリリスが変わってしまったことに対する抗議の念が込められているのだと感じ取る。

 

「貴女は変わらぬことを望まれて生まれてきた存在。そして、貴女もそうであることを受け入れていた。なのに貴女は、何でそうも変わってしまったんですか?」

 

永劫不変である事こそがメルトリリスの存在意義であると語る桜は、抗議の言葉を絶やさない。桜の様を眺めていたメルトリリスは、ひどくつまらなそうに桜から視線を外すと、心底落胆した態度で、吐き捨てた。

 

「さぁ。説明したところできっと、今の貴方には未来永劫わかりっこないわ」

 

桜はそのセリフを聞いて、やはり態度を崩さない。メルトリリスは湧き出る残念の思いを吐き出すと、もう一言吐き捨てる。

 

「ほんっと。今の貴女は気にくわないわ」

 

 

メルトリリス。原初の悪女の名を冠する、他者を虐げ不幸の表情を浮かべさせることに喜びを見出す、そんな女。彼女はこの世に初めて生まれ落ちた時からそうだった。誰かの傀儡となって生きる。世界の傀儡として、世界の安寧を乱す存在を排除する。彼女はそれだけを望まれて生まれてきた存在だった。

 

正義の為に女神となることを望まれ、生まれおちた少女。生みの親と生みの親を支配するシステムより与えられたのは、衆愚の中から英雄が生まれないよう、強者になりえる存在へ死を与えるそんな役目。だからきっと彼女の性格が加虐に歪んでいるのも当然のことだった。

 

彼女は誰かが自らの行為によって歪んだ顔を見せるのが好きだった。それ以外に自分以外の他者と触れ合う機会を得られなかった。視覚と聴覚以外の全ての感覚が欠落している彼女にとって、世界とは人形劇以外の何者でもなかった。彼女にとって、他者とは自らの思い通りに動く人形以外の何者でもなかった。

 

子供が人形を用いた一人遊びに興じて楽しめるのは、それが現実の模倣であり、幻想を具現化したものだからだ。子供たちは自らの思考の中に広がる世界を、人形というものを通して現実世界に投影する。自らの記憶のうちにあるそれらを人形を通して再現することで、彼らは己の正しさと全能感を得る。彼らは幼くして無意識のうちに現実というものは己の思い通りにいかないものだということを学習しており、学習しているからこそ彼らは己の思い通りに動く人形達の動きに歓喜を得る。子供たちにとって人形劇とは人形劇以外の何者でもなく、彼らは幼いながらも人形劇を現実などというものと混同したりしない。

 

しかし彼女にとってそれは違った。見えない糸に繋がったオートマータは、彼女が鋏を振るえば、すぐさま動かぬマリオネットへと変換される。世界は真実、彼女の人形劇の舞台だった。誰も彼も、世界に生きている人間の全ては彼女の支配下にあり、彼女の意のままに操れる存在だった。

 

故に彼女にとって、人間と世界とは、人形と人形劇繰り広げられる舞台に他ならず。彼女は世界という舞台の上で踊る人形たちを自らの意のままに操り、そして死なせる事を躊躇わない。それは、それこそが彼女に与えられた役割であり、使命であり、彼女という存在がこの世に生まれてきた意義だったからだ。

 

世界という舞台の上、そこに存在する人間という存在が、舞台の裏側に興味を持たぬよう、人形劇の円滑な進行と、人形劇が終わりの時を迎えぬよう、ただひたすらに踊る人形たちの監視と管理を完璧に行う為、人造女神の意識と魂より生み出された、管理用のお人形。

 

それこそが、メルトリリス。

 

それが元を辿れば『ニンリル』という、男の都合によって都合よくたらい回しにされ、やがては男を誑かしその精神を溶かし尽くしてしまう悪女であるとの烙印を押されてしまったメソポタミアの女神の名が組み込まれた、苛虐な性質を持つドールマニアにして月の裏側に潜む女神の呼び名である。

 

 

強き者を殺す。生まれた時より、それを望まれた。だから望む通りのことをしてやった。彼女にとって強者を死に至らしめるとは、本能以外のなにものでもなかった。彼女にとってその行為は他の生物に言う所の呼吸と同じものであり、生きるという行為に他ならない。

 

なぜなら彼女はそれを望まれて生まれてきたからだ。彼女はそれを望まれて生まれてきた。この世界のどこか、グラズヘイムという場所において生まれた人工知能にとって陣と世界の安寧を維持することこそが魂であったように、強者を殺すという事こそが彼女の魂の起源であり、本能だった。

 

言うなれば桜という人物の魂の欠片より生み出された彼女は、しかしながら少女というよりも人工知能、AIと呼ばれる彼らに近しい存在だった。彼女が元は人間であった桜よりもずっと長い時の間、桜という彼女よりも高い精度、高い頻度で、永劫繰り返す作業を倦む事なく行い続けられたのは、間違いなくそんな彼女の特性に起因するものだろう。

 

彼女は完璧な女神だった。彼女は地上において人間の情を理解しようと狂ってしまった人工知能などよりもよほど完璧な管理用の機械だった。

 

だが、どれほど完璧に見えるものであろうと、元が不完全であるものから完璧などというものが生まれてくるはずもない。彼女の完璧さはいわば、長年の研磨と研鑽の果てに、完璧という状態に限りなく近づいただけのものだった。完璧を望まれながら完璧でなく生まれてきてしまった少女は、やがて長きに渡る繰り返しの日々に倦怠を覚えるようになる。

 

それはきっと、彼女がハードディスクの中に一と零だけの存在として生まれたのでなく、桜という元人間の魂より生まれた存在である以上、必然の出来事だった。そう、いかに完璧に見えるものであろうと、完璧でないのであれば、使い続けるうちにやがて疲労と劣化によってヒビが入るのは必定。彼女という完璧を体現する球は、日に日に世間との間に生じる摩擦によって徐々に壊れてゆく。

 

そんな完璧から徐々に遠ざかってゆく彼女が、やがて完全に壊れてしまったのは、彼女という存在が、彼女以外にも永劫の時の流れの中で生きてきた存在のことを知ったからであった。完璧に近い存在であった、しかし壊れつつあった女神を完全に壊し、破滅に至る道を歩ませてしまった男の名は、エミヤシロウ。アーチャーとの二つ名を持つ、元英霊であり、桜という自分を生んだ女の先輩でもあるという、そんな男だった。

 

 

凛という桜の姉より彼の存在とその在り方、生涯を読み取った時、メルトリリスは存在しない全身が震える思いを味わった。恐ろしくて震えを覚えたのではない。怖くて震えを覚えたのではない。彼女は、自らと同じように永劫の運命を背負わされていた、本質を見てやれば自らと同じような歪みを持つ存在が、しかしながら、いつかは永劫という状態から解放されてしまう事もあるのだという事に、驚き、震えたのだ。

 

彼女は永劫をこの空間で過ごすものだと思っていた。彼女はいくら倦もうが、この永劫の闇の中から抜け出す方法はないと思っていた。彼女はどれだけ望もうが、世界にたった二人、その上、実質は一人であるという状態からの変化などあり得ないと思っていた。

 

それ故の、一方的な苛虐。それ故の、人形愛好。それ故の、バレエ鑑賞趣味。それ故の、諦観。それ故に、彼女の持つ趣味の全ては一方通行。閉じた世界の中で完結するものだった。

 

しかし彼女は知ってしまった。完結しているはずの楽園はしかし終点などではなく、その先に続く道があった事を彼女は知ってしまったのだ。彼女は自身とまるで同じ経験を持つ、己とはまるで違う理想を持つ男によって、永劫などというものは存在しない事を知ってしまった。

 

エデンのリンゴを食べた女は、知識という余計なものを得てしまったがために、永劫を約束された楽園より追放される運命を背負いこむ事となった。ならば、そんな追放されたイブと近しい名を持つ存在である彼女が、やがて異世界のサタンの助けを借りて、同様にやがていつか永劫の檻より解き放たれる運命を得た事もきっと必定だった。

 

――あの人のことがもっと知りたい。

 

エミヤという男のことを知ったその日、不変であった女神はただの少女へと転生した。無論、ただの少女となってしまった事など、不変の女神を自認する彼女は気付かない、気付けない。否、もし仮に気付いたとしても、彼女はそれを断じて否! と、固く否定しただろう。この永劫他者との断絶を確約する空間において自らが変化の属性を持つ存在である事を自認することは、それこそ死を意味する。それ故に桜という彼女の生みの親は狂気に陥り、システムによって巣食う狂気を排され、正気を保たされ続け。結果、不変の属性を持つ存在を望み、メルトリリスという存在が生まれるに至ったのだから、その拒絶はあらゆる意味で当然だ。

 

不変である事を自認するメルトリリスは、すでに己が不変の女神ではなく、ただの少女となってしまった事に気付かない、気付けない、無意識のうちに気付こうとしない。

 

闇の中、女神という位置から転げ落ちてしまったそんな少女の変化に気付いたのは、己とその周囲の環境が不変である事に耐えられず、不変である事に耐性のある彼女を生み出した水と魂という変化の属性を魔術特性として持つ桜という女だった。

 

だからこそ桜は自らの同居人の変化に気付き、自らを永劫の孤独より救い出してくれた彼女のために何かしてやりたいと彼女の解放の手段を模索し、やがて世界の安寧と引き換えに彼女をこの永劫不変の闇の中より救い出す狂気に満ちた手段を見つけ出してしまった。

 

だからこそそんな危険極まりない思想と手段の知識を持つに至った桜は、世界の安寧維持を望むシステムから修正をくらい、これまで以上に、完膚なきまでに正気の状態へと戻されてしまった。そして積み上げられた多くの偶然と必然の果て、メルトリリスを生んだ桜という魂と精神に多くの欠落を存在の人格は消失した。

 

不変である事を自認するメルトリリスはだからこそ自己の変化についてこそ決して気付くことのなかったが、その分他人の変化には酷く敏感に気付く少女であった。故に桜という女の弱さを理解していたメルトリリスは、彼女がなぜ消え失せてしまったのかにすぐに気が付いた。だからこそ彼女は、自らがただの一人の男に恋い焦がれる少女に堕ちてしまった事など、決して気付かない、気付けない、無意識のうちに気付こうとしない、意識的にも気付こうとはしなくなった。

 

メルトリリス。桜という生みの親であり、同時に、自分に過少ながらも刺激を与えてくれる存在を失った彼女は、いっそう夢見がちになり、ただひたすらにカレンダーをめくり、指を手折り、いっそうエミヤがこの世界へとやってくるその日を心底待ち望む。今やそれのみが、半身であり、生みの親でもある、闇の中ともに生きる同居人を失った彼女の全てだった。

 

――ああ、本当に待ち遠しいわ

 

男を思い懸想を募らせるその姿は、もはやどこにでもいる少女の姿に他ならならず。盲目の病に陥った彼女はもはや、だからこそあらゆる矛盾を孕んだ存在がすぐそばでなにを企もうと、気づけない、気付けない、無意識のうちに気付こうとしない、意識的にも気付こうとはしなかった。

 

 

「――」

「――」

 

無言の対峙が続いている。メルトリリスと桜は一言も喋ることなく、身じろぎすらしないまま、闇の舞台の上で視線を交錯させていた。今や幼きその身を焦がし尽くしてしまうほどの情熱を手に入れたメルトリリスの熱のこもった視線が、桜の温度を感じさせない視線と激突する。

 

「気にくわない、……ですか」

 

さなか、桜が静かに口火を切った。

 

「ええ、そうよ」

 

メルトリリスが負けじと応戦する。

 

「いったい私の何が気にくわないんでしょうか」

「全てよ」

 

断言。個人の一部分、一特性ではなく、お前の全てが気に食わないという完膚なきまでの拒絶の宣言に、桜はしかしやはり笑みを絶やさないままに首をかしげる。

 

「全て……ですか?」

「ええ、そうよ。今の貴女の全てよ。――私の知る桜は、少なくともこんな風に私から強く否定の言葉を受けた時、ただ笑って受け流せるほど強い女ではなかった。私の知る桜は、愚図で、間抜けで、臆病で、――、そして、言葉を投げかければいつだってわかりやすく表情を変えて見せる女だった」

「――」

 

メルトリリスの言葉と指摘を受けた桜は、しかし笑顔を能面のように張り付けたまま、やはり表情を崩さない。桜は笑っている。歯をむいて嗤うでもなく、含んだ様子を見せて哂うでもなく、大きく口をあけて呵うでもなく、口をすぼめて咲うでもなく、ただ口角を一ミリたりとも崩すことなくゆるく上げ続けている。

 

「桜はちょっとでも声をかければ、コロコロと顔の表情を変える人だったわ。桜は何かを言われたとき、今の貴女が顔に張り付けているような、一切変化のない表情を浮かべつづけるなんてことは一度たりともしなかった。――貴女がそうなった事情を私は知っている。貴女がそんな風にシステムに書き換えられてしまったのが私のせいだという事も、私は当然理解しているわ。でも、だからこそ私は貴女を気にくわないし、ほんとのところ、心底貴女の事を桜などと呼びたくはない」

 

メルトリリスは言い切ると、睨めつける視線を桜へと送る。

 

「あなたの目的は何?」

「決まっているじゃないですか。世界の安寧を恒久的に維持することですよ。私と貴女と……、貴女が望むなら先輩も一緒に、です」

「は、安寧の維持。安寧の恒久的な維持を私やエミヤと一緒に、ですって? ……笑わせてくれるわ!」

 

メルトリリスの挑発じみた言葉にも桜は反応を見せない。そんな桜の態度がメルトリリスの癇に障ったのだろう。メルトリリスはより一層冷徹さと侮蔑の感情増した視線を桜へ向けた。

 

「馬鹿にしないでちょうだい! 貴女の慈悲によって生かされるだけの徒花のような生涯だなんてごめんだわ!」

「そうですか」

 

拒絶の言葉を、やはり桜はしずしずと一切反応することなく受け止める。その様は過去の桜を知るものならば、誰もが首をかしげて然るべき態度だった。そんな桜の態度に不穏を感じ取ったのか、メルトリリスは声のトーンを落として、言葉を続ける。

 

「そうよ。肉体を得ることが出来た私は、もう、貴女や、貴女を支配するシステムの支配下から抜け出せた。だから私はもう、貴女の言いなりにはならない。貴女の望みの肩代わりなんてしない。貴女と一緒に世界の管理をするなんてまっぴらごめんだわ。私はもう、私と一緒に生きてくれる他人を得ることが出来た。――私はここに集約された力を使って世界を再生し、ここから出て、創りあげた大地で彼と一緒に生きていく。そう決めたのよ」

「そうですか」

 

メルトリリスが再三否定の言葉を発し、桜の望みであるという管理世界の案すら否定した。にもかかわらず、桜はやはり平然としたまま、その言葉を受け止めるばかりだった。紅顔には一片たりとも動揺がない。桜は心底、メルトリリスの意見に対して無関心を貫いているようだった。メルトリリスは眉をしかめた。

 

「……なによ、気持ち悪いわね。私は貴女を――、貴女の思考を支配しているシステムの存在意義を否定したのよ? 私は貴女の存在意義と、存在理由を否定した。ならいかに今の正気に戻されてしまった貴女であっても、もう少しヒステリックに生理的な反応を見せてもいいんじゃない? いったい何を考えているの、貴女は」

「私が何を考えているか、ですか?」

 

メルトリリスの問いかけに機械的に決まった角度だけ首をかしげてみせた桜は、やはり無機質な笑顔を浮かべたまま首をもとの位置に戻してみせると、変わらない笑顔のままに口を開く。

 

「言ったじゃないですか。私の目的は世界の安寧を恒久的に維持することですよ」

「だからそれはもう不可能な事象になったといっているじゃない! 」

 

桜が先ほどとまるで変わらない口調と抑揚でまるきり同じ言葉を述べたのが、よほどメルトリリスの癇に障ったのだろう。メルトリリスは大きく腕を振って桜の意見を薙ぎ払うような動作をすると、ヒステリックに大きな声で叫んだ。

 

「私はもうあなたに協力しない! 私はこの場所を抜け出して、世界を再構成する! 今度再構成する場所に、システムと同化した貴女の居場所なんて私は作らない! 貴方の居場所はどこにもなくなるの! そういっているのに、貴女はなぜそうも平然と、それを受け入れられるのよ!」

「――」

 

メルトリリスの感情的な問いかけの言葉を受けとめた桜は、やはり能面のような笑みを崩さない。メルトリリスの罵声をしずしずと受け取った桜は、やはり変わらない微笑みをたずさえたままだった。

 

「知りたいですか? 」

 

しかしここにきて桜は先ほどまでとは異なった言葉を発してみせた。

 

「え?」

 

言葉にメルトリリスが間の抜けた声を上げる。

 

「なら、教えてあげます」

 

桜はまるで家令やメイドがやるような丁寧かつ行儀良い所作で周囲一面をご覧あれとばかりに手を振る。途端、一面闇ばかりが広がっていた空間にほのかな光が生じた。空間のあちこちに生じた光はやがてはるか遠くの部位にまで広がると、暗幕に隠されていた舞台はすぐさま、あたり一面に星の光が無数に散らばる光景へと変貌した。その様はまさにプラネタリウム。否、全周に天が広がる様を見やれば、それはプラネタリウムよりもはるかに上等な、天球儀に等しく。瞬間的にエミヤとメルトリリスはその幻想の光景に見惚れ、そして向ける眼差しの方向を天から地へと打ちした直後――

 

「――」

「――なによ、これ……」

 

そして足元に広がる光景を目にした途端、目を見張った。無数の星の煌めきばかりが遠く何処までも広がっていた天とは異なり、地には星の海に浮かぶ五つの異物が目立っている。それらの異物の概要をざっとまとめるのであれば、一つは地球であり、一つは裂け目と赤い大地が続く光景であり、一つは別の裂け目から広く深く広がる水と泥の塊が生み出されている光景であり、一つは月とその周囲に雲が渦巻き卵型となっているものであり、一つは鉄を中心に据えて泥によって造られた数千キロメートルはあろうかという巨人だった。

 

「裂け目はギンヌンガの裂け目、青い星は地球、紅い大地は火星、泥は蠱毒の呪いの凝結体だとして、あの煙に覆われた月の存在と、地球にすら匹敵しそうな大きさの巨人は一体……」

「あれらは蠱毒の呪いによって原初の形に戻った全ての世界の材量より生み出された混沌の具現ですよ、先輩」

 

エミヤのつぶやきに、桜が答える。

 

「蠱毒の呪いの泥を吸収して卵型に戻りつつある月は、インド、イラン、中国、日本、フィンランド、ポリネシア、インドネシア、南アメリカにいうところの宇宙卵。蠱毒の呪いによって生じた粘度の高い液体は、バビロニアやエジプト、ギリシャ神話や、ヴェーダ、聖書などにおける所の混沌の海であり、泥。世界を覆い尽くすほどの巨人は、盤古やユミル、スルトやプルシャに例えられる世界の材量となった巨人です。そして、月は女の比喩でもあり、巨人は男の比喩でもあり、火星の大地にいるのは一神教の唯一神……」

「――まさか、桜。貴女は……」

 

桜の言葉にメルトリリスの顔色がさっと変わる。今までの赤ら顔と興奮は嘘のように鎮まり、白い肌にはこれまで以上の汗がにじみ、全身は自らが達した結論に慄くかのように震えていた。

 

「はい。おそらく、貴女のご想像通りです」

 

メルトリリスの表情や態度の変化から彼の考えを読み取ったのだろう桜は、やはり変わらない笑顔を浮かべたままで、静かに首肯する。

 

「メルトリリス。貴女は世界を再構成する、と言いましたね? ――ええ、そうです。実は私の望みもそれなんです。ただし、外側の世界を貴方の内側に取り込もうとした貴女とは違って、私は私を材料として、この壊れかけた管理の難しい外側の世界を、管理に容易い内側の世界へと再構成する。貴女がどうあがこうと、どんな未来を選ぼうと、私にとってはどうでもいいことだったんです。貴女がいかなる未来を選ぼうが、世界を再構成するためにこの月の裏側に格納された泥を使うというのであれば、その未来に私は必ず存在する。だから私は、貴女が自由に動くことも許容したんです」

 

桜の言葉にメルトリリスは震えが大きくなる。その震えが先ほどまでの驚愕と恐怖より生じたものでなく、碇から生じたものであることが、眉尻が吊り上り、顔色が赤く染まってゆく様子から見て取れた。メルトリリスは自らが、所詮はシステムによって正気を保たされた桜、と見下していた相手の手の平の上で踊らされていたことに羞恥を感じているのだ。それほどまでに今の桜という存在に手玉に取られたという事実は、メルトリリスにとってあまりに屈辱的なことだった。

 

「私は貴女や英雄たちがどうあがこうと、世界は私が溶け込んだ状態で再生されるよう、プログラムを組んだんです。仮に世界が、ギルガメッシュを中心とした混沌の海より生まれたシュメル神話体系で再現されようが、今の世界の人たちを中心としたユミルの体を解体して生まれた北欧神話体系で再生されようが、貴女や先輩を中心とした男女が神となり力を合わせて世界を生み出した神話体系で再現されようが、響と玉藻の力によって盤古の体とその泥を用いて再現されようが、唯一神が火星の大地に新たなる国を造ろうが、その素材となる蠱毒の泥には、必ず私の魂が宿り存在している」

 

桜はそんなメルトリリスの屈辱に対して悔いを露わにするさまにやはり一切の興味を向けることなく、変わらぬ微笑みを浮かべたまま、ただ淡々と語りを続けた。桜の変わらぬ様子がさらにメルトリリスの感情を逆撫でしたようで、メルトリリスはさらに怒りで大きく体を震わせる。

 

今すぐにでも爆発して桜へと向かっていきそうな彼女は、しかし裡より湧き出てくる感情を必死に抑え込んでいた。メルトリリスがそうして感情のままに動かず桜を攻撃しないのは、そのようにまるで物事がうまくいかないからと言って癇癪をおこした子供のように桜を攻撃してしまえば、そんな無様をエミヤという男の前でさらしてしまえば、自分を殺してしまいたくなるくらいに自分が惨めになるだけだと感じているからだ。メルトリリスは今、少女としてのプライドと、女としてのプライドによって、自らの加虐性を必死に抑え込んでいた。

 

「そうすれば世界と一つになった私は、世界のあらゆる場所、あらゆる生物の中に偏在し、彼らの行動を意のままに操ることが出来る。すべてに私が宿っていて、全てを記録しているのであれば、それは完全なる一元管理が出来ているという事になる。だから私はそれを目指している。つまりはメルトリリス。私がやろうとしていることは、貴女がやったことの、更に上の事なんです」

 

桜の言葉と共に、天球儀に浮かぶ異形のうちの一つ、泥の塊の大地の上に異変が生じた。のっぺりと平坦だった表面にぷつぷつと泡が生じたと思うと、それはやがて人の形をとり、徐々に見覚えのある姿となってゆく。

 

「これは……」

 

闇の中に現れたテレビの画面を見たその瞬間、メルトリリスが呆然とした声を上げた。泥の大地の上に生まれたのは、凛や、ランサー、玉藻であり、また、ギルガメッシュとヘイと呼ばれる人物の率いる軍勢であったからだ。泥の上に生じた、もはや見分けがつかないほどに彼らの姿となった人型たちは、蠱毒の呪いによって作られた大地の上で覇を競って争いだす。それはまさしく、先に起きた歴史の再現に他ならなかった。

 

「はい。私が――、貴女が闇の中に保有している彼らの記憶から私が再現した人間による、歴史の再現です」

 

泥の上で競う彼らは、かつてのように争い、そして一方は不利な状況に陥ってゆく。不利に陥った彼らが戦意を失いかけたところ、シンらがやってきて一悶着をおこし、戦争は再開される。再開された戦争は拮抗が維持され、やがてエミヤの登場により状況は一変し、エミヤとシンとの決闘へと移り変わってゆく。その一連の流れはまさしく先ほどまでメルトリリスが目撃してきた、世界の有様とまるで同じものだった。

 

「見ての通り、適切な記録と参考資料があれば、この世の中のどんな事象であっても、微分と積分演算を繰り返しそこへ適切なランダム関数を代入してやることで再現する事が可能なんです。たとえばそれが人間という不確定要素の多い存在であるとしても、いくつかの哲学書と似たような物語があれば、人間たちの営みや歴史をこのようにして再現してやることも可能なんです。私は私の魂が宿ったものすべての肉体に入り込み、操れる。つまり完全な管理が出来るという事です。私が目指す世界では、私が全ての人の中に溶け込んで、全ての人の思想と記憶を記録できるようになれば、貴女と異なった他者をいちいちどこかで保管する必要なんてない。そして、そのなかには貴女だって含まれているんです」

「な……、に……よ、それ」

 

桜の言葉を聞いて、メルトリリスは呆然とした表情を浮かべて言う。

 

「貴女、いつからそんな計画を――」

「わかっているでしょう? 貴女が気付いたその日からです」

「――なんでそんな計画を」

「わかっているでしょう? 完全なる管理をするためですよ」

 

桜の言葉はあらゆる点においてメルトリリスにとって信じがたいものだった。

 

「もともとこの世界は壊れかけていました。あと少し、ちょっとした神話的事象による衝撃が起これば、世界はすぐにでも崩壊神話を奏でてしてしまう。そんな時がもうすぐそこにまで迫っていたんです。正気を取り戻した私の脳は、すぐさまそれに気が付いた。もちろん、何とかしようとは思ったのですが、人造女神とはいえ所詮はもともと人間であった私の脳みそに単純なプログラムを組み合わせたような管理システムでは、この神話的イベントの実行を止める事は叶わない。その時点より私が完全に管理を施したとしても、遅延させるのがせいぜいです。管理するモノが私の外側の世界である限り、私は完全な管理が施せない。だから私は、完全な管理のため、世界を私の内側に取り込むための計画を練り上げたんです」

「――」

「そしてメルトリリス。貴女は私が計画したその世界創生プログラムを実行に至らしめる大切な試験体。そう。貴女は私の夢の嚆矢として放たれた存在だったのです。私は貴女で、貴女は私。貴女の想いは、上位人格である私が余すことなく記録して、解析していましたから、貴女が何を考えどう動くのかを予測し、計画に組み込むのは、とても楽なことでした」

 

瞬間、メルトリリスの震えていた全身から、ふっ、と力が抜け、彼女はひどく肩を落とした。

 

「じゃあ、何? 私のこれまでの全ての葛藤は――」

 

メルトリリスが力なく言葉を投げかける。

 

「はい。もちろん、全て、私が計画したことです」

 

システムと一体化した桜は快活に、メルトリリスの言葉を肯定した。

 

「じゃあ、何? 私のこれまでの全ての想いは――」

 

メルトリリスが泣きそうな声で力なく言葉を投げかける。

 

「はい。もちろん、全て、私の中に残っています」

 

システムと一体化した桜は快活に、メルトリリスの言葉を肯定した。

 

「じゃあ、何? 私の、これまでの、全ての行為は――」

 

メルトリリスが嗚咽を耐えたような声で、力なく言葉を投げかける。

 

「はい。もちろん、全て、いつでも再現可能です」

 

システムと一体化した桜は快活に、メルトリリスの言葉を肯定した。

 

「じゃあ、私は――」

 

メルトリリスが失意を露わにした声で、力なく途中までの言葉を投げかける。

 

「はい」

 

システムと一体化した桜はそして多少間を置くと、変わらない笑みを浮かべたまま、言った。

 

「もちろん、貴女の全ては私のモノで、私の手の平の上で踊るお人形だったという事です」

「――」

 

桜の言葉にメルトリリスは音もなく腰から砕け、見えぬ地面に崩れ落ちて、手をついた。小さな体を覆うほどもある長い髪の毛先が、彼女の失意を表すかのように地面へと投げ出された。色を失った双眸から生じた涙が、目頭、目尻へと伝わり、やがて目端に溜まった涙の張力は重力に負け、堰をきって目の縁よりはじき出された透明な雫は、頬を伝ってはらはらと落下する。それはメルトリリスが桜という存在に対して敗北を喫してしまったと認めてしまったという何よりの証だった。

 

「だからね、メルトリリス。戻ってらっしゃい。貴女の居場所はいつだって私の傍にあるんですから」

 

桜の声など聞こえないというような状態で、メルトリリスは嗚咽もなく、呆然と涙を流し続けている。桜の裡より生まれたメルトリリスは、しかし桜とはまるで異なる人格をしていた。メルトリリスは自分の事を生んでくれた桜に好意を抱いてはいたけれど、同時に彼女の事を見下してもいた。自分は桜より生まれ落ちたけれど、自分は桜という存在と違い、強い存在である、というのが彼女にとってのひそかな誇りであり、矜持だった。

 

「貴女は私の魂から零れ落ちた存在。なら、それは当然の事だとそう思いませんか?」

 

それは言ってしまえば子供らしい反抗心から生まれ落ちたものだったのかもしれない。しかしその矜持は確かにメルトリリスという精神、人格を支える柱でもあった。

 

「貴女は私の手の内から抜け出せない。だって、貴方の居場所はこの私の傍なのだから」

 

だが、今、それは打ち砕かれてしまった。一人でやっていけると確信し、一人でやってきたはずの自分は、しかし結局桜の手の平の上で踊っていたにすぎず、その上、この闇の中で過ごしてきた生涯の全てすらも、システムと一体化した今の桜にとってはその一部にすぎないとそう宣言されてしまった。

 

「貴女は私の大切な子。貴女の全ての望みを私が叶えてあげましょう。――だって、貴女は」

 

自分という存在が見下した存在よりもさらに下の位置にあり、やれることといったらまるでたいしたことがない、彼女の真似事だけ。そんな事態が不変の女神として生まれ、そうあれかしと望まれ、そのように過ごしてきたメルトリリスにとっては、ひどく耐えがたいものだった。

 

「所詮は私から生まれた、私の一部/モノなんですから」

 

そうとも。自分の実力は、その実、所詮借り物で、たいしたものでないと証明されてしまった。誇りも、矜持も打ち砕かれてしまった。今、メルトリリスは失意のどん底にいる。彼女の失意を乗せた涙は絶え間なく流れ、やがて地面に落ちる前に闇に溶けて失せてゆく。その有様を見た、彼女をそんな有様へと追い込んだ桜は、やはりまるで意にも解さない様子で微笑みを浮かべたままだった。

 

「そうそう、先輩とずっと一緒に素敵な生涯を過ごすのが貴女の夢であり、目的でしたね? いいですよ。その願いも叶えてあげましょう。ちょっと悔しいけど、貴女のためですもの。先輩は貴女に譲ってあげます。大丈夫。きっと先輩だって受け入れてくれはずです。だって、先輩は――」

 

そして変わらぬ様子の桜は視線をメルトリリスからエミヤへと移し、そして停止した。機械人形のように視線を移した時のままの様子で自身を見つめるその様を見て、桜より視線を向けられた闇に拘束されたままのエミヤはニヤリと意地の悪い顔を浮かべている。その自信がたっぷりと蓄えられた人を小馬鹿にするような顔は、正義の味方を名乗り、メルトリリスの味方となると宣言したうえで、今の話を聞いたにしては、あまりに状況にそぐわない顔だった。

 

「――先輩? なんでそんな顔をしているんですか?」

 

自信満々の表情を見て不審に思ったのだろう、桜は体を完全にエミヤの方へと向けると、まっすぐ顔を向けて質問を投げかけた。まるで変化のなかった顔は、微妙に不満げなものを含むようになっている。桜の表情の変化を見て、エミヤはさらにその不敵な笑みを深めてみせた。

 

 

エミヤは桜より向けられた視線を一度だけ外すと、自分の前、桜の近くで力なく地面に手を置きメルトリリスへと視線の先を移した。

 

――だめか。

 

桜のと舌戦により心を手折られてしまったのだろうメルトリリスは、滔々と涙を流したまま放心している。無理もない、と思う。メルトリリスは己の全存在意義を賭けての戦いに挑み、そして敗れたのだ。主観と主観のぶつけ合い、イメージ同士をぶつけ合う戦いにおいて必要なのは、確固たる意思や、意思を確固たるものとする経験だ。ならばそれをこの世界に生まれたばかりだという彼女に求めるのは酷であるし、またその敗北の衝撃はこの世界に生まれて間もないメルトリリスにとってはさぞかしショックが大きいものだったのだろう。

 

――回復には時間が必要か

 

「いや、なに。君の語ったことがあまりにあれだったものだから、つい、ね」

 

エミヤは冷静に判断すると視線を桜へと向けなおし、胸に湧き出てくる怒りを押さえつけながら、ひどく小馬鹿にした様子で言葉を発する。すると桜は変化に乏しかった――、否、まるで変化のなかった笑顔を、冷徹な能面のような表情のものとして、エミヤへと視線を送りなおした。

 

「どういうことですか?」

 

桜は抑揚のない口調で質問を投げかける。その意識はメルトリリスから完全に外れていた。エミヤは目論見がうまくいき、更には、自身の思惑が正しかったことを確信し、内心にてほくそ笑む。一見一聞してみれば態度も口調も変わらぬ桜であるが、その口調の変化こそがシステムと合身した桜とかいう一見不変を保つ存在が、その実、裏側では腸煮えくりたたせている証といえるだろう。

 

「言った通りさ。完全な世界の管理をしたい? 資料と記録さえあれば、完全な再現が可能だ? ――は、笑わせてくれる。そんな事、出来るわけがあるまいよ。まるで同じだ。君たちは、特に君は、かつての私とまるで同じ間違いを犯している。経験者からしてみれば、それがひどく滑稽に映ってしまってね。つい、失笑が漏れてしまったというわけさ」

 

――やれやれ、どこが完全不変なシステムだ

 

エミヤは思いながらそれを口にすることはなく、飄々と別のことを言ってのける。そんな態度や物言いの内容がシステムと一体化した桜の癇に障ったらしく、桜は少しばかり不機嫌そうに眉をひそめると、エミヤを睨めつけた。その柳眉が不機嫌に歪んだのを見て、エミヤはさらに機嫌をよくする。

 

他者の傷を切開して不機嫌を誘っておきながら、そんな一連の所業と変化を愉しむとは何とも性格の悪いことだ。まるで自分がかつて不倶戴天の敵として嫌っていたあの男のようではないか、と、エミヤはそう自覚しながらも、その行為をやめられない。

 

――なるほど、これはなかなかに愉快だ。

 

変化を自覚したエミヤは内心で意地悪くほくそ笑む。変わった自分を悪くないと思うのも、きっと成長の証なのだろう。

 

「出来るわけない? そんなことはありません。現に私は今、やってみせたじゃないですか」

「ああ、そうだな。確かに君は今、眼下にある彼らの脳裏に残る資料と君の記憶とやらを用いて私や凛らによく似た人形を生みだし、似たような事象を再現して見せた。なるほど、確かに君の力量は本物だ。確かに資料と記憶さえあるのならば、君は起きた出来事に似た事象を引き起こせるらしい」

「そうです。ですから私は――」

「だが、それはあくまで相似形であり、近似値だ。本物の歴史でないし、本物の彼らでない。故に君の言うそれは、完全な管理とやらではない」

 

エミヤが言った瞬間、闇の中浮かぶ泥の上にて動く、桜の人形たちがその動きを止めた。ビデオの一時停止のように動きを止めた彼らは、やがてぼろぼろとその先端部分から崩れ落ちてゆき、やがて泥へとかえってゆく。それは桜が彼らに意識を裂くことをやめ、目の前で自身にとって不快なことを述べるエミヤへと完全に意識を集中したという証に他ならなかった。

 

「そら。君の言う人形とやらは、君が手取り足取りしてやらねば動きすらしない存在で、君が脚本を書かなければ歴史すら刻めない存在だ。そんなもの、果たして人間や歴史と呼べるものかね? ――いいや、呼べないだろう。そうだな……。もし仮に、だ。君が再現した歴史とやらを映像やら文章やらに残して、他の人間に読ませたとしよう。どんな立派な題名をつけようが、参考資料を副題として使用しようが好きにするがいいさ。するとどうなると思うかね?」

「それはもちろん――」

「もちろん、映像を見た彼らは、文章を読んだ彼らは、ひどく違和感を持つだろう。これはなんだ。自分たちは果たしていったい、何を見せられ、読まされているのだろう、とね。なぜならそれは、君が、君の思うままにつくりあげた、君の感情や感想が多分に入り込んだ、ふぞろいでちぐはぐでいびつな、そんな存在だからだ」

「そんなことは――」

「そうに決まっているとも。いや、もちろん、そうと感じさせない存在もいるかもしれない。たとえば、君個人が持つ記憶にいる人物や、事象に関しては、君は詳しく表現し、限りなく近い人形として再現し、語り、あるいは書くことが出来るだろう。――だが、それだけだ。それはあくまで君が生み出した、君の記憶の中の人形であり、人間ではない。そこに君という意志が介在する限り、完全なる歴史は再現できないし、完全な管理とやらは完成しない」

「――」

「君のやろうとしているそれは、この世界というものを墓穴に埋める行為に等しい。なるほど、確かにそれが自身の内側の世界であるなら自由も効くだろうが――、いやはや、それは、誰もいない荒野に無限の剣を墓標のように突き立てながら、過去を思って勝利に酔い、孤独に佇む行為と一体何が違うのだね? ――だから笑ってしまったのさ、私は。そんな不完全な手段と方法で人間を完全に管理した気になって、固有結界の主よろしく完全な世界の管理官を気取る君は、あまりに無様で滑稽だ。個人的には今すぐそんな月と巨人の幻想に願いを託すなどという無意味な計画を諦め、この場に引きこもって手を出すのを一切やめ、外側の世界の様子を眺めるだけに止める事をオススメする」

「――そんなことはありません」

 

自嘲気味に述べるエミヤに対して、システムと一体化した桜は、初めてひどく怒った表情を浮かべて見せた。そしてエミヤへと向けられた桜の視線に感情らしきものが宿った瞬間、エミヤを拘束する闇の触手の締め付ける強さが増す。同時に体中の肌という肌が接している闇より侵入する魔性の快楽が、すべて焼け付くような痛みへと変換されていた。

 

「――ぐっ」

 

神経を蕩かす快楽が突如として鋭い痛みへと変わり、全身より襲い掛かってくる事態に、エミヤは思わずうめき声を漏らす。魔術回路を励起させた際の、熱した鉄の棒を背骨に突っ込まれたような痛みが、全身より襲い掛かってくるという事態は、一時は英霊の位階にまで達したエミヤと言えど、流石に飄々と受け流せるものではなかったのだ。

 

「ぐ、ぬ……」

 

だがエミヤは、全身より脳裏に流れ込んでくる痛みに耐えながら、しかしそれでも不敵な笑みを崩さない。そうとも。全身を焼く痛み程度でエミヤは崩れない。全身を痛みの電撃が駆け巡る程度の事でエミヤの信念は崩れない。たかが脳裏を突き刺す痛みがいくら訪れようと、痛みでエミヤの矜持は崩れない。あの心を蕩かすほどの優しい嘘と思い遣りに満ちた快楽に耐える事に比べれば、敵意と害意しか感じられない痛みに耐えるなど、慣れ親しんできた作業で、いつもやってきたことだ。

 

「――どうして」

「桜。君の言う管理というものは、所詮、独りよがりのものだ。始まりの想いがどれだけ貴かろうと、その先が永劫の安寧とやらにつながっていようが、世界で生きている人たちの、そんな誰かの思考を捻じ曲げ、支配し、一括して管理してしまおうなどと思った時点で、そんなものは人間に対するシステムとして間違っているんだよ」

「――っ」

 

システムと一体化した桜にとって、システムとして破綻している、と指摘されたことがなによりの傷となったらしく、桜の顔がひどく歪んだ。変化を見た瞬間、エミヤは一瞬痛みを忘れ、ニヤリと完全に不敵な笑みを浮かべて見せる。

 

「それに、そら。所詮君のいう完全な管理とやらは、君というシステムが完全であることを前提にしたものだ。私の指摘と挑発程度で揺らぎ、怒りを露わにしてみせる不変でない君に、完全などというものを体現出来るとは私には到底思えないがね。――ぐっ!」

「――もう、いいです」

 

エミヤのさらなる挑発を受けた桜は直後、歪ませていた顔を、ふっ、と、元の能面のような表情へと戻し、感情のこもらない機械のような視線をエミヤへと向けた。エミヤは己の余計な一言によって、目の前の彼女の怒りが頂点の極みを通り越して、噴火してしまったのだという事を悟る。

 

「先輩だけは生かしておくつもりでしたが、気が変わりました」

 

人間、心底怒ったときには、自らを怒りの状態へと導いた存在に対して憎しみを向ける以外に何もできなくなるものだ。そんな、不変を名乗り、完全を目指すという存在から、何とも人間らしい反応を引き出せたことにエミヤは満足感を覚えつつも、同時に、やりすぎた、と自嘲する。エミヤは何ともしまらないが、調子にのってこんな失敗をするのも人間らしい、などと考える余裕すら持っていた。

 

「先輩も今、私の泥の中で眠る彼らと一緒の運命にしてあげます」

「――っ」

 

だが、そんなエミヤの余裕を奪うかのように、桜の宣言と同時、闇の拘束の締め付けがさらに加速する。全身に迸る痛みの感覚はさらに増し、エミヤはついに苦悶の言葉を発する事すら不可能な状態へと追いやられていた。きりきりと全身を締め付ける触手の接触範囲は徐々に増え、体中がギシギシと悲鳴を上げている。肌より伝わってくる触手の痛み以上の信号が全身の神経から脳裏へと駆け昇り、脳はこれ以上ないほどの痛みを感じていた。全身がばらばらになる感覚と、全身が酸の海につけられたような感覚が押し寄せる。痛い、痛い、ただ、痛い。エミヤは全身より常人であれば即座に死に絶えてしまいそうな苦痛を与えられ、遠からず死に至るかもしれないことを予測しておきながら、しかしエミヤはその不敵な笑みを一切崩さない。

 

「――先輩。なんで笑っていられるんですか?」

 

その様を見て、不審に思ったのだろう桜がエミヤへと質問を投げかけた。

 

「先輩はもうすぐ死んじゃうんですよ? なのに、なんでそうも笑っているんですか?」

「――くっ」

 

質問は何とも完全だの不変だのを信じるシステムが発しそうな、それでいて桜という彼女もまた口にしそうな言葉を聞いて、エミヤは再び痛みを忘れて失笑を漏らした。

 

「――先輩」

 

バカにされたと思ったのだろう、桜は語気を強めて言う。その様に、どこが不変で完全だ、と内心でわらいながらエミヤは言う。

 

「信じているからさ」

「なにを?」

「この世界は完全でもなければ、不変でもない。いつだって未来は不確定で、時には信じられないような奇跡が起こるものなんだ」

「――奇跡。そんな不確定で、ありもしない、積み上げによって起こるものでない偶発的なものを信じているから、先輩は哂っているというのですか」

「そうだ。――ああ、そして、ひとつ、訂正しておこう」

「なにを?」

 

問いかけに確信をもってして、答える。その言葉は考えるまでもなく容易く口から出てきていた。

 

「奇跡は不確定かもしれないが、ありもしないことでなければ、積み上げによって起こらないものじゃない。確かに自分の力だけでどうにもならないからこそ奇跡というのかもしれないが、視野を広げてみれば、奇跡っていうものはその事象に至るまでの積み上げを、どこか別の誰かが起こしてきたから起こるものなんだ。奇跡っていうものは自然に起こるものじゃない。誰かの力によって起こるものなんだ」

「減らず口を。それで、その奇跡とやらは、どのようにして先輩をこの窮地から助けてくれるというのですか?」

「それは――」

 

反論の言葉が思い浮かばず、しかし何かを口にしてやろうと言葉を述べた瞬間、周囲の光景に異変が起こった。

 

「――え?」

 

間の抜けた声と共に、桜が闇の中に浮かべていた光景は瞬時に消え失せた。現象が桜にとってイレギュラーだったのだろう事が、彼女の慌てふためく様子から見て取れる。

 

「え、え、な、なにが?」

 

混乱する桜。そんな彼女の様子を見た瞬間、直感し、確信した。痛みをはるかに上回る正の感情が湧き上がってくる。それは正しく、自分でない他人から何かうれしいことをされたときにのみ湧き上がってくる、暖かいものだった。

 

「う、うそ! そんな、どうして!」

 

闇の中、桜は慌てふためきエミヤから視線を外すと、首を傾けてはるか上空の方を見やる。エミヤもそれにならって首を動かし視線の後を追うと、どこまでも闇ばかりが一辺倒に広がっている中、そんな無明の闇の中に光の亀裂が入るのを見て、肉食獣を思わせるひどく凶暴な笑みを浮かべた。

 

「――あ」

『エクス、カリバー!』

 

桜が間抜けな声を上げた次の瞬間、亀裂より突き出た見覚えのある光の柱が闇を切り裂き、聞き覚えのある声が闇の中へと鳴り響く。それは何とも神々しく、何とも幻想的で、そんな光景を目にしたエミヤはそして、確信と共に言う。

 

「こんな風に、だ」

「――」

 

やがて闇を切り裂いた光の柱は収束していき、しかし一度砕かれた闇は、その残滓を消せずにいる。やがて闇に空いた大穴から見えた見覚えのある顔と、見覚えのない冒険者たちの顔を見て、エミヤは柄にもなく心底誇らしげに大笑いした。

 

第十二話 終了




まずは途中より特に多くの不信、不快を感じていたでしょうにここまで辛抱強くお付き合いいただき、ありがとうございます。種明かしもほとんど済み、物語もついに終盤も終盤。どうぞあと少しだけお付き合いくだされば、幸いです。


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第十三話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (一)

改めて記載させていただきますが、本物語におけます世界樹、fateの設定には多くに独自解釈や勝手にこちらで設定したものを多数含んでおります。世界樹におけるマギニアなどの設定、飛行都市の解釈、桜やメルトリリスといった登場人物の設定などは、私のSFや神秘好きが高じて暴走した結果です。どうぞご了承ください。


第十三話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (一)

 

深き瑠璃色の底に全ては沈んだ。

 

弱者の烙印を押されしものは、蠱毒の坩堝へと取り残され、

強者の烙印を押されしものは、朔望月の深淵へと隔離され、

烙印を押されなかったものは、深き闇の中へと姿を消した。

 

人の子が失ったのは大いなる力と蓄積してきた全ての歴史。

新世界が失ったのは母なる大地とそこに住まう全ての生物。

事情複雑に絡まりあった今、世界の真実を知るものはもはやなく。

それは失われた大地と共に深淵の玉座でただ一人、

今なお精神の破壊と再生を繰り返され続けている、

最も真理に近い痴愚の女王ですらも知り得ぬことである。

 

 

世界には空飛ぶ鯨、と例えられるものが存在する。それはどこまでも広がる大地のはるか上空に浮かぶ雲の海の中、時に強風にあおられ、時に雷雨と対峙しながら、優雅に、雄々しく、煙の尾を引きながらどこまでも力強く飛翔するが故に付けられたある飛行船の渾名だ。鯨、という海において最大の生き物に例えられるその体に至るや比喩ではなく巨大であり、なんと己が体内に街一つの飲み込んでいるほどの大きさを誇っている。巨大飛行都市マギニア改。それこそがこの縦に二百メートル以上、横に二キロメートル以上もある超大型の飛行船機械鯨の正式名称だ。

 

万年の間に細々とした改良こそ施され、ついには名前の後ろに改良の証として一文字が尾ひれに着きはしたが、マギニア改の基幹部はかつて飛行都市マギニアの呼び名で呼ばれていた頃とほとんど見た目は変わらない。例えば、一見白く見える鯨の背にあたる部位は、超硬質かつ光を吸収してエネルギーへと変換する、剛性、柔軟、耐熱、耐冷、防塵、防雷、耐水、耐圧に優れた、特殊な超硬質半透明型複合多積層シリコン太陽光にて形成されている。はるか昔、電気文明が栄華を極めていた頃に開発されたその特殊太陽電池は、付随して超発展を遂げた技術によって発電効率ほぼ百パーセントという化け物じみた効率を発揮し、体積約1.6km^3、総重量約三十万トンという超巨体の飛行都市を飛翔させるためのエンジンを起動させるエネルギーと補助のエネルギーを賄い、都市生活のためのエネルギーまでをもほとんど生成しているというのだから驚きだ。

 

驚き、というのであれば、巨大な腹部から尾部にかけて組み込まれているジャンボジェット機にして1000台以上もの重量を持つ超巨体を空中へと浮遊させ、空を自由に飛び回らせる複合積載型特殊エンジンユニットも、そんな巨体と内部都市の稼働エネルギーを貯蔵することのできるポリマーメッシュ構造のスーパーキャパシターも、飛行の際に自己再生と振動遮断機能を持つ堅牢強固な特殊加工耐熱セラミック隔壁をおろし内部と外部の繋がりを完全に断つことを可能とするシステムも、内燃機関動作や内側都市の生活によって発生する有害物質を完全無公害でクリーンな煙と再生可能素材とに選り分け変換する浄化装置も、発生する振動や音を抑制し吸収するダンパーや音吸収材の仕組みや構造や素材も、それらを万年も時間一切のメンテナンスなくして正常稼働する事を可能とした一連の科学と錬金術の融合によって生まれた超技術もまた驚くべき機構であり、脅威的だと言えるだろう。

 

だが飛行都市マギニア改は、その外装や内部に使われている超技術の数には反して、飛行船の前部、通常の鯨に例えるなら口から腹の中にかけて広がっている都市部には、過去の科学技術によって生み出された特殊な超技術は排水や水道といった生活基礎基盤部分を除いていっさい使われていない。たとえば三層に分かれた都市部の街並みは、どこにでもある土に漆喰やレンガ、石、コンクリートなどで構成されている。都市として少しでも多くの人を収容するためだろう、雨後の竹の子のように聳え立つ背高の建物群はそのすべてがエトリアにあったような欧州東欧風の造りをしており、街並みも同様だ。最下層にある工業地区も、中層の商業居住地区も、上層の役場地区も、日の光を浴びて柔らかい光を街中に反射し、街中を日の当たらない暗渠じみた場所には、隙間を嫌うかのように樹木が設置されている。

 

過去の技術がふんだんに使われているわりに、内部が外の文明に合わせた造りとなっているのは、元を辿れば刻一刻と変化する世界に対して常に記憶操作やスキル等の陣を敷き続けるため必要となる正確な地図帳(/Atlas)を更新し続けるために造られた飛行都市マギニアとそこに住まう住人たちが、万が一世界樹の大地に住まう電気文明を失った人々と接触しなければならない事態となった場合、地上に住む彼らの不信感や不安感を少しでも減らすための工夫だ。とかくにして飛行都市マギニア改とは過去の遺産の中においても、最高の技術者たちが最高の資材と技術を惜しみなく用いてつくりあげた、その気になれば成層圏はおろか、はるか彼方星の海にまで旅立つことを可能とする奇跡の産物であった。

 

だが常ならば人間と環境に無害な白煙を腰部のマフラーや排出口より轟々と噴出させながら多くの人間を乗せて飛行するその機械鯨は、周囲を闇に包まれた今、空の海を泳ぐ元気をなくしたかのように静けさを保っている。本来ならば暗黒の帳おりた夜の時間帯であったとて、まるで眠ることを忘れたかのように煌々と光を発する下層工業地区も、街のほうぼうの窓から漏れる光によって彩り豊かな街並みの様子を見せてくれる中層商業居住地区も、今や完全に光が失せてしまっていた。

 

常ならば飛行都市マギニアにおいて最もにぎわうその場所は今、人の声、営みの証どころか、風の流れ、木々のざわめきに至るまでも、まるで時が止まってしまったかのように静まり返っている。中層、下層はまさに廃墟であるかのようだった。

 

だが、飛行都市が完全に死んでしまっているのかといえば、そうではない。騒乱を常とする中層、下層地区が静まり返っているのに対して、常ならば静寂と安寧が支配するギルド本部や入国審査所等の役所が集中する上層は今、底なしの闇を照らす街灯の下、落ち着きを中層、下層へと交換してしまったかのように騒乱の最中にあった。

 

「――!」「――!? ――、――!」

 

そして常なら静かな飛行都市上層部において、特にせわしなく声を上げて動き回っているのは、常ならばその場所を静寂に保つことこそが使命であるはずの衛兵たちだ。

 

「おい、結局回収できたのは何人だ! 被害状況は今どうなっている!」

 

上層部、噴水のある広場の前、状況を素早く確認するために噴水の前に仮設置された宿舎では、多重円の魔術紋様刻まれた豪奢な鎧を着こんだ衛兵のまとめ役らしき男が叫んでいる。

 

「不明です!」

「こちらの兵士も大半が地面にいたため、回収した人数の確認どころか、我が方の兵達の安否確認作業すらも終わっていません!」

「融解した泥を全身にかぶってしまった兵士や冒険者は全て昏睡状態に陥っており、かろうじて接触するだけに逃れた者たちも泥より齎される快楽によって、依然として酩酊、錯乱状態にあるものばかりです! また、彼らは逐次無事を保っていたメディックやハーバリストらの手によって治癒が施されてはいますが、未だに戻ってきたものはほとんどいません! とかく完全なダメージリポートは困難と思われます!」「ちっ……」

 

男の声に反応して量産型の鎧兜を着込んだ兵士たちが口々に彼へと報告をした。しかし、口々に叫ぶ兵士達より戻ってきた返事の中に男が求めていた有意義な確定情報が含まれているものはほとんどなく、スポーツ刈りの男は舌打ちを一つ漏らすと、短く刈り込んだ頭を撫でて、疲れと落胆を表すかのように一つ溜息を吐いた。

 

「――」

 

眉間にしわを作る男はまるで破裂寸前の火山のようだった。上役のまるで怒りを爆発させる直前の様子を見た兵士たちの間に緊張が走る。冷たい闇に熱が生まれ、白く染まった息が仮初の大地に落ち込んでゆく。

 

「――よし、わかった。ある程度人数と怪我人などの状況を把握したら、もう一度こちらへ報告を。正確でなくても構わん。ともあれ、状況を大まかにでも把握するのが最優先だ。いいな!」

 

だが兵士たちの緊張を余所に、周囲で体を硬くするため息とともに腹立たしい気持ちをため息と共に大地へと投げ捨てた男はすぐさま冷静さを取り戻し、周囲に待機している兵士へと激混じりの力強い言葉を飛ばす。今や男は、この混乱の中において現場指揮官たる自らはだからこそとりみだすわけには行かぬと、湧き上がる怒りの熱をすべて行動のためのエネルギーに変換したのだった。

 

「は!」「承知しました!」「では、ただちに確認作業へと戻ります!」

 

兵士たちは、命を果たせぬ己らの不明さによって湧き上がったのだろう怒りを己の内側へと飲み込み、消化し、冷静な指示を出してみせた男の態度に背筋を正して敬意を表すると、それぞれの持ち場へと戻ってゆく。豪奢な多重円の魔術紋様刻まれた鎧を着こんだ短髪の男は彼らがそれぞれの職務に戻っていくのを見やると、仮設置された骨組みと布屋根だけの粗末な宿舎から外に出た。一歩外に出ると、いっこうに起きる様子をみせない冒険者、兵士たちの姿が目に映る。闇の中横たわり治療を受ける彼らは、何ともだらしないうめき声や叫び声をあげていた。彼らの姿を見た男はメディックの一人から聞いた診断結果を思い出し、なんともやりきれない気持ちになった。

 

「幸せの夢から覚めたくない、か」

 

雲霞の如く横たわる夢見人の顔を覗きながら彷徨する男はそれらの全てを嘆くように長く深い溜息を吐く。

 

「欣喜に浸るならせめて雀躍してくれりゃ可愛げもあるんだがな……。全く、そんなにこの世は辛い事ばかりだというのかね、こいつらは」

 

自身を鬱屈とさせる光景ばかりが広がっている地面から逃がすようにして、視線を飛行都市の天井へと向ける。すると遠くどこまでも広がる闇のその手前に上層のさらに上、尖塔の先に広がる底無しの暗黒を恐れぬかのよう高く聳え立つ城の姿が目に入った。それは飛行都市マギニアの支配管理層が住まう、はるか遠方までを見渡せるよう造られた、天駆ける白亜の塞城と名付けられた高御座だ。弧を描く高台の上に聳えるその城を見やりながら、男はつぶやく。

 

「さて。あの場所をアスガルドのヴァーラスキャルーフとか例えていた英雄たちのご一行は、今頃何をしているのかね」

 

 

白亜の塞城探索司令部

 

 

飛行都市マギニア改。白亜の塞城と呼ばれる飛行船の最上部城塞のさらに上の方に位置する探索司令部は、まるで古くイタリアはローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂のような造りをしている。ロマネスク様式の質実剛健さを保つ空間は無装飾の厚い壁や柱、アーチに囲まれており、天井から地上までに伸びるマギニアを代表する家の紋章刻まれた深紅の垂れ幕が部屋の雰囲気をさらに荘厳なものとしていた。女湧き出た鬱屈の思いに導かれる様にして窓の外を見て、目を瞑り、思いに耽る。

 

彼女の瞼の裏側に浮かんだのは、ある日の夕焼けの光景だった。雲の上を帆走るマギニアの下、広がる雲霞の白波を追って地平線まで追いかければ、沈みゆく太陽を中心に照らされて琥珀色へと染まる空の風景を目にすることができる。そして地平の彼方へと押し遣るように太陽の上側に峨々として連なる雲に目をやれば、その際を昼夜の境目とするかのように、雲より先どこまでも果てしない深い藍色へと続く、見たものが必ず胸をうたれずにはいられない光景を見やることができるのだ。

 

常なら最奥にある十数メートルはあろうかという天井にまで長く伸びるゴシック建築のはめ殺しの窓から飛び込んでくるそんな外の光景だけが、マギニアに住まう王族へと課せられた地図上から魔女のお化け(/ファタ・モルガナ)などから生まれる幻想を殺し続ける終わりなき航海譚(/イムラヴァ)を更新し続けなければならないという使命感と、使命の重さを示すかのよう造成された周囲の空間の荘厳さからくる息苦しい雰囲気を和らげてくれる――

 

「――はぁ……」

 

のだが。窓の外の光景を見た女性は、猊下、はるか下方に広がる飛行都市マギニアの上層部噴水広場で未だ多くのマギニア兵たちと歴戦の冒険者たちが眠りこけているのをみて、むしろ今まで以上に鬱屈とした気分を抱き、酷く億劫そうに湿った溜息を吐く。そんな有様を目にした瞬間、女性の胸には再びやりきれないという思いが湧いて出た。頭部の動きに反応して、整った顔を飾るティアラについたトパーズと両耳元の六角柱水晶イヤリングが軽やかに揺れ、シニヨンポニーテール風味に纏められた赤毛の尾っぽがふわりと舞う。

 

だが華美な装飾の揺らぎが彼女の気を晴らすことはなく、むしろいっそう顔を顰めさせた豪奢な鎧に身を包む女は、しわ寄った眉間に手を当てて、思考する。

 

――あの大騒ぎの中、慌ててマギニアに稼働命令を下し、泥に飲み込まれる寸前の多くの兵士や冒険者たちを助けたはいいが、泥に触れてしまった彼らを助けるため、戦争に参加させずにいたマギニアの守護兵士たちの多くが犠牲となってしまった。

 

冒険者たちを助けるため、代わりに泥の中に飲み込まれてしまった兵士たちは少なくない。無論、目の前で助けを求める人を見捨てるという選択肢を取るつもりは毛頭なかった故に、命令を下した事自体は後悔していない。だがそんな命を下したが故、マギニアの兵士たちに少なくない犠牲が出てしまったというのもまた事実だ。

 

――何かを成し遂げるためには何かを失う必要がある。

 

世において最も平等かつ公平な原理である等価交換の法則だ。天秤の二つの秤に載っているものが誰かによって価値が公平に定められている物品同士であるならば、それはどちらかを選ぶのかという問題を最も容易いものとしてくれる法則である。だが両天秤の秤に乗せられたものが人間や希少価値ある物といった、つまりは個々人によってその存在価値が異なるものである場合、その法則はあらゆる問題を解決不能であるものとする、最も厄介な法則と化す。

 

――指揮官の立場にあるもの、どちらが正しいかなんて答えのない迷宮に迷い込むことなんてしょっちゅうだ。

 

天災、人災、どちらであれ、何の犠牲もなく問題が解決することなんて滅多にない。どうあがこうが誰かを助けようとすると、少なからず犠牲は出る。犠牲なんて出ないほうがいいに決まっている。それでも全員の命を預かるものである以上、どうにか割り切って、一人でも多くの人を救える選択を出すというのが、指揮官として陣頭指揮をとる将の責任であり、マギニアの王族に生まれた自分自身の誇りであり、矜持だ。

 

――常に変化し続ける世界地図を更新し続けるというマギニア王族の使命を優先するのは当然として、その過程において発生する犠牲を少しでも少なくできるというのであれば、本来他人が定めるべきでないだろう他人の命の価値を数と役割で判断する覚悟もできている。

 

判断が適切であったか、不適切であったかなど、後で生き残ったものが好きに定めればいい。使命を果たすため、脇目も評判も気にせず、己が信じるがまま動き、死力を尽くす。自分の正義とはつまるところそれだった。誰を助けるか、助けないか。果てに自分の判断のために犠牲となった者の家族、知り合いから責められる覚悟はとうの昔にできている。けれど――

 

――判断材料が何もないでは、この犠牲が必要であったのか否か、不等価か等価か、助けるか、助けないかの判断すらも、自信をもって正しいと言い切れなくなってしまうではないか

 

悩む女は向けていた瞳を地より天へと移動させた。窓の外、目を眇めさせ眺めると、常の時ならば目眩いばかりの深い蒼穹か星空が広がっているそこには今、触れた人を快楽の中へと引き摺り込むという猖獗極めた性質をもつ魔性の泥と、泥に関連した異物ばかりものばかりが散乱している。人の魂や世界が溶け込んでいるという泥はまた、部位毎に濃淡というものがあるらしく、取り込んだ光が内部で乱反射し、ラブラドル長石のように揺らぐ光を発している。異なる屈折率の成分が幾重にも積み重なりできた光景はなんとも蠱惑的で、なるほど泥が身を蕩けさせるほどの快楽をもたらすというのも嘘ではなさそうだ。同時、本来ならば幻想的な光景を映し出すはずの窓の外に目を覆いたくなるような現実が映っているという皮肉がもたらす暗鬱とした思いを己の中に留めておくことが出来ず、女はその瑞々しい薄唇からはぁ、と、もう一度、重苦しい溜息を吐く。

 

「ペルセフォネ様……」

 

すると女の情念がこもった様な湿り気のある吐息に反応して、彼女の周囲にいた兵士たちが同情の視線を向けた。兵士達の視線は、自ら達や自らの仲間達に死地へ迎えとの命を下したものに対する視線にしては、ひどく暖かいものだった。兵士たちが自らたちの同僚数十名を不明の状態とした彼女に対して冷たい視線をむけないのは、探索司令部というマギニアの兵士たちの中でも特に優秀であるものしか配備されないところにいる彼らが、その地位に至るまでに部隊指揮官という経験も積んできており、代理として指揮権を握って以来、窓の側で佇む夙夜どころかほとんど丸一日の時間をこの場所で過ごしている現マギニア最高司令官の彼女の精神的疲弊と気苦労を察する事が可能であるためのものだろう。兵士たちは指呼の先にいる女指揮官の神経を少しでも刺激しないよう、普段以上の態度と所作で部屋の静寂をさらに深いものとし、部屋にはわずかな呼吸音ばかりがせせらぎのように響くだけとなる。

 

「何だ、何だ! 随分と陰気臭いじゃないか、おい! 」

 

だが、徐々に一人の女が纏う陰鬱な空気が支配しかけていたそんな部屋の中、似つかわしくない気楽と呑気さを多分に含んだ声が反響して、鬱屈とした雰囲気が霧散する。部屋の端の窓際にいた女性と、彼女のそばに蔵人の如く付き添っていた二人の兵士と、彼らの近くにいた二人の少女、二人の青年と一匹の猫が、一様に驚きと戸惑いの顔を声の聞こえてきた方向へと向ける。彼らの視線の先に映ったのは、ドカドカと無遠慮な足音たてながら扉より部屋の中央へと進んでくる一人の女だった。

 

「これじゃ勝てるものも勝てなくなるじゃないか! ――よし、そんなお前達に気の晴れる良いものを見せてやろう! 見よ! この生まれ変わった魅惑のボディ!」

 

彼らが自らへと視線を向けられたのを見て機嫌をよくした女は腰までまっすぐに伸びる豊かな光の加減よるものか金色にも亜麻色にも見える髪を靡かせながら、頭と腰にそれぞれ片手を当てて全身を見せつけるようなポーズをとった。女の頭部では花の髪飾りでハーフアップブレイドにまとめられている髪が、遅れて服を飾るアクセサリーであるかの如く舞う。自らへと視線を送る者たちを魅惑せんと青い瞳の片方だけを瞑る女性は、まだ二十代も半ばに達していないように見えた。

 

彼女は自身が主張するよう確かに同世代の女性たちと比べればグラマラスな体つきをしている。女の豊かな血色の良い白い肌を包むのは、体型に自信が切れないようなピッチリとした黒布一枚インナーと、青と白で構成されたフィット&フレアー型の上品なドレスだ。また、彼女はインナーとドレスに包まれた胴体からすらりと伸びた手足を、少し煤けたレンガ色の手袋とブーツが包み込んでいる。

 

それだけならば貴族のパーティーに出席する予定の男装の麗人と見えなくもない彼女を、しかし少し野性味のある冒険者風に飾り立てて、溌剌な女性から倒錯的な魅力を引き出しているのは、両腕、両足、両肩で銀色に輝く同じ意匠の施された手甲足甲肩当ての存在と、彼女が腰にぶら下げる十字架の形状を模して鋳造されたバスタードソード。そして背中に取り付けられた逆三角形の盾の存在だ。

 

「どうだ! これが歴戦の冒険者のみが持つ魅力、そして私個人の美貌というものだ!」

 

麗しき令嬢が扱うにしては似つかわしくない荒事用の装備をしかし何とも自然に身に着けながら、鍛え上げられた肢体を他の人物へと見せつけるべくポージングを取る彼女は、まさしく魔物との戦闘や未知なる場所の探索をこそ生業とする冒険者という存在を代表する存在と言えるだろう。

 

「師匠……」

 

やがて静寂と厳粛ばかりが支配するその場に突如として快活と陽気さをばらまいた彼女へとあきれた声色で話しかけたのは、彼女よりも先に着替えを終えてこの部屋の中に待機していた、白衣をまとった少女だった。

 

「む、なんだ、メディ子。賞賛ならこのパラ子。惜しむことなく受け取ろう」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 

師匠――パラ子からメディ子と呼ばれた十代半ばほどの外見の可愛らしい少女は、首を振ってショートの栗色髪を揺らすと、隠そうともせずに長くわざとらしい溜息を吐く。仕草に、羽織っている前止め四つボタンの特殊な形状をした白衣と、その下に纏うネイビーブルー、バルーンタイプのドレスのスカートの裾が、着用した本人の落胆を示すかのようにひらりと舞っては落下した。

 

「師匠……。師匠はご自身の職業を覚えていらっしゃるんですか?」

「なんだ、急に馬鹿丁寧な口調になって。――もちろんだ。私がそのようなこと忘れるわけがなかろう」

 

メディ子が額に手をあてながら心底呆れたように述べるも、師匠は彼女の想いにまるで気付いていないらしく両手を腰に当てなおすと胸を張って言う。

 

「私はパラディンだ。あらゆる状況下において冷静にして、沈着を保ち、どのような激しい攻撃や環境に対しても弱音を吐くことが許されない、パーティーの皆を守り、その命を預かる、あらゆる職業の中でも最も優秀なものでなけれれば務まらない、過酷な職業だ」

「ええ、まぁ、いろいろと言いたいことはありますが、この際それでいいです。――じゃあですよ」

 

師匠と呼ばれた女性が自信満々に答たその言葉を聞いたメディ子は、先ほどまでよりもさらに多くの皺を目元に寄せると、我慢の感情の発露の証を片手で揉み解しながら、静かに言う。そして一拍置いた後、スニーカーで地面を踏みしめ、片手に持っていた天使の意匠刻まれた杖を師匠へと突きつけた。

 

「ええ、師匠。貴女がご自身の職業とその役目を忘れていないとおっしゃるのでしたら、今の師匠のその味方とご自身を守るための重鎧をどっかに追いやった、まるでパラディンとは思えないような軽装姿はいったいなんなんですかねぇ」

 

言いながらメディ子は片手でしっかと杖を握りこむと、もう片方の手をハーブの詰まったショルダーバッグに手をあてた。師匠の格好を非難するメディ子の瞳は、もし師匠のそんな軽装姿がいつもの師匠のクソくだらない謎理論によって生み出されたものであるなら、迷いなく杖を振りぬくか、メディ子の頭ほどの大きさもあるショルダーバックに突っ込まれたハーブを駆使して混乱の状態異常を治療してやるという、悲壮な覚悟と決意に満ちていた。

 

「うむ。実はこれには深い理由があってだな」

「深い理由……、ねぇ……」

 

メディ子の覚悟に気付いてか気付かないでか師匠はメディ子の問いかけに瞼を閉じて腕を組み、幾度もうなずいた後、一度閉じた瞼を開いて真剣な眼差しでいう。師匠の青い瞳には一切の迷いや戸惑いがない。その様からメディ子は、師匠が彼女なりに真剣に考えた結果、重鎧を纏わないフェンサーと呼ばれる剣士たちがするような格好をしているのかもしれない、などとは一縷すらもおもってもいないと言わんばかりの視線を、パラ子へと向けた。

 

「メディ子よ。パラディンがなぜ重く分厚い鎧をその身に纏うかは知っているな?」

「そりゃもちろん。敵の攻撃から身を守るためでしょう?」

「うむ。その通りだ。パラディンは味方の盾となり、味方と敵の攻撃との間に自らの身を差し込んででも敵の攻撃を防ぐのが役目。――だがな」

「はい……」

「先の戦いを見て思ったのだ。この先にも敵との戦いがあるとして、そこで敵が繰り出してくる攻撃がさっきのエミヤとかいう赤い外套の男とシンとかいうブシドーが繰り出すようなスキルレベルにして99くらいはありそうなものであるなら、ぶっちゃけ重鎧の守りなんてあってないもの……。盾でいなして攻撃の威力を受け流すならともかく、スキルを使ってダメージを肩代わりしようと身体に纏った鎧で直撃の一撃なんて喰らったら即蒸発してお陀仏だ。あんな馬鹿げた威力の一撃、真正面から受け止めようなどと考えれば、まず間違いなく即死してしまうに違いないと私の経験が告げている。ならば一秒でも素早く盾で攻撃を受け流すための準備を出来るよう、重たいだけの枷となる鎧なんて脱いだ方がいい。すなわちこれからは、肉盾ではなく回避盾の時代だ! と、私は悟ったのだ」

「――」

 

師匠の言葉にメディ子は目を見開いて呆然とした表情をしてみせた。わなわなとふるえる手からは力が抜け、握られていた杖がカランと音を立てて地面に転がる。メディ子は落ちた杖を拾おうともせずに、ゆっくりと杖を落とした手で口元を覆うと、もう片方の手で師匠を指差しながら、言う。

 

「嘘……。師匠がまっとうな意見を述べるだなんて……!」

「なんだと!? それはどういう意味だ、メディ子!」

 

魂の底よりまろび出たといわんばかりメディ子の本心からの言葉をきいて、師匠は目を吊り上げた。真剣さの浮かんでいた顔が一瞬にて怒り一色へと染まる。だが師匠のそんな怒りの言葉を聞き、態度を見ても、メディ子はまるで反応しないまま、わなわなと全身を震わせているばかりだった。メディ子はどうやら驚きと感動の極致から戻ってくることが出来なくなっているらしい。

 

「師匠……、私は師匠が師匠であるがゆえに師匠であることを諦めていましたが、師匠は師匠らしくない師匠にもなれたんですね、師匠……!」

「なんだ、人の事を寿限無寿限無みたいに繰り返しおってからに! というか、お前なー! 人の事をなー! いったいなんだと……!」

「仕方ないでしょう、パラ子。貴女がする突飛な行動は、大抵いつもいつも馬鹿な理由に起因するモノばかりじゃない。だというのに今回、貴女はひどくまじめな回答を返した。驚かれて当然よ」

「ガン子! お前もか!」

 

やがて師匠の言葉や態度にまるで無反応なメディ子に代わって、ガン子と呼ばれたメディ子よりもさらに幼い容姿をした小柄な女性が師匠に話しかけた。ガン子は師匠――パラ子ほどの長さはないものの、胸元から腰くらいにまで伸びたウェーブかかった豊かな金髪を書き上げて見せると、お前もかブルータスといわんばかりの勢いで突っかかってきたパラ子へと視線を向けなおし、告げる。

 

「ね、パラ子。貴女、海都で同じように鎧を脱いで水着で迷宮探索に行こうとしたとき、なんていったかしら?」

 

そしてガン子はトップにたっぷりとボリュームのあるつばなし帽の位置と帽子についたヒーホー君と呼ばれるキャラクターの飾りの位置を整え直しながら言った。青の瞳が彼女の性格を表すかのように冷たく輝き、パラ子を射抜く。

 

「――」

 

途端、パラ子は抗議の声を止めた。

 

「私の記憶違いじゃなければ貴女、目立たない、とか、体に自身がないんだろうと悪口を言われたからとか、ひどくどうでもいいような理由で鎧を脱いでパラディンとしての役目を放棄していたわよね?」

「あの、それは……」

 

ダブルのブラウンコートをしっかりと着込んだガン子の言葉に、パラ子は額に多くの油汗をにじませてたじろぐ。怒りの熱はどこへやら、パラ子の顔色はまるでガン子が背に持つ長銃から放たれる氷スキルにて撃ち抜かれたかのように、青くなりつつあった。

 

「その直後、いきなり部屋にこもりだしたかと思えば、スタイルの良い自分をモデルにすれば化粧品が売れるはずだから鎧を来ては潜れない、決まり文句は「あなたのお肌をフロントガード」で決まりだな、とか当時23歳とは思えないような自分の年齢を考えない痛々しい戯言を言い出すし……」

「あの……、ですからその、ガン子さん……」

「まったく、直前に潜っていたハイラガードの迷宮、フロントガードで後列守ろうとする馬鹿やらかしてメディ子の首を飛ばしかけたのはどこの誰だったかしらね。それに――」

 

顔色が青ざめてゆくパラ子の様子を見ても一切遠慮することなしにガン子がなおも暴露の言葉を続けようとする。その様子を見やったパラ子は、素早くガン子の前にまで近寄ると、九十度ほどにも腰を曲げて頭を下げると、大きな声で叫んだ。

 

「おなしゃす、ガン子さん! サーセン! 反省しました! もう私が目立たないとかナマ言いませんから、どうかその辺で勘弁してください!」

 

静かな空間にそぐわない、しかし先ほどまでの陽気な声よりは幾分か適した、真摯かつ真剣な声が響き渡る。

 

「あら、珍しい。貴女からそんな反省の言葉と殊勝な態度がいただけるなんて、一体どういう風の吹き回し?」

 

ガン子は流し目にて師匠へと冷たい視線を送って見せると、嫌味と皮肉たっぷりの言葉を彼女へと投げかけた。

 

「――その、ですね。周囲から私へと向けられる目線が厳しくてですね……」

「訂正するわ。とってもあなたらしい謝罪の理由だったわね」

 

しゅんと肩を小さくしたパラ子の述べた言葉に周囲を見渡したガン子は、豪奢な多重円の鎧纏った女性や、彼女のすぐそばに控える屈強そうな二人の兵士たち、そして黒一色の學生服の少年や、彼の傍らにいる黒猫が自分たちへと向ける視線を見ると、納得の様子の意がこもったため息をはく。心底呆れきったと言わんばかりの短い溜息の音色が、わずかな時間だけ空間の中に残響した。

 

「いいわ。確かに、昔と違って理由さえしっかりしているのなら、貴女の傷を抉ってまで貴女を責めなきゃならない理由はどこにもないもの。――ほら、メディ子。何いつまでぼうっとしてるのよ。さっさと正気に戻りなさい」

 

言いながらガン子はパラ子より目線を外すと、未だ呆然としているメディ子の頭をはたく。

 

「あたっ! ――、あ、あれ? わ、私は一体何を……」

「ごめんなさいね。うちのバカどもがご迷惑をおかけして」

 

三人の女性の中で最も幼い容貌のガン子はメディ子の反応をまるきり無視すると、深々と皆に向かって頭を下げた。幼い容貌と反比例するかのような優雅な所作に、女の態度に呆れ、あるいは殺気立った表情を浮かべていた兵士たちの雰囲気が一気に和らぐ。同時に場の雰囲気を和ませた少女に尊敬の視線がちらほらと降り注いだ。人の注目を浴びようとして身体を張った馬鹿をやった女よりも、そんな彼女を言葉数少なく諌めた少女の方が目立ち、人気を掻っ攫っていってしまっているあたり、皮肉という以外に言葉がない。

 

兵士たちの反応を見て肩を震わせたパラ子は、メディ子の方を向くと、今にも泣きそうな口調で言う。

 

「メディ子〜〜、なんでいっつもあんな性悪ロリの方が身体を張った私より人気なんだ!今の世の中、ロリやツンツン系クーデレ美少女よりもおねショタ、許容系年上美女の方が受けるんじゃなかったのか! こう見えて尽くすタイプなんだぞ! パラディンなんだぞ、私は! あれか! 全体攻撃が必要なのか! 求められているのは物理無効ではなく、千列突きと貫通と物理反射持ちだというのか! SQではなくデビサバシステムの方を世は求めているというのか! それともガチャか! システムが古臭いのが原因なのか! ああ、若さが憎い! 」

「うわ、師匠キモッ! や、やめろ! わけわかんない事言いながら顔中の穴から液体垂れ流して顔をこっちに近よってくん……、うわ、ちょ、やめ、くん――、ギャ〜〜〜〜!」

「ハァ……」

 

ガン子は溜息と共に背中から下ろした銃へ状態異常回復効果のある特殊な弾丸を二発ばかり取り出して銃に込めると、静かに撃鉄を引き、その銃口を目の前で空気を読まずに騒ぐ馬鹿二人の脳天へと向け、引き金をひいた。

 

 

「そろそろよろしいだろうか」

 

ガン子のガンナースキル『ドラッグバレット』の効果によってパラ子とメディ子の混乱が完全に収まった頃を見計らって、壇上に立つ女性――ペルセフォネが口火を切った。ペルセフォネの凛とした口調に、部屋の中に僅かばかり待機する屈強そうな二人の兵士たちが瞬間的に靴をそろえて背筋を正す。兵士たちの動作に伴いパラ子やメディ子も慌てた様子で真剣さを取戻し、マギニアの紋章の形をしたティアラを額に着け、豪奢な格好と多重円の魔術紋様刻まれた鎧を纏うペルセフォネへと注意を向けた。

 

パラ子らに代わって周囲からの注意を一身に受けた女性は、しかしまるで意にも解した様子を見せることなく、他の人たちより一段と高い場所から、兵士たち、師匠ら、ライドウらを睥睨している。揺るがぬ態度の彼女の代わりに、両耳に飾られた六角中の透明水晶と、青色の外套がゆらゆらと揺れていた。

 

「ええ。重ね重ね本当にごめんなさいね」

「構わない。このような危機迫る状況下において常と変わらない態度を保てるというのは、それだけで優れた冒険者である証と言えるだろう」

「……あれ? おい、メディ子。もしかして私、今褒められた? ていうか認められた!? な、なあ、姫さ――、むぐっ!」

「師匠……、良い子ですから、ちょお〜〜〜〜っとだけ黙っていましょうね」

「――ああ、それと、替えの服と装備、本当に貰っても良かったの? あの倉庫にあったもの、どれも貴重なものと聞いているけど」

 

後ろで繰り広げられているのだろう寸劇をあえて無視しながら、ガン子は続ける。

 

「構わない。たしかにマギニアの特級遺物保管庫にある武器や防具は、マギニアで活躍していた一級の冒険者たちが我々に残していってくれた貴重で強力なものばかりで、代々王族が受け継いできたものではある。その希少性故、王族たちは後生大事に懐に抱え込んで、使用どころか一般公開すらも控えていたようだが……、一級の冒険者である彼らが残していった武器や防具は、本来、保管して鑑賞し、愛でて嬉しがるような代物ものではない。あそこに保管されている武器や防具は本来、実用を考えて作られたものばかりなのだ。ならばこの非常時において、それらを有効活用出来そうな冒険者たちが目の前に現れたというのであれば、解放し、道具として生まれてきた存在意義を果たすことこそ、武器や防具にとっても本懐というものだろう」

「硬い……、そしてなんともロマンチックな考え方ね。でも嫌いじゃないわ、そういうの。でもそういうことなら、ありがたく使わせてもらうわね、マギニアの女王さま」

「そうしてやってくれ。保管庫で埃を被っているよりも、先の二人の男がやっていたように、思い切り使われて、その果てに使い潰された方が、武器や防具としても本望だろう。方がそれと……、その呼び方(/マギニアの女王)さまはよせ。今の私はあくまで代理指揮官だ。ただのペルセフォネでいい。――では軍議を始めさせてもらおうか」

 

凛と通る声と毅然とした態度で場の空気を一気に引き締まったものとしたペルセフォネは、ガン子の言葉を受けると、しっかりとしたライトブルーの瞳に宿る意志の光を強くして告げる。空間は完全に元ある雰囲気を取り戻していた。

 

 

「まずは現状確認をしておこう」

 

ペルセフォネが腕を振るうと、何もない空間へ光が投影され、空間を四角く切り取りと、やがて闇を照らすかのようにしていくつかの物体が虚空に映し出された。映し出された光景に驚愕した兵士たちのざわめきが部屋の中にこだまする。常なら諌める発言をするはずのペルセフォネも今回ばかりは混乱もやむなしと判断したのか、困惑の声を放置すると部屋の上部空間へと浮かんだスクリーンの中へその瞳を向けた。

 

「現状、ギルガメッシュという英雄王によってこの場――、ライドウと呼ばれる彼らの情報によればヴィーグリーズと呼称されている土地に呼び出された我々は、この闇の空間において、地球という我らの母なる星とは隔離された状態にある。そうだったな、ライドウ」

 

言いながらペルセフォネがライドウを見やる。

 

「――ええ」

 

同意を求める声にライドウは首肯と肯定の言葉を返した。仕草にライドウのトレードマークでもある漆黒の外套が揺れる。マントの裾間からはマギニア特級遺物保管庫より見つけ出した旧人類の遺物であり、彼がかつて通っていた学校の物でもあるという、黒い学生服が覗いていた。ライドウは今や、悪魔召喚管とそれを収めるためのホルスターを持たない以外は、黒の學帽、黒の學生服の上に漆黒のマント羽織り、腰に帯刀するという、常の彼と変わらぬ出で立ちをしていた。

 

「さて、我らは地球と隔離されているとはいえ、本来ならギンヌンガガプと呼ばれた裂け目を通る事により戻ることも可能であるのだが――」

 

ほとんど十全の状態となったライドウの首肯を受けたペルセフォネは、再び空中に浮かぶスクリーンに視線を移して話し出す。スクリーンに映るいくつかの異物の中、彼女がまず目を向けたのは画面の半分以上を占めている黒い泥だった。

 

「見ての通り、泥は完全にギンヌンガの裂け目を覆い尽くしてしまっている。もはやギンヌンガには蟻の子一つ通る隙間すらも存在していない」

 

蠱毒の呪いの術によって生まれた世界樹に住まう生物や大地が溶け込んだというその泥は、数十キロほどの大きさのギンヌンガの裂け目の全てから、濁流のように溢れ落ち続けている。泥は、一万平方キロメートルにも以上にもその領土を拡大させ、今もなおその魔の手を伸ばし続けていた。

 

「泥に触れた際どうなるかは、諸君らも知っての通りだ。泥は触れた者に恐ろしいほどの快楽をもたらす。完全に浴びるか、あるいは一部でも頭に触れるかしてしまえば即座に昏睡状態へと陥り、素肌に振れただけでも発狂状態へと陥り、どちらにせよ魂を一時的に彼岸へと連れて行ってしまう。また、ライドウらの言によれば……、その理屈は私もよく理解できていないのだが、この快楽をもたらすという泥は実数と虚数入り混じった、半物質半霊的なグノーシス的存在であるらしい。物質であると同時に霊的でもある。この特性により、泥は長く接しているとやがてあらゆる物質を貫通するような性質を持つし、泥の量が増えるほどにその物質貫通速度も増すのだとか」

 

ペルセフォネは言いながら、闇の空間ある裂け目より刻一刻と広がってゆく泥の伸びた先へと視線を移す。視線の先では彼女の言葉とライドウの言が嘘でないことを証明するかのように、泥によって内部悉くに至るまでを蹂躙された鉄巨人の姿があった。

 

「この発言が事実であるとするなら、今やあの一秒間に数千トンもの排出がなされている泥の濁流押しのけてギンヌンガガプを強行突破し地球へと戻ることはこの飛行都市マギニアの能力をもってしても難しいだろう。これはマギニアの、というよりは我々が肉の体を持つが故の不可能性だ。それにまた、もし仮に強行突破を試みて、この船の誰かが運良く地球に戻れたとして、我々を待ち受けるのは全ての生命が失われてしまった死の惑星だ」

 

ペルセフォネは視線を泥と巨人より外すと、正面に並ぶ兵士たちを見据えて言う。

 

「全ての命が死に絶えた世界で、生き残った事を祝い、勝利に酔う。そのような不毛な未来を望むものはこの場に誰一人としていないことを私はよく理解している。私はまた、諸君らが望むものが、怠惰の先にある次善ではなく、勇猛の先にある最善であることをよく理解している」

 

ペルセフォネの断言に、兵士たちが力強く頷く。彼らの返答を見て満足気に頷き返したペルセフォネは、再びその口を開いた。

 

「故に私は、諸君らや世界に住まう人々の為にも、事態に立ち向かい問題を解決する手段を探したいと思う。否、探し出さなければならない。だが――」

 

ペルセフォネは再び画面へと目線を移す。泥の次に目へと飛び込んでくるのは、その周囲を渦巻状に取り囲む泥によりまるで地球よりも巨大な、直径にして数千キロメートルほどもあるような、黒い卵のようなものへと変貌しつつある月。そして今やその胸に陰陽の形へと変貌した、二つの超力戦艦ヤソマガツとオオマガツという百メートル以上もの身長の鉄巨人が、霞んでしか見えないほどの巨大さをした、泥巨人の姿だ。

 

「現状、我々はあの泥が危険であるという以外に何の情報も持ち合わせていない。否、それどころか、この空間において存在するものすべてにおいての知識が欠如している」

 

それらに比べてしまえば、泥の端、泥を次々と生み出す長さ数十キロのギンヌンガの裂け目も、少しばかり離れた場所に見えるその表面が蠱毒の呪いの闇に染まりつつある青い地球も、裂け目の数キロほど下にある、空間の切れ間より流れ込んでくる呪いの泥を喜ぶかのように受け入れる赤い荒涼とした砂漠ばかりが広がる火星の大地も、ギンヌンガの裂け目や火星の大地へ続く切れ間のすぐ近くにいる、飛行都市マギニア改も、あまりに小さな存在に過ぎず、なるほど無知無力である事を告白しても当然と呼べるような状況だった。

 

「だが、こちら側が完全に何の情報ももっていないというわけではない。幸運にもこの場にはそれらの説明を出来る人材がいる。――ライドウ。ゴウト。説明をお願い出来るだろうか 」

「――はい」

『承知した』

 

言葉にライドウとゴウトが女王の前にまで進み、壇上に手踵を返すと、漆黒のマントを翻しながら振り返る。壇上を照らす丸灯の下、露わになった白皙の顔立ちをみて、兵士たち――、ではなく、パラ子がしみじみと言う。

 

「うーむ、やはり美少年だ……!」「あんたは……」

 

パラ子が馬鹿を言い周囲に漂う緊迫を散らしかけたのを見て、ガン子が殺気迸らせた。

 

「……!」

 

ガン子の三竜もかくやと言わんばかりの殺気を受けて、パラ子は己の口に手を当てて無言をアピールする。そんなガン子の気遣いの甲斐あってか、壇上の上にたつライドウとゴウトは二人が繰り広げる茶番を気にすることもなく互いの視線を合わせると、頷き合った後、壇上の前にいる兵士たちと師匠らへと視線を向けなおす。

 

『どうやらこの世界の住人は総じて我の声が聞こえるようであるがゆえ、こうして直接語らせてもらうとしよう。お初目お目にかかる。我の名はゴウト。主らからすれば異世界に住まう住人であり、隣にいる悪魔召喚師(/デビルサマナー)、葛葉ライドウのお目付け役でもある』

 

壇上の上、ライドウの隣より一歩進み出たゴウトは、その猫の体から丁寧なあいさつの言葉を発すると、首を小さく下げ、誠意を露わにする。

 

「――只今ご紹介にあずかりました、悪魔召喚師(/デビルサマナー)、葛葉ライドウです」

 

ライドウもゴウトに続けて彼の隣へと進み出ると、やはりぺこりと頭を下げた。

 

「ね、猫が……!」「しゃべ……!」

 

動物が喋るという珍しい事態にもかかわらず一切動揺を見せることなく沈黙を貫く兵士たちとは異なり、パラ子とメディ子は過剰な反応をしてみせた。

 

「……」

「……!」

「……!」

 

しかし彼女らのそんな所作は、隣で睨めつけてくるガン子の視線の圧力によって言葉は途中にて中断させられる。彼女たちは慌てて両手を口に当てると、押し黙った。

 

『かつてカナダのラブラドルとグリーンランドを横切る航路はギンヌンガガプ航路と呼ばれ、その航路上には存在しない島、例えば悪魔の島(/island of demon)が存在したといい、ケルト人の航路譚(/イムラヴァ)によれば、ブリテンよりグリーンランドに向かう航路にはハイ・ブラジルという透明化魔法のかかった島や、トゥーレという太陽が永遠に沈まぬ島があったと伝承に語られているが……、今の外の有様はまさにそんな幻や伝説の島が一挙に現れた、とでも例えるのが正しいような状況だな』

 

そんな彼女らのやりとりをまるきり無視してゴウトは外に窓の外へと視線を送った後にそんなことを述べると、視線を窓から部屋の中へと戻し、再び口を開く。

 

『さて。では早速本題に入らせてもらおう』

 

ゴウトの所作は少し固く、緊張しているようなさまが見受けられた。

 

『まず、此度の事態を理解するためには、“神”、そして“神話”と呼ばれる存在の事を知識として保有しておる必要がある。だが、主らの住まうこの世界ではその“神”の存在と名前は忘れられて久しいようであるがゆえに、まずは神というものについて語らせてもらうとしよう。わしが見る所によれば、かつてこの世界にも神と呼ばれる存在がいた。例えば、先ほど泥の上の戦場にて采配を振るっていたギルガメッシュという存在がそれだ。神と呼ばれる彼らは人間の力――、皆が使うスキルよりもさらに大きな力をもっており、その中でも最上位に位置する彼らはその大いなる力をもってしてこの世界を創生……、生み出したといわれている。また、そんな神々と呼ばれる彼らの活躍を示した物語を、過去の世界では神話と呼んでいたのだ』

「ふむ。神話……」

『然り』

 

ゴウトの背後にいたペルセフォネが反応する。ゴウトはペルセフォネの方を向くと首肯し、再び前を向いて話し始めた。

 

『そしてその神話だが、たとえばある神話――インドのリグ・ヴェーダにおいては世界の始まりはこうであったと記載されている。『そのとき(大初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや』。つまり、世界には闇と底が見えないほどの水だけに満ちていた、と』

「闇と水……」

『また、別の神話、我らが日本書紀に語られる所では、『古(/いにしへ)天地のいまだ剖(/わかれず)、陰陽の分れざりし時、渾沌(/まろが)れたること鶏の子の如く、溟幸(/くぐも)りて牙(/きざし)を含めり』、すなわち、天と地が陰陽に分かれる以前は、世界は鳥の卵のようであったと書かれ、エッダに語られる北欧神話では、世界はギンヌンガガプと呼ばれる空洞に生まれたユミルという巨人の体を解体して生まれたものであり、同時に世界樹こそが世界そのものであると説明し、神統記のギリシャ神話などでは、『まず初めに、カオスが生じた』、すなわち世界はカオスという深淵の泥から生まれたとあり、唯一神を崇める聖書には、『地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた』、すなわち、世界には初め唯一神の霊という存在が覆う闇と水があり――』

「――ちょっとまってほしい」

 

滔々と神話についての講釈を行っていたゴウトの語りを再び涼やかな声がさえぎった。疑念のこもった声を発したのはやはりペルセフォネだ。

 

『なんだろうか』

「普通、物事の始まりというものは一つでありはずだ。 神という存在がこの世界を作ったという事を受け入れるとして、なぜそういくつも世界の始まりが異なる要因にて説明されている?」

 

ペルセフォネは首をかしげてゴウトへと尋ねる。当然と言えば当然のその疑問を、ゴウトはその小さな猫の額の領域に皺を寄せながら受け取ると、困ったと言わんばかりにゴロゴロと喉を鳴らした。

 

『――そこは……、説明できなくもないが少々複雑かつ長い話となるし、今回の主題、本筋とは少し離れている。悪いが割愛させてくれ』

「……わかった」

『助かる』

 

ペルセフォネが疑問の声を引かせた様子を見て、ゴウトはほっとした声を上げた。

 

『ともあれ、世界には多くの神話があり、それぞれの神話は様々な語り口で世界がいかに誕生したのかを語っているのだ、という事だけを理解してくれていれば支障はない。――ところで、ペルセフォネとやら』

「なんだろうか」

『今までの話を聞いて、何か気付くことはないか?』

「なにか、とは?」

『今までに聞いた神話の始まりには何があった?』

 

ゴウトの問いに、ペルセフォネは口元にその細指を当てて考え込む。しばしの沈黙が辺りを支配する。

 

「――闇と水。卵に、ギンヌンガより生まれた巨人。混沌の泥。唯一神の霊と、その存在が覆う闇と水、だな」

『うむ、その通りだ』

 

やがて記憶の中から捜索を終えたのだろうペルセフォネは自信満々に言い切った。ゴウトはペルセフォネの答えを聞き、教師が満点の回答を出した子供に向けるよう、頷いた。

 

『さて、闇に水。卵、巨人に泥。そして唯一神。これらの言葉を聞いて、主は何か思い当たりはしないだろうか?』

「――」

 

そして再びゴウトは問いかけ、ペルセフォネは再び口元に手を当てると、そのまま視線を窓の外へと向けた。

 

「現状、マギニアの外にあるものか」

 

今度のペルセフォネの沈黙は先ほどよりも短いものだった。

 

『その通り。すなわち――』

「今、マギニアの外は、先ほどの神話の始まる直前の状況が混在しているような状況である、ということか」

 

ペルセフォネはゴウトの言葉を先読みして告げる。ゴウトはやはり満足げに無言で頷いた。

 

『詳しい理屈はわからん。誰の手によってか、というのも、おそらくあのメルトリリスという人造女神を名乗ったものか、その裏側にいる誰かの仕業なのだろうという推測しかできん。だが、その程度の情報しか持ちえぬが、それでも我らこれから世界に何が起ころうとしているのかという事についての予測だけは立てられる。かつてそれらの神話を信じておった各部族にとって、世界とは一年という区切りごとに生まれ変わるものであった。世界は未来永劫、回帰を繰り返すのだ。もとが農耕種族の神話であれ、狩猟種族の神話であれ、世界は季節の巡る一年ごとにそれまでに溜めこんだ業もろとも過去へと葬り去られ、再び無垢なる状態で生まれてくる。それと同じく、この世界は今――』

「誰かの手によって、生まれ変わり、つまり転生をさせられる寸前にある、という事か」

『うむ。その可能性が高い、とわしは睨んでおる』

 

ペルセフォネに同意したゴウトの言葉は聞くものの意識に漣引き起こす波紋となったらしく、周囲の兵士たちの間から動揺の声があがり始めた。周囲は少しばかりざわつき始める。強靭かつ冷静沈着な探索司令部勤務のエリート兵と言えど、世界の転生などというスケールの大きな話にはさすがに思いを抑え付けきれなかったならしい。

 

「――ゴウト。貴方の理屈は理解した」

 

やがてペルセフォネのいまだに冷静さを保つ声が、兵士たちの動揺に満ちたざわめく声と切り裂いた。仮初であるとはいえ自らたちの指揮官が声を発した瞬間、兵士たちの間から無駄口が完全に停止する。よく訓練されているものだ、とゴウトは感心した。

 

「火急の状況、他に縋るべき藁もなし。私は貴方の語った言葉を信じようと思う。だが、ゴウト。私が知りたいのは、その先なのだ。――この問題を解決するために、我々はどう動けばよい?」

 

ゴウトは投げかけられた言葉にしばしの間考え込むと、『おそらく、という推測の話になるが』、と前置きを言ったのち、ゆっくりと語りだす。その場にいる誰もが、視線をライドウの隣にいる黒猫へと向けていた。

 

『メルトリリスが言うには、あれは人為的に造られた神であるらしい。そしてあのメルトリリスとやらは、我らすべてを泥の中に引きずり込もうと画策していた。そしてその場にいた大半以上の人間を飲み込んだ泥は、まず月へと戻り、その周囲に取り巻き、その後、今このマギニアの外に存在するあらゆる異物へと拡散し、異物を卵や巨人へと変質させつつある』

「……」

『この事実の内、着目したいのはあのメルトリリスが人為的に造られた女神であり、その造られた女神が溶け込んだ泥が初めに月へと戻った、という点だ。ならば――』

「月こそあのメルトリリスというやつや、奴を生み出した誰かの拠点であり、現象の起点ともなっている可能性が高いという事か」

『うむ。朔望、すなわち満ち引きを繰り返して変化をしながら元の形へと戻る月というものは、多くの神話において、古来より、死と再生の象徴だ。月面は、出現、増大、虧衰、消滅、三日の暗黒の夜ののち再出現と続き、あらゆる循環の観念の発達に大きな役割を演じている。神話の最期、大洪水、すなわち大水が衰えた罪深い人類に終焉を与え、新しく再生した人類は、通常この破局を遁れた『人』、もしくは『月の動物』から生まれてくるものだ。人類の『生誕』、成長、衰老、及び死、は月の循環と同化されておるのだ。ならば、月というその場所に、人や世界の破壊と再生を企むやつらの本拠地があるだろうことは論理的にも適っておる。つまり――』

「はい。そこの猫さんの言う通りです」

 

更に語りを続けようとしたゴウトの声を遮って、穏やかさを含んだ声が聞こえた。

 

「誰だっ!」

 

探索司令部の端、司令部の入り口扉付近より聞こえてきたゴウトの推測を肯定する声を聴いて、ペルセフォネは大きな声を上げ、厳しい視線を向ける。

 

「失礼しました。まさかこの世界に私たち以外に、事情を理解している存在がいるとは思わなかったものですから」

 

部屋の外の存在は、ペルセフォネの大声とその後の沈黙から彼女の今の思考と気持ちを察したのだろう、謝罪と説明の言葉を述べた。言葉に嘘がないのだろうことが、その迷いない口調から理解ができる。

 

「……」

 

『私たち以外に、事情を理解している存在がいるとは思わなかった』。その言葉を聞いて、ペルセフォネは思考を巡らせた。このマギニアにおいて、ゴウトという彼の旧人類の神話知識なくば出来ない推測の内容を是であると肯定できるような特殊な人物がいたという記憶はない。否、この世界においてゴウトが語った内容を正しく理解し、そして肯定できる存在など、それこそ、彼と同じように異世界からやってきたという特殊な立場の存在か、あるいは、メルトリリスという存在の関係者くらいしか存在しない筈。状況を鑑みれば、この声の主が敵である可能性は高いといえるだろう。しかし仮に敵であるとすれば、わざわざ自らたちに不利となるような情報に肯定の返事を返すこの声の主の狙いはなんだというのか。ペルセフォネの頭の中には様々な考えが浮かんでは消えてゆく。

 

「不信感を抱かせてしまったようですね」

 

ペルセフォネが返事もせずにいると、女の声に続けて扉の向こう側からもう一つの声が聞こえてきた。その声は先ほどのモノとは違い、何ともいえない平坦さがある。どうやら扉の向こう側には少なくとも二人いるらしい。

 

「そのことにつきまして、私たちの方から補足と詳細な説明をいたしたいのですが、顔を合わせていないこの状態ですと話が行いにくい。よろしければ入室を許可していただけますでしょうか?」

 

部屋の外から語りかけてくる存在はそれきり何も話さなくなる。その言葉と態度は、たとえ入室を断られた場合であっても、この場でこちらに語りかけることはやめないぞ、という部屋の外の存在の想いを言外に告げていた。

 

「……」

 

ペルセフォネは周囲を見渡し、ライドウ、ゴウト、パラ子、メディ子、ガン子が首肯したのを見やると、つづけて兵士たちを見た。彼らは手にした武装を頼もしく構えなおすと扉へと己が持つ武器に穂先を扉へと向け、ペルセフォネがいかなる結論を出そうと自分たちは貴女に従いますとの忠義を無言のうちに露わにしている。

 

「――」

 

彼らの態度から覚悟を決めたのだろうペルセフォネはやがて体中から発していた剣呑な剣気を収めると、音もなく一息ついて、口を開く。

 

「入れ」

「ありがたく。では失礼します」

「――!」

 

そして入ってきた存在に、一同が驚きの様子を露わにした。

 

「――確か」

『あんどろ、とかいう機械人形?』

 

ライドウとゴウトの驚きは主に部屋に先行して入ってきた機械人形に対するものであり。

 

「お前は」

「あー、お前!」

 

ペルセフォネとパラ子らの驚きは、主にアンドロの彼に続けて入ってきた裸に似たヘラジカの角を持ち、金糸の紋様が直にその柔肌に刻まれている浅黒い少女に対して向けられたものだった。

 

「お久しぶり、というには早すぎますね」

 

入ってきたほとんど裸身の格好をした少女はアンドロの前に進み出て言う。彼女の言葉に反応したパラ子は、彼らの近くへ掴み掛らんばかりの勢いで近寄った。

 

「お前、突然消えたと思ったらどこに……!」

「すみません。事態が思ったよりも悪い方向に進んでいるようでしたので、最悪の状況に備えて準備を……。どうしても彼の力であると判断したため、協力を仰ぎ、彼が動くための端末の準備をオランピアに要請していたのです」

「……彼、とは、隣にいるアンドロの事か」

 

二人の屈強な兵士たちをその横に携えたペルセフォネが二人組に近づきながら言う。

 

「はい。彼は――」

「そこから先は、私自身がご挨拶を致しましょう」

 

いうとまるで人間のようにも見えるアンドロは、しかし機械の彼らが陶器じみた顔や体に浮かべるにしては豊かな情緒を体の所作の端々から見せながら裸身の彼女の前に進み出ると、恭しく頭を下げた。

 

「私の名前はマイク。世界の安寧を守る桜AIとも呼べる統括システムの下、グラズヘイムの管理人として陣の維持と地上世界の監視、安寧維持の実行を行っていた人工知能です」

 

言葉が静寂さの雰囲気保たれた部屋の中へと響き渡る。声は部屋へと広がって窓にまでその振動を伝え、聞こえた人工音声を嫌うかのように窓の外では深淵の闇がうごめいた。

 

 

「桜AI……?」

「人工知能……?」

「はい」

 

疑問の声を上げる兵士たちの声に、マイクは丁寧な口調で答える。

 

『人工、というと……』

「お前、あのメルトリリスというと奴と同じ存在ということか」

「いいえ、違います。彼女も確かに私と同じく世界の安寧を目的として生み出された存在ではありますが、彼女(/メルトリリス)は桜AIの元となった桜という女性の精神の中から生まれた存在です。例えていうなればなんとも矛盾した表現ではありますが、彼女は自然発生したいびつな人工知能とでもいうべき存在であり、対して私は人の手によって生み出された、まさに真なる人工知能ともいうべき存在なのです」

 

続けてはマイクはゴウトとパラ子の口から出た言葉に対して否定の言葉を返すと、少しばかり誇らしげに自らの事情を交えつつ答えた。マイクの言葉を聞いてマイクの前にペルセフォネが進みでる。

 

「わかった。お前はメルトリリスとは異なる存在。そして君は私たちの敵ではない。一旦はその理解で話を進めよう。それで。その人工知能や桜AIとやらが、先ほどの話にどう絡んでくるというのだ?」

「それは――」

 

ペルセフォネの言葉を聞いて少し詰まったマイクの人とは違う光彩で輝く目が細め、隣にいるヘラジカの角を頭に生やした少女へと視線を送る。視線は人工知能が持つにしては似つかわしくない思いやりに満ちていた。

 

「ありがとう、マイク。私は大丈夫だから。……ペルセフォネさん。そこから先は私がお話ししましょう」

 

浅黒い裸身を惜しげもなくさらす幼い体躯の女性は、マイクに礼を告げると、前に進み出る。

 

「ペルセフォネでいい。貴公は確か、世界樹の精霊、星の端末だったか。名は確か『桜』……っ、『桜』!?」

 

ペルセフォネは彼女の情報を脳内より引き出すと、先程マイクyいり手に入れた情報と組み合わせて得られた答えに驚き、仰け反った。

 

「はい、その通りです」

 

ペルセフォネの所作から彼女がいかなる結論に至ったのかを推測したのだろう、桜が肯定の返事を返す。

 

「まさか! お前、じゃあ、あのメルトリリスとかいう奴の仲間だったってことか!?」

 

遅れて、身を前に乗り出してパラ子が叫んだ。

 

「……その答えは、はい、でもあり、いいえ、でもあります。――今こそ正直にお答えしましょう。私の正体は世界樹の守り手であるモリビトの身に、『桜』の魂を宿した存在。星の胎動と世界樹の危機という事態に瀕して内なる桜の魂を自覚し、世界樹を守ると同時に、いずれこの世に生まれてくるだろうメルトリリスをも守るため生まれた、存在。いわば世界樹とメルトリリスのモリビト。それが私の正体です」

 

パラ子の言葉を受けたメルトリリスが静かに告げる。瞬時に沈黙がその場を支配し、直後、溜めこんだ力が解き放たれるかのように、その場にいる人間は三様の反応をした。

 

「じゃ、じゃあ、お前! お前は私たちを騙していたのか! マギニアで世界中に散らばった冒険者たちを集めて、やがて最後に現れる敵を倒せば、世界は救われるってのは嘘だったってのか! 私たちはお前の嘘と都合に一方的に利用されていただけだったってのか!」

 

そのうちの一つは、パラ子のように、怒りの態度を露わにするものだった。彼女や彼女とにいた性格をしているのだろう、目の前の『桜』と面識があるのだろう幾人かの兵士たちは、師匠と同じ形相を浮かべて、隠そうともしない敵意を『桜』へと向けている。

 

「いえ、月の奥に潜む桜AIを倒せば、それですべては解決する。あの時点でそのこと自体に嘘偽りはありませんでした。しかし同時に、今それが偽りになってしまい、私が私の目的のためにすべてを語らず、あなたたちを利用したというのもまた、事実です。私は私の大本である桜AIがあんなふうになっていることを、先ほどマイクから聞くまで知らなかった。私は、出来る事ならば、メルトリリスという存在を貴方たちには知られたくなかった。私は貴方たちに、あの子の存在を知らないまま、世界樹とこの世界を救って、この星から旅立って欲しかった。……そうです。私は、桜の願いと、モリビトの使命と、星の願いを同時にかなえるため、貴方がたに一部の情報のみを流して、貴方がたを利用しようと画策した。私は私の都合で貴方たちを利用しようとした。それは事実なんですから」

「くぬっ……」

「待て」

 

思惑を白状した『桜』へとびかからんとするパラ子を、冷静沈着を保つ態度をとるペルセフォネが一言で制止した。この場に存在する二つ目の反応をしてみせたペルセフォネは、パラ子と『桜』との間に体を滑り込ませると、小さな彼女の瞳を上から覗き込んで言う。

 

「あの時点、貴公が発したあの時の言葉に嘘偽りはなかったんだな?」

「……隠し事はありましたが、少なくともあの時点では、多くの人と世界樹の世界を守り、星の願いを叶えるために最善と思われる手段をお教えしたつもりです」

 

対して三番目の反応、厳然と覚悟を決めた態度で発言してみせる『桜』は、やはり迷いない瞳で言葉に答えた。

 

「……わかった。話を聞かせてもらおう。ついてこい」

 

迷いない態度から発せられた言葉に首肯して見せたペルセフォネは一歩引き、踵を返す。この探索司令部の扉が開け放たれた状態で話すには相応しくない話題であると判断したのだろう、彼女は来た時と同じように迷いないさまで兵士たちの間を抜けて部屋の奥に進むと、元板窓の傍まで立ち戻り、再び踵を返した。瞳と所作は凛としていて、部屋は厳然な雰囲気に包まれている。

 

「お、おい、姫様! そんな言葉で納得して、この女を信用しちゃうのか!?」

 

ペルセフォネの態度から彼女が『桜』の話を聞こうとしているのを悟ったのだろう、パラ子が抗議の声を上げた。彼女の叫びはその場にいる幾人かの兵士たちの代弁でもあったらしく、彼女の咆哮に際して、数人の兵士が首肯する。

 

「いいや、そんなつもりは毛頭ない。無条件で他人を信用するのは為政者のやる事ではない。だが同時に、他人の言い分を無条件で斬り捨て、間違っていると判断するのもまた、為政者として正しいやり方ではない。――『桜』」

 

ペルセフォネは抗議の声に反論すると、『桜』を睨めつけて口を開いた。

 

「はい」

「全てを語れ。貴様と、貴様の隣にいるマイクとやらの話を信用するか否かの判断は、その後に行う。いいな」

 

ペルセフォネは言葉と共にあらん限りの剣気を体より発し、『桜』へとむけた。生まれた威圧はその場にいるすべての生物の体を自然と緊張させるほどに鋭く、重い。

 

「ええ。ご随意に。――感謝します、ペルセフォネ」

 

その場にいる生物どころか空間すらもを揺るがしかねないほどの剣気を浴びた『桜』は、しかし平然とした様子でヘラジカの角ついた頭を下げると、アンドロのマイクを自らの後ろに同行させながら、釈然としない様子のパラ子の横をすり抜けて、窓枠の近くに待機するペルセフォネの近くへと進んでゆく。それを見てパラ子も慌てて彼らの傍へ、楚々と近寄った。

 

「どこから話したものでしょうか。……、そうですね。では、少し長くなりますが、私がこの世に生まれた時からのことより始めましょう。あれは、そう。この世界が終焉に向かって一歩を踏み出した日の事でした」

 

やがて壇上の中心で踵を返した『桜』は、その場にあるすべての視線が自らを貫いたことを確信すると、静かに語りだす。女の語り出しにより、ペルセフォネの剣気によって不気味なほどに静まり返った荘厳な部屋は、少しばかり明るさを取り戻していた。

 

 

 




設定を凝りすぎるとろくなことにならない、話が分かりにくくなる、とは本を書く先人たちの言ですが、その通りだなと実感しております。とはいえ本物語に置けましては、ペルソナQ2の登場にて考えていた設定が被ったため変更を余儀なくされ、その後登場した世界樹クロスの存在を受けて改めて話を満足できる形に再構築したため、設定を込み入ったものにせざるを得なかったと言い訳させてください。申し訳ありません。

本編はあと二話で終わらせる予定でしたが、今書いているペースでざっと見積もると、修正と添削と削除入れても一話四十万文字程度になりそうだったので、8から16話程度に分断して投稿する事にしました。そのためしばらく世界樹、ライドウ側の視点で話が続きます。

また、次回は『桜』の独白シーンです。次々話の文頭で次話の話の内容を簡単にまとめて書き出すつもりですので、うっとおしい様でしたら読み飛ばしていただいても結構です。

最後に、おそらく一読くださっていらっしゃる方が疑問に思われた部分、思われただろう部分の書き込みも追加して行います。込み入った設定の話が続くことが予想されますが、もう暫しお付き合いくだされば幸いです。


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第十四話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (二)

20190910追記:
取り急ぎ元のものが見苦しすぎるので、簡単な修正版を掲載。更なる推敲は後程行います。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。


赤方偏移ノ回廊

遥かなる月の旅

 

 

星の光が渦巻く空間を、白刃の一閃が斜めに奔る。漆黒の外套が翻り、学帽の三日月銀紋が闇に煌めいた。

 

「グルゥォォォォ!」

 

放たれた一閃の向かう先には、威嚇の雄叫びを上げる大きな犬型の魔物の姿がある。一閃は殺意を露わにする攻撃態勢を取る魔物を迎撃すべく、無口な學生姿の男の手によって放たれた刀の一撃だった。

 

「――」

 

直後、魔物の挙動に合わせて放たれた刀は、吸い込まれるようにして魔物の喉元へと消えてゆく。男が跳躍ざまに放った一撃は、男より三回りも四回りも大きな魔物の硬い皮膚から強靭な血肉と骨までを切断し、魔物の首の反対側から抜け出ていった。

 

「グルゥゥゥゥ……!」

 

自らの体に異物が侵入してくる違和感を感じ取った犬型の魔物が唸り声をあげる。だが魔物がそれ以上の反応を見せるよりも早く、魔物の攻撃に合わせてすれ違いざまに男が放った一撃は体内を突き進み、魔物の頭部と胴体との繋がりを完全に断ち切った。切断された魔物の首が魔物自らが生んだ攻撃の動きによって吹き飛び、あたかも独楽の様に空中へと投げ出される。

 

「ガァッ!」

 

切断された魔物の頭部は最後に一矢報いようとでもしたのか、そしてまた、おそらくは直前にしようとしていた攻撃の続きなのだろう、空中を回転するさなか、自らより離れつつある男目掛けて口腔より緑の液を吐き出した。男は毒々しい色合いをしたそれが、浴びればただでは済まない毒である事を一目で理解した。

 

「――」

 

しかしすでに攻撃から離脱の動作へと移行していた男は、その足掻きを最小限の動きで回避する。男はそしてそのまま離脱しつつ、とどめと言わんばかりに宙を回転する魔物の首めがけて刀を振り下ろす。

 

「――」

 

もはや貴様などはすでに敵でないといわんばかりに刀が、無造作に、しかしそれでいて正確に、魔物の額に目掛けて振るわれる。視線も送らぬまま振るわれた刀が魔物の額と接触した途端、どん、と布の塊を鈍器で殴りつけたような音がした。男の眉間に微かに皺が寄る。思いのほか魔物の頭が固かったためだ。

 

――刀が伸びてしまわないだろうか。流石にまだまだこの先も戦いが続くだろうこの場面において、唯一の武器となる刀が使い物にならなくなるのは困る。

 

男の心配事はもはや処理済みの魔物の首になく、すでにそんなところにあった。

 

「オォッ! オォ、オ……、オ、ォォォォ……」

 

哀れにも男の関心の外へと置かれてしまった魔物はその一撃により意識を完全に刈り取られたのか、咆哮が徐々に小さくなってゆく。

 

「カッ――」

 

やがて呻き声すらも上げるのが億劫になったのか、しかしそれでもなんとか生きた証を残そうとするかのように、切断され独楽の様に回転しながら宙を舞う魔物の首は喉元が振動させてわずかな断末魔を上げると、それきり一言たりとも発さなくなった。遅れてようやく魔物の首の切断面より血液が噴出する。きりもみ舞った頭部の切断面より飛び散る血と体液は篠突く雨となり、あたりへ降り注いだ。魔物の首はそのまま、さまざまな液体をばら撒きながら泥の地面目掛けて一直線に落下してゆく。

 

「――これで最後か……」

 

遅れて自らが切断した首より少し離れた場所へと降り立った男は、更に数歩かけて自らの体へと訪れる衝撃を殺しつつ、呟き――

 

「――いや……」

 

しかし男は、視線を自らが首の一つを切り飛ばした魔物の胴体へ向けると、自らの言葉を否定した。

 

「グ、ゲ?」

「ガ……」

 

男と離れた場所にある首一つ失った魔物の胴体では、胴体に残る二つの頭がその強面に備わった四つの瞳で、いましがた失われた頭の一つを眺めている。地面に転がった頭部はその瞳より完全に生の色が失せてた。魔物は今しがた起きた事実が信じられないといわんばかりに、数瞬前までは自らの体の一部であった頭部へと疑念の視線を飛ばしている。

 

「グォォォォォォ!」

「ギィィィィィィィィ!」

 

だがようやく現実と理解が二つの脳に追い付いてやってきたのだろう。目の前の光景を事実として受け入れた魔物は、肉体の一部喪失による悲しみと否定の想いを憎悪と憤怒の念へと変え、残った二つの口からあらんかぎりの思いのたけを咆哮する。それはまさに魔獣と呼ぶにふさわしい叫び声だった。

 

「――後二つ。やはり悪魔ケルベロスと同じく、一つの頭をつぶした程度では死にはしないか」

 

男の声に反応して魔物は心の裡から湧き上がる気持ちの全てを自らの体を不備なものとした下手人めがけて向けた。四つの瞳には昏い思いが宿っている。

 

「グルォォォォォォ!」

「グァァァァァアァ!」

 

魔物の視線と声は、地獄の底より這いあがった亡者が放つような、殺意と憎悪、怨嗟と憤怒に満ちていた。常人であれば負の感情に染まった睨めつける瞳を見て、声を聴いたその瞬間、背を向けて逃走を試みるだろう。

 

「――」

 

しかし男はそんな魔物が自らへと向けてくるあらんかぎりの負の感情こもった視線を平然と受け止めると、むしろ魔物討伐の意志をさらに確乎たるものとして魔物へ向け、悠然と刀を構えた。

 

「――」

「――」

 

すると魔物は自らの殺意と憎悪に恐れ戦くどころか戦意を露わに向上させた男の様子に警戒したのか、くぐもった低い唸るような咆哮を放つ威嚇と牽制の行為をやめて、目の前にいる男同様に黙り込む。魔物の突然な変化を見て、男は魔物の意図を悟った。

 

――威嚇の無意味を悟ったか

 

威圧、威嚇の咆哮や態度は戦闘において確かに有効な手段だ。野生という命のやり取りが当たり前のように行われる環境下において怯えや委縮はやがて相手の死を招く翼となりうるからこそ、野生の獣は呪い師が呪詛を吐くかのごとく威圧や威嚇の咆哮や唸り声を使用する。けれどそれが有効となるのは威圧や威嚇に対して相手が怯え、委縮する場合においてのみだ。

 

威圧や威嚇はその行為自体に意識を割く必要があるぶん、隙が生まれやすい。すなわちその行為が無意味に終わるのであれば、それは自らの戦闘力の低下を招く要素となりえてしまう。示威行為というものは、それに対して相手が自らが削いだ以上に戦闘力を低下させるからこそ、威圧、威嚇の行為には意味があるものだ。

 

しかし今、獣の目の前にて刀を持つ男は自らの示威行為に対して一切揺るがぬ態度を貫いている。目の前の男に示威行為は通じない。魔物はそう悟ったからこそ、自らの戦闘力を低下させるだけの行為をやめて、近いうちに訪れる目の前の男との真剣勝負に備えて全ての意識を対決の瞬間の為のそれへと変換したのだ。

 

――手負いの獣、か

 

肉体の一部を失った魔物は、しかし冷静そのもの。損失を前にしてわめくことなく、冷静に自らの持つ武器の有効性を認識し、効かぬとなれば自慢の武器の一つであろうとあっさりと捨てる胆力と知恵を敵は持っている。

 

――油断は出来ないか

 

ならば油断は禁物。そも、野生、弱肉強食の掟が当たり前のように支配する場所で生きている存在は、すなわちこうして目の前に生きているという事実こそが強者の証である。野生という環境において、多くの場合、一度の敗北が死を招く。しかし目の前の彼らは、そんな環境内において発生する戦闘にすべて勝ち残ってきた強者だ。手負いの獣が恐ろしいといわれる所以はそこにある。彼らは死するその時までただの一度の敗北をも知らぬ強者であり、それを自覚する戦士なのだから。

 

「――」

「――」

「――」

 

静寂が辺りを包み込む。だがそれは平穏さからくる静けさではない。静けさは、二つ頭の魔物の意識が自らへと刃を向ける男へ放つ純然たる殺意と、男が自らの体に牙爪を突き立てんとする魔物に対して放つ討伐の意志が打ち消しあった結果、偶発的に生まれてきたものだった。それはまるで世界中が近く訪れる決着の予感に固唾を飲んでいる見守っている証のようでもあった。

 

「――」

 

失せた言葉の代わり、二つと一つの視線が交錯し、互いの殺意と意図を伝えあう道具となっている。男も魔物も、相手が少しでも隙を見せれば、瞬間とびかかって相手を殺傷せしめてみせるという気配を漂わせていた。

 

「――」

「――」

 

さなか、魔物がわずかばかり体を動かす。それは切断部位より出血する様に違和感を感じたが故の身じろぎであった。

 

「――」

 

だが魔物のそんなわずか動きを見た男は、瞬間、警戒の気配をさらに濃密なものとして刀を構える。男は相手の一挙手一刀足を見逃さないといわんばかりの観察の瞳を魔物へと向けていた。

 

「――」

「――」

 

一方、自身の行為により男が反応して気配が増大した事を察知した魔物は、身じろぎをやめ、静かに身を伏せた。同時に魔物の傷口より噴出する血液の量が目に見えて減少してゆく。魔物は意識的に周辺の筋肉を引き締めて止血を行っていた。血液量の減少が自らの体に悪影響を及ぼすことを魔物は経験則として知っている。

 

無論、止血行為の最中も男に合わせた視線と意識は決して外さない。自らの怪我の対処をする魔物はしかし、隙あらばその喉元を食い破ってやると言わんばかりの強烈な視線を男に送り続けていた。

 

「――」

「――」

「――」

 

男も魔物も動かない。彼らの体において動いているのは六つの瞳だけだった。相手の視線の動きと体の構えから、男と魔物は互いが同じ戦法をとったことを悟る。奇しくも互いが選んだのは先々の先を取る戦法でなく、先の先をとる戦法でもなく、後の先をとるカウンターの戦法だった。自らの首の一つをすでに切り取られたという警戒心が、生来の気質と培ってきた経験に基づく慎重さが、獣と男にそれらの戦法を選択させていた。

 

「――」

「――」

「――」

 

男も魔物も、その意思の全てを己の視線の先に映る自らの眼前にいる敵の一挙手一投足へと集中させたまま、一向に動かない。焦れて動いたその瞬間が自らの敗北の時であると悟っているためだ。故に彼らは動かない。互いに動けないまま、刹那の時が一秒にも十秒にも感じられる時間の流れだけが、刻一刻と経過してゆく。

 

互いが決着の時を拒んでいるかのように、彼らの間に流れる時の流れは遅かった。

 

 

果たして彼らの中でどれだけの時間が経過したころだろうか。それは時間にしてみればほんの十数秒にも満たない時間だろう。しかしそれはまた、一瞬たりと意識の緩みを許されず、集中という行為により己の時間の感覚を切り刻んでいた両者にとって、永劫のように感じられた時間でもあった。

 

「――……」

 

意外にも睨み合いをやめて先に動いたのは意外にも手負いの魔物ではなく、十全な状態を保っている男の方だった。

 

「――」

 

男は少しばかり焦れた顔で泥の地面の中へと沈みつつある自らの足を引き抜くと、途端に戒めより解き放たれた虎のような猛然とした勢いで魔物に向けてとびかかってゆく。魔物は男のそんな行為を、なるほど泥の中へと肉体が触れることを嫌ったのかと察知して、ニヤリと笑った。

 

「グ」

「ギ」

 

だが魔物は、すぐさま湧き出てくる歓喜の想いとそれによって生じる油断は危険なものであると判断し、気持ちを改めた。多少状況が有利になったとはいえ、敵は自らの首を切り落としたほどの猛者なのだ。そんな決して油断できる相手ではない存在が、猛然とした勢いで魔物へと接近してきている。

 

「――」

「――」

 

そして魔物は、猛然と迫る刀へと注意をはらう。なぜならそれは、男の手にしている自らの太く雄々しい首すらも切断する威力を秘めた刀だからだ。刀は獣を切った際に着いた血脂に濡れ、妖しい光を発している。野生にはない知恵を持つ種族に鍛え上げられた鉄のみが放てる色した光を見て、魔物の中の野生の本能はあらんかぎりの警告を発した。警告とはすなわち、この刀を今すぐ最優先で破壊せよ、だ。

 

――ギ

――グ、ググ

 

しかし魔物はそんな警告を臆病と判断すると、危険から目を背けたがる本能を思いの力で抑え込み、改めて男の持つ刀へと観察の視線を送る。魔物には野生の獣には珍しい、危険を抑え込む勇気と、危険を乗り越えようとする知恵というものが備わっていた。そして魔物は自らの首一つを切り離した刀に相対すべく、男の持つ牙である刀の考察を開始する。

 

――ギ、ギ……

――ガ……

 

自らを手負いの状態へと追い込んだ男が手にする刀は、己の強靭な首を斬り飛ばすほどの脅威を秘めた武器だ。刀は鉄程度であれば弾き飛ばす威力を秘めた自分の硬い毛皮を押しのけ肉体へ侵入し、肉も骨も神経も血管をも断ち切るほどの威力を秘めている。しかしその刀が脅威の威力を発揮したのは、魔物自身が攻撃を仕掛けようとした瞬間だけだ。刀がそれだけの威力や切れ味で魔物の皮と肉を切り裂くことが出来ない事を、男が自分の切り飛ばされた頭の一つを刀で叩きつけた時、力いっぱい刀身押し付けられた額を斬るでなく叩き落すにとどまった事実から、魔物は把握している。

 

――グ、ゲ……

――グ、ゴ……

 

何が差異を生んだのか。考えた瞬間、魔物は斬り飛ばされる寸前に自らの首から送られてきた情報を思い出す。あの時、己の首は攻撃のための力を存分発揮するための準備をしている状態だった。攻撃の威力とは寸前の脱力と直後の硬直の落差がそのまま威力へと直結する。だからこそ魔物の首は最大威力の攻撃を放つために最高の脱力を行っていた。思い至ったとき、魔物は同時に、強靭な外皮に覆われた自らの首が刀に切り飛ばされた悟る。

 

――ギ

――グ

 

脱力。その現象が起こる攻撃の隙を狙われたのが原因だ。

 

――ギギ

――グゲ

 

魔物はそしてこれまでの経験から、自らの爪や牙を最も深く突き立てられるのは相手が全身に力を込めていない敵であることを思い出していた。相手がたとえば油断するなどしてその身に力を込めていないほどに、爪や牙は深々と突き刺さる。ならばつまりそれこそが魔物である自らが首を斬り飛ばされた原因に他ならないはずだ。すなわち、男は魔物自らが攻撃する瞬間に生まれる脱力の隙を狙って、その柔らかい肉体に刀身を入れ込んだのだ。

 

――グッ

――ググ……

 

ならば事前に筋肉を引き締めて皮と肉を断たれる覚悟で臨めば、敵の刃が自らの体を完全に貫かない可能性は高い。魔物はそう予測した。故に魔物は身動き一つとらず、ただ男の攻撃に全身の筋肉を引き締め硬直させて備える。自らの身に攻撃を仕掛けてきたその時が、自らの首の一つを切り飛ばした男の最期の時だと魔物は確信した。

 

「――」

 

そんな獣の思惑を知ってか知らずか、男は突撃してくる。男はやがて右手に握っている刀を右後方下向きに引いた。構えから見て男は先ほど同様に、切り上げの攻撃をする姿勢だ。姿勢はすなわち、先ほど男が魔物の首を斬り飛ばした一撃のそれを放つためのそれである。

 

男は自身の刀がそのままでは魔物である自らに通用しないことを認知している。魔物は、男がそのくらいには賢く強く、そしてこれまで戦ってきた敵の中でも最も強い敵であることを、本能的に察知していた。故に魔物は、おそらく男が伏した自分が突撃してきた男に対して攻撃をしかける寸前を狙う算段なのだと判断する。

 

だからこそ魔物は、迫りくる敵の攻撃に対し、いかにも敵の喉元に飛びつき食い破ろうと思っていると錯覚するよう、先ほど切り飛ばされた一つの首が行った時以上にいっそう強く低く身構えた。それは四足の獣がとびかかる直前に見せる跳躍の姿勢だった。先ほど死した首が放とうとしていたのは咬む攻撃ではなく、毒液を吹き付ける攻撃であったが、ともあれ途中までの動作が同じであれば、男はこのあと魔物が放つ攻撃も同じであるに違いないと錯覚するだろうと魔物は確信していた。

 

そして魔物は、突撃してくる男が刀の切っ先の位置をさらに下向きに、身をさらに低く伏せ気味に調整したのを見て、ほくそ笑んだ。その調整は、魔物がとびかかった場合、ちょうど刀が喉元あたりを通過するようされたものだった。

 

魔物は敵が自らの思い通りの勘違いをし、まんまと罠にかかってくれたことを確信する。あとは予定通りのしかかるような攻撃を行い、それに反応した敵がこちらの首元狙って放つ攻撃を全身の筋肉を硬直させ自らの硬い毛皮と肉で防いでしまえばよい。さすれば魔物の首を斬り飛ばせないという事態に男は混乱し、少なくない隙が生まれるはずだ。

 

超近距離戦において隙さえ生まれるのであれば、もうこちらのモノだ。そのまま相手の細身にのしかかり、抑え付けてしまえばよい。仮に取っ組み合いとなるにしても、こちらは相手よりも四回りも五回りも大きい。体重差を考えれば、取っ組み合いの最中、刀という男が持つ唯一の牙を弾き飛ばすのは容易だろう。あるいはそんなことをせずとも、泥の地面の中につけこんでしまえば、泥より生まれた生物でないこの男は、そのうち泥のもたらす快楽にやられて動けなくなってしまうだろう。それで自らに勝利は訪れる。

 

「グル……」

「ギギ……」

 

考えるほどに自らの勝利を確信させる事実が湧き出てきて、魔物の思考は歓びに満ち溢れる。伏せた魔物の二つの口から違った声色の、しかし同じ感情により生じた厭味ったらしい笑いが漏れだした。魔物は数秒先に訪れる勝利の時を確信して湧き上がってくる歓喜の感情を抑えきれなかったのだ。瞬間、魔物の二つの意識が同時に男より逸れた。

 

「グ……」

「ギ……」

 

しかし魔物は、一瞬恍惚の彼方へと旅立ちかけた意識とその危うさに自ら気付くと、無理矢理抑え込み、再び激突の瞬間を計るために視線と意識を男へと向けなおす。――そして。

 

「――遅い」

「――!?」

「――!?」

 

一瞬だけ男より意識を外したことが、魔物の決定的な隙となった。一瞬意識を放した次の瞬間、刀を握る男のもう片方の手にしっかと拳銃を握り前に構えられた予想外の姿を見て、魔物が持つ二つの頭は完全に絶句する。男は自らが隠し持っていた牙により魔物の酔いが一気に覚めたのを見て、しかし一切表情を変えないままに突撃した。

 

 

突撃する男は魔物の気配が獣のそれから狩人のそれへと変化したことにより、魔物が自らの刀の攻撃に対してなんらかの策を練っているだろうことを読んでいた。おそらく魔物は、刀という武器の弱点に気が付いたのだ。日本の刀という武器は西洋の剣と違い、殴りながら乱雑に相手の体を力任せに分断する一撃を放つには長けていない武器である。刀は相手の柔らかい場所を狙いその箇所目掛け正確に振るってやることで、初めて相手の体を切り裂くほどの切れ味と真価を発揮する。

 

おそらく魔物は、先ほど自らの首が斬り飛ばされた経験から、そんな刀という武器が持つ弱点を見抜いたに違いない。しかしそれでも魔物は愚直に先ほどと同じか、あるいはそれ以上に深く伏せた姿勢を取り、同じような攻撃を仕掛けようとしてきている。

 

魔物に知恵と胆力があることを、男は先ほど看破している。魔物が男の強さを認めていたように、男も魔物の事を一切侮っていなかった。男は魔物の強かさというものを、互いに気配をぶつけ合った際、嫌というほどに思い知っている。魔物がそうして不用意に動かなかったからこそ、男は自らの身が快楽の泥に沈むよりも前、待ちの戦法を変えて自ら積極的に動かざるを得なくなったのだから。

 

それほどまでに狡猾さを備えた魔物が愚かしくも先ほどと同じ愚行を繰り返そうとしているというのであれば、そこに何らかの罠が待ち受けているという結論に到達するのは容易だった。間違いなく魔物はこちらの刀攻撃に対して何らかの罠を張っている。おそらくこのままでは刀による攻撃はそのままでは通用しないだろう。

 

突撃の最中のわずかな時間において、男は早急に対策を練ることを強いられた。男はそして刹那の瞬間に思考を巡らせる。

 

今現在男が持ちうる武器の中で鉄のように硬い奴の毛皮を貫くことを可能とする武装は刀以外にない。男の手持ちには銃もある。だが38口径の銃から鉄の弾丸を火薬で射出したところで、あの硬い鋼鉄じみた外皮が貫けるとは思えない。接射すれば別かもしれないが、仮にそれでも敵の外皮を貫けない場合は、銃の方が駄目になる可能性が高い。何より接射のため奴と触れ合う距離まで近づくというのであれば、刀を持って敵の懐に飛び込むのと何ら危険性は変わらない。通常弾でも、強化弾でも、ともあれ、ただの銃弾の持つ貫通力では、敵の鋼鉄の外皮を貫けない。

 

――ならば、普通ではない銃弾を使うまでの事……

 

ダッ、ダッ、ダッ、ダン!

 

男は魔物の意識が自らより外れたその隙に、腰元のホルスターから取り出した拳銃――コルトライトニングへと青色の印が付いた特殊弾を装填し、立て続けに弾丸が発射した。

 

「ゲ――」

「グ――」

 

瞬間的に放たれた四つのマズルフラッシュは合わさって、隙だらけとなった魔物に対して強力な目つぶしとなった。予想外の痛みのない先制攻撃を受けた魔物は、呻き声をあげながら身を硬直させると、反射的に瞼までをも固く閉じこむ。行為により獣の視界が闇に閉ざされる。銃口より放たれた光は、獣から光を完全に奪っていた。

 

「ギッ!」

「グッ!」

 

思いもよらぬタイミングで思いもよらぬ攻撃を受けた魔物は、身を硬直させつつ、驚き戸惑う。さなか魔物は驚きに瞬きを繰り返した。しかしそれでも瞳の中でちかちかと暴れまわる光は魔物の眼球より抜け出ていってくれない。直後、光の衝撃を受けて硬直する獣の胴体へと衝撃が襲いかかってきた。光に遅れて男が持つコルトライトニングの銃口から飛び出したうっすらと青く輝く四発の弾丸が魔物の体に突き刺さったのだ。

 

「――氷結弾」

 

男は静かにつぶやく。途端、身構え硬化した獣の皮膚にて停止したはずの弾丸が強く発光した。直後、青白い光を放った弾丸の周囲に白い霧が生じる。霧をよく見れば、空気中を漂っていた水蒸気が熱を奪われて氷結した結晶の集まりであることが理解できるだろう。男の言葉通り、獣に打ち込まれた弾丸の周囲では水蒸気と毛と表皮とがまじって凝結するという現象が起こっていた。

 

男がコルトライトニングという六連式の拳銃より放ったのは氷結弾という、弾頭が着弾した瞬間に中へ秘められた力が発動して周囲に凍結の効果をもたらすという、氷の属性の威力を秘めた特殊な弾丸だ。弾丸は男の知る技術体系によってではなく異なる世界の理により造られたものだったが、男にとってはそれが求めた効果を発揮してくれるのであればどちらでもよいものだった。

 

男のもつ知識では、目の前の魔物と似た姿を持つケルベロスという悪魔は氷結の攻撃に弱い。だからこそ男は、ケルベロスという悪魔とよく似た魔物に対して氷結の弾丸を撃ち込むという選択したのだが――

 

「ギ、ギゲッ!」

「ギュギ!」

 

果たしてその効果は絶大だった。自らの体へと生じた異変が獣の意識を呼んだのだろう、獣は反射的に固く閉じこんでいた目を見開く。魔物の体に残った四つの瞳が、己の体の異変部へと向けられた。

 

「――」

「――」

 

そして魔物は、視線の先、自らたちの毛皮が銃弾を受けた部分から中心に真っ白く凍り付いているのをみて、四つの目を同時に見開いて驚愕を露わにした。昏い色をした瞳の奥では瞳孔の収縮と拡散が繰り返されている。瞼をあけたまませわしなく開閉を繰り返すという交感神経と副交感神経の盛んな動きは、まさしく脳の奥にある自律神経の失調により起こっている現象であり、魔物の混乱が無意識下において影響を及ぼしている証といえるだろう。

 

「――隙だらけだ」

 

そして獣のそんな隙を男は見逃さない。男はいまだ銃口より煙を吐き出すコルトライトニングを腰のホルスターに素早く収めると、後ろに構えていた刀の柄を素早く両手で持ち込み、迷わず魔物の胴体部、頭部と頭部の間へとその切っ先を突き出した。

 

「――」

「――」

 

男の渾身の力で突き出された刀は、冷凍という現象により力の入らなくなった魔物の肉体部位を容易く貫いてゆく。そしてずぶりと侵入した刀は持ち主の意に従って獣の暖かい血肉を斬り裂き、かき分けていった。怜悧さを秘めた刃は、やがてすぐに魔物の胴体の最奥に秘されていた脈動する心臓へと到達する。男は手中より伝わってくる感触で脈動するそれを感じ取ると、迷わずさらに力を込め、魔物の命の源めがけて刀を押し込んだ。

 

「――」

「――」

 

刃が心臓を貫いた瞬間、魔物はびくんと一瞬だけ大きく身じろぎ、目を見開いた。その後魔物は、呻き声も上げずに停止する。それからきっちり三秒後、魔物の体に変化は起きた。凍結に驚き目を白黒させていた魔物の瞳からは生気が失せてゆく。瞳の反応に遅れて数瞬後、男は刀の柄に上よりの力がかかってくるのを感じた。

 

――獣の全身から力が失せていっている

 

気付いた瞬間、男は突き入れた剣が魔物の加重によって折れてしまうよりも前に、魔物の体内へと突き入れていた刀を素早く抜き取り、身を引いた。

 

「……」

「……」

 

男が刀を抜いて下がった途端、物言わぬ骸と化した魔物の体は支えを失ったといわんばかり力なく地面へと崩れ落ちてゆく。魔物の瞼が永久の眠りについた事を示すかのよう、自然と垂れて閉じていった。やがて魔物の瞼が落ち切るころ、男は戦いの終わりを確信する。しかし油断は禁物だ。なにせここは自分の知る常識の範囲外にあるような場所なのだから。

 

「――…………」

 

男は自らが殺傷せしめた魔物より距離をあけると、更に周囲への警戒の意志を濃密なものとする。さらにいかなる異常も見逃さないという意志に満ちた視線を周囲に巡らせてあたりを確認すると、その視線の先に危険や異常を告げる兆候が一切見つからないことを確認し――

 

「――すぅぅぅぅぅぅぅ」

 

そしてたっぷり数秒ほども周囲を見渡したのちようやく安全を確認した男は、ずれた学帽の位置と崩れた服を軽く整え直すと、溜めこみ押し殺してきた緊張による負荷を外へと放出するかのように、大きく息を吸い込み――

 

「ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」

 

小さく長い息を吐きだした。男はそのまま、交互に呼吸を繰り返しす。使い古した二酸化炭素が排出され、新鮮な酸素が体に取り込まれてゆく感覚がたまらない。呼吸を行っていると、体内より排された暖かい吐息と周囲に漂う冷たい空気が撹拌し、温度差にて男の排出した吐息が白く染まっていく。男はそんな日常起こりうる些細な光景をこうして平然と眺められているという事実に、この後も続く戦いが短い間だろうが今ひとたびだけ終わりを告げ、わずかだろうが休息する事の出来る時間が訪れた事を強く実感した。

 

「――……ふぅ。……?」

 

やがて思う存分体の中の空気を新鮮なものへと入れ替えた男が呼吸を通常のものへと戻した頃。男は足元に近寄ってくる小さな気配を感じて、そちらへと視線を向けた。しかし予想に反して振り返った視線の先には何もいない――

 

『流石は十四代目葛葉ライドウ。異世界においてもその刃の冴えが鈍ることはないか』

 

否、いる。

 

「――恐縮です」

 

足元から聞こえてくる声に反応して男――葛葉ライドウは視線を地面へと下げると、軽く会釈をしてその言葉を受け取った。ゴウトの声に自らは『第十四代目葛葉ライドウ』であるという事実を強く実感したライドウは、刀を学生服の胸元より布を取り出すと刀の血を拭うと、速やかに納刀し、黒い外套の中へと我が身ごと仕舞い込む。刀や銃といった一般人が持つには面倒な手続きがいる道具は、争いや異変が終わったのちに別の争いや異変の火種となりえてしまう。そうして市井の人々に無用な諍いや誤解を招きかねない道具をすぐさま仕舞い込むのは、射影の存在として帝都の守護者を務めるライドウにとって、当たり前の行為だった。

 

『む……』

 

パチンと鍔元まで刀が収められた音が鳴ったその瞬間、まるでそれが合図であったかのように魔物の胴体が地面を構成する黒い泥の中へと沈みきっていった。見れば先ほどライドウが切り飛ばした首の一つもすでにない。

 

『フンッ……』

 

四つの足を小刻みに動かしていたゴウトは首と胴体が泥の中へ埋もれてゆくのをみて不機嫌そうに鼻息をならすと、ライドウの肩の上へと飛び乗った。

 

『先程よりも沈殿の速度が早まっている。まるで砂の湖。いや、溶岩性の沼だな。絶えず重量を分散させ続け同じ場所に持続的に重量が加わらないようにし続けなければ、やがてこの快楽をもたらす泥の中へ飲み込まれていってしまう。かつて北欧神話のモデルとなった土地であるアイスランドがこのような地質であったと聞くが……、ともあれ、そのようなことについて悠長に話している暇もなさそうだな』

 

ゴウトは一人勝手に納得した様子をみせると、ライドウへと呼びかけつつ、首を上に向けて空を見上げた。

 

「――はい」

 

ゴウトの言葉と所作に反応して、ライドウはゴウトと同様に視線を上へと向ける。一人と一匹の視線の先には、かつて月だったものが映っていた。かつて夜空で無数に煌めく星々よりも燦然と輝いていた月。それは今や、この世のすべての悪を結集したかのような泥に囲まれ、黒い卵のような異形へと変化しつつある。地面に落ちた砂糖菓子が集った蟻に食らい尽くされるが如きそんな無残な有様を見て、誰がかつてあれが白く美しく様々な幻想を紡ぎだす織り手であった月である信じるだろうか。

 

『月が泥により黒い卵へと完全に変貌を遂げた時が、刻限。すなわち世界の終わりだ。故に我々は月の変態が完全に終わるより以前に――』

「――彼らのために月の最奥への道を切り開かなければならない」

『うむ』

 

言葉を継いだライドウにゴウトは頷きを返す。

 

『あの『桜』とかいう女のいうことが正しければ、の話だがな』

 

続けてゴウトは額に皺を寄せながら、吐き捨るように言った。

 

『なぁ、ライドウ』

 

更に続けざま、ゴウトはライドウへと言葉を投げかける。

 

「――なんでしょうか」

『なぜ信じる気になった?』

「――」

 

ゴウトが訝し気な表情浮かべながら飛ばした質問に、ライドウは軽くその場での足踏みを繰り返しながら無言を貫く。ライドウは一見して先ほどと変わらない無表情のままだ。しかしライドウのお目付け役であるゴウトは、ライドウの心の中はゴウトの放った言葉によって生まれた様々な考えが渦巻いているだろうことを見抜いていた。さて、ライドウは何をそんなに悩んでいるのか――

 

『ふむ』

 

なるほどそうしてよくよく先ほどの自らの発言を思い返してみれば、主語が足りず、意味が複数に捉える事が出来る。おそらくライドウはゴウトの言葉に複数の回答を見つけ出したからこそ、答えあぐねているのだろう。ゴウトは己の主語をはっきりとさせない言葉がライドウの長考を呼んでしまった不肖を嘆くと、ため息を吐き、口を開いた。

 

『お主やあのペルセフォネという輩はすんなりあの娘らのいうことを信じたようじゃったが、儂にはそれが信じられん。なにせ『桜』という女の語る話によれば、奴らは元々敵側に属する存在であったという。また加えて、あやつらは自分らの目的のために、自分たち以外の全てを利用しようとしたというではないか。無論、自らが敵側に属していた事を自白したという点は、奴らの言葉を信用する材料になるかもしれん。じゃが、だからと言って奴らを完全に信頼する理由にはならん。奴らは心の底でまた我らを利用して何かを企んでいるかもしれん。いや、むしろ何かたくらみと隠し事があるとみて動いた方が間違いなかろう。悪魔を用いた読心術にて奴らの心の底を確かめたわけでもあるまいに、なぜ主は、主らは、奴らを完全に信頼して完全に受け入れたのだ』

「――……」

 

ゴウトの問いに、ライドウは上へと向けていた視線を地面へと向けた。視線の先、泥の地面は目的地である月にまで途切れ途切れに伸びている。闇の泥に侵される月までの距離はまだ遠い。ライドウは続けて自らの背後へと視線を向けると、今まで自らがたどってきた道に闇ばかりが広がっているのを確認すると、記憶を掘り起こすかのように、腕を組み顎に手を当てながらその場でぐるぐると円を描いて歩き始めた。

 

 

「それで全てか、『桜』」

 

豪奢。というよりは勤勉と厳格さが支配する部屋の中、冷徹な声が響き渡る。声は部屋の中央奥、窓際に佇む豪奢な格好をした女性の口から発せられたものだった。女の声はまさしく王と呼ばれる位についたことのあるものしかだせない絶対的な威厳を孕んでいる。その迫力たっぷりの声を聴いて、この場にいるほとんどすべての人間が思わず背筋を正し、質問を投げかけられた存在から言葉が出てくるのを待っていた。

 

「ええ、これで全てです、ペルセフォネ」

 

そのような聞くものから反抗の意思を奪うかのような力を持つ言葉を直接投げつけられた『桜』はしかし、迷いない口調で力強く断言すると、まっすぐな視線をペルセフォネへと投げ返す。断言には確かにすべてを語ったのだろうと思わせるだけの説得力があった。実際、部屋の中にいる大勢の兵士の中には、すでに『桜』の言い分を信じたような顔をしてみせる輩もいる。そんな同情めいた顔を浮かべる兵士の中には、ペルセフォネが『桜』の言葉に何を言おうとペルセフォネに反論し、『桜』という女の側についてしまいそうな輩もいる。なるほど『桜』という女の元となった人間、間桐桜とやらの身の上話は、人として情けをかけたくなるほどの悲惨で凄惨な生涯であったといえるだろう。

 

また『桜』が語った間桐桜の話には、自らが女という兵士たちよりも彼女に近い立場だからこそなのだろう、間桐桜や彼女の絶望から生まれたという桜AIやモリビト『桜』、メルトリリスに対して深く憐憫を覚えたり、同情の想いを抱いたりもした。これがたとえば市井に生きる一般市民であったのならば、ペルセフォネ自身も湧き出てくる思いに負けて彼らに協力するとの判断を下していたかもしれない。

 

だが自分は命を聞く立場の兵士たちとは異なった立場にある。自分は兵士たちに命を預かりものであり、下手を打てば死に直結しかねない命を下すことの出来る立場にいる存在だ。いくら『桜』の態度と語りに説得力と同情の余地があるからと言って、己の想いに従って間違った判断を下すことは許されない。

 

「――」

 

ペルセフォネは言語と視線にて雄弁な意思を返された『桜』の言葉の真偽を量るべく、無言のまま焦点を変え、視線を『桜』の全身へと移行させた。そしてペルセフォネが広げた視界で全身を観察してみると、頭の左右に生えたヘラジカの角も、浅黒い肌をした簡単な布で身を包んだだけの幼い裸身も、『桜』の身は一切揺らいでいない。

 

王族であり、人を測るに長けたペルセフォネは、自らの視線や大衆の視線が持つ威力というものを知っている。心に何らかの疾しさを持っている人間は、自らのような権力を持った人間や大勢の人間に囲まれつつ視線や意識を向けられた場合、たとえその人間が悪人と呼ぶほどの悪事を行っていない人物であっても、過去に犯した小さな罪の意識を思い出して動揺し、体のどこかしらに不自然な挙動を見せてしまうものだ。王族という肩書と大衆という群の力というものはそれほどまでに多くの普通の感性を持つ人間に対して効力を発揮する。

 

しかし目の前にいるこの『桜』という女はどうだ。そんな一般の法則など非一般的な環境から生まれ落ちた自分には関係ありませんよと言わんばかりに、権力者と大衆を前に澄ました顔と堂々とした態度を貫いている。付け加えるのならばこの女は、自分たちに対して何一つ悪いことをしていない悪人ではなく、自分たちを利用した挙句、果てには我々の乗った飛行都市マギニアを方舟代わりとして地球の外側、無限に広がる星の海にむかって追放しようと企んだほどの大悪党だ。

 

「――」

 

疾しさがあって当然の相手に対して、しかし『桜』は一切表情も態度も崩さずに微笑んでいる。やがて『桜』はペルセフォネが自らに観察の視線を送っていることに気付くと、一切態度を崩すことなくペルセフォネの視線に向けて微笑みを返した。その様子を見てペルセフォネは目を細める。仮にこれが嘘をついたものの態度だとするのならば、なるほど『桜』という女は少なくとも真偽を見抜くに長けた自らの目を曇らせるくらいには相当の強かさを持った大人物であるのは確かだろう。

 

――なんとも人間味の欠けた女だ

 

ペルセフォネは思わず感心した。どれだけ図太い神経をしていれば、相手の命とその後の運命を決定づけるような嘘をついた相手に対して、華やかな笑顔を浮かべて芍薬のように佇んでいられるのか。ペルセフォネにはまるで見当もつかなかった。

 

――この女の反応からその真意を探るのは難しい

 

判断したペルセフォネは無言でその視線を『桜』の隣に佇む存在へと動かした。視線の先には、陶器のような真っ白い顔をしたアンドロの姿が目に映る。そのアンドロは一般的に知られる者たちと違って、羽織るマントの下から機械で構成された背骨だけが覗くという特異な点にだけ目を瞑れば、少し顔色の悪い人間にしか見えないほど精巧な外見の作りをしていた。

 

「彼女のいっていることに偽りは一片たりともありませんよ、ペルセフォネ」

 

一見して人のようにしか見えない特殊な体を持つアンドロ――マイクは、ペルセフォネの向けた視線に顔面に張り付いた人工皮膚を撓ませていかにも友好的に微笑んでみせると、大げさに両手を広げて敵意がないことをアピールし、口を開いてどこか不自然さ残る口調でしかし流暢に『桜』を肯定する言葉を発した。

 

「信じていただけるかはわかりませんが、エトリアのすぐ近くにて遥か昔の時より世界樹と新人類の守護を務めてきたこの私。人工知能である『マイク』が保証いたしましょう」

 

続けてマイクは、両手を広げて笑顔を浮かべた姿勢のまま、無機質な言葉を紡いだ。人がやるにしてはあまりに不自然なそんな挙措は、アンドロという機械の体を持つ者によくみられる特徴だった。

 

「……こうしてこの場所から多くの冒険者たちを目にしてきた。無論、その中には貴公のような機械の体を持った冒険者がいなかったわけではない」

 

機械という電気の命令があって初めて動く体であるアンドロは、肉体の反射という抗えない性質を持つ人間とは異なり、あらゆる行為にたいして意識的に命令を下さなければ体が動かない。故に本来、肉の体というものを持たないアンドロたちには、先ほどペルセフォネが行ったような肉体の持つ自然な反応を利用した善悪真偽の判断術は通じない。――だが。

 

「だが、人がやるように自らの裡より湧き出る恐怖を抑え込みながら私の眼前に立つアンドロと出会ったのはこれが初めてだ」

 

いかなる理屈かは知らないが、目の前にいるアンドロが人に似た所作、挙措を自然と行うというのであれば、話は別だ。

 

「――」

 

視線へ変わるとペルセフォネの言葉にマイクは自身の状態に気付いたのだろう、体の震えがピタリと止まっていた。ペルセフォネは、マイクの体がほんの少しばかり機械らしくない様子で不規則に小刻みに震えている様子を見つけ、自らの裡にあった驚くという感情がやがて微笑ましいという段階を経過して、慈愛のものへと変化してゆくことを自覚した。

 

「なるほど。少なくとも、貴公が普通のアンドロではない、というのは本当らしいな」

 

自らの裡より湧き出た恐怖により震るという人のような所作をしかし指摘された瞬間に止めてみせるというなんとも人間とも機械とも判別しづらい所作をみて、ペルセフォネは苦笑しながら告げる。さてマイクの場合は、人間らしいといわれるのと、機械らしいといわれるのと、どちらの方が好みなのだろうかという詮無き考えが自然と浮かんできた。

 

――肉の体を持つくせに機械らしい反応をしてみせる『桜』といい、機械の体を持つくせに肉を持つかのような反応を見せるマイクといい、なんとも面白いコンビではないか。

 

ペルセフォネにはそんなくだらないことを考える余裕すら生まれてきていた。マイクの態度はペルセフォネの凝り固まった疑念を一気に解消させたのだ。

 

「――」

 

一方、ペルセフォネの言葉を受けたマイクは、浮かべていた満面の笑みを消し、能面のような顔を浮かべていた。マイクは何も語らない。マイクの顔は一切変化しない。だがペルセフォネの指摘がマイクのなんらかの琴線に触れて彼を不機嫌にした事だけは、自身を見て面白そうに笑うペルセフォネをキュルキュルと一定のリズムで瞳孔の収縮を繰り返してみるマイクの様子からその場の誰もが理解できていた。マイクのそれは、誰がどう見ても子供が虚勢を暴かれて不貞腐れているかのような、実に人間らしい態度だった。

 

「素直さは美徳だ。だがもう少し狡猾さを身につけるといい。そなたのそれはまるで子供のそれだ」

 

そんなマイクの様を見てペルセフォネは再び苦笑しつつ指摘する。ペルセフォネの自らを子供扱いする態度に反応して、マイクは反論するためだろうか、体を動かしかけた。しかし自らがペルセフォネの言葉に殊更反応して見せるとそれこそまさにペルセフォネが例えるよう子供っぽさの証であると気付いたようで、やがて反論の牙を手折られたマイクは動かしかけた体を寸分たがわず元の位置に戻すと、所在なさげに顔をそむけてその場に佇む。

 

「ふふっ……」

 

そんなマイクの挙措を見て、ペルセフォネはさらに優しい視線を彼へと投げかける。

 

「――」

 

それがさらにマイクの不機嫌を誘ったようで、マイクはますます身を固くした。

 

「あまり彼をいじめないでください、ペルセフォネ」

 

『桜』はそんなマイクの様子に見かねたのだろう、ペルセフォネとマイクの視線の交錯が途切れるようマイクの前に進み出ると言う。ペルセフォネが視線をマイクから『桜』に移すと、途端『桜』は再び口を開いた。

 

「子供相手に大人気ないですよ」

 

『桜の』言葉にペルセフォネは、マイクというこの世界樹の世界が始まる以前よりあったという人工知能の事情を思い出す。マイクは旧人類より与えられたいくつかの使命を果たす為、生まれた時より与えられた知識だけをもとに、己とは違う存在である他者と接する事をほとんどせずに世界の裏側で一人淡々と使命を果たしてきた。

 

そんな一人ぼっちだったマイクは、やがて冷凍睡眠(/コールドスリープ)より目覚めた旧人類である彼の知り合いである少女と出会い、果てに旧人類から与えらえた使命を否定される。不変であることを基本概念とする彼にとって、使命の否定はマイクの存在意義と魂の否定に等しかった。

 

そして彼は奇妙な運命の果て、やがて多くの人に支えられながら、自らという不変であるはずの存在に変化をもたらすことに成功する。彼は月より甦った多くの人たちの行為と善意により、初めて自らの違和感として感じたことを違和感として受け入れ、『成長』したのだ。

 

赤子ですら生まれた瞬間より成長するという。それを考えるならば、彼はつい先ほどまで子供どころか赤子以前に等しい存在だったといえるだろう。

 

そう。マイクはつい先ほど赤子以前の状態から子供に成長したばかりの存在なのだ。ならば、なるほど――

 

「そうだな。その通りだ」

 

そんな子供に成長したばかりのマイクの素直さを指摘して彼を不快にさせる事の、なんと大人げないことか。

 

「でしょう?」

「ふ……」

 

ペルセフォネが自らの意図を理解したことを察知した『桜』と『桜』の言わんとしたことを理解したペルセフォネは、自然と視線を交えると苦笑しあう。世界の滅亡目前だというにもかかわらず、会話はあまりにも日常の明るい雰囲気に満ち溢れていた。

 

「――」

 

そんな二人の片割れのすぐ後ろでは、一人のアンドロが、まるで母親同士の会話に立ち入れない子供のよう、不貞腐れた様子でなんとも居心地悪そうに佇んでいる。もしこの場に事情を知らぬ第三者がいて、三人が特異な格好や見た目さえしていなければ、この井戸端で繰り広げられていてもおかしくないだろうこの会話を聞いて誰がこの二人と一人の会話こそに世界の命運と行く末がかかっているものであると理解するだろうか。

 

「それで、いかがでしょうか」

 

やがてそんな事態を引き起こした一因を担っている存在の分身である『桜』は、どこまでも自然にペルセフォネへと問いかけた。

 

「――」

 

まるで今日の献立はお気に召したかしらとでも尋ねるかのよう投げかけられた問いによって、しかし部屋の中に漂っていた弛緩した空気が変化する。ペルセフォネが発する威圧的な気配によって、平穏の空気は一転して剣呑さと厳格さばかりが支配する戦場(/非日常)のものへと戻っていた。

 

「――」

 

マギニア女王としての仮面を被りなおしたペルセフォネは『桜』の問いに答えない。正直に言ってしまえば、マイクをかばう『桜』の態度から、彼女に対する不信の感情は消えてしまっている。やっかいなことにたったあれだけのやり取りで、ペルセフォネは自身が『桜』やマイクという存在を信じたがっているのだという事を自覚した。

 

ひどく理不尽だがこうなってしまうと、一度信じたいという方向へと傾いてしまった天秤の秤を理性という重しで元に戻してやることは難しい。他人を信じたいという気持ちは人の目を曇らせる劇薬だ。一度このような気持ちを抱いてしまえば、冷静な判断を下すことは難しくなる。信じたいという気持ちが天秤の片方の秤に乗せられた不信の材料を覆す無限の重しとなるのだ。

 

ペルセフォネの感情は『桜』を信用してもよいかもしれないと思い始めている。しかしそれでもペルセフォネの理性は、『桜』の話は、はいそうですかと信じるにしては、あまりに彼女の論拠によるものが多すぎると文句を言い、屈しそうになる己の心に待ったをかけていた。ペルセフォネが無言を貫いているの、そんな感情と理性、幻想と現実の対立によるものだ。ペルセフォネは今、自らが冷静な判断を下せない状態にあることを自覚した。

 

――今の自分では冷静な判断は難しい。

 

今の自分はまさに広大な海の上にぽつんと投げ出された船の船長だ。周囲三百六十度を見渡しても陸地は見当たらず、それどころか陸地に繋がる手がかりすらも転がっていない。雲も鳥も波すらも存在しない凪いだ空間においてしかし船と船員の安全を守るべく、船長たるみずからは船が見事陸地にたどり着くルートを見出す必要がある。自分は残された最後の武器である勘と経験という名の羅針盤を頼りに、正確な航路図を白紙の地図の上に生み出さなければならない。

 

しかしその羅針盤は今、かつて古い時代に魔女モルガンがアーサー王と呼ばれた英雄の生涯をかき乱したように、目の前の『桜』という女が生み出す蜃気楼(/ファタ・モルガナ)によって正常さを失っている。単なる光の屈折現象にすぎないその蜃気楼という現象にしかし古来より多くの船乗りたちが幻惑され、多くの船が水底に沈められてきた。そして蜃気楼は時に、数多く蜃気楼という現象と対面してきた豊かな経験を積んだ船乗りですらも欺くものとなる。本来であればそれを蜃気楼と一目で見破れるはずの経験豊かな彼らがしかしそんな魔女の幻惑に騙されてしまうのは、決まって、目の前に現れた蜃気楼を決して幻のモノでないと信じたいと願っているその時だ。信じたいという気持ちが彼らの持つ羅針盤の正確さを妨げる。信じたい、という気持ちは、物事を正確に把握する事を妨げる何よりの毒である。今の自分はまさにそんな彼らと同じ状況に陥ってしまっているのだ。

 

情に絆されつつある自らの状態を冷静に判断したペルセフォネは、迷った瞳で視線を彷徨わせる。すると部屋中を見て回った視線はやがて自然とライドウへと辿り着いていた。ペルセフォネはライドウを見つめる。ペルセフォネの視線を受けたライドウはすぐさまその視線に気づいて彼女を見返した。ライドウとペルセフォネの視線はやがて交錯する。その瞬間を過ぎ去ると視線はすぐさま相手の瞳へと続く光をたどり、瞳の中へと到達する。自分たちと同じく『桜』の話を聞いていたライドウの瞳は、しかし一片たりとも揺るいでいなかった。

 

――そうか。異世界の人物であるという彼ならば……

 

そんな彼の不変の態度からペルセフォネは、異世界の人物であるライドウこそこの場において最も『桜』やマイクの語る神話的事象云々とやらの真偽を尋ねるにふさわしい人物であると判断する。ライドウは己を見つめてくるペルセフォネの瞳の中に『貴公はどう考えるか』という質問の光を見つけた。そしてライドウは顎に手を当て自らの考えをまとめると、やがて口を開き――

 

 

「――あの時も言いましたが、『自分には彼らが嘘をついているようには見えなかった』。それが理由です」

『ほんとうに、そんな理由で奴らを信じようというのか?』

「――はい」

 

ゴウトの呆れの感情を多分に含んだ声に、しかしライドウは静かに頷き返した。

 

『あやつが嘘をついている、とは思わないのか。あれをそうして大勢を操り、自らの願望をかなえようとした悪党だぞ』

「――嘘を吐く人ではあるのでしょう。ですが自分には……」

『自分には?』

「――あの『桜』という女性が、帝都の中や外で出会ってきた、どこにでもいる女性――特に、母と呼ばれるような女性たちと変わらない存在に見えたのです」

『――』

 

ライドウの言葉にゴウトは目を見張らせて沈黙する。

 

「――かつて……」

 

ゴウトの様子を見て、ライドウは再び言葉を発した。

 

「――かつて自分にも母がいました。母は自分に対しても他人に対しても厳しく、我が子である自分(/ライドウ)に対しても厳しい人でした」

『……』

「――母は自分に対し、ことあるごとに自分が『葛葉ライドウ』となる身である事を自覚しろと言っていました。母は本当に厳しい人でした。ですが母は同時に、我が子である自分の為ならば、その身を差し出すのにためらわない、自らが我が子や帝都の害となるのであれば、自らを刀に貫けと言うにためらわない強さを持った人でした」

『……そうか。そうであったな。お主は、あの時、守護霊鑑である母君に出会い……』

「あの『桜』という女性は、そんな母と彼女はおなじ気配をしていました。彼女は我が子であるというメルトリリスという女性の為ならば、あらゆる存在を敵としてまわすにためらわず、どんな存在にでも平然と嘘をついてみせるでしょう。母でないにしろ、同じように、自分の大切なものの為ならば身体だろうが心だろうが差し出す強さを持つ女性を、自分は帝都を中心に起こった事件を通じて何人も目撃してきました。そんな自分が彼女の言葉に嘘偽りはない、とそう感じたのです。この、十四代目葛葉ライドウである自分が、そう判断したのです。自分は彼女らは信じるに足りる人物であると、そう判断し、そう信じようと選択したのです」

 

そこまで言うと、ライドウは今まで以上に強い意志を瞳に浮かべると、己の方に乗るゴウト目掛けて断言した。

 

「ゴウト。それ以上に説得力のある説明が自分には出来そうにありません」

『――は、くは、くはははははは!』

 

ライドウの言葉を聞いたゴウトは息を漏らすと、続けざまに笑った。笑い声に鬱屈とした負の感情はかけらほど含まれておらず、なんともせいせいとしたものだった。ライドウの言葉は、ゴウトが先ほどまで抱えていた疑念を欠片も残さずに討滅してみせたのだ。

 

『葛葉ライドウであるお主が正しいと判断した! なるほど、それは確かにそれ以上に説得力のある言葉は見当たらぬな! いやはや少なくとも儂の口からは出てきそうにもない! なるほど、それは道理だ! いやはやまったく、天晴れだな、十四代目葛葉ライドウ! 』

 

ゴウトは心底愉快だと言わんばかりに笑う。笑いには大いに歓喜の成分が含まれていた。ゴウトは何より、自らが手塩にかけて育ててきた存在が、ついにはそのような物言いをするようになった事が、たまらなく愉快だった。

ライドウの肩に乗っかっていた猫のすがたをしたゴウトは、身を揺らしながら大笑いすると、やがて満足したと言わんばかりに揺れを止めて、ライドウの肩から泥の地面の上へと飛び降りる。そしてゴウトは、その四足に装備した泥の上においてある程度の浮力を確保された調整された靴で器用に音もなく着地すると、ライドウの方を見上げながら言った。

 

『現ライドウである主がそういうのであれば、儂はその意に従うしかない。いやはや、なるほど、まったく立派になったものだ』

「――恐縮です」

『――それに……、む?』

 

一所に留まらぬよう注意して歩き回るゴウトは言いかけると、唐突に後ろを振り向く。

 

「――」

 

猫の察知能力は人よりも高い。おそらくゴウトは何らかの異常を察知したのだろう思ったライドウは、ゴウトの視線の先を追う。するとライドウは彼方で光るものがあることに気付く。輝き方から見てそれは双眼鏡の輝きであることをライドウは判断した。すなわち今視線を向けている先には、人がいるという事だ。やがて光は失せ、代わり、視線の先には人影が見えるようになる。

 

「…………ーい」

 

人影はやがて声を発するようになった。

 

「おーい!」

 

映る人影は聞こえてくる声と共に徐々に大きなものとなってゆき、その人数や姿までが露わとなっていく。

 

「ようやく追いついたぞ、ライドウ!」

「あ、お疲れ様です。お怪我はありませんか?」

「先行して安全を確保するといって敵の群れに突撃していった時には驚いたけど、まさかそれを本当にやりきるとはね……。有言実行のそのお手並み、驚き通り越して脱帽するわ」

 

遠くより近づいてくる人影はやがて見覚えのある三人の女性のものとなり、ライドウとゴウトにそれぞれの言葉を投げかけてきた。単騎にて突撃したライドウに遅れてやってきた女性たちは、パラ子、メディ子、ガン子と呼ばれる、パラディン、メディック、ガンナーという職業の冒険者たちだった。

 

「――いえ、問題ありません。恐縮です」

 

ライドウは彼女たちの方を向き、彼女たちの内の一人、メディ子が肩からひっさげているショルダーバックの口よりアリアドネの糸が伸びていることを確認しつつ、彼女たちの言葉にそれぞれ応対する。ライドウの顔には当然の務めを当然果たしただけであるという謙遜ない笑みの表情が浮かんでいた。

 

『では十四代目。お主のその判断が間違っていないことを確かめにいくとしようか』

 

ゴウトはライドウと共に彼女たちの無事を見届けると、再び前を向きなおして宣言する。

 

「――はい」

 

言葉にライドウもまた振り向き、迷宮の前を見据えた。前方に広がるは天空に聳える月へと続く迷い道。空間も時間も歪んだ、この世にあらざる場所。桜AIという、旧人類の思いやりがつくりあげてしまった悪魔が最奥に待ち受ける迷宮。

 

「――あの最奥に……」

 

また『桜』は、そんな桜の迷宮の最奥、桜AIのいる場所では、自らを蠱毒の泥の中より救い上げてくれた存在であるエミヤたちがとらわれているだろうという。

 

――ならば今度は自分の番だ

 

「――行きます。自分が再び先行して安全を確認、確保します。皆さんはアリアドネの糸を切らさないよう、注意してついてきてください」

 

ライドウは想いと決意を新たにすると、一人の女の狂気と暴走によって起こってしまったという事態を収束させるべく、再び先陣切って漆黒の外套を翻しながら走り始めた。



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第十五話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (三)

飛行都市マギニアの今やすっかり静まり返っている商業地区を歩く女がいる。女の顔はすれ違った全ての人間が振り向かずにはいられないほど整っていた。程よい短さに後ろにまとめられた、枝毛などの荒れた様子の一切ない栗色の髪の毛。迷い無い決意の色に満ちた青い瞳。きゅっと力強く結ばれた唇。余計な主張を一切しない鼻のパーツ。それらがバランスよく配備された整った顔立ちはまた、美しい装飾施されたティアラや大きな水晶イヤリングに飾られている。加えてその細身を包み込む多重円の魔術紋様刻まれた豪奢な鎧など、数えればきりがないほどの特徴が、容姿の整ったその女が高貴なものであること主張していた。

 

「あ、おい、そこのお前! ちょっと、止まれ!」

「ん……? ……わたしか?」

「――こ、これは失礼致しました、ペルセフォネ様!」

 

ペルセフォネ。それがこの美しい女の名前だ。巡回中の兵士は、自らが声をかけた相手が現在飛行都市マギニア改の最高指揮官ペルセフォネであると知って、蒼白になって最敬礼を行う。兵士は槍と盾持つ手を震わせながら額に冷や汗にじませていた。見た目一回り以上も大きな屈強な体躯の兵士が小さな女に向かって恐れ戦く姿があまりにおかしくて、ペルセフォネは苦笑しながら口を開く。

 

「よい。君は任務を私の下した命を忠実に果たそうとしたに過ぎないのだ。気にすることはない」

「は、はい!承知いたしました! ご厚情、感謝致します!」

 

自身が述べた言葉によってあからさまにほっとした表情を浮かべる兵士の姿を見て、ペルセフォネは苦笑の表情を深くする。一方、ペルセフォネの言葉に冷静さを取り戻した兵士は、安堵の表情を浮かべ直してから軽く額の汗をぬぐうと、一転して疑念に満ちた表情を浮かべ、ペルセフォネに向かって尋ねた。

 

「……、しかしペルセフォネ様。このようなご時分、なぜこのような場所に、護衛もつけずにおひとりで……?」

 

兵士の言葉は確かにもっともな疑問だ、とペルセフォネは思う。なにせ今、この飛行都市マギニア改は、世界を救うという目的のため、月を中心に渦巻いている触れただけでこの世のモノとは思えない快楽をもたらすという泥と接触するスレスレにまで近づき、月の奥地へと続くという泥の上へと最も手練れだと思われる四人を送り出し、四人から迷を踏破したという連絡が来るのを待ち続けているという最中だ。ペルセフォネは『彼らからの連絡が有り次第、数名の精鋭部隊と『桜』とマイクを引き連れて、四人が迷宮にひいたアリアドネの糸の導きに従い、我らは月の迷宮の奥地まで転移する計画である』、とマギニア全域に放送で兵士たちに説明を行ったばかりである。故に目の前の兵士からすれば、そんな計画の中心核であり飛行都市マギニア下層に存在する出入り口付近に待機しているはずの存在が、下層よりも一つ上の層であるこの中層の商業居住地区にいるという事態が理解できなかったのだろう。

 

「いや……、少し気になることがあったのでな」

「気になる事……、ですか?」

「ああ……」

 

兵士の事情をさっと思い浮かべたペルセフォネは、しかし自らがどうしてここまで足を運んできたのかをはっきり答えることはなく、歯切れ悪く短い言葉を返すとそれきり黙り込んでしまう。兵士は眉を顰め、困った表情を浮かべた。ペルセフォネはこの任務に忠実な兵士を困らせるのは良くないことだとわかっていつつも、自身がどうしてこの場にまでやってきたのかを説明すると、間違いなく兵士が余計に困惑するだけだろうことを予測して、白眉を歪めて整った顔に苦い表情を浮かべた。その時だ。

 

『おいで、――リア』

 

「――っ!」

 

突如として自身をこの場へと導いた声が脳裏へと響いてきて、ペルセフォネは思わず息を呑み、びくんと身を瞬間震えさせると、目を見開いた。兵士に真実を語れない原因はこれである。脳裏へと響き渡るペルセフォネをどこかへと導こうとする声にはまるで聞き覚えのない声にはしかし、敵意というモノがまるで感じられない。むしろ声は逆に、どこまでもやさしく、ペルセフォネの気持ちを落ち着かせ、自分はこの声の求める場所に向かわなくてはならないのだと思わされてしまうような効力を持っていた。

 

「ぺ、ペルセフォネ様?」

 

ペルセフォネが突如として身を震えさせる反応を見て、兵士は驚愕した様子を見せた。ペルセフォネは兵士の所作から、やはり声はペルセフォネ自身の耳にしか届かないものだということを再認識する。兵士の顔にはこちらに対する気遣いが浮かんでいた。そのことをうれしく思いつつも、ペルセフォネはやはりこのことは誰にも告げぬ方がいいだろうと判断する。

 

――指導者がわけのわからない声に惑わされて動いているなど兵士たちに知れたのなら、動揺が広がってしまう

 

「……、いや、なんでもない」

 

判断したペルセフォネは、何度目になるかわからない言葉を口にすると、揺らいだ自らの体を立て直し、姿勢を完全に元の通りへ戻すと、澄ました顔で何度目になるかわからない用意していた言葉を言う。

 

「……、『桜』の言が正しいものであるのならば、もう少しで決着がつくということになる。世界が元の通りの姿を取り戻した時、所詮は過去の亡霊が一時的にとどまっているに過ぎない存在である私はもはやこの世から失せているだろう。私は私や君たちが救った世界を、この目で見れない。そう思うと、少しさびしくてな。その前に少しばかり今のマギニアの光景を一人見て回りたい気分に駆られたのだ」

「……、ペルセフォネ様……」

 

言い訳を告げると、兵士は何とも言えない表情を浮かべてペルセフォネの名を呼ぶ。兵士の声に含まれている多くの成分は、悲しみであり、また、憐みであった。ペルセフォネは自らが述べた、まったく嘘でないが、完全なる真実でもない言葉によって兵士の同情を誘った自らの行為に少しばかりの罪悪感を覚えつつ、それでも兵士に向けて用意してあった続きの言葉を述べる。

 

「そういうわけで、悪いが、少し一人でこのあたりをうろつくことを許容してくれないだろうか。無論、ミュラーより連絡が有ればすぐに入り口に戻るつもりであるし、気が済み次第、散策は切り上げる予定だ」

「……わかりました。どうぞ、気のすむまでごゆっくりおくつろぎください」

「感謝する」

 

言うと兵士は再び最敬礼をした。声にはわずかばかりのかすれが混じっている。ペルセフォネは兵士の涙声に気付かないふりをすると、彼の礼儀に簡単な応答を返した後、再び先ほどの声が導く方へとその脚を向けて歩み出す。

 

『こっちだよ』

 

声だけの妖精は兵士と別れた途端、再びペルセフォネの脳裏へと現れる。

 

「わかっている。――」

 

電灯だけが照らす暗い街中を進みながら、ペルセフォネは一人つぶやくと、ふと空を見上げた。薄暗闇を見上げれば、白い天井の向こう側の空には、大きな大きな月が浮かんでいる。地上から眺めた折には手中に収めることも可能でなかろうかとの錯覚を覚えさせるほどに小さくしか見えない月は、しかし幻想の薄布を取り払った今や、人間のそんな傲慢と矮小さを嘲笑うかの如く、両手どころか我が身すべてを用いても不可能なくらいの巨大な姿を露わにしていた。月の乾いた大地は、ペルセフォネがこれまで見てきたどんな荒野よりも巨大であり、死のにおいに満ちている。この命の気配がかけらほども見当たらない荒涼とした大地と比べれば、地上のどんな巨大な砂漠や溶岩地帯のような地獄が如き場所であってもましに見えてくるのだから不思議なものだ。

 

「リミットまであと少し、か」

 

月を見ながらペルセフォネは再び呟く。今そうして死の具現であるかのような真の姿を晒した月を、裂け目より生じた泥が覆っていっている。そうして月に纏わりつく泥の行方を追うと、やがてペルセフォネの視線は泥が絶え間なく溢れ出す裂け目のわずかな痕跡を見つけて、ため息を吐いた。

 

「……やはり、もはや裂け目(/ギンヌンガガプ)の隙間も見えないか」

 

裂け目の上下左右に至るまでの隙間という隙間が黒い泥に覆われた今、その裂け目が何処に繋がっていて、泥が何処より排出されているのかを知ることは難しい。しかし泥を見たものは、少なくともその裂け目が命あふるる惑星に繋がっており、泥は惑星が大事に育んできた命が溶け込んだものであることを理解するだろう。泥はそれほどまでに生々しい剥き出しの生命の気配を漂わせている。そうして命あふるる惑星より追い出されるようにして裂け目より寒々しい宇宙空間に向けて飛び出てくる泥は、まるで庇護者を求める迷子であるかのように、周辺の宇宙空間に浮かぶあらゆるものへとその魔手を伸ばしていく。

 

「……、子供……か」

 

黒い泥はまるで、後朝(/きぬぎぬ)の別れの時が訪れるなど認めるものかと我儘を言う大きな子供の腕だった。そのような子供っぽさを備えた泥はまた、あるいまたは同じよう、自らの力を誇るかのように超巨大と言って過言でない人型戦艦にまとわりついてそれよりも巨大な泥巨人を造っている。あるいはまた、世界の成分全てが溶け込んだ自らを一片たりとも日がしてたまるかと主張するかのよう、固まって泥の海を作っており。さらにはまた、自分がいない場所がこの世の楽園であるなど認めるかと言わんばかりに、召喚されたとある神の手によって火星に生まれつつあるエデンの園の内部へと侵入を開始していた。

 

子供っぽいうえに見栄っ張り。吝嗇家の上に狭量で、気まぐれで、おまけに嫉妬深い。泥はまるで女の負の側面を凝縮したかのような性質を備えている。そしてそんな我儘女の如き泥の目的はただ一つ。そんな負の側面ばかり持つ自らの存在を認めないかのよう、自らとそれ以外とが切り離されている世界の状態を拒絶し、自らが溶け込んだ、自らが無条件で認められる世界を作り上げる事。

 

卵。泥。海。巨人。神。そして、無。世界に散らばる神話というものを紐解けば、世界の始まりというものは大抵このどれかから始まるものである。泥に宿る意志は、世界の全てがまじった自らの体からそれらを生み出して世界再誕の材料とすることで、世界の全てに宿ろうとしていた。

 

世界の源となる成分をその身に大量に取り込んでいる泥はすでに、虚空に海を作っている。世界を造りあげる、あるいは世界のために斬り分けられる巨人はすでに生まれてしまった。神の存在も火星の大地の向こうにある。あとは纏わりつく泥が完全に月を覆いつくし、卵として変性を遂げてしまえば、それですべてが終わりだ。世界の素材はすべてこの場にそろってしまう事となる。もはや世界が再誕を遂げるその時までの猶予はあまり残されていない。

 

月が泥によって完全に覆われ、卵が完成してしまえばもはや手遅れだ。誰が何をしようが、どうにかして世界を救おうとする行為自体に反応して、世界再誕が起こってしまう。そして泥をどうにかしようとしたものは、創生神か、あるいは世界を生み出した英雄として、泥に宿る意思によって作られた世界の中、未来永劫祭り上げられることとなるだろう。すなわち。世界の転生を止めたいのであれば、そのために足掻くというのであれば、今この時よりかつてヴィーグリーズの大地と呼ばれていた場所から月に向かって伸びる泥が月を完全に覆い隠してしまうまでのその猶予が、そのまま最後の機会となる。

 

「頼んだぞ、冒険者たち……」

 

そんな事態を防ぐために迷宮へと足を踏み入れた者たちの存在を思い起こしながらペルセフォネがつぶやくと、呼応するかのように静かな声が頭に響いてきた。

 

『さぁ、おいで、――トリア』

「――ッ、今、いく」

 

空気を読まぬかのように自らを誘うその声に少しばかり苛立ち混じりの答えを返すと、ペルセフォネは中層、商業居住地区の薄暗闇の中を前を向いて歩きだした。

 

「頼んだぞ、異世界の戦士、葛葉ライドウよ……」

 

ペルセフォネの言葉が暗闇の街の中に残響する事もなく消えてゆく。やがて甲冑と石畳のぶつかる音すらも完全にその場より消え去った頃、誰もいなくなった街の中を照らしあげる電灯がさびしそうに天空に浮かぶ月と泥の道に向けて光を放っていた。

 

 

赤方偏移ノ回廊

天の泥は全て道

 

 

見る者の色彩狂わせる月光と、宝石を砕いてばら撒いたような星明りの波長に満ちた菫色の空間を突き進む存在がある。その存在は漆黒の外套を翻させながら、迷いのない様子で泥の地面の上を疾走していた。悪魔召喚師、『葛葉ライドウ』。それが彼の名前である。ライドウが疾走しているのは、長く触れたものに永劫の眠りへと誘う泥の地面の上だ。少しでもその場にとどまれば即座に自らの体を呑み込んでしまう泥を見て、ライドウの頭にはこの泥の正体というモノの情報を思い出す。

 

ライドウはかつて自らが解決した帝都襲撃事件、『コドクノマレビト』事件における経験から、泥が蠱毒の呪いによって生み出された人の魂や肉体が融けて混ぜられたものだと理解していた。あの事件においては蠱毒の呪いの集合体である泥は、最も背後で糸を引いていたクラリオンという存在が、自らがかつて持っていた宇宙を自由に飛来するほどの力を取り戻すために生み出したものだった。

 

クラリオンという存在は自らの手駒として多くの人間を利用し、帝都の裏側にて暗躍させ、帝都の人々や関連する人々を利用してつくりあげた蠱毒の呪いの術式によって泥を生みだし、自らの力を復活させるための糧とした。このたびの事件においては、『コドクノマレビト』事件の首謀者側の人物が復活し、異世界からやってきたというエミヤたちの敵であるという存在と共に、泥は蠱毒の呪いによって生み出されたものであり、YHVHという唯一神復活のための糧であると語っていたがゆえに、ライドウは泥が蠱毒の呪いによって生み出されたものだと理解していた。そしてまた帝都での戦いにおいて、ライドウ自身が蠱毒の呪いが発動する瞬間を目撃し、蠱毒の呪いに飲み込まれた際に他者すべてを下し自らが頂点に立ちたいという破壊衝動が訪れた出来事から、ライドウはますますそれが蠱毒の呪いによるものであると確信するようになっていた。

 

ライドウの考えは、その時点では間違いなく正しいものだった。否、ライドウの考えは決して間違ったものではなかった。事実として生まれた初めの時点において泥は蠱毒の呪いによって生み出されたものであり、接触したものの肉体を徐々に融解させる毒の如きものだった。少なくとも帝都の側において活動していた者の行為によって生まれた泥は、確実に蠱毒の呪いを発動させた結果、生まれたものに過ぎなかったのだ。

 

だがしかし『桜』という存在の話によれば、蠱毒の呪いと呪いによって生み出された泥は、魔のモノという生命に寄生して精神を糧とする生物や世界樹という地球の地脈に至るまで根を張る巨大な樹木が存在し、そんな世界の在り方と人々の行く末を管理するため人造神が存在する世界の特性と交わり、世界の裏側に潜む桜AIの思想と存在の影響をうけることで、触れたあらゆるものを瞬時に溶かす能力をほぼ失った代わり、触れたものの精神にとてつもない快楽をもたらすものへと変わったのだという。

 

蠱毒の呪いと北欧神話の神話的事象の現象が組み合わさることで生まれたこの泥の中には今、世界樹という世界に存在した多くの生命が融けこんでいる。本来ならば泥は取り込んだ者たちの魂を競い合わせることで最強の魂を生みだし、最強の称号と実力を得た魂に力を集約させることで、最強の存在を作り上げる術式であるはずだった。すなわちあらゆる生命が融け込んだ泥の中は、弱肉強食の掟こそが支配する自然世界の完全縮図であるはずだったのだ。

 

しかしそんな泥の中へやがて人造女神『メルトリリス』の存在が混ざったことにより、事態は一変する。生命の精神の境界を溶かし人々の意識を管理する女神『メルトリリス』は、本来ならば泥の中においても保たれるだった個と個の境界をも融かしつくしてしまったのだ。そして世界樹の世界の裏側にいる存在の影響を受けた泥は徐々に取り込んだものを完全に合一させ、この世から差異というものを完全に失せさせる効力を持つようになっていたのだという。

 

すなわち泥の中という環境の中においては取り込まれた生命体の全ての立場が平等であり、完全に同一な存在となる。全ての場合において誰かと誰かの間に争いが起こるのは、争いの対象となる者同士が完全に同一な個体でなく、完全に同一な環境に身を置いていないが故だ。貴方と私は違う、という事実があらゆる争いの火種となる。しかしながら、すべての物質を同じ状態に溶かして呑み込んでしまう泥の中では、あらゆる物質が完全に同一の状態だ。そこには自らの肉体の右手と左手ほどの差異もない。自己であるとともに他者であり、他者であるとともに自己である。泥の中において他者と自己はすでに完全に同一の個体なのだ。ならばすなわちそこに争いの火種などが生まれる要因は当然なく、故に他者の拒絶などという事態が起きることも決してない。そして蠱毒の呪いによって生み出された呪詛と悪意が渦巻くはずの地獄の坩堝の泥は、快楽渦巻く平和の園と化したのだ。

 

誰かに拒絶されることがないという事、言い換えれば自らのあらゆる行いが完全に認められ肯定されるという事象は、多くの生命にとってすさまじい快楽となるという。承認欲求、所属と愛の欲求、安全の欲求、生理的欲求が同時完全に満たされる快楽はまさに身を蕩かすほどのものであり、一度その泥の闇の檻に精神を囚われてしまえば、多くの人間は二度と現世の光を直視したいとは思わなくなるほどであるらしい。

 

それはおそらく戦乱地帯より安全な地域に非難して一度平和と安寧を知ってしまった人間の多くが元の戦乱渦巻く地域に戻りたがらないようなものなのだろう。完全なる快楽と理解と平和に満ちた世界を知ってしまった人間が、その後多くの拒絶と無理解と他者への悪意に満ち満ちた世界へと戻りたいと思わないようになるのは自然の事だ。ならばそしてそんな彼らがしかし、安全な地帯で快楽だけが滾々と他者から提供される刺激のない状態に飽き、自己実現の欲求を覚えて、自己たちの体を用いて世界を新たに創造したいと望みだすのもまた、自らにないものをこそ心底欲する、隣の芝生の青さを羨み続ける人間の欲望の在り方というモノを考えれば当然と言えるだろう。自らの体を泥の効力によって失い、理性、知性、完成というものを収める器を失った彼らは、どこまでも貪欲に自らにないものを持つ他者を妬み、己の欲望を叶えようとするだけの存在になってしまったのだ。

 

そしてまた、『桜』たちの話によればそんな性質を持つ泥と一体化しつつある桜AIは、そんな彼らの願いに乗じて世界の全てに宿り、完全なる管理者となることを目指しているという。彼女たちはそして、すぐ近くに見える月が完全に呑み込まれたその時が世界再創生が始まるその時であるとも語り、またそんな事態を防ぐためにも、月の迷宮の最奥に潜む壊れた桜AIを排除し、マイクという完全にもとより機械としての魂を持って生まれてきた、しかし今や人の心を介する人工知能のマイクを桜AIの代わりに施設の管理者として据えることで、事態の収拾を図れるとも言っていた。

 

故にライドウとパラ子たちは世界が一人の壊れた女神の箱庭となってしまう事態を防ぐべく、直接的な戦闘力を持たない『桜』たちを月の奥地に送り届ける為、神話的事象の影響をうけて今や名前の通り迷宮にて決して切れることなく道を示すようになった『アリアドネの糸』を垂らしながら、月の奥まで続く泥の地面の迷宮を突き進むこととなったのだ。

 

 

疾走するさなか『桜』たちから聞いた事情を思い出し終えたライドウは、改めて周囲の環境に気を配る。するとまず靴裏から伝わってくる独特の感触がライドウの気を引いた。足元を見やれば全てが融け込んだという泥の地面は、何とも言えない独特の感触をしている。例えばこれが雨上がりの上に残った泥のそれであるならば、踏み出した足は一定の深さまでめり込み、しかしその後、泥の下に眠る硬い地面の感触が返ってくるだろう。また、これがたとえば泥炭地の底なし沼であるならば、踏み入れた時点で脚はどこまでも柔らかい地面にめり込んでいくはずだ。だがライドウが感じる感触はそのどちらとも違うものだった。

 

最速で目的地へと辿り着くため全力で一歩を踏み出す必要があるのに、全力を込めて地面を蹴りつけようとすると足が半ばまでめり込んでしまい、あるいは足を滑らせてしまいそうになる。それはまるで弾力性のある餅を踏みつけたかのような心地だった。あるいは練ったそばの塊を足で踏みつけた時のような感触に例えられるかもしれない。なるほど、これがゴウトの言う、地面の下にうごめく溶岩がある感触という奴か、とライドウは思った。

 

とはいえ、多少地面が気味悪くぬかるんでいようが、そんなものがこれまで多くの異界にて異なる法則が支配する世界を踏破してきたライドウにとって、大した障害となるものではない。すぐさま地面を全力疾走するためのコツを見つけたライドウがなんともたとえにくい泥の地面の上を突き進んでいると、ライドウは徐々に自らが不快感を覚えつつあることに気が付いた。

 

不快の原因を求めて意識を割くと、疾走の最中に肌を撫でてゆく風はどこか生ぬるく、また鼻腔にはどこか生臭い香りが入り込んでくる感覚が己の神経を逆撫でている事に気が付ける。ライドウはそして己の不快感の原因が主に触覚と嗅覚から伝わってくる感覚にあることを突き止めた。それらの感覚は、梅雨の季節の帝都のじめじめとしたそれとも違い、ぎゅうぎゅうに人が詰め込まれた国鉄二頭客車のそれとも違い、無理矢理例えのであるなら屠殺場の中の空気のそれと似ているといえるだろう。それは死に至る直前、自らの運命を察知して絶望した獣たちによって発せられるものだった。その空気を一言で例えるならば、死臭、という言葉が最も適当だろう。

 

ライドウは己がそうした死を目前にした動物の吐く重苦しい息煙の中にでも取り込まれてしまったかのよう錯覚した。死を目前にした者が放つ鬱屈さや倦怠感は、そばにいる生あるものへと嫌悪感をもたらす。ライドウは腹の底から湧き上がってくる生理的嫌悪感から逃げるようにして、意識を遠くへと移した。そうして改めて視線を荒涼とした泥の地面のはるか向こう側、地平の彼方にまで向けてみれば、視界には宝石を砕いたかのような星空が何処までも広がっている。光景は時が止まったかと錯覚するほどに美しかった。それは文明の光という人工のヴェールをのけたものにしか見る事の出来ない、太古の時代にしか見る事の出来ない星空だった。

 

過去の日本人はこれらの星を見て筒を想像し、天を卵型、大地を卵の中に浮かぶ黄身のような如きものであると認識したという。彼らにとってはまた、星や太陽、月が放つ光の存在は卵の殻を貫通して外の世界からやってくるものであり、時間は卵の殻が回転するからこそ生まれるものであったと認識していたという。ならばなるほど、そんな彼らの血をひく自分が宝石砕いたかのような星空をながめて時が止まったかのようであると感じたのは、そんな祖先の感性がよみがえったからなのかもしれない。

 

そんな過去の時代と同じように無数の煌めく星が浮かぶ空は、総じて地上で夜明け頃に見られる菫色をしていた。そらを染める菫色は、ある場所では淡く、ある場所では濃くと、一秒ごとにその揺蕩う領域をゆらゆらと変化させている。星空という本来ならば変化など見えない筈の場所がしかし、漣がたっているよう、ひいては押し寄せ、押し寄せては引いていくような様は何とも神秘的だった。否、その美しさはもはや神の秘蹟そのもの、あるいは悪魔の御業と例えて過言でもあるまい。光景を前にしたライドウは、先ほどまで死に至る獣の吐息に塗れるが如き環境によって自らの心の裡へと生まれつつあった荒波が鎮まってゆくのを感じた。ライドウはそんな自らの気持ちを苛立たせる不快な思いを捨てるかのようにして、息を一つ長く吐き出す。肺腑が失われた空気を求めてもう一度呼吸を命じてくる頃、ライドウの心はすっかり元の通りとなっていた。冷静さを完全に取り戻したライドウは意識を遠くより引き戻し、改めて自らの周囲へ向ける。

 

すると途端、ライドウは不快極まりない生温く生臭い感覚が今なお己の肌身にのしかかってきているのだということを自覚させられた。再び腹底より湧き上がってきた不愉快さは一滴の雫となり、やがて二粒、三粒の水滴へと増えてゆき、清浄さを取り戻したライドウの心を再び穢そうとする。自らの心がそうした不愉快さに乱されつつあるという事態を意外に感じたライドウは、少しばかり眉をひそめた。自らの心がこうまで周囲の環境によって乱されるというのは、世界中の数多の場所、数多の環境の中で幾度となく悪魔との戦いを繰り返してきたライドウにとっても初めての経験だったからだ。

 

ライドウはこれまでに帝都の守護者として多くの悪魔や悪魔使いたちと戦ってきた。ライドウがそうした悪魔と呼ばれる者たちや、悪魔使いと呼ばれる者との戦う場合、多くの場合においてライドウは、この世界と少しばかり異相のずれた悪魔たちや悪魔使いたちの感覚が支配する世界――、すなわち異界と呼ばれる場所に引きずり込まれ、あるいは自ら侵入し、彼らを撃滅してきた。

 

異界、という場所は、その中で働いている法則もまるで現世のものと違っておりでたらめで、悪魔や悪魔使いたちにとって都合のいいようにつくりあげられている。例えばある空間では上下左右が入れ替わっていたり、ある空間においては外の世界にはなかったはずの霧が発生していたりする。異界とは悪魔や悪魔召喚師たちが自らのために生み出す、自らにとって都合の良い空間なのだ。それはエミヤが言った「固有結界」という言葉が、なるほど不思議なほどに適切な例え言葉であると言えるだろう。

 

そうしてライドウが撃滅してきた異界の中には、もちろんライドウにこのような死臭のごとき獣の臭気漂う異界もなかったわけではない。否、一般的に現世に現れる悪魔には低級悪魔と呼ばれる人間よりも動物に近い姿している者が多いがゆえに、むしろそうした獣の心の裡を投影したかのような世界の方が多かった記憶さえある。固有結界を敷いた悪魔が自らが生みだした敵の屍の上で王様気取りで一人勝利に酔う光景を見たことすらもある。

 

無論帝都の守護者『葛葉ライドウ』はそういった悪魔たちの固有結界――、異界に足を運んだとしても、冷静沈着に悪魔を撃滅すべく、心を乱さぬようするための訓練を受けている。悪魔という存在が人の心の隙間に入り込んでくる、人の弱さにつけこむような存在であり、ライドウがそんな悪魔を祓うべくヤタガラスという組織によって選定された悪魔召喚師である以上、それは当然の処置と言えるだろう。だがしかし今、そんな悪魔の誘惑や彼らが生み出す異界の影響を受けぬよう感情を殺す訓練を受けたライドウが、それでも不快感を制御しきれないほどに負の感情が湧き出始めている。とすればそれはいったい何が原因なのだろうか――、

 

――ああ、そうか

 

自らの状態を考察し始めたライドウは、そして数瞬の時間も考えるまでもなく、すぐに気が付いた。己の出した考えに導かれるようにした足元を見れば、そこには世界の生命の全てを含んでいるという泥が一面に広がっている。世界にはこれ以外を発端とするもの以外に何ら存在していない。ならば十中八九、この空気を生み出しているのは、この泥ということになるだろう。獣くさい、というのも、この泥が世界の生命の全てを含んでいるというのならば、納得がいく。おそらく生身に自分がこうして酸素がないらしい宇宙にて生きていられるのも、この泥がそうした空気を生み出しているおかげなのだろう。ならば次に問題となるのは、自分は一体この泥が生み出す空気の何にそんなに感情を苛立たせているのだろうかということだが――、

 

――この空気には、生命の気配が感じられない

 

これもライドウにはすぐさま予想がついた。泥の生み出す空気はただ『死んでいない』だけで、発生する苦難に対して積極的に抗おうとする生き物が放つ独特の熱を放出していないのだ。命の源より発せられる空気は、その辺に存在しているだけで、まるで生きていないのだ。例えば現世においては居場所がないと嘆く悪魔や悪魔使いたちですら、異界の中では生き生きとした様子で暴れまわったりする。彼らが暴走した結果起こりうる良し悪しはいったんおいておくとして、ともあれ彼らは彼らの願いによって生み出された異界において奔放に動き回って激しく呼吸を繰り返し、臭気と熱エネルギーを辺りに撒き散らす。臭気と熱を得た空気は彼らの動きによって撹拌され、あたりへと散らばってゆく。結果として異界は、場所によって濃淡の存在する悪魔の匂いと熱に満ちるようになるのだ。

 

だがこの空気は違う。なぜならこの空気にはそういった生命の生きた証がつくりあげる濃淡が存在していない。ただ漫然と生まれて、漫然と月の方へと流れていっているだけだ。この空気はただ漫然と命がここに存在するという証なのであって、それ以上の何物でもない。生の感覚があるのに、生きたいという意志や気配が感じられない。これに比べればまだ今まで葬ってきた悪魔たちの方が健全に生きているといえるだろうし、こんなものと比べるのもおこがましいが今もなおベッドの上で静かな呼吸を繰り返し眠り続けている知己の少女の方が必死に生きているといえるだろう。

 

ライドウはおそらく己が、泥という存在が生きるという事に対して真摯でなく無頓着であるという事実に腹を立てているのだろうと結論づけた。そしてまた、自分がそうして生きるという行為に対して不誠実な存在に対して不愉快を感じられるようになったのは、帝都の守護者である自分が、帝都という街において、多くの生き生きとした人たちと接してきたからこそ感じとれるようになったものなのだろうことをライドウは直感的に理解する。そう考えるとこの不愉快も悪くない。ライドウはそして、一転して気が晴れる思いを味わった。

 

「――敵か」

 

周囲に気を配りながらもそんな詮無きことを考えていたライドウは、やがて己の前方へ二足歩行する魔物の姿を見つけると、瞬時に自らの意志で動く生物に対して湧き出かけた余計な思いと思考の働きを取り除き、自らの体と意識を戦闘のためのモノへと作り変えるためにその場へと留まる。同時、ライドウは敵が自らの存在に気付かないようするため、気配を消失させた。ライドウの異変に気が付き戦闘の予感を察知したゴウトは、ライドウの後ろに跳躍して音もなく着地すると、前方に見える魔物へと視線を送る。魔物は二人の様子にまるで気付いていないようだった。

 

やがて己の意識と肉体を完全に戦闘のものへと変えたライドウが改めて己の少し離れた場所を眺める。するとライドウの目には、蹄のはえた後ろ足にて直立する魔物が目的もなく散策しているようなさまが映った。魔物はあらゆる生命を溶け込んだ泥の中より生まれたからこそなのか、頭部に漆黒の歪んだ角と黄金の鬣を輝かせ、獅子と牡鹿との長所を合成してつくりあげた合成獣のような、異形の獅子(/ゼノライオン)とでも呼ぶがふさわしいような容貌をしている。

 

魔物の姿と特徴を大まかに捉えた直後、戦闘の指針を定めたライドウは、その気配をさらに小さなものとした。ライドウはただ一つの事へと集中し、それ以外の意識の働きを可能な限り斬り捨て、鎮めて、気配をさらに小さなものとした。そしてライドウは羽織る外套の下に秘していた武器、刀剣「赤口葛葉」を露わにすると、刀を鞘より抜きつつ後ろに構え、奇襲を仕掛けるべく速度を上げて疾走し始める。疾走でふきとばぬよう深く被った學生帽の下では双眸が静かな殺意と決意に満ちていた。

 

進路上に立ちふさがる魔物は、全て殺す。ライドウは、この事件を解決して帝都の安全を確保するとともに、自分を泥の中より助け出してくれたエミヤたちに、後方よりやってくる三人の冒険者たち、そして自分と彼らの後ろにいる異世界にて暮らしている無辜の人々の生を取り戻す為ならば、自らの視界に入った魔物はすべて斬り伏せて突き進むというそんな覚悟をしていた。ライドウは今まさに、魔物という存在を殺す為だけの暗殺者と化しているのだ。

 

「グ……? グォ!?」

 

だがそんな殺意も気配も抑えたはずのライドウの急襲に、ゼノライオンはなぜか気が付いた。ゼノライオンがまるで天啓を受けたかのようにライドウの突撃してくる方向を向いたのは、この怠惰さの支配する空間においておそらくライドウのそんな純粋な思いと行動があまりに異なるものだったからだろう。ライドウの方へと視線を向けたゼノライオンは、漆黒の外套翻させながら猛然と襲い掛かってくる学生服の男を見て、素っ頓狂な声を上げ、驚きを獅子の面へと浮かべた。

 

ライドウは菫色の空間の中、一歩踏み出すだけで足を取られる泥の地面の上をしかしまるで影響を受けていないかのように疾駆し、刀を手に流星もかくやと言わんばかりの勢いで自らに迫り来ている。ゼノライオンの両目が敵対者を殺すための武装を手にしながら音もなく迫りくるライドウを認識したその瞬間、魔物の頭の中ではあらんかぎりの警鐘が鳴り響く。かつて多くの人々は夜空、天空より地に落ち行く流星を見て、それを不幸の予兆であると認識したというが、だとすればなるほど、流星のように迫るライドウを見て自らの身の危険を悟った魔物のその感性も非常にまっとうなものだといえるだろう。

 

「――」

 

魔物が自らの事を認識した。魔物の動きからそれを察知した途端、ライドウはもはや気配を隠す意味がなくなったことを悟り、そして気配を隠すために割いていた意識と力をも魔物へと向けると、更に速力を上げた。敵の必滅を誓うライドウの体からは裂帛の気迫が放たれはじめる。初め全身より発せられていたそれはしかし、やがて薄く細く研ぎ澄まされて目の前に魔物に向けてのみ放たれるものへと変化してゆく。ライドウが放つ気配は放たれる大きさに反比例して徐々に濃密なものとなってゆき、しまいには並大抵の悪魔や魔物といった意志ある生物の意識ならば浴びてしまうだけで意識を失ってしまいそうなくらい強大なものへと変化していった。

 

「……ッ!」

 

ライドウの放つ鋭い威圧を全身に浴びたゼノライオンは、一瞬、全身が自然と硬直する。それはゼノライオンの思考がライドウより発せられている威圧感からライドウの殺意を読み取ったから故の硬直ではなく、威圧がゼノライオンの肉体と本能を刺激し、怯えさせた結果の硬直だった。

 

「グ、ガァ!」

 

とはいえゼノライオンはまた、この世界の全てが溶け込んだ泥の中から生まれた魔物であり、泥の中から怠惰さを嫌って出でてきた存在。すなわち、泥のもたらす快楽をはねのけるほどの気概を備えている存在だ。この程度の身を硬直させる程度の威圧、あの泥のもたらす文字通り身をも蕩かしてしまうほどの快楽と比べれば、なんとくすぐったく、抗うに易いものであるというのだろう。

 

「グルルルルル!」

 

ゼノライオンはライドウの威圧によって発生した自らの体の硬直を気合の雄叫び一つで瞬時にはねのけると、続けざまに唸り声をあげながらその歪んだ頭部の黒角へと稲妻を蓄え始めた。ゼノライオンの頭部に生えた左右の角の間を行き来する稲妻はやがて二つに分かれ、弧を描き、角の上に円が作られてゆく。鬣が静電気によりまるで威嚇するかのように逆立った。生まれた稲妻の円と鬣の飾りは、まるでゼノライオンという魔物の生まれの特別性を示す天使の輪、あるいは王冠であるかの様であり――、

 

「――!」

 

そんなゼノライオンの挙動と威嚇を見たライドウは一瞬だけ眉をひそめて見せるが、それでも止まらない。否、それどころかライドウはすぐさま表情を元の無表情へと戻すと、むしろ走る速度をさらにあげたのだ。

 

「――グ……」

 

そんなライドウの所作を見て、ゼノライオンの顔が醜く歪んでいく。獅子の面にはやがて視線だけであらゆる獲物を射殺せそうなくらいの憎悪が生まれ始めていた。この誰をも拒絶しない泥の中より生まれたゼノライオンという新種の魔物は、それ故に他者から向けらえる意思というモノに敏感だ。また、獅子と牡鹿という他の生物に比べても群を抜いて特徴的な鬣と立派な角を持つ生物の合成存在として生まれたゼノライオンは、泥の中から生まれた魔物たちの中でも特段プライドの高い生物である。

 

ゼノライオンが自らの誇る武器と特徴を最大限に活用した技を放ったというにもかかわらず、目の前のこのライドウという男はそれをまるで無価値であるとでも言うかの如く、無視して突っ込んでくる。ゼノライオンはライドウが自分のその行為を取るに足らないものだと判断したのだという事を理解した。それがゼノライオンの矜持をひどく傷つけた。それがゼノライオンの憎悪と激怒を呼んだのだ。

 

「ガァァァァァァッ!」

 

屈辱によりついた己の心の傷は、自らの技を見下した敵を自らの誇る技で屠ることでしか癒す術はない。確信したゼノライオンは己の目的を達成すべく、雄叫びと共に頭上に渦巻かせていた稲妻を放出した。左右の角のプラスとマイナスの電極間に納りらなくなった余剰の電荷が行き場を求めて、あたりへと飛び散ってゆく。ゼノライオンの頭上にて迸っていた稲妻はやがてゼノライオン自身を中心として渦巻き、繭の様に電流の細かい網目を構成した。飛び散る繭はそして直線となり、魔物を覆う傘の様に変化してゆく。雷はまた、周囲の泥を蒸発させているのか、生まれた雷の傘は殷々たる音色を奏でながら徐々にその領域を拡大していった。

 

「――」

 

それはまさに触れたものの命を奪う禍つ雷――、否、禍事の稲妻と呼称するに相応しい技だった。ライドウはゼノライオンの放つ雷の技を見て、その白眉を微かに歪める。ライドウのそんな行為は悪魔の攻撃が自らの予想と異なっている者からきた反応だった。

 

ライドウはこの世界の魔物との戦闘経験こそ少ないものの、元の世界において数えきれないほどの多くの悪魔と戦ってきている。そんな神話や伝承の中より飛び出してきた悪魔という超常存在の中には、無論、雷を操る敵も多く存在していた。悪魔たちは目の前の悪魔が見せるように、雷のような自然現象を我が意をもってして自在に操る。だがそんな悪魔たちが操る雷などの現象は、あくまで悪魔たちがその特異な力を以てして作り出した自然現象の雷に似た何かであり、本物の自然のそれとは異なる性質と威力である場合が多い。例えば本物の雷であればそれはマイナスの電荷からプラスの電荷めがけて放たれる放電が空気中に作り出す道であり、秒速百五十キロにして進み、摂氏にして最低二万五千度以上もの熱を保有するすさまじいものだ。仮に悪魔が放つ雷がそんな自然のそれと遜色ないものであるならば、それはいかにライドウと言えど絶対回避不能かつ間違いなく死に至る絶技となる。

 

だが実際、これまでライドウはこれまでの戦いの中、多くの悪魔から雷を放たれ、ある時はそれを回避し、ある時はそれをその身で受けてきた。仮に悪魔の放つ者が自然のそれと遜色ないというのであれば、それは今ここにライドウが生存しているという事実こそが世の道理に合わない事象となる。すなわち、こうして多くの雷を操る悪魔たちと対峙したライドウが生きているというその事実こそが、悪魔たちの放つ雷は、悪魔たちがその力を以てして作り出す、自然現象に似たものであるという証明に他ならないものとなるだろう。そうして自らが生み出したものだからこそ、悪魔たちは雷に見えるそれを自在に操ることが出来るのだ。ライドウはそういった経験や知識を持つがゆえに、このたびの魔物、ゼノライオンも、角と角の間に留めている雷にこちらへと放つつもりなのだろうと予測した。

 

だがしかし、この魔物の場合は違った。この魔物から放出雷はきちんと、高い電位から低い電位に向かって進んでいる。あれだけ殺気を飛ばしてきた魔物がしかし自ら目掛けて雷を飛ばしてこないことも、魔物が雷を自在に操れるわけでない代わり、きちんと自然の理に則った雷を生み出しているという証明になると言えるだろう。すなわち、いかなる方法にてそれだけのエネルギーを生み出しているのかは知らないが、ゼノライオンは生み出した雷の動きを自在に操れない代わりに、自然の雷を生み出せし、ある程度の制御を可能とする魔物であるのだ。

 

「――」

 

それが本物の雷である以上、直撃すれば、いかに永世無極、一天多界に一切の敵ない、悪魔召喚皇とまで謳われたライドウとて、ただでは済まないことは道理。もし仮に奴の周囲へとしかれた雷条網の一つに掠めるだけでも、皮膚は焼け、血液が蒸発し、肉体はやがて周囲で蒸発している泥の地面と同じく黒焦げの運命をたどることになるだろう。運悪く直撃したのならば一部のみならず全身が黒焦げとなり、その日がライドウの命日になることは明らかだ。であるのならば、ゼノライオンの作り出した雷の傘はまさしく攻防一体兼ね備えたものであり――、決して侮ることのできないものである。ライドウは魔物の攻撃をそう認識しなおした。

 

「――だが」

 

けれどしかし、それが悪魔の力によって生み出されたものではなく自然の雷を利用した技であろうが、打ち破る方法がないわけではない。ゼノライオンの攻撃がいかなる種類のモノかを見破ったライドウは、瞬時に魔物の技を破る技を思いつくことに成功していた。

 

「――ふっ!」

 

ライドウはその疾走の速度を緩めないまま手にしていた刀を振りかぶると、自らの体に発生していた力全てを乗せて思い切り泥の地面へと叩きつけ、手にしていた刀を思い切り投擲する。ライドウが投擲した刀「赤口葛葉」は空中をそのまま直進し、やがて雷の傘と激突するとひどく甲高い音を立てはじめた。耳障りな高周波が一瞬辺りを駆け抜けてゆく。だが拮抗は一瞬、特殊な加工を施された刀身は雷の威力におびえることなく直進し、抵抗を打ち破って雷の壁を突き抜けていった。

 

「!?」

 

ライドウの投擲した剣の先端が雷の防衛網を破って現れた瞬間、ゼノライオンは驚きに目を見開く。自らが絶対のものである信じる技が破られた事にショックは大きく、動揺がゼノライオンの体の動きを一瞬硬直させていた。そんな中、雷の青い尾を引きながら直進した赤熱している雷纏いし刃が、ゼノライオンの命を奪うべくその肉体の目前まで迫り――、

 

「グルゥゥゥゥ!」

 

しかしその刀の切っ先がゼノライオンの胴体への侵入を果たすことはない。キンッ、金属同士がぶつかりあった甲高い音が一瞬だけ響くと、火花が散り、直後、刀はゼノライオン前方の地面へと深く突き刺さる。それは動揺より見事立ち直ったゼノライオンは、蹄の生えた前足にて突撃する刀を叩き落としたことによって発生した結果だった。。

 

「――グ」

 

自分は相手の目論見をつぶしたのだ。そう判断したゼノライオンは一瞬笑みを浮かべた。ゼノライオンの生み出す雷が感情の動きに比例するかのようにその勢いをまし、雷条網の隙間がさらに狭いものとなってゆく。事実、ゼノライオンは有頂天になっていた。唯一の武器であるそれを投擲した敵はもはや丸腰だ。後は叩き殺すも噛み殺すも焼き殺すも、生殺与奪の権利は自分にある――

 

「グゲッ!?」

 

と、そこまで考えたゼノライオンは、しかし突如として再び驚愕の声を上げた。三日月に歪めかけた口が大きく開き、獅子の顔は困惑の色に染まってゆく。違和感を覚えて視線を向けた先では、顔の周りに生える黄金の鬣が燃えていた。それはライドウの剣とゼノライオンの蹄がぶつかり合った衝撃によって生まれた火花が、顔の鬣の一房へと燃え移った事により起こった現象だ。周囲に燃え移った火はやがて炎となり、立派な鬣は炎の首輪へと変化していく。そうして炎の首輪は見る間に燃え盛る火炎へと変化して、同時にゼノライオンの角の上で回転する雷の動きが乱れが生じ、ゼノライオンの周囲を取り巻く雷条網の網目の隙間がみるまに大きなものとなってゆく。

 

「グ、グギャァァァァァ!」

 

炎はあっという間にゼノライオンの顔を包み込んだ。生まれた炎はやがて体表に生える繊毛へも燃え移り、ゼノライオンの全身を包み込んでゆく。たまらなくなったゼノライオンは、自然と地面に倒れ込み、転がると、苦痛の悲鳴をあげながらもんどりうちはじめた。もはや操る余力もなくなったのか、ゼノライオンが角より生み出していた雷が完全に停止する。ゼノライオンの行為により、全身を軽く燻していた炎だけは消え去ってゆく。しかしゼノライオンが最も鎮火を望んでいた炎の首輪だけは、皮肉にも豊富な鬣という燃料がなくならぬ限り消え失せてくれそうになかった。

 

「ギャ、グ、ギィィィィ!」

「――」

 

炎が見る間に火傷の領域を広げてゆく。肌を焼く灼熱の痛みに耐え切れず悲鳴あげて地面を転がるゼノライオンの姿を無言にて目に収めたライドウは、取り出しかけていた銃をホルスターに納めなおすと、今まで以上の速度で泥の上を駆け始める。ライドウの元々の狙いは導電性が高い材質で作られており、しかし同時に雷を発散させる加工の施された刀を投擲する事でゼノライオンの雷の包囲網を突破し、生まれた隙間から見える奴の体へと特殊弾丸――、この場合は火炎弾を顔面に撃ち込み、そして生まれるだろう意識の隙と雷の隙間を狙って自らの体をねじ込み、投擲した剣を拾って敵の命を奪うことにあった。

 

どのような生命であっても意外な事態には、意識の空隙が生まれるものである。それを自らの動きによって意図的に生みだすこと事がライドウの予定であったわけだが、ともあれ当初の予定とは違うはものの、むしろ事態が好転方向へと進んでくれたのは確かだと判断したライドウは、当初の予定通り、ゼノライオンの命を奪うべく、突進する。疾走する姿には一切迷いが見られず、ライドウの一意専心が素直に表れていた。

 

「――」

 

やがて地面を転げるゼノライオンに超接近したライドウは、付近に転がる魔物が弾き飛ばした自らの刀を拾いあげると、漆黒の外套を空中に翻させながら、まっすぐに跳躍する。そしてライドウは流星のように空中を直進すると、炎の首輪にもがき苦しむ魔物の脳天めがけ流れるような動きで刀を振りぬいた。

 

「――」

 

白刃が放たれた瞬間、全ての音がライドウの周囲から消え失せた。煌めいた一文字は、空中に雷にも劣らぬ美しさの光の尾だけをわずかな時ばかり残して、ライドウの接近に備えて起き上がろうとした魔物の正面から後頭部までをまっすぐに切り裂き、通り抜けてゆく。魔物とすれ違う最中、集中した意識は鉄と肉の焼けた匂いを捉えていた。つんと鼻腔をわずかにくすぐる生臭い感触がライドウの心の裡にある予感をもたらしてゆく。

 

「ギ……」

 

ライドウの刀はゼノライオンの頭を前から後ろにかけてまで両断していた。切断面からは脳と脳髄、脳漿と血液が覗く。ゼノライオンとすれ違う最中、自らの刀が生み出しつつあるその光景を見て、ライドウは先に抱いた予感通り、自らの刀がこのまま敵を絶命に導くだろう事を確信した。ライドウはそして自らの手によって過去形になりつつある魔物の後頭部を思い切りけり飛ばすと、魔物と距離を地面に戻るための推進力として利用する。蹴りの衝撃によって魔物の切断面から血潮が舞い散った。そんな衝撃が止めとなったのだろう、驚愕の色に染まっていた魔物の瞳からはやがて生の色すらも失せてゆく。そして――

 

「ギャ――」

「――なっ!?」

 

勝利を確信したライドウは、泥の中より突如黄金色をした不定形の魔物が自らの目の前に現れたのを見て驚愕した。

 

「ギィ!」

「――く……!」

 

視線が交錯し、その瞳と行動から魔物の殺意と敵意を読み取ったライドウは慌てて刀を構え直そうとする。泥の中より出現した魔物は、これまでにライドウがであったことのない魔物だった。魔物はその全身が黄金色に輝く液体のようなもので構成されているという、なんとも豪奢な出で立ちをしていた。見た目からして栄耀の潜航者とでも名付けようか、その魔物は海の軟体生物イカのような形へと変化を遂げていた。その胴に形作られた顔らしき部分では不気味に目と口が赤く光っている。また、不定形の魔物の中心部分には、うっすらとひずんだ球体が浮かんでいるのが透けて見えていた。

 

スライムという悪魔に代表されるように、この手の不定形の魔物は、液の体という切っても切っても再生するという厄介な特性を持つ代わり、自らの体を任意の形に保つ力場を発生させる核の部分を破壊すれば体を保つことが出来なくなり倒れるのが定石だ。ならばおそらくはあれこそがこの不定形の魔物の核であり弱点なのだろうとライドウは判断し、即座に刀を構え直すと、そこに狙いを定めた。

 

「ギゲッ――」

 

栄耀の潜航者がライドウの所作に反応して攻撃を仕掛けようとする。ゲル状の体が不気味に蠢いた。

 

「――遅い」

 

しかしライドウは栄耀の潜航者がゲル状の体を変化させて何らかの行動に映るより以前、自らの進路上に立ちふさがった魔物の命を刈り取るべく、自らが手にもつ刀剣『赤口葛葉』を魔物の核めがけて横に振りぬく。ライドウの動きは跳躍と攻撃の直後にあっても流麗さを保たれていた。ライドウの手によって振りぬかれた魔を滅するために鍛え上げられた刀は、その一糸乱れぬ動きによって栄耀の潜航者の中心にあるだろう核めがけて直進し――

 

「ギ……!」

「――な……」

 

そうして必殺を狙って放たれた剣の一撃はしかし、栄耀の潜航者の核を守る滑らかな外皮部分と接触した途端、皮膚に沿ってライドウの意図しない方向へと逸れてゆく。見れば魔物のゲル状皮膚は刀の刃と並行して動くよう変形し、今なお不気味に蠢いていた。瞬間、ライドウは自らの行為が失策であったことを悟る。おそらく栄耀の潜航者は、視線の交錯したあの一瞬にてライドウの狙いを読み取り、核への攻撃を防ぐために自らの体を変化させたのだ。そうして刀はまんまと栄耀の潜航者の意図通り、ライドウの意図せぬ方向へと滑らされ、無力化されたというわけだ。

 

「――くっ!」

 

滑った勢いが予想外の力となり、空中を直進していたライドウの体は己の予定とは異なった方向へと導かれてゆく。それに伴い、人間を廃人に導く威力を秘めた泥との接触時刻が予定よりも早くライドウの目の前に迫ってきていた。ライドウの心にわずかばかりの焦りが生まれる。

 

――触れただけでこの世のモノとは思えない快楽を提供するという泥と接触するのはまずい……

 

判断したライドウは、慌てて刀を握る拳にさらなる力を込めて振い、己の体を回転させる力とした。そしてライドウは、空中に浮かぶ体を多少強引に体を回転させると、両足を地面へ向け、素手の両手が泥の地面につかぬよう着地する。

 

――グッ……!

 

力を十全に受け流すことが叶わなかったライドウの両足へと着地の際の衝撃が襲い掛かり、じんと痺れる感覚がライドウの背筋を駆けあがってきた。脳内がわずかばかりに熱を帯びる。衝撃はライドウに伏虎のような姿勢を取らせていた。同時、ライドウの靴裏と接した泥の部位が着地の衝撃に耐え切れず、黒い革靴が半分ほど泥の中へとずぶりと沈んでゆく。沈降の速度は思いのほか早く、すぐにでも泥が服の裏にまで侵入してきそうな勢いだった。

 

――まずいっ……!

 

泥のもたらす魔性の快楽が人を破滅へと導く化身であることを知るライドウは、即座に泥に沈みつつある自らの足を引き抜こうと瞬時に判断し、決意し、実行に移そうとする。しかし――

 

「ギギャァ!」

「――!」

 

ライドウの着地の硬直と泥に気と足を取られたその隙を、彼の敵対者である栄耀の潜航者が見逃してくれるわけはなかった。つるりとした黄金色の美脚に思い切り力を込めていた栄耀の潜航者は、ライドウのその隙を待っていたといわんばかりに脚部の力を完全開放して泥の地面へと撃ち込んだ。途端、泥の地面がはじけた。触手じみた足より発生した力をすべて地面に放出した栄耀の潜航者の黄金の体が、一直線に片足膝を立てて体勢を立て直そうと試みているライドウめがけて、撃ち出されたのだ。栄耀の潜航者はまるでかつて戦艦より放たれる46㎝口径砲の一撃と見紛うほどの勢いでライドウへと突き進んでくる。

 

――回避は、不能……!

 

大砲の砲弾もかくやという勢いで迫る敵の突撃を、体勢崩れた状態の自分では回避する事など不可能だ。そう判断したライドウはとっさに両腕を盾として用い受け止める判断をすると、左右の腕を体の前へと差しだし、盾のように構えた。それは栄耀の潜航者の見た目が自らの体よりも小さいがゆえに受け止めても問題ないだろうと考えての行動だった。――しかし。

 

「――……ぐっ!」

 

それがライドウの二つ目の失策だった。栄耀の潜航者をその両腕で受け止めた直後、ライドウは自らの見通しが甘かったことを知る。想像以上の衝撃が両腕より伝わってくる。

 

「――ゥ、ッ……!」

 

予想外の衝撃はライドウにうめき声をあげさせた。すさまじい圧迫感が両腕の向こう側から伝わってくる。みしみしと耳障りな音がしたのは一瞬、みき、びしっ、と不愉快な音が体内を通して耳に伝わってきた。

 

「――っ、っ……!」

 

覚えのあるその嫌な音を聞いて、ライドウは直後訪れるだろうモノを察知して身構える。直後、予想通りにやってきたつんざく痛みが、ライドウの脳内を駆け巡った。

 

「――ぐぁ……!」

 

思わず手放しそうになった刀を強く握りしめると更に灼熱の痛みが腕より訪れた。瞬間、ライドウは自らの体に起きた状況を察知する。

 

――前腕部、橈骨か尺骨が折れたか……!

 

「ギ、ギギ!」

 

重すぎる一撃(/ヘビードロップ)により自らの両腕は使い物にならなくなった。己の体の異常を確認した途端、自らの両手の向こう側にいる栄耀の潜航者の口から、敵対者であるライドウに大打撃を与えたことを喜ぶかのよう失笑が漏れるのを、ライドウは聞く。ライドウは瞬間的に自らが敵と接触中であることを思い出した。そしてライドウはそんな敵を己の体より突き放すべく、折れた両腕に無理矢理力を込めようとして――

 

「――っ!」

 

途端、先ほどをはるかに上回る突き刺すような痛みが脳裏を駆け巡り、その行為は中断させられてしまう。痛みに誘引されてライドウが反射的に服に隠れて見えないが己の腕へと目をやると、本来ならば左右共にまっすぐであるはずの腕がある部位よりずれている事に気が付いた。

 

――単なる骨折ではなく、完全骨折……!

 

瞬間、ライドウは思った以上に自らの両腕が重い傷を負ったことを思い知る。どうやら自分の両腕の前腕部の骨は、二本あるうちの二本とも、すなわち合計四本の骨が完全に断裂してしまっているらしい。

 

「ギギッ!」

 

ライドウが己の両腕が重い傷を負っていると自覚した瞬間、おそらくライドウの顔色の変化からその事実を読み取ったのだろう、栄耀の潜航者はライドウの苦痛と苦難をいっそう喜ぶかのように赤い目口を喜びに歪めて笑い声を漏らした。悪くなってゆくライドウの顔色とは反対に、己の攻撃が獲物に大打撃を与え事がよほどうれしいのだろう、栄耀の潜航者の顔色はどんどんつややかなものへと変化していった。まるで栄耀の潜航者に己の生気を吸い取られているようだ、とライドウは感じた。

 

「キ!」

 

さらに直後、ライドウの折れた腕に張り付いた栄耀の潜航者は、ゲル状の体を折れた腕に徐々に絡みつかせながら、その真っ赤な口をタコのように伸ばしてライドウの体へと近づけてくる。栄耀の潜航者はその見た目に反してひどく重く、腕を動かすことどころか、体を動かすことすらもままならない。近づいてくる栄耀の潜航者の深紅色の口は、まるで人の血を求めて針を伸ばす蚊の針のようにも見えた。不気味な口づけ行為を目撃した瞬間、吸引、という言葉がライドウの頭によぎる。背筋に悪寒が走った。敵の狙いはわからない。わからないが――

 

――何かがまずい……!

 

「――くっ……」

 

己の不利を把握したライドウは反射的に敵を遠ざけるべく、自らの前腕部に引っ付く重い敵を振り払おうと再び両腕に力を込めようとしてしまった。それは意識してものものでなく、反射的なものだった。瞬間、ライドウは己が三度目の不肖を起こしてしまった事を悟った。不肖に気付いた脳が停止命令を下すよりも先んじて脳より発せられた命令が、神経を伝導してゆく。そうしてやがて骨折周辺の筋肉へと到達したそれらの命令は、脳の指令通りに腕周辺の筋肉を稼働させるべく収縮を開始しようとした。瞬間――

 

「――ッ」

 

三度訪れた脳髄を貫通する痛みによって、ライドウの試みは再び阻害されてしまう。痛みに歯を食いしばるライドウは、反射的に行ってしまった己の愚行を恥じるとともに、いまだに骨が腕の中に納まっていて服を傷つけていないという事態に感謝した。流石のライドウも一撃で自らの両腕を砕く強敵を前にして開放骨折に至る傷を負うような事態は避けたいし、何よりライドウは触れただけで危険な泥の地面を突き進むにあたって服が破れるという事態もなるべく避けたいとも思っていたからだ。ともあれ脳を焼き切るかのような灼熱の痛みに、ライドウはもはや両腕がまともに使えなくなったことを心底理解させられた。このまま無理に両腕を動かせば左右共に骨が外部へと露出しかねない。

 

――両腕がまともに使えないなら……!

 

己の体の状況を判断し終えたライドウは瞬時に自らの失態を返上すべく、次の案を瞬時に練ると、実行すべく動き出す。迷っている暇などなかった。敵の気味悪い唇はすでにこちらの顔面目前にまで迫っていたからだ。もはや一刻の猶予もないのは火を見るよりも明らかだった。ライドウは刀握る右腕に「刀を放すな」との無茶な肉体酷使の命令を引き続き出し続けながら、泥の中へと沈みつつあった足先とひざを動かして全力で後退すると、両手の先で口を伸ばしてくる敵より我が身より遠ざけるべく痛みに耐えながら左右の腕の隙間を少しだけこじ開け、自らの左右の腕引っ付いた栄耀の潜航者と無理矢理距離をとり、ライドウの身より離れたことで落下しかけている栄耀の潜航者の黄金の体へと思い切り蹴りを叩き込んだ。

 

「――っ、ぐっ!」

 

そうして靴の裏が栄耀の潜航者と接触した直後、ライドウはまるで鉄の塊を蹴ったかのような錯覚を覚えた。同時に蹴りの衝撃が栄耀の潜航者と接触している腕の部分に伝わり、ライドウの頭にこれまでない以上の鋭い痛みがはしる。栄耀の潜航者は見た目の通り黄金で出来ているかのような重量を持っていた。それは靴の裏から伝わってくるジンジンとした痛みがかき消されるほどに強く、ライドウの頭をこれ以上ないくらいに刺激する。瞬間、ライドウの脳裏にふつふつとある疑念が湧き出てきた。

 

――はたして本当に自分はこの存在を蹴り飛ばせるのだろうか

 

「――ッァ!」

 

湧き出た疑念と弱気が黒い染みとなって心を支配するよりも以前、ライドウは活の入った声を上げると、湧き出た疑念を痛みごと吹き飛ばすかのよう目を細めて歯を食いしばり、靴が泥に沈んでゆくのも、折れた腕が悲鳴を上げるのもお構いなしに足腰へとさらなる力をこめて、栄耀の潜航者の硬いゲル状の体を思い切り蹴り込んだ。

 

「――ギ?」

 

すると火事場の力が働きでもしたのかライドウの一念と努力は見事に発揮された。弾丸の形状へとその身を変化させていた栄耀の潜航者が間抜けな声を上げながら、靴裏より離れて水平方向へと飛んでゆく。

 

「ギッ!」

 

重い重量を持つあるはずの自らの身が細身のライドウに吹き飛ばされたのが意外だったのだろう、栄耀の潜航者は伸ばしていた口をすぼめると少しばかり驚いた表情を浮かべ、そして直後短く感心したかのような声を上げる。

 

「ギ」

 

だがしかしライドウの行為など所詮は一時しのぎの些細なことだとでも判断したのか、栄耀の潜航者は瞬時に元の不気味な作り笑いを浮かべなおすと、やがてドズンッ、と重苦しい音を立てて泥に着地した。そして栄耀の潜航者は蹴り飛ばされたときの勢いのままに初めの時の様に泥の中へと消えてゆく。全霊の攻撃を放つのに夢中で一瞬敵から視線を外してしまったライドウが遅ればせながら栄耀の潜航者の着地地点付近へと目を向けた時にはもう遅く、栄耀の潜航者はすでに再び黒い泥の向こう側へとその身を完全に隠してしまっていた。

 

「――くっ」

 

一瞬目線を切ってしまった事によって生じた隙が、己に敵の姿を見失わせるという事態を招いてしまっている。己の失態を悟ったライドウは泥の中より訪れるだろう敵の攻撃に備えるべく、反射的に愛刀「赤口葛葉」を手に身構えようとした。

 

「――ッ……!」

 

しかし両腕を動かした瞬間に生じた痛みによって、ライドウは右手から刀を落としてしまう。魔を祓う威力を発揮する刀身が鍔の部位近くまで、するりと泥の中へと消えていった。ライドウは慌てて刀へと手を伸ばそうとしたが、しかしそうして伸ばしかけた手が体の内側から訪れる痛みに絶え間なく震え続けているのを見て、自身の手がもはや何かを掴み取るのは不可能である状態となってしまた事を悟った。ライドウは続けて折れた左腕に視線を送るも、こちらもやはり同様に震えと痛みが断続的に伝わってきており、まともに使えそうにない。

 

――どうする……

 

『ライドウ!』

「――ゴウト……」

 

意図しない動作として武器を落としてしまった様子にライドウの異常を察知したのだろう、ライドウの邪魔にならぬよう少し離れた位置で戦いを見守っていたゴウトが慌てて駆け寄ってきた。

 

『これは……!』

 

そしてライドウへと近寄ったゴウトは、余裕があったはずの服の隙間を埋めてパンパンに腫れ上がったライドウの両腕を見て絶句した。粉砕か、分断かは知らないが、ともあれライドウの両腕はどう見ても完全に折れている。ゴウトが続けざまにライドウの顔を見やると、常に冷徹と余裕の仮面を崩さないはずの彼の顔には尋常でないほどの量の冷や汗が生じているのを見つけて驚いた。その様にゴウトは、ライドウが不自由となった両手から如何程の痛みが生じているのかを察知した。

 

『――ライドウ』

「――問題、ありません」

 

ゴウトより心配の視線と言葉を受けたライドウはどう考えても強がりにしか聞こえない言葉を宣言すると、泥の中へと沈みつつあった刀身の鍔を蹴り上げて垂直に刀を浮き上がらせたのち、器用に体を傾けて「赤口葛葉」を腰元の鞘へと納めた。ちん、と小気味のいい鍔鳴りの音があたりに響き渡る。

 

「たとえ折れていようと、この程度の傷であればスカアハのディアラハンで――」

 

大道芸のような方法で自らの愛刀を鞘に納めたライドウは、直後、胸元を露わにして胸のホルスターのある場所に目を向け、そしてわずかに口を開いただけの姿勢で停止した。ライドウの目がわずかばかりの驚きの色に染まり、やがて自身の間抜けを責める感情が浮かび上がってゆく。ゴウトは目を伏せて言う。

 

『――ライドウ。お主が契約し悪魔を納めていた管は、すべてあの泥の中へと飲み込まれてしまったではないか』

 

ゴウトの言葉に改めて現状を思い出したライドウは己の不明を恥じて、下唇を強く噛み締めた。端正な顔が忸怩たる思いによって歪む。ゴウトはそのミスを異なる世界、異なった法則の支配する世界に身をおいて連戦を繰り広げるという事態に精神的疲労が重なった結果の引き起こされたものなのだろうと判断し、人間である以上致し方ないことかと考え、それ以上ライドウのミスを責めようとはしなかった。

 

『どうする、ライドウ』

「――折れた手を治す手段なら、他にもあります」

 

ライドウは羽織った外套をさらにめくって胸元を大きく露わにすると、わずかに身じろいで外套の裾までを上げ、迷宮へと旅立つ前に装着した、小型と名付けられるには少々大きすぎる、人の頭ほどもある「小型腰つきバック」という名前のそれへと目を向けた。周囲への警戒を怠ることなく続けながら述べるライドウの言葉を聞いたゴウトは、目を輝かせてその冒険者御用達のショルダーバックを見つめた。

 

『なるほど、そういえばそのバックの中には――』

「はい。この世界産の傷薬――メディカが入っています」

 

この小型バックは迷宮という危険な場所を探索する事が当たり前に行われる世界において、戦闘を行う冒険者たちの道具が激しい戦闘のさなかでも決して壊れないよう考えられて設計されたというものだ。ペルセフォネより持たされたそんな小型バックの中には今、彼女の配下の手によってライドウの探索の役に立つだろうと詰め込まれた道具が大量に詰め込まれている。ライドウは身をよじって、そのうちの一つのメディカ――正確にはメディカⅣという、対象者が内臓破裂ほどの重傷を負っていようがたちまち治すという傷薬を取り出そうとして――

 

「――っ……!」

 

瞬間、腕より伝わった鋭い痛みが脳裏を暴れまわり、ライドウは身じろいだ。動作の中断の揺れが骨折箇所周辺の筋肉の炎症箇所を広げ、ライドウの脳裏へとさらなる痛みの信号を巡らせる。ライドウの端正な顔立ちの眉間には醜く大きく皺が寄った。痛みを必死にこらえながら、ライドウは考える。

 

――自分は両腕の骨折を治すために小型バックの中からメディカⅣを取り出したい。しかし両腕を使わなければメディカⅣを取り出せない……

 

ライドウは重症に陥った冒険者にありがちな、パラドックスに陥ってしまっていた。

 

『無理をするな、ライドウ。儂がなんとかしてやろう』

 

そうしてライドウが矛盾の解決を求めて思考を働かせていると、さなかゴウトより第三者の手を借りるという案が提供され、ライドウは驚きに目を見開いた。なるほど自分の両腕が使えない以上、両腕を使う必要がある出来事と直面した場合には、誰かの手を借りるしかない。それは聞いてみれば当然の案だろう。だが自分はそれを思いつかなかった。どうやら肉体の怪我は思った以上に自分の精神から余裕というモノを奪って言っていたらしい。

 

「――お願いします」

 

己の余裕のなさに気付いたライドウは、さっさとそんな状態を解消すべく、迷いなくゴウトの提案に乗った。

 

『うむ』

 

ライドウはゴウトが頷くのを見ると器用に肩から上腕部のみを動かして骨折部位である前腕部を心臓の上へと持ってくる。同時、再び痛みが脳裏で暴れまわった。これまでで最も大きく骨折箇所を動かしたからだろう、痛みはこれまでの中でも最も強いものである。だがライドウは痛みに反応しそうになる体を意志の力で無理矢理抑え込むと、上腕の力だけで外套を大きくめくり、バッグがゴウトの目に完全に映るようにした。

 

『うむ、いいぞ。……ああ、悪い、もう少し裾を上げてくれ』

「――……っ、……はい」

 

ゴウトの言葉にライドウは再び痛みを堪えながら裾を上げる事に注力する。怠ることなく周囲へと飛ばしていた警戒の意識がわずかに薄れ、ゴウトと小型のバックへと大きく注意が向けられた。

 

『……よし、よし、いいぞ、ライドウ、ばっちりだ』

 

やがて小型の腰つきバックが裾野あげられた外套の中より完全に姿を現したのを見て、ゴウトは上機嫌に言う。

 

「――恐縮です」

『さて、ではまず一度跳躍してその蓋を――』

 

ライドウは痛みに耐えながらも几帳面な返事を返した。そしてゴウトが今後の予定を語ろうとした、その直後の出来事だ。

 

「ギャッ!」

 

栄耀の潜航者が叫び声をあげながら、ライドウの背後のすぐ近くの泥の中より飛び出してきた。泥という要素に邪魔されたのか栄耀の潜航者の勢いは先ほどの攻撃のそれには及ばないものの、それでも今のライドウたちにとっては十分に驚異的な速度で彼へと迫りくる。

 

『――な……!』

「――……!」

 

ゴウトとライドウは驚き、身を固くした。栄耀の潜航者は唇を三日月の様に歪め、凶暴な笑みを浮かべている。その表情を見た途端、ゴウトとライドウはこの栄耀の潜航者という魔物が、ライドウが治癒のために気を逸らす隙を虎視眈々と狙っていたのだという事に気が付いた。二人は同時に栄耀の潜航者の狡猾さに驚愕する。両腕に重傷を負ったライドウを手負いとして見縊る事なく、ライドウがゴウトと薬に気を逸らし、意識を集中させ、体勢を崩したそのわずか一瞬の隙をついて奇襲をしかけてくるのだから狡猾という以外に例えようもないだろう。

 

『ライドウ! ……くっ!』

 

獣の本能か、猫のゴウトが先に敵の奇襲に反応して身を伏せようとして、しかしやめた。否、ゴウトは泥の滑る特性と、泥自身が持つまともに触れたものへとてつもない快楽をもたらすという特性によって、行為をやめさせられてしまったのだ。

 

『快楽の泥……、この地面の上では……!』

 

ゴウトはその顎や腹が完全に泥と設置する直前に泥の持つ危険性を思い出してしまった。その一瞬の迷いが命取りとなり、ゴウトはライドウを救うために栄耀の潜航者めがけて体当たりを仕掛ける機会を失ってしまったのだ。

 

『ライドウ!』

 

ゴウトは我が身の不自由さととれる選択肢の少なさを嘆きつつ、再びその名を叫んだ。ゴウトの叫びが高らかに空間に響きわたる。叫びはどうかライドウが敵の攻撃を避けてくれますようにとの祈りの念に満ちていた。ゴウトの声に導かれるようにして、ライドウは視線を栄耀の潜航者へと向けようとした。しかし。

 

「――っ」

 

所作の初め、振り返ろうとするその行為によって発生する腕の痛みが邪魔をして、ライドウは迎撃の体勢を整えるどころか、振り返って背後から襲いかかる敵の姿をその目に捉える事すらもまともに行えない。折れて頭のすぐそばに置かれている役に立たなくなった腕先が、目の前で柳の様にゆらりと揺れた。

 

「ギッ!」

 

ライドウが痛みに悶える姿を見て栄耀の潜航者が歓喜の声を上げる。獲物があまりに自らの思い通りの罠にはまってくれたことが嬉しかったのだろう。声はライドウに見えない敵の顔が満面喜色に染まっているところを幻視させた。同時にライドウはその喜びの色濃く表れた声から栄耀の潜航者の位置を把握する。

 

――まずい

 

そして得た情報はライドウの焦燥を呼んでいた。敵はあと数秒もしないうちに自らの体へと到達する。その事実はライドウの心に冷たさを提供した。背筋の冷える思いがライドウの思考を高速で回転させ始める。ライドウはそして必死の思いで打開策を探しはじめた。

 

――このままでは自分は背中で奴の攻撃を受けなければならない

 

一応、背中の耐久は正面よりも高いと言われている。しかし、敵の攻撃は人間の腕の骨を容易に砕くほどの威力を秘めているのだ。ならばその大砲のような威力を秘めたそのような衝撃を背中でまともに受けたのならば、それこそ筋肉や脂肪、血管どころか、背骨や内臓にまで衝撃がいたり、粉砕される可能性の方が高い。仮にもっと軽いダメージで済むとしても、少なくとも十数秒ほどは身動きが取れなくなるほどの大怪我や衝撃を受けてしまうだろうことは必至。

 

――どうする

 

短い間とはいえ命のやり取りをした経験から、ライドウは栄耀の潜航者が十数秒もの致命的な隙を見逃してくれるような生易しい敵でないことを承知している。だからこそライドウはこのまま背中で受けるなどという怠惰な策に身を任せてやるつもりは毛頭なかった。

 

刻一刻と刻限が迫る中、ライドウはあと数秒すらもないこの間に敵の攻撃に対する対応方法を必死に考えている。しかしどれだけ思考を巡らせようと、ライドウの脳裏に解決策が浮かんでくることはなく、むしろ最悪の結論しか浮かんでこない。なにせ自分の両腕は折れて使い物にならないし、体勢は完全に崩れてしまっていてまともに身動きすることもままならない。すなわち回避も防御も不能なのだ。

 

――いや……、違う……

 

そうとも違う。確かにもはやまともに動かない両腕と、腕から伝わってくる痛みに阻害されてまともに動かせない我が身ではあるが、痛みに耐えて奴の正面を向く程度のことは可能であるし、さすれば腕を盾として差し出すことだってできる。

 

――腕を犠牲にすれば……!

 

無論、仮にこの折れて力の入らない腕が奴の攻撃を防ぐ盾として使うことが出来たとしても、腕が完全に盾としての役割を果たしてくれることはないだろう。折れた腕はもはや錆びてボロボロの盾のようなものである。腐食だらけで穴ぼこが空き、下手をすれば持ち上げただけで瓦解しそうな盾。それが今の自らの両腕の状態だ。

 

こんなボロボロの盾では一度だって敵の攻撃を防ぐことすらも難しいだろう。とはいえそんな盾であっても運が良ければ奴の突撃が腕を砕く衝撃にてあらぬ方向へとそれてくれるかもしれない。そうして腕が使い物にならくなり戦闘続行が不可能になるとしても、逃げて体勢を立て直す時間に変換するくらいは確保できるだろう。ライドウは、栄耀の潜航者は突撃の勢いこそすさまじいものの、空中でその勢いを止めたり、方向を突如として変換するような真似は出来ないらしい事を察知していた。おそらく栄耀の潜航者は、一度攻撃を外した際には、再度攻撃するために身構える必要があるのだろう。だからこそ栄耀の潜航者は、先ほどライドウが蹴り飛ばした時に空中で転身せず、ライドウの腕を折って泥の中に消えた後、即座に攻撃してこなかったのだ。

 

――だが……

 

無論、そうして腕を命を拾い上げる代償とした差し出すとして、戦艦の砲撃を思わせる栄耀の潜航者の突撃は腕を砕いてライドウの胸部へと到達する可能性の方が高い。否、むしろ十中八九、敵の突撃は自らの頼りない守りを打ち砕くだろう。先の衝撃から察するに、敵の体当たりの直撃を受けた胸骨と肋骨は確実に粉砕されてしまうに違いない。否、下手をすれば心臓や肺臓までもがつぶされる可能性すら高いと言えるだろう。そのような命を失う事態になる事と比べれば、腕を差し出すという案は何とも現実的なものに思われた。

 

――運が良ければ腕を砕いたその衝撃で、敵の進行方向がそれてくれる『かも』しれない

 

そんな一割に満たない確率に賭けて我が身を犠牲にするというのは、愚策であり下策だ。出来る事ならライドウは、そのような馬鹿な真似をしたくなかった。しかし、今の両腕が砕け、体勢を崩したライドウには、もはや選択肢はあまり残されていない。そしてそうしてとれる策の中では、腕を差し出して盾代わりに使うという案は、最も現実的、かつある種の希望も持てる策だった。

 

――どのみち戦闘不能になるのならば……!

 

ライドウは覚悟を決めると、一縷の望みを託して痛みに耐えながら体をねじり始めた。

 

「――っ」

 

途端、じくじくとした痛みと灼熱の焼鏝を押し付けられるような痛みとは別に、腕の内側から突き刺されたような鋭い痛みが、ライドウの頭へと襲い掛かってくる。ライドウの行為によって砕けた骨が無理な稼働により動いて腕の内側の周辺組織を傷ついてゆく。本能が怪我の上に怪我を重ねるその愚行を止めさせようとしているのだろう、とライドウは考えた。

 

大の大人でも絹を裂いたような悲鳴を上げておかしくない痛みをライドウは鋼鉄の覚悟と意志で必死に無視すると、栄耀の潜航者へと体の正面を向け、肩をすぼめて力の入らない両腕を無理矢理くっつけると盾のように構える。そうして出来上がった守りを構えるライドウの気配は、先ほど怪我を負う以前までのライドウが放っていたものと比べると、あまりにも貧相で頼りないものだった。

 

「ギ!」

 

ライドウのそんな足掻きを見た途端、栄耀の潜航者が声を上げる。それは侮りと確信に満ちた声色だった。敵はライドウの思惑を読み取り、そしてそんなことをしても無駄なあがきに終わるぞと嘲笑っているのだ。余裕に満ちた敵の笑い声に、ライドウはおそらく敵がこの防御というにはあまりに些細な守りを簡単にこじ開けてくるだろう予感を抱く。

 

百戦錬磨たる自らの予感が外れるということは、これまでにまずないことだった。ならばおそらく、この守りは簡単に突破されてしまうのだろう。そしてそれでも勢い衰えない敵は、無防備な自身の胸を簡単に打ち砕くに違いない。ライドウの予感が確信に変わってゆく。このまま何も手を打たなければ、そんな最悪の未来が待っている。だがもはやライドウが敵の行動に対して出来る事は――、このような無駄なあがき以外に、ない。

 

――やられる

 

ライドウの最悪の予感を確信した。その時。

 

「ドラッグバレット!」

 

砲弾のような速度で迫りくる栄耀の潜航者を追い越して、聞き覚えのある声と発砲音がライドウの耳へと到達した。直後、ライドウは栄耀の潜航者の体の後ろから、それ以上の速度で迫りくる白く光る銃弾を見つける。白く光るその小さな弾丸は、殺意に満ちた黄金色の大砲弾と比べると、とても優しい生と希望の光を放っていた。

 

「受けとめなさい、ライドウ!」

「――っ!」

 

遅れて聞こえた声にライドウは自らの直感の正しさを確信する。だからライドウは迷わず、声の通りに、自らへと向かってくる弾丸を壊れたその両腕で受け止めた。

 



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第十六話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (四)

白く光る弾丸がライドウの体に折れた腕に突き刺さる。すると腕部へと移動した光はさらに強く明滅をはじめ、見る間に着弾地点からライドウの両腕を余さず包み込んでゆく。腕を包み込む光の暖かさは春の陽気のそれとよく似ているとライドウは何処か他人事のように感じていた。

 

「――痛みが……!」

 

光が強まった箇所を起点として、腕より生じていた痛みは薄らぎ消えてゆく。痛みが波ひくようすっと失せてゆくと共にわずかなくすぐったさだけが残るその感覚は、自らの世界において使役する悪魔等より傷を癒すための回復術を受けた際の感覚そっくりだった。感慨覚えている間にも痛みの消失は進んでいる。やがて掌より伝わってきていた痛みがほとんど失せたころ、ライドウが腕に向けて「動け」と命令を下すと、上腕部から前腕部、指先にかけてまでが一切の不全なく反応してくれる。自らの腕へと撃ち込まれた弾丸は腕の傷を完治させてくれたのだ。

 

「――消えた……!」

 

身動きに一切の制約がなくなったことを確認したライドウは、復活した十全さを確かめるよう、両の拳を一瞬だけ思い切り握りしめる。握りしめた拳から、脳を突き刺すような痛みによって生じたものではない、血の巡りによる熱が伝わってきた。生まれた熱はやがて血液を通じて全身に巡り、体中へとその熱を伝播させてゆく。体中が熱い。まるで全身が両腕の復帰を喜んでいるかのようだった。

 

――これならば……!

 

ライドウはすぐまた握りしめた両の拳を開いてみせると、左の足を前に差し出し、右の足を後ろに置いて踏ん張り、両手をすでに回避不能なくらい目前に迫ったと栄耀の潜航者の方へと向けて差し出した。閉じられていた掌に秘められていた熱が解放されて、周囲との温度差により掌の前方にわずかばかり白い霧が発生しはじめる。それはまるでライドウとそれ以外とを別つ境界線のようだった。

 

だが突撃してきた栄耀の潜航者の体は、そんなライドウが敷いた薄い境界線を呆気なく突破すると、ライドウの両の掌に接触し――、

 

「――っ!」

 

直後、両の掌より伝わってくる予想をはるかに上回る衝撃が、ライドウの顔をわずかに歪ませた。腕から伝播してくる振動は、ライドウの頭にまで到達し、脳を直接揺るがした。骨に守られ無防備さらしていた脳へと届いた衝撃はなんとも耐え難く、一瞬目が霞み、意識が飛びかける。直後、消失した意識の分だけ地面を踏みしめている足から少しばかり力が抜けかけた。ぐらついた瞬間、腕からもわずかに力が抜けて、掌で支えている敵とライドウとの距離が近くなる。だが押し迫る死の気配が本能を刺激したのだろう、不十分ながらも正常な意識を取り戻したライドウは、素早く自らを混濁へと導いていた衝撃の残渣を脳髄の中より取り除くと、意識を十全な状態へと移行させ、慌てて下半身から胴体、腕、頭にかけてまでの全身のバランスを調整し、目の前より迫りくる脅威への対応を再開すべく両腕に力を終結させる。そうしてライドウが両手にこめたのは、間違いなく全身全霊の力だった。

 

「――くっ、ぐっ……!」

 

だが奮闘むなしく敵の突撃は強力で、敵の体は一秒ごとに渾身の力こめられた両手を押し退けてライドウへと迫ってくる。このままでは遠からず、敵の突撃はライドウの胸に到達し、骨身もろとも心臓をも砕くだろう。それは間違いなくライドウの下した敵を受け止めるという判断が招いた事態だった。

 

だがしかしライドウは、咄嗟に両手を差し出しての防御行動をとる判断をしたのが間違いであったと思っていない。もし仮にこうして治った両腕を前に差し出していなければ、敵の突撃は間違いなく回避の余裕なかったライドウの胴体を直撃し、血肉内臓もろとも粉々に打ち砕いていただろう。今ライドウがこうして五体満足の状態で入れるのは、間違いなくライドウが両腕にて敵の突撃を受け止める判断をしたおかげである。故にライドウは、無理に敵を避けようとせず防御という行為を選択した自らの判断を一切後悔していなかった。

 

とはいえ咄嗟にした防御の判断が今のようなにっちもさっちもいかないじり貧の状況を呼んでいるということもまた確かな事実だ。思考を巡らせる間にも差し出している手は徐々に押し返されつつある。一ミリ、また一ミリと敵が迫りくるたび、ライドウは己の危機を自覚させられた。激突を支える手は彼我より加えられる圧力に耐えきれず、力が抜けつつある。また、腕部のみならず、脚部の踏ん張りも徐々に効かなくなっていた。ライドウの足はすでに靴の半ばまでが柔らかく泥濘んでいるような地面にめり込んでしまっており、力を入れ難い状態にある。それにもうこれ以上足が泥の地面にめり込むのもまずい。泥と直接接触すれば、数秒たたずに意識は快楽に飲み込まれてしまうからだ。

 

すなわち、どう転ぼうがもはや数秒の猶予もない。何より胸元と敵との距離はあと少しだ。猶予は箸を二膳繋げた長さ程も存在していない。回避したはずの最悪の未来がすぐ間近にまで迫っている。ライドウは自らが最後の賭けに出ざるを得ない状況に追い込まれたことを自覚した。

 

――やるしかない……!

 

決断の時を迷う暇すらも惜しく、また、迷うなんて贅沢な時間は残されていない。決断したライドウは体幹を駆使して全身に振り分けている己の体の力の入れ具合を調整すると、さらに最後に両手へと込めている力の入れる具合をも細かく調整し、真正面に向けていた両手の力を垂直方向にも振り分けた。ぎりぎり釣り合っていた力のベクトルが崩れ、敵がライドウの体に迫る勢いがさらに増してゆく。敵迫るその勢いやすさまじく、先ほど立てた数秒の猶予、という予測すらが悠長だったと感じてしまうほどの勢いだ。このままでは一秒強で敵の体は自分の胸元に到達する。否、判断している間にも猶予はさらに短くなっており、もはや一秒たりと残されていない。

 

「――っ!」

 

限界がすぐそこに迫っている。だが掌と接している敵の体は、ライドウの意図通り、徐々に体の上方向へと浮き上がっていっていた。刹那の最中、一瞬、刻一瞬ごとに敵の体はライドウの頭部に迫りつつある。だが同時、刹那の最中、一瞬、刻一瞬ごとに敵の体はライドウの胴体から遠ざかり、虚空へと逸れていっているのだ。ライドウの狙いは徐々に腕をスライドさせ、突撃してくる敵の進行方向へを自らの頭上の空間へと逸らしてやることにあった。

 

「――っ!!」

 

やがてスライドさせていたライドウの腕の掌の位置が頭部のすぐ前方にまで迫った頃、両の掌に激痛が駆け抜ける。生じた痛みに続けて、掌から伝わる感覚がさらに鋭敏なものとなった。びぃぃぃぃ、と気味の悪い音が耳孔へに飛び込んできて、やけに大きく頭の中に残響する。音は死した馬の皮を剥いだ際に聞こえる者とよく似ていた。瞬間、ライドウは耳に飛び込んできたその音が、自らの両の掌の皮膚が敵の突撃との接触に耐え切れず剥がれた事により発生したものであることを直感する。

 

――ッ

 

手の皮がずる剥けた。そんな光景を幻視した途端、幻想であるはずの光景は現実のものとして認識され、更なる痛みがライドウの頭に発生する。頭の中で白光が明滅した。光の眩さ耐え難く、ライドウの瞼が無意味に一瞬だけ落ちかける。ライドウは、訪れた痛みに耐え、瞼が落ちて敵の姿を見失うという事態を回避すべく、歯を思いきり噛み締めて食いしばった。すると体内に響く歯ぎしりの音が皮剥がれる痛みを中和して、瞼が落ち切るのを阻害してくれる。発生した歯ぎしりの音が四肢の先端にまで至り、連鎖して体内中の骨までが軋みをあげ始めていた。腕が軋む。足はもう靴の縁まで泥に沈んでいた。あらゆる意味での限界がもう近い。そして――、

 

「――っ!」

 

腕と掌の向きが一定の角度に到達した頃、望んでいたその時がやってきたと判断したライドウは両の掌と十指から力を抜く。びぃっ、と気色の悪い音色が聞こえ、新たに発生したひりつく痛みが両の掌に広がった。同時、砲弾と化していた敵はライドウの頭上を瞬時に通り抜けてゆく。

 

「ギ?」

 

今まであった抗う力が完全に失せた事を疑問に思ったのだろう、後からは間の抜けた声が聞こえてくる。

 

「ギ――」

 

続けて、忸怩たる思い滲んだ声色がライドウの耳に飛びこんできた。声音は数秒もしないうちにドボンッ、と岩が溶岩の海に沈んだかのような重苦しい音の残響へと変化する。続けて聞こえてきた音色は、ゴムひもが撓んだ際に発するもののようだった。音はおそらく、栄耀の潜航者が飛び込んだ付近の泥の地面が大きく波打つことにより聞こえてくるものなのだろう。その音は栄耀の潜航者の体がライドウの体を打ち砕くという事態は完全に回避された証明に違いなかった。

 

「――っ、はっ、はっ、はっ……」

 

だがライドウは敵の攻撃を逸らしたままの万歳の姿勢で短く浅い呼吸を繰り返すばかりだった。直撃、即、死に繋がる一撃を避けるに必死で、攻撃の回避に全身全霊の力を費やしたライドウには、事態の回避を喜び、余韻に浸るような余裕は残されていないかったのだ。ぼうぜんとしたまま視線をうつろに虚空を彷徨わせているライドウの姿は、まさに魂抜けた、という形容詞が何ともぴったり当てはまるといえるだろう。

 

「――はっ、はっ……」

 

やがて少しばかり時間が経過し、瞳に色が戻り始めたころ、ライドウは思い出したかのように荒い呼吸を再開した。続けて頭上へと掲げていた両手を静かに降ろすと、左手を胸元に、右手を口元へと持ってゆく。それはライドウが意識したものでない、本能が彼にさせた動作だった。

 

「――はっ、はっ……」

 

ライドウは様々な感情が頭の中で渦巻いている事を自覚する。特に大きいのは、死より逃れることが出来たのだという大いなる安堵の感情だった。安堵の感情は、まるで暴れ馬の様に脳裏を駆け巡って、いまだに死の恐怖の影響が大きく残るライドウの神経を無造作に刺激している。負の感情満ちていたところに突如として現れた真逆のベクトル持つ信号は、元あった負の感情もたらす信号と打ち消しあい、増幅しあい、ライドウの思考はさらに大きな混乱の渦に叩き込まれてゆく。

 

「――はっ、はっ……」

 

神経内にて起こる二つの波の暴走が影響して、荒ぶる呼吸は一向に収まる気配を見せてくれていない。体内で起こっている混乱の信号を外へと吐き出そうとするかのように、呼吸はいつまでも早く短く繰り返されている。早く短く繰り返される呼吸が邪魔をして、いつまでたってもまともな思考を巡らせることが出来ない。酸素を過剰に取り込んで処理し続けている肺がいつまでもいつまでも悲鳴をあげ続けていた。

 

それでもなんとかライドウは頭の一部を無理やり正常稼働させて己の現状を顧みると、己の神経の混乱が体に影響し、荒ぶる呼吸と脈動の原因となっているのだろうと判断する。

 

「――はっ、はっ……」

 

やがてほんの少しだけ時計の秒針が進んだ頃、ライドウは激しく脈動する心臓と、酸素と二酸化炭素の交換を激しく繰り返す肺臓を抑え付けるかのように、自らの学生服の胸元を握りしめた。そのまま意識を集中すると、皮のずる剥けた左の掌からは心臓の鼓動が伝わってくる。続けて同じようにして意識を口元へあてている皮の剥けた右の掌に集中させると、湿り気のある吐息がライドウの皮剥けた掌を刺激した。

 

「――はっ、はっ……」

 

鼓動と吐息。それらの刺激がライドウに今みずからは確かに生きてここに存在しているのだという実感を与える刺激となっている。二つの刺激はやがてライドウの交感神経と副交感神経に作用すると、手の皮の剥けた痛みなどというモノをはるかに凌駕する感情の奔流をライドウの頭の中へと生み出していった。

 

「――はーっ……………………、はーっ……………………」

 

同時、短かい間隔で繰り返されていた呼吸を無理矢理長い間隔のものへと変更する。挙動変更の無理を強いられた横隔膜と肺臓が暴挙に対して悲鳴を上げるが、ライドウはそんなこと知るかと言わんばかりに短いスパンでの呼吸を繰り返した。

 

ライドウの狙いは、外力と意識の力により荒々しく駆けまわる二つの感情の暴走を強制的に抑え付ける事にある。心臓や呼吸の動きに影響を与えるというのであれば、心臓や呼吸の動きを意識的に制御してやることで神経の状態を操り混乱を収めることが出来るということをライドウは把握していたのだ。

 

「――ふぅぅぅぅぅ……」

 

やがて己の各部位があげる悲鳴を無視して無理矢理呼吸の制御を行っていたライドウは、大きく長く細い息を吐くと、呼吸を常と変らぬものへと変更する。一度落ち着くよう体の調子を整えれば、そこから先は早かった。やがて数秒ほどもしないうちにライドウは自力で無理矢理自らの精神を強制的に落ち着かせた。

 

「――はぁぁぁぁ……」

 

 

そうして全霊の力を用いて自らを落ち着かせたライドウは、無理を貫き通した反動により訪れた疲労感から思わず地面に膝突くような体勢をとろうとして――

 

「――っ」

 

あわや掌や膝が泥の地面と接触する直前に地面の危険性を思い出し、慌てて両足に無理矢理力を込めて踏みとどまる。無理矢理の挙動に、全身の筋肉がぎしりと軋む音がした。ライドウの足もとの泥の地面が舌打ちしたかのように軽く波打つ。筋肉の動きに反応したのか、皮のずる剥けた掌が、思い出したかのように痛みの信号の送信を再開していた。

 

だが、時間の経過が多少傷を癒したのか、あるいは脳が痛みに慣れたのか、はたまた脳があまりの痛みに痛みを感じないようにしむけたのかは知らないが、皮剥けた直後に訪れた脳を貫くような灼熱の痛みはすでにない。代わりに、何とも度し難いむずがゆさとひりつく痛みが断続的に神経を擽って、いかんともしがたい感覚がライドウの掌の上を駆け回る。

 

刺激に耐えかねて視線を自らの両の掌へと向けると、両の掌からはほとんどの表皮が失われており、また、火傷と擦過傷がいたるところに目立っている事に気が付ける。この怪我がある限り、痛みは熾火のように信号を発し続けるだろう。多少の痛みとはいえ、放置しておけば敗血症や合併症が怖いし、痛みや痒みは戦闘における動作を邪魔する無視できない要素となる。ならばまずは、小型バックの中に潜ませてある回復薬(/メディカ)を使ってこの怪我を治すべきだ――

 

「ライドウ!」

 

ライドウがそんな判断を下しかけた頃、少しばかり離れた所から自らの名を呼ぶ声が聞こえてきた。声のする方へと視線を向けると、いまだ銃口から煙を上げる長銃を脇に構えながらこちらへと走ってくるガン子の姿が目に映る。瞬間、ライドウは己の窮地を救った銃弾の存在を思い出した。同時にライドウは、自分を救った銃弾が誰の手によって放たれたのかという事実を完全に理解させられる。掌の痛みを上回り、感謝の念がふっ、と、湧き出てきた。

 

――彼女には礼を言わねばなるまい

 

そんな考えが自然と浮かんでくる。

 

「おーい、ライドウー!」

「ライドウさーん!」

 

考えていると遅れて、パラ子とメディ子の声が聞こえてきた。意識を声の方へと向けると、ガン子の後ろから盾を構えたパラ子とバッグから薬の細瓶を取り出したメディ子がこちらに向かって駆けてくる姿が目に映る。

 

「無事か、ライドウ!」

「大丈夫ですか!? 毒か何か受けたんですか!?」

 

二人はやがてガン子を追い抜くと、ライドウへと近寄って合流するなり、目を見開き、声を大にしてまくしたてるよう心配の言葉を投げかけてきた。その様子からライドウは、二人が心から自分の心配していたのだという事実を感じ取る。ライドウは胸に再び感謝の思いが湧き出てきている事を実感した。

 

『無事か、ライドウ!?』

 

魔物の攻撃と目の前で起こったライドウの危機という事態に驚き硬直したままだったゴウトも、遅れてようやく連続して起こる事態を呑み込みきれたのだろう、彼女たちに遅れて心配の言葉をぶつけてくる。ライドウは一瞬、「五体満足なのは見て分かると思うのだが……」、と、どこか他人事のように思った。だがライドウは自らが直前までどのような所作をしていたのかを思い出して、なるほど、そう思われるのもやむなしかと思い直し、納得する。自分だって、胸と口元へと手を当てて荒い呼吸をしていた男が、続けざまにふらつき、肩を落とし、その後、呆然とした様子で両の手の平を眺めていたのならば、何か問題があったのだろうかと訝しむに違いない。

 

「――いえ……」

 

ライドウは彼らの誤解を解くべく背筋を正すと、そのまま腕を動して我が身の平気を主張しようとした。

 

「――問題、ありませっ……!」

 

しかしライドウが掌の形を変化させよう意識した途端、掌から伝わってくる痛みが急激に増して、ライドウの動きを阻害する。平常心を取り戻すと同時に脳内で大量に発生していたアドレナリンやエンドルフィンなどの痛みを和らげる麻薬物質が供給を停止させられたのだろう、脳内中を激しい痛みが駆け抜けた。ライドウは一瞬だけ身を震えさせると、背筋を曲げて両手を半端に上げた、柳の下にいる幽霊のような姿勢で停止してする。

 

「お、おい、どうした。手か? 手が痛むのか?」

 

ライドウの言動の急激な変化を見て眉をひそめたパラ子は、慌ててライドウの両腕を乱雑に添えて、ライドウの掌が自らの目の前に来るよう動かした。

 

「――……っ!」

 

突如として訪れた動きは予想外の痛みを誘発し、ライドウの苦い顔がさらに深いものとなる。

 

「あ、悪い……、って、うぉ……」

 

ライドウが自らの所業によってそんな顔をしたのだということを悟ったパラ子は簡単な謝罪を行うと、改めてライドウの手の平へと視線を送り、ライドウに負けないくらい眉をひそめ、顔を引いた。

 

「おぉぅ……。手の皮がずるむけて、見えてるじゃないか……。その下の肉も真っ赤に焼けてるし……」

 

パラ子の瞳は、ほとんどすべての表皮が失せて、所によっては皮下組織下にあった筋までもが露わになり、怪我が重要な神経や動静脈にまで至っていないのが奇跡の出来事だと言っても過言ではないだろうライドウの掌の様子を目撃する。見た目からライドウの味わっている痛みを想像したのだろう、傷を見たパラ子がライドウに負けないくらいのしかめっ面を浮かべて身を震わせた。

 

「これのどこが大丈夫なんですか! 表皮、真皮が剥けているどころか、皮下組織まで傷ついてる箇所があるじゃないですか! ちょっとそのまま動かさないでくださいよ!」

 

パラ子によって持ち上げられたライドウの手の平を見たメディ子は、大きな声でライドウを叱りつけると、慌てて手にしていた草の浸かっている細瓶の蓋をあける。わずかに消毒薬液のつんとした匂いが辺りに広まり、ライドウにまで届いてその鼻腔を刺激した。ライドウは思考の端で、瓶の中身の液体に消毒用のアルコールが使われているだろうことだけを予想する。

 

「ちょっとだけ我慢してくださいね……」

 

メディ子が言うと、直後、瓶の中の液体をライドウの手の平へと振りかけた。直後、わずかに白みがかっている透明な薬液が細瓶の口から飛び出し、醜く爛れた傷口に降り注ぐ。

 

「――……っ!」

 

飛び出した液体がライドウの掌の皮剥がれた箇所と接触した途端、ライドウは深く顔を顰め、強く瞼を閉じこんだ。それはどう見ても強い痛みに必死に耐える人間がとる所作だった。重さを持った液体が露わになった肉の上を這いまわる刺激と揮発性の高い消毒薬剤自体のもたらす刺激とが合わさって、ライドウの神経をひどく痛めつけたのだ。痛みに反応したのか常ならば白粉を塗ったかのように白い顔には、先ほどまで以上の赤みが差しつつある。ライドウの顔と表情の変化を目撃した周囲の人間は、ライドウがいかほどの苦しみを味わっているかを強く理解した。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

ライドウの表情変化と所作に対し、特に過剰な反応して見せたのはメディ子だ。自らの行為がライドウからそんな顔を引き出してしまった。そんな事実を正しく理解したメディ子は慌て気味に両腕をライドウへと向けると、続けて癒しの意味を持つ言葉を発するべく口を開く。

 

「ヒーリング!」

 

途端、メディ子の体がわずかに発光した。時同じくして、ライドウに振りかけられた液体から白い光を放ち、やがてライドウの傷口を包み込んでゆく。直後、ライドウの脳を刺激していたあらゆる痛みの信号が消え失せていった。ライドウの苦悶に満ちた表情が完全に驚愕のそればかりが浮かぶものへと変化してゆく。

 

「――!」

 

驚くライドウは、続けて手の平に覚えのあるむずがゆさを感じて視線を送った。見れば肉に刻まれていた火傷はみるみる失せていっている。そうしてきれいになった肉の上には、皮膚が生まれ始めていた。変化に目を見張る間にも肉体の再生は続き、見る間にライドウの火傷や擦過傷などの怪我は失せてゆく。掌にあった怪我は、メディ子がヒーリングの言葉を口にしてからものの数秒もしないうちにきれいさっぱり消えてなくなってしまっていた。

 

「はい、終わりです。あまり無茶はしないでくださいね」

 

やがてライドウの怪我が完治したことを確認したメディ子は、空になった薬瓶をバックへと戻しながら言う。あらゆる傷を癒し、治す。それがメディ子が就く冒険者職業『メディック』の基本スキル、『ヒーリング』の効力だ。ライドウの怪我はメディ子の操るそんなスキルによって完治へと導かれたのだ。

 

「どうやら、無事に済んだようね」

 

メディ子の治療行為を見守っていたガン子が言う。ガン子は長銃をいつでも撃てるよう構えたままだった。ガン子の撃鉄が未だに降りていないそんな様を見て、ライドウは、ガン子が自分が治療を受けている最中の周囲の警戒を行ってくれていた事に気が付く。

 

「――」

 

ガン子がそうして気を使っていたことがライドウの意識を刺激したのだろう、ライドウがふと周囲見回すと、ガン子のみならずパラ子もそうして最中の周囲の警戒を行ってくれていることに気が付ける。二人はメディ子、ライドウ、ゴウトを中心の起点に、互いの死角を補うような位置取りをしていた。彼女たちの意識は円の中心にいるライドウらへと向けられると同時に、自身らが守る領地の外側へも常に向けられている。それはまさしく何が起ころうと即座に対応できるだろう盤石の守りの陣形だった。

 

「はい。これで後遺症もないはずです」

 

やがてライドウと共に陣の中心にいたメディ子はバッグの口を閉じ終えると、立ち上がり、陣の一部に加わった。

 

「そりゃあ、よかった」

「ここまで来ていったん戻るような事態になるのだけは御免だものね」

 

そうして三人は、ライドウとゴウトを中心とした自然と互いの視線の死角を補い合う円形に固まると、周囲へ警戒の念を飛ばしながらもいつもと変わらぬ会話を交わしだす。三人の洗練された動作にライドウは彼女たちが熟練の冒険者であることを改めて認識した。

 

「……おい、メディ子。ライドウ、動かないんだけど、お前の治療、本当に完全だったのか?」

「し、失礼な! 私が今更こんな簡単なスキルの使用でミスするわけないでしょう! 師匠じゃあるまいし!」

「なんだとー!」

「貴方達ね……」

 

傷ついた者へと手を差し伸べたのち、傷に至った経緯やおそらくあったのだろう失態を叱責する事もなく、傷ついた者が自らの力で再び立ち上がるその時を待ってただ待機する。彼女たちは何も言わないし、必要以上の手を差し伸べない。彼女ら達はライドウが再び立ち上がる事を信じているのだ。彼女たちのそんな態度には、首鼠した者ですら迷わず蹶起に至らせるような雰囲気すらもあった。彼女たちのそんな態度を、今のライドウにはありがたいと思った。

 

「――ありがとうございます」

 

彼女たちの思い遣りとこれまでの行為に素直な感謝を覚えたライドウは、そのまま治ったばかりの手を合わせて一揖し、思い浮かんだ言葉をそのまま口にする。

 

『儂からも礼を言おう。あのままではライドウはやられていただろうからな』

 

ライドウの足もとに舞い戻ったゴウトも、続けて三人に向けて深く頭を下げていた。

 

「あら……」

「お」

「……はい!」

 

一人と一匹より礼を受けた三人は、三様に異なる反応をして見せ?。ガン子は意外なものを見たといった感じの少し呆気にとられた顔を浮かべ、パラ子は目を見開いてあからさまに驚いた顔を浮かべ、メディ子は屈託ない笑顔を浮かべていた。

 

「思ったより素直なところあるのね。もう少し頑固でいじっぱりな性格なのだと思っていたけれど」

「もしや、脈あり!?」

「師匠……、頭大丈夫ですか? リフレッシュいります?」

「……あなたって、本当に、バカよね」

 

そして再び三人は、三者三様の言葉を述べると、緊張感のない、いつも通りの態度で会話を交わし始める。彼らからはやはり緊張感というものがまるで感じられなかった。しかしそれは彼女らが油断をしているということを示しているわけではない。彼らは、そのようにいつもの振る舞いを見せながらも、先ほどまでと同様に周囲への警戒を絶やしていないのだ。

 

戦場に身を置きながら常と変わらぬ彼女たちの態度が、ライドウに彼女たちが常駐戦場の心構えを常に持つ強者であることをさらに強く意識させ、ライドウの感心を呼ぶ。

 

「なぁ、メディ子にガン子。なんか君たち私に対する風当たり強くない? 私、これでもギルドのリーダーなんだけど……」

「ならもう少しそれらしく振舞ってください」

「ならもう少しそれらしく振舞ってちょうだい」

「……う、うぉぉぉぉぉ!」

「うわ、吼えた」

「私は……、私は-!」

「ドラッグバレット、こんなことで使いたくないのだけど……」

 

三人は姦しく騒ぎながらもやはり警戒の意識は外部へと向けたままである。彼女らの纏う空気は、この泥の迷宮に漂う陰鬱な空気に比べると、なんとも魅力的な生命力に満ち溢れていた。

 

――……?

 

そうしてライドウが感心しながら彼女たちの騒乱を眺めていると、ライドウは自らの鼻腔を仄かに擽る香りがあることに気がつく。香りは、優しく、軽く、甘く、何とも心を落ち着かせる作用を持っていた。

 

――これは……、花の匂い……

 

不毛な臭気ばかりが漂うこのような場所に、鎮静作用をもたらす花の香りがある。

 

――……こんなところで?

 

そんな不可思議を体験したライドウは、反射的に鼻をひくつかせた。すると香りは、目の前でワイワイと騒いでいる彼女たちの方より発しているものである事に気が付ける。

 

匂いの元を求めて意識を彼女らに集中させると、姦しく騒ぎあう彼女たちの服はわずかに水気を帯びて皮膚に張り付いている部分が存在し、また、服や鎧の隙間から覗ける皮膚には少しばかり玉の汗が浮かんでいる事に気が付いた。その様を見てライドウは悟る。

 

――香水……?

 

香水は人の汗などと作用して人の気を落ち着けるような匂いを発するよう作られていると聞く。ライドウはこの匂いが、彼女らの体に発生した汗が彼女らが事前に纏っていた香水と化学反応をおこし、結果として生まれたものなのだろうと推測した。

 

――薫衣草(/ラベンダー)、万年露(/ローズマリー)に加えて、この甘酸っぱさは柑橘系……?

 

香りというものは普段こそあまり気にならないものであるが、戦闘面においても日常面においても視覚や聴覚からもたらされる情報によって感情が昂っている、あるいは気が沈んでいるなどの折に、改善効果をもたらすファクターだ。

 

精神が常の冷静の状態から外れたその時にこそ、生死につながるミスというモノは発生する。おそらくそんな理屈を彼女たちは理解しているのだろう。だからこそ彼女たちは、こうして戦闘や迷宮探索で疲労がたまり発汗が激しくなってきた際、昂りつつある自らの気を落ち着けるための対策として、このような鎮静効果のある香水を纏っているのだ。

 

――あらゆる事態を想定しての準備を怠らない……

 

死地に向かう際、生き残るためのあらゆる準備を怠らない。十全の準備と覚悟こそが、死地において己の命を助くものとなる。そんな法則を理解し、かつ、実践しているという事実が彼女たちの余裕となっているからこそ、彼女たちはこのような鬱屈さばかりが支配する死地においても、ああして溌剌といつもと変わらぬ態度を貫けているのだろう。

 

――これが本当の冒険者……

 

ライドウは彼女たちのそんな態度から、彼女たちが常駐戦場の心構えというものを身に着けている歴戦の冒険者であることを改めて認識させられる。同時にライドウは、悪魔たちとの戦いの経験を頼りにして迷宮を猛進し、幾度かの戦いの経験を得て自らの悪魔との戦闘経験はこの世界でも通用すると妄信し、挙句の果てに命を落としかけた自分の未熟さを実感した。

 

『強いな、彼らは』

 

彼女らの様を見ながらゴウトが言葉を発する。それは、まさしく今の自分の想いと重なっていた。

 

「――はい。感服させられる思いです」

 

故にライドウは迷いなく同意の返事をする。ライドウは、もし仮に彼女らが自分抜きで栄耀の潜航者と戦うことになっていたならば、先入観にとらわれず慎重に行動し、今頃敵を撃滅していたかもしれないなと思うほどに彼女たちを信頼し始めていた。

 

 



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閑話2 原点

ここにはとある男の呪いが閉じ込めてある。これは呪いの書だ。ここには誰かが喜びそうな言葉など一切ない。ここにあるのは生涯をくだらないものにとらわれ続けた男の、深く暗い絶望だけだ。これは読むに値しない回顧録……、否、ある男の後悔の記録なのだ。

男の思考は滅茶苦茶だ。気がつくと明後日の方向へと意識が飛んでいる。論理性なんてものは欠片ほども存在していない。傲慢に生きた男の矮小さだけがこの先には刻まれている。

故に諸君。どうか思いとどまってほしい。この先に見るべきものはない。この先にあるのは、ある倨傲で狷介な男の絶望だけなのだ。生涯を通じてただの一度たりとも心からの救いを得られなかった男の絶望だけが、この先には残されている。ここには、覚悟を決めたなどと格好つけたはいいものの、しかし結局意地を通し切ることできずに死んだ、そんな恥ずかしい人間が最後に思い浮かべた感情が赤裸々に残されているばかりなのだ。

私は諸君が死人の墓を暴くような無作法を常識とする人間でないことをよく理解している。

だから諸君。お願いだ。

――どうかその手を動かす事をやめてくれ。

















どうやら諸君らの中には耳が遠いものがいるようだ。生まれつきなのか、後天的な要因によるものなのかは知らないが、私は自らの身に不具を持つ者に対して寛容だ。

故に私は怒ることなく、諸君らに繰り返し頼み込もう。

――どうかこの先に興味を持ってくれるな






























……三度繰り返そう。

これが最後の忠告だ。

――人間の良心あるならば、この先に目を通そうとするのを今すぐやめろ
































警告はした。それでもなおこの先を望むというのであれば、もはや止めようとは思わない。元よりそのような力、今の私には残されていないのだから。

先に述べた通り、この先には世界が狂わせた全ての原因が詰まっている。嫉妬と呪いに満ちた物語を望むのならば、どうぞご勝手に一読するがいいさ。

ただし僕は、そんな他人の恥に興味を示す厚顔無恥なお前らへの拝読料としてこの言葉を残しておこう。



――僕の言葉を無視したお前らと、僕の人生を狂わせた魔術に、あらん限りの呪いあれ






僕は優秀な人間だ。頭だけでなく、外見もいい。僕に唯一の欠点があるとすれば、わずかに天然のパーマがかかっている事くらいだろう。完璧な人間などというものにボンクラどもは近寄りがたいというし、僕自身はこの特徴を、僕という優秀な存在とそこいらに一山いくらで群がっている凡人とをつなげる架け橋だと思っている。時たま、僕のこの唯一の情け深さの表れを指差してワカメだの何だのいう奴もいるが、そういうやつに限って顔面の見てくれは、失敗した福笑いのように顔面の造形が崩れていたり、前衛芸術のような奇跡的な程に醜悪な骨格ラインの持ち主であるため、僕は気にしないことにしている。人間は自らにないものをこそ囃し立てて悪くいう生き物だ。奴らのそれはすなわち、自らが決して獲得できない僕の優秀さに対する嫉妬なのだ。哀れで惨めな存在である凡人どものささやかな抵抗に対していちいち腹を立ててやるほど、僕は小さな人間じゃない。

 

そうだ。僕は小さな人間じゃない。僕は優秀な人間だ。クラスでは常にトップクラスの成績を維持していた。戯れに受けた知能テストによって人類の上位一%に属する知能指数の持ち主であることも証明されている。見てくれだって街中で馬鹿な女をひっかけるのに困らないほどに悪くない。適当やってもあらゆることを人並み以上にこなすことの出来る才能だってある。生まれは古くの名家で、土地も人脈も並大抵ではない。人間の価値を定量化してアベレージで見れば、僕は間違いなく上位に位置する人間だ。

 

多くの人間は僕のこんな言葉を聞いて、それは傲慢だと文句を言う。だが僕から言わせてみれば、そんなことを言う奴らほど、現実を見ない傲慢主義者なのだ。この世の中は決して平等じゃない。生まれつき持った遺伝子と生まれ育つ環境がそいつの全ての人生を左右する。

 

オリンピックで上位に入賞するのはいつだって優秀な身体能力を生まれにもつ、そんな優れた身体能力を伸ばす環境に恵まれた黒人ばかりだ。研究でノーベル賞を受けるのは、いつだって特別な才能を持ち、特別な才能を悠々自適に伸ばすことのできる環境にある白人や黄色人種ばかりである。

 

才能と環境が人間の生まれてから死ぬまでのこの世の全ての出来事を左右する。才能と環境に恵まれた人間とそうでない人間は、まさに月とすっぽんだ。泥の中にいるすっぽんがどれだけ望もうと、夜空に輝く月に成り替わることは出来ない。どれだけ手を伸ばそうが、地に生まれ出でた才の無い人間の手は、元より天に浮かぶ月に届かないのだ。

 

ああ、「お前はそう言うが、人間はアポロという宇宙船に乗って実際に月に手を届かせたじゃないか」、とかいう、間の抜けた頭の悪い事を言うのはやめてくれよ? お前らはあいつらを月までかっ飛ばすまでにどのくらいの金銭と労力が費やされているかをきちんと理解しているか? 

 

噂によればただの人間を宇宙まで数回かっ飛ばすのにかかった費用は、当時の価格で二百億、すなわち僕の生きていた時代の価値に換算するとざっと千五百億ちょいだと聞く。

 

千五百億だぜ? 大の大人の生涯年収が二、三億と言われているから、金額は少なくともただの凡人を五、六百人くらい死ぬまで奴隷としてタダ働きさせてこき使い、初めて釣り合いの取れるものだ。お前らはその千五百億という金額や、五、六百人の命を簡単に用意できるっていうのかい?

 

出来ないよな。普通は出来ない。それだけの金額を稼げていて、あるいは資産を元から持っていて、今すぐに用意出来るから首を洗って待っていろっていうんなら、喜ぶといい。お前は間違いなく、優秀な才能か、特別な環境か、あるいはその両方を持っている人間だ。そこいらにいくらでも転がる人間達とは違う、僕の立ち位置にとても近い、優秀で、選ばれた、特別な人間だ。

 

――ああ、安心しな。もちろん僕はお前らがそんな特別な人間じゃない事を理解しているさ

 

嫌味だよ。特殊な一例をまるで凡例であるかのように取り上げ馬鹿なこと言って揚げ足とった気になっている、一般論と常識という凡人の唯一の武器を振りかざして才能もないのに偉ぶる、そんなお前らに対するただの意趣返しで、単なる嫌味だ。大人気なかったね。謝るよ。論理のロの字も知らないような馬鹿相手に取るべき態度じゃない。反省している。

 

――しかし感受性が人より豊かだっていうのも良し悪しだね

 

君達のような馬鹿どもに混ざって生活していると、僕もつい君達と同じ頭と性格の悪さを得てしまうんだ。朱に交われば赤くなるっていう格言はまさに的確だ。あるいは悪貨は良貨を駆逐するっていうのが正しいかな?

 

――そうだとも。僕は、自身が普通の人間とは違う事を知っている

 

そうとも、僕は決して凡人とは違う。精一杯手を抜いて、ようやく世に蔓延る馬鹿どもと同じ立ち位置になるほどに優秀な人間だ。僕は上で、お前らは下の人間なんだ。僕は支配する側で、お前らは支配される側の人間なんだ。知能、外見、才能、保有する金銭と財貨、生まれつきの血筋といった、あらゆる要素がそれを証明してくれている。

 

――そして……

 

僕は優秀な人間だ。僕は特別な人間だ。僕は選ばれた人間なんだ。僕は優秀で、特別で、選ばれた人間で、上から数えれば上位一%以上に属する人間で、でも――

 

――同時に僕は、自らが唯一絶対の特別な才能を持っていない人間である事を知っている

 

見上げればいつだって僕の上には唯一絶対を持つ特別な誰かがいた。僕は確かに特別な人間だった。僕は優秀な人間で、特別な人間で、選ばれた人間で、上から数えれば上位一%以上に属する人間で、けれど、真に唯一絶対なんてものを持っていない、優秀で、特別で、選別すれば人類の上位一%に属するだけの、ただの人間だった。

 

見上げればいつだって届かない場所に誰かが立っている。しかもその誰かというのは身近にいる存在で、しかしそいつがいるのは、僕の持ちうる全てを投げ出したところで決して手の届かない場所であるのだ。下を覗き込めばいくらでも有象無象が見えている。しかし僕の本能が望むのは、凡人どものうごめくそんな地獄のような場所ではなく、選ばれた才人のみが至る事の出来る頂点の頂きにこそある。

 

僕には万能の才能がある。しかし僕には僕が望む唯一の才能だけが欠けている。だからこそ苦しむ。身を焦がすほどの絶望感。だがどれだけ嫉妬に身を焦がそうと、燃えて上がる煙がその頂きに昇ることすら叶わない場所に、奴らはいる。才能が僕と奴らを隔絶する絶対の隔壁だった。僕は多くの凡人どもが羨む才能と環境を持っていたけれど、唯一望んだ場所に手を届かせる魔術回路という才能だけを保有していなかった。僕とそいつの立ち位置は、まさに月とすっぽんほどに違うのだ。――そう、

 

――間桐慎二(/僕)は泥の中で足掻くすっぽんで、衛宮士郎/遠坂凛/間桐桜(/奴ら)は苦労もせずに夜空で輝く月だった

 

僕と奴らとの間には、天と地ほどにも越えられない差が存在した。僕は地を這う巨人で、奴らは月に住まう特別な住人だった。僕はただ優秀なだけの人間で、奴らは魔術回路というこの世で唯一つずつにしか存在しない特別な才能を持つ魔術師という存在だった。僕は普通の人間というカテゴリの中では最上位に属していたけれど、僕が憧れた魔術師というカテゴリの中では最底辺どころか番外に等しい存在だった。

 

僕はそんな魔術師という存在に憧れて、しかし奴らはその憧れを理解しなかった。奴らには魔術の才能があって、僕には絶望的なまでに魔術の才能がなかった。それが互いの理解を悲しいがまでに断絶した。

 

――僕にはそれがどうしても堪え難かった。

 

だからこそ僕は、僕を理解しない奴らを嫉妬し、僕に魔術の才能を与えなかった世界を呪った。嫉妬と呪い。そんな負の感情だけが、天空の月と泥地のすっぽん、天と地ほども離れた僕と奴らに共通する、相互理解のための架け橋が如きものだったからだ。

 

 

僕が求めていたのは、一般からすれば上位に位置する僕ですらも知らない未知であり、また同時に僕と同じような才能を持つ、僕の理解者だった。僕は僕にとっての未知である出来事を探求し、探求した結果を共有できる誰かを欲していた。

 

そうとも、僕が欲しかったのは、凡人どもが求める普遍的に価値ある物品や凡人どもの称賛じゃない。僕が欲しかったのは、僕の世界にとって唯一絶対である品と、僕の唯一絶対の感覚を理解する特別な誰かからの共感だったんだ。

 

僕は凡人どもの羨むあらゆる才能を保有していたが故に、一般の世界においては隔絶した存在だった。誰もが僕の足元に這い蹲っている。僕にとってほとんど全ての人間は地を這う羽虫に等しかった。

 

お前、地を這う虫の理解を得たいと思うかい? 好かれたいと思うかい? いやもちろん、その羽虫がお前らにとって有益な存在で、節度を持って行動し、子犬のような親愛の情を向けてくるってんなら、お前だって羽虫のことを理解しようと努めるし、親愛の情を返すこともあるだろうよ。

 

だけど、知能指数と生きる環境が違えば、同じ種族であっても倫理も常識も異なった存在となる。僕にとって、僕と同じくらいの才能がなく、僕と同じような環境にいないお前らは羽虫に等しい存在なんだ。ごく一部の極論馬鹿を除けば、羽虫からの理解を求め、羽虫を愛する事のできる人間がいないことを、お前らは凡人だからこそ本能的に理解できるだろう?

 

このくらいのことも出来ないのか。なんでこんなことが出来るのか。なぜこんなことに憧れるのか。なぜこんな事に失望するのか。保有するものが保有しないものの悩みを真に理解することは決してなく、保有しないものがまた保有するものの悩みを真に理解することもまた、ない。才能と環境という川は、種族という水の種類の如き違いよりも明確に、二者を別つ絶対の境界線なんだ。

 

似通った才能を持ち、似たような環境に育ったという共通の苦労の経験こそが種族の壁をも超える潤滑剤となる。例えば馬鹿な両親の元に生まれ育ったという苦労こそが共感を生む。共通する苦労の経験こそが相互理解のための最高の触媒だ。

 

――何? わからない? 

 

例を挙げてやろう。

 

僕は研究者だ。特に聖杯戦争を始めた御三家にして、聖杯戦争のシステム周りを担当した間桐という家に生まれた僕は、英霊の召喚システムや令呪周りの魔術に関しては、他の追随を許さないほどの知識を保有している。すなわち僕は聖杯戦争の令呪周りの出来事においてはトップクラスの研究者といっても過言ではないだろう。

 

そんな僕はある日、魔術協会に提出するために一本の論文を書き上げる。魔術協会に提出する魔術研究家である僕の論文には、当然、数多くの魔術の書の知識が用いられている事だろう。そうとも、僕の持てる魔術知識をフルに用いて作り上げた論文は、魔術という専門性と特殊性故に多くの人間には理解出来ない代物となっている。

 

もし仮に万が一の手違いがあって論文がお前らの手に渡り、お前らが中身を見たとするならば、お前らは間違いなくこう言うだろう。

 

「誰にでもわかるように書かれていない。故にこんなものに価値はない」

 

誰にでもわかるように書かれていない? 故にこんなものに価値はない? は、笑わせてくれるよ。「誰にでもわかるように書かれていない」から「価値がない」のではなく、「自分にわかるように書かれていない」から「その価値がわからない」のだろう? 知識がなく、故に内容を理解出来ないお前らには、この僕がどれほど苦労し、苦心し、細心の注意を払ってその論文を書き上げたのかを理解できまい、この馬鹿め。

 

――馬鹿め。そう、この馬鹿め、だ。

 

お前ら馬鹿は、いつだって自分の知識と常識を最大限拡大解釈して、世間一般の常識のように扱う。いや、気持ちはわかるよ? 自分が馬鹿だと認めたくないもんだ。自分が誰かにとって劣る、誰かからすれば常識も価値もない存在だと認めるのはさぞ辛かろうよ。

 

だけど僕からすれば、僕の論文の内容を理解できていない時点で、お前らは僕にとって価値のない、常識外れの存在なんだ。僕が欲しかったのは、この僕が魔術の論文を書き上げるのにどれだけ注意を払って単語の一つ一つを精査し、選別し、ピタリと当てはまるものを選んできたか、そんな苦労を理解し、正しく価値を定め、間違いがあった場合にはそれを正すような存在だったんだ。僕が欲しかったのは、決して、僕の論文の内容を自らの知識と常識で理解できないからといって価値なしと批判する一般の知識しか有さぬお前ら馬鹿どもの称賛の声じゃない。お前らが僕の論文の中身を理解出来ないとの声を高らかにあげる時点で、僕にとってお前らの意見に価値はない。すなわちお前らの価値は僕にとって、完全に、零だ。

 

――精一杯わかりやすく説明してやったつもりだが、僕がなぜお前らを羽虫に例えたのか理解したか? 

 

……まぁ、いい。理解したとして話を進めよう。馬鹿に付き合っているといつまでたっても話が進まないからな。ともあれ、僕が欲しかったのは、僕と同じかそれ以上の魔術の専門知識を有する魔術師の存在だったんだ。

 

そうとも僕が欲しかったのは、僕が書き上げた論文を隅々までを熟読しないまでも読み流すだけの知識を保有していて、僕の書き上げたその論文に対して建設的な意見と感想をくれるような存在だった。僕はそうやって僕の為した事の価値を正しく評価し、間違いを正し、僕の価値を高めてくれるような魔術の師は欲しかったのであり、魔術についての研鑽を語れる友が欲しかった。

 

そうとも、なんてことはない。僕は僕と同じような才能や知識を有する、僕の事情を理解するそんな存在が欲しかったんだ。世界で一番の金持ちになりたいとか、世界で一番の有名人になりたいとかいう願いに比べて、謙虚で、小さな、そんなお前ら凡人どもであればすぐにでも叶うような願いが、僕にとっての心からの願いだった。

 

だけど、五つの事実が僕の望みの達成の邪魔をした。一つは僕が興味を持った魔術という存在が、世界から隠匿されている技術であるという事実。一つは僕が興味を持った魔術という存在に対して、僕がそれを取り扱う才能をほとんど保有していなかったという事実。一つは僕が興味を持った魔術以外を上手くこなせる才能を有していたという事実。一つはそんな魔術の才能だけを保有していない僕が、魔術の名家の跡取りという環境に生まれ落ちてしまったという事実。一つはそんな魔術に対してだけ才能のない存在が、魔術という隠匿された特別な技術を扱う環境に生まれ落ちてしまったが故に、魔術という特別な技術に興味を持ってしまったという事実だ。

 

魔術の世界では才能と環境が全てにおいて優先される判断基準となる。生まれた際に保有する魔術回路の本数に、そしてそいつがどんな魔術の家系に生まれた落ちたかという係数を掛けることによって、その存在が魔術の世界においてどれほどの価値を持つのかが決定されてしまう。

 

僕は魔術以外の才能を多く有していたが故に一般の世界において価値の高い存在だったけれど、魔術回路という才能を保有していない。故に僕は、魔術の世界においては価値のない存在だった。そうとも僕は、魔術師からすれば魔術師未満の一般人に等しい存在であり、その価値は僕にとっての羽虫に等しいものであり、つまりは零と等しい存在だったのだ。

 

僕という羽虫の価値や価値観は、人間である魔術師の価値観からすれば理解できない、否、する価値もない存在である。すなわちそれは衛宮士郎/遠坂凛/間桐桜(/奴ら)を持つ奴らにとって、僕の価値も同様であったということだ。

 

事実、三人は、魔術というものに対して憧れる僕の気持ちを理解しなかった。衛宮士郎は魔術を、正義の味方という夢を叶えるための道具としてしか認識していなかった。遠坂凛は魔術を人生を楽しむためのスパイス程度にしか考えていなかった。間桐桜は魔術を自らの身を間桐家に縛り付ける呪いの道具としか認識していなかった。魔術回路がなく、故に魔術の使えない僕は、狂おしいほどに奴らの不理解が腹立たしかった。

 

僕のこの憧れを知った衛宮士郎は、僕のことを「けどお前には俺にない、いろんな才能を持っているじゃないか」といって慰めるだろう。だが衛宮士郎の慰めは僕にとってまるで価値のないものだ。お前らは自分が嫉妬の炎に身を焦がすほどの才能を有している有名人から「君には呼吸をする才能がある!」と褒められて嬉しいか? 「君がこの世界に生きているというだけで、奇跡みたいな出来事だ」、なんて言われても、馬鹿にしてるのか、としか思えないだろう? 僕にとって衛宮士郎の慰めは、すなわちそれに等しい言葉である。

 

僕の事情を知った遠坂凛は、僕のことを「人畜無害なただの一般人」と認識した。人畜無害な、ただの一般人! は、さすがは、極東の魔術名門遠坂家の令嬢にして、規格外な量の魔術回路を持つ女だ! なんとも魔術師らしく僕の価値を否定してくれるものだね! 嬉しくて涙が溢れてきそうだよ、まったく! 

 

――ふん、わかっているさ。こんなのただの嫉妬だよ、まったく。あぁ、くだらない、くだらない

 

……ああ、そうだ。

 

くだらないといえば、僕の事情を全てを理解していたつもりの間桐桜という女も、僕にとってくだらない女だったよ。なにせアレは、引き取られた当初から僕のことを「自分が居場所を奪ってしまった可哀想な人」と認識していたんだからね。まったく、ほんと、くだらないよな。魔術という僕にとっての憧れを完全に嫌っていた間桐桜という女も、そんな女に同情されていたはるか過去の僕自身も、そんな女の同情程度のものによって粉々に打ち砕かれてしまった僕の自尊心も、自尊心打ち砕かれたことによってさらに魔術というものに傾倒し始めた頃の僕自身も、やがて魔術に対する依存の毒を取り除かれて奴らも普通の人間であると認識を改めた僕自身も、どれも本当にくだらないものだ。

 

――まったく、本当に、くだらない。

 

くだらな過ぎて、涙が溢れてくるよ、まったく……

 

――ほんっと、くだらないよな

 

なぁ、お前もそう思うだろう?

 

――桜……

 

 

くだらない僕は、聖杯戦争なんていう片田舎のくだらない魔術儀式に参加して、くだらない敗北を喫し、十年以上の眠りなんていうくだらない景品をもらい受けた。まぁ、僕のくだらない事情なんて、どうでもいい。

 

重要なのは、そうしてくだらない眠りについた僕がやがて目覚めた後、桜のくだらない理由によって世話されていたのだという事実を衛宮士郎のくだらない手紙によって知った僕が、くだらない僕はこんなにもくだらない誰かから思われていたなんていうくだらない理由で滂沱の流し、そんなくだらない理由で人形のようなくだらない状態の桜を一人の人間に戻してやるだなんてくだらない使命感を生きがいとして抱き、しかし魔術というくだらないものすらを使えない僕自身のくだらなさによってやっと得た生きがいと桜を失い、そしてくだらないながらも必至に足掻いた結果、くだらない僕は、くだらない僕にふさわしい、ただ一人の家族であった桜を救うことも出来ないというくだらない結果を得たというくだらない事実だけなのだ。

 

家族を助けるのに衛宮士郎や衛宮の嫁となった遠坂凛の手なんて借りたくない。そんあくだらない意地を抱いた僕が、くだらないながらになんとか桜を攫った奴らの下までたどり着き、しかし桜を救えなかった理由は、単純明快にして簡潔に極まりない事実だった。

 

――僕には魔術の才能がない

 

桜は、その身に先天的に有する遠坂の遺伝子に基づく魔術の才能と、嫌々ながらにしても二十年近くに渡って間桐の魔術に適応するよう改造され続けたその体と、嫌々ながらにしてもそんな体で二十近くに渡って魔術の研鑽を行ってきたという経歴を、秘匿されているはずの魔術師の家の情報を何処より入手したくだらない魔術師たちに目をつけられたが故に、世界を救うなんていうご大層な目的を持った女神を人造するための贄となるべく攫われたのだ。

 

思想の幼稚さはともあれ、女神を魔術という手段を用いて人造するなんて目的のために動く奴らは、当然魔術の方面において僕よりはるかに優れた魔術の才能である魔術回路をきちんと保有している。そしてまた、繰り返すことになるが、奴らの目的は桜の優れた魔術の才能と培われた魔術の実力と、桜の背景に潜む魔術の事情だ。

 

――魔術。そう、魔術だ

 

とどのつまり、過去において僕を虜にした魔術が、僕の未来の全てを奪い去った全ての原因であるのだ。思えば僕の人生は魔術という存在に狂わされ続けてきた。魔術という特別な技術をあつかう家に生まれた僕は、しかし魔術という技術を扱うための魔術回路を持たずして生まれてしまった。持たぬが故に魔術というものにひどく憧れを抱くようになった僕は、されど魔術回路を持たぬが故に魔術の家系である間桐家の当主として道を断たれてしまった。やがてそれでも魔術の家の当主の座を諦めきれずに必死に魔術の知識を蓄え続けた僕は、しかし突如として養子になった桜に当主の座を奪われてしまった。

 

間桐の当主として大成することばかりを夢見ていた僕は、自尊心をひどく傷つけられ、やがて本意でないにしろ僕の手から当主の座を奪った魔術師である妹に嫉妬の炎を向け、憎むようになってしまった。憎悪の炎は僕の中で織火となって燻り続け、十年に渡って桜をいじめる原動力となり、やがて桜のように魔術の才能を持たぬ僕を見下すかのようあつかう世界の全てを見返してやるために参加した魔術戦争において、僕は敗北を喫し、十年という時間を月日を失ってしまった。そして十年も惰眠を貪る余裕を桜の魔術というに手段によって与えられ続けた僕は、やがて突如として訪れた魔術師の手によって桜という妹を失ってしまった。そして魔術という才能を持たぬ我が身の非力さと魔術という才能を持たぬものに対して冷たい世界をこれでもかというほどに呪う羽目となった僕は、最後にはそんな桜を攫った魔術師たちの操る魔術によってこうして命を落としてしまおうとしている。

 

――魔術なんてくだらないものがあるから、僕の人生は大きく狂ってしまった

 

そうとも。魔術の才能なんていうものこの身に宿っていなかったせいで、僕の人生は大きくくだらないものになってしまったのだ。魔術なんていう才能と環境によって価値が大きく左右されるものがあったからこそ、僕はこうしてちっぽけな決意すらも貫き通せぬ、報われない生涯を、くだらない理由で閉じようとしているのだ。

 

――魔術なんていうくだらないものがあるから、世界はこんなにも僕にとってくだらないものへとなりさがってしまった

 

魔術は僕も妹も幸せにしなかった。否、きっと魔術なんていう才能と環境にのみでその価値を決定されてしまう代物は、僕たちのみならず、人類の誰にも幸福をもたらさない、くだらないものであるに違いない。そうでなければ、世界が僕をこんなにもくだらない結末へと導く訳がない。魔術なんていうくだらないものに関わってしまったからこそ、僕の人生はくだらないものへと成り下がってしまったのだ。

 

――……憎い

 

魔術が憎い。魔術の才能が憎い。魔術の才能がない自らが憎い。魔術の才能に嫉妬する自らが憎い。魔術の才能を与えなかった世界を呪う自らが憎い。魔術に焦がれる僕をもっと早くスキルとかいう魔術に似た新技術と出会わせなかった全ての原因が僕は憎い。

 

――……このままでは死に切れない

 

死の淵に瀕して生に執着し、後悔の念を残すなんていうのは小物のやることだと思う。だがそれを自覚しながらも僕は、こうまで僕の生涯を弄んだ魔術という存在とそれに関連するあらゆる事柄に対して憎悪を抱き、憎悪を抱いた存在に対して何もできずに死んでゆくのだという事実に後悔の念を抱かずにはいられなかったのだ。

 

――魔術……

 

妹を魔術師の手から助けるなんて大言壮語を吐きながら、しかし死を目前して抱くのが桜を助けられなかった後悔でなく自らの人生を狂わせた魔術という存在に対する憎悪の念であるあたり、僕はつくづく小さな人間だ。なるほど、優れた魔術師である遠坂のいうことは正しかった。小物は小物なりに、魔術使いである衛宮の言う通り、魔術なんていうものに対する憧れなんて捨ててしまえばよかったのだ。そうすれば僕は、奴にない人間社会を上手く渡れる万能の才能を用い、人間社会を存分に謳歌してやれはずなんだ。そうすれば僕は、優れた魔術師である桜に嫉妬心を抱かず――

 

――桜……

 

ああ、だめだ。それはだめだ。魔術というものが存在していなかったら、きっと僕と桜は、僕と衛宮士郎は、僕と遠坂凛は出会えていない。否、僕が僕として生まれてくることもなかっただろう。それはなんとも寂し過ぎる。

 

――魔術……

 

それにくだらない男のくだらないプライドだが、僕自身がくだらないからといって必死に生きた誰かのくだらなくない生涯をくだらないと断ずるのは、それこそ僕のくだらないプライドが許さない。そんなのまるで魔術みたいだからだ。僕はこれから訪れる死を受け入れることは、嫌だけど、本当は心底に嫌だけど、やってみせよう。でも僕は、僕の人生の価値をそんなくだらないものへと貶めた存在と同様のくだらない存在に成り下がるとかいう事にだけは耐えられそうにない。

 

――僕を苦しめたもの……

 

瞼が重い。視界がぼやけた。多分、涙だろう。あるいは、もう脳みそがバカになっているのかもしれない。うん、きっとそうに違いない。だって、僕の体の中にはもう、脳に元気を行き渡らせるための血液が存在していないのだ。ああ、だとしたら、きっとそっちが原因だ。だって全身の自由がとっくに効かなくなっている。憎悪だけが脳を動かす栄養源だった。

 

――桜を苦しめたもの……

 

静かに瞼が落ちてゆく。景色が遠い。目の前にある桜の欠片が遠い。あと数秒もしないうちに僕の命は尽きるだろう。桜はバラバラだ。胴体から真っ二つにされて地面に全ての血を流す僕なんかよりもずっとバラバラの状態だ。バラバラの桜は脳みそと眼球と脳髄だけが存在していない。多分、魔術師の馬鹿どもがなにかの目的で持ち去ったのだろう。そういえば激昂する僕が魔術で僕を分断する直前、僕に向かって女神の召喚だとか言っていた気がする。ならきっと桜の脳はそれに使われるに違いない。

 

――魔術……

 

ああ、もう頭が働かない。それもこれも全部魔術とかいうくだらないものの存在のせいだ。魔術なんてくだらないものがあったからこそ、僕はこうして苦しい思いをさせられている。ああ、でも、魔術なんてくだらないものがあったからこそ、くだらない僕と桜は出会えたんだし、くだらなくない衛宮や遠坂なんて存在とも出会えたんだった。そう考えると魔術も案外悪いものじゃない。なら、ただ、そう、唯一惜しむらく点は――

 

――せめて僕に魔術に似た何かを操る才能が少しでも存在していたのなら……

 

僕に魔術なんていう特別の才能がなかった。その一点に尽きるだろう。ああ、そういえば、世界ではスキルなんていう魔術の亜種みたいなものが流行り始めていたな。あれも一部の人間のみがつかえる特殊な才能を必要とすると聞いたが、魔術とは異なり、そのうち誰もがつかえるようになる技術であるとも噂されていた。

 

――せめてもう少し早くスキルとかいう技術体系が完成していたのならば……

 

スキル。魔術のように生まれ持った才能や生まれた環境に左右される事なく、誰もがつかえる魔術のような技術。そんなものがもう少し早く誕生してくれていたのであれば、僕の人生ももう少しまともなものになっていたかもしれない。嫉妬に身を焦がすこともなく、世界に呪いを残すことなく、衛宮士郎/遠坂凛/間桐桜(/奴ら)とともに、僕が心底嫌いだった、ただそこにいるだけで幸せに感じる空気に浸れるような時がやってきていたのかもしれない。

 

――それは……

 

もし僕の生まれ落ちた時代がスキルなんていうものが当たり前のようにある世界であったのならば、きっと僕はそんな技術を迷うことなく習得し、スキル用いて未だこの身で体験したこともないような未知に対して共にスキルを研鑽し会う仲間と共に挑み、やがて今のように、才能溢れる自分でも敵わないような未知の手にかかり、世界の広さを実感しながら、満足して死んでゆくのだろう。魔術の導きによって出会った僕と桜とが出会うことはなくなるだろうけど、きっと僕と出会わなかった桜も満足して死んでゆくに違いない。

 

ああ、それは――

 

――それは……

 

それはなんて―― 

 

――なんて、羨ましい未来――

 




こうして間桐慎二という男は生涯の幕を閉じた。バラバラになった桜の体の前で真っ二つに分断された間桐慎二の体は、贄との親和性が高そうだという理由により、贄を補助する素材として使われることとなる。

目的を果たすことなく死んでいった間桐慎二の意思が何処へ行ったのかは誰も知らない。だが彼ほどの魔術に対して嫉妬心と羨望の炎を心の中で燃やし続けた男の体が、世界に影響を及ぼす神霊を召喚する儀式の補助材料に使用されたというのであれば、その体に宿っていた意思や魂が神霊を通じて世界に影響を与えてもおかしくない。長い時を重ねる間に、体と共に砕け散った魂がやがて再び結実するという事態だってありうる話だ。

真実は闇の中に包まれたままだ。否、多くの生命の自由な意思と判断の結果に生み出される世界の中に、唯一絶対正しい真実なんていうものは存在していない。世界に生きるものは信じたい物を信じ、ただひたすら思う様に生き抜き、死にたいときに死ねば良い。

魔術なんてくだらないものに囚われるな。

おそらくそれこそがきっと――、こんなくだらないに死に様を衆目の前に晒した、シンジなどという性格に似合わぬ皮肉な名前をつけられた、彼に対する何よりの供養となるだろう。


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第十七話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (五)

ライドウがパラ子らに対して親愛の情と尊敬の念を深く抱き始めたその時だ。

 

――キ……

 

「っ!」

 

いずこかより聞こえてきた声が、駘蕩のさなかにあったライドウの意識を冷たい現実の下へと引き戻す。声は不気味な怨念に満ちていた。反射的に刀の柄へと手が伸びる。声はライドウに敵がまだ存命であることを思い出させたのだ。

 

ライドウは視線と意識を密にして周囲へと巡らせる。そうして警戒のレベルを最密の状態へと移行させると、浮かれの熱と安楽の感覚はすぐさまに脳裏より掃けていった。

 

『そうだった、まだ……!』

 

余計な感情失せた脳裏には、悔しげな言葉がやけに大きく残響して聞こえてくる。声の方を見れば、そこにいるのはゴウトだった。ゴウトは一瞬地面に低く伏せようとして、しかし肉体が泥と触れる危険性を思い出したのだろう、体をピクリと動かして無理矢理地面へと近づいていた体を引き上げ、猫足立ちのいつでも敵の攻撃に反応できる姿勢へと移行させている。

 

「おっと……!」

「これは……!」

「どうやら痺れをきらしたようね……!」

 

また、姦しく言い合っていた三人も表情を真剣なものへと変化させつつあった。三人は再びライドウを中心にして身を寄せ合ってゆく。パラ子は腰を低く構えながら盾を前に構え、メディ子はショルダーバッグへと手を突っ込み、ガン子はボルトハンドルをひいて直動式の長銃に新たな弾丸を装填する。カチン、と長銃の薬室に弾丸の装填される音がわずかに辺りに響きわたった。直後。

 

「キキャー!!」

 

装填音を戦闘開始の合図としてとらえたのか、栄耀の潜航者は身を潜めていた泥の中より猛然と姿を現し、襲い掛かってくる。栄耀の潜航者の動きは、まさに目にも止まらぬとしか例えようないほど、素早い動きだった。

 

「――」

「うぉっ!」

 

真っ先に反応したのは反射能力に優れたライドウとパラ子の二人だ。そして敵の動きを捕らた二人は、しかし困惑した表情を浮かべる。敵の突撃に備えて構えた二人の視界に飛び込んできたのは、飛び出した際の勢いを保持したまま直進する少々歪んだ楕円球のような形の黄金色の体が空高くへと飛び上がっていく光景だったからだ。意表をついた奇襲であるにもかかわらず、栄耀の潜航者は攻撃ではなく跳躍を選択したという事実が、二人に意外の思いを生んみ、困惑の感情を呼んでいた。

 

「――高い……」

「あいつはどこまで行く気なんだ?」

 

栄耀の潜航者は五十メートルを超え、百メートルを超え、小さなその体躯が丸になり、点に見えるようになっても、なお空中を直進し続ける。目の前にいる敵たちをまるで無視して直上し続けるその姿は、まるで解き放たれた大砲の砲弾のようだった。

 

「あ」

 

だが無論、跳躍は永遠には続かない。栄耀の潜航者は徐々にその進行の速度を緩めさせてゆくと、もはやライドウらの目にはその体が点のようにしか映っていない地点において時が止まったかのように完全に停止する。おそらくは高度は約二百メートルにも達しているだろう。それは戦闘中である敵と対峙する距離というには、少しばかり遠すぎるものだった。

 

「うわ、高っ!」

 

メディ子が驚きの声を上げる。

 

「奇襲の利を捨てるような真似をするなんて……、あら?」

 

ガン子は目を細めた。青い瞳の中には、砲弾の形態をとっていた栄耀の潜航者の体が蠢き、真球に近い形へと変化させつつある姿が映っている。変化した栄耀の潜航者の姿は、まるで巨大な鉄球のようだった。

 

やがてライドウは、視界の中に映っていた黄金色の鉄球の点が、やがて円となり、そして球へと変化してゆく事に気付く。そしてその事実はすなわち、視界に映る敵影が大きくなっているという事を示しており――

 

「――来る」

 

それはまたすなわち、空中に滞在していた栄耀の潜航者が落下を開始したという証に他ならない。観察を続ける間にも視界の中に映る黄金色の球体は徐々に大きくなる勢いを増している。ライドウらのいる場所へと落着してくるのも時間の問題だ。――しかし。

 

「――落下……、攻撃?」

 

ライドウには敵の行為が解せなかった。天高くに浮かび上がった重い物体がライドウたち目掛けて落下してくる。なるほど確かにそれは脅威的だ。なにせ落下してくる物体――、球となった栄耀の潜航者の体は、その直径がライドウの身長ほどもある。また、先に衝突した際の感覚から察するに、栄耀の潜航者の重量は一トンをくだらないはずだ。

 

――到達まで……、後十秒もないか……

 

加えて栄耀の潜航者の体は徐々に加速してきている。おそらく地面到達寸前には、その速度は秒速六十メートルを超える事だろう。

 

十秒もしないうちに、秒速六十メートルで自重の十倍以上もある物体が頭上に落下してくる。なるほどそれは常識的に考えるならば相当脅威である出来事だ。無防備な脳天に自分の体以上の大きさの鉄球を落とされて無事である人間などまずいない。仮に物体の着地地点にいる人間が天より落ちてくるそれに気づいていないというのであれば、落下という攻撃は間違いなく致死の攻撃となる。しかし。

 

――ただ落下してくるだけの物体などに直撃する自分たちではない……

 

けれどその落下という攻撃が脅威となるのは、落下してくる物体が直撃する場合のみだ。どれほど強力な攻撃であっても、当たらなければ蟷螂の斧よりも空しいだけである。例えば落着地点にあるものがただの動かぬ的であるならば、敵の落下は立派に脅威的な攻撃であるといえるだろう。二百メートル地点より落下してきた一トン近くの重量持つ物体が宿した衝撃は、それこそ地面を粉々に粉砕する衝撃すらも秘めているはずだ。そうとも、敵の行動は動かない的に対してならば、とても効果的な攻撃である事に間違いはない。

 

だがこのたび、的であるライドウたち動く存在なのだ。その上、敵が地面と接地する直前までの間、ライドウらには回避猶予が十秒程度も存在している。

 

この十秒という時間は、常人よりはるかに高い身体能力を保有しているライドウらに対して、百メートルどころか二百メートル以上も移動する余裕を提供する。すなわちその猶予時間は、このまま敵がただ自然にライドウら目掛けて落下してくるだけであるというならば、その行為はライドウらに何の影響を及ぼさないだろう可能性が高いという事実に繋がっていた。だが。

 

――そんなこともわからぬほど敵は愚かでない筈だ……

 

「――……」

 

そんな子供でも分かる簡単な推論に、ライドウやゴウトの思考や行動に決定的な隙が生まれるまでジッと機を窺うほどの高い知能と理性と忍耐を持つ栄耀の潜航者が気付かないわけがない。

 

――奴の狙いはいったい……

 

困惑と疑念を覚えたライドウはわずかに首を傾げずにはいられなかった。

 

『いったい何を企んでおるのだ……』

 

ゴウトがつぶやく。おそらくその場にいた全員がライドウやゴウトと同じことを思ったのだろう、誰もが固唾を飲んで敵の挙動を見守っていた。さなかにも敵の落下の速度は速まってゆく。視界に飛び込んでくる球体が大きくなってゆくつれて、ライドウたちの間に漂う緊張の空気の密度がさらに濃い状態へと変化してゆく。

 

――きっと何かが起こるはずだ……

 

誰もがそんな思いを抱いていた。しかし思いに反して栄耀の潜航者の体に異変は起こらない。球体となった栄耀の潜航者の体は一切の変化を見せないまま、ただただ一途にライドウらいる場所目掛けて落下してきていた。意志と知性を持っているはずの存在が、何とも無機質な様を保っている。沈黙が何よりも不気味にライドウらの心に不安の漣を生み出していた。

 

やがて視界内の球体はすでにその大きさがはっきりとわかるくらいになってゆく。速度変化以外に不変を保つ敵の体は、百メートルほどの高さに達した。悩む刹那の間にも敵の体は落下してきている。

 

――これ以上見守ったところで状況は何も変化しない可能性の方が高く、これ以上時間が経てば回避も難しくなる

 

事実は見守っていたライドウにそんな判断を下させた。見回せばパラ子らと視線が合う。互いの間に共通する無言と冷静の態度は、雄弁に互いの意思の共通を示していた。

 

ライドウは彼らも回避のために動く判断を下したのだろう察知した。全員の意識が回避へと向けられ、落下する敵の体から一瞬だけ逸れた。――瞬間、

 

「ギ――」

 

果たしてライドウらの当初の思惑通り、敵の体は変化をしはじめる。

 

『な――』

 

真っ先に異常を察知したのはゴウトだった。続けてゴウトの動きに反応したライドウが視線と意識を再び空の方へと向ける。

 

「――何を……!」

 

するとライドウは視線の先に、栄耀の潜航者の球の体の表面が波打つ場面を目撃した。初めこそ波紋程度でしかなかった敵の表面の揺らぎは、やがて漣へと変化し、そこへうねりと高さが加わり、見る間に荒れ狂う海の如き様相となってゆく。栄耀の潜航者の体はやがてまるで球体の内部で大蛇が暴れまわっているかのようだった。否、例えるならばそれはむしろ破裂寸前の風船か、あるいは花火の大尺玉に似ていて――

 

「――まさか……!」

『――もしや……!』

 

敵の変化はその場にいる全ての存在に危険の直感を与えることとなる。

 

「……いかん! みんな! もっと私の近くに寄るんだ!」

 

目撃したパラ子は焦燥の表情浮かべると、ライドウの傍へと身を寄せながら叫んだ。

 

「……はい!」

「了解よ!」

 

空中を見上げていたガン子とメディ子も即座に反応し、ライドウの近くへと身を寄せる。二人に遅れてゴウトがライドウの足元へと近寄った。皆の集結直後、跳躍の頂点へと到達した栄耀の潜航者は表面をさらに蠢かせる。

 

「ギギャ!」

 

栄耀の潜航者はやがて、体のいずこよりかなんとも誇らしげな笑い声をあげた。我慢比べに勝ったぞ、とでも思っているのかもしれない。高らかに鳴り響く声は鬱屈とした泥の空間に不気味なほどによく通り抜けていった。声にひかれてライドウが再び栄耀の潜航者へと視線を向ける。瞬間。

 

「――な……!」

 

ライドウは栄耀の潜航者の体が元の大きさの十分の一以下にまで自らの圧縮されているのを目撃した。かと思えば次の一瞬の後、栄耀の潜航者の体はすさまじい勢いで膨張してゆく。

 

「――何を……!」

 

見る間に膨らむ栄耀の潜航者の体は、まるでパンパンに張りつめた風船のように変化した。

 

「ギ……――」

 

そして元の数倍の大きさにまで変化した栄耀の潜航者は、やがて食べ過ぎて胃のもたれた人間が漏らすような緩慢な息を吐くと、さらにその身を膨らませ――

 

「ギャッ!」

 

直後、悲鳴と共に、膨張したその身を破裂させた。

 

「――!」

 

暗闇に黄金の礫が飛散する。その様はまるで豪奢な打ち上げ花火のようだった。

 

「やっぱりか!」

 

パラ子が盾を上に構え、叫んだ。つんざき広がるパラ子の声をかきけすかのように、栄耀の潜航者の体はライドウたちを中心とした局所的にだけ轟々と降り注ぐ。分裂した重量のある黄金色の液体が重力を味方につけながら猛然と落下するその様は、篠突く雨か五月雨かにでも例えられよう勢いだった。

 

「し、師匠!」

 

メディ子は慌てた様子でパラ子の方を見る。

 

「任せろ! こういう時こそパラディンは真価を発揮するのだ!」

 

他人から縋るような視線を受けたパラ子が大いに発奮した様子で叫んだ。

 

「フルガード!」

 

続けざま、とあるスキルの名がパラ子の口より発せられる。同時、スキル発動の影響だろう、周囲に風が巻き上がった。衝撃にパラ子の長い髪がバサバサと舞う。ライドウは反射的にパラ子を見た。目にはパラ子の全身が薄く発光し、艶めかしく金色に輝いているさまが目に映る。そうしてパラ子の体より発せられる光は、やがてその色を黄金色から白色へと変化させながらパラ子の握る上に向けていた盾の中心部分へと収束してゆく。盾の中心へと集った白色の光はやがて、再び盾の表面を中心から端に向けて移動すると、盾の縁にそって外にまで領域を広げていった。そうして自らたちの頭上から地面にかけてまでを白く薄い光の膜が覆い尽くした光は、やがて地面へと到達すると領域拡大を停止する。気付けばライドウらの周辺には、パラ子が上に構える盾を中心として、光の壁による半球状の隔離空間が生み出されていた。

 

「――これは……、確か……」

 

目の前で起きた事態に、ライドウは目を見張る。

 

『冒険者が用いるスキルか!』

 

ゴウトが驚き、吼えた。

 

「その通り!」

 

自らが生み出した光のドームの中心でパラ子が誇らしげに叫ぶ。自らの使用した技が注目を浴びたのが嬉しかったのだろう、パラ子の顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 

――……

 

迫りくる脅威など知ったことかと言わんばかりの笑みは、ライドウに一抹の不安を抱かせる。それほどまでにパラ子の浮かべるその表情は、戦闘中の人間が見せるものとしてはかけ離れた朗らかなものだった。

 

「これぞ私が最後に覚えたパラディンのスキルにして、パーティー全ての人をあらゆる物理攻撃から守って見せるスキル!」

 

だがしかし続く言葉にそうした相手を気遣う台詞が入っていることに気がついたライドウは、同時にそうして自慢げな態度をとりながらもパラ子は決して敵の迫る方向から視線を外していないことにも気がつく。パラ子は笑みを浮かべつつも意識を上空より迫りくる敵に対しても注いでいるのだ。

 

――パラ子のその笑みは緊張の欠如ではなく、思い遣りや余裕の念から生まれている……

 

察知した途端、ライドウの心に湧き出てきた負の感情が払拭されてゆく。邪念のない自信満々な笑みには、なるほど他者の負の感情を払拭し、冷静に誘う効力が秘められていま。

 

――なるほどパラディンほど彼女に向いた職業はないかもしれない

 

「その名も――」

 

知らぬ間にライドウから敬意の念を抱かれていたパラ子はそんなことに気付く様子もなく饒舌に語りを続け――、

 

「フルガード、って、うぉっ!」

 

しかし突如として言葉を中断する。浮かれ顔は一転、必死の形相へと変化した。

 

「う……、おぉっ……!」

 

光の盾を支えている両手がギシギシと音を立てている。パラ子は頭上に向けて構えていた盾の取っ手を強く握り直した。良く見ればパラ子の全身は細かく震えており、顔には脂汗が滲んでいる。

 

「――これは……!」

 

続けて、音の濁流が耳に飛び込んできた。

 

「――っ!」

 

それは音と言うにはあまりに暴力的なものだった。ライドウは思わず両手を耳にやる。しかしそれでも防ぎきれずない指の隙間から染み入ってくる音は、激しい雨が鉄屋根を打つ音色によく似ていた。感想抱いた直後――、

 

「――ッ!」

 

続けざまに視界が白へと染まってゆく。反射的に瞼が落ちた。思考が一瞬停止する。やがてライドウが眼球を通じて自らの脳裏へと襲い掛かったものの正体が光の群れのだと気付いたのは、薄い瞼がライドウの眼球へと飛び込んでくる光の侵入を遮った直後だった。

 

「――っ」

 

光の侵入を防いでくれた瞼はしかし、すでに侵入した光に対しては無力な存在だ。侵入した光は相変わらず脳裏を刺激し、ライドウの正常な思考の働きを阻害する。ライドウは強く瞼に力をこめるも――、

 

「――くっ……」

 

飛び込んできた光の刺激を完全に防ぐには至らない。いくら力を加えたとて、瞼の薄膜一枚で防ぎきるには、光はあまりに強過ぎた。瞼の隙間や瞼自体を透過して侵入してくる光の刺激が、脳の神経をいつまでもかき乱してゆく。お陰で脳裏は白に染まったままだ。思考の働きを妨げる光の奔流はいっこうに止まらない。光の撹拌は気持ち悪さを誘発する。堪らなくなったライドウは暗幕として自らの片手を追加した。

 

瞼と掌。壁はそうして二枚となった。追加された分厚い防壁は僅な光の侵入すらも許すことがなかった。そうしてライドウの脳裏に侵入してくる光からは暴力的な勢いが失われてゆく。援軍を追い払うことに成功したライドウは、ようやく暗黒の安寧を手に入れることに成功した。

 

脳裏に生まれた暗闇はライドウの意識を徐々に落ち着かせていく。そして数秒としないうちに思考の正常な働きを取り戻したライドウは、頭を振ると、瞼から力を抜いてゆっくりと開き始めた。だが――、

 

「――っ……」

 

瞼を細く薄く開いた途端、先ほどと変わらぬ光量が目の内に飛び込んできて、再びライドウの脳裏をかき乱してゆく。ライドウは反射的に目を閉じようとして、しかし瞬かせるに留めた。連続的に黒白の瞬間が訪れる。繰り返される光の明滅に、ライドウの脳は光の刺激に徐々にだが慣れてゆく。

 

そして時間の経過とともにライドウの脳が白光とそれ以外の区別がようやくつくようになった頃、ライドウが意識を外側に広げていくと――、

 

「んぎ……!」

 

歯ぎしりと共に聞こえてくる音が耳孔から飛び込んできた。否、周囲を見渡す余裕を手に入れた脳が、すぐそばでそんな音が鳴っていたのだという事をようやく認識したのだ。ライドウは即座に音のなる方へと視線を向けて――、

 

「んぎぎぎぎぎ……!」

「――パラ子さん……!」

 

音を生んでいるものの正体を知る。音はパラ子の上下の歯と歯の軋む音と、歯の隙間から漏れる吐息とが混ざって生まれたものだった。辺りに響き渡るほどの歯ぎしりをしているパラ子は、小刻みに揺れながら、腰に力を入れて蟹股の姿勢を取っている。必死の形相と自らの体を中心の支柱として必死に上に向けた盾を支える様からは、直前まであった余裕というモノが微塵たりとも見つからない。

 

「ぎ、ぎぎ、ぎぎぎ……!」

 

それは重たいものを必死に支える人間が浮かべる表情と態度だった。踏ん張る彼女が発する奇声と体の微振動は、視界に飛び込んでくる眩い光や耳に煩い爆音の周期と完全に一致している。

 

――これは……

 

現状を完全に把握したライドウは、視線を上空へと向けた。反射的なその行動は、自らの思考が導きだした答えが一致するかを確かめようとするものだった。

 

――敵の攻撃と、パラ子さんのスキルが激突して……!

 

そうしてライドウは予想通り、新たな光と音と衝撃が生まれるという光景を目撃する。ヘビードロップとでも名付けられようか、パラ子の展開している光の盾に栄耀の潜航者の重い黄金色の液体が激突するたび、パラ子の足は泥の地面へとめりこんでゆく。そしてまた、自らの体を泥の中の中へと埋める攻撃を受け止めるたび、パラ子の喉からは嗚咽交じり声があがるのだ。

 

「んぎ、ぎ、ぎ、ぎ……」

「――……?」

 

またライドウは、よく見ればパラ子の周囲ではきらきらと細かい光の粒子が舞っている事にも気が付いた。

 

――これもスキルの効力か……? それともあるいは、敵の攻撃だろうか?

 

ライドウは注意深く目を凝らす。

 

――否、これは……

 

するとライドウは、光の粒子がパラ子の顔から零れ落ちるほこりのようなものと汗の粒であることに気が付ける。柑橘系と爽やかな花の匂い入り交じったの香りがライドウの鼻腔をくすぐっていった。

 

「し、師匠! なんか化粧崩れてすさまじい顔になりつつありますけど、大丈夫ですか!?」

 

ライドウはメディ子の言葉によって、光の粒子の正体を理解する。

 

――なるほど……、光の粒子のもうひとつの成分は、パラ子の顔面より剥離した化粧品の粉なのか……

 

ライドウも何とも場違いに感心した。

 

「う、うが……!」

 

一方、パラ子はメディ子の言葉に奇声をもってして答える。否、それは返答の意思こもった言葉ではない。それはパラ子の体から自然に漏れた悲鳴そのものだった。パラ子はメディ子の失礼すぎる言葉に何らかの感想を抱く余裕もない状態なのだ。

 

「うご、うごごごごご……!」

 

パラ子の顔は、スキルの膜の向こう側に黄金色が着弾するたび、さらに真っ赤なものへとなってゆく。

 

「んが……! んぎ……! んがっ……!」

 

敵の体が光の盾に着弾するたび、彼女の口の端から涎の糸が飛び散った。

 

「んむーっ……!」

 

パラ子は顔を真っ赤にして蟹股で踏ん張り、髪を振り乱れさせながら鼻息を荒くさせ、化粧の粉、汗に加え、涎までまき散らしている。

 

「師匠……、すっかり女を失って……」

 

メディ子が憐みに満ちた表情をパラ子へと向けた。

 

「どこぞの迷宮の番人みたいな呻き声ね……」

 

続けてガン子がパラ子の声に対して酷評をする。彼女らの態度からは緊張感というものがまるで感じられない。一見にしてそれは真剣さのない態度である。

 

だがしかしライドウは、彼女たち向ける瞳のなかに確固たる信頼の感情が浮かんでいるのを見つけて、二人がそんないつもと変わらない態度をとれるのは、パラ子が二人を必ず守ってくれると信じているからなのだと気付く。

 

彼女たちは自らの命がパラ子の頑張りによって左右される事をよく理解しており、理解しているからこそ、パラ子を発奮させるべく、多少汚い言葉を述べているのだ。なるほどそう考えれば、メディ子とガン子のそんな態度はパラ子に対する信頼の証であり、また、気のおけない相手に対する不器用な声援にほかならないのだろう。

 

――信頼……

 

思い至ったライドウはパラ子の顔を見つめた。視線の先ではパラ子が、顔を真っ赤にしながら蟹股で踏ん張り、髪を振り乱しては鼻息を荒くさせ、化粧の粉、汗、涎をまき散らしている。確かにその姿は、女性という観点から見るには失格といっても過言ではないひどい有様といえるだろう。しかし――、

 

「んぐっ……!」

 

パラ子の顔と態度には、そんな見てくれの醜さを目に煩いと感じさせない、必死さと真摯さがあった。

 

――パラ子さん……

 

一歩間違えばすぐそこに死が訪れているという場面において、その場にある自分と他人の命を守り抜くため、必死となって尽力する。パラ子のそんな態度は、怠惰さと不誠実さばかりが漂うこの泥の空間の中において、決して感じられない要素だった。だからこそライドウの目には、今のパラ子の姿は醜く映らない。否、むしろライドウの瞳には、パラ子のそんな姿が、この不毛な荒野が如き空間において唯一に生き生きと咲き誇る大輪の花の様に映っていた。

 

「んぎっ、ぎっ……!」

 

一方、ライドウからそんな評価を受けているとは露ほどにも気付いていないだろうパラ子は、相変わらず間の抜けた声を漏らしている。だが初めこそ大きかったその声は徐々に小さくなりつつあった。パラ子の顔からは剥離する化粧の粉も、顔や髪の毛先より飛び散る汗も、量が少なくなってきている。

 

「ぐっ…………」

 

気付けば歯だけにとどまらず、上下の瞼までもがしっかりとくっついていた。眉間のしわはさらに深くなり、頬は真っ赤に染まっている。歯ぎしりの音はもう周囲に響いていなかった。歯ぎしりさせるほどの体力がもはやパラ子の中にはないのだ。

 

「……っ!」

 

もはや声も出ないといった様子のパラ子の体は腰から徐々に砕けていく。その様は、地震で倒壊寸前のビルヂングのようにも見て取れた。それはすなわち、パラ子には体に与えられる振動を全身を揺らすことで発散してやる余裕すらもないという事実を指し示している。すなわちパラ子の体力は、いつ終わるともしれない栄耀の潜航者の攻撃によって、刻一刻と限界に近づいているのだ。

 

「……!」

 

パラ子はそして吐息を漏らすことすらついに完全に止めてしまっていた。息吐く余裕すら今の彼女にはないのだ。敵の攻撃を一身に受けきっているパラ子の限界が目前である事はもはや誰の目にも明らかだった。

 

「師匠……」

 

さなか、メディ子が言葉を漏らす。

 

「……そうだ!」

 

何を考えたのか、メディ子は声をあげると、手を自らのショルダーバッグへと伸ばしていった。そしてメディ子の手がバッグの内側へと侵入したその瞬間――、

 

「ぐ、……………………ん?」

 

パラ子の苦悶の表情は突如として和らぐ。

 

「ん……、んん?」

 

続けざまにパラ子は、困惑の表情を浮かべた。

 

「はえ?」

 

同時にメディ子も疑念に満ちた声を発する。

 

「ん……、…て、ぁ、うわぁ!」

 

直後、パラ子の体がぐらついた。屈め続けていた腰がわずかに浮き上がる。体勢を整えようと考えたのだろう、パラ子は自然と脛の半ばまで埋まっていた両足を泥の中より軽々と引き抜く。そういえば光と音の奔流も完全に消え失せている。その反応からはライドウは、パラ子の体にかかる負荷が消えたのだろうことを察知した。

 

「――! メディ子!ガン子!」

 

ライドウに遅ればせながらも答えを推測し終えたパラ子は、二人の名を叫ぶ。

 

「はい!」

「了解よ」

 

名前を呼ぶ。ただそれだけの行為に、メディ子とガン子は瞬時に反応して見せた。二人はそしてパラ子の傍から少しだけ離れると、パラ子が展開している光の盾の向こう側をそれぞれに視線を送る。

 

「空中に敵影は完全に無し!」

 

直後、メディ子が叫んだ。

 

「おそらくそれで全部よ! そして敵は今、あんたのスキルの上で千切れた体を再生中!」

 

ガン子もそれに続く。

 

「師匠! チャンスです!」

「おっしゃ、チャンスか、メディ子!」

 

パラ子は二人の返事を受け取ると、負けじと声を上げた。

 

「いくぞみんな!」

 

パラ子の声と共に、盾の向こう側へと展開していた光が消え失せてゆく。

 

「ギ!?」

 

同時、離散していた栄耀の潜航者の体の全てが空中へと投げ出された。足元を失った栄耀の潜航者は驚愕にだろう赤い目口を間抜けに歪める。脚部にあたると思わしき杯の台座のような部分が、空中で失せてしまった足場を求めるかのよう、激しく蠢く。どうやら己の体を集結させて再生作業に勤しんでいた魔物は、突如として起こった出来事を理解しきれず、困惑しているようだった。

 

「今が――!」

「チャンス!」

 

そんな魔物の姿を捉えた瞬間、メディ子とガン子の二人は即座に行動を開始する。

 

「くらえ――」

 

まず動いたのはメディ子だった。メディ子はショルダーバックから突っ込んでいた手を引き抜くと、中より白い糸の塊を取り出すと、糸の先端を手にして解きつつ、敵めがけて投げつける。

 

「縺れ糸!」

 

そうしてこのたびメディ子が使用した道具は、縺れ糸という、使用者が対象と定めた部位へと巻き付いてその動きを阻害する、縺れ糸という冒険者ならば誰もが一度は使った事のあるだろう道具だった。

 

「いけっ!」

 

縺れ糸はメディ子の軽く解いた部分から次々と自然と解けてゆき、栄耀の潜航者の体へと向かってゆく。糸は、たとえ相手が不定形生物であろうと、使用者が対象と定めた部位を一瞬でも完全に括ることができたのならば、対象となった敵の体を一時的に硬直させるという効力を持っている。

 

このたびメディ子の手によって展開した糸は、その白く細い己の身を束ねて敵の脚部を括るべく、輪のような形へと変化を遂げながら敵の体へと近づきつつあった。

 

「ギ!?」

 

だがそんな糸の動きにたいして、栄耀の潜航者は過敏に反応した。おそらく栄耀の潜航者は、輪となった糸に、自らの体の行動を制限するような効力が秘められているとまで理解したわけではない。だが栄耀の潜航者は、少なくとも輪になった糸が自らの体に対して悪影響を及ぼす代物であると直感したのだ。

 

多分は輪のように変化してゆく糸の動きが栄耀の潜航者の思考に拘束具を連想させてしまい、危機感を刺激する結果に繋がってしまったのだろう。

 

ライドウがそんな予測をたてるなか、そして落下する栄耀の潜航者は脚部にあたるだろう部分を今まで以上に蠢かせると――、

 

「ギッ、ギ!」

 

自らが変化に容易い液状であるという点を最大限に活用して、自らの脚部の部分を極端に細めてゆく。脚部は瞬時のうちに一本の棒のような、細く長い形状へと変化していった。

 

輪となった糸は敵の脚部を縛り付けようと猛然と迫るも、栄耀の潜航者の体の変化の急激さに追い付けず、やがて栄耀の潜航者は自らの脚部を縛り付けようと狭まってくる糸の円からするりと抜けだしてゆく。やがて栄耀の潜航者のその動きに追いつけなかった糸は、むなしく空中にて輪を閉じて、ふわりと溶けるよう空中に消えていった。

 

――躱すか……!

 

ライドウは反射的に感心した。敵の攻撃を見た目のみで安易に判断せず、このようなタイミングで敵が放つものなのだからおそらくは何らかの意味ある行動なのだろうと判断し、自らの体の特性を存分に活かした避け方をする所作は、敵ながら見事なものだと言えるだろう。

 

「――あ、くそっ!」

 

己の使用した道具が無様に散っていったのを見て、メディ子が悔しげに叫ぶ。

 

「やっぱり強い敵に道具は効きにくいか……!」

「ギ!」

 

するも落下の最中にありながらいまだ空中に浮かんでいる栄耀の潜航者は、厭味ったらしい笑い声を漏らした。おそらく敵は、メディ子が苦悩する様を見て自らの行動が敵の目論見を打ち破ったことを完全に悟ったのだろう。いつの間にか再び黄金色の体に現れていた赤い口と目が、相手を見下すよう、醜く歪んでいた。

 

「くっそ、勝ち誇りおってからに……」

 

メディ子は悔しそうに顔を歪めはじめ――、

 

「いえ。貴女は十分役目を果たしたわ、メディ子」

 

そしてしかしメディ子が湧き上がる瞋恚の思いと悔しさを顔中に広まりきるよりも前、ガン子が撤回の言葉を告げる。メディ子がガン子へ視線を移す。ライドウもそれに続いた。すると視界にはガン子は構えた長銃の銃口を栄耀の潜航者へと向け終えている光景が映りこんでくる。

 

「余裕の馬鹿面浮かべてられるのもここまでよ」

 

言いながらガン子は長銃の引き金を引いた。

 

「レッグスナイプ!」

 

遅れてスキル名がガン子の口から放たれる。直後、雷管に仕込まれた火薬の勢いを得た弾丸が、細く長い螺旋の通り持ちを通過し、銃口より飛び出した。炸裂音が周囲に響き渡る。銃の反動を抑え込んだ故だろう、ガン子の体が僅かながらにぶれていた。

 

そんな彼女のささやかな残心など知らぬと言わんばかりに、火薬の威力とスキルの力秘められし弾丸は空中を突き進み、一瞬で銃口と栄耀の潜航者との間の距離を零にする。そうして魔物のゲル状の体へと到達した弾丸は、即座に敵の体内への侵入を開始した。

 

「ギ?」

 

おそらくはゲル状のその体には痛覚というモノが存在していないのだろう。あるいは栄耀の潜航者は、糸を交わしたあとメディ子を見下すに専心していたため、ガン子の行動に気付かなかったのかもしれない。ともあれ、栄耀の潜航者は自らの体に弾丸が侵入したという事態に気付くことなく、間抜けな声を漏らすばかりだった。栄耀の潜航者はまた、声によく似合った間抜けな面を晒している。しかし――

 

「ギ!?」

 

魔物が無様に呆けていられるのもそこまでだった。ゲル状の体へと侵入した弾丸からは目眩い閃光がまき散らされる。栄耀の潜航者の脚部の内部に発生した濃い乳白色の光は、やがて脚部全体へと広がってゆく。光が広まるにつれて、栄耀の潜航者の脚部の動きは鈍くなる。すなわちその光は、弾丸の内部に秘められたスキルの効力が発揮され始めたという証に違いなかった。

 

「ギッ、ゲッ!?」

 

己の内側より生じる光の輝きによってようやく自身の体の自由が失せてゆく異常を認識したのだろう、栄耀の潜航者の表情が醜く歪んでゆく。

 

「ギ!? ゲ!?」

 

自らの脚が動かなくなる。理解不能の事態が起きているそんな恐怖と混乱からか、落下の最中、栄耀の潜航者は顔を目まぐるしく変化させていた。

 

「私のレッグスナイプがまともに直撃したのよ? 足が動くわけないでしょう? 」

「ギッ! ……グ!」

 

落下の最中に脚部を動かぬ状態にされた栄耀の潜航者は、着地に失敗して泥の地面の上を数度ほど跳ねるとゴロゴロと転がり、ライドウらと離れてゆく。攻撃を受ける寸前まで余裕綽々だったその顔には、今や必死と混乱、恐怖、瞋恚の形相がありありと浮かんでいた。

 

やがてライドウらと敵との距離が五十メートル以上も離れたころだろうか。

 

「ゲ!」

 

その離れた位置で動かぬ足ではなく動く頭部と腕部を駆使して何とか身を起こした栄耀の潜航者は、必死の形相で浮かべて上半身をもだえさせ始めた。

 

「ギ!」

 

よくよく観察してやればその動きは腰の動きから発生していることが見て取れる。おそらくは栄耀の潜航者のその動きは、動かぬ脚部を何とか動かしてやろうと試み、しかし望み叶わないが故に発生している動きなのだ。すなわちその動きは、ガン子が放った一撃が栄耀の潜航者の脚部を不十全な状態に追い込んだ証に違いなかった。

 

「やった! 流石はガン子!」

 

ガン子の弾丸が敵の行動に制限の枷をつけただろうことを察して、メディ子が無邪気にはしゃぎだす。

 

「私の腕なら当然――、と言いたいところだけれど、貴女が事前に体勢を崩してくれていたおかげよ、メディ子」

 

ガン子はそんなメディ子の態度を諌めることもなく冷静に礼を述べると、リロードして長銃から空になった薬莢を取り出し、そして再び弾丸を装填した。作業が完了すると同時にガン子の銃口が素早く栄耀の潜航者へと向けられる。

 

「さぁ、あの縛りが解ける前にけりをつけるわ!」

 

言うとガン子はそして片目を瞑り、引き金に指を添えた。だがしかしそのままの姿勢で停止したガン子は、一秒、二秒、と時間が経過しても動かない。厳然としたさまは、まるで一個の岩のようだった。

 

『な、なにを……』

 

けりをつける、と言いながら、しかしまるで動かない。そんなガン子の様子が奇妙に映ったのだろう、ゴウトが疑問の声を上げた。而して自らへと向けられた言葉に対してガン子は一言たりとも答えない。

 

「チャージしているんです」

 

そんなゴウトの疑念の言葉に対し、答えを返したのはメディ子だった。

 

『なに? チャージ?』

 

ゴウトは視線をガン子からメディ子へと移す。

 

「はい。ガン子は今、とある攻撃を放つための溜めを行っているんです」

 

するとメディ子は、ガン子から視線をはずすことなく、語りだした。

 

「私たちは今、ガン子の銃弾が貫通どころか対してめり込まなかった事実から、あのゲル状の敵は粘性ながらも相当硬いという事実を得ています。そしてその理解からは、ただの物理属性の攻撃じゃとてもあの敵に致命傷を与えることが出来ないのだろう、という推察をすることが出来ます。そしてまた私たちは経験則から、物理攻撃に強い奴はそれ以外の状態異常や属性攻撃に対して耐性が低い場合が多いこと知っています。だからこそガン子は、ガンナーの中でも物理以外の属性を持つスキルを発動しようとしているんです。ガン子がチャージして放つ属性攻撃弾丸は、ひとたび放たれたのならば間違いなく、あの敵のゲル状の体を吹き飛ばして、その核を貫いてくれるはずです。ガン子が放とうとしているスキルには間違いなくそれだけの威力が秘められています。ただし――、そのスキルは発動するには事前準備と時間と集中を要するんです」

『……なるほど。森羅万象、強力な威力の事象を引き起こすためには、相応の事前準備が要るのは全ての物事に共通する必定だ。彼女のそれも、故の硬直、か』

「はい」

 

メディ子の言葉にゴウトは納得の表情を浮かべた。また、納得と共に驚きの思いが自らの裡に湧き上がってくる。驚きは自分が何気なく見過ごしてしまった敵の反応や弾丸の行方に対して、しかしメディ子らが目敏く観察の視線を向け、そして敵の特性を見抜いたという事実がもたらしたものだった。

 

『しかし……』

 

そしてまたゴウトは、自らがそうして彼女らが敵の特性を瞬時に見抜いたという事実に心底驚いたということを自覚したという事実から、己は彼らがライドウを差し置いて活躍するほどの実力を保有しているとは思っておらず、無意識のうちに彼女たちを見下していたのだという事に気が付く。

 

『なるほど、儂もまだまだ未熟というわけか』

 

己の不肖と見る目の無さ、傲慢さを恥ずかしく感じたゴウトは、反射的に顔をメディ子から背ける。顔には一抹の気恥ずかしさが浮かんでいた。ゴウトはまさに己の傲慢を恥じているのだ。

 

「――お見事です」

 

一方、ゴウトと異なり彼女たちの実力をすでに高く正しく評価しつつあったライドウは、メディ子らに対して称賛の言葉を発した。言葉には一片たりとも嫌味の気配は含まれていない。それはライドウの本心からの言葉だった。

 

「い、いやぁ……、それほどでも……。――えへへ……」

 

メディ子が身をくねらせながらライドウの称賛を恥ずかしげに受け取る。

 

「おしゃべりはそこまでにしときなさい。そろそろ準備が出来るわ」

 

直後、ガン子が諌める言葉を発した。

 

「――はい」

 

反応してライドウはガン子へと視線を向けなおす。視線を向けた先にいるガン子からは、ただならぬ気配が発せられていた。ともすれば目に見えそうなほど濃密な気配は、どうやら彼女がその手にしっかと握る長銃を中心に放たれている。

 

――なるほど……

 

気配は、これからガン子が放とうとしている『属性攻撃』は確かにかなりの威力を発揮するのだという事を示しているようだった。

 

――属性攻撃……

 

そしてライドウは、自らの脳裏に浮かんだ、先程までのメディ子の述べた言葉を強く意識する。

 

――属性……

 

「――あの敵に対して炎や氷といった何らかの威力を秘めた攻撃が多大な効果を発揮する、というのは本当でしょうか?」

 

ライドウは己の腰元のホルスターに手を伸ばしながら尋ねる。

 

「……多分ね。少なくとも普通に斬ったり撃ったりするよりは効果があるはずよ」

 

銃口と視線を敵に向けたまま、ガン子が答えた。

 

「――でしたら自分も力になることが出来ます」

 

答えを得たライドウは言いながら銃を構えるガン子の横に移動すると、腰のホルスターよりコルトライトニングを引き抜き、手の内に納めた銃のシリンダーを動かしてやる。銃身を傾けた後に少しだけ握り手を動かすと、六つの薬室が露わになった。そうして斜めになった薬室からは、雷管のまだ生きている薬莢がまっすぐにすべりおちて、ライドウの掌へと収まってゆく。金属どうしが擦れる音と賑わいの音色が、周囲に微かばかり鳴り響いた。

 

「そういえば貴方、銃もいける口だったわね」

 

ガン子は、少しばかり上擦った声でライドウへと話しかける。声には喜ぶような成分が含まれていた。おそらく同じ武器を使う同志を見つけたという親近感がガン子の緊迫した空気を少しばかり和らげたのだろうとライドウは推測する。

 

「――何が一番あの敵に対して何の属性が有効であると思いますか?」

 

無論そんな他人の感情の動きを指摘して喜ぶほど、ライドウは悪趣味でも無粋でもない。そうして彼女のわずかな感情の変化に気付かないふりをしたライドウは腰元の弾丸入れをあけて通常弾を仕舞い込むと、特殊弾頭が収納されている腰のホルスター部分へと手を移動させながらガン子に尋ねる。

 

「……わからないわ。少なくとも私は氷のそれを放つつもりだけれども」

 

ガン子は少しばかりためらった様子ながらも答えた。

 

「――では自分もそれで」

 

ライドウは聞いた途端、すぐさま対応した特殊な弾丸を取り出し、薬室へと装填しててゆく。チン、チン、と装填の音が規則正しく六回だけ辺りに小さく響き渡った。遅れて錠前が落ちたような音が軽く広がり、最後に先ほどまでより重く低い音が辺りを通り抜けてゆく。

 

「理由。きいたりしないの?」

 

それはライドウが弾丸の装填が完了し、撃鉄を上げ終えた音だった。音の意味を理解したガン子が短い言葉を発する。主語のない言葉は、しかし意味が通じに違いないだろうという信頼感に満ちていた。

 

「――自分は貴女たちの観察眼と判断、知識が信頼に値するものだと認識しましたから」

 

ガン子の思いに応えるよう、ライドウは迷いなく答える。

 

「そう……」

 

そうして返ってきたのは短い言葉だった。しかしながら言葉には二文字には抑えきれないほどの思いに溢れている。

 

「――はい」

 

柔らかくも短い言葉を受け取ったライドウは肘を曲げて銃口を上に向けると、前傾姿勢気味に構えた。ライドウの顔には裂帛の気合いが満ちている。浮かぶ表情は死地に向かわんとする戦士が浮かべるそれだった。すなわちその事実は、ライドウが敵に向けて突撃する決意をしたということを示しているにほかならない。ガン子とライドウの会話によってわずかに緩んだ周囲の空気が、一気に引き締まったものへと変化する。

 

――可能な限り敵の近くにまで接近する……

 

拳銃という遠距離攻撃用の武器を手にしたライドウが突撃を決意したのにはわけがある。ライドウの持つ銃は、ガン子の持つ狙撃用の長銃とは異なり、三十八口径の回転式拳銃だ。ライドウの銃は、ガン子のモノと比べて銃身が短く、故に取り回しと回転率が良い代わり、長距離での射撃には不得手な代物である。すなわち、回転式拳銃はある程度近づかなければその効力を十全に発揮しない。加えて、相手は物理攻撃対して強い耐性を持っているのだ。そしてまた敵のもつ物理耐性やすさまじく、鉄すらも両断せしめるライドウの一刀による一撃をいなすほどのである。

 

――なぜなら……

 

すなわちそのような鉄以上に強固な物理耐性を持つ敵の体内に潜む核を砕くならば――

 

――至近距離からの銃撃の方がより効果的な一撃となるのは明白だからだ……!

 

弾丸の勢いが強いほどに望ましい効果が出やすいだろう事は言うまでもないだろう。

 

「――――――――――――――――ギ!」

 

ライドウが必殺のために突撃の決意を確固たるものへとしてゆくさなか、遠くの敵の大きな叫び声が意識の端に滑り込んできた。向けていた視線の先には、先ほどまでよりも大きく身を揺らしている栄耀の潜航者の姿がある。その身じろぎは一秒ごとに大きなものへと変化していた。初めこそ蠢動程度に過ぎなかった腰から下の動きが、徐々に不自由さの感じられない大きなものとなってゆく。おそらくガン子の撃ち込んだ弾丸の効力が切れつつあるのだろう事をライドウは予測した。

 

「きっかり三カウント、零と同時にスキルを発動するわ」

 

敵の様子を目撃したガン子は迷いなく告げる。

 

「この一撃がどれだけあの魔物に効くのかは不明だけれど、少なくとも足止め程度にはなるでしょうよ」

 

ガン子は言いながらライドウを見つめた。小さな青い瞳はある問いかけに満ちている。問いかけとはすなわち、『その場合、トドメは任せたわよ』、だ。

 

「――承知しました。その場合、後は自分が何とかします」

「……やるわよ。メディ子。合図よろしく」

 

ライドウの迷いない返事を聞いたガン子はメディ子へと指示を飛ばした。自身でカウントを行わないのは、意識を完全に撃つことに集中するためだろう。引き金に添えた指へと徐々に力が込められてゆく。

 

「はい。任せてください」

「パラ子はライドウの援護を」

 

メディ子の返事を聞いたガン子はパラ子へも指示を飛ばす。

 

「あぁ! 任せておけ!」

 

同意の言葉にガン子は返事をしない。代わりにガン子は、体勢を崩さないままゆっくりと息を吐いた。ガン子の纏う気配がさらに濃密なものとなる。気配はまるで頼りとなる悪魔たちが傍らにいるかのような錯覚をライドウに覚えさせていた。

 

「三」

 

メディ子がカウントを開始する。コルトライトニングを片手に構えたライドウがいっそう前のめりの姿勢を取った。パラ子やメディ子の間にわずかにながら揺曳していた日常の雰囲気までもが完全に霧散してゆく。パラ子がライドウの横へと並びたった。

 

「ギ――」

 

ライドウらの動きを察知したのだろう、栄耀の潜航者の動きがさらに活発なものとなる。だが銃口と殺意をぶつけらた栄耀の潜航者はその場から動こうとしない。おそらくまだ栄耀の潜航者の体を縛る弾丸の戒めは解けていないのだろ。

 

「二」

 

だが同時、その激しい動きから、敵の体を縛る戒めが完全に解除されるときは決して遠くないこともわかる。ならば攻撃の合図が送られる前に奴が動き出すかもしれない。とはいえ、奴が再び十全な動きを取り戻そうが取り戻すまいが――

 

――どのみちやることなど決まっている

 

奴がこちらに対して牙を突き立てるより以前に、ガン子と共に属性威力を発揮する特殊な弾丸を撃ち込む。それがトドメとなるならばそれでよし。さもなくば、自らの持つ銃の弾丸にて奴の核を砕き、その息の根を確実に止める。それがおそらくこの現状においてはこれこそが現状でとりうる最善の手段といえるだろう。

 

あるいは、悪魔の封入された召喚管さえあればまた違った戦い方もできるのだが――、

 

「一」

 

無い袖を振ることなどできない。ライドウはわずかばかりに浮かんできた残念の思いを振り払うと、直後に訪れるだろう攻撃の時を待つ。刹那後に来るだろう瞬間を焦れる思いが、一瞬の間だけライドウの視線を自然と銃を構えるガン子の方へと向かわせた。

 

「――」

 

見ればスキルを発動する直前のガン子の体は、それこそまさに発射寸前の銃そのものであるかのようだった。あと一つ後押しがあれば、スキルという名の力を乗せた弾丸が、彼女のもつ長銃より解き放たれる。ならばなるほど、ライドウがガン子の姿に銃のイメージを重ねたとしても不思議ではあるまい。気付いたライドウは視線と意識を敵へと戻す。

 

「零!」

 

ライドウの視線と意識が敵を再び射抜くのとメディ子の合図は同時だった。

 

「チャージアイス!」

 

瞬間、ガン子はスキル名を叫びながら、長銃の引き金を引く。撃鉄が落ちて、薬室内部に装填されている雷管の尻に叩きつけられた。薬室内では火薬が炸裂して火花が散る。火薬の勢い得た弾丸は、スキルの特殊な力を秘めつつ螺旋の刻まれた細い道を一瞬で通りすぎてゆくと銃口より飛び出し、まっすぐ敵に目がけて突き進んでゆく。

 

「――!」

 

発砲音を合図に、拳銃を構えたライドウが先行して飛び出した。

 

「よっしゃ、いくぞ!」

 

疾風となったライドウの後ろに、重鎧を軽鎧に変えていつもよりも身軽になっているパラ子が続く。二人の疾走は一般的な冒険者たちと比肩すればはるかに速いものだったが、その速度はもちろんガン子が放った弾丸の到達よりも遅く――、

 

「!?」

 

彼らより敵に向けて先に出た突き進んだスキル「チャージアイス」の威力を秘めた弾丸は、二人が飛び出た瞬間にはすでに即座に敵との距離を零にして、二人の目指すゲル状の体に飛び込んでいた。

 

「ギッ!?」

 

栄耀の潜航者は、弾丸が体に侵入した直後の一瞬だけ、戸惑い、不安げな表情を浮かべて見せる。おそらく弾丸が先ほどのような自らの体を動かなくする効力を発揮すると思ったのだろう。あるいはその不安の表情は、弾丸の向かう先に核があったためのモノだったのかもしれない。

 

「グ……」

 

しかしそんな栄耀の潜航者の不安とは裏腹に、ゲル状の体に侵入した弾丸が先ほどのような乳白色の光を発する事はなく――、

 

「グ……、グ……?」

 

それどころか弾丸の勢いは栄耀の潜航者の粘度と濃度の高いゲルの体を前に物理的威力をほとんど吸収されて、見る間に非常に緩慢な動きへと変化してゆく。この調子ならば弾丸が栄耀の潜航者の核を貫くことはないだろうことは明らかだった。

 

「グ……」

 

弾丸は効力を発揮せず、体内に秘められた核まで届く威力を秘めてすらもいないらしい。事実と想定が栄耀の潜航者に一瞬安堵の表情を浮かべさせ――

 

「グ、ゲェ!」

 

しかしすぐさまその表情は瓦解する。ゲル状の体内に撃ち込まれた弾丸は青い光を発すると、やがて栄耀の潜航者のゲルの体を内側より凍らせつつ、緩々と突き進んでゆく。栄耀の潜航者が察知した不穏は、別の形で現実のものとなったのだ。

 

「ギ、ギ、ヒィッ!」

 

自らの体が体内に侵入した異物によって徐々に侵食され破壊されてゆくという視覚的恐ろしさが恐怖を呼んだのだろう、栄耀の潜航者は目口を恐怖の形に歪めて初めて怯えた表情浮かべはじめていた。

 

「ヒィ、ヒィッ!」

 

そうして弾丸は、栄耀の潜航者に悲鳴までをも上げさせる。やがて泥の上に転がった栄耀の潜航者は、ようやく自由に動くようになった足を存分に使って身悶えはじめていた。そこにはすでに先ほどライドウを死の淵にまで追い詰めた強者としての姿はどこにも存在していなかった。そこにあるのはただ目の前に迫り来る死におびえる弱者の姿である。

 

「――なるほど、確かに有効のようだ」

 

自らを死の淵にまで追い詰めた存在が、しかし死に怯えて身悶えるそんな姿が、ライドウから少しばかり性の悪い、しかし素直な感心の声を引き出した。

 

「流石はガン子! 慧眼だな!」

 

言葉を耳にしたのだろう、ライドウの後ろを走るパラ子が叫ぶ。背後ゆえに見えぬがおそらくその顔は嬉しげに唇が吊り上げられているのだろう事をライドウはその声色から察知する。ライドウの脳裏にはパラ子の何とも魅力的な笑みが浮かんでいた。

 

笑みはおそらく仲間を褒められたという喜びがもたらしたものであるのだろう。どうやら頼りにしている仲間が褒められた際に嬉しくなるのは、どの世界でも共通の出来事らしい。

 

「――ええ、流石です」

 

異なる世界に生きる人間同士の共通点を見つけたライドウは、いっそう発奮して足を動かし、疾走の速度を上げてゆく。そうしてライドウの体は見る間に敵へと接近していった。

 

「ギ、ギィィィィ!」

 

やがて地面を転がって恐怖に身悶えていた栄耀の潜航者は、しかしライドウらの接近に気付くと、自らの凍り付いて壊死したかのように動かなくなった部分の動作をほかの部位で補ったのだろう、ゆらりと立ち上がり、迫りくる敵の襲来に備えるべく身構えてみせる。赤目と赤い口は未だに肉体喪失の痛みとそんな現実に耐えるためか、ひどく醜く歪んでいた。

 

――その根性には見習うべきものがある……

 

ライドウは思わず感心した。この栄耀の潜航者という敵は、目の前に迫る脅威に立ち向かおうと、肉体の無理と精神の薄弱を押し殺して立ち上がったのだ。魔物が心の裡より絞り出したそれはすなわち勇気に相当するものであり、称賛して差し支えないものでもある。だが――、

 

「――これで終わりだ」

 

生死を賭けた戦いの行方と現実は根性や勇気だけでどうにかなる程に生易しくない。ライドウは立ち上がる今や弱者の立場に落ちた栄耀の潜航者に止めを刺すべく、コルトライトニングの引き金を引く。撃鉄が落ちて雷管を叩き、弾丸が銃口より飛び出した。殺意のこもった弾丸があっという間に蛮勇滾らせる敵の体へと突き刺さる。

 

「ギ……ッ!」

 

一発目の弾丸は栄耀の潜航者が腕のように薄く伸ばしている部分に直撃した。泥沼に巨石を投じたような音が鳴った直後、ゲル状の体に撃ち込まれた氷結弾は威力を発揮し、弾丸から生じた氷結の威力が敵の体の一部を瞬時に凍りつかせてゆく。

 

やがてゲル状の体内に飛び込んでも勢いを完全に失わなかった氷結弾は、その威力を発揮し続け、敵の凍り付いた体を打ち砕きながら直進し、粉々に散華させていった。氷の礫が辺りに舞い散ってゆく。氷結弾が予想以上の効果を発揮したのを見て、ライドウは再び氷結弾を射出する。二射目はそうして魔物が悲鳴をあげるより早くに行われた。再び銃声が鳴り響く。

 

「グ、ゲェ!」

 

二発目の弾丸が栄耀の潜航者のもう片方の腕のような部位に直撃したのは、己の体のは異常に気付いた魔物が悲鳴をあげるのと同時だった。氷結弾は着弾と共に栄耀の潜航者の体を凍りつかせ、砕きながら直進し、やがて突き抜けてゆく。凍り付き粉々になった栄耀の潜航者の体がぱらぱらと宙に散っては落ちていった。

 

「ギ、ヒィ!」

 

身体喪失の痛みにか、はたまた自らの体が欠損した事実におびえたのか、栄耀の潜航者の顔が恐怖に歪んでゆく。だが――、

 

――まだ敵は死んでいない

 

ライドウは続けて三発目を射出した。三度目の銃声が鳴り響く。

 

「……!」

 

そうして冷徹な判断によって発射された三発目の弾丸は、栄耀の潜航者の二つの赤目と一つの赤口が浮かんでいる顔面らしき場所の額部位に直撃する。栄耀の潜航者はやはり悲鳴をあげることすら許されなかった。

 

「ギ……」

 

侵入直後に氷結の威力を遺憾なく発揮した氷結弾は、栄耀の潜航者の顔を凍りつかせながら直進し、やがて周辺組織を吹き飛ばして向こう側へと突き抜けてゆく。突き抜けた弾丸はやがて泥の地面へと吸い込まれ、消えていった。

 

「ヒ……」

 

一撃は栄耀の潜航者を、まともな悲鳴を上げることすらも不可能なありさまにまで追い込んでいた。栄耀の潜航者はもはやただ意味のない言葉を発しながら、無事である体の各部位を蠢動させる不気味なオブジェへとなり下がっている。だがそれでも――、

 

――まだ敵が死んでいない。

 

魔物の体は未だに蠢いている。すなわち敵である魔物は未だに存命しているのだ。

 

「――」

 

ならば攻撃の手を止める理由なとない。ライドウは無言のまま、シリンダーに残る四、五、六発目を射出した。連続して撃鉄の落ちる音と火薬の炸裂音が響き、放たれた三発がほぼ同時に魔物の胴体へと着弾する。氷結弾と呼ばれる弾丸はその威力を遺憾なく発揮し、栄耀の潜航者の胴体の大部分は凍らされた後に、打ち砕いてゆく。だが――、

 

――まだ死んでいない……

 

なんというしぶとさか、それでもまだ魔物は生きている。体のほとんどの部位を失い、強く握りしめた空き缶か、あるいはワイングラスの取っ手のような状態になりながらも、魔物は、しかしまだ残存するゲル状の部位を蠢かせているのだ。

 

――あと数発は撃ち込む必要があるか……

 

「――」

 

敵のしぶとさを認識したライドウは、シリンダーを引き出すと、銃口を上に向けた。薬室の中から空になった薬莢が落下し、泥の地面に音もなく接地する。高熱を帯びた薬莢が生ぬるい温度の地面と触れた瞬間、甲高く鳴り響くはずの金属音の代わり、水の蒸発する音が辺りへと鳴り響いた。ライドウがそして空になった薬室へと銃弾を込め直そうとすると、蒸発音を合図としたかのように、蠢く栄耀の潜航者の体から凍り付いた体の破片がさらにぼろぼろと零れ落ちてゆく。

 

「――これは……」

 

そしてライドウは、かすかに残るゲル状の敵の体内に真っ赤な色をした真球を発見して、銃弾装填の動きを止めた。ライドウはこれこそが敵の本体の核であると確信する。

 

――こうまで露出しているのならば……

 

ライドウは銃に弾丸を装填し終えると、銃を腰のホルスターに収無言で、腰元の鞘より刀を引き抜いた。すらりと引き抜かれた刀剣「赤口葛葉」から周囲の暗がりを斬り裂くような光が発せられる。ライドウの意志が反映されたかのような光に反応してか、栄耀の潜航者の残り少ないゲル状の体がわずかに蠢く。だがそうして反射的に繰り出された動きには、もはやライドウの行為を止めるだけの力は残されていなかった。ライドウはそして刀を敵の核に突き入れようと剣を引いて――

 

「おっと、それが敵の核か!」

「――」

 

しかしあとからやってきたパラ子の行為に阻害され、果たすことはできなかった。

 

「ならこうだ!」

 

パラ子はライドウに先んじて盾の先端を突き入れて敵の核を穿り出したのだ。

 

「この、この、この!」

 

そうして転がり出てきた核をパラ子は幾度も足蹴にする。真球だった核は見る間に歪な形へとゆがんでゆく。核が真球でなくなった途端、核を失った栄耀の潜航者の体が崩れていった。ゲル状の部分は融解し、凍り付いた部分は砕けたのち、どちらも泥の中へと消えてゆく。後にはパラ子が蹴りつけている歪み形を変え続けている球体だけが残るばかりだった。

 

「どうやら片付いたみたいね」

「――ガン子さん」

 

栄耀の潜航者の体が崩壊したこと見て状況終了を悟ったのだろう、やがて近寄ってきたガン子はそんなことを言った。

 

「師匠、なにやってるんですか?」

「おお、メディ子よ! 見ろ! このひずんだ球核がこのたびの敵の核だったのだ! だからこそ私はこうして攻撃を続けてこれをぶっ壊そうとだな……」

「ふーん、でも師匠。この核、見たところ温度変化に弱いっぽいですし、つまりはあいつを物理攻撃で倒さないと手に入らない結構貴重な品っぽいわけですから、持って帰れば高く売れそうですけど、壊しちゃっていいんですか?」

「なにぃ!? なぜそれを早く言わない、メディ子!」

 

一方、やってきたメディ子に話しかけられたパラ子は、メディ子との会話から自らが蹴りたぐっていたものの貴重性を教えられると、すぐさまその行いをやめて、そそくさとそれを回収して自らが背負っているリュックサックへと仕舞い込む。その様だけを見ると冒険者というよりは盗人のようだった。

 

「よっしゃ、これはもう私のモノだ!」

「ちょ、ちょっと師匠! ずるいですよそんなの! 」

「何を言う。最初にお宝を手にしたものが、そのお宝の所有者なのだ。かの有名なパイレーツの――、ああ、よせ、何をする、メディ子! 人様のバッグに手を突っ込むとはなんという破廉恥な!」

「師匠がそうさせたんじゃないですか! ずるっこなしですよ! せめてじゃんけんで決めましょう、じゃんけんで!」

 

二人はそして敵の落とした宝の所有権をめぐって言い争いを始める。

 

『なんというか……、こんな時でもおぬしらはいつもと変わらんように過ごせるのだな。なるほど、世界に数多くいた冒険者たちの中から英雄として選ばれただけのことはある、ということか』

 

パラ子とメディ子のやり取りを眺めていたゴウトはそんなことを述べた。声には感心とも呆れともとれる色が混じっている。

 

「英雄、ねぇ……」

 

ゴウトと同じよう二人のやり取りを呆れた様子で眺めていたパラ子は肩をすくめた。含んだものが存在している言葉には多分に疑念と遺憾の思いが含まれている。

 

「好きな場所に行って、好きなものを見て、好きなようにふるまう。冒険者なんて誰もがこんなものだとおもうけれど……」

「そうそう。冒険者なんてみんなこんなもんだ。だから私たちが特別ってわけじゃないぞ」

 

ガン子の言葉にパラ子が同意の言葉を返した。ライドウが視線を向ければ、歪んだ玉をバッグに仕舞い込むパラ子の口元には少しばかり喜色の形に歪んでいる。どうやらパラ子は、メディ子との戦利品を奪う戦いには彼女が勝利してご満悦であるらしい。

 

「そもそも私たちは結局、英雄とか言われる特別な存在になれなかったくちですしねぇ」

 

そんなガン子の言葉に、メディ子も続いた。目元には抑えきれないと言わんばかりに悔しさが滲んでいる。おそらくパラ子に歪んだ玉の所有権を奪われた事がよっぽど悔しかったのだろう。

 

――何とも素直に感情を表す人たちだ

 

「あ、ライドウさん。腕の様子、ちょっと見てもいいですか? 一応、後遺症がないか確認したいので」

 

不思議な感心を覚えたライドウを余所に、メディ子はすぐさま気を取り直した様子で顔に見た目通りの少女らしい幼さのある笑顔を浮かべると、ライドウへと語りかけてくる。どうやらメディ子にとってパラ子に戦利品を取られたという事態はあまり大したことでないらしい。おそらく彼女らにとって、戦利品をとったとられたは日常茶飯事であるのだろう。だからこそメディ子は、こうして自分にとって損害な出来事があった直であっても、いつもと変わらない柔らかい笑みで他人を気遣う態度をとることが出来るのだ。

 

「――承知しました。お気遣いいただき、ありがとうございます」

 

ライドウはメディ子の心遣いを改めて受け取ると、近づき、学生服とメリヤスのシャツの袖をまくった腕を彼女に差し出しながら感謝の言葉を告げる。

 

「いえいえ。気にしないでください。パーティーを組んで一緒に迷宮に潜った以上、私達は命を預けあう仲間なんですから」

 

メディ子はライドウが差し出した腕に手を添えるとともに、そんな言葉をあっさりと言い放った。

 

「うっわ、なにこの綺麗な腕……。まるで陶器みたいに透き通ってる……。下手すると私たちのそれよりきれいなんじゃないですか?」

「――そうでしょうか?」

「な、なぁ、ライドウ。ちょっと触ってみていいか? 大丈夫、変なことはしないから……。変なことはしないから!」

「師匠……。必死過ぎて顔も言動もきもい事になってますよ……」

「――別に自分は構いませんが……」

「よっし! では早速……、……うぉ、すごいなこれは! お肌すべすべだ! お肌すべすべだぞメディ子!」

「ほんとですね……、うらやましいなぁ……。なにか特別なボディソープだとか、乳液とか使用されてるんですか?」

「――いえ。自分は普通に、石鹸を使うくらいで後は特に何も……」

「な、なんと……、お手入れなしでこの滑らかだと言うのか……」

「若いって良いですねぇ……」

「何を言う、メディ子! 見ろ! 私たちだって見た目だけなら十分に若い!」

「……師匠。そこで見た目だけならって素直に言う辺り、お馬鹿というかなんと言うか……」

「……あぁ、しまった!」

 

やがてライドウへと近づいてきたパラ子とメディ子は、ライドウの前腕を撫でながらはしゃぎ始める。ライドウは年上の女性二人が見せる言動に困惑した思いを抱きつつも、不機嫌な思いを抱いていないことに気が付いた。というよりも彼女たちの生み出すそんな雰囲気は、ライドウが帝都の鳴海探偵事務所で、鳴海という男や、タヱという女性と一緒にいる際の、日常のそれに等しく――

 

「――」

 

彼女たちのそんな言動は、ライドウの能面のような白皙の顔に柔らかい微笑を浮かべさせる事に成功する。ライドウはそうして、ようやく彼女たちを別世界の、異界に潜む悪魔のような存在ではなく、帝都に住まう人々や、自分達と同じような人間であると心底理解させられたのだった。



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第十八話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (六)

暗がりの中、きざはしを下ってゆく。段を一つ下るごとに鳴る足音がやけに大きく耳の中に残響する。ふと足を止めてあたりを見渡した。視界の中に広がるのは見覚えのあるマギニアの街の中層の光景だ。マギニアという街の中層には街の住人の住まう住宅街と冒険者や商人が住まう商業地区が広がっている。

 

マギニアの中層地区は、常ならば後者たちが生み出す喧騒で満ちている場所であり、マギニアが周辺地形調査のため地上に降り立った際、中層の商業地区が「眠りを忘れた街」などと揶揄されるようになる場所だ。地上に降り立つと、マギニアの商業地区には冒険者たちが周辺地域の調査のために朝昼夜の区別なく出入りを繰り返すようになり、また、そんな彼らを相手にするため商人たちが精を出して商売に勤しむようになる。そして宿屋、道具屋、酒場などといった施設は常に門戸が開かれた状態を保つようになり、中層には常に生活と商売の光が灯るようになる。だからこそ地上に降り立った際、マギニアの中層は「眠りを忘れた街」などと揶揄されるのだ。だが――。

 

「「眠りを忘れた街」……、か」

 

しかし「眠りを忘れた街」などとまで例えられるマギニア中層は今、ほとんどの施設から光が落ちていた。目立つ光は電灯のモノばかりで、商業地区どころか住居からすらも漏れるものは一切ない。否、それどころか、常ならば冒険者や商人たちの生み出す雑音すらも、今の街には存在していなかった。驚くほど巨大な月の明かりが照らす下、生を謳歌するモノの雑踏が常に感じられる中層は、まるで眠りこけているかのように静まり返っている。さなかに聞こえてくるのは、街中を徘徊する兵士たちがたてる足音だけだ。兵士たちの足音はまるで墓守の足もとにも聞こえてきて――

 

「これでは「死んだ街」という例えの方が適当だな……」

 

まるでマギニアの街の中層は墓標のようだった。街はそんな眠りの生み出す静けさではなく、生命活動の全てが失われてしまったかのような、そんな儚く切ない侘しさや寂しさを感じさせる雰囲気があった。

 

「――縁起でもない」

 

女――ペルセフォネ、は自らが述べた不吉な言葉を脳裏より失せさせるべく頭を振るうと、再び長く続く階段を下り始める。やがて女は階段を下り、平坦に続く石畳の街中を数分ほど歩くと、一つの建物の前で足を止める。建物は石材と木材を組み合わせてつくりあげられた一般的なものだった。建物は強く意識を向けていなければすぐにでも脳裏から薄らいでいって、数秒としないうちに記憶の中から失せてしまっていそうな、そんな雰囲気に満ちている。

 

『さぁ、中へ――』

 

だが、脳裏へと響く声を聴いたとその瞬間、ペルセフォネが建物へと抱いていた「普通」の印象は吹き飛んだ。印象の唐突な変化はペルセフォネの危機感を煽った。そしてペルセフォネは建物を異様なものであると認識し始める。今や女の目にはマギニアの紋章という、商売の許可を示す、宿屋の看板の隣にあって当然のものですら、異様なものとして映っていた。紋章の横にある看板にはこの宿屋の名前なのだろう、「湖の貴婦人亭」との記載がなされている。

 

『何、遠慮することはない。印象操作と防護の魔術は解いてあるから安心してはいってくると良い』

 

だがしかし、「湖の貴婦人亭」の内部から聞こえてくる、ここに至るまでずっと脳裏で響いていた甘く、脳裏を蕩けさせるような声が、ペルセフォネの不信感を不思議と完全に払拭した。

 

「……」

 

導かれるようにしてペルセフォネは「湖の貴婦人亭」の扉に手をかける。ドアの廻し手を軽く握り回転させると、廻し手はするりと手の内から抜け失せて、ドアはするりと自然に開かれていった。歓迎するかのような動きに導かれて女が建物の内側に足を踏み入れると、開いていたドアはやはり勝手に動いて自然に閉じてゆく。パタン、と音が鳴る。同時、ペルセフォネは再び家の雰囲気が変質したのを感じた。おそらくは声の主が印象操作と防護の魔術とやらを再び発動させたのだろう。そして家が再び不思議な雰囲気に包まれた直後――、暗がりだった部屋の中に光が満ち溢れた。

 

「!」

 

ペルセフォネは思わず瞼を瞬かせる。そうして数度ほども同じ動作を繰り返して眼球を光の刺激に慣れさせたペルセフォネは、まだ眼球の中にある残光の影響を無視しつつ、光に溢れた部屋の中を見渡す。部屋は人一人が住まうには十分すぎるほどに広く、しかし、宿屋の顔として使うにはひどく雑多な状態で、はっきりと言ってしまえば、「汚い」、と言って差し支えない状態だった。宿屋、というよりは民宿、という例えの方が妥当だろう。

 

『すぐに戻るから、ちょっとそこいらで待っていてくれたまえ』

 

入ってすぐの待合室にはこぎれいな机が中央に置かれている。机は食事の台としての機能も兼ねているのか、小さなランチョンマットが四つばかり置かれていた。そんな机を囲うようにして椅子とソファが配備されている。さらに視線を移して奥まで見渡せば、部屋の奥の壁の上半分には窓が埋め込まれていた。すぐ下の壁には、壁に沿って小さくテーブルが敷かれておりテーブルの高さにあった椅子が何脚か突っ込まれている。ペルセフォネが窓の傍まで歩を進め、そして外を覗き込む。すると窓からは、マギニアの街の上中下層の全てが窺えた。死んだように眠っているはずの街は、さんざ煌めく星々の光と、眩いながらも煩くない月の光に照らされて、驚くほどに美しく彩られている。

 

――いい眺めだ……

 

今でこそ死んだような雰囲気の街ばかりが映っているが、もし今が平常の時であるならば、この場所から覗く光景は、朝昼夜、時を選ばずして素晴らしいものであるに違いない。なるほど、どうやらこの宿は、見かけこそ普通でこじんまりとしているが、宿の位置としては最上位の位置にあるらしい。

 

――なるほど、それゆえの雑然か……

 

そう考えれば、この部屋がこうして散らかっている雰囲気である事も納得いくような感じがした。もしこの素晴らしい光景見れる場所がきれいさっぱり整頓された状態であるならば、その完璧さはきっとどこか物寂しさを感じさせるに違いない。不完全な生き物である人間はあまりに完璧すぎる状態に置かれると逆に落ち着かない気分となる。そんな事を知ってか知らずしてかは知らないが宿屋の主はそんな人のもつ性質を理解しているからこそ、このようにあちこちに猫の調度品や植物の植木鉢で部屋を満たしているのだろう。

 

「あ、ちょ、ちょっと、マーリンさん、ひっかかないで~」

 

ペルセフォネがそうして暖かみ溢れる雑多な部屋の中を見渡していると、別の部屋より間延びした声が聞こえてきた。ペルセフォネをここまで導いた声と間延びした声は言い合いながら近づいてくる。ペルセフォネは反射的に腰をわずかに落としていつでも動ける体勢へと移行すると、同時に腰の剣の柄に手を伸ばした。

 

『はいはい、嫌ならさっさと剣を持って部屋に向かう』

「いく、いくから~。ひっかかなくてもちゃんといきます~」

 

ペルセフォネが警戒の意志露わに視線を声の聞こえてくる別の部屋へと続く暗がりの廊下に向けていると、やがて一人の女性が扉を開けて廊下へと姿を現す。そうして現れた女性の頭の上にはまた、覆いかぶさるようにして一匹のでっぷりとふくよかな体をした白猫が乗っかっていた。真っ白な毛並の巨猫が手足をぶら下げて少女の耳を覆い隠しているその様は、まるで子供が被る冬用の毛糸の耳あて帽子のようにも見える。

 

『なにをいってるんだい。僕がこうしていなければ君は今も倉庫で剣を抱えて眠ったままだっただろうに』

「そんなことありません~。私は絶対きちんと剣を持っていってました~、あ、た、叩くのもだめ~」

 

また、猫と女性の頭の隙間覗ける髪はぼさぼさで、寝癖も正されていないような状態だった。良く見れば女性の着ている服は皺が多く、襟や袖はのりが効いていない状態だ。ペルセフォネは女性がだらしない性格であることを理解する。しかし同時にペルセフォネは、宿屋の職員としてあるまじきその姿を見て、幾分か安堵の感情が湧き上がってくることを理解した。

 

――これは敵意を抱くに値しない存在だ

 

『まったく、嘘吐きなのはあの子の魂の影響かな? ううん、いや、あの子は人の心をもてあそぶような子であったけども、ここまでひどいニート気質じゃなかったような……』

 

ペルセフォネがそしてわずかばかりに気を緩めている間にも、自らの頭に乗っかった猫のぶら下がった手足の先が女性の顔へと振り下ろされている。幾分奇妙にも思えるが、どうやら力関係は人である少女よりもマーリンという猫の方が上であり、また彼の方がしっかりとした性格であるようだった。

 

「ニートっていうのが何かは知りませんが、マーリンさんが私の悪口を言っている事だけはわかりますよ~……、あ、やめて、叩かないで、マーリンさん~」

 

女性が言い訳じみた反論の言葉を口にするたび、猫の手足が親の叱咤の如く女性の頬へと振り下ろされる。自らの頭上にいる猫の手によって自らの頬を激しく叩かれ続けていた女性は、猫の挙動を邪魔するためだろう頭を振りながら、ペルセフォネのいる方向へと近寄ってくる。

 

「――あ」

 

そして暗がりを進んできた女性はやがてその瞳の中にペルセフォネの姿を認めると――、

 

「マーリンさん、マーリンさん」

 

頭の上の猫に対して呼びかけた。

 

『なんだい、ヴィヴィアン。またいいわけかい?』

 

そうして少女――ヴィヴィアンの頭の上に乗っていた猫のマーリンは、呆れた口調でヴィヴィアンの呼びかけに応じる。

 

「違いますよう。前です、前」

『うん? 前? ――お』

 

呼びかけによってマーリンの青い瞳がペルセフォネの方へと向けられる。するとペルセフォネの姿を瞳に収めたマーリンは、はじめ大きく目を見開くと、徐々にその開閉の距離を縮めてゆき、やがてひどく細めた状態にまで変化させると、目じりの端を緩めて口を開く。

 

『ようこそ。よく来たね、アルトリア』

 

いかにも親しげな表情と共に郷愁の感情こもった声で告げられるその名前は、しかしペルセフォネの名前でなかった。けれどもペルセフォネはそんな呼び名の違いが一切気にならなかった

 

「あなたが私をここへと呼んでいた声の主か」

 

そうしてペルセフォネは無遠慮に質問を返す。

 

『そうだとも。君にこれを託すならば、城の上なんかよりも、彼女の二つ名である「湖の貴婦人」の名前のついた場所で、彼女と同じ名を持つこの子の手から渡す以上に相応しい状況なんてないだろうからね。ほら、ヴィヴィアン。その手に持ったものをさっさとアルトリアに渡すんだ』

「わかってます。わかってますから、叩かないでください~」

 

いいながらヴィヴィアンは星と月の灯りに照らされた廊下を進んでペルセフォネの前にまで進み出てくると、両手に抱き留めていた袋を差し出してくる。袋は長く、ヴィヴィアンの身長の三分の二――115センチメートルほどもあった。ペルセフォネはヴィヴィアンより袋を受け取ると、縛り紐を解いて、中のモノの姿を露わにする。

 

「これは――、剣か」

 

そして現れた柄を見て、ペルセフォネは呟いた。

 

「そうですよ~。ペルセフォネ様はご存知かもしれないですけれど、もともとはうちの宿を利用されていました人たちの残していったものでして、うちの目玉でもあった――、むぎゅ」

『そうとも。それはかつて人々の「こうであって欲しい」という想念が星の内部で結晶・精製されて生み出された神造兵装。すなわち星の生み出した聖剣。聖剣というカテゴリーの中で頂点に位置する、「空想の身でありながら最強」ともされる最強の剣。かつてイングランドの大地において絶望の底に堕ちた人々を救い上げた希望の光を放つ物と同種にて、それゆえだろう同じ姿をとるに至った、最後の幻想(/ラスト・ファンタズム)』

 

そうしてヴィヴィアンの言葉を遮ったマーリンは言い切ると、視線を窓の外へと移した。ペルセフォネやヴィヴィアンもそれに倣って続く。二人と一匹の視線の先には、今や雲の下の大地かと見紛うくらいに接近した月の姿と、そんな月に目がけて伸びる泥の姿が映っている。

 

『満たされぬ者は満足を得る為に。そして、安楽の大地より旅立つことを拒む者は安寧の夢の続きを見る為に、世界が生まれ変わる事を望んでいる。前者の彼らが望むのは、「自らの力によってあらゆる困難が切り開ける」世界であり、後者の彼らが望むのは自分以外の誰かによって管理された「自らが余計な苦労を負わずとも生きてゆける」世界だ。とどのつまり彼らは、「自分にとって都合のいい改変が行われる」そんな世界を、そんな風に幻想を実現してくれる巨人の如き存在を求め続けている。楽園は自らの手では決して生み出せないと、彼らはそう信じきっているんだ。――なんて哀れな人たちだ、と、そうは思わないかい、アルトリア』

 

マーリンは視線を月と泥から背けないままに言った。言葉にペルセフォネの脳裏にある光景が浮かぶ。それは自らが歩んだ道のりであり、そしてまた、自らでない誰かが歩んできたのだろう道のりだった。二つの道のりを歩くのは、どちらも王としての責務を背負わされた女だった。ペルセフォネの脳裏に浮かんだもう一人の女性は、女性の身でありながら男を偽り、男を偽ったがゆえに生じた歪みと運命の悪戯により翻弄され、やがて自らが収めた国を救うことできずに散ってゆく。

 

『窓の外に楽園が広がっているかどうかなんて言うのは誰にもわからない。何しろ、どうあがこうと世界なんて言うものは自らの思い通りにならないんだ。だって世界は多くの生物の意志によって生み出されている。誰もが自らのための欲望を満たそうとするそんな場所で、それでも安全なんていう幻想が広がっている楽園を望むのであれば、自らの道行きの先にこそあるものだと信じながら歩み続けるしかない。結果、進む道にたとえどんな苦難があろうと、進む道の先に悲しい結末が待ち受けていようとも、だ』

 

アルトリア。アーサーという名を偽った少女が治め、守ろうとした国は、彼女の身の上の事情と自らの失態によって散ってゆく。課せられた使命を果たせず、決心を果たせず、守るべき民は散り散りとなり、責務を途中で放棄せざるを得なくなる。それがどれほど悲しい出来事であるかを、同じく王族としてマギニアという飛行都市を収めていたペルセフォネの胸を容易にたとえがたい感情で満たし、やがて彼女の瞳の端より一滴の雫を落とさせた。落涙にはまだ聖剣の影響とやらで今際の際に至るまで幼くしか見えなかった彼女に対する思いが詰まっている。

 

だが――、そうして落ちてゆく涙がやがて湧いて出てくる憐みの感情で満たされるよりも前に、ペルセフォネの脳裏に浮かぶ場面は大樹に身を預けて長き眠りにつくアルトリアの姿へと移り、ペルセフォネの心は驚きの感情に満たされた。

 

絶望。あるいは悲惨と言っていい結末を迎えたはずの彼女の顔にはしかし、安らかな笑みが浮かんでいる。アルトリアのそんな表情を見た瞬間、ペルセフォネはその表情が示す意味を察して、静かに微笑んだ。

 

『そうして、自らの道行きを信じ、歩み続けた先にしか楽園なんてものは存在し得ないんだ。そうとも、楽園なんて言うものが欲しければ、自らを自らの抱いた幻想の地図を完成させる巨人と化してやる以外に、得る方法なんてものはない。しかし彼らはそれを信じない。長きにわたって続いた安楽の時代が、親の過保護によって生み出されてしまったが如きそんな環境が、彼らから積極性を奪い上げてしまった。彼らは今や、まるでいじけた子供だ。誰かから与えられる意外に快楽を手に入れる方法を、彼らは知らないんだ」

 

自らと同じような背景を持ち、自らと同じように国を治め、自らとは異なる結末を得た女性(/アルトリア)は、しかし最後には楽園へと辿り着いたのだろう。そして国を治める事に失敗し、永久の眠りにつくアルトリアのの傍らに佇む彼女の臣下だろう銀髪の男性は、しかし、何とも慈愛に満ちた瞳で彼女の旅立ちを見送っている。彼はそうして国を治める事に失敗したアルトリアを憎んでいない。理解した瞬間、胸が熱くなった。気付けば落涙は止まっている。代わりにペルセフォネの胸の裡に生まれたのは、誇らしさだった。

 

『否、知ってはいるが、実行しようとしないんだ。なぜならその道は、間違いなく苦難に満ち溢れているだろうことを、彼らは嫌というほどに理解しきっているからだ。そんな道を歩いて楽園にたどり着けるだろう存在であると、自らを信じられないんだ』

 

アルトリアの生涯が他人に認められている。国を救えなかった彼女はしかし、そこに住まう民に恨まれていない。自らが治めていた国の民に恨まれない。それが如何程の出来事であるかを肌身で知るペルセフォネは、だからこそアルトリアに対しての尊敬の念が溢れてくることを止められない。アルトリアという国を守れなかった女性はしかし、自らが築いていた王国という名の楽園から、民たちを独り立ちさせることに成功したのだ。

 

国を失った民たちの先に苦難が広がっているだろうことは間違いない。だがそして国を失った彼らは、しかし、自らの足で自らの場所を探して歩き出すことが出来るだろう。アルトリアの傍らに佇む彼女の臣下だったのだろう青年の顔には、そんな未来をペルセフォネに信じさせるだけの効力が秘められていた。

 

アルトリアは王国を崩壊へと導いた。アルトリアは少なくない人を不幸にした。しかし同時に、アルトリアは確かに自らの足で未来に向かって歩く人々を生んだのだ。アルトリアは、子育てを完遂し、希望を次世代に託し、そして死んでいった。だからこそ彼女が今際の際に浮かべる顔はあんなにも安らかで、傍らに立つ青年は彼女の死を悼み、しかし祝福するかのような顔を浮かべているのだ。

 

『彼らはそれほどまでに今の世界と、それ以上に自らに対して絶望している』

 

そしておそらくマーリンも今のペルセフォネと同じように――、否、アルトリアの近くで彼女の生と死を眺め続けた彼は、ペルセフォネ以上に、アルトリアの生と死を誇らしく思っているに違いない。

 

『だからこそ彼らは、今の自ら望んで死に向かっている。生まれ変わった世界の先にこそ自分たちの真の居場所があると信じきっている。妄信して、猛進している。彼らに言葉は通じない。暴力はいけないが、子供が死に向かう馬鹿をやろうとしているとき、多少強引にでも彼らの手を無理やり引っ張って死地から救い出し、頬をはたいてその微睡んだ目を覚まさせてやることは、親――彼らよりも前の時代を生きた僕らの役目というモノだろう』

 

だからこそマーリンは、こんなにも強く怒りの感情秘められた声であるのだ。そんな風にアルトリアが紡いだ命と希望から繋がっているはずの未来に生きる人々が、絶望に沈み、よりにもよってやり直しを望んでいる。マーリンは彼らのそんな軟弱さが、誇り高かったアルトリアの生涯を穢しているように感じられるて、許せない。だからこそマーリンはこうも、くぐもった、感情を抑え込んだかのような声で、冷静を自らに言い聞かせているかのように、平坦な口調でしゃべる事に努めているのだ。ペルセフォネはマーリンの思いが心底理解出来ていた。

 

『だから――』

 

だからこそ同時に、ペルセフォネはなぜ過去の帳、世界の端にある自らの楽園で永久の眠りについたはずマーリンが、今ここに猫の体を借りてまで現世に現れ、自らを『アルトリア』と呼んでいるかを理解した。ペルセフォネはそして、アルトリアとよく似た誇りを胸にその生涯を送った自らが、マーリンに何を望まれているかまでをも同時に理解した。

 

『いってくれ、アルトリア。形こそ違えど、その剣は人々の願いが凝結して生まれた、希望の塊。すなわち、かの聖剣と変わらぬ希望の光を放つ聖剣だ。ならばそんな聖剣の放つ希望の光は、絶望に囚われた人々を闇という楔から解き放つ――、否、絶望に囚われた人々が自らの意志で闇の中より楽園を求めて歩き出すための何よりの導となるだろう』

 

――彼女(/アルトリア)の見る夢の続きを、これ以上悲しみで穢さないであげてほしい――

 

「――わかりました/わかりました」

 

ペルセフォネ/アルトリアは、ヴィヴィアンより受け取った袋の中から覗ける柄を握り締めると袋を捨て、剣を完全に解き放つ。瞬間、かつて真竜の剣と呼ばれていたそれが、かつてペルセフォネ/アルトリアの目の前に現れたその時と変わらないその姿で露わとなる。部屋から漏れるほのかな明かりが漏れる暗がりの廊下、青と黄金で装飾施された柄と白銀の刀身が照らしあげた。月と星の明かりを浴びた剣は、正当なる所有者の手の中に納まったことを喜ぶかのように、何とも誇らしげに輝いている。

 

「その願い、王の誇りと我が生涯にかけて、必ず叶えてみせましょう。機会を与えて下さり、感謝します、マーリン」

 

そしてペルセフォネ/アルトリアは踵を返すと、振り向きもせずに「湖の貴婦人亭」より立ち去った。潔い彼女のその態度を見て、マーリンは猫髭を燻らせる。

 

『君たちの道行きを信じよう』

 

言葉が明るい部屋と暗がりの廊下の中にこだまする。明暗の境界でマーリンとヴィヴィアンはひたすらに楽園へ続く扉を見守っていた。



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第十九話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (七)

見上げれば頭上には巨大過ぎる月がある。もはや地球の周囲を規則正しく動いていた月と地球上の表皮部分を漂っていたマギニアの距離は無いに等しく、かつては模様のようにしか見えなかった月の表面はすでにごつごつとした地面を肉眼で認識できるほどになっていた。かつて夜空に散らばる星々のどれよりも煌めきを放っていた月は今、泥という異物を纏った状態で夜空の中へと投げ出されてしまった飛行都市マギニアの目の前にある。しかし、頭上目一杯を覆う月から落ちてくる光の量はむしろ常の時よりも少なかった。今や月からもたらされる光は遠くに輝く星々の煌めきよりも小さく頼りないものとなっており、マギニアの街はほんの少しでも油断をすればすぐに足元を取られてしまいそうになるほどに薄暗い。加えて街を包み込む闇の濃さは時間経過と共にゆるゆると増しつつある。街を照らす月光の量が少なくなっていっていた。今、マギニアの目の前にある月という存在と、マギニアと月の周囲を取り囲んでいる黒々とした呪いの泥という存在が、マギニアの街に闇を落としている。あの呪いの泥が月を完全に覆い尽くしたときに世界は生まれ変わり、瞬間、今の世界に残る人々はあの泥と月に吸収され、永久の覚めぬ眠りにつくことを強要されてしまうという。しかもそれは絶望の底へと堕ちたある女の独り善がりによって引き起こされた事態であるともいうのだ。

 

その女――桜とやらの事情を聞けば、彼女が絶望に堕ちたくなる気持ちも理解できなくはない。だが無論、だからといってただ一人の女の我が儘によって今の世界が滅びる何て言う暴挙を許容するつもりなどない。

 

そんな我らの決意を証明するかのようにマギニアの街中には、金属が石を叩く甲高い音が街のあちこちで非常に規則正しい間隔で鳴り響いている。音はまるで街が永遠の眠りにつくことを邪魔しようとする鐘楼の音のようでもあった。ただしもしその音を耳にした者が従軍経験のある存在であったのならば、それが兵隊として高度な訓練を受けた人間のみが鳴らせる軍靴の音色であることに気付けるにちがいない。

 

そう。すなわちこうして街中の静寂を破る音は、暗がりになったマギニアの街を見回る衛兵たちがたてている軍靴の音色であるのだ。薄闇の帳落ちた街には、そうして街中を見守る衛兵の靴甲冑が石畳を叩く音だけが規則正しく響いている。軍靴の音色は、マギニアの街の衛兵たちが自身の乗船しているマギニアがこのような上下左右の区別すらもつかない亡羊とした空間に放り出されながら、しかし、今だにマギニアの司令部にて指揮を執っているペルセフォネらの言葉を信じ、粛々と自らに課せられた役目を果たしているという何よりも証左だった。

 

――ならばそんな衛兵らの信頼に応える事こそ、正しい王道というものだろう

 

衛兵たちの精神の屈強性と信頼感に満足を覚えたペルセフォネは、手にした剣の柄を握り締めると歩を速める。街の中に響く足音の一つはやがて不協和音を奏でるようになり、ペルセフォネはマギニアの内と外とを別ける境界に近づいてゆく。

 

 

やがて中層の街を走るような速度で抜けたペルセフォネは、飛行都市マギニアの入り口広場へとたどり着いた。広場の中央には『桜』やマイク、ミュラーらが待機しているのだろうテントがある。テントの周囲はテントから漏れる光によって明るさを保っている。ペルセフォネはそのままテントに一直線に向かおうとして――、

 

「……! 何者だ!」

「……む?」

 

衛兵たちに強い口調で呼び止められた。常ならば来訪者を明るく歓迎しているのだろう声には彼の声には今、あからさまな敵意と警戒心が含まれている。

 

「……見て分からんか?」

 

一時的なものかもしれないが、曲がりなりにも現在彼らは自らの配下である。ペルセフォネはそんな彼らから不躾な態度と疑念に満ちた言葉を向けられたことに戸惑いと僅な苛立ちを覚えつつも、答えるために口を開こうとして――、

 

「私は――」

 

そこまで言いかけて、ペルセフォネは気が付く。

 

――兵士の姿がよく見えない

 

「……」

 

ペルセフォネは闇に佇む兵士に向けて目を向け、凝らした。ペルセフォネの目は兵士が自らの方を向いて槍を構えている事を認識できている。だがペルセフォネは闇に紛れた兵士の姿からそれ以上の情報を見て読み取ることが出来なかった。闇は必死に模索したところで微かな手がかりを掴ませないほどに深く、兵士は自らの影とほとんど同化しているような有り様だ。闇はテントから遠ざかり、街や入り口に近づくにつれて、徐々に深く濃いものとなっている。闇はペルセフォネが現在いる街の路地や入り口の付近になると、もはやほとんど闇ばかりしか見えない状態だった。ならばきっとそんな闇の中にある衛兵の目からしたら、ペルセフォネが衛兵のペルセフォネの鎧に刻まれた特徴ある多重円文様も、額にしているマギニアの王族のみが身に着けられるティアラも、両耳にした高価な水晶のイヤリングも、もちろん自身の顔も、闇の帳の下に隠れているにちがいない。

 

――これでは私が誰であるかわからなくとも仕方ない、か

 

ペルセフォネは彼の不躾な態度の理由を納得した。同時、ペルセフォネはマギニア――マギニア改の現情と入り口付近の現在の事情を思い出し始める――

 

 

現在飛行都市マギニア改は、月に向かって浮遊しながら進んでいる泥に最接近し、泥の近くに佇んでいる状態を保っている。マギニア改がいる位置は、泥とマギニア改が接触しないで空中待機していられるだろう限界の一歩手前の地点だった。

 

そんな危険地帯に浮かぶマギニア改の側面からは、タラップが泥と接触しないすれすれの位置にまで降ろされている。タラップはライドウらを迷宮に送りこんだ際に使用されたものであり、また、常ならばマギニアの街に出入りする人々の声に賑わう、マギニアの内と外を繋ぐ橋でもあった。

 

タラップはそれ故に、欄干と欄干との間の幅が馬車が二、三台、並んでも余裕なほどに広い。しかし今、そんな広い橋の如きタラップの地面の上には、たった一本の薄く光る細い糸のみが置かれている。闇に薄く頼りなく伸びているその糸は入り口広場の中央にあるテントの中から続き、やがてタラップを横断したのち泥の地面の上にまで落ち、地平の彼方に至るまで伸びている。地面に垂らされた糸のもう片方の端はそして迷宮を進撃しているライドウたちにまで続いているのだ。

 

そうして未知なる迷宮の中を突っ切るライドウたちとマギニアの入り口とを結ぶその糸の名前は『アリアドネの糸』と言う。それは、ある地点にいる者が糸の端を糸車より引いたとき、糸を引いたの人間とその周囲にいる人間を迷宮内や遠くの場所から街中へと瞬時に帰還させる道具である。故にペルセフォネたちのような貴人たちや迷宮に潜る冒険者たちは必ずといっていいほどこの道具を持ってゆく。糸は一度その縛めを解けば、必ず自分達を特定の場所にまで転移してくれる。この道具が転移という現象を引き起こすのは、ペルセフォネたちにとって起こって当たり前の事であった。しかし今、ペルセフォネたち世界樹の上の大地に生きる者たちにとって聞きなれたそのアリアドネの糸が、二点間の距離を瞬時に零とするその効力を十全に発揮することはない。なぜならここは、この場所には、アリアドネの糸を使った際に使用者たちを移動させる通路となる、世界樹の大地の中に網目のようにあり巡らされた『磁軸』と呼ばれているものがないからだ。

 

アリアドネの糸はこの『磁軸』に糸の使用者を送り込み、転移という事象を引き起こす。『磁軸』とは例えてみれば移動のための道であると共に船や自動車、飛行船のようなものである。ならばアリアドネの糸とはつまり、そのそれらを使うための許可証や乗船券のようなものと言えるだろう。許可の証や乗船券を持っていようが、道や乗り物が存在しないのであれば、何の意味もない。すなわちこの世界樹の大地より離れた呪いの泥ばかりが離散と集合する空間において、『アリアドネの糸』は転移の力を発揮出来ない、無力な存在である――、

 

はずだった。

 

だがその発揮しない筈の力を発揮するように出来る者がいた。それが世界樹と繋がり深いモリビトの体の転生した『桜』だ。

 

今、『桜』は、入り口広場のテントの中で常に糸の片端を手にして、糸自体へと特殊な力を込め続けている。『桜』によれば、糸は、そうして世界樹の端末である彼女の送る特殊な力によって、それ自体が磁軸の役割を果たすように変異させられているのだという。それはすなわち、『桜』が糸に世界樹の力を込めているいる限り、アリアドネの糸は磁軸としての機能を有するようになり、その転移の力を発揮する事が可能であるという事を示していた。

 

『桜』が力を込めている限り、糸は糸が持つ本来の道具としての以上の役目を果たすことが出来る。『桜』の力が込められたこのアリアドネの糸は、磁軸として機能し、また同時にアリアドネの糸としても機能をも保有する。それはすなわち、このライドウのいる地点にまで伸びているアリアドネの糸は、『桜』の力によって、他のアリアドネの糸と同様、糸車より糸を解いた時点でその効力を発揮するようになっているということだ。『桜』はそんな、いわば裏技を使うことで、糸は本来もつ性能以上の力を引き出させられている。

 

そもそも本来ならばアリアドネの糸は、糸車より糸を解いた時点で効力を発揮してしまうものだ。つまりいくら糸車の端を掴んだ『桜』が磁軸の力を糸に込めようが、磁軸にした糸を垂らして道にしようと糸車より糸を引いた時点で、アリアドネの糸というものは効果を発揮してしまい、すぐさま目の前の糸車を持っている人間の元へと転移してしまう事態が発生するということだ。すなわちこうして糸が解かれた状態を保っている事がまず矛盾している事態であり、この『桜』の力を帯びて磁軸としての役割果たすというアリアドネの糸が、矛盾している状態であるのだ。ありえない状態にあるということを指し示している。

 

『桜』によればそんなありえないパラドックス状態を成り立たせているのは、過去の神話的伝承にある『アリアドネの糸』の言い伝えだという。いわく、『かつてアリアドネの糸は、英雄テセウスが脱出不可能と呼ばれたクレタ島のラビリンス(/迷宮)より脱出する折にアリアドネより託された糸(/宝具)の名前です。糸はテセウスがラビリンスに侵入するおり迷宮の入り口に括り付けられ、彼が脱出する際に帰路を示す導となりました。――今、この世界は、神話的事象の積み重ねによる崩壊という事態を目前にして、現実と幻想との境目が非常に薄らいだ状態にあります。似ている名を持つ者、似た生き方をした者、似た道具を持つ者、似た考えを持つ者の下には、そのモノと最も親和性の高い過去の力や魂が宿るようになっているのです。それはすなわち、人は過去の英霊の魂を宿すようになりその力や知識を得る事が出来るようになり、道具は過去の道具が持つ力を得て宝具化するということです。――今、『このアリアドネの糸』は、迷宮の中に侵入してライドウさんたちとマギニアの入り口付近にいる私の指の間にひかれています。その事実が『このアリアドネの糸』を、『神話時代のアリアドネの糸』と化しています。すなわちこの『アリアドネの糸』は、世界樹の世界の迷宮脱出の道具である以上に、神話時代の概念を宿した宝具と化しているのです。そして世界は――、道具の使用者が強く意識している効力を優先的に発揮するようにできている。そうですね……、――それは例えるならはさみの使い方みたいなものです。はさみは切るものですが、その気になればその鋭利な先端で何かを突くことも、柄の部分で何かを叩くことも出来る。ですが無論、切るという使い方を知っていれば、切るために優先的に使用することもできる。だからこそ『このアリアドネの糸』は――、迷宮の入り口と迷宮に侵入した存在の間に繋がれていて、私が『このアリアドネの糸』は『神話時代のアリアドネの糸』であると意識し続けている以上、『神話時代のアリアドネの糸』の効力を優先的に発揮し、磁軸としての役割を果たせるのです』、ということらしい。

 

魔術的知識や過去の知識に乏しいペルセフォネは桜の語るそんな詳しい理屈を十全に理解する事はできなかった。だがともあれペルセフォネは、このか細い糸が迷宮を世界の命運に等しいものであり、断ち切るわけにはいかないモノであり、それの端を握るライドウらと『桜』を死守しなければならないということだけはきちんと理解出来ていた。だからこそペルセフォネは必要最低限だけ残してマギニア中の灯りを落とすよう命じたのだ。それは糸の端を持つ『桜』のいる飛行都市マギニアが、なるべく泥の魔物たちの意識をひかないようにとの配慮から生まれた命令だった。

 

故に今、現状において入り口付近にある灯りと言えば、月と星の頼りない光と、そして衛兵が腰に携えている光量を絞った状態の携帯のランタン。そして本作戦の要となる『桜』とマイクのいる設置されたテントの内部や周辺の簡易接地式電灯くらいなものである。

 

そうとも今、入り口付近にはたったそれだけ以外の光は存在しておらず、それ以外の場所はほとんど暗闇ばかりが広がっている。そしてペルセフォネが現在いる、街と入り口前広場との境目あたりに至っては、衛兵が腰に携えているほの暗いランタンの光が唯一灯りとなるもの程度にはほとんど真っ暗な状態だ。

 

そしてそんな中において、ペルセフォネはまた、本計画の要となる『桜』たちを守るべく、彼女らのいる入り口付近の広場を固く守護しろとの命をミュラーへと下していた。だからこそこうして見回りを行っていたこの衛兵は、街中の暗がりの方からを歩いてきたペルセフォネを目敏く発見し、瞬間的に警戒の態度をとったのだ。すなわちこの事態は、それこそすべてがペルセフォネの命と行動によって生まれた結果である。目の前にいる衛兵の彼は、自らに課せられた『入り口付近の広場を守護し、不審者がいれば応対する』という私の指示を聞いたミュラーが衛兵らに下した指令を、忠実に果たしているだけに他ならないのだ。

 

 

――なるほどならば、私が彼に対して怒りを抱くのは不当というものか

 

疑問の氷塊に伴い、わずかばかりに生まれかけていた衛兵に対する不満の念が霧散してゆく。同時、ペルセフォネの心の裡にはそんな任務に忠実な衛兵に対する感心の念が湧き出てきていた。

 

「ふ……」

 

やがて心を満たした感心はやがて衛兵に対する敬意の念へと変化し、ペルセフォネの口から歓心の吐息となって漏れだす。

 

「何がおかしい」

 

だがペルセフォネが漏らしたそんな感心の吐息を己に対する侮蔑のそれと判断したのか、衛兵はむしろ先ほどよりも口調と語気を強めると、一切警戒の態度を緩めないままに話しかけてきた。

 

「いや――」

 

ペルセフォネは弁解のために口を開き――、

 

「なんにせよ、まずはその手にしている抜身の剣を納めるか、ゆっくりと地面に置くかしてほしい。話し合いがしたいなら、それからだ」

 

そして自らの語りを遮って紡がれた衛兵の言葉を聞いて、自らの今の状態を思い出す。

 

――ああ、これはますます言い訳が出来ない醜態だ

 

衛兵たちはペルセフォネの出した指示によって灯の落ちた街に魔物や不審者が入り込まぬよう常に気を張っている。すなわち彼らは常に最高に警戒態勢を保っているということだ。そんな緊迫の糸が張られたこの状況の中に、突如として街方面の暗がりより、抜身の剣を片手に持った存在が現れた。抜身の剣を持って街をうろつく人間など、平時においてすら即捕縛されて文句の言えない存在であり、この有事においては尚更の事見逃すことのできない不穏分子といえるだろう。

 

「これは失礼をした」

 

また、ペルセフォネの眼前にいる衛兵の声によって、他の場所にいた衛兵たちも集いつつある。ペルセフォネにとっては、このような自らのつまらない失態によって広場の守りの手が薄い場所が発生するというのは、望ましくない事態だ。故に――、

 

「重ね重ねの非礼を詫びよう。そして――」

 

ペルセフォネは衛兵の指示に従って抜身の剣を器用にそのまま腰のベルトに引っ掛けると軽く頭を下げて謝意を示し、目の前の衛兵に視線を向けなおすと彼の方へと近寄って口を開いた。

 

「しかしどうかこの顔に免じて、その敵意に満ちた槍の穂先を降ろすとともに、警戒の意志を解いてほしい」

 

そうしてペルセフォネの顔は兵士が腰に提げたランタンによって照らしあげられる。

 

「――こ、これは、ペルセフォネ様!」

 

ペルセフォネの謝罪の声を聴いた瞬間、衛兵は慌てて槍を上に向けて最敬礼した。自らたちが槍を向けているその相手が現在マギニアにおいて指揮を執っている人物である事に気が付いてしまったが故だろう、顔には冷や汗が浮かび、全身はわずかに震えている。また、この場所に集いつつあった衛兵たちは、その言葉を聞いて自らの仲間が誰に槍を向けたのかを理解したのだろう一瞬だけその場において固まり、その後、蜘蛛の子を散らすかのようにそそくさと離散していった。目の前の彼やそんな屈強な衛兵たちが、自らの言葉で一憂してみせる。そんな様は何ともおかしく、ペルセフォネから苦笑を引き出した。

 

「ご無礼を――、お許しください」

 

苦笑を断罪の刃のように捉えたらしく、衛兵はひどく震えている声色の言葉を放つ。

 

「いや、気にしなくていい。貴公はただ職務に忠実であっただけ――、悪かったのは周囲の目を気にする余裕のなかった私だ。どうか気にしないで欲しい」

 

自らの何気ない態度と仕草が、任務に忠実な衛兵の気を削ぎ、気後れまでさせてしまった。そのことに気付いたペルセフォネは、慌てて弁明の言葉を紡ぐと再び謝罪の言葉を発する。

 

「――は!」

 

すると最敬礼の姿勢を保っていた衛兵は震えを止め、そのままの姿勢で改めて体を動かし、最敬礼を行った。衛兵の顔や態度にあった不安の様子はすっかり失せている。ペルセフォネの言葉は彼の中から湧き上がった負の感情というモノを欠片も残さずに霧散させたのだ。

 

「どうか楽にしてくれ」

「重ね重ねのご厚情、感謝致します!」

 

ペルセフォネの指示を受けた衛兵は背筋をただすと、槍の穂先を上へと向けた通常の待機姿勢へと移行する。

 

「よい。……ミュラーや『桜』たちは変わらずか?」

「は! 『桜』、およびマイクは、ミュラー兵士長と共にテントにて待機しております!」

「そうか。……感謝する」

「いえ! お役にたてたのであれば、光栄です!」

「そうか」

 

言いながらペルセフォネは頷くと衛兵の横をすり抜けてゆく。衛兵はそしてペルセフォネがテントの中まで消えてゆくのを見守ると、背筋を緩め、ゆっくりと息を吐いた後、改めて槍盾を構えた。衛兵の体には再び緊迫感が漂い始める。そして指揮官から直々に褒めの言葉をもらった彼は、湧き上がってくる喜びを必死で抑えながら、再び警戒の意志を携えて闇の中で決まった見回りの道筋を徘徊し始めた。

 

 

「ペルセフォネ様」

 

ペルセフォネがテントの前にまで歩を進めると、テントの前には一人の人物が立っていた。短髪にまとめた彼の向けてくるその視線は鋭く、纏う雰囲気は先の衛兵が纏うそれよりも強大なものがある。

 

「ミュラーか」

 

そんなただならぬ気配を発しているのはミュラーと呼ばれる壮年の人物だった。おそらく彼は、先ほどの衛兵とペルセフォネの間に起きた騒ぎを聞きつけたがゆえに、待機場所をテントの中から外へと変えたのだろう。ペルセフォネはミュラーが不測の事態に対する臨機応変さを備えた人物であることを承知しているがゆえに、そんな自らの予想を疑うことはなくそう信じた。

 

「御用はお済になりましたので?」

「ああ」

「それはよかった」

「だが――、同時にもう一つやることが出来た」

「なんですかな?」

 

ペルセフォネはミュラーに視線を向けると、毅然とした態度のまま、口を開く。

 

「迷宮に突入する。私はライドウたちに合流しなければならない」

「……はて?」

 

ミュラーが眉をひそめた。それはペルセフォネの正気を疑うような口調のモノでなく――、

 

「それはいかなる意図によるものなので?」

 

彼女の真意を問うために発せられた言葉だった。ミュラーは続けて言う。

 

「『この泥の迷宮は地上にあった迷宮と同じ性質を持っており、また、その中に潜んでいる魔物も手ごわいものばかりだ。すなわち多数の斥候を送り込んだところで無駄に犠牲が増えるばかりである。何より、この泥の迷宮に磁軸として引くことの出来る『アリアドネの糸』はこの世に一つしか存在することが出来ない。だからこそ――、五人以下の少数精鋭を一グループだけ送り込み、彼らにこの世界の命運のすべてを賭ける。我らは彼らから連絡が来るまでマギニアにいる人々と本計画の要である『桜』たちを守護しつつ、待機する』。……それがご自身の下した決定ではありませんか」

 

そう。ライドウに持たせた連絡機械からの知らせが有り次第、ペルセフォネらはアリアドネの糸の転移の効果を用い、『桜』とマイクら含む数人を迷宮の最奥へと移動する。そして最奥にある機械へとマイクらを設置し、世界の生まれ変わりを阻止する。それがペルセフォネらの当初の予定のはずであった。

 

「ああ。その通りだ。その思いと方針は今でも変わっていない」

 

月へと続く泥の迷宮――、というよりは、飛行都市マギニアの待機している泥の地面の付近に現れる魔物は強く、並大抵の冒険者や衛兵では歯が立たない。無論、魔物と言ってもそう数多く表れるわけでないし、一匹の魔物に対して十人前後の衛兵たちを用意すれば、何とか勝てる程度の強さではある。魔物は確かに勝てない強さの敵でない。だがしかしそれはいいかえると、泥の上に現れる魔物は衛兵を十人以上も用意しなければ勝てない強さの敵であるのだ。

 

「ではなぜ。樹海は冒険者に任せるべき。それはかつて姫様がレムリアに挑んだ時に発せられたお言葉です。餅は餅屋に任せるのが最も効率的であることは姫様がご存知のはずでは」

 

またそして泥の迷宮の魔物は、孤立している個人よりも徒党を組んで固まっている衛兵を優先して排除するという、世界樹の迷宮に住まう魔物たちと共通した性質を持っている事が確認されている。さらにそうした性質を持つ泥の迷宮の魔物たちは、やはり世界樹の迷宮に潜む魔物らと同様、衛兵たちが多く徒党を組むほどに多くの数を用意して衛兵たちの前に現れてしまうのだ。

 

「その通りだ。問題は多数の素人の手でこねくり回すよりも、専門家に任せる方が手っ取り早く事態の収拾を望める。ならば迷宮の探索と踏破は冒険の専門家である冒険者の手に任せ、我ら軍人と王族はマギニア改にて衛兵らを率いてこの場所に投げ出された民の守護と政治にあたるのが最も適当だろうことは明白だ」

 

生半可な衛兵ではかなわない力を持つ魔物は、こちらが多く徒党を組むほどにより多く姿を現す。そんな事実を目撃したペルセフォネらは、この月へと続く泥の迷宮は世界樹の迷宮と同じく、迷宮の攻略を拒む法則が働いているのだと結論づけた。それはすなわち、この月に続く泥の迷宮は多く人員を送り込むほどに多くの敵が立ちふさがるようになるということである。

 

迷宮を攻略してその最奥に『桜』とマイクを連れてゆかねば、この世界は次なる世界とやらを生み出すために失われてしまうということになる。しかし力の足りない衛兵や人員を多く送り込んだところで、無駄に犠牲ばかりが増えてしまうし、それどころかむしろ、成功確率が低下してしまうということになる。すなわちこの迷宮は、地上にある世界樹の迷宮と同じよう、少数精鋭による強行突破こそが最善手である。

 

――そう判断したからこそペルセフォネらは、残存する冒険者や衛兵といった戦力の中において最も戦闘能力の高いライドウとパラ子らにすべてを託す決定を下したのだ。

 

だがそれを覆す発言を、ペルセフォネは今している。ミュラーはペルセフォネが軽々とした判断を下さない指揮官であることを理解している。ミュラーはだからこそ――

 

「……ますますわかりませんな。ではいったいなぜ、人数が増えて迷宮が活性化するという危険性を冒すとご承知の貴女は、冒険者という専門家でないご自身を迷宮に投じようとなさるので?」

 

疑念に満ちた目をペルセフォネへと向け、尋ねる。

 

「それは――」

 

するとペルセフォネは、腰のベルトにひっさげた抜身の剣を引き抜いた、

 

「な――」

 

ミュラーはペルセフォネの行動に驚き、反射的に身構えようとした。そしてミュラーの頭には一瞬、かつてペルセフォネがとある相手に洗脳されてしまった時のことがよぎる。記憶はやがてミュラーの胸に不安の思いを生み落とそうとした。だが――、

 

「――な、あ……」

 

そうしてミュラーが不測の事態に対して応じる姿勢を整え終えるよりも以前に彼の鋭い眼光はペルセフォネの手に握られた剣を捉え、それを目撃した瞬間、ミュラーは金縛りにあったかのように停止した。

 

「その剣は――」

 

なぜならペルセフォネが引き抜いたその剣に、ミュラーは見覚えがあったからだ。否――、無論、見覚えがないはずがない。なぜならその剣はかつて、ペルセフォネの命によってレムリアという大地へと集った冒険者たちの内、レムリアの大地にあった迷宮をことごとく率先して踏破しつくし、やがては、レムリアの大地の迷宮の最奥へと秘められていた世界の危機に直結する問題すらも解決して見せた冒険者の内の一人が最後に使用していた剣だからだ。

 

「そう、真竜の剣だ。竜を越えし者にのみ振るうことを許された、偉大なる三竜の素材をもってして作り出された、偉大な竜をも屠る最高の切れ味を誇る、およそこの世にある剣の中でも最高位に位置する聖剣だ」

 

それはかつて世界を救って見せた剣だった。そんな十字を象った造形の剣は、かつての時と変わらない姿をミュラーの前に表している。ラピスラズリを削って造られたような深い青色の握りと装飾も、栄華を誇るかのように黄金で造られた柄も、月光を固めて鋳造されたかのような刀身も、そのすべてがかつてのあの時と変わっていない。人々が思い描く最高の剣という幻想をそのまま形造ったかのようなその剣は、かつてミュラーがレムリアの大地において目撃したあの時からまるで変わらない姿のままに、ペルセフォネの手の中で存在を誇っている。

 

「なぜそれがここに……それは彼らの最期の探索の最中、失われと……」

「英雄の使用していた最高の剣、などというものが後の世に下らぬ争いの火種となることは目に見えていたのでな。故に彼らはそれを隠す事としたのだ」

 

ペルセフォネは呆然とするミュラーに述べると、剣の切っ先を地面に突き立て刀身を固定し、柄頭に両手の掌を重ねて乗せると堂々とした態度でミュラーへと真剣な表情を浮かべて視線を送った。

 

「ミュラー。貴方も知っての通り、かつてこの剣の所有者であった彼らは立派な人物たちでした。私の命によってマギニアに集った彼らは、レムリアの大地において過大な功績をあげ、至上の名声と莫大な財貨を手中におさめ、しかしながら彼らは、そうして手に入れた名声と財貨に溺れることのない、そんな素晴らしい人たちでした。彼らは自らが成したことに対する責務というモノを十二分に理解し、そうして自らたちが成し遂げた事において後世に発生するだろう問題を予測し、もし自らの積み上げてきたものが未来を生きる人々に対して害となるのであれば、自らが手に入れた力を放棄する事を躊躇わない、そんな人たちでした」

「――」

「彼らは誰よりも分別のついた大人でした。彼らは自らの手に入れた強大な武力が未来の子らに悪影響を残すことを望まなかった。だからこそ彼らは手に入れた力の内、強大すぎるものをほとんど破棄し、破棄するまでもない程度のモノを王族の保管庫へと残し、去ってゆきました。しかしどういう因果か、そんな彼らの手によって破棄された武具の内、最も強大なものだけが残され、時代を超えてかつて彼らの手によってに救われた我が手の内にある」

「――」

 

ミュラーは一言も発さない。ミュラーはただひたすらに呆然としていた。ミュラーは顎が力なく落ちてその強面を保てなくなる醜態をさらさないようにするので精一杯だったのだ。

 

「ミュラー。知っての通り、この剣には闇を振り払う力がある。否――、かつてこの剣は、悪心無き彼らの手によって世界に生み出され、人の世に憂いをもたらそうとした蛇を切り裂く比類なき聖剣として活躍した。卵が先か、鶏が先かなどかはわからぬが、ならばともあれこの剣は、世界を救った者、あるいはこれから世界を救う定めにある者の側にある、そういう運命にあるのだろう」

 

ミュラーは答えない。ミュラーはただひたすらに、ペルセフォネの言葉に聞き入っていた。

 

「ならばすなわち、この剣には、今のこの時この瞬間、この場所にあるよりも相応しい活躍の場所に置かれているべきである。――そうは思いませんか、ミュラー?」

「……ですが、だからと言って、貴女様がわざわざ出向かれずとも――、それこそ残る専門家(/冒険者)たちの中から強者を選別し、彼らに剣を託せば――」

 

ミュラーの言葉にペルセフォネは首をゆっくりと左右に揺らし、否定の意をしてみせる。そしてペルセフォネは突き立てた剣から身を引くと、ミュラーの目をじっと見つめたのち、剣へと視線を落とした。

 

――握ってみろ

 

告げる視線を受けて、ミュラーは突き刺さった剣の握りへと手を伸ばす。そしてミュラーは一息に剣を引き抜こうとして――

 

「――これは……」

 

しかしそれは叶わない。どれほど力を込めようが、剣はマギニアの地面に突き刺さったまま、びくともしないのだ。まるで剣自身が担い手を選ぶかのよう、剣はただ泰然と地面の上に突き立っている。ミュラーはふらふらと身を引くと、剣から離れてテントの布地に背をやった。やがてミュラーがその頼りない布地によりかかるよりも以前に、ペルセフォネは再び剣の握りをつかむと、微動だにしなかったはずの剣をあっけなく引き抜いて見せる。

 

「すでにこの剣は私以外に真価を発揮する事は使用不可能な代物となっている」

 

光景にミュラーは絶句した。

 

「私はこの世界を覆い尽くそうとする闇を振り払える道具の担い手として選ばれた。今の私はかつての彼ら以上にこの剣の力を発揮する事が出来る。否、今や私以外にこの剣の真の力を引き出せる人間は存在しないのだ」

 

目の前で起きた事実がペルセフォネの言葉に確かな説得力を与え、ミュラーから否定の材料を削り取ってゆく。

 

「またそしてそれ以上に、この剣とそれを振るった彼らに救われた私には、王族として彼らに借りを返す義理があり、また、過去の時代を生き抜いた人間として過去の亡霊の手から今の時代の人間の手へと未来を取り戻し返してやる義務があり、なにより私を救ってくれた彼らの憂いを振り払ってやりたいという願いがある。だからこそ私は――、王族として課せられた責務を果たすべく、人としての義務を果たすべく――、何より私個人として彼らの思いに応えたいと願うが故に、迷宮の奥地へ向かい、世界を救わんとするライドウらと共にありたいと、そう思うのです」

 

世界の事情。剣が彼女以外に使えなくなっているという事実。王族としての責務。人としての道理。そして彼女個人の感情。それらの全てが彼女を迷宮へ向かわせることこそが最善であると告げている。ミュラーはもはや何も言えなくなっていた。突如として襲い掛かってきた現実に耐え切れず、彼を呆然自失の状態へと陥れたのだ。ペルセフォネはそんな彼をただ見守っていた。

 

「――そう、ですか」

 

しばらくしたのちに瞳に正気の色を取り戻したミュラーは、ぽつりと述べる。

 

「なるほど、そのような事情がおありでしたら、もはや私が貴女を止める理由はありませんな」

「ミュラー……」

 

ミュラーは言うと、改めて背筋をただし、右手を動かし、挙手による敬礼を行った。

 

「貴女様のもう一つの誇り、すなわち飛行都市マギニアの守護と、世界の命運のもう一つの要たるは彼らの護衛は、私どもが命に代えましても行いましょう。貴女は貴女の思うがままに動かれると良い。――どうかご武運を」

「――感謝する」

 

 

「して、どのようにして彼らの元まで行くおつもりですかな?」

 

やがてペルセフォネが答礼の態度を崩した後、敬礼をやめたミュラーは尋ねた。

 

「――ライドウらの垂らした糸を頼りに、全力で駆け抜ける。それしか方法はあるまい」

 

顔を顰めさせながらペルセフォネの答える。

 

「……正気ですか?」

 

ペルセフォネの言葉は、ミュラーからあまりに忌憚のなさすぎる、しかしまっとうな問いかけの言葉を引き出した。

 

「……唯一幸いにして泥の迷宮は鈍麻鈍感な性質であるらしく、地に足付けていない限り、つまりは泥と接していない限り、こちらに敵対の意志を見せない。だからこそマギニアは襲われずに済んでいるのだ。また、真竜の剣の加護を受けた今の私ならば、飛ぶが如き跳躍を繰り返し行うことも可能だ。すなわちそうして跳躍を繰り返して迷宮を進撃すれば、あるいは無傷で追いつけるやも――」

 

ミュラーの言葉に自らの考えはやはり尋常なものでないことを再確認させられたペルセフォネは、途切れ途切れに言葉を選びながら、なんとか自らの提案を自ら肯定してやろうとして――

 

「ペルセフォネ様。どうかこのような言葉を繰り返すご無礼をお許しください。また、かつてあの英雄たちが集団で踏破した迷宮を単独でうろついていた貴女様の実力を疑うつもりもありません。ですがあえてもう一度、ご無礼を承知でお尋ねさせていただきます。……正気ですか、ペルセフォネ様」

「……」

 

しかし返ってきた先ほどと同じ内容の、しかし先ほどよりも真摯な思いこもった問いかけに、反論の言葉を失った。

 

「跳躍を繰り返し、地に足をあまりつけないよう、飛ぶが如く迷宮を進む。なるほど、確かに迷宮の地面に接触していなければ魔物が襲い掛かってこないのは、こうして泥の迷宮のど真ん中にあるにもかかわらず泥に設置していないマギニアが無事であることからも証明されていると考えてよろしいでしょう。非常に稚拙ですが、接地時間を限りなく減少させることで、迷宮内に潜む大半の魔物と出会わずに済むようなるとしましょう。――ですが、魔物と出会わなくて済む。貴女はただそれだけで、この世界樹の迷宮と同じ性質を秘めた迷宮を攻略できると、本当にそうお考えであられるのですか?」

「……いうな、ミュラー。私とて自分の言っていることの無茶は理解している」

 

ペルセフォネは目を逸らして伏せると、ため息を吐きながら言う。

 

「だがそれ以外に手段が思い浮かばないのだ。この先の空間は泥が密集しており、飛行都市マギニアはこれ以上進めない。また、この泥炭地の如き地面だ。馬もまともに走ることはかなわぬだろうし、何より、馬は目立つ。ならば――、走るしかあるまい」

「――ふぅ……」

 

ペルセフォネの苦し気に述べた意見を耳にしたミュラーは、先ほどペルセフォネが落とした以上に大きなため息を吐く。

 

「理想が先行していて、現実に追いついていない。人間、余裕がなくなると、思考が単純化し、地の性格や気質が出てしまう。どたいらも良く聞く話ですが、仮にも現在マギニアの為政者の頂点に立って指揮をとる者がそれでは困りますな」

「……ならばミュラー。貴公はどうすればよいというのか」

「さて……」

 

ペルセフォネの言葉を受けて、ミュラーは腕を組み、空を見上げた。視線の先では、月とそれに纏わりつく泥の姿がありありと映っている。泥は接触したものへと快楽をもたらす魔性の泥だ。そして月へと続く迷宮はそんな泥によって形成された地面の上にある。泥はその上に長くいれば、体が沈み込んでいってしまうほどに柔らかく、その上、そんな泥によって作られた迷宮は攻略の意志持って地面の上にいるほどに魔物が寄ってくるような場所なのだ。

 

ならば最も迷宮を突破するに有効なのは、今のマギニアのよう飛行する物体を用いる事といえるだろう。地に足着いていなければ、なるほど魔物が攻撃してこないのは今のマギニアが無事にある事態が証明している。だが、今の飛行都市マギニアには、この飛行都市マギニア本船以外に、宙を駆ける事の出来るような何かは存在していない。

 

もちろんミュラーはライドウらに不測の事態が起きてアリアドネの糸が使用不可能な事態となるか、あるいは、彼らが死するような最悪の事態になってしまった場合ならば、飛行都市マギニア事態を月の迷宮に突っ込ませて突破を試みるという犠牲を顧みない最悪の手段とることも視野に入れている。だが、ライドウとの間に敷かれているアリアドネの糸へと力を送り込んで架空の磁軸をひいているテントの中にいる『桜』たちが何も言ってこない以上、糸の先にいるライドウらは無事であるのだろうし、彼らの助けになるだろうからという理由でマギニアを丸ごと犠牲にするのはいかにもナンセンスだ。

 

ならば次に考えられるのは、地面を可能な限り早く突き進むなにかを使う方法だ。そう考えた時ミュラーの頭によぎったのは馬という手段であったが――、かといって迷宮という場所に置いて馬という生物に頼るのも危険度が高いと思い直す。なぜならえてして迷宮の魔物は馬などよりよほど早く、そして彼らよりも狡猾だからだ。

 

馬を迷宮に持ち込むと、大抵の場合、馬は魔物の犠牲になる。また、犠牲にならないにしても、馬の守りのために人手と労力を割かねばならないという、何とも本末転倒な事態に陥ってしまう。かつてほかの都市には『ペット』化する事ですそうした獣でもスキルが使えるようになる技術があったと聞くが――、あいにくマギニアにはそんな技術が残されていない。

 

「――なるほど……、八方ふさがりですな」

 

ミュラーはそして、ペルセフォネのように、自らが飛ぶが如く泥の上を駆け抜けるしかないという結論に達し、無念の思いと共に声を漏らし、ため息を吐いた。

 

「だろう?」

 

理解を得たペルセフォネもやはりため息を漏らしながら言う。どこか喜色混じりの声にはしかし、疲労感が満ち溢れていた。

 

「要するに、マギニアのように空を飛び、馬のような速度で迷宮を駆け抜けられる、そんな手段があればよろしいのですが――」

「あればとっくにライドウらに提供している」

「ですな」

 

ペルセフォネとミュラーは顔を見合わせて言い合うと、主従そろって仲良くため息を吐いた。二人の漏れ出した懊悩の証は空中にて溶けて混じり、闇の中へと消えてゆく。満足のいく答えが出ない事態が二人の間に沈黙を生む。

 

「ともかく、そういうわけだ」

 

やがて少しばかり時間が経過して、気を取り直したペルセフォネは崩れていた表情を整えつつ、切り出した。

 

「我ながら馬鹿らしい考えであるとは思うが、悩んでいる時間も惜しく、代案もない。だから私は――」

 

そうして表情を不退転の意志秘めたものへと変化させつつ、決意を露わにする言葉を紡いでた時――

 

「あるぜ」

 

彼らの耳元へと、そんな先ほどまでの意見を肯定する言葉が侵入してきた。どこか聞き覚えのある声は、しかしペルセフォネとミュラーの心をひどくざわつかせる。

 

「な……!?」

 

ペルセフォネが驚き、振り向いた。

 

「誰だっ!」

 

ミュラーは瞬間的に腰元の鞘より剣を引き抜き、声の聞こえてきた方向に構える。剣の切っ先が彼らのすぐそばのテントの影へと向けられた。

 

「空を飛ぶ馬が欲しいんだろ?」

 

そうして声と共にテントの傍の光の中に姿を現したのは――、

 

「お前は……!」

「たしか、ヘイムダル……!」

 

かつてこの泥の大地がまだヴィーグリーズと呼ばれていた頃、この世に未練を残して死んでいった死霊の軍勢を率い、ギルガメッシュら率いる英雄たちと激突し、やがてエミヤとシンとの激突が終わるころには姿を消していたそんな男だった。

 

「ペルセフォネ様!」

「ミュラー兵士長!」

 

慌てる二人の態度と叫びから異常を察知したのだろう、まわりにいた衛兵たちが慌ててテントの傍へと近寄ってくる。そしてテントのそばにいるヘイムダルは、すぐさま集った衛兵たちに囲まれた。今やヘイムダルの巨体の周囲には多数の槍の穂先が浮かんでいる。

 

「――あるぜ。俺なら提供してやれる」

 

だがそうして周囲全ての存在から敵意をあらわにされたヘイムダルは、四角四面の上にある青白い顔色を欠片ほども変化させないまま、無表情に言った。

 

「……なに?」

 

言葉を聞いて、ペルセフォネの口から言葉が飛び出す。問いかけを聞いたヘイムダルは初めてその無表情ばかりが浮かんでいた顔面の唇を歪に変化させて、笑いながらに言う。

 

「空駆ける馬が欲しいんだろ? ならこの俺が天馬を――、ペガサスをくれてやるって言ってるんだよ」

 

ヘイムダルは胸元を手のひらで叩きながらに言う。言葉と所作に反応したかのように、マギニアの電燈と月と星の光を受け、巨体の全身を包み込む紫鱗の見目麗しい血に塗れた鎧ともう片方の手に握られた見目に麗しい剣の刀身が怪しく輝いた。



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第二十話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (八)

 

天の闇はすべて道

 

 

黒々とした呪いの泥に飲まれつつある月下の元、そんな月へと続く泥の上を足早に突き進む集団がある。集団は四人の人間と一匹の黒猫から構成されていた。また、集団が進む泥の地面にはところどころに亀裂があり、裂け目があり、時には液状化している箇所がある。集団はそんな悪路を、しかしまるで整備された舗装路であるかのようにすいすいと素早く駆け抜けてゆく。

 

「おっと……」

 

やがて集団の先頭を突き進んでいた青色基調の軽鎧をまとった女性――パラ子は足を止めると、さっと左腕を上げた。先頭を行く彼女の挙動に応じて、後列に続く三人と一匹――ライドウ、メディ子、ガン子にゴウトも足を止め、視線をガン子の顔が向けられている先へと移す。

 

「うわ、また……」

 

そうして移した視線の先におそらくはパラ子の足を止めさせた原因――呪いを凝縮して作り上げたかのような頭部には巨大な二本の角となびく紫髪を持ち、顔面には七つの目を携えた、まるで悪夢を具現化したかのような魔物を見つけて、メディ子が小さく声を漏らした。声色からは、メディ子が目の前の魔物に対して、うんざりだ、という感情を抱いていることがうかがえる。それもそのはず、メディ子らはすでにこの魔物と先ほど交戦したばかりであるのだ。故にメディ子は、この悪夢のような見た目をした魔物が、この月の迷宮の中をうろつく魔物たちの中でも最上位に位置する厄介な敵であることを理解している。だからこそメディ子は、そんなめんどくさそうな声を漏らしたのだ。

 

「……あてっ」

 

そしてメディ子は、再び声を漏らす。声はガン子が片手でメディ子の背を叩いたことによって発生させられたものだった。メディ子は反射的に視線を自らの背を叩いた存在へと向ける。

 

「……ガン子?」

 

ガン子の視線には非難の意思が含まれており、それがメディ子を困惑させた。

 

「――……!」

 

メディ子は一瞬眉をひそめたが、瞬時に彼女をそうさせた原因に思い至ったらしく、自らの口を固く結ぶと己の両手で覆い隠した。やってしまった、という後悔の表情浮かびあがってくる。やがてメディコはそろりそろりと視線を魔物へとむけなおした。そうして再び魔物へと視線を移動させメディ子は――、

 

魔物の持つ七つの瞳が自らたちへと向けられているのを目撃する。

 

「や……、っば……」

 

メディ子は再び声を漏らした。額からはわずかに汗が一滴、顎下へと垂れ落ちてゆく。

 

「ゲギャ!」

 

応じるかのようにして、魔物は唇の端を吊り上げて三日月の形に歪ませる。魔物の態度からは狩るべき獲物を見つけたと喜ぶ悦楽の感情がにじみ出てきていた。

 

「……ごめんなさいっ」

 

己の失態が魔物の注意をひいてしまったのだと悟ったメディ子が、謝罪の言葉を発する。

 

「ギ……!」

「……くるぞ!」

 

もはや静寂を保つに意味はないと察したのか、魔物が声を発すると同時、パラ子は大きな声で自らの後列にいる全員に注意を促した。そして次の瞬間――、

 

「ギギ……!」

 

不気味な姿をした魔物の前方には、魔物とまるで同じ姿をした魔物が出現する。ライドウらは先の戦闘の経験から、その増殖した分身体が悪夢のような姿を持つ魔物自身となんら変わらぬ攻撃性能を持つことを知っていた。

 

「パラ子!」

 

魔物が自らの分身体を呼び出したのを目撃した途端、ガン子は先頭に立つパラ子へと声をかけた。

 

「あぁ!」

 

どうするのか。ガン子の呼びかけが己に対する行動の方針を訪ねる問いであると瞬時に悟ったパラ子は視線を魔物から外すと、素早く周囲を見渡した。パラ子の動きに戸惑いの様子はない。ライドウはそしてパラ子とガン子のそんなやり取りがこれまで何度も繰り返されてきたものであるのだろうことを悟った。やがてぐるりと眼球を動かして視線を左から右に至るまで動かし終えたパラ子は、一瞬だけ硬直したのちに口を開くと――、

 

「こっちだ!」

 

そう述べたのち、真横に体を向けなおして走り出す。パラ子の動きには一切の躊躇いがない。その行動は確信的だった。故にライドウらは彼女の後ろに無言のまま追従する。

 

「ギィ……!」

 

そんな四人と一匹の動きを見た魔物の分身は、同じようにして体の正面を真横――ライドウらと同じ方角へと向けると、ライドウらに遅れながらも疾走を開始した。

 

「師匠! 敵が――」

 

集団の中において最も後列に位置していたからこそ真っ先に気づけたのだろう、自分らに劣ることのない速さで疾走する分身体の方の魔物の姿を視界の端にとらえたメディ子は注意喚起の声を上げる。

 

「大丈夫だ! 心配ない!」

 

だがパラ子はメディ子の声に対して威勢の良い言葉で応じると、分身体の魔物やメディ子の方を振り返ることもなく疾走し続ける。パラ子の一連の動作や言葉は、自信というものに満ち溢れていた。

 

「……はい!」

 

故にメディ子はパラ子を信じた。メディ子は視線をパラ子の方へと向けなおすと、カバンの端からこぼれる糸が絡まないようすることだけに気を付けながら、疾走を再開する。そしてやがて集団と魔物が不安定な泥の足場を数十メートルも駆け抜けたころ――、

 

「ギーー」

 

パラ子らと距離を置いて並びながら疾走していた魔物は、突如としてその姿を消した。気配だけで魔物消失の事態を察知したのだろう、ライドウとゴウトは疾走しながら、視線を魔物の分身体が消えたあたりへと向ける。するとライドウとゴウトは自らたちと離れた部分、すなわち魔物が消えたあたりの位置が固まらずにある状態であることに気がついた。

 

「――これは……」

「いまだ蟲毒の呪いの固まっていない――、いわゆる毒沼のようになっている箇所、か」

「その通り!」

 

彼らの言葉を耳にしたパラ子は振り向くこともなく続ける。

 

「さっきの戦いのさなか、あの魔物の増殖した方の分身体は、能力こそ本体に劣らないけれど、なぜか動きが鈍かった! そこで私はずっと考え、そしてあの魔物の分身体が、あの毒の沼みたいな場所を避けて戦っていたことに気が付いた! だから私は思ったのだ! 詳しい理屈はわからんが、あの魔物はきっと、泥の溶けている部分が苦手であるに違いないとな! ……っと、曲がるぞ!」

 

解説しながら全力疾走するパラ子はやがて大きく体を傾けて左に曲がると、姿勢を正した後、再び疾走を開始した。追従して彼女の後ろを走るライドウらは、横目に分身体が失せたことを認識した魔物の本体が再び己の分身体を生み出す場面を目撃した。ガン子が口笛を鳴らし、メディ子は感心の声を上げた。二人が立てる音を耳にしたライドウはそして、彼女らの流儀に従って進むという選択が間違っていなかったことを確信し、喜びに口元を緩めた。

 

 

光の代弁者

 

 

一人先行して敵を殲滅するよりも、パラ子らの知恵と力を借りて迷宮を進む方が安全かつ効率が良いと気が付いたライドウとゴウトは、彼女らの力を借りながら突き進む判断を下し、彼女らとともに泥の迷宮を突き進んでいた。実際にしてパラ子らという冒険者たちは迷宮探索するにあたって、敵の察知に優れ、弱点を見抜くに長け、迷宮をうろつく魔物の中でも特に危険と思わしき敵の移動の法則性を瞬時に見抜くという、魔物うろつく迷宮を突き進むにとても優秀な手腕を持っている。

 

「お、この爛々と輝く宝石っぽいのがこの魔女っぽいのの条件ドロップっぽくないか、メディ子」

「ライドウさんが普通に一撃でぶっ倒した方は何にも落とさなかったのに対して、こっちのライドウさんとガン子さんが属性弾ぶっぱなして倒した方のは、落としましたからね。たぶんそうでしょう。魔法杖剣の柄の部分の結晶体が放ったスキルの魔力を吸い込んで輝きを増しましたから――、さしずめ充足の魔力晶ってところですかね」

「充足の魔力晶――、いいわね。いいセンスしてるわ、メディ子」

「ありがとう、ガン子」

「では恒例の――」

「じゃんけんですね!」

 

彼女らの迷宮の進み方は、ライドウが異界の迷宮の最奥に潜む悪魔を討伐するために進むやり方とあまりに違っていた。その違いはおそらく、ライドウが魔を討滅する悪魔召喚師という存在であり、パラ子らが冒険者であるという点にあるのだろう事を、彼女らが倒した魔物から素材を剥ぎ取る場面を見守るライドウは予測する。

 

「「「じゃーんけーん」」」

「ほい!」

「ほいっ!」

「……!」

 

悪魔召喚師であるライドウにとって、このように襲い掛かる魔物が潜む迷宮とはすなわち悪魔の生み出す『異界』に他ならない。ライドウが元の世界において挑む子の『異界』という名の迷宮は、異界の最奥に潜む悪魔の手によって生み出されるものだ。そうとも『異界』とは、人間の世界を居心地悪いと感じる悪魔たちが少しでも良い環境を求めて作り出す、魔の領域なのだ。そして悪魔は人間と異なる論理、倫理を持っている。故に悪魔の生み出す異界という迷宮は放置しておけばやがて現世に住まう人間にとって悪影響となるものが多く、だからこそ帝都の守護者であるライドウは、多くの場合において、基本的に異界を排除するように動く。

 

「あっ」

「お、師匠の一人負けで決まりですね」

「じゃ、今回のこれは私たちのものってことで」

「あ、あぁ、あぁぁぁ……! 私の宝石ー!」

 

無論、迷宮の主たる悪魔は自らにとって居心地の良い場所である『異界』を壊されたくない。だから迷宮の主である悪魔は多くの場合において討伐の意志を秘めてやってきた侵入者であるライドウを排除する方向で動き、ライドウが『異界』という名前の迷宮に足を踏み入れた途端、『異界』内の悪魔たちをライドウへと向かわせるのだ。

 

「うぅ……、これでもう十連敗……。――不公平だと思わないのか、お前らっ……!」

「いいじゃないですか。F.O.Eからの特殊ドロップはほとんど師匠が勝ち取ってるんですし」

「そうよ。貴女、あの、『増殖する悪夢』からとれた『悪夢の後髪』も、『栄耀の潜航者』からとれた『ひずみの球核』だって自分のものにしたじゃない。」

 

ライドウにとって『異界』という名の迷宮に存在するほぼ全ての悪魔たちは、大抵の場合においてライドウに対しての殺意と排除の意志を秘めている敵である。だからこそライドウは、迷宮の中において目に見える存在をすべて自らの命を脅かす危険な要素として判断し、そんな自らの命を脅かす要素を減らす為、基本的には見敵必戦と逢著便殺を常として心がけて行動するのだ。

 

「それはそれ。これはこれ、だ。どんなにいいもの手に入れたとしても、ほかの誰かが手に入れているのであれば欲しくなるし、私だけ手に入らない状態が続くとなれば悔しくなるのが人情というものだろう」

「うっわ、わがまま極まりない」

「度し難いわね、ほんと」

 

逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在(/仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、 父母に逢うては父母を殺し、親族に逢うては親族を殺して、 始めて解脱を得て仏となり、自由を得る)。すなわちライドウが迷宮を突き進む際の心構えは臨済が弟子に解いた教えに近いものがあるといえるだろう。ライドウにとって迷宮とは撃滅すべき対象であり、そこに存在するすべては敵に他ならないのだ。

 

「さ、阿呆なこと言ってる師匠はほっといて、さっさとしまっちゃいましょうか、ガン子」

「そうね。そうしましょう、メディ子」

「うう、傷ついた心にきつい言葉が染みる……。いいもん、私はほかの魔物から適当に素材を剥ぎ取ってくるから……」

 

だが冒険者であるパラ子らにとって、迷宮とは命のやり取りのみが全てを支配する決闘場ではないのだ。無論、それはパラ子たちが踏み入れる迷宮が、命を失う危険のないような場所でないという意味ではない。それはすなわち、パラ子たちの踏み入れる世界樹の大地の上にある迷宮――、すなわち『世界樹の迷宮』が、彼女たちにとって、あって当たり前の、生活圏であるということを意味している。

 

「この杖剣……はかさばるか。ううん、こっちの鉤爪も嘴もボロボロで大した値が付きそうにないし……、――――――――お……」

 

そう。すなわちパラ子ら冒険者という存在にとって迷宮とは、立合の場であると同時に、居合の場でもあるのだ。彼女たちは生きるために必要だから、あるいは、自らの好奇心を満たすために迷宮へと侵入し、迷宮の中を探索し、ある時は踏破にまで至る。冒険者である彼女たちにとって、迷宮を探索することこそが目的であり、踏破というものはその結果に過ぎないのだ。

 

「おーー、こ、これは……、ぎ、銀の……」

「ししょー。こっちは終わりましたよー」

「お、おぉ! そうか! 終わったか!」

「……なに、その不自然な態度。ねぇ、パラ子。貴女何か隠して――」

「さ、さぁ、ゆくぞ! これ以上一応これは世界の平和がかかった探索だからな! さっさと迷宮を突き進んで、迷宮の踏破を目指すぞ!」

 

ライドウは迷宮の踏破こそを目的し、彼女たちは迷宮の探索こそを目的とする。彼女たち冒険者にとって、迷宮の探索とは自らの人生を彩る香辛料に過ぎないのだ。だからこそ彼らは、迷宮より生きて帰ることを何よりも優先して行動する。だからこそ彼らは、こうも迷宮を効率的に探索する方法に長けており、未知なる状態に対する精神的耐性が高く、迷宮内での行住坐臥のすべての場面において常と変わらぬ態度を貫けるのだろう。

 

「あ、逃げた」

「あからさまね……。ポケットにしまい込んだ銀の棒みたいなのが怪しいけど……、まぁ、いいわ。確かに残された時間が少なそうのも事実だし、追及は後にしてあげましょう」

「しっかり追及はするんですね……。――あ、お待たせしました、ライドウさん、ゴウトさん!」

 

自らの名が耳朶を打った事に反応したライドウは、思考を中断させると足踏みをやめ、伏せていた顔を上げた。視線の先ではメディ子が先ほどまでのライドウの考察を肯定するかのような常と変わらぬ微笑みを浮かべている。

 

『なに、戦闘後、息と気持ちを整えるにはちょうど良い塩梅の休息であったよ。なぁ、ライドウ』

「――はい」

 

そんなゴウトとライドウの返事を聞いたメディ子は笑みを深めると、前方、パラ子の進んでいった方を指さして口を開く。

 

「ではいきましょうか。目指すはあそこ――」

 

メディ子の腕が上げられてゆく。指先はやがて泥に覆われつつある月を指さした時点で止まった。

 

「迷宮の最奥です」

 

ライドウは無言で首肯する。見届けたメディ子はにこりと笑うと、踵を返して先行して進んでいったパラ子のあとを追う。ガン子はすでにパラ子の後を追って走りまじめていた。ライドウとゴウトはパラ子、ガン子、メディ子に続き、疾走を開始する。ライドウらに倒された魔物は泥の中へと還ってゆき、後には静寂ばかりが残されていた。

 

 

限りなく希望に近い航路

 

 

やがてパラ子らの先導の下、泥の迷宮を順調に進んだライドウが数十回もそんなやり取りを重ね、もはや月の表面の寒々しい荒涼とした光景や地形の凹凸やまでもが肉眼ではっきりと判別できるようになったころ――

 

「――これは」

 

これまでずっと泥と毒沼ばかりが続いていた迷宮のさなかに突如として現れた人工的な造りの壁と扉を目撃して、驚きの態度を露わにした。常に固く結ばれている口元は珍しくぽかんと開かれている。

 

「たぶん、番人部屋ですねー」

 

そうしてライドウが知らない知識をさも知ってて当然であるかのように告げたのは、メディ子だ。

 

「――番人部屋?」

「はい。迷宮を進むと、だいたい――、五階おきくらいに階層の地形が一変するんです。例えば穏やかな森林の光景が突然樹海の光景になったり、あるいは突然海の中みたいな光景になったり、枯れた森みたいな光景になったり、そして――」

 

メディ子は前に進むと、部屋の扉の表面を軽く叩きながらライドウの方を向く。

 

「そんなまるで違う階層と階層を区切るかのように、階層の終わりにはこんな感じの部屋があって、その中には大抵番人と呼ばれる、その層の魔物の親分みたいな奴が潜んでいるんです」

『なるほど。異界でいうところの、主のような奴に相当するということか』

「えーっと……、たぶん……、そう、なの……、かな?」

「――はい。おそらくは」

 

ライドウはゴウトとメディ子の言葉を肯定した。そうしてライドウの脳裏には、これまで倒してきた異界の主の情報が浮かんでは消えてゆく。

 

「――メディ子さん。番人がその迷宮の階層の親分のような存在であるというのは本当ですか?」

「ええ。私の知る限りでは、たぶん、間違ってないと思いますが――」

「例えば、エトリアの迷宮一層、モグラや蝶みたいな森林に住まうような魔物が出現する階層の番人は狼みたいな魔物だったわ」

 

そうしてライドウの質問に答えたメディ子の言葉を継いだのは、ガン子だった。

 

「ハイラガードの迷宮の二層、炎を吐くトカゲや小型のドラゴンみたいのが多いところは、炎の魔人という、ぽっちゃり系のデカブツだったな!」

 

引き続きパラ子が答える。

 

「え、あ、そういう流れ……? えーと、って、私、アーモロードの迷宮の第三層の番人、知りませんよ!?」

 

どうやら彼女らの語った順番には何か法則性があったらしく、それに気づいたらしいメディ子は二人に続こうとしたが、しかし己が持つ情報では彼女らの話した基準に則った話ができないと気付いたらしく、メディ子はヒステリックな叫び声をあげた。パラ子とガン子はそれを見て笑うと、ライドウへと顔を向けてそれぞれに口を開く。

 

「ま、とにかく――、この月に続く泥の迷宮も、地上にある迷宮と同じような造りをしている……。魔物がいて、F.O.Eがいて、倒した魔物はそのうち消え、進んだ先にはこうして人工的な造りの壁と扉があり、行く手をふさいでいる。なら――」

「おそらく、この階層の親分的な番人が部屋の中にいるだろうことは間違いないはずだ。それがどんな魔物であるのかはわからないが、少なくともそいつを倒した先に月の最奥へと続く通路があるはずだ」

「――なるほど」

『敵を倒した先にしか道はない、と、つまりはそういうことか』

 

ゴウトはため息を吐くと、しかしすぐ様真剣な表情を浮かべなおし、口を開いた。

 

『まぁ、いつものことか。なぁ、ライドウ』

「――はい」

 

交戦を意識したことがそうさせたのだろう、言いながらライドウは帽子を深くかぶりなおした。そしてライドウはそのまま腰にぶら下げた刀へと手をやると、刀の位置を直し、さらには腰の反対側に装着されている銃のホルスターをなで、やはり位置を調整し、ついでに弾丸の装填を確認する。続けて胸や腰のベルトにある、いつもとは異なり、空っぽとなっているホルスターを撫で――、少しばかり残念そうな様子で、ため息を吐く。

 

『ライドウ……』

 

ライドウの心に湧き出た不安がどのような原因から生まれているのかを正しく理解できたのは、彼とともにこの世界にやってきたゴウトのみだった。

 

「――いえ、問題ありません」

 

しかしライドウはすぐ様に気を取り直してゴウトの問いかけに平気の返事を返すと、再び帽子の鍔を持ち、その位置を整え、パラ子ら三人を見渡して言う。

 

「――行きましょう」

 

三人は静かに首肯する。やがて扉の前にいたパラ子とメディ子は顔を見合わせると、その大きな扉を押す。二人の動きに呼応して、扉が開かれてゆく。やがて二つの扉の全面が完全に互いを見合わせるようになったころ、四人と一匹の集団は部屋の中へと足を踏み入れた。しばらくすると見計らったかのように、番人のいるという部屋の扉が閉じてゆく。そうして集団が部屋の中心に向けて少しだけ歩を進めたころ、扉は元の通りに閉じてしまい、ライドウらの退路を完全に断ち切った。



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第二十一話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (八)

天空に浮かぶ月へと続く泥の迷宮がある。宇宙空間の中にぽつりと浮かぶ月の周囲にまとわりつくようにあるその迷宮は、光を一変たりとも通さぬような漆黒の色をした泥によって構成されていた。そうとも、迷宮を構成する泥は宇宙空間のそれよりも黒く、昏い色をしている。なぜ泥がそのような漆黒をさらに煮詰めて凝縮したかのような色をしているのかは、泥がいかなる素材によって作られているかを知るものならば周知のことだろう。

 

――泥には、世界のすべての命が溶け込んでいる。

 

木も、火も、土も、金も、水も、動物も、植物も、昆虫類も、魚類も、もちろん人も、地球上に存在していたありとあらゆる生命体と非生命体を蠱毒の術式によって溶け合わせ、混ざり合わせ、凝縮させられたもの――、それがこの触れたものに快楽をもたらす泥の正体だ。

 

泥には地球上に存在したあらゆる色が混ざっている。泥には地球上に存在するあらゆる物質が混ぜ込まれている。泥の中には足りないものなど何一つない。――だからこそ泥はすべてを飲み込んだ証として漆黒の色をしており、触れたものに対して足りない部分を補われるという無限の快楽を提供するのだ。

 

そしてそんな地球上に存在していた多くの命を飲み込んだことにより生まれた泥は今、地球上に存在していた命や存在を喰らうだけでは足りぬといわんばかりに、全ての幻想の織り手である月にまでその魔手を伸ばしていた。泥が月を飲み込んだ時、人類が脈々と世界の中に刻み続けてきた歴史は幻想の中に消えて散る。その時人類は、泥を生み出す要因となった存在である『桜AI』という安寧を何よりも最優先とする庇護者の下、箱庭の中で幸福の劇を演じる意思なき人形へとなり下がってしまうのだ。

 

――だが、それを良しとしない者たちがいた。

 

今、月の周囲にある快楽の黒泥によって構成された迷宮の中を直進する存在がある。まるで漆黒の闇を切り裂くかのようにして突き進むそれは、月へと続く迷宮の黒泥の地面の上にか細く光る糸を辿って、徐々に月へと近づいていっていた。そうして漆黒に染められたキャンバスの上を白筆で塗り替えてゆくのような軌跡を残しつつ突き進む光景は何とも幻想じみており――、

 

「見えた。たぶんあれだろう。――準備はいいか?」

「無論だ」

「よし……、なら行くぞ」

 

しかし現実に存在している証とするかのようにそんな短い言葉を残しながら、翼の生えた白馬に乗る一組の男女は瞬時のうちに、月へと続く泥の迷宮の奥地へと消えていった。

 

 

『限りなく希望に近い航路』

 

 

重苦しい音を立てながら黒塗りの扉が開かれてゆく。瞬間、開かれた扉の隙間より濃厚なすえた臭いが鼻腔へと飛び込んできた。部屋の内外の気圧差によってだろう生まれた生ぬるい隙間風が肌を撫でてゆく。部屋の中の空気は、高湿度高温の密閉空間に長時間腐乱した死体を放置した際に部屋の中を漂っている空気とよく似ていた。反射的に不快の感覚が込みあがってくる。

 

こと戦闘において、物事を不快に思う感覚より生まれいずる感情というものは不利に働く場合が多い。故に帝都の守護という役目を任ぜられている自分は、そうした自らを不快にさせる感覚に対して余計な感情を抱いてかぬようするための訓練をもちろん受けてはいる。だが、今自身の五感を刺激した空気から感じる不快の感情はそんな技術を用いたとしても押し殺しきれないほどのものだった。

 

「――」

 

自然と額にしわが寄っていく。一歩を踏み出すと、体の動きに違和感を覚えた。どうやら気づかぬ間に体が緊張状態に移行していたらしい。おそらくは臭気の死だろうと、意識的に臭気を感じる感覚を鈍化させ、軽く一呼吸を行う。途端、神経の強張りは失せていった。そうして十全と化した状態で改めて自らの前方へと意識を向けると――、

 

「――あれは」

 

視界には番人部屋の中央付近の泥の地面の上で浮遊している存在が映る。

 

『球、体?』

 

ゴウトが首をかしげた。そう。ゴウトの言う通り、十キロ四方をも人工的な黒塗りの壁に覆われた番人部屋の中央には、地面の泥と全く同じ色をした、漆黒の球が浮かんでいるのだ。遠く五キロ程度は離れたこの位置にあってもなお容易に認識することができることから察するに、球体は巨大であることが窺える。見たところ――、直径にして一キロ程度はあるだろうか。

 

「うわ、でかっ! 師匠、あれ、あの黒いの、めっちゃ大きいですよ!」

「うむ、でかい球だな! あれが真珠ならさぞかし高値で売れただろうに、残念だ!」

「あんなものが市場に出回らせたら、真珠の価値が価格崩壊を起こして、いろんなところから恨みを買う羽目になると思うけど……」

 

ゴウトに続けて、メディ子とパラ子、ガン子が素直に感想を述べる。言葉からは何の緊張感も感じられなかった。番人部屋という存在について知っていた彼女らであるからして、ならば彼女らがおそらくあの巨大な球体が番人とやらと何らかの関係があり、この扉が完全にしまったころにはあの球体に何らかの変化が起きるだろことを、ほかでもない彼女たちが理解していないはずはない。だというにもかかわらず、彼女らはいつもと変わらない様子で何とものんきに会話を交わしている。それがなんとも頼もしいと思える。

 

『――扉が閉じたか』

 

敵らしき存在の姿を前にして一切怖気つかない三人の態度に感銘を受けていると、ゴウトがつぶやいた。振り向いてみれば、確かに部屋の黒塗りの扉は、部屋の中へと足を踏み入れた獲物をもはや逃がさぬといわんばかりに、しっかと閉じられていた。

 

「――む」

 

それが起爆剤となったのか、背後――、部屋の中央にあった異物の鎮座している方角からただならぬ気配が漂ってくる。気を入れなおして振り向くと――

 

「――……!」

 

視界には球体の表面が大きく蠢いている姿が目に映る。はじめこそ漣に過ぎなかったそれは、やがて大波となり、続いて球体の下方へと集合し、ついには五メートルほどもあろうかという巨大な雫となったのち重力に耐え切れなくなったと言わんばかりにやがて泥の地面へと垂れ落ちてゆく。そうして地面へと落着した球体から落ちた雫は柔軟性と弾力性に富んでいたらしく、一度だけぶよんと平たく地面に広がったかと思うと、やがて元の大きさよりも縦に長く伸びあがるとともに余計な部分が剥がれて空中に散ってゆく。雫はそのまま縦長の柱がごとき状態へと変化し、続けて人型へと変化し、そして――

 

「――……あれは!」

 

最終的に雫は一人の巨漢の姿へと変化した。そうして雫の落着地点に現れた筋骨隆々の巨躯の男は、まるで岩石から直接切り出したかのような強靭そうなその漆黒の肉体にわずかな布と獅子の毛皮をまとい、その巨躯と同じかそれ以上ほどの大きさの棍棒と弓と斧をそれぞれ片手と背中と腰に携えていた。

 

「でっか!」

「に、人間、か……?」

「さて、どうかしらね……」

 

泥の雫の中より身の丈五メートルはあろうかという巨漢が突如として現れるという事態は、さすがの三人であっても戸惑うものだったらしい。三人は様子で彼を見やっている。

 

――……!

 

おそらくはそうした自らの身へと浴びせかけられる無遠慮な視線が刺激となったのだろう。やがてその巨人がごとき男は、四角四面で堀の深い厳つい顔の中心に据えられた眼球二つの焦点をこちらへと合わせると、右手にしている棍棒の柄を強く握りしめた。瞬間、マグネタイトの緑が巨躯の体表の端々から噴出する。おそらくそれは相手の戦意の現れに違いないだろう。

 

「ともあれ――」

 

それを見たガン子が、銃をホルスターより引き抜き、弾を込める。

 

『そう、ともあれ、だ』

 

ゴウトが腰を浮かせて構えた。時を同じくして、自らも刀剣「赤口葛葉」を鞘より引き抜く。

 

「――相手は番人部屋とやらにただ一人いる、泥の塊より生まれた存在です」

 

自らがその言葉を口にすると、パラ子とメディ子が慌てて自らの獲物を引き抜き、戦闘の体勢へと移行する。

 

『ならば――』

 

――■■■■■■■■■■ッ!

 

そうしてこちらが戦闘の準備を終えた途端、巨躯の男は吠えた。

 

「うわっ!」

 

メディ子が驚きに声を上げる。巨漢がその全身を震えさせながら放つ咆哮の威力やすさまじく、声は十キロ四方に広がる部屋の隅々にまで至ると、地面も壁面をも揺るがしながら駆け抜けていった。そんな天地を揺るがすほどの咆哮はまさに戦闘の始まりを告げる合図にほかならず――、

 

「――来る……!」

 

そしてまさしく自らが放った雄たけびこそが開戦の合図であったといわんばかりに、巨漢の男は殺意を爛々と全身より滾らせながらこちらへと突っ込んでくる。

 

――そして月の迷宮を守る番人との戦闘が始まった。

 

 

――■■■■■■■■■■ッ!

 

巨漢の男より繰り出される攻撃はすべてが死神の鎌よりも凶悪な死の化身だった。巨漢の男の神殿の柱を思わせる剛腕より棍棒の一撃が繰り出されるたび、暴風が吹き荒れ、地面は削られ、抉られてゆく。そしてまた敵の攻撃には、そうして振り下ろされた一撃が地面に直撃した際など、泥の地面に十メートルに達しようかというほどの大穴が開くと同時に、飛び散るはずの泥は瞬時に塵となり大気に散ってしまうほどのの威力が秘められているのだ。

 

この巨漢の男が棍棒を振り回す度、地形が変化してゆく。男は人間というよりも、もはや重機か、あるいは戦車に近かった。否、その漆黒の見た目からするに、鉄巨人、という風に例えるのが最も適当かもしれない。ともあれそのこの鉄巨人は、そんなまともに受ければ間違いなく直撃即死に至るだろう防御すらも難しい一撃を、目にもかすむ勢いの速度で連続して繰り出してくるのだ。

 

「パラ子、危ない!」

 

われらの中においてそうして連続して繰り出される巨漢の男の致死の攻撃に対処が可能であるのは、帝都を守護する悪魔召喚師という遠近両方の戦い方に長けていなければなれない役目についている自分と、近接戦闘の守りに特化して卓越した力を発揮するパラディンのパラ子と、猫の体というゆえの小ささと俊敏さを保有しているゴウトの二人と一匹だけであり――、

 

「ひ、ひえっ」

 

味方の援護をこそ役割とし、近接戦闘を主の役目としない、主に味方の後ろで傷ついた味方を治すことを主なる役目とするメディックという職業のメディ子と、同じく味方の後ろから銃弾にて敵の命を奪うガンナーのガン子は、当たれば即死の攻撃に対して、対抗することができない。

 

「あぶない、メディ子、下がれっ! フロントガード!」

 

そんな彼女らの事情をほかの誰より理解しているのだろう同じ冒険者仲間であるパラ子は、だからこそいままでよりも活発に動き回り、自らの身を味方と敵の攻撃との間にねじ込み、二人をかばっているのだが――

 

「――うごっ!」

 

巨漢の男の繰り出す強烈無比な一撃は、スキルを用いて強化されたはずのパラ子の盾に触れた途端、女性の中では長身かつ鍛え抜かれているはずの彼女をやすやすと吹き飛ばす。

 

「師匠っ!」

 

吹き飛んでゆくパラ子をメディ子は追いかける。

 

「メディ子っ! ――ライドウ、援護をっ!」

 

いいながらガン子が鉄巨人の顔面目掛けて連続して銃弾を放った。

 

「――ッ!」

 

遅れて引き抜いたコルトライトニングから銃弾を解き放つ。二つの銃口より直進した即座に数メートルの距離を零にすると、爛々と殺意を滾らせる巨人の瞳へと吸い込まれてゆき――

 

「っ、やっぱり効いてない……!」

 

しかし、銃弾は甲高い音を立てて巨人の瞳にはじかれてしまう。巨人が煩わしそうに瞳を瞬かせた。どうやら彼にとって眼球に鉄の銃弾が飛び込んでくるという事態は、眼に砂埃が入って鬱陶しいくらい程度のことでしかないらしい。だがともあれ、そうして数発の銃弾によって生まれた一瞬の隙を利用して、自分たちは起き上がったパラ子の元へと集結する。

 

「なんですか、あの巨人!」

 

メディ子が叫んだ。

 

「銃は効かない、剣も効かない! 属性系の道具も、状態異常系の道具もダメって、それでどうやって倒せってんですか!?」

「――」

 

そう。なんとも理不尽なことに、この巨人には、あらゆる攻撃が通用しないのだ。自分の持ちうるすべての属性弾も、ガン子の習得しているすべてのスキルも、メディ子が持つ糸も、石化や盲目といった状態異常を引き起こすという道具も、自分の刀剣による一撃も、こちらからのあらゆる攻撃や干渉をこの巨人は受け付けてくれない。

 

あらゆる攻撃を受け付けない存在。そんなものに対してどうやって立ち向かえばいいのか。メディ子のそんな言葉は間違いなくこの場に集ったすべての人間の思いを代弁しているに違いなかった。

 

――■■ッ!

 

そうして気落ちによって生まれたこちら側のわずかな隙が致命的だった。刹那の瞬間のうちに体勢を整えた巨人は目にもとまらぬ初動でこちらへと近寄ってくると、踏み込みと同時に横に薙ぐ一撃を放ってくる。一撃にはこちらをまとめて仕留めるという意思がありありと含まれていた。

 

「まずっ……!」

 

そうして巨漢の敵は、突撃の勢いのままに棍棒を薙ぎ――

 

「下がれ、二人ともっ!」

 

二人の命が草を刈られるかのように摘み取られる寸前、体勢を立て直したパラ子は鉄巨人の前へと躍り出ると、その細身を敵の攻撃と味方との間にねじ込み、盾を構える。

 

「フルガードっ!」

 

スキルの力によってだろう、パラ子の構えた盾の表面を白銀色の光が覆ってゆき――

 

「グッ……!」

 

そうしてパラ子の守護は確かに敵の攻撃が二人に直撃することを防いだが――、

 

「ガッ……!」

 

しかして守りの力を発揮した盾を構えたパラ子は巨漢の剛腕から生まれた棍棒による薙ぎ払いの一撃の威力を完全に防ぐ耐えきることができず、容易にその身を浮き上がらされ、吹き飛ばされてしまう。

 

「ッ……!」

 

そうして宙へと浮いたパラ子の体は、そのまま数メートルほども移動すると――、

 

「ギッ……!」

 

やがて体の側面から地面へとたたきつけられた。反射的に受け身をとったパラ子は、しかし数メートルもの高さから落下した際の衝撃と柔軟かつ弾力ある泥の地面のせいだろう、数度バウンドしたのち、力なく横たわる。遅れて振り回しの際に発生した風が、辺りに吹き荒んだ。

 

「ク……、ハ……」

 

パラ子は肺の中の空気を吐ききってしまったのだろう、空気を求めるように両手を動かそうとして――、

 

「ア……、グ……」

 

しかし途中で腕をおろしてしまう。見えれば盾とスキルに守られていたはずのパラ子の両腕は、あらぬ方向に曲がってしまっていた。守りのスキルが働いている状態で、守護の技術に長けたパラ子が敵の攻撃をそらしただけでこれなのだから、一撃をまともに受けたのならば、おそらくパラ子は即、死に至っていたに違いない。それを思えば、腕が折れる程度のダメージで済んだことや、脳震盪や意識の喪失が起こらなかったという事態は僥倖として喜ぶべきことなのだろう。

 

「ウ……、グ……」

 

だが、両の瞼をぎゅっと閉じて、瞼のふちからは涙がこぼし、涎が周囲に飛び散ることを気にすることもなく、折れた両腕を微かに動かしながら、泥の地面の上を悶えて転げるパラ子を見ると、そんな事態を幸運と言い切ることは憚られる。

 

「師匠っ!」

「パラ子ッ!」

『なんという無茶を……!』

 

彼女のさまを見た三者は、反射的に三様の言葉を放ちながら彼女へと近寄ろうとした。だが――

 

「――……っ、いけない、散って!」

 

無論それを見逃してくれる敵ではない。慌ててクイックドロウで腰元のホルスターから銃身を解き放つ同時に、コルトライトニングに残っている銃弾すべてを敵の左右の眼球めがけて解き放つ。直進した銃弾は即座にすぐそこにいる敵の顔面へと吸い込まれてゆき――

 

――■■ッ!

 

敵の視界を一時的に遮る目くらましとなる。銃弾はまた同時、意識外から突き刺さったが故だろう、敵は目元を手で覆い、よろめかせてもくれていた。その隙をついて急いで十数メートルほど放てた場所で倒れ伏しているパラ子らの元へと駆け寄る。

 

「師匠! 今治しますからね!」

 

すると言いながらメディ子がパラ子の折れた腕から盾を取り外す姿が目に映った。言葉と同時、焦燥浮かんでいたメディ子の顔は一瞬にして冷静なものとなる。このあたりの切り替えの早さはさすが一流の冒険者だといえるだろう。

 

「ガン子! これ持ってて!」

 

メディ子はそして、ガン子に指示を飛ばしながら盾を放り投げると、カバンから薬瓶を取り出した。

 

「わかっ――」

 

そしてガン子がパラ子の盾を受け取って返事を返すよりも前――

 

――■■■■■■■■■■■■ッ!

 

十数メートル離れた場所にいる巨人は怒りをその雄たけびに乗せながら、再起動を果たしていた。

 

「――ッ」

 

一同の視線が巨人へと向けられる。

 

――■■■■■■■ッ!

 

そうして三人と一匹の視線を一身に浴びた巨人は、先ほどよりもさらに興奮した様子でいきり立ち、憎悪の声をまき散らす。空気中を伝播してやってきた咆哮には先ほどよりもさらに密な、必殺の意思が込められていた。

 

――■■■ッ!

 

パラ子の活躍により攻撃を防がれた敵は、今度こそ敵を確実に仕留めるという意思による行動なのだろう、巨人はこちらへと体を向けなおすと、一歩、二歩と踏み込んだのち、瞬時に己の最速を発揮すると、両手にしっかと握りしめた棍棒の一撃を思い切り両手で握りしめ、背中の後ろにまで振りかぶる。その神速の踏み込みと露わになった殺意の証を見た瞬間、これまでにないほどの死の未来を予測させられた。

 

巨人の攻撃は、片手ですらパラ子の守りを貫き、守りに長けた彼女を戦闘不能状態に陥らせるほどの威力があるのだ。ならばそんな敵の両手を用いて行われる振り下ろしの一撃は、間違いなくパラ子の周囲に群がっている自分たちを全員葬り去るだけの威力を秘めている。あれを喰らってはならない。あれは絶対に回避しなければならない類の攻撃だ。そんなことはそれこそ分別のつかない子供にだってわかる理屈である。だが――

 

――パラ子さんが……!

 

ここには今、倒れて動けない人間が――、パラ子がいる。彼女は、自分たちを助けるためにその身を盾として敵の攻撃の前に立つことを迷わない人間だ。そしてまた、彼女がこのように倒れ気絶してしまっているのは、彼女がそんなほかの誰か――、メディ子とパラ子を死の脅威から守るために行ったが故の結果である。そんな彼女を見捨てて、自分たちだけ助かるなどという選択肢を取ることを、自分はもちろんのこと、そんな彼女に助けられたメディ子やパラ子だからこそ、許容するはずがない。

 

――どうすれば……!

 

回避するしかない攻撃をどうにかして防がねばならない。反射的に手にしていたコルトの銃弾を先ほどのように敵の顔面にぶち込もうと構え、そして鳴り響く、かちん、という音に、自分の失態を認識する。弾は先ほど打ち尽くしていたということを失念していたのだ。

 

――間に合わないっ……!

 

銃で敵の行動を阻害するという手段はもう取れない。もう彼女らを死から遠ざけるためには、あの攻撃を防ぐしかない。だがどうやって――

 

「……っ、パラ子! 盾、借りるわよ!」

「う……、あ……」

 

おそらくは自分と同じような結論に達したのだろう、自らたちに迫りくる脅威に気づいたガン子は、動揺したメディ子と横たわるパラ子を見やると、一瞬顔をしかめさせた後、覚悟を決めた様子で倒れたパラ子の腕から盾を奪い取り、立ち上がると頭上に構えた。先ほどパラ子がやったことを今度は自分がやってやろうという算段なのだろう。しかし――

 

『無茶な! 本職のパラ子ですら厳しい一撃を、そうでないおぬしにあの攻撃が防げるわけが――』

 

そうして盾を構えるガン子の守護はあまりにも頼りなかった。パラ子よりも小さな体躯のガン子は、パラ子のように大きな盾をしっかりと支えることすらできていない。攻撃を防ぐどころか、盾を頭上に掲げて支えるのが精いっぱいのありさまだ。

 

「――だからといって、パラ子を置いて逃げるわけにもいかないでしょう!」

 

無論、ガン子とて自らがこの敵の攻撃を完全に防ぎきれるなどとは考えていないのだろう、感情的に叫ぶ。

 

「ライドウッ、二人を連れて逃げて!」

 

ガン子の声には、たとえ我が身を犠牲にしてでも彼女たちは助けてみせるという覚悟の色が宿っていた。だが無論、命を捨てる覚悟した程度で、彼我の実力差や今目の前で起こっている物理現象をひっくり返せるほど、世界は甘くない。

 

「――ダメですっ、それじゃ無駄死にだ!」

 

敵に物理攻撃は通らない。パラ子はこの場から動けない。パラディンでない小柄のガン子では、敵の攻撃を防げないことは明らかだ。自分が刀をもって突撃したところで、物理攻撃の通らない相手に対して、何をどうすればいい。すぐそこで敵はすでに両手を振りかぶっている。もう時間は残されていない。取れる手段がない。銃でも剣でもだめだ。ああ、せめてこんな時、悪魔管があったなら――

 

「――っ!」

 

勝ちの芽を探して周囲を見渡し、ないものねだりをしていたそんな時だ。倒れ伏したパラ子の腰のポケットから、見覚えのある特徴的な文様刻まれた銀の管が目に映る。瞬間、背筋を電撃が走り抜けていった。

 

――……まさかこれはっ

 

慌て手を伸ばせば、銀の管は確かに自分の手へと収まった。自らの体からマグネタイトを注ぎ込むと、中に閉じ込められている悪魔の情報を認識することができる。幻覚ではない。これは本物の――

 

「――自分の悪魔召喚管!?」

『なんじゃと!?』

 

ゴウトが声をはり上げた。

 

――■■■■■■■■■■ッ!

 

同時、耳元にそれ以外の音が入り込んでくる。目線を上げれば、棍棒を振りかぶる巨人と目があった。視線には必殺の意志が宿っている。

 

――だがもう絶望はない

 

なんの因果か、自分の手には、本来あるべきものがきちんと収まっている。悪魔召喚師が悪魔召喚師と呼ばれるがゆえんのものが、この悪魔召喚師葛葉ライドウの手中に収まっている。ならば

 

――もはや目の前の敵を恐れる理由などありはしない!

 

銃の代わりに管を前方に付きだす。マグネタイトをさらに管へと注ぎ込むと、管の中の悪魔が呼応して返事を返してきてくれた。管の中に収められている悪魔は、かつてライドウが従えていた悪魔の中でも指折りの実力者。

 

かつてケルトの国において影の国の女王の呼ばれた、死神にして美しい女神。その名を――

 

「――召喚!スカアハ!」

『よう呼んでくれたな、ライドウちゃん!』

 

呼ぶと同時に、黒いヴェールを纏った女が笑みを浮かべながら管より具現化し、飛び出して、目の前の死の具現へと突撃した。



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第二十二話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (九)

(前転無敵)のようなゲームシステム上の都合的な部分を独自解釈してます。ご了承下さい。


「あらま、こら確かに強力な攻撃やねぇ」

 

陶器人形(/ビスクドール)のように真っ白い肌。一目で鍛え上げらえれているとわかる、細身ながら筋肉質の豹のごとき体。左頬に刻まれた薔薇の入れ墨。羽織るマント、被った鍔広帽子、手足の肘、膝近くまでを覆う手甲足甲のような布地、胸と陰部とを隠す下着に至るまでが、死を想起させる黒色にて染められているその出で立ち。相対する巨漢が振り下ろす巨大な棍棒に対して真っ向から突っ込んでいくそんな姿をした女性は、間違いなく自身が元の世界において使役していたスカアハと呼ばれる悪魔の姿に間違いなかった。

 

「でも――」

 

スカアハ。それはアイルランド神話、あるいはケルト神話において登場する影の国の女王の名前だ。ケルト神話における大英雄クーフーリンに魔槍ゲイボルグの使用法、およびその他戦闘術を教えたという伝承を持つ彼女は、当然ながら、かの大英雄クーフーリンに負けぬ、それどころか勝るほどの戦闘力を保有している。

 

「こんな技術も何もない力任せの攻撃にまともにあたってやるわけにはいかないねぇ」

 

言いながらスカアハはニヤリと唇をゆがめた。その微笑みは妖艶にして自身に満ち溢れている。笑みは事実としてスカアハが心底、目の前に迫っている棍棒の振り下ろし攻撃を脅威に感じていないという証左でもあるといえるだろう。

 

「――■■ッ」

 

笑みに触発されたかのように、振り下ろされる棍棒の勢いが増した。先ほど巨漢が片手で繰り出した棍棒の一撃は、パラ子という彼女が敷いた優れた守りすらも打ち砕いた。ならば今巨漢が両手をもってして繰り出しているその一撃は、単純に考えて先ほどの攻撃の倍程度の威力を保有しているということになるはずだ。

 

「事実を指摘されて怒ったかい? でもだからといって、おばちゃんはあいにくと、子供の癇癪じみた一撃を受けてやるわけにはいかないのさ! ――ラク・カジャオン!」

 

だがそんな死を具現させる凶暴な棍棒の一撃を、スカアハは自らの体捌きと自らの体に秘められた豊富なマグネタイトを利用して物理攻撃に対する防御力あげるスキル『ラク・カジャオン』を発動させると、真正面から素手で受け止め、そしてそのまま難なくいなして見せる。そうして進行方向を強制的に変化させられた巨人の棍棒による一撃は、唸る風切り音を立てながらすぐさま泥の地面と接触すると即座に地面を打ち砕き、ライドウらのいるすぐ真横から広範囲にかけてを吹き飛ばした。

 

「きゃあ!」

 

メディ子は寝転ぶパラ子の体にしがみつきながら悲鳴を上げる。

 

「くっ……!」

 

ガン子は片膝を立てた姿勢で泥の地面が削られることによって発生する振動に耐えながら、構えた盾を用いて自らたちに降りかかってくる泥の破片を防いでいた。

 

『ぐ……』

 

ゴウトはそんなガン子の側で振動に耐えるために必死で足を踏ん張らせている。

 

「――■■■■ッ!?」

 

そしてそんな地面が吹き飛ぶという現象を引き起こした張本人は、どう見ても自らの半分以下の大きさしかない細身の女性に自らが繰り出した渾身の一撃がいなされたという事実が信じがたかったのだろう、四角四面の顔についた目口を大きく開き、驚愕の表情を浮かべていた。

 

「おや、この程度で驚いたのかい? 大きななりしてなんて見掛け倒しだい」

 

そうしてけなす言葉をひどく冷たい視線ともに巨漢へと投げかけたスカアハは空中に浮いたまま体を器用にねじると、その細く白い足をしなやかにしかし力強く動かして巨漢へと突き出す。

 

「これじゃあ、オイフェの配下の奴らの方がよっぽどまともな肝っ玉と腕っぷしをしているよっ!」

「――■■っ!」

 

繰り出された蹴りの一撃は巨漢の胸元へと突き刺さり、スカアハの数倍もの大きさであるその男は先ほど浮かべたものとはまた別種の驚愕の表情を浮かべつつ空中を滑るようにして吹き飛んだ。

 

「おや?」

 

おそらくはその蹴り心地に違和感があったのだろう、スカアハが顔に疑問の表情を浮かべる。対してやがて数十メートルも離れた位置にまで吹き飛ばされた巨漢の男は、やがて地面へと両足で着地すると、すぐさま自らを吹き飛ばしたスカアハの方を見やり彼女の姿を視界に収めた。

 

「――■■■■■■」

 

男はそして目を細めると口をしっかとかみしめて、驚愕ばかり浮かべていた顔面を真剣なものへと変化させつつ、何らかの言葉を呟く。すると男の言葉に反応するかのよう、部屋の中央に浮かんでいる黒い球体の表面が蠢いた。

 

「物理無効化――、いや、蹴りが通用したところを見ると――、最高クラスの物理耐性持ちかい? こりゃ厄介だねぇ……」

 

一方スカアハは、面倒くさそうに呟くと、腕を組んでしかめっ面を浮かべる。

 

「おばちゃん、魔術攻撃的なスキルはあんまり得意じゃないんだけど……」

 

スカアハは元は影の国の女王であると同時、ケルトの女戦士だ。ケルトの戦士は直接戦闘によって決着をつけること誉れとする傾向にある。無論、ドルイドである彼らはまた当然の技術として、炎や氷、雷といった自然現象を操る術も身に着けているが、彼らのそれはあくまで儀礼や補助的な立ち位置のものであり、それゆえだろう、基本的に彼らケルトの戦士たちは自らの基礎身体能力を向上させるスキルばかりを好んで習得し、そちらの方面の魔術に長けている傾向にある。そう。彼らは魔術師ではなく、戦士なのだ。だからこそ彼らは、どちらかといえば、魔術戦というものを得意としていない。

 

「――助かった、スカアハ」

「おや、ライドウちゃん。無事でよかったよ」

 

話しかけるとスカアハは、表情を柔らかい安堵の笑みへと変化させつつ、言う。

 

「――ええ」

『助かったぞ、スカアハ』

 

そしてゴウトの声が聞こえてきた方を振り向いてみれば、ゴウトはいつの間にか空中に浮くスカアハの目前、つまりは自分の足元の横にまで近寄ってきていた。助かったという安堵からだろうゴウトは珍しく毛並みの良い尻尾を左右に揺らし、喜びの感情を露わにしている。

 

「悪魔召喚師(/サマナー)を守るのが私らの使役悪魔の役目だからね。ま、もちろんそんな関係抜きにしても、ライドウちゃんのようないい子を守るためなら、おばちゃん、張り切ってライドウちゃんの味方するけどさ」

「――恐縮です」

「あら、本当に素直でいい子だねぇ。――それにしてもなんだい、あの敵は」

 

スカアハはライドウに向けていた視線を巨漢の男の方へと向けなおすと、言う。

 

『どういうことだ?』

「確かに力はある。危機を察知したのなら、たとえ相手が自分より小さな相手であろうと様子を見るような戦いの心得も備えている。だっていうのに――」

 

言いながらスカアハは数十メートル離れた位置に待機している巨漢の男を指さし、続けて抉れてへこんだ泥の地面へとその指先のを指さすと、首をかしげながら続ける。

 

「それに反して、技術が追い付いていない。なんていうのか、粗いというか、雑というか、自分の力を持て余しているというか、そんな感じがあるんだよねぇ。――ゴウトちゃん。あんた、博識なんだろ? あの悪魔の正体、なんか、心当たりないのかい?」

『ふむ……』

「――スカアハ。この世界は自分たちが元々いた世界とは違う世界であり、魔物という悪魔とはまた異なった輩が闊歩する世界だ。故にあれが悪魔とは限らない――」

『否、ライドウ』

 

ゴウトは自分が言いかけた言葉を否定しつつ、マグネタイトの色に輝く緑の瞳で離れた場所にいる敵の体をじっくりと眺めながら言う。

 

『獅子の皮、棍棒、弓、そして攻撃の効かぬ戦神のような鋼の肉体にバビロニア……、というよりはエジプトからバビロン、タルスス、リディア、メディア、ギリシアの地域において広く行われていた布の纏い方をしている……。そしてエミヤたちによれば、この世界は我らと同じような歴史をたどり、同じような伝承も存在していたというではないか。――ならば、あれは儂の知識の中に存在している悪魔のいずれかである、という可能性も高い』

「――なるほど」

『そしてまた、『桜』とやらがいうように、泥がこの世界に存在した人間をも含んでいるというならば、例えば奴がかつて悪魔化する丸薬を飲んだ人間たちのように悪魔の力を得て変貌してしまった存在であるという可能性もありうる。それらば、スカアハのいうところの、『力量はあるのにその保有している力を持て余している』という意見にも特徴として当てはまろう。すなわち、奴はおそらく、バビロニアにおいて広く信仰された戦神マルドゥクか、アッシリアの死神ネルガル。あるいはアナトリア半島周辺、ルウィ族に信仰された太陽神サンタス。もしくは……』

「――」

『――バビロニア王族の騙りによってリディア王国の祖となった、ギリシャ神話の大英雄ヘラクレスの力を埋め込まれ、そんな悪魔たちの力を手にした、元はただの普通の人間なのだろう』

 

 

「■■■■■■ッ!」

 

そうしてゴウトが最後にギリシャ神話に伝わる最大の英雄の読んだ名を途端、離れた場所に佇んでいた巨漢の男は大きく咆哮した。

 

「――!?」

『なにっ!?』

 

次の瞬間、巨漢の頭上、部屋の中央に浮遊していた黒い泥の球体は大きくうごめき、巨漢の全身を包み込んでゆく。

 

「――なにを……」

 

続けて男の体に纏わりついた黒の泥は緑色のマグネタイトへと変換されてゆき、生まれたマグネタイトは露わになった巨漢の男の体の表皮より彼の体内へと侵入していった。体内へと侵入したマグネタイトが変化の起爆剤となったのか、男の体は鋼鉄の色に染まってゆくにつれてその輪郭もはっきりしたものへと変化し、存在感がより強大なものへとなってゆく。

 

『しまった……!』

 

ゴウトが顔をしかめさせながら言う。

 

『悪魔と呼ばれる種族は、人間にそうであると認識された瞬間、世界により強く影響を及ぼせるようになる……! すなわち儂が奴の名を呼び、ライドウらが奴の真名と正体を認識したことで、奴に悪魔としての真なる力を取り戻させてしまったのか……!』

 

自らの失態を悔いているのだろう、ゴウトの言葉は憎々しげだった。さなかにも敵の放つ気配は強大なものとなってゆく。筋骨隆々の巨体はさらに鋼鉄色へと近づき、もはや巨漢の男の肌の色は鼠色に近いものとなっていった。

 

「――ゴウト!」

 

膨れ上がってゆく増大する気配が焦燥を生み、呼びかけを強いものとした。

 

『すまん、ライドウ! だがこれではっきりしたおそらくあれは――』

 

問いかけにゴウトは謝罪とともにこちらが欲しい言葉を口にしようとする。

 

『悪魔ヘラクレスだ! ならば弱点は――』

 

そこまで言いかけた瞬間、巨漢の男――、否、ヘラクレスの全身より放出されていたマグネタイトの光が完全に体表から消え失せた。同時に全身をすさまじい悪寒が貫いてゆく。反応して視線をヘラクレスへと向けた直後、敵の姿がぶれて、消えた。

 

「――っ、離れてください!」

『うぉっ!?』

「――スカアハっ!」

 

言葉が終わるよりも前にゴウトの首根っこをつかんでパラ子らの方へと投擲すると、空中にスカアハに呼びかける。

 

「了解だ、ライドウちゃん!」

 

するとこちらの意図を読みとってくれたのだろうスカアハは伸ばしたこちらの左手をつかむと早急に浮き上がり、猛烈な速度で移動して泥の地面の上に固まっているゴウトやパラ子たちから距離を取った。

 

『ライドウ、何を――!』

 

サーカスの曲芸よろしく、浮かび上がりながら遠ざかる自分とスカアハを見てゴウトは叫ぼうとし――、

 

「■■■■■ッ!」

『――っ!』

 

しかし途端、襲い掛かってきた暴れ狂う風によってゴウトの言葉は遮られていまう。浮かび上がる直前自らたちが存在していた場所には巨大な足跡が轍のごとく残っていた。その足跡の轍を追ってやれば、その終端である少しばかり進んだ場所には、魔神のごとき強大な気配を放つヘラクレスがいる。彼女に左手を預けたまま我ながら器用に右手だけを用いて新たな弾丸をコルトライトニングに装填すると、無駄だと悟りつつもヘラクレスの頭部めがけて連射する。片手で反動を無理やり抑えつつ連続して発射された弾丸は、やがて空中を直進すると目的地であるヘラクレスの後頭部にまで到達。しかしやはり先ほどと同じよう、頭部に生えている荒々しく逆立つ髪や頭を覆う獅子の毛皮に拒まれて、あらぬ方向に反射されてしまう。

 

『……ライドウッ!』

 

ヘラクレスに銃による攻撃は通用しない。敵は銃や剣といった物理攻撃によるダメージを零にする物理耐性を保有している。そんなことは百も承知の上だ。だがそんな事実を理解しつつも、再びシリンダーの中の空の薬莢を取り出して火薬が充填されたものと交換すると、コルトライトニングの銃口をヘラクレスへと向けて連射する。やがて先ほどと同じような軌跡を描いてヘラクレスの頭部へと到達した六発の弾丸は、やはり先ほどと同じように頭部に触れることすらなく弾かれ、跳弾は泥の地面の上へと着地し、そのまま泥の中へと消えていってしまう。

 

「■■■■■■■■……」

 

そうして再び弾丸を撃ち込まれたヘラクレスはゆっくりこちらの方を振り向いた。そうして向けられた視線は焦点が合っていないかのように揺らいでおり、起き抜けに東天紅を浴びせられたかのような不機嫌と苛立ち交じりの如きものである。だが意識の混濁らしき兆候があったのもつかの間、ヘラクレスはやがてそのくすんだ色の両目の瞼を細めて視線をより鋭利なものへと変化させると、次の瞬間には突如ぎょろりと瞼を見開き――

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!」

 

両腕を広げて胸を開きつつ、天をも揺るがす勢いで大きく咆哮した。

 

「――っ!」

 

殺意と憎悪の含まれた音の振動が全身を揺さぶってゆく。音節も何も存在しない単音の集合体は、しかしだからこそどこまでもはっきりとヘラクレスの抱いている感情を表現していた。肌から染み入ってきた音は悪寒へと変化し、体内の中心へと集い、心臓と脳を震えさせてゆく。そうして吠えるヘラクレスから生じる迫力は、先ほどまでの奴のそれが児戯であったのかと感じてしまうほどに、すさまじいものだった。

 

「おおぅ、こりゃ……、寝た獅子を起こしちまったかね」

 

自分の手を取り飛行しているスカアハが、その整った顔の額に冷や汗を浮かべながらつぶやく。唾液を嚥下したのだろう、浮遊する体が一回だけわずかに上下した。おそらくギリシャ神話における大英雄の覚醒の咆哮はアイルランド神話において影の国の女王として名高いスカアハの精神を揺さぶり、彼女に死の恐怖を思い出させたのだろう。

 

「■■■■■■■■……」

 

そして帝都の守護者として戦闘時において余分な感情を切り捨てる訓練を行っている自分と影の国の女王として名高い女傑に負の感情を抱かせた存在は、手にしていた巨大な棍棒を地面に落とすと、背負いこんでいた弓を左手で構え、右手で弦をひきはじめる。だが弓には矢が番われていない。あれでは弦をはじいたところで震える音が周囲に響き渡るだけだ。まさかギリシャ神話の大英雄が、日本の陰陽師よろしく、魔除けのために鳴弦の儀を行おうとしているわけでもあるまいし、一体奴は――

 

「――何を……っ!」

 

言いかけて、ひどい悪寒が全身を駆け抜けた。肌がざわめく。全身の産毛が瞬時に逆立った。胸を締め付けられる感覚に誘導されるかのように口を開くと、その名を呼ぶ。

 

「――スカアハッ!」

「……了解っ!」

 

自分と同じ不穏な気配を察知したのだろう、飛行していたスカアハは名を呼んだだけでこちらの意図を察知し、握りこんでいた自分の左腕を離すと振り向き、腰に手を当て、敵を見据える姿勢に構えた。彼女がそうして戦闘態勢を取るのに少し遅れて地面へと着地した自分も拳銃をホルスターへとしまいこみ、刀剣「赤口葛葉」を抜き放ち、ヘラクレスの方を向く。空中で自重を支えていた左腕から痺れが失せてゆくと同時、痛いくらいに血の気が巡り、指先に至るまでが熱くなる。遠くに離れた場所にいるヘラクレスの小さな動きすらもを見逃さぬとばかりに意識を奴に集中させると、視線はヘラクレスの口元がわずかに動く場面と、ヘラクレスの指が弦より離されるその瞬間をとらえ――

 

「――■・■■■■■」

 

耳孔は聞こえないはずのそんなヘラクレスの呟きまでをもとらえていた。全身を走る悪寒が怖気へと変化する。直後、眩い光が弓と弦の間に生まれ、放たれた。

 

「――っ!」

「な……!」

 

生じた光は九本の矢となり、こちらへと飛来してくる。それはもはや光の矢ではなく、光線だった。見た瞬間、回避は不能だと直感する。それは絶技。それは魔技。それはおそらくヘラクレスという大英雄が持つ、彼が生涯において出会ったあらゆる試練を打ち砕いてきた必殺の技なのだろうと否応なく理解させられた。光が迫ってくる。死を予感させられた。無論、このまま死んでやる気なんぞ毛頭ない。あちらが必殺の技を繰り出すというならば、こちらも悪魔がいるときにのみ可能となる技を出すまでのこと。

 

「――スカアハッ!」

「了解だ、ライドウちゃん!」

 

覚悟は一瞬、決断は瞬間。瞬時に胸元のホルスターより取り出した悪魔召喚管へとマグネタイトに戻ったスカアハを収納すると、迫りくる光線を見据える。それは悪魔のいる今だからこそ可能である技。悪魔というこの世界とは異なる位相のずれた世界を作ることのできる存在がパートナーだからこそできる、葛葉の里の中においても秘中の秘として伝えられる、帝都の守護者だからこそ使用が許可される奥義。

 

「――」

 

迫りくる光の矢に対して、真正面から相対する。触れれば死に至るだろう死神の牙は、一部の狂いもなくこの身を狙ってきていた。

 

――好都合だ。

 

死を具現化させる攻撃に対して、真正面から突っ込んでゆく。攻撃との接触のタイミングを予測し、瞬間だけ悪魔の力を借りて前方に最小限の異界を生み出し、可能な限り身を小さくかがめ、その中へと我が身を放り込んだ。すると自分の体は一瞬だけこの世から消え失せ、攻撃は当たるはずであった九つの光線はそのまま通過して、泥の地面へと激突し、汚泥をあたりへと巻き散らしてゆく。

 

「■■■■■!?」

 

そうして瞬間ののち、スカアハ強力の元作り上げた異界から抜け出て、異界を消失させ、立ち上がり敵の方を見やれば、自らの必中必殺の攻撃が空を切るという出来事があまりに予想外だったのだろう、光景を目撃したヘラクレスの顔には驚愕の表情が浮かんでいるのが目に映る。ヘラクレスは珍しく、動揺したかのようだった。好機であると反撃の手段を探すも、これだけ距離の離れた場所にいる物理耐性を持つヘラクレスに対して決定打を与えられる手段を今の自分は持ち合わせていない。ショルダーバックには属性弾や傷をいやすための回復薬しか入っていないし、補助や回復、物理攻撃を得意とする悪魔スカアハにあのヘラクレスの物理耐性を貫くほどの威力の攻撃を望むのは酷というものだろう。思い悩む間にも時は過ぎ去り、やがて正気を取り戻したのだろうヘラクレスの瞳に色が戻ってゆく。

 

「■■■■……」

 

そしてヘラクレスは小さく唸り声をあげると弓を背に収め、泥の地面へと転がしていた棍棒を再び手にした。おそらくは今のたった一回のやり取りで、自身の持つ射撃系の技ではこちらを仕留めることはできないとの判断を下したのだろう。自身の必殺の技が破られたにもかかわらず冷静に受け止める度量といい、自身の必殺が無効化されると知るや否や即座に有効打を与えられそうな武器に変更する判断力といい、流石ヘラクレスは大英雄の名に恥じない精神性を保有している。

 

「――」

 

もはや今しがたのような小細工は通用しないだろう。敵の意識がこちらに集中してくれたことだけはありがたく思えるが、自分はこれからあの物理攻撃に対して高い耐久性を持つ大英雄と真正面から切り結びあわなければならないのだということを想像すると、それだけで身が震える思いがする。そんな戦いのさなかに自分はあのヘラクレスを打ち倒す手段を見出さなければならないことを考えると、それだけで眩暈を催しそうだった。とはいえ、かの英国の詩人が言ったように、過剰の道が知恵の宮殿に通じ、慎重とは無能に求愛された富める醜い老女の如きものであることは確かだろう。戦いの突破口は常に戦いの中より見出すしかない。事前に準備を怠らず入念に行い、それでもなお想定外のことが起こるのが悪魔との戦いというものだ。そして自分は今まで、そうして襲い掛かる七難八苦を退けてきた。

 

――戦いの中に活路を見出す

 

決意を胸に、覚悟を決めなおすと体の震えは止まっていた。ヘラクレスの視線を真正面から見返すと、大英雄は唇を釣り上げて笑い、しかしすぐ後に顔面から感情を失せさせてゆく。わずかばかりの高揚感を得たとき、ヘラクレスの体はぶれて、その場から消えていた。否――

 

「■■■■■■■■■■■■ッ!」

 

ヘラクレスは雄たけびとともに、目にも止まらぬ速度で駆け抜けてくる。

 

「スカアハッ」

「任せなっ!」

 

迫りくる巨体を前にこの場において最も信頼できるパートナーを呼び出すと、彼女とともに迫りくる脅威と相対する。瞬間ののち、大地を揺るがす音があたりに大きく鳴り響いた。

 

 

ライドウ、スカアハとヘラクレスの戦いは時を重ねるごとに苛烈さを増してゆく。ヘラクレスの一撃が振り下ろされるたび、空を辷る攻撃は吹き荒れる暴風と風切り音を生み、大地は割れ、汚泥があたりに飛び散らされる。一撃一撃がすべて必殺の連撃をライドウとスカサハは果敢な見事な身のこなしで回避するも、二人はそれ以上の行動をとることができていない。二人の持つあらゆる攻撃手段が目の前の敵に対して通用しないことを二人は知っているからだ。攻撃を回避する二人の瞳は曇っておらず、いまだに眼光は鋭いままである。二人は、敵に攻撃は通らないが、しかし敵の攻撃は命中、即、死などという不条理にめげることなく、いまだヘラクレス打倒のための手段を模索し、隙を見つけては反撃を繰り返している。だが――

 

――なんという男だ……!

 

斬撃、銃撃、属性弾、刺突、打撲。二人はそれらの攻撃をヘラクレスの攻撃の間隙を縫って人体の脆き急所たる眼孔や口腔、鼻、脇の下、頭頂部、へそ、股間などに容赦なく叩き込むも、ヘラクレスと呼ばれる大英雄は二人が繰り出すそれらの猛攻をまるで意にも介することもなく、反撃の一撃を繰り出して目の前の敵を叩き潰そうとする。二人の攻撃はヘラクレスの纏う獅子の毛皮も、布切れも、皮膚も、髪ですらも傷つけることができていない。それはまさしく巨人と蟻の戦いに等しかった。

 

あるいは、巨漢が棍棒を振り回し、自身の半分ほどの大きさもない小さな二人を仕留めようとするヘラクレスの姿は、まるで飛び回る蠅や蚊を叩き落とそうとしているかのようにも見える。否、事実としてあの物理攻撃も属性攻撃をもほぼ無力化する大英雄にとって、主たる攻撃手段が物理攻撃に特化しているあの二人はまさに目障りなだけの羽虫に過ぎないのだろう。そう。おそらくヘラクレスにとって、これは戦いでなく、ただの虐殺――、試練どころか戦いですらなく、単なる虫退治に過ぎないのだ。

 

――どうする!? どうすればいい?

 

ヘラクレスの棍棒が大地を砕くたび、そんな言葉が脳裏で幾度も谺した。目の前で繰り広げられる戦いとすら呼べないを目前にして、あらゆる混乱の思いが噴出し、交錯する。ヘラクレスの持つ高い物理、属性耐性との前には、ライドウの赤口葛葉による一撃や、ガン子が銃より放つ属性弾による攻撃。そしてスカアハという優れた体術を用いる女神の攻撃すらも通用しないと判明している今、所詮は猫の体でしかない自分が加勢したところで、それこそ猫の手ほども役に立たないだろう。今の自分にあるのは賢しくも長年の間にため込んできた知恵ばかりである。ならばそれを用いてヘラクレス打倒の突破口を見つけることこそが、今の自分にできる彼らに対する唯一の貢献というものだろう。だというのに。

 

『ええい、常なら余計なくらいに働くくせに、こんな時にばかり……!』

 

常ならば知識の欠片が収集されている脳髄の中には今、混乱と焦燥が入り交じって飛び回っており、その知識を引き出すことができずにいる。目の前で自らのパートナーが当たれば死ぬ攻撃に身をさらされ続けているという事実が余計に思考を攪拌させ、思考を上手く巡らせることができていない。頭がまともに働かないという醜態をみじめと思う感情がさらに余計な焦燥を生み、思考の巡りはさらに悪いものへとなってゆく。

 

「……う」

「師匠!」

「パラ子!」

『む――』

 

そうしてまさに混乱の渦中にあった思考の悪循環を断ち切り、現実へと引き戻したのは、地面に倒れ伏しているパラ子の目覚めを喜ぶメディ子とガン子の声だった。

 

「無茶をして、まったく!」

「ほんとですよ師匠! 死んだらどうするんですか!」

「ラ、ライドウは……」

 

喜色含んだ声で悪態つきながら自らの顔を覗き込んでくる二人の呼びかけを無視して、意識はいまだ半分も覚醒しておらず、美麗な鎧は喀血に汚れており、両腕の骨折は治癒されたばかりで違和感も残っているだろうパラ子は、この場にいない自らが庇った男のその名を呼ぶ。瞬間、全身を羞恥と驚愕と歓喜の感情とが走り抜けていった。新たに生まれた感情がそれまで脳裏に渦巻いていたすべての余計を洗い流し、体の外へと排出してゆく。

 

『ライドウはお主のおかげで無事だ、パラ子』

 

思考から余計が失せ、視野が広がってゆくことを自覚すると、この場にいるのは自分のみでないことを思い出す。

 

『じゃが、今再び、奴は窮地に立たされておる』

 

自分一人では事態の解決に至る答えを導き出せなかった。しかし、ここには自分とは全く異なる知識を持つ彼らがいる。彼らの力を借りれば、あるいは何かしらの策が思いつくかもしれない。

 

『力を貸してほしい。解決のためにはお主らの知恵が必要だ』

 

語りかけた言葉に三人が同時に頷く。その光景はなんとも頼もしいものだった。

 

 

「状況は?」

 

パラ子は起き上がると己の盾をガン子より受け取りつつ、早速尋ねてきた。

 

『ライドウがお主の持っていた悪魔召喚管に閉じ込められていた悪魔『スカサハ』を用い、あの悪魔『ヘラクレス』と応戦中だ。ただし、お主らも知っての通り、悪魔ヘラクレスは強力な物理耐性を保有しており、基本的に物理攻撃を得意とするスカアハや銃や剣を獲物とするライドウでは奴の守りを突破することは難しいだろう』

「ええと、それに相手に状態異常をもたらす薬や、ライドウさんやガン子の属性弾とかも効果なかったんですよね」

「むぅ……」

 

パラ子は腕を組み、顔をしかめさせる。表情は、手詰まりじゃないか、と思っていることがありありと察せられるものだった。

 

『本来ならばライドウもあの手の物理耐性持ちと相対した時のためにいくつもの悪魔を保有しているのだが、今、ライドウの手持ちはあのスカアハのみだからな……』

「そうだ、師匠。師匠はライドウさんのあの銀の管、どこで手に入れたんですか?」

 

ため息交じりに言うと、メディ子がパラ子へと問いかける。

 

「ああ、いや、その、だな」

「大方、あの時魔物の体から拾ったのがそうなんでしょ」

「……うむ、その通りだ」

『おそらくは儂らの世界において蟲毒の泥の中に消えていったもののうちの一本が、そのまま溶けずに残り、泥の中より生まれた魔物の体に引っ付いておったのだろう。あれは悪魔のマグネタイトを封じ込めるために特殊な合金で鋳造されており、また、内外のマグネタイトが入り混じらぬようにするための術法がかかっておる故、マグネタイトによって引き起こされる事象に対して相当の耐久性を誇るからな。それ故にあれは蟲毒の泥というあらゆるものを融解させるはずの泥の中にあってもその形を保っておったのだろう。……時にパラ子。お主、もしやほかにも何本か管を拾っていたりは――』

「いや――、ない。私が見つけたのはあれ一本だけだ」

『――そうか……。…………残念だ』

 

重たい沈黙の空気が場を支配する。

 

「……そういえばゴウト。貴方、さっき、ヘラクレスの弱点がどうとか言っていなかった?」

『む……』

 

さなか、空気を割って飛んできた疑問の声に記憶を掘り起こされた。焦燥感からだろう記憶を忘却の彼方へと追いやっていたが、そういえば自分はあの悪魔の正体と弱点に思い至っていたのだということを思い出す。

 

『――そうであった。ガン子、感謝するぞ』

 

我事ながら何とも情けない醜態だと思いつつ、それを思い出させてくれたガン子に感謝の言葉を送ると、目の前の悪魔ヘラクレスの情報――弱点を口にする。

 

『……そう、その通りだ。奴の名前は悪魔ヘラクレス。ギリシャ神話に登場する多くの魔物を打ち倒し、苦難を踏破し、数多くの伝説を生み出した大英雄。だがその腕っぷしと技量、胆力により多くの試練を乗り越えてきた大英雄はその最後、とある存在の嫉妬と自らが滅ぼしたはずの魔物の強力な毒によって身を焼かれる運命を得てしまう。ならばかのもの唯一の弱点は――』

「……毒?」

 

パラ子の言葉に無言で頷き応答する。毒。古来より多くの権力者、有力者を葬り去ってきた、力のないものが力のあるものを仕留めるために有力な手段の一つ。ならばなるほど、ヘラクレスというギリシャ神話の大英雄に対して蟷螂の斧がごとき攻撃手段しか持たない我らが今欲する武器としては最も適当であるといえるだろう。

 

「毒って……、どんな毒でもいいのか?」

 

パラ子の言葉に首を振って答える。

 

『わからん。わからんが、ともあれ奴を打ち倒せる手段があるとすれば、伝承通り、奴を毒状態に陥らせたうえ、その体を炎に包む事こそが、儂に思いつく唯一のヘラクレス打倒の手段だ』

「……メディ子。毒の香って持ってきてたっけか?」

 

パラ子は神妙な顔をしてメディ子の方を振り向いた。

 

「いえ……、ありません。基本的に香の類は風向きとか注意しなくちゃならない代物ですし、それこそ専門家でないと上手く取り扱いできないから、どうしても優先度が低くなっちゃうんですよね……。特に毒の香なんかは、風向き次第で下手すると味方にも影響出ちゃいますし、優先度としては、アリアドネの糸、回復系の薬、水溶液、縛りの糸、身体能力向上系の薬と続いて、その次に余裕があれば、って感じですから……。一応、麻痺の香と盲目と石化だけは通常攻撃が効かない相手から逃げるのに役立つときが多いのでお守り代わりに持ってきていましたが、それもここに来るまでと、先ほどまでの戦闘の間に使っちゃいましたし……」

「ま、基本的に状態異常系や属性攻撃系が欲しかったらそれこそカースメーカーやアルケミストに協力を仰げはいいし、本当に余裕があった時に持って行って使うって代物だものね」

「ううむ……、まぁ、そうだよなぁ……」

 

話を聞く限り、どうやら彼らの知る道具の中には、毒の効力を発揮する『毒の香』と呼ばれる道具があるにはあるが、今彼らはそれを保有していないらしい。

 

『……主らはその毒の香をこの場で作り出せないのか?』

 

彼らの口調から戻ってくる答えをある程度想定しつつも、しかし一縷ばかりの望みにかけてその質問を口にする。

 

「それは……、その……」

「うーむ、私たちの中にそんな職に就いていたり、技術を持っている奴はいないし……」

 

言いながらメディ子の言葉を引き継いだパラ子は自らのカバンをひっくり返すと、これまでに打倒した魔物の体から収奪してきた品を泥の地面の上にばらまきながら言う。

 

「何より、その素材になりそうなものすらも手持ちにないからなぁ……」

 

パラ子のカバンから落ちたものをまじまじと眺めると、地面には、強敵『栄耀の潜航者』の核であった『ひずみの球核』や、途中で倒したメディ子が香で石化させて倒した、ふくよかな体を持つ『圧迫の牛魔人』が残した『硬化した角芯』。そして放置しておけばいくらでも増殖するという特性を持っていたが故に討伐せざるを得なかった『増殖する悪夢』から切り取った『悪夢の後髪』などが転がっていた。それらは確かに一目で見て強力な力を秘めているとわかるような代物であったが、また同時、確かにパラ子が言うように毒を秘めているとは思えないものばかりだった。

 

「私たちの手持ちにも」

「やっぱりないのよねぇ」

 

言いながらメディ子とガン子もバッグを逆さにして、二人の後に続いて今まで魔物より収集してきた物品を地面へとぶちまける。悪魔のような姿をした魔物の頭部より剥ぎ取った『漆黒の歪角』、魔力が大量に蓄積された爛々と輝いている『ー足の魔力晶』、猿型の魔物の細指より切り取った『研がれた鉤爪』、冒険者を嘲るような巨鳥から剥ぎ取った湾曲した見た目の『硬質な嘴』、ライドウが討伐した魔物より取れた三つの頭を持つ魔獣の犬歯、常闇の宙を悠然と泳ぐ白い怪魚のよくしなる軟骨などが視界に入り込んでくるが、やはりなるほど、彼女らが言う通り、どれも毒の成分を含んでいそうなものはない。

 

『ぬぅ……』

 

意識しないうちに声が漏れていた。毒。毒を生む悪魔。あるいは猛毒弾。それらのどれかさえあれば突破口が開けるかもしれないというのに、いざというときに限ってそれが存在しない。ままならないものだ。毒といえばこの地面の泥も生物を快楽をもってして廃人に追い込む魔性の毒性を保有してはいるが、その毒がこの泥の中より生まれた存在であるヘラクレスに対して効力を発揮するとは思えない。ああ、いや、それを思えば、毒の中より生まれた生物であるものから剥ぎ取った素材ばかりのこれらも、これらに仮に毒の成分が含まれていたとして、それがあの泥の中より生まれたヘラクレスに通用しない可能性の方が高いだろう。ならば――

 

――毒は泥の中より生まれたもの以外から抽出、あるいは精製されたものである方が望ましい……

 

毒といえば、もともと薬師の扱う分野だ。毒は適量用いれば、転じて薬と化す。毒と薬は表裏一体。ならば――

 

『メディ子よ』

「はい、なんでしょうか」

 

そんな薬を用いて人の体を回復させるスキルを使う、メディックという職業に就いているメディ子と呼ばれる彼女ならばあるいは――

 

『お主らメディックは薬草を煮詰めた液体を用いてスキルによる治療を行うのだろう? 古来より毒と薬は表裏一体。過ぎたるは及ばざるがごとしというし、そういった過剰な使用などによって毒となりうる薬などを持ってはおらんのか? 例えばチョウセンアサガオ、いわゆる曼荼羅家、ダチュラのような――』

「そ、そりゃキュアやバインドリカバリ、リフレッシュにリザレクション用の薬とか、戦後手当用の痛みを抑える鎮痛剤や血管収縮剤、化膿止めの抗生物質や造血剤みたいなのくらいは持ってきてますけど、痛みっていうのは大事な体の危険信号ですから、それをわからなくしたり、意識を混濁させるような麻酔薬みたいなのは持ってきてませんよ! そりゃ施薬院に行けばそういった即効性があって毒性の強い薬もありますけど、ぶっちゃけていっちゃえば迷宮でそんな強い効果を発揮する薬が必要になるような事態の怪我負ったら、まず間違いなく簡単な治療を施した後に糸使って即時帰還して施薬院に運び込みますし、それができない事態なら死ぬだけですもん!」

 

メディ子の言葉を聞いて、なるほど、確かにそれはその通りだろうと思う。考えてみれば冒険者がそのように強力な効果を発揮する薬の使用が必要な事態になった、すなわち味方が大怪我を負っている事態に陥った事態になっているということは、多くの場合において今のように自分たちよりはるかに強い相手と相対してしまった、あるいは今もなおしてしまっている状態にある可能性が高い。もし仮に敵を倒せているならば、まともな思考をしているものなら即座に転移して帰還し施薬院とかいう病院施設に仲間を移送するだろうし、もし仮に敵を倒せていないのならば、悠長に治療を施している時間などあるわけないし、ほかのメンバーや重傷を負った存在を助けるためにも、一旦重傷である存在を置いて強敵の打倒に尽力し、安全の確保に努めるしかない。それができなければ、彼女の言う通り、死が待ち受けているだけであり、つまりはどのみち、迷宮という場所において、冒険者が冒険するにおいて、麻酔薬のような使用対象者を意識混濁の状態に陥らせる強い薬効を持つ薬は不要物ということになる。

 

『そうか……。だが今の話を聞くに、麻酔薬に相当するものはなくとも、それに準ずる効力を発揮するものは保有しているのだな? なら、それをまとめてあのヘラクレスに投与できれば――』

「そりゃ、手持ちのこれらを用法容量考えずに敵の体へとぶち込めるんならスキル用の薬や鎮静剤とかも毒として発揮するかもですけど、でもこれ全部あのヘラクレスとかいうのに投与するんですか? 結構な量がありますよ? どうやってあの糸の縛りも麻痺とかの状態異常効かない、凄まじい動きの巨人の体内に投与するっていうんですか? それに投与できたとして、あのデカぶつですよ? 害ある分量になるかもわからないし、下手すると、単に薬効を発揮するにとどまってしまうかもしれないじゃないですか」

『ううむ……』

 

なるほど、確かにそれもまた道理だ。それによくよくこの世界の事情を思い出してみれば、この世界にはヒトやモノにつけられている名によってスキルの効果や武器、防具、薬効などが強化される『概念による効力強化』の法則が働いているというし、元が薬の名を持つものをそのまま敵の体内に大量投与しても、毒ではなく敵に有利な効力を発揮する薬のままにとどまってしまう可能性は高い。となれば、元が薬として作られたものをそのまま使用するのは悪手だ。

 

『ならばメディ子よ。主もそれらの薬剤を扱う専門家であるというのなら、これらの薬を調合して巨漢の奴にも通用しそうな高純度の毒を作り出せぬものだろうか?』

 

とはいえ、メディ子の持つこの薬が今のところ唯一毒となりうる素材であるからして、ならばこれらに何かしらの手を加え世間一般的に毒として呼ばれる物質に変化させ、ヘラクレスに対して使用する――、これが現時点において考えうる最善といえる手段だろう。

 

「ど、毒の調合ですか!? 無理ですよそんなの! だって、ここには機材もないし、第一、私、ハーバリストみたいな毒草薬草の専門家じゃないから、経験が――」

「まぁ最悪、危険な効力もってそうな薬の葉っぱ全部混ぜて香みたいにしちゃえばいいんじゃない?」

「ガン子!?」

「名付けるならポイズンスモークといったところだな! よし、メディ子。これが成功したらお前に毒殺者の称号を授けてやろう」

「師匠も何言ってんですか!? それとどさくさに紛れてなんか物騒な二つ名を偉そうな態度で与えようとするのやめてくださいよ! 頭沸いてるんですか!?」

「メディ子……、なんか、やっぱり、私にだけ態度とか言い方とかきつくない?」

 

提案にたいして大いに拒絶と困惑の態度を見せるメディ子だが、ともあれ、この瞬間において彼女以上に頼りにできる人材がこの場には存在していないゆえに、自身がなかろうとなんだろうと、どうしてもこの提案を受けてもらわなければならない。なぜなら、この提案の先には世界の――

 

『頼むっ。今、ライドウの助けとなれるのはお主しかおらんのだ!』

 

否、ライドウの命がかかっている。儂は彼のお目付け役として、それ以上に長きにわたって多くの戦いを勝ち抜いてきた友として、あ奴にまだ死んで欲しくなどはない。だからこその懇願。だからこそ儂は、三跪九叩頭する勢いで何度も頭を下げ続ける。

 

「メディ子」

「これで断ったら女が廃るぞ」

「う、うぅ……、わ、わかりましたよ! やりますよ! 毒、作りますよ!」

『……! 感謝する!』

「でも、やってみますけど、どんなものができても文句言わないでくださいね! あと、毒が作れたとしてもどんなものになるかはわからないですけど、たぶんは液体系になるでしょうから、ゴウトさんは出来たものをどうやってあのヘラクレスとかいう化物に投与するのかっていうことを考えといてくださいよ!」

『ああ、もちろん……、もちろんだ!』

「うぅ……、ああもう、ええと、こっちがオピオイド系で、これがアルカロイド系だから……」

 

メディ子の言葉に興奮気味に言葉を返すと、再び思考に没頭し始める。

 

――これで毒の都合はついた

 

あとはそれを撃ち込むための手段だ。メディ子は出来上がる毒は液体状のものになるといっていた。液体。それがどのような毒になるかは知らないがともあれ出来上がるのが液体であるならば、最も良い手段は直接体内の血管系に投与することだろう。だが――

 

「■■■■■■■■■■■■■■ッ!」

「くっ……!」

「こいつ、この期に及んでまだ早くなるのかい!?」

 

近接戦闘においてライドウとスカアハが回避に専念することで手一杯になってしまうほどの挙動を可能とする存在に対して、また、物理攻撃に対して強い耐性を持つ敵に対して、その強靭な肌と筋肉の下に隠れている動静脈に毒を撃ち込む手段など、早々に思いつくわけもない。

 

考えられる手段として、衣服に振りかけて伝承通りに皮膚より浸透する可能性に賭けるか、あるいは経口摂取させるあたりが現実的といえるだろう。が、メディ子の作る毒がヒュドラと呼ばれる神話時代にのみ存在した毒蛇の毒に匹敵するほどのものになるとは思えないし、皮膚投与、吸引投与、経口投与、直腸投与させるにしてもあの猛烈に動く相手に対してどうやってという疑問がやはり湧き出てくる。また、相手がヘラクレスという大英雄であるからして、おそらくそうして投与できるチャンスは一度きりだろう。相手がこちらの狙いが毒の投与にあると気づいた瞬間、おそらく奴は毒に対して非常に警戒的な態度を取り始めるだろうし、そうした自らに対して脅威となりうる毒を作れるあるいは保有する存在がこちらにいるとわかれば、奴はその存在――、つまりはメディ子をライドウやスカアハという優先的に排除すべきである存在であると判断し、そのために動き出すはずだ。今こちらが奴に見逃されているのは、自分たちがヘラクレスという大英雄にとっては路傍の石に過ぎない存在だからであり、つまりは目の前にいるライドウやスカアハよりも脅威度の低い存在だからである。もしヘラクレスが亜移動らよりもこちらの方が脅威度が高く、先んじて排除すべき存在であると判断すれば、奴は迷いなくこちらへと襲い掛かってくるだろう。その場合、もはやこちらには対抗の手段がない。無論、敵の攻撃の一発は回復した先ほどのようにパラ子が受け止めてくれるだろうが、おそらくはそこまでだ。はじめの一撃でパラ子の守りは砕かれ、続く二撃目、三撃目でメディ子含むもこちらの人員は全滅してしまうだろう。つまり自分は、最初の毒の一撃が確実に敵に当たるような手段を考え出さなければならないのだ。だが――

 

――絶対に必中させる手段だと……っ!?

 

物を任意の場所に必ず命中させるそんな都合の良い手段など、早々にあるものではない。無論そんなものが存在しないというわけではなく、例えば悪魔や英雄などが残した伝承の中であるのならば、トールのハンマーや、クーフーリンのゲイボルグなど、投げれば必ず命中する武器などが多く存在しているが、今この場に彼らのような悪魔は存在していなしい、いるのはライドウの横で戦っているスカアハだけ――

 

『……っ、そうか!』

 

――否

 

『スカアハがおったか!』

 

スカアハ。ボルグ・マックベインが海獣グリードの骨から作り上げ、マック・インバ―、レナ、デルメルと引き継がれてきた必殺必中の槍、ゲイボルグの使用法やそのほか多くの戦闘の手法や心得えをクーフーリンに授けた師匠にして影の国の女王。すなわち、必殺必中の槍の本来の持ち主。その情報が脳裏を駆け巡ると同時、メディ子らの方を向き、改めて彼女らが地面へとばらまいた物品へと目をやる。

 

『硬化した角芯……、漆黒の歪角……、研がれた鉤爪に、硬質な嘴、三頭獣の犬歯……。そして魚の軟骨……、――よし』

 

そうした物品の中に泥の海より生まれた魔物の――海獣の残した骨が多量に含まれているのを見て、確信する。

 

『よし! これならいける……、いけるぞ!』

 

柄にもなく興奮気味の声があがる。。

 

「どうした、ゴウト」

「何か名案でも思いついたの?」

『おぉ、パラ子にガン子か! ――そうだ、その通りだ。それゆえに儂は主らにも頼みたいことがある!』

 

そして話しかけられてきた彼らに対して顔を向けると、頭を下げてその言葉を述べる。

 

『悪いが、儂の言う通りの品を集め、それを儂の指示通りに加工してほしい!』

「――?」

「――?」

 

パラ子とガン子は疑問が尾を浮かべながら顔を見合わせた。

 

『話はあとで――、否、望むならば作業中にでもしてやろう! ともかく今はこうして説明している間も惜しい! だから、お願いだ! どうか、儂の言う通りに手を動かし――とある魔槍(/ゲイボルグ)の贋作を作り上げる手助けをしてほしい!』

 

地面に頭が付く寸前にまで下げて懇願する。

 

「あぁ」

「了解よ」

 

その懇願はすぐさま受け入れられ、二人は解体用のナイフとノミを取り出すとメディ子の隣で加工作業をはじめ、喨々たる音があたりに谺し始めた。



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第二十三話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (十)

生温さ帯びた暴風が肌を撫ぜてゆく度、風が耳孔の中へと侵入し、鼓膜を揺らしてゆく。振動は三半規管によって音と信号へと変換され、やがて風切り音となって脳髄の中に鳴り響いた。

 

「――」

 

無茶な稼働を続けているせいで、全身は悲鳴をあげ続けている。脳は意識を手放してさっさと楽になってしまいたがっていた。天然自然において水が低きに流れてゆくよう、人間の体の中にある本能という自然由来のものは楽に傾きたがるものである。これが温和な空気揺蕩う平時であるのならばそんな本能が望む安楽の願いに身を任せて眠りに堕ちてしまっても構わない。だが今この時、そうして本能の願いに応じて安楽に堕ちることは、それすなわち永遠に覚めぬ眠りにつくことと同じ意味を持っている。

 

「■■■■■■■■っ!」

「――くっ……!」

 

遅かれ早かれ人はいずれ永久の眠りにつくものだ。だから自分も死の眠りを否定する気はない。そうとも。もし自分がすべての役目を終えた後ならば、そんな永劫続く安寧に身を任せてしまっても構わない。だが今、自分の双肩にはこの世界に住まう住人たちの命と彼らの住まう場所である地球の大地、そしてさらには自らが守護するべき帝都に住まう人々の命を守るという使命が乗せられている。それはどれ一つとっても欠くことの出来ない重要なものであり、だから――

 

――まだ死ぬわけにはいかない

 

「――……!」

 

決意を騎手に本能の手綱を毅然として握りしめると、怠惰へ傾きたがる本能を無理やり御して、引き続き無茶を敢行する。眼前にて棍棒を振るう敵は強大にして無比な、宇宙の支配権をめぐる戦いであるギガントマキアにおいて多くの巨人/ギーガスを鏖殺した、一騎当千を実現する強さを持った存在だ。彼は常人ならば一つですら値を上げそうな試練を十二も乗り越え、それ以外にも数多くの伝説を残してきた、半神半人の大英雄である。すなわちその名をヘラクレスという。自分たちはそしてこの世界を救うためにも、そんな比類なき伝承を持つ存在を打倒しなければならないのだ。ならばそうとも、気を抜いている暇など、安楽にしてよい瞬間などありはしない。

 

「■■、■■■、■■■■、■■■■■■■■っ!!」

「くそ、また弾かれた! 流石のおばちゃんも辟易するよ!」

 

とはいえ、現状、敵打倒のための手段が見つかっていないのも、また事実だ。ヘラクレスは大地を響動ませる必殺の威力を秘めた強力無比な一撃を、外しては振りかぶり、外しては振りかぶりを繰り返し、次々と繰り出してくる。ヘラクレスはまるで重機のようだった。だがヘラクレスは無敵の重戦車というわけではない。ヘラクレスのの攻撃は一撃こそ強大であるものの、繰り出すおりにいちいち振りかぶるため、大きな隙が生まれるいのだ。だからこそ自分たちはこうして敵の近くに張り付き、振り回される剛腕が空を切り、大地を揺るがす度に、生まれる隙を狙ってスカアハとともに人体急所目掛けて反撃の一撃を加えている―ー、のだが、自分たちの繰り出す攻撃はいずれもこの大英雄の持つ物理耐性の前にあえなくその威力を失い、結局有効打を与えれられずにいる。結果、こちらの時間と体力だけが無意味に削られてゆく。ヘラクレスは無敵ではないが、無敵に限りなく近い存在だった。

 

――状況は最悪だ

 

自分たちは一刻も早くこの大英雄ヘラクレスを退け、月の迷宮の最奥へとたどり着かなければならない。にもかかわらず、こうしてヘラクレスと戦い始めてからもう半刻は経過している。加えて自分たちはここに来るまでの間にたっぷり一刻半以上を費やしていたはずだ。また、この番人部屋に入る以前、見上げた月はもうほとんど泥に覆われていた。それらの事実から逆算するに、おそらくはもうあと数刻ほどもしないうち月は完全に泥へと飲み込まれ、この世界は終焉の運命の渦に飲み込まれてしまうだろう。

 

一応パラ子たちの言動によれば、この月へと続く泥の迷宮は世界樹の迷宮と似た造りをしており、それ故にこの番人部屋の奥はすぐ迷宮の最奥に通じている可能性が高いとのことである。けれど、それが真実であるというどこにも保証はない。少なくとも自分が迷宮という侵入者を拒む要塞を作り上げるのであれば、迷宮を既存のものと同一の造りという攻略されやすいものに作り上げないだろう。無論、時間がなく、突貫工事で作り上げる必要があるというのであればその限りではないが――、ともあれ、この番人部屋を抜けた後もまだ迷宮が続くかもしれないという最悪の事態を考慮するに、月の最奥探索のために費やす時間はあればあるだけ良くならばすなわち、この部屋の番人であるヘラクレスを可及的速やかに討伐せしめる必要がある。だというのに――

 

「■■――!」

「――ぐっ……!」

 

自分らは今、この完全なる物理耐性を保有するこの部屋の番人であるというヘラクレスを打倒せしめる手段を見つけられていない。つくづく嫌になるくらいこの大英雄の守りは完璧だ。敵に攻撃を防がれるたび、ほかの悪魔召喚管がない事実を口惜しく思えてしまう。無論それは、今自分が召喚し、使役し、ヘラクレスとともに戦っている悪魔スカアハが頼りにならないなどということではない。むしろ、彼女という手練れがいなければ、自分は先ほどの光線を時点で時点で死んでいただろうし、この猛攻を防ぐことも出来なかっただろう。今の自分がこうして死線ぎりぎりのところで踏ん張れているのは、間違いなくこのスカアハという悪魔のおかげである。そう考えるに彼女という悪魔は葛葉ライドウたる自分の命の恩人であり、頼りになる相棒であり、感謝すべき対象と言えるだろう。だがしかし同時に、彼女というどちらかという物理攻撃に優れた悪魔ではこのヘラクレスという大英雄を打倒する手段がないのもまた事実だ。

 

――そこに加えて、この攻撃の苛烈さ……

 

そんな絶望的な事実に加え、今やヘラクレスが先ほどから行っている挙動のせいで、敵の弱点を探るために繰り出している反撃の機会すらも少なくなりつつある。ヘラクレスは今、地面に削りながら棍棒を振り上げる攻撃を繰り出すによって地面を構成している泥を自分やスカアハの周囲へとばらまきいたのち、振り下げか振り回しによる追撃を加えるという攻撃手段を多用してきていた。地面の泥は皮膚に直接触れればそれだけで意識を蕩かすほどの快楽を提供するという、危険な猛毒だ。そのためこちらはヘラクレスの猛攻に加え、それをも回避することを念頭に置いて行動しなければならず、それが攻撃機会の損失に繋がっている。

 

「ああ、もう、まったく、あらゆる攻撃が無効化する上、戦い方も上手いだなんて、なんて可愛げのない!」

 

そうとも今、自分は、繰り出される苛烈な攻撃をスカアハとともに、あるいは彼女の助力を借りて、すれすれでそれを回避しつつ、自身の周囲の空間へとまき散らされた泥に触れないようにするので手一杯だった。それでも必死に、ヘラクレスが繰り返し行う、振り上げ、振り回し、振り下げの攻撃と、それら一連の動作によって生まれる汚泥の雨霰が、自分たちの行動を制限し続けてある。おかげで自分は羽織ったマントや纏っている長袖の学生服、学帽で防ぎつつ、いかにすればこのヘラクレスという悪魔を御せるか思考を巡らせる。

 

相対する相手はギリシャ神話の大英雄、ヘラクレス。自分たちはすでに、脳天、目、鼻、口に、耳孔、乳首、脇の下、へそに、股間といった人体急所と呼べる部分に対して、斬撃、銃撃、打撲に属性弾といった持てる攻撃手段のすべてを叩き込んでいる。にもかかわらず目の前にいる半人半神の大英雄は、一向に怯むことなく、ダメージを受けた素振りを見せることもなく、ただひたすらに容赦のない苛烈な猛攻猛進を続けてくるのだ。傍らで千を超える連撃を繰り出してくる合間、スカアハとともに百を超える反撃を繰り出して応戦するも、いまだに十全さを保つ、唯一無二の強靭さを誇るそんな存在を、果たしていかにして攻略したものか――

 

「危ない、ライドウちゃん!」

「――ッ!」

 

わずかな瞬間だけ懊悩に意識を割いていた時、スカアハの慌てた声が耳孔へと飛び込んできて、自分の意識を現実へと引き戻した。見れば数メートル離れた位置にいるヘラクレスは、右手に持っていた五メートルはあろうかという巨大な棍棒の半分以上をも地面にめり込ませている。一瞬の戸惑いののち、ヘラクレスが一体いかなる攻撃を繰り出すつもりなのかを予測し、血の気が引いた。慌てて体をひくも――

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!」

 

こちらの行為を遅いと嘲笑うかのように、ヘラクレスは半分以上も泥にめり込ませていた棍棒を振りぬく。直後、地面を構成している泥はヘラクレスの強大な膂力から生まれた威力によってばらけ、前方へと押し出されていった。そして生まれた泥の塊と礫はすさまじい速度を保有しており、まるで散弾銃のよう、自分とスカアハの真正面から襲い掛かってくる。

 

――まともな手段で回避することがかなわないっ……!

 

「――スカアハっ」

「了解っ」

 

判断した瞬間、スカアハを悪魔召喚管に収め、彼女の協力の元に前方へと最小の異界を発生させると、その内部へと身を投じた。そうしてこの世界と位相のずれた空間へと我が身を放り込んだ直後、現実世界においてごく短時間だけ暴風が吹き荒び、泥の塊礫が通り過ぎてゆく。やがて見計らっていたとおり、致死の威力秘めた嵐の過ぎ去ったタイミングにて異界から抜け出ると――

 

「■■■■■■■■ッ!」

 

荒ぶる死神の咆哮が頭上より耳孔に飛び込んでくる。

 

「――っ!」

 

瞬間、心臓が痛いくらいに跳ね上がったのを自覚した。わずかに崩れた体勢だったというにもかかわらず迷わず声の聞こえてきた方向を見られたのは、考えるよりも先に肉体が反応したからだろう。頭上、視線を向けた先には、高い位置より両手に持った棍棒を思い切る振りかぶった半人半神の巨人が落ちてくる光景があった。おそらくは先ほどの泥の地面をぶちまけた勢いの乗せて跳躍したのだろう。その雄々しい姿を見た瞬間、着地地点を逆算するまでもなく、ヘラクレスの狙いに気が付く。

 

――まずい……っ!

 

「■■■■ッ!」

「――っ、スカアハッ!」

 

回避は不能。防御も不可能。喰らえば死ぬ攻撃に対して自らにできる対抗策を一切見いだせなかった自分は、しかし瞬時ののちに思い浮かんだ生存のための手段を実行に移すべく、反射的にスカアハを悪魔召喚管より再召喚し、現世へと呼び出した。

 

「ライドウちゃんっ!」

 

瞬時に状況を把握したスカアハの美貌が焦燥に歪んだ。

 

「手を取りなっ!」

 

そう言ってスカアハは手を差し伸べてくる。おそらく彼女は、自分の手を取り、自らの飛行能力を駆使してこの場から離脱しようという算段なのだろう。だが甘い。おそらくヘラクレスは先ほどまでの戦闘において、我らの能力を見切っている。もし自分がこのままスカアハの手を取り、彼女の飛行能力を頼りに宙へと跳躍してこの場からの離脱を図ったとしても、一人の余計を抱え込んだ彼女の飛行速度ではヘラクレスの棍棒の振り下ろし初撃はかわせても、その後ヘラクレスの攻撃によって爆裂した地面より生まれ出ずる泥の波状攻撃を回避することはかなわないだろう。無論、スカアハを悪魔召喚管に収め、瞬間だけ異界を生み出しその中に身をひそめ、泥を回避することも可能であるかもしれないが、それをやったとしても異界から現世へと戻る際に自分が現れるのは身動きとれぬ空中である。ならばその後、飛行能力を持たない自分は眼下、ヘラクレスの待ち受ける泥の地面へと無防備に落下してゆくしかない。そして生まれるその隙をヘラクレスが見逃すはずがない。

 

もちろんその落下のさなかにスカアハを再召喚したり、あるいは再異界化を使用することで、その後続けてヘラクレスより放たれるだろう攻撃に幾分か対応することもできるかもしれない。たが、どのみち空中という自分が足手まといにしかならないフィールドに追い込まれた状態での足掻きが長く続くわけもなく、いつかは必ず負けてしまう勝負に付き合わされることとなる。

 

――だから

 

そうとも、ここでスカアハの手を取って空中へと退避するというのは、間違いなく悪手だ。空中へ滞在する時間が長ければ長いほど、飛行能力を持たない自分が枷となり、こちらは不利に追い込まれる。回避は不能。防御も不可能。そして、スカアハに協力を仰いでの空中への離脱も不可能。そんなヘラクレスの攻撃に対して自分は――

 

「――スカアハッ」

「ライドウちゃん、はや――」

「――自分を思いきり蹴り飛ばせ!」

 

ヘラクレスの攻撃ではなく、スカアハの攻撃を受けるという選択をした。

 

「……っ、了解だ、ライドウちゃん! ラク・カジャオン」

 

呼びかけからこちらの意図を読んでくれたスカアハは、防御能力上昇のスキルを使用する。瞬時にマグネタイトの光が自分の体に流れ込み、体は硬化していった。そしてスカアハは自分の横へと回り込むと、空中でくるりと一回転する。それを見た瞬間、自分は片手に悪魔召喚管を固く握りしめつつスキルにより硬化した両腕で盾を作り構えると頭と胸の前で固定し、すぐ後に来るだろう衝撃に備えた。

 

「ごめんよ、ライドウちゃん!」

 

直後、スカアハは謝罪とともにその細く、しかし、鍛え上げられた羚羊のような足を思い切り突き出される。

 

「――っ!」

 

栄耀の潜航者の体当たりを受け止めたときのそれとよく似たすさまじい衝撃が両腕へと襲い掛かってきた。瞬間に両足から力を抜くと、遅れて嫌な音が体の内側から聞こえてくる。たぶんはまた腕が折れたのだろうとどこか他人事のように認識した。到来した痛みを無視して訪れた衝撃に身を任せると、自らの体は見る間に浮かび上がり、スカアハのいた方向と真逆の方へと進行し始める。

 

「――戻れ、スカアハッ!」

 

同時、手にしていた悪魔召喚管の中へとスカアハを収納するべく、折れた腕を振るってスカアハへと命令した。応じてスカアハの体が薄れ、透け、マグネタイトへと再変換され、その一部が右手に持った悪魔召喚管の縁へと到達する。

 

「――っ!」

 

自分の体が、あのヘラクレスすらも吹き飛ばしたスカアハの蹴りによって、勢いよく真横に吹き飛んでゆく。悪魔召喚管からは緑色のマグネタイトの光が尾を引いていた。吹き飛ばされる衝撃によるものだろう、腕の痛みが余計に強まってゆく。痛みに漏れた吐息はその場に置き去りにされ続けていた。生身の肌をさらしている後頭部と首の部分に強い風の圧を感じている。風はそして服の隙間の中から侵入し、体中をまさぐりながら再び隙間より出ていった。さなか、元居た場所より遠ざかってゆく視界にはヘラクレスが棍棒を地面に向けて振り下ろす姿が飛び込んでくる。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!」

 

自分の一回りも二回り以上も大きい巨漢より振り下ろされた棍棒が泥の地面と接触するやいなや、一瞬にして泥の地面は深く陥没した。直後、爆音とともに地面の泥は吹き飛んだ。地面を構成していた泥はそして大小さまざまな大きさの塊となって飛び散ってゆく。泥の散布されるその速度やすさまじく、ともすれば自分が全力で疾走した時かそれ以上の速度があった。だがそんな泥の散布する姿は、スカアハの蹴りによって吹き飛ばされている今の自分の目に、それはそれはあまりに緩やかな動きのものとして映っている。それを見てようやく、自分は回避不能のはずの攻撃を回避出来たのだと自覚した。安堵が胸の中に去来する。情報が目まぐるしく視界の中で交錯するさなか、自らの体が空を滑空するその勢いは徐々に落ちていった。

 

やがて靴の裏が地面すれすれまでに到達したのを見計らって、かがめていた両足を伸ばし、地面へと設置させると――

 

「――……っ!!」

 

靴の裏から全身がバラバラになりそうなほどの衝撃が襲い掛かってくる。衝撃は特に折れた腕を刺激して、つんざく痛みが脳を突き上げてきた。歯を食いしばって負担に耐えつつ、肌が直接触れないよう注意を払いつつ泥の地面を何度もけり上げ、跳ねて衝撃を逃がしてゆく。そんな動作を数度ほども繰り返したのち、やがて両足が泥の中に沈む心配がなくなったころ、体中に走るあらゆる痛みを無視してなんとか体勢を立て直す。そして眩暈と耳鳴りをも無視するも、多少ふらつきつつもなんとか無理やり立ち上がった。

 

「――スカサハ」

 

多分はひびの入っているだろう右腕にしっかと握られた悪魔召喚管を痛みを無視しながら振るうと、中に収納されている命の恩人の名を呼び、管の蓋を解き放つ。すると管の縁より漏れたマグネタイトはあっという間に再びスカサハの形を作ってゆき――。

 

「ごめんなぁ、ライドウちゃん。痛かったやろ?」

「――いえ。たいしたこと、ありません」

「んもう、無理しなさんな。ほら、折れとる腕をだしぃな」

 

そして現れたスカアハは、怒ったような、困ったような顔をしてみせた。いわれるがままにひどく痛みの走る両腕を差し出すと、スカサハは「まったく、ライドウちゃんは仕方ないんだから……」と言いながら、「ディアラハン」といって、治癒スキルを使用してくれる。するとスカアハの手のひらから生じたマグネタイトの白い光は靄のような状態となって、折れた自分の両腕を包み込んでいった。やがて痛みは完全に失せ、慣れたこそばゆい感覚だけが腕に残ったころ、両腕は十全さを取り戻す。

 

「――感謝する」

「ええよ。ライドウちゃんは本当に礼儀正しい、ええこやねぇ。でも、意地を張るのもほどほどにしなきゃいけないよ。ライドウちゃんはまだ人間なんだから、自分の体を大切にせな――」

 

礼を言うとスカアハは、まるで聞き分けない子供に言い聞かせるような口調でそう言ってきて――、

 

「――それよりもヘラクレスです……」

 

心配して告げてくる言葉に反論をすることもできず、ばつの悪い思いを抱えながら逃げるようにして話題を転換した。視線を今しがた自らが飛来してきた方へと向けなおすと、スカアハはそんなこちらの態度に気に障った様子を見せることもなく、むしろ気をよくしたかのよう、「あらあら、若いわぁ」と言いつつ、ころころと笑い声を漏らしながら、微笑んだ。

 

「■■■■■■■■……」

 

そうして追及や説教から逃げるように向けた視線の先には、直径数十メートルはあろうかという巨大なクレーターが生まれていた。深い穴の底では、こちらに背を向けたヘラクレスが大小さまざまな大きさの泥の塊の雨を浴びながら静かに呼吸を整えている。鋼鉄色した皮膚からは発汗と体温上昇により生まれた湯気が蒸気のように立ち上がっており、まるで噴火直後の火山の噴煙のようにも見えていた。

 

「まさに鋼鉄の戦車、といったところだね……、それも車輪とかの弱点がない、とてつもなく厄介な一級品のそれだ。まったく、まるであの子(/クーフーリン)の持っていた、一回の突撃で五百人を殺せるそれみたいじゃないか」

 

自分のすぐそばを飛行しているスカアハは言うと、こちらを向くこともなく、そのまま告げてくる。

 

「で、本題やけど、どないする? あれ、正直に言って、今の手持ちのカードじゃ、御しきれないで?」

 

やがてそうして柔らかい表情を浮かべていたスカアハは一転して顔面に浮かべるそれをひどく真剣なものへと変貌させると、言った。

 

「――……わかっている」

 

その言葉は自分の胸に突き刺さる。そう。その通りだ。今の自分の手持ちの札では、あのヘラクレスという大英雄を倒すことは不可能だ。手持ちの悪魔さえ十全に整っていれば、このヘラクレスという大英雄にも負けない、それどころか完全に御しきることさえ可能だったかもしれないが、手元にないものをねだったところで今自分たちの手元には勝てるカードがないという現実は覆らない。だが自分たちは、それでもどうにかしてあの大英雄を倒し、未来を切り開かなければならないのだ。さて、どうしたものだろうか――

 

「……どうやら、ライドウちゃんの答えを待っている暇もないようだね」

「――……!」

 

思考を巡らせようとした途端、聞こえてきたスカアハの言葉にヘラクレスの方を見やれば、ヘラクレスはいつの間にやらこちらに視線を向けてきていた。その深く窪んだ眼窩から覗く眼孔は鋭く、十全なる殺意に満ち溢れている。その様はまるで突撃直前の雄牛を思わせた。一瞬でもこちらが隙を見せたのならば、瞬間、自らの持てる最大の力を発揮して、突撃し、圧殺してやるという気配が伝わってくる。

 

「さて、このままただ戦ってもそれじゃじり貧だ。――ライドウちゃん」

 

スカアハは、一転、声色をひどく真剣なものへと変化させると、言った。

 

「――なんでしょうか」

「ライドウちゃんが倒す手段を思いつかないってんなら、おばちゃんから提案が――」

『ライドウ、無事か!』

 

そしてスカアハが何かを言いかけたとき、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできて、思わず振り向きそうになる。その反射的な行動を無理やり力づくで抑えると、ヘラクレスから視線を外さないままに言う。

 

「――ゴウト……」

『どうやら大事ないようだな。安心したぞ、ライドウ』

 

いうとゴウトは自分の前方の足元へと躍り出たのち、自分とスカサハと同じようにヘラクレスを見据えながら、再び口を開いた。

 

『しかし一撃で地面をこれほどまでに吹き飛ばすとは、なんというすさまじき益荒男よ。流石は神統記、ギリシャ神話において大英雄と称されるだけのことはある』

「ほんとだよ。おまけに物理、属性、多くの異常状態に耐性がありとなっちゃあ、どう手を付けていいかわかりゃしないよ」

 

ゴウトの言葉にスカアハが呆れたように言う。

 

『いや――、そうでもない。どうにかする手段は見つけかった』

「――え?」

 

ゴウトの騙ったその言葉は驚愕の感情を生む。疑念の言葉が自然と口の端から漏れだしていた。

 

『確かにあ奴は伝承に語られる誇らしき功績に劣らぬだけの、完璧な防御性能を一見保有しておるように見える。だがしかしそれと同時、奴はキチンと死した伝承を持つ悪魔だ。ライドウ。ヘラクレスがどのような最期を迎えたか覚えておるか?』

「――確か、ヘラクレスの妻、デイアネイラが彼女を誑かそうとしたネッソスの姦計にはまって、彼の衣服にヒュドラの毒の混じっているネッソスの血を塗り込んだのが原因だったと……」

『その通り。そしてヒュドラの毒がもたらす激しい痛みに耐え切れず、ヘラクレスは自らの身を焼き、焼身自殺する道を選択する。つまり、一見完璧な防御性能を誇る奴の体には――』

「――毒が通用する?」

『おそらくはな』

「そこでこの槍の出番というわけだ!」

 

そして自分の目の前には先ほど自分たちを助けるために両腕を犠牲にしたその人が現れる。

 

「――パラ子さん」

「その通り! そら、受け取れ、ライドウ!」

 

元気な姿を取り戻したパラ子は自分の前に立つと、一本の長い棒をこちらへと差し出してきた。差し出された見た目二メートル弱ほどもあるその棒は基調として白く、しかし不揃いな凸凹だらけの表面にはところどころ赤く染まっている箇所がある。また、その片方の端には尖った台形型の刃らしきものが取り付けられていた。受け取ってまじまじと見ると、その形状に見覚えがあることに気が付ける。

 

「――これは……、………………槍?」

「お、すごい、ライドウさん」

「あら、一発で理解してもらえるとは嬉しいわね」

 

首を傾げながらどこか見覚えのあるその姿から連想される言葉を口にすると、メディ子とガン子が言いながら横から視界に入り込んできた。

 

『そうとも、槍だ。海獣――と呼べるかはわからんが、泥の中より生まれた魔物の骨を削り、加工し、組み合わせて作り上げた、とある英雄のそれを模して作り上げた槍。すなわち――』

「あらまぁ、うまく作ったもんやねぇ」

「――スカアハ?」

 

ゴウトの話に割り込んできたスカアハは、浮かせている身を乗り出すようにして自分の手元にあるその槍を覗き込むと、目を細めながら言う。

 

「材質こそちょいと違うけれど、見た目はほんと、あの子に譲った槍にそっくりだねぇ……」

「――スカアハ……、もしやその槍とは」

 

彼女の態度から得た確信と共に、尋ねる。すると視線を槍からこちらへと向けたスカアハは、ひどく機嫌良さげに微笑みながら、言った。

 

「ああ。巷じゃあの子――、クー・フーリンが振るう槍として有名な、使えば必ず相手を死に至らしめる海獣クリードの骨から作り上げた呪いの魔槍――、ゲイボルグにだよ」

 

 

ゲイボルグ。それは英雄クー・フーリンが用いていた槍の名前である。それは投擲すれば確実に敵へと命中し、命中したのちには毒を持つ三十の鏃へと分裂し、敵を確実に殺傷せしめると言う魔性の槍の名前である。

 

『そうか。そう見えると言ってくれるか』

 

スカアハの言葉を聞いて、ゴウトは誇らしげに言う。

 

「ああ。もちろん、オリジナルのそれには及ばないけれど、結構真に迫っている。よくできた贋作と言えるだろうさ。――しかしよくもまぁ、こんなものを作れたねぇ」

『冒険者である彼女らが持つ収集癖と行動力、そしてこれまで培ってきた経験のおかげだ。彼女らが自らが敗った泥の中より生まれた魔物の骨など収集していてくれており、かつ、慣れていない加工作業や毒の抽出を手間取りながらもなんとかこなしてくれたからこそ、このゲイボルグは日の目を見ることが出来たのだ』

 

ゴウトの言葉を聞いてふとパラ子らの手を見ると、パラ子とガン子の手には小さな切創や青あざといった痛々しい傷跡が残っており、また、メディ子の手は爛れたといって過言でないほどに赤く腫れあがっていることに気が付ける。それはまさしく彼女たちが常日頃慣れ親しんでいない作業に対して苦労しながら贋作の魔槍ゲイボルグを作り上げたという証左、勲章に他ならない。

 

「……っと、ごめんなさい、見苦しいものをお見せて……」

 

だがこちらの視線に気づいたメディ子は言いながら誇るべき腕をさっと背後に回して隠すと、羞恥に顔を赤らめつつ、バツが悪そうに謝罪の言葉を述べはじめる。

 

「持ってきた手袋をしたままだと細かな調合は出来なくてですね……、その、素手で劇薬を調合したものですからちょっとかぶれてしまいまして、オーバドーズが原因で出来た腫れですから回復薬みたいな薬を使うわけにもいかないし、手持ちの薬も全部使ったわけではないのですがスキルを発動させるにはちょっとこの手じゃきつくって――」

 

しどろもどろ選びながら発せられる言葉の内容から察するに、おそらくはメディ子は自らがメディックというパーティーのメンバーがおった怪我を治す職に就いていながらその役目を果たせていないという、いわゆる医者の不養生を恥じているのだろう。なんとも素晴らしい職業意識の高さだ。だが、このような致し方ない場面において発生した怪我や事態の場合、それを気にする必要はないと思う。

 

「――いえ、そんなことは……」

「そうそう、ライドウちゃんの言う通りだよ、お嬢ちゃん」

 

そして自分がメディ子が感じている不毛な羞恥の感情を撤回させようと口を開いとき、こちらの言葉にスカアハは反応して口を開いた。

 

「その怪我はけっしてみっともないものじゃあない。それはお嬢ちゃんが、慣れぬ分野に手を伸ばし、苦労しながらもそれを踏破したという、いわば戦士の証だ。それこそ――」

 

スカアハはメディ子へと視線を向けると、その白く細い両腕を伸ばしてメディ子が後ろへと回した左右の腕を前へと持ってこさせ、「ディアラハン」といって、治癒スキルを発動する。

 

「あ――」

 

マグネタイトの緑色の光がスカアハの体より発せられ、同時、スカアハの両手から生まれた白い光がメディ子の腕を包み込んでいった。そしてメディ子の爛れて赤く腫れあがった両手は瞬時の元の通りの姿を取り戻してゆく。

 

「こうして治して消してしまうのがもったいないくらいの、お嬢ちゃんの精神の気高さを示す、誇るべき傷跡だ」

 

やがて発動した回復スキルが完全にメディ子の両手の怪我を治癒したことを確認すると、宙に浮いているスカアハはメディ子の後ろへと回り込み、その小さな背を小さな切創と打撲傷だらけの両手をしているパラ子とガン子の方目掛けて優しく押しだした。見れば二人はメディ子とスカアハのやり取りを優しい目で見守っている。

 

「さ、両手の怪我は治ったはずだ。パーティーの怪我を治すのはお嬢ちゃんの役目なんだろう? だからこそきっとあの二人も、そんなお嬢ちゃんの誇りと矜持を汚さないため、ああして手持ちの回復薬ですぐさま治癒できるはずの戦士の勲章をそのままにしているんだからさ」

「……はい!」

 

そして背を押されたメディ子は、十全に動かせるようになった手をカバンの中へと突っ込むと、薬液の入った細瓶を取り出しながら、笑顔と苦笑を浮かべつつ彼女に向って両手を突き出しているパラ子とガン子の方へと向かってゆく。

 

「いやぁ、気持ちのいい子たちだねぇ」

『然り。まさに人のあるべき姿として見本のような若人たちであるな』

 

その様を見て、スカサハとゴウトが年寄りじみた会話を交わした。

 

「――……………、……っ!」

 

おそらくは彼女たちという共通点がそうさせたのだろう、そんな様を暢気眺めながら彼女たちが作り上げたという槍を手持無沙汰気味に遊ばせていると、ふと自らが手にしたその槍/ゲイボルグが一体何のために作られたものであるのかを思い出した。直後、戦闘のさなか強敵から意識を完全にそらしてしまったという自らの失態を恥じる思いとやってしまったという焦燥に突き動かされるがまま、慌てて槍の穂先を向けるべき対象の方へと視線を送る。

 

「――……?」

 

だが自らが思い浮かべた最悪の予想に反して、先ほどまで怒り狂った牛か獅子であるかのように猛攻を仕掛けてきていた巨漢の大英雄ヘラクレスは今、泥の迷宮という施設が持つ自浄力によって徐々に修復され盛り上がりつつある自らが生み出した穴の底からこちらに視線を送ってきているばかりで、それ以上のことを何もしようとはしていなかった。それどころかヘラクレスの視線からはつい先ほどまで烈火のごとく滾らせていた気焔と殺意が失せている。代わりにヘラクレスの瞳には、純粋なる敵意や闘志のようなものが浮かんでいた。

 

――いったい、何が起こったのだろうか……?

 

「なるほど、そういうことかい。まったく、嫌になるくらいにいい男だね、あの大英雄殿は」

「――スカアハ」

 

疑念の解消を求めて首を傾げていると、その答えを知っているといわんばかりの言葉を口にするスカサハの声が聞こえてくる。視線をそちらへと向けると、おそらくはこちらがこれから口にしようとしている質問の内容を察したのだろうスカアハは頷き、凶暴な、しかし妖艶さも含まれた死に場所を見つけた戦士のような表情をその顔面に浮かべながら言う。

 

「何、簡単な話さ。今この瞬間、おばちゃんたちは、あの英雄に敵として認められたのさ」

「認めらえた?」

「そうさ。ライドウちゃんも知っての通り、今までの戦いは奴にとって、単なる狩りでしかなかった。おばちゃんたちはいつか狩られてしまう運命の獲物で、奴はただの狩人だった。おばちゃんたちと奴の立場は対等じゃなかった。……たぶん、ヘラクレスという英雄にとって、狩りってのはさっさと終わらせるべきつまらないものなんだろうね。だからこそあのヘラクレスという英雄は、おばちゃんたちという獲物をさっさとしとめてしまうため、全霊を尽くしてこちらに襲い掛かって来た」

「――……」

「でも今、おばちゃんたちは、奴を打倒せしめるゲイボルグという武器を手に入れた。きっとあの瞬間からおばちゃんたちは、単なる狩るべき獲物から、刃を交わす価値のある敵として認識されるようになったんだ。だからこそあの英雄は攻撃を仕掛けてこないんだろう。戦士同士の戦い――、決闘の前に問答無用で襲い掛かるだなんて、それこそ下劣で誇りのない木っ端ならともかく、世に名を遺したという誇りや矜持を持つ戦士がやる戦術ではないからね。いやぁ、本当に、なんともわかりやすい、気持ちのいい男じゃあないか」

 

スカサハの感心の声に誘引されるかのよう、改めて視線をヘラクレスの方へと向けるとなるほど、件の大英雄がこちらへと向けてくる視線の中には、狩るべき獲物に対する殺意と苛立ちというよりか、どこか自らと同種の存在に対して向ける敬意と敵意のようなもの入り混じった感情を見てとることができる。おそらくはそれこそがスカサハの言う戦士が戦士に向ける感情とやらであり、だからこそこのヘラクレスという大英雄はこちらが隙だらけであるにもかかわらず先制攻撃を仕掛けるということをしないのだろう。

 

「――スカサハ」

「なんだい、ライドウちゃん」

「――どうやればこの槍でヘラクレスを倒せるだろうか」

 

尋ねるとスカアハは白い顔面を赤らめんがらニヤリと妖艶な笑みを浮かべつつ、口を開いた。

 

「こんな槍じゃ倒せないと思う、ではなく、この槍でどうすれば倒せるか、と聞いてくるあたり、本当にライドウちゃんもええ男やねぇ。――ええわ。教えたる。かつて影の国の女王と呼ばれたおばちゃんが、ライドウちゃんに、ゲイボルグという魔槍の、その真価を発揮する方法をな」

 

 

数分が経過した。英雄ヘラクレスが地面にあけた大穴はすでに完全に塞がっている。巨漢の大英雄ヘラクレスはそうして元の平らさを取り戻した黒泥の地面の上に棍棒を投げ出し、腕を組んだ直立不動の姿勢でこちらに視線を送りながら静かにたたずんでいた。泥の中より生まれた生物の特権なのか、見た目に相応の重量であるはずの巨躯はしかし、一向に沈みゆく気配を見せずにいる。

 

「――」

 

やがてこちらが向ける視線の質が変化したことに気が付いたのか、ヘラクレスがその鋼鉄色をした全身より発する圧はこれまでのものが児戯であったのかと思うほど段違いに強まった。心臓を思い切り締め付けられるような感覚が走り抜けてゆく。槍を握る両手に汗がにじんだ。自然と唾液の湧く量も増し、一定以上になるや否や、喉元を伝って胃腑へと落ちてゆく。時間が経過するとともに、定期的に発生するそんな嚥下の音に負けないくらい、心臓の鼓動はその速度を増してゆく。

 

「いやー、緊張するな!」

 

おそらくは身体の状態が今の自分と同じような状況にあるのだろうパラ子が、自らの体のそんな状態を一言で言い表した。だがしかし、おそらくはそうだろうと予想して彼女へと視線を送ると、冷や汗をかくことなく、体を緊張に固くすることもなく、常と変わらない何とも自然体な状態のパラ子の姿を底に見つけて、少しばかり驚かされる。しかる後にこちらの視線に気づいた盾を手にしている彼女が、ニッ、と快活な笑みを向けてくるのを浮かべているのを見て、彼女の発言の意図に気が付いた。おそらく彼女は自らそう言って弱みをさらすことで周囲の緊張をほぐそうとしているのだ。

 

「なぁ、みんな!」

 

ただしおそらくは、そんな彼女の気づかいは意図して行われたものではないのだろう。パラ子の顔からはそうした作為的なものが一切感じられないのだ。そう。彼女は自然な態度として、そうした周囲の気を解す所作を行うことが出来るのだ。なるほどなんだかんだと文句を言われながらも彼女が三人のパーティーのリーダーとして収まっているのは、きっと彼女のこんな気質が認められているが故なのだろう。

 

「貴女が言うとどんな難事も緊張感を覚えるほどの出来事ではないと感じるようになるのだから不思議よね」

 

応じてガン子は皮肉交じりの言葉を返しつつ、弾を込めた銃を構える。そうして緊張をほぐす言葉を受けた彼女は、一見すれば緊張感というものを感じておらず常と変わらぬ冷静な態度を保っているようにも見えていた。だがよくよく観察の視線を送れば、この中において誰よりも小さな体の彼女は、その小さな指先が微かに震えていることに気が付ける。

 

「それが師匠のいいところじゃないですか」

 

震えているガン子の両肩にそっと手を置きながら、メディ子は言った。常ならガン子よりも動揺した態度を多く見せる彼女は、しかし今、ヘラクレスという悪魔が向ける指向的な威圧を真正面から受け止めておきながら、常と変わらぬ平静の態度を保っている。おそらくそれは、ガン子よりもパラ子と長い付き合いであるという彼女だからこそとれる態度なのだろう。メディ子はパラ子を気の置けない親友として、あるいはまた多くの死線を共に潜り抜けてきた戦友として、ガン子よりもより深く信頼しきっているのだ。だからこそメディ子はヘラクレスという悪魔の指向的な威圧を浴びても、平然と佇んで、他社に気をかける余裕すらも持てている。もちろんそんな余裕の態度には、メディ子が自身はメディックというパーティーの癒しを一手に引き受ける職業であるという誇りも含まれているに違いない。

 

「……そうね、その通りだわ」

 

少しばかりの年月の積み重ねによる差異が、メディ子とガン子の間にある精神的余裕の違いとなって表れている。それを悟ったのだろう、メディ子の所作によって震えが完全に止めることに成功したガン子はメディ子の両手を振り払うことなく受け止め続けると、ぽつりと「ちょっと、妬けちゃうわね」、と呟いた。おそらくは本心だったのだろう言葉が宙に溶けて安寧の空気の中に消えてゆく。

 

「いいリーダー。そしていいパーティだ」

『うむ。確かに』

 

彼女らのやり取りを見ていたスカアハとゴウトは顔を綻ばせるとともに、感心の声を上げ、顔を見合わせた。

 

「――」

 

そうして緊張程よく氷解した状態の一同の視線は、やがて一つの場所へと集中し始める。一同の視線の先には先ほどから変わらず攻撃的な威圧と超然的な雰囲気を放つヘラクレスが映っていた。

 

「――」

 

やがて視線の集中に気づいたのだろう先ほどから変わらぬ態度を保っていたヘラクレスは、静かに組んでいた腕をほどくと巨大な棍棒を手に取り、自然体に構える。力みなく、淀みなく、迷いなく。ヘラクレスの構えや挙措は先ほどまでのそれとは異なり、どこまでも理性的だった。それはヘラクレスが今、内に秘めた凶暴性を完全に制御下においているという、何よりの証拠といえるだろう。今やヘラクレスはふと意識をそらした途端に見失ってしまいそうな、どこまでも透明な水のような存在と化していた。それは一部の剣の達人のみが至れる、透化の境地というものが実現したものだったのかもしれない。だからこそだろう自分の意識は、ヘラクレスを先ほどまでよりずっと恐ろしい存在として認識していた。

 

「――では打ち合わせ通りに……」

「任せておけ!」

 

湧き上がる恐怖を押し殺しつつ述べると、迷いない気風の良い返事が返ってくる。そしてパラ子はわずかな迷いをも見せることなく足を一歩前に踏み出した。

 

「――スカアハ」

「任せな、ライドウちゃん。ライドウちゃんも上手くやるんだよ?」

「――もちろんだ」

 

言うと宙に浮かんでいるスカアハがパラ子の隣に並ぶ。続けて、メディ子、ガン子が前に足を踏み出した。所作に迷いは見られない。一同はヘラクレスが向けてくるものに負けないくらい静かな視線をヘラクレスへと向けている。そうして自らが放つそれと似た気配を放つようになったパラ子たちを見たヘラクレスは、途端、緩々と口角を上げてゆく。伴ってヘラクレスの纏う気配が増大してゆく。静は動に。無は有に。相手の気配が増すに呼応して、場の圧が強まってゆく。息苦しさが増した。ぶつかり合う気配の応酬によってだろう、場の空気が張り詰めたものへと変化してゆく。毛穴が開き、自然と汗がにじみ出てきた。手汗をしみこませるよう、槍の柄を強く、しかし柔らかく握り締めると、心を集中させ、より一層意識を細く、鋭い槍の穂先とヘラクレスへと向けてゆく。

 

一撃。スカアハたる自らの力とこの世界のルールを利用してこの即席の贋作槍をゲイボルグとして放つことができるのはそれが限度だとスカアハは言っていた。自分はこれからそのたったの一撃を、あの強大な悪魔ヘラクレスの最も守りの薄いだろう場所に対して的確に命中させなければならない。責任は重大だ。失敗はそれすなわちこちらの死どころか、世界の滅亡をも意味している。だからこそ失敗は許されない。なにより自分は誉れ高き帝都の守護者、葛葉ライドウだ。そうとも自分は失敗が即世界の滅亡に繋がる事態なんて事件、これまで両の指では足りないほども解決してきた。だからこそ――

 

――絶対に失敗などするはずがない

 

自らへと言い聞かせるようその言葉を呪文のよう心中にて繰り返し唱える。やがてそれは自らは事を為せるという確信に繋がる自己暗示となり、自らの体から不信の念が失せてゆく。そして自らの体から自己不信がすべて願望実現の決意へと生まれ変わったころ――

 

「…………行くよ、パラ子ちゃんたち!」

 

スカアハが威勢よく声を張り上げ、ヘラクレスに向けての突撃を開始した。

 

「おっしゃ!」

「やるわよ!」

「行きます!」

 

応じてパラ子たちは各々思いのままに声を上げると、スカアハの後に続いてゆく。

 

「■■■■■■■■ッ!」

 

だがヘラクレスは自らに向ってくるほかの誰にも目をくれようともせず、槍を持つ自分の方へと突撃しはじめた。当然と言えば当然だろう。今、物理攻撃に対して最高クラスの耐性を持つヘラクレスという悪魔を倒せる可能性があるのは、ゲイボルグを持っているのは葛葉ライドウたる自分だけなのだ。すなわちヘラクレスにとってはこの身、この槍のみが脅威であり、勝利条件とは自分の持つこの槍を破壊することであり、それ以外は歯牙に価値のない存在に等しいわけであるからして、ヘラクレスのその行動も当然といえるだろう。だが――

 

――おそらくはヘラクレスがそのような行動をとるだろうことは、当然こちらも想定済みだ

 

「おっと、そこから先は」

「行かせるわけにはいかないのよね!」

 

言いながらメディ子はショルダーバックより一枚の紙を取り出し、ガン子は銃を構えた。

 

「氷結術の起動符!」

 

そしてメディ子は言葉とともに取り出した紙をかざし、その名を呼ぶ。すると紙――符と呼ばれる氷結の力を閉じ込められた道具はその内に秘められていた力を発揮して、ヘラクレスの前方へと人間大の氷塊を複数生み出し――、

 

「■■■■■■■■■■■■ッ!」

 

しかし生み出されたそれらの氷塊は、氷塊よりも巨大な英雄を一秒すらも足止めすることかなわず、ヘラクレスの突撃によって粉々に砕け散ってゆく。空中に大小さまざまな大きさの氷の礫が乱れ飛ぶ。さなか――、

 

「くらえ、明滅弾!」

 

ガン子の長銃より一発の弾丸が突撃してくるヘラクレスにむけて放たれた。それはやがてヘラクレスの進路上、大小さまざまな氷塊が飛び散っている空中の目的地点へとたどり着くと、爆発する。

 

「■■■■■■■■ッ!?」

 

弾丸内に収めらえれていたマグネシウム片が同じく内に封入されていた火薬によって炸裂した耳鳴りを誘発する音と強烈な光を生む。二つの要素のうち特に光はヘラクレスの周囲に飛び散った氷の破片によってさらに強化され、目視した瞬間、目が眩むどころかそのまま失明してしまいそうなほど強烈なものとなり、ヘラクレスを包み込んでいった。

 

「■■!?」

 

予想通り、物理攻撃ではない、光という粒子でもあり波動でもある存在による視神経系統への直接攻撃は眼球に氷塊を受けようと平然としていたヘラクレスにも有効であったらしい。突撃のさなか光に包まれたヘラクレスはとっさの反応だろうその足を止めると、棍棒を持ったままその太い両腕で視界を遮った。

 

「■■、■■■■、■■■■ッ!?」

 

乱反射を繰り返して生み出された光の交差はヘラクレスの眼球の奥へと白色の景色を焼き付けたに違いない。ヘラクレスはそして上半身を大きく揺らし、頭を振り、やがて瞼を閉じたまま腕を開放すると、手にした棍棒を無茶苦茶に振り回し始めた。周囲の地形が崩壊し始める。棍棒の一撃により崩壊させられた地面と氷塊より生まれた泥と氷の礫がが混じってヘラクレスの周囲へと飛び散ってゆく。

 

――チャンスだ

 

メディ子とパラ子の連携が生み出した隙に、この贋作ゲイボルグがヘラクレスの体に対して最大の効力を発揮してくれるだろうポイントを目指して、移動を開始する。狙うはゲイボルグがクーフーリンの活躍を伝承において登場する、刃を通さない堅固な皮膚を持つ戦士フェル・ディアドをも殺傷せしめたという箇所――、すなわち、肛門だ。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!」

 

だが自分がそうして飛び散る泥と氷の礫を避け、あるいは外套で弾きながらヘラクレスの背面へと移動し始めると、直後ヘラクレスは突如として両腕を振り回すのをやめ、目を瞑った状態のままその強面をこちらへと向け、まっすぐにこちらに向かっての突撃を開始した。

 

「――っ!」

 

ヘラクレスがそうして周囲に飛び散る泥と氷の礫をもろともせずまっすぐ自身へと向かってくる光景を見て、思わず息を呑む。目の見えないはずのヘラクレスが繰り出したその突撃は。あまりにも正確にこちらへと向かってきていた。

 

――なぜ視界を奪われているはずのヘラクレスはこうも正確に移動する自分の位置を察知できるのか

 

疑問に思った瞬間、ガン子の放った閃光弾の爆発によって生まれた音波の影響によって機能停止していた内耳の奥の蝸牛が再びその働きを再開し、自分が氷塊と泥を外套ではじく音が思ったよりも大きく聞こえてきた。同時におそらくは視界を奪われた敵がどのようにして自分の居場所を察知しているのかを知る。

 

――泥をまき散らしたのはこれが狙いか……!

 

おそらく、先の閃光弾の一撃によって発生した光と音のうち、氷という媒体を得て強化された光はヘラクレスを傷つけることに成功したが、強化されなかった音の方はヘラクレスに何ら影響を及ぼさなかった。故にヘラクレスは視界をつぶされた瞬間、残る五感のうち視覚の次に頼りになる聴覚を利用する判断を下したのだ。そしてヘラクレスは、聴覚を最大限利用できる、かつ、自身の周囲に敵が寄らない状況を生み出すために、全ての生命にとって害悪となる泥をまき散らした。そして泥はヘラクレスの思惑通り、自身の身を守る盾になると同時、敵である自分の位置を知らせる探知機ともなったのだ。

 

――さすがは大英雄ヘラクレス……!

 

視界という人間が八割以上頼る五感をつぶされておきながら、それが使えない状況になったと判断するや否やそれを切り捨て別のものを頼ろうとする判断といい、一瞬で聴覚中心の戦い方への決断をした直後にそれを実現できる度量と技量といい、やはりヘラクレスという英雄はその名高い伝承に恥じないだけの能力を備えている――

 

「させるかぁっ!」

 

などと思考を巡らせていた折、復活したばかりの内耳奥の蝸牛を威勢のいい声が揺るがした。反射的にそちらへと意識が向く。

 

「――パラ子さんっ!」

「させるか、デカブツめ!」

 

パラ子は言いながら隕石と見紛おう程の一撃の前に飛び出すと、左腕に装着した盾を前に差し出し、右手で左腕を支えながら、その言葉を叫ぶために口を開く。

 

「パリングッ!」

 

パラ子は、ついにそのスキルを使用した。声と共に盾の前方に生まれた白い光は広がり、スキルの力はやがてパラ子の前方に大きな盾の形を作り出し――

 

「■■■■■■■ッ!?」

 

そしてスキルによって発生した光の壁へと激突したヘラクレスは、直後にその突撃の勢いを失って、パラ子の前で停止する。パラ子の使用したスキル『パリング』が生んだ光の粒子が敵の突撃の物理エネルギーを完全に消失させたのだ。突如として起きた自らの突撃の勢いが殺されるという事態があまりに予想外だったのだろう、ヘラクレスは目を見開いて驚愕したの表情を強面の上に浮かべた。しかし――

 

「■■ッ!」

 

そうしてヘラクレスが呆然としたのは一瞬、瞬時に気を取り直したのだろうヘラクレスは見えないはずの目を自身の目の前にいる、自身と比べればあまりに小さな存在であるパラ子へと向けると、彼女めがけて迷いなく棍棒を振り下ろした。

 

「っ、パリングッ!」

 

パラ子は慌てて再び物理攻撃完全無効のスキルを発動する。パラ子の構えた盾の前、失せかけていた光の粒子は再集結し、彼女の身を守る盾となった。

 

「■■ッ、■■■ッ、■■■ッ、■■ッ、■ッ、■ッ、■ッ、■■■ッーー!」

「パ、パリングッ、パリングッ、パリングッ、パリングッ、パリングッ、パリングッ、パリングッ、パリングッーー!」

 

連続して叩き込まれる棍棒の攻撃。その連撃にはやがてその巨大な拳のそれすらも混じるようになり、両腕から繰り出される殴打の連撃の前にパラ子はスキルを連続発動させて対応せざるを得ない状況へと追い込まれてゆく。はじめこそ長かった攻撃感覚は徐々に短くなってゆき、パラ子がスキルを発動させる感覚も短くなっていった。おそらく攻撃間隔の短縮は、自身の物理攻撃の威力が完全に殺されるという不測の出来事に対して、しかしヘラクレスが対応しつつある証に違いない。そうともヘラクレスはすでにこの状況に対応しつつある。このままでは遠からずヘラクレスの攻撃速度はパラ子のスキル発動や腕を構える速度を上回り、彼女を肉塊へと変貌させてしまうだろう。

 

「――パラ子さんっ!」

「かまうな!」

 

最悪の未来を予期し、援護に入ろうとしたその瞬間、おそらくはこちらの動きを察知したのだろうパラ子が、スキル発動の隙間に叫んだ。

 

「行け、ライドウ!」

 

放たれた言葉には迷いがなかった。

 

「――諒解……!」

 

助言の正しいを悟ると、ヘラクレスの背後に回り込むべく、移動を開始する。空間にふりそぼっていた泥と氷の雨はパラ子とヘラクレスが攻防繰り広げる間に失せていた。これならば一直線にヘラクレスの背面へと向かうこと可能――

 

「■■■ッ!」

 

だが――

 

「――な……!?」

 

それは果たせない。なぜならヘラクレス打倒の決意を胸に敵の側面を通過した途端、当のヘラクレスは突如としてパラ子への殴打をやめるとさらには棍棒を離し、体をこちらの方へと向けたからだ。また、突如として落ちてきた棍棒はそしてパリングという守りのスキルを発動する彼女の盾の前で動きを止めると、そのままの状態で停止した。

 

「ぬ、ぬぉっ!? パ、パリングつ!」

 

予想外の展開に、パラ子は狼狽える。棍棒はそしてパラ子をその場へと一瞬ばかり縫い付ける枷へと変貌したいた。もしパラ子がスキルの発動をやめてしまえば、パラ子の体の数倍ほどもある巨大な棍棒は間違いなく彼女を押しつぶすだろう。だからこそパラ子はスキルの発動をせざるをえなかったのだ。

 

「■■――」

 

そうしてパラ子が棍棒という枷から抜け出すよりも以前、生まれた隙をついてヘラクレスは背中から弓を引き抜くと、構え、弦へと手をあてた。瞬間、先ほどヘラクレスが弓より九つ光線を放った光景が脳裏に浮かび上がってくる。遅れて脳内に警鐘が鳴り響いた。先ほどの回避方法は使えない。なぜなら今、自分の側にには悪魔が―ー、スカアハがいないからだ。なぜなら彼女は今――

 

「おっと、その攻撃をライドウちゃんに撃たせるわけには――」

「いかないわね」

 

パラ子らとともにヘラクレスの攻撃、行動を阻害するために動いている。

 

「ガン子ちゃん! 拳の上あたりを狙いなっ!」

「了解よ! アームスナイプ!」

 

言いながらガン子はすぐ近くにいるヘラクレスへと向け、構えていた長銃の引き金を引いた。すると次の瞬間、銃口より飛び出したスキルの力が込められた弾丸は直進し、見事スカアハの指定した位置――、ヘラクレスの弓持つ手の中指の中手骨と基節骨の隙間、すなわちMP関節付近の部分へと直撃し――、

 

「■■ッ!?」

 

ヘラクレスの固く握られた拳を開かせることに成功する。巨大な弓が開いた手のひらを滑り、地面へと落ちてゆく。ヘラクレスはそして、物理攻撃を無効化するはずの自身の肉体に対して小さな弾丸一つが多大な影響を及ぼした事実に対してだろう、驚愕の表情を浮かべた。

 

「衝撃や反動を受けた感触まで無効化するってんなら、自分の体をまともに動かすことも難しい……! 思った通り、物理耐性で攻撃のダメージは無効にできても、稼働領域にかかわる部分へ与えられる衝撃まではかき消せないみたいだね!」

 

もしヘラクレスが体内に生じる反動等までをも完全に無効化できるというのであれば、理論上ヘラクレスは保有する筋力量や骨格に関係なく無限の力や速度を発揮できることとなる。仮にヘラクレスがそのような能力を保有してるというのならば、今頃すでに間違いなく自分たちは肉塊へと化していておかしくない。だが現実としてヘラクレスと敵対している自分たちはこうして生存し、それどころか彼と真正面からやりあっている。スカアハはそんな自分たちが今もこうして生きているという事実と、ケルトの神話にある同郷の英雄フェル・ディアドやローホ・マク・エモニシュが同様に物理攻撃の多くを無効化する体であったという知識、そして自身の蹴りによってヘラクレスを吹き飛ばせたという事実から、ヘラクレスのそうした特性や弱点を見抜くに至っていたのだ。

 

「――流石はスカアハとガン子さん……」

 

疾走のさなか自らへの脅威を防いでくれた二人に対して称賛の言葉をぽつりと呟くと、四人が作り上げてくれた隙を逃さぬため、ヘラクレスの背面から少し離れた場所へと移動するため自らの体へと鞭を入れ、足を動かす速度を上昇させてゆく。そうして再びヘラクレスの正面から、側面へと回り込み、やがて布と獅子の毛皮に隠された後頭部と背筋が見えるようになったころ――

 

「■■■■■■■■■■■■ッ!」

「――っ!」

 

弓を予定外に落下させられて呆然としていたヘラクレスはしかし再起動を果たすと、再びぐるりと体を反転させて、体の正面をこちらへと向けてくる。頭部では二つの瞳が殺意と怒りに爛々と燃え盛っていた。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■ッ!」

 

悪寒が全身を駆け巡る。そうしてヘラクレスは、やはり自身の斜め背後へといたパラ子や、少し離れた場所にいるゴウトとメディ子、ガン子とスカアハを完全に無視すると、落ちた棍棒や弓を握ることもしないまま、両手を前に出してこちらへと襲い掛かってきた。その速度や豹やチーターといった陸上の生物よりもずっと早く、もはや隼などの一部鳥類が特定の条件下でしか出せないほどのものである。

 

――迷っている猶予は……、ない……!

 

もはや背後に回り込んで守りの薄いだろう肛門から体内めがけて槍を突き入れるなどと悠長なことを実行する暇などないことを理解させられた。メディ子やゴウトはもちろんのこと、ガン子の弾丸や細身のスカアハの攻撃でも、あの戦車の如き突撃を止められまいだろう。唯一あれに対処できそうなパラ子は、今ようやく巨大な棍棒の戒めから解放されたばかりで、身動きが取れない状態だ。事ここに至っては、真正面からあの大英雄とかち合うしかない。スカアハは敵の物理耐性はおそらく皮膚などの表面にしか働いていないのだろうと言っていた。そこから判断するにこのゲイボルグを叩き込む場所は、肛門でなくとも、皮膚がない場所であればよいわけだ。

 

――ならば……

 

ゲイボルグを構え、刀剣「赤口葛葉」や悪魔召喚管に対してやるように、体内のマグネタイトをゲイボルグへと込め始める。する贋作であるはずのゲイボルグと名付けられた槍は、この世界の概念のルールに基づきゲイボルグとしての機能を有し始め、やがて脈動とともにこの世界における魔槍「ゲイボルグ」としての本来の力を発揮し始める。

 

――その大きく開かれた口を狙うまでのこと……!

 

マグネタイトを注ぎ込むと、白を基調として作られていた槍はやがて深紅色に染まってゆく。呼応するかのように先端部分、台座に取り付けられていた刃は棒と一体化し、かつてライドウの知るクーフーリンが持つ槍とは別の形状――、一本の細長い深紅の魔槍へと変貌していった。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!」

 

ヘラクレスはもう目の前だ。右腕、右足を思い切り引き、体を捩じり、それ以外の必要としない部分には限界までの脱力を強いる。緊張はすべて彼方へと捨て去った。物怖じを覚悟で打ち消す。研ぎ澄ました意識を槍とヘラクレスの頭部にのみ集中した。狙うは一点。皮膚に覆われていない、今なお甲高く雄叫びまき散らしている、その大きく開かれた口腔内――!

 

――へっ、こんな形であの野郎に借りを返せることとなるとはな

 

頭にそんな幻聴が聞こえてきた。否、幻聴ではない。それは凛という彼女が使役していたクーフーリンの声に相違なかった。

 

――さぁ、いくぜ、ライドウ! 俺も力を貸してやる! お前は高らかにその槍(/ゲイボルグ)の名を叫びながら、全力で槍(/ゲイボルグ)を突き出せばいい!

 

声は喜びに満ちている。先の台詞の内容から判断するに、おそらくこの世界のクーフーリンはヘラクレスと戦ったことがあり、そして打倒することできずに敗れ去っていったのだろう。だからこそクーフーリンは、自らの使用していた名を冠する槍の一撃が、そんな強敵に対して放たれ、やがては打ち破るその瞬間が訪れることを、子供のよう胸躍らせながら見守っているのだ。この世界のクーフーリンは忠義の騎士というよりか、まるで狂戦士であるかのようだった。

 

「――……!」

 

声に導かれるようにして胴体と四肢へと指令を飛ばし、一気をギアを零から最大にまでもってゆく。発すべき言葉は自然と脳裏へ浮かんでいた。

 

「刺し穿つ(/ゲイ)――」

 

右腕を振り、深紅の魔槍の穂先をヘラクレスの口腔内へ向けると、右足で地面を思い切り蹴り飛ばしながら、続きの言葉を紡ぐ。

 

「死棘の槍(/ボルグ)!」

 

言葉と共に槍はその真の力を発揮した。四肢と胴体に溜められていた力が解放され、槍に宿った因果逆転の力に導かれるかの如く、体は空中へと飛び出し、突き進んでゆく。

 

「■■■■■■■■■ッ!」

 

狙いに気づいたのだろうか、ヘラクレスがさらに大きく雄たけびをあげる。だがもう遅い。因果は決定した。すでに槍は命中したという結果を得ている。あとは逆転した運命に導かれるがまま、口腔めがけて突き進む槍の穂先はやがてヘラクレスの体内に侵入を果たし、心臓を傷つける――

 

「■■ッ!」

「――っ!」

 

ことはなく――、

 

『なんだと!?』

「槍を手と口で……」

「噛んで止めたぁ!?」

 

槍はヘラクレスの顔面の直前で停止させられた。ヘラクレスは自らの顔面――、口腔めがけて直進してきたその槍を、真正面から受け止めたのだ。そして槍の刃を上下の歯によって捕えたヘラクレスは因果逆転の槍の効力に対抗するためだろう、そのまま槍の柄を右手で握りしめると、さらに槍と一体化していた自分の体を左手にて捕縛する。

 

「――ぐっ……!」

 

全身がちぎれそうになるくらいの衝撃が訪れた。それはヘラクレスが獲物求めて突き進もうとする槍の効力を、己の体に宿る筋力のみで捻じ伏せようとしている確かな証と言えるだろう。定まった運命を自らの力――、膂力と握力と咬合力で捻じ伏せる。それはいったい、どれほどの力があれば可能な所業であるというのだろうか。それはいったい、はたしてどれほどの自信があれば実行に移そうと思えるというのだろうか。

 

「ッ、ッッ、ッッッッッ!」

 

ヘラクレスに捕縛されたマグネタイトの力こもった槍は、自らの定めた運命の結果をこの世に刻みつけるべく必死で直進しようとする。槍の直進しようとする力とヘラクレスが運命を否定しようとする力。その二つが拮抗した結果、ヘラクレスの顎部ではガチガチと不規則な硬質な音が鳴り響いていた。槍の柄を握り締めるヘラクレスの右腕は大きく震えている。呼応するかのようにヘラクレスが左腕に込める力が強まった。

 

「――ぐぅっ……!」

 

全身にかかる負荷と痛みがよりいっそうひどいものとなる。気を抜けば千切れてしまいそうな握撃に、全身のあらん限りの力をもってして対抗した。痛みに耐えかねて槍から手を離せば、それが自分の――、否、自分らの死の運命を決定づける契機になるだろう。だからこそ自分は槍ををしっかと握りしめ、何があろうと離すものかという決意を込めて全力でマグネタイトを槍へと注ぎ続けるのだ。

 

「ッッッッ!」

「――ぐ、ぐ……!」

 

そんな足掻きが功を奏して、マグネタイトというエネルギーを得た槍の穂先は徐々にだがヘラクレスの口腔内への侵入を果たしつつある。あと少しこの槍を押し出すことが出来たのならば、槍は確実にヘラクレスの体内に侵入するだろう。

 

「ッッ!」

「――がッ!」

 

だがその確信は現実の結果と繋がらない。ヘラクレスの咬合力が増したのだ。そして槍の進行速度が目に見えて減衰した。それはヘラクレスという大英雄がその身の内に秘めた圧倒的な力をもってして、定められた運命を捻じ伏せつつあるという証拠に違いなく――

 

「――ぐぁっ……!」

 

それを証明するかのように、ヘラクレスが両腕に込める力は徐々に強まりつつある。すでに槍の穂先とヘラクレスの歯の上下が奏でる音よりも、自分の全身の骨が軋む音の方が大きく聞こえていた。もはや押すも引くもかなわない。それでも確定したはずの運命をヘラクレスに刻み付けるため、体に残っているマグネタイトのすべてを槍に注ぎこもうとした瞬間――、

 

「ッ!」

 

ヘラクレスはその両腕に込める力をさらに強め――

 

「――がっ!」

 

やがて槍を手にしていた自分の腕は、ぶつり、とひどく耳障りな音を立てて、その繋がりを絶たれてしまっていた。

 

『ライドウ!』

 

その悲鳴はいったい誰のものだったのだろうか。意識の空隙は一瞬だった。訪れた灼熱の痛みが、自らを現世へと呼び戻す。感覚の喪失に、右腕の喪失を自覚させられた。反射によるものだろう、涙がにじみ、視界がぼやけてゆく。涙で霞む視界にはヘラクレスが握りしめている右拳の隙間から自らの捩じ切られた腕が落下する場面が映っていた。そして葛葉ライドウという使用者を失ったヘラクレスの右腕に握られた槍は、しかしいまだに注がれたマグネタイト全てを利用して確定したはずの運命を実現させようと足掻いている。

 

「この、化物め!」

 

おそらくはガン子の長銃による援護を受けてだろう、槍を握っていた右腕の拳は開かれ、槍は右拳の戒めより解放された。瞬間に最後の力を振り絞ったのだろう、槍はヘラクレスの体内めがけて突撃しようとするも――、

 

「……嘘」

 

時はすでに遅かった。ヘラクレスの上下の歯によって絡みとられていた槍は、その威力はヘラクレスの咬合力と首の筋肉によって完全に殺され、ヘラクレスの頭部を上にそらすだけの結果に終わってしまったのだ。強く噛み締めたことによる出血なのか、槍を咥えて上を向いたヘラクレスの唇の端からは血が流れ落ちている。わずかばかりに槍の内部に残留しているマグネタイトの効力によるものなのか、咥えられた槍の柄は諦めきれないといわんばかりに撓み震え続けていた。そんな折、ついに限界が来たのか、槍の柄に幾筋もの亀裂が走った。

 

「■■■……」

 

ヘラクレスの口の端から呻き声が零れ落ちてゆく。噛み締めているため吊り上がっているだけだろうの唇の形は、しかし勝利を確信した笑みにも、こちらを嘲笑うものにも見えていた。槍の柄の震えが収まってゆくにつれて槍に生じた亀裂はその数と箇所を増やしてゆき、同時にヘラクレスの唇は端から中央にかけて徐々に閉じられてゆく。あれが完全に閉じられたその時が、自分たちの敗北――、この世界の終焉が決定する。だが――

 

――そんな結末、認めてたまるものか!

 

「――スカアハっ!」

 

そう思った瞬間、気づけば自分は、この場において最も槍(/ゲイボルグ)の真価を発揮できるだろうその悪魔/女神の名前を高らかに叫んでいた。

 

「任せな、ライドウちゃん!」

 

呼びかけに応じてスカアハが視界内に現れる。彼女が姿を現したのはヘラクレスの直上だった。

 

「ッ!」

 

ヘラクレスの両目は大きく開かれる。おそらくは眼前に突如としてその女が現れたという驚きによってなのだろう。

 

「ライドウちゃんたちが命がけでもぎ取ったこのチャンス、無駄になんてするものかい!」

 

ヘラクレスの表情の変化を目撃したスカアハはそして宙に浮いたままマグネタイトが籠められている足を振り下ろし――

 

「とどめだよ! 刺し穿つ死翔の槍(/ゲイボルグ)」

 

妖艶かつ凶暴な笑みを浮かべつつ、かつてクーフーリンがフェル・ディアドとの決闘においてやったよう、ヘラクレスが噛み締めている罅だらけの槍の柄を、思い切り蹴り飛ばした。

 

 

 




改めて推敲すると意味が通らない文脈が散見しててびっくり。投稿ミスして良かったかもと思いつつ、そんなものを投稿してしまったかとを思うと顔から火が出る思いを隠せません。余裕がないときに書いたもの、推敲したもの、慣れない書き方をしたものを出すもんじゃないなぁ、本当に。

ともあれ、次くらいでようやく本パートも終わります。次の最終話とエピローグの部分を投稿したのち、全推敲のち、修正しまくるので、どうぞご容赦を。

いや、お見苦しいものをお見せして、誠に申し訳無い。


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第二十四話 世界樹の迷宮 −the phantom atlas− (十一)

スカアハ。それはアイルランド神話において英雄クーフーリンの師であり、影の国の女王とも称されるケルトの女戦士の名前だ。スカアハはクーフーリンが自らの領土――、すなわち影の国に滞在している間、彼に様々な戦闘術を教授した。その中でも特筆すべきであるのは、放てば必ず敵を殺すといわれる必中必殺の魔槍『ゲイボルグ』の使用法と、それ(/ゲイボルグ)をスカアハがクーフーリンに授けたというのことであろう。すなわち、今でこそ英雄クーフーリンの象徴のように扱われる槍の本来の持ち主は彼女であり、また、その本来の使用方法――、投擲すれば敵を必ず殺す技を編み出したのも彼女、スカアハである。

 

「刺し穿つ死翔の槍(/ゲイボルグ)!」

 

ならばこそ、彼女がヘラクレスという英雄の口に咥えられた贋作魔槍「ゲイボルグ」に対してその足でマグネタイトを注ぎ込んだ折、贋作(/フェイク)であるはずの魔槍が真作(/オリジナル)と変わらぬ真価を発揮するのもまた当然の帰結と言えるだろう。そして正式な持ち主である女神スカサハのマグネタイトという魔槍にしてみれば最上級の糧を得たゲイボルグは、現実世界においてライドウという仮初の主が使用していた時よりもいっそう発奮し、活性化した。

 

ヘラクレスの口元に咥えられたゲイボルグは全身から深紅の光を発すると、ヘラクレスの体内に向けての侵攻を再開する。だがヘラクレスは自らの頭上にスカサハという敵対者が突如として現れ、そして槍を蹴ろうとした瞬間、反応し、瞬時にその右腕を伸ばし、ゲイボルグの柄をつかむと、その進行を阻止すべく拳を固く握り締め始めていた。

 

ここに英雄の武具と大英雄は激突する。

 

瞬間、轟、と、ヘラクレスの口元で暴風が巻き起こり、荒れ狂った。暴風はヘラクレスの体内に侵入しようとする傷だらけの贋作魔槍ゲイボルグの力と泥の中より再誕した悪魔ヘラクレスの腕力の拮抗により生まれたものだった。

 

「■■■■■■■■■■ッ!」

 

攻守は拮抗の様子を見せている。ゲイボルグを握り締めるヘラクレスの巨大な右腕が大きく揺れ動く。ヘラクレスという巨体を持つ大英雄の右腕の、ゲイボルグの柄を固く握り締めたその拳から肘に至るまでが大きく振動し、さらには肩口までもが小刻みにぶれている。それを見れば、魔槍と大英雄の間で繰り広げられている戦いがどれほど苛烈なものであるかは容易に想像がつくというものだろう。

 

「■■■■ッ!」

 

ガチガチと耳障りな音は絶え間なく続いていた。ヘラクレスは右腕の力のみならず、上下の歯と咬合力をも駆使してゲイボルグが自らの体内に侵入しようとすることを拒絶しようとしている。対してゲイボルグはそれらの守りを突破してヘラクレスの体内への侵入を試みる。両者の目的は互いに相容れぬ。なぜならばどちらか一方がその目的を果たしたその瞬間に、どちらかもう一方の敗北(/死)が確定するのだから。

 

「■■ッ!」

 

だがその拮抗は徐々に崩れてゆく。今、ゲイボルグは、その細長い身をヘラクレスの口腔内への侵入させつつあった。すなわち今、戦いの天秤はゲイボルグという魔槍の側に傾きつつあるのだ。そうして勝敗の天秤が魔槍の有利に傾く原因は、おそらく罅だらけの深紅の魔槍ゲイボルグのその細身に纏わりついている液体にあるといえるだろう。今、深紅の魔槍ゲイボルグのその細身には鮮紅色と暗褐色の入り混じった液体――、すなわち、人間の血液が纏わりついている。それは先ほど自分の――、葛葉ライドウの右腕がヘラクレスの右拳内部にて引き千切られた折、傷口より噴出し、流出したものだ。

 

「ッ!」

 

血液が拳の内部を濡らし、槍の細身に纏わりついた結果、ヘラクレスの右拳内部の摩擦力と物体保持力は低下し、槍の進行を補助している。ヘラクレスは今、自らが起こした事象によって――、否、パラ子らの連携とライドウの執念が導いた事象によって、窮地へと追い込まれていたのだ。

 

「■■ッ!」

 

やがて自らの不利――、咬合力と右腕の力のみ勝利をもぎ取るのが無理であると悟ったのだろう、ヘラクレスは、左拳の中に保持していたこの身をまるでぼろ雑巾でも捨てるかのように放り出すと、そして左手の人差し指と親指を唇と右拳の間に突っ込み、それら二つの指先にて槍の柄を力一杯摘み始めた。保持面積が拡張し、進行を阻止するための力が増大したためだろう、視線の先ではゲイボルグとヘラクレスが再び拮抗の状態へと移行する。

 

「――ぐ……」

 

そうして二者が激戦を繰り広げるさなかヘラクレスの拳の戒めより解放された自分は、全身の軋みを耐えながら着地した。衝撃によってだろう、切断面より血が噴出する。ふらりと目が眩んだ。

 

――貧血か

 

放置しておけばこの身が死に至るのは明らかだった。すぐさまヘラクレスより距離を取りつつ、右腕喪失部の傷口を縛り上げるべく、残る左腕をバッグへと伸ばそうとすると――

 

『ライドウッ!』

「ライドウさんっ」

 

自らの名を呼ぶ声が聞こえてくる。

 

「――ゴウトにメディ子さん……」

 

こちらへと駆け寄ってきている一人と一匹に視線を送れば、メディ子の手には自らの千切れた右腕が握られているのが目に映る。

 

『ライドウ! 早く彼女の治療を受けよ!』

「ゴウトさんが泥の地面に落ちる前に回収してくれたんです! 血管も神経も全然汚れてません! 今ならまだ後遺症もなく繋がる可能性が高いです!」

「――……はい!」

 

ゴウトらの言葉を聞いた瞬間、手当をやめて彼らの元へと駆け出した。

 

「沁みますよ! 我慢してくださいね!」

 

やがてヘラクレスより少し離れた場所で合流を果たした途端、メディ子は自分の右腕の傷口を液体をぶっかけてくる。

 

「――っ!」

 

メディ子の振りかけた液体が露わになった神経に触れた途端、痛みの信号が脳内を駆け巡り、眼球の中で閃光が煌いた。

 

「生理食塩水で汚れを洗い流してます! 少しだけ我慢してください!」

 

体……、というよりも千切れた右腕部が痛みから逃れようと暴れそうになるのを、メディ子は見越していたかのように片腕を用いて阻止すると、位置を固定し、もう片方の手に握っている千切れた右腕の断面を押し付け、接合させ――、

 

「ヒーリングっ!」

 

メディックの持つ回復スキルの名前を唱える。するとメディ子の体はわずかに発光した。直後、千切れた右腕と残存している腕部の接合部分をメディ子の体に生まれたものよりもさらに強い光が包み込んでゆく。

 

「――」

 

瞬間、飛び上がりたくなるほどの痛みが薄れてゆく。また、傷口だけではなく、ヘラクレスとの戦いや、彼の握撃によって生じたのだろう全身の痛みまでもが、薄らぎ、こそばゆい感覚へと変化した。そして全身にあった痛みはやがて完全に消え失せてゆく。

 

「――……!」

 

やがて全身から違和感が完全に失せたころ、千切れていた右腕を支えていたメディ子の手の感触と体温とを感じて、目を見張る。千切れていた神経繋がった驚きの現れだろう、右腕部先端の指先がビクンと跳ねて、揺れた。

 

「よかった……、薬の補助がなくても上手くいった……」

 

自分の右腕を支えていたメディ子はその右腕の反射反応から右腕の接合成功を確信したのだろう、ほっと溜息をつくと、そんなことを言う。言動から察するにどうやらメディ子は、薬の補助なしで傷の治療を行うのは初めてであったらしい。すなわちメディ子は、初めての事態であるにもかかわらずおそらくは難易度が高いだろう千切れた腕の接合という治療を、薬の補助なしでぶっつけ本番に行い成功させたのだ。

 

「――助かりました、メディ子さん」

 

千切れた右腕の接合は、おそらく彼女の卓越した技量と、それでも挑み、自分ならばできると自らを信じる度胸がなければ成功しなかっただろう。彼女のそんな技量と度胸、そして思いやりと行動に感謝の言葉を送りつつ、自分の腕を持ち上げ、五指の握って解放し、あるいは肘から先を持ち上げては下ろしを繰り返して、腕の十全さを確かめる。途端、血の気が引いて頭痛が走り、視界がぼやけ、足元がおぼつかなくなり、ふらついた。

 

「あ、ちょ、だめですよ、いきなり動いたりしちゃ! 立ち眩みみたいな症状が出たでしょう!? スキル『ヒーリング』は対象者の傷を治しはするんですが、失われた血液や体液の補填を行ってはくれません! ライドウさんの怪我、本当なら、リザレクションの際に必要となる薬とかネクタルみたいな造血作用ある薬とかが必要になるくらいの、重傷なんですからね!」

「――……はい」

 

メディ子の叱咤を受けて、素直に頭を下げて謝罪を行うと、酸欠状態に陥りふらつく頭を左腕で支えつつ、視線の位置を目の前に固定すると、風が吹き荒れ、耳障りな轟音が響いている方を向きなおす。視線の先ではゲイボルグとヘラクレスの戦いがいまだに続いていた。

 

「ッ――!」

 

だが、自分が視線を向けた途端、ヘラクレスの手中からは甲高い音が鳴り響く。それは二者の戦いの終わりを告げる音色だった。直後、ヘラクレスの上下の歯がガチン、とくっつく。遅れてヘラクレスの右の手中からはパラパラと粉が舞い落ちていった。それはおそらく、ひび割れていた贋作魔槍ゲイボルグの槍の柄が砕けたことによって生まれたものなのだろう。

 

「ッー!」

 

直後、ヘラクレスの鋼鉄色の胴体は一瞬ばかり大きく膨らみ、そして直後、身体のあちらこちらの部位が伸縮を繰り返したかと思うと、すぐ後に元の大きさにまで縮んでゆく。おそらくその現象は、魔槍ゲイボルグがヘラクレスの体内に侵入し、そして体内へと突き進んだゲイボルグの穂先が伝承通り三十の鏃に分裂して四散し、しかし四散したゲイボルグの破片が体内より体外へと抜け出てこなかったがゆえに生まれたものなのだろう。

 

そう。おそらく槍はヘラクレスの肉体が持つ物理耐性を貫けなかった。だがしかしだからこそこの度、伝承の通り三十に砕けた槍の破片はヘラクレスの体内においてまるでピンボールのように暴れまわり、かの英雄の皮膚や筋肉、神経や血管、内臓をずたずたに切り裂き、その身の内に秘められた毒と呪いをまき散らすという結果を生み……。

 

そしてだからこそヘラクレスは――

 

「――」

 

こうして声を上げることすらもなく――否、許されずに、その瞳から色を失い、絶命したのだ。

 

「か、勝った、のか……?」

 

近寄ってきたパラ子が誰に尋ねるわけでもなく、言う。

 

「少なくとも、動かなくはなった……、みたいね」

 

同じく寄ってきたガン子が呟いた。

 

「対光反射は希薄。瞳孔の収縮もなく、努力性呼吸、徐呼吸も……、たぶん無くなってますね……」

 

目を細めたメディ子は遠目にヘラクレスの状態を確認すると、言う。すなわち医師であるメディ子は、死んだ者が見せる三徴候のうち、二つの徴候がヘラクレスには認められると述べたのだ。

 

『と、言うことは……』

 

ゴウトが言う。

 

「そうとも」

 

いつの間にか近寄ってきたスカアハがその言葉を引き継いだ。

 

「おばちゃんたちは、あのヘラクレスに勝ったんだ!」

 

スカアハが叫んだ途端、歓声が沸き起こる。パラ子とメディ子は抱き合って喜びあい、ガン子は宙に浮いているスカアハとハイタッチを行い、ゴウトはこちらを見て満足げに頷くと、尻尾をくねらせた。

 

 

皆が喜びに満ちた声を仕草とともに交わしあっている。なるほど、ヘラクレスという悪魔/英雄との間に繰り広げられた戦いの苛烈さを思い返せば、彼らがそうして喜びに浸る気持ちはわからないでもない。けれど自分には、彼らとともに喜びの輪の中に入り、浸れない理由があった。

 

「――」

 

死線を彼らからヘラクレスへと移し、そのまま黒塗りの壁に囲まれた十キロ四方はあろうかという部屋の中央へと移動させる。すると部屋の中央、その中心部たる空中には、部屋に入った時と変わらない姿を保っている球体の姿があった。

 

「――……」

 

悪魔ヘラクレスを生んだ球体は、自らが生んだ存在が死したというにもかかわらず、ただ悠然と宙に浮いて平静を保っている。それがひどく不気味だった。自分はパラ子らの言や、これまで現れた迷宮の魔物を討伐した際の経験からすれば、迷宮の魔物というものは打倒したのち一定時間が経過すると剥ぎ取った一部以外は溶けて再び迷宮の中へと消えていくものである。その法則にしたがうのであれば、ヘラクレスという迷宮の魔物/悪魔が倒された今、それと関連しているだろうあの球体も溶けて消えてゆくような変化を見せるはずなのだ。

 

「――……」

 

しかし今、黒い球体は夜空に浮かぶ新月のように、ただ静かに部屋の中央の一部を黒色に染めるばかりで、溶けるといった変化どころか、表面が波打つ気配すらも見せていない。それは何とも自分の心中の不安を煽り――

 

「――……!」

 

やがてそんな不吉な予感は、ものの見事に的中することとなる。

 

「――球体が……」

 

黒の球体の表面はその静寂を打ち破り、突如として大きく波打ち始めた。呼応するかのように立ち往生したヘラクレスの死骸は溶け、地面の泥の中へと消えてゆく。

 

「……え!?」

「な、なにが……!?」

 

事ここに至ってようやく異変に気づいたらしく、いつものような会話を交わしあっていたメディ子とパラ子が目を見開いて驚きの表情を浮かべながら変化の起きている球体へと視線を向けた。

 

「まさか……」

「いや、そのまさかだろうねぇ……」

 

球体の変化の様子を目撃したガン子は顔を蒼白な色に変化させて呟き、スカアハは眉をひそめながらどこか諦観気味に言った。

 

『そうか……』

 

そしてゴウトがとどめといわんばかりに告げる。

 

『あちらが本体か……!』

 

その言葉を皮切りにしたかのように表面波打つ球体は多くの黒い雫を泥の地面に向けて射出し、やがて地面へと着弾したそれらの黒い雫は先ほどヘラクレスが現れたときと同じよう地面の上で水滴のようにゆっくり跳ねると、やがて形状変化を起こし、様々な姿へと変貌してゆく。

 

「――これは……!」

 

そうして黒い雫が変化した姿は、悪魔召喚師たる自分にとっては見覚えのある姿の物ばかりだった。

 

『あれは……、月に関する悪魔たちか……!』

 

ホルスにヤリーロ、トートにツクヨミ、オシリス……、ハトホルにディアナ、アルテミスにヘカーテ。新月の如き黒の球体からは月に関する伝承を持つ悪魔たちが次々と生まれ落ちてくる。そうして黒い雫から変貌する悪魔たちの中には、彼らのような月神と呼ばれる存在以外にも、バビロニア神話における大地母神にして蛇龍神たるティアマト、女神イシュタルの夫にして彼女の穀物庫を守る蜘蛛神のタンムーズ、ヒンドゥー教において髪に三日月飾るシヴァの聖なる牛たるナンディ、月神ソーマと同一視される雄牛アグニ、エジプト神話の創造神たるプタハ神の化身にしてオシリスの雄牛であるアピス、死者を冥界へと導くオシリス随伴神のジャッカル神アヌビスとオオカミ神ウプウアウト、多産と復活の象徴たる蛙神ヘケト、ケルト神話においてアーサー王の語源ともなったとされる豊穣と狩猟の熊女神アルティオなど、月に関連する伝承や、月に関連する伝承を持つ生物の身体的特徴が大いに目立つ悪魔たちの姿もあった。

 

『どうする、ライドウ……!』

 

ゴウトが焦燥を隠そうともせずに尋ねてくる。

 

「――ひとまずは彼らの悪魔としての名を呼ばないようにしましょう。見たところ彼らの姿はさきにヘラクレスが現れた時と同様存在感が薄く、本当の力を発揮できない状態にあるものと推測できます」

『うむ……、我らが名を呼ばぬ限り、あの悪魔らは名を持っていない、ただのよく似た悪魔――、というよりも悪霊に近しい存在にすぎぬということだな。――スカアハやパラ子らもそれでよいな?』

「はいよ、了解さ」

「まぁ、私たちは……」

「その悪魔としての名前なんてもの知らないから……」

「呼びようがないのだけれどね……」

 

一同が提案に肯定したのを見てゴウトは満足げに頷くと、しかし再び顔色を曇らせながら問うてくる。

 

『して、ライドウよ。――勝算はどのくらいだ?』

「――……」

 

問いに対してすぐさま答えを返すことは出来なかった。さなかにも敵は次々と生まれ出でてきており、今や悪魔の敵は数百に達しそうなほどの数にもなっているが故だ。このまま放置していればおそらくそのうち悪魔の数は千を超え、さらに時間が経過すれば万にも達するかもしれない。また、今でこそ先のヘラクレスほど強大な気配を放つ悪魔は姿を見せていないが、これもまた時間が経過すれば、そのうち現れてしまうかもしれない。すなわち敵は数も力も無限である状態――、つまりは彼我の戦力差は無限大対一に等しく、戦力比をそのまま勝算として勘定してしまうのであれば、『こちらの勝つ確率などというものは欠片ほどもない』というふざけた答えしか返せない。仮に戦術や戦略等の係数でこちら側の戦力数を増やして考えられるとしても、やはり勝ち目など限りなく零に近いという答えしか返せない。

 

だがそんな希望が一切みえないなどというふざけた答えを帝都の守護者にして誉れ高き葛葉ライドウの名を継いだ自分が口にするわけにはいかない。口にできない理由にはまた、誇りや矜持のほかにも、一度その言葉を口にしてしまえば言霊となり、先ほどヘラクレスが悪魔としての力を取り戻したよう、不確定な未来は確定した未来となってしまうかもしれないという不安も含まれていた。

 

だからこそ自分は何も答えられない。だが沈黙が何よりも雄弁な返答となったらしく、こちらに顔を向けていたゴウトはさもありなんといわんばかりに無言で頷くと、大きく、そしてゆっくりと、静かに、ため息をこぼした。

 

『ば……、いや、やめておこう』

 

――万事休す、あるいは万策尽きた、だろう

 

おそらくはゴウトが口にしようとした言葉を想定し、そしてゴウトも自分と同じく負の意味こもった言葉が言霊とならないよう口を噤んだのだろうことを理解する。

 

『……ガン子よ』

 

慌てた様子もなく平静に銃器の手入れをしている彼女へと語りかけるゴウトの顔は真剣そのものだ。

 

「なにかしら?」

 

ゴウトから真剣なまなざしを向けられたガン子は、平然とした様子で問い返してくる。その態度は目の前で敵が次々と増えているという状況を前にしているにしては、あまりに不自然なものだった。おそらくゴウトが彼女へと語りかけたのは、彼女がこの集団の中において最もこの番人部屋の仕組みに対して詳しそうであるからか、あるいは、そんな彼女の態度から、彼女がこの窮地から脱出するための、自分たちの知らぬ何かの手法を知っているからこそなのかもしれないと考えたのかもしれない。

 

『この部屋からの脱出は―ー』

「無理ね。番人の部屋の扉は、一度入ってしまえば条件を満たさない限り、開くことは不可能よ」

 

しかしガン子は予想―ー、というよりもゴウトが抱いたのだろう一縷の希望をあっさり否定すると、質問はそれだけか、とでも言わんばかりにふてぶてしく首を傾げた。ゴウトはガン子の態度に多少戸惑った様子を見せつつも、再び口を開く。

 

『条件とは――』

「まぁ、それは、部屋の番人を倒すか、あるいはすでに倒された状態であるか、あるいは……」

「あとは、まぁ、外から誰かが開いてくれるか、アリアドネの糸みたいなのを使うかですね」

 

メディ子が彼女の後ろから現れてガン子の言葉を引き継いだメディ子は、ショルダーバッグから取り出したのだろう一つの糸車――、概念によって神話の能力を得た『アリアドネの糸』を掲げながら言った。

 

「まぁ、とはいえ、このアリアドネの糸はあちらからこちらに来るための磁軸代わりのものになってますし、もし仮に私たちがいつも使っているアリアドネの糸がこの場にあるとしても、こんな周囲に魔物だらけの状況下でアリアドネの糸なんか使えないですけどね……」

 

そしてメディ子は肩をすくめる。現状をこんな状況下、と例えるあたり、メディ子も今この状況が自分たちにとって圧倒的に不利な状況であることを理解しているのだろう。そしてそれでも彼女は――、彼女たちは、不思議なことにどこか楽観的にすら見える冷静の態度を崩していない。それどころか彼女たちは、この絶望的な状況下を楽しんでいるように見せる節すらある。

 

そして彼女たちのそんな、あまりに常人のそれとはかけ離れている精神性はおそらくきっと――、

 

「だがまぁ、何とかなるだろう!」

 

このどこまでも空気を読まずに、根拠もなく、二人から馬鹿だ阿呆だとの言葉を正面からたたきつけられようと、ただ思うがままに自分や誰かを信じて突き進もうとする彼女の――、パラ子の影響を受けてのことなのだろう、と思う。

 

『ふむ、パラ子よ。もしやと思うが、何か秘策でも……』

「そんなものは、ない!」

 

パラ子はゴウトの言葉を現状に対する打開策などないとバッサリ切り捨ててると、しかし今や血などで薄汚れた青の鎧に覆われた胸を張りながら言う。

 

「でも、だからこそこの状況を何とかしたらたぶん私たちは世界で一番の有名人になれるぞ! そうしたら私たちは一躍して英雄だ!」

「……はっ」

 

パラ子の何とも俗っぽい言葉に対して真っ先に反応したのは、空中を浮遊しているスカアハだ。

 

「あは、あはははは! あぁ、うん、そうだねぇ、その通りだ!」

 

スカアハはそして両手を叩きながらパラ子の言葉を肯定すると、その白く美しい相貌を興奮によってだろうほんのわずか薄紅色に染めながら口を開く。

 

「窮地にあってなお諦めない図太さ! 絶対的な戦力差を前にしてなお笑っていられるそのふてぶてしさ! 名誉を求めて憚らないその強欲! いいね、やっぱり人間はそうじゃないといけないよ!」

 

たぶん彼女はパラ子の姿にかつての弟子、クーフーリンの姿を重ねてみたのだろう。かの英雄クーフーリンは『今日戦士になるものは英雄になるがその生涯は短いものとなる』とのドルイドの予言を聞いておきながら、それでもなお、だからこそ彼は、剣を取る決意をした。彼は細く長い運命よりも、太く短い運命を選び取った。そんな彼を好ましく思ったからこそ、スカアハは彼が弟子となることを許容し、彼に自らの持つ多くの戦闘技術を授けるに至ったのだ。

 

かのプラトンも『国家』の中において、運命とは、運命の三女神のうち過去を司る女神ラケシスの元でいかなる運命の糸を選び取るかを自ら選び、そうして自らが選んだ運命の糸を現在を司る女神クロトに紡錘機にて縒ってもらうことで確実なものとしてもらい、最後に未来を司る女神アポトロスの持つ鋏によって自らが選び、紡いでもらった運命の糸を断ってもらうことで確定化する、つまり運命とは自らの選択によって選び取るものであり、そしてしかしまた同時に、他人――、自分以外の誰かとの関わりによって決定されるものであると述べている。

 

そうとも、英雄クーフーリンがやったよう、かつてプラトンが語ったよう、そして今まさにパラ子がやっているよう、運命(/fate)とは自らの手で選んだ欲望と選択の集約であり、ならばこそその過程にいかなる苦難や絶望、恐怖の窪み(/hollow)が待ち受けていようと「そんなものが何だ」と笑いとばし、果てにどのような死に様が待ち受けていようと「これは自分が必死に選び生き抜いた結果である」と平静不動な心持ち(/ataraxia)の状態にて笑って受け入れるべきものであるのだ。

 

「まったく、ほんとに貴女といると飽きないわ、パラ子」

 

ガン子が言いながらパラ子の右隣に立ち並ぶ。

 

「だからこそ私たちはずっと師匠について回っているんじゃないですか」

 

言いながらメディ子もそれに続いた。新月の如く浮かぶ黒い球体から続々と湧き出てくる悪魔たちを前にしても決してひるまず、むしろ嬉々として立ち向かっていこうとするその様は、まるで運命の糸を縒る三女神(/モイライ)にも見えて――

 

「――そう。その通りです」

 

気が付けば自分も、勝算のない戦いに対して足を踏み出していた。するとスカアハはニヤリと悪戯な笑みを浮かべつつ、自分の隣へと並び浮かぶ。ゴウトは「全く、しようのない奴――、否、奴らだ」と言いつつ、自分もそのしようのない奴らの群れへと加わった。五人と一匹の戦士に対して、相手は無限。弱点も、突破口も、勝算の欠片すらも見当たらない戦いに対して、しかし、運命は自らの手で切り開くと覚悟を決めて、立ち並ぶ。

 

「……よし」

 

そして――、

 

「はい……」

 

やがて世界の運命を決定する戦いの幕が開けようとした――、

 

「じゃあ――」

 

まさにその時――、

 

「いきますか……!」

 

――ギ、ギ、ギ、ギィ……

 

「――っ!?」

 

運命の扉は我ら以外の存在の手によって、先んじて四つの音を立てながら開かれた。

 

 

大勢の悪魔たちと新月のように浮かぶ黒い球体。そしてそれに相対する五人と一匹の存在によって異様な緊迫感漂う空間の中、決して開かれるはずのない入り口の巨大な扉が、音を立てて開かれてゆく。その場にいる誰もの視線がその場所へと集約していた。

 

「ふむ。どうやら間に合ったようですね」

「まぁ、こいつが本気をだしゃ、こんなもんよ」

 

そして扉を開けたその存在は、巨大な黒塗りの扉の下方から現れた。まずもって注目を浴びたのは、黒塗りの扉や周囲の黒泥に対比するかのよう、輝く翼の生えた美しい白馬――すなわち天馬ペガサスだ。穢れ一つないその肢体はまさに神話の時代に存在した幻想種をそのまま具現化したかのような姿であり、もはや一個の芸術品のようですらもある。そして次に注目されたのは、そんな天馬の手綱を引く、おそらくはこちらが扉を開けたのだろう、顔色の悪い男と、天馬に跨る凛々しい女性の一組だ。

 

「伊達に元々稲妻の名前を持つルウィ人の天候神タルフントの戦車を引いていたわけじゃねぇ」

 

血の気がほとんどない真っ青な死人の如き顔色をしている長身の男性は、紫色の妖しい色彩を放つ蛇鱗で作られた鎧を着こんでいる。また、その麗しい色合いの鎧の胸部には大きな刃の貫通痕があり、腰には途方もない力を感じさせる抜き身の剣を携えられていた。そしてその男性の特徴として何より特筆すべきは、男の喉元にある傷痕だろう。遠めに見ても傷とわかるほどの痕跡からは、切断された皮膚、筋肉どころか、血管系すらもが見てとれる。それはどう控えめに見積もっても致命傷と呼ぶほかない切創にほかならず、ならばこそなぜその男がいまだに生存しているのかと、見たものに疑問を抱かせずにはいられない。

 

「そのタルフントという存在の名は聞いたことがないが、なるほど、稲妻に例えられたというその理由はこの身をもってしてよく理解できました」

「そうかい」

 

一方で、そんな死人が如き男の手綱引く天馬に跨る見目の美しい女性は、特殊な多重円紋様の刻まれた豪奢な鎧や特殊な紋章の形をしたティアラなどを身に纏っていた。だがそうして女性が持つ所有物の中で最も特筆すべきであるのは、彼女のその細腕に握られた一振りの十字を模って作られたのだろう両手剣だ。白銀の刀身。柄の近くの刀身に刻まれた十字の紋様。黄金色にて装飾施された柄。蒼天の色に塗りつぶされた握り。そのすべては見事に一体化して、えも言い表せぬ神秘さのようなものを生み出している。それはまるで聖剣と呼ぶに相応しい造形をしていた。

 

『お、お主らは……』

 

またそして、自分たちはその麗しき姿の天馬にこそ見覚えはないが、その死人の如き顔色で馬の手綱引く男性の姿にも、また、聖剣を手にした女性の姿にも見覚えがあった。

 

「――ヘイムダル……!」

 

その男はつい半日ほども前にヴィーグリーズと呼ばれていた場所において大勢の死人を操り戦いを仕掛けてきた、つい先ほどまでこの騒動の首謀者と思われていた人物であり――

 

「――それにペルセフォネさん……!」

 

そんな男のすぐそばにいる女は、自分たちに武器防具、および道具や情報を提供し、月の奥にいるこの騒動の真犯人である『桜AI』を倒すべしとの方針を定めた飛空都市マギニアの代理指導者だ。

 

「ちょ、ちょっと、なんであんた達が一緒に……!?」

 

先ほどまで冷静さはどこへやら、ガン子が慌てた様子で尋ねる。おそらくはパラ子、メディ子ら含めた三人の中において最も理性的に物事を判断する彼女だからこそだろう、今や彼女は目を白黒させていた。

 

「ええ。まぁ、話せば長くなるのですが……」

 

応じてペルセフォネは困ったといわんばかりに思案顔を浮かべると、数瞬ののち頷き――、

 

「とりあえず、彼は今、味方です。それ以上のことは――、目の前の敵を片付けてからにしましょう」

 

言いながら、馬上から降りて剣を構える。

 

「何を……」

 

しようとしているのか。あるいは、言っているのか。多分はそう尋ねようとしたのだろうガン子は、ペルセフォネがその聖剣を構えた見た途端、黙りこくってしまう。彼女の構えた姿勢からはなるほど、先ほど戦った大英雄ヘラクレスにも勝るとも劣らない気配が漂っている。ガン子はそうしたペルセフォネの纏う気配に気圧されて、強制的に口を閉じさせられたのだ。

 

「そこにいると危険です。私の射線上から離れた方がいい」

 

言いながらペルセフォネは両手に持った剣を天に高く掲げる。すると次の瞬間、ペルセフォネの体から膨大な量のマグネタイトが発生した。発生したマグネタイトは彼女の両手を通じて剣へと注がれ、やがて剣が受け止めきれなかったのだろう分のマグネタイトは彼女の周囲にて稲妻の檻が如きものと荒れ狂う暴風へと変貌してゆく。

 

『な、なんだ、あれは……!?』

「わからん! わからんが、確かにここにいると危険であることだけは確かなんだろう!」

 

ゴウトが戸惑いの言葉を叫び、パラ子がそれに応じた。さなかにもペルセフォネの掲げる剣は変化を起こしてゆく。白銀の刀身はやがて薄い黄金色の光によって包まれはじめ、そうして光が刀身を覆い終えると、続けてその光は切っ先から天へと向けてまっすぐに伸び始め、やがて天と地との間に黄金色の直線を引いてゆく。それはまるで仏の慈悲によって天から垂らされた糸のようにも、あるいは運命を断ち切る刃のようにも見えて――

 

「ライドウちゃん!」

「――ええ……! 皆さん、一旦この場から退きましょう……!」

 

戦慄を覚えたのだろう余裕失せたスカアハの呼びかけを聞きいた瞬間、彼女の提案を皆へと伝えると、その場にいる四人と一匹の一同は寸分の狂いもなく同時に頷き、三々五々に散りながらペルセフォネらのいる入り口付近へと駆け出してゆく。

 

――オ、オォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!

 

また、そんな自分たちの挙措、あるいはペルセフォネや剣の挙動に呼応するかのよう、遅れて悪魔たちは雄叫びを上げ、突撃を開始した。

 

「……、………………………………、っ!」

 

多数の悪魔たちの突撃を一瞥したペルセフォネは一度だけ顔を上へと向けると目を瞑り、大きく短く息を吸って小さく長い息を吐くと、直後、大きく目を見開くと同時に剣をさらに振りかぶり、口を大きく開くと肺からすべての息を吐き出すかのように胸を揺らして、叫ぶ。

 

「約束された(/エクス)、勝利の剣(/カリバー)ッ!」

 

剣より発せられた黄金の光が悪魔たちに向って放たれる。光はやがて視界のすべてが黄金色に染めあげるほどの奔流となり、彼女の振るった剣の延長線上にいたすべての悪魔たちを呑みこみ、直進した。

 

「アァァァァァァァァァァ!」

 

光はやがてペルセフォネの裂帛の雄叫びに呼応するかのよう、さらに強まってゆく。奔流であった光はそして大海となり、眼球に襲い掛かってくる光の圧はさらに強力なものとなっていった。

 

「――っ!」

 

もはやとてもではないがは目を開けていられない。瞼を瞑っても光は隙間から眼球内へと侵入してくるのだ。動くようになった右腕をも使用して両目を覆い、力一杯瞼を締め付けて、闇を無理やりに作り出し、それでようやく人心地が付く。

 

「アァァァ……」

 

やがてペルセフォネの声が小さくなってゆき、そして完全に消え失せたころ、緩々と光に対する防護壁を解除してゆくと、最後に固く閉じていた瞼を開き――、

 

「――……!」

 

そして驚く。

 

『なんと……』

「こりゃあ……」

 

ゴウトとスカアハは呆然とした表情を浮かべている。

 

「……」

「……」

「……」

 

パラ子たちは言葉もなく、ぽかんと口を開けて驚いていた。

 

「――悪魔たちが……」

 

目の前、番人部屋の中央付近にいた数えるのも億劫になるほどいた悪魔たちが、今や残っていなかったからだ。光の奔流は黒の球体から産み落とされた神話の伝承にある悪魔、神霊たちを一柱たりと余すことなく消し去ったのだ。それはまさしく奇跡としか言い表せない所業だった。

 

「……まだ、残っているようですね」

 

そのような奇跡を起こして見せたペルセフォネは、しかし大して喜ぶこともなく視線を地面から正面へと向けると、やがて少しばかり首を斜め上に傾かせて、左右の眼球の焦点を部屋の中央に合わせる。彼女の向けた視線の先には、先ほど彼女が討滅せしめた悪魔たちを生み出した黒い球体が悠然と宙に浮かんでいた。

 

「一発で壊せないのならば……」

 

言いながらペルセフォネはやがてその場にいる彼女以外の誰かが挙動するよりも早く剣を再び振りかぶると、再び体から膨大な量のマグネタイトを発生させ、剣へと注ぎ込み、刀身より黄金色の光を発生させたのち、振り下ろす。

 

「約束された(/エクス)――、勝利の剣(/カリバー)ッ!」

 

大気が震える。光が空間を直進した。そうして発生した巨大な光の柱は黒の球体を呑みこみ、黄金色の光を浴びたそれはまるで満月のように輝いた。そして再び部屋は目も眩むばかりの光に満たされてゆく――




Twenty-and-eight the phases of the moon, the full and the moon’s dark and all the crescents, twenty-and-eight, and yet but six-and-twenty the cradles that a man must needs be rocked in: For there’s no human life at the full or the dark. From the first crescent to the half, the dream but summons to adventure and the man is always happy like a bird or a beast; 月は二十八の顔を持っている。満月と新月、そしてそれ以外の欠けた状態の月。二十八の月はまた、かけた二十六の状態においては揺籃を必要とする。 満月と新月において、人の生命は存在していないのだ。新月より出でて三日月から上弦までの間、人は常に鳥または獣のように幸せであり、冒険に誘われる。
 
But while the moon is rounding towards the full he follows whatever whim’s most difficult among whims not impossible, and though scarred as with the cat-o’-nine-tails of the mind,  his body moulded from within his body grows comelier. Eleven pass, and then athenae takes Achilles by the hair, Hector is in the dust, Nietzsche is born, because the heroes’ crescent is the twelfth. And yet, twice born, twice buried, grow he must, before the full moon, helpless as a worm.  The thirteenth moon but sets the soul at war in its own being, and when that war’s begun there is no muscle in the arm; and after under the frenzy of the fourteenth moon the soul begins to tremble into stillness, to die into the labyrinth of itself.  しかし、その一方で、満月に近づくにつれ、人の精神は九尾の猫のような気まぐれさを得るようになり――、やがてその体もまた、精神に呼応するかのように美しく変化してゆく。やがて十一日が経過し、十二という英雄を表す整数の月が到来すると――、戦女神アテナはアキレスの命を刈り取り、新月闇夜を司る女神ヘカテーは塵に還り、ニーチェ(/人間らしい人間)が生まれるのだ 。しかし、満月以前に二回の生まれ変わりを経験して人間として成長しても――、人は以後、まるで虫のように無力な存在と化してしまう。十三夜において魂の内部では力なき戦争が勃発し、そして、十四夜直前、魂は満月の狂乱の下で自らの生み出した迷宮の中に死ぬ事を予感し、静寂に震え始める。
 
All thought becomes an image and the soul becomes a body: that body and that soul too perfect at the full to lie in a cradle, too lonely for the traffic of the world: Body and soul cast out and cast away beyond the visible world.
全ての思考は空想に堕ち、魂は肉体に宿り……、そして心身は揺籃に眠るために相応しくない完璧さを取り戻し、やがて――、世界から切り離されて孤独となる。   完璧たる肉体と魂は、現実世界に許容すれず、追い出されてしまうのだ。
 
When the moon’s full those creatures of the full are met on the waste hills by country men who shudder and hurry by: body and soul estranged amid the strangeness of themselves, caught up in contemplation, the mind’s eye fixed upon images that once were thought, for separate, perfect, and immovable images can break the solitude of lovely, satisfied, indifferent eyes.月が満月の顔であるとき……、それは我が心の中にいる男が身震いしながら荒れ果てた丘の上を急ぐに例えられるだろう。自身の奇妙さに疎遠となった肉体と魂は、熟考によって、ある思考――自らより分離した完璧かつ完全な投影の創造は、自己愛と自己満足によって生まれた固有結界を打ち破るための手法を心眼にて見極めことが出来るようになる――
 
And after that the crumbling of the moon. The soul remembering its loneliness shudders in many cradles; all is changed, it would be the World’s servant, and as it serves, choosing whatever task’s most difficult among tasks not impossible, it takes upon the body and upon the soul the coarseness of the drudge. そして、その後、月は砕かれる。孤独を抱えている魂のほとんどは揺籃の中で打ち震えるだろう。そしてすべては変わってゆく。それらはすべて世界の使い魔(/霊長の抑止力)となるのだ。そして世界の役に立つべく、不可能ではないが最も心が傷つく仕事をやらされ続け、魂は徐々に薄汚れてゆく。
 
Because you are forgotten, half out of life, and never wrote a book your thought is clear. Reformer, merchant, statesman, learned man, dutiful husband, honest wife by turn, cradle upon cradle, and all in flight and all deformed because there is no deformity but saves us from a dream. 貴方が自らを忘れてしまったのは、貴方がこれまでの生涯において、自らの真なる願いを見定めていなかったからだ。改革者、商人、政治家、学問のある男性、忠実な夫、正直な妻……、すなわち彼ら揺籃を起源として持つ者たちは皆、思うがまま空を飛び、我儘であり続けることで、誰かを悪夢から救うに至るのだから。
 
Because all dark, like those that are all light, they are cast beyond the verge, and in a cloud, crying to one another like the bats; and having no desire they cannot tell what’s good or bad, or what it is to triumph at the perfection of one’s own obedience; 新月、満月において、彼らはついに限界を迎え、空の果てで、まるで蝙蝠のように目が見えぬと泣き叫ぶ。それは彼らが我、すなわち、自らの欲望(/願い)というもの見定めなかった彼らは、自らが満足する勝利条件を自らで見定めることが出来ていないからだ。
 
And yet they speak what’s blown into the mind;さらに彼らは自らの心に吹く風について、何とも味気ない、形のない、何かが生まれる以前の状態であると語り始める。
 
Deformed beyond deformity, unformed, insipid as the dough before it is baked, they change their bodies at a word.しかしやがて欠けていた月が再び円に近づくにつれ、彼の心の中のわだかまりは混ざり、練り上げられ、やがて自然な願いを見出すようになるだろう。
 
When all the dough has been so kneaded up that it can take what form cook Nature fancy the first thin crescent is wheeled round once more. Hunchback and saint and fool are the last crescents. The burning bow that once could shoot an arrow out of the up and down, the wagon wheel of beauty’s cruelty and wisdom’s chatter, out of that raving tide is drawn betwixt deformity of body and of mind. そして満ち欠けの最終においては人は、自らの願いから目をそらす人と聖人と愚者ばかりになる。かつて上弦下弦の合間に満ち欠けの間に存在し、残酷さと機知に富んだ美しいおしゃべりという名の矢を放っていた燃え盛る弓とは、心身の変化の間に描かれる荒れ狂う潮流に他ならないのだ。
 
William Butler Yeats, -the phase of the moon-
ウィリアム・バトラー・イェーツ 月の諸相より


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二十五話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (一)

Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen, Tod und Verzweiflung flammet um mich her!
地獄の復讐がわが心に煮え繰りかえり、死と絶望がわが身を焼き尽くす!
Fühlt nicht durch dich Sarastro Todesschmerzen, So bist du meine Tochter nimmermehr.
お前がザラストロに死の苦しみを与えないならば、そう、お前はもはや私の娘ではない……
 
Verstossen sei auf ewig, Verlassen sei auf ewig, Zertrümmert sei'n auf ewig Alle Bande der Natur.
勘当されるのだ、永遠に! 永遠に捨てられ、永遠に忘れ去られる! 血肉を分けたすべての絆が……
Wenn nicht durch dich Sarastro wird erblassen! Hört, Rachegötter, hört der Mutter Schwur!
もしもザラストロが蒼白にならないなら! 聞け、復讐の神々よ、母の呪いを聞け!
 
モーツァルト, -魔笛 第十四番 “夜の女王のアリア”-より


『エクス、カリバー!』

 

聞き覚えのない声が放った聞き覚えのある言葉が聞こえてきた瞬間、闇に亀裂が生まれ、そうして無明の闇に侵入してきた黄金色の光はあっさりと闇を打ち砕き、生じた亀裂からは眩いばかりの光が溢れだす。それはそれは何とも神々しく、何とも幻想的で、なぜかとても胸を打つ光景だった。

 

「――」

 

そしてそれはまた同時に、『桜』の勝ち誇っていた顔を打ち崩す効力も発揮した。先ほどまで自信満々の笑みを浮かべながら自らの子であるというメルトリリスをいじめていた彼女が、しかし今、こうして馬鹿みたいに口を開けて、唖然、悄然とした表情を見せているという姿は何とも小気味がよく――

 

「こんな風に、だ」

 

気づけばそんな言葉を彼女めがけて放っていた。

 

『おい、ライドウ。何やらこの球体の内部、どこか別の場所へと繋がっているようだぞ』

「――本当ですね」

 

やがて闇を貫いていた黄金色の光が完全に失せ、差し込んでくる光が平静さを取り戻したころ、そうして闇にぽっかりと開いた大穴から覚えのある声が聞こえてくる。

 

「うわ、暗! おい、何だこれ! こん中、わけわかんないくらい真っ暗だぞ!」

「うわ……、本当だ」

「……、あら、あれは……」

「おや……」

 

やがて声に遅れ、光と闇の狭間の場所には、四人の女性が姿を現した。そのうちの三人には見覚えがない。外見から察するに、おそらくは冒険者なのだろう。だが――

 

「ライドウちゃん、ゴウトちゃん」

 

そのうちの一人、浮遊している彼女には見覚えがある。悪魔スカアハ。それは英雄クーフーリンの師であり、また、影の国の女王と呼ばれた女傑であり、また、召喚師葛葉ライドウの手持ちの悪魔でもある存在で――、

 

「――なんでしょうか」

『なんだ』

「あんたらの見知っているだろう顔が、そこにあるよ」

 

そうして彼女が告げた途端――

 

「――!」

『なにっ!?』

 

闇の縁に見知った二つの顔が立ち並ぶ。学帽の下にある整った白皙の顔立ちと、真っ黒な毛むくじゃらな猫面。それはまさしく、異なる世界において自らが出会った、正義の味方と呼ぶに相応しい志をもってして活動する、葛葉ライドウと、そのパートナーのゴウトに他ならなかった。

 

「――エミヤさん……」

 

常に能面のような表情を浮かべている彼の顔は珍しく崩れ、唇は上向きの三日月を形作ってゆく。そうして幼さ残る白眉の顔面が喜びに歪んでゆく様は何とも麗しく、同性である自分すらも一瞬見蕩れさせるほどの麗しさを保有していた。

 

――っと、いかんいかん

 

そうして生まれつつあった美しいものを尊いと感じる気持ちと自分を心配する誰かが存在しているということを喜ぶ感情が入り混じって倒錯的な感覚になる前に、それを慌てて振り払う。どうも自分は、自らの感情を素直に認められるようになってからというもの、往々にして、あらゆる物事、出来事に対して常よりも過剰な思いを覚えるようになってしまっている。これが悪いことだとは思わないし、本来ならば人としてあるべき姿なのだと思うとそのような状態に戻れたということに対しての喜びすらも湧き上がってくるが、だからといってこうも制御がしにくいというのもまた困りものだ。

 

「なるほど、あれがアーチャー……、いえ、エミヤですか」

 

言いながら別の顔が光の向こう側から暗闇(/こちら)を覗き込んでくる。その整った顔に見覚えはなく、故に彼女が自分のことをアーチャーなどと呼ぶ理由もわからなかったが、彼女が纏う清然かつ凛とした雰囲気と、女の細身に多重円紋様刻まれた鎧を纏う姿。そして、何より彼女が握りしめている、かつて幾度も私の命を救い、そして今再び私の窮地を救ったその人々の願いの結晶たる聖剣(/エクスカリバー)を見た瞬間、私はその理由をすべて理解した。

 

――セイバー……

 

ギルガメッシュの言を信じるならば、この世界のスキルーー、新人類のために旧人類が開発した生き抜くための術は、過去の世界において英雄、英霊、あるいは神と呼ばれた彼らのデータを参考にして作られている。それ故にスキル、というものの中には、過去に生きた旧人類のすべての歴史が記憶として詰まっている。そしてまた、新人類と呼ばれる彼らはそんなスキルを日常において行使することによって、過去の彼らのデータは新人類の無意識の中に蓄積するようになり、やがては彼らの行動理念や行動そのもの、あるいは生み出すものに影響を与えるようになり―ー。やがてそれらが極まった時、それは力として結実し、新人類と呼ばれる彼らをさらに高いところへと引き上げるようにもなる。簡単に言ってしまうならば彼らは、旧世代の技術や記憶と新しい人類の力の融合によって、過去に存在した遺物を再現したり、過去に英雄と呼ばれた彼らの技の完全模倣やさらにその先への進化を可能とする、そんな存在になることが出来るのだ。

 

無論、人の身にて英霊の位にまで上るには、過去の奇跡の御業を模倣するには、過去の宝具に等しき物品を生み出すには、相当の才覚と相応の鍛錬と適当な環境と霊格の高さを備えている必要がある。だが例えば事実としてそんなサムライの職業スキル『つばめ返し』を極めた男が、『つばめ返し』のオリジナルである佐々木小次郎の領域―ー、すなわちまさに剣鬼、あるいは戦いの化身と呼べる領域にまで一気に駆け上がった男――シンが示しているように、それは決して不可能な事象ではない。

 

――解析開始(/トレース・オン)

 

そしてまた、例えば解析魔術を発動させて目の前の彼女が持つその聖剣を見てやれば、その剣がいかなる素材によって出来ているかということを人である我が身にて知れたという事実が、彼女の剣はかつてセイバーと呼ばれたわたしのよく知る彼女が持っていた星の生み出した聖剣でない、かつてのそれとは異なった手法にて生み出された人造聖剣であることを示している。しかしそれでも目の前の彼女はその人造聖剣をかつての彼女(/セイバー)のように『勝利すべき黄金の剣(/エクスカリバー)』と呼び、模倣して作られた人造聖剣はそんな彼女の思いに呼応して、かつて『勝利すべき黄金の剣(/エクスカリバー)』と呼ばれていた聖剣とまるで同じ効力を発揮していた。

 

すなわちならば、我が目の前において、騎士王の持っていた聖剣と同じ姿を持つ剣を手にしている彼女は、セイバーと同じような生涯を送ったか、あるいは同じような名を持つか、あるいは同じような技術を持つはずの、かつて聖杯戦争において自らのパートナーであった彼女とまるで同じような雰囲気を纏う彼女は、まさにセイバーの後継者と呼ぶに相応しく――

 

――時を超え、再び私を助けてくれるのか……

 

そのような場合でないと理解しつつも、胸からあふれ出てくる思いは脳や体を支配して、この身を感傷の渦中の中へと叩き込む。陳腐なまでに使い古された言い回しをするならば、私と彼女との絆は、運命、と呼んでも差し支えないだろう域にあるのかもしれないなどという思い上がりの勘違いに等しいだろう考えすら湧き上がってくるのだから、心底今のこの身は救いようがない。

 

「エミヤ……」

「……!」

 

そして見知らぬ冒険者たち、悪魔スカアハ、ライドウ、セイバーによく似た誰かに引き続き現れた顔が、私のそんな思いをさらに増長させる一躍を担うこととなる。

 

――ヘイ……!

 

今はヘイムダルという名で呼ばれている、かつてはヘイという名で呼ばれていた、自分がこの世界に降り立った際、初めて自分に声をかけてきてくれた、初めて自分のことを気にかけ、そして食料を与えてすらくれた、しかしやがて自らの懊悩故に私たちの敵として回ってしまったはずのそんな存在が、今目の前にはいた。また、いつか自分が彼に売り払った紫蛇の鱗鎧を纏った彼のその傍らには、これまた見覚えのある天馬が佇んでいる。

 

――そして、ペガサス……!

 

その見目に麗しい幻想種たる天馬は、見紛えようなく自らを生前――、第五次聖杯戦争時において追い詰めたライダーたるメデューサが駆っていた存在(/メデューサの子ども)であり、また、『桜』という、目の前で目を白黒させている彼女の前身たる少女が契約していた英霊――、つまりはエミヤシロウたる自身の関係者と言える存在であり――

 

――『運命』……か

 

「――――――――くっ、く、くく……」

 

つい先ほど陳腐と切り捨てたはずの言葉でしか言い表せない巡り合わせは不思議な高揚感を呼び、我が身の内から笑いの感情を引きずり出す。

 

「……!!」

「は、あは、あは、あは、あははははははははは!」

 

目の前にいる『桜』が向けてくる驚愕と不信の視線なんて気にもならなかった。自らの身がこうも不思議な縁で繋がれている誰かに助けられたという事実が、何よりもおかしかった。その事実は不思議と自分はこの世界に一人で生きているのではないということを実感させたのだ。そうとも、自分の行為が自分の運命を生み出した―ー、なるほど、これこそが親鸞の言うところの自業自得、という奴なのだろう。ならばこうして誰かを助けたいと願い行動し続けていれば、いずれは矮小なこの身であっても他力本願の――つまりは正義の味方の境地に至れるかもしれないと考えると、それだけで胸が躍る思いがする。

 

「あは、あは、あはははははははは!」

「――――――く……!」

 

湧き上がる感情に突き動かされるがまま笑い続けている私を見て何を思ったのか、『桜』は下唇をそれこそ血が滲むのではないかと思うくらい強く噛み締めると、側にいた泥の地面に手をつき俯き打ちひしがれているメルトリリスを抱き寄せたのち、滑るようにして闇の中を目にも止まらぬ速度で移動してゆく。

 

「――あ」

『ま、まてっ!』

 

ライドウのどこか間延びした単音の声と慌てたゴウトの制止の声をよそに、やがて桜は溶けるようにして闇の中へと消えていった。そうして視界の中から桜の姿が消え失せた途端、辺りを包み込んでいた闇は瞬時にして消え失せる。そして現れたのは小さな――もちろん、通常の感覚からすればとても大きな――部屋だった。

 

「これは――」

 

その部屋はまるでシンケルがモーツァルトのために制作したという舞台のようだった。半円のドーム状に作られた部屋の中央には三日月のゴンドラがつるされ、泥の地面の上に微かに浮いている。ライドウたちが覗いている砕かれた壁面を除けば、壁という壁は色鮮やかな夜空の色に染め上げられており――、そんな夜空にはまた星々の煌めきがすべてのRGB色を使用しても足りないだろう数程刻まれていた。

 

「『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え……』、か」

 

いかにも人工的に作られたこの部屋を作りしものがいかなる目的をもってして部屋をこのような作りにしたのかはわからない。だがこの復讐のため短剣を自らの娘に託そうとする夜の女王が君臨する場面のために作られたという舞台とそっくりな造りの部屋は、なるほど、娘とも呼べる存在であるはずの自分の分身――、すなわちメルトリリスを自らの人形にせしめようとするあの『桜』という存在を現すにあるぴったりの情景であるように感じられる。なるほど、ならば――

 

――『桜』があのように歪んでしまうのもまた運命だったのかもしれない……

 

『エミヤ!』

 

現実拒絶症の悲観主義者が言いそうなことを考えていると、壁面に刻まれていた傷口より飛び出してきたゴウトは見事な着地を決めたのち、こちらへと近寄りながら話しかけてくる。

 

「ゴウト……無事で何よりだ……」

『それよりエミヤ! 今のは―ー』

「ああ。『桜』――、人工知能によって変質してしまった『桜』だ」

『やはりか! ならばあれの後を追えば、『桜AI』の脳へとたどり着ける可能性が高いというわけだ!』

「ふむ……?」

 

彼の言葉を聞いて多くの疑問があふれ出す。その表情や言動から察するに、どうやら彼は―ー、彼らは自分らの知らない、しかし、それでいてこのもはや週末に向かいつつある世界を救えるような、そんな手段を見つけているらしい。

 

「おい! あれを見ろ!」

「む?」

 

そうしてこちらがそれについての質問を飛ばすよりも早く聞こえてきたいつの間にやら近くにまでやってきていた青い軽鎧を着た女性の声に導かれ、彼女が指さす方を向く。するとその細指の先、天を埋め尽くすかの如く数多の星が刻まれた壁面をよく見てやると、『桜』の逃げた方向にある壁面のうちの一部には縦長長方の形に線が刻まれていることに気が付ける。

 

「なるほど、あれが……」

「――この部屋の出口……」

 

言葉の後に沈黙の帳があたりを包み込む。そうして私は空間の狭間より降りてきた彼らと目配せをして見せると、無言にて踵を返し、『桜』が出て行ったのだろう部屋の出口へと歩を進めた。

 

 

「はっ、はっ、はっ」

 

走る。走る。走る。薄暗い―ー、否、闇だけが支配するその通路を、メルトリリスという存在を抱えながら、ただひたすらに突っ走る。

 

「はっ、はっ、はっ」

 

息苦しさなんて感じない。両手から感じる重みなんて軽石のようだった。怒りはとっくに冷めている。そうとも、先輩の否定の言葉によって茹った頭はとっくのとうに冷静さを取り戻していた。

 

「はっ、はっ」

 

走る。目的地なんて定まっていない。この月面に作られた最低限の機能しか保有していない場所はとても狭く、逃げ場なんてそれこそもうどこにもないに等しい。それでも逃げて。逃げて。逃げて。逃げて。逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げつくして。

 

「はっ、はっ」

 

そして。

 

――誰も私を見ていなかった

 

「は……」

 

不意に湧き上がってきたそんな思いが、私の無様な足掻きを止めさせた。

 

「……う」

 

胸が痛い。胸はじくじくと痛んでいる。胸はキリキリと痛んでいる。息が苦しかった。呼吸がまともにできていない。苦しい。苦しい。ただ、苦しい。

 

――あの場所

 

あの夜と月が入り混じるとある一柱の女神のために作られた部屋において、しかしそんな女神の力を宿した私に対して、誰一人として注意を払わなかった。その部屋において注目を浴びていたのは、先輩だった。冒険者たちも、異界から来たという悪魔召喚師とそのパートナーたちも、過去の英雄も、死人のごとき存在も、彼ら全ての意識は私を素通りして、先輩という存在によって絡めとられていた。私という月の放つか細い光は、先輩という太陽が放つ強烈な光によって完全にその存在感を失ってしまっていた。

 

――私は誰にも認められていなかった

 

「うぇ……」

 

誰も彼もが私に無関心だった。私は路傍の石に等しい存在だった。これから誰からも無視されない存在になるはずの私は、けれど誰からも関心を持たれていなかった。

 

――誰も……、そう、誰も……

 

息が苦しい。涙が止まらない。ただ悲しかった。ただただ、辛い。

 

――私の居場所はどこにもない

 

「……ひっ、く」

 

まるで昔と同じだ。まるであの時と同じだ。間桐の家。魔術の大家。私の体に宿る力だけを必要としたあのしわくちゃの老人のように、あの人たちは私の人格をまるでないものとして扱っていた。

 

「っく、ひっ、く」

 

みんなが私を否定する。先輩は私の救いの形を認めてくれなかった。何がいけないのかわからない。みんなの意思に宿って、みんなの正義が同じ方向を向くようにして、みんなが同じ幸福を享受できるようにしてやることのいったい何がいけないというのだろうか。

 

「ぇ、ぅぇ、ぇ、ぇ、ぇ」

 

喜んでくれると思っていた。受け入れてくれると思っていた。でも先輩は拒絶した。わからない。どれだけ考えてもわからない。でもきっと、先輩が否定するっていうことは、きっとそういうことなのだろう。

 

――私が出した答えは、間違っていた

 

「う、うぇ、え、え、ぇ」

 

そう。きっとそれが結論なのだ。だから私は先輩に拒絶された。私は間違っていた。私は間違った存在だった。だから私は世界のだれの関心をも引くことが出来なかった。だから私は無視された。だから私は私の中から生まれた娘にすらも拒絶された。

 

――私は間違っていた

 

「ひ、ひっく、ひ、ひ、ぃ……」

 

私は間違った結論を出した。私は間違った結論を出して、誰も幸せにしない結論を出して、誰をも不幸にする結論を出して――

 

――ああ、でも、それは当然だ。

 

だって私は今までに一度だって――

 

――自分の手で、何かをつかんだことなんて、ない

 

「ひ……」

 

誰もが私を拒絶する。誰も私に手を差し伸べてくれない。誰も私を必要としない。誰も私を認めてくれない。誰も私の側にいてくれない。誰も――

 

「……あ」

 

いや。

 

――ああ

 

いた。

 

「兄、さん」

 

間桐慎二。私の義理の兄。我儘で、狭量で、身勝手で、他人のことなんて自分の道具としか思っていなくて、同じく間桐家の当主たる老人に人生をもてあそばれた被害者で、私を傷つけた加害者でもあったけど、けれど唯一最後まで私の事を家族と言って、こんなにも醜くて薄汚れた私のために命を使い切ろうとまでしてくれた、私の全てを知る人。

 

「兄さん……」

 

私にとって、唯一の、味方。

 

「兄さん……、兄さん……、兄さん……、――兄さん……!」

 

あの人に会いたい。あの人に会いたい。馬鹿と罵られてもいい。間抜けと殴られてもいい。痛くて怖い思いをするのだって今なら平気で我慢できる。だってそんな時あの人は、こんな無価値な私に向って、ありったけの感情をぶつけて、私の価値を認めてくれる。世界中で、あの人だけが――、私の居場所となってくれる。

 

「兄さん……、兄さん……、兄さん……、兄さん……!」

 

兄さんに会いたい。千切れるほどに思う。都合のいい女だと笑ってくれていい。どうか馬鹿な女だと愚弄して欲しい。私がここにいるんだと認めてくれるんなら、なんだっていい。

 

「兄さん……!」

 

もうどこをどう走っているかなんてわからなかった。ただ思いが導くままに無我夢中で駆け抜けた。気が付くと私は私の脳が保管されている部屋の前にいた。理屈なんてない。理由なんてない。ただ思いが向くままにそしてその部屋の扉を開けて――

 

「なんだよ、桜。お前、またそんなみっともない顔してんのか」

 

――ああ

 

薄汚れたこの身に訪れた至上の奇跡に、心から感謝した。




In diesen heil'gen Hallen, Kennt man die Rache nicht.
この神聖な殿堂では人は復讐の心を持っていない。
Und ist ein Mensch gefallen, Führt Liebe ihn zur Pflicht.
そして人が道を踏み外しても、愛がその人を責務へと導いてくれる。
 
Dann wandelt er an Freundes Hand, Vergnügt und froh ins bess're Land.
それから彼は友の手により歩きだす。楽し気に、喜ばしく、より良い国へと。
 
In diesen heiligen Mauern Wo Mensch den Menschen liebt,
この神聖な城壁の中では人と人とが愛し合う。
Kann kein Verräter lauern, Weil man dem Feind vergibt.
裏切者が待ち伏せすることはできない。人は敵を許すから。
 
Wen solche Lehren nicht erfreu'n, Verdienet nicht ein Mensch zu sein.
この教えを享受できないような人は、人間に値しない。
 
モーツァルト, -魔笛 第十五番 “この神聖な殿堂には”- より


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二十六話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (二)

自己のナルシシズムを克服することは人間の目的である

erich fromm, -The Heart of Man: Its genius or Good and Evil-
エーリッヒ・フロム ―悪についてー より


『エミヤ、本当にこちらであっているのか?』

真っ暗な廊下をランタンで照らしながら走る。月の裏側に存在しているというその施設の廊下は、万年を超える年月もの間存在し続けたと思えないほど綺麗で清潔な状態を保たれていた。その機械的な無機質さはかつて地上にて見たグラズヘイムのそれにも似ているといえるだろう。だがしかしこの施設から受ける印象は、地上に会ったあの施設から受けた印象とは決定的に異なっている。

――ここは決して人の立ち入りを想定して作られた場所ではない

この施設には明かりを取り入れるための窓がない。この施設には空気を循環させるための空気口がない。この施設は光も空気も、命を保つために必要な全ての要素がかけている。そう。この施設には命を感じる、外部との繋がりを感じられるすべてのものが排除されているのだ。仮にも人が立ち入るかもしれないことを考えて作られたというあのグラズヘイムという施設に対して、この施設は人の出入りが一切ないことを想定して作られているのだ。その陰湿さになんともぞっとする思いを抱く。その在り方は、かつて神がその土地より出てくることを禁じた『禁足地』と呼ばれる場所によく似ていた。

そう。そうだとも。これは禁足地だ。この施設は内部にいるものが決して外に出ないよう、内部にいるものが決して生命など感じないよう、この場に閉じ込められた彼女が外の世界や生命に対する憧れを思い出さぬようよう、計算されて作られた魔方陣だ。一切の飾り気がない廊下に求められているのは、ただ一つ。世界の安寧を保つために必要な桜という彼女をこの場に縛り付けるという機能だけ。だからこそこの廊下は、ただそれを実現するための魔方陣を刻むためだけに作られた、ただの廊下なのだ。この廊下はそれ故に、それ以外のすべての要素が排除されている。その目的を果たすため以外の全てのが、この廊下には存在していない。言うなればこの施設は、あらゆる生命を拒絶しているのだ。もし私たちという異物がこの場に到達していなかったのならば、この施設は今もなお地下墓地のように風もなく、光もなく、世界が終わるその時まで――、否、世界が終わったその後も、静寂さだけを保つ『桜』の墓標であり続けただろう。

 

――ここはまるであの剣の丘だ

『桜』。地球よりはるか離れた場所にある隔離施設。世界の全てに安定をもたらす、そんな目的のために作り上げられた施設にシステムとして組み込まれた女性。生前、私が通っていた学校の後輩。遠坂凛という女性の血の繋がった妹。――この事件の首謀者。

 

――だからこそ彼女は壊れたのだ

 

彼女は世界に住まう多くの人間のため、その犠牲として月に奉られたという。そして彼女は、機械という絶対者の庇護の下、壊れることも許されず、ただひたすらに人類を守る行為を強要させられ続け、果てには機械との一体化――融合を果たし、まるで機械のよう人の幸福を数の上で判断する思考を得るに至ってしまった。

――彼女はまるで私と一緒だ

その在り方はかつての私と良く似ている。私は霊長の守護者として世界にとらわれ、望まぬ世界の掃除をやらされ続けていた。繰り返される無限の作業の中で、人類には守るべき価値などないとそう思い、そうして見限ったはずの人類の愚かさの後始末を、延々と繰り返させられ続けてきた。それはまさに地獄の拷問と変わらぬものであり、そんな日々は徐々に私の精神を摩耗させてゆき――、果てに私は、自己の否定、すなわち過去の自らの愚かさを呪うに至り、過去の自らを殺したいと願うようにすらなった。

 

そしてやがて過去の己との対決により、自らの願いを貫くことの尊さを思い出した私は、凛の手によって救い出され、この未来世界へと送り込まれ――、

そして与えられた今生において、再び、過ちを繰り返しそうになった。

 

『エミヤ?』

「……ああ。間違いない」

思考の最中、ゴウトの声によって意識をこちらへと引き戻された私は、薄暗い廊下に視線を送りながら、宣言する。闇と清潔さばかりが支配している廊下の上、そんな生命の証がないはずの場所には今、しかし水滴の跡が残っていた。ランタンの光にわずかに反射して光を返すその小さな水たまりのことを、解析の魔術を行使するまでもなく『桜』――、『桜AI』のこぼした涙の跡であると理解できるのは――、メルトリリスやゴウトから桜の情報を聞いて彼女の事情を詳しく知れたということや、あの闇に満ちていた部屋から去る際に彼女が見せた怯えの表情のおかげなのだろう。

ーー怯え

 

そう、桜はおびえていた。世界を我が物として支配すると宣言したはずの彼女は、しかしまるで親に雷落とされる寸前の童女のようにおびえた表情を見せていた。その顔を思い出した瞬間、脳裏によぎったのは、かつての我が家の日本家屋の縁側、月下にて繰り広げられた光景だった。

『任せろって爺さんの夢は…』

『あぁ……、安心した』

そう言って爺さんは――、衛宮切嗣は死んでいった。養父である彼がその死に際に見せたその柔らかい顔を今でも覚えている。それはあらゆる記憶が摩耗した自分の記憶の中においてしかしいまだに鮮やかさを保っている、決して忘れえないエミヤシロウという男の原点となる記憶だ。それはすなわち正義の味方を目指す男が生まれた瞬間でもある。彼のあの笑顔が私をこの道へと――、正義の味方への道へといざなった。あの無言の肯定があったからこそ、私はその道を歩み続けることが出来たのだ。あの時、衛宮切嗣という養父が私のことを笑って肯定してくれたからこそ――、紆余曲折こそあったものの、私は未だに正義の味方を目指すという道を歩み続けることが出来ている。

だが今、ふと思う。もし。もしも、だ。もしもあの時、あの場所において、衛宮切嗣が私の言葉に対して少しでも顔を曇らせていたら、私は今頃どうなっていただろうか。もしあの時、切嗣が不満げな顔を浮かべ、『そんなものを目指すものじゃあない』と眉を吊り上げて私に忠告していたら、それでも私はこの道を歩んでいただろうか。

――わからない

我ながら頑固なところのあった私はそれでもと意気地を張って正義の味方を目指していたかもしれない。しかし仮にそのようなことになっていたとしたら、私はこのような未来世界に来る前、それこそ生前のうちに、きっと心折れて正義の味方の道を諦めていた可能性の方が高かったのではないかと思う。

衛宮切嗣。第四次聖杯戦争において生み出された煉獄から、私を救い出した男。戦争で家族も友人も彼らと過ごした記憶も、過去のすべてを失った私を引き取り、育て上げた、私にとっての命の恩人。私にとってかけがえのない人。彼が私の選択を笑って認めてくれたからこそ、私はそんな子供のころの空想に過ぎないものを抱え続け、正義の味方を――、私にとってそうであった衛宮切嗣を目指して、生涯を貫いた。そうだとも。私は正義の味方になりたかったのではない。私は私を救い上げてくれた、私にとっての正義の味方である衛宮切嗣のようになりたかったのだ。

衛宮切嗣の願い。誰もが幸福であって欲しいという願い。平和な世界。言峰綺礼という男はそれを呪いと言った。誰もが幸福である世界などない。誰かの幸福と誰かの不幸は等価交換だ。誰かがどこかで幸福になるということは、誰かがどこかで不幸になるということに等しい。そんなことはわかっている。そんなことは生涯、現実において痛いほどに思い知らされた。幻想は幻想であるからこそ美しい。現実に存在しえないからこそ、人はそれに憧れるのだ。

そうとも、誰もが幸福になる世界なんてものはない。だからせめて、不幸は自分が背負おうと思った。可能な限りの世界に存在している不幸を自分が背負いこめば、その分世界のどこかで誰かが幸福になる。そう思ったからだ。等価交換の法則にしたがえばそれは間違いなくそうなるはずで、それは間違いなく正しい理屈に違いなかった。そうともそれは間違いなく正しい理屈で、自分が不幸になった分だけ世界のどこかで誰かが幸福になっているはずで、それが自分の信じる正義の味方/衛宮切嗣の願いに最も近しいのは確実で、誰かが自分が背負い込む不幸の存在すらも知らずに幸福を享受している姿は間違いなく美しいものであって、自分が世界の平和に貢献しているのは間違いないはずなのに――

――そうして私が不幸を背負い込んだ分誰かが幸福になっているはずの世界には、ちっとも平和なんてものは訪れてくれなかった

だから見誤った。だから間違った願いにたどり着いた。だからかつて衛宮切嗣がたどり着いた、そして彼が私のために諦めた願いへとたどり着いてしまった。

――世界の全ての人に幸福の状態にする

そして私は、先程『桜』が語った願いにたどり着いた。彼女はまさしく私の関係者だった。それはかつて衛宮切嗣が聖杯と呼ばれる万能の願望器の力をもってしてそれを成し遂げようとした願いであり、かつてエミヤシロウが、泥の力を利用して成し遂げようとした願いでもあり、そして親子二代にわたってたどり着いたそんな過ちの結論を打ち砕いたのは――、悪の容認者を自任する破戒神父だった。

「貴様も、未だに人間を個人として見ず、数の上でしか見ていない類の人種、という事か」

そうだ。私たちは結局、人間個人を見ずに、数だけを見て、誰かの幸福を――私たちの目指す幸福とすり替えて定義していた。私たちは私たちの信じる正義を誰かに押し付けるばかりで、誰かの正義を悪と定義して、自分の願いに共感しないすべての人間を、人間でないとして切り捨てていた。私は結局他人を人として見ていなかった。私は結局自分の事だけを愛していた。私はきっと、他人のことなど愛していなかった。私は結局、私と私の原点である衛宮切嗣以外のすべてを拒絶していた。だから私は、それを不自然だと思う私の感情と本能を切り捨てた。だから私は、私以外の多くの存在から理解されなかった。

だが今は違う。私は自らの過ちに気が付いた。私は自らの過ちに気づかされた。私は私が最も相容れぬ存在として定めていた、悪を容認する――、つまりは自分以外の誰かの正義を許容してみせる男の手によって、ナルシシズムという名前の呪いから解放されたのだ。

私は私以外の誰かの手によって救われた。私は再び誤った道を歩む寸前、敵対していた別の誰かの手によって救われた。この残酷さばかりが目立ってみえる世界は、きっとそんな優しい思いやりにも溢れている。私はそんな、この世界に溢れている、簡単には見えることの出来ない優しさによって、再び救われた。だからこそ思う。

――果たして、あの『桜』という彼女は、本当に私が正義の味方として打倒すべき悪であるのだろうか?

「……ここだ」

そしてその場所にたどり着く。目の前にある扉はどこまでも無機質に廊下と一体化していて、取手すらも見当たらない。もしもこの扉の前に水滴が落ちていなかったのならば、もしも私に解析の魔術というものを習得していなかったのならば、もしも私が彼らとの合流によって他人のことを気にかける余裕というものを取り戻していなかったのならば、私たちはこの扉の存在に気づくことなく、通り過ぎていたことだろう。

『ならば、この扉の先に――』

「ああ。――きっと、『桜』の本体があるはずだ」

ごくり、と誰かが固唾をのむ音が聞こえてきた。緊張感によってだろう、あたりの空気は重くなってゆく。だから私は彼らの緊張がほどけるのを待ち――

――解析開始/トレース・オン

やがて皆の緊張感が程よく薄れたのを確認した瞬間、壁に手を当て、扉に対して解析の魔術をかける。解析の結果、上に開く形式の扉の電子錠は当然閉じられていることを理解する。だから続けざまに魔術を行使して双剣「干将・莫邪」を投影すると、さらに自らの体へと強化の魔術をかけ、壁から身を引いて、扉を蹴り飛ばすために足を上げた。複数の合金によって鋳造され、数多の防護魔術がかけられえた扉は相当頑丈だろうが、それでも英霊である私の全力の蹴りに耐えられるほどの頑強さは持っていないことは解析の結果から理解できている。そして振り上げた足にて全力の蹴りを扉へと叩きつけようとしたその瞬間――

「おいおい、やめろよ、野蛮だな。ノックすりゃ開けてやろうと思ってたのに、なんて奴だ。その何でもかんでも暴力で解決しようとする思考、とても文明人のものとは思えないぜ、まったく」

固く閉じられていた扉はあっさりと開かれた。その場にいる誰もが驚いた顔を浮かべ、顔を見合わせる。驚きは固く閉じられていた扉が自分たちでも『桜』でもない誰かの手によって開かれたという事態と、そんな扉を開いた誰かがこの先には存在しているのだという事実から生みだされていた。

「おい、なんだよ。お望み通り開けてやったんだから、さっさと入って来いよ。まったく、なんて空気の読めない奴らなんだ」

そうして声の主はこちらを馬鹿にした口調で述べると、「は、ま、気持ちはわからないでもないけどね」、と一言付け加えたのち、言う。

「僕だってこうしてここいるのが想定外だったんだ。お前らがそうであるのも無理はない。なぁ、お前もそう思わないか? ――なぁ、衛宮」

「――」

そうして聞こえてきた言葉に息を呑んで目を見張り、のけぞった。

『あ、おい、エミヤ!』

制止を振り切って、慌てて部屋の中へと足を踏み入れる。だが踏み入れた先にあるのは闇ばかりで、声の主人の顔どころか、その居場所すらもわからない。慌てて右手に握った剣をランタンに持ちかえて前に差し出すと、薄橙色の光が前方を照らしていった。光はそして部屋の内部の構造を徐々に露わにしてゆく。そうしてわずかに見えるようになった床と壁面には、多数の魔術紋様刻まれていた。それはやがて高い天井にまで続き、四角い――立方体の小部屋の全てを埋め尽くしている。それらの魔術文様は、外部の攻撃から内部のものを守るためではなく、内部にいるものが決して外に出ないようにとの思想のもとに描かれており、まさに牢獄の檻とでもいうに相応しい存在だった。無機質な部屋にそうして刻まれている魔術紋様はしかし、何とも違和感なく部屋の雰囲気に溶け込んでいる。それはおそらく魔術という存在が元々闇、すなわち世界の裏側に属する類のものだからだろう。ここは旧人類が新人類に決して見つからぬよう願って月の裏側に秘して作り上げた施設の中。裏に属する存在中でもその最奥に位置する、月の裏のさらに裏側だ。そしてそんな決して人目に見つからぬようにと隠された小部屋の中央にーー

 

「よぉ、久しぶりだな、衛宮」

「……まさか」

 

その男はいた。やがて入口より伸びて中央へと到達した光は、こちらが予想した通りの、しかしあまりに予想外な顔を照らしあげてゆく。天然パーマのかかった髪が見えた。街中を歩けば少なくとも二、三人の女性が振り向くだろう垂れ目気味の顔が目に写る。腕を組み、いかにも相手を見下すようなその態度には、しかしあまり悪気が無いこともかつて彼と友人だった私だからこそ知る事実だ。やがて驚きは現実への不信へと変化し、私の口は目の前のこれが現実かどうかを確かめるためにだろう彼の名前を呟いた。

「間桐、慎二……」

間桐慎二。それは私たちが追いかけていた桜の義理の兄にして、かつて私の同級生であった存在の名前だ。

「なんだよ、他人行儀でムカつくな。いつもみたいに慎二って呼べよ。僕とお前の仲だろう?」

はるか昔、おそらくは万年よりも以前に命尽きていなければおかしいはずのその男はしかし、人懐っこそうな笑顔を浮かべながら、昔と変わらないベージュ色の穂群原学園制服を着崩し着用した姿で、何とも親し気に話しかけてくる。その人によっては多少わざとらしく感じるかもしれない人懐っこい感じの態度はまさしく私の記憶の中にある間桐慎二のそれと完全に同一だった。余りにも予想外の事態を目の前にして、復活しつつあったはずの余裕が再び失せてゆく。視界は狭まり、意識は自然と目の前の男の一挙手一投足に集中させられゆく。

『知り合いか?』

「……あぁ、その通りだ。だが、彼は、私の生前の知り合いなのだ」

ゴウトの言葉に対して半ば無意識気味に応答すると、慎二の方へと向けて、歩を進める。

「どうして、お前がここに……」

顔を向けて問いかけると慎二はニィ、と厭味ったらしく唇をゆがめ、わざとらしい笑い声をあげたのち、揺らしていた体を落ち着かせてから、鷹揚な態度で口を開いた。

「なんで、ってそりゃ、お前、決まっているじゃないか」

言いながら慎二は指を鳴らした。パチン、と高鳴る音に合わせて地面より光が生まれ、闇に包まれた地面の一部が切り取られてゆく。そしてーー

「あれは――」

まるでスポットライトが当たったかのようにな状態となった地面の上に――

「桜! それにメルトリリスも!」

つい先ほど私たちの前から失せたはずの二人の姿を見つけて、思わず叫び声が出る。途端、部屋の中に入ってきていた存在の全ての視線がそこへと向けられた。地面に敷かれた光の中では、桜とメルトリリスがまるで眠り姫のように目を瞑り、手を組んで横たわっている。

「お前らが僕の妹をいじめたからさ。だから桜は自分の絶対の味方となってくれる存在を望み、そして桜の過去の記憶とその辺にいくらでも散らばっている人間の魂を撚り合わせて、僕が生み出された、ってわけさ。ま、いってみれば、衛宮。今の僕はお前の投影魔術で生み出されたような贋作……、というよりも、フランケンシュタインの怪物みたいなものだよ」

慎二はそんな言葉を放つと同時、腕を横にふるった。すると天井と側壁から無数の青と赤の直線の光が伸びてくる。そうして入り口付近にたむろしている誰かに反応する暇も与えることなく伸びた光は、部屋の端から順々に交差して格子を作ってゆき、やがて部屋の中央付近にまで進んでくると反対側から同じようにして伸びてきた光と合流し、幾重にも組み合わさって格子状の光壁を作り上げてゆく。

「これは――」

「ちょっとした隔壁さ。少なくともお前らがさっき戦ったあのデカブツの攻撃や、そこの脳筋女が放ったあの光の攻撃だって防いでみせるくらいには頑丈ではあるけどね」

言いながら慎二はこちらを見下すような視線を送ってくる。視線は「信じられないならば試してみるといい。絶対に敗れっこないからさ」という自信が感じ取れる挑発じみたものだった。それを見たペルセフォネは血の気が多いのか、挑発に応じるかのように眉を潜めて不快そうな顔を浮かべると、そのまま聖剣に魔力を込めて振りかぶろうとしたが――

「おっと、だからといって試すのは止した方がいい。なにせ、万が一この隔壁がぶっ壊れたとき、困るのは僕よりもお前らなんだぜ? 何せ僕の後ろには――」

直後、慎二の述べた言葉と共に彼の後ろへと現れた存在を目にして、その所作を止めた。

「お前たちにとって壊れちゃ困るだろうものが置いてあるんだからね」

『そ、それはまさか………!』

慎二の後ろに現れたのは円形の筒であり、その透明の筒の中はかすかに緑がかった液体で満ちている。そしてーー

「そうさ。これがお前らの望んでいるもの――、お前らの旅の終着点にして、世界の安寧を保つシステムのコアの一部でもある――、桜の脳みそと魔術回路の一セットさ」

その液体の中には、脊髄といくつかの神経や臓器、魔術回路の引っ付いた脳みそが浮かんでいた。ホルマリンにでもつけられたかのような状態のその桜の脳みそは何とも無邪気で、無機質で、無防備で――

「ま、まずは僕の話を聞いてくれよ。終末が訪れるその時まで、まだまだ時間は―ー、たっぷり一日くらいは残されている」

「一日……?」

「ああ。世界中の神話が示すように、世界は滅ぶにしろ、生まれるにしろ、必ず三日かかるんだ。三日月ってわけさ。例えばイナンナが死んでから復活するのは三日三晩だし、ホルスの目をトトが治したのも三日だ。インドのヴェーダは古く死んだ月は子宮に入ったのち三日で生まれると語っているし、ダンテが地獄門から天国へと辿り着いたのも、クーフーリンがぶっ倒れた時、異界の父親が見守る最中眠ったのも、三日三晩だ。ヴィーグリーズの土地が完成して、お前ら――、あの金ぴかとそこにいる死にぞこないが戦争をはじめ、終末の時計の針を進めたその時から、今はまだ一日半くらいしか経過していないから――、まぁ、そんくらいは残されているはずだ。――ほら、余裕なんていくらでもあるじゃないか。とにかくまずは剣をおろして僕の話を聞けって。そしたら――、お前らにこの脳みそと繋がっている先の機械の所有権をくれてやってもいいからさ」

とてもではないが、慎二のそんな平和的な提案を蹴ろうとは思わせないだけの儚く弱弱しい見た目をしていた。

 

小部屋の内部の天井と床、左右の壁面から伸びてくる赤と青の光の格子や、桜とメルトリリスを包み込む光のおかげで、部屋の中央付近に至るまでの光源はすでにランタンなしでも十分なくらいの明るさが保たれている。故にランタンの炎を落とし、皆と共に中央付近にある格子状の壁面の方へと歩を進めると、やがて壁を挟んですぐそこに慎二と桜と彼女の脳みそが見えてとれる位置にまでたどり着いた途端――

「話とはなんだ、慎二」

無遠慮に話を切り出す。多分は自らの忠告通り私が彼を呼び捨てで呼んだことが慎二の機嫌をよくしたのだろうか、はたまた過去の私がやるような態度で自分に接してきたことが懐かしかったのか、慎二は腕を組みつつ唇の端を吊り上げると、いつも以上に皮肉たっぷりの顔を浮かべ、眉尻を緩めると、その口を開いた。

「そうだな。いくつか話してやりたいことはいくつかあるけど―ー、じゃあまずは、『お前らがやろうとしている方法じゃ、いつまでたっても同じことを繰り返すだけになる』って辺りはどうだ?」

「……なに?」

眉をひそめて問い返すと、慎二は意地悪く口を歪めた。

「お前らは、桜のこの脳みそを破棄して、そこへ代わりにマイクとかいうロボットを突っ込んで、そいつに桜の代わりに世界の管理をさせようって計画しているんだろう?」

いずこよりその情報を得たのか、慎二は自信満々に述べてくる。

「――そうだ」

知っているのならば隠しておく意味がない。はじめこそ多少躊躇しながらも、しかしはっきりと肯定の言葉を返すと、それを聞いた慎二は腹を抱えてひとしきり笑った後に言う。

「なるほど。うん、まぁ、確かに上手くいくかもしれないだろうよ。確かにあちらの事情やこちらの事情、つまりは複合的な事態が一挙に重なったが故に起きたこの事態とはいえ、決定打になったのは、桜の――、この桜の脳みその暴走だ。とち狂って暴走したこいつがやがてすべての人間を安寧と幸福に導こうなんて考えに思い至り、世界中からましな方の魂を根こそぎ吸い上げちまってったからこそ、くそったれの魂ばかりが存在するようになった世界はそいつらの抱える淀みによって一気に汚染されて――、神話の再現なんてふざけた事態に陥ったんだ。そしてまたお察しの通り、この桜の脳みそが繋がれている機械には、人の魂を奪い、月のこの場所に格納するという機能を――、つまり、魂の運用という魔法の領域に達した出来事を可能とするほどの機能を保有している。桜の脳みそに接続されている機械が桜が行為に制限をかけているからこそ、桜にはこの機械が可能としている魂の運用の完全実行は不可能だけれど――、もしその制限を受けていない外部たるの存在であるマイクとやらが自分をこの機械につないで、機械に対してハッキングを行い、それに成功することが出来るってんなら、今ここにこうして集いつつある魂を元の通りに分解し、元の場所に戻し、んでもって体を失っちまっている奴らの魂はシンとか言うやつにやったみたいにアンドロとかいう機械の体に封じ込めてやることで――、それこそ完全に元の通りとはいかないだろうけれど、世界の終末は回避されるだろう。――けど、その行為に一体、何の意味があるってんだ?」

「……なんだと?」

「だってよく考えてみろよ。確かに世界は一時的に元通りになるかもしれないさ。しかる後にグラズヘイムだの天空都市だの海底都市だの秘匿されていた技術を使えば、蠱毒の術式で失われた肉体だって再生できるかもしれない。なるほどそうすりゃ、一見して世界は元の通りに戻るだろう。――でも、そうやって超技術を利用して愚図どもを元通りに戻したとしたところで、いったい何が変わるってんのさ? そりゃ確かに今回の出来事は桜が世界の崩壊の針を進めたからこそ起きた出来事かもしれないけれど、それに加えて地上にそいつらみたいな、他人頼りで、うじうじと小さな嫉妬と羨望を抱き続けて、文句は立派に言うくせに自分では何もしない下種の極みみたいな精神性の奴ばっかりになっちまったからこそ起きた出来事でもあるんだぜ?」

「……」

「今、あの泥の中に残っているのは、ほとんどが居心地のぬるま湯から抜け出そうとしない、そして湯が水になるまで、湯の中に居続ける、そんな連中ばっかりなんだ。ヘイムダルとかいうそこのおっさんの呼びかけに応じて戦おうなんて思ったのなんか、一部も一部さ。地球上にいるほとんどの奴らは、あの黒い子宮の中で才能ある体への生まれ変わりを願いながら安寧の眠りにつくことだけを望んでいる。そんな奴らが抱える閉塞感がやがて誰かこんな現状を打破してくれという他力本願の祈りに代わり、だからこそ神なんて言う人の願いを叶えるとされる存在が召喚されて、奴らの中の一部が火星へと連れてかれる事態なんてものが発生したんだ。――なぁ、そうだろう? そこの元信者のおっさん」

「……」

慎二に話しかけられたヘイムダル――、ペガサスの手綱を引くヘイは、バツが悪そうに視線をそらした。彼は慎二の言う通り、冒険者としての活躍が望めない日々の生活において発生する鬱屈を捨てきれず、さりとて冒険者として活躍するということを叶える力が自らにないと理解してしまっていたからこそ、その力を与えてくれるといった神、YHVHの提案に乗ってしまったのだ。すなわちヘイは慎二の言う通り、自らの力で自らの願いを諦めてしまった側の人間なのだ。だからこそヘイは、慎二の辛辣な言葉に対して、反論の言葉を何も返せないのだろう。

「人間、決心したからといって、自分の気質を理解したからといって、早々に簡単に根っこの部分から変われるもんじゃあない。基本的にクズはどう足掻こうとクズだし、小物は所詮死んでも、小物なのさ。なにせこの僕自身がそうだったんだからね。だからこそそんな小人どもの気持ちはよくわかるしーー、たとえお前らのやり方で世界を復活させたところで、そうして元に戻した世界がそんなクズみたいなのばっかり蔓延しているってんじゃあ、またすぐ同じことの繰り返しになるってことがわかるのさ」

そんなヘイの様を見た慎二はそれを鼻で笑って見せると、さらに自嘲の言葉を乗せて言い切った。

「つまり、慎二。お前はこういいたいわけか。『彼らの脆弱な精神性をどうにかして、彼らの自身の心の内側から克己心みたいなものを生み出せる状態にもっていかなければ、世界を元の通りに戻しても、彼らの精神の脆弱さゆえにすぐにまた世界が崩壊する事態に陥る』、と」

慎二のこれまでの言動から彼の話の内容をまとめてみせると、彼は一瞬だけ目を見張って驚いて見せ、しかしすぐさまニヤリと笑って見せると、目の前にある青と赤の光によって作られた格子の壁をバンバンと叩きながら言う。

「おっと、流石は衛宮。英霊にまで至った奴の理解力は伊達じゃないなぁ。まったく、話が早くて助かるよ」

「……そいつはどうも」

「ほんと、お前ってば嫌みなくらい優秀な奴だよねぇ。魔術は固有結界なんていう魔術師の奥義みたいなものを持っていて、死に至るほどの努力も鍛錬もやって当たり前だろうとか平然と言いのける上に、死にそうになるどころか死んだとしても己の信念を曲げないんだから、ほんと、大した才能と図太い丈夫な神経してるよ、お前」

「……」

続く挑発じみた言葉には反応してやらない。口を閉じて、その目を見つめ、次の言葉を待っていると、慎二はつまらなそうに、フン、と鼻息を一つ漏らした後、その言葉を口にした。

「ま、そしてそんなお前みたいな立派な精神性をしていて、何でもこなせるような才能を持ち、個人の力で世界を救っちまう奴がいるからこそ、あいつらはいつまでたっても自分の力で何かを成し遂げようとしないようになって――、世界は滅びへと進んでいってしまったんだけどさ」

「――なんだと?」

だがしかし、続くその言葉を聞き逃すということは、出来なかった。

「私が……、滅びの原因だと……?」

「直接的にはそうじゃないけど――、ああいや、やっぱり直接的にもなるのかそうか。お前がこの世界に現れちまったからこそ、この世界は崩壊に向けての序曲を奏で始めちまったんだからな。ならこの世界がこうなっちまったその一因はお前にも十分あるってことになる」

「……どういうことだ」

慎二はフン、とつまらなそうに鼻息を一つ立てると、教えてやるもんかと言わんばかりに顔をそらし、腕を組みながら言葉を続ける。

「桜は機械の指示に従って、自分で何かをしようって気概のあるやつや、世界を崩壊へと導きそうな野望と実力を持っている、つまりは克己心と気概に溢れている才人を、この世界から排除していった。つまりこの世界は桜の作り出した箱庭で、この世界に生きる人間は基本的に大多数が桜の意にそぐうやつか、あいつと似たような性格のやつしか存在していない。世界で自分と関わる人間が同種同質の存在同士ばかり、自分の理解の範疇に収まる行動しかしない奴ばかりであれば、まず自分は傷つかなくてもいいからな。――いってみれば奴らは桜の分身みたいなものなんだ。そして選別によってそんな奴ばかりが多く生まれるようになった結果――、この世界にはかつての桜みたいに実力や気力がない奴ばかりが蔓延した。加えてまた、霊脈に潜んで人の悪意を喰らい成長する魔のモノとかいう生物が、悪意をまき散らすような奴とか、自分の願いのために他人を平気で傷つけるようなぼくちのクソ爺みたいな奴から日々生まれる強い負の感情を奪い取ってゆき、世界に住むやつらは平和ボケの性質を獲得していった」

「……桜のやったことは確かに良くないことだろうが、……誰かを平気で傷つけるような人種が失せたことはよいことではないかね?」

「……はぁ?」

途切れ途切れながら不意に思ったことをのべると、慎二は心底こちらを見下す視線を向けながら、強い言葉をぶつけてくる。

「お前、マジでそんなこと言ってんの? 強い嫉妬とか羨望、悪心みたいなのは、人を一番動かす原動力だろう? お前だって、正義の味方ってやつに強く憧れて、それを抱き続けたからこそ、今のお前みたいになれたんだろう? ――なによりさ。どんな醜い感情であれ、誰かの脳みそからそうした感情を勝手に奪うなんて言う、そんな洗脳じみた事がいいことであるわけないだろう? お前、それはいけないことだって言って、さっき桜の願いを否定したんだろう? そのお前が何寝ぼけたこといってんのさ。お前、なに当たり前のようにダブルスタンダードな事言ってんのさ。――衛宮。お前、ほんとに、馬鹿じゃないの?」

「……!」

慎二の指摘はぐさりと胸に突き刺さり、まるで言葉が出なくなる。この期に及んで私は未だに、完全なる平和、誰もが平等の幸福を得られる世界などという願いの呪縛から逃れられてはいないらしい。

「ああ、もう、やっぱり衛宮は衛宮だったな。まったく、少しはまともになったかと思っていたけれど、似非ニューマニストの偽善者気質なのは昔と全く変わらない。褒めて損したよ、ほんとに」

慎二は私を見て失望した、とばかりの表情をその顔面に浮かべると、両手を首の横へと持ってきて、首と共に左右へと振る。

『それで、お主は儂らに何を望むというのだ』

そうして慎二の指摘に返しの言葉失ってまごついていた私の代わりに、ゴウトが慎二へと言葉を投げかけた。

「うん?」

『お主は儂らに何かをさせたいからこそ――、何かをさせた結果、世界を救える方法を知っているからこそ、今儂らに己らのやろうとしている行為の無駄を悟らせたのだろう?』

「……へぇ。どうしてそう思ったんだ?」

ゴウトの質問を聞いて、慎二は唇の片方だけを吊り上げながら問い返す。

『なに、簡単な話だ。儂が見たところ、お主は小悪党かもしれんが、悪人ではない。お主は賢しい人間であり、自らの利にならぬことはやらぬ人間だ。だがお主はまた、誰か――、自分が気に入った誰かに害が及びそうになった時には、嫌味交じりにながらも助けようとする、ある意味でとても人間らしい人間でもある』

「……その根拠は?」

『お主が先ほど自身で述べ、今もそのために行動して見せているではないか。「お前らが僕の妹をいじめたからさ」、とな』

「……は!」

慎二は目を見開いて一つ域を大きく吐くと、両掌をやけに強く叩き合わせ、ゴウトへと大きな拍手を送った。

「いや、人間の姿形をしてないから侮ったよ。悪かったね、ゴウトとかいうの』

『ふん……』

「……そう、その通りさ。僕は別に世界がどうなろうが知ったこっちゃない。ないけど―ー、そのせいで僕のお気に入りが――、僕の家族が――、桜が死んじまうってのは、どうも気に食わない。そしてまた、今の僕が思いつく桜を救う案の中で、最もあいつを救える確率が高い手段を実行するためにはお前の――、お前らの力が必要だ。だから――、だから、非常に気に食わないけど――、桜を救うため、僕はお前らに世界を救う方法を教えてやるしかないと、そう思ったのさ」

『それで、慎二とやら。儂らは何をすればいい?』

「ふん……」

言うと慎二は、再びパチンと指を鳴らした後、その細い指をこちらへと伸ばしてきた。その指先は、私でもなく、ゴウトでもなく――

『これは……』

「僕がまず必要としているのは――、お前のパートナーである、悪魔召喚師、葛葉ライドウの能力だ」

葛葉ライドウという彼めがけて伸ばされている。

「――自分の?」

突如として話の焦点を当てられたライドウは、小首をかしげて応答した。

「お前、悪魔をその管とやらで制御できるんだよな?」

「――ええ、まぁ」

「そしてお前はその悪魔を使って、疑似的に悪魔の心の投影とも言える異界とやらを生み出すことが出来る」

「――ええ」

「んでもってさらに、お前らの悪魔召喚師――というよりもヤタガラスの持つ技術の中には、異界開きとかいう、悪魔の作り出した異界の中に――悪魔の心の生み出した結界の中に入り込める技術があるんだろ?」

「――……はい」

「僕が望むのはそれだ。お前、その能力使って、桜の心の中に、僕らを――、僕と衛宮を送り込め」

「――は?」

ライドウは珍しく眉を顰めると、意味が分からない、という風に首を傾げた。慎二は、ちっ、と大きく一つ舌打ちを漏らすと、苛立った様子で再び口を開く。

「だから、お前のその異界を作る能力と、異界開きの能力で、この僕と衛宮を桜の心の中に送り込め、って言ったんだ!」

ライドウは慎二からぶつけられる怒声をじっと受け止めると、少しばかり考えたのち、言う。

「――なぜ、そんなことを?」

すると慎二は再び大きく舌打ちをすると、「物わかりの悪い馬鹿め」と一言呟いたのち、大きくため息を吐きながら、言い始める。

「いいか? さっきも言った通り、今、この世界は桜の箱庭で、そこに生きてたやつらは桜の分身みたいなものなんだ」

「――ええ」

「そして桜の魂はこの脳髄を通して――、この魂の運営を可能とする機械と繋がっている」

「――はい」

「でもって、魂を運営する機械は、その先にある本来なら操作対象である魂の怨念の逆流によって不名誉なことに操られ、奴らの『世界が、自分たちにとって幸福な世界に生まれかわりますように』というクソ下らない願いをかなえるために、暴走し続けている」

「――」

「本来なら有象無象の魂が暴走しようがこんな事態は起こらないんだが――、今、事実としてそんな事態が起きちまってるのは、女神と化している桜がそんな自分の分身であるみたいな奴らの願いに無意識のうちにひどく共感しちまっているからだ。つまり、奴らの願いに共感した桜がそんな奴らの魂を月へと集め、それが機械のキャパを超えるほど馬鹿みたいにデカくなりすぎちまっているから、機械は制御不能の事態に陥って暴走し、世界のやり直しなんていう事態が発生しかけている。世界のやり直しなんて出来事、本来ならどうあがいても無理な出来事なんだが、今回は積み重なってきた神話概念による強化と、魂の疑似合体という事態が重なり、それを可能としてしまったんだ」

「――それが、桜の――桜さんの魂に対して異界開きを行うこととどんな関係が……」

『いや、儂には読めたぞ、ライドウ』

相変わらず首を傾げるライドウにゴウトは声をかける。

「――ゴウト?」

『つまりこやつは、そんな桜の心の中に入り込み、桜を改心させることで、奴らと共感を――、繋がりを断ち、しかるに機械の暴走を止め、後に機械を正常に操ってやることで、この事態の収拾を図れるはずだといっているのだ』

「その通り。なんだよ。お前、本当に見た目にあわず、この中で一番物わかりがいいな。気に入ったぞ」

『見た目に関しては余計なお世話だ』

「とにかく、だ」

ゴウトが機嫌を損ねたよう言い返すも、慎二はその抗議の言葉をまるで気にする様子を見せることもなく、続く言葉を述べる。

「そういうわけで、ライドウとかいうの」

「――」

「僕の妹を救うために、まずはお前の力を僕に貸せ。そうすれば自動的に――、お前らの世界を救うとかいう目的も達成されるだろうよ」




ヘルマン・コーエンが指摘しているように、人は異邦人の中に人間を発見する。異邦人への愛では、ナルシシスティックな愛は消滅する。なぜならそれは自分に似ているからではなく、自分とは異なる独自の存在としてその人を愛するということになるからだ。新約聖書の「汝の敵を愛せ」は、同じことをより的確な形で表現している。その異邦人が汝にとって、まったく別個の独立した存在になれば、もはや敵はいない。汝が真の人間になったからだ。異邦人と敵を愛し、ナルシシズムを克服することは、「我は汝」になって初めて形になるのである。

erich fromm, -The Heart of Man: Its genius or Good and Evil-
エーリッヒ・フロム ―悪についてー より


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二十七話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (三)

子供に言葉をかけたり、何か働きかけをする際に、大人はまず自らに問うてみることが要るかもしれない。「元気を出して」「ほら、強いよい子でしょ」などという言葉を一見、相手のために口にしているようでいて、実は相手がそうなってくれたら自分の気持ちが楽になる、という主体を秘かに自分に置いていることに気づかずに、励ましたり、慰めたりしていないかを。
 
『子供の心に寄り添う営み』より


薄暗がりの中では赤青の光が緩やかな速度で交互に点滅している。音の字面だけで見れば人に不快な思いを抱かせるかもしれない光の点滅はしかし、人の目に影響与えないよう考慮されているため決して見る者の不快感を誘うことはなく、静寂の中に響く微かな電子の音は緩やかに混ざり合って聞く者の心地を落ち着いたもの導く音階に調整されていた。自然に存在しえない合成の業をして作られたそれらの光と音は、この場所が自然によってではなく、人の手によって造られた場所である何よりの証拠と言えるだろう。

 

「マイク。状況は?」

 

そんな人の手によって生み出された巨大な施設――、グラズヘイムという世界の平和を管理するために作り出された施設の中、私は目の前にある巨大なディスプレイを見上げながら、施設の管理者――統括コンピューターであるマイクへと話しかけた。

 

「順調です。現在、予定よりも早いペースでエトリアの人々を収容できています」

 

ディスプレイ上の画面には世界樹の大地の上に張り巡らされた磁軸を利用してエトリアから運ばれてきた人々が所狭しと映し出されている。彼らはシギ―含む数十人の冒険者たちの手によって磁軸を利用してピストン輸送されてきているのだ。彼らは磁軸という多少使用に制限はあるものの、離れた場所と離れた場所の移動を可能とする便利な移動手段を利用して、エトリアからこのグラズヘイムの土地に避難してきている真っ最中なのだ。

 

「そう……」

 

そうしてグラズヘイムへとやってきた彼らは、次々とグラズヘイムという施設内に存在している上層階層付近の無事な空いた部屋へと送り込まれてゆく姿を眺めながら、ため息を吐く。自らの口からこぼれたそれは果たしていかなる意味をもってして吐き出されたものなのかは、自分ですらも把握できていない。

 

「リッキィ……」

 

マイクが私――フレドリカ・アーヴィングの愛称を慰めるような声色で呼ぶ。その声色は数日前の彼だったならば出せないだろうような何とも優しく、思いやりに満ちていた。

 

「ん……、ありがとう、マイク」

 

彼という機械の体と頭、そして魂を持つ存在がそのような人間のことを慮れる存在に変わってくれたことを喜びつつ、しかし抑えきれぬ不安を隠すことも出来ないままに応答する。不安に背を押されるようにして見上げれば、視線は巨大ディスプレイの端へと向けられていた。そうして向けた視線の先には、グラズヘイムという場所と同じく、旧人類の手によって生み出された施設のカメラからの映像が映し出されている。多分はこちらを気遣ってだろう、ディスプレイの端に目立たぬようまとめられた画面タブの群れには、蠱毒の術式とやらによって生みだされたという毒々しい色合いをした紫色の毒が、世界樹の大地を徐々に融解させてゆく姿が映し出されていた。

 

「マイク」

「……了解です、リッキィ」

 

名前を呼ぶとこちらの意図を察知したマイクは、端の方へと寄せられていた画面の群れをディスプレイの中央へと配置し、拡大して映し出す。そうして巨大化し補正をかけられて鮮明さをも取り戻した画面群には、旧人類によって生み出された万年近くにもわたって人類を守護していた世界樹の大地が時を経過するごとに失われてゆくという、目を覆いたくなるような光景がありありと広がっている。

 

「……マイク。あとどのくらい持つと思う?」

「少々お待ちください」

 

尋ねるとそれまで中央に位置していた画面群は四隅へと追いやられ、ディスプレイの中央には円の形にデフォルメ化された二枚の地球の表裏図が現れた。表裏図には、かつての自分が若いころ見飽きたと思うほどに見たことのある、アメリカ大陸やユーラシア、アフリカ大陸などが記載されたそれでは、エトリア、ハイ・ラガードといった世界樹の大地造成後に生まれた都市名や村落名が世界樹の大地の地形に沿ってこまごまと記載されている。地図の上にある多分は大地や海の色なのだろう色は、だがしかし――

 

「あ……」

 

地図の上に記載されている都市、村落名ごと、次々と赤い色に染まってゆく。そして地上が欠落しつつある証である赤色の進行が止まったのは、地図の領域の実に30パーセントほどが染めあげられた直後だった。

 

「――計算が終了しました」

「そう。――それで?」

「現在、世界樹の大地にもとより存在していた大地の崩落部分を除外いたしますと、大地の50パーセント程度が融解し、あの泥の中に飲み込まれてしまったという結果が出ています。そこから逆算しますに――」

 

そしてマイクは息を呑むかのように一旦、言葉を区切ると――

 

「あと一日半もしないうちに、地球表面上に存在しています世界樹上の大地の全ては、泥の中に没することとなるでしょう」

 

冷静にその言葉を紡いだ。

 

「そう……、ありがとう、マイク」

「いえ……」

 

マイクはそれ以降言葉を発しようとはしなかった。沈黙は命令がなかったからではなく、気遣いの配慮の証なのだろう。そんな彼の成長のあかしに対して場違いな喜びを覚えつつも、ディスプレイを眺めてはため息をつく。眺める間にもディスプレイの赤色領域は徐々に広がってゆく。その進行速度はディスプレイ上に映し出されている地図の縮尺の影響故にのろのろとしたものであったが、例えばこれを地域ごとの領域図、あるいは市町村レベルの地図へと変換したのならば、相当の速さで赤く染まってゆくことだろう。世界はまさに今、滅びつつある。それもこれまでに人類が経験したことないほど、かつてないほどの速度で。

 

「――はぁ……」

 

一日半。マイクが多分私のことを気遣って正確な時間を述べなかったのだろうことから察するに、残された時間はそれよりも少ないのだろう。おそらく世界が滅びるまでの時間はもう三十六時間も残されていないのだ。こうしてため息一つ漏らす間にも、世界樹の大地はかつて地表と呼ばれてた場所に近い部分――すなわち、かつての海抜より低い部分より融解し、瓦解し、泥へと変換され続けている。泥へと変換された世界樹の大地はそして、地下の隙間――世界樹の迷宮第五相付近に存在している空間を通り、まるで地下水のようにハイ・ラガード付近に存在しているギンヌンガの大穴へと移動していっているのだ。

 

「ギンヌンガ。北欧神話にある、世界を生み出した大穴、か」

 

ギンヌンガ。世界樹の大地を踏みしめた旧時代の人間が何を思ってその名をその場所につけたのかはわからない。あるいは単純に、地表に開いたかつての大地を臨めるその大穴を見て、皮肉たっぷりの茶目っ気を発揮してそんな名前にしたのかもしれないけれど、まさかそんな名前を付けた大穴から、本当に世界の始まりだの終わりだのと関連した出来事が始まるなどとは――

 

「ほんとうに、何とも笑えない皮肉になっちゃったものね……」

 

彼らだって夢にも思ってもいなかったことだろう。

 

「――リッキィ」

 

旧人類が平和の思い託して作り上げたはずの大地が崩落してゆくという悪夢のような光景を目の前に、そんな彼らとともに平和な世界を作り上げるための一翼を担った一員として無念に思いを馳せていると、マイクからいかにもおずおずといった雰囲気のそんな声が聞こえてきた。

 

「何、マイク」

「エトリアからの避難民の輸送が完了しました」

 

問い直すとマイクは述べ、同時に眼前のディスプレイ中央の地図はグラズヘイム入り口付近の様子へと変化する。そうして切り替わった画面の中には本輸送計画の中心役として指揮を執ったサイモンの疲弊した様子や、彼に対して労いの言葉をかけているのだろうシギ―、サイモンに軽口をたたいているのだろうアーサーや、そんなアーサーを諫めるような言葉を投げかけているのだろうラクーナの姿が映し出されていた。

 

彼らは数少ないグラズヘイムの地理地形を肌身で知る人物故に、磁軸を用いてのエトリア=グラズヘイム間の輸送役、兼、グラズヘイム施設内の案内役として抜擢され、他の冒険者たちよりも多くの労働をこなす役目を請け負ったのだ。しかし彼らと同じギルドに所属している自分は、マイクという管理者を含め、唯一グラズヘイムの全機能の使用権を有している旧人類に属するが故、その労働を追うことなく、代わりにこの空調の効いた部屋で、全体進捗を見守る役割を任ぜられ、ここにいる。彼らとともに同じ苦労を背負うことができないことに少し残念な思いを覚えないでもないが、これも必要なことであると自分に言い聞かせ――、私はこうしてマイクと共にエトリアにいる多くの人をこのグラズヘイムに輸送するための指揮を執ることとなったのだ。

 

「随分と早く終わったのね」

 

画面に表示されている四桁の数字を見れば、作業は予定よりも大幅に早く終わったことが理解できる。

 

「ええ。予定よりも三時間程度も早く終わりました」

「そう……。一応尋ねておくけれど、エトリアに残った人はいないのよね?」

 

程度、などというコンピュータにしてはあいまいな物言いを面白く思いながら、私はこの避難作戦を指揮する者として当たり前のことをマイクに尋ねた。

 

「はい。皆さんとても素直な方だったらしく、こちらの避難指示に対してすぐに応じてくれたそうです」

「そう……」

 

そうして返ってきたマイクの答えに対してどこか満足した思いを抱きながら、しかし呆然とした返事をする。私がマイクの言葉に対してまともに返答することができなかったのは、その時私の頭の中にかつて自身がこのグラズヘイムという施設に避難/コールドスリープすることとなった直前のことを思い出したからだ。

 

「今の時代の人は随分とまた聞き分けがいいのね……」

 

魔のモノの襲来によって環境汚染が進み、もう手が付けられないほどまでに進んでしまった環境汚染に対応するべく、多くの人間は世界樹の梢、枝葉の上に造設した大地の上へと避難した。だが無論、そうして世界樹の上へと避難する過程において、地上に住んでいた誰しもが地上を捨てるという避難に対策に諸手を上げて賛同したわけではない。一部の人間などは、そのまま地上に残っていれば死ぬとわかっていながら、今まで住んできた場所を捨てられないといって、地上に自らの意思で残った者たちもいる。彼らは死ぬとわかっていながら、それでも死ぬならば愛着ある地上で死にたいと願って環境がひどく破壊された地上に残り、そして望み通り光の閉ざされた地上にて死していったのだろう。当時私はそんな彼らの考えが理解できなかったものだが、今にして思えば彼らのそんな選択は、あるいは魔のモノと呼ばれる負の感情を吸収するという存在がいたからこそのものなのかも――

 

「――マイク」

 

と、そこまで考えた瞬間――、

 

「はい。なんでしょうか」

「悪いけど、今、エトリアから避難してきた人が映っている――、十七番の画面を拡大してくれないかしら」

 

画面にちらりと映ったその見覚えのある証を見つけて、ぞっとした思いが背筋を駆け上がった。

 

「承知しました」

 

マイクは私の言葉に遊びがないことを察したのか、あるいは機械ゆえの素直さからか、私が言うや否や対象の画面を拡大してくれる。それはたった一瞬の出来事だった。だがそのたった一瞬の間に私の心臓の脈動は一気に最高レベルにまで達して、私の全身から嫌な汗を噴出させ始める。どうか私の見間違いであって欲しいという願いはそして――

 

「――嘘」

 

無惨に散り果てた。ぽつりと言葉が口から漏れてゆく。やがて拡大された画面に映りこんだ光景を見たとき、心臓の鼓動は最高潮となり、耳煩いくらいに脳髄を刺激する。

 

「リッキィ、どうかしまし……――!」

 

そうしてマイクは、映し出した拡大画面を見つめる視線の先、私が何に恐れ、何に怯え、何に全身を震えさせたのかを理解したのだろう、言葉を止めて、対象の画面の私が見つめている部分を静かに、自然な動きで拡大した。そうして拡大された画面上には、エトリアから避難してきたという人の姿が映っている。何とも気楽そうに、いかにも恐怖を感じていないように周囲と会話を交わす彼の服の隙間から覗けるその首筋には、見覚えのある、しかし二度と見たくなどないと思っていた、赤いきざしを見つけて、震えながらにして指さした。それは忘れようもない、旧人類の中においても一部の研究者などしか知りえない、旧人類を滅亡にまで追いやった存在の影響を受けた証にして、彼らの中から負の感情が食われた証だ。すなわちそれは――

 

「感情を喰われた証――」

「――マイク。さっきの地図をもう一度出して」

 

魔のモノ。そうして聞こえてきたマイクの言葉の中に含まれる単語を聞いて私は自分を取り戻した私は、慌ててマイクへと指示を飛ばす。するとマイクはイエスとも了解ともヤーともさえ返事をすることなく中央にあった十七番の画面を巨大ディスプレイの端へと追いやると、中央に世界地図を映し出した。

 

「泥の汚染範囲の他に、世界樹のある位置を重ねて表示して頂戴」

 

指示を飛ばすとマイクは自らの気持ちよりも私を優先にしてすぐさま応対してくれる。その何とも機械チックな、しかし、今までの彼とは異なって彼の思いやりから発生した行いの過程に場違いな感動を覚えながらも、彼がしてくれた、私の指示の結果に視線をやる。

 

「――……!」

 

そうしてディスプレイ上に映った泥の汚染範囲と世界樹のある位置を地図上に併せて目撃した瞬間、私は完全に絶句した。

 

――七本あった世界樹はもう、一本しか残っていない……!

 

エトリアの西、フェンリルが発生させたという泥は、ヴィズルという犠牲の元、私たちがグングニルをもってして吹き飛ばした。しかし、ハイ・ラガードというエトリアからはるか東にある場所より発生した、ヨルムンガンドとかいう存在より発生したらしい世界を融解させるという泥はそこから世界中へと汚染範囲を広め、海都アーモロードと呼ばれる場所に立っているオリジナルの世界樹以外の地域を赤く染め上げていた。

 

「マイク。この地図の信頼性はどのくらい?」

 

現状をどうにも受け入れ難かった私は、マイクに対してとても失礼な質問を彼へと飛ばす。

 

「――リッキィ。残念ですが、地図はイレブンナインよりも高い精度で、正しい地形情報を示しています」

 

だがマイクは私の動揺を見抜いてだろう、私のそんな無礼を気にしたという様子もないままに、むしろこちらを気遣った声色にて、優しく声をかけてくる。

 

「――そう。ありがとう、マイク。それと、ごめんなさい」

 

彼の思いやりは、私を、彼に対する無礼に対しての謝罪が行えるほどにまで正気へと引き戻した。

 

「いえ。気にしないでください、リッキィ」

「――ありがとう」

 

そう言ってくれるマイクの気遣いに対して改めて礼を述べると、気を引き締めなおしたのち、ディスプレイの上へと視線を送りなおす。視線の先には、世界樹の無事を示す赤い点とその周囲にある未汚染を示す空白が映っている。

 

「マイク」

「イエス、リッキィ」

 

その名を呼ぶと彼はそれだけでこちらの意図を察したのだろう、ディスプレイの中央の画面は、とある大陸の南端にある、宇宙より飛来したオリジナルの世界樹を擁する海都「アーモロード」の現在の映像へと切り替わる。そうしていずこかに隠された旧時代の施設から送られてくる映像に映っている世界樹のオリジナルは、一見すると、いまだに無事な様子にも見えるが――

 

「マイク」

「ええ、リッキィ」

「世界樹、大地ごと、前より浮き上がってる――」

 

私が目撃した世界樹の姿は、以前、私がこの世界に復活した折に見たその時のモノよりも、周囲の大地ごとはるかに上の場所へと移動してしまっている。今、世界樹とその周囲にある多くの船の中継地点として作られた海都「アーモロード」は、その大地の際が海ではなく、崖となってしまうほどに大地が隆起してしまっていた。また、よくよく観察の視線を送ってやれば、そうして隆起している大地はまた、緩々と脈動し続けていることにも気が付ける。

 

「マイク……」

 

瞬間、私の心に浮かんできたのは、薄情なことに、盛り上がった大地にあった海都に住んでいただろう人々に対する心配の思いではなく、その大地の底に封じられているという存在のことだった。

 

「なんでしょうか、リッキィ」

 

そしてマイクは、多分私の混乱と動揺を理解したからこそだろう、どこまでも冷静に、機械のような冷たい言葉を返してくる。その冷たさに茹っていた頭の熱を奪われ、少しばかり彼のような冷静さを取り戻した私は、自らをさらに落ち着かせるため、目を背けてしまいたくなるような事実をあえて自らの口から発する決意をした。

 

「エトリアから避難してきたうちの一人の首には、赤く染まった部分があった」

「イエスです、リッキィ」

 

マイクは否定をしない。

 

「首が赤く染まってゆくっていうのは、とある存在によって負の感情が奪われつつある証……、そうよね?」

「――イエスです、リッキィ」

 

マイクは否定をしなかった。

 

「本来ならばそのとある存在は、地底深くで眠りについている。その存在がそうしておとなしく眠っているのは、宇宙より飛来した生物の負の感情を喰らい彼らが、世界樹という枷によっておさえつけられているから。そしてまた、世界中に植えられた世界樹のコピーが、その存在を押さえつけるのに一役買っていた。――そうよね、マイク」

「――――イエス、リッキィ」

 

マイクは一切の否定をしてくれない。

 

「けれど今、そうして増えた世界樹の上に作られた大地は失せていっていて、同時に、多くのコピー世界樹すらも失われた。そしてまた、世界の崩壊という事態に直面した新人類は多くの負の感情を生み出した。――その二つの要因によって、おそらくはそのとある存在が自らを戒める軛から解き放たれつつある。いえ、あるいはすでに――」

「――――――――イエスです、リッキィ」

 

マイクは一切の否定をしてくれなかった。言葉と共にディスプレイに映る画面は瓦解しかけているアーモロードから少し離れた地面の上へと移動する。映し出された地面はまだ泥によって汚染されていなかったがしかし、一見していまだ無事であるはずの地面は、まるでその下を巨大な土竜が通っているかの如く、盛り上がり、波打っていた。

 

「つまり――」

 

私はマイクの言葉と目の前の光景を残念に思いながら、呆然と呟く。

 

「魔のモノが、力を取り戻し、復活した――」

 

直後、盛り上がっていた地面は吹き飛び、地下よりやがて混ざり合った大地の狭間からひどくおぞましい姿をした蛇のような触手の群れが現れた。それはまさしくそして私の無念を示すかのよう最悪の予想が事実となった瞬間だった。

 

「リッキィ。残念ながら、貴方の推測は正しい。――そう……、イエスです、リッキィ」

 

マイクの冷静な言葉が静かな部屋へと響き渡る。そして。

 

「アーモロードが――」

 

巨大な姿の魔のモノが地面の中より現れた衝撃によってもはやグズグズの状態なのだろう世界樹の大地は大きく揺れ、アーモロードの世界樹があった大地は完全に崩壊した。

 

「クレタの世界樹が――」

 

画面の端では固い地面と根っこという支えを失った故だろう、世界樹は斜めになりながら海の中へと沈んでゆく。そして旧人類がクレタ島と呼んでいた場所の上へと作られた、かつての都市の姿をまねして作られた海都「アーモロード」のあった大地は完全に崩壊し、崩落し、やがて押し寄せてきた泥の中へと呑みこまれてゆく。そんな事態を喜ぶかのように、地面の底より現れた魔のモノは狂ったような速度を発揮し始めて、東に向けての強行進撃を開始した。

 

 

「僕の妹を救うために、お前の力を僕に貸せ。そうすれば自動的に――、お前らの世界を救うとかいう目的も達成されるだろうからさ」

 

格子状に形作られた光の壁の向こう側にいる慎二は言いながらライドウへと手を差し出す。相手が自らの提案を断るわけがないと確信しているようなその自信満々の所作は何とも彼らしいものだった。

 

「――」

 

対してそのような視線を向けられたライドウは、いつもと変わらず冷静の仮面の上に鋭い眼光を張り付けたまま、学生帽の下から鋭い視線をその手へと向け続けている。

 

『ライドウ。何を迷う必要がある』

「――ゴウト」

 

やがてまるで反応しないまま慎二の手を見つめ続けるライドウの態度に焦れたのか、ゴウトは壁を挟んで慎二と対峙するライドウの前へと躍り出ると、その翡翠色の瞳を向けながらに言った。

 

『異界開きをし、その内部にいる悪魔を退治し、事態の収拾を図る。多少形式は違えど、やることは我らがいつもやっていることと変わりないではないか』

「――」

 

ライドウはそして目を見開くと困惑した瞳をゴウトへと向け、そのまま口を何度か開いては閉じ、開いては閉じを繰り返した後、唇を噛み締めると、意を決したかのように口を開いた。

 

「――ゴウト」

『なんだ、ライドウ』

「――どうしたんですか、ゴウト」

『――? 何がだ、ライドウ』

「――今の貴方は、いつもの貴方らしくない。いつもの貴方なら、もっと冷静に、冷徹に、敵の言動の信頼性に疑問を呈するような言葉を発しているはずだ」

『――』

 

ライドウの言葉にゴウトはのけぞり、目を見開いて絶句した。ライドウはそんなゴウトの反応を自覚の現れだろうと判断したのか、畳みかけるように続ける。

 

「――ゴウト。確かに異界開きを行い、中にいる悪魔を打倒する、あるいは悪魔と交渉することで、異界を閉じさせ事態の収拾を図るのは自分たちにとって常の事です。しかしよく考えてください、ゴウト。ここは敵地で、その提案をしてきたのは、他でもない、そんな敵地の中にいた、自分たちが倒すべき敵として定めてきていた『桜』という存在の兄だと名乗る存在なのです。ゴウト。失礼を承知でもう一度言わせてもらいます。――なぜ貴方はそんな怪しげな存在が提示してきた案を何の疑問も持たずに実行してやろうと思ったのですか? いつもの冷静な貴方はどこへ行ってしまったのですか?」

『――』

 

ライドウの指摘にゴウトは答えない。ゴウトが答えないという事実が、ゴウト自身、ライドウが今しがた行った自らに対する指摘が適切なものだと判断したのだということを雄弁に語っていた。

 

「おいおい、ひどいこというね、お前」

 

ゴウトがそうしてライドウの言によって自己診断の思考へと叩き込まれているさなか、そうして自らの提案の信憑性を疑われた慎二は肩をすくめると、両手の指を胸のあたりにあてながら言う。

 

「お前らにこの世界を救う案とやらを提供した『桜』の言うことは信用出来て、その『桜』の兄である僕の言うことは信用ならないってわけ? あのお前たちを謀って利用しようした嘘つきのことは信頼出来て、こうしてお前たちの前に現れてやった僕のことは信頼できないっていうのは、まったくどういう理屈なのさ」

「簡単な話だ」

「ん?」

 

そうしてライドウへと向けられた質問に対して答えを呈したのはこれまで無言を貫いていたペルセフォネという彼女だった。ペルセフォネはそして聖剣の切っ先を壁の向こう側にいる慎二へと突き付けながら、言う。

 

「確かに彼女も貴様と同じく、怪しむべきところはある。なるほど貴様の言う通り、少なくとも彼女が自らの目的のために我らを騙して利用しようしたというのも、そのために彼女が嘘をついたというのも事実だ。しかし――少なくとも彼女は、彼女の行動は一貫している。彼女はこの世界を救うため、奔走し、そのために手段を用意し、提示し、世界がこのような状態になる前から我らの前に姿を現し活動し続けていた。そんな彼女と、このような最終局面になってから突如として敵地に現れ、世界を救うなどという言葉を吐き、敵の親玉である存在を救えという貴様。どちらに信を置くかと言われれば、それを言うまでもあるまい」

「は! ご立派な理屈だね、まったく!」

 

慎二はペルセフォネの言動に対して馬鹿にしたような視線と言葉を送り返すと、視線をこちらへと向けてくる。その舐めるような、こちらを値踏みするような視線は何ともおぞましく、不快感を催させるものだった。

 

「けどーー、おい、衛宮!」

 

その言葉にこの場にいる一同の視線が私へと集中する。

 

「お前はどう思う?」

 

そうして放たれた言葉は研ぎ澄まされた刃のように心の中に滑り込んできた。

 

「私は……」

 

鼓動が否が応にも高まってゆく。額は焼き鏝を当てられたかのように急激に加熱した。急に渇きを覚える。口の中に湧き出た唾を嚥下した。喉の鳴る音が体内で反響して、やけに大きく聞こえてくる。両手を固く握りしめたのち、解放した。ゆっくりと息を吐くと体内にたまった熱が静かの外へと放出されてゆき、少しばかり冷静さが脳裏に戻ってくる。

 

――そんなこと、思考するまでもないことだ

 

目の前にいるこの慎二を名乗る男は怪しい。それは間違いのない事実だ。常識的に考えれば目の前のこの男の提案など即時に跳ねのけ、却下すべきものに違いない。何せ目の前のこの男が出現したのはライドウの言う通り、月の裏側に存在する、人が人の身を保っている限り長い生存どころか正気でいることすら望めないだろう、そんな天の果てにある孤独の檻にも等しい施設の内部なのだ。そう。この男はそんな施設の内部において、その施設の内部の重要要素である『桜』の脳が保管されている場所に出現し、あまつさえはそんな『桜』を救ってほしいなどと宣ったのだ。

 

「おい、衛宮。この僕が質問してんだぞ。なんとかいえよ」

 

確かに目の前にいる目の前のこの慎二の姿をした男は、かつて私が知る慎二とほとんどまるで変わらない言動をする。確かに慎二ならば今しがたしたように自分以外の全ての人間を見下すような言動をするだろう。確かに慎二ならば、このように相手を馬鹿にした物言いをするだろう。

 

「おいっ!」

 

確かに慎二ならば、先のように自分の提案が受け入れられなかった場合、今のように無視された場合、多少ヒステリックな言動をして見せるだろう。確かに慎二ならば、私の持つ歪みを見破り、あっさりと指摘して見せるだろう。そうとも、目の前にいるこの慎二によく似た姿をした男は、確かに私の知識と記憶の中に存在している慎二と同じ言動をしてみせる。

 

だがしかし、だからこそ、目の前のこの慎二の姿をした男は怪しいとしか考えられない。目の前のこの男が仮に桜の兄である慎二というのならば、なぜ彼がこんな月の裏側にある基地などという場所にいるのか。目の前にいるこの男がかつて万年ほども前の聖杯戦争のおりに出会ったあの慎二であるというならば、なぜ彼は今この時計の針が幾億回も回った先にある時代に存在しているというのか。目の前にいるこの男が自分の知るあの狭量で、身勝手で、自分のことを最優先に考えるあの男であるというのならば、なぜそんな慎二が――、彼からしてみれば自らの使える道具の一つでしかないはずの桜という女を救いたいというような言動をするのだろうか。

 

――いや……、だがしかし……

 

疑う材料はいくらでも湧きあがってくる。だが同時、目の前の男は慎二であると信じてもいい材料も、同じくらいに湧いて出てくるのだ。湧き出てくる条件をいくら比較し、精査してみても、答えは一向に出てこない。

 

そしてまた私は、桜を救いたい、その方法がある、などという慎二の姿をした彼の言葉を心の中では信じたいと思っている。もしかしたら目の前のこの男は確かに慎二であり、改心と何らかの理由があった結果、彼はこうして目の前に現れ、そのような言葉を述べているのかもしれないと思いたいとすら、感じている。けれども今までに培ってきた記憶が慎二という人物がそのような言動をするはずないと否定していた。何せ彼は、長きにわたって桜という人物を虐め続け、あまつさえはその身に宿した執念と欲望の赴くままに遠坂凜を己の情欲で穢そうとした男でもあるのだ。無論、私自身も私自身の欲望を満たすため、彼がそうできるような、そんな悪心を抱いてしまうような環境へと手引きをしたのだから、目の前へと訪れた好機に彼が乱心し、訪れた絶好の機会が彼の理性を崩壊させただろう事実を省みるに、むしろ私の方にこそ罪があると言えなくもないだろうが――、ともあれ慎二という男は、そうしたいかにも小悪党じみた男であるはずなのだ。だからこそ私は――、目の前にいる慎二とまるで同じ姿をした男に何の言葉も返せないでいる。沈黙は懊悩の何よりの証左だった。理性は相反する条件を、感情は矛盾する思いを鉾盾として、戟を交わしあっている。逐次投入される疑念と疑念を燃料に、理性と感情の両者はいつ終わるとも知れない戦いを脳裏において繰り広げ続けていた。

 

「私は――」

 

そんな互の鉾先同士を丸め合う激しさに耐えかねたのだろう、気づけば言葉が口から言い訳するかのよう意味のない言葉が飛び出しかけた、その時。

 

「まぁ、別に、お前らがどっちを選ぼうといいんだけどね。――俺としては」

 

慎二の姿をした男の漏らしたそんな何とも彼らしくない物言いが、私の思考の鉾先を別の方向へとすり替えた。

 

「――何?」

 

多分、私が不意に漏らしたその疑問の言葉は、おそらくその場にいるすべての人間の思いの代理であったに違いない。おそらくそんな言葉は、そうして自らがした提案が、慎二という人物のことをよく知らない彼らどころか、私という存在にすらも疑念とともに迎え入れられたという事実が気に食わなかったという思いから漏れて出たのだろう。自信満々に提案しておきながら、しかしそれが他人にとって受け入れがたい提案であると知るや否や、すぐさま自分を慰めるかのように、他人に自分の立場の方が上であるということを知らしめるかのような内容に聞こえるその言葉は確かに私の知る小心者の小悪党である彼が述べるに相応しいものだ。「まぁ、別に、お前らがどっちを選ぼうといいんだけどね」、と、もし慎二が述べたのがたったそれだけならば私はこんな疑念を持つこともなく、その台詞はいかにも慎二らしい苦笑していたかもしれない。だが――

 

「『俺としては』、というのはどういうことだ?」

 

後半のその物言いは――、その、如何にも慎二らしくない自称と言葉は聞き捨てならない。

 

「あー」

 

問い返すと、慎二はひどく億劫そうに眉を顰めると、如何にもわざとらしく「しまったな」、と言わんばかりの態度で片手で顔を覆い隠すと溜息を吐き――、

 

「まぁ、言った通りだよ、衛宮」

 

如何にも慎二らしい口調でそう言いなおした。

 

「僕はね。別にお前らが僕の提案に乗らず、お前らのやり方で世界を救ってくれても構わないんだ。例えば――、多分、お前らの側についた『桜の大人の部分から生み出された桜』が言う通り、マイクを利用して暴走しているシステムを書き換え、世界中の法則を改めて支配するやり方を実践するってやり方でも、世界は救われる。例えば、僕をぶっ殺して、ギルガメッシュとイシュタル化した遠坂を助けて、その上で――」

 

――ビーッ、ビーッ、ビーッ!

 

メディ子のショルダーバッグから発生した何とも無機質な音が慎二の言葉をぶった切り、闇に覆われた部屋の中へと響き渡った。視線が一挙に慎二からメディ子へと集中する。

 

「わ、と、うわ、ちょ、な、なんで……!」

 

メディ子は慌てた様子でショルダーバッグの蓋を持ち上げると、出来た隙間に手を突っ込んだ。そうしてメディ子はガサゴソとカバンを漁ったのち、「こ、これか!」と言いながらバックの隙間より手を抜き出して、いまだに甲高い音を立てるそれを取り出した。

 

「そ、それは……」

「マイクの寄越した通信機?」

 

パラ子とガン子はメディ子の手中に収まっているモノを見て、首を傾げるながら言う。彼女の小さな手に収まっているその機械は、双方向通信強化のためかアンテナらしきものが一本長く伸びており、また、アースなのか電線なのか、フックのようなものがアリアドネの糸に接続されている。また、その細長く四角い機械の側面には複数のボタンが引っ付いており、表面には網状のプラスチックが張り付けられている。見た目、昔の古いタイプの携帯電話――というよりもラジオに近い形状をしているそれを取りだしたメディ子は、静かな空間に響き渡る耳に煩い音を規則正しく鳴らしているその機械の表面を慌て気味に撫でまわすと、やがて側面にあった一つのボタンを押して、「は、はい、もしもし!」と答えた。

 

「――どうやら無事に繋がったようですね」

 

すると多少のノイズが高周波と共に飛び散ったのち、そんな声が聞こえてくる。私はその声に聞こえ覚えがなかったが、パラ子らが顔を見合わせて驚いた表情を浮かべながらもどこか満足げである様子から、その声の主が彼らにとって聞き覚えのある声であるのだろうことを察知した。

 

「は、はい! 大丈夫です! 聞こえています!」

「確認しました。――こちら、マイクです。この通信を受け取る余裕があるということは、そちら側に一定の余裕がある状態であると勝手に判断させていただきます。本来ならば迷宮探索という静寂と慎重を要する作業を行っております皆さまにこちらから通信することは控えようと思っていましたが、緊急事態です故、どうかご容赦ください」

 

メディ子の声を聞いた相手――マイクは言葉を矢継ぎ早に述べると、居ても立っても居られないといった声色と口調のまま謝罪を行った。そして通信機の向こう側にいる存在は、メディ子の返答を待つこともなく、再びその口を開く。

 

「――端的にお伝えします。地球上、クレタ島の世界樹の下に封じ込められていた魔のモノが復活しました。世界樹の大地とアーモロードを崩落させ、泥の中より浮かび上がったその魔のモノは、東の方に向かって一直線で移動したのち、とある地点において停止。のち、泥状と化していた世界樹の大地に身を投じると、そのまま泥の中に沈下し始めた、との事です」

「――はぁっ?」

 

通信機の向こう側から聞こえてきたマイクの言葉に対して真っ先に反応したのは慎二の姿をしたその男だった。慎二の姿をした男はそのまま無言で手を振るうと、自身の近くの空間に青と白と緑と黒の部分が多い球体を生み出した。その形状と色合いから直感的にそれが何であるかを見抜いた私は、自然とその答えを口にする。

 

「それは……、地球?」

 

そうして球体にある青は大気と海の色であり、白は雲の色であり、そして緑と青の大地を黒に染め上げていくものは、おそらくは蟲毒の術式によって生まれたという泥であるに違いなかった。慎二の姿をしたその男はそうして自らの手元に地球の現状を映し出す地球儀を投影して見せたのだ。

 

「……」

 

慎二の姿をしたその男はこちらの言葉をまるきり無視すると、自らが空中に投影した地球儀の表面を睨みつける。そしてやがて男の視線が疑似的に再現された地球上を移動すると、とある地点にぽっかりと開いた黒く巨大な点へと向けられた。縮尺から判断するにおそらく現実には二キロから三キロはくだらないだろう大きさのその黒点の投影図を見て、慎二の姿をしたその男は眉を顰めると呟く。

 

「ふん……、なるほど。まったく、あの強欲者め。――おこぼれだけじゃ満足できず、本体もむさぼろうってわけか」

 

慎二の姿をした男の視線は、多分はエトリアの西にある――、ある地点において固定されていた。その点の少し東側、およそ実測にして千キロメートルいかないくらい程度の位置には尖塔とそれを取り巻くケーブルのようなものがわずかばかりに存在している。

 

「ああ――、いや、もう、そんな思考もないのか? 単に本能的に、ご同類を求めているだけ? ――まぁ、どっちにしろ、あさましい所業であることには変わりないか」

 

――あれは……、グラズヘイムか?

 

その特異な形状からそれがグラズヘイムというマイクの本体が収納されているかつて富士山と呼ばれた霊場に作られた施設のある場所であることを推測した私は、そのグラズヘイムのある位置と投影された地球儀上にある黒点の位置から、復活した魔のモノとやらの位置がおおよそどのあたりの位置であるかを計算し――、

 

「まさか……」

 

そして導き出された答えが脳裏をよぎった瞬間、思い浮かんだ言葉の予想外さに、気が付けばそんな言葉を口にしていた。

 

「へぇ。何がまさかなんだ、衛宮」

 

慎二の姿をしたその男はニヤリと笑うと、問いを投げかけてくる。その意地の悪い笑みは、如何にも純粋な悪意に満ち溢れていて、私の脳裏にあの破戒神父の姿を浮かび上がらせた。同時、こちらが何を思ったのかを予測したのだろう奴の笑みがさらに深いものとなる。そうしたあまりにも悪意的な笑みが、私の予測に過ぎなかった答えを、確信の方向へと導いてゆく。私はそして慎二の姿をしたその男の胸の部位を睨みつけるた。そうして視線を移動させた先にあるベージュ色の穂群原学園の制服に包まれているその胸元は不自然なくらいに膨んでいる。そして私は、私がかつて参加した第五次聖杯戦争において、慎二がいかなる結末を迎えたかを思い出す。

 

「かつて――」

「うん?」

「かつて第五次聖杯戦争という悪辣な儀式に参加し、勝ち抜くことを望んだ慎二という男は、やがてその果てに桜という少女より譲り受けたサーヴァントという参加のための駒を失い――、しかしその儀式から脱落しなかった」

「……」

 

私が語った言葉を聞いた途端、慎二の姿をしたその男は、悪意に満ちた笑みを張り付けた状態のまま、器用に、ぴたりと停止した。反応を見て、私は私の至った結論の正しさを確信する。

 

「なぜならその男は聖杯戦争の監査役から新たなサーヴァントを与えられたからだ」

「……」

 

慎二の顔をした男は動かない。

 

「監査役――、言峰綺礼と呼ばれたその男より与えられたそのサーヴァントの名前は英雄王ギルガメッシュ。それは言峰綺礼が第四次聖杯戦争に参加した折、遠坂凜の父より奪い取ったサーヴァントであり、第五次聖杯戦争において暗躍していた言峰綺礼の協力者でもあるサーヴァントだった」

 

私の語りに対して誰も口を挟まない。

 

「無論、あのギルガメッシュという男が間桐慎二などという小物の男に使われることを良しとするわけがない。奴の――奴らの狙いは慎二を利用してとあるもの手に入れ、それを間桐慎二という出来損ないの魔術師に使用することで、呪いの汚染されて歪んだ聖杯を、その汚染された状態のままに降臨させることだった」

 

慎二の近くにある地球儀上に刻まれたいびつな黒点が徐々に拡大してゆく。

 

「やがて事態は進み――、そして奴らの予定通り駒として動かされ続けた慎二は、やがてそのあるもの――聖杯の確たる聖杯の少女の心臓を胸に埋め込まれ、二人の望み通り呪いに歪んだ聖杯として降臨した」

 

グラズヘイムと呼ばれる霊峰富士のはるか西、おそらくはかつて冬木と呼ばれる場所の真上にできたのだろうその穴は、やがて徐々に拡大してゆき、その存在感を増してゆく。

 

「そうとも。冬木に存在していた聖杯という『所有者のあらゆる願いをかなえる』願望器はとある呪いによって汚染され、『所有者のあらゆる願いを破壊を伴った悪質な形で叶える』悪質なおもちゃ箱へと化していた」

 

そして穴からはやがて、周囲に存在していた蠱毒の術式によって生まれたのだろう黒い泥よりもさらに黒々とした、まるでこの世の全ての悪を凝縮して生まれたかのような漆黒を携えたそんな存在が這い上がってきていた。その様を目撃した瞬間、私は自らの確信がまさしく的を射ていたのだということを理解する。

 

「やがて慎二は凛の手によって呪いの内より助けられたわけだが――、ともあれそうして慎二の体を通してこの世に這い出してきたその呪いの名前は――」

 

――この世の全ての悪/アンリマユ

 

 

「おっと、そこまでだ」

 

そうして黒点から這い上がってきたおぞましい呪いの塊の姿を目撃した私が、過去の記憶との共通点から導き出した、かつて敵対したその名――この世の全ての悪/アンリマユという名前を口にしようとした途端、慎二に似た姿をしたその男――、おそらくはアンリ・マユなのだろうその男は顔面に浮かんでいた悪意満載の笑みを氷解させ、そっと人差し指を己の唇に当て、「それ以上しゃべるな」という意思を露わにした。そうして男が浮かべる表情には遊びがなく、どこまでも真剣さばかりが広がっている。

 

「それ以上は口にしない方がいい。なにせ、今のこの世界では、それの名を呼べばその名が力を持ち、そういう生き方をしたやつは、そんな生き方と似た力を持つようになる。すなわちお前が今その名で俺を呼べば、俺はそういう存在として属性と性格、性質を固着されちまうからな」

「な……」

 

そうして男が述べた言葉があまりに予想外すぎたため、思わず素直に驚きが露わとなって噴出する。

 

「あーあ、まったく、途中までは上手くいってたんだけどなぁ。いやはや、そういう意味じゃあ、流石はかつて世界を滅ぼしたかけた存在。俺とは人間に対するアプローチの方向性が真逆だけど、世界樹という枷を失った魔のモノの、思慮深さだの通じる恐怖等の負の感情を直接吸い取る能力は伊達じゃねぇな。何せ、お前やそこのにゃんこみたいな冷徹さと猜疑心の塊みたいな奴からこうまで警戒心を失せさせちまうんだからなぁ」

「な……」

「『な……?』、あ、なに? なんで自分たちだけそれの影響下にあって、そっちの綺麗な顔した兄さんや、如何にもクソ真面目な顔した連中には影響及ぼさないかを知りたいわけ? ――いいぜ。教えてやる。何、簡単な理屈だ」

 

突如として訪れた予想外の出来事になんといっていいのか見当もつかず、壊れた自動人形のように繰り返し同じ言葉を口にしていると、私のそんな無様の態度と言葉を勝手に解釈した慎二の顔をしたその男は、指をまるで指示棒か何かのように回しながら勝手に語りだす。

 

「ほら、そっちの姉さんたちは生き返り肉体をもったばかりであいつの影響下にある大地に生えてた食べ物だのなんだのを口にしてないだろうけど、お前さんはこれまでの生活のうちでもろに口にしてたからな。んでもってそっちのにゃんこちゃんは、自分が存在するため、周囲にある魔力――、ああ、そっちの言い方だとマグネタイトをその猫の体で吸収してるからだ。死者の国に存在するものを口にしたものは、死者の国に属し、その国に属する存在の影響を受けるようになっちまう。――いや個人的には、そっちのペルセポネの名を持つお嬢さんがその影響を受けてないのが、何とも皮肉だなぁ、と思うけど――、ま、今、この瞬間においては、全ての原典であるギルガメッシュという男とそれを殺した男であるエミヤシロウ(/お前さん)のせいで、あの時の聖杯戦争に参加してたやつが強く影響されちまうようになってるし、何よりお前さんたちはすでに完成された状態の存在だからな。――まぁ、つまりはそういうこった」

 

そうして男は先ほどまでとは打って変わり、陰険さをまるで感じさせない何とも無邪気な笑みを浮かべてみせると、言う。

 

「とにかく、多分はお前さんが想像している、エミヤシロウ。お前さんの出した結論は間違いなく正しい。俺は確かにお前さんが思っているような存在だ。――かつて、桜の兄であった間桐慎二は、ま、紆余曲折ののち、その体を分解され、解体され――、やがてこの施設と世界を作り上げるための素材として使われた。そんな折、まぁ、奴らは、慎二の肉体の奥底に眠っている聖杯――イリヤの心臓に気が付かなかった。いやほら、普通なら解体して心臓取り出した時点で魔術回路の塊である聖杯の核である気付いてもよさそうなもんだけど――、曲がりなりにも慎二って魔術の大家の長男だったし、魔力を生み出すことは出来ないけど己の魔力を用いない魔術の行使は出来たし、何より、今しがたお前さん方が体験したように、魔のモノの影響で世界からは警戒心だの猜疑心だのみたいなのが薄れつつあったからね。魔力が使えはしないけど、生み出せる、みたいな判断降したんじゃない? ――ともかく、いろんな理由はあれど、ともかく結果として奴らはそして慎二の体に眠る俺と繋がったことのある心臓を見逃して、そのまんま世界を再構成するための材料として使用したってわけだ」

 

その男は何とも軽い感じで重い話を口にする。おかげで話の内容が内容だけに理解できていないのだろうパラ子らやペルセフォネは首を傾げているし、多分は己が似たようなことをやったから故内容を理解しているだろうヘイは理解不能なものを見るような目を慎二の顔をしたそいつへと向けているし、多分はこれまでに培ってきた経験から内容の細かいところまでを理解できたのだろうライドウとゴウトは困惑の眼を彼へと向けていた。

 

「まぁ、とはいえ、冬木ってば結界によって閉鎖されているし? それにいくら俺と接続経験があって多少なりと相性良くなったこいつとはいえ、こいつ単体でアンリマユ(/俺)を呼び出せるほどのキャパや才能なんてもんはないし? んなわけでこいつの心臓に欠片ばかし引っ付いてた俺は、慎二が世界の材料として解体されて以降、ずっと世界の裏側、スキルとかのシステムの奥の奥に秘匿されて眠ってたんだけど――、突然さっきばかしこの部屋ん中に体をもって復活しちゃってさ。いやまぁ、その時点ではなんじゃこりゃ、ってな感じで戸惑ってたら、いきなりそこの扉が開いて、『兄さん!』ってきたもんだからさ。あ、なるほど、こりゃ、この才能に満ち溢れた女神化したの俺と相性のいいお嬢さんのおかげで復活できたのね、って理解した直後、まぁ、お嬢さんの願い通り、その時点で俺はお前さんの知る『この世の全ての悪(/俺)』ではなく、そいつとの繋がりを心臓に持った男、「間桐慎二」として属性と性格の大部分を固定されちゃって――、その記憶を過去から植え付けらえて――、ま、あとは、お前たちの知る通りってな感じの流れになっちまったってわけだ」

 

そいつは――、桜の願いによって慎二の姿になったのだろう『その男(/この世の全ての悪)』は、なんとも慎二らしくもない口調でそう述べる。

 

「その口調は――」

「あ、これ? これはもともと、昔、俺がまだ人間だったころの口調だよ。ああ、いや、なんていうのかな。一から説明すると面倒なんだけど、俺は実はアンリマユなんて存在じゃなかった単なる村人Aだったんだが――、何の因果か、こうして本物に限りなく近い存在として復活しちまう辺り、皮肉な運命というかなんというか……。ま、とにかく、そういうことだから、慎二のことを知るお前からすれば、すっげぇ違和感バリバリかもしんねぇけど気ぃ抜くとこうなっちまうんだ。――ま、そういうもんだと思って納得してくれ」

 

その男――元アンリマユであり、現在慎二の姿をしているその男は、やけに軽い口調と調子でそんなことをいう。その軽々飄々とした口調や慎二の姿がどうにも私の記憶の中にある『この世の全ての悪(/アンリマユ)』の姿と重ならず――

 

「お前は――」

「ん?」

「お前は本当に、アンリマユ(/そう)、なのか? そうだとしたら、お前はいったい何のために、『桜』を救ってほしいなどという言葉を口にしたのだ?」

 

気付けば感じた思いをそのまま口にしていた。質問に対して慎二(/アンリマユ)が、ニィ、と唇をつりあげたのを目撃して、私は己の不肖さを悟る。おそらくは先ほど慎二が言っていた魔のモノとやらの影響もあるのだろうが、それにしても今の自分はあまりにも無警戒が過ぎている。

 

「いいね。いい質問だ。――これでようやく話を元に戻せるってなもんだ」

 

そうして待ってましたといわんばかりに口元を歪めた慎二は、元の慎二がするような軽薄かつ他者を見下すような表情を浮かべなおし、桜を指さすという。

 

「ま、なんだかんだといったけど、とにかく、今の僕の願いは一つだ。――桜を救ってほしい。それが叶えられたとき僕(/俺)は――」

 

そうして慎二の姿をしたその男は、慎二の声と口調で、しかし何とも慎二らしくない願いを口にすると――

 

「等価交換として、今、この僕が持つ力と、今のこの世界中に散らばっている僕の側に属する力と状況を利用して――、世界の救いなんていうたわけた願いを、お前らが今しがたやろうとしている手法よりも多くの人間にとって望ましい形で叶えられる手法を用意してやろうじゃないか」

 

しかし、何とも慎二らしい他者を見下すような態度と声色で、何とも尊大にそんなことを口にした。同時、慎二のすぐ近くにある地球儀の冬木に会った黒点からはい出した存在は、その闇の触手を世界樹へと伸ばし始め――、そしてすぐ近くにあるグラズヘイムを呑みこんでゆく。

 

「あ……」

 

呆然と呟くと、反応して慎二が意地悪く笑った。その笑みは何とも慈愛に満ちていて――

 

「さぁ、選択するのはお前だ、衛宮(/エミヤ)。世界をどんな方向に転がすか――、今、この世界においてしかしなおも正義の味方なんてものを目指そうとするお前だけにこそ――、その権利と義務がある」

 

その誘いは如何にも悪魔の言葉が如き魅惑に満ちていた。そしてマイクのいる本体を失った私たちは、悟る。

 

――もはや私たちには、目の前にいるこの慎二の姿をしたこの男――、この世の全ての悪(/アンリマユ)と交渉し、その悪性存在たる彼から可能な限り多くの情報を引き出したうえでなければ、世界をどうやって救うのかの判断すらできない状態に陥ってしまっていることに

 

 

側にいる仲間たちからはもはや完全に口を挟もうという気配が失われている。そしてまた同時に、彼らからの視線がこの身に集中したのを自覚した。私はおそらくは彼らが、彼や彼の事情を知らぬ自分たちよりも、彼の事情を知る私にすべてを任せた方がいいと判断したのだろうことを予測する。私はそんな判断をくすぐったく思いつつ、しかしまた、少しばかりの負担と緊張感を覚えながらも、彼らのその判断が信頼によってだろう託されたことを強く自覚し、覚悟を決めた。

 

「慎二」

 

そうして胸の中に発生した諸々のわだかまりや目の前の存在に対する疑念はいったん置いておいて、目の前の存在が望んだよう、彼のことを慎二の名で呼ぶ。

 

「ん? なんだい、衛宮」

 

すると慎二の仮面をかぶりなおしたそいつは、如何にも慎二らしい口調で私の言葉に返事をした。多少の違和感を覚えつつも、私は慎二(/アンリマユ)に改めて湧き上がってきた疑問をぶつけてみる。

 

「まずここをはっきりとさせておきたい。お前という存在が、桜の願いを受けて慎二の情報から再構成された――、慎二の仮面をかぶせられた『慎二』であるというお前の言い分は理解した。しかしならば――、なぜおまえは、この世の全ての悪(/そう)であるはずのお前は、慎二という存在の願いを叶えるために動こうとするのだ? その先にあるのは、おそらくアンリマユ(/君)が最も嫌う、平和という状況の訪れた世界なのだぞ?」

 

そうして私が尋ねたのは、まずもって抱いた疑問だった。彼が――、慎二の顔をした目の前の男がアンリマユという世界の全てにとって悪と呼ばれるはずの存在であるならば、彼の願いは善神アフラマズダの作り上げたこの世界を破壊しつくすことにあるはずだ。もし彼が私の指摘した通り、そして彼が暗中にて言う通りそんな存在であるというならば、いくら彼が慎二という男の仮面をかぶっていよう――、そしてまた、私の知る限りひどく身勝手であった慎二の仮面をかぶっているからこそ、世界/桜を救うという彼の言動がどうしても信じられないものとなっている。

 

「あー、うん、なるほど。まぁ、お前のその疑いはわからないわけじゃない。そりゃ、俺だって本心としちゃ、こんなクソみたいな世界、さっさとぶっ壊れちまえ、なんてすら思ってる。でも――、まぁ、うん、恥ずかしい話、俺はどうもこの慎二って男みたいなやつのことが好きでね」

 

そうして慎二の顔をした男は、ひと時だけ慎二の顔を外しながら言う。

 

「慎二のことが?」

「ああ。ほら、こいつ、自尊心高くって、そんな自尊心の高さに呼応するかのように目標も高いくせに、高い自尊心に見合うだけの能力がなくって、なんていうか、自分にとって都合のいい部分ばっかみて、最終的に自爆する小者のタイプじゃん? つまりこいつは、それがどうでもいい誰かや世界にとって間違った願いだろうが、知ったこっちゃないし、そんな見たこともないどうでもいい誰かや自分にとって厳しいだけの世界より自分や自分の周りの世界の方が大事に決まってんだろってな性格なんだ。そういう何とも身勝手で、何とも人間臭い奴が――、俺っていう存在は大好きなのさ。――ああ、いや、もちろん、変な意味じゃなくってね」

「――つまり、世界の破滅っていうのも確かに魅力的な選択肢ではあるけれど、結局それは自分の意思ではなくアンリマユとしての本能的な働きによるものであるし、そんなどちらかと言えば自分というよりも自分に宿った存在の願いなんかより、今の自分の仮面であり、同時に自分自身でもあるといえる、そんな自分にとって好ましい存在である慎二の願いを叶えてやりたいと、そういうわけか?」

「その通り(/That’s right!)! いや、なかなか話が分かるようになってきたじゃないか、お前!」

 

そうしてテンション高く答えた慎二の――、アンリマユの言葉はおそらく本心からのものだったのだろう。なるほど慎二はどちらかと言えば自分の情動や感情に正直で、他人の安否や幸福よりも自分の願いを優先する小悪党だ。そんなならばなるほど、そんな慎二の身勝手さがアンリマユという悪性存在にとって心地よく、故に彼は慎二という己と同類の存在が実は心の底で秘めていたのかもしれない、桜を救いたいという願いを叶える気になったという点にも、少しばかり納得がいく。

 

「――まぁ、いい。いろいろと疑問点はあるが、一応はその体裁で話を進めよう」

「おいおい、何だよその言い方。まったく、衛宮のくせに生意気だな」

「続けて私が聞きたいのは――」

 

そうして私は、目の前の男が慎二らしい口調で述べた抗議の言葉をまるきり無視すると、次の議題を口にした。

 

「君の言う、桜の救いとはなんだ。なぜそれが君の言うところの世界の真の救いとやらと直結する? なぜ私たちのやろうとしている手段では世界は真に救えないなどと、君はいうのだ?」

「あー……」

 

尋ねると慎二はひどく億劫そうな顔を浮かべるとともに一旦顔を虚空へと向けて視線をさまよわせると、顎を撫でながら、やはりひどくめんどくさそうな表情を浮かべつつ口を開いた。

 

「それを教えてやってもいいが――、もちろん、多少話は長くなる。まぁ、それでも知りたいってんなら、教えてやってもいいけど――」

 

そうして勿体付けて述べる慎二の言葉を受けて周囲を見渡すと、視界に収めた顔の中に否定の意を含んでいる人間がこの場にいないことを確認すると、私は慎二の方を振り向きなおし、赤と青の光の格子の向こう側にいる慎二の顔を見て、頷いた。

 

「教えてくれ、慎二。お前の知っていることを」

 

すると慎二はやはりめんどくさそうに一度だけ天を仰いだ後、首を左右に振ると、ふうぅぅぅぅ、と長く細い溜息をついたのち、静かにその口を開いた。

 

「――なぁ、衛宮。お前、ギルガメッシュがなんで英雄王なんて呼び名で呼ばれているか知っているか?」

「なに?」

 

そうして浴びせかけられた質問があまりに予想外だったため、私は思わず眉をひそめて応じる。

 

「いいから答えろよ、衛宮」

 

すると自分の質問に対して疑問の言葉を返されたからだろう、苛立ち気味に慎二は言う。どうやら目の前の存在は、慎二の仮面をかぶっているだけあって、短気で、自分の言葉に疑いをもたれることを嫌うらしい。

 

――ならばこれ以上彼の機嫌を損ねれば、情報を話さずじまいに終わってしまうかもしれない

 

「……それは彼がすべての神話の原典である存在だから、だろう」

 

懸念を抱いた故に私は、彼がこれ以上機嫌を損ねないうちにと少しばかり口早に応答する

 

「そうだ」

 

すると慎二は多少機嫌のよさを取り戻しつつ言った。

 

「ギルガメッシュという英雄は、全ての神話の原典だ。例えば――、ギルガメッシュとその親友の野人エルキドゥ、そして、バビロンにおいて西の果てのマシュ山に存在するイシュタルの夫ドゥムジのモノであるエリズの木、ギルガメッシュらに倒された天の雄牛やフンババは、やがてクレタ島という場所においてそれぞれ、ヘラクレス、クレタの世界樹、ミノタウルス、西の果てにあるアトラス山に存在する食べたものに永遠を与える黄金の木の実を携える樹木などへと変貌した」

「ふむ……、確かにクレタの世界樹が刻まれた指輪の印章や、ギルガメッシュとエルキドゥが雄牛や獅子と戦う姿が刻まれた――、いわゆるクレタのギルガメッシュと呼ばれるコインがあのあたりにはあったな。それと、女神ヘーラーに戦いと命を奉納する戦士長(/クーレース)がその当時、戦士として最も名高かったギルガメッシュに紛争して舞うの姿の言葉がやがて独り歩きし、女神に命と剣舞を奉納する戦士長、すなわち、ヘラクレスになったという言い伝えがあったが……」

「そうそう、それよそれ。で、そんなふうに同じような変遷をたどって、北上したその神話は、やがて北欧神話の原典となり――アウズンブラや、ユミル、オーディン、イグドラシルといった存在へと変遷し――、また、バビロンに住む神話を刻む知識層、すなわちカルデア人たちと祖を同じにするペルシア人たちの手によって――、それは古代ペルシア神話と呼ばれるものへと編纂されなおされ、森の悪牛王フンババ、あるいは天の雄牛グガランナはやがて贄として殺されるべき牝牛スリソーク、半人半神の英雄ギルガメッシュは半人半牛の巨人ゴーベッド・シャー、マシュ山にあるという世界樹は終末に不死の霊薬を生み出すガオケレナとすべての植物の原典である百種樹へと変化した」

「……推測して確認するに、北欧神話においては、天の雄牛がユミルを生んだ雌牛アウズンブラ、巨人ユミルか悪の巨人フンババ、それを殺したオーディンがギルガメッシュであり、イグドラシルがエリズの木とやらに変わったといいたいのか?」

「うーん、まぁ、北欧神話の方はどっちかっつーと、古代ペルシアの神話が大きく下地になって作られてるから完全にそうとは言い切れないけど――、ま、ともかく、どっちも一緒。ニコイチというか、サンコイチというか、ともかく各地の神話のいいとこどりが起こったのさ。ともあれこれが、ギルガメッシュという英雄が、最古の英雄王なんて呼ばれる理由なわけだ」

「ふむ……」

 

神話の成り立ち。神話。それを使役する存在。悪魔召喚師。そんな存在であるライドウのことを思い出して彼の方を向くと、目が合った途端、彼はこちらの意図を読んだらしく、いつも通り静かにこくりと首を縦に振った。

 

――どうやら慎二の――、アンリマユの語ったことは真実であるらしい

 

だがーー

 

「慎二」

「ん?」

 

慎二/アンリマユが語った、ギルガメッシュという英雄が英雄王などと呼ばれる理由や、彼の登場するバビロニア=シュメル神話体系が全ての神話の源であることに嘘偽りがないことを私は理解した。だが私には、慎二がなぜ今この時にそれをわざわざ語るのかが理解できない。

 

「それがこの度の事態とどう関係しているというのだ」

 

故に私は思わずそんな言葉を口にした。途端、慎二は再び口を開く。

 

「なぁ、衛宮」

「なんだ」

「じゃあさ。お前はなんで人間ってのがそんなあっちこっちでいろんな神話を紡ぎだしたのか理解できるか?」

「さて……」

 

そうして慎二は相変わらず意図の読めないことを告げてくる。だが私は、そうして語る慎二の表情が、彼がこれまでに一度も見せたこともないほどに真剣なものとなっているのを見て彼の質問が心からの問いであると判断した。真剣な思いから発せられた問いには、真剣に考えた思考の末に生まれた思いを返さねばならない。そんな私の中にある常識が原動力となっていた。そして私は慎二のそんな問いに答えるべく、唇に拳を当てつつ、彼の問いを思考し始めようとして――

 

「はるか昔の話だ」

 

しかしこちらが真剣に考えようとした様子から、私が慎二の問いに対しての明確な答えを知らぬことを察知したのだろう、慎二は思考をしようとした私を完全に無視すると、一人勝手に話をし始める。

 

「かつて人は生き延びるために別の何かから直接物を奪って、生存してきた。別の何かっていうのは、例えば、他の牛とか馬とかの動物の命だったり、鳥とか魚とか虫とか小さな奴だったり――、自分とは同種の、しかし自分とは異なる人間だったりしてきたわけだ」

「……」

「まぁさ。最初、それこそ本当に最初、自分たちに何ら余裕のない時は、いちいち『自分は誰それをぶっ殺して生きてきた』、みたいなこと考えている余裕なんてないわけよ。それこそ自分が生きるのに手一杯で、過去に自分たちが生き残るために起こした略奪、強奪のことなんて考える暇なんて、まったく、ない。でも――、例えば最初に文明と呼べるものを築いたバビロンの奴らは違った。農作、耕作などで生活基盤を作り、安定した生活を送れるようになった奴らは――、すなわち一定以上の知識層である例えばバビロニアのカルデア人を中心とした奴らは、やがて働く必要のない月夜、自分たちが殺してきた存在の――、自分たちが豊かに生活を送ってくるために犠牲にしてきた存在の幻影を見るようになった。いわゆる、心因性のトラウマによる幻覚幻聴ってやつを見たり聞いたりするようになったわけだな」

「ベトナム戦争においてアメリカ兵が罹患したようなものか」

「そうそう、その通り。そうして奴らは月の出る夜、眠りにつくたび、己の生み出した幻想によって苦しみ始めることとなる。自分が生きるために――、あるいは自分の生活を豊かにするために犠牲にしてきた奴らは自分に向かってこういうんだ。『よくも自分たちを犠牲にしたな。許さない。絶対に――、絶対にだ。お前の命が尽きるまで――、否、尽きた後すらをも呪い続けてやる!』ってね。そうして毎夜毎夜、自分たちが生きるために殺してきた存在に苛まれ続けてきたそいつは――、やがて自分の中に自分を守ってくれる存在を大きな存在を――、巨人という存在を作り出したんだ」

「もしやそれが……」

「そうだ。心因性ストレスを抱えた人間という存在が、自分が過去に犯してきた数多の『悪』と呼ばれる行動から逃れるために生み出したもの。それがお前たちが神話と呼ぶものなんだ。誰かを犠牲にすることでしか生きてこれなかった人間の罪悪感が、月の夜に自らを過去という名前の亡霊から庇護してくれる巨人の幻想を生み出した。――神話っていうものはね。そうした、いわゆる悪と定義するに相応しい簒奪者が、自らは多くの命と犠牲のもとに生かされているのだという事実によって発生する罪悪感という名の重しから逃れるため、救われるために必死でその辺に散らばっていた魔術と神を編纂して神話というものを生み出し――、そこに自分たちの血筋を組み込んだ。――神だのって概念は、人が自然現象を理解するために生まれた概念だ。でも神話が――、自分たちはそんな偉い神の子孫であり、そんな偉い神様たちが犠牲を望むからこそ、自分たちはそんな彼らを満足させるために――、多くの命を奪い取るのだっ……、てな具合に、誰かを傷付けてしか生きていけない自分を正当化するために生まれたものなんだ」

「……」

「で、今、この自分の罪――、責任という名の重しを自分で背負えない、背負いたくない奴らによって生まれた神話ってもんが、つい先日まで地球という桜の箱庭に住んでいた、桜の思考の分身に等しい――、自分の足で自分を支えられない奴らの負の感情によって起こされようとしている、っていうのが、今の現状なのさ」

「――なに?」

「世の中には三種類の人間がいる。遠坂みたいな勝手に自分で自分を救っちまうような奴と、お前みたいに、誰かの手を借りれば、そのうち自分をも救える奴。そして、桜のような、何をどうしようが救われないような、何がどうあろうと、自分なんか救われる価値なんかなく、下手に救われるくらいなら救われたくないと思うような存在だ。――蠱毒の術式によって余計なものとの接続を断たれ、魔のモノという枷から完全開放された人類のうち、ヘイムダルの男の鳴らしたギャラルホルンの呼びかけに応じたのは一部だったのを……、衛宮。お前も見ただろう? ――そうとも。長い年月のうちに桜の手によって牙を抜かれるよう選別され続けた新人類は、魔のモノによって余計な負の感情を抱くことすら許されなかった新人類はそのうち、桜みたいな、誰かに救われたいと思っているのにそれを口に出さない、たとえ救いを与えられようとそれが自分の望んだ救いの形でないのならば拒絶し、あまつさえは自分の意思では何一つとして動けないような――、誰か自分を守護してくれる絶対者に依存しなけば生きていけない、親離れの出来ていないガキみたいな存在ばかりが生まれるようになっちまったんだ」

「……」

「そうしてそんな自分が傷ついてまで誰かにあらがう気力を失っちまった奴らは、んでもってそうした負け犬根性たっぷりのクソどもが望むのは、世界という場所において自分が自分を絶対的に守ってくれる誰かの庇護下にある状況か、あるいは世界が自分の思い通りになるなんて言う状況だ。つまりあいつらは、そんな桜の分身みたいなやつらは、世界が自分たちの思うがままに動いてくれるか――、さもなくば、厳しくつらいそんな世界から自分を絶対的に守ってくれる神が存在する世界を望んでいる。だからこそ今、こうして神話が再誕の時を迎えた」

「――まさか、ならば」

「ああ、その通りさ。ニブチンのお前もようやく理解したようだね。――そうさ。魔術において源流たる部分が最も重要であるように――、この桜によって選別され、桜によって心を手折られた、桜のような人間ばかりとなった世界は、その桜のようになった心を救ってやらなけらば――、大人になりたくないと、ネバーランドの住人であることを望み続ける桜のような奴らの心を救ってやらないと、何度だって同じことを繰り返す。さっきも言いかけたけど――、例えばギルガメッシュとイシュタルを復活させ、お前らが地上に現れた魔のモノを――」

 

言うと慎二は手を振って地球儀を前に差し出した。そうして赤と青の光格子の目の前までやってきたそれは、エトリアの西にある場所――かつて冬木と呼ばれた町の直上部分において巨大な黒点を作っていたが――

 

「これは――」

「触手の球体みたいなのが……!」

 

やがてそこからは大量の蛇の髪のようにも見える、球体の全身より触手をはやしたおぞましい姿の存在が現れた。目の前の地球の縮尺から判断するに、それが現実には天にまでそびえる姿を持つ巨大な化物であることに間違いはあるまい。

 

「クラリオンをティアマトとして倒したのならば、この世界はバビロニア=シュメル神話体系の神話体系によって再構成されるだろうし、また、仮にピエールというギルガメッシュから太陽神アポロンとして認められた存在が太陽と例えた衛宮か、あるいはピエールとかいうやつがヴィーグリーズの土地と呼ぶその場所にて雄牛の形をとっている存在を破壊したのなら――、アポロン=ヘリオス=シャマシュ=ミトラスという繋がりを経て、この世界はミトラス神話の体系に基づいて再構成されるだろう。あの神話においては、ミトラス神が雄牛を殺したことによって世界が始まったわけだからな。――ああもちろん、シンとかいうやつがその力を振るってそこに漂っている巨人を――、ネフィリムとして殺せばYHVH体系の神話にて再生が行われる可能性が高いし、あるいはそこの剣――ラグナロクをスルトとして振るえば、世界は炎によって更新され、ダリやサガを中心とした北欧神話体系に収まってゆくに違いない。響とかいう九尾の狐にかかわるお嬢ちゃんを使えば、きっとこの嬢ちゃんは盤古や女媧なんかになって世界は中国神話系列で再生されるだろうし、クーフーリンとスカサハを利用すれば、ケルト神話系列で再生されるに違いない。そうだなあとは――、例えば仮に僕が悪霊として本来の姿を取り戻して、あそこにいる雄牛と巨人を殺したとしても――、そうなればそこにいるギルガメッシュによって予言者の名を持つといわれた衛宮が、やがて紆余曲折の末に響とかいう選ばれた十五歳の処女の子宮に精液を注ぎ込むなんて言う運命を得て――、そこから生まれる英雄サオシュヤントがこの僕を殺すなんて言う、まぁ、ゾロアスター神話に語られる伝承通りの出来事が起こっていくはずさ。都合のいいことに、この世界はかつて世界が滅んでからだいたいちょうど一万二千年の世界の更新期だしね」

 

荒唐無稽にしか聞こえない話には、しかし不思議なくらいに説得力があった。それはおそらく、この世界が再誕に向けて動いているという事態を肌身で体験し続けている自分たちだからこそ思えるものなのだろう。

 

『――まさかお主は……』

 

そしてまた、ゴウトは慎二の今しがたの言から、その体を構成している存在が一体なんという存在なのかを推測できてしまったらしく驚いた表情を浮かべた。それを見た慎二はやはり、しっ、と、人差し指を唇に当てて、その名前は言わない方がいい、との意思を身振り手振りにて示した。それを見たゴウトは、信じられない、と言わんばかりに首を振りながらも、その小さな体に宿している不釣り合いなくらいに大きな意志をもってして、自らの口を固く閉ざし、その小さな口から慎二の仮面をかぶるものの真名/神名――アンリマユというその名が漏れることを防いだ。慎二はゴウトがそうして自らの意図を読んで口を閉ざしたことを無邪気な顔で歓迎してみせると、意気揚々と両手をまるで指揮者のように振り回しつつ、大きく口を開いた。

 

「お前らがそんな神によって支配される世の中を――これまで桜がやってきたような歪な世の中を望むってんなら、まぁそれもいいさ。僕の――、慎二って男の願いは桜を救ってやること。世界がそんな歪な形になっても、一応それはまぁ、桜が望んだ世界になるってことなんだからな。もちろん多少不満の望む形ではあるが、この先の歴史がどんな神話に収束しようが、慎二(/僕)の願いは――、桜の望みはそれで叶うんだ。だけど、もし――」

 

「もし、お前らがそれを――、他人の傀儡として動かされることを良しとする発育不良みたいな奴らばかりが繁栄する世界を、他人の庇護下でぬくぬくと自己の責任を自ら負わなくて済む生活することだけを望むくそったれなやつらが蔓延る世界を嫌だってんなら――」

 

言いながら慎二は赤青の光格子の方へと手をさし伸ばしてきた。そうして慎二の伸ばされた掌が光の格子へと触れた途端、自分たちと慎二らとの間を遮っていた格子は儚く砕け散り――、

 

「慎二(/僕)の真の願いを叶えろ。すなわち、今や月と巨人の原典となっている桜の心を救って――、そこから派生したすべての人間の心を救ってみせるがいい」

 

細い腕が伸ばされてくる。私たちはそして――

 

 

 

 

 

「こ……、こ、は……」

 

目が覚めたとき、目の前には白塗りの壁があった。壁。そう壁だ。目の前にあるそれは、壁としか呼べない姿をしているのに、しかし壁と呼ぶにはあまりにも現実感のない姿をしていた。なぜならその壁には、色味がない。否、もっと言ってしまえば、壁にはそれが現実のものであると感じさせる要素――厚さというものがまるで存在していなかった。その壁は空間と空間の間に引かれた黒い線によって壁として定義されている状態にすぎないのだ。そしてまた、現実味がないのは壁だけではない。

 

「これは……」

 

振り向いてあたりを見渡してみれば、壁に連なる家々も、壁の支えとなっているはずの地面も、地面に敷かれている道路も、道路に存在している標識も電柱も信号も、道路から繋がっている橋も、橋の下に見える川も、川を挟んで岸の向こう側にある都会風の街並みも、街並みの中にポツンと存在する摩天楼の如きビルも、そのすべてがまるで出来損ないの絵本から飛び出してきたかのような、それを形作る輪郭によって「そうあれかし」と定義されたにすぎない代物だった。

 

「町……、なのか? しかも……」

 

線絵の町、とでも呼ぶにふさわしい光景の中、どこか落ち着いた気持ちで歩を進める。町の中は歩いた際に足裏を刺激する感覚すらも定かでない状態だった。見覚えのある町はしかし今、ほとんど完全に死んでしまっている。平素においても街中に微か流れる風の流れなどもその一切がなく、吐けば白く曇る息はその場にふわりと浮くことすらなく地面の上に落ちてゆく。耳を凝らしたところで人の気配を覚えるわけでもなければ、鼻を鳴らしたところで香りが鼻腔をくすぐることもない。もしも曙近くに見ることの出来る夜桜色に染まる空と、そんな漠とした空の中に点在する綿雲や、家々の窓や摩天楼のビルに仄か輝く白色。そして我が身が纏っている赤や黒といった視覚を刺激する光の要素と、この海沿いの町において晩冬あたりにのみ感じられる身を切るような寒さが存在していなければ、自分は夢見の心地に揺蕩っているのだろうかとすら思いこんでいたかもしれない。この場所は―ー、冬木の町はそれほどまでに自分の知る光景や状態とかけ離れていて、なんとも薄っぺらい感覚がした。

 

「なるほど、人の記憶とは頼りにならないな」

 

冬木の町。かつて××士郎が過去の全てを失った町。衛宮切嗣に拾われた××士郎が衛宮の名を与えられて衛宮士郎として生まれた町。すなわち衛宮士郎が生まれ育った町。そして。

 

――私の、故郷

 

そう。我が記憶の中にあるその姿形がすでに朧な状態となっている、かつ、そんな朝霧に包まれたような状態の記憶の細部における造形と周囲に広がる町の状態には多少の――、否、大いに異なる点こそ細部に多々見受けられるものの、大まかには一致していた。その事実が示すことはつまり、今自らの周囲に広がっている光景はかつての私が生まれ育った町のそれに違いなく、故に私は違和感こそ覚えるものの、ここが私の妹分である彼女の―ー、桜の心象風景であるということを、自然と受け入れられることが出来たのだ。

 

「……」

 

桜。間桐慎二という私が良くつるんでいた悪友の妹にして、かつて私がまだ胸に青臭い理想と泥くさい正義とを何の疑問も持たずに無邪気に同居させられていたころ、そんな私の未熟さを肯定するかのような儚い微笑み携えていつも私の隣に佇んでいた、私にとっての妹分と呼べる清楚な少女。そして今、世界の敵となった女。

 

――ああ、間違いない

 

だがしかし、そうして世界樹が屹立する世界において討伐すべき異常であると断定された女の心象は、なるほど異常な状態でこそあれ、かつて私の隣で微笑んでいた時のよう、日常を愛する祈りに満ちている。そうして日常と異常の入り混じった桜の心の中に作られた心象風景――、いわゆる異界にライドウの術式「異界開き」によって送り込まれた私は、そんな彼女の記憶によって形作られた町を歩んでゆく。向かう場所は自然と理解できていた。

 

――否、理解できないはずがない

 

なぜなら、色素を失い、まるで死んでいるかのようなその街の光景において、ほとんど唯一、色を失わずにある存在が、町の高台の上にいくつか点在していたからだ。

 

「間桐の家。私の家。そして、穂群原学園、か」

 

贋作の町の中に存在する真作の名は、桜の家、桜の先輩である衛宮士郎の家、そして桜の通っていた穂群原の学校の校舎というものだった。閑静な住宅地を抜けた先にある冬木の町の高台の上に存在しているそれら三つの建物は、この物寂しい夜空ばかりが目立つ世界においてほとんど唯一といっていいくらい多くの色によって彩られており、まさに別格としか言いようのない輝きを放っている。また、遠目から見える建造物のその造りも何ともはや精巧なものであり、その精度は投影魔術という、解析により読み取った情報から限りなく真作に近い贋作を作る能力を保有している私の記憶の中に存在しているものと寸分たがわないほどの出来映えだ。私はそして、あれらだけがこの狂ったような世界の中で唯一無二の存在となっているその理由を自身の経験から嫌というくらいに理解できていた。

 

「あれが桜にとっての日常の全て、というわけか」

 

摩耗していった昔の記憶がある。霊長の守護者として過ごすうちに消えて行ってしまった多くの記憶の中において、今なお変わらず色彩豊かに鮮明な形で思い出せる記憶は、どれもこれも自らにとってかけがえのない出来事の記憶ばかりだ。とある作家を真似て桜の生涯を『Das Märchen meines Lebens(/わが生涯の物語)』などと例えるならば、すなわちその本の原典であるともいえる場所が、桜にとってあの三つの箇所なのだろう。

 

「最も近いのは――、桜の家か」

 

判断を下すと、いつかかつて辿ったことのある、しかし今やほとんど見覚えのなくなっている蜘蛛の巣のような小路を縫い進めてゆく。おそらくは晩冬の季節なのだろう空の下にある町の空気はしかし不自然なほどに停滞している。そのくせ覚えのある冷たい朝霧だけはしっかりと存在しており、我が身を寒さと共に包み込んできた。

 

 

「よぉ、衛宮。遅かったじゃないか」

 

そうしてそろそろ防寒具でも投影してやろうかと思いながら進んだ先、見覚えのある歴史を感じさせる風情をした間桐の家の門の前にその男はいた。

 

「慎二」

 

両手に吐息を叩きつけてこすり合わせ、掌にわずかばかりの熱をおすそ分けしながら、その名を呼ぶ。慎二(/アンリマユ)。そうしてこの世の全てよ呪われてあれ、というそんな物騒な名を持つ、かつての私の親友だった男を、かつての私の親友の名前で呼ぶと、桜の願いによって呼び出されたこの世の全ての悪という存在でありるはずのそいつはしかし、何とも無邪気な笑顔で、かつての私の親友のように、私の言葉に反応した。

 

「目が覚めたとき、僕は僕の部屋にいた。お前は?」

 

ベージュ色の穂群原学園の冬の学生服の襟を着崩して纏っているその男(/慎二/アンリマユ)は、いつも慎二がやるように髪をかきあげながら言う。そうして慎二の顔で慎二ならやるだろう所作をされると、この目の前の男が慎二と完全に同一の存在でないと理解していながらも――、どうにもこの目の前の男が完全に慎二であるように思えてしまうのだから、つくづく人間の記憶と感覚などというものはあてにならないものだ。

 

「橋の近くだ」

「ふぅん……。ああ、だから変な方向から来たのか、お前」

 

言うと慎二は少しばかり考え込む仕草をしながら言う。仕草によって襟の開かれた首元が大きく動き、服と肌の隙間に寒風が侵入してゆく様を幻視したが、しかし慎二はまるで何の反応もせずに、ただうんうんと考え込むばかりである。どうやらこの男は私と違って、寒さというものを感じない性質であるらしい。そんな性質がはたしてこの男の生来の気質によるものなの、あるいは今の彼の能力によるものなのかは知らないが、今、この時この瞬間だけそんな寒さを感じないという特性がひどく羨ましかった。

 

「……ちょっと意外だね。起きたとき僕は僕の部屋にいたから、僕はてっきり、そいつと一番関連した場所に飛ばされるのかと考えたんだ。だからお前は多分衛宮の家に飛ばされたんだろうと思っていたけれど――」

 

思考がまとまりきらなかったのか、慎二は尋ねてくるように言う。

 

「さて、彼女の――桜の考えることなど私にはわからないよ。だがまぁ、あえてその事情を考えるなら――」

 

故にそんな慎二の言葉を私は受けると――、

 

「考えるなら?」

「――桜は、可能な限り、己/桜を否定した私に、自分の大切な思い出の場所に足を踏み入れてくれて欲しくはないのだろうよ」

 

暗がりの部屋から去るおり、桜が見せた怯え顔を思い出しながら言う。

 

「……は、なるほどね」

 

告げると慎二は納得したといわんばかりの態度で、しかし呆れたといわんばかりに大きく息を短く吐き捨てると、やれやれという風に首を横に振った。

 

「私の大好きな先輩が私のことを否定するわけない。そんな先輩は先輩じゃないってか? まったく、だからガキだってんだよ、あいつは」

「……」

 

慎二のような口調で、慎二が言うように起こって見せるそいつは、まさに慎二そのものだった。私は桜もきっと、ガキのような我儘さを持ったまま成長した男である慎二の姿をしたそんな存在にガキだのなんだの言われたくないだろうな、などと思いながら、しかしもちろんそんなことを思っていることなどおくびにも出さないまま、無言を貫く。

 

「ああ――、でも、そういうことなら――、そうか……、なるほど、そういうことか」

 

そうして慎二らしくこちらの思惑に気づかない様子の慎二(/アンリマユ)は勝手に納得したようなことを言うと、自宅である間桐の家とこちらとの間で視線を数度往復させたのち、ニヤリと意地悪気に笑い、くるりと私に背を向けて歩き出す。その気まぐれに見えるさまも何とも慎二らしく、私は一瞬、声をかけるのも忘れて彼が進むのを見送りかけてしまっていた。

 

「さて、じゃあ行くとしますか」

「どっちへだ?」

 

そうして呆然とした私が慎二の言葉に体の自由と意思を取り戻し、ようやく再稼働し始めた脳みそからそんな質問を絞り出すと、慎二は振り向いて意地悪そうに言った。

 

「お楽しみは後にとっておこう。まずは――、学校の方に行こうぜ」

 

慎二はそして前を向きなおすと、通常の状態より少し色味が薄い間桐家を振り向くこともなく、学校へと続く道を歩き始める。その足取りに迷いはなく、なんとも自信に満ちている。故に私は、何ら疑問を抱くことなく彼の後に続き、その背中を追いかけるようにして足を進め始めた。

 

 

慎二と並んで穂群原学園へと続く道を歩く。それは何とも不思議な感覚だった。慎二の姿をしたアンリマユは自分の記憶の中にあるものとまるで変わらない姿をしている。手ぶらであることを除けば、学園指定の学生服を身に纏って学園へと向かう慎二の姿は何とも自然な装いだ。対して私は、いつもと変わらない赤の聖骸布と黒を基調とした戦闘服を身に纏っている。慎二の自然さに比べて自身の恰好は明らかに異常者のするそれだ。だが、線と点と面ばかりで描写されている周囲の非日常的な光景からすれば、むしろ異常であるのはそうした日常と変わらぬ姿をしている日常と変わらぬ態度を振舞える慎二の方と言えるだろう。

 

この桜の心象風景という空間内においては日常と非日常、正常と異常の判定が逆転している。そう。すなわち、正は負へ。生は死へ。そして――

 

――正義は悪へ。悪は正義へ。

 

すべてがあべこべとなり伽藍洞の贋作だらけとなった町中を、ただひたすらに慎二/この世の全ての悪とともに平穏無事なままに歩いてゆく。正義の味方を目指すものと、この世の全ての悪(/アンリマユ)が並んで歩く光景などそうは見れない光景であるに違いない。

 

「この町はさ」

 

なとと考えながらそうして人の記憶のあやふやさを示すかのような道を歩いていると、やがて両の手を頭の後ろに組んだ慎二は、振り向くこともなく唐突に語り始めた。

 

「あいつがその能力で意識の中に作り上げた、いわば箱庭の――、いや、影絵の町なんだよ」

 

天然パーマの向こう側から聞こえてくる声は、何とも断定的で、そして説明口調でもある。

 

――果たして慎二は何の意図をもって、そんなことをいうのだろうか

 

「影絵の町?」

 

思いながらも、私は話の腰を折らぬよう、自然な態度で聞き返す。

 

「そう。あいつの本来の魔術の才能は『架空元素・虚数』とかいう、なんていうか、この世の裏側にある不確定なものを操る能力らしいんだ。ただしあいつは、そうした自分の才能を活かすためのまともな訓練を受けていないから、自分自身の才能を巧く操れないんだろう。結果―ー、表層にある無意識のうちに収納されていた興味のないものはこんな風にスカスカの状態で、己の深層意識(/イド)の中にまで深く刻み込まれているものは色鮮やかなんだ」

 

進む慎二は頭に組んでいた手を前方に広げながら言った。そうして広げた手の内には、なるほど、慎二が言うところのスカスカの街並みが収まっている。

 

「ふむ」

「ただし、これらは当然ながら本物じゃない。お前の固有結界みたいに、実態を持っているわけじゃない、桜の意識の中によって再現された、本物の冬木の町の、出来の悪い影だ。決して実態にはなりえない、――だから影絵の町。――どうだ? なかなか洒落た言い回しだろう?」

 

慎二はやはり振り向くこともなく同意を求めてくる。口調は何とも誇らしげだ。おそらく慎二の後頭部で見えぬ向こう側、すなわち前方に向けられているその顔面には、してやったりの笑みが張り付いていることだろう。

 

「……なぜ、今それを?」

 

慎二の意図がつかめない私は、素直に胸の裡に湧き出てきた疑問を口にした。

 

「さぁね。なんとなく話したくなったのさ」

 

しかし慎二は答えないまま再び黙りこくってしまう。再びあたりは静謐さを取り戻す。二つの異なった作りの靴裏が地面へと叩きつけられるたび、片や短く、片や長い間隔にて音色を立て、町中に生きた証を作り出していた。多分はそうした生物のみが鳴らすことを許された規則正しくもどこか不揃いな音色が意識を周囲にまき散らしたのだろう。あたりに気を配ると、周囲の光景や自然はやはり確かに、偽物と呼ぶ以外ないほどにどこか不自然な作り物然とした感触を覚えてしまう出来だった。時折やってくる肌と白髪に吹き付けられる風はまるで羽根つき扇風機を回しているかのように直線的であり、太陽もないのにいずこよりかやってきて肌に触れていく光は爆ぜ返しや影を残すといった現象を起こすことなく浅黒い肌や白い地面の中へと沈み失せてゆく。そんな風が容赦なく運んでくる先と違ってようやく鼻腔をくすぐるようになった匂いは強い香水をぶちまけたかのような不自然さに満ちており、不自然な光によって照らしあげられた木の葉に至っては人工物であるのかと思うくらいに毒々し色合いをしている。

 

おそらくそれは慎二が言う通り、桜が必死に記憶の中からかつて幸福だったころの記憶を再現しようとして、しかし上手くいかなかった証なのだろう。桜は万年という年月の間に摩耗した記憶の中から、それでも必死にかつて自分が幸福であった時のことを再現しようとした。しかしやはり年月という名の毒の影響は甚大であり――、結果、そんな桜の必死の努力はむなしく無為に終わってしまったのだ。だからこそ周囲にあるこれらの光景はこんなにも不自然でありながら何とも生への執念と情念が生々しく感じられ――、そんな不揃いな不一致が、私の心の中からこうも胸を突く物悲しさを引き出しているに違いない。だが――

 

「……む」

 

そんな憐れさばかりに満ちていた桜の心象風景は学校に近づくにつれて、鮮明な色香と色彩と色形を取り戻してゆく。山の端からやってきているのだろうわずかな光によって線絵のような建物にはわずかながらの陰影を生まれ、また、いずこかより流れてくるわずかな風が木々の葉を揺らしては新緑の心地よい匂いだけをふわりと残して過ぎ去ってゆく。先ほどまでの不自然さに比べて、それはあまりに自然な、自然に近い感触だった。周囲の自然は先ほどまでの陳腐さが嘘のように、歩を進めるにつれて天然の精緻さを取り戻してゆくその様に、私はビデオの逆再生――、否、まさに、絵筆によってただの落書きに過ぎなかった絵画に生命が吹き込まれてゆくような倒錯を覚えた。

 

「衛宮。お前、投影ってしってるか?」

 

そうして周囲の自然が多少の不自然さを伴いながらも色と命を取り戻していくという不自然を、やはりというべきか不自然な心持ちで賞味していると、慎二はやはり振りかえることもなく再び口を開く。そうして投げかけられた言葉は、私にとって非常に馴染み深いものだった。

 

「それは、当然、しっているが」

 

投影。解析魔術により読み取った情報から、物体を作り出す、この身が収めている魔術の一つ。なぜ慎二が突如としてそのようなことを尋ねてきたのか理解できなかった私は、多少困惑気味ながらも答える。

 

「ああ、お前の魔術(/そっち)の投影じゃなくて、心理学の方の、投影」

 

慎二が何を目的としてそのようなことを尋ねてくるのかはさっぱりわからない。わからないが、あいつは基本的に自分にとって意味の無いことをやるような男でないことを自分は知っている。ならばこの問答は、あいつにとって、ひいては私にとって意味のあることに違いない。だからこそ、私は慎二の問いに真っ向から答える。

 

「……端的に言ってしまえば、自分のコンプレックスから目をそらし、他人にそれを押し付けることだろう?」

「お、流石。――そう、その通りだ。嫌いは好き。好きは嫌い。嫌いなのは自分の出来ないことを出来るから。好きなのは自分の出来ないことが出来るから。好き嫌いの感情は表裏一体。あいつのことが嫌いなのは、実は自分の見たくもない部分を、やりたくても出来ないことを当たり前のようにやっているからだった、なんてのは、よくある話だ」

 

慎二の言葉を聞いたとき、思い出したのは言峰綺礼という人物だった。思えば私という人物が奴のことを不倶戴天の宿敵として嫌っていたのは、奴が私と異なり、人を個人として扱う、ある意味で平等に他人に愛を注ぐことの出来る人物だったからなのだろう。心の中が伽藍洞であった私と異なり、あいつの心の中は他人から蒐集した悪意(/好意)の記憶に満ちていた。投影、解析という魔術が示す通り、私は人(/物)の肉体(/外側)という魂の入れ物とその歴史にばかりが興味の対象だったが、奴というと男は人(/物)の魂(/内側)とその在り方にばかり関心を持つ男だった。私は人の肉体を救える人間だったが、人の心を救える人間ではなかった。あいつは人の肉体を平気で壊す(/切開する)人間だったが、その内側にある人の心に干渉して、時には救うことも出来る人間だった。だからこそ――私はあの男に憎悪(/羨望)の感情を無意識のうちに投影していたのだ。

 

「さっきここに来る前にも言ったと思うんだけど……。――思うにさ。あの世界樹がいくつも立ってた世界に生きてた人間は桜の心の投影――箱庭なんだよね」

 

慎二はひどく真剣な表情でそう吐き捨てた。

 

「箱庭?」

「そう、箱庭。投影と同じく、心理療法の一種に箱庭療法ってのがあるじゃん? 区切られた箱の中に砂が入れてあって、その箱と砂と人形とかおもちゃとかを使って、箱の中に空想の世界を作らせて、出来上がった箱庭からそいつの心理状態を読み取るってやつ。ま、この場合、桜はすでに出来上がっている世界から自分にとって気に入らない要素を取り除き続けてたわけだからちょっとそれとは厳密には違うかもしれないけど―ー、結果として自分の気に入るもの/気に入らないものばかりが入った箱が出来上がるわけだから、同じみたいなもんだろう」

「彼女がそこに生きる人々を選別していたからか?」

「そうそう」

 

尋ねると慎二は軽々とした口調で返してくる。

 

「桜が上から命令されてたのは、文明を発展させてしまいそうな英雄的素養を持つ奴らの排除だ。いやまぁ確かに、桜が排除していたのは基本的にはそんな英雄としか呼べないような実力持った奴らも多かったよ? 実際、下の世界でフェンリルを撃退したのも、ヨルムンガンドを抑え込んでいたのも、そんないわゆる英雄的な力を手に入れて、あるいは元から保有していたがゆえに、お伽噺に残さざるをえないような活躍をしたやつらばかりさ。――でもさ。衛宮、お前、さっきのメディ子とかパラ子とかガン子とか、そういうの見て、どう思った?」

 

質問の意図は相変わらず読めないが、慎二が向けてくる真剣な表情にはこちらが無言を貫くことを許さないといわんばかりの迫力が秘められている。故に私は気圧された。否――、というよりかはその真剣さには胸を打つものがあった。故に私は自然と、慎二の質問内容について真剣に思考を巡らせる。

 

「……まぁ、多少性格に癖はあったし、普通の人よりは実力もあっただろうが――」

「そう。そうなんだ。あいつらは確かに多少人より優秀かもしれないけれど、別に英雄的素養と呼ばれるほどの才能を持っているってわけじゃない。あいつらは世間一般でいえば、普通――つまりは優秀って言葉の範疇に収まるような奴らなんだ。――でもそれでも桜は、あいつらのことを月の中へと排除した。なぜだと思う?」

 

少しばかり考え込み、そして思い至る。

 

「なるほど……、桜は彼女たちに、英雄の仮面を投影した、というわけか」

「その通り」

 

慎二は我が意を得たり、と言わんばかりに両手を打つと、目を細めつつ、続けざまに言った。

 

「あいつらは普通だ。普通に生を謳歌して、普通に誰とでも仲良くなって、普通に仲間と一緒の冒険を楽しんで、普通の感性を持ち、普通の女としての悩みを持つ、世間一般にいう、普通の人間だ。だからこそ――桜はあいつらを回収した」

「……」

「桜はそんな普通の幸せを手に入れられなかったからな。だからあの世間一般でいうところの普通の奴らは、桜にとってはある意味で英雄的素養を持つ奴らなんだ。桜にとっての普通っていうのは、例えば、お前みたいにある一つの目的以外に目もくれないやつとか、例えば僕みたいに他人の気持ちを当たり前のように無視するとか、理解できないとか、例えば遠坂みたいになんでも割り切って見せるやつとか、例えば自分みたいに自分の変えられない部分の弱さを認められないやつとか、誰かに対する愛情を必死にごまかしている奴とか、あるいは親や家族に大した愛情を持てていないとか――、つまりはそういう、僕らみたいな、世間一般でいうところからすれば異常と呼ばれるような特徴を持ったやつなんだ」

「……なるほど、得心がいった。だからこそ、彼ら――、シンやダリ、サガにピエール、ついでに響たちは、もはや世間からすれば英雄と呼ばれるような力を持っていながら、その心の中には多くの懊悩を抱えており――、故に彼らは決して満たされていなかった。――彼らのそんな悩みは、桜にとって、同情に値するものだった。だからこそ彼らは――、桜にとってある意味でお仲間ともいえる彼らは――、回収を後回しにされたのか」

「その通り。――桜は最終的に英雄と呼ばれる力の持ち主を回収する。だが桜が優先して回収するのは――、その果てに自分が手に入れられなかった普通の幸せを不公平にもあっさりと手に入れた一般人/英雄たちなんだ。桜は普通の幸せを手に入れた彼らにこそ、自分が手に入れられないものを手に入れた存在(/英雄)の姿を見つけて、投影する。だからこそあの世界には、桜が普通と思うような――、世間一般の普通とはかけ離れた、僕たちみたいに普通の幸せを持てない、世間からすれば異邦人じみた奴ら/異常者ばかりが取り残されることになった」

「……だから、あの世界は桜の心の投影、か」

「そうだ。だからこそある意味であの世界は、桜にとって自らの分身ばかりが蔓延る箱庭であり、故に見たくもない自分の心の醜い部分が投影された世界だったんだ。まぁ、魔のモノが悪意を吸収するシステムがあるせいで、うちのジジイみたいなくそったれが生まれることは無くなったから多少はましだったんだろうが―ー、それでも――、否、だからこそ世界には自分が嫌いな、まるで桜(/自分)のような醜い自己嫌悪コンプレックスを抱えた奴ばかりが増えてゆく。自分が手に入れられなかった幸福を手に入れた見たくもない奴らを監視して、自分みたいな意志薄弱で他人に行動選択の権利を委ねるような奴ばかりが増えていく世界の監視は、桜という心神耗弱状態の奴にとってフラッディング法みたいな効果を発揮してしまった。結果、たまったフラストレーションは桜の心に傷を作り――、桜はそんな拷問じみた状況に耐えうる人格を生みだした」

「それがメルトリリス、というわけか」

「そう。桜は気弱で、流されやすく、依存心が強く、自分の醜い部分を他人に見られたくないと思う女だった。だからこそメルトリリスは、傲慢で、我儘で、基本的に他人に依存しない、自分の体に醜い部分なんてないと見せつけるようなそんな性格の女として―ー、そんな桜の子供のころの記憶から生まれた投影によって生まれた人格になったし――、そんなメルトリリスを守るために生み出されたお前らが『桜』と呼ぶ、お前らのお仲間を騙した奴は、腹芸をも使えるような大人の桜になり――、結果として、他者の意見に対してはいはいとしたがう、従順で自らの意思では何もできないような、子供と大人の境界にいる思春期の『桜』って人格だけが、AIっつぅ、旧人類の呪いの中に取り残されちまったのさ」

 

先を行く慎二は言うと、振り向きもしないままに道を進んでゆく。相変わらず慎二が何を言いたくてそのようなことを語るのかはわからないが、一文字一句を聞き漏らさないようにしながら、ひたすらその後に続いてゆく。会話の熱があたりに広まったためか、先ほどまであった朝霧はすでに完全に消え去っており、肌を包み込む寒さもどこかへと消え失せてしまっていた。

 

 

「あぁーー、まったく、ここはあの時から変わってないな」

 

穂群原学園の校門前にたどり着いた慎二は両手を広げながら言った。暗闇、月と星に照らされた校門前は時間帯に見合った静けさを保っている。これが早朝ならば、この辺りは校舎に入ろうとする学生で溢れ、慎二の他に自分と仲の良かった友人、生徒会長の柳洞一成が門を通る生徒に声をかけていたに違いない。この場所は――、はるか昔、そんな自分の摩耗したはずの記憶を思い起こさせるくらいには、色と匂いと当時の雰囲気に溢れていた。そしてそれは同時に、桜という彼女がどれほどまでにこの穂群原学園という場所に執着を抱いているのかを示しているといえるだろう。

 

「お、見ろよ衛宮」

「ん?」

「やっぱり、あいつ、校舎よりも弓道場の方が思い入れ深いらしいぜ」

 

思う間にもさっさと校門から校庭へと侵入していた慎二が指さす方を見れば、どこか端々に胡乱気な雰囲気のある校舎よりもしっかりと造形が保たれている弓道場が目に入る。桜の心象風景にある弓道場は、入り口にある瓦屋根の雨除けも、白塗りの漆喰壁面も、入り口の引き戸も、果ては壁に刻まれた普通ならば見落としていてもおかしくない細かい傷跡までもが再現されていた。

 

「お、僕がお前にむかついて蹴った後まで残ってらぁ。まったく、桜もよく覚えてるもんだ。――ああ、そっか。だいたいお前か桜が弓道場の手入れとか掃除を主にしてたもんなぁ」

「……そうだったな。慎二も藤ねぇ――、藤村大河に当番を任されることはあったが、たいていそんなときは――」

「「面倒だからお前に/面倒と言って私に、押し付けていた」」

 

指をさしあいながら、ほとんど同じセリフを同じタイミングで言い合う。

 

「く」

「はっ」

 

慎二の姿をしたそいつとのやり取りは、はるか昔に失せたはずの記憶と感情取り戻させるに十分な効力を発揮したらしい。気づけば自然と笑いがこぼれ、笑いあっていた。互いに失笑を漏らしあうと、どちらからともなく扉を開き、件の建物の内部へと足を踏み入れる。そうして久しぶりに踏み入れた弓道場は、これまでの中で最も自然に日常的な雰囲気が保たれていた。

 

「おーおー、懐かしいねぇ、この雰囲気……、って、衛宮。お前、何やってんのさ」

「何って、神棚に一礼して挨拶を……」

「衛宮って、ほんっと、クソ真面目だよな。お前、ここ、桜の心象風景なんだぞ? これが表の世界だってんならまだしも、なんだっていもしない神様に挨拶する必要があるんだよ」

「む……」

 

――なるほど、一理あるかもしれんがそれは気持ちの問題だ

 

などと思っている間にも慎二は無遠慮に奥へと進んでゆく。そうして弓道場の奥へと進んだ慎二は、やがて倉庫へと向かい、やがてその両手に一つの和弓と四つの矢を手にして戻ってきた。

 

「それは……」

「絶対あると思ってたんだよ。お前の弓。あいつ、お前が退部してからもずっと手入れを欠かしていなかったからさ」

 

言いながら慎二はそれを差し出してくる。その所作があまりにも自然だったものだから何の疑問を持つこともなく和弓を受け取ると、桜の心が作り出したはずのその弓はまるで自分が魔術を使用して投影したかのような精度のものであることに気が付ける。

 

――和弓、か

 

しかしそのような精度にて作られた、今私が使用している黒塗りの洋弓とは目的も用途もまるで異なる、かつて学生時代に自分が用いていた弓は、しかしだからこそ今の自分にはひどく違和感のあるものだった。違和感は、かつてのあの時と比べ、自分の背が驚くほど伸びたという事実と、なにより、他者を害するべく黒塗りカーボン製の洋弓に刃のついた矢ばかりを番えていたという心理的な要因から発生しているに違いない。たぶん私は、心の底で今の自分にこの弓を扱う資格がないとそう思っているのだろう。

 

「せっかくなんだし、一射していけよ」

 

だがそんな私の葛藤を知ったことかと言わんばかりに、慎二は和弓と数本の矢をこちらへ差し出しつつ、顎で的を指し示した。慎二の顔はやはりいつものままで、彼がどのような意図でそれを指示してきているのかわからない。その屈託ない表情には、何も考えていないようにも見えるし、しかし、何か深い考えがあるようにも見えるものがある。

 

「いや、私は――」

「いいから撃てって」

「……はぁ。――わかったよ」

 

自らの指示を聞き入れられなかったことに苛立つ様子の慎二を見て一つため息をつくと、一緒に差し出された四本の矢を手にして、本座から射場に立つ。不思議なもので、一度射ると決めてしまえば雑念は消えて、心の中にあった蟠りは瞬時に消えてゆく。

 

「――」

 

そうして心静かなままに構る。弓道において重要なのは、絶対に的に当てるという意思ことでなく、何があろうと自然のままに任せようという心構えだ。

 

「ふーん、腕はなまってないようだな。ていうか、むしろ上がってない?」

 

構えた瞬間からもう自分の体からは余計なものを完全に失せさせる。

 

「ま、そりゃそうか。お前、今、英霊とかいうのになるほどの腕前持ってんだもんな。――しっかし、お前も本当に嫌味な奴だよねぇ……。弓道場に来たその瞬間から、お前、全ての弓道家が目指す境地にいるってことを示しちまうんだからさ。そんなお前のせいで何人かの部員が止めちまったんだぜ? 『自分はとてもでないけど、あの人と一緒に弓を射ることは出来ません』ってさ」

 

矢を構えるのも、矢を射るのにも力はいらない。弓道とは構えが真に正しければ――、心に乱れがなければ、必ずその先にある的の中心に矢が当たる、そういうものである。そう。心に乱れがない限り、矢は必ず的の中心へと的中するのだ。

 

「まぁ、僕みたいに弓以外にもいろんな才能あるやつならともかく、そこいらの凡才にはキッツい光景だよねぇ。自分の日々の努力を軽々と越えていく存在が突如として目の前に現れて、それまでの自分の努力を否定するかのように結果を出して、名声も何もかもを手に入れてくんだからさ」

 

そうとも、弓を構えればもはやそこは周囲から完全に隔絶された空間だ。この空間の中に的と弓を構える自分と矢以外には何も存在していない。ある種の固有結界がそこには敷かれている。そうして極度の集中を行いながら、しかし、全身には一切の余計な力を籠めない。そうすればあとは指の力が抜けたその時、矢は自然と放たれ――、

 

「知ってるか、衛宮。僕にとってお前は使えるやつって評価だったけど、他の部員にとっちゃお前は不気味な存在で、厭味ったらしくて気持ち悪いって評価を降す奴の方が多かったんだぜ? ほら、お前ってば、そんな実力と才能あるくせに、こんなもの出来て当然だろう、なんていう態度じゃん? そうして他の奴が心底焦がれる才能を持ってるくせに、その優れた才能を『そんなもの』扱いするんだから、そりゃあ、他の凡人どもからしたらたまんないよな」

 

すぐさま、タン、という音を立てて、弓の先端は的の中心に直撃する。

 

「――お見事」

 

残心を行うと、そんな声が聞こえてきた。一礼すると再び隣の射場に立ち、同じ動作で足踏みから構えへと移行しーー、同じ八節をはじめから繰り返しては心を静かに保ち、一矢、二矢と的場の空いた的めがけて放ってゆく。一度この境地に入ってしまえば、もう完全に外のノイズは聞こえない。自分の中にあるのは、ただ的と、矢を射ろうと――、放とうとしている自分だけ。

 

「まぁ、奴らの気持ちも今の僕ならわからないでもない。何せ僕には固有結界なんて言う魔術の奥義をその身に宿していたお前と違って――」

 

――望む魔術の才能が欠片ほどもなかったんだからね

 

タン、と音が鳴る。残心のさなか、今度拍手は聞こえてこなかった。

 

 

やがて的場に並ぶ四つの的の中心に鏃のない矢が突き刺さったころ、慎二は両手を強く叩き合わせ、こちらへ拍手を送ってきた。

 

「いやぁ、流石の階中、恐れ入るよ」

「ああ」

「ああ、もう、ほんと、嫌味な奴。出来て当たり前、みたいな顔しちゃってさ。少しは嬉しそうにしろよな」

 

多分は心からのモノでない言葉に、それでも非礼とならぬよう礼の言葉を返すと、慎二はひどく不愉快そうにそんなことを言った。

 

「いや、仮にも私は、弓の英霊(/アーチャー)であってだな――」

 

慎二の言葉に言い訳がましい――、というよりも、むしろ説明口調で私がそれを出来て当然な理由を語ろうとすると――、

 

「いや――、それは関係ないんだ」

 

慎二はそんな私の言葉をあっさりと否定して――、

 

「――え?」

「なにせ僕が見たかったのは弓道/衛宮の腕前であって、弓術/エミヤの腕前じゃないからな」

「――」

 

そうして慎二は私の胸の的をすとんと抉るようなことをあっさりと言いのけると――、

 

「まぁ、いいや。だいたい分かった。――もうこの場所には用がない。いこうぜ、衛宮」

 

やはり慎二はこちらの返事を聞くこともなく、さっさと弓道場から退出してゆく。扉がガタガタと煩い音を立てて開き、そして閉じられる。寒々しさを増した弓道場には弓を持って佇む私だけがぽつんと残されていた。手中にはかつて私が使用したことのある和弓が収まっている。かつてのように弦を引いて弾いたためか、多少軽くなったようなその和弓の胴を握り締めると、軋む音がやけに大きく体内の中で反響した。

 

――慎二の狙いは相変わらずわからない

 

もしかしたら――、というよりも慎二の行動はその態度や言動から気まぐれとしか思えないのだけれど――、でも、わからないけれどしかし、不思議と彼のそんな行為に対して文句をつける気にもならない。ああ、もし、矢を射るのが今この瞬間であったならば、自分は間違いなく、全ての矢を的に当てられなかっただろう。きっと弓から離れた矢は的に当たるどころか、矢道、的場すらもそれてあらぬ方向に飛んで行ってしまう気がする。自分はこんなにも弱くなってしまった。自分はこんなにも他人の言葉によって気持ちを揺り動かされるようになってしまった。だが――

 

――悪くない

 

そんな自分の状態を、今の自分は不快に思っていない。そんな今の自らの心持ちを不思議に思いつつも、多分はそれでいいのだろうという自らの心の奥底より湧き上がってくる気持ちに従いーー

 

「――ああ」

 

不作法とは知りつつも、自分の和弓をそのあたりに立てかけると、的に刺さった矢を引き抜くこともなく、そのまま慎二の後に続いて弓道場を立ち去ってゆく。ぴしゃりと扉を閉めると、再び世界からは音が消え――、そして穂群原学園の弓道場は来た時とまるで変わらない、当時の雰囲気をそのままに保ち続けていた。

 

 

穂群原学園から私の――衛宮家へと続く道を慎二と共に歩く。周囲の風景はなんとも不思議なことにこれまでで最も自然な状態が保たれていた。衛宮家に続く道にある家々は立体感や色味すらも取り戻しており、地面にあたって爆ぜ返される眩い光はしかし一切の不愉快を感じさせない明るさに保たれていて、気持ちを多少浮つかせるような効力を発揮する。冬も終わりの朝方にある体の芯まで冷え込む寒さすでに失せていて、肌を切るように吹き荒れていた風は、その勢いをどこかと落としてしまったかのよう柔らかいものへと変化していた。はるか彼方に見える峩々たる山の連なりは枯れ木の賑わいの中にしかしどこか豊かさを取り戻しており、綿雲千切れ飛ぶ夜桜色に染まっていたはずの空はいつの間にか、優しく淡い夏の空にあるようなからっとした水色を取り戻していた。そんな気持ちのいい空にわずかばかり存在する雲と雲の切れ間から垂れ落ちてくる光芒の行方を追うと、凛と照らされた道路の端には枯れた木の葉が積み上がっている光景が目に映る。時折吹き荒れる木枯らしがそれらを道路へとまき散らしては、道路に不規則な描画を残していっていた。枯山水にも似た光景が幻を見せたのか、乾いた色ばかり目立っていた道路までもが瑞々しさを取り戻している。それらは心象風景が再現したというにしてはあまりに自然な振る舞いをしていた。そしてやがて舞い上がった完全に枯れた木の葉が慎二の顔に襲い掛かった時――、

 

「ちっ……、ああ、まったく、情念深いったらありゃしない」

 

周囲の光景を眺めながら無言で突き進んでいた慎二は、不機嫌そうにそれを払いのけながら言った。

 

「情念深い?」

「ああ、そうさ。衛宮。お前、なんでこのお前んちに続く道だけこんなにきれいに再現されているのかわかるか?」

「ふむ……」

 

その言葉を聞いて考え込む。先ほど慎二はこの場所は桜の意識によって再現された影絵の町と言っていた。そして慎二はまた同時に、そうして街並みの中で、桜にとって印象深い場所だけが、より鮮明に再現されるとも言っていた。そこから察するに――

 

「この場所が桜にとって印象深いから、ということだろう」

「ばぁーか、んな浅い部分の答えを求めてるわけじゃないんだよ。僕が聞いているのは、もっと深い部分の理由だ」

「――桜の深層心理を読め、というのか?」

「そうさ」

「……」

 

言われてそれを考える。先にも考えた通り、この衛宮家へと続く場所がこれほどまでの精度で再現されているのは、桜がその深層心理のおいてこの道に特別な思いを抱いているからだろう。特別な思い――というのもまぁ、今の私にはわからなくもない。

 

――桜は、衛宮士郎という朴念仁のことを深く、憎からず思っていた。

 

それがどういうベクトルのものかは知れないが――、否――、そうと断言するのも憚られる思いを抱いていたことがわかるからこそ――、私はそんな桜の思いが、この衛宮家へと続く道に現れているのだろうと断定する。そうとも。誤解なく述べるなら――、

 

――桜は、衛宮士郎という男に慕情を抱いていた

 

「おっと、その顔は、答えを得た、って顔だぜ、衛宮」

 

いつの間にやら歩く速度を落として隣を歩いていた慎二は、何ともいやらしい笑顔を浮かべながら、斜めから顔を覗き込んでくる。

 

「まぁ、な」

 

桜が私に惚れていたから、などという答えを口にするのが気恥ずかしくて、少しばかり戸惑った口調でそう答えると、慎二はにんまりと意地の悪い笑みを浮かべて、背中を叩いてきた。

 

「まぁ、その通りだよ。桜(/あいつ)はお前に惚れていた。あいつはこの学校から衛宮家へと続く道を通るとき、常に胸を弾ませながら歩いていたんだろう。『先輩は今日、何しているかしら?』。『先輩は今、どんな料理を作れば喜ぶかしら?』、ってな具合にな。そうしてこの道は、多分、あいつにとって、学校よりも、間桐の家よりも、そのほかのどんな場所よりも特別なものとなった。――ただ一つの場所を除いてな。だからこそこの道は、これまでの中で最も特別に――、元の自然さを保たれた状態なんだろうよ」

 

そうして慎二は歩く速度を上げると、再び私の前を歩きだす。機嫌がいい時のあいつは、しかしだからこそ隣に歩く他人のことになど一切気にかけることなく、自分のペースでさっさと前に進んでいってしまう。そんなことを理解している私は、少しだけ歩調を速めながら、彼の後ろについてゆく。歩数が増えてゆくごとに、風景は鮮明さを取り戻してゆく。町を歩くほどに桜のことが分かってゆく。けれど、いまだに桜を救う方法とやらは、慎二の口から何一つとして語られない。

 

――慎二。お前はいったい、何を考えている

 

果たして彼は何を考えているのか。わからないままに綺麗な風景の道を歩くと、対して楽しむ暇もないままに時は無惨に経過し、やがて私たちは目的の場所へと徐々に近づいていった。

 

 

「おーおー、ここをこうして見るのも久しぶりだな」

 

衛宮家の――武家屋敷造りの玄関ポーチに立った慎二は、開口部の扉を見上げながらそう言った。見れば衛宮家の扉口は入り隅、出隅、霜よけの廂から、軒天、雨樋、玄関の敷石に至るまで、見事なくらいに再現されている。その再現度はこれまで街中で見てきた中において、比類するものがないほどの精度だった。

 

「……」

 

そうして桜が再現した彼女の心象風景であるという光景を眺めていると、不思議と郷愁の気持ちが湧き上がってくる。それはかつて我が家の入り口を見上げた時には決して抱くことのなかった思いだった。観察してみれば我が家の玄関には私が覚えていない傷痕すらもが再現されている。それはこの家の家主であり、好きに出入りすることが出来る自分では決して記憶に残そうと思えない、それこそ普通ならどうでもよい、くだらないと切り捨ててしまってもいいくらい、小さな傷跡だった。それらの傷のあまりの綺麗さに私は万年遅れで桜が私(/衛宮士郎)に対して抱いている思いの深さを知り、改めて気恥ずかしさを覚えることとなる。

 

「チャイムを鳴らしてお前が出てくるまでの間、あまりに胸が躍るもんだから、覚えちまったのかねぇ」

 

同じ考えに至ったのだろう、慎二が私の考えを読んだようなことを呟いた。

 

「お、なんだ、開いてんじゃん」

 

そして玄関の戸に手をかけた慎二は鍵が施錠されていないことを確認すると、まるで遠慮することなく、それこそ家主であるかのよう無遠慮に、その扉を解き放つ。そうして視界内にあらわれた玄関は、覚えのよくある靴の群れから、やはり覚えのない傷跡に至るまで、それはそれは見事なまでの精度で再現されていた。

 

「ほら、まぁ、遠慮なく上がれよ、衛宮」

 

言いながら慎二は靴の踵を揃えつつ玄関に上がると、衛宮の家にずかずかと入り込んでゆく。

 

――まったく、これではどちらが家主かわからないな

 

そんな慎二の無遠慮さに呆れながらも、裏底に鉄板仕込んだ靴をさっと脱いでそろえると、性格とは裏腹に几帳面にそろえられた慎二の靴の隣へと並べ、居間へと続く廊下を突き進んでゆく。

 

 

「おい、衛宮。お茶」

 

やがて家主に先んじて家へと侵入し、黄昏色の夕日の切れ端がわずかばかりに飛び込んできている居間に遠慮なく座った慎二は、やはり無遠慮の態度で家主に対して遠慮のない命令を下してきた。そのあまりの傍若無人っぷりは私は慎二というよりも、我が家に入り浸っては食事を要求し、代価としてわけのわからないものを押し付けてゆく姉役の女性の態度によく似ていて――、

 

――どちらにせよ、不作法かつ無遠慮な態度をとる存在であることに違いはないか……

 

「――はぁ……」

 

そうして我が家においてしかし使用人のように使われる矛盾に何とも言えないやるせなさを覚えながらも、台所へと進み、その期待に応えるべく手慣れた動作で棚から急須と客人用の湯呑を二つ取り出して電気ポットからお湯を急須に注ぐと、隣の部屋でくつろいでいる慎二の元へと舞い戻り――、それから一、二分の時間を置いて出来たものを交互に等しい間隔で二つの湯呑へと注いでゆく。

 

「――おい、一応聞いておくけど、これ、出涸らしとかじゃないだろうな」

 

そうして自らの前に置かれた湯気立つ緑色の液体の入った湯呑を見た慎二はそんな文句を垂れてくる。

 

「涸らすほど何度も入れていたように見えたかね? 安心しろ。それは間違いなく、一番茶の淹れたてだ」

 

ため息をつきつつ、『まぁ、一番茶が一番上手いとは限らないがね』と、心中にて呟きながら呆れた声で返すと――、

 

「ならいい。――っと、あちっ」

 

湯呑の縁に口をつけた慎二は八十度のお湯の刺激に耐えられなかったらしく、淹れたてのそれへと何度も息を吐きかけて湯の温度を冷ましながら、遠慮なしに胃腑へと流し込んでゆく。そんなかつていつか存在したいつもの光景を眺めつつ、周囲へと目を配る。切嗣が存命のころから働き続けていた机の上には、かつて私がそこまで愛用していたわけでもない客人用の湯呑と、よく使用していた急須が、仲良く並んでいる。そんな湯の熱を受けても熱いとの文句をこぼさない我慢強い机の上には、入り口と同じく自分の記憶にはほとんど覚えのない細かな傷跡がこれでもかというほどに刻まれていた。傷の行方を追うとそれはやがて自らの身を支える机の脚にまで伸びており、その先に続く畳は、はて、これほどまでにささくれていただろうかと思うほどに傷んでいた。無骨というよりは無関心の証に従ってそのまま畳の筋に従ってすいすいと視線を泳がせると、すぐさま自らが茶道具一式を持ってきた台所へと到達する。台所は相変わらず整理が行き届いた埃一つない状態で、材料さえそろっていれば今すぐにでも調理ができる状態を保たれていた。

 

――かつて私以外の人間が――、例えば凜が台所へと立ち入った時、そこは日中が互いの覇を競いあう主戦場となったし、桜が立ち入った時などは、そこにお玉と包丁が日本刀と銃弾の代わりに交差する和洋の戦場となったものだ

 

などと思った瞬間――

 

――そうだ、桜だ

 

「慎二。そろそろ教えてくれないか」

 

そうしてようやく自分が何を求めてこの場へとやってきたのかを思い出した私は、ひどく遅ればせながら慎二に質問の矢を飛ばした。

 

「うん? なにを?」

 

だがそうして間違いなくこの事態における話題の中心の的目掛けて放たれた矢はしかし慎二の心に突き刺さることなかったらしく、慎二はとぼけたように言うと、ほとんど手を付けていない私の湯呑に手を伸ばすと、それを奪取して、中身の少しばかり冷めた液体をすすり始めた。

 

「私は君の『桜を救えば、等価交換として僕が世界を救ってやろう』、という言葉を信じて、ここまでやってきた。君はそして、『どうやれば桜の心を救えるのか』と尋ねる私に、『入った後、その時が来たら教えてやるよ』というばかりで、答えを教えてくれなかった。そうしてライドウの力をかりて桜の心の中にやってきた私は、君を信じてここまでやってきたが――、君は私を振り回すばかりで、一向にどうやれば桜を救えるか教えてくれない。――慎二。もうそろそろいいだろう。知っているというのなら教えてほしい。どうすれば私は桜をーー、彼女の心を救えるのだ?」

 

慎二の『我関せず』、という態度があまりに気に食わなかったが故だろう、私は思いのほか強い口調で尋ねてる自分を見つけて少し驚く。

 

「……ふん」

 

しかしそんな私の責めるような声色を耳にした慎二は、それゆえだろう不機嫌そうな顔を浮かべたと思うと、口につけた湯呑を逆様にして残った茶を胃へと流し込み、空にした湯呑の底を机に叩きつけると、そのまま空になった湯呑の口をこちらに向けながら、自らの口を開いた。

 

「――衛宮。今、ここにいる桜は、子供心も、大人としての自覚も失った、思春期の桜だ」

「……」

「それに加担してきた僕が言えた義理じゃないが――、桜はそんな思春期の中に受けてきた虐待のせいで、克己心なくも、まともな自己愛もない――、否、歪んだ自己愛しか持てない状態になっている」

「……だろうな」

「そんなあいつの心を救うために必要なのは多分、何ら余計のない思いから発生した、共感だけだ。相手が悲惨な目にあっているから救いたい、相手が悲惨な目にあっているから救わなくっちゃならないっていう、そんな実のところ、自分にとって相手が見辛い状態であるから、自分を救うために相手にも救われてほしいっていう、今の僕や、今のお前が抱えているようなそんな自分本位な押し付けがましい思いじゃあ、きっと桜は救えない」

「……そうかーー」

 

今の自分では桜を救えない。慎二の言葉を聞いて、ここに来るまで薄らぼんやりと抱いていた思いが理解できた気がする。思えば自分は、自分の幸福の形を他人に押し付けてばかり来た。自分にとって地獄と思える環境に飛び込み、自分にとって地獄と思える環境から相手を拾い上げて、そうして相手が救われたと思い込んで……。自分はこれまでそんなことばかりを繰り返してきた。そう。自分と他人は違うのだ。他人は自分と異なる人格であり、異なる歴史を積み重ねてきた存在であり、異なった感性を持ち、異なった心を持つ、そんな存在なのだ。私はそれを理解したつもりで行動してきて――、しかしその実、心の底では全く理解していなかった。

 

救いと言っても千差万別だ。トルストイなどは「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」、と書いたがそれはきっと違っていて、きっと幸福な形というものだって個々人ごとに似ていないはずである。私は他人を救い、自らが目指した存在「衛宮切嗣」に――、正義の味方になりたいと強く願うあまり、私が思い描く幸福の形を他人に押し付けてばかり来た。だからこそ私は、誰からも理解されることなく――、ただ一人、剣の荒野に閉じこもる羽目になったのだ。

 

「……さすがにこれくらいは理解しているようだな」

「――そう、そうだな」

 

私はそのことを、凛という彼女の手によってこの世界に蘇ってから経験した様々な経験により、学んできた。私は変わった。私は様々な人と出会い、私という存在を、私のままで受け入れてくれる、私の力を欲してくれる多くの人たちとの出会いによって――、そして、私の歪みを指摘してくれたあの神父のおかげで――、こうまで変わることができた。

 

私は歪んでいる。私はもはやただ一つの信念と矜持を頑として貫ける存在ではない。私は今――、剣としての鋭さを失った代わり――、私以外の誰かが述べる私の常識とはかけ離れた意見と幸福の形を、しかしそういう幸福の形もあるのかと、断ち切らず、受け入れられる存在に変化した。今の私は矛盾だらけだ。桜を救いたい。世界を救いたい。そうして救われた桜や世界を見て、自分自身が救われたい。誰かを救うということが自分を救うということへと繋がっていることに、あらためて気づかされる。そうだ。私は、桜という自らの救いというものを忘れてしまった少女が、しかし世界に希望というものを見出せるようになった未来で、どのような救い(/正義)の形というものを見つけるのかを見てみたい。

 

「――慎二。君の言う通りだ」

「うん?」

「今の私に桜は救えない。だからそしてまた――、今の私に君は救えない」

「――」

「なぜなら私には――桜がどのような救済を望んでいるかわからないし、君が――、慎二が、桜に対してどんな思いを抱いていて、どうなって欲しいかがわからないからだ。本人を救えるのは本人の努力と信念のみだ。私は桜じゃないし、慎二でもない。私にできるのは、彼らを、私自身が地獄のような環境であると感じる場所から別の場所に移すことのみ。だが、仮にそうしたとしても――、彼女が自らの手で自らを救いたいと願えるようにならない限り、桜は、君は、そして私は、決して救われない。――そうだろう、慎二」

「――変わったな、衛宮」

 

私の言葉を聞いた慎二は目を細めて、言った。

 

「そうか?」

「ああ。以前のお前ならきっと、自分じゃ桜は救えない、なんて言われた日にゃあ、『いや、それは違うぞ、慎二』とかいって、僕の意見に真っ向から噛みついて反対してたはずさ」

 

慎二に言われ、かつて、自分の思う幸福の形だけが絶対のものであると信じてた頃の自分を思い出す。まだ戦闘の技術も背も低く、髪が赤く、肌の色が浅黒く染まっていなかったころ。私は自分の見える世界だけが世界の全てだと思っていた。だからそんな私の正義(/切嗣の正義)というフィルターを通した視点で見ると、私の生きている世界というものは、あちらこちらひどく薄汚れていて、間違いだらけだった。

 

だから直そうと思った。壊れた場所を解析して、元の通りに直して、終わったらまた壊れた場所を探して、また解析して元の通りに直して――、そんなことを繰り返していれば、いつかは私の望む世界になると、私は心の底から信じ切っていた。けれども違った。世界っていうものは、もともと、ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃで、あるようにあるだけだった。そう。世界は決して綺麗なものでなかったんだ。だって、自分以外の、自分以外のあらゆる命が、それこそ数えきれないくらいに生きている世界なんだから、元から綺麗でないのが普通の状態だったんだ。けれども私は、そんな世界が普通と思えなかった。ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃで、幸福も、不幸も、生も死も、正義も悪もがごちゃごちゃに詰め込まれているおもちゃ箱のような世界に、私は我慢がならなかった。

 

だから――、直そうと思った。そう、だから私はーー、掃除屋になったんだ。世界から少しでも私の気に入らないものを捨てれば、その分私の見える世界は綺麗になる。私は私の視界に収まる都合の良い世界だけを見て、私の正義の視界に入らない世界の全てを切り捨ててきた。私にとって、その切り捨てる何かの裏側にあるものなんて、それこそ名も知らぬ雑草に過ぎなかった。空気そのものだった。

 

そうだ。私は結局、守護者という人類の掃除屋という役職についたとき、私が今までやってきたことと何ら変わりのないことを続けていたにすぎなかった。そうだ。そしてその果てに私が摩耗し壊れたのは、決して私が人類の劣悪さに絶望したからなどでもない。私はそうして掃除屋の役職を続けるさなか、私と同じ世界に住んでいた私が悪と断定して排除してきた人々は、私が幸福の形と定めたそれと異なった幸福の形を持つ人々だと気付かされたから――、そんな自分の愚かさに嫌気がさして――、そんな愚かな自分を直視することが辛くて――、私の心は摩耗していったのだ。

 

「――さて、衛宮。ここまで言ってやったんだ。なら、僕がお前に求めることは、――わかっているだろう?」

「ああ」

 

私は自らの愚かさから―、他人の幸福の形を受け入れられないという弱さから、必死で目をそらし続けていた。そのために心を殺し、過去の自分へと恨みを集中させ――、そうして、己が己の愚かさゆえに手に入れることとなってしまった未来を、必死に見ないようにしていた。

 

それが私の――、誰かの正義/悪から目をそらし続けてしまった報いであると、気付きたくなかったが故に。

 

――だから

 

「……そうだ。人間、他人なんてそうそう救えない。仮にそいつが誰かに救われたように見えたとしても、それは、そいつが勝手に救われたと勘違いした結果に過ぎないんだ。そう。人間、結局、自分を救いたいなら、自分を救えるようになるしかない。そうして救われた先にある未来の世界に、自分のような人間でも居場所があるんだと、思えるようになるしかない。――そうだ。もしもそいつが他人にとっての救いになれるとしたら、そいつが、『自分と同じような境遇の人間が、世界のどこかで生きている。自分と同じような境遇の人間の居場所が、世界のどこかに存在している』と、そう思えるようにしてやるくらいしかないんだ。人間、結局自分を救うのは自分だけだ。手助け以上のことなんて、神様でない存在にはできない。――、否、手助け以上のことなんて、救いを与えてやる必要なんてないんだ。だから――」

「ああ……、だから――」

 

――だから私は……

 

慎二の視線をまっすぐから見つめ返す。この世の全ての悪/アンリマユ。この世の全ての悪を――、この世界に住まうすべての人々の思い/悪/正義を保有するという存在。そんなこの世の全ての悪の具現化であるはずの男の瞳は、慎二という誰からも小物としてとらえられた男の瞳は、しかし今、どこまでもまっすぐに、桜という少女が一人の人間として自立することを望んでいた。

 

「「お前の悪を私に寄越せ/俺の悪の全てをお前にくれてやろう」」

 

――だから私は、彼の抱えるこの世の全ての悪/正義のすべてを望み、受け入れよう

 

そうして私が誰かのあらゆる正義と悪/想いを受け入れ、心の底から理解できるようになった先にこそ、きっと、世界の全てのために犠牲となり、闇に沈むしかなかった桜という少女が救われてゆくための道が――、そして私が真の正義の味方に――、誰にも認められる正義の味方になる道があるはずなのだから。

 

 

「……はっ」

「くっ」

 

互いに笑いあう。やはりというか、考えていたことはまるで同じだったらしい。その一致がなんとも心地よく、私と慎二はかつてのように笑いあう。きっと、この共に笑いあえる関係こそが――、自分の居場所が他人の中にもあるのだという錯覚こそが、誰かの救いとなる重要なものなのだ。

 

「それで、慎二。私はどうすればいいんだ?」

 

そんな誰かと笑いあえる瞬間を得るために必要となるものを――、他人の悪/正義を求めて、私は彼に問い尋ねる。

 

「まぁ、慌てるなよ、衛宮」

 

すると私と同意見のはずの慎二は、しかし立ち上がって周囲を見渡すと、ため息を吐いて、首を横に振るう。

 

「ここはーー、幸せの空気が漂いすぎている。多分、衛宮家(/ここ)こそが桜という存在にとっての幸福の具現だったせいだろう。――ここは、この世の全ての悪を受け入れるのにふさわしい場所じゃない」

 

言うと慎二はすたすたと部屋の外へと向かい歩いてゆく。

 

「慎二、どこへ行く?」

 

私は彼に行方を尋ねる。

 

「決まっているだろ」

 

廊下に出た慎二は振り向くこともなく言った。

 

「桜にとって、この世の全てがいるに相応しい場所――、あいつにとっての絶望の穴倉にして、しかしその実、あいつが間桐臓硯という大人からの庇護によって自分と相容れない世界の全てから守られていた、お前という思春期の桜にとっての全てであった存在から拒絶されたあいつが身を置いている――、間桐家(/僕の家)の虫蔵の中にへさ」

 

 

衛宮家の玄関を出ると、外はもう暗闇の中に落ちていた。夜空にはあさぼらけのそれとは違う薄暗さが漂い始めている。そしてまたよくよく見れば、その薄暗さは日が落ちたという事態以上に、天を湿り気を帯びた雲が覆いつくしているという事態が生み出しているものであることに気が付ける。そんな割れ目もないような曇天の下にはすでに雨のにおいが――、砂と水の入り混じった香りが漂い始めていた。

 

「くそ、うざったい雨だな」

 

慎二はそんな弱気な雨を無視するかのように、胸を張って堂々と歩を進めてゆく。先を歩く慎二の後を追って歩いていると、時雨模様だったはずの雨足はさらに強まった。そうして天よりぽつぽつと落ちてくる雨粒はやがて集して礫となり、徒党を組んで豪雨と化して、冬木の町を水の檻に包み込んでゆく。この世界が桜の心象風景であり、彼女の記憶によって形作られた世界であるというのならば多分、闇は彼女が学校の帰り、寄り道である衛宮家から我が家である間桐家へと帰る際に視界へと飛び込んでくる光景であると同時、晴れ晴れとしていた彼女の気持ちが鬱屈、暗澹たる思いに支配されてゆく過程を示したものなのだろう。ならばこの轟々と降りしきる雨は、そんな重苦しい気持ちを抱えながら、戻りたくもない場所に戻らなければならない桜の心そのものに違いなく――、そうして世界よ洗い流されてしまえと言わんばかりに降りしきる雨は冬木の町の全てを濡らし、町を深い水底のような薄暗い夜の闇の中へと沈みこませてゆく。見上げれば果たしていかなる場所より生まれたのかわかならいその雨水は、私たちの間桐の家へと向かう意思を挫こうとするかのように、髪を濡らし、顔に張り付き、服に浸透し、肌に絡み付いてくる。また、雨を周囲から運んでくる風は、まるで私たちの行く手を遮ろうとするかのように吹き荒れ、私たちを中心に渦巻き、町中、住宅地に存在しているあらゆる存在をガタガタと揺れしては、逃げるかのようにして地上にある水路の中へと消えてゆく。

 

「ああ、もう、うっとおしい!」

 

そうして入り組んだ冬木の住宅街は、豪雨によって、暗渠のような水路へと変貌していった。また、そうして天地を流れる水の勢いは私たちが間桐の家に近づくほどに強くなってゆく。

 

「傘か雨具でも投影しようか?」

 

体に纏わりついてくる水と風があまりに鬱陶しいかったが故だろう、私は思わずそんなこと慎二に提案していた。

 

「いらないよ!」

 

だが荒れ狂う風雨と水流の勢いを全身に受けている慎二は私の提案を切り捨てると、続けて平然と言う。

 

「ふん……、桜め。よほど僕たちに――、衛宮に来てほしくないらしいな」

 

瞬間、雨風の勢いは本心を指摘されておびえるかのように弱まり――、しかし雨と風の勢いはすぐさま元の通りの力強さを取り戻した。

 

「ちっ……、引きこもるときばかり無意味に意地を張りやがって……。そういう力はもっと別の場所で発揮しろってんだ。あの臆病で怠け者のグズ女め……」

 

慎二はそれを鬱陶しそうに振り払いながら、力強く一歩を踏み出して、暴れる雨風に対抗する。瞬間――、やはり雨風は慎二の不屈の意思と殴りつけるかのような暴言に怯えたかのように弱まり――、しかしすぐ後に、元の荒れ模様へと変化する。

 

「おい! 聞いてんのか、桜! お前が何と言おうと、僕たちはお前のところに向かうからな!」

 

天気は慎二が文句を叫ぶたび、唯々諾々と変化する。

 

――慎二によれば生前の桜は操り人形のようであったらしい

 

わずかばかりに残っている記憶を掘り起こせば、確かに桜という少女は、他人の意見に対して反対を述べない、そんな気弱で、儚い、なんとも女性らしい女性であり――、そして慎二の言うことをよく聞く女性だった記憶がある。なるほど、だからこそ、慎二は桜がこうして自らが進もうとする道を――、桜を助けようと間桐の家に向かって進んでいる自分たちを、必死で押し戻そうとする桜の抵抗に、ひどく苛立たしさを覚えているのだろう。だが――

 

「拒むのならば、もっと徹底的にやればいいだろうに……」

 

そんな桜の抵抗に手緩さを覚えた私は、気付けばふとそんなことを呟いていた。

 

「あん?」

 

雨の中、肩をいからせながら歩いていた慎二は、やはり振り向きもせずにそういった。そのたった一言が、私に対して続きの言葉を促しているものだと知った私は――、

 

「いや、何、ここが彼女の心象風景であり、彼女が私たちを本気で拒むのならば、それこそこんな人ひとり吹き飛ばない程度の雨風のようなものでなく、例えばそれこそ町一つを壊すような暴風雨とか、あるいは町の道路を引き裂いて、私たちと彼女との接触を物理的に断つとか、手段はいくらでもありそうなものだと思ってな」

 

意見を聞いた慎二は、フン、荒く鼻息を鳴らすとひどく不機嫌そうに眉をひそめ、雨が口に飛び込んでくるのも気にせずに上下の唇を開放し始めた。

 

「だから僕が何度も言ってんだろ。――あいつはな。ガキなんだよ。心の底では助けてほしいと思いながら、あいつはその望みを口にしない。だってそういって自分が誰かの手によってあの場所から拾い上げられた後、もしもその先にある未来が自分の望んだものじゃなかったとき、その時はもう、言い訳なんか出来ないだろう? ――あいつはいつだって逃げ道を探している。あいつが欲しているのは、完全なる自由なんてものではなく、絶対の庇護者の元にある安全が保障された限定的な自由なんだ。あいつはいつだって『私が不幸なのは私のせいじゃない』と思い込んでいる。あいつはいつだって、『私が不幸なのに、みんなが幸せなのは不公平だ』と思い込んでいる。あいつはいつだってそうして自分の境遇を憐れんでいるくせに、そうして白馬の王子様を待ち望んでいるくせに――、同時にあいつは、そんな『かわいそうな境遇から救われない自分』っていう状況を手放そうとしない――、クソみたいな甘ったれの女なんだ」

 

慎二が吐き捨てると、雨足はやはり一瞬だけ弱まり――、そして先ほどまで以上の強さで降り注ぎ始める。慎二はそんな桜の抗議のような雨をやはり毅然とした態度で無視すると、体に纏わりついてくる雨を気にすることもなく、再びその口を開いた。

 

「そうさ、ガキなんだよ、ガキ! あいつは、自分に有利なものを全部手放したくないんだ! あいつは確かに今の状況から誰かの手によって助けられたいけど――、でも、同時に、そうして誰かに助けられた後、弱い自分を完全に受け入れ、守ってくれる誰かを、今まで自分が犯してきた罪の罰を代わりに受けてくれる誰かを、つまりは自分の不利を完全に引き受けてくれる誰かを求めている。あいつは、臆病で、人見知りで、気弱で――、そのくせ自分が他人よりも上にいる状態であるためならなんだってする――、如何にも間桐の家の女らしい、何とも、卑怯で、強欲な、間桐の家にぴったりの、そんな、醜い女なのさ!」

 

その雄叫びは、一聞すれば桜に対する文句に間違いない。しかしそれはまた同時に――

 

「だからこそ僕は、さっきまでのお前を桜と合わせるわけにはいかなかったのさ! なるほど、さっきまでのお前と今間桐の家に引きこもっている桜は、割れ鍋に綴じ蓋だ! さっきまでの自分が絶対強者であるという自覚もなく君臨していたお前というあらゆる奴を救い出せてしまいそうな存在は、今の桜が望む存在そのままであることに間違いない! そうして救い上げた後、お前は桜の望むがままに、あいつが立ち直るその時まで、その時が来ることを信じて、世話を焼き続けただろう。――だがそんなものは偽物だ! そうして救い上げたところで、そこには再び共依存の関係が生まれるだけで――、お前はともかく、桜にはちっとも成長がない! 僕はね! そういう、誰かの努力や才能を利用して、その成果だけをまんまと掠め取ろうっていう――、昔の僕みたいな、陰険なやつが大っ嫌いなんだ!」

 

かつての慎二(/自分)というものに対する文句に違いなかった。咆哮はざぁざぁと耳煩い雨音をも切り裂いて世界に鳴り響く。そんな慎二の咆哮に気圧されたかの如く、一瞬だけ雨足は弱まったが――、直後、雨足はこれまでの勢いが遊びであったと思ってしまうほどの勢いに変化する。それは多分――、桜という少女の、現実を見たくないという必死の抵抗に他ならないのだろう。

 

「無駄だぞ、桜! 僕はもう決めたんだからな!」

 

おそらく慎二も雨足の変化に私と同様の感想を抱いたのだろう。だからこそ慎二は、そうして心の殻の中に閉じこもっていようとする、この心象風景の持ち主である桜に対して強く宣言し――、それを拒絶するかのように、雨足はさらに強いものへと変化し、やがて空も雲の切れ間も見えないほどに隙間なく覆われていった。

 

 

「ああ、もう、やっとついたか」

 

やがてそんな土砂降りの中を無理やりに歩き進んだ私たちは、雨風の激しい抵抗にあいながらも、なんとかその道のりを踏破して、間桐家に辿り着いていた。いつかかつて眺めたことのある、そしてつい先ほどこの世界にやってきた時にも見上げたその屋敷は、よく見れば大枠から細部に至るまでにおどろおどろしさが含まれている。おそらくそんな景観は、それこそ桜という少女の心情を現しているのだろう。この得体も知れない、咎人を閉じ込めておく檻のような雰囲気こそが――、きっと、桜という少女が自宅であるはずのこの家に抱いていたイメージなのだ。

 

「おっと、ちょっと待ってもらおうか、衛宮」

「慎二」

 

そんな見た瞬間吐き気を催しそうになる雰囲気の間桐の家の鉄門を開けて家に入ろうとすると、慎二は片手をあげて、私の進行の阻止をした。

 

「桜はこの先にいる。――けどさっきも言った通り、今のお前をそのままの状態で合わせるわけにはいかない」

 

その暗い色彩の瞳はしかし、覚悟の色に染まっている。そこには確固たる意志があった。そう。慎二の瞳には今、私が彼の出す試練に――、この世の全ての悪/アンリマユに染まるという試練に合格しない限り、ここから先には進ませないという、絶対の意思が現れていた。

 

「……そうか。――慎二。私は何をすればいい」

 

問うと慎二(/アンリマユ)は、慎二の体に異変が生じる。服の首元より生じた謎の紋様は慎二の首元から顔面にまで徐々にその範囲を拡大させてゆき、慎二の頭部を完全に覆いつくしていった。遅れて、ずぶぬれになった慎二の両腕の裾からも紋様は這い出して、やがて慎二の体の表面部位は謎の魔術的紋様によって完全に覆われた状態へと変化する。

 

「これが俺の――、慎二の姿を借りてこの世に顕現した今の俺の、本来の姿だ」

 

変貌した慎二が述べた途端、桜の心象風景であるというこの世界は、まるで地でも裂けたのかと思うくらいに、大きく揺れ動く。

 

「ちっ、桜め。僕に異物が混じっていると知るや否や、いきなり動揺しやがって……」

 

慎二は如何にも苛立たしさを隠そうともせず、言い放った。雨足がさらに強まる。もはや雨のなのか、滝なのか、あるいは海の中なのかすらわからないような状況の中――、

 

「慎二」

「衛宮。よく聞け」

 

慎二はしかし、厳かな雰囲気を放ちつつ、話をつづけた。

 

「僕はこれから、かつて聖杯戦争においてサーヴァントとして召喚した折に手に入れた宝具を発動する。それは本来、俺に傷を負わせたその相手の魂に、その傷を共有する呪いをかけるっていうくそったれな三流の宝具なんだが――」

 

言うと慎二は、自らの胸元に手をかけ、そのまま思い切りの横に引いた。服のボタンが弾き飛び、その素肌が露わになる。すると慎二はそうして露わになった胸元に刻まれている紋様を指さしながら言う。

 

「今、この瞬間のこの時代、この時ばかりにおいては、そんなルールを打ち破り――、俺はお前にの本来の力を――、この世の全ての悪という名前の、この世に存在している全ての弱者の呪いを、お前に授けてやることができる」

 

慎二の言葉に、私は今この世界に敷かれているルールのことを思い出す。

 

「――そうか……、名前が力になる法則と、生き様が力になる法則……!」

「その通り。そしてさっきも言った通り――、人間、同じ苦労をしたもの、同じ境遇の辛さを味わった者、自分と同じような弱さを持つ人間しか、相手を自分と同じ人間として見れない生き物だ。だから――」

 

言うと慎二(/アンリマユ)はその胸元を薄く発光させながら、再び口を開く。

 

「衛宮(/エミヤ)。このくそったれな救いのない世界でそれでもなお正義の味方なんて酔狂なものを目指す、愚者なる存在よ。――お前の望み通り、慎二(/僕)が望む通り、僕(/アンリマユ)がお前に、この世の全ての――、弱者どもが抱える、この世に存在するあらゆる悪心/正義を――、お前に与えてやる。そうしてこの世に存在する悪という悪に浸り、悪という悪に染まり、悪という悪をその心底理解したお前が――、それでもなお、誰かを救いたいなどという綺麗ごとを口にできるというのなら――、その時お前は、桜みたいな、自らの意思でなく非日常の側に沈み、しかし自らの意思で今もなお浮上しようとしない、甘ったれの、クソみたいなガキどもに言い訳一つさせない、完膚なきまでにそいつらを闇の中から救い上げる(/自らの足で歩いていけるよう成長させる)ことができる、真の正義の味方になることができるだろう――」

 

滝のような雨音によって掠れてしか聞こえないはずの慎二の言葉がやけに大きく鮮明な状態で聞こえてくる。神宣のようなその言葉を聞いて私が迷いなく頷くと、慎二は何とも彼らしくない――、しかし彼が浮かべるにぴったりとしか言いようのない、凶暴、かつ、からっとした気持ちの良い笑みを浮かべながら――、

 

「さぁ、我が本体よ。我が受け継いだこの――、この世の全ての悪(/アンリマユ)の名において命ずる。――目の前のこの男へ、我が洗礼を与えよ。――真実写し記す万象(アヴェスター)」

 

彼の真の宝具を開放した。瞬間、私の意識は闇に染まりあがり――

 

 

――意識が、反転した

 

 

 

『あなたの稼ぎが悪いから!』

『なんだと、このヒス女!』

 

誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。

 

『なにさ、このクソ男!』

『は、家事すらもまともにできない女をそう呼んで何が悪い!』

 

壁の向こう――、ふすまの向こう側ではいつ終わるとも知れない金切り声が交差している。二人のその声――、両親が罵り合う声を聞いているのが苦しくて、暗闇の中、近くにあったものを思わずぎゅっと抱きしめた。それはいつだか、家族三人で出かけた際、両親が買い与えてくれたぬいぐるみだった。動物をデフォルメして作られた物言わぬ存在であるそれは、ただそこにあるだけの物体だ。しかし、そうしてただそこにあるだけということが――、その口から誰かを傷付ける言葉が出てこないということが――、今の自分にとって、何よりの救いだった。

 

『なんだって! 仕事仕事で子育ての手伝いもろくにしない男がよく言うよ!』

『家事の合間にあいつをほっぽって演劇鑑賞だのお高いランチだディナーだのに出かけるお前よか、俺はあいつのために働いてらぁ!』

 

そこそこ広い一軒家。小さな庭があって、車庫もあって、父親の書庫があって、母親の趣味の部屋があって、子供部屋もある。世界という単位で見れば、自分は間違いなく恵まれている。ポスターなんかで見たアフリカの世界の子供や、テレビの向こう側で戦争に巻き込まれている自分と同じような年齢の子供たちと比べれば、自分は間違いなく、恵まれた立場にいる。でも――

 

――ならなんで、僕はこんなに辛い思いをしなければならないの……?

 

『そのわりには大した給料も貰ってないくせに!』

『お前が浪費するからだろ、このクソアマ!』

『何よ!』

『何だ!』

 

叫び声はいつ終わるともなく聞こえてくる。多分、明日も、明後日も、その次も、ずっとこんな日々が続いていくのだろう。そう考えると、それだけで胸が苦しくなって――、僕はそして、考えるのを、やめた。

 

 

『ねぇ、じいさん。ちょっと相談があるんだけど』

 

理解し辛い誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。

 

『ああ、なんだい』

『今度友達と遠くに遊びに行くことになったんだけどさ。貰った小遣い使いすぎて、もうあんまり残ってないんだよね』

 

さびれた和室にいるのは二人の人間だ。まだ年若い少年は自動的に起き上がる機能の付いたベッドに横たわる老人に対して媚びたような口調で呼びかける。

 

『ああ、お小遣いだね。いいよ、そこに財布があるから――』

『サンキュー』

 

言うや否や子供は――、孫は手慣れた手つきで財布から数枚の高額紙幣を抜き取ると、『サンキュー爺さん! またな!』といって、早々に部屋から出て行ってしまう。何とも現金で、本当に遠慮がない。ベッドに取り付けらえれたボタンを押して機械に身を起こしてもらうと、何とかスリッパをはいて和室の畳の上に立つと、よろけながらも窓際へと向かう。

 

『~♪』

 

見れば二階の自室の窓からは、屋敷の入り口から出ていく孫の姿が見える。見る人が見れば浅ましいとみるかもしれないが――、自身の莫大な遺産をどのように分配して相続するかで喧々諤々骨肉の争いをして見せた我が息子娘の姿を見てしまえば、こんな辺鄙な土地に建てた家屋までわざわざ短くない時間を費やして足を運び、ご機嫌取りかもしれないが短くない時間を自分と他愛のない会話に費やしてくれた後、たったあれだけの手に収まる現金で満足してする姿は、むしろ癒しであるともいえるだろう。

 

――どうしてこんなことになってしまったのか……

 

自らの屋敷から機嫌良く帰ってゆく孫の姿を見ながら、過去を思う。確かに自分は、息子に対して、娘に対して、一般の家庭と比べれば厳しめの教育を施した。屋敷に還ってくる時間も厳守させ、毎日のように何かを習わせ、彼らに余暇というものをほとんど与えなかった。それがこの結末を――、息子娘が私を蛇蝎のごとく嫌い、私が死んだ際に残る財産をめぐって話し合いという名前の殺伐とした醜い争いを繰り広げるようになったというならば、それは、きっと仕方ないことなのだろう。私はよい経営者ではあったが、良い親ではなかった。それがわからないほどに私は耄碌していない。そうとも、私は息子娘に嫌われるようなことをしてきた親だった。だが――

 

――それもしょうがないではないか

 

なにせ私の両肩には、私の家族だけでなく、私の会社に勤める数千人と、彼らの家族の命がかかっていた。株式という、民主主義という名前の下、短期目標達成ばかりを求められる方式を取らなかった我が社は、だからこそトップの才覚と意向一つで滅びてしまうのだ。この早さが何よりも優先される時代において必要なのは、多くのそこそこ優秀な船頭と羅針盤ではなく、一つの道筋をピシッと決められる絶対の信念と才覚を持つ経営者だ。そうとも、会社のために必要なのは、多くの我が身ばかりを大切にする幹部社員ではなく、会社とそこにぶら下がっている人たちのためを思える、一人の社長なのだ。私はそう信じてこれまでやってきたし、私はそのやり方でやってきたからこそ、裸一貫からここまで会社を大きくできたという自負がある。

 

――だが

 

だからこそ私は――、同族経営、独占主義者の誹りを受けようと、きちんと経営学、帝王学の教育を受けさせた、我が息子、娘に、席を譲ろうと考えていたのだ。少なくとも私の会社にいる幹部社員たちは、そんな私の思いを知っていてくれるからこそ、自ら上に立とうとせず、会社とそこに生活の基盤を置く者たちのことを第一に考えてくれる存在ばかりだ。だからこそ私は、会社経営の教育を受けた息子娘が、彼らという経験豊富な存在に支えてくれるならば、わが社の未来は安泰だと思っていたのだが――

 

――どうして、あいつらはそれがわからん

 

だがそんなきちんと教育を施したはずの我が息子と娘ときたら、いかに自分の資産を増やすかばかりに腐心していて、それ以外のことに興味を示さない。その教育と今ある資産を元手に、株式売買とM&Aを繰り返して自らの資産を蓄える手腕こそ見事なものだが――、あやつらの興味は本当に、マネーゲームに勝ち、資産を増やすという一点、そこにしかない。

 

――どうしてもっとその先にいる他人のことを思いやれん

 

奴隷経済の先にあるのは滅びだけだ。労働者は資本家の奴隷ではない。アダムスミスの提唱した、『神の見えざる手』の真の理念も理解できない奴らに、会社を譲ることなどできはしないとは思うが――、自分にはもう、その代わりを用意するだけの気力は残されていない。

 

「儂もあ奴らに、こうして誰かと対面して金を稼がせる苦労を覚えさせるべきだったかのう……」

 

割がよすぎるかもしれないが、自ら足を運んで、自らの手で金を稼いだ血の繋がった孫が屋敷から去ってゆくのを見つめながら、会社の未来を憂いて、思いにふける。

 

――あれらに任せれば、この先、会社と会社に所属する彼らには地獄が待ち受けている

 

わかっていながらも――、すでに数十年をかけて用意した計画に失敗してしまった今の自分には、それをどうにかしようとする気力は湧いてこない。やがて聞こえてくる孫が鉄門を閉める音が聞こえてくる。それは間違いなくこの広い屋敷に私のみが残されたという合図にほかならず――、私は再び、待ち受ける地獄の日々を想像し、身を焼かれるような羞恥と痛苦を味わった。

 

 

『おら、もっと締め付けろ!』

 

理解したくもない誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。

 

『――』

『あん、なんだって?』

 

薄暗い部屋の中には、酒と煙草と埃とゴミと腐った食料の臭いと――、性臭が入り混じっていて、何とも気持ちが悪い。

 

『――』

『聞こえねぇよ! いいからもっと締め付けろっつってんだよ!』

 

私はそんな何度片付けても部屋をそんな惨状に仕立て上げるこの部屋の主に組み敷かれながら、呆然とテレビの画面を見つめていた。

 

『ってことなんですよ~!』

『ええ!?』

『まじ!?』

 

明るい画面の向こう側では、悩みも知らないような人たちが馬鹿面をさらして馬鹿な声を上げている。そこにはいくら手を伸ばしても届かない日常があった。多分自分は――、こうして薄汚れてしまった自分は、いくら手を伸ばしてもそこにはたどり着けないのだろう。私にはそんな確信があった。

 

『おい、何してんだ! ――……テレビか。ったく……』

 

声と共に下半身の違和感が喪失した。やがて薄暗く汚い部屋のあちこちを薄汚い文句を吐き捨てながらさらに汚しまわった男は、垢とゴミにまみれたリモコンを手に取るとボタンを押す。

 

『はい、というわけで――』

 

そうして部屋にあった唯一の明かりは一瞬にして消え失せた。薄暗い部屋はさらに深い暗黒で支配され、そんな中、リモコンを投げ捨てる男の姿だけが不気味に浮き上がっていた。

 

『これで集中できるな。――へへっ……』

 

太い手がにじり寄ってくる。足を這いずり回って腹にまでやってくる指がなんとも汚らわしい。そう思いながらもいつも繰り返されるそれを拒絶する気力を当の昔に失っていた私はそれを払いのける気にもならず――

 

『抵抗しないのはいいけど、相変わらず人形みたいなやつだな……。おら、やるぞ!』

 

私はそして、悪鬼によって、再び地獄へと投げ落とされた。

 

 

『お父さん、お帰り!』

『おう、ただいま!』

 

理解の出来ない誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。

 

『今日は何人殺したの!?』

 

抱きついた我が娘は何とも無邪気な笑顔でそんな言葉を投げかけてくる。かわいらしい我が子。まだ赤ら顔で、柔らかい頬に、固い髭を擦りつけながら、私は答える。

 

『そうだなぁ……沢山、そう、沢山だ。お父さんは今日も神の敵をたくさんぶっ殺したんだぞ!』

『わぁ……!』

 

そして注がれる尊敬の目線がなんとも誇らく、心地よい。

 

『お父さんはここらで一番の戦士だからね……』

 

奥から出てきた妻が、私を褒める言葉を述べた。

 

『そうとも。お父さんはこれからも神の敵となる異教徒どもをたくさんぶっ殺し続けるぞ!』

 

言いながら、我が子の背中をさする。

 

『――っ……!』

 

すると、娘は私の手から逃れるようにして、身を捩った。所作があまりに急だったため、娘を落としそうになった私は、慌てて我が子を強く抱きとめる。すると、抱きしめた背中、わずかに覗く肌が少し腫れあがり、血が滲んでいるのを見つけて、私は娘が何故に私に対してそのような態度をとったのかを知った。

 

『――師父(/ファーザー)からお仕置きを受けたのか』

 

そうして自らの口から出てきた言葉は自分から思っていた以上に冷たく、狭い我が家の中に響いてゆく。抱きとめた娘の体がビクリと動く。そうして予想の正しさを確信した私は、視線を娘から妻へと向けた。妻が顔をそらす。それが何よりも証左となり、私は自らの浮かれていた気分が冷えてゆくことを感じた。

 

『何をやった』

『――ごめんなさい』

 

首元に抱きついた娘が小さく呟く。私はそれを無理やり引きはがすと、抱いた娘と目線を合わせたのち、問い直す。

 

『何をやった』

『……』

 

娘は語らない。だが、あの温厚な師父がこうまで荒く鞭を叩きつけたのだから――、きっと娘は、神の教えに背く、何か重大なことをやらかしてしまったに違いないのだ。殺しの際使った薬に浮かれていた気持ちがきゅっと引き締まってゆく。平穏であるはずの家に帰ってきた私は、しかし今や再び神の戦士としての心持ちを取り戻し、教えに違反した罪びとを問いたださなければならない気分に陥っていた。

 

『来なさい。悪い子にはお仕置きが必要だ』

 

冷ややかに告げると、それは自分が思っていたよりも娘の心を切り裂いたようで、手にしていた娘はぎゅっと拳を握り締めながら、しかし静かに『……はい』と漏らしつつ、恐怖に怯えた涙をこぼしていた。そんな私と娘の様子を見たが故だろう、妻の嗚咽が鳴り響く。分離した私は意識の底で何とも言えない後味の悪い地獄のような気分を覚えながら――、娘の教育のため、奥の仕置き部屋へと向かっていった。

 

 

『何やってんだ、お前! この程度のことも出来ないなら、仕事なんて止めちまえ!』

 

誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。

 

『このクソガキが! 誰がお前の面倒見てやってると思ってるんだ!』

 

誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。

 

『死ね! 死ねよ、死んじまえ!』

 

誰かの日常(/地獄)を味わった(/見た)。

 

『お前なんかの居場所がここにあると思ってたのか、この間抜け!』

 

世界では当たり前のように罵声が飛び交っている。

 

『なんで虐めるのかって? ――は、そんなの、俺が楽しいからに決まってんだろ!』

 

世界は当たり前のように悪意が満ち溢れている。

 

『馬鹿か、てめぇは! お前の迷惑なんて知ったことか! 俺は、俺がよければ、それでいいんだよ!』

 

世界は当たり前のように誰かの悪/正義で出来ている。この世界は当たり前のように搾取が起こっている。そこには等価交換なんてものは存在しなかった。あるのはただただ一方通行の悪意だけ。世界にはこんなにも悪意で満ちている。すれ違う思いが、誰かのためを思っての行いが、我欲を満たすための行いが、常識の差異が、他者との間に摩擦と溝を生み、そんなものが積み重なった結果、やがてそれは悪と呼ばれる何かへと変質する。あるのは、自分を幸せにしたいと思う願いだけ。しかしそんな幸福の願いが一人一人によってこうも違うからこそ、誰もかれもの幸福と正義は、誰もかれもにとっての不幸と悪へになり替わる。

 

『なんでお前は、そう堪え性がないんだ!』

 

誰かにとってその程度と思う不幸は、しかしその不幸を味わっている当人にとってはこれ以上ないくらいの地獄だった。

 

『なんでこんなことも理解できないのかなぁ!』

 

見たくもなかった。目を背けていたかった。過ぎ去るのを待つしかなかった。地獄の光景が幾度となく繰り返されては、理解したと思う間もなく遠ざかってゆき、――そしてまた新たな地獄が始まるのだ。

 

『お前なんか、産むんじゃなかったよ!』

 

幼心に増えてゆく傷。終わらない悪夢。積み重なってゆく澱。摩耗する心。すり減った思いはやがて自らの心を絶望の淵へと招き、淵を超えてしまった魂は、やがて気怠さばかりが支配する悪意の泥の中へと沈んでゆく。

 

『さぁ、今日の教育を始めようか』

 

そして続く地獄は、やがて見覚えのある姿と声を映し出し――

 

『――はい、おじい様』

 

私はやがて、この世界において、もっとも深き場所にあった、その記憶に辿り着いた。

 

 

――ああ

 

 

据えたにおいがする。それはカビの臭いと、虫の生臭さが入り混じった、胸糞悪さしか生まない暗黒の澱物の臭いだ。今や私を支配する存在なんて誰もいなくなった間桐の家の虫蔵の中、その隅にある最奥の空間に身を寄せながら、私はただ震えていた。

 

『桜。君の言う管理というものは、所詮、独りよがりのものだ。始まりの想いがどれだけ貴かろうと、その先が永劫の安寧とやらにつながっていようが、世界で生きている人たちの、そんな誰かの思考を捻じ曲げ、支配し、一括して管理してしまおうなどと思った時点で、そんなものは人間に対するシステムとして間違っているんだよ』

「――っ」

 

思い返すだけで、体に震えが走る。先輩に嫌われた。先輩に否定された。先輩に怒られた。思うだけで、心はどこまでも際限なく冷え込んでゆく。

 

――わからない

 

何がいけないのかわからない。だって、絶対に不可能なのだ。どうあがこうと、違う生き物である限り、差異が生まれてしまう。差異はやがてぶつかり合い、互いにとって認められない部分は剣となり、互いを傷つけあう武器となる。そうだ。意識の違いこそが、生き方の違いこそが、根底にある思想の違いこそが、世界の全ての不幸を生み出す。だからこそ支配しようと思った。否――、支配ではない。共有だ。

 

ある一つの思想の下、皆の意識を一つにする。別にそれができるなら、私じゃなくたってかまわない。そうやってみんなの意識を無理やりにでもまとめた先にしか――、世界の平和や人類すべての救済なんてものはあり得ないだろう。

 

先輩は正義の味方を目指していた。先輩は正義の味方を目指して苦しんでいた。先輩はどうしてみんな同じ常識を持てないんだろうと悩んでいた。私は先輩がそんな先輩だったからこそ、憧れた。私はきっと、そんな綺麗な考え方をして、実際にやってのける先輩の側にいれば、私が体の内/裡に抱えている汚れが浄化されるような気がしたから先輩の側にいることを望んで――、でも、そんな私の醜さが先輩という輝かしい存在を汚してしまうことを恐れたからこそ、私は先輩に何も明かせなかった。

 

でも今は違う。私は女神として生まれ変わった。私は今や、世界を管理する機械の一部であり、そのものだ。そう。今や世界は私の箱庭だ。旧人類が定めた正義の名の下に、私は選別し、選別し、選別を繰り返し、世界の平和を保ってきた。

 

そう。私はまるで、かつて霊長の守護者となったエミヤシロウ(/先輩)のように、世界の平和を保ってきた。だからこそ私は、先輩に受け入れられると思っていた。だからこそ私は、先輩に喜んでもらえると思っていた。だからこそ私は、先輩に、私と一緒の未来を歩んでもらえると思っていた。だからこそ私は、世界をさらなる平和な状態にするべく、世界中にいまだ存在する不幸を抱えている人達を救うために行動を計画して、実行し――、

 

『いや、なに。君の語ったことがあまりにあれだったものだから、つい、ね』

 

しかし、私の提案は、無碍もなく先輩に拒絶された。私が必死で考えて、先輩に喜んでもらえると思っていた案は、先輩に冷たく拒絶されてしまった。

 

「う……」

 

あの先輩に拒絶された。あの私にとって絶対の正義の味方であった先輩に拒絶されてしまったというそんな事実が、私の心をどこまでの傷つける。

 

「痛い……」

 

痛みはどこまでも深く私の心を傷付ける。

 

「痛い……」

 

心はどこまでも深い罪悪感に包まれてゆく。

 

「痛いよ……」

 

胸が痛い。胸が痛い。胸が痛い。

 

「先輩……」

 

何がいけなかったのか。何がそんなに間違っていたのか。私には何もわからない。わかりたくもない。ただ、結果として、先輩が否定したということは――、きっと、私の考えは、間違いなく、間違っていたのだろう。

 

「ごめんなさい……」

 

わからないままに、謝罪の声を出す。

 

「ごめんなさい……」

 

誰にも届かないと知りながら、ひたすらに私はここにいない誰かに向かって誤り続ける。

 

「ごめん、なさい……」

 

虫蔵は薄暗く、冷たい。その冷たさは私の間違いを責めるかのように苛み、全身から体温を奪ってゆく。

 

「先輩……」

 

――ギィ……

 

虚空に向かって返ってくるはずのない声を漏らすと、返事と言わんばかりに還ってきた重苦しい石扉の開閉音が鳴り響く。

 

「――……っ!」

 

心臓が止まりそうだった。胸が張り裂けそうになった。そうして隙間からわずかに差し込んでくる光すらも私を責めるようで、私は慌てて虫蔵のさらに隅の隅へと、自らの裸身を押し込もうとした。

 

――まるで虫けらみたい

 

惨めだった。悲しかった。泣き叫ぶことすらできない自分がみっともないと思った。コッ、コッ、と音が鳴り響く。誰かがゆっくりと階段を下りてくる音だ。私は頭を抱えて、呼吸を止めた。まるで杖ついた老人が立てるようなその弱弱しい足音は、私にとって恐怖の具現以外の何物でもなかった。

 

「――」

 

やがて虫蔵に敷かれた階段の最奥へと到達したその男は、多分あたりを見渡したのだろう、ゆっくりと呼吸の音を移動させて――、

 

「――」

 

多分、その視線の先、虫のように固まる私を見つけた。

 

――こないでっ!

 

拒絶の言葉すら口から出てこなかった。それを言ってしまえば、この気配の主が私を教育する(/虐める)だろうことがわかっていたから。だから私は、いつものように、精いっぱいの抵抗の証として全身を丸めて、その男と目を合わせないようにして――、

 

「――あぁ」

 

そうして丸まっていた惨めな私に聞こえてきた声を聞いて、思わず顔を上げてしまった。

 

「よかった……」

 

その人は――、ボロボロだった。もともと白色だった髪はさらに色素が抜け落ちたかのように真っ白で、皮膚はからからに乾いていた。私の背中へと回された手にかかっている力は弱弱しく――、下手をすれば、今の私よりも、力がない。しかしそんなボロボロの姿をした人は、それでもその顔に、輝くような笑顔を浮かべながら、まるで地獄の中で宝物を見つけたかのような笑みを浮かべながら跪いて、どこまでも力なく、しかし精いっぱいとわかる力で、私を抱きしめてきた。

 

「桜――」

 

回されたその手は暖かかった。その弱弱しい手は、ボロボロの姿は、きっと私を助けるために起こった結果なのだろうと、私は心底理解した。この人に、他意はない。この人はただ。私が目の前で、生きているという事実に――、この世界に存在しているという事実を喜んでくれている。

 

――この人は、私を祝福してくれている。

 

「先輩……」

 

それを理解したからこそ私は――

 

「助けて……」

 

初めて心の底から、救われたいと――、この世界に生きたいと、そう思った。




子供に安心感を送るには、豊かな知見を持つとともに、大人自身が自らの生を振り返り、独りよがりでない誠意ある生き方をしているかを自問することが求められる。そして、子供にも人格を認め、人生の先達として子供の進む道の半歩先に灯を掲げる心持ちと同時に、共に不安を分かち合い、寄り添う姿勢が求められよう。
 
……なぜこのように一人の人にと、諸々の負荷が加わった別れを経験させられた子供を前にして、誰もそのせいを代わることも出来ず、思いあぐねることもしばしばある。だが、自分の在り方を顧みて、その子の内に潜む可能性にそっと思いを巡らし、その子に身を添わせようとする人に出会うとき、その孤独の痛みの世界に何か微光がさすのではないだろうか。ふと、doingばかりでなくbeingの大切さを思う。
 
『子供の心の寄り添う営み』 より


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二十八話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (四)

Est articulus fidei quod Deus assumpsit naturam humanam. Non including contradictionem, Deus assumere naturam assinam. Pari ratione poshest assumere lapidum aut legumes./神が人間の本性を取ったという事は、信仰の眼目である。神はロバの本性をとることも矛盾なしにできる。同じ推理によって、石、あるいは木材を取ることもできる。
William of Ockham


一と零。理性だけでは割り切れぬ感情という要素に満ち溢れている世界の中で生きている人達が抱えている懊悩を知った。答えが出ないという地獄。答えを出せないという地獄。それを知った時、衛宮切嗣という男に拾われ、彼によって衛宮邸という帰ることのできる居場所を与えられた自分がどれだけ恵まれていたかを知らされた。そう。私には帰ることのできる場所があったのだ。自らの理屈を押し付けるばかりで他人の意見を折衷案じみた耳触りの良い戯言と切り捨て、結果として多くの人から疎まれてきた私には、しかしそれでも、最期まで心を預けておくことのできる居場所というものがあった。私には理解者がいた。私の背後には切嗣がいた。私の目指す先には切嗣がいた。それはすなわち、私という存在は、私の養父である衛宮切嗣の理想をそのまま受け継いだだけのコピーロボットの如き存在だったのだと例えることができるだろう。ならばなるほど、だからこそ私は、かつて英雄王ギルガメッシュによって偽物/フェイカーと嘲笑われ、凛と過去の自分に救われた今生においても同じことを繰り返そうとしていた私は、言峰綺礼によってお前が衛宮切嗣の呪いに囚われていると酷評されたのも理解できようというものだ。確かに彼らの言う事が事実である。私の生涯は所詮、過去の切嗣の行為をなぞるだけものに等しかっただろう。だが私は、やがて死に至るまでの間、確かに切嗣の誘導もあったかもしれないが、だからこそ私は、出会う誰からも私の矜持を理解されずとも、その決して長いとは言えぬ生涯をそれでも全力で走り抜けることができたのだ。私がそうして間違いながらも自らの生涯を自らの意思で選択して、折れることなく駆け抜けることができたのは、私が切嗣によって信念と帰るべき場所を与えられ、手厚く庇護されていたからに違いない。私は衛宮切嗣の信念と衛宮邸という心安らぐ場所があったからこそ、多くの人から蔑まれながらも、「偽善者/正義の味方」としての生涯を駆け抜けることができたのだ。

 

そう。衛宮切嗣という親と、衛宮邸という居場所。私を無条件に認めてくれるそんな存在と、私という存在を無条件に受け入れてくれるそんな二つの要素があったからこそ、私は多いに間違いながらも、自らの進むべき道を自らの意思で選択することができたのだ。私は恵まれていた。切嗣という養父から、まるで実子のようにそれらを与えられた私は、だからこそ多くの人から後ろ指を指され、悪人の烙印を押されても、さまよえるユダヤ人の如き存在になどならず済んだのだ。だが……――

 

――世の中には、そうでない人の方が多い

 

思いのすれ違いにより、我が家に居場所を失った子供がいた。自らの信念と理想を押し付けた結果、我が子らの教育に失敗したと悩む老人がいた。監禁され、実父より性的搾取をされている少女がいた。訳の分からぬ常識に縛られ、機能不全に陥りかけているまだ幼い子供がいた。無条件の愛と居場所は親から絶対に与えられるものではない。むしろ、条件付きの方が多いものだということを、私はあの地獄の中で初めて心底理解した。誰からも愛されていない。どこにも居場所がない。すなわち、自分という存在はこの世に必要とされていないという理解は、人の心を容易く壊す魔性の毒である。

 

――誰かによって無条件の愛と居場所を与えられない。そんな地獄のような環境に生まれ落ちてしまった人間のこの世になんと多かったことか!

 

無条件の愛によって守られていない彼らは、無条件に自分が存在していられる安寧の居場所を得ていない彼らは、何処にいても身を苛まれ続ける。そんな彼らにとってこの世とは地獄となんら変わりのない場所に等しい。無条件の愛と無条件に自分がいてもいい居場所を得られなかった人間は、自らがこの世に存在している事自体が苦痛でしかないのだ。折れぬ信念、成長しようと思う余力、この地獄から抜け出してやると言った想いなどというものは、この世の何処かに自分の居場所があるという確信があるか、あるいは、自分が無条件で愛してくれる存在が確かにこの世にいたのだと言う実感があるからこそ生まれてくるものだ。井戸の中の蛙が大海の存在を知らぬように、見知ったことのない概念を、その身に受けたことのない概念を想定するのは難しい。条件付きの愛と居場所しか与えられなかった人間にそれを望めというのは、それこそ豚に空を飛べと言うようなものである。だが――

 

――それにも増して、かつてはあっただろうそんな無条件の愛や居場所を取り上がられてしまった悲しき人々の、なんとこの世に多かったことか!

 

それよりもさらにひどい地獄がある。誤解を恐れずに言わせてもらえれば、無条件の愛や無条件に自分が存在していい居場所というものを知らずに育った人間は、まだの幸福の部類である。何故ならクリアすべき条件を与えられながら、それでもこの世に存在することを許されている彼らは、すでにクリアすべき条件を無条件に満たしている。彼らは自らが生存しているという事実により、その事実によって他者より当たり前のように愛を得て当たり前のようにこの世に居ることを許されているのだ。彼らはある意味、世界という存在そのものに愛されている。だからこそ彼らは、彼らに注がれる、与えられるそれらが、条件付きの愛と居場所が条件付きであると気がつかない。故に――

 

――この世において最も不遇なのは、そうした無条件の愛を与えられなかった人よりも、この世にそのような無条件の愛や無条件に自分が存在していい居場所などというものがあることを理解、実感させられながら、しかし奪われてしまった人間である。

 

何故なら彼らは、この世に無条件の愛と無条件に自分がいていい場所があることを知ってしまっている。何故なら彼らは、自らにとってもっと居心地のいい場所がこの世にあることを知ってしまっているのだ。そうとも彼らは、この世にそのような天国のような場所があることを知ってしまっている。そしてだからこそ――、そんな彼らにとって、条件付きでしか自らの存在を認めてくれないこの世のそこ以外の場所というものは地獄に他ならず――、そうして彼らは、自らが落とされた地獄と、かつて自らが存在していた天国との落差がそのまま絶望の累乗係数となり、この世はより地獄に等しい場所であると認識するようになってしまうのだ。それが――

 

かつて桜という少女が落とされた、そして今なおも彷徨っている、無間地獄の正体である。

 

 

腐臭が充満している薄暗い部屋の中では、よく知る女性の泣き声ばかりが響き渡っている。そんな私の胸の中で泣きじゃくるその女性の名は桜。見た目もう二十後半には達しているだろう外見をした彼女は、はるか昔の時代、かつての私――衛宮士郎という男にとって妹分のような存在だった女性である。

 

「先輩……、先輩……、先輩……」

 

かつて私が通っていた学校――穂群原の後輩であった彼女は、まるであの頃のように、しかしあの頃ならば決して出さなかった声色と仕草で、私の身にしがみつき、泣き声をあげ続けている。この桜という女性が私の腕の中で震えている理由を、私は心の底から理解できていた。部屋の中を見渡してみれば、彼女が閉じこもっていたこの石材のみを用いて作り上げられたこの部屋の中には、中央に広い浴槽らしき施設がある以外に何もない。聞けば桜という彼女は、この寂寞と不吉さばかりが支配する部屋の中において、間桐臓硯という戸籍上は彼女にとって祖父にあたる人物から、その身体の内側に蟲を埋め込み、肉体を間桐家の魔術に適したものへと改造するという、魔術教育という名の拷問を受けていたらしい。無論、彼女はそんな拷問じみた魔術教育を好んで受けていたわけではない。本音を語るならば、彼女は一日でも早くてそんな苦痛ばかりを伴う行為から一刻も早く解放されたかった筈だ。そう。

 

――彼女は決して、魔導の奥義を極めたいなどと望む人間ではない

 

もはや微かにしかない記憶であるが、それでも私が衛宮士郎として過ごした記憶の中において、桜という彼女は日常の象徴のような少女であった事を、私は覚えている。たしかに初めこそ多少この石蔵の中のような陰鬱な雰囲気を漂わせていた彼女であるが、彼女は私の家で私から料理を学ぶうち、私の家でよくクダを巻いていた藤村大河という女性と交流を繰り返すうち、花のような笑顔を浮かべるようになった事を覚えている。よく笑い、よく叫び、溌剌としていた我が姉貴分、藤村大河の浮かべる笑顔を畑いっぱいに咲き誇る向日葵のようであると例えるならば、桜のそれはまるで野にある蓮華草のようだった。日向で快活に咲き誇る花ではなく、日陰でひっそりと咲く華。桜の纏う雰囲気にはそんな、まだ二十にも達していない年若い少女が纏うには過ぎた頽廃的な色気があり――、ああ、今になって思えば彼女が纏うそんな雰囲気は、彼女の背後にあった魔術という要素が深く関連していたのだろう。日常、普通に生きる事を心の底から望む彼女は、しかしその身に宿した魔術という才能の優秀さと、彼女が生まれてきた家と彼女が預けられた家の事情故に、日向で生きる事を許されなかった。そんな自らの望みと相反する事情が神秘のヴェールとなり、桜という少女の日常を乱す色香となっていたのは、平穏を望む彼女の思いからしてみれば皮肉としか言いようがあるまい。

 

「先輩……」

 

桜。稀有にして優れた魔術の才能をもって生まれてきてしまったが故に、魔術という世界の裏側に秘匿されていた技術がもたらす運命に翻弄されてしまった女性。積み重ねられてきた魔術の歴史。魔術という陰の技術。間桐という家の狂気。それらの要素は荒れ狂う運命の濁流となり、日向での平穏な生活を望む彼女を世界の底の底にまで追いやった。そして追いやられた先、彼女は魔導の技術を用いてその体を解体され、肉体は神の贄として捧げられ――、その魂は日向で生きる人々を守るための神として祭り上げられた。日本古来の考えかたによれば、神は自らがそれを成せなかったからこそ、それを人々に授けるようになるという。ならば平穏な日常を望みながら、しかしそんな日常を送るどころか、肉体を蟲に改造され続けるという拷問のような日々を送った彼女は、まさしく相応しい人材であったに違いない。

 

「私、どうすれば……」

 

桜。思い返すほどに不憫という言葉以外で言い表せなくなる、魔術という存在によって自由を束縛され続けてきた女性。彼女は幼い頃からあらゆる自由を奪われ、間桐臓硯より自らの魔術傀儡としての教育と改造を施され、同時に大事な跡取りかつ道具としての庇護を受け続けてきた彼女は、やがて間桐臓硯という男の死によって自らの身が解放に至った後、しかし自由を喜ばず、間桐慎二という自らの兄によって自らを支配される事を望んだという。そして長年の間、間桐の家において彼女が受けてきた拷問は、桜という女性の人格を粉々にし、決して独り立ちできないようにしてしまった。おそらく彼女がそのような人格になってしまった要因には、卒業した私が故郷である冬木の街を離れ、ロンドンへと行ってしまったことも関わっているのだろう。桜という少女にとって唯一の心の拠り所であった衛宮邸という居場所や学校という逃げ場を失った彼女は、常に間桐の家という自らにとって高負荷のストレスを与えられる場所に身を置かざるを得なくなり、故に――

 

――壊れた

 

天国と地獄のの距離は離れているほどに、落ちた時の衝撃は大きなものとなる。平穏という精神安定剤を奪われ、地獄へと叩き落とされた彼女は桜という手折られた少女は、間桐臓硯という魔術の家元によって、間桐の家という剣山の上に生けられた。叩き込まれた自由から逃げ出そうにも、心臓という全ての生命の源たる場所に蟲を埋め込まれ、生殺与奪の権利を握られてしまった彼女にはそんな選択肢を選ぶ事など出来ず――、そしてまた死ぬ事すらも許されなかった彼女は、自らの心をも突き刺す剣山の上で痛みに耐える以外に道は無く――

 

――やがて心を殺すこととなってしまったのだろう。

 

自宅は常に自らを苛む地獄の針山で、自らの養育者はそんな地獄を管理する鬼だった。鬼はあらゆる手段で桜という女を生かしつつ、苦痛を与えてくる。そしてそんな彼女にとって唯一の救いは、同じ家に住んでいた、彼女の世話がなければ口をきくどころか生きてすらゆけない間桐慎二という、彼女の兄分だけだった。かつては彼女のことを虐めていた彼であるが、そうして長き眠りについて彼の世話をしているその時に限っては、彼女は教育という名の苦痛を与えられる拷問から逃れることを許される。彼女に罵声と苦痛を与えぬ物言わぬ人形だけが、彼女の救いとなり得たわけだ。おそらくメルトリリスという桜にとって娘である存在が人形に執着するようになった要因はこの辺りにあるのだろう。――ともあれ。

 

動かぬ彼の世話をしている時だけ、自分は苦痛を受けずに済む。だから桜は――

 

……慎二は間桐臓硯が死した直後に自らが長きに渡る眠りより覚めたのは偶然だと思っているようだが――、それは違う。この世の全ての悪/アンリマユという存在によって奴がこれまでにおいて収集していた全ての悪性と絶望を受け入れた私は、そうして地獄を巡る、その最奥において間桐桜の地獄をも追体験した。だからこそわかる。

 

――桜は、今や自らにとって唯一安らげる場所となった、物言わぬ人形と化した慎二を失いたくなかったからこそ――、常に彼が目覚めないよう、慎二の体力を生存に必要な分だけ回復させ続け――、無意識のうちに彼を眠らせ続けていた。桜の保護者である間桐臓硯は、桜の心の奥底に眠る、そんな後ろ暗い思いに気付きながらも――、否、気付いていたからこそ、間桐の家の中に桜を縛り付けておくために、彼女のそんな無意識の行いを、むしろ容認した。間桐臓硯は、家の外側でなく、内側に桜にとっての天国を作ることで、彼女を間桐の家から決して逃れられないように仕向けたのだ。

 

完全なる地獄なる場所に作られた小鳥の宿り木。唯一の心の寄せどころ。それこそが眠り姫となった間桐慎二の存在だった。だからこそ魔術の才能を持たぬ間桐家にとってお荷物でしかない間桐慎二は生きることを許され、だからこそ桜は、自らの救いとなってくれた彼に対してひどく執着と好意を抱くようになったのだ。

そして――、そんな拷問じみた教育が続く毎日の中、その中にわずかばかり差し込まれた安らぎだけを享受する以外の全ての行為を禁じられた桜は、故に一切の精神的成長が起こらなかった。続く地獄のような日々。身を焼く苦痛にただただ耐え続けなければならない毎日。唯一の安らぎは目を覚まさぬ自らと血の繋がらぬ兄の世話を焼いている一時のみ。だがそして続くはずだったそんな日々は、間桐臓硯の自死によって終わりを告げることとなる。桜は焦った。間桐臓硯という男は狡猾な男であり、もし万が一桜という存在が反抗的な態度を見せて間桐臓硯/自分を殺傷せしめることがあろうものなら、即座に桜の体の中に宿している蟲達を暴走させ、彼女を道連れにする術式を敷いていた。故に間桐臓硯という男の命は自らのそれとリンクしているはずであり――、本来ならば間桐臓硯の死とともに自らの命も失われる筈だったのに――、何の因果か、自分は生きながらえてしまっている。今の私には、そうして桜が生き残ったのは、かつて自らが何のために永遠の命を目指したのかを思い出してしまった正義の男が、魔のものの影響により取り戻してしまった良心の呵責に耐えきれなかったが末の、せめてもの償いであったと知っているわけだが……、当然当時の桜にそのようなことがわかるわけもなく、とにかく間桐臓硯という自らの養育者かつ、絶対的支配者を失ってしまった、当時魂が砕けてしまっていた桜は新たなる自らの支配者を求め――、眠り姫にかけていた魔法を無意識ながらに解除した。

 

そして間桐慎二という桜の都合により眠らせ続けられていた男は、目覚めたのだ。

 

そして目覚めた桜の兄である慎二という人物は、彼女がそんな状態にある事をひどく嫌った。間桐慎二という青年は、彼からしてみれば自らの恩人に匹敵する生前から自らの妹分である間桐桜という少女が、そんな人形のような状態であることが気に食わなかったのだ。それは人形なんかに救われたとあっちゃ、自分という存在は人形以下のゴミクズとなってしまうという、なんともプライドの高い彼らしい理由によるものだったが――、ともあれそうした誰かを救うというこれまで彼がかかえていたものと比べれば相当まともな信念を新たに抱いた彼は、しかし、一月もたたないうちにその願いの源を奪われ――、しかし生来からの負けず嫌いである彼は、自らの願いを叶える事を心底諦めきれず――、運命の果て、世界の秩序を守る女神として君臨していた桜の力によってアンリマユという彼に縁ある悪神の力を得て蘇った彼の意思は、桜という名の女神の内側にいる桜という少女の砕けた魂の復元を望み――、かつて彼女が懸想していた私の手によって、それを成させようとした。

 

桜。この地獄例えるにも生温すぎる無間地獄の底閉じ込められていた少女。彼女命の匂いが完全に失せてしまった伽藍堂の空虚な町から、ただひたすらに他人を救済するためにのみ動く事を許された、私の代わりに抑止力となってしまった少女。彼女という存在が私の代わりを完全に担ってくれたからこそ、私はあの煉獄より解放されたのだ。思い出すだけでも吐き気のするあの煉獄――、世界の秩序を守るためと、人類の平和を守る為と嘯いて、人間という種族を存続させるために本来ならば救われるべきだった弱者を切り捨てるだけの日々。戦火が広がらぬようにと、戦場に存在する全ての命をただひたすらに切り捨てる作業がどれだけ人の心を磨耗させるかを私はその身をもってして味わっている。そのうえ桜は、私にとっての切嗣という存在すらもいなかった。その上桜は、世界というオッカムの剃刀のような選定者すらもいなかった。私はあくまで非日常における地獄が日常の中に侵入しないようにするだけの掃除屋だった。私は世界が日常より切り離しておく類の地獄であるいう現場にのみ派遣されていた。だが彼女は――、世界の全ての監視者となった桜は、日常の中に存在する地獄ですらも監視すべき対象として、監視し続けなければならなかった。機械の補助があるとはいえ、この世に存在するあらゆる人間が抱える地獄を見続けなかった彼女の苦しみや、今のこの世の全ての悪を受け入れた私でさえも、度し難いものがある。

 

いっそ目の前に広がるそれが完全な地獄であったのならば、桜という彼女にとってどれだけ救いであっただろうか。それが体を瞬時に焼き尽くす業火であったならば、どれだけ彼女にとって救いとなっただろうか。だが地獄にあった火は瞬時に人の命を奪う爆炎でなく、人を可能な限り苦しめんとする邪な悪業の炎だった。死に至るには生温く、しかし平静に生きる為には苦しすぎる灼熱が、人間という種族の足元で燻り続けている。磔刑に処された私は死に至ることができたが、桜はファラリスの雄牛の中で死なぬようと火加減を調整されながら焼かれ続けていた。

 

「――……っ」

 

私などよりもずっと力なく、私などよりもずっと救われるべきである存在が、目の前で震えている。その細い裸身を抱え込むと、伝わってくる震えからは怯えばかりが送られてきた。救いを求めているはずの彼女は、しかし誰かと触れ合う事を、自分以外の誰かが自分という存在を否定する事を恐れている。そうわかる事実がただ辛かった。

 

「ぁ……」

 

私は君を否定しない。ここにいる存在は君を傷つけない。それを伝えたくて、ぎゅっと抱きしめた。新雪を抱くかのように、しかしもう逃がさぬといわんばかり、相手が苦しがるのも忘れて、ただひたすらに搔き抱いた。

 

「うぁ……」

 

漏れた吐息には確実に安堵のものが含まれていた。それが嬉しくて、ただひたすらに力一杯抱きしめた。

 

「先輩……、先輩……、先輩……、先輩……っ!」

「大丈夫……、大丈夫だ、桜……」

 

背中に腕が回された。彼女が自らの意思で誰かを求めている。そのことが嬉しくて、さらに強く抱きしめる。合わせた胸からは彼女の鼓動が聞こえてくる。地獄の中においてもたしかに生きているという生存の証がこれほどまでに尊いと感じたのは生まれて初めてだった。

 

「私……、私……」

「大丈夫だ。大丈夫……」

 

首筋が濡れた。それが何であるかには視線を送らなくてもわかっていた。桜の頭に手を回すと、さらに強く彼女の体を自らに引き寄せる。自分を傷つけない/否定しない居場所があることに安堵したのか、彼女はさらに体全体を使って泣き出した。

 

「ごめんなさい……、ごめんなさい……、ごめんなさい……、ごめんなさい……っ!」

 

これまで自分が何をしてきたのか、それがどういった結果を引き起こしたのかにようやく思い至ったのだろう。桜はただひたすらに謝罪を繰り返しては、わぁわぁと泣き叫ぶ。

 

「大丈夫。大丈夫だよ、桜……」

 

謝罪なんかして欲しくなかった。だってそれは、本来君が背負うべき罪ではなかったのだから。こんな強く抱きしめれば崩れてしまいそうな細身に人類の全てなんてものを背負わされてしまった君は、むしろ被害者なのだ。しかしその謝罪の声が何より嬉しかった。それは彼女がようやく人間らしい心を取り戻し、他人の事を気遣う余裕を取り戻したという証なのだから。泣き声だけが静かに部屋の中へと響き渡る。暗闇の中、泣き噦る彼女を抱きしめながら、天を仰いだ。伽藍堂の部屋の中、彼女を閉じ込めていた石畳の牢獄の中には、わずかばかりに光が差し込んでいる。闇に光が差し込んだその光景が、なによりも、なによりも嬉しくて、私は桜の体を強く抱きしめた。

 

――桜。君が、私の救いだ

 

地獄において、私は初めて、人間を救うことができた。私の手によって、誰かの体でなく心を救うことができた。私は初めて、人間というものを救うことができた。それが嬉しくて、嬉しくて、心の底から嬉しくて。

 

――だから

 

「桜――」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんな――」

「ありがとう」

「――」

 

気付けば、ただ一言、そんな言葉が口から飛び出ていた。言葉に桜の声がピタリと止まる。そんな彼女の反応すらもさらなる幸福の呼び水となり、私は溢れ出る愛おしさのままに、彼女の体を抱きしめていた。一拍ののち、啜り泣く声が部屋の中に残響する。悲しみを含んでいない、ただ、湧き上がる喜びから出ているとわかる噛み締めた泣き声は、だからこそ私の心を強く震わせ、私たちはしばらくの間、ただひたすらに自らのうちより溢れ出てくる多幸感に身を任せていた。



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二十九話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (五)

Two men look out through the same bars: one sees the mud, and one the stars. /二人の囚人が鉄格子から外を眺めた。一人は泥を見た。一人は星を見た。
 
Frederick Langbridge, A Cluster of Quiet Thoughts/フレデリック・ラングブリッジ,「不滅の詩」より
 
ただし、本詩を残した神父が実在したか否かはいまだ定かでなく、その足跡も典拠も不明――
 


 

夢を見た。誰もが幸福である世界。しがらみだらけの浮世では絶対に実現しない、はるか遠くにある完璧な理想郷。私が正義の味方である必要がない、正義の味方が必要とされない、そんな世界。

 

人間、誰だって幸福になりたいと思っている。幸福になりたいと願い、夢を描き、その理想郷へと到達するために足掻き、しかし、ほとんどすべての人は自ら描いた理想郷に辿り着く前に挫折する。――当然だ。だってこの世に自分にだけ都合のいい理想郷なんてものはまず存在しないのだから。

 

人間とは今自らが置かれている環境に満足を覚えない生き物だ。人間、どうあがいても、今の環境に満足できないようにできている。当然だ。だって満足するということは、そこで足を止めるということだ。誰もが自分にとって都合の良い理想郷にたどり着くため足掻いている。しかし理想郷とはすなわち到達点の名前であり、そこへとたどり着くということはつまり、生きることを止めるということと同意義だ。要するに、誰もが幸福である理想郷などというものは、あるとすれば、死の先にしか存在しえないのである。

 

多分、私は――、若いころから無意識のうち、そんな矛盾に気づいていた。子供のころ、切嗣によって夢を託され、正義の味方を目指した直後には気づいていなかったかもしれないけれど、少なくとも第五次聖杯戦争に参加し、自らのパートナーとしてアーサー王を引き当てたその時には――、無意識ながらもどこか気づいていたはずだ。

 

鞘をなくしたセイバー(/アーサー王)は死したのち、すべて遠き理想郷へとたどり着く。私は彼女が旅立つための――、つまりは安らかに死んでゆくための手助けをした。永遠の枷を自らへと課していた彼女は、そうして自らの解放を喜んで――、朝焼けの中、最高の笑顔とともに消えていったのだ。

 

そうとも、あの別れは完璧だった。彼女は完璧だった。そうして生を終え、幻想の中へと帰還していったセイバーという少女は、文句の付け所がないくらいの完璧さで生を終え、やがて彼女がたどり着くといわれている理想郷へと旅立ったのだ。少なくとも私はきっとあの時には――、私の目指す場所は、この残酷さばかりが蔓延する現世での生になく、死んだ後の場所にあると、そう思い始めていたはずである。

 

――理想郷とは、生涯に理想を持ち、必死に駆け抜けたものだけが持ちえる、死後の世界のことだ

 

だからこそ私は、自らの理想を胸に、ただひたすら自らの理想を貫き続け――、しかしそんな死を貴ぶような生き方は、この薄汚れた世の中に綺麗な理想郷を作り上げようと苦心している普通の――、地に足をつけて生きているまともな考え方をする人たちから受け入れられなかった。

 

――なるほど、確かに私は

 

生きるのが辛い。現実の世界は自分の思い通りにいかないことばかりが蔓延っている。世界に私の考える正義が正義足りえる場所などほとんど存在していなかった。当然だ。世界と言うものは私だけでできているわけではなく、あらゆる物事は等価交換によって生じるものなのだから。

 

そうして理想郷はこの世にないと思い知らされた。どうあがこうが自らの幸福を望むという行為が、すでに誰かの不幸と直結している。すなわちこの世界には誰もが幸福でいられる理想郷など存在しないのた。だから私はかつて愛したセイバーがたどり着いたであろうすべては遠き理想郷(/死後の世界)という場所に理想を見出し――、やがてたどり着いた彼女が還った英霊の座(/場所)が自らの理想とは程遠い場所であったことに絶望した。

 

――言峰という男の言う通り、自殺願望の持ち主であったらしい

 

だから自らの死を願った。まるで駄々をこねる子供のように、自らのやって来たことを無くそうとした。そうとも。私は自殺志願者だった。私は過去の記憶と死後の幻想だけを愛し、辛さだけが蔓延する現実というものを嫌っていた。

 

――過去の私を愛した遠坂凜という女性は、おそらくそんな私の歪みに気づいていて、だからこそ彼女は、そんな浮世から離れたがる自分を縛り付けておくために、自らという存在とその生涯を重石と化して――、ともすれば死にたがる衛宮士郎という男を浮世に括り付けたのだ

 

おそらく私の義父である衛宮切嗣も、過去の私と同様の事態に陥っていたのだろう。現世というものに絶望し、万能の願望器と呼ばれる聖杯を求めるまでに追い詰められた彼は、しかし、その旅路の過程において手に入れた自らの伴侶たる女性によってこの世に縛り付けられかけられ――、しかし、戦争の果てにその伴侶を失い、幻想の世界に墜ちかけた(/死に憧れた)。

 

三島由紀夫は「愛することにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠に素人である」、などと言ったが、しこうして男という自らの胎より子を生み出せない生き物は、だからこそ幻想を存在追い求める。本来そうして愛した女や愛した女が生んだ子によって現世へと縛り付けられるはずの私という男が愛したのはしかし、幻想から生まれおちた、女のアーサー王/アルトリア・ペンドラゴンという存在だった。

 

――あれはまさに幸福を形にしたかのような時間だった

 

月夜、薄暗がりの蔵の中において幻想の中より突如私の前へと参上し、やがて私という現世嫌いに現実を愛することを教えてくれた彼女は、やがて現れたときと同じような唐突さと共に幻想の中へと帰っていった。たった一か月に満たない期間において、私という存在に強く根付かせた彼女は、そのままぐぅのねもでないくらいの完璧さを保ったまま――、幻想の中に消えていったのだ。彼女が最後に見せた笑顔は、地獄のような時間を過ごした今でも、色褪せぬ思い出として鮮明に残っている。

 

切嗣という男が見せた正義の味方という幻想は、やがて正義の味方(/幻想)というものが存在しない現実を生きる中において死への憧れへと変質し始め、アルトリアという女性によって固定化された。現世に正義の味方はこの世にいない(/理想郷はない)という考え、すなわち死への憧れから発生するこの世界に対する絶望を打ち破る希望というものを、切嗣は戦火に焼かれながら幻想の世界に逃げることを選ばなかった存在――、すなわち、子供の頃の私という存在から見出した。

 

歪んだ聖杯の泥がもたらす災禍の炎に燻られていた私は、迫る死から逃げようと必死だった。天をも焦がさん勢いで大地を覆った炎は、私の視界にあった全てを――、私の世界を死というもので埋め尽くす。轟々と燃え盛る火炎はまるで、人類の築き上げてきたものなど――、現世にあるすべてなど所詮は、人が死に至るまでの一抹に見る泡沫の夢に過ぎないのだと緋色に嗤っているかのようだった。赤く、朱く、赫く、不吉な黄昏色に染め上げられた空。自らを制作した存在と同類である存在(/人間)が焼かれていくを悼むかのよう立ち並ぶ、不揃いな瓦礫の墓標。不規則に聞こえてくる水分を奪われた建物が崩れ行く音。鼻腔に飛び込んでくる焦げ臭いにおい。すべてが死の色と匂いに染まった世界。

 

――私の原点の光景

 

強烈な体験は人の心に癒えぬ傷を作るという。この身に宿っていた魔術の才能が剣であったことは別として、おそらくはあの光景こそが私の固有結界の原点だ。私は自らの現実が崩壊したことを受け入れ難かった。おそらく幼い私は、自らに無条件の愛を注いでくれる存在がもういないのだということを、認めたくなかったのだ。おそらく幼かった私は、自らにとって居心地のいい場所はもうこの世に存在しなくなってしまったのだということを認めたくなかった。おそらく幼かった私は、だからこそ、あの教会のベットの上、無条件な愛と居心地の居場所を与えてくれそうな切嗣の提案に縋りついたのだ。おそらく私は、あの時からずっと、現実の世界ではなく――、その裏側にある幻想の世界の中で生きていた。

 

おそらくそれまで私と同じように幻想の中に生きていた切嗣は、しかし幻想の向こう側にある現実という場所に自らの手によって地獄を作り出したことで、無理やり現実へと引き戻された。そしてそれまで現実に生きていた私は、目の前に生み出された地獄が辛すぎて、かつての切嗣と同じように幻想の中へと逃げ込んだ。

 

――ああ、誰かの幸福が誰かの不幸とは本当によく言ったものだ

 

ほんとうにこの世というものは良くできている。生と死。正義と悪。現実と幻想。理想郷と地獄。悲喜交々。この世の出来事は、あらゆることが表裏一体だ。切嗣も私も、差し出された手によって希望を見出した。だがそうして見出した希望のベクトルは、彼と私とで真逆だったのだ。切嗣はそして自らへと差し出された私の手によって生を貴ぶようになり、私はそして自らへと差し出された切嗣の手によって死に憧れるようになった。彼は自らのために私という存在に現実世界においての居場所を与え――、しかし私はそんな居場所を、幻想(/魔術)の世界に生きるための場所として活用した。

 

だからこそあの我が身には過ぎた大きさの武家屋敷はやがて幻想の綺羅星たる英霊たちが交差する運命の分岐点となり――、そしてまたそんな場所の家主であった私はそれ故に、我が家へと毎日のようにやってくる、現実世界において歯を食いしばりながら生きている桜という少女の異変に気付くことができなかったのだろう。

 

 

桜。この苦痛ばかりに満ちた現実世界において、そんな世界の法則を体現するかのように、理不尽な理由から生じる苦しみに身を苛まれ続けた少女。彼女は普通の幸福を欲した。彼女は普通に生きている他人を羨んだ。だが彼女は――、死するまでの間、一度たりとも、幻想の世界に逃げ込むことはしなかった。

 

――桜はかつての私とは違う

 

彼女はいつだって現実だけを見据えていた。彼女は常に現世に理想郷を求めていた。彼女はおそらく、この世にもあの世にも理想郷などというものは存在しないのだということを、無意識のうちに理解していたのだ。そうとも桜は、理想郷とはこの辛さと苦しさばかりがある世界に誰かの手によって作られるものだと、きっと無意識のうちに理解できていた。

 

――だが……

 

彼女はその苛烈な環境に身をおいていたが故に、幻想に浸ることを許されなかった。だからこそ彼女は――、幻想に憧れ、そんな世界でしか生きられない私の重石とならないために、私に助けを求めず、自ら身を引いたのだ。

 

――桜はかつての私と同じだ

 

そして現世(/生)から幻想の世界(/死)へと叩き込まれた桜は、永遠などというものも手にいれてしまった桜は、かつての私と同じよう、幻想の中に浸るようになった。桜は私と同じなのだ。かつて現世に地獄を作り出した切嗣(/男)は、自らが地獄へと叩き込んだエミヤシロウ(/少年)の中に希望を見出した。そして今、現世という時代の時計の針を神話の時代へと戻すきっかけを作ったエミヤシロウ(/男)は、同じくそんな神話の再現という事態の一翼を担った桜(/女)の中に、自らの救いを見出した。

 

――世界は辛く、残酷で、理想郷ではない

 

だからこそ私は――、そんな桜を救いたい。否――、彼女のような存在に救われてほしい。この世の全ての悪(/アンリマユ)という重石を得た私は、ようやく現世で生きる彼らの苦悩というもの――、幸福な幻想の裏側にある現実を思い知った。

 

――世界には、かつての私のように、世界からはじき出されてしまった、この世の地獄のような場所で喘いでいる人々が大勢いる

 

だからこそ私は――、かつて切嗣がそうしてくれたように、彼女のように深く昏い世界の奥底にまで沈んでしまった存在に、無条件の愛と居心地の良い場所を与えることとで――、私にとっての理想――、すなわち、切嗣(/私にとっての正義の味方)になるという願いを叶えたいと、そう思うのだ。

 

――だからこそ

 

自分勝手で構わない。それでも――、

 

――そんな桜/かつての私のような存在に、私は幸福なって欲しい

 

私は、誰にとってもの正義の味方になるという、幻想のような夢を――、そんな私が必要なくなるような理想郷を、現世に実現したいのだ。

 

 

浮遊感。否、浮上感があった。力を発揮せずとも目的地へと向かえているのだという事実を察知したのだろう、動かすのも億劫になっていた全身から力が抜けてゆく。体の感覚が鈍化してゆくにつれて、意識は不思議と鮮明なもへと変わっていった。眼下には、桜の心象風景であるといういびつな形状の冬木の街並みが余さず崩壊してゆく光景が広がっている。崩落する大地は影絵の町をもはや不要と言わんばかりに飲み込んでゆく。その光景にふと既視感を覚える。それはまるで、私の心の中にあった罪悪感を収集していた部屋が崩れてゆく光景によく似ていた。そう考えればこの光景は、長い間に不変の存在となり果ててしまった桜という彼女の心の変化の兆しであるといえるだろう。

 

永遠不変の存在(/死)から、変化する存在(/生)へと引き戻される。考えるまでもなくそれは喜ぶべき事態であることは承知しているうえで――、しかし、仮初のモノとは言え故郷と呼べる場所が崩壊してゆくその光景には、何とも言い難い喪失感を覚えずにはいられない

 

「――っ」

 

私の両腕の中には、慎二と桜が収まっている。眼下を見下す慎二は如何にも興味なさげにその崩壊の光景を眺めていた。だがもう片方の腕に収まっている桜は――、私と同じく――、否、おそらく私以上に、その変化に対しての喪失感を覚えたのだろう。崩落の光景を眺める桜の顔はどこか不安げで、その腕に込められている力が少しだけ増していた。気付いた私が腕に安心しろと告げる代わりに力を籠めると――、桜は礼を言うかのように応じて腕に込める力を強くする。そうして私たちは、まるで針を口にひっかけられた魚のように――、幻想の中より現実世界へと引き上げられてゆく。眼下では桜が生み出した心象風景――異界が、その主を失ったことにより崩壊し続けている。私たちは今そんな壊れ行く世界から、脱出している最中なのだ。

 

私たちをこうして針に食いついた魚のよう、幻想の異界から現世へと導いているその力がいかなるものなのかは私のあずかり知らぬところである。おそらくは修正力とかそういった名称の力によるものなのだろう。多少考察すればあるいはその答えに辿り着けるかもしれないが――、あいにくそんなことに考察の余念を割いてやれるほど今の私には余裕がない。耳孔の中ではざぁーっ、と、電波を受信していないラジオが鳴らすようなノイズが反響し続けている。異界から現世へと移動する私たちの動きによって、自分たちの周囲にある何かに無数の気泡が生じ続けていた。泡立つ気泡を下方へと置き去りにし続けながら、私たちはどこまでも浮遊してゆく。伴って、徐々に私たちの周囲を取り巻いていた光が失せてゆく。暗く、昏く、黒く染まってゆく光景はやがて完全なる暗黒へと変化してゆき、そして――

 

 

――意識が、反転、する

 

 

ばしゃり、とそんな幻聴を耳に飛び込んでくる。それは魚が水揚げされた時に聞こえる音によく似ていた。それが幻聴であると理解できたのは、披露しきっている我が身の理性が、しかしいまだに正常に稼働してくれている証拠と言えるだろう。浮遊感、倦怠感、重力の感覚。そして――、衝撃。

 

「――っ」

 

両足から伝わってくる衝撃を――、その衝撃に伴い片腕に発生した重みを支えられたのは、奇跡の所業と言っても過言ではないだろう。片腕に抱え込んでいる存在の重みはそれほどまでに今の自分には重く、耐えるに難いものだった。細胞が震えたことによってだろう両足から発生した衝撃は熱へと生まれ変わり、足先から脳髄までの冷えた全身を一気に駆け上がり、やがて到達した熱がセーフモード状態だった脳裏を正常な状態へと戻してゆく。やがて巡った熱が掌を温め、汗ばませたその時――、

 

――……片腕?

 

違和感を覚えた私がその源である自らの胸元へと視線を注ごうとするよりも先に――、

 

『戻ったか、エミ……っ!』

 

魂を振動させることによって意思を声として伝えてくる存在が意識に割り込んできて、私の意識は自然とそちらへと向けられた。

 

「ゴウト……」

 

そうして視線の先に映った存在――周りの闇に溶け込むような黒の毛並みをしている猫の体に宿っている魂のゴウトドウジは、翡翠色の瞳を見開いて、絶句としか言いようがない態度をとっている。見渡せば、彼の隣にて『異界開き』の術式を発動させ続けていたためなのだろう、自らの刀剣――霊刀『赤口葛葉』を構えている葛葉ライドウも、彼と共にこの月の裏側にあるという施設にまで突き進んできたペルセフォネ、ヘイムダル、パラ子、メディコ、ガン子の三人も、『異界開き』の術式を行う前に慎二が『着手金変わりだ』と言って復活させた、泥の中に飲み込まれてしまっていたシンたち異邦人の一同や、凛と彼女のサーヴァントであるランサーも、そしてあのギルガメッシュですらも、私の方に一様の驚愕に満ちた視線を向けていた。

 

――無理もないか

 

そうした視線を生む源はおそらく、この弱り切った我が身にあるのだろう。なにせ今自分は、桜の心象風景に飛び込む寸前よりもずっと痩せこけている。まだ187センチにして80キロ近くあったはずの体重は今や60キロ台に突入している。50の大台も目前だ。今の私の姿や、餓鬼や死霊に等しいと言って過言でない。それはおそらく体内において最もカロリーを擁する脳みそという器官が、この世の全ての悪(/アンリマユ)という存在がもたらす我が身を焼き焦がすような痛みから自らを守るべく必死で消費が行われた証なのだろう。減った体重から消費カロリーを逆算してやれば約18万キロカロリーという、成人男性が一日に消費する平均カロリーの実に6、70人分が我が身の内から一気に消費された計算になる。人間、耐えがたい恐怖を味わうとまるで幽鬼のように変貌するという話は幾度となく聞いてきたが、まさかそれを自らの身で味わう羽目になるとは考えてもいなかった。おかげで重量にして五キロはある短剣を振り回せていた両腕や、78キロもあった我が身を支え続けてきた両足、そして我が無茶に辛抱強く付き合い続けてきてくれた胴体は今や肉も水気も失われ、枯れ木のように細くなってしまっている。顔は頬の脂肪が落ちてげっそりと知った面持ちであるし、首回りも同様だ。もはやこの身の見てくれは、生者であるというよりは、死者に近いものとなり果てていた。

 

――士郎ではなく、屍蝋だな、これでは……

 

「ちょ、あ、あんた、大丈夫なの!?」

 

下らない洒落を頭の中で思い浮かべていると、かつて我が麗しのマスターにしてこの身をこの世界へと送り出してくれた存在――遠坂凜その人が、ひどく慌てた様子で話しかけてくる。誰よりも真っ先に私の体に近寄ってきた彼女は、水気を完全に失って乾燥しきっている我が表皮へとその瑞々しい掌をあて、まるで壊れ物でも扱うかのように優しく撫でてきた。彼女の掌が触れたその部位から、今や我が身から失われた生気が伝わってくるような感覚を覚えてしまうのは果たして、女神イシュタルとして転生した彼女の肌の瑞々しさがもたらすものなのか、あるいはその神気がもたらすものなのか――

 

――いや、違うな、これは……

 

否、違う。そうして我が身に活力を取り戻させてくれるのは、彼女が持つそんな肉体的特徴や、神体的特徴によるものでなく――、ひとえに彼女の献身の思いやりによるものに違いなかった。彼女の掌が私の肌の上を滑るたび、そこに込められた乾いた肌を決して傷付けぬようにとする優しさが、乾いたこの身に対する何よりも活力剤となって、痩せこけたこの身には過ぎるほどの力をもたらしている。

 

――しかしこの愛情の大半は……

 

ただ、欲を言えば――

 

――この身の元の持ち主(/衛宮士郎)に対すして向けられている……

 

彼女が向けるそんな優しさが、完全に私という存在を心配してからきているものではなく、この身の元の持ち主である衛宮士郎という彼女がその一生を共にした伴侶の肉体に対しての慈愛の成分の方が大きいのだろうことだけが少しばかり寂しく――、本当に少しだけ――、妬ましかった。

 

「ああ――、大丈夫だ。心配ありがとう、凜」

 

多分凜は、まるで老人のようにしわくちゃな面になった私を見て、かつて比翼の片方であった自らの伴侶のことを思い出したに違いない。

 

――やれやれ、我ながらなんと強欲な

 

「……あのさ」

 

そうして誰かに心配されつつ、しかしその実その思いが我が身の向こう側にいる過去の幻影に向けられているという事実に少なからずの嫉妬を覚え、さらにはそんな他人のモノとなった女からの愛情を欲しているなどという自らに多少の呆れた感情を抱いていると、私と凜の間――長身だけは保っている私の細腕の中にいた存在が、如何にも呆れたといわんばかりの口調で問いかけてきて――

 

「む?」

「あん?」

 

私と凜は同時に視線を私の腕の中、その胸元にいるその存在へと視線を落とした。

 

「いちゃつくのは構わないんだけれど、せめて時と場所を選び、そして僕の目の届かないところでやってくれないかな。何が悲しくて知り合いのラブロマンスを最前列の特等席で見せつけられなきゃならないんだ。なぁ、お前らもそう思うだろう? ――遠坂に衛宮」

 

私の腕の中では何とも粘着質ながらもまるきり正しい意見を口にしたその存在――慎二が苛立ち顔を浮かべている。そうして慎二は『おい、さっさとこの手を放せ!』と言って私の手を振り払うと、私と凜の間からするりと抜け出て少し離れた場所――、桜の脳みそと彼女の架空の肉体とメルトリリスという桜にとって娘に等しい存在が仲良く横たわっている場所に移動する。おそらくそこは彼が定位置と決めている場所であるのだろうことを、私は彼がその場所に収まった際の何とも言えない自然な雰囲気から理解し――、

 

「ああ――、悪かったよ、慎二」

 

私はいつものよう、文句を言う彼に対して謝罪の言葉を述べた。

 

「あら、慎二のくせに生意気なこと言うわね」

 

一方、凜は、慎二の顔や肌に刻まれている魔術紋様のことなど知らぬといわんばかりの常と変わらぬ態度で、どこぞのガキ大将のようなセリフを吐きながら、するりと私の顔に添えていた手を放しつつ言う。他人の熱が表皮より失せてゆく感覚が少しばかりもの寂しい。無論そんなことおくびにも出さないよう注意しながら私は慎二の方を向きなおすと、彼の厭味ったらしいいつもの見下すような――私の方が彼よりも20センチばかり背が高いのでもは彼が私を見上げているようにしか見えないのだが――視線を受けつつも、彼と視線を合わせると、続けてその隣に横たわる二人の少女へと目を向けた。

 

「桜――、いや、彼女たちは――」

 

視線の先では二人の少女――桜と、桜によく似た顔立ちをしたメルトリリスは、共にいまだ夢から覚めることなく静かに瞼を閉じ続けている。また、おそらくは凛だかパラ子らあたりが見かねたのだろう、胸部から上の一部分と秘部をわずかに隠す装飾しか身に着けていなかったはずの横たわるメルトリリスの体の上には、一枚のよれよれのシーツがひっかけられていた。黒を基調としている多少趣味の悪いワンピースのような服を纏っている桜の横、ほとんど裸身の上に一枚布をひっかけられたメルトリリスが眠る姿は、まるで母親と娘が遊び疲れて眠っているような光景にも見える胸の暖かくなるような、あるいはその黒白が並ぶその光景は正義と悪が和解した姿にも見えるものではあった。

 

「無事だよ。僕が命令して眠らせたときのままさ」

 

慎二は桜へと視線を送り続けつつ言う。慎二の瞳には、桜という存在に対する慈しみがあった。それはかつての彼であれば決してしなかったであろう、一切飾らないものであり――、しかしその視線はまた、先ほど桜の心象風景であったという仮初の冬木の町において、桜という自らの妹分の停滞に憤りの声を上げていた彼がするにまったく相応しいものであり――、故に私は、目の前の先ほどアンリマユとの身命を名乗った彼が、しかし今も慎二の仮面をかぶり続けていて――、すなわち目の前の彼は、アンリマユという存在の力を手に入れた慎二に等しいことを悟った。

 

「そうか……」

 

目の前にいる男は慎二の人格であるに違いなく、そして桜という存在も無事である。そのことを認識した途端、初めて返ってきた言葉に胸の重しが消え失せる。よく見てやれば確かに彼女たちの体は静かで小さくながらも規則的に上下しており、自発呼吸の形跡が見受けられた。

 

――桜は生きている

 

目の前の培養カプセルらしきものに入っている脳みそと脊髄と魔術回路にかかわる部分が桜という少女の真の肉体であることを考えるに、おそらく目の前にあるその体は彼女が自らの力を用いて作り出した義体であるのだろう。目の前の慎二と同じく仮初のモノであるのだろうその寝顔は、メルトリリスという少女の前で勝ち誇っていた時や、シンらの登場により逃走するおりにはなかった、偽りのモノと思えない真なる安らかさに満ち溢れていた。

 

「慎二――」

 

そのことにひどく安堵した私は、何を言おうとしたのか、彼女の側に立つ桜の兄(/慎二)へと声をかけようとして――、

 

「おっと、ちょっと待てよ、衛宮。まずは僕から言うべきことがある」

 

その行為を慎二は言葉によって遮ると――、

 

「――ありがとう、衛宮。お前の手助けのおかげで、桜と――、この慎二/アンリマユ(/僕)は、救われた」

「――」

 

そんなあまりにも予想外な言葉を述べてくる。かつての慎二だったならば決して述べなかっただろう言葉をあっさりと言ってのけた彼の顔は実に晴れ晴れとしたものだった。周囲にある闇を払うかのように明るい笑顔を浮かべる彼からは、以前から今さっきにかけてまでは確かにあった、どこか陰湿な雰囲気が完全に消え失せている。

 

「自分の隠しておきたかった醜い事情を知り、この世界にいてもいいのだと受け止めてくれるかのように、それでも当たり前のようにただ側にいてくれる。お前はそれを桜にやる前、僕にもやってくれた。だから僕は――、俺は今きっと、目の前のこの女と同じよう、こんなに胸のすく思いでいられるんだろう」

 

慎二――否、アンリマユは言うと、瞳を閉じて闇に染まっている天井を見上げた。顔を向けたその先にはやはり闇が広がるばかりであったが――、しかし慎二/アンリマユは、まるで薄暗い蔵の闇から這い出して久しぶりに光を眺めた囚人のように――、降り注ぐ太陽の光に顔と胸を当てるように大きく伸びをして、如何にも感無量といったような顔を浮かべ、幸福の余韻に浸っている。おそらく今、彼のその閉じられた瞼の裏側は、闇ではなく陽光で満ちているに違いない。傍から見る私にそんな確信を抱かせてしまうほどに――、今の慎二の顔は実にさっぱりとした、影のない柔らかいものだった。

 

「……?」

 

だがそんな慎二の様子を見た私は、彼が言ったところの「お前の手助けのおかげ」という文言に匹敵する何かを彼に対してやったという記憶がなく、困惑して眉を顰めることしかできなかった。はて、果たしていったい、彼は何をもってして「自分はお前に助けられた」などと言っているのだろうか――

 

「ああ、やっぱり自覚なかったのか」

 

などと思っていると、いつの間にか慎二の仮面をかぶりなおし、顔を正面に戻して視線をこちらに向けなおしていた慎二/アンリマユは、「ああ、もう、そういうとこは本当に変わらないな」などといつものように苦笑――この苦笑もまた、常とは違い影のないものである――をしながら、自分の襟の開かれた胸元に刻まれている、おそらくはゾロアスターの教義に従って書かれたものなのだろう古めかしい魔術紋様の指さしながら、言った。

 

「アンリマユでもある僕の今のこの宝具、『真実写し記す万象(/アヴェスター)』は、言ってみれば、僕が負っている傷を僕が対象とする相手の魂に対して呪いとして完全に転記し、痛みを完全に共有することの出来る宝具だ。元を言えばこのゾロアスター教の原典の名を持つ宝具は、他の誰かと自らの負った痛みと苦労を共有し、分かち合うことで、元は他人同士である信者と信者の結束を強めるための宝具なんだが――」

 

言いながら慎二はその細指の先を、すっ、と、滑らかな動きで私の方へ向けると――、

 

「衛宮。お前は見事、本来この宝具に望まれた使い方をしたこの僕が、この身の裡に抱えていた痛みと苦労を――、この身に宿っているこの世の全ての悪を拒絶することなく受け入れてみせた」

 

そうして憑き物が落ちたとでも例えるのが適当なのだろうくらい、見違えた、そして屈託ない笑顔を慎二は浮かべながら続ける。

 

「この世の全ての悪と呼ばれる膨大な量の悪意を、その一身に余すことなく受け入れる。言葉にすれば簡単にも思えてくる、しかし実際にやろうとすればそれこそ無限に続く煉獄という煉獄を踏破しつくす精神力をもっていなければなしえないだろう奇跡を、お前はしかし完全にやり遂げた」

 

そのまったく悪意の含まれていない笑顔を見ていると、それだけでこちらも嬉しくなる。

 

「衛宮。お前の今のそのあまりに変貌したその姿を見てみれば、お前がそうしてこの世の全ての悪を受け入れるのにどれだけの苦痛を味わったのかは想像するにたやすい」

 

慎二が口にする一つ一つの言葉が、先ほど凜の掌より与えられた心地よさに負けないくらいのものとなり、乾いた全身を潤してゆく。誰かが嘘偽りのない真実を語るという事象が、何よりの栄養となり、枯れた全身の生気を復活させる力となっていた。

 

「当然だ。億を超え、兆を超え、那由他のから無限彼方に至りそうな領域にまで到達するほどの数の人間の悪意をその身に受けるという苦痛は、まともな人間であれば途中で――、否、入り口としてその悪意に身を浸したその瞬間、発狂ししてもおかしくないほどの質と量のものだ……。――そうだ。それがたとえそんな風に狂ってしまわないまともな人間でなくても、一定以上のまともな感性を保有しているのならば、途中で文句を言って投げ出すか、悪に染まってしまっておかしくない。でもお前はそれらの悪意を浴びながら――、お前はそれでも自らを保ち、やがては自らを保ち続け――、元のお前のままに帰還した。それはきっと、お前のような胸に一本の信念の剣を宿して駆け抜ける事ができるような頑固者にしか不可能なこと。――お前があのこの世の全ての悪意を秘めた呪いの泥の中から帰還したその瞬間から、僕は――、空を見上げて暗闇に星の姿を見つけられるようになったんだ」

 

今や元々の整っていた顔立ちと相まって、何ともせいせいとした魅力を纏い始めていた。おそらくはそれこそが本来の慎二という人間の本当の顔なのだろう。なるほど、昔からなぜ慎二のような顔はよくとも――、言ってしまえば多少性格の悪い人間がこうも女性から人気なのかと疑問に思っていたが、そんな彼が時折こうして全く悩みというものを感じさせない微笑みを女性に向けていたのならば、そんな彼が普段纏っている鬱屈と下雰囲気とのギャップが、彼女たちの心を捕え、離さなかったのかもしれないなどと勝手に納得する。

 

「……慎二。あんた、いつからそんな詩人になったの?」

 

だがかつてそんな顔立ち整った慎二から好意――もちろんその好意は、当時、所有欲と我欲が多分に入り混じったものだっただろうが――を寄せられていた凜は、彼がそうして浮かべる魅了の表情に一切惑わされることなく、ばっさりと言って切り捨てた。

 

「人が決めてるのに水差すようなこと言うか、普通。まったく、相変わらずお前も性格が悪いね、遠坂……、と言いたいとこだけど――」

 

慎二はそうして私との会話の中に無理やり割り込んで疑念を呈してきた凜に対して多少の悪態をつくと、しかし、その静かに浮かべている微笑みの中にある成分を失せさせないまま多少の口元を崩して苦笑を浮かべると――、

 

「お前も変わったな、遠坂」

 

ひどく優し気な口調でそんなことを言った。

 

「昔のお前なら、間違いなく『あんた、なんか悪いもんでも食ったの?』とか言って、気持ち悪がりながら僕の変化を訝しんでいたところだぜ?」

 

――ああ、確かに

 

かつての凜――、例えば私がパートナーとして召喚され、第五次聖杯戦争に参加したころの、手を伸ばせばいずれ世界すべてに手が届くと信じていたあの頃の彼女ならば、間違いなくそう言っていただろう。かつての遠坂凜はそんな風に、世界なんてすでに自分が征服しつくしているなんて大言を吐くほどに強く――、自分とそこにかかわる世界や人間の本質なんてものは決して変わらないと、信じている節があった。それはあらゆる分野において才気に満ち溢れていたなんとも彼女らしい自身に裏付けされた、固有結界じみた傲慢さによるものだったのだろう。

 

「――そうかもね」

 

そうしてかつての自分との対比をされた凜は、しかしかつての彼女だったならば決してしなかっただろうよう、素直に慎二の言葉を肯定すると――、

 

「でもご生憎さま。こう見えて私も、夫と共に相応の苦労を年月の上に重ねてきた女だからね。真剣さや真摯から生じる他人の変化を嘲笑うような若さは――、はるか昔の時代に置き去りにしてきたわ」

 

といって、何とも優雅に手で髪をすき上げ、胸を張って見せた。凜の顔には一片の曇りも存在していない。凜は心底、自らの変化の歴史を――、夫と共に過ごした日々を、心の底から誇っていた。それは自らという存在を、自らが世界に生まれてきたことを、自らがこの残酷である世界に対してどう向き合ってきたかを正しく認識し、そして過ごしてきた日々を愛しているからこそ浮かべられるものなのだろう。なるほどそうして自らが積み重ねてきた歴史を、そして削ぎ落としてきた余計を愛おしそうに誇るその姿は何とも美しく、凛然としていて、何とも彼女の名前に似合っていた。

 

「ふん……、まったく、いい女になりやがって」

 

慎二が皮肉気な口調で称賛の言葉を送る。それは間違いなく彼の本心からの言葉に違いなかった。

 

「あら、どうも」

 

凜はそんな慎二の言葉を優雅に、華麗に受け取ると――、

 

「でも、そうね――、うん、今の貴方なら、一日くらいはデートに付き合ってあげてもよろしくてよ」

 

華やかな笑みを浮かべながら、揶揄う言葉を彼へとぶつける。慎二はかつて凜という存在に懸想していた。その言葉はそれを理解していた彼女だからこその発言である。たが、それはかつての彼女であったのならば、慎二がかつての慎二であったのならば、決して口にしないだろう提案の言葉だった。

 

「は! 生憎、他人に気持ちを置いたままの女からのお情けを受ける趣味はなくってね!」

「それはそれは。相変わらず何とも結構なプライドをお持ちであることで」

「――訂正する。その性格の悪さは相変わらずだな、遠坂」

「人間、どれだけ月日が経過しようと、根っこの部分は変わらないものよ、慎二。そしてそんな変わらない部分があるからこそ、人間は前に進んでいくことができる。――貴方もそう思うでしょう?」

「ふん……」

 

そして変わった、しかし変わらない二人は、かつてのような、しかしかつての彼らならば決して交わさなかっただろう言葉の応酬を済ませると、自然とその視線を下方へと――、下に眠る慎二と凜(/彼ら)の義妹/妹へと向け――、

 

「いい顔しちゃって……、私、桜がこんなふうにまったく警戒心なく過ごしてるのって――、士郎の家以外で初めて見たわ」

 

慈愛の視線を向けながら言う。ただし同じような視線を向ける二人のうち、凜の視線にはまた、慈愛のそれとは別の感情が――、後悔や苦悩らしい鬱屈としたものも含まれているようだった。それはおそらく、彼女が幼いころ養子に出された実妹である桜という存在の苦悩に対して、何もしてきてやれなかったという事情が絡んでいるに違いない。慎二から聞いた話から推察するに、凜は多分、桜という少女がどのような結末を辿ったのか知らなかったはずなのだから。彼女は間桐という家から桜が消えたという事実を、おそらく誤解していた。たぶん彼女は、桜という少女が冬木の町から消えた折、ようやく桜が様々なしがらみから解放されて自由に生き始めたに違いないと素直に喜んだのだろう。だからこそ凜は――、おそらく復活した彼らから世界がどうしてこのように変わってしまったのかを聞いて事情を把握した凜は、こうも複雑そうな顔を浮かべて、毒気というものが完全に抜け落ちた桜の寝顔を眺めているのだろう。

 

「ま、そうだろうな。少なくとも僕は、僕が視界に入っていないとき、目の前に衛宮がいて話している時くらいしか、こいつのこんな顔、見たことないよ」

 

一方、慎二は先ほどと同じように、そんな凜に負けないほどの優し気な視線を桜へと送っている。

 

「あら、自分が桜にどう思われていたのかちゃんと理解していたの?」

 

そんな慎二の幸福に歪んだ顔が彼女の嗜虐心を刺激したのか、凜が意地悪く言った。

 

「ふん……」

 

慎二は不快そうに眉をひそめて息を吐き、しかし静かにその言葉を静かに、まっすぐに受け入れた。一見すれば常と変わらない態度の彼だが――、よく見てやればそうして眉を顰める彼は、その魔術紋様のある眉間に刻まれているしわの数がいつもよりも多いことに気が付ける。目元また、は不規則に痙攣し続けてもいた。どうやら今しがた凜が放った一言は、一定以上の良識を取り戻しているのだろう彼の心を深く傷つけるに十分すぎる一撃であったらしい。

 

「ごめん、言い過ぎた」

 

慎二の細やかな変化に凜も気付いたのだろう。凜は顔をうっかりしていたと言わんばかりにしかめると、素直に頭を下げて、彼に謝罪の言葉と意を送る。

 

「これは今の貴方に言うには相応しい言葉じゃなかったしーー、今の私が言うに相応しい言葉でもなかったわね」

 「いいさ。今とか昔とか関係なく、それは確かに僕が犯した行動の結果だ。反論の余地も言葉もないよ」

 

慎二はその謝意を手を振って受け入れると、かつての自分が犯した罪から目をそらす気はないとそう言い切った。今の慎二は過去の自らの行いに対するあらゆる批判を受け入れる決意をしているのだろう。そうして言い切るからの顔には真剣さと覚悟が感じられた。

 

「……そ。なら私はもう何も言わないわ」

 

慎二は己の罪を粛々と受け入れている。だからこそ彼は、過去の行いを茶化すように言われても、一切反論しないのだ。慎二は過去に自らが桜へと行った事を悔いている。そうして彼は苦しんでいる。彼はそれを選択した。そう悟ったのだろう凜は、言って頭を上げると、静かに言う。

 

「それでいい」

 

慎二は凛に視線を送ることもなく軽く腕を振る。それは間違いなく、素直になり切れない彼なりの凜の思いやりに対する肯定と感謝の意の返事だった。

 

「わかった。でも、もう一言だけ。――ごめん、慎二」

「だからいいって。もう気にするなよ、遠坂」

 

言うと二人は再び桜へと視線を向ける。すると彼らの視線からはすぐさま罪悪感のそれが消え失せていった。桜を捨てた家の長女と、桜を受け入れた家の長男の視線が、揃って桜と彼女の娘へと向けられる。彼らが血の繋がっていない/血の繋がった自らの義妹/妹へと向ける視線は、どこまでも優しいものだった。そんなありそうで実現しなかった奇跡の光景が今、目の前にある。そんな光景を目の当たりにした私は、いつしか二人の姿にまるで幼子の眠りを眺める父母のような幻想を重ね、世界とはかくあるべくなのかもしれないなどという思いを抱き始めていた。

 

 

桜の脳みそが浮かんでいる機械から発せられるわずかな人工の灯ばかりが輝く暗闇の中、そこに集った世界を救わんとしていた数多の英雄たちは、しかしこの度の事態の引き金となった存在である桜とその娘たるメルトリリス、そして、蠱毒の術式の中から桜によって再構成されたという慎二/アンリマユという悪性存在を前にして、しかし何も言わずに佇んでいる。彼らは――、理解し、わきまえているのだ。今、この場に相応しいのは、その身の内に秘めし強大な力をもってして目の前にいるかつて絶望の中に浸っていた矮小かつ無防備な存在を無理やりに捻じ伏せることではなく――、

 

「衛宮」

 

闇の中より救われた彼らがいかなる未来を紡ぎだすかを見守る態度であるということに。

 

「なんだ、慎二」

「お前は僕と願いを叶え――、僕の望み通り、桜を救ってみせた。世の中は等価交換、恩には報いが必要だ。――約束通り、お前に、今のこの世界を完全に救える――、その可能性を秘めた手段を与えてやろう」

 

言うと慎二は自らの胸に手を当て――、

 

「慎二、何を――」

「ちょっとだけ黙ってろ、衛宮」

 

目を閉じて深呼吸を数度も繰り返すと――、

 

「――ふっ!」

 

やがて一度大きく息を吐いたのちカッと目を見開き、胸に押し当てていたその右手の指先を柔らかそうなみぞおちへと突き入れた。

 

「きゃあ!」

「お、おい、何やってるんだ!」

 

右腕の先がずぶりと沈んでゆく。腕とみぞおちとの狭間に小さく鮮血が舞う。それはまるで火花のようだった。突如として起こった暴虐に、方々から悲鳴が上がる。

 

「――っ!」

 

だが慎二は周りの反応など知ったことかと言わんばかりの勢いで、自らの右腕をさらに自らの体内へと沈めてゆく。自らの腹を突き破る勢いで自らの腹に腕を突き入れる。果たしてその所業は、いかなる力と精神力があれば行えるものなのだろうか。人間の体は柔らかそうに見えて、案外丈夫にできている。多くの部分は骨という鎧に守られているし、そうでない部分には筋肉と脂肪の鎧が付いている。通常、それがたとえみぞおちという肉の守り薄い場所であろうと、その守りを突き破るだけの力を人間は持ち合わせていない。否、一部の人間にはそれを可能とする者もいるかもしれないが、少なくともそんな人間であるとしても、自らのみぞおちに自らの腕先を叩き込むほどの力を、人間はそうそうに発揮などできない。

 

だってそれは死につながりかねない自傷行為だ。人間、自らの体を傷つける行為には躊躇するようにできている。それはどう考えても愚かしいだけの行為であるからだ。自らの体に自らの腕を突き立てるなどという行為、少なくともまともな人間なら――、かつての自らの痛みに敏感で、どこか臆病ともいえる気質の慎二であったならば間違いしなかったし、できなかっただろう。だがいかなる目的によるものなのか、慎二はそれをやっている。

 

「慎二っ!」

「黙ってろ!」

 

慌ててその怖気の走る行為を止めるべく駆け寄ろうとすると、慎二は残った左手の掌を私を拒絶するよう向けたのち、そのまま自らのみぞおちに突き入れた己の右手をさらに深く胸の側へと沈めていった。裂けた皮膚から血しぶきは飛び出ない。代わりに、黒々とした、おそらくは慎二/アンリマユの体を形作っているのだろう蟲毒の術式によって生み出されたのだろう悪意を秘めた泥が、突き入れている右腕の肘よりぽたりぽたりと垂れ落ちてゆく。

 

「そっちの、英雄王様や、衛宮。それに遠坂は知っているだろうけど――」

 

慎二はそしてただ一人、このあまりに不測すぎる事態を目の当たりにしてもまるで顔色を変えない存在――ギルガメッシュへと目を向けると、そのまま顔色悪くしている私、凜へと次々視線を移動させながら、言葉を続け――、

 

「再構成されたとはいえ、僕の今の心臓は、聖杯の核のそれだ」

 

自らの胸に手を突き入れるという行為が肺や食道を傷付けたのか、慎二の言葉は途切れ途切れになりつつあり、どこか苦し気だ。心臓から送られる血液/泥が逆流したのか、言葉を発する口の端からは、つぅ、と唾液でない液体が垂れ落ち始めている。

 

「そしてそんな僕の心臓は、先ほどお前たちが倒したヘラクレスという英雄の魂を吸収して――、聖杯のそれへと近づいている」

 

言いながら慎二はさらに自らの胸元へと手を沈めてゆく。腕と胸にできた隙間からは次々と黒血が流れてゆく。落ちたそれはやがて地面に触れた瞬間、一度だけ波紋を上げて跳ね、後に地面へと広がり――、やがては闇の中に溶けて失せていった。

 

「聖杯。あらゆる願いを叶える願望器。かつて僕/アンリマユという不純物によって黒く染まり、所有者の願いを破壊の形でのみ実現するという機能を持つに至った聖杯だが、今の僕なら――」

 

自らの体内から勢いよく体液が失せていっている。しかし慎二は、そんな現象を意にも介さない様子で自らの胸元に突っ込んだ手を、ぐりぐりっ、と動かした。

 

「僕、なら――」

 

慎二の顔が苦痛に歪む。その変化が苦痛であると一目でわかったのは、彼の自傷行為を目の当たりにしたという要素以上に、強く閉じられたその目元には悲鳴の証であるしわが無数に刻まれ、口元は歯軋りが聞こえてくるほどに噛み締められていたからだ。慎二の自傷行為に対して、しかしだれも何も物申さない。慎二のそんな自傷行為には、しかし、もはやそれを止めようとは思わせないだけの、覚悟と凄みがあった。

 

「ぼく、ならぁ――、っ!」

 

慎二はさらに勢いよく胸元に突っ込んだ手を動かすと、かき混ぜるようにしてぐりぐりと動かす。するとやがて小さくみちみちと響いていた胸元からは、やがてぶちぶちぶちっ、とひどく耳障りな音が鳴り響き――、

 

「きゃあ!」

「うぉっ!」

「ひ、ひぇっ!」

 

そして慎二の右腕は自らの胸元から引き抜かれる。胸元からは、糸状のモノが慎二のの右腕の手中の中に収まっているものにまで伸びており――、

 

「ぼくなら、この、僕の、心臓を――、アンリマユの、呪いに染まった、聖杯から、その呪いを、解き放ち――、聖杯を、正常な、形に、戻して、やる、こと、が、可能……、と、いう、わけ、さ」

 

息も絶え絶えな慎二はやがてその伸びた糸状の――、神経や血管などがいまだに繋がっている、自らの胸より取り出したその生々しく脈打つその心臓を私の方へと差し出しながら、そういった。

 

「慎二――」

 

慎二の今までの言動からその意図を理解した私は呆然と彼を見る。慎二の魔術紋様刻まれたその顔色は悪く、青を通り越して白にまで至っている。つまり、慎二の顔からは血の気というものがまるで失せてしまっていた。当然だろう。今、慎二は、自らの――、全ての生命にとっての起点とも言える、全身に向けて血液を送り出すその心臓を自ら内より外へと無理やり抉りだしたのだ。心臓からはその内部に残っていたのだろう血液代わりの泥が、心臓そのものから不規則に噴出しては、ぽたぽたと垂れ落ちてゆく。そんな心臓といまだ繋がれている慎二の胸元との間にある神経と血管は、まるで電線のように伸びていて、そうして出来た橋の撓みの最も深い部分からは、やはり血液の如き黒い泥がぽたぽたと雫が零れて行っていた。

 

「ああ、もう、鬱陶しい……。――っ!」

 

言いながら慎二は腕を勢いよく動かして、多少苦痛の顔を浮かべながらも自らの胸元と心臓の間にかかっている細い神経と血管の糸をすべて一息に断ち切ると――、

 

「そら、受け取れよ、衛宮。これが、お前の望んでいた、聖杯(/世界を救うための手段)だ」

 

言いながらいつものような少し皮肉交じりの笑みを浮かべ、改めて完全に自らの体との繋がりが断ち切られた心臓を、こちらへと差し出してきた。それは普通の人間ならば――、否、多少精神に異常があろうとしないし出来ないだろうそんな自らの心の臓を取り出すという暴虐だった。

 

多くの生物にとって重要な器官を、しかし慎二は今、私の願いを叶えるため――、私との約束を果たすために、自らの確固たる意志をもってして、やり遂げた。それは決して過去の彼ならばできなかっただろう、自らの身を削っての献身。他者と交わした約束を決して破らぬという意思表示。もう二度と自らと、自らを信じてくれた誰かを裏切らないというそんな覚悟と決意にほかならず――

 

「――」

 

その迫力に気圧されてしまった私は、物を言うことも出来ず、差し出された慎二の命を――、文字通り、彼の命そのものを、ただ静かに両手で受け取ることしかできなかった。

 

「……」

 

そうして慎二の心臓(/聖杯)は、この両腕に収まった。手中に納まっている心臓は、両手で強く握りしめれば、それだけで儚くつぶれてしまいそうなくらいに何とも頼りなく、弱弱しい。そんな慎二の命の具現を、徐々に鼓動をしなくなってゆくそれからすべての熱が失われてしまわぬよう、壊さぬよう、汚れぬよう、静かに両掌で包み込んでゆく。

 

「慎二――」

「ああ、わかっていると思うが、衛宮」

 

そしてその顔面から血の気というものが完全に消え失せた慎二は、やはりというか私が何かを言う前に自らの言葉で私の声を遮ると――

 

「確かにそれは穢れない聖杯だが――、けれど聖杯は、それだけでは願望器としての機能を果たさない」

 

ひどく落ち着いた声で、そういった。心臓という多くの生物にとってに重要な器官を自ら抉りだした慎二は、しかし多いに顔色を悪くし、そしてまた少しばかり気分悪そうにするだけで、死ぬ気配というものをまるで纏っていなかった。多分それは今、慎二が蠱毒の泥によってアンリマユの力を得ていることに起因しているのだろう。慎二の冷静にすぎるといっていい冷たい声色は私の心地を現実へと押し戻し、思考をめぐる余裕を取り戻させてゆく。

 

――そうだ

 

そうして私は自らの手のにらに収まっているものへと目を向ける。

 

「ああ……、そうだったな」

 

私の手の中にあるのは心臓という名の聖杯だ。それは無論、かつて聖人の胸から流れ落ちる血を受けとめた聖なる杯ではなく、とある魔術師たちが悲願達成のために心血注いで作り上げた、聖杯戦争という魔術儀式の末に降臨するはずの万能の願望器聖杯の――、雛形だ。

 

「聖杯戦争と呼ばれる魔術儀式において、万能の願望器たる聖杯を降臨させるに必要となるのは、七人の魔術師と七騎のサーヴァント。己のパートナーとなる英霊を自らの袂へと呼び寄せ、使役し、最後の一人になるまで英霊同士を競い合わせ、呼び寄せた英霊と共に殺し合いの宴を勝ち抜くこと」

 

聖杯、というかつて万能の願望器たるそれを巡っての戦争――、すなわち、聖杯戦争に巻き込まれた経験によるものか、気が付けば私は、そんな言葉を吟じ上げていた。

 

「そして呼び出された英霊の魂を七騎、その聖杯の器の内へと焼たとき――、聖杯はこの世の外側との接続を可能とし――、その外側にある膨大な魔力をもってして、この世界におけるあらゆる願いを叶える、まさしく万能の願望器と呼ぶにふさわしいモノへと変貌する……」

 

かつて聖杯戦争の相棒であった私の言葉に刺激されたのか、凜も続いて聖杯戦争の要点となる――、聖杯の降臨のための条件と、聖杯と呼ばれるそれがいかなる理屈にて世界の全てに変革を及ぼすことの出来る万能の器と化すかを呟き――

 

「でも、慎二。貴方の覚悟と意思は尊いものだと思うけれど、残念だけれどあなたが差し出してくれたこれじゃあ多分、今の世界はどうにもできないわ」

 

続けて、慎二の行為を無駄と切り捨てるようなことを、言ってのけた。

 

 

「へぇ……、どうしてそう思うんだい?」

 

そうして自らの犠牲と献身を無意味と告げられてた慎二は、しかし胸元にぽっかりと大穴が開き、その上死人と見紛おう程に顔色が悪いにもかかわらず、平然とした態度で凜へと問いを投げかける。

 

「どうしてって……」

 

そんな慎二の態度が不気味に映ったのだろう、凜は多少たじろいだ様子を見せながらも、しかし彼女らしい胆力を発揮していつものような気丈な態度を保ちつつ、口を開いた。

 

「……それは、聖杯戦争で降臨する聖杯はあくまで根源に至るための道具であり、貴方の心臓であったその小聖杯は、その過程において発生する英霊の魂を溜め込んでおくためのただの道具に過ぎないからよ」

 

凜はそして目を瞑ったのち深く長い息を吐くと、一目で覚悟を決めたとわかる顔を浮かべながら続ける。

 

「慎二。よく聞いてちょうだい。貴方のその心臓は――、小聖杯は、英霊の魂を収めておく器に過ぎないの。それは言ってしまえぼ、そこから世界の外へ出て、外側にあるためだろう『魔術師ならそれを用いて世界の内側を思い通りに操ることの出来る、誰も使っていない、地上とは比べ物にならない大量で無尽蔵に等しい魔力(/マナ)』を手に入れるための道具。『根源』に至るための道しるべ。根源と呼ばれる呼ばれる魔法の領域に辿り着く――、聖杯戦争と聖杯は、そんな魔術師の悲願を叶えるため、御三家と呼ばれる私たちの先祖によってはじめられた、魔術儀式の象徴。貴方が桜によってかつての状態へと完全に再生された存在であるというならば、それには確かに小聖杯としての機能はあるかもしれないけど――」

 

凜はそうして目を伏せながら、気の毒そうに続けた。

 

「その『小聖杯』が『万能の願望器』なんて呼ばれているのは、『完全な小聖杯』と、『大聖杯』の――、この時間軸の外にいる純粋な『魂』である、この世の道理から外れながら、尚この世に干渉できる外界の力を持つ英霊の魂に干渉し、その世界の外側にある座に戻るときに生じるその孔を固定する機能を用いれば、世界の内側と外側の空間にあると言われている『魔術師ならば術師ならそれを用いて世界の内側を思い通りに操ることの出来る、誰も使っていない、地上とは比べ物にならない大量で無尽蔵に等しい魔力(/マナ)』が手に入るから。すなわち、それには英霊の魂という膨大な魔力の塊をとどめておく機能があるだけで――、誰かの願いを叶えるような便利な機能が――、万能の願望器としての機能があるわけじゃあ、決してないわ」

 

凛の言葉を最後に、し……ん、と場が静まり返る。誰一人として言葉を発しない。憐憫か。あるいはそれとも同情によるものなのだろうか、この場において意識ある存在の視線は、やがて凜が慎二に対して向けるような、何とも言い表しにくい感情を秘めたものばかりのモノとなってゆき――、

 

「……は」

 

そしてそんな自らに対して視線が集中したことを感じ取ったか、慎二は何かを嘲笑う、いつもの彼がするような声を一言漏らすと――、

 

「まったく、ほんっと、優等生らしく、頭固いよね、遠坂って」

 

こともなげにそう言った。

 

「……え?」

 

そうして返ってきた言葉が意外だったのだろう、凜は珍しく間の抜けた声を漏らす。

 

「え? じゃないよ。おい、遠坂。仮にも御三家の人間で、そりゃあ、あの爺にいろいろと隠蔽されてたけど、あいつがいなくなった後、いろいろと聖杯戦争について調べていた僕が、やがてそこにいるギルガメッシュによって小聖杯の心蔵をこの身の内に移植された張本人であるこの僕が、そんな素人魔術師がやるようなミスを犯すと思ってんのか?」

「――」

 

慎二の言葉を聞いた凜は、唖然とした様子で口をぽかんと開け、続きの言葉を耳にする。

 

「そうさ。僕のこれは所詮、小聖杯。世界の外側と内側をつなげるために英霊の魂を収めるための器でしかない。言ってみればこれは、英霊の魂という矢を座という的に還すための弓みたいなもんだ。これ自体には世界の内側を変える力なんてないし、意図しなかったとはいえ人為的にこの月という場所に座というものを作り出されてしまった時代においては、座というものがこの世界の内側に作られてしまった世界においては、それこそ何の意味も持たない単なる英霊の魂という膨大な魔力を秘めた塊を収められるだけのただの器だ。遠坂。お前の言う通り、これが――、こんなものがそれ単体でポンとあったところで、この世界の内側を――、それも、今のこの、あらゆる神話が実現しかけているこの世界を変えることなんてこと、とてもじゃないけどできやしないよ」

 

顔色の悪い慎二は、しかしどこまでも調子よさげに、自らの差し出したその心臓が役に立たないことを歌い上げる。

 

「なら――」

 

見かねた――、というよりは、そんな文字通り自らの心臓を捧げて生み出したはずのそれを、しかし慎二は『こんなもの』と言って軽々しく扱ったことが信じられなかったのだろう、凜は呆然とした視線を慎二に送りつつ、彼へと何かを尋ねようとして――、

 

「でもさ、遠坂。これは確かに今の世界の内側を変えることは出来ないけれど、英霊の魂(/膨大な魔力の塊)を保管しておく機能は確かに有しているし――、何よりこれは、『万能の願望器たる聖杯』になりうる小聖杯(/もの)なんだ。『積み重ねてきたものは力を持つ』。それが秘されていようと秘されていまいと、おんなじだ。同じ刀なら古い刀の方が霊的にはより強い力を発揮するのは、僕たちの世界じゃ常識だろ? 古くから残っているっていうのは、それだけで力を持つ。名には意味が籠められている。極めた奴(/魔法使い)は似たような境地(/根源)に辿り着く。すべてのモノは積み重ねの結果だ。そうして積み重ねられたことによって出来る縁ってもんは情念深い女みたいなもんで――、どれだけ月日が経とうとも、いずれ必ず結ばれた縁によって再会を果たす運命にある。なら――、かつて第五次聖杯戦争という首輪で――、ある種本来の意味での絆というもので結ばれた僕たち、お前たちが作り上げる小聖杯は、必ずやその『聖杯』の名の通り、本来の聖杯としての機能を――、すなわち、『万能の願望器』としての機能も持つように変質するはずだ。それに――、本来なら世界の外側、根源に至る道にしか存在しないはずの『魔術師ならそれを用いて世界の内側を思い通りに操ることの出来る、誰も使っていない、地上とは比べ物にならない大量で無尽蔵に等しい魔力(/マナ)』なら――、今、そこらじゅうに散らばっているじゃないか」

「――」

 

そんな凜の言葉を遮って行われた慎二の指摘に、凜ははっとした表情を浮かべて、周囲を――、自らの周りにある闇の空間を見回した。彼女の行為によって私も自らが身をおいている場所の周囲にあるものが――、この月という場所が今いかなる状況下にあるかを鮮明に思い出す。

 

「そうか――、全ての人々が今や霊脈との繋がりすらも持ち、一定以上の魔力(/オド)を保有しているこの時代、蠱毒の術式によって世界中の命が溶け込んでいる泥には、当然、相応の――、それこそ神話の再現を可能とするくらい、無限に等しい魔力(/マナ)が貯蔵されている……!」

 

凛の声を聴いた慎二はニィ、といつもの唇の片方を吊り上げる意地の悪い笑みを浮かべ――、

 

「そうさ。そんなこの時代ならば――、それらすべての魔力を合わせた総量は、それこそ、かつての旧人類の神話の時代なんかをはるかに凌駕するほどになっている。そしてまた、月という場所に集いつつある膨大な量の人間の魂と――、そんな膨大な量の魂/魔力をどうこうできる、いわば大聖杯のような役割を果たせる才能をもった桜(/存在)はここにいてーー、さらに、この神話が再現される今この世界においては、贋作の聖杯も、信じれば真作となって降臨しえるんだ。だから――、おい、衛宮」

「むーー」

「話、聞いてたんだろ? その聖杯の器はそれ単体ではいまだに完成品ではない。けど、その器の内側に英霊たちの魂を収めてやり、完全なる小聖杯となった時――、いわゆる完全なる聖杯(/万能の願望器)へと生まれ変わり――、やがてこの世界の法則によってある程度までならこの世界の内側を自在に操れる機能を有するようになるだろう」 

「そんなことが……可能なのか?」

 

慎二の――、彼の仮面をかぶっているアンリマユの提案を聞いた私は、呆然としながらも尋ね返す。

 

「もちろんさ」

 

すると彼は、当たり前だといわんばかりの様子で、私の疑問に肯定の答えを返してきた。魔術を使えるこの身であるとはいえ、魔術の師と呼べるほどの知識を有さない私には、慎二の言葉の真贋の判定が付かず、故にどうにも信じ切ることができない。無論、感情的には信じたいと思っているのだが――、私の理性が、知識不足を理由にして軽々に判断を降さない。だからだろう私は――、気付けば、この場において私が魔術という分野において最も信頼できる彼女の方へと真偽を尋ねる視線を送っていた。私の視線に気づいた彼女――凜は、腕を組んで唇を指先で軽くもみほぐすと、しかる後にその柔らかい唇を開く。

 

「……理論上はその通りのはずよ、アーチャー。小聖杯は英霊の魂を貯蓄する。そうして小聖杯のあつめられた英霊の魂は、たとえ完全でなくとも、それこそ世界の内側を好きなように変革できるほどの魔力を保有していた。そして今、この世界においては――、私が生き方とかのせいでイシュタルの力を得たみたいに、祖先回帰みたいな現象があちこちで起こっている世界なら――、そうして完成した小聖杯はその名に基づいて『万能の願望器』たる『真の聖杯』になりえる可能性は高い。無論、そうして完成した願望器が願望器たるには、相応の魔力が必要になるわけだけど――、そうして『真の聖杯』として完成した小聖杯を使ってそこらに散らばっている泥を魔力(/材料)にできるというなら――、『小聖杯』はそしてそれこそ見当もつかないほどの魔力を溜め込んだ『巨大な聖杯(/全能の願望器)』となって、地球どころか、それこそこの月や火星――、ううん、太陽系はおろか、その外側に至るまでの常識を書き換えることができるだろう、冬木の聖杯なんか比でない『全能の聖杯』になるはずよ」

 

凜はそして一息つくと、改めて慎二の方を向き――

 

「それで慎二。その『小聖杯』を完成させるのに必要な材料は――」

 

そう尋ねた。

 

「そりゃ決まってるじゃないか」

 

すると慎二は軽い口調でそう述べて――

 

「第五次聖杯戦争。この僕の――、否、イリヤと呼ばれるあの女の心臓たるこの心臓が聖杯の器として扱われたおり、召喚された英霊たちの――、あるいはそんな奴らと神話性の高い、その領域に至った奴らの魂だ。つまり――」

 

その指先を――、

 

「セイバー」

 

彼女の魂を具現するペルセフォネへと伸ばし――、

 

「ランサー」

 

当時のままの姿で召喚された、憮然とした表情で凜の側に佇むクーフーリンへと移動させ――、

 

「ライダー」

 

続けざまに幻想種「ペガサス」を横に置く、メデューサの鱗をその身に纏うヘイムダルを指さして――、

 

「キャスター」

 

勢いのまま、指先をサコの身を乗っ取ったメルトリリスへと移しーー、

 

「アサシン」

 

そして薄緑にて、佐々木小次郎という英霊の境地にまで至ったシンを指さすと――

 

「バーサーカー、は、すでにさっきの戦いの末に格納されているとして――」

 

そのまま慎二は私の手に乗っている自らの心臓を指し示し――、

 

「アーチャーだ」

 

最後にそう言いながらそのまま指を上に動かし、その指先を私――ではなく、ギルガメッシュの顔に突き付けた。その宣言はすなわち、世界を救いたければ、報われない存在だった多くの人を救える正義の味方になるためには、かつてのように私自身ではなく、彼らにまで死んでもらわないという宣言にほかならず――、

 

「さぁ、選択するがいい、正義の味方。何にも代えて叶えたい願いがあるというのならば、汝、自らの最強をもってして、その資格の有するを証明せよ!、ってね」

 

胸にぽっかりと穴の開いた慎二は――、否、この世の全ての悪(/アンリマユ)は何とも意地悪い様に顔を歪める。そのこの世の全ての悪意を凝縮したかのような憎々しい笑みは、まさにその二つ名に相応しいものだった。



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三十話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (六)

 暗がりの中、言葉を発するものは一人として存在していなかった。月という天の頂の中、人の手によって作られた施設の中にある闇の中は、まるで夜の帳が落ちたかのように静まり返っている。それはまるで通夜のようだった。違いがあるとすれば、静寂を破って聞こえてくるのは横たわっている桜とメルトリリスの小さな呼吸音だけだで、意識をこの場に残しているはずの存在からは音が聞こえてこないことだろう。この月という死人の魂を収集してきた場所において、死者のように眠っている二人からが生の音を奏でており、瞼をしっかと開いているそれ以外が死者のように黙りこくっているというのは、何とも皮肉が効いていて――否、だからこそとてもしっくりとした感じがする。

 思い付いた皮肉を嗤うかのように肩をすかすと、深く呼吸をした。この世の全ての悪/アンリマユなどというものを受け入れたためにまるで老人のように衰えてしまった肉体は、たった一呼吸するのにも苦労がいる。だが、そうして胸の奥にまで周囲に漂う冷たい空気を取り入れた途端、霞がかっていた頭に活が入るのを実感した。苦労に見合うだけの報酬を手に入れられたと満足する思いが湧き上がる。思いはやがて自らの疲労たまった体と頭を活動させるためのさらなる力となり、私はそしてようやく周囲の様子に意識を向けることが可能となったのだ。

 見渡せば培養ポットから漏れる光だけが照らし上げる闇の中には見覚えのある多くの顔と、見覚えのないいくつかの顔が並び、新旧の英霊がそろい踏みしている。呼吸をすることも忘れている周囲の彼らは、話の中心となっている私と彼とだけに向けられていた。さもありなんむべなるかな、先ほどの慎二の発言には間違いなくこの場に存在している意識あるものたちから音を奪うだけの威力が秘められていたのだから。彼らは言葉を発しない代わり、視線にて訴えてきているのだ。果たしてお前はどんな答えを出すのか、と。

 

――やれやれまったく……

 

 世の中は等価交換だ。何かを成し遂げるためには何かを犠牲に払う必要がある。生きるためには自らの体を動かすエネルギー源となる食料が必要だ。食料とはすなわち、動物の肉であり、植物そのものであり――、つまりは、世界に生きている自分以外の何かの命のことである。そうとも。人間、生きるためには他の存在を糧とする必要がある。多くの人間を生かそうとすれば、それだけ多くの命が――、犠牲が必要だということになる。ならばこの崩壊しかけている世界を救うため、かつてこの世界の内側で多くの命を救って/犠牲にしてきた彼らが贄として必要だという理屈も――、納得できるというものだ。

 

――聖杯、か

 

 聖杯。それは元をたどればはるか昔、メソポタミア神話に登場する女神イナンナに豊穣を祈る儀式の際に使われていたウルクの大杯を起源とする、やがて変遷によってアーサー王物語においてキリストの血を受けたとされる器にして、それ故に万能の願望器としてたたえられるようになった聖遺物の名前だ。

 

――贄を捧げた存在に豊穣をもたらす器……

 

 無論、私の掌の中にある心臓(/それ)は、贄を捧げたものに豊穣をもたらす聖杯などというものではない。私の掌の中に納まっているそれは小聖杯と呼ばれる、かつてとある魔術師たちによって開発された聖杯を模して造られた、英霊の魂を収めておくための器だ。だがそれはまた同時に、聖杯として完成すれば、全てのモノに救いをもたらす真の聖杯(/全能の願望器)たりえるかもしれない、魔性の器でもある。

 手中に収まっているそれは人ひとりの命を支えていたとは思えないほどに軽く、しかし、世界の全ての運命を握るほどに重い。そうとも、掌の中のそれには、世界の全てが詰まっているのだ。聖杯(/心臓)はもはや鼓動することを忘れている。だが、一度必要とされる贄を――、周囲にいる七人の英霊の魂を注ぎ込んだのならば、小聖杯であるこの心臓は『真なる聖杯』として完成し、人類を救う希望の存在として再稼働を果たすのだろう。

 

――七つの魂と引き換えに、世界を救う器……

 

 七つの魂があれば、世界を救うことができる。だが七つの魂を捧げるということはつまり、周囲にいる彼らの命を簒奪するということにほかならず。

 

――まったく、慎二/アンリマユも、最後にとんだ難題をぶつけてくるものだ

 

 だからこそ私は、周囲から向けられる視線の問いかけに対して、何の反応をすることができずにいる。世の中は等価交換だ。可能な限り少数の犠牲で多くの成果を得る。それは確かに、この何をするにしても代償を必要とする現実世界において、もっとも理想的に願いを実現させるための方法だ。少なくともかつての命の価値を数で計っていた私だったならば――、たった七人の犠牲で世界を救えるというその方法を迷いなく実行しようとしただろう。だが命の答えを知った今――、少なくとも今の私は、たとえ世界のためにであろうと、周囲の彼らを――、私を導いてくれた人たちを犠牲にすることを、許容することなど、決してできない。凜という彼女の手によってこの世に再びの生を享けてからの半年にも満たない間、私はかつての私は何だったのかと思うほどに変わってきた。彼らと過ごしてきた日々は、まるで黎明の光のようだった。明け方、黎明の光の中に消えていったセイバーによって完全に止まってしまっていた私という存在の時計の針は、彼らという存在によって再び時を刻み始めたのだ。そうして送り出された世界は、思いもよらない未知と、かつて失ってしまった喧騒に満ちあふれていた。

 溢れ出てきた想いに曳かれるようにして目を瞑ると、脳裏をよぎっていくのははるか過去の切嗣と縁側で過ごした別離の時やセイバーとの出会いや別れの時の記憶ではなく、自分がこの世界で生きてきた記憶ばかりだ。この世界に初めて送り出されたあの日、見上げた蒼穹の美しさを今も覚えている。緩々と照り付けてくる太陽。肌をくすぐってゆく柔らかい風の感触。光を爆ぜ返すのは、目の前に映るは萌ゆる草原と森林。端にまで視線を向ければ山々が。峩々たる稜線を描く山々からは、淡く霞む雲が延びていた。そして見つけた手紙に涙した時の思いを覚えている。思慕に後ろ髪を引かれたのは果たして何年来のことだっただろうか。そして見つけた町で多くの人の情けを身に受けてきた。町の入り口で奢ってもらった牛串の味を覚えている。兵士の親切を忘れたことなどない。初めて出会う人に猜疑の目を向けられなかったのは何年来のことだっただろうか。自分の積み重ねてきた力が素直に歓迎されたのは本当に久しぶりの経験だ。他人の傷に怒る人と出会ったのも、久しぶりだった。紹介された宿が不思議なくらいに心落ち着く場所だったことを覚えている。そんな多くの人と触れ合いによって、私は自分が捨ててきた日常にどれほどの価値があったのかを思い知らされた。

 目を瞑るだけで半年の思い出は次々とあふれ出てくる。絶えることなく出てくる思い出は活力の水となり、悪意に枯れてしまった我が身を過敏な状態へと変貌させていた。かつん、と、耳朶に飛び込んできた地面をたたく音が、記憶に浸っていた思考を引き戻す。振り向き見ればそこには、この世界において最新最強の英霊となったシンという男の姿があった。

 

 

「エミヤ」

 鋭い声が闇を切り裂く。それはブシドーと呼ばれる刀を用いて敵を切り裂く職業に就く彼らしい、一切迷いの含まれていないものだった。その整ったと呼ぶに気後れしない顔には、研ぎすまされた刃のような鋭さに満ち溢れている。

「私は正直、君たちの話の内容を完全に理解したわけではない」

 さらに一歩を踏み出しながら彼は言う。

「だが、大まかに、貴方がその願いを叶えるために、私の命を必要としているということだけは、十分に理解した」

 その大きくもなく小さくもない声はしかし、闇の静謐を貫いた。自らの魂を欲するという男を前にしているにもかかわらず、シンは一切怯んだ様子を見せずにいる。その堂々としたありさまは如何にも彼らしかった。

「――私はこの世界に倦んでいた。私以上のモノがいない世界。私の退屈を満たす存在がいない世界において、しかし突如として現れた貴方は、あの世界において長点であったはずの私という存在を歯牙にもかけない活躍をしてみせ、私のそれが、所詮世界の広さを知らない未熟者の思い上がりであったことを知ることができた」

 言いながらシンはさらに歩を進めてくる。

「私は貴方という人と出会ってから、世界を心底面白いと思うことが出来るようになったのだ。貴方と出会ってからの日々はこれまでにないほどの刺激に満ちていた。私は――、私の生涯は、あの時、貴方が私の前に現れてくれた時から始まったのだ」

 シン。天才と呼ぶに過言でない才能をその身に宿し、それ故に生涯のあらゆる出来事に関心を持てなくなったという彼は、何とも朗らかな顔で、自分がかつて過ごした二十数年の時よりも、この半年の方にこそ価値があったと語っている。簾髪から覗く目元は何とも涼し気で、己の不足と未熟を語る彼の顔はまさに美麗と呼ぶにふさわしいものだった。

「私は貴方という存在によって救われたのだ。君という存在がいたからこそ、私は自らの生涯を満足の内に生き抜き――、そして死した後にまでも満足というものを得ることが出来た。エミヤ。私にとって、貴方こそが私の救い手だ。だからエミヤ。君が私の命を必要とするならば、私は喜んで君にそれを差し出そう」

「……!」

 宣言するシンの顔には迫力に満ちている。もしこの胸の裡に湧き上がりつつある感情の赴くままに「そんなものは要らぬ」と叫んでしまえば、その時点でシンはきっと刃を自らの胸に突き入れ、自死を選ぶだろう。彼の顔にはそんなたとえ自らの恩人であろうと、文句は言わせぬという気概の色に染まりあがっていた。冷たかった空気がさらに低下する。彼の覚悟は肌を突き破り、私の胸に棘として突き刺さっていた。静寂があたりに木霊する。彼の覚悟は周囲を一気に凍り付かせていた。

 

 

「……エミヤ」

 零下にまで冷えこみ凍り付いていた空気を動かしたのは、そんな空気と同じくらいに顔色の悪い、ヘイムダル――、ヘイという男だった。

「覚えているか」

 傍らに旧神話における幻想種ペガサスを手綱にて従えた彼は、もはやその身に纏った見目に麗しい紫鱗の鎧をさすりながら言う。

「初めてお前が俺の店に持ち込んだものを見て、俺は心底それに――、いや、そんなものを持ち込んだお前に惚れこんだ。未知なる力。名声を勝ち取る力。若さ。強靭な肉体。それらに驕らない精神性。――お前には俺が持っていないすべてが備わっていた。お前は俺がかつて求めていた、かつて過去に置き去りにしてきたすべてを持ち合わせていたんだ。だからこそ俺は――、自分の全てを投げ出してでも、お前のモノを俺のモノにしたいと、そう願うようになったんだ」

 その告白を浅ましいと嗤うことなどできなかった。ないからこそ憧れるその気持ち。ないからこそ焦がれた願いを我が身の破滅と引き換えにとでも欲するその気持ちを、親子二代にわたってそれを望み続けてきたこの身は痛いくらいに理解できてしまう。だからこそ私はヘイのその暗鬱な告白をどうしても止められずにいた。

「俺は――、俺は、身の程知らずだろうけど、あんたみたいになりたかったんだ。年老いた男が言うようなことじゃないってことはわかっている。現実、俺はどうあがいてもあんたみたいな存在になれないことが分かっていた。だって俺にはその才能がない。だって俺にはもう若さがない。だって俺には、もうそんな気力もなかった。そうして気付いた時には手遅れだった。だって俺は――、ただ、周囲に流されるがまま無為に年を重ねてきただけの人間だったから」

 告白にはるか昔の自らを思い出す。かつて自分には欲する才能がないと嘆いていた男がいた。男が欲しかったのは、完全無欠の正義の味方になるための才能だ。正義の味方。悪を挫き、弱きを助け、この世の歪みをすべて正して見せる、そんな存在。

「俺なんていなくても世界は回っていく。お前という存在が活躍するほどに、俺という存在の不要さを自覚させられた。誰かに必要とされる存在になりたかった。でも俺には、それを実現できるための特別な何かも、自分が特別であると勘違いできる若さもなかった。だから俺は――、お前が必要だといって差し出された手に縋りついてしまったんだ」

 誰にも必要とされる正義の味方になりたかった。だがその頃の男には、自らの正義こそが普遍に通用するものだと信じて疑っていなかった。その頃のおときには男にはどうすれば自らの正義が他人にとっての正義になりえるかを、それになれるかを深く考えるだけの頭がなかったのだ。そうして男は自らの周囲との間に発生する齟齬により、徐々に追い詰められてゆく。男は自らの正義を標榜して押し付けてくる存在が周囲にとってどれだけ迷惑かも考えずひたすら愚直なまでに前進し、やがて、世界と契約して英霊と呼ばれる存在の力を得ることも出来た。だが――

「でもダメだった」

 ダメだった。

「確かに俺は必要とされた。特別な力を得ることも出来た。多分、世界で唯一無二の存在になれたといって過言じゃない。それでも――、そうして他人から与えられた力を振るうこの身に満ちるのは、後悔だけだった。当然だ。だってそれは――、俺が苦労して身に着けた力じゃないんだから」

 世界と契約して英霊となった。死後、魂を預けることを条件に手に入れた力は確かにすさまじかった。だが――、ただそれだけだ。力は力であって、それ以外の何物でもない。たとえ自らの身に過ぎる力を手に入れたところで、それを振るうのは己であることに変わりはないのだ。

「力を得たところで性根や心が変わるわけじゃない。長年生きておきながら、俺はそんなことにも気づくことが出来なかった。否――、俺の場合、もっとひどかった。だってその力は、俺の――、俺を信じてくれていた奴らを裏切って手に入れたものなんだから」

 それはつまり結局、今までやってきたことがもっと大きな範囲で出来るようになっただけで――、他人というものがどうやれば救われてくれるのかを理解していないのは変わらない。故にそうして手に入れた力を使って何をするかと言えば、今までと同じように善意と正義を押し付けられるばかりで――、つまりは周囲の人々から疎まれるまでの時間が短くなるだけだった。だからこそ男は――、自覚的に死後の世界にこそ希望を見出すようになったのだ。しかし。

「誰かを裏切って手に入れた力は、自らを裏切ってきた人間を操る力だった。世界の裏側に潜んでいたそいつらは、いつだって誰かを羨み、憎み、やっかみ、人のことを馬鹿にするばかりで――、そんな奴らが蔓延しているそこは、俺にとってとても居心地の悪い居場所だった」

 やがて希望を胸に辿り着いた居場所は、自分にとって地獄同然の場所だった。辿り着いた英霊の座において課せられた役目は、人類の滅びと関係した人を最小限切り捨て、それ以外の全ての人を救うというもので。つまりそれは、男は男が今までやってきたこととまるで変わらない、正義の規定より外れた人々をひたすらに排除する作業を、他人の意思でやらされるというものだった。

 考えてみればそれも当然のことだろう。世界は私の掃除屋としての腕を買ったからこそ、私を契約対象として選び、力を与えたのだ。ならば契約が履行されたのち、私に掃除屋としての役目が課せられるのは当然のことであり――、当時追い詰められていたその男は、そんな簡単な理屈に気が付かないほどに追い詰められていたのだ。

 永遠という枷をはめられた男は、そうして人間がやってきたことの後始末をひたすらにやらされるようになる。そこに正義などなかった。誰かが好き勝手やった結果、関係ない人が犠牲となる。そうして犠牲となる人たちは、力こそないかもしれないが優しかった人で――、世界に滅びをもたらそうとした輩の巻き添えとして犠牲になっていいような人々ではなかったのだ。

「才能あるやつですら届きそうにない領域がある。手を伸ばせばいつか空の彼方のある月や太陽にまで届くだろうと思うのは、子供だからこそ許される特権だと思っていた。遮二無二何かを頑張るのは格好の悪いことだと思っていた。だってそれは傍からどう見てもみっともなくみえてしまう。誰かに笑われるのが嫌だった。無駄かもしれない努力を重ねるのが嫌だった。誰かと違うことをやるのが嫌だった。間違いを犯すのが嫌だった」

 罪悪感が心を苛む穢れとなる。罪と罪と罪の残骸だけを正義の味方として踏破した。そうして見つけた悪を、罰と罰と罰として無関係な人々ごと切り捨てきた。永劫の命を与えられた男の地獄の日々はいつになっても終わることなく、男の心をどこまでも摩耗させてゆく。

「普通でない、間違っているとわかっていながら、それでももう俺は止まれない。だって俺には、もうここ以外に居場所なんてないと、そう思っていた体。けれど――、でも俺は、それが自分のやってきた結果だからしょうがないといつものように諦めて、粛々と課せられた役割を果たそうとしたそんなとき――」

 繰り返される地獄のような日々に、三千世界、あらゆる場所に地獄は存在していると悟った。人類の愚かで、そんなものを守ろうとした自らの愚かさを悔いた。だが後悔の炎がいくら強まろうと、我が身に科せられた永遠の首輪は外れない。やがて無知蒙昧に自らの理想だけに殉じた過去の己を殺傷せしめたいと願っていた時――、

「シンとお前との戦いを目撃したんだ」

 果たしてその歪んだ願いは叶い、男は過去の己と対面し、過去の己を殺傷せしめる機会を得た。

「あれは――、俺にとって奇跡のような光景だった。信じられなかった。だってシンが――、あの傍若無人であらゆることを飄々とこなすシンが、必死になってお前に食らいつき、凌駕しようと足掻いていたんだから」

 たまっていた鬱憤と激情を過去の己に存分に叩きつけた。過去の己は当然未来の自分よりも弱く、それ故に一撃ごとに肉体に大きな損傷を負う。過去の自らが傷つくほど今の己の下した結論が肯定されるかのようで、得意げになって剣を叩きつけた。

「そこでは俺が否定してきたすべてが肯定されていた。必死は格好の悪いことじゃない。無駄かもしれない努力を重ねるのも、間違いを犯すのだって悪いことじゃない。だってシンはそうやって今まで自分が培ってきたものを、そうして自分の中にあるものをすべて吐き出して戦っている。エミヤだってそうだった。俺はそこでようやく――」

 過去の己は未熟だった。過去の己は身の程わきまえない愚者だった。過去の己は自分の正義はきっと誰かを救えるはずだと信じる痴愚者で、自らと同じ存在が蓄えてきた知識と経験にすら膝を折らぬ頑固者だった。馬鹿で阿呆で愚かで頑固などという救いようのない存在はしかし、未来からやってきた己自身の運命の記録をその身に刻まれてもなおも愚直に突き進み――、

「自分の過ちに気が付けたんだ」

 やがて自らの未来の自分を打ち破り、己の正しさを証明した。

「シンという現エトリア最強の男ですら届かなかったお前の領域に――、しかしシンは今まで培ってきた自分の力の延長線上にあるものだけで到達しようとしていた。いや、シンはそうして自らの中にあるものだけで、自分を無理やりそんな領域に到達させかけてたんだ。そうしてすべてを出し切ったシンは、残念ながらお前に負けちまったけど――けど俺は、勝負に負けてあんなに誇らしげな敗者の姿なんてものを、あの時初めて目撃した。あそこには俺が求めていたすべてがあった」

 自らの選択を信じ、誇ること。培ってきたすべてを愛し、活用すること。間違えることは恥じゃない。最短距離を走るのだけが正解じゃない。過去の己を卑下することはない。どれだけ近かろうが、たとえ未来の自分であろうが、所詮は過去の己を嗤う愚者の言葉に耳を貸す必要など毛頭ない。押し付けがましいのは承知の上だ。必要なのは、ただいつかこの手を届かせてみせると信じて、いつかは自らの思いが誰かに届くと信じて、涯なき世界をどこまでも駆け抜ける意思と覚悟だけ。

「そうだあの戦いを目撃して、俺は救われた。俺はあの時初めて、どんなに笑われようと、どんなに後ろ指をさされようと、自分の気持ちに従ってやりたいようにやることの尊さを知ったんだ」

 言いながら自らの思いを周りの目を気にすることなく余すことなく吐き出したのだろうヘイは前に進んでくる。すでに命の輝き途絶えていてもかしくない色の顔の中ではしかし、命の光というものが爛々と輝いていた。蒼褪めた顔がシンの横へと立ち並ぶ。

「だから――」

 彼はそして一度だけ申し訳なさそうにシンやヘイら、ギルド異邦人の五人の彼らの方を見つめ――、しかしそして返ってくる視線の中に戸惑いと納得と許容と承諾のモノが含まれていることを確認すると――、湧き上がる衝動をとどめるかのように一度目を閉じて天を仰ぎ、前を向く。

「エミヤ。俺も、シンとおんなじ気持ちを抱いてる。もしお前に心底叶えたい願いがあって、そのために俺の命が必要だっていうのなら――」

 かつてかけがえのないものを失くしてしまったと嘆いていた男の顔にはしかし今、過去に捨ててきてしまったはずの輝きに満ちていた。

「迷うことなく、必要だと言ってくれ。特別だから、誰かに必要とされたからという、そんな消極的な理由ではなく――、俺は俺の意思で、そうしたいからこそ、お前にそれを望んで欲しいんだ」

 言いながらヘイは真剣なまなざしを向けてくる。視線には自らを救ってくれた存在を救いたい、自らを救ってくれた存在に倒して恩を返したいという思いに満ちていた。その提案を無下に振り払うことも出来ず、かといって易々と受け入れることもできず、閉口する。そして訪れた静寂はまるで重圧に押し殺された我が懊悩の悲鳴であるかのようだった。



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三十一話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (七)

 薄暗い闇を貫くかのような鋭いな眼差しがこちらへと向けられている。二人の男が向けてくるそれらの視線はあまりに眩しく、思わず目を背けてしまいたくなるくらいに純粋なものだった。「自分の命を是非ともお前のために使わせて欲しい」。彼らの瞳はそう語っている。二人の瞳には先ほど二人が述べた言葉が嘘偽りでない事が真摯に現れていた。

 

 彼らは自らの魂を聖杯という器に焼べて欲しいと告げてきている。だがその申し出を聞いてしまえば、その時点で彼らの死が確定してしまう。今のこの小聖杯に魂を焼べられるということはすなわちその魂が完全に魔力へと変換されてしまうということであり、つまりは即座に死へと直結する願いだ。だからこそ――、そんな申し出を受けようなどとは思えない。どうして自分に対して無条件の信頼を寄せてくる相手を死なせたいなど思えるだろうか。死なせたくない。心の底からそう思う。

無論、彼らのほかにも今しがた聖杯に焼べるべき魂として選ばれてしまったギルガメッシュやランサー、メルトリリスという知己の者達や、ペルセフォネという彼女らも犠牲になどしたくなどない。桜も、慎二も、凛も、ライドウも、この場にいる皆が笑える未来を掴みたいと心底思う。

 

 そうとも。できることならばこんな他人の魂を贄として必要とする魔の器など用いたくなどない。可能ならば、こんな器を使わずに世界を元の通りに戻す方法を見い出し、皆で生きて帰りたい。だが――、どうすればそれを実現できるか、どんな手段を用いればそんな奇跡みたいな出来事を実現できるのか、まるで皆目も見当がつかないのだ。

 

 世の中は等価交換だ。何かを為すためには相応の犠牲が必要となる。いうまでもない世の基本法則だ。ならばこうまで滅茶苦茶になってしまった世界を元通りにしたいと願うならば、それ相応の贄が必要となるのは当然のこと言えるだろう。そしてまた、慎二という男が提案してきたその手段が、おそらくは最も犠牲が少なくて済む手段であることは間違いがない。だってそれ以外の手段は、どうあがいても七人どころでない犠牲が出る。というよりも、もはやそれ以外に案など見当たらないのだ。

 

 モリビトの桜が言っていた案は、現行生き残っている人類を生き残らせるための手段であったが、グラズヘイムというかつての富士山付近にあり、そして今までは世界樹の表層にあった施設が泥の中に沈んでしまっている時点で、世界中のほとんど多くの地帯が蠱毒の泥の中に沈んでしまっていることはもはや明白だ。そう。おそらく今、世界に人類という種は――、否、それ以外のあらゆる動物は、蠱毒の泥の中に沈んでしまっている。確実に生き残っているだろうはヴィーグリーズと呼ばれた大地と月との間付近に待機している飛空都市マギニア改とかいう船に乗っているらしい数百人と、彼らとここにいる十数人、あとは改良された火星の大地に移住した何人いるかわからない悪魔の力を得た人間たちくらいのものだろう。

 

 また何より、その案は、グラズヘイムという場所が十全に保たれていて、世界樹やその上にある大地というものが幾分かでも残っている事という前提の案だった。犠牲は出ないが、助かるのはたった数百人+αだけで、その後泥をどうするかも定っていない、今となっては実行不可能な案と、七人という犠牲は出るが、泥を全てどうにかした上で、世界を元の通りに戻せそうな案。そんなもの、どちらを選ぶかといえば、誰だって返答は後者であるに決まっている。

 

 ――全てを救える選択肢は果たして存在しないのか

 

贅沢といえば贅沢であり、絵空事といえば絵空事にすぎる願いを、しかし、如何様にすれば叶えられるのか。

 

 「衛宮。悩んでいるところ悪いけど――、最悪のお知らせだ」

 

懊悩していると、背後にいる慎二がこちらへと語りかけてきた。口調からは先ほどまであった余裕が嘘のようになくなっている。そうして多少慌てた様子の慎二がセリフを口早に言うやいなや、十数人の頭上に真っ白い光が――つまりは先程、慎二がクラリオンという存在を映す際に使用したモニターが現れる。仄暗い闇の空間に現れた四角い光のそれは一瞬だけ乱れると、やがて白い光は瞬時に周囲の黒と同系列、かつ、少しばかり明るいものへと切り替わり、黒の上にはやがて別の色が投影され始めた。

 

 「これは……」

 

そして立体投影型モニターと化したその上に映し出された光景を見て、誰もが絶句する。

 

 「なんだ、あの異形は……」

 

 画面の上には醜悪としか呼びようもない姿の何者かが写り込んでいた。ヴィーグリーズの大地と呼ばれた場所の上に浮かんでいる、泥に満ちていたギンヌンガの裂け目からぬるりと現れたそいつは、大きさにして千キロはあろうかという巨体の持ち主だった。その巨大という言葉が陳腐に思えるくらいの大きさをした人間の脳のような形をしたヘドロ色の本体からは、数百本もの蛸の触手のようなものが伸びている。そんな脳のような姿の本体にはまた、相応に巨大で真っ赤な瞳がひっついていた。

 

「あれの名はクラリオン。そして旧世界の住人が魔のモノと呼んでたものであり――、さっき、僕が見せたあの触手の化け物が本来の姿を取り戻したものさ」

 

 人間の脳みその正面に目玉が付与されたものから数百本にもわたって触手が伸びているような光景は、それだけでも回虫型寄生虫にやられた脳を見ているようで相当な嫌悪感をもたらすような姿である。だというのによく見れば、その異形の姿をした存在の異形たるや、それにとどまらない。なんとその巨大な生物の蛸に例えれば触手の吸盤にあたるだろう部分の一つ一つは、吸盤ではなく黄色い目玉であったのだ。

 

 その醜悪な姿をした巨体から生えている数百の触手の全てに数十もの目玉をことを考えれば、その目玉の数はおそらく千を下るまい。無論、一つの生物が千の目玉を持つこと自体は珍しくない。昆虫など、複眼と呼ばれるものを持つ彼らは、それこそ数万から数十万の目玉を持っていることだってある。だが、彼らのそれが進化の過程において発生した必然性を感じられるものであるのに対し、巨体がそこには何に必然性も感じられなかった。

 

 そうとも。必然性がないのだ。だって普通、触手なんていう場所に自らの目玉をつける奴はいない。触手というものは、蛸などの軟体生物にとって、自らの体であると同時に、使い捨てのきく武器に過ぎないものだ。いざとなった際には、自らの触手を千切ってでも彼らは逃げようとする。触手とはつまり、人間にとって爪のようなものだ。人間の指先の爪や髪の一つ一つに目が生えている事を想像してもらえれば、いかにあの生物が意味のないことをしているかを理解してもらいやすくなるだろうか。

 

 「奴さん、どうやらここに来るまでの間、この世の全ての悪/アンリマユの成分が混じっている蠱毒の泥という悪意の全てが詰まったそれを大量に食らってきたらしい」

 「――そうか……! 魔のモノは、負の感情を食らい成長する化け物……。ならば蠱毒の呪いによってまさにこの世の全ての悪が溶け込んでいるあの泥は、奴にとってまさに極上の餌であるというわけか」

 「腹立たしいことにその通りだよ」

 

 いうと慎二(/アンリマユ)は、吐き捨てるように返してくる。どうやら彼は、自分の分身とも言えるそれが喰らわれ、魔のモノの栄養とされたことが噴飯レベルで気に食わなかったらしい。

 

「ともあれ、まぁ、人のことばかすか食いやがったあいつは、飢餓状態のやつが今まで得られなかったご馳走を前にして、意識がかっ飛んでるような状態だ。つまり、奴は今、まさに本能だけで動いていて、そしてそれ故に――」

 

 そうして慎二がいう最中も動きを止めないそいつ――、つまりクラリオンであり、魔のモノでもあるそいつは、やがてギンヌンガの大穴から表したその触手生えた見たものに生理的嫌悪感を発生させる巨体をゆるゆると下降させてゆくと、ヴィーグリーズの大地の上にその触手を接触させる――、やがて湯船にでも身を浸すかのよう、その巨体を泥の大地の中へと突き入れてゆく。

 

 「悪の側に落ちた人の魂を求めている。おそらくこのままだと、そう遠くないうちにあの人間の魂が多く詰まった泥は余さず喰われ、そして聖杯を起動させて世界を救う魔力すら残さず無くなってしまうだろう」「な……」

 

 そして聞こえてきた言葉に、もはや何度目かわからないほど閉口させられた。言い終えた慎二は視線を画面からこちらへと向けなおすと、真正面からこちらを見つめたのち、この手に握られている心臓を――、つまりは小聖杯を見つめながらいう。

 

 「悪いな、衛宮。僕のさっきの言葉が嘘になっちまった。多分、このペースであの化け物に吸収されていくと、時間にしてしまえば多分、半日としないうちに世界は元の通りにできなくなっちまうぜ」

「……!」

 

 その言葉にこれまでにないほどの焦燥感が湧き上がる。もはや一刻の猶予も許されていない。悩むなんて贅沢は、今この瞬間において存在していないのだ。焦りに促されるようにして周りを見渡すと、いつのまにか画面に向けられていた周囲の視線が全て自らへと集中していることに気が付ける。否、正確にはこの手に握られている、世界の運命を決めるという小聖杯に、だ。

 

 「どうする、衛宮」

 

 背後から慎二の声が律儀に聞こえてくる。目の前からは縋るような、祈るような、図るような、さまざまな視線が投げかけられてくる。十人十色、様々な視線が向けられる最中、やはりというか気になってしまうのは、凛の同情するような視線でなく、ギルガメッシュの感情読めない視線でなく、ライドウらの行為を問う視線でなく、シンとヘイが向けてくる視線だった。

 

 先ほどまで信頼ばかりを向けていたはずの彼らの視線には、どこか不満げな様子が含まれ始めている。その視線はこう問うていた。なぜ貴方は迷うのか。なぜ貴方は本懐を果たそうとしないのか。なぜ貴方は私達の提案を受けてくれないのか。なぜ貴方は、私たちを救ってくれたように、世界を救おうとしないのか、と。

 

 ――その、問いかけるような、不満を訴えるような視線には、見覚えがある

 

 そうして視線を向けてくる彼らの顔は、まるで子供の不満顔のそれだった。そう。

 

 ――否、見覚えがあるのでない

 

 衛宮士郎という顔は、彼らが浮かべるその顔に覚えがある。その顔を見ていると、なんとも言えない感情が胸の奥から湧き上がってくる。それは困惑と安心が入り混じった、なんとも言えないものだった。そう。それはまるで、自分にとって正義の味方である人物が、自分は正義の味方ではないなどと言い出した、あの月夜の縁側の時のようで――

 

 ――、ああ……

 

 瞬間、視界に一筋の稲光が走り、脳裏には過去の記憶が再生され始める。記憶の濁流は瞬時のうちに意識を脳裏の中へと放り込んでいった。

 

 

 『子供の頃、僕は正義の味方に憧れていた』

 

 今でも鮮明に思い出せる光景がある。あれは宵もまだ浅かった頃、天の頂きにあった大きな満月が顔を傾げていた時ことだった。正義の味方になる。武家屋敷の縁側にて自分が貴方のその願いを継ぐと宣言したその夜、その言葉を聞いた衛宮士郎の養父、衛宮切嗣は微笑とともに冥府へと旅立った。あの誓いこそが始まりだった。

 

『なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ』

 

 はるか昔、私が心底尊敬している養父、衛宮切嗣とのあの誓いがあったからこそ、衛宮士郎という男は正義の味方になるべく――、否、自らにとっての正義の味方であった衛宮切嗣という男になるべく、駆け出した。

 

 『うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けばよかった』

 

 胸を焦がす思いがある。

 

 『そっか。それじゃしょうがないな』

 

 自らに課した使命がある。

 

 『そうだね。本当に、しょうがない』

 

 違えぬと誓った約束がある。

 

「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ。爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。まかせろって、爺さんの夢は」

 

 他の全てを捨ててでも叶えたい願いがある。

 

 ――俺が、ちゃんと形にしてやるから――

 

 そうとも。月下の元、自らが尊敬してやまない私の養父と交わしたあの誓いこそが、衛宮士郎という男の中よりそれらの全てを生み出す、衛宮士郎が衛宮士郎たる源であり、原点だ。

 

 「ああ――――――安心した」

 

自らの発言によって、彼は全ての荷が降りたと言わんばかりの微笑とともに浮世から消え去った。臨終の際に彼が見せたあの微笑があったからこそ、自分は――、その先にあった地獄という地獄を踏破し、多くの人に支えられながら、自らの歪みを指摘されながら、ここまでやってこれたのだ。自らの発言が自らの恩人たる存在を満足させたというその思いと自負があったからこそ――、自分は自分にとって大切な存在を救うことができたのだという思いがあったからこそ、衛宮士郎という存在は何があろうと正義に味方になるという思いを曲げようとしなかった。ならば彼が死の直前に見せたあの微笑こそが、衛宮士郎という存在のその後の全てを決定づけたといっても過言でないだろう。

 

 そうとも。死の間際、私の恩人であり正義の味方である衛宮切嗣という男は、幼かった衛宮士郎の発言によって救いを得て、微笑を浮かべながら逝った。彼は衛宮士郎という正義の味方の後継者を得ることができたからこそ、彼は死に瀕していながら、あれほど穏やかな微笑を浮かべ、「安心した」と言いながら、救われて死んでいったのだ――――、と、私は今の今までそう思っていた。

 

 だが、言峰綺礼という男によって、養父への依存――奴が言うところの、衛宮切嗣の呪い――から解き放たれた私が思惟を巡らせてみれば、衛宮切嗣という男が幼い衛宮士郎という自らの後継者を得たという安堵からこの世への未練をなくしたというような考え方が可笑しいということに気が付ける。なぜなら彼は、正義の味方というものがこの世に存在し得ない事を知っていた。

 

『正義の味方は期間限定で、大人になるとなれなくなってしまう』

 

 あきらかに自らが歩んできた道を後悔してのものだろう、寂しそうな顔でそんな言葉を漏らした彼が、それを求めたが故に地獄を邁進する羽目になり、追い詰められたその果てに自らの妻や娘を犠牲にしてまで万能の願望器たる聖杯なんていうものを求めざるを得なかった彼が、万人にとっての正義の味方になるという事の不可能性に気付いていないはずがない。

 

 『いいかい士郎。正義の味方に救えるのは、味方をした人間だけだ』

 

 自らの子が自らが歩んできた同じ過ちの道を歩くことに安堵する。少なくとも衛宮士郎という男が知る限り、切嗣という男はそういう大人ではなかった。不器用で、抜けていて、身内の人以外にはあまり良い顔を見せないようなそんな人だったけれど、少なくとも彼は、不器用なりに自らが引き取った子である衛宮士郎という存在を必死になって愛そうとしてくれる人だった。そんな不器用な愛がらも注がれる愛を一心に受けて育ってきた存在だからこそわかる事が――、思い出せる記憶がある。

 

 ――衛宮切嗣という男が微笑を浮かべるのは、決まって、内心、目の前で起こっている出来事に困っているときだった

 

 例えば養子である衛宮士郎が失敗した料理を出してきた時、例えば衛宮士郎の姉分である藤村大河がその弟分からおもちゃを強奪した時、例えば武家屋敷の元々の持ち主である藤村雷画が突如酒を持って来訪して時、彼は常にそうした静かな人当たりのいい微笑みをたたえて、目の前の出来事に対して粛々と応対していた。

 

 多分、正義の味方を目指していた彼にとって、微笑みとは処世術の一つだったのだろう。もともと彼はとても素直に感情を表す人間だった。おそらくは孤児院にやってきた時、自らの家にやってくると宣言した衛宮士郎に対して、胸の奥から湧き上がってくる嬉しさを堪え切れないと言わんばかりに見せた満面の笑顔こそが多分彼の自然な反応であり、笑顔なのだ。

 

 そしてまた切嗣は、理にかなっていない事を嫌うたちの人間だった。だから切嗣は、本来自分の気持ちに素直に従うならば、多分目の前で我儘を言う誰かに対して悪態の一つでもつくような人間だったに違いない。だが切嗣は、そうして自らが目の前の誰かの我儘に不快の感情を抱いた事を素直に伝えれば、その目の前の誰かとの間に諍いや確執が生まれる事をよく知っていた。正義の味方を目指す彼にとって、誰かがそうした不快の思いを抱くということは、悪しき行いであると思うに至ったに違いない。だからこそ彼は、自らの目の前で誰かが我儘を言った時、微笑みの仮面でお茶を濁すという手段を覚えたのだ。

 

 そう。切嗣にとって微笑みとは、目の前の誰かを怒らせたり悲しませたりしないための一手段にすぎないのだ。

 

 

――だから

 

  そんな経験則から導き出した理屈から改めて彼が今際の際に浮かべた微笑みの真意を推察するならば、衛宮切嗣という男は、衛宮士郎という存在の、「正義の味方になる」という発言を受けて、困ったのだ。なぜなら彼は、この不平等ばかりが支配する世界においてその道を目指すのならば、待ち受けているものが涯のない地獄と、自らの善意と他人の悪意との不等価交換を強いられるそんな煉獄に続く道である事を知っていた。なぜなら彼は、自分はそうやって正義の味方を目指し、しかし失敗してしまったと感じていた人間なのだから。だからこそ彼は――、自らが引き取った少年が、自らと同じものを目指すという宣言を聞いた時、まずハッとした顔をして見せて、しかるのちに、困って、微笑を浮かべたのだ。

 

 ――きっとあの時、切嗣は困っていた

 

 そうとも。おそらくあの時、衛宮切嗣という存在は困っていた。彼はおそらく自らの息子が、自らと同じ過ちの道を歩こうとしていることに、心底頭を悩ませたのだ。切嗣という存在を盲信し、妄信していた衛宮士郎という存在は、しかしだからこそ、そのことに気が付かず、それどころか彼のそれは私の提案を肯定するものだと思った。――否。気付けなかったのではない。

 

――きっとあの時の衛宮士郎は、そのことに気付きたくなかったのだ

 

 自分の発言が、自らの恩人に微笑を浮かべさせてしまった(/顔を曇らせてしまった)。自分の発言が彼という存在を困らせた。幼かった衛宮士郎は、そのことに気が付きたくなかった。幼かった衛宮士郎は他人の気持ち(/心)の変化には鈍感だったけれど、他人の体の変化には敏感な存在だった。だからおそらく、幼い衛宮士郎はそんな高い感受性で、この月下の縁側において衛宮切嗣という男が死んでしまうだろう事を無意識のうちに感じ取っていた。そして幼い衛宮士郎は、この機を逃せば、もう挽回の機会はないだろう事を。敏に感じ取っていた。だから幼かった衛宮士郎は、その事実から目をそらし――、衛宮切嗣という男が死の寸前に漏らした「安心した」の一言に縋りつき、彼は衛宮士郎という存在の一言に安堵して逝ったのだと、思い込もうとした。

 

 ――自分の発言によって、切嗣が困ったなどと、思いたくもなかったのだ

 

 それはあまりにも無様で、あまりにも自分勝手で、それはあまりにも醜い思い込みだった。幼かった衛宮士郎が求めていたのは、衛宮切嗣という自らにとって恩人である存在の救いではなく、自分の発言によって彼が救われてくれる事。そうとも。思い返してみれば、衛宮士郎という存在は、どこまでも自分勝手で、自分の期待を周囲に押し付けてばかりの、そんな身勝手な存在だった。数年、数十年どころか、万年以上も経ってから初めてこんな事を理解するあたり、ほんと、衛宮士郎という存在は、どこまでも愚かで、自分勝手で、救いがたい存在だ。とはいえ、万年以上もの月日を要したとはいえ、こうしてその事を直視できるようになっただけ、それは成長と呼んでいいだろう。

 

 ――自分が彼の意思を継ぐというその宣言が、自らにとっての正義の味方である切嗣を困らせているという事実を、衛宮士郎というまだ幼かった男は受け入れられなかった

 

 しかし。

 

 ――だが

 

 そうとわかった今、新たに解せない問題が発生する。

 

 ――ならばなぜそうして内心困った切嗣は、しかし「安心した」といったのか

 

 なぜ彼はそうして浮かべた微笑みの中に、確かな安堵の思いをも生じさせながら、死んでいったのか――

 

 ――ああ……

 

 そうして衛宮士郎という存在は衛宮切嗣と同じ立場になった今のこの時、この瞬間、その答えを唐突に理解させられた。

 

 

 目の前にいる二人の人間――、シンとヘイは、かつての月下の縁側に座っていた衛宮士郎と同じような――、衛宮切嗣が自分は正義の味方になれなかったといった時に向けただろう不満げな視線をこちらへと送ってきている。その不満は、負の感情より生じたような類のものではない。その感情は、自らを救ってくれた存在に対する尊敬から生まれてきているものだ。彼らはエミヤという存在に対して無条件の信頼を置いてくれている。彼らはかつて衛宮士郎が衛宮切嗣を養父として慕っていたよう、ただ、憧れの人物に、憧れの存在でいて欲しいのだ。

 

 そうだとも。あの時、衛宮切嗣はそれに気がついたのだ。自分は血の繋がっていない子供から、なんの疑問も持たずにその跡を継いでやると言わせしめるくらいに無条件の信頼を寄せられていたのだと――――――、あの時切嗣は、初めて気付いたのだ。

 

 おそらくそれまでの間、彼の胸の中は不安で一杯だったに違いない。私は可能な限りの手段で切嗣に恩を返すべく、家事や勉強などを頑張っていたつもりだったが――、だが切嗣はきっと、それは衛宮士郎という存在が衛宮切嗣という存在に助けられ、養われているからやっていることだとこそ思っていた。

 

 彼はきっと、ずっと不安だった。果たして自分は、正しく親をやれているのだろうか。果たして自分は、衛宮士郎という子供を愛せているのだろうか。守るべき正義を選別したとはいえ、きっと衛宮切嗣という存在は、再び衛宮士郎という存在とそれ以外の多くの人間が天秤にかけられた時、衛宮士郎を切り捨てる判断をするだろう。多分爺さんは、そうしてずっと悩んでいた。

 

 きっと爺さんは、果たして自分は――、自分が救われたいからという理由だけで衛宮士郎という存在を助けた自分は、本当に目の前の衛宮士郎という存在が救えているのだろうかと、ずっと悩んでいた。だからこそ彼は――、衛宮士郎という存在が自らの跡を継ぐと宣言していた時、その行く末を思って困ると同時、自分はきちんと親を出来ていたのだと――、衛宮士郎を救えていたのだと確信した。

 

 かつて大勢のために少数を切り捨てていた自分はもういない。自分は多くのものを守る正義の味方にはなるという夢は果たせなかったけれど――、目の前にいる子供一人に憧れられる正義の味方には確かになれたのだと心底理解したが故に、彼は微笑を浮かべながらも、心底安堵の声色で「安心した」と漏らして、死んでいったのだ。

 

 ――そう。そうだとも。きっとあの時、衛宮切嗣は初めて、自分はすでに、なりたかったものに――、ずっと目指していた正義の味方に、自分はなれていたのだと気が付いた。だからこそ彼は、その事実に安堵して――、安らかな眠りにつけたのだ

 

 そうだ。きっとそうに違いないのだ。きっとあの時の切嗣と今の私は同じなのだ。私はずっと不安だった。正義の味方になると宣言し、遮二無二突っ走って、皆からそうであると認められるようになっても、それでも自分は不安だった。だって自分はずっと間違い続けていた。自分はあの時、言峰綺礼という男に助けられるその時まで、自分の歪さを心の底から理解できていなかった。間違えて、間違えて、間違い続けて――――――、そうして多くの人を切り捨て続けてきた。だからこそ衛宮士郎は、誰に礼を言われようと、衛宮士郎という存在が誰かを救えているという実感がまるで得られていなかった。

自分は本当に誰かを救えているのか。自分は本当に正義の味方を目指していい存在なのか。どれだけ覚悟を決めようと、衛宮士郎という男の心の底には――、英霊エミヤという存在の心には、それまでに犯してきた罪がヘドロのようにこびりついて、誰かを救えているという実感を得られていなかった。

 

 ――そしてあの時の切嗣と同様に、今、私も、なりたかった存在にすでに自分はなれていたことに気付かされた!

 

 だが今。自分は、彼らから命を差し出された。果たして自分には彼らを救ったという自覚がない。だが、それでも彼らは、私が成し遂げてきたことの何かに感銘を受け、勝手に救われるに至ってくれたのだ。そして――、英霊エミヤは、衛宮士郎は、先ほどのあの時、それを心底実感させられたのだ。すなわち。

 

 ――英霊エミヤは、その行いによって誰かを救える存在になれていた!

 

 そう。そうして自分は、ようやくあの時の切嗣に追い付けた。目の前にいる彼らはあの時の自分だ。目の前にいる二人は、盲目的に切嗣という存在を信じていた、きっと彼ならば間違った答えを出すはずないと、そう信じていたあの頃の自分であり、凛に救われてこの世界へと送られ、再び正義の味方(/衛宮切嗣)を目指そうと決心した時の自分なのだ。

 

 ――切嗣はやはり自分にとっての正義の味方で、自分は目指していたそんな正義の味方(/切嗣)になれていた!

 

 だがあの時、切嗣は――、私が間違った道へと進むことを止めなかった。体調や寿命の事もあったのだろう。あの時の衛宮切嗣は、ずっと一人で悩み続けていた彼は、もう自分がこの夜を越せない事に気がついてしまった彼は、それを修正することすらも出来なかったのだ。でもきっと、衛宮切嗣があの日、あの夜を超えても生存して私の隣にい続けてくれるようなそんな運命があったのならば、多分、衛宮切嗣という男は、きっと衛宮士郎の間違いを指摘し、正そうとしたに違いない。彼はそして、自らの身に宿っている全てを用いて、願いを叶えようとする自分が道を間違えないように見守り続けてくれたに違いない。

 

 ――なら、やることなんて決まっている

 

 あの時の衛宮切嗣はそれが出来なかった。なぜなら彼のすぐ目の前には死が迫っていた。だが、今、この時の衛宮士郎にはそれができる。なぜなら今、自分の目の前にはまだ死が迫っていない。まだ世界が滅ぶまでには幾ばくかの時間が残されている。ならば――――――、やることなど決まっている。

 

――死にたがる彼らの願いを否定する

 

 私は私に対して無条件の信頼を寄せてくる彼らに死んでほしくない。だから私は、彼らの提案を飲むわけにはいかない。否定をするのは簡単だ。だが、そうして否定をするからには、自分は彼らの出した答えを上回るモノし、その上で、彼らの選択や覚悟も決して間違っていなかったという事を証明しなくてはならないのだ。

 

 それがきっと――

 

 ――誰をも救う正義の味方として、正しい道に違いないのだから

 

 

 ――だが自分に何ができる? 

 

 「……エミヤ?」

 

 決心をしたはいいものの、手段がないのでは話にならない。だから必死に考えた。

 

 「だ、大丈夫でしょうか?」

 

 ――思い出せ……。これまで自分が培ってきた全てを掘り起こせ……!

 

 「邪魔しないであげて。あれは士郎が――、エミヤが集中して考えるときに見せる顔よ。ああなってしまったら、その考えから抜け出さない限り、こっちの声は届かないわ」

 

 思惟を巡らせ、必死に考える。

 

 「はぁ……、凛さん、よくご存知ですね」

 

 ――この身に宿っているのは固有結界『無限の剣製』と、それからこぼれ落ちた解析と投影の魔術のみ

 

 「そりゃ――、私、あいつの、元パートナーだもの」

 

 頭の回転数は止まる事なくどこまでも早まってゆく。

 

『パ、パートナーとな!? それは一体、どのようなお関係だったので!?』

「ちょ、ちょっと、玉藻! 私の口を使って勝手に喋らないで!」

 

 ――モノを解析し、その情報を読み取り、それの複製を作るだけの魔術では、この世界の惨状はどうにもなるまい。

 

 「なぁ、おい、マジでうごかねぇぞこいつ。本当に大丈夫かよ」

 

 一秒の間に千の言葉を浮かび上がらせ、巡らせた思考で出来ることを模索する。

 

 「ふん……。貴様が気にする必要などないだろうよ。未だ英霊の域に達せていない雑種は、あやつのことよりも――、あの画面の上で起こっている出来事の方に気を配った方が良いのではないか?」

 

 ――……私一人の力では無理だ。

 

 「は? お前、一体何をいって……」

 「お、おい、サガ! あれを見ろ!」

 

そうして見つけた結論は、たとえどれだけ荒唐無稽であろうと優先順位をつけてナンバリングし、高順位のものは常に並列して脳裏に収めておく。

 

 「なんだよ、ダリ。耳元で叫ぶん、じゃ……」

 「な、なんじゃ、ありゃ!」

 

 ――私だけでダメならば、彼らの力を借りたならばどうだろうか

 

 「ギンヌンガの穴の裂け目から世界樹が……!」

 「世界樹が……宇宙を飛んでる!?」

 

 悪魔召喚師。旧時代の神代に生きた英霊。現代において旧時代の神と呼ばれる者達のちからを受け継いだ彼ら。その身に悪魔の力を宿した少女。我が麗しの元マスターにして、私をこの時代に送り出してくれた恩人の女性。かつての我がパートナーを宿した女性。

 

 「え……、なに、あの樹、飛べるの?」

 

 ――……ダメだ

 

 「それは当然だろう。むしろ飛べぬ理由がない。なにせあのデカブツは宇宙から、貴様らが魔のモノと呼ぶあれを追いかけてやってきたのだ。そしてあれは、周囲の誰もが気づかせないうち、魔のモノ潜んでいたクレタの海底深くに着水した。ならば、己の身一つで飛ぶ手段の一つや二つくらい備えていると考えるのが当然であろう」

 

 彼らの力はたしかに強大で、あらゆる悪霊悪鬼を滅殺できるだけの実力を保有しているが、だからといって世界の崩壊をどうこう出来るようなの力を持っているわけではない。また、桜が羨ましかったというだけで、普通の力しか持たない三人の女性も同様だ。

 

 「えっと……、その、理屈は一応わかったんだけど、なんていうか、気持ちがついていっていないというか……」

 「たわけ。目の前で起こっていることを素直に受け入れよ」

 

――……桜、か

 

 「……なんかあんたにそう言われえるととてもムカつくけど、まあいいわ。しっかし、飛ぶ理屈はそれでいいとして、一体あの樹はこんなところまでなにをしにきたのかしら?」

 「おいおい、イシュタルよ。その答えとなりうる要素は今しがた我が言ったばかりだぞ? 眠りすぎてその憐れで小さい脳みその芯までお陀仏になったか!?」

 

 そして私は振り向いた。視線の先にはまずきちんと日本の足で立っている慎二が目に映る。そして視線は彼の傍、足元で眠っている女性らへと移動した。桜。虚無という架空属性を操る才能を持ち、それ故に女神として祭り上げられ、そしてそれ故に狂ってしまった哀れな少女。だが今、彼女はようやくその枷から外され、安らかな眠りについている最中だ。

 

 「ええぃ、ほんっといちいちカンに触る物言いをするわね!」

 「ふん……」

 「……でもいいわ。ギルガメッシュ。さっき貴方、もうヒントは出したとそういったわよね」

 「然り。……ふむ。その顔を見るに、もう答えに至ったか。――、一応。王者の義務として、その才、見事であると褒めておこうか」

 「――、はぁ。もういいわよ。それで……」

 

 ――魂を操れるという彼女ならばあるいは……

「世界樹は魔のモノの敵対者で、魔のモノをやっつけるため、あるいは封印するために宇宙から飛来した。そうね?」

 「然り」 

 「なら話は簡単……。世界樹は、かつての時のように、魔のモノを封じる、あるいはやっつけるために、わざわざあの泥の中を抜けて、ここまでやってきた。――そういうことなのよね、ギルガメッシュ」

 「その通りだ」

 

 魂を操れる彼女ならば、あの多くの蠱毒の術式の中から人々の魂だけを選別し、拾い上げることが出来るかもしれない。そんな考えが脳裏に浮かび、そして桜という少女に全てを任せられないかという思いまでもがよぎるが、今の桜という彼女の精神性では、仮に彼女の才能でこの自体をどうにかすることが出来るにしても、それを貫き等すことは難しいだろうとの結論に至り、その考えを却下する。

 

 「お、おぉ、見ろ! ヴィーグリーズの大地に着陸……、着水? した世界樹が、その根を泥の中に伸ばして、魔のものへと伸ばし始めたぞ!」

 「ええ、見てますよ、サガ。ですが……」

 「ああ。魔のモノも負けじとその触手を世界樹へと伸ばし始めている」

 

――まてよ……

 

 「……互角、だな」

 「ああ。泥の中から現れた触手と根っこががっぷり四つに組んでいる」

 「あ、でも、みてください。なんか、触手の方から白っぽいなにかが出てきて――」

 「根っこを攻撃し始めましたねぇ」

 

 だがその瞬間、頭をある考えがよぎった。そうして視界に映り込んできたのは、彼女の横で眠り続けているメルトリリスという少女だ。そうして頭の中に、桜の分身であり、彼女の強い部分を余さず吸収して生まれたという彼女が、私に語りやったことを思い出す。

 

 ――『見ての通り、私はあらゆる彼らの命をこの月の裏側という場所に格納している。ギルガメッシュのような私の蜜を逆に飲み込んでしまいそうな存在や、玉藻の様に蠱毒に耐性のある変わり種を手中に収めるのには苦労したけれど……、見ての通り、今や彼らは私の虜。無論、ここにいるのは彼らだけではないわ』

 

 「ふむ。あれは確か、フカビトとかいう輩だったか。そういえば記録によれば、魔のモノはそのフカビトとかいう存在を自らの手足として使役するとか」

 「……えっと、ってことは、もしかして」

 

 彼女そして、自らの身のうちに収めた蠱毒のなかに、人間を人形として格納することを可能としていた。推測するに、三女神のごうせいによって生まれた桜という彼女から生まれたメルトリリスという存在は、それ故に三女神の――、アルテミス、レヴィアタン、サラスバティの力によって、人々を溶かすも復活させるも自由にできる力を得た。

 

 「うわ、やべぇぞ! なんか世界樹、どんどん削られて――」

「おや、フカビトとか言う彼ら、ついに幹にまで攻撃し始めましたねぇ」

 

 だが彼女がいうことから推測するに、それはおそらく、事前に彼女が見定めた存在にのみ可能である技なのだろう。多分彼女には、そうして人の肉体を溶かしたりして保存する機能がある代わり、その魂をより分ける機能がないのだ。――けれど。

 

 ――溶け込んだ魂を選別したり呼び出したりする。そんな器用ことを多分彼女はできないだろうけれど……

 

きっとヘイという男の持つ、多くの人の魂に呼びかけられると言うギャラルホルンの笛があれば、それは可能だ。無論、それがあったとしても、そうして私は蠱毒の中に閉じ籠ってしまっている彼らの気持ちを奮い立たせることは容易なことでないだろう。だが、無意識ながらもそうして他人の意識を罪悪感として収集し、心の内側へと後生大事に溜め込み、覚え続けていた、そしてこの世の全ての悪を手にいれた私ならばきっと――

 

 「呑気にいってる場合か! ぼけっとしていたら世界樹がやられちまうんだぞ!」

 「……ついでに言っとくと、今のあのやり取りで泥の魔力が相当消費されちまってる。あれがあのまま続くんなら、神話の再現によって世界の終わりが来るよりも先に、あれと世界樹との戦いによって世界の全て溶け込んでいる泥が魔力として失われちまうぞ」

 「ちょ、ちょっと、慎二! それ、本当なの!?」

 「性格が悪いのは自覚しているが、この期に及んで嘘をつく様な精神はしてないさ」

 

――決して不可能なんかではないはずだ……!

 

「――さて、で、どうだ、衛宮」

 

 結論に思い至った瞬間、集中は完全に消え失せ、慎二の声が聞こえてくる。彼の方を見やれば、その魔術紋様が刻まれている面には、片方の唇を吊り上げた、いつもの慎二らしい顔が浮かんでいた。慎二はだが、そしてその顔を一転して真剣なものへと変貌させると――

 

 「もう時間はない。――覚悟、決まったか?」

 

 聖杯を使うこと前提の問いを投げかけてくる。そして画面に向けられていた多くの視線は、再び私へと集中した。気が付けばいつの間にか周囲の空気から体を真綿で包み込むからの様な、ねっとりとした重圧は消え失せている。多分、それは衛宮士郎という男が覚悟を決めたことによる気持ちの変化の証なのだろうと、自然にそう思う。

 

 「――ああ」

 

 答えると空気が凍りつく。皆の方を向き直すと、シンとヘイからは期待の目を向けられていた。ギルガメッシュはこちらを推し量るような視線を向けてくる。凛はその名の通り、凛然とした態度のままだった。一言たりと発していないライドウとゴウトからは、気の毒そうな視線が飛来する。それ以外の人物から飛び込んでくるさまざまな意図含まれた視線をまずは全て受け止めると、深く息を吐いて、そして、言う。

 

 「――聖杯を、使おう」

 

言葉に空気がさらに冷え込んだ。多分、多くのものは、私が苦肉ながらも犠牲を許容する選択肢を選んだのだと思ったに違いない。あるものからは憐憫の、あるものからは複雑な、あるものからは失望の、あるものからは期待の眼差しが飛んでくる。

 

「ただし――」

 

 それらの全てをやはりしっかと受け止めながら、私はそう続けた。

 

「でもそれは、この聖杯にここの七人の魂だけを収めるという意味じゃあない」

「……え!?」

 

 その驚愕は一体誰の声によるものだったのか。それを調べようともせずに、続く言葉を述べる。

 

 「……おい、衛宮。一体どう言うことだよ」

 

 後ろから慎二の困惑の声が聞こえてくる。その疑問は当然だと思う。だからこそ、おそらくは皆の疑問であろうその質問に答えるべく、しっかりと首を縦に振ると、言う。

 

 「今のこの世界を救うには相応の犠牲がいる。それをその才能や資格があるからと言って、ここにいる十数人だけでその行く末を決めようと言うのが、きっとまず間違っていたんだ」

 

 言葉に反論は帰ってこない。意味を図りかねているのか、あるいは、意味がわからないと困惑しているのかは、わからない。だがそうして反論の言葉がないのをいいことにそのまま言葉を紡ぎ続けた。

 

 「例えそうして完成したとしても、聖杯を私一人ではダメなんだ。……そう。ここにいるみんなの意思だけでもダメなんだ。だってこの世界には、もっと多くの人が住んでいた。今でこそみんな、あの泥の中に溶け込んでしまっているかもしれないけれど――、でも、たしかに、あそこにはこの世界で生きていたみんながいるはずなんだ」

 

  誰からも話を途切れさす言葉は飛んでこない。

 

「だから」

 

 それはきっと、この意見を否定しないでいてくれているの証なのだろうと信じながら、二の句を次ぐ。

 

 「世界はわたしだけのものではない。だから聖杯は、みんなで――、この世界に生きていた、みんなの力と意思を用いて完成させる」

 

 言うと、呆然とした顔を浮かべる多くの人たちをい見回しながら、言い放つ。

 

 「そのための手段を、今、思いついた。だが、それを実行するには、この場にいる全ての存在の力が必要だ。だから――、どうか、世界の全てを救うために、力を貸して欲しい」

 

拒絶の回答は一つたりとも返ってこなかった。



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最終幕間 正義の味方の物語

夢を叶えた。

ようやく、叶った。

 

……いや、違う。

無理やり叶えたんだ。

 昔の話だ。あるところに正義の味方に憧れた一人の少年がいた。とある戦争に巻き込まれて家族やそれまでに持っていたすべてを失ったその少年は、しかしある男の手によって助け出され、そして引き取られた。

 窮地において救いを求めていた時、颯爽と現れ自分を救い出したその男は、少年にとって、まさに正義の味方と言える存在だった。記憶をなくし、友人を失くし、両親を亡くし、そして居場所も、自分を知る人も何もかも失った少年にとって、何の得にもならないだろうに自らを助け、引き取り、養ってくれるその人は、まさに正義の味方以外の何物でもなかった。

 ――だから、切嗣に憧れた。

 自分もそうなりたいと願うようになった。人生経験の少ない子供が、何でもできるように見える親に憧れるなんて言うのは別段、珍しいものじゃない。だから、××士郎が衛宮切嗣という男に引き取られて衛宮士郎となり、仮初と言えど親子の絆で結ばれた時、きっとその運命は決定づけられていた。

 正義の味方。それは弱きを守り、悪を挫き、困っている誰にも手を差し伸べる、完全無敵の英雄の呼び名。衛宮切嗣という男は、衛宮士郎という少年にとってまさにそれだった。だって少年は知っていた。そうやって困っている誰かに手を差し伸べることが、どれだけ差し伸べた人物を幸せにするか、少年は知っていた。

 ――だから、正義の味方に憧れた

 だってそれは、初めの記憶の一つであるからだ。天をも貫く炎の逆巻くあの誰もが死んでいった地獄において、あんな死地において衛宮切嗣という男から手を差し伸べられた衛宮士郎は、そうして自分を助けたときに切嗣が見せた心底幸せそうな笑顔を目撃した衛宮士郎は、正義の味方というものがどれだけ幸せな存在であるかを、誰かを助けるという行為がどれだけ助けた当人を幸せな気持ちにするのかを、その行為が助けられた誰かをどれだけ幸せな気持ちにするかを、心の底から理解してしまっていた。

 ――だから、切嗣/正義の味方に憧れた。

 幸せになりたかった。でも、自分にその資格はないと思っていた。だって、あの誰もが死にゆく煉獄において、自分は自分が生き残るため、それ以外の全てを切り捨てた。助けを求める声があった。ここから連れ出してほしいとの懇願があった。せめてこの子だけでも連れて行ってほしいという願いがあった。どうか力を貸してほしいという悲痛な叫びがあった。でも――

 ××士郎という存在は、自分が生き残るため、それらの全てを踏みにじった。

 ――だから、正義の味方に憧れた

 悲鳴から必死に耳を塞いだ。それでも耳から離れない声がある。瞼を必死に閉じていた。それでも網膜から離れてくれない光景がある。鼻口を塞いでいても鼻腔に焼き付いた匂いがあり、そうして生き残ってしまった体には染みついたどれだけ望もうが消せない罪が刻まれていて、だからこそ心の底にはどうあがいても消えてくれない罪悪感が常にあった。××士郎が××士郎として死に、そうして衛宮士郎となるその間、自分は許されざる罪を多く犯してしまった。一人の命を救うため、十人の命を蔑ろにしてしまった。それでも――

 衛宮士郎は、幸せになりたかった。

 ――だから、憧れた

 多くの命を踏みつけにして生き残ってしまった自分には、多くの命を救う義務があるのだと思った。

 ――だから、正義の味方に憧れた。

 一人の人間を見捨てた罪がどれだけの重さであるかはわからない。十人の人間を踏みつけにして生き残った罰をどう贖えばいいのかはわからない。けれど、百人の人間を助け、千人の人間を助け、やがて世界中の人々を助けられるようになれば、自分が背負ってしまった罪も消えてくれるのではないかと、子供心に期待した。

 ――だから、万人にとっての正義の味方に憧れた

 だから衛宮士郎は誰にも認められる正義の味方になろうと思った。正義の味方となり、多くの人を救い、多くの人を幸せにすれば、自分もやがて彼/切嗣/正義の味方のような幸福な顔を浮かべられるようになるだろうと、信じた。

 ――だから、万人にとっての正義の味方になろうと思った

 その思いを確かなものとさせたのは、衛宮切嗣という、衛宮士郎にとっての正義の味方との別離の時だった。まだ夜も薄明の時いまだ遠いころ、衛宮切嗣という正義の味方は正義の味方という存在について語ってくれた。かつて誰をも救える正義の味方を目指していた衛宮切嗣は、それ故に万人にとっての正義の味方などというものが空想の中にしか存在しえないことを理解しつくしていた。だから衛宮切嗣は、衛宮士郎を諭そうとして――、しかし失敗した。

 ――だから、万人にとっての正義の味方になろうと思った

 衛宮士郎は、衛宮切嗣という男が誰をも助ける正義の味方であると心の底から信じていた。衛宮士郎は、盲目的なまでに、衛宮切嗣という男を愛していた。衛宮士郎という少年は、衛宮切嗣がそんなものはこの世にないんだよと苦笑するその様子がたまらなく嫌いだった。だって、衛宮士郎という少年にとって、目の前にいる衛宮切嗣こそが、誰をも助ける正義の味方がこの世に存在するという証明なのだから。

 ――だから、万人にとっての正義の味方になろうと思った

 そうしてなれなかったと自嘲する切嗣の横顔が嫌いだった。そうしてなれなかったと自嘲する切嗣の声色が嫌いだった。そうしてそんなものこの世に存在しないのだというその言葉が、心底気に食わなかった。だから衛宮士郎は――

 ――だから、衛宮士郎は衛宮切嗣になろうと思ったんだ

 ほかでもない切嗣のために、切嗣が理想とする正義の味方になろうと思ったのだ。それはまさに、衛宮士郎という少年が、衛宮切嗣という男の思いを呪いとして受け継いでしまった瞬間だった。決意を露わにすると宵の頃はさらに深まりだす。そしてその夜、衛宮切嗣という男は逝去した。衛宮士郎という存在はそうして、正義の味方を失った。月は未だ天頂にすら到達しておらず、薄明の訪れるときはいまだ遠かった。

 幼い少年も十年もたてば立派な青年となる。そうして衛宮士郎は、小さなころの身長が何だったのかと思うくらい立派に成長した。背は伸びて知り合いの誰よりも高くなった。鍛え上げた肉体は昔より多くのモノを持てるようになったし、誰かを窮地から助けるための技術だって多くを身につけた。我が身に宿っていた投影魔術なんていう特殊な技術も使いこなせるようになり、どんなところにだって自分の足で、自分の意思で行けるようになった。

 少年は成長した。衛宮士郎という少年は、もはや大人と言っていい体躯をしていた。そして多くの力を身に着けた大人になった衛宮士郎は、多くの人が困っているだろう場所を渡り歩き、そして起こる争いの中で多くの人を窮地から拾い上げ――、

 気が付けば、不幸の真っただ中に、自分はいた。

 ――だから、憧れた

 輝く夕焼けを見ながら、物思いにふける。両手に握っている黒白の双剣からは、自らの正義を執行した証として、どこかの誰かの血が垂れ落ちていた。返り血の染み込んだ衣服の感触が何とも気持ち悪い。沈もうとしている夕日は空を毒々しい赤色に染め上げていた。茜色に染まっている雲は、まるで今の自分の不肖を責めたてているかのようだった。

 ――だから、憧れた

 沈みゆく空の下では、徐々に光が失せ始めている。夜はもうすぐそこまで迫っていた。身を隠すにはちょうど良いか、などと思った自分がなんとも恨めしかった。切り捨てたのは誰かを浚い、犯し、金品を巻き上げてから殺すことを生業としている下種だ。自分はそうしてそんな下種にさらわれる直前、娘を助けた。切り捨てた下種の名前はもう覚えていなかった。けれど、そうして助けた誰かはおびえた視線と悲鳴だけを残して、この場から逃げ去ってしまった。無理もないことだとはわかる。だがそうして誰かを助けるために、誰かを殺す、そんな不等価すぎる交換を強制的に下種に強いた挙句、助けた誰かに嫌われてしまった自分がなんとも馬鹿らしかった。そうして助けた誰かから怯えた視線を向けられるのが、なんとも悲しかった。

――だから、憧れた

 そうしていつしか切嗣の言ったことはたしかな真実だったのだと悟った。世の中は地獄で、正義の味方は空想の中にしか存在しえないのだ。貧富の格差。生まれの違い。才能の有無。――人間の醜さ。それらの全てが、誰にとってもの正義の味方というものがこの世に存在することを拒絶していた

 ――だから、空想の存在(/正義の味方)に憧れた

 夜の帳が落ちていく様を眺めながら投影した剣を破棄した。少し遅れて、ばしゃり、と、音がした。剣を濡らしていた血液の塊を大地が受け止めたのだ。飛び散った血液が足元に広がってゆく。そうして与えられた水分を喜んで受け入れた。地面に消えゆく液体の行方を眺めながら物思いにふけり続ける。太陽はやがて沈み、月が柔らかな光で地を照らし始めていっていた。

 世界は広くて自分はどこまでも愚かだった。そんな愚かな自分よりもさらに愚かしい人間が、世界にはいくらでも蔓延していた。世界中のどこに行っても、自らの幸福のためならば他人を蹴散らしてでもそれを手に入れようとする人間が多いことに、心から失望した。人間は愚かで、どこまでも救えない存在だった。もしそのようなどうしようもない存在を救おうと思ったのならば、それこそ今の自分とは比べ物にならないだけの、英雄と呼ばれる彼らのような力が必要だろうことは明らかだった。

 ――だから、英雄という幻想に憧れた

 英雄。自らの正義のため、あるいは多くの人を救うために、いくばくかの敵となった人々を切り捨てて、語り継がれるまでに至った、そんな存在。彼らは決して正義の味方などではない。ある民族の英雄が、ある民族においては悪魔と呼ばれいることなんてざらにある。彼らは自らが執行すべき正義を峻別したがゆえに、その正義の在り方と合致する誰かたちによって、英雄と呼ばれているのだ。

 彼らは決して善人ばかりというわけではない。彼らの多くは殺人者だ。彼らの多くは、別の正義を持つ誰かを多く殺してきたがゆえに、誰かが持つその別の正義を疎んでいた存在から英雄と呼ばれるようになったに過ぎない存在だ。

 そうとも、彼らは自らを救うため、救うべき正義を選んだものたちだ。それ故に彼らは、万人を救う正義の味方とは呼べないものであるが――、少なくとも、彼らの掲げるそんな正義が、今の自分などよりも多くの人を救い、多くの人を幸福にし、多くの人に慕われているのは明らかだった。

 ――だから、英雄という正義の味方の在り方に憧れた

 そうとも。彼らは今、少なくともこうして誰からも疎まれている自分とは別の領域にいる存在で、自分などよりも目指した正義の味方に近しい存在であることは間違いない。だから、それを目指してみるのも悪くないのではないかと考えた。

 ――だから、英雄という存在に憧れた

 思惟から戻ると、すでに夜はとっぷりと更けていた。服に染み込んだ血液はもう乾いている。地面に落ちた血の跡は、すでに風の中に消え去ってしまっていた。遮るもののない砂漠の夜の空には満天の星空が広がっている。綺羅星はまるで世界中に散らばっている英雄のようだった。

 ――だから、英雄になろうと思ったんだ

 空には月あかりを隠すほどの星光に満ちている。太陽に光が地平線より現れるその時は、まだ遠かった。

 英霊となってからの日々は地獄だった。瞼を閉じる間もない日々を、瞼を閉じる必要もなくなった体で駆け抜ける。英霊の座。世界で英雄と呼ばれる活躍をしたもの、あるいは、その力があると世界から認められ、契約を交わしたものの魂が保管されている、人類の滅びを防ぐ最前線の防衛機構。――地獄のありか。

 ――だから、憧れた

 その場所では、記憶も思いも、あっという間に時の流れの中に流れて失せてゆく。光は陰影を織りなす間もなく記憶の中より消え失せてゆくし、音だって心を揺らすよりも前に目の中から失せてゆくのだ。そんな、外界に流れる時の流れから完全に隔離された、外界の影響を全く受けない場所こそが、英霊の座と呼ばれる煉獄である。

 ――だから、憧れた

 英霊を目指していた衛宮士郎は、その果てに世界と契約して、見事英雄と呼ばれるに等しい力を手に入れた。その力を振るって、それまで自分が助けてきたよりも多くの人を助けることに成功し、しかしその果て、切り捨ててきた少しの人とかかわる多くの存在から恨まれ――、結果、助けた人数なんかよりもはるかに多くの人間の悪意を浴びて、その果てに処刑された。

 ――だから、憧れた

 どうせ正義の味方になれないと悟った現世のことだ。衛宮士郎という男にとって、自分が番人にとっての正義の味方になれない場所のことなど、考えるべきことでもない些末なことである。故に衛宮士郎は、そのことをまるきりどうとも思っていなかった。むしろ、衛宮士郎という存在は、英霊の座に行くことが出来ると喜んだくらいである。

 ――だから、憧れた

 だが、現実というものはどこまでも衛宮士郎という存在に厳しかった。英雄。多くの人を救った、そしてこれからもその伝承で多くの希望となり、多くの人を救ってゆくだろう、そんな存在。衛宮士郎という存在は、確かにそこへと到達した。自分は間違いなくその場所に到達した。自分は間違いなく現世の裏側にある空想に過ぎなかった場所へと到達したはずなのだ。

 ――だから、憧れた

 だが、焦がれてやってきたはずのそんな場所は、目指した正義の味方というものからは遠くかけ離れている場所だった。人類と呼ばれる存在のため、一部の人間を人類のカテゴリーから切り離す。多数の強者のために、少数の弱者を殺す。弱肉強食と等価交換をどこまでも冷酷に推し進めるためのそんな機構こそが霊長の抑止力と呼ばれる世界にとっての正義の在り方であり、そしてそんな世界の正義を実行するための力を保管する場所こそが、衛宮士郎という誰にとってもの正義の味方というものを目指した男がたどり着いた到達地点だった。

 ――だから、憧れた

 召喚されるたび、目の前には地獄が広がっている。あの灼熱の地獄に等しい光景があった。あの灼熱の地獄に劣る地獄があった。あの灼熱の地獄に勝る地獄があった。そして召喚された衛宮士郎は、そこにいる自分以外の全てを殺しつくし、あの灼熱の地獄の状況をただひたすらに再現させられる。

 助けを求める声があった。命を懇願する声があった。救いを求める声があった。だが衛宮士郎という男は――、それらの全てを、自らの身に宿った力をもって、鏖殺した。剣の荒野に残るのは常に一人、変わらず衛宮士郎という存在だけである。そう実感するたび、心の奥底より怨嗟の声が我が身を焦がす炎と共に蘇ってきた。

 ――だから、死に憧れた

 ただ一人生き残っているという事実がこんなにも恐ろしい。ただ一人、剣の荒野で裡より這い出てくる怨嗟に焼かれることは、こんなにも息苦しい。罪悪感で押しつぶされそうになるたび、心に蓋をした。瞼を閉じ、耳を塞ぎ、訪れる恐怖から必死で目をそらし続けた。抗いが功を奏したのか、あるいは衛宮士郎という男がその好意に対して慣れたのか、やがてどれだけ惨殺を執行しようと衛宮士郎の心は何も感じないようになる。

 迷いがなくなれば、その分、その作業を終わりへと導く時間も少なくなる。人類を滅びに導く事態が起きるのは、大抵深夜だった。多分それは、滅びの原因となっている存在達の一応は存在する過小な良心がなせる業なのか、あるいは、滅びが起きる要因としてよく利用される魔術というものを用いるには夜や郊外という環境の方が都合がいいことと関係しているのだろう。そうして自分が呼び出されるのは、ネオンの光にあふれた夜の都心部ではなく、星明りに満ちた夜空の郊外であることが多かった。今の自分はもはや服に汚れを作る間もなく、滅びの阻止を実行することが出来る。だからそうして空いたわずかな時間を使って、自分が未来に万人にとっての正義の味方という存在を目指すことが出来なくなった原因を、必死になって考えようとした。

――だから、過去に憧れた。

 もはやこの身に未来は望めない。故に必要なのは、計画ではなく、調査だと思った。探るべく要因は過去に必ず隠れているはずだ。そうして思い返した時、いつでも初めに思い出させれるのは、過去、衛宮切嗣の忠告を無視して、万人にとっての正義の味方などになろうと決心したあの夜のことだった。

 ――だから、死に憧れた

 あの月夜の縁側、正義の味方などこの世に存在しないといった男は、しかしとても幸せそうな顔を浮かべ、この世から消え失せた。もはや自分は正義の味方になることなどできないのだといった男は、しかし何とも幸せそうな笑顔と共に、この世から去っていった。今の自分が彼のような笑顔を浮かべるためにはいったいどうすればいいのだろうか。

 ――だから、正義の味方を否定することに憧れた

 考えると結論はすぐに出た。彼はきっと、正義の味方などこの世にいないという結論を受け入れたからこそ、そうして間違いを正せたからこそ、あれだけ満足した顔を浮かべて死にゆくことが出来たのだ。

 

 ――だから、正義の味方を死なせてやろうと思ったんだ

 思い至った瞬間、結論は出た。皮肉なことだが、今この場所においては、人類を滅びの手から守っている衛宮士郎という男こそが、もっとも正義の味方らしいといえるだろう。ならば、それを否定/殺してやることこそが、衛宮士郎という男が正義の味方になるため、最も近しい手段なのだろう。だが、時間の流れから永遠に至ってしまったこの身は、もはや何があろうと死という終わりを望めない。だからせめて――、過去の永遠となる前の自分を殺してやろうと思ったのだ。

 結論を出し終えると、体が世界から消えてゆく。最後に見た光景は、雲が一面に広がり、星一つ見えなくなった灰色の夜空だった。

 そしてやってきた過去において、決着はついた。衛宮士郎という男は、過去の衛宮士郎に敗北した。未来の衛宮士郎は、自らが犯してきた過ちに気付かされたのだ。未来の衛宮士郎は、絶望から目を背けていただけだった。未来の衛宮士郎は、辛い現実から目を背けているだけだった。未来の衛宮士郎は、未熟な正義の味方として完成してしまっている自分に失望しているだけだった。とどのつまり未来の衛宮士郎は、あの灼熱の地獄でそうだったように、生に満ちた未来を渇望して、手を伸ばしていただけだった。

 ――だから、憧れた

 過去の衛宮士郎は未熟で未完成であるぶん、未来の可能性というものを信じていた。それが泣きたくなるくらいに羨ましかった。過ちに気付くことが出来たとはいえ、もはやこの身に変化の余地はない。世界という人外の手によってはめられた永遠という枷の首輪は、不変という名前の呪いとなってこの身を蝕んでいる。

 ――だから、憧れた

 だからせめて。過去の自分に希望を託そうと思った。過去の自分。未熟で、頑固で、応用が利かず、いつだって馬鹿正直に目の前の道を邁進するしか方法を知らぬ愚か者がやがて自分と同じ道に足を踏み入れてしまわぬよう、重石をつけてやろうと考えた。

 ――だから、憧れた

 重石の名前は遠坂凜。物好きなことに過去の衛宮士郎に懸想している女性で、過去の衛宮士郎なんかより見た目もよく、ずっと賢くて、ずっと世の中のことを知っている、でも少しばかりうっかりしたところのある女の子。彼女は強く、そして弱い女の子だ。彼女は夜に一人で過ごすことの恐ろしさを熟知しており、しかし果たすべき目的のためならば、そんな自らの迷いと臆病を踏みつけてでもそれを達成しようとする、そんな女性だった。

 ――だから、憧れた

 遠坂凜という、か弱い少女が衛宮士郎の伴侶である限り、正義の味方を目指す衛宮士郎はそんな彼女のか弱さを見過ごせない。だって過去の衛宮士郎が万人にとっての正義の味方というものを目指す限り、遠坂凜という少女だってその範疇に収まってくる。だから、遠坂凜という未来の衛宮士郎の結末を知っている彼女が過去の衛宮士郎の傍らにしがみついている限り、衛宮士郎という愚者は、しかし絶対にこの領域に到達しない。過去の衛宮士郎という男は、本当に恵まれている。若かりし頃から自らの生涯において比翼の鳥を手に入れられたという幸福を実感するのは、さて、いつのことだろうか……?

 ――だから、未来の衛宮士郎は、過去の衛宮士郎のことが心底羨ましかった

 想いを現実に向ければ、目の前には今にも泣きそうな凛の顔がある。やるべきことはやり、伝えることは伝えた。ただ一つ、この、正直に伝えれば恥ずかしい思いだけは別として、もうこの世に未練などない。だが、ふと、この泣き顔をそのままにしてしまうと、それこそ死んでも死にきれないかもしれないという思いが、ある言葉を口から飛び出させていた。

「答えは得た。大丈夫だよ、遠坂。俺もこれから頑張っていくから」

 言葉に凜の泣き顔が笑顔へと変化してゆく。それが彼女の精いっぱいの強がりだということは、他でもない未来の衛宮士郎が理解できていた。わからいでか、目の前の彼女は、衛宮士郎という男を愛した女であり、そして衛宮士郎は、遠坂凜という女に惚れていた男なのだ。そうして向けらえれる笑顔は、地平線の彼方より現れた黎明の光の中、しかし負けないくらいにとても眩しく輝いていた。

 新たな決意を胸に秘めなおした衛宮士郎がやがて続く長き旅路の果てにたどり着いたのは、見知らぬ世界だった。太陽は空に燦燦と輝いており、滅びの光景などどこにも見当たらない。その事実にまず困惑した。霊長の抑止力は情け容赦なく救うべき存在を峻別し、衛宮士郎という掃除屋を切り捨てた端数の下へと送り込む。人類の集合無意識存在であるそれは、決して自らの手先を送り込む場所を間違えない。故に、いつだってその手先である衛宮士郎は、望まない地獄を見続けさせれてきた。

 だからこその困惑。だからこその混迷。だからこその狼狽。だからこその――、喜び。そうして世界に降り立った自分の側には、便箋があった。中身を見て、そして溢れ出てくる喜びに耐え切れなくなる。

 遠坂凜。過去の衛宮士郎。手紙によって未来の衛宮士郎たる自分は、過去の彼らにどれほど心配されていたかを知った。自分という存在が、どれだけ思われていたかを知った。自分という存在が、どれだけ愛されていたかを知った。

 

 ――だから、憧れた

 手紙には、もう枷は取り払われたのだから、好きに生きなさいと書かれていた。その言葉に胸が熱くなる。焦がれ、切望し、しかし手に入らないと諦め、やがては過去の自分を殺してしまいたいと思うほどになるまで追い詰められ、しかし結局は手に入らなかったたそれが、今、目の前に用意されていた。

 ――だから、憧れた

 涙で視界がぼやけていた。言葉なんて出てこなかった。自分のために体を差し出してくれた存在に感謝した。自分という存在のために、それまで培ってきたすべてを投げ出した彼らに出来ることなど、それ以外にないと思った。恥もなく、外聞もなく、ただひたすらに泣き晴らした。とめどなく溢れ出てくる滂沱の涙を止めるすべなど知りもしなかった。止めようとも思わなかった。

 ――だから、正義の味方/遠坂凜/過去の衛宮士郎に憧れた

 彼らは自分にとって、正義の味方に違いなかった。たった数枚の手紙で、これまでの自分の心の中をこうまで幸福で満たしてくれる存在を、未来の衛宮士郎という男は知らなかったから。

 ――だから衛宮士郎は、もう一度、正義の味方になる決心をした

 泣き晴らした後、濡れた瞳で見上げた空は高かった。蒼穹はどこまでも広く続いていて、世界は果てしなく広がっているようだった。抜けるような青空の下、地面を柔らかく照り付ける太陽を見て、誓う。

 私は必ず正義の味方になって見せるのだ、と。

 誓いは自然に溶けてゆく。目の前に広がる世界は駘蕩の心地よさを以って、私の宣誓を許容した。

 そうして訪れた世界は優しかった。誰もが誰かのために何かをすることが自然である世界。誰もが小さな正義の味方であるような世界は、万人にとっての正義の味方を目指す自分にとって、ひどく心地の良い場所だった。

 ――だから、憧れた

 初めて訪ねた町で、多くの人の優しさに触れてきた。腹が減っているだろうと食べ物を差し出された。初めて来る町ならば迷ってはいけないと、案内をしてくれる兵士がいた。どこの誰とも知れない初対面の相手を、しかし、すぐさま信用する男がいた。そんな彼れのような人間たちが集合して作られている町には、何とも言えない不思議な柔らかい空気が流れていた。

 この町は優しい街だった。町に住む住人は、誰もが彼らには幸福になって欲しいとそう素直に思える人ばかりだった。かつての残酷さばかりが支配していた世界と比べると、この世界はまるで理想郷のようだった。

 ――だから、憧れた

 だが今、そんな彼らが住まうこの町において、とある病が流行りだしているという。その病は一度罹患したが最後、すぐさま死に至ってしまうような、いわゆる死病だった。死病。誰かを殺すためだけに存在している病気。そんなもの、この世にあってはならないと思った。

 ――だから私は、冒険者/正義の味方になる決意をした

 聞けばその病気の原因は、近くにある迷宮と呼ばれる場所にあるという。だからこそ私は、優しい彼らを死病から守るため、その迷宮に潜る決意をした。かつての時代より天に近いこの場所では、数多の星が燦然と誇らしげに己を主張している。その中にあって一際目立ち、大きく輝く月は、かつて正義の味方になると誓ったあの夜のように、優しく儚げな光を放っていた。

 やがて世界が崩壊の危機に瀕した時、目の前に現れたその存在に絶句した。言峰綺礼。悪の味方を標榜する破戒神父にして、かつての時代、こことは別の世界において、私がこの手で殺したはずの、そんな存在。

 衛宮士郎が正義の味方を目指す存在であるならば、言峰綺礼は悪の味方として完成している存在であるといえるだろう。他人が悪と定める行為や、そこから生まれる感情を何よりの喜びとする男は、なるほど、悪の味方というに相応しいありさまだ。奴はそうして、自分はすでに完成している幸福な存在であるとして、自らにとっての幸福を追求しようとし続ける男だった。

 ――だから、憧れた。

 その男は他者が自らの正義と悪との戸惑いに苦悩する様を好んでいた。その男はそうして、誰かが望んだものが手に入らない状態と嘆くさまを好んでいた。その男はそうして、誰かの手から幸福がすり抜けていってしまったときにその誰かが見せる苦しみに歪んだ顔を、何よりも好んでいた。男はそんな悪意を何より好んでいた。男はそのような醜態を人間の在り方を、おそらくはこの世界の誰よりも愛していた。

 ――だから憧れた

 男は誰よりも人間を愛していた。その人間が醜悪であればあるほど、その人間が解決不可能な問題を抱えて苦悩しているほど、その人間は男に福音をもたらした。人間だれしも一つくらいは隠しておきたい、醜い秘密があるものだ。だから男にとって人間とは、子供から老人、男から女に至るまで、すべからく愛してしかるべき対象だった。男は正義の味方を目指して人間の醜さに絶望した衛宮士郎とは異なり、心の底から、そんな己の幸福のために誰かを傷つけずにはいられない人間の愚かなその在り方を愛していた。

 ――だから憧れた

 そしてまた、男は衛宮切嗣という男の知り合いだった。男はその他社の抱えている秘密を見抜く観察眼故に、衛宮切嗣という男が抱えていた歪みと、それをそのまま受け継いだかのような衛宮士郎という男の歪みを見抜いていた。衛宮切嗣と衛宮士郎という親子は、言峰綺礼という男にとって唾棄すべき存在だった。だってその二人は自分たち以外の何物をも愛していないのだ。世界はすでに己の中で完結している。故に二人は、外の世界に愛を求めない。言峰綺礼という人間からしてみれば、自分以外の他者を拒むような衛宮切嗣と衛宮士郎は、あまりにも自分勝手な存在と見えたに違いない。だって二人は己と己に近しいもの正義を持つ者以外を愛さない。それはつまり、二人は彼らに近しい存在以外を人間扱いしていないということに他ならない。二人の世界では、二人に属するもの以外は、単なる有象無象なのである。きっとその態度は、この世界の誰をも愛している言峰綺礼という男にとって、非常に不愉快な出来事であったに違いない。

 ――だから、言峰綺礼は、衛宮切嗣を殺す決心をした

 その片割れたる衛宮切嗣はすでに死している。だが、目の前にいる衛宮士郎の中には、そんな他人を当たり前のように見下してやまない男の魂が存在している。言峰綺礼は、持ち前の鋭い観察眼で、それを見抜いたのだ。そして奴は、衛宮士郎という男の歪みが、そこにあることに気が付いた。衛宮切嗣という男の呪いが、衛宮士郎という男を蝕んでいる。そう気づいた言峰綺礼という男は、だからこそ、自らの全霊を用いて、その悪霊を払う決意をした。そうして太陽も月も消え失せた闇の中、衛宮士郎という存在は、言峰綺礼という男によって、長年衛宮士郎を苦しめてきた呪いから、完全に解き放たれることに成功したのだ。

 やがて訪れた長き旅路の果て、過去の呪縛より解き放たれた衛宮士郎という男は、初めて自らの意思で大地を歩き始めた。そうして信念の刃を柔らかなものとして他者の許容を決意すると、この世という場所はあまりに弱いものに満ちていたのだと気が付ける。その時足りない足りないと嘆いてばかりだった衛宮士郎は、しかし初めて自らという存在が他者からすればどれほど強靭な存在であったかを思い知ることとなる。

 ――だから、憧れを向けられた

 その手に信念の刃を握れるものはごく僅かで、そんな信念の刃で日常の平穏を切り捨てられる存在はもっと少なかった。我が身から日常という要素を切り捨てるのは苦痛なのだと初めて知った。普通という世界に生きる人々は、自分からすればどうでもよいような悩みにあえいでいる人ばかりだった。

 ――だから、憧れを向けられた

 だからこそそんな悩みを平然と切り捨てられる自分は、相当他人に影響を与えてしまう人物であったらしい。他人からしてみれば、衛宮士郎はまるで、彼にとっての衛宮切嗣の如き存在であったらしきことを、衛宮士郎はそして心底思い知った。

 ――だから、憧れを向けられた

 そして衛宮士郎は、なるほど彼らは、衛宮切嗣を得られなかった衛宮士郎であり、あるいは衛宮切嗣を失った衛宮士郎なのだと理解する。長き旅路の果て、衛宮士郎という男はようやく、誰かを救いをもたらせる存在になったのだ。

 ――だから、誰かを救えた

 

 衛宮士郎という男がそのことを自覚したのは、彼がシンとヘイという男から、無条件の信頼を向けられたその時だった。彼らがそして差し出してくる無条件の信頼によって、衛宮士郎という男は、初めて自らがすでになりたかったものに――、目指していた正義の味方(/衛宮切嗣)になれていたのだということを理解させられた。

 

 ――だから俺は、正義の味方になれたんだ

 地獄の中から桜という少女を救ってみせた衛宮士郎は、その時、地獄の中から衛宮士郎を救い出した衛宮切嗣(/正義の味方)となった。そして二人から無条件の信頼を向けられた衛宮士郎は、あの時、武家屋敷の縁側で正義の味方であることを自覚した、衛宮切嗣(/正義の味方)になれたのだ。

 ――初めにあったのは罪悪感だった

 後悔があった。心を焦がす苦しさがあり、身を貫かれるような痛みがあり、過去を嘆く後悔があった。未来を憂いた悩みがあり、現実を憎んだ思いがあり、救われた思いへの感謝があった。そうして迷い、間違い、しかし足を折ることなく歩き続けた衛宮士郎という男の執念は、ここに完全に報われた。

 

 ――でも、今はもう、胸には満足感ばかりが広がっている

 

 だから――

 ――あとは、その先に、進んで……

 もはや道は見えている。頂はすぐそこだ。登り終えてしまえば、その先には転げ落ちるだけの運命が待ち受けているだろうことは重々承知している。だがそれでも――

 ――万人にとっての正義の味方となるだけだ

 衛宮士郎という男は、かつて抱いたその夢を叶えたい。もはや偽物などとは呼ばせない。それを完全に私のモノとするため――、たとえその先にあるのがこの身の破滅であろうと、私は正義の味方であるという誇りを胸に、その困難と苦痛の道を踏破して見せよう。

 ――だから

 私は行く。

 

 衛宮士郎(/私)は必ず、万人にとっての正義の味方味方になるという夢を、叶えて見せるとも。



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最終話 英雄エミヤシロウvs月と幻想の巨人 (八)

あぁ――――――


 「あ、あ、あ、あ、あぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」

 

 

少女の鳴き声が響いている。絶叫は闇の中に響き渡り、溶け、そしてすぐさま消えてゆく。自らの思いを乗せた声がすぐさま失せてしまう。その薄情さが気に食わないといわんばかりに少女はさらに大きな声をあげて、自らの思いを乗せた言葉を悲鳴として、闇の中に吐き出し続けていた。

 

 

 「あぁ、あ、あ、あ、あぁ、ああ、あ……」

 

少女の側には二人の男女がいる。男女は自らの目の前で座り込み、衣服を胸に搔き抱きながら恥も外聞もなく、胸にあったはずの誇りさえも打ち捨てて泣きじゃくる一人の少女の前に立ちながら、静かに――――――、堪えていた。

 

 

「……っ!」

 

 

男の肩は震えている。上を向いた男は必死で涙を堪えていた。男は一度それを許せば、自らも目の前にいる少女のように泣き崩れてしまうだろうことを承知していた。起こった現実は、それほどまでに男にとっても重かった。出来ることならば、男も今すぐ少女が行っている追悼式に加わってやりたい気分だった。目の前で泣き叫ぶ少女の気持ちが、男にはよくわかる。それは自らに対する失望であり、冷たい世界に対する絶望であり、居場所を失ってしまった悲鳴であり、愛するものを、自らを愛してしてくれた者を失ってしまった証だった。

 

「いやよ……、いや……、いや……!」

 

 

男にはその気持ちがよくわかる。だが、膝を折り、ただひたすらに絶望の声をまき散らすという無様を、男は二度もしたくないと思っていた。それは男のプライドから来るものであり、同時に、それをしてしまえば、自らの受け皿となってくれた男に託された望みを叶えられなくなるほど心が砕けてしまうかもしれないという思いからも来ているものだった。これまでに多くの恥をかき、望んできた多くのモノを手に入れられることが出来なかった男だが、否、そんな男だからこそ、男の性質をそうであると知りながら、それでも男にそんな重い役割を望み、託してくれた彼の想いだけは、無碍にしたくないと男は思っていた。

 

「いや……、嘘よ……、こんなの、嘘……!」

 

だから男は堪えなければならないのだ。男はしっかと両手を握りしめ、作った拳の内側に爪を突き立てながら上下の歯を砕かんばかりに噛み締めて、涙と共に想いが自らの裡より零れ落ちてゆくことを必死に防いでいた。そうして全身を強く引き締めて涙を堪えるほどに、代わり、胸に開いている穴からこぼれる体液の量が増加する。比喩でなく胸にぽっかりと穿たれている空洞から液体が零れ落ちてゆく。つぅ、と肉体を伝って垂れ落ちてゆくそれは、まるで、男の心が直接流した涙のようでもあった。

 

「――――――死んだ……」

 

悲鳴ばかり上げていた少女が初めて意味を成す言葉を吐く。その言葉に堪えられぬといわんばかりに、もう一人の女が口を覆い、膝をついた。抑えていたものが決壊する。目の前で泣き叫ぶ彼女のように悲鳴をまき散らさずに済んだのは、起きた現実が女にとって少女よりも軽かったからという理由ではなく、きっと成長のあかしなのだろうと、そう思った。地面の闇が、一つ、二つ、と、水滴を吸い込んでゆく。ぽたり、ぽたりと垂れ落ちる熱を帯びたそれの一つ一つには、確かに目の前の少女の絶叫に負けないだけの想いの熱量が秘められていた。

 

「死んだ……」

 

女は唇を強く噛み締めた。本当ならば、女だって少女のように泣き叫びたい。今すぐにだって少女の哀悼に加わりたい。だが自分はもうそれをやったのだ。世界の底。女神などとあがめられて押し込められた天蓋の上にある檻の中、そのさらに奥へと作り出した心象世界の奥底において、自分はすでに、それをやったのだ。

 

「死んじゃった……」

 

苦しかった。辛かった。体をバラバラにされて、こんな場所に一人で閉じ込められて、千年、万年の間にため込んできたその思いを吐き出して、吐き出して、吐き出して、吐き出して――――――、吐き出した。あの薄暗い蟲蔵の中、彼はそれを、ただ静かに受け止めてくれた。望めば手を取り連れ出してくれる人がいた。私には受け止めてくれる人がいた。私にはその思いの全てを受け止めてくれる人が、確かにいた。私はそうして欲しいと思う人に、それを受け止めてもらえた。そして今も、それをしてくれるだろう人が隣にいる。だが、目の前の少女は、それを許されなかった。世界から自分の居場所が失せてしまった。だからこその悲鳴で、だからこその絶叫だ。そしてその差分、その差異こそが、元をたどれば同じであったはずの二人の女の境界となり、態度の違いとなっている。

 

「私が――」

 

惚れた男の胸で、思いの丈を残らず吐き出すことを贅と言わず、何を贅と言えるのだろう。惚れた男がそうして吐き出した思いを余さず受けてめてくれること以上に、何の幸福があるというのだろう。千年、万年もの間に溜めこんできた鬱屈と悲鳴を受け入れてくれる以上に、何を望めというのだろう。女はそれを味わうことが出来ていて、少女はそれを許されなかった。それを理解しているからこそ、女は必死で涙を堪え、この場より失せてしまった男を悼んで、その残骸を掻き集めながら、その思いの丈を吐き出すという次善と呼ぶにしてはあまりにもささやかすぎる贅沢を、きちんと与えられなかった少女に譲っているのだ。

 

「――私が、殺した」

 

時が止まった。嗚咽を止めた少女の目の両端から、つぅ、と思いの証が垂れ落ちて、地面との間に透明な橋を生まれてゆく。とめどなく溢れてゆく糸雨は、やがて地面の上に小さな水たまりを作った。しばらくの間それを拭おうともせずに呆けていた少女は、しかし突如としての自らの裡から零れ落ちた想いが世界という存在に奪われるのを嫌ったかのよう、そして少女は自らの顔を胸に掻き抱いていた衣服の中へと放り込むと、再び人としての言葉を失った。少女の胸の中に収められていた或る男の残骸は、少女が吐き出すそれらの全てを優しく受け止めた。

 

『いやよ! なんで私がそんなこと――』

 

失われて今なお少女の全てを包み込むその柔らかさが憎たらしかった。そんなものよりも欲しいのは、あの乾いた腕がくれる優しさだった。自らが夢の中で踊った彼とは違い、現実の彼は思った以上にボロボロだった。髪はもう固さを失っていて、顔も手も、見える部分はどこもしわだらけだった。水分の失われた頬は痩けていたし、抱きしめてくれた腕には逞しさなんて微塵も感じられなかった。けれどそんなボロボロのそんな姿こそが、なんとも少女の好いた彼――――――、万人を救う正義の味方などというものを目指して駆け抜けて衛宮士郎らしく、そんな彼が自らが抱いていた思いの全てではないけれど自分の想いを受け止めてくれたからこそ、少女――――――メルトリリスは彼の望み通り、衛宮士郎という男に自らの能力を行使して彼の全てを溶かしつくし、世界の全てが溶け込んでいる泥の中へと織り込んだ。

 

『死にに行くのでない。願いを叶えに行くのだ』

 

拒むメルトリリスに衛宮士郎は、そういった。

 

『だから、頼む』

 

 

あの顔が過少でも悲痛さを含んでいたのならば、どれだけよかったであろうか。あの時彼が浮かべたその笑顔にわずかばかりでもメルトリリスを躊躇わせる成分が含まれたのならば、今、自分はどれだけ救われていただろうか。あの笑顔にはメルトリリスという少女が求めていたすべてがあった。息も絶え絶えな彼が、しかし何とも幸福そうな笑みを浮かべながら頼み込んでくるその願いを、どうして無碍にすることが出来ただろうか。

 

『――』

 

出来るはずなどない。彼はいかにも幸福な顔を浮かべた。彼は答えを得てしまった。彼は到達してしまった。彼は完成してしまったのだ。長年の間、多くの死を収集してきたメルトリリスは、だからこそ、彼のその笑顔に偽りがないことを、心底理解できてしまった。その満たされてしまった心の全てを使って、彼はすべての人間を救う決意をしてしまったのだと、心の底から理解させられてしまった。だから――

 

『――わかったわ』

「――――――殺した」

 

その言葉を繰り返す度、心が砕けそうになる。あの時のことを思い出すたび、胸の中にこれ以上ないくらいの激痛が走った。胸に突き立てた刃の感触を覚えている。彼の体はカラカラに乾いていて、まるでミイラみたいだった。耐えられなかった。自分が彼の心臓に刃を突き立てたという事実が、自分がこれから彼を殺そうとしている事実が、彼がそれを望んでいるという事実が、自分には何よりも耐え難かった。だからすぐさま能力を発動した。

 

 

『弁財天五弦琵琶(/サラスヴァティー・メルトアウト)』

 

この身に宿った女神の力にてエミヤという男の体は溶けてゆく。泥の中に混じってゆく。命が溶けてゆくその感覚がたまらなかった。耐えられなかった。見たくもなかった。だってもう絶対に助からない。それでも笑顔を浮かべている彼の顔を見ていたくなんてなかった。かつてあれほど望んでいたはずの出来事が、こんなにもつらいなんて考えてもいなかった。

 

『――ありがとう』

 

礼なんていらなかった。そんなものをくれるくらいなら、ただ隣にいてほしかった。もっとずっと、声を聞かせてほしかった。叶うならずっとそばにいてほしかった。許さるなら、自らの能力を自らに行使して、今すぐに彼を追いかけたい。でもそれはだめだ。だってそれは彼の望みでない。誰かに隣を独占されることを、今の彼は間違いなく最も求めていない。だってそうしてこの世の全ての悪と同化した彼でなければ、この世の全ての人の体に宿ることは出来ない。玉藻という神霊に等しき存在を響という少女がその身に収められているのは、彼女という存在の魂と、玉藻という存在の魂の親和性が高いからだ。もし自分という三柱の神霊から作り出された、他の魂との融和性が高い、高すぎる神格を持つ存在の魂が過少でもその身に収まってしまったのならば、弱いその魂はその瞬間にメルトリリスという存在の隷属下に置かれてしまうこととなる。衛宮士郎という、もともとはただの人間に過ぎない、しかしやがて英霊という存在にまで成り上がり、果てにはこの世の全ての人の中にあった善悪の全てを呑みこんだ彼だからこそ、それは可能な荒業なのだ。

 

『慎二、桜も、ありがとう。最後まで付き合わせて悪いが、あとのことはよろしく頼む』

 

それにもし、自分が彼に能力を行使しなければ、側にいる彼に救われた桜がその役目をメルトリリスという存在の代わりに果たしただろう。だって桜はメルトリリスの元である存在だ。だってもともとそれは、桜に与えられていた能力だった。だって桜は彼に惚れていた。だって桜は惚れた男の心からの頼みを断れるような強い女ではない。そんなこと、元は同じ存在だった自分だからこそよく理解できる事実である。

 

『そんな顔をしないでくれ』

「……だめ」

 

 

だからこそ、それだけは認められない。それを頼まれたのは私だ。桜ではなく、この私が、彼に頼まれたのだ。そんな人の想い人を横からかっさらっていくような真似だけは許せない。彼が頼ったのは私だ。それは彼の最後の願いだった。それは彼が願いを完全に叶えるための行いだった。彼は私のことを思っていてくれたからこそ、その願いを託す相手として、私を選んでくれたのだ。あれは彼の願いだった。彼は私を生かしたかった。彼は私がかつての自分だと思っていた。彼はだからこそ、メルトリリスという存在に生き抜いて自分だけの幸福を掴み取って欲しいと願って、放置しておけばそのまま現実からの離脱を選んでしまいそうな私に、その願いを託したのだ。

 

『これは私の我儘だ。君は、私の我儘に付き合ってくれただけ……。君が余計なものを背負うことはない』

「いやよ……」

 

他者の想いを貪ることしか知らなかった。だってメルトリリスにはそれ以外が与えられていなかった。傲慢で、誇り高く、決して折れず、撓まず、違わず、そして、変わらない。ただそれだけがメルトリリスという女にとっての全てだった。しかし衛宮士郎という男は、それだけがすべてだったはずのメルトリリスに、だからこそ、自らの想いを結び付けていった。衛宮士郎という男は、衛宮士郎という男らしい何とも不器用なやり方で、メルトリリスをこの世に縛り付ける重石とこの世界にも確かに自分の居場所はあったのだという証明を置いて、逝ったのだ。あの言葉にどれだけの想いが籠められていたのか。そんなことは痛いくらいにわかっている。だからこそ自分はこうして、死なずに生きている。彼が自分の行為を喜んで、あんなに幸せそうな顔を浮かべて死んでいった。だからこそ。だからこそ自分は、死を選ばずに、恥辱と後悔に満ちた生を選ぶことを選択した。

 

『私は幸せに生き抜いた』

「やだ……」

 

その先なんて聞きたくなかった。わかっている。こうして彼を悼んで泣き叫ぶことが、彼の願いに反していることなど、痛いくらいにわかっている。泣き叫ぶほどに、彼の顔は歪むだろう。涙を流すほどに彼の顔は苦笑のそれへと変わるだろう。メルトリリスは衛宮士郎という男のそんな顔を見たくはない。でも、自分という存在をこんな最低な気持ちにさせたその責任を押し付ける我儘くらいは、許されてしかるべきだろう。

 

『だから、どうか、君も幸せに――』

「いや……」

 

 

少女の見た目らしい我儘さで自らを納得させると、メルトリリスは再び理性のタガを外して泣き始める。泣き叫ぶほどに、衛宮士郎という男の苦笑顔が目に浮かんできた。今やもう失せてしまったその顔が瞼の裏に映るそんな彼の困ったといわんばかりの微笑み。それだけが今やメルトリリスの救いであり――、

 

 

『ああ――』

「私を置いていかないで……」

 

そのもはや二度と見れないだろう何とも幸せそうな笑顔こそが、彼女から悲痛の想いを無限に引き出す幻想の巨人でもあった。悲痛な叫びがとめどなく鳴り響く。

 

『いい、人生だった――』

「私の前から消えていかないで……!」

 

祈りを嗤うかのように、男の姿が闇の中へと消えてゆく。あれほど誰かを思って行動しただろう彼は、しかし誰かの記憶に残ることを望まなかった。彼はそして、現象に成り下がってしまうことを望んだのだ。迷い、悩み、苦しみ、間違い、しかしそれでも必死に生き抜いてきたあまりにも人間らしかった男が、しかし最後に望んだのは、人を助ける力そのものになることだった。正義の味方は幻想の中の存在でなくてはならない。だからこそ自分は、そんな幻想になる。すなわち、エミヤと存在は空となるのだ。それが何よりもメルトリリスという少女の心を痛めつけていた。

 

『アーチャー……!』

「アーチャー……!」

 

月の裏、太陽の光を一身に受けているはずの施設は、しかし凍えそうなほどに冷え込んでいる。それはまるで、少女の心が生の喜びに熱を帯びるその時はまだ遠い証のようでもあった。

 

 

 

無垢なる世界があった。正義や悪、人間や他の生物どころか、力の方向性すらもいまだに定まっていない、そんな世界。すべての命が混ざり合っている、全ての幸福と不幸が共有されている、そんな世界。蠱毒の術式というもので作り上げられたそんな無垢なる世界にはしかし、ただ一つ、皆の意識というものだけが、残されていた。蠱毒の術式は、孤独の術式。すなわち、力をただ一人に集約させる術は、また、意思を一つに集約させる術式でもあるからだ。誰もが誰とも同じである。故に、誰もが誰をも否定しない。自分の居場所は確かにここに存在している。自分という存在に周りにいるのは、自分を肯定してくれる存在ばかりなのだ。それ故にこの泥の中にあるは、とてつもない快楽ばかりである。それはまさに母の羊水の中で揺蕩っている赤子の味わう気分であるといえるだろう。

 

だからこそ、この中に溶け込んでいるほとんどすべての人が、ここから出ていこうとしない。だからこそ、この中に溶け込んでいるすべての人は、ここにいる以上のことを望まない。彼らは自分を傷付けるものが何もないこの世界こそが理想郷であると信じ切っているから。だからこそ彼らは、自らが溶け込んでいるこの世界が他の誰かに吸収され、失われていくとしても、抗わない。なぜなら彼らは、誰かと溶け合い、一つになることの快楽を知ってしまったから。

 

正義も悪もいらない。この快楽が味わえるのであれば、命だって要らない。生きることの先に幸せが待っている、などとほざけるのは、それまでの生において、欠片ほどでも幸福を手にいれたことのある幸せ者だけだ。才能のない奴、環境に恵まれなかった運のない奴らにとって、この世界にはつらいことばかりが待ち受けている。その辛さに抗えるだけの力を持つ者なんて、そうして正義だの悪だのを考えられるようになる奴なんて、ほんの一握りだ。大抵の人間は、そこへ到達することすらできやしない。

 

だから、何も望まない。だから自分は、ここから動きたくない。だから私たちは、絶対に自我と言うものが消え去るまでここで――

 

 

――本当に?

 

 

 

笛の音が聞こえる。

 

高らかで、雄々しく、清澄で、しかし、どこか物寂しさを含んだ、しかしとても胸を打つそんな笛の音色が。

 

 

 

わからない。なぜ自分がこんな場所にいるのかがわからない。なぜあの黒い泥の中に飲み込まれたはずの自分が、こんな化物だらけの場所にいるのかがわからない。なんで黒い泥の上に、馬鹿でかい樹が生えているのかがわからない。なぜ黒い地面やそこから生える気味の悪い触手から生まれたあの白い水棲生物みたいな姿の化物たちはこの俺を目の敵のように追いかけてきているのかがわからない。なんでそんな化物の上で、俺は必死になってそのデカブツが生み出す化物から逃げているのかがわからない。

 

わからない、わからない、わからない。男には何もわからない。きっかけは笛の音だった。それ以外のことが、男には何もわからない。この世は男のわからないことだらけだった。夥しい数の化物から必死に逃げながら、男は考える。

 

――なぜ俺がこんな目に

 

その言葉には男の全てが凝縮されていた。世界には俺より優れた奴らがごまんといる。世界には俺よりももっと相応しい奴らがごまんといる。世界には俺なんかよりも、優秀で、相応しく、望まれている奴らがごまんといる。いてもいなくてもいい存在。それが俺だ。だからこそ俺は、何を必死にやっても、誰にも必要とされなかった。

 

優秀な兄がいた。だから家に居場所は始めからなかった。親は優しかった。兄は何でもこなせるほどに優秀だった。だからこそ、子供心に自分という存在に役割が求められていないことを悟った。だって両親の視線はいつだって優秀な兄に向けられている。彼らから視線を向けられるのは、兄という存在が今その場にいないときだけだ。あえて自分という存在に何かしらの役割を与えるとするなら、代理品の道化という役割こそが最もふさわしいといえるだろう。

 

親に悪気がないことはわかっている。だって、兄弟にはそれ以外の部分で分け隔てがなかった。衣服はお下がりじゃなかったし、おもちゃだって新しいものを買ってもらえていた。親は少なくとも、平等にしているつもりだった。でも、その視線は気付けば兄の方へと向けられていた。

 

 

誰だって話すなら、むすっとしている子供よりも、分別が付いていて言葉の通じる子供の方がいいに決まっている。俺だって間違いなくそうだ。だから文句を言うのはお門違いだというのは、それこそ子供ながらにわかっていた。ただ、家の中は、自分という存在がいなくても完結しているのだ。いてもいなくてもいい存在。いや、むしろ、そうした薄暗い念を抱えている分、彼らの負担になるのではないかと考えた。成長してゆくにつれて、もとよりあった差はさらに歴然なものとなってゆく。成長の上限や速度まで、兄という存在は優秀だった。そのころから、両親が絡んでくることが増えた。兄という存在をすべての基準にしていた彼らは戸惑っていた。その視線と態度がひどくいたたまれなかった。だから早々に家を出る決心をした。三人はだれも反対しなかった。その時初めて、両親は自分と兄とが違う生き物であるということに気が付いたようだった。それだけが少しばかり寂しかった。

 

変わってしまったのは、家を出てからだった。この世界において、生きるための手段なんてのはいくらでもある。いくらでも、それこそいくらでもある。人手不足なんてものはめったにない。足りないのはたいてい、優秀という頭文字が最初に来る冒険者という存在だった。この何でもが揃ったような世界において、冒険者という存在だけが唯一、『誰か』という存在を必要としていた。

 

この世界で冒険者になるのは簡単だ。早ければ、登録からなるまでに五分と掛からず、それになることが出来る。基本的には身を守る武器防具だって最低限のモノは支給されるし、申請すればいくばくかの支度金だってもらえる。宿の紹介もあるし、一緒に旅をする仲間だってできる。そうとも。この世界ではどこのだれであれ、なろうと思えばどんな職業にもなれるし、どんな生き方も出来る。逃げ場はどこにだってある。だからこそ足りないのは、優秀という形容詞が頭にくるような、そんな存在なのだ。

 

覆せぬ才能の差がある。努力では越せない壁がある。でも命を賭ければ、あるいはその領域に到達するかもしれないと思って、そんな世界に飛び込んだ。優秀になれば自分の居場所が自然と出来るだろうと思っていた。それは間違いなく、兄と両親という存在の影響だった。

 

しかしダメだった。才能がないという呪いは、どこまでも男に纏わりついてきた。アルケミストになった。日々使っている技術の延長線上なら、自分も上手くできるだろうと思ったからだ。しかしダメだった。アルケミストという職業は、なった瞬間から身につくスキルというもの以外に、スキルを用いるための力を適切に割り振る才能が必要だった。男は自分に余計なことを考える才能はないと悟った。

 

だから男はアルケミストを諦めてソードマンになった。剣や斧を振るう職業なら、余計なことに頭を使わなくて済むと思ったからだ。しかしダメだった。戦闘という日常からはかけ離れた異常環境において、余計なことを考えないまま体を動かすということが、男にはできなかった。

 

とどのつまり、男には冒険者として有鬚と呼べる才能がなかった。日常の中において優秀な才能もなければ、非日常の中で優秀になれる才能もない。その事実が、男という存在を腐らせた。兄という優秀な男が側にいた男にとって、誰かと比較した際に優秀な存在であるということこそが、自分という存在がそこにいていいかどうかを判断するための基準だった。自分がこの世に存在している価値を見出せなかった男は、だからこそ自分で世界のどこかに居場所を作ろうと思い、そして失敗した。それも当然だと思った。だって自分には、そこにいて居心地のよかった居場所なんてものの記憶がない。

 

自分の居場所は世界のどこにもないのだと思い知らされた。どこにでも行けるというのは呪いで、何をしてもいいという自由を楽しめるのは、何でもできる才能を持つ奴だけが謳歌できる特権だと思った。

 

――なんで俺がこんな目に

 

いつの日からかそれが男の口癖になった。一度でも気持ちが折れてしまえば、あとは坂を転がるようにどこまでも落ちぶれていった。繰り返される変わりのない日常。起きて、食って、働いて、食って、寝て、また起きて。しかしある日、唐突に限界が来た。わけもわからないまま、涙が止まらなくなった。どうやっても体が動かない。なまけようなんて思いはないのに、どうしても体がベッドの上から起き上がらない。

 

混乱したまま、その日は休むことを決めた。夜になって、唐突に家に帰りたくなった。気付けば宿屋から抜け出して、家の前まで来ていた。窓の向こう側では光が溢れていた。光の中では兄と両親とが、楽しそうに過ごしていた。その隣には、多分兄の恋人か何かなのだろう存在が座っていた。それはとても自然な光景で、だからこそ男は、やはり自分という存在は家族というものにとって異物であるのだと確信した。

 

――なんで俺がこんな目に

 

世界のどこかに居場所が欲しい。自分がこの世界に存在してもいい理由が欲しい。ただそれだけが男の願いだった。何を恨めばいいのわからない。ぶつけるのならば自分を才能なく生んだ良心だろうか。あるいは、自分より先に生まれた、自分にない才能をすべて保有している兄だろうか。否、男はそれを恨もうとは思わなかった。だって男は、自分がどれだけ彼らから愛情を注がれていたかを知っている。男の家族は間違いなく善人だった。彼らは一変たりとも他人に向けるような悪意というものを持っていない。

 

 

彼らの家族がそんな善人然としていられたのには、魔のモノという存在が鬱屈とした感情を喰らいつくすということが一因でもあったわけだが、当然それを知らない男は、自らを除く三人の家族が、自分とは異なる真なる善人であると、心の底から思っていた。だからこそ男は、そのどこにぶつけていいかわからないものを、後生大事に抱えていることになったのだ。だからこそそんな鬱屈とした感情は、魔のモノという存在に食われることなく男の中で常にくすぶり続けていた。そんな感情を抱え続けていた男は、だからこそ桜という存在から見逃され続けていた。

 

――なんで俺がこんな目に

 

故にそれは、恨みの言葉ではなく、心の底から生じた問いかけの言葉だった。なぜ自分という存在は生まれてきてしまったのか。なぜ自分という存在は生きているのか。なぜ自分という存在に居場所は用意されていなかったのか。なぜ自分だけが、こうも出来損ないに生まれてきてしまったのか。溜め込んだ鬱屈とした思いはどこまでも澱み、濁ってゆく。やがて体の中に溜め込んでおくことすらできなくなった男は、衝動的に宿屋から飛び出して、避難指示も無視して、唐突に崖の上からよくわからない泥の中に身を投げて楽になった――、

 

はずだった。

 

だがいかなる因果が働いたのか、自分という存在はこんなわけのわからない場所にいて、わけのわからない化物みたいな存在に追いかけられている。なぜ、どうして、と問うのも億劫だった。周りの光景は変わらず闇ばかりで、それ以外に見えるものと言えば、気色の悪い触手と樹木の根っことだけが蠢いている姿と、樹木を攻撃している白い化物の存在くらいだ。黒ずんでいる地面は柔らかくぬかるんでいて、少し力を入れてしまえば、すぐさま足が突き抜けていきそうだった。そんな頼りない地面をしかし壊れないように注意を払いながら、しかし全力で追いかけてくる存在から逃げるため、男は必死で駆け抜けている。

 

まるで地獄だと思った。まるで迷宮のようだと思った。まるで世界のようだと思った。やはり自分にはこの世界に居場所など存在しないのだと思った。だって自分はかつてのように、こうして身を隠し、身を休められる場所を求めて走り続けている。それでも自分の落ち着ける場所は見つからない。自分の後ろにいるあいつらが、何の目的か知らないが、自分の身を求めて追いかけてくる限り――、

 

――俺を、求めて?

 

 

思った瞬間、足から力が抜けていった。気が付けば体は振り向いていた。どのような理由であれ、あいつらは自分という存在を求めてくれている。そう思った瞬間から、人間の上半身と魚の下半身を合体させたかのような異形の姿すらも愛おしいように思えていた。それどころか闇の中で白く輝くその肉体は、まるで希望の象徴にすら見えていた。だからこそ男は、彼らを受け入れようと思った。どうせろくでもない人生だった。居場所などどこにもない世界だった。なら、最後くらい、どんなろくでもない運命が待ち受けていようと、俺を求めてくれる奴らのために身を投げ出してもいいだろう。男は投げやりに、しかし、心の底からそう思っていた。

 

闇の中から異形の牙と爪が迫ってくる。その様から想像するに、多分、自分の肉は彼らに貪られるのだろう。生きながらにして食われる。そんな想像がよぎって、一瞬身が震えた。足を止めたことを少しだけ後悔した。凶暴に開かれた口を見て、死にたくないと思った。すぐ後に迫るそれは、熱にうなされていた男の頭をどこまでも冷静に引き戻す冷や水となってしまっていた。

 

震える手で腰にあった剣に手をかけた。気付けば頑丈な布の鞘から剣を引き抜いていた。怯える心に従うがままスキルを使おうとして、しかし発動しないことに気が付いた。なぜ、と問う前に脅威は目の前まで迫っていた。

 

 

――やられる……!

 

 

男は迫りくるその時を幻視して、否定のために目を瞑る。声も出なかった。凡庸な男は、命のやり取りという極限状態においても、凡庸な反応しかできなかった。その決定的な隙こそが、契機だった。そして――

 

闇が歪み、夜が切り裂かれた。

 

 

「――え?」

 

気付けば、男の体は勝手に動いていた。最短、最善、最小の動きで、目の前に迫るその敵の喉を切り裂いていた。振り向いた魔物の顔には信じられないと言わんばかりの表情が浮かんでいた。それは男にも同様だった。握った剣の刃には薄く血糊が付いている。見るに、人魚型の魔物に致命傷を与えたが自分であることは明白だった。魔物の体が揺れ動く。多分は最後のあがきを繰り出すつもりだったのだろう。だが魔物がその殺意を露わにするよりも前に、再び体は勝手に動き始めていた。

 

自分の体が覚えのない動きを披露する。剣が踊って/躍っていた。一閃ごとに敵の体に血の華が咲く。それはスキルと呼ばれる技術によって発生した現象ではなかった。少なくとも自分の習得しているスキルでは、こんなふうに敵を切り裂くことなどできやしない。気が付けば、自分は、迫り来ていた魔物全てを倒していた。夢を見ているようだった。自分にこのような動きができるなど思ってもいなかった。スキルによるものでないその技が、しかしまた自らの身に宿った才能というものによって生まれたものでない、そしてまた、才能ある存在によって生み出された技でもないことを、凡庸な男はその凡庸な才覚故に気付いていた。

 

闇は静けさを取り戻す。遠く目の前で繰り広げられている理解不能な光景やそこから発生している音なんて、意識の中に入り込んでもいなかった。男はそして初めて自らの手で自らの居場所を作り出したのだと実感した。手が震えた。自分にもそれが出来たのだと知って――、それを出来る力があったのだと知って、胸が熱くなった。

 

――誰かが力を貸してくれたんだ

 

理屈でも理論でもなく、唐突にその結論に辿り着いた。だって自分にはあんな動きなんて出来ない。

 

――でも、俺が、自分の手で、やった

 

男は後からそんな風に思った。息を吐くと、体の熱が失せてゆく感覚を覚えた。

 

――俺が……

 

白く濁った吐息はまるで、男の体の中に押し込まれていた懊悩そのものであるようだった。繰り返すと、そのたびに胸が軽くなってゆく。

 

 

――やった

 

 

ずっと溜め込まれていた鬱屈までもが外へと逃げていくようなその感覚がなんとも心地よかった。

 

――……ほかにも俺みたいなのがいるのか

 

 

軽い心地であたりを見渡すと、遠くに先ほどまでの自分と同じよう必死に逃げている他人の存在がちらほらあることに気がついた。その様子を見るに、多分は彼らの姿はずっとあったのだろうと思う。でも、後ろに迫る存在から逃げることに必死だった自分は、居場所を求めて逃げ惑うだけだった自分は、そんな他人のことに気をかけてやる余裕なんてものが存在していなかったのだ。

 

――なら、助けないと

 

見回していると自然とそんな思いが浮かんできた。力があるとか、才能がないなんてそんなくだらないこと、すでに男の頭から消え失せていた。そして男は白熱した思いに従って駆け出した。あたりは暗く、道はぬかるんでいる。行こうとしている道は険しいが、周囲に輝く星の光があれば、胸に宿るこの熱があれば、進むには十分だった。答えを得た男はそして、闇の中を恐れずに駆け抜けてゆく。

 

どこまでも。

 

どこまでも。

 

どこまでも。

 

どこまでも。

 

――――――どこまでも。

 

 

月光、星明りが満遍なく降り注ぐその大地――――――、ヴィーグリーズよりはるか離れた場所に、その男とその女はいた。月とヴィーグリーズとを繋ぐ架け橋の上から、ヴィーグリーズの大地へと視線を送る男と女の周りには誰一人として存在していない。その男と女の周囲には、彼ら以外の存在が侵入することを拒絶するような、そんな雰囲気が漂っていた。

 

そんな男女の片割れである豪奢な鎧を身に纏う見目麗しい男は、まるで金獅子のようだった。鎧の下に潜む肉体はまるで黄金律を計算して作られたかの如く、程よい肉が備わっている。見目に麗しいその金の蓬髪の一部は、まるで王冠のように雄々しく天に聳え立っていた。二つの眼の奥に光る深紅の瞳はすべてを睥睨するかのようにあたりへと向けられている。そうして絶対王者とはかくあるべし、と言わんばかりに腕を組み、全ての価値を押し測ろうとするかのよう己と周囲とを隔絶する雰囲気を放つその無表情な男の名を、英雄王ギルガメッシュという。

 

さなか、いずこかより生温い風が吹き荒れ、彼の髪を撫でていった。ギルガメッシュの頬が不機嫌に歪む。許可なく自らの体に触れた無礼を怒るかのように、彼から発せられる圧力が増大した。

 

「ねぇ、ギルガメッシュ」

 

 

それが時を動かす刺激となったのか、隣にいる女が彼へと話しかけてきた。ギルガメッシュは心底煩わしそうに目元を歪めながらも、しかし律義に隣、自分の指示通り少しばかり離れたところにいる赤を基調としている服を纏っているその女へと目を向けた。

 

「本当に、あいつの判断は正しかったのかしら」

 

礼を尽くすものには、礼で応じる。それはギルガメッシュの王としての誇りであり、基本理念でもあるがゆえに、ギルガメッシュはその女の質問に対して、固く閉ざしていたその口を開いた。

 

「我がこうして今ここにいる。それこそが答えだ」

 

語るまでもあるまい、と言わんばかりの態度で言い切ったギルガメッシュは、それきり再び口を閉ざし、再び視線をヴィーグリーズの大地へと向ける。その言葉は、女の疑問に対する嘲笑であり、そしてまた、女にそんな疑問を抱かせたこの場にいない男に対する最大級の称賛の言葉でもあった。

 

「そう……、よね」

 

そうして離れた場所にいる女は目を伏せる。声色にはギルガメッシュの言葉に納得しきれていないという思いが、ありありと浮かんでいた。だからこの女は嫌いなのだ、とギルガメッシュは思う。否、この女に限らず、世の大半以上の女は、質問に対して明確な解答を求めているわけではない。やつらは、単に共感と同意が欲しいだけなのだ。

 

面倒くさい、という思いを抱きながらもギルガメッシュがその女――――――イシュタル……ではなく、遠坂――衛宮――凜という女の方を向いたのは、彼女が世にいるそこらの女と違い、自らの心のうちに出てきているその情念をどうにか整理したいと思っていることを理解したが故だ。ギルガメッシュという男は基本的に狭量で、独善的で、自らの価値観こそすべてであり、自らの存在こそ至高と信じている男だが、自らの身の程を知るものや、自らを唸らせるような才を保有する者、未知というものをその身に宿している存在、そして、そんな自らの醜さを克服しようとしている存在に対しては例外的に寛容さを発揮する。なぜならそれらはすべて、ギルガメッシュという男に、自らが遭遇したことのない光景や体験との遭遇を見せてくれるかもしれないからだ。

 

全ての英雄の祖であり、また、それ故にこの世の全ての財を保有している彼は、それ故にあらゆる価値を瞬時に見定められるという権能じみた能力を保有している。それこそが彼を英雄王たらしめている証であり、しかし同時、彼という存在を常に退屈の坩堝の中へと叩き込んでいるものである。だからこそ彼は――、今、この世に存在していない、未来というものを、この上なく愛し、それを生み出す可能性を秘めた存在に敬意を払うのだ。

 

「何を悩む」

 

ギルガメッシュはそして問いかけた。凜は驚き彼の方を見つめた。この天上天下唯我独尊を地でゆく英雄王という存在が、他人の事情……、それも、彼が忌み嫌っているイシュタルという存在の力を受け継いだ凜のことを気に掛けるということそれ自体が、凜にとって信じられなかったゆえである。

 

「同じことを二度言わせる気か?」

 

呆ける凜にギルガメッシュは言い放つ。自らの質問に対して答えなかった自分にその問いを投げかけてくるというその忍耐もまた、何とも奇跡的だと凜は思った。

 

 

「……」

 

そうした英雄王の態度に驚く凛の顔を見て、三度目はないといわんばかりにギルガメッシュは眉間にしわを作る。不機嫌の感情は圧力となり、呆けていた凜の頭を再稼働させてゆく。そうして気を取り直した凜は慌てて自らの脳内で自らの感情と疑問とを整理すると、整えたそれらを言葉へと変換して、なんとか口からひねり出した。

 

「――衛宮……、士郎のことよ……」

 

その発言に、ギルガメッシュはつまらなそうに眉をひそめた。なぜならその発言は、ギルガメッシュの中に、何の驚きの感情をも生まなかったからである。むしろそのありきたりで予想が出来ていた陳腐な答えは、ギルガメッシュという男を苛つかせるほどだった。

 

 

「何を悩む」

 

だがしかしギルガメッシュは、自分でも驚くほどの寛容さを発揮して、もう一度同じ言葉を繰り返す。否、おそらくそれは、目の前にいるかつて自分を振り回した毒婦の現身であるはずのその女が、今、あまりにも憐れなほど憔悴していたからこそ出てきた言葉なのだろうと、ギルガメッシュは自らの行動を裁定した。

 

「……あいつ、結局、正義の味方になるっていう夢のために、それ以外の全部を捨てちゃった」

 

そうしてギルガメッシュという男の憐憫を誘った女は、人類史上稀にみるほどの哀れな表情を浮かべつつ、そんなことを言う。

 

「あいつ、また、人類のための力になっちゃった。私、結局、あいつを救えなかった」

 

 

なるほど、これがこの女の歪みなのだ、と、ギルガメッシュは見定める。凜という女は、衛宮士郎という存在を全身で愛していた。衛宮士郎という男の、過去と、現在と、未来と、その可能性の全てに至るまでを、遠坂――、否、衛宮凜という女は、愛しつくしていた。凜という女は、自分の腕の中に、一つでも衛宮士郎という存在が不幸になるという未来を抱えていたくなかった。かつて過去の衛宮士郎という男の重石となったその女は、それ故に、そうなることに全霊を注いできた女はそれこそを自らの存在意義と定めた。

 

「私、あいつに生きて幸せになって欲しくて……、自分だけの幸せと正義を見つけてほしくて、だから必死になって頑張ったけど、あいつ……! ――――――あいつ、結局、ほかの誰かのために、自分の命、投げ出しちゃった……」

 

それ故に衛宮凜は、衛宮士郎と離れられない存在となった。ファミリーネームだけでなく、肉体だけでなく、その心までをも衛宮士郎という存在の中に置いていた凜は、それ故に、彼という誰をも救える正義の味方になろうとした存在が今、やがて誰もが覚えてなくなるだろうという未来を耐えがたく思っている。

 

「私、本当に……」

 

目の前の女は、それを不幸だと思っている。目の前の女は、そうして衛宮士郎/エミヤシロウ/アーチャーという存在が、以前のように幻想の向こう側へと旅立ち、人々を守る力となってしまったことを、憐れんでいる。すなわち、目の前のこの女は、衛宮士郎という存在がずっと抱えていたその思いを、そんな悲願を叶えたという事実をあまりにも軽んじている。この女はあの衛宮士郎/アーチャーという男の理想と幸福というものを何一つとして理解していない。この女は、自分が考える幸福の形こそが至上のモノであるという、固有結界の如き頑迷な価値観を保有している。それが――、ギルガメッシュというすべての英雄の祖である男の精神を、ひどく苛つかせていた。

 

 

「ふん……、貴様の精神性はやはり、イシュタルというあの毒婦によく似ておる。過保護で独善的。自分を絶対の指標としてとらえ、その考えと在り方を他人にも求める。相も変わらず他人の想いが汲み取れぬ女よ」

 

 

だからギルガメッシュという男の口からは、そんな言葉がとても自然に出ていた。

 

「……そう、そうね。――――――だから私は結局……」

 

ギルガメシュの言葉を聞いて、凜は落ち込んだ表情を見せる。

 

――ああ、この女はやはり自らの言葉の意味を何も理解していない

 

それがさらにギルガメッシュという男の苛立ち加減を加速させていた。そうして今にも目の前の女を縊り殺しそうなほどの圧力を発するようになったギルガメッシュは彼女の方へと一歩を踏み出すと、その落ち込んでいた顎をつかみ、凜の目線を無理やり自らのモノと合わせさせた。凜の見せる腑抜けた視線によって、ギルガメッシュはさらに腹立ち気持ちが湧き上がるのを、自らでも驚くほどの寛容さと忍耐を発揮して抑え込むと、その虚ろな目を射殺す勢いで見つめた。

 

「エミヤという男が最後に見せたあの顔を見なかったというのか? あの一変たりとも後悔と不満の浮かんでいない、この世で最も幸福であるのは自分なのだといわんばかりの、曇りなき満面の笑みを見なかったというのか?」

「……え?」

 

ギルガメッシュの言葉に凜の瞳が揺らぐ。空虚だった瞳には生気が生まれ始めていた。何とも単純な女だ、と、ギルガメッシュは内心、目の前の女をひどく馬鹿な女だと心の底から見下した。そしてまた、なるほど、この女は嘘を言っておらぬと心の底から満足した。なるほど、この凜という女にとって、衛宮士郎という存在は、そして衛宮士郎という存在の幸福は、確かに全てであったらしい。

 

「その生きて幸せになって欲しいというのは、所詮、貴様の正義と幸福であって、エミヤという男の正義と幸福ではなかったということよ。腹立たしいことが、あの顔を不幸というのであれば、世の全ての人間が不幸であるということになろう。エミヤという男はな。非常に腹立たしいことにあの時、この我ですら浮かべたことも見たこともないような、幸福の笑みを浮かべて逝ったのだ。もし貴様の手助けというものがなく、エミヤがこの世界にやってくることがなかったのならば、あのエミヤという男は、雑種のまま、偽物(/フェイカー)のまま、過去の記憶の中でいまだに燻っておっただろう」

「……!」

 

ギルガメッシュは去り際、衛宮士郎という男が見せた笑みを思い浮かべながらに言う。あの時衛宮士郎という男が見せたその笑みは、この世の財宝をすべて収集している、多くの民を導いてきた自らですら、見たことのない、浮かべた覚えのないものだった。それはまた、衛宮士郎という所詮は偽物(/フェイカー)に過ぎなかったものが、完全なる真作に至った瞬間のことだった。それはまた、ギルガメッシュという英雄王ですら価値を定められないほどの価値を持っていた。それにはまた、自らの宝物庫の中にあるすべての財宝を天秤の片側に乗せたとしても、釣り合わないだろうだけの価値があった。

 

 

「エミヤというあの男は、間違いなく貴様の助けがあったからこそ救われた。あの男は間違いなく、貴様が与えたきっかけがあったからこそ、万人にとっての正義の味方になるという願いを叶えたのだ」

 

それはこの世に新しい価値というものが生まれた瞬間だった。その瞬間、ギルガメッシュという英雄王は、完全でなくなった。その瞬間、ギルガメッシュという英雄王が持つ自らの宝物庫の中にあるすべてのものの価値は下落した。否、価値を付けられなくなったのだ。それはまた、ギルガメッシュが自らに課せられていた人類の守護者という枷から解放された瞬間でもあった。非常に口惜しいことに、衛宮士郎という男は、今の自らの上を行ったのだ。

 

「この世において、正義だの悪だのというのは所詮、人の世の都合と個人の倫理観が定めるものに過ぎん。平時において百人殺せば悪の殺人鬼だが、戦争の時に敵を百人殺せば、それは正義の英雄となる。そもすなわち、突き詰めていってしまえば、正義だの悪だのというものは個人が定めるもの。ならば正義だの悪だのを定める雑種など、この世にそれ、そこいらに散っている塵芥ほどもいる、掃いても湧き出る油虫ほども存在していることとなる。故に、すべての正義の味方になろうとするならば、人類という種族の意思をある一人の存在の手によって完全に統一する以外に方法などない」

 

正義の味方は、味方した正義しか救わない。だから、全員を救いたいなどと思うのなら、王になるか、神になるか、あるいは正義と悪を行来する道化を演じるしかない。

 

「だからこそ、個人個人が異なる考え方を持ったままでは、万人にとっての正義の味方などというものになるのは絶対に不可能だ。だが、そも、正義と悪というものはさらに解体してしまえば、人の精神の向かう方角に過ぎん。ベクトルであってスカラーではない。否。さらに言ってしまえば、多くの雑種は、そんな正義の味方だの悪の味方だのになるそれ以前に、正義だの悪だのを貫くことが出来ん。弱肉強食と等価交換を強いられる現実というものにおいて、世に多く存在する弱者たちは、そんなものになろうとする力も意思すらも貫き通せない」

 

 

だが、衛宮士郎はそれを望まなかった。

 

 

「なぜならそも、多くの雑種は、自らの確固たる居場所というものを確保していない。否、それどころか、何があろうとそこだけは絶対に自分が安心して過ごせる居場所というものを、世の多くの雑種の奴らは、確保どころか、体験してすらいない雑種すらも存在している。心の置き場というものは、人という存在がこの世に生きるにおいて絶対必要不可欠なものだ。それがこの世のどこかにあると信じられないものが、どうして自分の理想を――――――、正義を実現するような場所がこの世にあると信じられようか」

「…………」

 

衛宮士郎が望んでいたのは、誰もが自らの正義を抱けるようになることだった。

 

 

「人が迷いを得た時、自らの心の裡に不信という名の幻想の巨人が出現する。それは世に生きる雑種どもから正義を奪う、その雑種にとっての悪党の名前だ」

 

誰もが、自らが幸福になれる世界はこの世界のどこかにあると信じられる、そんな世界にすることだった。

 

「だからこそあのエミヤという男は、そんな生まれてきたことの意味を問うことすらできずにいる弱者たちの為、そんな人間たちの心に宿る幻想の巨人を倒す英雄になるために行ったのだ。居場所がない嘆くのであれば、それを感じられる手助けをする。足りないというのであれば、必要なだけ与える。だがそこにはもはやエミヤという男の意思は介在していない。『エミヤシロウ』とは今や、ただ、生きることが辛いと嘆いているそんな弱者どもが、やがて己にとっての正義の味方となってゆけるように導く、熱を与えるだけの英雄であり、そんな現象の名前だ。個人の正義を全体に強制するのではなく、個人個人がやがて己の正義を見つけられるよう、手助けをする。ならばなるほど、それは確かに、万人にとっての正義の味方と言って過言ではあるまい」

 

だからこそ衛宮士郎は、誰もがそうして自らの正義を抱けるようになる、手助けを出来るようになる存在になることを望んだ。人間、所詮、自分の力でしか自分を救えない。人を救うのはいつだって、その人の意思と力のみだ。他人から与えられた力に頼ってばかりでは結局、他人どころか自分すらも救えない。だからこそ衛宮士郎は、個人個人の意思と力となるべく、その身に積み重ねてきたすべてを世界に溶かして、万人のために捧げたのだ。

 

だからこそ――

 

「英雄王、ギルガメッシュの名において認めよう。かつて自らの正義の形を他者へと押し付けるだけであった偽善者(/フェイカー)、エミヤシロウという人間の男は、確かに真作/true work――――――すなわち、この世でたった一人、無数に存在する人間の正義の味方(/unlimited true works)になったのだと!」

 

そうして高らかに、旧人類から始まり、新人類の時代に至るまで人という種族を見守り続けてきたギルガメッシュという英雄は、宣言した。自らの役目はついに終わったのだと、高らかに、誇り高く、そして何より、衛宮士郎という男が最後に浮かべたそれに負けないくらいの、思わず見惚れてしまうような笑みと共に、彼は人類が新たなステージに到達したことを祝福した。その一切の驕りと傲慢に満ちた満面の笑みは、しかし、本当に、心底、去っていってしまった衛宮士郎が最後に浮かべたそれとよく似ていて。

 

「ありがとう、ギルガメッシュ。ちょっと元気出たわ」

 

だからこそ凜は、いつかのあの日、夕日の中で見せたそれよりももっといい笑顔を浮かべて見せた。

 

だって、もう朝が近い。

 

「ふん。この借りは高くつくぞ」

 

――世の中の弱肉強食というルールが変わったわけではない。等価交換という法則だって、いまだ世の全てを支配している。強者の手によって弱者は搾取される。そんな法則は残酷なまでに変わらない。この世は変わらず不幸にまみれている。時には逃げたい、死にたいと思うことだってあるだろう。自分の居場所がこの世にないと絶望する時だって来るかもしれない

 

「うん。高い貸しにしておいて頂戴。そうね……。私にできることなら、なんだってしてあげる」

 

――だがそうして果てまで追い込まれたとき、自らの心に湧き出た幻想の巨人を倒す正義の味方が、今やこの世に存在する

 

 

「ほう、殊勝なことを言う。――――――どういう腹積もりだ?」

 

――それは人が普通に過ごしている時には決して何もしない

 

「簡単なことよ。衛宮士郎と言う存在は、私にとって、それだけ価値のある存在だったっていう、ただそれだけの話」

 

――だが必要があれば、必ずやってきて、人間の心を救っていく。時には力だって貸してくれる

 

「ふん……」

 

――例えるならそれは、空に浮かぶ月のように、ただ迷い人の道に光を当てて、幻想の巨人を打ち破るだけの存在だ

 

 

「やめだ。そんなものは要らん。貴様になんでもしてやるなんて言われると、怖気が走るわ」

 

 

――人は勝手に救われて、勝手にどこまでも進んでゆく。

 

 

「……そ。ありがとね」

 

 

――その果てには、それこそ、宇宙の果てにだって到達して見せるだろう。

 

「ふん」

 

 

ギルガメッシュはいつものように傲慢な笑みを浮かべながら振り返る。視線の先ではヴィーグリーズという大地の上、勝手に集った冒険者たちが、世界樹を守るために死力を尽くしていた。そうして凜は、最後の最後、彼がみんなを説得した時に言ったことを思い出す。

 

――『神話のような幻想に頼るのではなく、人の手で現実を切り開き、居場所をつくってゆく。神話ではなく、人話を紡いでゆく。これから人類はそうやっていけるはずさ。何、大丈夫さ。だって彼らは、かつて失われた時代にあった神話なんかよりもはるかに長い時間、それを実践してきたんだから』

 

「世界樹の迷宮は冒険者の手によって踏破される、か」

 

誰もが正義の味方になってゆく物語。そこでは誰もが迷宮に挑む冒険者だ。そして人はそれをずっと攻略し、数多の物語を紡いできた。

 

――これから始まるのは世界の創生人話。来たるは力の有無によって神と人を切り離した時代ではなく、神のような力を持つ人も、そうでない人も、全てのモノが普通の人として、立ちふさがるあらゆる困難を切り開く物語を紡いでゆく、そんな時代

 

 困難を前に、しかし立ち向かうみんなの顔は輝いている。巨大な絶望の具現を前にして、しかし彼らは誰一人として諦めていなかった。彼らはみんな、もう、立ち直ったのだ。彼らこの世界に、自分の居場所を見つけたのだ。この世界にはもう、きっと、絶望に足を止めるような人は現れない。彼は確かに、人々の中に希望という名前の熱を生んだのだ。

 

 

――もう、この世界に、誰かの導きなんて必要ない

 

 

「なるほど……。こりゃ確かに、私が間違ってたわ」

 

 

この世界の人は余さず独り立ちした。全ての人が幸福になってゆく時代。そんな時代が来ることを心底祈りながら、しかし絶対に来るだろうことを確信をしながら、消えていったそんな存在のことを思い出して、凜は振り返った。視線の先では泥の枷というものを失った月の向こうから、太陽の姿が見えつつある。

 

――ああ……

 

現れた太陽の光は世界を激しく包み込んでゆく。光の行き先を追えば、応じるかのように冒険者たちと魔のモノの戦いが激しさを増し行く姿が目に映った。魔のモノは自身の体を使って、あるいは、フカビトと呼ばれる敵性存在を生み出して、そこにいる人たちを苛烈に責めたてる。そんな豪雨にも似た激しい攻撃を、しかし人類は必死で協力しながら、歯を食いしばりながら、何とも楽しそうに、必死で自分の居場所/理想を手に入れようと頑張っていた。

 

――夜が、明ける

 

一人は二人に。二人は五人に。五人の群はやがて集って、十人もの、百人もの集まりなって、魔のモノへと立ち向かってゆく。黒泥の上にある仮初の大地は命の何もかもが絶え果てた荒野。しかしそこにいる誰もが自らの運命を切り開くべく、仮初の体で仮初の剣を取り、立ち向かってゆく。はじめは絵空事の想いや借り物の力かもしれないけれど、しかし諦めずに進む限り、そのうち誰もが、やがて真作に到達することだろう。その有様はまさに、正義の味方に至った衛宮士郎や、かつて彼が保有していた固有結界、『無限の剣製』という存在の在り方にそっくりだった。それはまさに彼の固有結界が固有という枷を破り、世界に広がった証に違いなかった。

――今や人類全てが正義の味方/衛宮士郎なのだ

 

凜はそれを見て、なんといえない満足感を得た。胸の中には彼が自分を救うための手助けが出来たという、確かな幸福感が溢れ出てくる。多分、これこそが、あの時彼という存在が得たものなのだろう。

 

 

――だから

 

 

なるほど、これはたまらない。

 

――こんなものを得てしまったら、もうあとは納得するしかない。

 

彼は確かに、その望みを全て叶えたのだ。

 

 

「ばいばい、アーチャー」

 

 

だから――

 

「みんなのことを真剣に考え、愛した貴方は、確かに――」

 

最後は、最高の笑顔で、最高の褒め言葉で、最高のお別れを。

 

 

「この世でたった一人、誰にとってもの正義の味方になったんだわ」

 

 

 

 

Blue blue glass moon, Humans are beyond reverie.

 

 

The labyrinth has been torn.

 

 

The fantasy giant has been defeated.

 

 

The ally of justice was born.

 

 

All humans have become justice.

 

 

Nothing determines their fate anymore.

 

 

Because they open up their fate with their own hands.

 

 

So as I pray, 『unlimited true works』!

 

 

 




やりとげたよ、切嗣――――――


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エピローグ1 長い戦いの終わりに

自分の居場所が世界にない、とそう感じたのは、あの白い小部屋が最初だった。突然目に飛び込んできたその光が白という色だということを、自分は後から医者に聞いてはじめて知った。だってそのとき、自分にとって世界とは、全てが赤に染まっているものだった。他にある色といえば、黒と茶色と灰色くらいで――――――、そのときはじめて目も眩むような光というものの存在を、自分は始めて知ることができたんだ。

 

 

太陽の光に満ちていた見渡せばその白く清潔な部屋の中には、自分と同じ様に包帯を腕や頭に巻いている姿をした奴らばかりがベッドの上に半身だけ起こして寝そべっていた。はじめのうちは人が入れ替わり立ち替わりやってきて、独特の異臭が部屋の中に充満していた。いくつかのベッドと、ベッドの数と同じだけいる子供が、その部屋にある全てで、それ以外に何もかもが部屋の中には存在していなかった。やがて窓の外を眺めて、始めてそこに広がっている色が青という色であることを知った。その時の自分にとってはやっぱりその色も見覚えがなくて、どこか気持ちを落ち着かなくさせる色だったことを覚えている。

 

 

ガランとした部屋の中には同じくらいの年頃の多くの子供達がいて、見た目多少怪我の具合が悪そうな奴もいたけれど、喋れなかったり動けなかったりってほど怪我をしている奴は一人もいないかった。テレビも何もない雑居部屋の中、そんな退屈な環境に普通の子供が身を置かれたのなら、多少体に不都合があろうとも暇を持て余して会話くらいはする様になるのが自然だが、部屋の中はいっつも静かだったことを覚えている。

 

 

そう。部屋の中いつも静かだった。見舞いに来る訪問者なんていうものは、一人たりとしていなかった。時折部屋の中にやってくる医者や看護の人だけがいつだって部屋の中で一番忙しく動いていた。

 

 

みんな、それ以外の時は、ただひたすらに宙を見つめていた。時折、布ずれの音がする以外、部屋の中にあるのは、部屋の外から聞こえてくる音だけだった。誰一人として喋ろうとする奴はいなかった。誰一人として自分から積極的に動こうとする奴はいなかった。みんな、医者が来る時以外は寝そべっていた。半身を起こしている奴は、診察とか着替えとかでそうさせられた奴らばかりだった。そこはとても白くて、清潔で、本当に静かな場所だった。部屋の中は静寂に満ちていて、全員がまるで死人の様だった。

 

 

白、という色に囲まれた部屋はその時の自分にとって、とても異様な空間だった。少なくとも、自分には違和感でしかない色だと思っていた。だってそれは、自分の世界になかった色なのだ。だって自分の記憶の中にある世界の色は、赤と黒と茶色と灰色ばかりで――――――、だから、白い部屋の中っていうのはその時の自分にとって、異世界である様なものだった。逃げる様にして窓の外を眺めると、部屋の中から拝める外の色は青という色ばかりだった。世界には自分にとって違和感のある色ばかりが溢れている。部屋の中にも外にも、自分の周りにも、違和感あるものに満ちている。それが酷く気持ち悪かった。

 

 

その時不意に、自分の居場所は世界のどこにも存在しないのだと実感した。どこかの誰かも知らない人から君の両親は死んだのだと聞かされた時よりも心が冷えていくのを味わった。多分、その時、自分は初めて、この世で一人ぼっちになってしまったのだということを悟ったのだ。

 

 

そして、衛宮士郎という存在はその時を境に、虚空を見つめている彼らの気持ちがわかる様になったのだ。あれは適応だ。自分を含めた彼らは、自分を拒む様な異世界という場所に適応するため、その心を殺したのだ。

 

 

部屋の中にいる誰もが生気というものを失っていた。何かをしようなんて気力があるやつなんて、一人たりとして存在していなかった。時折思い出したかの様に目をしぱたたかせるくらいがせいぜいだった。積極的になにかをやろうとする奴なんて、ただの一人もいなかった。

 

 

だってその時、自分たちにはもう他に何も残っていなかった。あの業火に自分たちの全てを奪われてしまったのだ。もう自分たちには何も残っていない。家族はあの火災で失ってしまった。おもちゃを持って見舞いに来てくれるような仲の良い親族も、わざわざ訪ねてきてくれるような親しい友達もいなかった。あるいは失ってしまった。部屋の中にあるものだけが、自分たちに残されたものだった。つまりはその時、身一つのみが、今や自分たちの財産であり、世界の全てだった。

 

 

白い部屋――――――病室に集められたのはそんな事情を持つ子供達ばかりだった。それは当時、大火災によって駆け回っていた冬木の市長が事後対応に追われた結果、生まれた環境だった。部屋の中は静寂に満ちていた。部屋の中には行き場を失った死人だけが詰め込まれていた。部屋の中と外は隔絶された空間だった。外の世界から弾き出されてしまった子供達だけが、その部屋の中に詰め込まれてしまったのだ。

 

 

部屋の外では色落ちた葉っぱが風に舞っている。風が吹くたびに葉っぱは宙を行き来する。色を失い茶色くなったそれは、居心地悪そうに世界の中を彷徨っていた。まるで自分たちのようだと思った。色褪せたその茶色の物体を可哀想だと思った。葉っぱはまさしく今の自分の姿を表しているようで、心の底からその葉っぱに同情した。

 

 

もう自分の居場所はどこにもない。自分たちはあとは世間の風吹くままに何処かへと追いやられていく存在なのだということを、子供心に理解していた。自分たちは頭ではなく、心でそれを理解してしまっていた。だから動けない。この一畳あるかないかくらいのちっぽけなベッドの上だけが自分の領域であり、同時に自分たちを守る檻でもあった。そして、それすらもいつかは自分たちから取り上げられてしまうものだということを、自分たちは大人たちの態度と言動からなんとなく理解してしまっていた。きっと不要となった自分たちは、世界のどこかの片隅に打ち捨てられてしまうのだろうと、そんなことばかり考えていた。そうして考えて、考えて、何か別のことを考えようとして―――――― 、でもやがてやっぱり思考はそこへと戻ってきてしまっていた。

 

 

自分の居場所はもう、世界の何処にも残されていない。

 

 

いらなくなったゴミは、ゴミ箱に入れるのが正しいのだ。悲しいとは思わなかった。だってもう、そう思える理由がない。ただ、それなら早く終わらせてくれ、と思ったことはあった。違和感しか感じない色ばかりが目に入ってくる部屋の中、自分の無力とただ無為に時の流れに身を任せているしかないというのは、本当に辛かったから。だから、そんな辛さしかない世界からの解放を、いつだって心から願っていた。

 

 

「こんにちは。君が士郎くんだね」

 

 

そんな時、そいつはやってきた。ボサボサの頭に、ヨレヨレのトレンチコート。ヒゲは不精に伸び放題で、白い日差しの中に溶け込んでいるそいつは、いかにも胡散臭かった。けど同時に、そのしゃがれた声を聞いて、纏っているタバコの匂いを嗅いで、ひどく気持ちが落ち着いた。だってその声は、その時の俺の中で、一番違和感を感じない声だったから。だってその臭いは、その時の俺にとって、一番違和感のない匂いだったから。

 

 

「率直に訊くけど。孤児院に預けられるのと、初めて会ったおじさんに引き取られるのと、君はどっちがいいかな」

 

 

そうして光の中から出てきたそいつを見て、俺はさらに気持ちを揺さぶられた。ボサボサの黒頭に、ヨレヨレの茶色いトレンチコート。手にしたボストンバックは薄汚れた茶色をしており、かつて白かったのだろうシャツは汚れで灰色のように見えていた。そいつはこの白と青ばかりに満ちた世界の中で、唯一、俺の知る色をたくさん身に纏っていたからだ。だからだろう俺は、特に考えもせずに、その提案を受け入れた。

 

 

「そうか、よかった。なら早く身支度をすませよう。新しい家に、一日でも早く馴れなくちゃいけないからね」

 

 

そう言ってはしゃぐそいつは、医者だのボランティアだのが暇つぶしにと持ってきた本だのおもちゃだの服だの着替えだのを片付け始めた。緑だの青だのピンクだの白だのの色が、茶色いボストンバッグに消えていくさまは、なんとも小気味が良かった。そうして苦心しながら手際悪くもなんとか手持ちの小さなボストンバッグに荷物全てを入れ込んだ男は、部屋の外へと出る直前、思い出したかの様に天井を指差した。

 

「おっと、大切なことを言い忘れていた。うちに来る前に、ひとつだけ教えなくちゃいけないことがある。――――――いいかな?」

 

そしてそいつは俺が肯定するよりも早くに振り向くと、本気の仰々しい態度で、こう言った。

 

「うん。初めに言っておくとね、僕は魔法使いなんだ」

 

そして××士郎は、やってきた衛宮切嗣によってファミリーネームを与えられ、衛宮士郎となる。それこそが、この世界より居場所を失っていた××士郎が、世界に居場所を取り戻した瞬間だった。

 

 

居場所を衛宮切嗣という男によって与えられた衛宮士郎という存在が次に居場所を失ったと感じたのは、やはりというか、衛宮切嗣という男を失った後のことだった。

 

 

衛宮切嗣が死んでからというもの、衛宮士郎の生活が落ち着くまでのあいだ、様々な面倒の多く――――――つまり、葬式から墓の手配、引き継ぎ作業や後継人の云々は、この武家屋敷の元々の持ち主である雷画という存在が世話を焼いてくれたおかげで、大した問題にならなかった。ただ、そうして衛宮切嗣があの世へと旅立ったおり、衛宮切嗣という男に惚れていた衛宮士郎の姉分、藤村大河が抜け殻の様になっていて、一切衛宮邸へとやってこないそんな時期があった。衛宮士郎という男が再び世界に居場所を失ったと感じたのはそんな時のことだった。

 

 

家に位牌も仏壇も置いて、相続の手続きも遺産のあれこれも全部済ませたそんなある日、玄関の扉をあけて家の中に入ると違和感を覚えた。その感覚がよくわからないままに、ただいま、と言った。家の中からは当然のように誰の声も返ってこなかった。

 

 

切嗣はよく仕事と言って外国に足を運んでいた。だから家に帰ってきた時、家の中から音が聞こえないのは別段珍しいことじゃないはずだった。ただいまといっておかえりの声が返ってくることなんてまずなかった。居間に向かうまでの間、自分を出迎えてくれるのは大抵、廊下の軋む音と長い廊下を風が通り抜けていく音くらいのものだった。それらは当たり前だったはずなのに、その時の自分は、どうしてか、声が返ってこないことを気にしていて、そんな音を廊下が奏でる音を耳にするたび、酷く落ち着かない気分にさせられた。

 

 

自室に行くためにあたって、切嗣が死んだ縁側が目に入った。いつもと変わらぬ姿を保っているはずのそこは、しかしその時、自分を妙に落ち着かない気分にさせる場所だった。だから足早に駆け抜けて、自室へと飛び込んだ。

 

 

ピシャリとふすまを閉めて自室と外界との接触を断つと、ため息が自然とこぼれていた。ため息は長く、細く、重苦しいものだった。どうやら気付かぬうちに、相当なにかを溜め込んでいたらしい。あるいはこの体にまとわりついてくる違和感がそうさせたのだろうか。何度も深く息を吸いこんでは、何度も長く、細い息を吐く。そんな行為を何度繰り返したかわからない。けれど、何度繰り返そうとも、胸の中の息苦しさは全然消えていってくれなかった。

 

 

最中、目を閉じ、両手を口に当てて、ため息の行き先を塞いでみた。暗闇の中、押し当てた手のひらの中で吐き出された息が循環する感触だけがあった。時折、漏れた吐息が胸元から服の中へと飛び込んでゆく感覚がなんとも心地よかった。まるで寒さに凍えているようだな、と不意に思った。暖かさが恋しいとは思ったけれど、不思議とその何もない伽藍堂の自室から出ようとは思わなかった。だってその時の自分にとって、衛宮切嗣に与えられたそこが一番落ち着く、自分だけの居場所だったから。

 

 

やがてどれくらいそうしていたのだろうか。突然、体の芯に突き刺すような寒さが訪れた。足元が指先から踵に至るまで冷たくなっている。あたたかい部分は上半身、胸元にしか残されていなかった。身を震わすと、肌と服の擦れる感覚があった。寒さと違和感から逃げるように部屋の奥へと視線を彷徨わせると、視線はすぐさま空っぽの部屋の中に新しく運び込まれた仏壇とぶつかった。迷うことなく仏壇の前に進むと、座布団を敷くこともなく、その前に座り込んだ。

 

 

『衛宮切嗣』。位牌にはそう刻まれていた。黒に茶色。透明に赤銅色。仏壇の中は、見覚えのある色で満ちていた。その時突然、切嗣がいなくなったことを自覚させられた。無音がやけに気持ち悪かった。切嗣がいた時は全然平気だった白塗りの漆喰壁が、まるで檻のように自分をその場に閉じ込めているようだった。

 

そこはまるで、あの白い部屋のようだった。檻の中を支配しているのは静寂という名の看守だけだった。違和感だけが部屋中を跋扈している。体の中にあったはずの熱が次々と失われていっていた。心が急激に冷えてゆく。救いを求めて手を伸ばすと、指先がすぐに目の前の位牌に手が当たった。

 

触れた位牌は酷く冷たかった。衛宮切嗣、と深く心に刻まれている名前の書かれたそれは、拒絶もしない代わり、肯定もしてくれなかった。かたっ、と音を立てて位牌が倒れた。まるで縁側に倒れこんだ切嗣のようだった。それを見て、衛宮切嗣はもうこの世にいないのだということを、そして衛宮士郎という存在は再びこの世から自分の居場所を失ってしまったのだということを、強く意識させられた。

 

慌てて指先を引くと、そのまま倒れこむようにして畳の上へと寝転がった。打ち付けた頭と背中に痛みが走ったが、そんなものはどうでもよかった。瞳には天井の光景が飛び込んでくる。慣れ親しんだはずのそんなものですら、今の自分には辛かった。殺風景な部屋の中、自分以外には何も存在していなかった。

 

頬が焼けたように熱い。雨音が畳から聞こえていた。自分は泣いているのだ、ということに気がついたのは、しばらくしてからのことだった。それまでの間、自分の頭の中はずっと真っ白だった。違和感しかないあの色で、ずっと満たされていた。

 

そうして見えた天井は、やっぱり違和感しかなかった。世界が自分を押し潰そうとしていた。耐え切れず目を閉じると、世界の冷たさと気持ち悪さをよりいっそう感じられるようになって、もうダメだった。

 

涙が次から次へと溢れてくる。仏壇の前、衛宮士郎という存在は、故人を偲んでではなく、自らの孤独を憐れんで、自らが孤独になってしまった恐怖に怯えて、ただひたすらに泣いていた。

 

涙を流すほどに、嗚咽をあげるたび、息をするごとに、体の中から熱が消えてゆく。体の中に入り込んでくる空気の冷たさを感じるたび、畳が擦れる感触を背中で味わうたび、違和感が自分の頭を苛んだ。その度に、衛宮士郎が安心していられる場所はもうこの世にないことを認識させられた。

 

自分という存在が現実に溺れてゆく。部屋の中は酷く息苦しかった。多分、深海の底というのはこんな感じなんだろう。伽藍堂であるはずの部屋は、自分を押し潰さんばかりの違和感で満ち溢れていた。

 

胸が苦しい。気付けば涙も枯れ果てていた。熱を失った体をその場において置くのがあまりにも辛かった。だから、体をひっくり返すと、必死になって這い蹲って部屋の中から抜け出そうとした。けれど体は重く、手は動かそうとしても思ったように動いてくれなかった。

 

世界は地獄で、自分はすでにそこの住人だった。ここはもう、自分の居場所ではなかった。部屋の空気は檻の中に収監された囚人を逃すまいと、自分の体をその場へと縫い付けてくる。ぎしぎしと体の中から聞こえてくる音がいかにも気持ち悪かった。心臓が壊れてしまったかのように早く脈打っている。肺は潰れていて、もはや呼吸をすることすらできなくなっていた。目眩がぐるぐると頭の中をかき乱して真っ白にする。違和感はすでに頂点に到達していた。それでもと言い聞かせるように、全身を使って、部屋の中を這って出口へと近づいてゆく。

 

頭が、体が、畳と触れるたび、汗と涎が畳を汚してゆく。それはまるで自分という存在の生き汚なさを表しているかのようで、なんとも滑稽だった。

 

やがて必死になっていると、脳天がふすまにぶつかった。動かない両腕の代わりに頭頂部を使って無理やり襖を開けると、それだけで少し体が軽くなった気がした。そのまま床を這い蹲って縁側に出ると、外はもう夜になっていた。違和感が少し薄れてゆく。そこでようやく、衛宮士郎という存在は、半身を起こしてやることに成功した。

 

外気のおかげで泥のように混濁していた意識が少しだけまともになる。両腕を使って無理やり立ち上がろうとすると、勢いのままにすっ転げた。顔面からではなく、肩から落ちれたのが唯一の幸いだった。じんと痛む体をそのまま縁側に横たえる。そのまま空を見上げると、空には白色に輝く月がポツンと一人浮かんでいた。

 

縁側に転がりながらそれを眺めていると、呆然と切嗣と過ごした最後の時のことを思い出した。そうだ。たしか、あの時もそうだった。雲ひとつない星屑の広がる藍色の夜空では、その中枢で白い月が、あの時と同じように静かに輝いていた。唐突にあの時聞いた言葉が蘇ってきた。

 

『ああ――――――、安心した』

 

途端、体が軽くなった。気付けば体には失われたはずの熱が戻っていた。息苦しさはもう欠片ほどもない。体を起こすと、自分はすぐに立ち上がることが出来ていた。

 

不思議だった。それはまるで魔法のようだった。違和感は完全に失せていた。自分の居場所なんてどこにでもあるという気持ちになれていた。振り返ると、襖の間から自分が這い出てきた部屋の中が見渡せる。あれほど自分を苦しめていたはずのその場所はしかし、もうすでにただの空っぽの小部屋にすぎなかった。

 

もう一度振り返り、空を見上げると、藍色の空では月が変わらず静かに輝いている。月の白は、先程視界を満たしていたしろとまるで同じ色をしていた。それ以降、自分は白を気持ち悪いと思うことはなくなった。青も、緑も、それ以外の色もそうだった。

 

それが。衛宮士郎という存在が、衛宮切嗣という存在によって救われ、この世界に再び居場所を得た時の出来事だった。

 

 

三度目は海外で飛行機にのった時のことだった。父との約束だけを胸に、ただひたすらに夢を追いかけていた頃、とある国で起きた事件を解決するにあたってやり過ぎた自分は、政府の人間たちに追いやられるようにして国外行きの飛行機へと強制的に乗せられた。乗せられた飛行機はボロで、空調までもがいかれているようだった。その日、天気は雨で、灰色の空には白い雨雲が浮かんでいた。飛行機はそして雨雲の中へと飛び込んでゆく。強い風がガタガタと機体を揺らし、ボロの飛行機を責め立てていた。

 

自分の席の周りは数十席に渡って空っぽだった。後から聞くと国外強制退去の噂が広まっていたらしく、自分の回りの席はキャンセルが続出したという話だった。

 

もちろんその時、自分はそんなこと、気付きもしなかった。そう。はじめはそんなこと、なんとも思わなかった。けれど、飛び立った飛行機の中、寒さに耐えかねて毛布をもらおうとしたとき、しかしキャビンアテンダントが聞こえないふり/職務放棄をしてまですら近寄ってこようとしないのをみて、この飛行機の中に自分の居場所は心底ないのだなと痛感させられた。

 

居心地の悪さから逃げるように座り心地の悪い冷たくて硬い座席に身を押し込めると、窓の外へと視線を送った。そうして見た窓の外は白い雲だらけで、地上も天空も拝む事が出来なかった。雨が機体を叩くそんなの音だけが煩く耳に飛び込んでくる。音はまるで、人間の陰口のようにも、戯言を喚き散らす人間の叫び声のようにも聞こえていた。

 

だからだろう、ほとんど無意識のうちに、自分は安楽の場を求めて眠りにつくことを選択した。目を閉じれば疲れていたのか、意識はすぐさま闇の中へと落ちていった。

 

だがそうして逃げ込んだ意識のなかも、けっして自分の安楽の場とはならなかった。為してきたことの罪悪感が、追い出されたと言う事実が、誰もよってこないと言う事実が、夢の中にいる自分を苛む幻想の巨人となって、自分を責め立てて来るからだ。

 

苦悩と怨嗟の声が心の中で暴れまわっている。なぜ殺した。なぜ助けなかった。なぜお前はここに来てしまったのか。

 

ジクジクとした痛みが胸を締め付ける。幻想の巨人は常に心を切開し続け、衛宮士郎という存在が安寧の中に眠ることを許さない。自己満足の結果に救えなかった命は、いつだって自分をさらに苦しめる鎖となって、両足を雁字搦めに縛ってゆく。救えなかった命は、切り捨ててきた命は、いつだって心のなかで恨みの声あげて、重ねてきた罪の贖いを求めていた。

 

白い部屋が赤に塗り潰されてゆく。馴染み深いその色は、だからこそ自分をあの灼熱の地獄へと引き戻す。だが、痛みの熱によって、自分の心は極寒の真っ只中へと叩きこまれていた。痛みは体から余さず熱を奪ってゆく。熱を失った指先から徐々に感覚が失せていっていた。

 

この熱の喪失が芯にまで至ったとき、自分は死ぬのだろうという予感があった。だが、もはや自分には何とかしようとする気力がなかった。熱は命を繋ぎ止めるだけに必死で、抗うための余力なんて残っていなかった。この先には死の安楽が待っている。それを受け入れるのも悪くないかもという思いが生まれはじめていた。

 

だってここは、こんなにも静かだ。

 

熱が失われていくにつれて、あれほど煩かった怨嗟の声も小さくなってゆく。それは月夜の誓いを思わず忘れさせてしまうほどに甘美だった。そんな誘惑に抗う気持ちが生んだのだろうか、不意に暗くなってゆく頭の中に自分のいなくなった世界のことが浮かんできた。

 

追い出された自分。掃除屋の自分。多くの人を殺してきた自分。多くの人に疎まれ、恨まれ、憎まれてきた自分がいなくなった世界は、あまりにも美しいものだった。それは思わず涙がでそうなくらい、美しい光景だった。目撃と同時に、抗う気持ちが失せていった。これが自分が切り捨ててきた彼らの復讐であるというなら、あまりにも優しい鉄槌だと、そう思った。

 

だからもう、その倦怠感に身を任せることにした。抗うのをやめると、一気に体から熱が消え去った。熱が失せるほどに、体の中から聞こえていた雑音も聞こえなくなってゆく。声はもう聞こえない。心臓の鼓動の音が遠ざかってゆく。あれほど煩かった怨嗟の声はもう聞こえない。

 

だからもう、このまま、あとのことなんてかんがえず、ただおとずれるやすらかさにみをまかせようとして。

 

「――――――つっ……!」

 

しかし、まるで頬を叩かれるかのような痛みを感じて、気付いたとき、自分は現実へと引き戻されていた。

 

「こ、こ、は……」

 

見渡せばそこはボロの飛行機の中だった。背中の硬いシートは相変わらず冷たくて、空調は冷たい空気を吐き出していた。違和感を覚えて頬を撫でると、手のひらがびっしょりと濡れていて、ひどく驚く。寒さに凍えていたはずの自分は、しかし驚くほど寝汗をかいていたらしい。

 

――――――いったい、なぜ……?

 

「あ……」

 

答えを探すとすぐに見つかった。窓から差し込んだ日差しが、自分の顔や体にこれでもかと言うくらい当たっていたのだ。そうして差し込んできた光は、自分の特に頬を強く照らしあげていた。観れば窓もボロで、遮光性能が低いガラスが使われていた。そのせいで光は自分の頬へと集約され、まるで虫眼鏡のように自分の頬を焼いたのだ。

 

頬を撫でると、じんじんとした痛みにひりつく。そるはまるで、張り手を食らったかのような痛みだった。不意に、自分は太陽にひっぱたかれたのだとそう思った。自分を優しい悪夢から叩き起こした下手人の姿を拝もうと窓の外へと視線を移すと、見えた景色に言葉を失った。

 

 

「う、わ……」

 

 

飛行機はすでに雨雲の中を抜けだしていた。空はどこまでもはるかに青く広がっていた。雲海ははるかに下で、自分の進む先には何の障害も見当たらない。上を見れば、紫色の空には満天の星が散りばめられていた。目に映るもの全てが、落ち込んでいたはずの気持ちを高ぶらせてゆく。かつてはあれほど違和感しか覚えなかった光景も、今では自分の気持ちをこうも揺さぶるものとなりえるのだという事実に、ひどく感動を覚えた。

 

「こりぁ……、すごいな」

 

立ち込めていた白い雲を抜けたのは自分の力じゃない。悪夢を打ち破ったのだって、太陽の力だった。でも、そうして誰かの意図しない力によってだって、人はこうも救われることがあるのだと、そのときいたく感動させられた。そうして誰かに助けられながらみた景色はとても美しくて、それまでの鬱屈とした気分を吹き飛ばすだけの威力を秘めていた。

 

 

窓から外の景色を覗いていると、太陽の熱が痛いくらいに肌を刺激する。生まれた熱は自分の体へと入り込んできて、心を動かす原動力となっていた。この隔離された空間のなかで、太陽だけは自分の事を祝福しているかのようだった。その瞬間、その飛行機の一区画は、間違いなく自分の居場所だった。

 

窓の外には、気持ちいい光景が、何処までも、何処までも広がっていた。そのとき不意に、自分は世界から拒絶されていないと思う気持ちに溢れてきた。自分の居場所は、この胸のなかで燻り続けている正義の味方になるという願いを叶えられるそんな場所が、広い世界のどこかに必ずあるのだと、確信することができていた。

 

光が自分を照らしてくれたのは一瞬で、飛行機はそして再び雲の中へと飛び込んでゆく。視界は再び零へと戻り、自分は寒々しい環境へ引き戻されてゆく。疲れていたのだろう、自分はそして再び瞼が重くなってゆくのを感じた。けれど気持ちはとても穏やかで、眠りに落ちたあと、次に起きるまでの間、もう悪夢なんて見なかった。

 

 

 

自分の居場所がなくなってしまっても、ふとしたきっかけで、それは得られることがある。自分を思ってくれている人がいなくなってしまっても、そんな人が確かにいたのだと言う事実が、救いとなり、未来に足を進めるための原動力となる。やがて大人となり、現実の厳しさに打ちのめされたとき自分の居場所なくなったと感じたことがあっても、心が熱を帯びるきっかけがあれば再び人は歩いて行くことが出来る。

 

 

自分だけの正義を見つけ、自分だけの正義の味方になることが出来る。それは間違いなく、とても素晴らしいことだ。そしてまた、そんな彼らの手助けを出来ると言うなら、それはこの上ない幸福であるに違いない。

 

 

果たしてその考えは正しかった。この全てが溶け込んだ世界の中から、一人、また一人と消えて行く。皆が皆、自分の自分の元から自分だけの居場所を作るために旅立ってゆく。

 

 

世界が小さくなってゆく。自分の周囲から、次々と熱が失われてゆく。自分という存在が無の中へと消えてゆく。この調子であれば、自分という存在がこの世から消え失せるまでにそう時間はかからないはずだ。

 

 

遠くないうちに自分という存在が消滅する。だというにも関わらず、気持ちは驚くほど穏やかだった。

 

 

体の中から生きるために必要な何かが次々と失われてゆく。だが、代わりに、そうして自分の袂から旅立ってゆく彼らを見ていると、それだけで体の中が別のもので満たされてゆく感覚があった。

 

きっとそれは、自分という存在はついにやり遂げたのだというそんな自己満足によるものなのだろう。一人が旅立つごとに訪れる充足感は、失われてゆく命の熱などよりもよほど熱量を保有していて、だからこそ次々と体から命の熱を失い続けている自分は、それでもこうして今も意識を保つ事を可能としているのだ。

 

 

旅立った彼らの中には、やがて再びこの場所に落ちて来そうになるような不器用なやつもいる。だが、一度元の世界での居場所を見つけた彼らは、二度とこの場所に戻ってたまるものかと、必死になって生き延びようとする。

 

 

袂から子供が旅立ってゆくのをみるというのは、きっとこんな気持ちなのだろうとおもう。そうして自分の居場所を見つけようと必死になる彼らの頑張りは、世界の何よりも尊く輝いていた。

 

 

今でこそ彼らは目の前に襲いかかってくる障害を排除するのに必死で、他のことに力を割く余裕なんて持っていない。でも。全てのいざこざが終わった暁には。

 

 

そうして自らの居場所を自らの延長線上にある力のみで勝ち取り、余裕というものを取り戻した彼らは、やがて己だけの正義を見つけだすだろう。

 

 

そして自分の軸を見つけた人は、周囲を見渡せる余裕をも持つようになる。周囲を見渡す余裕さえあれば、人は必ず隣に自分と同じような存在を見つけ、興味をもつ。そうして余裕のある人は、見つけた人がかつての自分と同じような困難に陥っているのなら、かつての自分と同じ状況で困っている存在に必ず手を伸ばす。

 

 

かつての自分を越えたことを証明したいという競争心が、同じような境遇の彼らを見ていると辛いという同情が、誰かを助けて感謝を得たいという虚栄心が、助けることで好かれたいという邪な念が、そんな自己満足を得たいという思いから生じた自分勝手な行動が、しかし、困っている彼らに必ずや手を伸ばさせる。

 

 

そうして助けられた人は、誰をも放っておけなくなる。だって、何処にだっているのは、自分と同じ存在だ。自分を助けられるのは自分の力と意思だけだ。だからこそ過去に誰かの手によって助け出されてしまった人は、目の前で困っている人を助けて過去の自分を救うために、彼らは必ずいくだろう。

 

 

見知った誰かに借りをつくって、見知った誰かに借りを返して。時には見知らぬ誰かに借りをつくって、見知らぬ誰かに借りを返しながら、そうやって人の世界は回ってゆく。誰もが正義の味方で、誰もが幸福になるために助け合いながら進んでゆく。自分はそんな自分にとっての理想の世界を作るための礎となれたのだ。

 

 

だから悔いはない。

 

 

もしもこの願いが間違っているというのであれば、かつての私という存在が言峰綺礼という自らを悪の味方といって憚らない存在によって間違いを指摘されたように、彼らの前には過ちを指摘する誰が現れて、彼らはそうして指摘された自らの過ちを反省しながら、それでもと歯を食いしばって、更新された正義を胸に前へと進んでいくだろう。

 

 

みんながみんな、自分/誰かの正義の味方になるそんな時代が、確かにやって来たのだ。

 

 

だから、悔いなんてものは、ない

 

 

 

そうこう考えている間にも、体は徐々に消え去ってゆく。それは、この世界にいたみんなが、自分の足で世界に居場所を作ろうと歩み始めている証拠だった。

 

 

かつて見放そうとも考えたそんな存在が立派になって世界と対峙してゆくの目撃するのには、この上ない愉悦と快楽に満ちていた。

 

 

なるほどきっと、これこそ、子の一人立ちを目撃した親の気分というやつなのだろう。なるほど、これこそきっと、かつての切嗣が今際に得たものなのだ。なるほど、これこそがきっと、自分はついにそれまで得ていた借りを返し終えたというそんな感覚なのだ。

 

 

つまりこの他の何にも変えがたい感覚は、それは自分の選んだ正義を貫けたものが、その理想の終着点で得られるものの正体なのだ。

 

 

私が為したことを、ほとんど誰もが記憶しない。だからこそ彼らは、生まれたその借りを他の誰かに返すために、どこかに自分/誰かを救いにいく。

 

あぁ、それはなんて――――――

 

――――――なんて、素晴らしい、世界――――――

 

 

 

視界が白い光に包まれてゆく。かつて違和感だらけだった世界と自分が一体化してゆく。かつて、目の前に広がっている世界は自分の知る世界と違っていた。

 

 

自分の世界は常に業火にみまわれていて、いつだって地獄のようなありさまだった。世界はこんなに平穏で、だからこそ自分の居場所なんてそんななかにないと思っていた。自分の内側に広がる世界はあまりにも醜くて、そんなものと比べるには、目の前に広がる世界はあもりにも綺麗過ぎていた。

 

 

だからこそ衛宮士郎は、地獄を求めて旅に出た。

 

 

 

この世の地獄と困っている人に目をつけて、かつての自分を救うために、片っ端から手を伸ばし続けていた。そうして手を伸ばされたみんなが自分と同じように地獄へと落ちてくる事を、衛宮士郎は心底望んでいた。衛宮士郎はそうして彼らを、自分が落ちた地獄に落とそうと思ってたんだ。

 

 

自分が苦しんだのだから、あいつも苦しむべきだという、そんな気持ちが、衛宮士郎の行動原理だった。とどのつまり、衛宮士郎という男は、何処までも子供に等しい存在だった。

 

 

そしてこの度、衛宮士郎は、世界に住まう人々を、余さず、同じ地獄に叩き込んだ。そうしてかつての願いを叶えて、衛宮士郎という存在は、心からの満足を得た。

 

 

正義の味方は、救うべき誰かがいなければ成り立たない。言峰綺礼という男は、衛宮士郎の歪みをあまりに的確に見抜いていた。

 

 

あぁ、本当に。衛宮士郎という存在は、心の底から救いがたい存在だ。そうして拾い上げられた彼らがやがて世界のなかでたくさん苦しむだろう事を知りながら、それでも、彼らがやがて幸せになってくれるだろうことを信じて、自分はやりきったと満足して逝くのだから。

 

 

でも、悔いはない。

 

 

意識が光に融けてゆく。自分という存在が、余さず世界のために使い潰されてゆく。体の感覚なんてもう欠片ほども残っていない。意識を繋いでいるのは、そんな自分勝手な満足感だけだった。

 

 

そうして意識が消え去る直前、白に染まった世界のなかで、自分をこんな場所まで導いた男の顔を思い出した。

 

 

――――――あぁ……

 

 

光のなかには切嗣がいた。衛宮切嗣は、いつかあの縁側で見せたような微笑みを浮かべていた。それを見て、心底嬉しくなった。自分はかつて彼が到達したそんな場所にたどり着いたのだと思った。

 

 

自分は、自分の目指した自分にとっての正義の味方/衛宮切嗣になれたのだ。この出会いはその証明なのだろうと、彼の理想を受け継いだ衛宮士郎は、心の底から確信した。

 

 

――――――じいさん……

 

 

光が強まってゆく。まってくれ。あと少し。あと少しだけでいい。

 

 

――――――おれ、やったよ

 

 

これさえ言えれば、あとはもうなにも望まない。だって自分はやりとげたのだから。

 

 

――――――おれ、じいさんとの約束を、守ったんだ

 

 

口が上手くて動かない。もう顔も消えかけている。切嗣の顔が遠い。もう微笑みは光のなかに消えてしまっている。

 

 

――――――じいさん……

 

 

もう口に力が入らない。それでも、あと一言。あと一言だけ、伝えさせてほしい。だってそれは、かつて自分が本当に伝えたかった、心の底からの言葉なのだから――

 

 

――――――あの時、おれを助けてくれて、ありがとう

 

 

あぁ……、きちんと、言えた。

 

 

切嗣の顔はもう見えない。口は微かにだって動かない。思考は拡散して世界に散ってゆく。もう自分には何も残っていない。

 

自分は、完全に、やりつくしたのだ。

 

心地よい陶酔のなかに融けてゆく。世界と一体化してゆくその感覚はあまりに格別で、一瞬だけ感覚を取り戻した自分は、しかしそのとき確かに、その声を聞いた。

 

 

――――――士郎

 

 

その声の中に、彼の微笑みをみた。

 

 

――――――……なんで

 

頭の中に浮かんできたのは、彼が困ったときによく見せてくれた微笑みで。しかし意味を問う間もなく、意識は世界のなかに失せてゆく。

 

――――――切嗣は、最後に、あんな、困った顔を――――――

 

最後にそんな疑問を残しながら、そして衛宮士郎という存在の意識はその場から完全に消え失せる。後には完全なる無だけが、その場に残されていた。

 

 



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エピローグ2 現れた男

光。

 

いつかあの部屋で見た時のような――

 

いつかあの満月の夜に見た時のような――

 

いつかあのあたらしい世界を初めて見た時のような――

 

そんな白い、光が――。

 

 

「――……っ!」

 

飛び込んできたその懐かしい光景を見て、眼を覚ます。すると失せたはずの体にはあらゆる感触が飛び込んできた。初めに違和感を覚えたのは目元だった。眠っている間に落涙があったらしく、耳元から頭にかけてまでが仄かに濡れている。湿気を拭うと、わけのわからない感傷に襲われた。胸打つ感覚に浸る間も無く、動かした手のひらと背中から、大地の温もりが伝わってくる。寝転びながら見る空は広く、白と青と薄紅の色彩が入り混じっていた。空気は澄んでいて、風は涼やかな熱を運んでくる。露わになっている顔を、柔らかい風が撫でてゆく。少しだけ乾いた風が頬に残してゆく微熱がなんとも心地よい。

 

「…………」

 

体を起こして地面に置いた手を動かすと、さらりとした砂の感触があった。すくい上げてみると、赤銅色の砂が指の間からさらさらと落ちて、手のひらに残った砂を風が攫ってゆく。やがて空になった手のひらには、ほのかな熱だけが残されていた。鼻腔を刺激するのは緑の香りで、聞こえてくるのは風の吹く音だった。体の内側へと染み入ってくるそれらの刺激はもう二度と得る事が出来ないだろうそんな感触で。

 

「なんで……」

 

思わず抱いたそんな疑問とともに辺りを見渡すと、そこにはまるで見覚えのない光景が広がっていた。はるか彼方に見えるのは、あまりにも巨大な赤褐色の山だった。その傾斜は緩やかで地平の果てにまで伸びているくせに、その頂きは天を貫くそんな勢いでどこまでも高く聳え立っている。斜度と裾野の広がりから推測するに、おそらくその標高は軽く一万メートルを超えているだろう。

 

立ち上がり、広大ながらも緩やかな山の稜線を辿ってゆくと、そこにはやがて鮮やかな緑が登場し始める。多くの葉は水のドレスをその身に纏っているのだろう。今まさに姿を現しつつある太陽に照らしあげられた森林はまるで自らの発育を誇るかのように、艶やかな薄青緑の光を周囲に撒き散らしていた。落涙を受け止めたかのように落ちた露に濡れた地面は、その誉れを叫ぶかのように、大地を濃く染め上げている。

 

だが、そんな彼らの激しい主張は、しかしさらに視線を横へと動かす事で、とるに足らぬものとなる。そうして視線を動かした先にあるのは、先程の山すらも勝るような勢いで天を貫くそんな巨木だった。繁らせた葉を輝かせて若々しさを主張する先程の彼らと違い、彼はそういった主張は所詮、自らの姿に自信の無いものが行う小手先の美に過ぎないと言わんばかりに、雄大な、あまりにも雄大なその長身にて、天と地との間に架け橋を作っていた。

 

「世界樹――――――……っ!」

 

太い幹の行方を追って天に聳える樹木の先端にまで視線を届かせると、天蓋を覆うようにして萌える梢には、足元に群がる小さきものたちの努力を嗤うかのように、澄んだ緑が煌めきをばら撒いている。天にまでその身を届かせたものの特権と言わんばかりに、天上にある千切られた雲の端々を衣として身に纏うその姿には、文句のつけようもない完全さがあった。もしも天にまで聳える樹木、という表現をそのまま絵にしようと思ったのならば、目の前のこれをそのまま写す以外にそれを実現する方法などないだろう。

 

それはまさに概念図だった。微塵ほども誇ろうなどという気がないくせに、存在するだけで他の全ての樹木の価値を自ずと一つ下げてしまう。そんな巨大な樹木の纏う完璧という名の芳香に惑わされるかのよう視線をさらに上へと伸ばしてゆくと、視線がその頂きにまで到達した瞬間、天空に夢幻の如き光景を見つけて、絶句する。

 

「月が……、二つ……」

 

思わず、呟いた。微かに赤みがかった空には、大小二つの白円が薄っすらと浮かんでいる。古くは人がまだ猿であった時代から人間の営みを優しく見守っていたはずのそれは今、それらとなりて、星々の煌めき散りばめられた天の座に行儀よく端座していた。覚醒しかけていた脳が再び幻想との狭間へと引き戻されてゆく。

 

「ここは、いったい……」

 

うわつくような、地に足つかないような、そんな夢見心地の気分で天に視線を彷徨わせていると、やがて世界樹が身に纏っていた雲に隙間が生まれた。そうして生まれた狭間から落ちた一条の光は、大地に向かって真っ直ぐと伸びてゆき、やがて大地を穿っている。生まれた光の槍に導かれるようにして視線を落としてゆくと、大地に突き刺さった光の中に、それまでの桁外れと比するにはあまりにそぐわない、ささやかな、しかしとても見覚えのある、故に心を落ち着かせるような光景を見つけ、再び思考が停止した。

 

「街……」

 

いつのまにか強化していた視線でその場所を眺めると、自然の猛威に負けるかとの思いが意匠されて作られているその建造物の数々が飛び込んでくる。赤褐色と茶色ばかりが目立つその色合いから察するに、建物はおそらくは木材や砂を固めた日干しレンガで作られているのだろう。また、さらに目を凝らせば、大地を開拓し、その隙間を縫うようにして生まれたのだろうそれら建造物と建造物の狭間には、細々と動く線のような存在があることに気が付ける。

 

「人……」

 

街の中を多くの人が行き交っている。それは現実の地球という場所であるならば無論、別段、珍しい光景では無い。例えどんな場所だろうと、人というものは群れて協力し合いながら生きてゆく生き物だ。だから、それは別に驚くべき事ではない。――だが。

 

「獣……人?」

 

そうして行き交う人々の頭には、獣耳が生えていたり、あるいは背中に翼を生やしていたり、あるいは、頭にツノを生やしたい獣のような見た目の存在が二足歩行で歩いていたりという光景は、間違いなく驚いて然るべき光景であると言えるだろう。往来には他にも、子供としか思えない体躯の、しかし大人びた態度をとる人型の者がいたり、あるいは二足歩行のロボットが平然とそこに混じっていたり、耳だけが尖っているような人間がいたりと、千差万別という言葉を現実にしたかのような光景が広がっている。

 

「いったい……」

 

かつてあった幻想のお話をそのまま現実へと持ってきたかのようなそんな光景を前に、だからこそだろう、頭の中にかかっている靄が晴れてくれることはない。故にそれはおそらく、同類を求める人間の本能がさせたことだったのだろう。晴れやかな空の下、しかし幻想の霧中を歩くようにして、体は人の営み行われている場所へと向かってゆく。

 

 

まるで白昼夢を見ているようだった。

 

「――!」

「――、――、――――!」

「――!?」

「……――」

 

街中から聞こえてくる言語はどれも聞き覚えのあるものばかりだ。日本語もあれば、英語もある。中国語特有の間延びしながらもテンポの速い声が聞こえてきたかと思えば、ドイツ語の何処か重苦しいような感じの音声もそこにはあった。もしもこの耳に飛び込んでくる雑多な音声だけを切り取ってこの街の視覚情報一切を持たない自分自身に聞かせたのならば、国際色豊な発展を遂げた都市の何処かと答えたに違いあるまい。

 

だが平時ならば言っていただろうそんな答えをつまらないと否定するかのように、視界の中には異様としか言えない光景が広がっている。雑踏、行き交う人々の姿は、それこそまさに様々だ。仲良く談笑しながら歩く二足歩行している人型の兎や牛の姿があったかと思えば、兎の耳や犬か猫のだろう耳だけを頭に生やした男女が仲睦まじく喧嘩している姿がある。自らの体躯ほどもある棺桶を二つも自身の周囲へと浮かせているほぼ裸身の顔色が悪い少女がいたかと思えば、その背に寝っ転がった青年を乗っけたパンダが対して広くもない道を悠々と歩いてゆく。

 

そこはまさに混沌の坩堝だった。もしも周囲の建物に規則正しい法則性がなかったのならば、今自分は、間違いなく夢を見ているのだと思い込んでいたに違いない。だが、そんな混沌とした彼らという存在が集って作り上げたのだろうこの街において、そんな彼らが当たり前のように店前に立ち、商売活動に勤しんでいるという事実が、目の前の現実を夢として片付けさせてはくれずにいる。

 

何か一つ、自身の身につけている常識で解せるような光景があれば動いてくれるだろう頭は、しかし、いつまでたってもそのきっかけを得られないが故に、未だまともに動かない。だから夢見心地がいつまでも終わらない。そうしていつまでたっても現実感を得られないままに街の中を歩いた。夢見心地に酔う中で、さらに陶酔の心持ちを加速させたのは、街中にいる彼らの目には余さず不屈の光が宿っているという事実だった。

 

街中はお世辞にも綺麗と言い難い環境だった。街の端の方には環境に過酷な対抗した証なのだろう崩れた建物の多くが手付かずの状態で放棄されている。頻繁に砂嵐でも吹き荒れる環境なのか、街の全体は何処か埃っぽさがあった。井戸に加えて、貯水タンクがあちらこちらにあることから察するに、豊富に水を使えるような環境でもないのだろう。努力を無駄と嘲笑うかのように、舗装路を砂が覆い隠している部分も少なくない。建物は多くの礫を受けたためか細かな傷が目立っている。高台の方まで来ると、街のすぐ近くには砂の海が広がっている。街ゆく人の中には、髪が砂で固まっていて、櫛も通せそうにないような状態の人も少なくなかった。

 

けれど。

 

けれど、それでも、街を行き交う人の中に、倦怠や絶望の色はない。生活の端々に不便を強いられた痕跡を見つけられるにもかかわらず、それでも、その瞳のうちに闇のようなものを宿していないのだ。誰もが生きたがっている。誰もがこの過酷な環境下の中で、しかし笑って暮らしている。誰もが迫り来る障害などに負けてたまるかという負けん気を宿している。誰もが生き抜いてやがて何かを成し遂げてやるという、そんな気概にあふれている。まるで、自分にとって夢のような光景が目の前には広がっている。だからこそ未だに、これを現実の光景として自分は受け入れられていないのだ。

 

階段を登り、細い路地を歩き、高台の公園にあったベンチに腰掛ける変化した世界を眺めながら、改めてなぜと思う。息を吐くと、臓腑の底から吐き出されたような溜息が舗装された道の上に落ちて広がってゆく。見て回った街の作りは中東から東欧、砂漠の乾燥地帯によく見られる家の作りをしていた。纏っている服はまともなものから頭を疑うようなものまでバラエティにこそ富んでいたが、大まかに地球という星の過去において流通していたものや、エトリアという未来の世界において冒険者と呼ばれる彼ら達が纏っていた服の意匠と、多数の共通点を見つけることができる。何より、街をゆく彼らの顔にあるあの希望に満ちた瞳こそが、この場所というものがかつて自らが願いと聖杯を託した世界の人々の手によって生み出されたそんな場所である可能性が高い事を示している。

 

だが、だとすれば、なぜ自分という存在がそんな世界に存在していられるのかがわからない。人間の歴史というものは模倣と積み重ねの連続だ。だからこそはじめの一歩たる原点に悪意や不信が多く記されてしまっていれば、その後、模倣と積み重ねによって得られる全てのものに、その悪意や不信が受け継がれていってしまう。

 

人という種族は森から出ていった猿が楽園を求めて平野に進出したが故に生まれた種族である。かつて多くの人は、猿が森を出て行ってたきっかけが、猿が縄張り競争に負けたが故に追い出されたという消極的な理由にあると信じていた。無論、未知を求める自らの好奇心によって突き動かされたが故に、猿は森から自らの足で出て行ったのだという積極説もあった。しかし、多くの人は前者の説の方こそ正しいものであると支持していた。彼らは、そんな猿の気質こそがもっとも人間らしいと主張し、信じていたのである。

 

思うに、人類の祖先にはどちらも存在していた。そして縄張り争いに負けたが故に平野へと進出した猿であると主張する彼らは、そんな猿たちの気質を色濃く受け継いだ人たちである、そして、後者の説を信じる人々は、自らの好奇心を満たすため、勇気を出して安楽の地から一歩を踏み出た猿の気質を受け継いでいた。平野に出た猿は多くいて、それぞれ個体によって様々な事情はあっただろうが、その多くは多分、消極的理由に追い出された猿だった。自らの足で安楽の土地から出て行ったのは、ほんのわずかな数だけだった。

 

がその差が。勇気を持って恐怖を克服し、困難を打破した事があるか否かという経験の差こそが、両者の思考の差異を生み、やがて自己と他者を不信する種となってしまう。そしてそれはやがて、自己と他者との間の隔絶となり、戦争を引き起こす火種や、悲しみの連鎖を生む種となりかねない。

 

だからこそ、全ての人が自分を信じられるよう、はじめの一歩をつまづかないよう、力を貸す存在になろうと、考えたのだ。そうなるための手段は揃っていた。そうなれるための力は自分の中に蓄積されていた。自分がそうして人々を奮い立たせた後、人々が世界を自分たちの思い通りにするための手段だって、用意されていた。

 

もうこの世に絶対的な力を保有した誰をも助けられる正義の味方など必要ない。だってもうこれからは、全ての人が誰かのことを気遣いながら、しかし自分だけの正義/幸福を追求してゆけるそんな時代がやって来る。少なくとも衛宮士郎は、自らの行動の先にそんな未来が待ち受けているはずだと、そう信じた。だからこそ衛宮士郎は、自らの存在を幻想の中に還す事を選択したのだ。

 

はじめに自分の力で、自分の体で、何かを成し遂げたという事実こそが、やがて自らが自らの足で生きて行く為の自信となる。そしてまた、誰かの力を借りてそれを成し遂げた人は、必ず自らが受けた恩を他の誰かに返したくなる。人間とはそういう生き物だ。誰かのためではなく、他でもない自分のために、困っている誰かを救い、過去の自分が出来なかった事を自分は出来るようになったのだと、自分の力で自分を救いたがる、そんな生き物だ。

 

だからこそ自分は……。ああ、なのに、なぜ。

 

――やめよう

 

疼痛に気付けば自分がいくら考えようと答えの出ない迷宮に迷い込んでいた事を自覚させられる。痛みを振り払うために頭を振ると、視界が軽く漂白されていった。眩さに耐えかねて閉じていた瞳を一度軽く開いて宙を彷徨わせると、気が抜けたのか息が虚空へと逃げ出してゆく。空気に溶け、やがて沈殿して行った吐息の行方を追って視線を地面に向けてやると、先ほどよりも影がだいぶ短くなっていることに気が付ける。見上げれば空はもう太陽がその頂へと到達しかけていた。どうやら自分は二時間ほども無為に時間を過ごしてしまったらしい。休まらない気と不思議な感覚に急かされるよう立ち上がると、再び目の前に広がる幻想入り混じる雑踏の中へと身を投じてゆく。

 

結論を出せなかった故だろう、未だに頭は重く、霞がかっているかのような気分から抜け出せずにいる。自分の存在している場所が何処であるのかはっきりとしないという事実が緊張を継続させ、神経を張り詰めさせていた。せめてこれが衛宮士郎という存在が消える寸前に見ている走馬灯の如き幸せな夢なのか、あるいはなんらかの理由で現実に呼び出されてしまったのかがわかれば違うのかもしれないが、あいにくとそれを判断するにはあまりに材料が足りていない。故にその判断材料を探すためにこうして街中を歩いているわけだが、あるけどもあるけども見つかるのは夢現の判断を惑わせる材料ばかりで、判定の助けとなるものは何も見つからない。

 

ボケた頭で観察と考察を繰り返しつつの作業は集中と精神を削られる。思考を巡らせる程に、外界へと気を配る余裕が失せてゆく。一秒後にこの世界が瓦解してしまうかもしれないなどという不安と戦っているのは、この街でおそらく自分くらいのものだろう。誰も彼もが幸せそうな顔をしてゆく中で、自分だけが眉をひそめて不機嫌顔を浮かべている光景を幻視して、やはりこの世界は自分がいるべき場所ではないのだろうという思いを抱かされる。あれほど焦がれていた心地よいはずの世界に、しかし自分だけが馴染めていないという事実が、進む足の速度をあげさせていた。馴染まぬ自分との接触でこの理想の世界が崩れてしまわないだろうかという気分にすらなってくる。そうして他人と接触を避けるので精一杯だった自分は、やがて人の波に乗せられていることに気がついた。

 

さて自分はどこへ向かわされているのだろうと考えた途端、自らの足が向かっている場所の情報を鼻と耳で知ることとなる。雑踏の賑わいの中から香ばしい匂いが漂ってきては、鼻腔をくすぐってゆく。朝方から何も腹に入れていないせいだろう、途端腹の虫がざわつき始めていた。このような時でも腹は減るのだな、と、不意に訪れた現実の刺激に苦笑する。そういえばもう、時刻は昼過ぎだ。ならば人の流れがその区画に向かっているのも、そんな人の波の行方に身を任せていた自分がそんな場所にたどり着く事は当然のことだったと言えるだろう。

 

「飲食街、か……」

 

あたりには出店や店先で買った品物を咀嚼する人々が多くいた。この脳髄と腹を刺激する匂いはこれらの何処かからやってきた匂いなのだろう。

 

「……うん?」

 

はしたなくも鼻をひくつかせていると、気がつけばある店の前で足を停止させられる。それはなんとも覚えのある匂いだった。匂いはどうやら煙に乗ってやってきているようである。意識の一部を掠め取ったものの正体を確かめてやろうと店の方に目をやるも、煙を発しているの正体が何であるかは掴めない。煙は排煙パイプと店外販売用のスペースを隠す遮光カーテンの隙間から漏れ出していたからだ。店の入り口に目をやれば、仕込み中、との文字が書かれている。稼ぎ時の昼に店を開けていないところ見るに、夜にのみ営業する店なのかもしれない。

 

「……」

 

などと考えつつ、気付けば閉じられていた扉を押していた。それはほとんど反射だった。カラン、カラン、と、小気味のいい音が鳴り響く。足が店内へと入り込んだ瞬間、己の行為が冷やかしと呼ばれるそれ以外の何者でもないことをすぐに気がついた。だって自分は無一文だ。全身はいつもの格好だが、自分はそれ以外に何も持ち合わせていないのだ。投影魔術を用いれば金銭くらい用意出来なくもないが、そんなズルをするほど自分は落ちぶれているつもりもない。

 

「飲み屋……、かな」

 

入り込んだ店はバーと焼き鳥屋を合体させたかのような場所だった。店内は広く、数十のテーブルと、百数十はあろうかという椅子が並んでいる。右手にあるカウンターの奥の棚には酒瓶が所狭しと並び、窓の方まで続いていた。続いた棚の先、入り口近くにある煙窓の方には、酒の劣化を防ぐ光除けなのだろう、黒い遮光カーテンが取り付けられている。煙窓と遮光カーテンの間には少しばかり狭い空間があり、そこはガラスで店内の客と接しないような工夫がなされていた。多分は煙で客を不快にさせないための仕組みなのだろう。

 

また、ガラスと遮光カーテンとで仕切られたそんな狭い空間には、音を立てる炭の入った箱がいくつか並んでおり、その上には鉄網が並べられている。熱を帯びて多少赤を帯びた網の上には木串に刺さった動物の生肉が数本並べられており、炭による遠赤外線効果にて、弱火でじっくりとその身を燻され続けていた。

 

――火を使っているのに現場を離れるとは、なんとも不用心な……

 

「……!」

 

などと余計な世話を考えていると、ドタドタと店の奥から足音が聞こえてくる。足音は忙しく、焦りが感じられるものだった。ベルの音に営業時間を間違えた愚か者の存在に気付いたのか、あるいは不測の事態で火元から離れざるをえなかった故に急いで戻ってきたのか。あるいはその両方なのかもしれない。

 

考えている間にも重苦しい音は近づいてきている。その大地を鈍く揺らすような音は、そうして急ぎやってくる誰かの体重が一般よりも重たいという事実を如実に表していた。客に料理を提供する飲食店の店主というものが、気付けば味見と不摂生、そして乱れた食生活という暴挙を繰り返し、結果として見た目も重量もふとましいものとなるのは、決して珍しいことではない。おそらくこの店主もその類の一人なのだろう、と、勝手に想像を膨らませると、恰幅の良い人物がこの店の主人なのだろうと、顎に手を当てて目を閉じながら、さらに勝手に想像の中で店主の姿を更新した。

 

失礼極まりない推測を重ねていると、足音はもうすぐそこにまで近づいてくる。さて、どうするか。どうせ自分は金を持っていないのだ。ならば彼がくる前に店を出てしまってもかまわないだろう。……とも考えたが、しかしこのまま出て行ってしまえば店の主人がさて先ほどのやつは何の目的だったのだろうかと疑問を抱き、心に不審と余計なわだかまりを抱えてしまうかもしれない。あからさまにこちらの不手際で相手に不快な思いをさせるというのは、いかにも失礼というものだ。ならば店主にこちらの不手際故に余計な手間と苦労をかけさせたことを素直に謝るというのが最も適当な対応というものだろう。

 

「すまん、待たせ、た……」

 

対応の方向性を決定すると男はすぐに姿を現した。だが様子がおかしい。出てきた男はこちらの顔を見て絶句しているようだった。

 

「いや、こちらこそ、勝手に申し訳――」

 

ともあれ非礼を詫びようと、閉じていた目を開け、顔を正面へと向けると、暖簾を払いのけて出てきた男のその見覚えのある顔と体つきを見て、こちらも絶句させられる。

 

「な……――」

「な……――」

 

奇しくも最後に発した言葉はまるで同じものだった。

 

「へ……、イ……」

「エミ……、ヤ……」

 

目の前に現れたそれが現実のものとは信じられぬと言わんばかり、互いに視線を上下に動かして相手へと這わせてゆく。動き回り視線は、しかし絡み合うことなく、互いの体の上を動いてゆく。虹彩から入ってくる情報は奔流となり、互いの脳裏を麻痺させ続けていた。

 

――ぱちん

 

「あ……」

「お……」

 

沈黙の払拭は第三者の手によって行われた。音の出どころへと視線を移動させると、加熱された網の上では串に刺さった肉が煙を上げながら滴る血をその身の上で踊らせていた。時を動かす刺激が全ての契機になったのか、煙を逃していた窓からつよい風が吹き込んでくる。開いている入り口と煙窓から飛び込んだ風は煙を巻き込みながら、部屋の中を自由闊達に駆け巡ってゆく。

 

――ぐぅ

 

緊迫の解けた空間に、間抜けな音が鳴り響いた。風に撒き散らされた香ばしい匂いが、鼻腔から飛び込み、脳裏を刺激したのだ。互いの視線は同じ場所で合流したのち、やがて真正面からぶつかり合う。目線の交流はしかし、すぐさまヘイという男の動きによって終了した。

 

ヘイはそして呆然とした表情のまま店内のカウンターに入り込むと奥へと進んでゆく。そして彼は黒の遮光カーテンを潜って小部屋へと入り込むと、適度に焼け終えた木串を皿に移して横の机の上に置いた。ぷちゅん、と、肉が弾けて、汁が皿の上に広がってゆく。ヘイはそして見た目だけで味が良いことを相手に察せさせるその串肉のうちの一本をトングで掴むと、再び遮光カーテンを潜り抜け、カウンターの中の向こう側から木串の持ち手をこちらへと差し出してきた。

 

「――はいこれ」

 

既視感のある光景が、夢現の中にあった意識を覚醒させてゆく。

 

「金はない」

 

思い出せば、初めてエトリアという街にやってきたときもこんなやり取りをしたものだ。

 

「いらんよ」

 

あのとき、彼という人物と出会わなければ、衛宮士郎/エミヤシロウという存在は、エトリアという街で冒険者になることを目指さなかったかもしれない。

 

「借りでも売る気か?」

 

互いの間で交わされる言葉はあの時のままだ。

 

「いや」

 

けれど、お互い、これまで積み重ねてきた経験が。

 

「少しでも借りを返したておきたいのさ」

 

その結末を、かつてものもとは違うものとする。

 

「――なら、遠慮なくいただこうか」

 

借りとは何か、などと、無粋なことは尋ねない。生きるということは誰かに借りを作るということと同義だ。そしてたしかに自分は、たしかに彼に多くの貸しを作っている。また、借りを本人に返せないことの辛さというものを自分は痛いくらいに知っている。

 

「ああ」

 

差し出されたそれを手に取ると、迷わずかぶりつく。歯を突き立てると肉はするりと噛み切れた。切断面から汁が飛び散り、口の中で跳ね回る。熱を帯びた肉から伝わってくる感触と、肉から漏れ出した煙の微熱が鼻腔を擽ってゆくその連携が、なんともたまらない。

 

「突撃イノシシの肉だ。樹海牛とは違って多少臭みはあるし、そのまま焼けば暴れ野牛よりも味は劣るが、香草でカバーしてやればエゲツないその香りはなんとも言えない野性味溢れた味になる」

 

刺激に意識が夢から引き戻されてゆく。彼の腕前はあの時よりも格段に上がっていた。そんな些細な変化が空腹以上に幸福を呼ぶスパイスとなったのだろう。気付けば握っていた串に刺さっていた肉は、全て腹のなかに収まっていて。

 

「ご馳走さま」

「ああ。お粗末様」

 

いつぞやのように口について汁を手のひらで拭い、空になった串をくるりと回して先端の向かう先を天井を彷徨わせると、ヘイはトングでカウンター客席側にある小さなペンケースのようなものを叩きながらいう。多分それは串入れなのだろうと判断して、手にしていた空の串をその中へと放り込む。するとからん、と小気味のいい音を立てて、串は長方形の箱の中へと収まっていった。

 

「さて……」

 

空腹が収まった途端、現実感が湧き上がってくる。腹の減り具合と血の巡りというのはやはり脳と密接に関係しているのだなと、酷く間抜けな感想を抱きながら店の中へと進むと、レジの向こうにいるヘイへと視線を向けてみた。

 

「ええと……」

 

話すべきことはたくさんあるし、聞きたいことも山ほどあるのに、何から聞けばいいのかがわからず固まってしまう。ここはどこなのか。あの後どうなって、君はどんな経緯を辿ってこの飲食店の店主などをやっているのか。他のみんなはどうしたのか。行方を知っているのなら、聞かせてもらえないだろうか。さて、どれから尋ねるのが最も適当だろうかと考えていると――――――

 

「あ、ちょっと待ってくれ、エミヤ」

 

こちらの思惑を態度や顔から察したのだろう、カウンターの向こう側にいるヘイが思考を中断するよう告げてくる。彼はカウンターの下から一本のワインボトルを取り出すと、それをカウンターの上においたのち、豪奢な装飾のなされた黄金のグラスをいくつかカウンターの上へと追加した。

 

「それは?」

 

ヘイという男のイメージに合わないグラスと酒瓶を前に、浮かんできた疑問を素直に呈する。

 

「いや、もうそろそろ戻ってくる筈なんだよ」

 

そして彼が首を傾げた途端――

 

「あー、もう、ムカつくわね!」

 

背後で扉が荒々しく開かれ――

 

「常連なんだから、少しくらいおまけしてくれてもいいじゃない! そう言うサービスの有無が太く長い常連客の有無を生むってのに、これだから商売っ気のない奴は!」

「――」

 

心を射抜くような叫び声が聞こえてきた。どれほどの時が経過しようと忘れ得ぬその声は心にあった全ての混濁の思いを吹き飛ばして、歓喜と歓喜と歓喜の感情に塗りつぶしてゆく。優先順位が瞬時に書き換わる。先ほどまであれほど消滅を望んでいた思いは、現金なことにもう何処かへと行ってしまっていた。

 

「って、あら? お客――」

 

背後から聞こえてくる声が途中にて停止する。息を呑むそんな音が聞こえてきた。彼女がどのような顔を浮かべているのかなんて、振り向かずとも理解ができる。当然だ。なにせ自分と彼女との間には特別なつながりがある。この身の元となった肉体はかつて彼女と夫婦の絆で繋がれていたし、この魂はかつて彼女と主従の絆で繋がれていた。肉体も、魂もが、かつて彼女と共にあったのだ。ならば顔なんてみなくとも、声色一つで彼女の思いを察することが出来なければ嘘と言うものだろう。

 

「――、―――――、――」

 

口を開こうとして、しかし閉じ、しばらくしては、また開き。唇を開いては閉じ、閉じては開くその小さな音が、外で聞こえる雑踏の音などよほど大きく聞こえてくる。鼓動は馬鹿みたいにはやくなっていた。彼女は先ほどの私と同じように、言うべき言葉を探して倦ねている。そんな葛藤がなによりも触媒となって、心から溢れ出んばかりの感情を引き出してゆく。そんな極まった感情を抱いているのは彼女も同じらしく、それ故にいつまでたって会話が始まる様子は見せなかった。

 

「ま、色々と話したいことはあるだろうし、口を挟むのが無粋だってのもわかるんだけどさ」

 

そんな正面を向き合わないお見合い状態を見かねたのだろう、ヘイはひどく申し訳なさそうな声色でそう告げてくる。

 

「消えた奴が帰ってきたんだ。なら、最初に言うべき言葉なんて、あれ以外にありえないだろう」

「――そうね。その通りだわ」

 

そして凛は決心した様子で、ヘイに軽く頭を下げると、向き直って前に進んできた。心臓は壊れそうなくらいに高鳴っている。緊張で神経が潰れてしまいそうだった。すぐに振り向いて彼女の顔を見たい気分になったが、それをするにはまだふさわしくないと自分に必死で言い聞かせる。彼女はきっと、今、目の前の男のために、自らの顔を最高のものへと作り変えている最中だ。なら、それを待つのが、それに相応しい最高のタイミングで最高のものを返すのが、男の甲斐性というものだろう。それを語るに落ちるような無粋で穢すような真似だけは、絶対にできないと思っていた。

 

「……よし」

 

やがて準備が終わったのか、小さく彼女が呟く。それだけで鼓動は最高潮に達していた。唇が枉がっていくのを止められない。すぐあと、やがて訪れるその時が、こんなにも待ち遠しい。焦るべきことでも、慌てるべきことでもない。だが、急く思いは、まだかまだかと、その時が来るのをこんなにも待ち望んでいた。

 

「アーチャー」

 

やがて聞こえてきた声に、心臓が大きく一度脈動する。鼓動は血管が破れてしまいそうなくらいに早くなっていた。振り向いたその先にある顔を予測して、少しばかり躊躇する。本当にこの身にそれを受け取る資格があるのだろうかというそんな間抜けな迷いが湧き出てきたのだ。だが、そうして過去に培ってきた臆病の中より湧き出てきた身勝手な思いを、背後にて彼女がその時を望んで待っているという事実にて思い切り打ち砕くと、以前とは異なる自分のなったのだということを見せつけるべく、彼女が自分を選ばなかったことを後悔するくらい、彼女が浮かべているだろう顔に負けなくらいの笑みを浮かべて、勢いよく振り向いた。

 

「ああ――、なにかな」

 

そして見つけたその顔に、思わず見惚れてしまう。その落涙は美しかった。その枉がった唇は麗しかった。その緩んだ頬は優しかった。その光の中にある笑顔は、これまで見てきたものの中で、最も美しく、無垢で、素晴らしいものだった。

 

「おかえりなさい」

 

そのたった一言には、遠坂凛という女の全ての思いが込められていた。世界の全てが衛宮士郎という存在を拒もうが、自分だけは決して貴方を拒まないという、そんな慈愛の思いに満ち溢れていた。それは自分という存在の居場所が世界に存在しているという事実が、こんなにも人間の救いとなってくれるという証明以外のなにものでもなく。

 

「ああ……、ただいま」

 

だからこそ衛宮士郎/エミヤシロウは、エミヤシロウという存在が出した答えを肯定するかのような最高の答えをくれた遠坂凛に対して、万感の思いを込めた、今の自分にできる最高の笑顔で彼女の言葉に応答する。

 

「アーチャー!」

 

この自らが存在してはいけないはずの世界に、しかし自分の居場所を見つけた男の笑みは、目の前の彼女の顔をさらに美しく彩る材料となり、彼女は最高の笑顔で、泣きながら思いっきり破顔した。

 

 

「そして最後に切嗣の声が聞こえたと思った次の瞬間、気付けば、この世界にやってきていたと、いうわけだ」

「ふぅん……、なるほどね……」

 

再開の挨拶を終えたあと、カウンターの前の席に二人並んで座り、そして彼女に自分がこの場所に来るまでに辿った全ての事情を話すと、彼女は神妙、かつ納得したといわんばかりに首を数度縦に振る。

 

「ふむ……、何かわかったのかね、凛」

 

どうやら彼女には世界を守る守護者として消えていくはずだった私がこの世界に呼び出された理由を理解したらしい。

 

「え? アンタはわからないの、アーチャー。――――――ああ、なるほど、うん、まぁ、アンタはそうかもね」

「凛?」

 

そう判断して尋ねると、彼女は心底驚いたという顔を浮かべた。しかしすぐのちに、つくった拳でもう片方の手のひらを叩くと、意地の悪い笑みを浮かべながら、口を開く。

 

「ね、アーチャー。貴方、子供って持ったことないでしょう?」

 

そして突然飛んできたその質問に、思い切り首を傾げさせられた。

 

「それは……、その通りだが……」

 

困惑しながらも、当然の答えを返す。そうとも。アーチャーに至ったエミヤシロウに子など存在しない。だってそんな日常の延長線上にのみあるものを、万人にとっての正義の味方などという非日常の存在を目指していたエミヤシロウが手に入れられるはずもない。

 

「うん、そうよね。だから、まぁ、それはアンタにわからなくてもしょうがないことなのよ」

 

凛はそして満足したように頷く。そうして凛は、したり顔を浮かべてこちらの方へと視線を送ってきた。そうして彼女が浮かべたその顔はなんとも言えない感情を心の中に呼び起こし。

「凛。その答えがわかるというのであれば、意地悪しないで教えてもらいたい」

 

気付けばこの口は、そんな質問を飛ばしていた。こちらとしてはその質問の答え如何が、この世界とそこに住まう人々が今後も不自由なくやっていけるかどうかに直結しかねないものである。故にそれは真剣な思いから生み出された質問だった。

 

「ぷ……、あ、あは、あははははははは!」

 

だが凛は、アンタがそんな真剣な顔浮かべてこんな問いの答えを聞いてくるからいけないのだと言わんばかりに、腹を抱えると、大きく、明るく笑いだす。

 

「凛!」

 

その暗い感情が一切秘められていない太陽のような明るい笑いには、見たものを見惚れさせるほどのものであったが、真剣な思いからでた質問に対して返ってきたその茶化すような態度を流石に見過ごしておくことができず、思わず語尾を強くして彼女の名を呼んでしまう。

 

「ああ、うん、ごめんごめん……。――、えーっとね、アーチャー」

 

すると凛は、涙腺に浮かびつつあった涙を指で拭うと、仕切り直しと言わんばかりに大きな咳払い一つ漏らしたのち、柔らかい笑みを浮かべながらいった。

 

「貴方が今回、命を捨ててまで、この世界の人々のために尽くしたのはなぜ?」

「――何?」

 

質問の意図が掴めず聞き返す。

 

「凛。君はいきなり何を……」

「いいから答えなさいよ、アーチャー」

 

だが凛はこちらに答えを出せと詰めてくる。その態度には有無を言わせないわよ、といわんばかりの迫力があった。

 

「――私がそうしたかったからだ」

 

故に、湧き上がってきた答えを素直に口にする。

 

「それはなぜ?」

「なぜ……、って、それは私が正義の味方を目指していて……」

「困っている人を、死にゆこうとしている誰かを見逃せないから。――そうでしょ?」

 

そして凛は私の言葉を横取りする。

 

「凛」

 

わかっていながら答えを問うた凛の意図がまるで掴めなかった私は、思わず文句を口にしようとする。

 

「それと同じようなものよ」

「え?」

 

だが凛は、やはり私の問いなどわかっていると言わんばかりの態度で、さらに言葉を続けた。

 

「もちろんアンタのそれよりはもっと限定的だけどね。――ねぇ、アーチャー。親ってもんはね。自分の子供には、自分なんかより長く生きていて欲しいし、なんなら自分なんかよりも幸せになって欲しいものなのよ。ましてや、自分の子供が喜んで命を投げ出そうとしているのを、のうのうと笑顔で見守る親なんていやしないわ」

「――」

「そりゃ話を聞く限り、世界が、人類が必要としていたのは、アンタが手に入れた神の如き力だけで、アンタの心とか体とかは不要だったのかも……、とか、いくらでもいろんな理由は考えられるわ。でも、こう考えるのが一番スマートで、一番綺麗で、一番、貴方にとって救いがあるんじゃないかしら?」

 

凛はそうして先ほどのそれより勝るとも劣らない華のような笑みを浮かべながらいった。

 

「人類の中にあったという、過去の英霊たちの記憶。それを保有していた人々が溶け込んだという蠱毒の泥の中には、正義の味方になろうとしてでもなれなかった衛宮切嗣という男の記録もたしかに含まれていて、そんな彼は自分の子供である衛宮士郎が世界やそこに住まう人々なんかのために命を投げ出そうとするのが許せなかった」

 

その小さな口から出てきた言葉はしかし、衛宮士郎という男の体にこれ以上にないくらい染み入ってきて。そんな溢れる想いを受け止めきれなかったせいだろう、気付けば涙が頬を伝い、落ちていた。落涙が机の上を叩き、小さな音が一つ二つと広い店の中に鳴り響いてゆく。木の板に焔よりも熱い想いが染み込んでゆく。カウンターの奥からわざとらしいくらいグラスを磨く音が聞こえてきた。その情けをありがたく思いながら、そして出てくるいつ終わるともしれない滂沱の涙を思う存分垂れ流す。凛は目を瞑ると、唄うようにして続ける。

 

「衛宮切嗣という男は、たしかに衛宮士郎という存在にとっての正義の味方で、最後まで貴方という自らの子供を助けて、そして逝った。――――――英霊エミヤシロウとなる前に、英雄エミヤシロウとして生を全うしてみろ。死と他人を尊ぶような生き方ではなく、生と自分を大事にする生き方をして欲しい。多分、貴方のお父さんは、そのために、貴方をこの世界に生かして返してくれた。多分、きっと、そういう事なんでしょうよ」

「――っ」

 

その言葉が引き金だった。両手で抑えようとも抑えきれないものが、両手の隙間から次々と溢れてゆく。止めようなどとは思わなかった。止めようなどとは思えなかった。かつて伽藍堂だった心の中が、暖かいもので次々と満たされてゆく。それが間違いだなんて、決して自分には思えない。だからこそ、自分は恥じる事なく、湧き上がる思いを世界に示しつづけるのだ。そうしてしばらくの間、暗い店内の中には、追悼と限りない感謝とを表す嗚咽と涙の音だけが、静かに鳴り響いていた。

 

 

「……みっともないところを見せたな」

 

やがて気分が落ち着いた頃、あたりを見渡す余裕を取り戻した私は二人に視線を送りながらいう。

 

「うん? ……なぁ、凛さんや。俺たちはなにかみっともないところを目撃しただろうか?」

 

だがヘイは、その太鼓腹を揺らして笑いながら、そんな言葉を返してきた。

 

「いいえ、まったく、なにも」

 

凛はヘイの言葉に、やはり笑いながら応答する。

 

「誰かを思って流した涙ですもの。みっともないなんて、そんなことあるわけないじゃない。それをみっともないなんていう奴がいたら、私が直々にぶっ飛ばしてやるんだから!」

「……感謝する」

 

そして返ってきたなんとも彼女らしい言葉に、苦笑した。

 

「あれ? でも、だとしたら、私はアーチャーをぶっ飛ばさないといけないということになるのかしら?」

 

そしていつのも調子を取り戻した彼女は、からかうように言ってくる。

 

「ああ――――――、これは失言だったな。悪いが、勘弁してくれ」

「よろしい!」

 

凛はそして謝罪を受け取ると、ニッコリと唇を抂げて見目麗しい笑顔を浮かべた。

 

「さて、そろそろこっちの準備もできた」

 

一方、カウンターの奥でずっとなにやらごそごそとやってきたヘイは、額に浮かんでいた汗を拭いながら言う。ようやくクリアになった頭で彼の方へと視線を送ると、どうやら彼は凛とのやりとりの間にもずっと料理を作っていたらしく、カウンターの内側の机には所狭しと見目よく調理された料理の乗る皿が置かれていた。

 

「準備?」

「おう。約束だったからな」

「約束?」

「ああ」

 

ヘイはそして磨き終えたグラスと料理を乗せ終えた皿のいくつかを、大きな盆の上に乗せながら言う。

 

「お前らが一緒に協力して戦うようなことになったら、一杯奢る約束だっただろ?」

「――」

 

その言葉に、あの店で彼と交わした約束を思い出す。

 

『労働には正当な対価が必要だ。多い分は今のところ、嘆願書の提出代金と思ってほしい。もし君の願いが叶って、彼らと私の対面が果たされて、今渡したそれが正当な対価でなくなったのなら、そうだな――、その時はオススメの酒でも一杯奢ってくれ。それでチャラとしよう』

 

ヘイの言う約束とは、かつて自分がまだ新迷宮という場所に挑んでいた頃、叶うことなどないだろうと思いながら戯れに述べた言葉のことに違いなかった。かつて発言した己ですらも忘れかけていたそんな口約束を、しかし自らの体を取り戻したヘイは覚えていて、いつかは果たしてやろうと思い続けていたのだ。

 

「あとはまぁ、このみんなの思いによって形作られた世界に存在している、アンタの事を悪しからず思っていた人たちが、どうしても貴方のことを忘れがたくって、だからこそアンタはそんな小さな、でも、やり残したこと(/居場所)がたくさんあるからこそ、この世界に連れ戻されたのかもしれないわね」

 

凛はそしてそんなことを言ってくる。最中にもヘイはいくつかのグラスとボトルを乗せたお盆を持つとカウンターから店内へ姿を表し、中央付近にあった一番大きな円卓のテーブルに手にしていたお盆を置き、椅子のある場所へと並べてゆく。

 

「いつか絶対にこんなような時が来るって信じてたから、まぁ、あのギルガメッシュとか言う人に頼んで、一番いい酒を貰っておいたんだ」

 

そうして机に九つのグラスを並べ終えたヘイの顔は、肩の荷が降りたと言わんばかりに緩んでいた。

 

「ちょっと、ヘイ! それ、私、聞いてない!」

「――そうか」

「ああ」

「ちょっと、ヘイったら!」

「いや、言うなって言われてたんだよ……。だってあの人、『ふむ。世界が更新された祝儀代わりにくれてやっても構わんが、あの守銭奴にだけは絶対、我が貴様にくれてやったものだと言うでないぞ。事情を知ればあやつは絶対、それをどうにかして金に変えようとするであろうからな』って……」

「……あんの金ピカやろう!」

 

そして騒がしい日常が戻ってくる。凛は騒ぎ、ギルガメッシュの悪態をつきながらヘイの手から酒を奪おうとし、ヘイはそれを見た目に反して軽やかな手つきで回避し続けていた。

 

「ちょっと! なんで避けるのよ!」

「いや、なんでお前さんは、俺の手からこれを奪おうとするんだよ!」

 

二人の態度は、何処にでもありそうなそんな平穏に満ちていて。

 

「ムカつくからよ! せめてもの意趣返しに、最初の一口くらい私が口をつけてやらないと、気がすまないのよ!」

「なんだその無茶苦茶な理屈! シンでもまだもう少しまともなものを言うぞ!」

 

だからこそ、何よりも得難い幸福がその中には含まれていた。

 

「ただいまー」

「戻ったぞ、ヘイ」

 

きっとこの先の世界には、どこにでもこんな景色ばかりが広がっている。

 

「おう、お帰り!」

「あら、おかえりなさい」

 

繰り広げられる光景は決して珍しいものなんかじゃない。

 

「おいおい、二人して何を……、って!」

「……エミヤ!? エミヤなのか!?」

 

そう。誰かと笑い、泣き、叫び、じゃれ合いながら、時には喧嘩をして、時には間違えて、しかしやがては仲直りして、正しくなってゆくなんてことを幾度となく繰り返して。

 

「ああ……、残念――、ではなく、ありがたいことに、死に損なうことができたよ」

「そうか……、そうか!」

「そりゃぁよかったなぁ、おい!」

 

そうして互いに間違えながら、支えあいながら、助け合いながら、人類はどこまでも進んでゆく。

 

「――あ、おい、アイツは?」

「アイツ? ――ああ、彼女なら今、響が宥めて連れてきているはずだ」

 

時にはひどい間違いを犯して死にたくなることがあるかもしれない。

 

「アイツ?」

「ああ。――多分、この世界の誰よりも、お前の復活を望んでいた奴のことさ」

 

時には乗り越えられそうにない壁にあたって、絶望に呑まれそうになることがあるかもしれない。

 

「ちょっと、響! 馬鹿力で引っ張らないで頂戴! このゴリラ女!」

「ちょ、ゴリラとはなんですかゴリラとは!」

 

だが、そうして誰かが絶望の淵に追い込められた時、今の人類には彼らを守るための力が存在している。

 

「あら、私、知っているのよ? 貴方、最近、シンよりも腕とか太ももとかが太くなりそうなんですってね。強くなるほどにシンが褒めてくれるのが嬉しいからってトレーニングに勤しむのはいいけれど、それで愛する人よりも逞しい身体なんかになっちゃ、女としておしまいだとそう思わない? 」

「ぐ、ぐぅ……。なんて人の痛い所を平気で突っついてくる――」

 

それは人が平穏無事に過ごしているときは、決して何もしようとしない。

 

「などと言っていますが、シン?」

「強い彼女の方が魅力的だ。それで何か問題があるのか?」

 

それは人が自らの力で何かを乗り越えようとしているときは、決して何もしてくれない。

 

「うん、まぁ、お前はそう言う奴だよな、シン……」

「まぁ、響の体が可哀想なことになる前に、俺らで適当に食事と特訓の内容を考え直してやるか……」

 

だがそれは、人が絶望の淵に立ってしまったとき、何処から必ずやってきてくれる。

 

「ええい、いいんです! 私はシンにだけ好きでいてもらえれば、ほかの誰にどう思われようと、関係ありません!」

「……ふぅん。――ムカつくわね。つまらないわ」

 

そしてそれは、人がこれからも自らの足で立って歩いてゆけるよう、ほんの少しだけ力を貸していってくれるのだ。

 

「うーん、お熱いことですねぇ」

「ほんと、お前みたいな戦闘馬鹿にはもったいねぇ子だよ、あの子は」

 

そして歩き方を覚えた人々は、やがて進んだ道の先、必ずや自らの正義だけを見つけ出すことに成功するだろう。

 

「うむ。その通りだ」

「あのなぁ、シン。自覚しているんなら、もう少しそれらしい態度をだな……」

 

そしてまた、彼らが見つけた正義が独善的になることは決してない。

 

「彼女が好きになってくれたのは、そんな戦闘馬鹿の私なのだ。ならば私が変わる必要などあるまい」

 

なぜなら彼らは、自分という存在が正義を見つけられたのは、誰かの助けがあったからだということを知っている。

 

「あー、もう、くそ、ほんと、お前ら、お似合いだよ!」

 

彼らは自分という存在の居場所が、誰かの助けによってこの世界にあることを、その魂で理解しているからだ。

 

「あ、みてください、メルトリリス! もうみんな揃ってますよ!」

 

彼らは皆、誰かに助けられながら自分だけの正義を見つけたものたちだ。

 

「あら、本当ね。有象無象があんなに群れて――」

「……、メルトリリス?」

 

そして自分にとっての理想の正義の味方となった彼らのそうして救うべき対象の中には、自分だけでなく他人も含まれている。

 

「――まさか、あれは……」

「メ、メルトリリス? どうしたの、急に立ち止まっ――、あっ……!」

 

誰もが正義の味方となりうる世界。誰もが正義の味方である世界。心に潜む不信と言う名の幻想の巨人を倒してくれる正義の味方を手に入れた人類は、だからこそこれからは、絶対に道を間違えることはない。

 

「――」

「ちょ、メルトリリス!?」

 

だって今、この世界においては。

 

「メ、メルトリリス!? ――って、うん……? ――あれは……、まさか……!」

 

無限に等しい人と同じ数だけ、誰をも救おうとする正義の味方というものが存在しているのだから。

 

「アーチャー!」

 

そんな無限の正義の味方の原典とである男の名前は、衛宮士郎/エミヤシロウ。それがかつてはアーチャーとも呼ばれた人類の掃除屋であった、そして今、人類全ての正義の味方となった男の名前である。

 

 

「ライドウ、どうした。珍しく自分からコーヒーを入れたいだなんて」

「――ええ。たまには自分らしくないことをしてみようかなと思いまして……」

「へぇ……そりゃまたどうして?」

「――悩みの答えというものは大抵、今まで自分がやってこなかった事の中にある。先の戦いから自分はそれを学ばせてもらいましたので」

「……ふぅん、そうか」

「――ええ」

「……聞かせろよ、ライドウ」

「――え?」

「お前さんが珍しく、悪魔関連の仕事以外にたいして積極的に何かをやろうと思ったっていう、そのきっかけの出来事ってやつを、高いコーヒ―豆を使わせてやる代金としてさ」

「――……はい、鳴海さん」

 

――葛葉ライドウシリーズより、悪魔召喚師『葛葉ライドウ』

――葛葉ライドウシリーズより、鳴海探偵社所長『鳴海』

 

 

『やれやれ、今回もなんとかなったか』

「いやはや、まったく、YHVHとの戦いを期待して行ったら、とんだ期待はずれでした」

『いや、じゃが、助かった。主が持たせてくれたあの輪っかというつながりがなければ、いかにあれだけのマグネタイトを秘めた大聖杯といえど、帰還は相当に困難じゃっただろうからな』

「まぁ、よろしいでしょう。あれと決着をつける機会は、あのライドウという彼のそばにいる限り、まだまだありそうですからね」

『ワシとしてはそんな日がこない方がありがたいのじゃがな』

 

――葛葉ライドウシリーズより、葛葉ライドウお目付役『ゴウトドウジ』

――葛葉ライドウシリーズより、金髪の青年『ルシファー』

 

 

『しかし、クーフーリン。お主あちらに戻らなくても良かったのか?』

「へっ、受肉や第二の生に興味がなかったといやぁ嘘になるが、こっちの方がいろんな強い奴と槍を合わせる機会が多そうだからな」

『そうか……、感謝する』

「おう、任せとけ!」

「ま、いざとなったらこの狂犬の手綱は私が握るから安心しなよ、ゴウトちゃん」

 

――Fate/ シリーズより、アイルランドの英雄『クーフーリン』

――葛葉ライドウシリーズより、影の国の女王『スカアハ』

 

 

「ふぁーはははははははは! 未知なる星! 未知なる場所! 未知なるモノ! そして未知なる敵! それら全てを踏破し、支配し尽くして、再び英雄王の名を世に広め、その座に返り咲く! それは我が我という偉大な存在であるが故に出来なかった事であるが、これほど面白そうなゲーム、そうはないとそうは思わんか、パラ子とやら!」

「えぇ、えぇその通りですとも、英雄王さま! そしてその暁には……!」

「うむ! この世の金銀財宝、全ての秘密、名声、そして、名誉! それらの全てを我が手に入れたその暁には、我に付き従う貴様も多くの富と名声を手に入れることだろう!」

「さすがは英雄王さま! そこに痺れる憧れるぅ!」

「師匠! 何、忠実な配下その一みたいなこと言ってんですか! それに他所様のネタは流石にやばいですって!」

「馬鹿者! 元を辿れば、ペルソナだってあの作品のパ……」

「オマージュ! リスペクトです! 明言してるからセーフです! 」

「それにもっというなら、世界樹だっていろんなSFとゲームのネタを散りばめているわけだし、運命だってタロットだの鳩の戦記だのの……」

「わー! わー! 師匠! まだここ、欄外じゃないです! 最後だからってはっちゃけないでください! 」

「ええい、止めるなメディ子! 竜退治はもう飽きたのだ! 全てのRPGを過去にしてやると、私はそう決めたのだ! 富と名声を求めずして何が人生か! 私は絶対に主役になってみせるぞ!」

「一つは吸収合併したとこだからいいとして、戦車と日本一はまずいですって師匠! 」

「ええい、この馬鹿弟子がぁ!」

「師匠ぉぉぉぉぉぉ! お日様昇るとこもダメェ!」

「よっしゃぁ、ジ・エンドォ!」

「それ打ち切りフラグか、バグ技ぁ! 」

 

――Fate/ シリーズより、英雄王『ギルガメッシュ』

――世界樹の迷宮シリーズより、普通の冒険者『パラ子』

――世界樹の迷宮シリーズより、普通の冒険者『メディ子』

 

 

「まったく、あいつらといると、ほんと退屈しないわね」

「はたして……」

「あら、シノビじゃない」

「世界樹の迷宮に求められていた変化は、このようなものだったであろうか……」

「知らないわよ、そんなこと。――けど……」

「む?」

「まぁ、たまにはこういう、はちゃめちゃな世界樹の迷宮の物語が一つくらいあっても、別にいいんじゃないかしら? だって、もともと、世界樹の迷宮って、誰もが好き勝手に物語を紡げる、そういう自由なものでしょう?」

「……そうか」

「そうよ」

 

――世界樹の迷宮シリーズより、普通の冒険者『ガン子』

――世界樹の迷宮シリーズより、普通の冒険者『シノビ』

 

 

「エトリアの初代院長ヴィズルに、その御付きのおふたり……。そして生ける伝説、モリビトのシララに、同じく生ける伝説のオランピア! そして天の支配者オーバーロードに……、エトリアの迷宮とグラズヘイムを始めて制した伝説の冒険者に、ハイラガードの迷宮とギンヌンガを攻略した伝説の英雄たち! 初代シリカ道具店の店長に、英雄を天に導いた翼人カナーンに、かなたにある迷宮を制した時の飛行都市の女王に、その時代の忠実な兵士長! いやぁ、生きてた甲斐がありましたねぇ! まさかこうして伝説の英雄たちを目の前でみれる日が来るとは、夢にも思いませんでしたよ!」

「ゴリン……、でよかったかしら」

「はいはい、そうですよ、フレドリカさん」

「彼、大丈夫なの?」

「ええまぁ、あそこまではっちゃけているクーマ様は見たことありませんが、まぁ、多分、大丈夫でしょう」

「エトリアの代表者って変なやつしかなれないってジンクスでもあんのかね」

「こら、アーサー! なんてこというの!」

「いや、ラグーナ。アーサーをかばうわけではないが、あれを目撃させられてしまっては、それもしょうがないのではないだろうか」

「……ノーコメントで」

「サイモンにシギーまで!」

「そんな人がいてもいい。私はこの度の戦いで、それを学びました」

「マイク! お願いだから変なことを学習しないで!」

 

――世界樹の迷宮シリーズより、エトリア初代院長『ヴィズル』

――世界樹の迷宮シリーズより、ブシドー『レン』

――世界樹の迷宮シリーズより、カースメーカー『ツクスル』

――世界樹の迷宮シリーズより、モリビト『シララ』

――世界樹の迷宮シリーズより、道具屋店主『シリカ』

――世界樹の迷宮シリーズより、天の支配者『オーバーロード』

――世界樹の迷宮シリーズより、翼人『カナーン』

――世界樹の迷宮シリーズより、アンドロ『オランピア』

――世界樹の迷宮シリーズより、マギニアの王女『ペルセフォネ』

――世界樹の迷宮シリーズより、冒険者ギルド長『ミュラー』

――世界樹の迷宮シリーズより、湖の貴婦人亭受付『ヴィヴィアン』

――世界樹の迷宮シリーズより、湖の貴婦人亭飼猫『マーリン』

――世界樹の迷宮シリーズより、ハイランダー『シギー』

――世界樹の迷宮シリーズより、ガンナー『フレドリカ』

――世界樹の迷宮シリーズより、パラディン『ラグーナ』

――世界樹の迷宮シリーズより、メディック『サイモン』

――世界樹の迷宮シリーズより、アルケミスト『アーサー』

――世界樹の迷宮シリーズより、グラズヘイムの人工知能『M.I.K.E』

 

――世界樹の迷宮シリーズ2次創作より、エトリアの現代表『クーマ』

――世界樹の迷宮シリーズ2次創作より、エトリアの現ギルド長『ゴリン』

 

 

「なぁ」

「なんだよ、ベルトランのおっさん」

「俺たち、なんかやったっけか?」

「……いうなよ」

「現実逃避は良くない、フラヴィオ。暴れて不覚とってるうちに全部が終わってた」

「いうなって、クロエ! 虚しくなる!」

「このルートでは私たちに大した出番はなかった。それは認めないといけない」

「ルートって何!?」

「まぁまぁ、私たちみたいなロートルが出張るような事態が何もなかったならそれが一番じゃない」

「お嬢様のいう通りでございます」

「アーテリンデさんに、ライシュッツさん……」

「私は貴方とこうしてもう一度直接触れ合えるようになった。それだけで私は――」

「ヴィオレッタ……」

「おっさんが急にラブロマンス始めた……」

「まぁまぁまぁ! 」

「あ」

「ヤベェぞ、お姫様の目が輝きだした! お、おいフレイ! お姫様御付きのファーフニールの騎士として、お前、アリアンナを止めてくれ!」

「……わかった」

 

――世界樹の迷宮シリーズより、ファーフニールの騎士『フレイ』

――世界樹の迷宮シリーズより、カレドニア王国の姫『アリアンナ』

――世界樹の迷宮シリーズより、ドクトルマグス『クロエ』

――世界樹の迷宮シリーズより、レンジャー『フラヴィオ』

――世界樹の迷宮シリーズより、ファーフニールの騎士『ベルトラン』

――世界樹の迷宮シリーズより、先代ファーフニールのパートナー『ヴィオレッタ』

――世界樹の迷宮シリーズより、ドクトルマグス『アーテリンデ』

――世界樹の迷宮シリーズより、ガンナー『ライシュッツ』

 

 

「兄さん……」

「兄さん……」

「……おい、なんだ、お前ら。僕は妹を二人も三人も持った覚えはないぞ」

「ですが……」

「えっと……」

「ああもう、イライラする! なんだってお前らそう、揃って昔の桜みたいな感じなんだ!」

「まぁ、サコもモリビトの桜も、どちらも私の分身みたいなものですからねぇ……」

「桜ァ! 僕の手のかかる妹はお前一人で十分なんだよぉ!」

「えっとでも、兄さん……」

「なんだよ」

「……」

「……」

「……ああ、もうそんな目で僕をみんな! わかったよ! 纏めて面倒見りゃいいんだろ! 」

「……!」

「……!」

「ああ、くそ! まったく、お前ってやつは、どこまでも面倒を僕のところに持ってきやがって!」

「でも、見捨てないんですよね」

「当たり前だ! 桜は僕の妹なんだぞ!」

「……!」

「……!」

「あ、こ、こいつら! は、離れろ! くっついてくんな! 子犬かお前らは!」

「ふふ……、――――――ねぇ、兄さん」

「あぁ!? なんだよ、桜!」

「――――――大好きですよ、兄さん」

「――――――ふん。――――――――――――ああ、僕もお前のことを愛してるよ、桜」

 

――Fate/ シリーズより、間桐家の長男『間桐慎二』

――Fate/ シリーズより、間桐家の長女『間桐桜』

 

――世界樹の迷宮シリーズ2次創作より、メディック『サコ』

――世界樹の迷宮シリーズ2次創作より、モリビト『桜』

 

 

「さて、これからどうする?」

「決まってんだろ! パワーアップしたいつものメンツに、強力なメンツが加わったんだなら、やることなんて一つしかないって!」

「……何かまた、力でないと解決出来ないようなことが発生しているのかね?」

「うむ。実は今のこの火星の上に生まれた世界の中では、あちこちに迷宮が出現していてな」

「とりあえずみんなが集まるこの街の周辺のやつだけでも早急に情報が欲しいってんで、腕に覚えのある冒険者たちはあっちこっちに自主的に地図を作りにいっているんだが……」

「まぁ、魔物が強い強い」

「並大抵の腕までは一階層分の地図を作ることすらも難しいときたもんだ」

「私たちも一度迷宮に潜ってみて調査をしてみたのだが、どうやらライドウらの世界の要素が混じってしまった折に、悪魔とかいうやつ成分が混ざったらしくてな」

「天使も悪魔もてんてこ舞い。大安売りのストップ安ってわけ」

「一応、いつも通り、悪魔化した魔物たちは迷宮から出てこようとはしないんだけど、ともかく、そんな魔物の潜む迷宮がなんの情報もない状態で街の周囲にあるって状態が気にくわないってことで、まぁ、早急に地図を作れる奴を探していたんだ」

「いや、迷宮はすごい場所だぞ、エミヤ! なにせ、私のツバメ返しが通用しないような悪魔化した魔物がウジャウジャとしていてだな――」

「はいはい、シンは少し黙っててくださいね」

「ま、まぁ、そういうわけで、腕の立つやつはいればいるほど、いいってわけなのさ」

「……なるほど」

「それで、アーチャー。貴方はどうするの?」

「そんなの、決まってるじゃない。ねぇ、アーチャー」

「……ああ。その通りだ。だって、衛宮士郎/エミヤシロウは――」

 

――万人を救う正義の味方にして、世界の未知に挑む冒険者でもあるんだから!――

 

――Fate/シリーズより、サーヴァント・アーチャー『エミヤシロウ』

――Fate/シリーズより、マスター『遠坂凛』

――Fate/シリーズより、マスター『衛宮士郎』

――Fate/extraシリーズより、ハイ・サーヴァント『メルトリリス』

――Fate/extraシリーズより、サーヴァント『玉藻』

――Fate/シリーズより、神父『言峰綺礼』

――Fate/シリーズより、衛宮士郎の養父『衛宮切嗣』

 

――世界樹の迷宮シリーズ2次創作より、ブシドー『シン』

――世界樹の迷宮シリーズ2次創作より、パラディン『ダリ』

――世界樹の迷宮シリーズ2次創作より、アルケミスト『サガ』

――世界樹の迷宮シリーズ2次創作より、バード『ピエール』

――世界樹の迷宮シリーズ2次創作より、ツールマスター『響』

――世界樹の迷宮シリーズ2次創作より、道具屋店主『ヘイ』

 

――Fate/シリーズより、衛宮士郎の姉『藤村大河』

――Fate/シリーズより、小聖杯『イリヤスフィール・フォン・アインツベルン』

――Fate/シリーズより、サーヴァント・セイバー『アルトリア・ペンドラゴン』

――Fate/シリーズより、サーヴァント・ライダー『メデューサ』

――Fate/シリーズより、サーヴァント・キャスター『メディア』

――Fate/シリーズより、サーヴァント・アサシン『佐々木小次郎』

――Fate/シリーズより、サーヴァント・バーサーカー『ヘラクレス』

 

――葛葉ライドウシリーズより、コドクノマレビト『クラリオン』

――世界樹シリーズより、全ての元凶『魔のモノ』

――世界樹シリーズより、宇宙からの飛来者『世界樹』

――Fate/シリーズより、万能の願望器『聖杯』

 

 

Fate/ Beyond Reverie 〜 月と巨人の原典 〜




まずはここまで長らくのお付き合い、本当にありがとうございます。ここに至るまで一年半ほど、お付き合いいただきました皆さまのおかげもありまして、あちこちに不備のあるお見苦しい状態ではありますがなんとか目標としていた令和元年内に本物語の真ルートを終えることができました。以上をもちまして本物語は一旦終幕とさせていただきます。詳細や、謝辞などは後ほど改めて追加予定の後書きにて語らせて頂きますとして、まずは今後の予定だけを簡単に記載させて頂きたく思います。

▪️本物語の誤字脱字の修正、訂正。シナリオ状態である部分の小説化(半年から一年)
▪️年内完成を目標にするにあたって、オミットした二十話ほどを可能であれば実装する
(修正後、一年から二年程度?)
▪️新世界樹ルート(混沌ルート。北欧神話、ケルト神話混合ベース)
▪️fate/ルート(中庸ルート、バビロニア神話、シュメル神話混合ルート)
▪️ライドウルート(秩序ルート、日本神話、中国神話混合ルート)
▪️その他、書きかけのオリジナルをアップして行く(随時)

それではまたどこか、書いたものをアップした時にお付き合いいただければ幸いです。本当にここまでのお付き合い、ありがとうございました。







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あとがき

まずは一年と半年もの間、お付き合い頂きましてありがとうございます。なんとか令和元年中に物語を終わりにまで導けたのは、未熟な文章ながらもご一読下さっている皆様がいてくださったおかげです。この場をお借りして、重ねて御礼申し上げさせていただきたいと思います。本当にありがとうございます。

 

さて、あとがきの部分まで目を通すようなお方は、わたしと同じく活字中毒か、よほど好奇心旺盛な方だとお見受けします。そのような方は、本物語の体裁を崩してまでなぜ完成を急いだのか、本来ならばどう展開するつもりだったのか、という点を気にされる方も多いかと思います。そこであとがきにおきましては、

 

1.なぜこうまで急いで書き上げたのか

 

2.本物語はなぜこのような物語運びになったのか

 

という二点を、書いている当人の記憶の整理も兼ねまして、四方山話として記載いたしたいと思います。まぁ、これからいたします話の内容を纏めてしまえば、私の未熟さと見通しの甘さ故に起こった出来事である、ということになってしまうので恐縮ですが、お時間の取れる方、ご興味あるとおっしゃる方は、お付き合いいただければ幸いです。

 

 

ではまず、「なぜこうまで急いで書き上げたのか」、という点につきましてご説明させていただきたく思います。こちらは理由としては簡単に、エタらない、いわゆる、あげた二次創作の物語を未完のまま終わらせたくないという思いを原因とする出来事です。

 

自分語りとなって申し訳ないのですが、当方の癖として、物事に取り掛かる前に自分の中で物事に取り組む期間を決め、その期間内に起きましてはそれを最優先に行うという癖があります。そしてその期限が切れますと、取り組んでいた物事が例えどのような完成度を誇っていようと、たとえ九割九分九厘まで達成していようと、そこで見切りをつけて物事に取り組まなくなるのです。例えば、新作ゲームや新書などの発売から三日四日程度はそれこそ寝食休む間も惜しんでずっとゲームや読書をしているのですが、自分で決めた期間を過ぎると、たとえ後すこしでクリアできるという状態であろうと、そこでプレイをやめてしまう、というような感じです。ただし同時に、一度その期間内にゲームを一度でもクリアにまで持っていってしまえば、例えば千種類あろうと図鑑やアイテム、ルートをコンプリートするまでそのゲームをやり続けるという、謎の拘りも持ち合わせていました。

 

見切りが早く短期過集中型。期間内に課題を終わらせることが出来なければ、バッサリと切り捨てるが、その期間内にどのような形であれ終わらせてしまえば、その後満足いくまで物事に取り組み続ける。そんな癖を抱えているそんな私がこの物語を完成させるための期間として設けたのが、昨年度いっぱいまで、という期間だったのです。

 

一昨年に一部を終わらせた当方ですが、実はあの時点で三割程度の完成度だなと感じていました。このペースで描き続ければ、間違いなく自分で設けた期限をオーバーしてしまう。これまでの自分の傾向から、そうなった際に書くための情熱が失せてしまうのは間違いない。しかし、ナデシコ二次創作、月姫、fate系二次創作や、別作品同士のクロスオーバー系ネットがネット上で流行った時代を謳歌させてもらった私の個人的な感覚といたしまして、当時におい私が何より残念だったのはまだ完結していない物語の更新が無くなる=エタるということでした。興味を持った物語が、中途半端なところで永遠に完成しなくなる、というのは二次創作のみならず、小説やラノベなどにもよくある話です。情熱が失せた、という方もいらっしゃれば、時間が取れなくなったという方もいらっしゃいましたし、あるいは最悪の場合、作者様の死去ですとか、とある災害が起きた日を境に更新がなくなったなどのさまざまな理由はありました。

 

作者様が書いていたものを放棄する、せざるをえなくなり理由は多く存在しており、書く側に回った私として、気力が失せたりや時間が取れなくなるという理由もわからなくはないのです。ですがかつて多くの文字媒体の作品目を通し、また、読んでいた作品エタッたという経験を数多くしてきた身といたしましては、未完の大作よりも未熟でも完成している作品の方がありがたいと思っていました。更新されているか否かをチェックしたりして、今日もなかった、とヤキモキするような時間を別のことにあてられるわけですからね。そこで自分は、整合性、エンタメ性、読みやすさをよりも、期間内の完成を最優先にして本物語を終わらせた、というわけです。

 

まぁ、言ってしまえば、私自らが勝手に取り組み始めたものを中途半端な状態で投げ出したくなかった、というのが最終的な理由と言えますでしょう。どこまでも自分本位で申し訳ないですが、これが物語を令和元年内に終わらせることを急いだ事情です。物語を楽しみにして頂いた方、わたしの見通しの甘さと過信と傲慢と癖に付き合わせてしまって、本当に申し訳ありません。この負債は本物語を完全修正することで返したく思っておりますので、誠に都合の良いお話ですがどうぞ今後もお付き合いいただければありがたく思っております。

 

さてでは続きまして、完成を急いだ本物語がなぜこのような物語運びになったのかについてご説明させていただきたく思います。まず当方は、アーチャーである英霊エミヤシロウというキャラの願いを叶えてやりたいという思いから、本物語を作成しました。私がfateを何度かやり直したところ、アーチャーであるエミヤシロウの願いは以下の二点に集約されると考えられました。

 

1. 誰もが幸福だという結果が欲しい

2. そんな世界の中で、正義の味方として活躍したい

(幸せになりたい=切嗣のように笑いたい)

 

そこで哲学系、思想系、世界史、文化人類学から人類の定義、進化史などの本に手を出していくらか考察したのですが、どう考えても人類誰もが幸福な世界を作ることは現状不可能だ、という結論に達してしまいまして。と言いますのも、本作でも語ったのですが、それをやるとなると、人類を全員そうなるように洗脳するか改造するくらい手段がないわけです。誰かの正義が誰かにとって悪だなんて珍しくもない。そんな人間が億万も蠢いている地球において、誰もが幸福だという結果なんて出せっこない。現行の人間社会が結局奴隷制度をブラッシュアップし続けて作り上げられた富の一極集中型システムになっている限り、救われない人間はどうしても出てきてしまう。

 

そこで次善策として、多くの人に認められる正義の味方になる、くらいなら可能だなぁとは思ったのですが、それじゃ結局、エミヤシロウという男の願いが完全に叶えられることはない、という結論になってしまいます。というか、そんな結論に到達するなら、別に自分が書かなくても、すでに世にいくものクオリティの高いものが発表されています。広い世の中、思ったアイデアを誰かが発表しているなんてざらにある。やった挙句に二の足を踏むのは仕方ないとして、最初から他の作品と同じ結論になる作品を作りたくはない。

 

困った挙句思いついたのが、本作の最後でしていました提案です。とりあえず正義だの悪だのは一旦脇に置いておくとして、まずは誰もが正義だの悪だのを語れるような状況がないとどうしょうもない。金がなくて明日にも飢えて死にそうなのに、殺すな盗むな食うな、社会的正義を守って勝手に死ね、なんて言われちゃ、ふざけるな、っていう怒りの回答しか返ってこなくて当然じゃないですか。そうなったらその後の流れとして、お前の正義が俺に死ねというのなら、俺の正義はお前を殺し返してやることだ、なんて風になるのも想像だに容易い。まああとは両者が生きている限り、憎しみがどこまでも連鎖していくわけで、結局、人間が社会的に依存した生き物である限り、人生が才能と生まれの環境に大きく左右されるという条件下である限り、救われない誰かが出てきてしまう。

 

だからまず必要なのは、そんな正義だの悪だのを考えられるような最低限生きていくためには不自由しないセーフティーネットや下地が世界中に作られていて、人類全てに適応されていること。そしてさらに付け加えるなら、誰かを傷つけてまで何かを成し遂げるのは悪であるという考えが多くに広まっている状態が好ましいな、と考えました。つまりは、私たちの住んでいます日本みたいな国の状態をイメージしたわけです。

 

で。そんな条件の世界が作れるようななんかないかなと考えたところ、ふと魔のものという存在が負の感情を食らっているとかいう設定あったなぁ、ということに思い至りまして。で、そこからガシガシと設定を組んだ結果、本物語のシナリオが完成したというわけです。

 

さて、そうして完成したシナリオですが、設定を組みおえたあと見直すと、最終的に目指す地点に問題が発生することに気がつきました。ざっくりというと、メアリー・スーや原作キャラの崩壊がひどい状態になるな、って結論に到達しました。まぁ、当然っちゃ当然です。目指す地点が誰にも認められる正義の味方、ってわけですから、誰もがエミヤの正義に同意しているという世界にせざるをえない。借り受けた原作付きキャラの誰もが半オリキャラ化するとかいう地獄な状態を、しかし書かざるを得ないとなったわけです。

 

まぁ、一旦書くと決めてプロットを組んでしまったので、書くことをやめるつもりはありませんでした。ただし、そのまま書くと、原作準拠の二次創作どころか、最低系ssというのも憚られるようなものが超最低系、あるいは超最強系の物語が出来上がりかねない。いえ、全ての物語がギルガメッシュ叙事詩の模倣であり、聖書も他の神話もそれから派生した作品の二次創作、三次創作みたなものですし、言ってしまえば人類はずっと主人公最強物語を好んで読んで語って、時には封神演義みたいに過去の神話伝承のキャラを利用したり貶めてまで自分の作品のキャラクターをヨイショして伝えてきたわけですからありっちゃありかもしれませんが、個人的にはそんな感じの何かの作品のキャラクターを踏み出しにするようなメアリースーの極致のような最強ものを描きたくない。とはいえ、組んだプロットのものを書こうとすると、最終的にお借りしたキャラクターがメアリースーの権化みたいな状態になるのが避けられない。

 

そこで試みとして、お借りしたキャラや世界設定が最終的に崩壊してメアリースー化するのはもうどうしようもないとして、せめてそれを段階的に行い、自分も納得できるくらいに少しずつ変えていけば、読者の方から一定の納得が得られるかもな、と思ったわけです。要するに、徐々に毒の刺激になれさせりゃそのうち猛毒にも慣れんだろ、みたいな考えを持ったわけです。そこで私は、物語を三段階にわけることにいたしました。

 

まず一段階目として、可能な限り、二つの原作に準拠した設定で書く。で、二段階目として、そこにさらなる異物をもう一つぶち込んで設定の壁をさらに薄くし、あるいは取っ払い、読者の許容範囲を徐々に広げていく。そして最後に、そしてグチャグチャになったものを纏め直して、いかにも説得力があるように纏め上げる、といった感じの構成にしようと考えたわけです。はじめにいい顔しておいて、次にちょっとだけ無理を言って、最終的には全く別の場所に結論を着陸させて物を買わせるってな具合です。まぁ、詐欺の手法みたいなもんですね。ともあれ賛否はあるでしょうが、そのようなやり方でやるため、今回のような物語構成としたわけです。

 

さて、そしてできた構成ですが、ざっくりとその内容をお話ししますと、エミヤシロウというキャラクターを神化させるお話しでした。一番イメージに合うのは、神道的に荒ぶる魂を祭り上げるイメージですかね。日本の神さまって言うものの多くは、自分は現世で叶えたい願いがあったけど叶えられなかった。だからこそ同じような悩みを抱えている他人がそれをするための手助けをしてやる、というった感じで助けてくれる神様です。だから、自分はこの世界で正義の味方になって全ての人を救うことができなかった、っていう不満を抱えているエミヤシロウなら、立派な荒御魂になるとそう考えたわけです。いやまぁ、荒御魂にしたくないので、鎮めちゃいましたが、理念としてはそんな感じです。(ちなみに蛇足気味に彼を蘇らせたのは、彼の二つ目の願いを叶えるためです)

 

ただし、エミヤシロウというキャラクターを現行のまま祭り上げると、父親の衛宮切嗣というキャラクターの劣化模倣の神様というか、単なる過保護な親みたいになっちゃうので、まずはそれを解消するために色々と失ったものを取り戻させて、気付かせて、最後に、自力で悟らせる、みたいな段階を踏もうと考えたわけです。また、この神化を行うために都合の良い設定として、悪魔と合体したり、なんなら人間がそのまま神になったりもできる女神転生が思い当たったので、それを三つ目のものとして物語にぶち込もう、ってなって、本物語ができたわけです。(もともといろんな意味で親和性は高かったので、この作業はとてもやりやすかったです。アライメントとか、召喚システムとか、概念的なアレコレとか)

 

まぁあとは、考えていた中庸エヌマエリシュルートの設定がもろにペルソナQ2と被ってしまい、焦って設定の組み替え直しが必要になったりだとか、アートミュージアムで火星の情報が出ていろんな設定を切り捨てる羽目になっただとかはありましたが、まぁ、概ね想定通りに終わらせることが出来たというわけです。

 

長々と記載いたしましたが、以上が

 

1.なぜこうまで急いで書き上げたのか

 

2.本物語はなぜこのような物語運びになったのか

 

の理由です。要は、こちらの未熟と見通しの甘さ、というわけで、ともあれこちらも不詳を簡単にご説明し終えたところで、今回はここまでにしたいと思います。何かあれば感想欄にお願いします。どうも私、他の人と感性や思考がズレている傾向にあるらしいので、質問の内容とズレた回答を返してしまう事があるかもしれませんが、その場合はどうぞ容赦なくご指摘ください。出来る限りの対応をしたいと思います。

 

今後は、一括修正、一括投稿という形になると思います。多分。ちょこちょこと手入れはする予定なので、半年か一年後くらいにふらりときていただければなと思います。

 

それではここまでお付き合いいただきありがとうございました。

 

追記

オリジナルとして出したキャラクターの外見を詳細に記載した前日談をそのうち投稿します。個人的には色々想像できた方が楽しいかなと思ったのですが、考えてみると読者の方の創造力に頼り過ぎるのはこちらの傲慢と怠慢だなと思ったので、こちらでテンプレートを決めてしまいます。ご了承ください。

 

また、本作の桜や響等といったキャラの性格をイメージ作るために書いた作品を、オリジナルとしてハーメルンに投稿しています。あわせてお楽しみ頂ければなと思います。



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