依田芳乃がシンデレラになった話。 (姪谷凌作)
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前編

 

 

 

これは、ガラスの靴を履いた少女の物語。

 

ガラスの靴を履いてしまった彼女は、12時の魔法に囚われる。

 

輝く世界に生きた彼女を、終焉が認識してしまったのだ。

 

彼女が知らずとも、それは足音を殺して追い縋る。暗殺者のように静かに、盛者必衰の理を遂行する。

 

それはまるで、とある村の掟のようだった。

 

10年に一度、村を災いから守るために若い女を贄にする。有り体に言えば人柱だ。

 

外の人間から見ればそれは単なる愚行に過ぎないが、関係者は皆、あまつさえ本人も、それを望むのである。

 

価値の歪みに気付けるのは外の人間だけ。時には外の人間ですら異を唱えるのは難しいこともある。

 

これは、選ばれた少女と、気付いてしまった少女の物語だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「乃々殿ー?」

「ひぃっ!?……よっ、芳乃さんですか……」

 

部屋に入るなりまるでそこにいることが分かっていたかのように、まっすぐ乃々が隠れている机に向かい、机の下をのぞき込む芳乃。

毎度隠れる机を変えているはずなのに、透視したかのようにピタリと的中させるのは、乃々にとってやはり慣れるものではない。

乃々が本気で気配を消していれば、プロデューサーだって発見は困難を極めるのだ。

 

「プロデューサー殿が探しておりましたよー。行って差し上げませー」

「ううっ…あの、すみません……忙しいと思うんですけど…あ、いぃ、今更ですけど、総選挙、お、おめでとうございます……」

 

芳乃が第七回シンデレラガールに選ばれてから一か月弱。乃々は芳乃が忙しそうにしているのを見て、ずっと話しかけられずに居たのだ。

忙しいところに話しかけては邪魔だろうという理由もあったが、単に周りに常に誰かが居る中割り込んで話しかける勇気がなかったというのが実情だ。

プロデューサーを通してしか何も言えないまま一か月が経ってしまったという事実に胸が痛む。それでも、芳乃は乃々に暖かな笑みを向けてくれるのだ。今回もそうだった。

 

「いえー。皆の笑顔を作ることが、依田の役目なのでしてー」

「も、もりくぼには……想像もつかない話なんですけど……」

「いえー。乃々殿も立派に役目をこなしていますよー。やれることを精いっぱいする、それこそが大事なのでしてー」

「うぅ……はい…」

 

自分がシンデレラガールに選ばれるなんて、想像するだけで失神してしまいそうだ。そう思いながら乃々は机の下から這い出る。乃々を見下ろしていた視線は、立ち上がるとほぼ同じくらいになる。

 

「それでは、参りましょー」

 

乃々と芳乃は、並んでプロデューサーの元へ向かう。

 

二人のプロデューサーは、とても不思議な人だ。

乃々を担当する時も、わざわざ「君がいい」と言い、芳乃に至っては東京からは遠く離れた鹿児島でスカウトしたらしい。

他のプロデューサーは普通10人前後のアイドルを担当しているようだが、彼はこれ以上担当を増やす気は無いらしいのも不思議な点だ。理由は本人以外知らない。

 

乃々がアイドルデビューした日のことをぼんやりと思い出しながら歩いていると、すぐにプロデューサーの部屋にたどり着く。

噂ではバンジージャンプさせられたり心霊体験させられたりしているアイドルもいるそうなので、そういう仕事が来ませんようにと祈りながらドアを開けた。

 

「ただいま参りましたー」

「おっ、ありがとう。じゃあ早速ミーティングを始めようか」

 

用意していたらしいお茶と菓子を机に置き、椅子を出す。ビニール袋が置きっぱなしになっていたので、多分さっき買い物に行ってきたのだろう、と乃々は思った。芳乃はさっそく煎餅の袋を開け、皿に出している。

 

「今回のお仕事なんだけど、今まではずっと個別でお仕事してもらってたから、二人で歌を歌って貰おうかと思ってるんだけど、どうだい?」

「歌、ですかー。乃々殿が良ければー」

「歌……二人……そ、ソロパートとかも…?」

「そうなるかな。まだ話が上がったばかりで先のことになるんだけど、ユニットを組んで貰うだろうし、二人でイベントとかも出来ると思うよ」

 

これまで、ソロ曲だけはと断ってきたが、まさかデュオの仕事が出るとは思わなかった乃々は面食らった。ちらりと芳乃の方を見たが、いつもの堂々とした態で乃々の意見を求めている。よく考えれば芳乃はデビューは乃々より遅いのに自分のソロ曲を持っているし、今更人前で歌うことに抵抗などないのかもしれない。

それに今、彼女はシンデレラガールとなり、売れに売れている。この流れを止めてしまうのは彼女にも迷惑なのかもしれない。

けど、それは、ついでに自分も注目されてしまうわけで………

 

「うぅ、もりくぼは、もりくぼは‥‥‥‥」

 

乃々はアイドルなんてはなから断っておけばよかった、と幾度目かもわからない後悔をする。最初に半ば強引に仕事を紹介してきた叔父さんに対する呪詛も、仕事の度に呟いてきた。一番の悩みの種はやはり断り切れない自分なのだが。

 

「ソロは嫌だってのは知ってるし、無理ならまだ今回の仕事は取り下げることも出来ると思うが」

「乃々殿は、わたくしと歌うのが、いやなのでしてー?」

 

飴と鞭のコンビネーション攻撃を仕掛けるプロデューサーと芳乃。乃々が仕事を断れない理由の一つでもある。

 

「一応、ソロが嫌なら出来るだけ減らすように注文するよ?」

「イベントも、わたくしの方が年上故に手助けできましょー」

「そ、それなら‥‥‥二人で歌うのも、今回で最後になるなら‥‥‥」

 

乃々がそう呟くと、プロデューサーと芳乃は視線を交わし微笑む。これも二人の作戦であることはよく分かっていたが、そもそも多忙な二人にそこまで手を煩わせてしまっているという自覚が常に付きまとってしまう。

 

自分はやはりアイドル、ひいては他人と関わることにとことん向いていないらしい。自分は面倒な奴だ。そういう意識が頭を占めていき、占めていき‥‥‥‥その結果、よくわからなくなってしまう。

乃々本人も「無理」としか言い表せない不定の感情が、他人にもあるのかどうかはわからないが、あっても自分ほどではないと思う。

そしてまた、やはり自分は他人と関わることに向いていないのだ、という思考にループする。

 

「もりくぼは、今日はもう帰りたいんですけど……」

「乃々殿、説明がまだ残っているのでしてー。話をしっかり聞いて考えを練ることが、乃々殿の気の巡りを良くするでしょー。それはきっと、乃々殿の成功を導くことに繋がってー」

「これが終わったら帰っていいから、な? 頼む!」

「ぅ……あ‥じゃあ、机の下でなら、いいですけど‥」

 

乃々が机の下に潜り込む。このやり取りも、お決まりのように繰り返している。

 

そうして、プロデューサーが机に話しかける、奇妙な会議が発生するのである。

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

 

 

帰り道。夕焼けの中を芳乃と乃々は歩く。一人は堂々と、もう一人はとぼとぼと。対照的である。

 

新曲の企画はまだ提案程度の段階のためあまり詳しい話は出なかったが、それでも乃々を怯えさせるには十分だった。

 

「やっぱり、断っておけばよかったと、思います…今更それも無理なんですけど‥‥‥」

「まーまー、そう言わずにー。きっと乃々殿は無事、役目を果たせますよー」

 

芳乃がそう言って微笑む。それは夕焼けのように暖かく、優しいものだった。

自分の染めた髪なんかより、風に当てられて靡く彼女のそれの方がよっぽど映えると乃々は思った。

 

「乃々殿にはこれをー」

 

そういって芳乃が風呂敷包みから何かを取り出し、乃々の手に触れる。

驚く間もなく暖かい芳乃の手が離れ、乃々のてのひらにひんやりとした小気味よい感触が残る。見てみると、小さな石ころだった。

 

「これは‥‥‥?」

「先日わたくしが河原で拾った小石でしてー。とても良い気を引き寄せるもので、是非御守りにしてくださいませー」

 

芳乃は、肌身離さず大事にしてくださいませー、と言ってまた歩き始める。

綺麗な楕円形ですべすべのそれは、握っていると確かに不思議な気分になる。

 

「この気持ち…ポエムになるかも…。家に帰ったら…めもめもめも」

「ぽえむ、でしてー?」

「ポエムは…詩・・・みたいな‥‥‥童話みたいって言われますけど・・・・・」

「ほほー。歌を詠まれるのですかー。言ノ葉を紡ぐことは、よきことでしてー」

「お礼に‥‥‥今度、見せる‥‥かもしれません」

「それではわたくしは、よき出来となりますよう、祈りましょー」

 

芳乃はそういって、手を合わせて祈る仕草をする。

 

「う‥‥ハードル上がっちゃったんですけど…」

「ふふー。気負わずとも、ありのままを見せてくださいませー。ほら、そろそろ到着いたしますよー」

 

芳乃の女子寮が見えてきていた。乃々はここを通り過ぎたところにある駅から自宅まで帰るので、ここで別れることになるのだ。

 

「それでは、またー」

「さよなら、ですけど‥‥‥」

 

乃々は石ころとポエム帳を持ったまま、駅まで歩く。

普段は気になる他人の視線も、ひんやりとした感覚に緩和された気がした。

 

 

 

 

 

 

 

それから、しばらくして。

 

「ほほー‥‥‥」

 

ヘッドホンを外した芳乃が、感嘆の息を零す。乃々も同感のようだ。

先日ついに届いた楽曲は、二人にぴったりの曲だった。どうやらプロデューサーも色々と注文を出したりしていたらしく、「な、いいだろう?」と楽しげだ。

 

「とても、良き歌ですねー。創り手の心が、目に浮かぶようでしてー」

「もりくぼも‥‥この歌なら、歌ってみたい‥‥かも‥‥」

 

そうかそうか、と満足げなプロデューサー。封筒から何やら紙を取り出し、二人に手渡す。

 

「今回の曲、是非とも大大、大ヒットを飛ばしたい。ということで、各個人のスキルアップを目指して、特別レッスンをしてもらうことにする」

 

書類に目を通すと、そこにはインストラクター、青木麗、の名が。乃々は青ざめた。

乃々は過去に一度だけ、彼女のレッスンを受けたことがある。彼女のレッスンは、地獄と評する以外の表現が思い浮かばないほど、激しく、そして厳しいものだった。

 

「むーりぃー・・・・」

「修練を積み、すきるあっぷしていきましょー。乃々殿、始める前から弱気ではいけませぬよー」

 

床に乃々崩れ落ちた乃々を、何も知らない芳乃がそう元気づける。

芳乃は乃々に泣きそうな、そして憐れむような表情を向けられて、「はてー?」と、少し困惑するのだった。

 

もちろん、この後二人ともすぐにへばったことは言うまでもない。

 

 

 

 



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中編

 

 

 

 

「もう、むりくぼ、なんですけど‥‥‥」

「わたくしも、限界なのでしてー・・・・・」

 

最後のメニューをこなし、同時に床に倒れこむ二人。

レッスン最終日。今までの総仕上げということで、今日は朝から通しであったので、体力はとうの昔に残っていない。

 

「ほらクールダウンに歩けー。歩かないと失神するぞー」

「ひぃ‥‥」

「アイドルがこのようなものであるとは、知らなかったのでしてー・・・」

 

自分は操り人形だ、と言い聞かせながら、重い体に鞭打つ。芳乃もふらふらと体だけを動かしていて、一目でばてているのがわかる。

 

「はーい、今日はこれで終了だ! よく頑張ったな!各自昨日の通りしっかりとストレッチをして、体調を崩さないようにすること!」

 

二人は息も絶え絶えに礼をし、今度こそと床に転がる。冷ややかな床が火照った肌から熱を奪い、代わりに快感を与える。

 

「普段は着物を着ていますからー、体力はあると自負しておりましたがー‥‥‥これほどとはー‥‥」

 

教わった通りに二人でストレッチをしながら、体の熱を少しづつ追い出す。

 

「乃々殿は、過去にもこのれっすんをー?」

「はい・・・・・アイドルになってすぐに、いてて‥‥まぁ、一日だけですけど…‥‥その時は30分と持たなかったので、今回のもりくぼは上出来かもしれません‥‥明日はダメかもしれませんけど‥‥」

「成長を感じられるのは良きことでしてー。わたくしも筋肉痛が心配ですー」

「帰りに何か、自分へのご褒美、買おうかな‥‥?」

「それは名案でしてー。良ければ一緒に行きませぬかー? 良き甘味処を知っていますゆえー」

 

乃々はあの手のおしゃれな空間に居るのに耐えられなくなってしまうので、甘いものを食べに行ったりはほとんどしない。今回もコンビニでお菓子でも買って帰ろうかな、くらいのつもりで言ったつもりなのだが、芳乃が思ったより乗り気なので言い出せなくなる。

 

「ふふー、少し久しぶりなので、たのしみですー」

「そこ・・・よく、行ってたんですか?」

「最近は忙しさゆえ、あまり行けておりませんでしたがー。前まではよくー」

 

二人はストレッチを終え、洋服に着替える。女子寮はここからほど近くにあるので、芳乃は大抵着物を着ているのだが、町に出るとなると目立っては困るので洋服を着てしっかり変装している。ちなみに乃々は変装しなくても大抵大丈夫なのだが、人目が気になるので常に目立たないように心掛けている。

 

「それでは、参りましょー」

 

普段より少し高めのトーンで芳乃がそう言う。洋服だからか、それとも楽しみだからか、少し歩くのも速い。

 

 

 

 

 

 

 

芳乃に煎餅好きのイメージを持っていた乃々は、勝手に和菓子の店を想像していたのだが、案内されたのは意外にも洋菓子の店だった。

夕時なので、乃々たちのほかにも中高生がちらほら居る。大人気とはいかないまでも、繁盛している店のようだ。

 

「それでは、これをー」

 

芳乃が注文したのはパフェだった。乃々もそれに倣う。

 

「芳乃さんがおすすめするので‥‥てっきり和菓子かと思ったんですけど…」

「志保殿に教えてもらってから、洋菓子も気に入ったのでしてー。島に居た頃は洋菓子など食べることは無かったゆえ、好みは和菓子に偏っておりますがー」

 

しばらく待つと、栗が満載された抹茶パフェが二つ出される。

乃々は注文が無事に済んだことにひとまず安堵した。やっと店内を見渡す余裕が出てくる。世間では休日だからか想像以上におしゃれな人が多くて、余計に緊張は高まってしまったが。

 

「食べないのですかー?」

 

芳乃に声を掛けられ、乃々は我に返る。見ると芳乃のパフェはすでに三割ほどなくなっていた。乃々も慌てて自分のパフェに取りかかる。

 

「結構‥‥おいしいです・・・・・あっ、そうだ。この前のポエム、完成したんですけど‥‥‥」

「ほほー。拝見してもよろしいのでしてー?」

「うぅ、御守りのお礼なんですけど‥‥」

「それでは、遠慮なく拝見いたしますー。どれどれー」

「は、恥ずかしすぎて机の下に隠れたくなってきたんですけど‥‥」

 

あまりの恥ずかしさに堪らず目をそらすと、乃々は客の中に異質な集団が混じっていることに気が付いた。

しっかりとスーツを着込んだ四人の男。年齢層はバラバラで、どうやら注文で手間取っているらしい。

そして、時々視線を感じる。もしかすると、記者か何かかもしれない。

 

「とても良き出来なのでしてー。見せていただき、感謝いたしますー」

「あ、あの…ちょっと・・・・・」

 

男たちが向こうを向いているタイミングで軽く指さす。芳乃は振り向こうとしたところで向き直り、「なるほどー」と微笑んだ。

 

「これは、乃々殿に用があるようでしてー」

「えぇぇっ!? も、もりくぼですか?」

 

芳乃が目的だと思い込んでいた乃々は面食らった。心拍数が急に上がって、芳乃が振り向ききらずに気を読んだことなど気にならない。

 

「面倒を起こさぬ内に退出するといたしましょー。会計はわたくしが持ちますので、乃々殿はそのまま帰ってくださいませー」

「で、でも、芳乃さんが‥‥」

「お気になさらずにー。あの者どもはわたくしには気づいていないようでしてー。無事駅までたどり着いたら、一度連絡してくださいませー。それでは、またー」

 

さっと伝票を取って立ち上がり、会計へと向かう芳乃。乃々は迷ったが、芳乃が気を利かせてくれたのを無碍にするわけにもいかないと思い、店を出た。そのまま、駅までひたすら走る。

地獄レッスンの後の全力ダッシュで足がつりそうになったが、何とか体はもってくれた。肩で息をしながら、携帯電話を取り出―――

 

無い。乃々は青ざめた。乃々は今、ポエム帳を含む手荷物を全く、持っていないのだ。

 

記憶を辿らずともわかる。動揺のあまり先ほどの店に置いてきてしまった。

 

そして、先に席を立ったのは芳乃。荷物に気付いて回収しておいてくれているとは思わない方が良いだろう。

すると、必然的に取りに戻らなければいけないわけだが‥‥

 

「み、道を変えれば大丈夫かな‥‥?」

 

帽子を目深に被り、回れ右をする。自分を追っかけているのなら、駅まで最短ルートで来るだろうという推測を信じて、速足で戻る。陽は落ちかけていた。

 

「思ったより、普通に、たどり着いちゃいそうなんですけど‥‥」

 

そもそも乃々の心配は杞憂であることが多いのだが、人に注目されることに限っては悪い予感は的中し続けるので、どうせ途中で鉢合わせて…などと考えていたのである。

目の前の角を曲がれば、もう店の前だ。ガラス張りになっているので、そこからのぞき込んで例の集団が居ないことを確認すればいいだろう。

そう思いながら角を曲がり――慌てて引っ込んだ。

 

その例の集団が、店の前に居たのだ。

 

それも、何やら芳乃と話している。心拍数が急上昇し、大変だという意識で思考が空回りする。プロデューサーに連絡しようとして、そもそもそのための携帯を取りに戻っていたのだということを思い出す。

結局、乃々がとったのは、そのままじっと耳を澄まして、隠れていることだった。

一番臆病で、一番何もしない選択。乃々はそれに嫌気がさしながらも、自分が行っても余計に厄介になるだろうと自分を安心させて、何もしなかった。

会話の断片だけが、聞こえてくる。

 

「依代様、務めを放棄しては‥‥…が‥‥てしまいます」

 

「先にばば様を……して、島の‥‥‥‥に…を‥‥‥‥てくださいませ」

 

「しかしそれは・・・・・の禁忌を破ることになります」

 

「‥‥‥‥‥‥‥はもう嫌なのでして」

 

「‥‥‥‥っても、既にばば様は‥‥‥‥ております」

 

普段の間延びした口調とは違う厳しい芳乃の口調に、ただ事ではないということを感じ取る。

乃々はもう逃げ出してしまいたかったが、手足は震えて言うことを聞かない。

 

そして急に、怒号が聞こえてくる。

 

「依代様!しっかりしてください!」

 

「あまり触れるな!」

 

恐る恐る覗くと、地面に手をついて屈む芳乃と、慌てふためく男たち。

人通りはまばらになってきたものの、やはり注目を集めてしまっているようだ。

まずい、そう解っていても、何一つ具体的な行動は出てこない。

 

そしてついに、男の中の一人と、目が合ってしまう。頭を引っ込めても、もう遅い。

 

「誰だ。出てこい」

 

低い声にそう促されても、頭では理解しているのだが恐怖で体が動かない。頭が真っ白になって、涙も出ない。

 

「も、もりくぼは‥‥違って…‥‥」

 

ついに男が目の前にやってきて、上から見下ろされる。助けを呼ぶという選択肢も、もう頭から消え去っていた。

 

「依代様、知人でしょうか」

 

芳乃が促されて、こっちを向く。ゆらりと立ち上がり、普段とは違う沼の底のような濁った目をこちらに向ける。

 

そして―――パッ、と表情を切り替えた。

 

「乃々殿ー、先に帰ってくださいと、申したではありませぬかー」

 

普段の乃々に対する時と全く同じように、芳乃は優しく諭す。同じはずなのに、乃々は全身の毛が粟立つような感触を覚えた。

脳が理解を止め、余計にうまく言葉が紡げなくなり、恐怖だけが感情を塗りつぶす。

 

「斯様なことを此処で話すわけにはいきませぬから、今日は諦めてくださいませー」

 

芳乃は男たちにそう言って、乃々の手を引き歩き出す。乃々は自分が荷物を取りに戻ったことなんてとっくに忘れて、引かれるがままについて行くのだった。

 

 

 

 

「お見苦しいところを、お見せしたのでしてー」

 

芳乃は、手を引いて歩きながら、困り顔でそう言う。駅の方に向かっていた。

 

「その‥‥‥もりくぼは‥‥に、荷物を取りに来ただけで……特に何も聞いてなくて…」

「聞いていないと言っている時点で聞いていたと白状しているようなものですよー。そもそもわたくしに隠し事は無意味なのでしてー」

「そうでした‥‥う、嘘ついちゃって、ごめんなさい‥‥‥忘れますから‥‥」

 

そう言った後で忘れようがないことに気付く。普段と違う芳乃の姿は、乃々の中のイメージを歪めるには十分すぎた。

 

「わたくしこそー、乃々殿に嘘を申し上げておりましたゆえー。申し訳ありませぬー」

 

手を放して、深々と頭を下げる。乃々はその様子に、それ以上首を突っ込むことに対する拒絶を、微かながら感じ取った。

だから乃々は、これ以上近寄ることを止める。踏み込んでも、良かったことなんて一度もないから。

 

「じゃ…あの、もりくぼは、帰ります・・・・・。暗くなっちゃうし‥‥」

「ええー。それではー」

 

芳乃は手を振り、そっけなく踵を返して寮の方に戻ってしまう。これも平常時の芳乃とは違う。

違い、がちくちくと胸を刺してくるのだ。

乃々が目を瞑り耳を塞いでも、芳乃に対する違和感や不信感がわだかまりとして残り続ける。冷静でない乃々にもわかるほど、今の芳乃は異常だった。必死に平静を装っているということが分かってしまう。

 

けれども、乃々はそれを指摘できない。芳乃がそれを忌避しているからだ。

「あれは誰なんですか?」そう何度も喉まで出かかっている。異様なまでに他人の感情に鋭敏な芳乃も、気付いてはいるだろう。

それでもそこに触れないのは、紛れもなく一刻も早くその話題から離れたいからである。

 

暗にそれに気づいてしまったからこそ、乃々は最後まで何も言えないまま、忘れよう、忘れようと思いながらまた先ほどのカフェに戻るのだった。

 

結局それは、家に帰って死んだように眠っても、忘れられることではなかったが。

 

 

 

 

 



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後編

 

 

 

 

カツカツというチョークの音。先生の声。乃々はそれらがどこか、自分とは切り離されているものに感じていた。

学校という空間が自分に最適なものではないということは分かっていたが、こうも遠いものだと感じたのは初めてだった。

体中が筋肉痛で痛むのに、心はぼーっと浮ついていて、見えるものはどこか現実味が無い。夏休み前の浮つきとは違い、不快感をまとうものだ。

 

原因はわかっている。芳乃のせいだ。

次事務所に行くのは明日だ。その時、芳乃に会って、どういう顔をすればいいんだろう。

忘れようとすればするほど、いつもどういう風に接していたのか分からなくなる。

深呼吸して整理すれば、普段と違う芳乃を見た、それだけだ。そのはずだけど、変に胸騒ぎがする。

 

依代様、芳乃はそう呼ばれていた。あの集団がファンではないことは一目瞭然だ。

乃々にはその呼び名にどんな意味があるのかまるで見当もつかないが、あの集団の凄く重要な立場に居るのだろう。

そして乃々がそれに触れることを、芳乃は嫌がっている。多分、プロデューサーにも何も話していないのだろう。

乃々は好奇心に従って嫌われてまで首を突っ込むもうなどという気はない。

無かったことにする、そんな演技をしよう。きっと芳乃も、それに気づいたって何も言わないだろう。必死にそう暗示をかけながら、一日を過ごした。

 

 

 

 

 

翌日。今日は歌のレコーディングの日だ。乃々は間違って迷惑をかけてしまうことがないよう、レッスン以外にも家で練習してきている。

 

けど、先ほどから何度もリテイクを出されている。理由はわからない。リテイクを出している当の本人であるプロデューサーは何か違う、と何度も言っている。

 

芳乃とは上手くやっていけている。何事もなかったように、普段通りのやり取りができている。あっけないくらいだった。

 

「二人とも、ちょっといいか?」

 

プロデューサーに呼ばれる。珍しく困ったような表情をしていた。

 

「何回もリテイクだしてごめんな。ちょっと休憩した後、もう一回だけやってみてくれないか」

「わかりましたー。それでは一旦、休憩とさせていただきますー」

 

芳乃はとことこと控室に戻っていく。

 

「なんだ森久保? 休憩しないのか?」

「あ‥‥いえ‥‥」

 

不思議そうな顔をするプロデューサーの視線から逃れるように乃々も控室に移動した。芳乃は机に突っ伏して寝ていた。

やはり、ほかの仕事も忙しいのだろう。頭にちょこんとのっけたリボンは、重力に引かれて落ちかけていた。

乃々も手近な椅子に腰かけ‥‥急に心細くなった。人がいるのに静かだという状況は、中々落ち着けないものであるということを感じた。

 

落ち着こう落ち着こう、そう考えれば考えるほど、頭は冷静さを失っていく。机の下で体育座りをしても、それは変わらなかった。

乃々は気を紛らわせようと携帯を取り出すためバッグを手に取り、そこで御守りの石を持っていることに気付いた。

ぎゅっとそれを握りしめ、どうかもりくぼを普段のもりくぼに戻してください、と祈る。祈りが通じたのかはわからない。石はひんやりとした感触を返し続ける。

そして、それが体温と遜色ない温度になった頃に、プロデューサーが「そろそろいいかー?」と戸をノックしたのだった。乃々はそこでやっと、自分が眠りかけていたことに気が付いた。机の下から出ると、少しまぶしかった。

 

「良き収録が出来ますよう、頑張りましょー」身なりを整えながらそう微笑む芳乃に、

「はい‥‥次こそ・・・・・」と自然に返せる程度には、落ち着いていた。

 

そして、収録が終わり、

「うーん‥‥‥うん、うん!これでいこう!」と、プロデューサーはゴーサインを出したのだった。

 

 

 

 

 

それから、またしばらくして。

 

事務所内が、にわかに騒がしくなる。

 

原因は、とある週刊誌の記事だ。

 

シンデレラガール総選挙一位、依田芳乃は、やくざの家と関係が?という内容だ。

この手の記事は時々見られるし、特に気にするほどでもないのだが、今回は少し違う。

事務所の周りなどをうろつく黒服集団の写真が出ている。中には先日乃々に詰め寄ってきた男も映っていた。つまり事実なのだ。

今の所ガセだろうという見解が強いが、今後も写真が増え続けるならそうはいかないだろう。

 

事務所に入ると、入れ違いに芳乃が出ていく。事務所に来る時間を細かく指定されたことから、事情を聞いていたのだろうと思った。

 

案の定、プロデューサーがその件について何か知っていることはないか、と聞いてきた。乃々は知らない、と答えた。

ちくりと胸が痛む。誰に頼まれてもいないのに、乃々はプロデューサーを騙したのだ。

ここで話していれば、なんとかなったかもしれない。嫌われてでもそうした方がよかったかもしれない。そう考えてしまう。

 

それ以外に用は無かったので、話が終わってすぐ帰ることにする。

駅に向かってしばらく歩いていると、女子寮の前で芳乃に出くわす。

 

「また会いましたなー。わたくしも駅近くまで用がありますので、ご一緒しませぬかー?」

「あぁ…はい。いいですけど‥‥‥」

 

二人で並んで歩く。乃々が沈黙を苦痛に感じてきた頃に、芳乃が話し始める。

 

「また迷惑をかけてしまいましたー。すみませぬー」

「いえ‥‥もりくぼも迷惑かけることがあるので‥‥人のことは言えないし…」

 

口ごもる乃々を見て、困ったような顔をする芳乃。

 

「言って、しまわれたのでしてー?」

 

思い切ったように、そう言う。語尾は少し震えていた。

乃々が首を横に振ると、少し安心したようだった。

けどそれは、疚しいことがあるということを認めているのと同義で。

乃々はさらに芳乃へのかかわり方が分からなくなってしまった。

 

そろそろ駅も見えてこようか、といった頃。

 

「乃々殿には、やはり話しておこうかと思いますー。隠し事をするのは、やりきれませぬゆえー。お時間よろしいでしょうかー?」

 

いつもの芳乃とは違う、柔和さのない真剣な表情。これ以上触れてしまうことは乃々にとって恐怖だったが、逃げるという選択肢は選べなかった。

絶対に聞かれたくない話らしかったので、手近なカラオケに入った。

 

芳乃は思いつめたように、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

 

 

 

 

依田の者には、とある言い伝えがある。

 

『関わった他者に幸せを分け与える』そんな不思議な力を持つらしい。そして、それは先に生まれた子ほど強く顕れる。

 

代償は、当人が分け与えることのできる幸せの総量は決まっていて、それがなくなる時、死んでしまうこと。寿命は、長男長女なら良くて30年、だそうだ。

 

大昔から伝わってきたこの言い伝えは、確かに今でも効力が残っている。

 

そして、そのせいで争いも絶えなかった。

 

そこで村の人間は、依田の人間を幽閉し、裏で神として崇めることで、その恩恵にあずかってきた。

 

依田家としても、身の安全が確保でき、祷り屋としての生活が保証されるなら、とそれを受け入れてきた。

 

長男長女が依代の役目を果たし、その弟妹が子孫を残す。そういうサイクルが成立していたのだ。

 

しかし、問題が起きた。

 

先々代、つまり芳乃の祖母に当たる代の子供は、一人だけだったのだ。

 

つまり、芳乃の母は、依代の役目と、子孫を残すという役目の両方を背負うことになってしまったのだ。

 

勿論、うまくいく訳はなかった。いつ死ぬかも解らないせいで村の人間が焦り、若すぎるまま芳乃の母は妊娠し、そして、第一子である芳乃を生んですぐに亡くなってしまった。

 

当然、芳乃にも母と同じ運命が待つことになっている。

 

それを拒んだのは、芳乃の育て親である、祖母だ。

 

祖母は同じ悲劇を繰り返さぬよう、一計を案じた。

 

長男長女ではないとはいえ、依田の人間は多少の力を有する。

 

『関わった他者に幸せを分け与える』という性質上、神事以外で対面して人と関わることを禁じられてきた状況を利用し、芳乃のふりをして神事を執り行うことで、芳乃の力の減衰を抑える。

 

小さいころから色々な教育を施し、芳乃をどこでも生きていけるように育て上げる。人とのかかわり方を教え、力の制御を教える。

 

そうして、十六歳になった時、芳乃を逃がしたのだ。

 

芳乃は自分の居場所を探し、プロデューサーと出会い、アイドルとなった。

 

それからはトントン拍子に人気が出て、総選挙で一位をとるまでになってしまった。

 

それと、芳乃の教育役であり、今回の事件の首謀者である祖母の、力を失ったことによる死は、ほぼ同時だったのだ。

 

作戦の発覚と同時に、芳乃は目立ってしまった。芸名である可能性があるとはいえ、芳乃は母とそっくりの顔立ちだったらしい。すぐに足はついた。

 

すぐにあの男たちが、芳乃を連れ戻しに来る。当然の事であった。

 

今の芳乃は、制御しているとはいえ、力をあちらこちらに流しすぎている。寿命は刻一刻と減っている。

 

早く連れ戻さなければ、家の存続さえままならないのだ。

 

前々から少しづつ干渉はあったが、焦りが募ってきたのか、手段を選ばなくなってきている。

 

これ以上迷惑をかけるわけにはいかないので、この仕事を最後に、アイドルを辞めてしまおう。芳乃はそう考えている。

 

これが、話の全容だった。

 

 

 

 

やくざとかそういったことより、はるかに上を行く話で、うまく頭が理解しない。

 

乃々はぐちゃぐちゃになった頭を必死に整理しながら言葉を選ぶ。

 

「アイドルをやめて、えっと…ど、どうするんですか・・・?」

「少し遠い、静かなところで、ゆっくり休憩いたしましょうかとー」

 

休憩という言葉の意味が文字通りでないということくらい分かった。

止めなければ、どうやって止める? 止めることに意味はあるのか?そういった思考が焦燥に火をつける。

 

「別に、そう考えこまなくてもよろしいのでしてー。乃々殿はそれまで、黙っておいてくれればー。わたくしは依代、もとより真っ当な人間ではないのですから、かまいませぬよー」

 

躊躇いもなくそう言って笑う芳乃。いつの間にか、カラオケは時間切れになろうとしていた。

 

期待を縫い付けられているんだ、漠然と乃々はそう思った。

 

乃々がアイドルを始めるきっかけになったのは、芸能プロダクションで働く叔父に子役としてデビューしないかと薦められたことだ。

元々気弱だった乃々は、似たような臆病な子供の役にピッタリで、特に演技することもなくそのオーディションに通ってしまった。

そして結果は上々、すごく演技が上手な子役として、持ち上げられてしまった。

当然、両親の期待も高まる。乃々の性格とは違った役も、回ってくるようになった。

そしてついに、失敗したのだ。監督の、「君はそれしかできないのか、代わりは居るんだぞ」というセリフは、まだ耳に残っている。

 

その時から乃々は、「無理」になってしまったのだ。先に進むことも、成長することも、期待に応えることも。

両親はそんなときもあるさと慰めてくれたが、その目に失望があることが見えてしまった。それが怖くて、目を合わせられなくなってしまった。

乃々が自棄を起こして全てを投げ出してしまってから、しばらくして。叔父がまた仕事を持ってきた。

何度も断ったが、結局流されて出会ったのが、今のプロデューサーだ。今の印象と変わらず、不思議な人だった。

小鳥の求婚のように一生懸命、君が必要だ、と言い続けた。

期待に応える人、ではなく、乃々を必要とする人なんて、初めてだった。

 

だから、乃々は期待を肩から下ろしたまま、アイドルをやっていられるのだ。

 

一方、芳乃は、期待に応えることが、自分の唯一の存在意義であると思っている。乃々には、眩しすぎる考えだ。

それが正しいことなのかは、乃々にはもはや見当もつかない。間違っていたって、解決策などわからないのだ。

 

乃々は芳乃の深淵に触れてしまったような気がして、一層怖くなった。

 

全てを知ってしまった乃々には、口を噤むことしか、出来ない。

 

 

 

 

 

 

それからは、形だけはトントン拍子で進んでいた。曲の前人気も上々で、あの黒服の男たちも見つからなくなり、夏の暑さもゴシップも、嘘のように消え去った。

 

そして秋も深まり、今日は曲のお披露目イベントだ。緊張するが、歌も踊りもしっかり練習して、目を瞑ってもしっかり動けるくらいだ。昨日のリハも完璧だった。

 

つまり、乃々の心の蟠り以外は、何一つ問題もなく進んでいるのだ。

 

今はメイク待ちをしている。あと数時間もしないうちに開始のはずだ。そのせいか外は騒がしくて、緊張が高まってくる。

 

机の下にでも隠れておこうかと考え始めたころ、乱暴に戸が開く。見るとプロデューサーが息を切らして立っていた。

 

「芳乃を‥‥芳乃を見てないか?」

 

憔悴したその言葉に、心の奥を突かれたような気分になる。嫌な予感が、全身を駆け巡る。

 

探さなくちゃ。乃々は直感的にそう思った。

 

「あっ…朝は!‥‥き、来ていたんですか」

 

急に声を出したせいで、変に上ずってしまう。プロデューサーは頷いた。

 

「さ、探してくる‥‥んですけど‥いいですか‥‥」

 

勢いで立ち上がったはいいものの、尻すぼみになっていく。乃々にもメイクの予定があるのだ。

 

「いや、探すのはこっちで・・・・・」

 

そう言おうとしたプロデューサーは、乃々の顔を見て少し笑った。

 

「ああ。見つけ次第連絡してくれ。俺は客席の方を探してくる」

 

乃々は駆けだした。

 

 

 

走る。ただひたすらに走り、和服の少女の姿を探す。

 

机の下、柱の陰。違う。自分が隠れるところじゃない。芳乃が行きそうなところを探さないと。目深に帽子を押さえたまま、芳乃を探す。

 

イベントの前の体力温存とか、そんなことは毛頭頭になかった。レッスンの時もあれだけ頑張れたんだ、と自分を鼓舞する。

 

けれど、一向に見つからない。時間もかなり押している。一度連絡を取ろうと携帯を取り出そうとし――

 

指に、違うものが触れる感覚。例の、御守りだった。

 

ひんやりとした感触の中に、違う何かが、流れている気がした。それに従って、携帯で地図を確認する。

 

――――ある。ここだ。

 

どこにも根拠はない。それに、こんなところまで歩いていては、通常の開演時刻には間に合わないだろう。

 

それでも、ここに行くしかないのだ。乃々は再び足を速めた。

 

雨が、降り始めていた。

 

 

 

 

 

芳乃は、あっさりと見つかった。それはもう、強まっていく雨とは対照的に、嘘のように簡単に見つかった。

 

会場の近くの、海にほど近い河川敷。橋のたもとに、立っていた。

 

「乃々殿ー。どうしてここにー? あぁ、気を辿って来られたのですかー」

 

芳乃を見つけ、今にも泣きだしそうな乃々を見て、それでも落ち着いた様子で芳乃がそう言う。

 

「探し…ました。今から‥‥戻れば」

「それはもう手遅れなのでしてー」

 

さえぎるようにぴしゃりとそう言う。

 

「どう‥‥して…」

「わたくしはやはり依田の人間だった、そういうことなのでしてー」

 

後悔、苦悩、怒り、哀しみ、羨望、そして諦め。色々な感情が複雑に混じった微笑みを向けられ、乃々は思わず目をそらしてしまう。

 

不意に、車のブレーキ音がして、乃々は振り返る。停止と同時に、男たちが降りる。何人かには、見覚えがあった。

 

「依代様、逃げては困りますよ。大人しく務めに戻ってくださいませ」

 

一人がそう言う。芳乃は動かなかった。

 

「やれやれ‥‥仕方ない」

 

声が急に冷たくなり、意味の分からない声を発し始める。

呆気にとられる乃々の横を、さっきまでは動かなかった芳乃が、ゆっくりと通り抜け、男の方に歩いて行く。

 

「よ…芳乃‥‥さん?」

 

芳乃は男の下で立ち止まり、乃々にお辞儀をする。

 

「乃々殿とは、今日でお別れになりまするー。今まで、ありがとうございましたー」

 

乃々をじっと見つめる目は、感情というものをおよそ持っているとは思えない目だった。

ガラス玉のように無機的で、感情に鋭敏な乃々と目が合っても何も感じないくらいだった。

けれども顔は微笑っていて、アンバランスだ。

 

「あ・・・・・あぁ‥‥」

 

本降りになりだした雨に打たれ、振り返って車に乗り込もうとする芳乃を、乃々はスローモーションで見ていた。

 

これで、いいのか?

これが、当然なのか?

仕方ない、ことなのか?

 

答えは全部、ノーだ。

 

「も・・・・・もりくぼは‥‥」

 

見過ごして、いいことではない。

 

「こ、こうなったら・・・・・」

 

どうやってでも、とめなきゃ。

 

「やけくぼなんですけどぉぉぉぉぉおおおおお!!!」

 

乃々は絶叫しながら、芳乃のもとに走る。

 

押さえつけようとする男たちの腕を潜り抜け、噛み付き、ひたすらに走る。

 

その甲斐も虚しく、乃々は抑え込まれてしまった。

 

けれど、足を擦りむきながらも、車に乗ろうとする芳乃の着物の裾を掴むことは、出来た。

 

「芳乃さん‥‥も、もりくぼは! ずっと、芳乃さんにもらってばっかりで、励まされてばっかりで! ダメダメですけど・・・! 貰った幸せでよければ……分けてあげることが出来る・・・かもしれない・・・・から! 何もできないかも・・・・しれない・・・けど!

ずっと一緒に、いて、ください!」

 

雨と涙でぐちゃぐちゃにしながら、乃々は芳乃の目を見たまま、そう叫ぶ。

 

言い終わると、力が抜け、裾から手を放してしまう。

 

涙と雨粒を腕で擦って押しのけ、その先に見えた芳乃は、

 

 

 

泣いていた。

 

「わたくしも・・・・・こんな運命は…嫌なのでして…‥‥」

 

堰を切ったように熱い涙が零れ、芳乃は乃々を抱きとめて、声をあげて泣き始める。

二人の声は雨にかき消されて遠くには聞こえないが、お互いにはしっかりと感じられる‥‥‥

 

呪縛は、すべて解けたのだ。

乃々の祈りは、運命に囚われた依田芳乃を、普通の、女の子に戻したのだ。

乃々が左手に握りしめていた御守りの小石も、力を失って、ただの丸い石に逆戻り。何度呪文を唱えても、魔法にはかからない。

依代の役目も、これでさよなら。秋の雨の中に、流されてしまった。

それは彼女たちの起こした奇跡であり、強い祈りから来る必然でもあった‥‥‥‥

 

 

 

 

 

 

 

 

それから、二人はプロデューサーによって発見され。

当日の開演は雨でアイドルが来られなくなったことにして延期。

大騒ぎとはなったが、何も明るみに出ることはなかった。

 

 

 

そして、一週間後。

 

「乃々殿ー?」

「ひぃっ!?……よっ、芳乃さんですか……」

 

相変わらず芳乃は乃々の隠れている場所をぴたりと当て、そこにやってくる。

 

「力は使えなくなかったって言ってた気がするんですけど‥‥」

「ええー。ですから、少しだけ探しましたー。今日こそはお披露目の宴、はりきって、まいりましょー」

「もりくぼは‥‥もう少しだけ、充電期間が欲しいんですけど‥‥」

 

そういいながらも立ち上がり、二人、並んでまた、歩きだす。

 

 

 

                                     fin.

 

 

 

 



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