Caligula - epilogue (ミツバチ)
しおりを挟む

Messiah Complex 1

 透明に澄んだ窓ガラス越しに、春の麗らかな日差しを浴びる。

 快速で滑らかに移動するモノレールの車両――そこに設えられた座席の一つに腰を落ち着けて、俺はスマートフォンの画面に視線を落としていた。

 液晶画面には光が灯り、膨大な文字の列を浮き上がらせている。

 画面に表示されているのは、匿名の小説投稿サイトだ。俺はそこにアップロードされた小説の一つに目を通している。

 

 最終回。

 

 幾度となく目にした、結末のページ。

 あとがきと共に一年ほど前に更新された文章を、脳髄の奥で噛み締めて咀嚼する。まさに反芻だ。俺は何度も繰り返し、繰り返し、この物語を愛読していた。

 これは、既に終わった物語だ。

 この手の小説投稿サイトでは珍しくなって久しい、ジュブナイルSFに属するやや難解なお話。()年前に症例が確認されてから、日本中で爆発的に流行した現代病――幽体離脱症候群(アストラル・シンドローム)を取り扱った、異例の怪作。自我を得た二人のバーチャドールが造り上げた仮想世界・メビウスで繰り広げられる、一人の少女と、その愉快な仲間達との冒険譚―――

 

 あとがきまで読み終えて目次に戻ると、『祝! 書籍化!』の吉報が目に飛び込む。それを見る度、どうにもにやけてしまうのがすっかり癖になってしまっていた。

 

 情報がそこかしこのネット中で氾濫しているこの現代では、様々な物語があちこちに埋もれている。小説投稿サイトは言うに及ばず、個人のブログやSNSにも人々の胸躍る営みがこの世界に広がっているのだ。

 告白すれば―――このサイトにこの物語が投稿された当初から、俺はこの作品の熱烈な愛好者(ファン)だった。その自分からすれば、この作品がこうして最終回を迎え、人々から一途な愛憎を向けられている現状は我が事のように嬉しい。

 けれどだからこそ、いつまでも読後の没入感に浸っている訳にはいかない。

 あの日――俺達の手によって永遠(メビウス)の輪は断たれ、空想と現実は分断された。けれどその二つは決別したのではない。コインの裏表のように、折り合いを付けることを望んだのだ。

 幽体離脱症候群(アストラル・シンドローム)の誘いを振り払い、目覚めてから早二年。

 俺達の目の前には、途方もなく広大な現実(ユメのあと)が続いている。

 

 これは、既に終わった物語だ。

 

 一世を風靡した、空前絶後の人気作。俺達はこれから、その続きを見ようとしている。

 

『YOU! そろそろ駅に着く時間だよ!』

 

 ―――ああ、分かった。ありがとう、アリア。

 

 スマートフォンのスピーカーから聞こえた声に答え、窓越しに外へ視線を向ける。

 C県宮比市にある歓楽施設――シーパライソ。それが今日の目的地だ。

 水族館やら遊園地やらを内包した、()()()()()()()()()()()()()()()一大アミューズメントパーク。その外観を目に焼き付けるようにしっかりと視界に収めてから、再び手元のスマートフォンに視線を落とす。

 画面は、小説の目次を映している。

 そこには書籍化の報せと簡単なあらすじ、各話へのリンク、そして物語のタイトルが表示されていた。

 

 

 

 Caligula

 

 

 

 本日午前九時、シーパライソ駅前の広場にある柱時計のモニュメントに集合。

 スマートフォンを操作して、予め皆と相談して決めておいた日程を再確認する。そして目の前の大きな時計とをちらちらと見比べてから、俺は溜息を吐いた。

 誰かと待ち合わせした場合、予定時刻よりも早く到着するよう心掛けるのは一種の美徳だと、俺は思う。けれど今回はそれが少しだけ災いしてしまったようだ。

 

 現在時刻は八時二十分――その事実が表すのは、即ち、俺はこれから此処で四十分も立ち続けなければならないということ。

 

『いやいや、別にここで突っ立ってる必要はないでしょ。集合場所が見えるオープンカフェなんかで座って待ってれば?』

 

 なるほど、そういう選択もあるのか。

 

 感心して頷く。待ち合わせと言えば、到着してからずっとその場で待ち人を待つものだと思っていたが……考えてみれば、ちょっと律儀過ぎたのかもしれない。たまにはアリアの言う通り、横着してみるのも悪くはないだろう。

 などと考えていると、一人の男性がこちらに近付いてきた。

 その人物の風貌を、俺は何処か昔に見たことがあるような気がした。きっと恐らくは、彼が学生の時分の姿を知っているのだろう。けれどそれでは時間の帳尻が合わなくなる。俺は現役の大学生であるのに対して、彼は丁度中年に指を掛けた頃合いの年齢であると思しいからだ。

 見ず知らずの男性は間近で足を止めると、少々戸惑いがちにこちらを見やる。

 彼は俺の頭の天辺から爪先までを見下ろしてから、ようやく決心が付いたという顔をして口を開いた。

 

「あれから二年―――こっちで会うのははじめまして、だな。()()

 

 予想よりも低い声。それにああ、と頷きを返す。

 

 彼は俺のことを知っている。

 そして俺は彼を知っていた。

 

 俺が知っている彼よりも体は大きく、髪は短く黒一色になり、服装は洒落っ気のないラフなシャツとジーンズに変わっているけれど。気怠そうな面差しと、暗い瞳は変わっていない。

 

 佐竹笙悟。

 

 俺と同じ時を生き――駆け抜けて。永遠に続く学校生活(メビウス)の輪から()()した、今日の帰宅部同窓会を彩る大切なメンバーの一人だ。

 

「……驚かないんだな、お前。いや当たり前か。『現実の俺は三十路のニートだ』って、向こうでバラしてたからなぁ。ちと寂しい気もするが、まあ、オフ会なんて案外こんなもんか」

 

 こんなもんだよ。

 でもそういうそっちこそ、よく俺だって分かったな。えぇと……笙悟、さん?

 

「まあ、お前はメビウスの中にいた頃とほとんど見た目が変わってないからな。少なくとも俺ほどじゃない。だらか分かったんだ。……それから、頼むからさん付けはやめてくれ。なんか背中がむず痒くなる。今日は同窓会なんだからよ、せめて呼び名くらいは前のままでいようや」

 

 心底嫌そうに頭を振って、笙悟が言う。俺はそれに苦笑を返した。

 どうやら、ものぐさな性分は変わっていないらしい。ならばこちらも変な気遣いをする必要はないだろう。

 笙悟は場に満ちた妙な空気を払拭すべく、それはともかく、と軽く咳払いをする。

 

「……ところで、領収書は取って来たか?」

 

 ああ。―――でも、本当にいいのか? 電車賃くらいなら、別に自己負担でも……。

 

「いや、これはなんつーか……俺の気持ちの問題なんだ。お前等部の皆には世話になったし、俺の過去のせいで何かと迷惑をかけたからな。せめてこれくらいはさせてくれ」

 

 ……驚いた。まさか、笙悟がこんなことを言うとは。

 面食らって目をぱちくりと瞬かせる。すると彼は口元にふっ、と大人の余裕を感じさせる微笑みを浮かべた。

 

「安心しろ、金ならちゃんと用意してる。実は俺、もう就職してるんだ。一年前に」

 

 ―――本当か!?

 

『マジで!? すごいじゃん笙悟!』

 

 言葉は違えど、まったく同じニュアンスで俺とアリアの台詞が重なる。突如として二つのスマートフォンから聞こえた声に笙悟は多少面食らいながらも、彼は自身のスマートフォンを取り出して画面を見た。

 メッセンジャーアプリWIREには、デフォルメされた二頭身のキャラクターのアイコンが映し出されている。彼女もまた帰宅部のメンバーの一人だ。

 

「突然何かと思ったら、アリアか……」

『ふふん、せっかく部長と元部長の二人が揃ってるのに、アタシが顔出ししない訳ないってば! それよりも笙悟の近況情報をプリーズ、プリーズ!』

「近況って言ったって大したことはないしな……というか、メタバーセスにいるお前なら俺の情報なんて簡単に調べられるんじゃないのか?」

『YOUったら分かってない! こういうのは本人から直接聞くことに意味があるんだってば! だからアタシもμも今日という日をすんごく待ち焦がれてたんだから!』

「……そういうもんか?」

 

 そういうものだ。

 

 首肯を返しつつ、ことの粗筋を思い返す。

 μというバーチャドールによって仮想世界・メビウスに囚われてしまった俺達は、記憶を奪われ、偽りの高校生活を謳歌していた。しかし所詮は偽物、ホコロビというものは何処にでも転がっているもので、そこがどれだけ幸福であっても現実と空想の相違に気付く者は少なくなかった。

 俺達もまたその一つ。

 空想上に用意された学校(メビウス)から、現実の家へ帰ることを目的とした部活動。帰宅部――その創設者である笙悟と、彼に部長の役職を譲られた俺。そして部活動の内容を激動させた要因であるアリア。この三者がこうして現実で集っているというのは、とても感慨深いことのように思えた。

 

 ―――帰宅部がその活動を終えて、二年。

 

 その月日は、メビウスに囚われていた者――現実世界で言う所の幽体離脱症候群(アストラル・シンドローム)患者が突如として一斉に目覚めてから経過した時間と完全に一致する。

 μの決断によってメビウスの輪は解かれ、俺達を含むメビウスの住人は全て無事元の世界へと帰還した。

 けれど夢から覚めてみれば、待っていたのは過酷な現実だ。

 もちろん、それは分かっていた。最長で六年も寝たきりだったのだから、そもそも目覚めた人間の中でその場で満足に動ける者が何人もいたかどうか怪しい。筋肉は衰え、場合によっては消化器官すら用を成さなくなっているだろう。社会復帰には相当な努力(リハビリ)を要する。

 

 そんな苦痛の坩堝のような世界で唯一救いとなったのは、目覚めた幽体離脱症候群(アストラル・シンドローム)患者に対する政府の政策だ。

 

 幽体離脱症候群(アストラル・シンドローム)の患者に対して、日本政府は彼等が迅速に社会復帰出来るよう取り計らった。それこそリハビリの方法から、休学・休職していた人間が元の学年や役職に復職を可能とする体制まで。あっという間に出来上がってしまったのだ。

 人々は政府のその働きを讃えた。

 しかし噂に聞く所によると、その政策に対して、実の所政府は非常に困惑しているのだという。曰く、これは自分達が決めたことではない――と。

 しかし一度は確かに首相の名の下に発令されたものなので、取り消しは利かなかったようだ。

 

 ……この不可解な一件に関して、一つだけ興味深い情報がある。

 一部のゴシップ記事が取り上げただけのものだが――この騒動の裏では、実はメタバーセスなる世界に住む二人のバーチャドールが暗躍していたとか、なんとか。

 

 閑話休題。

 

 とにもかくにも、大変な二年であったことは疑いようもない。

 そして目の前にいるのは高校を中退して以来、十三年以上も自室に引き籠っていたという人物だ。その彼が、目覚めてからまだ二年しか経っていないというのに――既に、就職しているとは。

 

「つっても、派遣でなおかつ工場勤務だけどな。俺に出来る仕事なんて、それくらいしかない」

『そんなこと言って! ちゃんと現実と向き合ってる証拠じゃん! すごいことだよ、笙悟!』

 

 アリアの激励にうんうんと頷く。

 すると笙悟はこそばゆそうに頬を掻いて、「よせよ……」と呟いた。

 

「ま、まあ……とにかくだ。そういう訳だから、今日は金銭面のことは心配するな。仕事の初任給は今まで世話になった両親と、お前達帰宅部の為に使おうと思って貯金してたからな。流石に足りるだろ」

 

 そこまで言われてしまっては、断るのは野暮というものだ。

 俺は財布から領収書を取り出し、笙悟に渡す。彼はそれを適当に斜め読みすると、実際の料金よりも多額の紙幣をぶっきらぼうに差し出してきた。

 きっと小銭を用意するのが面倒だったのだろう。

 そう思うことにしておいて、俺は笙悟からお小遣いをせしめたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Messiah Complex 2

 今日の同窓会に掛かる費用――つまりは交通費、食費、入園料は全て笙悟持ちなのだという。

 シーパライソ側にも少数ながらも団体で入園すると、予め連絡と手続きを取ったようだ。流石は帰宅部の兄貴分。社会人ともなれば、その辺りのことが否が応でもしっかりしてくるのだろう。……三年後には自分もそうならなければならない、と考えると、多少気が重くはあったが。

 

「そういえば、お前は聞いてるか?」

 

 藪から棒に、笙悟がそんなことを尋ねてくる。

 何のことか分からなかったので率直に尋ねると、「琴乃の件だよ」という返答があった。

 

「あいつ、何度かWIREで『今日の同窓会では重大な発表がある』とか、『みんなに紹介したい人がいる』とか言ってただろ? それが誰なのか、心当たりはないかと思ってな。ほら、部長のお前なら何か聞いてるかと思ったんだが……」

 

 笙悟の問いに、ふむ、と考えを巡らせる。

 確かにそんな内容の通知を目にしたり、実際にメッセージをやり取りした経験が俺にはあった。しかし生憎と、その人物が誰なのかという詳細までは知らされていない。笙悟の様子から察するに、それはきっと他の部員達も同様だろう。

 

 そしてそこから彼等が推測することも同じに違いない。

 曰く―――――婚約とその相手の発表ではないか、と。

 

 実際、彼女はその存在を匂わす発言を一度している。

 その現場はシーパライソ。愛すべき仲間達と同等以上に愛しい人――『たっくん』の存在を、彼女は宣言した。

 そして奇しくも本日の同窓会会場は此処、シーパライソ。ともすれば紹介にはうってつけの条件だと言わざるを得ない。誰もがたっくんなる何者かを紹介されるのだろうと確信しているに違いなかった。無論、それは俺も同じだ。

 ……そういえば。この一件がWIRE上で告知されてから、鍵介から相当な量の愚痴が毎日送られてきているような気がする。

 

 ―――けれど事実とは、常に小説より奇をてらうもの。

 

 今日、彼女が紹介するという人物こそがたっくんである。そこまでは間違いではない。ただし、その正体は婚約者などではないのだと、俺とアリアだけが知っている。

 

「……? なんだ、その意味深な笑いは」

 

 秘密だ。なあ、アリア?

 

『そーそー。アタシ達の口からは絶対に言えないよね。こればっかりは、琴乃の到着を待って貰う以外にないんだってば―――って、噂をすれば』

 

 ニシシ、と笑うアリアの姿が目に浮かぶ。

 そんな懐古感にくすぐられつつ、周囲に視線を向ける。恐らく、アリアが反応したのはスマートフォンのGPS機能が発する位置情報だ。該当者はきっと俺達の近くにまで来ているに違いない。

 程なくして、それらしい人影を見付けた。

 駅の出口からこちらへ向かって来る女性がいる。丈の長い淡い色のワンピースを纏い、紺色のカーディガンを羽織った佇まい。青い花の髪飾りに彩られた色素の薄い長髪を揺らしながら歩く、ぱっちりとした瞳が印象的な美しい妙齢の女性。

 

 柏葉琴乃。

 

 メビウスにおいては笙悟と並び、帰宅部の中でも殊更大人びた雰囲気を纏っていた少女。清楚かつ温かな印象が強い彼女の現実での姿は、まさしく二十歳を過ぎた大人であった。

 彼女はにこりと微笑んで、ひらりと片手を振る。

 

「久し振り、部長。それから……隣の貴方は笙悟かしら?」

「ああ。久し振りだな、琴乃」

 

 笙悟と同じく、久し振り、と答える。

 それにしても一目で彼が笙悟だと見抜くとは……いや、彼女は帰宅部員の中でも物事の本質に聡い性質だったから、そう驚くようなことではないのかもしれない。

 

 というか、そんなことよりも気になって仕方がない事柄が一つ。

 

 幼い子供が一人、琴乃の背後に隠れるように佇んでこちらを見上げている。大きな瞳には好奇の色が見られるが、しかしそれ以上に固く引き結ばれた唇と琴乃の手にきつく絡む指が、今の彼の心情を強烈に表しているように見えた。

 見知らぬ他人に怯えている。

 そんな円らな瞳で凝視されたものだから、笙悟は完全に委縮してしまっていた。なんと声を掛けたものかと言葉を選んでいる途中で、苦笑した琴乃が先んじて説明する。

 

「ごめんなさいね。今日は帰宅部の同窓会なんだから、メンバー以外の人を連れてくるべきじゃないって分かってはいたんだけど。この子のこと、どうしてもみんなに紹介したかったから」

「え……ってことは、アレか? まさか、その子供がお前の言ってた―――」

「―――ええ。この子が『たっくん』。私の実の息子よ」

 

 その時、笙悟に電流走る。

 予想外の事実に固まってしまう三十路の大男。そんな彼を差し置いて、琴乃は我が子の背中を軽く押して一歩前へ出させた。

 

「ほら、たっくん。この人達が私の大切なお友達よ。ご挨拶できる?」

「う、うん……柏葉(たくみ)です。今日はよろしくおねがいします」

「あ、ああ……佐竹笙悟です。こちらこそよろしくお願いします」

 

 可愛らしくぺこりと会釈するたっくんこと巧に対し、笙悟はキビキビとした社会人らしいお辞儀を返した。テンパった果てのこの行動……メビウスで不慣れなアルバイトをしていた頃の名残りだろうか? それは営業マンもびっくりするほどに完璧なビジネスマナーなのであった。

 それに追随する形で、俺も軽く自己紹介を済ませる。

 

「ふふ、よくできました」

「えへへ……」

 

 我が子の頭を撫で、褒める琴乃。すると巧は口端を緩ませ、愛らしくはにかんだ。

 

「……お前も俺と同じで現役の高校生じゃないだろう、とはなんとはなしに察してはいたが。まさか子持ちだったとはな」

 

 彫像と化していた笙悟が再び動き出す。

 父親は誰なのか、と踏み込む様子は見られない。それは彼なりの気遣いなのか、あるいはメビウスに囚われていた頃から変わらぬ性分が故か……きっと後者だろう。

 どちらにせよ恐らく彼は彼女がどのような経緯で巧を出産したか、その事情を薄々察しているのだろう。もしかしたら、職場等の身近な所に彼女と似たような境遇のシングルマザーがいるということも十二分にあり得る。

 

 俺は巧の下に歩み寄り、その場でしゃがんで目線を合わせる。そしてにこりと微笑みかけた。

 

 巧君は今、いくつなのかな?

 

「むっつ、です」

 

 そっか、ありがとう。自分で答えられるなんてすごいね、偉いよ。

 

 朗らかに笑って見せると、それに釣られたように巧も愛らしくはにかんだ。

 少しずつ緊張が解れている。その姿を目にした瞬間、気が付けば俺はある問いを投げていた。

 

 ―――君は、お母さんのこと好きかい?

 

 問いに対して肩を震わせたのは巧ではなく、琴乃の方だった。

 

 幼少期に親から十分な愛情を注がれずに育った子供は、自分に自信が持てなかったり、感情が希薄な性質に育ったりすることがままあるという。真に他人(ひと)を愛するためには、無条件に愛される期間というものが必要なのだ。

 その点で言えば、この子の環境は決して恵まれたものではなかった筈だ。

 生れてから四年間、彼が母親である琴乃から十分な愛情を注がれていたか定かではない。少なくとも巧が二歳から四歳の時分においては、琴乃は幽体離脱症候群(アストラル・シンドローム)を患った事実上の廃人と化していたのだ。育児に携われる筈がない。

 無論、こうして彼が生きている以上、養育する者がいたのは間違いない。琴乃の母――つまりは巧の祖母にあたる人物が育児に躍起になっていたと聞いている。それでも幽体離脱症候群(アストラル・シンドローム)患者の世話や家事と仕事に追われていた彼女が満足に巧と向き合い愛情を持って接することが出来たかといえば、それはきっと否だ。

 全ての事柄を完璧にこなせる超人なんて、この世にはいないのだから。

 それに琴乃がメビウスに囚われてしまった原因を考えるのなら、二歳以前の時期においても彼が真に愛されていたかという点に関しては疑問が残る。

 

 だから最初、巧は怯えていた。

 

 肉親から放置され、自分が誰からも無条件で愛される訳ではないと幼心に知ってしまった彼は、他人という存在を無意識下で畏怖している。引っ込み思案な振る舞いもそれが原因だろう。

 三つ子の魂百まで、という諺がこの国にはある。

 幼い時分に定まった精神的な気質は、一生そのままであるというものだ。であれば、彼はずっとこのままなのだろうか―――その答えは否であると、個人的にはそう思いたい。

 

 琴乃は後悔していた。

 

 日々を男遊びに費やしたこと。

 十八歳にして子供を産んでしまったこと。

 そして周囲から向けられる侮蔑の視線に耐えられず、偽りの世界(メビウス)に囚われ、そこで全く同じ生活を繰り返したこと。

 

 彼女はその全てを悔い、だからこそメビウスを脱却し現実へ帰ることを望んだのだ。

 

 自らの過去と向き合うために。

 自らの子供を愛育するために。

 

 それがどんな難事か、未だ学生の身分の俺には想像もつかない。けれど琴乃が現実に帰還してから今日までの二年――彼女がどう過ごしてきたのか、その片鱗をこの問答で少しでも見聞することが出来ればと、そう思ったのだ。

 斯くして、巧は一度確かめるように琴乃の顔を見上げ、恥ずかしそうにこちらを見つつ答えた。

 

「うん。お母さんも、おばあちゃんも、登紀子おばちゃんも、みんな僕のそばにいてくれるんだ。だから、今はさびしくない。みんな大好きだよ」

 

 ……そっか。良かった。

 

 そう言って、巧の頭を撫でててみる。我ながら随分と馴れ馴れしいことをしているとは思ったが、しかし彼は一瞬肩を竦ませただけで、以降は猫のようにされるがままに任せていた。

 安心した。

 彼が本心から口にした偽りのない言葉に、本当に安堵した。完全な外野の人間である俺がこんなことを考えるのは烏滸がましいとは思うが―――それでも、本当に安心したのだ。

 

「会って早々、いきなり抜き打ちか……本当に容赦ないのね、部長は」

 

 目元を指の背で拭いながら、いつかの日々を懐かしむように、琴乃は言った。あえてそれに返答することはせず、ただニヤニヤとした笑み向けるだけに留めておく。

 

『でも大丈夫? 琴乃が自分の問題と向き合って、克服して、お母さんとして生きているってことは分かる。でも、YOUが現実から逃げ出した理由はそれだけじゃない』

「……うん。私は一八歳のシングルマザー。周囲から向けられる視線が怖くて、煩わしくて、そしてμに誘われてメビウスに逃げ出した。その事実は変わらない。でもだからこそ、今日、たっくんを連れてくることにしたの」

 

 深く深く息を吐いて、俺と笙悟を真っ直ぐに見据えて琴乃が言う。

 

「帰宅部の皆が私のことをどう思うか……それを考えるのは、正直、怖い。でもだからこそ、向き合わなきゃいけない。だからお母さんと、登紀子おばちゃんと、たっくんと話し合ってこうすることを選んだ。だから―――――私にとって、今日が現実と向き合うための手始め。何があっても私はこの子の母として生きる覚悟を決めた。だからどんな風評だって受け入れるつもりよ」

 

 我が子の肩を抱いて、誇らし気に胸を張り、琴乃は宣言した。

 その姿を見て、確信する。―――部長としての役目は終わった。彼女達家族の関係に、これ以上俺が立ち入るべきではないだろう。

 

「……ほんと、大したもんだよ、お前は」

 

 遠い昔の出来事に思いをはせながら―――感慨深く、笙悟は頷いた。

 

 ―――それから、世間話を交えつつ改めて互いの近況を報告し合う。

 

 笙悟に関しては先程聞いた通り。

 琴乃は調理師の免許を取り、母の店を手伝っているのだという。そして近々店を改装し、念願だったカフェの開店を目指しているのだとか。

 

『それじゃメビウスにいた頃に語ってた夢、もうすぐ叶うんじゃん! やったね、琴乃!』

「ありがとう、アリア。それもこれも、みんなで力を合わせて現実に帰ってきたからこそね。本当にありがとう……―――ところで、部長の近況はどう? 何か悩みがあるのなら、私達が力になるわ。ねぇ、笙悟?」

「ああ、同感だ。相談でもなんでも、必ず力を貸すぜ」

 

 ふむ、それなら―――うん?

 

 答えようとした所で、スマートフォンから発せられたWIREの通知に言葉を掻き消される。何事かと目を通して見ると、どうやら鼓太郎からのメッセージが届いたようだ。

 文言を要約すると以下の通り。

 

『道に迷っちまった。悪いけど迎えに来てくんねーか?』

 

 正直に言えば、概ね予想通りの展開だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Messiah Complex 3

「誰からのメッセージだったの?」

 

 琴乃からの問いに、スマートフォンの画面を見せることで返答する。すると笙悟と琴乃は二人揃ってできの悪い生徒を観る教師のような、呆れた風の、けれど親しみの想いに満ちた不思議な微笑みを浮かべた。

 

「こっちのシーパライソと向こうのシーパライソは構造が違うっていうか、ほぼ別物だものね。迷っちゃうのも仕方がないわ」

「とはいってもよ、地図を全部一から作らなきゃならなかったメビウスの中と違って、その辺の地理くらいこっちじゃいくらでもスマホで調べられるだろ。それに別に方向音痴って訳でもなかったろ? なのにどうして迷っちまったんだか……」

 

 たぶん、鼓太郎はスマホを手に入れてからまだ日が浅いんじゃないかな。まだそういう複雑な操作に慣れていないんだと思うよ。

 

「そうなのか? まったく……相変わらず手のかかる奴だ。しょうがねぇ、迎えに行くとするか」

 

 ―――待った。鼓太郎は俺が迎えに行く。笙悟と琴乃さんはここで他の皆を待っててくれ。

 

 さっさと歩き出そうとする笙悟を慌てて呼び止める。

 集合場所を無人にしてしまうのはよろしくない。この場の全員で移動した場合、鼓太郎や誰か他の部員と入れ違いになってしまう可能性が少なからず生じてしまうからだ。それに子供の巧を連れ回すのもよくないと思う。―――となれば、俺が鼓太郎を迎えに行くのが一番理に適っているといえるだろう。

 無論、俺宛にメッセージがきたから、というのも理由の一つではある。しかしそれ以上に重要なのは、探している人物を黒山の人だかりから見つけ出せるか、あるいは相手に見つかることができるかという点だ。

 笙悟を筆頭に、メビウスにいた時の姿と現実世界での姿が全く異なるという者は少なくない。鼓太郎もその中の一人だ。それと気付かず擦れ違ってしまう可能性はあまりにも高く、場合によっては迷子が二人に増えるなんて結果に終わることも十二分に考えられる。

 対して、俺の容姿はメビウスにいた頃とそう変わっていない。笙悟や琴乃が一目で俺だと分かったのだから、その点においては間違いないだろう。

 そして二人が俺を一目で見つけられたように、俺も他の部員達を見ただけで判別できるという自信がある。あとはアリアのサポートがあれば万全だ。

 

『うんうん、サポートならアタシに任せちゃって! GPSの情報をトレースして、しっかりYOUを鼓太郎のところまで案内してやんよ!』

「……って、もっともらしく言われてもな」

「いいんじゃない? 部長とアリアの言ってることも一理あるし、二人に任せてみたら? 正直、安心はできないけどね」

「安心できないからこそ、俺が行こうとしたんだけどな」

 

 ―――なぜなのか。

 

『ちょっと二人とも! それはいったいどういう意味よー!』

 

 アリアと揃って憤慨する。笙悟と琴乃のスマートフォンが激しく律動した。

 しかし二人はちっとも堪えた様子を見せず、肩を竦めてこちらの抗議を柳に風と受け流す。こうなっては前言の撤回は望むべくもない。

 

『むむむぅ……YOU! こうなったらアタシ達のパーフェクトな連携プレーでサクッと鼓太郎を見つけだしちゃって、二人の度肝を抜いちゃおうよ! OK?』

 

 OK! ()()()()()()()()()()()()()()、全力で鼓太郎の救援に向かうッ!

 

『GOGOGO―――!』

「いや、だからそれが駄目なんだって―――……って、行っちゃった」

 

 琴乃の制止(ツッコミ)を振り切って直走る。

 アリアによる外部の操作を受けたからだろう、スマートフォンの画面はWIREとは異なるアプリを立ち上げていた。見慣れた灰色の中に、最早見慣れて久しいオレンジ色の『!』が映り込んでいる。目的地の座標をUIで簡便に表したものだ。

 待ってろ鼓太郎、今行くぞ! マップを完成させてからだけど―――――

 

 

 ―――――?

 

 

 駆け出してから暫くしたところで、ふと立ち止まって周囲を見渡してみる。

 誰かに見られている気がしたのだが、気のせいだろうか?

 

 * * *

 

 鼓太郎は駐輪場からやや離れた場所にいた。

 

 動きやすいスポーティな格好をした少年に、やあ、と気軽に声をかける。彼は厳めしい顔でスマートフォンの画面を睨みつけていたが、こちらに目線を上げると、一瞬だけ驚いた風に目を丸くしてから嬉しそうに相好を崩した。

 

「へへ、久し振りだな、部長!」

 

 巴鼓太郎。

 

 気恥ずかしそうに頭を掻いてから、鼓太郎は手を掲げた。

 俺も彼に倣って手を挙げ、接近と同時に勢いよく互いの手を打ち合わせてハイタッチをする。メビウスにいた頃から何度かやっていた、十代の若者らしい気軽な挨拶だ。

 しかしメビウスにいた時とは違って、彼の肩の位置は低い。

 仮想空間であったメビウスの内部では、自らの望みを反映した姿を手に入れることができる。極端な例を挙げるなら、脂ぎっしゅな肥満体の中年男性が、小柄で華奢で可憐なゆめかわ少女になることも可能であるという訳だ。

 あるいは、死んだ友人の姿を再現することも。

 鼓太郎は大きくて強い体を望み、そして実際に天を衝かんばかりの巨漢としてあそこにいた。

 けれど現実での彼の身長は、自己申告によれば一四歳にして一五二センチしかないという。ちなみに今年度における同年代男性の平均身長は一六五センチだ。一三センチの誤差は、発育が悪いから、などという簡単な一言で済ませなれるほど小さくはない。

 明らかな栄養失調だ。

 そして実際に、彼は十分な食事を摂れていなかったと聞いている。いわゆる児童虐待だ。その事情を思えば、彼が自身の体格にコンプレックスがあったとしてもしようがないし、メビウスにいた頃と比べて縮んでいたとしてもそれを茶化すような真似は決してできない。

 

 などと、先程までは考えていたのだが。

 

 ―――大きくなったな、鼓太郎。

 

「だろ!? 現実に戻ってから牛乳飲みまくったからな! それに学校の部活でバスケ始めたんだけどよ、そしたら部長の言ってた通り面白いくらいに背が伸びだしたんだ! へへっ、このままいけば近い内に部長の背も抜いちまうかもな」

 

 きっとこの二年で十センチ以上は伸びたのだろう。彼の背丈は、俺に差し迫るほどに成長していた。入れ知恵の甲斐があったと誇らしい気持ちになる。

 ちなみに牛乳には骨を造り強化するカルシウムの他、成長ホルモンの分泌を促す多種のビタミンが多分に含まれている。そして十代の半ば頃の肉体は骨肉の発達が顕著で、その時分に適度な運動を取って体を鍛えれば、その分だけ成長ホルモンの働きは促進され背は伸びる。

 聞きかじっただけのにわか知識だったが――役に立ったのなら、何よりだ。

 

『いいよ鼓太郎! その調子で日本一でっかい本物のデカッチョになっちゃいな!』

「おうよ! 鼓太郎様なら余裕だぜ!」

 

 スマートフォンから聞こえるアリアの声に威勢よく頷く。

 彼もまた、メビウスにいた頃と変わっていない。その事実に懐古感にも似た安堵を覚えた。そしてそれは彼も同じだったようだ。

 

「二年振りだってのに部長もアリアも全ッ然変わってねぇな。……なんだかわかんねぇけど、いいな、こういうの」

 

 そう言って嬉しそうに鼓太郎ははにかんだ。

 口調はともかく、その笑顔に悪意的な感情は一切ない。本当に気持ちの良い表情をしている。だから俺の口角も釣られて上がってしまう。

 

 そういえば鼓太郎はどうやってここまで来たんだ?

 

「ん? ああ、原付で悠斗に送って貰って来た」

 

 ……あいつとは上手くやれてる?

 

「ああ、なんとかな。あいつもメビウスでの一件以来、憑き物が落ちたみたいになってるよ。今じゃ伯父さんや伯母さんの俺への扱いに抗議したりしてくれてる」

 

 ……なるほど。ということはその義両親からの扱いは変わっていないわけだ。

 どうしたものかな。悠斗の発言から児童相談所が動いたことで彼等は相応の社会的罰則を負ったようだが、しかし懲りてはいないらしい。であれば、もっと()()()()()()()()()他ないが……しかし、そうなると今度は鼓太郎と悠斗の生活が覚束なくなってしまうか……ままならないな。

 

「部長、なんか顔が怖ぇよ」

『感情のパラメーターがレッドを突っ切っちゃってるね。まっ、無理もないよ。アタシだって同じ気持ちだもん。前みたくメタバーセスから色々やってやりたい所だけど、でも鼓太郎の今後のことを考えるとそういう訳にもいかんのよね』

 

 どうやらアリアも俺と同じことを考えていたらしい。となれば話は早い。メタバーセスにいる彼女達の力を借りることができるのなら、比較的穏便にコトを済ませるプランが幾つかある。それを実行すればなんとか―――

 

「―――いや、させねーよ。動機がなんであろうと、俺はそういう悪巧みは認めねぇ」

 

 毅然とした面持ちで、鼓太郎が断言した。

 ……そうだった。幾ら仲間の為とはいえ、人を故意に陥れるのは悪いことだ。どんな理由であれ、それを彼が認める筈がない。彼の正義がそれを許す筈がない。

 ひどい失言だった、許してくれ、と心の底から頭を下げる。

 

「いや、そこまでかしこまらなくていーって! 形はどうあれ、俺を心配してのことだってのは分かってるからさ。なんつーかほら、今はその気持ちだけで十分だから」

 

 あたふたとしながら鼓太郎が頭を上げるよう促してくる。俺は暫し逡巡してから、躊躇いがちに顔を上げた。

 まさに穴があったら入りたい心境だ。

 今、俺の頭の中を埋め尽くすのはメビウスでの出来事だ。自身を虐めていた悠斗からのSOSを「助けたくない」と無視した鼓太郎に対して、俺は彼の父親を持ち出して諭した。お前の父親ならどうしただろうか、と。

 そんな偉そうなことを口にしておいてこのざまだ。

 きっとあの時―――鼓太郎が理不尽に憤っていたからこそ、俺は客観的にそう言えただけに過ぎないのだろう。自分がいい加減な性質であることは自覚していたが、まさかここまで無神経だったとは。思考そのものの是非はともかくとして、呆れるしかない。

 

 …………。

 

「…………」

『…………』

 

 気まずい無言の、間。

 それを破ったのは鼓太郎だった。彼はやや躊躇いがちに、ある葛藤を口にする。

 

「なあ部長―――本当の正義って、なんなんだろうな」



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。