“穢れ”し少年の吸血記 〜聖騎士の息子は、真祖の少女に救われた〜 (ダート)
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第一章 第二の始まり
聞こえぬ心音、感じぬ鼓動


 

 暗いまどろみの中、誰かに呼ばれた気がして目を覚ました。

 

「ぅ…………」

 

 重いまぶたを開いて最初に目に入ったのは、視界を覆う鉛色の空。

 

 それでも目覚めたばかりの目には眩しくて、飛び込んで来た光に目を細める。

 眼球に染み込んだ鉛色はそのまま頭の中まで染み込み、思考までも鈍くするようだった。

 

「……………………」

 

 気だるい。何もやる気が起こらない。

 体を動かすことなく、降りそうで降らない暗い空を眺めていた。

 重たい身体は、視界を覆う鉛の雲に押し潰されているという錯覚を抱かせる。

 

「…………………………………………」

 

 しばらくそうしていると、じわじわと身体に感覚が戻ってくる。今まで感覚が麻痺していたことに、その時初めて気がついた。やがて、痺れに似た感覚が全身を巡り、巡った先から感覚が回復する。

 

「——ブッ!? まず……鉄くさ……ぺッ、ペッ!」

 

 味覚が戻るや否や、口内に広がる錆びた鉄の味に盛大にむせた。吐き出したツバはどこか茶色く、喉が新鮮な水を求めてヒリヒリする。

 

 けど、むせたおかげで力が入った。

 

「よっ——とと!」

 

 起き上がろうとすると、鉛のように思えた身体は思いのほか軽く、体はすんなりと命令を聞き入れた。

 その拍子に何かが手に引っかかっていてよろけたが、ともかく起き上がれたならどうでもいいことだった。

 

 高くなった視界には、人気のない村と大きな道が映っている。自然の中にぽつりと浮かぶような、閑散とした村の光景は不思議な感覚を抱かせる。

 

「ここは……どこだ?」

 

 辺りを見回しても、この場所には覚えがない。

 目を引く村の中心まで伸びている大きな道も、やはり記憶にはなかった。

 

「こまった…………」

 

 いつの間にか見知らぬ村にいる。

 普通こういう時は、驚き、動揺するものだろう。だが、感じているのは僅かな戸惑いだけで、焦りの感情すら湧いてこない。どこか他人事で、実感がない。まるで夢の中にいるみたいな、そんな感覚。

 

「とりあえず人を探さないと……。でもなにを聞けばいいんだ? 村の名前……家……あれ?」

 

 なにか……おかしい。

 

「オレって……あれ? ここ……オレの村? でも…………」

 

 分からない。自分のことが分からない。

 ここに至って、どうやら記憶がないらしいことを知った。

 

「————やっぱり誰かに助けてもらわないとダメだ。なんにも覚えてない……」

 

 それでも、やはり焦燥感は湧いてこない。

 どこからこの余裕が出てくるのか、自分でも不思議なくらいだった。

 

「村の中心……あそこなら誰か——ん?」

 

 なんとなく、本当になんとなく村の中心部へと足を踏み出した時、ピチャッと何かヌメリとしたものを足の裏に感じて、視線を落とす。

 

「————?」

 

 ()()がなんなのか、すぐには分からなかった。

 いや、分かっているはずなのに、脳がそれを否定していた。頭の中の左右のバランスが崩れていく様な、不快な違和感。

 

 ()()は、なにかテラテラとした……管?

 そのキレイな色に、視線が吸い寄せられる。だが、()()がなんなのか分からない。

 どこか……落ち着く、安らぐ色。

 

 あまりにも唐突に現れた()()を、脳が時間をかけて分析し……やはり、そうなのだと結論づけた。

 遮断されていた情報は解放され、ソレは正しく視界に反映される。

 

————ソレは、ダレカの(はらわた)だった。

 

「——ッ!? ぅ゛、オ゛ェェエエッ!」

 

 吐き気から膝をつく。すると余計にソレに近づいてしまい、臭いすら感じられた。

 たった今踏んだ、赤茶色で、まだ湿り気を持った管状のそれはすぐとなりの死体の腹部から伸びて、まるでからかう様に足へと絡みついていた。

 

「エ゛ぇクッ……なんで?! なんだよこれッ!?」

 

 (はらわた)に気づいた瞬間、今まで脳が遮断していた情報が、一気に視界に映し出された。

 

 脳が見せていた虚像が崩れ、辺りに血と汚物のむせかえる様な臭気がただよう。

 ……地獄の様な現実が現れた。

 

————死体、汚物、内臓、血溜まり……潰されたもの、斬られたもの、穿たれたもの、抉られたもの、もの、もの、もの、もの、もの……。

 

 膝をついていた地面は、気づけば赤茶色のベタついた体液で汚れ、周囲の平家は扉がいびつに歪みその破片を散乱させていた。

 

 惨殺と略奪の痕跡は大きな道を伝い、視線の先の、村の中心部へと続いている。

 

 ああ、目覚めたときに手に張り付いていたものが、今なら分かる……分かってしまう……!

 アレは手だ! オレと変わらない大きさの死体が、なぜかオレの手を握ってた⁈ この、手を…………⁉︎⁉︎

 

「ハァ、ハァ……!」

 

 目の奥が熱くなり、視界が紅く明滅する。

 

 自分がこんな場所に寝ていて、一瞬でも死体の色に安らぎを感じていたという事実が、より一層胃を絞り上げた。

 

「なんでこんなところに……オレは、なんで——!?」

 

 ぐしゃぐしゃな思考は暴走を続ける。

 落ち着こうにも、すがるべき確かな記憶は一つもない。

 

 同じ思考をぐるぐると繰り返し、そして……また吐いた。吐くものも無いのに、それでも吐いた。涙を流しながら吐くことだけが、ただ一つできることだった。

 

————もう、限界だった。

 

「なっ⁉︎ てめえは……⁉︎」

「え?」

 

 あまりにも唐突だった。

 死体が転がるこの穢れた場所で、生きたニンゲンの声が聞けるなんて、誰が想像できる?

 

 声のした方へと視線を向ける。

 

 ————そして、オレの思考は固まった。

 

 視線の先には男がいた。オレに声をかけたニンゲンに違いないその男は、おかしなモノを両手にぶら下げていた。

 

 片方には剣だ。別に剣を携えていることはおかしくない。それが血に濡れた抜き身のものだろうと、ケモノでも捌いたかもしれないじゃないか。

 

 だが、そんな想像をヤツの持っているもう一つのモノが否定する。アレはおかしい。アレがおかしいなら、剣もおかしいことになる。あまりにも……異常だ。

 

「それ……くび……だよな…………?」

 

 初めて出した声は、カラカラなノドのセイで、ヒドクしゃがれた不気味なオトだった。ニンゲンもドウカンだったのか、メを見開いて固まってイる。

 

「あんだけ刺したのになんで生きて……ヒッ! な、なにがおかしんだッ⁉︎ 笑ってんじゃねえぞ‼︎」

「エ?」

 

 男は錯乱した様子で、よくわカらなイことをイッている。こっちはそれどころじゃナいのに。

 

「アカ……い?」

 

 視界が紅い。

 男をミてから、視界は血が滲んだような紅に染まっていた。いつの間にか荒くなっている自分の呼吸音を、「うるさいなぁ」と他人事のように聞いている。

 

 それと同時に視界にはさっきまで男がいたはずの場所に、紅い糸でできた人形の塊が立っていた。

 ソレは両手で剣を持ち直して、ブルブルと震えていテ、嗤ってしまウくらいに、おかシイ。

 

 なんだかとテも、ノドが、カワいてキタ。

 

「ぅ……ぉあ、ぐ、おおおおおおっ‼︎‼︎」

 

 紅い人形が、滑稽な動きをしながらこっちにきてクレタ。だから、アソぶことにした。

 

「あ゛ッ……ブぷ……ぁえ?」

 

 紅い人形の、紅い糸。ソレは見ているだけで、手にとるみたいに操れた。

 

 だかラ、ツブシタ。

 人形のムネにあル、紅いカタマリを、握るように、何度も、何ドも。

 

「かヒュっ、ゲぁエぅ゛ッ⁈ やえ゛っ、あ゛ぁ゛ア゛あ゛ア゛……………………⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」

 

 踊る おどル

 

 人形は紅いアカを吐イテ、ビシャリと音を立てて、それキリうごカナくなった。

 

 オレはノドがかわイて、タノシくて——

 

「ア゛ハハハ!」

 

 ————その首筋に、あるはずのない(もの)を突き立てていた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「ハっ! …………あ、え……」

 

 意識がはっきりしてくると、オレは地面に座り込んでいた。なんだかさっきまでとくらべて体が軽い。ただ、口の中がジャリジャリするのが不快だった。まるで砂でも口に含んだみたいだ。

 

 今のところ目覚めるたびに不快な味を感じている気がする。

 

「? これ…………」

 

 ふと見ると、目の前には死体がある。

 もう死体には見慣れていたが、その死体だけは他と違った特徴があった。

 

「干からびてる……?」

 

 そう。その死体は水分を抜き取られたような、不気味な萎れ方をしているのだ。こんな死体は、さっきまでなかったはず……。

 

「なんだよ……これ……」

 

 不気味なのは、死体だけじゃない。その()()もだ。死体の周りにはドロリとした赤い血と…………それを舐めとったような跡が残っている。

 

 いやな……予感がした。

 

 舐めとった痕跡は、地面に赤い血を塗り広げている。その無規則無秩序な舌運びから感じられるのは、狂った獣性だけ。そこには理性のカケラもない。

 

「ッ————」

 

 急に、耳鳴りがし始める。それはまるで、オレから何かを必死に隠そうとするみたいで——

 

「これ……、オレ…………」

 

 ————それにも関わらず聞こえるジャリジャリとした音は、まるでそんな努力を嘲笑うようだった。

 この時点で、オレはソレに気付いてしまった。

 

「オレ……っ、うそだ! ちがう! オレはちがう‼︎」

 

 必死に叫ぶ。バカなことを考えようとしている思考を、叫び声で必死に押し留める。

 

 だけど、冷静な自分が囁いてきた。

 オマエ、さっきよりコエがトオルじゃないか、と。

 

 その囁きで気づいた。のどの渇きが、さっきよりマシになっているのだ……。

 

 ジャリジャリ

 

           カチカチ

 

   ジャリジャリ

 

             カチカチ

 

 耳を塞いでも聞こえてくる音は、震えで打ち鳴らされる歯と、砂の音だった。血に湿った土の匂いが、吐く息を染めている。

 

 体が熱い。視界を徐々に紅が侵食してくる。

 知恵熱を何十倍にもした灼熱は今にも脳を焼きそうで、混乱はオレから正しい呼吸と冷静さを奪っていった。

 

「ハァッ、ハァッ——! も、もうやめなきゃ! おちつかないと、かんがえちゃ……グッ……ダメだ!」

 

 致命的な予感を前に、咄嗟にそう口に出して目を閉じる。規則性を失った呼吸も無理やりに、首を絞めてでも止めた。

 

 そうして呼吸が止まったら、目を閉じたまま空を見上げて、胸に手を当てる。落ち着こうとすると、自然とこの姿勢になっていた。

 

「フゥーーーーッ、フゥーー……、ふぅぅ~~~~……」

 

 少しの間、そのままの姿勢で深呼吸を繰り返す。繰り返す度に、呼吸は規則性を取り戻す。

 

 体の中で暴れていた熱は、吐く息に溶けて口から外へと出て行く。

 

 辺りの音に集中すると、少し湿り気を帯びた涼しい風が、サワ……サワ……と気持ちのいい音を立てていた。

 その風の冷たさが、息を吸うたびに身体中へ巡り、赤熱した脳を冷ましてくれる。

 

「……………………」

 

 風の音しか聞こえない、静かで心地良い時間。

 

 こうしている間は、異常な現実も歩みを止めて、追いかけてくるのをやめてくれる。そんな妄想が、今はとても説得力を持っていた。

 

「…………」

 

 それでも、何か違和感があった。

 

 その違和感は、ナニカがないと告げている。あるはずのナニカがないと、警鐘を鳴らしている。

 

「————」

 

 違和感は右手から。

 

 視線を向けても、おかしなところはない。

 ただ、病的なまでに白い手が胸に押し当てられているだけ。いくら集中しても、胸に触れている感覚以外、何も感じない……。

 

「————————ぁ」

 

 なにも、かんじない。

 

 あるべきものも かんじない  。

 

 鼓動さえも  かん  じ  な      。

 

「————————あ、ぁ」

 

————心臓は動イていナカった……。

 

「アァあアああぁアあアァああ————ッッッッ!!!!」

 

 獣の様な、甲高い咆哮が響き渡る。

 それは大気を振動させ、村中を駆け抜けた。

 

 視界を紅が染め上げる中、理性は混乱と狂気に飲まれ、頭に理性の居場所はなくなっていた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 ある少年が死体と共に目覚めた頃、村の中心部にある屋敷の中では、村を襲撃した盗賊たちがせわしなく走り回っていた。

 

 廊下を走り回り、新しい部屋を見つけては家具という家具をひっくり返す。

 何かに急かされる様に行われるその蛮行は、ひどく乱雑で余裕がない。

 

 そんな男たちの顔はやはり、焦りの汗に濡れていた。

 

「いつまでかかってんだアっ!!!!」

 

 何度目ともしれぬ怒号に、男たちは肩を跳ねさせ呼吸を停止する。そして恐る恐ると、怒号の放たれた最上階へと視線を向けて、続く怒号がないと分かるや否や、顔に焦燥を浮かべて物色を再開するのだった。

 

「チッ!」

 

 怒号を上げ不機嫌をあらわにするのは、盗賊団の団長であり、手下から『頭』と呼ばれている大柄な男、ブレニッドだった。

 

 ブレニッドは、倒された執務机に足を投げ出し、部屋の中を睥睨(へいげい)する。

 

 鋭い視線が荒れた室内を彷徨(さまよ)い、部屋に残っているブレニッドの護衛達は視線にさらされる度に息を止め、自身に矛先が向かないことをなけなしの信仰心で祈る。

 

「————おい」

 

 ブレニッドの視線……もとい怒りの矛先は、もっとも近くにいた小柄な男へと向けられた。

 選ばれなかった男たちは、矛先を向けられた仲間に同情の眼差しを送る。

 

「へ、ヘイ……!」

「俺はいつまでここで待っていりゃ良いんだ? ここは聖騎士の屋敷だろォが。なんでまだ“聖具”の一つも見つけてねんだっ!」

 

 ブレニッドがこの村を襲った目的。それはこの村にいる聖騎士の特別な装備を入手し、それを他国へと売り渡すことにあった。

 

「聖騎士はそこいらの兵士とはワケがちげエ。人間がかなうはずがねえ怪物を、顔色一つ変えずにブチ殺しやがるバケモノどもだ! だからこんだけの手間をかけたんだっ!」

 

 聖騎士は一般の兵士が対処不可能なあらゆる事態に対応する、この国の切り札ともいうべき存在。

 ブレニッドが率いる盗賊団の全員で襲いかかろうと、聖騎士1人に敗北することは分かりきっていた。

 

 だからこそ、あり得ないとは知りながらも『今帰って来られたら……』と冷や汗を流さずにはいられない。男たちは、今なお危険な綱渡りのただ中にあるのだ。

 

「なのにてめぇらは絵だの壺だのではしゃいでやがる……聖具はどうしたァっ! 聖具を見つけて初めて成功なんだよォ! こんなチャチなもん売っぱらったところで元も取れやしねえだろうがアっ!!」

「ぎ……ッ!?」

 

 胸ぐらを掴むブレニッドの腕に力が込められ、男の足が宙に浮いた。

 ブレニッドの真っ赤な顔とは反対に、男の顔はみるみる青紫へと変わって行く。そんな死のコントラストを、護衛の男たちは黙して俯くことでやり過ごす。

 

「俺がどんだけホンキか————分かってねえのか?」

「——ヒッ! と、ととととんでもねぇ! もちろん、おれたちゃ頭の役に立とうって……み、みんなこのとおり、必死に探してまさぁ……っ!」

 

 男の『このとおり』とは、今も下の階から聞こえてくる、部下たちの足音や物を引き倒す音を指したものだ。たしかに、ブレニッドの部下たちは壊すと殺す以外はてんで話にならなかったが、怠惰とはほど遠い人間であることもまた事実であった。

 

「……………………チッ!」

 

 ブレニッドも手下たちが手を抜いているとは思わない。だが、湧いてくる感情をぶつけずにはいられなかった。

 

 ブレニッドは、今回の襲撃に細心の注意を払っていた。

 

 準備期間は1年近くにもおよび、その大半を内通者の確保と聖騎士の行動把握に費やした。

 警戒されないよう準備期間中は盗賊稼業は行わず、慣れない山の生活を送った。

 その過程で失ったものは、決して少なくない。

 

 そして、内通者から『聖騎士の長期不在』を意味する狼煙があがり、ようやく計画を決行したのが今日この日なのだ。

 ここまでの労力と犠牲を思えば、心を躍らせずにはいられない。

 

 だが決行してみれば、上手くいかないことだらけだった。

 

 平和ボケしているはずの村人たちは、想像以上に激しく抵抗し、その間に始末するはずだった内通者の逃走を許してしまった。

 

 聖騎士の息子は剣の腕が立ち、村人のために立ちはだかってきた。

 最終的に近場の子どもを盾にすることで対処できたが、それまでに手下を8人も失ってしまった。

 

 そうして予想外の犠牲を払いながらも、いざ聖騎士の屋敷まで来てみれば、今度は当てにしていた聖具までもが見つからない始末である。

 

 今のところの戦果は、そこそこの値が付きそうな調度品がいくつかと、それなりに実用性のありそうな道具が数点。

 だが、これではとても割りに合わない。

 

 こうして今日一日の不幸を思い浮かべると、階下から聞こえてくる音も、ブレニッドにはどこか言い訳じみて聞こえてくるから不思議だ。

 

「……せ」

「へ? い、今ぁなにか言いやしたか?」

「テメェらも探せってぇんだよォ、クソがア!!」

「ぎゃッ!?」

 

 ブレニッドに殴られ、壁に打ち付けられた男が悲鳴をあげる。

 その様子を目にして他の男たちも我れ先にと部屋から転がり出た。やや遅れて、投げられた男も部屋から這い出る。

 

 執務室にはブレニッドの荒い呼吸音だけが残された。

 

「はぁ……はぁ……チクショウッ、どうしてこうも上手くいかねえ————ぅおッ?!」

 

 ブレニッドが、部屋の家具で唯一無事な椅子に腰掛けようとした瞬間のことだった。

 

 村のどこからか、思わず身を屈めたくなる様な甲高い咆哮が響き渡り、屋敷の窓を揺すり鳴らした。

 しばらく身をかがめていると、窓のガタガタという振動は止まる。

 

 嫌な静寂だけが残る。そんな中でもブレニッドの額を流れる冷たい汗は止まらない。

 

「か、かか、頭ぁーー!!」

 

 ブレニッドが窓の外を恐る恐るとのぞいていると、部屋の扉が勢い良く開かれた。

 

「うおッ——!? テメェ…………」

 

 驚かされたことに顔を赤くさせたブレニッドが男を睨むが、男はそれ以上に顔を赤くして、興奮と恐怖から早口で叫ぶ。

 

「せ、聖騎士のガキが——生きてる!」

「……………………あぁ?」

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「——!? 頭だ!」

「頭! アイツ生きてます、生き返った! お、おれ……てっきりアレで死んだもんだと……」

「あ、あたりまえだ! アイツがおかっしいんだ! 腹ズタズタに刺しまくって、なんで生きてんだよ……!?」

 

 ブレニッドが表へ出ると、手下たちの混乱した様子がよく分かった。口々に裏返った悲鳴を吐き出している。

 特に、少年との戦闘に関わった者の取り乱し様は顕著だった。

 

(チッ! とっとと落ち着けねぇと心が折れかねねぇな……)

 

 心の中で舌打ちしてから、ブレニッドは大きく息を吸い込み————

 

「————黙れぇっ!!!!」

「「「ッ!?」」」

 

 ブレニッドの一喝で、男たちの動きがビタリと止まる。

 

「ギャアギャア女みてーにわめきやがって。テメェらシロートか、バカがっ!!」

「「「————————」」」

 

 その場の誰もがうなだれる。

 ついさっきまでの自分が途端に恥ずかしくなり、悔しさが滲み出す。

 

 ブレニッドの盗賊稼業は非常に長い。当然、付き従う手下の中には、盗賊団の初期から行動を共にしてきたベテランといえる男らもいる。

 そんな者たちですら、先ほどの騒ぎに加わってしまったのだ。

 本来なら、指示を飛ばして仲間を落ち着けるべき者たちがだ。

 

「「「————————」」」

 

 場に重い空気が流れる。

 そんな空気を無視して、ブレニッドは近くにいた手下へと質問を投げた。

 

「————で、その生き返ったとか言うガキはどこにいんだ」

「あ、あれでさぁ……」

 

 訊かれた男はバツが悪そうに、村の正門の方向を指さした。

 

「あいつぁ…………」

 

 男の指し示した先。村の特徴でもある、大きな一本道の上を、どこか頼りない足取りでゆらゆらと近づいてくる少年がいた。

 

 手下曰く、アレが生き返ったとかいう聖騎士の息子なのだろう。だが、その外見はブレニッドの記憶にある少年とは、いくらか違っている。

 

 先ず、髪色が違う。

 ブレニッドの記憶にある少年の最後の姿は、村の子供を人質にして動けなくしたところを部下に斬りかかられたときのものだ。

 それが、ブレニッドが少年を見た最後だった。

 髪色は明るい茶色で、瞳の色と同じだったはずだ。

 

 しかし、視線の先の少年の髪色はひどく燻み、元の活発な印象は見る影もない。

 瞳の色は、俯いている所為で分からないし、まだ分かる距離にもないが、ともかく記憶との差異が激しい。

 

 次に目が行ったのが、肌の色だった。

 ブレニッドの記憶にある少年は、あれほどまでに白くなかった。

 服に空いた孔から見える肌は、もはや病的なまでに白く、生気を感じられない。

 

 髪と肌の色もあってか、近づいて来る少年の纏う空気は、どこか虚ろげで危うい。どこか屍人を彷彿とさせるものだった。

 

「——本当に……“あの”ガキなのかぁ?」

「で、でもぉ頭、あの高そうな服着てんのなんざ、この村じゃあ聖騎士の家族くらいで……」

「そ、それにっ、あのズタボロの服は……あれは間違いなくおれたちがヤッたときンですぜ!」

 

 それは、ブレニッドも気付いていた。

 今挙げた点を除けば、背丈や服装などは記憶にあるままだ。

 服に関しても、聖騎士の家族の着る服は村長一家のそれよりも目に見えて高い品質のものだった。

 あの質の衣類を身に付けている時点で、聖騎士の家族であることは確定と言っていい。

 

 記憶と食い違う病的な外見と、そのほかの一致する特徴。

 そこからブレニッドが導いた答えは——

 

「——へっ! これぁ運が向いてきやがったぜオイ……!」

 

 ブレニッドの表情が、歯をむき出したどう猛な笑みに変わる。

 抑えきれない高揚に震えた声を聞いて、手下たちは顔を見合わせる。

 

「頭……? 運ってのは、一体……」

 

 その男たちの疑問を貼り付けた顔に、ブレニッドは声高に叫んだ。

 

「よく聴けテメェらあっ!! 屋敷を探しても見つからなかったお宝がぁ、向こうっから歩いて来てんだよおっ!!」

「お宝……てのは、聖具や魔導具のことでいいンすか?」

「バカかっ、それ以外何があるってんだ!! いいか……アイツが例のガキならなァ、腹ァズタズタのめった刺しにされてもピンシャンしてやがんだっ! ……ガキが自分の力で治したと思うか?」

 

 そこまで聞いて、手下たちに理解の色が浮かび始めた。

 影のさしていた顔が、みるみる盗賊としての顔に変わって行く。

 

「見た限り代償なしとは行かねえみてェだが……んなもんは誤差だ、誤差。あんだけの傷を体調崩すくれェで完治しちまうなんざ、どんだけの価値があるのか想像もできやしねえ!!」

 

 ブレニッドの演説に、男たちの顔は興奮の色に染まる。目はギラギラとした光を放ち、視線はすでに獲物へと向けられている。

 

「商品は傷つけんじゃねえぞ! 身ぐるみ剥いでからブチ殺せっ!!」

 

 男たちの武器を握る腕に力が込められる。

 獣たちは今か今かと、主人の号令を待っている。

 

「行けェ、テメェらっ!! テメェらの命がいくつあっても足りねぇシロモンだっ!! 死んでも奪い取れェっ!!!!」

「「「——うぉおおおおおおおおおおッッッッ!!!!」」」」

 

 号令は下され、男たちはヨダレを滴らせながら獣となって駆け出した————!

 

 数十人の男たちが全力で駆け、ついに最前列が少年へ到達したとき————

 

「——ハ?」

 

 ブレニッドの目に入ってきたのは、剣を振り下ろそうとした部下たちが、一斉に血を吹き出す姿だった。



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血の池

 

 場に静寂が訪れる。

 

 最前列で少年に襲いかかった男たちは、踊る様に痙攣しながら血と臓物を吐き散らす。そして、自ら作った血溜まりに音を立てて沈んだ。

 

「ハァッ……、ハァッ……、ハァッ……、ハァッ……」

 

 少年の荒い呼吸だけが、静寂の中に響いている。

 

 男たちは冷水を浴びせられたかの様に青ざめ、どうしたらいいか分からないと、“頭”へすがる様な目を向ける。

 

 手下の一人が、震えながら声を絞り出す様に叫んだ。

 

「な、なんだよあれ……魔法、か? ()()引きずり出すなんて魔法聞いたことねえよ……頭ぁ! あ、あのガキ魔法師だなんて聞いてねえ……!」

「……ま、魔導具だ! どんな効果かは分からねえが、あのガキが魔法師なんざあり得ねえ! こんな魔法が使えんなら、教会がほっとくわけがねえ!」

 

 青い顔ですがり付く手下を突き飛ばして、ブレニッドは怒鳴る。そうであって欲しいという祈りを込めて、自分を奮い立たせる様に。

 

「それに見ろテメェら! アイツらを殺してから明らかに弱ってやがるだろォが! こんなムチャクチャしやがる魔導具だ、相当な代償があるに決まってらァ! ……そいつはもう打ち止めだっ!!」

 

 祈りの込められたブレニッドの言葉はしかし、今の手下たちがすがるには十分な説得力と希望があった。

 

 現に、仲間を惨たらしく殺してから、敵は如実に弱っている。呼吸は荒くなり、元々虚ろげだった気配はさらに弱々しくなっていた。

 

「死にかけでも完治する魔導具に、なかみィ引きずり出す魔導具まであるときた。どれか一つでも手に入れりゃあ遊んで暮らせるぞ、テメェら!!」

 

 その言葉に、男たちは勢いを取り戻す。

 

「よくもやってくれたなクソガキ……」

「もう一度腹かっさばいて中身ぶちまけてやるぜ」

 

 なぜか動かない少年に、憎しみを目に宿した男たちがにじり寄る。少年に、再び殺意が向けられた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 気が付いたら、身体は鉛の様に重くなり、地面に膝を付いていた。

 視界の紅は溶け消え、世界は元の正しい色を取り戻している。

 

 喉が、渇いた。焼けるような渇きとは裏腹に、身体は芯から凍えてる。

 

「ここは……オレ、どうして……?」

 

 最後の記憶は、自分の心臓が動いていないことに気づいた瞬間。そこから先の記憶は、プッツリと途絶えている。

 

 何とか思い出そうとしているそんな中、不意に足音がして顔を上げた。

 

「——なッ?!」

 

 周りを、武装した男たちが囲んでいた。

 向けられるいくつもの視線は、どれも血走った殺意と憎しみに満ちている。

 

————まずい……!

 

 身体が警鐘を鳴らし、本能がここから離れろと訴える。

 

「まっ、なん……、オレ、ちがぅ——」

 

 あまりに突然の出来事に、うまく言葉が出てこない。

 ただ必死に、「違う」と伝えようとした。

 

 何が違うのかも分からない。

 でも、そんな目を向けられる覚えはない。

 そんな殺意を向けられる人間じゃない。

 

 言わなきゃならない言葉が多すぎて——

 

「ぅ、……ぁく」

 

 呻きだけが、枯れた喉から漏れ出た。

 

「よくもやってくれたなクソガキ……」

 

 殺される。訳もわからず殺される。

 

 全身の毛穴が開いた様な不快感。背中を伝う冷たい汗に、吐き気の波が押し寄せては引いて行く。

 

 迫る死の予感に、腹の両わきがヒクヒクと痙攣して、上手く力が入らない。

 

「ぁ、あぁ……」

 

 喉からこぼれた震えた声は、男の足に踏み潰された。

 

「もう一度腹ぁかっさばいて、中身ぶちまけてやる」

 

 もう一度……。

 

 中身……?

 

「あ……」

 

 何かが、頭をよぎった。

 

 貫かれる身体、激痛、恐怖…………。

 

 見下ろす顔は……そう、まさにこんな顔で…………。

 

「あぁアあ——」

 

————皆んなと一緒に、殺サレタンダ。

 

「アァあぁアアぁあァあああぁアああッッッッ!!!!」

「うお——ギャッ!」

 

 身体は弾かれた様に動いた。

 

 叫んで、叫んで、がむしゃらに腕を振り回す。目の前にいた男の頭蓋が潰れた感触なんて、まるで気にも留めなかった。

 

「速——カッ?!」

「あぎぃいィい! うでえぇえ、おれのうでがあぁァあァア!!!!」

「剣を弾きやがった?!」

「こ、これも魔導具だってのかよ……!?」

「頭ぁムリだぁ! こ、こいつ、強えぇ! ぁグハッ!」

 

 いつの間にか指先からは黒い爪が伸び、爪ではあり得ない硬質な音を立てて剣を弾き、男たちを切り裂いて行く。

 

 剣が体に当たっても、まるで痛くない。

 

 男たちはただ腕を振り回すだけで、その数を減らして行く。今、また一人死んだ。

 

「チィッ! これも魔導具か? 一体いくつ持ってやがる……。——短剣は下がれェ! 盾ェ持ってるヤツは前出ろ! 間から槍で刺し殺せェ!!」

 

 予想外の展開を前に、“頭”と呼ばれた大柄の男が青筋を浮かべながら叫ぶ。

 すると、男たちの動きが統率のとれたものへと変化する。

 

「オレたちの後ろに下がれ!」

「グゥウッ! 盾ごと持ってかれ……!」

「おい、槍持ってないなら手伝え! 後ろから支えるぞ!」

「なんだこいつぅ! ……槍が刺さんねえ!?」

 

 爪が盾と衝突して、深い爪痕を刻む。木と皮でできた軽い盾だ。盾の男は爪の斬撃を受け止め切れず、体ごと崩れそうになる。

 だがその度に、槍を持てなかった他の男たちがその背中を支え、両わきから槍が突き出された。

 

 でも、それも痛くない。刺さらない。

 

 槍の刃は皮膚をわずかに傷つけるだけで、体を撫でて……それだけだ。突き立つことすらできない。

 

「おかしいだろォが…………」

 

 腕を振るい、体を返り血に染める中、誰かの憎々しげな呟きが聞こえてくる。

 

「槍を防ぐ魔導具があんなら、あん時に使ってるはずだ。それだけじゃねえ、あんだけの効果だ。一つの魔導具で足りるはずがねえ。あのガキはいくつ持ってやがる? あの格好だぁ、隠し持つにも限界が…………まさか……」

 

 男のある考えが形を持った時、屋敷から数人の男が、手に何か棒状のものを持って出て来る。

 それが視界の端に見えた途端、鳴り止まない警鐘が一際けたたましく何かを伝えてきた。

 

————アレは、マズイ。

 

「か、かか、頭ーー!」

「テメェらまだ探してやがったのか!?」

「へい! そんであった、ありやした、お宝ですぜ! 執務室をもっかい調べたら、頭の座ってた椅子の裏に仕掛けがあって——」

「——うるせえっ、テメェの目は腐ってんのか!! 今はお宝だの言ってる場合じゃ——」

 

 場違いな声を発する手下に、顎を砕かんという勢いで振り下ろされた拳が、止まる。

 

「——待て。テメェそれは……」

「ヒッ——え? ……あっ、へ、へい! おのぞみの“聖具”でさあ」

「っ! そいつをよこせ!」

 

 返事を待たずに、男は手下の腕からソレを引ったくると、盾の男の元へと駆け寄る。

 

「うがっ! なっ、盾が!?」

 

 がむしゃらな斬撃で、すでに盾役は5人に数を減らし、槍を構えているのも3人になっていた。

 

 邪魔だった槍も、もう気にならない。

 痛くない——刺さりもしない槍なんて、まるで気にならない。

 

——人間ゴトキ。

 

 そんな考えがチラつく。

 

 爪から心地いい感触が伝わる度に、ドス黒くて何か粘性のある感情が湧いてくる。どこか冷静な自分が、ソレに呑まれたら終わりだと告げていた。

 

 でも、止められない。

 

 熱を持った思考は、冷静になれという考えすら燃やして捨ててしまう。

 

 だから、止まらない。

 

 止めたくない。

 

「どけぇーーーー!!!!」

「か、頭?! あぶねぇ、さがれ頭ぁ!」

 

 思考が赤熱し、再び視界は紅く染まり始める。

 

————哀れな血袋たちを、今こそ殺し尽くして、吸い尽くそう。それはきっと素晴らしい瞬間だ。

 

「こんのバケモンがあぁああ!!!!」

 

 大柄の男が、何か棒状のものを突き出す。

 熱に浮かされた様な頭では、それが何なのか分からない。だがそれを向けられてはならないのは理解していた。

 

 それでも、躱すには油断が過ぎた。

 下がろうとした足を、紅い思考が止める。

 人間を相手に下がることを、その思考は許さない。

 

 だから、躱せないのは当然だ。

 

 次の瞬間、男の突き出したソレは、狙い違わずオレを捉えた。

 

「グ……?」

 

 なんだろう、これは……?

 

 腹部に、銀色の細い棒が……おし当てられている……。

 

 なぜかちからが入らない……。

 

「せなか……あつ……」

 

 あつくて あつくて 手をまわすと 何かにふれた 。

 

 気になってせなか をみる と

 

「あ゛…………?」

 

 

——背中から、白銀の槍先が生えていた。

 

 

「グ——ギ……」

 

 氷水を浴びせられた様に頭の熱が消え去り、同時に、空けられた孔から感覚が死んでいくのを感じる。

 

 同時に理解した。

 ずっと感じていた悪寒、聞こえていた警鐘は、全てこの槍に対してのものだったんだ。

 

「ガあぁあああぁあああ……あ……ぁ!?!?」

 

 槍が捻りを加えられながら、乱暴に引き抜かれた。

 

 カクンと、膝が抜ける。

 気づけば、視界にはまだらに紅くなった地面が広がっている。

 

「え゛……ぅ……?」

 

 倒れた感覚すら、なかった。

 孔を開けられたというのに、そこに痛みはない。それがなおのこと不気味で恐ろしい。

 

「頭……そいつは……?」

「…………屋敷で見つけたってェ“聖具”だ。見た目通りなら聖槍になるんだろうな、こいつァ……」

 

 “聖具”たる槍の穂先が掲げられる。

 柄と同じく白銀色のその穂先は、敵の血によって紅く汚れている。

 

 そして次の瞬間、それは起こった。

 

「「「————ッ!!」」」

 

 その現象に、男たちがざわめく。

 釣られる様に顔を上げて、オレもソレを見た。見てしまった。

 

「…………ぅ、そだろ……?」

 

——そこにあったのは、白銀の穂先が仄かな光を放ち、付着した血が煙を上げて消えて行く……そんな光景だった。

 

 あれは、オレの血だ。

 

「ぁんな……ので……」

 

 あんなものが身体を貫いたかと思うと、背筋が凍る。

 

「……っが、グゥ……ギィい——!」

 

 傷を見ようとしてもうまく力が入らない。

 力の入れ方すら思い出せない。

 

「“聖印”が……反応して…………!」

「なんでだよ……こいつは“あの”ガキだろぉ?! だったら人間じゃねーか!?」

 

 ざわめきは広がる。

 目の前で何が起きているのか分からないと、ざわめく中には震えた声も混ざっていた。

 

「んなもん、決まってんだろォが」

 

 低い声が響く。

 その声は、槍を持った男のものだ。

 

「元から魔導具はひとつっきり。人間をバケモンにしちまうって効果でもあったんだろ。だから聖印がこんな反応をしたっつゥわけだ」

「で、でもよう……なんだってそんなモンを聖騎士が……自分の息子に……?」

「聖騎士はバケモンをころすやつらって聞きやすぜ?」

「うるせェなっ! んなもん俺が知るか! だがァそれ以外ねェだろうがっ!」

 

 手下からの矢継ぎ早の質問に、槍の男が青筋を浮かべて睨み、黙らせる。

 そして、オレを見下ろした。

 

「チッ! ……おう、ガキ。テメェのおかげで俺の手下どももこんだけだ。もう盗賊を続けることもできねェ」

「そ、そんなぁ?! じ、じゃあ、おれたちぃこれからどうすりゃあ——」

「——うるっせぇってんだろぉがっ!! こん槍ィ売っぱりゃあどうとでもなんだよ! 『王国』も『帝国』も聖具は欲しくて仕方がねえだろォからな。買い手にはこまらねェ。…………てわけだガキ。聖騎士の息子がバケモンになるなんざァ皮肉だがよ、オヤジの槍で殺されるっつんなら悪くねえだろ?」

 

 槍が構えられる。

 

 もうすっかり血を消し去った白銀の槍は、先端を下へ向け、倒れた獲物の頭部を貫かんと穂先を輝かせる。

 

「……………………」

 

 今度こそ、殺される…………。

 

 身体の感覚は、とっくに消えていた。あるのはただただ、凍てつく様な寒さと、焼けるような渇きだけだ。

 視界も、端から暗くなりつつある。唯一十全に機能しているのは、聴覚だけ。

 

 サァ……と腕の先が崩れ、灰となり飛んでいった。

 それが、自分の死に方なんだと理解した。

 灰になり、朽ちて死ぬ。何の形も残さずに…………。

 

 

————この身体は、どうしようもなく……バケモノなんだ。

 

 

「な、なんだァこりゃあ!?!?」

 

 閉ざしたまぶたは重く、視界は闇に閉ざされている。

 そんな中で、突如驚愕と怯えの混ざった声が上がった。

 その声はだんだんと大きくなって、ついには悲鳴へと変わる。

 

「わ、わわ!」

「うわっ、な、どこから?!」

「ひぃいっ!?」

 

 バジャバシャという水音が聞こえる。

 

 水場なんて、無かったはずだ。なら、この音は……?

 

 あまりに場違いな音が気になって、オレはまぶたをもう一度開いた。

 

「————————っ!?」

 

 声が出せたなら、きっと男たちと同じ声を上げていただろう。それほどに、目の前の光景は異質で、周囲の景色は余りにも地獄じみている。

 

「ち、血だぁっ!!」

 

 そう。まぶたを閉じた間に、辺りはどこからか湧き出た血によって、紅い池になっていた。

 

 なぜかその池は、俺の周りだけは避けている。まるでオレがそうしているように見えるだろうが、オレにこんなマネをした覚えはない。

 

「まだ広がってやがる!」

 

 男たちが騒いでいる間にも池は広がり、男たちの足を赤黒く汚して行く。やがて、男たち全てが足を血の色で染めた時——

 

「チィッ! テメェの仕業かァっ!!」

 

 うろたえていた大柄の男が、一人だけ汚れていないオレに気が付いた。

 

 槍が再び振り上げられる。

 

 今度こそ死を覚悟した、次の瞬間——

 

「ガプッ————」

 

——血の池から勢いよく生えた紅い槍が、男たちを一瞬で串刺しにした。

 

「ォ、ォぉォ…………」

 

 急速に、男たちの身体が水分を失い萎んでいく。男たちの流した血が全て、紅い槍と血の池に吸収されていく。

 

 そして、ミイラの様な死体が出来た時——

 

「————」

 

 視覚はここで限界を迎えた。

 視界は暗くなり、もはや目蓋が開いているのかすら分からない。体の感覚も消え、自分の形すらも思い出せなくなっていく。

 

 消えていく……。

 自分の存在が消えていく……。

 

 そうして意識も暗闇に沈んでいく中、誰かが近づいて来るのを、残った聴覚で感じた。

 

「アトラしっかりして! アトラっ! ……ひどい……灰化が……こんなに……」

 

 それは少女の声だった。記憶にない声。

 

 なのに、なぜか聞いてホッとした。

 この声をもう聞けないと思っていたのに、それが聞けて安心した。

 

「アトラ、口を開けて。お願い、飲んでよぅ……」

 

 声は震えている。泣いているのかもしれない。

 

 それは……いやだ……。オレは、この子に泣いて欲しくない……。

 

 少女の声は、次第に聞き取れない音へと変わる。

 聴覚すらも死に始めたんだと、すぐに理解できた。

 

 ほとんど音の消えた無音の世界で、感覚は閉ざされ、意識は薄れていく。

 

「……ッ、…………ッ! ……ぅ……なったら…………」

 

 閉じきった感覚の中、唇になにか暖かいものが触れた気が……した……………………………………。



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思い出は遠く、目を覚ます

 

 なんとなく、これが夢だと分かった。

 

 そこは屋敷の庭だった。

 

 大きくはないが、丁寧に手入れをされた花が咲き、柔らかな光が降り注ぐ。そんな庭だ。

 

「……………………」

 

 屋敷は大きくはない。それは庭も同じだ。

 それなのに広く、大きく感じる理由は、自身の体を見下ろして分かった。

 

「なんで……()()は……」

 

 まじまじと、子どものように小さくなっている体を見下ろす。

 

「ん……剣?」

 

 始めからそうだったのか、手には木剣がしっかりと握られていた。

 小さな体に、この木剣はすこし重い。

 それでも不思議としっくりくる……。

 

「どうかしたのか、アトラ?」

「え——」

 

 不意の男の声に振り向くと、栗色の短い髪を汗に濡らした男が、温かな笑顔をこっちへ向けていた。

 上半身は、引き締まった無駄のない肉体をそのまま日の光にさらしている。そして手には、大人用の太く長い木剣が握られていた。

 

 ——お父さんだ……。

 

 なんで忘れていたのか分からない。

 今日は久しぶりに、剣の稽古の相手をしてくれていたんだった。

 

「……ちょっとぼーっとしてたんだ」

「何だ、疲れているなら休憩を伸ばすぞ?」

「ううん、いい。はやくつづきやろーよ、お父さん!」

「ダメだ、まだ休憩したばかりだろ? 休む時はキチンと休む。大事なことだ」

「えー! ……わかった。ぼくはいい子だから……休む」

「はははは! ほおを膨らませなければ完璧だったな」

 

 父の手が頭に置かれ、ポンポンと二度撫でた。

 

 ゴツゴツとした硬い手のひら。

 すこしだけ痛くもあるその手のひらが、力強くて、優しくて、熱いくらい暖かかった。

 

「そういえば、アトラ。お前、母さんに将来の夢を語ったそうじゃないか。つれないなー、父さんに隠すことないだろ~?」

「う……」

 

 撫でられる感触に身を任せていたら、不意打ちに触れられたくない話題を出される。

 

 将来の夢。憧れは、もうとっくにあった。

 ただ、それを父に言うのは妙に恥ずかしくて、同時に怖くもあった。

 

 もし笑われたら……。

 もし、お前には難しいと言われたら……。

 

 もちろん、父はそんなことは言わないと知っている。

 それでも、やっぱり怖かった。嫌な想像に限って、頭の中に居座り、大手を振って歩き回るんだ。

 

「…………」

 

 顔を上げると、さっきと変わらない笑顔を向けてくれている父と目が合った。

 それで、不思議と覚悟は決まった。

 

「ぼ、ぼく…………に、なりたぃ……」

「ん? 何て言ったんだ?」

 

 心臓がドキドキとする。

 それでも、勇気を出してもう一度言った。

 

「ぼく……、ぼく、聖騎士になりたい! お父さんと同じ聖騎士になって、お父さんもお母さんもアリアも守りたい……!」

「……………………」

 

 ずっと思っていたことを、叫ぶように吐き出した。

 

 一瞬の沈黙。

 父は、余程に意外だったのか、目をパチクリとさせて、次の瞬間——

 

「え——うわあ!」

 

 満面の笑みで、ぼくの小さな体を抱き上げた。

 

「あっははははは! そうか聖騎士か! 俺と同じ……父さんみたいな聖騎士かー! ははははは!」

「わっ、わわわ……!」

 

 撫で、キスをして、高い高いをしたと思えば、強く抱きしめる。

 怖れていたのと違って、父のはしゃぎ様はすごかった。

 

 窓から見ていた母も、呆れ顔で庭に出て来る。それを見て、父は自慢気な表情を浮かべた。

 

「おおアリシア聞いたか?! アトラはなぁ、ははっ、アトラはなぁ、俺みたいになりたいって——」

「はいはい、聞こえてたしこの前アトラから聞いていたから落ち着いてねナクラム。アトラが目を回しちゃうから」

「っと……悪かったなアトラ。父さん、ちょっと興奮していた」

 

 父の強烈なスキンシップからやっと解放された。

 母の言うように目は回っていたけど、こんなに喜んでくれたのが嬉しくて、照れ臭くて、クラクラが治っても目が回っているフリをしてごまかした。

 

「けどねナクラム。あまり真に受けすぎてもダメなんだからね? あなた、張り切りすぎちゃうところがあるんだから……」

「わ、分かっている、大丈夫だとも。さ、そうと決まれば特訓だな、アトラ! はっはっは、任せろ! 父さんが必ず聖騎士になれるところまで引っ張ってやるからな!」

「はぁ……ケガしちゃダメよ?」

 

 父の様子にため息を吐きながら、母の顔は明るかった。

 

 当たり前の日々——

 

 もう見れない、失った光景——

 

 ごめんなさい……もう、聖騎士にはなれないんだ——

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

「ぅ……ん……」

 

 まどろみから抜け出して目を覚ますと、なぜか視界はぼやけていた。

 

「——ん、涙……? 泣いてたのか、オレ……?」

 

 顔に触れた手は、目から溢れた涙で濡れていた。

 理由は分からないが、ひとまず服の袖で涙を拭った。

 

 と——

 

「あれ? この服……オレのじゃない……」

 

 村で目覚めた時は、確か腹部にボロボロの孔の空いた服を着ていたはずだ。

 それが今は、シミひとつなく肌触りのいい服に変わっていた。かなり上質なものだと思う。

 

「村のときと違う。村の、とき……そうだ!」

 

 村での出来事が一瞬で頭に浮かぶ。

 

 転がる死体、武器で襲ってきた男たち、そして……白銀の槍……孔。

 

「っ——!」

 

 体に掛けられた布団を跳ね飛ばし、服をまくりあげる。

 そこには、貫かれて出来た孔が——無かった。

 

「どう、なって……」

 

 孔は確かにあったはずだ。

 記憶をたどっても、孔が無くなった記憶はない。

 

 なら、そもそも孔などなかったのだろうか——

 

「ありえない。あんなのが夢だったはずがない」

 

 夢にしては、あれはあまりにも生々しかった。

 

 貫かれた時を思い出す。

 始めは、貫かれたとは気づかなかった。

 貫かれたと気づいた後も、痛みが襲ってくることもなく、ただ感覚が孔の付近から徐々に消えて、自分が欠けていく……それが何よりおぞましく、そして恐ろしかった。

 

「…………ふぅ、落ち着け……落ち着け……」

 

 思い出すと、気分が悪くなる。

 落ち着こうと、胸に手を当てて目を閉じて、少し上を見上げる。

 

 相変わらず鼓動は感じられない。

 心臓は動かず、死ぬときは灰になる……。

 

「本当に……人間じゃないんだな」

 

 ぽつりと、未練がこぼれた。

 

「はぁ…………で、ここはどこだ?」

 

 少し落ち着いて辺りを見れば、またも知らない場所だ。

 もっとも、知っている場所なんてないのだが。

 

 目を覚ましたオレは、なぜか知らない部屋で寝ていた。

 

「埃っぽいな。あと……本がたくさん」

 

 部屋の特徴は、とにかく本がたくさん積まれているというくらいで、その他は至って普通の、木造家屋の一人部屋という雰囲気だ。

 

 何となく、一番近くにあった本を手に取ってみる。赤い色が特徴的な本は、タイトルも赤に似合うものだった。

 

「『誰でも簡単! 楽しく出来ちゃう拷問術 ~入門編~』…………」

 

 ソッと元に戻した。

 今度は紺色の本を手に取る。

 

「えーと? 『歴史に見る三国間の緊張関係・後編』——なんか難しそうだな」

 

 また戻した。

 

 そうしていくつかの本を取っては戻しを繰り返していると、部屋の外から近付いてくる気配があった。

 

「えっ、まず——!」

 

 反射的に本を戻そうとして、積み上げられた本に手が当たった。本の塔が、ゆっくりと嫌な緩慢さで倒れていく。

 

 それが音を立てて崩れ、埃を舞いあげるのと、部屋の扉が開かれるのとは同時だった。

 

「開けるわよ——あら、何? 随分と散らかしてくれてるのね」

 

 入って来たのは、赤く艶のある長い髪に、赤と灰色のローブが特徴的な女性だった。

 女性は、部屋の惨状と埃臭さに目を細める。

 

「目覚め時くらい静かにできない? 小さな子供を相手にする気分よ————」

「おわっ?!」

 

 女性が呆れた表情を浮かべながら指を振るうと、一陣の風が吹き、部屋中の埃やチリを集めてまり玉ほどの球体を作る。

 それは一瞬空中に留まった後、自然の法則に従って落下し、床に落ちる直前に燃えて消えた。

 

 部屋には埃一つない。

 今の一瞬で、『本で散らかった埃臭い部屋』は『本で散らかった埃一つない部屋』になった。

 

 ……オレのぶちまけた本は相変わらず散乱している。

 

「すごい……これ、魔法……か」

「魔法は初めて、坊や? こんな使い方をするのは珍しいけれど、使えたら便利よ」

 

 女性が部屋に入ってくる。

 どうなっているのか分からないが、床に広がった本は女性が歩くのを妨げない様に道を開ける。

 

「————————」

 

 その不思議な光景を、ただ口を開けて見ることしかできなかった。

 頭が目の前の光景を理解しようと回転するのに、まるで間に合わない。

 

「間の抜けた顔ね。もうすぐルカちゃんも来るんだから、これでも飲んでシャンとなさい」

 

 女性が、持ってきた盆を置く。

 それだけで胸の双丘が揺れた。

 

「ぁ……どうも……」

 

 色々と突然すぎて、気の無い返事を返すのが精一杯だ。

 

 女性はそのまま何も言わずに、こちらを一瞥してから退室した。

 扉が閉まる音がした。

 

「————はっ! 色々訊きそびれた!」

 

 女性の閉めていった扉を眺めること数秒。

 本来ならまっさきに訊くべきあれこれを、何一つ訊けていない。

 

「誰か来るって——ルカ……だっけ? ルカって誰だ? いや、そもそもここは? さっきのは誰なんだ?」

 

 いくつもの疑問に、当然扉は答えない。

 部屋の静けさが虚しい。

 

(そういえば、あの人は何かを置いていったよな。何を持って来たんだ?)

 

 盆の上に目をやると、そこには一つのカップが置かれていた。落ち着く為に、まずは一息入れるのも良いかもしれない。

 

「……とりあえず、飲み物でも飲んで落ち着こう。まだ誰か来るみたいだし。それまでの辛抱だ……」

 

 置かれたままになっているカップを手に取って、一口飲んでみた。

 途端に、柔らかな味が口に広がり、落ち着く香りが鼻に抜ける。

 そのまま飲み込むと、胃に落ちた温もりがじわ~と身体中に広がり、染み込んだ。

 

「——ホゥ……おいしい……!」

 

 経験したことのない味に、思わずカップを見る。

 

「なんの飲み物なんだ? 色は……ちょっと赤っぽいな」

 

 カップの中で揺れている液体は特に色を持たなかった。

 ゆらゆらと揺れては、時折キラリと不思議な光の粒子を浮かべる。

 カップの底には赤いものが塗られていて、それが液体に赤く溶けていた。

 

「——ふぅ。あっという間に飲んじゃったよ」

 

 カップの中身を飲み切り、ぼんやり余韻を感じるころには、すっかり頭は軽くなって、寝起き特有の気怠さは消えていた。

 

(もし、あの女の人が入って来た時に今くらい頭が動いていればなぁ……あんな情けないことにはならなかった)

 

 そんなことを考えて時間を潰していると、また何かが急速に近づく気配がした。

 

「こんなに感覚鋭かったっけ? 村のときより敏感になってるような?」

 

 首をひねる間にも、気配は近づいて来る。

 そして、想像していたよりも軽い足音を立てながら、気配は扉の前で停止した。

 

 直後——

 

「アトラ! 大丈夫?!」

 

 けたたましい音を響かせて、扉が勢いよく開かれる。部屋には一人の少女が入って来た。

 

「……あ、えー、どうも、はじめまして? ——え?」

 

 予想外の少女の勢いに、用意していた言葉がどこかへ飛んだ。やっとのことで、たどたどしい挨拶を口にする。

 

 返事は返ってこない。少女はズカズカと近づいて来ると——

 

「ちょっとお?!」

 

 そのまま黙ってオレの着る服を掴み、捲り上げた。

 

「な、なにして、ぐぅぅッ——うそだろ?!」

 

 押さえようとする腕ごと上げられる。

 こんな細い腕に、男たちを圧倒していた腕が負けている。完全に力で負けている。

 

 抵抗するオレを他所に、少女は真剣な顔でオレの腹を見たり触ったりした後、安堵の表情を浮かべて蛮行をやめてくれた。

 

「よかった……本当に大丈夫なんだね。ルミィナが大丈夫って言ってたんだけど……見るまで安心できなくて」

 

 よかったを繰り返して、少女は笑顔を向けてくる。

 それを見て、不思議と文句を言いたい気持ちは消えてしまった。

 

「……まあ、いいよ。えー、そう、それより……ここは、どこなんだ?」

「ここ? ここはねぇ、ルミィナのお家。あの村から安全なここまで運んだんだ」

「ルミィナ?」

「あ、私が来る前に会ったよね? 髪が長くて、赤くて、キレーな人! ルミィナはね、魔法が得意なの。 後でアトラにも見せてあげるね、本当にすごいんだから!」

 

 キラキラとした目で、少女は早口に語る。

 どうやらこの家の主がさっきの女性で、名前は『ルミィナ』らしい。

 

 魔法が得意で、少女が頼めばいつでもそれを見せてくれる優しい女性。

 さらに博識でもあり、この部屋にある大量の本はすべて、彼女の著書だという。

 

(拷問の本なんて書いてる人が……優しいのか?)

 

 口にはしないものの、不安は大きい。

 

 さらにもう一点気になっているのは、目の前の少女が口にする『アトラ』という言葉だった。

 

「——それでね、その時にルミィナが——」

「ちょ、ちょっとごめん。教えてほしいことがあるんだ」

「ん? どうしたの?」

「その、さっきからオレのことアトラって呼んでないか?」

「……? アトラはアトラだもん、当たり前でしょ?」

「ってことは、オレはアトラなのか……。アトラ……そっか……」

 

 自分の名前を聞いて、胸がざわめいた。

 嬉しい以外にも沢山の気持ちが溢れて、なんだか泣きそうになった。

 安心が一番強いかもしれない。自分が誰なのか分かって、なんだかたまらなかった。

 

「えっ、アトラ? どうしたの……どこか痛い?」

「ぃや……なんでもない……。……君が、ルカ……だよな?」

「う、うん。急にどうしたの? ルミィナを呼んできた方がいいのかな……」

 

 『ルカ』は扉とオレとで視線を往復させながら慌てている。今にも『ルミィナ』を呼びに飛び出しそうだ。

 

 その前に少女の手を掴んで、最も伝えないといけないことを口にした。

 

「じゃあ、ルカ。聞いてもらいたいことがあって……」

「——うん、なに?」

 

 何かを感じたのか、ルカの表情が真剣なものに変わる。

 それを見て——

 

「実はオレ……記憶がないんだ」

「————え?」

 

 ——オレは、自分の欠陥を伝えた。



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人外の少年と怪物の少女

 ルミィナの家は魔法による特殊な造りをされており、不自然なほどに広く、部屋数も多い。

 そんな数多の部屋の一つに、三人はいた。

 

 部屋の中央に鎮座する重厚なデザインのテーブル。そこには2つのカップが置かれ、落ち着いた香りを漂わせている。……アトラの分はない。

 

「——そう。記憶を失う……あり得ない話ではないわね」

 

 造りの良い椅子に優雅に腰掛けながら言うのは、この家の主であり、謎多き妖艶の魔法師——ルミィナだ。

 

 彼女はアトラの抱えている欠陥を「あり得る」と肯定し、目の前の少年からその隣の少女へと視線を移した。

 

「いつまで拗ねてるのよ、ルカちゃん」

「ぶぅ……アトラ、私のこと忘れた」

 

 視線の先では、膝を抱えてほおを膨らませる少女が恨めしそうに少年を睨んでいる。

 

 白磁の様に白く美しい肌と、それとは対照的に腰まで伸びる黒髪が目を惹く。可愛らしい白の上着に、フリルの付いた黒いスカート。そんな服装で座る彼女が、アトラをルミィナの家まで運んで来た張本人——ルカだった。

 

 そんな彼女に睨まれているアトラは、居心地が悪そうに頭を掻いて、誤魔化すように固い笑みを貼り付けている。

 

「それは坊やの意思にかかわらず起きたものよ。それにね、男なんてそんなものなんだから。過度な期待はよしなさいな」

「ブッ! 男とかは関係な——いと……思います……」

 

 ルミィナの鋭い視線を前に、アトラの語気はみるみる小さくなる。

 

「えー……そう、オレの記憶がなくなったのがあり得ることって……それは、どういうことですか?」

 

 視線から逃れるべく、早々に質問に移る。

 ルミィナは自分について何か知っている。そうでなければ、今の様な肯定は出て来ない。

 そう考えての質問でもあった。

 

「あ、それは——」

「ルカちゃん。坊やには正しく現状を認識させる必要があるの。少しだけ、私に任せてもらえる? ごめんなさい」

「…………うん、分かった。ルミィナに任せるね」

 

 こうして、ルミィナの口から村で起きたことの一部始終が語られる。

 それはアトラにとって、想像だにしないものだった。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

「まず、坊やが目覚めた村だけれど……どうやら盗賊に襲われたみたいね」

「はい……」

 

 最初に出た言葉は、オレの目覚めた村についてだった。

 

 オレが聴いたのは、オレの記憶がないことについてだ。なのに、返って来たのは村についての話題……。

 

 長い話になる気がした。

 

「オレ、どうしてあの村で……。もしかして、オレはあの村で暮らしてたんですかね?」

「ええ。ルカちゃん曰く、坊やはあの村の住民だったみたいよ」

「ルカ曰く? どうしてルカがそんなこと知ってるんだ? この家で暮らしてたんじゃないのか?」

 

 意外な人物に、視線をルカに向ける。それにルカが何か言う前に、ルミィナが口を開いた。

 

「ルカちゃんと坊やは以前から面識があったそうよ。まあ、私も今日知ったのだけれど……。森で迷った坊やを助けたのをキッカケに、以降は偶に森で会って話すようになった——そうだったわね、ルカちゃん?」

「うん。そしたら、今日は遅いなって思ってね、こっそり見に行ったら……」

「村が……襲われていた……?」

 

 ルカがゆっくりと頷く。

 

「そこで急いで村に近づいてみると、死に掛けの坊やがいた。ルカちゃんによると、その時の坊やは酷い状態だったみたいね。顔は陥没するほど殴られて、手足は何度も踏み折られていた。その上、腹部は刃物でグチャグチャにされるまで刺されていたそうよ?」

「……それは………………」

「坊やの記憶が無いのはその時の影響もあるでしょうね。ここまでされるなんて——何をしたのかは知らないけれど、余程の恨みを買ったのね」

「……………………」

 

 その場面を想像して、気分が悪くなる。厄介なのは、その時の記憶に限って、僅かに思い出せるということだ。

 腹部に、疼くような痛みを覚える。分かってる、記憶による錯覚だ。

 

 ただ、こんな傷は到底助かるものじゃない。

 

「でも……オレは生きてる……」

「そう。ルカちゃんに感謝なさい。坊やが生きているのは、その場に駆け付けたのがルカちゃんだったからよ。他の誰が来ても、その時の坊やは助けられなかったんだから」

「ルカが——?」

 

 思わずルカをまじまじと見つめた。

 

 ルカはオレより小さい。多分、頭半分くらいの差はあるだろう。腕も細く、年齢こそ大差ないだろうが、死に掛けの人間をこれほどまでに治癒する手段を持っていたとは……どうにも信じられなかった。

 他の誰でも、オレを救えなかったとルミィナは言う。

 なら目の前の少女は、実はものすごい人なんじゃ……。

 

「ルカが……なのか?」

「うん……そうなの……」

 

 だが当の本人の様子はおかしい。どこか浮かない表情を浮かべているというか、怒られるのを待つ子どもの様に、その肩は震えていた。

 

 その震えに気付いた時、ルミィナの口からその言葉が飛び出た。

 

「そう。その致命傷の坊やを助けた方法が、坊やが記憶を失った主たる原因であり——坊やが人間でなくなった原因でもあるわ」

「————え?」

 

 ルミィナの言葉をあまりに無防備に受けて、思考は漂白され、身体は固まった。

 視線はルミィナの赤い目に捕らわれて、蛇に睨まれた様に動けない。

 

 なぜ知っている? どうやって知った? オレは何も言っていなかったはずだ……!

 

「なん……で、それを…………」

「あら? まさか、気付いていなかったの?」

「だから、なにを……」

「坊やに出した霊薬——あのカップに入っていた液体だけれど、少し赤くなかったかしら?」

 

 まだ衝撃から立ち直れていない中、印象的だったあの飲み物を思い出す。

 そうだ、たしかあの飲み物はカップの底に塗られていた赤いものが溶けて……少しだけ赤かった。

 実を言うと、もう一度出してもらえるかもと期待していた。でも、その飲み物がなんだと言うのか。

 

「——あれね、血なのよ」

「———–————」

 

 ………………………………嘘だ。

 

「あの霊薬は味が独特なのよね。坊やには合わないと思って、底に血を塗っておいたのだけれど——フフ、美味しかった?」

「おいしい、わけ……」

 

 声が震える。

 ルミィナは全てを見透かしている様な目を向け、まるで戸惑っている様を愉しむようにそれを細めた。

 

「その様子だと、坊やは自分が人間じゃないのは分かっていても自分の種族までは分かっていないのね」

「オレの、種族……?」

「ええそうよ? 興味、あるわよね?」

 

 不思議と、それを考えていなかった。

 自分が人間でないことは知っている。嫌というほど知っている。

 だが、その種族までは考えなかった。

 

 それが単に思い至らなかっただけなのか、それとも考えたくなかったのか……それはオレ自身も分からない。

 それでも、これから生きていく為には向き合わなければならないことだけは、間違いのない事実だろう。

 

 戸惑うのも混乱するのも後だ。今は、今だけは向き合わないと。

 

「……心の準備はできたみたいね」

「はい。教えてください……オレの、正体を」

 

 決意を込めた視線を受けて、ルミィナはクスリと笑ってから、カップを一度傾けて——言った。

 

「——坊やの種族はね、ざっくり言ってしまうと“吸血鬼”って言うものよ。他者の血を取り込むことで活動する吸血種。その中でも最上位に位置する種族ね」

「吸血鬼……」

 

 なんとなく聞いたことがある気がする。

 うまく思い出せないけど、自分はそれをどこかで聞いたはずだ。

 …………思い出せない。

 

「この吸血鬼には二種類あるわ。一つが、元から吸血鬼として生まれた者。これが“真祖”よ。もう一つが、“真祖”の血によって吸血鬼へ生まれ変わった者。これは“虚祖”と呼ばれているわね。この二種の内、坊やは明確に“虚祖”よ」

 

 “真祖”は生まれながらの吸血鬼。

 “虚祖”は生まれ変わりの吸血鬼。

 

 オレの場合は人間から吸血鬼になったから、つまり“虚祖”だとルミィナは言う。

 

「ん? …………あれ?」

 

 何か、おかしい。

 

「オレが“虚祖”ってことは……オレ……“真祖”の血を……」

「そうね。坊やが“虚祖”として吸血鬼になったのなら、坊やに血を与えて眷属とした者——“真祖”がいるはずだって言いたいのよね?」

 

 そう、アトラという人間が“虚祖”としてここにいる以上、オレをそうした存在がいる。

 目が覚めてから、オレは一度正気を失い、記憶がない瞬間があった。それから男たちに囲まれるまでの空白に何かされた?

 

「簡単なことよ」

 

 ルミィナの視線が、オレの隣へと移動する。ルカは俯いたままだ。

 

「言ったじゃない。坊やはルカちゃんに救われた。それが人間でなくなった理由だって。人間なら助からない傷だもの。救うなら人間で無くすしかないでしょう? だからそうした。それだけよ」

「ルカ、お前——」

 

 オレとルミィナ、二つの視線がルカに向けられる。

 

 俯いていたルカはオレに顔を向けて——

 

「うん……。私が、アトラを眷属に……“虚祖”にしたんだ……」

 

 そんなことを口にした。

 

 きっとオレは今、相当間抜けな表情をしてるんだろう。

 

「ルカが……吸血鬼?」

「うん……。あのね? あの……あの時のアトラ、すごい傷で……見た瞬間に死んじゃうんだって分かったの……」

 

 ルミィナに聞いた話では、いつまでも来ないオレを心配して迎えに来たルカが見たのは、見るも無残な姿のオレだったはずだ。

 友人がそんな状態で倒れているのを見た時のルカの気持ちは……オレには想像できない。

 

 けど、ルカの目にあるのはそれを思い出した悲しみだけじゃない気がする。

 

 助けてくれたのになんで、なんでそんなに苦しそうなんだ……。その目に罪悪感を宿すのは、何故なんだ。

 

「だから、私の血をあげて……眷属にしちゃった。アトラを……人間じゃ無くしちゃったんだ。……ごめんね」

「あ————」

 

 そうだった。

 オレは元は人間で、ルカに救われる代わりに吸血鬼になった。それは、ルカのせいで人外になったと言える。

 

「————————」

 

 心臓が動いてないと知った時の感情を覚えてる。

 

 あの時オレの中にあったのは…………絶望だった。

 

 心臓が止まっていて、なのに生きていて……あの時抱いた絶望は、何に対してのものだったか。

 

 死んでいると思ったわけじゃない。

 むしろ、生きていることに絶望した。

 

 何か、大切な約束を破った気がして。

 何か、大切な夢が砕けて消えたと分かって。

 

 それが何なのか、記憶のない身では分からない。

 

「……………………」

 

 ルカは不安そうな目でオレを見ている。

 オレは——

 

「ありがとう」

「え——?」

 

 ありったけの想いを込めて、この感謝を伝えた。

 

 今度はルカが変な顔で固まっている。

 だからもう一度伝えた。

 

「ありがとう、ルカ。ルカのおかげで助かった」

「え、あ、アトラは、怒ってない……の? 勝手に眷属にしちゃったし……これからすごく、大変になっちゃうけど……恨んでないの?」

「恨むもなにも、オレは記憶がないんだってば。以前のオレが分からないんだから、前の自分とは比べられないだろ? だから今は、今の自分しか分からない。今のオレはルカのおかげで生きてるんだから、感謝しかないよ」

「————————」

 

 ルカの目が見開かれる。

 

 オレの伝えたいことは、これが全てだ。

 もしかしたら、記憶のあったオレなら恨み言の一つや二つ口にしたのかも知れない。でも、今のオレが伝えたいことは感謝だけだ。

 

 再び俯いたルカは、袖で目元をぐしぐしとして——

 

「うん、どういたしまして! これからもよろしくね、アトラ!」

 

 満面の笑みで、そう言ってくれた。すごい力で手が握られ、ブンブンと振られる。それも、なんだか悪い気はしなかった。

 

「良かったわね、ルカちゃん。——まぁ、ここで妙なことを口走るお馬鹿さんなら……フフ」

「……………………」

 

 冷や汗がほおを伝う。

 迫っていた死を無自覚に回避したらしい。

 この身体になってからやたらと気配に敏感になった所為で、ルミィナが本気かどうかも感じ取れてしまう。

 

「ん、アトラ?」

「ぃゃ、な、なんでもない」

 

 ルカに手を握られてる間、冷や汗が止まることはなかった……。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 ルカとの和解が済み、しばらく雑談をしていた。

 ルカの話では、前のアトラは今のオレと少し違ったらしく、一人称も「ぼく」だったと言う。

 何だそいつは。ちょっと、自分のこととは思えない。

 

 その他にも、ルカはオレの記憶を埋めようといろんな話を聞かせてくれた。時々嘘みたいに人格者なアトラが出てくる度に、オレは本当に脚色されていないのかを疑わなければならなかった。

 いや、本当に誰だそいつは……。

 

 そんな話もようやく一区切りして、ルミィナが唐突に言った。

 

「さて、ルカちゃんが満足したところで本題に入りましょう。坊やにとっては命に関わることだから、今知っておかないと面倒だもの」

「命に関わること?!」

 

 ルカに解放されてどこか弛緩した気持ちが、ルミィナの言葉で一気に張り詰める。

 

「ええ。坊やにはまずこの国のことを知って、自分の立場を認識してもらわないといけないわ」

 

 まだルミィナの話は終わっていない。

 ルカの口にした「大変」の意味を、オレは知ることになるのだった。 



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最悪の聖地

 

 アトラとの会話にルカが満足したと判断したルミィナは、まだ何も知らない吸血鬼に、自身がどれだけ危険な状況に置かれているかを教えるべく口を開いた。

 

「まず先に言っておくわ。坊や、アナタは命を狙われる立場にある。だから、今から言うことを良く聴いておきなさい。坊やが勝手に死ぬのは構わないけれど、それだとルカちゃんが悲しむもの」

 

 ルミィナの言葉に、アトラに驚きはなかった。

 命を狙われるくらいは予想している。が、死ぬのは構わないの下り、傷付かないでもない。

 

「ぐ……ま、まあ、目の前に吸血鬼なんていたら……そりゃ怖いし殺そうともするかもしれないですけど」

「いいえ。もしも坊やが『怖いから排除しようとしている』程度の認識なのだとしたら、それは大きな間違いよ」

 

 納得して頷くアトラの言葉を、ルミィナは切り捨てる。その程度であれば、わざわざこうして話す必要はない。

 

「ここは『神聖国家シグファレム』——通称『教国』。ここレッゾア大陸最大の宗教国家であると同時に、吸血鬼にとって最悪の地。もし今いる場所が他の国だったのなら、私は『教国』にだけは近づくなと言ったわ。ここ以上に吸血鬼を殺している国はないもの」

「殺っ…………!」

 

 アトラの目が見開かれる。そんな話が出て来るとは思ってもみなかった。アトラにとってこの国は、記憶がなくとも故郷であり、それ故に緊張感は持ちつつも決定的危機感までは持っていなかった。

 どこかで、ここは自分に優しい場所と決めつけていた。その考えがどうしようもない程の勘違いだと知ったアトラは、途端にこれからの生活を想像するのが恐ろしくなる。

 

 今のアトラの目には、部屋の窓から見える一見のどかな森の景色も、途端に誰が見ているかも分からない、不気味で得体の知れない場所へと変貌した。

 

「理由としては、『教国』の国教である『クリシエ教』が挙げられるわ。連中の考え方は簡単で、『この世界は神の庭であり、人間は庭師である。かつての6柱の神々がこの地を去り数千年、未だ降臨の気配はない。それは神の庭に、神が過ごすに相応しくない『穢れ』が存在する故のこと。庭師たる我々は、これの発見、排除、根絶に持てる全てで当たらなくてはならない』というものよ。つまり、『クリシエ教』にとって最も重要なことは、この『穢れ』を排除すること。この目的の為なら、この国は戦争も辞さないわ」

「……その、『穢れ』って……」

 

 アトラの声は、内心を表すかのように震えていた。

 頭に浮かんだ不吉な予感。それを否定して欲しいと、その眼が語る。だが、ルミィナはその様を愉しむ様に口角を上げて、無慈悲に言い放つ。

 

「坊やの想像通りよ。この『穢れ』にね、坊や————アナタは指定されているのよ」

「————————」

 

 それは死刑宣告だった。自分はこの国にとって『穢れ』であり、その排除の為には戦争すら起こす連中の総本山。そこにアトラはいるのだ。

 

 頭の中に、村での一件が蘇る。アトラはただの盗賊一人に殺されかけた。槍一本で、それまで優勢だったのが幻であったかの様に、あまりにも容易く貫かれたのを覚えている。

 たった一人にあれだった。なら、それこそ軍を動かされたらどうなるかは考えるまでもない。

 

「アトラ」

 

 もう、外には出られない。

 いつ見つかって、誰に襲われるかも分からない中で、外を出歩く訳にはいかない。

 今後のオレの人生、全部この家の中で過ごすのか?

 

「アトラ?」

 

 それは、アトラという少年に絶望を抱かせるには十分だった。外に待つのは死の運命。中に待つのは死ぬまでの長く孤独な時間。死なない為に、ただ無目的に過ごす空虚な人生だ。マシな方を選び、ただ終わりまでの時間を過ごす。

 

 それは、早いか遅いかの違いでしかない。死刑と終身刑のどちらかを選べ。そういう二択でしかない。

 

「オ、レは…………」

 

 未来への絶望と諦観が、アトラの瞳に暗い影を落とす。

 その中で————

 

「もう、アトラ! 聞いてる? ねーえーっ!」

「——ッ! なん、ル、ルカ?」

 

 少女の声が、絶望に身を任せようとするアトラの意識を引き留めた。

 

 ルカの顔がアトラの目の前にあった。その顔に己が運命への悲観はなく、吸い込まれそうなほど黒い瞳は、まっすぐにアトラへと向けられている。

 そして、その瞳に負けない力強さで言った。

 

「大丈夫だよ、アトラ。大丈夫」

「だいじょうぶ……?」

「うん! だってアトラ、私が吸血鬼だって分からなかったでしょ? だからね、他の人からも分からないの!」

「ぇ……?」

「つまりルカちゃんが言いたいのは、坊やがルカちゃんを吸血鬼と分からなかった様に、他の人間も坊やが吸血鬼かどうかを外見から判断するなんてできないということよ。人間との外見上の違いなんて無いもの」

「あっ」

 

 アトラの顔に納得の色が浮かんだ。アトラから見て、ルカは普通の明るい女の子にしか見えない。だからこそ、ルカが真祖の吸血鬼であると知った時に驚いたのだ。

 

「そうか……そうだ! オレもルカも見た目は人間なんだ! ああ、そうだよ、なんで忘れてたんだこんなこと! よかった……オレ、てっきりここから出られないんだって……一生ここで閉じ籠もらないといけないんだって、思って……」

 

 安堵した。ルカの言葉に、涙が滲むほど安堵した。出られる。自分は外を歩ける。それがこんなに嬉しいことだったなんて知らなかった。

 

「ね、だから大丈夫なの! そんな顔しないで良いんだよ。もしもの時だって、アトラは私の眷属だもん! 人間なんかに負けないんだから!」

「はは……なんか評価高いな。オレ、吸血鬼になってから一度殺されかけてるんだけど、忘れてないか?」

 

 ルカの信頼の眼差しに、アトラは頭をかきながら笑みを返す。その瞳に先程までの影はない。

 

「それは仕方ないよ。あの時はアトラすごく弱ってたし、血も全然足りなかったはずだから。私たちって、血が無くなっちゃうと力が出せなくなって、すごく弱くなっちゃうんだ。それに……聖槍があったから」

「聖槍……?」

 

 よく分からない単語に首をひねる。

 

「その辺りについても説明するわね。まったく、急にこの世の終わりみたいな顔をしたかと思えば、女の子に励まされて泣くだなんて。情け無いったらないわね」

「ぅ……そ、そもそも——」

「話を最後まで聞かず、勝手に絶望していたのは坊やでしょう。私は外見についても言うつもりだったのに」

 

 嘘つけ!と叫ぶのを、すんでのところでなんとか堪える。間違いない、目の前にいるのは魔女だ。魔女はオレの様子を愉しんでいたし、ルカの言葉が無ければさらに追い込んでいたに違いない。

 オレには分かる。目の前の魔女は間違いなく、最悪のサディストだ。

 

「さて。ルカちゃんが言っていた聖槍だけれど、これは吸血鬼にとって最大の脅威よ。本来、吸血鬼に剣や槍は効かないわ。魔法もそう。〈攻勢魔法〉は威力を減殺されるし、〈心理魔法〉に至っては全く効果がないわ。物的・魔的を問わず、あらゆる攻撃が決定打にならない。それが吸血鬼という存在よ」

「…………剣も魔法も効かないなら無敵じゃないですか。でも実際は違った。オレは刺されてるし殺されかけてる……あの槍で」

「そう、それが例外に当たる『聖具』よ。坊やの様な『穢れ』にも通用する、神の奇跡を宿した武具。それがあの村にあったのはとても面倒なことなのよ?」

「面倒なこと、ですか?」

 

 村での一件は、すでにアトラの中では終わったことだった。だが、ルミィナの様子は終わった出来事を話すそれとは違う。未だに面倒な状況から脱していないという態度だ。

 

「『聖具』は——中でも聖槍は、聖騎士でない限り持ち得ない。つまり、あの村には聖騎士がいた。盗賊に聖騎士から強奪する力はないでしょうから、あの村に住んでいた聖騎士の不在中に、予備の『聖具』を盗み取った————そんなところでしょうね」

「聖騎士————」

 

 アトラの動かないはずの心臓が、跳ねた。

 

 その言葉を聞くのは、つらい。つらくて、悲しくて、寂しくて……どうしようもないほど()()たくなる。覚えてもいない日々に、そのあまりの遠さに、胸が締め付けられる。

 

「——あら、随分おもしろい顔をするのね」

「え? あ、いや、なんか……懐かしい感じがして」

「それはそうでしょうね。聖騎士とは面識があったでしょうし、坊やには身近な存在だったはずだもの」

「会ったこと……あるかな? そもそも、盗賊たちの持っていた『聖具』があの村で手に入れたものかも分からない気がするんですけど」

 

 『聖具』を持つ者は限られる。その中でも聖槍となれば聖騎士のみ。ルミィナはそう言った。

 だが、その後に続いた言葉に、アトラは疑問を抱かずにはいられなかった。

 

 ルミィナは、盗賊たちが『聖具』を入手したのはあの村であると断じている。それが、アトラには分からなかった。あの村の襲撃以前に入手していた可能性を、ルミィナは初めから放棄しているのだから。

 

「いいえ、分かるわ」

 

 アトラの呈した疑問に、ルミィナはやはり断じる言い方で返した。

 

「それはなぜ?」

「『聖具』はここ『神聖国家シグファレム』でしか作れないのよ。だからこそ、他国は製造方法を知る目的で『聖具』を高値で買い取るの。破格の値段でね。聖槍一本売れたなら、盗賊稼業とは一生縁のない裕福な暮らしが送れるわ。なら、わざわざあんな村を襲う必要がない」

「なのに襲ったということは……襲撃以前は持っていなかった、てことになるのか」

「そういうことよ。つまり、あの村には『聖具』があった。『聖具』があった以上は聖騎士がいたということ。当然、それほど大きくない村で一度も会わないはずがない。聖騎士と面識があるのは、ほぼ間違いないわね」

「そうか……。もしも、その聖騎士が……今のオレを見たら…………どう、なりますかね?」

 

 何を思っての質問なのか、自分でも分からない。ただ、結果として期待した答えは返って来なかった。

 

「————殺すわね。間違いなく」

「——ッ!」

 

 端的な答え。その予想された答えは、なぜか胸を抉る。裏切られた気持ちだった。

 

「普通の人間は、坊やの正体には気付けない。けれどね、連中は例外よ。近づき過ぎれば察知されるわ。そうなれば終わり。ルカちゃんならともかく、今の坊やでは勝ち目は無いわね。逃げ切ることも難しいんじゃないかしら」

「そう、ですか……」

 

 ルミィナは求めてもいない情報をアトラにもたらす。

 

 アトラの沈んだ表情を聖騎士に怯えてのものと考えたのか、ルカがわざとらしい声で、また聞いてもいないことを喋り始めた。

 

「大丈夫だよ! えっとね、聖騎士や『聖具』が近くにあるとね、分かるの。こう……いやだなーって感じがするんだけど……分かるかな? 普通は分かるんだけど、喉が渇いてるときはむずかしいかも。……あっ! じゃあアトラはまだ知らないんだ!」

「……いや、たぶん分かる。あの槍を見た時に感じたものがルカの言ういやな感じだと思う」

 

 その感覚が頭をよぎり、アトラの眉間にシワが寄った。

 

「要するに、あの感覚がしたら近付かなければ良いんだろ? それで、全力でその場から離れる」

「うん、見つかる前なら簡単だからね!」

 

 アトラが自分の話を理解したのを見て、ルカは上機嫌に足をブラブラとした。

 ルミィナはそれに一瞬目をやるが、とくにたしなめることもなく、視線は再びアトラへと向けられる。

 

「そんな聖騎士と面識がある。関係次第では、今の坊やには好ましくないのは理解できるわね?」

「まあ、そうですね……」

 

 その聖騎士との関係次第では、聖騎士に吸血鬼とバレずとも、向こうは“人間としてのアトラ”を探そうとする。アトラの顔を知り、探そうとする聖騎士は、今のアトラにとって危険でしかない。ルミィナの懸念は、つまりはそういうことだった。

 

「ここで坊やが聖騎士との関係を覚えていれば早いのだけれど……それも難しいみたいね。こっちは私が調べさせるわ。…………こんなところかしら」

 

 長かったルミィナの話が終わった頃、窓の外はすっかり日が落ちていた。

 

「話は終わりよ。私はこの後ルカちゃんに話があるから、坊やは部屋に戻っていなさい。暇なら部屋の本を自由に読むと良いわ。坊やの知りたいことは大抵分かるはずよ」

「ああ、あの部屋がオレの自室になるのか。……本棚とか余ってないですよね? 整理しないと訳が分かんなくなりそうで」

「…………はい、付けたわ、本棚」

「はい?」

 

 一瞬黙ったかと思えば、ルミィナは不思議なことを口にする。そして、それ以降オレの言葉は完全に無視された。どうやらとっとと退出しろということらしい。

 

 アトラはどこか腑に落ちない顔をしながらも、しぶしぶ席を立ち、部屋を後にすることにした。退出の際、アトラの背中に「今度家の中を案内するねー」というルカの声が投げかけられた。それに「まずはトイレから頼む」と返して、薄明かりが点々と灯す暗い廊下を、与えられた自室へと進んだ。

 

 部屋に続いてるはずの廊下を歩く。廊下には等間隔に窓が付き、外から月明かりを取り込んでいた。

 

「——ん?」

 

 ふとした違和感。それは窓の外の景色に対してだ。

 窓の外では、晴れたら気持ち良さそうな草原が広がり、月の青白い光を受けながら、波のように風になびいている。暗闇に浮かび上がるその光景は、それ自体はとても綺麗だった。

 ただ…………。

 

「草原? ……さっきの部屋で見たときは森の中だったよな?」

 

 ルミィナとルカが今も残って話をしているあの部屋にも、これより大きな窓が付いていた。そこから見る外の光景は、こことは随分と違っていたと思う。

 その違いは、もはや全く違う場所と言っていい。

 

「…………ま、いっか」

 

 部屋が近いのもあり、アトラはその事実にすぐに興味を失った。もう見えている部屋の扉へと廊下を進み、扉を開く。すると、アトラは一瞬体を固めて————

 

「ん? えっ? ええぇっ!?」

 

 暗い廊下に、アトラの声が響いた。



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聖なる騎士は決意と共に

 アトラが驚愕していたころ、アトラが退室した部屋にはルカとルミィナの二人が残っていた。

 

「あら、何か良いことがあったの? 口元が緩んでいるわよ、ルカちゃん」

 

 ルミィナは優しい声で、隣へ移動して来たルカの求めているであろう質問を口にした。予想違わず、ルカは上機嫌に話し出す。

 

「えへへ~、今ね、アトラが部屋に戻ったのが分かったの。どこにいるのか、なんとなく感じられるんだ」

「まあ、そんなことまで出来るのね。眷属は主人である真祖の危機を感じ取れるし、近くにいればおおよその位置も分かるとは聞くけれど、それは初耳よ?」

「すごいでしょ! アトラは私の眷属だからねー!」

「フフ、余程嬉しいのね。ルカちゃんが嬉しいと私も嬉しいわ。けれど——」

「んー? なに、ルミィナ?」

 

 一段低くなった声に、ルカは首を傾けて隣を見た。すると、先程とは別の光を湛えたルミィナと目が合う。

 ルカは聞き返したのを後悔した。

 

「疑問なのだけれど、坊やには一体どれほどの血を分け与えたの?」

「……あ~……え~、とぉ……ね……」

 

 ルミィナの一言に、ルカの視線が露骨に泳いだ。

 ルカが必死に言葉を探す間にも、ルミィナの視線は揺らぐことなくルカの目に注がれている。

 

 やがてルカは観念した様にがっくりと項垂れ、白状した。

 

「うぅ、ごまかせない……。5分の1……くらい」

「なっ!? 5分の1ですって?! ルカちゃん、あなた——!」

 

 ルミィナの目が見開かれた。

 ルミィナが予想するアトラに与えられた真祖の血は、せいぜい手元のカップ一杯程度だったのだ。

 

「で、でも! あの時はそれくらいじゃないと助けられないと思ったの! 必死だったから、その……ごめんなさい」

「……いいえ、私こそごめんなさいね。少し……驚いてしまったわ」

 

 ルミィナの言葉に、怒られると覚悟していたルカはホッと胸を撫で下ろした。

 だからこそ、それは不意打ちとなる。

 

「けどね、ルカちゃん——」

「——ふぇっ!?」

 

 ぺちんっと、ルカの額がルミィナの指にはじかれた。

 ルミィナは眉をしかめ、自分は怒っていることを態度に表した。ここにアトラがいれば、娘をしかる母親の様だと思っただろう。

 

「それはやり過ぎよ。吸血鬼はその時々の血液量で力が変わる。真祖であるルカちゃん自身の血は、人間という他者の血で補えないんだから、そんな量を一度に使ってはダメなの」

 

 ルミィナは出会ってから何度目か分からないほど言ってきた言葉を口にする。

 

「その量だと、ルカちゃんは間違いなく弱体化しているわ。回復しきるまで少なくとも数十年はかかるはずよ。……もう少し考えて、自分を大切にしてちょうだい。いざという時、そこに私がいない場合だってあるの」

「うん……ごめんね、ルミィナ」

 

 ルミィナの言葉は、ルカを案じる気持ちがにじんでいた。

 俯いたルカの静かな謝罪に、ルミィナは優しくルカの頭を撫でた。これでおしまい。ルカも顔を上げ、二人は互いに笑顔を向けた。

 

「私からはそれだけ。——それにしても、坊やにも驚いたわね。それだけの血を与えられて崩壊しないどころか、自我まで保っているなんて。ルカちゃんの話では人格に変化があるみたいだけれど、後遺症としては信じられないくらい軽いものよ? 余程相性が良かった……としか言いようがないわね」

「うん、アトラね、私の血をすんなり受け入れてくれたの。あれは……うれしかったなぁ」

「2回目は随分ロマンチックな方法だったみたいだし、坊やに言ったら面白い反応が見れるんじゃないかしら……フフフ」

「あ! だ、ダメだよ! 言っちゃダメだからね、ルミィナ!」

「あらぁ、言っちゃダメって、何をかしら? 具体的に特定してくれないと分からないわ、私。フフフフフ」

「うぅ~~ルミィナのいじわる!」

 

 二人はしばらく笑いを交わし合う楽しい時間を過ごす。二人の時は、ルミィナがルカをからかうのが常だった。

 

 そうして、ルミィナとルカのカップが3回空になったころ、ルミィナが切り出す形で雑談は終わりを迎える。

 

「——さて、ルカちゃん。そろそろいいでしょう? 坊やと話している最中に何があったのか……聞かせてちょうだい」

「……うん、そうだね」

 

 アトラに状況を説明している最中、もっと話に入ってくると予想していたルカが静かであり、その表情に影がさした瞬間があったのをルミィナは見逃していなかった。

 談笑は、ルカの心の準備の為でもあったのだ。

 

「それで、何があったの? 多分だけれど、使い魔のことなんじゃないかしら。——違う?」

「……ううん、正解。アトラの村を見ていた使い魔がね————」

 

 数瞬の間を置いて、それはゆっくりとルカの口から告げられた。

 

「————聖騎士に、殺されちゃった」

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 時間は少し遡る。

 

 アトラの目覚めた村・セトナ村へと向かう一団があった。

 一団は広い原野に作られた舗装されていない道を、馬を休ませることなく走らせる。

 統一感のある装備は、その一団が同じ組織に属している兵士であることを示す。そんな一団で、先頭を行く男の装備だけは他とは一線を画していた。

 

 白銀に夕陽を映す全身鎧に、青の地に銀の刺繍の入ったマントをはためかせているその男は、『教国』の切り札と言われる聖騎士、ナクラム・ヴィント・アーカーだ。

 

「頼む、無事でいてくれ……!」

 

 町を出てから何度目とも知れない神への祈りを、頭の中でつぶやく。それでも、口から漏れる悲痛な願望は止められなかった。

 

 ナクラムが家族の待つセトナ村の襲撃を知ったのは、彼が息子の成人の日に向けて聖堂の神官と打ち合わせをしている最中のことだった。

 セトナ村の付近にある教会からの報せで、ナクラムの妻と娘を含めた一団が、その教会のある町へと避難して来たことを知ったナクラムは、同時に自分の息子が逃げ遅れたことも知らされた。

 

 ナクラムには、町を飛び出したのが遥か昔のようにに感じられた。セトナ村までの一分一秒がもどかしい。

 

「ナクラム様! セトナ村が見えてきました!」

 

 兵士の言葉に、ナクラムは視線を上げる。

 道の先には、今も息子が助けを待っているセトナ村があった。

 

「————っ!」

 

 村を視界に入れた途端、ナクラムは今なお走り続ける馬から飛び降りた。

 

 突然の出来事に兵士たちが息をのむ中、ナクラムの足が地面に触れる——

 

「なあッ?!」

 

——次の瞬間、砲弾じみた速度でナクラムの体は射出された。

 

 踏み込んだ大地は抉れ、兵士たちにはナクラムの銀の残像を捉えるのがやっとだ。

 自分たちも馬を走らせているというのに、聖騎士の背中はみるみる遠く、小さくなってゆく。

 

「いけません! 単独行動は——」

 

 必死の制止も、ナクラムには届かない。

 兵士たちは即座にナクラムの馬を回収し、大地に刻まれた足跡を避けながらその背を追った。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

「アトラぁあああああああ!!!!」

 

 村を囲う木杭の柵に、銀の砲弾が着弾した。

 周囲に木片の雨が降る中、ナクラムは自身の息子の名を叫ぶ。その声は森に、山に#木霊__こだま__#し、村中に響き渡った。

 

 返事はない。

 

「アトラぁあ! 父さんが来たぞ! もう大丈夫だからな! 返事をしてくれ!」

 

 ナクラムは叫ぶ。叫ぶ間もナクラムの感覚は周囲へと向けられ、手に握られた白き聖なる槍は油断なく辺りを睥睨している。

 

 ……返事はない。

 

 その頃になってようやく、ナクラムの耳に馬の蹄の音が聞こえてくる。聖堂の兵士たちが、ナクラムに追いついたものだった。

 

「ナクラム様! お気持ちはお察しします。ですが、安易な単独行動はおやめください!」

 

 その場でナクラムの次に位の高い聖堂騎士が、その場の兵士たちを代表して苦言を呈した。

 未だ襲撃者が残っているかもしれない中、単独での行動は厳禁。いかにナクラムという男が聖騎士であろうとも、危険であることに変わりはないのだから。

 

 騎士の言葉にナクラムは振り向くと——

 

「私は村の中心、村長宅と私の家を見てくる。村の外周部は任せる」

 

 その言葉を残し、やはり単独で村の中心部へと走って向かった。

 

「なっ、ナクラム様!? ……くっ!」

「どうされますか?」

「……聖騎士による命令だ。従う他あるまい……。二人一組で行動し、逃げ遅れた者がいないか捜索する!」

「「「は!」」」

 

 騎士の号令で9組に分かれた兵士たちは、行動に移った。

 

 一方、村の中心へと向かったナクラムは、奇妙な感覚を覚えていた。

 

「……これは、なんだ?」

 

 ナクラムの視界には、いくつもの衣服が地面に置かれていた。そのどれもが、つい今しがたまで誰かが着ていた様な配置で置かれている。

 

 散乱している剣や槍もそうだった。

 刃の状態や周囲の状況から、これはここで使われたものだと推測できる。

 にもかかわらず、刃に血液などは付着していない。

 犠牲となった者の死体すら、この村に来てから見つけていない状況だった。

 

 言い知れぬ違和感が、ナクラムの胸にこびりついて取れない。

 

 周囲の状況は、人がいた痕跡をそのままにしている。

 だが、人だけがいない、無人の村。

 

 ナクラムの眼に写るセトナ村は、落陽により山の陰となっているのも合わさって、どこか見知らぬ村に見えた。

 時間が止まってしまった様な錯覚。今、世界に自分しかいないんじゃないかという不安が、ジリジリとこみ上げてくる。

 

 ここは、何かが異様だった。

 

「——っ、あれは!」

 

 村の状況に思考を加速させるナクラムの視界に、白銀色の槍が写った。

 

 すぐに駆け寄り、それを手に取る。

 すると、白銀色の槍は、本来の持ち主に握られたことを喜ぶ様に、穂先の光を強く瞬かせた。

 

「聖印が……発動している?! ま、まさか……」

 

 ナクラムの目が見開かれる。

 聖印を発動できるのは、原則的には聖痕を身体に宿した者だけだ。

 だが、これには大きな例外があった。

 それは、『穢れ』又は一部の魔物への使用。

 

 つまり——

 

「いたのか、ここに!? 奴らがいたのか!? ……なんて、事だ……!」

 

 膝から崩れ落ちた。

 

 聖印が発動する魔物は、いずれも聖騎士が苦戦するほどに危険なものばかり。この程度の村では、見込まれる被害は壊滅的なものだ。

 逃走できた者がいたことが奇跡的だったと言える。

 

 同時にそれは、逃げ遅れた者の生存が絶望的であることを意味していた。

 

「ぐぅ……! アトラ……、アトラあぁあああああ!!!!!!」

 

 慟哭は、辺りに虚しく木霊した。

 

 ナクラムの頰を涙が伝い、地面にシミを作る。

 震える肩は鎧の冷たい音を鳴らす。

 

「——ッ!?」

 

 瞬間、こみ上げてくる感情に震えるナクラムの背中を、冷たい悪寒が這い上がる。

 

(視線——見られている——邪悪な気配——!)

 

 判断は一瞬。

 地についた手はすぐさま白銀の聖槍を掴み——

 

「————シィィィッ、ジャアッ!!!!」

 

——振り向きざま、槍はその視線をなぞる様に放たれた。

 

 白銀の槍が聖印の光の軌跡を描きながら、唸りを上げて直進する。

 その一条の光は、狙い違わず山の大木の陰に着弾し、けたたましい炸裂音を立てて山肌を抉った。

 

「————————」

 

 土煙りが立ち込める山肌を、ナクラムは油断なく睨む。

 ナクラムには、確かな手応えが聖印を通して伝わった。何もいないことはあり得ない。

 

 しばらくすると、舞い上がった土煙りが晴れると同時に、いくつもの足音が聞こえてくる。

 音を聞きつけた聖堂兵たちのものだ。

 

「戦闘! ナクラム様を援護! 陣形——『聖障』!」

「「「はっ!」」」

 

 聖堂騎士の無駄を省いた指示に、兵士たちの反応は迅速だった。即座に抜剣した兵士がナクラムの前に壁を作り、背後の兵士は魔法を待機させる。

 そして、今にも簡易の聖域を作ろうとした矢先、聖騎士からの待てがかかった。

 

「いや、その必要はない。確かに手応えはあったんだが……逃げられたのか消えたのか」

 

 ナクラムが構えを解く。視線の先では土煙りが完全に晴れ、緑の山肌に出来た土色の傷跡を晒している。

 そこから想像出来る威力に、兵士たちからは息をのむ気配がした。

 強いとは聞いていた。我が国の切り札とも。

 だが、実際に目にしたのはこれが初めてのことだ。

 

「これが……聖騎士の戦闘……」

「何て力だ……」

 

 兵士の何人かは、心が漏れていることにも気付かない。

 それを責める者がいなかった。

 

「ナクラム様、何が居たのですか」

 

 いち早く驚愕から立ち直った聖堂騎士が、ナクラムに状況の説明を求める。

 それに対して、ナクラムは首を振る他ない。

 

「分からない。敵の姿を視認出来なかった。だが手応えはあった。何かはいたはずなんだが……」

「確認しますか?」

「いや、村長宅を調べ次第ここから退く。聖堂には〔検魔隊〕の出動を要請したい」

「分かりました」

 

 会話が終わり、聖堂騎士は帰投準備を指示する。

 その様子を眺めながら、ナクラムは生存の絶望的な息子へと思いを馳せていた。

 

「アトラ……俺が、必ず……」

 

 聖騎士は誓う。必ず息子を見つけると。

 生きていれば連れ帰る。死んでいても、その亡骸を連れ帰る。

 

 アトラを探し求める聖騎士が、ここにいた。

 

 そしてアトラとナクラム。この親子は再会する。

 

 その時、敵同士で対面した父は、子は、どの様な道を選択するのか。

 

 それはまだ先の話である。

 

「……………………」

 

 すっかり夜の暗闇に沈んだ村を、ナクラムは寂しげに眺める。その瞳に決意を宿して……。

 



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第二章 異国のサムライ
吸血鬼の耐久力


「……………………」

「……………………」

 

 あたたかな陽を浴びて、草原が風になびく音を聞く。音はだんだん近づいてきて、気持ちのいい風が体を撫でた。

 

「…………ルカぁ」

「んー?」

 

 気の抜けた声が出た。張りのない、力の入っていない声。今のオレはそんな声しか出せない。

 

「平和だなぁ……」

「うん。のどかだねー」

 

 ふへぇと力の抜けた声がして、隣でぽすんという音がする。緑の柔らかな絨毯に、ルカも身を沈めたらしい。それをぼんやりと認識して、まどろみに全てを委ねる。

 どうやら眠る必要がなくなったこの体だが、こういう時間は精神の健康の面でとても良い。

 

 さて、ルミィナの家に迎えられた(歓迎はされていないが)オレも、ここに来てはや10日。

 その間一体なにがあったかと言うと…………これが、なにもなかった。

 

 いっさい、まったく、みじんも、なんらの特筆すべき出来事もなく、拍子抜けするほどいたって平和にやっていた。

 

 ひがな自室で本を読み、それに飽きれば日向ぼっこ。そしたらたまにこうしてルカがやってきて、そのまま2人でごろごろと過ごす。

 

 平和そのものだ。とても、吸血鬼だとバレたら国中から狙われる身とは思えない。

 

 だか、まあ考えてみれば当然だ。オレたちのことはバレてないし、ここには敵もいないんだ。

 平和でけっこう。ずっとこうであってほしい。

 

「……………………」

 

 オレは小鳥の(さえず)りを聞きながら、風の運んでくる草花の香りを目一杯に吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。まどろみにも似た感覚。時間がゆっくり、ゆったりと流れていく。

 

 いつまでそうしていたのか、オレのまどろみは不意に顔へと差した影で終わりを迎えた。

 

「ん?」

 

 ルカかと思って、目を開ける。

 すると、オレの視線はこっちを見下ろすルミィナと交差した。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「耐久、試験……?」

 

 ルミィナが口にした言葉にどこか不穏な響きを感じて、オレは恐る恐る訊き返した。

 

「ええ。坊やも自分の身体の限界は知っておきたいでしょう? どの程度の脅威になら耐えられるのかは理解しておかないと、いざと言うとき不利になるわ」

「それは、まあ……」

 

 たしかに、この身体がどういった攻撃にどの程度まで耐えられるかは知っておきたくはある。自分にとっての“危険”と、一般人とのそれ。その隔たりを理解しておかなければ、すぐにボロがでる。身を守る場合にも、自分の限界は必須情報だ。それに、これはなかなか自分では確かめられないものでもある。つまり、ルミィナの提言は部類としては有難い有益なものになるだろう。

 

 ただ、そのためにあえて傷つくことには多少の抵抗は感じるけど……。

 

「……で……どうやってその耐久試験てのをやるんですか?」

「物理的耐久力はルカちゃんに確かめてもらいましょう。魔法は私が担当してあげる」

 

 ルミィナの言葉に頷きを返して、立ち上がる。

 

「じゃあ、いつにします? その試験」

「ルカちゃんがやる気になったとき、ね」

 

 ルミィナの視線がオレから外れ、気持ち柔らかなものへと変わった気がした。オレもその視線を追い、寝転がりながらノビをするルカを視界に納めた。

 

 この10日間で学んだことだが、ルカはとても気分屋な少女だった。気分が乗れば唐突に行動し、興味がなければ置物と化す。

 ただ、言わせて貰えばこの性格の半分はルミィナという過保護な保護者に責任がある。

 

 オレに対する小言や、たまに向けられる殺気。冷淡な対応と、およそ生物に向けるものではない視線。魔女と呼ぶに相応しいオレへの険しい扱いに比べて、ルカに対しては魔女が聖母へ転身する。

 そうしてさんざん甘やかしてきた結果、ルカという気まぐれさんが醸造されたのだろう。

 

 だが、今日のルカはやる気のある方のルカだった。オレたちの話を聞いていただろうルカは、パッと起き上がるなり腕を振り、肩をまわして“やる気”をアピールしている。

 ストレッチなんて必要としないルカにとって、これはただの感情表現だ。

 

「あら、やる気充分ね。それじゃあルカちゃん。遠慮なくやってあげてね」

「うん! 見ててねルミィナ。アトラはルミィナが言うよりずっと強いんだよ!」

 

 ね!という信頼の眼差し。そうも自信を持たれては、こちらとしても応えないわけにはいかないだろう。

 

「ああ! なんでも来い!」

 

 胸を張って返す。我ながら、戦績一戦一敗全負けとは思えない態度だった。

 

 その後、取り敢えず切断はまたの今度にして、今回は純粋に殴打にしようというルミィナの言葉で、何も持たないルカと向かい合っている。

 オレとしては、むしろ『切断』なんて言葉が出てきたことにひと言あったのだが、この後控えている魔法への耐久試験のことを考えて言葉を飲み込んだ。

 

「じゃあ、いくから!」

「おう……って、まった。どこを殴るんだ?」

 

 自然な流れで、淀みなく拳を振り上げたルカへ、待ったをかけた。狙いを定める視線は、当然のようにオレの顔へと向いている。

 

「? どこって、顔……でしょ?」

「いやいやいや」

 

 いくらなんでもいきなり顔面殴打は勘弁して欲しいし、なぜこうも躊躇がないのか。

 その後ルカと侃侃諤諤(かんかんがくがく)と議論という名のお願いをした結果、胸を殴るという結論に落ち着いた。

 オレとしては肩辺りにしておいて欲しかったが、これ以上見た目華奢な女の子であるルカにあれこれ注文しては、必要以上に怯えているように見える気がしたので飲み込んだ。

 

「さて、それじゃあルカちゃん。徐々に力を強めるやり方でお願いね。いきなり全力だと坊や、死ぬわ」

 

 ルミィナの大げさな言葉を、ルカと2人で笑って聞き流す。さすがにそれは無い。ルミィナはあれで心配症なのか、はたまた遠回しにバカにしているのか。

 前者はあり得ないから、消去法で後者だろう。

 ここで消去法になる辺り、今のオレとルミィナの関係性をよく表しているのではないだろうか。

 

「じゃあ、いくね。ルミィナもちゃんと見てて!」

「ええ、始めてちょうだい」

 

 ルミィナはひらひらと手を振って、何処からか出現した木製の腰掛けに体重を預ける。

 

 そうして今度こそ、オレの『耐久試験』が始まった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「えい」

「ッ——と」

 

 気の抜けた声に遅れて、細い指を折り畳んだ拳が胸に打ち付けられた。

 

 たしかな衝撃。

 一瞬浮いた体は、すぐに緑の絨毯へと着地する。

 

「うん、ぜんぜんへーきだね!」

「あ、ああ。一瞬浮いたけどな」

 

 見たところ、今の衝撃でオレの体は何歩かの距離を後ろへと運ばれていた。あの華奢な体から繰り出された突きが、オレをここまで飛ばすとは……やっぱりこうして見ても信じられない気分だ。

 信じられないついでに言うと、こんな衝撃を「うっ」くらいで耐えてしまう体にも感覚がついていかない。

 

「今のはどれくらいの強さだったんだ? 結構強かっただろ? 普通の人間ならどうなってたんだ?」

「う~ん……どうなのかな……ルミィナー」

 

 ルカは数秒だけ視線を中空へ漂わせてから、見物人へと意見を求める。

 答えはすぐに返された。

 

「良くて胸骨粉砕。悪くて即死ね」

「ハ————」

 

 つい、笑みが溢れた。

 別に楽しいわけじゃ無い。ただ、おかしかった。

 そんな力を「えい」で出せるルカも、そんな衝撃を胸をはたく程度で済ませる自分も、冗談としか思えない。

 

 だが、これで少しだけ安心できた。

 これはつまり、『聖具』さえ使われなければオレもルカも実質無敵ということだ。

 そこだけは喜ぶべきだろう。

 

「つまり、オレの耐久力は十分なわけですね。じゃあ、次はルミィナさんですか?」

 

 少し自信を持ってルミィナの前へ立つ。

 こうなると、魔法ならどうなのかが俄然気になってくるし、何より【魔女】の魔法を見てもみたい。

 

 この10日間で、目の前の魔女がどういった存在なのかは読んでいた。というより、世の常識を身につけようとすれば、イヤでも分かる。

 読んだときは我が目を疑った。まさかこんな性格でシグファレムの『魔法師組合』の長で、『司教会』の特別顧問なんて言うんだから信じられない。

 

 そんなルミィナはオレに一瞬視線を向けてから、呆れたようにため息を吐いた。

 

「この試験の趣旨をもう忘却できるだなんて、もはや才能ね」

「はい?」

 

 ルミィナの指し示す先を見る。

 そこには“次”に備えてやる気満々のルカが、「いつでもいけるよ」という視線をよこしていた。

 

「『限界を知る』————それが試験の趣旨よ。坊やが血を吐いて、もうやめてと泣きじゃくるまでやらないでどうするの?」

「————」

 

 視線を戻す。暗い悦びを宿した視線と対面した。

 

(ああ、やっぱりこうなるのか)

 

 どこか納得した。

 なんとなく機嫌の良い魔女の様子は、そういうことだったのかと。

 

「泣きもしないし、もうやめてなんて懇願もあり得ませんよ」

 

 不愉快な視線を視界から切る。

 苦痛への覚悟を決めて、ルカの前に立った。

 

「ッシャア! 来い、ルカ! ルミィナさんにおまえの眷属の強さを見せてやれ!」

「っ! ————うん‼︎」

 

 要するにヤケだった。

 オレのやる気を見て、ルカが目を輝かせると同時に、オレは最近聞いていなかった音を聞いた。

 本能の報せ。警鐘の音だ。

 

「あ、いや、とはいえいきなり全力は————」

「ヤアッ!」

「ゴぇあッ⁉︎」

 

 3度。それがオレの身体の限界だった。



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【魔女】の試験

 

「ハァ……ハァ……ハァ、……ハァ……!」

「ここまでね。ルカちゃんが“血”を使わなかったことを加味しても、よく耐えた方よ」

 

 紅が滲みはじめた視界の中で、ニンゲンの女はそう口にした。こっちはカラカラで、とても返事ができない。

 寒くて、苦しくて……暴れたくなる。

 呼吸音がうるさいから、のどを潰したらすこし静かになってくれた。

 ああ、これでマシになった。

 

「ああ、ダメ! そんなことしたらもっと苦しくなっちゃうよ?」

「まるで獣ね。坊やには相応しい姿とも言えるけど、少し落ち着きなさい」

 

 ルカがオレの腕を捕まえて、のどから離してしまう。おかげで、潰れたのどがすぐに形を取り戻し、またうるさい音を鳴らし始めた。

 ただ、視界からニンゲンの女…………違う、ルミィナだ。ルミィナが見えなくなったおかげで、少し落ち着いた。視線を自分じゃ切れなかったから、正直ルカの行動は助かった。

 

 ルカはオレを()()()()()いる。

 それで思い出した。最後の一撃で、オレの胸は気持ち悪い音を立てて陥没し、オレの脊椎は反対に気前のいい音を立てて崩壊した。

 

 結果、オレはこうして動けないまま横たわっている。だが、普通悲鳴を上げてもおかしくない状態のオレを見ても、ルミィナはおろかルカすら慌てていない。

 多分、これでも死ぬことがないことが分かるんだろう。実際、やはり痛みすらなかった。

 

「ハァ…………はぁ………………ふぅ」

 

 視界から紅が引いて、ようやく冷静になってくる。それでまた気がついたが、オレを落ち着かせようとしているのか、ルカはしきりに頭を撫でていた。

 気持ちはいいが、恥ずかしいからやめてほしい。

 

「もう大丈夫だ。……ルカ、もう大丈夫。…………ルカ? もう撫でなくていいって。ルカ……?」

 

 オレの静止に関わらず、ルカは手を動かし続けている。

 

「アトラは、これはイヤかな? 気持ち良くない?」

「……別に、どうとも」

 

 本当は気持ちいい。が、それをそのまま伝えるのは躊躇われて、変な意地を張ってしまった。

 

「私は気持ちいいから」

「…………なる……ほど」

 

 オレはどうとも思わなくとも、自分は気持ちがいいから続ける。それは、ルカという少女の性格を良く表した、とても()()()返答だった。

 

「それよりルカ。これ、背中が壊れたみたいで立てないんだ。どれくらいで立てるようになるか、分かるか?」

「んー? 立つだけなら、今でも立てるよ?」

「いや、背中がバッキリいっててさ。多分筋肉に力を入れたらグニャッといく」

「うん。だから筋肉じゃなくてね? 血で立つの」

「ふむ、なるほどなぁ————おまえは何を言ってんだ?」

 

 突拍子もないルカの言葉に、つい反射的に返してしまった。だが、ルカはにこやかな表情のまま、目の前に手をかざすと握っては開いてを繰り返す。

 相変わらず楽しそうによう分からないことをする。気まぐれさの塊みたいな子だ。

 

「じゃんけんか? ホイ、オレの勝ち」

「ざんねんハズレー! そうじゃなくて、今この手を動かしてるのは血なの。私は力を入れていないんだよ?」

「いやいやいやいや。人間はそんなのでき————」

 

 否定しかけて、ルカがこんなウソをつくだろうかと考え直す。そもそも、オレは人間じゃないんだった。理解が難しいことであるとはいえ、一応試してもいいんじゃないか?

 

「…………ちょっとやってみる。どうやって動かすんだ? 自分の血だよな?」

「うん。えっと……じゃあね、まずは自分の血を意識してみて」

「……………………どうやって?」

「目を閉じてね……んーと、心臓に力を入れる感じ」

「分かるかァ!」

 

 意識して心臓を動かしたり止めたりした経験なんてない。心臓の力み方なんて、どこにどう力を入れたらいいのかさっぱりだ。

 立ち方を知らない人間に「まず歩いてみろ。そしたら立ってる」みたいなアドバイスはやめてほしい。

 

 などと愚痴を飲み込みつつ、苦戦しながらもルカの説明に従った結果…………驚くことに、ルカの説明は本当だった。これ以上ないくらい実に正確だったし、実際ルカのような説明以外に伝えようがないだろう。

 

「ぐっ! ぐぅおおおおお‼︎」

 

 ぐらりと、背中が緑の絨毯から浮かび上がる。

 脊椎からの不快な違和感を隠すように、血液を破損部に纏わせる。そして、違和感と脊椎の鳴らす低い音が聞こえなくなった途端、上体は安定した。

 

「……………………」

 

 自分自身に喝采を送りたい衝動を抑えて、集中を乱さないように心がけた。

 

 心臓を力む————。

 最初にして最大の関門であるそこさえ突破すれば、あとは実に簡単だった。力を込めた心臓から、身体中の血管へと新たな神経が伸びてゆくような感覚がして、その感覚が全身を覆うころには——全ての“血”を掌握していた。

 

 それからはまるで、ワタ人形の自分を、ワタ自体を自在に動かすことで操作するみたいな感覚だった。

 集中を切らせば、この仮想神経とでも呼ぶべき感覚は霧散してしまう。とにかく頭が疲れる作業だった。

 

 ルカ曰く、“血”を完全に操れるようになれば、体を守ったり、普段ならできないような無茶な挙動で動いたり、自身の膂力を強化したりもできるとのことだった。

 

 ただ、戦闘で使うのはまだ無理だろう。上体を起こすだけでこうも手こずる始末だ。今背中を押されたら、折れ曲がらない自信がない。

 慎重に膝立ちになり、あとは立ち上がるだけ……だったのだが————

 

「ブベッ」

 

 押されるまでもなく、うつ伏せに倒れ伏す。

 癒しの色を持つはずの草の絨毯は、もうすっかり紅に塗りつぶされていた。どうやら血を操ると、オレはこうなるらしい。これじゃあ人前で使えない。

 けど、意外にも意識はハッキリしている。感情や渇きが暴走することもなく、オレはオレを保てていた。視界が紅くなるからといって、必ずしもああなるという訳ではないのか。

 

 そんな新たな発見はあったものの、状況は変わらない。

 

「ぐ、くく……難しすぎる……」

 

 そもそも、本来液体である血液に形を保たせ続け、さらに壊れた背中の代わりに体を支えさせるなんてのは難易度が高すぎるんだ。

 そんなことをするくらいなら、とっとと凹んだ胸と折れた背中を治してくれ。

 

「そろそろ血が底をつくわね。ルカちゃん、すこし貯蔵を分けてあげたらどう? あんまり惨めだと、いっそ殺してあげたくなっちゃうわ。どうにもこの子、苦しむ姿が似合い過ぎるのよね」

「私は分けたいけど、アトラが……」

 

 何か苛立たしげな声で、とても物騒な言葉が聞こえた。貯蔵とはこの状況から考えて、十中八九ルカの備蓄食料……即ち人間の血液を指すはずだ。

 なら、オレの答えは決まっている。

 

「オレは遠慮する。血はいらない」

「でも————」

「いいって。時間が経てばこれも治るんだろ? ならそれまで待つ。わざわざルカの分の血を分けてもらわなくていい」

 

 ピシャリと言い放つ。これ以上何を言っても説得されないという意思を込めて。

 

「そっか……」

 

 それが伝わったのか、ルカは静かに言うと、それ以上は何も言わなかった。オレが血を取り込むことに苦手意識を持っているのを、ルカは知っている。オレがハッキリと嫌だと言えば、無理強いはしない。

 

 ルミィナ邸にやっかいになってから、オレは散発的なルミィナの不意打ちを除いては、自分から血を取り込むことはしてこなかった。どうしても、理性ではまだ自分を人間だと思いたがっている。

 人間の血は、オレには同種の血なのだ。慣れるつもりはない。

 

 ルカもそこはなんとなく理解してくれているのか、自分からオレに吸血の話をすることはしない。配慮してくれているのだ。

 

 だが、ここにはもう1人、オレへの配慮なんて毛ほども考えない……というより、そんな発想がないのがいる。

 

「…………」

 

 ルミィナの視線が向けられる。次の瞬間、閃光と同時に眼前には拳大の穴が空いていた。

 黒いその穴からは、もくもくと煙が上がってくる。それが面白いくらい冷や汗を誘うのだ。

 

「坊や。まさかそれまで私を待たせるつもりじゃないでしょう? それとも、灰に還りたくなってしまったのかしら。なら良かったわね。今の坊やなら一瞬よ?」

 

 言葉の端々から、殺気めいたものを感じる。

 間違いなく本気だった。

 

「…………頂きます」

 

 オレの意思は、それはもうあっけなく折れたのだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 ルカの大立ち回りのおかげで地肌を晒した草原は、魔法のおかげなのかすっかり元通りになっている。そんな草原で、オレはルミィナと向き合っていた。

 

「ルカちゃんの血をふんだんに受け入れただけあって、本当に大した回復力ね。その一点では歴代の真祖に迫るんじゃないかしらね」

「歴代の真祖とか言われても、よく分からないです」

「あら? あれだけ本の虫になってて、調べなかったの?」

「ルミィナさん曰く、ルカは特別とのことだったんで。じゃあ、別に今までの真祖についてあれこれ調べるよりは、ルカと直接話して知っていきたいって思ったんですよ」

「そう……。その考えは嫌いじゃないわ。偶には正解を引けるのね」

 

 オレの回答は、ルミィナの気にいるものだったらしく、空気が気持ち軽くなる。……いや、いつもと同じ程度の重圧に戻ったというべきか。機嫌が『とても悪い』から『悪い』へと戻ったというのが正しい認識だろうか。……悲しいことに。

 

「なんで、オレは基本的にそれ以外を調べてました」

「そう。例えば?」

「教国の歴史とか、組織とか、周辺の国はどんなのがあるかとか…………魔法とか魔術、とか。最後のはよく分からなかったけど……」

「魔法と魔術の違い? あれは気にしなくて良いわ。国によって範囲が変わるものだもの。ひと言で言えば、その奇跡を起こすのに必要な魔力が神に由来するか否かでしかないわ。6神以外に神はなしとするなら、6神から与えられた魔力以外で引き起こされた奇跡は全て魔術よ」

 

 彼我の距離もあって、オレは気持ち声を張っていたものの、風下にいるはずのルミィナの声は、まるで耳元に口を寄せられたようにハッキリと聞こえた。

 

「あと……精霊と妖精の違いもよく分からなかったですね。関係性があるのは分かったんですけど」

「精霊は神の残した分身。妖精は精霊のそのまた分身ね。

 関係性としては、1柱の精霊が滅びた場合、世界のどこかで別の精霊が発生する。そうでなければ複数の妖精が誕生することになるわね。

 逆に精霊を発生させたければ、妖精を殺して周るのが手っ取り早いわよ」

 

 【魔女】は微笑みを浮かべながら、淀みなく答える。内容の物騒さに目を瞑れば、それは誰もが見惚れるものだろう。

 だが、その内面を知っているオレにとっては、恐ろしいものでしかない。

 

「学習する上で分からないことがあれば質問なさい。そうして得た知識をルカちゃんに説明してあげれば、あの子も少しは『学ぶ』ということに興味を向けるでしょう」

「……………………」

 

 その言葉は、すこし意外だった。質問なんて受け付けている雰囲気は、この10日間微塵も感じなかったし、ルカはともかく、オレにこんな言葉をかけてくれるとは考えても見なかったことだ。

 

「なに? 随分間抜けな表情をするじゃない」

「あ、いや……その、意外だったんで」

「——坊や。何度も言わせないで。私がルカちゃんと一緒にいられるのは良くてあと100年程度。その後は2人で生きていかなければならないのよ? そのときになっても坊やが間抜けなままだと、誰があの子を守るというの?

 私が坊やの存在を許している理由は、ただこの一点だけ。それが出来ないと見込めれば、それが坊やの終わりだと理解しておきなさい」

「はい…………」

 

 言葉と共に、殺気を向けられた。

 だんだん慣れると同時に緊張感も薄れて来ていたが、すこし気を引き締め直した方がいいらしい。

 

「もう下らない話題しかないようね。それじゃあ始めましょう。加減はしてあげるから、危なくなったら隠さず言いなさい」

「り、了解です」

 

 腰を落として、受け止めの体勢をつくる。

 魔法を受けたことなんてないから、どんなものが飛び出すのか想像もできない。取り敢えず棒立ちよりはこっちの方が安全な気がした。

 始まりを見てとったルカから、応援の声が届く。

 

「————」

 

 魔女の指が動く。ツイと持ち上がったそれは、オレの額へとその先を向けた。

 そして————

 

「はガッ⁈」

 

 閃光を見たと思った次の瞬間、オレはうつ伏せに倒れていた。何が起きたのか、全く分からない。

 殴る蹴ると違い、予備動作がほとんどないせいか。

 

 顔を上げると、また驚かされた。

 さっきまでオレが立っていた場所から、かなりの距離を飛ばされていた。

 

 あのクレーターのようになっているのが、まさかオレのいた場所なんだろうか。

 

「冗談じゃないぞ……おい……」

 

 オレの安否確認もしないで、小さく彼方のルミィナの指先が、再び閃光を放つ。

 距離のおかげで、今度は放たれたものが見えた。

 

 これは熱線だ。質量を持った破滅。それが、地面を焼き、抉りながら接近してくる。

 

「ちょ————ぐむぅア⁉︎」

 

 爆音と共に、オレは再び宙を舞う。浮遊感を楽しむ余裕もなく落下し、無様に転がる。

 

「ぐく……ちくしょう! 何が危なくなったら言えだ! そんな距離じゃないだろこれ!」

 

 悪態を吐きながら、何故かオレはこの魔法に既視感を覚えていた。どこかで、オレはあの灼熱を見たことがあったような気がする。

 

 モヤのような感覚を、慎重に手繰り寄せる。少しずつ、そのときの情景が浮かんでくる。

 大きな……見上げるほどの大木と、その根本にいた誰か。閃光……白い、槍……? それが、アレを遮って…………。

 

「————ガあッ⁈」

 

 頭の奥にあるモヤは、衝撃と共に、身体ごと吹き散らされた。



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血のつながり

「魔法への耐性も十分ね。これなら盾として合格よ」

 

 うつ伏せで倒れているオレに、ルミィナは感情のこもっていない声で、吐き捨てるように採点を下した。オレは努めてルミィナの姿を見ないようにしている。

 

 また紅い視界だ。この視界を日に何度も見るのは、よくない。吐き気すら催す興奮が、見るたびに強まっているのが冷や汗を誘う。

 

「はい、これ使って」

「……ありがとう」

 

 ルカが肌触りのいい大きな布を持ってきてくれた。というのも、オレは今ほとんど真っ裸といっていい状態だった。

 ルミィナの執拗な攻撃によって、服はすでに炭と化している。そして、オレが動くたびにパキパキと別れを告げるのだ。結果として、今のオレはススまみれの裸の男という変質的なことになっていたのだった。

 

「ああ、そう。坊やの『眼』について教えておくわね」

「なにか、わかったんですか……?」

「ええ。恐らく坊やが見ているのは血液で間違いないわ。相手の血流を操るのが、その『眼』の能力でしょうね」

「…………それ、けっこうムテキですね」

 

 少しずつ落ち着いてきた興奮の中で、自分の魔眼の能力に思わず感嘆してしまう。これだけの強力な力があれば、万が一聖騎士と戦うハメになっても大丈夫なんじゃないかと。そんな大きなことも、ついつい考えてしまう程度に。

 

「そうでもないのよ」

 

 オレのそんな慢心に、ルミィナは淡々と冷水をかける。

 

「例えば、坊や。顔を上げてみなさい。今の私はどう視えるかしら?」

 

 いきなりとんでもないことを言われて、躊躇する。知っている人間の、あの赤い紐だらけの姿なんて見たくないからだ。

 ただ、従わないとそれはそれでまた燃やされかねない。今のオレならそれはもうこんがりだろう。

 

 オレは恐る恐ると視線を上げ、ルミィナを紅の視界に招く。

 

 と————

 

「…………みえ、ない……」

 

 ルミィナのいるべき場所には、まるで空間に穴が空いてしまったような黒があった。状況からそれをルミィナであると推定はできる。ただ、脳はそれがルミィナだと認められず、思考は真っ白に混乱する。

 

「そう。視えないのよ。相手の魔眼が何を視るかが分かれば、その対策はそう難しいことではないの。

 簡単なのは結界で対策してしまうことね。これをされると、魔眼の視界は肉眼以上に悪くなる。魔眼としても、視覚としても使い物にならなくなるわ」

「……………………つまり、魔眼の情報は秘匿するのが一般的なんですね」

「そうね。間違っても相手の魔眼について、その能力を訊くようなマネはしないことよ。警戒されるだけなら良い方で、場合によっては敵対することになるわ」

「な……るほど」

 

 まだ頭がうまく回っていない。必然、返答はどこかうわの空だった。

 

「……このままだと会話にならないわね。なら————コレならどうかしら?」

「っ、ぉ」

 

 視界の黒い塗り潰しが掻き消え、ルミィナの姿が現れる。これは結界を解除したということか。

 

 だが——

 

「見える……けど、視れないです」

 

 紅い視界の中で、ルミィナの姿は周りの風景と同じく赤く染まっている。だが、血流やら血管やらは視えない。これでは単に、紅いガラス越しに見たのと変わらない。

 

「そう。それが『内界』が発達した人間や聖騎士を視た場合の視界よ。つまり、坊やの眼は『聖痕』を持つ聖騎士や、魔法に深く適応している私のような『内界』が表出している人間には使えないのよ。これが弱点ね」

「…………」

 

 そうなると、魔眼の有効性が一気に目減りする。

 そうだ。たしかに、魔法への耐久試験が始まる前に、オレは一度この視界にルミィナを捉えていたはずだ。

 そのときはルカのおかげで視線を切ることができたが、思い返せば視界内のルミィナにはなにも視えていなかった気がする。

 

「まあ、『外界』を持つ人間はそう多くないから、そんなに落胆することでもないんじゃないかしら」

「『外界』?」

「『内界』が発達して、体外までその範囲を広げたもののことよ。表出に際して『内界』との性質の違いが生まれるけれど……その話はよしましょう。坊やは回復に専念してちょうだい——ああ、言うまでもなく人前でその眼を使うのはご法度よ。

 “操血”もその眼も、使うと目が変色するようね。使うときは目撃者を出さないときか、そうでなければ皆殺しできる場合に留めなさい」

「……はい」

「いい? 見られたなら、刺し違えてでも殺しなさい。そうすれば、坊やが死んでもルカちゃんに迷惑はかからないわ。

 取り逃せば、間違いなく教国が動く。それはルカちゃんすら危険に晒すことになると理解することよ。そのとき、私は坊やを見捨てることでルカちゃんを救う手を取るわ」

 

 それは、オレを今代の真祖として討伐することで、ルカを庇うという手を意味するのだろう。

 そしてルミィナが本気で言っていることを、その目はこれ以上ないほどに伝えていた。

 

 物騒かつ的確な指示を残して、魔女は平原を後にした。後にはオレとルカ、そして時間と共に平原から草原へと元の姿を取り戻しつつある原っぱが残された。ここもじきに何もかもが元通りになり、オレの歯を食いしばって耐えた努力の形跡も消え去るだろう。

 

 こうして自分の形跡が消えるのを見ると、なんとなく考えてしまう。

 今オレが討伐されたら、一体誰が悲しんでくれるのかと。

 

「——ルカくらいだよな」

 

 自分の名前を聞いて首を傾げる少女を前に、苦笑する。そういえば、オレはルカの眷属というヤツだったか。

 ルカにとって眷属とはなんだろうか。

 

 なんとなく気になった。

 

「ルカ」

「んー?」

「オレはルカの眷属だろ?」

「うん」

「そのさ。ルカにとっての眷属ってなんなんだ? なんかやたらと強調することがあるじゃんか」

 

 ルミィナがいたら聞かなかっただろう質問。こんなの、「ルカはオレのことをどう思ってる?」なんて恥ずかしい質問を、訊き方を変えてみただけのものだ。

 

 そう思うと、なんだか途端に小っ恥ずかしい気がしてくる。

 ルカからの答えはすぐだった。

 

「ルミィナが言ってたけど、真祖は精霊みたいなものなんだって。だからね、私には親がいないの。

 それでもルミィナが家族になってくれたから、寂しくはなかったよ? だけどね、血のつながった家族にも憧れてはいたんだよ?」

「…………つまり、オレがその“血のつながった家族”なんだ」

「うん!」

 

 オレとルカの関係を“血縁”と言うなら、たしかにこれ以上なくオレたちは“家族”だった。

 何せ、純度の違いはあれ全く同じ血が流れているんだから。

 

「アトラ?」

「————」

 

 ルカの言葉に、知らず嬉しくなっていたらしい。視線から逃げるように、口角を元の位置に下げる。それでも心は温かなままだった。

 

「オレたちが家族なら、親子ってよりは兄妹だな」

「そうだね。お母さんは、ちょっと違うかな」

「じゃあルカが妹——「お姉ちゃん」……ん?」

 

 沈黙して、お互い顔を見合わせる。

 

「…………ルカ。そういえば、いくつなんだよ。普通兄弟姉妹は年齢基準だぞ?」

「分かんないけど、そういうアトラはどう?」

「……いや、知らないけど。それでもたぶんオレが年上じゃないか? ほら、精神年齢というか、振る舞い方というかさ」

「えー⁈ でも私、アトラが知らないこといっぱい知ってるよ? きっと私がお姉ちゃんなんだよ!」

「いやいやいや、それはルカが先に生まれたから物知りなんじゃなくて、オレが記憶を無くしてるからそっちが色々知ってるだけだろ?」

 

 また顔を見合わせて、なんだか気まずい沈黙が流れる。ただ、ルカに譲る気がないように、オレにもその気はなかった。

 

 だって、ルカだ。

 オレより少しとはいえ背が低く、目の前で頬を膨らませる少女を「お姉ちゃん」はないだろう。

 賭けてもいい。オレの方が年上だ。

 

「…………アトラ、とりあえず血は飲まなきゃ」

「…………それ、飲まなきゃダメか?」

「そのままじゃアトラ、飢えてルミィナを襲っちゃうかもよ?」

「そして炭になる、と…………飲む」

 

 こうしてオレたちは互いに“家族”であること。そして、どちらが兄、または姉であるかは議論の余地があることを確認し合うのであった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 激しい雨音と雷鳴を聞きながら、読み終えた本を本棚に戻す。ゴトという重厚な音とともに、本は窮屈そうに元の場所へと収まる。

 

「ふぅ……」

 

 気持ち疲れた目を休めるように、オレは窓へと視線を向けた。

 窓は相変わらず風に押されては雨に叩かれて、ガタガタと不満を音にして訴えている。

 暗い外の光景は、室内の方が明るいせいでよく見えない。代わりに部屋の中はくっきりとよく見えた。

 

「……………………」

 

 そんな暗い外、もとい反射した室内をぼんやりと眺めていると、もうすっかり慣れた気配が近づいてくるのを感じた。

 

「アトラー! お茶淹れたよー!」

 

 扉の開く音と共に、予想通りの声とお馴染みとなった香りが部屋に広がった。視線を動かさず、窓の反射越しに視線が合う。にこりと、外の暗闇を照らすような笑顔を返されて、根負けしたオレは大人しくイスから立ち上がることにした。

 

「今日は天気が良くないね。さっきのカミナリなんてすごかったんだよ? バッカーンて! たぶん落ちたよね?」

「そうだな。でさ、ルカ。そのカミナリの直前までオレたちこうして話してたよな? このクッキーを食べながらさ」

 

 オレは30分前を思い出しながら、これまた30分前と同じ仕草で焼き菓子をつまむ。

 

「で、オレは集中して読みたいからっておひらきになったんじゃなかったっけ?」

 

 そう、オレはこの光景とやり取りにとても見覚えがあった。今日一緒にお茶にするのはこれで2度目であり、本を一冊読んだぶりの再会である。

 

「うん。でも退屈だからまた来ちゃった」

 

 悪びれる様子もなく、ルカはさっと2人分のティーカップに透き通った輝きを放つ液体を注ぐ。それがあんまりにも堂々としているから、まるでおかしいのはこっちのような感覚に陥ってしまいそうになる。

 無邪気というのがこれほど強いのか、と感心すら覚えたくらいだ。

 

「まあいいや。思ったより早く読み終えたし、次の本のまでの休憩にはちょうどいいし。……お? さっきと味違うのか……結構おいしい」

「よかった、味見してなくて不安だったんだぁ」

「すればいいじゃないか、味見くらい」

「ダメだよ。そんなことしたら絶対に全部食べたくなっちゃうから」

 

 はやくも2枚目を食べ終えた手をさらに伸ばしながら、食いしん坊な吸血鬼は「エへへぇ」と上機嫌に笑う。

 

「……ルカって食事の必要あったっけか?」

「別にいらないよ? でも美味しいし楽しいから、たくさんやったほうがいいよ」

「なるほど」

 

 その意見はもっともだと、オレもクッキーへと手を伸ばして同意する。その姿勢は今後の長い人生で重要な姿勢だろうから。

 

「ね、ね、アトラはどんな本を読んでたの?」

「ん? ああ……魔法について少しさ。ほとんどはもう知ってる内容だったかな」

「どんな内容だったの?」

 

 ルカはいつものように尋ねてきた。オレが本を読んでいると、たまにこうしてヒマな吸血鬼が部屋を訪ねてきて、満足するまで居座ってはオレの読んだ本の内容を語らせたがるのだ。

 

 正直オレの得た知識なんてルカはとっくに知っているだろう。が、それでも本人が楽しそうだし、オレとしてもいい復習になるので歓迎すべきことではあるのかもしれない。

 

「魔法の等級と……その具体例がほとんどだったな。内容はよくある感じだった。

 

 1番上から神域魔法・聖域魔法・浄域魔法・清種魔法・公種魔法・汎種魔法。

 清種魔法から汎種魔法まではそれぞれに第一類~第三類の区分がある。

 要は

 『神域魔法

  聖域魔法 

  浄域魔法 

  清種魔法 第一類~第三類

  公種魔法 第一類~第三類

  汎種魔法 第一類~第三類』

 こんな感じか。

 

 で……浄域以上の魔法を使える魔法師は『領域魔法師』とか呼ばれて、かなり特別視されてるみたいだな。この『領域魔法師』や魔法の等級である『神威等級』を認定するのが“列聖会”って組織らしいけど、あんまり知らなくても困らなそうだな、この辺りは」

「ううん。詳しく知ってた方がルミィナは喜ぶよきっと」

「……じゃあ1番大事だ」

 

 あの魔女の好感度を上げることができるなら、何であれやる価値がある。もっとも、最優先すべきは好感度を上げることではなく下げないことだが、これは予想が難しい。

 ルミィナという女魔法師は、その存在も気質も理不尽そのものだ。試験以来、何着の服をダメにしたやら、もう数えてもいない。

 

「ほかには何もなかったの?」

「ほか? ああ、いや。後は……」

 

 日々被る被害へ向きそうになる意識を切り替える。これは復習なんだ。集中しなければ。

 

「霊薬とか魔法薬とかについてざっくりとあったな。魔法薬は、魔法への魔力の誘導がその効能だよな。だから魔法自体は本人が使うことになる。

 対して霊薬の効能は魔法そのものを発現させるもので、これを製造できるのは森貴族(エルフ)山富族(ドワーフ)みたいな一部の妖精種や精霊だけだって書いてた。

 『魔法という“結果”を宿すのが霊薬、魔法を発現する“過程”を宿すのが魔法薬』ってさ」

「あ、それねえ、領域魔法師で造れる人がいるんだって」

「え? そんなの書いてなかったけどな」

「ルミィナが言ってた」

「じゃあ本当か……そういえば、そのルミィナさんは今どうしてるんだ?」

「ルミィナ? たぶんお風呂……はもう出てると思うから、実験室にいるよ、きっと」

「お ふ ろ……?」

 

 この家のことを未だに把握し切っていないオレではあったが、実験室はおろかまさか浴場があるとは知らなかった。考えてみれば当然ではある。

 人間生きている限りは汚れるものだ。それは吸血鬼も変わらない。

 

 では、そんなオレは今までどうしていたのかというと、窓の外に答えはある。今は見えないが、晴れた日にはこの部屋の窓からは小川を見ることができた。

 それに気づいてからはそこがオレの浴場であり、時には1日の汚れを、時には1日の疲れを落とす神聖な場所でもあったのだ。

 …………あったのだが、それはここに浴場があるなんて知らなかったからであって、誰が好き好んであんな場所で————

 

「アトラ? 変な顔してるよ?」

「…………いや、オレ浴場があるなんて知らなかったんだけどさ……何で教えてくれなかったんだ?」

 

 努めて不満を出さないように尋ねる。

 が、それができるほどオレは大人になれないようだった。声に不満が漏れているのを自覚する。

 

「だって、アトラは外が好きみたいだったから」

「……………………」

 

 のほほんとした雰囲気での答えだった。

 それはお前が言わなかったからだと言いたい衝動はあったが、このポヤポヤとした空気を変えることも出来そうにないし諦める。

 

 とにかく今は————

 

「その浴場の場所を教えてくれないか? オレも使いたいんだけど」

 

 これが最重要だった。

 オレはまだまだ知らないことが多い。こんな身近にすら未知に溢れているのは落ち着かない。

 

 ルカはオレの頼みを快諾すると、ついでにと館の案内も提案してくれた。それはオレとしても願ったり叶ったりの提案だ。

 

「じゃあ行こ? はやくしないと部屋が変わっちゃうから」

 

 言って扉を開けて廊下へ出るルカ。その背中を追いかけて、部屋より幾分か冷える廊下へ続く。

 

 こうしてオレは、この館について少しだけ理解を深めて、その不可解さにさらに頭を悩ませることになった。



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ルミィナ邸での日常

 

「——で、こっちが謎の広間っと……屋根に穴があって陽の光が差し込んでいるのが特徴……」

 

 目の前の光景を目に焼き付けながら、手元のメモに筆を走らせる。

 メモには迷路みたいなものと、所々に矢印付きで注釈と目印。そんな他人が見たらあまりの可読性の低さに眉を顰めること請け合いなラクガキは、オレがここ5日間で書き記してきたこの館の間取り図だった。

 

 この館は、ルカ曰くルミィナによる長年の結界魔法の重ね掛けによって、さまざまな魔法現象が起こる魔界と化しているらしい。

 

 さっき出た部屋が、翌日には違う場所へ繋がっているなんて優しい方で、この間は石造りの謎の空間に閉じ込められたかと思えば、どこからともなく暴風雨が発生して小規模な雷に何度も打たれた。

 

 そう、()()()だ。

 そんな館で毎日浴場へ向かい何時間も彷徨うなかで、何となくこの部屋の移動や廊下の移動には規則性があるような気がして、こうしてメモ用紙というには大きすぎる紙を握りしめて館内を散策している。

 

「やっぱりそうだ。位置関係が変わらない場所はある」

 

 間取り図の目印を見つめながら、オレは確かな手応えに震える。

 この5日間の集大成。これさえあれば、いちいちルカに迎えに来てもらう必要は無くなる——!

 

「アトラ?」

 

 窓のない長い廊下に、ずらりと無数に並んだ扉、扉、扉……。その一つが音もなく開き、目を丸くしたルカが姿を見せた。

 その視線は、おそらくは達成感に鼻を膨らませているオレの顔と、手にある大きな紙を行き来する。

 

「おっ、おはようルカ。ああ、これか? いやあ、ここいちいち場所が変わるだろ? だから間取り図でも作ろうかと思ってさ。結構良い出来なんだ。ああ、欲しいなら後で書き直して渡すけど」

「? 間取り図……ううん、必要ない……かな?」

「そうか? まあたしかに、ルカもルミィナさんも普通に暮らせてるもんな。慣れってヤツか? オレだと何年かかるやら……」

 

 そんなオレの感心を、ルカはなぜか不思議そうに眺めている。そして「あっ」と、不吉な声をあげた。

 

「あ、あのね、アトラ……」

「…………なに?」

 

 聞きたくない。

 聞きたくはないが、聞かないともっと後悔するという確信があった。

 

「間取り図はね……いらないんだ」

「いや。オレはまだ覚えてないから」

「ううん。えと……『ルミィナのところ』!」

 

 ルカは唐突に、オレではない誰かにでも告げるように声を張る。

 何事かと身構えると、ルカは適当な扉に手をかける。

 あそこは確か、開く度に厨房らしき場所か書斎らしき場所か、さもなくば雨漏りの激しい苔むした部屋かへ繋がる扉のはずだ——はずだった。

 

「あらルカちゃん、おはよう。坊やは今日は一段と締まらない顔ね。それで視界に入られると、少し鬱陶しいわよ?」

「へ……………………?」

 

 あり、えない……。

 目の前の光景を、脳が必死に否定しようとする。

 だって、今見た光景は、オレの5日に渡る努力を完全に無にするものだった気がする。

 

「ルカ……これは……?」

 

 ルカは視線を合わせず、作り笑いを浮かべて口を開いた。

 

「あの、そうなの……。だから……それ、いらない……かも」

 

 ルカの言う“それ”を見る。見るも汚く読み難い間取り図が、オレの手に握りしめられていた。

 さっきまで宝物のように思われたものは、今やただのラクガキへとその価値を暴落された。

 

「……それ……言ってくれよ…………」

 

 こうしてオレの数日間は泡と化し、ぱちんっと弾けて別れを告げるのだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 暖炉の中で紙屑の燃えるのを見ながら、虚無感のままにルカの話を聞く。

 

「だからね、行きたい場所が分かってるなら頼めば行けるの」

「へー…………便利だな」

 

 どんな魔法なのか全く分からないが、とりあえず今後少しは過ごしやすくなると言うことだし、歓迎すべきことではあるはずだ。が、どうしてもルカへ送る視線は恨めしいものになる。

 

「あれ? でもこの前浴場に案内してくれたときは……あんな宣言してなかったよな?」

 

 あの日にルカがそんなことをしていれば、今日を待つまでもなくこの便利機能は発覚していたはずだ。

 

「ああ、あのときは私たちの会話から判断してくれたみたい」

「判断? そんな人間みたいなことを、魔法がやるのか?」

 

 そんなのどんな本にも記載のないものだ。いや、可能性としては、あまりに一般的な魔法だから一々書いてないということだろうか。

 つまり、『汎種』に区分される魔法だ。あれは数が多すぎて細かな具体例を書く本はない。

 

 ただそうなると、こんな高性能の魔法が日常に溢れている訳で、この国の都市での暮らしは想像もつかないくらい便利なものだと予想される。

 

「ああ、それはこの子が判断するんだよ。かわいいでしょ」

 

 言ってルカは手を掲げる。すると、木の床から枝やら蔦やらが伸びて、甘えるみたいに手に絡みつく。あんまりに突然のことに、ついギョッとする。

 

「うわっ、なんだ気持ち悪い⁉︎」

「だ、ダメだよそんなこと言っちゃ——」

「べぶあッ⁈」

 

 いきなり右の頬に衝撃を受けて、壁に頭を打ち付ける。訳もわからずさっきまで立っていた場所へと視線を向けると、床に木製のハンマーが消えるところだった。

 殴られた場所がジンジンと痛む。

 

「な、なん……⁈」

 

 混乱するオレを観ながら、ルミィナは優雅にカップを傾ける。目が笑っているところを見ると、今のオレは完全に見世物になっているらしい。

 

「この子はルミィナが作った人工精霊なの。傷付きやすい性格だから、意地悪しちゃダメだよ」

「意地悪されたのはオレだろ……いってて……」

 

 頬をさすって起き上がったところで、オレはその違和感に気づいた。

 

「い……たい? 痛いって言ったのか、オレは?」

「ようやく気付いた? それがその子の特性よ」

 

 オレの様子を愉しんでいたルミィナが口を開く。その口調は研究者然とした、やや早口のものだった。

 

「その子のモデルになったのは『森畏』という精霊。住処の森を破壊する者の前へと、鹿の姿を模って現れる。

 そして不届き者の両目を抉って取り込み、永遠に癒えない痛みを刻み付ける。

 この国では悪魔に指定されたこともあるけれど、今は指定を解除されている珍しい精霊ね。

 

 私は精霊を人の手で創ってみたかったのよ。けれどできたのは劣化品だった。

 その子は『痛みという情報を与える』という特性だけを獲得したわ。どうやら坊やには有効みたいね。ルカちゃんには効かないから、恐らくは“痛み”を知っているか否かで分かれるのかしら。

 

 これが『森畏』なら話が違ったでしょうけど」

 

 劣化品との評価を下された枝と蔦の集合体は、ルカの手からシナシナと離れ、項垂れるように床へと消える。

 その姿に、オレはなんだかコイツと仲良くなれる気がしてきた。こう、被害者の会みたいな意味で。

 

「いってえ⁈」

 

 スネに衝撃。傷の舐め合いは御免らしい。

 

「コイツ……! ……ルカ、そういえばこの劣化品の名前は? 『森畏の劣化ちゃん』か?」

 

 床が再び隆起するのを、今度は見逃さない。

 

「——ホイ、捕まえた」

 

 大きな木の根みたいなものを、床からバキバキと音を立てて引っこ抜く。虫みたいに手の中で蠢く根は、あまり気分の良いものじゃない。

 

「いい加減にしろって。これから長い付き合いなんだぞ、オレたちは」

 

 どこが目なのかも分からないから、とりあえず全体を視界に収めて語りかける。と、ルミィナさんから愉悦を含んだ声があがった。

 

「無駄よ、坊や。ソレは分体であって本体じゃない。この子はこの館の木造部分全てと完全に融合しているのよ」

「……はい?」

 

 メキメキと音が聞こえて、不吉な予感に振り返る。

 すると、壁から生えた太い枝が、まさに腕?を振り上げているところだった。

 そしてそれは、何の躊躇もなく振り下ろされる。

 

「ガブぇッ⁈⁈」

 

 避ける間も無い。

 オレは眉間を突き刺されたような激痛に、しばし悶えることになった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「家を空ける……ですか?」

「ええ。4日後にね」

 

 ジリジリとする痛みの残滓を額をさすることで紛らわすオレへ、ルミィナは何でもないように告げた。

 

 因みに、動く枝はルミィナの一声で引っ込んでいる。名前らしい名前もない。

 

 驚くオレと対照的に、ルカはなにか納得した顔をする。

 

「ルミィナ。それって、教会の用事?」

「ええそうなの。まあ呼び出す用件は察しがつくわ。十中八九()に関することでしょうね。

 留守にするのは長くても2日程度でしょうから、その間留守番をお願いね」

「うん、分かった! あっ、もしこの前のケーキがあったら買って! すっごくおいしかったから!」

「分かったわ。探しておくわね」

 

 2人は和気あいあいとお土産をどうするとかいう話をしているが、当然ルミィナがオレへ土産の要望を訊くことはない。

 

 ルミィナがいない間、特に何が変わることもないだろう。オレもルカも食事の必要がない身だし、2日程度なら自室にこもっているだけですぐに過ぎる。

 

 と、予想外なことに、ルミィナの目がこちらを向いた。

 

「そう、坊やにも言っておくわね。私が不在の場合、館の結界は防衛用のものに切り替わる。

 外から館に戻るときは、扉を開ける前に『ただいま』と言うこと。

 これを忘れたら、いくら坊やが吸血鬼でも命の保証ができないから、記憶力に自信が無いなら部屋でジッとしていなさい」

「了解です。外には出ないことにします」

 

 記憶力云々はともかく、そんな物騒な状態になるなら大人しくしているべきだろう。そもそも外に用事もないし、“操血術”の練習なら部屋で出来ないこともない。

 

「あ……」

 

 ふと、4日後は満月だったことが思い出された。満月の夜、吸血鬼は最も力が充実するらしい。だが、このときのオレは特にそれを気にもせずに、次の瞬間には月のことなどすっかり忘却していた。

 

 オレは忘れるべきではなかったのだ。もっと思い出せば、真祖が満月の夜に凶暴化したなんて記述があったことを思い出せたのに……。

 

 オレはルミィナの不在の最中、夜の闇に包まれた森でそんなことを後悔することになった。



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月下の逃走

 

 主人不在のルミィナ邸の雰囲気は、いつもとはどこか違っていた。大きな支柱を失った家が、他の柱たちと協力し合ってなんとか倒壊を堪えている。

 例えるなら、そんな危うい、張り詰めた空気があった。

 

 とはいえ、日帰りの外出くらいはルミィナも時々している。ただ、そのときは結界……つまりはこの館の在り方を切り替えていなかったのか、こんな空気を感じることはなかったのだが。

 

「……………………」

 

 火の消えた暖炉。その前でいつもなら館の主が寛いでいるソファに身を沈めて、ただ振り子時計の鳴らす『カッ、コッ、カッ、コッ』という音だけが聞こえている。

 

 こうして動かずに、どれだけ経っただろう。

 冷や汗すら、この重圧に抑え付けられて出て来れない。空気を軋ませる重圧は、ルミィナの不在とはまた別の理由によるものだ。

 

「————————」

 

 外から差し込む月明かりが、暗い室内を僅かに照らす。そして、そんな月光すら寄せ付けない少女の眼は、暗い室内で真紅の輝きを纏っていた。

 その輝きは、キラキラというよりは爛々とした、瞳と同色の興奮を放っている。

 

 なまじ繋がっている分、#眷属__オレ__#には#真祖__ルカ__#の冷酷で残酷なまでの無邪気な衝動が分かる。…………分かって、しまう。

 

「……………………」

「————————」

 

 無言の圧力。だが、オレはルカに視線を向けることはしない。あんな状態のルカに付き合うつもりは無いし、話しかけるキッカケも与えるつもりはなかった。

 

 なんなら、オレはルミィナが帰宅するまでこうしている覚悟もあるくらいだ。

 

「アトラ」

「……………………」

 

 反応しない。まだいける。

 今のオレは難しい本を難しい顔で読んでいる。そういうことになっているはずだ。返事をしないくらいに集中している素振りを続ければ、なんとか……。

 

「時間かかり過ぎてない? その本、あと3ページでしょ?」

「っ、…………」

 

 ハッとして手元に意識を向けた。気づけばこんなにも分厚い本のページは、残すところあと3ページ。ルカの宣告通りだ。

 ルカの圧力に気を取られるあまり、ペース配分を間違えた……!

 

 白く細い指が赤い本を取り上げる。ちょっとした机にも、重しにもなりそうな重厚な本が、まるで羽でもつまむように持ち上がる。それを適当に放ると、ルカはガッシリとオレの肩を掴んだ。

 

「ね、アトラ。遊ぼ!」

「…………そうだな、カードゲームでもするか。ホラ、なんて言ったっけかあの教会が売ってるヤツ。遊ぶうちに自然と教義を覚えられるとかいう——」

「鬼ごっこしたい!」

「鬼ごっこ……はは、鬼ごっこよりさ、ルカ。やっぱ教養を身につけられる遊びの方が——」

「鬼ごっこしたい!」

「……………………」

「鬼ごっこしよ! するよ! ホラ!」

 

 手を引かれて立たされる。今のルカと体を動かすような遊びは避けたいところだったが、これも月の影響か、今日のルカはその奔放さも増していた。

 

 そのまま部屋を後にし、長い廊下を進む。今日の廊下には窓があった。相変わらず灯りのない廊下に、窓から入る月光だけが床を照らし出している。

 

 なんとなく、窓から月を見上げてみた。濃紺の夜空には、本来なら星々が誇らしげに瞬いている。だが、今日は月が主役となる日だ。脇役たちは輝きを抑え、月の白さを一層際立たせていた。

 

「……ルカは知ってるか? あの月ってさ、昔は天蓋園だと思われてたんだ」

「んー? 天蓋園って、神さまがいるところ?」

「そう。余程の悪人でもない限りは死後の魂が向かう先でもある、アレだよ」

「うん。知ってるよ?」

 

 廊下を歩く間の、ほんの話題。今のルカには聞き流されると思っていたから、乗ってきたのは少し意外だった。

 どちらからともなく歩みは止まり、2人で外の月を見上げる。

 

「けどさ、実は300年前までは結構信じられていた説だったその説も、今は少数説になってるんだよな」

「へー……なんで? 死んじゃってもあそこに行けば会えるって、すごくステキなのにね」

「ああ、確かにそうだな。死別した大事な人があそこから見守ってくれてるっていうのは、綺麗ではある。

 

 けどさ、ある大魔法師が解析したらさ、あれは巨大な立体魔法陣なんだと。たぶんほかの星も同じだって予想されてる。

 だから天蓋園説は少なくなって、代わりに月は神の瞳だって説が力を持ったらしい。

 

 ほら、瞬きするだろ、月って」

 

 「あー、たしかに」と頷いて、またまじまじと月を見上げるルカ。目を細めているあたり、遥か彼方の魔法陣を読み解こうとでもしているのかもしれない。それがなんとなくおかしくて、つい頬が緩む。

 

「神々が世界を見守るために残したものだって言うんだが、神々が降り立つ以前の時代の遺跡から月に言及したものが出てきてまた議論になってるんだってさ。

 

 結局あんな巨大な魔法陣がどんな効果を持ったものなのかは分からないまま、と。なんだか不気味だよな。そんな得体の知れないものにルカやオレは影響されてる」

 

 ————“それって怖くないか?”

 

 そんな問いを込めた視線を、ルカは真紅の瞳で受け止める。

 

「別に気にならないよ? だってあんなに綺麗で、こんなに心地いいんだもん。悪いものじゃないよ、きっと」

 

 それは本当に素直な、心からの言葉だった。あんまりに余分がなくて、ストンと腑に落ちてしまうくらいに。

 

「でも、やっぱり天蓋園説がいいなぁ~」

「なんだ、ルカはそんなに気に入ったのか」

「だって、それだったらルミィナにも会えるかもしれないんだよ? 一生懸命2人で頑張れば、迎えにいけるかも」

「…………ああ、そしたらルミィナさんが死んでも会えるもんな」

 

 “あと100年——”

 

 ルミィナの言葉が思い出される。自らに残された時間をそう断じた魔女の顔は、その時間を決して長いものとは考えていなかった。

 

「100年、か……」

 

 今のオレにとって、それは途方もない時間に思える。それでも、オレやルカは殺されでもしない限りは確実に過ぎ去ることになる時間でもあった。

 今のルカは、おそらく100年を短くは思っていない。それでも、50年後に“あと半分だ”と気づいてしまったルカは、残りの半分も笑顔で過ごせるのだろうか。

 

 その後の長い、本当に長い時間を、オレはルミィナの分まで寄り添えるようにならないといけない。

 

「……………………」

 

 ルミィナがいないからなのか、そんな普段は考えないことを頭に浮かべてしまう。

 あの【魔女】の代わりを務められるようになるのに、100年はとても短く思えた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「……どこだここ。なんだこれ」

 

 見上げるほどの鉄扉を開き、岩の洞窟を抜けると、地平線まで続く大森林を眼下に見下ろしていた。

 空には相変わらずの白い真円。

 照らされる森は淡く月光を纏う。そこには人の手などまるで寄せ付けない神々しさすらあった。

 

「う……」

 

 その景色のスケールに圧倒されていると、全身を質量を持ったような強風に打たれる。ざわめく森の響きは、まるでオレを拒んでいるかのようだ。

 

「じゃあはじめよ!」

「いやいや、まて! ここで鬼ごっことかムリだろ⁈ ていうかここはどこなんだって! どうやってこんなところに来たんだオレたち!」

 

 一応、オレとルカは館の中を移動していたはずだ。それがいつの間にか館内が木造の場所から石造りに、床も石畳になったかと思ったら、扉まで重苦しい金属製へと変わっていた。

 そして気がつけばまるで知らない岩山の洞穴へと出ている。これでは位置関係がめちゃくちゃだ。館内ならともかく、ここは外。流石にこんな場所までの距離を歩いた記憶はない。

 

「ああ、これはね、ルミィナの魔法なの。ルミィナが作った扉なんだけどね、いろんなところに繋がるんだって」

「〈転移門〉みたいなものか? じゃあ、あの扉は『聖域魔法』の結晶じゃんか⁉︎」

「ルミィナは【魔女】だよ? 忘れちゃった?」

「にしても万能過ぎるんだよ。どういう性質の魔力なんだ……? 普通あれもこれもとは行かないんだけどな……」

 

 魔法は魔力によって適正という偏りを持つ。ルミィナという魔女がどういう魔法で『神域』へ至ったのかは知らないが、何かに秀でるということは、それだけの偏りを意味するはずだ。

 

 例えば火の属性に特化して『神域』へと到達した場合、魔力はそれだけその属性へと偏っているということであり、“水の属性でも『神域』に到達しました”ということは起こり得ない。

 人の才能には限りがあり、何かを突き詰めるには特化するより他にないからだ。

 

 しかし、そうなるとこれはなんなのか。

 判明しているだけで、ルミィナはおそらく『聖域』に到達する〈結界魔法〉や、間違いなく『領域』級の偉業である“人工精霊の生成”なんてマネをして、草原を焼き払うようなどう見ても火の属性を持つ魔法を使っていた。

 扱える魔法の範囲が広く、深すぎるのだ。吸血鬼になって以降これでも懸命に吸収してきた魔法学の常識が、まるで働いてくれない。指標そのものを壊された気分。

 

「アトラ?」

「っ!」

 

 ルカの声に、意識を引き戻される。

 考えてみればルカの言う通り、あれは神の真似事ができる【魔女】だ。魔法学の常識なんて、当てはめようとする方がどうかしてる。

 

「わ、悪い……で、なんだっけ?」

「鬼ごっこ! はじめるよ!」

 

 ルカの目が、獣性を感じさせるものへと変わっている。途端、本能が警鐘を鳴らした。

 “逃げろ”と。“危険だ”と。

 

「よ、よし……じゃあ、ほら、数えるからルカは逃げろよ」

「アハハッ! 違うよー! 逃げるのはアトラだよ?」

「な、なんでオレなんだよ……はは、いいって、オレが鬼になるって……」

「ダメだよ。だってアトラじゃ絶対私に追いつけないもん! それじゃあつまらないもんね」

 

 獰猛にすら見える無邪気さで、ルカは歌うように笑いかける。ただ、その内容は不吉な意味合いがあった気がした。

 

「それって、裏を返せばさ……オレは絶対に逃げ切れないってことに——」

「じゅ~うっ! きゅ~うっ!」

「まった! ちょっとまった! わかった、やろう! でもその前にちょっと聞きたい!」

 

 オレの静止の声に、秒読みを止められた鬼はいかにも不満そうな顔をする。

 が、機嫌を損ねてでも訊かなければならない。返答次第では適当に逃げるフリをしてさっさと終わりにもできるし、返答次第では命懸けの逃走劇の幕開けだ。

 

「えー、なに? もしかしてアトラ、鬼ごっこ知らないの?」

「いや、知ってる。けど、こう……前提の共有をしたいんだ」

「?」

「あのさ、鬼に捕まったら、鬼を交代するってことでいいんだよな?」

 

 オレの知っている“鬼ごっこ”なら、ルカのこの雰囲気や背筋の悪寒には違和感がある。だから、これは微笑ましいお遊びなんだという約束が欲しかった。

 

 だが、当の鬼役の吸血鬼は怪しげな、嗜虐の色を宿した表情を浮かべて変わらぬ笑顔を向けてくる。

 

「えー、アトラ知らないんだぁ」

「なにが……」

「鬼に捕まった人はね、食べられちゃうんだよ?」

「ッッ————⁈」

 

 冷や汗が噴き出る。知らず腰を落とし、身体はすっかり逃走の準備を整えている。

 

「じゃあ数えるからねー!」

「まっ、まった! オレの足じゃあ10秒は早すぎる! ほら、オレってこれでもインドア派っていうか引きこもりっていうか!」

「えー! じゃあ何秒?」

「10分……あっ、いやっ、5分でいいんだ!」

「…………じゃあ、待つね」

 

 その返事が耳に届くより先に、オレは眼前の崖のようなというか崖そのものへと身を投げ出していた。



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謎の魔法陣と国太刀のカラキリ

 森の中は高い木々の樹冠が月の光を遮り、想像を超える暗闇が広がっていた。人間にはこの暗さはつらいだろうなと、もうすっかり他人事な自分に苦笑してしまう。

 オレもルカのおかげで、ずいぶんと吸血鬼側になったもんだ。

 

 そんな森をひたすらに走ること……どれくらい経ったんだ? ある程度冷静になった頭は、体感で2時間程度と予想する。……実際のところは分からない。

 

 満月の恩恵はオレにもあり、とにかく体が想像した通りによく動く。

 走っていると、ずっと先に見えた太枝が、瞬きすると目の前に迫っている。それを無造作に払うと、さしたる抵抗も感じずに破断できた。

 考えてみると、これでは痕跡が残ってしまう。逃走者にあるまじき行為といえる。

 

 オレをこんなにも活動的にさせているのは、オレにあってルカにない、眷属としてのある特性だ。

 

「大分離れたみたいだな」

 

 冷静になって考えてみると、オレがルカに捕まる可能性は低い。なにせ眷属であるオレには、主人であるルカが大体どこにいるのか感じ取れるんだから。

 

 そして、ルカにはオレのような能力はないらしい。まあ、眷属のオレに主人は1人に対して、真祖にとって眷属は複数あり得る。眷属の数に上限があるなんて情報に触れたことはない。

 

 おそらくそこら辺が、この一方通行の感知能力の理由になってくるんだろう。

 でなきゃ眷属が増えるほどに真祖の脳内は情報で埋め尽くされてしまう。

 

「さて……どうしたもんかな」

 

 走りながらこの後の予定を考える。

 これ以上走る必要はないだろう。あまりデタラメに走ると、陽が登っても帰れなくなってしまう。こんな大森林とか樹海とかと呼ばれる場所で彷徨うなんてゴメンだ。

 

「ん?」

 

 そんな暗闇の中、あるはずのない気配を感じて急停止する。速度に見合った慣性を殺すために立てた踵は、地面に真っ直ぐと軌跡を刻んだ。

 地中から捲り上げられた木々の根から、独特の湿った匂いがする。

 土をかけられた木々を横切り、気配のした方向へと歩み寄ると……。

 

「ぅぅ……」

 

 暗い森の中、人の寄り付かないはずのこんな場所に、見たことのない服装の人影があった。うつ伏せに倒れ、か細いうめき声をあげるその姿は、いかにも弱って見えた。

 ここで放っておけば、そこらの魔物か獣かのごちそうの役を担うことになるだろう。

 

「……………………」

 

 反射的に、放っておこうという考えが浮かぶ。

 直感的に、そうするのが当たり前のように感じた。しかし、その人影の苦しげなうめき声に一瞬足が止まる。

 

 そうしてすこし立ち返ってみた。

 

 はて、と。

 少し前のオレなら、この人間を見捨てただろうか、と。

 

「——————ハ」

 

 そんな疑問が頭をよぎり、ゾッとした。

 たぶん……見捨てなかったのだ。

 

 どうにも人間の血を取り込むたびに、オレの中の“ニンゲン”が薄れている気がする。血を取り込むことに対しての抵抗感や嫌悪感が徐々に薄れて、“ニンゲン”への仲間意識まであやふやになっていく。

 

 まるで、気づかれないように、ゆっくり、じりじりと、何かが進行している予感がした。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 それはそんな予感を振り払うためのものだった。本当にその人影が大丈夫でもそうでなくても、それはどうでもいい。

 とにかく、“オレは見捨てなかった”ことが重要で、それがこの予感が杞憂だと思うために必要な言い訳だった。

 

 おそらく衰弱しきっている、もう助からない命。

 そんな命にも寄り添えるんだと言えるための正当化行為。たとえ目の前でこの人物が息絶えても、何も感じないだろうと……冷め切った自分が告げている。

 

「ひ、人かッ⁈」

「うおっ⁉︎」

 

 ただ意外にも。

 

「おぉ、うおぉおおおおお! 人だあ! 助かったああッ!」

 

 思った100倍、その人影はピンシャンしていた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「いやぁ、助かった! アグ、むぐ——なんと礼を言えば良いやら——もぐ……」

「いいから落ち着いて食べてくれ。詰まらせるから」

 

 火に薪をくべながら、すごい速さで肉を吸い込んでいく遭難者を観察する。片脇に置かれているのは……刀、か。翡翠のような色合いの方と、紫水晶のような色合いの方がある。こんな場所で行き倒れている人間の持ち物としては、かなり違和感を感じる。

 

 得物が特殊なら、その持ち主も変わり者だ。

 背丈はオレよりやや低く、線の細いカラダ付き。しかし、痩せこけたような弱々しい感じはない。あれは鍛えて無駄を排したカラダ付きだろう。

 

 そして顔は中性的に整っている。声も男というには高く細く、女と断じるにはやや低く太い。話してみるまで、オレにはこの人間が男であると分からなかった。

 

「わしは見ての通り無一文でな、今すぐに返せるものがない。すまぬ……」

「いいよ、見返りを求めてのことでもないし」

 

 オレはオレの都合で助けただけだ。真っ直ぐな視線を向けられると、すこし後ろめたい。

 すぐに死んでも仕方ない……どころか、ヘタに粘られても面倒くさいとすら考えていた節のあるオレとしては、感謝の言葉のひとつひとつが痛かった。

 だからはやく違う話題にしたくて、覚える気もないのに名前なんかを聞いてみたりする。

 

「それで、あんたの名前は?」

「おお、わしとしたことが。ん゛ん゛っ! わしは国太刀のカラキリ! 気軽に気安くカラキリと呼んでくだされ!」

「クニタ……チ……? 変わった名前だな……」

「うむ、たしかにこの大陸では聞かぬ名であろうな。して、命の恩人をわしはなんと呼べば良いか」

「ん? ……ああ、アトラ。アトラって呼んでくれ」

「おお、アトラ殿か! うむ、良い名だな!」

「そうか? 結構ありがちな名前だと思うけど」

「いいや、わしは初めて聞いた!」

「そ、そうか……」

 

 見た目に反して豪快な性格なのか、カラキリはオオカミ肉を頬張りながらグイグイと距離を詰めてくる。それを不快に感じさせない何かが、この男にはあった。

 

「しかし美味い。これはなんという獣なのだ、アトラ殿」

「え? あ~なんだったっけな……魔物だったと思うんだけど」

「緑の毛色。額に唯一の瞳。こんな獣は見たことがない。

 血抜きの腕も卓越しているな。今しがた仕留めたというのに、肉に血生臭さがまるでない。どうやって血抜きをしたのだ? わしも今度から真似てみたい」

「……ひ、秘密で。秘伝のワザ……みたいなヤツだよ」

 

 吸血時の感覚を思い出して気持ち悪くなる。ドロドロして獣臭くて生臭い、最悪の味だった。

 本当は吸った血を吐き出したかったが、どうやって吐けばいいのか分からずに断念したのだ。

 

 結果として、今も体がなんとなくだるい。血にも合う合わないがあるんだな……。

 

 カラキリはその名の通りカラカラとよく笑った。気がつけば、カラキリは肉を丸々一頭分胃袋に収め、目の前で満足そうに腹をさすっている。

 まさかほとんど1人で平らげるとは思わなかった。飢えているとむしろ食が細くなるものなんじゃなかったっけか?

 

「————なるほど、魔物とはなんとも面妖な獣なのだなあ。そんな連中がいるということは、この森では魔石を持たぬ獣は生きて行けぬな」

「いや、大抵の魔物は繁殖力が強くないんだよ。その上縄張り以外ではあまり活動的じゃないんだ。だから魔法を使えない動物たちも上手く共存できる」

「ほう……それがその魔石というものか?」

「ああ、仕留めるときに砕けたけど、本来はもう少し大きい塊なんだ」

 

 どけていた破片を摘んで掲げる。オオカミを殺してそれなりに経っているにも関わらず、破片はまだ体温を保って温かい。

 たしかこの熱が消え去ると加工できるようになるんだとか。こんな大きさになっても、売れば安宿一泊分にはなる。

 

「ほい」

「む?」

 

 魔石の破片が、小さな放物線を描いてカラキリの手に着地する。それを一瞥して、カラキリは不思議そうな顔を向けてきた。

 

「無一文なんだろ? それを売れば小遣い程度にはなる」

「————大陸の人間は冷たいと聞いていたが……あれはとんだ詐話だったか……。アトラ殿、わしはこの恩を忘れないぞ。国太刀は受けた恩を必ず返すのだ!」

「無事に森を抜けてから言ってくれ。……て、そうだ。なんでカラキリはこんなところで倒れていたんだ? 観光って訳じゃないだろ?」

「うむ……それは——」

 

 カラキリは腕を組み、なにやら難しい顔をする。厳しい顔のつもりなのかもしれないが、中性的なカラキリがやってもちっとも威厳はない。

 

「ふらと立ち寄った村で物騒な話を聞いてな」

「物騒な話?」

「うむ。なんでも、ここ2年ほど村の人間が森の近くの街道で攫われることがあるという」

「誘拐か……散発的だと教会に頼っても派兵してくれないだろうな」

「実際そうだったらしい。そしてつい先日、自分の娘が攫われたというのだ。

 そこでわしは、これは捨ておけんとさっそく森に入ってみたのだが、これが全く見つからんのだ。わしはさらに街道を外れて奥深くへ進んでみたが、帰り道を見失ってしまった」

「そうして彷徨ううちに、ここで行き倒れていたと」

「たははは! いやあ、面目ない! わしもまさかこんなところで遭難するとは思わなんだ! 文目(あやめ)も分かたぬ暗闇では如何ともし難かった!」

 

 ワッハッハと、自分の無計画さを笑い飛ばす遭難者。どうにもこの男は衝動的なところがあるらしい。そんなんでよく今まで生きて来られたもんだ。

 ここで助けてもまたどこかで飢えて倒れないだろうな? 大丈夫か……?

 

 弱まってきた火に細枝を放りながら、うつ伏せにぺちゃりと倒れているカラキリの姿を夢想してしまう。なんとも頼りなくも、可笑しな姿だ。

 

「それで、人攫いを見つけたらどうするつもりだったんだよ、カラキリは」

「無論、斬って捨てる」

 

 言葉に込められた確かな殺気に、視線を上げる。想像に反して、相変わらずのほほんとした顔がそこにはあった。

 

 それでも直感がある。この男は本気でやる気であり、実際にできる。

 人を殺すと口にしながら、特別な覚悟も力みもない。それだけ慣れているんだなと、オレは傍らの刀が飾りでないことを認めた。

 

 カラキリへの評価を改め、警戒心の目盛りを一つ上げる。——と、不意に違和感に襲われた。

 

「っ、なんだ?」

「む? どうされたのだ、アトラ殿?」

 

 目の奥が僅かに疼く。感覚はカラキリを挟んでさらに向こう側から。一方のカラキリは何も感じないのか、視界の中で首を傾げたり視線を追って振り返ったりと緊張感のカケラもない。

 

「向こうに何かある……気がする」

「向こう? 何かとは?」

「分からない。これが良いのか悪いのかも判断できないけど……どうする? 少し離れるか?」

「ふむぅ…………」

 

 カラキリは腕を組んで思案する。

 結論はすぐに出たらしい。

 

「わしは見てみたい。人攫い共であるかもしらん。ただアトラ殿は——」

「ああ、多分オレは大丈夫だよ」

「……何か心得があると?」

「まあ、それなりに」

「ふむ…………シィッ‼︎」

 

 前触れなく放たれる拳。カラキリによるそれは、正確に眉間へと直進する。

 そして————

 

「————合格か?」

 

 拳を掴んで、カラキリを見据える。緩く握られた拳は、万が一当たってもケガをさせないようにということなんだろう。

 触れたカラキリの手は意外にも固く、激しい鍛錬の歴史を物語るものだった。

 

「うむ、素晴らしい反応速度だった! これであれば何があっても逃げられるな。して、アトラ殿は徒手なのか?」

「ああ、これで良いんだ」

「ふむぅ……」

 

 納得してない顔で唸るカラキリをあえて無視して、違和感の方向へと足を進める。

 進むにつれて、始めはただの違和感だったそれは、次第に血の匂いを纏った。

 

「カラキリ……血の匂いがする。多分誰か死んでるぞ」

「…………」

 

 頷く気配と同時に、カラキリの足音が消えた。音もなく足を早め、まるでオレを守るように前を行く。その姿は自然体で、刀の柄に手を乗せているところを除けば散歩でもしているみたいだ。

 これでなんで足音が殺せているのか、オレにはさっぱり分からない。

 

 剣士だと思っていたけど、暗殺の心得もあるのか?

 

「アトラ殿が血の臭いに鋭敏であるように、わしは足音を盗むのは得意なのだ。いやしかし、本当に鋭いのだな。わしは今ようやく感じられたぞ」

 

 血の匂いにようやく気づいたカラキリが鼻を擦る。進むほどに強まるそれを追う内に、オレたちはついに発生源を見つけた。

 

 暗闇の支配する森の中、視線の先にはそんな森の隙間とも呼べる木々の切間が存在していた。

 薄い夜霧が、皓々とした月光の軌跡を浮き彫りにする。その白光を浴びて、木の仮面に黒い服という出立ちの人影が円を作るように並んでいた。

 

 耳障りな音とも声ともつかないものは、多分何かの呪文だ。それなりに勉強しているつもりだったが、聞こえる呪文は記憶のどの知識とも整合しない。

 

 男たちの中心には、祭壇……か? そしてその上にはいくつもの部位に分けられた生命の残骸。

 

「あれは……なんであろうなぁ……アトラ殿には分かるか?」

「————人間だ」

「……………………」

 

 ()()が反応している。あれはニンゲンだと、満月に昂っている獣性が歓喜する。

 

 祭壇の溝から流れ滴る赤い液体は、集団から数メートル離れた場所まで蛇のように這い伝う。

 あれは……

 

「魔法陣? 血を魔力源にするのか? クリシエ教では禁忌だぞ……」

「あの魔法陣はどういった性質(たち)のものなのだ?」

「流石にここからじゃ無理だ。近づけば解除しようもあるけど……」

「相分かった、アトラ殿は解除に専念されよ。わしには魔法陣なるものがさっぱり分からぬ……我が身の浅学さには汗顔(かんがん)の至りだが————」

「カラキリ……?」

 

 カラキリの言葉が止まる。不審に思い顔を伺うと、その視線は一点に縫いとめられていた。

 

 祭壇に散乱するものの中で、最もニンゲンを保っている部位…………小さな頭部。楽な死に方でなかったのは、その表情を見れば嫌でも分かる。

 その苦悶の表情は、縋るような視線でこっちを見ていた。

 

「ッ、カラ————」

 

 木々の陰、暗闇に守られた領域から、カラキリは無造作に歩み出る。もう始まったのだと理解して、オレは魔法陣へと身をかがめながら接近する。

 

 その途中、どうしても心配になって一瞬カラキリの方を確認した。一度助けると決めたんだ。危険そうであればこんな不気味な魔法陣より、オレはカラキリを優先する…………つもりだった。

 

 ————結論として、そんな心配は必要なかった。

 

 音もなく近づくカラキリ。しかし、如何に足音がしなくとも、距離を詰めれば気付かれる。

 だが結果として、連中は仲間の首が飛ぶまで敵の存在に気づかなかった。

 

 そして一閃。翡翠を思わせる刀が、淀みのない動作で振われた。

 2つの首が落ちる。そしてその首が落下音で仲間へ危険を伝えるころには、さらに2つの首が落下を始めていた。

 

 カラキリは止まらず、焦らず。その様は長い鍛錬による洗練を思わせる。

 

 カラキリの歩みは止まらない。早まりもしない。

 

 仮面越しに、明らかに視線がカラキリを捉えた。

 

 それでも反応できない。訳も分かっていない。

 それは、カラキリには殺意というものがないからだ。害意も敵意も力みもない。

 およそ“殺す”という動作を感じさせないのだ。人は脅威を感じなければ、回避行動に移れない。

 今のカラキリの動作に比べれば、まだ散歩の方が力みを感じられる。

 

 結局、仮面の男たちは最後まで構えも警戒もさせてもらえず、戸惑いの中で刈られていった。

 

「——————」

 

 刀が鞘へ納められるのを見て、慌てて魔法陣へと意識を戻した。つい見届けてしまったが、こんなことをしている場合じゃない。

 

「って言っても、なんだろうなこれ…………こんな構成見たことないぞ…………」

 

 ひと目で分かる。解除は無理だ。

 本来人間の脳がする魔力の制御や奇跡の構築。これを脳ではなく魔法陣に行わせる以上、そこにはさまざまな制約と法則がある。

 目の前の魔法陣は、頭にあるそれら既存の法則を無視しながら安定して成立していた。

 

「書き換えでの解除が無理なら……」

 

 カラキリの様子を確認する。

 大丈夫、こっちを見てない。カラキリの意識は完全に死骸の頭に向いている。

 

 オレは、視界を紅へと切り替えた。

 

 書き換えての解除は無理でも、魔力を失わせての無力化なら出来るかもしれない。魔力源が血液によって供給されるなら、オレにもなんとかできる。

 

「ッ、起動するのか⁈」

 

 魔法陣に渦巻く、オレにだけ見えているモヤが胎動を始める。もう一刻の猶予もない。

 

 右手を血に浸し、視界の紅い糸を手繰る。直径2メートルほどの魔法陣の端から端まで、その全域に満ちた新しい血液の後は、これまで蓄積され浸透した古い血液を引き揚げる。

 

「ああ、クソ……もったいないとか考えるな……ッ!」

 

 血が集まるほどに増す芳醇な香りに、何度も衝動を嚥下した。そうして右手を起点に集まった魔力を、一気に魔法陣の外へと引っこ抜く!

 

「うぉうっ、なにごとかっ⁈⁈」

 

 魔法陣から引き抜かれ、ぶち撒けられるおびただしい量の血液。激しい水音と共に立ち込めるのは、むせ返るような死の臭いだ。

 一体何人を捧げたのか、魔法陣は色を失い、代わりに大きな血溜まりが形成される。

 見た目はまさに血の池だ。

 

「アトラ殿、これは一体……?」

 

 鼻をつまみ、涙目で悪臭に堪えながら訊いてくるカラキリの手は、なぜか土に汚れていた。少し考えてから、それが土葬を済ませたことによるものだと気づく。

 

「今まで魔力源にされてた血だ。多分いくつもの村から人を攫っては解体して捧げたんだろうな」

「…………魔法陣は解除できたのだな」

 

 魔法陣は機能を停止し、一見消えたようになっている。見えるはずのない魔法陣を、カラキリは静かに見つめる。

 

「いや、解除はできなかった。オレの知ってるものとは全然違かったんだ。今は魔力源が無くなって停止しているけど、確かにそこにあるよ。また魔力さえ与えられれば起動する」

「わしが地面を抉れば掻き消せないのか?」

「無理だ。もうそれはその場所に存在している。地面に穴を開けても、魔力を通せばそこに出現するよ」

「ふむぅ……」

 

 カラキリにはよく理解できなかったらしく、しかめっ面で首を捻る。あまり魔法学の知識はないんだな。

 

 放っておけばいつまでもそうしていそうだから、一応納得しやすそうな言葉をかけることにした。

 

「まあ普通は見えないしさ、こんなところに人も来ないだろ? 他に仲間がいても、もうここには近づかないんじゃないか?」

「うむ、それもそうだな! 得心(とくしん)がいった!」

 

 何が嬉しいのか、カラキリはにこやかな表情を浮かべる。もちろん、鼻は摘んだままで。

 

「じゃあ、カラキリの用事は終わったよな? 帰り道は分かるか?」

「いいや、全くもって分からぬ」

「そうか……悪い、オレも街道なんて分からないんだ……」

 

 さて、参った。オレはこの森に来て数時間の新参者だ。この森の歴で言えば、目の前の遭難者の方がよっぽど長いことになる。

 

 オレに分かるのはここからルミィナの館へと通じる扉の場所くらいだし、もちろんカラキリを連れて帰るわけにはいかない。

 そんなことをすれば、オレはカラキリもろとも魔女に消し炭にされるだろう。

 誇張なしに、ルミィナはやる。絶対やる。むしろ機会を窺っている節すらあるんだから困りものだ。

 

「ん……? あっ、やばい……!」

 

 これからどうするかと頭を悩ませていると、忘れていた気配の接近を感じた。それもとんでもない速度で。

 

「はやッ⁉︎ いくらなんでもデタラメすぎるだろそれは……‼︎」

「???? 如何にしたのだ、アトラ殿? そんなにワタワタと……この大陸の舞いか? 舞踊なのか? ずいぶんと奇天烈な……」

「そんなわけあるか! とにかくここは危険だ! 今すぐ走るぞ! ————ああ、ダメだ……もう来た……」

 

 混乱するうちに、にわかに森が騒がしくなる。地響きのような音と振動が強くなる。

 今更ただごとでないと察したカラキリが身をかがめるが、もう遅い。

 

「やっと追いついたーー‼︎」

 

 幅広の幹をぶち破って、鬼ごっこの()のご来臨だ。この森であれだけの直線移動をしておいて、服も肌も一切汚れていないのはどういう理屈なのか。

 兎にも角にも、カラキリという部外者のいる状態で、したくもない邂逅を果たしてしまった。

 

「……ん?」

 

 ただ、ルカの様子はどこか違う。瞳の爛々とした紅い輝きがいつもの黒いへと戻り、雰囲気もすこし落ち着いている気がする。

 ハッとして空を見上げて気付く。いつの間にか空の満月は輝きを薄れさせ、もうじき朝が訪れようとしていた。

 

「逃げ切れたのか……」

 

 状況について来れないカラキリと、そんなカラキリを不思議そうに見つめるルカ。

 そんな光景を尻目に、ホッと安堵の息が漏れた。



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慶雲か妖雲か

 

「ふむ……」

 

 身じろぎの気配に視線を戻す。見つめ合うルカとカラキリは、その位置を僅かに変えていた。

 

 再び足音を消して、カラキリはルカの視線にオレを入れない位置へと移動していた。自然とその手は刀に添えられている。

 心なしか、カラキリの纏う空気が冷たいものへと変化していくような錯覚を覚える。困ったのは、それに応えるようにルカからも感情の起こりが消えて行くことだった。

 

「危険とアトラ殿は言っていたが……察するに女よ————」

 

 カラキリの声色に明確な敵意が混じる。

 瞬間、空気は凍りつき、風すらも動きを止めた。

 空気の流れがなくなったことで、辺りに死の臭いが一層立ち込める。その香りに一瞬眩暈を覚えながら、奥歯を噛み締めて冷静さを保つ。

 

「————貴様、アトラ殿の敵か」

「違う! 違うんだカラキリ、落ち着いてくれ。ルカもだ!」

 

 ()()()の気配を感じて、咄嗟に間へ飛び込んだ。何を始めるつもりだったのかなんて、考えるまでもない。

 

「アトラ。その人、だれ? 危ないから離れた方がいいよ?」

「いや、ちょっと知り合ったヤツで、悪いヤツじゃないんだ。良いヤツだから大丈夫だから」

「やや、もしやわしの早合点であったか? しかし……今の殺気は普通ではない。怖気が走るなぞ久方ぶりだ。アトラ殿とはどのような間柄か」

 

 カラキリは警戒を解かない。ルカもルカで、まだカラキリについて結論を出せずにいる。

 

 とにかく、ここまで助けたカラキリを殺される訳にはいかない。ルカがひとたび戦闘に入れば、目撃者であるカラキリを生かす道は絶たれる。

 

 始まる前に、なんとか空気を変えるのが急務だった。

 

「アトラは私のけん——」

「——家族だ」

 

 先を制して、ルカの返答に割り込む。

 今絶対に眷属って答えようとしただろ危ないな……『知られた以上殺す』を狙っているとしか思えない。本当に頭が痛い。お願いだから冷静になってほしい。

 何がルカにそうさせるのか知らないが、落ち着いてくれ……。

 

「アトラ……」

「ほう…………アトラ殿のご家族であったか……」

「ああ、オレの姉だよ」

「アトラ……!」

 

 ルカの機嫌が一瞬で持ち直したのが分かった。

 単純なヤツめ。だが今はその素直な性格がありがたい。

 

 ルカの様子に納得したのか、カラキリの手が得物から離れる。

 

「……すまぬ、わしの早とちりであったな。アトラ殿のご家族とは知らず、とんだ無礼を働いてしまった……面目次第もない……」

 

 先程までの剣呑な空気から一転、途端に弱々しくなる。

 

 感情の起伏が凄まじいというか、それとも切り替えがはやいと称賛すべきなんだろうか。

 なんとも判断に迷うところだ。

 

「アトラ、この人は?」

 

 ただ、未だに“姉”の判断は変わらないらしい。ルカの警戒心は相変わらずで、“不機嫌に警戒”から“上機嫌に警戒”へと移行しただけ。

 カラキリをどうするのかは、未だに決せられていない。

 

「こいつはカラキリ。変わったヤツだけど良いヤツで……えー、そう! 友だちに……なったんだ……」

「なんと! アトラ殿はわしを友と思ってくれるのか⁈ たしかにわしとアトラ殿は胸襟(きょうきん)を開いて語らった仲と多少強引に言えなくもない!」

「ちょっと黙っててくれ面倒になる」

「へー! もう友だちを作ったんだ!」

 

 すごいすごいと手を叩いて、カラキリを見るルカの目に初めて興味の光が灯った。

 カラキリを守り切った瞬間だった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 朝光が夜闇を払う。もうすっかり地上を支配した早朝の空気が、冷たく森へ降りて来たのが肌で感じられた。

 

 ひんやりとした風が、木々の葉をサワサワと揺らしている。まるで眠った森を揺すり起こしてるみたいだ、などと子どものような感想を抱きつつ横を歩くカラキリをチラリと伺う。

 

「す~~~~…………はぁ~~~~」

「さっきから何してるんだ、カラキリ?」

 

 ルカを先頭に、オレたちは森を進んでいる。

 街道の方向なら分かるというルカの言葉がきっかけだ。

 しかし、言ってどこか考える様子のルカだったが、目を輝かせたカラキリが方向だけ聞いて歩き出したことで追求することはできなかった。また迷われたら目も当てられない。

 結果、先導役をルカが。カラキリの手綱を握るという面倒役をオレが受け持ち今に至る。

 

 ルカとカラキリの間に入って会話を繋がなくてはと気を揉んでいたオレを他所に、ルカもカラキリも根っこの部分は似通っているのか、互いに二言三言話してすぐに打ち解けてしまった。

 もう2人は互いに“ルカ殿”と“カラキリさん”と呼び合っている。

 

(意外と社交性高いんだな、ルカは)

 

 つい口にすればむくれられるに違いない感心を抱いてしまう。

 思えば、ルカが他人と話す場面を見るのはこれが初めてのことだ。

 ルミィナやオレの前では子どものような奔放と無邪気の塊であるルカだが、それは身内限定だったらしい。こうしてちゃんとした振る舞いもできるのが分かったのは、今後行動を共にする側としては一安心だ。

 

 そしてそんな和気あいあいとしている中、不意に深呼吸を始めたのがカラキリで、先の発言はそんなカラキリへ対して投げた問いだ。

 

「ああ、これはな……朝の澄明(ちょうめい)な空気を味わっているのだ。こうしてみると、やはり異国だなぁ……。わしの知る味とはまた違う」

「チョウメイな……空気?」

「透き通った空気ってことだよ」

 

 器用に後ろ歩きをしながら首を傾げる先導役に補足する。カラキリの言葉はたまに難しい。

 もう少し簡単な言い回しを身につけなければ、おそらく今後苦労するだろう。

 だが、当然そんな忠告はしない。今後も付き合いが続くならともかく、今回限りの仲ならこの程度のことにまで世話を焼くことはないのだから。

 

「こうした空気の変化も旅の楽しみ。ルカ殿も遠く離れた異国へ行けば、自ずと理解できるはずだ」

「ふ~ん」

 

 言われてルカは鼻をふすふすとする。が、あまりピンと来ていないのは側から見ても明らかだ。

 案の定もう興味を無くした。

 

 そんな2人を見ていると、そういえば最初に訊くようなことを訊いていなかったことに気づいた。

 

「そういえばさ、カラキリはなんで旅なんてしてるんだ? 1人なんだろ?」

 

 今更な質問かもしれないが、気になったので訊いてみる。オレとしては、ちょっとした質問のつもりだった。

 

 しかし、意外なことにカラキリは腕を組んで考え込む。訊くべきではないことだったのかと、少し後悔。詮索と思われたのかもしれない。

 

「ムムム……どこまで話して良いのか……」

「いや、話しづらいならいいって。詮索するつもりじゃなかったんだ」

「や、そうじゃないアトラ殿! ふむ、すこしややこしい問題でもあって説明に窮したのだ。

 ざっくり言うとだなぁ……相続のため、だな」

「相続ぅ?」

 

 思ってもみなかった単語に、思わず聞き返す。

 相続といえば、家族なんかが死んだときの、あの相続だろうか?

 なんで相続のために旅なんてしているんだ、こいつは?

 相続人に旅なんてされたら困るだろうに。むしろ相続が嫌で旅立ったという方がしっくりくる。被相続人に多額の借金でもあって、かつ何かしらの理由で相続放棄が不可能。そんな状況であれば、夜逃げと共に国を発つのも頷ける。

 が、相続のために旅に出るとはどういうことなのか。

 

 しかし、そんな流浪の相続人であるカラキリの口からは、オレの想像もしない、まさに異文化な内容が語られた。

 

「わしの国では相続の開始に“仇討ち”を要する場合があって……まあ今回のわしがそうなのだ。

 わしは父を斬った者を討ち取り、正式に“神刀”……つまりは父の地位を引き継がねばならなくなったのだが……いやあこれが本当に面倒で……しかし“神刀”が不在ではのっぴきならぬ状況故、じいに尻を叩かれ海を渡ったという訳だ……。

 はぁぁ…………アトラ殿ぉ……死ぬかもしれんね、わし。

 そもそも父なぞ顔も覚えていないのだしそんなもののためになぁんでわしがいのちをかけねばならんのかちぃともわからんしうんぬんかんぬんかくかくしかじかしのごのとやかくどうのこうの————」

 

 深い、長いため息。

 一度語り出すともう止まらない。余程ため込んでいたのか、カラキリの語り口調は説明のそれではなく、後半は完全に愚痴へと変わっている。

 

 要するにカラキリの父親は海を渡った先で殺され、不運にも居なくてはならない立場の人間だった。カラキリがその父の“地位”を相続するためには“仇討ち”の必要があり、はるばる海を越えて親の仇を探しに来たらしい。

 

 そしてカラキリはこの件で死ぬかもしれないという。カラキリの強さの一端を見たオレには、カラキリがそこらの剣士に負けるのは、ちょっと想像がつかない。つまりカラキリは、父親を殺した相手はそれだけの強者だと見ている訳だ。

 

 父親の強さを知っていることでそう判断したのか、はたまたもう仇の情報を得ているのか……。

 

 そんなことを頭の中で整理しながら、止めどなく溢れる愚痴へ、適度に相槌を続けた。

 

 カラキリの愚痴は、多くの同情すべき事情を含みながら笑いどころもあり、当事者の心情はともかくとしてとても聞き応えのある話だった。木々の雰囲気が変わり、森の終わりを察したルカが歩を緩めるくらいにはである。

 

 結果として森が途絶えた頃には、オレたちはカラキリの事情にそれなりに詳しくなっていたのだった。

 

「カラキリさん。あれで合ってるかな?」

「おおぉ、あれだ! 間違いなくあの街道だ!」

 

 白く幅広な石畳の道を指差して、カラキリは歓喜の声をあげる。

 人の手が入らなくなって久しいのか、街道の石畳からは、その隙間をこじ開けるように逞しい草花が勢力を広げている。

 かなり古い街道だ。普通、こうした街道に雑草が生えても、(わだち)のように馬車の車輪の通る場所だけは草も避ける。

 だが、そうした様子すらない。

 

「あまり使われてないんだな。馬車すら通ってないんじゃないか?」

「むぅ……妙だなぁ……わしが森に入ったときはここまで荒れていなかったはずだが……はて?」

 

 森を振り返って、首を捻る。

 辺りの景色には覚えがあるらしい。

 

 短時間で石畳の道がこんなに荒れる訳がない。となると、単にカラキリが見落としていたと考える方が自然だ。

 だが、なんとなく違和感もあった。言葉にできない食い違った感覚が。

 

「とりあえずは村ってのに戻るしかないんじゃないか?」

「ふむ、今はそれが先決か」

「カラキリさんは村に戻ったらどうするの?」

「大見栄を切ってこのざまだ。委曲を尽くし、叩頭(こうとう)して謝罪する。わしにできるのはそれだけだ……」

 

 言ってカラキリは歩き出す。肩に力が入っている後ろ姿は、カラキリの緊張を如実に物語っていた。

 

 後ろ姿は、一瞬空を見上げる。

 

豊旗雲(とよはたぐも)か。常であれば、慶雲だと喜べたのだろうな……」



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聖堂会談

 

 第6裁神聖堂の一室。高度の機密性を求められる会議に用いられる会議室には、重い空気が流れていた。高い天井も意匠を凝らした壁や柱も、心なしか窮屈そうに色褪せている。

 

 長机に座っているのは3人。人数に対して大き過ぎる長机は、本来大人数での使用が想定されたものだ。

 人数分の他に、椅子はもう一席用意されている。壁に立ち並ぶ者が座ろうとする気配はない。そこは今から来る人物のために用意されたものだからだ。

 

 耳鳴りすら覚える静寂の中、部屋の両扉の向こうから、かすかに足音が聞こえてくる。

 軽く、一定のリズムを崩さないそれは次第に近づき、やがて扉の前で停止した。

 

「ルミィナ様がご到着されました」

 

 外からの声と同時に重厚な扉が開かれると、顧問官の制服姿の女が、室内の視線を一身に浴びながら入室した。

 神域到達者、【紅の魔女】ルミィナの姿がそこにあった。

 

「ごめんなさい。すこし待たせてしまったみたい」

「いいえ、予定の時間にはまだ少しありました」

 

 形だけの謝罪に司教服の女が答える。司祭服の男は会釈をし、白い軍服姿の男は一瞥のみ。

 三者三様の反応を気にせず、ルミィナはカツカツと足音を響かせて室内を進み、残りの一席へ腰を下ろした。

 軍服の男の、対面に座ったルミィナへ対する視線は鋭い。だが、それを受けるルミィナの表情に変化はない。見惚れる様な微笑の仮面は揺らがない。

 

 そんな両者を見て、青い司教服の女は口を開いた。

 

「それでは始めましょう。ルミィナ卿も召還された理由はすでにお察しかと思います。第6裁神聖堂下第18司祭教区のセトナ村()()の件について、ご説明を頂きたいのです」

「————」

 

 ギリと、歯を噛み締める音は、ルミィナの対面から。その隣に座る司祭も、態度に表さずとも心中穏やかでないのは誰の目にも明らかである。

 

 魔女は僅かの緊張の様子もなく——

 

「私からの説明は変わらないわ。嫌な気配を感じたから焼いた。それが全てよ」

 

 ——それが何なのかとでも続きそうな返答をした。

 

「ふざけるなあッ!」

 

 軍服の男がいきり立つ。その隣の司祭も同感なのか、ルミィナに向ける目はもはや睨みつける域に達している。

 

「派遣した調査隊を皆殺しにしておきながら、よくも抜け抜けと! キサマは嫌な予感とやらを理由に裁神教会の兵士ごと村を消し炭にしたのか‼︎」

「あれは不運だったわね。まさか調査隊なんて来ていると思わなかったのよ。知っていれば、辺り一帯を焼き払うような手の抜き方はしなかったわ」

「なぜ事前に確認をしなかった⁈ 調査隊がいなくとも、村人はいたかもしれないとは考えなかったのか‼︎」

「いてもいなくても、私のやることは変わらなかったでしょうね」

 

 ルミィナの飄々とした態度に、男の表情が固まる。額に浮かぶ血管は、今にもはち切れんばかりに浮かび上がり、憤怒の表情には危険な感情すら見え隠れしていた。彼の手元に武器がないのが幸いだった。もっとも、どちらにとって幸いだったのかは言うまでもない。

 

 だが、男の激情も司教が制するように手を掲げることで抑えられた。あくまで表面上のことではあるが。司教はルミィナの態度に思うところがないのか、はたまたそれらを完璧に抑え込める精神の持ち主なのか、変わらぬ表情と声色で魔女に問いを発する。

 

「ルミィナ卿。【魔女】である貴女が現場を詳しく見る前に攻撃を仕掛ける。その“予感”というのは、それ程だったのですか?」

「ええ。反射的に更地にする程度には良くないものがいたわね。もしかすると、“悪魔”でも居たんじゃない? 仮にそうだとしたら、寧ろ感謝を受けても良いはずよ」

 

 ルミィナの視線が、司教へと真っ直ぐに向けられる。悪性へと堕ちた精霊のような“人類に対する害悪”を指す“悪魔”。その“悪魔”の出現を察知できず、悪魔討伐における部外者である【魔女】の手を煩わせたのであれば、それは教会側の落ち度だ。

 

 事が起きたのが第6裁神聖堂の管理する一帯の教区内であれば、その責任は目の前の司教に問われることになる。もちろん、そこで顔色を悪くしている管区司祭も同様だ。

 

 青い顔をする司祭を一瞥してから、ルミィナはからかうように司教を見つめる。そこに娯しみを見出すように。

 

「いいえ、それはないでしょう」

 

 しかし、女司教は変わらぬ表情で断言した。

 それはセトナ村にいたのは“悪魔”ではないという断定でもある。

 その言葉に、ルミィナの目から色が消える。あるのは、その言葉の真意を見定める魔女の目だ。

 

「実は悪魔狩りの実績を持つ聖騎士が現場へ入っていたのですが、その際にやはり“良くないもの”を直感したと言うのです。

 それは悪魔とはまた違うものに感じたが、即座に聖槍の投擲により殲滅。手応えと共に気配の消滅を確認したという報告が上がっています。

 だからこそ、私は調査に聖騎士を派遣せず、聖堂騎士を同行させるに止め、後を管区司祭へ任せました」

 

 司教は一度言葉を切る。

 話を聞いていた司祭は、初めて聞く話に目を丸くしていた。聖堂から聖堂騎士が調査隊の隊員として与えられたのがそういった経緯によるものだとは知らなかったのだ。

 もっとも、即応できる聖騎士がおらず、報告者である聖騎士も対応できる精神状態にないというのも理由だったが、司教は魔女に対しその様な情報を与えるつもりはなかった。

 

 司教は先程より語気を強め本題へ入る。

 

「しかし卿は、その後に派遣された調査隊ごと村を焼き払っています。つまりその“何か”は複数存在しているか、同一個体が復活している可能性があるのです。卿はこの一件は終わったつもりかも知れませんが、そうではないようです。

 以上を踏まえまして、今後は我が聖堂主体で調査隊を編成します。

 その際には是非、【紅の魔女】である貴女にもご協力いただきたい」

 

 その言葉に、ルミィナの目が細められる。この話を長引かせると厄介になる。魔女の嗅覚がそう告げたからだ。

 

「ええ、構わないわよ。何かあれば魔法師協会に使いを送って。話はこれで終わり?」

「いいえ、あと一つだけお願いがあります」

 

 切り上げようとするルミィナに、司教が待ったをかける。

 

「調査に際し、貴女の()への立ち入りをご了承いただきたいのです」

「————」

 

 来たなと、ルミィナは内心舌を打つ。教会から向けられる不信感と恐れ。それらは普段であれば気にもならないが、こういう場面で鬱陶しさを感じざるを得ない。

 協力の了承を受けた直後のこの要請だ。タイミングも上手かった。

 

「そういえば報告が遅れていたわね。ごめんなさい」

「いいえ構いません。ご多忙なのは承知しています。それでは、如何でしょうか」

「構わないわ。ただし、条件として事前の報告と、都度私の許可を取ること」

「それは何故でしょうか? 私と致しましては迅速な調査のためにも——」

「それだと命の保証が出来ないのよ。人を入れる予定はなかったから、色々と準備が必要になるの。事前に完全に解除するのは再設置が煩わしいわ」

「貴様! 煩わしい程度で——」

「分かりました。卿のおっしゃる通りに致しましょう」

 

 軍服を再び手で制し、いくつかの取り決めの後、ルミィナは退室した。僅かに聞こえる足音が遠ざかり、数分して扉の向こうから鈴の音が響く。

 ルミィナが聖堂のこの区画から移動したことを示す合図だった。

 

「はぁ、皆さんお疲れ様でした」

 

 司教の言葉に、他2人の空気が変わる。正確には、元に戻った。

 

「如何でしたか? 何か読み取れたでしょうか」

「すみません……私の眼では、彼女が嘘をついているのかどうか……視れませんでした」

 

 ひと言も発さなかった司祭が、目頭を揉みながら謝罪する。過度の集中による疲れからか、はたまた()()の酷使による疲れからか。

 おそらくはその両方によるものだろう。

 

「ワシは上手くできていましたかな?」

「ええ、本当にお上手でしたよ。おかげで彼女の目をスクルト司祭から逸らせましたから」

 

 柔らかく深みのある声は、誰が聞いても先ほどまで怒号を発していた人物とは思えないだろう。

 自身の役目を全うできたと分かると、軍服の男は声と同じ笑みを浮かべる。

 

 司祭が魔眼に注力することで図らずも生じてしまう“睨みつける”という行為。それを自然に見せるため、“睨む”キッカケを作るための役が、つまりはこの“直情的な中年軍人”だったのだ。

 また、騒ぐ役と冷静に切り込む役とがいることで、司祭が静かなことに違和感を抱かせないという効果も見込んでいた。

 

「しかしスクルト卿の眼でもとなると、魔眼は無理そうですね。これで少しは優位に立てると見込んだのが甘かったようです」

 

 女司教は思案する。スクルトという司祭の魔眼は、その権能自体は嘘を見抜くという単純なものだ。だが単純故に対処が困難であり、性質上防御も難しいとされる。

 魔眼への対処法である〈対魔眼結界〉はなかった。これは確定だ。この聖堂内であれば、目の前の人間が自身の魔力で魔法を構築すれば、司教にはその発現前でも感じ取れる。

 しかし、その感覚は覚えなかった。

 

 ならば答えは自ずと出てくる。イヤリングかネックレス。そのどちらかが魔道具である可能性……左耳か、右耳か、はたまた首から提げた方か。

 その全てだろうとまで思い至って、司教は視線を感じて思案に区切りをつける。

 

「それではワシは次の任務へ向かいますので、失礼いたしますぞ」

「はい。聖騎士ナクラムの放った聖槍の回収を急いで下さい」

 

 司教の言葉に軍服の男は一礼してから部屋を後にし、部下である壁に控えていた者たちも音もなく退室する。

 

「さあ、聖槍はなにを貫いたのでしょう。調査結果は、すこし覚悟をしておくべきでしょうね」

 

 誰にともなく溢れた言葉。それを聞いた司祭は、言い知れぬ不吉なものを覚えるのだった。



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廃村

 

 カラキリと並んで歩く時間を、オレとルカはこの国に関しての説明や、カラキリからのざっくりとした質問への解答に費やしていた。

 質問の抽象度からそんな予感はしていたが、やはりこの男、教国に関しての理解も知識も皆無だ。きっと禁句とされる諸々を平然と口にしてトラブルを招くだろう。そうならないようにしてやりたかった。

 

「じいから銭に困ったら“冒険者”で稼げと言われたのだが、アトラ殿はご存知か?」

 

 その質問はそんなカラキリにしては珍しく、具体的な質問だった。

 

「冒険者か……たしかにカラキリみたいに腕に覚えがあるならいいかもな。“冒険者ギルド”に加入すればなれる」

「あれ? アトラ、冒険者ギルドって……」

「この国にはないな」

「なんと!」

 

 カラキリから驚きの声が聞こえた。が、稼ぎの当てが外れたにしては、相変わらず危機感のない感じだ。何か他に当てがあるのだろうか。

 

「【教国】では浸透してないんだよ、傭兵も冒険者も付け入る隙がない。教会が大抵のことをこなせるからな。3大国で“冒険者ギルド”がまっとうに機能してるのは【王国】、つまりはラハイツ王国くらいだ。【帝国】にもあったらしいけど、国に吸収されて違う機関になってるらしい」

「ふむ……つまりわしは【王国】に向かえば冒険者になれると」

「ギルドに加入できればな」

 

 すこしの間、質問は途切れた。その10秒程度にカラキリは何かを思案したあと、思い出したかのように口を開く。

 

「今さらだが、傭兵と冒険者の違いが分からん」

「あー、まあ……そうだろうな」

 

 たしかに今さらではあるが、カラキリの疑問は割と正しいものだったりする。初めはオレにもよく分からなかった。冒険者に関する記述を何度も繰り返し読み、自分なりに「つまりはこうか?」となるまで咀嚼した。そんな今も、正直オレの認識で合ってるのか確信は持てずにいる。

 

「冒険者はギルドってのが窓口でさ、依頼に関するやり取りはギルドを通して行われるんだよ。

 それに対して傭兵ギルドっていうのはないんだ。ひとりで活動している傭兵もいれば、傭兵団ってかたちで組織だって行動するのもいる」

「あれ、昔はあったよね? 傭兵ギルド」

「まあルカの言う通り一時的にはあったけど、今はなくなってるはずだ。少なくともオレの読んだ本が書かれたころにはなくなってたらしい。

 冒険者が戦争に参加できなかったり、紛争地での活動に制限があるのはそこら辺が理由だ。冒険者ギルドが大きくなると同時に傭兵との衝突が増えてきたんだよ」

 

 カラキリはしきりに頷き、「ほう」とか「なるほどなぁ」とかの反応を返してくる。相槌があると本当に話しやすい。ルカの場合、相槌を返してくれることもあるにはあるが、大抵は目を合わせて黙って聴いている感じだった。あれはあれでちゃんと聴いてくれてるのかもしれないが、正直観察されているようで落ち着かない。

 本人には言わないけど。

 

「傭兵に対しての各領地の規定も“自分たちは傭兵ではなく冒険者だ”って理屈で潜り抜けてたらしくて、傭兵を稼業にする人間からは反感を向けられてた。」

「それで許されるのは些か違和感があるな。強引に過ぎるぞ」

「まあ領地に関しては領主が決めるからな。良くない繋がりとか貢物とかあったんじゃないか?」

「ふむぅ……」

「で、そんな冒険者ギルドに対抗するために結成されたのが“傭兵ギルド”だったと。

 両者の間で色々と交渉が進んで、結果的には冒険者ギルドが譲歩する形で制約を受け入れたって感じだ」

 

 生徒の顔をうかがうが、頭の中でさまざまな考えが浮かぶのか、情報を咀嚼し切れていない感じがする。仕方ないから、最後にざっくりと方針を示そう。

 

「そんな訳で、カラキリが戦場で活躍したいなら冒険者は向いてないし、護衛や遺跡の調査に興味があるなら向いてるんじゃないか? 魔物の討伐なんかもたまにあるらしいぞ? ……まあ、そこら辺は今度は猟師や狩人との衝突があるらしいけどさ」

「ほぉー……! やはりアトラ殿は博識なのだなぁ!」

 

 そんなやり取りを続けていると、道は唐突に迫り上がるような上り坂になった。とはいえ、遥か見上げるほどのものじゃない。小さな丘があるだけだ。

 大した疲れもなく、時間もかけずに登り切ると、そこに不思議な景色が広がる。

 

「わぁー! なんだろう、すっごくグネグネしてるね!」

「すごい地形だな…………」

「そうだったのか。わしは大陸ではありふれた地形かと思っていた……。やはり珍妙か」

 

 視線の先をいく道は、地表に掘り出されたミミズを思わせるほどのたくっている。いや、道がおかしいんじゃない。おかしいのは道を歪めている丘だ。地形の方だ。激しくうねる緑の波形は、信じられないことにその全てが丘だ。

 こうして俯瞰して見てみると、藻に覆われた水面に石でも投げ入れたみたいだ。

 

「あれだ、アトラ殿」

 

 カラキリの指が、のたうつ道の先を示す。

 小さな村だ。距離のせいか、人気が感じられない。不気味な地形に、寂れた村。なるほど、ここへわざわざ来ようとは思わないだろう。道もああなるはずだ。

 

 のたくった白蛇はまだまだ先へと伸びている。その道から少し外れた場所に、その村はある。

 

 カラキリはやっと見つけたと軽い足取りで坂を下り、ルカもそれに続いた。

 

「もうここまででいい気もしてくるな」

 

 一応村も見つけたし、オレとしては十分だった。とはいえ、ルカが乗り気になっている以上は戻る選択肢はない。

 

 傾斜に逆らわずに小走りで下ると、村はもうすぐそこだ。そこまで近づいて、違和感は輪郭を持ち始める。

 急かされるようにカラキリが村へと駆け出し、オレもルカも困惑しつつも村に入った。

 

「そんな……バカな……⁉︎」

 

 村に入ってすぐのところで、カラキリは声を震わせていた。きつねがどうとか化かされたとかいう言葉が聞こえてくる。

 

「アトラ 」

「ああ、そうだな」

 

 オレより早く気づいていたであろうルカに、頷くことで同意する。

 

「誰もいないぞ、ここ」

 

 廃れた家屋、草まみれの地面。草の丈も腰ほどになる。植生が丘と違うのは、土が違うのだろうか。井戸を見つけて覗いてみると、そのどれもが鬱蒼とした雑草に阻まれて底が見えない。

 使い物にならないし、使う者もいないのか。

 

「ん……?」

「え?」

 

 何か言われた気がして振り返ると、当然ルカがいる。やや背伸びしながら、オレの後ろから井戸を覗いていた。

 

「なにか言ったか?」

「? ううん?」

「……そうか。じゃあ気のせいだったかな」

 

 何か言われた気がしたが、ルカはこんなことで嘘をつくことはない。だから、特に気にもとめずにこのことは忘れてしまった。

 

 さて、こうなるとカラキリに話を聞かなければならない。カラキリはこんな廃村で、誰に、何を頼まれたんだったか。

 

「カラキリ」

 

 声をかけたとき、カラキリの様子はすっかり元通りになっていた。いや、むしろ晴々しくすら見える。

 

「これでよかったようだ」

「ん? ……よかった?」

「満足いったと言われた。わしは役目を果たせたと、礼を言われてしまった」

 

 意味が分からず、ルカへ視線を投げる。もしかして、オレがおかしいのかと思ったからだ。

 そしてかわいそうなものを見るような態度のルカを見て、やはりおかしいのは目の前のコイツなんだと安堵した。

 

「まあ……よかったな、それは……」

「ちゃんと寝た方がいいよ? じゃないと幻聴とか幻覚とか、とにかく大変だから」

「む? わしは心配されているのか?」

「カラキリさんもニンゲンでしょ?」

「ルカ殿の予想に違わず、わしはニンゲンで国太刀のカラキリだが」

「じゃあ休まなきゃだめだよ」

「むむ……?」

「ルカの言う通りだ。カラキリ、森で遭難している間、どれだけ寝れたんだ?」

「…………おお、これは不味いな。一睡もしていないのか、わしは」

「寝ろ。とりあえず辺りに危険はなさそうだし、何かあれば起こすから」

 

 「しかし」とか「眠くない」とか言う不眠症患者を、2人で無理やり横にする。幸いここはベッドに困らない。天然素材のベッドに横たえると、眠くないはずのカラキリは瞬く間に眠りについた。

 

「スヤァ……」

 

 嘘みたいに気持ちよさそうに寝ている。

 

「こいつ、絶対ひとり旅に向いてないな……」

 

 さらに、起きていたならともかく、寝ているこいつの顔は可憐と言える少女のものであり、それが一層ひとり旅に向いていない。

 

 だがそんなものを今さらオレが気にしてもムダだ。思わず時間が生まれたことだし、適当にルカと話して時間を潰すか。

 

「ルカ」

「あ」

 

 カラキリの鼻先へ伸びようとしていた長草を、ルカの手から取り上げる。眠ってほしいんじゃなかったのか。

 肩を落としてつまらなそうにしているルカを無視して、オレは続けた。

 

「結局さ、もしもオレが捕まってたら……どうなってた?」

「?」

「いや、食べられるとかなんとか……」

 

 あえて分かりにくく逃げたオレの質問は、やはり伝わりにくかったらしい。何のことかと首を傾げるルカは、遅れて質問の意味は“オレがルカから逃げ切れなかったらどうなっていたのか”であることを理解したらしく、新しいおもちゃを見つけた顔を作る。なんかぞわぞわした。

 

「じゃあ、手ぇだして」

「手? …………ん」

「あ~~~~……ぐ!」

「ッおい⁉︎」

 

 指先にルカの尖った犬歯が食い込む。が、初めこそ慌てたものの、本気で噛んでいないことにすぐ気がついた。噛み付くと言うよりは、犬歯を押し当てるようなそれは、甘噛みとすら呼べるかどうか。

 

「アハハ! ビクってした!」

「これだけだったのか?」

「うん。本当に食べられちゃうと思った?」

「……割と捕食に近いことはあるかもって思った」

「えーー⁈」

 

 心底心外だと声をあげるルカ。

 

「アトラって怖がりだよね……」

 

 今度はオレが心外だと訴えたかったが、怖がりすぎた自覚があるだけに声が出ない。ぐうの音も出なかった。

 だから、つい反撃の糸口なんて探してしまい、見つけてしまった。

 

「慎重って言ってくれよ。ルカは怖がりじゃないにしたって、無計画過ぎる。さっきの森での件だって、カラキリが振り向いてたらどうしてたんだ」

「森で……? ……………………、?」

「おいおい……」

 

 その認識のなさはちょっと困る。

 森でルカとカラキリの誤解(?)を解き、2人の緊張も解けたタイミングで、オレは血溜まりや死体に関してルカに説明しようとした。しようとして、振り返った。

 すると、不思議なことに死体も血溜まりも消えていて、代わりに血溜まりのあった場所にはルカが立っていた。一瞬でマズいと思ったオレは、カラキリの背中を押して、とにかくそのあまりにも不自然な現象に気づかせないように振る舞ったのだった。

 

 あれは本当にヤバかった。見つかったら弁解が難しいし、今後あんなことは絶対に繰り返さないでほしい訳だが、当の第一容疑者はこんな意識の低さである。

 

「いや、だからさ——」

 

 オレはため息を吐きながら、“森での件”を説明する。途中で「ああ、そっか」と思い出すだろうというオレの予想はしかし、終始変わらないルカの困惑顔に裏切られる。

 ついにその困惑は説明を終えてすら変わらなかった。その頃になると、困惑はオレにも伝播していた。

 

「おい……? なんで分かってないんだよ……」

「ごめんね、アトラ 。でも……血なんて見てないよ? 死体も……見てない」

「はあ?」

 

 そんなはずない。だってルカも血や死体について何か言って……………………いや。

 ……………………言って、ない。ルカは一度として、あの死体にも血溜まりにも言及してない。

 した気になっていたのは、あんなものを見て何も言及しないはずがないからだ。

 にも関わらず、ルカは言及していない。それはやはり、ルカは見ていない。気づいていなかったことを意味する。

 

 だが、それこそあり得るだろうか?

 ルカはあらゆる面でオレより優れている。それは感覚においても言えることだ。あんな血生臭い、香ばしいものに気付かずにいられるはずが無いのだが……。

 

 こうなると、単純にルカが嘘をついていることを疑いたくなる。が、ルカはこんな嘘をつくタイプじゃないし、困惑が本当であることも、オレには分かる。

 

 じゃあ嘘なのは……オレか? オレの見ていたもの、体験したことが嘘なのか? カラキリはそこら辺どうだったんだ?

 

「…………やっぱり起こそうか」

「えーー! ダメだよ! さっき遊ぶのを邪魔したんだから、アトラも我慢しなきゃダメ!」

 

 厄介なことに、今は聞けそうにない。ルカの視点では、オレはおもちゃで遊ぶのを止めた上に、自分だけは遊ぼうとしている傍若無人として写っているんだろう。割と本気で怒っている。

 

「ん?」

 

 まただ。何か言われた気がしたが、ルカじゃない。カラキリか……?

 

「むにゃ……ちよぉ……それはしんでしまうぅ……ぅぅ、む……ぅ」

 

 なにやら魘されてはいるが、違う。

 

「どつしたの?」

「……いや、また何か言われた気がし『————う』っヅおうェ⁉︎⁉︎」

「キャッ!」

 

 跳ねるように立ち上がる。そのとき、ルカと衝突して転んでしまった。

 

「わ、悪い!」

「どうしたの⁈ なんかアトラ変だよ?」

「今の聞こえなかった——の————か————」

 

 視界に違和感。違和感の正体はすぐにわかった。視界の隅に、足が見えている。素足だ。ルカでもオレでもカラキリでもない。

 

「……………………」

 

 見上げる過程。視線を動かす中で、それは段々と増えて行き…………見上げるころには、足の数は10人単位に増え、足の数だけの人の顔がオレたちを見下ろしていた。

 



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厄介ごとはどこにでも

 

「ッ‼︎」

 

 身体は勝手に動いた。弾かれたように左腕が跳ね上がり、伸びた黒い爪は唸りを上げて空を裂く。

 手応えらしいものは感じられない。それが爪の切れ味によるものではないと直感して、押し倒してしまった少女と、少女のような男を引っつかむ。

 

「走る! ルカは刀を離すな!」

 

 返事は待てない。行手を阻む連中を下に眺めて、着地する。そしてすぐに加速した。もしもヤツらに実体があるなら、蹴った土砂や石で殺せたかもしれない。それくらいには全力だった。

 

「なんだ⁈」

 

 違和感の原因はすぐに分かる。走っても走っても、この廃村から出ることができない。確かに走っている。今更にカラキリが慣性に殺されてはいないかと心配になるほどにだ。

 

 だが、たどり着けない。あの、確かに見ているあの坂を駆け上がることができない。辿り着けないのだ。

 

 すぐに悪寒がした。

 

「ッ、調子に————」

 

 視界を紅く切り替えて、ありったけの殺意を込め振り返った。

 

 顔が……あった……。

 

「————————」

 

 コンマ数秒の、しかし永遠に思える不気味な一瞬。疲れ切って生気を失った目が、無感情に向いている。そして正面から見つめる男の顔が、表情が動き、口を開いた。

 

『————』

 

 それっきり、ヤツらの全てが掻き消えた。本当に、消えてしまった。

 

「………………『ありがとう』って、なんだよ」

 

 救ってくれて、ありがとう。そんな声とも意志ともつかないものを残して、ヤツらは消えてしまった。本当に全てが一瞬で、訳が分からない……。白昼夢と言われれば信じてしまいそうだった。

 後に残されたのは、突然蛮行を働いた男が1人と、その蛮行を咎める目。そして…………。

 

「うっ、ぷぶ……」

「っ、無事か、カラキリ⁈」

「ゥおrrrrrrrrrrrrrrッ‼︎‼︎」

 

 びちゃびちゃと全てを吐き出すグロッキーだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「ハグ! むぐ、もぐ。アグ! ムグ!」

 

 机に並んだパンやスープや塩辛い何かの肉が、次から次へと消えていく。それを豪快だとか気持ちがいいとかいう声が聞こえてくるうちは良かったが、カラキリのペースが空になった皿を10枚積んでなお衰えないのを見ると、次第にざわめきも消えて、20枚目を超えた今、店内には大食らいの咀嚼音が響くのみだった。

 

 オレの隣にいる人物が、面白そうに眺めている唯一の観客だ。どうやらどこまで入るか気になってしまったらしい。積み上げられていく皿を、にこにこと見上げて『おかわり』を注文している。

 

「いやぁかたじけない。宿の手配のみならず飯まで馳走になるとは」

「オレはなにも。飯代はルカ持ちだ」

「カラキリさん、まだ食べられるよね?」

「む? いや、流石に腹8分目——」

「じゃあ入るんだ」

「入りはするが、わしはほら、国太刀ゆえ。国太刀たるもの常在戦場の構えでなくては。満腹で動けぬなどという醜態は——」

 

 国太刀がなんなのか知らないが、見上げた姿勢である。が、この大富豪の真祖にはまるで関係なかった。無情にも注文された品々が運ばれてくる。カラキリは出された以上粗末にできんと、ややペースを落としながらも平らげていく。

 そんな健気な奮闘を眺めながら、オレはなぜこうなっているのかを思い起こしてみた。

 

 自分のせいで完全にノびてしまったカラキリを背負い、ルカからは怒りと戸惑いと心配がごちゃ混ぜになった態度を取られながら、オレはとにかくカラキリを安全な場所に届けてやらなければならないと考えていた。

 

 本来そこまでする気はなかったはずだが、それはこいつに元気が有り余って見えたからだ。弱ってしまった————もとい弱らせた今のこいつを放っておく気にはなれない。

 主な原因がオレ自身なら尚更に。

 

 そんな訳でルカとの間に微妙な気まずさを抱えながら歩き続けてしばらく。日は真上を過ぎて、復路を数歩進んでいた。視線の先に町を、今度こそ本当の平凡な町を見つけたのだった。

 そこで安宿を見つけてカラキリの部屋……というより()()をとり、そのころには歩けるまでに回復していたカラキリと別れを告げようとしたところで、カラキリも()()()を見たことを告げられた。

 

 結果、ルカはようやくオレの言うことを信じてくれた訳だが、思わぬ助け船を出されたオレとしては、何か礼をしたかった。そこでカラキリに何かしてほしいことはないかと尋ねたが、なぜかカラキリは頑なに拒む。

 曰く、これ以上何かしてもらうわけには行かないらしい。

 

 しかしそこでカラキリの腹の虫が鳴いたことで、こうして量だけは揃えた店に入ったのである。ちなみにオレは無一文であることに入ってから気づいたため、支払いはルカということになった。使い方がよく分からないからと、支払い自体はオレがするみたいだが。

 

「ぐく……もう……入らン……」

「おいまた吐き戻す気か⁈ もうやめとけ!」

「しかし…………」

「注文した分はオレが食べるって……いいから少し休んだ方がいいぞ。今にも破裂しそうだその腹」

 

 かたじけないとか細く呟いて、カラキリは外の空気を吸いに店から出る。それを厳つい顔をホクホクさせた店主が見送った。思わぬ上客だ。そりゃ上機嫌だろう。

 

 というか、あのオッサンはオレたちに支払い能力がない可能性を疑わないんだろうか? ……疑わないんだろうな。なんたって、ルカの姿格好は完全にどこぞのお嬢様だ。身に纏う物も空気も違う。

 

 冷や汗を流すカラキリの後ろ姿が見えなくなったのを確認して、オレは皿の枚数を数えているルカの方へ顔を寄せる。「ろくじゅうし……」とか聞こえた。

 

「なあ、ルカ。結局ルカはあの廃村で本当に何も見なかったし感じなかったんだよな?」

「うん。アトラがおかしくなっちゃったんだって、本当に心配した……」

「悪かったな。でさ、オレやカラキリの話を聞いて、こう……何かピンと来たりはしないか? ヤツらの正体っていうかさ、これかも知れないみたいなヤツ」

「う~ん…………」

 

 視線で天井を撫でながら、指でテーブルをコツコツとする。こういうときのルカの仕草は、ルミィナさんの影響を多分に受けていた。

 が、ルカがやっても子供っぽいだけだ。本人は至って真剣なので、あえて口には出さないが。

 

「聞いたことないと思う。ルミィナが教えてくれたことはないはずだよ? 私から訊いたこともないから分かんない」

「あれが何だったのかは分からずじまいか。何となくオレが止めた魔法陣と関係ある気がしたんだけどさ…………ああ、それも見てないんだったか」

「うん」

 

 今のところ、ルカにも分からないならお手上げだ。あとはルミィナさんに訊くくらいだが、おそらく話だけでは何とも言えないんじゃ無いだろうか。

 その場合、あの魔法陣の場所までもう一度行けるかどうかも問題になってくるし……そもそもルミィナさんがそこまでしてオレの疑問に答えようとはしそうにない。

 

「はあ」

 

 そこまで考えてから、オレは今回の件をため息と共に忘れることにした。考えても分からないし、いつまでも悶々とするのはストレスだ。

 

 ため息ついでに少し小言が出てしまったのも、まあ仕方がないだろう。

 

「話は変わるけど、ルカ。さすがにどの貨幣がどの程度の価値かは覚えておけよ。物々交換でまわる村ならともかく、この先街に行かない訳じゃないだろ?」

 

 知識がなければトラブルも増える。騙されて気づかず大損するなんてしてほしく無い。そもそもこれくらい知っておかないと1人で買い物もできないわけで。

 

「あまり使わないからすぐ忘れちゃうんだ。うん、ちょっと頑張ります」

「おどけてるとこ悪いんだが、ルカは今まで金を使って来なかったのか? なんかいつぞやに行商人から買ったとか言ってた……なんだっけ、ほら。なんかあったろ、いくつか。そのときはどうしたんだよ」

「普通に買ったよ? ちゃーんと目を見て()()()したら、いいよーって」

「それ、おまえ……!」

 

 イタズラっぽく笑いこともなげに言ってのける盗賊に、反省の色はない。オレは呆れからくる硬直から解けると、さらに声を潜めた。

 

「魔眼で言うこと聞かせて受け取るのを“買う”とは言わないんだよ……! それは“強奪”だろーが……っ!」

「ち、ちがうよ……ふつうに——」

「“お願い”禁止な」

 

 全くとんでもないヤツだ。ところ構わず力を使うなんて、絶対にいつか教会に見つかることになる。ルカにとってこれがどれだけ自然なことで、『魔眼を使わない』ことが『指を使うな』くらい煩わしいことだとしても、それは慣れてもらわなければ困る。

 教会にあまり詳しくないオレたちは、少なくとも注目されるのは避けなければならないはずだ。

 

 表情を暗くするルカに胸を痛めつつ、ここは心を鬼にして——吸血鬼が言うのもおかしな気がするが——きちんと徹底すべきだろう。

 が、さすがにちょっと思い詰め過ぎている気がする。言い方がキツかったか? いや、これくらいで……だけど、なあ…………。

 

「どうしたんだよ、ルカ。その、一応これでもルカのためを想って——」

「————かな?」

「へ……?」

 

 何か言われた気がする。とても不吉なことを言われた。脳が聞かなかったことにするくらいには、不吉なことを。

 正直2度と聞きたくないし、聞き返すなんてまっぴらごめんだったが、そんなこと怖くて出来なかった。

 

「なんて……言った……?」

「お金、足りるかな?」

「…………うそだろおい。ちょ、ちょっと見せろ!」

「はい」

 

 あっけなく渡された革製の包みは、ズシリともジャラリとも言わなかった。すぐさま中を確認して、天を仰ぐ。天井に巣を作った蜘蛛が、引っかかったホコリにそっぽを向いていた。

 

「ルカ……」

「ごめんね……」

 

 さすがにしょんぼりするルカに、さてどうしたらいいんだと頭を抱える。おそらく足りなければ足りないで、魔眼を使うつもりでいたんだろうルカの軽率さにも、なんだか本当に頭が痛かった。

 

「アトラ。やっぱり今回だけは——」

「ダメだ」

 

 ルカの言わんとすることを、機先を制して止める。

 

「ルカ。この町にも一応教会があっただろ? 迂闊なことはできない」

「でも……う~ん…………」

 

 この町の中央の広場に教会と司祭館が建っているのを見た。そのお膝元で真祖の力を行使するなんて、あまりにも危険すぎる。

 

「お嬢様。お食事は楽しめましたかい?」

「えっ? あ」

「……………………」

 

 人が近づく気配には気づいていたが、コイツか……。

 

「お食事が済みましたら、へへへ、そろそろ」

 

 慣れない表情をしているせいか、店主の精一杯の笑顔が恐ろしい。いや、それとも胸の内のやましさがそう見せているのかも知れない。店主の視線はオレの手元を伺い、手は今にも数日分の稼ぎを受け取ろうと震えていた。

 

 つまり、もう誤魔化しようもなかったのだ。

 大黒字が一転、実は大赤字だったと知れば、この厳つい笑顔も真っ赤に染まるんだろうな、…………憤怒で。

 

 そんな確定した数秒後の未来を認めて、オレは重い腰を上げるのだった。

 



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教会の地下牢から

 

 そこは暗い空間だった。石で出来た壁や床は身体から熱を奪い、鉄格子越しのロウソクが唯一の灯りだった。年季の入った三叉の燭台に、ロウソクは3本ある。だがそのうち2本は途中で消えてしまい、最後に残った火も小さくなりつつある。

 だがそんな頼りなく揺らぐ火も、ついには消えてしまった。

 

「……………………」

 

 それきり、辺りは闇に飲み込まれた。

 周りが黒く塗りつぶされたことで、それまで辛うじて見えた自分の姿すら見えなくなり、感覚だけが目に見えない形を持って残った。

 常人であれば、冷えと暗闇に心を圧迫されるだろう。成人した男であっても、闇へ対する原初の恐怖に抗えず、子どものように震えたのかもしれない。

 

 が、それは人間であればの話であって、吸血鬼からすればそんなものは痛くも痒くも無いのである。熱が奪われるだとか暗闇だとか、その程度で済むなら跳んで喜ぶくらいだ。奪われるほどの熱なんてないし、暗闇といってもこの程度、不便にもならないのだから。

 

 そんな吸血鬼が頭を抱えている理由は単純明快。この独房が教会の地下であるからに他ならない。

 

「やばい……やっばいなこれ……」

 

 1人でこうしてどれくらい経ったのか。

 湿った土と石の匂いにもすっかり慣れて感じなくなる程度にはいるらしかった。

 

 ルカはここにはいない。教会の人間相手に暴れられても困ると、ルミィナさんへ帰りが遅れることを伝えておいて欲しいと言って無理やり帰した。

 いや、これは我ながらいい手だったと思う。何せこれでルミィナさんへ状況の報告ができるし、何より無断で帰るのが遅れては、今よりも恐ろしいことが待ってそうだ。

 オレにとって1番身近な死が、【紅の魔女】ルミィナその人なのだから。

 

 カラキリは知らない。連行されるときにどこからか苦しげな呻きが聞こえたが、もしかしたらあれがカラキリだったのかも知れない。まあ、そんなことは今さらどうでもいいのだ。問題はこれからどうするかということで————

 

「っ、…………」

 

 思案に耽ろうとした最中、微かな音を耳が拾った。それは足音だった。1人じゃない……おそらくは階段を2人で降りてきている音。少しして、音が変わった。徒歩で、明らかに近づいてきている。

 

「刑の言い渡しか……? 今回の場合は……どういう罪なんだろうな。窃盗……あたりが妥当か」

 

 もしも窃盗なら、刑は大したことにはならないはずだ。基本的に、余裕のある国ほどこの手の罪は軽いものだったりする。そして教国は当然豊かで余裕のある国だ。

 個人の経営する店であれだけの量を出せるほどの余剰食糧のある教国であれば、なおさら重罪にはならない気がする。

 

 逆の可能性があるとすれば、宗教的価値観から窃盗が重罪になるパターンだろう。この場合、極刑は極めて現実性を帯びてしまう。

 そうでなくとも、手とか指とかを切断するような刑罰でも困る。不便だとか痛いだとかでは当然ない。単純に、#切れない__・__#のを説明できないからだ。

 

 さまざまな考えが頭をよぎる。が、足音はもうそこまで来ていた。

 

 鉄扉が大きな音を立てて開かれ、やはり2人の人間が入ってくる。最初に見えたのは、意外なことに修道服姿の女性だった。手には小さな灯り。細いロウソクがある。その光があまりにも弱々しく、女性の顔と胸元までしか照らせていなかった。

 

「起きていますか? 私が見えるでしょうか……? ああ、こんにちは。もう、ちゃんとお返事してくださいね」

 

 目の前まで来た修道女は、目を細めながら囚人を見つける。と、おそらく笑顔を浮かべて、手に持つ灯りを近づけてきた。

 

「さ、外はスッカリ明るいですから。ここで目を慣らしてしまいましょう。でないと、目を傷めてしまいますよ」

 

 ゆったりとした話し方で、しかしはっきりとした声だった。口から飛び出た、こちらを労わるような言葉に、つい余計なことを言ってしまう。

 

「オレは罪人だろ? なんでそう丁寧なんだ」

 

 教会の人間への警戒心も相俟って、我ながら典型的な悪人のセリフである。猛烈にやり直したい気持ちをグッと堪える。

 

「あなたはすでに罪を償い、赦されましたから。さ、今開けますよ。もうすぐで外へ出られますからね」

 

 金切り声をあげて、鉄格子の扉が開く。オレが身を屈めて牢屋から出たのを確認すると、女性はゆっくり先導を始めた。鉄扉の前には兵士姿の男が1人。オレの後ろへ回り込むと、そのまま着いてくる。足音から、2人の内のもう1人だと分かった。

 

「足元に気をつけてくださいね。見ての通り、ここは暗いですから」

 

 鉄扉が並ぶ暗い通路を進むと、程なくして石の上り階段が見えてきた。見上げると、大きな両開きの鉄扉の隙間から、懐かしい日の光が溢れている。

 

「ゆっくり開けますからね」

 

 扉は宣言通りの速さで開かれる。意外にも扉は軋まず鳴かず、滑らかに動いた。

 視界の光度が一気に上がり、日にあたった空気特有の香りが全身を打つ。外は本当によく晴れていた。

 

「あちらへあなたを待つ者があります。しっかり謝罪をしておきなさい。半日であなたを赦した方です」

 

 言われるまでもなく、その人影には気づいていた。周りを見てみると、ここは教会と司祭館の間にある空間らしい。視線の先には、広場へと続いているであろう細い路地。その途中に、待ちくたびれたという風で立っていたのは…………。

 

「あんたは……店の……」

「おう、ちゃぁんと反省したか、盗っ人?」

 

 盗っ人の被害者であるところの店主のおっさんが立っていた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「じゃあ、オレはこれで」

「まてまて、そう警戒するこたぁねえだろーに」

 

 解放……もとい釈放されて、半日ぶりの娑婆の空気であった。なぜか何も言わずに一緒に歩く謎の時間も、もういいだろう。

 いつの間にか目の前にはおっさんの店がある。ここまで来れば、後は帰るのみ。そう思っていた。

 

「ほれ」

「?」

 

 店主は店先に立っていた子どもから籠を受け取ると、それをそのまま突き出してくる。持っていけとでも言うように。

 

「これは……?」

「いいからほれ、取っとけ」

「…………食べ物」

 

 中を見ると、パンやら干した果物やらが入っている。身に覚えもないので、おそらくくれたんだろう。だが、なぜ?

 

「半分は昨日の嬢ちゃんに渡してくれ。気持ちのいい食いっぷりだった方だ」

「あ~……ああ、分かった。大食らいの方な」

 

 一瞬カラキリは男だと弁解しようと思ったが、意味のないことだと気づいてやめる。それにちょうど良い。カラキリに別れの挨拶くらいはしても良いだろう。

 

「ああ、それとな。俺への賠償金は小銀貨8枚ってとこだ。あんな立派な御令嬢に仕えてんだ、すぐだろ?」

「…………は?」

 

 今、心底から理解できない、したくない言葉を聞いた。おっさんは厳つい顔をいやらしく歪めている。おそらくほくほく顔というヤツだ。人相の悪さから、向ける相手次第では事案である。

 いや、そんなことよりもだ。

 

「賠償金って、オレは地下牢に……」

「おうおう、その顔は分かって言ってやがんな? まだ償ったないのがあるよな?」

「ぐ…………ムダに学がある……」

 

 そう。オレが地下牢で一夜を過ごしたのはあくまで刑事責任に基づくものだ。まだ民事責任は償っていない。混同しやすいここらをうやむやなままそそくさと消えるつもりだったが、厄介なことにそうはいかないらしい。

 

「安心しろ、盗っ人。主人やあのお淑やかな嬢ちゃんには請求してねえ。俺も良心が痛むしな。おめえが職なしになっちゃあ、回収できるもんもできねえ」

「……………………」

「なあんだ、納得いかねえってのか? これ以上ないってくらい譲歩してんだ、文句言うなっての。懲罰金は辞退したんだぞ。この倍額請求できるところを、損失額だけを請求してんだ! 感謝の一つもしねえか!」

「え……? 何でそんな損することしてるんだよ」

「おめえがまだ若いから以外あっかよ! 俺も今じゃ一国一城の主だがよ、ひもじい思いもしてきてんだ。観念して反省しやがれ、盗っ人が」

 

 がっくしとうなだれる。たしかに、これは温情以外の何ものでもない。このおっさんはおっさんなりに、最大限の譲歩をした。文句のつけようのないほどの完璧な譲歩。もはや恩とすら言える。

 加えて、見当違いであれ、オレの職や立場を案じてすらいたとあっては、恨みも怒りもできない。完敗だった。

 

 オレは帰って早々にルカへ金の無心をすることを決意し、了承の返答とともに踵を返した。……と、ふと気になることがあり立ち止まる。

 

「おっさん。あんたオレがこのまま逃げるとは思わないのか?」

「ああん? 教会から指名手配されたいほどのバカとは思わねえよ。賠償金って言ったけどな、その半分は教会への罰金だ。直接払いに行くのも気まずいと思ってよ、俺が受け取った金額の半分ずつ、教会へ払いに行ってやる」

「…………あんた、シスターに会いたいだけだろ」

「ぐわははは! まあそんなとこだな!」

 

 獣みたいな豪快さで大笑いして、おっさんは店内へと消えていった。

 さて、借金ができた。耳を揃えて返さないと、教会といらぬ接点を作ってしまう。

 

「はあ……寝食不要なくせして金でトラブル起こすとは……。カラキリのとこ行くか……。この荷物を押し付けないと」

 

 オレはおっさんに渡された籠を引っ提げながら、カラキリのいる町外れのボロ屋へと足をはやめた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「おーい、カラキリいるかー」

 

 埃っぽいボロ宿を床をギシギシ鳴らしながら進み、大部屋に入る。ここには個室なんてない。あるのはこの半ば物置きと化している一室のみだ。

 その端がカラキリの場所になっていたはずなのだが……。

 

「お?」

 

 そこにカラキリの姿はなかった。宿の主人である老婆へ声をかけてみる。

 

「ばあさん、あいつは?」

「あいつってダレだい」

「誰って、客はカラキリしかいなかったろ? ほら、風変わりな格好した、一人称が『わし』のヤツ」

 

 それで通じたらしく、老婆はああと声をあげる。

 

「あの子ねえ。ほんとに別嬪さんで、礼儀正しい良い子だよぉ」

「うん、だからさ、そいつはどこ行ってんの?」

 

 聞き取りやすいように、気持ち声を張って話を遮る。いい加減帰りたい頃合いなのだ。とろとろと雑談に興じるつもりもない。

 

「教会に行くって言ってたよ。旅をしていても、礼拝は欠かさないのかねえ。立派なことだよ」

「教会⁈ なんで⁈」

「教会に行ってやることなんてひとつさね。ああ、なんだか人と会うような話もしてたっけえ? まあ————」

 

 宿から飛び出して、カラキリの姿を探す。見当たらない。すでに教会に到着しているのかも知れない。このタイミングで教会へ行くとなると、その用件はおそらく一つだ。

 

「早まるなよカラキリ……!」

 

 頭にルカとカラキリが会ったときの記憶が蘇る。あのまま放っておけばどうなっていたのか。

 あれを教会相手にやられたら、一体何が起きるのか。

 嫌な予想がいくつも出てくる。

 

 決定的事態になる前に、カラキリと合流する必要があった。それも急務で。

 

 だから、いちいち道なんて使っていられない。オレはここからでも見える教会の屋根目掛けて跳んだ。家屋を飛び越えて、塀を足場にし、最短距離の一直線で駆けた。



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異邦人と修道女

 

 アトラが駆け出すすこし前、カラキリはゆったりとした足取りで町を歩いていた。無論、行き先は教会である。腰には2振りの刀。しかし、これは常に手の届くところに刀を携えているカラキリにとっては、特に深い意味もなければ、当然殴り込みのための武装のつもりもない。

 つまり、アトラの懸念に反して、カラキリはことを荒立てるつもりはなかった。

 

「ふむ、まさに異国。思えば遠くに来たものだ。まるで飽きんね」

 

 島国出身のカラキリにとって、大陸で見るもの全てが新鮮だった。乾いた空気、埃っぽさの中に異国の町特有の匂いを感じる。空気が違うからか、日の光すら違って見えた。故郷とまるで似つかない建築もまた、カラキリの目を楽しませていた。

 

「さて、アトラ殿は達者にしているか。や、アトラ殿なら心配無用か」

 

 カラキリから見たアトラへの印象。それは、とにかく“未知の強者”に尽きる。一見追い詰められているようでありながら、鬼気迫るものを感じない。危険に対する当事者意識の異常なまでの希薄さ。それが無知から来るものでないことは察せられるだけに、なおさら不思議な余裕を感じさせて、ともすればチグハグな印象すら抱かせる。

 “まあ、どうせどうにかなる”。そんな意識が、カラキリには透けて見えるようだった。

 そういう強者に、カラキリは覚えがある。隣国の国太刀がまさにその手の奇人であったのだから。

 

 その後もカラキリはキョロキョロと物珍しそうに、首を横やら縦やら動かして練り歩いた。町は平和そのものだ。ここへ来たとき、その防衛体制の脆弱さに驚愕したものである。

 

 この町にも市壁はあった。壁といっても、面白いことに住居の壁を市壁としたもので、カラキリはその発想はなかったとしきりに感心した。

 が、その後見たものにさらに驚愕してしまう。市壁を囲むように堀が掘られていたが、それがもうほとんど風化して、埋まってしまっていたのだ。

 長く手入れをしなかったのだろう。それはその必要に迫られることが、長らくなかったということだ。

 そこまで察したカラキリは、役割を失った堀が平和の象徴にも思え、知らず口角が上がったものである。

 

 そんな観光客であるところのカラキリは、寄り道もしながら歩き続けて、ようやく教会を前にする。

 

「おお、これが異国の神の家か! なるほど、なんとも面妖な装いだ。爺なぞは侘びも寂びもないなどと酷評しそうだが、ふむ。わしは面白いと思う、うん」

 

 ひとり納得したように頷いて、“さて”と観察。アトラが放り込まれている牢などは、一体どこにあるのか。そうして教会の外観から、もしや地下牢などあるのではと疑い出したころ、ふと昨日のルカの言葉を思い出す。

 

「カラキリさん。明日になったら教会のアトラに会いに行って欲しいんだ。そこでアトラが“たすけて”って言ったら、指示通りに助けてあげて。

 絶対に強引なことはしないでね。アトラが求めたことにだけ応えて。私は助けに行けないから」

 

 なんとなくこの様な意味の言葉を発して、最後に常とは違う、冷たい氷のような目で彼女は言った。

 

“これで本当の友達になれるね”と。

 

 それは紛れもなくカラキリの感じている負目を見透かしてのものであった。

 カラキリにとって、“友”であることに地位も能力も関係なく、それらが自身と同等である必要はない。

 しかしただ1点、“精神的に対等”である必要がある。この1点は絶対条件であり、アトラはカラキリを対等に見ていても、当のカラキリはそうではない。

 遭難していたところを救われたという大きな“借り”。これを返さない限り、カラキリは胸を張って“友”を名乗れないのだ。

 

 少女の言葉に、カラキリはルカへの評価を改めた。一見無垢な少女は、その実鋭い刃物のような女傑であったのだと。

 カラキリには尻に敷かれるアトラの将来像が、まるで見てきたかのように目に浮かぶ。親近感と同情の念から、カラキリは長い睫毛の瞼を一度閉じて、恩人の将来へとお悔やみ申し上げるのだった。

 

「ふむ、しかしアトラ殿はどこにいるのか…………」

 

 捕まったことは聞かされていても、具体的な位置は不明である。関係者へ尋ねるか、はたまた侵入などしてみたものか。ヘタに隠密に自信のあるカラキリには、難しい選択肢といえた。

 

 ウンウンと唸ってやや物騒なことも思案するカラキリだが、やはりその姿はいささか目立っていた。

 

「きみ、こんなところでどうしたんだ?」

 

 このように、当然教会の人間に声をかけられる。

 カラキリに声をかけたのは、教会の扉を守る守門の2人組だった。

 1人は一見親切そうに敵意のない声をかけ、もう1人は帯刀している異邦者に、視線を険しくしている。

 

「む? おお、みたところ教会の関係者か? これは僥倖! すこし尋ねたいことがあるのだが、ここの牢に入れられた者と面会したい。手続きなどはどうすれば良いのか?」

「牢? …………その前に、きみ。その腰に提げたものは、もちろん許可を得ているんだよね?」

 

 その手の申請はここしばらくなかったし、当然許可など得ているはずもないと知りながらの問いだ。

 カラキリに応対している守門の男は、さりげない動作で半歩下がる。反対にもう1人の方は、相方の身体に隠れる位置に移動し、じりじりと距離を詰めていた。槍の石突はすでに地を離れている。

 

 それを当然のように察知しながら、カラキリは刀の鞘へと無造作に手をかけた。瞬間、守門の表情から感情が消え、いよいよ槍の穂先は水平に持ち上がる。

 カラキリの眼前の守門が半身を逸らせば、それを合図にその背後から槍の穂先が突き出されるのだろう。

 だが、守門の予想に反して戦闘の火蓋が落とされることはなかった。

 鞘に手をかけたカラキリは、そのまま刀を鞘ごと投げてよこしたのだ。

 

「危険なことはないぞ? 試しに抜いてみるといい」

 

 硬直していた男が、辛うじて2振りの刀を受け止める。翡翠を思わせる翠の1振りと、これまた格式の高さを伺わせる透き通るような紫の1振り。

 守門の手は、微かに震えていた。傷など付けようものなら、何年無給生活を強いられるか分かったものではない。

 

 しかし、だからといって確認しないわけにも行かない。守門の男は、緊張を努めて表情に出さないよう心がけながら、言われた通りに刀を抜こうとした。

 が、刀がその身を顕にすることはなかった。どれほど力を入れようと、僅かにも抜ける気配がない。始めこそ頑張っていた守門だが、対照的に欠伸などしている容疑者の様子に、徐々に諦めがついたようである。

 

「は、なるほど……びくともしない」

「見かけだけの飾り物だ。旅の道中は危険故、飾り物だけでも提げているのだ」

「そうでしたか。いや失礼しました」

 

 その発言内容がおかしいことは、守門にも分かる。危険だというのなら、こんな宝刀を持つべきではないし、持つにしても隠すべきである。しかし、これ以上踏み込む理由も根拠もないことは、それ以上に確かだった。

 

 そこまで判断して、終わりの挨拶といこうとした守門より先に、のほほんとした調子の異邦人が口を開いた。

 

「しかし、わしはこれでも刀の腕では人後に落ちぬと自負している。

 その上で助言したい。後ろの男よ。人を殺めた経験がないのであれば、役割を交代すべきだと思う。そうも力んでは、視界を遮る意味がない。背に隠れながらああも緊張が伝わるとは、覚悟が足りない」

「っ! なんだ、お前は」

 

 槍を持った守門が、その若さからくるいら立ちを視線で投げる。言い当てられた不快、不気味さ、そして微かな違和感。

 人を殺める覚悟が足りないという異邦人。その発言者からは、言った内容に反して言葉自体に重みがない。それこそ、言った本人がその“覚悟”を持たないかの様に感じられたのだ。

 

 そして、守門の違和感は正しい。覚悟が足りないというカラキリの指摘はもっともだが、カラキリ自身はそんな覚悟を微塵たりとも持ち合わせていない。

 そも、覚悟を必要としないのだ。カラキリにとって斬る際に必要とする気負いなぞ、花弁をむしる程度のものでしかない。

 

 故に噛み合わない。覚悟の足りない未熟者と、覚悟のいらない異常者の視線は、合わさりこそすれぶつかることはなかった。これでは守門の独り相撲である。

 

「剣呑な空気を感じましたが、何かありましたかー?」

 

 とそこへ、守門の後ろから女性の柔らかな声があがった。守門の2人は素早い動作で道を開けるように脇へと避ける。

 必然、カラキリとその女性が向き合っていた。

 

「あら、異国の方ですか? まあ珍しい」

 

 遅くもないのに、女性の声はなぜかゆっくりと聞こえる。張りはあるのに、不思議と柔らかな声だった。この声と容姿故に、この修道女は町でも人気があり、彼女を目当てに入り浸る者など、数えれば司祭が呆れるほどいた。さながら教会の看板娘だ。

 

 薄い金の長髪は透き通るようであり、その体も女性的柔らかさを見るものに予想させる。しかし、決して品を失わない清浄さがある。故に、彼女を美女と称する者はおらず、彼女を話題にあげる老若男女は総じて“美人”という言葉を好んで用いた。

 

 アトラが特に外見への感想を抱かなかったのは、おそらくルカという、綻びひとつない“完成された美”の間近で過ごしていたからだろう。

 そう、カラキリが知る由もないが、彼女こそ地下牢からアトラを先導した修道女レティシカその人であった。

 

「ほぉ……」

 

 現れた修道女を観察して、カラキリの口角は喜びを示していた。平和な中にも、やはり一角の人物はいるのだと、嬉しくなったのだ。平和でありながら、平和ボケはしていない。それが確かな実力によって維持されているのだと悟って、カラキリの機嫌は2段階ほど上振れた。

 

「さて、それでわしはどうすれば良いのだ? 必要な手続きがあれば従う所存なのだが」

「手続きですか? もしや討伐隊に志願されているのでしょうか? 申し訳ありませんが、今アンゲマン神父はいらっしゃらないので、日を改めてくださいね」

「討伐隊?」

「ええ。違うのですか?」

 

 向かい合って、こくりと首を傾げる2人。揃った仕草は微笑ましくすらある。

 守門の男がレティシカに何やら耳打ちすると、彼女はしきりに頷き、花の様に微笑んだ。

 

「まあ、あの素直な男の子に御用でしたか!」

「おお! やはりいるか! それで、アトラ殿に会いたいのだがどこにいる? わしはそのために来たわけで!」

 

 ようやく話の分かる人物がいたと、喜色満面のカラキリ。修道女の手を握りぶんぶんと振る。一方、そんな顔を心苦しい気持ちで目の前にするレティシカ。彼女はこの無垢な笑顔を曇らせることを口にしなければならないのだから。

 

「それが————」

 

 意を決して口を開きかけたとき、彼女は教会へ猛スピードで接近する人影を捉えた。

 レティシカの目が見開かれる。人影は尋常ならざる場所から飛来している。屋根だ。教会前の広場に近づくにつれ、建物は高くなっている。その屋根から高く跳び、今まさに階段下へと着地せんとする人影。

 守門も、カラキリも、道ゆく人々も、皆が呆気にとられた様子でそれを眺めていた。

 

「カラキリッ! 早まるなーーーーッッ‼︎‼︎‼︎‼︎」

 

 ギャギャギャ!と音を立てながら、件の人物は再び教会へと舞い戻った。

 



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無限の残響

 

 少しずつ空が色を変え始めたころ、修道女からの熱烈なオファーから解放されたオレたちは教会を背に歩いていた。

 きもち痩せた気すらするオレと違い、カラキリはパンなどモムモムと頬張っている。

 

「疲れるはずもないのに疲れた。精神的な疲労か、これは」

 

 ため息が漏れるのを堪える気力もない。

 教会と極力接点を持たないはずが、少なくともあの修道女には強い印象で記憶された。

 

「はぁぁ…………」

 

 カラキリを止めるため教会へ駆けつけると、想像とは違った空気と視線が待っていた。事情を聞けば、どうやら今回はこちらのはやとちりだったらしい。

 ならば用はないとカラキリの肩を掴み、教会を後にしようとしたところに、修道女の興奮した声がかけられたのだ。

 

 なんでも近く、毎年開催される魔物の討伐祭が開催されるらしい。危険ではあれ大金を稼ぐチャンスであり、さらには流石は信仰に篤い教国民。虚神の残した“間違い”を根こそぎ刈り取らんと、参加者は大層多いようだ。

 

 だが、ここで困るのが規模の小さな町である。参加している町民を守り切れるだけの手練れがいない。この町の最大戦力は現在不在のアンゲマンなる司祭らしく、今年は不参加もあり得ると覚悟をしていたのだとか。

 

 そんな事情を聞いてもないのに聞かされたのを皮切りに、熱烈な勧誘を長々と受け、こうしてゲンナリと気力を奪われたわけである。

 よくもああ途切れることなくつらつらと喋れるな。息継ぎの間なんてなかったぞ。もう半日も続けられていたら耳から灰になっていたに違いない。

 

「まああれだな。カラキリに渡した魔石がなんで安く買い叩かれたのか分かったな」

「む? わしは買い叩かれたのか?」

「自覚なかったのか……。あのな、本来ならあんなボロ宿じゃなくて、個室に泊まれたはずなんだよ。ってよりアレ、元家畜小屋だぞ絶対」

「ふむぅ……わしはあれで快適だったがなぁ」

 

 呑気にパンを齧るカラキリ。なぜか修道女から施されたものだ。よほどひもじそうに見えたんだろうか。もらったカラキリは何の疑問もなく、屈託のない笑顔でそれを受け取り、こうして上機嫌に咀嚼しているのだった。

 

「それよりアトラ殿。理由が分かったと言うが、わしにはちいとも分からない。ほら、わしは買い叩かれたことにも気づかなかったわけであるし」

「魔物を狩れば魔石が手に入るだろ? で、近々討伐祭なんて祭りがあるわけだし。なら魔石が近く大量に流通するなんて簡単に予想できる」

 

 なるほどと頷くカラキリ。まるきり他人事だ。

 

「カラキリは参加するんだよな?」

「うむ! 旅の資金は多いほど良い! アトラ殿も参加するものかと思っていたが」

「冗談やめてくれ。教会とこれ以上関わりたくない」

「しかし謝礼が出ると」

「それ、実質傭兵じゃんか。教会に傭われるのはちょっと抵抗がある。それに誰かを護りながら戦うなんて、ちょっと荷が重いしな。

 ていうか、謝礼とかいらないんだよ。とっとと帰って、とっととルカから回収するもの回収して、そんで払うものを払ってお終いだ」

 

 そうであって欲しいという願いも込めて、あえて強く断言した。

 はやく帰って、またルカとごろごろとする長閑な日常に戻りたい。

 すこし離れているだけでなんとなく寂しくなるのは、オレが眷属であるせいもあるんだろうか。

 

「そういえば、カラキリ。やっぱりお前の言葉って時々難解だよ。もっと普通の言い回しっていうかさ。そういうのにした方が良いぞ?」

「むむぅ、これでも崩しているのだ……。俗耳に入り易いよう如何に心掛けようと、癖はなかなか抜けぬわけで……むむむ……」

「もう難解な言い回しになってるし」

 

 こりゃ直らないな。

 早々に匙を投げた。

 

「ま、そうは言ってもルカとは普通に話せてたし。意外とどうにかなるのか?」

「ルカ殿はあれで女傑。恐らくはわしの表情から言わんとするところを察したのだろうな」

「ルカがぁ?」

 

 女傑なんていう似合わない単語に、思わず苦笑する。だが、カラキリの顔に冗談の色はなかった。

 

「ルカ殿はアトラ殿が考える以上に聡く冷徹な面がある。夫婦となった暁には、尻に敷かれる覚悟をせねばだぞ、アトラ殿」

「ハ、ないない。言っただろ? オレたちは家族なんだよ。あっちは姉なんだって」

「? わしの国では姉も弟も関係ないが、ここはそうではないのか?」

「ああ。実際に血の繋がりがあろうがなかろうが、一度家族になったなら、もう一度なることはできないよ。姉と弟って関係に決まったなら、それを妻と夫には変えられないんだ」

「なるほど。どうにもアトラ殿は教会を嫌っている節があるが…………そこに原因があったと」

「違うってのに」

 

 そんな具合に取り留めのない話をしながら安宿に戻り、例の店主から預かっていたものを渡す。これにカラキリは大いに喜び、討伐祭の謝礼を受け取った暁にはまた店に邪魔しようと息巻いていた。

 

「じゃあ、オレも帰るわ。カラキリはしばらくいるんだよな?」

「うむ、少なくとも討伐祭が終わるまでは羽根を休めようと思う」

「そうか。じゃあそう大きな町でもないし、また会ったらよろしくな」

「1人で帰れるのかアトラ殿? 道中危険はないだろうか? 少しでも不安があらば、わしを頼って欲しい! 凡ゆる刺客の爪牙(そうが)も叩っ斬って見せよう!」

「刺客を送られる覚えはないって。それに、万が一襲われても、まあなんとかなるだろ。この国に盗賊なんてそうそういないけどな」

 

 自信と使命感を表すためか、模造刀ということになっているらしい刀を抜こうとするのを止める。

 そんなオレの返答に、何が面白かったのかカラキリは小さく笑った。“やはりアトラ殿はそうなのだな”なんてよく分からないことを言って。

 

 そして、断ったのに町を出るまでは見送ると固辞したカラキリとしばらく歩き、感謝の言葉がいつまでも止まらないカラキリから逃げるように別れる。

 

「は、……あいつはまったく……」

 

 町が見えなくなる前に一度だけ振り返ると、律儀に手を振り続ける小さな人影があって、つい口角が上がってしまう。なんだかカラキリとは不思議な縁ができた気がする。実際タイミング如何では今生の別れのはずなのに、なぜかまた会うという確信があった。

 

「またなーーーー!」

 

 最後に大きく手を振って、オレは森を目指すのだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「急げ急げ急げ……! ただでさえ留守番できなかったのにこれ以上の遅れはやばいぞ……!」

 

 ジリジリとした焦燥感に急き立てられて、意味のない独り言が漏れる。帰りは岩山が目印になっている分、一直線に進めばいいはずだった。

 が、実際は木々が何度も体にぶつかって、その度に少しずつ軌道が逸れる。

 その軌道を、樹冠の上まで跳躍することで目的地を確認し、修正する。

 そんなことを繰り返していたら、想定以上に時間を食ってしまっていた。

 

 そして遂にデンと聳える断崖絶壁にたどり着き、休む間もなく踏破する。そして滑り込むように洞窟を進み、扉の前で服の埃をはたき落とす。

 ルミィナは平気でオレを服ごと焼くくせに、オレが服を汚したり穴を開けたりすると氷すらぬるく思えるほどの視線を向けてくる。

 そんな理不尽にも耐性がついてきた自分が、なんとなく哀れだったり。慣れとは時に虚しい……。

 

「よし。入ってルミィナさんに会ったらまず謝罪。それからルカから金を徴収して外出許可もらって…………」

 

 これからの流れを確認しながら、見上げるほどの鉄扉を押し開ける。

 

「……え————?」

 

 知らない場所だった。

 石の床は予想通り。だがそれ以外の全てが記憶と一致しない。見渡しても、神殿にあるような白い石の柱が等間隔かつ規則的に、どこまでも続いている。見上げた天井は彼方まで高く、遠く、暗闇に閉ざされている。白い柱も先端が見えず、途中からその暗闇に飲まれていた。

 まるで黒い蓋をされたみたいだった。

 

「……………………」

 

 暗闇による閉塞感。しかし風の流れがあり、この空間の途方もない広さを想像させる。

 風はどこまでも続く石柱と摩擦し、低い唸り声を発していた。まるでこの暗闇の空間そのものが呼吸しているような、大きな生物の体内にいるような、そんな妄想が掻き立てられる。何かが間違えているのに、それがわからない不快感。

 ツゥと、汗が滴った。

 

 ようするに、ここはひどく不気味な空間だった。

 

「も、戻るか!」

 

 不吉な空気を振り払うために、あえて声を張って振り返る。オレは1歩しか歩いていない。振り向けば当然開かれたままの扉が……出口があるはずだ。

 

「……………………ぅ……そだろ……」

 

 ————扉は無くなっていた。

 

 360度、どこを見渡しても同じ光景。規則的な柱の並びは、方向感覚すらあやふやにする。

 

 完全な孤独。どうしようもなく孤立して、全てが閉ざされている。

 

「ッ……!」

 

 走った。床を踏み砕く勢いで、全力で走った。

 なのに、走っても走っても進んでいる実感が湧かない。景色に微塵の変化もない。

 誤魔化そうとしていた不安が、首をもたげる。

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ」

 

 呼吸が荒くなる。胸が苦しい。

 疲れからでは当然ない。

 

 ただ怖い。

 

 この空間から出れないという未来が怖い。

 

 周りにだれもいなくて、これが永遠に続くなら悪夢そのものだ。

 

 情けないことに、ルカの顔なんて浮かんでくる。

 泣きたいのを堪えるだけでもひと苦労だった。

 

「っ、気配? 誰かいるのか……ッ⁉︎」

 

 がむしゃらに走る中、微かな気配を感じた。もうこの際だれでもいい。無機質な石の床と、白い柱以外であればなんでも大歓迎だ。

 

 だが、頭の中の理性は疑問符を浮かべている。こんな場所にいるものが、オレにとって歓迎できる類のものである可能性は、果たしてどれほどなのか、と。

 

 しかし、そんな理性は孤独と不安が吹き消した。

 

 別に魔物でもいいじゃないか。自分以外の生き物が、この閉じた世界に居てくれるだけで希望が持てるんだから。

 そいつらが生きていける環境がこの空間のどこかにあって、或いはどこからか迷い込んできた可能性があるんだから。それはつまり出口の存在を示しているはずで……いや、示していないのか?

 

「いや! 示してるんだ! 絶対に示してる! 出口がある‼︎」

 

 悲鳴みたいな高い声が反響する。気配はだんだんハッキリとしたものへと変わっていく。

 だから、逆にその気配の違和感もハッキリしてきた。

 

「……なんだこれ?」

 

 血の存在を感知できないのだ。しかし気配は動いている。それもかなりの速さで。

 

 その違和感に警戒心が働く前に、オレは気配の元へと接近していた。

 気配はいつの間にか増えている。

 

 ここに至って、オレはこの違和感と同じものを最近感じたことがあると思い出していた。

 

 これは、例の廃墟で感じたのと同じ感覚だ……。

 

「なんだ……こいつら……」

 

 浮遊する()()を視界に収めた瞬間、死が背筋を撫でるのを感じた。

 



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冥界は口を開いて

 

 初め、それは浮遊するボロ布に見えた。あるものはふわふわと滞空し、あるものは柱の間を器用にすり抜けながら飛びまわっていた。

 

 だが、あまりに想定外の光景にマヒしていた頭がようやく働き出すと、また違った形が見えてくる。

 それはまるきり頭蓋骨だった。人の体ほどある髑髏が、深い紺色のボロ布を巻きつけて飛び回っているのだ。長い布は紺色の軌跡となって、さながら流れ星を思わせた。

 

「……………………」

 

 まずい。

 こいつは、何かまずい。

 

 そんな予感が、さっきから背中を這い回っている。あれはオレを死なせることができると。いかに耐性に優れようと、いかに回復力に優れようと。そんなものとは違う次元で、あれは危険なのだと直感する。

 

「ッ⁉︎」

 

 布が擦れる音がして、咄嗟に身を逸らす。と、とんでもない速さで、ヤツらの1つが大口を開けて通過した。躱しきれずに肩がぶつかり、錐揉み状に飛ばされる。

 

 回転する視界。背中に衝撃を感じて、頭に踵がぶつかった。どうやら柱に背中をぶつけて、ぐんにゃりと海老反りのような形になったらしい。普通ならへし折れるなり千切れるなりしていたはずだ。

 

 そのまま床に着地する。

 と、眼前には髑髏の大きな額が迫っていた。追撃の突進が来る。

 

 が、この程度なら特段大したことはない。

 

「すこしびびったけど、お前らもルミィナさんの試作品か?」

 

 体内の血を硬化させて、片手で髑髏を受け止める。背にした柱が衝撃を支えきれず破断したが、2本目の柱は持ち堪えた。

 オレという杭を打ち込まれ、貫通された柱は上と下とに分たれている。

 

「それでも落ちてこないってことは、床と天井にくっついてるってことだよな…………てことは、ちゃんと天井があるってことか?」

 

 そんな疑問を口にしながら、受け止めた髑髏を観察する。未だに未知の力でオレを押し込もうと頑張っている髑髏を。

 

「なんの紋様なんだこれ。気味が悪いな」

 

 髑髏はよくみると、全面にびっしりと何かの呪紋のような、あるいは一種の魔法陣のようなものが、毛細血管よろしく張り巡らされている。感触はウソのように固い。そのくせ妙な体温みたいな熱を感じて、気持ち悪いことこの上なかった。

 

「言葉が分かるだけの知能はない感じがするな……ん?」

 

 悪寒に従って、視線を上へ向ける。

 

「ぅおぁア⁈」

 

 大口を開けて降ってきた髑髏を、床へ身を投げ出すようにして躱す。後ろでなにやらエラい音がしたが、振り向くこともせずに全力で駆けた。

 

「壊していいのか悪いのかも分からないのに、戦うもなにもあるか! それに、あの口はヤバい! ただ噛まれるじゃすまない何かがある! 絶対ある!」

 

 この手の直感には嫌と言うほど世話になっている。ぶつかられようがのしかかられようが、あの程度であれば大した問題じゃない。問題なのはヤツの口に入った時に何が起きるのかだ。

 

 一瞬見えたヤツの口内を思い起こす。

 

「どう考えても別の空間だったよな……アイツ、何かの入り口なのか?」

 

 見えた光景は、深い霧の中に大きな1枚の鏡が鎮座しているという、不気味で物哀しいものだった。だが、あの光景を目にした瞬間に限って、死の気配は色濃くなり、背筋に悪寒が這い回るのだ。

 

「アレにだけは注意しないとな……チッ、これアイツらだろ、絶対」

 

 覚えのある気配が、追従してきている。それも、気配が1つじゃない。頭が痛くなる数だった。

 

「10や20じゃないよな……」

 

 追いついて来た髑髏を、爪で横薙ぎに払う。

 固い感触と、手応えの無さに歯噛みした。こいつら、ムダに固い上にやたら軽いせいで力がうまく伝わらない。爪で八つ裂きとはいきそうもなかった。

 

 まあ、それならもっと単純にいこう。

 

「じゃあ潰れろ!」

 

 突っ込んできた髑髏を、速度を落とすことなく柱へ叩きつける。けたたましい音を立てて、髑髏はわざとらしいくらいバラバラに砕けた。柱と髑髏が同色なせいで、どれがどっちの破片なのかまるで分からない。

 

「……は————?」

 

 白い柱に、妙な凹凸が…………。それは徐々に浮かび上がり、ハッキリとした輪郭を纏う。まるで、髑髏みたいな…………。

 

「こいつら、柱から産まれてんのか⁈」

 

 だとしたら状況は絶望的だ。柱はどこまでも続いている。柱が見えない場所はない。つまり逃げ場も終わりもないってことだ。

 

 気配に急かされるように、一瞬止まっていた足を動かす。動かしながら、懸命に考えた。

 

「いや、もし柱が全てコイツらでも、一度に出現する数には限りがあるはず…………」

 

 オレが逃げられているのは、ヤツらが後方から追いかけて来るからだ。周り全ての柱がヤツらに変わったら、とっくに捕まっている。

 それをしない以上、やはり何かの制約なり限界があるはずなのだ。

 

 根拠というにはあまりに希望的なそれに、しかし今は縋るほかない。

 

「ッ、鬱陶しいな!」

 

 突進を躱しざま、髑髏を後方へ思いっきりぶん投げてやる。バッカーンという豪快な音を立てて、唸りとも地鳴りともつかない音が長く長く反響する。

 景気良く爆散する様子に、ちょっとした心地よさすら覚えた。

 

 それが慢心だった。

 

「あ————」

 

 真横の柱に、妙な凹凸が発生。

 今オレは、ヤツらの数を減らしたんじゃなかっただろうか————?

 

 出現数に限りがあっても、今こうして減ったなら再出現可能だ。

 

 どこから? それはもう知っている。知っていたのに、理解していなかった。

 

「ぅ————」

 

 開いた口を前に、そんな呻きしか出せない。鏡には固まっている自分の無様な姿が————

 

「うッ、ハ、……………………ぁ?」

 

 衝撃もなく、音もなく。

 オレは深い霧の中にいた。

 

 鏡には全身が写っている。辺りは霧に包まれ、輪郭を保っているのは目の前の大きな鏡だけ。自分の手すら、霞んでよく見えない。

 

「ここは、…………あの髑髏の、中か?」

 

 それとも別の空間だろうか? どうにも意識にも靄がかかっている。

 オレは振り向こうとして…………出来なかった。鏡から顔を逸らすことができない。鏡にはオレしかいない。オレの後ろの光景は、おそらく完全に霧の中。

 

 そこで気づいた。

 この世界には方向がない。だから振り返るなんてできない。振り返る先がない。

 

 この世界には音がない。風もなければ、()()もなかった。

 

 ほら、もう名前も溶けてしまった。この霧は、そういうものだ。

 

 ここにあるのは鏡だけ。

 この世界で唯一の、ただ1点の座標。

 

 だから、唯一確かなそこに縋るしかなかった。

 

「————」

 

 鏡はもう鼻先まで近づいている。

 近づいたというのはあくまで比喩で、そもそも初めからそこにあったんだろう。それともオレがここにあったのか。

 

 オレ……おれ……ぼく…………。

 

 わからない。たゆたっている。身体の感覚がまのびして……霧に混ざってひろがって……。

 輪郭はもう失われている。

 

 逃げなきゃならないのはなんとなく分かるけど、逃げる先が分からない。

 いや……そもそも逃げるって、なんだ……?

 

 鏡には、しらないヒトがいた。

 

 そのヒトはぼくをみておどろいてる。

 

 それに、ひどくかなしそうだった。

 

 知っている。

 このヒトを知っている。

 だって、このヒトは…………。

 

 なぜか涙が、なくなってしまったはずの頬を伝った。

 

「お母……さ……」

 

 忘れてはならないヒト。

 けれど、失ってしまったヒト。

 

 その人は鏡の向こうで叫んだ。

 

「ここに来てはダメ! 離れなさい! 「アトラ」————!」

 

 最後の名前を呼ぶ2つの声で、オレは自分を取り戻した。同時に、全身の輪郭がハッキリと戻り、気がつくと視界に映るのは鏡でもなければ口を開いた髑髏でもなく、黒い髪を靡かせた少女の姿だった。

 

 普段と違う、紅い瞳。白く細い指からは、髑髏の一部だったものが、砂になるまで握りつぶされてこぼれ落ちていた。

 

「ルカ……? あれ、オレ……」

 

 記憶がぼやけている。オレはさっきまで何をしていたんだ……?

 

「アトラ、ちゃんと帰ったときの言葉、言った?」

「え……? …………あ————」

 

 そのとき、ようやくオレは自分の落ち度を理解した。そうだ。帰ったら“あれ”を言えと、たしかにルミィナに言われていた。

 

「っ、ルカ!」

 

 顎を外れんばかりにかっ開いた髑髏が、オレを気にかけるルカの背後に迫っている。咄嗟にルカをつき飛ばそうとしたオレの動きは、しかし止まってしまった。

 

 もう、つき飛ばす必要がなくなったから。

 髑髏はぐにゃりと潰されて、砕けるのでも割れるのでもなく、ぐしゃぐしゃに歪んで床を転がっている。

 

 今見たものは、なんだったのか。

 迫る髑髏の額。そこに、血のように真っ赤な手形がペタペタといくつも浮かんで…………そのままあの固い髑髏を、粘土のように潰してしまった。

 なんの抵抗もなく、抗う暇も与えずに、オレの爪を耐えていた髑髏は、こうして原型も留めずに床へ落ちている。

 

 そのとき聞こえた悲鳴は、髑髏とあの見えない手、果たしてどちらのものだったのか。

 オレの知らない、ルカだけの力。それに薄寒さを覚えてしまい、チクリと胸が痛む。

 オレと助けるためにしたこと、使った力に対して、オレは何を————。

 

「アトラ」

「あ、ああ……」

 

 ルカに促されて、立ち上がる。

 そして、忘れていた“あの言葉”を口にした。

 

「『ただいま』」

「うん、おかえりアトラ」

 

 口にした瞬間、狂った空間がかき消える。

 オレたちは見知った魔女の館にいた。

 

 やっと、帰ってこれたのだ…………。



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第三章 真祖崇拝
哀れな債務者と厄介な目利き


 

 ルミィナはオレに遅れて帰宅した。なんでも、やることが想定以上に多くなったらしい。

 今思えば、ルミィナが先に帰宅していたなら、あんな訳の分からない空間で髑髏と追いかけっこに興じることはなかったのだろう。今回は急いだことが仇になった形だ。なんだかとことん運がない。

 

 ルミィナ曰く、あの空間は防衛用の大結界らしい。侵入した者を中心にして疑似空間を生み出すというもので、常に中心となった人物の一定半径に生成される。その原理上単身での脱出は不可能。オマケに髑髏どもは善なる精霊が反転、若しくは誤って発生した有害な精霊である『悪魔』が召喚した手下のようなものであるらしい。

 ルカに助けられなかったら、あのままオレは消滅していたと告げられて、今さらぶるりと震えた。あの瞬間、本当に消える可能性があったという事実がに眼の奥が疼く。

 

 そうして色々の報告を終えたオレへ、ルミィナはあっさりと。

 

「そう。それじゃあ返済に努めなさい、坊や。教会の取立ては苛烈よ」

「……………………はい?」

 

 まるで教会や店への債務を、オレだけで返済するような口ぶりだ。

 本当に話を聞いていたんだろうか?

 

「いやいやいやいやいや! あれはルカが————」

「食べたのは坊やでしょう。そのカラキリとかいう男が手をつけなかった分は全て自分が処理したと、その口で報告してくれたじゃない。いえ、そもそもそういう事態にならない様に振る舞うべきでしょう?

 ルカちゃんを支えるというのなら、その程度はしなさい。今のところ価値を示していないわよ」

 

 有無を言わせぬ断定。この瞬間、オレは名実ともに債務者となったのだった。

 

 

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 あれからの数日間を、オレはどうやって先立つものを工面するかを考え続けていた。いくつもいくつも案を閃き、そのたびに×をつける。

 

「で、結局はこうなると」

 

 笑顔で見送る修道女に振り向かず、オレは足早に教会を後にする。

 そう、結局オレは教会……というより、あの修道女からの依頼を引き受けた。参加者への紹介のために、後日また来ないといけないらしい。

 

「はぁ……まあこうなったらやり切るしかないもんな……。ちゃんと報酬も貰えるし、賠償してもそこそこお釣りが残るし……」

 

 自分を納得させようと言い聞かせても、やはり釈然としないのはもうどうしようもない。

 

「帯剣の許可もあっさり出たし……これで武器を買えればやることはないか?」

 

 そう何度も往復したくない。ここは吸血鬼の感覚からしてもやや遠いし、森を彷徨うのもめんどくさい。以前は出会わなかった魔物どもが、オレだけになると顔を出してくる。

 いちいち相手なんてする気もないから走ってやり過ごし、その都度脳内の地図は狂わさるのだ。

 

「……ん?」

 

 例の店にことの報告をするために立ち寄ると、店内がずいぶん騒がしい。というより、歓声があがっている。

 

「この嬢ちゃんホンモノだ!」

「次はおれの! おれのでやってみてくれ!」

「今度は目隠しぃ⁈ 本当にデキんのかよ⁉︎」

 

 いかにも間に合わせで急遽作ったという風のステージに、なぜか布で目隠しをした見知った男の姿があった。

 誰であるかは、語るまでもない。

 相変わらず性別を間違われているあのサムライは、まごうことなき国太刀のカラキリだ。

 

 ギャラリーの男衆は、なにやら自分の得物をカラキリに渡したいらしい。

 しかし、なんでまた?

 

「剣舞でもするのか?」

 

 何はともあれ、まずは用を済ませることにして、店主の姿を探す。狭い店内にあの図体だ。厳つい顔はすぐに見つかった。

 

「おっさん」

「おお、盗っ人じゃねえか! 早速支払いに来たのか? ちと早すぎるな……またどっかから盗ってきたんじゃねーだろーな!」

「盗ってくるか! 支払いの目処が立ったって報告に来たんだよ! ……悪いけど、まだ金はない」

 

 「盗っ人」という言葉に、周りの何人かが視線を向けてくる。人聞きが悪いったらないが、たしかに店主にとっては盗っ人以外の何者でもないのが痛いところだ。

 

「ほーん、で? どうするってんだ? てっきりコツコツ返すつもりとばかり思ってたが」

「教会に雇われた。今度魔石を獲りに行くときにはオレも護衛を務める」

「あん? 護衛ぃ?」

 

 眉間に皺を寄せ、いかにも胡散臭そうに睨んでくる。いや、本人にそのつもりはないとしても、そうとしか見えないのだ。

 夜道で出くわしたら、反射的に手が出そうなほどには犯罪者顔だ。

 

 が、その実態は世間知らずな真祖の被害者、その片割れでなのであった。

 

「「「うおおおおおおおおおおお‼︎‼︎」」」

 

 けたたましい拍手と、野太い歓声。何事かと視線を向けると、カラキリが観客から渡された剣を振り下ろした状態で静止している。

 その前で、紙を両手にした男が興奮で赤くなった顔を破顔させていた。

 

 見れば、男の手には2枚の紙。重ねられたそれは、器用なことにカラキリ側の一枚だけが断ち切られていた。

 

「すっげ。あいつ本気で何者なんだ……」

 

 おそらく『国太刀のカラキリだ!』としか返ってこないであろう疑問を口にした。

 チャリチャリと、急造ステージの前にある木の皿へと、銅色の硬貨が投げ入れられていった。

 

 あいつ、これだけで食っていけるんじゃないだろうか?

 

 

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「ここが鍛冶屋か……」

 

 店主への説明も済ませ、なぜかまた食べ物を恵まれてと、少し長居してしまった。

 オレがここへ来たのは、武器が必要だからである。流石に素手で殴るだけでは、悪目立ちする。

 もっとこう、常識的な範疇の文化的な戦い方をしないとだ。

 

 とはいえ、買うからにはちゃんとしたものでなければ困る。粗悪品をつかまされるのはまっぴらだ。

 しかし、残念ながらオレには剣の良し悪しを見分けるような目はない。

 金は教会が報酬から天引きする形で出してくれるらしいから、まあ債務の履行に支障をきたすほど高くなければ、金額面での心配はしていない。

 が、目だけはどうしようもなかった。

 

「そこで先生の出番だ。鑑定頼んだぞ」

「うむ、品定めは任されよう。なまくらなぞ、このわしが許さん」

 

 カラキリ先生の目は真剣だ。先生はあの大道芸の後、自分に剣を渡した客に対して手入れの方法だの心構えがなってないだのと説教していたからな。こと剣に関しては一家言あるらしい。

 

「しっかし教会もケチだよな。どうせなら剣なり槍なり貸してくれればいいのに」

「おお、そのような手が!」

「いや、教会のもんは教会の人間じゃないと使わせないんだと」

 

 ポンと手を打ったカラキリが、話の続きを聞いて消沈する。武器を買わないとならないのはカラキリも同じだ。その場しのぎのウソはこうして後を引く。その時点ではこの町に長居する気がなかったのだろう。

 が、事情が変わり、カラキリはもうこの町で腰の刀を抜くことができなくなってしまったわけだ。

 

「さて、それじゃ……て、カラキリは予算足り——るな」

 

 カラキリの腰に括られた革袋は、中身の重みで底が抜けそうなほど伸びている。武器の相場なんて知らないが、まあ何かしらは買えるだろう。

 

 そんなことを考えながら、オレは目利きを隣に店に入った。

 

 

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 意気揚々と入店したオレは、意気消沈で退店することになる。理由は連れてきたコイツだ。

 

「どうするんだよ……」

「や、今回は先方に非がある。このわしが保証しよう!」

「……お前が怒らせたんだろ」

 

 入ったときとなにも変化がないが、なにも冷やかしのために来たわけじゃない。

 これはカラキリがやれ重心が悪いだの、やれ研ぎが甘いだのと、ケロリとした顔で品評しやがったからに他ならない。店主……にしては若かったが、ともかく笑顔が引き攣って行く様子は胃の辺りに幻痛すら誘った。

 

 これはまずいと察したオレは、取り敢えず斬れ味とかはいいから頑丈なのが良いと、店で1番幅のある剣を手に取ったのだが、カラキリは剣身を指で弾いて音を聞くなり、

 

「アトラ殿、これはダメだ。不純物が多い。恐らく見た目ほどの強度はない。そんなものに命を預けさせるわけには行かん」

「おまっ————」

「では売るものはありませんので出て行ってください。 2度と来んで下さいよ‼︎」

 

 切れ味鋭いカラキリの口撃は、的確に打ち手の逆鱗を斬りつけ、こうして仲良く出禁と相なったのだった。

 

「しかし期待を外してしまったな。いや、わしは大陸の魔剣妖剣を期待していたのだが……むぅぅ……如何にしたものか」

 

 少女然とした顔を曇らせながら、ウンウンと思案するカラキリ。そこに反省の色は微塵もない。清々しいくらいない。

 

「こんなとこにそんな大層なもんあるか……都市に行けばあるかもな。取り敢えず、ダメ元で他に武器を売ってるとこを探してみるか」

 

 ダメ元の行動ではあれ、一応はやってみる。万が一があるかも知れないと。

 が、やはりダメ元はダメ元であり、ダメなものはダメだった。

 

 カラキリは例の店の客らから、適当なお下がりを譲り受けることにしたらしい。よければオレの分も頼んでみると言ってはくれたが、それはまたの機会にと辞退した。

 そういえば、我が家にはさまざまな魔道具が揃っているはずだ。ちょうど手頃なものもあるかも知れないじゃないか。

 教会への用件も済んだことだし、ちょっと帰って探してみよう。

 

 オレはカラキリと別れ、森の光景を楽しみながら家路へついた。

 



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クリシエ教異端派

 

 深い森の中。人の手の届いていない自然。そこへ隠れるように祭儀場があった。

 アトラによって無力化され存在を希薄化させた魔法陣を前に、2人の男がいた。

 

「あ~、これムリっしょ。いくらアビさんでもキチー感じスよね?」

「既に取り込まれた魂は取り出すことができませんからねェ。いえそもそも、取り込まれた以上は既に肉体は死滅したはずですよォ? ご覧なさい……おぉォ……真なる神に仕える者が! 御使(みつかい)を招く礎になろうというのです! なんと敬虔なるかな……! 彼らこそ、真の庭師というものじゃありませんかァア‼︎」

「あれ、喜んでる感じ? 確実に殺されてるっしょこれ。そもそも肉体は不純物になるっつってたし、ウチらの魂とか非効率すぎないっスか?」

 

 黒い仮面に黒い外套。それが2人組の出で立ちだった。

 一方の男が、興奮を露わに魔法陣へ全身を投げ出す。外套の下からは赤い司祭服のようなものが見え、胸当てには黒い宝玉が、怪しく鎮座していた。

 その司祭の様子を呆れて眺めている剣士姿の男もまた、強者特有の空気を纏っていた。

 

 明後日の方向を向いた性格の両者だが、しかし自然体で話している様子は付き合いの長さを示している。

 

 ここは彼らにとって——正確には彼らの組織にとって重要な祭儀場だ。多くの生贄と魔法によってある奇跡を成就されるためのものであり、常に交代で人を配置していた場所だった。

 そして少し前から、送り出した祈祷師たちが帰って来ていなかった。ここは魔物も多い危険地帯ではあるが、祈祷師たちであれば問題なく対処できる。そう断じられる程度には、魔法に精通した者たちだったのだ。

 

 そんな人員で構成された一団が帰投できない事態となれば、最も懸念されるのが教会の干渉であり、聖騎士による襲撃である。結果、何が起きたかを確認し、聖騎士との戦闘が起きようと生還できる可能性の高い者が派遣された。

 それがこの2人組だ。

 

 黒剣の男は戦闘経験の豊富な生粋の戦士であり、その高い魔力感知能力によって、魔力を用いた罠や見えない魔法による攻撃にも反応できる。

 司祭服の男は、彼らの教団では現に司祭の地位にいた。魔法の才能はまさに天賦のものであり、もしも魔法陣が破壊されていた場合には可能な限り修復するのが彼の役割である。が、今回は魔法陣は破壊されたのではなく、魔力源を軒並み抜き去られて無力化されていた。

 こうなると、彼らにやれることはない。

 

 よって、後は祈祷師たちが何者かに殺害されたことと、魔法陣の状況などの情報を持ち帰るだけだった。

 

 そんな剣士と司祭は、唐突に顔を見合わせる。

 

「アビさん」

「ええ、何か来ますねェ。わたしの結界も何なく超えますか。クッフ、素晴らしい」

「その仮面越しだからいいっスけど、アビさん笑うとき表情動かねーのマジ恐いんスよね。てかこっち来るの教会の連中か? ぶっ殺しましょうよ。聖騎士ならやっかいっスけど」

「フゥーム、しかしですねェ。彼らも偽りの神に(かどわ)かされた哀れな者たちです。どうにか洗脳を解き、御使様復活の一助にできませんかねェ」

「いや~、アビさん冗談キツいっスわ。話通じないっスよアイツら」

 

 彼らの教義は正統派のクリシエ教とは大きく異なる。

 クリシエ教の六神(父神・母神・理神・裁神・慈神・導神)は、彼らにとっては偽りの神、神の自称者にして傲慢なる獣の名だ。魔力という奇跡を人間から奪い、独占し、人類を支配下に置いていた魔王とも言うべき存在だ。

 そしてそんな簒奪者を打ち倒し、人類の解放者となった存在こそが、正統派において『虚ろなる神』とも『神の自称者』と称される者だった。

 それを、彼らは『真なる神』とも『解放者』ともいう。

 

 クリシエ教グレアノール派。シグファレムにおいて討伐対象とされている、異端中の異端。

 真祖を『御使様』であり『真なる神』の分身と崇める、まさに邪教と呼ぶべき宗派である。

 

 和気藹々と、しかし殺気を帯びて。

 2人の意識の大半は、これから姿を表すであろう何者かへと向けられている。

 

「あん?」

「おや」

 

 そんな視線の先、森の中から現れたのは燻んだ髪色に病的に白い肌が特徴的な少年だった。

 その虚ろな瞳は、感情というものを感じさせない。だがその薄い唇が開かれると、見た目に反した力強い声が発せられた。

 

「アンタら、こんなところで何やってんだ?」

 

 服装からして教会の関係者には見えない。であれば、わざわざ命を奪う必要もない。

 そんな指示を手振りで受けて、剣士の男は不満の声を飲み込んだ。

 なにを甘いことを。場所を知られた以上は生かして返すべきではないというのに。

 が、あくまでも彼は司祭の護衛としてここにいる。凡ゆる決定権は司祭が持ち、遍く責任は司祭が負う。彼は指示を遂行するのみだ。

 

 男は意識して陽気な声を作り、少年の警戒を解きにかかった。何せ司祭は生かして還すのをお望みである。ならば「怪しげな人間がいた」などと吹聴されるわけにはいかない。

 

「ああ、ちょっと薬草を探しにね」

「えェ、えェ。ここなら一帯を独り占めできますからねェ。あなたも同業者ですか?」

「同業者? アンタら薬でも売ってるのか?」

 

 少年は警戒を解かない。

 むしろ一定の距離から近づこうともしなかった。

 

 その様子に、剣士は内心舌打ちする。

 護衛対象である司祭は、これでも魔法に関してはまごうことなき天才だ。その司祭の結界を抜けた時点で、この少年は優れた魔法師である可能性がある。この距離で先手を許す気はしないが、それでも戦闘は避けたい。

 

「そう警戒しないでくれよ。見ての通り、武器も何も持ってないだろ?」

「それよりも、です。あなたはここで何を? 同業者では無さそうですがァ……迷いましたかねェ」

 

 少年は赤い司祭服の言葉にも耳を貸さない。

 視線は鋭さを増し、意地でも信じる気はないという風だ。

 ——それもそのはず。

 

「アンタら、その黒いナリに武器まで持って……何言ってんだ?」

 

 仮面の下から微かな動揺が漏れるのを、アトラは見逃さなかった。だがその動揺すら彼には意外なのだ。

 

 なぜなら、黒い仮面に黒い外套、一方は何やら曰くありげな黒い剣を装備し、もう一方は何やら禍々しい宝玉を胸当てに飾った赤い司祭。これで武器を持っていないとか薬売りだとか言われても、まさか本気とは思わない。

 そもそも本当に薬売りだったとして、魔物も獣も出る森で武器を持たないなら逆に不自然というものだ。

 

 だが、2人組は本気だった。本気で騙せると考えていた。

 

 当然、2人組も自分達の外見がどう見られるかは分かっている。だが、それでも騙せるという根拠が、この仮面と外套にはあった。

 本来であれば、今の自分達は無個性な一般的風体の成人男性に見えているはずなのだ。声も特徴のないものへと変えられている。武器も気付かれない。

 この仮面と外套は、そういった魔道具なのだから。

 

「アビさん、こいつ」

「ええ……“看破”か“真理”かまた別かは定かでありませんがァ……“眼”、でしょうねェ」

「あらら。じゃあ仕方ないっスね」

 

 仮面の片割れが、黒剣を抜く。剣を動かすたび、剣身に触れた空気が悲鳴をあげる様子にアトラの警戒心は数段引き上げられる。

 

「やっぱり、その仮面からしてまさかとは思ったけどな。お前ら、あの連中の仲間か……」

「あの連中ぅ? ……はぁ~ん、なるほどね。てことは殺したのはお前かよ。

 ——アビさん、ごめん。こいつ苦しめるわ」

 

 身を低くするアトラに、魔法発現前に仕留めようと、今にも踏み出そうとする黒剣の男。

 と、その空気を読んだ上でか読めていないのか。

 司祭姿の男は首を傾げた。

 

「ゼリューさん。ひとつ伺いますが、その黒剣は“母”に下賜されたものですか? 禍々しくも神々しいですねェ」

「なんかやたら強い森貴族(エルフ)から貰いました。神々しいかは分かんないスけど、イケてっスよね」

「……殺して取るのは強奪というのですよ。死者からみだりに物を奪うというのは関心しませんねェ。くれぐれも、彼からは盗らないようにしてくださいよ? そして苦しめぬように」

「そうやってすぐ殺したって判断すんのも物騒っスけどね。ったく、なんだと思ってんだか。ま、殺したんスけど!」

 

 言い終わる前に、黒剣が走る。男は滑るように接近し、徒手空拳のアトラへと斬りかかった。

 

「はアァ⁈⁈」

 

 男の目が見開かれる。

 魔法師と思われた少年。武器も持たない点から、接近戦に持ち込めばすぐに片付くはずだった。

 

 が、一刀で両断されるはずの少年は、男の踏み込み以上の速さで間合いから逃れ、あろうことか跳躍して頭上を超えたのだ。

 

 そう。アトラの戦略は初めから決まっていた。

 それは戦略と呼べるかも怪しいが、あえていうなら全力逃避。得体の知れない敵はとにかく避けるがモットーである。

 ましてや、なにやら司祭じみた姿の人間までいるのだ。黒い司祭服であれば、黒が父神のシンボルカラーである以上は所属も判別できる。青なら理神、緑は裁神といった具合だ。

 しかし、赤がシンボルカラーの教会などアトラは知らない。アトラの知識によれば、赤は忌避される色だったはずだ。それを着用しているような、クリシエ教へ真っ向から喧嘩を売る連中と関わるなぞ、アトラは心底からごめんであった。用もないので退散するのみである。

 

 しかし、アトラに用がなくとも司祭にはある。

 

「なんとも元気なことですねェ。これが若さということでしょうか」

「アビさん!」

 

 仮面越しに微笑みを湛えて、司祭は両手を掲げる。

 地は隆起し、手の動きに合わせるように空中の獲物を包み込む。宙へ浮かぶ土塊は回転を始め、徐々にその色を銀へ、光沢を金属のそれへと変貌させる。

 

 ものの数秒で、銀色の金属球は獲物を捕らえていた。そのまま落下した球体は地響きじみた音をさせ、地へ半ばまで埋まっていた。中には最低限の空洞があるのか、微かに高く硬い音も木霊した。

 さらに圧縮するも内部を剣山のごとき拷問部屋にするも、今や司祭の自由である。誰が見ても生殺与奪は2人組の手中にあるだろう。

 

 無事に捕縛は完了したわけだが、しかしゼリューと呼ばれた男は不満な空気を隠さない。

 

「アビさん、これじゃ切れないんスけど」

「ええ、彼の跳躍を見てピンと来ましてねェ。是非我々の同胞になって頂けないか、と」

「まさかと思うんスけど、そいつに宣教師のマネごとする気じゃないスよね?

 祈祷師ぶち殺したのそいつっしょ」

「真似事も何も、わたしは元々宣教師ですがァ? それにですねェ、わたしの勘が告げるのですよ。

 彼は我々に必要な人材であると。きっと理解し合えますよ、えェ」

「……カーっ! なんだよ殺せねーじゃん! マジで言ってます⁈ ゼッタイ仲間になんてならないってえ!」

「いえいえ、この手の勘は外したことがありません。クッフ、クッククク」

「………………ま、いっか。そいつが改宗しないようなら俺にくださいよ。そんときは刻んでやるんで」

 

 男は名残惜しそうに黒剣を鞘に収める。

 こうなった司祭は頑なであるのを知っている以上に、司祭の勘の確かさを知っている故のことだ。

 司祭が信徒に相応しいと感じたのであれば、おそらくこの奇妙な少年と教団には親和性があるのだろう。

 

「けどアビさん。殺さないなら空気穴はいらないんスか? これ、多分死ぬヤツっスよ」

「ああ、わたしとしたことが失念していまし————」

 

 何か聞き覚えのない音を聞いて、2人の会話が停止する。怪音の出どころは1つしかない。

 

「っ、てめ——」

「なんと……!」

 

 耳をつん裂く銀の悲鳴。

 美しかった銀の球体は、内部からの衝撃に歪んでいく。

 何度も、何度も、何度も。

 そして遂に、銀の殻を突き破り、凄まじい勢いで拳が生えた。

 

 ゆっくりと拳は穴へと戻り、白い指がその穴を押し広げる。球体の檻がギゴゴゴという断末魔をあげ、裂けるようにして口を開けた。

 

 その光景はまるで、何か恐ろしいものが孵化したような錯覚を覚えさせるものだった。球体の裂け口から、ゆっくりと中身が這い出すのを2人は見届けてしまった。

 

「危なかった……本当に厄介だな、魔法って」

 

 言って少年は司祭と剣士を一瞥すると、自身を閉じ込めていた銀の殻を掴み上げる。ボコリと地面を捲り上げながら、見た目にふさわしい重量を持つはずのものが持ち上がる。振りかぶるような仕草は、まるで投球を思わせ——

 

「シィィヤッッ‼︎」

 

 気合いと共に射出される銀影。煌めく残像を残して、銀の球は自らを生み出した親の元へと帰る。

 

「アビさん!」

「守りはお任せしますよ、ゼリューさん!」

 

 即座に銀球を土塊へ還す。が、それでも放たれたのもが停止することはない。黒い雪崩となった土塊は、木々もろとも2人組を完全に飲み込んだ。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 結末を見届けることなく、アトラはその場を離脱していた。これ以上厄介ごとに巻き込まれる前に、彼にとって一番安心できる場所、ルカの元へと足を速めた。

 思えばアトラが外へ出るようになってから、なんだか面倒事を毎度のように引き当てている。

 

 人のいる町では借金を背負い、教会と望まぬ接点を持った。では人のいない森ではというと、怪しげな連中に襲われた。

 もうどうしろというのだろうと暗澹たる思いが去来するのを感じながら、アトラは借金返済後の自堕落かつ安全な生活へと想いを馳せるのだった。

 

 もしもアトラにマトモな対人戦闘の経験があったのなら、2人組の死体を確認しないという失態は犯さなかっただろう。しかし人は経験で学ぶものである。

 火傷をしなければ分からないことは数多く、振り返ればアトラにとっての火傷とは、まさしく今回であった。

 



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念願したもの

 

「そう」

 

 帰り道での出来事を聞いたルミィナの感想がそれだった。徹頭徹尾興味なし。取り付く島のカケラもない。

 

 初めこそ視線がこちらを向いていたが、赤い司祭のくだりで急に無関心になってしまった。

 

 一方で武器が入用であると訴えると、不用品を持ち出していいとの許可が出た。

 

「すごい量だな……」

「ね、アトラ! これなんだろ!」

「んー? なんかの鉱物だなたぶん。えっ、なんか動いてないか?」

 

 教えられた部屋まで来ると、そこはまさに物置き部屋そのものだった。整理されたことがないのか、乱雑にさまざまな物品が積まれている。

 剣や槍、装身具、瓶や宝石っぽいものなどなどのちょっとした山である。床が抜けていないのが不思議なくらいだ。

 

「ルカー、あんまり登ると危ないぞー」

 

 一応注意を促すが、まあルカなら何が起きても平気そうだから、自然とやる気のない声が出る。それすら面白いのか、相変わらずルカはよく笑った。

 

「それでアトラは何が欲しいの?」

「ん? ああ、言ってなかったよな。まあなんか武器になるのを見つけようかなって。ほら、今度『聖絶祭』ってのに出るから」

「わあ! お祭り?」

「魔物を殺すだけだけどな」

「えー! お店は?」

「出ない」

「楽しいことは?」

「ない」

「おもしろそうなのは?」

「ルカが魔物を殺すのがおもしろいなら」

「えー! お祭りなのにつまんない……」

 

 ルカが露骨に肩を落とす。なんでか恨めしそうな目を向けてくるが、オレのせいじゃないぞ。勝手に期待したのはルカなんだ。

 

「アトラぁ、それ出なきゃだめなの? アトラもつまんないよね?」

「誰のせいで行くことになったと思ってるんだよ……」

 

 取り留めのない会話を交わしながら、とりあえずは武器になりそうなものを引っ張り出す。

 オレやルカでも選別に苦労しているんだ。人間が生身でやったら、もう何度下敷きになり、いくつの切り傷を作っていたやら分からないな。最悪死人が出るだろう。

 

 と、何となく気になるものが出てきた。

 

「ん~? あっ! アトラそれ気になるの?」

 

 ガラクタの山を崩落させながら引っ張り出したのは、肉厚のドデカイ剣。暗緑色の剣身を持つ、巨人が使うようなデカブツだ。オレですらズシリとした重量を感じる。

 持ち上げた時に空気を動かしたのか、腕や顔に風を感じた。

 

「なんか……なんでか分からないけど、目についたんだよ。まさかこんなにデカいとは思わなかったけどな」

「アトラは見たことあるもんね」

「見たって、コイツを?」

「うん。なんかお父さんに勝ちたいって言ってたから、あげちゃおうかなって見せたことがあるんだよ?」

「…………それにオレはなんて?」

「持てないって言ってた」

「そりゃそうだ」

 

 オレの父親がどれくらい強かったかは覚えていないが、こんなものを振り回せるくらいなら、そもそも負けっこなかっただろう。

 

 ルカの突拍子のなさには人間の頃から振り回されていたのか。もしや以前のオレもそこそこの苦労人だったのでは?

 

 …………いや、父親も覚えてないでこんなことになっているオレの方が、苦労人という意味では上だろうか。

 

「父親、か……」

 

 今回のゴタゴタが終わったら、ちょっと本気で探すか?

 けどどうやって探す? 見つけたとして、一体どうしたいんだオレは……。

 

「アトラ?」

「ん?」

「どうかしたの?」

 

 思考に沈みかけた意識を止める。横からルカが顔を覗き込んでいた。なんとなく後ろめたい気持ちになって、つい目を逸らしてしまう。

 一瞬でも、ルカと別れて家族との暮らしを送る自分を想像してしまったからだ。

 

「い、いや。ただ、…………そう! こんなデカいのをなんだってルミィナさんは持ってるのかと思ってさ!

 ほら、ルミィナさんは神域に到達した【魔女】じゃんか。じゃあ武器なんていらないんじゃないかってさ」

 

 オレの言葉に、ルカは「う~んと」と虚空へ視線を投げる。無事誤魔化せたみたいだ。まあバレるはずもないんだけど。

 

「たしか……ルミィナが旅をしていたときに、足音がうるさいからって殺しちゃった巨人の武器……だったかな?」

「足音…………」

 

 哀れな被害者の遺品だった。

 まさかそんな理由で殺されるなんて思わなかっただろうし、自慢の武器がこんな場所に放られるとも思わなかっただろうな……。

 

 オレの同情に呼応するように、一際強く風が吹いた。

 オレにはそれがまるで、無念を晴らしてくれとでも言ってるようにしか思えなかった。

 

「持っていってやりたいけど……流石になぁ」

 

 目立つし場所取るし。よほど使いやすいのでもない限り持ち出す気になれない。

 

「使うとしたらこう、か?」

 

 試しに振り上げてみる。どんなヤツでも、これを振り下ろせば叩き潰せる気がする。

 

「で、こう」

 

 斜めに軽く振り下ろしてみた。袈裟斬りにするイメージで。

 

「あっ」

「え」

 

 風が吹き荒ぶ。久々の出番に張り切るような、そんな感情めいたものまで感じられるほど、とにかく豪快な風。それはそのまま風刃となって、目の前のガラクタの山を真っ二つに吹き飛ばす。

 

 耳を覆いたくなる、色々の割れる音。

 鼻を刺激する、ぶちまけられた色々の匂い。

 背筋を凍らせる直感。

 

 予感は確かに。

 混ぜるべきでないものをかき混ぜた突風は、それ以上の爆風を生んで広がった。

 

「や————」

 

 目の前で生じた閃光を前に、「やばい」とすら間に合わない。見えない壁に激しく全身を叩かれて、指で思い切り弾かれた虫みたいに吹き飛ばされた。

 

 

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 時間が巻き戻るように、丸焦げ+至る箇所が破損状態だった物置き部屋は、今やすっかり元に戻っている。

 戻らないのは中身だけだ。

 

「ま、こいつは残るよな。頑丈そうだし」

 

 大きな布で全身を包んだ格好。それが今のオレだった。

 頭から壁に突き刺さったオレを無傷のルカが引っこ抜くと、そこには氷より冷たい目をしたルミィナが、服を失ったオレを見下ろしていた。

 

「そんなに服が嫌いならそうしていなさい」

 

 と言い放ち、ついでに違う壁にオレを突き刺してから消えてしまった。部屋をめちゃくちゃにしたことや、置いてあったものの半分以上を破壊したことに関してはなんとも思っていないのか、特に良しとも悪しともなかった。

 

 ちなみに、突き刺さったオレを無駄にぶっ叩いてきた枝っぱへの怨みを忘れる気はない。いつかお前にも痛みってヤツを教えてやるからな。覚悟しとけよ?

 

「ルカ」

「ん?」

 

 散らばった破片を回収している、枝っぱの枝を引っ張ったりいじったり。楽しいのだろうか……?

 そいつは今後始末をしてくれてるんだ、あまり困らせないでやって欲しい。

 あんまり邪魔させてると、なんかオレが怒られそうだ。

 

「なんでルカの服は無事なんだよ。もし仕入れてるなら仕入れ先を教えて欲しんだが。切実に」

「これ? どこにも売ってないよ?」

「ああ、ルミィナさんからもらってんのか……はぁ」

 

 期待してた訳じゃないが、是非欲しいとは思っていた。それだけだ。それだけ。

 

「アトラもいる?」

「オレにスカートはムリだ。ヒラヒラにもフワフワにもなりたくない」

「じゃあ……よい……しょっ」

 

 足下に血溜まりをつくり、なにやらバシャバシャジャブジョブとする。ああ、枝っぱが慌ててる慌ててる。そりゃそうだ。アイツは今掃除をしてるんだから。

 少しいい気味だが、やはり止めよう。

 

「おいルカ。あんまり手間を増やすのは——」

「これはどうかな。イヤ?」

 

 ルカが血溜まりから手を引き抜くと、何かが一緒に出てきた。服だ。闇に紛れるような暗色は、品のあるデザインながらもどこか暗殺者を思わせた。いや、これはおそらく帰りに襲ってきた連中に引きずられたイメージだろう。

 

 兎にも角にも、ここで飛びつくようなマネはしない。そんな子どもみたく衝動的なことなど——

 

「えへへ、気に入った?」

「…………」

 

 これもカラダは正直だというのだろうか。オレの右手は、主の意に反してバカ正直だった。

 

 その後ルカに下着含めた上下を出してもらい、文化人らしい格好へ戻ることができた。相変わらず目を剥く利便性。力と頑丈さしか取り柄のないオレとは大違いである。その収納能力だけでも分けてくれないだろうか。

 

 というか、こうしてみると本当に自分の下位互換具合を実感させられる。ルカが対等に接してくれるだけに、その事実がほんの少し痛む。

 

「なんで男物の服なんて持ってたんだ?」

 

 どこかのタイミングで買ったのだろうか。それとも、オレと会う以前に先代の居候がいた? …………いや、無いな。それは無い。吸血鬼の体も持たずにルミィナの気まぐれ灼熱波に耐えられるとは思えない。あれ本当に唐突に来るからな……。

 

 ああ、分かった。なんで部屋で爆発が起きても怒らなかったのか。

 散々ルミィナ自身が燃やしてるんだ、部屋を。

 ちょっと思い返しても、部屋の一角ごと焼かれたのは一度や二度じゃない。その度に枝っぱが壁やら家具やら柱やらを修復してたっけ。

 

 …………もしやアイツからのヘイトはこの辺りに原因があるんだろうか? 

 いや、だとしてもオレを怨むのはお門違いも甚だしい。ルミィナに強く出れないからといって、オレの方に強く出てどうする。それでは弱者同士の無益な争いだ。

 やはりここは協力してだな…………。

 

 我ながらバカな考え事をしていると、ルカはあっさりと予想の斜め上の返答をする。

 

「今つくったの」

「ツクッタ? ツクッタってなんだ?」

「だから、今編んだの。アトラの服」

「な————」

 

 絶句する利便性うんぬんじゃない。

 真祖というのはなんでもありか⁈

 こんなの魔法そのものだ……ん?

 

「ルカ。何で編んだんだ、これ」

「え? ん~……なんだろ? 想像したらできるから分かんないや」

「……それ多分魔法だ。ってなると問題はいつまで持続するかだよな……。最悪街中で丸裸だぞ」

 

 そんな理由で捕まるのは勘弁願いたい。

 オレの真剣な問いに対して、何がおかしいのかルカは涙を浮かべるほど笑った。想像したんだろうか。いや、だとしてもそんなに笑うのもひどいぞ?

 

 ひとしきり笑って、ルカは黒のスカートを摘んで見せる。

 

「これも私がつくったものだけど、消えちゃったことはないよ? たぶんね、私が死んじゃうまでは大丈夫」

「つまり永久に保つと」

 

 ニコニコとしているルカだが、こいつが誰かに殺されるのなんて想像できないし、真祖が殺され得る状況になれば先に死ぬのはオレだろう。オレの方が弱いんだから。

 つまり、少なくとも死ぬまではこの魔法は維持される可能性が高いらしい。とりあえずは安心できる。

 

 武器もルカから貰えばいいかとも考えたが、武器は自分でしか使えないとのことだった。

 本当にあったのかよ、なんてツッコミはしない。そういえば、オレを助けてくれた時も槍を生やしていた。

 

「これ、いいな」

 

 爆発で無事だった大きめのククリ刀を手に取る。少し青味のある刀身は、なんともさわやかな色合いだ。月光に照らしても映えるだろう。

 

 色で得物を選ぶとかバカみたいではあるが、爆発に耐えている時点で、オレの基準である「頑丈であること」はクリアしていると見ていいだろう。

 なら、素直に後は好みだ。

 刃物の良し悪しなんて分からないオレには、色くらいしか選り好みできる点がないんだから。

 

「それはね、えっと……瞬間的に大きな力がかかるほど硬くなるの! 本当はもう一本とペアだったんだけどね……遊んでたらこわれちゃった。ごめんね」

「なんだ、どれだけ耐えられるかとかやったんだろ? どうせさ」

「ううん、ゆっくり曲げてみたら折れちゃった。

 その時はずっと硬いままの剣なんだって思ってたから」

「ああ、そうか。そこは気をつけないとか。

 気にすんなよ、そもそもオレに二刀流は荷が重いし。カラキリみたいに器用じゃないしな」

 

 初めからなかったのか、はたまたそこら辺の煤にでもなってしまったのか。この刀の鞘が見当たらない。

 仕方ないから、適当な布を巻き付けて代用とすることにした。

 

 ルカが、こいつをルミィナが入手した経緯を話したがっていたが、どうせどこぞで灰にした犠牲者の遺品だというのは想像に難く無いので遠慮した。

 そんなの聞かされたら、なんかこう、無駄に重くなって仕方ない。

 

 さて、なかなかの収穫じゃなかろうか。

 ルミィナからの好感度が下がったのが致命傷だが、それに無理やり目を瞑れば上々!

 武器が手に入ったばかりか、異常に頑丈な服一式までついてきた!

 

 あとは、咄嗟の時につい素手で対処しないように、このククリ刀に慣れるだけ。

 

 この日以来、オレはこの新しい相棒に慣れるべく、朝夕晩と刀を振り回す日々を送った。

 

 そんな中思う。このままでいいのだろうか、と。

 これでは振り回すのが棍棒でも刀でも変わらないのではないか、と。

 

 頭には、以前余計なマネしかしてくれなかった目利きの姿が浮かぶ。

 剣術というヤツを学んでみるのも良いのではないだろうか?

 

 アイツの刀とは、片刃であること以外に共通点を見出せない。しかし学べることはあるだろう。

 

 唯一の懸念点は、カラキリからそこはかとなく感覚派の天才肌じみたものを感じることだ。

 

「まあ、もう聖絶祭まで期間ないし、頼んでみるかな」

 

 幸い眠りも疲れもしない身だ。反復練習をひたすら続ければ、何とか形にはなるだろう。

 



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出立

 

 刀を振るう。

 鍛錬初日とは比較にならない速度で、ククリ刀は悦びの声高らかに、目前の敵へと牙を剥いた。

 

 眼前の男は翠の美しい刀をククリ刀へ添わせる。蒼い流星に、翠の軌跡が併走する。

 迎撃するためのものとは思えないほど、苛烈な攻撃に対してそれは柔らかなものだった。

 

 蒼の軌跡は不満あらわに地へと堕ち、翠の軌跡は優雅さすら纏わせて————

 

「ッ、——また負けた」

 

 ククリ刀から腕へと這い上がり、オレの首元で停止した切っ先。これで何度目だったか。

 少なくとも美しい刀身に無感動でいられる程度には、オレはこの光景を繰り返していた。

 

 町の外。少しだけ森に入ったこの開けた場所が、オレにとっての訓練場であり、カラキリにとっての教室だ。

 

「いや、アトラ殿も上達がはやいな。この調子ではもう2、3年で追いつかれてしまいそうだ」

 

 汗ひとつなく、変わらぬ調子で言うのはカラキリだ。

 聖絶祭前の残された期間を、オレはカラキリとの剣の鍛錬へと充てていた。

 

 開口一番に言われたのは、刀の形状がこうも違うと、重心も大きく異なる。だから振り方も違うし、戦い方も当然異なる。

 大体こんな意味合いの言葉だったと思う。

 

 どうやらカラキリは、剣術初心者のオレに対して、ヘタに太刀の扱いを教えて悪影響となるのを危惧しているようだった。ククリ刀にはククリ刀の戦い方があるはずだと。

 

 ならばと、取り敢えず手合わせの中で勝手に学ぶ形式でどうかと頼み込み、こうして剣の指南に与っている。

 

 実際学びも多いから、この鍛錬はオレにとっては大変有意義だった。

 

 しかし、どうせならカラキリにとっても有意義な時間にしたい。そこで、鍛錬の後は今度はオレが先生として知識を教えることにしている。

 

 汗が引いてから始めようと思えば、オレは運動で汗はかかないし、そういえばカラキリも汗ひとつなかった。

 いつか汗くらいはかかせたい。

 いつまでも一緒に行動は出来ないが、その程度の実力はつけたい。

 

 もちろん全力を出してということであれば、今とはまた違った結果になっただろう。

 だがそんなマネはしない。この力は人外のものだ。

 全力で行動すれば、それ自体が不審がられる結果を生むし、何よりこの鍛錬でそれは意味がない。

 

 オレは吸血鬼としてカラキリに勝ちたいのではなく、人間として勝ちたいのだから。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「——つまり、神域魔法師が女なら【魔女】だし、男なら【賢者】って呼ばれる」

「ふむふむ」

「教国の【魔女】といえば、【紅の魔女】とか【鮮血の魔女】とか呼ばれるヤバイのがいるぞ。

 性格も最悪だから、間違っても関わるんじゃないぞ」

「むぅ? ……うむ」

「【賢者】で有名なのは、三大強国のひとつであるラハイツ王国の【光輝の賢者】とかか。ヤバイ強さの爺さんらしい。ただ、オレはそのくらいしか知らない。

 一応、大陸で間違いなく最強格だから、常識程度に“そんなのがいる”くらいには知っとけばいい」

「なるほど。【魔女】や【賢者】は、この大陸の強者なのだな」

 

 よくある間違いを口にして頷くカラキリ。

 念のためただしておこう。

 

「いや、神威等級で『神域』に達したからって、それが戦闘能力の高さを示す訳じゃない。

 例えば、首を落とされても蘇生できるほどの治癒魔法を使えるなら、まあ多分『神域魔法師』に認定されるとは思う。多分な?

 けど、剣術にも秀でてない。攻撃できるような魔法も持たない。それならただ死なないだけだ。怖くないだろ? けど、一応これでも【魔女】だか【賢者】だかになる。

 【不死の魔女】とでも呼ばれるんじゃないかな」

「ふむふむ、戦闘に用いる以外の魔法もあるのか。やはりアトラ殿の話は為になる。

 畢竟するに魔法師とは、わしの国で謂う所の陰陽師のようなものなのだな!」

 

 カラキリは大変真面目だ。その上頭も良い。

 

 カラキリの国とこっちとは、言語が違う。

 つまり、カラキリはこっちの言葉をこうも使いこなすほどに学んだわけだ。頭が悪いはずがない。

 

 時たま出る小難しい言い回しや言葉は、もしかすると学習に用いた教材の内容が、やや小難しいものだったのかもしれないなんて睨んでいる。

 コイツの妙な語彙はそこら辺に原因があるのでは、と。

 

「アトラ殿」

「ん?」

「昨日の話で神々が消えて数千年と説明を受けたが、正確な数字は言わなかった。これは、もしや全く記録がないのだろうか?」

 

 神々が消えたのがどれほど前か。それを、『何千年くらい』とすら言わず、ひたすら『数千年』とぼかしていたのが気になるらしい。

 

「いいや? 記録自体はある程度あるよ。正確には9000年ほど前から3000年ほど前までって言い方になるか」

「????」

 

 カラキリは首を捻り、困った様な表情を向けてくる。

 が、話は単純だ。

 

「6神はさ、一気にいなくなったんじゃないんだよ。

 最初に父神が消えてから最後に理神がいなくなるまで、かなり間があったんだ。

 それに、今『最後は理神』って言ったけどな、それだってちょっと争いがある。他の大陸で、理神が去った後の年代に裁神の特徴を持った存在に関して記述があったりもしたんだ。

 だから、そこんとこぼやかして数千年って言い方をするんだよ。あんまり教国の連中にここら辺は突かない方が無難だぞ?」

 

 カラキリは、得心した様にも感心した様にも見える。

 そんな反応をする話だったか?

 

 どこか噛み合わない反応に、ちょっとした好奇心が湧いた。

 

「カラキリの国では、神様とかの信仰はないのか?」

「む? わしの国か?

 ……神、とは違うやも知れんが、天狗信仰はある」

「天狗……」

 

 天狗と聞いても、パッと浮かばない。

 土着の神か? 何かしら自然を神格化させた感じか?

 

「わしの国ではそうした議論はないのだ。

 いつ神が去ったかなどという議論は」

「へー。まあ、教国でこの手の議論が盛んなのは、多分教会内部の影響力争いもありそうだからなぁ。一神教ならもう少し違ったとは思うけど」

 

 教国で最も人気なのは、やはり理神だ。最後までいた上に、最も記録が残されている神なんだから。

 当然、教国民にとっても身近な神となる。理神教会の影響力は絶大だろう。

 

「カラキリのとこの……天狗?はどんな神様なんだよ」

「大したこともない。ただのよく笑う好々爺なのだ。民たちが畏怖し、畏敬する存在とは思えぬほどだった」

 

 懐かしむように、妙な物言いをする。

 それはまるで、親戚の爺さんの話でもするみたいな軽い調子だった。

 

「会ったみたく言うじゃんか」

「? ああ、そうであったな。

 わしの国ではだな、アトラ殿。天狗殿は死にも去りもしていないのだ。

 おそらくすでに齢幾千を数えるだろう。

 

 ——この『翡霊刀』と『紫魂刀』は、国宝ではあるが天狗殿からわしが頂戴したものでな。わしは天狗殿の衣鉢を継いだとも言える」

 

 “おどろいたか!”と書かれた顔は癪だが、こればかりは誤魔化しようがない。

 つまりは目の前のコイツは神の寵愛を受けた神子で、太刀に至っては特級聖遺物と来た。いや、聖遺物どころか神器そのものだ。

 

 カラキリを警戒していたルカの様子が思い出される。

 ルカの感覚はオレより優れているはずだ。何かを感じ取ったからこそ、あれだけの警戒心を示していたのか?

 

「わしのことも良いが、アトラ殿の身の上話も聞いてみたい!」

「…………オレの? オレの、は……そうだな……」

「言い難しは承知の上だが、話せる範囲で何でも良いのだ!」

「話せる範囲、ねえ……まぁ本当に少ないけどそれで良いなら」

 

 言うべきでないことはぼかしながらも、互いの身の上話に花を咲かす。

 何のためにもならない話だと考えていたが、間違いだった。こういうのは心のためになるらしい。

 

 思いの外楽しい時間を過ごし、そんな日々を送る中で、聖絶祭の参加者との顔合わせ……というか、オレとカラキリというイレギュラーの紹介があった。

 

 カラキリはすっかり町に受け入れられているらしく、紹介と同時に広間に集まった町民たちから拍手があがった。

 一部の方向からは“先生”という掛け声も聞かれ、もしかするとカラキリは剣術指南でもしてたのかもしれない。

 

 一方オレに対する反応はというと、“誰だ?”である。

 カラキリと違って、オレの生活拠点はこの町ではない。たまに来ても、教会へ直行するか例の酒場へ行くか、そうでなければカラキリに剣の稽古をつけてもらっていた。

 他の人間との関わりはない。

 

 まばらな拍手すらない中、

 

「よーし、たんと稼げよ盗っ人~!」

 

 という、聞きなれた声援?だけがあった。

 ため息が漏れた。

 

 その後、カラキリとオレは司祭館の中庭へ呼ばれ、そこで一緒に祭りの参加者を魔物から護る、教会付きの兵士と挨拶をした。

 

 その際に、ある程度実力は知っておきたいとなり、聞くや否やカラキリが得物を抜き放った。

 鉈を細長く湾曲させた様な、無骨な刃物。何というか、戦いよりも枝を払う方が得意な感じの得物だ。これがカラキリが誰かから借りたものなんだろう。

 

 カラキリに倣い、オレも相棒を構えて——怒られた。

 真剣でやるはずがないだろうと。

 

 いや、全くその通り。カラキリの無自覚な物騒さに釣られただけとはいえ、割と本気で始めようとした辺り、我ながらカラキリを笑えないのかもしれない。

 

 結果としては、オレの腕は“信頼に足る”との評価を得ることができた。

 膂力を叩きつけるだけの戦い方から脱却したのが活きたのかもしれない。ここは間違いなくカラキリのおかげだな。

 

 そして次はカラキリだったが、ちょっと次元が違う。

 刃を潰した槍は、カラキリの模造刀と触れ合うことすらなかった。ことごとく身じろぎひとつで躱される。

 

 ああ、“振らされる”とはこういうことか。

 横から俯瞰して見れば、男がカラキリの手球に取られているのがよく分かる。

 だが、翻弄されている男の視点では訳が分からないだろう。

 まるで動きを事前に打ち合わせていたかのように、最小の動きで攻略されてしまう。

 

 眺めていた関係者らしき面々も唖然としていた。

 それほどに隔絶した差があったのだ。

 終わったときなど、拍手すら起こったほどである。

 

 まったく、何が『2、3年で追いつかれてしまいそうだ』だ。一体どうすればその域に達するのか、オレには想像もできない。

 

 そして翌日。

 ついにオレたちは出立の時を迎えた。



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丘の上の街 ダ・ムーブル

 

 馬車の振動が絶え間なく続く。

 小さな振動でも、ずっと続くと鬱陶しい。

 できることなら降りて自分の足で並走したいところだが、そういう悪目立ちはもちろんナシだ。

 

 それでも咄嗟に人間離れしたマネをしてしまうかもしれない。だから、今のオレは片耳にいかにも曰くありげなイヤリングと、“実は以前からつけていた”ということにしている不可視の指輪を装備している。

 もちろん、ルミィナからの借り物だ。込められた魔力量こそ大層なものだが、その魔力は無色であり指向性を与えられていない純粋な“可能性”だ。

 つまりこれらは特になんの効果も持たない。

 

 これはいざという時に「この魔道具のおかげなんです」と言い逃れるための、いわば逃げ道だった。

 

「聞いていますか?」

「え? ……ああ、大体の流れは」

「なら良いんですけどね。我々は人の命を預かる立場なのを、くれぐれも忘れないで下さいよ」

 

 オレと同じチームになった男は不機嫌を隠さない。たしか、守門の若い男だ。

 なぜかカラキリを目の敵にしている感があり、とばっちりでオレへの当たりもキツい。

 

 今話していたのは、さまざまな想定外事象へ対する具体的な対応の流れについてだ。

 まあ基本的には、渡された腕輪を使うことになる。

 

 右腕に装着した、銀の細い腕輪を撫でる。ひんやりとした硬い感触があった。

 手に負えない魔物の出現などの事態に遭遇した場合、この腕輪に規定の聖言を唱えると、その非常事態を同じ腕輪を装着している他の人間へと伝えることができる。

 さらに、使用時に自身の位置も伝えてくれるらしい。

 

 使い捨ての物だが、他国へ売ればかなりの財産になるんじゃないか?

 それを全ての護衛へ支給できる辺り、やはり【教国】の国力はずば抜けている。

 

 因みに、流石に参加者全員分はないのか、この腕輪を支給されたのはオレたち護衛と、強力な魔物が出た場合に対応する討伐部隊だけだ。

 つまり、他のチームで非常事態が起きても、参加者たちは把握できないということになる。

 

 そういう場合は、オレたちは参加者へ事態の説明はせず、それとなく安全な場所へと誘導するように指示を受けている。余計な混乱は犠牲者を増やすということなんだろう、たぶん。

 

「…………にぎやかだな」

 

 さっきから絶え間なく聞こえて来る談笑。

 馬車は9台。大型だ。

 先頭の3台が、オレを含めた教会関係の馬車だ。

 オレは3台目の、荷台も兼ねた狭い馬車。カラキリも同じくだが、目の前の男の視線も気にせずに、今もぴーすか寝息を立てていた。

 

 国宝を抱き枕にしているんだ。なかなか贅沢なことじゃなかろうか。

 

 ともかくそんな訳で、教会組最後尾のこの馬車からは後続の町民用馬車からのにぎわいがよく聞こえた。

 話の内容も、誰が最も恐妻家なのかも丸聞こえだ。

 「アイツは変わっちまった」なんて声が聞こえてくるが、おそらくそう項垂れる男性陣が変わらない所為で怒られるのだろう。

 いい歳してノリが悪ガキじみている。

 屁をこいて大笑いしているところに、奥さんの気苦労が察せられるのだった。

 「いい音したなぁ!」なんてはしゃいでいる成人男性らはしかし、何はともあれ楽しそうだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 馬車を停めて、塀も壁もない丘の街を見上げる。

 視界の中央に座するは、なんとも立派な大修道院だ。

 黒い石材を使った厳かで重厚な外観は、カラフルな街並みには際立って目立つ。

 

 丘の街“ダ・ムーブル”。それが聖絶祭における、オレたちの拠点だった。

 

 丘と言っても、なんとも面白い地形をしている。

 緩やかな丘の上に、唐突に切り立った巨大な岩が生えているのだ。

 

 黒石の修道院はその上に建っており、長い階段が降りてきていた。あれで毎日階段昇降すれば、それだけで立派な修行だろう。

 

「どうかされましたか?」

 

 地形のせいか、距離の割に近くに感じる修道院を眺めていると、いつぞやの修道女がにこやかな笑みで立っていた。

 たしか……レティシカだったっけ?

 

「あの修道院が気になりますか? 初めて目にした方は、みなさん見入ってしまいますよね」

「ええ、まあ」

「あそこは『聖エノク・ヴァンセント騎士修道会』の本拠地なんですよ? あなたが聖騎士になりたいときは、門を叩いてみて下さい。入会するだけなら簡単ですから」

「いや。聖騎士になるつもりはない、…………?」

 

 レティシカの手が、そっと頬に触れる。

 微かに震えた手。レティシカは明らかに辛そうな、堪えるような……そんな不思議な表情を浮かべていた。

 

 オレにはその顔をされる覚えがない。

 

「っ、なんの——」

「『聖騎士になるつもりはない』と言いましたね。それは嘘です。そんなにお辛そうな顔をして……苦しいのですか?」

 

 バッと身を引いて、顔に触れて確かめる。

 おかしな点はない。

 視界も通常のものだ。

 紅くない。

 

 ならレティシカの言う辛そうとはなんなのか。

 ……まるで覚えがない。

 

「おーい! 盗っ人~!」

 

 不名誉な呼び名が聞こえた。こんな呼び方をするのはただ1人だ。

 

「じゃあ、オレ呼ばれてるんで」

 

 が、この訳の分からない空気から逃れるには好都合だった。オレは足早にその場を離れた。

 

「明日から7日間の付き合いだな、盗っ人! ちゃあんと働けよ? ケガしそうなときゃあ、他の兵士に任せて退がんだ。俺ぁ別に返済を急かしたりはしてねーからな」

 

 厳ついおっさんのでかい手が、オレの肩をバシバシと叩く。強制的に撫肩にされてる気分だ。

 

 7日間というのは、この聖絶祭の期間のことだ。

 つまりは一週間であり、『虚神日』、『父神日』、『母神日』、『導神日』、『慈神日』、『栽神日』、『理神日』で一周する。

 これは現在の解釈で、神々の消えた順に並んでいる。故に理神が最後だ。

 これが実は栽神が最後に残った神だとなれば、もちろんこの並びは変わる。

 

 『虚神日』に関しては『逢魔日』とも呼ばれ、新しく何かを始めるには適さない、縁起の悪い日とされる。結婚なら『父神日』だし、出産なら『母神日』が縁起が良いとされていたりと、色々と意味を持たせているようだった。

 

 ちなみに今日が縁起の悪い『虚神日』である。当然、教国の祭り、その始まりをこの日にする訳がない。今日はしっかりと体を休めて、明日の『父神日』から祭りは始まることになっている。

 

「あんまり活躍しないとそれはそれで不味いだろ。それよかおっさんこそ無茶すんなよな。あんたには家庭があるんだろ? そもそもなんだってこんな危ない祭りに出てんだよ」

「危ないだあ? なぁに言ってんだ、例年魔物とカチ合うのは殆ど兵士がやるんだよ。でもって弱って動けなくなったり、死んだ魔物から魔石を抜き取るのが参加者って訳だ。

 見てみろ、大抵のヤツぁ解体用のナイフを持参してる。危険なのはな、盗っ人。お前さんの方だぜ。気ぃつけろよ!」

「…………本当みたいだな。全員戦うよりは解体が目的なのか。どおりでどでかい袋や背負い袋を持ってる訳だ。

 ていうかさ、おっさん。あんた本当に人が良いな。盗っ人のオレを心配してくれるのか」

「ばっかおめぇ! 死なれたら誰が返済すんだ! ともかくな、危なくなったら退がれ! 金のために死ぬようなことはすんなってこった!」

 

 バシンッ!と、背中に衝撃が炸裂する。

 このおっさんとは奇しくも同じチームだ。あと何回叩かれるやら。テレ隠しでこの威力なら、いつかこの店主は自分の子供をペシャンコにしてしまうんじゃないだろうか。

 

 頭に浮かんだ、平たくなった子供を前にオイオイと涙する姿は、不謹慎ながらけっこうおもしろおかしなもので笑ってしまった。

 

 その後、おっさん以外のメンバーとも軽く挨拶を交わした。みんなおっさんの知り合いらしく、随分気さくに接してくれた。これは、人員では当たりを引いたのかも知れない。

 

 夕方はチームごとに集まってバカ騒ぎしていたが、夜になれば町民の全員がすぐに眠りについた。明日は本番だ。寝不足なんてする訳にはいかないだろう。

 ちなみに寝床は街の外れに造られた、急ごしらえの木造小屋だ。屋根は撥水性の革で作られ、出入り口も垂れ幕のような形で簡単に内外を仕切ってある。

 

 隙間からは月明かりの青白い光が入り込み、イビキを歌うおっさんたちの顔へ線を引いていた。

 

「……………………」

 

 音を立てないように、ゆっくりと起き上がり、オレは外へ出た。

 理由は単純。退屈しただけだ。

 眠ることのないオレにとって、おっさんらの寝息だのイビキだのを朝までの楽しみにするのは苦痛に過ぎる。

 

 少し歩こう。

 

「ふぅ……」

 

 夜風が心地いい。ゆったりと風紋を走らせる草原は、眺めているだけでも退屈しのぎになった。

 

 ふと振り向けば、丘の街だ。黒い修道院だけは灯りがついている。その他の建物は殆どが沈黙し、今だけは誰もいなくなってしまったような錯覚すらあった。

 

 視線を月へ移す。

 今夜は涙月という、おもしろい月の日だ。

 月から涙のような青い輝きが地平線の彼方へと落ちる、なんとも幻想的な光景が目の前にはあった。

 

「あのずっと向こうにいけば回収できるのか? きっと綺麗だろうな……」

「ええ。『月の雫』と呼ばれる宝石になるそうですよ」

 

 すこし前から、その接近は察知していた。だから、特段驚くことはしない。

 

「アンタも随分とヒマなんだな」

「いえ、そうでもないんです。この時間まで明日の打ち合わせをしていたんですよ?

 今から眠ろうと思ったら、月に黄昏れる少年の姿が見えたので、気になってついて来ちゃいました」

 

 柔らかな微笑み。だが、オレはこの修道女に会いたくはなかった。なんとなく胸の内を探られるような、妙な違和感が付きまとうからだ。

 そうでなくとも昼間の意味深な言動があったんだ。あの時の胸のざわつきは、不快でもなければ心地良くもないが、なんとなく怖いものがあった。

 できれば関わりたくない部類だ。

 

「そっか。じゃあ邪魔しちゃ悪いし、オレは戻るんで」

「……折角ですし、少しお話しませんか?」

「いや結構です。そろそろ眠くなってきたんで。アンタも明日は忙しいみたいだし、早く寝た方がいいですよ。じゃ」

 

 まくし立てるようにして、一度も振り返らずに小屋まで戻る。そして一度だけ気配を探って、ついてきてないのを確認してから横になった。

 あの女の声や言葉は、何か見つめたくない自分をさらけ出される予感がして、どうしたって慣れそうにない。

 

 結局オレはおっさんたちのイビキを聞いて朝を迎えた。幸いだったのは、祭りが早朝から始まる分、おっさんたちも早起きしてくれたことくらいだった。



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聖絶祭

 

 早朝に特有の透き通る朝日を浴びながらも、あちこちから聞こえてくる男たちのはしゃぎ声に晒される。

 

 男たちのキャッキャウホホの中心には、身の丈を超える水柱。激しく地面から噴き出るというよりは、滾々と空間から湧き出ている風に見えるソレに、いつか読んだ本の記憶が刺激される。

 

 清種第2類魔法〈慈雨の芽〉だ。

 簡単に言えば、あの水は触れた汚れや軽いケガ、軽い不調を取り除いてくれるらしい。浴びるとなんとも気持ちいいそうで、爽快感に大はしゃぎしている結果のあのむさい光景である。

 

 ちなみに、〈治癒〉は大きく2種類ある。

 1つは治癒対象の回復力を利用することで、“治った”という結果を導くもの。あくまでも治しているのは本人の力であり、体力の衰えている者への過度な使用は、逆に衰弱させたりトドメを刺す結果になり得る方法だ。

 そして2つ目が、対象の体力によらずに“治った”という結果を引き起こすものだ。“導く”んじゃない。“起こす”のだ。これであれば、対象が弱っている状態でも効果を発揮できる。ただし、魔法理論に詳しい訳じゃないけど、こっちはかなり高度なものだったはずだ。

 〈慈雨の芽〉の神威等級が高いのは、この魔法による治癒は2つ目の方だからだろう。

 他にも、対象が拒んでいても強制的に結果を発現させるものであるか否かとか、なんだか色々と種類があったことを、ぼんやりした頭で思い出す。

 

 ようするに、今はヒマってことだ。

 

 実はさっきまでカラキリと剣を振っていたオレは、現在絶賛順番待ちの最中だった。

 今の剣に慣れたいというカラキリの言葉を聞き入れたオレは、少し時間をかけての“慣らし”に付き合ってやった。オレにも得るものがある分、基本的にこの手の頼み事は断らない。

 が、その朝の爽やかな時間を共有したカラキリは隣にいない。小屋の裏手に作られた簡易な天幕。その中で、今も孤独にお一人様用〈慈雨の芽〉を堪能しているはずだ。贅沢といえば贅沢なんだと言えるものの、そうなった経緯を思えばどうだろう。……なんとも言えないな。

 

 元から女性と勘違いされていたカラキリだが、本人はむくつけき屈強な男性のつもりであり、そんなカラキリはとっとと上裸になって順番を待っていた。ソワソワしていたところを見ると、もしかするとあのバカ騒ぎに混ざるつもりだったのかもしれない。いや、多分そうだったんだろう。だったんだろうが、カラキリの姿を見咎めた教会の連中に連行され、結果ああなっている。

 

 なにか助けを求めるような視線を感じたが、悪目立ちはごめんなわけで。

 すまない、カラキリ。まあお前は国太刀なんだ。これくらい耐えられるよな?

 

 ……ところで国太刀ってなんなんだ? 

 まあいっか。よく分からないけど、便利だから納得する理由にしてしまおう。

 

 上裸になったことで一応は男だと理解はされただろう。

 男たちもカラキリへと同情の視線を投げる——ことなんてなかった。どうにも、連行されるカラキリへ向けられている視線が……おかしい…………。

 何人かは「エロすぎる」なんて世迷言を吐き、みんなから顰蹙を買うかと思いきや、さらに何人もが同意の頷きを返すのを見てしまった。

 

 ああ、神よ。あんたが去って幾千年。

 人類はもうダメかもしれません……終わってます……。

 

 神々の信仰心より先に同情心を抱くなんてオレだけだろう。虚ろなる神との死闘の末がこれだもんな……帰って来たら落胆するんじゃないか?

 

「盗っ人くん。そろそろ順番だよ」

 

 すっかり浸透した呼び名に、無抵抗に返答する。こっちもこっちで、もう何をしても手遅れだ。

 おっさんの人望は謎に厚い。オレが否定したところで、この呼び名でおっさんが呼ぶ限りはオレは「盗っ人」であり続けるんだろう。

 

 オレは1人寂しげに天幕から出てきたカラキリを一瞥して、バカ騒ぎへと足を向けた。

 

 背中から物哀しい視線を感じないでもないが、それは努めて無視した。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 早朝も過ぎ去り、時刻は日も高い昼時。アトラの所属する班は各班の担当する狩場へと到着していた。

 

 ここはまたもや森である。

 だが、アトラの経験した今までのものとは大きく異質な点があった。

 この森は、森全体がひとつの生命なのだ。

 木々は地中深くに存在する森の本体たる精霊から伸びた体毛のようなものであり、その長さ(高さ)は100mを下回るものがない。深さも考えると、その長さはいかほどになるのか。

 

 その大精霊の名は『レブニ・グニフ』。

 【大地の栄え】の意味を持つ名の、地中を航る巨大な存在だ。

 しかしその全容を知る者はいない。

 故にその姿は、球根の様なものから根の集合体で鯨のような見た目だとする物まで様々な伝承が存在した。

 

 今アトラたちはその背にいるワケである。

 神聖な精霊の背に巣くう魔物という雑草を、クリシエ信徒ら庭師が刈り取る。今回のアトラたちはその庭師だ。

 

 アトラの班は総員12名。内5名がアトラを含む戦闘を担当する教会関係者であり、この5名で参加者7名を護ることになっていた。

 

 当然ながら、アトラに護衛や警護の経験はない。したこともされたこともない以上は参考にできるものもなく、一から考える必要があった。

 

 彼は素人ながらに考えを巡らせ、ついにはある方法を思いついた。

 我ながら完璧な方法だと、思いついたときは顔を晴れやかにしたものだ。

 

「モンドさん。そうイライラしないで落ち着きましょうよぉ」

「うるせ! あのやろう、言ったそばから消えやがって……」

 

 野太い怒声に、細身の男は肩を震わせた。こうなることは分かっていても、目の前の鬼の顔から発せられる威圧感には芯からの震えを堪えられない。

 

 モンドと呼ばれた巨漢は、そんな小男から視線を外すと、もう興味もないとばかりに森の奥を睨みつけた。

 

「ノック。今モンドの旦那は気が立ってんだ。盗っ人の坊主が戻るまで大人しく待とうぜ」

 

 他の班員も同感だと首を動かした。

 そう、ここにアトラはいない。教会の兵員の4名を含めた、アトラを除く11人が残されていた。

 モンド————アトラから「おっさん」と呼ばれる体格の良い彼がこの事態を歓迎していないのは、既にその態度が如実に語っている。

 

 このような状態で班が待機しているのは、ひとえにアトラの作戦によるところだった。

 

 アトラの考えた最も安全な護衛法とはつまり、魔物に出会う前に班の先回りをして危険な魔物を排除するという、攻撃こそ最大の防衛という内容だった。

 素人の思いつきを絵に描いたような、現実的でない手段そのものといえる。

 

 通常、このような作戦は採用できない。警護の対象から離れざるを得ないという致命的問題があるのも勿論のこと、そもそも事前に魔物の居場所を知る術がないからだ。

 相手より早く、気付かれる前にこちらが気付く。

 

 そのような条件を、魔法を使う野生生物相手に満たすことは難しい。

 が、アトラはその条件を満たしていた。

 

 彼は真祖の血をふんだんに分け与えられた異例の吸血鬼である。

 気配を探ることに関しては、血の通っているもの限定ではあれど野生の獣を大きく凌駕していた。

 警護も彼を除く4人がいる。その分手薄にはなるが、何かあれば自分なら察せられる自信もあった。

 

 故に可能と判断した彼は、班から定期的に離れ、戻ってくるたびに魔物の死体まで皆を先導するのだった。

 そしてその回数が6を数えたのは今さっきのことだ。

 

「む——」

 

 遥か頭上の葉を通り緑に着色された日光が、こちらへと近づく人間の姿を映し出す。色ガラスの様に透き通った葉を持つ木々が織りなす幻想的光景は、さながら一枚の絵画のようだ。

 

 燻んだ色の髪に、暗い色合いの上衣。

 白いキャンパスのように緑に照らされた肌と、空と同じ青を持った片刃の刃物を携えた少年。

 

 その姿を認めた途端、兵士は肩に込めた力を抜き、モンドは額の血管を太くした。

 

「テメエ盗っ人ォ! 言ったそばから独りで消えやがって、何考えてやがんだバカタレがァッ‼︎」

 

 森に雷が落ちた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「それじゃあ魔石の回収は頼んだ」

 

 雷鳴を一身に受けたはずの少年は、けろりとした風で班を自身が仕留めた魔物の元へと案内した。

 少年の足元には、橙色の鱗を持つ大蛇の蛙を思わせる頭部が転がっている。

 一刀の元断ち切られたことを物語る緑の断面からは、鮮やかなエメラルドグリーンの血が滴っていた。ろくな抵抗もできなかったのだろう。傷の少ない死骸は、少年の確かな実力を裏付けていた。

 

 初めの1回でそれを見てとった教会の兵士や、特に何も言わない兵士らの態度からそれを察した班員らは、すでに文句も驚愕もなく素早く仕事にかかる。

 が、それでも1人は憮然としたままに、少年の単独行動に異を唱えていた。

 

「あのよぉ、盗っ人。昨日俺が言ったこと、覚えてっか」

「分かったって覚えてるし悪かった! もうこういうのはしない。今回はちょっと危なそうなのがいたから仕方なくやったんだ。

 おっさんの言いつけは守るからそろそろ勘弁してくれよな……!」

 

 そう言って解体の手伝いに逃げる少年の姿を、モンドは複雑な感情の入り混じった視線が追う。

 

 モンド自身、アトラという少年の実力への評価は、ここ数時間で劇的に変化していた。

 初めこそ訓練した兵士を手伝える程度のものと想定していた少年はしかし、疲れを微塵も感じさせない様子で森を歩き、傷ひとつなく魔物を狩っている。

 少年に初めて会った時に、護衛もなしに如何にも良家の令嬢といった風体の少女といたのを訝しんだが、少年こそが護衛だったのだと今は納得している。

 

「だがな……おまえはまだ子供じゃねえかよ……」

 

 どんなに実力があろうと、どんなに知識を持とうと、モンドからみて少年は子供であり、まだ経験の少なさを感じさせる護るべき者なのだ。

 危なくなったら逃げろと忠告までした相手に、単独行動までされては気が気でない。

 

 子供が産まれて以降強くなる、若さ幼さへのこの感情が父性と呼ばれるものであるのを、モンドは気づいていなかった。

 そんなモンドのお節介に微かな嬉しさを感じている自分に気づかぬアトラといい、気質という意味では相性の良い2人である。

 

 何はともあれ、アトラたちの父神日は初日にして大漁と言える戦果を挙げた。素材として重宝される魔物の部位や魔石によってパンパンに膨れた袋を前に不機嫌を貫くほどモンドは貴族ではなかった。

 凱旋よろしく、ほくほく顔で街へと帰還する。他の参加者がそんなモンドやその戦果を目にして、果たしてどんな反応をしたのか。それはもはや語るまでもないだろう。

 

 この日、アトラの班は次点のカラキリの班と差をつけて1番の成果を挙げていた。すぐさま成果は現金化され、明確な数字としてその姿を露わにした。

 半分以上が教会の取り分ではあったが、それでも一般家庭の収入の半年分は超えるであろう大金である。この夜、モンドらを中心にちょっとしたお祭り騒ぎがあったのは当然の流れだろう。

 

 そんな歓声をあげる参加者たちの様子を、アトラは少し離れた位置から眺めるのだった。その視線は柔らかな人間のものだった。

 具体的に考えていることは分からずとも、眺めているものが不快に思っていないことだけは事実だろう。

 思えばアトラにとって、今回は初めて人へ貢献した出来事であり、また初めての成功体験とも言えた。

 

 1人噛み締めたいものがあるのだろうと、カラキリはあえてアトラの隣ではなく、そのお祭り騒ぎに加わっている。

 そんなカラキリの優しい気づかいが、アトラには嬉しいかった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 そんな調子で初日を終わらせはしたが、アトラの単独行動はその日だけのものとなった。当然、モンドが自らの姿勢を固持した結果である。

 他の班員の、初日同様アトラに遊撃兼斥候の役を担わせようという提案も何のその。モンドは良くも悪くも決めたことをやり切る漢なのだ。本当に一長一短ではあるが。

 

「でえ、ノック? おめえは例のホップスのとこの娘さんとはどうなんだよ。少しは進展したのか?」

「ブっ! な、なにをいいますか! あんなに囃し立てられて進展も何もないですよ、もう!」

「なんだなんだ、モンドのダンナや俺たちがからかったのと、オマエが意気地なしなのとは関係なしだぜ? あそこでビシィッとオマエがキメれば、ノルンちゃんもコロッといってたろうさ」

「そーだそーだ。間違いない」

「モンドやカドルが正しい。男が言い訳するもんじゃない。せっかく見せ場を作ろうと気を使ったというのに」

「みんなして楽しんでただけでしょう⁉︎」

 

 やいのやいのと実に賑やかな班は、それを聞いている兵士の頬すら緩ませる。未だに魔物を狩れていないが、それでも焦るような空気はない。昨日の大きな戦果のおかげで、今の彼らの心には十分な余裕がある。

 やはり人は時間と先立つモノが足りていればおおらかなものである。

 結果として単独行動を禁じられたアトラと班員との会話も自然に増えていた。

 

「盗っ人。おまえからも一言助言してやれ。あんな御令嬢の側に仕えてんだ。なんかあんだろ?」

「なんかとか言われても、特にこれといったものもなぁ…………」

 

 頼れる狩人であり、また何やらどこかのお屋敷に仕えているらしい少年に、迷える子羊は縋るような視線を向ける。

 知識も豊富で実力も十分。おまけに背景も謎めいている少年は、何となくどんな相談事もそつなく解決してくれそうに見えたのだ。

 

 が、そんな少年の正体は、ルミィナ邸ヒエラルキーの最下層の最底辺であり、浮ついた話など全くの無縁。

 人間の頃なら分からないが、彼の主たる少女が語る『人間のアトラ』の人格を考慮するに、女と縁があったとはやはり思えないアトラなのであった。

 

 なので返答は簡潔なものになる。

 

「————特にないな、うん」

「そう言わずに教えてくださいよぉ、盗っ人さん! ボク、彼女の心を盗みたいんです!」

「おい。ノックのやつ、今うまいこと言わなかったか?」

「おっさん。今度こいつと片想い相手の女の人を店に呼ぶなら言ってくれ。

 メチャクチャにするからさ」

「ちょっ⁈ じょうだん! じょうだんじゃないですか⁉︎」

 

 一瞬で頼れる相談相手と敵対したノックだが、弁明の機会は与えられなかった。

 アトラが手をあげ、静止したからだ。

 

「まさか……」

 

 予感の声に同意する様に、少年の見た目にそぐわない鋭い声が発せられる。

 

「全員早く構えろ! 魔物が来る!」

 

 魔物の出現を告げる声に、兵士たちが素早く反応する。遅れてモンドらも臨戦態勢に入り、準備を終えたタイミングで大きな角を持った熊型の魔物が現われた。

 

 兵士らは班員を守るように展開し、反対にアトラは敵の排除に動く。

 

 この魔物の魔法は、自己の大きさを大きくも小さくも見せられるというものだ。今、モンドたちには、目の前に背丈の3倍をゆうに超えるであろう怪物が、今にも飛び掛からんと前足を広げ、包丁より長く、腕より太い爪がギラギラと凶悪な光を照り返し、槍の様な牙が並ぶ顎を開いた姿が見えている。

 

 だがその巨体へ攻撃を仕掛けても意味はない。現に町で守門を勤めている若い兵士の投げたナイフは、塗られた薬も虚しく幻影をすり抜け、背後の木を傷つけただけだった。

 

 他の兵士たちも、それが幻影であることは見抜いている。しかし本体の大きさが分からず、距離感も大いに狂わされているこの状況では、なかなか手が出ない状況だった。

 

 が、先に動いていたアトラに迷いはない。怪物に対しどう見ても勝ち目のない少年は、素早く敵の後ろ足へと踏み込むと、残像を残して得物を振り抜いていた。

 

「キャグッ!」

 

 小さく短い悲鳴。それが断末魔だった。

 幻影が霧のようにかき消えると、そこには角を持った熊の魔物が、その小さな身体を横たえていた。

 肩から胴体を渡る刀傷が痛々しい。いや、まるで破裂を思わせるそれは、刀傷というのもバカバカしくなるほどの破壊の痕跡だった。

 

 ともすれば、倒れ伏した小さな熊の姿は罪悪感すら抱かせる。その小さな命に対し、振り下ろされた暴力はあまりに過剰であったことは、誰が見ても明らかであったからだ。

 

 小鳥を仕留めるのに大砲を撃ち込む場面を想像して見てほしい。それを見て抱く感情が、今のアトラに近いものだ。ましてやその射手が自分なのだから、憂いは一層深い。結果として殺さざるを得ない命であったにせよ、哀れと感じるのがアトラの思う人情である。

 

 少なくともアトラにとっては、もっと加減ができたという悔いの苦さが残った。

 動くのをやめたモノを前に、彼は眉間に力を入れて見下ろしている。

 

 しかし—————

 

「やったな盗っ人! おまえ、本当に強いじゃねえか……!」

「ち、ちびるかと思いましたよ……あの巨体を前によくすぐに動けましたね……」

 

 兵士はおろか、モンドらにも罪悪感や気まずさといった空気はなかった。目の前で見た、少年の大立ち回りを嬉々として語り、手を打ち鳴らしている。

 それをアトラは複雑な感情で受け止めて、すぐに表情を消した。自身と彼らとの乖離に気づいたのだ。

 

 魔物とは忌むべきものであり、それが如何なる外見を持とうと存在そのものが悪である。故に同情心も罪悪感もあり得ない。“尊い命”など、魔物にありはしないのだから。

 

 アトラ自身がそのような感覚を共有できてる訳ではないが、罪悪感を感じていない班員へ対してある種の感情を向けたなら、それこそが不審な行動となることを彼は危惧した。

 

 そんな彼へ、兵士の1人が声をかける。アトラの肩が一瞬揺れたが、それは本当に微かなもの。

 気づいた者はいなかった。

 

「アトラさん。今のもやはり、その魔道具の恩恵ですか」

「ん? ……ああ、まあコイツのおかげですけど。色々と感覚を鋭敏化してくれるヤツで、索敵にはもってこいなんで」

 

 ツラツラと淀みなく口は動く。

 まるで台詞でも読んでいるような口調だ。

 

「ああ、因みに今のオレの動きはこの見えない指輪のおかげで————」

 

 さらにセリフは続き、訊かれてもいない“身体能力強化の指輪”の説明も飛び出す。

 まるで訊かれるのを避けているような口調だ。

 

 しかし、幸いにも兵士は感心した様子で見えない指輪に目を細めたり、青の美しいイヤリングをまじまじとしばらく眺めて満足した。

 

 結局、母神日の釣果はこの後2度魔物を狩った分も合わせて3頭分。それも、さして素材として価値が高い訳でもない。

 昨日とは比べるべくもない結果となったが、まあ例年もこんなものである。むしろ昨日の成果が良すぎたのだ。

 

 やや気落ちした空気を発するアトラを、モンドたちはそんな意味合いの言葉で励ました。実際、この言葉は事実でもある。

 例の精霊の森は、定期的に教会による討伐も行われている。大規模な討伐隊が送られる訳でもないが、魔物の数が減らされているのも事実だ。

 逆を言えば、釣果なしの班もいる中でよくやっているとも言えた。

 

 しかし、翌日も魔物は現れず、どの班も首を傾げていた。初日を境にこの減り方は、例年と比較しても異常ではないか、と。

 だが異常とは思っても、その理由など誰にも分からない。この異常を意図して起こしている者を除いて、誰にも。

 

 そして得てしてこの手の異常は、一般人すら気付くようになる頃には、事態を致命的に進行させているものである。

 今回の異常も例に漏れず、やはりその手のものであった。



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通過儀礼

 

 クリシエ教の教義は性の快感を否定しない。偽りの愛こそ糾弾するが、偽るまでもなく愛なき行為は推奨こそしないまでも許容範囲内である。

 つまりは、クリシエ教総本山・シグファレムにおいても、性風俗は存在を許されていた。

 

 しかしこの手の業を営むには、いささか高い教会への納税を避けては通れない。結果、利用する際に支払うものも安いとはいえない額となる。

 風俗街の存在する街へ来ても、金銭的理由から夜を楽しめない者は多く、モンドたち祭りの参加者などもその口である。

 ……例年であれば、だが。

 

 アトラの活躍によって、彼らの財布は誇らしい温もりに満ちている。肩で風を切り、胸を張って破顔する彼らは、日も高いうちから“その手”の区画に特有の()()に心を浮き立たせていた。

 その一方で、モンドの隣にいることで相対的にも少年味が増して見えるアトラは、この時ばかりは見た目相応の純真な好奇心を、そこかしこへ視線を忙しくしながら振りまいていた。彼にとって、こういった街区を見るのは初めてのことである。

 

 さて、そもそもなぜアトラがこの様な場所におり、女の艶然とした笑みを向けられているのか。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 すこし時間は遡る。

 唐突かつ急激な魔物との遭遇率の低下に伴い、祭りは1日の休息日を挟むことになった。

 森の奥へと魔物が退避しているのではないかとの推測に基づいての、教会側による判断だった。

 

 奥へいるならば、奥へと進めばいいとは誰も言わない。奥へ進むほど、強力な魔物の縄張りに入る確率は上がるからだ。故に、各班にはその行動範囲に制限が課されていた。木々に巻かれた鎖が、ここより先は立ち入るなという境界である。

 

 その様な事情から、各班はそれぞれ思い思いに休日を過ごそうとしていた。もっともその大半は、自分の班がどんな冒険をしたかという、ふんだんに脚色された冒険譚を披露する予定で一致していた。遊び歩くにも先立つものがない彼らにとっては、これがいつものことなのだ。

 まさか、家に持ち帰るべき金を使うわけにもいかない。

 

 しかしそういった例年の事情は、アトラたちに関しては適用されない。

 

「さて……ルカはなにで喜ぶか……。あんまり食べ物をっていっても、保存が難しいしな……」

 

 日も昇り切っているお昼時、小屋の中で財布の中の硬貨を指でいじりながら、これといって欲しいものもないアトラは、健気にもこれらの使い道を固めつつあった。

 あとは、何を土産とすれば主人の笑顔を引き出せるかを模索するだけである。うんうんとその表情は悩ましいが、心に沈鬱な翳りはない。むしろ、アトラにとっては好ましい悩みとすら言えた。

 

 さらに数分ほど思案してから、アトラはスッと立ち上がる。どうやら店を物色しながら考えることにしたらしい。

 思い立ったら即行動と、よどみなく進んでいた歩みが止まる。眉根に力が入り、新たな難題にシワを作る。

 

「ルミィナさんのは……どうする?」

 

 その疑問は、彼にとって不吉なものだったようだ。

 先ほどとうって変わって苦い表情を顔に浮かべるアトラは、誰もいない小屋内で幾度となく逡巡を繰り返す。

 

「なしってわけにはいかないよな……いや、まあルカに買って帰る以上はそうなる。それはいいとして…………なにを買えばいい……?」

 

 彼の中では、ルカへの土産の購入は決定事項だ。出かける際の態度からも、土産のひとつもなしの帰宅では、あの透き通るように白い頬を、玉のようにふくれさせることうけあいである。そうなればしばらく素っ気ない態度を取られることは分かり切っており、その間をアトラは味方なしで過ごさねばならない。

 あの血濡れの魔女を向こうに、掩護がないのは致命的だ。自身の行動や言動が如何に魔女の神経を逆撫で、あるいは嗜虐心を刺激せしめるか。アトラは文字通り骨身にまで染みている。

 

 しかしルカへと土産を持って帰れば、ルミィナの不興を買うのも目に見えていた。アトラからの土産を心待ちになどカケラもしていないルミィナだが、こういった配慮のなさに不寛容なのも学習済みの居候である。

 

「ぐぅぅ……いやぁ……違うな……」

 

 彼の悩みは深い。

 と、ついに頭を抱えてしまった少年の耳は、こちらへ近づく足音を捉える。

 重い足音と共に入ってきた人物は、アトラの想像通りの人物だった。

 

「おお、まだいたな——って、おまえ金を前に頭抱えてどうしたんだ?」

「あー、いや。こっちの話でさ、なんでもない……」

 

 アトラの不審な態度を、厳しい面構えの店主は見事に誤解したらしい。大きくため息を吐くと、呆れ顔でアトラの丸まった背中をバシバシと叩く。

 その音は、何人かが怪訝な表情で覗き込んでくるほどよく響いた。

 

「盗っ人。何度でも言うけどよ、焦るんじゃねえぞ? おめえの取り分がどんだけかは知らねえが、全部を俺への支払いに充てなくてもいい。

 急かしゃしねえんだ。少しは懐に残しとけ」

 

 それだけ言うと、弁解の隙も与えずに続ける。

 

「うし、金勘定は終わりだな! おめえもヒマしてるだろ? ちょっと来いや」

 

 またも返事を待たずに、モンドはアトラへ背を向け歩き出す。やや呆気に取られたアトラも、急いで何枚か出していた硬貨を回収すると、その背を追いかけた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 人の話をまるで聞かないおっさんのあとを追うと、何人かの見知った顔が集まっていた。

 ていうか、見知ってるも何も、あれはオレのとこの班員だ。

 

 いや、ノックとかいう優男の姿がない、か?

 あいつ存在感薄いから、いるのかいないのかよく分からないんだよな……おっさんの存在感が強いから尚更に。

 

「おお? なんだ頼れる盗っ人さまも呼んだのか?」

「彼は功労者だから、いても不思議はないな。いや、呼ぶべきだ」

「俺らが遊べるのは盗っ人先生のおかげなんだ、モンドの旦那が呼ばなきゃ俺が声をかけてたよ」

 

 初日に活躍して以降、おっさんの知り合い連中はオレを『盗っ人さま』とか『盗っ人先生』とかいう、偉いのか偉くないのか分からない呼び方をすることがあった。

 なんだ『盗っ人さま』って。一流の盗賊みたいな呼び方はやめてほしい。

 『盗っ人先生』も、まるでオレが盗みを教えてるみたいでやっぱり人聞きが悪いし、先生なんて言うなら『やめてくれ』と言われたらやめてくれ……。

 

 ポコポコと湧き出る不平不満を、諦めの気持ちが洗い流す。何度言っても意味がないのは、もうとっくに分かってたし。

 

「よし、全員揃ったな」

「ノックが来てないぞ?」

「ああ、あいつは頭が固いからさ。『自分はそういうのはちょっと』なあんて断っちまった」

「わはは! ノックらしいじゃないですか!」

 

 口々にノックを笑う面々。その声に嫌悪はなく、どちらかと言うと来ていないこと自体を好ましく思ってるような響きを感じる。

 なんだかんだで愛されてるみたいだ。

 

「それで、まだオレは目的聞いてないんだけど、まさか無断で狩りに行くんじゃないよな……?」

 

 だとしたら付き合えない。むしろ止める必要すら出てくる。

 

 そんな覚悟もしていた問いに対して、おっさんたちはそろってニヤニヤとした笑みを浮かべると、今度は上機嫌に声をあげた。

 情緒か頭がおかしくなっているのか?

 もしやこれが〈心害魔法〉というヤツなんだろうか?

 

 一通り笑ってから、おっさんは赤くなった顔を向けてくる。

 

「うまいこと言うなあ、盗っ人お! おうとも、確かに狩りに違いねえ!」

 

 笑いを噛み殺したその言葉に、何人かは肩を震わせている。

 

「行くぞ、盗っ人! 相手は魔物なんてつまんねーもんじゃねえからな。気ぃ張っとけよ!」

 

 それだけ言うと、おっさんは巨大に似合わない軽やかな足取りで先に行ってしまう。みんなもどこか浮ついた雰囲気でそれに続いた。

 

「??? そっちは街だぞ?」

 

 訳が分からない。狩りなんて言いながら、みんなしてなんだってそっちに行くんだ?

 それも、こころなしか誇らしげに。

 

「…………?」

 

 妙な気配……というよりも視線に気づく。

 振り返ると、さっきまでやいのやいのと騒がしくしていた連中が、一斉にこっちを見ていた。

 羨むようなものから、畏敬のこもったものまで、その視線は様々だ。大げさに言えば、なんだか英雄を見送るような、そんな視線にも思えた。

 

「おい盗っ人お! おまえへの礼でもあるんだ。はやくこおい!」

 

 野太い声に呼ばれて、オレは理由の分からない視線に背を向けた。

 

 追いついてからもこれといって武器も持たず、いくつかの露店で買い食いをしながら歩く。その間の会話も狩りらしいものはない。

 傾向としては、すこしいつもより品のない内容が多かったと思う。けど、そのくらいだ。

 

 そんな感じにだらだらと、しかし行き先だけは定まった足取りで進むと、ある道を境にして街の雰囲気が変わった。

 

「ここは……」

 

 ——歓楽街。

 

 一瞬で浮かんだ単語と、目の前の風景を比べ見る。規則正しく整列し、高さまでにも規則性がある。それが、ここダ・ムーブルの街並みだったはずだ。

 だが、ここはまるで違う。不規則に、それぞれの好きに必要なまま建てられた建物。しかし不快に思わないのは、おそらく色が統一されている影響だろう。

 他の街区が比較的色とりどりな街並みを見せていた一方で、ここは白が目立つ。建物自体も白の占める割合が多い上、そこかしこに白い旗……というよりは、短い垂れ幕のようなものが、建物のどこかしらの部分に必ずあった。

 

 それらが風になびくと共に、不思議な匂いを運んでくる。——女の匂いだ。

 ここに来てピンと来ないほど呆けてはいない。狩りとはつまり、こういうことだったのだ……。

 

 複雑に曲がりくねった道々から、これまた白い衣装で身を飾った女性らが、艶やかな視線を向けてくる。

 しかし淫らで下品な印象はどこにもない。どことなく品格を感じる佇まい。なんだか不思議な空間だった。

 

「おぉ……」

「すげぇ……」

 

 いくつかの生唾を飲み下す音と、感動すら含んだかすれ声。恍惚とした様子は、いっそ虚しいほどにオスだった。

 

「なんだあ、盗っ人。キョロキョロせわしねーな。男は胸張って、女の視線をどっしりと受け止めるんだよ! ベッドでの主導権争いはもう始まってんだぞ?」

「それとも盗っ人くんはまだ興味はないかい?」

「まっさか不能でもないんだろ? 経験がないっていうなら、尚更経験しとかなきゃあ」

 

 おっさんを筆頭に、助平どもがなぞの一体感を発揮して挑発してくる。ただ、そこに悪意はなく、意外なくらい本当に好意的な態度を示していた。なんというか、先達として仲間の門出を祝うような、そんな感じだ。

 

「……………………」

 

 ちょっと、考えてみる。

 果たしてオレに、その()()はあるんだろうか? 排泄すらしないオレが、仮に“そういうこと”もできないとすると、これはもういよいよ愚息が愚息なことになる。それは相棒としては、ちょっとかわいそうだ。いよいよ息子の存在価値が否定されてしまう。

 いや、男のシンボルという重要な立ち位置には立ってはいるが、カラキリへ対する周囲の反応からして、それに大した意味があるのかも微妙っぽいような…………。

 

「いや……性病の心配とか、さ」

 

 とりあえず普通っぽい反応を返してみる。

 が、みんなは一瞬目を丸くして、互いに顔を見合わせてから妙に優しく、諭すような調子で肩を叩いた。

 

「盗っ人さんよ。なるほど、アンタぁ腕も立つしモノも知ってる。さぞや勉強と鍛錬の日々だったことだろうさ」

「けどね、こういう社会勉強もそれはそれは大切なんだよ。例えば、安全な店とそうでない店の見分け方、とかね?」

「白い旗、あんだろ? あれは安全だ。母神教会の認可を得てるってことだからな。あの服装も、不衛生な環境で汚れたら誤魔化せないようにって意味もあるんだぜ?」

「それに、だ。母神教会公認の店で“そういうこと”になった場合、なんと無料で〈治癒〉してくれる。

 運良く綺麗な修道女さんに診てもらえるなんてなったら2度美味しい!」

 

 懇切丁寧に行われる後輩指導。聞けば聞くほど男らの業の深さが匂う内容だったが、なるほど。確かに、オレはこういった“男なら知っておくべき知識”に疎かった。『男の常識』とも言えるものが抜け落ちている。

 

「社会勉強、か」

「おう! 経験しなきゃあ見えねえモンもある! 金なら心配するんじゃあねえぞ、盗っ人」

 

 たくましい腕が、オレの手にアツいものを何枚か握らせる。硬貨だ。それも、銀の輝きすら見える。

 

「俺らの稼ぎから出し合ってな。これだけありゃあかなり高級なサービスが受けられるはずだ」

「今回はあんたのおかげで稼がせて貰ってるからな!」

「初めてはとびきりいい思い出にしなきゃあダメだぜ! おれなんざ初めてでとんでもねぇの引き当ててさ、当分相棒の晴れ姿を見れなかったんだかんな!」

 

 なるほど、これはつまりは“男の通過儀礼”にも似た側面を持つのだろう。渡された硬貨の熱いはずだ。ずっと握り締められていた以上の熱を、確かに感じる。それはおそらく、男にしか分からない熱なんだろう。

 

「ここまでされたら、もう断れないだろ」

 

 オレの言葉に、男くさい笑みが人数分浮かぶ。もちろん、人数分とはオレも含めてのものだ。

 

「ぃよおし! おめえら、今日はシグファレムに漢が1匹産声をあげる日だ! 盛大にやるぜぇえええッ‼︎」

「「「ぅをおおおおおおおおおッッ‼︎‼︎‼︎‼︎」」」

 

 クスクスとした笑みに迎えられながら、オレたちは白い楽園を闊歩するのだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 霊験灼然(れいげんいやちこ)な神聖なる森に、赤い司祭服は誰憚ることなく笑い声をあげながらに祈りを捧げる。その石のように動かない表情の司祭へ対し、巨大な立体魔法陣はドクンッと大きな福音をもって祈祷への応えとした。

 魔物の不自然な消失。その原因が呼応する。不浄な空気が辺りを支配する空間は、常人ならば耐え難い瘴気に満ちていた。

 

 周囲には人であったものが、自らの()()()をつまびらかにされながらも、それでも尚苦痛に呻き、逃れようと痙攣を続けている。それらの苦痛を長引かせている原因もまた、赤黒く脈動する魔法陣に他ならなかった。

 蠢く肉を、未だに生き永らえさせているという奇跡は、それ単体で少なくとも〈浄域魔法〉に相当する、一般の魔法理論から逸脱した奇跡である。

 そんな異質な領域へ、平然と足を踏み入れる者がいた。

 

「アビさん。今戻りましたよ」

「おや、早かったですねェ。それで、魔物の誘導はどうでしたか?」

「順調そのものって感じスね。つか、〈血河拍域〉まで使う必要あるんスか?」

「えェ。彼を迎える上で、準備は万端にして然るべきでしょうからねェ。明日が今から楽しみでなりませんよォ! それからゼリューさん。その呼び名は異端のものですよ? 正しくは〈単話神言〉です。貴方も幾度と見聞きしているのですから、そろそろ覚えても良さそうなものですがねェ」

 

 長い金の髪を後ろでまとめた長身。軽い口調とは裏腹に、翡翠色の瞳は意志の強さを示し、浅黒な腕を露出させている革鎧は、鍛えられた肉体の輪郭をはっきりと浮かばせる。

 精悍さを窺わせるのは、何も外見に限ったものではない。纏う空気と威圧感こそ、歴戦の強者特有のものであった。

 瘴気に競うように禍々しい黒剣は、鞘の中からはやく使えと急かすかのようだ。

 

 常人には堪え難い肺を侵す瘴気はしかし、ゼリューと呼ばれた男の周囲には近づかない。まるで見えない何かに阻まれるように、彼のことを避けている。彼が平然と司祭との会話に興じられるのも、このためであった。

 

「…………アビさん。コイツらまだ使ってんスか? 歩く邪魔っスよ」

「ああ、いけません、足蹴になど。彼らは贄として今も身を捧げている最中ですよォ? ほら、痛がっているではありませんか。かわいそうに」

「痛がってる? …………意識、あるんスか……? この状態で……?」

「意識を保たねば贄たり得ませんからねェ。」

 

 司祭の言葉は半ば予想していたとはいえ、戦士は顔を顰めた。彼らが贄たる役目を終えたなら、その瞬間に楽にしてやろうと心にメモを書き込んでおく。

 

「ああ、そうでした。わたしとしたことが伝え忘れていましたよォ。ゼリューさん、朗報ですよォ?

 今回、アンゲマン司祭は不在とのことです。彼は我々の妨害に関しては脅威でしたからねェ。これは歓迎すべきことでしょォ」

「朗報じゃないっスよ。あんのクソ神父をブッ殺すのがおあずけになっただけじゃないスか」

「おや、寂しそうですねェ。ではこれなら喜んで頂けるでしょうかァ。レティシカさんは参加しているようです。クっフ、これで退屈は紛らわせそうですねェ」

「ゲェ! あのしちめんどうな女きてんスか⁈ チッ、だりぃなぁ……」

 

 金髪の戦士は厄介な外敵の存在に舌を打つと、睨む様な視線を虚空へ投げる。巨大な木々を抜けたその先には、ダ・ムーブルがあるはずだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 結論から言って、オレの息子の安否は依然として不明だった。

 

 どうにも性的な興奮が難しい。まるで人間自体が対象外という感じ。トカゲや虫に欲情しろと言われているのと大差ないような、そんな感覚。

 

 いや、正確には違う、か。

 実際のところオレは興奮していた。だがそれは性的なものとは異なる、飢えと渇きを伴う興奮。目の前にある白く柔らかな首筋。その白い肌越しにも聞こえる血流の音。オレは息を荒げた。だから、すぐに打ち切って、おっさんたちに謝罪してからこうして帰ってきたのだった。

 

 娼婦の白い女性は、オレのおかしな挙動を童貞特有の挙動不審とでも思ってくれたらしい。別れ際、宥めるように背中を撫でて、今回のお代はいらないから、またいつでもおいでというような言葉をかけていたと思う。

 

「……あ……お土産買い忘れた……」

 

 横になって冷静さを取り戻そうとする中、本来の予定を果たせていないことに気がつく。けど、まあまた時間もあるだろう。今日はもう動く気になれない。明日……は狩りの再開か。

 ま、帰り際でもいいんだ。それまでに何を買うか考えとくかな。

 

 そんなことをのんびりと考える。

 しばらくして戻ってきたおっさんたちは、なんとなく血色が良くなり、若返った様にすら見えた。

 わぁっと人が群がる。英雄のご帰還だ。

 その夜は機嫌の良いおっさんの創作料理が振る舞われ、例の店で見た娼婦の絶技やら、オレが直前でビビって逃げたやら、まあ吟遊詩人もかくやというほどに語るわ騙るわ。

 

 オレは使い残した甘辛いタレを水に溶かしてちょびちょびとやりながら、時々向けられる好奇やからかいの目を微妙な顔でやり過ごして夜を凌いだ。

 吸血衝動が起こったんでやめましたなんて言えるわけもなし。好きに言わせるほかない。

 

 そんな騒ぎの中、遠くに見覚えのある修道女の姿が見えた。ガヤガヤとした喧騒から無縁の、月明かりしかないくらいに集団から離れて、険しい表情で遠くに見える森を眺めている。いや、睨んでいる?

 その時、ふと首を動かしたレティシカと目が合った気がした。

 

 当然錯覚だ。この距離で、この暗さで、これほど仔細に修道女の挙動を見て取れるのは、それは人間より遥かに夜目の効く吸血鬼であるからこそ。

 レティシカから見れば、オレたちがお祭り騒ぎをしているのは分かっても、その個人を識別することはできないだろう。ましてやその中からオレの視線を手繰ることなど出来るはずがない。

 

「アトラ殿。それは何かの酒か?」

 

 自分を呼ぶ声にハッとする。いつの間にか隣にカラキリが来ていて、オレが啜ってるのが何なのかと覗き込んでいた。オレはカラキリにも同じものを作って渡してやる。

 おっさんは酒場を1人でやりくりしているだけあって、料理の腕もなかなかだった。特にオリジナルの調味料が美味い。こうしてそれ単体でも味わえる程度には。

 オレはうまいうまいと喉を鳴らすカラキリと談笑しながら、何となくさっきのレティシカの表情が頭を離れなかった。

 あのどことなく不吉な表情。

 

「明日は狩りの再開だな……」

 

 誰にともなくつぶやく。そうすることで、胸の中の不吉な予感を吐き出したかったのかもしれない。

 その突拍子もない予感も、お祭り騒ぎが解散するころには忘れていた。

 

 忘れてしまった。

 

 そして翌日。血腥い、悔恨の1日が訪れる。



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静寂の森

 

「はあ、我々だけで……ですか?」

 

 出立の準備を進める中、兵士の1人が教会側の判断を告げに来ていた。その内容は、今日の前半は参加者を待機させて教会の人員のみでの調査を行うというものだった。

 アトラと同じ班にいた兵士が、素っ頓狂な声をあげて聞き返す。その態度から、これが異例のことであるのがうかがえる。

 

「あれ、これってオレはどっちなんだ? 待機? 同行?」

「貴方には待機して頂きます。調査は教会のみで行うことになりました」

「ああ、了解」

 

 伝令役の男はそれだけを伝えると、足早にその場を後にした。護衛役として実力を買われているアトラ、そしておそらくはカラキリも待機し、完全に教会の人員のみによる調査とはなんなのか。その場の誰もが怪訝な表情を浮かべながらも、しかし出発まで時間もない。

 班員全員で担当の兵士の準備を手伝い、残った時間を他愛も無い話題に費やす。そうして突然の変更への戸惑いや不安を吐き出させ、森へと向かう馬車を見送った。

 

 遠くに見える、森の先端たる樹々。しかしそれは、見た目以上に離れている。到着して簡易とはいえ調査をし、そして結果次第で参加者を乗せて馬車が出発。それはどう計算しても昼食前に済ますのは不可能だろう。

 

 それを察して、ある者は持参する予定だった簡素な昼食に一品を足すため、食材を求めて街へと繰り出し、またある者は昨夜遅くまで語らって不足気味の睡眠時間を取り戻しにかかる。

 

 各班の各員が思い思いの行動で時間を過ごそうとする中、アトラも街へと足を向ける。

 歩きながら、大きな背中へ声をかけた。

 

「おっさん、この街で有名なものってなんだ?」

「おん? ダ・ムーブルのか? そりゃあおめえ、あの黒い修道院と特徴的な岩山っつう街並みだろ。なかなか面白い景観だぜ?」

「いやぁ、それもそうなんだけどさ。もっとこう、動産的な……」

 

 とんでもなくまわりくどい言いまわしになったことは、言った本人がすでに自覚している。そして目の前の巨漢がそれを見逃さないだろうことも。

 アトラは数瞬後のモンドのニヤケ面を幻視する。

 

 やや歯切れの悪いアトラの様子に、モンドは一瞬訝しんでから、はは~んと訳知り顔で口角を上げる。側から見て獰猛なそれは、当人の主観では“笑顔”に分類されるらしい。それはアトラの想像よりも遥かに凶面であった。

 

「なぁるほど。あの見るからにやんごとなき身分の嬢ちゃんだな? ま、物で釣るってのも良いだろうが、ちと相手が悪りぃんじゃねーか?」

「っ、そういうんじゃない! 物で釣るってなんだよ! そうじゃなく、普通にせっかくだから土産の一つも買っとかないとうるさそうなんだ————なんだよその顔は」

「いやあ? 盗っ人がそういうんなら、まあそういうことにしとくか。

 まあそうさなぁ……なんつったか、そう、確か鉱物をくり抜いて作った食器なんかが人気らしいなぁ。俺らはあんまし縁のない一品も、女連中はまあ興味が尽きないらしい。あんなもん、下手に割らねーか気を使うばっかだろうに」

「へー……一応見てみるか……」

 

 時間の潰し方が決定した。

 アトラはモンドへ礼をすると、教えられた店を目指す。なんでも修道院の足下付近にその店はあるらしい。

 

 街の中心へと伸びる長く緩やかな上り坂は、見上げると高く反り立って見える。錯覚ではあるが、この道の先の断崖絶壁の頂にある修道院は、人々の賑わいに満ちる街を超然とした佇まいで睥睨するかのような威容を誇っていた。

 

 修道院の足下には、教会と思しき建造物が鎮座していた。白い石材と黒い木材のコントラストは、見る物に畏怖と畏敬を強要するかのようだ。

 修道院へと至る長大な階段は、この威圧感と重厚感のひしめき合っている教会の、その内部から伸びている。時間があれば修道院の手前まで登り、そこから眺めた街や景色を楽しめないかと密かに画策していたアトラは、小さく落胆の息を漏らした。どうやら好き勝手に立ち入れるものではないらしい。ルカへの土産話の一つに出来ないかと考えていたが、このネタは諦める他ないだろう。

 

「ま、もう土産話は十分にあるし、ひやかしひやかしっと」

 

 目当ての店はすぐに目についた。

 店の佇まいからして気品に溢れ、飾りガラスから透かし見る店内は、広々とした空間に、色とりどりのガラス細工や例の宝石食器と思われる品々が陳列されていた。一見して不用心とも感じたが、これも教国ならではの光景と言えよう。

 

 アトラは暫しその威容に店先で固まる他なかったが、店内からの視線を受けて覚悟を決める。

 痩せ我慢気味に歩を進めるアトラだったが、さっきまで頼もしかった財布の重みは、なぜか今は羽が如くふわふわとして頼りない。吹けば飛ぶのではないかという錯覚に惑うアトラの額は、視界の端に認めた値札の冗談じみた存在感に気圧され、冷え切った汗に濡れていた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 森へと到着した調査隊は、到着と同時に部隊の再編成が行われ、目標地点へと散っていった。

 そして、その各所で戦闘が起きる。魔物相手のものではない。人間を相手とした、人同士の殺し合いだった————。

 

「赤いローブ……邪教徒どもかッ⁉︎」

 

 叫んだ男の喉仏に、歪に波立つ刃が刺し込まれる。

 赤いローブに木の仮面。不気味な出立ちの襲撃者へ、隊員らはすぐさま得物で斬りかかろうとした。が、その直前に感じた威圧感によって、その全身が硬直する。

 

「まだ終わってネェの? ……チッ。お前ら何してたんだよ。俺がアビさんにネチネチ言われることになるの、理解してんのか?」

 

 苛立ちを隠さないながらも、なお冷淡な声だった。

 金の髪を後ろに軽くまとめ、余った髪を無造作に重力へ任せている。抜かれた刀身は禍々しい気配を辺りへ垂れ流し、見るだけで背筋に冷たいものを走らせる不吉さを纏っていた。

 翡翠色の瞳には侮蔑的色合いしか浮かんでおらず、凡そ仲間へと向けるべき視線ではない。兵士ら8名へと一瞬移った視線は、対峙しているものをまるで障害とみなしていないのが、向けられた当人たちにはありありと感じられた。

 

 突如現れた強者は、羽虫でも払い除けるような仕草を見せる。それだけで、兵士らを標的と見据えていたいくつもの気配が遠ざかって行く。この場には兵士8名と謎の剣士が残された。

 金髪の剣士はもう一度舌を打ってから、左手に持っていた木の仮面で顔を隠す。それだけで、もう兵士たちは誰1人として翡翠色の瞳を思い出せなくなっていた。

 剣士の携える黒剣から、黒いタールのような液体が滴り落ちる。

 それは土の上に落ちながら、なおもグズグズと沸騰するように蠢いた。

 それがこの剣で斬りつけられた者の血であると気づかなかったのは、彼らにとっては幸いだったのかもしれない。

 

 そんな剣士へ向けて、3本の矢が音もなく放たれる。銀の軌跡は緩やかな曲線を描き、3方向から的へと殺到する。と同時に、槍を持った兵士は突撃を開始した。

 矢が退路を断ち、矢への対処に手を割けば、必然槍へと致命の隙を生じてしまう。優れた連携だった。

 

 弓の3人。短槍の3人。そして〈聖障結界〉の展開とその維持の2人。先ほどは暗殺者然とした奇襲により死者を出したものの、一度立て直してしまえば彼らとて精鋭たる教国兵士なのだ。他国の平均的兵士などとは装備も練度も違う。

 

 しかし、そんな連携などという弱者の創意工夫は、完成した“個”の前に蹂躙される。

 矢は的へ届く前に、見えない壁に阻まれた。だがこれ自体はまだいい。まだ想定の範疇なのだ。〈障壁魔法〉を使えばそうなるのであるし、〈聖障結界〉を用いる彼らが目の前の現象に驚愕する理由はない。見慣れた光景だ。

 故に、驚愕を誘ったのは別の事象。真っ赤な()()()()()()()と、それを発生させた事象だった。

 

 高速で移動する大質量に挟まれたかのごとく四散する肉片。弓兵の元まで飛んできた、その頭髪の生えたものは、まさか頭皮なのか。

 剣士の眼前には、衣服や装具によって辛うじてヒトの形と察せられる肉塊が、ぐちゃぐちゃぴちゃぴちゃと、痙攣して水音をたてている。それはもはや服にひき肉を詰め、生き血をぶち撒けた様相そのものだった。

 

 男たちは茫然と、音ひとつ立てずに硬直していた。未だに脳の処理が追いつかない。あの振動する肉を、さっきまで隣で肩を並べていた仲間だとは認識できず、彼らの頭は『破裂音がした瞬間に、味方がひき肉とすり替えられた』という、あり得ない説明で自身を納得させようと努めていた。その方が、目の前の凄惨な光景や差し迫った危険、埋めようもない絶望的な隔絶を直視するよりずっと良い。

 一種の防衛反応と言えた。

 

 しかし、その硬直は戦闘中に関しては致命的停滞である。前衛を失ったと理解したなら、弓兵は即座に退くか剣に持ち替えるかを選択しなければならない。それが遅れただけで、彼らは無抵抗に地面に赤い判を捺すための朱肉となった。

 結界と障壁の性格を両立する〈聖障結界〉など、何の役にも立たない。

 

 残りが2人となるころには、硬直からようやく立ち直り、1人が短剣を用いて突貫し、1人は緊急事態を知らせる腕輪を起動させながら、背を向けて離脱に駆ける。

 敵の未知の能力が明かされた以上、殲滅される訳にはいかないのだ。情報を持ち帰り、詳細を伝え、対応を講じる必要がある。

 背後で味方の雄叫びが呆気なく(つい)えた恐怖も二の次だ。

 

「ハァっ、ハッ、ハァぁあ……ッ————」

 

 悲鳴の漏れ出る荒い呼吸。その合間に、彼は右肩に鋭い痛みを自覚した。それは根を張るように、ジクジクと深く、広く拡大しつつある。

 急にその肩から力が抜け、彼は減速もままならないままに転倒する。

 

「ああ、やっぱ効果的面だなコリャ」

 

 気の抜けた声に振り返ると、敵の剣士が剣を抜いた状態で立ち尽くしていた。敵意もなく、先ほどまで確かに向けられていた殺意もなかった。それはまるで、もう全てが終わった時のような、残心にも似た時間。

 

「ッあァ……⁉︎」

 

 ビキリと痛みが走る。見れば、傷口は既に壊死を始め、崩壊の兆しを波及させていた。タールのような液体が、膿の様に流れ出る。あの禍々しい剣によるものとまでは分かっても、彼にはその対処法など分かるはずもなかった。

 

 腐り落ちて行く人肉を、冷めた瞳が見つめている。

 剣士に思われた男は、その実剣士でも戦士でもなかった。彼の武器は、先ほど猛威を振るった不可視の力だ。考えるだけで身を守り、望むままに敵を屠るそれこそが〈装甲思念〉と呼ばれる、彼が生まれ持った形ある思念だった。

 攻防一体の万能の装甲。故に、彼は剣など振るう必要がない。もし彼が剣を振るなら、それは単なる遊興でしかないのだろう。つまり、この酸鼻な腐乱臭漂う光景も、彼にとっては手遊び同然の所業だった。

 

 腕輪の使用を認めても尚、男には慌てた様子などない。腕輪は森のいたる場所で使用されているはずだ。その数は、レティシカ含む主力部隊が対応できる範囲を大きく超えている。こんな優先度も低い泡沫部隊の元まで急行するとは考えられないのだ。

 それに、じきに〈単話神言〉が発現すれば、教会側の魔道具はその大部分が機能を失うことになる。そうなれば助けを求める部隊の所在も判断できなくなり、森はただの狩場と化す。

 

「ハッ、そう上手くもいかないかもな。もうアビさんの予定を外してっし」

 

 今回の目標は、あくまでも一般の参加者たちだ。教会に所属する人間は祭壇への供物として不適格なのだ。術式が発現し、この森の広域に渡って祭壇としての性格が付与されたとしても、こう教会兵の血ばかり捧げても、それは術式の安定化にしか寄与しない。

 戦闘では優位にあっても、司祭らにとって状況は逼迫しつつあった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「……っ、……? これ…………」

 

 その頃、アトラもアトラで撤退戦の只中にあった。とはいえ、どうにも旗色は悪い。

 柔和な笑みを湛える店員の、優雅でありながらも逃げ場を着実に塞いでいくセールストーク。その火力を前に、アトラはじりじりと追い詰められつつあった。

 入店の瞬間からアトラの服が見たこともないほどに質の高いものだと看破した店員は、その短くない人生で培ってきた“買わせ”の技術と、師から受け継いだ引き留めの叡智を総動員し、目の前の獲物を落とすことに手腕を振るっていたのである。口下手が自己評価であるところのアトラでは、甚だ勝負にならない。

 

 いよいよ退路を失いつつあるアトラは、ここで奇妙な感覚に息を止めた。身につけたままになっている、銀の腕輪に意識を集中させる。

 

 いましがた感じた、か細く微弱な反応。気のせいか否かの判断もつかないほどに微かだったそれは、その一度を最後に沈黙している。

 ならば気の所為に違いないとも思えた。が、アトラの胸には不思議な焦燥感と不吉な予感が去来する。

 

「————悪いけど、ちょっと用事ができた! そのやたらと素晴らしいっていうヤツはまた今度にしとくんで、じゃあ!」

 

 矢継ぎ早に言い残すと、アトラは直感に急かされるように店を後にした。勝ちを確信した直後の思わぬ強行突破に、店員が浮かべた苦々しげな表情に気付きもせずに外に出て森の方角を見ると、直感はさらなる強度で警鐘を鳴らす。

 人混みの頭上を跳躍しながら待機場所へと戻る頃には、アトラは森で何か起きているのだと確信するに至っていた。

 

 正直なところ、仮に森でこちらの預かり知らぬどんな事柄が発生していようとも、そんなものはアトラの知るところでない。教会の面倒事は教会で解決されるべきであり、間違ってもそれを手助けしようなどとは吸血鬼の身で考えるはずもなかった。

 

 しかしたった今、森にはアトラと同じく共に狩りをした仲間がいる。彼らの思わぬ人間的一面を多く見た。班員として何かと気にかけてくれていたのも知っている。やたらと噛み付きたがる若い守門を請け負ってくれたのも知っている。その彼らだけが気掛かりで、それだけでアトラは身支度を完了していた。

 

 随分と気の早いその出立ちに、男としてはいささか可憐な声がかけられる。カラキリだった。

 

「アトラ殿、如何したのだ? 未だ出立には早いと思うが……?」

「腕輪が反応した気がするんだよ。それに……なんだか胸騒ぎがする。ちょっと森の様子を見て来ようってさ」

「ちょっと様子を、と言うには距離が……いや、それよりも胸騒ぎとは、なにか物騒事が森に起きているという意味か、アトラ殿。わしの輪っかはうんともすんとも言わなかったが…………」

 

 “よもや壊したか……?”と恐る恐る腕輪をつつくカラキリに、一瞬だけ頬が緩む。だが胸の焦燥は萎えることなく急きたてていた。そんなアトラにカラキリは自身も同行する旨を伝えると、支度をして馬車に集合することになった。

 

 集合までを、昨日のレティシカのように森を遠くに睨みながら待っていると、カラキリのものと思しき気配の他に、余計な気配がぞろぞろと続くのを感知して、アトラは訝しんで振り向いた————

 

「俺も連れてけ」

 

 モンドの言葉に、アトラは渋面で向かい合っていた。

 他の見知った顔達など、もう行くのが決まったように馬車に乗っている。用意のいいことに馬の準備も済ませていると来ていた。どうあっても来る気だろう。

 

「同じ班の仲間が危ねえってんならよ、ほっとく訳にはいかねえだろ」

「危ないかは確定じゃないし、むしろ何もないかもしれない」

「おめえさんの勘の良さは分かってんだぜ? まあ外したなら、そんときゃ早とちりを笑ってやる。当分ネタにするから、今のうちに覚悟しとけや」

 

 バシィッ!とアトラの小さな肩を叩き、モンドは豪快に笑いながら馬車へ向かった。その背を、アトラは苦笑混じりに見送りかけて、慌てて後を追う。もう自分以外の全員が支度を整え切っていた。

 

 御者の座席にはモンドが腰掛けた。元々隊商の経験があったモンドは、馬の扱いもよくよく心得ていた。馬車は滑らかに動き出すと、淀みなく道を進んでいく。

 

 勇み足で飛び出せど、さりとて道中は暇を持て余すものである。そんな中では、カラキリの語る異国の情景が皆の無聊の慰めとなった。遠い異国の話題に心を動かさない男はおらず、特にモンドなどはしきりに仔細を知りたがり、その度に御者台へ押し戻されて笑いを誘った。そんな、これより死地に赴くとは信じられないほどの和やかな空気を纏わせて、馬車は刻々と森へ近づいて行く。

 

 不気味にアトラを苛んでいた焦燥感は、仲間と笑い合ううちになりを潜めつつあり、アトラは改めて仲間と行動することの強みを知り、1人で悩む心細さへの処方を学ぶのだった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 道中、見覚えのある幌馬車とすれ違った。

 教会側が使っているものだ。御者台にはやはりどこかで見た壮年の兵士がいた。おっさんとそう歳は変わらないように見える。

 

「あれ、モンドさん⁈ どうしたんですかこんなところで」

「ああ、いやぁコイツが嫌な予感がする、森で何かあったかもなぁんて言ってましてなあ。要はビビっとるんですわ! しかしこれでも手癖の悪さと勘の良さが取り柄なヤツなんでねえ、シカトって訳にも行かんもんです。だもんで、取り敢えず俺らだけでも行って、何が起きても起きなくてもお手伝いができねえもんかってね————」

 

 向かい合う形で隣り合う馬車。

 話題に出される度に、おっさんのでかい手がオレの頭をワシワシとしたり、肩やら背中やらをバシバシとする。何となく2人は顔見知りなんだと思ったが、それも不自然じゃない。だって住んでる町が同じなんだ。私的な付き合いがあるなんてこともあるだろう。

 

 ふと、気になることがあって口を挟んだ。

 

「そういえば、その馬車で街に戻るってことは、もしかして調査の結果異常なしだから出発だって伝えに?」

「ん? いや、はは、どうでしょうねえ。それはまだなんとも言えないんですよ」

「? それは……どういう意味だ??」

「おいこら盗っ人。どういう意味ですか、だろーが! この人には俺の女房がエラい世話になったんだ、口には気をつけろ!」

 

 あ、と思ったときには頭にデカいのをもらっていた。どうにもうまくいかない。

 いい加減自覚しつつあったが、オレは薄っすらと人間全般を見下している節があるらしい。ある程度親しめば、親しいなりの敬意は湧く。

 理屈の上でも、相手は歳上だから敬意を示せくらいのことは理解している。

 

 しかし、それ以前の年齢以外の領域で、オレは人間は下だと感じていた。最近までは無自覚に。今でなお無意識に。

 例えるなら、“おれはオマエより足のサイズがデカいから敬意を待て”とか、“おれの方が鼻が高いから、そこんとこ弁えろ”とか言われたらどう思うか。その感覚に近いと思う。

 

————年齢云々以前に、お前は人間だろ?

 

 要するに、オレの無意識とはこういうことらしかった。

 余計なトラブルを招きかねないのも分かってる。そろそろ気をつけないとな……。

 

 ひと言詫びて頭を下げ、さっきの言葉の意味を重ねて訊いた。

 もしやみんななら分かるのかと視線で問いかけたが、やはりおかしいのは兵士の言葉の方らしかった。自分の言葉で困惑させたのを見てとったんだろう。男はいそいそと後ろの荷台に手を突っ込んで、小さな水晶玉のようなものをかざして見せた。

 

「街に戻るまでに、こいつが赤くなったなら異常あり。ならなかったら異常なしってことらしいです。少しでも早く再開させるための工夫ですね」

「今のところは異常なしみたいですね」

「ええ、調査結果がまだ出てないのか、はたまた異常なしって結果が出ているのかですね。レティシカさんの私物みたいで、私もあんまり詳しくはないんですが」

 

 オレの感じていた不吉な予感に反して、その小さな水晶玉は微かに青を含む透き通った様を見せている。やはり気のせいってことなのか……?

 

 今に至るまで反応のない腕輪といい、目の前の透明な球体といい、どうやら結果はオレの早とちりということで間違いなさそうだという空気が馬車を満たす。

 弛緩した空気をそのままに、兵士の男と別れを告げて馬車は再び進んだ。

 

 そしてさらにしばらくの時が過ぎ、馬車は巨大な聖なる森に辿り着く。

 

 ————そこは、あまりにも静かすぎた。

 

 森で負傷した場合に治療したり、休憩できるための後方基地的役割を果たす天幕には、誰ひとりとしていない。出迎えもなければ治癒師も守備隊も、レティシカ含む討伐隊もいなかった。

 調査隊がどのような編成をされ、どのような作戦で動くのかは知らない。だが、後方に誰1人いないのは明らかにおかしい。早く調査を終えて、本来のように祭りを再開したいから急いだにしても、負傷者への備えを天幕だけ作っておいて、人員を割いていないなんてあべこべなことをするはずない。

 

 虫の声も風のざわめきもない、無音の空間。まるで生物が忽然と消えた世界に、オレたちだけが取り残されたような錯覚に捉われそうになる。

 

 腕輪には相変わらず反応なし。

 馬車を降りたみんなも、これは想定外だった。呆然と、どうすればいいのかと目配せし合う。

 

「ここで待つか、森に入るかだな、アトラ殿。ここに留まれば、森に入るより安全だろう。そのうちに調査隊が帰ってきた折りに、目的人物の安否も自ずと知れる。

 だが、アトラ殿が結果を聞きにきたのではなく助けにきたのであれば、当然この深閑たる森に入り対象を探しあて、保護・救出せねばならんな」

 

 沈黙を破って、カラキリは淡々と口を開いて状況を告げた。残るか入るか。

 その声には緊張も狼狽もなく、いつもの泰然とした響きだけがあった。思えば、カラキリには出発の時点で覚悟があったのだろう。それは、具体的に目の前の事態が起こるという覚悟ではなく、何が起きても付き合うという包括的な覚悟。

 それに後押しされた。

 

「オレは奥に進む。元々助けに来たんだし、何が起きてるなら尚更向かわないとだ」

「うむ、承知した!」

「俺らも当然行くぜ。こういうときに加勢しねえとな」

 

 結局待機したいと言い出す者もなく、オレたちは全員で薄暗い静寂の森へと踏み入るのだった。



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矛と盾

 

 森に入ること2時間弱。進むほどに樹冠はその密度を増してうす暗くなっていく中、誰もが考えていたであろうこと。しかし、その危険性故に口をつぐんでいたであろうことを、オレはあえて口にした。

 

「なあ、効率悪すぎないか?」

 

 気まずい空気が場を満たす。あまりにも直球だったからこその空白時間。

 もっとも、カラキリだけはいつもの調子を崩さず、みんなの目配せを不思議そうに眺めていた。

 

「オレなら自分の身は守れる。バッと走って来て、周囲に気配があるかどうかも察知できる。問題はその間集団から1人消えることだけど、カラキリもいるなら安全じゃないか?」

「いやだがな……」

 

 おっさんの歯切れは悪い。平時であれば止めただろう。だが、今はもしかすると非常事態かもしれない。仲間が不測の事態に陥って、助けを求めているかもしれない。

 となれば、それは1分1秒を争う。危険を冒してでも早さが求められる状況でもあるのが、その歯切れの悪さの要因だろう。

 

 葛藤は短かくなかった。

 が、代案もないなら、結果は決まっていた。

 いかにもしぶしぶという風に頷く。

 

「気をつけろよ、盗っ人。何かあったら、思いっ切り叫べ。すぐに駆けつけてやっからよ」

「それはほら、この銀の腕輪がある。オレに何かあればカラキリに伝わるんじゃないっけ?」

 

 言いながら、それも微妙だと感じていた。森に入ってから、オレたちの腕輪はどちらも無反応を貫いていた。

 

 本当に何もなくて、誰も腕輪を使っていないなら良い。だがそうでなかった場合、何か使えない状況になっているという非常に良くない可能性が出てくる。

 

 本当はここで一度使ってみたいところではあるものの、あいにくとこれは使い捨てとの説明を受けている。

 

 仮にどちらかをここで使ってしまえば、例えばオレが1人で救出し切れない事態に直面して人手が必要になった場合に使えなかったり、逆にカラキリ達になにか起きたときにオレにそれを伝えられないなんてことがあり得てしまう。

 おいそれと使うわけにはいかなかった。

 

「それより、カラキリの足は引っ張るなよ? 指示に従っておけば、大抵なんとかなるはずだから」

「なあに言ってやがんだ! オレに実戦経験がないと思ってやがんな? 獣も魔物も人間も、とっくに経験済みだ! 余計な心配しねえで、パッと行ってダッと帰って来い! こっちもこっちで、ちょいと辺りを探してみるからよ」

「うむ! ここはわしに任せて欲しい! 何せわしは国太刀であるが故!」

「アトラさんも、細心の注意を払ってくださいよ? 1番危ないのは間違いなくあなたなんですから」

 

 頼もしい返答を聞いてから、オレは森のさらに奥へと駆け出した。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 森の深部へ向かうこと自体は、さして困難なことでもない。ただ暗い方へと向かって歩けば、自ずと深部へ至るだろう。

 

 100m以上頭上にある樹冠。樹冠部の葉は固く半透明で、その緑の葉が、ステンドグラスのように光を着色する。そして森の深くへ進むほどに、樹冠は3層4層と多層化し、その層が5を超えたころから、人間の眼には夜も同然といった暗闇が一帯を支配する。

 樹冠の薄い箇所から差し込む暗緑色の微かな光。その日差しの名残りが、ここでは唯一の光源となるだろう。

 

 そんな中を、アトラは黙々と直進していた。闇の中を進んでいるとは思えない確かな足取りは、見る者によっては違和感すら抱くだろう。しかし、違和感に捉われるような目撃者はいない。

 

 アトラは己が嗅覚に従い、既にいくつもの死体を発見していた。初めこそ腕輪を使って皆を呼び、その遺骸を運び出そうかとも考えた。だがその死体の損傷と、次々と死の気配を察知したことで考えを改めるに至った。

 

 亡骸はいずれもが激しく損傷していた。いや、それは損傷などではなく、解体と言った方が実態に即するかもしれない。()()をばら撒き、血を撒き散らしているその肉塊は、死んだ直後にあえて何かしらの目的から行われたものと推測できた。

 

 しかし、こんなマネをすることでどのような“利”があるのか。それがアトラには想像もつかなかった。

 もしや、血の匂いで魔物を呼び込み、食わせることで死体を処理するのかとも考えたが、あまり現実的にも思えない。痕跡を完全に消し去れるものではないだろう。

 

 そして様々な思考を繰り返しながら進む中で、遂にアトラは“仲間”を見つけた。否、見つけてしまった。

 

「————————」

 

 そこは他と比べて明るい、樹冠の切れ間。その緑の光を浴びて、彼は半身を地面に埋めた状態で俯くように佇んでいた。

 

 反応はない。アトラが、気づかぬはずもない距離にまで歩み寄っても動き一つない。

 そしてそれを、アトラも沈鬱な表情で受け止めていた。まるで動かぬことを承知しているように。

 

「……………………ごめん、もっと早く……来るべきだった……痛かったろ……?」

 

 ポツリと、謝罪が溢れる。聞く者もない中で。

 アトラは数秒間、動かぬ彼を見つめていた。

 

 教会の兵士は、もっと感情の機微のない人間だと想像していた。命令と教義に忠実で、昆虫みたいに無表情な連中と、勝手に信じていた。

 だが、その先入観がどれほど愚かなものであったかは、もう十分に知っている。

 

 彼らもまた、1人の人間だったのだ。

 成果には喜び、他愛無い話題に花を咲かせ、仲間の身を案じ、困れば眉を下げる。

 それはアトラ自身がこれからもこうありたいと願った人間の姿そのものだった。決して超人でも昆虫でもない、ふつうの人間だったのだ。

 

 頭の中を駆け巡る様々な思いを振り切り、アトラは沈黙する彼を引き抜くために、その力の抜けた腕を掴んだ。

 

「さ、行こう。みんな待ってる。すぐに引っこ抜くからさ……なんだってこん、な————」

 

 語りかける声が、硬直する。

 

 彼の身体は持ち上がった。

 

————ズルリとした振動が、掌から全身へ這い回る。

 

 その手応えの軽さに、アトラの顔から色が失われた。

 

 アトラは彼の下半身が地中へと埋められているのだと思っていた。しかし、そのあるべき半身は初めからそこになかったのだ。

 

「…………………………………………」

 

 辺りを見渡し、初めて気付く。

 そこには全てが揃っていた。

 

 ()()()()が誰かは分からずとも、ソレらの中に、アトラの探している()()が含まれているのだけは理解できた。

 上半身と別れていた残り半分が、到底許されざる痕跡をあらわにして放られているのも、同時に見つけた。

 

 散乱する瓶は、治癒を目的とした魔法薬だろうか。軒並み使い切られたそれは、懸命に抵抗し、戦い、生きようとした形跡に他ならない。苦痛に耐えながらも諦めず、助けが来るのを信じていたはずだ。

 

 バキリと、森には異質なその音は、アトラの口中から出たものだ。

 森の木々は怯えるかの如くさざめく。

 ギリギリと継続する音はやがて止み、アトラはその場に背を向け、歩みを再開した。

 行き先はカラキリ達の方向ではない。森の更なる深部だ。

 

 それはただ探す相手が変わっただけのこと。

 何者が相手であれ、死体には明らかな()()があった。人間か人間に近い知性を持った存在の仕業か。そのどちらにしても、やることはもう変わらない。

 

「同じ目に合わせてやる————」

 

 これらの玩弄を死後にやったか生かしながらに行ったかは知らないし知る必要もない。

 

 そう、同じ目だ。

 同じ目とはつまり半身を裂き睾丸を輪切りにしてそれらでもう半身を飾り立て自らの臓物をその落とした首に咀嚼させ砕き折った肋骨で両目を抉り全身を解体して面白おかしく組み替えてそれからそれから————!

 

 到底単独で行ったとは思えない。これだけのことをここにいる全員にした以上、それには相当な労力を割いたはずだ。それはつまり、割けるだけの人員の余裕があったことを意味する。

 

————皆殺しにしてやろう。

 決して抗えない圧倒的な暴力で、正面から潰してネジ切り自分の作った血溜まりで躍らせてやろう。

 お前たちが生まれ落ちた意味など、ただ真祖の眷属に蹂躙されるための一点において他にないのだと教授してやろう。そしてその血は何の糧にもされぬまま、ただ乾き切って朽ちるままに任せてやれば、それは何と甘美で完全なる否定なのか。

 

 アトラは視界が紅く染まるのだけを堪えながら、殺気を迸らせるまま気配の察知に全神経を注いだ。

 吸血鬼の肉体はその殺戮と血の気配に歓喜の声をあげ、助けるべき味方を探すとき以上の、捕食者としての感知能力をアトラへ与える。

 

 皮肉なほど呆気なく、余りにも他愛無く。

 アトラは獲物たちを捕捉した。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「4個部隊が壊滅したぁ?」

 

 顰めっ面でそう外れた声をあげたのは、作戦の進行状況を確認していた金髪の剣士だった。

 

 ゼリューことゼリア・グリューゲルに知らせを届けたのは、壊滅した部隊にいたと思しき男だ。這々の体で逃げ延びたという様子で息を切らせるその姿に、しかしゼリアはどこか違和感を抱く。

 その目が冷たい怒気を隠すことなく、蒼白の男を見据える。

 

「その割には目立った傷もネーじゃん。……ああ、お前碌に戦わず逃げたろ。アビさんは献身やら自己犠牲はバカみたく愛するし、身内にもまあ呆れるくらいに甘々だわな。

 だから勘違いも無理ないってとこだけど、敵前逃亡やら味方を見殺すだとかはマジで許さねーから。

 

 ————お前も贄になりたいってか?」

 

 ブンブンと首を振って、悲鳴とも呻きともつかない音を漏らす男の様子は、恐慌状態一歩手前に思われた。これ以上は話にならなくなると冷静に判断したゼリアは、一度怒りを棚上げし、男を落ち着かせてから状況を質した。

 

 そして男の語る内容に、再びその眉根に力が込められる。

 

「その話がマジなら……ヤツらの主力部隊? でもあのクソ女はいなかったんだよなぁ?」

「————隊長。レティシカ率いる主力部隊とアンビオン司祭が、たった今交戦を開始しました」

「……チッ、予定より速えな。ウチらの防衛線はまるきり機能してないって、何のために俺が走り回ってんだか。

 てか人員配置にムダがありすぎなんスよね、これ。アビさんの守りが半端だし、案の定コレだもんなあ。キッツイわぁ」

 

 護衛対象であるはずの司祭が戦闘中と聴いても依然として涼しい顔のゼリアを、報告した女は訝しむ。

 女の片目は閉ざされている。

 

「よろしいのですか?」

「ギリ間に合った。あの結界内ならアビさんのヨユー勝ちなんで。心配無用って感じだから、今は勝手やってるヤツを潰すのがウチらの仕事っしょ。ほら、案内しろ」

 

 ゼリアはいくつかの指示を残すと、強敵のいるはずの場所へと急行した。

 

 現場へたどり着いたゼリアは、まず壊滅した部隊の骸を発見した。その大半は首が無く、同じ数だけの頭も転がっている。

 そしてそれをやったであろう下手人の姿も、同時に視界へ収めていた。

 

「む」

「なんだぁ? まあだ来やがんのかよ」

「皆さん、新手です。構えてください!」

「全員準備できてる。できてないのはノックだけだ」

 

 “嫌ににぎやかな集団だ”。それが第一印象だった。

 緊張感の中にも士気の高さが垣間見え、悲壮感というものがない。転がる死体の数からして、多少なりとも息を切らせるなり負傷しているなりの消耗が見られていいはず。いや、見られるべき状況であろう。

 

 しかしゼリアの見たところ、敵には連戦による疲労も憔悴も見られない。それが不可解であり、不愉快でもあった。

 

 釈然としないものを感じたまま、右手を高く掲げる。それが合図だった。

 

「来たぞ!」

 

 野太い声で発せられた、敵の出現を知らせる声。そこへゼリアの指示に従い、身を潜めていた12名の部下が全方位から短刀を投擲し、投げた先から地を滑るような挙動で敵へ突貫した。

 威力偵察だ。既に複数部隊を壊滅させただけの何があるのか、敵の実力をまず測り、手の内を曝させる。〈装甲思念〉があって尚、ゼリアに慢心はなかった。

 

 そのためにゼリア直属の精鋭部隊を引き連れている。ヘタに余裕を持たれて手の内を隠されては意味がないのだ。

 

 そして、事が始まってすぐに、脅威が何であるかがハッキリした。

 

「忍びが如き芸当を、こんな大陸で見るとは思わなかった。や、もしや忍びの郷でもあるのか⁇」

 

 呑気な声を聞いたと同時に、白刃が瞬いた。

 1人、突出した剣士がいた。全ての投擲物を、その肉厚の鉈のような得物で叩き落とし、流れるように接近してきた者の首を刈って行く。

 

 決して腕や脚などの部分的速度は突出したものではない。否、速いことは速いのだが、それは素人でも数ヶ月の鍛錬で出せる程度の速度だ。決して対処できないものでもない。

 しかし、それでも首は刈り取られる。

 

 ゼリアには、それが全身を完全に連動させることによるものだと理解できた。刃を振るうのは腕でなく全身を使い、各部位を高度に並行動作させている。攻撃は最小の動きで避け、自身の攻撃姿勢を崩さない。それどころか避けた際の動きすらも利用している。

 完璧な身体制御と、恐るべき先読みがなせる業だろう。

 

 それに動揺して崩れた者を、体格の良い男が的確に潰し、それに後の者たちが雪崩れるように続く。

 

 そんなことを幾度か繰り返された結果、一瞬で部隊は半壊していた。

 

「もういい、退がれ」

 

 これ以上は無駄であると判断し、ゼリアは部隊を退がらせる。おおよそのことは分かった。

 

 脅威たり得るのは1人。腰に刀を提げた剣士のみだ。

 体格の良い男も指揮を執り実戦経験もあるだろうが、あの程度であれば教会の訓練を積んだ一般的な兵士と大差ない程度。容易に対処できる。

 

 つまり、ゼリアが剣士を屠ればそう時間もかからずこの集団は消える。〈装甲思念〉を突破する手段も見られなかったことで、ここからは自分1人で十分だとの判断も妥当といえた。

 

 対するモンドらも、現れた金髪の剣士がこれまでの敵とは一線を画する者であることは、カラキリの視線が戦闘中も男から離れなかったことで理解していた。

 言われるまでも無く、この臨時結成された班において誰が主力かは、彼らとて理解している。この自分より体格の劣る剣士がいなければ、とてもここまで進めず、また全員が生存とも行かなかったであろうことも、この場の誰もが認めるところだ。

 

 その主力であり生命線でもあるカラキリの警戒は、否が応でも班員へ重苦しい緊張を強いていた。この少女とも見紛う剣士が敗れれば、そんな敵は誰にも止められない。

 

 睨み合う両雄。ゼリアの視界には既に有象無象の影もなく、受けるカラキリの意識もただ1人へ向けられている。

 間合いは未だに魔法戦のそれであり、剣士同士の距離には至っていない。

 

 にも関わらず、まるで既に互いに切り結んでいるかのような張り詰めた空気は、両者にとってこの程度の距離など有って無いようなものであることを雄弁に物語っていた。

 

 黒剣が抜かれる。

 ゆっくりと、獲物を狙う獣の瞳を敵意に染めて、ゼリアは淀みなく歩みを開始した。

 

 油断なく敵を見据えながら、ここでカラキリはある決断を下す。

 

「モンド殿。森の外へ退避は可能か」

「……………………そんなにヤバいってのか、あの野郎は」

「わしにのみ注力していれば良いのだが、そうでないときは護り切れぬ予感がある。

 アトラ殿へ大見得を切った手前、汗顔の至りではあるが……」

 

 ここで逃げたところで、道中に危険がないという訳がない。それらに対しては、モンドらはカラキリ抜きでの対応を迫られることになる。それは状況如何では、全滅という最悪の結末すら視野に入る撤退戦だ。

 しかし、それでもなおここよりは安全であるとの判断だった。

 

「分かった。俺らのことは気にすんな。ここにいても足引っ張るだけだろ」

「かたじけない」

 

 決めてからの行動は早かった。

 モンドはカラキリを除く全員を引き連れ、素早くその場から離れていく。

 見えなくなって行くカラキリの背を何度も振り返りながら、皆は単独行動している少年のことが頭を離れなかった。敵に襲われてからというもの、カラキリがいくら腕輪を使おうとしても反応せず、そのままここまで事態が進んでしまった。

 

 彼は無事なのか。

 合流の目処すら立たずに、それは皆の足を殊更重くさせていた。

 

「メンドイけど一応訊くわ。お前、教会の人間か? ま、チゲーだろうけど」

「……………………」

 

 モンドらが十分に離れたのを、敵の視線の動きと背後の気配から察したカラキリは、意外な質問に微かに柳眉を動かした。

 雇われの身である以上、無関係とは言えないが関係者とも名乗り難い立場である。結果返答はなく、冷えた空気だけが充満する。

 

「ヤる相手とはしゃべらない気質(たち)か? …………まーいいか。サクッと————っ」

 

 ゼリアの言葉は中断を余儀なくされる。

 相対する剣士が、得物であるはずの鉈を投擲してきたからだ。急速に迫る凶悪な形状(フォルム)は、まるでそれが本来の用途であるように、風を切って牙を剥いた。

 

 巧みに隠された予備動作と投擲の速度から、何かこの手の訓練を受けているのは疑いようもなかった。

 

「フッ——!」

 

 しかしゼリアにとってこの程度、不意をつかれて尚対処に容易い。黒剣が閃き、迫り来る刃を頭上へ弾く。黒剣を抜いているのは、こちらの能力を把握していない敵が、あからさまに脅威である剣を警戒してくれればいいと考えてのものだ。

 放っておいても害はないが、こうして剣で弾いたことで、敵は未だに〈装甲思念〉の存在を認識できない。

 

————はずだった。

 

 喉元の“装甲”が、何かを防ぐイメージが返ってくる。

 ほぼ同時に剣を持つ右腕、利き脚である右脚、通過して脊椎へと、その反応はたて続いた。

 

「————ッ⁈⁈」

 

 久しく感じていなかった反動が、思考を揺さぶる。

 

 咄嗟に黒剣で振り返りざまに薙ぐ。

 だがすでに敵は平然と間合いの外へいた。

 一方的に攻撃を受けたと悟り、一瞬の逡巡の後、ゼリアは全てを理解していた。

 

 1対1の戦闘に限らず、敵に偽の情報を掴ませ誤った前提に立たせることを、ゼリアは特に重要視していた。

 それを怠る者こそが狩られる側であり、これまでにゼリアが仕留めた強敵は軒並みこの手法で狩られてきた。

 黒剣の持ち主であった妖精すらも、その例外ではない。

 

 しかし、今回に限り謀られたのはゼリアの方となった。敵の男とも女ともつかない剣士を見て、ゼリアは“身体操作が神がかっており、その他の速さや膂力といった身体能力を補っている”程度に考えていた。

 だが今の踏み込みも流れるような剣撃も、ゼリアの下した評価を大きく上回る速度で行われた。

 

 つまり、あの剣士はゼリアの部下を屠りながら、その時から自身の能力を低く見積らせる算段を立てていたということであり、おかげで間合いを見誤り、先手を許し、〈装甲思念〉の守りを曝してしまったということだ。

 

「チッ……ホンキでダリィな……」

 

 歯噛みするゼリアの、苛立ちの込められた視線。それを受ける剣士は、そんなことをまるで斟酌せず、新たに抜いていた美しい翠の刀身を見つめて首を傾げていた。

 訝しげな視線は刀とゼリアを幾度か往復する。

 

 が、やがて方針も定まったらしい。

 緩く頷いてから、迷いのないその目がゼリアを見据えた。

 一方で、ゼリアもまた苦いものを嚥下し、冷静さを取り戻す。圧倒的優位は変わらない。このまま正面から轢き潰すのみ。

 

 (カラキリ)(ゼリア)の戦いは、こうして幕を開けた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 レティシカの武器は、“黒辺”と呼ばれる漆黒の棒である。自身の服の影に忍ばせることができ、任意のタイミングで手元へ出現させられる。その特性から、暗器のような用途にも用いられ、また正面から敵を打倒するのにも適していた。

 

 “黒辺”はその重量にして100kgを超えていながら、教会に定められた者が握れば、その重量を使用者にとって扱いやすい重みにまで軽減させる。しかしながら、振るわれる敵には本来の重量として振る舞うという凶悪なものだ。

 

 レティシカ率いる主力部隊15名は、敵の防衛線を突破し、結界の要である大魔法陣の祭儀場へと到達した。阻む敵は、悉くレティシカの黒辺や隊員らの餌食となり、勢いもそのままに敵の首魁たる司祭を捕らえるはずであった。

 

 だが————

 

「はぁ……はぁ……はぁ」

 

 現場はまさに死屍累々。樹冠が日光を遮ることによる闇を抜けた先に、唐突に樹冠の消えた空間が現れる。そこがこの祭儀場だ。

 日光に照らされる鮮血は、ただでさえ堪え難い瘴気に赤い彩を加えていた。

 

 その酸鼻な光景の中、赤い司祭は慈愛に満ちた表情でレティシカを見据えていた。

 未だに抵抗を続ける彼女へ向けるその目は、まるで駄々をこねる子どもを見つめる、上位者としてのそれだ。

 

「秘蹟を封じられてなお抗うのですかァ? それにどれほどの意味があるのでしょうかねェ」

 

 レティシカ以外に、立ち上がっている者はいない。半数は日光を照り返す銀の球体に圧殺され、もう半数は未だ存命のままに銀球へ囚われていた。

 

 戦闘開始直後こそ、レティシカたちは優勢に戦いを進めていた。雪崩れ込む防衛部隊を黒辺で薙ぎ払い、〈障壁魔法〉を叩き破り、司祭へと肉迫した。

 しかし、その瞬間轟いた心音によって、全てが逆転した。

 凡ゆる秘蹟が打ち消され、特別製故に結界の影響を逃れていた魔道具は機能を放棄し、〈聖障結界〉は泡のように弾けた。

 

 今のレティシカは、重量にして100kgを超える黒辺を、自身の膂力と驚くべき精神力で振るっている状態だった。

 が、それも限界だ。既にその手首は腫れ上がり、全身の筋肉はこれ以上の責め苦には耐えられないことを、熱と痛みによって泣訴していた。

 

「貴女のおかげで多くの血が流れました。ああァ……死ぬ必要のなかった者たちが命を散らすのは、本当に辛いものです…………ですが、信仰心同士の衝突は、やはり美しいものですねェ」

「ふざけないで下さい……! 貴方のそれは信仰心などでは無く、ただの狂気です! 尊さのカケラもありません……!」

「えェ、えェ。信仰とは狂気にも似たものがありますから、そのような間違いもよくある話ですともォ?

 しかし、一度は我々の教えを理解した貴女が、何故このような邪魔立てをするのでしょうか……。それが解せないのですよォ。

 

 貴女が彼らを率いて来なければこのような被害は生まれず、彼らも明日を生きられたのですよォ?

 責任を感じませんかァ?」

 

 グシャリと、大きな銀球が収縮し、小さな穴から赤黒い液体が噴き出す。一瞬聞こえた奇怪な音は、まさか()()の断末魔だったのであろうか。

 その想像がレティシカの頬をまた濡らした。司祭の望まぬ返答へ対する罰がコレなら、いま司祭がレティシカへ行なっているのはまさに躾であった。

 

「さァて、おかしいですねェレティシカさん。未だに神の助けが来ません。

 いえねェ、ここで奇跡が貴女を救うのならばァ……ワタシも6神とやらの神性を信じなくもないのですよォ?

 しかしどうでしょうねェ? 勝利したのはワタシでした。真なる神に仕える者ならば、当然敗北などしないはずではァ?

 

 やはり、もう一度ワタシたちの元へ戻ってくるべきだと思いますがねェ」

「ッ……母を生贄にしたお前たちに! 私が⁈ ふざけないで‼︎

 あのときだってお前たちは真の神を降臨させると言った! けどいなかった! 現れなかった! 母を無意味に苦しめ続けた!」

 

 慟哭。悲痛な響きを聞きながら、司祭は優しく頷きを返す。

 それは懺悔を聴き届ける神父の姿を彷彿とさせる。

 

「せめて虚神でも真祖でも、現れてくれたらどんなに良かったか! いてくれたならどんなに救われたか‼︎

 せめて僅かの意味だけでもあれば! どんなに‼︎」

「しかし、それで他の神に縋って意味があるのですか?

 縋る先を変えようと、貴女に救いは有りません。そうでしょォ? 貴女が救われるとすれば、この儀式を成功させて、母の死を“無意味”から“失敗”へと昇華させることではありませんかァ?

 

 貴女は心のどこかで、この儀式の成功を夢見ている。

 だから街への使いなど出したのでしょう?」

「————なに……を……」

「この儀式には、偽りの神々に汚され切っていない人柱が必要不可欠です。故に教会の兵士や騎士を幾人捧げたところで意味など有りません。それは貴女も知っていたはずですねェ」

 

 司祭の暗い瞳が、レティシカを覗き込む。

 レティシカの震える瞳を介して、さらにその奥底を暴くように。

 

「そして外部との連絡手段を失わせる結界の存在も、貴女は知っていたはずですよォ?

 そんな状況で使者など街へ送ったら……どうなるでしょう? 危険を報せる手段が結界により阻まれる以上、使者は調査結果を“異常なし”と誤認したままに、予定通り無垢な魂たちを森へ招くことでしょゥ。

 

 貴女の手にあの水晶球を渡らせるまではワタシの意志でしたがァ、そこからの行動は貴女の無意識です。

 やがて祭りの再開を報された人柱たちがここへ到着し、遂に儀式は形を成すでしょう。

 

 おめでとうございます、レティシカさん!

 貴女の望んだ通りですよォ!

 

 そして感謝を。貴女は今回の最大の功労者です!

 なんと敬虔なのでしょうか、貴女はァ‼︎

 無意識下での献身など、信徒の鏡というものです‼︎」

「そん、な……違う……違います私、わたしは……⁈」

「さァ共に見届けようではありませんか! 最後の真祖! 最後の御使いの招来をォ‼︎」

 

 声高らかに、司祭は喜びの声をあげて残る銀球を圧縮する。くぐもった悲鳴と、湿った音がよく響いた。

 その声と音に心音は呼応する。もはや司祭を阻む者などいないのだと。何らの障害もありはしないのだと。

 

 

 そこへ————

 

 

「————見 ツ ケ タ」

 

 

 あり得ないはずの障害。この圧倒的な優位をひっくり返せる者が現れるなど、誰が予想できたか。

 

 神聖なる祭儀場へゆっくりと、幽鬼のように近づく人影。

 それは大きく振りかぶる動作をすると、一瞬、その姿をブレさせた。

 

 瞬間、心音すら塗りつぶす破裂音が響き渡った。

 精霊の体毛たる巨木に炸裂し、樹皮を真っ赤に染め上げたソレが人であるなら、それをあの距離からこんな速度で投擲した人影は、一体何者だというのか。

 

「オオォ……貴方は……!」

 

 歓喜と感動に震える声は、まるで生き別れた家族との再会を果たしたときと同じ熱を纏っている。

 

 その声に、失意に飲まれていたレティシカの頭が持ち上がる。

 

 

 彼女は森から現れた、返り血に塗れる少年の姿を見た。



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翡霊刀

 

 何も、この司祭を探し求めたわけじゃない。

 ただ人の気配を辿り、出会えば殺し、また探す。

 そんな殺戮を繰り返した終着点に、見覚えのある禍々しい司祭がいただけだった。

 

 そこへ至る道中は、死屍累々。

 感情に任せて力を振るい、何の障害もなく辺りを血に染めた。まだ自分と変わらないくらいのもいたし、泣きながら兵士を解体する女性もいた。

 

 それらを全部、人の形だったのが信じられないくらいに壊して、ぶちまけて、否定し続けた。

 

 やがて、あり得ないはずの心音を錯覚する。

 

「ッ、…………うるさいな……」

 

 また1人の心臓を握りつぶしながら、オレは心音の方へと歩みを進めた。邪魔な連中は軒並み狩り尽くしたのか、知覚領域内に人の気配はない。代わりに、人だったものの放つ血と死の香りが充満し、理性を妖しく溶かす。

 

 進むうちに大樹の葉は枯れていき、足音に葉の砕ける硬い音が混ざりだす。そして獣じみた嗅覚と、それすら凌駕する超感覚めいたものが、この先にある多くの死と芳醇な香りを探りあてる。

 

 この頃には、心音は無視できる程度をとっくに超えていた。

 

「————グ……ぅ……るさ……はあッ、ハぁ……ワれル……!」

 

 動かないはずの心臓が拍動し、ザラザラジャリジャリしたガラスの血液を循環させる。

 そのヤスリは身体を巡って助走を得て、無様なほど無防備なオレの脳へと殺到した。

 

 偽りの痛覚が悲鳴をあげる。

 人間性(オレ)が削られる音と、未だ強まる心音。堪らず耳を抑えても、自分のナカから響くソレからは逃れようがなかった。

 

 いや、そもそも両方の耳を抑えることはできない。オレの右手が人間だったものを掴んで離さないのだ。

 何が気に入ったのか、コイツはトドメも刺されずについてきていた。苦痛に歪んだ顔は、道中に訪れた死が安らかさとは対極に位置するものであったことをうかがわせる。

 

 意図して持ってきたんじゃないから、当然これをやったのが自分だなんて自覚も芽生えない。

 捨てようかとも思ったが、コイツを見せたときの敵の親玉がどんな反応を示すかと思うと、握力は緩むことがなかった。

 

 そうして一心拍ごとに増す苦痛に呻きながら、オレはヤツを見つけた。

 木々の枯れ果てた森に空いた穴のような場所で、ヤツを視界に入れた瞬間、全ての元凶があの司祭なんだと一瞬で確信した。

 

「————見 ツ ケ タ」

 

 心音が響くたびに揺れる視界。消える雑音。

 口角が吊り上がるのも、まるで意識になかった。

 歓喜にも似た嗜虐心が荒れ狂う。

 

 すぐ耳元で、飢えた獣の吐息が聞こえる。興奮もそのままに、オレは邪魔な荷物(したい)を投擲していた。 

 

 とんでもない速度で嘘みたいな回転を伴ったソレは、人体に当たればどうなるのか。そんな単純な思考すらままならない。

 もう苦しめるとか加減とかの発想すら浮かばない。

 

 しかし、揺れる視界で当てるのは至難の業で、結果としては投げたモノは大きく狙いを逸れて、赤いペンキで巨木を染めるだけだった。

 

「ハは————」

 

 構わない。不愉快なアイツをぐちゃぐちゃにするのに、わざわざ離れてやる必要はないんだ。

 

 道中奪った腰帯。そこに提げた得物を握る。

 そして全力で駆けた。

 地を蹴るたびに、ガラスの落葉が砕けて散乱する。けたたましい音に司祭が反応するより前に、その身体を青い刀身が捉えていた。

 

 勢いを止めることなく、全速力と全膂力で振り抜く。

 

 ————コトは一瞬で終わった。

 

 声をあげることもなく、千々に飛ぶ肉片。

 理外の加速に人外の力を一身に受けて、人体程度の強度が意味(かたち)を保てる道理はない。

 

「——ア」

 

 冷静になったのは、そんな豆腐の破片が四散するのを見届けてからだった。

 黒く粘ついた灼熱(かんじょう)も鳴りを顰め、あれだけうるさかった心音も弱まっている。

 

 身体が急激に冷却されていくのが、秒刻みで理解できた。

 

「なにしてんだ、オレは……こんな一瞬で……」

 

 苦しめて殺すと誓ったはずが、訳も分からない衝動に流されて、呆気なく終えてしまった。今さら拷問なんて、笑い話にもならない。こんな破片を集めても意味もない。

 

 そもそも()()が司祭だったのかすら判別不能だ。突貫したときは気づかなかったが、辺りは肉と血に彩られている。蠢いていた肉塊らも、司祭を爆散させたときの余波で一帯に散らかっていた。

 鼻腔をくすぐる香りは、この場がどれほどの臭気に侵されているかを容易に推測させた。

 

 このときになって、ようやく修道女の存在に目がいく。

 

「っ、アンタは……」

 

 なぜこんな場所にいるのかは、固く握られた武器から察せられる。不思議に思ったのは、なぜ1人なのかということだ。

 

「他の人間は? チームで動いてただろ?」

 

 どこか呆然とした様子の修道女は、オレの問いが自分に向けられているものだと遅れて気づいたらしい。

 ハッとした表情を浮かべると、今度は悲しそうな、悔いるような……そんな苦しげな色を瞳に浮かべながら、その細い指をある方向へと向ける。

 

「————みなさんは……そこに、います」

「…………………………………………」

 

 視線の先には、銀の球体。

 嫌になるくらいに見覚えがあったが、うんざりするほど納得もした。場違いにも、本来ああして使う魔法だったのかと納得してしまう。捕まった時点で生殺与奪は司祭に委ねられる、凶悪で悪辣な金属球。

 オレのときは檻として用いたが、今回は棺桶として用いられたらしい。

 

 鮮血に染まる球体は、術者を失ったにも関わらず、未だ貪欲に獲物を咀嚼していた。魔力源が司祭ではないのかもしれない。

 

「解放してくる。あれじゃ埋葬もできない」

「あ————」

 

 縋るように持ち上がった修道女の手を一度だけ強く握ってから、オレは死してなお兵士を辱めている球体を、その()()に気をつけながらこじ開けた。

 中身は、見て最初に浮かんだのが『破裂』という単語だったような有様だった。

 

 力だけでなく慎重さが求められる作業は、予想外に時間を奪った。全部を済ませるまでに、体感で30分は費やした気がする。

 作業に集中しながらも、内心では修道女……レティシカが名前だったと思うが、彼女への同情を覚えずにはいられなかった。

 

 この犠牲者とレティシカの関係は、少なくとも殺された班員とオレとのものよりは長く深いものだったと思う。それが自分以外全滅。場合によっては、目の前で殺された可能性すらある。

 今その胸を握り込み、精神を殴打する衝撃はオレなんかの比じゃないだろう。

 

 作業の合間に盗み見たレティシカの姿は今までの印象と打って変わって、まるで道に迷った少女のような危うい脆さを感じさせた。

 本来なら一刻もはやくカラキリたちに合流すべきところを、わざわざこんな手間を買って出ている。

 それはやっぱり、同じ痛みを感じたからこその同情と、レティシカの弱々しい姿がそうさせたんだと思う。

 

 兵士の身体をとりあえず横に並べる。どれも胴体部分はひどい有様なのにも関わらず、顔だけが人相を残していた。

 閉ざされた瞳からは、透明な液状のものが溢れている。本来なら眼球内にあったはずのそれは、涙に代わって無念を訴えているに違いなかった。

 

 仲間たちが並んだのを見るや、レティシカは一転して芯を取り戻したようにしっかりとした足取りで兵士たちに歩み寄ると、懐から青い粒子の入った小瓶を取り出す。

 

「みなさんの身体を置いていては、何かの糧として利用されかねません。ここで簡易ではありますが、火葬儀式によって彼らを天蓋園へと送り出します」

 

 言い終わるより早く、レティシカは淀みのない慣れた手際で準備を進めていく。テキパキと亡骸を囲むように何かの印を地へと刻む。そして聞いたことのない祈りの言葉を紡ぎながら、青い粒子を兵士らの額と心臓へふりかけた。

 青い燐光が流れる。それはいつしか熱を持ち、揺らめいて青い炎となって亡骸を一瞬で消してしまった。

 煙もなく、後に残る灰もない。

 燐光は天への道標となって、余さずみんなを連れて行った。星の様な残光だけが、数秒間瞬いていた。

 

「……………………」

 

 その神秘的な光景に釘付けになりながら、なぜだか理由もなく胸が痛む。自分が感じた“羨ましい”という感情。その理由が分からなくて、視線は消えた燐光を求めるように空から動かなかった。

 

 キッカケが無ければ、そうしていつまでも固まっていたのかもしれない。どこか遠くへ旅立とうとしていた意識が戻ってきたのは、人の倒れる音が聞こえたからだ。

 

「オイ!」

 

 糸が切れたように、力なく崩れ落ちたレティシカに駆け寄る。こうして見てみると、修道女の身体は限界を超えていたのがすぐに分かった。

 

 呼吸は浅く、額には球のような汗。触れてみるとその熱さに驚かされる。手首は腫れ上がり、折れてたり脱臼している指。ここだけでなく、脱がせば全身似たようなことになっているのかもしれない。

 これを耐えて儀式をやり切るなんて、薄ら寒くなるほどの精神力だ。

 

「良くて重傷、悪くて致命って感じだよな……はやく運ばないと死ぬんじゃないか……⁈」

 

 今のレティシカは治癒術も医術もさっぱり素人なオレでも冷や汗が止まらない容態だった。弱まりつつあるとはいえ、相変わらず拍動する禍々しい魔法陣が気にはなったが、オレはレティシカを慎重に抱えると、朧げな記憶を頼りにみんなとの合流を目指した。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 アトラが森を進んでいる一方で、両雄の戦闘は未だ決着せずにいた。

 

 カラキリの刃は幾たびもゼリアへと肉薄する。だがその度に、不可解な何かに妨げられてしまう。その何かに隙間はないかと、一通り全ての角度から一太刀を浴びせかけて、カラキリはそんな隙間などないのだと認めた。

 ならばと、今度は陽動や牽制を複雑に駆使し、敵の意識の外からの斬撃を試みた。もしも見えない盾を展開するといった能力ならば、これで攻略できると踏んだのだ。

 

 しかしこの試みも成果はなかった。敵に多少の動揺を与え、攻撃の頻度を減らすことには一役買ったが、その程度。致命の一閃を与えるには、到底足りない。

 

 だが、歯噛みしていたのはむしろゼリアの側であった。鉄壁の守りによる圧倒的な有利を持つはずのゼリアだが、彼の予定ではすでに決着は付いているはずだったのだ。

 そもそも、ゼリアの任務は司祭と儀式を護ることである。たった1人にこれほどまで時間を割いて良い理由は全くない。

 ならば目の前の剣士など無視して良いかというと、そうもいかないのだ。ゼリアには分かっている。この剣士を止められているのは、自分の能力あってのものだ。

 自分以外にこの剣士を止められる者など、おそらく司祭以外にあり得ない。しかしその司祭は現在敵部隊と交戦中。これほどの戦力を合流させるのは危険だった。

 

「ちょこまかウザってーな!」

 

 未だ敵を叩き潰すに至らないのは、カラキリの足運びによるものだ。動きに緩急がありすぎる。急停止と急加速。居ると踏んだ場所におらず、来ると思った剣撃は来ない。動きがまるで読めないのだ。軌道が読めない以上、“装甲”で叩き潰すことはできない。

 

 ゼリアは敵が自身を無視して司祭を急襲しないことに安堵し、カラキリは敵が自身を無視して班員らを追わないことに安堵する。結果、彼らは押すことも引くことも叶わず、互いの隙を探り合っていた。

 

「シィィッ!」

 

 ゼリアの黒剣が受け流され、姿勢を誘導される。そして息を吐く間も無く、ほぼ同時に複数回の衝突。“装甲”が目にも止まらぬ連撃を防いでいた。

 ゼリアがそれを認識した瞬間には、すでにカラキリは正面から姿を消している。立て続けに8ヶ所、まるで違う方向で“装甲”が反応する。

 これまでにないほどの攻勢。ゼリアは敵にまだこれだけの余力があったのかと、驚愕せずにはいられなかった。

 

 両者の勝敗は決してないが、互角というわけではない。常に動き続け、それでも尚付け入る隙を見出せないカラキリと、敵が疲労して隙を曝すのを待っていれば勝てるゼリア。度々驚かされ、苛立ちを隠さないゼリアではあるが、しかし確実に追い詰められているのはカラキリなのだ。

 それを理解しているからこそ、ある意味でゼリアは安心して胸中を態度に表せたのだろう。

 

 今の連撃もまた、カラキリなりに考えあってのことだ。目の前の男が見えない盾を展開するのだとして、それがさまざまな角度へ対応するのは理解した。そして意識の外からの斬撃にも対応した。

 その上で、今度はその盾の数に限りはないかと考えたのである。

 

 ほぼ同時に、意識の内外からの連撃。消耗は激しくとも、カラキリは盾の同時展開できる数は有限であるという仮説に活路を見出したのだが————

 

「……ふうぅぅぅ……………………これは……鎧か」

 

 カラキリは冷徹に、自身が賭けに負けたことを認めた。無茶な戦い方を続け、疲労も蓄積していた。そんな状態でさらに激しい攻勢に出れば、今の拮抗状態すら保てなくなることも分かった上で、それでもリスクを受け入れて勝ちを目指した。そして失敗した。

 

 もう一介の剣士としてのカラキリに、状況を打開する手はない。ここから先は、国太刀としての戦いになる。

 打開策はあった。ただ、それを使う場合、大陸での旅は思い描いたものではなくなってしまうだろう。大きく計画を修正せざるを得なくなる。

 のんびりと1つの町や場所に長居することはできない。しかし逃走という選択肢を持たない時点で答えは決まっている。

 

「————あ?」

 

 翠の刀が鞘に収められるのを、ゼリアは呆気に取られて眺めていた。絶え間などなかった攻撃も、否、それどころか動きすら絶えている。

 そこまで認識して、ゼリアは内心で悪態を吐いた。いよいよ敵は自分を無視し、森の深部へ迫るつもりなのだと思い至ったのだ。これまでの戦闘で見た敵の踏み込みの速さから、恐らく1度距離を離されれば、ゼリアは敵に追いつけない。

 ならばと、ゼリアは〈装甲思念〉による圧殺を解禁する。“装甲”による攻撃を凌がれた場合、いよいよ早期決着が絶望的になると予感しながらも、ゼリアにはこの手段以外に敵を止める力がない。

 

 このときには既に司祭が吸血鬼に斬り飛ばされてから時間が経過しているが、そんなことなどゼリアには知る由もない遠い地の事情だ。

 

「“謀れ————”」

 

 カラキリの静かな呟き。

 ゼリアは次の瞬間の敵の行動に驚愕した。敵は逃走するのではなく、正面から踏み込んできたのだ。今までゼリアが欲しながら、遂に訪れなかったはずの好機。これ以上ない位置関係が、ウソのようにアッサリと実現する。

 一瞬でさまざまな戦術が脳内に浮かび、いつくもの候補から、彼は最も確実な手を選択した。

 

 正面からの斬撃を防いだ瞬間に、左右から圧殺。

 ゼリアの横を通り抜けることはできないよう、可能な限り広い“装甲”を創造し、頭上を越えられないよう天井を設ける。これで逃げ場はない。

 強いて言えば敵の後方のみ“装甲”がないが、進行方向の真逆へ瞬間的に移動することは出来ないはずだし、高度な知性を持った生物が自身と“装甲”の間にあった場合、存在が極めて不安定なるという性質が〈装甲思念〉にはある。

 つまり、ゼリア正面と左右、そして天井を設けたこの構えが最善の手だった。

 

「フッ————!」

 

 ゼリアの迎撃態勢が整った直後、カラキリは刀の距離まで肉薄していた。これまでになかった力み。それは予備動作として、ゼリアに刀身の正確な軌道予測を可能とさせる。

 右脇腹から侵入し、左鎖骨を寸断する致命の軌跡。しかし、それは永遠に訪れることのない閉じた未来だ。

 

 刀の鞘を握っていた左手が、輪郭を失う速度で突き出され、刀を置き去りに元の位置へと引き戻る。あまりの速さに、人の目にはまるで刀がひとりでに鞘から飛び出して見えるだろう。半ば抜かれた状態で滞空する刀は、微かに翡翠色の光を放っていた。

 コンマに満たない滞空時間は、右手が柄を迎えたことで終わりを告げ、翠の軌跡が目前の敵を切り伏せんとゼリアの予想通りに伸びて————————————

 

 

- - - - - - - - - -

 

 

「っ、……ぅ……あ?」

 

 ————勝利を確信していたゼリアは、なぜかうつ伏せに倒れていた。足の辺りには、未だ健在な敵の気配がある。即座に起き上がる。いや、起き上がろうとした。

 

「ハ……ッか……ぁ」

 

 力が入らない。全身が完全に虚脱し、どこにも力の起点が見つからない。どこに、何の力を入れれば動けるのか、生きれるのか、まるで分からない。

 息を吸うように使えた〈装甲思念〉も、息を吸うのもままならない今は一片のカケラすら創造できなかった。

 

(なにが……起きた? 斬られたか?)

 

 パニックを起こしていいはずの状況ながら、ゼリアはどこまでも冷静に分析を開始する。

 ゼリアの最後の記憶は、“装甲”が敵の刀を防いだときの感覚だ。そう、防いだ。間違いなく防ぎ、敵に一瞬の硬直を強いたはず。そして思考が圧殺へと切り替わる瞬間に、…………奇妙な光景を目にした。

 

(……とおり抜けやがった)

 

 ゼリアは数瞬前の光景を鮮明に思い出す。不可視の“装甲”に妨げられた刀。だが、防いだ刀をそのままに、朧げな翠の光が“装甲”を通過した。まるで減速せずに、刀がもし防がれなかったら通ったであろうはずの軌跡を描いて、この身を通過していった。

 そこまで思い出して、ゼリアは確信する。

 

(あれは刀だ……紫の以外にもういっぽん……さんぼんあったか? ……いや、ちがうな)

 

 間違いなく敵は1本の刀で攻撃したはず。だが別の刀が通過した。まるで防いだ瞬間に発生した幻影のような、あまりに不可解で理不尽な現象。

 

(わけ……わかん、ね……)

 

 答えに行き着くことなく、ゼリアの意識は遠のいて行く。敵の気配はもうない。走り去るその気配が司祭の方向とは外れていたことにだけ安堵して、ゼリアは意識を手放した。

 

 『翡霊刀』————それが理不尽を成したものの銘である。翡翠から削り出したがごとき美しい宝刀とは、この刀の一側面でしかない。その本質は、実体を持つ宝刀と、非実体の霊刀が同時に重なり合って存在しているという点にある。

 例えどのような鎧、盾、〈障壁〉で身を固めようと、それで防げるのは“宝刀”のみだ。“霊刀”としての翡霊刀は、そのような守りなどないものとして振る舞い、振られたとおりの軌跡を描く。

 防御不能の霊刀と、その依代たる宝刀が1本の刀として安定して存在を両立させている神秘の結晶が、『翡霊刀』という刀の正体だった。

 

 倒れたゼリアの肉体には、斬られた痕などない。しかしその生命活動は急速に衰え、ただ死を待つだけの生ける屍と化していた。ゼリア自身にこの状態から回復する術も、生命を維持する手段もない以上、あとは死を迎える以外に辿る(みらい)がない。

 

 故に、もはや呼吸すら消え入りつつある敵に構わず、カラキリは護衛なしに森の外へと向かっているはずの仲間の元へと急ぐのだった。

 そしてその道中、仲間のいるはずの方向から、森中に響く怪物の慟哭を聞いた。

 



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望んだ再会、望まぬ決断

 

 人ひとりを運ぶのは、同じ重量の荷物を運ぶのとは訳が違うらしい。重症を負っているとなると、なおさらだ。

 身体のあちこちを痛め、大小の骨折をしているレティシカの移動には、いちいち細心の注意を求められた。間違っても全力疾走とはいかない。

 

 来たときは一瞬に感じられた道のり。あのときはマトモじゃない精神状態だったのもあって、時間感覚がおかしかったり、仔細に思い出せなかったりも一瞬に感じた要因なんだろう。が、それにしても長い。常に注意を払う必要はあるのに時間の流れは妙に緩慢で、なんだか心がヒマをしているというおかしな状態だ。

 

 レティシカはやや荒い呼吸で、背中に高すぎる体温を伝えて震えている。無力だ。こういうときに、もっと勉強するんだったと後悔する。あれだけ読んだ本の数々が、今はまるで役に立っていない。

 帰ったらルミィナさんの蔵書から、何か薬草関係のものを読み込もう。この森は本来なら薬草の宝庫のはずで、植物が視界に入らない瞬間はないくらいだ。

 だけど、オレにはそれらがどんな効果を持つのか分からない。試しに自分に試そうとも思ったけど、オレで試したって人間に同じ作用をするなんて保証はどこにもない。ネズミに試す以上に、オレと人間は乖離しているはずなんだから……。

 

「いや、そもそもオレには効かないものだらけなんだっけ? ……むずかしいな。ルカがいれば……」

 

 どうにかなったんだろうか?

 ルカの笑顔が、どうしてか懐かしい。邪気のカケラもない笑い声を思い出した途端に、会いたい気持ちが膨れ上がるのが分かった。心が疲弊しているのかもしれない。

 オレはルカと草原で寝そべって、日向の香りに包まれながら、腹にルカの重みを感じる日常を送っていたはずだ。なのになんだって殺したり憎んだりしてるんだろう……。

 今なにしてるんだ、ルカ? 笑顔なのは間違いないな。ルカは基本、いつだって上機嫌なんだ。ルミィナさんの視線に怯える身としては、そんなルカの気質にどんなに救われてるか……。

 

「いやいや、しっかりしろよ……まだ敵地なんだぞ」

 

 郷愁にも似た感傷を追い出す。頭を振って散り散りに。ルカとの時間はこれから腐るほどある。オレの寿命は人に比べればずっと長い。

 …………そういえば、ルカに寿命がないとかオレには寿命があるけどやたら長いとかはどうやって調べたんだ?

 真祖に寿命がないなんてことは、何千年と観察しても断言できない気がするが……代謝がないから老いない、だから不老。よって寿命なんてない……とかか?

 けどそれだとオレにも代謝は無さそうだし、不老で永遠に生きられると判断されそうなもんだけど、眷属の時は有限と言われてるらしい。はて、やはりどうやって調べたんだろうか?

 眷属が寿命で死んだのが確認されたことがあったとかか?

 

「はあ……」

 

 また取り留めのない考えが浮かんでいる。そんな状態でも、足だけはしっかりと速く、しかし衝撃は殺しながら動いている。慣れてきたせいで脳が退屈を訴えているんだろうな、これは。

 

 オレは司祭の元まで一直線に進んだんじゃない。人の気配を探し回って、いろいろと蛇行しながら進んでいたと思う。つまり、正確な道なんて分からない。ならば死体を辿ればいいかとも思ったけど、死体は生きた人間と違って見つけにくいらしい。そう知ったのはついさっきのことだ。

 いや……そもそもこの森は死体だらけだ。見つけても意味はないんだ。むしろ同じ場所をぐるぐると周回することになるだろう。

 

 おっ、今視界を過ぎ去った植物は見覚えがある。魔法薬の調合で、調合結果を安定させるのに有益だったはずだ。こんなことは知ってても、肝心な魔法薬の精製なんてしたことはない。

 我ながら本当に知識が偏っている。これも、特に目的なく手当たり次第に本を読み漁ったせいだ。

 

 …………またこんなことを考えているのか、オレは……。

 

 なんにしても、今できるのはとにかく安全に森を抜けて、あわよくば道中でみんなと合流することだけだ。

 

「よし、集中だオレ。これをやり切れば恩を売れるかもしれないし、有利なことも多いはず……!」

 

 そう自分を鼓舞して、オレは朧げな記憶と直感を頼りに森を駆けた。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「クソが! いくらでも湧いて出やがる!」

「旦那マズイぜ、これぁ保たねえ!」

「あヅっ⁈」

「ノック⁉︎ さがれさがれ!」

「ノォック! ここで伏せてろ‼︎ お前らもだ! また投擲来るぞォ‼︎」

 

 モンドの胴間声に、一同は即席の()に隠れるように身を伏せる。直後、複数の方向から断続的に投擲用の短剣や杭が空を裂いて()へと突き立つ。

 

 硬質な音に混ざる、肉を裂き、骨に食い込む鈍音。その音は、一同の耳を通って心胆を寒からしめ、身体の芯まで伝ってくるその振動は、否が応にも恐怖を刺激した。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……すみません……うぅ、お赦しください……」

 

 傷を負ったノックの啜り泣く声は、敵に向けられたものではない。それは神への告解であり、我が身かわいさに()とした()()()()()()()たちへの懺悔であった。

 

 モンドらの歩みは極めて遅々としたものだった。カラキリの不在による戦力の著しいまでの低下。危険は増し、アトラを置いて行くことへの罪悪感も彼らを引き留め、その罪悪感が『道中の兵士の死体を極力回収する』という、教義的・道徳的には極めて正しく、この状況において極めて愚かな行動を後押ししたのである。

 普段のモンドであれば、このような罪悪感の払拭と命を同じ天秤にかけ、あまつさえ前者を選択するなどあり得ない。しかし、疲労や気力の低下もあり、彼らは天秤にかけることすらせずに愚行を成した。

 

 これにより、彼らの足取りは精神的要因に加えて物理的にも重くなり、隠れることも振り切ることも叶わずに、こうして包囲されたのである。ことここに至って、モンドは従来の判断力を取り戻し、即席の肉の壁を築いて持ち堪えている。

 

 その判断力の回復も遅きに失していたことは言うまでもない。あらゆる方向から刃が飛び込み、敵の人数すら把握できずに翻弄されている。

 道中に回収できた弓や槍によって辛うじて敵の接近を防げてはいるものの、モンドにはこの状況は敵が望んでいればこそのものであるのが理解できていた。

 

 今の自分たちは詰んでいる。

 移動も出来ず、矢の補給も不可能。

 街からの援軍も当分期待できない。

 一方で、敵方は好きに行動し、あらゆる方向からあらゆるタイミングで攻撃を仕掛けられる。

 つまりはこのままあと10分程度待てば、確実に安全にこちらを仕留められる状況が整っている。

 だからこそ距離を保ち、樹々に隠れるのだ。安全策がとれるのだ。

 その気になれば、いつでも終わらせることができるにも関わらず。

 

 モンドと同じ理解に至っておらずとも、自分たちがどれほど追い詰められているのかは各々自覚している。徐々にモンドらの思考は、“如何に全員で生きて帰るか”ではなく、“如何に誰かを生かして帰すか”へと変わりつつあった。

 

「チィッ、矢が切れやがった!」

 

 腹いせのように、乱暴に弓が投げやられ、巨木へと衝突して抗議の声をあげる。その声すらも虚しく耳にしたとき、敵の潜む周囲の陰からの圧力が……明らかに増した。

 空気に浸透する敵意が膨れ上がる。

 それはまさに余命宣告。残された時間が何分もないという事実が突きつけられる。

 

 それで、覚悟が決まってしまった。

 

「ヤツらキメる気だな。……おっし、ノック。おめえ、まだ走れるな」

「やめてください、モンドさん……みんなでかえりましょうよ……うくっ、みんなでがんばれば、かえれますってえ……!」

「モンドの旦那が正しいぜ。誰かが生きて報せなきゃならないならよ、そりゃ若いヤツって決まってんのさ」

 

 泣きじゃくるノックの肩を、硬い手がいくつも叩く。遺してしまう者たちへの万感の想いが込められた手が、“託した”と告げていた。

 

 決死の覚悟を決めた男たちは、それぞれの得物を握りしめる。

 

「最後に握るのは家族の手だと思ってたぜ」

「ノック。お前はそうしろよ。家に帰ったら、うじうじしてねーでさっさとアタックしろ。女を待たすんじゃねえ」

「家族にはありったけ勇敢な最期だったと伝えてくれ! 膝が笑ってるのは見なかったってことで頼むぞ!」

 

 口々に遺される言葉を、ノックは涙とヨダレに顔を濡らしながら、しかし一言一句を脳に刻んだ。そしてモンドが口を開きかけた瞬間、樹の陰から人影が躍り出る。

 

「ッ! 走れええぇええ、ノオォオオオック‼︎‼︎」

 

 瞬間、モンドの声に弾き出されるように、ノックは肩を押さえながらも肉の壁から駆け出した。皆も彼を護らんとノックを囲うように並走する。殿《しんがり》に残ったモンドを振り返る者はいない。

 

 だが、いくら目を逸らそうと、声だけは聞こえてしまう。あまりにもモンドらしくない、素っ頓狂な声。それが彼の断末魔なのだと理解して、前だけを見るべき男たちは、一瞬背後を振り返る。

 

「みんな大丈夫か⁉︎ すぐ助ける! カラキリはみんなを護って————イナイ⁈ アイツドコイッタ⁈⁈」

 

 飛び出してきた人影は、驚愕に硬直しているモンドの前へと、音もなく着地を決める。

 矢継ぎ早に何かをわめきながら、面白いように混乱しているその人影は、彼らが心から安否を憂いていたアトラ少年その人だった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「うおぉおッ、盗っ人ォオ⁈ テメエ今まで————」

「ッぶね!」

 

 オレを見るなりあからさまに油断したおっさんを、杭状の殺意が狙う。それを空中で掴まえて、息を殺している気配に投げ返すと、くぐもった声のひとつもなく、死んだ人間の血が香った。

 気配は残り3つ。カラキリがいれば一瞬なのに、なぜかアイツは今いない。

 

 カラキリがいないとなれば、気配を辿って一網打尽とは行かなくなる。おそらくヤツらに無防備になったおっさんたちを狙う余裕を与えずに仕留めることは、2人までなら容易だ。ヤツらは自分たちの居場所が露呈していないと思っている。1人は一直線に接近して、何もできずに死ぬだろう。もう1人が事態を察して動くまでに、オレの足なら間に合う。

 が、もう1人は何かしらの行動をする時間が与えられる。逃げるならオレの勝ちだ。追いついて殺しておしまいにできる。だが、もしも反撃……それもオレにでなくおっさんたちへと最後の攻撃に出られたら、誰かが死ぬ可能性が出てくる。

 

 と、ここで視界の端におあつらえ向きの短槍を見つけた。ついてる。これならここを離れずに攻撃できる。巨木の裏に隠れた1人を、木をぶち抜いて即死させて、残る2人をサクッと始末。

 うん、これだな。

 

「おっさん、ちょっと看ててくれ」

「あん? ッ、これぁ……レティシカさんじゃねえか⁈ ただ事じゃねえぞ……⁉︎」

 

 いかにも衰弱した重症人であるレティシカの様子に、おっさんは珍しく狼狽する。まあ無理もないよな。

 説明を求める声を無視して、槍を拾って重さや重心を確かめる。うん、なんとも投げやすい槍だ。如何にもここを握れという持ち手がある。硬い木材で握りやすい形に整形されたそこを握ると、ちょうど投げやすいように重心が安定した。こういう投げ槍としての用途も想定されているんだろう。

 

 気配を辿る。ヤツらのうち、最も離れた位置のが標的だ。と、気配がゆっくりと音もなく動き出した。

 というのも、今の位置関係は、オレがヤツに背を向けている形だ。また何か投擲される前にやってしまおう。

 

「ふぅ……………………、ッシィ‼︎‼︎」

 

 身体の捻りも使った振り向きざまの投擲。心臓を狙ったつもりだが、仮に多少ズレても致命傷になるのは確実だ。

 『ヒュカッ』という鋭い音も一瞬、すぐに破裂音じみた爆音が木霊する。間違いなく、それは巨木を貫通した音なんだと直感した。

 

「……ハア————?」

 

 直感は大きく外れた。うんざりするほど間抜けな声は、オレの出したものらしい。

 必殺の気合いを込めた槍は、巨木の表面に小指の先ほど刺さり、そのまま動きを止めていた。視覚情報と射出時の手応えが一致しない。

 手加減が過ぎたなんてことはあり得ない。だって、急停止させられた槍は、木製の部分が割れてどこかへ吹き飛び、金属部も裂けたようなヒビが入っている。どれだけの速度から急停止させられたのか、我ながらほれぼれする一投だった。

 

「あっ」

 

 そこで気づいた。オレは大事なことを忘れてた。違うんだ。これは巨木の見た目をしてはいるが、ただデカいだけの植物ではない。大精霊の体毛なんだ、これは。

 その強度も不変性も、見た目のそれとは桁が違う。通常の巨木を貫通して余りある程度の投擲で、当たり前に孔があくようなかわいいものじゃないんだ……!

 

「チィッ!」

 

 今の投げ槍によって、敵の戦意は挫かれたらしい。気配は一瞬でバラバラの方向に散って行く。もっと考えて行動すべきだった⁉︎

 

「待て! おっさん、すぐに戻る! それまで頼んだ!」

「おいこら盗っ人! てめえ何があったか説明しやがれ‼︎ おい! 戻ってこねえか‼︎」

 

 周囲にあの3人以外の敵がいないのは感覚的に理解していた。だからオレのやるべきは、あの3人が増援を連れてくるのを防ぐこと。それも何があってもすぐに戻れるように、みんなから離れすぎることもできない。

 

「こうなると本当に邪魔くさいな……!」

 

 樹々の間を縫うように走るのは、高速であればあるほど難しくなる。焦りから速く走り過ぎて巨木に激突して、結局敵を逃すのはバカのする事だ。それに音も良くない。オレが敵に対して優っているのは、何も速力だけではない。この獲物を探し当てる感覚も、オレにはとても有利に働く。敵にはオレの居場所がわからず、オレにだけは分かるんだから。

 だが速さを優先して樹々にぶち当たりながら駆け回れば、今狙っている相手は良い、すぐに仕留められる。だが残る2人は、オレから離れる最適なルートを算出してしまうだろう。それはマズい。

 

 かと言って、今の速さでは3人目で間に合わない予感もあって、それがオレを尚のこと苛立たせ、余裕を奪ってもいた。

 

「グっ、……くそ」

 

 今もまた、本来躱わせた衝突をして「バヅッ」という木の表面が削られる音が響いた。

 聞かれたか……?

 そう大きな音じゃないはず。ただこの森は響いた音が不思議と遠くまでよく通る感じがする。もっと注意しないと…………。

 

 薄暗い森の中、オレは足音を殺して逃走する敵をまずは1人仕留め、すぐさま次へ取り掛かる。そうして2人はどうにかなったものの、そのころになると3人目にはかなり距離を稼がれていた。

 

「おっさん、何もなかったか?」

「盗っ人……てめえまた勝手に消えやがって……!」

 

 結局オレは、敵を追うよりおっさんたちの安全を優先する。ここをとっとと離れて、森を出ることに集中することにしたのだ。

 そんなある種仲間想いなオレの気持ちなど知らないとばかりに、厳つい赤い顔によって厳つい硬い拳がオレの脳天へ叩き込まれる。別に痛くも痒くもないが、なんだか納得いかない。

 

 その後、周りのみんなに宥められたことで落ち着きを取り戻したおっさんに、オレはレティシカの身に起きた出来事を、差し支えない程度に省略しながら簡潔に伝えた。

 

 意外なことに、みんなの反応は恐怖よりも怒りの色が濃く、主戦力となる部隊やその他兵士たちに多くの犠牲が出ていることで士気が下がるということはなかった。いや、寧ろ上がってすらいた。

 

「とりあえず、そろそろ移動しておきたいんだけどさ、カラキリはどうしたんだよカラキリは。アイツがいれば安心って思って離れたんだオレ」

「…………盗っ人、それだがな……」

 

 どこか空気が重くなったのが分かる。アイツに限って、そんな空気にならなきゃいけないような事態はあり得ないと思っていたオレは、当然この質問をするのになんの覚悟もしていない。

 

 オレの顔が青褪めるのが分かったのか、おっさんは沈黙をやめた。

 

「勘違いすんなよ盗っ人。何も死んだってんじゃねえんだ。ただ、厄介なヤツから俺らを逃してくれてよ。それで今は離れ離れだ」

「あんなに警戒した先生は初めてだった……」

「カラキリさんなら大丈夫と信じてはいますが……先生の剣の腕は、ぼくたちも何度も見て、救われてますから」

 

 顔色の悪いノックの『大丈夫』を皮切りに、みな口々に『大丈夫』を繰り返す。まるで自分に言い聞かせるように。

 

「簡潔に教えて欲しいんだけど、何があったんだよ」

 

 『大丈夫』を言いながら互いに頷き合う班員に苛立って、キッパリ説明してくれそうなおっさんに問いかける。

 

「ああ、実はな————」

 

 おっさんの口から明かされる経緯に、オレは思わず舌を打っていた。

 特に、カラキリが相対したという敵の風体。それがあまりにも覚えがありすぎるものだったのだ。

 

 思えばあの司祭服がいた以上、あの男がいても不思議じゃない。オレはあの男のどこか司祭服の護衛役っぽい動きから、レティシカを救出したあの場にいないならいないのだと思い込んでいた。だが、いたのか、この森に。

 そしてカラキリと間違いなく戦闘になっている。

 

「……………………」

 

 ヤツらと遭遇したときの記憶と、その時の感覚を思い起こす。すぐに浮かんだのが、あの黒い剣。如何にもヤバそうな感じがしていたが、実のところそれは割とどうでもいい。剣の勝負になってしまえば、カラキリが敗れるとはどうにも思えない。この場合敵が弱いとかではなく、単にカラキリが常軌を逸しているだけのことだ。

 

 しかしオレの直感は、敵の脅威はあの黒剣だけではないと告げている。それが何なのかは分からない。もしや何か厄介な魔法を使うのかもしれないし、おかしな魔道具なりを他にも持っているのかもしれない。もし万が一カラキリが不覚を取るとすれば、そういった目で見えない隠れた脅威のはずだ。

 

 …………万が一カラキリが敗れていたら…………いや、それならそもそもおっさんたちは今ごろ殺されている気がする。この森の地形はここに陣取った敵の方がよく知っているだろうし、支配もできている。逃げたおおまかな方向と目的地の推測が出来ていれば、追いつくのはそう難しいことじゃないような……?

 

 なら勝ったのか?

 敵を退けたならそれこそ後を追って合流しようとするはずだ。ましてやアイツの足ならそれこそ今ごろここにいるはず。

 

「————————違う……アイツまさか迷ってないだろうな⁈」

 

 出会ったときを思い出せ! あの時、カラキリは森で迷って彷徨って、危うく野垂れ死にしそうになったのをオレとルカが助けたんだ!

 アイツに方向感覚なんてモンはない‼︎

 

「マズイな……これ。アイツの速さで適当に走ってたら……ああ、マズイ。マズイって、おっさん! ヤバいヤバいアイツ方向音痴な所があるんだたぶん迷った!」

「迷っ……? おい、ちったあ落ち着け! 分かるように説明しねえか!」

「カラキリが殺されてたら、今ごろとっくに全滅してたはずなんだ! けどしてないなら、今もカラキリは戦っているのか、勝ったのにまだ合流できてないかの2択じゃんか。

カラキリと別れてそこそこ経つみたいだし、もうとっくに決着してていいはずなんだよ……なのに来ないのは、たぶん道に迷ってる」

 

 オレの推測に、なぜかみんなの顔から陰が薄れる。

 

「ははは、さっすが先生。こんな状況でも迷子か!」

「そうですよね、先生が負けるはずありませんよね!」

 

 口々に、ただカラキリが無事である可能性を喜ぶ姿は感動すべき絆なのかもしれない。が、これはあくまで推測だ。実際には未だ交戦中かもしれないし、最悪の場合敗北しており、カラキリを倒した敵は自身でこっちを追うのではなく、手下を使って追手を放っているのかもしれない。

 

 そんな諸々を口に出さずにいると、ようやくみんなの声量が落ちて来る。よしよし、問題に気づいたみたいだ。

 

「モンドの旦那……この場合はぁ……どうするんで⁇」

 

 そう。カラキリの勝利を信じるにしても、アイツが迷っている可能性がある中で、オレたちはどうするのか。まさか敵の彷徨うこの森で、「じゃあ俺らは先生を探したいからこっちで」「じゃあ俺らは帰りたいからこっちで」という訳にはいかない。

 いつもの感じだと、おっさんが言うまでもなく全員がカラキリを置いていけないと留まるなり捜索するなりを考えるだろう。今それができないのは、1つにカラキリの実力が分かっているだけに、緊急性がその分下がって見えることと、もうひとつが————

 

「……ノック」

 

 呻くような低い声で、おっさんは気遣わしげな視線を投げる。

 そう、ここには怪我人がいる。十分に動くことが難しいだろうことは、徐々に白さを増している顔色からも明らかだ。おまけにレティシカという、完全に行動不能な人間もいるんだ。結論なんて、本当はとっくに出ていた。

 

「すみません……」

「バカやろう、お前は悪くねぇんだよ。よおし、俺たちはこのまま森を出る! まずはレティシカさんやノックの安全を確保しねえとな。話はそっからだろ」

「オレもそれでいいと思う。全員の体力を考えても、そろそろ限界が近いはずだし」

 

 それに、オレだから分かることだが、ノックの傷口から……血以外の臭いもする。傷口を洗浄しても落ちないこの臭いは、なにか刃物に塗られていたのかもしれない。

 即効性はないらしいが、ノックの顔色を見るに……遅効性の可能性がある。

 しかし敵はなんだって即効性でないのを選んだのやら?

 

 歩みを再開した中、前を歩くデカい背中へ向かって、他の班員に聞こえないように小声で話しかけた。

 

「……………………おっさん」

「————ノックか?」

「分かってたのか? どうやって?」

「ああいう姑息な連中が、如何にも使いそうな手だぜ。刃に塗りものするなんてのはよ。おめえもそう思ってんだろ?」

「……まあ、そうだな」

「だがよ、ノックなら助かるかもしれねえ。あいつの実家は薬屋でなあ、昔っからいろんな薬やら毒やらに身体を慣らしてたって話だ。恐らくは、あの肩の傷。負ったのがノックでなけりゃあ今ごろぶっ倒れてんぞ」

 

 そんな話は初耳だった。が、なるほどとも思う。敵が毒なり薬なりを刃に塗り込むなら、わざわざ遅効性のものを使う理由は少ない。普通は殺すにせよ動けなくするにせよ、効果は早く出るだけいいはずだ。

 ノックは職業柄後天的に耐性を身につけている都合で、それらの効果を弱め、遅らせている状況なんだろう。

 

 なら、やっぱり急ぐべきだ。ノックが助かる可能性は、時間と共に目減りしている。

 さらに言えば、これはレティシカにも言えることだ。オレがあの司祭服を殺すまでに、同じような毒を受けていないとも限らない。今の昏睡状態は、それらの影響もあってのことかもしれないんだから。

 

「なら、あんまり自分で歩かせない方がいいかもな」

「それもそうだわな。おいノック! ちっと止まれ!」

「っ、はい? て——うわわわ⁈ モンドさん⁈」

 

 ノックの戸惑いを斟酌せずに、おっさんは有無を言わせず怪我人を背負った。ちなみにレティシカも班員が交代制で背負っていた。誰が運ぶかでちょっとした争いがあった結果だ。しょうもない……。

 初めこそオレが運ぶつもりだったが、男たちが『護衛の手は空けておくべきだ』と固辞したのだ。

 確かに理解できる話ではあるけど、その動機が不純なのが何となく香る態度だった。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

 暗い暗いまどろみ。

 全身の感覚が消失し、“自身”から“身体”を取り払ったモノと成り果て、永劫の時を漂っている。

 

 この瞬間が始まってから、未だ1秒にも満たない刹那の狭間に迷ったか、はたまた1年という尺《さし》を数百、数千と並べた川底へ融けていたか。

 それすら区別できない深淵が、この瞬間《ばしょ》だった。

 

 帰るべき場所はなく、還るべき意味《かたち》も失った()は、遂に“自身”すら失おうとしている。

 それも自然なこと。()()はそういう瞬間《ばしょ》であり、()()はそのための場所(しゅんかん)である。

 故に、彼は真に“意味”を持たないこの瞬間で、無意味へと融けてゆくはずだった。

 

『————』

 

 彼が最後に保っていた自身(いみ)が弾け、無限に、不可逆に、決定的に希釈されてゆく。その直前。

 

 その経過に、あり得べからざる横槍が入った。

 

「いけませんねェ、ゼリューさん。如何にわたしでも、それ以上は戻せません。さァ、貴方はこちらです」

『——————』

 

 浮上する。

 そう感じた瞬間、ゼリューは背中を押されている感覚を認め、自身が仰向けに倒れているのだと理解した。

 

「おはようございます。如何でしたかァ、ゼリューさん? “終”に触れたご感想は。あれが避け得ぬ我らが“結末”であり、無辜なる者が『死』と同一視しているものです」

「————、……、っ」

「ああ、無理はいけません。“アナタ”が声を思い出すには、まだ僅かばかりの時を要するはず。それまでは返答など無茶というものです。当分は戦おうなどと考えてはいけません」

 

 死したはずの剣士を見守り、滅びたはずの司祭は静かに微笑む。その顔が何を考えているのか、付き合いの長いゼリューにも分からない。ただ、機嫌が良さそうなその様子に、何か行動を起こすのだと直感していた。

 



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死した司祭は諸手を挙げて

 

「……………………」

 

 森を脱すると決めてから、もう随分と歩いている。

 にも関わらず、ある時を境にして班の歩みは遅くなっていた。

 きっかけはおっさんのあるひと言だった。

 

「おぅあ⁈ 盗っ人お前、どこ歩いてんだ⁈」

「はあ……?」

 

 先頭から定期的に後ろを振り返っていたおっさんが、最後尾を守っていたオレに投げた言葉だ。

 どこもなにも、当然オレはみんなの後ろを歩いているだけ。列をきっちり守るなんてしてはいないけど、それを諌めるような感じとも違い、おっさんの声には純粋な驚愕と困惑があった。

 

 その時点で違和感はあったけど、それが確信に変わったのはおっさんが木を避けずにまともに衝突したときだ。背負っていたノックを落としこそしなかったが、かなり危うい場面だった。

 もうノックは意識を朦朧とさせており、受け身のとれる状態じゃない。だからこそ、倒れる寸前でおっさんは踏ん張れたんだろうと思う。でなければ怪我をさせていた。

 

「おっさん何してんだよ……疲れたなら代わろうか?」

 

 呆れた声は当然オレのもの。みんな見た目以上に疲弊して、集中も途切れてきたんだと考えてのことだった。ついつい疲労という要素を忘れてしまいがちだけど、それはオレ以外のみんなも弱音ひとつ吐かずに行動していたからこそだ。だけどそれも限界になったんだと、この時は思った。

 が、呆れ顔はオレだけ。他の全員が「今何に当たったんだ?」とか、手を前方に伸ばしておっさんが衝突した木に触れて「何かある⁉︎」とかと騒ぎ出す。一見ふざけた、酔っ払いの奇行じみた光景。そんな笑えるはずの様子を前に、オレは到底笑う気分になんてなれなかった。

 

「————」

 

 まず頭に浮かんだのが『幻覚』の単語。蓄積する疲労と死と隣り合わせの極限状態から来る錯覚の一つかと思って、直後、それは違うと結論付けた。集団幻覚とかは知識としては知っているけど、これは『視える』とは真逆の現象だ。そこにあるものが、見落としようの無い存在が『視えない』という異常事態。

 

 嫌な予感がした。

 浮かぶもう一つの単語は『魔法』。うっすら〈結界魔法〉を疑う。だがそうだと断定できるほどオレは魔法に知見がない。

 そもそもだ。もし幻覚を見せるような結界に囚われているならなぜオレだけは影響されていないのかが分からない。ルミィナさんの物騒な結界に囚われた経験がある以上、オレに〈結界魔法〉が効かないわけではないはずなのに…………。

 

 けれど、これは考えてもキリがないことだった。オレは戸惑うみんなに何が起きているのかの推測を説明し、以降はオレが先頭に立ち、班を先導した。

 みんなにはオレが巨木にめり込んだり、唐突に何も無いように見える空間を避けたりして見える。そんな中で今まで見たいな歩調を維持できるはずもない。

 

 そうして進みたくとも中々進めないもどかしい時間が過ぎて行き、さらに最悪な瞬間が訪れる。

 

「…………先回りされた」

 

 全員が立ち止まる。その顔は一様に険しい。疲労は限界を迎えて、レティシカを運ぶにも1人数分で交代しながらどうにか歩みを止めずにいる状況だった。戦うなんて論外で、逃走だって考慮すらバカバカしい。仮に今すぐ家に帰れたとしても、回復し切るまでに1日2日では効かない状態のはずなんだ。

 

 そんなみんなの状態を知っているオレが選べる選択肢は、少ない。だから、決断自体は逆に早かった。悩む贅沢なんてなかったから。

 

 敵の気配のする方向を凝視する。気配はまだ先だったけど、数が多い。夥しい血の気配。正確な数なんてまだこの距離では分からない。最も少なくて100人弱。それらの気配が、どうしてか真っ直ぐこっちへ向かっている。

 迷うことなく、一斉に……。

 

「完全に場所を把握されてるな、これ。大勢でこっちに移動してる。逃げるのは無理だ。向こうの方が速い。……じゃ、オレは行ってくるから、みんなは休んでてくれよ」

「盗っ人————イケるのか? 勝算あって行こうとしてんだろうな、お前ぇ」

 

 疲労困憊だろうに、おっさんの迫力はまるで衰えていない。たぶんここで勝算がないとか言ったら、「なら自分たちが肉の盾になってでも」とか言い出すんだろう。それは他のみんなも同じだ。オレには理解が難しいけど、この男たちにとっては護衛のオレも守る対象なんだろう。おそらくは年齢的な理由から。

 だから、こう言った方がきっと安心するんだ。

 

「大丈夫。無理そうなら悪いけど逃げるからな、オレ」

 

 一瞬ポカンとしてから、みんな低く笑う。悪っぽくて男くさい、いい笑みだった。どこかスッキリしたようにすら見える顔を見て、我ながらいい言葉を選べたらしいと安堵した。

 危機感のない冗談は、時と場合によっては緊張を適度に和らげるんだ。

 

 実際、オレには大した危機感もなかった。どれだけの数を揃えられても、オレに対する有効な攻撃手段を持たない連中が相手なら、数なんて問題にならない。傷を負わず、疲れもしない吸血鬼だ。この戦いでどうこうされるつもりはない。問題になるのは討ち漏らしが出ないかどうかで、そのためにもこちらから出向き、迅速に数を減らす必要がある。

 

 別れの言葉なんてオレたちの間にはない。「行ってくる」と「行ってこい」。見送られる際のやり取りはこれだけだった。

 

 音も気配も隠さずに、ただ速さだけを求めて森を駆けた。邪魔な樹々はぶち破って進んだ。静かな深い森の静寂を切り裂いて、音で威嚇するみたいに。

 槍であれほどの耐久を見せた樹々は、どういうわけか今は見た目相応の樹木程度の硬さしか示さない。殴りに弱いのか、はたまた斬ったり刺したりにことさら強いのか。

 ともかく、結果として会敵したときには、オレは予想より班から離れることが出来ていた。

 

「————何だこいつら…………気持ちの悪い」

 

 見覚えのある木の仮面。男も女も子供もいる。だが、どうにも生気がないというか……人間味がない。違和感の正体はすぐに分かった。コイツら、何十人もいるくせして、その全員が完璧に歩調を合わせている。動きに一切の乱れがない。

 そして声もなしに、敵は一斉に散開した。

 

 統率された動きをこの人数でやられると、何だか巨大なひとつの生命を相手にしている気分になる。敵は互いを傷つけない位置を取りながら、短剣の投擲を開始する。

 無意味な行為だ。オレにとって石を投げられるのも剣を投げられるのも変わらない。適当に視界の邪魔になるものだけをはたき落とす。

 その落とすために振ったオレの刀が、何か他と違うものを()()()

 

「うわ⁈」

 

 瓶を砕いたような破裂音と共に闇が広がる。水中に黒い塗料をぶちまけたように不気味に、しかし遥かに迅速に拡散した黒が完全な闇を築くまでは一瞬だった。注ぐ太陽の光すら、今は何らの輪郭も露わにしない。オレの眼ですら、一切光を見出せないほどだ。

 今さら気づく。敵の目的はこれだったんだ。無意味に思えた短剣の投擲は、オレの意識を散らすための誘導だったらしい。

 

 だが————

 

「シッ!」

 

 大雑把に得物を横に薙ぐ。技術だの業だのはない。雑に振るった刀は確かな手応えを返し、芳醇な香りを鼻腔へ届けた。2人が死に、1人が重症……といったところだろう。

 

 そう、この闇がどんな理屈で完成されたにせよ、潰されたのは視覚だけだ。オレは目を開かずとも、血の通ったものの大まかな位置は感じ取れる————

 

「……ん?」

 

 違和感。

 仮に今、敵の集団内に殺してはならない人間が混ざっていたとしても、今のオレには敵との区別はできない。

 …………それがおかしい。

 

 おっさんの所でなら、まだ距離があったからこれだけの人数の気配は『大きな塊』程度にしか認識できなかった。けど今は違う。こうして殺し合う距離に接近している。この距離なら、かなり仔細に血の個性みたいなのが感じられるはずなんだ。

 しかし、相変わらず敵の気配は輪郭を持たず、どこかボンヤリとしたものにしか感じられない。

 

「なんかしてるな……さっき割れたのが悪さしてるのか? それとも他の魔道具…………」

 

 考え事をしていても、もちろん手は止めていない。気配事態は感じられるし、聴覚や肌が感じ取る()()の息遣い。動くものがあるならすぐに分かるし、それが人間ならなおさらだ。

 だったらやることは変わらない。このボンヤリした気配がすべて消え去るまで、大体の当たりをつけて得物を振るう。それだけでいい。

 

 もちろん時間はかかる。敵との間に樹があっても、今のオレには気付けない。けど障害はそれだけ。敵の方向が分かれば、何度か額をぶつけるだけで始末できる。

 

「ほら、はやく来いよ————オレを殺したいんだろ?」

 

 漂う血の香りがそうさせるのか、どうにも口角が吊り上がるのを感じながら、オレは殺気を向けて近づく気配に手をかけた。

 

 

 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「だあぁぁ……! つっかれたあぁぁ……」

「身体中が痛ェ……カカトの骨がキシキシいってら……」

「ノック、しっかりすんだぞ。すぐに帰してやっかんな」

「ノックくんの汗を拭けるのは……包帯くらいか……」

「無いよりゃ良いな」

 

 アトラが走り去ってからしばらく。少年がすぐに戻って来ないと確信して、ようやく大人たちは休息を得た。みな男としての、そして年長者としての意地で装っていた余裕を崩し、愚痴がスルスルと唇を抜ける。顔色は優れない。それでも、前を歩く自分より小さな背中を見ては、断じて弱音は吐けなかった。

 だがここには格好をつけるべき相手はいない。互いを労い、やれここが痛いだのどこを捻っただのと言い合って、それもある程度落ち着いたときの話題は自然、あの少年のことだった。

 

「しっかし……旦那ぁ、盗っ人先生は何者なんだろうなぁ……尋常じゃないぜ、ありゃあ」

「なんでもやんごとなき方に仕えてるとか。噂ですがね」

「あー、ご令嬢の話か。旦那は見たんだろ? どうだったんでえ実際」

「さあな。何にせよあんにゃろうは仲間だ。あんなナリだがガキじゃあねえ。キッチリこっちをよく見てやがる。ったく、気ぃ遣いやがって……今回の一件が終わっても余計な詮索すんじゃねーぞ」

「へーい」

 

 わざとらしく不満気に返答するが、本心ではなんの不満もない。これは戯れだ。むしろ彼らにとって本題はこの後のことである。

 

「……若者に随分と助けられてしまってますね。どうしたものか。ノックくんより若い彼がどうすれば喜ぶのか、全く分かりません」

「それだなぁ。助け合ってる……なんて虚勢でも言えねえや」

 

 自分たちが足を引っ張っている事実は、彼ら全員が沈鬱に受け止めているところだ。アトラのいないときはカラキリに、カラキリのいない今はアトラに。自身より年若い者に助けられて、代わりに担った仕事は荷物持ちである。到底つり合いなど取れていない。

 しかし、与えられるのみ、支えられるばかりなど、彼らの自尊心が許さない。故にこの一件が落ち着いた暁には、彼らが今感じている負い目引け目を吹き飛ばすような返礼が必須であり、しかしその様な返礼がまるで浮かばないことも事実であった。

 

「返済の免除程度じゃあ足りねえしなあ……チッ、本人に訊くしかねえか」

「何もないとか言いそうだ」

「彼は年齢のわりに、あまり欲を見せない人柄ですしね」

「何かしてやれることはないもんかな」

 

 敢えて空気を弛緩させ、回復と休養に努めている彼らの声は、場違いなほどのんびりと響く。しかし共通の課題を話し合うことで、しのび足で近づいてくる猛烈な睡魔の気配に抗ってもいた。

 身体の中がスカスカになったような脱力感は、疲労を通り越して眠気をもたらすものであるらしい。

 

 彼らはいたって普通の成人男性だ。多少は場数を踏んできたが、英雄でも精鋭でもない。そんな彼らの抵抗を嘲笑うかのように、痺れるような眠気は男たちの口数を奪い、代わりにまばたきとあくびの回数ばかりを増やしていた。

 

 ————そして、それはまさにパタリと会話が止んだその瞬間の出来事だった。

 

「————おや、素晴らしい心意気ですねェ」

 

 突然の声に、弛緩した空気が一瞬で凍りつく。弾かれたようにノックとレティシカを庇う形で、モンドたちは敵を見据え————脊髄を氷結させる、あまりにも濃い()に捉われた。

 

「……なんだ、てめえは…………」

 

 声が掠れていることに、モンド自身気付かない。気付く余裕など微塵もない。額を濡らす玉のような汗を拭うことすらできず、ただ硬直していた。

 今までの敵とは、あまりにも格が違う————分かったのはそれだけ。暴力的なまでの死の予感が、思考を嵐のようにかき乱し、冷静な判断力をどこかへ吹き飛ばしていた。

 

「彼に対して貴方がたができる返礼があります。それも今! すぐにィ! ここでェエ‼︎」

 

 本能も理性も、全力で逃げろと警鐘を掻き鳴らす。

 

 モンドたちは殺気などという得体の知れないものを鋭敏に感じ取れはしない。何となく“悪い予感”程度を感じることはあったが、それを殺気を感じたとは言わないだろう。

 

 ならば、今感じている()()が殺気を感じるということなのか。

 悪寒は絶えず、頭の中を様々な()が満たしている。繰り返される“次の瞬間には訪れるかもしれない結末”の映像。振り払いたくとも思考は完全に暴走し、数多の“死の瞬間”を高速で再生し続け、頭は知恵熱のような鉛のように重い熱を帯びつつあった。

 この思考の暴走を止めるためだけに、いっそ頭を吹き飛ばしたいという衝動すら生じる。

 

 それでも身体はビタリと静止して動かない。()が無限にも思えるほど引き延ばされ、『逃げろ』と『動け』が意識を飽和させる。足の筋肉は指向性を持たない力みを繰り返し、ガクガクと無意味な運動を連続させる。

 

 そんな恐怖に縛られている憐れな者たちを、司祭の光を宿さぬ瞳が見つめていた。

 

「あゝ……素晴らしき贄です。貴方がたの献身は、必ずや我らを御使いの下へと近づけることでしょう。そして彼を我らが下へと迎える儀を、滞りなく完遂させることでしょォ!」

 

 岩のように動かなかった司祭の顔が狂笑を浮かべ、瞳が歓喜に濁る。今までで最も明瞭な死の予兆に、モンドは逃げろと叫びをあげかけて、自身へ迫る“死”を見た。

 

 一瞬で間に合わないことを悟る。

 

 ————肉……?

 

 漠然とそんな単語を頭に浮かべて、それが最期と弁えた瞬間————

 

「あぶねえ!」

 

 大きな力がモンドの身体を後ろへ引き倒した。

 代わりにその身を“ソレ”の前へと差し出した男は、この世の者とは思えぬ絶叫と奇声を吐きながら、“ソレ”の一部へと成り果てる。

 『吸収』というにはあまりに生々しい肉の惨劇は、『捕食』という言葉こそが相応しい。

 

 ソレは————巨大な肉塊。

 どこから出現したのかも不明なソレは、不定期に呻き、痙攣し、血の泡を表層へ浮かべている。その呻き声には、たった今飲み込まれた友人によく似ているものがあった。それが何を意味するのかは、思考が定まらず分からない。テラテラとした“ソレ”の輪郭はあやふやで、常に一部が霧のように霞み、揺らいでいた。

 

 まるで無数の死体が集まり、漂っているかのような光景。その様相はまさに、地獄の顕現に他ならなかった。

 

 

 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

 

 

「ッ⁈⁈」

 

 闇に染められたそこは、血に烟るほどの凄惨な現場と化していた。現在進行形で死屍累々の赤い血溜まりを築きながら、アトラは突如として出現した気配に戦慄した。

 

「ハ————」

 

 あまりにも理解不能な現象に、思考は完全に白色化する。だが、当然時間が停止しているのはアトラだけ。白痴のように振る舞ったとて、致命的事態が起きたことを、他ならぬ彼自身の超感覚は訴え続ける。

 

「へッ——へハ!」

 

 耳障りな奇声が近づく。

 一瞬の硬直を逃さんと、幾つもの凶刃が振るわれる。仮面から漏れる呼気は、人らしからぬ獣臭さを撒き散らし、獣らしからぬ正確さで急所を狙った。

 だが、その全てが意味を成さない。獣が如きしなやかな動きも、流した血と汗の分だけ鋭く光を放つその技術も、すべてを嘲笑うように意にも介さず、蒼刃は一閃で血と肉片を撒き散らす。

 打つ手がないにも関わらず、それはもう数えきれないほど機械的に繰り返されてきた光景だった。

 

「なんで、どこから⁈⁈」

 

 音を立てて落下する敵の半身になど目もくれず、しかしアトラは明らかに狼狽していた。この場における絶対強者としての振る舞いを欲しいままにしていた吸血鬼が、明らかに追い詰められていた。

 突如として出現した気配はたったの1つ。しかしその1つは禍々し過ぎたのだ。

 

「なんで生きてんだよ⁉︎」

 

 八つ当たりに振るわれた拳が脳漿を爆散させる。しかし敵は未だもって未知数で、すぐさま玉砕覚悟の特攻が再開された。それらを迅速に処理しながら、彼は思案する。

 

 今の彼が単身である以上、この場を抜け出ることは容易だ。周囲の気配など無視して、今すぐモンドらのすぐ前へ出現した気配の排除に向かえばいい。事は一刻を争っている中にあって、この選択肢は現状彼が最も取りたいものでもあった。

 

 だがその場合、未だ健在なこの場の敵は当然ながら逃げる獲物を追うだろう。モンドらの元へと帰還し、気配の主を一撃で葬れればそれでも良い。コトを迅速に済ませ、再び踵を返し、追走してくる敵を作業のように殺すだけだ。

 

 だがそう上手く行くものかと、冷静な自身が否定する。彼は既にこの気配の主を屠っている。にも関わらず、司祭は再来したのだ。一撃で屠ったつもりになり、追走して来た雑兵を迎え撃つ中、またも司祭が謎の復活を遂げた場合、アトラでは皆を守ることができない。この場にいる仮面の敵らが加わった分、状況は遥かに悪化してしまう。

 

「……………………」

 

 飛びかかる、恐らくは少年であろう気配を虫のように叩き潰し、アトラはある決断をした。

 

「来い!」

 

 それまで接近する敵を切り伏せ、叩き伏せて来たアトラは、一転して気配の薄い方向へと飛び出す。何度も巨木と激突しながら進むうちに、徐々に目が光を感知し、視界から闇が薄れ始め、遂には漆黒から脱することに成功した。

 

 急激な視界の変化は人間の思考を一瞬硬直させるものだが、吸血鬼には関係ない。

 

 離れ過ぎぬように速度を調整し、遮蔽物たる樹々を叩き折り、敵集団を一度に視界へ捉えられる条件を作り上げる。

 疲労と無縁なアトラをして、それは容易なことではなかったが、遂にその時は訪れた。

 

 数多の人の気配が、アトラのすぐ背後まで迫る。

 追走している敵集団の最後尾が最良の位置に到達したことを確信した瞬間、アトラは方向を反転し————()()()()に敵の姿を視認した。

 

 この手段を使う以上は、仮に味方に見られた場合、守りたかったその味方すらも視界に収める覚悟が求められる。それはいつ何時も持ち続けられるほど軽いものではない。

 

「全員————」

 

 浮かび上がる赤い線。

 脈動するソレらを、紅い視線が射抜く。

 

「————死ねェッ‼︎」

 

 まるで号令のような雄叫びと同時に、すべての人間が血を吐き、のたうち、初めて苦悶の声をあげる。

 否、それはもはや声とも言えぬ異音だった。

 

 ゴボゴボとした気泡混じりの絶叫。仮面で表情は分からずとも、皮膚の変色と仮面の淵からとめどなく溢れ続ける夥しい量の液体が、彼らの死を如実に決定していた。

 

 そう、アトラが選べた方針はただ1つ。

 ここにいる敵を直ちに死滅させ、すぐさまモンドらの下へと駆けつけること。

 そしてそれを一瞬で可能とする手段もただ一つ。今も爛々と死を招く、アトラが人ならざる者である紅い由縁(ひとみ)だけだった。

 

 視界内のすべての人間が、アトラの号令に対して直ちに、遅滞なく従って行く。

 

「っ、く……ッ」

 

 一瞬霞んだ視界に、アトラは額に手を当て瞑目する。

 貧血にも似た感覚は、現に血の欠乏を意味していた。

 疲労とも違う形容し難い喪失感と、それに相反する多幸感。その間に挟まれた理性がザリザリと削られ、視界を明滅させ、足を()()()()()へと向かわせて————

 

「ガアァアァアアアッ‼︎‼︎」

 

 その脳が焼けて崩れ去るような強烈な衝動を、アトラは咆哮することで辛うじて踏み止まった。微かに残った理性を振り絞り、全ての精神力で足の向かう先を変える。向かう先は、血に塗れた死屍累々。撒き散らされた死んだ血の池。こうしている今も、みるみる鮮度を落としている質に劣るゲテモノだ。

 だが、量だけはそれこそふんだんにある。

 

 数秒。焼かれるような苦痛に塗れた拮抗の後、遂に体は渇きに屈した。四つん這いで、興奮した犬さながらに、飢えた吸血鬼は血と泥の混濁に口をつける。浅ましく、目には涙すら浮かべている。

 

 啜る音の1つもない。唇が赤く染まり、舌が触れ、遂に歯が浸されたとき————不可思議な現象が発生した。血の池が、みるみるうちに吸血鬼の口内へと()()()行く。まるで水で満たされた桶に穴を開けたように、赤い生命たちは1つの(あな)目掛け、滑るように()()()行く。

 

 10を数える間もなく、そこに赤は消えていた。

 



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