お祓い!霊夢さんっ! (海のあざらし)
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其ノ櫟 裏S区

[おはよう、霊夢。毎朝境内を掃除している貴女なら、必ずこの手紙を見つけられることでしょう。]

 

[わざわざ手紙を書いて置いていったのは、他でもありません。霊夢には博麗の巫女として、とある地帯の調査及びその結果の報告をしてもらいたいのです。]

 

[紅魔館から西へ飛ぶこと数分、そこに複数の人間が群れを成して居住しているわ。一歩でも里を出れば安全が保証されないここ幻想郷において、頓珍漢な行動であると言わざるを得ないわね。]

 

[しかも可笑しなことはそれだけでなくて、居住している人間の様子も尋常ではないみたいなの。詳しい話は、現地に行ってみれば分かると思うわ。]

 

[報酬は弾みましょう。明日の正午、神社の縁側で報告は聞かせてもらうわね。]

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「行けと言われて来てみたら」

 

 てっぺんに到達しつつある太陽から肌をちりちりと焼く日差しが燦々と注ぐ初夏のある日、少女が空から地上を見下ろしていた。

 

「成程、確かにちょっとした集落ができてるわね」

 

 真っ赤な巫女装束は、気温を考慮してか膝のすぐ下までしかない。腕は二の腕の途中まで真っ白な布地に覆われている。機能性を重視した衣装のように思えるかも知れないが、よく見れば絶対に見えるはずのない部位が露出しているのが分かるだろう。

 この巫女装束に身を包んだ少女 ──当然巫女であるが、彼女は何故か肩から脇が完全に露見していた。普通の女性であれば余程の事情があっても敬遠する服装であるが、この少女に恥じらう様子は見られない。何年もこの様式の服を着続けて慣れているのだろうか。

 

「突然現れた以外は、人里と変わりなさそうだけど」

 

 小規模ではあるが、そこは確かに集落の様相を呈していた。民家の数は全部で八軒、一人住まいの小さなものから大きくなると五人は優に住めるだろうという家屋まであった。ただしその配置は霊夢の気を引くものとなっており、視認する限りでは完全な八角形を形作っていた。

 その八角形の中心に、周囲の民家とは明らかに構造の違う建物が建っていた。壁面が石造りなせいか重厚感が強く、また九つの建物の中で頭一つ抜けた大きさを有している。恐らくだが、二ないしは三の階層を持っているのだろう。

 

「あれが怪しい」

 

 民家の配置が明らかに何らかの意図を感じさせるのに、況してそのど真ん中に異質な建築物があれば嫌でも怪しんでしまう。逆にあの建物が特に重要でないならば、この集団は何を思って取り囲んでいるのかという新たな疑問が生じてくることになる。早く帰ってのんびりと午後を過ごしたい少女は、そんな展開は真っ平御免であった。

 

「まっ、最初は聞き込みから」

 

 何にせよ、この集落に関する情報が欲しいところだ。どうして突然形成されたのか、何を目的とした集落なのか、そしてあの石造りの建造物は何の用途で使われているのか。大きく考えれば三つの疑問が生じているので、これらに関係のある情報を得るのが最優先である。

 

「なんて面倒なことするかっての」

 

 と言うわけで、手始めにあの石の建物にお邪魔しよう。住人への聞き込みをすっ飛ばした、大胆極まりない調査の開始であった。

 確かに情報を得るには良策かも知れない。多分というかほぼ間違いなく集落の人々にとって重要な意味を持つ建物なのだから、人の出入りも多いと考えられる。ならばそこへ行くのは、まぁ分からない話ではない。運が良ければ、三つの疑問全てを一度に解決できる可能性だってある。

 

「失礼するわよ」

 

 だからって、初めて入る建物の扉を開けるのに全く躊躇がないというのはどうなのか。中で何が行われているか、何一つとして分からないと言うのに。第一、ここは今朝まで霊夢も噂すら聞いていなかった謎の集落だ。如何にも意味ありげな建物の並びも相まって、しっかりと用心して慎重にお邪魔するなり応援を頼むべきではないのか。

 ふわりと地面に降りて、入り口の前に設けられた数段の段差を登る。左手に持っていた大幣を一旦脇に挟み、観音開きの扉をばーんと開いてから左手に装備を持ち直した。次いで視線を内部に向けた霊夢の目に、異質な光景が飛び込んできた。

 

 外観通り大きな内部の奥側には、黒く大きな棺が安置されていた。その周囲では数十人にもなろうかという人間が棺を取り囲み、只事ならぬ風に佇んでいる。霊夢の唐突な訪問に反応し、数名がゆっくりと後ろを振り返る。

 二階部分と思っていたのは実際にはただの上部空間であるらしく、予想に反して一階建ての建物であった。首を大きく反らさないと天井が見えず、何のためにこれだけの余白を設けたのかは分からなかった。

 

「うちにもこのくらいの余剰があったら、二階を作って色々できるんだけど……っと、そうだそうだ。目的を果たさないと」

 

 何よりもまず棺に目が行く ── はずなのだが、少女は呑気に天井を見上げたまま羨ましそうにそう呟いた。言わずもがな、棺桶とは命を落としてしまった人間を中に収めて弔うためのものだ。中身が入っているかどうかはさておき、そんなものを大人数で囲んでいる時点で明らかに穏やかならぬ雰囲気が醸し出されている。

 人々の様子も、そんな良からぬ様子に拍車をかけている。姿形は普通の人間と何ら変わりないが、全員がにたぁっとした笑みを浮かべていた。中には声を上げて笑うものまでおり、どう考えたって一般的な葬式が行われているとは思えない状況が作られていた。

 

「ねぇ、あんた達。こんな人も滅多に来ない辺鄙なとこで何してんの?」

 

 しかし、少女は恐れない。彼女以外の皆がけたけたと陰気に笑う中で、たった一人だけ平気な顔をして群衆に問いかける。

 

「や、集まること自体は止めやしないわ。私が見逃せないのは、その棺だけだし」

 

 棺の近くには本来遺影が置かれるのだが、それらしきものは何処にも見当たらない。その代わりと言わんばかりに、文字の書かれた紙が一片の隙間もなく棺に貼り付けられていた。遠目からで文字は読めないが、良からぬ気配だけはひしひしと伝わってくる。

 

「その棺桶、中に人じゃない何かを収めてるでしょ。それか、棺桶自体に宿っているかね」

 

「博麗の巫女、博麗の巫女」

 

 彼女の質問に答えることなく、人間のうちの一人が同じ言葉を譫言(うわごと)のように繰り返す。博麗の巫女とは、平たく言えば少女の俗称の一つであった。

 

「はい、博麗の巫女です。それで、もう一度聞くけどあんた達は何をしてるのかしら」

 

 再度の問いに、人間達は互いの顔を見合わせた。隅の方でひそひそと小声で相談する者達もいることから、最低限の対話は可能であるようだ。

 蚊帳の外で待つことおよそ十秒、少女の真正面にいた二人の男が前を向いた。どうやら話してくれるみたいね、と事が順調に進みそうな兆候に満足そうな少女に向かって、

 

 

 

 

 

 

 

 

「博れれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれ」

 

「巫女か!巫女か、なぁ!おい!おい!」

 

「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 

 突如として、誰からともなく発狂し始めた。声の限り叫ぶ者、一転して憤怒の形相で少女を睨み付ける者、無表情で口だけ開けて抑揚のない声を発する者。発狂の具合は様々であったが、全員が共通して少女への敵意を増幅させていた。

 石の壁で反射され、響く声。大小高低老若男女、ありとあらゆる声が葬儀場らしき建物の中を荒れ狂った。棺に追加で紙を貼り付けていく者も数名いたが、その皆がへきゃきゃだかひききだか分からない笑い声を発しながら無造作な作業を繰り返している。

 

「……集団でおかしくなった?」

 

 そんな阿鼻叫喚の部屋に置かれても、少女は怖気つかない。それどころか、やっぱりあの棺が臭うわねと推測までする始末だ。狂笑する人間達から視線を外して棺に意識を向けている辺り、何とも肝の据わった少女である。

 

「おい、聞いてんのか!おい!おい!」

 

 一向に怖がる気配を見せない少女に痺れを切らしたのだろうか。大音量で怒りの声を上げながら、余所見をする彼女に向かって男が突進してきた。少女は平均的な十代前半の女の子の体をしており、対して男は牛のように屈強な体を思い切り走らせて少女に迫る。このままじっとしていては、男に跳ね飛ばされて大きな怪我を負うことになるだろう。

 

「あん?」

 

 暴れ牛の如く突っ込んでくる男に、少女はふっと視線を向けた。あ、何か走ってきてる。そのくらいの気持ちしか篭っていない、あまりにも冷めた目線であった。

 

「私は牛寄せの布じゃないわよ。紅いけど」

 

 どすどすと走る男が腕を伸ばし、少女を掴もうとする。間近で見る程に酷い顔だ。肌は荒れ目が別々の方向を向き、歪んだ口からだらだらと涎がとめどなく溢れ出る。女性として、人間として生理的嫌悪を覚えずにはいられない姿を見てもなお、少女の表情は変わらなかった。笑い声は、まだ続いている。

 

「ま、躱すのに変わりはないか」

 

 もうあと数寸で少女の滑らかな肩に手が掛かるというところで、男の視界から彼女は忽然と消失した。まるで瞬間移動をしたかのように、或いは初めから少女がいなかったかのように。

 衝突する標的を失った男は、そのまま進路上にある出入口へと一直線。両側に開くらしい扉に接触し、盛大に外へと放り出されていった。入り口前の段差には対応できなかったらしくだだだん、という痛々しい音を最後に男は地に横たわってぴくりとも動かなくなってしまった。鼓膜を激しく震わせるけたたましい笑い声が、ふと止んだ。

 

「いきなり女の子に掴みかかるなんて、作法がなってないんじゃないの?」

 

 冗談めかして言ってみれば、人間達はどよどよとざわついた。当然の如く大の男の突進を避けて、剰え余裕の態度を崩さない。それは彼らにとって、酷く予想外のハプニングであったらしい。

 もう一人、少女に向かって走り出す男が現れた。先程に比べて体は小さいが、その手には何処で手に入れたのか錆の酷い金属製の棒が握られており、より危険性が高くなっている。しかもそれに呼応したかのように、周囲にいた人間達までもが雪崩を打って男に続いた。

 

「って、あんたらもか」

 

 面倒くさそうに、少女は眉を顰める。眼前では出遅れたり、または歳若いために速く走れない者達が後ろからやってきた大人にぶつかられ転倒していた。子供や老人が主としてばたばたと倒れ、そうしてできた人の垣が大人達の進撃を阻んだ。だが、それも数秒のこと。障害となる壁を乗り越えて、彼らは再び少女目掛けて全力で駆け出した。

 

「あいつがぁ!あいつが憑く、憑くから、叩いて叩いて叩いて磨り潰して出さないといけないんだよぉ!」

 

 一番最初に少女の元までやってきたのは、鉄の棒を得物にした男だった。走る勢いそのままに、鉄の棒を思い切り振りかぶって叩きつける。頑丈な盾も衝撃に耐え得る筋肉も持ち合わせていない少女は、それを受け止める術がない。タイミングを合わせて屈むなりして、何とか避けなければいけない。

 

「うっさい」

 

 なんてこともなく、少女が左手で振った大幣が軽快な音を立てて薙ぎ払われた鉄の棒を弾き飛ばした。ひらひらとたなびく幣が何故あっさりと鉄製の凶器を退けたのか、少女を除く誰もが理解できなかった。

 またしても発生した予期せぬ事態に、得物を無くした男が狼狽して視線を吹き飛んだ得物の方に向ける。その隙を逃すことなく、少女は無防備な男の横っ面に大幣の一撃を叩き込んだ。男は数歩後ろによろめいて、そのまま体勢を立て直すことなくばたんと倒れ込んだ。

 

 だが、それで終わりではない。そうこうしている間にも、第二波が少女の元へと到達していた。今度は複数の人間が同時に突撃をかけているため、回避するのは困難であろう。やはり人間ということもあって知性はあるようで、何人かが横から彼女の背後へと回り込んで退路を絶った。

 

「諦めの悪い奴らね」

 

 四方をまともに話の通じそうにない人間達に囲まれるという絶体絶命の状況下においても、少女は飄々としていた。理由は簡単で、彼女からすればこのくらいは危機でも何でもないからだ。博麗の巫女は時として妖怪に囲まれることもあれば、単騎で圧倒的な強さを誇る大妖怪を相手取ることだってある。正気でないとはいえ、人間に包囲されたくらいでどうして動揺などするというのか。

 はぁ、と溜息を吐く。それは彼我の力の差を理解できない愚かな者達に向けた、強者の哀れみの意思。

 

「 ── 神霊」

 

 少女がそう発した直後、彼女の周りを色とりどりの球体が囲んだ。少女が操る霊気と呼ばれる力の塊で、その清さ故に邪気を祓い悪を退けるという性質がある。

 本当は発動に際してもう少し細かい規則があったりするのだが、今回はあくまで調査中に不意に勃発した戦闘であって、ルールに則ったごっこ遊びをしているわけではない。多分あの紫色をした妖怪も、特例ということでお咎めなしで済ませてくれるだろう。

 

「『夢想封印』」

 

 生身の人間が被弾しても気絶で済むくらいにまで、出力は下げてある。と言っても調整は割と適当にやったので多少足が出たかも知れないが、先に手を出したのは向こうだ。やり過ぎだ何だと文句があるなら、突撃しようと決めた過去の自分自身に言ってほしいものである。

 その声を合図として、無数のカラフルな弾幕が八方に拡散していく。突然のことに避ける暇もなく、全員が弾幕の波に飲まれていった。ほぼ時間差もなく被弾者が続出し、一人また一人と地に伏していく。彼女から遠い位置にいた人間が何とか回避をしようとするが、人の動体視力ではとても躱し切れる速度でない。抵抗虚しく何発もの弾幕を撃ち込まれ、力なく石の床の上に崩れ落ちていった。

 

「……そろそろ良いかしらね」

 

 一頻り撃ち終わってから、少女が周囲に視線を巡らせる。例外なく倒れ伏す人間達が、弾幕の威力を如実に物語っていた。

 

「うん、制圧完了っと」

 

 まるで買い物が終わったかのように、あっけらかんと少女は言い放った。死屍累々の葬儀場において、彼女だけが二本の足で地を踏んでいる。その光景は先程にも増して異様なものであったが、少女が周りで横たわる人間達を気にする素振りはない。

 

「さて、後はアレをぶっ壊して仕事は終いかしらね」

 

 横道に逸れることなく、真っ直ぐに棺のところまで歩いていく。その間に、何処からか取り出した一枚の札に霊気を込めていく。邪魔をされることもなかったためにすぐ棺桶の前まで到着した彼女は、はちきれんばかりの霊気を蓄えさせられた札を躊躇することなく棺桶に叩きつけた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「成程。一種の集団催眠状態に陥っていたのね」

 

 縁側に腰掛けて、仲良くお茶を啜る少女が二人。濃い橙色が塗られた鳥居とえらく年季の入った賽銭箱があることから、そこが神社であると想像がつくことだろう。

 一人は脇を大胆に露出させた巫女装束を着ていた。もう一人は、紫色のドレスに身を包んでいた。うち後者が、のんびりとお茶を飲みながら巫女の少女に質問を投げかける。

 

「霊夢。棺の中身はどんなだったかしら」

 

「何にもなかったわ。空っぽの棺桶に、紙だけがべたべたって」

 

「篭っていた気とやらは?」

 

「滅した」

 

「ご苦労さま」

 

「ありがと。でも、残念ながらあの集団が成立した過程については不明ね」

 

「あぁ、それについては心配ご無用ですわ。私の方で当たりを付けておきましたもの」

 

「ふぅん。昨日の今日で、随分と早いわね」

 

「それが仕事ですもの。……あの集落は、恐らく『裏S区』と呼ばれる区画でしょう」

 

 聞き覚えのない名称に、霊夢は首を傾げる。

 

「うらえすく?」

 

「外の世界では真しやかにその存在が語られていてね。独特の風習を今にまで残している地区だそうよ」

 

真しやかに、ということは実在していない架空の地区ということか。それがいつしか忘れられていき、今回こうして霊夢の手を煩わせるに至ったというわけだ。何とまぁ、傍迷惑な。

 

「ちなみにだけど、あの集落を作っていた人間は全員が里の者だったそうよ。既に守護者が皆引き取って里まで連れて帰ってるわ。誰も命に関わるような怪我、及び深刻な霊障は負っていないそうね」

 

「でしょうね。私は加減したし、あの呪いは人に憑くタイプじゃなかったし」

 

 憑くとか言ってた奴もいた気がするけど、んなわけあるかっての。実際に邪気を祓った霊夢には、あれがその場一帯に残留することで周囲に悪影響を及ぼしていた悪気だと分かっていた。近づいた人間の正気を奪うことで、従順な手駒として操っていたのだろう。そうして支配下に置かれた人間達は繁栄のために新たに集落を形成し、勢力を広めることで邪気の強大化に貢献してしまっていたわけだ。

 たまたま人間の里に現れなかったから手早く対処できたが、これで里の中心地辺りにでも出てこられていたら面倒なことになっていた。全く、外の住人は厄介なものを幻想入りさせてくれたものだと霊夢は心中で毒づく。

 

 そして、外の怪談の幻想入りは恐らくこれに留まらない。まだ、続く。根拠は薄いが、霊夢には確信にも似た自信があった。

 人間は、万事において熱しやすく冷めやすい。広く人口に膾炙した噂も、七十五日もしないうちに忘れ去られてしまう。そうなった時、噂は幻想となってここ幻想郷へと流れ着く。脆弱な割には怖いもの見たさの強い人間のことだ、これからも多くの怪談を作り出しては世に広め、そして無責任に忘れていくのだろう。その後始末に追われる面々のことなど気にもかけずに。

 

「それじゃあ、お待ちかねの報酬について話しましょうか」

 

 まぁ、それはそれとして。割り合い重めであったはずの悩みをすぽーんと放り投げて、霊夢はやっと持ち出された話題に集中する。報酬を弾むと言われたからこそこの汗ばむ気候の中で動いたのだ。相応の額なり物品なりを頂かなければ、払った労力に釣り合わないというものである。

 

「そうね。数十人の命を救ったわけだし、このくらいでどうかしら」

 

「どれどれ。……へぇ、そんなにくれるのね。うん、それで良いわ」

 

 ぱちぱちと算盤を弾き、少女は霊夢に打診する。それを見た彼女は、満足そうに笑いながら頷くのであった。



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其ノ丹 ひとりかくれんぼ

[用意する物]

 ・綿を抜いた、足と手のあるぬいぐるみ

 ・米

 ・縫い針と赤い縫い糸

 ・鋭利な刃物

 ・一杯の塩水

 

 

 

[未申の時までにすること]

 

 一、ぬいぐるみの腹を開き、中の綿を全て取り去る。

 一、ぬいぐるみに米を詰める。

 一、自分の爪を切り、それを一欠片だけ入れてから人形の腹を縫う。

 一、縫い終わったらそのまま糸をぬいぐるみに巻付ける。ある程度巻いたら糸を括ること。

 一、ぬいぐるみに名前をつける。自分の嫌いな者でも、好きな者でも構わない。

 

 

 

[未申の時が来た後にすること]

 

 一、「最初の鬼は〇〇だから」とぬいぐるみに向って三度唱える。

 一、湯浴みをする場所に行き、ぬいぐるみを浴槽の中に入れる。浴槽水が張られていればそのままぬいぐるみを入れ、張られていなければぬいぐるみを入れた後で水を張る。

 一、それ以降は何もせずに部屋へと戻る。

 一、屋内の光源となるものを全て光らない状態として、部屋に一本の蝋燭だけを灯しておく。

 

 

 

[そして、目を瞑り十を数える]

 

 一、鋭利な刃物を手に持って、うろうろしながら湯浴みの場所へと向かう。この際、真っ直ぐ向かっても問題は無い。

 一、ぬいぐるみのとこへ来たら「○○見つけた」と言って刃物をぬいぐるみに刺す。それから「次は○○が鬼」と言いながらその場に置く。くれぐれも、言い終わってから置くことのないように。

 

 

 

 一、置いたらすぐに逃げて隠れること。ひとりかくれんぼは、ぬいぐるみが浴槽に触れた瞬間から開始される。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ちょっと助けてくれないかしら」

 

「は?」

 

 夜も更けてきたというところで息せき切って神社にやってきた金髪魔法使いの話を聞いて、霊夢の口から最初に出てきた言葉はこれだった。いや、たったの一文字を発しただけで果たして言葉と言って良いのだろうか。

 全く脈絡もなく助けを求められたので、「はい」か「いいえ」で答える前に疑問符が口をついて出てしまった。もっと詳しく状況を説明してくれなければ、その現場を見たわけではない霊夢には何が何だかさっぱりだ。

 

「あぁ、説明が足りなかったわね。私を殺す気でいると推測される人形から、私を守ってほしいの」

 

「落ち着きなさいアリス、そもそもどうして人形があんたを殺そうとしてるわけよ」

 

 今は軽い混乱が見受けられるが、元来このアリス・マーガトロイドという少女は少々のことには動じない冷静沈着な性格をしている。寡黙な彼女は普段家から出ることも滅多になく、人形を作ったり紅茶を嗜んだりしてひっそりと暮らしている。

 時折気が向けば、外へも出かけることがある。人間の里では得意の人形繰りを活かして芝居の真似事を子供達に披露しており、この定期的な公演は子供達に大変な人気を博している。人間がという枠の中に収まってはいないが、その温厚篤実な人柄から何処に行っても嫌われることなく受け入れられる少女である。

 

「あ、あのね」

 

 しかし、今のアリスは何故か怯えているように見える。金色の泥棒鼠が侵入しても眉一つ動かさずに対処する度胸のある彼女にしては、珍しいことだ。彼女をこの博麗神社に駆け込ませる程のものに興味を惹かれた霊夢は、話を聞いてみることにした。

 

「平たく言うと、人形が突然自律行動を取り始めたの」

 

「ほぅ?」

 

 自律的に活動する人形の作成。アリスが掲げている、大きな目標である。彼女の周囲には常に複数体の人形が控えており、人形と彼女を繋ぐ魔法の糸を繰ることによる指示が出されればそれに従って活動することができるのだが、逆に言うと指示があるまでは動いてくれない。自分の判断でアリスに奉仕することができないのだ。

 いずれ、意思を持つ人形を作りたい。そんな熱意を胸に秘めて、アリスは日夜研究を重ねているのだ。その人形が遂に自主的な行動を見せたのだから、もう少し喜んだって良いだろうに。

 

「あんたの思い違いとかではなく?」

 

 まぁ、喜べるわけがないかと霊夢は思い直した。そういえばアリスは、自律した人形とやらに殺意を持たれていると言っていた。やっと動いてくれたと思ったら自分に牙を剥いてくるなんて、こいつも災難ねぇと対岸の火事を眺めるような気持ちでちょっぴりだけ同情してやる。

 

「私もそう思いたいわ。でも、包丁を持って迫ってくるのを愛情とか親愛の表現とはどうしても考えられなくて」

 

「考えてたら、あんたここに来れてなかったわね」

 

 幻想郷でも指折りの常識人たるアリスは、殺し愛というぶっ壊れた思考に流されず正しい選択肢を選ぶことができた。その結果、彼女は辛くも生きて博麗神社まで辿り着くことができたのである。

 

「助けて欲しいというのは、その人形から私を守ってほしいという意味なの。こんな遅い時間に突然来る非礼は重々承知の上だけれど、どうか助力を願えないかしら」

 

 頭を下げて霊夢に力添えを頼み込むアリス。その必死な様子に、冗談を言っている気配は微塵も感じられない。

 

「や、別に良いのよ。あんたには色々と世話になってきてるし、その恩を返せるってのなら手くらい貸してやらないこともないわ。でも、一つだけ疑問があるわね」

 

「何かしら」

 

「あんた、その人形とやらを返り討ちにできなかったの?」

 

 包丁を装備した人形くらい、アリスなら事もなくぼこぼこにしてしまえると思う。いつも連れ歩いている二体の人形とかを操って遠距離から攻撃を仕掛ければ、簡単に相手は沈んでしまうだろうに、どうしてそうせず逃げるという手を取ったのか。霊夢には、いまいちそこが理解できなかった。

 紅い館の滅多に動かない紫魔法使いは、突発的に襲い来る喘息のせいで満足に魔法を行使できない時間帯が存在する。故に、もし彼女が逃げてきたというのならまだ納得はできる。だが、霊夢の知る限りではアリスは病弱な少女ではなかったはずだ。

 

「そ、それは」

 

「それは?」

 

「……恥ずかしいのだけれど、腰が抜けて」

 

 本当に恥ずかしかったのだろう。赤く染まった顔を隠すように俯きながら、アリスはぼそりとそう言った。

 

「人形が鬼みたいな形相になっていて、それが怖くて。逃げなきゃって思って、でも立ち上がれないから空を飛んで逃げてきたのよ」

 

「かわいい」

 

「かわっ!?」

 

 平時はクールで必要最低限しか喋らない金髪碧眼の美少女が、怖さのあまり腰を抜かしたとな。その場面を空想すると、霊夢の脳内には涙の浮かぶ目で一点を凝視しながらがたがたと震えるアリスが現れた。どうしてかは良く分からないが、どうしようもなく加虐心を唆られるアリス・イン・ザ・イマジンである。

 

「いやー、良いこと聞けたわ。あのアリスが、怖くて腰を抜かしちゃっただなんて」

 

「な、何よ。霊夢のばか!」

 

「あら。そんな口利いてたら助けてあげないわよー?」

 

「うぅっ……!」

 

 によによと嫌らしく笑いながら揶揄ってくる霊夢に、顔を真っ赤にしてアリスも反駁するが、残念なことに今の彼女は霊夢の助けを必要としている。それを盾にされては、アリスも泣く泣く泣き寝入りを選ぶしかできなかった。

 

「よちよち、怖かったでちゅねー」

 

「……っ!」

 

 身を焦がす屈辱に、唇を噛んで必死に耐える。今ここで霊夢にありったけの怒りを込めて怒鳴り散らすのは簡単だが、それは折角助かる道にあった命を再度危険な場所へと放り込む行為でしかない。まだ志半ばの未熟な身で、死んで堪るか。ただその一念だけを心に宿し、アリスは絹のような極上の手触りを誇る自らの金髪を撫でくり回す手を断腸の思いで許容した。

 

「……あっ、ごめんアリス。やり過ぎた、やり過ぎたわ。謝るから泣かないでちょうだいな」

 

 誓って霊夢に悪気はなかった。ただ、普段は見られない友人の痴態を弄ってやろうと思っただけだ。泣かせようと思ってはいなかったし、立場的に強いことを利用してアリスに暴虐の限りを尽くそうだなんて微塵も考えていなかった。だから、彼女がぼろぼろ、ぼろぼろと大粒の涙を頬に流し始めたのを見て慌てて謝罪する側に回ったのだ。

 

「ひぐっ、ぐすっ」

 

「ご、ごめんってば。えぇと、そうだ。昨日紫から美味しそうな羊羹を貰ったの。一緒に食べましょ、切ってくるから」

 

 遂に嗚咽まで漏らし始めたアリスを宥めるために、霊夢は気紛れで取っておいていた羊羹というカードを切った。あの紫女が絶賛していたし、さぞかし味の良い逸品なのだろう。良かった、貰ってすぐに封を開けなくて。まさかこんな形で役に立ってくれるとは想像だにしなかったけれど。

 足早に霊夢が去り、縁側の下には大涙落滴のアリスが残された。ぽたぽたと頬を伝った涙が地面に落ちて、土に吸い込まれていく。ほんの僅かに土が湿ってきていて、どれだけ泣いているんだと少し冷静に考えることができた。

 とにかく、一旦泣き止もう。そう考えて、アリスはぐしぐしと手で乱雑に涙を拭った。それから常備している鼻かみを切らす勢いで使っていく。漸くしゃくり上げるのが収まってきた頃合いで、アリスは気持ちを落ち着けるため自然の風景に目をやった。

 

 月が煌々と輝いており、その下には暗緑色の木々が大挙して森を作っている。りんりんと高く麗しい声で鳴く鈴虫の合唱が、傷を負った心に染み入る。頬を優しく撫でる風は、涙の跡を乾かして消そうとしてくれているように感じられた。

 綺麗な景色だ。そして、綺麗な音だ。自宅からは見ることも聞くこともできない物々に、彼女も段々と普段の落ち着きを取り戻していく。遠くでがさがさと木の擦れる音を立てているのは、大方狐や狸などの野生の動物であろう。ずっと見ていると心を奪われてしまいそうになる程に強く、気高く光り輝く月の明かりが()()()()()()を照らすその様子はまさに ── 。

 

「……えっ?」

 

『ミィツケタ』

 

 目の前に、美しい自然の情景にそぐわないものがある。最初にアリスはそう感じた。人が雅に見入っている時に不躾なことをしてくれるものだと、少しむっとしてもいた。一体あれは何なんだと思い、正体を探った。

 

『ミィツケタ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アリス

 

 刹那の後に、彼女は己の浅はかな行動を悔いた。咄嗟の叫び声すら、喉を石で塞がれたかのような圧迫感に押し潰されてしまった。音も発せぬ口はただ開かれ、そこからは微かにひゅっ、ひゅっと息が漏れ出すのみ。

 気持ちが落ち着いた直後ということもあって、完全に油断してしまっていた。どうして必死に神社まで逃げてきたのかを考えれば、片時たりとも霊夢から離れるべきではなかった。例えうざったいと邪険にされようとも、しがみついてでも近くにいなければいけなかったのだ。

 

『フフ、ミツケタァ』

 

 とんでもなく甘ったるい声に、可愛さなど感じるはずもなかった。ただひたすらに怖く、叶うならば今すぐに踵を返して欲しいと思ってしまう悍ましい声。その声の持ち主がアリスに気がついていないという最良の選択肢は、存在しない。何故ならそれは凡そ限界であろうというところまで見開かれた二つの目でしっかりとアリスの瞳を捉えていたからだ。

 

『ツギハ、アリスガ』

 

 一歩、また一歩と拙い足取りでそれはへたり込む彼女の元へと歩み寄る。必死に後ろへ下がろうとするが、焦りから手は虚しく地の上を滑るだけで体は殆ど動かせていない。二者の距離が縮まっていくのは、当然のことであった。

 やがてそれは、アリスの真正面に立つ。すっと天に掲げた右腕に握られているものが、黄金の月明かりを冷たい白銀にして反射した。

 

『シネ』

 

 あれだけ泣いてもまだ涙は出るのか。妙に的外れなことを考えつつ、涙で滲む視界には自分を目掛けて振り下ろされる鋭利な刃物がぼんやりと映る。

 

 

 

 

 

「お取り込みのところを悪いわね」

 

 ぎゅっと目を瞑ることができたのは、追手に対するほんのささやかな抵抗だったのかも知れない。せめてあの本能的な恐怖を煽る姿を視界に収めないことが、アリスにできた精一杯の行動であった。だが、それだけで自らを貫かんとする凶刃を止めることはできない。ずちゅりと何かが体に刺し込まれる感覚を一瞬想起してしまった。

 

「あんたに出す羊羹は無いから、帰ってちょうだい」

 

 次にアリスの耳に届いたのは、聞き慣れたぶっきらぼうな声だった。それでいて人間味に溢れた、暖かい声だった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ふぅ、危ないところだったわ」

 

 羊羹を八つに切り分けて、アリスと四個ずつ分け合うために皿に盛り付けたところで境内に邪悪な霊気を持つ何かが侵入してきたのが分かった。

 アリスが言ってたのが来たかと急いで向かってみれば、完全に恐怖に飲まれてしまった様子のアリスを人形が見下ろしているではないか。しかも振り上げた人形の手に握られているのは、月光を受けて鈍く光る刃物ときた。

 このまま傍観していては、取り返しのつかない事態を招くことになる。直感でそれを察した霊夢は、左手で羊羹の乗った皿を水平に保ちながら修羅場を迎える二人の間に最高速度で割り込んだ。そしてそのまま即席の対物理特化型結界で刃物を受け止め、お返しとばかりに結界を射出して吹き飛ばしてやった。

 

「アリス、大丈夫?怪我はないかしら」

 

 羊羹は全部無事よ。がたがたと震えていたアリスを少しでも落ち着かせようと、霊夢はちょっとしたジョークを飛ばしてやる。あまり慣れていないウインクまでばちこんと決めた渾身の一発なので、是非笑ってくれると有難いのだが。

 

「あ、あ」

 

「……あれ?」

 

 てっきりアリスがくすりと笑って本来の調子をある程度取り戻すと思っていた霊夢は、予想外の反応の薄さに戸惑っていた。何でだ、抱腹絶倒させるつもりはなかったが少しくらいは笑ってしまうような趣のある戯れ言だったはずだ。

 これはアリスと羊羹が双方無事でなければ使えない高等な言葉遊びである。彼女が危害を加えられていれば霊夢は今頃迷いの森の天才薬師を頼るために空を飛んでいただろうし、羊羹を落としてしまっていたらあの顔面以外は簡素な作りをしていた人形らしきものに全力で八つ当たりをしていたに違いない。

 そう、この言い回しは教養があってかつ結界術にも長けており、おまけに平衡感覚にも優れている私であるからこそできたものだ。私より結界を扱うのが上手いあの紫女は、長いことちゃんと運動していないはずだから足や背の筋肉が衰えきってしまっていることだろう。同じことをすれば、アリスは救えるだろうが羊羹を思いっきり地面に落として格好が付かずぷるぷると震え

 

「霊夢っ!」

 

「うわっ、どうしたのよ」

 

 自己弁護に余念のなかった霊夢の足に、がばっとアリスがしがみつく。いきなりのことなので結構びっくりしたが、まさか振り払うわけにもいかず、一先ずそのままにしておく。

 足を通じて、彼女の体の震えが伝わってくる。霊夢は塵の一粒たりとも怖いとは思わなかったが、アリスからすれば冷静な都会派魔法使いという仮面が剥がれてしまう程の恐怖を味わったわけだ。

 好き嫌いと似たようなものだと霊夢は思った。彼女の大好きなピーマンを、友人の一人は人を舐めた味がすると言って食べたがらない。それと同じで、あの気色悪い人形はアリスの恐怖心を的確に刺激したのだろう。

 

「ありがとぉ」

 

「はいはい、泣かないの」

 

 またしてもえぐえぐと泣き出してしまったアリスを、ゆっくりと立たせてやる。いつまでも地面にべったり座り込んでいては、意匠の細かい服が汚れてしまうから。

 それから肩を貸しつつ縁側まで歩いていく。覚束無い足取りではあったものの、何とか縁側に辿り着くことができた。

 

「あんたちょっと、ここで座ってなさい。見たくなきゃここに羊羹置いとくから、奥の部屋に持って入ってても良いわよ」

 

「……お言葉に甘えさせてもらうわね」

 

 靴を脱いで、丁寧に揃えてから部屋に入っていった。あの部屋は普段霊夢が寝室として使っており、寝込みを襲われても防衛できるように様々な霊的処置が施されている。あそこならアリスも、安心して事が片付くのを待っていられるだろう。

 

「にしても、あいつって意外と怖がりなのね。知り合いの思わぬ一面を目にしてびっくりというか」

 

『アリス』

 

「うーん。私にはあんたの怖さが分かんないわ」

 

 とは言っても、そこまで時間をかけるつもりはないけれど。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 霊夢の寝室に避難してからすぐに、どごぉんという鈍い殴打音が外から聞こえてきた。どうやら彼女の怪異退治が始まったらしい。外で急激に膨れ上がった鮮烈な霊気を感じながら、アリスは託された羊羹をそっと畳の上に置いた。

 常識的に考えれば、刃物を持った危険な人形相手に生身の少女を差し向けるべきではない。十分な装備を整えた大人が、相応の覚悟を決めて止めに掛からなければ行けないだろう。だが、霊夢に関してだけは話が全くの別物となる。

 幻想郷の調停役たる少女は、その実力も伊達ではない。仮に幻想郷全土を揺るがすような大異変が引き起こされたとしても、それを愚痴混じりに解決してしまえるだけの腕が霊夢には備わっている。その強さは或いは霊力の量であり、或いは蝶が舞うかの如き軽やかな身のこなしである。

 

「うわ……どんな出力してるのよ」

 

 成程外見さえ度外視すれば、凶悪人形はアリスでも充分優勢に立てる相手だ。だが、人形という亜人型の媒体に宿ったことで良くないものは幾らかの強化を果たしている。勝てることには勝てるが、油断は禁物と言ったところか。

 れっきとした一人前の魔法使いであるアリスがそれなりの準備を要する相手に、しかし霊夢は本気で臨まない。理由は至極簡単で、本気などたかだかあんな熊人形擬きに出す必要が無いからである。

 

 べごぉん、という一際大きな音が静かな境内にずっしりと響いていく。そしてその音は博麗神社の寝室にいるアリスの鼓膜をも激しく揺らした。まるで地の底に眠る龍が目を覚まし体をもたげたかのような、神社を丸ごと巻き込んだ振動が積み上げられた本をどさどさと崩してしまう。

 

「あっ」

 

 十数冊はあるだろう本の群れが、乱雑に散らかってしまった。直しておいた方が良いかと思い、アリスは崩れた本の山だったものに近づく。

 一冊を手に取ってタイトルを見ると、『結界の使い分けについて』というものだった。自分の強さに溺れず、常にこうして学ぶことを絶やさない姿勢は見習いたいと感心しながら違う一冊を見てみると、『休む勇気・休ませる勇気』だった。霊夢本人は異変解決時とそれ以外とのスイッチの入り切りが上手いので、多分根を詰め過ぎている誰かのために手に入れた本なのだろう。

 普段から饒舌でないことの方が多い霊夢だが、人に見える形にしないだけで本当は基本的に心優しい人間なのだ。友人のレアな一面に少しほんわかとした気持ちを覚えながら、次に振動が来ても簡単に崩れないよう三冊の纏まりを四つ作っていく。三つを手早く作り終え、四つ目に取り掛かろうとした時、アリスは妙な違和感を覚えた。

 

「……ん?」

 

 手に取った本の感触が、どうも紙のそれではない。ふにっとしていてすべすべで、しかも仄かな暖かみまで伝わってくる。どれ程上質な紙を使っているのだと手元の本に視線を落とす。

 

「きゃっ……!」

 

 それより早く、何かに腕を掴まれた。絹のように滑らかな指と思しきものに不快感は感じないが、それでも意図せず悲鳴が上がるくらいには驚かされてしまった。

 そう言えば、以前神社に鬼が一人居着いたとかで話題になったことがあった。これは多分、その鬼が自分にちょっかいを掛けてきたということなのだろう。全く、こんな状況下で悪戯されては背筋が冷え切ってしまうからやめて欲しいのだけれど。少々強引に自分を納得させ、深呼吸を深く深くしてから思い切ってアリスは掴まれている腕を見た。

 

「う~ら~め~しや~」

 

「◎△$♪×¥●&%#?!」

 

 その瞬間、顔の真横に天地の入れ替わった顔がにゅるんと現れ出てきた。全身が総毛立つと同時にぺろりと頬を舐められ、声にならない叫びをあげてアリスの意識は途絶えた。横向きに何の抵抗もなく倒れ込み、そのままぴくりとも動かなくなってしまった。

 

「なーんてね。こんな夜更けにどうしたのかしら、人形遣いさん?霊夢ならもうすぐ戻って……あれ?」

 

 驚かしに成功してご満悦といった表情の少女が、くすくすと笑いながらアリスに喋りかける。だが当然意識不明の彼女は怒ることも安堵することもないわけで。意地の悪い笑みを浮かべていた少女も、すぐにアリスの異変には気がついた。

 

「し、死んでる?」

 

 死んではいない。

 

「どうしましょう。ちょっと沈思黙考の都会派魔法使いの可愛いところを見たかっただけなのに、冗談じゃ済まないことになってしまったわ」

 

 流石に軽く脅かすつもりしかしていなかった少女は、おろおろとアリスの周りで右往左往を繰り返す。やばい、博麗の巫女がいる神社で少女を一人殺めたなんてばれようものならまず間違いなく自分はぼこぼこのめっためたに叩きのめされることになる。這う這うの体で自宅に帰ったら、次は従者による超時間説教を正座で拝聴しなければならない。多分この段階で、性根尽き果てて天に召されるはずだ。

 だが逆に言えば、生きてさえいればここまで酷い厳罰を下されることはない。藁にも縋る思いで、少女はアリスの心臓が鼓動の有無を確かめた。

 

「うん、E……じゃなくて、生きてるわね」

 

 彼女の心臓は、しっかりどくんどくんと規則正しい拍動を繰り返していた。ただ単にショックの余り意識を失っただけであって、命に別状はないようだ。あぁ助かったと少女は胸を撫で下ろす。

 あとは、アリスが目を覚ます前に退散するのが得策だろう。顔はがっつり見られたわけでもないし、仮に彼女が魔法使いの分際で魔女狩りを始めたとしても疑われる危険は少ない。霊夢に会うという当初の目的は達成できないが、背に腹は替えられないという諺もある。

 

「痕跡もなく消え去れば、誰も私を疑えない。ふふ、我ながら完璧な作戦と言わざるを得ませんわね」

 

 狼狽したりミステリアスに笑ったりと感情の変化に忙しいことだが、少なくとも今の彼女は妖怪の賢者気分を存分に味わっている。幸いなのは、誰も彼女の犯したお馬鹿な失態を目撃していないということである。一応面目は、潰れない。

 今ここで霊夢が寝室に戻ってきたら、全てが水の泡だ。内心微かに焦りながら、努めて冷静に少女はすっと扇子を開いた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「おーいアリス、終わったわよ……って」

 

 顔の造形が明らかに狂っていた熊人形らしきものを完膚なきまでに嬲り尽くした霊夢が寝室に入ると、アリスは畳の上ですうすうと静かな寝息を立てていた。

 

「寝てるじゃない」

 

 呑気なものねぇ、と呆れたように呟くが、ふと妙な感覚がするのを捉えた。

 部屋の状況が不自然だ。アリスが畳の上で眠っているのは極度の緊張から開放された反動ということで説明も付くが、ではこの中途半端に整頓された本は何だろう。霊夢の記憶では、確か全て纏めて積み上げていたはずだ。大方さっきの退治の時に生じた衝撃で崩れてしまい、それをアリスが崩れないようにと小分けにしてくれていたのだろう。果たして、その作業中に急に眠ってしまうことなんてあるだろうか。

 もしこれを何者かによる襲撃だと考えると、あまりに()()()()()()()()。欠片も感じられない不審な力、一つも残されていない証拠となり得る物品、一切肉体的損害を被っていないアリス。成程これはあれか。

 

「あの阿呆め」

 

 こんな神隠し的な芸当ができるのは、奴を除いて他にはいない。一切存在しない証拠から、霊夢は正しい犯人を見つけ出した。自身の策には非の打ち所がないと信じて帰っていった少女も、まさかそんな理由で自分がやらかした犯人だとばれるとは思わなかっただろう。皮肉なことに、完全犯罪に近づく程に彼女の疑われる比率は大きくなっていく。

 

「こりゃ後日退治ね。それはそれとして、こいつはどうしようかしら」

 

 人生でもこれ以上ない程に濃い一夜を体験し、鑢をかけたかの如く心を摩耗させ切ったであろう彼女をこのまま放置しておくのは、幾ら何でも残酷過ぎる。かと言って布団も一組しかないこの神社では、予備を貸してやるなんてこともできない。友人の家は実験道具やら訳の分からない素材やらで散らかっていて足の踏み場もない。あぁでもないこうでもないと暫く悩んだ末に、霊夢はとある結論に至った。

 

「そうだわ。紅魔館のベッドはふかふかで寝心地も最高だったじゃない」

 

 どうせ無駄に広いあの館のことだ、余っている部屋の一つや二つはあるだろう。自分がそこを借りて、アリスは神社の布団に寝かせておけば良いではないか。霊夢は寝床が確保できてアリスはひたすらに心を休め、レミリアは霊夢の顔を見れてハッピー。これこそ誰も損をしない、完全無欠の最善策である。

 そうと決まれば、とっとと行動を起こそう。アリスを抱き上げて布団に寝かせ、枕は彼女の好む加減が分からないので適当に置いておく。それから部屋を出て襖を閉め、加護のお札を一枚貼っておいた。これでただでさえ強力な防御を誇る霊夢の寝室がより一層安全な空間になったわけだ。唯一中に入ってきそうな妖怪も、まさかさっきの今で神社までくる度胸はあるまい。

 

「戸締まりも良し、と」

 

 後は紅魔館へ向かえば任務完了である。宙へ浮いていざ紅魔館へと飛び立とうとしたが、ふと眼下に映るものが。

 それは、つい先程こてんぱんに伸した悪霊が依り代としていた人形である。霊夢の攻撃を何度も受けたせいで服から体まで痛々しい程にぼろぼろになってしまっており、何らかの目的で使用するには堪えないだろう。

 もう中にいた悪霊は消滅させたので、この人形は何ら危険性を有していない。だったら、本来の持ち主であるアリスに返してやるのが筋というものだ。だが、こんながたがたの人形を渡されたって彼女も対応に困るだろう。霊夢だって、真っ二つに折れたお祓い棒を寄越されたらその相手をけちょんけちょんにするくらいはやりそうだ。

 

 かと言って、霊夢にはこんな大きな人形をぱぱっと修繕できる技術はない。

 

「……はぁ。仕方ないわね」

 

 そんな技術を持っている知人の筆頭が、丁度紅魔館にいる。泊まりついでにそいつを頼るかと、霊夢は仕方なく一度地へと降りて人形の襟元をがっと掴んだ。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ちゅんちゅんちちち、と高い声で鳴く雀が十数時間ぶりにアリスの意識を現実の世界へと浮上させた。

 

「……うぅん」

 

 目を擦りながら上体を起こす。眠気というか疲れがまだ少し残っているように感じるが、概ね良好な目覚めを経ることができたと思う。体の異常としては、些か目が腫れぼったいというくらいか。

 

「ここは、霊夢の寝室?」

 

 昨夜取り敢えず入っておけと言われた部屋に、自分はまだいる。あの時と違って日が差し込む明るい部屋になっているが、見覚えのあるカバーが付けられた本がしっかりと整頓されているので間違えようもない。

 昨夜のことは、鮮明に覚えている。一度睡眠を挟めたお陰か、取り乱すようなことは無かったが、それでもやはり少しばかり背筋がぞわりとはする。あの狂気じみた形相が暗闇の奥から迫ってくれば、それは確かに怖いだろう。

 

 だが、今回の件は事前の下調べを怠った自分が悪い。アリスはそう考えている。人形に魂を宿らせる術があると人伝に聞き、完全自律の人形を作る一助になればと思って試してみたものの、最後の方で刃物を刺さなければならないと知って途中で辞めてしまったのだ。これが暴走の原因だった可能性は否定できない。

 目先に唐突に現れた夢へ続いているかも知れない道に惑わされ、疑えず進んでしまったことで霊夢にも迷惑をかけてしまった。きちんと謝罪と感謝を伝えなければいけないと思い、アリスは布団から出て部屋の襖を開けた。

 

「あら。これは」

 

 すると、部屋の前には一体の大きな人形があった。顔こそ大きく違えども、その体格や衣装には見覚えがある。間違いない、これは昨夜の熊人形だ。

 見た限りでは、邪悪な気配はない。恐る恐る触ってみると、そこかしこに布を充てたり糸で縫ったりと修繕の跡が見られた。処置は極めて丁寧であり、内部に及んでいた損傷までほぼ完全に修復されていた。

 霊夢が夜なべをして裁縫に勤しんでくれたとは考え難い。そもそも自分が寝室を占有していた一方で何処へ行っていたのかも分からないのだ。謎が深まるアリスの目に、人形の襟元に挟まれた一枚の紙が見えた。何だろうと思いつつ、紙を取って走り書きされた文字を読んでみる。

 

[今度咲夜に礼でも言っときなさい]



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其ノ惨 猿夢

「間もなく、電車が来ます。その電車に乗るとあなたは恐い目に遇いますよ~」

 

「zzz……」

 

「電車が到着しましたよ~。早く乗らないと出発してしまいますよ~」

 

「……、zzz」

 

「もしもし。聞こえてますか~?出発しますよ、出発しますよ、出発しますよ、出発しますよ、しゅっ」

 

だぁぁぁうるっさい!!

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……って夢を見てねぇ」

 

「悪夢なのかコメディなのか、難しいところね」

 

 正午を少し過ぎた時間帯、夏仕様の薄手服でも躱せない茹だるような暑さに辟易としながら、二人の少女が神社の縁側に腰掛けていた。

 

「悪夢に決まってるわ、だって怒鳴ったところで目が覚めちゃったもの。それだけならまだしも、起きたのは夜中だったのよ、夜中!草木も眠る丑三つ時ってやつよ!」

 

 お陰でちょっと昨日の疲れが残ってるし。巫女服を着た方の少女が、立腹した様子で愚痴を零す。それに対するお連れの少女の反応は、さばさばとしていた。話に興味が無いのか、はたまた暑さのせいで口を開くのも億劫なのか。

 

「ふぅん。それはまた、災難だったわね」

 

「全くよ。あんたのお師匠サマに、良く眠れるようになる薬でも貰おうかしら」

 

 頭にぴょこんと生える一対の耳が、彼女が兎であると雄弁に主張している。半袖のブレザーに膝上のスカートは、外の世界の学生なる学び舎の申し子と酷似する格好だ。

 少女 ── 鈴仙・優曇華院・イナバは、ただの妖怪兎ではない。出身は月、兵役を務めた経験を持つ軍隊兎であった。今は訳あって月から逃げ、同じく月からの逃亡者である蓬莱の姫君の元に匿われている。

 師匠というのは、この姫君の身の回りを世話する薬師のことである。膨大な薬学の知識と柔軟な発想で、日々用途を疑う劇薬もとい新薬の開発に余念の無い天才だ。

 

「やめておくことを強く勧めるわ」

 

「何でよ」

 

「永久の眠りにつきたくはないでしょう?」

 

「そうね。八時間くらい眠れれば文句はないわ」

 

 どんな薬を処方するつもりだ。こちとら人間だぞ、ちょっとした怪我や刺激で容易に死に至るのでお気をつけ頂きたい。適度な効果のある睡眠薬を処方してくれると言うのなら、喜んで竹林の中に居を構える彼女の元を訪れるのだけれど。

 命に関わるお茶目が大好きな鈴仙の師匠だが、意外にも地上の拠点としている永遠亭を訪ねてきた患者に対しては真摯な対応をしているそうな。本業は薬師だが、必要ならメスを取ることもあるのだとか。確かな腕と良心的な値段のお陰で、初めは不気味がっていた人間達も徐々に永遠亭へ足を運ぶようになっている。

 

 人ならざる人と普通の人間が交流を持つのは、まぁ悪いことでもない。聞けば薬師は、地上に馴染むために医者稼業をしているのだとか。目的は充分に達成されていると言えるし、里の医者ではどうにもならない難病重傷も完治させてくれるということで人々の拠り所ともなる。じゃあその恩恵を少しくらいこっちにも回せ、人間代表と言っても後ろ指を指されないであろう霊夢はそう言いたかった。

 

「ところで、あんたがここに来るのは珍しいわね。里でよく会うけど」

 

「や、たまたま里で耳すっぽ抜けるかってくらい美味しい饅頭を見つけてさ」

 

「おい兎」

 

「言葉の綾ってやつよ。それで、貴女も食べるかなぁと」

 

 いつも背負っている竹籠を開け、中をごそごそと探る。取り出した白い箱に描かれた模様は、霊夢の記憶に残っているものであった。

 

「あ、これ」

 

「知ってるの?」

 

「知ってるも何も、昨日夜ご飯後のデザートに買おうと思って寄ったら売り切れてたのよ」

 

「人気あるらしいわね、あの店。一人あたり三つまでって、個数の制限がされてたわよ」

 

 里で今爆発的な人気を誇っている饅頭屋の饅頭ではないか。驚いた、開店前から並ばないと手に入らない程の盛況ぶりだと聞いていたから半ば実食は諦めかけていたのに。やはり持つべきものは友、これは嬉しい誤算というやつである。

 

「一個貰うわよ。残り二つはあげる、味はオーソドックスにこし餡だから」

 

「ありがと。丁度良い時間だし、おやつにしましょうか」

 

 お茶淹れてくるわ。思いもよらず飛び込んできた幸せにうきうきしながら、腰を上げお茶の用意をしに行く。良いお菓子を持参してきた鈴仙は上客だ、ここは以前とある筋から貰い受けた最高峰の茶葉を解放するべきである。

 暫く前に、人形が好きな少女を訳あって助けたのだが、礼として送られてきた品々が何とも豪華なものだったのだ。決して赤貧でない霊夢をして手が出ない玉露、今まで口にしたことの無い旨味と甘味が衝撃的な米など、暴走した人形を締めただけでこんなに貰って良いのかと喜びより先に疑問が出てくる逸品揃いであった。割と本気で、彼女専用の用心棒兼何でも屋に転職しようかと一晩悩んだくらいだ。

 

 お茶を淹れて、二人分の湯呑みを持って戻ってくる。夏の火照った体に冷たいお茶は暴力的なまでの爽快感をもたらすもので、心做しかだれていた鈴仙の表情がぱぁっと輝いた。

 いえーい、みたいな掛け声と共にかちんと湯呑みを突き合わせ、二人して豪快に半分程飲み干した。酒か何かのような飲み方をしているが、夏の暑さと冷たい飲み物を前にした喜びでテンションが上がっているのだろう。他に誰もいないことだ、ちょっとくらいはっちゃけたって罰は当たらない。

 

「美味しーっ。そう言えば、ここの神社ってお茶の味をやや薄めにしてるわよね」

 

「濃いと飲み辛いのよね。薄味は苦手だったかしら」

 

「ん、逆。薄い方が好きなの」

 

 うちじゃ姫様のお好みで、全体的に濃い味志向だから。鈴仙は少し苦笑いしながらそう言った。成程、薄味派には少々肩身の狭い食卓事情があるらしい。派閥を共にする霊夢は、鈴仙の気持ちを良く理解できた。

 

「あんた、気に入ったわ。ちょこちょこうちに来なさい、歓迎してあげる」

 

「手土産持って?」

 

「無論」

 

「貢ぎ愛はご遠慮願うわ」

 

 霊夢と鈴仙は、ベクトルこそ異なるものの互いに感情豊かな少女である。故に、一度興が乗った彼女達が話を止めるまで半刻はかかった。

 

 

 

 

 

「あ、そうだ鈴仙」

 

「んー?」

 

「あんまり寺子屋の子供誑かしてたら、頭突きで頭かち割られるわよ」

 

「……一時の気の迷いってやつだから放っておいて」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……何処よここ」

 

 霊夢は人気のない屋内にて、冷たい金属製の椅子に腰掛けていた。

 周囲は薄暗く、微かな灯りの他に光源は無い。物音は一つとして聞こえず、耳が痛くなる程に静かだ。何よりこの場に満ちる陰気な気配が、妖怪とも異なる怪異の存在を霊夢に知らせた。

 

 自分は今、夢の中にいる。霊夢はそう確信していた。確かに布団に入った記憶があるし、こんな建造物は幻想郷に存在していなかったはずだ。一夜城よろしく短期間でこんなものを創ってしまえそうな手合いは二、三思い浮かぶが、手間を考えると何故奇行に走ったのか理由が分からない。

 

 つまり、私は怪異の創り出した夢に迷い込んでしまったらしい。どういった経緯でそうなったのか不思議ではあるが、今は置いておこう。するべきことは一つだ。

 

「取り敢えず、見つけ出してぼこす」

 

 サーチアンドデストロイの鉄則に則って、元凶と思しき怪異を滅することを決意した。お祓い棒やお札は所持していないようだが、問題は無い。神器ミョルニルが無くたって北欧の雷神トールが強いのと同じことである。

 

 明日は妖怪退治の仕事が入っているので、夢の中で疲れている暇はない。とっとと怪異を倒して一秒でも長い安眠を取らなければ、ベストパフォーマンスにも差し支えるし健康にも悪影響が出てしまう。うら若き乙女として、肌が荒れたり目の下に隈ができるのは御免だ。

 

「間もなく、電車が来ます。その電車に乗るとあなたは恐い目に遇いますよ~」

 

 急に、精気の無い男の声が響く。響いたということは、ここら一帯は密閉され且つ広範囲に渡って空洞が広がっている可能性が高い。外の世界にあるトンネルという通路が、まさにこの二つの条件を満たすそうだが、何か関係はあるのだろうか。

 しかしそう言えばこの台詞、何処かで聞いたような気がする。ぱっと思い出せないが、つい最近耳にしたように思う。

 

 まぁ無理に思い出す必要も無い。時が来れば、自然と頭に再浮上してくるだろう。そう思い直し、お尻が冷たいので席を立った。

 寝ていたのだから当然と言えば当然なのだが、現在の霊夢の格好は寝間着である。まさか巫女服を着ずに怪異の討伐をすることになろうとは、流石に彼女も思っていなかった。

 

 霊夢が着ているのは、ただの巫女服ではない。製作者によって対物理・魔法の防御力が高められており、加えて彼女の長年のビジネスパートナーである妖怪が精神的・概念的干渉を大きくカットする術式を組み込んでいる。この世にこれより頑丈で実用的な衣服は存在しないと、誰もが断言するに足る逸品である。

 尤も、並み居る妖怪を一瞬で屠る彼女に最早盾とすら呼べる服が必要なのかは甚だ疑問であるが。攻撃は最大の防御とは正しく霊夢を言い表すに最適な表現だ。

 

「うわっ、眩しっ」

 

 突然差し込んだ光に、反射的に目を庇う。数秒後、恐る恐る目を開けてみると、そこには謎の原理で動く大きな鉄の塊があった。

 何だこれ。見たことの無いものに興味を持つのは人間の性、害も与えてはこないようなのでじっくりと観察してみる。表面は鉄らしくひんやりと冷たく、ガラス張りの窓から中の様子を窺うことができる。幾人かの人間らしきものが見えるが、誰も彼もが俯いていて表情までは知れない。

 下を覗き込んでみると、車輪が見えた。成程、とんでもなく巨大な自動人力車だな。霊夢の出した結論は、当たらずとも遠からずと言ったところだろうか。

 

 がしゅーん、と音を立ててドアが開かれる。これは乗れということだろうか。ぞんざいに渡された無言の挑戦状に、霊夢は怯えも怒りもしなかった。

 

「乗れば良いのね」

 

 元凶に近づくことができるのだから、寧ろ好都合。不敵に笑い、霊夢は車両の中へ乗り込んだ。空いている席に腰掛け、車内の様子を観察してみる。

 乗客は皆俯き、その顔色は絵の具でも塗ったのかと言う程に青い。変なキノコを食べた知り合いが似た顔色をすることが往々にしてあるので、意外にも見覚えのある事態であった。だからなのかは分からないが、一切動揺も焦りもしなかった。

 

 がたん、と車両が揺れて、前へと動き始めた。いや進むにしてもドアくらい閉めたらどうなんだ。走行中の車内から落ちたら夢の中とはいえ流石に痛そうだ。金属製の手摺と思しき細い棒に肘をかけ、霊夢は流れる景色をほぼ無心で眺めていた。

 列車はトンネルに入り、辺りは妖しい紫色の光で満たされていた。その光をぼーっと眺めていた霊夢は、唐突にある仮説に思い至る。

 

「……これって、スキマ?」

 

 彼女の知り合いに、物事の境界を自在に操るという途轍もない能力を有する妖怪がいる。彼女はその能力で空間に裂け目を作り、遠く離れた二点間を瞬時に移動することができるのだが、裂け目の中は丁度こんな目に悪い紫色であった。

 

 ということは、だ。この夢はつまるところ。

 

「あいつの仕業か」

 

 まさかの、元凶は知り合いであった。怪異の討伐をこちらに依頼する身で、よくもまぁ舐めた真似をしてくれたものだ。ただでさえ機嫌のそこまで良くなかった霊夢の沸点が抜き去られていくのに、一秒も必要は無かった。

 

「ぼこす」

 

 本日二度目の締め上げ宣言である。言い訳によっては博麗整形外科開院記念・無料かつ高品質な顔面手術も辞さないつもりだ。こちとら夜に生きる血吸い蝙蝠でもなし、夜に寝なければいつ寝るのだという種族を相手に、よりにもよってこの時間帯に悪戯を仕掛けるとは。成程余程に打たれ役を演じたいらしい。

 一応、相手は幻想郷の管理を担当する妖怪だ。優れた頭脳が語られることが多いが、妖力も並の妖怪とは比較にならない量を保有している。故に油断なく叩き伏せてやる必要がある。見敵滅殺を己に誓う霊夢の耳に、またしてもあの精気の無い男の声が届く。

 

「次は活け造り~、活け造りです」

 

 活け造り。言わずもがな、魚の新鮮な刺身だ。何を喋っている、鮪や鰹が食べたくなってきたじゃあないか。夢でもお腹は空いてくるらしく、友人と夜ご飯を食べたことも忘れて霊夢は憤慨した。

 衣擦れの音がしたのでふと見ると、霊夢より後方に座っていた男が席から立ち上がっている。如何にも働き詰めで疲れていると言わんばかりの窶れた表情で、呆然と視点を虚空に彷徨わせていた。

 

 元より霊夢以外の人間は顔色なり色々とおかしかったが、この男はそれに輪をかけている。何をしているんだと訝しんでいると、男の周囲の空間がぐにゃりと揺らいだ。すわスキマ女の登場か。霊夢は身構え、固く右の拳を握り締めた。

 

「……あん?」

 

 しかし、予想に反して現れたのはぼろ切れのような衣を纏った四人の小人であった。頭髪は無く、目の数も七つだったり一つだったりとばらついていたが、瞳孔が開き切っているのは共通していた。口からは涎がとめどなく垂れ落ちており、世界の気持ち悪い人外を競い合う場があれば上位入賞は約束されるであろう風貌であった。

 小人は、皆が刃物を持っていた。吸血鬼の館のメイドが携帯しているナイフに酷似したそれの刃先は、草臥れた男に向けられていた。

 

 あっ、これはちょっと良くない。考えるより先に、霊夢の体は席を離れ宙に踊っていた。この時点で既に、かの境界を操作する妖怪がこの件と何の関係も無いことを霊夢は目敏く見抜いていた。彼女は、少なくとも霊夢の前でそんな所業に及ぶ性格をしていないから。

 この夢がえらく現実的な感覚を伴っているところから推測して、どうにも現実と多少の繋がりが存在しているらしい。この夢の中で受けた影響は、程度こそ不明なものの現実にも共有される可能性がある。

 

 ならば巫女として、それをみすみす放っておくわけにはいかない。今ここに、霊夢は怪異を明確に敵であると認めた。人に仇を為す、悪意ある怪異であると。

 

「よっ」

 

 軽い掛け声一つ、霊夢の撃ち出した拳はめきょりという軋んだ音を立てて小人の一人を吹き飛ばした。飛ばされた小人は壁に叩きつけられ、そのままぼてっと床に落ちたまま動かなくなった。

 思わぬ乱入者に、小人の標的が男から霊夢へと移った。刃物を振りかざし、三方向より飛びかかる。そう、霊夢の腹を裂き内臓を取り出して活け造りを作るがために。

 

 勿論、それを許す霊夢ではない。内に秘める霊気を瞬間的に放出し、その衝撃で襲い来る小人を纏めて撃退する。うち二人は不幸にも開いたドアの方へと飛ばされてしまい、あえなくご退出の運びとなった。残った一人も反撃に打って出るだけの余力は残されておらず、数度痙攣した後に力尽きた。

 

「これで終わり……」

 

 霊夢の言葉を遮るように、第二陣がやって来る。今度は二人、明らかに扱い切れないであろう巨大なスプーンを携えていた。何故かスプーンには無数の棘が付いており、あれで殴られでもすればかなりの重傷を負うことが容易に予想できた。

 

「次は抉り出し~、抉り出しです」

 

「なわけないか」

 

 世の中そう上手くはない。やれやれと溜息を吐く霊夢の顔に向けて、スプーンを持った小人が同時に飛びかかる。霊夢も人間の少女であり、肉体の強度は頑健とは言えない。凶器を受け止めるためのお祓い棒も今は無く、だからこそ避けなければいけない攻撃であるはずなのだが、何故か彼女は一切の回避行動を取ろうとしなかった。

 このままでは、目が抉り出されてしまう。あわや一大事と言ったところで、徐に霊夢は左腕を顔の前に持っていった。目こそ一時は守られるものの、せめてもの防御としては余りに心許なく、腕が深々と傷つけられることになるのではないのか。

 

 否、屈するは腕に非ず。硬質な音と共に砕け折れたのは、小人が振り抜いた巨大スプーンであった。鉄塊に打ち付けたかのような結末は、場に普通の人間がいれば目と己の正常を疑うことだろう。いや、霊夢の腕に全く傷が付けられていないので鉄塊と呼ぶには相応しくない。白磁の美しさを誇る華奢ながらも堅牢な腕であり、故に金剛石塊と称するに値する。

 

 霊夢は常世に生きる者であるので、当然この不思議な芸当には種も仕掛けもある。尤も達成難易度は恐ろしく高く、他のどの人間も真似できない絶技ではあったが。

 霊気を鎧のように纏うなど、一体誰が思いつくのか。思いついたところで実践しようとする酔狂な人間は、それこそ皆無に等しい。幻想郷には魔法使いも風祝も時止メイドもエスパー少女も不死鳥も歴史喰いも道具屋もいるが、実用的な霊気の鎧を形成できるような莫大な霊力保持者は霊夢を除いて他にはいないからである。

 

「お?」

 

 当然のように、それこそ息をするように二体を無力化した霊夢。これで合計して六人の小人がやられた計算になる。

 

「あんたが親玉ね」

 

「次は挽肉~、挽肉です」

 

 前座の兵士では、埒が明かない。そう判断したのか、次にでてきたのは小人と呼ぶには少し大き過ぎる化け物であった。身体的特徴は先程までの奴らと似るが、体躯は霊夢より僅かに低い程度で、やたらと肉厚な腹部と胸部がぶるぶると揺れている。稀に見る肥満体型だが、まともに動くことはできるのだろうか。動けないのは霊夢としては退治しやすくて有り難い話になるけれど。

 今回は、何やら細長いものが高速で回転している円状の筒を持っている。あれに巻き込まれれば、確かに骨ごと砕かれて細かい挽肉にされそうではある。しかし血抜きも碌にされないようなので、食用の肉になり得るとは思えない。豚の餌になるかも、怪しいところである。

 

 唐突の感が否めないが、強者にも二種類ある。群れず孤独に生きる一匹狼と、複雑な集団を組織する子連れ狼だ。後者の代表例は、天狗だろう。尖兵や監視に白狼天狗、山の実務や他勢力への取材に烏天狗が当たる。更にその上には天狗の頭領たる天魔が堂々として控え、階層構造は滅多なことでは揺るぎもしない強靭なものとなっている。

 白狼天狗の中でも部隊の統率者はいるし、烏天狗の中でも特に有能な者は天魔の側近を務める。理路整然とし、それでいて統治に必要なあらゆる機能を持ち合わせている天狗の社会が強固なのは、当たり前と言わざるを得ない。

 

 逆説的なことを言えば、弱者が作る組織は脆弱かつ単調で、それでいて自分とその他という極めて曖昧な分類しか為されていないものだ。とにかく一番上にいたい、誰も自分の権力に近づけたくない。己の一強に何処までも固執する狭量な者の行く末は、徹底的な破滅の他に用意されていないのである。

 

「挽肉の次は~、ぶつ切りです」

 

「あら。予言ってやつかしら」

 

 直情的な脳筋が、一丁前に占い師気取りね。耳を劈く大音量を撒き散らしつつ回転を続ける挽肉製造機には一寸の恐怖も抱いていないのか、霊夢は怪異の発言を鼻で笑った。

 回転するプロペラのようなものを構えながら、怪異が霊夢の方へと走っていく。やはり見た目通りに重いのか、時折体がふらふらと右へ左へぶれていく様は見るものに滑稽さを覚えさせる挙動であった。しかしながら巨大な機械は避けるためのスペースを尽く潰しており、接近速度に反して回避は困難を極めると言えた。

 

「変なの」

 

 ぽつりと霊夢が零す。その声は機械の稼働音に阻まれ、怪異には届かなかった。届いていたところで、彼に何ができたというわけでもないが。

 霊夢と怪異の間に、紅色に光る壁が現れた。叩けば割れてしまいそうな程に薄いそれは、怪異の突進をあっさりと止めてしまった。接触箇所から金色の閃光が走り、堪らず怪異は怯み数歩後ろにたたらを踏んだ。それに合わせて、霊夢は足を伸ばしてぺしっ、と怪異の足を払った。

 体勢を崩したところに足払いを掛けられたので、怪異は無様にも頭から仰向けに転倒した。手に持っていた回転刃ごと。

 

 そう、()()()()()()()()すっ転んだのである。勿論機械は正常に作動しており、重力による自由落下の制約に縛られている。体にあんなものが落ちてきたらどうなるかなんて、五歳か六歳の幼児でも想像がつくだろう。おお、惨い惨い。

 

「あんたに未来なんて無いのに」

 

 ダイナミック自決、敢行。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「おはよう、霊夢」

 

 少女然とした明瞭な声に、意識が現実へと引き戻される。折角の至福の一時が望まぬ終わりを迎えてしまったことに深い悲しみを抱きつつ、寝惚け眼のままに障子を開くと、そこにいたのは兎であった。

 

「一昨日ぶりね。昨日は悪さ働いた妖怪しばき倒したんだって?相変わらずのお手前ですこと」

 

「今日あんたが来る予定は……いや、あったわ」

 

「予定が無くても来たいんだけどなぁ」

 

 軽い苦笑をその表情に貼り付けて、鈴仙は背負っていた竹籠を地面に下ろした。最近永遠亭が薬の配給サービスを始めたのだが、霊夢もあそこの薬には大変お世話になっている身だ。何せここは進歩緩やかな幻想郷だ、医術が必ずしも病気に対する絶対的な対抗手段とはなり得ない。そんな窮地を、永遠亭印のお薬は華麗に救ってくれるのである。

 

「ほら、薬箱出して。新しいのと代えたげるから」

 

「ん、そこ」

 

「はいはいっと。……やたらと胃薬に頭痛薬が減っているけど、ストレスでも溜まってるの?」

 

「あー。まぁ、色々とね」

 

 ストレスを齎す相手は、枚挙に遑がない。癒しが無いわけではないものの、発散されるよりも溜め込まれる方が早いので焼け石に水といった状態である。ストレスが一定値を超えて体に信号を送ってくる度に霊夢は、冷たい水で小さなオレンジ色の錠剤を飲み込むのである。服用の間隔が心做しか短くなりつつある気がするのは、考え過ぎだと思いたい。

 そう言えば、鈴仙は兎だ。毛並みの良い大きな耳も持っているし、いっそ心のままに撫で回してやれば心労も大軽減するのではないか。動物は撫でられると喜ぶと言うし、正にぎぶあんどていく、とかいう関係になるはずだ。

 

 ……いや、やめておこう。鈴仙を撫で回すという字面が良くない。倫理的に、そして社会的に。万が一現場を誰かに見られようものなら言い訳が効かないし、その誰かが文屋だったら目も当てられない悲惨な結果になる未来しか思い浮かばない。あらぬ淫靡な誤解が風よりも早く幻想郷全土を駆け巡るなんて、それこそ本物の悪夢じゃあないか。

 

「これで良いわね。あ、今回は新しい薬も入れておいたから。安眠用の薬よ、この前悪夢のせいで寝れなかったって言ってたし」

 

「有り難いけど、その悪夢はもう解決したわ」

 

「あれ、遅かったか。残念」

 

 昨日の夜は、悪夢に快眠を妨げられることもなかった。一日ぶりに穏やかな夜を過ごすことができたので、体の疲れは殆ど抜け切っている。

 だが、話を聞いてわざわざ持ってきてくれた薬を要らないと突き返すのも悪い。今度眠れない夜を迎えた時のために喜んで蓄えさせて頂こう。こうして彼女の薬箱には頭痛薬と胃薬が補充され、新たに高品質な睡眠薬が追加された。

 

「じゃ、私はこれでお暇ね」

 

 薬の交換が終わり、次の目的地を目指して歩きだそうとした鈴仙。朝から働くなぁと思いながら後ろ姿を見ていたが、ふと思い立ち彼女を呼び止めた。

 

「どうかしたの?」

 

「折角来たんだから、朝ご飯食べていきなさいよ」

 

「へぇ。それなら有り難くご相伴に預かろっかな」

 

 一昨日の饅頭も合わせて、鈴仙はサービスが良い。頼んだことはきっちりとやってくれるし、そこに加えて一つ嬉しい特典を付けてくれる。相手の信用を得るのが上手い兎だ。これも月で仕込まれた技能なのだろうか。もしそうなら、霊夢は勝手本位のきらいがある古い友人をロケットに縛り付けて月まで送る所存だ。宇宙は到底生身では生きていられない過酷な環境だと聞いたことがあるが、彼女は魔法使いなので何とかするだろう。何と言ったってここは幻想郷、奇跡も魔法もある。

 

 お邪魔します、と一声かけてから靴を脱いで屋内へ上がってきた鈴仙。膝より高い位置にスカートの裾があるので、足を曲げると健康的な白い太腿がちらちら覗く。鈴仙の恵まれたスタイルあってこその健全な色気は、霊夢にとって羨ましく感じるものだ。たまには自分も丈の短い服を着てみたいが、巫女に相応しくないという理由で許可は降りないだろう。何故だ、脇は思いっきり開けている癖に。

 

「ちなみに、メニューは?」

 

「海老とか鮪の活け造り」

 

 おや、意外な献立が出てきた。てっきり米と卵焼きと鮭の塩焼きみたいな和食のオンパレードになると思っていたので、鈴仙はちょっと驚いた。

 鮪なんて思い切り海の魚だが、霊夢はどうやって海のない幻想郷で得たのだろうか。幻想郷の内外を分ける結界を越えるのは御法度御禁制らしいので、どうやっても手に入らないはずなのだが。もしかして、ここでは鮪が川を泳ぎ遡上しているのか。それはもう鮪ではなく鮭でないのかと思いもする。

 

 深く考えないようにするのが、一番良いだろう。理由はどうであれ、幻想郷では中々お目にかかれない海魚を頂く絶好の機会だ。大人しく舌にて鼓を打ち鳴らすのが、所謂賢い選択と言える。

 

「朝から食べるわねぇ、霊夢」

 

「成長期だもの」

 

 成長期と来たか。年齢を考えればまぁ間違ってはいないだろうし、霊夢は少々体が細過ぎる。よく食べて栄養を補給してくれるなら、朝食の量が多くても問題は無いだろう。如何にも薬師の弟子らしい観点で納得して、鈴仙は霊夢が熟れた手つきで鮪を三枚に下ろすのを見ていた。

 



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其ノ死 くねくね

「……よし、これで終わりだ」

 

 幻想郷の昼下がりは、基本的に平和そのものである。昼からどんぱちをやらかす不届きな妖怪などそうはおらず、また人間の里においても昼休憩の時間になるので妻のお手製弁当を食べる男や茶会に勤しむ少女などが散見される。活気は程良いもので、決して煩くも侘しくもない。

 いや、里で一箇所だけ煩くなる場所がある。子供が集まれば大人の数倍喧しいのは周知の事実だが、これが数十人規模でとなるともう辟易としてくる者もいるに違いない。特に十に満たない幼子など、制止なんて有って無いようなものだと言わんばかりに天衣無縫、唯我独尊の大暴れだ。その傍若無人さたるや、お前達将来は暴君を目指すのかと突っ込みたくなる程である。

 

 小さな暴君の卵は、今日も元気に騒げや踊れやと忙しい。しかし彼らとて人の子、学びを欠かすわけにはいかない。そんな子供達に学びの場として提供されているのが、寺子屋という教育施設である。

 

「今日も良い天気だな」

 

 里の寺子屋は、守護者である半妖が教師を務めている。里に半分とはいえ妖怪の血を引く者がいるのは少々変に聞こえるかも知れないが、彼女はとても淑女的な態度で里の人々に臨んでいる。故に信用は厚く、信頼関係が重要な小規模集団において守護者を任せられるまでになっているのだ。

 彼女は才智に富み、蓄えた知識は人間の大人を凌駕する。豊富な知識を活かして、教師役を買って出ているというわけである。賢い者が良い教師とは限らないという先人の到達した結論に違わず、大体の授業で大半の生徒を夢送りにしているのはご愛嬌だ。

 

 授業に欠かせないのが、試験である。授業の理解度を測り、それに応じた成績を付けるために試験は重宝される。寺子屋においてもそれは同じであり、上白沢(かみしらさわ) 慧音(けいね)は生徒に課した試験の答え合わせをしているところであった。

 個々により成績はまちまちだ。国語算数歴史の三科目全てで高い点数を記録する優等生、一科目だけ飛び抜けている特化型、そしてどれも芳しくない努力が必要で賞。十人十色の点数に笑ったり溜息を吐いたりしながら、それでも総じて楽しそうに採点をしていく。教える喜びというのは、教えられる側には極めて理解し難いものだが、一度味わえばその旨味を忘れることはできない。

 

 数時間をかけて、慧音は全ての答案に点数を付け終わった。とにかく同じ姿勢でずっと座っていたので、肩も腰もばっきばきに固まってしまっている。爺臭いと分かっていても関節をぱきぱき鳴らすのが止められない。あの妙な感覚は、どうしてか病みつきになる。

 足も解したかったので、気分転換も兼ねて散歩に出ることにした。寺子屋を出ると、夏の日差しがちりちりと肌を焼いてくるのが感じられる。そう言えば日傘を持ってきていないと思い出すも、敢えて気が付かないふりをする。偶には日に当たっておかないと、内面までじめじめしてしまいそうだからというのは、高尚な建前である。

 

 上下一体の青い服に身を包み、道行く人々と挨拶を交わしながら慧音は歩いていく。夏らしく袖も丈も短くされており、加えて胸元はかなり大きく開かれているので不埒な男共の盗み見の視線に晒されるわけだが、当の彼女本人がそれに気がついている様子は見受けられない。多分少しでも涼しさを求めた結果行き着いた服装で、露出度は二の次だったのだろう。未熟な青少年への影響は、教師らしくもないものがあるのではなかろうか。

 

「ん?」

 

 慧音が()()を見つけたのは、奇しくも彼女を助平な目で見ていた団子屋の主人が若女将に制裁を受けたのとほぼ時を同じくする。背後から聞こえてくる若い怒声と成熟した狼狽えの声に、全く何をしているのかと他人事めいて呆れていた元凶少女は、路地を少し奥に入ったところでゆらゆらと揺らめいているものに目が止まった。

 その物体とはそこそこの距離があり、目の良い慧音でも白くて人に似た形をしているくらいしか判別できなかった。それだけなら農業を営む面々が拵えた案山子が置かれているだけだと思えなくもなかったのだが、白い人形(ひとがた)には明らかに納得できない点が一つあった。

 

「……何だあの動きは?」

 

 おかしなことに、謎の物体は揺れていたのだ。風など微かにも吹いていないというのに。誰の手も借りず動く案山子など、博識な慧音も聞いたことも無い。それに、よしんば風で揺れていたとして、余りに揺れ方が不規則かつ滑らか過ぎやしないか。最早為されるがままに揺れていると言うよりは、意図的にくねくねしていると形容する方が近い気がする。

 

「慧音さん、こんにちは。どうしたんですか、そんなに路地裏を見て」

 

小鈴(こすず)か、こんにちは」

 

 大通りの向こうから歩いてきたのは、里の貸本屋『鈴奈庵』の店番少女。名を本居(もとおり) 小鈴と言う。両親と同居しており、比肩する者無き読書家である。

 如何にも十代前半の少女らしい可憐な容姿とは裏腹に、寺子屋に在籍していた数年間で数々の伝説を打ち立てた女傑でもある。妖怪の執筆した本が読みたい余り、単身妖怪の山へ突撃していったという衝撃的な経歴は、慧音も三十年くらい覚えていられる自信がある。

 

「あそこの路地裏に、妙なものがあってな」

 

「妙なもの?」

 

「見てくれれば分かるよ」

 

 本ばかり読んできた影響か、小鈴は歳の割に目が悪い。その分沢山の知識を吸収してきたとはいえ、視力が悪いと知識を活かす以前に普通の生活を送ることが困難になる。だから彼女は、視力の補強に眼鏡を用いている。度は相当に強めているらしく、眼鏡込みなら慧音よりも鮮やかに世界を見ることができる。

 遠くの物を見る時に首を突き出して目を細めるのは、小鈴の癖だ。そこまでしなくても見えるだろうに、会得した癖というのはそう簡単には矯正されない。偶に掛けている眼鏡を二本の指でくいっと上げた時には、お前御歳幾つだと聞いてみたくもなる。

 

「どれどれ」

 

「見えただろう。あの白い、変にくねくねと動いている……」

 

 案山子みたいなものだ、と続けることはできなかった。

 

「小鈴?小鈴!おい、どうした!」

 

 慧音の目の前で、糸が切れた操り人形のように小鈴は膝から崩れ落ちた。咄嗟の判断で慧音が支えなければ、顔を強かに打ち据えていただろう。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……事のあらましは、こんなところだ」

 

 息せききらして神社まで駆け込んできた慧音に、初め霊夢は何事かと問うた。どうも尋常ならざる様子であったので、一旦落ち着くよう促してから何があったのか話してもらったところ、貸本屋の娘が突然倒れたと言う。

 それは医者の領分じゃないのかと言えば、直前に変なものを見ており、それが原因となっている可能性があると説明を受けた。それならということで、霊夢は小鈴の寝かされている診療所の一室までやって来ていた。

 

「単に貧血気味だったとかなら、まだ安心できるのだが。()()、そうはいかないだろう」

 

「えぇ。貧血になっても霊障は出ないからね」

 

 部屋に入って、厳密には診療所の扉を開いた段階で、既に良くない気配は感じていた。相手から直接的な干渉を受けたのかと聞いてみたが、慧音曰く見ただけだそうな。向こうが慧音達に気がついていたかすら定かでないそうなので、多分邪悪な気配が他より強いタイプの怪異ないしは妖怪に出会ってしまったのだろうと当たりを付けた。幾つか腑に落ちない疑問はあるけれど、それについての考察は後に回すことにする。

 

「霊障は治せるわ。でも小鈴の体のことを考えると、少し時間をかけて治すのが得策ね」

 

「一気にやると、保たなそうか?」

 

「あんたみたいに体力あったらいけるかも知れないけど、小鈴はまぁ無理ね」

 

 外部からやってきた邪気が体内に侵入し、正常な霊気の循環が阻害される症状を、一般的に霊障と言う。快復させたいなら話は簡単で、流れを妨げている邪気を滅すれば良いだけなのだが、そうは問屋が卸さない。か弱い人間の少女には、邪気を一掃するエネルギーに耐え得る体力が無いのだ。

 巫女の清浄な霊気は、ふわりと漂わせる程度なら周囲の人間が溜め込んだ汚れた霊気を清めてくれる。だが、過剰に供給されれば並の人間では器に大きな負担が掛かってしまう。高名な神社仏閣に出向いた時に息の詰まる感覚を覚えるのは、そこにおわす超常の存在の力に晒され続けるためである。

 

「一週間を目処に治療していくわ。小鈴が起きたら、そう伝えておいて」

 

「了解したが、お前はどうするんだ」

 

「どうするって、決まってるじゃない」

 

 一先ず、霊気を殆ど込めていない対人外用のお札を小鈴の額にぺたりと貼っておくことにした。あくまで巫女の力は補助に徹せねばならず、快復の主体は小鈴の自己治癒力だ。暫くは強烈な倦怠感などに苛まれるだろうが、そこはまぁ赤ん坊にでも叩かれたと思って我慢してもらいたい。

 ひょいと立ち上がった霊夢は、慧音の問いに対してあっけらかんとした口調で答えた。

 

「その白いくねくねした奴を探すのよ」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「うーん……」

 

 竜頭蛇尾。霊夢の直近二時間を言い表すのに、これ程端的で正確な言葉は無いだろう。

 勢い良く飛び出したのは良いが、そこから先において何の情報も得ることができなかった。目撃情報は言うに及ばず、怪しい妖気の残留すら発見できない始末だ。

 

「ここまで痕跡が無いものか?」

 

 白昼堂々里に現れたのだから、今回の怪異は余程己に自信があるのだろう。なら間違いなく他の人々の前にも姿を現すはずだ。そう思って人の多い通りの裏道などを隈無く捜索してみたのだが、驚くべきことに一片の痕跡すら見当たらなかった。

 考えられる可能性は二つだ。霊夢が探す場所を誤ったか、怪異が痕跡を残さないよう動くだけの知恵を有しているかである。前者なら霊夢の意思一つでどうとでもできるが、後者だとやや面倒になる。見つけさえすればぶっ飛ばせるものに手間を取らされるのは、おちょくられているようで非常に嫌な気持ちがする。

 

 苛々していては、ただ疲れるだけだ。気持ちを切り替えるためにも、甘いものを頬張ることにしよう。実に年頃の女の子らしい平和な手段で、霊夢はストレス発散を図った。

 

「店主さん、お団子もう一本ちょうだい」

 

「はいよ。今日は良く食べるねぇ」

 

「売り上げに貢献してあげてるのよ。私はお腹が膨れて店主さん達は儲かる、一石二鳥じゃない」

 

「違いない!」

 

 はっはっは、と快活に笑う店主の頬には、型でも取ったのかと言う程に綺麗な紅葉が一葉咲き誇っていた。紅葉に咲くという動詞を当てるのは些か違和感もあろうが、その見事さたるや玲瓏な花にも劣らないが故の抜擢である。

 さてはこの店主、何かやらかしたな。気分転換がてら、霊夢はその点についてちょっと問い詰めてみることにした。無論彼女自身が害を被ったわけではないので、話す調子は揶揄う時のそれである。

 

「ところで店主さん、ほっぺに立派な紅葉が」

 

「あぁ、これな。うちの若女将がくれたんだが、居心地が良いってんで離れてくれねぇんだよ」

 

「へぇ。それはまた、思いっ切り叩きつけられたのね。燃えるような紅色、中々に綺麗じゃない」

 

「鮮烈な紅色は、痛烈な一撃によって作られるもんさ」

 

 ふっ……とニヒルに笑う店主。いぶし銀の渋さがあり、だが何とも格好のつかない決め顔であった。

 

「良い一撃ね。鍛えれば次世代の巫女になれるかも知れないわ」

 

「おいおい、うちの売上をがっつり支えてくれてる看板娘だぞ。取られちゃこちとら商売あがったりよ」

 

「あぁ。可愛いものね、彼女」

 

 この店で働いている者達の中に、まだ齢十四、五くらいの少女がいる。あどけない顔が在りし日の娘を思わせるのか、やや歳の行った男衆に可愛がられていることが多い。団子屋で油売ってないで実の娘の所へ行ってやれとは、言わない方が良いのかも知れない。

 店の常連である霊夢もちょこちょこ顔を合わせているが、好かれるのも納得の顔立ちだと思っている。常に笑顔を絶やさないので、庇護欲を掻き立てられるのだ。周囲の男を味方につける才能は、天賦のものがあると言えよう。無論、変な意味ではなく。

 

「そのうち良い男見つけて嫁ぐんだろうなぁ。そう思うと寂しいよ、それまでしかうちで働いてくれないのがね」

 

「家庭を持つのは女の子の夢だもの。めそめそしないで応援してあげなさいな」

 

「そりゃそうよ、応援しないはずがない。……霊夢ちゃんが白無垢着てる姿ってのは想像できんがねぇ」

 

「唐突ね。ここでは団子とセットで喧嘩も売ってるの?」

 

 剣呑な雰囲気を醸し出しながら、お祓い棒を片手に立ち上がる。さてはこの中年店主、お前は可愛げが無いから行き遅れるとでも言いたいのだろうか。余計なお世話極まりない。

 店主としては、妖怪でもないのに退治に臨まれては堪らない。慌てて大仰に手を振り、霊夢を思い留まらせる。しかし元はと言えば身から出た錆、口から出た雑言が少女着火の原因である。価値観の世代間格差は避けられないものとはいえ、少しばかり花の盛りの少女に対してあんまりな物言いではなかったか。

 

「お、勘弁勘弁。大丈夫さ、お前さんの器量なら引く手数多だからな」

 

「綺麗な手にしか引かれてあげないけどね」

 

 引かれた先に金も未来も無いのは嫌だ。勿論のこと、愛も欠かせない。欲に塗れた下劣な腕が外殻だけ綺麗な肌色に取り繕っていることは決して珍しくもないので、己の審美眼が重要となってくる。その点、勘の鋭い霊夢は伴侶を望む者の本質を見抜く力に長けていると言えよう。

 

 追加の団子と、おまけで二杯目の緑茶も店主は付けてくれた。ことり、とテーブルに置かれた団子が纏う蜜は店内の光を反射して、艶やかに煌めいていた。舌が蕩け落ちるような甘味を予感して、霊夢は知らぬうちにごくりと喉を鳴らした。

 この緑茶はもう少しゆっくりしていけという合図か。ならば存分にその厚意に甘えさせて頂くとしよう。どうせまだ日は長いのだから、今日中に怪異を討伐するにしても時間的猶予はそれなりにある。焦らず騒がず、英気を養う時間というのも時に要求されて然るべきだろう。

 

「ところでよ、今って忙しいか?」

 

「まぁ、まるっきり暇ではないわね。話くらいなら聞いてあげられるわよ」

 

 こちらの顔色を伺うような、探る声色に霊夢は相談事の気配を察した。よく世話になっている相手が何か困っているなら、少しくらい力になってあげたくもある。

 別件を掛け持つだけの時間が残せるかは不明なので、解決は明日以降になる可能性が高い。余程のことだと言うのなら、白い怪異を可及的速やかにぶっ飛ばして、店主の依頼に取り組みもするけれど。

 

 報酬は団子屋らしく、一食分無料とかにしてもらおうか。依頼を完遂する前から報酬のことを考えるがめつい少女だと思っても仕方なかろうが、実のところ食事一回分というのは、依頼料としては破格の安さである。もし店主が霊夢以外にこの話をしていたら、料金にして十倍は取られていただろう。だが、何も他の業者が暴利を貪っているわけではなく、寧ろ霊夢が人並外れて安価で動いていたりする。

 

「いや実はな、俺の知り合いが持ってる畑に変な奴が出たらしくてなぁ」

 

「変な奴?」

 

「おう。何でも体が真っ白で、滅茶苦茶に踊ってるとか言ってたな。そんな人間がいるかと笑ってたんだが、どうも嘘をついてるとも思えねぇ慌てっぷりでよ」

 

 もし時間があったら、畑の方も見ておいてくんねぇか。手を合わせて頼み込んでくる店主に了承の意を伝え、くぴくぴと緑茶を飲んでいた霊夢だったが、その時不意に彼女に電撃が走った。もう少し早く、せめて陶器に柔らかい紅色の唇を重ねる前にぴんと来ても良かったんじゃあないかと思わないでもないが、気が付かないよりはましだろうか。

 

「あー!それ、私の探してる奴だわ!」

 

「へぇ。そいつはえらい偶然だな」

 

 こうしてはいられない。怪異が少なくとも里の都市部から畑地帯へ移動するくらいの行動力を有していることが図らずも発覚した以上、のんびりと構えていたら何処かへ逃げられるかも知れない。畑の付近に留まっている間に、決着をつけたいところだ。

 ゆっくり味わう予定だった団子を、惜しみながら手早く食べ進める。四個一刺しの団子をものの一分足らずで腹中に収めた霊夢は、お祓い棒を持って立ち上がり、情報提供者となってくれた店主に礼を言った。もしこの店に寄らなかったら、まだ霊夢は路地を虱潰しに探していたところだ。

 

「何だか思わぬ形で巫女さんの手伝いをしちまったなぁ。こんなこともあるもんだ」

 

「ここに休みに来て正解だったわ。お代金ここに置いとくから、また引っぱたかれないよう真面目に働くことね」

 

「分かってるよ。ありゃもう御免だ」

 

 紅葉の季節にゃまだ早い。からからと笑う店主の声を背中に聞き、多分近いうちにもう一発貰うだろうなぁと予言めいた予想を立てる。反省していれば二度は無いと言うが、それはつまり反省しない限り人は同じ過ちを繰り返すということに他ならないわけだ。さて、彼女は店を卒業するまでにあと何枚店主に紅葉を贈呈することになるのやら。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 里の中心部には居住地域や商業施設など消費に関する要素が集中しているが、一方で外れには米や野菜を育てるための田園地帯が広がっている。この田園地帯で人間の里に住む人間達の食料を生産しているのだ。

 普段はのどかな場所だ。虫の声が聞こえ、川を魚がすいすいと泳ぐ。太陽がぎらりと地を照らし、稲や作物は大地の恩恵を受けてすくすくと成長していく。豊かな自然環境の中で、人々は時に汗を流しつつも楽しそうに農作業に励む。しかし、今は状況が違った。

 

 田園地帯を覆うように、嫌な空気が満ちている。その気配を察してか虫も魚も、野生動物までもが付近一帯から完全に姿を消していた。生命の活力に満ち溢れていた土地は、今や物悲しい雰囲気の漂う不穏なフィールドへと変貌してしまっていた。

 

 悪しき気配をばら撒く元凶は、農業地帯の北部中央にある個人所有の田の中にいた。人間の関節の限界を無視したぐにゃぐにゃの動きで暴れ狂い、それでいて全く呼吸を乱す様子は見られない。それどころか、呼吸を行っていると推測される器官が顔に見当たらなかった。

 怪異の顔は、真っ白だった。まるで白粉をふんだんに塗りたくられたかのようであった。それでも鼻や口の形は浮かび上がるものだが、そんなものは無くて当然とばかりにのっぺらぼうの顔面を忙しなく動かしていた。

 

「見つけた」

 

 怪異の意識が闖入者に向けられたかは、定かでない。気がついていた可能性はあるが、人間の少女だとか脇が露出しているとか、そこからシンデレラサイズの何かがちらりと見えそうなんてことは考えたりしない。人外の思考を人間の基準で語るのは難しく、そもそも思考というものにてんで無縁である怪異さえいる始末だが、少なくともこの怪異は少女に対してほぼ完全な無関心を貫いた。

 種々様々な怪が幻想郷を跋扈している。実力・容姿・習性など千差万別の様相を呈しているが、妖怪退治のスペシャリストである霊夢がやって来ている状況下で構いもしない奇天烈な奴もそうはいない。彼女を塵も同然と扱える空前の怪物か、もしくは機動自在の超火力妖怪バスターの危険性を正しく認識できていないのであれば、まだ分からなくもないと言える。極稀に地震雷巫女親父の襲来をも無視して同じ行動を取り続ける自己世界没入型もいることを考えれば、白い顔無しはこのタイプに分類することもできそうだ。

 

 正しく狂ったように踊る化け物は、絶えず瘴気を発し続けている。このまま放置すれば土壌は汚染され、生命の維持発展を許さない過酷にして劣悪な環境が形成されてしまうだろう。最近何となく興味を惹かれて買った本に準えて言い表すならば、沈黙の春が訪れかねない。

 黙って指を咥えていると、一帯の作物が成長不良を起こす危険性がある。艶々の白米や瑞々しい野菜を守るため、霊夢はお祓い棒を構え、自らの霊力を流し込んだ。

 

 これだけ悪しき力を里にいた時から撒き散らしていたら、霊夢でなくとも容易に痕跡を発見できただろう。田に到着してから突然真の力を見せつけるかのような行動を取り始めたのは、単に人目を憚るのを止めただけなのか。

 

「それとも、ここがあんたの城なのか」

 

 田に縁のある怪異なら、この場所にいるだけで土着神宜しく力を増幅させることができてもおかしくはない。事実、置かれている環境によって力が増減する妖怪はいるわけだ。厳密には非なるとはいえ、似た者である怪異にもこの特徴が当てはまる可能性は捨てるべからずと言ったところだろう。

 さて、田はかの怪異にとって極めて居心地の良い場所なのか。気に入ったが故に、自身の力が届く範囲内を縄張りと認定し獲得しようとしているとも考えられよう。……それとも、はたまた。

 

 尤も、それは霊夢の知ったことではなく。

 

「だとしたら、改易ね」

 

 彼女の仕事は、ただ一つ。淡雪のように仄かな光を放つお祓い棒を、加減無く叩きつけるのみである。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……元人間?」

 

「少なくとも、その可能性が高いわね」

 

 生産地帯の広域を汚染した瘴気を浄化するのに、二日。さらに並行して小鈴の霊障に対して治療を行うこと、六日。一連の流れの中で生じた人的・物的被害が全て取り除かれるまでに、実に一週間弱を要した計算となる。とは言っても小鈴の件については、一日に一度診療所に寄って札を取り替えてやるだけだったので、さしたる手間でもなかったけれど。

 今回の怪異は、恐らく他者の自己に対する認識を察知し、一定以上にはっきりと認識した相手に霊障を負わせようとしてくるタイプのものだ。慧音も小鈴も姿を見ていて、かつその姿を良く見てしまった小鈴だけが被害に遭っていることから、こうした推測が可能である。

 認識災害型の怪異と言えば、端的になる。はっきり言って、この手の輩は一般的な人間にはどうやっても対処し難いのだが、とにかく怪しいと思ったら迷わず自分を呼べと慧音には伝えておいた。

 

 良く見知ってしまったパープルな女が神社に唐突な訪問をかましてきたのは、あと二日程で小鈴を退院させても良いかと治療計画を良い方向に修正していた頃合いであった。顔を合わせるなり自然な所作で隣に座ってくる妖怪に渋い顔を向けつつ、仕方が無いのでおやつの大福を一つくれてやった。随分と美味しそうに食べるので、それに免じて予約無しの来訪についてはお咎めなしにしてあげた。

 

「霊夢、水田に置くと鳥害や獣害を軽減できるものと言えば何かしら」

 

「あー、案山子?」

 

「正解よ」

 

 名残惜しそうに大福を食べ終わった妖怪曰く、あのまっしろしろすけは元々霊夢と同じ種であったそうだ。気色の悪い踊りに興じる全身白色の変態と大元は同じだと言われると、普通の人間の感覚としては拒絶したくなるだろうが、人だって条件さえ満たせば妖怪に転じることもあるので、あぁそうなのか以上の感想は霊夢の頭には浮かんでこない。

 

「その案山子、()()()()()()鳥も獣も恐れを為して殆ど寄ってこないでしょうね」

 

 藁や布で作られた案山子だって、風の影響などで受動的に動くことはあるだろう。能動的に活動できるからこそ、このタイミングで少女の口上に登ってきたわけだ。

 

「お察しの通りですわ。今回霊夢が退治したのは、恐らく外の世界において『くねくね』と呼ばれる怪異よ」

 

 また外の世界か。こうも連続して怪異を送り込んでこられると、いい加減向こう側にいる人間を一回ずつ殴ってやりたくなる。恐怖怪談くらいしてくれたって何の文句も言いやしないが、勝手に忘れてこちらに帳尻合わせを押し付けてくるのは勘弁して欲しい。博麗の巫女は、決して便利な慈善事業家ではないのだから。

 

「百年も時代を遡れば、外の世界でも農業が基幹産業であったわ。そんな時代だから、田や畑で働く人手は重宝された。でも年老いたり、心身に異常を抱えた人間は満足な働きができないわよね。そういった人間は、極稀ながら案山子の役を押し付けられることがあったのよ」

 

 婉曲な表現ではあるが、彼女の言葉は異様なまでの残虐性を孕んでいた。労力足り得ない足手まといは、せめて獣害や鳥害を減らすために人身御供となれ。何と身勝手で傲慢な選択だろう。奴隷制度は日本においてもとうの昔に廃れたと言うが、彼らを隷属者と称して何処に問題があるとなろうか。紛れもなく非人道的行為、形を変え現代に残る陰惨な奴隷制度である。

 

「当然、戒めを解いて逃げ出すために踠くでしょう。その様子がくねくねとしていたから、磔にされた人間は死後くねくねとなった。こう考えるのは、不自然ではないと思っているわ」

 

「合ってるんじゃないの。死ぬ間際の恨み辛みは相当なものだろうし、怪異と化す理由もそれで説明が付くわ」

 

 一昔前に蔓延していた人間の闇が、そのまま具現化したような怪異だったようだ。それを知って尚、霊夢は変わらないペースで大福を頬張り茶を飲む。

 どろどろとした怨念は、霊夢にアンニュイな感情を括り付けることができなかった。善悪の感情を混ぜることなく、ただ純粋な客観的推測を滔々と話す霊夢に、ふと思い立って妖怪は質問を投げつけてみることにした。

 

「霊夢って、こういう話をしても気圧されませんわね」

 

「こういう話って?」

 

「所謂残酷な話よ」

 

 前々から気になってはいたことだ。博麗の巫女として妖怪や改易の経歴に怖気付かれても困るが、だからといって完全に無反応でいるのもそれはそれでどうなのかと思う。人間の少女らしく、うわぁみたいな反応の一つくらいあったって良いのに、何故か霊夢は素知らぬ顔を崩したことがない。

 

「歴史を受け入れるのも人の務めだと?」

 

「務めねぇ。そんなの、意識の高い連中に任せとけば良いのよ」

 

 過去の人間が重ねた業など、知ったことか。いっそ無責任なまでの態度だが、ある意味で正解だ。江戸の敵は長崎で討つべきではない。無論大和でも周防でも、甲斐でだって同様である。

 見も知りもしない昔の愚か者共に代わって咎を背負ってやる義務も義理も無い。権利こそあれど、行使する気など炉中の氷である。こうした割り切りを無責任だ、過去に目を向けていないなどと安易な姿勢と陳腐な言葉で非難するべきなのか。少なくとも、そう思わない者が一定数いるのは確かだ。

 

「何で怖気付かないのかなんて、私に聞かれても知るかっての」

 

「貴女以外の誰に聞けば良いのよ」

 

「んー。あんたとか」

 

 貴女以外、貴女じゃないのよ。諭すわけでもなく、単純な興味でもって尋ねてみたところ、思わぬ答えが飛んできた。理知的な妖怪には珍しく、驚いて目をぱちりとさせた。

 霊夢は良きビジネスパートナーだと思っているが、まさか性格の説明を任せられるまでの信用を得ているとは考えもしなかった。彼女が少し考え込んだ時、次に出てくる名前は幾つか脳裏に浮かんできていた。七文字の魔法使い、六文字の緑巫女、十文字の魔法使い、その他云々。霊夢と親交の深い人妖を想起するのは容易なれど、そこに自らの名を連ねるという発想は無かった。

 

「あんたとは付き合いも長いからね。頭も良いし、適当な答えでも出してくれるんでしょう」

 

「信用に預かり光栄ですわ。そんな霊夢には、張り切ってサービスしちゃおうかしら」

 

 とても嬉しい。今のところ、今年最大の幸福である。式神の恐らく本気であっただろう追跡を振り切って、他の誰も知らない秘密の場所で思う存分惰眠を貪ったあの日にも勝る。

 ハレの日には、相応の品を用意すべし。古来の伝統に則って、妖怪少女は急遽霊夢への報酬を変更した。ぱちんと指を鳴らし、取り出したのは発色鮮やかな霜降り肉であった。きめ細やかな霜は、肉が極上の品質を有している証拠である。

 これを見せられて、気を惹かれない人間はいない。御多分に漏れず肉に目が釘付けとなった霊夢に、少女が向ける笑みは嫋やかなものであった。

 

「外の世界で最高級とされる牛肉よ。今回はすき焼きにでもしようかと思うのだけれど、どうかしら」

 

「良いわね。粋な報酬じゃない」

 

 お腹空いたし、もう作っちゃいましょ。そう言い残して霊夢は、いそいそと室内へ戻っていった。夕食時にはまだ少し早いが、確かにこの時間帯は妙にお腹が寂しくなる。普段なら式がつまみ食い防止に目を光らせているため空腹の解消が困難だが、今ここに彼奴はいない。何故なら他ならぬ彼女が留守番を命じていたから。

 つまるところ、偶には早めの夕食も悪くないと決定されるのは明らかであった。狐の居ぬ間にぷち贅沢。童女のようなしてやったり顔で、少女も後に続いていった。

 

 

 

 

 

 なお、式はいつも通りに夕食を作るとする。



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其ノ業 両面宿儺 前

 六十五年、飛騨国に一人あり、宿儺(すくな)と曰ふ。

 

 其の人為して骸壹(むくろひとつ)にして両面あり。

 

 面は(おのおの)相ひ背けり。

 

 頂を合はせ、(うなじ)無く、各手足ありける。

 

 其れ膝ありて(よぼろ)無し。

 

 力多く軽捷なり。

 

 左右に剣を佩きて四の手並に弓矢を用いき。

 

 是を以て皇命(みこと)に隨はず、人民を掠め略して楽と為す。

 

 是に和邇臣(わにのおみ)祖難波根子武振熊(おやなにはのねこたけふるくま)を遣りて誅す。

 

 

 

 

 

『日本書紀』 安徳天皇六十五年

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……ふぅ」

 

 残暑の厳しいこの頃に、最早これは残暑でなく歴とした夏なのではないかと疑問を呈したい。掃除をすれば朝から軽く汗をかき、湯浴みに行こうとすれば図ったかのようなタイミングで業務上提携している妖怪がやってくるので出足を挫かれる。それもただ遊びに来たのではなく、仕事の依頼をしに来ているものだから邪険にも扱えやしない。

 妖怪が退去し、漸くゆっくりと冷たい水にて体を洗い流せると思いきや、そこにやってきたのは古い友人だ。もう良い加減汗のべたつきに苛々していたところなので、友人は無視して備え付けの浴場へと足を運んだ。

 

「まだまだ暑いよなー。こっちは熱が籠るんで、嫌になるよ」

 

 そうしたところ、彼女は何と霊夢に着いてきた。さも自分の家で風呂に入るかのように脱衣所まで同行し、恥じらいもせず服を脱ぎすっぽんぽんになって浴場へ突撃していった。遊びに来た序でに水浴びしていこうという程度の考えなのだろうが、家主の許可という概念についてはご存知でないらしい。

 尤も、彼女が()()なのはいつものことだ。正直霊夢も慣れっこになったし、一々口を酸っぱくして注意することの無意味さも身に沁みて理解している。つまり彼女が神社までやってきた時点で、静かな納涼は実践不可能となったわけである。大きな大きな溜息を吐き、諦めたように霊夢も浴場へ続く扉を開いた。

 

 かつてあった異変が終結した折に、その主犯をお咎めなしにする条件としてこの広い浴場を作らせたという経緯がある。地下世界を流れる良質な源泉の一部が汲み上げられており、毎日素晴らしい温泉に入ることが可能となっている。加えて後日とある技術集団に改造を依頼したことで、水の温度をおよそ数分で自由自在に変えられるシステムが追加された。これにより、博麗神社では熱々の風呂も水風呂も選び放題となっている。

 

「それに引き換え、この水風呂の気持ち良いこと。こりゃ良い、いつまでも浸かっていられるなぁ」

 

 そんな便利な入浴施設を作った唯一の弊害が、たまに風呂を集りに来る輩の発生であった。最近では風呂を貸す代わりに金を取ろうかと画策しているが、それは流石に自分でも下衆なやり方だと思っているので実現に至っていない。結果として、今日のように霊夢のプライベートスペースであるはずの風呂が銭湯めいて扱われるのである。

 

「な、霊夢。夏の間だけ泊めてくれよ」

 

「嫌。鳴くのは鈴虫だけで充分よ」

 

 自身の住環境よりずっと恵まれている場所を、ひと夏ならぬひと秋の避暑地としよう。そう考えて話を持ちかけてみたが、霊夢の方はにべもない対応で彼女をあしらった。蝉が漸く雌を声の限り呼ぶことが無くなってきたのに、蝉より喧しい奴にそう何日も居座られては堪ったものではない。

 

「ちぇっ。チルノでも捕まえて吊るしとけば涼しくなるかねぇ」

 

「できるけどできない」

 

「そりゃどういうこった」

 

「吸血鬼サマが保冷剤をご所望していたわ」

 

 今年は特に夏の暑さが尾を引いているらしく、とても秋の入りとは思えない蒸し暑さが幻想郷を包み込んでいた。吸血鬼の館でもこの暑さからは逃れられておらず、業を煮やした当主が氷精をとっ捕まえてこいとメイドに指示を出したのだ。中々頭の茹だった命令だが、それでも忠実なメイドは主の要求を叶えるべく速やかに行動に移った。

 今頃紅魔館に捕えられた彼女は、甚く憤慨していることだろう。動く氷扱いされたら、誰だって眉を顰めるだろうが。

 

「しまった、先手を打たれたか」

 

「永遠亭にでも行きなさいよ。森だから涼しいはずだし、あそこの医者にでも言えば涼しくなれる薬とかくれそうじゃない」

 

「冷たくなる気は無いんだよなぁ」

 

 上手く口車に乗せて静けさを得ようと思ったのだが、彼女が思いの外冷静だったせいで敢え無く失敗に終わってしまった。ちっ、と小さく舌打ちすると、何だ私に冷たくなって欲しいのかと言ってくるので、大人しくひんやり抱き枕になるなら夏の間だけ置いてあげると返しておいた。気温の涼しくなる秋以降は、お察しである。

 肩に柔らかい肌の感触が伝わってきたので横目で見ると、すすすーっと彼女が擦り寄ってきていた。音も無く近づいてくるな、私はあんた派じゃなくて猫派だ。そうは言いながらも突き放したりはしない辺り、嫌とまではいかないようである。まぁ気心知れた友人同士だし、許容範囲に収まっていると考えるのが無難だ。

 

「時に霊夢。今日の夜って暇か?」

 

「全くもって」

 

「お。もしや厄介事か?」

 

「何で嬉しそうなのよ」

 

 暇じゃないから厄介事かって、お前私をどんな風に認識してるんだ。合ってるけども。面倒事も面倒事、ここ最近の中でも頭1つ分抜けていると思われる代物である。

 

「目をきらきらさせるな。言っとくけど、何も教えないからね」

 

「えぇ、どうしてだよ相棒」

 

「相棒言うな。守秘義務ってやつよ、何でも仕事をする上で大事なんだとか」

 

「あのスキマ妖怪め、余計な入れ知恵を」

 

 ご名答、守秘義務について話してきたのは奴だ。だがしかし、正解特典を望むのはお門違いというものである。諦めて大人しくお風呂を楽しめ、あとそろそろ肩が重いからどいて。ぺしぺしと頭を叩くも、彼女は粘り強く交渉を継続してきた。

 

「じゃあ仕方ない。触りだけでも教えてくれよ」

 

「面倒だから黙秘するわ」

 

 交渉してくるのはもう仕方がないと割り切ろう。好奇心が旺盛すら超えて爆走状態に突入している奴の知的好奇心が抑え込めるわけでもなし。とにかく言いたいのは、肩に体重を乗せるのはやめてくれ。言うぞ。もしかしなくても夏太りしたかって言うぞ。

 

「頼むよ、誰にも言わない」

 

「そこは心配してない。私はあんたが着いてくる可能性があるから喋んないのよ」

 

「私達親友だろ?」

 

「それとこれとは話が違うわ」

 

 親友であることはさらりと流し、否定しなかった。つまり霊夢の中で、この少女は明確に仲良しとカテゴライズされているということである。そうでなければ裸の付き合いを許しはしないし、露出した肩に触れることも突っぱねている。少し肉の足りない感はあるが、それでも少女特有の柔らかさを備えている霊夢の体に触れるとは、彼女も大した果報者である。

 その果報者を以てしても、1つの情報も得られない。中々口を割らない霊夢に、金色のロングヘアーを美しく湯にたなびかせながら膨れっ面をしてみせた。頬を突っつきたいという欲が、一瞬だけ頭をもたげた。

 

「むー……」

 

「……、……()()()()()()()()()()、ほんとに喋れないの。無闇に広めるなって釘を刺されてるからね」

 

 しつこさに根負けした。断じてちょっと可愛さに絆されたりはしていない。未だ汗ばむこの時期に丸1日延々と付き纏われたら、何度お風呂に入り直さなければいけないかも分からなくなるからである。

 

「私の推測を、一つだけ教えたげる。確実かも分からない与太話紛いで良ければ、だけど」

 

「聞く!」

 

 がばっ、と身を乗り出してきた。顔が霊夢に思いっきり近づけられる。容姿はお世辞抜きで悪くないと思うが、生憎霊夢は御鍋ではない。

 人差し指でおでこをぐいっと押して、強制的に先程の場所まで戻しておいた。ざぱぁん、と湯が音を立てて跳ねる。何の抵抗も無く湯の中に沈んだ彼女の半身を見て、ちくりと胸が痛んだ。或いはそれは憐憫の情などではなく、同族嫌悪なのかも知れないけれど。

 

「動くミイラが、幻想郷にいるかもね」

 

「ミイラ……あの包帯ぐるぐるの大怪我野郎か」

 

 それでも間違いではないのだが、今回霊夢が言及したのは死後水分が抜け切ってぱりぱりに乾燥した死体のことである。あれが独りでに動いている姿を想像して頂きたい。典型的で、それ故に恐怖感満載なホラーシーンの出来上がりだ。

 しかし、幻想郷にはもっと怖い奴らがひしめいている。素手で岩を砕く巨女、風よりも速く翔る風神少女、こちらの一挙一動から心情までお見通しの読心妖怪、対妖怪のリーサルウェポンたる巫女。少女が特に怖がる様子を見せなかったのは、そのためか。慣れとはかくも恐ろしいものである。

 

「無いとは思うしあって欲しくもないけど、万一見掛けたら私に教えてちょうだい」

 

「私が倒しといてやる。霊夢の出番は無いね」

 

「良いけど、後始末全部任せるわよ」

 

「神社に伝えに行くか」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「いやー、大量大量っ!」

 

 霊夢との相風呂を終えて、暫く華々しさと気安さが入り混じったガールズトークを楽しんでから、少女は神社に暇を告げた。その足で向かったのは、もう1人の友人が暮らす家だった。

 ノックをすれば然程待つことも無く出てきてくれる、優しい美少女だ。同性の彼女をして綺麗と思わせるだけの顔、肢体、服装はあたかも上位なる存在が創り出した人形のようにさえ映る。彼女が人形を愛する魔法使いであるのは、果たして偶然なのだろうか。

 

 そんな彼女を連れて、少しだけ遠出をした。ゆっくり家で休ませてとか家事がまだ済んでいないとか言っていた気がするが、きっと気の所為だろう。どうせ手際良くぱぱっとできるんだから、多少やり残したことがあるくらいで四の五の言うんじゃあない。何とも奔放な考え方に、人形少女が眉間を押さえて力無く首を振ったことには気が付かなかった。だって腕を引っ張りながら、前を向いて空を飛んでいたんだもの。

 

「貝ばっかり取っちゃって。魔理沙(まりさ)ってば、そんなに好きなの?」

 

「特別好きってわけじゃあないが、あるなら貰ったって良いだろ」

 

 そんな人形系魔法使いことアリス・マーガトロイドは、友人兼同職人の我儘に付き合わされてとある沢まで足を運んでいた。本当なら妖怪の山にあるあの沢に行きたかったと彼女は言ったが、天狗が面倒なのでまだこっちの方がましだ。水も綺麗で魚もちらほら見え、心を落ちつけるには中々どうして向いている場所ではないか。それに免じて拉致まがいの行為については不問としてやることにした。

 だが色気より食い気、沢に到着するや否や魔理沙は腕まくりをして水の中にざぶざぶと入っていった。魚が逃げるからもう少しそっと歩けと言ったら、見てないで獲るのを手伝えと来た。成程、薄々勘づいてはいたが食材を確保しに来たんだな。風情も情緒も無いお子様である。

 

 結局程々に手伝いながら、主として自然の景色に意識を傾けていた。1時間くらい経った頃だったか、そろそろバケツが満杯になるから帰るぞと言われ、どれどれと覗き込んだところ中には大小様々な貝がごろごろしていた。微かに見える蠢く物体は、多分蟹だった。

 こんなに食べるのか。幾ら食べ盛りとは言っても、これは少々、いやかなり食べ過ぎになるのではなかろうか。脂肪分がほぼ零だからって調子に乗って食べまくっていたら、そのうち痛い目を見るぞ。忠告してあげようかと思ったが、何となく陳腐な悪戯心が働いたのでやめておいた。いつか魔理沙がまるまると肥えたら、解体(ばら)してステーキにするのもまた一興。

 

「今日はアリスん家で貝料理のフルコースを食べよう」

 

「嫌よ、やるなら神社にでも行けば良いじゃない」

 

「今日はよく嫌と言われる日ですわね」

 

 寧ろ年がら年中言っている気がするのだが、魔理沙は決してへこたれない。超人的 ── 魔法使いはそもそも超人であるが、バイタリティについては間違いなく自分より上だなぁと認められる。何故その行動力と体力をもう少し違う方面に活かさないのか、アリスは不思議に思いもする。

 

「まーまー。料理は私がするし、アリスはテーブルと箸とスプーンだけ貸してくれりゃあそれで問題無い」

 

「あ、調理サービスは付いてくるのね。それならまぁ、良いかなぁ」

 

「決まりだな!」

 

 貝殻剥きなどの面倒な工程が全て彼女に委託できるなら、臨時のホームパーティー開催にも目を瞑ってあげよう。一人暮らしをしているだけあって料理の腕も意外に立つこの少女は、どんなメニューを頭の中で練り上げているのだろうか。調理の手間的に、ミルクチャウダーとシチューは出てくると予想する。乳系統の2本立てで骨密度も上昇待ったなしだ。

 戦利品を抱え、少女2人で薄暗い森を歩く。時折微かな光を放ちながら胞子らしきものがふよふよと漂っており、心做しか彼女達に惹かれているような軌道を描きながら接近してくる。この森に居を構える魔法使いとしては慣れたことで、胞子が服に付着しても気にする素振りを見せない。少量とはいえ魔力を運んできてくれるので、拒絶する理由が無いのだ。

 魔力を届け終えた胞子が、光を失ってぽとりと地に落ちる。そこから胞子は森の空気を一身に浴びながら成長し、そしてまたいつか時期が来たら瘴気を帯びた胞子を放つ媒体となる。そんな常人には理解の難しい循環が、この森では不可欠な要素の1つとして成立している。だからこそこの森は、魔法の森と呼ばれるのだ。

 

 そんな特殊な環境に集う妖怪は、他で見られるのとは少々気色の異なる所がある。魔力への耐性が高いのは勿論のこと、特定の部位が異常に発達していたり体色が変化していたりと、時には大きな相違が見られる。

 

「……」

 

「ん?どうした、アリス」

 

「いえ、視線を感じたから」

 

 アリスは最初、そんな妖怪の1体がこちらを見ているのかと思っていた。森を歩けば見られているような気配を感じることもたまにあり、そんな時は決まって妖怪か魔理沙が物陰に潜んでいる。だから、あぁいつものか程度にしか考えていなかった。そこらの妖怪なんぞ、人形を駆使して片手間でも充分に追い払えてしまう。

 

「自意識過剰は老化の始まりだぞ」

 

「自己中心的な小娘が何を言うか。貴女は何も感じないの?」

 

「視線は感じるぞ。真正面からだ」

 

「あら大変。きっとその視線の主、ちょっと呆れ気味よ」

 

 そりゃ酷い。けたけたと笑いながら心にも無いことを宣う金髪少女は無視し、いつも傍らに従えている2体の人形を空中に展開した。周囲の様子を探らせ、何処にどんな妖怪が何体いるのかを使役者であるアリスに伝えさせるためだ。

 正面に上海(シャンハイ)と名付けた人形を、右方に同じく蓬莱(ホウライ)を向かわせる。背中に視線が突き刺さる感覚はしないので、恐らく前方にいるのだろうと判断しての派遣であった。人間の赤子程度の大きさをした人形はふよふよとそれぞれの方向へ飛んでいき、きょろきょろと周囲を見回していた。

 

 ややあって帰って来た人形から、アリスは情報を頂戴する。額同士を合わせ、記憶(記録)の同期を行う。器用なことするもんだと感心しながら魔理沙は見守っていたが、上海との同期を終えた彼女の顔が妙に怪訝そうなのが気にかかった。何か腑に落ちないことでも見つかったのだろうか。

 次いで蓬莱との同期も終了し、益々納得の行かなさそうな顔をするアリス。右手を口元に持っていっているのは、彼女が真剣に考え事をしているというサインだ。まさか十かそこらの妖怪の群れに囲まれているなんてことはあるまいな。少しひやひやしながら彼女が喋り出すのを待ったが、十数秒の溜めの後にいざ発された台詞は魔理沙の懸念を真逆の方向に振り切っていた。

 

「何もいない?」

 

 上海と蓬莱は、如何なる外敵の存在をも確認できなかった。単なるこいつの勘違いだったのか。拍子抜けする魔理沙の横で、いよいよアリスはかりかりと親指の爪を噛み始めた。

 

「……」

 

「そこまで警戒しなくても良いだろ」

 

「絶対気の所為ではないわ。今も感じるもの、視線」

 

 見られていると妄想してしまう程耄碌した覚えは無い。プライドを賭けても良い、今自分達は未知の第三者によってはっきりと認識されている。その第三者に敵意があるのかどうかさえ、明らかではないが。

 余りに不気味な状況だ。知人だとすれば、何故声をかけてこない。妖怪だとすれば、何故襲ってこない。それ以前に、どうして探知の網に引っ掛からないのだ。探知を逃れるステルス機能、自身の探索の不備。様々な可能性を検討しては潰していく中で、ふと潰すことのできない選択肢があることに気がついた。

 

()()()()()()()()()()()()()?」

 

 探った範囲よりも、更に遠い場所から視線を寄越しているのだとすれば、全て辻褄が合う。姿が見えないのもこちらに接触してこないのも、何もかもが距離のせいとなる。

 この際視力や視界的な問題などは一旦端に置いておこう。兎に角遠距離から見られていると仮定し、前方に意識を集中させる。常々と異なっている点は、これまでの長考が呆気無く思える程にすぐさま露わとなった。

 

「魔理沙、あっちの方。魔力じゃない力だわ!」

 

「どれどれ……本当だ。何だこれ、気味悪いな」

 

 どうやら、事態は私達の予想していたより楽観視できなさそうだ。アリスの中で、仮説が根拠を得て真実へと変貌していく。

 魔理沙の言う通り、余り直視したくはないタイプのエネルギーだ。傍にあるだけで気分が滅入ってしまう、所謂負のタイプのエネルギーである。先程までよりも周囲の空気が重くなっているような気がし始めた。

 良い気分はしないし、もうそろそろ見るのはやめておこう。目を背けようとした丁度そのタイミングで勘付くことができたのは、九死に一生を得られたと言っても決して過言ではあるまい。

 1箇所だけ、力の密度が他と比べて明らかに濃くなっている。更に悪いことに、充填は止められているわけでもない。満杯のグラスに水を注ぐような真似だ、すぐさま溢れ零れてしまう。

 

 全身を極大の悪寒が貫いた。俄かに眼前に現れた死の恐怖に硬直する体を叱咤して、全霊を以て防御用術式を活性化させた。生まれ故郷にあった魔導書(グリモワール)を必死に解読して漸く会得できたそれは対物理・魔法共に極めて優れており、アリスが使用できる術式の中でも最も強力なものの1つである。これなら自分と彼女の身を守れるという安心感は、しかしアリスの内に湧いてこなかった。

 直後、過密状態にあった力が一気に爆ぜた。あたかも限界まで空気を注入した風船に針を刺したかのような勢いだった。

 

「……ッ!」

 

「うわぁっ!?」

 

 間一髪、アリスが組んだ術式が発動し2人を守った。暴風のようなエネルギーが、生成された障壁を打ち据える。壁が軋む感覚に嫌な汗が噴き出そうになったが、何とか持ち堪えてくれたのでほっと胸を撫で下ろした。

 接触は1秒と無かったはずだ。だと言うのに、障壁が破られかけた。あとコンマ数秒長くなっていたら、どうなったか分からない。確かに熟練度も足りているとは言えないが、それでも強固な盾であることに変わりは無いと言うのに。

 

「さ、サンキューアリス。助かった、割とマジに」

 

「力の奔流よね、今の。きちんと編まれた魔法とか、そういう類のものではなかった」

 

「あぁ」

 

 ただ単に力というか気をぶつけてきたって感じがする。魔理沙の意見には、彼女も同意できる。力を織って編み上げた技ではなく、力そのもので謎の物体はこちらを害してきた。しかも、木々の間を縫って正確にこちらにぶつけてくるだけの技量はあることが証明されてしまった。操ったのか誘導性があるのか、どちらにせよ全くもって危険な強敵と言うしかない。

 

「一旦森を出ましょう。こんな狭い所じゃ、戦うどころか逃げるのも面倒だわ」

 

「賛成っ!」

 

 飛翔し、一気に高度を上げていく。森を眼下に見下ろすくらいの高さまで飛び上がると、いよいよ明確に異常な事態が視認できた。

 前方に小さな台風の如く黒いエネルギーが渦巻いている。森に満遍なく広がる魔力の層に大きな風穴を開けられるだけの規模を有しているが、物理的影響力もかなりのものがあるらしく、吹き付けてくる強風に煽られてただ浮いているだけでも体が流されそうになる。

 

「魔理沙、霊夢にこのことを知らせてきて。立派な異変だし、動いてくれるでしょう」

 

「お前はどうするんだよ」

 

「監視しておくわ。大丈夫、距離は取るから」

 

 彼女に指示を出しつつ、全身に魔力を循環させる。また攻撃された時にすぐ対処できるよう、準備しておく必要がある。開けた視界と充分な間隔さえあれば、あの単純な暴力を躱すのは難しくはない。

 真に警戒すべきは禍々しいオーラを放つ敵の動向であろう。万一敵の進行方向に何の罪もない人間がいたら、助け無しでは一巻の終わりだ。もっと悪い可能性を考えるなら、人間の里に向けて侵攻を開始する危険性だってある。これを止められる実力者で尚且つ要請に応じてくれる気前の良さを備えている知人は、霊夢しかいない。

 

「んじゃ、そっち任せるぞ!あいつ連れてすぐ戻る!」

 

 魔理沙も同様の結論に至ったのだろう。恐らく最高速度で箒を駆り、あっという間に地平線の彼方へと飛びさっていった。流石のスピードだ、あれなら彼女が霊夢を呼んで戻ってきてくれるまでそう時間は掛からないだろう。直接奴と矛を交えるわけでもなし、持ち堪えられない時間でもないはずだ。

 いざ1人で向かい合うと中々恐怖心が増幅される。未知にして強大、恐れの感情を増幅させる要因がこうも揃い踏みしていては仕方の無いことである。ついさっきまで怖いという心情を認知していなかったのは、横にいた魔理沙の存在が大きかったらしい。上海と蓬莱を繰り出し、少しでも心の余裕を取り戻そうとしていた。

 

「なっ……!」

 

 彼女の真下から、突然巨大な鎌が振り上げられてきた。人形で受け止められる範疇を超えている。咄嗟にそう判断し、宙を泳いで辛くもその鎌から逃れる。巨大な物体の巻き起こす風圧が前髪を揺らしたが、髪を整えている暇はこの時の彼女には僅かたりとも与えられなかった。

 

「タイミング悪いわね、こんな時に」

 

 左右の腕に一対の鎌を備えているので、蟷螂の妖怪だろうか。少し薄暗くなってきた空に、金属の光沢は確かな存在感を放っていた。殺傷能力の高い部分だけでもアリスの身長を優に上回る巨大さを誇り、妖怪の全長たるや彼女の使役する最大の人形に倍するであろうと見込まれる程であった。

 蟷螂妖怪の他にも、数体別の妖怪が確認できた。こちらを襲ってこなかっただけで、集結してはいたらしい。時間があれば、確認の甘さを悔いていただろう。だが今は、後悔するより抗戦しなければならない。急遽予定を変更し、魔理沙が最強の助っ人を連れ帰ってくるまでこの場を持たせることにした。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 少し前、お風呂を堪能して出て行ったはずの魔理沙が帰って来た。おいまたお風呂か、それともご飯か。前者なら勝手に入ってこい、後者なら夕食の準備はまだできていないから待っておけと言うつもりであったが、酷く焦り息せき切っている友人の姿を見て有事を悟った。

 昔から些細な瑣末事で浮き足立つことの多い奴だ。決まって霊夢がはいはい分かったから落ち着けと彼女を宥め賺す役目を担う。もうこれまでに何度『大変だ霊夢』の5文字を聞いたことか。これだけ聞いてきていると、語られずとも魔理沙の様子で事態の深刻さをある程度測ることができるようになってくる。

 

 目線は一直線に自分の瞳を見つめている。1言目を噛んだ。それについて、一切恥ずかしがることなく急いで言い直そうとしている。あぁはいはい、了解了解。茶化せないぐらいの問題が起きたんだな。大方自分ではどうにもできないと判断して、こちらに助けを求めてきたのだろう。

 すぐに準備を整え、魔理沙の先導の元高速で空を飛ぶ。道中の彼女の話を纏めると、まず魔法の森に訳の分からない力が発生した。その力の持ち主に攻撃された。アリスが動静を監視している。要点としてはこんな所だろうか。何か余計なことをしたかと問うたが、真顔で心当たりが無いと答えられた。多分、本当に思い当たる節が無いのだろうと思われる。

 

 もしや、ムラサキ女の言っていた奴と関係があるのか。或いは、そいつそのものなのか。魔理沙とアリスがいながら交戦するという判断が回避されているとなると、可能性はそれなりにあると見て良いだろう。

 幻想郷に突如として出現した、古の呪物。かの管理者をして早急な対応が望まれると言わしめる危険物は、金髪魔女コンビでも取り扱いの困難なものであるらしい。

 最近立て続けに外界の怪異が幻想郷へ侵入してきているが、外の人間は揃いも揃って痴呆症か健忘症でも患っているのだろうか。記憶を改竄されていると言われても納得してしまうくらいの見事な忘れっぷりに、尻拭いを強制される私のことも考えてみろと拳を叩きつけてやりたくなる。

 

 そんなこんなで外の世界への苛立ちを順調に募らせていく中で、魔法の森上空が近づいてきた。確かに彼女の言う通り、何とも異質なエネルギーが森の大部分を席巻している。依頼にあった怪異か否かは現時点では不明だが、どちらにせよあんな邪気を放っておくことはできない。幸いにしてお祓い棒も御札もあるので装備は万全だ、これ以上被害と規模が拡大する前にここで片を付けてしまうのが良い。

 

 遠くには空中にて暴れる複数の巨体と単独の人影が見えた。人影は明らかに疲弊しているようで、肩で息をするような有様であった。

 

「アリスっ!?」

 

「あ、ちょっと」

 

 妖怪に襲われている。それを把握した瞬間、先走るなと霊夢が止めるより早く全速力で場に駆けつけていく。何とか耐えていた彼女が援軍の到着を察知して振り向いた時には、魔理沙は既に攻撃の準備を始めていた。

 愛用の八卦炉にエネルギーを充填していく。一点に集中していく魔力を警戒したのか、妖怪が威嚇を行うが、そんなものにはただの1秒たりとも阻害されることは無い。彼女は完全に、攻撃に一意専心していた。

 

 凝縮された魔力は、一瞬の沈黙の後に光線状となり一気に解き放たれた。極大のレーザービームが妖怪達を飲み込み、薙ぎ払う。親しき仲を脅かした不埒な愚か者共への報復は、いっそ華々しいまでの苛烈さをもって為された。

 彼女の十八番たる攻撃は、体力豊富な巨躯であってもそうそう凌ぎ切れやしない。過半数が飛んでいられなくなる程のダメージを負い、黒い煙を上げながら力なく地へと落ちていった。まだ戦場に残った者達も、これ以上の戦闘を継続するには至らなかったらしく、慌てて踵を返し何処かへと去っていった。

 

「アリス!無事かっ」

 

「何とかね。それとこれは推測なのだけど、もしかしたら妖怪を潰しても意味が無いかも知れないわ。もう5匹は倒したのに、数が減るどころか増えていく一方だったもの」

 

 呼吸は荒く、顔や腕には幾つか細かな傷が付けられていた。中にはまだ血の滲んでいるものもあり、彼女の美しさを卑しくも穢していた。傷を癒す魔法も使えなければ、応急処置のできる品々を所持してもいない。普段は欲の赴くままに力強さを追求しているが、この時ばかりは彼女を僅かばかりも癒してやれないのを悔やんだ。

 

 無限に湧いてくる可能性がある。それを肯定するかのように、第2陣が3人の前に姿を現した。数は二十前後、1人当たりの目標撃退数は単純な除法を用いればかなりの数に登る。とりわけアリスはもう魔力の底が見えつつある状態で、同じ魔法使いとしてはこれ以上戦わせるべきではないと断言できる。魔力の枯渇が身体に及ぼす影響は、一般の人間が想像するよりずっと甚大で長期に渡るのだ。

 

 ここは余力のある自分と霊夢で何とかするしかない。2桁討伐は大分骨が折れるが四の五の言うよりやらねばならぬ。覚悟を決めて先手を打つための魔法を発動させようとした。

 

「ねぇ、アリス」

 

 隣の紅白巫女がくるりと宙で一回転する。こいつも先制攻撃をするんだな、それに乗じる形で行こう。背中は任せろと彼女に背を向けた。

 だが、予想に反して彼女は魔理沙の上に出た。その動作が、まるで彼女を射線から外したように思えた。見れば周囲を囲むのは、どれもこれも凄まじい霊気が込められた幾十もの札。長く友人をやっているだけあって、そこからの魔理沙の判断は頗る迅速であった。

 

 霊夢の真下に着き、完全に攻撃範囲から逃れる。直後、妖怪達を博麗謹製の御札が襲った。殆どが何も抵抗できないままに直撃を受け、目敏く回避した者は理不尽な追跡能力によって再び照準を定められて敢え無く御用となる。御札自体が意思を得たかのように妖怪(えもの)を狩り、嬲り、屠っていく様は魔理沙にある種の畏れさえ抱かせた。

 嘘だろお前。最近ちょっと色気付いて、密かに大人な下着を履き始めた思春期少女と同一人物って。ひょいと視線を上に向けると、わぁおと口笛を吹きたくなるひらひらした布地面積の少ない真っ黒なあれがある。いやもうこれ下着じゃなくて布だろと見ていたらばれたらしく、脳天に踵落としを食らった。痛い、非常に痛い。ついでに言うならアリスの冷たい目線も心が痛い。悪かった、怪我を治してやれないのは間違いなく自分の責任だからその屑を見るような目はやめてくれ。

 

「あとちょっとだけ、力を貸してくれる?」

 

 幾ら何でもあれ抑え込みながら妖怪共の相手するのは無理なの。げしげしと魔理沙の頭を踏みながら、それでも慮るような調子で頼む。限界が近いことは承知の上だ、その上で今は彼女の協力が不可欠である。仲の良い友人に鞭を打つようなことをしたくはないし、何ならこの変態に全部押し付けても良い気がするけれども。

 図ったようなタイミングで、第3陣が3人を取り囲む。あの凶悪なエネルギーが妖怪を惑わせる灯火の役を果たしているのだろうか。ただ本能のままに惹かれ、森へと足を運んできているのだとすれば、その点において彼らは被害者であるとも言えよう。

 

 但し、被害者は必ずしも加害者でないとは限らない。所変われば品も変わる、妖しい力に導かれた先で狼藉を働いた時点で、彼らは一点の曇りなく対立すべき敵となった。理性の極めて薄い彼らに論理的な思考を求めるのが土台無理な話ではあるが、逆も然りであるように人間からすれば妖怪の都合など知ったことでは無い。危害を加えてくるなら敵であり、そうでないなら中立的存在である。

 

「ちょ、霊夢、アリスにあんまり無理は痛っ、させちゃ不味痛っ!」

 

「良いわよ。貴女には助けてもらったし、いざとなればこの助平娘に任せちゃうから」

 

「恩に着るわ」

 

 倒さなくても良い、こっちに流れてこなきゃ何だって良いから。それだけ言い残して、霊夢は一直線に怪異の元へ飛び去って行った。頭の形が変わったらどうしてくれるんだ、とぶつくさ文句を言いながらとんがり帽子を被り直した友人に自業自得よと返して、それから周囲をぐるりと見渡す。さっきよりも更に数が増加しており、とてもじゃあないが逃走すら困難な状況だ。

 こんな中で戦い、そして生き延びろだなんて霊夢も難題を言う。アリスの口元に、あるかなきかの微苦笑が浮かんだ。無茶を言われても不快感を覚えないのは、彼女が気遣いを忘れない優しい性格をしているからだろう。貴女に助けて欲しいと本心からの言葉で頼まれて、どうして突っぱねられようか。戦闘限界間際だとか2人では多勢に無勢だとか、普段なら当然のように重視しているであろう後ろ向きな条件も、今は路傍の石のようだ。

 

「森の方が騒がしいから来てみれば」

 

 否、2人ではなかった。牛人間(ミノタウロス)の出来損ないのような容貌をした妖怪に、無数のナイフが突き刺さる。唐突な絶命宣告に怒りの声も恐れの震えも出すこと叶わず、全身から青黒い血を噴出させながら静かに落ちていった。

 

咲夜(さくや)!」

 

「どうも、通りすがりのメイドですわ」

 

 膝までしかないミニスカートの端を摘み、瀟洒にお辞儀を返す。音も気配も無く現れた新たな相手が手練だと認識したためか、威嚇もろくにしないままに一斉に飛びかかっていったが、妖怪達の警戒心を嘲笑うかのように咲夜は2人の真横へとテレポートして彼らの総攻撃の意味を無に帰した。実際にはちゃんと空を飛んで律儀に近づいていったのだが、彼女の能力故にそれが認識されなかったのである。

 

 今までとは気色の違う新手だ。ここで相談し対策を練るという段階に発展しないのが如何にも図体ばかりで頭の着いてきていない低級妖怪である。その頭の悪さに助けられている節は大いにあるが。

 1体が先陣を切って咲夜に体当たりを仕掛けていった。勇敢と言うよりは野蛮な行為だが、単純な体格差を活かした攻撃というのは中々どうして厄介になることがある。命中すればほぼ一撃で沈められてしまう高威力、簡単には見つからない攻撃に転じられるだけの隙、意外に高い連発性能。肉体的に脆い人間は、どうしても防御ではなく回避を優先しなければならなくなるのが面倒だ。

 

「妖怪即ち滅するべし!というわけで何が何だか良く分かりませんが助太刀します!」

 

「素直は美徳だが、目標は殲滅じゃあないぞ早苗(さなえ)

 

 まぁ、今回は回避するでもなかったようだ。強烈な頭頂部への一撃で地上送りにされた妖怪を数秒目で追い、それからターコイズブルーの瞳で得意げな顔を捉えた。何だろう、無意味とは理解していても無駄にいらっとさせられる顔だ。

 4人目の戦士は、まさしく通りすがりという感じの巫女であった。それにしてははたきみたいなお祓い棒も所持していたりと妙に準備万端だが、大方日課となりつつあると噂の妖怪無差別狩りに興じていたのだろう。咲夜同様貴重な戦力ではあるが、1人だけ多数の妖怪を前にきらきらと目を輝かせているので滅茶苦茶浮いている。無論、身体的な意味ではなく。あぁいや、体も浮いてはいるが。

 

「で、もしかしてだけど私達は()かしら」

 

「ご名答。霊夢の邪魔をさせないのが私達に課せられた使命だ」

 

 とにかくこいつらを霊夢に近づけないことを最優先にする必要がある。彼女をして消滅に専念しなければならない怪異の登場には驚かされたが、ポジティブに考えるなら役割を適切に分担すれば解決は充分に可能な異変であるということだ。

 為すべきことを為す。存外に難しい目標だが、5人寄れば負ける気は全くしない。獰猛に、玲瓏に、酷薄に、強気に、それぞれが笑う。

 

「しかしまぁ、見渡す限り妖怪、妖怪って感じですねぇ。三十は下らない気がします」

 

「メンバーは最高、ハンデは良質──上等だ。人間様の力を見せてやる良い機会だろ!」

 



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其ノ業 両面宿儺 後

「おい、アリス!私の傍を離れるなよっ!」

 

 体力の限界が近い魔女を守るべく、周囲の妖怪に睨みを利かせる。既に3体の妖怪を撃破している強者には手が出し辛いのか、妖怪達も遠巻きに隙を窺うのみで飛びかかる者はいない。

 総数にして、4対32。単純計算で1人当たり8体の討伐が求められるが、アリスにそれを強要するのはあまりに酷な話だ。だから魔理沙は、彼女にサポート役に徹してもらうという案を考えた。殆ど戦闘はせず、あの妖怪を倒せなどの指示を下す司令塔としての役割を期待したわけだ。

 

「……おーい?」

 

 それ自体は良い作戦だと言えよう。だが、アリスはすすっと魔理沙から距離を取った。不即不離と言うには、少し離れ過ぎているか。

 

「嫌よ、貴女みたいなえっちな子の隣にいるの」

 

「そ、それはもう時効だろ!」

 

「残念、時効まであと2ヶ月はあるわね」

 

 慌てて弁明する魔理沙に、アリスが向ける視線は氷のようだ。霊夢は頭をげしげし蹴っていたが、もし彼女が同じことをされたらそんなものでは済まさなかっただろう。多分魔理沙の顔が熟れた林檎になるまで張り倒している。

 

「魔理沙さん、何したんです?」

 

「霊夢の下着覗き。それも真下からがっつり」

 

「きゃー、それは駄目ですね。もう少し低く飛んだ方が良いかしら」

 

「ちくしょう、反論の材料が無い」

 

 見ようと思って意図的に見たし、思いの外セクシー系だった下着に口笛も吹いた。いきなり横槍を入れてきた早苗に文句の1つでも言ってやりたかったが、自他共に認める確信犯であるだけに叩きつける文句が思い浮かばなかった。

 目の前に鍬形虫を模した妖怪が現れる。大顎が左右非対称だが、発達の過程で成長不全でも起こしたのか。喧しく羽を鳴らし、勇敢にも3人の方へと突撃してくる。

 

「ほら敵ですよ、倒してください変態さん」

 

「さなえあとでぶっとばすぞ」

 

「良いですよ。天狗にこのことをリークしますけど」

 

「ぜったいぶっとばす」

 

 人の弱みを盾に脅迫してくるとは、この緑巫女許すまじ。この恨みは、いつか万倍で晴らしてみせる。復讐を固く心に誓い、当面の怒りは鍬形虫擬きに弾幕としてぶつける。光る球体が巨躯の表面で勢い良く爆ぜ、薄い羽を貫き破壊していく。飛行能力を失った妖怪は、哀れ彼女達の元に届かないまま地面へと墜落していった。早苗、明日の我が身はこの(でかぶつ)と思え。

 

「ねぇ、妖怪が半分くらいこっちに来ているのだけれど」

 

 しかし、やけに妖怪の数が減ったような。勿論知らない間に倒していたなんて御都合主義的展開は起こっていない。避雷針というか、引き付け役が約半数を持っていってくれたお陰である。あの数はかなりの負担だろうに、まだ涼しい顔をしていられる落ち着きっぷりは流石悪魔のメイドと言ったところか。

 

「瀟洒ビームで薙ぎ払っといてくれ」

 

「活け造りにするわよこの変態」

 

「どいつもこいつも私を変態と呼ぶなぁ。誹謗中傷はこの幻想郷でも悪しきことだってのに」

 

「根も葉もあるんだからただの詰りよ」

 

 力にかまけた脳筋共の同士討ちを狙うことで、あの数を上手く往なしているようだ。成程、味方殺し(フレンドリーファイア)の発想は無かった。体力温存のためにも、有り難く有効活用させて頂く所存である。

 魔理沙は咲夜のように、時間を止めて絶対的な安全を確保してから悠々と攻撃を躱すなんて真似はできない。よって、相手を引き付けておいて寸前で避けるなどの工夫が必要となる。こんなことなら時間操作の魔法でも覚えとくべきだった、後悔先に立たずとは言うがそもそもそんな魔法は結界の外の書架までひっくり返しても無いと思う。

 

「しっかし、霊夢でこうも手こずるのか。あの黒い渦、本気でやばいみたいだぞ」

 

「見たら分かるでしょ、寧ろ抑え込んでる霊夢が規格外よ」

 

 魔理沙をして、未だかつて見たことの無い出力。普段どれだけ手加減した状態で相手されていたかを再認識させられ、若干かちんとくる。化け物をも強引に捩じ伏せる更なる化け物の力など、身をもって知る羽目にならないのが幸せに決まっているが。

 両者共にいよいよ佳境が近づいているのか、熾烈に衝突するエネルギーが台風並みの暴風をもたらす。先程から次第に強まっていく風に比例して、霊夢と渦の方から距離を取ってはいるが、そろそろ地に降りて戦うのが得策かも知れない。離れ過ぎてしまうと、妖怪の気が4人からあちらへと移ってしまいかねないから。

 

「早苗、奇跡であいつら引き寄せてくれよ」

 

「何時間かかると思ってるんですか」

 

「何だよ、ここぞという時に頼れないんじゃ奇跡とは言えないぞ」

 

「都合の良い奇跡なんてただの反則(チート)ですっ」

 

 人の身で奇跡なんてものを扱うのだから、当然それなりの制約はかけられる。幾ら現人神たる早苗でも、純然たる神程に奇跡を行使することはできない。それは仕方ないことなのだ、理解できぬ輩には言葉を尽くして教えねばならない。妖怪の顔面に幣を叩き込みつつ、魔理沙を諭す。しかし無駄も無駄、馬の耳に念仏、馬耳東風。ついでに鹿要素もプレゼントしてやれば馬鹿娘だ。

 

「角でも生やしてれば良いんですよ」

 

「何の話だよ。……だが困ったな、このままだとこいつらがあっちに行っちまう。私らは休めて有り難いけど後で霊夢に全員纏めて昇天させられるぞ」

 

「地上で何とか粘るしか無いと思うわ。これ以上の対空はかなり厳しいしね」

 

 正直な所、魔理沙は空中で戦いたい。何せこの場合、地上は魔法の森を指す。高い身体能力とナイフを駆使する咲夜、人形での遠隔攻撃が可能なアリス、札と幣で接近戦上等の早苗は、逆に森独自の地形を活かしたアクロバティックかつ戦略的な立ち回りができるだろうが、魔理沙はそうはいかない。木々が生い茂る中を縫っていく精密な動作は、はっきり言って苦手だ。

 

「咲夜、お前どう思うよ」

 

「アリスに賛成」

 

「よっしゃ、降りるぞ!」

 

 だけど、個々の追求より全体の勝利。大柄な妖怪だって、森の中では思うように動けまい。敵勢の大幅な弱体化で、戦局を一気に引き寄せられるなら致し方のない代償だ。

 木の生えていない、畳10枚程度の狭いスペースに降り立つ。妖怪達が追ってきたのを確認して、森林密度の濃い所へ移動する。戦場の変更は終戦の兆し、そろそろハンデありきの人妖対抗戦も終盤戦へ突入するのか。少女の名を呼ぶ怒号にも似た絶叫が一帯に轟いたのは、そんな時だった。

 

「魔理沙ー!聞こえるー!?」

 

「聞こえてるぞ!どうしたー!」

 

「あと30秒粘って!!」

 

 いつ終わるとも知れない、大規模な消耗戦。ここに来て、唐突に霊夢から時間指定が出される。意味するところなど、たった1つしか有り得ないだろう。

 

 30秒以内での、黒渦との決着。

 

「了解っ!」

 

「目処はついたみたいね」

 

「あぁ」

 

 いつか魔理沙が大魔法使いになって、今の霊夢と同じ芸当ができるだろうか。本音を言えば、当の本人にも自信は無い。今のまま成長したって、何年かけてもあの領域には至れないという確信を持っている。

 だからこそ、目指す意味がある。階段を5段も6段も飛ばしながら、加速度的に急成長していけば、きっといつか手が届く。幸いにも魔法使いという人種は、普通の人間よりずっと長命だ。

 努力で得た種族(さいのう)で、天賦の実力(さいのう)を超える。霧雨 魔理沙の生涯をかけた大いなる目標は、まだ過程の欠片程度を終えたに過ぎない。だが、折角良い機会が巡ってきたのだから、景気づけくらいしたって罰は当たらないだろう。ばっ、と模様が描かれたカードを取り出し、3人の視線を集める。

 

「ってなわけで、最後はどかんと1発大技でフィニッシュだ!」

 

「それって、私達もやるの?」

 

「勿論!」

 

 多勢に無勢、しかも長丁場となったため4人とも相当に疲れている。もう事は終息するのだから、無駄な体力は使わずに大人しく終幕を待てば良いはずだ。それに弾幕ごっこじゃあないんだから、よしんばやるとして宣言する必要は無いのではないか。

 真っ当な意見だったが、4人揃って宣言してからの一斉攻撃なんてロマン溢れる格好良さがあるではないか。アリスや咲夜と魔理沙では、その辺りに価値観の差が出てくる。ちなみに早苗は、やや魔理沙寄りである。

 

「ほらほら、行くぞお前ら。──恋符」

 

「えぇー、しょうがないなぁ。──開海」

 

「魔力が切れたらはっ倒すわよ。──戦操」

 

「……、……。──幻葬」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「あー……」

 

 疲れた。ここ最近では1番疲れた。幻想郷に怪異が迷い込んでくるようになってから、最も手強い相手だった。

 だから全力を出すのは嫌なのだ。疲労するだけで、何の得にもなりやしない。近くの木にもたれて、鬱蒼と茂る森の隙間から暮れなずむ空を見上げる。もう少し暗くなれば、星もはっきりと見えるだろう。

 

 黒い竜巻の元凶は、干物という言葉の似合うミイラだった。かねてから調査を依頼されていた厄介者が、霊夢に見つかるより早く災いをもたらしてしまったのだ。ミイラ自身が戦闘を行えなかったのが、不幸中の幸いであった。

 周囲の妖怪を惹き付けていたのは、恐らく奴の特性だろう。本体は言わばフェロモンをばら撒き、妖怪共の凶暴性を向上させながら1箇所に集めていたと見られる。その目的までは探れなかったが、少なくともただ集めて終わりということはない。霊夢の勘はそう訴えかけてくる。この段階で止めきれなかったら、事態は更に悪化していたと見て間違いあるまい。

 

 これは勲章だ。報酬には是非とも高級な肉や酒をふんだんに盛り込んでほしいものである。そうでなければ、苦労した意味が無くなってしまう。手伝ってくれた奴らにも、1割ずつならくれてやらないこともない。

 

「よう。流石と言っとこうかな」

 

「何だ、4人いたのね」

 

 道理でミイラの邪気を消し切る直前に、後方でけたたましい爆発音と複数の霊気の動きがあったわけだ。魔法使いに人形遣い、同業者にメイドとは個性が強いというか凸凹チームというか。全員見事に人間なのは、誠に偶然の生み出した結果である。

 

「……1人ほんとに限界迎えてるのがいるけど?」

 

「無理矢理スペルカードを使わされて、ね」

 

 アリスの魔力はほぼ枯渇しかけていた。比較的体力の余っている咲夜に肩を借りて、漸く立てているという状態だ。厳しいなら魔理沙を囮にでも使って良いと伝えておいたはずだが、それでいて何故スペルカードなんか使っているんだ。じろりと生温い視線を向けると、犯人はさっと目を逸らした。

 

「あ、あはは。張り切っちまったんだよな、分かる分かる」

 

「咲夜、あいつの喉元掻っ切って」

 

「良いわよ」

 

「いや良くない良くない」

 

 つまりはいつも通りに魔理沙が阿呆なことを思いついて、それに巻き込まれた一行が無駄に力を費やしてしまったということだ。アリスの疲弊など、忘却の彼方と化していたに違いない。今3人が彼女を10回ずつしばき倒したとしても、霊夢は確実に見て見ぬふりをする。

 いつもは魔理沙に次いで騒がしい担当を務めている早苗も、今回ばかりは口が重くなる程にぐったりとしている。趣味だとか言っていた妖怪退治が思う存分できたのだから、良かったじゃあないか。助かったのは事実だし、感謝だってそれなりにはしてあげている。

 

「ほら、こんな所でじっとしてたら体からきのこが生えてきちゃう。さっさと帰りましょ」

 

「ゔ。今から帰るって、きついですね」

 

 ここから早苗の本拠地である神社までは、結構な距離がある。魔法使いコンビはこの森に居を構えているので帰るのにさしたる時間を要しないが、緑巫女は疲れた体に鞭を打って帰宅しなければいけない。霊夢と咲夜は遠いとも近いとも言い難い微妙な距離だが、余力の残っている組なのでそこまで気も重くない。結論、早苗が割を食った。

 だが、捨てる神あれば拾う神ありだ。別に捨てられてはいないだろうとは、突っ込んではいけない。帰路を思い、早苗が真剣にげんなりしている所へ、助け舟は出された。

 

「はぁい。本日限定・無料送迎サービスですわ」

 

「あら、用意が良いじゃないの」

 

「貴女達は素晴らしく頑張ってくれましたから、特別よ」

 

 船にしては、所要時間が恐ろしく短くて済む。船舶は船舶でも、最高時速がぶっ飛んでいる競艇ボートである。これが無料で自宅まで送ってくれるというのは、かなり良質なサービスだ。へとへとの我が身に優しい配慮に、早苗の目がきらりと光る。

 いの一番に開かれた亜空間へと突撃していく。早苗を飲み込んだ紫色の別世界は、そのまま彼女を隠してしまった。きっと今頃、神社に接続された空間の裂け目からすぽーんと彼女が飛び出しているのだろう。流石は移動の手間を省く程度の能力、ここぞとばかりに真価を発揮している。

 

 魔理沙、そしてアリスを支える咲夜も後に続く。何だかんだ即刻帰宅できるのは有り難いので、皆断りもせずサービスを利用した。幻想郷ではない不気味な空間に4人の少女が消えた後、女は依然としてにこにこと妖しげな笑みを浮かべながら霊夢をじっと見ている。

 

「ご飯を食べ終えた頃に、また伺うわ。それまではゆっくりしておいてちょうだい」

 

「ご飯食べずに寝てやろうかしら」

 

「1日3食は健康な体作りの基本ですわよ」

 

 会いたくないからご飯を抜くなんて、そんな悲しい理由でプチ断食を決行するのはおすすめできない。まるで実の母親のように生活習慣を窘め、霊夢はそれに溜息で応えた。何も説教をしに出向くのではないし、長い付き合いのある友人兼パートナーが訪問すると伝えているのだから、少しくらい嬉しそうにしてはくれないものか。

 霊夢もまた異なる領域の中へ入る。それを確認し、博麗神社へと出口を設定する。程なくして彼女の気配が感じられなくなってから、罅割れを縫って元通りの正常な空間に戻す。未だに激戦の残滓漂う魔法の森の一角には、女が1人残された。

 

 憂うように、そっと口元へ手を運ぶ。閉じられた瞳が開かれた時、そこに少女達へ向けていた暖かみは無かった。

 

「まさか、()()()()()()ねぇ」

 

 此度霊夢が何とか邪気祓いに成功したのは、両面宿儺と考えて違いない。両面宿儺とは遥か昔、それこそ2000年に迫る過去に存在していた、確認される中で最古級の奇形人である。

 その名が示すように、2人の人間を背中合わせにした背後の無い人間だ。時の王に従わず好き放題に暴れたため、派遣された使者により殺害されたと伝承にて語られている。権力者でもない一介の男の身体的特徴が詳らかに記述されているのは、王権の正当性を強調する意味合いの強い古代文献の中で明確な異例である。

 

 この文献の作成者は、日本という国の初期を形作った王に不可思議な人間、或いは神に通じる仲介者という性格を当てはめたのだろう。故に神武以前の王は神として書かれ、神武以降は現人神的な立ち位置を得たと考えるのは決してとち狂った妄想ではないはずだ。

 ここに生じる疑問を、聡明なる者ならば既に把握しているか。例えば女の式神がこの場にいれば、大した驚きもなくそれに至っていた。熟考すれば、否、太古の歴史書が有する特質を知る者全てが到達するであろうとある結論を、妖怪もまた支持している。

 

 

 

 

 

 両面宿儺は、死後怨霊と化した。

 

 ……おかしな話ではない。人間を普通と見なす観念上において超常の存在は異端となる。宿儺は恐らく論じられるでもなく後者に分類されただろう。

 霊験あるものとして腫れ物のように扱われるか、忌み物として迫害されるか。どちらにしたって宿儺は地獄を見たと思われる。差別され、疎まれ、苦しみ抜いて、人を心の底から恨んで死んでいったとすれば。もしそうだとすれば、宿儺が祟りをもたらす呪物と成り果てたのは寧ろ当然の結果なのだ。

 

 外の世界における怪談話の衰退に伴って、暫くの間は外界から怪異が流入してくる。女の見立ては正しかったが、その危険性については少々見誤っていた部分がある。殆どが霊夢なら片手間で祓える程度の低級なもので、よしんば強いものが入ってきたとしても彼女には到底及ぶまい。女が予想していた怪異は、その程度のものだった。

 妖怪は、何も適当な予測を立てていたわけではない。『あるはずがない』『いるはずがない』を前提に置かれた怪談では、怪異もその存在を保つので精一杯。認知こそされているので消滅はしないだけで、力を蓄えるだけの余裕は無いと判断したのだ。根拠を備えた合理的な知見は、しかし今回に限っては外れてしまった。

 

 両面宿儺は、聞きしに劣らぬ非常に強力な怪異だった。霊夢が早い段階で対処に当たっていなかったら、及ぼされていた悪影響は計り知れない。だが、今なお怪談話に名を残す怪異は数多い。両面宿儺が出てきた以上、もう何が幻想郷に迷い込んできてもおかしくない状況が形成されてしまった。

 

 万が一にも、()()が来たら。そう思うと、身の毛がよだつ。絶対に霊夢を戦わせてはならない怪異が、1つだけあるのだ。

 女は、その化け物を実際に見たことはない。強いか弱いか、それ以前に彼女が巫女である限り勝利は有り得ない。あまりに理不尽な、負け()を確約された戦いに博麗の巫女を臨ませるのは御法度。彼女に匹敵する、最低でも責務を果たせる才能の持ち主が出てくるのを悠長に待っていられる程、巫女は軽い立場ではない。

 

 天敵の来訪に備えて、対策を考える必要がある。どうしても万策尽きたとなれば、例外措置に踏み切るのも吝かではない。

 妖怪などの悪事は、博麗の巫女が解決する。幻想郷を幻想郷たらしめる必須のサイクルだが、形式に則ってばかりでは甚大な不利益を被る場合もあることを、責任ある者は自覚しなければいけない。

 

 どうするにせよ、この地の統治を根本から揺るがす由々しき問題であり、女1人の一存をそのまま適用するのは宜しくない。同等の立場に座す賢人達と意見を交換させる必要がある。目を閉じて、しばし思考の海に耽る。いつの間にか陽は完全に沈み、薄い雲が星や月の光を僅かに妨げていた。



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其ノ牢苦 八尺様 前

 幻想郷を覆う夏の気も、後退の兆しを見せ始める。夜はめっきり涼しくなり、そろそろ長い袖の服が恋しくなる。

 やがて秋がやってくる。

 

「私達の時代はすぐそこよ!」

 

「3ヶ月かそこらの時代ねぇ」

 

「毎年1回は来るんだから良いじゃない」

 

「王朝の滅亡と再興が急過ぎると思うけど」

 

 季節を代表する神は、この幻想郷にもきちんと揃っている。そのうち秋を司るのが秋 静葉(しずは)、そして妹の秋 穣子(みのりこ)だ。それぞれ紅葉と豊穣の神を務め、広く景観と実りの神徳を振りまくのである。

 秋の神ということで、活躍の場は当然春夏秋冬の3番目。それ以外の季節は大人しく過ごし、来るべき爆発の時を今か今かと待ち構えている。夏が衰え、やがて肌寒い空気が太陽の目を盗んで顔を覗かせ始めた頃、2柱は動き出すための準備に取り掛かるのだ。

 

 とは言っても妹がハイテンションに喜び、姉が程々に乗るくらいのものだが。様々な人妖を集めて派手な饗宴を開ける程に強い神ではないし、性格的にも大々的なのはそぐわない。2柱だけでささやかに秋口を祝うのが、どちらともなく確立させた秋の迎え方だ。

 

 手元にひらひらと舞い落ちる、未だ青々と瑞々しい葉。紅い色をつけて、鮮烈な赤に満足したように微笑む。今年も素晴らしい紅葉を幻想郷に届けられそうだ。にこにこと上機嫌な静葉だったが、ふと妹の視線が自分の後ろを捉えているのに気がつく。

 

「あり?お姉ちゃん、人間だよ」

 

「本当。迷い込んだのかな」

 

 振り返ると、確かにそこには女。こんな暗い夜道を、明かりも無しで1人歩きするとは大した度胸だ。天狗に見つかっていないのは、幸運なことである。

 

「おーい、そこ行く人間さん。何だって貴女、この山に入ってるの?ここは人間の立ち入り禁止だから、さっさと出た方が……んん?」

 

「どうかしたの、穣子」

 

「いや……気のせいかな、あいつの身長なんだけど」

 

 ぱっと見た限りは、そこまで違和感は感じなかった。穣子曰く身長が妙だそうで、注視して見てみる。丁度向こうに静葉より縦方向に大きな岩があるのだが、女の頭はその岩よりずっと高い場所にあった。

 

「いや何あれ」

 

「やっぱりおかしいよね!」

 

 岩が6尺くらいだとして、女の身長は恐らく優に2倍以上にもなろう。背が高いとかいう次元ではなく、最早人間離れの域に達している。あんな大きいと、家の間口を潜るのも一苦労するだろうが、彼女はどうやって生活しているのか。姉妹は奇しくも同じ瞬間に同じずれた疑問を抱いていた。

 

「どうする?見なかったことにして帰るのが1番無難だと穣子は考えます」

 

「そうね。あんな大きな人間はいないもの」

 

 如何に背が高いと言ったって、人間の成長には限界がある。何年も人間を見てきた姉妹だからこそ分かる、ここまで来れば十中八九妖怪だ。

 触らぬ妖怪に祟りなし、もし争いになれば喧嘩慣れしていない2柱は痛い目を見る羽目になるだろう。今日のところは住処に引き下がり、少々早いが寝るのが無難と思われた。蝉ももう衰えた、寝心地は保証されている。

 

「しかしまぁ、大きい妖か痛ったぁっ!?」

 

「もう、何してるのみのり──」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……それで、ぶつかったものを見たら、何と」

 

「巨女、ですか」

 

「そう、とんでもない身長の女!」

 

 いやー、あれは流石に心臓止まるかと思ったよ。はっはっは、と笑い飛ばす穣子を、静葉が窘める。公共の食事処であまり騒がしくするのは、妖怪の山においてもよろしくない。

 天狗が統治する高度な縦社会、妖怪の山。中腹辺りの小さな食事処で、秋姉妹の話を聞き取る天狗がいた。

 

「身長ある女って、珍しいだけでいなくはないと思いますケド」

 

「違う違う、高身長なんてものじゃないんだよはたたん!」

 

「はたたんはやめてくださいって言ってるじゃないですか」

 

 姫海棠(ひめかいどう) はたて、穣子称はたたん。本人は阿呆らしい語尾の響きを嫌っているが、彼女としては可愛らしい二つ名を山中に広めていきたい所存だ。誰が言ったか秋ハラ。

 

 はたては、天狗のうち烏天狗に属している。同族と同じく趣味として新聞を作り、1日の多くを家の中で過ごす、ややインドア的な性格の強い少女だ。だが引きこもってばかりいるわけでもなく、今日のように外へ出て様々な人妖から話を聞くこともある。

 

「静葉さん、これ本当ですか?」

 

「えぇ。あの大きさで人間とは考え辛いわ」

 

「ほー。静葉さんが言うと信憑性があるなぁ」

 

「私への信頼は何処行ったのはたたん」

 

 里を軽く回り、新聞のネタにできそうな情報がそれなりに集まったので山へと帰った。休憩及び自分へのプチご褒美がてら立ち寄った甘味処にて、『けぇき』を嗜む秋姉妹に出会いこの話をされたのである。

 はたてはこの姉妹と少しばかり交流がある。最初は山に新たな神が移り住んできた時、存在の露見した四季の神に興味を持った彼女のアプローチから始まった。今ではこうして、けぇきを食べながら不思議な体験談に花を咲かせられる程度には仲良くなった。

 

「じゃあまず、そいつがどれくらいの大きさだったか教えてください」

 

 出されたコーヒーをミルクや砂糖無しで飲みつつ、情報を提供してもらう。やはり甘いものを食べる時のお供は、苦味強めのコーヒーが1番だ。これを飲んだ後に1口ぱくつくけぇきの、何と甘美で耽美なことか。

 

「そうね。大体15尺くらいかしら」

 

「成程、15尺ですね。ありがとうござ15尺ゥ!?

 

 驚きが振動となって手を揺らし、コーヒーカップの中身がぴちょんと跳ねる。数滴手にかかり、慌ててカップを置いて拭き取る。火傷をしてしまうような量でなかったのが幸いだ。

 いきなり大声を出したせいで、店内の注目が一斉に3者へと集中する。こほん、と咳払いを1つ、一転して声を潜めて静葉に語りかける。

 

「し、静葉さん。貴女まで冗談入れてきたら記事作れなくなっちゃいますよ」

 

「嘘を言っても慰めにはならないわ」

 

「さり気なく罵られた私の心の慰めは?」

 

 とても信じられない、女性としては背丈のあるはたてが2人縦に並んでも全く届かない桁外れの高身長だ。しかし静葉は馬鹿げた嘘をばら撒く低俗な神ではない。さっきから置いてきぼりにされている穣子が頬を膨れさせていじけつつある中で、むむと考え込む。

 

「身長でうだうだ言ってても前に進みませんから、取り敢えず信じます。次に、そいつは何をしていました?」

 

「何も」

 

「何も」

 

「強いて言うなら歩いてたわ。きょろきょろしながら」

 

 何だそれ。要するに当てもなく山を徘徊する4.5mの大女がいるということか。静葉に聞いたところ、概ねその認識で間違っていないと肯定されてしまった。横から穣子が麦わら帽子を着用していたと証言してくれたので、正しくは当てもなく山を徘徊する麦わら帽子を被った4.5mの大女がいる、である。謹んで訂正申し上げるが、正直毛の生えた程度の変化だ。

 神の情報提供(たれ込み)にけちをつける気は無いが、しかしどうにも衝撃性に欠ける気がしてならない。もっとこう、河童が襲われたとか現人神が泣かされたとか、インパクトあり残虐性無しの事件が起きてくれていたら明日の花果子念報の一面を堂々と飾れるのだけれど。

 

「何か探してるのかなぁ。意思疎通は図れそうですかね」

 

「うーん……言葉は話せるみたいだし、いけそうと言えばいけそう、多分」

 

 会話ができるなら、意思のやり取りは一先ず可能と見ておく。対象と話せるかどうかで、得られる情報の量も質も段違いに変わってくる。大きな女が山にいる、という状況自体はスクープとして扱うに足る上物だし、後はもう少し肉となる追加情報が欲しいところだ。

 

 尤も、情報なら待っていても明日には出揃っているに違いない。山を闊歩するでかぶつが、天狗の目に留まらないはずはない。つまり、一番乗りの勲功を得たければ今すぐにでも動き出さなければ間に合わないのだ。けぇきとコーヒーは頂くとして、その後計画していた自宅での12時間超熟睡は返上する必要がある。

 

 記事のネタか、纏まった睡眠時間か。二兎は時間の問題で追えないので、1匹に絞らなければならない。やはり烏天狗としての性か、最初の1匹を狩りに行こうとはたてが決意した辺りで、新たなる入店者が息せき切って現れた。

 只事でない雰囲気を醸す白狼天狗に、はたての時程ではないが視線が集まる。それを気にかけることは無く、正直な狼少年は店員を一つ所に集めるよう要求した。

 

「ねぇ、何かあったの?」

 

「烏天狗様。妖怪の山に、侵入者が現れたのです」

 

 侵入者とは穏やかでないと考えられるのか。だが、妖怪の山への不法な立ち入りは実の所決して珍しくもない。大半は規則というものを理解できない低級の妖怪で、すぐさま哨戒部隊によって追い返される。

 見たところ、この白狼はまだ歳若い雄だ。大方侵入者という存在そのものへの緊張があるのだろう。可愛いものだ、はたての口の端がくいっと上がる。

 

「すぐに捕らえます。御三方はどうぞごゆるりと」

 

「それじゃ、お言葉に甘えよっかな」

 

 頼もしい宣言を有り難く頂戴し、いちごのけぇきを食するという重要な任務に戻る。あぁ、ふわふわのクリームと甘酸っぱい苺の相性が抜群だ。美味しいなんて月並みな言葉しか出てこない浅薄な語彙力が、今だけは小憎たらしい。

 

「で、伝令っ!第40隊から第43隊、()退()!」

 

 戦況は少し不味いみたいだけど。

 

「……隊ってさ、何人いるの?」

 

「6人で1つの隊を作ってるらしいです」

 

「すると、えっと……24人でかかって負けた、ってこと?」

 

 頷き肯定の意を示す。穣子の顔から、血の色がみるみるうちに引いていくのが見える。厳密に24人全員が戦ったのかは、はたてに知る由もないが、その認識でも遠く的外れとまでは行くまい。今回のは、思い上がったやんちゃ坊主というわけではないようだ。

 

「お姉ちゃん!はたたんも、逃げた方が」

 

「慌てなくても良いですよ。あとはたてです」

 

「何でさ、絶対やばい侵入者でしょ!」

 

「どうですかね」

 

 カップを傾けて、温くなってきた黒い液体を飲み干す。熱いうちに飲むのが1番良いのは当然、しかし『すいーつ』と並行しているのでどうしても冷めてしまう場合が多かったりするのもまた事実。はたては2人もいないので、そこは妥協する他に無い。

 

「白狼天狗は、50の隊を作ってます。番号が小さくなる程、実力者揃いのチームになるんだとか」

 

「聞いたことあるわ。『成りたて』の子とかは大きい番号の所に割り振られるのよね」

 

「はい。今頃第2波の編成が進められてるでしょうね。より番号の小さな、手練を軸とした」

 

 若い雄が2人、あぁでもないこうでもないと喧々諤々の議論を交わす。確かに彼らにとっては歯が立たない強敵だったのかも知れないが、一口に白狼天狗と言ってもベテランは相応に強い。特に総隊長は、単騎の実力なら大天狗にさえ迫る。

 自分達の尺度でしか敵を測れないようでは、まだまだ青い。彼女の指導の元、しっかりと修練を積んでゆくゆくは上位の部隊で活躍してほしいものだ。真面目そうな所は好感も持てるし。

 

「そんなわけですから、今はまだゆっくりしていられますよ」

 

「呑気だなぁ。私は不安でお菓子も喉を通らないのに」

 

「そう言いつつひょいひょい食べてるのは何よ」

 

「美味しいんだもん、このまかろんってお菓子」

 

 豊穣の神はまかろんをお気に召したご様子だ。今年の奉納は、これで良いかも知れない。今度の天狗集会の折に、大天狗様に打診しておこう。はたての予定にまた1つ新たな項目が追加された。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ふーん。和解できたんだ」

 

「はい。山への立ち入り禁止という約束事を知らなかったようでした。第5隊から第8隊をけしかけたのですが、一進一退で決着がつかず」

 

 神との食事の後、一旦家へ帰って荷物の整理。超巨大女を捜索する準備を整えて、山の裾の方へ出向いたところ、小柄な真っ白いわんちゃんがいた。お目当ての妖怪ではないが、友人に出会うだけで話さないのは礼儀に欠ける。件の侵入者について聞くのも兼ねて、おーいと声をかけた。

 1桁番台の隊を動員して、まだなお引き分けるか。成程未成熟な子供連中では荷が重いわけだ。今日の不埒者は、はたてが思っていたよりも幾分か高い格を有していたと見える。

 

(もみじ)は戦ったの?」

 

「場にはいましたよ。和解も、私が纏めたんです」

 

「やるじゃん。で、どんな奴だった?」

 

「一言で表すなら、途轍もなく大きな女、でしょうか」

 

 その特徴に当てはまる妖怪を、はたては追ってここまで来た。今にして思えば、侵入者の報を聞いた時点でその可能性に思い至っておくべきだった。呑気に昼下がりのおやつを堪能している間に、接触すべき標的が大立ち回りを演じていたのだ。

 

「あちゃー、ニアミスか」

 

「あの妖怪に用ありだったのですか。すみません、もう山にはいないかと」

 

「良い、記事になるかなって思ってただけだから」

 

 ずっしりとしたお腹の重みを我慢して、それなりに急いで来たのに、徒労に終わってしまったのは心にぐっとくる。夜に新聞が完成するとして、見出しは精々が『謎の大女、妖怪の山で大立ち回り』くらいになる。これでも充分に読者に衝撃を与える良質な記事となろうが、欲を言えば女にさらに踏み入った詳細な記事を書きたかった。

 

「そういえばさ、やられた隊の子は大丈夫?」

 

「えぇ。皆軽傷で済んでいます」

 

 ばったばったと薙ぎ倒された割に、重傷人が出ていないのは奇跡に近い。和解が成立するくらいだし、ひょっとしたら女は害意の薄い妖怪なのだろうか。危険が小さいなら尚更コンタクトを取っておけば良かったと後悔が募るが、現状疑いようもなく後の祭り。何かの拍子に遭遇できるのを祈るしか、はたてにはできない。

 

「この後空いてる?奢るわよ」

 

「有り難くご相伴に預からせて頂きます」

 

 素材を手に入れ損ねた憂さ晴らしをすべく、椛を飲みに誘う。快諾も得たし、今日は久々に潰れるまで酒に溺れるのもまた一興。はたてよりも椛の方が、圧倒的なまでに酒への耐性を有しているので、基本的に安心して深酒ができるのである。

 蟒蛇と飲む時の安心感と言ったら、もし酔っ払って寝落ちしてしまっても家まで運んでくれるのだからまぁ。後日適当な菓子折りで埋め合わせは可能だし、ほぼ廉価な送迎サービスに等しい。良いぞ椛、素晴らしいぞ椛。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぽっ。

 

 

 

 

 

 ぽぽぽ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ

 



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其ノ牢苦 八尺様 後

「でっ……」

 

 魔法の森には、今日も今日とて胞子が舞い飛ぶ。彼らから魔力を受け取り、常にフル充電の状態でいられるのは魔法使いの特権である。これが一般人だと、たちどころに体調を崩して寝込む羽目になる。人のみならず、妖怪でさえこの魔力を嫌って森には近づかない。

 

「でけーっ!?」

 

 入ってくるとすれば、魔力への耐性が高いか。若しくは、微弱な魔力程度ではどうともならない強大な妖怪である。魔理沙の前に現れたのは、果たしてどちらのタイプの怪異なのか。長い髪に隠れた表情からは、甚く情報を得難い。

 魔理沙の3倍近い背丈で、ぬうっと首を伸ばして覗き込んでくる女を想像してみてほしい。まるで自分が幼年時代に帰ったかのような思いを味わえることだろう。思考や理性は既に確立しているので、その分恐怖も一入となるが。

 

「な、何だ何だやろうってか!良いぜ、この霧雨 魔理沙が相手になってやる!」

 

 ここで尻餅をついて怯えない辺り、魔理沙は大変度胸のある少女だ。逆に食ってかかるくらいの勢いで、距離的にはかなり近い真っ白な顔を睨みつける。さしたる反応も見せなかった怪異は、それを子鼠の威嚇と嘲ったのか、油断ならない人間だと気を引き締めたのか。

 先手必勝、すぐさま飛び退いた魔理沙が攻撃用の魔法陣を周囲に展開する。数は5、その全ての陣から一斉に弾幕が射出されていく。さながら機関銃(ガトリング)の如き連続攻撃が煙を巻き上げ、怪異の姿がほぼ完全に隠される。

 

「効いてない、のか?」

 

 煙が晴れた先に、怪異は立っていた。先程から姿勢も変わらず、顔だけを魔理沙の方へと合わせて。不気味な様子に鳥肌が立ちかけるが、そこは場数を踏んできた歴戦の魔法使い。箒に跨り、空へと飛翔する。一瞬で眼下に巨女を見下ろす所まで到達し、相棒たるマジックアイテムを構える。

 

「スペルカードのパワーを全開だっ!」

 

 正八角形の綺麗なフォルムを有するマジックアイテムを、魔理沙は専ら八卦炉と呼称する。火力調節は自由度が高く、料理に使えるくらいから山火事を発生させるまで広くお手の物である。

 八卦炉に魔力を充填していく。際限なく収束していく魔法のエネルギーは、見た者に危険の2文字を連想させる。今や霧雨 魔理沙の代名詞となった特大のレーザービームは、超火力で真っ向勝負を挑みかかる獰猛な獣を彷彿とさせる必殺技だ。

 

「え、何処行った」

 

 しかし、発射直前で怪異は忽然と姿を消した。瞬間移動をしたのではなく、気がついたらいなくなっていた、と表現するべきか。目線を切ったつもりは無いが、無意識にそうしてしまったのか。

 

 《……》

 

「参った、見失っちまった。しかし急に冷えて……ひぎゃあっ!?」

 

 あの図体だ、容易に見つけられる。魔理沙の予想はぴったりと的中した。異様な存在感を放つ化け物に背後を取られたら、鈍い人間だって気がついて振り向ける。

 振り向いた瞬間、鼻先にのべっとした真っ白な顔がセッティングされている恐怖たるや、魔理沙をして悲鳴があがってしまうだけのものであった。どうやって後ろへ回り込んだのか、考える余裕が今の彼女には無い。

 

 《……》

 

「な、何だよ。言いたいことがあるならはっきり言えっ」

 

 せめてもの虚勢を張り、格好だけでも張子の虎と為す。無意味な足掻きと分かっていてもそうしてしまうのは、人間の生存本能故なのか。許しを乞うという選択肢を持たぬ愚かで勇敢な人間のみに許された、一瞬の煌めきとも解釈できよう。

 尤も、蛇は気丈な蛙を一呑みにしたりしない。万年筆を片手に、紙に何やら文字らしきものを書き連ねていく。その筆記用具、何処から出したんだろう。攻撃も逃走もできずに、硬直して書き終わりを待つ。

 

「『てきじゃない』?」

 

 とち狂った大きさの女は、自らを敵対者ではないと主張してきた。いや信じられるか、すかさず八卦炉を構えたが、そう言えばこいつから仕掛けてきたことは無い。精々近寄られたくらいで、直接的な害は与えられていない。

 八卦炉を向けられても、女は微動だにしない。前髪が隙間風に吹かれてゆらゆらと揺れるだけだ。本当に敵対意識が無いのだろうか、恐る恐る手を下ろしていくと、次なる文言を書き始める。成程、訴えは少なくとも信用できるものであるらしい。

 

「『どうぞくをさがしている』。『わたしのはん文くらいのせたけ』」

 

 はっきり言って字は汚いが、判読できない程ではない。どうやらこの怪異、お仲間がいるようだ。そいつを探しているうちに、森に迷い込んできたと見るのが妥当か。

 この際だ、誤字には目を瞑ろう。半分の背丈でも2mを優に超える巨躯なのだが、揃いも揃って高身長なことで。女性の平均身長程度の魔理沙は、見上げなければ女の顎も見えない始末だ。

 

「悪いが私は見てないな」

 

 1度出会えば、暫くは忘れられないビジュアルだ。いつか何処かで遭遇する可能性はあるにせよ、現時点で魔理沙は探し怪異の所在を存じ上げない。申し訳ないが、力にはなれそうもなかった。

 

「『見かけたらおしえて』ねぇ。まぁ、また会うことがあれば良いが」

 

 怪異はゆらゆらと森の奥へ進んでいった。捜索を継続するつもりらしい。できれば再会は希望したくないなぁ、と思ったのは内緒である。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ふんふん、ふんふんふーん」

 

 鼻歌交じりに森を歩く娘が1人。お付きの従者もおらず、何かあったらどうするのかと不安にもなるが、並大抵のことでは彼女を動じさせることはできない。何せ少女は天人、遥か上空におわす超人的な人間なのだから。

 

「ふっふふふんふん、ふんふんふーん……お?」

 

 そんな少女こと比那名居 天子が何故下の世界を歩いているのか、話すと非常に長くなるので掻い摘んで説明を差し上げると、従者に口煩く注意をされたので怒って天界を飛び出してきたのだ。つまるところただの癇癪であり、気持ちが冷えればすぐにでも戻るであろうと予想される。

 薄暗い森の中をぱたぱたと抜けていく中で、天子は小さな沢を見つけた。水は底が見える程に透き通っているし、魚も何匹か泳いでいるのが見える。周りに点在する石や岩の1つを選んで腰を下ろすと、隣に沢蟹と思しき蟹が寄ってきた。

 

「煩雑な下界にしては、まぁ悪くないじゃない」

 

 蟹を摘み、ぷらぷらと揺らす。鋏でがっつりと人差し指を挟まれたが、そんな攻撃が天人の頑丈な体に通るわけがなかろう。盛大に高笑いし、しかし怖気付かなかった勇気に敬意を表して水の中に離してやる。ゆっくり沈んでいった勇敢な蟹は、ささっと岩陰へ逃れていった。

 傍から見れば、蟹に指を挟まれて笑っている頭のおかしい少女だが、天子の自己評価は小さきものにも正当な評価を下す賢人である。天子の心、世知らず。寧ろ彼女が世間一般の感覚と著しく乖離していると思われるが。

 

「む。何者っ、姿を見せなさい!」

 

 足を水につけ、冷たさを楽しんでいたが、完全に無防備になったわけではない。邪悪な気配の察知は、素早いものであった。

 

「……えらく背ぇ高いわね」

 

 立ち上がった天子より、頭5個分くらいは高身長だろうか。何を食べたらそんな背丈に達するのか、天界の極限まで合理化された栄養食でもこうはならないはずなのだけれど。

 この怪異は、背丈の高さも特徴の一つとしている。大きければ強い、一概には言えないがこいつにはそれなりに当てはまるようだ。そこらの雑魚妖怪とは違う、実力者の気配を醸し出している。

 

「私の敵ではないけれど」

 

 腰に手をかける。天子が扱う天界随一の武器は、あらゆる『もの』の弱点を認識し、そこを的確に突くことができるという優れものだ。どんな性質にも優位に立てるという無二の強みこそが、彼女の実力の過半を担っていると言っても過言ではない。

 

「……」

 

 ごそごそ、ごそごそ。

 

「……?」

 

 ぱんぱん、ごそごそ。

 

「……あれ?」

 

 無い。

 

「あれ?嘘でしょ確かに持ってきたわよ!」

 

 実力の過半を担っている剣が無い、これが何を意味するのか。そう、今の天子は本領の半分も発揮できない特殊な人間に留まっているのである。

 

「こ、」

 

 かの剣無しに戦える相手ではない。優劣の関係は、ここに完全な逆転を迎えた。

 

「このーーーーっ!覚えてなさい!!」

 

 不利な状況に突っ込んで火達磨になるのは趣味でない。プライドはせっせと邪魔してくるけれど、妨害を乗り越えて逃走を図る。体の割に健脚な彼女は、舗装されていない道でも結構な速さで走ることが可能だ。そうそう捕まりやしないだろう、安心して後ろを振り返って危うく噴きそうになった。

 

「何で追いかけてくるのっ!?」

 

 浮いているようには見えない。地面をスライドしてきていると思しき怪異は、天子の足より僅かに速く前へと進んでいる。そのせいでじわじわと距離が詰められてくるものだから、彼女の焦りようったら大変なものになる。今頃従者が玄関にほっぽられている緋想の剣に首を傾げているだなんて露知らず、とにかく必死に足を動かす。

 

「ちょ、あっ」

 

 肉体は、持っているポテンシャル以上のことはできない。無理をすれば、当然体は着いてこれなくなる。足が絡まり、天子は柔らかい土の上にこけた。体を走る衝撃に一瞬息が止まり、次に我に返った時には嫌な気が真後ろにまで迫っていた。

 万事休す。思わず目を瞑ったが、邪気は背後に立ったまま動かない。そっと目を開けて後ろを確認してみると、何故か天子から少しだけ離れた位置でじっとしていた。事情が分からず見ていると、怪異は徐ろに踵を返して去っていった。

 

「……た、助かった?」

 

 これ以上なく追い詰めておきながら、とどめは刺さずに帰っていった理由は不明だ。だが、兎にも角にも助かったらしい。無傷に終わって良かった、長い長い安堵の息を吐く。

 服の汚れを払い、早めに天界へ帰ることにした。もしまた出くわしたら、次こそは逃げ切れないかも知れないし。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……」

 

 博麗神社の鳥居を潜ってすぐ、いつもならちらほらと参拝者がいる広場には、本日招かれざる客が居座っている。お祓い棒を片手に対峙する巫女の剣呑な視線にも、女はたじろがない。

 

「誰だお前」

 

 非常に簡素で率直な問いに、怪異はぽぽぽぽ、と壊れたラジオのように機械的な低い声を吐き出すことで応えた。一定の音階が延々と続く不気味さは、大の男をも及び腰にしてしまう。

 八尺様。かねてからとある地域でまことしやかに語り継がれている、人間を憑き殺す悪しき怪異である。名前の通り八尺の身の丈を有し、盛り塩などの霊的な抵抗手段をも貫通し得る強力な化け物だが、人間の知恵によりある区画に封じ込められていた。もし禁を破って再び世に放たれれば、もたらされる被害は大きなものとなるだろう。

 

「よく噛まないわねあんた」

 

 小さな少女は、驚きも恐れもしないけれど。驚異的な滑舌に感心を覚える余裕まであるらしく、遂には真似まで始めてしまった。霊夢は舌足らずでもないが、ものの数秒で舌が回らなくなってくる。常人であれば至極普通の記録を出したところで、怪異が先に動きを見せた。

 

「む」

 

 境内を包み込むように散布される邪気に、霊夢が漸く表情を引き締める。やる気らしい、面倒だなぁと溜息。今日は久しぶりに来客も無さそうだから、のんびり昼下がりまで寝ていようと思った矢先にこれだ。大切な昼寝の時間を奪った罰は重い、力の一欠片も残さず幻想郷から去ね。

 

「よっ」

 

 向かってきた女に、迎え撃つ形でお祓い棒をスイングする。非力な人間の小娘が軽い掛け声で振ったひらひら付きの棒は、発砲音並みの破裂音を響かせて女を打ち据えた。体をくの字に折って吹っ飛び、鳥居にぶつかってずるりと横たわる。

 爆ぜた綺麗な霊力が、暗いエネルギーを根こそぎ上書きしていく。神宿る社に清浄なる空気が戻る中で、ぽいぽいっと謹製の札を投擲する。適当に投げられた札は、まるでそれ自体が意思を持つかの如く怪異に照準を定め、寸分違わず顔面に殺到していく。

 霊気を込めた札の連撃は、とても耐えられるものではない。外の世界で猛威を振るった実力派の怪異でも、博麗の巫女はあまりに高い壁であった。超えること叶わず、あっさりと叩き落とされてしまった。

 

「さーて。……出てきなさい、さもないとこのままぶっ飛ばすわよ」

 

 八尺様をいとも簡単に撃破した霊夢だったが、既に第2の刺客には気がついている。先程をも凌ぐパワーだ、本命は恐らくこちらであろう。

 

「おっきいわねー。さっきの奴の親玉?」

 

 お祓い棒を刀の切っ先よろしく突きつけ、無言での威嚇。八尺様が狼狽えなかったので効果は薄いかとも思ったのだが、意外にも超大型怪異は数歩後ずさりした。目の前にいるちまっこい少女の危険度を正しく認識できているようで、やや慌てたように筆記具を用意した。

 

「『たおしてくれてありがとう』?それと、ええと……『()()()()()()()()()()()()()()()()()()』。何のことか分からないけど、あんたみたいなのは確かに今滅したわ」

 

 世にも珍しい、文字を書く巨女。取り敢えずぶっ飛ばすのはできあがった文章を見てからにしよう、興味から来るほんの少しの猶予が中立的な物の怪を救った。まず1言目で感謝、そして自分も八尺様を良く思っていなかったんですアピールも欠かさない。

 どうやら親分や味方ではなく、追跡者と言ったところらしい。敵じゃないなら倒す必要は無いので、お祓い棒は下ろす。心做しか怪異がほっとしているように感じられるのは、多分気のせいではない。人間に媚びるという、人外にはかなり難しい技を駆使したお陰か、苛烈な処刑を免れたのは幸運と言う他にない。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「……」

 

 ──比那名居 天子に憑くあれは、一体何だ。

 

 幻想郷の何処かにある、八雲 紫の邸宅。その一室で、家主が難しい顔をして考え事に耽っていた。従者である式神は空気を読んでその部屋に近づかないようにしており、彼女はひとり黙々と考えを巡らせる。

 途轍もない頭脳と豊富な経験で、並大抵のことは微笑を浮かべたまま処理してしまう紫だが、今日は事情が違うようだ。賢人たる彼女を悩ませる問題の種は、かつて博麗神社を倒壊させ幻想郷全土に喧嘩をふっかけた奇天烈な天人であった。

 

 とは言え、彼女自身がやらかしたわけではない。まだ天子の一件は紫の中で整理をつけられていない部分も多いが、流石にこれを彼女の悪行とするのは言いがかりも甚だしい。賢き者は常に公正明大であらねばならず、如何なる事情であろうともそれが私情である限り横槍にしてはならないのだ。

 天子に伝えるべきか、極めて難しい問題だ。彼女を観察した範囲内では、自身に取り憑いているものに気がついている様子は無い。どうしてあの大女、八尺様という怪異らしいが、奴に見逃されたのかも分かっていない。

 

 とても放っておけるレベルではない。霊夢だからこそ何てことのないように倒せただけで、八尺様は充分に強いと言える。両面宿儺とまではいかないが、それでもくねくねを上回る格の怪異だ。

 ()()は、八尺様をして戦わせすらしなかった。本能に甚大な力量差を教え込み、尻尾を巻いて帰らせた。……霊夢に臆することなく襲いかかった怪異を、だ。

 

 まさか霊夢より強いなんてことはないだろう。そこまで行くと、現実性に乏しい。だが、彼女に9割の力を出させるくらいのエネルギーはあるのではないか。紫はそう見ている。

 これまでの経緯を鑑みるに、怪異の流入と無関係ではないはずだ。調べよう、外の伝承を。そして現代に語られる都市伝説を。()()()()()が母体を食い殺して出てこないと、誰も保証できないのだから。



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其ノ新血 リアル

 きっかけは、ほんの些細な興味だった。

 

 山の巫女から聞いた話、その場では流れたとりとめのない話。家に帰って鏡を見て、ふと思い出した。

 

 思い出してしまったのだ。

 

 ……私は、本当に後悔している。

 

 許して。

 

 許して。

 

 

 

 

 

 ゆるして。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 [おはよう、霊夢。いつかのように、貴女にこうして手紙を残します。]

 

 [私は、所用があって外界へと出かけています。期間は大体1週間程度かしら。成果によって前後するから、一応そのつもりでお願いね。]

 

 [私がしていた業務は、藍に。藍の業務は、橙に引き継ぎます。暫くは藍が仕事の依頼などを持ち込むでしょう。面倒くさがらず、きちんと対応するのですよ。]

 

 [特に私からあれやこれやをしろ、とは言いません。そろそろ冷えてきますからお布団はしっかりかけて寝る。ご飯は1日3食、お肉もお野菜もお魚も欠かさないこと。夜更かしせず、いつでも清貧なる巫女としての自覚を持つ。普段通り……普段できているかは甚だしく怪しいけれど、つまりはいつもと同じように生活をしておいてね。]

 

 [そして、ここに厄介な仕事の依頼を書き残していくことを許してちょうだい。2週間前に霊夢が見たと言っていた八尺様をも凌ぐ身長の女だけれど、どうやら消滅したようなの。あれ程強い怪異が自然と消えたとは考え難い、大方第三者の暴力的介入があったのでしょう。霊夢にはこの件について調査しておいてほしいの。]

 

 [──追伸。万一にも蛇の下半身を得た巫女を見たならば、すぐさま藍へ報告すること。霊夢、貴女は絶対に戦ってはいけません。]

 

 

 

 

 

「は?」

 

 手紙を読み終わり、全体の感想を述べるのであればこの1文字に尽きた。細かく言うなれば色々文句や疑問も出てくるけれど、出しっぱなしにしていたら切りが無いのでご割愛。

 

「いや母親か」

 

 しかも仕事を置いていく、最悪な母だ。八尺様より大きな身長というと、多分奴だろう。あれがやられたとするなら、相当強い第三者が幻想郷にいることになる。はっきり言って、両面宿儺以上の面倒事は頭を下げてでもご勘弁願いたい。

 

「おーい、霊夢」

 

 元の世界に帰っただけであってくれ。必死に神に祈る巫女と言えば聞こえは良いが、普段の霊夢は神なんてまるで信奉していない。さながら神の存在を知覚できる無神論者となろう。そんな彼女が都合の悪い時にだけ祈りを捧げたって、神様は応えてくれないと思われる。

 祈り始めた直後、お腹の虫がここぞとばかりに存在感を主張する。あーお腹空いた、朝ご飯は何にしよっかな。巫女は一瞬で簡易式の祈祷を取り止めてしまった。神職として罰当たりなことこの上ない。

 

「おはよう。衣玖(いく)が、相談があるって」

 

「あら、いらっしゃい。天界のお魚さんも来たわね」

 

「……どうして貴女は今日の献立を決めた人間のような目をするのですか?」

 

 神社にやってきた半人半霊と竜宮の使いを見て、霊夢の脳裏にアイデアが湧いてくる。確か鯵があったはず、おろしておかずにしよう。肉を焼いて添えてやれば完璧な朝ご飯ではないか。野菜なんぞは知らない。

 

「冗談冗談、血抜きが面倒よ」

 

「できればもう少し倫理的な理由で踏みとどまってくれた方が、私は嬉しかったです」

 

「朝から堅い魚ね、さしずめ鰹。妖夢、刀で斬ってよ。すぱぱーんと」

 

「今貴女、双方から恨み買ってるからね?」

 

 鰹のたたきもさっぱりしていて美味しいかと思ったけど、彼女達からの評価は芳しくなかった。ふむ、旬ではない魚はあまりお好みでないか。鰹の旬はもうあと1、2週間もすれば訪れるので、その時にまた提案すれば喜んで受け入れられるかも知れない。

 

「で、2人して何の用よ。つーかあんたらって、仲良かったのね」

 

「従者同盟は皆仲良しなの」

 

「何じゃそりゃ」

 

 従える者のいない霊夢は知る由もないが、最近夜な夜な幻想郷の主ある人妖が何処かに集まっていたりする。そこで語られるのは、専ら己の主人がどうだ、とか今日はこんなことをしていた、とか。比較的月日の浅い集会ではあるが、会は既に第7回を数える安定したものだ。

 従者の苦労は同じ立場の者にしか分からないということで、少女達は皆とても仲が良い。アドバイスし合ったり誰かの愚痴を聞いたりと、仕える人妖にとっての必須コミュニティとなりつつあるのだ。

 

「友達がちょっと困ってるの、まぁ話を取り敢えず聞いてあげてよ」

 

「ったく、しょーがない。ほら衣玖、話してみなさい」

 

「ありがとうございます。実は総領娘様なのですが」

 

 永江 衣玖も従者同盟の構成員なので、当然誰かの下に付いている。その誰かさんについての相談を持ってきたのだが、霊夢はすぐにうっ、と表情を苦々しく歪めた。

 霊夢とて、総領娘様こと比那名居 天子を嫌ってはいない。ただ、奴が関わってろくなことは無いと知っているので、名前が出るだけで嫌でも警戒はしてしまうのだ。気持ちは痛い程に分かるので、衣玖もそれを窘めたりできない。だってお目付け役が、1番振り回される可能性が高いんだもの。

 

「端的に言いますと、精神を病まれました」

 

「はぁ?」

 

 擁護はしない、というかできない。幻想郷の要石たる博麗神社を気紛れに地震で倒壊させるなど、付き人補正込みでも正気の沙汰じゃあないわけで。そのせいで紫の不興を買い、ぎったぎたに叩きのめされたのだが、今にして思えばよくもまぁそれだけで許してもらえたなぁ、と。両者が接触したと知った瞬間から、衣玖は助命の嘆願書を書き始めたくらいだ。

 そんな傲岸不遜を地で行く天子だが、最近はその不遜さに翳りが現れている。いや、翳りどころではない。丸ごと帳を下ろされて、何も見えなくなってしまっている。

 

「疑って当然です。私自身信じられない部分もありますから。まさかあの方が、僅か数日で急にだなんて」

 

「とても想像できないけど……理由は分かってるの?」

 

「理由と関係があるかは不明ですが、気になることは1つ」

 

 まさかあの天子が、妖夢も素っ頓狂な声をあげた。彼女のことは良く知っている、何せ天界から真下に行けば冥界に辿り着ける。ちょこちょこ遊びに来るし、その度に常世の霊と何かしらで揉めるものだから要注意人物としてマークしている。流石に衣玖には言えていないが、そろそろ本人にはきつめに注意しなければと考えていた矢先の出来事に、驚きを隠せない。

 

「実は、何処からか手軽な呪いとやらを仕入れたようなのです。今日の夜に実践してみる、と仰っていたのが4日前でした。その翌日から総領娘様に異様な気が付随し始め、時期を同じくして人目を避けるようにもなりました」

 

「いやそれが原因、つーかそれでしかないでしょ。んで、その呪いってのは?」

 

「鏡に映った自分にお辞儀をし、それから右を向く。確かそのような内容だったかと」

 

「成程ねぇ」

 

 数多の呪いに触れてきたベテランとして言うならば、それだけで呪いになるとは思えない。お辞儀の意図がなくとも鏡の前で下を向くことは珍しくないし、その後で右を見たって何もおかしくない。恐らく、他に何か要素があるはずだ。衣玖の知らない、天子しか知らない隠された引き金が。

 

「今の総領娘様は、異常と形容する他にありません。食事は摂らず、三日三晩起き続けているせいで体力はもう限界でしょう。……様々な因縁があることは理解しておりますが、私にとっては主人なのです」

 

 どうか、1度総領娘様を見てはくれないでしょうか。深々と頭を下げられ、霊夢がたじろぐ。天子が心配なのは理解できたけど、彼女としては茶化す余地が欲しい。本気の頼み事って、意外に慣れていないものだ。

 

「あー、分かった。分かったから頭上げて落ち着かない」

 

「霊夢らしいね」

 

「ほっとけ」

 

 紫から任された仕事は、一旦置いておこう。直接舞い込んだ依頼を後回しというわけにはいかない。巫女業はダイレクトな依頼を優先する。

 最悪その呪いとやらを祓う必要があるので、装備のチェックも忘れない。お祓い棒よし、札の数よし、針よし。完璧だ、首を洗って待っていろ呪いとやら。ちょっと畏まりそうになったこの緊張感、いかでか貴様で晴らさんや。

 

「神社、見とこうか?」

 

「それは藍に任せるから良いわ」

 

「分かった。じゃあ、私は帰ろっかな」

 

「いや、あんたも来るのよ?」

 

 ……えっ。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「うひゃー。相変わらず何にもないとこねぇ」

 

「神社よりましでしょ」

 

「ぶっ飛ばすぞ半人前」

 

「何よ堕巫女」

 

 到着早々、巫女と剣士がいがみ合う。妖夢から喧嘩をふっかけるのは中々無いレアケースだが、ついでだからと天界まで連行されればそりゃまぁ一言物申したくもなる。

 ばちばちと各々の得物に手を掛けて視線を戦わせる2人に、衣玖はどうして良いか分からず微妙な目を向ける。少女の軽い感じで始まる突発的な諍い(お遊び)に、彼女はまだ疎い。

 

「妖夢、先程も言いましたが貴女は来て頂かなくても良かったのですよ」

 

「従者同盟規則第2条『友人の主を敬え』」

 

「優しいのですね」

 

「規則は守るためにあるのよ」

 

 幻想郷有数の常識人が言うと、重みが違う。規則を破るべき盾みたいに考えている輩の多けれど、そこで盾を貫く矛の鋭さは求められていない。時に越えていくべき制度があるのは道理だが、何でもかんでも超越していたらルール制定が追いつかないではないか。

 規則遵守派の妖夢にとって、従者同盟の会則は軽んじるべからざるものだ。それ以前に悩める友を見捨てる狭量さは備えていないつもりだが。

 

「総領娘様は、ご自宅にいらっしゃるはずです」

 

「よし、行きましょう」

 

 霊夢に呪いを解いてもらい、その後冥界探索における数々の揉め事メイキングについて小言の4つや5つ程ぶつけさせてもらおう。まだ彼女のご主人様があらあらまぁまぁとぽやぽやしてくれているうちに、事を穏便に収めたいのだ。動かれたら最後、冥界を舞台にした超人と亡霊姫の戯れで地形が変わる。その修復に駆り出されるのが誰かなんて、言うまでもないことである。

 いざゆかん、勇壮に1歩目を踏み出した妖夢。さて何と言ってやろう、もとい差し上げようかと頭の中で小言の羅列を吟味する。脳味噌桃に詰まってるんですか、おぉこれ中々の煽りになる。善き善き、採用決定。

 

「霊夢?」

 

「……」

 

 この調子でじゃんじゃか説教の文言を考案……じゃなかった、天子の自宅を目指していこう。今日のメインイベントはあくまで彼女の不調を解決することである。できることは少なかろうが、霊夢のささやかな手伝いくらいできれば良いなぁ。首を振って心機一転、新たな気持ちで歩き出そうとしたのだが、お祓い棒がそれを止めた。

 

「どうしたの、いきなり」

 

「衣玖」

 

 ここから先に進むな。そう言わんばかりに道を遮るお祓い棒を、困惑しながら彼女と交互に見るが、妖夢に背を向けたまま黙して何も語らない。ややあって漸く彼女が発したのは、短く冷たいたった1単語に過ぎなかった。

 

「あんた、体が重かったりしない?」

 

「いえ? 特にそんなことはありませんが」

 

「そう」

 

 声色が、真面目だ。無感情なのは普段通りだけれど、言葉に緩みが無い。ぴんと張り詰めた、切れる寸前の弦のような緊張を感じる。

 妖夢には異常の気配を察知できない。でも、何かが起こっている。霊夢の態度や言葉が、それを無言のまま雄弁に説明している。すぐさま気を引き締めて、彼女の続く言葉を待つ。

 

「近づかない方が良いわ。特に衣玖、あんた自覚ないだけで()()()()()()()()()()

 

「……何ですって?」

 

「あんた達に分かりやすいように『視線』って言うけど、今私は視線を感じてる。でも見られてるのは私じゃなくて衣玖、あんたよ」

 

 2人に背を向け、なお霊夢は淡々と現状を述べる。もしかして、お祓い棒は境界の役なのか。恐ろしいパワーから妖夢達を隔絶させている、最後の砦であるのか。だとすれば、霊夢が感じている不穏とは。そんな想像がふわりと頭に浮かんで消える。

 

「妖夢、衣玖連れて神社に戻りなさい。衣玖は私が帰るまで神社から出るんじゃないわよ」

 

「霊夢、もっと詳しく」

 

「その時間があればそうしたけど」

 

 ……意識が飛ばなかったのは、偶然でしかない。ただそうなる運命になかったがために、妖夢はぎりぎりで踏ん張った。本当にそれだけの話だ。ほんの一筋でも運命のレールが左右を走っていたならば、彼女の記憶はここで一旦断絶していただろう。

 

 妖気と呼ばれるものを妖夢も知っている。妖怪やそれに近い物の怪が放つ内在エネルギーのことで、基本的に高位の妖怪になる程発する妖気は強大になっていく。この原則に従って評価するなら、あの怪異は化け物だ。魂魄 妖夢という何十年も生きてきた長命な少女の歴史の内に、ここまでの怪物はいなかった。

 時に恐怖することを鳥肌が立つ、と表現する。()()()()()()()()()。全身の毛を一気に引き抜かれたような、鋭い痛みさえ伴う怖さに襲われた。胃の内容物が喉元までせり上がってくるのが分かる。咄嗟の反応で喉に力を込めて、口への逆流を食い止める。見ようによっては滑稽に映るであろう妖夢の狼狽ぶりを、しかし誰も笑うことはない。

 

「ご生憎様、状況はこんな感じ」

 

「……ッ」

 

「あ、あれは何」

 

「怪異ね」

 

 それも、とびっきりタチの悪い。歯噛みするような苦々しい物言いは、霊夢をして厄介と認識させる怪異の出現を意味している。

 そんな怪異を霊夢だけに任せるなんて、非道な真似ではないか。衣玖を帰すとしても、せめて自分だけは残って彼女の補助に徹するのが筋というものではないのか。彼女への反駁の言葉が仄かな酸の香る口内に準備され、いつだって発声は可能となった。

 

「衣玖、行きましょう」

 

「ですが」

 

「大丈夫、天子なら霊夢が助けてくれるよ」

 

 それら全てを体の中に捩じ込んだ。義理だとか人情だとか、そんな高貴の皮を被ったくだらない足枷を力の限りに引きちぎった。

 本音を言うなら、妖夢は悔しかった。それはもう、歯軋りを意識して抑えなければいけないくらいには。役に立てない、力になれない。危険に臨む友人の隣に立つことができない辛さ、悔しさは言語に絶する。

 

 それでも、霊夢の足を引っ張るわけにはいかない。真に彼女を慮る唯一の方法は、尻尾を巻いて全速力でこの場から逃走することだ。妖夢の極めて個人的な事情による悲痛な覚悟は、衣玖にもはっきりと伝わった。

 

「……すみません、総領娘様をどうかよろしくお願いします」

 

「はいはい。報酬は弾んでよね」

 

「必ずや」

 

 固く頷き、そして2人は来た道を戻っていく。天界に残されたのは、お祓い棒で肩を叩き嘆息する少女。まだ幼さの多分に残る肉体からは、一端の歳を重ねた苦労人の如き気配がぷんぷん漂っている。

 

「冗談って知らないのかしら」

 

 独りごちてから力の根源へと歩き出す。異なる妖気が激突し、その度に生じる波動が物理的衝撃となって霊夢の髪や服を揺らす。どう低く見積もっても双方共に八尺様を上回る強力な怪異であり、短期らくらく決着なんて望むべくもなくて。

 

「はー、骨が折れるわぁ」

 

 博麗 霊夢の()()()()1()()が、ここに幕を開けた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「うわっ……凄いね、これは」

 

 冥界と現し世の出入り口が見えてきたが、それでも上から僅かに衝突する2種類の相容れない力を感じる。法外な出力だ、形振り構ってなどいられないのだろう。霊夢も、そして怪異も。

 

「怪物合戦ね、とても割って入る勇気はないなぁ」

 

 今日は何の偶然か、彼女の主が友人の元へ遊びに出かけている。帰りは夜になると言っていたし、まだ当分は向こうにいるはずだ。最近は仕事もほっぽって遊んでばかり、従者の身ながら苦言も呈したくなるが、神社への退避に一意専心できるのだけは有り難く思えた。

 ちら、と隣に目を向ける。同じ杯で酒を飲んだ仲間が、口を真一文字に引き結んでいる。顔は正面に固定されたままで、まるで動き方を忘れてしまったようにも見える。

 

「衣玖、貴女霊夢を心配し過ぎよ」

 

「行き過ぎることはないのでは。彼女の強さは知っていますが、これは」

 

 (ゲート)を抜けて、現世の未だ緑に覆われた世界が目の前に姿を現す。ぱたりと霊気も妖気も感じられなくなり、無意識に詰まっていた息が吐き出される。それは安堵にも悲観にも分類し難い、強いて属性を設けるなら不安の2文字を与えざるを得ない震えた吐息だった。

 衣玖が心配する気持ちもよく分かる。かく言う妖夢自身、今回はあっさりいかないと考えている。如何に人智を超えた巫女である霊夢でも、油断禁物の大敵だ。

 

「霊夢が負けるはずないわ」

 

 妖夢は何度か霊夢の戦いぶりを見たことがある。そして、1度実際に手を合わせたこともある。金髪の魔法使いとほぼ引き分けのような形で勝負を終えて、生者も存外一筋縄ではいかないものだと認識を改めての戦いだった。結局、彼女は再度認識に改訂のメスを入れる必要に迫られた。

 

 紅い霧を晴らすため、西洋の悪魔を降した。

 冥界の姫を倒し、幻想郷に春を呼び戻した。

 月人を退け、終わらない夜を終わらせた。

 

 ほんの一例だ。他にも神を撃破しているし、地の底にも潜ったし、この前なんか月にまで足を伸ばしていた。連戦連勝、破竹の勢いで勝ち続ける霊夢に『敗北』の2文字はそぐわない。

 

「貴女には盲目な信心と見えるのかも知れないけど、でもあいつは、確かに私達を盲目にさせる程眩しいかな」

 

「……とても、良い関係ですね」

 

「そう? あはは、何だか照れちゃう」

 

 言ってしまえば、負けそうな気がしないというだけの話になる。根拠は心情ただ一つ、物的証拠は何も提出できない。とはいえ充分だろう、負けなさそうに見えればその人妖は大抵勝つ。疲れたーとか愚痴を零しながら帰ってくるだろうから、熱いお茶でも用意してあげれば良いのだ。

 

 いつか霊夢と肩を並べて戦えたら。時折そんな物思いに耽けることがある。魔理沙は口外していないけど打倒霊夢の意志がありありと見えるし、早苗だって同じ巫女として対抗意識を持っている節がある。

 

 そんなことができるのは、それこそ大妖怪くらいだ。八雲 紫や風見 幽香、里の幼子でも名を知る頂点級の猛者だけに彼女の相棒は務まるのだと思う。少なくとも今の妖夢では、逆立ちしたってこの領域にはいられない。

 まだ夢物語、されど現に実らせたい願い。もう肌をざわつかせない戦争じみた激闘に思いを馳せる。

 

「そこな2人、止まってください」

 

 半ば以上持っていかれていた意識が、ふと中へ帰る。誰に呼ばれた、慌てて周囲を見渡すと用ある者が後ろから彼女達を追いかけてきていた。顔見知りだったので立ち止まり、到着を待つ。

 

「あれ、仙人さん」

 

「こんにちは。そちらの方、どうされたの?」

 

「分かるんですか?」

 

「こんなに邪気を纏っていて、見えないはずがないわ」

 

 じーっと衣玖の肩に視線が集まる。妖夢には見えないのだが、良くない気配は彼女の肩付近に憑いているらしい。これが霊夢の言っていた『見られている』というやつの悪影響なんだろう。認知していなくても、相手に見られただけで酷い置き土産を残されるとは、幾ら何でも質が悪過ぎる。

 

「元凶と霊夢が、今戦ってます」

 

「そう、霊夢が。詳しい事情はあの子から聞くとして、そちらの方の悪い気は放っておくわけにはいかないわね」

 

 着いてきて。促す声に従って、彼女の後ろを飛ぶ。何処に向かうのか聞くと、博麗神社だそうだ。彼女達も向かっていたので、丁度良かった。

 神社で邪気祓いをする、桃色の髪をたなびかせる女はそう言った。そういうのは神職の仕事であるはずだが、彼女なら不思議な術で巫女や神主を模倣できるのだろう。大陸の意匠が散りばめられた真っ赤な服を追いながら、ぼんやりと納得した。

 

「あの、今更ですが貴女は」

 

「あぁ、申し遅れました。茨華仙(いばらかせん)、山の仙人です」

 

 髪を纏めるシニヨンキャップが、会釈の動作に合わせて動く。いつ見ても独特な被り物だと目が引かれるが、これも仙人としては普通の装いなのだろうか。仙人事情に詳しくない妖夢に、その辺りは良く分からない。

 道すがら、華仙に大まかな事の経緯を説明しておく。天子とも面識があるようで、呪いに苦しんでいると知った時には少なからず驚きを見せた。それでも最初から最後まで口を挟まずに妖夢の話を聞き終えた彼女は、ややあった思案の後に口を開く。

 

「永江 衣玖、貴女に憑いてしまった気は非常に悪質なものです。そして恐らく貴女自身はそれを把握できていない、そうでしょう」

 

「はい」

 

「やはり。……実は、私にはその気の持ち主に心当たりがある」

 

 誤解を招きたくないかのような、慎重に言葉を選んでの、大胆な告白だった。多少なりとも華仙が知る怪異ということだ。風の噂で耳にしたのか、それとも実際に遭遇ないしは戦闘に発展したのかまでは突っ込めなかった。

 

 いつの間にか眼前には流造の様式を持つ建築が構えられており、奥の方に赤く塗られた鳥居も鎮座している。無事に神社まで到着できたことに胸を撫で下ろしていると、建物の中から臨時の家主代理が姿を見せてきた。突然の多人数での訪問にも嫌な顔などせず、きりりと締まった表情をふわりと緩めてくれる。

 

「おや、妖夢。それに山の仙人殿と永江殿まで」

 

「八雲 藍。分かるわよね」

 

「……ふむ」

 

 こちらへ。微笑みを崩さないまま、一同を招き入れる。手を前で組み、その位置が胸に接触する真下であることをさも絶対の法の如く遵守する藍は、均整の取れたと表現するに相応しかった。まるで秀逸な絵画の登場人物(モデル)が絵を抜け出したかのような、一種の非現実的な錯覚さえ働く。

 美しい後ろ姿は参拝するための広場になっている場所で立ち止まり、再度妖夢達を振り返る。衣玖だけを前に出し、何処そこに立つよう詳細な指示を寄越す。神社の中では最も遮蔽物の無い開けた場所なので、何かそれなりの規模を要する行為に及ぶのではないか。先程華仙が神社で邪気祓いをすると言っていたので、恐らくそれだろう。

 

「仙人殿、私がやるがよろしいか?」

 

「どちらでも。目眩しができれば関係ないでしょう」

 

「然り」

 

 依然笑顔を保ち、衣玖の後ろにぴたりと沿う形で立つ。困惑したようにちらちらと覗く彼女に大丈夫だと短く伝え、そっと右手を肩に置いた。ぴくん、と微かに跳ねたものの、自分に付着している悪性の気配をどうにかしてくれるのだと推察ができているので拒まない。

 

「少し息苦しいかも知れんが、我慢してくれ」

 

「は、はぁ」

 

 返事をしながら、衣玖は首を傾げる。氷の妖精でもなし、人妖の手はこんなに冷たいものだったか。藍が前人未到の冷え性ならまだ辛うじて分からないでもないが、この前ふとした拍子に触れた彼女の手はほんのりと熱を帯びていたと記憶している。酒による血流の向上を加味したとしても、低体温に属しているとは考え辛い。

 はっ、と後ろの視線が気になった。傍から見れば肩に手を掛けられて首を捻っている妖怪だ、変な行動をする輩だと訝しまれているかも知れない。そう思うと、途端に恥ずかしさが込み上げてくる。ぴんと背筋を伸ばして、しかし唯一僅かに伏せられた顔には薄く赤みが差していた。

 

「──!」

 

 唐突に、全身を電気に貫かれたような衝撃が走る。痛くはないが、お腹の奥からじわじわと不快感にも似た感覚が滲み出てくる。反射的に藍の手を振り払おうとしたが、どちらの手も神経が途切れたみたいに衣玖の意思を無視した。

 腕だけではない。足も頭も、全身ありとあらゆる部位が震えることすらできなくなっている。それでも思考は通常と相違なく……少なくとも衣玖はいつも通りと認識できる明瞭度で流れていく。これなら少し痛い方がずっとましだ、早く終われと心の中で切に願う。

 

「ほんの欠片でこれか」

 

 ──ぱちん。

 どれ程の間、金縛りにあっていたのか。時間の感覚が奪い去られていたせいで、1時間と教えられてもそれを信じ得た。太陽の位置も影の向きも、殆ど変化していないので実際にはほんの数分にも満たない短時間の出来事だったに違いないけれど。

 耳元で弾けた音が聞こえた気がして、その瞬間に衣玖の体は戒めから解き放たれた。止まっていた呼吸の機能が復活して、初めて息苦しさを知覚する。予想していた息苦しさと違う、文字通り酸素の欠乏による気怠さだとは思っていなかった。もっとこう、何と言うか、比喩的な表現だと思っていたのに。急ピッチで肺に新鮮な酸素を送りつつ、ちょっぴり恨めしげな目で藍を見据えた。

 

 背を丸め、苦笑いを返される。事前に言っておいたとでも弁明したいのか、でも詳しい説明が為されるべき件だろうこれ。無論悪いものを退けてくれたのには感謝するとして、それはそれだ。今度同盟のメンバーで集まった時には、軽食の1つでも奢ってもらわなければ釣り合わない。

 

「あぁ、そうそう永江殿。霊夢が帰ってくるまでは、神社でゆっくりしていくんだぞ」

 

「結構ですっ。天界はまだ無理でしょうけど、里で時間を潰せば」

 

「ん? いや、そうじゃなくてな」

 

 ひらひらと手を振り、衣玖の言葉を遮る。それから清めた肩を指さして一言。

 

「それ、()()()()()()()()()

 

「……えっ?」

 

 衣玖は初め、ぽかんとした。いや祓えていないって、ではさっきの簡易的な儀式はどう説明がつく。彼女は次に、少しぎこちなく笑った。貴女が冗談なんて珍しいですね、と。

 藍曰く、冗談でも何でもないらしい。まだ目をつけられているのか。嫌な汗が額を伝う。

 

「仙人殿も言ったが、今のはただの目眩しだ。神社にいれば再度捕捉される危険は無いが、1歩でも出てしまえばその限りではない」

 

 もう1回あれをやるのは嫌だろう。顔の引き攣った衣玖に、些か戯けての忠告をしておく。前提から根こそぎひっくり返された衝撃に、こくこくと頷くことしかできなかった。

 わざわざ呪いの一部を憑いたまま残しておく理由は思いつかない。つまり、藍をもってしても除去し切れない非常に悪質な気配が、現在進行形で自分に付き纏っている。見えも感じもしないから、と今まで余裕もあったけれど、事ここに至り漸く衣玖に恐怖の感情が芽生え始めた。

 

 今現在害を及ぼされていないだけで、これからどうなるかは不透明だ。意識したらすぐに、首元がぴりぴりと痒みのような痛みを訴えかけてくる。気のせいだ、緊張して感覚が過敏になっているだけだ。そう自分に言い聞かせて平静を維持する。華仙の目が肩から首元へ移ったのには、幸か不幸か疎いままに。

 

「藍、それの正体だけれど」

 

「おや。思い当たる怪異でもおありなご様子」

 

「えぇ。貴女もご承知の通り、外からやってきた怪異ね」

 

 最近は外の世界から流入してくる物の怪が多いと聞く。その度に巫女が出動しているせいで、以前よりも随分と忙しくなったんだとか。この前妖夢は、全く嬉しくなさそうな嘆きを当の本人から聞いた。田んぼに可愛げという概念を捨てた軟体動物が出たとか言っていたっけか。

 天子を衰弱させたというのも、そんな外来の怪異だ。結界を隔てた向こう側で独自の進化を遂げた怪異は、大なり小なり幻想郷のそれとは異なる点を含有しているはずである。時にそれは、度し難い恐ろしさとして少女達の目の前に突きつけられる。

 

「衣玖さん、天子は呪いの過程を踏んだのよね。鏡に向かってお辞儀をして、それから右を向くという内容の」

 

「はい。間違いないかと」

 

「む。仙人殿、それが呪いか?」

 

「私もそこに引っかかったんだけどね。多分呪いの手順自体は真よ、でも普通にやったところで怪異を呼び出すには媒体が足りないんだわ」

 

 何の力も無い一般人が降霊術を成功させられないのと、原理は一緒である。知は力なりと言うけれど、実際に祭り事や呪いを動かすエネルギーとはなり得ない。相応の下地を用意してやることで、儀式はやっと()()を発揮する。例えば丑の刻参りなら、対象に実行者の恨みが降りかかるわけだ。

 では、その下地となるものとは。人間の血だとか肉だとか、身も凍る凄惨な具物を用意する必要は無い。要求されるのはたった1つ、()()()()()()()()()()()()である。この人間が五体満足だろうが四肢を捥がれた芋虫の如き様相だろうがどちらでも良く、とにかく怪しい匂いがする生者こそが怪異の最も好む『餌』となる。

 

「あぁ。成程、繋がった。それで紫様が」

 

「恐らくはね」

 

「あの、私ちんぷんかんぷんなんですけど」

 

「あら、失礼。簡単に言うと、呪いに手を出す前に天子は何かをやらかしているかもってことよ」

 

 ほんの数秒で完了してしまえる手順で、頑丈な天人を精神的に追い込む強大な異常が出現した。この事実を鑑みれば、予め天子がかなり最悪に近い怪異とお近づきになっていたことは想像に難くない。危機がさらなる危機を呼び、結果として霊夢との正面衝突に発展したわけだ。本当に、どんな星の下に生まれたら斯様な問題製造機(トラブルメイカー)になるのか。当事者でもないのに、華仙は漏れ落ちる溜息を堪えられなかった。

 

「それで、怪異の正体に戻りましょうか。とある人間伝に聞いた話になるのだけど、今回天子が実行したのと全く同じ行為によって苦しめられる人間が、外界の都市伝説の1つに描かれているそうよ」

 

 華仙が最近懇意にしている道具屋に、ある人間の少女がやってくることがある。顔を合わせれば話し込むくらいには仲の良い2人なのだが、ほんの数日前に華仙は興味深い話を少女の口から知っていた。

 簡単にスリルが味わえるという触れ込みの元、その話を聞いた感想として、華仙は偽らざる正直な気持ちを伝えた。幸福主義の外界にしては全く救いが無い、と。少女が言うには、人間は想像の範囲内においてあらゆる生命を凌駕する勇敢さを誇るそうだ。

 逆転して考慮すれば、もしこの都市伝説が現実と化したならば……否、現実にあると露見したならば、物語の結末はさぞや慈悲深くなるのだろう。空想と実感の均衡を保って、脆いバランスの上に生きているのが人間なのだから。

 

「その名は、『リアル』」

 

 かなり皮肉なお名前ですこと。吐き捨てるかの如き唾棄の情が表層に浮かび上がっていた。



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其ノ破散 すくうもの

「よっ」

 

 投げられた何枚もの札が、自動で捕捉した標的を目掛けて突撃。およそ質量の軽い紙らしからぬ重低音が天界の一角を揺らす。向こうへ吹っ飛んでいった怪異を見送り、それから別の怪異と睨み合う。天子を庇うように立つ白い靄のような存在と視線が衝突し、無言のプレッシャーが高まっていく。

 静寂を切り裂いたのは、濁った茶色の泥状物質だった。伸ばされたそれぞれが、霊夢や天子を狙い殺到する。結界で、そして拳で次々に叩き落とされる。分かってはいたが、札の3枚や4枚で戦闘不能には追い込めない。

 

 戦闘不能というか、まず目立ったダメージが見受けられない。効いているのかいないのか、いまいち良く分からないのだ。声は出せるらしいので自己申告させても良いかも知れない。霊夢が理解できる『言葉』を話せるのかは不明だが。

 

「あっちはまぁ、ほっとくとして」

 

 天子の体から煙のように立ち上る半透明の霊的存在は、あくまで迎撃に特化しているらしい。逆に言えば、手を出さなければ敵対することはない、やや中立寄りの怪異だ。幸いというか、霊夢はまだこの酷く抽象的で言語化の難しい()()に攻撃を加えていないため、両者の関係性は中立である……確証を得られないのは妥協するとして。

 

 より問題なのが、顔中札だらけの死出装束野郎。女かも知れないが、どっちでも良い。こいつが三竦みを豪快に破壊している。

 この怪異の攻撃対象に、天子も霊夢も含まれている。酷い悪臭を放つ泥を自在に操り、実に様々な形状を持たせて殴ってくるものだから面倒極まりない。防御自体は然程難しくもないけれど、なにぶん息をつかせない手数で攻めてくるので中々攻勢に出られない。

 

 この悪臭、多分穢れの臭いである。穢れ祓いという巫女の仕事のうちで、これまで何度も経験してきた嫌な臭いととてもよく似ている。まさか穢れそのものを扱う奴が出てこようとは、月に送り込んでいつぞやの仕返しとでもしてやろうか。特に神をひょいひょい降ろしてくるあの剣士、あいつには是非とも一泡噴かせたい。

 

「それ、近づけるのやめてくれない? 臭いんだけど」

 

 結界越しでも鼻が曲がりそうだ。加齢臭と厠の匂いと腐った野菜を混ぜて3倍に濃縮したくらいの激臭である。霊夢は穢れへの耐性があるので臭いの被害だけで済んでいるのだが、これをラッキーと考えるのは至難の業だろう。耐性のあるなしに関わらず、嗅覚は変わらないのだから。

 どうして、どうして。男とも女とも言えない音域の掠れ声で怪異はぼそぼそと呪詛を吐く。どうしても何も、臭いからに他ならない。

 こんな時に紫でもいれば、あの反則的な能力で一瞬のうちに片がつくものを。何で私がこんなに苦労して倒さなきゃいけないのか、無性に腹が立ってきたので結界を勢い良く射出して化け物にぶつける。まさしく盾の攻撃的な利用方法だ。

 

 再度かっ飛ばされていった怪異を他所に、天子の状態を確認。心身の衰弱かはたまた別の理由か、意識は無いものの直ちに命に関わる弱り方はしていない。一先ず焦らなくとも良い、優先順位はあのぼろ衣野郎だ。巣食う人外から目を離したのとほぼ同時に妙案が浮かんできた。

 

「あいつら戦わせとけば」

 

 偶然にも、怪異同士の力はほぼ水平に拮抗している。どちらが勝ち残ったとしても、少なからず疲弊しているだろう。馬鹿正直に2体とも相手にしていたら、幾ら何でも霊夢の方が持たなくなってしまう。

 さぁ、同士討ち(フレンドリーファイア)で削り合え。戦場からそっと離脱して、良さそうな頃合いを見計らって漁夫の利を掻っ攫うとしよう。

 

「……えぇ……」

 

 頭を使った体力温存の作戦は、しかし先手を打たれて水の泡と化してしまった。ぎりぎり霊夢が抜けられないくらいの檻で三者を纏めて囲うとは、梟みたいな呆け面に見合わず賢しい真似をしてくれる。頭脳戦などするな、ほーほー鳴いて滅されろ。毒づくも後の祭り、これにて彼女は強制的に化け物共との真っ向勝負を強いられることとなった。

 何故そうなる、ただ楽をしたいだけなのに。ぷるぷると震えていたが、怪異は気が落ち着くのを待ってくれる程有情ではない。慌てて攻撃を避け、ここで霊夢の蜘蛛糸めいてか細い堪忍袋の緒が勢い良くぶち切れた。もし彼女の近くに誰かいたなら、その音を正確に聞き取れたかも知れない。

 

「あーもー、分かった分かった! やれば良いんでしょやればっ!!」

 

 霊夢の怒りようたるや、凶悪な龍が猛炎を吐くかの如きであった。面倒、手こずる、臭い、挙句の果てに直接対決が不可避ともなれば怒りも心頭に達して然るべきだ。ある意味この人外達は己を誇っても良い、ここまで彼女を激怒させた妖怪怪異は未だかつていなかったのだから。

 強力な一手だからと温存していた針を取り出し、2体に向けて投擲する。いよいよ出し惜しみは無しだ、全力を挙げて双方を物理的に消滅させる。あらゆる感情は強まると妙ちくりんな脳内物質を放出させるようで、霊夢の頭から『本気になると疲れる』とか『形振り構わないのは少し恥ずかしい』とかいう思考が本人未確認のうちに弾き飛ばされる。これにて戦場の構図は、さしずめ羅刹と餓鬼と不動明王の潰し合いと相成った。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 突如衣玖を襲った首の腫れも、藍達の処置により大分引いた。妖夢から濡れた布巾を受け取り、首元に当てるとひんやりしていて気持ちが良い。初めは空気に晒されることすら激痛をもたらしたけれど、今ではこうして布を接触させても痛みが無いくらいに快復した。

 未だに首からはちくちくと体を苛む痛みが発信されるが、この間だけは忘れていられる。治るまでずっとこの布巾を巻いていたく思う。残念ながら水分は抜けていくものなので、一旦冷水補充のため布巾を妖夢へ譲渡。すぐさま幅を利かせてくる微痛に、代わって衣玖の表情が仏頂面になる。

 

「良かった、かなりましになってるよ」

 

「そうですか。……すみません、汚いものを触らせてしまって」

 

「気にしないでよ」

 

 好きでやってることだからね。ぱしゃぱしゃと洗い、再度衣玖の首に巻き付けてから水の交換に向かう。腫れた部分から血や膿が出たりもしていたが、もう殆ど収まっている。もうあと数時間もすれば、腫れまで完全に引いて消えると思われる。

 華仙の知る『リアル』についての情報は、断片的なものだ。それでも関わる者は知っておいても損などあるまい、上手く掻い摘んで話そうとした矢先に衣玖が苦しそうな呻き声をあげたものだから一瞬何事かと皆が固まった。膝から崩れ落ちて、首を押さえて悶える彼女を、妖夢が何とか寝室まで運び込んで看病を始めたのだ。

 

「衣玖さん、きっと霊夢の方がそろそろ決着なんだわ」

 

「怪異の力が弱まってるってことですか」

 

「えぇ」

 

 彼女に付着していた邪気、恐らくリアルが飛ばしたのであろうそれが衣玖に悪影響をもたらしたと考えられる。遥か遠く天界からでも妖怪を蝕めるとは、かなりはっきりと目をつけられていたようだ。最も天子と共にいた時間が長いのが彼女なので、こればかりは仕方がないとはいえ、敵視を緩和し切れなかったという事実は藍に重くのしかかった。

 

「永江殿。気分は如何かな」

 

「お陰様で、随分と落ち着きました」

 

 その罪滅ぼしからか、藍は寝室の扉に自前の結界を設けた。悪しきものを退け、内部空間に清浄な空気を保持するための結界だ、効力は使用者を見ればお察しの通り。念には念を入れて、もう一度祓邪を執り行ってより一層の眩ましをかけた上での保護を突破するなど、絶対に不可能であると言える。

 

「そうか、それは良かった。……ところで衣玖殿、さっき紫様が外におられると伝えたのを覚えているか?」

 

「はい。調査、でしょう」

 

「あぁ。それなのだが、実は貴女の主人に関することで現在外界にいらっしゃるのだ」

 

「総領娘様、ですか?」

 

 紫の常ならぬ外出に、天子が関係していると狐は言った。思わぬ所で繋がった両者に、衣玖は驚きを隠せない。事態を把握していた華仙だけが、部屋において冷静を保っている。

 

「あぁ。呪いの手順を踏む前に、天子殿は何かに取り憑かれた可能性が高くてな。その調査だよ」

 

 そうだ、華仙が言っていた。呪いに手を出す前に、天子が何かやらかしたのかも知れないと。その『何か』の正体を掴むために、忙しい1日の合間を縫ってくれたというわけだ。神社の件と言い、つくづく彼女には頭が上がらない思いである。

 しかし、天子がやらかしたと仮定して、外に縁のある呪いを受けてしまうことがあるのか。外界の良くないものが何らかの理由で幻想郷へ進入し、不幸にも彼女が標的とされた。こう考える方が、自然ではないだろうか。衣玖の疑問には敢えてか言及することなく、藍は言葉を続ける。

 

「そいつが、本来呼べるはずのないものを呼ぶための強力な土台として機能したのだろう。『餌』と『魚』、両方祓って漸くこの一件は終結を見るのかな」

 

「天子に憑いたものに、心当たりは?」

 

「八尺様に襲われた天子殿を助けたという以外は、何も事を起こしていない。申し訳ないが私には見当もつかんよ。……だが、1つだけ私見を語らせてくれ」

 

 私見、彼女程に明晰な頭脳を有する式神のそれは著しく正解に近いものとなる。声は硬く、前向きな『私見』を聞けるとは思えなかったが。衣玖の予想は、悲運にも的中することとなる。

 

「あれは、悪だ」

 

「……」

 

「天子殿を守った、それは結果論だと思っている。宿主を外界の脅威から守る、もしくはたまたま守った屈強な寄生虫。決して彼女を救うものではない。巣食うもの、なんて言い得て妙だろうさ」

 

 救うのではなく、巣食う。聞けば同じ、実態は真逆。厄病神みたいな存在なのだろう、確かに1度は天子を守ったが、その後とんでもない怪異を誘き寄せたことから衣玖も藍の提言する説に同意できる。

 

「寄生虫が成長して、最早隠れる必要を失ったら」

 

「私もそれを考えていたよ、華仙殿。幼体という表現が正しいのかはさておき、未成熟な状態で既に八尺様を追い払う化け物が、完全に成熟したとなれば大事だ」

 

 八尺様なる妖怪は知らないが、彼女の口振りからしてのっぴきならない厄介な輩であるようだ。それを寄せ付けない異常な怪異が、未だ成長の途にあるとは考え難いのではないか。いや、或いはそう考えたくないだけなのかも知れない。理解の及ばない領域に、思考を巡らせたくないという本能的な防衛反応とも取れる。

 いたら困るものがいないとは限らない。現に、自分の主人がそれに苦しめられている真っ最中なのだから、否が応でも実在を肯定せざるを得ない。直視したくない現実とは、得てして見えなければ凄惨な結末を及ぼす残忍な殺人鬼の如し。

 

「母体を食い破り、これまでの鬱憤を晴らすかのように暴れ回るのかも知れない。現状では推測以上のことは言えないが」

 

「まだ蛹であるうちに退治しておかないとね」

 

「然り。羽化は避けたいところだ」

 

 只者ではない仙人と賢者の式神が、揃って警戒する危険な怪異。さらに今回天子と衣玖へ牙を剥いたあの恐ろしい邪気の元凶までもが現在天界に跋扈している。双方を相手取る霊夢の負担は、衣玖の想像を絶するものである。

 命に優劣をつけるべきではないが、霊夢はその立場上絶対に死んではならない人間だ。博麗の巫女は幻想郷の調停者にして、異変を解決する英雄。決して道半ばにして息絶えさせてはならない、衣玖が言うのもお門違いの感を否めないとはいえ、紛うことなき事実である。

 

「藍さん、手伝いに行った方が」

 

「そうしたいのだが、生憎主命がな」

 

「主命って、それで霊夢さんが危ない目に遭ったら取り返しがつかないじゃあないですか!」

 

「永江殿の言う通りだ」

 

 巫女の危機を排除する、彼女の意見は至極普通で正鵠を射ている。かく言う藍だって、主従の隷属を振り切ってしまいたい気持ちが無いわけではない。単なる巫女以上の大切な人間のことを、できるなら守ってやりたい。抗議を多分に含んだ彼女の反駁は、鋭く尖って襖越しに藍を貫いた。

 

 だが、藍はここを離れられない。紫にそう言いつけられているから、そして彼女が神社を発てば衣玖を守護する結界を維持できないから。

 空気を読んできっとこう言うだろう、私にかまわず行けと。それができるならどれだけそうしたいか、でも次に降ってかかる悪影響が首全体の腫れを下回るなんて保証はない。現実的な思考に立ち返った時、JOKER(ババ)を引く確率が最低値を記録すると思われる選択肢は、『神社に残って彼女の保護に徹する』である。

 

「ある1つのケースを除き、私があの子に干渉することは許可されていない」

 

「1つのケース?」

 

「詳細は控えさせてもらうが、その場合にのみ私や華仙殿は動くとだけ教えておこう。……大丈夫だ、霊夢は負けないさ」

 

 霊夢が負けるとは思わない。何せ、そこらの大妖怪なんかでは歯が立たないくらいに強くなったもので。幾名かに露払いを任せていたそうだが、ほぼ1人で両面宿儺を捩じ伏せたと聞いた時には流石に呆れてしまった。藍が同じようにやれと言われて、できるかどうかはかなり怪しい。死ぬ気を振り絞って何とか、と言ったところだろう。

 そんな実力ある彼女は、よくお腹が空いたと愚痴を零しながら神社に帰ってくる。藍がいればご飯を作るし、聞くところによると紫も台所に立つことがあるとか。主従揃って人間に使役されるとは、何かおかしい気がしなくもないが、今日だけは目を瞑って腕によりをかけてやろう。やれやれ、と溜息を吐く藍の口元は、緩やかに弧を描いていた。

 

 とたとた、と小走りで部屋に近づく足音が1つ。こけて床を水浸しにするなよ、とそこはかとない不安を募らせるが、幸いにも彼女は無事に桶を置いた。ほんのちょっとだけ息が切れているのは、友達のためにと急いだ証拠だ。

 

「よいしょ、替えの水持ってきたよ!」

 

 水から出したての布巾を、慣れたような手つきで巻いているものと交換する。井戸から汲んだ水とは、どうしてこうも冷たく心地好いのだろう。昂っていた衣玖の感情も、ひんやりと落ち着けられていった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ずどん、と横たわる『リアル』に封魔の針が突き刺さる。怪異の体を鮮烈な霊力が駆け巡り、ぼろぼろに崩れた穢れた身から一部が剥離し落ちる。普通なら問答無用で即死の痛撃、しかし一筋縄でいかないのが今回の敵だ。自力で胴体を縫い付ける針を抜き、よろよろと起き上がった。戦闘が始まった頃とは似ても似つかない、血も凍る冷酷な視線が霊夢を射抜く。

 

「相当効いてるのは分かってんのよ」

 

 遅きに失した、この一言に尽きよう。最初から霊夢を本気で殺しにかかれば、チャンスは巡ってきた可能性がある。実際、『リアル』にはそれだけの力があるし、増して今回は上手く利用できれば心強い第三者がいるわけだ。ちょっとした気の持ち方の差で、結末は反転し得た。

 

 普通の人間であれば、取り憑いてから時間をかけてじわじわと苦しめて弱らせる。その後に命を奪うのか、それとも寿命の限り苦しめ続けるのかは定かでないが、1度目をつけられてしまうと無力な民衆に逃れる術は無い。

 怪異が戦うのは、取り憑いたり呪いを付与したりといった本分では堪えない相手が現れた時のみだ。本領で勝負をけしかけるのが普通で、通用しないと判断したならば第2段階として物理的な戦闘での排除を試みる。そしてそれは、大抵の場合成功する。そもそも人が恐れるから怪異が生まれるわけで、身も蓋もない言い方をすると彼らは恐怖そのもの、人間の天敵だ。雀が大鷲に勝てる確率など、零にも等しいのだと誰だって理解している。

 

 それでも、通例があれば例外も発生するのが世の常。神職や祈祷師、呪術師、その他にも邪なるものを討つ例外的な人間は挙げれば暇が無い。彼らがいるからこそ人間は発展することができ、また何者にも襲われない平和な生活を享受できている。

 こと妖怪などの影響力が強い幻想郷には、実の所あまり人間の味方となる人間がいない。妖怪退治も邪気祓いも、ほぼワンマンもといワンウーマンで片が付いてしまうのだ。在野の退治屋を全て引っ括めても、まだ彼女の方が総合的に上を行くのだから、それはまぁ人間達だって命のやり取りがある危険な職なんて選ばないで農作業とか物作りに従事するだろう。

 

 女傑。様々な分野において極稀に現れる、男共の及びがつかないスーパーウーマンである。男の英雄に比べて登場する確率は低いが、その分なのか1人出てくればその分野にもたらす影響は、ともすれば男以上に計り知れない。博麗 霊夢とは、人でない奴らを相手取る巫女業における女傑である。

 

 軽やかなステップ1つ、蝶が花に惹かれるかのように、優しく静かな接近だった。

 

「っしゃあっ!」

 

 かつて幻想郷を騒がせたとある異変が起きた際、霊夢はその元凶を凄まじい蹴りでノックアウトした。誰だったか、その蹴りを目の当たりにし、あまりの破壊力と目にも留まらぬ振り抜きを恐れかくの如く名付けた。

 

 ──「天覇風神脚」と。

 

 天をも征する疾き蹴撃、下賎な奇体風情では耐えも抗いもできない。顎を捉えた柔らかい足首が、そのまま強烈なスナップで霊気と衝撃を弾けさせる。とても齢十と幾つかの少女が放ったとは思えない決めの一蹴が、ぐしゃあという粘着質な水音と共に『リアル』の頭を文字通り潰した。

 

「ふー……次っ!」

 

 今更その程度で怖気付く小心の乙女ではない。お祓い棒を構え、次なる標的へ一直線に駆け出す。接近を感じ取った怪異が顕在化し、迎え撃つ用意を整える。通常であれば迂闊には近づかず様子見に移行する場面、しかし霊夢は足を止めようともしない。そのまま懐へと突っ込み、2つの影が一瞬交錯する。

 

 決着は、この一瞬でついた。辛うじて受け身を取りながらも地面を滑り倒れた霊夢、そして未だ顔色の悪い不覚醒状態の天子。荒い息を吐き呼吸を正常化させるのに必死な彼女は、既に戦闘継続の意思を放棄しているようにも見えた。それはもう立ち上がる必要など無いことを、確実な手応えから悟っていたが故なのかも知れない。

 

「はぁ、ひー……む、無理もう無理……」

 

 珍しくも弱音を吐く。それだけ疲労困憊なのだろう。ここ最近撃破した相手の中でも三本指に入る強力な怪異を、何の因果か2体纏めて相手取っていたのだから、霊夢が疲れ果てるのも全くもって致し方ないことだ。

 両面宿儺の時と同等か、下手をすればそれ以上の重さが彼女の体を襲っている。内に秘める膨大な霊力の過半を使った代償は、軽い節々の痛みと併せて彼女を苛む。筋肉痛ともまた違う、明らかに肉体を酷使した証拠として体に刻み込まれたダメージに、指先がぴくんと跳ね上がるかのように震えた。

 

 明日はここに加えて、筋肉痛も嬉々として参戦を表明してくる。霊力は大体回復できるとして、それでも1日布団から出られない日となりそうだ。いっそのこと開き直って1週間くらい休みを取るのも乙か、相棒への交渉を真剣に検討する。何だって息をするので精一杯な程の疲労をたった1日で癒えさせなければいけないのか。こういうのは本来もっと時間をかけて、ゆっくりと自然治癒力に任せるものだ。

 

「あれ? 面白そうなことしてると思って来たのに」

 

 やや舌足らずなロートーンの声が、霊夢の思考を一時中断させた。首だけ億劫そうに動かして誰かを確認する。とは言っても想像通りの鬼だったが。

 

「あ゛ー゛? あぁ、あんたか」

 

「ちぇ、1歩遅かったねぇ」

 

 伊吹 萃香は先の異変が集結してから、天界にもちょくちょく足を運ぶようになっているらしい。理由は聞いたこともないが、恐らく並外れて頑丈な天人に興味でも抱いたと思われる。如何に彼らの肉体が強固であるとはいえ、鬼の攻撃にそう何度も耐えられる超合金ボディではないのだが、こればかりは実戦に及んでいないのを祈るしかない。

 

「送ったげようかい?」

 

「いらない。暫く休んで帰るわ」

 

「ん」

 

 天子が気絶しているのには、驚いたりしない。終わったことに関心は無いのが鬼の、そして萃香の気質である。近寄って生きているのかを確認しただけ、まだ彼女は鬼の中でも有情な方だ。これが同僚の怪力自慢なら、一瞥をくれてお終いである。

 

「そうそう。帰り道には気をつけなよ、仮にもうら若き乙女なんだからね」

 

「仮じゃなくて真っ当な女の子ですぅー」

 

「真っ当な女の子は大の字で寝そべらないよ」

 

 瓢箪から酒が出ると言えば、嘘と取られる可能性が高い。まさに嘘から出た真なのだが、唯一の問題点として鬼は嘘が大嫌いである。なのでこう言い換えよう、あれは出るべくして出た酒だと。

 無限の酒製を可能とする瓢箪は、大酒豪の萃香と相性抜群だ。いつ見ても瓢箪を傾けている気がしなくもない、現に自身を霧に変えて去る際でも口元には小さな注ぎ口がある。急性なんとか中毒でいつかぽっくりと逝くんじゃあないか、ふと魔理沙が喋っていた外の知識が浮かんできた。だからといって忠告する気は無いし、そもそも鬼は斯様に()()でない。

 

 萃香が天界を去ってから、霊夢は休憩に励んだ。休んでいるのに頑張るとはこれ如何に。体力の戻らなさそうなブレークタイムを経過させること約15分、立ち上がって歩いたりゆっくり飛ぶというような動作であればこなせるくらいには復活することができた。

 そろそろ行こう。天界の不純物を含まない綺麗な空気は、霊力を補充するにはうってつけだが居心地としては微妙極まりない。安らぎも落ち着かなさも寄越してくるあの感覚は、良い悪いで言い表すのはとても難しい。昼寝していたくもあるし、一方で一刻も早く立ち去りたくもある。

 

 取り敢えず神社に戻って惰眠を貪りたい。よって、近道で帰ることにする。天界の真下には冥界があり、冥界と現し世は曖昧な結界で接続されているのだが、実は天界の入口と現世の間にも結界が張られているのだ。位置的には非常に高所となり、存在をほぼ知られていない結界だが、冥界を経由していくよりも遥かに短時間・短距離で生者の世界へ帰還できるという優れたルートである。

 この結界を作ってくれた誰かには、頭が上がらない。見た感じ製作者は紫ではなさそうなので、きっと天界側から張られたのだろう。かなり距離の空いている両世界を繋ぐとは、大した術者もいたものである。

 

 結界を潜り抜けて、いつの間にか暗闇に包まれていた森を飛ぶ。ひやりと肌を撫でる夜風の涼しさに、いよいよ本格的な秋の気配を感じる。今年も天狗に頼んで、山で幸狩りをさせてもらおう。栗に松茸、秋の味覚は大抵あそこで沢山手に入るのだ。友人は来るなら来るで良いが、焼き松茸を肴に1人で楽しむ酒というのもまた別格の喜びである。

 

 あの香ばしい旨味が口一杯に広がるのを考えただけで、涎が出そうになる。今日はもう良いかと思っていた晩ご飯への欲が、俄かに再び熱を帯び始める。この空腹を無視して眠りにつくのは至難の業だ、せめて軽食でも胃に入れなければ次の日に待つのは筋肉痛と空腹と身体ダメージの3連打となってしまう。そう言えば胡瓜が何本かあったので、塩でもふって食べることにする。手軽にぱくっと食べられる、それでいて野菜のくせにやたらと美味しい逸品は霊夢お気に入りの1品である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 des.



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其ノ窮 姦姦蛇螺 ハジメ

「霊夢が大怪我ァ!?」

 

「はい」

 

 本日も晴天なり、きっといつも通り良い1日になる。天気に違わず晴れ晴れとした気持ちで友人宅を目指し飛んでいた魔理沙は、途轍もなくショッキングな第1報を受け取った。

 まさに訪問する予定だった神社の巫女が、大怪我を負った。種々の理由から、とても信じられる情報ではなかった。跳ね上がった心臓を抑えるように、胸に手を当てて深呼吸。頭に少しの余白を作ってから遣いの猫へ返事をする。

 

「な、何の冗談だ。心臓に悪いぞ」

 

「冗談ではありません。博麗の巫女は甚大な怪我を負いました」

 

 猫は八雲 藍が使役する式神である。所謂『式の式』という立場にある妖獣だ。普段は友人と遊んでいる姿を見かけることがあるが、主譲りなのか任された任務には忠実を保つ。そんな彼女が平時の快活さを潜めて事務的な連絡をする、その意味を魔理沙は直感的に悟った。

 

「ほんの数時間前に、漸く容態が安定しました。友人である貴女には伝えておいた方が良い、という藍様の判断で私が寄越されました。もしお手すきでしたら、是非お見舞いに」

 

「行く、神社だなっ!」

 

 悪戯や騙しの類いではない。とにかく神社へ行かなければ。そこからの行動なんて魔理沙に考える余裕はなかった。とにかく霊夢の元へ駆けつけなければいけないという先走った感情が彼女を突き動かし、式を瞬く間に置き去りにした。

 長閑な朝の幻想郷を、高速で星が流れていく。朝の光に打ち消されない強烈な輝きは、ほぼ最高速度で空を翔けている証拠だ。ともすれば瞬間的に天狗すら超えるスピードは、魔理沙を極めて短時間で博麗神社へ導く。

 

 速度を幾らか落として、それでもいつもやっているような安全第一の着陸とは些か似通わない。鳥居の前を数m滑り、跨る箒が完全に停止するより早く自らの足で走り出す。体に残る慣性によろめきながら、覚束無ささえ感じさせる足取りで屋内へと突入していく。

 

「おい霊夢っ……!?」

 

「あ、まりさ」

 

 相変わらずうるさいわね。毒づく声に、力が無い。だがそれよりも、視覚からの情報が優先的に認識された。顔から腕まであちこちに、無造作に木綿質の長方形が貼られている。包帯で隠れている箇所は全露出部位の過半にも及び、健康という言葉からは遠い血色が彼女の体内を流れる血の不足を切実に訴えかけてくる。

 

「おま、おまっお前どうして」

 

「しくじったの。言わせないでよ」

 

 端的に、それでいてぶっきらぼうに怪我の理由が説明される。しかし魔理沙は信じられなかった。妖怪退治において、霊夢が事を仕損じるわけがない。検討するのも馬鹿馬鹿しい、理論上確率が零でないというだけの空論である。

 相手が怪我人であるのも忘れて、ぐいぐいと詰め寄る。渋くなった表情には構わず、或いは気が付かないで、言うべきことも定まらないまま距離だけが縮まっていく。手と手が触れ合いそうな2人の距離に割って入ったのは、汚れ一つない真っ白な手袋だった。

 

「魔理沙、そんなにがっついたら霊夢が疲れちゃうわ」

 

「紫。お前も、怪我を」

 

「霊夢を逃がす時に、ちょっとね」

 

 着用者の手だけが、決して軽くはない傷でくすんでいた。霊夢のように包帯などで対処してはいないが、本来然るべき処置が為されなくてはならない程度の怪我だ。もしかすれば用意できる全ての医療的物品を彼女に使用したのかも知れないが、だとすれば一体どれ程の重傷なのか。白い寝間着で隠された肌に、如何程の損傷が与えられたのか。

 

「お前ら2人揃ってて、何で」

 

「私は物の数に入ってなかったけどね」

 

『リアル』と天子を蝕んだ怪異、双方の討伐は霊夢をして極限に近い疲労を強いられるものだった。漸く飛んで帰るくらいの体力が戻ってきたからと帰路を急いだのが慢心の現れだったのか。ふらふらと飛んでいた霊夢が最初に感じたのは、右脇腹への衝撃だった。

 

 そこからの記憶は曖昧だ。腕で思い切り地面へ叩きつけられた『ような気がする』し、ほぼ抵抗できない状態で執拗に吹き飛ばされ続けた『かも知れない』。怪我の度合いを見れば、どれだけ酷く扱われたのかは一目瞭然である。骨折箇所が肋の数本で済んでいるのは、奇跡としか言えない。

 

 襲撃をかけてきた相手の姿だけは、今でもはっきりと思い出せる。あんな面妖な姿を簡単に忘れる方が難しかろう。比較的絵心のある霊夢なら、頭にある正確なイメージをある程度は描き出せる。尤も、紫の介入が無ければ間違いなく命を落としていたわけで、自身の命を脅かした大敵のことを易々と思い浮かべたくはないけれど。

 

「皆、少し席を外してくれるかしら」

 

 霊夢に少し、話があります。紫の言葉に異を唱えることなく、傍らの狐は拱手して部屋を辞した。去り際にちらりと霊夢に視線を渡し、しかし何も言うことはなかった。

 魔理沙は枕元に跪いたまま、その場で動けなくなっていた。退出しなければならないのは頭で理解しているが、体が言うことを聞いてくれない。脳だけが独立した機関となったかのようで、首から下が本当に自分の肉体なのか確証を持てなかった。

 

「霊夢」

 

「へーきよ」

 

 ひらひらと手を振る動きで、魔理沙は戒めから解かれた。慌てて立ち上がり、帽子を拾って襖をそっと開ける。後ろ髪を引かれる思いで振り返ると、霊夢は溜息混じりに笑った。微笑が無理をして作ったようにしか見えなくて、でもどうしようもないことは他でもない彼女自身が1番良く分かっていて。逃げるように早足で暇を告げた。乱暴に閉めた襖の向こうにいる霊夢の表情には、思い至らなかった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「さて、霊夢。どうして()()と戦ったの?」

 

 油断した霊夢を咎めるような、冷静沈着な賢者らしからぬ口調だった。いや、『ような』なんて付随は余計か。紫は確かに彼女を咎めていたのだから。今まで数える程も無かった洒落にならないお叱りに、年相応の居心地悪そうな顰めっ面で目線を背ける。

 

「それが分かんないのよ。あんたの手紙にあった奴だって分かったから、取り敢えず神社に帰ろうとしたんだけど、どうにも気が乗らなかったというか」

 

「何を馬鹿な……いえ、それも含めて特性なのかしら」

 

 1度考え込むと長くなるのが紫の癖だ。真面目に思考を巡らせている手前、適当にすぱんと断ち切ってしまうのも気が引ける。だから霊夢は、いつも無心で待ちぼうけている。彼女が脳裏の海から陸へと上がってくるのを。

 何だかあの化け物を知っているみたいな口振りだ。十中八九どこかで情報を仕入れて、外界からでも幻想郷を監視していたのだろう。そんな中で霊夢が交戦状態に入ったものだから、調べものも資料も放って大急ぎで救援に向かったと思われる。紫の予定を大幅に狂わせたのは彼女も申し訳なく感じているが、何にせよ介入してきてくれて助かった。

 

「霊夢。これから貴女に、残酷な話をします」

 

 やがて深く暗い水の中を脱し、敢えて水平(フラット)な口調を維持して霊夢に宣告する。いつだったか、紫は彼女について、所謂残酷な話に怖気つかない子だと称した。実際その通りだ、恐らく話の中で人間が何人死のうが彼女は一向に気にも留めない。巫女は、少しばかり死という概念に慣れ切っている。

 だが、今回は気色が異なる。ただ酸鼻であるだけに留まらない、一方で霊夢に知っておいてもらう必要がある。だから事前に告知をしたのだ。彼女にとって……もとい、巫女にとって残忍を極める話になると。

 

「心の準備は良いかしら」

 

「急にそんなこと言われてもねぇ。ま、良いけど」

 

「では話していきましょう。まずあの異形について、あれは姦姦蛇螺(かんかんだら)と呼ばれる怪異よ」

 

 外で見つけた幾つかの口伝や資料を総合し、紫は今回幻想郷に迷い込んできた最悪にして最大の敵について、充分な情報を獲得していた。最も欲しかった『巫女は遠ざける』という情報を先んじて入手したことで、彼女もまた心に余裕を作ってしまったのかも知れない。

 霊夢の釈明から、この姦姦蛇螺には巫女を逃がさない何らかの手段ないしは性質が備わっている危険が出てきた。状況を甘く見て、不用意に外へ降りた失態を悔いたいところだが、今は気を切り替えて説明に集中する。

 

「人喰いの蛇に悩む村があったわ。その村には神の子と伝えられる一族がいて、とりわけ強い力を有していた巫女が蛇退治に派遣された」

 

「それで、巫女が蛇を退治したと。よくある勧善懲悪じゃない」

 

「いいえ。()()()()()()()()

 

 伝承として外の世界に残っているくらいだから、きっと巫女(じんるい)が勝利したのだろう。霊夢の推測は通俗的かつ現実的で、しかし今に限っては的を外していた。

 神話から民間の言い伝えに至るまで、人間が人間でないものと戦って『敗れた』と明確に表現されるのは、非常に数的希少性を保有している。理由は単純明快で、構成に残る物語を書き記したのが人間そのものであるからだ。自らの種についての敗北の記録など、通常残したがらないものである。

 

「よく戦ったそうよ。下半身を喰われながらも、様々な術を駆使して蛇を苦しめた。上手くいけば相討ちに持ち込め得る状況下において、尤も、村の人間は酷い決断をしたようね」

 

「あー……何か想像できちゃうわ」

 

「当たっているのかしら。諸説あるわ、でも共通しているのは巫女の腕を切り落として達磨にした上で蛇に喰わせた、というところね」

 

 下半身を失い、巫女は敗れたのだと早合点したのだろう。このまま喰われれば次の標的は村人だ、ならば彼女の死に条件を付けるべきである。人という生き物の、生への強い執着か。或いは他者を見捨てて明日の朝日を拝む闇の現れか。

 この部分に関する記述は、細部の差異まで含めれば実に多岐に渡る。切り落としたのは肘までだとか、大蛇が目を所望したので指で抉り出したとか、極めつけとして位置的に辛うじて食いちぎられていなかった巫女の子宮を用いて、擬似的な性的接触が行われたという記録すら紫の調査の中で明るみに出ていた。真相がどうであれ、吐き気を催す惨たらしさだ。

 

「蛇は巫女が喰えたなら今後その村での人喰いはしないと約束した。その約束は守られ、村には平穏が訪れた」

 

「平穏ねぇ。ほんとに落ち着いたの?」

 

「目敏いわね。えぇ、霊夢の言う通り。事はこれで済まなかったようだわ」

 

 人1人生贄に差し出しておいて、それでお終いなど都合が良過ぎる。やはりというか、よろしくない後日談も現存しているようだ。力の強い神職1人を媒介にした祟りとなると、下手をすれば影響を受けた人々は2桁に上る可能性がある。

 

「見つけられた全ての伝承を照らし合わせた限りでは、巫女の死後最低でも18人の死者が出ているわ。巫女の家族6人は全滅、村で生き残ったのは僅かに4人を数えるのみよ」

 

 霊夢の予想は、最悪な方向に裏切られた。被害者どころか、死者の数で優に10人を上回っている。大袈裟に書かれたのではないかと疑ったが、それにしては数字が詳らかになっている。伝説と史実に大きな開きは無いと見るのが、妥当な落とし所であった。

 そこまで行くと、最早怨霊ではなく神霊の域に達している。成程、疲れ切ったコンディションでは圧倒されるわけである。怖い奴が幻想郷に来たものだ、溜息を吐きつつまだ冷たい水を煽る。喉も痛めたのか、嚥下する度に小さな痛みが走って鬱陶しいやらうざったいやら。水が澄んで美味なのがまだしもの救いだ。

 

「姦姦蛇螺を祀る領域を、今でも人目につかない深い森の奥に設置しているわ。周囲に柵を巡らせてあるのだけれど、記述から推測する限りではその中で放し飼いに近い状態となっているみたいね。……以上が、外に伝わる姦姦蛇螺の伝承よ」

 

「何と言うか、えげつない話ね」

 

「そう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()よ」

 

 不穏なことこの上ない物言いが、一息ついていた霊夢の注意を再度引き上げる。一昔前の人間の闇なら、たった今お腹いっぱいになるまで聞かされたのだが、まさか話はまだ終わっていないのか。悍ましい話には強力な耐性があるとはいえ、流石に霊夢の顔が嫌そうに歪む。咳払いを1つ、紫が第2幕の火蓋を切った。

 

「この伝承には、1つだけ明確に不可解な点がある」

 

「蛇の上半身が巫女にすり替わってること? 下半身が蛇になったのか知らないけど」

 

「それも不思議ではあるわ。でも、もっとおかしな部分があった。あまりにさらりと語られるから、私も初めは見流してしまったくらいよ」

 

 ぴっ、と人差し指を立てた。不審な点というのは1つのようだが、姦姦蛇螺の姿以外で気にかかる箇所はあっただろうか。紫の話を整理しつつ考えたいのは山々なのだが、全身が気怠さに包まれているせいでどうにも頭が働かない。ふわふわとした幻影(イメージ)が仮想世界の中で泡沫の如く浮かんでは消えていく。

 

「下半身を喰われ、その後も様々な術を駆使して必死に戦った。これって変でしょう」

 

「……あー」

 

「体の半分を失ったのよ。術なんて使えるとは思えないし、生きているだけで奇跡と言えるわ」

 

 言われてみれば、まさにその通りだった。体の半分が無くなったら普通は死ぬ、それが人間という種族の定めだ。上半身だけで辛くも生き延びたというならまだ頭ごなしに否定することもできなかろうが、そこから巫女としての責務を果たすのは不可能だ。同職人として、霊夢はそう断言できる。

 

「ここからは私、八雲 紫の仮説になるわ。そうね、人喰いの大蛇なんて、そもそもいなかったのではないかしら」

 

「それはまた、えらく唐突な口伝否定ね」

 

「根拠はあるわ。この伝承が広まる地域に、蛇神の信仰は無いの。それなのに、何故か姦姦蛇螺という蛇の要素を持つ怪異だけが独り歩きをしている」

 

 都市伝説はその土地固有の信仰など、強力な土台を元にするケースが一定数存在する。特に生物めいた怪異が登場する場合、現実で崇拝或いは恐怖されている物の怪がモチーフとなるのは普通を通り越して定石ですらある。良くも悪くも人類が最初の農耕集団を形成してから数万年、最早一切のオマージュを含まない完全なるオリジナル・アーバンレジェンドは作成不能なのだから。

 

「蛇がいなかったとして、じゃあ何で姦姦蛇螺には蛇の要素があるのよ」

 

「そうね。蛇がいなかったと言うよりは、人喰いの大蛇がいなかった、と解釈しているわ」

 

 アナコンダのような馬鹿げた巨躯ではなかったが、蛇はいることにはいた、のか。紫にしては要領を得難い説明部分が続いているが、その訳を知るのにさしたる時間はかからなかった。

 

「化け蛇が欲しいなら、作れば良い。壺に100匹も閉じこめて、1ヶ月も置いていれば、望む蛇は完成しているでしょう。古代から方法は確立され、脈々と受け継がれてきたわ」

 

「壺って、蠱毒?」

 

「その通り。そして蠱毒を執り行ったのは、巫女の家系を含む村全体と考えられるわ」

 

 蠱毒は古来より、最大級の禁忌として忌み嫌われてきた。時代が時代なら、呪法の存在を人伝か書物かで知っただけで懲罰の対象となることすらあった。その禁忌を犯したのがよりによって巫女の家系とは、ちょっと皮肉が利き過ぎている。あの紫が暫時とはいえ言い淀むわけだ。

 狭い壺の中に多数の生き物を放り込めば、喰い合いが起こるのは必然だ。信じられないことだが、この原則は生物界の頂点を自負する人類にすら適応している。仲の良い親子、無二の親友、将来を愛し合う男女。そんなものは究極の飢餓を前にすれば容易に瓦解する。気取っているようで、覆すこと能わぬ摂理である。

 

「何らかの理由で、巫女が邪魔になったのでしょう。第2子以降として生まれ、長女より強くなってしまったとか、原因は幾つか考察できるけど、考察の域は出られない。でも1つ、殆ど確実であろう仮定を述べるのであれば、巫女が戦ったのは大蛇なんかではないはずよ」

 

 彼女は戦った。過程は不明だが、結論として敗れたのだろう。蠱毒により歪な産声を上げた尋常ならざる蛇に、そして己を育ててくれたであろう大恩あるはずだった村の悪意に。

 事実を捻じ曲げて後世に伝え継げば、その事実がどんなものであれ怨霊は荒御魂に近しくなる。だから彼らは詳細に書き出したのだ。村総出で1人の女を陥れたという真実を、その仔細に蛇の要素を加えて。全て村の人間の業であることを、十中八九全員が承知の上で。

 

「六角形領域の四隅に壺を飾るのは、きっと願いを表しているのでしょう。頼むから壺に帰ってくれ、とね」

 

「はー……どっと疲れたわ」

 

「こんな時にごめんなさいね。でも、貴女は深くまで知る必要があった」

 

「それは巫女としてかしら。それとも、警告?」

 

 今、博麗の巫女と言えるだろうか。布団に横たえられたか細く傷だらけの小娘は、果たして人間の希望足り得るのか。覇気の薄い声で問う少女は、しかし静かに幻想郷最強の妖怪を圧する。

 指は満足に動かず、思考はうっすらと白みがかっていて、しかし生きる力まで失ってはいない。霊夢を現し世に繋ぐ生命の輝きは、紫の心に差した影を根こそぎ浄滅させる程に眩しかった。

 

 彼女に対して、真摯に向き合わなくてはならない。改めて誓う、パートナーに隠し立ては無しだ。勇気を掻き立てる黄金の風格に当てられながら、浮き足立つ心情を意識下に制御する。

 

「後者ですわ。強い巫女を食らった『とされる』蛇は、巫女を務める者に負けないというメタファーを獲得している危険がある」

 

「戦ったら勝てないし逃げるのも難しい、かぁ。こりゃ私の出番は無いわね」

 

「貴女にとっては天敵だわ」

 

 幻想郷の揉め事厄介事は、博麗の巫女によって解決されなければいけない。成立当初より守られてきた大原則だが、伝統に固執して彼女を失う羽目になっては目も当てられない。

 特例として姦姦蛇螺を扱い、かの怪異の完全なる消滅を賢者一同で請け負う。極めて甚大な被害をもたらすエネルギーと凶暴性は、両面宿儺にも匹敵すると見て相違あるまい。紫1人では相当に骨が折れるので、数人で一気に畳み掛けるのが単純ではあるが得策だ。

 

 すぐに行動を起こす必要がある。放置する時間が長引けばその分広範囲に災厄を振り撒くだろうし、万一人里に接近されたら大事なんてものでは済まなくなる。人間側の不安を煽らないためにも、霊夢が療養中であるのは最高機密として秘匿しておくよう提言しなければ。

 

「さ、暗い話はここまでにしましょう。今日は私がご飯から身清めまで致せり尽くせりしてあげるからね」

 

「これ以上憂鬱にさせないでよ」

 

「酷いですわ」

 

 頭の中で近い未来を形成しながら、冷たさ充分のそっけないあしらいにふわりと微笑む。最悪の事態を辛くも回避し、怪異討伐の目処もはっきりとついていることもあって、紫の気分は大きく持ち直していた。



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其ノ窮 姦姦蛇螺 カイセン

 ずるり、ずるりと森を這う。3対6本の腕を上手く補助に使い、まるで百足と蛇が並んで闊歩しているかのような様相を呈する。

 怪異は、今日の餌を喰いに森を歩いていた。先日襲いかかった新鮮な人肉は、余計な輩の介入のせいで取り逃してしまっている。つい最近確保した巨躯の女もとっくに喰い終わって、故に空腹を持て余していた。

 

 視線の先に、単独で森をうろつく妖怪を発見した。大好物は清い人間だが、飢えを凌ぐに当たって好き放題言ってはいられない。高速移動で音も無く接近し、異変に気がついた妖怪が振り向くより早くその顔面を貫く。右上の腕を引き抜き、頽れた妖怪に文字通り喰らいつく。

 

 ごりぼき、びちゃぐちゃ。子供が離乳食を零しながら食べているような、水気のある粘着質な不協和音が森へ広がっていく。脳漿を、眼球を、心臓を瞬く間に喰らい尽くし、それでも空腹は収まらず。

 

 血を舐め取り、新たな獲物を探しに行った。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「静かねぇ」

 

 それは心地好い静けさではなかった。耳が不可視の力で圧迫されているような、不快な違和感を感じさせる静寂だった。霊夢が巫女になってこの方、斯様な森を見るのは初めてだった。

 何か良くないことの前兆であるように思えてならない。この心配が取り越し苦労になるならそれで良い、だが嫌な予想程的中するというもの。音のしない森を眺めながら、霊夢の心は無性にざわつく。

 

「霊夢」

 

「あら、晩ご飯できたの」

 

「できたぞ。だが1人で歩くのは感心しないな」

 

「別に足はきちんと動くわよ」

 

 流石は賢者の使う術と言うべきか、怪我の治りが異常に早い。折れていた骨は半ば接着し、打撲の痛みは大方消えていた。元より被害の小さかった下半身など、もう全治を宣言しても差し支えない。あまりに早過ぎるものだから、ついつい副作用が心配になってしまうくらいである。

 この調子なら、あと3日もすれば全快してしまうのでは。喜ばしいことだが、この治癒術を習得するためにかけた期間を思うと、少しばかり気が遠くなりそうだった。人間が惜しむ数年を、妖怪は安価な代償として容易に差し出してしまう。寿命は人妖を彼此に別ち、併せて可不可の境界ともなる。

 

 黙々と箸を進める。粥に鮎の塩焼き、非常に美味だが欲を言えば肉が食べたい。怪我をしてからまだ一口も食べておらず、体が衝動的に肉を欲して訴えかけてくる。魚の肉なら現在進行形で頂いているが、霊夢の求める所は更なる動物性タンパク質を有する高エネルギーな肉である。具体例としては、牛とか豚とか。

 

「ねぇ、藍」

 

「食事中にあまり話すのは良くないが、何だ」

 

「あんたまで母親みたいなこと言って。……今日はえらく森が静かよね」

 

「森が?」

 

 粥を食べ終わり、ふと思い出して藍に話を振ってみる。別段意識してはいなかったようで、きょとんとした表情を浮かべた。

 

「お前にはそう感じられるのか」

 

「うん。動物の鳴き声もしないのは珍しいかなって」

 

「ふむ。言われてみれば、確かに」

 

 藍にしてみれば、言われて初めて感じられるくらいの、ほんの些細な違い。だが、霊夢はどうも腑に落ちない。1度頭に設置してしまうとそう簡単に離れてくれないのが違和感というやつであり、途端にそわそわと落ち着きを無くす。鮎を挟む箸がぴくりと跳ねて、危うく身を皿に返しかけた。

 霊夢の勘がよく的中するのは、広く知られるところである。獣たる藍さえも察知できない微かな異常を、時に彼女はふと捉える。たかが直感と過小評価するには、些か霊夢は救われ過ぎている。

 

 何も言わず、霊夢が食べ終わるのを待つ。今のところ()()は感じないが、彼女の中に眠る本能だけが迫り来る危機を感じ取っている可能性は否定できない。となれば、自分も警戒しておくに越したことはないだろう。

 

「ご馳走様」

 

「お粗末様。寝ていなさい、片付けはしておく」

 

「ありがと」

 

 寝室を覆う結界は、以前藍が生成したものをさらに凌ぐ強度を誇る。破るどころか、傷をつけるのすら困難を極める代物だ。囲われるものは、賢者の庇護を一身に受けるのである。この上の心配は、杞憂に分類されるべきなのだろうが、博麗の巫女を守るためであれば進んで杞憂を侵すことに躊躇いは無い。

 

 藍に見送られて、寝室へと戻る。布団を被って手近な本を取り、ぱらぱらと意味無く捲る。とても読書に勤しむ気持ちは作れない。

 

「……姦姦蛇螺ねぇ」

 

 一昨日、そして昨日と綺羅星の如き面々が複数で姦姦蛇螺を探し回っていたらしいが、奴は蟻も通さない捜索の手から逃れたという。隠れるという知能を有しているのは、何とも厄介なことである。賢者勢の本気からそう何日も逃げられるはずはないので、捕まるのも時間の問題だろうが。

 できることなら、この手で殴り飛ばしてやりたい。一切の加減無く、最高の一撃であの気持ち悪い面を潰したい。それが叶わないのが初めてで、布団の中にて歯噛みする。別に巫女としての高尚な意識の元に生きているわけでもないけれど、義務として息をするようにこなしてきたことが論理的に不可能であるという現実は受け入れ難い。まるで自身の生活が部分的に破綻したかのような、ある種の喪失感を味わう。

 

「何か、腹立つわね」

 

 巫女である限りは、勝てない。それは強烈なアイロニーであった。巫女だからこそ妖怪も怪異も纏めて薙ぎ倒してこれたのに、姦姦蛇螺は巫女だからこそ負けを確約されている。

 自身の強みを逆手に取って、あの蛇巫女は暴虐の限りを尽くした。単純に負けたのも立腹ものだが、それ以上に『敗北』が定式化されている状況が彼女をどうしようもなく苛立たせる。

 

 いっそやり過ぎなくらいに保護されているのは、勝てない『と思われている』からだ。次襲われれば死ぬ『に違いない』からだ。自覚した瞬間に、自分が檻に幽閉された敗北者のような気がして、がばっと布団を深く被った。自然体でいるのが息苦しい、体が力みを求めてくる。

 肝心な場面で役に立たないお姫様、と詰られてはいないだろうか。今までの数々の殊勲は彼女も余さず知っているわけで、1度負けてしまったから玉が割れたというのは考え過ぎだ。そう思い切る勇気は、今の霊夢には無かった。

 

「ん?」

 

 外から聞こえてくる重いものを引きずるような音に、最初は気が付かなかった。それは全くその通りに、ふと彼女の耳へと届いた。一概に怒りとも括れない曖昧な感情に惑わされて、凶兆の異音を聞き流す。

 

 襖により視覚的に、そして結界により物理的に隔てられた向こう側で、脅威は静かに牙を剥いた。

 

「わっ!?」

 

 ずぅん、という轟音と共に、寝室が揺れた。いや、神社ごと振動したようにも思えた。有り得ない、有り得ないがそう錯覚するに足る衝撃だった。

 初め、霊夢は地震かと思った。しかし、揺れは断続的に何度も強烈な勢いをもって襲いかかってくる。何者かが寝室へ押し入ろうとして、結界との攻防に邁進しているのは明らかだった。彼女はその何者かを、1秒未満で悟った。

 

 居場所を特定された。霊夢をして、嫌な汗が背中を伝う。結界越しに感じる忘れもしない妖気が、最悪の現実を肯定する。──確実に、霊夢を狙って、姦姦蛇螺は不遜にも神の社を襲撃した。

 まさか神社まで乗り込んでくるとは想定していなかった。紫の結界も、気休めみたいなものだと勝手に考えていた。だが、この怪異はそう甘くなかった。霊夢の楽天的な思考を豪快に叩き割り、今まさに目と鼻の先にまで詰め寄る。

 

 何度目かの激突が契機となり、咄嗟に布団の上に立ち上がったが、そこで足が竦んだ。それ以上の動作を、体が受容してくれなかった。足が地面に縫い付けられたように、その接面に密着し続ける。

 彼女の目は、姿の見えない恐怖に釘付けになった。目を離したら、殺される。八雲 紫の謹製たる防壁に守護を受けてすら、呼吸が浅く、荒くなっていくのを止められない。

 

 後ろでぱぁん、と勢い良く襖が開かれ、霊夢の肩が思い切り跳ね上がった。思い出したかのように体が不可視の呪縛を振り切って、即座に藍の元へ駆け寄る。身に纏う真っ白なエプロンは、彼女が台所から飛んで来た証左だった。

 

「抱えるぞ」

 

 藍の目には、招かれざる客の姿がはっきりと見えている。主より話には聞いていたが、成程身の毛もよだつ醜悪な怪異だ。無論嫌悪している暇は無く、即座に霊夢を横抱きにした。驚きから短く素っ頓狂な声をあげたけれど、抵抗はせずされるがままだった。

 そのまま神社の裏口へ走る。妖獣の健脚が木張りの地面を捉えて2人分の体重を前に進め、強烈な負荷をかけられた床がぎしりと悲鳴をあげるが、彼女達にそれは届かない。結界はまだ暫く持ち堪えてくれるだろう、神社から逃げる時間は充分に稼げる。事前の緻密な計算から、結論は既に提示されている。

 

 ほんの数秒で、裏口が見える。怪異は未だに結界へ張り付いており、藍の動向には気がついていない。抜け出すならこの瞬間しか無い。須臾の判断で扉を開き、そこから一直線の飛行に移る。

 ……脱出には何とか成功した。だが、じきに気がついて追いかけてくるだろう。そうなれば、怪我人を抱えた藍では分が悪い。そこまで把握・理解を完了しているのが八雲主従であり、最善たる対応(マニュアル)は作成済みであった。

 

「紫様。()()()()

 

『分かったわ』

 

 藍自身の右手に、緊急事態を報告する。何らかのネットワークが確立されているようで、抑揚の無い冷淡な返答が掌から返された。摩訶不思議な術だと霊夢が目を見張るよりも早く、藍達よりさらに上空で良く知る異質な妖力が胎動していた。

 

「霊夢、平気かしら」

 

「この狐のお陰でね」

 

「それは良かった」

 

 スキマから現れた紫は、およそ一切の感情を排斥していた。淡々と事実を確認していくその様相は、まるで人形のようだった。普段の穏やかで温和な彼女しか知らない者からすれば、姿形の同じ別人とすら映るだろう。

 姦姦蛇螺には差し迫った恐怖を感じるが、こっちもこっちで中々怖い。胸の奥底にしまい込んだ本音は、きっと何処かに穴が開いたせいで漏れ出していたのだろう。僅かばかり、ともすれば見誤ったかも知れないが、面持ちが和らぐ。

 

「藍、手筈通りに。隠岐奈(おきな)はもう招聘してあります」

 

「承知」

 

 言うが早いか、紫が通ってきたスキマの中へ躊躇いなく突入する。よくもまぁこんな薄気味悪い空間に物怖じしないとか、あいつはどうするんだとか、聞きたいことは沢山あったけれど、息も詰まる緊張感がそれを許さなかった。藍はただ前を向いて、一心に宙を翔ける。

 ややあって暗紫色の空間を抜けた2人を、ややこじんまりとした和風の邸宅が迎える。藍にとっては住み慣れた家で、他方霊夢からすれば知らない誰かの家だ。尤も、住居者が誰かなんて心当たりは1人しかいないわけだが。

 

 玄関の前に、女が立っている。橙色の狩衣には北斗七星と思しき星の配列が描かれ、長い黄金の髪がそよ風に揺らぐ。容姿や雰囲気において、極めて紫に似た女だ。

 

摩多羅(またら)殿」

 

「中へ」

 

 端的に促し、屋内へ入る女を追う。幻想郷のあちこちで四季が乱れるという、思い返すと一体何がしたかったのか良く分からない異変で存在を主張した……と、大半が認識しているのが摩多羅 隠岐奈という秘神だ。しかし、一部の有識者連中などは異変以前から彼女と交流を持っていた。霊夢もそのうちの1人で、彼女が紫らと肩を並べる幻想郷の管理者であることも承知している。

 

 知った神の前で抱き上げられているのは、年頃の少女として少々恥ずかしい。そろそろ降ろしても良さそうなものだが、藍はそうしてくれない。多分そこまで気を回す余裕ができていないのだろう。これが魔理沙なら蹴ってでも降ろさせるが、窮地を救ってくれた恩人を無碍にする真似は理性が押し留めてくる。結局お姫様抱っこのまま、静々と運び込まれていく。

 屋内に幾つかあるらしい部屋のうち、隠岐奈は恐らく最も広いであろう部屋を選択した。そこには用意良く布団が敷かれており、霊夢はそこに横たえられた。神社のものよりずっと分厚く、それでいて柔らかい布団が心地好い眠気を誘う。

 

「摩多羅殿。来てくださり、感謝します」

 

「巫女は楽園の中核。如何なる理由があろうとも失ってはならぬ存在。窮地となって黙っている理由は無い」

 

「その通りです」

 

 ほんの短い時間の騒動だったとはいえ、蓄積した精神的な疲労は大きい。安息を得たのだから、安堵感で眠くなったって責められない。時間帯も夜、眠気は一入となろう。

 霊夢の目がとろんと落ちつつあるのは、2人も分かっている。できるだけゆっくりと寝かせてやりたいという思いから、隠岐奈が早速自らの目的を明かした。

 

「さて、私がここにいる理由は1つ。億が一の場合に、貴女を私の世界に逃がすためよ」

 

「あんたの世界って、後戸?」

 

「えぇ」

 

 隠岐奈は普段、この世界とは別次元の何処かにいるそうだ。そこが幻想郷に含まれるのかは霊夢も知らないが、紫のスキマ内部空間と似たようなものなんだとか。朝ご飯を作るより気軽に異次元を接続させないでほしいものだ、普通と異常の境界が曖昧になる。

 訳が分からなくてこそ、不思議の集う幻想郷を束ねる代表者とも言えるので、彼女達の個性はこれからも存分に発揮されて然るべきなのだろう。だがしかし不公平だ、せめて私にも何か凄い能力を寄越せ。霊夢の切実な願いは、或いは既に叶っているのかも知れない。

 

「紫に億が一も無いはずだけれど、我々は兆をも視野に入れる必要がある。そんなわけだから、事が落ち着くまではここでの療養となるわ」

 

「あいつが戦ってるのね。さぼってるみたいで悪いわ」

 

「怪我人に鞭は打たないわ。私も、紫も」

 

 霊夢の心配は、結局のところ見当違いも甚だしかった。紫が稀にも見ない怒りようで家を出ていったのを、声もかけられずに見送っていた。同情はしないが、元凶を哀れには思う。この幻想郷で最も触れてはいけない逆鱗中の逆鱗を、あろうことか姦姦蛇螺は大きく振りかぶって殴りつけたのだ。行動には相応の反応があり、つまり奴は己の首を己で締め上げた。

 

 ぽん、ぽんと額に優しく触れる。赤子を寝かしつける母親のような、慈愛のある手だった。柔らかさに包まれて、霊夢の瞼がすぅっと降りる。

 

「今は眠りなさい。私達が貴女の借りを返すわ」

 

「それは……悪いわね……」

 

「大丈夫よ。何も悪くない」

 

 誰かにあやされて眠りにつくなんて、もう何年経験していないか。記憶の片隅に、朧気に残る記憶は探れなかった。何処か深い所へ落ちゆく意識を、自分ではない自分がはっきりと見ている。

 

 そこまでが夢だったのか。答えの出ない、暗くざわめく問いだった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 叢雲が星月を覆い隠し、一筋の光も差さない夜闇。名刀で両断したかの如く、純白の閃光が迸った。その場にいれば思わず目を庇う程の光量、次いで大地が身に降り注ぐ異常な力を恐れて身震いする。

 

 地が恐れるものに牙を剥く蛮人はいない。自分との圧倒的なスケールの違い、立つ次元の差に本能が適わないと叫び散らすのだ。どれだけ強く、そして賢くなろうとも、敗北を目的として戦う生物が生まれるものか。

 

 歯向かうとすれば、それは追い詰められ自棄を起こした愚か者だ。もしくは、勝算を見出している猛者か。蛇を得た巫女は、果たしてどちらに。

 

 高く舞い上がった土煙の中で、妖しい紫眼が爛れた光を放った。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 少し足を引き摺り、家の前へ立つ。呼ばずとも気配は察してくれる、現にらしくない急ぎ足で玄関へ向かっている。

 がら、と戸を開け、半身が血に染まった主を目の当たりにする。致命的な重傷だ、明らかに焦りが強まった。

 

「紫様」

 

「心配いらないわ」

 

 あやすように、顎をちょいっと触る。服が血塗れだから重篤な怪我を負っているというのは、些か浅慮であろう。返り血の可能性くらい考えるように、訓戒を込めて頬を引っ張ってやる。何だこれ凄い伸びる、まさにつきたての餅と言うに他ならない。

 餅が一対、しかれば食べない道理は無い。激しい運動の後は、それを補うカロリーの補給が推奨される。というわけで、有り難く差し入れの餅を頂こうと齧りつく。突然のことに驚き抵抗する皿を頑張って抑えながら、はむはむと啄むように食べ進める。

 

 思い切り突き飛ばされてしまい、皿が決死の防衛に成功した。少し濡れそぼった頬は、食まれたせいか鮮やかな朱を湛えていた。草臥れた体には手痛い反撃だがこれでもまだ甘い方だ、もしいつもの昼下がりに事に及んでいたら、体の半分が地面に埋没する憂き目を見ただろう。

 

「……元気ですよね、紫様」

 

「見ての通り、疲労困憊よ」

 

 その言葉に嘘は無い。例え真実の口に右手が捕らわれていたとしても、紫は今自分が疲れていると胸を張って……そんな元気もあるか怪しいが、言い切ることができる。

 さっきの戯れで僅かな体力の欠片まで使い果たしたので、多分あと3歩歩いたら天寿を全うするのでは。まだまだ生きていたいので、藍に部屋までの送迎を指示する。林檎顔でぶつくさ愚痴を零しながらも渋々と、実に渋々といった様子で貸された肩に、遠慮なく全体重を預けた。紫からは見えないけれど、さぞかし嫌そうな顔をしているに違いない。

 

 愛い子、愛い子。半死半生の厚顔妖怪は寝室へと運び込まれ、心做しか乱雑に着衣を剥ぎ取られた。血みどろの服で寝られたら布団の洗濯が大変になるのは当然で、藍としては絶対に回避したい未来であった。

 寝間着を用意し、慣れた手つきでささっと着せていく。帯を結び終えるまでたったの24秒、他を寄せ付けない早着替えならぬ早着付けである。瞬く間に赤から白へと纏い直された紫は、そこから横倒しにされて布団にセッティング。合計1分足らずの早業で、快眠の準備は恙無く整えられた。

 

 このまま目を瞑ってしまえば、程無く夢の世界へ一直線だ。それはそれは悦楽の至りなのだろう、しかし紫にはまだ為すべき仕事が残っている。特例措置を実行した以上、その成果についての報告は徹底しなければならない。

 未だ血の滑らかな服を持っていく藍が、横目にちらりと映る。彼女とて暇ではない中で、こうして協力してくれるのは有り難いことだ。紫の式神なのだから命令の遵守は絶対、成程その通りではあるがやや自己本位の詭弁めいた印象は否めない。感謝はしている、だがそれはそれとして餅は食べに行った。大変美味しゅうございました。

 

「お疲れ様。結果を聞いても?」

 

「引き分けね。両者共に限界近くまで疲弊して、戦闘の継続が不可能となりましたわ」

 

 展開としては、紫の一方的な暴力が姦姦蛇螺を襲った。全く手も足も出る余地の無い、虐殺と称するに相応しい戦いであった。

 だが、奴はあまりにも頑健だった。レーザービームで薙ぎ払っても、鉄塊を突撃させても、気味の悪い笑みを絶やさぬまま戦闘を取り止めなかった。結局久しく発揮していない全力を余さず動員して、漸く痛めつけられた程度だ。間違いなく幻想郷のどんな妖怪より頑丈で、無いことだが2度目は強く勘弁してほしい。

 

 姦姦蛇螺の並外れた耐久力は、隠岐奈には伝わったらしい。圧倒的な優勢に立ちながらも倒し切れないタフネスは、回復し切らないうちに果てさせねばならない。それが可能な刺客を1人、紫と交代する形で送っている。

 信頼に足る、凄腕の仙人……というと語弊があるかも知れない。彼女の得意分野は、見た目によらず肉弾戦なので。幸いにも肉体は硬くないらしく、こうなればインファイトで物理的に分解してもらうのが1番効果的と言える。

 

「華仙はもう動いているのでしょう? 何とも豪華な一団だこと」

 

「相応の報いですわ」

 

 紫と華仙の波状攻撃など、姦姦蛇螺にしてみれば堪ったものではない。無数の肉片と成り果てて、己の罪は地獄できっちり精算される。餓鬼道すら生温い邪悪な魂に、輪廻などという救済措置が用意されるかは閻魔様の裁量次第だ。

 もう夜も更けた、霊夢は別の部屋でぐっすりと眠っていることだろう。願わくば彼女が1秒でも早く全快せんことを。祈りを胸に、紫の意識もまた海の底へ引きずり込まれていった。海面の上で、隠岐奈が緩く微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「馬鹿な、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 再生が、早過ぎる」



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其ノ窮 姦姦蛇螺 シンカ

 はー、と溜息。大きく深く、そして長い。空を覆う雲に阻まれて、星月の光はほんの一筋程度しか地表へ到達できていない。九分九厘の暗闇が広がる外を眺める瞳には、憂いが濃く色付けされている。

 

「お疲れね。無理もないか」

 

「流石にね」

 

 華仙はつい先程まで、巫女の成れの果てと文字通り身を削り合う死闘を繰り広げていた。弱らせておいたから後は倒してくれれば良い、そう言われて対面した上裸の巫女は、彼女を見るなりすぐさま森へと身を隠した。

 絶対に逃がすなと言いつけられていたので、すぐに追いかけ森へと追って入った。ほぼ探すまでもなく、奴は視線の先にいた。蹲り、何かを囲っているようにも見えた。

 

 子だと思った。この怪異は親子で幻想入りを果たし、そして今外敵たる華仙から我が子を庇っているのではないか、覆うような姿勢を見てそんな気がした。紫から伝え聞いた異常なまでの闘争心も、子を守るという大義名分があると考えれば納得できる。

 霊夢を襲ったのは許し難いが、もし想像が的中しているなら、今回の一件は生命活動の連鎖が引き起こした不幸な事故だ。穿った結論だろうか、華仙は決してそう思わない。命ある者の究極にして最短のコミュニケーションが『殺害』である以上、これ及びこれに付随する行動は無軌道に批判されるべきでない。最早幻想郷の敵となった姦姦蛇螺をその手で殺すことに、小さな罪悪感さえぽこりと浮かんだ。

 

 ……居館にて数多の動物を従える彼女だからこそ至った、独特で偏見のない仮説であった。

 

 完全に見誤っていた、そう言わざるを得ない。例え歴史に名を残す博愛主義者であっても、かの怪異に対してだけは極端な偏見の目でもって接する必要がある。伏した怪異のまさに為していたことを目の当たりにして、初めて悟った。

 ぼんやりとしか見えないはずの姦姦蛇螺の姿も、華仙ならはっきりと捉えられる。人並み外れた彼女の目は、持ち主の意思を受けて危うく覆われかけた。何を喰っている、分かっていても口調荒く問うのを抑えられない。

 

 緩慢な動作で振り向いた蛇螺の口元から、まるで葉巻とでも言わんばかりに細い腕が覗く。柘榴色の魔口、そしてそこらに散乱する()()()()()()()()()()()()()()()()。断面は潰れ、しかし全体として部位ごとの特徴を残している。蛇巫女の笑みが、より一層深まったように思えた。

 

 肉体が思考を凌駕した。ほんの一瞬、須臾の間の出来事は、奴の手を余さず吹き飛ばすには充分だった。咄嗟の防御など通用しない、()()()()と評するに値する豪腕であった。我に返り、血飛沫の中で見上げた巫女の顔は、変わらず悍ましい笑みを浮かべていた。

 不味い、理性の叫びに従って前への慣性を無理矢理打ち消し、その足で後方へ飛び退いた。大口を開けて迫り来た表情は、地獄の悪鬼羅刹と表現してもおろかなるか。がちん、と巨大な歯が空を噛み鳴らす硬い音が、華仙の恐怖心を否応なく刺激した。

 

 そこからの勝負は、泥沼と言って差し支えない。己の肉体を武器とする両者の激突に無傷の勝利など有り得ず、また無死の敗北も存在し得なかった。自身も左腕が半ば千切れかかるという重傷を負い、しかし華仙は姦姦蛇螺を破壊した。喰らったものよりも多数の破片に、そして原型を残さず。最後に震えるように蠢く多腕を踏み砕くのに、躊躇いは無かった。

 

「貴女の報告通り、ばらばらになった肉片が見つかったわ。もう大分他の妖怪に持っていかれたみたいで、殆ど残っていなかったそうだけど」

 

二童子(あの子達)が見に行ったの?」

 

「いえ。ちょっと見せられなさそうだったから、適当な妖怪を見繕ったわ」

 

 見繕った、即ち術で操ったのだろう。相変わらずあの2人には甘い。苦笑いしつつ、木造りの枡に注いだ酒を飲む。この枡で飲んだ酒は、立ち所に怪我や病気を治してくれる。これで明日には左腕も元通りである。右腕が治らないのは、称えるべきか恨むべきか。

 

「相当な異変だったわね」

 

「本当に。霊夢の大怪我に始まって、紫と貴女は疲弊。挙句の果てに、里から死人が出るとはね」

 

 期間にして数日、先の幻想郷を揺るがした大異変に比べれば至極短期に終わった。だが、被害内容は甚大なものに上った。思えばスペルカードルール定着の礎となったかの異変より、怪我人重傷人は出ども死者だけは誰一人として出なかった。

 本気で幻想郷を転覆させようとした事案の少なさと、ルールに従う紳士性とが、幻想郷にある種の秩序をもたらしていた。問題を起こしても、それはスペルカードにより()()解決される。この定式の中で、全てが廻っていた。

 

 守られないルールの脆弱性を、強く実感している。どれだけ細かく定めても、実行されなければ所詮は机上の空論に過ぎないわけで。

 少しばかり強固な規則の上に胡座をかいていたようだ。ぽっきりと折られる前に、高慢の鼻は引っ込めておくのが良い。

 

「明日私から守護者に話をしておく。貴女達は休暇でも取りなさい」

 

「そうね。お言葉に甘えようかしら」

 

 ふぁ、と可愛らしい欠伸。茨木仙人はおねむのようだ。ルールの埒外への対応は急を要すれども、激闘に身を投じた彼女達には今暫くの休息を。

 たん、と静かに襖を閉じる。今、この屋敷で起きているのは自分だけとなった。誰も彼もが朝早く起きれそうにないこの状況、これは明日の朝ご飯担当は自分か。薄く笑い、隠岐奈もまた宛てがわれた寝室へと戻っていく。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ふわりと香る良い匂いで、藍は目を覚ました。

 

「……?」

 

 誰か料理でもしているのか。主人は起こすまで起きないし、式は別の用を任せているので屋敷にいない。まぁ火事にでもならない限りは好きにしてくれ、そこまで考えて寝惚けていた頭が一気に覚醒した。

 ちょっと待った。今、何時だ。部屋にかけてある時計を確認する。長針と短針が、綺麗な直角を形作っていた。

 

 どたばた、と大急ぎで居間に向かう。いつもであればとっくに朝食が終わっている時間に目が覚めるとは、何たる失態か。あぁでもご飯は用意されているみたいだからまだ救いが……いや違う、そこが1番の問題だ。

 彼女の代わりに台所へ立ったのは、一体誰なのか。霊夢と紫ではないとして、残る候補はあと2人になる。そのどちらに料理をさせたとあっても、充分に八雲の名折れとなってしまう。

 

「あら、おそよう」

 

「……おはようございます」

 

「冗談の通じない狐だこと」

 

 結果、気を利かせてくれたのは摩多羅神だった。卓に並べられた米、魚、幾つかのサイドディッシュ。一目見てそれなりに熟れた作り手の料理だと分かる。米粒がきちんと立っているのに感心しつつ、ふと思う。

 

「摩多羅殿」

 

「何かしら、寝坊助さん」

 

「ねぼ……まぁ否定できませんが。その、お料理はよく?」

 

「よくとまでは言えないけれど、偶には自分で作るわよ」

 

 それがどうした、と言わんばかりに小首を傾げる。主自ら料理に取り組むとは、中々に珍しいようにも思える。もしかすれば八雲邸が特殊例なだけで、他の屋敷では主人の料理が振る舞われる機会というのはさして珍しくもないのか。それをすぐに知る術は、藍には無い。

 

「紫様は、料理があまり得意でなく」

 

「知ってるわ。この前うちで小火騒ぎを起こしてくれたもの」

 

「誠に申し訳ございませんでした」

 

 藍の預かり知らない所で、さらりと問題事を起こすのはやめてほしい。寝起きの心臓に悪いし、小火って大体どの程度だったのか。少し鍋から火が漏れたくらいならまだ苦言で済むが、物が燃えたとなれば彼女は敬う使役者に対して長々とお説教をしなければいけなくなる。場合によっては、弁償も。

 あれやこれやと思考を走らせる藍を、きょとんとした顔で隠岐奈が見る。藍が心配性なのか、それとも隠岐奈がおおらかなのか。どちらかと言えば前者に寄るが、双方共に間違っていない。

 

「ま、冷めないうちにどうぞ。皆を起こしてくるわ」

 

「私が行きますから、摩多羅殿は席に」

 

「あら。悪いわね」

 

 悪いわね、は丁寧に改変して彼女の台詞としたい。緊急の呼び出しにも嫌な顔一つせずに応じてくれて、剰え翌日の朝ご飯を作らせてしまったなんて、申し訳ないったらありはしない。この上まだ寝ている面々まで任せてしまったら、もう藍には立つ瀬が無くなる。僅かに残った己の立ち位置を死守すべく、早足で各々の寝室へ向かった。

 霊夢をとんとん、華仙をとんとん、紫をごんごん。順に肩、肩、頭。皆が皆眠い目を擦り、或いは何故かひりひりする頭を訝しみながら居間へ参上する。多少手荒な真似に出た辺り、彼女に心の余裕は無いらしい。

 

「……藍、卵焼きを焼く時間変えた? あと醤油の量も」

 

「……はい?」

 

「いつもより香ばしい匂いがするわ」

 

 開口一番、ごく普通のことのようにとんでもない発言が飛び出した。100歩譲って焼き加減はまだしも、調味料の量の変化など匂いだけで言い当てられるものではないと思われるが、やはりそれだけ長く彼女の食事を味わってきたからこそだ。正直嗅覚以外の第六感でも働いているんじゃあないかと疑ったのは、内緒である。

 

「今日の朝ご飯は、摩多羅殿が用意してくださったのです」

 

「ふぅん。隠岐奈って料理できたかしら」

 

「失礼ね、貴女よりは100倍できるわ」

 

 紫の軽口に、隠岐奈がかぷっと噛み付く。倍率はさておき、成程否定すべき箇所が無い。紫がこの質の朝食を用意するのは、不可能とまでは言わずとも困難を極めるので。

 座布団に座って、全員で合掌。いつ如何なる時もご飯を食べる前の作法は欠かすべからず、である。いつもは2人、式の式がいても3人で囲むに過ぎない卓も、今朝は常ならぬ人数ということで些か狭く感じる。たまにはこんな風な、人口密度が高めの朝食があっても良いだろう。秋の気配が深まりつつある朝には、丁度良い暖かみだ。

 

 1口で食べ切れるサイズに切り分けられた卵焼きが、霊夢の口へと運ばれる。歯をほんの小さく押し返す微弱な弾力が、確かな食感を生んでいる。

 

「美味しい」

 

「霊夢は薄味が好きだったかしら。ごめんなさい、作った後で思い出したわ」

 

「いや、これはこれで美味しい。ほんとに」

 

 自分の味や硬さの好みは、他ならぬ自分自身が一番良く知っている。だけど、それを加味しても隠岐奈の作った卵焼きの方が美味しく感じる。何だろう、隠し味とかで奇天烈な捻りをもたらすタイプではなくて、単純にお勝手技量が高い。彼我の差に唸りながらも、箸を止められない。

 

 食卓は喧々諤々和気藹々、暫くぶりに温和な雰囲気が流れていた。

 

 

 

 

 

「このお味噌汁……強いわ」

 

「私も長く生きてきたけど、お味噌汁を強いと言う友人を持ったのは初めてね」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 鈴虫がいよいよ本格的に鳴き始め、夜の肌寒さに夏の終わりを感じる頃。紫は博麗神社を覆って()()結界を解除しに足を運んでいた。

 解除、と言うと少し語弊があるかも知れない。恐らく襲撃によって大きく破損、もしくは全壊しているだろうと当たりを付けているので、後始末とでも言うべきか。

 

「……」

 

 果たして、結界は跡形もなく消え去っていた。姦姦蛇螺に叩き割られ、消滅したのだろう。一切の手抜き無しに張り上げた防壁を突破されるとは、正直考えていなかった。有事の際の対策まで練っていたのは、彼女自身英断だったと思う。

 何にせよ、もうあの結界は用済みだ。壊れていたところで気にしやしないけど、本気のガードが敗れたことは若干腹が立つ。結界において、この幻想郷で紫の右に出る者はおらず、彼女はそれを己が誇りの1つとしているがために。

 

 破片が散乱していたら、それを片付けるつもりだった。神社で物を散らかしたままだと、霊夢に怒られてしまうので。一通り見て回ったところ、その必要は無さそうなので、次いで神社建築の屋内の調査に移る。

 あの時、藍とバトンタッチした直後に姦姦蛇螺は襲いかかってきた。屋内に踏み入って荒らし回るには、時間的余裕が無い。被害は無いに等しいだろうが、念の為という奴である。

 

 最も重点的に確認したいのは寝室だ。そこを破って霊夢を襲おうとした、と藍から報告が上がってきている。となれば、悪影響が発生しているとすればきっとそこだ。場所が場所なのでささっと見て退出しよう、襖を開け、危うく紫は噴き出しかけた。

 

 霊夢が寝ていた。いつの間に、さっきまで友人達との話に花が咲いていたじゃあないか。大方夜も更けてきたということで皆帰り、彼女は眠かったので布団を敷いたのだろうけど。タッチの差で遅かった、これでは入念な調査ができない。

 仕方がないので簡易的な調査に留めることにした。外へ繋がる出入口付近を中心に、手早く確認を進めていく。少なくとも直ちに人体へ害をもたらす置き土産は残されていないらしく、ならまぁゆっくりと寝てもらっても大丈夫か。

 

 霊夢はぐっすりと眠っている。怪我も順調に快方へ向かっており、全治は目と鼻の先だ。上手くいけば明日にも完全復活を遂げることだろう。いつも本当に良く頑張っているのは紫だって知っているし、怪我が治ってから1週間くらいは療養の名目でお休みをあげよう。出かけるなり友達と遊ぶなり、好きに使ってくれて構わない。

 

 整った寝顔は、無表情ながらも柔らかい。紫陽花のような少女だ。花開く僅かな時間(とき)が永遠になれば良いのに、そう願うのは無粋なのか。いっそ神にでもなってくれたらもっと長く一緒でいられるのに、そう想うのは無駄なのか。

 ……あぁ、とても眠い。そうだとも、そういうことにしておこう。これ以上は、透明な漆黒に囚われてしまいそうだ。そっと立ち上がって、部屋を後にした。きし、きしと微かに軋む床を歩く。

 

 人間の寿命は、遥か昔に神が決めた。顔の美醜に惑わされ、人は花の如く儚く散る定めを背負った。もし紫がかの神と知己であったなら、何てことをしてくれたお前と詰め寄っていたかも知れない。

 

 人間は有限であればこそ美しい。では無限を身に宿した人間は美しくないのか。時の流れに身を任せ、色褪せていくだけが種の本質か。

 八雲 紫は執着心が強い。諦めも悪いので、1度狙った獲物は逃がさないし手に入れた宝は手放さない。そんな彼女をして触れてこなかった灰域(グレーゾーン)、干渉を躊躇う禁忌(アンタッチャブル)。それこそが寿命である。

 

 人間を人間たらしめる、あまりにも脆い幹。内と外の境界は非常に強固で、とても乗り越えられたものでない。それでも、どうしても抑えが利かなくなってしまったなら。欲望が理性を惨たらしく打ちのめしたなら、禁を解くのも、吝かではない。

 

 人のいない居間に腰を下ろす。原初の色を残す原風景、黒の帳に身を隠す。この場所が、紫は好きだ。とても静かで、何も見えなくて、孤独が優しく身を包みこんでくれるから。心を攫う波を鎮め、凪の湖面を為すに相応しい。

 今こうして穏やかな心を求められるのも、様々な人妖のお陰だ。戦闘、保護、支援。種々の形で協力してくれた彼女達には、篤く感謝しなければ。暗闇の中で、薄い笑みが陽炎めいて揺らめいた。

 

 静寂は美しい。まるで絵画や彫刻のように。

 静寂は嫋やかだ。それは、ただそこにいる。

 静寂は静寂だ。それ以外の何者でもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「紫様!」

 

 静寂は弱い。あらゆる音に掻き消される。

 

「騒々しいわね。何事?」

 

「そ、外を」

 

 息せき切って飛び込んできた式を窘める。恋人のように近く身を抱いていた孤独が、風の前の塵よろしく霧散するのを、少し惜しく思う。それに、久しぶりに実家で寝ている霊夢を起こすわけにもいかないし。

 ()()()()()()()()()、目が言外に訴えかけているような気がした。平時の落ち着きは見る影も無く、焦りが透けて見える。

 

「外をご覧くださいっ」

 

 そんなに衝撃的なものを見つけたのか。即座に紫へ報告してくる辺り、自分の手には負えないと判断してのことだろうが、一体何を目の当たりにしたのか。一先ず庭の遊びを接続する襖から、外を窺うことにした。

 

 ──絶句。

 

「……な」

 

 嗚呼、如何に表せと。闇に蠢く鈍い紅を、泡立ち沸き立つ半固体の巨塊を。

 まだ終わっていなかった。夜明けはまだ遠い。本当の恐怖が、ここに幕を開ける。



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其ノ窮 姦姦蛇螺 カキョウ

 

 

 

 打ち砕かれた。踏み砕かれた。細かき片々となり、しかし意識はそこにあった。何にも宿らず、当てもなく宙を彷徨う。

 

 溜め込んでいた邪気が、壊れた肉体から溢れ出す。巨躯の女、名も無き雑多の妖怪、数多喰い喰らい。最早1つの身に収まるわけもなく。

 

 殺意は依代を。

 紅闇は意思を。

 

 それは最悪の邂逅。

 幻想の護り手達への、最後の試練。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「何よ、これ」

 

「正体は不明……いえ」

 

 夜闇の中で不気味に胎動する塊は、途方もなく大きい。『それ』までは、かなりの距離がある。博麗神社から里の端が朧気に見えるが、そこよりも位置的に遠い場所に陣取っている。にも関わらず、まるで天を衝くかの如き巨体が紫達を圧倒する。

 何m、いや何十mになる。この距離で気圧される程の体躯となれば、あれは下手をすれば大結界に届き得るのではないか。紫の脳内で弾き出された結論が、蓋然性の高さを主張し補強する。

 

 そこらの有象無象的存在ならば、届いたところで何の問題も無い。大抵の場合、結界を認識することはできず、そのまま無抵抗に貫通し非ユークリッド的空間へと突入する。通り抜けに際して発生する負荷は非常に軽微なもので、瞬く間に自己修復され事無きとなる。

 だが、大結界はあそこまで膨れ上がったエネルギーを無視できるよう作られてはいない。現状から全長がほぼ変わらないのなら一先ず心配はしなくて良いが、もしあのジェル状物質が飛ばしたり伸ばしたりできるなら。

 

「姦姦蛇螺、かと」

 

 恐らく、奴は比較的容易に大結界へ抵触する。破られたらどうなるかなんて言わずもがな、それでいて考えたくもない。

 比喩表現でなく、両界は対消滅を起こす。外に併合されもせず、一瞬でその存在は消滅する。時の流れが異なる2つの界を一にすることは、因果律を捻じ曲げでもしない限りは不可能なのだ。

 

「華仙殿が仕留めていたはずですが」

 

「分からない。彼女に聞かなければ」

 

 いや、実際には彼女に聞いても分からないだろう。華仙が倒し、隠岐奈がその死を確認した以上、そこに間違いは起こるはずもない。だというのに地獄へ堕ちず現し世にしがみつく理由など、賢人と雖も既知の範囲外である。

 

「藍、里の住人を避難させて」

 

「はい。済み次第すぐに向かいます」

 

「いえ、その後は霊夢を守ってほしいの」

 

 戦力的に、藍の助力はほぼ不可欠だ。敵の規模は個々で対処できるレベルを優に振り切っており、複数の実力者による量と質の暴力で制圧する必要がある。彼女とて、飾らない本音を言えば同行を命じたかった。

 だけど、藍がいなくなれば誰が神社を、霊夢を守るのか。赤黒い塊がゆっくりと、しかし確実に近づいてきているのを紫は明確に捉えていた。原型を失くそうとも、以前抱いていた目的は何処かで覚えているようだ。幻想郷の未来なんて一切歯牙にかけない、極めて自己中心的な乾いた欲望に従って、姦姦蛇螺は再び神宿る社を目指す。

 

「御意」

 

 紫の威信に賭けて、絶対に神社まで辿り着かせない。だが、不測の事態は群れを為した蝿のように付き纏う。蟻も這い出せない極小の隙間を通された時、心安らかに眠る少女を守れるのは。紫が確実な信頼のもとに盾を任せられるのは、藍しかいない。

 

 隠しても隠し切れない逡巡が顔に、声に滲む。如何なる選択も絶大な代償を要求する苦しい中での決断と理解している。

 

 だとすれば、命じられた自分が迷ってどうする。正解かどうか、例え今は分からずとも、せめて彼女に間違っていないのだと自信を持ってもらわなければ。敢えていつもより強く、高らかに宣言するかのように了解の意を示した。

 飛び去っていった妖狐と入れ替わって、二賢者が各々の世界より神社へ降り立つ。共に表情は硬く、多分な緊張を孕んでいた。

 

「紫。どうやら姦姦蛇螺が蘇ったらしいわ」

 

「そのようね」

 

「訳が分からない。華仙が奴を粉微塵にしたのは、私も確認していたというのに」

 

「考えても始まらないわ」

 

 無理もない。徹底的に破壊し尽くしてなお蘇るその生命力は、不死鳥と表現する他に無いくらいだ。紫だって思うままに唖然と口を開けていたい。

 それでも、為すべきことはたった1つ。この世界に責任を持つ者として、彼女達は牙剥く外敵を討ち果たさなければならない。

 

 蘇ったなら、また倒す。何のことはない、単調な道理だ。再誕の論理がどうであれ、放っておけば現存の生命も、文化も、歴史までもが例外無く消失してしまう。斯様な筋書き(シナリオ)は、断じて許すに能わない。

 

「増援は期待できません。……私達3人で、何とか食い止めるわよ」

 

 互いに顔を見合わせる。かつてない苦境に立たされ、そんな中でも彼女達の目から意思は消えない。誰一人として、敗北を想定していない。

 決意なんて、とうに固まっている。対応は今この場にいる者にしか取れず、つまるところ彼女達は最後の砦であった。耐えず自壊する砦に存在理由など有り得ず。熱く眩しい光の精神を胸に、運命の夜へと飛び立つ。

 

 反応はすぐに、思っていたよりも早いタイミングで起こった。接近する妖怪が手練だと悟ったのか、邪気でできた腕が大きく伸びて迫る。地面へ叩き落とすのか、或いは掴んで握り潰すつもりだったのか。意図は不明なれども、確実に紫達を敵だと認識していることだけははっきりと理解された。

 

「来たっ」

 

「任せて!」

 

 そうでなければ、がばりと開いた手なんて寄越さないだろう。その指先が、全て蛇の頭を模す必要だって無い。直視を躊躇う悍ましいまでに非現実的な造形、だが紫と隠岐奈は戸惑わず前へ。

 必然的に最も近い位置となった華仙へ、魔手は伸びる。避けねば大ダメージ、最悪は死に直結する凶器を前に、すぅっと目を瞑った。瞼が瞳を覆い隠し、視界に完全な闇が訪れる。最も比重の重い五感を制限したからだろう、より鋭敏に嫌な気配を捉えられる。

 

 鋭い破裂音が、目にも止まらぬ速さで不穏漂う夜空を走った。赤黒い腕は手首の少し先まで忽然と消失し、華仙は拳を振り抜いた態勢のままぴたりと停止している。

 歴史に名を刻む剛の者、その打撃は高密度の妖気により加速度的増大を付与されて大砲の如く対象を破壊する。金剛石すら粉々に砕く一撃を凌ぐ術は、一朝一夕で身につくものに非ず。

 

 先行する2人に追いつくべく、速度を上げて飛翔。行く手を遮る腕も、蛇も、時に吹き飛ばし時に躱す。取捨選択の妙故だろう、紫達の横に並ぶのに、さしたる時間はかからなかった。

 

「……これは」

 

 しかし、無遠慮な肉薄を許す程姦姦蛇螺は甘くない。内包する桁外れの妖気に似合わず、迎撃が()()()。開戦直後なので様子を見ているのか、それとも近づいただけ攻め手が苛烈さを増していくのか。ある距離を境に一段と激しくなった妨げを見るに、後者が真実であるらしい。

 およそ知恵を感じさせない、幼子の癇癪のような滅多振りが、紫達を先へ進ませない。手を拱いている間にも、怪異はずるり、ずるりと前進を続けている。それに合わせて彼女らも距離を取らねばならず、じわじわと後退を余儀なくされる状況が焦りを生む。それでいて一定の攻撃は保たれ、考を熟する時間が奪われる。

 

 いっそのこと能力を駆使して、相手の意表を突く形で距離を縮めてみるか。紫に迷いが生じる。それは確かに膠着した戦況を打破できる()()()()()()一手だが、同時に絶大なリスクを伴う行為であり、普段の冷静な彼女なら一笑に付す愚行であった。

 迷いと焦りが、自覚症状も無く正常な判断を妨げる。次に奴の攻撃が途絶えたら、一気に踏み込む。いつしか思考が愚策を肯定し、方向を固めつつあった。俄かに隙を窺い始めた紫の意図は、未だ仲間に伝わっていない。

 

 ほんの一瞬、彼女に届く攻撃が止んだ。それは紫だからこそ見えた間隙であり、能力を展開し攻勢に転じるにはあまりにも短い時間だった。

 無謀と言う他にない突然の能力行使に、はっとした4つの瞳が向けられる。一拍遅れて己のしたことを脳が多少の主観を交えて把握し、慌てて解除を選択する。

 疑いようもなく遅かった。尖った槍が、全身を貫かんと突き出されていた。華仙も隠岐奈も、間に合わない。目前まで詰め寄る死の気配に、硬直する体の何処かで何かが絶叫した。

 

「何を惚けている」

 

 紫の胴体を穿つ直前で、槍は折れた。ぽきり、という擬音の似合わない、弾け飛んだと表現するに相応しい一幕だった。

 視界の約半分を占めるのは、1対の黒い翼。その付け根を背中に持つ少女は、大きさに見合わない小柄な体格でもって紫の眼前に陣取る。緩やかに羽ばたき、振り返ったベビーフェイスの紅い瞳は、呆れたように細められていた。

 

「腑抜けたのか、八雲。私を降した者の耄碌は、絶対に許さんぞ」

 

 西洋の紅い悪魔(スカーレットデビル)ことレミリア・スカーレットの唐突な参戦に、3人は目を丸くした。予想外の方向から予想外の妖怪が来たら誰だって驚くわけだが、賢人の意表を纏めて突いた辺り、余程発生し難い事象なのだろう。場の注目をその身に集める幼き悪魔は、懐疑的ですらある視線を楽しんでいるようだった。

 

「む、むむむっ……! ぷぁっ、駄目だわ。『目』が硬すぎて、潰せないや」

 

「フランドールまで、どうしてここに」

 

「姉妹仲良くお出かけというわけだ」

 

 微笑ましいだろう。にこやかにそう言ってのけたレミリアに、誰も何も言えない。彼女は断じて可憐な笑みを浮かべる子供ではない、よしんば笑うとすればそれは侮蔑か、もしくは嘲笑だ。間違っても姉妹揃っての外出に自慢げであるはずはなく、寧ろあってほしくないとすら思える。

 ただ、事情は甚だ謎ながら、レミリアの牙が姦姦蛇螺に向いているのは好都合だ。共闘できるなら最良(ベスト)、そうでなくとも敵の敵でいてくれるなら良い(ベター)。フランドールは姉の方針に従うと目されるので、必然的に彼女達は戦局を大きく有利な方向へ動かしてくれる。

 

「助かるわ」

 

「助かる? 摩多羅神、腑抜けたことを抜かしてくれるな。あくまでお前達3人と私達2人で、5人じゃない」

 

「ちょっとお姉様、協力しなきゃ駄目でしょ」

 

「む……」

 

 息をするように叩かれた憎まれ口は、実の妹という意外な監察役によって注意を食らった。暫く紅魔館に閉じこもっていたそうだが、フランドールは中々に常識のある妖怪らしい。可愛い妹の意見は、流石のレミリアでも無碍にできなかった。

 

「……貸し1つだからな」

 

「すぐ貸し借りの話しないの! けちんぼっ」

 

「あぁ、分かった分かった。そうそう、ここに来てるのは私達だけじゃないぞ」

 

 ぷんすかと怒りながら詰め寄るフランドールを、どうどうと制する。身体的・魔法的に頂点へ君臨するスカーレットデビルにも、苦手なものはあるようだ。

 そんな中でさりげなく語られた、スカーレット姉妹以外の参戦者の存在。怪異の動向に気を配りつつ、周囲を見渡す。姦姦蛇螺の側面に対峙する2柱の神を見つけるのは、その装飾品の特徴性から容易であった。

 

「祟りをもたらす蛇、既視感があるねぇ」

 

「ほんとに」

 

 背負われた巨大な注連縄、そしてその隣には目玉の付いた丈長の帽子。神話に登場する神々もまた、見過ごせないと判断してくれた。人間や妖怪には纏えない、場に『在る』だけで肌をざわつかせる強烈な存在感を、怪異もまた見落とさない。()()()()()べく、無数の蛇が2柱を目掛けて殺到する。

 

 小さい方の神、洩矢 諏訪子を頭に乗せた白蛇が、ぱちりと目を開けた。接近する異物に勘づいたようで、くあぁと眠たげに欠伸を1つ。その体に牙を立てる甚大な数の蛇、蛇、蛇。白が朱殷で塗り潰されていくのを、諏訪子は冷めた目で眺めていた。

 

「ミシャグジに歯向かうか。不埒者めが」

 

 じゅわぁ、と黒緋の凶使が接触部分から溶けていく。再びその姿を露わにした月白の表皮は、無欠の玉の如き美しさを僅かたりとも損なっていなかった。悪しき力を滅したのは、しかし高天原の清浄な神力ではない。神霊の域に達した姦姦蛇螺よりも、更に凄惨たる祟り神の威徳に他ならなかった。

 

 神霊とは、死後神となった人間の魂だ。或いは信仰、或いは畏れが人間を後天的に神へと昇華させる。では人間であった頃の無い、純粋な神とは。彼らからすれば神霊など下賎な紛い物に過ぎない。人々の『心』が母体を押し上げているだけであって、生まれついての神には到底及ぶべくもないのだ。

 

 うわ、怖っ。その立場故に神についての勉学は欠かさなかった少女が、祟りを祟りで上書きする光景を目の当たりにしたら。その少女が、神霊とまでは行かずとも強力な怨霊であったとしたら。諏訪子に恐怖を覚えるのは、必然だった。

 

「霍さん、こりゃやばい。道真超えすらありますよ」

 

「そうねぇ」

 

 あまりに()()()()神の懲罰に、怨霊少女は恐れ怯む。隣では青髪の麗人が愉悦の笑みを浮かべているが、正直に言って正気を疑う。何が嬉しいのか知らない……推測くらいはできるが、常人ならこの世の終わりめいた現況に怖気つく場面だ。やはり禁呪外法上等の仙人、世界を見る目が自分とはまるっきり違う。小さく漏れた笑い声は、本人が分かる程度には無味乾燥なものだった。

 少女の目が、桃色髪の仙人に注がれる。何やら訳ありらしく、少女が顔見知りな方の同業者が事あるごとに話の流れに乗せてくる。こっちとは違って真面目そうだし、きっと徳の高い探求者なのだろう。うんうんと大仰に頷くその目の前で、華仙は邪気の砲弾を迎え撃とうと構える。

 

 拳を固く握っているが、まさか殴って退ける気か。殆ど確立していた『まともな人』の印象が、音を立てて崩れていった。避けるなり摩訶不思議な術で受け止めるなり、仙人らしいやり方というものは無かったのだろうか。やれやれと肩を竦め、愛し難い隣人の上半身が掻き消えているのに遅ればせながら気がついた。

 

「っ、霍 青娥!」

 

「かーせんちゃん、悪いけどこれ貰うわよ」

 

 丁度強力な祟りが欲しかったところなの。空間に開いた風穴から、青娥の上半分がにゅっと飛び出していた。触れれば腐食に苛まれてしまいそうな塊を、右手でぽんぽんと放っている。流石に慣れている本職は、取り扱い方1つ取っても抜きん出ている。

 成程、薄々そうだろうなと思ってはいたけれど、青娥の気安さは一方通行だった。華仙の方はと言えば、音も気配も無く現れた邪仙に、警戒を隠そうともしない。

 

 少なくとも少女は飾りなく手伝いたいという意志を持っているのだが、如何せん連れの思考は物理的に完成不可能な組み物のようで。その真意は神すら知らず、当人のみぞ仔細を知る。もし享楽のままに場を引っ掻き回し始めたら、できる範囲内で止めよう。前もって行動指針を決めた少女を他所に、青髪仙人はるんるん笑顔で途轍もない爆弾を設置した。

 

「とじちゃん、もう少し集めて帰るわよ」

 

「えっ、いやこの流れで帰るんですか……」

 

「そりゃそうよ。私が面倒事嫌いなの知ってるでしょ」

 

「……あいつの核、持って帰って研究したら面白そうだと思いません?」

 

 核なんてものがあるのかは知らない。集めるだけ集めて帰るという無礼極まりない行動を恥じた蘇我 屠自古の、口から出任せに過ぎない。しかし彼女の反応を鑑みるに良い線を突けたらしい。蒼玉の目を輝かせ、指示の一声をあげた。

 

「とじちゃん! 『かみなり』!」

 

「効くのかなぁ」

 

 起爆は一先ず免れた。心中安堵の息を吐きながら、腕の先に力を集中させていく。良いように使われている気がしなくもないが、折角発揮された青娥の意欲を削ぎたくはないので心に留めておく。

 一閃。屠自古の意思で方向性を定められた電撃が走る。直後に轟く雷鳴は、絶大なる威力の証左であった。周囲の面々の鼓膜を揺らし、脆い溶岩を深く抉った。

 

「ありゃ、案外脆いもんですね」

 

「風船みたいなものだからね。巨躯を満たしたいなら、それ相応の邪気が必要でしょ?」

 

 雷は、特に強い抵抗も受けずドーム状の壁を貫通した。粘度の高い飛沫が方々へ飛散し、美しい自然を穢す。電熱の凄まじさたるや、直撃した箇所の付近部位をどろどろに融解させてしまった。極めて高温の亜液体と化した妖気が湯気を上げながらぼどぼど、と落石の如く雪崩落ちる。

 数秒の間、惨憺のベールに包まれていた姦姦蛇螺の内部構造が黒夜に晒される。中心がぽっかりと空いた、丁度鞠のような形状をしている。程なくしてじわじわと穴は塞がれていき、やがて元通りの姿を取り戻した。

 

「空気が抜けても充填は早いけどね」

 

「つまり効いてない、と」

 

「厳密には、効いたけど即座に回復されたって感じかしら」

 

 効果はあった、だが無かったことになる。それは端から効いてないのと変わらないのでは。うへぇ、と表情が歪む。

 しかし、今ので得られた情報は中々に有益なものだ。これはもしかしたら、攻めあぐねている現状を打破できるかも知れない。折り良く青娥の茶目っ気が華仙に向いたので、この隙にこそっと助言をば。

 

「境界の。あいつ、核があるらしい」

 

「核……」

 

「あぁ。中は空洞になってた、そこにあるんじゃないか?」

 

 高い復活能力、そして青娥の様子から実在が確実視される核。この2つには何かしらの、より踏み込むなら直接的な関係があるのではないか。言われずともその仮定に到達し、脳内で作戦が迅速に組み上げられていく。負うべきリスクと獲得できる結果を天秤に掛け、絶妙な均衡を探る。

 

「全員、聞いて。内側から奴を破壊するわ」

 

「やぁーっとそこに至ったのね。おっそいおっそい……こほん、八雲さん、それは私めが」

 

「霍さんはお留守番ですよ」

 

「えーっ!」

 

 えーっ、じゃない。多分、というか確実に青娥はあの馬鹿でかい不定形物体を格好の実験材料としか見ていない。そんな危険人物もとい危険仙人を、みすみす奴に近づけて良いとは考え辛い。

 こっそり核を持ち帰って実験研究、その末に復活なんてことになれば、神霊廟一同は幻想郷の有力者から総攻撃を喰らう羽目になるだろう。血の気が多い尸解仙や渾沌(カオス)大好き邪仙は喜び勇んで立ち向かうとして、屠自古は真っ平御免である。

 

「私があいつを締め上げるから、その間に懐へ潜り込んでほしいの。誰か、やってくれないかしら」

 

「私がやる。お前達、邪魔を入れてくれるなよ」

 

「聞き捨てならないねぇ、吸血鬼。あんたこそ外様で座って待っているべきだろう」

 

 紫の考案したシンプルな策に、2人の勇士が名乗りを挙げる。戦力は充分、だが勇士達は互いに折り合いを付けるのが恐ろしく下手だった。ごく自然に、それこそ予定調和のように神と悪魔が睨み合う。

 倒すべき敵を目の前にして、どうして仲間内でいがみ合うのか。ほとほと呆れ返りながら喧嘩を止めようとしたが、それより早く素晴らしい折衷案を提示する仲裁者が出てきてくれた。

 

「2人でいけば?」

 

「……まぁ、フランが言うなら」

 

「仕方ないか」

 

 1人より2人の方が素早く、そして確実に姦姦蛇螺の核を壊せる。そもそもどうして片方だけが乗り込むつもりだったのだろう、紫はそんな条件を付けていないのに。切り込みは単独で、そんな観念が彼女達にはあるのかも知れないが、生憎勝率を何よりも重視しなければいけない状況だ。主観は一旦頭の片隅にでも寄せておいて、両者仲良く、せめて喧嘩せず協力体制を取っていただきたい。

 

「──『四重結界』」

 

 不承不承ながらも矛が収められたのを確認し、内心でフランドールに感謝しながら作戦の第1段階を開始する。奴の動きを制限し、突入の好機を作る。

 紫の言葉に呼応して現れた(リング)状の結界が、穢れた楕円状球体の戒めとなる。数にして4つ、それぞれが巨大な枷の役割を果たせば、如何な怪物と雖も満足に動けるはずがない。さらに単純に縛っているだけではなく、妖気も内側に抑え込んでいる。

 

 行動と出力の抑圧が、怪異から攻防の手段を奪う。結果、自ずとチャンスは訪れた。

 

「ふむ。別段耄碌してはなかったか」

 

「無駄口を叩く暇があったら、突っ込んでくださる? 長くは保てないから」

 

「ふん、ほら行くぞ建御名方命」

 

「懐かしい名で呼んでくれる」

 

 建御名方命。八坂 神奈子の、神としての名である。数々の国記が述べる伝承は、彼女が誉れ高き武神であると声高に宣言する。たった1柱を除き、あらゆる神々が戦闘において彼女の後塵を拝する、その意味を敢えて語る必要とは。

 西洋最高峰の怪物たる吸血鬼とタッグを組み、最早寸分の隙さえ閉じられた。レミリアの紅い槍で盛大に開通した一本道、使用するなら高く貴重な片道切符を。何せ結界のスペシャリストである紫が繰り出した()()結界ですら、完全に姦姦蛇螺を停止させるには至っていない。

 

 先程よりもゆっくりと、しかし傷跡は回復していく。レミリアと神奈子の後ろ姿が薄くなり、やがて視認できなくなる。最後まで目を離さず姉を瞼に焼き付けた妹、彼女に近寄る不埒な虫はこっそりミシャグジに落とさせた。この世でたった1人しかいない姉だ、その力を信じていながらも身を案じているのだろう。存分に心配してやれ、まぁ間違いなく涼しげに帰ってくるし。頭上で薄く笑う祟り神に、何を思うのか白蛇はちろちろと舌を揺らした。

 

「愛い子だねぇ。こっちもこっちで、表情固いけど」

 

「余裕とでも見えまして?」

 

「いんや、全然」

 

 口調こそ物静かだが、紫の額には汗が滲んでいる。それを拭いもせず、ただ一心に結界の維持に務める。

 結界を重ねるという発想がいつ生まれたのかは定かでないが、実践を可能とした術者は古今東西引っくり返して探してもそう多くない。1つなら問題なく生成できても、その外側に全く同じものを追加する難易度は、多くの人妖の想像を遥かに上回る。しかも張って終わりではなく、崩れないよう保たなければいけないのだ。多重結界が高難度な技術であることは、疑いようもない。

 

 天性の才能を有する霊夢で、三重が限界となる。四重を実現させられるのは、幻想郷に強者多しと言ってもただ1人。それだけ希少な実力(さいのう)を遺憾無く輝かせ、それでもなお姦姦蛇螺は僅かながらに活動を継続させる。

 あと何分、いや何秒持つかも怪しい。レミリア達の邪魔になる危険を考慮すると、下手に援護もできない。戒めから解き放たれた時、リスキーな制圧戦の成否は彼女らに委ねられることとなる。願わくば余力がある間に、脂汗が頬を伝うのを感じながら焦燥に駆られた激励を飛ばす。

 

 ばきん、と鈍い音が響く。最も内側の結界が割れ、効力を失い虚空に消える。鎖が緩み、負荷が加速度的に増大していく。これ以上の手綱取りは意味が弱い、合理的な判断のもとに制御を手放した。

 錆びた血のようなソリッドゾルが、束縛を振り切った。ほぼ止んでいた攻撃が再開され、少女達は大幅な後退を余儀なくされる。妖力の残量が限界に近い友を庇うため、隠岐奈が前に出る。故意か偶然か、紫を狙った連撃が息を吐かせない。

 

 あの2人は無事だろうか、絶望的な予感が胸を過ぎる。ここまでの鬱憤を纏めて晴らすかの如く、苛烈に暴れ回っている。恐らくだが、内部でも同様の事態となっているはずだ。一刻も早く戻らなければ、最悪のケースは色濃く現実味を帯びてくる。

 

 急いで出てこい、と祈るように見つめる視線の先で、活火山の噴火めいた爆発が起こる。天辺より勢い良く飛び散る破片は、しかし脱出してきた猛者の覇気に当てられてか汚そうともしない。

 

「私のグングニルだと言ってるだろう。分からんな貴様」

 

「いーや違うな、オンバシラだ」

 

 ぎゃいぎゃいと言い争い、差し向けられる虎を模したような物の怪には目もくれず握った得物をぶん回す。強烈な神気と妖気が邪魔者の息の根を止め、一方で彼女達は功を競う。核を無力化したのは自分だ、と。

 まさかこんなにも短い猶予で達成するとは。過去に霊夢と激闘を繰り広げた2人だそうだが、つくづく味方で良かったと思う。出てきた後も律儀に指差しかち合いの口論を戦わせているのには辟易してしまうけれど、打ち立てた功績は認めざるを得ない。

 

「私が奴の過半を抉った。貴様のぐるぐるとか何とかは掠っただけだ」

 

「グングニルだ、それと掠めた程度の阿呆は貴様だと何故こうも説明しなければ……あ、おい摩多羅神。感謝しろよ、この私が尖兵となってやったんだからな」

 

「私にこそ最大限の感謝をだな。ちっこいお荷物侍らせながらの戦いだったんだぞ」

 

 外敵を排除せんとする猛攻が、急速に鈍くなっていく。伸ばしかけていた武器は動作を酷く緩慢にし、やがて先端がさながら泥よろしくぼろりと剥がれた。使役された大量の獣も姿形の定めを外れ、溶けた飴細工のような醜態で地へ落ちていく。

 傍らで依然決着のつかない水掛け論を戦わせるレミリアと神奈子だったが、背後からそれぞれの妹と戦友に頭を小突かれて漸く沈静化した。外野の干渉は堪らないと軍神が潔く引き下がり、なおも食い下がろうとする吸血鬼は第2対抗措置として羽交い締めにされる。そんな呑気に喧嘩していられるのも、神と悪魔の冒涜的な共闘あればこそ。

 

 ちら、と後ろを見れば紫もくすくすと笑っている。真剣勝負のさなかに温和な側面を見せる昼行灯ではない。そんな彼女が含みなく笑っている、それは全土に激震をもたらした大異変の終着を一層強く感じさせた。

 色々な意味で最大の敵だったが、多数の援護もあって見事勝利を収めることができた。ぴくりとも動かなくなった姦姦蛇螺は、きっとここから浄化作用で分解されていくのだろう。時間はかかるけれど、幻想に育まれた自然は明媚にして雄大なのだ。人や妖怪の助力だって惜しまれない。

 

 だとすれば、今だけは勝利の余韻に浸っても許される。負けられない激闘の果てに、神の審判は幻想郷に微笑んだのだ。華仙も交えて3人で、天高く拳を突き合わせる。勿論彼女達だけではない。紅き館の姉妹、山の神社の祭神、神徳高き廟の超人達。この場にいる誰もが、屈託の無い笑顔で互いに喜びを分かち合っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「怪異は討伐、正義は勝つ。

 

 死者は過去へ、生者は未来へ。

 

 これでめでたしめでたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 腹部に響く衝撃が、ぎくりと動きを硬くする。何かに殴りつけられたような感触だが、痛みは伴わない。再度内臓ごと揺らされ、そこで衝撃が空間全体を振動させていることに気がついた。一体何事だ、怪訝そうに周囲を見渡し、華仙がひっ、と息を呑む。

 

 よもや、想像は未だ明けぬ空を翔けて現実へと昇華された。

 

 機能を停止したはずの赤黒い塊が、心臓のようにどくん、どくんと一定の間隔で脈打つ。一拍ごとに激しくなっていく衝撃と明滅が、禍事の兆しを皆に知らせる。そう、まるで孵化を目前にした卵のようで。

 

「おい、建御名方命。誇りを賭けろ、私達は勝負に勝ってコアを潰した。そうだな」

 

「間違いないよ」

 

 肉体を粉々に叩き割っても、源泉を枯れ果てさせても。

 

「ではあれは何だ。何故まだ動く!?」

 

「分からないから今こうやって冷や汗かいてるんだろ……!」

 

 姦姦蛇螺は、三度(みたび)蘇った。あまりに強力な生への執着は、根幹の欠損という致命的ダメージをも超越した。

 ぐちゃぐちゃ、と塊が形を変えていく。柔軟性を生み出す流動はそのままに。拍動はより激しさを増し、副産物として放出される衝撃波が強風を伴って吹き付ける。苦しみに喘ぐように、声無き叫びをあげるように、明確な『型』が決定付けられていく。

 細長い下半身が作られ、それから裸体の上半身が模される。自重に制約されて体を起こすことはできず、6本の腕と下半身で地に這い蹲る。顔だけは天を仰ぎ、にたりと惨く嗤ったようにも見えた。

 

 紛れもない、姦姦蛇螺であった。産声を発するかのように、錆び付いた音が漏れる。爛れた萱草色の眼光が、順に少女達を射抜く。次いで蛇巫女は、顎を外す程に大きく口を開ける。何をするつもりかは不明だが、じっと静観しているわけにもいかず身構える。

 

「……は」

 

 口内から出てきたのは、小さな……とはいえ元々のサイズと遜色の無い姦姦蛇螺だった。それも1体や2体ではなく、何十何百、後から後から際限無く湧いてくる。他の個体を無視し、踏み越え潰してでも前へ進む狂気的な暴走欲が、全員から言葉を忘却させる。

 前へ、前へ。奇しくも姦姦蛇螺の渇望を体現するが如く、同胞の血も肉もかしこに付けたまま、軽い被害で済んだ幸運な個体だけが幻想郷へ解き放たれた。道半ばで力尽きた敗北者には構わず、八方へ散り散りとなる。

 

「不味いっ」

 

 蜘蛛の脚に近い3対6本の腕の挙措は、途轍もない生理的な嫌悪をもたらす。まさにこの世に顕現した地獄と言い表す他になかった。

 華仙が単身、壊れた玩具めいてひたすらに前進を続ける蛇螺の子達へ殴り込んだ。背後から飛ぶ制止の声は聞こえない。大元(オリジナル)より大幅に耐久性において劣る複製体は、彼女が1度殴りつければ活動を停止する。以前の苦労を回顧すれば些か拍子抜けであり、呆気なさまでもを感じさせる。

 

 だが、上から俯瞰している面々は、とうに華仙が危機的状況へ陥っていることに気がついている。彼女が1体倒す間に、何体の新兵が増産されているか。正確な数を把握するのは不可能に等しく、今はただ彼女に戻れと叫ぶしかできない。危険を察知し、囲まれる前に辛くも生還したが、状況は微かたりとも好転していない。

 

 紫達が為すべきこと自体は、簡潔にして明瞭だ。3度目の生を与えられた姦姦蛇螺を、3度目の死で上書きすること。そのために策を講じて、実行に移すこと。ここまで則っていた過程が、しかし今は見上げても棒の見えないハードルとなり立ちはだかる。

 

 閉じ込められた部屋には扉も窓も無く、室内を探索するための明かりさえ灯されていなかった。次は何をすれば良いのか、想像もつかない。どうすれば奴を骸に変えられるのか、良案の手掛かりさえ掴めない。

 

 沈痛な空気の中で、呆然と拡大していく災厄を目に映す。最早万策は尽き、刻一刻と迫る滅びの時を待つだけとなる。

 

 

 

 

 

「あー、もう」

 

 後方で()()が膨れ上がった。続けて目の覚める破裂音が、重苦しい闇を斬り払う。咄嗟に振り返った視線の先で、醜悪な贋作が風前の塵よろしく吹き消えていた。

 

 純粋で高潔な霊気が、外法の模造を魅了する。次々に、我先にと飛び込み、例外なく牙を立てられないままに消滅していく。

 

 一気に明度の上がった世界の中に、彼女は立っていた。やれやれ、肩を竦めるその表情は天女めいてふわりと柔らかい。

 

「じれったいわねぇ、あんたら」

 

 右の手に、見慣れた幣を携えて。

 

「やっぱりあれよね」

 

 太陽より煌めく瞳は、凶禍を前に翳らない。

 

 

 

「──私がいないと駄目じゃない」

 

 This isn't the end(ここからだ).

 女神は歌う。意気盛んにして希望未だ臆せず。

 終焉の鐘を、鳴らせるものなら鳴らしてみろ。今ここに、戦場は本当の佳境を迎えた。



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其ノ窮 姦姦蛇螺 オワリ

 

 

 

 思えば、あの瞬間に目覚めたのにも意味があったのかも知れない。夢の中で見知った妖怪が悲しげに微笑んで、その笑い方があまりに儚く破滅的で。尾を引く眠気なんて、一切感じなかった。

 

 布団を出て、襖を開く。月を見ようとも、夜風に当たろうとも思っていなかった。さして驚かなかった自分に驚いた。

 藍、たった一文字紡いだ言葉も聞き逃されなかった。耳の良いこと、感心しながら彼女の動向を尋ねる。返答は概ね予想通りのものだった。

 

 少し気が向いた。藍に着替えの手伝いを頼んだ理由は、それだけだ。彼女は深く沈黙し、それから諦めたように苦笑した。

 1つ、条件を付けられた。私は全力で主命に抗う、だからお前も力を尽くせ、と。何を当たり前のことを、ふっと鼻で笑ってしまった。

 

 白磁の肌が露わになる。押せば折れそうな肩、抱き竦めれば砕けそうな腰、全て花開く時を待つ蕾の身体。包み隠さず狐に委ね、暫し追憶に浸る。

 声をかけられて、着替えが終わったのを知る。ありがとう、複雑そうな顔に感謝を伝える。どうして良いのか分からない、そんな曖昧な返事で流された。

 

 それでは、といつも通りに飛び立とうとして、ふと振り返る。1枚の紙と1本の筆を取ってくるよう頼む。藍が帰ってくるまでの間、井戸から少し水を汲み上げて手で掬う。ひんやりと冷たくて、美味しい。

 

 戻ってきた彼女から、筆と紙を受け取る。嗚呼、月が綺麗だ。何処までも白く、恐怖を覚える程に。遥か遠い星に思いを馳せながら、縁側に腰掛けた。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「霊夢。戻りなさい」

 

「あんたらが時間も考えずにわちゃわちゃしてるせいで、こちとら寝れないの。安眠の妨害は重罪よ」

 

「戻りなさい」

 

 少し軽い口を叩いてみたが、彼女は一片の冗談も通じない石頭と化していた。やたらと重い場の空気を和ませてやろうと、折角一肌脱いであげたのに、恩を仇で返された気分だ。

 

 余裕が無い状況なのは、見れば分かる。さっきから物凄い数の姦姦蛇螺が、夏の虫よろしく霊夢と紫の真下に密集している。早く降りてこい、喰ってやると言わんばかりの歪んだ熱気が足元へ伝わってくる。自力で飛べない辺り、虫にも劣る下賎の賜物だが。

 それに、向こうには全体像を拝むのにも一苦労な親玉がいる。多分あれが本体なのだろうと推測はつくけれど、何がどうしてそうなったのかは分からない。聞いた話では華仙が硝子細工ばりに叩き割ったとかだったが、まさかそこから蘇ったというのか。だとすれば恐るべき生命力だ、猛者共が揃いも揃って手を焼くのにだって納得できる。

 

 既に妖力の大半を消費した紫は、大きく息を上げている。手の先が微かに震え、明らかに疲労を溜め込んでいると一目で分かる様相であった。それでも霊夢を神社に戻さなければという一念のもとに、気丈に振る舞う。

 

「無茶すんなっての」

 

「……貴女、姦姦蛇螺と戦う気ね」

 

「そうよ」

 

 否定も誤魔化しもしない。そのためだけに、霊夢はここへ来たのだから。

 外野の守りは充分だ。見たところ、幻想郷の最高戦力と言っても差し支えない程である。劣化コピー共の相手は彼女達に任せられるとすれば、敵は最早本丸を残すだけとなる。状況が思いの外単純なのは、霊夢としても有り難い。

 

「駄目よ。言ったはず、巫女である貴女は絶対に姦姦蛇螺には適わない」

 

「そうね。じゃあさ、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ただ戦ったところで、きっと奴には勝てない。紫がかねてから言う通り、巫女という存在に対して圧倒的な優位を確約されているようだ。気は滅入るが、策を講じて勝負に臨む必要があった。

 とはいえ、使う武器を針にするとか高火力で一気に沈めるとか、そんな程度の変化では意味が無い。もっと大きな、それこそ前提条件から見直す勢いでなければ打開は不可能だ。道すがら考え、やがて1つの結論に辿り着いた。

 

「あったのよねぇ。我ながら迂闊だったわ、最近ずっと練習してたのに」

 

「練習って、まさか」

 

「うん。()()しかないかなって」

 

 勝ち目はある。巫女という制約を超えてしまえば、絶対敗北の運命から解き放たれ浮かび上がる。何たる偶然か、霊夢は世迷言を現実のものとする手段を有していた。

 

「無理よ。付け焼き刃でなんて」

 

「やってみなきゃ分かんないでしょ」

 

「試行錯誤できる状況ではない、分かるわよね。1回のミスで、貴女死ぬ可能性があるのよ」

 

 だが、紫はその起死回生の案に待ったをかける。霊夢の隣で修行を見てきたからこそ言える、彼女はまだ完全な習得の段階に至っていない。これから時間をかけて、発動の安定性を高めていこうという段階だ。状態を維持しての戦闘など、現時点では視野にすら入っていない。

 

 上手くいったら姦姦蛇螺との間の優劣関係を白紙に戻せる、あわよくばそのまま討伐まで持っていける。

 そんな『たられば』の論を現実に考慮している余裕は、何処にも無い。失敗を次に活かすことは不可能で、即ち死への一本道となる。

 

「呆れる程の今更感ね。他の怪異と戦った時だって、1歩間違えてたら死んでたのよ?」

 

「リスクの大きさを言っているの。極めて高い確率で仕損じる事を、よりによって博麗の巫女に打たせる程我々は阿呆ではないわ」

 

「結界はもうかなり侵食されてるみたいよ。今から他の方法を探して、間に合うのかしら」

 

「……」

 

 天を仰ぐ視線は、ごく小さな揺らぎに注がれていた。注意して見なければ、発見は難しいだろう。暗夜の陽炎が何を意味するのか、霊夢はあっさりと答えを言い当てた。

 

 幻想郷は、言わば巨大な結界の内部空間だ。派手に暴れれば、そのダメージは結界にも蓄積されていく。ある時点において損傷の自然修復は望めなくなり、やがては術の崩壊へと発展する。

 本来、こんな危機を懸念すること自体が杞憂になる。先の大異変において幻想郷は真っ二つに分裂し、血で血を洗う凄惨な殺し合いが各所で発生したが、その時でさえ管轄者達の焦点は専ら敵勢力の殲滅に当てられており、結界の負担は議題に登場さえしなかった。

 

 恐らくは、姦姦蛇螺の特異性が脅威となっている。巨大で内包する妖気は相応に強く、かつ害意を持った侵攻者はこれまでにいなかった。あらゆる要素が、史上空前の非常事態に直結する。

 

 そこまで考えたのだろうか、それとも単に見えた現実を口にしたのか。いずれにせよ、霊夢は天賦の慧眼故に憂懼の局勢を知る。それはつまり、彼女を制するための言い訳を失ったに等しくて。端正な美貌に、御し切れない苛立ちが滲む。

 たった1本垂らされた蜘蛛の糸。登った先には天上の楽園、しかし落ちれば無情なる怪物に貪り喰われてそれまで。天国(勝利)地獄(破滅)か、救世を賭けるには余りに細く、そして長大である。

 

 任せられる理は皆無。博打ですらなく、今際の自棄に塗れた敗れ被れでしかない。さりとて彼女を納得させるだけの説得材料を用意できるわけでもなし。

 どうすれば良い、優れた頭脳が、まるで壊れた機械のようだ。回路(シナプス)が焼き切れそうな程に、超高速で無意義無軌道な回転を続ける。

 

「あのさぁ」

 

 紫の否定的な迷いは、はっきりと霊夢に伝わっている。何としてでもこの場は、自分達だけで収める。掌中の珠として、一筋の疵も許すまじと慮ってくれる、それはとても。

 

「こんな時くらい、私のこと信用してよ」

 

 とても腹立たしくて悔しくて、不意に声が上擦った。

 感情論に過ぎない、そう言われれば返す言葉に詰まる。この場においての最適解は迅速な帰還であり、異なる解を求めるべくもない。道理は紫にあり、霊夢は横車を押し込もうとするならず者だ。

 

「そりゃあんたみたいな賢い奴から見たら、私なんて危なっかしくて怠け者で気分屋なのかも知れないけどさ」

 

 激情の矛先は、酷く不鮮明で見えない。敵である姦姦蛇螺か、それとも()()()紫か。だが、目的が庇護でないのは確かだ。『守るべき人間』ではなく『自分達』の領域と扱ってほしい。

 ある意味、1人の少女が見せる自尊心の発露であった。この地を守るという正義感と、技量誇示の欲求が綯い交ぜになっている。

 

 何が悪い。認められたいと願って、何が悪いのか。絶対正義の名のもとに戦うだなんて、如何にもな御伽噺や小説のようだ。勿論そうであったって良いけれど、各々個々が胸に抱く願望を、邪魔な重荷と断じて抑圧する理由とは。

 

「それでもあんた、言ってくれたでしょ。……私のこと、良いパートナーだって」

 

「霊夢」

 

「私だって、あんたのこと別に弱っちい足引っ張る雑魚とか思ってないの。それなりに、まぁそれなりに信用に足る相棒だって思ってんの」

 

 目線は別の宙を彷徨い、数言前の威勢は何処へやら、ぼそぼそと早口で捲し立てる。その中で本当に言いたいことが上手く言えず、吃りながら挑み、幾度かの挑戦の後に無理を悟って腕をぶんぶんと振る。続いた言葉はぶっきらぼうで、しかし確かな思い切りを取り戻していた。

 

「良い? やるなら成功率は感じっこ多く見積って1割、やらないなら零。紫、あんたは幻想郷をどうしたいのよ」

 

 いや違うか。納得の行かない点を見つけ、腑に落ちるよう修正する。大きな一息を置いて、気持ちを落ち着けてから、一音一音をゆっくりと紡いだ。

 

「あんたは、私にどうしてほしいの?」

 

 今度は、逸らさなかった。100年の氷塊も溶かす視線が、真っ直ぐに金色の瞳を貫いた。

 経過が気になる少女達が、待ち切れないと言わんばかりにふわり、ふわりと集まってくる。2人に注がれる目は、あたかも早く早くと急かすかのように期待で満ち満ちている。ほんのちょっとだけ遠巻きに、皆が次なる紫の台詞を待つ。

 

 

 

 

 

 あぁ。

 

「……生きて」

 

 

 

 

 

 そうか。

 

「それだけ?」

 

 

 

 

 

 そうだった。

 

「生きて、帰ってきて」

 

 (わたし)は、霊夢(あなた)を信じ抜ける。

 

「貴女に全てを託します、霊夢。

 

 

 

 

 

 ──我々は幻想郷と、貴女と運命を共にする」

 

 少し、長い夢を見ていた。心地好いそよ風が頬を撫でていく。醒めよう、暗く狭い妄想から光に溢れる現実へ。

 

 誰かが笑った。くすり、と穏やかに。

 結局の所、霊夢を過剰に心配していたのは紫だけだった。彼女以外の全員が、霊夢を信じていた。きっと、到着を心の底で待っていた。

 

 博麗 霊夢はヒーローではない。例え結果的にそうなったとしても、彼女はそれをにべもなく否定するだろう。

 博麗 霊夢はヒーローである。例え本人がそれを否定しようとも、彼女は全てを救う。

 

 対極の矛盾を孕んだ2つの()()が、まだあどけなさを多分に残す少女に内包されている。湧き上がる興味を胸の奥底に留めて、再度化け物に向き合う。超えるべきハードルの棒が、今はくっきりと見える。

 

「大袈裟よ。いつもと一緒、私が退治して報酬を貰うの」

 

「あら。失礼、そうでした」

 

「ったく」

 

 呆れたように、乾いた笑いを零す。怪異は倒すし報酬は弾まれる、そこに普段との違いなんて何も無い。ただちょびっと本気の度合いが高いだけで。

 ほんの数分にも満たない時間だったが、紫達は策を失った。立ち込める濃霧に惑わされて、上手く歩けなかった。

 

 万丈の気炎で霧を払ったなら。その炎なら、死なない怪奇現象も焼き尽くせる。1度は反駁した身で大変恐縮だけれど、蓋し彼女が最後の希望だ。東より出づる太陽を再び拝めるかは、もう一切合切を委ねるしかない。

 

「ここにいる全員に言っとくわよ」

 

 鈴のような()()とした声を張る。すわ連絡事項か、皆が神妙に聞く姿勢を保つ。青娥は澱みの激しい妖気にご執心らしく、ちらちらと目線が後方へ行ったり来たりを繰り返す。

 

「夜に騒いで私を起こした罪は重いからね。後で1人1回ずつしばくから」

 

「えっ、何で!?」

 

「何でも糸瓜も無いわ。嫌ならあんたの分はお姉ちゃんに回しても良いけど」

 

「援護してやらんぞ貴様」

 

「100回しばかれたい?」

 

「私が悪かった」

 

 この瞬間、皆が頭に大きなたんこぶを作ることが確定した。ほかほかと湯気を上げる餅を乗せて、9人並んで巫女の前に正座だ。非常に嫌なので考え直してもらいたいが、あのレミリアが撤回を余儀なくされている時点で望み薄である。

 うへぇ、と全員がげんなりする中で、霊夢も朱殷の蛇巫女を見据える。きっ、と目が細くなり、弦のように纏う雰囲気が引き絞られる。

 

 姦姦蛇螺が雄叫びを上げる。まだ辛うじてまともなサイズに収まっていた頃、1度も聞くことのなかった声は、あぁ聞かなくて良かったと後悔にも似た感情を呼び起こした。妙に高く、それでいて空気を重く振動させる咆哮に、ただ喧しい奴だと顔を顰める。

 俄かに跳ね上がった霊夢の意気を感じ取ったかのようだ。瞳の無い目が、確かに彼女を見返す。両者の間に散った火花が、決戦の合図となった。

 

 赤く燃え上がる1本の矢となって、敵を討つべく一直線に飛ぶ。その後を紫が、レミリアが、神奈子が。神も妖も、一様に追従する。降り注ぐ豪雨の如き妨害も、雷に焼かれ、蛇に蝕まれ、不可視の力で消し飛ばされて意味をなさない。

 言葉は交わされなかった。アイコンタクトもハンドサインも、およそ意思疎通に分類されるあらゆる行動を、1人も取らなかった。

 それでも、意図は視覚も聴覚も超越して、波紋のように伝わった。意識が根底で繋がったみたいに、彼女の望むことが鮮明に理解できる。

 

 刹那、霊夢がふと振り返る。視線の先では一夜限りで共演する豪勢絢爛な面々が、そしてその最奥で祈るように彼女を見つめる女がいた。

 ふっ、と。母が子を愛おしがり、子が母を慕うような慈愛に溢れた微かな笑みは、果たして互いに届いただろうか。それを確認している暇は残念ながら無かったけれど、精神を彩る黄金色の煌めきはより一層輝かしいものとなった。

 

 べこん、と錆びた血染めの身体に穴が開く。人間が悠々と通れるだけの大口に、迷うことなく飛びこんでいく。程無くして穴はじわじわと狭まっていき、完全に閉じられるより先に術者の手によって役割を放棄された。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「ここが奥かしら」

 

 分厚い邪気の壁を越えた内部は、すっからかんの空洞になっていた。儚い月の明かりは遮られ、紅い蛍火がぼんやりと周囲の光景を浮かび上がらせていた。

 

 ぬちゃ、ずちゃと粘ついた足音は、前方から聞こえてくる。薄明かりに辛うじて映った姿を、見紛うことはなかった。獲物の姿を認め、大きく開かれた口が醜劣に糸を引く。ぶるりと震えたのは緊張か、それとも歓喜か。

 

「えらく好き勝手してくれたわね」

 

 以前、為す術も無く殺されかけた相手との対峙。思うところはある、何せあの時の朧気な記憶を乗り越えるのは難しい。少なくとも一朝一夕で簡単に、というわけにはいかない。

 身が竦む恐怖を、しかし今だけは克服している。彼女自身、そう実感している。体はぴくりとも震えないし、余計な力も入らない。

 

 水に浮かんでいるかのようだった。果てしなく広がり、他のものは何も目に映らない。温くもなく、熱くもない水は、霊夢に究極の平静と脱力をもたらした。

 

 全身を、緩やかに霊気が流れていく。止まりはせず、それでいて流浪の旅人めいた落ち着きをもって澱みなく循環する。

 両面宿儺との真っ向勝負に際して、霊気は過去最高レベルの激しさで体を巡っていた。記憶が正しければ体温は上がっていたはずだし、呼吸もやや浅くなっていた。

 

 あの激動を荒れ狂う大時化と表現するなら、さしずめこれは風の吹かない凪いだ湖面だ。出力は到底及ぶべくもなく──いや、そもそも競ってすらいない。あらゆる相対比較から()()()()()とさえ感じられ、一方で意識はかつてない透明(クリア)を思考に反映する。

 

 何でもできる気がする、というのは少し安直な言い回しだろうか。自信を遥か遠く超克した確信が、案内役として霊夢を新たなステージへと導く。

 所詮は小娘の妄想だ、そう笑いたければ笑ってもらって構わない。既に彼女は、失敗という概念からの完全なる脱却を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──夢想天生」

 

 蒼白の極光が、グロテスクな空間を照らす。光と影、打ち消すか喰らうか。

 

 勝者は、たった1人。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「どりゃーっ!!」

 

 天から降ってきた少女が、勢いそのままに巨体を袈裟斬りにする。少女の背丈は特別高くもなく、剣身は揺らめいているもののそれに見合った平均的なサイズに収まっている。

 そんな彼女の斬撃は身に刃を通しつつ、姦姦蛇螺の右腕のうち1本を斬り落とした。さらに間髪入れず周囲へ展開された無数の巨大な石が、号令1つで顔面へと殺到していく。あっという間に原型から乖離し、ひしゃげていく。

 

「弱点覚えたり! ほらほら気合い入れてけっ、何か良く分かんないけど!」

 

「天子。体はもう良いの?」

 

「とっくの昔のお伽噺ってね」

 

 再生できるとはいえ、一時的に顔を潰されては堪らないらしい。侵攻が止まり、たたらを踏むようにゆっくりと後ろへ下がっていく。

 桁外れの怪物を前にしてすら、比那名居 天子は怯まない。奴隷に向き合う主君の如くふんぞり返り、傲岸不遜に睨み付ける。

 

「こんだけ集まってんのにちんたらし過ぎでしょ。怪異だっけこいつ、そんなに強いの?」

 

「耳が痛いわね。奴は最悪の怪異よ、今幻想郷は崩壊の瀬戸際にある」

 

「ふーん。それはそれは……大変じゃないの!?」

 

 余裕の誇り顔も何処へやら、慌てて剣を構える。紫や華仙が手こずっているのだから、それ相応の相手かとは予想できていたが、まさか桃に蜂蜜をかけてもぐもぐ食べている間に世界が消滅の危機を迎えていようとは思わなかった。

 幻想郷の滅亡は、死に直結する。幾ら天人が頑丈でも、何ら意味の無いことだ。差し当たっては、集結する面々で手を組んで最凶の刺客に立ち向かわなければならない。天子は高慢で我儘だが、死にたがりではないのだ。

 

 取り敢えず、地上でうろちょろしている幼体らしきものを吹っ飛ばそう。敵を1人に絞らないと、対策を講じるのも難しくなってしまうから。

 ひょいと、何の躊躇いもなく地面に降り立つ。天界の澄んだ気を纏う少女は、ともすれば複製体にとって霊夢にも匹敵する極上の餌だ。興味が一斉に天子へと集中し、多数の爛れた視線が浴びせられる。

 

 天に剣を掲げる。真っ白な粒子が剣に吸い込まれていき、仄赤い光が急速に鮮烈さを増していく。

 人間、妖怪、神、そして土や植物。万物が持つ『気質』をエネルギーとして吸収し、然る後に爆発的な勢いで放出する大技。

 

「失せなさい、虫螻風情が」

 

 全人類の緋想天。天子はこの技をそう呼んでいる。しかし今この場に人間はいないので、言うなれば全人外の緋想天となるが。何にせよ威力は抜群で、にじり寄ってきていた模造共を根こそぎ薙ぎ払ってから、本体の首に大きな風穴を通した。

 再度戦いの場を空中へと戻し、効果の程を確認する。普通なら、妖怪だろうが人間だろうが首の大部分を吹き飛ばした時点で勝利となるが、華仙の話によればどうも普通と扱うには癖が強過ぎるようだ。油断はせず、奴から目を離さない。

 

 元通りの形に復元されていくのを、あぁやっぱりかと静観する。この調子なら、首を斬っても容易に再生するだろう。もし効いているようなら第2撃も視野に入れるつもりだったが、これは保留が妥当と思われる。

 

「あん?」

 

 完全復活まで、時間にして1分足らずというところだった。中々どうして憎たらしい速度だ、さてどうしたものかと思索するのを遮ったのは、返礼を思わせる極大の光線だった。

 あれを光線と言うのは、大いに語弊を含んでいる。訂正するなれば、薄汚れた気の濁流とでもなるか。立った天子を軽々と丸呑みにできる大口が、緋想天をも上回る砲撃を放つ。

 

「ちょっ……!」

 

()()()()()

 

 慌てて助けに入ろうとする華仙だが、それより先に天子が動いた。剣を斜めに構え、居合い切りに似た体勢を作る。そこから飛来する奔流に合わせて、堂に入った一閃。

 普段から抜剣の練習でもしているのか、素人には見えない綺麗な太刀筋を描く。赤いブレードは、接触した瞬間に悪しき激流を弾いた。まるで磁石の対極同士が遠ざけ合うように、天子は別段力を込めていない。

 

「弱点は覚えた、そう言ったはずよ。今更お前の技なんて通用しないわ!」

 

 あれが直接結界に衝突していたら、異常なまでの歪みが発生していただろう。ここに来て、姦姦蛇螺の猛攻を明確に防ぎ得る強力な味方が現れたのは有り難い。大結界にかかる負担は、大きく減らすことができる。

 

 天子とは、過去に一悶着あった。様々な要因が重なった末に、紫は本気で彼女を始末しようとした。結局当初の予定通りにはならなかったものの、あの異変が両者を決定的な溝で二分したのは間違いない。彼女を恨んでいるか、まだ許せないか。そう問われれば、寸分の間も置かず肯定する。

 

「華扇、隠岐奈。比那名居 天子の援護を」

 

「了解」

 

「任されたわ」

 

 だが、私情と必要性を心の中できっちりと分別できるからこその賢者だ。霊夢が勝ってくれるまで、時間を稼げれば良い。その観点に立ってみれば、天子は不可欠のピースとも言えよう。

 

「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァッ!」

 

「そんなに飛ばしたら、後が辛いわよ」

 

「平気よ、私の体力は凄いんだから!」

 

「大丈夫かなぁ」

 

 最優先で排除しなければならない天敵、そう見定めたのかも知れない。天子を襲う攻撃は熾烈なものとなり、だが漏らさず弾き飛ばされ斬り捨てられ、衣に触れることすら叶わない。加勢に入った2人の心配も、何処吹く風かと笑い飛ばす。

 登場早々三面六臂の大活躍をしておきながら、まだまだ息の切れる気配は無い。流石に有頂天を行くだけはあるようで、取り敢えずは程々な手助けくらいで済ませても良さそうだ。斬って斬って斬って、あはははは、と場違いの感甚だしい高笑いをばら撒く天子に苦笑いを抑えられない。

 

 空間が歪曲したのは、非想非非想天の天人によって戦場が騒がしくなるさなかのことだった。

 

「うわっ、なになに?」

 

 姦姦蛇螺の下腹部付近から発せられたようだ。奴の復活に付随した凶兆の拍動よりも強く、それでいて心をざわつかせる雑味雑念を含んでいなかった。

 強烈な衝撃は、巨体をもずしりと揺らした。体を駆け抜ける波動に、腰が浮き苦しげに呻く。ほんの一瞬制御を離れた紛い物の蛇や猛獣達が、炉中の鉄よろしくぐにゃりと溶け崩れる。

 

 感じたものを霊気と言って良いのか、誰にも分からない。未知の力が、一帯に充満する穢れた気を丸ごと上書きしていく。清らなる調べのように綺麗で、隠された月のように静かだった。神の領域と比してすら、明らかに一線を画している。

 霊夢が何かしたのか、困惑と期待を織り交ぜながら互いに顔を見合わせる。ただ1人、紫だけがそっと目を瞑った。

 

 強者と強者の戦いが長引くことは、無い。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 とんでもない肥大化を果たしたようにも見えるが、多分鎧みたいなものだろう。中で安寧を得ている本体を倒せば、事は済むはずだ。霊夢の予想は、的の中心を鮮やかに射抜く。

 神奈子とレミリアは、確かに1度姦姦蛇螺を殺した。蘇った理由は酷く筆舌に表し難いものだが、端的に言えば極限の怒りが再燃した結果だ。

 

 輪廻からの解放は、途轍もない代償を要求する。無理矢理な復活を繰り返した肉体は、とうに限界を遥か後方に置き去った。

 1度目で理性を、そして2度目で失ったのは時間だった。酷使に酷使を重ねた体は輪をかけて脆く、時の流れと共に崩れゆく。

 

 砂の城に、ぽたぽたと水滴が落ちていく。水は牙城に染み込んでいき、やがて砂と混じり合って泥となり崩落する。果たして非業の死を遂げた姫蛇は、己の身を蝕む不可逆の災厄に気がついているのだろうか。正しく暴れ回る様は、そんな問いが全くの徒労に終わることを予感させる。

 

 随分と変わり果てた。姿形は濃く面影を携えているけれど、病的に白かった肌は見る影もない。人々に忘れ去られて、辿り着いた最後の楽園で、忘我の荒御魂と化して狂い踊る。

 

 哀れな怪異だ。幣で顎を打ち上げ、怯みながらも再び突進してくる姦姦蛇螺に、憐憫の情を抱く。自業自得だと嘲笑いも、可哀想だと同情を寄せもしない。

 時代を遡れば、()()がまだ人間であった頃の様子を見られるのか。のんびり気質な霊夢より志を高く持った有望な巫女で、『裏切り』という言葉が使われる程に自分の属した村を愛していた。それがこうなるとは、ただただ哀れな一生であった。

 

 ……ずきり、と胸が痛む。予想していたより些か早い警告(サイン)を誤魔化すように、舌を鳴らす。

 

 ゆらり、と紙がひらめくように猪突を躱す。歴代の習得者達はあらゆる害をすり抜けたと、紫から聞いたことはあるが、そこまでを実現するのは土台無理があったらしい。成程、付け焼き刃とは言い得て妙であった。

 

 まるで『夢』を『想』うかのような。

 まるで『天』に『生』きるかのような。

 

 発動の瞬間に、脳内へイメージが流れ込んできた。まだ外郭も掴み切れていない。でも、夢想天生はきっとそんな技なのだ。

 

「あんたは強い。認めるしかないわ、私は負けて、あの面子ですら折れかけたもの」

 

 本当に不思議な技だ。博麗だけに継承されてきた秘奥中の秘奥は、圧倒的なパワーアップでもなければ、妖の類を屠る必殺の術でもなかった。ただ体の力を抜いて、心を落ち着かせるだけだ。博麗の巫女じゃなくたって、もしかしたら里の人間でもやろうと思えば習得できそうな、簡素極まりない瞑想のようなもの。

 それが何よりも重要なのだと、薄くながらも理解しつつある。照り映える付加価値よりも、代々の巫女達は自らの能力を最大限に引き出すことに重きを置いたのだろう。その身1つで、命を賭けて戦う恐怖や孤独を埋めるために。

 

「だから私は、あんたを退治する(ぶっ飛ばす)。手加減無しの、全力でね!」

 

 霊夢の頭上に、純白の真玉が現れる。観測できるどんな月よりも明るく、光が今か今かと溢れる時を心待ちにしているようにも見える。破裂しそうな程に湛えられた生命の喜びは、生死輪廻を凌駕した闇の権化には眩し過ぎた。

 

 一際甲高く叫ぶ。それは不穏な行動を制する威嚇の咆哮だったのか、それとも目前に迫った死への慟哭か。蒼白はより一層強まり、闇夜の溶岩めいた暗赤色がその存在を奪われる。異形の巫女にできたのは、そこまでとなった。

 

 白玉が姦姦蛇螺へ牙を剥く。自らへ迫る一撃が死を運ぶ凶弾だと、本能さえ失くして暴虐を尽くした怪異でも理解できよう。決して速度は早くなく、しかし腕も下半身も地に縫い付けられたかのように動かなかった。

 

 そのまま全身を飲み込んだ白色球体は、唐突に弾けた。ぱぁん、と乾いた音がドーム状の空間に木霊する。檻から自由になった光が勢い良く四方八方に飛んで、不規則に周囲を漂う。

 

 蛍みたいだな、なんて頭の何処かが考えた。

 

 

 

 

 

「お、終わった……?」

 

 霊夢の目の前には、何も無かった。餅より白い真球も、何度も幻想郷の少女達に立ちはだかった怪物も、この大異変に関わる何もかもが消えていた。最初から自分は夢を見ていて、今こうして呆然と佇む博麗 霊夢は仮初なのでは。戯言と断じることはできなかった。

 この世界が現実だという実感を与えてくれたのは、折れた膝が触れた地面だった。大の字になって思い切り寝転がってみても、地面は頭から爪先まで余す所なくきっちりと支えてくれる。小言を言う鬼も狐もいないから、幾ら転がっていても咎められやしない。

 

 密度が薄くなり、ぐずぐずになった肉体の隙間から、空が見えた。天蓋を覆っていた雲はいつの間にか大分流れていったようで、朧月夜の趣ある情景が飛び込んでくる。

 

「どんなもんだーっ!」

 

 叫んだら、もういよいよ立ち上がる気力まで使ってしまう。分かってはいたけれど、それでも叫ばずにはいられなかった。肺から発せられる鋭い痛みに顔を顰めながらも、それすら勝利が嘘偽りないことを確信させる。痛くて辛くて、でももっと声を上げたい。初めての感情が、まだ幼さを多分に内包する少女を荒波の如く翻弄する。

 

 姦姦蛇螺を構成していたものが、中核の消滅によって他律性を失って崩れ落ちてくる。顔の真横にべちゃり、と小さな塊が叩きつけられ、冷や汗が噴き出た。

 空へ通じる道が広がっていくが、惜しいことに見惚れている暇は無い。霊的な抵抗力が弱まっている状態で崩落に呑まれれば、一巻の終わりだ。結界を展開し、防御しようとする。

 

「……あはは」

 

 流石に苦笑せざるを得なかった。疲れ果てているのは自覚していたけれど、()()()()()()()()()()()1()()()()()()()()()

 戦っていた時には感じなかった激しい全身の痛みが、途端に堰を切って襲い来る。本来、人間の体は行動に際して自然と制御がかかる。夢想天生はその制御を取り払い、身体への多大な負荷と引き換えに真の力を発揮する禁忌であった。

 

 そのことは、やはり彼女から聞き及んでいた。使用者当人の無意識下の安全弁(ストッパー)を外す技だから、くれぐれも短時間の駆使にすること。

 言われた通りにしたのに、あちこちが朽ちた木のように軋むわ霊気は枯渇するわのきりきり舞いを味わっているのは、単なる熟練度の不足が原因であろう。或いは、これでも長く覚醒状態を維持し過ぎたのかも知れないけれど。

 

 だが、時折文句を垂れながらも毎日修行に励んだ彼女を、怠けていたと評することができようか。日ごとの鍛錬は自他共に認める量に達しており、唯一足りていなかったのは費やす時間であった。

 

「ぅ……あっ」

 

 右足に、生温い弾力。直後に発生した皮膚の腐食する音は、許容限界を虚仮にする激痛によって彼女の認識から外れた。喉から漏れたのは、呻き声に似た低く詰まる音だった。極限の痛みが体を過度に緊張させ、さらなる筋肉や骨の鋭痛をもたらす。

 

 次に落ちてこられたら、痛さのあまり死んでしまいそうだ。場所が場所なら即死。防ぐ術は現在皆無、避ける足はたった今片方焼かれた。最早幾重にも重ねられた籠の中の鳥に等しく、生きて出るのは不可能である。

 

 絶体絶命すら緩々たる状況、しかし怖くはなかった。顔に大粒の脂汗を浮かべながらも、表情は晴れやかだ。達成感が恐怖心を凌駕したのか、怖いという感情が麻痺していたのかは分からない。現状を悲観し嘆くという選択肢は、霊夢の中から綺麗さっぱり取り除かれたのだろう。

 瓦解はいよいよ進行を加速させていく。外壁が剥がれ、天井が抜けていく。

 

 ()()()()()()()()()()。もう良いだろう、折角幻想郷を救えたのに、こんな終末めいた光景ばかり目にしたくはない。私は充分に頑張ったはずだ、それなら相当するだけの報酬を。

 

 瞼を閉じて、霊夢の視界は晦冥になる。意識もまた帳を下ろし、安らかな眠気に包まれる。

 

 ──ほんの須臾、優しい微笑みと美しい金色の髪が映ったのは、きっと幻覚だった。



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終幕

 わいわいと騒ぐ声で、目が覚めた。

 

 ここは何処だろう。見覚えのあるようなないような天井を、ぼんやりと眺める。脳へ伝わる情報は『これは天井です』くらいだった。

 

「……っ」

 

 身動ぎすると、節々から痛みが飛んでくる。激痛という程ではないが、そのせいで微睡みも吹き飛んでしまった。しっかりと据わった意識を獲得し、あと少し寝ていたかったと惜しみながらきょろきょろと周囲を見渡す。日差しは斜めに差し込んでいて、時刻を朝のいずれかと判断するのは容易だった。

 

 天井のそこはかとない既視感は正しかった。ここは博麗神社だ。……どうやら、私は生きて帰ったらしい。漏れ出た吐息は安堵からか、それとも。

 

 意識を失う前の記憶は、意外なくらいに鮮明だ。ただ最後だけが、不自然な靄に覆い隠されて見えない。

 多分、勝ったはずだ。奴は消滅して、鎧となった巨躯はぼろぼろに朽ち果てた。そして何よりも、彼女自身が今の今までぐっすりと眠りこけていたことが、幻想郷に再び平和が訪れた動かぬ証拠である。

 

 よくもまぁ命を持って帰ったものだ。運の強さには自信があったが、ここまでとは思わなかった。痛めつけられて血反吐を吐いて、最後の最後にころっと助かる星のもとへ生まれ落ちたということか。呆れたように苦笑いして、ふと視界の端で動くものを目に入れた。

 絹のように艶やかな金髪が、ゆらゆら揺れている。ぴしりと姿勢正しく座ったまま、頭だけがすいすいと一定のリズムを刻みながら船を漕いでいる。

 何故彼女が自分の傍らで寝ているのか、ぱっと思い至る理由は無い。様子を見に来てそのまま寝落ちたとも考え辛い。

 

「ちょっと、起きなさい」

 

「ん……あ、おはよう」

 

「はいはい、おはよう」

 

 真横で寝られると気になって仕方がないので、取り敢えず声をかけて起こす。起き上がって肩か頭を叩くのは、億劫だったのでやめておく。寝ぼけ眼で起床したアリスと朝の挨拶を交わすのに、何だか懐かしさを覚えた。

 

「体の調子はどう?」

 

「全身筋肉痛な以外は上々ね」

 

「それは良かった」

 

 いや良くないだろう、しかし筋肉痛はアリス的には許容範囲らしい。まぁ傷だらけの痛々しい様相よりは救いもあるけれど。微妙な表情には気がつかず、正座を解いて立ち上がる。足の痺れない正座ができるのは素直に羨ましいので、今度どうやっているのか方法を聞いてみたい。魔法で、とか言われたら笑って1発しばく。

 

「皆を呼んでくるわ。少し待ってて」

 

「皆?」

 

「大体いるわよ」

 

 あれとかこれとか。具体的な名前は言わなかったけど、おおよそのメンバーは予想がつく。

 ついでに言うなら、どたどたと喧しく廊下を走ってくる騒音の主も分かる。目に映っていなくたって、もう数え切れないくらい聞いてきた足音だ。まるで我が家を走るように、内部構造を理解した迷いのない最短ルート選択ができる人妖は、ほぼ皆無。

 

「目が覚めたってほんとか!?」

 

「うわ、うるさっ」

 

「その口の悪さ、さてはお前本物の霊夢だな!」

 

 ほら来た、やっぱり魔理沙だ。彼女の顔を見るのはかなり久しぶりな気もするが、その実たった数日ぶり。別段再会を喜ぶ空白期間でもない。故にか、開口一番飛び出したのは毒だった。

 

 最初に霊夢が襲われた時、神社に駆けつけた魔理沙とは些か微妙な別れ方をした。少しだけ、ほんの少しだけ尾を引く出来事だった。あの後彼女と会うことも無かった霊夢には、明朗快活な魔法使いがこの数日間をどんな気持ちで過ごしてきたのか把握し得ない。

 

「まぁ、何だ。よくぞ生きて帰ってきた、流石は私の親友だよ」

 

「それ関係あるの?」

 

「お口は絶好調のようで何よりですわ」

 

 しかし、いつも通りの調子で話す2人に、ぎこちなさは無かった。口論から取っ組み合いまで、総合すれば何度したかも分からない喧嘩、その全てにおいて最終的には縁を繋ぎ直してきた2人だ。今更多少気まずくなった程度で、関係には小さな亀裂も入らない。

 あまりに普通で、日常だった。彼女達の間柄を象徴するかのような、平凡極まりない一幕だった。それはつまり、普段のようにここから参入してくる奴らがいることの予告に他ならず。

 

「おはようございます!!」

 

「お出口そちらです」

 

「ひどーいっ」

 

 早苗の元気満点な入室まで、予想の範囲内であった。どうしてこうも煩い面々が飛び込んでくるのか、早く静かな調停役たる人形遣いに戻ってきてほしい。彼女の切なる願いは、口火を切った早苗によって儚くも散らされた。

 

「私達、交代しながら霊夢さんの看病をしてたんですよ。もう少し労ってくれても良いじゃないですか」

 

「看病?」

 

「ほんの数時間前まで、熱やら汗やら大変だったんですからね」

 

 焦る咲夜さんなんて、初めて見ました。人差し指をぴっ、と立てて、眠っていた間の功績を顕示する。聞くに咲夜が焦っていたそうだが、真偽の程は疑わしい。あの冷静沈着を体現したような瀟洒少女が、友人の熱くらいで狼狽えるとは思えない。

 特に体は怠くないし、喉も乾かない。本当に今さっきまで熱に魘されていたのかと訝しむ。早苗は少々行き過ぎた溌剌娘だが、嘘は言わないのできっと本当なのだろうが。或いは話を大きく盛っている可能性もあり、こちらは割と現実的に有り得る。

 

 ぱたん、と襖を閉める音がした。そちらの方に顔を向けると、件のメイドが4人目として参加してきたところだった。開けた音はしなかったのだが、もしやこの魔法使いと巫女、開けっ放しにしていたな。行儀の悪いお馬鹿共め、半眼にて睨みつけてみたが、どちらもきょとんと不思議そうにするだけであった。いきなり睨まれても理由なんて出てこないだろうが、そもそも襖を開けたら閉めろ。

 

「ご機嫌はよろしいみたいね」

 

「良くない。ったく、もう」

 

「まぁ、つれないこと。熱に浮かされた貴女は、年相応に可愛らしかったのに」

 

 含みのある揶揄いに、何か余計なことを口走っていないか、唐突に不安になる。眠っていたのだから心配は無いと言いたいところだが、生憎人間は……妖怪もだけど、寝言という無意識下の発言を制御できない存在だ。

 過ぎ去った時は咲夜でも遡れないので、霊夢にできるのは過去の自分の寡黙さと安眠を信じ祈ることだけである。幸いにして彼女はこの話題を続けなかったので、内心ほっとした。

 

「お嬢様と妹様も怯えておいででしたわ、霊夢が起きたら叩かれると」

 

「『も』って何よ、『も』って」

 

「言葉の綾というものよ」

 

 それはそんなに便利な言葉じゃない。突っ込みつつ、そういえば1人1打を宣言していたっけと思い返す。また機を作って紅魔館を尋ねて、お呼び出しからの拳骨をしておこう。将来の予定が1つ追加された。

 

「あ、霊夢! 目が覚めたんだね、良かった」

 

「やっと来たわね、貴重な良心娘。ちょっと三馬鹿(こいつら)のお目付け役やってよ」

 

「えぇ……」

 

 疲れるのは嫌だ、そう言わんばかりの視線を投げてくる。気持ちは分かるがこちとら療養の身だ、面倒事は全て他者に横流しにする権利がある。よって煩いの(魔理沙)喧しいの(早苗)飄々女(咲夜)の相手は、妖夢に任せることとする。異論は無し、彼女の脳内で全会一致で可決された。

 林檎を剥いて持ってきてくれたので、有り難く頂く。爪楊枝で刺してぱくっと1口。程良い酸味と後に残る甘さが素晴らしい。お気に召したので、さくさくと食べ進めていく。4つ目を口に運んだところで、人形遣いもまた寝室へと戻ってきた。

 

「おう、アリス。そっちの準備はどうだ?」

 

「たった今終わったところよ。ほら全員、手筈通りに」

 

 ぱんぱん、と手を慣らし、それに従って皆が俄かにいそいそと動き出す。1人霊夢だけが、果実を咀嚼しながら置いてけぼりを食らう。

 はて、何か催し物でもするのだろうか。家主の許可も無しにとは良い度胸だ、企画立案者は丁寧に3回お祓い棒で叩くとしよう。体の軋む痛みを堪えて、立てかけてあるお祓い棒を取りに行こうとしたが、それより先にひょいと腰に手を回された。そのまま猫のように持ち上げられるが、生憎彼女の胴はぐにゃーんと伸びたりしない。

 

「可動式椅子のセッティング完了!」

 

「ごめんね、ちょっと抱えるよ……軽っ」

 

「……何?」

 

 何の変哲も無い、至って普通の椅子に座らされる。底に輪がついているのか、妖夢が後ろを押すのに合わせて動く。

 

「よし、運べ」

 

「私は囚人か」

 

 しっかりと乗せられたことを確認し、椅子は縁側に向かっていく。護送されているみたいで嫌だったけど、一々突っ込む面倒が勝ったので何も言わない。

 魔理沙が襖を開ける。外に出るとは、一体何を企んでいるのか。変な所に連れていかれるのは真っ平御免なので、有事に備えて身構える。

 

 目の前に広がった光景に、それでも意表を突かれてしまった。

 

「へぇ」

 

「どうだ、圧巻だろ?」

 

 ぐいっ、と椅子ごとリフトアップされて、それからそっと地面に下ろされる。流石は半分人外、力作業はお手の物だ。尤も、霊夢はそんなことに感心していられなかったけれど。

 人、神、妖怪、幽霊、妖精。見渡す限りあちこちに、多種多様な種族が所狭しと陣取っている。天界から地底まで、各地の面々がほぼ揃い踏みしているのにも驚いた。奥の方には何と地獄の閻魔大王までお越しになっており、最早来ていない勢力を探す方が難しい有様だ。

 

 皆が皆、一様に霊夢へ注目を集める。100に登ろうかという視線はどれも熱く、そして明るい。何かを期待するような眩しい眼差しで、本当に日焼けしてしまいそうだ。

 

「準備って、宴会のだったわけね」

 

「そういうこったな。そら主役、とっとと挨拶を済ませてくると良い」

 

「……私、主役なの?」

 

 会場の熱気が高まっていく中で、素朴な疑問を口にする。実行どころか企画さえしていないのだが、魔理沙の答えて曰く、「当たり前だろ」。知らない間に勝手に祭り上げられる不条理が、本日数度目の渋面を引き出す。

 

 やんややんやと手拍子口笛の煩い宴場を、椅子に座ったまま運ばれていくのは中々に恥ずかしい。頬を薄く朱色に染めながら、体が全快したら1人残らず気の済むまでぶっ飛ばしてやると決意。幸い来ている面子の顔も名前もほぼ分かるので、討ち漏らしは無いだろう。震えて眠れ。

 

「えっと、何の宴会かも分かんないけど、御足労お疲れ様。お礼にまた後日、お札とお祓い棒持ってお邪魔するから、予定は空けておいてね。しばかれるの嫌ってんならレミリアを代理にするのも認めるわ」

 

「何で私ばかり殴りたがるんだ貴様は……」

 

「はい、しばかれたくない奴らは挙手」

 

「おい待て何を……貴様ら手を挙げるんじゃあないッ!!」

 

 全員が即座に、同時に挙手。一糸乱れぬ揃ったパフォーマンスに、槍玉に持ってこられた誇り高き吸血鬼が大憤慨する。幾ら再生力に長けた彼女でも、100と数回打たれたら三途の川を渡される羽目になる。しかし吸血鬼という種族は流水の上にいられないので、結局地獄から追い返されて奇跡的な生還を果たすのではなかろうか。まさに不幸中の幸いである。

 暴れ出す姉を、妹が羽交い締めにする。だが幽体離脱は真剣にご勘弁願いたいレミリアも、必死に抵抗する。生を掴むため、形振り構わず頑強に戦おうとするが、業を煮やしたフランドールが4人に増えたことで形成は決定付けられた。そして、彼女の運命も望まぬ方向に定まった。哀れ、王者の特権たる超常的な能力を以てしても変更は不可能であった。

 

「ま、それはさておき。帰れって言っても帰んないでしょあんたら。良いわ、好きに騒ぎなさい」

 

 よっしゃああああぁぁぁ、とあちこちで巻き起こる怒号のような叫び。各々がグラスを、杯を取り出して、互いに中身を注ぎ合う。

 うああああぁぁぁ、とレミリアだけが複数の妹の下で喚く。いつの間にか用意の済んでいた咲夜から、さらりとレッドワインを手に持たされる。彼女とグラスを合わせてくれそうなのは、背中の上に乗る本物のフランドールだけだ。

 

 酒が構えられる。いつでも来い、連中の多くがそんな目をしている。待たせて暴徒化されても困るので、開始の挨拶は迅速に。

 

 その瞬間、響く地鳴りのような音と共に神社が揺れたのは、恐らく気のせいや勘違いではなかった。

 

 

 

 

 

「──乾杯」

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ふと思い出したことがあって、未だボルテージを最高潮に保つ宴席の場をそそくさと抜けてきた。今更ながら、まだ日も登り切っていない朝から宴会だの酒だの、幻想郷には暇人しか居ないのだろうか。賢者勢まで涼しい顔をして参加しているところを見ると、指摘すべきか切に迷う。

 

 寝室には、彼女が1人だけ。誰に見られることも無く、箪笥の上から3段目を開く。替えの巫女服に挟まっていた1枚の紙を取り出す。

 

 暫くじっと表紙を見ていた。それから小さく溜息を吐いて、そっとお札を貼る。ぼろぼろと、溶けるように紙が崩れていき、やがて細かな光の粒となり舞い消えた。

 

 これで良かったのだ。もう誰も、あれを見る必要が無いのだから。くすり、と柔和な笑みを零す。

 

 親友に名前を呼ばれる。あぁ、飲み交わしたいのだろう。仕方の無い奴だ、今日ばかりは付き合おう。箪笥を閉めて、振り返ることなく騒がしい空間へと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 [やっほー、紫。こうしてあんたに手紙を書くのって、初めてかもね。]

 

 

 

 [最初に書いとくけど、遺書じゃないからねこれ。財産の振り分けなんて書いてないから、期待すんじゃないわよ。]

 

 

 

 [さて、外は大変なことになってるわね。私が巫女になってから、最大の危機的異変かしら。全く、外界は余計なものを幻想郷に寄越してくれたわね。]

 

 

 

 [ねぇ、紫。

 

 私、今心臓がばくばく言ってるわ。]

 

 

 

 [多分、怖いんだと思う。私より強くて、しかも巫女だったら勝てないなんて、最悪の敵だと思わない? やってられないわ、ほんとにやってられない。]

 

 

 

 [逃げたい。神社でじっとしていたい。私ね、まだ読み切れてない本があるの。アリスから貰った美味しい茶葉だって使い切ってないわ。なのにどうして]

 

 

 

 

 

 [怖い 嫌だ 嫌だ どうして 私はまだ 絶対に 大丈夫 違う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

助けて

 

 生きて帰らなきゃ。]

 

 

 

 [私は絶対死なないわ。姦姦蛇螺を倒して、いつもの騒がしくて楽しい日々に戻る。

 それでも、それでも私が使命を果たせず力尽きたなら。紫、貴女に一つだけお願いです。]

 

 

 

 [このお願いを伝えたくて、筆を取った次第よ。手のかかる小娘の最後の厄介事だと思って、読んでくれると嬉しいわ。]

 

 

 

 [あんたはきっと、すぐに後任の巫女を選んでくるでしょう。その巫女の育成とか、凄く忙しくなって、いつか幻想郷を脅かした化け物の記憶も頭の片隅に追いやられるんだと思う。あんた賢いし、忘れたりはしないんだろうけど、私のことは先代の巫女くらいにしか思い出せなくなる日が来るのかな。]

 

 

 

 [覚えていてください。ずっととは言わない。1ヶ月でも1年でも良い、とにかく少しでも長く覚えててほしいの。あんたの相棒やってた博麗 霊夢っていう巫女がいたこと。]

 

 

 

 [友達、沢山できたわ。あんたには小さい頃から心配され続けてきたけど、ご生憎様。今じゃ幻想郷のあちこちに友達がいるわ。でも、私には相棒と呼べる奴は1人しかできなかった。]

 

 

 

 [おかしいな、遺書みたいになっちゃった。何かの拍子にこれ見つかったら、滅茶苦茶恥ずかしいじゃない。私が帰ってきたら、処分しなきゃ。

 どうせ隠蔽するんだし、最後に飾らぬ本音を書き残して締めとしましょ。この際よ、恥は全部かき捨てちゃう。]

 

 

 

 

 

 [ありがとう、紫。あんたと出逢えて、あんたが相棒で、私は何よりも嬉しいです。]



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