転生者と雪の花 (yuykimaze)
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聖者の右腕篇
1話


 

 

 

 

 

 ――人生の中で、少しだけ不思議な時間を過ごしたことがある。

 

 

 

 

 雪の降りしきる中。白く儚く失われた世界にて。綺麗な顔立ちをした虚ろな少女が1人、凍える指先の痛みもいとわずに無言で歩き続けている。感情を映さない大きな瞳は、ガラス細工のようだった。

 

「やっと、……追いついた…ッ!」

 

 荒い息と共に呟かれた、幼い声。

 思わず足を止めた。振り返った先にいたのは6、7歳ほどの少年だった。

 少年はゆっくりと肩で息を整え、安堵したように一息ついていた。

 そして幼い少女を気遣うよう優しく微笑み、少年は、小さな腕をまっすぐに少女に伸ばした。その瞬間、それまで無感動だった少女の瞳に初めて不安げな色が浮かぶ。

 だが、訪れた感触は、自身の右手に、優しく温かい、小さな温もり。

 虚ろだった瞳が、少年の行動に僅かに目を見開いた。

 

「母さんが足止めしてくれてるから、早く行こう」

 

 そんな少女の戸惑いに対して、優しく少年が告げる。その手を引っ張っていく。されるがまま、しかしお互いに言葉を交わすことなく、2人は降りしきる雪の中を歩いていく。

 そのままどれだけの時間、歩き続けたのだろうか――

 唐突に少年が足を止めた。迫り来る邪な気配に気づいたようで、少年は自分たちの背後を振り返った。

 風の新雪の助けもあって、2人の足跡は残っていない。匂いを辿ることも難しいはずだ。それでも誰かが自分たちの事を追いかけてきてると、少年ははっきりと自覚していた。少女もまた、優れた霊視力の持ち主だ。この先に待ち受けている運命を、今の一瞬に垣間見てしまったのかもしれない。

 少年はそれを見透かしたように微笑み、細い指先に力を込めた。

 確かな決意を瞳に宿し、少年は腕を少女の脇に通して、奥の肩をしっかり持って、自分の方に引き寄せた。そして両膝をもう片方の腕で持ち上げた。

 

「ここをまっすぐ行けば、高神の杜(たかがみのもり)ってところらしい。君はそこで獅子王機関(ししおうきかん)に護ってもらうことになってるんだ」

 

 不慣れな言語に、少女の理解は追い付かない。それでも彼といれば安全であるということは不思議と伝わってきた。

 

「だからそれまでは、絶対……俺が護るから。安心してくれ」

 

 力強い口調と共に、少年が地面を蹴った。

 何度も足を取られそうになりながらも、ひたすら真っすぐ懸命に少年は走る。

 引っかくような痛さを伴った寒風が少女を襲う。それでも不思議と心は温かかった。

 ――なぜ、自分の為に、ここまで少年は必死になれるのか……

 ほのかに心に宿り始めた温かい何かに疑念を覚えながら、少女は大きな瞳に少年を映し続けた。

 

 

 

 そう。これが彼との始まりの記憶。

 少女――姫柊雪菜(ひめらぎゆきな)が心を奪われた、淡い初恋の物語。

 

 

 

 

 

 

 東の水平線が仄かに白み始めたころ、誰もが見惚れる程の整った顔立ちの少女――雪菜は目を覚ました。

 野生の猫を思わせる動きでむくりと音も無く起き上がり、寝癖のついた髪をかき上げる。

 無防備に小さなあくびを洩らすと、目の端に涙のしずくが浮いた。

 それをぐしぐしと袖で拭く。実は雪菜は朝に弱い。意識がまだ少し朦朧としているせいか、やや大人びた冷たい美貌が、普段よりもずいぶん幼く見える。だから目を覚ますため浴室へと向かった。

 何度か二度寝しそうになるが、冷水のシャワーを浴びているうちに、少しずつ目が覚めてくる。

 浴室を出て、タオルで体を拭き、鏡に自分の姿を映す。体調は良好。しかし自身の華奢な体を見て、思わずため息が漏れる。牛乳飲もうかな、などとぼんやり考えながら髪を乾かし、真新しい中等部の制服へと着替え、誰もいないリビングで簡単に朝食を済ませる。

 

 チラリと時刻を確認すれば、時刻は午前六時を少し過ぎた辺り。時間にはまだ余裕がある。

 雪菜は壁に寄りかかるようにして置かれたギターケースに手を伸ばし、銀色に輝く金属製の槍を取り出した。それは納められたケースに相応しくない、正真正銘の武器。今年の15歳の少女にはあまりにも物騒な代物だった。しかし、戸惑うことなく少女は慣れた手つきでその槍を磨きにかかる。

 槍の名は雪霞狼(せっかろう)。なぜ少女がそれを所有しているのかと問えば、彼女は一般的な中学生とはかけ離れた存在だから。――剣巫(けんなぎ)。幼い頃から槍術や格闘術、未来視などの戦闘訓練を受けてきた、霊能者の素質を持った攻魔師。それが少女、雪菜の裏の素性。

 

 幼いある時期に、高神の杜という政府の国家公安委員会内に設置された特務機関――獅子王機関の下部組織である攻魔師として育成する養成機関に身を預けられ、そこで見習の剣巫として育てられたのだ。

 しかし、そこに至るまでの経緯を、少女はほとんど覚えていない。幾度となくはっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさに、何度顔を顰めたことかわからない

 

 でも――

 

「――ッ!!」

 

 はっきり覚えているものがある。脳裏に映し出された、一枚の写真のようにはっきりと浮かんでくる少年の姿。

 モノトーンだった世界を色づけてくれた、優しい笑顔。光のような、あの温もり。

 思い出した瞬間、熱湯を浴びたように顔が熱くなり、慌てて雪菜は頭を振った。気を紛らわすように再び雪霞狼を見つめる。しばらくすれば自然と攻魔師として表情を引き締めた。

  

 

 ――姫柊雪菜。獅子王機関の名において、この者の監視をしなさい。

 

 京都府の大江山に存在する全寮制の女子高がある高神の杜。そこにある神社の広い神殿に足を運んだ雪菜は、凛とした声でそう告げられた。それは絶対的な命令。逆らうことは許されない。

 その任務を遂行するべく、雪菜は京都から絃神島(いとがみじま)と呼ばれる東京の南方海上330キロメートル付近に浮かぶ人工島にやってきたのだ。そして絃神島と呼ばれるその島には、吸血鬼や獣人、精霊などの種族の魔族と呼ばれる者が住む「魔族特区」の1つとなっている。絶滅の危機に瀕した魔族の保護とともに彼らの肉体組織や特殊能力に関する研究が行われている場所なのだ。

 

 そんないわば魔族と人間が共存する世界で、監視対象者や魔族から身を護るためのもしもの対処法として送られてきたのが、この銀の槍。元々剣巫として呪力を高める訓練を積み上げてきた彼女の戦闘能力は、同年代でもトップクラス。それに加えてこの“神格振動波駆動術式(DOE)”と呼ばれる魔力無効化術式を組み込まれた唯一の武装“七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)”の1つであり、対魔族戦に真価を発揮すると謂われている雪霞狼。古代の宝槍を核にした高度な金属精錬技術で造られているために量産できず、世界に3本しか存在しないそうだ。

 

 いずれにせよ、個人レベルで扱える中では間違いなく最強と言い切れる秘宝。大方これさえ持ち合わせていれば、もしもの戦闘には有利に事を運べるだろう。しかし、雪菜はそこではない他の面で、この任務自体に疑念を覚えていた。

 

 思い返すのは、雪霞狼と共に獅子王機関から手渡された一枚の被写体。そこに写るのは黒髪でくりくりとした大きな瞳をした、平均的に見れば整った顔立ちの男子学生。そこで一体なぜ未熟な自分にこのような任務が与えられたのかは理解できたが、しかし、わざわざ雪霞狼を持たせてまでの監視をしなけれなければいけない凶悪な相手には見えなかった。彼の今までの経歴も全てごくありふれたパーソナルデータでしかなかったのだ。しかし、これほどの武器を手渡すという事は、彼がよほど獅子王機関にとって危険人物であるとそう判断したからであることには違いない。――油断は禁物である。そう自分に言い聞かせて立ち上がる。それに――

 

「……そんなことないよね」

 

 胸に、あの時の少年の顔が遠い稲光のように明滅し、雪菜は慌てて頭を振った。磨き上げた雪霞狼をギターケースにしまい込む。よし、と気合を入れてギターケースを背負って玄関に向かい、靴を履き扉を開け監視としての任務がスタートした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あちぃ……焦げる」

「うるさい。いちいち言うな。こっちまで熱くなる」

 

 茜色に染まりかけた西の空からの強烈な日差しに、白いパーカーを羽織った男子高校生――暁古城(あかつきこじょう)が気だるげに唸る。それを不機嫌そうに咎め、これまた制服を着た少年――藤坂冬真(ひじさかとうま)は快晴の空を睨んだ。

 実はこの島は、暖流の影響を受けた気候のせいか、真冬でも20度を超える常夏の島なのだ。

 現在にして気温は約35度。おまけに湿度も高く、温度計の数値以上に体感気温は高い。

 今日は八月最後の月曜日だが、どうやら日光様はまだまだ元気なようで、殺人的な量を人類に浴びせている。

 

「しかし、吸血鬼って大変だなぁ」

「他人事みたいに言うな」

「バカ言うなよ、どう考えても他人事だろうに」

 

 ハァと古城の唇から重いため息が漏れる。それを慰めるわけでもなく、冬真は言葉通り見て見ぬふり。

 見ていてどこか同情は覚えなくもないが、いくら吸血鬼は日光に弱いとはいえ、それをどうにかできる手段をコチラは持ち合わせていないのもまた事実。大方太陽そのものを消せば万事解決するのだが。そんなことできるわけ……できそうだな。

 隣を歩く古城は第四真祖(だいよんしんそ)と呼ばれる吸血鬼。一国の軍隊に匹敵する戦闘力を持つと言われている正真正銘の化物らしい。彼ならきっと……それに、案外自分も破壊できそうだ。そう悲しい納得が心を満たした。

 

「おい、冬真。今日は凪沙がうちに来いって言って……なんでそんな悲しそうな顔してんだよ」

「……いや、俺はまだ人間だ」

「いきなり何言ってんだよ」

「いや、この暑さで頭がやられただけだ。で、その件は了解だと伝えて……」

 

 伝えておいてくれ。そう紡ぎかけた冬真の言葉が途中で止まる。言葉だけでなく足をも止めた。自然と古城の足も止まる。「どうした」という訝しむ彼の問いかけは頭には入ってこず、神経を別に張り巡らせるためそっと視界を遮断する為に目を閉じた。

 

(人数は……2人……でも敵意がありそうには感じないぞ)

 

 今日夕方までファミレスにいた冬真たちは、いつも通り友人と無駄話に華を咲かせたり補習の勉強をしたりなどありふれた高校生としての一日を過ごしていた。喧嘩やもめ事にも巻き込まれてはいない筈。それなのに、ジッとこちらを見続ける二つほどの視線。強い敵意は感じないが、先程から視線を縫い付けられたままというのは、多少の不快感を覚えなくもなかった。一体なぜこちらをコソコソと追い回してくる……これでは監視……

 

 ぽっと小さな豆電球に明かりが灯るように閃いた答えと共にそっと瞳を開けた。視界に映るのは、眩いほどの夕日。思わず目を細めたが、視線を隣の元凶にスライドした。訝し気に、しかしどこか心配な瞳を宿す親友を自然と睨み返す。

 

「おい、俺まで巻き込むなよ」

「は? いきなり何の話だよ! ってかさっきから黙り込んでどうしたんだよ」

「いや、なんか後ろの2人組に見られてんだよ。明らかにこっちをな」

 

 古城が半信半疑で振り返れば、後方15メートルくらい先に居た彩海学園中等部と高等部の女子生徒2人と目が合う。顔立ちの整った眩いほどの美少女だが、古城には全く見覚えがない。誰だ。訝し気に見続ければ、はっとした女子生徒2名は慌てて街路樹に隠れた。「ば、バレたよ!」とか、「ど、どうするの!?」など耳を澄ませばそんな慌ただしいひそひそ声が鼓膜に届き、古城の顔が引き攣った。

 

「……あれで隠れてるつもりなのか?」

「知らん。ってか、原因はお前だ」

「は? 俺?」

「当たり前だろ。どう考えてもお前だろうに」

「なわけあるか! 俺何もしてねぇだろ!?」

「……あほ。……吸血鬼なんだから判れよ」

「――ッ」

 

 ボソリと小言で呟かれた冬真の言葉に、閃光が古城の脳裏に走る。

 真っ先に浮かんだのは第四真祖――自分自身の体質の事だ。吸血鬼などこの島にいればありふれた存在だが、彼は少しだけ勝手が違う。彼は生まれながらの吸血鬼ではない。つい3ヶ月前に世界最強の吸血鬼などという非常識な肩書きをとある経緯で受け継いでしまったいわば異質的な存在なのだ。ただ本人がそれをひた隠ししている努力が実り、その真実を知る者は多くはない。この島で暁古城が第四真祖であるということを知っているのは、古城本人と、隣の冬真しかいないはず。

 それなのに……どう考えても厄介ごとの予感がひしひしと伝わってくる。最も、冬真からすれば、3ヶ月もよく監視一つ付かずに平然と街をウロウロしてたなと思ってはいたが。

 

「いや、でもそれは違うんじゃねえのか? 凪沙の知り合いとかだろ、多分」

「そうだと良いんだけどな。……どうする?」

 

 あくまでしらを切ろうとする親友に、どうする、と冬真は問いかけた。

 まだ尾行だと決まったわけじゃないだろ。と古城はささやかながらな希望と共に歩みを進めるが、歩幅を合わせて彼女達はぴたりと付いてくる。随分と気配を殺すのが下手ではあるが……これは確定だ。間違いなく尾行だ。そう結論付けた瞬間、思わず古城は頭を抱えそうになった。真祖の命を狙う魔族や賞金稼ぎというわけではなさそうに見えるがそれでも面倒な相手に違いなかったのだ。

 

「んで、どうすんだ? 巻くか?」

「……意外だな。お前ひとりで退散するのかと思ってたぞ」

「いや、そのつもりだ、じゃあな、古城! ――お元気でッ」

「あ、おいっ――!」

 

 頼むから置いてかないでくれ。そんな悲痛な叫びが聞こえなくもなかったが、冬真はその場から颯爽と去っていこうと脚に力を込めた。

 追っ手を撒く自信はあった。気配を消すことも得意だったから。それなのに――

 

「ま、待ってください! 藤坂冬真!」

「えぇっ!? ちょ、ちょっとゆっきーッ!?」

 

 何故か自身の名を叫ぶ少女の声に、えっ、と時が止まったように凍り付く冬真。踏み出した足も見事に止まる。

 狼狽したように最早隠すことなく声を荒げる片方の少女は兎も角、未だ混乱を露にしながら冬真はゆっくりとその中等部の少女に目を向けた。ベースギターのギグケースを背負った小柄な少女。迂闊に声をかけることを躊躇いたくなるような、近寄りがたい程に綺麗な美少女。だが、やはり見覚えはない……はずだ。

 もしかして……モテ期でもきたのか。最早トンチンカンな結論を結び付けて現実逃避している最中、少女はゆっくりとした足取りで冬真に近づき、少し大人びた固い声音でこう告げた。

 

「わたしは獅子王機関の剣巫です。獅子王機関三聖の命により、あなたの監視のために派遣されて来ました」

「……はい?」

 

 ……実に可笑しな話である。きっと彼女は盛大に勘違いをしてるのかもしれない。本来監視されるべき相手は向こうである。そう思った冬真は、戸惑いながらも問うた。

 

「あ、あの、吸血鬼退治はあちらでお願いできません?」

「いえ、わたしはあなたの監視を命じられましたので」

 

 バッサリと僅かな希望を切り捨てられ、監視の目は自分に向けられる宣言。

 そして獅子王機関。言わずもがな、聞き覚えのあるパワーワードに思わずガクリと肩を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え、えーっと。わ、わたしはあなたの監視役に任命されました。第四真祖、暁古城さん……ですよね?」

「……ワタシ、通りすがりのイタリア人です。日本語、よくわかりません。オー ヴォワール! ジュ ヴゥ ルメルスィー!」

「……それフランス語ですよね?」

「……」

「それ以前の問題じゃねぇか、お前」

 

 

 



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2話

 

 

 日々が、何事も無いかのように物静かに過ぎていく人生を過ごしていた。それでも自分なりに重量感を伴わずひらひらと自由に生きようとした。そんな矢先だった。フィルムが切れるみたいに突然ぷつんと人生が終わった。十四歳だった。原因は衝突事故。轢かれそうになっていた少女を助けて、身体ごと吹き飛ばされたのだ。

 生命への執着などほとんどなく、皆が等しく持っている根源的な『死』への恐怖はあまり感じなかった。それ程までに一瞬の出来事だった。今でこそ思うが、随分といい加減な死に方をしたものだと思う。親孝行など何一つすることなく順番を間違えて先に旅立ってしまったのだから。でも、あの女の子を救えたのなら、それで……

 

 ――蘇生しました。

 

 そんな時声が聞こえた。若い女性の声だった。ただし全く感情の籠ってない。それでも確かに女性はそう告げた。まさにそれは彼の人生を大きく変えた青天の霹靂。枯れた花から種が落ちるように、あっけなくこの世を去ったはずの自分に与えられた第二の命。そして、転生。

 

 なぜ自分だけがそれを許されたのかはわからない。でも許されたからには次こそはと、雑草のようにしぶとく生きる決意をし、この『ストライク・ザ・ブラッド』という未知の世界に足を踏み入れた。

 

 そうして藤坂冬真の第二の人生がスタートしたのだが、しかし、始まってみれば何もかもが白紙へつく墨のように目新しい経験ばかりだった。尤もそれは当たり前のことではあるのだが、デジャブと言ってもいいくらいありきたりなストーリーを過ごしていた冬真にとっては、魔族や魔術。自身の可笑しな身体能力に霊力。そして巫女装束の母親の存在。どれも新鮮な気分だった。何より前世でもそうだったが、優しい母親だった。

 

 転生者としてこの世界に迷い込んだ自分を受け入れ、彼女――藤坂冬佳(ふじさかとうか)は陽だまりのような愛情を注いでくれた。だから本当に胸がいつもふくらんでいるような、期待に満ちた日々を送ることができた。しかしそれもほんの束の間の幸せだった。それがあの、まさに二度目の青天の霹靂。わが身の上に櫛の歯をひくごとく襲いかかる、突拍子もない出来事だった。

 

 雪の降りしきる中。走った。唯ひたすら走った。雪の中を心臓が破裂しそうに脈打っても、肺が悲鳴をあげようとしてもとにかく走った。真っすぐに。一つの命を護り、走った。そしてその日、彼女は消えた。

 理由はわからない。でも、この世から消えたことは確かなのだろう。あの日を境に彼女は帰ってこなかったのだから。

 幾度となく自分の内臓を噛み潰してやりたいほど後悔した。感謝もろくに言えずに、何もできない自分の不甲斐なさに苛立ちが募るばかりだった。勿論生きてるかもしれないと自分でも探した。しかし、八年経った今でも消息は不明のままだった。唯一の手掛かりは、彼女は巫女で剣巫だったということ。そして獅子王機関に所属していたということ。

 だからその言葉を耳にするたびに、魂の奥深くに畳み込まれていた記憶が呼び起こされる。

 

 ――あの子は、今頃元気でやっているだろうか。

 

 もう記憶を歳月という風雪が埋めつくし、顔は余りはっきりと覚えてはいないが、それでも綺麗な女の子だったことは確かだった。宝石のように大きな黒の瞳に黒髪の――

 

「――先輩!」

「――ッ!?」

 

 思い描いていた過去の短編小説の世界から、強い口調に半ば強引に意識を戻される。はっとした冬真は夢からさめたように前を見ると、心臓が止まるかと思うほど美しい美貌の少女がムッとしたような表情をしていた。

 

「もうっ、冬真君! さっきからボーっとし過ぎ!」

 

 現実を超越した圧倒的に美しい世界に見惚れていれば、これまた攻撃的な声音が飛んでくる。導かれるように視線を向ければ、大きな瞳が印象的な表情の豊かな少女が瞳に映る。長い髪を結い上げてピンでとめた顔立ちはまだ幼さを残しながらも、可愛らしい女の子だ。

 

「あーっ、悪い。それで、なんだっけ? 凪沙」

 

 意識がだんだんあるべき場所に戻り、身体の感覚が通常に復してきたところでそう長い髪を結い上げた少女――暁凪沙(あかつきなぎさ)に訊ねれば、「もう」と彼女は口を尖らせた。

 

「ホントに何も聞いてなかったんだね!? まったく、古城君もそうだけど冬真君もしっかり人の話は聞いてよ! 昔っからいつもそうなんだから」

「わ、悪かったよ。それで、なんだっけ?」

「……ハァ、だ・か・らっ 唯里ちゃんと雪菜ちゃんとも夕飯一緒になるけどそれでいいのかって聞いてるの!」

「は、はい……俺は大丈夫です」

 

 年下のおっかない剣幕に姿勢を正して素直に頷く冬真。

 『唯里』『雪菜』と聴き慣れない人名に思わず首を傾げそうになったが、すぐさま合点がいった。

 茶髪のセミショートの高等部の制服を着た少女――羽波唯里(はばゆいり)。古城の監視の任を任された獅子王機関の剣巫である。そして――

 

「あっ、雪菜ちゃんは好き嫌いとかある?」

「い、いえ、特にはありません」

 

 雪菜ちゃんと呼ばれた中等部の制服を着た黒髪の美少女――姫柊雪菜。彼女もまた冬真の監視の為に獅子王機関から派遣された剣巫らしい。唯里の話によれば見た目とは裏腹に戦闘能力はかなり高いらしく、かくいう唯里もまた、何気なく行われている呼吸や歩行など日常的な立ち振る舞いが物凄く洗礼されてるように冬真の目からは感じた。それはどことなく母親の美しい所作に似ており、やはり、訓練の賜物なのだろうと感心していた。しかし――

 

「なんで俺なんかに監視なのよ……」

 

 それが冬真の疑念を強くした。暁古城の監視の理由はわかる。なんせ第四真祖なんてバカげた肩書を持ちながらも本人は全く以てその自覚がないのだから。危なったらしくてしょうがないと上層部は感じたのだろう。しかし、藤坂冬真はどうか。見た目は兎も角、肩書はごく一般的な学生という身分。しいていうならほんの少し、平均より身体能力が高いだけ。地面を殴れば五十メートルほどの些細なクレーターができるくらいのものでしかない……

 

「……やっべ……それって人間じゃ無くね?」

「先輩?」

「えっ? あ、いや、なんでもない」

 

 不思議そうに首をかしげる雪菜に、大げさな身振りで応え思考を中断する。

 兎に角今は、現状大人しくしている他はない。なんせ彼女のギターケースの中にはとんでもない武器が入っているのだから。下手に動けばサクッと刺されてお陀仏である。正直命が惜しい。

 

「よしっ。じゃあ、さっそく作っちゃおう! 良かったよ、いつもより多めに買い物しといて!」

「あっ、わたしも手伝うよ、凪沙ちゃん」

「わたしもお手伝いします」

 

 凪沙の快活な声に誘われ、女性陣が揃ってキッチンへと赴く。

 そうしてリビングに取り残された古城と冬真は、まず現状確認から会議を始めた。

 

「古城。これかなり面倒な事になったぞ」

「……ああ、というより認めたくはないがなんで俺だけじゃなく冬真まで監視なんだ? ……お前まさか魔族だったのか?」

「あーっ、いや、普通の学生のはずなんだけどな……」

 

 どこか心理的抵抗を感じながらも核心をつく質問に、遠い目で何かを諦めたような顔で濁す冬真。訝し気に「冬真?」と呼ばれ、なんでもないと首を横に振った。

 

「兎も角、これからどうする……といっても今更か」

「ああ、完全な包囲網だろ、これは」

 

 間違いないと冬真も神妙に頷いた。

 今彼らがいる場所はありふれたマンションの一室。そして暁家でもあった。

 冬真がこの場所に居合わせたのは、古城の妹である凪沙に夕飯の御呼ばれをしたから。元々昔からの知り合いで現在隣の住人というだけはあり、決まってほぼ毎日この一家にお世話になっているのだ。まあ、凪沙が冬真の私生活を見過ごせなかったのが理由の大方を占めるが、本日こうして暁家にお邪魔するのは何の問題もないあり触れた日常である。

 

 しかし、その日常を脅かす人物が約二名ほど紛れこんでいた。それが唯里と雪菜である。

 あの監視役だと告げられた夕方の帰り道に、奇しくも凪沙と偶然遭遇してしまい、そこで意気投合。転校生で、ましてや同じマンションに住む住人だと認識した途端、凪沙が輝かしい目つきで話し始めたのだ。もともと凪沙は裏表のない、真っすぐで人懐こい性格だ。それを受け取った2人も警戒心を解けば、台本が有って何度も稽古したみたいに息が合い始めていた。お互いちゃん付けに呼称が変わるほどに。

 その勢いで凪沙の口から夕飯を一緒に食べないかという誘いが零れ――こうして今の現状に迄至るのだ。

 

「あんだけ仲良くなって適当に俺たちが対応したら、凪沙絶対怒るだろうな」

「……おい、よせよ。鳥肌立っちまったじゃねえか」

 

 忌まわしいあの日の記憶が古井戸の底から這い上がってくるように甦ってきた瞬間、ブルッと冬真が身震いした。凪沙は確かに真っすぐな性格で他人の悪口など滅多に口にはしないが、怒らせたときはかなり怖い。中学時代、友人が持ってきたエロビデオを暁家で鑑賞しようとしたが、凪沙にそれが見つかり、彼女の怒りが嵐のようにその持ち主に襲ってきたのだ。しかしいつの間にか、持ち主やその場に居合わせた兄より、何故か怒りの矛先は冬真に向けられ、「ヘンタイ!」「スケベッ!」「信じられないッ!」等様々な苛烈な言葉攻めによって女性恐怖症になりかけたほどである。

 

「……ハァ。取り敢えず、俺たちも手伝おうぜ」

「そうだな」

 

 自然とキッチンに視線を移した。なぜか鍋にマヨネーズをぶち込もうとする雪菜に唯里と凪沙がそれを阻止しようとする危なげなクッキング姿が目に入り、古城と揃って顔を引き攣らせたが、それよりも冬真はふと雪菜にどこか既視感みたいなものを覚え始めた。少し、母親の面影があるように思える。それに、彼女とどこかで出会ったことあるような……ないような……

 

 まあ、いいかと暗い森の中をさまよっていた思考を中断し、揃ってキッチンへと足を運ぶ。こうして、まるで時なんて流れていないかのようにいつまでも昔と同じだった風景に、少しづつ変化が訪れていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……んで、なんでここにいんだよ、アンタ」

「――なに、せっかくの弟子がしっかり対象者に近づけたのか見に来たんだよ」

 

 悪戯っぽく目を細めた一匹の猫が艶やかに澄んだ声を発した。場所は冬真のマンションの一室。玄関を開けてリビングへとたどり着けば、そこにいたのは、しなやかな体つきの美しい一匹の黒猫。本来ならこのマンションはペット厳禁だが、この場にいることも、猫がしゃべる事にも驚かず、冬真は不機嫌な顔つきでソファに腰かけ猫を睨んだ。

 

「ったく。やっぱりアンタかよ。姫柊と羽波をこっちによこしたの」

「ふふん。イキのいいのがちょうどいたからね。なに、雪菜に関しては坊やの好み通りだろう?」

「やかましいわッ! 今それは関係ないだろ! ってか監視いらねえだろ俺に!」

 

 思わず声を荒げる冬真に、猫はクスッと愉快そうに笑った。

 

「――似てるだろう? 冬佳に」

「……話変えんなし。……まあ、そうだな。少し、母さんの面影を感じたよ」

 

 心の底から湧きあがる懐かしさに目を細め、ふいに感じる寂しさに感傷的になる冬真。猫はそれを見透かしたように真剣な口調に変わった。

 

「――すまなかったね。冬佳のことは――」

「……いや、いいよ、別に。もう、気持ちの折り合いはつけてるつもりだから。それに、いつまでも引きずってたら怒られるし」

 

 カラカラと明るい声で笑う冬真。しかし糸のように細く引いたかすかな淋しさは拭いきれなかった。母の失踪からもう月日が流れる。それでもあの優しい時間は鮮明に脳裏に焼き付いていた。例え血の繋がりがないのだとしたって、冬真にとっては大切な時間だったのだ。

 

「ってかその為に監視つけたのか? わざわざ姫柊を」

「ふふん。そのことはいずれ追々だね」

「なんだよそれ……母さんと言い、どんだけ俺に何も教えてくれないのさ」

 

 不貞腐れたように口を尖らせる冬真に、猫は金色の瞳をどこか彼方に向けた。

 

「なに、冬佳は剣巫である前にアンタの親になることを選んだんだろう。ま、余計な首は突っ込むなってことだね」

「へいへい。そーかい。んじゃ勝手に調べるからな」

「パソコンすら使えない坊やに何ができるのさ」

「うぐっ……いいし、別に。捜査は足で、だからな」

「そうかい。そりゃ頑張ることだね」

 

 ああ、やってやるよ。意気込んでコップ一杯の水を注ぎ口に含んでは、気持ちが空回りして盛大にむせる冬真。猫は次第に静かに見つめていた金色の瞳を細めて、大きく口を釣り上げて笑った。――アンタの息子は元気だよ、冬佳。

 そうして満足そうに猫は姿を消した。

 

 

 

 

 翌朝、部活に向かう凪沙と監視役の雪菜と唯里と共に、彩海学園に訪れるために冬真はモノレールに乗っていた。夏休みだというのにわざわざ学校に通わなければいけない億劫さに嫌気を覚えながら、冬真は車窓に映る海辺の風景が流れていくのをどこか遠い目で眺めていた。

 

「先輩。すみません。付き合わせてしまって」

「いや、いいよ別に。ってかあれを見せられたら黙っていられないって」

 

 申し訳なさそうな雪菜に、苦笑気味にそれに応え今朝の雪菜の部屋の惨状を思い出す。彼女の住まいは冬真や古城の住むマンションの隣の部屋『705』室。獅子王機関の命令でそこに移り住むことになったそうだ。唯里もその隣に部屋を借りて住んでいる。恐らく監視がしやすい環境だからであろう。そこまでは百歩譲って許容範囲ではあった。しかし、許容範囲を超えた問題は雪菜の私物の少なさで、布団すら彼女は持ち合わせていなかったのには流石に絶句。二の句も告げなかった。

 彼女曰く、監視をする以上、一人で買いに行くという選択肢はないらしい。おまけに昨晩は段ボールで寝ていたらしい。

 その時はすかさず唯里にもの言いたげな顔を向けたが、「あははは……」と彼女は頼りなく笑うだけ。どうやら雪菜は昔から少し融通の利かない性格のようだ。そのためまずは転校手続きを終えてからこの周辺の案内を兼ねて、こうして学校に赴いているのだ。

 

「いいなぁ。凪沙もお出かけしたいよ」

「なら部活サボって一緒に行くか?」

 

 そんな苦労を露ほども知らず、羨ましそうな凪沙の声が届く。思わず冬真は意地悪く笑い、そんな提案をする。

 

「あたしは冬真君みたいにサボり魔じゃありません」

「おい、こら。人聞きが悪い。誰がサボり魔だ。真面目に学校には行ってるだろ俺は」

 

 学生として最早当たり前のことを誇らしげに胸を張る冬真に、凪沙は心底呆れたように深い溜息を吐いた。恐らく遅刻や欠席の常習犯である兄と差別化を図ろうとしているのだろうが、

 

「学校に行ったって、授業中どうせずっと寝てるじゃん。凪沙昼休みすら忘れて眠りこけてるおバカさん何度も見てるんだからね?」

「うぐっ。そ、それは偶々だろ」

浅葱(あさぎ)ちゃんに矢瀬(やぜ)っちがほぼ毎日そうだって言ってたよ」

「……すみません」

 

 ますます強くなる非難めいた彼女の眼差しに加えられた友人の証言のあまり、反論できずに素直に平謝りする冬真。最早年上としての威厳や立場などあったものではない。ましてや冬真は転生者であり、実年齢は彼女よりさらに上なのだが、それでもこの少女に口で勝てる日が訪れるなど微塵もこの先なさそうに思えた。

 

「先輩。もっと真面目になさったらどうですか?」

「うん。流石にそれはダメだと思うよ」

「……以後気を付けます」

 

 ふと気づけば駄目なものを見る視線が更に集まっていた。くそっ、こんな時にあの白パーカーの同志がいれば。と悪友に毒を吐きながら実に身を縮めて居心地の悪さを感じていると、「あっ」と唯里が何かを思い出したように声を上げた。

 

「凪沙ちゃん。昨日借りたやつの返却は今日の凪沙ちゃんが帰宅してからでも良いかな?」

「あ、うん。全然大丈夫だよ。それで、どうだった? 面白かったかな? 私すごく好きなんだぁ」

「うん! 凄く面白かったよ! 特にあの最後の場面は――」

 

 浮かれたような熱を帯びた眼差しで唯里は何かを饒舌に語り出し、凪沙も負けじとまくし立てる様に応えていた。おしゃべり好きな凪沙はまだしも、どこか優等生を滲ませた雰囲気の唯里が興奮気味に話す姿には、流石に意外感は禁じえなかった。呆然と冬真がポンポンと彼女たちの言葉のラリーを眺めていれば、

 

「昨日凪沙ちゃんが貸した少女漫画が原作の映画のDVDのお話みたいです。そういったお話が唯里さんは好きみたいで」

「ああ、そゆこと」

 

 雪菜の小言に納得だと冬真は頷いた。特に唯里は周囲に男性の少ない環境で育ったことも重なり、少女漫画のような恋愛に強い憧憬を持っているらしい。まあ、その趣味を貶すつもりはないが、冬真からすればチョコレートとハチミツを混ぜた様な甘ったるさに思わずアホらしいと思ってしまうが。今ここでそれを口に出せば火に油である。

 

「いいよね。わたしもあんな恋愛してみたいなあ」

「うんうん。わたしも憧れるよ」

「あれ? でも凪沙ちゃんって――」

「――ッ!?」

 

 何かを語る前に唯里の口を慌てて小さな手で覆い言葉を霧散させる凪沙。見ればほんのりと頬を紅潮させて首をブンブン振っていた。その気迫に慌ててコクコクと唯里が頷けば、そっと凪沙は手を放し、ぷくっと可愛らしく頬を膨らませた。

 

「むー、唯里ちゃん」

「ご、ごめんね? ついつい……でも、そんな素敵な出会いがあって凪沙ちゃんは羨ましいなぁ」

「うぅ……は、恥ずかしいからやめてよ」

 

 凪沙をどこか羨ましそうでいて、柔らかい目色で見つめる唯里。特別揶揄っての言葉ではないが、凪沙は羞恥あまり顔を真っ赤にしてうつむいていた。『素敵な出会い』という単語に凪沙の赤面。時たまチラリとこちらを伺うように向けられる凪沙の恥ずかしそうな視線。冬真の頭にある一つの結論が導き出された。

 

「凪沙、お前、そんなに(映画)好きなのか?」

「――えっ?」

 

 不意に顔を上げる凪沙。虚を突かれたように沈黙が訪れ、そしてわかりやすいくらい凪沙は赤面した。

 

「ちっ、ちち違うよ!? これは映画の主人公の話をしていただけで、べ、別に冬真君の事話したわけじゃないよ!?」

「えっ? あ、ああ。俺そのつもりで聞いたんだけど。というよりなんでそこで俺が出てくるんだ?」

「へっ!? う、ううん! な、なんでもない!」

「いや、なんでもなくないだろ。顔真っ赤だぞ、お前」

「あ、赤くなんてなってないもん! い、いいからこっち見ないでよっ、冬真君のバカッ!」

「お、おいっ……」

 

 耳まで赤く染め上げた凪沙は勢いよくプイッと怒ってそっぽを向いてしまう。冬真はその真意を測りかねて困惑を顔に表した。

 

「凪沙……反抗期かな」

「……先輩。少し唯里さんの少女漫画でも借りたらいかがですか?」

「……わたしもゆっきーに同意かな。良かったら今日オススメの漫画持って行くね」

「いや、俺がそんなの読んでたらおかしいだろ。というよりそれだったら古城に貸してやってくれよ。あのバカとことん人の好意には鈍感だからな。乙女心を勉強させるには丁度良い教ざ……な、なんだよ?」

 

 あるクラスメイトの片思いに毛ほども気付かない朴念仁(こじょう)の姿が脳裏に過ぎり、呆れた口調で言葉を紡ぎかけるが、次第に責めるような雪菜と唯里のまなざしに途切れていった。

 

「いえ、ただこれでは凪沙ちゃんが気の毒だと思いまして。唯里さん」

「そうだね。今日藤坂くんの部屋に持ってくね?」

「だからなんで俺なんだよ」

 

 ハァと深々と嘆息し謎の団結を見せる2人。不意に凪沙を見れば、座席に座った彼女としっかりと目が合う。が、彼女は慌ててスポーツバックで視線を遮る。最早1人状況についていけない冬真は、思わず天を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 彩海学園は、中高一貫教育の共学校だ。生徒数は合計で1200人弱といったところ。都市の性質上、若い世代の人口が多い絃神島では、ありふれた規模の学校だと言える。しかし、慢性的な土地不足は、しょせん人工物である絃神島の宿命で、学園の敷地も、広々としてるとは言い難い。体育館やプールなど多くの施設は中等部と高等部の共用で、そのため高等部の敷地内で中等部の生徒を見かける機会も意外に多い。だから中等部の学生と食堂で昼食を取る事などさほど珍しい光景ではないのだが、それでも好奇の視線が冬真に集まるのは誤算だった。

 

「……夏休みとは言えミスったな。計算外だ」

「先輩?」

 

 居心地悪そうに呟かれた冬真の言葉に、可愛らしくサンドイッチをほうばる雪菜が不思議そうに小首をかしげてくる。どうやら彼女はこの惨状をあまり気にしていないようだ。

 

「……気になんないのか? 視線」

 

 だから思わずそう訊いてしまう。

 

「えっ? あ、ああ、そうですね。気にはにりますけど、でも気にしすぎも良くないのでは? 恐らく見ない顔が物珍しいだけでしょうし」

「……本気で言ってる?」

「え? は、はい。そうですけど」

 

 何か可笑しなこと言いましたか、と頭に疑問符を浮かべて純粋に聞いてくる雪菜に、冬真は即座に物言いたげな顔で唯里を見た。そして返ってきたのは苦笑い。

 

「え、えっと、ゆっきーはちょっと天然なところがあるから……」

「いや、羽波もだろ」

「えっ、わ、わたしも? ど、どうして?」

「どうしてって……ま、マジか」

 

 自分の事を指さしキョトンとする唯里に、冬真は顔を引き攣らせた。

 三人、特に雪菜と唯里が食堂に入った瞬間、騒がしかった食堂が氷の詰まった部屋のように冷ややかに静まり返ったのは記憶に新しい。あるトレーを持った男子学生はトレーを落とし、ある女子生徒たちは己の時を止めて箸を持ったまま固まり、ある食堂の接客する者も接客を忘れて行く先を呆然と眺めていた。それ程までに白く透き通った艶かしいまでに美しく可愛らしい顔の2人に見惚れてしまったのだろう。

 

 ただ、唯里は居心地の悪そうな顔ながらもその原因は雪菜だと思い込んでるようで、雪菜もまた物珍しい顔だからと的外れな結論を結びつけ、全くお互いが無自覚であり無頓着なのだ。

 高神の杜ではほとんどの時間を訓練に充てていたせいで、そう自覚する機会が少なかったのだろうか。

 

「……わ、悪いな。待たせたな」

 

 疲労感を顔に露わにしながら遠慮気味にかけられた声に、冬真は目の前のうどんが入った器からふと顔を上げた。

 

「おせーぞ古城。もうみんな飯食ってるぞ」

 

 そこには白パーカーを羽織った少年。ようやく補習から無事帰還を許されたようだ。他でもない、わざわざ食堂で昼食を食べたのは彼を待っていたからだが、約束時間より三十分以上も待たされた冬真は急かすように睨み古城に言う。

 

「あ、ああ。というより冬真。お前なんかしでかしたのか?」

「は? いきなりなんだよ」

「いや、だって隅にいる割には目立ちすぎじゃないか? 正直声かけにくかったんだが」

「あー、まあ、それは、察してくれ」

 

 チラッと周りを盗み見るなり説明を請う彼の視線に、視線で雪菜と唯里が原因だと促せば、ああ、と納得したように頷いた。しかし、冬真には納得のいかないことが一つ。

 

「……というより何でこの三人の中で俺が何かしでかしたと思ったのか問いただしたいな」

「……じゃあ、俺食券買ってくるわ」

「そうか。なら先行ってるわ」

「おいっ」

「はあ、ならさっさと買ってこいよ。もうこの視線には耐えられん」

「あ、ああ」

 

 置いてくなよ、という睨みを利かせた彼の視線を無視して、ため息交じりに冬真はコップに入った水で咽喉を潤す。

 

「そういえば、先輩。この後はどちらに向かわれるのですか?」

「そうだな……まずは日用雑貨店だな。あそこのホームセンターでも行ってみるか。手っ取り早く揃えるには丁度良いだろうし」

「あの、先輩……」

 

 うんうんと手に顎を添えて一人納得する冬真に、何故か不安げな姫柊の声が意識に届き、思考を中断して雪菜を見返した。

 

「ん? どうした?」

「いえ、その、『ほーむせんたー』とは、どのような場所なのでしょうか?」

「――は?」

 

 今度こそ冬真はポカンと口を開けて固まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本土から遠く離れた学究都市である絃神島には、怪しげな道具や薬品を扱う闇店舗も多いが、ホームセンターは本土にもあるごく健全な日用雑貨店である。しかし、雪菜は生まれて初めて目にした巨大な店構えを前に困惑を表していた。

 

「こ、ここが、ホームセンター、ですか……」

「いや、そんな身構えんでもいいだろうに……」

 

 何故か露骨に警戒の表情を見せる彼女に、呆れた様な困ったような表情で苦笑する冬真。

 

「……というよりなんで俺まで」

「バカ言うなよ。羽波が買いたいものあるって言ってんだから、お前ついてかないと監視できないだろうに」

「ま、まあそうだけど。後で適当に誤魔化せばよくないか?」

「その、ご、ごめんね? つき合わせちゃって」

 

 暑さと追試の疲れが相まって気怠そうに言う古城に、申し訳なさそうに謝る唯里。そこまで本気に謝られるとは思わず、ぎこちなく古城は視線を泳がせた。

 

「あーっ、なんだ。どうせ暇だったからいいよ」

「う、うん。ありがとう」

 

 ニコッと可憐な笑顔を咲かせる唯里に、照れ臭そうに頭をかく古城。

 気持ちはわかるぞ、と心中で同意しながら、店内へと入っていく。唯里は他の物を買いに古城を連れて目的のものを探しに向かい、冬真も陳列されたものに目を丸くして固まる雪菜を引っ張ってベッドなどの寝具から回ろうとお互い自然と別れる形で別行動になった。

 

「これは何という武器ですか?」

「いや、それは野球のバット、スポーツ用品だって」

「スポーツ? これをどう使うのですか?」

「あー、そうだな」

 

 真面目に訊いてくる雪菜に、冬真は困惑気味に周辺をキョロキョロして、牛革に赤い糸が縫い合わせられたボールを探し手に取った。

 

「簡単に言えば、少し距離を置いて相手が投げてくるこのボールをそのバッドで打って点を競う競技に使う感じだな」

「なるほど」

 

 神妙に頷く雪菜は、次々と真新しいものを好奇心の宿る瞳で手に取っていく。それに応えながら漸く寝具のコーナーまで辿り着いた時、自然と冬真が口をついた。

 

「姫柊はさ、もしかして誰かとこうやって買い物するのって初めて?」

「えっ?」

 

 ベッドの柔らかな触り心地を楽しそうに触っていた雪菜が、驚いたように振り返った。

 

「あ、いや。なんか、楽しそうだったから」

 

 どこか楽しそうな彼女の様子に、つい本音が漏れる冬真。雪菜は思わぬ指摘にほんのりと頬を紅潮させた。

 

「す、すみません。つい浮かれてました」

「えっ? あ、いや、違うって! 別に咎めてるつもりはなくて、ただ単純に疑問に思っただけだ」

 

 何故か反省を瞳に宿す雪菜に、冬真は慌てて手振りで否定した。

 

「そ、そうですか。すみません、早とちりしてしまいました。そうですね、先輩の疑問には『はい』です。高神の杜ではあまり外出をすることがありませんでしたから」

「……そっか」

 

 平然と応えベッドに視線を戻す雪菜だが、冬真は複雑な表情に変わった。

 ――高神の杜。少なくとも一般人よりは内部事情に精通して居る冬真ではあるが、その裏の実態を完全に把握しているわけではない。彼の耳にした限りでは非人道的な訓練等はなく、しっかりと本人の意志や自由はあると説明は受けてはいたが、どこか世事に疎い雪菜のような子が少なからずいるのなら、まだ知らない彼らの裏の顔があるのかもしれない。

 ――なら、あの子は突然そのような場所に身を預けられ、幸せだったのだろうか。

 ふとよぎった疑念が迷路のように複雑に心に浸透する。

 

「……ぱい、先輩――!」

「――ッ!? な、なんだ?」

「いえ、ただ先程から何か思い詰めた顔をしてたので。何か考え事ですか?」

「あ、ああ。まあな」

 

 ハッとした冬真は余計な思考を捨て、雪菜の選んだ布団をカートに乗せた。そうして寝室用のカーテンやバスマット、トイレのスリッパにコップ、歯ブラシ、マグカップを購入し、今日の買い物は終了。後はレジに向かうだけだが、冬真は不意に足を止めて「なあ、姫柊」と呼びかけた。雪菜も不思議そうに揃って足を止める。

 

「また良かったら、一緒に買い物行かないか?」

「えっ」

 

 キョトンと目を瞬く雪菜。その視線に耐えかねた冬真は、照れ臭そうにポリポリと頬をかきながら、視線を泳がせた。

 

「ああ、まあ、といってもどうせ監視だから俺が行くって言ったら付いてくるんだろうけど、さ」

 

 チラッと彼女の様子を窺えば、しばらくして彼女からクスッと笑い声が漏れた。

 

「もしかして気を使ってくれてますか?」

「ま、まあ、でもあれだぞ。無理強いする気はないからな?」

「ふふっ、いえ」

 

 彼の気遣いに心がほのかに温まり微笑みが浮かぶ雪菜。

 

「では、お言葉に甘えて、またこうしてお買い物に連れて行って下さい」

「ああ、またな」

 

 ニコニコと嬉しそうな彼女に、ドキッとしながら冬真は頷き彼女を連れて唯里と古城の合流先に向かった。

  

 

 

 

 

 

 

「そう言えば、2人とも支払いの方は経費みたいなので賄えたのか?」

 

 しばらく観光がてらブラブラと街を四人で歩き、赤い硝子球のような夕日に時刻が移り変わったところで帰宅する為にモノレールに乗り込んだ一同。そこで今更ながらに冬真がそう問いかければ、雪菜は淡々と頷いた。

 

「はい。必要経費を前払いしてもらった支度金がありますから」

「う、うん。……そうだね」

 

 なぜか気まずそうに遠い目で、唯里は視線を車窓から見える海に向けていた。冬真が不思議そうに唯里に話しかける。

 

「羽波? どうした?」

「ちょっと現実逃避も必要かなって思って」

「現実逃避?」

 

 意味が解らず訝し気に古城と顔を見合わせる。するとそれを察したように雪菜が頷いた。

 

「恐らく対象が第四真祖相手なので、金額も跳ね上がるのではないかと思います」

「な、なるほど。つまり古城のせいってわけか」

「俺ッ!? 俺のせいなのかッ!?」

 

 納得がいかないと絶叫する古城を無視して、冬真は好奇心が赴くままに唯里に問いかけた。

 

「因みにいくらとか言える?」

「ええぇっ!? え、えっと、その……」

 

 ボソリと問いかけられた唯里は、驚愕を染めて周囲を勢いよくキョロキョロと見渡した。もう、その様子が不審度を高めているが、彼女の様子から余ほどのお金が支給されたらしい。

 ますます気になってしまう。内心でゲスイ笑みを浮かべながらもじーっと彼女を見つめていれば、観念したのかそれとも心労を共有してほしかったのか、意を決したようにボソリと彼女の艶やかな唇から言葉が漏れた。

 

「……いっ…まんです」

「えっ? 一万? 少なくない? ってかそれさっきので使っちゃったんじゃ――」

「ち、違います! いっ、一千万です――ッ!!」

 

 モノレール車内に、その音は一条の雷鳴の如く響き渡った。

 誰もがその音の発信源と行く先を見て、少女はハッとしたように慌てて口元を覆い隠した。

 しかし、口に出した言葉が戻ってくるなどなく、当然周囲の者は『1千万』という大金と少女を結び付けたようで、一斉に叫び出した唯里に視線が固定される。降り注ぐ視線に少女の頬は見る間に真っ赤に染まっていく。

 

「!!!!!」

 

 声なき絶叫。涙目で必死に首を振り、何でもないですッ――。身振り手振りで誤解であると全身で表わす彼女。

 そして挙句の果てには近くにいた古城のパーカーをちょこん、と掴み、――助けて。泣き叫ぶように懇願してくる。必然的に古城の視界には、羞恥で潤んだ瞳を向けて必死に懇願する上目遣いが突き刺さる。それが小動物を思わせ何とも可愛らしく、思わず古城も顔が熱くなるのが分かるが、しかし、この状況はもう耐えろと言う外ないだろう。

 古城は何も解決策が生み出せないまま、時間だけが過ぎていこうとした時――

 

「ふーん。随分と仲がいいのね、あなた達」

「あ、あさ……ぎ……さん?」

 

 九死に一生とはこのことだと、振り返った先で待っていたのはまた窮地。制服を粋にこなし華やかな顔立ちの少女――藍羽浅葱(あいばあさぎ)が、なぜか能面のような顔をしていた。古城は顔が地球のように青ざめる。

 

「さっきから騒がしいと思って来てみれば、そう言う事?」

 

 低く怒りを押し殺したような声に彼女の視線がある一点に固定される。その視線を辿り、彼の服の裾を握っていた唯里は咄嗟に勢いよく手を放した。

 

「あ、いや、これは色々あったというか、なあ?」

「へっ? あ、は、はい」

 

 あまりの彼女の圧に、唯里はコクコクと怯えながら頷く。しかし、先程の醜態に古城に泣きつく様が脳裏にフラッシュバックしたようで、唯里は頬を両手で抑え恥ずかしそうに俯いてしまう。

 浅葱は思わずピキッ、と額に青筋を張り、今度こそ核心をついた。

 

「あんた達、付き合ってるの?」

「ば、ばか、ちげえよ。この子は今度うちのクラスに転校してくるんだよ。しかも住まいが近所だったから知り合っただけだ」

「……そうなの?」

「あ、ああ」

 

 不審に眉を寄せたままの浅葱の視線が、じっと今度は唯里に向けられる。警戒心を孕んだその瞳に、唯里は思わず息を呑んで背筋をただした。

 

「は、はい。あ、あの、羽波唯里です。さっきのはその、わたしがドジを踏んでしまって、暁君に助けてもらっただけです。本当に、他意はありません」

 

 ペコッと頭を下げてから、真っすぐに浅葱を見返す。

 唯里の弁明はほぼ正しい。ただそれを受け取っても未だ浅葱は警戒心を解かず、再び古城に説明を請う視線を移した。

 

「それで、なんでその羽波さんとアンタが一緒にいるわけ?」

「あー、いや、た、偶々学校で会ってな」

「は、はい。それで……その……」

「まあ、浅葱落ち着けって」

 

 視線を明後日に泳がせる古城に、消え入りそうな声で必死に言葉を探す唯里。

 それを見ていられなくなった冬真は、堪らず割って入った。元々この騒動の発端は冬真の下種な勘繰りな為、少なからず罪悪感はあるのだ。

 

「ああ、いたのね、冬真」

 

 どうやら彼女には視界にすら入れられていなかったらしい。やれやれと扱いの差に冬真は肩をすくめた。

 

「随分なご挨拶だな。ったくお前どんだけ惚れた男に――ぐえっ!?」

「な、ななな何言ってんのよ、アンタ――ッ!!」

 

 瞬時に冬真の言葉に反応を示した少女が、鉄拳を冬真の腹に叩き込む。カエルでも引いたような奇妙な声を上げ苦悶の表情で腹を抱え込む冬真。その悶絶する彼を見下ろしてもなお、同情する余地もなく少女は真っ赤な顔で睨みを利かせた。しかし、先程までの気迫は感じない。

 

「あ、アンタねぇ、わ、私は別にこ、古城の事なんて……」

「お、俺が何だよ」

「な、なななんでもないわよッ、古城のバカッ!」

「は、はあ……?」

 

 怒鳴り散らした彼女はそのまま車両から去って行く。古城はそんな彼女の後姿を見送り、意味が解らないと怪訝に首を傾げた。

 

「なんだアイツ」

「ご、ごめんなさい。わたしのせいで誤解を生んじゃったみたいで……」

「誤解?」

 

 なぜか悄然としている唯里を、古城は不思議そうに見返した。そして、ああ、と納得して、

 

「いや。ないない。誤解とか。あいつはただの友達だから」

「えっ、で、でも……」

 

 真意を測りかねた唯里が心配そうに古城を見上げる。古城は心配ないと首を横に振って、

 

「まあ腐れ縁というか、男友達みたいなもんだよ」

「そ、そうなんだ……」

 

 あっけらかんと答える古城を、唯里は次第に責めるようなまなざしで見つめた。

 

「なんか、今朝も同じようなことがあった気がするよ……」

「同感です」

「暁君にも後で持ってった方がいいよね」

「そうですね。そうした方が今後のためかと」

 

 そう言って2人は深々と嘆息した。

 後に大量の少女漫画が古城と冬真の部屋に置かれていたのは、また別の話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









「そういえば姫柊、お前いくら貰ったんだよ」
「1500万です」
「……は?せんごひゃくまん?」
「はい」
「じょ、冗談だよな?」
「いえ。経理の叔母さんにこれくらいは必要だろうからって渡されました」
「そ、そうか……は、ハハハッ…………ふぅっ」
「せ、先輩!? 先輩!?」














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3話

 

 

 耳元で鐘が鳴り続けていた。古式ゆかしい、アナログ式目覚まし時計のベルだ。冬真は苦悶の息を吐き、その時計を叩き、黙らせる。そしてもぞもぞと寝返りを打ちながら、再び安らかな眠りに戻ろうと睡魔に身を委ねた。が、

 

「冬真君、起きなよ。朝だよ。目覚ましなったし今日追試あるんでしょ。朝ごはん作るから一緒に食べ――あっ、ホントにまた寝ないでよッ!」

「……た、のむ…ッ」

 

 早口でまくし立てられた挙句にシーツを奪おうとする凪沙に、冬真も不機嫌な寝ぼけ声で取られまいと応戦。頑なに手放そうとしない彼に、凪沙は「もうッ!」と腹を立てて頬を膨らませる。そしてここぞとばかりに、

 

「こうなったら凪沙も手加減しないからね」

 

 彼女は力任せにシーツを勢いよく引っ張った。思わず「うおっ」と情けない悲鳴と共に、冬真は為すすべなくベッドから転げ落ちる。焦点の合わない目で見上げると、短パンにタンクトップというラフな格好に、オレンジ色のエプロンを上につけた凪沙が、呆れたように腰に手を当てていた。

 

「昨日雪菜ちゃんと勉強頑張ってたのはわかるけど、起きないと南宮先生に怒られちゃうよ? というか中学生に勉強教えられてるとか情けないよ、冬真君」

「……そんなプライド、当の昔に捨てたさ」

「……なんか無駄にカッコいいセリフだけど、床に寝っ転がってるから台無しだよ。あ、で、でも、冬真君んはその、普通にしてればか、カッコいいというか……その……」

「……すーーーー……」

「あぁっ、もうっ、冬真君ッ!」

 

 必死な凪沙の世話焼きが功を奏したのは、それから十分後の事だった。

 

 

 

 

 

「……何も抓んなくてもいいじゃないよ」

 

 赤らめた頬を摩りながら、冬真は母親にお灸を据えられた子供のように不満げな小言を呟いてみる。

 

「だっていつまでたっても起きない冬真君がいけないんだからね」

 

 地獄耳かと思うようなささやかな声量を聞きとった彼女は、ムッとしたようにリビングから顔をだしてそう言ってくる。どうもすみませんね、と心中で毒づきながら、冬真はボーっと何も置かれてないテーブルを眺める。暫くして、トン、トン、トン、と何かをまな板で刻む規則正しい音が冬真の耳に届く。ああ、慣れてるな、と判断がつく程に子気味の良い音だった。

 

 凪沙は若干中学生にして家事全般を器用に卒なくこなせる。元々両親がほとんど仕事で家にいない事情で致し方なく子供たちでやらないといけない環境だったこともあるが、その環境が活きたのか特に料理スキルは大人顔負けの腕前に成長していた。もうそこら辺でお店を開いても恥ずかしくないレベルである。実に古城の妹であることがもったいないと何度思った事かわからない。

 

 おまけに容姿も可愛らしく、スタイルも発展途上ながらに成長見込みがある、優しくてしっかり者の少女――暁凪沙。彼女こそ正に男の理想の女性であること間違いないだろう。

 

「ホント、お嫁さんに欲しいくらいだな」

「――ッ!?」

 

 ガタン、とリビングが慌ただしくなる気配がしたが、冬真は気にした様子なく料理をする凪沙の後姿を眺めながら徐々に眠気を覚ましていく。次第にリビングから味噌汁が優しく匂ってくる。見ればコンロに置かれた鍋から掴みどころのない湯気が立っち上っていた。凪沙は何かの焼け具合を点検している。

 そろそろだな、とのろのろ立ち上がった冬真は、リビングへと足を運んだ。

 

「凪沙」

「――ッ!? な、なに? どうしたの? まだお魚とか焼けてないよ?」

 

 かなり裏返った声で凪沙はビクッと大きく肩を跳ねさせた。そして手元から目を離して、慌てて距離を取る。心なしか顔が赤い。

 驚かせちゃったのかなと、苦笑気味に彼女の早口に首を振った。

 

「ようやく目が冴えてきたから何か手伝おうと思ってさ。ご飯とかよそる?」

「う、うん。お願い。あ、えっと、凪沙の分もね」

「りょーかい」

 

 何を思ったのか恥ずかしそうに言う凪沙の言葉の真意を不思議そうに受け取り、冬真はかぱんと炊飯器を開けてピカピカとした白米を自分と凪沙の茶碗に盛り付ける。

 

「凪沙、麦茶で良いよね?」

「うん」

 

 今度は冷蔵庫に入っていた麦茶をコップに注ぐ。凪沙が次々とお皿に盛り付け終えたのを確認してから、冬真もそれを手伝うようテーブルに朝食を並べていく。目の前には大根の漬物と豆腐と大根の葉の味噌汁と、鮭の塩焼きと卵焼き。最初こそパンやバナナ等の簡単なもので極力洗い物が少なくなるメニューだったが、凪沙がこうして朝食を作ってくれるおかげで、絵に描いたような食卓が出来上がる。だからこそ毎度その有難さに心を打たれるのだ。

 

「ありがとな、凪沙」

「ううん。あたしが好きでやってるんだから気にしないでよ」

「……まったく。ホント良いお嫁さんになるよ、凪沙は」

「う、うんっ、あ、ありがとう」

 

 照れたようにはにかむ彼女に、ドキッとしながらも、お互いテーブルを挟む形で向き合って座り、手を合わせて唱和する。「いただきます」。

 冬真は真っ先にほかほかの湯気が出ているお椀を手にとり一口啜る。みその絶妙な加減もそうだが、温かかくて優しい味付けだ。これが所謂、家庭の味というやつだろう。

 

「味は変じゃない? 一応冬真君が好みそうな味付けにしてるつもりなんだけど」

「いや、美味いよ。というより、凪沙の手料理をマズイと思ったことが一度もない」

「も、もう、褒めても何も出ないからね?」

「ばか、ホントだっての」

 

 謂われて嬉しいくせに拗ねたようなまなざしで睨んでくる彼女が可笑しくて、つい冬真はクスッと笑みをこぼす。

 そうしてお互い言葉を交わしながら箸を動かしていれば、不意に気になったことを冬真は口にした。

 

「そういえば、古城のやつほったらかしで大丈夫なのか?」

「うん。作り置きはしてきたし、これで寝坊しても古城君が悪いんだし」

「そ、そうか……でも那月ちゃんなんだかんだ言って優しいから大丈夫だろ。それにいざとなったら浅葱や羽波だって追試くらい手伝ってくれるだろう」

 

 投げやりに冬真は卵焼きを一つ箸で摘まみ、それを口に放り込む。だが冬真の言葉に納得がいかないのか、凪沙は、うーん、と唸る。

 

「浅葱ちゃんならまだしも唯里ちゃんに手伝わせちゃうのは申し訳ないような……それに馬に蹴られたくないし」

「は? 馬?」

「うん。浅葱ちゃんの恋は応援するって決めたからね!」

 

 恋と馬をどう結びつけたら良いのか判らず咀嚼しながら首をかしげる冬真だが、声の鞭を打つ彼女の様子と浅葱という名に昨日のモノレールでのやり取りを連想した。そして、古城の一方的な男友達宣言を思い出し、渋い顔をする。

 

「……あのバカ、まるで浅葱の気持ちに気付いてないからな。浅葱って普通に美人だしスタイル良いし、まあ、性格も優しい?しホント古城にはもったいない」

「そう、そうなんだよ!」

 

 冬真の言葉にどこか興奮した様子で凪沙が頷いた。

 

「浅葱ちゃん。頭良くて、優しくて、格好いいんだよね。みんなに言っても分かってくれないだろうけど」

「……わかってくれない? アイツ結構人気あるような気がしたんだけど」

「そうだよ。でも浅葱ちゃんの見た目しか褒めないんだよ。特にうちのクラスの男子! 雰囲気がエロいとか、いろいろ手取り足取り教えてくれそうとか、援交やってそうとか……んもーあいつら!」

 

 朝食時に不相応な言葉が何度か飛び交ったが、思い出して腹が立ってきたのか、まるで自分の事のように怒り出す凪沙。確かに彼女の怒りも……いや、男目線からそう映るのは仕方ないとしか言いようがない。冬真自身も暁古城専用という特別な事情がなければ、彼女の艶かしい雰囲気にそう思っていただろう。まあ、最も今そんな事口走ったら間違いなく命はないため言葉を慎重に選ぼうとするが、

 

「ま、まあ、その分良かったじゃんか。古城はなんだかんだ言って中身を大事に……する筈…だな」

 

 言葉にするほどに目の前の少女からの剣呑な気配が伝わってきて、冬真の語尾が尻すぼみに小さくなっていった。

 

「ふーん。中学の時に胸の大きな子が好きだったのに?」

「……い、いや、それは偶々じゃないか? あの子綺麗だったし」

「……バスケの授業中、その子の胸ばっか見てたよね」

「……」

 

 まるで冬真君もだよね、と言わんばかりにじーっと彼女に見つめられ、大量に脂汗をかきはじめる冬真。思わず口を閉ざしてしまう。口にすればするほどに冬真自身も墓穴を掘りそうな気がしたのだ。しかし、あの揺れは誰でも男なら目につくはず。と反論する。だがそれも心の中だけである。

 

「ね、ねえ……冬真君も気にするの? やっぱり胸の大きな子がいいとか」

「あほ、俺は大きさなんて気にしてねえよ。揉めればじゅ……」

 

 不安を滲ませた問いかけに素直に応えかけて、しまったと慌てて口を閉ざす冬真。だが、途端に部屋の気温が下降した事で、時は既に遅いと悟った。目の前に座る少女の憐れみというより冷たい軽蔑で意地悪く光った眼差しが、冬真に突き刺さる。どうやらその目の光が部屋の冷たい気配の根源となっているようで、先程から背筋が寒い。決してクーラーの風量によるものではないだろう。

 

「……冬真君のすけべ」

「う、うっせ。男はみんな女性の胸部には興味津々なんだよ。女には分からねえだろうけど」

「分かりたくもないもんね。冬真君のスケベ」

「なぜ二回言った!?」

 

 それからしばらく凪沙に口を聞いてもらえなかった。

 

 

 

 

 南宮那月(みなみやなつき)は、彩海学園の英語教師だった。

 年齢は自称二十六歳だが、実際はそれよりもかなり若く見える。美人というよりも美少女、あるいは幼女という言葉が似合うほどだ。

 顔の輪郭も体つきもとにかく小柄で、まるで人形でもある。

 その一方で、どこかの華族の血を引いてるとかで、妙な威厳とカリスマ性があったりもする。そのせいか教師として有能で、生徒からの評判も悪くない。――が、

 

「おい、藤坂。だらけてないでさっさと問題を解け。これでも私は忙しいんだ」

「……へいへい」

 

 教壇の中央。どこからか勝手に運んできたビロード張りの豪華な椅子にもたれ、淹れていた紅茶を飲みながら、那月が冬真を咎める。だらしなく制服を着崩した冬真は、気だるげに突っ伏していた身体を起こし声の主を見て、思わず顔を顰めた。彼女の纏う服装はレースアップした黒のワンピース。襟元や袖口からはフリルが覗いており、腰回りは編み上げのコルセットで飾り付けをしている。つまり、真夏日に相応しくない、時と場所をわきまえないファッションセンスをしているのだ。これが彼女の唯一の弱点と言えるだろう。

 

「なんだ。私に見惚れたか? 藤坂」

「あーそうですねー」

 

 忙しそうな様子もなければ、意味の分からない視線の捉え方に適当に返し、英語のテストに目を向ける。紙に映るのは見慣れない文字の羅列。思わず本能的な不快感を味わい顔を顰めながらも、昨夜の雪菜の指導に自身で購入した参考書を思い返し、記憶通りにペンを走らせる。

 

 冬真は眼に移った対象を映像で記憶できる。ペラペラと頭の中で教科書をめくっていれば、必然的に問題の解読など容易い。ただそれは、解像度がそれほど高くはなく、彼が覚えようと好奇心が燻ぶられた時だけ。英語なんて、以ての外であるが、留年だけは避けたい思いから、渋々記憶に留めた。そしてものの数分で空欄がすべて埋まる。

 

「……うん。終わった」

「ほお、そんな数分で終わったのか。なら真面目に授業を聞け」

 

 「どうもすいませんでした」と大してすまなくもなさそうな口調で言う冬真を睨みつけながら、那月は書き終えた追試の解答用紙を摘まみ上げる。そしてとんでもないスピードで採点を進める那月だが、ある箇所で赤ペンが止まる。

 

「……藤坂。お前は英文を本当に理解してこの問題を解いたのか?」

「い、いや、暗記したのを羅列しました」

「……そうか」

 

 確かに冬真は記憶は良い方だという自負はあった。しかし、英語の文章を作る作業は苦手だった。なんせそのまま見た例文を書き記すことしかできないからだ。いや、彼がそれしかしないだけなのだが。

 

「‟He has an eccentric habit of pulling his hair while he talks.(彼はしゃべっている時に髪を引っ張る奇妙な癖がある)」

「えっ?」

 

 突然流れるように滑らかな話し方で流暢に冬真の書いた英文を読み上げる那月に、驚愕に染まる冬真。心なしかトーンがいつもより低い気がして、背筋に寒気を覚え始める。見ればピクッと彼女はこみかめ辺りを引くつかせている。もしかして、何か癇に障るようなことを書き記したのだろうか。

 

「‟He is as cool as a cucumber.(彼はきゅうりのごとく、とても冷静だ)」

「な、那月ちゃん?」

「‟He will live by the sea or he will live in a cave.(彼は海のそばに住むか、洞窟の中に住むだろう)」

「あ、あの……」

「‟He was so depressed that he lay down,rubbed his butt and smiled.(彼はとても落ち込んでいたので、横たわって、自分のケツを揉んで、少し笑った)……ふふふっ、随分と教師をなめ腐ってくれるじゃないか、藤坂冬真」

 

 そして残された英文を読み上げる事はせず、那月は何故か不気味な笑みをこぼし答案用紙から顔を上げた。目が据わってる。笑ってない。そんなまるで人形の目のような冷々とした視線を向けられ、途端に全身に汗が流れるような不気味さが襲い、冬真の顔色はおしろいを塗ったように血の気を失った。ただ、どうしても彼女の怒りの意味が分からない。

 

「あ、あの、み、南宮先生?」

「……藤坂冬真。この例文を、読み上げて見ろ」

「は、はい……」

 

 不機嫌さを凝縮して、すごみさえ感じる低音に素直に従いペーパを向けられ目を通す。震える声で文字を音にし始めた。

 

「な、Natuki was a very indecent bitch three years aゴッフ――ッ!」

「よくもそんなことを教師の前で言えたものだな、素直に感心するぞ」

 

 突然の頭部が陥没するのではというほどの衝撃に、冬真は仰向けに転倒する。地が避けて熱い溶岩が流れ出したような恐ろしい激痛だ。これではロキソニンなんて効きやしないだろう。

 

「り、理不尽だ……っ」

「仕方なかろう。どうやら貴様にはやはり徹底的な教育が必要らしいのでな」

 

 黒レースの扇子を彼の額に一閃した那月は、愉快そうな声で死の宣告を告げ地面に倒れ込む冬真を踏みつけた。そしてどこからか何の前触れもなく現れた鎖で彼を縛り上げ、那月は実にその滑稽なざまで慄く冬真を、心理的にいたぶるようにグリグリと足で踏み、愉しそうに唇を歪めていた。どうやら完全に彼女の中の何かのスイッチが起動したらしい。

 

「安心しろ。一瞬で楽にしてやる」

「そ、それ安心できぎゃぁあああー!」

 

 獲物を嬲るような口調で、那月の容赦ない教育が施される。直後稲妻が走ったような痛みが、全身を駆け抜ける。

 

 あっ、でもなんかちょっと懐かしい感覚が……

 

 そこから冬真の記憶はあまりない。

 ただ、のちに知ることになるが、『那月は3年前、それはそれは淫らなメスだった』。それが彼が教師に言い放った英文らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ひ、ヒドイ目にあった……」

「自業自得です……」

 

 あれから何とか那月のお仕置きから解放され、何とか辿り着いた食堂。夏休みなだけあり人はまだらだが、しかし、昨日と同じように好奇の視線がちらほら集まる。が、冬真は気にも留める気力すらなく、ぐったりと食堂のテーブルに突っ伏せる。それを同情のカケラもない無表情で突き放す雪菜。

 

「第一どうしてそんな文を解答用紙に書いたりしたんですか」

「いや、ほら、ウケ狙い?」

 

 反省の様子なく応える冬真に、この人は、と呆れた眼差しで雪菜が深々と嘆息した。そしてこの上なく不思議な疑問を投げかけた。

 

「どうして獅子王機関は監視対象を先輩に選んだのかよく分からなくなってきました」

「なんか、そこはかとなくバカにされた気がするが、でも俺も実際それは知りたい」

 

 冬真も渋々同感だと言わんばかりに返し、一匹の猫を思い浮かべる。

 

「……あのばあさん何考えてんだよホントに」

 

 冬真の怨嗟の声に、雪菜が首を傾げた。

 

「ばあさん?」

「ああ、猫のばあさんだ」

「はい?」

 

 全く説明になってないと怪訝そうに形の良い眉を寄せる雪菜。たしかに随分とメルヘンチックじみ物言いにはなってしまったが、正体はそれに喋る要素が加わった彼女のお偉いさんの使い魔である。まあ、ここで話さずとも彼女との繋がりはいずれ露見するだろうと、やんわりと冬真は首を振り、本題に入った。

 

「それよりも、この後は姫柊は暇か?」

「そうですね。特にこれと言って予定は監視以外ありませんけど」

「いや、もうそれ全ての予定じゃんかよ」

 

 呆れたように呟きながら、冬真は懐からサービス券を三枚ほど取り出して、テーブルに扇状に広げた。

 

「実はな、この近くでケーキバイキングたる店がオープンしてな。そのサービス券を頂いたのよ。んで、そのお誘いをと思ったんだが、どうだ?」

「ケーキバイキング…ですか?」

「なんだ、ダメか?」

「いえ、行くのは構わないのですが、どのような場所なんですか?」

 

 どこか現代カルチャーに疎い雪菜の天然発言だが、昨日といい冬真にとってはもう耐性ができたのか動じる様子なく端的に応えた。

 

「つまり、ケーキ食べ放題のお店だ。姫柊はケーキ嫌いじゃないって昨日凪沙たちと話してたよな?」

「え、ええ。甘いもの自体は好きですから」

「よしっ、なら行こぜ。あ、ああ。後凪沙も行くからな」

 

 付け足すような彼の言葉に、視線をサービス券に落とし納得する。

 

「……それで三人分のサービス券を持ってき……」

 

 言いかけた自分の発言にふと、雪菜は今朝のモノレールでの彼の様子を重ね、彼の突然の誘いの別の思惑を理解する。

 

「凪沙ちゃんの機嫌を直すための措置ですか?」

 

 ギクッと冬真の肩が跳ねる。

 

「い、いや、行ってみたいなと思ってな」

 

 あははは、と視線を泳がせては乾いた笑みを零す彼に、雪菜は心底呆れたようにため息を吐いた。

 

「それでしたら、凪沙ちゃんと2人でいかれてはいかがです?」

「あー、まあ、それも考えたんだが、サービス券余るのもったいないだろう? それに姫柊とお出かけしたい的なこといってたからさ」

 

 頼むよ、と顔の前で手を合わせて懇願してくる冬真。

 確かに凪沙が自身も行きたかったと口を滑らせていたのは身に覚えがあるが、それはどちらかと言うと彼と行きたかったというニュアンスに近い気がしなくもない。

 しかし、ここまで彼にお願いされれば、と折れる形で渋々雪菜は頷いた。

 

「は、はあ。まあ、凪沙ちゃんが良いのなら私は別に構いません。そもそも私は先輩の監視役なんですから。私の意思は先輩次第です」

「おしっ、なら決まりだな」

 

 どことなく捉え方次第では重い発言ではあったが、気にした様子なく白い歯を見せてどこか子供っぽく笑う彼。雪菜も少し楽しみな気持ちで食堂を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり意外と混んでるな」

 

 どこか甘ったるい匂いを感じながら、冬真は改めて室内を見回しながら言う。冬真と雪菜、そして凪沙がケーキバイキングのお店に着いた時には、既に肌と肌が触れ合うとは行かずとも、平日の夏休み期間というだけはあり特に若い女性を中心に賑わっていた。

 

「もー、せっかく来たんだからそんな感想じゃないでしょ、冬真君。こんな沢山のケーキが目の前に広がってるんだよ? 目移りしちゃうよ〜。あ、テレビでやってたぶどうケーキだ。こっちはメロンのケーキだよ」

「落ち着けよ、お前は」

 

 目の前に広がる数えきれない種類のケーキを前に、愛嬌のある微笑みを満面に湛えながら、快活な、磊落な調子で早口で言う凪沙に、苦笑気味に宥める冬真。そして、反対にやけに静かだなと、心配げにチラリと横目で雪菜を見遣れば、

 

「……こ、これがケーキバイキングですか」

 

 どうやら目の前の光景に圧倒されたようで、呆然と立ち尽くしていた。確かにここはケーキバイキングと称しながらも、ケーキ以外にフルーツ、ジェラート、サラダ、パンに加え、季節ごとに展開されるフードメニューが豊富に並べられているのだ。彼女が驚くのも無理はない。

 

「ま、時間制限はあるけど全部一応食べ放題の範疇だから、好きなの食べろよ? じゃなきゃ勿体無いし」

「ほ、本当にいいんですか?」

 

 代金やメニュー全てという言葉を含め不安げな眼差しで見上げてくる雪菜に、クスッと冬真は笑って肯定の意を示し頷いた。

 

「ああ。だから姫柊は凪沙と先取って来ていいぞ」

「え? 冬真君は食べないの?」

「ばか。席取りだ。二人が戻ってきたらとるよ。席はあそこら辺取っとくから」

 

 予め目星はつけておいた席を指差して、そこにいる旨を伝える冬真。凪沙は申し訳なさそうに見上げ、

 

「う、うん。ごめんね、あっ、じゃあ、あたし冬真君のも持ってくるね。やっぱりショートケーキ? メロンケーキかな? あれ、でもこの前チョコケーキ好きだって言ってたよね?」

「なんでもいいって。取り敢えず、取られる前に陣取りしとくよ」

「うん! 雪菜ちゃん、いこう」

 

 グイッと強引に雪菜の手を引いてその場から人混みに突っ込んでいく凪沙。その瞬間群衆の波が何処と無くサァァァッとはける様子から、やはりここでもこの2人の美少女っぷりに周りの者も反応を示しているようだ。海を割るモーゼさながらである。実に面白い光景だ。去り際に、雪菜の申し訳無さそうな視線に手を上げて応えて、静かに彼女の文明開化を見送りながら冬真も空いてる席を一直線に進む。すんなりと3人用のテーブルを確保し、1人椅子に腰掛けた。

 

「……しかし、暇だ」

 

 白い壁や天井を眺めるくらいしかやることがない冬真は、ボーっと周囲をあちらこちら眺めていれば、ふと思い至ったように携帯端末をスクロールさせて『藍羽浅葱』の名を探す。確か彼女は今日バイトのシフトは入ってない筈である。器用に指でタッチしてメッセージで『後でサービス券やるから古城と2人で行って来い』と送信すれば、端末にものの数秒で返信が返ってくる。

 

 ――何のつもり?

 ――いや、なに。サービス券余ったからお譲りしようと思ってさ。なんもやましいことはないぞ。

 ――……ホントに何も企んでないのね?

 ――当たり前だ。それに、使えるものは使っといて損はないはずだろ?

 ――ふーん。まあ、いいわ。一応受け取っといてあげる。というよりアンタのお節介、日が経つごとに基樹に似てきたわね。

 ――うるさい。あの将来ハゲ確定やろうと一緒にするな。

 ――なにそれ。……まあ、その、ありがとう

 

 どこか不器用で接し方が男友達のような彼女だが、やはり女の子なようだ。思わず頰が緩むのを我慢して、続けて暇つぶしに電子書籍を読み耽っていれば、

 

「お待たせ〜、冬真君」

「すみません、先輩。少し遅くなりました」

 

 周りの人の楽しそうなざわめきが遠くにあるような感覚が弾けたような自分の名を呼ぶ音を捉える。端末から顔を上げれば、トレーの上に沢山のケーキを運んできた凪沙と雪菜の姿が目に映る。どうやら凪沙は本当に冬真の分まで運んできてくれたらしい。

 

「悪いな、凪沙」

「ううん。席とっといてくれたから、そのお礼だよ」

 

 重ねて持ってきたトレーを置き、器用にフォークを使い、ちょこんとケーキを置いていく凪沙。チョコケーキ、チーズケーキ、ショートケーキ。どれも冬真の好みのものばかりだ。無遠慮な態度とは裏腹に、彼女は毎回かなり気を使ってくれる。本当にこの子には頭が上がりそうにない。

 

「んじゃ、食べるか」

「うん。じゃあ、あたしはショートケーキからかなぁ、あ、でも……」

 

 細胞の一つ一つが小躍りしているかのような楽しげにケーキを吟味する凪沙に苦笑しながら、冬真もフォークで一口分口に運ぶ。しっとりと焼き上げられたスポンジケーキと口当たりなめらかなホイップクリーム、それに真っ赤に熟れたイチゴの甘酸っぱさ。この三位一体のバランスの取れた味わいすばらしい。やはり、白いホイップクリームでデコレーションしたショートケーキには、いちごが欠かせない。そのあざやかな赤い彩りはもちろん、適度なすっぱさもぴったりのアクセントだろう。

 

「〜〜!!」

「美味しい……!」

 

 どうやら凪沙も声にならない美味しさに感激したのか、だらしなく頬を緩めている。雪菜もまた目を丸くして驚きを露わにしながらも、夢中でフォークを使い美味しそうに口へと運んでいた。そんな2人の顔に喜色を浮かべる様子から、どうやら連れてきた甲斐があったようだ――と内心ホッとしながら、冬真も一心不乱に喰らいつく。そこからお互いしばらくプツンと会話のない時間が続いたが、

 

「そう言えば、冬真君」

 

 ふと食事の手を休めて凪沙が顔を上げる。

 

「どうしてサービス券なんて貰えたの? ここ結構開店前から有名だったからサービス券なんて貰うの難しいと思うんだけど。完全予約制だし」

 

 雪菜も気になったのか、フォークを置いて顔を上げた。

 

「ああ、そりゃアレだ。 昔俺がピアノのコンクール出た時、熱心に話しかけてきたおじさんいたろ?」

 

 いつのだろうと凪沙は頭を捻らせ、一枚の活動写真のような記憶が蘇り、「あっ」と声を上げた。

 

「あの小学校四年生時に冬真君のことスゴく褒めてくれた人だよね!? 凪沙も覚えてるよ。 それにあの時の冬真君の演奏上手だったもん」

「そ、そうだな」

 

 自分から話題を振ったが何やら演奏に話が路線変更しそうな匂いを感じ取り、「それでな」と冬真が強引に話を切り出した。

 

「そのおじさんがここのお店の店長さんなんだよ。俺も2ヶ月前くらいに知ってさ、そのお手伝い的なのしたら貰ったってわけ」

「えー、あたしにも言ってくれたら手伝ったのにぃ」

「ごめんごめん。凪沙部活あるかと思ったから」

 

 不満げに唇を尖らせる凪沙に、苦笑しながら冬真はカップを手に取り紅茶に口をつけた。そんな彼に心底驚いた口ぶりで雪菜が割って入る。

 

「先輩、バイトしてたんですか? でも、報告書にそのような記載は……」

「「報告書?」」

 

 疑念の重なりにハッとした雪菜は、凪沙は純粋な疑問だろうが、冬真の視線にギクッと肩を跳ねらせ視線を泳がせた。

 

「え、えーっと、それで、先輩。バイトしてたんですか?」

 

 どうやら無理やり平常運転をご所望らしい。

 しかし、下手な尾行と言い雪菜はどこかおっちょこちょいだ。きっとあまり嘘がつける正確ではないのだろうが、しかし、監視という役目柄、それで大丈夫なのかと見ているこっちが心配になってしまう。口には出せないが、監視に雪菜の性格が向いてるとは思えない。

 

「……先輩?」

「あっ、いや、えっとな」

 

 冬真の思考を勘づいたのか、鋭くなる彼女の視線に慌てて余計な思考を振り払った。

 

「その問いかけにはノーだ。あくまで俺は無償のお手伝いのつもりだったんだ。けど、結局は押し切られる形でその見返りがサービス券。まあ、ボランティアとは言えないがバイトともいえないよ」

 

 困ったように大げさに肩をすくめてみせる冬真に、感心したように雪菜が呟いた。

 

「先輩、見直しました。無償で誰かのお手伝いを率先してやろうだなんて」

「ふっ、まあな。こう見えても俺は……」

「あー、雪菜ちゃん。ダメだよ、感心しちゃ」

「やさし……あれ?」

 

 どこか鼻高々になりかけた冬真だが、凪沙が割って入ってきたことで雲行きが怪しくなってくる。

 

「冬真君の事だから、絶対にどこか打算的だよ。多分予め券貰えるって分かってたかもしれないよ」

「……そうなんですか?」

「あ、いや……す、少しだけだぞ?」

 

 徐々に冷え冷えとしていく彼女の視線に怯えながら応えれば、何故か雪菜は納得したような顔をした。

 

「やはり先輩は先輩なんですね」

「どういう意味だよそれ。少なくともお金は貰ってないんだからそこは素直に褒めろよ」

 

 不満げに拗ねた様な冬真が面白く映ったのか、2人揃ってクスクスと声を上げて笑っていた。まあ、この子達が笑顔ならいいか――と気にした様子なく冬真は残りのケーキを食べ終え、始めも終も無い煙のようなお饒舌を続ける。

 

「あ、あのね、冬真君……」

 

 漸くして不意に遠慮気味な凪沙の声が聞こえて、彼女に視線を向ければ、

 

「どうした?」

「え、えっとね、その……」

「凪沙?」

 

 言い出しにくいのか躊躇いがちな凪沙に、冬真は益々首を傾げた。心なしか、彼女は頬を紅潮させ、モジモジとどこか落ち着きがない。

 

「う、うぅ……い、いざやろうとすると、は、恥ずかしいよ……」

「は? な、凪沙?」

 

 両手を頰に当てて、ゴニョゴニョと彼女は聞き取れない声量で何かを呟いている。なんだこの症状は――と女性である雪菜に説明を請う視線を向けるも、申し訳なさそうにやんわりと首を振る。仕方なく現実に戻ってもらおうと、冬真は先程より口調を強めた。

 

「おい、凪沙!」

「――ッ! な、なにかな?」

「いや、何かなって。大丈夫かよ、お前。具合でも悪くなったか?」

「う、ううん! だ、大丈夫だよ! うん、わかってるから。で、でもあと少しだけ心の準備が……」

「いや、心の準備ってなんだよ。大丈夫か、本当にお前。全然会話が噛み合ってねぇぞ」

「だ、大丈夫……うん、よしっ」

 

 何故か身体中のありったけの勇気を集めたかのように気合を入れ、凪沙はフォークで自分のケーキを一口サイズに切って差し、恐る恐る冬真の口元まで運んでい……ん?

 

「あ、あーん……」

「……はい?」

「えっ?」

 

 彼女の思わぬ奇行に、目を白黒させて驚きの声を上げる冬真と雪菜。

 な、何やってんだ凪沙……。まるで大理石のように己の時を止めて固まり続ける冬真。凪沙自身も羞恥は感じているのだろう、真っ赤な顔で急かすように彼女は言う。

 

「は、早く食べてよ……!」

「い、いや、急に何やってんだ!? ビックリするわ!」

「だ、だって、その、憧れて……だ、ダメかな?」

「――ッ」

 

 羞恥で潤んだ凪沙の艶のある上目遣いでの懇願に、ゴクリと息を呑む冬真。――卑怯だ。そんな目をされたら断れない。

 言い知れぬ羞恥の情に駆られながらも、引き寄せられるように口を開けて、慎重にフォークに触れないようにケーキだけを口に入れる。――甘い。頭がしびれるほどそれは甘かった。

 

「お、美味しい……?」

「へ? あ、ああ。……いや、甘くてよくわからん」

「そ、そっか……」

「お、おう……」

「……」

「……」

 

 なんだろう。気恥ずかしさからお互いまともに視線を合わせられない。うっかり見つめ合うと、慌てて顔を背けた。

 気が動転して言葉が見つからない。

 気まずい……何か話しかけてくれ。

 

「ゆ、雪菜ちゃん!」

 

 そんな沈黙を凪沙本人が強引に破った。その収拾がつかないほど感情が混乱した様子は気にはなるが、恐らく先程から大人しく空気として徹していた雪菜に助けを求めたいのだろう。これならなんとかなるかもな――と思いホッとした冬真だったが、

 

「ゆ、雪菜ちゃんも、す、する?」

「――はい?」

「――は?」

 

 まさかの矛先に、雪菜はキョトンと動きを止めて固まる。思わぬ核兵器に冬真も凪沙を2度見した。

 ……今なんつったこの子

 

「だ、だから、雪菜ちゃんも、その、お、お礼っ? 的な感じで……ほ、ほら、雪菜ちゃんもお礼したいって言ってたし」

「へ? お、お礼…ですか……?」

「う、うん。 そうだよ、お、お礼……かな? あ、あれ、でもなんか違うような……」

 

 どうにか上手いこと少女を巻き込もうとする魂胆が見え見えではあるが、しかし、最早気が動転し過ぎて自分自身何を言ってるのかわかってない様子だ。だがどこか変に生真面目な雪菜は、釈然としない様子ながらも、なぜか冬真を見つめてくる。

 

「せ、先輩はそれで、お礼になりますか?」

「い、いや、別に姫柊からお礼なんていらないから」

 

 あくまでやんわりと拒絶する冬真。しかし、冬真が紡いだ言葉がいけなかったのか、何故か姫柊はムッとしたような表情に変わる。

 

「わかりました。私もします」

「は? いや、お前何言って……」

 

 正気か、という唖然とし眺める冬真の表情を無視して、雪菜は見よう見まねで凪沙と同じようにフォークで一口サイズのケーキを彼の口元まで運んでいく。

 

「……ど、どうぞ」

「い、いや、どうぞって……」

「……」

「……」

「は、早く食べて下さい……ッ!」

「は、はい!」

 

 羞恥と怒りの混じった瞳で睨まれ、反射的に食らいつく。フォークに口をつけないよう器用にイチゴのショートケーキだけを咀嚼した。……うん。やはり甘い。

 

「……お、美味しいですか?」

「あ、ああ……」

 

 体の中の異様な緊張と共にこみ上げてくるくすぐったい思いが、お互いの頬を染め上げる。

 自然と雪菜と視線が絡まり、咄嗟にお互い瞳からフォーカスを外した。もの凄いデジャブ感である。

 不意にチラッと雪菜を見遣れば、改めて自身の行った行動に俯き加減で羞恥に堪えていた。そんな雪菜の姿に、ドクンと心臓が跳ねる。

 冬真は凪沙同様どう言葉をかけていいのかわからず、喉の渇きを急激に覚え慌てて紅茶に口をつけた。カップから口を放して動揺を何とか無理やりやり沈みこませるように深く深呼吸をする。なんとか落ち着いて冬真が向かいの2人に視線を戻せば、何故か拗ねたような凪沙の視線と交わる。案の定、攻撃的な声音が飛んできた。

 

「むー、雪菜ちゃんとあたし、反応が違うー!」

「い、いや、違うって言われても……」

 

 凪沙の理不尽な文句に困ったような表情になって、視線を明後日に晒す。そこでふとあることに初めて気づいた。

 

 ――す、すごいカップルだね。も、もしかして3人で!?

 ――きゃーー! なにそれ!? し、 しかもすっごいあの子たち可愛いし!

 ――男の子の方も意外とカッコいいよね? も、もしかして三角関係!?

 ――もしかしたら2人とも彼女だったりして?

 

 きゃー、と群集が頓珍漢な推論をまくし立てて興奮した様子で声を上げている。そして降り注ぐ、好奇に満ちた視線の集中砲火。無論、冬真、雪菜、凪沙の3人である。全身を耳にして聴かずとも意識した瞬間、3人の硬い氷の緊張が一瞬にして融け、熱湯の羞恥が沸き立つ。

 

「し、しばらくここには来れないな」

 

 そのまま行方知れずになりたいくらいの羞恥の宿った冬真の呟きに、コクっと真っ赤な顔で2人も頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「つ、疲れた……」

「そうですね……」

「うん……」

 

 棚に吊るした橙色のカーテンのように、夕陽の光線の矢が地上に降り注ぎ、夕暮れ時を知らせる。遊具や砂場のある場所と、その奥の雑木林がセットになっている公園のベンチで、3人はどこかぐったりと腰かけていた。雪菜は流石と言うべきか背筋は正していたが、顔には疲労が色濃く表れていた。たかがケーキバイキングでこれほどエネルギーを使うとは想定していなかったのだろう。もっとも、それは冬真も同じだが。

 

「ありがとな、今日」

 

 うっすらとオレンジ色に染まるほの暗い雲を見上げながら、冬真の口から自然と感謝の言葉が漏れた。小言でもがらんとしているので声がよく響いた。

 

「ううん。お礼を言うのはこっちだよ。お金まで払ってもらっちゃったし」

「はい。ありがとうございます、先輩」

 

 申し訳なさそうな様子の2人に、いいって、と冬真は首を振った。

 

「俺は2人と遊べて楽しかったから。姫柊と凪沙はどうだった?」

 

 凪沙と雪菜は顔を見合わせて、

 

「うーん。普通かな」

「そうですね」

「うえぇっ? マジで!?」

 

 素っ気なく応える2人。思わず冬真は素っ頓狂な声を上げた。その焦った表情に、堪えきれなくなった凪沙が「ぷっ」と噴き出す。

 

「ふふっ、冗談だよ。冬真君と一緒で楽しくなかったことなんてないもんね」

「そうですね。わたしもとても楽しめました」

 

 悪戯が成功した子供のように、クスッと雪菜も笑った。

 これは一本取られたな、とつられて冬真も穏やかな笑みをこぼす。

 オレンジ色の光が優しく3人を照らし、しばらく優しい時間が流れていった。

 

「ねえねえ、雪菜ちゃん。今度一緒に買い物行こうよー」

「えーっと、それは……」

 

 チラッと雪菜がコチラを見てくる。監視の事で渋ってるんだろうな。冬真は苦笑気味に頷いてみせた。

 

「行ってやれよ。俺は荷物持ちで同伴でもするから」

「ふうん。じゃあ一杯買い物しちゃうもんねぇ」

「い、いや、それは勘弁を……」

 

 意地の悪い凪沙の言葉に、冬真の顔が引き攣る。

 それを可笑しそうにクスリと雪菜は笑う。

 そんな彼女の楽しそうな横顔を横目に映して、冬真は心底安堵したように温かく微笑んだ。高神の杜はほとんどが孤児だと冬真は聞いている。恐らく姫柊もその一人だろうが、しかし彼女は寂しいだとかさしたる感傷でさえ全く見せる素振りがない。この歳で全く気にしてないと言えば嘘になるだろうが、それでも彼女はしっかりと前を見据えている気がした。きっと向こうで多くの良い人達との出逢があったのだろう。

 だからこれはただの自分の自己満足に過ぎないのかもしれない。それでも少しでも笑顔でいてくれたらと思ってしまう。

 

(やっぱ似てるよ……母さんに)

 

「先輩?」

「い、いや、何でもない。んじゃ、遅くなってもアレだからそろそろ――ッ!」

 

 かえって此方が感傷的になりそうで、ゆっくりと立ち上がってそろそろ帰ろうと帰路を促そうとした瞬間、途端に何かを感知した冬真は、紡ぎかけた言葉を止めて勢いよく背後を振り返った。その先を殺気のこもった眼差しで睨みつけた。

 

「せ、先輩ッ!?」

 

 冬真のただならぬ気配を感じ取り、雪菜も立ち上がり、ギターケースを手に取り気配を探る。

 

「えっ? と、冬真君に雪菜ちゃん? どうしたの? そんなに怖い顔して何かあったの?」

 

 まくし立てるように不安げな声で交互に凪沙が問いかけてくるが、冬真の頭に入ってはこなかった。彼の神経は今別のところに張り巡らされていた。ゆっくりと神経を集中し、肌で音を気配を探る。が、すぐさま気配が消失したようで、冬真は慎重に警戒を解いた。

 

「ほ、ホントにどうしたの? 後ろに何かあるの?」

 

 やや強張った声で凪沙がキョロキョロと後ろを確認しながら瞬時に冬真の背後に隠れる。どうやら昔から何かあったら背後に隠れろとの教えを守っているらしい。ギュッと冬真の制服の裾を摘み不安げに見上げてくるどこか小動物みたいな凪沙に、冬真は安心させるよう穏やかな笑みを見せて頭をそっと撫でた。

 

「いや。なんでもなかったよ。んじゃ、帰るか」

「う、うん」

「……そうですね」

 

 妙に明るい声で言う冬真を不思議に思いながらも、凪沙は表情を綻ばせながら素直に従うことにした。どこか腑に落ちないような雪菜には、後で話があると視線で訴えて、3人は公園を後にした。

 

「……」

 

 きいっ、きいっ、きいっ……金属のこすれあう規則正しい音。錆びた鉄のぶらんこが揺れる音。

 公園には人影はなくなった。真ん中に水銀灯が一本高く立っていて、その明かりがうす暗くなった公園の隅々までを照らしていた。そこに人影が一つ。藍色の髪に薄い水色の瞳をした小柄な少女。どこか寂し気に1人佇み、少女は先程まで人のいたベンチを眺めていた。

 

「こんなところにいましたか、行きますよアスタルテ」

「――命令受諾(アクセプト)

 

 無機質な声音で男の声に応え、踵を返し彼の後について行った。

 その後ろ姿にはやはり、どこか寂しさが孕んでいた。

 

 

 

 

 

 

 時刻は零時を回る頃合い。染み一つない天井を見上げながら、冬真はベッドに寝転がっていた。

 結局、直ぐに凪沙を自宅に届けてから、雪菜とあの公園に向かったが何者の気配かはわからなかった。

 元々ダメ元で足を運んだのだから、別に無駄足だった程度で済む話だが、気のせいだったのか。と問われれば、それはないと断言できた。それ程までに、冬真は気配や視線の察知能力を研ぎ澄ませてきた自信はあった。なら、あの悲しみにも似た視線はなんだったのか……

 

「……まあ、いいか」

 

 長いあいだもの思いに耽っていた。それからふと、自分が本当は何も考えていないことに思い当たった。ただあてのない空白の中に身を沈めていただけだ。それに、出ない答えをいつまでも考えたって仕方ない。どうせ敵意は感じなかったし。と思考を頭から追いやり、取り敢えず寝るか、と電気を消そうとしたその時だった。

 

 ズン、と鈍い振動が、人工島全体を揺るがした。一瞬遅れて、爆発音が響く。異様な気配に、冬真はベッドから飛び起きた。

 爆発音は、なおも絶え間無く響き続けている。単なる事故や自然現象では説明がつかない。人為的な破壊が行われているのだ。それどころか常人にも感知できるレベルの、強烈な魔力の波動まで伝わってくる。

 

「おいおい……くっそ」

 

 つい舌打ちをし、反射的に足元に火がついたように慌しく玄関まで進む。取り敢えず姫柊の部屋まで行こうと思い至った瞬間だった。

 

「――雪菜ならもう火の渦中に飛び込んださ」

 

 たんぽぽの綿毛を運ぶような微風がカーテンを揺らし、どこか戯けたように艶やかな声が背後から届く。思わず足が止まった。振り返った先にいたのは、一匹の黒い猫。無限の厚ぼったい海のような夜と同じ色をした、お馴染みの不法侵入者だった。

 

「そうかい。そりゃ行く手間が省けたな、助かるよ」

 

 最早神出鬼没な猫には驚かず、玄関ではなくベランダに向かって真っ直ぐ歩いて行く冬真。猫は芝居がかった口調で彼の行動に心底驚いたように言う。

 

「なんだい、坊やも行く気かい? 最近の若いのは血の気が盛んな事だね」

「んだよ、いいだろ別に。……姫柊心配だし」

 

 小言でボソリと呟けば、ニヤリと猫は意地悪そうに笑う。

 

「もう雪菜を手懐けたのかい? 随分と手の早いマセガキだね」

「手懐けてなんかいねえよ! ったく、無駄口聞いてる暇ねえっての。んじゃ、行ってくるかんな」

 

 7階建てのマンションのベランダから、漆黒の夜を照らす爆炎を捉える。場所はアイルランド・イーストの倉庫街。冬真はベランダの手すりに足をかけて飛び去る決意をするが、

 

「――ここから先は無事では済まないよ、坊や」

 

 みじろぎひとつしない深く鋭い金色の瞳が突き刺さり、生きる気力を奪うような悪寒が冬真の動きを止めた。空気が鉛のように重くなる。それでも、どうしても動かすことのできぬほど堅固な決心が冬真の身体を硬直から動かした。振り返り、決意の宿った瞳で猫を静かに見つめ返す。

 

「……そうかもな。でもな、先は誰にとっても未知の領域だ。地図はない。次の角を曲がったところに何が待ち受けているか、曲がってみなくちゃはわからん。見当もつかない。だからこそ後悔の無いように進みたいんだ、例え、それが危険を伴ったとしてもな」

 

 それに――と猫に向かって不敵に唇を釣り上げた。

 

「姫柊はもう、俺にとって大切な存在だ。なら、それがもう俺が命をかける理由になる」

「泣き虫小僧に何ができるというのさ」

「できるさ。少なくとも、獅子王機関をぶっ潰すくらいはな」

 

 二人の眼と眼が結び合って、酸素熔接の火花のようなものを飛ばした。空気はどことなくピリピリしていて、ちょっと力を入れて蹴とばしさえすれば大抵のものはあっけなく崩れ去りそうに思えた。が、

 

「ふふん、親子そろって頑固極まりないね。まったく、そんな所を譲り受けてどうする気だい」

 

 猫が愉快そうに笑った。次第に張られた弦のような緊迫感が消えていく。

 

「いいさね。行っといで。どうせ死にやしないんだ」

「んだよそれ、んじゃ、行ってくるぞ、ばあさん」

 

 人間臭い仕草で前足を上げる猫に手を振って、冬真は地上七階から大空へと飛び出した。――待ってろよ、姫柊。

 

 

 

 

 一匹残された猫は、眼下に広がる街の夜景を見下ろしていた。街はまるで平板な鋳型に流し込まれたどろどろした光のように見える。あるいは巨大な蛾が金粉を撒きちらした後のようにも見える。

 そこに突如無数の火災が起きた倉庫街。爆発の炎を浴びた漆黒の妖鳥。

 そしてそんな戦場に向かって突っ走る、究極のクールビズを追求した風通しの良い軽装の少年の姿。猫は金色の瞳を伏せて、小さく溜息を吐き、

 

 ――あのクソガキ、本当にあの格好で行ったね。

 

 捕まるよ、と至極真っ当な意見を残して闇に姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 




  


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4話

 

 

「なんだこれ……」

 

 人工全体を揺るがすような異様な気配と爆発の振動から、古城はベッドから跳ね起きた。

 そして圧倒的に強大な、意思を持ち荒れ狂う魔力の塊を感じ取り、顔を歪めた。それは破壊の権化。

 暁古城に限りなく近い存在である、吸血鬼の眷獣(けんじゅう)。恐らくこの身を震わすようなほどの魔力から名のある“旧き世代”だろう。

 

「何だってんだ……!」

 

 良からぬ胸騒ぎに慌てて古城はベランダから探せば、漆黒の闇を照らす爆炎を見つけた。

 戦場になっているのはアイルランド・イーストの食倉庫。ほとんど無人の工業地帯だが、すでに大規模な工場火災程度の被害が出ているのが遠目にわかる。吸血鬼が何者かと戦っているのだろう。しかし、それほどの被害が出てながら、戦闘は尚も続いている。その事実が意味するのは、ただひとつ――“旧き世代”の吸血鬼が戦っているのは、“旧き世代”と同格の戦闘力を持っているという事だ。

 古城たちの住むこの街のどこかで今、誰かが、強大な旧き世代の吸血鬼を追い詰めている。とてつもない非常事態だった。

 

 

 神妙な顔で真っ先に古城はリビングへと足を運ぶ。ソファで寝っ転がってダラシなく眠る妹を目にし、どこかホッとすると同時に、ある一人の少女の姿が脳裏に浮かんだ。

 その直後、インターホンが部屋に鳴り響いた。急ぎ足で古城が玄関の戸を開ければ、高等部の制服を着た見知った少女が表情を険しくして立っていた。

 

「良かった。やっぱり暁君じゃないよね」

「あのな、俺はついさっきまで寝ようとしてたんだぞ」

「えっ? あ、あははは、そうだよね……」

 

 ホッとどこか胸を撫で下ろす羽波唯里に、ジト目で見つめ返す古城。

 確かに古城は寝間姿だ。おもわず唯里はぎこちなく視線を泳がせるも、誤魔化すようにすぐに表情を引き締めた。

 

「暁君はこの災害を起こした正体は気づいてる?」

「ああ――吸血鬼だろ?」

 

 コクっと唯里は神妙に頷き肯定した。

 

「多分、かなり名のある使い魔だから相当な大物だと思うよ」

「ああ、しかも未だに――」

 

 古城の声が断続的に響く巨大な爆発音にかき消される。人口の大地が震えて軋んだ。

 

「暁君はこのままここに居て。わたしは少し様子を見てくるから」

「は? ちょっと待て、羽波。見に行くのなら、俺も――」

 

 顔を顰めたままだった古城は、慌てて唯里を呼び止めた。唯里はやんわりと首を振り、

 

「ダメだよ。暁君は、第四真祖なんだから。他の吸血鬼を攻撃すれば大問題だよ」

「だ、だったら羽波も無理に行く必要ないだろ! 俺を監視してろよ」

「うん。本当はそうしなくちゃいけないのかもしれないね」

 

 「でもね」と彼女はしっかりと前を見据え。覚悟を示しながらも、優しく微笑んで見せた。

 

「ゆっきーだけじゃ心配だから行かなきゃ。大切な親友だからね」

 

 お茶目っ気たっぷりにペロッと舌を出し、銀色の長剣を持ち身を翻し駆け出していく。その背中を眺めて古城は思わず拳を握りしめた。

 戦闘、戦場とは冷静な言葉の通じない相手が、何のルールも縛られずにこちらの命を絶つことだけを目的にあらゆる手で迫ってくる環境。多少の知識があろうとも、素人の古城では自身の身を護ることすらできないかもしれない。そんな環境に自分が向かっていくなど、弾丸の雨が飛び交う地雷原に入っていくようなものだ。

 それに彼は第四真祖。世界最強の吸血鬼の肩書を持つ不安定な存在。ひた隠しにしてきたが、それが今以上に露見すれば、更なる災難が彼を襲うだろう。――でも、

 

「ま、待ってくれ!」

 

 その小さな背中を古城は思わず呼び止めた。驚いたように唯里は振り返る。

 

「暁君?」

「あ、いや、姫柊も行ったって言ったよな?」

「う、うん、そうだけど」

 

 それがどうしたの、と不思議そうに見つめてくる唯里。古城は呼び止めた理由を慌てて懸命に探し、閃いた疑問を口にした。

 

「冬真も行ってるのか?」

「えっ? そ、そんなことないと思うけど……」

「……おい、まさか――」

「えっ? あ、暁君?」

 

 急に何を思ったのか血相を変えて古城は隣の部屋の住人の扉まで走り、何度も呼び鈴を押した。

 

「おい、冬真! いるのか!? 返事しろ!」

 

 懸命に中にいる筈の少年の名を呼ぶが、やはり返答はない。古城は強硬手段を行う為にドアノブに手を掛けた。

 カギは締まってない。すんなりと部屋に入れば、空き家のような物静かさ。リビング、寝室を調べても中はもぬけの殻だった。

 

「あのバカ野郎……っ」

 

 思わず苦虫を噛み潰したような顔で、低く唸る古城。他人の、ましてや男の部屋に無断で入ることを躊躇っていた唯里も遅れて侵入し、人気のないリビングに古城の険しい顔つきから事の重大さに気付く。

 

「ま、まさか、ふ、藤坂君……まで?」

「ああ、行きやがった。でも、これで俺も行く理由ができた」

「えっ」

 

 彼の思わぬ言葉に唖然とする唯里。古城はどこか困ったように苦笑し、言葉をつなぐ。

 

「俺も冬真が心配だ。大切な親友だからな。だから、行こうぜ」

「ええっ? で、でも……」

「同じ理由な筈だ、羽波と。それに俺は――羽波も心配だしな」

 

 柔らかい物言いでの彼の言葉に、キョトンと目を瞬く唯里。そしてため息を一つ吐いて、上目遣いに古城を睨む。

 

「そんなこと言われたら何も返せなくなっちゃうけど、でも暁君……たらしっていわれない?」

「は? いや、なんでそうなる!?」

 

 わけもわかず非難されて、古城は声を荒げた。唯里はどこか諦めたように首を振る。

 

「分かってないならいいよ。でも、取り敢えず行くことには賛成かな。ただし、様子を見るだけだからね?」

「ああ、わかってる。ハナからムチャする気なんてねえよ」

「うん。なら行こっか」

 

 すんなりと彼女は頷き身を翻し玄関へと向かう。古城は自身の要望がすんなり通ったことにかえって驚き問いかけた。

 

「……俺が言うのもなんだが、信用してくれるのか?」

「まあ、暁君が悪い人じゃないのはここ数日でわかったから」

 

 「それに」と彼女はふわりと茶髪を揺らしクルリと回って、どこか悪戯っぽく微笑んだ。

 

「信用してるから。暁君のこと」

「……羽波の方がたらしなんじゃないか?」

「ええっ? ひ、ヒドイよ暁君!」

 

 こうしてお互いの共通目的を晴らしに、古城と唯里は夜の街へと赴いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 倉庫街のあちこちで、大規模な火災が起きていた。

 街灯の消えた街を燃えさかる炎が紅く照らしている。自動消火装置も動いていたが、火の勢いが衰える気配はない。

 幸いにも、火の街の中に人の気配はなかった。もともと人口の少ない地区だし、倉庫街の管理をしていた人々も避難を終えているらしい。爆発に巻きこよれて、送電が停止したのだろう。アイランド·イーストに到着した直後に、モノレールが停止した。雪菜は動かなくなった車両の屋根から飛び降りて眷獣が暴れている現場へと向かう。

 戦闘中の眷獣は、巨大なワタリガラスに似た 漆黒の妖鳥だった。

 翼長は余裕で十メートルを超えている。闇を固めたような巨体は、時折溶岩に似た色に輝き、吐き出す火球が周囲に凄まじい爆発を巻き起こす。その全身を包みこんでいるのは爆風だ。どうやらあの眷獣は、爆発そのものを象徴しているらしい。

 

 

 ビルの屋上に立って眷獣を操っているのは、上品な背広に身を包んだ長身の吸血鬼だった。年齢は三十歳前後に見えるが、この魔力の凄まじさを見る限り、おそらくその数倍は生きているに違いない。“旧き世代”の名にふさわしい、圧倒的な存在感と迫力である。

 絃神市内の企業に雇われた幹部社員か傭兵、あるいは夜の帝国から派遣されてきた軍の高官クラス。だが、それほどの力を持つ吸血鬼が攻撃を繰り返しているにもかかわらず、いっこうに戦闘が終わる気配はない。それどころか男の顔には、くっきりと焦りと疲労の色が浮かんでいた。“旧き世代”が、圧倒されているのだ。

 

「あれは……」

 

 闇を裂いて伸びた閃光に気づいて、雪菜が困惑の声を出す。

 それは虹のような色に輝く、半透明の巨大な腕だった。

 生身の肉体ではない。眷獣と同じように実体化した魔力の塊だ。だが、雪菜の知っている眷獣とはどこか気配が違っている。数メートル近い長さのその腕が、漆黒の妖鳥と空中で接触する。

 そして次の瞬間――妖鳥が苦悶の咆吼を上げた。妖鳥の翼が根本からちぎれて、溶岩のような灼熱の鮮血が飛び散った。そして体勢を崩した妖鳥の巨体を、虹色の腕が貪るようにして引き裂いていく。

 実体化を保てなくなった妖鳥が、単なる魔力の塊へと変わって地上に落ちる。しかし虹色の腕は攻撃をやめない。屍肉を漁る獣のように破壊された眷獣の身体を蹂躙する。

 

「魔力を……喰ってる!?」

 

 その異様な光景に、雪菜は戦慄した。倒したほかの眷獣の魔力を喰らう——雪菜が知る限り、そんな眷獣の存在は聞

 そして、その眷獣を操っている宿主の姿を見て、雪菜はさらに動揺した。

 虹色の腕の宿主は、雪菜よりもさらに小柄な少女だったからだ。

 素肌にケープコートをまとった藍色の髪の娘である人工的な美しい顔立ち。そして薄水色の無感情な瞳――

 

「吸血鬼じゃない……!? そんな……どうして人工生命体(ホムンクルズ)が眷獣を!?」

 

 呆然と立ち尽くす雪菜の背後で、ドッ、と重いなにかが投げ落とされたような音がした。驚いて雪菜が振り返った先にいたのは、重傷を負って倒れた長身の吸血鬼の姿だった。深日かと肩口から切り裂かれた傷は、心臓に真まで届いているだろう。人間ならば勿論即死だ。並の吸血鬼もだろう。未だ息があるだけでも“旧き世代”の強靭な肉体さが伺える。

 

「――ふむ、目撃者ですか。想定外ですね」

 

 聞こえてきた低い男の声に、雪菜がハッと顔を上げた。

 燃えさかる炎を背にして立っていたのは、身長百九十センチを超える一巨躯の男だった。右手に掲げた半月斧の刃と、装甲教化服の上に纏った法衣が、鮮血で赤く濡れている。吸血鬼の返り血だ。

 

「戦闘をやめてください」

 

 雪菜が、法衣の男を睨んで警告する。

 男は、そんな雪菜を蔑むように眺め、

 

「若いですね……この国の攻魔師ですか 見たところ魔族の仲間ではないようですが」

 

 値踏みするような表情で淡々と言う。

 男の身体から滲み出る殺気を感じて、雪菜は重心を低くした。

 

「行動不能の魔族に対する 置法違反です」

「魔族におもねる背教者たちが定めた法に、この私が従う道理があるとでも?」

 

 男は無造作に言い捨てて、巨大な戦斧を振り上げる。

 

「くつ、雪霞狼――!」

 

 槍を構えて、雪菜が疾走った。負傷した吸血鬼を目がけて振り下ろされた戦斧を、ぎりぎりで受け止める。

 

「ほう……!」

 

 戦斧を弾き飛ばされた男が、愉快そうに呟いた。巨体からは想像もできないほどの敏捷さで後方に飛び退き、男は雪菜へと向き直る。

 

「なんと、その槍、七式突撃降魔機槍ですか!? 神格振動波駆動術式を刻印した、獅子王機関の秘宝兵器。よもやこのような場で目にする機会があろうとは!」

 

 男の口元に、歓喜の笑みが浮いた。眼帯のような片眼鏡が、紅く発光を繰り返す。男の視界に直接情 鞦を投影しているらしい。

 

「いいでしょう、獅子王機関の剣巫ならば相手に不足なし。娘よ、ロタリンギア殲教師(せんきょうし)、ルードルフ・オイスタッハがお手合わせ願います。この魔族の命、見事救ってみなさい」

「ロタリンギアの宣教師!? なぜ西洋教会の祓魔師が、吸血鬼狩りを――!?」

「我に応える義務なし!」

 

 男の巨体が大地を蹴って猛然と加速した。振り下ろされた戦斧が、容赦なく雪菜を襲う。強化鎧によってアシストされたその斬撃の威力は、装甲車すら容易に引き裂くレベルだ。しかし、雪菜はそれを完全に見切って紙一重で避けた。そして反撃。旋回した雪菜の槍がオイスタッハの右腕に伸びる。

 

 

「ぬううん!」

 

 オイスタッハはその不可避な攻撃を受け止め、左腕の装甲を失う。砕け散り顔を歪めた隙を見た雪菜は距離を取る。

 

「我の聖別装甲を打ち破りますか! 素晴らしい!」

 

 破壊された左腕の鎧を眺めて、オイスタッハが満足そうに舌なめずりをする。彼の片眼鏡が、せわしなく点滅を繰り返している。そんなオイスタッハの禍々しい気配を感じて、雪菜が表情を険しくした。

 彼はここで倒さなければならない、と決意する。剣巫としての直感が告げていた。この師をこのまま放置すれば、巨大な災厄をこの地冔びこむことになる、と。

 心の中に大胆な決心が稲妻のように身体中に閃き渡り、

 

「――獅子(しし)神子(みこ)たる高神(たかがみ)剣巫(けんなぎ)が願い(たてまつ)る。破魔(はま)曙光(しょこう)雪霞(せっか)神狼(しんろう)(はがね)神威(しんい)をもちて我に悪神百鬼(あくじんひゃっき)を討たせ(たま)え!」

「む……これは……」

 

 雪菜が厳かに祝詞を唱え、少女の体内で練り上げられた呪力を、七式突撃降魔機槍が増幅。槍から放たれた強大な呪力の波動に、オイスタッハが表情を歪める。

 直後、雪菜はオイスタッハに猛然と攻撃を仕掛けた。

 閃光のように放たれた銀の槍を、殲教師の戦斧が受け止める。その腕に伝わる衝撃に、オイスタッハは顔を歪めた。獣人の攻撃すら易々と受け止めた強化鎧が、小柄な少女の攻撃に耐えきれずに数メートル近くも後退。過負荷によって各部の関節が火花を散らす。

 

 しかも雪菜の攻撃はそれだけでは終わらない。至近距離からの嵐のような連撃に、男は防戦一方になる。その事実に殲教師は驚愕する。

 実は単純な速さでは、人間である雪菜は、獣人や吸血鬼に遠く及ぱない。

 だが霊視によって一瞬先の未来を視ることで、雪菜は結果的に誰 よりも速く動くことになる。さらに様々なフェイントを含む高度な武技と組み合わせることで、雪菜は装甲強化服の人工知能ですら回避できない攻撃速度を得ているのだった。

 

「ふむ、なんというパワー……それにこの速度! これが獅子王機関の剣巫ですか!

 

 見事、とオイスタッハは賞賛する。そして強化鎧の筋力を全開にして、殲教師が背後へと跳躍する。

 

「いいでしょう、獅子王機関の秘呪、確かに見せてもらいました――やりなさい、アスタルテ!」

命令受諾(アクセプト)執行せよ(エクスキュート)、“薔薇の指先(ロドダクテュロス)”」

 

 少女のコートを突き破って現れたのは、巨大な腕。それは虹色の輝きを放ちながら、雪菜を襲う。

 

「ぐっ!」

「ああ……っ!」

 

 巨大な魔力と呪力の激突に、大気が耳障りな音を立てた。

 だが、かろうじて雪菜が激突に打ち勝つ。“薔薇の指先”と呼ばれた眷獣を、銀の槍がじりじりと引き裂いていく。眷獣のダメージがフィードバックしているのか、苦悶の表情の少女は絶叫した。

 

「あああああああああああああ――」

 

 彼女の細い背中を引き裂く様に、もう一本腕が現れる。どうやら左右一対でひとつの眷獣なのだろう。まるで独立した別の生き物のように、頭上から雪菜を襲ってくる。

 

「しまっ――」

 

 雪菜の表情が凍り付いた。

 雪霞狼の矛先は、眷獣の右腕に刺さったままだった。もし一瞬でも雪菜が力を抜けば、手負いの右腕が槍ごと雪菜を押しつぶすだろう。そしてその状態では、雪菜は、左腕の攻撃を避けられない――!

 旧き世代の吸血鬼をも凌駕するその攻撃に、脆弱な人間の肉体が耐えられるはずもない。雪菜を待っているのは確実な死だ。優れた剣巫であるが故に、その結末を雪菜は一瞬で理解した。

 その瞬間不意にまったく同じことをした経験があるような、時間が二重写しになったような既視感がわいてくる。

 記憶が、ともし火の消えるときのように、つかの間生き生きと雪菜の脳裏に燃え上がってきた。

 

 もうそれは遠くでゆらめく蜃気楼のようにつかみ所がない記憶でしかない。でも、雪が視界を純白に埋め尽くした、あの日。降りしきる雪と闇とのぼんやりした明暗の中で、確かに自分に迫り来るものを一度感じたことがあった。

 それはどうにもならない――運命的なもの。不思議な暗い力に引っぱられるみたいに、抗えないもの。

 決して諦めたわけではなかった。でも、どうしようもないものだと悟った。

 確実な死を――確かにこの目で視たのだから。

 

 ――大丈夫。絶対に、護るから。

 

 でも、未来は変わった。半分夢のような、耳の底で優しく囁かれてるような声が、抗えない死の割れ目を『いつか』に捻じ曲げてくれた。弧を描く様に何もかもを包み込んでくれるような少年の笑顔に救われた。

 

 ――んじゃ、約束だからな

 

 どうしてかはわからない。でも、あの出来事が走馬灯のように頭を駆け巡る度に、見知った少年が不思議と脳裏をよぎる。ほんの数日出会ったばかりの、どこか読めない少年の面影が。

 思えば本当に可笑しな先輩だった。監視されてるくせに妙に優しかったり気を遣ってくれたり。自分が監視されてるという実感がないのだろうか。それに、人の好意には鈍感なくせに、妙に気配に鋭かったり。そもそも雪霞狼を持たせてまで監視すべき人間ではない気がする。

 

 でも、彼と共有した時間は、雪菜の瞼を見たこともないほど華やかな花でいっぱいにさせた。 

 何より彼は優しかった。兄のように優しくいたわってくれた。それが茨に刺された傷の痕を、親切な手でさすってもらってでもいるような心地よさを与えてくれた。

 きっと自分が死んだら、彼は悲しむだろう。だから強く生きたいと思った。それに、彼との約束を破るわけにはいかなかった。そんな自分に驚きながら、そして、

 

「――ったく。1人で突っ走るなよな、お前。ホント心配したんだからな」

 

 耳を聾する炸裂音と共に、大気が微かに揺れる。

 ふわりと吹いた風に流れて、苦痛の代わりに見知った温かい声が真綿のように雪菜の耳を包む。

 

「……せん、ぱい」

「よお、姫柊」

 

 震える雪菜の声に、お気楽な声で応える少年。

 そして少しの浮遊感と軽い衝撃。雪菜を担いだまま、何処かに着地したようだ。

 されるがまま雪菜が少年を見上げていれば、気遣うように視線を落とし、柔らかな目色で少年は微笑む。

 

「絶対死なせないからな、姫柊」

 

 雪菜はそんな笑顔に魂を奪われたように、彼の腕の中で少年を瞳に映し続けた。

 ドクン。魂に刻まれた遠い憧れが大きなものになって。あの日感じた温かい何かに似たものが、ほんのりと雪菜の心を灯していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「良かった……怪我はないな」

「は、はい……あ、あの……」

 

 腕を少女の脇に通して、奥の肩をしっかり持って、そして両膝をもう片方の腕で持ち上げた――所謂御姫様抱っこから雪菜を解放し、そっと地面におろした冬真は、雪菜の全身をくまなく傷がないかをチェックする。中学生の全身を隅から隅まで眺める行為は若干危ない気もするが、無事傷一つないことを目で確認し、冬真はホッと胸を撫で下ろした。

 そんな冬真にもの言いたげな雪菜の視線を、彼は不思議そうに見つめ返した。

 

「どうした? 姫柊」

「ど、どうして……」

 

 何故か俯いてプルプルと肩を小刻みに震わせている雪菜。前髪で表情は見えない為、冬真は怪訝そうに顔を覗き込む。そして一つの仮説が閃く。もしかして、戦場に飛び込んできたのを彼女は怒っているのだろうか。魔族でも何でもない一般人の自分を。確かに彼女からみたら死刑囚と自ら名乗って死刑台に乗り込むようなものだろう。でも、冬真だって言い分はある。が、ただ彼女の怒りは冬真の予想の斜め上を行く。

 

「どっ、どうしてそんな恰好なんですか――ッ!!」

「えっ? あー、いや、これはさ」

 

 怒気を帯びて、彼女は一喝した。目じりを険しく吊り上げてグイッと詰め寄ってくる雪菜に、冬真はそっちかと納得する。彼女のチラッと恥ずかし気な視線の残影を辿って自分の格好を見下ろせば、確かに彼女の指摘通り、戦いには些か不向きな風のように軽い軽装。究極のクールビズ。――下着のみである。

 

「なんだ、ほら、俺3日に一回はパンツ一丁で寝るからさ。あ、これ通気性抜群なんだぜ? ほら、この辺とか……」

「そ、そんなこと聞いてません! どうしてそんな恰好で外に出てきたんですか!?」

「ま、まあ、今はいいじゃんか。瑣末な問題だろ」

「だ、大問題です! いいから説明してください!」

「えぇ……」

 

 形相は鬼面を思わせるように殺気立っている。傍から見れば、親に叱られた子供だ。しかし、その殺気が幾分か和らいでいるのは、彼女が冬真の格好を直視できずに、時々恥ずかしそうに視線を背けるからだ。

 確かに彼女の言い分は理解できた。なんせ武装もせずにこの格好では、戦争に細い棒を持って戦いに挑むようなものだろう。だが、今はそれを言い争ってる暇ではない。なるべくはやく彼女の沸点を下げるべく、冬真はゆっくり雪菜に近付いた。が

 

「ち、近寄らないで下さい!」

「……ひ、ひどい」

 

 とてつもなく強い拒絶が返ってくる。グサリと心に刺さり涙が零れそうになるが、できるだけ柔らかい声音で告げた。

 

「心配だったんだ。お前が怪我したらどうしようって。だから居てもたっても居られなくなって飛び出してきたんだ」

「そ、そんなこと……べ、別に私の心配なんか……私は、先輩の監視役なんですよ。先輩が心配する要素なんて――」

「――そうですよ、少年。そのような道具に心配など、無用でしょう」

 

 全く言葉を選ばない。罪悪感など微塵も感じさせない悪魔の囁きが忍び込む。冷静な横やりが雪菜の言葉を遮った。唯その言葉は冬真の怒りを買うのに十分だった。振り返るなり音の方角を睨みつける。

 

「今お前、何て言った?」

「聞こえませんでしたか? そこの剣巫の心配など無意味だと申したのです」

「だからどういう意味だ」

「おや、その様子だと知らなかったようですね。いいでしょう」

 

 人の心を弄ぶように妙に楽し気な口調で口元を歪めるオイスタッハ。その瞳の奥には濃密なまでの狂気が覗かせていた。それに伴ってどんな未来を視たのか、彼口から語られる真実を恐れたかのように、雪菜の肩がびくりと震える。それをオイスタッハは嘲弄するかのように続けた。

 

「彼女は両親に金で売られて、獅子王機関にただひたすらに魔族に対抗するために育てられた存在ですよ。教え込まれた技術で、命令されれば戦場に送り出される。言わば使い捨ての道具と同じ。そうでしょう? 剣巫よ、その歳で、それほどの攻魔の術を手に入れるために、貴方は多くのものを犠牲に捧げたのでしょう?」

「そ、それは……」

 

 オイスタッハの静かな指摘に、雪菜は無言で唇を噛み締めて、表情を蒼白させた。反論は出来なかった。反論しようという考えすら、浮かばなかった。それ程までに、彼の発言は的を射ていたのだ。

 

「……彼の、言う通りです」

 

 沈黙に耐えきれなくなったのか、これ以上隠し通さないと悟ったのか、雪菜がふつふつと言葉を紡いでいく。その隠しようのない寂しさに彩られた言葉に、無言で雪菜の横顔を眺めた。

 

「私は、使い捨ての道具です。ずっと前から気づいていたけど、認めたくなかったんです。私は両親からお金で売られて、ただ魔族と戦うために育てられたんです……だから、その時から私は――痛っ」

「バカ言ってんじゃねえぞ――ッ!」

 

 びっくりするような胴間声で怒鳴る冬真。加えて頭頂部への衝撃。鉄骨を落とされたその痛みに思わず雪菜の目の端に涙が溜める。

 

「せ、先輩……?」

 

 そのただならぬ冬真の気配に、身を竦めながら恐る恐る見上げれば、これでもかと怒り心頭な冬真の姿が視界いっぱいに映った。

 

「なにあのバカに踊らされてんだ、そんなもん勝手に決め込んでんじゃねえ!」

「で、でも……」

「ああ、確かにあのバカの言う通り、お前はそうやって育てられたのかもしれない。非人道的な訓練だってあったんだろうさ。そうやって当たり前の日常を捨ててきたのかもしれない」

 

 「でもな」と彼は真っ直ぐに雪菜を見返した。その力強い瞳に吸い込まれたかのように周りから音が消え、雪菜は視線が逸らせなかった。

 

「認めたくないんだろ? だったら足掻いてみろよ! もがけよ! なにたかが14年しか生きてねぇで自分の価値は道具でしかなかったなんて卑下してんだよ! そんなもん、てえめの人生駆け抜けてから口にしろ! 結局そうやって誰よりも道具扱いしてるのは他でもない、自分自身じゃねえか!」

「――ッ!?」

 

 冬真の叱責に、雪菜はハッとしたような顔になる。

 

「どんな環境で育っても、そこでどう考えどう頑張るかでお前は何色にでもなれるんだぞ? なら今度こそ、視野広げてこの世界を見てみろよ。世界はお前が思ってるより広いんだから。決してお前が剣巫として歩いてきた道のりだけが姫柊雪菜の価値を測る全てじゃねえはずだ。お前の事を、剣巫としてだけじゃなく1人の女の子として大切にしてくれた人達がいる筈だぞ。高神の杜の仲間、恩師、クラスメイト。それと――」

 

 冬真は艶のない黒髪をクシャ、と乱暴に撫で、

 

「お前の為に、命投げ出してまで駆けつけるバカな男がいることも、忘れないでくれ」

「先輩……」

 

 彼の柔かい声が、やさしさが膜を張ったような瞳が、陽だまりのような愛情が、孤独だと思い込んでいた雪菜の心を柔らかく包み込んでいく。次第に雪菜の胸の奥が白湯でも飲んだように温かくなった。

 

「だからさ、もう自分を道具だとかいわ……お、おい、ひ、姫柊……? ど、どうした!?」

「えっ? あ、あれ……」

 

 思いっきり狼狽し始めた冬真に、雪菜は初めて自分の頬に一筋の涙が流れてることに気付いた。

 

「こ、これは……その……」

 

 必死に言い訳を考えながら涙を隠そうとするが、意思に反してほろほろと彼女の瞳から雫が流れていく。

 

「初めて……本気で、叱ってくれる人がいたので……それで……」

「そっか」

 

 閉じた瞼を指先で拭う頭半分低い雪菜を、冬真は子供をあやすように優しく二度、三度と髪を撫でた。雪菜は最初こそ困惑気味に見上げてくるが、次第に気持ちよさそうに目を細め、無意識に小さな微笑みを浮かべた。

 

「失くしたもの、捨ててきたものはお前次第で取り戻せるんだから。また新しく見つけていけばいいと思うぞ」

「……はい」

「……大丈夫そうだな」

 

 コクっと頷き、雪菜は顔を上げてその瞳を向けてくる。もう揺るぐことのない堅固な決心が宿った、真っすぐな瞳だった。冬真はその双眸を見つめ返し、瞳に宿る覚悟を見届ける。そして好戦的な笑みを浮かべてオイスタッハに向き直った。

 

「感謝するぜ、おっさん。どうやら姫柊は、一歩前に踏み出したみたいだぞ」

「……どうやらそのようで。私には半裸の男が少女を泣かせる姿にしか映りませんでしたが」

「ご、誤解を招くような言い方をするな! い、いや、誤解じゃないかもしれないけど……と、とにかく次はてめえだ、おっさん。覚悟しろ!」

 

 ビシッと指をさして宣戦布告をする冬真。その隣で、クスッと小さな笑い声が耳に届いた気がするが、気に留めずにコンテナから飛び降り、オイスタッハと対立するように向かい合う冬真。それを虹色の眷獣を実体化させたままの小柄な影が、遮るように割って入ってくる。その無表情な瞳に、冬真はハッとしたように彼女を見つめた。

 

「せ、先輩は後ろに下がってて下さい。相手は私がします」

 

 慌てて雪菜もコンテナから飛び降りて、冬真を護るように前に出た。

 

「い、いや、待てって。てかなんだアイツ。背中から気味の悪い腕出してるぞ」

「あれは人口生命体の眷獣です。それと彼はロタリンギアの殲教師だそうです」

 

 困惑する冬真に淡々と端的な説明を口にする雪菜だが、帰って益々冬真の疑念を募らせていく。眉間にどんどん皺が寄っていった。

 

「人口生命体の眷獣? 何だそのミスマッチ。ってかあのおっさんもヨーロッパからわざわざここで暴れてんのか? 意味わからんぞ」

「私も分かりません。ですから――」

「そうだな、取り敢えず、コイツらから聞くしかないな」

 

 警戒したように重心を落とす雪菜。冬真は彼女の小さな背中越しから冷静に殲教師と人口生命体を交互に見て観察、分析を開始した。恐らくこの騒動発端は彼らだ。男の武器は大きな戦斧。ヒビが入っているのは恐らく雪菜の攻防に耐え切れなかったからだろう。おまけに左腕の鎧もはがされている。

 そして人口生命体の少女。無表情で感情があまり上手く読めないが、その糸を引いたようなささやかな悲しみを感じ取り、夕方の視線は彼女だと確信がついた。問題は、あの背中から飛び出している虹色の眷獣だ。右腕に突き刺さったままの雪霞狼は兎も角、地面が陥没するほどの威力をもつアレをなんとかしなければ勝ち目はなさそうだ。

 ――つまるところ然程問題はないということだ。

 彼の「常識」がそう結論付け、雪菜に並ぶように一歩前へ出た。

 

「せ、先輩?」

「いや、なに、姫柊。一つ聞くぞ」

 

 真面目くさった声で問いかけた。

 

「戦場で隙のない相手って、どんな奴だと思う?」

「は、はい? きゅ、急に何を……」

 

 その真意がわからず、上ずった声で横顔を眺める雪菜。しかし、それに応えることなく冬真はどこか虚空な瞳で前を見据えていた。先ほどまでのどこかおちゃらけた雰囲気から一変して、異様な静かな佇まいに、雪菜は思わず息を呑む。

 

「俺はさ、どんな相手にも敬意を払い続けるやつが、戦場で隙がない奴だと思うんだよ」

「せ、先輩……?」

 

 冬真は物怖じせずに泰然とした足取りで進んで行く。殺意も恐怖もない。戦おうという意志すら感じない。身体のどこにも余分な力を入れていない。オイスタッハは次第に瞳に侮蔑の色が宿り始めた。それもそのはずだ。半裸の少年が、戦闘経験を豊富に積んだ強靭な肉体の男を前に、何ができるのか。

 身の程を弁えない冬真に、オイスタッハは最後の警告を告げた。しかし――

 

「殺る気ですか? そのような見窄らしい姿で」

「ああ、んじゃ――行くぞっ!」

 

 慢心はあった。それでも油断したつもりはなかった。だがオイスタッハが構えようとした刹那、強化強化装甲の砕けた音と共に気づけば身体は宙を舞っていた。続けてトラックにでも突っこまれたような衝撃が腹部を襲い、後方に吹き飛んだ。

 そのあまりの一瞬の出来事に、静かというにはおそろしすぎる底なしの無音の世界が訪れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「い、今……何が……」

 

 雪菜の端正な唇から、漸く震える声が漏れた。それでも上手く言葉が紡げない。呼吸すら忘れてしまう程に、驚愕で立ち尽くした。

 

「まったく、相手がパンツ一丁だからって油断しすぎだ」

 

 ふんす、と鼻息を荒げて勝ち誇ったように仁王立ちをする冬真。気付けばオイスタッハと入れ替わるようにしてそこに彼は存在していた。しかし、すぐに前方への興味を失ったのか、吹き飛ばした相手を背に反転し、自然と人口生命体に目線を固定する。目が合う。その瞬間、少女は初めて生物としての原始的な恐怖に駆られ、反射的に震える唇をから言葉を紡ぐ。

 

命令を続行せよ(リエクスキュート)、“薔薇の指先(ロドダクテュロス)”」

 

 巨大な腕が鎌首をもたげる蛇のように伸びる。

 

「先輩――ッ!」

「……安心しろ」

 

 虹色の鈎爪を鈍く煌めかせ、猛禽のように冬真を狙う。雪菜は堪らずに叫んだ。その真剣な声に、冬真は薄く微笑みを返し、真っすぐに敵へと向き直る。その瞬間、再び冬真の纏う空気の色が変わった。見ている者に視野狭窄を起こさせるようなプレッシャーを、彼は放っているのだ。

 右の掌を相手に向けて、真っすぐに右腕を伸ばす。そして、

 

「――ッ!」

 

 掌から暗闇にも似た何かを創造。異空間のような小さな闇が、彼の身体を覆うほどの巨大な腕を受け止めたのだ。

 まるで吸収したかように衝撃がない。音がない。風がない。

 思わぬ事態に瞳を見開き、藍色の髪の少女が硬直した。その一瞬のうろたえが、完璧な優位を砂のように崩した。

 冬真は創り出したものを消し、一瞬の間合いを詰める。少女の背後に回り込み、空手チョップの姿勢で手を掲げた。

 

「悪く思うなよ」

「――うぐッ」

 

 容赦ない呪力を込めた手刀を首の後ろに叩き込む。短い悲鳴と共に、少女は糸が切れた人形のようにその場に前のめりに倒れ込んだ。危なげなく抱き留めた冬真は、ふうと一息ついてそっと彼女を地面に寝かせる。気づけばあの禍々しい眷獣も大人しく引っ込んだようだ。

 一件落着かな、と転がる銀の槍を大事そうに拾って、雪菜の元まで持っていく。

 

「はい、姫柊。この槍、大事に持っとけよ。ーー大切なものだろ」

「えっ、あ、は、はい。……え?」

 

 一応雪菜は言われた通り素直に受け取るが、やはり脳の処理が追いつかずに、ただ為すべき事をなしたような彼に困惑するばかり。そんな雪菜のポカンと口を開けた姿に、つい状況に似つかわしくない笑い声を冬真は上げた。

 

「あはははは、なんだその、鳩が豆鉄砲を食らったような顔。可愛いぞ、それ」

「へっ? あ、いや、これは、その……」

 

 可愛いという響きに反応してほんのりと頰を紅潮させる雪菜だが、ハッと我に返り慌てて首を振った。

 

「い、いえ、それより先輩。先ほどのは……?」

「疑似空間ってやつだな。まあ、ちっちゃいけど」

「て、掌に疑似空間を作り上げたのですか!? で、では、あの殲教師を吹き飛ばしたものは?」

 

 マジマジと見つめ、硬い声音で彼女は問いかけてくる。やはり隠しきれぬ驚愕が故だろう。なんせ彼の初撃には、魔術や呪術の痕跡は見当たらなかった。それなのに彼は音速を超えるほどのスピードで100メール近くも人を吹き飛ばしたのだ。もしかしたら雪菜はこの世界の根源を覆すようなものを見てしまったのかもしれない。彼の言葉を並々ならぬ覚悟で待っていた。が、彼はあっけらかんと応えた。

 

「なにってただ殴っただけだろ」

「――は? え?  な、殴った?」

「え? あ、ああ。走って殴っただけだよ。だってあの鎧邪魔じゃね?」

「は、はあ……」

 

 邪魔だから殴ったという理屈は兎も角、最早雪菜は何も返す言葉が見つからなずに曖昧に頷くしかなかった。

 常識が音を立てて崩れていった気がした。少しづつ雪菜は彼の非常識さと監視の意味を垣間見た気がした。彼が報告書の記載通り本当に人間なのかすら怪しくなってくる話である。それに、何より雪菜がショックだったのが、霊視を持ってしても、彼の動きを見切れない事だった。

 

「あんまり目には頼りすぎない方がいいぞ。未来ってのはあやふやで無敵だ。ただでさえその目は予想しえない突発的なものに弱いんだから」

「……っ、せ、先輩、霊視のこと――」

 

 雪菜は霊視を彼に告げた記憶はない。だが、それをあたかも知ってるかのように話す彼に、募る疑念を晴らそうと言葉にしかけた雪菜だが、甲高い声に遮られ、意識が強制的にそちらに向かう。

 

「――ゆっきー!」 「姫柊!」

「……唯里さん。暁先輩」

 

 見知った高等部の制服を着た唯里と白いパーカーを着た古城が血相を変えて飛び込んでくる。が、

 

「冬真、けがね…ってお前、なんて格好してんだよ!?」

「きゃっ」

 

 冬真の姿を目にした途端、古城は怒声を浴びせ、唯里は可愛らしい悲鳴と共に慌てて顔を手で覆い隠した。冬真はガシガシと頭を掻きむしり、乱雑に返す。

 

「まあ、落ち着けって。色々あったんだよ」

「落ち着けるかっ、どんな事情があったらそんな姿になるんだ!?」

「安心しろ、後で上は着るよ」

「どちらかと言ったら下だろ! 下を履けよ! 友人が公然わいせつ罪とかシャレになんねえぞ!」

「うるせえな! こっちだって焦ってたんだからしょうがねえだろうが!」

「焦ってたからってどうして下を履かない理由になるんだよ!」

「服着てなかった事忘れてたんだよ! 悪いか!」

「悪いわ! なに開き直ってんだ!」

「2人とも、いい加減にして下さい」

 

 緊張感のない古城と冬真のやり取りがヒートアップしそうなのを見かねて、冷静な声で雪菜が制止をかける。こほん、と彼女はワザとらしく咳払いをしてから、

 

「――とにかく今は、状況整理よりまずはこの場から離脱することを考えましょう。説明はその後です」

「そうだな、取り敢えずあの女の子と――ッ」

「ど、どうした冬真?」

「先輩?」

「ふ、藤坂君?」

 

 冬真が驚愕を顔に表し、言葉が止まる。

 不審に雪菜、古城、チラチラと恥ずかし気に唯里が訊ねる。冬真はその視線に応えることなく舌打ちをしてから、険しい顔つきで呟く。

 

「マズいぞ、これは……」

 

 胸の中が煮え返るように動顚しながら、冬真は明後日に視線を向けた。

 

「……これって」

「あ、ああ、これって」

「う、うん。そうだね」

 

 耳を澄ませば聞こえてくる、遠くで犬の鳴くようなけたましい暴力的な音に、雪菜、古城、唯里もその正体に気付く。

 

「ああ、来やがったんだよ、奴らが」

 

 睨みつけた先から次第に近づいてくるその音に、冬真は急いで眠る少女に近付き優しく担ぎ上げた。その行動に古城が驚いたように声を上げた。

 

「お、お前、何やってんだよ」

「何ってこの少女を届けに行くんだ。俺の信用してる人に預ける」

「と、届けるってどこにですか?」

「あとで教える。それよりも今は離脱だ、奴らが来るぞ」

 

 焦りを抑えきれない乱れた声音で雪菜に告げる冬真に、唯里がどこか冷静に呟いた。

 

「え、えっと、救急車と消防車が来るだけだよね?」

「バカ言うな。こんな場所でパンツ一丁の男が少女を担いでんだぞ。そんな光景見られたら――死は免れない」

「いや、自分から担いだんだろ」

 

 これまた冷静な古城の横やりに、うぐっ、と口ごもるが、

 

「と、とにかく、夜道には気をつけて帰れよ、じゃあな――」

「えっ、せ、せんぱ……」

 

 呼び止めかけた雪菜の声を無視して、冬真は目的地へと飛んだ。

 

 

 

 

 

「い、今のって……」

「空間転移の魔術……ですね」

「あ、アイツ魔術使えたのかよ……」

 

 唯里の驚きで漏れた言葉に、雪菜が代弁するかのように言葉を紡ぐ。古城は呆気に取られたように呆然と抑揚の乏しい声で囁いた。

 

「取り敢えず、この人を病院に運んでから私たちも戻りましょう」

「う、うん。そうだね」

「あ、ああ、そうだな」

 

 このまま事故現場に留まったら事情聴取など面倒ごとに巻き込まれるだろう。それに彼らの到着より古城たちが瀕死の吸血鬼を病院に運んだ方が早い。それを瞬時に判断しての彼女の言葉には素直に唯里と古城が頷く。もっとも、それを素早く悟った下着姿の男は面倒ごとを一つ残し去って行ったが。

 

「な、なあ、またここ戻るのか?」

「そ、そうだね」

 

 二基の人工島を連結する長さ約十六キロの連絡橋を眺め、古城が嫌そうに顔を顰めて問いかける。唯里も引き攣った顔で頷いている。どうやら全力疾走で走破したメンタルが今彼らを襲ってるらしい。瞬時に古城は下着姿の男が使役した魔術が脳裏に閃くが、彼がそのために戻ってくることなどないことは良く理解していたために、ガクリと落胆し、男を担いだ。

 

「これも訓練の一環だと思いましょう」

 

 雪菜だけが涼しい顔で前向きに言うが、事はもっと深刻だった。

 

「っておい、ちょっと待て。このまま歩って進んでたら、下手したら鉢合わせにならないか?」

「「……っ」」

 

 ピタッと唯里と雪菜の足が止まる。そしてよからぬ想像に徐々に顔が青ざめていく。古城は戸惑いながら2人に問いかければ、

 

「ど、どうする?」

「「今のうちに走ろう(りましょう)」」

「か、勘弁してくれ……」

 

 見事なハーモニーを奏でた結論に、古城は思わず天を仰いだ。

 

 

 

 

 

 唐突に意識が回復すれば、全身がばらばらに砕けて勝手な方向に駆け出し飛び散っていくような激しい痛みを感じ、仰向けに倒れ込む自身の姿を確認した。起きようにも筋肉と神経がうまく連動していないのか、身体の自由がほとんど効かない。首だけを動かし、周りを見渡せば食糧庫だろうと判断がついた。口の中の金臭い血の味。腹部の砕け散った強化鎧。視線だけ向けて眺めることで、今さっきそこにあったかのように、はっきりと記憶に浮かび上がる。たった一人の少年によって起こされた惨劇を。

 

「わたしは……負けたのですか」

 

 風鈴の微かな音さえ騒がしく聞こえるような場所に、男の声が静かに溶け込む。

 思えば一瞬だった。油断はあったのだろう。たかが下着姿一枚の少年ごときに後れを取る筈がないと思っていたのだから。しかし、結果は呆気ない敗北。いや、成すべくなったのかもしれない。油断せずともあの少年には勝てまい。一体何を身体に施したのかはわからないが、強化鎧を粉々にする程の威力を放った何かに、少年のあの速度は常軌を逸していた。稲妻のような素早さだった。到底人間の目で捉えることなど不可能に近かろう。

 男は無意識にあいまいな表情を作った。雨が降り出すのか、にわかに晴れ渡るのか予測のつかない空を眺めているかのような複雑な心持だった。

 

「……」

 

 不意にサイレンの音が、獲物を追いつめていく勢子の掛け声のように響く。どうやら幕開けのようだ。これで文字通り捉えられて計画も全て水の泡となって消える。

 ――それでいいのか。これで終わりを迎えるのか。

 不意に自身の気持ちが振り子のように揺れる。

 何のためにここにやってきた。 忌まわしき邪法に手を染め人々に踏みつぶされている肉親を、取り戻すためではないのか? なら、私は……こんなところで何をやっている……?

 

「……ぐっ」

 

 背骨に杭が打ち込まれたような激痛を感じながらも、瓦礫を押しのけていく。あやふやな気持ちを虫けらのように押しつぶしていく。天に祈るほか何の術もないようなダメージの身体を、動かす。――動く。

 ――まだだ。私はそのために来た。この街に續うべき対価を与えるために。

 屈辱、屈辱……屈辱――思索の壁は屈辱という、ちかちかと寒く光る色で、いちめんに塗りつぶされていた。心の一角に悪い衝動が、夏の雲のように立ち現れたかと思うと、みるみる心の空全体に広がっていく。そう。全ては――

 

 ――我らの信仰を……取り戻すために……

 

 墨のような闇に浸される景色を眺め、毒蛇のような殺気だった心を男はポケットにしまい、その場を去って行った。

 

 

 

 

 

 

 くっきりとした朝の光がまるでテーブルクロスでも引き払うように闇を消し去るころ、冬真は一人でリビングのソファにぐったりと身体を沈めて預けていた。夜でも朝でもなく、夢の続きではないが確かな現実とも思えない、夜明けの白っぽい薄明の感覚を受けながら、再び眠りに就こうとした時、インターホンが眠気を遠ざけた。

 

「誰だよ……寝させろよ」

 

 眠そうに眼を擦りながら、トボトボと玄関の戸を開ければ、

 

「おはようございます先輩」

 

 ぺこりと雪菜が規則正しくお辞儀をするが、顔を上げた雪菜の瞳はどこか恨みがましさが宿っていた。

 

「ひ、姫柊……」

「先輩がいなくなってから、あの瀕死の吸血鬼を病院に運んだりしてるうちに今の時間に帰宅しました。……先輩は先に就寝なさっていたようですね」

「……すみません」

 

 ジロジロ寝間着姿を不満げに眺める雪菜に、冬真はすぐさま平謝りをする。そんな冬真を雪菜は諦めたように深々と嘆息した。

 

「もういいです。私もこんな早朝に訪ねてしまったので」

「あ、ああ。んで、どうした、事件の報告か?」

「い、いえ……その……あ、ありがとう、ございました。助けて頂いて」

「えっ、お、おい、姫柊……!?」

 

 ペコッと今度は深々と頭をさげる雪菜に、慌てふためく冬真。数秒の沈黙後に、雪菜はゆっくりと頭を上げて、

 

「あ、あと、あの時かけてくれた言葉。その、凄くうれしかったです」

「お、おう……なんか、説教臭いこと言っちまったけどな」

 

 彼女の言う言葉とは、彼女に鉄骨を落としたあの時の事だろう。しかし、下着姿でよくあんなこと言えたなと、急に気恥ずかしさでガシガシと乱暴に頭をかいた。

 

「あ、あの、それで……なんですけど」

「ひ、姫柊?」

 

 俯き加減で雪菜は何かを言いたそうにぎこちなく視線を泳がせていた。見ればほんのりと頰が朱色に染まっている。冬真は不審に眉を寄せて眺めれば、暫くして沸々と彼女は消えそうな声で言葉を紡いでいく。

 

「わ、わたしは……その、訓練ばかりで、普通の人と同じような生活をしてこなかった人間です。そんな当たり前の日常を捨てて生きてきました。で、でも、先輩の言葉を聞いて頑張って私なりの日常を見つけたいと思いました。な、なので、その……」

 

 身体中のありったけの勇気を集めたかのように、拳を胸の前でギュッと握り、雪菜は決意を込めて顔を上げた。

 

「先輩に、手伝ってほしいです。わ、わたしの、新しい日常を見つけるために……だ、ダメ……ですか?」

「姫柊……」

 

 じっと潤んだ瞳で見つめ、切々と、縷々と、思いの丈を訴える雪菜。

 そんな雪菜の真っすぐな想いが、冬真の胸を貫いた。

 無意識のうちに冬真は口角を上げて、雪菜の癖のない髪を柔らかく撫でる。雪菜はそれが答えだとどこかくすぐったそうに目を細めた。

 

「探すか……一緒に」

「――はい!」

 

 露を光らせて咲き崩れようとする花のような艶やかな笑顔に、冬真はしばし脳裏に焼き付いて離れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







とあるマンションの一室。

「……ほお、帰ってみれば随分と大胆な不法侵入だな、貴様。何者だ? なぜ私の部屋に、しかもベッドで人口生命体が寝ているのか説明願おうじゃないか」
「……不明。彼から伝言受諾。那月ちゃん、後はよろしく。以上」
「……おもしろい……そいつの名を言ってみろ」
「藤坂冬真。下着姿の男」
「……そうか……ふふっ、……あの男め……余程死にたいらしいな」


「うおっ!?」
「先輩?」
「いや、なんか寒気が……」
「風邪ですか?」
「……そうかもな」






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5話

 

 

 

 

 翌日のメディアは、絃神市で発生した謎の爆発ニュースに染まっていた。

 新聞の一面に破壊された倉庫街の写真がでかでかと掲載され、テレビや動画サイトでは目撃者の談話が永遠と再生されている。被害に逢ったのは、大手食品倉庫の倉庫。大型車にでも突撃されたのではと思う程に半壊した。死傷者は出なかったのが不幸中の幸いだろう。

 

「うわー、怖いねー。これって原因不明なんだよね」

 

 制服にエプロン姿の凪沙が、朝食の後片づけをしながらのんびりと話しかける。

 

「ま、まあ、落雷でもあったんだろ。あそこ周辺は結構落雷ニュースとかやってるし」

 

 眠気覚ましのコーヒーを啜っていた冬真は、声を上擦らせながらそう答えた。どこか疲労が表情に表れているのは、あまり熟睡できなかったせいである。

 

「落雷なんて、そんなの誰も信じてないよー。爆弾テロとか輸送中のロケット燃料の誤爆とか、みんないろいろ言ってるけどね。でもそこまででの被害じゃないから可能性は低いかもねー」

「あー、そうだな……」

 

 冬真は遠い目で、ぼそりと呟く。メディアの報道を見る限り、昨夜の出来事の真相はほとんど表沙汰にはなっていない。しかし、それが冬真には少し引っ掛かる点だった。あの現場にはあの殲教師が残されていたはずだ。それを表沙汰にしないという事は、情報規制がかかっているのか、それとも……

 あの場から逃げたか——と思い至った瞬間小さく舌打ちする。

 威力を抑えたとはいえ、確実に内臓破裂や鋤骨が折れる程度のダメージは与えたはずだ。それなのにその身体であの場を自力で脱出するとは、余程何か強い執念に突き動かされたのか。あの強化装甲が思ったよりも頑丈だったのか。何れにしても自身の詰めが甘かったと言わざるを得ない。

 己の浅はかさを呪いながらコーヒーを啜っていれば、冬真に更なる不意打ちがやってくる。

 

「そう言えば昨日ね、なんかこの辺で痴漢が出たんだってー」

「ぶふっ」

 

 啜っていたコーヒーを思わず噴き出した。それを不思議そうに眺めてくる凪沙。

 

「冬真君? どうしたの?」

「い、いや、そ、それで、その痴漢ってのは?」

「うーん、なんか情報が曖昧なんだけどね、下着姿の男が絶叫しながら街を走ってたーとかなんとかって話だよ」

「……ハ、ハハハハッ」

 

 ダラダラと汗を流しながら、冬真は思わず頭を抱えた。

 倉庫街の爆発の目撃情報のほとんどは意味のない曖昧なものばかりだった。報道陣の憶測は様々に飛び交っており、絡み合ったそれらのお陰で真相が程遠くなっている状態。倉庫を半壊させた張本人である冬真にとってそれはかなり安心できるものだったが、しかし、まさかそちらでの目撃者がいるとは。いや、完璧に失念していた。いくら夜中とは言え街中は全くの無人とまではいかないのだ。下手したら防犯カメラにもその姿を捉えられた節がある。当然の結末とはいえ、人目やカメラには映らぬよう他所のお宅の屋根をつたって飛んで行ったのだが——と半信半疑の状態で物思いに耽る。

 

「ホント、物騒と言うかなんというか、何考えてるんだろうねー、その変態」

「……ヒ、ヒトダスケダヨー」

「冬真君?」

「な、なんでもない」

 

 ツラツラと言い訳を頭の中で並べていたが、振り切った。そう、なんでもない。まだ自身だと決まったわけではない。ほぼ確定的ではあるが。

 

「それじゃあ、あたし、チア部のミーティングあるからもう行くね」

「あー、悪いな、凪沙。忙しいのに朝食作ってくれて」

「いいの、あたしが好きでやってるんだから。じゃあ、戸締しっかりしてね。あと冬真君も遅刻しないでね。じゃあ、行ってきまーす」

「ほいよ」

 

 行ってきますを言う相手を間違えてる気がしなくもないが、バタバタと騒々しく出ていく凪沙に手を振って見送り、冬真はぐったりと息を吐く。

 九月一日。夏休みが終わって初日の登校だ。彩海学園は二学期制で、始業式などの特別な行事は特にない眺めのホームルームが終わったら、後は通常授業の予定である。ただでさえ休み明けで気が重いというのに、昨日の騒ぎで精神的にかなり参っていた。なによりも厄介なのが……

 

「これはもう終わらない……」

 

 ドサッと机に積み上げられた半分終わってない夏休みの宿題を思い出し、諦めたようにため息を吐いた。

 家を出るまで残り十分と少し。その短時間で終わらせるなど不可能に近いはずである。

 よく漫画で夏休みの宿題辺りに追い詰められた主人公が「身体が二つあればいいのに」とか「もう1人自分が欲しい」とか、そんな無茶をねだるパターンのお話があるが、まさしく今の自分の鏡映しだ。

 まあ、結局身体が二つあろうともう1人自分がいようとも、そっちもこっちもサボるのが落ち。効率など上がったものではない。仮にもし効率を上げるとするならば、複数の身体を一つの意志でコントロールことでもできれば飛躍的に上がるのかもしれない。右手と左手を使うように。一つの指揮系統で操るように。

 最も、そんな芸当できるわけもないので、諦めるという選択肢意外ないのだが。

 どうしたもんかね――と頭を悩ませていれば、インターホンが部屋に鳴り響く。意識が強制的にそちらに向き、モニタを眺めれば、制服姿にギターケースを背負った雪菜だった。

 冬真は半ば諦めながら急いで通学カバンを持って玄関へと向かった。ドアを開けて外に出ると、通路に立っていた雪菜が礼儀正しく頭を下げてくる。

 

「おはようございます。先輩」

「ああ、おはよ、姫柊」

 

 彼女は昨夜の事からほとんど寝てない筈だが、身なりをしっかり整えていた。それに疲れた雰囲気がほとんどない。若さか、或は鍛え方が違うのか。

 

「結局昨夜の出来事は有耶無耶になったみたいですけど……先輩」

「ああ、かもしれん」

 

 エレベーターに乗り込み、雪菜がもの言いたげな顔で見上げ、冬真も理解したように頷いた。

 

「あの殲教師……逃げた可能性があるな」

「そうですね。ニュースにも報道されていませんでしたし」

 

 冬真の言葉に神妙に雪菜も頷き、エレベーターが重い沈黙で満たされる。昨夜の失態に思わず冬真は唇を噛みしめた。

 

「先輩だけの責任ではありません」

 

 ふと隣を見れば、雪菜は生真面目な顔でこちらを見上げていた。

 

「少なからず、私にも責任はあります」

「いや、それこそお前の責任じゃ……あーいや、よすか。キリがない。というかまだ決めつけは早いな。早とちりが過ぎちまった」

「そうですね」

 

 このままじゃ埒が開かないと苦笑気味に首を振る冬真に、雪菜も軽く微笑むと、あっさりとした調子で頷いた。エレベーターから降りて、学校方面に向かうモノレールに向かう。雪菜もそれに従って、彼の隣に並んで歩く。

 

「こんなこと考えたって仕方ないよな。なるようになるだろ」

「あんまり楽観的になり過ぎるのもどうかと思いますけど、そうですね、今は考えないようにしましょう」

「うんうん。じゃあ、もう学校休んでいい?」

「じゃあの意味が解りません。ダメです。大人しく行ってください」

 

 冬真の戯言をキッパリと一刀両断する雪菜に、冬真は深いため息をついた。

 

「いやさ、学業に勤しむってのは並々ならぬ重労働じゃんか。俺は艱難辛苦を乗り越えつつの日々に身をやつしていくのはもううんざりなんだよ。夏休みの宿題なんて、この身を押し潰す戦いの記録だったと言えるね」

「随分と大げさな物言いだと思いますけど。なら先輩、夏休みの宿題終わったんですか?」

「いや、全く。半分終わった程度だ。だから学校に行きたくない」

「……先輩」

 

 威張ったように駄々をこねる男に雪菜は非難めいた眼差しで見上げる。冬真はさらりとそれを受け流して、徐にスマートフォンをポケットから取り出した。ディスプレイをスクロール操作して足を止める。

 

「まあ、物は試しだな」

「先輩?」

 

 端末を操作しそれをあてがう冬真に、雪菜は不思議そうに行く末を眺める。

 

「あ、もしもし、菅原先生ですか? 藤坂冬真です。実は……ごほっ……ど、どうやら季節外れのインフルエンザにかかってしまって、熱が四十二度近くありまして、それで学校を休ませて――」

「――ほお、随分とおもしろい冗談を言ってくれるな、藤さ――」

 

 切った。反射的に電話を切った。

 

「……何やってるんですか」

「い、いや……大人しく行こう」

「最初からそうすればいいじゃないですか」

 

 呆れたように嘆息する彼女に引き攣った笑みを返しながら、冬真は事の深刻さを理解しもう一度スマートフォンのディスプレイを操作する。電話帳にたどり着き、スクロール。そこに表示されているのは、確かに菅原先生という名で登録された電話番号。

 ……なのになぜあの幼女が出るというのだ。まさか完全にこちらの電話を彼女は掌握したというのだろうか。これでは最早逃げ道がないではないか。別にわざわざ学校に連絡する必要性はないのだが、以前無断欠席を試みた際に不法侵入してまで幼女が探しに来るという執念深い事例があるが故に、下手に連絡をしないのはマズイ。家に侵入されては困りものなのだ。電話で欠席を告げても真偽問わずに乗り込んでくる可能性も否定できないが。

 

「――そういえば、先輩」

 

 混み合ったモノレールの車内の中で、不機嫌ながらも雪菜が唐突に訊いてくる。

 

「なんだ?」

「昨日のあの眠った人工生命体(ホムンクルズ)をどこに連れてったんですか?」

「……すまん。その言い方はやめてくれ」

「では、昨日裸で無理やり連れ込んだ人口生命体(ホムンクルス)はどうされたんですか?」

「……おい、さらに犯罪性増してるじゃねえか」

 

 ほとんど事実なのが痛いが、しかし唯一下着は装着していたと。頑としてそこだけは譲れなかったが、目で雪菜に話を催促され渋々重い口を開けた。

 

「知り合いの攻魔官の部屋にぶち込んどいたよ」

「知り合いの攻魔官、ですか?」

「ああ、だからあの子の事は大丈夫だろ。その人優秀だから……うん。後は俺の命だよね。……まあ、死ぬことはないよな……多分」

 

 遠い目でどことなく自分にそう言い聞かせたような呟きに、雪菜は浅く溜息を吐く。

 

「……何を想像したのかは理解できませんが、自業自得だと思いますけど。それに先輩、どうしてあの人工生命体をあの場から持ち去ろうと考えたのですか? あのまま特区警備隊(アイランド・ガード)に任せてれば手間も省けたと思いますけど」

 

 車窓から見える壊れた倉庫を眺めながら、雪菜が真剣な声音で訊ねてくる。雪菜としては監視役としてその裏を穿っているのだろう。冬真は昨夜の彼女の姿を思い浮かべては思わず目を細めた。

 

「なんか、ほっとけないというか、あの女の子――どこか寂しそうだったから」

「寂しそう、ですか……?」

 

 理解できかねたのか難しい顔で言葉を反芻する雪菜に、冬真は苦笑を返した。

 

「まあ、俺がそう感じただけなんだけどね」

「は、はあ、それで保護したんですか」

「まあな」

 

 腑に落ちないような雪菜に、冬真は御尤もだと考えもなしに動いた自分自身にも苦笑し、彼女に問いかけた。

 

「――それで姫柊は報告しなかったのか? 獅子王機関に」

「……いえ、少し迷ってます」

「迷ってる?」

 

 真面目そうな雪菜の口から出た思わぬ言葉に、驚きながら車窓から雪菜を見れば、彼女は困ったように目を伏せ、

 

「はい。さっきも言いましたけど、昨夜の件はわたしにも責任はありますから。それに……その、昨日は助けて頂きましたし」

「あ、ああ。まあ、正当防衛的なノリで大丈夫だろうさそこは……どーせ報告せずとも知ってるしな」

「先輩? 何か言いましたか?」

「いや、それより降りるぞ、学校前だ」

 

 モノレールが学園前の駅に到着し、同じ制服を着た生徒たちがわらわらと車両を降りて行く。冬真と雪菜も人混みを掻き分けて降り、お互いパスケースを取り出し改札を出た。

 

「先輩、もう一つ聞いてもいいですか?」

「おお、なんでも聞いてみ」

 

 雪菜の真剣な問いかけに、おちゃらけながらも冬真は自然と彼女の言葉に耳を傾けた。

 

「昨夜、先輩は霊視をご存知でしたよね?」

「ん、ああ、そーいえば言ってなかったな」

 

 思い出したように冬真が空を見上げる。容赦なく照り付ける日に雲一つない空を眺めながら、呟く。

 

「俺の母さんさ、元剣巫なんだよね」

「え……」

 

 何気ない冬真の呟きに雪菜は驚愕で足が止まる。横目でつられて冬真も足を止めた。言わずもがなやっぱりか――とどこか納得したように困った表情を返した。

 

「——報告書には載ってなかった?」

「――っ、……はい」

 

 一瞬の躊躇いを見せる雪菜だが、穏やかな彼の声に刹那の沈黙後、小さく頷いた。冬真やれやれと戯けたように大げさに肩をすくめてみせる。

 

「相変わらず情報規制がしっかりしてると言うか、秘密主義というか。まあ、とにかく霊視は知ってるよ。俺自身、使い方を学んだからね」

「使い方って……先輩も習得したんですか?」

「ああ、泣きながら何度も強請ったら教えてくれたよ。まあ、年がら年中使えるわけじゃないんだけどな。俺がホントに集中してる時くらいだ。発動してくれるのは」

 

 チラリとギターケースを懐かしそうに見てから応える。霊視。霊力。それはこの世界に来て冬真自身初めて触れた、摩訶不思議なもの。そして母から受け継いだ、大切な力だ。まあ、給食のじゃんけんなど使い用途はしょうもないものばかりだったが、やはり雪菜は驚きで何度も目を瞬いていた。

 

「……驚きました。まさかそこまで獅子王機関(こちら)に精通していたとは。でも……」

 

 何か引っかかるようで、難しい顔で思案し始める雪菜。恐らく虚偽報告の訳でも思考しているのだろうが、いくら彼女が獅子王機関の剣巫だろうとその真相にはたどり着けまい。彼らの情報操作は完璧だ。一個人でどうこう回潜れる相手ではない。

 

「ま、俺もそこら辺はあんまわかんねえんだ。アイツらはなんも教えてくれないからな。でもまあ、いずれはわかるだろうさ」

 

 話を濁すように笑いながら、雪菜の頭をポン、ポンと軽く叩く冬真。それは叩くと言うよりも撫でると言った方が相応しい。案の定、効果はあったようで。

 

「……わ、わかりました。ですが、あ、あんまり子供扱いしないで下さい。もっと周りの目を気にして下さい」

「あ、あら……」

 

 字面だけ見れば手強い反撃だが、頰を朱に染め目を泳がさながらやや浮ついた声で言われてもあまり怖さはなかった。今朝はあんなに可愛い笑顔を見せてくれたんだけどなあ、とぼんやり考えていれば、

 

「おーい、何朝からイチャついてんだよ。お前さんは」

 

 朝っぱらからテンション高めの口調で声をかけてくる。首にヘッドフォンをぶら下げた短髪の男子生徒だった。丁度同じモノレールに乗ってきたのだろう。馴れ馴れしく首に巻きついてくるのを鬱陶しく思いながら、

 

「朝からテンション高いねえ、お前は」

「人目気にせずアツアツのお前には言われたくねえよ。……って、あれ、凪沙ちゃんじゃないのか。誰だ? うちの中等部にこんな可愛い子いたか?」

 

 隣を歩く雪菜に気づいて、少し驚いたように冬真の顔を見る。それが芝居掛かっていたのは冬真の気のせいだろうか。

 

「転校生だよ。凪沙と同じクラスの」

「ほー、それはそれは……で、なんでまた冬真がその転校生ちゃんと一緒に登校してんだよ……まさか、凪沙ちゃんだけじゃ物足りなくなったってことか?」

「バカ言ってんじゃねえよ、アホ。偶々近所だから一緒に登校したんだよ」

「ほお、その割にはえらく親しげだったみたいだけど」

 

 ニヤニヤと野次馬丸出しの笑みを浮かべて冬真と雪菜を交互に目配せする矢瀬に、冬真は彼の頭を軽く小突いた。短い悲鳴と共に目の端に涙を浮かべる矢瀬。自業自得だと冷めた眼差しで見つめる冬真。だが反対に、視界の端でほんのりと頰を朱色に染めて俯く雪菜を見た矢瀬は、小さい溜息を吐いた。

 

「こりゃ凪沙ちゃんも大変だ」

「あ? なんだよ」

「いんや、なんでもないさ」

 

 やれやれと呆れた様子の矢瀬に冬真は不振に眉根を寄せた。

 

「ひ、姫柊雪菜です。矢瀬基樹先輩ですよね?」

 

 何故か少し慌てながらも雪菜は礼儀正しく頭を下げた。矢瀬は不意にご機嫌な表情になって、

 

「あれ、なに? 俺の話もしてくれたわけ?」

「いえ。藤坂先輩の報告書に、矢瀬先輩の情報も載っていたので」

「ぶふっ、ちょ、おま……!」

「は? 報告書?」

 

 疑問符の浮かんだ表情に、冬真の焦ったような表情のダブルパンチで見つめられ、漸く雪菜は自分のミスを悟ったようだ。微かに引き攣った無表情で首を振った。

 

「い、いえ、なんでもありません。冗談です」

「お、おう。まあ、よろしくな」

「はい。こちらこそ宜しくお願いします」

 

 矢瀬はフレンドリーな笑顔でグッと親指を立て、雪菜も感情の乏しい無表情で告げる。さり気なく冬真は、アホ、と彼女の視界の端で口だけ動かせば、一瞬だけムッとしたような視線を返され、冬真はサッと慌てて視線を逸らした。

 

「そういや、あんた、バンド少女なのか? どういうジャンル、演奏()ってんの?」

「バンド……ですか。いえ、わたしは音楽にはあまり詳しくはないので」

「え? いや、だって、その背中のってギターケースっしょ? ベースの方?」

「あ……そうですね。そうでした」

 

 背負ったギグケースの存在を思い出して、雪菜が慌てて言い繕う。そして彼女は、不審げに眉を寄せる矢瀬と呆れた冬真の視線からぎこちなく目を逸らし、

 

「あの、すみまけん、先輩方。わたしは、ここで」

「あ、ああ。またな、姫柊」

 

 手を振る冬真に会釈して、雪菜はそのまま中等部の校舎へと走り去って言った。その後ろ姿を、冬真は心配げな瞳で眺める。

 

「大丈夫かな、姫柊のやつ」

「あの子って、不思議ちゃんなのか?」

「ああ、……ふふっ、とんでもなくな」

 

 彼女の妙なところでの純朴な姿を思い浮かべ、冬真は可笑しそうに笑って返した。

 

「ふうん。ああ、そーいえば、うちのクラスにも転校生が来るんだってよ。しかも、かなりの可愛い子らしいぜ」

「ああ、羽波のことだろ」

「おいおい、まさかその子とも知り合いってか?」

「まあな、今頃古城と一緒に通学してるんじゃないか?」

「ふうん……なんか、面倒なことにならなきゃいいけどな」

 

 妙に深刻ぶった口調で呟く矢瀬。その真意を読み取った冬真は、揃って高等部の校舎を眺める。二階にあるのは冬真たちの教室だ。窓際に座っていた浅葱が、ちょうど登校してきた冬真たちに手を振っていた。

 

「アイツ、普通に美人なんだけどなあ、性格は兎も角なんであのバカ気付かないんかね。すっげえ分かりやすいと思うんだけど」

「ごもっともで。ホント、さすがというべきかね。俺の親友は」

 

 不意に浅葱の表情が凍りつく。嫌な予感を感じ取った冬真たちは恐る恐る後ろを振り返る。視線の先には、白パーカーを羽織った古城とキチンと身なりを整えた美少女の姿だった。

 どうやら矢瀬の懸念通り、ピースフルなスクールライフとなることは危ういらしい。冬真と矢瀬は目を見合わせて深い溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

「ねえ、古城、あの子とホントに何もないのよね?」

「だから、なんもねえって」

 

 ホームルーム開始直前の教室。自分の席に着いた冬真は眠そうな古城とどこか不機嫌な浅葱のやり取りを、冬真は何とも言えない表情で眺めていた。

 

「そういえば、あのモノレールでの後も……なにもなかったの?」

「あ? あ、ああ、なんもねーよ。あの後すぐに帰ったし」

「ふーん……そっか」

 

 投げやりな返事ながらも古城の言葉を信じたのか、浅葱は表情を明るくして言った。どうやらご機嫌は回復したらしい。良かったなーーと体を前方に向けて机に突っ伏していたが、すぐ様教室の隅っこでの小さなどよめきに意識が傾く。顔を上げてそちらを向けば、男子数人が一台の携帯電話を囲んで盛り上がっている。

 

「なんだよ、あの騒ぎ」

 

 駅のトイレに置かれた不審物を見るような目で、冬真は興奮状態のクラスメイトを眺めた。浅葱が、ちょうど近くを通りかかった友人の築島倫を呼び止めた。

 

「ね、お倫。あれなに? 男子どもはなんで盛り上がってるわけ」

「ああ、あれ? なんかね、うちのクラスと中等部の女の子の転校生で盛り上がってるみたいよ」

「うちのクラスの転校生……?」「姫柊のこと?」

 

 顔を顰めて低く呻いた古城と不思議そうな冬真の声が重なるが、それぞれ違う転校生を指していた。

 

「凄く可愛い子がいるって噂になってて……って、冬真くん、知り合いだったの?」

「え? あ、ああ。まあな。家近いからね」

「へえ、どっちの子?」

 

 興味深そうに倫が訊ねてくる。チラッと古城と浅葱を盗み見てから冬真は含みのある笑いで応えた。

 

「中等部の子だよ。うちのクラスに転入して来る子も近所だから一応知り合いでね。まあ、それは古城もだからあの夫婦喧嘩が始まったんだよ」

「ああ、なるほど」

「「誰が夫婦よ(だ)!」

 

 冬真の言葉に先程の2人のやりとりを思い出し倫は納得したように頷く。それを息ぴったりなハーモニーを奏でて返す二人。そしてすぐにお互い目が合って慌てて離れる。そんな二人を倫と冬真は面白そうに眺め、

 

「やっぱりお似合いだわな、あの二人」

「そうね。それは言えてるかもね」

「ちょっとそこ、何コソコソ話してるのよ」

 

 ニヤニヤと悪戯っ子の笑みを張り付けた冬真と楽しげな倫の小言に敏感に反応した浅葱が睨みを利かすが、赤みがかった頬のせいか、いつもより怖さはなかった。

 

「そ、そんな事よりアンタこそ、あの子とどうなのよ。ほら、例の中等部の転校生と」

「どうって何がだよ。別になんもないぞ」

 

 慌てて居心地の悪さを何とかしようと機転を働かせた浅葱は、矛先を冬真に向けようとする。冬真はそんな浅はかな彼女に冷静な対応をするが、

 

「そー言えば、今朝2人イチャイチャしながら登校してたよな、お前さん」

「へえ、そうなの? 冬真君」

「なんだ、アンタも甲斐性あったのね」

 

 ニヤニヤ意地汚い矢瀬から放たれた言葉に煽られ、倫と浅葱から次々好奇の視線が自分に集まる。実に嫌な流れがこの場に形成されつつあった。

 

「随分手が早いのね、冬真くん」

「妙な誤解を招くようなこと言うなよ。俺は紳士の塊だぞ。あっちこっち女子に手を出すような愚かな男ではない」

 

 ふふん。と誇らしげに胸を張る冬真に、倫はクスッと目を細めて小バカにしたような笑みを零す。

 

「奥手すぎるだけじゃなくて? 矢瀬君は年上の彼女と上手く行ってるみたいだけど」

 

 確かに矢瀬は彼女持ちだ。高等部に進学して直ぐの四月に二学年上野三年生に一目惚れ。まるでラブコメのような熱烈なアタックを繰り返し、夏休み直前、ついに交際まで持ち込んだのだ。そんな彼の積極性を見習えと言いたいのだろうが、生憎の人生今まで彼女すらいない冬真にとっては嫌味にしか聞こえない。睨みつけるように倫を見上げ、

 

「うるっさい。アイツみたいに何度もロマンチック爆弾搭載できねえんだよ、俺は。てか、そう言うお前こそ……いや、倫モテるもんな」

「……ちょっと。変なこと思い出させないでよ」

 

 悔しそうに呟く冬真とは反対に、倫は少し顔を顰めた。倫はこのクラスの学級委員。長身でスタイル抜群の大人びた生徒だ。愛想に乏しく物言いも少々きつめなところがあるが、そこがいいという男子も意外に多い。そのため高等部一年の間では、踏まれたい女子ランキング堂々の位置に輝いていたりもする。それを聞いて本人はショックを受けていたそうで、それを思い返して寒気を覚えているのだろう。

 

「はあ、本当に不名誉なランキングだわ」

 

 意味が分からないとやるせなく小さく首を振り、浅い溜息を吐く倫に、冬真は「ぷっ」と思わず噴き出す。

 

「いいじゃんか。踏まれたい女子ランキング一位とか、面白すぎるだろ」

 

 混ぜ返すと同時に、サッと頭上に手をかざした。

 次の瞬間、音程を外した蛙のような声を発し、喉を抑えて前のめりに体を折った。丸めたノートで喉に突きを喰らって悶絶する冬真を実行犯の倫は何食わぬ顔で見下ろしていた。そんなやり取りを浅葱は不思議そうに眺めていた。

 

「ねえ、お倫って時々冬真には当たり強いわよね」

「そう? そんな事ないと思うけど。でも、そうね」

 

 未だ痛みと戦う冬真をチラッと見下ろしてから、冷静な口調で言う。

 

「冬真君なら踏めそうね」

「恐ろしいこと言ってんじゃねえよ!」

 

 顔面蒼白で慌てて上半身を起こす冬真に、倫は、ふふっ、と目を細めて愉しそうに笑った。

 

「あら、嬉しそうね。そんなに踏んで欲しいの?」

「どこをどうみたらそう見えるんだよ。俺にそんな悪癖はねえよ」

 

 声を荒げて抗議する冬真に、倫は唇の上にさも人を小馬鹿にした薄笑いを浮かべる。そんなやり取りを見た浅葱は、どこか倫に対して意味ありげな視線を向ける。

 

「ねえ、お倫ってさ――」

「――席に着け。ホームルームを始めるぞ」

 

 浅葱の言葉は小柄なカリスマ教師に遮られる。

 

「浅葱? 何か言った?」

「ううん。なんでもない」

 

 不思議そうに小首を傾げる倫に、浅葱は首を振って逃げる様に自分の席へと着く。

 相変わらず暑苦しい格好ではあるが、冬真は視線を前に向け、ミニスカートのゴスロリ風ドレスを纏った少女に顔を向けた。目が合った。その瞬間、ニヤリと獲物を見つけたような獰猛な微笑みを返され、思わ背筋をぶるっと震わせた。どうやら確実に彼女は今朝の事を怒ってるらしい。思わず教卓から視線を外していれば、彼女は凛とした声を発した。

 

「今日は転校生を紹介する。入ってこい」

 

 彼女の合図と共に、1人の茶髪のショートヘアの少女が教室へと入ってくる。同級生は思わず息を呑んだ。

 大きな瞳を、自然に伸びたまつ毛や優雅な二重瞼がふちどり、透き通るように白い肌。綺麗な鼻筋にすっきりした頬。小さく水平に結ばれた口元。スラリと伸びた背に均整の取れた体つき。

 どこか百合の花にも似た清らかな雰囲気を持った美少女だった。

 その季節外れの転校生は、先程とは違う教室の奇妙な緊張感を感じながらも、丁寧に腰を下り一礼してから顔を上げて、透き通った綺麗な音を発した。

 

「羽波唯里です。季節外れかもしれませんけど、皆さんと仲良くできればと思っていますのでよろしくお願いします」

 

 愛想よくニコッと笑顔を見せる唯里に、クラスの男子のボルテージが一気に上がる。その可憐な笑顔に気持ちはわかるぞ——と冬真も心中で賞賛した。

 

「――やかましいぞ、お前たち。たかが小娘1人転入してきただけで何をお祭り騒ぎしている。そんな元気があるなら補習を増やすぞ」

 

 最早生徒にとってそれは脅しと同義であった。辺りの音をすべて持ち去られたように静かになる。漸く静寂に身を沈めた生徒たちを見渡し、那月は深々と溜息を吐いた。

 

「まったく。……まあ、いい。羽波、お前はあそこの藤坂(不良債権)の前に座れ」

「えっ?……あ、はい」

 

 那月は扇子の先端で冬真の前の席を指し、唯里も可哀想なものを見る目を冬真に一瞬向けてから、彼の前の席へと歩いていく。どうにもその一連のやりとりには冬真は不満だった。

 ……可笑しい。その一連のやりとりはどうにも可笑しい。冬真は納得できずに立ち上がり、

 

「確かに俺の席の前は空いてるけどその紹介はないんじゃないか? 那月ちゃんがあっ!?」

「担任教師をちゃん付けで呼ぶな」

 

 どこからか飛んできた扇子が冬真の額を直撃。あまりの衝撃に目に涙を溜めて悶絶した。

 

「ふん。この程度では済まないぞ、藤坂。……貴様には後々たっぷりと話があるしな。昼休み生徒指導室に来い」

「……は、はい」

 

 長年の怨念がこもったような声音に気圧され素直に言うことを聞く冬真。

 

「やっぱり冬真君ってMだよね」

「うるさい。……いってぇ」

 

 視界の端で肩を震わす倫を横目で睨め付けながら、冬真は自身を労わるように額を優しくさすった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして昼休み。学校の割にはやたらと綺麗に磨き上げられたひやりとした廊下を、少年は鎖を引きずる囚人がおのれの姿を愧ずるような気持ちで、うなだれて足もとを見つめながら己の行く末を考えこんで歩いていた。そんな哀愁漂う後ろ姿を励ますわけでもなく、小柄な少女は呆れたように嘆息して告げてくる。

 

「自業自得です。もう諦めて下さい」

「いやあ、わかってんだけどさあ。でも、ねえ、死ぬってわかっててその先を行くってのは何とも言えない気持ちになるのよ」

「何で俺まで行かなきゃならねえんだろうな」

「えーっと、でも、一応現場には足を運じゃったし……」

 

 那月は結局古城と唯里にも話があるとの事で、4人で生徒指導室を訪れる旨を伝えて来た。恐らく昨日の爆発の件についての事を聞きたいのだろうが、古城と唯里も道連れだとは予想だった。そのせいか先程から古城は不機嫌極まり無い顔つきだった。やんわりと唯里が隣で嗜めるが、あまり効果はみられない。冬真は、半ば諦めながら諭す。

 

「どうせ昨日のことなら、当事者が行くのは当然だろうに」

「いや、俺らが着いた時はもう終わってたじゃねえか。なら何もしてない俺たちは関係ないだろ」

「どうしよう。藤坂君、これって怒られるのかな?」

 

 不貞腐れた古城の隣で、唯里がどこか怯えたように聞いてくる。恐らく普段からなまじ優等生として育ってきたが為に、呼び出される何て事態には打たれ弱いのかもしれない。冬真は安心させるように笑いながら言った。

 

「大丈夫だろ。恐らく怒りの矛先が向くのは俺だしな」

「そうですね。器物損害に公然わいせつ罪ですから怒られて当然です。良くて退学でしょうか」

「……」

 

 どこまでも真面目で非常に徹する雪菜に、一抹の不安を覚える冬真。そんな冬真を眺めながら古城が思い出したように問いかける。

 

「――そう言えば、あの後どうしたんだよ、冬真。あの女の子」

「那月ちゃんのベッドに無断でぶち込んどいた」

「……それで那月ちゃんあんな怒ってたのか。なら俺たち完全に巻き込まれただけだよな?」

「まあ、そうとも言うな」

「……後で覚えとけよ、冬真」

 

 あっけらかんとした冬真に、古城は思わず怨嗟のこもった声を洩らした。

 

「……成る程。それで南宮先生という事ですね」

「ああ、そーゆう事」

 

 どこか納得と頷く雪菜。英語教師にして南宮那月のもう一つの肩書きは攻魔師だ。非常に優秀な攻魔師でありその実力は欧州の魔族の間では「空隙の魔女」という異名と共に恐れられており、雪菜が納得した点はまさにそこだろう。さらに唯一古城を第四真祖だと知る数少ない1人でもあり、彼が普通の学生として過ごせるのは殆ど彼女のお陰だ。そして、冬真もまた彼女が裏で手を回してくれたお陰で学生として過ごせる身でもあり、それなりに親睦も深い。

 冬真はどこか誇らしげな顔を雪菜に向け、

 

「だから言ったろ? 俺が信頼してる人に預けるって」

「そうですね。ですが、その信頼にヒビが入ると思います」

 

 うぐっ、と真っ当な正論を返され、冬真はたじろぐ。

 

「で、でも、ちゃんと俺の性格わかってくれてると思うぜ? 昔から俺の事知ってくれてるし、よく俺のピアノのコンクールにも来てくれたことあるし……だ、大丈夫だよな?」

「私に聞かないで下さい」

 

 不安げな冬真を冷静に冷たくあしらう雪菜。

 

「マジかよ。那月ちゃん、あのコンクール来てたのかよ」

「そう言えば凪沙ちゃんもそんな事言ってたかなあ。確か、いっぱいコンクールで優勝したとかなんとか」

「ふふん、まあな。それだけが俺の取り柄だからな」

 

 軽い口調で話す冬真につられて古城、唯里とどこか緊張感が薄れて行く一同ではあったが、生徒指導室の前に着いたところで緊張感が優等生組に漂い始める。先頭にいた冬真はドアノブに手をかけーー未来を視た。

 

「……すまんな、古城」

「は? 急に何言っ——ッ」

 

 全く誠意を込めない謝罪と共にノックしてドアノブを回した瞬間、背後に控えていた古城を強引に引っ張る。中へと押し込んだ。そして刹那の時間後、困惑する古城から悲鳴が漏れた。古城はそのまま仰向けに転倒する。冬真は悶絶する古城を見下ろしながら、ホット胸をなで下ろした。

 

「あっぶね、甘いななつきゃガァッ!?」

 

 頭蓋骨が陥没するほどの衝撃が冬真の額を襲い、古城同様仰向けに倒れこむ。

 

「――甘いのは貴様だ、藤坂冬真」

 

 ちくしょう——と悔しげに冬真は額を抑えたまま瞳に雫を貯めて天井を見上げた。その瞬間、

 

「「あっ……」」

 

 冬真と古城は思わず揃って声を上げ硬直した。冬真の視界の端に出現したのは、すらっと白く細い何かとパステルカラーのチェックの布切れだった。古城もまたピンク色の可愛らしい布切れを視界に収めて固まっていた。そんな彼らの異変に気づいた少女たちは彼らの視線の先を辿り、キョトンと瞬くもみるみる顔を真っ赤にさせ慌ててスカートを押さえた。

 

「……っ!」「きゃぁぁあああ!」

 

 無言で冬真を睨みつけ見下ろす雪菜。悲鳴を上げて唯里は羞恥で潤んだ瞳を古城にぶつける。

 

「「あ、いや、これはその、不可抗力というかなんというか……」」

 

 揃ってこみかめ辺りに汗をかきながら弁明を試みる冬真と古城。

 

「あ、暁君!」

「いや、その、悪かったよ。本当に、覗くつもりはなかったんだ」

 

 ぷくっと頬を膨らませて必死に睨みつける唯里だが、それでも怖いと言うよりは可愛いと称した方が正しいだろう。古城はきまり悪げに誠意を込めて謝罪し、慌てて起き上がる。そんな和やかで微笑ましい和解を視界の端で眺めていた冬真は、同じようなお許しを期待して雪菜を見上げるが、

 

「……昨日の下着姿といい…本当にいやらしい人なんですね……先輩は」

「い、いや、それとこれとは……」

 

 まるで路肩の小石を眺めるかのように冷たい視線を向けてくる雪菜。その瞳には弁明の余地はないと訴えていた気がして、冬真は己の死を悟った。しかし、これは不可抗力である。覗きたくて覗いたわけではない。なら些細な抵抗もあってしかるべきだろう。ここは凪沙から伝授した、女の子が怒った時の対処法を活用すべきだ。

 

「あ、あれだな。姫柊ってめっちゃ脚きれへぶっ!」

「い、いつまで見てるんですか!!」

 

 どうやら時と場合によって効果は変わるらしい。新しい目潰しの形で雪菜は乱暴に冬真の眼球周辺を踏みつける。激痛に冬真から呻き声が部屋に轟いた。

 

「ちょ、ちょっと足どけろって! 前見えねえだろ!?」

「い、今どけたらまた見えるに決まってるじゃないですか!」

「も、もう見なくたってパステルカラーって覚えぶェッ!」

「い、いちいち言葉にしないで下さい! な、なんで記憶してるんですか! 記憶を消されたいんですか!」

「なんでそうなぐォッ!」

「――もうその辺にしとけ、転校生」

 

 容赦なく何度も雪菜の踏みつけになす術なくただ痛みに耐えるだけだった冬真だが、思わぬ人物から助け舟が届き、ハッとして雪菜は顔を真っ赤にしたまま慌てて足をどけて後方に下がった。

 

「さっさと立て、馬鹿者。いつまで私の前でイチャつく気だ」

「い、イチャつくって表現はおかしいだろ。どっからどう見ても一方的に俺がイジメられてただけだろうに」

 

 小言で悪態をつきながら冬真はボヤけた視界で立ち上がる。

 こうなるんだったら倫に踏まれた方が良かったーーと謎の思考が頭をよぎるが振り払い、改めてゴスロリ少女に目を向ける。ソファに踏ん反り返って座っていた那月が、深々と呆れながら嘆息した。

 

「まったく、たかがパンツ一枚見られた程度で取り乱すとは、所詮剣巫の見習いなどその程度だと言わざるを得ないな」

「――っ、ど、どうして剣巫の見習いということを」

 

 雪菜が驚いたように那月を見つめる。唯里も彼女の隣で目を見開いていた。那月は、どこか得意げにふふん、と唇の端を吊り上げた。

 

「私を誰だと思っている。それとも、気づかないとでも思ったのか? 未熟者共め」

 

 うっ、と雪菜と唯里は口ごもる。那月はどこかそれを楽しげに眺めていた。相変わらずいい性格してるな、と冬真は心の中でそっと毒づいた。

 

「まあいい。お前が岬のクラスの転校生だな」

「はい……中等部三年の姫柊です」

 

 美しい人形のような那月の姿に一瞬戸惑いながらも、雪菜は生真面目な口調でそう答える。那月はカリスマ感溢れる態度で、そんな雪菜を満足げに見返し、

 

「ようこそ、彩海学園へ。歓迎するぞ。そこのバカ共のように余計な揉め事を起こさないでくれるなら、特にな」

「は、はい」

 

 昨夜の揉め事を連想したのだろう、どこか正直者の雪菜はぎこちなく頷いた。しかし、彼女の物言いに不満げに冬真が噛み付いた。

 

「ちょっと、古城と一緒にしないで下さい」

「こっちのセリフだそれは」

「さて、お前たち……いや、そこのバカを除いて昨日のアイランド・イーストで事故が起きたのは知ってるな?」

 

 2人の小言を無視していきなり核心をついてくる那月の質問。面々は居心地の悪い気分で素直に頷く。

 

「それで、匿名での消防への連絡に、まだマスコミには伏せられてるが、近くの病院に搬送されてきた"旧き世代"は、お前達の仕業か?」

「……まあ、そうっすね」

 

 最早冬真が人口生命体を彼女の部屋に連れ込んだ時点で、こちらの敗北である。彫像のように固まる雪菜と唯里の代わりに古城は苦い顔で頷きながら答えた。しかし、那月は咎める様子はないようで、淡々と言葉を紡ぐ。

 

「そうか。実はな、その"旧き世代"は表向きは貿易会社の役員だが、密輸組織の幹部ではないかと以前から警察に疑われていたらしい。どうやら昨日の倉庫はその取引によく使われていた場所らしくてな。組織の下っ端は、取引相手については何も知らないと言ってるそうだが」

「ふうん。なあ、那月ちゃ……南宮先生」

「……なんだ」

「……その取引相手かどうかは知らないけど、その現場に身長が大きめの片眼鏡つけたおっさんいなかったか?」

 

 真面目くさった冬真の問いかけに、不機嫌な那月の表情が少し引き締まる。

 

「知らんな。少なくとも、そんな情報は私の耳には入っていない」

「……そうか、ならやっぱ逃げ出しやがったな、あのおっさん」

 

 己の落ち度から悔しそうに呟く冬真。雪菜もどこか複雑な顔で彼を見上げた。

 那月は浅い溜息を吐くなり、乱暴にテーブルの上に分厚い資料の束と紙とペンを取り出した。なぜ紙とペンかは兎も角、資料はどうやら警察のもので街の監視カメラの映像を拡大した、目の粗い写真が貼り付けられていた。

 

「ここ2ヶ月ばかりで警察が確認したところ7件も似た事件が起きている。そこに写っているのは今までの襲撃された魔族リスト、全員が魔族だ」

 

 その写真に写る男達を神妙な顔で凝視する冬真達に、那月は淡々と言葉を繋げる。

 

「お前達を呼び出したのは他でもない、この無差別魔族狩りの矛先がお前に向く可能性があるからだ」

 

 確かにと古城の事情を知る冬真も雪菜も唯里も彼女の言葉を心中に収めた。古城もそこで漸く自分吸血鬼であることを思い出したようで、心理的抵抗はありながらも頷いた。

 

「だから一応の警告だ。企業に飼われている魔族や、その血族には、魔族狩りに気をつけろと既に警告が回っているらしい。お前にそんな上等な知り合いはいないだろうから、あたしが代わりに言ってやっている。感謝するがいい」

「はあ、それはどうも」

 

 曖昧に頷く古城。

 

「――さて、次はお前だ、藤坂」

 

 古城から冬真に視線をスライドさせて、那月はトントンと机の上にある紙を軽く叩く。

 

「似顔絵を描け。今回の首謀者のな。逃がした分のせめてもの対価だ」

「お、おう、りょーかい」

 

 どんな鉄拳が飛んでくるのかと思えば、お絵かきとは一瞬目を瞬く冬真達だが、冬真は直ぐに彼女の言われた通りペンを片手に記憶を遡る。蘇ってくる一枚の写真を脳に貼り付けながら、スケッチを開始しペンを走らせた。

 そんな彼の行動を呆然と眺めている雪菜と唯里に、ようやく合点がいった古城が彼女たちに助言した。

 

「あいつ絵がかなり上手くてな。昔っから賞とか総取りしてたんだよ。だから人物画とか得意ってことのキャスティングだろ。犯人の顔見てんだし」

「は、はあ……」

「そ、そうなんだ……」

 

 真顔で告げられる事実に、滑らかな手の動きで紙に似顔絵を描く冬真をただただ漠然と見守る雪菜と唯里。しかし、古城の小言に那月だけは不満げな顔だった。

 

「不本意ながらそこだけは私も買っている。コイツの芸術的センスは一流だ」

「意外だ。那月ちゃんに褒められた」

「流石"真似事"だけは達者だな」

「ちょ、ちょっと那月ちゃん!?」

「煩いぞ。口ではなく手を動かせ。それと担任教師をちゃん付けで呼ぶな」

 

 皮肉めいた彼女の言葉の真意を読み取り思わず声を荒げる冬真。しかしちゃんづけ呼ばれからか不愉快そうな顔で那月は顎で先を促してくる。冬真は渋々紙へと視線を移し作業を続けた。

 

「はいはい。ったく、人遣い荒いんだから………………ほい、できたぞ」

「「……う、上手い」」

 

 ものの数分で完成した色を加えるのを躊躇ってしまうほど美しくそっくりなペン画の似顔絵の完成度に、雪菜と唯里は思わず息を呑み唸った。

 

「姫柊、どう、似てる?」

「は、はい。せ、先輩、凄いですね」

「ま、まあ、そこそこだろ……」

 

 熱心に見つめるなり、何故か尊敬の念を込めた眼差しを向けられ、冬真は照れくさそうに頭をかいた。冬真としては遊び感覚でしかないのだが、好評なら良かったと内心でホッと胸を撫で下ろした。

 

「これ売れるんじゃないか?」

「なんだ、露店にこれ出して売買してる所に奴が来るのを待つ作戦でもやろうってか」

「ちげえよ。芸術的な価値でだよ。これ以外で真剣に描けば儲かるんじゃないかって事だよ」

「売らねえよ。絵なんて遊びで十分だ」

 

 覗きんでは古城の妙に真剣な呟きに、冬真は本音を混じりつつも呆れたように苦笑を返して那月にそっと手渡す。一通り眺めた那月は満足そうに頷いた。

 

「よかろう。今日は以上だ。退室して構わんぞ、お前たち」

 

 安堵しながらも、これで終わりなのかと奇妙に懐疑的な気持ちを抱えたまま冬真は古城たちと共に踵を返すが、

 

「――待て。お前は行っていい筈がないだろう、藤坂」

「で、ですよねー……」

 

 両手足が突如鎖で捉われ、身動きが取れなくなる。冬真は、何もかも全てを悟ったように穏やかな顔をした。

 

「那月ちゃん、せめて死ぬ時は一緒だぎょえッ!?」

「ふん、貴様1人で逝ってこい」

 

 素知らぬ顔の古城たちを最後に、ゆっくりと冬真の意識が闇へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「い、いたィ……」

「教師の寝室に不法侵入をする貴様が悪いんだ。オマケにいらん荷物まで寄越してくれるとは、とことん教師を舐め腐ってるとしか思えん。だからその根性を叩き直してやっているんだ。感謝しろ」

「……は、はヒィ…」

 

 伏臥位しながら痙攣を起こす冬真を、威厳たっぷりに腕を組んで冷たい眼差しで見下ろす那月。最早痛みで呂律が回らない。暴力反対である。

 

「まあいい。ときに冬真」

「……なんす……おお?」

 

 床と見つめ合っていた冬真の背中から不意に柔らかい感触が伝わる。フワッと上品な女性の香りが強くなり、鼻孔をくすぐった。どうやら彼女は椅子がわりに冬真の背中にお尻を着地させたらしい。その感触に驚きの声を漏らすが、那月は気にした様子なく、言葉を続ける。

 

「貴様が闘った相手は何者だ?」

「ロタリンギアの殲教師らしいぞ」

「……ロタリンギアの殲教師だと? なぜわざわざこの地で……いや、そうか。成る程な」

 

 1人納得したように呟く那月。小柄ながらも柔らかいお尻の感覚を味わいながら、焦ったように冬真が投げかける。

 

「な、なんかわかったんすか?」

「お前には関係のない事だ」

「はあ? ちょ、ちょっと那月ちゃん?」

「担任教師をちゃん付けで呼ぶな」

 

 別の思考に誘われた彼女の声音に咎める強さはあまりなく、ゆっくりと立ち上がった那月は、スカートを翻して机に戻りソファに深く腰掛けた。

 

「もう行っていいぞ。どうやらそこでお前の事を待ってる者が居るらしいからな。行ってやれ」

「……? あ、ああ。姫柊待っててくれたんだ」

 

 チラッとドアを伺ってから、全身麻痺ではと思うほどの身体に鞭を打って立ち上がる。そこでふと思い至ったように小柄なあの少女を思い出す。

 

「あ、そういえば、あの女の子那月ちゃんの家にまだいるの?」

「ああ、どこかのバカのせいでな」

「あ、アハハハ……く、クーリングオフはなしで」

「わたしは成年だ」

 

 頬杖をついて冬真を睨め付けながら、那月は怨嗟のこもった声音を再び放つ。

 

「大体何故私の部屋なんだ。新手の嫌がらせとしか思えん」

「いやあ、咄嗟に思いついたのがそこでさ。ほら、俺が1番信頼してるから」

「ふん、いずれ死ぬ奴の面倒を見きるほど私は優しくはないぞ」

「……え? いずれ死ぬ?」

 

 その思いがけない事実にキョトンと目を瞬く冬真。思考がうまく追いつかない。

 

「 アイツは無理やり眷獣を植え付けられた人工生命体だぞ。吸血鬼でもない奴が眷獣を体内に宿すなど生命の危機に陥るのは当然だろ」

「……」

 

 呆れたように見返してくる那月に、困惑で、冬真は言葉をなくした。

 

「今回の一連の事件も恐らく延命の為の処置ではないかと私は踏んでいる。魔族を狩ってそれを餌にしているんだろう」

「な、なんだよ……それっ」

「お前が怒ったところで何も変わらん。まあ、いらん荷物のおかげで事の真相にたどり着けたことは感謝するぞ。その方法が悪意しか感じ取れん嫌がらせじみたものだがな」

 

 肺を絞った声で眉間に深い縦ジワを刻む冬真を涼しい顔で一蹴し、那月は手元の資料に目を移している。

 もう言う事はないと彼女の雰囲気から悟った冬真は、迂闊に踏み込むことはやめて怒気を隠し切れない顔で踵を返した。しかしドアに手を掛けようとしたその時。

 

「眷獣の支配下を変えれば、寿命は延びるだろうな」

「……っ」

 

 那月が独り言のように呟く。ハッとした冬真は思わず振り返った。

 

「い、今のって……」

「とっとと行け。授業をサボったら承知しないぞ。露出狂」

「うえっ? な、なんでそれを……」

「……やはり貴様か」

「し、失礼しましたー」

 

 引き攣った顔で狼狽し出ていく冬真を見送り、那月は深々と嘆息しながら机に置かれたティーカップを一口口に含んだ。薄紅色の唇からカップを離し、残りの紅茶を眺めながら那月は思案した。

 絃神島は万一の事故が起きた際島全体が水没するのを避けるために四基の人工島に分割されている。それを連結して固定している部分。――奴らの狙いはそれだ。

 光すら届かぬ海中深くに造られた、永遠の牢獄の中に眠る半透明の石柱——要石(キーストンゲート)

 

「……聖者の右腕、か」

 

 恐らくそれが奪取されれば絃神島は沈む。ならば立場上それを阻止せねばなるまい。しかし。

 

「今回ばかりは相手が悪かったな、殲教師」

 

 紙に描かれた男を鼻で笑い、那月は教え子達が男を下す姿を思わず幻視した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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6話

 

 

「け、眷獣を植えつけただと!?」

「あ、暁君!」

 

 那月との会話を再現すれば、食堂のテーブルを蹴立てる勢いで腰を浮かし、古城は怒気を込めた声を食堂の大気に放った。慌てて唯里が嗜めるように言いテーブルを抑える。幾ら食堂が賑わってるとはいえ、唯でさえ雪菜と唯里を連れてるだけで視線がチラホラ向けられてると言うのに、古城の一際大きな声量にかなり悪目立ちし始めていた。浴びる様な視線を感じ取り、はっとした古城は決まり気の悪い顔で、渋々腰を下ろして目線で話の先を促してくる。冬真もそのリクエストに応えるように口を動かす。

 

「強引な方法だからこそ、それで彼女は魔力を喰って寿命を延ばしていたらしい。一連の事件の経緯はそんなところだって那月ちゃんが言ってた」

「そんな……それでは彼女はもう……」

 

 雪菜の青ざめた顔での呟きに、冬真も神妙な顔で頷いた。

 

「ああ、魔力の補給をしない限り――間違いなく死ぬそうだ」

「……っ」

 

 唯里が息を呑んで思わず両手を口に当てる。雪菜や古城もまた思うところはあるようでどこか心痛な面持ちだった。確かに胸糞悪い話である。ただこれはあくまで推測の域を出ない。冬真の言葉は全て那月の言葉の受け売りだ。

 

「まあ、いずれにしてもそれは本人に直接聞かなきゃならねえだろうぜ」

「せ、先輩?」

 

 ただ伝えるべき事は伝えた。なら自身がするべき事は一つ。冬真は冷静な声でゆっくりと腰をあげる。そんなトレーを持って立ち上がる冬真に、雪菜が戸惑ったような声音を放った。

 

「俺は今からちょっくら探してくるわ、その殲教師」

「えっ? で、でもこの後授業が……」

 

 流石は優等生らしく授業の事を気に掛ける唯里だが、冬真はにやりと口の端を上げた。

 

「大丈夫だ。ちゃんと補習は受けるから。どっかの誰かさんと同じ事をするまでよ」

「……俺を見るなよ」

 

 チラッと意味ありげに古城を見遣れば、睨むような視線が返ってくる。一応遅刻に欠席の常習犯という自覚はあるようで、反論の返答は返って来ない。そしてやはりというか、監視役である小柄な少女が異を唱えた。

 

「待ってください、先輩」

 

 彼女もまた優等生の身だ。恐らく釘を刺してくるのだろう。そう思ったが、意外な言葉が返ってくる。

 

「わたしも行きます」

「えっ?」

「ゆ、ゆっきー?」

 

 雪菜はポケットから徐にメモ帳を取り出して広げて見せた。

 

「あっ、それネコマたんだ!」

「あ? ねこまたん?」

「なんだそれ」

 

 熱を帯びた唯里の声につられて、古城と冬真はとあるマスコットキャラを凝視する そいつは招き猫をフカフカにしたような、2頭身の猫のマスコット。二本に分かれた尻尾が特徴で、それが名前の由来なのだろう。

 

「これ前の学校で流行ってたんだ。わたしも小さい人形持ってるし」

「へえ、随分と可愛いキャラじゃんか」

 

 冬真は見たことないが、どうやら高神の杜で流行ったキャラのようだ。

 

「ん、これって……!」

 

 ふと冬真はマスコットキャラから紙に綺麗な文字で羅列された協会名と住所の羅列に視線を移して、驚きを露にする。

 

「実は意味ないとは思ってたんですけど。予め資料は集めてました」

「ま、マジかよ……さんきゅー、姫柊。マジで助かるよ!」

「い、いえ、お役に立てたのなら良かったです」

 

 あの男の仲間が共にこの島に潜伏している可能性はある。ならそこのアジトに殴り込みに行けば自ずと彼を見つけられるはずだ。

 素直に感謝を示せば、ぎこちなく視線を泳がせる雪菜。その挙動を不思議に思いながらも、冬真は雪菜と共に食堂を後にした。

 

 

 

 

 

 

「と、止めなくてよかったのかな……?」

「……ロタリンギアか」

 

 目の前で授業を堂々とサボタージュ宣言して後輩の女の子と食堂から消えていった2人の姿に戸惑いを隠せずに古城に問いかける唯里だが、古城は反応を見せずに眉間に深い皺を寄せてしばらく考え込む。

 

「あ、暁君?」

 

 しばらく物思いに耽る古城に、堪らず唯里が声を掛ける。古城は、ああ、と考えを振り落とすようにゆっくりと頭を振る。

 

「いや、あんな単純で良いのかって思ってな」

「単純?」

「ああ、もう教会とかはとっくに警察が調べてんじゃないかと思ってな。あの法衣の格好なら目に付くはずだし」

「……確かにそうかも」

 

 思わぬ言葉に唯里は思わず深い思考に誘われていく。しかし、当てずっぽうな推理を親身に聞かれては、返って古城に焦りが生じた。

 

「あ、いや、これはあくまで俺の勘であってだな……」

「ううん。確かに暁君の言う通りかもしれない。実際これでもう7件目だって南宮先生は言ってたし、彼らの目撃情報があっても可笑しくはないよ。でもそうなるとどこに身を隠してるのかだよね」

「殲教師だから、協会意外とも考えれれるんじゃねえか? でもあの姿形だから、ロタリンギアの大使館とかロタリンギアの人がいても怪しくない場所に限られてくるかもしれないけどな」

「ロタリンギアに本社がある企業とか……かな?」

 

 唯里が怖ず怖ずと訊いてくる。

 

「そう、それ。そういうやつ」

 

 古城はどこか無責任に頷いた。それなりに筋は通っているような気がするが、何の根拠もない思い付きである。絶対間違いないかと聞かれると、自信はない。

 しかし唯里は真剣な表情で再び何かを考えこみ、

 

「でも、絃神市内にある企業の本社所在地なんて、どうやって調べればいいんだろう」

 

 真面目な顔で、古城に問いかける。

 

「いや、流石に俺にそれを聞かれてもな。人工島管理公社には、企業のデータがあるはずだけど、そんなの一般人には教えてくれないだろうし……」

 

 いや、と古城はなにかを思い出して呟く。

 

「人工島管理公社……か」

「暁君?」

「あ、ああ。ちょっと浅葱に訊いてくる」

「藍羽さん?」

 

 どうして、というニュアンスで小首を傾げてくる唯里。

 

「ああ、アイツ。管理公社でバイトしてんだよ。だからもしかしたら聞けるかもしれない」

「か、管理公社でバイト? そ、それってお店とかの?」

「いや、なんか保安部のコンピューターの保守管理ってやつをやってるらしいぞ」

「えっ、す、すごいね……」

 

 なんせたかが高校生のバイトで管理公社の保安部なんて場所に一般人が入室できるわけもないし、そのデータ管理など以ての外である。唯里は顔いっぱいに驚きを表した。

 

「取り敢えず、聞き行くか」

「あ、じゃあ、私片付けとくよ」

「ああ、悪いな」

 

 労りを込めた古城の瞳に、ニコッと愛想よく唯里は微笑む。どうやら古城が行くことに関しては疑問を覚えないようだ。古城は有り難く急ぎ足で教室に駆け込んだ。

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、まずは自宅だな」

「自宅……ですか?」

 

 校門付近で周囲を警戒しながら呟かれた冬真の呟きに、不思議そうに雪菜が見上げてくる。冬真はニヤリと笑みを返して、そっと雪菜の手れば、雪菜は一瞬驚いて体を強張らせた。ほんのりと頰を染めて慌てて顔を上げる。

 

「せ、先輩?」

「まあ、取り敢えず戻ろうぜ」

「い、いえ、でも、その……手をつなぐ必要が」

 

 今まで元気だったくせに、突然蚊の鳴くような声。急にもじもじしだした雪菜だが、冬真はそんな雪菜の心情は置き去りに再び周囲の目を確認してか、

 

「取り敢えず――飛ぶぞ」

「えっ? と、飛ぶって何を――ッ」

 

 自由落下に似た不快感と共に、一瞬にして眼下の景色が変わり、雪菜は思わず息を呑む。

 

「これは……」

 

 ふわりと懐かしいような落ち着く匂い。馴染みのある玄関。見間違えるわけない。ここは冬真の家の玄関だ。そう言えば彼は空間転移が使えるのだと雪菜は思い至るが、説明を請うリクエストを見上げる形で冬真に送った。冬真は悪戯っぽい笑みを返して応える。

 

「まあ、お前の手を握ったのは俺の空間転移が俺しか飛べないからで、一緒に行くなら俺のどっかに触れてる必要があったんだ。悪かったな」

「……あっ」

 

 いつの間にか握り返してくれていた手を離せば、雪菜から名残惜しそうな声が聞こえる。

 

「姫柊?」

「い、いえ。なんでもありません。それで、自宅に帰ってどうするんですか? これから向かう先は真逆だと思うんですけど」

「実は空間転移の魔法は距離制限に俺が行ったことない場所には飛べないんだ。今回その手帳に書いてあった場所はほとんど行ったことないからな。まあ、その付近へ飛ぶこともありだけど、なるべく戦闘に備えて魔力は温存しておきたい。それで、これよ。取り敢えず、ついてきて」

「は、はあ……」

 

 どこか釈然としながらも素直に雪菜は冬真と共に玄関から外へと出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼休み終了直前。息を弾ませながら教室に戻ってきた古城は、浅葱の席へと駆け寄った。なぜか不機嫌さを隠そうともしなかった浅葱だが、いつになく真剣な古城の様子に気付いて渋々とを上げる。いちおう話を聞く気にはなったらしい。そして、

 

「――ロタリンギア国の企業? どうしてそんなことが知りたいわけ?」

 

 今イチ要領を得ない古城の説明を聞き終えて浅葱が怪訝そうに訊き返してくる。

 

「いや、どうして……と言われても、そんな大した用じゃないんだが」

 

 無差別魔族襲撃事件の犯人を捜している、とも言えず古城はもごもごと口ごもる。浅葱は煮え切らない態度の古城をむっつりと睨みつけ、

 

「まさか、あんた羽波さんに頼まれたとかじゃないでしょうね?」

「え?いや、まさかそんなバカな。いやいや」

「…………」

「本当に違うって。そう、夏休みの宿題の自由研究で調べてるんだよ。ロタリンギアについて」

「は?自由研究?」

 

 そんなのあったっけ、と浅葱は首を傾げた。しかしサボり魔の古城が、追加の宿題を大量に押しつけられていることも事実である。浅葱はそれ以上の追及を諦めたように、スマートフォンを取り出した。溜息混じりに起動する。

 

「仕方ないわねえ。はいはい、調べてあげるわよ」

「ああ。ありがとう、浅葱」

「だから感謝は形で示せってのよ。ロタリンギアの企業ね……ないわよ、そんなの。島内には」

 

 一流のピアニストのような指さばきで外付けキーボードを叩きつつ浅葱はあっさりと機密情報を引き出してみせた。古城は彼女の答えに当惑する。

 

「ない? 一社もか?」

「ロタリンギアの企業と取引したり、代理店契約を結んでいる会社はいくつかあるけど、働いてるのはみんな日本人。だいたいヨーロッパ系の企業が絃神島に支社を置く理由はないでしょ。魔族特区は欧州にもあるし、最近の円高でほとんど撤退しちゃったんじゃない?」

「撤退?」

 

 古城の脳裏に閃きが灯る。彼が潜伏するのに、なにも企業が活動中である必要はない。むしろそうでないほうが都合がいいはずだ。

 

「そうか 浅葱、撤退済みの会社は調べられないか? できれば閉鎖した事務所がそのまま

残ってるようなやつがいい」

「うーん、たしか過去五年以内だったら、記録が残ってたような気がしたけど……」

 

 浅葱が再びキーボードを操作する。今度は少し待たされた。情報の絞りこみに時間がかかっているらしい。

やがて画面が切り替わり、細かなデータがびっしりと画面を埋め尽くした。

 

「あったわ。スヘルデ新薬実験。二年前に研究所を閉鎖して、今は債権者の差し押さえ物件になってるみたい」

「……それだ、浅葱! どこにある?」

 

 古城が身を乗り出してスマートフォンの画面をのぞきこむ。悪気無く密着してきた距離の近さに、浅葱はかすかに頰を赤らめながら、

 

「えーと、アイルランド・ノースの第二区層B区画。企業の研究所街ね」

「わかったよ。サンキュ。あ、冬真に連絡できるか?」

「なに、あいつも宿題あんの?」

「ま、まあな……」

 

 引き攣った顔の古城に、ふうん、と浅葱はやや訝しげな顔をするも、スマートフォンを電話帳に切り替えてコールボタンをタッチする。が、

 

「……出ないわね。ってかあいつ学校には携帯持ってきてないんじゃなかったっけ」

「そ、そうか。まあ、助かったよ浅葱」

 

 古城はそう言うと、浅葱を突き放すようにいきなり背を向けた。そのまま教室を出ていこうとする彼を、浅葱は慌てて呼びとめ、

 

「ちょ、ちょっと、古城? どこ行く気?」

「急用ができた。出かけてくる!」

「はあ!? あんた、何言ってんの。午後の授業はどうするのさ!?」

「上手いこと誤魔化しといてくれ。頼む!」

 

 古城は拝み倒すようなポーズでそれだけ言い残すと、今度こそ本当に教室を出ていく。そんな古城とバッタリ遭遇するような形で羽波が登場し、何かを彼女に伝える。それに頷いた彼女は彼についていくようにして2人でその場を去って行った。浅葱はそんな一連の様子を眺めるなり椅子を蹴散らしながら立ち上がる。

 

「こ、こら……! なにそれ!? あんた、ホント殺すわよ! 馬鹿――っ!」

 

 廊下に向かって怒鳴り散らす浅葱から、とばっちりを恐れたクラスメイトたちが慌てて目を逸らす。やっぱりこうなったか、とでも言いたげな顔で生温かく成り行きを見守っている矢瀬。そしてクラス委員の築島倫は、誰にも気づかれずにそっとため息をついていた。

 

 

 

 

 

 

 常夏の熱気が揺らめく中、同幅二車線の道を2人乗りの大型二輪が疾走する。運転者は彩海学園の制服を纏う学生。1人は高校一年男子学生。もう1人は中学三年の女子中学生。ヘルメットはどちらも被っていない。本来ならば確実に道路交通法に反する違法行為であるが、それなのに周りを走る車や歩行者は気にした様子なく凡そ咎めることは微塵も匂わせない。いや、そこに二輪が走行していることすら、誰も視界に捉えていない。

 

「先輩、違法ですよ」

「バカだな。犯罪ってのはバレなきゃいんだよ」

 

 悪戯をする子供のように愉しげな少年の様子に、少女は浅いため息をこぼした。

 

「それにしても、本当にこちらが見えてないようですね。風も音もあまり感じませんし。それに、随分と運転、お上手ですね」

「まあな。練習したし、ちゃんと魔術で見えないようにそう施したからな」

 

 凡そ時速二百キロとは思えない程軽い風圧に髪を靡かせて、雪菜が少し驚いたように問いかける。

 冬真は誇らしげに返して、視線を一瞬正面から落とした。

 この大型二輪車には人の視界に映らないような術式と、風圧を軽減する術式を先端に施しているのだ。その為ほとんどがバイクの先端で弾かれている。

 

「これご自分で買ったんですか?」

 

 見るからに高そうな装甲に、雪菜が呆れたような声を投げかける。冬真はやんわりと首を振った。

 

「いや、創った。昔錬金術を少しかじってさ。その名残よ」

「れ、錬金術ですか? 霊視と言い、先輩はそれ程までに魔術に長けていたんですね……知りませんでした」

 

 どうやら連中は本当にありふれたパーソナルデータしか彼女に手渡されなかったらしい。ショックを隠せずに言う雪菜に、冬真は苦笑する。

 

「まあ、あまり使う機会がなかったからな。これから報告でもすればいいさ」

「そうですね」

 

 最も、上の者ならば確実に知っている事柄ではあるだろうが。

 

「それにしても――」

「先輩?」

「いや、なんでもない」

 

 冬真の腰には、ほっそりとした、それにも関わらず少しも骨ばったところのない腕が巻き付いていている。背中には雪菜の柔らかな二つの膨らみが押し当てられている。成長途中の、であることは間違いないが、決して僅かな、でも微かな、でもない。十四歳の少女にしては、少なくとも平均か上はあることには間違いなかった。

 だから冬真の心臓が激しいビートを刻んでいた。

 

「……先輩」

 

 そんな邪な考えを読み取ったのか、密着していた身体をやや離して、咎める様な口調が背後から飛んでくる。

 

「いや、これは俺のせいじゃないだろ」

「……どうだか」

「……しっかりつかまってろよ!」

「きゃっ」

 

 弁明は無理だと悟った冬真はアクセル全開でスピードをさらに加速させる。後ろから可愛らしい悲鳴と共に、咄嗟にぎゅっと抱き着いてくる。再び背中に柔らかいものが押し当てられ、やはり邪な妄想が膨らむ。……いや、思ってたよりも柔らかいというか……気痩せする方なのかな。

 

「ほ、本当に嫌らしい人ですね……!」

「その割には随分と密着してる気がああっ!」

 

 とんでもない力で抱きしめられた痛みから思わず悲鳴が洩れる。

 それでも運転が乱れなかったのは流石か。伊達にこっそりと練習を積んだわけではあるまい。しかし、かなり密着する姿勢を崩さない彼女の行動には、やはり疑問しか残らない冬真だった。

 

 

 

 

 

 アイランド·ノース企業の研究所が建ち並ぶ、絃神島北地区の研究所街。島内でももっとも人工島らしさを感じる未来的な街の片隅に、その研究所跡地は残されていた。ほぼ直方体に近い形の四階建てのビルである。

機密保持のためか、窓が少ない。そのため閉鎖されているという雰囲気もあまり感じない。犯罪者が拠点にするには、おあつらえ向きの環境だといえる。

 

「――あれがその製薬会社の研究所だよね」

 

 街路樹の陰から顔を出して、唯里が警戒した表情で訊いてくる。たぶん、と古城は頼りなくうなずいて、

 

「親会社が撤退して研究所は閉鎖されたらしいだけど、建物ごと差し押さえられてるって話だ

から、中の施設はそのまま残ってると思う。人工生命体の調整施設も」

「人工生命体の調整施設 条件的にはぴったりですね」

 

 唯里が真剣な表情で呟いた。

 人工生命体とは、生化学的な技術によって創造された生命体の総称だった。遺伝子レベルまで完全に人為的に設計されているのが、合成生物などとの決定的な違いであり、技術的な難易度は高いが、そのぶん設計の自由度も大きい

 原始的な人工生命体の製法は、十六世紀にはすでに確立されていたといわれている。安価な労働力を生み出すため、あるいは人類の良き友人となるようにと様々な人々の手で長く研究が続けられていた。

しかし結果的に、人工生命体が一般に広く普及することはなかった。

 それには大きくふたつの理由があるといわれている。

 

 ひとつは倫理的な問題だ。

 生命の創造は、造物主である神の領域に人間が踏みこむ行為であるとして、宗教界を中心に根強い反発があった。また、創り出された人工生命体に人権を認めるか否か、という点でも激しい論争が続いており、いまだに結論は出ていない。そしてもうひとつは、単純に製造コストの問題である。

 労働力として使うにせよ、兵士として戦場に投入するにせよ、人工生命体の製法はあまりにも繊細で、費用がかかりすぎるのだ。クローン技術などによって本物の人間を使ったほうが圧倒的に安く済ませられるのである。

 そのため人工生命体の製造は今ではほとんど行われておらず、研究する科学者もずいぶん減っているという。

しかし現在でも例外的に、人工生命体の研究が盛んな分野がある。それは人工生命体技術を応用した医薬品の開発だった。人為的に遺伝子構造を変更できる人工生命体は、新薬の臨床実験や免疫抗体の研究などに最適で、医学の進歩のためという大義名分によって、倫理的な批判もある程度は沈黙させられる。そのため大手の製薬会社のほとんどが、自社の中に人工生命体を製造、研究する施設を持っていた。

 このスヘルデ製薬の研究所も、かつてはそのような医薬品研究施設のひとつだったらしい。

 

「ここからじゃ中の様子はわからないね」

 

 そう言って唯里は、銀色の長剣を少し構えるように持ち、

 

「調べてくるから、暁君はここで待ってて」

「え? ちょっと待て、羽波。まさか一人で行く気なのか?」

「うん。そのつもりだけど」

 

 当然だろう、と言いたげな目つきで唯里が、古城を見上げてくる。

 

「なんで!?」

 

 古城は驚いて目を剥くが、唯里は呆れたように嘆息してから、困ったような顔で笑う。

 

「この前は許可したけど、暁君。眷獣以外にも吸血鬼としての能力を使えるわけじゃないんでしょ? ならやっぱり戦闘は危険だよ」

「それは……」

「雪菜ちゃんの話だと、例え負傷していてもかなり手強い相手だったみたいだし、油断は出来ないから」

 

 ぐうの音も出ない言葉に、古城は押し黙る。

 確かに彼女の言う通り、古城は吸血鬼の能力を手に入れただけの素人である。勿論、霧化や空を飛ぶなんて芸当もできる筈もない。しかし古城も譲れないものがあった。

 

「でも、心配なんだよ! 羽波のことが」

「……っ」

 

 古城がイライラと乱暴な口調で言う。唯里はきょとんと眼を丸くした。

 

「何も今回の事件は羽波一人で解決することじゃないだろ。俺は羽波に全部押し付けるような真似はしたくねーんだ。そういうのは、気に入らねえ」

 

 古城が真剣な目つきで唯里を見つめる。その勢いに気圧されて唯里が沈黙する。

 

「わ……わかったよ。じゃあ、一緒に行こっか。でも、一つだけ約束して」

「わかってる。殲教師と遭遇したらすぐに安全な場所に逃げるって。羽波の足手まといにはなりたくないからな」

「うん。お願いね」

 

 静かにほほ笑む唯里とともに、古城は建物の方へと歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論から言えばあのメモに書かれた西欧教会の施設には殲教師はいなかった。許可された範囲を念入りに調べてみたり、周囲の住人に聞き込みを行なったりと徹底してみたが痕跡は一切なかった。どうやら彼の潜伏場所は教会ではないらしい。それに警察官がチラホラといる様子から恐らく彼らもここをマークしていたのだろう。なら限りなくここに戻ってくる可能性も低い。

 無駄足だったな、とウンザリした様子で冬真が呟く。

 

「……どこ行ったんだよアイツ」

「すみません、先輩。私の調べ不足で無駄足になってしまって」

「いや、姫柊のせいじゃねえって」

 

 申し訳なさそうな雪菜に微笑みを返して、取り敢えず今後について思案を巡らせてみる。が、正直な話もうあてはなかった。

 ふと那月に相談しては、と微かな希望を抱いたが、生憎の冬真は授業をサボった身であり、それは間違いなく自殺行為に等しいだろう。――最も彼女はそれすら見抜いているだろうが。

 なら他にどこかないのか。冬真は頭を働かせた。

 彼が隠れやすい場所……協会は回った。ならロタリンギア関連の――

 

「――企業」

「先輩?」

 

 思いついたように冬真が言う。

 

「もしあの姿で身を隠せる場所って他にロタリンギア関連の企業とか怪しくないか?」

「私もそう思って予め調べてはみましたけど、今現在島内にはありませんでした」

「まじか……」

 

 やるせなく小さく首を振る雪菜に、どこか落胆した声を出す冬真。

 「どうしたらいい?」再び内なる声に耳を傾けた時だった。突如ポケットにしまっていた携帯端末が震えた。取り出して液晶を見れば、そこに映る名前に冬真は思わず顔を顰めた。

 

「浅葱?」

「藍羽先輩ですか?」

「あ、ああ」

 

 端末を遠慮気味に覗き込んでくる雪菜。

 冬真は頷いて。不思議そうに端末の応答ボタンをタッチした。

 

「もしもし、浅葱?」

『もしもしじゃないわよ。アンタ、また授業サボったでしょ!』

「ま、まあな」

 

 開口一番に聞こえてきたのは何故か不機嫌な彼女の声だった。

 

「ど、どうしたよ急に連絡なんてよこして。そんなこと伝えるために電話したのか?」

『あんた、今古城と一緒にいない?』

「いや、一緒じゃねえぞ」

『……そう。やっぱりそう言うことなのね……っ!』

「あ、浅葱? 古城がどうかしたのか?」

 

 冬真は嫌な予感を覚える。

 

『……授業サボって転校生と出て行ったのよあのバカは……ッ!』

 

 積もり積もった憤怒をぶつけるように、バキッと受話器越しに何かが折れる音が聞こえてくる。瞬時に冬真は宥める言葉を返した。

 

「と、取り敢えず落ち着けって。それで、2人して何処行ったんだ?」

『知らないわよそんなのっ! 夏休みの自由研究かなんか知らないけどロタリンギアが本社の企業調べろとか注文してくる癖して調べれば転校生と一緒にどっか消えるし! マジで意味わからないっ、なんなのよっ、あのバカ!!」

「……ちょっと待て。ロタリンギアが本社の企業? アイツそれ調べろって言ってきたのか?」

『……そうよ。理由は分かんないけどなんか切羽詰まった顔で訊いてきたのよ。…まったく、人口生命体の調製施設なんか自由研究の題材ににしたって今更でしょうに」

「……人口生命体の調整施設…? おい、それどこか教えてくれ!」

 

 思わず張り上げた声に、受話器越しから彼女の驚きの声が小さく洩れる。

 

『なに、あんたも那月ちゃんに自由研究出されたの?』

「あ、ああ。まあな。だからそれがどこにあるのか教えてくれ」

 

 浅葱が深く溜息をついた。

 

『なんなのよホントあんたらは……アイルランド・ノースの第二層B区画よ。二年前に研究所を閉鎖して、今は債権者の差し押さえ物件になってるらしいわ』

「……他に関連する場所ってあったりするか?」

『ないわよ。少なくとも残ってるのはそこだけ』

「そうか。分かったサンキュー」

『あっ、ちょっと待ちな――』

 

 何か彼女が言いかけてた気がしたが、冬真は通話ボタンを切り雪菜を見た。

 

「姫柊。飛ぶぞ」

「アイルランド・ノースの第二層B区画にですか?」

「そうだ。あそこなら以前マーキングしておいたから行けるはず――」

 

 冬真が飛びたい場所をイメージした直後だった。

 鈍い振動が、人工島全体を揺るがす。異様な気配に反応してお互いが振り返った。

 視界に映ったのは、遥か先に轟く巨大な稲妻。まるで最大規模の雷雲だった。

 無差別に雷の矢を周囲に放ち、もはやそれは天変地異。

 冬真も雪菜もその光景の正体に気付いた。全てそれは圧倒的に強大な、意思を持ち荒れ狂う魔力の塊。破壊の権化――

 

「――眷獣」

 

 雪菜の呟きに、冬真は猛烈に嫌な予感を感じ取った。

 

「しかも場所はアイルランド・ノースの第二層B区画だ」

「それって……」

「ああ、恐らく――古城の眷獣だ」

「……あれが第四真祖の眷獣」

 

 ここまで届く地響きに爆風、あの巨大な雷。それを引き起こした濃密な魔力の塊に、雪菜は小さく息を呑んだ。彼女が知る眷獣という次元をそれはあまりにも超えていたのだ。

 呆気にとられる雪菜をよそに、冬真は異様なまでの焦燥感に思わず舌打ちした。

 

「急ぐぞっ!」

「――は、はいっ」

 

 切羽詰まった冬真の顔に、慌てて雪菜が頷きそっと手を差し出す。

 差し出された手を握り、イメージする。そして魔力を流しかけた時。

 

「――っ!?」

 

 突然の衝撃に浮遊感。刹那、冬真の身体が後方へ吹き飛んだ。

 

「――先輩っ!?」

 

 あっけにとられた雪菜だが、事態を瞬時に理解し大声で叫ぶ。そして態勢を低くして彼を吹き飛ばした正体に穂先を向けた。が、雪菜は信じられないようなものを見た顔で、目を見開いた。

 

「そ、そんなっ……!?」

 

 静かに佇むその人影は、彩海学園高等部の制服を身に纏い眼鏡をかけ髪を三つ編みにしたなんてことない地味な容姿の少女だった。だがそれは仮初の姿。その正体を知っているからこそ、雪菜は驚愕で声が震えた。

 

「ど、そうしてあなたがここに……!?」

「お久しぶりですね、姫柊雪菜」

 

 冷静な口調でそう応える少女。雪菜は慌てて矛先を納めるが、しかし、戸惑いながらも雪菜は警戒を解かずに彼女を見つめていれば、横から砕けた口調が彼女に投げかけられる。

 

「まったく。随分と手加減してくれたみたいだけど、こんな忙しい時にあんたはいつもいきなり過ぎんだよ」

「これは失礼しましたね、冬真」

 

 先程とは違い口調は丁寧だが、堅苦しさはない。笑いを含んだような悪戯っぽい声音だ。冬真も砕けた口調で言葉を返している。

 

「それで、何の用だよ、古詠さん」

 

 冬真は真っすぐに古詠と呼ぶ少女を見つめた。

 遠くから鳴りやまぬ落雷が、冬真の焦燥感を募らせているのだ。

 それを見透かしたように少女は、寂しげな微笑を浮かべた。まるでやんちゃな弟の我儘を聞き流すかのように。

 

「ごめんなさいね、冬真。少し貴方には――大人しくしてもらいますよ」

 

 

 

 

 

 

 



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