暗黒街の法王 (月島しいる)
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1章 胎動する闇
01話


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 爆発したような歓声が僕たちを包んでいた。

 着慣れない儀礼用の法衣に身を包んだ僕は、多分とてもおどおどして見えるだろう。

 貧民上がりの僕は、今までこんな歓声を受けたことなどなかった。とても場違いな気がした。

 精一杯の笑顔で観衆に手を振りながら、ちらりと隣の少女に視線を投げる。

 フランツィスカ・フォン・グランデーレ。

 支配の御子たる彼女は堂々とした態度で民草を見下ろし、悠然とした微笑を浮かべていた。

 貴族である彼女からは支配者としての片鱗が既に見え隠れしている。高貴な血筋を引く彼女にとって、人前で笑顔を振りまく状況は珍しいものではないのかもしれない。

 それから反対側にいる少女に視線を向ける。

 ベルタ。

 平民出の彼女は僕と同じく姓がない。破壊の御子と言われる彼女だが、その称号に反して静かで大人しい少女だった。眼下の観衆をじっと見つめたまま動かず、愛想を振りまく様子はない。当然だろう、と思った。戦時中以外で破壊の御子が法王に選ばれる事は殆どない。彼女はこの法王選を初めから諦めているようだった。

 気が遠くなるほどの時間、観衆に手を振っていたような気がする。この時間が永遠に続くのではないかと思った時、主席枢機卿(しゅせきすうききょう)である老年の男性、ガランド・カーディナルが僕達の前に立った。彼は枢機卿団を束ねる立場にあり、法王選の進行役を担っている。

 彼が右手をあげると、それまで途切れる事のなかった歓声が徐々に収まっていった。

 ガランドは民衆に一礼すると、低く落ち着いた声色で語り始めた。

「支配の御子、フランツィスカ・フォン・グランデーレ。慈愛の御子、ルイ。破壊の御子、ベルタ。以上が法王選の候補者たる三柱でございます」

 慈愛の御子ルイ。

 それが今の僕。

 数日前まではただのルイだった。

 たった数日だ。ただの貧民だった僕は慈愛の御子なのだと宣告され、法王選などと言う良くわからない舞台で歓声を受けている。

 未だに現実感がなかった。

「法王選により新たな法王が選ばれるのは三ヶ月後の満月の日でございます。先代のヴィクトール聖下の後継者はただ一人に限られ、我々は三柱の御子様からただ一柱を選ばなければなりません」

 ガランドが今一度、法王選の目的を説明する。

 僕は、先代の法王であるヴィクトール聖下をよく知らない。滅多に大神殿から顔を出さないお方だった。どのような執務をなされてきたのか知りもしない僕などに後継が務まるのだろうか。

 僕の不安をよそに、ガランドは話を続けていく。

「選挙権は枢機卿団だけでなく全ての人民に与えられます。我々枢機卿団は法王選の進行を努め、御子様に助言する立場にありますが、法王選の公平性を損なうような事は決してしないと固く誓います。法王選は開かれたものであり、何者によっても侵せない神聖な儀式であります。これは列聖第一位であり、初代聖王であられたハロルド聖下の意志を継ぐものであり――」

 ガランドの話が聖王選から偉人の逸話へと流れていく。

 学のない僕には良くわからない話だった。

 先代のヴィクトール聖下が表に出る事を嫌ったため、僕のような貧民は大神殿の具体的な仕事を良く知らなかった。

 精々炊き出しを楽しみにしていたくらいのもので、さして信仰に厚いわけでもなく、権力に憧れたこともない。

 たまたま御子の力を授かり、多くの従者を連れて迎えに来た枢機卿団に恐れを抱き、言われるがままに拾われてこの場にいるだけ。

 この場において、僕は異物だ。

 ガランドの長い話を聞いていると、そう思わざるをえなかった。

「さて、ハロルド聖下はこのような言葉も残しております。御子の力は大いなる主の意志であると。その力は強大であり、三つの力を束ねる旗がいると。そうして現在の法王選が形作られました。ハロルド聖下は三つの力に優劣はないと説いています。そして時代によって必要とされる力は移ろうため、法王の世代交代と同時に旗を持つべき力を改めて決めるべきだと、そのように結論付けられました。ハロルド聖下のご意思は枢機卿団という形をとって後世に引き継がれ、我々は長い歴史の中でハロルド聖下のご意思に沿って御子様に助言する立場を預かる事になったのです」

 ガランドの長い話が続く。

 法王選の意義と、枢機卿団の役割については大神殿に連れて来られた初日に何回も聞かされていた。

 御子の力は、聖王の崩御とともに別の誰かに移り変わる。

 何も知らずに御子の力を受け取ってしまった僕のような貧民を、法王選に導くのが枢機卿団の役割だ。

 前回の法王選が行われたのは約40年前。

 僕を含めて多くの人々は法王選を経験したことがなく、歴史的背景を含めたガランドの話が長くなるのは仕方がないのかもしれない。

 ぼんやりと話を聞き流しながら、眼下の人混みの中をじっと見つめた。

 父や友人、幼馴染の姿を探す。

 貧民街の住人は総じて信仰心が薄いが、法王選を一つの祭りのように捉えて興味本位で見学に来ているはずだった。

 しかし聖都中の人々が集まった場で見知った顔を探すのは困難だった。

「――そしてこれより法王選が正式に始まる事を宣言致します」

 ガランド・カーディナルの宣言によって、大神殿の前に集まった人々が歓声をあげた。

 先代ヴィクトール聖下の崩御によって空位となった法王の座を巡り、僕を含めた三柱の御子は民衆の支持を得るために動かなければならない。

 僕は張り付いたような笑顔を浮かべ、観衆に手を振った。

「ルイ聖猊下。お下がりください」

 後ろから神殿騎士の声。

 眼下の人々に一礼し、慣れない法衣の裾を踏まないように気をつけながら踵を返す。

「後はガランド猊下にお任せし、お休みください」

 神殿騎士の言葉はありがたかった。

 朝から着慣れない儀礼用の法衣を着させられ、枢機卿団の高僧から念押しするように法王選の説明を受けくたびれていた。

 自室に戻ろうと足を進めたところで、後ろから声が投げかけられた。

「ルイ。少し良いだろうか」

 振り返ると、支配の御子であるフランツィスカ・フォン・グランデーレが立っていた。

 燃えるような赤毛と緋色の瞳は、彼女が始祖民の純血を引く高貴な血筋である事を示している。

 切れ長の双眸と、長い赤毛が彼女を大人びて見せていた。僕と同じ十六歳とは思えなかった。

「はい。何でしょうか、支配の御子グランデーレ様」

「我々は同じ御子なのだ。この神殿において心許せる数少ない同志でもある。そう固くならず、フランで良い」

 フランはそう言って、薄い笑みを浮かべた。

 堂々としたその話し方と表情は、やはり僕との根本的な格差を感じさせた。

「知っているか。歴代の法王のうち、半数を超える33柱が慈愛の御子であり、支配の御子の数は28柱となっている。破壊の御子に至っては僅か3柱しかいない」

「はい。詳しい数字までは知りませんでしたが、大半が慈愛の御子か支配の御子である事は聞きました」

 過去に破壊の御子が法王に選ばれたのは戦時中だけだ。

 フランは頷いて、表情を引き締める。

「この法王選は、君と私の勝負になるだろう。例えどちらが敗れても、三柱の御子は聖都にとって重要な役割を果たす。遺恨を残さないために、もっと互いの理解を深めるべきだと思わないか」

 話が見えない。

 僕はただ、彼女の話をじっと聞くしかなかった。

「私は法王としての立場に就いたら、農地改革に手をつけたいと思っている。大神殿は多くの土地を有しているが誰も興味を向けず有効活用されていない。神殿に複数の研究者を招き入れ、より多くの食料を量産出来るように改良を施していきたい。私は進歩こそが大いなる主の意志であり、人々を導く者の責務だと考えているからだ」

 そこでフランは言葉を切り、それから僕の瞳を覗くように一歩前に出た。

「君は法王の立場に就いた時、どう動く? 何を為したいと考えている? 考えを、思いを聞かせて欲しい」

「私は……」

 フランのように大層な考えなんてなかった。

 そのような教育を受けた事もないし、大神殿の事だってよく知らない。

「私は、貧民街に生まれた身です。信仰もそれほど厚くなく、その日を生きる事に必死でした。あの、だから、私が法王選で勝つ事はきっとないと思うんです。だから、そんな立派な考えなんて一つもなくて、その……」

 考えがまとまらず、最後は消え入るように言葉を濁す事しかできなかった。

 目を伏せると、フランが冷たく言った。

「君は惰弱だな」

 痛烈な一言だった。

 僕は目を伏せたまま顔を上げる事ができなかった。

「私が聞きたかったのは君の考えだ。言い訳ではない」

 そう言って、彼女は踵を返した。

 最後に見えた横顔には、失望の色がありありと浮かんでいた。



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02話

「ルイ聖猊下、気分が優れないようですが……」

 侍女のアリア・ミラーが法衣を脱ぐ手伝いをしながら、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 自室に戻った僕の頭の中には、フランツィスカ・フォン・グランデーレの痛烈な言葉が繰り返し鳴り響いていた。

 ――君は惰弱だな。

 反論の余地がなかった。

 流されるまま慈愛の御子として法王選に臨もうとする薄弱な意志が完全に見透かされていた。

「あれだけの民衆を前にすれば、ルイ聖猊下が重圧を感じるのも無理がありませんよ」

 アリアが言葉を続ける。

 彼女が僕の侍女に任命されたのは三日前の事だった。まだ互いによく知らない仲ではあるが、滲み出る人柄の良さからつい本音が漏れてしまった。

「いえ……気分が悪いわけではなく少し落ち込んでいまして。先程、グランデーレ様に御子としての目的を聞かれたんです。僕は何も答えられませんでした」

 アリアは黙って、続きを促す。

「僕は法王という存在について、その執務について良く知りません。あまりにも知識が欠落しています。法王という具体像が未だに描けていない。だから何も答えられませんでした。ただ流されてここにいるだけの空っぽな僕がいました」

 アリアを見る。

 彼女は僕よりも神殿に近しい位置で生きてきたに違いない。

 法王という存在について、より良く知っているはずだった。

「先代のヴィクトール聖下はどのようなお方でしたか? どのような思いを抱え、法王として執務に当たっていたのでしょうか?」

 アリアは一瞬、驚いた顔を浮かべ、それから困ったように笑った。

「申し訳ありません。私、ヴィクトール聖下とお会いした事がないんです。ご存知なのは枢機卿団だけです。直接繋がりのあった方々は崩御に合わせてお隠れになりましたから」

「お隠れに?」

 思わず問い返す。

「ええ。法王聖下が崩御された際は、周囲の人間もそれに付き従うのが慣例なんです。枢機卿団だけは次代の御子様をお助けするため現世に残りますが」

 思わず動きが止まった。

 周囲の人間もそれに付き従うとは、つまり、法王と共に死を選ぶという事なのだろう。

 そんな事は聞いたことがなかったし、ガランドの説明にもなかった。

 呆気に取られる僕に、アリアが冗談めかして笑う。

「だから、ルイ聖猊下にもしもの事があった場合は、私も付き従いますよ」

 出会ってまだ三日であるというのに、アリア・ミラーは確かにそう言った。

 冗談めいた言い方ではあったが、彼女はきっとそれを実行するだろうと思った。

 御子という立場、法王という立場はそれほど重いのだ。

 数多の民衆の運命を左右し、近しい者の命すら道連れにする。それが法王の座に君臨するという事なのだろう。

 ――君は惰弱だな。

 フランツィスカ・フォン・グランデーレの言葉は正しい。

 御子という役割をただ流されるままに演じようとしていた僕はどうしようもなく愚かで惰弱だった。

「アリアさん、歴代の法王の記録などは残っていますか? 歴代の法王が為してきた事が知りたいんです」

「書庫があったはずです。私のような者は入る事を許されていませんが、ルイ聖猊下なら大神殿内のどこ部屋でも好きに入れるはずです」

「書庫……」

 アリアの手を借りて法衣を脱ぎ終わり、楽な普段着に着替える。

 普段着と言っても、僕が貧民街で着用していた布切れとは違う。随分と肌触りが良く、鮮やかな深緑色に染められたものだった。

「少し、出かけてくるよ。アリアさんはもう休んで大丈夫です」

「はい。ではお言葉に甘えて」

 アリアがにっこりと笑ってお辞儀する。

 僕も一礼して、あまりにも広すぎる自室から廊下に飛び出した。

 この大神殿の中を、僕はよく知らない。

 初日にガランドに案内されたのは大食堂や礼拝堂、庭園や神殿騎士の詰め所などで、大部分の施設については何も聞かされていなかった。

 部屋を出て左が大食堂に繋がっている。反対側にはあまり足を運んだことがなく、探索もかねて右側に進むことにした。

 長い廊下は大きな窓によって明るく照らし出されている。窓には採光に適した透明なガラスが使われていた。貧民街の端にある高級娼館でもこんな素材は使われていないだろう。

 大神殿の造りは聖都中に法王の威光を見せつけるように、贅沢の限りを尽くしている。

 建築物だけではない。食事だってそうだ。貧民街で主に食べられている固くて黒いパンはここでは出てこない。柔らかくて白いパンと高価なジャムがついてくる。

 なんだか夢を見ているようだった。

 考えながら歩いていたせいか、前から近づいてくる足音に僕は気づかなかった。

 突然曲がり角から姿を表した女性とぶつかりそうになり、慌てて足を止める。

「ああ、ルイくんか。奇遇だね」

 視界に銀色の髪が舞った。

 涼し気な青い瞳が間近で僕に向けられる。

 破壊の御子ベルタだった。

 僕と同じく平民出の彼女は、実に気さくな様子で声をかけてきた。

 同じ御子として彼女とは何度か話したことがある。少なくとも貴族であるフランツィスカ・フォン・グランデーレよりは接しやすい。

「ベルタさん。お散歩ですか?」

「うん。この神殿は見慣れないものばかりだから」

 ベルタはそう言って微笑む。

 僕より一つ年上の彼女は、御子という立場に放り出されても状況を楽しむ余裕があるようだった。

「どこか出かけるの?」

「書庫を探してるんです。歴代の法王様の記録が残っていると聞きました」

「書庫? ルイくんは文字が読めるの?」

 ベルタが不思議そうに首を傾げるのも無理はない。

 貧民街の識字率は恐ろしく低く、僕が文字を学ぶ機会に恵まれたのも偶然だった。

「はい。一応、一通りは」

「教会で教えてもらったの? 意外と信仰に厚いんだ?」

 どこか意外そうな顔をするベルタ。

 僕は思わず苦笑した。貧民街に教会はない。全てを救う神は存在しなかった。

「近くの娼館に文字を読める人がいて、その人がお客さんを取っていない暇な時に教えてくれたんです。将来役に立つからって」

 娼館、という言葉にベルタの表情が固くなるのが分かった。

 彼女は平民出ではあるが、貧民街で育ったわけではない。彼女が知る聖都と僕が知っている聖都は恐らく別物なのだ。

「それより、ベルタさんも一緒に書庫に行きませんか? 法王選に向けて準備が必要だと思います。きっと、グランデーレ様は僕たちよりずっと有利な立場にいます」

「ううん。私はいいよ。私は破壊の御子だから」

 彼女は諦めたように笑いながら首を振った。

「破壊の力なんて、振るう事のない方がいいんだよ。表に出るべきじゃない。そう思わない?」

 私はね、と彼女は言葉を続けた。

「旗の色を決めるのに、軍事力を押し出すべきじゃないって思うんだ。旗を持つべきはきっと慈愛の御子であるルイくんだよ。だから歴代の法王様で慈愛の御子が最も多く選ばれてるんだ」

 肯定も否定も出来なかった。

 黙った僕を見て、ベルタが明るい声で話を続ける。

「聖女イリアって知ってる? 列聖第二位の。破壊の御子でありながら法王の座に君臨して、侵略者から聖都を守りきったの。彼女は外敵を排除するとすぐに法王の座を他の御子に譲ったんだって。きっとそれが破壊の御子のあるべき姿だと思う。私は聖女イリアのようになりたい」

 だから平時の法王の座なんていらない、とベルタは笑ってみせた。

 彼女は既に破壊の御子としての答えを持っていた。

 諦めているだけではなかった。あるべき姿を思い描き、身を引こうとしていた。

 僕と同じだと思っていたが、思い違いをしていたようだった。

 ――君は惰弱だな。

 フランツィスカ・フォン・グランデーレの言葉が脳裏に蘇る。

 僕だけが出遅れていた。置いていかれていた。

「……ベルタさんは、凄いと思います。僕はまだ御子としても法王としてもどうすれば良いかなんて全く答えが出てない状態で――」

 そこで僕は言葉を切った。

 後ろから慌ただしい足音が聞こえたからだ。

 振り返ると、廊下の向こうから一人の神殿騎士が走ってくるところだった。

「ルイ聖猊下。お父上と友人を名乗る者がいらっしゃっております」



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03話

「元気そうだな、ルイ」

 案内された応接間に入るなり、僕の父親であるルークスが朗らかに笑いながら声をかけてきた。

 浅黒く焼けた肌と、痩せこけた頬によってやや強面の印象を受ける父だが、僕にとっては頼りになる自慢の父だった。

「うん。何も変わらないよ、父さん」

 答えながら、父の隣に座る二人の人物に目を向ける。

「イーラとロイも来てくれたんだ」

 イーラは貧民街の娼館で働く高級娼婦だ。そしてロイは娼館街の用心棒をやっている。二人とも僕が小さい頃からの顔なじみだった。

「御子の初開式、見たよ。綺麗だった」

 イーラが囁くように言う。どうやらあの観衆の中にいたらしい。

 用心棒のロイがからかうように口を開いた。

「遠目には、両隣のお嬢さんと並ぶほどだったぜ。前からお前は男娼になるべきだと思ってたんだ」

「お前、親の前で良くそんな事を……」

 父のため息を聞きながら、クス、と笑みが漏れた。

 聖猊下と恭しく呼ばれるより、こうやって雑に扱われた方が気持ちが楽だった。

「ルイ、ここの生活はどう? 苦労してない?」

 イーラがソファから身を乗り出し、心配そうな顔をする。

「うん、皆いい人ばかりだよ。大丈夫。食堂では柔らかいパンも出てくるしね」

「そう……いつでも帰ってきて良いからね」

「ああ、ここの暮らしが合わなければ抜け出せばいい。御子の力がなんだ。神殿に縛られる必要なんてないさ」

 ロキはそこで言葉を切って、小声で付け足した。

「うちは金を数えられる奴が少ないんだ。たまには手伝いに戻ってきてくれ」

「ここと同じ柔らかいパンが出るなら考えておくよ」

 互いに憎まれ口を叩きながら、雑談に花を咲かせる。

 彼らと語るのはくだらない話ばかりだ。

 賭けに負けた話。衛兵と追いかけっこをする裸の男の話。娼館の馬鹿げた客の話。

 どうでも良い話が、今の僕にはとても心地が良かった。

「……随分と話したな」

 父がそう言って、イーラに目を向ける。

「そろそろ仕事だろう」

「分かってる」

 父の言葉に呼応するようにロイが席を立った。

「そろそろお暇としますか」

「ルイ、また来るからな。無理はするなよ」

 父とロイが戸口に向かう。しかし、イーラはソファに座ったまま動かない。

「イーラ?」

 父が呼びかけると、彼女は座ったまま「先に行ってて。すぐに追いつくから」と何でも無い風に言った。

「ああ」

 父は短く答えて、ロイを連れてそのまま応接室から出ていく。

 あとに残ったイーラはソファに座ったまま、僕に視線を投げかけた。

 イーラは貧民街では珍しい金色の髪をしている。よく手入れされた長い髪と、胸を強調する藍色のドレスが彼女の美しさを際立たせていた。

 その容貌に加えてどこか陰のある表情が、彼女を娼館街一の高級娼婦まで押し上げた。彼女の憂いを帯びた表情は、客の支配欲を強く刺激するらしい。

 僕もまた、彼女の陰のある仕草や視線に弱かった。

「ルイ、ねえ。お願い」

 掠れるような小さな声で、彼女はそう言った。

 一見すると意図の不明瞭な言葉だっが、付き合いの長い僕には彼女が何を求めているのかすぐに分かった。

 僕は頷いて、ソファに座る彼女の前に立った。

 そっとイーラの肩に手を回し、その小さな頭を胸に引き寄せる。

 彼女の安堵するような息遣いが胸元で感じられた。同時に消毒液の香りが鼻をついた。

 この儀式めいた行為を始めにしたのは一体いつだったか、既に記憶は曖昧だ。とても幼かった頃から続けている気がする。

「大人は誰も信じられない」

 かつての彼女は、そう言って人目につかない所でよく泣いていた。

 高級娼婦ですらなく、寂れた安宿街で布切れ一枚で立たされていた彼女はいつも顔を伏せていた。

 その頃からずっと、この儀式は続いている。

 どこか恥じるように胸元でイーラが身じろぎし、それからそっと身体を離す。

「ありがとう。落ち着いた」

 イーラはそう言って陰のある薄い笑みを見せる。

 仕事前の彼女は、昔から精神的に不安定になりやすい。僕はかける言葉を見つけられず、ただ手を差し出して彼女が立ち上がるのを助ける事しか出来なかった。

 言葉もなく、どちらからともなく戸口に向かい、廊下に出る。

 その時、鋭い声が飛んだ。

「驚いた。お前たち、何をやっている」

 振り向いた先には、支配の御子フランツィスカ・フォン・グランデーレの姿があった。

 その瞳は怒りによって燃えるように朱く染まり、軽蔑と嫌悪の感情が宿っている。

「聖なる御子の身でありながら汚らしい娼婦と密会するなど、どういう了見だ。答えろ、慈愛の御子ルイ」

 あまりにも迂闊で軽率だった、と言わざるをえない。

 イーラの露出度の高いドレス姿はどう見ても高級娼婦であったし、神殿内部で不埒な行為に耽っていたと誤解を受けても仕方がないものだった。

 今更のようにこの状況のまずさに気づき、嫌な汗が額に滲んだ。

 弁明の言葉を探すも、何を言っても火に油を注ぐだけのような気がして結論の出ない迷路を思考がぐるぐる回る。

 言葉を失う中、すぐ隣にいたイーラが音もなく前に出た。

「グランデーレ聖猊下。私と彼はただの古い知り合いでしかありません」

 囁くような、しかし冷たく突き放すような声色でイーラが否定の言葉を口にする。

 フランはイーラを刺すような視線で見つめ、それから考えるように目を閉じた。

「名は?」

「娼館アインンズヘルムに身を寄せるただのイーラでございます。此度は彼の父とともに参りました。ご存知の方もいらっしゃるはずです」

「アインズ、ヘルム……」

 フランが娼館の名前を繰り返す。

 恐らく、聞いたことがあるのだろう。アインズヘルムは社交界と深い繋がりのある高級娼館だ。上流階級の婦人には、アインズヘルムから身請けされた者も数多くいる。

「……なるほど。私の誤解だった。謝罪しよう」

 身元不明の怪しい娼婦でないと分かったからか、フランの緋色の瞳から怒りの炎が消える。

「しかし、二人きりで密室に籠もる事は感心しない。今後、控える事だ」

 フランがそう言って、立ち去ろうと踵を返す。その背中をイーラの冷たい声が追った。

「我らが大いなる主はあらゆる人に公平であるはずです。父と子が二人で会う事を誰にも咎められないように、御子様と娼婦が二人で会おうと何も問題はない。それが大神殿の教えではありませんか」

 フランの足が止まった。

 危険だと思った。

 娼館アインズヘルムは後ろ盾として強いものではない。ここでイーラがフランツィスカ・フォン・グランデーレの怒りを買うべきではない。

 僕はイーラを制止しようと首を小さく振る。しかし、彼女はフランの背に対して冷たい視線を向けたまま退こうとはしない。

「大いなる主は確かに何者にも公平だが、聖職者は決して身体を売らない。それが神聖であるという事だ。覚えておくがいい」

 フランはそれだけ言って、立ち去っていく。イーラは何も言わず、その背中を見送っていた。

 後にはフランの足音と、沈黙だけが残された。



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04話

 イーラを見送った後、僕は本来の目的地だった書庫を探し当てた。

 殆ど人が来ないためか、室内全体が埃くさい。

 咳き込みながら、順番にそれらしい資料を取り出していく。

 そしてすぐ、この書庫には僕の欲しい情報が残されていない事がわかった。

 歴代の法王の記録は、ただ事実を羅列しただけの簡素なものだった。

 何年に即位し、何年に崩御したか。どの御子の力を宿していたか。そういった記録が淡々と残されているだけだった。

 歴代法王の思想や政策に関する記述はあまりにも少ない。法王選に関する記録も僕が探した限りでは見つからなかった。

 唯一、戦争に関する記録に聖女イリスの名前が出ているだけだ。しかし聖女イリスがどのように軍を率いたか、どのように侵略者を打ち払ったかは記述されていない。

 三度の会戦における動員数と、その損害がただ残されているだけだった。

 これが恐らく神殿書記官を縛る戒律なのだろう。私的な意見や考察が一切禁止されているのだと推測できた。

 厄介だ。

 先代のヴィクトール聖下は僕と同じ慈愛の御子だったと聞いている。

 しかし彼がどのような理想を描き、どのような政策を実行してきたのか参考に出来る記録が何もない。

 そして、慈愛の力をどのように行使したのかも分からない。

 そもそも慈愛の力というものが具体的に何を指しているのか、僕は知らなかった。先代のヴィクトール聖下が不思議な力を行使したという伝聞は残っていない。

 記録に残っていない以上、枢機卿団で特に先代聖下と親しかった人から直接話を聞くしかなさそうだった。とりあえず、主席枢機卿であるガランド・カーディナルを頼るのが自然だろう。

 そしてもう一つ気がかりな事があった。

 法王選に敗れた御子の記録が残っていないようなのだ。

 僕が気にしているのは、法王選の後に待ち受ける破壊の御子の動きだ。

 此度の破壊の御子であるベルタは野心を持っていないようだったが、過去には強い野心を持った破壊の御子がいてもおかしくはない。法王選で敗れたとしても、破壊の力によって法王の座を奪おうとする者が一人くらいいたのではないだろうか。しかし、そういった記録は特に残されていない。

 それほど広くはない書庫室を見渡す。

 御子に関する記録を大雑把に見ただけで、神殿騎士や神官、枢機卿団に関する記録は読んでいない。どこかに関連する記述があるかもしれない。これら全てに目を通すには多くの時間を要する。

 そこまで考えた時、廊下から足音が響いた。

 僕は手に持っていた資料を棚に戻し、戸口に目を向けた。

 扉が開き、神殿騎士が顔を覗かせる。神殿騎士としては珍しい若い女性だった。

 目が合うと彼女は背を伸ばし、仰々しく頭を下げた。後ろで結った栗色の髪が鞭のように舞う。

「神殿騎士団の副団長を務めるクーミリア・フォン・エヴァンディッシュです! 報告致します! 大神殿の庭園にて侵入者が見られました」

 侵入者。

 嫌な予感がした。

「現在、神殿騎士を総動員して侵入者を捜索中です。ルイ聖猊下にはご不便をおかけしますが、騒動が落ち着くまで私室での待機をお願い致します」

「わかりました。侵入者は一人ですか?」

「はい。小柄な女と聞いております。陽動の可能性もあり、団長が中央即応軍を率いて聖都中へ展開しております」

 今日は僕たち御子のお披露目があったばかりだ。その晩に神殿に侵入するとなると暗殺を目的としている可能性が高い。

 しかし、神殿騎士だけでなく中央即応軍まで動かすとは、やや大げさな気がした。

 クーミリア・エヴァンディッシュに案内される形で書庫を出て、私室へと向かう。

 廊下では神殿騎士が慌ただしく走り回っており、三人一組で行動していた。

 半歩前を歩くクーミリア・フォン・エヴァンディッシュを見る。白いプレートメイルを身に着けた彼女は、油断なく周囲を警戒している。

「エヴァンディッシュさんは、先代のヴィクトール聖下をご存知ですか?」

「は、ヴィクトール聖下ですか?」

 クーミリアは虚を突かれたように一瞬警戒を解いて僕を見た。

「はい。先代は僕と同じ慈愛の御子だったと聞いています。先代が考えていたこと、成し遂げたかった事を知っておきたい、と思いまして」

「……私が小さかった頃に一度だけお会いした事があります。神殿の庭園で、子供たちに祝福を授けてくださってたんです。私も慈愛の祝福を受けました」

 彼女は懐かしむように語り始める。

「不思議な方でした。聖下を前にしただけで心が温かくなるんです。不安や緊張が一瞬で消えてしまって、多幸感だけが残りました。ほんの一瞬の出来事でしたが、今もその祝福を受けた時の光景が記憶に焼き付いています」

 間違いない。慈愛の力だ。

「エヴァンディッシュさんがヴィクトール聖下にお会いしたのは、その一度だけですか?」

「はい。子供たちに祝福を授ける機会は何度かあったと聞いていますが、私が実際にお会いしたのはその一度きりです。とてもお優しい方でした」

 そういえば、と一旦言葉を切って真っ直ぐと僕を見据えた。

「ルイ聖猊下と雰囲気が似ていたかもしれません。穏やかで、物静かでした。だから私は、ルイ聖猊下を応援してるんですよ」

 応援。

 何気なく付け足した言葉は、三柱の御子に対して中立でなければならない神殿騎士として不適切な言葉だった。

 つまり彼女は、法王選において僕に投票すると暗に言っているのだ。

 僕はわざと、その言葉を無視した。

 彼女もその意図を汲んだのか、それから先は何も言わず周囲の警戒に戻った。

 無言のまま私室に辿り着くと、彼女は姿勢を正した。

「では、侵入者について続報があればすぐにご報告致します」

「わかりました。お気をつけて」

 最後に言葉をかけてから、私室の扉を開けて中に入る。

 侍女のアリア・ミラーはいなかった。広くて静かな部屋は、どこか冷たい空気が張り詰めている。

 部屋の奥の窓ガラスから漏れる月明かりを頼りに、明かりを灯す。

 遠くから虫の鳴き声が聞こえた。

 ベッドに向かおうとして、それから足を止める。

 服の下のベルトに手を伸ばすと、重い金属の感触があった。

 手に馴染むそれを掴んだまま、ゆっくりと窓ガラスに向かう。

 部屋の中に、僕の足音が妙に大きく響いた。

 窓の前で足を止め、ゆっくりと鍵を開ける。カチ、と小さな音とともに窓が勢いよく開いた。

 部屋が負圧になっていたのか、外から勢いよく空気が入り込んでくる。

 風の音とともに、おどけた声が響いた。

「これはこれは、偉大なる法王聖下ではありませんか」

 姿は見えない。

 彼女はそういう存在だった。

「まだ法王じゃないよ。法王選に勝たないといけない」

「ああ、聖なる法王聖下。ああ、聖なる御子聖猊下。人智果てなし無窮(むきゅう)の遠(おち)に洋々たる御身。汝を慕いあげ、我ら今日も主のお傍に」

 夜風に彼女の歌声が響く。

 庭園には神殿騎士も多くいるはずだ。あまり悠長に話している時間はない。

「要件は?」

「要件? 要件だって? ボクが君に会うのに要件が必要なのか?」

 演技じみた話し方だが、その声には確かに怒りの色が乗っていた。

「神殿騎士が総出で捜索に出てる。時間がない」

「神殿騎士だって? あいつらは戦場に出た事もないし、殺し合いをしたこともない。まるで警戒に値しないよ」

 それより、と彼女の声が低くなった。

「別れの挨拶もなく、ボクの前を去った理由を教えて貰おうか。随分と冷たいじゃないか」

「レイ。時間がなかったんだよ。何の前触れもなく枢機卿団と神殿騎士たちが迎えにきて、そのまま何も分からないまま神殿に連れて行かれた。いきなりだったんだ」

 貧民街には禄な仕事がなく、そんな掃き溜めで育った僕の友人たちも例外なく禄な仕事についていない。

 娼婦。用心棒。乞食。運び屋。傭兵。そんなのばっかりだ。

 その中でも彼女、レイの仕事はとびっきり禄じゃない。

 彼女は、暗殺業に手を染めていた。

 夜の世界は、彼女の縄張りだ。

「なるほど。じゃあイーラにも挨拶はしなかったんだね?」

「その場にいた父さんとロイにしかしてないよ。イーラは今日正面から面会に来たけど」

「そうかそうか。ボクを邪険にしたわけじゃないわけだ。まあいい。信じるよ」

 すっ、とそれまで姿を隠していた彼女が上から降ってきて、窓枠に足をかけて中に入ってくる。

 闇夜に溶けるような黒髪と黒曜石のような瞳に加え、彼女は視認しづらい黒装束を身にまとっていた。

 どこか飄々とした表情を浮かべながらも、その双眸は鋭利な刃物のように研ぎ澄まされ、爛々と危険な色を放っている。

「それでどうするんだい。君はこれから聖なる法王聖下になりうるわけだ。良い機会だ。腐った貧民街を捨てて、このぬるま湯のような世界で生きていくのかい?」

 その瞳は、こう言っていた。

 裏切るのか、と。

「……正直、よく分からなかった。突然、御子様だとか聖猊下なんて呼ばれて、先の事なんて何も考えてなかった」

 でも、と今日の事を思い出す。

「大勢の観衆の前で、慈愛の御子だって紹介された。支配の御子には惰弱だって失望された。破壊の御子は既に答えを持ってた。それで覚悟が出来た」

 だから。

「僕は法王になるよ。せっかく表の世界に引っ張り出されたんだ。貧民街を変えられる唯一の機会なんじゃないかって、そう思う」

「貧民街を、変える? あの腐った暗黒街を?」

 レイが嗤う。

 しかし僕が真顔を貫いているのを見て、彼女はすぐに嗤うのをやめた。

「表から正々堂々と変えていくよ。でも多分、法王の力だけじゃダメなんだと思う。歴代の法王は貧民街を変えられなかった。きっと正しいだけじゃダメなんだ」

「ああ、そうだ。歴代の法王は何も出来なかった。ボクたちは泥水を啜り続けてる」

「うん。そして御子になった僕は表でしか動けない。だからレイは裏から動いて欲しい。僕の影になって欲しい」

 レイの爛々とした黒い瞳が、楽しそうに煌めく。

「影?」

「そう。日は絶対に当たらない。多分、そういう存在が必要だ」

 クスクスと彼女の笑い声が響いた。

「ああ、いいよ。ボクは君の影になる。そして、君はボクの本体になるんだ。二人で一つ。一心同体。元々ボクたちはそういう存在だった」

 彼女がすっと近づいて、耳元で囁く。

「君の本質はいつだって変わらない。ボクたちはきっと離れられない。ボクだけは君を裏切らないし、君はボクを裏切ってはならない」

 彼女の言葉が、脳髄に染み込んでいく。

「誰を殺せばいい? 手始めに他の御子を殺してみようか。それから次に有力な枢機卿を消そう。それから――」

「レイ」

 彼女を制止する。

「殺すのは、神殿側じゃない。貧民街の方だ」

 半歩引いて、すぐそばにあった彼女の瞳を覗く。

 彼女は驚いたような表情を浮かべていて、それからすぐに破顔した。



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05話

「御子にはどれくらいの裁量権が与えられていますか?」

 翌朝、僕は礼拝堂で主席枢機卿であるガランド・カーディナルに疑問をぶつけていた。

 顔を会わせるなり質問した僕に、ガランドは長い顎髭を撫でながら、ふむ、と一呼吸置いた。

「裁量権とは具体的に何を指しているのですか?」

「率直に言うとお金です。法王ですらない御子が動かせる資金はどれくらいのものですか?」

「お金、ですか」

 ガランドの目に警戒の色が宿る。

 貧民街の出身の僕がお金を欲している事を快く思っていないのだろう。

「人を雇いたいと思っています。それから飢えを凌ぐためのパンも大量に必要です」

「……人ですか。それは侍女のアリア・ミラーなど、神殿内部の人間を動かすだけでは難しい事ですか?」

「はい。貧民街に拠点を築き、常駐させる者が必要です。貧民街に常駐しても良い、という方がいるなら新たに雇う必要はないんですが……」

 貧民街に常駐したい、なんて酔狂な人間がいるわけがない。

 ガランドは唸るように息を吐き出し、それから目を閉じた。

「先に使途と概算を出してください。枢機卿団が承認するような正当な事由があれば資金を準備します」

「突然の無理に応じてくださってありがとうございます。もう一点確認したい事があるんですが……」

 ガランドの老いた瞳が僕を真っ直ぐ見据え、先を促す。

「法王選により法王が決定した時、残った二人の御子はどうなりますか? どれほどの権限が残されますか?」

「残った二人の御子様は法王聖下を助ける立場になります。権限としては枢機卿団と同等のものが与えられます。ただし、これは歴代の御子様によって異なっています。法王聖下が自らそれぞれの御子様に特別な権限を与えた事例が多数あるためです」

 御子は法王の直下の駒であり、その処遇は法王に全て委ねられる、という事なのだろう。

 これは予想の範疇だ。他人から与えられるあらゆる権限は個人的な利害関係や信頼関係に左右される。法王や御子も例外ではない、ということ。

「資金を動かしたい、と願い出たのはルイ聖猊下が初めてです。その行動力はヴィクトール聖下を思い出します」

「ヴィクトール聖下、ですか」

 思わず先代の名前を繰り返すと、ガランドは皺の入った顔をくしゃくしゃに丸めた。

「ええ。今から四十年前になります。法王選においてヴィクトール聖下は先陣を切って動きました。先代の支配の御子であるラティア聖猊下を連れて、中央街に蔓延していた薬物の根絶に取り組まれました。聖下は資金を動かすどころか、僅か五日で神殿騎士と中央即応軍を動かしたんです。我々枢機卿団は慌てふためきました」

 懐かしむようなガランドの言葉に、僕は思わず聞き入った。

「法王選の真っ只中であるというのに、ヴィクトール聖下は多くの敵を作り上げていきました。敵と味方を明確に線引きし、聖都の複雑な勢力図を単純化しました。当時のヴィクトール聖下はまだ二十四歳でしたが、今思えば既に完成した精神性を有されていたように思います。迷いなく重大な決定を積み重ねていく聖下は、あっという間に多くの人々を麾下に取り込んでいきました」

 クーミリア・フォン・エヴァンディッシュから聞いた印象と違う。

 彼女の話では温厚な印象が強かったが、ガランドの話では苛烈な印象を受ける。年を重ねて丸くなったのだろうか。

 中空を見つめていたガランドの眦が優しい皺を作って、こちらを見る。

 年を重ねて濁ってしまった水晶体は、僕を見ているようで僕を見ていない。僕の後ろにいる何かを見ている。

「ルイ聖猊下。貴方からはヴィクトール聖下と似たものを感じます。期待していますよ」

 

 

 

 馬車に乗ったのは、一体何年ぶりだろう。

 枢機卿団が用意した馬車の中で、僕は幼かった頃の記憶を振り返った。

 確か、イーラが高熱を出した時だ。

 乱暴な客にやられた複数の傷口が化膿していた。彼女は苦しそうに呻きながら、傷口を必死に隠した。こんな姿を見ないでくれ、と懇願するように泣きじゃくった。

 誰も助けてくれなかった。彼女を雇っていた大人だって、見てみぬ振りをした。 

 僕は彼女を抱きかかえて、馬車に乗った。御者は嫌そうな顔をしていたが、僕がなけなしの銀貨を握らせると渋々了承した。

 何もかもが最悪だった。

 辿り着いた医者だって、僕の汚い身なりを見ると門前払いしようとした。罵声を浴びながら頭を下げた。

「よく見たら、綺麗な目と顔をしているじゃないか」

 突然態度を変えた医者の手が、僕の首筋を撫でた。

 そのまま僕は身体を売った。

 初めてだった。

 医者は僕の事をひどく気に入って、そのまま三日間そこで治療に専念できるようになった。三日耐えた。

 何もかもが最悪だった。

 イーラの傷口の処置が終わると、僕たちはすぐに診療所から放り出された。

 帰りの持ち合わせはなかったから、歩いて帰る事になった。

 イーラは何度も僕に許しを乞うように泣いていた。

 街角で寒風を凌げそうな場所を探して、施しを受けたパン一切れを二人で分けて飢えを誤魔化した。

 イーラが仕事の前に精神が不安定になるようになったのは、それからだった。

 何もかもが最悪で、全てが憎かった。

 それが、初めて馬車に乗った時の記憶だ。ろくな思い出じゃない。

「ルイ聖猊下、一体どこに向かうんですか?」

 護衛として馬車に同乗している神殿騎士団の副団長、クーミリア・フォン・エヴァンディッシュが不安そうに言う。

 馬車は今、貧民街を走っている。貴族である彼女は貧民街に足を運んだ事が恐らくないのだろう。不測の事態に対応できるよう、常に剣に手がかけられている。

「娼館街だよ」

 娼館街は中央街から比較的近い位置にある。それほど遠くはない。

「娼館、ですか?」

 クーミリアの顔に嫌悪の色が混じる。

 そこで馬車が止まった。

「着きましたよ」

 御者が言う。

 僕は馬車から飛び降りて、すぐ後ろのクーミリアに手を伸ばした。彼女がおずおずと周囲を警戒しながら手をとって降りてくる。

「ここが……」

「そう、娼館街の入り口。と言っても昼の内はただの貧民街と変わらないけれど」

 説明しながら、娼館街を進んでいく。クーミリアが半歩後ろを維持して着いてくる。

「ルイ!」

 不意に声がかけられる。

 振り返ると、胸を強調する服を身にまとった女性が立っていた。

 レミア。この辺りを縄張りにする娼婦の一人だった。

 彼女には両腕がない。

 数年前に窃盗の容疑で肘から先を切り落とされてしまった。中身のない袖口はふらふらと振り子のように揺れている。

 駆けつけてくるレミアを威圧するように、クーミリアが僕の前に出る。しかし、レミアは気にせず話しかけてくる。

「あー、本当に御子様になったんだ。横の人、護衛?」

「汚らしい売春婦め。ルイ聖猊下に不用意に近づかないでください。危険であると判断すれば斬ります」

 クーミリアが冷たく言い放つと、レミアは大声で笑った。

「聖猊下? 聖猊下だって!」

 馬鹿笑いするレミアを前に、クーミリアの手が腰の剣に伸びる。

 レミアはすぐに笑うのをやめて、卑屈で媚びるような視線を向けた。

「ま、待った。悪気はないんだよ。私バカだから、仰々しい言い回しに慣れてなくて。それで、ルイ聖猊下は何をしに?」

「アインズヘルムに向かうところだよ」

 短く言うと、レミアは首を傾げた。

「アインズヘルム?」

「イーラに会いに」

 レミアの瞳に、理解の色が宿る。

「そっか。羨ましいな」

 一瞬、寂しそうな表情が浮かんだ。

「元気でね、ルイ」

「……レミア。僕はしばらく、貧民街と神殿を往復する事になる。これで今生の別れじゃない」

「え?」

 意外そうな顔をする彼女に笑いかけて、それから僕は歩き出した。クーミリアが後に付き従う。

 すぐ先に娼館アインズヘルムが見えた。周囲の建物より外装に金がかかっている為、すぐにソレと分かるようになっている。

 店先で腕を組んで立っていた用心棒のロイが僕に気づき、怪訝そうな表情を浮かべる。

 彼は周囲を見回してから、僕の元へ駆け寄ってきて小声で言った。

「ルイ、ここは神殿騎士を連れてきていい所じゃない」

「わかってる。でも護衛が必要だった」

 僕はそれだけ言って、彼の横を通り過ぎてアインズヘルムの扉を開けた。視界の端で、ロイが困ったような顔をしているのが見えた。

 アインズヘルムのロビーにはまだ客がいない。この娼館を取り仕切る女主人のエマがいるだけだった。

 エマは元高級娼婦だ。白髪が混じる程度に年齢を重ねた今は引退して、娼婦を管理する側に回った。

 その彼女が、娼館に入ってきた僕とクーミリアを見て目を丸くしてた。

「ルイ。これはどういう……」

「エマさん、イーラはいますか?」

 事情も告げずに要件だけ簡素に伝えると、エマは慌ただしく奥の部屋に入っていった。イーラを呼びにいったのだろう。

「ルイ聖猊下、ここで一体なにを……」

 後ろでクーミリアが不安そうに言う。

 僕は迷いながら、クーミリアには最後まで伏せておく事にした。ここで反対されるわけにはいかない。

「エヴァンディッシュさん。資金をお願いします」

 クーミリアがおずおずと金貨の入った麻袋を取り出す。枢機卿団が承認した資金だ。

 僕はそれを受け取ると、中を確かめた。見たこともないような数の金貨が詰め込まれている。

 部屋の奥から足音が聞こえた。

 少しだけ、緊張するのが分かった。

 多分これは、僕の立場を一時的に悪くする。しかし、必要な事だった。

 先代のヴィクトール聖下がそうしたように、僕も敵と味方を明確にしていく必要がある。そして、僕が知る明確な味方はあまりにも少ない。

「ルイ?」

 奥からイーラが顔を出した。

 突然の来訪に、彼女は不思議そうに首を傾げている。

 僕は金貨の詰まった麻袋を身体の前に突き出して、イーラの後ろに立つエマに言い放った。

「慈愛の御子ルイの名において、娼館アインズヘルムからイーラを身請けしたいと考えています。今日はその商談に参りました」



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06話

 レミアの人生は失敗の連続だった。

 とりわけ大きかった失敗は、盗みだ。

 何度も捕まったのに、盗みをやめようとはしなかった。それ以外に生きていく術を知らなかった。

 そして十歳の時、色街に出てきた貴族相手に盗みを働いた。

 盗みの腕がいいわけでもないし、獲物を狙う目も悪かった。

 引き時を間違えたレミアは、遂にその負債を支払う事になった。

 代償は、両腕だった。

 見せしめとして公衆の面前で衛兵に肘から先を切り落とされた。

 立ち会った医者の処置で命だけは助かったが、両腕のないレミアは盗みを働く事もできず途方にくれた。

 ルイと出会ったのは、そんな時だった。

 痛みに身動きの取れないレミアに、ルイはパンを分け与えた。パンを持つ事すらままならなかった為、ルイが手頃な大きさにちぎって食べさせてくれた。

「ルイ、その子はどうせすぐに死ぬ。全て無駄になる」

 ルイの後ろでは、表情に乏しい少女が静かに苦言を呈していた。

 イーラだ。ルイやレミアより四歳も年上の少女は現実主義者だった。

 彼女はルイにべったりで、貴重な食料をレミアに分け与える事に反対していた。

 しかしルイは黙ってレミアにパンを分け与え続けた。レミアは何度も涙を零しながら、硬いパンを咀嚼した。

 レミアの人生は失敗の連続だったが、ルイとの出会いは大きな転機となった。

 娼婦をやっていたイーラを真似て、レミアも色街に立つようになった。

 両腕のないレミアが物珍しいせいか、客足は途絶えなかった。そういう趣向を持っている客は大勢いた。

 稼げるようになると、イーラもレミアを認め始めた。

 ルイ、イーラ、レミアは三人で行動する事が多くなった。

 貧民街では心から信頼できる相手というのは貴重な存在だ。

 誰もが一人で生きていくだけで精一杯で、他人の人生を背負う事なんてしない。

 しかし、ルイは一度救いを与えてくれた。イーラも消極的ではあったが、力を貸してくれた。

 信用できる仲間はこの上ない財産となる。

 レミアは二人を心から信頼し、そしてきっとルイに恋をしていた。ルイも心を許してくれていたのではないか、とレミアは思う。

 しかし、その関係は長くは続かなかった。

 ある日、大勢の衛兵が貧民街に現れルイを囲んだ。盗みの容疑があるのだと、衛兵たちはそう告げた。

 後はいつも通りの光景だった。罪人に自白させようと衛兵による暴行が始まった。三人の衛兵が小柄なルイをいたぶるように殴り、片腕を折った。ルイの悲鳴が貧民街に響き渡ったが、誰もが見てみぬ振りをした。

 レミアも例外ではなかった。道端で苦痛の叫び声をあげるルイの様子を遠目から眺める事しか出来なかった。

 衛兵を見ると身体が震えた。

 腕を切り落とされた時の事が脳裏をよぎった。

 怖かった。

 レミアは動く事が出来なかった。

 野次馬に紛れて立ち尽くすレミアはただ、腕を折られた上に踏みつけられるルイを安全な場所から眺めていた。

 そして、目が合った。

 涙でぐしゃぐしゃになったルイの透き通った瞳が、確かにレミアを射抜いた。

 助けを乞う視線が、レミアに向けられていた。

 そして野次馬の中、レミアは人混みの中にそっと身体を隠した。

 ルイの瞳から目を逸らし、見なかった事にした。

 レミアには両腕がなかったし、衛兵を止める度胸もなかった。何も見なかったのだと自分に言い聞かせた。

 イーラの声が聞こえたのは、その直後だった。

「やめて!」

 普段は静かなイーラが叫び声をあげていた。

 見ると衛兵の前に飛び込んで、殴りつけられるところだった。

 普段の澄ました顔からは想像できない形相で、衛兵相手に殴られながらも叫び声をあげていた。

 レミアはそれを見ながら、最後まで動けなかった。

 レミアの人生は失敗の連続で、恐らくそれが人生で二番目に大きい失敗だった。

 その一件を境に、ルイはレミアと一線を引くようになった。

 表面上の付き合いは変わらなかったし、両腕が使えないレミアを手伝う事はあったが、それまでのような穏やかな瞳をレミアに向ける事はなくなった。

 ルイがレミアを見る瞳の奥には、冷たい警戒の色が宿るようになった。

 信頼の出来る唯一無二の仲間から、その他大勢に成り下がったのだと自覚せざるをえなかった。

 ルイの横にいるのはイーラただ一人で、レミアはその資格を失っていた。

 その頃から、ルイが何の仕事をしているのか見えなくなった。

 レミアの代わりのようにレイという小さな女が馴れ馴れしくルイに付きまとうようになり、徐々に疎遠になっていった。

 ルイ、イーラ、レミア。

 仲の良かった三人組は思い出の中のものになり、今やその関係は完全に破綻している。

「あー、本当に御子様になったんだ。横の人、護衛?」

 久しぶりに再会したルイに、へらへらと声をかける。

「汚らしい売春婦め。ルイ聖猊下に不用意に近づかないでください。危険であると判断すれば斬ります」

 純白のプレートメイルに身を包んだ騎士が、まるで敵を相手するようにレミアを睨みつける。

 ルイは法王候補たる御子となり、レミアは汚らしい娼婦をやっている。

 レミアの人生は失敗の連続だった。

「ま、待った。悪気はないんだよ。私バカだから、仰々しい言い回しに慣れてなくて。それで、ルイ聖猊下は何をしに?」

「アインズヘルムに向かうところだよ」

「アインズヘルム?」

「イーラに会いに」

 その短いやりとりで、ルイがイーラを迎えに行くのだとすぐに分かった。

 まるで御伽噺だ。

 幼き頃の友人が王子様となり、囚われのお姫様を迎えにいこうとしている。

「元気でね、ルイ」

 もしも、とレミアは思う。

 あの時、ルイを助けるために走り出していたらどうなっていただろう。

 衛兵に飛びかかっていたら、あのまま三人揃って大きくなっていたのではないか。

 その他大勢に成り下がる事もなく、信頼出来る仲間として数えられていたはずだ。

 地べたに座り込みながら、あり得た未来を夢想する。

 過去の衛兵をぶん殴る妄想を、何度も繰り返す。

 そうして時間を潰しながら空を眺めていると、ルイたちが戻ってくるのが見えた。

 案の定、ルイの隣にはイーラがいる。

 いつものドレス姿ではない。一般市民のような地味な服装。

 ルイに身請けされたのだと一目でわかった。

 幼き頃の面影を残したまま美しく成長したルイと、どこか陰がある雰囲気を纏うイーラは並ぶとよく映える。

 そして、思うのだ。

 あの時イーラより先にルイを守るために動いていれば、その位置には自分がいたのではないか、と。

 レミアの人生は失敗の連続だった。

 あり得た未来、あり得た可能性がレミアの胸の中で黒い火種となって燻った。

「そこには、私がいたはずなのに」

 ルイに手を引かれ、物語のお姫様のように自由の翼を得ようとするイーラに、嫉妬の炎が渦巻く。

 そして美しく成長したルイに、レミアは暗く粘着質な視線をじっと向けたまま離さなかった。



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07話

 エヴァンディッシュ家は代々、大神殿に身を捧げてきた名家である。

 クーミリアの年が離れた兄もまた神殿に身を捧げており、先代のヴィクトール聖下の崩御に伴い、その身を天上の主へ捧げた。

 新たな神殿騎士に任命されたクーミリアもまた、次の法王の命尽きる時、その身を天上の主へ捧げなければならない。

 神殿騎士クーミリア・フォン・エヴァンディッシュの命は、常に法王と共に在る。

 法王選とは、彼女にとって命を預ける者の選択に等しい。市井の者とは法王選に臨む意味が全く異なる。

 だからこそ、クーミリアは目の前の光景が許せなかった。

 馬車の中、慈愛の御子ルイは高級娼婦と並んでいた。

 遥かなる貴き存在である御子が、汚らしい娼婦と共に。

 ありえない事だった。

 高級娼婦がいくら社交界と繋がりがあろうと、神殿に身を置くクーミリアにしてみれば道端に立っている娼婦と何ら変わらない穢らわしい存在でしかなかった。

 その娼婦はあろう事か御子であるルイに身を寄せ、安心したように目を閉じている。

 対するルイもまた、身を寄せるイーラに対して苦言を呈すどころか、気を許しているようだった。

 クーミリアの中で、言い知れない不快感が沸き起こった。

「ルイ聖猊下」

 自然と低い声が喉から飛び出た。

 ルイの透き通った瞳が、クーミリアを見る。

 何の警戒もしていない、無防備な目だ。

 御子の貴き立場に反して、あまりにも無垢なように思えた。クーミリアの中で急速に危機意識が生まれ、肥大化していく。

「その者は、娼婦でしょう」

「はい。でも、小さい頃からよく知った人です」

 ルイはそう言って、嬉しそうに頬を綻ばせた。

 反対にクーミリアの表情が固くなる。

「……信頼できるのですか」

「はい。僕が最も信頼している人です」

 嘘だ、とクーミリアは思った。

 この女は娼婦だ。男に媚びる事を生業にしている。金で何でもするような不誠実な生き方をしてきた女だ。

 慈愛の御子ルイは、まだ背も低く、やや幼い顔立ちを残している。このような女を上手く躱す術を、恐らく知らないだろう。

 神の子と言われようと、慈愛の御子ルイはまだ成長途中にある。御子を利用しようと企む、こうした外敵から庇護する存在が必要に思えた。

 枢機卿団は干渉を嫌い、あまりにも中立すぎる。侍女のアリア・ミラーもまだ幼く、慈愛の御子ルイを守れるような存在ではない。

 ならば、私が。

 神殿騎士は、法王の盾でなければならない。

 神聖で無垢な御子を穢れから守るのも務めだ。

 ルイの隣で目を閉じて眠るイーラを、クーミリアはじっと睨むように見つめた。

「エヴァンディッシュさんは」

 馬車の中、ルイの透き通った声がよく通った。

「剣がうまいんですか?」

「え? ああ、剣術ですか。エヴァンディッシュ家は代々神殿騎士として身を捧げており、それなりに覚えがあります」

「興味があるんです。今度、教えてくださいませんか?」

 覗き込むように首を傾げるルイの瞳は、驚くほど透き通って見えた。

「……危険です。その御身にもしもの事があれば……」

「実は、少しだけ教わった事があるんです。帝国の騎傑団から流れてきたロイという友人がいまして、その方から基礎だけ教わりました。もっとやってみたくて」

「帝国の、騎傑団……」

 周辺各国へ名を轟かせる武芸者の集団だ。虐殺幼帝と呼ばれる狂人の子飼いの者たち。

 それだけの者から手ほどきを受けた事があるならば、軽い訓練程度でひどい怪我をすることはないだろう。

「……承知しました。ルイ聖猊下のご都合のいい時に、いつでも仰ってください。不肖ながら、このクーミリア・フォン・エヴァンディッシュがお相手致します」

「はい。楽しみにしていますね」

 ルイが無邪気な笑みを見せる。

 その時、彼に寄りかかっていたイーラが目を覚ました。

 彼女は眠たそうにゆっくりと周囲を見渡した後、すぐ隣のルイを見て安心したように笑みを浮かべた。

「……夢じゃなかった」

 囁くような声。

 対して、ルイが笑みを返す。

「大丈夫。もう自由だから」

 二人のやり取りを見ながら、クーミリアは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 イーラの笑みには、どこか陰がある。声もそうだ。目を離したら消えてしまいそうな、そんな儚さがある。

 この女は、どうすれば男が自分を気にしてくれるか知っている。そういう所作を意図的にやっている。クーミリアにはそう見えた。

 ――気に入らない。

 慈愛の御子を利用しようとするこの女は危険だ、とクーミリアは警戒の目で彼女の一挙一動を注意深く観察した。

 それからふと、先程の両腕のない娼婦を思い出す。

 イーラを身請けした後、あの女は道端でじっとルイの事を見ていた。絡みつくような目でずっと。

 気持ち悪い女だ、と思った。

 貧民街で育ったルイはきっと、娼婦にも優しくしてきたのだろう。慈愛の御子に恥じぬ行いだ。

 その優しさを勘違いをしている娼婦が大勢いるのではないか、という危惧が生まれる。

 ルイがイーラを身請けした事が広まれば、同じように身請けを希望する娼婦が大勢出てくるだろう。まだ年端もいかないルイに対して、穢らわしい誘惑を振りまく女も出てくるかもしれない。

 神殿騎士は、法王の盾でなければならない。

 加えて、クーミリア・フォン・エヴァンディッシュは神殿騎士でも珍しい女騎士だ。同性のそういう動きには、愚鈍な男よりも機微に反応できる自信があった。

 慈愛の御子ルイの盾には自分こそが最も相応しいのではないか、という思いが芽生え、それこそが神殿に身を捧げてきたエヴァンディッシュ家の使命なのではないか、とクーミリア・フォン・エヴァンディッシュは命を預けるべき小さな法王候補に目を向ける。

 馬車の中で揺れる彼のさらさらした髪と、その間から見える透き通った瞳を、ただ綺麗だと思った。




同時投稿してる「崩恋~くずこい~」もよろしくお願いします。
現代が舞台のヤンデレ三角関係ものです。


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08話

 ルイは重い足どりで、神殿の中を進んでいた。

 立哨している神殿騎士たちが次々に頭を下げる。そして、彼らは僕の後ろを歩くイーラとクーミリアを一瞬だけ盗み見てから、何もなかったように真っ直ぐと姿勢を正すのだった。

 イーラの外見は目立つ。すぐに噂が広がるだろう。

 長い廊下を抜け、礼拝堂に出る。

 天窓から降り注ぐ陽光の中、主席枢機卿のガランド・カーディナルは膝を折り、大いなる主の意志を示す古代の石版に頭を垂れていた。

 礼拝堂の奥に立ち並ぶ石版は、僕には読めない。法科学校に一度身を置いた人しか読む事が出来ないと聞いたことがあった。

 僕たちの足音に気づいたのだろう。ガランド・カーディナルはゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返った。

 老いた優しい眦が、真っ直ぐとイーラに注がれる。そして彼は説明を求めるように、ボクを見た。

「彼女はイーラ。娼館アインズヘルムから身請けしてきました。僕に文字を教えてくださった方です」

「身請け、ですか」

 ガランド・カーディナルは驚いた様子もなく、しかし、見定めるようにイーラを見る。

「あなたはきっと、勤勉なのでしょう。良い事です」

「恪勤(かっきん)であれ、精励(せいれん)であれ。あらゆる事は三絶(さんぜつ)によって成されるのだと主は説かれております」

 恭しく頭を下げたイーラは、大いなる主の教えからいくつかを引用してみせた。

 ガランド・カーディナルの目の奥に、驚きの色が宿る。

 イーラは上流階級の人間が好む言葉を多く知っていて、それを糧に生きてきた高級娼婦だ。僕の交友関係において、彼女ほど高度な知識を持つ人はいない。

「イーラは多くの事に精通しています。そして貧民街にも詳しい立場にあります。貧民街の識字率をあげるため、安宿を借り上げて文字を教える拠点を作りたいと考えています」

 ガランド・カーディナルは無言で僕とイーラを見る。

 長い顎髭を撫でながら、考えるようにじっと目を閉じた。

 沈黙が落ちかけた時、それまで後ろに無言で控えていたクーミリアが口を開いた。

「お言葉ですが、ガランド猊下。神聖なる神殿が主導で元娼婦を動かすのは問題になるのではないでしょうか」

 クーミリア・フォン・エヴァンディッシュは貴族だ。

 彼女の価値観は、僕たちとは相容れない。

 ガランド・カーディナルに進言する彼女の横顔に、迷いや躊躇はない。

「加えて、多くの娼婦が身請けを希望して神殿に押し寄せる恐れがございます。神殿に不要な混乱を招く事になりかねません」

 ガランド・カーディナルはすぐに答えを出さず、目を閉じたままじっとしていた。

 そこへ、突然凛とした声が響いた。

「その者の言う通りだ」

 振り返ると、礼拝堂の入り口に支配の御子フランツィスカ・フォン・グランデーレが立っていた。

 人形のように整った顔立ちが、今は怒りよって人間らしく歪んでいた。

「言ったはずだ。汚らしい娼婦と密会するような真似は控えろと」

 フランツィスカ・フォン・グランデーレがゆっくりと近づいてくる。

 彼女の足音が、広い礼拝堂に響き渡った。

 ガランド・カーディナルとクーミリア・フォン・エヴァンディッシュが膝を折り、頭を垂れる。

 生まれながらの支配者は、その緋色の双眸で僕を射抜くように見た。

「ここは大いなる主の聖前(みまえ)だ。娼婦が来るような所ではない」

「イーラはもう娼婦ではありません。僕が身請けしました」

 フランツィスカの堂々とした振る舞いは、上流階級特有のものだ。

 彼女の作り出す威圧的な空気に呑まれないよう、彼女の瞳を正面から受け止める。

 イーラを身請けした以上、彼女との衝突が避けられない事は分かっていた。

「つまり神殿が、慈愛の御子が女を買ったと、そういう事か」

 フランツィスカ・フォン・グランデーレは怒りでその身を震わせていた。

 恐らく、今の彼女にはどんな言葉も通じないだろう。

 上流階級で形成された価値観と、神殿に対する信心がそれを許さない。

「君は自分が何をやったのか、理解しているのか。慈愛を司る御子が娼婦を買ったなどと広まれば神殿に対する疑心が生まれるだろう。法王選における君の勝ち筋はこれで潰えたも同然だ。神聖なる儀式を台無しにするつもりか」

 そもそも、とフランツィスカが声を震わせる。

「いわゆる貧民街は、聖都ではない。知っているはずだ。法王選に影響しない場所の為に穢れを被るなど、正気ではないぞ」

 彼女の言う通りだった。

 貧民街は、厳密に言えば聖都ではない。

 法王選は開かれた場であるが、それは聖都に限っての事であり、貧民街の者が法王を選択する自由は与えられていない。

 だからこそ、神殿の目が届かない貧民街は暗黒街と呼ばれるまでに劣悪な世界を築き上げてしまった。

 ――この暗黒街は、法王様が不在なのよ。

 いつか、イーラが言っていた。

 自虐するように笑って、どこか諦めるように笑って。

 ――衛兵もそう。彼らは中央街の衛兵であって、暗黒街の衛兵ではないの。

 あれは確か、やってもいない盗みの容疑をかけられてボクが衛兵に腕を折られた時だった。

 彼女は僕の腕を固定しながら、悲しそうに言った。

 ――大いなる主はきっと、私達を救ってはくれない。

 きっと、暗黒街に不在なのは法王だけではない。

 何もかもが、暗黒街には足りていない。

 大きく息を吸う。

 肺腑の中に、冷たい空気が入ってくる。

 そして、言った。

「僕はかつて、身体を売ったことがあります」

 その声は、広い礼拝堂に思いのほか大きく響いた。

 フランツィスカとクーミリアの瞳が驚愕で大きく開かれる。

 このカードは、隠し持っていると後々大きな弱点になりうる。

 イーラを守るためにも、今この場で切ってしまう方がいい。

「暗黒街で生きていく方法は二つしかありません。奪うか、奪われるかです」

 フランツィスカの口が何かを言おうと動く。

 それを無視して僕は言葉を続けた。

「僕たちの前には、奪う選択肢が常に用意されています。そういう仕事を斡旋する組織が多くいて、毎日多くの人たちが身を沈めていきます」

 多分それは、フランツィスカのような上流階級の人間には理解出来ない事だろう。

 奪われるのが嫌ならば、奪う側になるしかない。

 暗黒街には、その二択しかない。

「娼婦というのは、他人から奪う事を良しとしなかった人たちです。他人から奪う生き方を拒絶し、自ら奪われる側である事を選んだ人たちです」

 本当は、それほど綺麗な事ではない。

 レミアのように両腕を失った娼婦は、奪われる側になるしかない。

 しかしそれでも暗黒街の、とりわけ娼館街で育った僕は彼女たちに親近感を持っている。

「大いなる主は、僕を慈愛の御子に選びました。身体を売ったことのある僕を、です。大いなる主はどこまでも公平で、これはきっと意味がある事です」

 だから。

「僕はこの聖都の法王ではなく、長らく不在だった暗黒街の法王になりたいと、そう思うんです」

 遠くで鐘が鳴った。

 礼拝を告げる鐘だ。

 荘厳なる響きの中、不意にイーラが動いた。

 彼女は奥に並んだ石版を見ると、それをそっと読み上げた。

「彼らは嘉言(かげん)を口にするが、他人の為に指一本動かそうとはしないであろう。高き者は洋々たる躬行(きゅうこう)によって盛徳大業(せいとくたいぎょう)を成す。貴賤老若(きせんろうにゃく)旗鼓堂々(きこどうどう)と当たり、聖徒なるべし」

 大いなる主の言葉と、礼拝の鐘が木霊する。

 静観していた主席枢機卿ガランド・カーディナルは微笑みを浮かべ、静かに頭を垂れた。



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09話

 鐘が鳴り終わる。

 頭を垂れていたガランドは顔をあげ、それから深く息を吸って、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「大いなる主は何者にも公平です。我々の考える貴賤など、大いなる主には関係ありません。そして、それは聖都の在り方についても同様です」

 ガランドはそう言って、礼拝堂に連なる古代の石版に目を向けた。

 天窓から降り注ぐ陽光が照らし出すそれは、大いなる主の絶対的な意志だ。この神殿において、これに逆らえる者はいない。

「俗に言う貧民街はグランデーレ聖猊下のおっしゃる通り、正式には聖都に属しておりません。貧民街の者は法王聖下を決定する資格を持たない。しかし、大いなる主は貧民街で暮らしていたルイ聖猊下をお選びになりました。大いなる主と我々の認識には僅かながら齟齬が存在致します」

 そして、とガランドは言う。

「このような場合、我々は大いなる主の意志に従うべきだとそのように思うのです。これはきっと、導きでございます。ただし、法王選の投票権を早急に拡大するべき、と考えているわけではありません。事を急いでは混乱を招きます。ただ私はこう思うのです。ルイ聖猊下のなされる事には意味があるのだろう、と」

 ガランドの穏やかな眦が、再び僕に向けられる。

「今回、枢機卿団はルイ聖猊下の行動を支援致します。イーラ様の身請け、及び貧民街における識字率の向上。その他、貧民街の貧困に対する政策は枢機卿団が承認致します。もちろん、グランデーレ聖猊下やベルタ聖猊下のなさる事についても同様に支援致します。我々枢機卿団は、御子様をお助けするために存在します。我々は御子様の行動を阻害するために存在しているのではない。その原点に戻った判断でございます」

 ガランドはそう告げて、穏やかな眦をフランツィスカに目を向けた。

「如何でしょうか?」

 フランツィスカ・フォン・グランデーレは、苦虫を潰したような顔をして暫くの間無言を貫いていた。

 ガランド・カーディナルは言葉を撤回する事もなく、ただ静かに彼女の言葉を待っている。

 広大な礼拝堂に落ちた静寂が、耳鳴りがしそうなほど強くなった。

「……娼婦を買うのは今回だけにしておけ」

 彼女はそう言って、踵を返した。

 礼拝堂に靴音が響く中、ガランドに向き直る。

「ご迷惑をおかけしました。感謝致します」

「ルイ聖猊下はただ、救おうとされているだけです。我々枢機卿団はそれを承認したに過ぎません」

 ガランド・カーディナルはどこまでも優しい笑みを浮かべる。

 その姿はどこまでも無欲で、慈愛に満ち溢れていた。

 眩しい、と思った。

 貧民街では見たことがない人種だった。

「イーラ様、でしたね。部屋をご用意致しましょう」

「明日には旅立つため不要です」

 ガランドの申し出を、イーラが即座に否定する。

「明日には貧民街に戻る。そうでしょう、ルイ」

 僕は頷いた。

「明日、もう一度貧民街に出て安宿を借り上げます。イーラにはそこを拠点に、識字率の向上に努めてもらいます」

「……良いのですか」

 ガランドは短く、そう言った。

 僕は頷いて、それから彼に背を向けた。

 すべき事と、考えるべき事が山ほどある。

 イーラを連れて、礼拝堂の出口を目指す。

 廊下に出た時、後ろから小さく声がかけられた。

「ルイ聖猊下」

 震えた声だった。

 振り返ると、クーミリアが真っ青な顔をして立っていた。

「先程は無礼を……」

 恐らくは、イーラを売春婦と呼んだ事だろう。貧民街ではレミアにも似たような侮辱を浴びせていた。

 それは、身体を売った事のある僕にもあてはまる。

「気にしていません。気遣いは不要です」

 クーミリア・フォン・エヴァンディッシュのような意見は予想の範疇のものだった。

 上流階級の、特に神殿に属しているような者の価値観と衝突するのは仕方がない。

 それに、味方になる人間と敵になる人間は早めに判明したほうが動きやすい。

「護衛、ありがとうございました。持ち場に戻って頂いて大丈夫です」

 クーミリアが頭を深々と下げる。

 神殿騎士はやはり、僕のような人間とは合わない。

 その指揮系統の全てを掌握するのは現実的ではないだろう。

 信頼できる上に簡単に動かせる兵力を他に作る必要があった。

 

 

 

 イーラと共に私室に戻り、扉を閉める。

「良い部屋ね」

 内装を見たイーラが小さく零す。

 貧民街の宿では決して見られないような部屋だ。

 彼女は周囲を見渡しながらゆっくりとベッドへ向かい、そこに腰掛けた。

「それで」

 足元から低い声がした。

 僕の影から、ぬうっとレイが姿を出す。

 文字通り影から出てきた彼女は、僕に凶悪な笑みを向けた。

「本当にあいつらは殺さなくていいのかい? あの支配の御子と神殿騎士は排除しても良いんじゃないか?」

 魔術師、と呼ばれる人種がいる。

 血統によって継承されるこれは、遥か昔、隣接する帝国によって多くの魔術師が接収され、この聖都には殆ど残っていないと聞く。

 レイはその数少ない魔術を扱う事ができる上、彼女の持つ固有の魔力特性は暗殺業と相性が良い。

「レイも合流していたのね」

 影から姿を現したレイに、イーラが薄い笑みを向ける。

「ああ、お先にね。それで、これからどうするんだい」

 レイの爛々と光る双眸が、期待を込めて僕を見る。

 僕は考えながら、慎重に言葉を選んだ。

「表向きは、識字率向上と飢えを凌ぐための地道な支援のために動いていこうと思う」

「肝心の裏はどうするんだい?」

 問われて、僕は答えに窮した。

 結局良い言葉が見つからず、そのまま口にする。

「間引こうと思う。今の暗黒街は、奪う側が多すぎる」

 途端、レイは破顔した。

 彼女は満足そうに嘲笑って、それから囁くように言った。

「いいぞ。昔みたいな切れ味を取り戻してきたじゃないか」

 それにしても、と彼女は皮肉気味に言う。

「大いなる主は公平である、だったかな。ああ、あの聖職者が言ってた言葉、面白いと思わないかい。だって――」

 レイの指先が、そっと僕の頬を撫でた。

「――元暗殺者を法王候補に選ぶんだからさ」

 僕は何も言わなかった。

「ああ、これ以上ないほど大いなる主は公平だ。どれだけ返り血に塗れていようと、全ての罪を許してくださる。ああ、主よ。我々の暗殺を許したまえ」

 僕は、レイの元同業者だ。

 奪われるだけの立場に嫌気が差して、奪う側に立つ事を選んだ。

 暗黒街では、そういう選択肢が目の前に常に用意されている。

 ――ルイ。俺はそんな事をさせるために、剣を教えたわけじゃあないんだ。

 脳裏に、かつてのロイの言葉が甦った。

 返り血に濡れた僕を見て悲しそうに呟いたロイの顔はきっと、生涯忘れる事は出来ないだろう。

 それから、ガランド・カーディナルの優しい眦が頭に浮かんだ。

 無私無欲の聖職者。

 その存在が、とても眩しく思えた。

 恐らく、僕はそういう生き方はできない。

 彼のようにはなれない。

「ルイ」

 イーラの声。

 気づけば、彼女の憂いを帯びた瞳が僕を見ていた。

「それで、どうするの。大きく動くのは危険でしょう」

「僕たちが動くのは初動だけだよ。後は全部、奪う側でやって貰う」

 人は多分、簡単に救う事はできない。

 僕は聖職者じゃない。

 元暗殺者だ。

 ただ殺す事しか、僕は知らなかった。



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10話

 暗黒街は総じて治安が悪い。

 しかし、著しく治安の良い場所がいくつか存在する。

 その地域を庇護下に置く犯罪集団の拠点周辺だ。

 衛兵を呼び寄せるような事態を引き起こせば報復を受ける事になるため、誰もがその周辺では問題を起こそうとはしない。

 水タバコ専門店ブレーンバーンもその一つで、僕がイーラと神殿騎士のクーミリアを連れてやってくると、緊張が走るのがわかった。

「水タバコ専門店、ですか……」

 店内に並べられたパイプを見て、クーミリアは物珍しそうに感嘆の声を漏らした。

 聖都の人間は、あまり水タバコを利用しない。聖職者が服用を禁じられているのが一番の理由だろう。

 混ざりあったフレーバーの香りが鼻をついた。僕もあまり水タバコは好きじゃない。

「エヴァンディッシュさん、イーラと一緒に店の前で見張りをお願いしていいですか? 商談をまとめて来ます」

「承知しました」

 彼女は店内を興味深そうに見回した後、イーラと共に素直に外に出ていった。臭いが嫌だったのだろう。

 ここへは安宿の借り上げ交渉、という名目で来ている。早めに話をまとめあげる必要があった。

「ルイ、勝手な事されたら困るな」

 狭い店内の奥から、髪を短く刈り上げた大男が睨むように口を開く。

 当然のように僕らは歓迎されていない。

「事情があるんです。アイシャ様に話があります。いますか?」

 大男は小さく息をついて、考えるように外のクーミリアを見やった。彼女は外でイーラと何かを話しながら大人しく見張りをしている。

「二階へ」

 大男は短くそう言った。

 頷いて、彼の言う通り二階に続く階段を登る。

 暗い階段を抜けると、暗くて小さいロビーが広がっていた。

 並んだソファで水タバコのパイプを吸っている客が数人いる。その全員の視線が僕に集まった。

「聖衣? なんだボクちゃん。神殿から迷子か?」

 客の一人が、怪訝な視線を送ってくる。

 慈愛の御子である事を知らないようだった。

「ルイ。何しに来た」

 奥の席で、一人の女が立った。

 褐色の肌に、黒い長髪。

 この一帯を取り仕切っている犯罪組織"天秤"の頭、アイシャだ。

「話があります」

 そう切り出すと、アイシャはすぐに手を叩いた。

「商談だ。今日は店じまいにする。支払いはいらないから即刻全員出て行け」

 水タバコは通常、一時間ほど燃焼が持続する。

 客たちはまだ燃焼を続ける葉を名残惜しそうに見ながらも、支払いが不要という言葉で次々と立ち上がって一階に降りていった。

 一人残された僕に、アイシャは警戒するように距離を取りながら口を開いた。

「吸うか? シトラスベリーの新しいフレーバーが入ったんだ」

「いえ、不要です」

「そうか」

 彼女は小さく息をついて、それからゆっくりと近づいてくる。

「一階に神殿騎士を待たせています」

 途端、アイシャの目が鋭く僕を見た。

「何しに来た。私は、お前を可愛がってたはずだが」

「交渉がしたいです」

 彼女はすぐ目の前で足を止めて、見下ろすように言った。

「ルイ。私はお前を可愛がってきたよな。この掃き溜めで、どうしようもないガキだったお前を厚遇してやった」

 アイシャの褐色の細い腕が、僕の頬に伸びた。

 彼女の鋭い双眸の奥で、刃物のような鋭く危険な光が宿った。

「お気に入りだったんだ。随分と可愛がってきた。ここで生きる術を教えてやった。ベッドの上だって優しくしてやった。そうだろう?」

 彼女の冷たい指が、すうっと首筋を撫でる。

 その指は、正確に頸動脈を沿うように動いた。

「交渉、か。なんだ。また身体を売りにきたのか? 聖なる御子様とやらを抱くのも悪くないな。それとも――」

 彼女の声が一段と低くなる。

「――私を脅しにきたか? 神殿騎士一人で私を動かせるとでも思ったか?」

 背中を嫌な汗が伝った。

「言葉を間違えました。今日はお願いに来たんです」

 途端、アイシャの危ない雰囲気が払拭される。

「お願いか。この天秤のアイシャに何を望む。何を差し出す?」

 刃物のように冷たかった彼女の指先に熱が籠もり、聖衣の上から胸元をなぞるように動く。

「貧民街には、奪う側が多すぎる。そう思いませんか?」

「ああ、そうだ。奪い合うしかない。何もかもが足りていないんだ。この腐った世界で私たちは残飯を奪い合って生きている」

「僕はこれを減らそうと思っています。特に薬物はどうしようもありません。取り扱っている組織の殲滅を考えています」

 彼女が率いる"天秤"は色街の後ろ盾や高利貸し、暗殺、密造を主な活動内容としている。薬物には関わっていない。

 アイシャの瞳がすうっと細くなる。

「薬物か。頭痛の種だった。あれのせいで何人もの娼婦たちが売り物にならなくなっている」

 しかし、とアイシャは言葉を続ける。

「ルイ。勘違いしてはいけない。私達は、お前の駒じゃない。簡単に潰し合いを誘発できるとでも思ったか?」

 囁くような声だったが、その声色にはぞっとするような何かが含まれていた。

 平静を装いながら、淡々と今後の予定を話す。

「これから、他の組織の幹部たちが死んでいきます。瓦解した組織から天秤に流れてくる者がいれば順番に処刑して欲しいんです。抗争は望んでいません」

 僕の胸元を撫でていたアイシャの指が止まる。

「処刑?」

「そうです。瓦解した別の組織から必ず流れてきます。その中で妻子を持たず、かつ成人している者は全て処刑してください。一人ずつ秘密裏に処分していくなら問題にはなりづらいはずです」

 アイシャの瞳が僕を見る。

「ルイ、お前は――」

「他の組織の瓦解は、僕たちがやります。"天秤"はただ残党を処刑し、空白地帯になった場所を統一してください。無法者を取り仕切る組織が必要で、そしてその数をコントロールする必要があります」

 そして、もう一度言う。

「今の暗黒街には奪う側が多すぎる。そう思いませんか?」

 沈黙が落ちた。

 アイシャの瞳が揺らぐ。

 あと一歩だった。

「先のヴィクトール聖下は四十年前の法王選で、中央街に広がった薬物を撲滅するため神殿騎士と中央即応軍を動かしたそうです」

 脅しだった。

「不要な血を流したくありません。それに、暗黒街をまとめるには"天秤"のような裏の組織が必要です。だからこうしてお願いに来ました」

 アイシャがゆっくりと目を閉じる。

 それから彼女は小さく息をついた。

「なるほど。悪い話じゃない。しかし――」

 彼女の手が、腰に回った。

 一瞬の出来事だった。

 気づいた時には既に、銀刃が僕の首筋に当てられていた。

「――ご自慢の神殿騎士や中央即応軍が動くのと、このナイフがお前の喉を掻っ捌くの、どっちが早いと思う?」

「……アイシャ様、これは……」

「私は"天秤"のアイシャだ。昔の部下から一方的に脅されて言う事を聞くなんて、そんな事はできな――」

 アイシャの後ろで、何かが立ち上がるのが見えた。

 レイだ。

 アイシャの影から出てきたレイは、そっとアイシャの首筋にナイフを当てた。

「やあ、アイシャ。今日も肌荒れが酷い。働きすぎだな」

 アイシャは自身の首筋に当てられたナイフに、目を大きくした。

「……レイもいたのか。いや、ルイが正面から出てきたなら真っ先に警戒するべきだったか。二人揃って元雇い主に反抗か?」

「アイシャ。ボクはルイの影であって、あんたの影じゃない。一度だってあんたをボスだなんて思った事はないよ」

 レイは舌なめずりしながら、そっとナイフを動かす。

 アイシャの褐色の首筋から一筋の血が流れた。

「そろそろ外の神殿騎士に怪しまれる。早く格付けを済ませよう。聖なる御子たるルイが一番上で、あんたにナイフを突きつけてる私が二番。"天秤"のアイシャは一番下だ。分かったか?」

「……ああ、分かった。お前たちが上だ」

 アイシャが僕に向けていたナイフを諦めたように落とす。

 重い音とともに床に落ちたそれを僕はそっと拾い上げた。良く研がれたナイフだった。

「確認です。先手は僕たちが勝手に打ちます。"天秤"は他の組織から流れてきた無法者のうち、妻子を持たず成人している者を全て処刑してください。そして空白地帯を統一し、相応の秩序を築いてください。構成員のうち、やりすぎた者も同様に処刑してください」

「わかった。元々悪い話じゃない。全て呑もう」

 首筋にナイフを当てられたままのアイシャは、淡々と承諾していく。

「加えて、売上の出ていない安宿を一件貸してください。今日は表向き、そういう商談に来た事になっています」

 アイシャの目に困惑の色が宿る。

「まさか衛兵の詰所を暗黒街に作るわけじゃないだろうね」

「違います。文字を教える場所を作りたいんです。"天秤"の管轄である事を広め、そこでは絶対に問題が起こらないようにしてください」

「文字……ルイ、お前は本気で暗黒街をどうにかしようって思ってるのか」

「はい」

 頷くと、アイシャの口端が吊り上げった。

「面白い。やってみるがいい。ならば多少の力添えは惜しまない」

 話はまとまった。

 怪しんだ神殿騎士のクーミリアが乗り込んで来る前に引き上げなければならない。

「そうだ。最後に一つ」

 不意に、レイが口を開く。

「アイシャ。あんたは子供好きの変態で、何度もルイを買ってたな」

 レイの殴る音が、部屋に一発響いた。



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11話

 きっかけは、単なる気まぐれだった。

 "天秤"の中でも大きな収入源となっている娼館アインズヘルムの視察に行った時の事だった。

 入り口で用心棒のロイと共に立っていた少年を見て、興味を持った。

 小柄で華奢な身体は、与しやすく思えた。どこか少女めいた顔つきと柔らかい髪質は同年代の男と違い、好ましく思えた。

 アイシャは思わず舌なめずりをした。

 "天秤"のアイシャは男嫌いで有名だったが、子供は例外だった。

「なんだ、ロイ。お前子持ちだったのか?」

「まさか。用心棒は身軽であるべきだ」

 帝国出身の用心棒はそう言って肩を竦めた。

「そうか。では借りるぞ」

 アイシャは笑みを浮かべ、ロイの横で不思議そうにこちらを見上げる少年の頭を撫でた。

「お前、名は?」

「ルイです」

「私は"天秤"のアイシャだ。ここのオーナーの、まあ良き友人みたいなものだ。銀貨二枚やる。ついてこい」

 不思議そうに首を傾げるルイの手を取り、そのままアインズヘルムの扉をくぐる。

 中に入った途端、甘ったるい香炉の匂いがした。受付にいた女主人のエマが驚いたように出てくる。

「アイシャ様。本日はどういった御用で?」

「部屋を借りたい。どこが空いている?」

 エマはアイシャの横にいるルイを見て、にんまりと笑った。

「左様でございますか。二階の左手突き当りの部屋が空いております。どうぞお使いください」

「助かる」

 アイシャは頷くと同時に、ルイの手を引いて歩き出した。

「アイシャ、様? 何をされるのですか?」

 ルイの無垢な問いかけに、アイシャは口元を歪めた。

 アイシャは男が嫌いだった。

 それは特段、珍しい事ではない。

 過去の経験から、同年代の男を受け付けない女というのは暗黒街に多くいた。

 しかし、ルイのような無垢な子供は別だった。彼らは奪う側ではない。奪われる側だ。それがアイシャを安心させた。

 数多の娼婦を斡旋し、色街の裏の顔として"天秤"の幹部に登りつめた彼女は、奪われる側であってはならない。

 二階の突き当りの部屋に入り、ルイを引きずり込むようにしてドアを閉める。

「ルイ。私の指を舐めるんだ。糖粽(あめちまき)を舐めるように優しく、そっとだ」

 ドアにルイを押し付けるようにしながら、身を屈めて囁く。

「あの……?」

「私の言う通りに出来たら銀貨二枚だ」

 告げると、ルイはおずおずとアイシャの手を取って、そっと指先を舐めた。

 僅かに躊躇するように、アイシャの顔色を伺いながら控えめに。

 その姿が、アイシャを興奮させた。

「いい子だ」

 頭を撫でる。

 さらさらとした髪が、指の間に絡まった。

「ルイ」

 自然と声が低くなった。

 ルイが上目遣いにアイシャを見上げる。

「今度は、逆にしよう。私がルイの指を舐める。ルイはその間、私の頭を撫でるんだ。いいね?」

 こくこくと頷くルイに微笑み、床に膝をつく。

 それからルイの手を優しく手にとって、唇を近づけた。子供特有の仄かに甘い香りがした。 

 小さく細い指を口に含める。噛めば簡単に折れてしまうような、儚さを感じるものだった。それがアイシャにとっては好ましかった。

「アイシャ様、失礼します」

 ルイの手が、そっとアイシャの頭を撫でる。

 その心地よさにアイシャは目を閉じた。

 アイシャは男嫌いであったが、同時に男に対して父性を求めていた。

 物心ついた時には既に失っていた父親の庇護を無意識のうちに求めていたのかもしれない。

 矛盾した欲求は、少年に対する父性の要求となって顕在化した。

 金の介在した関係は単純で、割り切りやすい。

 "天秤"のアイシャとして決して表に出せない屈折した願望は、こうして裏で吐き出すごとに膨張していった。

 そしてそれはいつしか、甘えるだけでなく溺れるという表現に近しいものになった。

 

 

 

「ルイはいるか?」

 アイシャは娼館アインズヘルムに何度も足を運び、ルイを買うようになった。

 出迎えたエマが頭を下げる。

「イーラの部屋におります。少々お待ち下さい」

「……イーラ。高級娼婦の一人だったな」

 思わず低い声が出た。

「左様でございます」

「その女は、ルイと出来ているのか」

 エマが怯えたように後ずさり、首を振る。

「イーラはルイが小さい頃から一緒に育ってきた姉のようなものです。店として問題のある行動は決して……」

 姉弟。

 暗黒街では珍しい。

 誰もが自分一人だけの事で精一杯で、そんな絆を大事にしている者は少ない。

「……そうか。ならばいい。ルイを連れてこい」

「かしこまりました」

 逃げるように去るエマの後ろ姿を見送りながら、アイシャはこの後の夢のような時間の事を考えて舌なめずりした。

 エマはすぐに戻ってきた。ルイだけでなく、見知らぬ女も連れて。

 陰気な女だ、と思った。それが第一印象だった。

 簡単に殺せる。それが次に思った事だった。

 ルイの姉のような存在と聞かせていたイーラは、アイシャにしてみれば取るに足りない相手だった。

 顔はいいが、高級娼婦としては華やかさが足りない。静かに佇むそれは人形のようだった。

 すぐにイーラから興味を失くし、ルイに視線を向けてアイシャは微笑んだ。

「ルイ。空いてる部屋に案内してくれ。銀貨二枚だ」

「はい。アイシャ様」

 ルイが頭を下げる。

 さらさらとした髪が揺れ、そうした仕草も愛らしい、と思った。

 そのまま案内された部屋に入るなり、アイシャはルイの手を取り、その指先を口に含めた。

 "天秤"のアイシャには、指しゃぶりの癖がある。

 寝る時だって、いつも自分の指を口に入れていた。吸引癖もあり指にはたこが出来ている。

 誰にも明かせないアイシャの秘密は、金を払う事によって成り立つルイとの関係において存分に発露することができた。

「ルイ、いつものをやってくれ」

 ねだるように囁くと、ルイの手がそっとアイシャの髪を撫でた。

 それだけで背筋が震えた。

 いつものように床に膝をつき、指をしゃぶったままルイの胸元に顔を埋める。

 幼子のように指をしゃぶりながら、美しい少年の胸元に抱かれると心から安寧を感じる事ができた。

 屈折しきった心を唯一満たせる時間が、ここにあった。

「ルイ……ルイッ………もっと強く抱いてくれ……ルイ……」

 "天秤"のアイシャは、どうしようもない子供好きの変態だった。

 

 

 

「アイシャ。あんたは子供好きの変態で、何度もルイを買ってたな」

 レイの拳が、アイシャの頬を打った。

 思わず鑪を踏み、アイシャは数歩後ろに下がった。

 口の中が切れたせいか、血の味がした。

「二度とルイに手を出すな。わかったな?」

 影の暗殺者レイは、そう言ってアイシャを睨みつける。

 アイシャは血の混じった唾を吐き出して、薄く笑った。

 "天秤"のアイシャは、こんな程度の低い暴力に屈したりはしない。そんな事は許されない。

「ルイは聖なる御子様だ。もう私が買えるような存在じゃあない。そうだろう?」

 レイは何も答えず、アイシャを注意深く見ている。

「なあ、最後にルイと一対一で話がしたい。レイ、席を外してくれないか?」

「ダメだ」

 返答が早い。

 影の暗殺者レイは、"天秤"のアイシャを警戒している。

 しかし、ルイは違う。

「レイ。一階で待っていて。すぐ行くから」

 案の定、ルイは許可を出した。アイシャの考えた通りだった。

「ルイ……」

「大丈夫だから」

 抗議の声をあげるレイを、ルイが宥める。

「決まりだ。時間は取らせない」

 アイシャの言葉に、レイはじっと観察するような目を向けた後、無言で階段を降りていった。

 周囲に階段から繋がる影が出来ていない事を確認しながら、アイシャはそっとルイに目を向けた。

「改めて慈愛の御子に選ばれた事を祝福しよう。おめでとう、ルイ。いや、ルイ聖猊下と呼ぶべきかな?」

「ルイで大丈夫です。聖猊下という呼び方は好きではありません」

 返ってきた言葉にアイシャは微笑んだ。ルイは何一つ変わっていない。

「……さっきはナイフを突きつけて悪かった」

 アイシャは言葉を続けながら、ゆっくりと円を描くようにルイとの距離を詰めていった。

「私は"天秤"のアイシャだ。舐められるわけにはいかないんだ。ルイ。お前なら分かるだろう? 私はいつだって孤独なんだ」

 声が震えた。

「ル、ルイに危害を加えるつもりなんてなかった。本当だ。でも私は"天秤"のアイシャでなければならない。わ、私は演じているだけだ。ルイ、本当なんだ。信じて欲しい。ナイフを突きつけたのだって演技だ。本気でやったわけじゃあないんだ」

「大丈夫です。わかっています」

「わ、私は――」

 ルイのすぐ近くで、アイシャは膝を折った。ルイの手を取り、そっと口元へ近づける。

「――うまくやってみせる。望む事をきっと上手くやれる。だから許して欲しい」

 そして、ルイの指をアイシャは口に含んだ。ルイの指もまた、たこが出来ていた。

「わかりました。期待しています」

 ルイの手がそっとアイシャの髪を撫でる。

 アイシャは身を預けるように瞳を閉じた。

 沈黙が落ちる。

「もう行かないと」

 頭を撫でていたルイの手が、すぐに離れた。しゃぶっていた指も、そっと離される。

「うまく併合してください」

 そう言って、ルイは一階へ続く階段を降りていく。

 残されたアイシャは、その姿が見えなくなるまで床に膝をついたままじっとしていた。

 そして、ルイの姿が見えなくなった途端、すくっと立ち上がる。

 アイシャは窓際に足を運び、慎重に外を観察した。

 純白のプレートメイルを着込んだ神殿騎士が見えた。後ろで結った髪で、遠目でもすぐに女だと分かった。

 それから路地の向こう。建物の影に両腕のない女が立っていた。女は身を隠しながらも、明らかにこちらを観察していた。

「女ばかりだな……」

 呟きながら、腰のナイフの柄をそっと撫でる。

「殺すか」

 呟いた声は、誰もいない部屋に沈んでいった。




偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ完結致しました。
ヤンデレ要素のあるファンタジーものです。
よろしければこちらもお願いします。


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12話

 階下で待っていたレイを影の中に取り込んで、水タバコ専門店ブレーンバーンを出る。

 外で待機していた神殿騎士のクーミリアが駆け寄ってきた。

「いかがでしたか?」

「うまくいきました。引き渡しは後日です。神殿に戻りましょう」

 その時、クーミリアの肩越しに人影が見えた。

 レミアだった。

 両腕のない袖をぷらぷらさせながら、僕に向かってゆっくりと歩いてくる。

「ね、ねえ。ルイは何かするつもりなんだよね?」

 クーミリアが警戒するようにレミアに向き直る。レミアはクーミリアを無視するように、僕たちが出てきたブレーンバーンを見上げた。

「アイシャ様と会ってきたんだよね? 何か考えがあるんでしょ?」

 レミアは貧民街で生まれ、貧民街で育ってきた。

 ここブレーンバーンがただの水タバコ専門店ではない事くらい知っている。そして、僕が"天秤"と関わっている事も。

「わ、私、何でも手伝うよ。私バカだけど、ルイの為なら何でもやるから。やってみせるから」

 ふらふらと近づいてくるレミアに、クーミリアが割り込むように僕の前に立つ。

 まずい。

 クーミリアは、ここをただの水タバコ専門店としか思っていない。ここのオーナーが持っている宿を借り上げにきただけと、そう思っている。"天秤"と僕の繋がりなんて勿論知らないし、神殿騎士である彼女に知られるわけにはいかない。

 レミアが余計な一言を言う前に何とかしないと。

「止まれ。それ以上、ルイ聖猊下に近づくな」

 クーミリアの手が、腰の剣に伸びる。

 それでもレミアは止まらない。

 まるでクーミリアが見えていないかのように、ふらふらと僕の方へ足を進めてくる。

「わ、私、ずっと謝りたかったんだ。ずっと後悔してて」

「レミア。待って。後でゆっくり話そう」

 落ち着かせるために、意識的にゆっくりと言葉を紡ぐ。

 レミアと目が合った。

 どこか、粘りつくような視線だった。

「後っていつ?」

「……神殿に戻る前に時間を作るから。だから、待ってて」

 途端、レミアはへらっと笑った。

「ほ、ほんと?」

「……ルークスの所で待ってて」

「わ、わかった!」

 レミアが嬉しそうに踵を返し、去っていく。

 それを見送るクーミリアは、小さく息をついて僕を見た。

「ルイ聖猊下。あなたは慈愛の御子ですが、むやみやたらに慈愛を振りまきすぎると愚かな勘違いをする者が出てきます」

「幼馴染なんです。少し、話す事があります。父の酒場に向かうので、エヴァンディッシュさんはここで待っていてください」

「しかし……」

 クーミリアの声に被せるように言葉を続ける。

「大丈夫です。父の酒場はすぐそこです。顔見知りも多いので危険もありません。大丈夫です。イーラ、行こう」

 クーミリアの返事を待たず、イーラと一緒に父の酒場へ向かう。

「ル、ルイ聖猊下、困ります」

「命令です。待っていてください。家に戻るだけなのですから大丈夫です」

 良い機会だ。

 いずれ父とは話をする必要があった。計画が多少入れ替わるのは問題ない。

「ルイ」

 イーラが後ろのクーミリアがついてきていない事を確認しながら、小声で口を開く。

「レミアはどうするの」

「……レミアは、土壇場で裏切る可能性がある」

 脳裏に、過去の光景が甦った。

 盗みの容疑をかけられて衛兵に組み伏せられた僕の視線の向こうで、レミアは見て見ぬ振りをしようとした。

 彼女には両腕がないし、衛兵をどうにかする方法があったとは思えない。その行為を責めようとは思わない。

 けれど、やはり土壇場で裏切る可能性がある者を計画に組み込むのは危険すぎる。

「そう……」

 視界の端で、イーラが笑った気がした。

「イーラ?」

 見ると、彼女はいつもの無表情に戻っていた。

 憂いを帯びた瞳が僕を見つめている。

「レミアは、古い友人でしょう。後悔するような事はしてはだめよ」

 囁くような声で諭すイーラに、僕は無言で頷いた。

 イーラの説教に、僕は弱い。

 彼女は言葉を荒げる事はないけれど、だからこそイーラの言葉は心に突き刺さる。

「レミアだけじゃない。ルークスの酒場に行くんでしょう。それも、後悔はないの?」

「多分、はじめにやらないといけないから」

 答えると、イーラの手がそっと僕の頭を撫でた。

 それから言葉はなかった。

 無言で、父の酒場に向かう。

 ルークス。

 義理の父親だ。血の繋がりはない。

 面倒見の良い性格で、僕を本当の息子のように可愛がってくれた。

 これまでの感謝を示す挨拶が必要だった。

 酒場との距離はそれほどなく、すぐに着いた。

 まだ明るく開店準備中の扉を開けると、カウンターで下ごしらえをしていたルークスが顔をあげた。

「ルイか。さっきレミアが来たぞ」

 そう言って顎を向けた先の客席で、レミアは座ってじっとこちらを見ていた。

「ごめん、席借りるね」

 父に一声かけて、レミアの向かいの席に腰をおろす。

「ね、ねえ。ルイは"天秤"と組んで何かやろうとしてるんでしょう?」

 早速本題に切り込んでくるレミアに、僕は考えを巡らせた。

「手を組んでるわけじゃないよ。ただ、そうだね。良好な協力関係を築こうと思ってる」

「それはきっと、聖なる御子様としてはまずい事だよね。裏で自由に動ける人が必要じゃないかな?」

 そう言って、レミアは身を乗り出した。

 彼女の瞳には、危険な光が宿っていた。

「わ、私はルイの言う通りに動くよ。ルイがやれっていうなら、何だってやる。私、ずっと後悔してたんだ。あの時、ルイを見捨てたこと」

 今度は、とレミアが語気を強める。

「失敗しないから。バカな私だけど、やり直したいんだ。あの頃みたいに、ルイの横に立ちたいんだ」

 レミアの瞳を正面から見つめる。

 嘘を言っているようには見えない。

 彼女はやり直したいと心から願っている。それは間違いない。

 それでも、人間は弱い。

 どれだけ固い決意と約束があっても、自分の身に危険が降り掛かった時、人は簡単に決意を崩す。覚悟が壊れる。逃げてしまう。

 だから、僕はレミアとは一定の距離をとってきた。一度、その片鱗を見せた彼女に命は預けられないと思っていた。

 今一度、試す必要がある。

「レミア。この暗黒街には、奪う側が多すぎると思った事はない?」

 彼女は一瞬何を言われたのか分からないといった顔をしていた。

「えっと、ルイ?」

「奪う側と、奪われる側。この二つで、奪う側が多すぎる。誰かがコントロールする必要があると思ったことはないかな?」

「奪われる、側……」

 レミアは視線を落とした。その先には、ぷらぷらと揺れる袖があった。

「少しだけ、考えてみてほしい」

 そう言って、僕は席を立った。

 そのままカウンターにいるルークスの元へ向かう。

「久しぶりに手伝うよ」

「なんだ。急にどうした?」

 ルークスが笑う。

 ルークスとの付き合いは、それほど長いものではない。

 それでも、彼に引き取られてからは良い暮らしが出来た。

 身体を売る必要も、暗殺に手を染める必要もなくなった。

 僕にとっては、良き父だった。

「神殿に戻る前に親孝行をしようと思って」

「バカを言え。寒気が走る」

 笑うルークスに、僕も微笑んだ。

 カウンターの中に入り、仕込中のスープを覗く。

「美味しそうな匂いだね」

「ああ。市場に鰊が入ったんだ。たまにはこういうのも良いだろう」

 手際よく準備を進めるルークスの後ろへ、足を運ぶ。

 ルークスは料理で妥協する事はない。ここでは暗黒街の中でも上等な料理が食べられる。

 彼に拾われてから、残飯を漁るような事はなくなった。

 本当に感謝している。

 心から、本当に。

「……白髪、増えたね」

「そうか? まあ、年には勝てねえ」

 ルークスは、善人だ。

 善人だが、奪われる側ではない。

 彼は店を構え、暗黒街では考えられないような良い暮らしを送っている。

「皺も増えたよ。ちゃんと寝てる?」

「ああ。夜は寝てるよ。大丈夫だ。良い薬があるんだ」

 そうだ。薬だ。

 ルークスは薬物の販売に関わっている。

 この立派な店も、今の良い暮らしも、薬物のおかげで成り立っている。

 僕を引き取ったのだって、手元に優秀な暗殺者を置きたかったからだ。

 彼は善人だが、奪う側だった。

 腰に伸ばした手が、よく馴染んだそれに触れた。

「あまり薬に頼るのは良くないよ。心が抜けた人をいっぱい見てきた」

「大丈夫だ。俺はあんなにのめり込まねえ」

 暗黒街の法王になりたい、と願った。

 奪う側を減らそうと思った。

 僕の手は、これからどんどん汚れていくだろう。

 だから、聖なる御子として初めて手を汚すなら、きっとこれ以上の選択肢はない。

「ルークス。ずっと感謝してた。ありがとう」

「あ? 急に何言って――」

「――ごめんね」

 後ろから手を回し、ルークスの首を切り裂く。

 躊躇なく、深く、苦しまないように。

 鮮血が舞った。

 レミアの悲鳴。

 返り血を浴びないように、素早く後ろへ引く。

 喉を両手で抑えたルークスが、ゆっくりと振り向いて僕を見た。

 大きく剥いた目が、こう言っていた。何故だ、と。

 喉から溢れる鮮血が床を汚していく。

「薬物はダメだよ。先代のヴィクトール聖下だって許さなかった。一度広がったら、もう抑えられなくなってしまう」

 ルークスの身体が、血に濡れた床に沈む。

 白髪の混じった黒髪が、赤黒く染まっていく。

 ルークスから視線を外し、奥の席にいるレミアを見る。彼女は唖然とした様子で突っ立っていた。

「レミア、話を戻そうか。何でもやってくれるんだっけ」




7年前の完結小説の一つの「Raison d'etre」の修正版の投稿を開始しました。
女性しかいない特殊部隊に一人の少年が放り込まれ、多角関係でどんどんギスギスとしていくヤンデレSF小説です。
私の書いた小説の中で一番評価頂いていたものなので、よろしければこちらもお付き合いください。


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13話

「レミア、話を戻そうか。何でもやってくれるんだっけ」

 視界の隅で、イーラが出入り口を塞ぐように静かに動くのが見えた。

 レミアはただ唖然とした表情で僕を見るばかりで、一向に口を開こうとはしない。

 僕は近くにあった手ぬぐいで血塗れのナイフを丁寧に拭いた。

「ごめんね。脅かすつもりはなかったんだ。でも、僕たちはこういう事だってやる。話を聞くだけなのと、殺しを実際に見るのは全然違う。だから必要だと思った」

 レミアは怯えるように僕を見て、それから一歩後ずさった。

 出入り口を塞いでいるイーラの視線が、剣呑なものになる。

 僕の足元に広がる影が、ゆらりと揺らめいた。

「ルイ……なんで……ルークスは、ルイのお父さんだよね……?」

「そうだね。随分とお世話になった。でも、ルークスは裏で薬物の売買に関わってたんだ。この店だって取引場所として利用されてる」

「薬物……?」

 レミアの声が掠れていく。

「娼館街で蔓延していた薬物。あれにだってルークスが関わっていた。僕たちの知り合いだって、あれで何人も命を落とした。覚えがあるんじゃないかな」

 薬物に取り憑かれたのは色街に立っている娼婦だけじゃない。

 娼館アインズヘルムでも、薬物の影響があった。僕たちは薬物に溺れていった人たちを何人も見てきた。

「ルークスが扱っているのはベナンドの葉から抽出精製したベナインだった。恐怖心や不安感を和らげて一時的に強い多幸感を引き起こすけれど、他の薬物よりも遥かに寛解率が低い。抽出精製が簡単だという理由で、ルークスたちはこれに手を出した」

 血を拭い終えたナイフをベルトに差し戻し、カウンターの外へゆっくりと足を運ぶ。

「ベナインを常習するようになると、覚醒状態でも思考能力が低下するようになる。夢の中にいるようなふわふわした感覚が続いて、現実感を失っていく。寛解率の低さはこれに起因していて、現実感を失った人たちは自傷やオーバードーズを繰り返すようになる。恐怖心の喪失で、依存者はこれに危機感を覚える事もない。自傷が始まった段階で本人による離脱は困難になる」

 ベナインの厄介なところは、その寛解率にある。

 周りが異常に気づいた時には既に、その多くは後戻りができなくなってしまっていた。

「ベナインがもたらす自己崩壊率は、他の薬物の数倍と言われている。暗黒街と呼ばれるここにだって相応のルールがある。裏街の顔役たちは、これの流通を許していない。多くの娼婦や構成員を潰された彼らは製造元を突き止めようとしていた」

 カウンターを出た僕は、そのまま真っ直ぐとレミアの元へ歩み寄った。

 彼女の足が、更に後ろへ下がる。

「ルークスには護衛が必要だった。ただの護衛じゃない。暗殺にも精通し、必要ならば先手を打てる手駒が。身寄りがなくて、彼の義理の息子として一日中そばにおける僕は彼の希望にぴったりだった」

 レミアの瞳に、怯えの色がはっきりと宿った。

「ルイは……"天秤"で殺しをやっていたの?」

「そうだよ。小さい時から経験を積んだ方が身になるらしい。殺しを教えてくれた師匠はそう言っていた」

 足元の影が大きく揺れる。

 それを制するように、僕は影を強く踏んだ。

「話を戻そう。この暗黒街には、奪う側が多すぎる。誰かがその数をコントロールするべきだと、レミアはそう思った事はないかな」

 レミアの目が逃げ場を探すように泳ぐ。

 そこでようやく、出入り口がイーラに塞がれている事に気づいたようだった。

「わ、私も殺すの? 身体を売る前はずっと盗みをやってきた……他人から奪って生きてきた」

「奪う側というのは、そういう意味じゃないよ。他人の生きる意志や気力を奪って糧とする人たち。僕はそう定義する事にした」

「て、ていぎ? 私、バカだから分からないよ……ね、ねえッ、でも、ルイはルークスのお世話になったんでしょ?」

 彼女の視線が、血飛沫の飛んだカウンターへ向かう。

「そうだね。ただの手駒じゃなく、本当の息子のように扱ってくれた。店の客に対しても気前良く振る舞っていた。ルークスは根本的な部分では善人だった」

 でも、と言葉を続ける。

「彼は奪う側に立った。奪う側の数は誰かがコントロールしないといけない。僕はその誰かになろうと思ったんだ。そしてルークスと僕はたまたま親子の関係だった。それだけだよ」

 そんなの、とレミアが震えた声で言う。

「おかしいよ。ルイ。だ、だって、ルークスは恩人で……きっと話し合いで何とかする事だって……こんなの、だめだよッ」

 レミアの澄んだ瞳が、僕を射貫いた。

 怯えながらも、彼女は自分自身の意見を口にした。

 目を閉じる。

 やはり、レミアは善人だ。

 そして、どこまでも奪われる側の人間だった。

「そうかもしれないね」

「ルイ、だめだよ……やめよう? ルイにはそんなこと、似合わないよ……」

 きっとレミアの中にいる僕は幼い頃のままなのだろう。

 あの頃の僕はもう、何処にもいないというのに。

「怖がらせてしまっただけみたいだね。ごめん」

 踵を返す。

 これ以上の話は無意味だった。

 彼女は、こちら側の人間ではない。

「あ……」

 レミアの呆けたような声が耳に届いた。

 出入り口を塞いでいたイーラが、小さく息をついて道を開ける。

「イーラ、行こう。やる事が山ほどある」

「ええ」

 扉を開けルークスの酒場を出ようとした時、後ろから叫び声が聞こえた。

「ルイッ! 待って! わたし、わたしは――」

 振り返ることなく、扉を閉める。

 レミアの声はそれで、聞こえなくなった。

「本格的に行動を開始しよう」

 並ぶイーラと話しながら、細い裏道に入る。

 建物の影に覆われたそこで、僕は足元に目を向けた。

「レイ、ここからは別行動だ。"黒狼"と"酒造"の上から五人を狙ってほしい。僕とイーラはこのまま神殿に戻る」

 影からレイが姿を出す。

 彼女は不満そうに鼻を鳴らした。

「さっきの女は殺さなくていいのかい?」

「レミアは放置でいいよ」

 彼女は、衛兵に告げたりはしない。

 結局、何もできない。

「まあ、いいや。それよりも中々の大仕事だよ、これは。無事に終わったらルイから何か褒美があるんだろうね?」

「考えておくよ」

 レイは満足そうに笑みを浮かべて、それから舌なめずりした。

「じゃあ行ってくるよ。全ては聖なる御子、ルイ聖猊下の仰せのままに」

 影に潜るように溶けていく彼女を見送ってから、イーラに目を向ける。

「……それじゃあ、神殿に戻ろうか」

「そうね」

 並んで歩き出した時、彼女の細い指が僕の手に絡みついた。

「ルイ」

 いつもの囁くような声。

 しかし、どこか温かみのある声で彼女は言った。

「私だけは貴方がどんな道を選んでもずっと隣にいるから。それを忘れないで」

「……うん」

 昔は、ずっとこうやって手を繋いでいた気がする。

 誰も助けてくれない腐った暗黒街で、幼い二人で寄り添って生きてきた。

 これからも多分、それは変わらない。

 イーラと並んで、路地裏を出る。

 差し込んだ陽光が眩しかった。思わず目を細める。

 きっと、光のない路地裏の方が僕には合っているのだろう。

 あまりにも長い間陰の中で生きてきたから、すっかり暗闇に慣れ親しんでしまった。

 陽の光に慣れるには、当分時間がかかりそうだった。

 

 

 

 

 

1章 胎動する闇 完結

 

2章 膨張する闇へ続く



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2章 膨張する闇
01話


「帝国って、どんなところなの?」

 色街に幼い声が響いた。

 声変わりする前のルイだった。

 まだ幼かった頃のルイの視線の先には、無愛想な用心棒のロイがいた。

 暇そうにしていた彼は、娼館アインズヘルムの外壁に背中を預けながら考え込むように視線を落とした。

「……そうだな。禄でもない場所だったよ」

「酷い国なの?」

「ああ。虐殺皇帝と呼ばれる狂人が国を治めていてな。気まぐれで殺しを実行する奴だった。戦場でもない宮殿で理由もなく命が消し飛んでいくんだ」

 ロイの声には覇気がなかった。

「俺は皇帝直属の遊撃部隊にいた。大半が高位の魔術師で構成された部隊だ。でも、王国との戦争なんて起きなかった。平和な国で、俺は毎日のように身内同士の虐殺を見てきた。意味もなく見知った首が落ちていくんだ。頭がおかしくなりそうだった」

「……法王様は何も言わないの?」

「宮廷の魔術師たちが信仰しているのは星の導きだ。この教国の教義なんて帝国じゃあ何の意味も為さない」

 吐き捨てるように言った後、ロイはおかしそうに笑った。

「そうだ。知ってるか、ルイ。お前たちが信仰している大いなる主とやらは、北方の国々じゃ悪神って呼ばれてるんだ」

「あくじん?」

「悪い神様なんだ。戯れに災いを巻き起こすし、人の営みなんて何も考えてない。そういう大きな存在の事だ」

 いいか、とロイは言葉を続けた。

「絶対なんてものは、どこにもないんだ。神なんて呼ばれていても場所が変われば悪魔扱いされている事だってあるし、皇帝と呼ばれていても相応しい振る舞いをするとは限らない。価値観なんて簡単に変わっていって、普遍的に正しい事なんて何もないんだ」

 ロイの疲れを含んだ眦が、じっとルイに向けられる。

 彼は噛みしめるように、もう一度言葉を繰り返した。

「本当に正しい事なんて、何もないんだ」

 

 

 

 

 

──────────2章 膨張する闇

 

 

 

 

 

「これで十七人目か」

 衛兵長のアンリは咽返るほどの血の匂いに顔をしかめながら、足元の死体をじっと見つめた。

 その後ろから、彼女の部下であるリツカが顔を覗かせる。

「同じ手口ですね……喉をばっさりです」

「今回の被害者も裏稼業の者だ。同一犯と見て間違いないだろう」

 アンリはそう言って、ゆっくりと周囲を見渡す。

 宿屋の一室。

 机の上には飲みかけのエールがあった。零れた様子はない。

「周囲には争った形跡がない。頸動脈を正確に一撃で切り裂いている。顔見知りの犯行としか考えられない」

「顔見知りですか。でも、被害者の所属組織はバラバラですよ。そんなに顔の広いやつが自ら手を汚すなんて考えられません」

 リツカの反論に、アンリは小さく息をついた。

 ここ最近続いている連続殺人事件には、不可解な点が多すぎた。

 それが初めて確認されたのは、慈愛の御子の義理の父、ルークスの死だった。

 それから立て続けに十六人が似たような死に方をしている。被害者はいずれも裏稼業に携わっていた大物だった。

 はじめは犯罪組織同士の抗争ではないかと疑われた。

 しかし被害者が属する組織はバラバラで、いずれも手口が同じことから報復合戦ではないと結論づけられた。

 たった一人の狂人が、裏街の大物を次々暗殺していっている。そうとしか思えなかった。

「"黒狼"と思われる被害者なんてこれで七人目です。短期間でトップをこれだけ殺されたら壊滅じゃないですか、これ」

 リツカがどこか楽しそうに言う。

 その態度は、対岸の火事を眺める野次馬のようだった。

「……ルイ聖猊下のお父上も亡くなられているんだぞ。早く真相を掴まなければ我々の立場も危うい」

「わかってます。でも、こいつら死んで当然ですよ。貧民街なんて焼き払っちゃえばいいんです」

「お前の考えに口出しをする気はないが、発言には気をつけろ」

 アンリは釘を刺して、それから立ち上がった。

 これ以上ここにいても、新しい発見は望めそうになかった。

「行くぞ。死人はこれ以上語りそうにない」

「こいつら、生きてても死んでても役に立たないですね。最後ぐらい役に立てばいいのに」

 嘲笑うように死体を見下ろすリツカに、アンリは注意しようか迷って、結局やめた。

 リツカは両親を"黒狼"に殺されている。今更注意したところで、彼女の態度は変わらない。

 彼女は、暗黒街を憎んでいる。

「……リツカ。お前は犯人像をどう考える?」

「女じゃないですか? 争った形跡がないってことは油断してたってことです。娼婦か何かに偽装しているのかもしれません」

「娼婦か……」

「被害者はいずれも裏稼業の大物です。ただの安っぽい娼婦じゃなく、高級娼婦かもしれないですよ」

 アンリは死体の転がっていた部屋から出て、廊下を見渡した。

 人が出入りできるような大きな窓はない。

 それにここは宿の二階だった。外からの侵入は考えづらい。

「犯人はこの廊下を通ったはずだ。多数の目があって殺しに向いている場所じゃない。でも、ここを殺害の場所に選んだ。何故だ?」

「自信家だからでしょう。殺しに絶対的な自信を持っている。自分だけはヘマをやらないって思い込んでる。きっとそういう奴ですよ」

 リツカはそう言って、つまらなさそうに欠伸した。

「あるいは、殺しの数に目標があるのかもしれません。短期間に十七人も死んでるんです。場所を選ぶ余裕がなかった。なにか急ぐ理由があった可能性があります」

「急ぐ理由か。それはなんだ?」

「わかりません。そういう殺しの契約だったのかもしれないし、そういうルールを自分に課しているだけかもしれない」

「独自の価値観で動いている可能性はあるな。合理的な理由による殺しではなさそうだ。狂人の仕業としか思えん」

 階段を下りて一階の受付に目をやる。

 怯えた老婆がアンリたちを見ていた。

「後で死体を回収させる。それまで誰も中に入れるな。いいな?」

「はい。衛兵さん、私は本当に何も見ていないんです。何も聞いてもいないんです。お昼になっても出てこないから様子を見に行ったら既にあんな状態で……」

「分かっている。あなたを疑っているわけではない。あれはプロの犯行だ。長生きしたいなら忘れろ」

 アンリはそう言い残し、リツカを連れて外に出た。

 すぐ前を子供たちが元気に横切る。

 思わず後ずさり、それから子供たちが走っていった方向に目を向ける。

「あれは……」

 視線の先には、慈愛の御子ルイの姿があった。

 貧民街の子供に囲まれる御子と、すぐ傍に三人の神殿騎士。

 そして、街のいたるところには大人たちが見張りをするように立っている。

 怪訝な顔を浮かべたアンリに、リツカが説明するように口を開いた。

「パンを施す代わりに、街中に見張りを立たせているようです」

「見張りを?」

「職のない大人には簡単な仕事を与え、子供には学習する場を与える。人間が人間たろうとするには居場所が必要なのだと、ルイ聖猊下はそう説かれていました」

「……神殿による民への施しは無償の愛であるべきだ。ルイ聖猊下は、民に対価を求めているのか」

 神殿の教義と異なる御子の行いに、アンリは思わず渋い顔を作った。

 それから、ふとリツカを見る。

 彼女の昏い瞳が、アンリを見上げていた。

「アンリ様。ルイ聖猊下は貧民街の生まれです。貧民街のクズどもが暇を持て余していると禄な事にならないってよくご存知なんですよ」

 燃え上がる憎悪がその瞳に浮かび上がり、それからどこか虚空を見つめるように動く。

「貧民街のクズどもに、無償の愛なんて必要ないんです」

「……リツカは、既に投票先を決めているようだな」

「ええ。貧民街を統治できるのは、貧民街を熟知したルイ聖猊下だけです」

 貧民街の統治。

 リツカの言葉に、ふと妙な発想が頭に浮かんだ。

 御子や法王とは別に、この無法地帯である暗黒街の統一を目指す何者かがいて、そいつが既存組織の大物を殺し回っているのではないか。

「……まさかな」

 大神殿ですら手を焼き、無数の犯罪集団が日夜跋扈しているからこそ暗黒街と呼ばれているのだ。

 どこか御伽噺めいた自らの発想にアンリは苦笑すると、子供たちの笑い声が聞こえる表通りをゆっくりと歩き出した。




「崩恋 ~くずこい」が完結しました。
「樹界の王」を新たに投稿しました。
 
他の小説もよろしくお願いいたします。


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02話

「ルイ聖猊下、暗くなる前に戻りましょう」

 耳元で囁く神殿騎士のクーミリアに僕は頷いて、周囲を取り巻く子供たちの頭を撫でた。

 手のひらが、仄かな淡い光を放つ。

 慈愛の力。

 数日前に顕現した御子の力は、近くの対象に慈愛を与える。

 周囲にいた子供たちは、気持ちよさそうに目を閉じた。

 慈愛の御子としての力は、これだけしかない。

 対象を意のままに操る支配の御子や、手を触れずとも対象を昏倒させる破壊の御子と比べれば随分と小さい力だった。

「善き行いには、善き結果が返ります。世界が善い事で溢れるよう、小さな行いを積み重ねましょう」

 子供たちに大神殿の教えを説いて、それから彼らの輪からゆっくりと外に出る。

 御子の振る舞いには大分慣れた。

 毎日のように神殿の教義をイーラやクーミリアから教わっていたし、子供相手に場数をこなせば演技も板についてくる。

「ルイさま! また明日ねー!」

 子供たちが大声をあげながら元気に手を振るのが見えた。

 僕もそれに手を振り返し、背中を向けた。

 そこで足を止める。

 目の前に女がいた。衛兵だった。

「ルイ聖猊下、私にもお慈愛をいただけませんか?」

 僕は注意深く彼女を観察した。

 茶色の髪に、少しだけ幼い印象を受ける大きな瞳。

 彼女の視線は、じっと僕に注がれていた。

 レイと僕の関係を嗅ぎつけられた可能性があった。

「……大いなる主の加護がありますように」

 手をかざし、慈愛の力を発動する。

 淡い光が周囲を包んだ。

「お、おい。リツカ。いきなり何を!」

 遠くから別の衛兵が走ってくるのが見えた。

 彼女は息を切らしながら、僕の前で何度も頭を下げた。

「突然の無礼をお許しください、聖猊下」

「構いません。大いなる主の加護は等しく受けられるものです」

 意識的に笑顔を作り、新たにやってきた衛兵を見る。

 その胸に刻まれた印は衛兵長のものだった。

「第五衛兵団をまとめるアンリと申します!」

 そう叫ぶ彼女を、じっと観察する。

 第五衛兵団は貧民街を中心に見回る衛兵たちだ。当然のようにルークスの死だって知っている。

 注意深く観察してみるも、彼女の表情筋の動きは自然なものだった。何らかの目的を持って僕に接触したわけではなさそうだった。

「ルイ聖猊下。とても素晴らしい御力でした」

 リツカと呼ばれた女が、慈愛の力を受けながら微笑む。

 胸に衛兵長の印はない。アンリの部下なのだろう。

 しかし、その双眸には危険な光が爛々と宿っていた。

 暗殺業をこなしている時に、何度か見たことのある目だ。

 目的のために手段を選ばず、破滅を恐れない復讐者の眼光。

 衛兵長を名乗った女よりも、遥かに危険な存在だと判断する。

「なにか事件ですか?」

 作り笑顔を浮かべながら、探りを入れる。

 衛兵長に話しかけながら、横の女に注意を向けて。

「例の連続殺人で十七人目の被害者が見つかりました。いま現在……捜索中です」

 衛兵長のアンリは、徐々に歯切れが悪そうに声を落としていった。

 ルーカスの死から、犯人はまだ捕まっていない。つまり、僕が殺したことに誰もまだ気づいていない。

 僕の殺しと、レイの殺しを彼らは同一犯と勘違いしている。

 いや、意図的に僕はそういう殺し方をした。彼女が最も得意とする殺し方を真似て、ルークスを殺した。

 僕が神殿にいる間にレイが殺しを続ける限り、僕に容疑がかかる事はない。

 レイはうまく立ち回り続けている。

「……まだ捕まっていないんですね」

 小さく俯くと、アンリは慌てたように言葉を繋げた。

「必ずや、第五衛兵団の名にかけて解決してみせます。これ以上の無法は許しません」

「ええ。期待しています」

 微笑み、それから後ろに控えていた神殿騎士のクーミリアに目を向ける。

「お待たせしました。行きましょうか」

 クーミリアが恭しく頭を下げる。

 僕はそれを確認すると、衛兵長のアンリに目礼して横を通り過ぎた。

 その瞬間、リツカの視線が僕に絡みついた。

 舐めるように、その眼球が動く。

 一瞬の出来事だった。

 僕はそれに気づかなかった振りをして、そのまま大通りを進んだ。

「ルイ聖猊下、今日もイーラ様とお会いに?」

 背後からクーミリアのどこか棘のある声。

 彼女は未だに、元娼婦のイーラを快く思っていない。

「今日は先に水タバコ屋へ向かいます。多大な恩を受けている店主にお礼を言わねばなりません」

「承知いたしました」

 そろそろアイシャから進捗を確認する必要があった。

 クーミリアを含めた三人の神殿騎士を連れて、堂々と犯罪組織"天秤"の拠点である水タバコ専門店ブレーンバーンへ向かう。

 その道中、道端に立つ見張りの者たちが疎らにいた。

「……ルイ聖猊下、真面目に見張りをしている者もいますが、半数近くの者がパンを貰ったまま見張りに立たず姿を消しています」

 クーミリアの低い声。

 僕たちは神殿からの施しという形を取りながら、大人には治安維持のため貧民街の見張りを命じている。

「仕方ありません。彼らには労働という習慣がないんです」

 貧民街にはそもそも仕事がない。

 だからこそ奪う側に立つという選択肢が常に用意され、多くの者が堕落していく。

 パンを施すだけでは、彼らが自活する事はない。

 まずは労働という習慣を作り、安定した仕事を供給する必要がある。

 命を危険に晒すことなく、パンにありつける習慣を覚えさせなければならない。

「彼らはそのうち、パンの味を覚えます。そして思うんです。明日も、明後日もこのパンを安全に食べたいと。つまらない不正をしてこの機会を失うことを馬鹿馬鹿しいと考えるようになります」

 ――支配構造とは、誰にとっても有益な存在の周囲に自然発生するものなのよ。

 かつて、イーラは僕にそう語った。

 ――力によって屈服させてはならないわ。自ら支配を望むようにしなければならないの。

 多くの貴族層に触れ合ってきたイーラは、その方法を熟知していた。

 ――ただ有益な存在であるだけで、そこに支配構造が生まれる。誰もが自発的に膝をつき、支配を望む。それが最も原始的で強固な支配の在り方よ。

 彼らはそのうち、神殿の支配を求める。

 自発的に膝をつき、支配されたいと願うだろう。

 正面に水タバコ専門店ブレーンバーンが見えてくる。

「クーミリアたちはここで待っていてください」

「承知いたしました」

 彼女の部下である二人の神殿騎士にも待機を命じ、僕一人でブレーンバーンの戸口をくぐる。

 一階のカウンターにいた大男がすぐに駆け寄ってくる。

「ルイ、一人か?」

「外に神殿騎士が三人」

「わかった。二階でアイシャ様がお待ちだ」

 頷いて、二階に続く階段を登る。

 複数のフレーバーが混ざったいつもの香りがした。

 二階の暗いロビーに出ると、パイプを咥えていた男たちの視線が集まった。

「ルイ」

 奥からアイシャが嬉しそうな顔を浮かべて出てくる。

「大事な商談の時間だ。金はいらないから全員出て行け」

 アイシャが手を叩いて客の男たちを追い出していく。

 何人かは僕が慈愛の御子である事に気づいた様子を見せ、やや動揺した顔を見せた。後ろめたい何かがあるのだろう。

「久しぶりだな、ルイ」

「アイシャ様、お久しぶりです。今日は様子を確認に来ました」

 微笑みかけると、アイシャは不敵な笑みを返した。

「進捗か。そっちは随分と派手にやってるじゃないか。もう三十人以上処分しているだろう?」

 アイシャがゆっくりと近づいてくる。

 濡れた瞳が、僕に真っ直ぐ向けられていた。

「さっき第五衛兵団の衛兵長と偶然会ったんですが、表で確認出来ているのは十七人だけのようです」

「随分と開きがあるな。レイが上手くやっている、ということか」

 すぐ傍まで来たアイシャが、そっと膝をつく。

 そして彼女は僕の手を取り、そうするのが当然であるかのように指を口に含んだ。

「"天秤"にはどれくらいの人が流れてきていますか?」

 アイシャは僕の指を咥えながら、少し考えるように目を閉じた。

「……かなりの数だ。五十は超えた。全員処刑して死体はうまく処分している」

「まだ流れてきそうですか?」

 指を深く咥えたアイシャが頷く。

 赤ん坊のように吸い付き、唾液が糸を引いて落ちていく。

「想像以上のペースです。奪う側に誘う立場の存在が早くも瓦解しかけています」

 彼女は咥えていた指を一度離して、どこか誇らしそうに笑った。

「"黒狼"は瀕死の状態だ。"酒造"は完全に地下に潜った。"物兵"は活動を止めて静観に入り、未だ傷を負っていない"天秤"が黒幕なのではないか、と疑い始めている。彼らの多くは融和を望み始めた」

 あまりにも順調だ。

 アイシャが立ち上がり、僕を見下ろしながら妖しく微笑む。

「全てうまくいっている。だから、ルイ。私は褒美が欲しいんだ」

 彼女の細い指先が、僕の胸元を撫でる。

「もう、指だけじゃ我慢できなくてね」

 彼女の顔がゆっくりと近づいてくる。

 爛々と輝く欲望が、その瞳に浮かんでいた。

 そして彼女は、至極真面目な顔で言い放った。

「ルイの聖なるおっぱいを吸わせて欲しいんだ」



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03話

「ルイ聖猊下、どうされました?」

 ヒリヒリする胸を抑えていると、クーミリアが心配そうに顔を覗き込んできた。

「いえ、なんでもありません」

 何でも無い風を装って、僕は馬車から下りた。

 その後からクーミリアと他の神殿騎士たちが続々と降り立つ。

 ルークスの死後、クーミリア以外にも二人の護衛がつくようになった。

 義父とはいえ、近しい存在が殺されたとなると神殿騎士たちも慎重にならざるを得ない。

 神殿騎士たちに囲まれて生活するようになった今、レイが殺しを続ける事によって僕に容疑が向けられる事はなくなった。

 大神殿の前に停められた馬車から降りた僕たちは、そのまま正門を抜けて庭園へ入った。

 立哨していた神殿騎士たちが即座に頭を下げる。

 それに笑顔を振りまきながら、僕は庭園の中で見慣れた姿を探した。

 彼女は、すぐに見つかった。銀色の髪は目立つ。

「今日も庭いじりですか?」

 後ろから声をかける。

 すると、破壊の御子ベルタはいつもの涼しい笑顔を浮かべて振り返った。

「やあ、ルイくん。やる事がなくてね」

 彼女はそう言って、冗談っぽく肩を竦めてみせた。

 法王選に勝つ気がない彼女は、毎日のようにこうして庭園に出て時間を潰していた。

「そういうルイくんは、今日も貧民街に?」

「はい。様子を見てきました。子供たちの栄養状態は、最悪の状態を抜けたと思います」

 ベルタの青い瞳が、優しそうに微笑む。

「ルイくん。君は御子の初開式の時、自信がなさそうだったね。成すべき事がわからない、と不安そうにしていた」

 けれど、と彼女はゆっくり立ち上がった。

 一つ年上の彼女は僕よりも少しだけ背が高い。

「今の君は、立派な慈愛の御子だと思うよ。フランも心の中では認めているはずさ」

 ベルタの手が、そっと頭に伸びた。

 まるで弟を褒めるように、彼女の手が僕の頭を撫でる。

「だったら良いのですが」

 微笑みを返しながら、思う。

 慈愛とは一体何なのだろう、と。

 大いなる主は、僕を慈愛の御子に選んだ。

 元暗殺者の僕を。

 眼の前のベルタの方が、よっぽど慈しむ心を持っている。

 彼女こそが慈愛の御子になるべきで、僕のような影の世界で生きてきた者が破壊の力を得るべきだった。

「それと」

 ベルタの目が、心配そうに僕を覗く。

「無理をしていないか」

 ルークスのことを言っているのだとすぐに分かった。

 父を失った僕を、彼女は心配している。

 僕がこの手で殺したというのに。

 彼の血を吸ったナイフを、未だ腰に装着しているというのに。

 善人の彼女は、僕を心配していた。

「大丈夫です。枢機卿団の方々もいらっしゃいますし、侍女のアリアもいます」

「そう……それならいいけれど、無理をしてはいけないよ」

 微笑む彼女の眦は、どこまでも慈愛に満ちていた。

 

 

 

「ルイさま、お帰りなさいませ」

 私室に戻ると、侍女のアリア・ミラーが頭を下げた。

「ただいま」

 微笑んで、それから鏡の前に立つ。

 すぐにアリアが法衣を脱ぐのを手伝ってくれた。

「ルイさま、いつも腰にナイフをお持ちですよね」

 法衣を脱ぐ時、アリアは何気なくそう言った。

「何があるか分からないからね」

「お優しいルイさまには似合いませんよ。怪我をしないようにしてくださいね」

 無邪気な笑顔を向けてくるアリアに、思わず苦笑が漏れた。

「大丈夫だよ。ナイフの扱いには慣れているから」

「そうなんですか?」

 不思議そうな顔をするアリア。

 僕は法衣を脱ぎ終わると、出来るだけ優しい声色を作った。

「アリア。少しだけ、一人にさせてくれないかな」

「はい。承知いたしました」

 頭を下げて出ていくアリアを、鏡越しに見送る。

 それから、鏡の中の僕に視線を移した。

 見慣れた顔が、そこにいた。

 殺人者の顔だ。

 そして、慈愛の御子の顔だ。

 鏡の向こうの世界が、歪んでいく。

 血に濡れたルークスの生首が、僕の後ろに浮かんでいた。

「ルイ。なんで俺を殺したんだ?」

 肩越しに語りかける彼は、ひどく悲しそうな顔をしていた。

「俺たちは、いい親子だったじゃないか。俺たちは、うまくやってきたはずだ」

 そうだ。

 あなたは、いい父親だった。

 僕たちはうまくやってきた。

「俺は昔から、根っからの悪いことはできなかったんだ。してこなかった。俺はそういう人間だったんだ」

 そうだ。

 あなたの魂は根本的な部分では善に傾いていた。

 他人から奪うより、与えることに生きがいを感じる人だった。

「なあ、俺は殺されるほどの悪いことをしたのか? 俺は薬を売ってきただけだ。生きるのが苦しいやつだっているんだ。薬に助けられてるやつだっているんだ。知っているだろう?」

 知っているよ。

 死を選びそうな人たちが、最後に縋り付く手段だって事もわかってる。

「なあ、俺はそんなに悪い生き方をしたか? ルイ。なんで俺を殺しちまったんだ?」

「ルイ」

 不意に、ルークスの声を掻き消すようにレイの声が響いた。

 気づけば、鏡の向こうに浮かんでいたルークスの生首の代わりにレイが立っていた。

「ルイ。やめるんだ」

 彼女が、近づいてくる。

「ルイ。考えるな」

 後ろから、彼女の腕が僕の身体に巻き付いた。

 背中に感じる体温が、僕の意識を急速に現実へ戻した。

「いいか、ルイ。殺しをやっているのはボクだ。キミじゃない。キミじゃないんだ」

 耳元で早口で捲し立てるレイに、僕は思わず笑った。

「命じているのは僕だ」

 振り返る。

 もう幻は見えない。

 そこには確かに、レイが立っていた。

 彼女は注意深く観察するように僕の目を見ていた。

「ルイ。鏡に向かって何をしていた?」

「何も。ただ見ていただけだよ」

 いつもの笑みを浮かべて、彼女に労りの言葉をかける。

「お疲れ様。順調みたいだね」

「ああ、順調だ。暗黒街の治安は確実に良くなっている。ルイ。良くなっているんだ」

 彼女は強調するように繰り返した。

「そうだ、ルイ。問答をしよう」

 問答。

 僕たちが昔から繰り返してきた遊びだ。

 初めて殺しをした時から、何度何度も繰り返してきた。

「一つ。食べるためにカエルを殺すことは悪か?」

「違う」

「二つ。カエルが痛みを覚えないように岩に頭を打ち付けて、気絶させてから皮を剥ぐのは悪か?」

「違う」

「三つ。皮を剥いだカエルに味付けする為に塩を撒いた時、カエルの死体は苦しそうに筋肉が何度も震える。これは悪か?」

「違う」

 いつものように、僕らは繰り返す。

 淀みなく、答えていく。

「四つ。生きるために人を苦痛なく殺すのは悪か?」

「違う」

「五つ」

 最後の問答。

「悪を殺すのは悪か?」

 繰り返してきた問答。

 僕はいつものように答えた。

「違う」

 答えてから、考える。

 僕は悪と善のどちらに立っているのだろう。



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04話

 はじめて人を殺した時の記憶は、既に薄れつつあった。

 誰を殺したのかも正直よく覚えていなかった。

 記憶にあるのは、鮮血を全身に浴びた師匠の姿だった。

 彼女はまだ幼かった僕を無表情に見下ろしていた。

「いま、お前は人の命を奪った」

 赤い血が、僕の手を汚していた。

 ナイフから血が滴り落ちていた。

「生きるために奪ったんだ。鹿を狩るのと変わらない。人を殺した金で鹿肉を買えば同じことだ」

 彼女は懐から銀貨を五枚出して、僕に押し付けた。

 手にした銀貨が、血で濡れていく。

 彼女は歪んだ笑みを浮かべると、隣にいたレイに視線を移した。

「レイ。お前は稀有な魔術を有している。なのに何故それを振るわない?」

 レイの手は、僕のように汚れていない。

 僕のように赤く染まってはいなかった。

「ルイは躊躇しなかった。なのに何故、お前は影から飛び出さなかった?」

 レイは答えない。

 俯いたまま、身体を震わせていた。

「答えられないほど難しい質問だったか?」

 師匠がレイの髪を鷲掴みにし、強引に顔を覗き見る。

 レイの口から苦悶の息が漏れた。

「質問を変えよう」

 師匠の声が、一段と低くなる。

 危険な兆候だった。

「一つ。食べるためにカエルを殺すことは悪か?」

「……ちがい、ます」

 師匠が大きく頷く。

「二つ。カエルが痛みを覚えないように岩に頭を打ち付けて、気絶させてから皮を剥ぐのは悪か?」

「……違います」

 レイの目に怯えが走るのが見えた。

「三つ。皮を剥いだカエルに塩を撒いた時、死体の筋肉が苦しそうに何度も痙攣する。死体に味付けするのは悪か?」

「……違います」

 死体は苦痛を覚えない。

 なのに、レイの瞳には迷いが浮かんでいた。

「四つ。自分が生きるため、他人を苦痛なく殺すのは悪か?」

 レイは、答えなかった。

 師匠が声を荒げる。

「カエルの捌くのは悪か。鹿を狩るのは悪か。人を殺して銀貨を得るのは悪か。答えるんだ、レイッ!」

 レイは答えない。

 髪を鷲掴みにされたまま、師匠を睨みつけるように涙を浮かべていた。

「五つ」

 師匠が静かに言う。

「悪を殺すのは悪か?」

 静寂が落ちた。

 僕たちの息遣いだけが、そこにあった。

 レイの視線は、師匠を射るように真っ直ぐと上を向いていた。

 師匠が嗤う。

「いつか、私を殺してみるがいい。それはきっと、カエルを捌くのと変わらないだろう」

 そして、と師匠は言葉を続けた。

「それはお前たちも変わらない。悪を殺すのは悪ではない。いつかお前たちを殺す者が現れるだろう。精々抗うがいい」

 師匠はレイを開放すると、すぐに背中を向けた。

 レイは力なく床にへたりこんで、去っていく師匠の背中を睨みつけていた。

 僕は手の中で赤く染まった銀貨をじっと見つめた後、レイに向かってそっと足を進めた。

 そして、銀貨二枚を彼女の前に落とす。

 レイが驚いたように僕を見上げた。

「大丈夫だから。次も僕の影から出る必要はないよ」

 残った銀貨三枚あれば、僕とイーラで十分な食事ができる。

「殺しは、僕一人で出来るから」

 僕は、これから大勢の人を殺していく。

 お金が必要だった。

 こんな銀貨なんてゴミみたいなほどの大金が必要だった。

 大金を稼げる大物を殺していかないといけなかった。

 だから、レイが手を汚す必要なんてない。

「レイは影から見ているだけで大丈夫だから」

 レイは床に転がった銀貨を拾い上げて、嗚咽をあげていた。

 僕は血に濡れた手で、彼女の頭を優しく撫でた。

 それから目元の涙をそっと拭う。

 彼女は恥ずかしそうに顔を背けて、それから隠れるように僕の影に溶けていった。

「大丈夫だから」

 繰り返すように呟いた声が、影の中に届いたかは定かではない。

 ただ、彼女は隠れるように僕の影の中でじっとしていた。

 

 

 

「大丈夫だから」

 レイの柔らかい声が聞こえた。

 僕の目の前には、レイと並ぶようにルークスの生首があった。

「ルイ。痛かったんだ。死ぬのは一瞬だった。それでも痛かったんだ」

 生首が嘆きの声をあげる。

 見知ったルークスの顔が血に濡れていく。

 疲れの滲んだ白髪が赤く染まっていった。

「……ルイ。一体何を見ている?」

 彼女は僕の視線の先を辿って、それから覗き込むように僕の目を見た。

 視界が彼女の顔で遮られ、ルークスの生首が見えなくなる。

「なにも」

「ルイ。大丈夫だ」

 彼女は言い聞かせるように、何度も同じ言葉を繰り返した。

 それから温かい体温が、僕を包み込んだ。

 小柄なレイの身体が、僕に絡みついていた。

「ボクは君の影だ」

 レイの低く、落ち着いた声が脳髄に溶けていく。

「君が手を汚す必要はない。ボクに任せてくれればいい」

 彼女の肩越しに見える生首をぼんやりと見つめながら、ふと師匠の言葉を思い出す。

「レイ、師匠の言葉覚えてるかな」

「大体は覚えているよ」

 レイが苦々しく言う。

「師匠はこう言ったよね。悪を殺すのは悪ではない。いつかお前たちを殺す者が現れるだろう。精々抗うがいいって」

「ああ」

 肺腑の中から、冷たい息を吐き出す。

「あれは――」

 ノックの音が木霊した。

 レイは抱擁を解くと、すぐに影の中に溶けていった。

 扉が開く。

「ルイ聖猊下、第五衛兵団の衛兵長がお会いしたいと」

 現れたのは神殿騎士のクーミリアだった。

「わかりました。すぐに向かいます」

 頷き、身支度を始める。

 それから思った。

 いつか僕を殺すであろう者は、誰なのだろう。

 法王の座を巡って争う支配の御子、フランツィスカだろうか。

 それとも信仰に厚い神殿騎士のクーミリアだろうか。

 あるいは、正義の執行者である衛兵たちだろうか。

 いずれにせよ、碌な死に方をしないに違いない。

 ふと振り返ると、亡者たちが窓から僕を見ていた。

 目を閉じて、大きく呼吸を繰り返す。

 それからゆっくりと瞼を開けると、もう死者の姿はどこにもなかった。



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05話

 クーミリアに案内された部屋の扉を開けると、予想外の人物が待っていた。

 第五衛兵長のアンリと、その部下のリツカに挟まれるようにして、レミアが立っていた。レミアはどこか顔色が悪く、居心地が悪そうに身を小さくしている。

「ルイ聖猊下。突然の来訪、誠に申し訳ございません」

 アンリが生真面目な顔で前に出て頭を下げる。

 僕は微笑を浮かべて、部屋の奥にゆっくりと足を進めた。

 窓に背を向けるように、影が彼女たちに被さるように。

「特に執務もなく、暇をもてあましていたところです。今日はどうされましたか?」

 そう言いながら、レミアを観察する。

 彼女は二人の衛兵に挟まれて居心地が悪そうにしているが、僕に対して怯えた様子を見せることはなかった。

 つまり、僕がルークスを殺害した事を衛兵に告発したわけではない、と判断する。

 きっとレイも同じ判断を下したのだろう。足元の影は息を潜めたまま微動だにしない。

「実は数日前からこの女が大神殿の前を徘徊しておりまして。怪しく思い捕らえたところ、ルイ聖猊下の古い知り合いであると主張するもので、その確認に参りました」

 なるほど。

 両腕のないレミアは、前科を持つ貧民街の者だと一目で分かる。大神殿の近くをウロウロしていれば捕まって当然だった。

 僕は意識的に微笑を浮かべたまま、困ったように小さく首を傾げてみせた。

「彼女は幼馴染の一人です。怪しい者ではありません」

 レミアの顔に安堵の色が広がる。

 反対にアンリの顔が緊張で強張るのがわかった。

「聖猊下のご友人であるとは知らず、無礼な真似をして大変失礼いたしましたッ!」

「衛兵団の職務に忠実である事は、責められるべき事ではありません。それに彼女が紛らわしいことをしたのが発端です」

 レミアに目を向ける。

「レミア、僕になにか用事があったのかな?」

 彼女は二人の衛兵を気にする素振りを見せながら、小さく何度も頷いた。

 大体予想がつく。

 アンリに視線を戻し、もう一度意識的に微笑を作る。

「この度は手間をおかけして申し訳ありませんでした。職務に戻って頂いて大丈夫です」

「はッ! 失礼いたしますッ!」

 アンリが深く頭を下げ、隣のリツカに退室を促す。

 それまで黙っていたリツカは一度だけ観察するように僕を見た。

 どこまでも昏い目。

 一瞬の交錯の後、彼女はすぐに視線を外してアンリの命令通り部屋から出ていった。

 最後にアンリがもう一度頭を下げて、リツカを追うように外へ出ていく。

 残されたレミアは小さく息をついて、僕に向き直った。

「あの、ごめん。どうやったらルイに会えるか分からなくて……」

 彼女は言い訳するように矢継ぎ早に捲し立てた。

「それに、あの、衛兵たちには何も言ってないから! ルイを売ろうとなんて思ってないから!」

「レミア」

 静かに声をかけ、制止する。

 すると彼女はまるで怒られるのを恐れるように口を閉じ、身を小さくした、

「一度、部屋の外を見て欲しい。聞き耳を立てている人はいないかな?」

 彼女は目を大きく見開き、弾かれたように扉に向かって両肘を使ってノブを回した。勢いよく扉が開き、レミアが廊下の左右を確認する。

 レミアはすぐに扉を閉め、囁くように言った。

「大丈夫。だれもいなかった」

「レミア、どんな話でもまず人払いが出来ているか確認する必要があるよ」

「うん。次から気をつける」

 僕は椅子に腰掛けて、それで、と話を促した。

「なんの用事があって神殿の周りをうろうろしていたのかな」

「なんのって……」

 レミアが憮然とした顔を見せる。

「止めにきたんだよ。ルイには怖いことなんて似合わないよ」

 彼女はそう言って、にへらと笑った。

「昔みたいに戻ろうよ。大丈夫。わたしだって稼ぎがあるから」

 稼ぎ。

 彼女は自信満々に言う。

 きっと、それなりの経済的な余裕があるのだろう。

 レミアはまだ、それが泡沫の幻だと気づいていない。

「……レミア」

「大丈夫だよ。ルイが殺しなんてする必要なんてない。貧民街を良くしたいなら、もっと別の方法だってあるはずだもん」

 娼婦の平均寿命は、長くない。

 多くは病気にかかって死んでしまう。

 彼女たちが切り売りしているのは純潔だけではない。

「レミア、ダメなんだ」

「ダメじゃないよ。大丈夫。わたしも一緒に考えるから」

 レミアは良くも悪くも、純粋なままだった。

 裏街で身体を売りながらも、彼女の心は未だ汚れていない。

「わたしが、ルイの分まで頑張るから」

 だから、と彼女は僕の目を正面から見て告げた。

「ルイが殺しなんてする必要、ないんだよ」

 優しく微笑む彼女の肩越しに、影が見えた。

「――ぬるいなぁ」

 底冷えするような低い声とともに、まるで死神のようにレイが影から立ち上がる。

 突然響いた第三者の声に、レミアが驚いたように振り返った。

「だ、だれッ!?」

「ボクはルイの影だ」

 レイは薄ら笑いを浮かべて、銀色に光るナイフをそっと構えた。

「ルイ、こいつは殺すべきだ。君の役には立たない」

 銀刃を見て固まるレミアに、レイが距離を詰めた。

 咄嗟に腰のナイフに手を伸ばし、鞘から引き抜く。

「レイッ!」

 空中を滑るナイフが、レイのナイフと衝突して火花を散らした。

 レミアが悲鳴をあげ、後ずさる。

「レイ、やめるんだ」

「ダメだ。こいつは君の殺しの理念を否定した。許容できる範囲を超えている」

 レイは憎悪の籠もった目でレミラを睨み、ゆっくりとナイフを構え直した。

「よりにもよって娼婦が、君の殺しを否定した。許しがたいことだ」

「レイ、いいから武器を下げるんだ」

 荒い呼吸を繰り返していたレイが、深呼吸を始める。

 切っ先が震えるのが見えた。

「レイ。そのまま下ろすんだ」

 ゆっくりと言葉を繰り返す。

 レイは一度だけレミアを睨むと、そっと後ろに下がった。

 後ろでレミアが吐息を漏らすのがわかった。

「……なんで、どこから」

 突然現れてナイフを振るったレイに、レミアは混乱しているようだった。

 レイは興味を失くしたように視線を外し、つまらなさそうにナイフを手の中で遊ばせていた。

「……彼女はレイ。僕の、なんというか、護衛だよ」

 レイの目が、僕に向けられる。

「パートナーと呼んで欲しいね」

 冗談っぽく言うレイに、レミアは後ずさりながら口を開いた。

「あなたは……あなたが、ルイに悪いことをさせてるの?」

「まさか。全てルイが自分で決めたことだ。ボクは彼の手足であって頭じゃあない」

 ところで、とレイが嘲笑うように言う。

「きみは手足にもなれそうにないな。彼を縛る足枷でしかない。一体何をしにきた?」

「わたしは……ルイをとめに来ただけ」

 レイの笑みが深まる。

「なるほど、つまり彼の良心になりたいというわけか」

 しかし、とレイは言った。

「その役割は既にイーラが握っている。定員オーバーだ」

 レイの目に危険な色が宿る。

「君はルイの下に相応しくない。立ち去るがいい」



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06話

 レイの居場所は、常に影の中にあった。

 物心ついた時には既に家族と呼べる存在はおらず、魔術を用いて裏街を一人で生きていた。

 魔術師。

 その多くは遥か昔に隣接する帝国に接収され、この教国においては非常に希少なものだった。

 魔術は血によって継承される。

 レイの生まれは恐らく帝国だったが、本人がそれを知る術はなかった。影に紛れて残飯を漁る生活をしていたレイには、そうした知識を授けてくれる存在がいなかった。

 彼女は孤独だった。

 裏街の大人は全て敵で、姿を隠すべき存在だった。影の中に潜み、誰にも見つからないようにゴミを漁る生活を何年も続けた。

 少しだけ大きくなると、レイは盗みを覚えた。夜の闇に溶ければ、盗みは驚くほど簡単に行えた。

 そして、レイは己の腕を過信するようになった。

 影の中に潜めば、誰も存在を知覚できない。触れることもできない。夜の世界はレイの独壇場だった。

 あの女に会うまでは、ずっとそう思っていた。

 月のない晩。

 その日、レイはある屋敷に侵入を果たした。それが全ての間違いだった。

 長い廊下を影の中に身を潜めて移動していたレイは、突然影から弾き出された。同時に視界が眩い光に包まれる。

「随分と脆いな」

 眩い光の中、女の甲高い笑い声が聞こえた。

 廊下に放り出されたレイは、自らの身に起きた事態を理解できずにいた。

「知らない魔力特性だ。しかし、対応は難しくない。影そのものを消せばいい」

 カンテラを持つ女が、数歩先にいた。

 女は嗤いながら、レイを見下ろしていた。その右目には、不気味な黄金の光が灯っている。

「影から弾き出されたのは初めてか? 影の外で生き残る術を知らないようだな」

 想定外の事態に身動き出来ないレイに、女がゆっくりと近づいてくる。

「魔力特性だけに依存するから、そうなるんだ」

 女が腰からナイフを抜き、床に転がるレイの首筋に当てる。冷たい感触が死を予感させた。

「お前の選択肢は二つだ。ここで死ぬか、私のものになるか」

 女の黄金に輝く右目が、レイの瞳孔を覗き込むように動く。

「私に恭順を誓え。我が同胞たる魔女の子よ」

 レイはゆっくりと頷いた。

 首筋のナイフが離れ、女が満足そうに微笑む。

「立て。影の外で生きる術を教えてやる」

 それが殺しの師となるノアとの出会いだった。

 

 

 

 ノアにはレイ以外に一人、弟子と呼べる存在がいた。

 ルイ。

 魔術の素養もなく、体格に恵まれたわけでもない。ただの小柄な少年だった。

 しかしノアはルイのことを、レイよりも目にかけていた。

 お気に入りだったと言い換えてもいい。

 その理由を、レイはすぐに知る事になった。

 初めての仕事でルイは躊躇なくターゲットを殺してみせた。

 それに対してレイは失敗した。影の中から出ることもままならなかった。

「レイ。お前は稀有な魔術を有している。なのに何故それを振るわない?」

 ノアの低い声が、レイに投げかけられた。

「ルイは躊躇しなかった。なのに何故、お前は影から飛び出さなかった?」

 レイは俯いたまま身を震わせていた。

「答えられないほど難しい質問だったか?」

 ノアはレイの髪を乱暴に掴みあげると、黄金の光が灯った右目でレイを覗き込んだ。

「質問を変えよう」

 それまでとは打って変わって、どこか陽気な声でノアは言った。しかし、声は一段と低くなっていた。

「一つ。食べるためにカエルを殺すことは悪か?」

 問答が、始まる。

 ノアは口癖のようにこの問答を繰り返した。

 内容はノアの気分によって少しだけ変わる。

 しかし、決まって最後はこう締めくくられた。

「悪を殺すのは悪か?」

 それに対する答えを、レイは持ち合わせていなかった。

 悪を殺すのは、悪なのだろうか。

 悪を殺すのは、正義なのだろうか。

 わからない。

 分からないから、レイは殺しに手を染めることができなかった。 

「旅に出よう」

 ある時、ノアはそう言った。

 もちろん、レイとルイに選択肢はない。

 言われるがままに最小限の荷物を持って、貧民街を飛び出した。

 貧民街を囲う石造りの壁は脆く、ノアの手引きによって簡単に外に出ることができた。

 はじめて見る外の世界は、広大だった。

 身を寄せ合うように小さな小屋が密集する貧民街とは違い、雄大な大自然がそこにあった。

 外の景色を呆けるように眺めるレイに向かってノアが口を開く。

「人間の街は、この世界の極一部に過ぎない」

 そう言って、ノアはゆっくりと歩き出す。

 その後ろには、表情を変えないルイが続いた。

「世界の理とも呼ぶべきものは、もっと別の場所にある」

 ノアが振り返る。

 黄金の右目が、燦々と輝いていた。

「空を見上げろ。何が見える?」

 言われた通り、空を見上げる。

 大空を旋回する数百の鳥の群れが見えた。

「ヒクドリと呼ばれる渡り鳥だ。越冬のために北方から王国を経由してやってくる」

 ノアの声は、どこか淡々としていた。

「いくつもの綺麗な陣を組んでいるだろう。しかし、あれらは統率されたものではなく、ボスと呼ばれるような個体もいない」

 大空を旋回する鳥たちは、暗黒街を見回る衛兵のように統率された動きを見せていた。

「よく見ると、群れの中にはヒクドリ以外の渡り鳥も混じっているのが分かるはずだ。つまり、あれはたまたま飛んでいた鳥たちが身を寄せ合っただけの集合体で、そこに指揮系統は存在しない」

 ノアはそう言って歩き始めた。

 空を見上げていたレイは慌てて後を追った。

「これは生物の本質的なものだ。外敵から身を守るためには、身を寄せ合うのが一番いい。そして、それは別に同じ種族じゃなくてもいい。外敵の接近を知らせる役割と、逃げる時の囮になれば何でもいいんだ」

 ノアの右目が黄金の輝きを増していく。

 彼女は聖都から離れて森の中に足を進めていく。

「渡り鳥のような下等生物でも、そうやって身を守る術を知っている。ならば、もう少し上等な生物ならどうだろう」

 ノアの目が、横を歩くルイに向けられる。

 ルイは少しだけ考える素振りを見せると、静かな声で言った。

「身を守るためではなく、狩りをするために群れを成すと思います」

 ノアの顔に喜色が広がった。彼女は満足そうに頷くと、そこで足を止めた。

「そうだ。上等な生物は狩りをするために身を寄せ合う。代表的な例は狼だ」

 遠吠えが聞こえた。

 ノアの右目の光が呼応するように肥大化していく。

「狼は群れの中で明確な序列を作り、最上位の雌雄だけが交尾を行う習性がある。一匹では食料を得ることが難しく、組織に隷属する必要があると多くの動物ではこういった特権階級が発生する」

 ノアの黄金の右目は、真っ直ぐとルイに向けられていた。

「支配と階級は、隷属によって肯定されうるものだ。支配者として君臨する者は常に隷属する理由を与えなければならない」

 では、とノアが言葉を続ける。

「群れで狩りをする必要のない、更に上等な生物はどういった形態を成すと思う?」

 ノアの黄金の目はやはり、ルイに向けられている。レイに向けられることはなかった。

「一匹で行動し、同じ種族に対しても利他的なことはしません」

「その通りだ。グルと呼ばれる種族がいる。猿のような顔に、獣の身体を持つ強靭な動物だ。奴らは知能が高く、一般的に一匹で生活をする。群れに隷属し、上位者に特権階級を与える必要がないからだ」

 話を聞きながら、レイは深い森の奥を警戒するように眺めた。ノアが話している間にも遠吠えが何度も聞こえていた。

 しかし、ノアは気にする風もなく言葉を続けていく。

「さて、これで三つの形態を説明したことになる。その場限りの群れを成すヒクドリ。明確な序列を作る狼。一匹で行動するグル」

 そこでようやく、ノアの目がレイに向けられた。

「レイ。この三つの形態のうち、人間はどれに属する?」

「……狼?」

 自信がなさそうに答えると、ノアは無表情で頷いた。ルイの時のように笑みは見せなかった。

「そうだ。人間は群れに隷属しなければ生存が難しく、自発的な隷属によって特権階級が発生する」

 再び遠吠えが届いた。さっきよりも近い。

 しかし、ノアは言葉を止めない。

「さて、ようやく本題だ。三つの形態のうち、最も生存に長けた形態はどれだ?」

「グルです」

 ルイが即答する。

 ノアの黄金の右目が、煌めいた。

「そうだ。一つの個体で全てが完結するグルが生物として最も望ましく、上位の存在と言えるだろう」

 つん、と獣臭が鼻をついた。

 近くの叢が大きく揺れる。

 ノアが短剣を引き抜き、高い金属音が響き渡った。

「ただ強くあれ。それだけで良い」

 茂みから飛びかかってきた狼が、ノアによって斬り伏せられる。

 レイは悲鳴をあげると同時に影の中に飛び込んだ。

 世界が影に沈む中、ノアの背中を守るように立つルイの姿が見えた。

 その姿が、レイにはどうしようもなく美しく見えた。



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