Fate/Fake Moon Ambition (左臼)
しおりを挟む

1:月並み少年と念動力

 霜月波彦は、月並みな少年である。

 近所の並み程度の偏差値の県立高校に通い、テストが来るたびに慌てる程度のそこそこに勉学に励み、入学時には入るか悩んだ部活動にも何となく時期を逃して入らずに帰宅部をし、月に何度かは友人と休日に遊びに出かける程度の暮らしをしている。

 そのため、普通の高校生を越えた特徴はなく、妙な知識に精通しているということもない。実は裏の世界では……、なんてバカげたことも当然なく、本当に人より特段優れたところも劣ったところもない、平々凡々な少年であった。

 

 そんな彼の暮らす藤之枝は、典型的なベッドタウンである。オフィス立ち並ぶ大都市から伸びる鉄道沿線の終着駅が入口。駅周辺には倉庫詰めされたように、隙間なく住宅が立ち並ぶ。そこそこ大きなショッピングモールもあり、市民の買い物と遊びの場として最適。そんな栄えている駅を離れていくほど人気がなくなっていき、駅から続く坂を昇り続けていった先は山に繋がっている。

 そんな、日本のどこにでもあるような、人間の都合によく作られた都である。

 

 さて、そんな藤之枝の若者の間には最近ある噂話が流れている。

 内容としては、いわゆる都市伝説とか、七不思議だとか。まあ、そういう若いころの誰しもが、面白半分で考えるようなもので。

 恐らく流している本人たちも、本気でそんなことがあるとは思っていなくて、ただゴシップ的な話のネタとして便利だなと思っている程度のもの。

 それは、波彦の所属するクラスでもポツポツと、放課後になると聞こえてきて、

 

「ねえ、能力に目覚めるんだったら、どんなのがいい?」

「やっぱり、空飛んだりできたら夢あるよね」

「だったら私は、どこでも〇アがいいな。だって、空飛べるなんかより、絶対便利だよ」

「はあ、私にも目覚めないかな超能力」

 

「なんか、昨日また隣の高校のやつが見たらしいぜ。獣の遠吠えを聞いて、噂が本当か確かめようって、遠吠えの聞こえる方に近づいていったら、滅茶苦茶大きい狼が人間の赤ん坊の死体を食べてたって。そいつは恐ろしくなって、狼に気づかれないように、こっそり逃げ帰ったって」

「えー、こわーい」

「大丈夫。もし、逢っちまったらオレが護ってやるから」

 

 この他にも、夜空に月が二つ昇ったり、住宅街に突然幽霊の出そうな洋館が現れたり、どれだけ歩いても反対側にたどりつけないトンネル道があったり、人の首が宙に浮いたり、目の前に突如ヘンテコな遺跡が現れて、「勝負しようぜ」とどこからか声が聞こえてきたりとか。

 そういう噂が同時多発的に流行っている。

 いやまあ、最後のは特に不思議が七つになるための数合わせ感が凄いので、誰かが遊び半分で噂話を流しているのだろうという。

 

 だが、そんな荒唐無稽な噂話の中に、少なくとも一つ本物が混じっているということを波彦は知っている。

 それは、二週間前の皆既月食の後、突如若者たちが異能に目覚めたという噂話。

 そういう噂が流れ始めた理由は、恐らく皆既月食で真っ赤に染まる月という幻想的で、どこかおぞましさを感じる光景を見たことによる、何か不思議なことが起こりそうだという想像から始まったものなのだろう。

 だが、当事者である波彦は、その噂が少なくとも部分的には正しいことを知っている。

 

 

 

 放課後、家に帰った波彦は、ベランダの洗濯物を取り入れて畳んだ後、ひと月前に買ったゲームをだらだらと二時間ほどプレイした。

 ゲームに一区切り付いたところで、窓から見える空がすっかり闇に落ちていることに気づき、スマホの画面に映る時刻を確認すると、外に出る準備を始める。

 外出の目的は晩飯の調達。

 

 波彦の家は父子家庭である。母親は、波彦の幼い時に亡くなっているらしい。

 というのも、本当に物心が付くよりも前のことなので、自分に母親がいたという実感すらなく、赤ん坊の自分を抱く数枚の女性の写真が、波彦の母親の認識である。

 父親は波彦を男手一つで育ててくれたのだけれど、職業柄、年に数回は長期の出張になる。幼少期は仲のいいご近所さんに預けさせてもらっていたのだが、中学に入ってからは、波彦自身がその状態は良くないと思い、一通りの家事を何とかこなせるようになり、父親の出張時には一人で家を守るようになった。

 そのような事情で、料理もできないことはないが、一人の時は特に面倒なので、近所のスーパーで弁当を買って食べることがほとんどである。

 

 今日は唐揚げ弁当だった。多分、百回くらいは食べた味。

 普段から、家に帰ってわざわざゴミを増やすのも億劫だと思い、近所の公園のベンチに座って食している。

 残暑の季節、夜にも生ぬるい風が吹き、膝裏の滲んだ汗が、ペンキでコーティングされた木の板に染みる。

 一分ほどの下弦の月は、分厚い雲の隙間を見え隠れする。

 弁当の容器に籠った蒸気は、上蓋に張り付いている。そこから、水滴を落とされた米の塊が、絶妙ないつもの不快感を舌の上に残す。

 かみしめるようなこともせず、食事はものの数分で終わる。

 その間、その公園に新たな人が訪れることはなく、唯一見つけたのは、さっとジョギングで、公園の横を通り抜けていった人影が一つだけ。

 車さえ、夕方を過ぎると滅多に通ることがない。

 ここは、そういう寂しい場所だった。

 住宅街の外れにあって、アクセスが悪い。子供たちが楽しめるような遊具もろくにない。

 代用の利く公園とか、ゆったり腰を据えて会話を楽しめる場所も、アクセスのいいモールの内外に多くあり、わざわざ訪れる理由もないような場所。

 だからこそ、波彦はここが少しだけ好きだったし、今日は最初からここに行こうと決めていた。

 一人になれる場所。人の目を気にしなくて済む場所。役目を取られ、人々から捨てられてしまった公園。

 波彦は、食べ終わった弁当のゴミをスーパーのレジ袋に詰めて、持ち手を纏めてくるんと結ぶ。そのまま持ち手を掴み、軽くクルクル三回ほど身体の横で回した後、ベンチから五メートルほど離れたところにある、錆びた鉄のバスケットを抱えたゴミ箱目掛けて投げ込む。

 しかし、空気抵抗に負け、ふらふらと宙を彷徨った後、見当はずれの場所にポトンと落ちる。多分、そうなるだろうなとは思ってたから気落ちはしない。 

「誰もいないよな?」

 周りを確認するが当然のように、人気はゼロだった。

 集中するために、一つ長く息を吐く。

 落ちたレジ袋に意識を集中する。穴が開くほど見つめる。

 そこに存在する空気の手で摘み持ち上げるようにイメージする。

 すると、レジ袋は、ゆらゆらとふらつきながらも、見えない力に上から引かれるように浮遊した。

 そのまま、ゴミ箱の上空まで、クレーンゲームを思わせる動きで移動した後、浮力を失って、力なくバスケットの中に着地した。

 波彦は、そこでようやく止めていた息を吐き出した。額から一筋の汗が顔を伝っていた。

「よし、なんとか上手くいったな」

 思い通り運んで、少しだけ得意げな気持ちになる。

 そう、これこそが波彦に数日前から備わった異能。

 サイコキネシスとか、念動力とか。

 気が付けば、いつの間にか、そんなことができるようになっていた。

 今日は、ほんの少しだけ、この異能について、どれだけのことができるのか調べるために、人目のない場所を訪れると決めていた。

「まあ、ゴミを持ち上げられたからなんだって話なんだけど……」

 今のも、間違いなく立って拾いにいって、捨ててきた方が簡単だった。

 これぐらいのことしかできないのなら、この能力が備わった意味はあまりないように思う。ちょっと物珍しいことができるくらい。

 それでも、他の人にはできないことだろうけど。

 せっかく備わった能力が無意味だってのは、少しだけ寂しい気がある。

 だから、限界を調べるために、

「次は、あれを持ち上げられるか、だよな」

 ここに来る前から決めていた。

 この公園のほぼ唯一の特徴といっていい、一体それが何を模しているのか分からない、誰が何を思って作ろうとしたのか分からない、奇妙な形をしたオブジェ。

 しっかりとした台座の上に立っていて、そう安くは作れないだろうが、これが意味を成したことは恐らくないだろう。

 ただ間違いなく重量だけはあるだろう。

 一人の力では到底持ち上げることはかなわない。だからこそ、これを単独の力で持ち上げることができようものなら、それは超常の力に他ならず、有用性も認められるというもの。

 まさに、今の波彦にとっては恰好の標的だった。

 そういう意味では、波彦が、この公園ができて十数年目にして、初めて奇怪なオブジェに意味を与える存在になるかもしれない。

 レジ袋の時と同じように、集中して見つめて、摘まみ上げるイメージ。

 レジ袋の時とは比べ物にならない負荷が精神にかかった。

 そして、波彦はオブジェが地面から一メートルくらい浮いている光景を見た。

 成功した。

 少し気持ちが高まる。

 だが、そうして気持ちを揺らすと、同時に宙のオブジェもふらついて、慌てて集中を取り戻す。

 しばらく、その状態を維持した後、波彦は元の場所から数メートル離れたところにオブジェを着地させた。

 気が付けば、どっと疲れていた。

 けれど、同時に気持ちは大きく高ぶっていた。

 この力があれば、もしかしたら大きなことを成せるかもしれないって。

 そんな少し子供じみた感慨。

「ん? 何か……」

 元々、オブジェがあった位置に何かがあることに、今更気づいた。

 オブジェを移動させたことによって、表れたのだ。

 波彦は、少しの警戒心と大きな冒険心を持って、その何かに近づいていく。

「……階段か」

 地下へと続く階段が、そこにはあった。

 古い。もう何年も使われてなさそうな、石の段。

 奥は暗くて見通せない。

 きっと、ここに公園が作られたときから使われてないもの。

 作った誰かが意図して隠したもの。

 何のためかは分からないけれど、きっとこの中には隠したいものがあるのだろう。

 普段の波彦なら、きっとこの中に足を踏み入れることはなかっただろう。

 しかし、先ほど自分の異能の強さを実感できたのもあって、今は少しだけ心が強くなっていた。無鉄砲といえるくらいに。

 気が付けば、地下に向かっての一歩を踏み出していた。

「狭いな」

 というのが真っ先に出た感想。

 暗いのもあって一歩一歩が慎重になり、中々先に進めない。

 外から差し込む微かな月明かりと、携帯のライトを頼りに、奥に進んでいく。

 二分ほどで突きあたりに扉を見つける。

 鉄製の冷たい扉。

 取っ手を回し、奥に押し込むと、ギギギとこすれる音を立てながら開いていく。

 扉を抜けると、家賃五万円、ワンルームアパートくらいの広さの空間がそこにはあった。

 相変わらずの暗闇だが、目が慣れてきたからか、なんとなく中の様子は見渡せた。

 まるで物語に出てくる魔術的な儀式が行われるような場所。

 壁には火の消えた燭台が八か所ほどある。

 部屋の中心には、地面に奇妙な幾何学性を感じさせる模様が描かれている。

 ようするに、魔法陣と呼ばれるような円と図形と文字の組み合わせ。

「……おじゃま……しまーす……」

 恐る恐る部屋に足を踏み入れる波彦。

 そして、しっかり確かめてみようと、ゆっくりと魔法陣に触れようとした。

 そのときだった。

「……えっ!?」

 闇を塗りつぶす眩い光が、魔法陣より立ちのぼる。

 ひとりでに、壁の燭台にひとつずつ火がついていく。

 波彦は、この時点で後悔していた。

 息が詰まり、心臓が早鐘をつく。

 ここから一刻も早く逃げ出したかった。

 しかし、思わず無様にひっくり返り、その場で事のあらましを眺めることしかできない。

 光が止んだのは数秒後。

 蝋燭の火によるぼやけた明るさを得た地下室。

 その中心、魔法陣の中心に、それはいた。

 今まで波彦しかいなかったはずの地下室に、急にもう一つの人影が増えていた。

 身長のほどは、日本の成人男性の平均より十センチは低いだろうか。ただ、尻をついている波彦は見上げる形となっている。

 服装は、時代錯誤で、そして魔術的な地下室に決定的にあっていない、だが昔の日本では普通に着られていたであろう活動しやすい袴姿。

 その腰からは重量感のある鉄の鞘と、鍔と柄が覗く。すなわち日本刀を差している。

 顔。非常に整った顔をしている。柔らかな眼差し。色気のある唇。

 髪は肩口で揃えられていて、蝋燭の火の色に映えるような栗色だった。

 それらを総合して、美しいと感じるが、性別が分からない。

 いわゆる中性的な顔立ちの侍が立っていた。

 その侍は、やけに長く感じた数秒後、足元に転ぶ波彦の姿を見とめて、声をかけてくる。

「お主が拙者のマスターでござるか?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2:遭遇戦vsランサー

「お主が拙者のマスターでござるか?」

 驚き、無様に尻もちをついた体勢で固まっていた波彦に再度問いかける侍姿。

 まだ混乱状態にある波彦。絞りだした第一声は、

「マ、……マスター?」

 耳慣れない言葉への疑問だった。

「あら、違いましたか。失敬」

 柔らかな物腰で軽くお辞儀をした後、侍は首を振りきょろきょろと周囲を見渡し、何かを見つけようとする。しかし、目当てのものは見つからなかったよう。

「どうもあなたしか、見当たらないようですが……。この様子だと聖杯戦争のことを知らない? しかし、召喚ができるのは魔術師だけのはず……。……はて?」

 と、独り言を呟きながら、あごに手をあて、首を傾げる。

「そういうことも、あるものなのでしょうか……」

 きょとんと見上げる波彦をよそに、目を閉じて考え事をしていたが、どうにか合点がいったようで、今度こそ、波彦に向き直って一声。

「まあなに、そんな姿勢じゃ、まともに話もできないでしょう。もっと気を抜いてください」

 中腰になって差し出された右手、波彦は思わずそこに手を伸ばす。

 華奢な手に似合わず、しっかりとした力で引き起こされる。

 立ってみて再認識したことだが、侍の背は波彦より低く、今度は見下ろす形となった。

 しかし、むしろ気配、威圧感といったものはなおも大きく感じる。

「さて、何から話したものでしょう? 何から聞きたいですか?」

 軽く波彦を見上げての爽やかな笑み。

 きっと、緊張させないようにとの配慮なのだろうが、むしろいっそうにガチガチになって、何を話せばいいのか、彼が自分に先まで何を言ったのかすら、分からないくらい頭の中は真っ白になってしまう。

 そして、思わず笑われてしまう答えを返してしまう。

「か、かたじけのうござる……」

 

 侍の笑いは三十秒くらいは続いた。地下室に反響していた。

 波彦の顔は思わず赤くなる。

「はははっ、す、すみません。これでも結構こちらも緊張していたんです。けど、拙者のマスター殿はうぇっとの利いたじょーくができる心根の優しそうな人で、ほっとした心持ちになりました」

「もしかして、馬鹿にしてる?」

「滅相もない」

 侍は、どうにか笑いを収め、何事もなかったかのように再び柔らかな目線を向けてくる。

「一から話さなければいけないみたいですが、とりあえずここでは、拙者とあなたの関係にあたるところだけお話ししましょう。以降のことは、また落ち着いた場所で」

 そんな前置きをして、波彦の日常を崩す爆弾を投下する。

「拙者とあなたの関係は主従関係。あなたが主で、拙者が従者でござる」

「しゅ、主従……?」

「はい、ですからこれからはあなたのことをマスター殿とお呼びします。拙者のことはセイバーとお呼びください」

「セイバー?」

「はい、マスター殿。セイバーというのは、従者の司る役職のひとつ。セイバーというのは、さーべる。すなわち西洋の言葉で刀剣を扱う者を意味します」

 といって、その存在を示すように、腰に差した刀をカシャリと鳴らすセイバー。

「この町には、我らと同じように主従関係を結んだものが、後六組いるはずです。彼らは拙者が剣術を扱うように、槍術、弓術など、それぞれの分野に秀でた武人です。そのようなものが、七人も集まってすることが何か分かりますか?」

 急に問いかけられたことに驚きながらも、ここまで順序だてて話されたのなら自明の理というものだった。まさか、武人が七人集まって、茶会を始めるということもあるまい。

「戦うのか?」

「はい、一組になるまで殺し合いをします」

 マイルドな言葉でかわそうとした波彦に、わざと重い現実を突きつけようとするセイバー。目を見ると、まだあの柔らかそうな眼差しなのだが、その奥には強い芯があるように感じた。

「正確には、従者が殺されたチームが脱落していき、最後まで生き残ることを競うものです。ただ、主を殺すことによって同時に従者を殺すことが可能です」

「つまり、俺を殺す方が、セイバーを殺すよりたやすいと思われたら」

「はい、敵がそういう風に打って出ると考えるのは、想像に難くないでしょう」

 これから起きること、これから巻き込まれてしまうだろうことに、目を回しそうになっていた波彦の目の前に、セイバーは注目するようにと人差し指を立てて見せる。

「まとめましょう」

「……はい」

「マスター殿は偶然、この魔法陣を使って拙者を呼び出し、主従関係を結びました。それによって、自動的に従者を用いた殺し合いに巻き込まれてしまうことになりました。今をもって、いつ命を狙われてもおかしくないような状況です」

「はあ……」

「そこで、提案があります」

「というと」

「これだけでは話が不十分ですが、こんなところでは落ち着いて話はできないでしょう。だから、敵の襲撃を払い除け、もっと安全な場所に移動し、ゆっくりと話の続きをしましょう」

 あっけからんと答えるセイバーであったが、波彦はその言葉の中の一部に引っ掛かりを覚える。

「敵の襲撃っていうのは?」

「ええ、外で待ち構えられています。いつ痺れを切らして、ここに入ってこられるか分かりません。そうされると、マスター殿を危険にさらすことになります。だから、こちらから先手を打とうと考えています。いいですね?」

「そ、それでよろしくお願いします」

「マスター殿は、まだいまいちピンと来てないようですからいい機会です。しばらくしたら、戦闘に巻き込まれないように気を付けながら見に来てください。そこで、否が応でも知るでしょう。従者同士の戦い。聖杯戦争がどういったものなのかを」

 ゆっくりとセイバーが歩いて、入口の方に向かいながら、そう言い残していく。

 そして、扉を開けきると同時、波彦には視認できない速度の疾風となって、階段を駆け上がっていった。

 直後、開け放たれたドアの向こうから、キーンと金属同士の打ち合う高い音が鳴り響いてきた。

 その様をあっけとして見ていた波彦。

 しばらく、あの打ち鳴らす音の後に聞こえてきた、幾度かの同種の音色にさらされる。

 そうして、ようやくセイバーの言葉を思い出す。

 見に行かなければと、身体が動き出す。

 セイバーの忠告のような、脅しのような口調の声音が未だに染みていて、心は落ち着かない。トクントクンと普段は意識しない心臓の音がやけにうるさく感じる。

 階段をのぼる。おそらく行きと同じくらいの、のっそりした速度で。

 やがて、外の微かな月明かりが見えてきて、慎重に慎重に、階段の縁から首を出す。

「な、なんだこれ?」

 思っていたものとかけ離れた光景が、そこには広がっていた。

 地下室でも話していた通り、セイバーは襲撃に来た何者かと戦っていた。

 波彦の認識を遥かに超えていたのは、その速度。

 残像しか見えない。

 あのセイバーが、地下室を出ていったときの、人体の限界を凌駕した動き、それがそのままに続いていた。

 互いが一息で十度ずつ攻撃を仕掛け、それを事も無げに防ぎきっている。

「ははっ……」

 いつしか波彦は引きつった笑いを浮かべていた。

 笑うしかなかった。呆れるしかなかった。

 なるほど、これがあのときセイバーのいった従者同士の戦いとは何か。

 普通の人間のような受け答えを見せるセイバーのせいで勘違いしてしまっていた。武人同士の戦いと聞いて、せいぜい達人同士の武術大会のようなものだと思ってしまっていた。例えば、総合格闘技みたいな。

 けれど違った。これは確かに戦争だ。

 彼らは、誇張ではなく一騎当千の力を有している。

 千の力と千の力、それがぶつかりあうのは、もはや試合ではなく戦に等しい。

 セイバーは合計七組の主従がいるといっていた。

 すなわち、これは七つの陣営による生き残りをかけた戦争なのだと、波彦は理解した。

 しばらく激しい打ち合いが続いた後、互いに示し合わせたように、距離を取って止まる。

 この状況になって、ようやく波彦には二人の姿をしっかりと確認できるようになった。

「中々やるでござるな」

 そう言うセイバーには疲れの様子もなければ、傷も一つとて負っていない。

「あなたも。素晴らしい腕だ」

 波彦が初めて姿を確認する相対する敵の姿。

 長身の、新緑を思わせるような出で立ちの青年であった。

 まず目につくのは、全身を覆う萌黄色のローブ。

 一枚の布で構成されていると思われる。

 鮮やかな若芽の色は、こんな人の手にかかった町の中ではなく、大自然の中にあるべき存在なのだと本能で分かる。

 くしゃくしゃと拠れてはいるが、煌びやかなブロンドの長髪は顔の半分程を覆いつくし、彼の表情を悟らせない。だが、隙間から見える鼻の造形から、その顔は非常に整っているだろうことは容易に想像できた。

 そして、右手。

 手首には、金のブレスレットを嵌めている。

 その長い腕の先には、彼の身体ほどの長さのある獲物。

 槍。ただの木の枝のように見える柄に、鉄で作られた鋭い切っ先の穂を差し入れたもの。

 それが、その青年の武器であった。

 刀剣を使うのがセイバーなのだったら、槍を使う彼の呼び名は……

「ランサー、あなたの目は光を写さない。ということ、良いのですね?」

 セイバーがランサーの心を揺さぶるかのように問いかける。

「ええ、生まれつき。ですが、だからと言って手心を加える必要は無用」

「勿論。それを補うだけの技能は、持ち合わせているのでしょうから。ただの確認です」

「掛かってきなさい」

 という会話の通り、セイバーの方から、ランサーに仕掛けた。ように互いのそれまでの立ち位置から推測される。

 落ち着いてみてみると、武器の大きさの違いもあってか、セイバーの方がより素早く動けている。

 そして、恐るべき技量の剣術で、槍の防御を抜けようと果敢に攻め込んでいる。

 だが、ランサーがそれを許さない。

 防戦一方であるが、セイバーの刃の雨を見事に紙一重で防ぎきって見せている。

 セイバーは一つの容赦もなく、何度も死角に周り剣戟を入れようとする。だが、ランサーは自らの獲物で防ぎきれないその刃も、丁寧に避けて傷を受けてはくれない。

 

 その盲目をハンディキャップとしないランサーの見事な身のこなしを直に見て、感心しながらもセイバーは分析をしていた。

 目が見えないことを言葉で確認しながらも、それを疑ってセオリー通りに死角を突く攻撃を何度か繰り返した。

 その結果、ランサーは、右後方・左後方・真後ろ、どこから攻撃を行っても、対面している時と全く変わらないだけの反応を見せた。

 これにて、彼自身の語る通り、ランサーは戦闘の際に、視覚には頼っていないということが、証明される結果となった。

 恐らくは音。

 視覚を失ったからこそ、通常より遥かに発達した聴覚。

 それの捉える音から、この空間にある全てのものの位置と動きを把握している。

 だからこそ、彼には死角が存在しない。

「ならば、これならどうでしょう」

 以上の分析を持って、セイバーは新たな一手を打つ。

 とはいっても、策といえるほどのものでもない。

 ただ単純な話。

 音というのは、空気中では所詮は約340m/sの速さでしか伝わらない。

 だから、それ以上の速さで動いてしまえば、音で探知しているランサーには知覚することはできない。

 当然、音速を越えるなんて生身の人間にはできない。

 サーヴァントだからこそ……いや、並大抵のサーヴァントにもできない。

 非常に優れた敏捷性を持つセイバーだからこそできる滅茶苦茶な打開策。

 だから、これはランサーにとっては、ただ運がなかったという、それだけのこと。

「行きます!」

 馬鹿正直な宣言は、これまでと同じ方法で攻めるように思わせるブラフだったか。それとも、こうも相性の悪いセイバーに出会ってしまったランサーへの同情であったか。

 構える。

 一足飛びに距離を詰める。

 が、その途中。ギアを一時的に引き上げる。

 後一歩というところで、音速を超える急旋回。

 音を置き去りにしながら、ランサーの左側面に回り込む。

 そして、そのまま無常に斬りつける。

 これにて、この戦いはお終い。

 そのはずだった。

 

 ――しかし、待っていたのは余裕の表情で、それを躱すランサーの姿。

 

 セイバーの刃は空を斬る。

 音速の勢いは止まらず、防御姿勢にすぐに移れない。

 ランサーは、その隙を逃さない。

 回避とともに、すぐに攻撃に移れる姿勢を取っていた。

 今、状況は、立場は逆転した。

 数舜前まで絶対の勝利を疑わなかったセイバーの無防備な横腹に、鋭い槍の一撃が放たれた。

 

 ――だが、空間が、因果が捻じれたように、ランサーの槍がセイバーの身体を躱した。

 

 これにはさしものランサーも驚いたようで、咄嗟に追撃を加えられずに、一度距離を取り合うことになる。

「驚いた。完全に一本取ったと思ったのだが……」

「拙者も正直やられたと思ったでござるよ。単純に聴覚が視覚の肩代わりをしていると、どうもそういうわけではないらしいですね」

 互いが互いの力を見誤って、攻撃に失敗した。

 だが、知覚方法という目に見えない武器を隠し持つランサーに対して、明らかに物理法則を変えてみせたセイバーの能力は、もう隠し立てできる状況ではなかった。

 細かい発動条件なんかは分かり切っていないかもしれないが、あえてバラすことによって、不利を悟って、ここを退いてくれるかもしれないと、そう考えた。

「拙者こう見えて、生前は数多の戦場を駆けたのですが、一度も刀傷を受けたことはなくて。どうもそれがこういう風にスキルに昇華されたらしいです」

 先ほどの槍も完全に捉えられてしまっていたが、スキルにより事象が曲げられて、躱さなくても、槍の方が避けてくれることになった。白兵戦において、これほど力を発揮する力はないだろう。

「なるほど、近接攻撃無効ということか……。これは中々厄介だ」

 いっそうに強くなるランサーの放つ気配。

「引きはしないのですか……?」

「引いてほしいということは、多少不利に見えるこの状況も、本当は千載一遇の好機かもしれないだろう?」

「これなら、スキルのことも話さない方が良かったですね」

「では、全力で堕とさせてもらおう」

 ランサーが思い切り後方に下がって、セイバーとの距離を取る。

 そして、目に見えるほどの非常に強い魔力の奔流が、その槍の周りを巡り始めた。

 

「マスター殿、宝具が来ます。拙者の後ろまで来てください!」

 

 完全に傍観者になっていた波彦は、急に呼ばれても、すぐには行動できない。

「宝具?」

 謎の言葉と、遠くに見えるただならぬランサーの放つ気配に、ただ呆然とするばかりで、頭がついていかない。

「いいから早くっ!」

「……おっ、おう」

 セイバーに初めてぶつけられる強い語気に、未だに他人事気分ながらも、咎められたような気分で、少し離れた後方の位置まで、いそいそと移動していく。

「宝具とは、要するに彼の切り札のことです」

 ランサーから、視線を外すようなことは一切せず、波彦の疑問に答える。

 確かに、今までの戦闘とは一線を画すような緊張感が空間を包んでいた。いや、今までの戦闘も波彦の分け入るような余地は、一つもなかったのだけれど。

「マスターを危険から守るためか。サーヴァントとして尊敬する。だが、手は抜かず、全力で放とう。主のことは己が力で守れ」

「当然」

 ランサーの力の奔流が収束し、至高の一撃が放たれようとするその瞬間のことだった。

 

 ――しゅッ……と微かな空気を切り裂く音。

 

 それまで、それ以外の一切の前触れはない。

 しかし、セイバー、ランサーともに、自身に向けられた殺意の塊を撃ち落としてみせた。

「吹き矢でしょうか?」

 刀で弾いたそれの行方を見つめ、矢羽の形状から、通常の弓を使って放たれる矢ではないことが分かった。

 そう、射撃されたのだ。セイバーとランサー同時に。

 二人は波彦から見て、一方は右を、一方は左を向いている。

 すなわち、2本の矢は全く別の方向から放たれたもの。

 これを1人で放つのであれば、音速どころか光速で動く必要があり、それができるなら、わざわざ矢を武器にする必要もないだろう。

「射手は複数ですか……」

 セイバーはすぐに、先ほど矢が飛んできた位置と、波彦の現在位置との中間に立ち、姿を見せない狙撃手への警戒を強める。

「漁夫の利を狙ってのことだろう」

「ええ、悪いがランサー、引いてはくれませんか?」

「そうだな。この戦いを途中にするのは惜しくはあるが、乱入者にかっさらわれるより気分の悪いものはない」

「感謝します」

「この戦いの続きはいずれ。まだ別の機会に」

 それだけ言い残して、ランサーは夜の闇の中に消えていった。

 脅威の一つは去った。

 だが今、姿の見えない射手という新たな脅威にさらされている。

「さてマスター殿。少々、夜の散歩と洒落込みましょうか?」

「……へ?」

 急に穏やかな顔に戻り、自身の方に向き直るセイバーを、波彦は呆けた顔で見返した。この先に、そら恐ろしい経験をすることになるなど、つゆ知らずに。

「さあ、しっかり掴まっていてくださいね」

 笑顔のセイバーは、波彦を抱え込み、夜の空へと飛び出した。文字通りに。

 結局その後、町内を縦横無尽に巡り、射手を完全に振り切ったことを確認し、セイバーを自宅に案内するまで数十分。

 その間、波彦は襲い来る強力なGと、突き抜ける夜の風に、身体を揺さぶられ続ける羽目になった。せめてもの救いは、その風に生温かさが残っているおかげで、凍えずにはすんだこと、ただそれだけ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3:教えて!!卜伝先生

「聖杯戦争とは、何でも一つ願いが叶えられる権利を懸けて、七組の主従が一組に絞られるまで続けられる、さばいばるのことです」

 セイバーは、何も知らない波彦にイメージを掴ませようと、聖杯戦争のことを、そんな風にざっくりと説明した。

 けれど、波彦の頭は、あの魔法陣に触れてから起きた驚天動地の出来事の数々に混乱した状態で、上手く説明をかみ砕けない。

「願いごと……っていうと、一人倒すと星の入った玉が一つ貰えて、それを七つ集めると、何でも一つだけ願いを叶える龍が出てくる的な……?」

 どうにか自分の知っている知識に置き換えようとして、支離滅裂なことを口走る。

「それは、とても愉快ですが、現実は少し違います。そこについては追って説明していきますが、今は勝者の報酬が『願いを叶える権利』だということを知ってください」

「う、うん……」

「して、今から細かい部分の説明をしていきますが、その際にマスター殿に尋ねたいこともありますので、答えてもらっても、よろしいでしょうか?」

「……。……あっ、はい」

 この時間は、このまま聞き役に徹してればよいものだと思っていたので驚く。

「願いを叶えるもの名前は聖杯。聖杯戦争とは、その名前の通り、聖杯の使用権を巡った魔術師たちの争いであるとともに、聖杯を完成させるための魔術師たちの儀式です」

「魔術師って……?」

「そう、これは魔術師七人による儀式なのです。それゆえに参加者は、聖杯戦争の全容を知ったうえで参加を決める。ですが、マスター殿はそうではなかった。そうですね?」

「そもそも、魔術師なんてものが本当にいるのか……」

 それは例えば波彦が今プレイ中のゲームに出てくるように、創作の中にしかないもので、現実には存在しないものだ。……と逃げるには、あまりにも非現実的な光景を今日は見すぎてしまった。

「魔術、魔術師の実在については、認めてもらうしかないとして、聖杯戦争への参加条件は魔術師であることです。マスター殿は、昔魔術師にあって実は魔術を教えてもらっていたとか、潜在的に魔術が使えてしまうとか、そういうことはありませんか?」

「そんなこと……。いや、あれがある」

 魔術師という不思議と、最近自分に備わった不思議を結びつけるのは、そんなに難しいことじゃなかった。

「見ててくれ」

 と言い、波彦はセイバーに、念動力を披露する。

「まさしく、それですね。教えていただいても?」

 断る理由もなく、最近自分にその力が芽生えたこと。それと、都市伝説で『超能力に目覚める若者たちがいること』という話が出回っていることも説明する。

「なるほど、突如限定的な魔術師として目覚めてしまったということですか。都市伝説のことも考慮すると、他のマスター達も同じ境遇かもしれませんね。というのは、少し楽観的な考えでしょうか」

 とにかく、波彦が巻き込まれてしまったのは、念動力に目覚めたことが原因らしい。

「何はともあれ、疑問が解決してよかったです。ありがとうございます」

「いえ、それほどでも……」

「では、疑問も解けたところで、聖杯戦争の説明に戻りましょうか」

「どうぞ」

「さて、聖杯についての説明でしたね。聖杯とは、西洋の『聖杯伝説』に登場する願望機を模したもの。それの制作過程が聖杯戦争です。その正体は、六つの強大な魔力の塊が合わさったもの。あらゆる願望を叶えるにたるだけの強大な魔力の塊こそ聖杯なのです」

 いきなりの過多な説明に、波彦の頭はパンク寸前になる。

「つまり聖杯とは、何でもできるだけの力の塊をそう呼んでいるということです」

 それを察して、セイバーが波彦に補足説明する繰り返されたパターン。

「さて、六つの強大な力と聞いて何か思いませんか?」

 セイバーは全てを自分で話すことはせず、波彦に考えさせようとする。

 そんなことを急に言われても、と思考を放棄しようとしたが、その直前に思い当たる。

「……セイバーたち、最後に勝ち残った者以外のってことか」

「はい」

 よくできたと褒めるようにセイバーは微笑む。

「今まで、従者、従者と呼んできましたが、その本当の呼び名はサーヴァント。魔術師の使い魔でありながら、通常の使い魔とは一線を画した存在。脱落していったサーヴァントたち六騎の力を溜めていったものが聖杯です」

 波彦は、そういえばランサーとの戦いの中で、『サーヴァント』という単語が出ていたなと振り返る。

「一線を画するっていうのは……?」

「自分よりも強い存在を使い魔として召喚することは、基本的にはできません。ですが、拙者は間違いなくマスター殿よりも強いですよね?」

「そりゃ、まあ」

 まかり間違っても、先のランサーとの戦闘を見て、波彦の方が強いなんて言葉が出てくるわけがない。というより、波彦はちょっと念動力が使えるだけの一般人だ。戦闘力なんて皆無なので、比べるようなステージにすら上がっていない。

「それを可能にしているのが、聖杯戦争の英霊召喚というしすてむなのです」

「英霊?」

「はい、英霊。英雄の霊格。神話、伝説、人類史の中での大いなる活躍によって為した功績が信仰を生み、精霊へと至った存在。英霊召喚は、その信仰と聖杯の核となる物体のさぽーとにより、通常召喚することのできない域の使い魔である英霊の召喚を成功させます」

「つまり、元となった物語や人物がいるってこと?」

「ええ、ご明察です」

 そこでセイバーは改まって、たたずまいを直し、波彦の前に膝まづく。

「拙者の真名は、『塚原卜伝』と申します。しがない一人の剣術家でござる」

 セイバーは、波彦の元に、彼を形作る存在の真なる名を明かす。

「塚原……卜伝……?」

 そういえばゲームの中にそういう名前の人物が出てきた気がしなくもないが、波彦が知っている日本の剣士といえば、宮本武蔵とか佐々木小次郎程度のもので、残念ながら『塚原卜伝』という名の一人の人間には思い至らなかった。

「ええ、ですがマスター殿はこれまでの通り、拙者のことはセイバーと呼んでください」

「分かったセイバー。……その、ごめん。名前聞いても分からなくて」

「いえいえ、拙者がその程度の存在と、それだけの話でござる。マスター殿が気にかけることではありません」

 後でちゃんと調べておこうと波彦は心の中で誓った。

「さて、召喚される七騎のサーヴァントでござるが、それぞれにクラス――役割が与えられます」

 これは、あの公園の地下でも少しだけ聞いた話だ。

「七騎の内訳は以下の通り。

 セイバー。剣術家。

 アーチャー。弓術家。

 ランサー。槍術家。

 ライダー。騎乗兵。

 キャスター。魔術師。

 アサシン。暗殺者。

 バーサーカー。狂戦士。

 それぞれのクラスに特徴があり、特化したものを持ちます。

 このようにクラス分けして役割を持たせることによって、強大な英霊でもその枠の中に収まるようにする役割があると同時に、戦略的には相手のサーヴァントの真名を知るための手掛かりとなります」

「えっと、それにはどういう意味が?」

「例えば、有名どころではアキレウス。体の部位であるあきれす腱の由来になっているぎりしゃ神話の英雄です。彼は神の加護により無敵なのですが、あきれす腱に当たる部分が致命的な弱点です。このように、真名を知られることは、弱点をさらすこと、戦術を明かすことに同じなのです」

 そういえば、セイバーは近接攻撃が当たらないことを知られたのを悔やんでいた。あれは、波彦から見ればむしろ、脅威にしかならないことのように思われたのだが、どうやら真名の発覚を危惧してのことだったらしい。

「逆に言えば、相手の戦法などから相手の真名を知ることが、とても重要になります。そして何より相手の宝具を知るための手掛かりとなります」

 ランサーが使おうとしていた必殺技のことを思い出す。結局、それを見る前にアーチャーの介入があって、見れずじまいになったわけだが。

「宝具とは、英霊の象徴たる存在の具現化したもの。例えば、アーサー王であればエクスカリバーが、ローランであればデュランダルがそれにあたるでしょう。それを事前に知ることができるなら、対策を立てて戦闘に臨むことができ、優位に立ちまわることができるでしょう」

 一呼吸おいて、

「以上で、聖杯、サーヴァント、宝具の一通りの説明は終わりです」

 と言って、説明の終わりを告げる。

「マスター殿は巻き込まれた状態です。ですが、同時に願いを叶えるちゃんすでもあります」

「願いなんて……」

 急に言われても、大金持ちになるとか、そんな凡庸なものしか思いつかない自分が悲しくなる。

「降参してしまっても問題ありません。その場合は、その令呪を使って拙者を自害させることにより、脱落することができます」

 そう言って、セイバーは波彦の右手の甲を差す。

 慌ててそこに目を見やると、不思議な文様が刻まれていた。

「いつの間にこんな……」

「そういえば、令呪についての説明を忘れていましたね。それは、サーヴァントに対して強制命令を行う権利です。見ての通り三画ありますから、マスターはサーヴァントに対して、三回まで令呪を使用することができます。その命令はサーヴァントに行動を強制させるだけでなく、サーヴァントの宝具の効果やステータスを一時的に上昇させるなど、戦略的な重要性も持ちます」

 セイバーは、自害のことも含めて、事務的に令呪についての説明を行う。

「嫌であれば、いつでも自主的に脱落することはできます。それも含めて、願いを叶える権利のために戦うか、それとも戦うことをやめて今までと同じ生活に戻るか、じっくりと考えてください」

 波彦の頭はパンク寸前だった。何しろ今日は色々なことが起きすぎた。セイバーのしてくれた説明には、どうにかついていくことができたけど、そこから自分で能動的な答えに持っていくには、疲れすぎている。

 そう自分に言い訳して、問題の先送りを行うことにした。

「ごめん、少し考えてからでもいいかな?」

「ええ、ご随意のままに」

 それで、その日に起きたことの全てが終わった。

 

 

 

 二日経って、それでもまだ答えを出せていなかった波彦の元に、意外な来客が訪れる。

 いつもの休日の通り、部屋でくつろいでいた所にインターフォンが鳴る。

 何かネット通販で買ってたかなとか考えつつ、ドア前まで来てスコープを覗くと、そこには見覚えのない車椅子に乗った少女の姿があった。

 奇妙に思いながらも、恐る恐るドアを開いてみる。

 すると、波彦の姿を見止めて少女が一言、

「こんにちは。初めまして。あたしの名前は飯塚神無。ランサーのマスター…………だったものよ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4:支えられ続けてきた少女の冒険

 飯塚神無は、生まれつき足が悪い。生まれてこの方、自らの足のみで立てたことはなく、常に車椅子とともに生きてきた。

 けれど、それだけだ。

 多少の不自由を感じないこともないが、自分にとってはそれが当たり前のことなので、とりわけそれを呪ったようなことはない。ましてや、自分が不幸だと思ったことなんて一度だってない。

 なぜなら、良い家族を持ったからだ。と胸を張れるくらいに、神無は家庭環境に恵まれていると実感している。

 第一に、神無の意思を尊重してくれる。神無のやりたいと思ったことに対して、協力的で、自由を尊重してくれる。すぐに無理だと分かるようなことでも(例えば、棒高跳びをしてみたいなんて、無茶を言ってみたこともあった)、親身になって方策を考えてくれて、その結末までを見守ってくれた。

 第二に、仲が良い。両親が大きな喧嘩している場面は見たことがない。喧嘩といっても、父親が酔っ払って帰ってきたときに窘める程度のもの。

 そして、金銭面的な余裕もあった。幸運にも、不景気なご時世の中、父親は給料の良い職についていて、神無の足が悪いことによって生じる負担を、負担と感じさせないほどの余裕があった。俗的な話だが、それでもこのことによって、心理的に楽だったことに違いはない。

 これだけ、幸福な理由を並び立てても、足が悪い。その一点だけをさして、世間は神無のことを不幸だと扱う。

 世間っていうのは、例えば小学校の担任や同級生のこと。

 あの頃、神無は腫物だった。担任は同級生たちに、神無のことを特別に扱うような空気を漂わせる。

 ああ、この子は特別。特別だから、無菌室に閉じ込めておこうね。怪我をさせたら大変だからね。他の子たちは泥んこになっても平気だけど、この子だけは砂煙を一息すら吸わせてはいけないよ。

 なんて、そこまでは言っていなかったかもしれないが、それほどに大事に扱おうという空気があったように感じた。

 そして、純粋な小学生たちはそれに従って、神無のことを大事に扱ってくれた。

 そこに、悪意はない。善意だけだ。それは分かっている。

 でも、神無は同級生たちと一緒に泥んこになりたかった。

 それは叶えられないことも分かっていたから、従順ないい子を演じたのだけれど。

 とにかく、世間は神無のことを大事に扱ってくれすぎる。

 自分を尊重してくれることが嬉しくないはずはなかった。けれど、窮屈でもあった。

 まるで、自分が世間のペットになったような気分。つまり、同じ人間としては扱われず、一段階下の被保護対象として侮られているような劣等感。

 そう、それはきっと劣等感だったのだろう。

 自分の足が使い物にならない分だけ、周りに大切に扱われ、侮られ、疎まれ、苦労をかけているような劣等感をいだいていた。

 とりわけ、一番長い時間を共にして、一番の苦労をかけた家族には特に強く申し訳ない気持ちを抱く。

 神無は幸せであった。

 両親も、ずっと幸せそうに見えた。

 けれど、家族にとっての神無は少なからず枷であったのではないのかと。

 きっと、自分でも気づかないような意識下で、そんな思いを燻ぶらせて生きてきた。

 

 

 

「すごい。綺麗。幻想的」

 空には赤い月が浮かぶ。皆既月食の夜。

 神無は縁側にて、家族と月を眺めていた。

 あまり外で遊べない神無にとって、付き合いの長い友人であるファンタジー小説に出てきた光景を思い出していた。

 それは、この世の光景ではないようで、これから何か特別なことが起こりそうだ。そんな勘違いを起こさせる。

 そのまま何十秒だったか、何分だったか。じっくりと、色の移り行く様を眺めていたところに突然。

 

 ――神無の目に、魔法陣が描かれた廃墟の風景が焼き付く。人の行きかう夜の街が焼き付く。森の風景が。川のせせらぎが。家族の団欒風景が。賑わうモールの光景が。ひとりぼっちの公園が。忙しく働く厨房が。赤い月が。赤い月を見上げる少年が。神無を心配する両親が。そして、神無自身の姿が……。

 

 神無は突然、自分の中に入り込んできた情報の渦に耐え切れず、いつの間にか一瞬気を失っていた。そのことを、心配する両親の腕の中で気づいた。

 神無を抱きかかえ支える父が「大丈夫か?」と声をかけてきてくれる。

「うん、大丈夫。ちょっと月が赤いことにビックリしちゃったみたい。もう、おやすみするね」

 両親に心配をかけまいと、お道化て振る舞う。

 神無の気性を知っている両親だから、念押しに「本当に大丈夫?」と聞いてくる。

「もう、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。でも、一応寝室まで一緒に来てくれると嬉しいな」

 と、元気なところと、妥協点を提示すると、それ以上の追求は不要と思ってくれたよう。

 父が車椅子から、神無を抱え上げてベッドまで運んでくれる。

 母が掛け布団をかぶせて、「何かあったらすぐに呼ぶのよ」と心配の声をかけてくれる。

 それに対して、

「心配しすぎだよ、もう。おやすみなさい」

 と、返事を返して、安心させて追い払う。

 一人になって静かになったところ、ベッドの中で神無は、さっき感じた違和感のある場所に自ら手を伸ばしてみることにした。

 情報負荷に驚いてしまわないように、本物の目は閉じて、新しく生まれた視界に意識を集中させた。

 リビング。

 両親がいる。

 まだ、心配そうな顔を突き合わせている。

 何を話しているかは聞き取れない。

 けれど、それはきっと神無のことなのだろうなと思うと、少し心が痛む。

 その光景は、彼らの優しさを知る神無なら、空想で生み出せるものであっただろう。

 けど、それにしてはあまりにも鮮明過ぎた。明らかにぼやけた空想ではない。

 普段起きて目にするのと変わらないコントラスト。

 つまり、神無は今、ベッドに横になり、目をつむりながら、リビングの両親の姿を視界に収めているのだ。

 すると今度気になるのは、身近の自分の家以外の光景が見えていたこと。

 意識すると簡単だった。

 視界はするすると壁さえ抜けて移動した。

 いつもの散歩道を抜けて駅前まで移動し、道行く人々のファッションなんかに普段以上に気を払いながら、普段は見ることのできない上から見下ろすアングルを試してみたりもする。

 ここまでくると、もう神無の考えは確信に至っていた。

 すなわち自分は、千里眼と呼ばれるようなものを手にしてしまったのだと。

 

 

 

 数日は、千里眼を使いこなすために夢中で遊んでいた。

 なにしろ、今まで行きたかったけど、足のせいでそう簡単には行けなかった場所まで、視界を飛ばせるようになったのだから。

 その結果、分かったこと。

 視界は一つだけではなく、複数飛ばせるということ。

 さながらモニター室にいるかのように、神無一人が複数の視界を管理する。

 だから当然なのだが、あまりにも増やしすぎると散漫になってしまう。

 視界の数は、いくらでも増やせそうなほど限りはないのだが、脳の回転速度的には、せいぜい五つが限界といったところ。

 そして、視界を飛ばせる範囲は、藤之枝全域。

 残念ながら、市境を越えようとすると失敗してしまう。

 富士山でも見に行こうかと勇んでみたのだが、すぐにそこで失敗してしまって落胆した。

 ただ、それでも普段行けないところに簡単に行ける分には間違いなく、ついベッドの中から冒険して、夜更かししてしまう日々が続いていた。

 そんな日々の中、ふと気になったのは、この千里眼で初めてとらえた風景。

 すなわち、廃墟の中の魔法陣。

 これまで見た風景は、全て現実に存在する風景であった。

 だとすれば、あの空想の中の存在のような不思議な風景も、実は現実にある。しかも、藤之枝にあるものなのかもしれないと思い至った。

 本格的に捜索してみると、思いのほか簡単に見つかるものだった。

 いや、千里眼があるからこそ、廃墟を空から捜索し、簡単に出入りし、しらみつぶしにできるからこそ、簡単だと思ったのだろう。

 とにかく、一日もかからずに、そこは見つかった。

 神無の家からも、そうは離れていない場所であった。

 人の出入りしている気配はなく、悠然とただそこにあった。

 かつては住居だったのだろう木造。

 そこはかとなく、生活の跡が見受けられる。

 ただし、骨董品のような家電や、朽ち果てた大昔の雑誌、流行りが遥か昔に過ぎた調度品、埃と虫食いで前衛的になっている洋服。

 すなわち、軽く見積もっても、三十年以上前からその場所の時間は止まっているのだろうと思われる。

 魔法陣だけは、最近描かれたもののようで鮮明なのだが、何者かが立ち入った形跡すらないのだから恐ろしい。

 じっくりと魔法陣を観察してみたのだが、何も起きそうにはなく、視界の端で一日観察してみたのだが、何者かがやってくる気配も見せなかった。

 神無の好奇心は、もうここまで来ると抑えきれなかった。

 確かに、視界を飛ばせばいくらでも観測はできる。

 でも、実際にその場所に行ってみなければ済まないほどに、その思いは膨れに膨れあがっていた。

 両親に、そんな場所に行くといえば、危ないと反対されるだろう。

 他の人にも、できれば知られたくなかった。神無だけの秘密でありたかった。

 だから、なんとかして、自分の力のみで行く必要があった。

 どうしたかといえば、ゴリ押しである。

 元々、神無だけでの外出も認められていたので、いつものように変わらず平静を装って家を出る。けれど、いつもと逆方向に車椅子を走らせて、人気のない通りを抜けて、手つかずの自然が道路周囲を闊歩する舗装の甘いアスファルトに揺られて、そして二時間ほどかけてその場所にやってきた。

 結構疲れた。けれど、ここで止まるわけにもいかない。

 入る瞬間はかなり緊張した。

 千里眼をフルに使って、周りに誰もいないことを確かめてから、すっかり立て付けの悪くなった玄関戸をガチャガチャと乱暴に開ける。

「おじゃまします」

 なんて、ひそひそ声で、中に誰もいないことを知りながらも、礼節をわきまえる。嘘だ、ただ緊張しているだけ。

 中は当たり前なのだが埃ぽかった。

 ずんずんと突き進むと、車椅子の轍がついていく。

 キシキシと抜けないか心配な床板を軋ませながら、件の部屋まで移動していく。

 そして、扉を開けて飛び込んできた自分本来の視界が、千里眼の視界と一致する。

 隙間明かりに照らされる埃っぽい部屋の中心に、浮かび上がるように鮮やかな線で描かれた神秘的な魔法陣がそこにあった。

「本当にあった」

 最初から分かっていたことだったけど、少し感動した。

 それは例えば、テレビで見た絶景を、現地に行って目の当たりにしたときのような感動。

 興奮とともに側まで赴き、無警戒に車椅子の上から、そこに手を伸ばしてみた。

 光った。

 魔法陣が、急に視界を完全に奪うほどに眩く光りだした。

 神無は突然のことに、心臓をばくばくといわせて慌てる。

 けれども、何もできることはなく、事が収まるのを待つしかなかった。

 光が止むのを感じて、次に目を開けたとき、目の前に人が立っていた。

 萌黄色のローブが差し込む光にあたって、芽を出した若葉のように艶やかに輝く。

「初めましてマスター。私はランサー。あなたのサーヴァントだ」

 それが、神無とランサーの出会いだった。

 聖杯戦争のことを聞き、神無はそれに参加することに決める。

 正直言って、すでに満たされていた神無に、聖杯にかける願いというものはなかった。

 では、なぜか?

 運命だと思ったからだ。

 突如、千里眼の力を得た自分のもとに、盲目のランサーが召喚された。

 きっと、これほどに噛み合った従者を得ることなんてあるまい。

 だから神無は、この聖杯戦争で、与えられた力を最大限に活用して、ランサーを勝たせたいと思ったのだ。

 今こそ、自分が誰かのために役に立って、今まで多くの人たちから与えられてきた分だけ返すときだ。

 そのためのチャンスを得ることができたのだと、運命を感じた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5:償い願望

 初めての戦闘。もしかしたら、この聖杯戦争を通して初めての戦闘だったかもしれないセイバーとランサーの交戦。

 セイバー陣営が召喚に成功したところを的確についた、ランサー陣営からの挑戦。

 それを可能にしたのは、勿論神無の持つ千里眼の力によるものだった。

 何気なく、千里眼で夜のパトロールをしていたところ、公園の地下に入っていく少年の姿が見えて、それを追っていったら案の定。だから、試験的な意味も含めて、戦闘を行ってみようということになった。

 結果的には打倒とは行かずに中途半端に終わってしまったが、大きな成果と手ごたえがあり、満足といったところ。

 そして、今はその帰路。神無はランサーに車椅子を押してもらって、家路についていた。

 神無の千里眼があれば、別に家の中からでも指示ができるから、こうして律義に戦闘についていく必要はないかもしれない。だから、これは気分の問題。ランサーが戦っているのに、自分は安全な自宅からというのは、モヤモヤして仕方がない。

「マスター仕留めそこなってしまいました、申し訳ありません」

「いいよいいよ、あたしもこの目があるのに、放たれるまで矢のことに気づかなかったしね」

「それは仕方なき事。貸し与えられている私も、全くの意識外からの一撃でしたから」

 そう、どういう理屈なのかは少し分からないが、神無は今、ランサーに千里眼の能力を貸し与えている。本来は所持していない千里眼スキルを、ランサーが使用できる状態にある。

 セイバーが先の戦闘で仕掛けた音速を超えた斬撃。あれは本来の召喚された状態のランサーなら、回避不可能な攻撃だっただろう。しかし、千里眼を使い、盲目のハンデを完全に克服したことにより、容易に避けることができた。

 だから、そういう意味で彼は、神無と同じ力がある自分が気づかなければいけなかったのに。と言っているのだ。

 けれど、それだと神無がいる意味は本当に、その力を貸し与えているだけで、他には何もしない役立たず。そんなのは嫌だから、せめて戦闘に集中できるように、周囲の警戒は自分がしなければと、改めて思いを固める。

 しかし、それはそうと今日は帰るだけ。

 と、神無はつい癖で、前方警戒のために視界を飛ばす。

 無音の空を駆ける不可視の哨戒機が、何とはなしに平凡な一軒家の中を駆け抜け……ようとした。

 

 ――眼が合った。

 

 思わずそう感じた気味の悪い仮面。

 サーカスのピエロを彷彿とさせるエキセントリックな色遣いの仮面。

 かの人影は漆黒の布に包まれているため、夜の闇の中では、その仮面だけが風景の中に浮かび上がっているように感じる。

 ただ、それは問題ではないのだ。

 一見、カーペットが敷いてあるのだと思った。

 艶やかな質感のカーペット。夜の闇の中、怪しく吸い込まれるような紅を内包した光沢を放つ。そんなセンスの悪いものが、平凡なフローリング床の上に敷かれている。のなら、どれだけ良かっただろうか。

 それは、見たこともない量の新鮮な血のプールだった。

 とすれば、思わず発生どころを探してしまう。それはすぐに見つかる。

 何しろ、その部屋で一番異彩を放つ造形物なのだから。

 老若男女。恐らくその一軒家ひとつでは片付かない数の、大小様々な人型が、無造作に部屋の中心に積み上げられていた。

 それは心臓が抉られていたり、顔がなかったり、腕があらぬ方向に曲げられていたり、夜の闇の中でさえ目立つほどに変色していたり、呼吸器にあたる箇所だけが丁寧に焦げていたり。

 とにかく、ありとあらゆる死がそこにはある。

 神無が何より心を痛めたのは、子供を守ろうとする母親の姿。無慈悲にも子供ごと、一つの剣で貫かれた最後の姿がそこにあった。

 当たり前だが、平和に生きてきた神無が、こんな光景を見たはずもない、いや、人の死んでいるところさえも見たことさえなかったのだ。

 突然の、あまりにも人命を冒涜しすぎたその光景。神無は自分がいつの間にか、体を丸めてえずいていることに気付いた。

「大丈夫ですか、マスター」

 血の気の引いた顔の神無の、背中をさすって心配するランサー。

 少しだけ冷静になって、どうすればいいか考えて、神無はゆっくりとランサーに、

「向こうの緑の屋根の家の中、見て」

 と、その光景と、ピエロ仮面の姿を見てもらう。

 その指示を聞き、ランサーは、神無が吐き気を催した理由を察し、神無がわざわざそれをランサーに見せた理由も察した。

「サーヴァントですね。恐らくはアサシンでしょうか」

 やはりかと神無は合点がいった。

「その部屋のね、勉強机の下に一人」

 まだ生きていて、怯えている小さな男の子がいる。

 アサシンが、彼に気づくのは時間の問題だろう。もしくは、もうとっくに気付いているかもしれない。気付いていて、面白半分で放置しているだけ。

 ただ、その後の展開は、あまりにも容易に想像がついた。

 男の子もそのことに思い至っているのだろう。

 張りつめに張りつめた、今にも泣き叫びそうな顔。それをとどめているのは、ただただ後に待つ恐怖からの逃亡の為。掴まりたくない、見つかりたくないという一心からのものだったのだろう。

「助けたい。……助けてあげたい」

 自然にそういう感情が湧き出てきた。

「罠かもしれませんよ?」

 きっと、ランサーは神無の答えを分かっていたはずだ。そして、それはランサー自身の回答でもあったはずだ。それでも、従者として打算的に問う。

「罠だとしても、今行かないと後悔で押しつぶされるから」

 逸る気持ちで、車椅子を押し進めようとする。

 けれど、それはランサーの手に制止される。

「バックアップをお願いします」

 そう告げた次の瞬間には、ランサーはもう駆けだしていた。

 

 

 

 盲目のランサー。彼の真名は『ヘズ』。北欧神話に登場する神の一柱である。

 最高神オーディンの息子にして、偉大なる光の神バルドルの弟。

 彼の物語は、彼自身にとってあまり良いものとは言えない。

 北欧神話においての、ヘズは加害者にして被害者である。

 彼の物語を語るには、まず兄のバルドルの話をする必要がある。

 バルドルは、この世のすべてに愛される神であった。

 聡明にして、美しく、優しいという完璧な存在。まさしく光のような存在であった。

 ある日、バルドルは自分が死ぬ夢を見る。

 それを聞き、心配した母フリッグは、この世のありとあらゆるものに、バルドルを傷つけないように誓いを立てさせる。これにより、バルドルは決して傷つくことのない、不死身にして不滅の存在となった。

 神々はバルドルが不滅の存在となったことを祝い、一つの遊びを始める。

 本当に不滅かを確かめるために、バルドルに様々なものを投げてみるという遊戯。

 盲目であるがために、その輪の中に加われなかったのが、ヘズである。

 そんな疎外感を感じていたヘズを、唆す声が一つ。

「オレが手伝ってやるから、お前も遊びに加わろうよ」

 悪名高きいたずら好きのロキである。

 ロキはバルドルの母から巧みに話を聞きだし、年若いがために無害だと判断したヤドリギの若芽にだけは、誓いを立てさせなかったことを知っていた。

 ロキに唆されたヘズは、バルドルに向けて鋭くとがったヤドリギの若芽を投げつけてしまう。

 これにより、不滅であるはずのバルドルは死に至り、光を失った世界は北欧神話最終戦争ラグナロクへと向かうこととなる。

 このような物語を経て、ヘズが聖杯戦争にかける願いは償い。

 誤って偉大なる兄を殺めてしまった自分の間抜けさへの償いである。

 ヘズは今、感謝していた。誠実で勇気あるマスターのもとに呼ばれた運命に。

「自己満足でしかないんだろうけど……」

 それでも、未だ自らの胸の内に渦巻く過去の過ちの償いを、サーヴァントとして、この素晴らしいマスターに尽くすことにより、叶えたい。

 聖杯自体は特に欲しくはない。

 ただ手に入れるまでの道程にて、この償い願望を叶えて、マスターに聖杯を残し、密やかに去っていくことのみをのぞむ。

「そのために、今はこの殺人鬼を」

 今度こそ、セイバーのときのようなヘマはせず、打倒しよう。

 

 

「やあ、こんばんは」

 ピエロ仮面は、侵入者にうやうやしく挨拶をする。

 庭より、ガラス戸をくり抜いての侵入。血の匂いが充満した部屋に、風が舞い込み、クリーム色に臙脂色斑点のカーテンがヒラヒラと揺れる。

 暗がりの部屋に、月明かりが差し込む。

 今まで闇と同化していた道化師の全体像が覗ける。

 病的なまでに長細い体躯に、直立していても床まで着きそうなナナフシのような腕。それが追加された情報。依然として、漆黒のローブが全身を覆っていて、人肌の部分は露出しない。

「どうも、こんばんは。これは……何か趣味の悪いパーティでもしていたのかな?」

「ああ、真っ最中だったんだ。もう殆ど終わりかけだけどね。でも、最後に特大のゲストをお招きできて、非常に光栄だ!」

 仮面がニカッと笑ったように感じた。

 どこからか獲物を取り出す。

 銃だった。

 腰だめに構えて、ランサーに狙いを定める。

 パシッーンと、空圧と爆発と金属のフレームの蠕動、それが全て混ざったような音。

 そして、音と同時くらいに着弾する弾が発射される。

 ランサーは落ち着いて、槍でそれを弾くと、キィーンと金属音が響く。

 跳弾が壁に刺さる。

 それで終わりではない。またすぐに仮面男が引き金を引く。

 バナナ型のマガジンから供給された銃弾が次々とランサーに襲い掛かる。

『銃の英霊。しかも、結構新しそう?』

「ええ、かなり神秘性の低いサーヴァントかと」

 落ち着いて処理するランサーに、千里眼で戦いを眺める神無からの念話。

 彼女は、戦いぶりから、アサシンの真名を暴こうとしていた。

『えっと、…………シモ・ヘイヘ? って感じではないよね。スナイパー銃じゃないし』

 どうやら、スマホで検索して、候補を探ってくれているらしい。

 アサシンの持つ銃は、木と金属の組み合わさったもので連射機構がある。

 フィンランドの狙撃手の所持武器とは思われない。それに、彼なら漆黒ではなく、処女雪のような白の外套を身にまとっているのが自然だ。

『んー全然出てこない。卜伝はすぐに分かったんだけどな』

「仕方ありません。というか、もしかしたら彼由来の武器ではなく、ただ武器を現代から調達してきただけかもしれませんし」

『いやいや、ここ日本だよ』

「もしかしたら、マスターが軍人だなんて可能性があるかもしれません」

『……そう、なのかな? とりあえず、特徴から銃の名前調べられないか見てみる』

「頼りにしてます」

 そんな気の抜けた対話が終わった頃。

 チャキッと音を鳴らし、マガジンが空になったことを知らせる。

 手元の武器を見て、ランサーを見て、不満そうな態度の(に見える)アサシン。

「結構、とっておきの武器だったんだけどな」

「そのポンコツがですか。笑わせますね」

「どうやら、平和ボケしたこの国では、知名度は低いらしい」

 そういって、無造作に手に持っていた銃を投げ捨てる。

「その槍で、この掃射が防げるかな?」

 次に、アサシンが取り出したのは、コブラのような長い弾帯を携えた機関銃。

 トリガーに指をかけると、激しい振動とともに、先ほどとは比べられないほど大量の銃弾をばら撒く制圧攻撃。

 ランサーはたまらず、その場を退避する。

 味を占めた表情のアサシン。ゆっくりと、射線をランサーの逃げ込んだ方向にずらしていく。

「はははっ、これは愉快だ! 愉快だっ! ひゃあああああああ!」

 バーサーカーの疑惑が出かねないほど狂った声をあげる殺人鬼は、ランサーの本当の狙いを見抜けない。

 突如、機関銃の目の前に、部屋にあって本やCDなどがディスプレイされていた大きめのチェストが投げ入れられた。

 機関銃は構わず、それに向けられて、何百発もの銃弾が撃ち込まれ、瞬く間に粉々になるまで吹き飛ばしていく。

 しかし、それには数秒が費やされる。

 その数秒があれば、ランサーには十分だった。

 玄関方向。ランサーの腕には少年が抱えられている。

 そう、怯え切っていた少年。机の下でうずくまっていた彼を助けるための時間だった。

「さあ、お逃げなさい」

 そうやって、放流された少年。

 まだ心細くて、ランサーに頼りたい気持ちが残っているように見えたが、そういう状況ではないということを悟り、這いずり走るようにドアを開き、当てもなく夜の街に出ていく。

 アサシンが、それに気付き、機銃の掃射が少年に牙を剥こうとする。

 しかし、ランサーが槍を振り回し、そのことごとくを叩き落とし、阻止する。

「なんだ、これも防げちゃうんじゃないか」

「ええ、当然ですよ。侮ってもらっては困ります」

 そう、ランサーは機関銃が防げず逃げたのではなく、少年を助けるための好機だと思ったからそうしたのだ。

「ランサー……君の弱点は何なんだ?」

「……まさか、それを教えるとでも?」

 アサシンの突然の落ち着いた声に驚きながらも、当然の返答を返す。

「そうだよな。それを言っちゃ負けだもんな。でも、そんなこと聞かなくても分かる明確な弱点が、サーヴァントにはあるんだよな」

 それを聞いて、アサシンの行動を察したランサーが叫ぶ。

「マスター、令呪を使って私をっ!」

『へ? 急に何?』

 アサシンは窓の外に手を向ける。

 その手には、大型の筒型の兵器。先端には、瓜のような真ん中が膨らんだ形状の、巨大な弾が装填されていた。

 アサシンの担ぐ大筒の先には、神無の姿があった。

「いいから早く! 私を呼び戻してくださいっ!」

『う、うん。令呪をもって命じます。ランサー私のもとに』

 神無が令呪を使用すると同時だった。アサシンが破壊の化身を解き放つ。

 それを越える速度で、ランサーは神無のもとに駆けつける。

 着弾直前。ランサーは神無の車椅子を突き飛ばし、アサシンの凶弾を迎え撃つ。

 槍に触れる。と同時に爆発。

 アスファルトがめくり上がり、近くの電柱が半ばからえぐり取られて倒れる。近場の信号機や、街灯、家屋から明かりが消える。

 ロケット弾の爆炎が消えても、ランサーは無事に立っていた。

 けれど、萌黄のローブの多くが焼き焦げ、腕には痛々しい火傷を負っている。

 神無は、車椅子から投げ出され、顔に擦り傷を作る。

 けれども、未だ熱の覚めぬ爆心地に向かって、ランサーを心配して手を伸ばそうとする。

「マスター、ダメだ!」

 しかし、ランサーはそれを拒む。

 すなわち、アサシンが傷を負ったランサーに迫ってきていたからだ。

 一か八か、宝具を使うしかない。

 そう思って、魔力を解放しようとする。

 しかし、それよりも早く、殺人鬼の凶刃がランサーに襲い掛かる。

 ランサーは敗北を悟った。

 私はなんて、愚かで非力なんだ。

 マスターを助けるどころか、危険にさらして。

 また過ちを繰り返してしまっただけ。

 償いには程遠く、また大きな罪を残してしまっただけ。

 マスターは、私に、初めての光を、世界の光景を与えてくれたというのに。

「せめて……」

 一矢報いることができないものか。

 この殺人鬼は、私を殺した後、すぐにマスターを殺してしまうだろう。

 それは、きっともう止められない運命。

 もしかしたら、ロケットランチャーに一息にやられていた方が、良かったと思えるような拷問を施すのかもしれない。

 ランサーはそう思うと、胸が痛んだ。

 一矢報いたとしても、それはただの私の自己満足。

 いや、だとしても……。

 殺人鬼に向き直った。

 何か、残さなければ……。

 殺人鬼の、顔と武器と、それを視界に収めて。

「ヴァー……リ……?」

 ランサーは疑問の言葉一つを遺して、聖杯戦争からの脱落者第一号となった。

 

 

 

 ランサーがやられた。

 目の前の光景が神無は信じられなかった。

 けれど、光となって消えていく自らの従者を見て、心がぽっかりと空いたような空虚さをもって、それを事実として受け止めるしかないことを分からされた。

「次はあたし……」

 怖い。けれど、早く楽になりたいという気持ちもあった。

 神無は、怯えた態度は見せず、気丈に目を閉じて、自分の死が訪れるのを待つ。

 しかし、いつまで経っても、それは訪れない。

 代わりに、寒気のする声がかけられる。

「君の命には興味がないんだ、お嬢ちゃん」

 肩にポンと置かれた骨ばった手からは、死が流れてきそうな気がした。

「快楽殺人者ではないからね」

 一体、どの口がそれを言うのか。

 そう、言い返したかった。

 口はステープラーで、かっちりと閉じられたように開かない。

 神無はあまりの惨めさに、閉じた瞼の端に涙が溜まっていくのを感じた。

 アサシンは、そのまま神無のことを放置して、闇に紛れるように、その場を去っていった。

 身体の中に刻まれた痛みと恐怖が、身じろぎすることさえを拒んでいる。

 けれど、その身体が動かないのに反比例して、頭は冴えていく。

 このままでは、すまされない。

 このまま、従者をやられたまま、表舞台から身を引いて、去っていくだなんてありえない。

 何に頼ってでも、何にすがってでも、何を犠牲にしてでも。

 でないと、ランサーが――ヘズが浮かばれない。

 神無に残されたのは、千里眼と僅かな情報のみ。

 それをフルに生かして、あの殺人鬼を止めなければ。

 きっと被害が増えていく。

 神無が生まれ育ったこの街を、殺人鬼が闊歩する。

 そして、いつかは神無の大切な人たちの首元にまで、その凶刃が迫るかもしれない。

 それを考えると、耐えられない思いになる。

 考えなければいけない。これから先の行動を。

 考えるんだ。どうすれば、あの悪魔から、街を救うことができるのか。

「考えろ、あたし!」

 サーヴァントに対抗するには、サーヴァントの力が必要。

 他の陣営の協力が必要。

 ……いや、神無が他の運営に協力させてもらう必要がある。

 心当たりを一つずつ当たって、それから……。

 神無は考える。

 これから、動けるようになった後に、やらなければいけないことの一つ一つに思いを馳せる。

 さあ、まずは流れ落ちようとする涙を拭って。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6:破滅の予言

「ランサー? ……のマスター?」

 突然の訪問。ランサーとの戦闘と、目の前の車椅子少女とのギャップ。

 予期せぬ展開に波彦は動揺を隠せない。

「過去形だけどね」

「それって、つまり……」

 今はもう、ということなのだろう。

 と察した言葉の先を、「マスター殿」とセイバーの戒める声で、留める。

「別に気を遣わなくてもいいよ。あたしは、もう従者を失って脱落しちゃったってこと」

 そのことは気にしてないと少女は振る舞う。

「じゃあ、いったい何の用が?」

「同盟を結びたいの」

 ノータイムで答える。

 気の強さを感じる。波彦の少し苦手なタイプ。

「すでに脱落したというのに、同盟を結びたいというのは、理屈が通らないように思われるのですが、何か事情がありそうですね」

 それを察してか、セイバーが前に出て交渉に応じてくれる。

「ええ、全部話すわ。話をする機会が欲しい」

 先ほどまでの強気の発言からすると、それは懇願のような、弱弱しい響き。

「拙者は、話を聞くくらいなら構わないと思っているのですが……」

 選択はゆだねると、波彦を矢面に立たせる。

「まあ、聞くだけなら……」

 そういって、少女を部屋に上げようとするが、

「手短にするから、ここでいい」

 と断って、少女が自らの聖杯戦争の顛末について話始める。

 二日前、ランサーとセイバーの戦いが中断された後、アサシンの虐殺現場に遭遇してしまったこと。

 止めようとした結果、返り討ちにあってしまい、ランサーを失ってしまったこと。

 アサシンの虐殺がこれからも続くことを危惧していて、それを止めたいと思っていること。

 少女は、それを全て打ち明けた。

「あたしが、従者を失ったランサーのマスターっていう証明は……そうね……」

 と言って、右手を突き出す。

 そこには、一画失われた令呪があった。

「令呪をもって命じます、ランサー来て!」

 と命令を出してみたものの、令呪は一切の反応を見せず、ランサーは表れず、令呪が失われることもなかった。

 少女の顔は少し寂しげだった。

「といった話を踏まえて、会って欲しい人がいるの。もう一組の同盟相手。彼らとも、会って話を聞いて欲しい。構わないかしら?」

 

 

 

 結局、波彦はもう一人の同盟相手とやらに会いに行くことにした。

 聖杯戦争については、どうしていいのか分からずに保留していた。もしかしたら、話を聞くことで今後の方針を決められるかもしれない。そういう思いがないわけでもない。

 いや、実際のところ押し切られて、なし崩し的にここまで来ている気がしなくもないけど。

 波彦たちは同盟相手の元に向かうべく、一軒家の立ち並ぶ住宅街を進んでいた。

 神無が道案内をして、セイバーが車椅子を押し、波彦がその少し後ろを歩く。

「えっと、飯塚さんだっけ?」

 何となく気まずくなって、何か話題を振ろうとする。

「神無でいいわよ、波彦くん」

 相も変わらず初対面から気持ちがいいまでの態度。

「ああ、そう。神無……さんは、千里眼が使えるんだったよね?」

「そうよ。波彦くんのは、サイコキネシスみたいのだっけ?」

 あっけからんと答える。

「ちょっと待って、何で知ってるんだ」

「そりゃ見てたもの。公園の銅像動かしてるところから。ちなみに、家を知ってるのも帰るところつけてたからだから」

 どうやら公園でキョロキョロ視線を確認していたのもバレバレだし、夜の空中散歩恐怖体験も無駄だったらしい。

「その口ぶりでは、今から行く同盟相手殿も、そのような能力を?」

 セイバーが疑問を投げかける。

「ええ、そうよ。初見はビックリするかも」

「ということは、やはり今回参戦するマスターは、そういうことなのでござるか」

 全員が、ここ数週間で能力に目覚めた魔術とは無関係の人間。……だといいなぁ。

 そんな会話をはさみながら、ゆっくりと歩いて十数分たったところ、何の変哲もない住宅街の真ん中で、

「着いたわ」

 と、セイバーを止めさせる。

 正直、一体どこに連れていかれるのだろうという気持ちがあった。

 けれど、ここは何の変哲もない住宅地。もう一人のマスターというのも、至って普通の一般人なのだと分かって、波彦は安堵する。

「連絡入れるから、ちょっと待ってね」

 と、神無がスマホを取り出し、電話を始める。

 その光景に、インターフォンを鳴らせばよいのでは、と疑問を抱きつつも、用心深いのだな程度にぼーっと、その様子を眺めていた。

 数秒程度で、通話は終わって、

「さあ、行きましょう」

 と神無が促すと、波彦は目の前に立派な門構えの洋風の大きな屋敷があることに、その段階になって気が付いた。

「ちょっと、待ったっ!」

 思わず叫ぶと、

「うるさい。大声出さないで」

 と、神無が少し不機嫌そうな顔になる。

「これは驚いた」

 と、セイバーは目を丸くしている。

「今まで、魔術で隠していたのですね」

「ええ、彼女の能力は、物体を対象にした認識阻害。まあ、あたしの千里眼の前では無意味なんだけどね」

 なぜか、神無が得意げに語る。

 

 

 

 しばらく待っていると、屋敷の中からおずおずと、表情の薄い小柄なメイドが出てきた。

「ようこそいらっしゃいました。ご主人様の元まで、ご案内します」

 抑揚のない声で歓迎される。

 門の鍵が解かれる。

 セイバーが、段差を越えて、車椅子を玄関まで上げていく。

 その様子を、ぼけっと眺めていた波彦を、メイドの少女が不思議そうな顔で見つめ、目が合うと首を傾げる。

 早く入れという合図だと気付き、慌てて門の中に入ると、メイドの少女が待っていたとばかりに、ガチャガチャと再び鍵をかける。

 玄関も、そのような調子で入っていき、通された客間で待っていたのは、黒いスーツを着た初老の男性の姿だった。

「よくぞ来てくれた。ワシはキャスター。真名をミシェル・ド・ノートルダムという」

 ご主人様というから、てっきりマスターとの対面だと思っていたので、サーヴァントに自己紹介をされて、面を喰らう。加えて、すぐに真名を明かしたことに対しても。

「ミ、ミシェ……ル……?」

 ただ無学な波彦は、真名を聞いても、それが一体何者か分からない。

 また調べなきゃなと思っていると、それを見かねた神無が補足を行う。

「ノストラダムスのことよ」

「えっ、そうなの!?」

 初めて、ネット検索しなくても、知っている英霊が出てきたことに驚く。これまでは、英霊と言われても、どこか遠くの存在に感じていたが、自分が知っている人物に出会えたことで、この聖杯戦争の英霊召喚のシステムに改めて、凄みを感じた。

 ノストラダムス。本名は、ミシェル・ド・ノートルダム。

 言わずと知れた大予言者である。

 現代において、最も著名な予言者の一人で、特に一九九九年七月の世界滅亡の予言で世界を騒がせたことで有名である。

 結局、世界の終わりは訪れなかったが、日本でも一躍有名になり、信者を多く生んだ。

 波彦としては、当時物心はまだなくリアルタイムで感じていた世代ではないが、世紀末の盛り上がりは相当大きかったと聞くし、今でもテレビでは度々ノストラダムスのことが話題にされる。

 そんなノストラダムス談義に話が脱線しようとしているところに、「ごほん」と本人が咳払いをして止める。

「そして、弥生くん――彼女が、ワシのマスターだ」

 と、先ほどから案内してくれている小さなメイドを指していう。

「前園弥生です。以後、お見知りおきを」

 メイドさんは、ちょこんと前に出て礼をして、またすぐに定位置に戻る。

 キャスターのことを『ご主人様』と呼んでいたのもあって、全く気が付かなかったが、消去法でそうであっても確かにおかしくはない。まるで主従が逆転しているような彼らの関係にツッコみたい気持ちがないわけではなかったが、また話が捻じれるのはよしとされないだろうと気を抑える。

「ワシは予言者でな。ただの予言者ゆえに、サーヴァントに必要な戦闘能力なんてのは皆無に近い。ワシの宝具には、予言を行うものがある。召喚されてすぐ、今回の聖杯戦争に参戦するサーヴァントと戦った際の結果に対して予言を行ったのだが、全サーヴァントに対して不利だというのが分かっただけだった。もちろん、セイバーやランサーに対してもな」

 こともなげに言う。まるで他人事のように。

「そんなこともあって、弥生くんには悪いが、勝ち目のない戦いをしても仕方ないと、ワシはひっそりと敗退しようと思っていた。けれど、これのせいで、そうも行かなくなってしまった」

 そう言って、キャスターは波彦に一枚の羊皮紙を渡してくる。

 そこには、以下のように書かれていた。

 

<十四番目の日が死に絶え、紛いものたちの戦いに終止符がうたれる。

 嘘つきが、受け入れがたい真実が語る夜、

 死が息絶え、不完全な不死が、完全性を求める。

 完全なる闇は世界を包み込み、定められた滅亡へと突き進む>

 

 それは、明らかに滅亡の未来を指し示すものであった。

「それはワシの宝具『四行詩で綴られた予言(カトラン・プロフェシー)』により、生まれ出でた予言。ワシの宝具は、物事に対して的中率百パーセントの予言を四行詩の形で受け取る。ここに書かれたことの本質は、ワシ自身にも分からん。だが、明らかに分かる通り、それは破滅の未来を予言したものだ。どうにかして、それを回避しなければいけないと、現世に残り仲間を募ることにした」

 そして、それに格好の形で表れたのが、神無であり、波彦であったと。

「断片的に読み取れることとしては、まず『十四番目の日が死に絶え』。これは十四日の経過のことだと思われる。そして、『紛いものたちの戦いに終止符がうたれる』。これは、サーヴァントという英雄たちの紛いものたちの戦争。すなわち聖杯戦争の終了を意味する。素直に受け取るならば、この聖杯戦争は二週間で終了するということだ」

 一応、もう開戦から二日経っていると考えるならば、残り十二日。それまで、気の抜けない戦いが続くと考えると、辟易しそうな気持ちになる。

「後の文の詳細は分からない。ただ、何者かが聖杯に『滅亡』の未来に繋がる何かを願うのだと思われる」

 それは四行目の『定められた滅亡へと突き進む』という部分が該当するのだろうか。

「それを踏まえて、昨日、ワシらが考えた作戦は、二週間経つよりも先に、信頼できるもの。すなわち君たちセイバー陣営に聖杯戦争の勝者となってもらう。それに対して、可能な限りのサポートを行う。というものだ」

 先日のランサーとの一戦で真名が分かり、『不完全な不死』性がないことが証明され、なおかつ聖杯戦争を勝ち進めるだけの戦闘能力を有するセイバーに白羽の矢が立ったのだという。

「勝手な物言いだというのは重々承知だ。だが、どうか世界のために、協力させてもらえないだろうか」

 キャスターが、波彦とセイバーに対して、深く頭を下げて懇願する。

 波彦は思わず、セイバーの方を見やる。

 彼は、これまでと同じように、重大な決断は波彦に委ねるスタンス。

 正直言って、ここで語られた話は波彦のキャパシティを大幅にオーバーしていた。

 元々、波彦は聖杯戦争に参加するかどうかすら決めておらず、ここで他陣営の話を聞いてみて、身の振り方の参考にできれば程度に考えていたのだ。

 それを、急に世界の命運を懸けての戦いだなんて、とんでもなく大きな話に膨れ上がってしまった。

 自らもよく知る偉人に頭を下げられて、それを無碍に断る勇気を持たない程度には、波彦は善良な人間であった。けれども、急に大きな荷物を背負わされそうになった際に、それをどっしりと抱えられるほどの度量も持ち合わせていない。

 なので、

「少し考える時間をください」

 次に波彦が打つ一手は、問題を棚上げして、先送りにするものしか残されていなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7:黄昏の襲撃者

 湿気った空気が窓の外より舞い込む。

 天井を見つめて、考え事をしていた。

 冷房をつけることも忘れて。

 シーツが、じわりじわりと汗を吸い取っていくのが分かる。

 布団を干さなきゃいけないなと思うと、少しだけ現実的な生活に戻れそうな気がした。

 波彦がしているのは、問いのない答えを見つける作業。

 正直、キャスターに語られた、あの破滅の予言に関しては、冗談だと思っている。

 けれど、完全に笑い飛ばすことはできない。

 だからと言って、それを波彦が解決できるかというと、そんな気は全くしない。

 あの話を受けるべきなのか、どうか。

 どんなに考えても答えは出ない。

 そんなことは、三時間前に、ベッドに倒れ込む前に分かっていた。

 けれど、考えないわけにはいかなかった。

 もしかしたら、世界を救う英雄にでもなりたいのかもしれなかった。

 そんな子供みたいな感慨を抱いているのかもしれない。

 踏ん切りはつかない。

 けれど、ワクワクしているのも真実。

 なにって、それは当然、非日常に足を踏み入れる冒険に。

 だからこそ、あの認識外の館を出て、暑い中無意味に行く当てもなく歩き続けて、こうして家に帰ってきて、安寧の場所にダイブして、頭をひっきりなしに回転させ続けて、未だに迷い続けている。

 セイバーは、こちらから話しかけなかったこともあるが、あれから一切言葉をかけてはこない。現実から姿を隠して、波彦のそばに控えていてくれる。

 静寂。

 そう、静寂だった。

 高くなる鼓動の音が、しっかり感じられるほどの静寂。

 世界に自分ただ一人しかいないという静寂が、実に無警戒な安寧をもたらしていた。

 

 ――しゅっ…………、キンッ、ザッ……。

 

 気が付いたときには、波彦のすぐ隣に矢が突き立っていた。

 布団の綿は何のとっかかりにもならず裂かれている。

 薄いマットレスを貫通し、木製のベッドフレームにザクリと威力が刻まれていた。

 いつの間にか、窓を向いてセイバーが立っていた。

 手には、抜き放たれた刀。

 その身は透き通るような鉄色、刃は白銀に煌めく。

 この光景を見て理解した。

 すなわち、波彦は殺されかけて、それをセイバーに救われたのだ。

 セイバーが弾かなければ、矢は確実に波彦の眉間を射貫いていた。

 そして、何も気づかない静寂のまま、波彦は命を散らしていたのだ。

 ありがとう、と言葉をかける暇もなく、

 

「マスター殿、逃げましょう。まだ狙われています」

 

 その言葉が終わらないうちに、第二射が弾かれ、蛍光灯が砕かれた。

 一瞬、眩く輝いたと思うと、闇が訪れた。

 波彦はパニックのまま、部屋の出口を目指した。

 それまでの間に、何度か背中の方で、矢が弾かれる音がした。

 どうにか手をかけたノブの温い金属の感触に、心が落ち着かされる。

 勢いよく、後ろ手に閉めた扉に、次々に突き立てられる殺意の矢。

 その一つ一つが、いとも簡単に波彦の命を奪い取れることを考えさせられ、こめかみからつるりと冷汗が滑り降りた。

 人っ子一人いなかった。

 いつもなら、そこそこの通行量がある自宅前の道路から、一切の活気が失われている。

 野良ネコさえいない。鳥さえ飛んでいない。

 恣意的に、波彦たち以外を追いやったように。

「これは、人避けの結界というやつでしょうか?」

「よく分からないけど、敵の仕業ってことだよな」

 もはや、どこへ行くのが正解か分からなくて闇雲に走る。

 セイバーは、時々飛んでくる吹き矢を神業で弾きながら、波彦の逃走に供する。

 ということは、この行動は間違っていないんだな。

 と確かめながら、息をするのも忘れて、落ち着ける場所を探す。

「人避けのってのは、サーヴァントの? それとも、マスターの?」

「分かりません。ですが、これが襲撃者によるものだと考えるなら、相手は人目を避けたいと思っているかと」

 だから、この結界を抜けて、賑わう繁華街にでも出れたのならば、逃げ切れたということになる。

「ただ、人がいるところに出ても、襲撃者の手が止まないのなら……。それは、相手も覚悟を決めているということ。拙者もマスター殿を守るのが精いっぱいでござる……」

「俺に決めろってことか?」

「…………」

 知らなかったという罪だったら、まだ罪悪感は薄かった。

 けれど今、自分が助かるために、周りを巻き込むだけの勇気はなかった。

 セイバーは、それを許してはくれなかった。

「勝てると思うか?」

「尽力いたします」

「どこで戦うのが都合がいい?」

「……マスター殿、あの路地裏に入りますよ。準備はいいですか?」

 腐って酸っぱくなった生ゴミの臭いがした。

 波彦たちが飛び込んだ勢いで舞った埃のせいで、すでに鼻がむず痒い。

 一段と夜の闇が深くなった気がする。

 そこは、袋小路だった。

 退路は完全に断たれた。

 窮屈なほどに狭く、セイバーが十分に刀を振るえるかも心配だ。

 あまり、有利になるとは思えない戦場。

 けれど、少なくとも後方からの奇襲がなくなった。

 波彦は、セイバーの背中に隠れて、襲撃者がその姿を現すのを待った。

 

「カァッッハハハハハハッッ、まさかここまで思い切りがいいとは思わなかった」

 

 それは、不敵という枕詞が付きそうな笑い声だった。

 大胆にも、路地裏の入り口に仁王立ち。

 たなびくシルエット。

 そして現れる奇怪な格好をした細身の男。

 

「は?」

 

 なんとも形容しがたいクソダサファッション。

 まず、スーツ姿(?)なのだが、上着が白黒の縦ストライプだ。

 そして、次に目を引くのが、外が青、内が赤のマント。

 その他、中に着ているシャツにネクタイ、小物に至るまで、趣味がいいとは言えない色柄をしている。

 そこまで装飾過多に着飾っておきながら、顔より上はすっきりとしている。

 顔の評価としては、キザったらしい爽やか好青年。

 印象的な、切れ長の眼光が眩しくて、思わず視線を外したくなる。

「マスター殿、この時代では、あの格好は普通なのでしょうか?」

 セイバーなりの皮肉なのだろうか。

 今まで、この時代の人の格好をそれなりに見てきただろうに。

「まさか、あれを基準にされたら困る」

 あれは、古今東西問わず変人狂人の格好で間違いないだろう。

「さて、こちらに注目してもらおうか」

 現れ出た狂人、恐らくアーチャーのマスターが手を軽く上げる。

 もう十分に注目していると言うより早く、

「お初にお目にかかる。オレは、この聖杯戦争に参加するアーチャーのマスター」

 やはりそうであった。

「名前を如月拓斗という」

 黙とうを捧げるかのように、如月がすっと目蓋を合わせる。

「今より、貴様らに引導を渡す者の名前だ。よく覚えておくといい」

 言い切ると同時に、くわっと開かれる目が演技じみていながらも、思わず威圧される。

 そして、気圧された一瞬を突くように、一筋の夕闇に染み込む死が迫る。

 完全に油断してしまっていた波彦。

 しかし、セイバーは油断していなかった。

 余裕をもって、矢を弾く。

 波彦をかばうように、一歩分前に出る。

 息を飲んだ一瞬の後、波彦は放たれた矢の軌道から、発生源を追う。

 たどり着いたのは、如月なる男の胸ポケット。

 不思議に感じながらも目を凝らす。

 すると、そこには、ちらりと夕日に反射する小さな光。

 未だ、こちらに狙いを定めるスナイパーの眼光があった。

「おいこら、人が喋ってるときに撃つんじゃない」

 緊迫した空気に似合わない如月の窘める声。

 もちろん、波彦たちに向けた言葉ではない。

 まさしく、自分の胸ポケットに話しかける声。

「だって、ひまだったからー」

 

 間の抜けた声。

 その生物が、隠れ住んでいた白黒ストライプの中から這い出てくる。

「やあ、せいぎさんじょう!」

 現れ出たのは、手のひらに乗りそうなくらいの小さな人。

 どこかの民族衣装だろうか。

 如月とは違った印象のカラフルな出で立ちであった。

 首周りの幾重にも巻かれたリング。黄や青や真珠色。筒やビーズを紐で繋げて作ったと見られる。

 質素な布切れの腰巻。ワイルドな印象を与える。余った布は褌のように前に垂れ下がっている。

 頭には勇ましさを表す冠。逆立つように幾本もの鳥の羽根が、頭上に輝く。

 肌の出た部分は、べっとりとした色鮮やかな染料で力強く彩られていた。

 そして、アーチャーの象徴ともいうべき、その小さな体躯にしては大きな、吹筒がその手には握られていた。

「小人の英霊?」

 これまで出会ってきたサーヴァント達が全て、常識的な人間の大きさだったので、まずその小ささに驚く。

 しかし、魔術なんて非常識なものがあるのだから。という理由で、結構すぐに納得をつけられた。

 言動や姿かたち、どうにも油断させられそうになる。

 しかし、波彦たちに幾度も降りかかった強烈な吹き矢の使い手だということを忘れてはいけない。

「あの小ささ、厄介かもしれません」

 セイバーは、波彦のような葛藤もなく、冷静に状況を分析している。

 しかし、そんな彼にも予想外だった展開。

「よし、おれだってさんじょうだ!」

 

 胸ポケットの小人に対抗するように、マントに隠れた肩口から似たような格好の小人が這い出てきた。

「二人一組のサーヴァント!?」

 サーヴァントは、マスター一人に一騎ずつだと思っていた波彦。

 セイバーにとっても同じ思いだったらしく、二人いるということは例外らしい。

「敵にわざわざ情報渡すなよ……」

 と、自分の従者たちに苦言を呈する如月。

 しかし、まあいいと改まって、不敵に笑いなおす。

「ただ、本当に二人だけとは決まったわけじゃないぜ」

 確かに、今二人出てきているからといって、三人目以降がいないとは限らない。

 サーヴァントが一人だけという前提は崩れてしまっているのだから。

 そう例えば、三人目が波彦たちの後ろにこっそり回り込んでいるなんてことも……。

「まさか、おれたちふたりだけのはずじゃ!?」

「さんにんめのふたご!? みつご? どこ?」

 

 どうやら、双子のアーチャーらしい。

 余裕しゃくしゃくだった如月が、苦虫を噛み潰したように固まる。

 はぁ、とため息まで吐く。

 苦労してるんだな、と多少の同情心が沸く。

「まあいい。ここでお前たちの命運は尽きるということだ」

 ヤケクソ感を感じる勝利宣言。

「そうはさせません!」

 力強いセイバーの否定が頼もしい。

「そう強がってられるのもいつまでか。さあ、アーチャー宝具解放だ」

 ゆっくりと顔の高さまで手を上げていって、指パッチン。

 待っていたとばかりに、二人のアーチャーが飛び出てきて、地面に降り立つ。

「ついにこのときがきた」

「しょうぶだー」

 

 セイバーは定石通り、言葉を発するよりも前に、宝具の発動を止めるべく斬りかかろうとする。

 しかし、それよりも双子の宝具解放の方が早かった。

 気付いた時には、そこにいた。

 まるで、今まで路地裏だと思っていた場所が、本当は違っていたのかという一瞬。

 世界が書き換えられてしまっていた。

「これは、固有結界?」

「こゆうけっかい?」

 耳慣れぬ言葉に思わず聞き返す。

「自らの定めた法則で世界を塗りつぶす禁呪。己が力を最も引き出せる空間に染め上げる結界。すなわち、今ここは相手の胃袋の中にも等しいということです」

 つまりは、一瞬にして窮地立たされたということ。

「それにしても、この景色は……」

 遺跡……だろうか?

 いつの間にか開けた空間になっていて、路地裏の狭さはない。

 背中にほんのりとあった壁の頼もしさはもうない。

 広大な遺跡のただ中に立たされていた。

 それは、例えるなら、石造りのハーフパイプ。

 ただ、それほど厳密な半円筒形というわけでもない。

 石のブロックを積み上げ、削りだして作られた幅広のスロープ。

 それが向かい合って配置されている。ちょうど中心から左右に作られた上り坂。

 坂を上った先は、そびえたつ壁になっていた。

 そして、その壁面の高い位置にそれぞれ、これまた石で作られた小さな輪っかが一つずつ。

 地面と輪が垂直になるように取り付けられていた。

 奇妙な遺跡。

 神々の居城といった雰囲気ではない。

 祈りを捧げる場所といった雰囲気でもない。

 何か、不思議な行事を執り行うことを目的として作られた建造物。

 そして、向かい立つアーチャー達との中心地にぽつんと現れた黒い球状の物体。

「いったい、これから何が……」

 強大な力である固有結界。

 アーチャー達の心の原風景。

 果たして、彼らの心の在り方を映し出して作られた、この空間におけるルールとはいったい……。

 警戒を強めた波彦とセイバー。

 空気が張り詰めていく中、如月は臆面ともせずに告げる。

「さあ、キックオフの時間だ。これこそが、生贄選びし血の球技場(トラチトリ・エスタディオ)

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8:血の球技場

 キックオフ……それは、サッカーの開始の合図だっただろうか。

 と、波彦は未だ理解の追い付いていない頭の中から引き出す。

 ふと目をやると、いそいそと何事かをしている双子のサーヴァントたち。

 それはスポーツ観戦をしていると、しばしば登場するサポーター。もしくは、プロテクターと呼ばれるような装着具に似ている形状をしていた。

 ただし、よくあるようなプラスティック製ではなく、木製。原木を削り出して作ったような自然さを感じさせる。

「さあ、どうした」

「おまえのぶんもちゃんとあるぞ」

 双子たちが、呆然とその姿を観察していた波彦とセイバーに対して言葉を放つ。

 二人の小人から目を離し、手前に視線を移動すると、一人分の木のプロテクターが無造作に置かれていた。

 すなわち、着用しろということらしい。

 どうするか委ねるために、無言でセイバーに目をやる。

 普通に考えるならば、敵から与えられたものなど、何が仕込まれているか分かったものではない。素直に着るのは愚の骨頂だと波彦にだって分かる。

「別に何も仕込んでないぜ。安心しろ」

 答えが返ってきたのは、相手マスターから。

 奇妙な格好の男からの助言。実に説得力に欠ける。

「この固有結界に付属する機能。対戦相手の分も出現するのは、単にフェアプレイの精神が重んじられるからというだけだ。もちろん、使いたくなければそれでも問題ない」

 波彦に真偽は判断できない。

 聖杯戦争に対する知識が乏しいためだ。

 なので、セイバーに尋ねる。

「セイバー、どう思う?」

「嘘は言っていないように思われます。ただ、せっかく用意していただいたものですが、辞退させていただきましょう」

 如月がセイバーの選択に口をはさむ。

「そりゃまたなんでだ?」

「いえ、単に慣れないものを着用したことによって、動きが制限されることを危惧しただけでござる。お気遣いは感謝します」

「そうかい。それじゃ、そろそろ試合開始だ」

 ゴムボールを挟んで、並び立つ両雄。

 一方の二人は木製のプロテクターを着用して、でーんと仁王立ち。

 もう一方は愛刀を構えて、いつでも攻勢に移れるように。

「そのまえに、おまえるーるしってるのか?」

「いや、申し訳ないのですが存じ上げません」

「そうか。じゃー、おしえてやる」

「かたじけない」

 双子の適当な語り口調で、本当に伝わるように話してくれるのかと、少し不安に思いながら次の言葉を待つ。

「まずなー、きゅうぎしようってんだからぶきはつかうなー」

「るーるいはんだぞー」

 なんとも至極まともな注意勧告を受ける。

「そうでしたか。これは失敬」

 飄々とした態度で、刀を鞘に納めるセイバー。

 それを見て、双子は揃ってうむと頷く。

「このきゅうぎでは、ぼーるをてでさわっちゃだめだ。あしやおしりやあたまだけ」

「んでもって、じぶんのわっかのなかにとおす。いじょう。しつもんあるか?」

 非常に短い説明だった。

 ただ、言いたいことは分かった。

 つまり、サッカーのように手を使わないでボールを扱うこと。

 そして、壁面の高い位置にある輪っかにボールを通すことを目的とするスポーツということだ。

「一つ聞いてもよいでしょうか? 負けるとどうなるのでしょう」

 波彦は、競技のルール把握に焦点がいっていった。

 忘れかけていた最も大事な箇所にメスを入れてくれるセイバー。

「敗北条件を満たした場合、もしくはルール違反があった場合には、相応の報いを受けてもらう。ただ、もしそちらが勝ったのなら、その時点でこちらの聖杯戦争からの敗退が決定する」

 相応の報いが何かというのを教えてもらいたいところだ。

 ただ、わざわざ自チーム側の敗北時のペナルティーと分けて話したということは、同一のものではないのだろう。

 すなわち、このふざけた空間での球技に負けたとしても、聖杯戦争からの即時敗退はないと考えてよいということ。

「気楽にいこうセイバー」

「はい」

 そうして、戦いの火蓋が切られた。

 

「せんこーはゆずってやる」

「じぶんのまえにあるのがじぶんのわっかだからな」

 双子の言葉が終わるより前に、セイバーはボールとの距離を、一足飛びで詰める。

 そのまま、左足で踏み切り、右脚を振りぬく。

 ドッ、と重たい音がした。

 ボールが完全な球形をしていないのに加え、へこみもする。

 力がかなり吸収され、蹴りの衝撃の割には、ボールの勢いは弱い。

 だが、セイバーはそれも予測済みだった。

 ボールがスピードを緩めるより前に、さらに脚を踏み出し追撃を加えて、自身に用意されたゴールを目指す。

「このまま決めさせてもらいましょう」

 あっという間に双子たちを抜き、壁際まで達すると上空のゴール目掛けて、ボールを蹴り上げる。

 そして、そのまま垂直に近い壁面を駆け上がりボールを追う。

 輪っかの高さにジャストのタイミングで、蹴り上げたボールに追いつき、後は蹴り込むだけ。

 勝負は、あっさりと決まったかのように見えた。

 しかし、それは罠であった。

 この球技に関しては、双子の小人たちの方が何枚も上手。奇襲を仕掛ける手合いなど、幾度も破ったことがあると言わんばかりの動きを見せていた。

「ここまではこんでくれて、ごくろうさまだ」

 いつの間にかゴール前に先回りしていた一人。

 彼のヒップアタックにより、ボールは反対側のゴールに一直線。

「む……」

 セイバーは空を蹴る。

 勢いのまま空転して、壁に背を向ける姿勢になったところ。

 ギシリ、と石の壁が軋むほどの音で蹴って、ボールを追いかけようとする。

 しかし、手遅れだった。

「ないすぱす、あいぼー」

 もう一方の双子が、片割れが自分のゴールまでボールを運んでくれることを信じて、ゴール前に張っていた。

 正確なパスを、絶妙なタイミングでヘディングシュート。

 無慈悲にも、ボールはゴールの輪っかを潜り抜ける。当然な結末。

 まさに、瞬く間の出来事だった。

 この球技に精通した双子。

 おそらく、一人だけであったとしても、セイバーに勝利を収めていたのだろう。

 それが、二人いるとなれば、もとよりこのゲームの勝機など皆無だったのだ。

「よし、ないすげーむ!」

「すげーたのしかった!」

 双子たちは、ハイタッチで勝利に酔いしれている。

 セイバーは仕方ないと、静かに目を閉じ気持ちを改める。

 そして、腰の刀に手を懸けた瞬間。

 

 ――世界が霧散する。

 

 石造りの球技場神殿は目の前から消え去る。

 広く開けていた空間は閉じ、いつの間にか再び狭い路地裏に戻っている。

 そして、位置関係も空間が圧縮されたように、元の関係に戻る。

 すなわち追い詰められた波彦たちと、追い詰めた如月たち。

 先ほどまでの戦いが茶番だったかのように、再び強い緊張感が走る。

「球技では負けましたが、こちらでは――」

 といって、未だ勝利の余韻に浸っている双子たちに有無を言わせず斬りかかろうとするセイバー。

 

 ――かっ、からん。

 

 と、結果はアスファルトに鉄の転がる音。

 セイバーが、しっかりと刀を握りこめずに、すっぽ抜けて落としてしまったのだ。

 慌てて刀を拾い構えなおすセイバー。

 その顔には、波彦が今まで見たことがない焦りが見られた。

 常に冷静に物事を俯瞰しているような言動のセイバーには不釣り合いな表情。

「これは……ステータスを下げられてしまっている?」

「気付いたか、それが敗者へのペナルティーだ」

 如月が、どうだと言わんばかりに、力強くセイバーを指さす。

「もとどおりのちからはだせないぞー」

「いちにちぐらいは、そのままだぞー」

 相変わらず、言わなきゃバレないような情報まで丁寧に教えてくれる双子たち。

 とはいえ、これはピンチであった。

 剣術の達人が、自らの体の一部と言える刀を取り落してしまうほどの身体能力の低下。

 双子の球技での勝利は、ほぼ確実であるから、デメリットもほとんど意味をなさない。

 茶番のように見えた宝具であったはずが、追い詰められた今になって、その恐ろしさを思い知らされてしまう。

「アーチャー追い詰めろ」

「おっしゃー」

「やるぞー」

 明らかに、球技をやる前までの力が出せていないセイバーに対して、吹き矢攻撃が再開される。

 今までの、死角から放たれるものではなく、見えている場所からの攻撃。

 しかし、それまでとは違い、セイバーは矢をさばき切れていない。

 いや、今までのように死角から放たれていたのなら、もう立ち上がっていることすらできないほどだったかもしれない。

 押されている。

 矢が放たれるごとに、その威力を制しきれずに、肌に衣服に一筋の切り傷が刻み込まれていく。

 それでも、セイバーは気迫で猛攻を耐えしのいでいた。

 けれど、一射。

 僅かに反応が遅れたことによって、そらし切れなかった矢が深く身をえぐる。

 そして、耐え切れずに、セイバーが片膝を地につける。

「くっ……」

 セイバーの小さな身体に隠されていた波彦が露わとなる。

 無防備で、双子の狩人の殺気にあてられる。

『主を殺すことによって同時に従者を殺すことが可能』

 ふいに、その言葉が思い出された。

 まさに現在、波彦は容易に殺されてしまう一般人であった。

 ベッドで寝ているところを狙われて、間一髪でセイバーに救われたとき。

 あのときは、パニックの方が勝っていて、正しくことの重大性を認識することができなかった。

 だが今、無防備になって、危機に直にさらされて、ようやっと気付いた。

 自分は、今まさに、生死の瀬戸際にあるのだと。

「はぁ、はぁ、は、は、は、」

 気づけば呼吸が異常なまでに早くなっていた。

 制御できずに、喉が、肺が、身体が空気を求め続ける。

 一旦、深呼吸でもしないと、この症状は治まらないと頭が答えを出す。

 しかし、そんなことをこの状況が許してくれるはずもなく、

 

 ――しゅっッ

 

 と、矢が感情もなく放たれる。

 眉間を貫かれた。

 そう思ってしまった。

 痛みが来るのを待っても一向に来ない。

 そこで、ようやく、目の前の侍が刀の先を天に向けていることに気づく。

 どうやら再び、セイバーに助けられたらしい。

 見開かれていたはずの波彦の目には、その瞬間の残像さえ残されていなかったのだが。

「させ……ません……」

 刀を杖にして、傷だらけの身体に鞭を打ち、立ち上がるセイバー。

 今一度、波彦を守るため、アーチャーに立ち向かう。

 無傷の波彦は、膝を振るわせて、ゆっくりと両の手を頭の上にかぶせる。

 そしてゆっくりとしゃがみこみ、現実から目をそらすように、目を閉じた。

「はんっ……」

 と、小ばかにしたような鼻を鳴らす音を、耳がとらえたような気がした。

 閉じこもった世界の外では、しばらく同じ音が続いた。

 空気を静かに裂く音。それを弾く金属音。布の小さく避ける音。肉の小さく避ける音。

 

 オーーーーーーーーーン。

 

 その継続を断ったのは、遠くに響く声。

 獣の遠吠え。

 巷で噂される都市伝説のひとつ。

 その後、音が止み、世界が静止したような気がした。

「ようやく、本命が現れたか」

 わざとこちらに聞こえるような、お前たちは余興に過ぎないと投げかけるような、キザったらしい声。

「こっちはやめかー」

「んじゃ、またなー」

 戦場においても呑気な二対の声。

 余裕を含ませる駆け足の音が少しずつ遠ざかっていく。

 やがて、その音も聞こえなくなる。

 アスファルトに突き立てられた金属が滑る音。転がる音。

 遠慮なく身体が地面に叩きつけられる音。だが、あまり大きな音ではない。

 その後に待ち受けた静寂の重圧。

 波彦は耐え切れずに、胃の内容物を戻した。

 路地裏の奥の掃きだめのような臭いの中に、真新しいすえた臭いが加わった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9:銀の災厄

 早朝、波彦たちはキャスター陣営の洋館を訪ねていた。

 車椅子の少女、飯塚神無から渡されていた連絡先にメッセージを入れると、「少し待ってて」とすぐに返事が返ってきて驚く。

「二回目だけど、慣れないな」

 住宅地の何でもない一角に立っていたはずの波彦の前に、突如として立派な洋館が存在している。

 静かに綺麗な装飾の玄関扉が開かれる。

 そこから、覗くように顔を出したのは、館の主人。

 すなわち、無口無表情で小さなメイド姿。

「……いらっしゃいませ?」

「こんな早い時間にすみません」

「気にしてませんから」

 目が合ったのか合ってないのか分からない気まずい空気の中、メイドは淡々と門の錠を解き、波彦たちが通れるほどに解放すると、じっと待ち続ける。

 言葉足らずな弥生の顔を伺いつつ、門をくぐる。

 昨日と同じく、潜り抜け終わると、すぐに閉じられる。

 

 招かれたリビングでは、朝食の準備ができていた。

 四人分あって、すでに二つの席が埋まっていた。

「いらっしゃい。さぁさぁ座って」

「まるで自宅だ」

「お父さんとお母さんには、しばらくここに厄介になること話してるから問題ないわよ」

「だからって、この家が君のものになったわけじゃないだろ?」

「それはそうでしょ」

 ダメだ皮肉が通じない。

 波彦はあきらめて、もう一方の席。キャスターを見る。

 少し緊張する。

 変な臭いしてないよなと、自分自身を今一度確認する。

 セイバーの優しい視線が背中を後押ししてくれているのを感じる。

「今日は、昨日の返答をしたくて来たんだ」

「そうか。では座りたまえ」

「いや、でも大事な話だと思うし……」

「深刻な話なら、食卓の和らいだ空気で中和されるくらいがいいだろう。そうでないなら、朝食の中でした方が弾む。すなわち、朝食を一緒にするのが、話を聞く条件というわけだ」

 波彦はセイバーと顔を見合わせてから、二人してゆっくりと席に着く。

「では、遠慮なく」

「お邪魔します」

 よそ者感は未だに抜けないけれど。

 いや、たかが二、三日(だと思う)で、すっかり家の人気取りな神無の方がおかしいだけだ。

 家の人と言えば、食卓に入らずに、給仕として側に立っている弥生もおかしいのだけれど。

 彼女の分の朝食は、ダイニングのカウンターテーブルに取り残されている。……と、もう一つ。二つある?

「あそこのプレートは、前園さんのと……」

「あら、同盟の話じゃなかったのかしら? このお屋敷には、今もう一人居候さんがいるのよ」

 居候が、居候の話を嬉々として語る。

「昨日、アサシンとランサーの話はしたわよね?」

「うん、聞いたよ」

「そこで、あたしたちが助けた少年がいたんだけど。案の定、家を失って路頭に迷ってたんで、だったらと思って匿ってるのよ」

 それでもって、今はメンタル的に不安定だから、この屋敷の部屋の一つに閉じこもっている状態。

 ということを、余計な話を幾つか付け足されながら聞かされる。

「それでは、届けてきます」

 ちょうど話があったのをいい機会だと思ったらしく、弥生がプレートの一つを持って、客室のある方へと向かって消える。

 それとなく、視線をやって見送っていたところに、今度はキャスターの方から話がふられる。

「それで、君たちが今日来たのは、この話を聞きたいがためではないのだろう?」

 先に朝食を食べ始めていた彼は、あらかた食べ終わっていて、今はジャムと一緒に紅茶を味わっていた。

 黄色い見慣れないジャムだったので、興味本位にトーストの端っこに乗せて口に入れてみたところ、レモンのジャムだったらしい。爽やかな酸味と甘みが口の中に広がる。

「もちろん、昨日出てた同盟の話なんだけど、受けさせて貰おうと思っています」

「一体、どういう心境の変化があったのか分からないが、こちらとしては円滑に話が進むのは、ありがたい話だ」

「別に心境の変化なんてなくて、ただ受けて損はないと一夜分だけ考えて答えを出しただけです」

 見透かされているような目の追求を避けるように、波彦は事前に準備してきた回答を口にする。

 誤魔化すように黄色い塊をスプーンで多めにすくって、トーストに塗りたくって、口に入れる。

「そのジャム気に入ってくれたのかな?」

「えっ? あ、はい」

「そうか」

 思案顔のキャスターから追求が来ることを恐れて、自分の口にものを含んで喋れないようにする。

「それで、セイバー。君は?」

「マスター殿の意思が、拙者の意思。拙者も、この同盟はこちらの利になるところが大きいと考えています」

「では、同盟成立ということと思って構わないかね? 弥生くんも?」

 ちょうど朝食の配達から戻ってきた弥生。

 キャスターは自分のマスターに確認を取ろうとする。

 いや、そもそも彼女抜きで話が進もうとしていたことがおかしいのだけれど。

「ご主人様の、お心のままに」

「ありがとう」

 弥生はやはり、一歩退いたところから意見を述べる。

 その姿に対してのキャスターの微笑みから、少しだけ寂しそうな感じを受けた。勘違いなのかもしれないが。

「それでは、今から詳しい話をしようか」

「はい」

 と、真剣な雰囲気になっているところ、空気を読まない声が一つ。

「ねえ、ちょっとテレビを付けてもいいかしら?」

 朝食を終え、話にも加われずに手持無沙汰になっていたのだろうか。神無が返答を聞く前にリモコンを操作する。

 彼女が洗濯したのは、ローカル系のニュース番組だった。

 

『また野犬被害か!? 新たに三人の身元不明遺体』

 

 ここ数日、藤之枝で起きている野犬被害のニュース。内容としては、今朝市内で三人分の遺体が新たに発見された。これまでの被害と同様に、獣の牙のようなもので食い荒らされた傷が遺体に残っているという話。

 そういえば、昨日も獣の遠吠えが聞こえていたなと思い出す。

「まさしく、今しようとしていた話だ。神無くん、ありがとう」

「いえいえ、どういたしまして」

 鼻高々な神無に、少し納得のいかない波彦。

「サーヴァントによる被害だということでしょうか?」

「そうだ。ワシらは、バーサーカーによる被害だと踏んでいる」

「なるほど。力を蓄えられる前に叩こうと、そういう話ですね?」

「ああ」

 サ-ヴァント二人の間で勝手に話が進んでいく。

「話が見えないんだけど」

「マスター殿、これは失礼」

「解説させてもらうとしよう」

 キャスターの元に注目が集まる。

「まず、我々サーヴァントが過去の英雄・偉人が信仰により精霊とまでなった存在というのは知っているな?」

 サーヴァント以外の三人が、静かに頷く。

「精霊であるサーヴァントの力の源は、マスターから供給される魔力。ゆえに、魔力の強いマスターに召喚されるほどに強い力を発揮することができる。では、マスター一人の魔力では不十分だとしたときに取る行動とは?」

「魔力供給を行うマスターを二人にする?」

「まあ、そういうことだ。他人から魔力を徴収する。そうすることで、一人のマスターでは発揮できない力を手にすることができる。そして、最も効率的な魔力の徴収方法が『魂喰い』だ」

 言葉の並びだけで、それが許されてはいけない行いだと想像できる。

 改めてニュースを見る。

 そこには、遺体の状況は映されていないし、襲われた瞬間のことなんて、当然リプレイされるわけもない。

 主体性はない事務報告のようなニュース。

 けれど、死の恐怖を味わい、実際に被害にあった人がいる。その事実に心が痛んだ。

 と同時に、手が震える。波彦は見つからないように、テーブルの下に隠した。

「魂とは生命を形作る重要な要素であり、取られれば当然死ぬ。しかし、その生命力こそ、サーヴァントにとって良質な餌となる。だからこそ、力を蓄えるために無関係の一般人を殺し、魂を喰らう。これが『魂喰い』」

「到底許される行為ではない」

「当然だ。現在、『魂喰い』を行っていると推測されるのは、アサシンとバーサーカーの二騎。この二騎は、力を蓄えられる前に、そして何より無辜の人々が被害にあわないように、早急に叩く必要がある」

「その二騎で、バーサーカーを選んだのは?」

「アサシンは相当に気を付けて狩りを行っているらしく尻尾を見せない。それに対して、バーサーカーはこのようなニュースになるように、かなり派手に行っている。だから、被害が大きくなる可能性が高いし、何より発見しやすい」

 その後、行動指針や連絡方法などを話し合い、バーサーカーが行動に出ている夜まで休憩ということになった。

 

 波彦には、余っている客室があてがわれた。日中、休憩の名目で、波彦はベッドの中に閉じこもっていた。まさか、学校に行く気は起きなかった。体調が悪くて、しばらく休むことになりそうだと連絡を入れていた。

 そして、夜のとばりが下りる。

 波彦は、急に腹の調子を悪くした。

「ごめん。ちょっと動けそうにない」

 心配して身に来た神無に告げる。

「そう。ゆっくり休んで、しっかり治してね」

 ありがたいことに、それ以上の追求はなかった。

「セイバーのことは好きに使ってくれて構わない。でいいよな、セイバー?」

「ええ、それがマスター殿の意思ならば。ということです、神無殿」

「ありがとう、心強いわ」

 セイバーに押されながら、神無が部屋から出ていく。

 その際に消灯され、波彦は暗闇の中に落ちる。

 

 

 

 オーーーーーーーーーン。

 と、獣の遠吠えが夜道に響く。

 もう多くの被害者が出ている。しかも、『野犬の仕業』という実態を伴った恐怖として。

 そんな中、迂闊にも人通りのない夜道を行くという愚か者は流石にいなかった。いつもなら数人とすれ違ってそうな距離を歩いても、未だに屋外に人の気配すら感じられない。

 街灯はついていて、立ち並ぶ邸宅の内から漏れる光もある。

 それなのに、世界から人が消えたような錯覚を覚える。

 神無は、セイバーに車椅子を押されて、獣が吠える方向を目指していた。

 波彦が脱落したことにより、神無とセイバーがバーサーカー撃退班、キャスターと弥生が待機してバックアップ班という形になったのだ。

 神無の千里眼では、音を追うことが少しだけ難しい。各視界が、自分を中心として、どの方角にどのくらいの距離があるのかは把握することができる。

 しかし、各地点での音を拾うことはできないので、結局本体の耳で聞こえる遠吠えを頼りに探すしかなかった。

 加えて、住宅地で明かりがついているとはいっても夜である。

 薄暗くて、昼間のように遠くまでは見通せない。

 そのために、神無は今、自分からそう遠くない地点に、数個の視界を飛ばしてパトロールをさせていた。

 そのような状態であっても、一方が獲物を探す捕食者で、もう一方がその捕食者を狩ろうとするもの。

 すなわち、両者とも探す者同士。

 であったのならば、さほどの苦労もなく、導かれるように巡り合うこととなる。

「セイバー、次の角を曲がったところに」

「はい。ここからでも、ひしひしと圧を感じています」

 神無は、もうひとつの視界で、それを注意深く観察する。

 それは、銀であった。夜の闇の中にありながらも、まるで内部から発光しているような、不気味な神秘性をたたえる白銀。

 住宅地という日常の中にありながらも、まるでそこだけが神話の世界に堕ちたような、異様な浮世感があった。

 そんな神秘性を感じさせる白銀が、大きな狼の形をかたどっていた。

 しかも、現実に存在する狼のような四足歩行ではなく、今にも前足が地面に届きそうなほどの猫背ではあったが、後ろの二つの足だけで地面に立っている。

 見るからに、不吉な存在。

 それが、この聖杯戦争に参加したバーサーカーであった。

「もうちょっと、羽織ってきた方が良かったかも」

 急に、夜の風が冷たく感じられた。

 残暑だからといって、昼と変わらない服で出たことを少し後悔する。

「神無殿のおかげで、姿が一方的に視認できるのが、こちらの利でしょう」

「ええ」

「だから、曲がり角での出会い頭でこちらから仕掛けます」

「分かったわ。じゃあ、タイミングを指示するわね」

「お願いします」

 神無は再び、見ているだけで精神を削られそうな獣の姿を注視する。

 歩いている。進んでいる。

 ただそれだけなのに、周囲を不幸に落としそうな凶兆の存在。

 その瞳は、見据えられただけで、あらゆる生物が竦み上がりそうな原始的な恐怖を内包している気がする。

 一歩一歩と近づくたび、神無は自身の鼓動の音が強まっていくのを感じた。

「セイバー、今!」

「かしこまっ……いや、神無殿、危ないっ!」

 セイバーが、刀を抜き放ち、空を斬りつける。

 いや、それは本当に空であったのか?

 セイバーに助けられていなければ、死んでいた。

 神無には、そういう直感が働いていた。

「セイバー、ありがとう」

「神無殿。どうも敵は視えない攻撃を使うようです。気を付けて」

「分かった」

 ではなぜ、セイバーはそれを知ったのか。

 そして、切り払うことができたのか。

 とは聞かない。

 例え視えなかったとしても、バーサーカーが視えない攻撃をするということは、すぐに結果となって表れたから。

 

 ゥオォオオオオオオン。

 

 セイバーという敵を視認したバーサーカーが、ひときわ強く吠える。

 それに呼応したように、曲がり角に備え付けられていたミラーがくしゃくしゃとひしゃげる。

 鏡面が丸められる。耐え切れなくなって、パキパキと亀裂が全体に広がる。破片が道に放り捨てられる。

 まるで、自分から壊れたようだ。と、神無は思った。

 なんて、感想を抱いている場合ではなく、白銀の巨躯が次に狙いを定めたのは、神無であった。その鋭い眼光に射すくめられる。

 マズい。

 そう思った瞬間には、神無の身体は宙にあった。

 バーサーカーの不可視の攻撃をくらったのではない。

 セイバーに車椅子ごと抱えられていた。

 それまで神無のいた場所の近くにあったガードレールが、強迫観念を抱いたようにネジを噴出し、カタリと板部分を地面に落としているのが見えた。

「神無殿、少し離れていてください」

 といって、セイバーは神無を、通り一つ分ほど離れた場所に置いて、再びバーサーカーの元へと向かう。

 そう、あの場所にいては、神無はセイバーの邪魔になるだけであった。

「申し訳ないが、あなたの相手は拙者が受けよう。彼女には、指一本触れさせない」

 セイバーが、言葉が通じるか怪しい凶獣に対して、言い放つ。

 それと同時に、両者の戦いが本格的に始まった。

 そして、すぐに膠着状態に陥った。

 両者ともに決定打を相手に与えられないのだ。

 セイバーは、バーサーカーの不可視の攻撃を視えているように――いや、事実視えているのだろう――こともなげに避け切り払う。

 同時に繰り出される白銀の獣が振り回す、鋭い爪による攻撃も見事にさばく。

 紙一重であるはずなのに、当たるイメージが沸かない。

 そうやって攻撃を躱していく中で、隙をついてセイバーは幾つかの斬撃を浴びせる。しかし、白銀の体毛がよほど硬質なのか、傷一つ負わせられている様子はない。

 こうなると、苦しくなるのはセイバーの方だ。

 なにせ、セイバーは当たらないとはいえ、当たると致命傷になる攻撃を避け続けている。

 それに対して、バーサーカーは攻撃を受けているが無傷。なんなら、今動きを止めてセイバーの攻撃を一方的にくらい続けたとしても、先に限界が来るのはセイバーの方かもしれない。

 つまり、不運にも一撃くらえば終わりの綱渡りをしているのに、それのゴールはなく目の前には永遠に、地平線のかなたに続く綱があるような状態。

「っていう状況。正直、いつまで持つかも見当つかない」

 神無はセイバーを助けるヒントを得るため、そして情報共有のためにキャスターの元に通話を繋いで状況を話した。

『基本に立ち返り、相手の正体を知ることが打開につながるだろうな』

「うん、そうだよね」

『真名が分かれば、そのまま弱点が分かるかもしれない』

「狼の英霊……」

 フェンリル。ヘズの影響で北欧神話を調べていたこともあって、神無の頭に真っ先に思いついたのは、その神霊だった。

 災いをもたらす獣。最高神オーディンを捕食したという伝説がある。

 彼を捕らえたのは、グレイプニールという魔法の紐。試してみる価値はあるが、確か幾つかの材料を用いる必要があり、今すぐに用意できるものではない。

 後、神無にわかる範囲で思いつくのは、北欧神話に登場する幾つかの狼の伝承。それに、穀物を守る精霊が狼として描かれた伝承なんかもあった。

 いや、二足歩行なのだとしたら、最も考えられるのは人狼なのだろうが、有名な人狼などと言われても、ぱっとは思いつかない。

「セイバー――」

 と、声をかけようとしたその時だった。

 

 大気を震わす轟音が、夜の静まっていた町を駆け抜けた。

 

 音のする方を見やると、すぐに原因が分かった。

 平地である藤之枝の中心部にそびえたち、ひときわ目立つ高層ビル。

 丘の上の住宅街からもはっきりと確認できるそれが、ゆっくりと自壊している。

 一瞬、目の前の白銀の獣の仕業かと思ったが、今いる場所から遥か彼方の駅前に、セイバーと戦いながら大規模な災害を発生させる余裕がある風には思えない。

「あたしが見てくる」

 視線を向けてきたセイバーに答える神無。

 すぐさまに、視界の一つを事故の中心に向かわせる。

 バーサーカーを探していた時のように迷うことはなく、目立ちすぎるがために一直線に向かうことができた。

 神無は、この事故について、別のサーヴァントがもう一騎現れたのかと予測を立てていた。嬉々として、ビルの破壊を楽しむ邪悪な笑みが簡単に想像できた。

 しかし、現場にあったのは予想に全く反したものだった。

 逃げ惑う民衆。

 何かを恐れ、怯えきっているような様子。

 自分に何かの手が及ばないようにと、必死に逃げまどう。

 その災禍の中心にあったのは、一人の小太りの少年。

 薄汚れた黒い喪服を着ている。

 神無より少しだけ年下のように見える。

 真っ青に青ざめた顔で、助けを乞うように、這って歩く少年。

 それを恐怖の対象と認識して、恐怖して誰もが逃げ惑う。

 そんな奇妙な光景が、そこには広がっていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10:不幸を振りまく不幸な少年

 犬吠埼睦月は、社会落伍者である。

 別に初めからそうだったわけじゃない。

 きっかけがあって転落したのだ。

 ただきっと、そのときではなくても、どこかの時点で転んでいたのだろう。

 社会は、どんくさい人間に対して生きづらい。

 失敗してもやり直せる。全ての人に救いの手は必ず差し伸べられる。という綺麗ごとが、世の中にはびこっている。

 けれど、実際のところ失敗した人間には、救いの手を掴めるほどの握力がない。それを掴める人間は、救いの手なんか差し伸べられなくても、いつか貪欲に闇の中から這い出すだけの胆力を持っている。

 

 きっかけは、些細なことだった。

 クラスの中心にいる女子の一人と廊下でぶつかって、こかしてしまったことが原因。

 先に言っておくと、この女子は加害者ではない。純然たる被害者。周りの人間が彼女の気持ちを勝手に想像して、大きな話に持っていった。

 火打石が小さな火花を生んでも、受け止める火口がなければ火種は生まれず、燃料を与えなければ大火にはならないのだ。

 彼女をこかしたとき睦月は、慌ててキョドって、

「その、ごっ……ごめ、ごめ……」

 と、壊れたレコードのように上手く言えなかった。

 そして、そのことが、大義名分となったのである。

 すなわち、『発端はあいつにあって、やられているあいつも悪い。俺たちは正しいことだと考えてした』という言い訳。

 最初からハードなことをされたわけではない。

 最初は、やられている睦月自身も気付かないようなこと。思い返せばこれもそうだったのかも、と考えられる程度のことだった。

 例えば、給食のときに、盛り付けられる肉の量が少ないとか。掃除のときに露骨じゃない量の集めた埃を、ゴミ箱に捨てないで、睦月の席の下に集めるとか。

 睦月がやった分だけの報いを受けさせようと思ってやったこと。

 しかし、睦月が動じてないように振る舞い続けたことが、行為のエスカレートに繋がった。

 発端が相手にあるため正義の行為としての心地よさがあったことと、どんどんエスカレートしていく行為の中で許されるギリギリを攻めるチキンレース的なゲーム性があったこと。これが、段々と歯止めを効かなくした。

 一か月経つ頃には、最初の遠慮はどこにもなくなっていた。

 漫画やドラマの典型的なイジメ行為を模倣したと思われるものから、まったくもって独創的な行為まで。

 身体的な被害のあるもの、物質的な被害のあるもの。最終的には、一歩間違えれば死んでいたのではないかと思われるものまであった。

 そんな中で、睦月が最も嫌だと思っていたのは、所持品に被害の出る行為だった。なぜなら、失われた所持品の補填をしなければいけないから。なぜなら、そのことで教師とか親とかに見つかってしまう可能性が高かったから。

 そう、それだけのことを受けていながら、睦月はイジメられていることが露呈するのを何よりも恐れた。

 理由は、恥ずかしかったから。

 イジメられているということが、恥ずかしかったのだ。

 そのまま二か月が過ぎた。

 自分ではうまく隠せていたと思っていたのだが、今思い返すと、両親はともかく教員たちは見て見ぬふりをしていたのかも知れない。

 二か月経って、学校に向かう足取りが重くなって、ふとサボることにした。

 そうして、代わりの場所にしたのが市営の図書館。

 きっと、学校をサボったとしても、学ぶことをサボることへの後ろめたさがあったからなのだろう。

 居心地がよくて、翌日も翌々日も図書館に脚を向かわせた。

 ようやく見つけた安寧の場所がなくなるのは早かった。

 連日休みが続いたことを、学校が両親に知らせたのだ。

 そこで、睦月は諦めた。

 最初は仮病で理由をつけて部屋から出なかった。何日も何日も。

 だが、次第にそんな理由すらもなくなっていく。やがて、母親も暗黙の了解のように何も聞いてこなくなった。

 

 数日前。

 その日は、あまりにも普通の日だった。

 変わったことと言えば、前日に皆既月食があってニュースに流れていたことくらい。

 ただ、外に一切出ない睦月には関係ないことであった。

 それに、その類の天体ショーは一年に一回くらいは珍しい巡り合わせだと理由をつけて開催されるし、凄惨な事故は繰り返されるし、世界情勢は何かしらの問題を抱えている。

 つまり、何でもない日のはずだった。

 コン、コン、

「睦月、部屋の前にご飯置いておくね」

 今日も母親が、二階の睦月の部屋にご飯を乗せたプレートを持ってくる。

 睦月は、いつものように何も返事はせず、かといって何かに没頭しているわけでもなく、ぼーっと天井をにらみ続ける。

 今日もきっと、ご飯と一緒にメッセージードが付いているのだ。

 その内容は多種多様。純粋に睦月を心配する内容から、今日はこんな面白いことがあったという世間話とか。

 ようするに天岩戸作戦なのだろう。

 常々、煩わしいと思って破り捨てている。

 今日も、それを思ってイライラした。

 だから、ほんの気まぐれで母親が階段から足を踏み外して転倒する想像をした。

 そして、そのまま打ち所が悪くて、家の中で頭を打って死んでしまうというバカげた想像だ。一笑に付して終わり。

 

 ――ガッ、ガガガガッ。ど……。

 

 大きくて鈍い音が、部屋の外から響いた。

 悪い予感がした。

 父は、とっくに会社で仕事をしている時間。家には睦月と母以外いない。

 ここ数か月で初めて、トイレ以外で自発的に部屋の外に出ることにした。

 階段の下で、母が頭から血を流しながらうずくまっていた。

 身動き一つない。

 近づいて様子を見る。

 息をしてない。

 心臓の鼓動も弱い。

 睦月は慌てて電話を取り、生まれて初めて、誰もが知っているその番号に電話をした。

 促されるままに状況を説明する。

 心臓マッサージをする。

 久々に動かした身体は、それだけで疲労困憊になった。

 サイレンの音が近づいてきて。

 チャイムが鳴って。

 扉を開けて。

 玄関から、数人の大人が母の体を運ぶのを見届けて。

 一緒に救急車に乗って。

 病院の待合室でぼーっとして。

 スーツの父が慌てた顔でやってきて。

 医者が口の端を噛み締めた顔をして。

 使い古された「手はつくしましたが……」が使われるところを初めて見て。

 父の膝が崩れ堕ちるのを初めて見た。

 そんな、どうしようもない現実が待ち構えていた。

 

 母の葬儀はしめやかに行われた。

 あれから、睦月はそれ以前と比べると驚くほど外に出るようになった。

 まるで、母の存在が楔となっていたかのように。

 しかし、それは間違いである。

 本当の楔は、睦月自身の心の中にある。

 だから、今の頻繁に外に出ているのは異常事態。

 きっと全てが終わったら、また一人の殻の中に閉じ籠る。

 誰にも迷惑をかけないために。

 そんな風に生きていくのだと信じていた。

 母との別れの中、睦月は泣いた。

 イジメられているときは、すっかり無にしていた心が、哀しみを覚えた。

 あまりにも大きな異常事態は、睦月が外部刺激のすべてを拒絶していた膜を、破り裂いたのだ。

 葬儀からの帰り道、睦月は久しぶりに外の世界を見た。

 外の世界は、相も変わらず他者の幸せに満ちていた。

 往来は、その空気をもって不幸者を排除して、幸せ者と不幸ではない者だけ存在を許可されているように見えた。

 自分は、きっとこの世界で最も不幸な人間だ。とそんな卑屈な考えを引き起こさせる。

 そんな考えは、醜い妬みの感情を生む。

 睦月の通っていた学校の制服を見つけた。

 男女数人のグループが、楽しそうな談笑をしている姿を見つけた。

 よく見れば、見たことのある顔のような気がした。睦月のいたクラスにいるのが何人かいると思う。

「なんであいつらばっかり、幸せそうに……」

 彼らは何も悪くない。

 それでも、安穏として生きているのが許せなかった。

 これは、睦月の八つ当たり。

 だとしても、彼らが不幸になる想像くらいは許されるはずだ。

 

 近くを走っている大型トラックが転倒して、それに潰される。

 ――想像をすると、それに追随するように、近くを走っていた大型トラックが転倒した。

 

 周囲の人の唖然とした顔が見渡せた。

 誰も、そこにいた学生たちの命が残っているとは思えないほどの現場だった。

 トラックの底から、新鮮な目覚ましい赤が滲み出る。

 殆ど全ての遺体が、トラックに完全に隠されて見えない。

 そんな中、半端に逃げられたせいで、胸像のようになって、それより下の部分がプレスされたものもあった。地面に強打したせいか、鼻の骨が折れて平らになった顔は、恐ろしい形相のまま絶命している。

 群衆から、悲鳴が上がった。

 誰もが、今発生した大型の不幸に恐怖し、胸を痛めていた。

 

 そんな恐ろしい世界の中。

 睦月は連鎖する不幸を想像してしまう。

 

 事故現場を確認しようと近づく人を跳ね飛ばす青い車。

 起きた。

 

 恐怖で暴走し、電柱に正面から当たり、潰れる赤い軽自動車。

 起きた。

 

 この場から離れようと急いで逃げる人々が、将棋倒しになる様。

 起きた。

 

 そこに、ビルのガラス拭き作業員を吊るワイヤーが切れて、降ってくる。

 起きた。

 

 起きた。起きた。起きた。起きた。起きた。起きた。起きた。起きた。――。

 

 ここまで来ると、確信を得られずにはいられなかった。

 この凄惨な事故の数々を起こしてしまっているのは睦月だと。

 卑屈な睦月は、想像の連鎖を止めることができない。

 そして、思い至らずにはいられなかった。

 母が死んだときのこと。

 睦月が、あのとき何を考えていたのか。

 だとしたら、母を殺したのは……。

「うあぁああああああああああ!」

 走り出した。

 後ろから、父の静止の声が聞こえた気がした。

 止まることはできなかった。

 それ以上、不幸な想像をしないため、誰も巻き込まないために、精いっぱいに急いで誰もいない場所に向かっていく。

 

 あまり遠くに辿り着くことはできなかった。

 当然だ。

 部屋に引きこもり、ここ数か月、運動はおろか、まともに歩いた記憶さえない。

 辿り着いたのは、近くにあった公園の、汚いトイレの個室。

 そこに、何もかもが終わるまで閉じ籠ろうと思った。

 簡素な鍵をかけて密室になると生きた心地がした。

 ふと、閉めたトイレの扉に不思議な文様が描かれていることに気づいた。

 惹かれるように触れてしまう。

 眩い閃光が眼を焼く。

 犬吠埼睦月の不幸は、未だ終わることを許されない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11:マスターミッション

 災禍の中心に少年がいることが分かった。

 辛そうな顔。

 救いを求める顔を、千里眼で見て、脳裏に焼き付けてしまった。

 助けてあげたいという欲を掻き立てられる顔。

 頭を離れない。

 少年を助けるためには、神無の力だけでは不十分で、セイバーの力が必要なことは理解している。

 けれど、今目の前で戦っているバーサーカーを放置することはできない。

 セイバーの心を乱さないために、少年のことを諦めて、今ここに集中することに決めた。

 悔しくて口の端を噛み締める。

 

「カァッッハハハハハハッッ、バーサーカーを追ってきたら、思わぬ組み合わせの先客だな」

 

 奇妙な出で立ちの男が現れたのは、神無が決断をしたのと同時だった。

 白黒ストライプのスーツに、赤青マント。

 夜の闇の中にありながら、無闇に目立つ装いの男。

「如月拓斗……」

 神無が唖然としている中、先に反応したのは、銀の獣と紙一重の攻防を繰り広げている剣士。

 それくらいの余裕はまだあるということか、もしくはマントの男がそれほどに存在感があるということか。

「如月っていうと、アーチャーのマスターの?」

 今日、波彦に聞かされた襲撃の話を思い出す神無。

「ああ、いかにも。オレがアーチャーのマスター、如月拓斗だ。以後、お見知りおきを」

「え、うん。よろしくね……」

 聞いていた通りのキザな振る舞いに、引き気味に答える。

「んでもって、おれと!」

「おれがあーちゃーだぞ!」

 如月の服に隠れていた双子のアーチャーが顔を出す。

 少しかわいい。

「それであなたたちは、一体何をしに?」

「聞いてなかったのか。バーサーカーを追ってきたんだ」

「ということは、助太刀と思っても?」

「もちろん。そう思ってくれて構わない。それでもってオレから提案がある」

 如月は一方的に語り始める。

「駅前の災害のことは当然気が付いているな? アレを引き起こしているのは、バーサーカーのマスターだと確信している。理由は同種の能力が使われているからだ!」

 少し強引な理論だが、納得できる。

「両方を止めなきゃ勝てないが、オレ一人では手が回らない。だから、一時的な協力関係を組みたい」

 神無の利害。というか、個人的願望とも一致する。

 すなわち、災禍の中心にある少年、バーサーカーのマスターをどうにかしてあげたい。

「それで、あたしたちはどうすればいいの?」

「お前らは駅前に行き、あの災害を止めろ。オレたちは、そこのセイバーには見せたことがあるが、いい足止めの能力があるから、コイツを止めておく」

 真偽に確信が持てないでいる神無。

「彼らの能力については、拙者が保証しましょう」

 セイバーからのお墨付きが入る。

 後は、神無が如月のことを信じるに足ると思えるかどうか。

 そして、何より今、神無がどうしたいか、なのだろう。

 だったら、答えは簡単。

「じゃあ、ここは任せた。すぐに終わらせて、すぐに戻ってくるから」

「任された。向こうのことは、頼んだぜ」

 

 

 

 ベッドの中、掛け布団の作る闇の中に波彦はいた。

 最初は、死の恐怖から震えていた。

 昨日、抱いた感情は、そう簡単には拭えないものだった。

 だが、いつからだろうか、波彦の心を占めるものが変わりつつある。

 理由の心当たりは一つだけ。

 右手の甲が、火傷を負ったように、ジクジクと痛むのだ。

 左手で、疼く個所をなぞる。

 それは、ここ数日で何度も確認した魔術の文様――令呪が刻まれている場所だった。

 断続的に、焼けつくような痛み。

 まるで鼓動のような。しかし、波彦の心臓のリズムとはズレている。

 では、一体何者の鼓動なのか……。

「あー、クソッ……。分かってるよ、そんなの……」

 そんな一つしか選択肢がないものは、問題でも何でもない。

「セイバー……。何で、俺なんかなんだよ」

 呼んでる。

 そう感じる。

 都合のいい波彦の妄想かもしれない。

「昼間、寝すぎたせいだ」

 眠れてしまえば楽だと、目を閉じるが、眠れない。落ち着かない。

 気が付けば、神無、弥生、キャスター……そしてセイバー。

 彼らのために、自分にできることはないだろうか。

 なんて、考えてしまう。

「バカなこと考えるな。俺は、ただの一般人だぞ。あんな戦いの中に向かっていっても、ゴミのように殺されるのがオチだ」

 ただの一般人である波彦に出来ることなんて何一つない。

「でも、あの超能力を使えば……」

 念動力を使えば、何か助けになれるだろうか。

 しかし、あれでは、サーヴァントには何のダメージも与えられないだろう。

 集中している間に、一撃で葬られる未来が見える。

 そんな風に、悶々と思い悩んでいるところに、外からの轟音が耳に飛び込んでくる。

 右手の甲が、ひときわ大きく疼く。

 セイバーの身に何かあったのだろうか。

 と心配になるも、未だベッドの闇の中。窓から様子を見ることさえ、できない。

 しばらくして、電話のコール音が家の中から鳴り響く。

 波彦の携帯ではなかった。

 三コール目の途中で、鳴りやんだ。

「こちら、キャスターだ。どうかしたか、神無くん?」

 壁ごしに電話応答の声がする。

「大きな音か。勿論、こちらでも聞こえたよ。繁華街のビルが倒れたと。……アーチャー陣営が助太刀に現れて。……それを止めに行くことになったと」

 電話の相手は神無だろう。

 キャスターは彼女の言葉を繰り返すように声に出す。

 そんなことをせずとも理解しているのに、まるでこの会話をこっそりと聞こうとしている誰かにも、話の流れを伝えようとするように。

「バーサーカーとは交戦して。その姿は銀の毛並みの大きな狼と。……なるほど」

 キャスターが話を伝えようとする相手は、マスターである弥生。

 そして、波彦の二人であるに違いない。

 前者は情報共有のために、そして後者は……。

「一体、何をしろっていうんだよ?」

 小さく呟いた自問自答。

 分かり切っているくせに。と、自分の中の声に、責め立てられる。

「何で俺なんかに、期待するんだよ……」

 期待されても困る。

 波彦は、たまたまセイバーのマスターになっただけなのだ。

 偶然、念動力を与えられただけなのだ。

 そして、一度受けた恐怖から、全てを投げ出し逃げ出した。

 今は羽毛のくれる温もりに、逃避しているだけ。

 ここから抜け出すだけの勇気も沸かないヘタレなのだから。

 そのまま少しの時間、悩みにふける。

 

 扉が開けられる。部屋に明かりが点けられる。

 

「起きているか?」

 それは確信を持っている意地の悪い声だ。

「昼に寝てたせいで、中々寝付けなくて」

「そうか、具合の方はどうだ?」

「……そこそこかな」

 まだ続く迷いから、玉虫色の答えを返す。

「先ほど、神無くんから電話がかかってきてな。先ほど大きい音がしたと思うが、あれは駅前のビルが崩落したということらしい」

 駅前の高層ビル。

 波彦も毎日のように目にする、この藤之枝において非常に目立つ建造物。

「恐らく、バーサーカーのマスターの仕業で、バーサーカーとの戦いを打ち切って、神無くんたちは先にそちらを解決しに向かった」

 そんなに簡単に戦いを打ち切らせてくれるのかという疑問が沸き上がる。

 が、わざわざそんな細かいところを突くのもバカバカしいと追求はやめる。

「駅前の件を解決したら、すぐにまたバーサーカーとの戦いに戻るだろう」

「何で俺にそんなことを……」

「これは悪い。ここからが本題なんだ。ともかく、神無くんはその合間に電話をかけて、交戦したバーサーカーの情報を教えてくれた。そして、ワシは情報を元に仮説を立てた」

 波彦にも断片だけ聞こえていた。大きな狼だとか。手も触れずにミラーを捻じ曲げるとか。銀色の毛並みをしているとか。

「バーサーカーを倒すには、必要になるものがある。神無くんたちは、それを持っていない。そして、ワシらはこの家を離れることができない」

 キャスターはベッドサイドテーブルに近づき、そっと小さなハンカチの包みを置く。

「届けてほしいものがあるんだ。もし良かったら、頼まれてはくれないか?」

 それだけ言うと、明かりを消すこともなく、部屋を後にした。

 波彦は先ほどまで悩んでいたことを思い出す。

 戦いの場に向かったからといって、自分に何ができるのかと。

 今は、キャスターに託されたものを送り届けるという、それだけで意味のあることが与えられた。

 きっかけは与えられた。

 後は、波彦自身がどうするか次第。

 例えば、ここでこのまま眠っていたとしても、朝になれば解決しているかもしれない。

 けれど、全滅して、後味が悪いまま、ずっとこの洋館の一室に引きこもって、世界の滅亡が訪れるのを待つことになるかもしれない。

「まったく、毒されているな」

 自分を窘める。

 しかし、その上で決心する。

 いや、決心というよりは、やけだったり、出来心といった感情だったかもしれない。

 感じるままに行動して、それからその時になってから考えればいいやと。

 ベッドから起き上がって伸びをする。

 テーブルに置かれた、キャスターから託された、バーサーカーへの『銀の弾丸』を手にする。

 部屋を出て、玄関口に向かい、靴を履き、外に飛び出す。

 右手の甲が熱く疼いている。

 セイバーに呼ばれている。

 その導きに従って走り出す。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12:繁華街の悪夢

 眠らない街は今、非日常の異界と化していた。

 いつもの、ワイワイとした賑わいはそこにはない。

 存在するのは、恐怖の渦。

 悲鳴。苦痛。怨恨。諦観。疑心。

 負のエネルギーが渦を巻いていた。

 その渦の中心にいたのは、怯えうずくまり嗚咽する少年。

 明らかに、少年を中心に災禍は広がっていて、近づいてはいけないという空気が伝染している。

 通行人だけではなく、車でさえ近づきたくないと動きを止めて、渋滞を作っていた。

 だが、クラクションの一つさえ鳴らない。

 そもそも、後ろの車も先に行きたくないのだから鳴らす意味がない。

 終いには、車をそのまま置き去りにして、逃げ出すものまで現れる。

 人々の反応は大きく分けて三つに分かれる。

 とにかく遠くへと逃げ惑う者。

 どうすればいいかわからず、その場で取り乱す者。

 そして、騒ぎの元凶を確認しようと、少年を遠巻きに見ようとする人の輪。

 喚き逃げ惑う人々が街に溢れる中、その渦の中心部は、現在驚くほどに静かだった。

「うっ……くっ……」

 と、少年が発する声と、ひそひそと人々が話し合う声のみ。

 いつもと変わらない横断歩道の機械音のみが静寂の夜に響き渡る。

 

 

 

「セイバー、あの通りを越えたところ!」

「承知しました」

 神無は、車椅子ごとセイバーに抱えられながら、誘導を行う。

 最初に壊れた高層ビルだけではなく、幾つかの建造物が倒壊していた。

 崩れてはいないが、ガラスが割れて砕けているところも多い。

 街路樹が台風に薙ぎ払われたように倒れている。

 舗装された道路の、そこかしこに穴が開いている。

 中には、その災禍と関係なさそうな破壊の残滓がある。例えば、デパートの宝石売り場のショーケースが破壊され、ご丁寧に商品がなくなっている。火事場泥棒の逞しさに、神無は苦笑する。

 ともかくは、そうして砕け散ったアスファルトの破片が、晩夏の風に乗って辺りに立ち込めていて、空気が粉っぽい。

 職務に熱心な街灯の光も、ぼやけて広がっている。

「まるで、違う街みたい……」

 恐らく、ここにいる人の多くが思っていることで、出来ることなら目覚めてほしい悪夢の光景だった。

「見えました」

 小太りの少年は、街で一番大きな交差点の中心にいた。

 周囲はぐるっと人に取り囲まれているために、セイバーは低めのビルの屋上に立って、それを見下ろす。

「どうするの? 多分、近寄ったら、バーサーカーと同じ、もしかしたらもっと強い攻撃がきそう」

 何しろ、巨大な建造物を簡単に破壊するような力なのだ。

「問題ありません。拙者の眼は、普通は視えないようなものも捕らえる特別性ですので」

 と言うセイバーの両眼が、夜の闇の下、青白く光る。

「まあ、その前に、なるべく気付かれないように努力してみましょう」

 それだけ言い残して、神無を屋上に残し、ビルからすっと飛び降りるセイバー。

 タイミングが悪いことに、今まで地面にうずくまっていた少年が顔を上げ、助けを乞い縋るように目線を泳がす。

 すると、それに対応したように、彼の視線に移ったファッションビルが、苦しみ、のたうち回るように崩れていった。

 変化しない状況に沈黙を保っていた観客たちは、自分達が災禍の中心にいるということを思い出し、悲鳴を上げて逃げだす。

 そんな中、セイバーは、少年の視線の動きとシンクロして、後ろをとるように回避をしながら、あっさりとその傍まで駆け寄った。

 そして、みねうちで少年の意識を落とす。

 壊滅状態になるまで街を騒がせた災害は、波音一つ立てないような静かさとともに終わりを告げた。

 セイバーが気を失った少年を支えて、抱える。

 最初に周囲に広がったのは困惑だった。

 何が起きたのか分からない。

 突如現れた袴姿に刀を持った侍と、今まで災厄をまき散らしていた少年の気を失った姿。

 悪夢の終わり。

 そのことに気づいたものから、歓喜の感情を溢れさせる。

 そして、それが周囲に伝播していき、大きな一つの歓声となった。

 群衆は一体となっていた。

 そんな群衆の一角から、ふと一つの声が上がった。

「そいつが悪者なんだろ?」

 それに食いつくように同調したのが、直接的な被害を被った者たちだった。

「そいつに、私は子供を殺されたのよ!」

「勤務先がなくなって。これからどうやって生きていけばいいんだよ!」

「あのマンション、まだまだローン残ってるのに!」

 どうしようもない事態が起こった時、自分の手の届く範囲に格好の的がある時、それを悪と断定する同調圧力がはたらく。

 同調圧力は、行き過ぎた勧善懲悪を願う方向へと向かい始める。

「なんで、まだそいつは生きてるんだよ」

「これだけ多くの人の命を奪ったくせに」

「どれだけの人が被害を受けたと思ってるんだ」

「頼む、そいつを殺してくれよ」

「そうだ」「そうだ、そうだ」

「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」

 声はどんどん大きくなっていって、群衆全体を包むシュプレヒコールへと発展する。

 やりすぎだと思う人が少数いたとしても、その流れを止めることはかなわない。

 この激流は、確かな成果を生み出さないことには止まらない。

 少年の死をもってしか……。

 

 ――けれど、それを止めたのは、輪の中心にいるセイバーの、ひと睨みであった。

 

 常人には発せぬ剣幕でひと撫でされ、一斉に声を発するのをやめる群衆。

「あなた方は、いったい何を見ていたのか? 今、あなた方が壊そうとしているのは、そこまで邪悪な存在なのでしょうか? ここにいたのは、一人の怯えた童ではなかったのでしょうか?」

 セイバーは問いかける。

 そして、激憤の表情を、和らげて彼がいつも見せているような優しい顔に変えて、群衆に懇願する。

「先ほどまでのあなた方と一緒に怯えていたではありませんか。なのに、一度優位に立ったら、その一人に途端に攻撃的になる。そんな悲しいことはないでしょう。例え、原因が彼にあるとしても、きちんとやり直すチャンスを与えてはいただけないでござるか?」

 人々の反応はそれぞれであった。

 いまだ怒りの感情を持ちながらも、それを一人の少年に向けようとしたことを恥じ入り顔を伏せる。

 セイバーの柔らかな表情にほだされて、少年のことを許すことにする。

 一人の少年のことなどに興味を失い、この惨状を修復するための苦労を想像して、天にため息をつく。

 その反応を見届けたのち、セイバーは少年を抱えたまま跳躍した。

 神無の元に戻ってきて、早々。

「神無殿、申し訳ないが……」

「うん、セイバーは早く戻って。波彦くんが待ってるんでしょ」

 神無に見透かされていることを知って、セイバーは敵わないなと小さく笑む。

「この子のことは、あたしが責任を持って見ておきます。だから早くいってあげて」

「感謝します」

 セイバーは少年を神無に預けると、一礼して、その場を後にする。

 自分と主人との間に確かにある繋がりに導かれるままに。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13:銀の弾丸

 波彦が、ほとんど手掛かりもなく、バーサーカーの元にたどり着いたとき、そこは住宅街ではなく、昨日見た石造りの球技場の形をとっていた。

 それだけで、セイバーがバーサーカーとの交戦を打ち切りにして駅前に向かうことができた理由が分かった。そして、キャスターがその詳細を語らなかったわけも。

「そんな余計な気回さなくても……」

 そして、波彦が到着するとほぼ同時、セイバーが合流する。

「セイバー」

「マスター殿」

 すごく久しぶりにセイバーの顔を見た気がした。

 そのセイバーは、波彦の顔を見て、何やら驚いているようだった。

「よし、時間稼ぎは終了ってとこだな。アーチャー決めろ」

「りょうかい」

「んじゃ、とどめだー」

 今まで、双子のパスワークを持って保持し続けていたゴムボールは、一気にゴールに叩き込まれた。

 彼らは、宝具の効果の中にある競技中の直接攻撃不可のルールを利用して、ボールをこね続けることで時間稼ぎをしていたようだ。

 なんとなく、バーサーカーがフラストレーションを溜めているような気がする。狼だから、表情の違いなんて、さほど分からないけれども。

 いままでのイライラを晴らすためか、バーサーカーがアーチャーに狙いを定める。

 身を縮めて脚力を溜め、アーチャーに襲い掛かる。

「アーチャー、足止めご苦労様でした。ここからは、拙者が代わりを務めます」

 しかし、アーチャーの宝具によって弱体化した攻撃力を、セイバーが容易く受け止める。

「たのんだー」

「せっきんせんはにがてだもんなー」

 そこから、セイバーとバーサーカーの攻防が始まる。

 動きではセイバーが圧倒している。

 バーサーカーの爪と牙の猛攻を何事もないようにさばき、その隙に三度の剣戟を見舞わせる。

 だが、バーサーカーの強靭な肉体が、その全てを弾いて傷を負わせることができない。

「厄介な破壊の能力が失われた。これは、バーサーカーのマスターを無力化したことによる産物だろう。そして、アーチャーの宝具により、身体能力も大幅に削ぎ落した」

 如月が状況の分析を始める。

 わざわざ言葉に出しているのは、波彦に聞かせるためだろう。

「バーサーカーに攻撃能力は、ほぼ残っていない。にも関わらず勝敗は遠いように見える。あいつの真の強さは、攻撃の多くをマスターの力に頼っていたからこその、防御力の高さにあるってわけだ。そして、それこそがバーサーカー自身の宝具による効果であると見た」

 宝具。すなわち、英霊固有の能力由来であるということ。

 そうであるならば、真名を解き明かし、能力の真髄に迫ることこそが、バーサーカーの攻略の鍵になる。

 そして波彦は、キャスターがそれを解き明かし、バーサーカーを倒すためにと託したものを持っている。

「俺がバーサーカーにとっての『銀の弾丸』を持ってきた。確実にあてるためのアイデアもある。だから、協力してくれないか?」

 波彦は如月に対して提案をする。

 正直、まだ如月とアーチャーに対しての恐怖心は拭えていない。

 それでも、恐怖を越える使命感により、精神は麻痺している。

 自分が至らないことを知っている。

 一人では何もできないことを知っている。

 それでも、セイバーのためにできることを必死で考えて、今この場所に立っている。

 ならば、利用できるものの全てを利用して、それをなす。

 それが例え、昨晩に自分の命を狙ってきた相手と協力することであったとしても。

「ほう、それは面白そうだ。聞かせてもらえるか」

 波彦の提案に乗ってくる如月。

 待っていたと、波彦は説明と下準備を始める。

 

 

 

 キャスターから渡された包みの中に入っていたものは二つ。

 バーサーカーの弱点となる一つの武器と、その説明となるキャスターが書き綴ったバーサーカーの正体。

 波彦は、ここに来るまでに、その手紙に目を通していた。

『おそらく、かの狼の真名はリュカーオン王。最古の狼男である』

 

 リュカオーン。

 ギリシャ神話に登場する、アルカディアにて、地上最初の都市国家リュコスーラをつくりあげた最古の王。

 王としての偉大な面もあるが、民に圧政をしいた邪悪で暴虐な暴君としての面が、よく知られている。

 そんな彼が治めるリュコスーラに、ある日ギリシャ神話の主神であるゼウスが訪れる。

 リュカオーンはゼウスに対して、本当に神かどうか試すべく就寝中の暗殺を試みたり、人肉食を食卓に振る舞うなどして、激怒させた。

 その結果、狼の姿に変えられてしまった。

 神話の時代に登場する人類最古の人狼である。

 

『この結論に至ったピースは二つ。

 一つは、二足歩行を行っている狼であること。この点は、単なる狼の英霊ではなく狼男であると知らされているようなものだ。

 もう一つは、近頃広まっている大きな狼が赤ん坊を食べるという都市伝説。リュカオーンには、ゼウスへの供儀のために人間の赤子を用いたという逸話がある。これが宝具発動のキーになっている可能性が高い。

 とはいえ、これは推測の域を出ない話なので、バーサーカーが絶対的にリュカオーンだという確証には至らない』

 

 波彦の持ってきたバーサーカーの弱点をつく武器が、アーチャーに預けられる。

 アーチャーは、バーサーカーとセイバーの攻防の中、それの投擲のタイミングを見計らっている。

 波彦も、アーチャーの動きを固唾を飲んで見守る。

 

『だが、バーサーカーがリュカオーンであろうとなかろうと、それは些事である。重要なのは、狼男だという推測。

 リュカオーンについて残されているのは、狼になるまでの伝承であり、狼になってからの記述は少ない。このため、狼男となってからの能力は、ギリシャ神話成立後に残された、狼男の伝承の逆輸入を受けているのだと思われる。

 いわく、リュカオーンは人類最古の狼男である。ならば、狼男の特性をもってしかるべきだ。そういう認識を持つ霊器へと至った可能性が高い。

 そして、狼男の弱点といえば、かつて制作された映画の影響から銀製の武器だと人々の脳裏に刻み込まれた。だから、ワシがすぐに用意できるもののうち、最も攻撃力がありそうなものを選んでおいた』

 

 アーチャーが『銀のナイフ』を、バーサーカーに向かって投擲する。

 そう。これこそが、キャスターが波彦に託した、バーサーカー打倒のための特効薬。

 あの屋敷にあった銀食器のセットの中から、最も武器として通用しそうな白銀のナイフ。

 ナイフは街灯の明かりを浴び、怪しく煌めきながら、バーサーカーに向けて一直線に襲い掛かる。

 しかし、弱点であることを誰よりも認識して、先ほどからずっとアーチャーの方に意識を向けていた銀狼は、これにいち早く反応してその射線から身を逸らす。

 

「今だ! 曲がれぇええええええええええ!」

 

 バーサーカーが回避行動を取るのは、最初から予想できていたことだった。だから、投擲はアーチャーにしてもらうが、最終的な軌道の調整は波彦が行うということを、事前に打ち合わせておいた。

 軌道の調整に用いるのは、波彦にしかない念動力。

 今出せる最大の集中力をナイフの一本に注ぎ込み、バーサーカーの回避に対して後出しで、ナイフの軌道を曲げる。

 

 ゥオオオ……オォ……。

 

 その結果、見事にその巨体の横っ腹にヒットした。

 今まで、どんな攻撃によっても傷を負うことのなかったバーサーカーの身体に『銀のナイフ』が突き立って、その肉を抉っている。

 アーチャーの宝具の効果を受けたときにも比べて、明らかに弱っているのが見て取れる。

「セイバー、後は任せた」

「任されました、マスター殿。必ずや、バーサーカーを討ち取って見せましょう」

 セイバーは、その約束を果たすために、動きの鈍くなったバーサーカーに対して、自らの宝具を打ち込むために距離を詰める。

 

 セイバー――塚原卜伝は、剣術を極めたがゆえに『剣聖』と呼ばれるまでの伝説となり、座に登録されることになった戦国時代の剣豪である。

 剣術一家に生まれ、その才能を英才教育によって伸ばし、若くして名を上げるために数多の戦場を駆け抜けて、負傷不敗の活躍を果たす。

 しかし、あまりにも多すぎる死に触れたがために、精神を害して廃人寸前にまで追い込まれる。

 その様を見た養父の勧めにより、鹿島神宮にて千日の修行を行った。

 かつて、自らの名を上げるため人を殺すために振るった剣を、平和のため人を活かすために剣を振ることに改める。

 それを成すために編み出した奥義こそ、セイバーの宝具。

 

「鹿島新当流奥義・一之太刀」

 

 フツ、と刃が走る。

 ただ鍛え上げた、その技量のみにより到達した最適解の剣線。

 弱り切ったバーサーカーには、これを回避するための手段も、受け止めるための膂力も残されていない。

 否、受け止めようとしても、一切の無駄なく放たれる斬撃は、その爪すらも纏めて切り伏せていたのであろう。

 結果として残ったのは、真っ二つに切り裂かれたバーサーカーの肉体。

 やがてそれも、あるべき場所に戻るかのように、光の渦に巻かれて消滅していった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14:平法の剣

 二人の不幸な少年の話をしよう。

 彼ら二人には現在、洋館の一室が貸されている。

 一人は、アサシンに襲われていたところを神無とランサーに助けられた少年。名前を、小林圭人という。

 その一件により、両親を失い、身寄りをなくしてしまう。頼るところもなく困っていたので、洋館の客間の中から余っていた一室を使ってもらっている。

 完全なる被害者であって、聖杯戦争には無関係な存在。なので、彼の前では聖杯戦争に関することを話さないというのは、館住民の暗黙の了解となっていた。

 とはいえ、両親をなくしたショックから気を持ち直した今では、食事を一緒に取っていたりする。

「おいしいです!」

 屈託のない無垢な笑顔で食事を褒める。

「良かった」

 作った本人である弥生は、いつもの情動の少ない返事。

「ほんと、弥生ちゃんの料理おいしいよね。プロ級?」

「そこまでは。ずっと一人暮らししてきたから」

「なになにー、照れちゃってるの」

 なんて、神無が弥生をからかおうとしているが、波彦にとっては弥生の表情の変化が分からない。どうやって、見分けているのだろうか。

「本当に、今こうして生きていられて、夢みたいです」

 幸薄そうな顔で、苦労人なセリフをはく圭人少年。その顔を見て、大きな安心感や達成感を覚える。

 というのは、おそらく、彼の中に戦ったことで取り戻した日常や平穏というのを見ているからだろう。波彦以外にとっても同じ効果があるはずだ。

 ずっと張りつめていては、どんなに強靭な糸であっても、いつかはちぎれてしまう。心を休める時間は絶対に必要になる。そういう意味では、圭人が屋敷にいるということは、むしろ波彦たちにとっての救いになっているのかもしれない。

 

 

 

 もう一人の少年の名は犬吠埼睦月。バーサーカーのマスターだった少年である。

 気を失った状態で洋館に連れてこられた。だが、たった今意識を取り戻したという報告を受けて、波彦たちは彼の様子を見舞いに訪れていた。

 その部屋は既に、割れた蛍光灯の破片が散らばった状態にあった。

 昼間ながらに薄暗がりな中で、睦月は絶望的な苦悶の表情を浮かべて、ベッドから腰を浮かせた状態であった。

「睦月殿……」

 おそるおそるといった表情で、セイバーが声をかける。

「なんで、僕の名前を? 誰?」

「すみません。所持品を勝手に見させてもらいました。拙者の名は、セイバーと呼んでください」

「セイバー?」

「はい」

 穏やかな表情で近寄ろうとするセイバーに、睦月の警戒心はほどけない。一歩近づこうとするごとに強まって、ベッドに触れるくらいの距離まで近づいたときに、

「近づくなっ!」

 と強い一言。

 と同時にセイバーが刀を抜き、払ってから、また鞘に戻す。

「その刀……。そうか、僕を止めてくれたのは、セイバーさんなんですね?」

 背後からの一撃で気を失わせたと言っていたけれど、もしかしたらその瞬間に刀身の煌めきを見たか、それとも金属の冷たい感触を打たれた箇所に感じていたのか。

「お願いします。その刀で、僕のことを殺してはくれませんか?」

 波彦よりも若い少年が、本気で懇願する。

 その言葉からは、冗談の気配が微塵も感じられない。

 誰も何も言えないでいる中、睦月が自分の気持ちの吐露を始める。

「自分は生きていてはいけない人間なんです。価値のない人間なんです。

 この眼のせいで、僕はたくさんの人を殺してしまう。

 もう既に、取り返しのつかないくらい多くの人を殺してしまった。

 色んなものも壊してしまった。

 それのせいで、いったい何人の人が辛い目に合っているだろう。そう考えただけで、胸が苦しいのが止まらない。

 きっと、みんなが僕のことを恨んでいる。それが分かるんです。

 あの交差点で気を失って倒れていくとき、もしここから目覚めたとき、この眼が無くなっていれば……って考えてたけど、現実は甘くなかった」

 部屋の蛍光灯を壊して、その現実を知ったのだろう。

 よく見れば、眼の近くを引っ掻いたであろう痕があった。その眼を繰り出してしまおうなんて、考えたのかもしれない。けれど、反射的に自分の身を守ろうとして、結果その周辺を傷つけるだけに至った。

「僕は生きているだけで、何かの拍子に、誰かを壊してしまう。

 そんなのが、この世にいちゃいけないんだ。

 母さんも、この手にかけて、僕が生きているなんておかしい。

 だから、どうか殺してくれませんか?」

 少年は絶望の淵にいた。

 取り返しのつかない罪を犯してしまったことに。

 もはや、この世のどこにも自分の居場所がないということに。

 その若さにして、行き詰った自分の人生に絶望を覚えていた。

 波彦も、同じ立場にあったとすれば、同じ考えに至っていたかもしれない。

 

 ――パシーンと、セイバーが睦月の頬を強く叩いた。

 

 そのことに、睦月も波彦も、セイバー以外のその場にいた全員が驚きの顔を見せていた。

 睦月は、弾かれた頬に手を添えながら、怯えたような表情でセイバーに目をやる。

 激昂の表情がそこにあると思っていたのだろう。

 そこには、優しく微笑みかける年長者の顔があった。

「睦月殿は、多くの人を殺してしまったとおっしゃっていましたね。拙者は、睦月殿なんて比じゃないくらいの人を生前殺めました。それも、自らの意思をもってして、この手で直接」

 その目は遠い場所を見るかのように。

「ずっとそれが正しいと思ってやってきました。けれど、拙者の心にも睦月殿と同じようにガタが来る時がありました。

 それは本当に正しかったのかと考えてしまう。考えてしまうとその沼からは、そう簡単に抜け出すことができない。

 殺した人の命の重みを、今更ながらに痛感して、何度も嘔吐を繰り返す。

 断末魔が頭の中でこだまする。

 人々の怨嗟の声が、夢の中で響く。

 そうなると、もうどうしようもなくなって、死んでしまった方がいいと思って、けれど思いきれなくて、そんな生きながらにして死んでいる時期がありました。

 そのとき、救ってくれた人が同じようにしてくれたのでござるよ」

 腫れた頬をおさえる睦月の手の上に、セイバーが手を重ねる。

「確かに、人を殺めたという罪は、決して消えません。

 けれど、それで自死を選ぶというのは、失われた彼らの命にも不誠実な行いだと拙者は思うのです。

 絶望の淵から救われた後、拙者は心を改めるために剣の修行をし直すことにいたしました。

 ただ、今までのような人を殺めるために振るう兵法の剣ではなく、人々を活かし平和を説くための平法の剣を。

 そして、それを広めるために残りの人生のすべてを使いました」

 きっと、簡単なことではない。

 ともすれば、ここで死んでしまった方が、遥かに楽だろう。

 それでも、セイバーは睦月がそうすることを許さない。

「命を粗末にしてはいけません。やり直しましょう」

「やり直せるのかな?」

「もちろん、拙者だってやり直せたのです。できない道理はありません」

「この眼が暴走した時は……」

「そのときは、拙者が止めましょう。見たでしょう先ほど力を切り裂いたのを。この眼は、その再修行の際に天から授かったのです。きっと、このようなときのために」

「……やり直していいのかな?」

 セイバーは、その問いの答えは決まり切っているとばかりに言葉で返すことはせず、ポンと睦月の頭の上に優しく手を置く。

 睦月の目からは、自然と涙が流れていく。何人もの人の命に手をかけたとは思えない、とても優しい眼をしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15:優等生少女による突発的誘拐

「もしかしなくても、これって誘拐なのでは?」

 気絶した幸の薄そうな少年を背負いながら。

「こんなはずじゃなかったんだけど、どうすればどうすればどうすれば」

 とにかく、足が自動的にその場から離れようとする。とともに、言い訳が効かない状況に陥っていく。

 だが、思考がまともじゃないテンパった状態では、良い方策など思いつくはずもない。

 いったい何が悪くてこうなったのかと、過去を振り返ることにした。

 

 

 

 松原葉月は優等生である。

 文武両道で生徒会長という絵にかいたような優等生。

 そういうポジションを、たゆまぬ努力でキープしている。

 スポーツに関しては部活に入っているわけではなく、専門的にこれは誰にも負けないというものはないが、持ち前の器用さでどの種目でも並み以上。

 勉学に関しては、学年一位どころか、全国模試の成績優秀者リスト常連で、実績を伸ばしたい学校には大いに期待されている。

 そして、生徒会長としても職務を全うしているのだが、いかんせん青春に忙しい他の生徒たちからしてみれば、生徒会がやっていることなんて大して興味がないらしい。そして、どうにもお堅い印象が付けられる。

 例えば、ある日の校門前。通学途中。

「それでねー昨日のドラマ見た? カーくん、かっこよかった!」

「まーた始まったよ。見たけどさ」

「でねーでねーあの階段の場面での流し目がねー」

「うーん、このおじさん趣味。もっと若々しいアイドルとかには興味ないの? ラストラとか?」

 なんて、二人の女子生徒が会話に夢中になっているところ。

「そこの二人! ちゃんと、前を見て歩きなさい! ぶつかりそうになってるわよ」

 と、葉月が注意を促すと、「すみません」と言いながら、二人が小走りで葉月から離れていく。

「あれ誰ー?」

「確か、生徒会長の松島さん?」

「あーめっちゃ頭いいって噂のー」

「なんていうか、ちょっと住む世界が違う人って感じがするよね。思わず逃げちゃったよ」

 こんな風に、近しい友人以外からは避けられがちになっている。

 

「ただいま」

 誰もいない築三十年越えのボロアパートの一室に、いつも通り声をかける。

 母は今日も、夜遅くまで仕事だろう。

 親子二人分の生活費を稼がなければいけないため、今日も今日とてデスクワークに奮闘しているはずだ。

 こういう何でもない日。

 普段通りなら葉月は、スマホで取りとめのない芸能ニュースなんかを確認して、自分が請け負っている掃除洗濯料理といった家事をこなした後、ひたすら勉強に精を出す。

 けれど、今日はその前に片づけなければいけないことがある。

 ポストに投函されていた、そっけない茶封筒。

 切手が貼られていないことから、直接投函されたものだと分かる。

 差出人の顔が見えてこず、少し気味が悪い。

 普段ならば、出前のチラシと一緒にしてゴミ箱に捨てていたかもしれない。

 しかし、そうしなかったのは、デカデカとマジックで書かれていた文字を看過することができなかったから。

 

『ライダーのマスターへ』

 

「おや、これは。わざわざ教えてくれるとは、なんとも親切な手合いではありませんか、マスター」

 霊体化したままの状態で、ライダーが耳元に囁いてくる。

「うるさい。気付けなかったのは、あなたの責任じゃないの?」

「妾は、汝に忠告致したと記憶しているのですが。こんな場所に居を構えていないで、ちゃんとした拠点を作って敵の襲来に備えましょうと」

「うるさい。…………」

「おや、これは手痛いところを突いてしまったでしょうか」

 言い返す言葉が見つからなかったので、黙っていると煽ってくる。

 令呪の一つでも使って、立場を分からせてやろうかと思うが、既に似たような場面で使っているせいで残り二画。無駄打ちはできないと冷静になり、諦める。

 この忌々しい従者を得て、葉月が聖杯戦争に参加することになった経緯は、さらにもう少しだけ時をさかのぼることになる。

 

 

 

 それは突如、葉月に自覚をさせた。

 いつもと同じように、薄暗がりの部屋で一人、黙々と問題集を解いていた時のことであった。

 外から何やら赤い光が部屋の中に入ってきていたが、どうせパトランプか何かだろうと気にも留めず、どことも知らない町の情報について長々と書いている英文を読み進める。

 けれど、それを妨害するように、葉月は超能力に目覚めたこととその使い方について自覚をさせられた。

「夜空の姿を変える力?」

 天より与えられた不思議な力に年甲斐もなくドキドキした。

 だから、すぐに試してみたいと思った。

 カラカラとガラスと網戸を開き、ベランダに健康サンダルを履いて出る。

 自分の頭の中に埋め込められた使い方の通りに、一つの星に注目して、それを引っ張るように夜空の別の点へと移動させるイメージ。

 すると、それに従って、その星は葉月が思い描いた通りの場所で光始めた。元の場所には闇が残る。

 次に、何もない空、闇でできた画用紙の一点に、大きめの光を点描するイメージ。

 すると、何もなかったその場所に、シリウスと見誤るほどの見事な輝きが発生する。

 そんな風にして、十分ほど堪能した後、とある事実に気づく。

「これ、生産性ないな」

 そう、確かに不思議な力ではあるのだが、いかんせん葉月に益があるわけでもない。

 夜風に当たって少し冷えてきた身体が温まるわけでもないし、テストの点数が上がるわけでもないし、お金を稼げるわけでもない。

 いや、もしかしたらテレビの超能力者特集なんかの出演料が貰えるかもしれないが、やらせが疑われた挙句に一生晒し者にされるのがオチだ。

 だから、一通り夜空を弄って飽きるとともに、その超能力のことは忘れて、勉強に戻ることにしようとした。

 だが、空から目を落とし、街の方に目を向けたときに気付いてしまう。

「あそこ、もう工事中断して長いはずなのに……」

 葉月のアパートがある地域は、繁華街となっている駅前からアクセスが悪い。公共交通手段としては、ローカルバスが申し訳程度に通ってくれるだけ。

 葉月は通学のために、毎日自転車で四十分はこぎ続けないといけない。

 そういう辺鄙なところである。

 藤之枝の本格的な開発が進められていく段階で、皮算用でアパートの立ち並ぶ旧住宅地の近くにマンションを建てる計画があった。恐らく、周辺住民の多くが誰が好んであんなところにという思いがあったのだが、案の定骨組みだけを組んだあたりで頓挫した。

 その結果として残ったのが、灰色のシートを被ったまま残された建設凍結のビル。馬鹿な計画から解放された建設作業員は今、駅前周辺のさらなる施設建設などに投入されている。

 わざわざ金にもならないビル解体に力を入れる余裕はないのだ。

「青い光……?」

 不思議な燐光が、灰色のシートの内側から漏れているのが見えた。

 度々、バイクに乗った集団が、その敷地でたむろしているというのを噂で聞いている。だから、その光もきっと、その手の手合いなのだろうなと理性的に考える。

 けれど、その日の葉月は何を思ったのか、直接に確認しに行きたいという気持ちになった。あの光は、そんな俗的なものではなく、もっと神秘的なという予感。まるで、何者かに導かれるような感覚。

 そうはいっても理性的な部分が完全に消えるわけではない。

「ちょっと近くにいって、確認しに行くだけ」

 そう自分に言い聞かせて、葉月は上着を羽織って外に出た。

 そして、目的地にたどり着くまでには、自転車で十五分かかった。

 一つ前の通りに止めて、こそこそと隠れつつ様子を見る。

 跡地といっても工場現場、敷地との境にはバリケードが敷かれていて、外からでは中の様子は見えない。

 ただ、人の気配はないように感じる。

 エンジン音一つないというのは、バイク乗り集団の線は低い。と思いつつも、建設現場跡地に踏み入れた途端に一斉にふかしてくるのではないかという無駄な疑心暗鬼に挙動は慎重になる。

 バリケードの中に入るのはさほど難しいことではなかった。

 というのも、先駆者の方々により、ご丁寧に一か所に穴が開けられているからである。

「不用心だ。いや、塞いでもイタチごっこか」

 その現状を冷静に分析しながら、外からは何度か見ている敷地内部に初めてお邪魔する。

 見えるところに人の姿はなく、ひとまずの安堵をする。

 その後に、家から見た青白い光の発生源を探そうとするが、まるで元から光ってなんていないですよと言わんばかりに、シートの外からでは何も発見することができない。

 仕方がないので、シートをめくりあげて中に立ち入ることにした。

 この段階になって、葉月の心臓は最高潮に激しいリズムとなっている。

 それでも、心の底から沸いてくる予感を信じて、探索をやめない。

「もしかして、これから?」

 魔法陣。

 ファンタジーの世界に登場するような円形に複雑怪奇な文様を加えたものが、のっぺりとした塗料で地面にでかでかと描かれていた。

 誰かの落書き?

 普通に考えたらそうなのだろう。けれど、夜の雰囲気もあいまって、それはある種の神秘性をたたえていた。

 触れてしまえば取り返しがつかないことになりそうな……。

 だがそれは、逆説的には禁断の果実めいた、手を伸ばさずにはいられない魅力がある。

 葉月の手は震えながらも、そっとそっと、禁忌をおかさずにはいられないとばかりにゆっくりと、魔法陣に指先だけを触れさせた。

 途端、シートに覆われた闇の中にありながら、昼かと見間違わんばかりの光が溢れだす。

 やはり、こんなところに来なければよかった。

 と後悔の言葉を、頭の中で十回は繰り返したところで、光が収まる。

 そして、それと置き換わるように、煌びやかな着物に身を包んだ妖艶で雅な絶世の美女の姿がそこにはあった。

「あら、ずいぶんと可愛らしいマスター様でいらっしゃいますこと」

 それが、葉月の呼び出したサーヴァント。ライダーの第一声だった。

 その後、ライダーに聖杯戦争のことについて教えられる。

 七人のマスターが、サーヴァント同士を戦わせるサバイバルゲームであること。勝利者の報酬は、願いを叶えることができる権利であること。

 最初は戸惑っていた葉月であったが、話をかみ砕いた結果、積極的に参加して勝利を目指すことにした。

 願いである、葉月と母親を捨てた父親への復讐を叶えるために。

 

 

 

 果たして、匿名の封筒の中に入っていたのは一枚の手紙と、何枚かの写真、一枚の地図。写真には、それぞれ一人ずつ人の姿が写っている。

 なんの写真だろうと思いつつ、手紙の方に目を通す。

『私はこの聖杯戦争に参加しているマスターの一人である。

 意気揚々と参加したが、全く戦闘にならずに退屈しているであろうライダーのマスターに一つの情報を提供しようと思う。

 疑われても嫌なので、先にこちらの狙いについて話しておくなら、停滞している状況の打破である。互いが互いの場所を発見できないか、手を出せない状況にある中で、とある陣営の居場所の情報を伝えることによる状況の打破を期待している。

 提供するのは、セイバーとキャスターの同盟のいる洋館の所在。

 キャスターのマスターの持つ認識阻害の力によって隠されているその場所について。そして、その洋館の住人たちの情報』

 それ以降には、まず地図に付けられたマークの位置にある雰囲気のある洋館を拠点としていること。

 写真一枚一枚について、写っている人物についての解説文が添えられている。

 そして最後に、こんな一文。

「『この情報を生かすかどうかは君次第』……。ねえ、どう思う?」

「間違いなく罠でございましょう。妾と彼らとの相打ちを狙ってのことか、それとも疲労したところの漁夫の利を狙ってのことか」

「普通に考えてそうだよね。こんなバレバレの」

「して、汝はどうなさるおつもりでしょうか?」

「下見くらいはしておこうかなって」

 当然、すぐに何かを起こす気はない。

 そんなことをすれば、この手紙の送り主の思うつぼだ。

 かといって、手紙に書いてあった情報が本当ならば、それは非常に有益な情報なことも確かだ。

 葉月のサーヴァントであるライダーの性質上、十全に戦えるときのタイムリミットは迫っており、そう悠長に構えてはいられない状況。

 まさに渡りに船というものだ。

 だから、それを見越して明日の昼間に様子見に行くことに決めた。

 

 

 

 そして、翌日。

 葉月は霊体化させたライダーを連れて、例の地図の場所まで訪れていた。

「本当に何もない。……見えないせいで、騙された気分」

 電柱の陰に隠れて様子を伺おうとしたのだが、そんなのがバカバカしくなるくらいに、認識阻害とやらのせいで何も発見することができない。

「なんかこう、不思議力感知的なやつで分からないの、ライダー?」

「それは少し難しいことでありましょう。どうやら、漏れ出す魔力の感知も阻害されているようですから」

 適当に言ったけど、あったのか不思議力感知。

 と内心驚くも、まともに使えないのでは事態が進展することもない。

 こそこそするのは性に合わないのか、そわそわする心を鎮めるために、手持無沙汰に同封されていた写真に目を落とし、覚えなおしをはかる。

 入っていた人物写真は五枚。

 キャスターとそのマスターの写真はないが、その他のものの会話から存在が確認されているとのこと。

 それを除いて、手紙の送り主が確認できている限りの洋館の住人は、セイバーとそのマスター、脱落したサーヴァントであるランサーのマスターとバーサーカーのマスター。

 そして、無関係のはずなのに匿われているという……。

「ねえ、お姉さん。ここで何してるの? ん、この写真はボク?」

「アサシンに襲われているところを助けられた少年!?」

 手元の写真に集中していたところを、突如後ろから声をかけられ、思わず跳ね上がる。

 どうすべきかと頭を高速で回転させ始めると同時に、その事実に気付く。

「ていうか、ライダー。なんで、教えてくれなかったの?」

 後ろから迫ってきているときに、幾らでも教える機会はあったはずだ。

 それへの返答とばかりに、霊体化を解除して、たおやかな身のこなしで少年の首筋に手刀を叩き込み気絶させるライダー。

「集中していたところを、邪魔するのも悪いかと思うたゆえ」

「嘘だ! 悪い顔してるもの。こうなることを面白がって、したのね?」

 葉月の心からの問いかけには答えず、代わりに抱えている少年の身体を面倒そうに差し出してくる。どうやら、葉月が持てということらしい。

 受け取らなかったら、何のためらいもなく地面に落としていたことは予想がついた。なので、渋々ながら、背負うことにした。

「さて、人質獲得でございますね。それでは居に戻るといたしましょう」

 ごく自然に霊体化して、葉月に逃走を促すライダー。

「えっ、ちょっと……」

 急展開する事態についていけず、とりあえずは指示に従うように、その場からの逃避に足を向ける葉月。

 こうして、流されるように誘拐の片棒を担がされることになってしまったのである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16:人質交渉

 圭人が攫われたことには、すぐさまに発覚することになる。

 というのも、神無が千里眼を使って、居間でくつろぎながらも、外にいる彼のことを見守っていたからである。

 しかし、神無もあまりにも突然のことに、事態を正しく認識できない。鳩が豆鉄砲を食ったように。

「あれ、圭人くんが誘拐された?」

「はぁ? …………はあ?」

 たまたま近くにいた波彦がそのつぶやきを聞き、最初は何を言ってるんだと思っていた。

 しかし、頭が言葉の意味を正しく認識し、圭人が外出していることと、神無の千里眼のことを複合すると、今度はあまりの急展開に驚きの声を上げる。

 そもそもなぜ圭人が、外出しているのか。

 その答えは物資の補給という名のおつかいのためである。

 そして、お世話になっているからせめてものという善意からの志願を、彼が行ったからである。

 他のマスターたちの動向を見るという名目で、外部と遮断された屋敷に絶賛引きこもり中である波彦たちであるが、昨日の時点である一つの問題が表出した。

 つまり、食べるものがもう残されていないという問題。

 当たり前といえば当たり前である。

 例えこの館が外から見えていなかろうが、中では普通に暮らしているわけで。そうなれば、人数分の食事も必要となってくる。

 館の住人は、ここ数日で一気に増えることになった。

 となれば、食糧の消費もそれに伴って増えるということで、備蓄がいつの間にかなくなってしまっていた。

 本格的な食糧の買い込み時は、圭人一人では持てない量になるだろうから、波彦とセイバーが行くことになっている。

 けれど、取り急ぎ必要な一食分と切れかかった日用品のおつかいを、圭人が買って出たのである。

 そして、十数分前に送り出して今に至る。

「見るたびに幸が薄い子だとは思っていたけど、ここまでとは……」

「いや、そんなしみじみとしている場合じゃないだろ。早くどうにかしないと」

 えっと、こういう場合はやはり一一〇に電話をかけるべきなのだろうか。

 と考えて、スマホをポケットから取り出そうとしているところ。

「待って待って。少し冷静になって。これは聖杯戦争案件なんだよ」

「というと……」

「着物の女性が急に現れて、圭人くんに手刀かましてまた消えてた。消去法からして、彼女がライダーであって、攫ったのはライダーのマスターなんだと思う」

 それはつまり、ここ数日、創作は続けていたが巡り合えなかった他の参加者の出現である。そして、先手を打たれたということでもある。

「なら猶更、急いでセイバー達に知らせないと」

「あーうん、そうなんだけどさ」

「けどさ……?」

「そんなに急がなくてもいいと思うんだよね」

「何を悠長に」

「じゃあ聞くけどさ、圭人くんを攫ったのがあたしたちと同年代の女の子で、彼を背負っている状態だとしたら?」

「休日の昼下がりを行く姉弟?」

「みたいなボケた回答ではなくて、そんな状態じゃスピードは出ないでしょ? っていう話」

 わざわざこんな話を持ち出してきたということは、そういう状況にあるということ。現在進行形で視界の一部に収めている神無の言である。彼女が嘘を吐く理由も特にない。

「ライダーのマスターなら、こう。ライダーの出した乗り物とかで颯爽と去っていく感じじゃないの?」

「さあ? マスターの方が、ライダーに気を失った圭人くんを、面倒くさそうに差し出されていたし」

「何それは?」

「いや、あたしに聞かれても」

 

 聞けば聞くほど冗談みたいな話だったけれども、真実であることは間違いないようだった。

 神無は、居間に集められたセイバー、キャスター、弥生に、先ほどと同じ話をする。

「神無くんの話を聞いたところ、留意しておかなければいけないことが二つほどある」

 一通りの話と、幾つかの質問を終えた後に、キャスターが話を始める。

「一つは、この場所がかなり的確に明らかになっていることだ」

「確かに、そうじゃないと、塀に隠れてこそこそと、こっちを確認してくるっていうのはおかしいもんね」

「……見えていないはずなのに」

「うん、確かに見えてない感じだったよ。地図と見比べて、あるのは分かっているけど、どうすればいいか分からない感じ?」

「完全にバレたわけじゃないってことなのかな」

「だとしても、一般人の被害が出ることも恐れなければ、辺り一帯目掛けて対軍宝具を放たれることも考えられます。以前ほど、ここが絶対に安全だという考えは危険かと」

 銘々が話を広げていったところに、「こほん」とキャスターが咳ばらいをして止める。

「そして、二つ目、相手は圭人くんに、人質的価値があると分かっていたということだ」

「それはどうなんだろう。なんか、ビックリして咄嗟にって感じだったよ」

「だとしても、ワシらとの関係があることには気付いていたのだろう。でなければ、そうなるまで驚くことはないと思われるのだが……」

「うん、確かに。というか、写真持ってたしね。キャスターさんと弥生ちゃんのはなかったみたいだけど」

「わたしたちは、ずっと家の中に隠れてたから……」

「つまりは、ライダーのマスターが自身で調べたものではなく、別の誰かからもたらされた情報だということなのでしょう」

「とすると、その誰かは他の陣営。アーチャーかアサシンのマスターからだと考えるのが自然だろう」

 名前が出てきて、波彦の頭の中で、如月の姿がチラつく。彼のことを考えるたびに、苦々しい気分を思い出す。

 それがどうも顔に現れていてしまったらしく、神無から指摘が飛ぶ。

「波彦くん、残念だけど如月さんじゃないと思うよ」

「理由は?」

「圭人くんの写真を持っているから。あたしたちがアサシンの元から逃がしてあげてから、ここに匿ってあげるまでに写真を撮ってなきゃいけないわけで。しかも、ちょっとだけしか見てないから確実なことは言えないけど、写真の隅にあの日見たアサシンの姿が写っているのが見えた気がする」

「じゃあ、アサシンのマスターが、ライダーのマスターにリークしたってことか……」

 良かったような、残念なような。

 微妙な気持ちを抱えながらも、今回の件には如月は関わっていないと断定をする。

「さて、ここからが本題だ。すなわち、圭人くんを助けに行くか否か」

 キャスターがその一言を放った後、一人一人に視線を向けていく。波彦から始まり、最終的に傍らの弥生の元まで。

「向こうは圭人くんに人質の価値があると見ている。だが、どうだろう? 彼はマスターでもサーヴァントでもない巻き込まれただけの一般人。ワシらにとっては戦力的な価値は正直言って無い。

 こちらが何も動かなければ、向こうは圭人くんに人質的な価値がないことに気付くだろう。そうなれば、手元に置いておくだけ邪魔になる。そこまで至った際の択は、解放するか、処分するかの二択。

 相手が過激的ならば、バーサーカーが行っていたように、現在進行形でアサシンが行っているだろうように、処分することだろう。しかし、そうでなければ、何事もなかったかのように解放するだろう。

 神無くんに聞いた限りでは、ライダーのマスターは後者の手合いである可能性が高いと思われる。躍起になって取り返しにいけば、かえって争いに巻き込んでしまう危険性もある。放置は分の悪い賭けではないと思う。

 それを踏まえて、どう動くかを決めなければ」

 波彦は、キャスターの話が全く正しいことのように思えた。

 迂闊に手を出すことによって、圭人に危険が及ぶことを考えたなら、静観するのは素晴らしいアイデアのように思えた。

 思わず賛同の声を上げようとしたところ、それを遮ったのは思いもよらぬ人物だった。

 

「それじゃダメ! わたしのせい。……だから、助けなきゃいけない」

 

 今までに見たことのない、いつもより強めの語気で、弥生が訴えかける。

「そうか……」

 自らのマスターに反発されたキャスターの声は、こうなることが分かっていたかのように諦めの感情が満ちていた。

「拙者も弥生殿に賛成でござる。例え何もしないことが正解だとしても、助けを求めているかもしれないのに、見捨てるような行為はしたくありません」

「まあ、黙って見てるだけなんて性に合わないよね。向こうは、ちょくちょく休憩入れてるし、まだまだ追いつけるよ」

 次々と弥生に賛成者が増えていく。

 波彦は、消極的な方向に流れようとしていた自分が恥ずかしくなる。

「キャスターの考えが外れて、もしものことがあったら、自責の念にさいなまれそうだもんな。それじゃあ、俺とセイバーがひとっ走り行ってくるよ。神無さん、電話でナビゲート頼める?」

「もちろん!」

 それだけ言って、館を出ようとする波彦に、

 

「待って」

 

 と、意を決した声がかけられる。

「わたしも行きます。彼が連れていかれたのは、わたしがおつかいを頼んだから」

 先ほどと同様に、普段(といっても、数日間しか見ていないが)の弥生とは異なる強い意志を感じる言葉。

 確かに、最初にモノが足りないと話題に出したのは彼女であった。

 けれども、食糧問題は館の住人全員の問題である。

 おつかいを買って出たのは、圭人だった。

 それを承認したのは、あの場にいた全員である。

 弥生一人が責任を感じることではないだろう。

「別に弥生殿が悪いということではないと思われますよ」

「……それでも」

 セイバーが諭しても、弥生は切羽詰まった様子を変えない。

「そもそも、弥生ちゃんがここを出ると、館にかかっている認識阻害ってどうなるの?」

 ふと疑問におもった神無が、キャスターに投げかける。

「残念ながら、ワシはこの屋敷に認識阻害をかけなおすことができない」

 すなわち、洋館がセーフティハウスとなっている状態が解けるのと同義。

 アサシンのマスターなどには、ここの場所が割れているようだが、あるのとないのでは気持ちの面で大きな違いがある。

 周囲の目を確認すると、波彦と同じことを考えているのではないかと思えた。すなわち、不安。

 追うのは波彦とセイバーの二人だけで十分だから、弥生は残っておくべきだという常識的な判断。

 どういう言葉であれ、すぐにその場の誰かから、そういう提案の言が出るものだと思えた。

 けれど、それは裏切られる。他でもない最も弥生が行くことに反対すると思っていた人物であるキャスターの口から。

「申し訳ないが、弥生くんを同行させてもらえないだろうか、波彦くん」

「えっ?」

 恐らく波彦は、よっぽど間抜けな顔をしていただろう。

 そしてもう一人、普段は表情の変化を感じさせない弥生。彼女が目に見て分けるほどに驚いた顔を見せていた。

「ワシはここを離れることができないから、弥生くんだけ。圭人くんの救出隊に加えてやってほしい」

「どうしますか、マスター殿?」

 セイバーのその一言で、最終的な決定権が波彦に委ねられる。

 正直やめてほしい。

 波彦の頭は混乱のさなかにある。

 キャスターが、わざわざ波彦に頼み込んできたということは、何か相応のメリットがあるということなのだろう。自分の頭では理解できることではないとしても。

 全員の注目が集まる。

 答えを待つ沈黙。

 波彦は耐え切れなくなって結論を出した。

「よし分かった。行こう前園さん。一緒に圭人を取り返しに」

 こうして、奇妙な組み合わせでの救出作戦が始まる。

 

 

 

 さて、外に出て真っ先に気になったのが周囲の視線である。

 袴姿の侍。シックなメイド服の少女。

 大衆的で安価な大量生産品に身を包む波彦と合わせて、とにかく目立つ。

 比較的静かな住宅街なので、そこまで往来はないのだが、すれ違う人々、追い抜いた人々から奇異の視線を向けられているのをひしひしと感じる。

 このことについて、「恥ずかしい」と電話越しの神無に話してみたところ、『それくらい我慢しなよ』と面白がっている声で返ってきた。

 助かったとすれば、神無のナビゲート先、すなわちライダーのマスターの逃走方向が、街の方向とは真逆であったこと。

 追いかければ、追いかけるほどにすれ違う人の数が減っていく。

『そのまま真っすぐ。もうすぐ見えてくるよ』

 神無の言う通り、道路の真ん中にぽつんと、重い足取りの影が見えた。

「やっと、追いついた……」

 ここまでずっと走りっぱなし、運動不足の身体にはかなり堪えた。息が上がっている。

 勇んできたとはいえ、波彦以上に運動不足で、かつ走りにくい格好をしている弥生は、胸に手を当て「はぁ、はぁ」と苦しそうに息をはいている。

「ぜーはーぜーはー、貴方たちは写真の。……ぜー、追いついて、はー、来たのね?」

 そんな波彦以上に、疲労困憊状態の少女の姿がそこにはあった。

「はー。…………ふぅ。……一人知らない顔があるけど、キャスターのマスターと見たわ。キャスターの方は霊体化しているのかしら?」

 なんというか、どうにか自分のペースで話を進めたい手合いらしい。

 けれど、さきほどのぜーはーを見てしまっていては、威厳を何も感じることができない。偉そうにしているのが、ギャグの類にしか思えない。

「マスター様、別のサーヴァントの気配はありません。どうやら、彼女は身一つでやってきたようでございます」

 突如として、少女の後ろから姿を表した着物姿の美女。

「え、そうなの? じゃあ、数的不利はないわね」

「ふふ、そうでございますね」

 その姿は、綺羅やかで雅。

 幾重にも纏った着物が、華やかなグラデーションを生み出している。

 白磁のような肌と、漆塗りの腰ほどまで伸びた黒髪のコントラストが目を引く。

 そして、その顔にはめられた一対の金色の眼には、視るものを吸い込むような神秘が感じとれ……。

 

「マスター殿、危ない!」

 

 セイバーが咄嗟に空を斬り払う。

 唐突なそれによって、ライダーの方へと向けられていた注意が逸れた。

「いきなり仕掛けてくるとは、なかなか血気盛んではありませんか。マスター殿、弥生殿、ライダーの眼を見ないように気を付けてください」

「う、うん?」

 戦闘時特有の険を持ったセイバーの言葉に、よくは分からないが従う。

 頭半分ほど俯いて、ライダーたちの首より下の部分しか視界に映らないように気を付ける。

『波彦くん。なんか、目がやらしー感じがする』

「仕方ないだろ!」

 ポケットから聞こえてくる声に反射的に返す。喋ってないと落ち着かないのかというくらいに、その後も色々言ってきていたが無視することにする。

「心外でございます。別に仕掛けたつもりなどありません。ただ、妾の眼は自動的なのです」

「魅了の魔眼というものですか」

「ええ、まあ。これでも昔は、そこそこに苦労させられました」

 苦労などどこ吹く風という、穏やかながら絶対的な自信を感じさせる声。

「では、改めて、圭人殿を返していただきましょうか」

 セイバーが刀を鞘から抜き構える。

 けれど、ライダーは戦闘態勢に入ったような雰囲気はなく、それまでと同じ世間話でもしているような自然体。

「あら、この童子のことですか? まさか、本当に捕虜としての価値があったのでございますね」

「それはどういう?」

「いえ、彼は無関係の民でありましょう。とてもお人好しだと感じ入ったのです。妾としては、適度に尻尾を振っていれば、そちらから接触してきてくださるかと思っていただけですので」

 このライダーの言に対しては、その隣で肩で息をしている人が一言あるらしく、「えーちょっと、どういうことなの」と不満をあらわにしている。

「ふふ、いい運動になったではありませんか、マスター様。それはさておき、そろそろ遊び始めましょうか?」

 袖をふっと振り、挑発するライダー。

 それに意を見せぬと、振り終わる前に静かに一歩踏み込み、斬りかかるセイバー。

 しかし、すでにそこにライダー達の姿はなく、空を斬っていた。

 そうライダーだけではなく、マスターの少女と、彼女に背負われたままの圭人の姿もいなくなっていた。

 どこに行ったのかと、キョロキョロと左右を確認していたところ。

 カシャーンと、ガラス玉が弾けるような音が、背後から響く。

 慌てて向き直ると、豪奢な着物姿。

 その足元でスパンコールのように煌めく、この世に非ざる乳白色の破片。

 そして、その手には白金に輝く木の枝と、そこにぶら下がった二つの大玉の真珠。生命的でない色を持ちながら、大いなる自然の力を思わせる矛盾を抱えた一品。

「あーこら、もう残り少ないのに無駄に使って」

 緊張の中、真っ先に声を上げたのは敵方の少女の貧乏性な一言だった。

「でも、あのままだと斬られてしまっていたので、有用な使い方だったと進言させていただきますわ」

「うっ、そりゃあ、家から学校まで歩くのが面倒だって使ったのに比べれば、そうだと思うけど……」

 そんな場の空気を和らげるやり取りが繰り広げる中、波彦の隣で思案していた弥生が気付く。

「……かぐや姫」

 それが、この着物のライダーの真名だった。

「あっ」

「あら、バレてしまいましたか」

 マスターはやらかしたと、サーヴァントはいたずらが露見した程度の余裕さで。

「そうか。あれは『蓬莱の玉の枝』」

 波彦の言葉に、小さくこくんと頷く弥生。

「蓬莱山。仙人の住まう山の枝は、その実を犠牲に持ち主に仙人の力を与えるといったところでしょうか。それが、あの次元跳躍にも似た移動の正体」

 その答えは、誤魔化す言葉すらない少女の様子と、よくできましたとばかりに柔らかな雰囲気を放つ美女の態度に表れる。

 かぐや姫。

 日本最古の物語に登場する月人の姫。

 竹取りに行っていた爺に、切った竹の節より見つけられ、数年の後に天下に轟くほど、絶世の美女に成長する。

 美貌に狂わされた数多の位の高い男たちから求婚され、それに対して入手困難な品の献上を条件にあげて断った。先ほど使われた『蓬莱の玉の枝』は、そのうちの一つ。

 最終的には、満月の夜に故郷の月へと連れ帰られて物語は終わる。

 サーヴァントの能力に重要な、非常に高い神秘性と知名度を兼ね備えている。

「では、もう少し遊ばせていただきましょうか。捕虜を上手く使ってなぶるというのも一興やもしれませんね」

 そう言って、ライダーの手には新たに石製の椀が現れる。

 セイバーが、何事が起きても対処できるようにと構えなおす。

 

「待って!」

 

 その張りつめた空気を裂いたのは、メイド服の少女。

「キャスターのマスター……で、合っていますでしょうか?」

 ライダーからの質問に、その小さな喉がこくりと鳴る。

「合ってる」

「して、一体何用なのでしょうか?」

 それは、これから何を見せてくれるのかと面白がる声。

「わたしが人質になる。だから、彼を解放して」

 波彦の目には、弥生の身体がときどき震えているように見える。

「弥生殿、それはいけません!」

「セイバー。せっかく力無き少女が勇気をふり絞って意見を表明したのです。それを尊重してこそ、妾ら英霊とは思いませんか?」

「あなたのその態度は、傲慢なだけのもの。キャスター、あなたも己が主を止めるよう説得してください!」

 セイバーの声は、波彦のポケットの携帯で繋がるキャスターの元へも向けられる。

『ワシとしては……それが弥生くんが決めたなら、その方針に逆らう余地はない』

「キャスター、あなたは……」

 もはや自分の信念に基づいて行動するのみと、ライダーに刃を向けなおすセイバー。

 ライダーは、それを抑止するように、圭人の方に石椀を持っていない方の手を向ける。この場の流れを止めることを許さないという意思表示。

 そうされてしまうと、セイバーの構えも弱くなる。

「えっと、つまりどういうこと?」

「マスター様、捕虜の質を向上させる好機です。この機を逃す故はありません」

「チャンスってことね。ライダー、よろしく」

「はい、任せてくださいませ」

 その流れを止めるものはいない。

 否、止めるはずの者には、枷がかけられて身動きが取れないでいる。

 両雄睨み合ったまま、弥生だけが一歩ずつライダーの元へ歩を進める。

『弥生ちゃん……』

 電話越しに珍しく弱気な神無の声が聞こえる。

「絶対に取り戻しに行こう」

 波彦は決心を小さく口にする。

「彼を放して」

 弥生はもはや逃げ出す気はないと、魔眼対策に伏せていた顔を上げ、ライダーと顔を突き合わせる。

「約束は守りましょう。さあ、マスター様、少年を解放してあげてください」

 その決意を面白いとばかりに、誠意を見せるライダー。

「えっと、気を失ってるんだけど、地面に置いていいのよね? ……ごめんなさい」

 従者に言われるがままに従い、圭人の身体をゆっくりとアスファルトに寝かせるライダーのマスター。

「…………」

 無言で、刀を構え続けるセイバー。

「さて、マスター様。もう少し、近くに寄ってください。では皆様、此度はこれにて、ごきげんよう」

 ライダーは再び、『蓬莱の玉の枝』を取り出して、それを振るう。

 次の瞬間には、その場からライダー、そのマスター、そして弥生の姿がかき消えていた。

 残された圭人をセイバーは無言で担ぎあげ、帰路につく。

 波彦も何も言わずに、その背を追いかける。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17:寂しがりや少女の人間不信

 次元跳躍による一瞬の浮遊感を超えると、葉月の周囲の光景が一変する。

 ただっぴろい和室。

 例えば、時代劇に登場する武家屋敷のような、もしくは平安貴族の屋敷のような。

 今までにも、何度か来ているがその度にスケールの大きさに驚かされる。

 板張りの床の上に畳が敷かれ、その周囲を天蓋が覆う。

 畳の上には座布団のようなものが一枚。

 天蓋の後ろには、煌びやかな屏風が置かれている。

 葉月のアパートの部屋が丸々八つは入りそうな広々とした部屋の中に、それしか置かれていない。

 けれど、そんなスペースの有効活用を提唱したくなるような状態からはむしろ、淋しさよりも強い風格を感じる。

 というのは、ここ以外にも多くの部屋があり、そこには多くの煌びやかな装飾品が所狭しと飾られているのを知っているからだろうか。

 ここは、葉月がライダーの召喚を行った建設途中放置ビル。だった場所。

 いつの間にか、どこから得たのかわからない資源を投じて、彼女は好き放題にリフォームを行った。

 その結果、現代に純和風な屋敷が突如として組まれることになった。

 ただ唯一、こんな非常識の中に救いがあるとするならば、ライダーなりの良識が働いたのか、残されていた無骨な灰色のシートは残されたままになっているということだけ。

 そのおかげで、周辺住民には、まだバレておらず噂になっていない。はずである。

「マスター様、キャスターのマスターを連れて、こちらに付いてきてくださいませ」

 どうやら最終的な目的地は違ったようで、ライダーが部屋を出ようとする。

「了解、ライダー。あなた、聞いてた?」

「はい」

 メイド服の少女が小さく頷く。

 和の色が強いこの場には、彼女の姿は異物であるかのように映る。

「そ。じゃあ、付いてきて」

 逃げられないように、不意を突かれないように注意しながら、少女を伴ってライダーに付いていく。

 の前に、ここ数日の間に何度かそうしているように、ポケットから不思議な色合いの液体が入った硝子瓶を取り出す。

 ライダーから渡されたものだ。

 蓋をすぽりと抜きとり、瓶の口に付いていた一滴を舐めとり、再び蓋をする。

 今一度、その何とも言えない色を確認するように目を落とし、手に握り込み、ポケットに戻し入れる。

 

 そこそこに長い道案内の末に辿り着いたのは、ある目的で作られた部屋だった。

 途中、幾つかの大きな部屋を通り抜け、下り階段を挟んだのもあって、改めてこの建造物の大きさを認識させられた。

 ここまでの道程にあったのは、明らかに廊下用の部屋と様々な価値あるものが置かれた部屋。廊下用の部屋にだって、幾つかの目を引く屏風が飾られたりしていた。

 それに対して、その部屋にはそのような装飾品は何もなかった。

 あえて、そう造られたかのように。

 否、それにある意味の芸術性を見いだせるなら一つだけ。

 木製の檻。

 格子状に木の柱が組まれて形作られた壁。

 その端に錠することができる扉が備え付けられている。

 そう、ここは座敷牢と呼ばれるような施設であった。

「マスター様、どうぞ」

 ライダーは、自分の役目はここまでとばかりに、もう興味無さげにしている。

「ほら、入って」

「はい」

 人を閉じ込めるという行為に対して、少なからずの躊躇いを覚えながらも、扉を開けて少女を誘導する。

 人質の少女は、一切の抵抗をする気がないとばかりに躊躇なく中に入っていく。

 暴れられたらどう対処しようかという葉月の考えは杞憂に終わる。

 拍子抜けするくらい楽なものだった。

 と同時に、一切の表情を崩さない彼女の姿に、心を揺さぶられ続けている葉月は当てつけされたような、あるいは上から見下されているかのような思いを覚える。

 被害妄想。重々承知している。

 けれど、心と連結したところにある身体は、理性で制御できないことがある。

 

 葉月は、少女の無防備な背中に、強く蹴りを入れた。

 その結果、少女は無様に顔から床にダイブする形になった。

 

 自分のしたことに驚愕する。

 バツが悪くなって、さっさと扉を閉じて錠をかけた。

「あら、マスター様。尋問などはされないのでしょうか?」

「一辺、家に帰る」

 これは別に逃げているわけではない。

 元から、様子見から戻ってきたら、葉月はアパートに戻るつもりだったのだ。

 本来の構想とは大きくかけ離れた状況になってしまったとはいえ、次の予定は変更するわけにはいかない。

 本日は休日。

 世間はもちろん、葉月の母にとっても。とても貴重な休日。

 ただし、日が落ちたら夜勤のために出ていく。これを本当に休日と呼ぶのかは怪しい気もする。

 それでも、稀にしかない母と一緒にいられる時間であり、すでに過ぎ去った葉月の誕生日に一番近い特別な休日である。

 だからこそ、今日はいつもよりちょっとだけ豪華な料理を用意して、母を労うつもりなのだ。

 途中でスーパーに寄らなければいけない。

 チラシに書いていた特売品は頭の中にすっかり刻まれている。

 すべて成し遂げて、料理をふるまい、母の喜ぶ顔を想像する。

 それだけで、葉月は大きな幸福を感じることができる。

「何、どうかした?」

 視線を感じた。

 木の檻の向こう側から。

 少女は壁に背を付けて座っていた。

 感情がないような瞳で、こちらのことを見つめていた。

「……特に何もありません」

 もしかしたら、ちょっと顔が緩んでいたかもしれない。

 それに対する気恥ずかしさが一つ。

 彼女の住んでいるという家が大きな洋館であるという情報を思い出して、葉月と母の小さな幸福をバカにされたかのような被害妄想が一つ。

 二つを足し合わせて、ちょっとだけ嫌な気分になったので、思わず皮肉めいた不幸自慢が口に出る。

「あなたには、父親に捨てられた母娘の気持ちなんて分からないでしょうね」

 別に、何か答えを期待して言った言葉でもない。

 そのまま去ろうとしていた。

 そんな葉月の背中を追いかけるように一言。

「そうですね。分からないです」

 相変わらず何を考えているのかよく分からない口調だ。

 けれど、それは何となく、あえて多くを言わないでいるこれまでの少女の態度と同じものではない。

 動揺して言葉が見つからないでいるような印象を受けた気がした。

 だから、少しだけ勝ったようないい気分がした。

 一体、何に勝ったのかは分からないけれど。

 

 

 

 前園弥生は、生来の寂しがりやの気質を持っている。

 昔は、今ほど無口でも、こそこそとする性格でもなかった。

 活発的な方であったとは言えないまでも。

 弥生の父親は資産家であった。

 起業し一山当てたのを元手にして、投資を行い、そこでも当たりを掴み続けていたらしい。

 らしいというのも、父親の仕事なんて、弥生の関心の向くところではなかったのだ。少なくとも幼い当時は。

 弥生にとって重要だったのは、両親ともに温厚な性格で、一人っ子である弥生にいつでも優しくしてくれていたこと。

 大好きだった。

 今でも、当時の記憶を掘り起こすと、温かいものが自分の身体を駆け巡るのを感じる。

 幸せはいつまでも続くと思っていた。

 けれど、変化のない日常なんてものはどこにもない。

 ある日、いつものように自分の部屋で、買い与えられた玩具で遊んでいた時。

 雇っていた家政婦さんに、「弥生ちゃん、大事な話があるの」と、とても辛そうな顔で話を切り出される。

 

 両親の乗っていた車が交通事故を起こして、二人とも亡くなる。

 即死だったらしい。

 

 そのことを聞かされたとき、弥生は特に悲しみを覚えなかった。

 というよりも、意味をよく理解できなかったのだ。

 二人が数日の間、家を空けるというのはザラにあることだったので。理解できないでいる弥生は、

「ねえ、パパとママは、いつ帰ってくるのかな?」

 なんて、聞いてしまう。

 そのときの、家政婦さんの非常に困った顔を時々思い出す。

 弥生が何も分からないまま、周りの大人がセッティングした通夜、葬儀、告別式が行われる。弥生も黒い喪服を着せてもらい出席する。

 たまに家に来ていた人から、特に面識のない人まで。

 弥生に会う人たちは皆、口をそろえたように。

「可哀そうに」

「まだこんなに幼いのに」

「これから大変だろうけど」

「いつでも力になるから」

「可哀そうに」

「可哀そうに」

「可哀そうに」

「可哀そうに」

 両親のことをよく知っている人で、弥生の前で生前を偲んで涙を見せる人も少なくなかった。

 泣いている人を放っておくのは良くないことだと教えられていた。

 だから、ハグをしたり、笑いかけたりして、泣き止んでもらおうとした。

「弥生ちゃんは強いのね」

 大人たちの目には、そのように映ったらしい。

 実際は、ただ無知を晒しているだけに過ぎないのに。

 

 弥生を引き取ったのは、父親の従弟夫婦だった。

 弥生と両親の思い出が詰まった家に、亡くなった両親と入れ替わるように入ってきた。

 彼らは、まるで両親の代わりのように、両親の残した家で暮らす。それが当然のように。

 それが続くようになって、ようやく弥生は両親が戻ってこないことに気づいた。

 葬式の意味。会った大人が全員、弥生のことを憐れんだ意味。それが理解できた。

 弥生は夕食の最中に突然泣き出した。

 従弟夫婦と家政婦は、その姿に驚き慌てる。

 なぜ泣いているのかを問われたが、最後まで意味のある答えは返せなかった。

 しばらく、亡くなった両親のことを偲んで泣きはらす夜が続いた。

 それでも、ひと月ほどすると泣く涙も尽き果て、子供ながらに心の整理も付き、大好きだった両親の死をようやっと受け入れることができた。

 そこで、弥生は両親との決別を果たした。

 だから、ここからは幼くして両親を亡くした悲しみとは別の話。

 

 弥生の両親の死からしばらくたって、従弟夫婦は豪勢な暮らしを始めるようになった。

 毎日のように高級な料理を食べ酒を飲み、仕事にもいかず、日がな友人たちを家に招いてはパーティーを行った。

 弥生は、二人が幸せそうなので、いいことなのだと思っていた。

 彼らはたびたび、弥生のことを呼び出しては、「弥生ちゃん、ここにお名前書いてくれる」「ここにハンコ押してくれる」と言う。

 弥生がそれに従うと、彼らはとても嬉しそうな顔をする。

 だから、弥生も快く、その要求に従い続けた。

 そんな状況は半年ほど続いただろうか。

 ある日から、従弟夫婦は屋敷に帰ってくることが無くなった。

 豪遊していたのが、親戚たちの目に付いたということらしい。

 その日も、パーティーをするために用意されていた豪華な料理を、ゴミ袋に放っていく家政婦さんの姿が印象的だった。

 

 それからは、住み込みで働いてくれる家政婦さんと二人、大きな屋敷で生活を続けていく。

 時々、遠い親戚らしい人が、家政婦さんが買い物に出かけて、いない時間帯を見計らって家を訪れる。

「どうか借金を肩代わりしてくれないか?」

「新しい事業を始めようと思っていて、お金を貸してはくれないか?」

「息子を大学に行かせるためのお金が足りなくて……」

 また営業に来る人もいた。

「絶対に儲かるから、投資しないか?」

「今、この土地がとても格安で手に入る」

「いい芸術品があって、将来絶対に価値が出るから……」

 弥生が勢いに押されて、契約を交わしそうになる直前に、いつも家政婦さんが戻ってきて追い返してくれた。

 昔から、この屋敷で働いてくれている家政婦さん以外の大人は、弥生のことをお金を見るように扱う。

 そのことに、薄々と気づいてきた。

 親戚を名乗る人。

 おいしい話を持ってくる人。

 学校の先生までも。

 弥生はいつの間にか、人の目を見ることで、その人が弥生をお金として見ているか否かを判断できる特技を身に付けていた。

 

 両親の死から、すっかり年月が経ち、弥生の歳も二桁を数えるまでになった。

 その頃には、幼いころには知らなかった、知りたくもなかったことを、幾つも知りえることになる。

 弥生には、両親が残した莫大な財産がまだ多く残っていること。

 近寄ってくる人間のほとんどが、それを目当てにしていること。

 だから、会う人全員を最初から疑ってかからなければいけないこと。

 それでも、まだお金ではなく弥生のことを見てくれている人がいることを信じていた。

 例えば、幼い日から親身になって一緒に暮らしてきた家政婦さん。

 彼女だけは、弥生を弥生と見てくれている。そして、弥生が今、純粋に甘えていられるただ一人の人。

 だけど、それも裏切られることになる。

「何してるの?」

 それは偶然、家政婦さんのことを驚かそうと、クローゼットの中で隠れていた時に発覚した。

 弥生が食材や日用品など、屋敷の生活に必要な買い物をするために渡しているお財布から数枚の紙幣を抜き取り、彼女のプライベートな財布に移し替えている姿だった。

 家政婦さんは、膝から崩れ落ちる。

「ごめんなさい、弥生ちゃん」

 言い訳はなく、ただ謝罪を繰り返し続ける。

 後で聞いた話によると、彼女の娘が大きな借金を作ってしまって、その返済のあてがなく、当月の返済分だけ毎月抜き取っていたらしい。

 総額も、従弟夫婦が豪遊に使ったお金や、持ちかけられる投資話と比べると非常に少額だった。

 言ってくれれば、建て替えるくらいはしたのに、と弥生は今でも思ってしまう。

 彼女は弥生にとっての、残された唯一の家族であった。

 だから、両親の残してくれた財産の半分を渡すことになったって、何も問題なかった。

 家政婦さんは、罪悪感に耐えかねて辞めていった。

 それから、弥生が新たに家政婦を雇うことはなかった。

 また裏切られるのかと思うと、誰かを屋敷に招き入れるという行為そのものに拒否感があった。

 必要に駆られて、すべての家事を独学で覚えた。

 何もかもを一人だけでこなして、一人で生きていけるようになった。

 時折、一人きりのベッドで、両親や家政婦さんの温もりを思い出して、ひっそりと枕を涙にぬらす。

 

 そんな、一人きりの生活が五年以上続いたある日。

 庭で夜空を見つめていた。

 何年かに一回という、皆既月食を見るために。

 幻想的な赤い月を眺めていると、自分がある能力に目覚めたことを自覚した。

 弥生は、その能力で迷いなく自宅である洋館を、周囲の認識外に追いやることにした。

 なぜなら、未だに度々訪ねてくる遠い親戚や、営業の人を煩わしく感じていたからである。

 弥生にとっては、所詮その煩わしさから解消される程度の能力。

 日は変わって、弥生は日課である屋敷全体の掃除を行う。

 今は誰も使っていない部屋も例外なく掃除する。

 そんな部屋の一つ。亡くなった父親の書斎。

「昨日までは無かった」

 不思議な円形の文様が部屋の中央に描かれていた。

 奇妙に思いながらも、汚れなら拭き取らねばと、調べるために伸ばした指先。

 文様は触れた途端に、怪しく輝き始める。

 しばらくして輝きが止んだ、その中心には、いつのまにか初老の男性の姿があった。

「ワシを呼び出したのは、君で間違いないかね?」

 意味は良く分からなかったが、弥生はとりあえず小さく頷いた。

 

 初老の男性はキャスターと名乗った。

 キャスターは聖杯戦争に召喚されたサーヴァントの一人で、真名をミシェル・ド・ノートルダムというらしい。

 しかし、弥生にとって、それはかなりどうでもよいことだった。

 悪意を持って弥生に近づいてくる大人とは違う、別の目的で一緒にいてくれる人。

 一緒にいるのに、疑わないでいれる存在。

 ずっとずっと弥生が望んできたものだった。

 だから、別に聖杯なんて手に入れなくても、弥生の願いは叶っている。

 後はもう、かつてのように弥生の元を離れて行ってしまわないようにするだけ。

 だから、弥生はキャスターに尽くすことにした。

 弥生が家族に向ける無償の愛以外で知っている、他人への愛の向け方。

 使用人の服を着て、身の回りのお世話を全てすること。

 かつてとは逆の立場で、これまでの五年の経験をもってして。

 ありとあらゆる家事が身に付いていることを、初めてありがたいと思った。

 それから少し経って、キャスターを訪ねて神無がやってきた。

 神無は、圭人と波彦とセイバーを連れてきた。

 バーサーカーとの戦いを経て、睦月もそこに加わった。

 最初は、誰かを屋敷に上げることに対して、心に大きい抵抗を持っていた。

 けれど、それもキャスターの連れてきた人ならと、徐々に薄れていった。

 未だに、外の門を開け続けるのが怖くて、神経質なくらいに鍵が掛かっているかを確認してしまう。

 それでも、弥生の心に張り続けていた氷が少しずつ溶かされていくのを感じていた。

 いつしか、キャスターが作ってくれた空間を、連れてきてくれた人たちのことを、自分の本当の家族のように思う気持ちが芽生え始めていた。

 その家族の一人が攫われたと聞いたとき、弥生の心は五年前のあの日と同じくらいに乱れた。

 そうしたら、居ても立っても居られなくなった。

 だから、自分を犠牲にしてでも圭人を救いに行くことに決めた。

 弥生は、座敷牢に入れられた。

 それでも、この結果に満足だったから、自分を犠牲に家族を守れたことが嬉しかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18:二つの満月

 ちょうど陽の落ちた空に満月が輝く。

 アパートから建設放棄ビルに向かうにつれて、住宅の光が少なくなるからなのか、少しずつ月が大きくなったかのような錯覚を覚えていた。

 葉月は、母を労うために料理をふるまって、夜勤に行くのを見送った。

 それから、再び自転車に乗って戻ってきた。

 往復三十分の道も、全くもって苦に思わない。

 それに、今日で全てが終わるのだから。

 終わらせて、新しく時を動かし始めるのだから。

 だから、ここに来るのも今日でおしまい。

 そう思うと、余計にペダルを回す足は軽く感じるのだった。

「よし、まだちゃんと居たわね」

 座敷牢の部屋まで向かい、人質の少女の姿がまだあることを確認して、ひとまず安堵の気持ちを覚える。

「それは、当然おります。妾が、退屈ながらも、じっと見ておりましたもの。何かありましたら、すぐにマスター様をお呼びしておりました」

「それは、どうもありがと」

 恩着せがましい態度をとるライダーに、適当に感謝の意を示しておく。

「しかし、本当に何を考えているのか読めないわね」

 というのは、檻の中でじっと座っている少女。

 数時間前に葉月がここを出たときから、全く姿勢を変えていないのではと思われた。

 葉月がやってきたことには気づいているみたいで、先程入室した葉月の方にちらと視線が送られていたのを確認している。

「まあ、別にあなたが何を考えているかなんて、私には興味がないことなんだけど」

「ふふ、マスター様、ご出陣ですか?」

「ええ、そうよ。さっさと屋上に行きましょう」

 少女のことは檻に入れたまま放っておいて、本来行う予定だったことを今から始める。

 そもそも、人質なんて取るつもりはなかったのだ。

 場所さえ確認できればよかった。

 葉月たちにはタイムリミットがあるために、敵の位置情報だけはしっかりと把握しておきたかっただけなのである。

 結局、現在居場所が掴めているのは、キャスターとセイバーのみだけど。

 それは気がかりな部分だけど、他はもう虱潰しにすればいい。

 ライダーの能力のことを考えると、策を弄する必要など、元よりなかった。

 時間的な制約が強いがゆえに強力な力を発揮することができる。

 加えて、葉月が持つ、最初は無駄だと思われた夜空を意のままに操る能力。

 これが非常に相性のいいサーヴァント。

 その二つの強みを組み合わせれば、ただ蹂躙するだけで、聖杯戦争を終わらせることができる。

「月が大きく見える」

 純和風屋敷の階段を登り続けて、戸を開けると外に繋がっていた。

 屋上に訪れるのは、これで二度目。

 板張りの床を進んで、縁に近いところまで行く。

 柵が付けられていないので、ギリギリのところまで行く勇気はなかった。

「さて、マスター様?」

「いや、ちょっと待って」

 葉月はポケットから、ガラス瓶を取り出す。

「あら、覚悟をお決めになさったのですね」

「ええ、元からそのつもりよ」

 この瓶の正体は、ライダーの宝具の一つ『不老不死の霊薬』。

 ライダー――かぐや姫が、地上に残していく帝に送った、飲んだものを不老不死にする奇跡の薬。

 ただし、不老不死なんてものは、本物の聖杯がないと実現不可なもの。

 ゆえに、物語の霊薬が持つ不老不死の効能はない。

 その代わりとして、サーヴァントとして召喚されるかぐや姫の霊薬には、服用したものの魔力の量と質を高める力を持つ。ただし、それなりに大きな副作用を伴うけれど。

 だから、葉月はこれまで渡されながらも、景気付けに一滴舐める程度にしか使用してこなかった。

 けれど、今。

 瓶の蓋をすぽりと取り去り、不思議な色合いの薬を今一度確認した後。

 瓶の口を、自らの唇に突き当てて、一気に傾けた。

 口の中に溢れてくる液体を、そのまま喉に通す。

 これまで少量ずつしか摂取していなかったため、初めて感じる味。

 いや、味のほどは殆ど無味無臭だ。

 けれど、魂の部分で異物を受け入れるような、なんとも言い難い気持ち悪さ。

 それを耐えきり、瓶の中を空にした。

「よし、じゃあ始めるわよ、ライダー」

「ええ、マスター様」

 かぐや姫は、平均と比べて数多くの宝具を有するサーヴァントである。

 求婚者たちへの無理難題として出した五つの秘宝。

 帝へと残した不老不死の霊薬。

 しかし、彼女の心の切り札というべき宝具は別にある。

 かぐや姫というサーヴァントは月人の姫であり、月の光によって加護を受ける。その加護の量は月の満ち欠けによって増減する。

 そして、月の加護が最大となる満月の夜のみ、使用可能となる宝具がある。

 ――それは、物語の再現。

 求婚者たちに難題を付けて断った後、かぐや姫の美貌の噂は帝にまで届くことになる。

 その帝にさえ、かぐや姫は素っ気のない態度を取るのだが、文通を重ねるとともに、互いに心惹かれていくことになる。

 文通の始まりから数年の歳月が経った頃、かぐや姫は夜な夜な月を見て涙をする。

『妾は、この国の人ではなく、月の都の民。今まで長くこの国におりましたが、次の満月の日には、月の都に帰らなければなりません』

 その話を聞いた帝は、私兵を派遣してそれを阻止しようとする。

 しかし、その日現れた月の都の天人たちの前に為す術なく敗れ、かぐや姫は月に帰ることになる。

 その物語の再現としての宝具。

「さて、それではこれより終幕。いざ出迎え。『月姫帰郷・十五夜天人行列』」

 ライダーの声に応じて現れ出るは、百あまりの顔無き軍勢。

 しかし、その一人一人から滲み出る美しさは、ライダーの持つ美までには及ばずとも、常人には直視できないほどの浮世離れしたもの。

 そして、彼らはかぐや姫を月に還すための神秘なる色に輝く車を連れている。

 それこそが、彼女がライダーである証。

 戦車に乗り戦場を蹂躙するのではなく、軍勢に守られ仰がれるために騎乗するライダー。

 ゆえに、その車自身に直接の戦闘能力はあらず。

 けれど、乗るという行為それだけで、効果の及ぶ宝具であった。

「では、マスター様。妾は車に乗り、天人たちを敵の元へと差し向けます。何かありましたら、気兼ねなくお呼びください。汝の行く末に幸の多からんことを」

 言いたいことだけ言って、ライダーはすっと天人たちにエスコートされながら、車に入っていった。

「じゃあ、私の方も頑張らなきゃいけないな」

 ライダーの真価を発揮させるためには、大量の魔力が必要。

 霊薬で強化されたはずの葉月の持つ力が、時間単位でごっそりと持っていかれているのを感じる。

 そして、これと同じ感覚を葉月は数日前に経験していた。

 ライダーが月の加護を受けるという話を聞いて、ならばと試したこと。

 葉月があの日手に入れた、『夜空を意のままに変える力』。

 それは現実にはありえない状態にさえ変えることが可能。

 月の光によって、力をもたらされるというのならば、その月の光を二倍にしたらどうなるのか……。

 果たして、その目論見は正しかったことが証明される。

 ただし、数十秒での魔力枯渇というおまけ付きで。

 葉月の持つ空想を具現化する力は、ライダーのようなサーヴァントを持たなければ無意味な割に、非常に燃費が悪かった。

 その解決方法として、今回葉月が用意したのは、足りないならば増やせばいいという非常に単純な解。

 今夜いっぱいだけ、十全に力を発揮できたなら、それで終わってもよい。

 だから、後のことは考えずに霊薬を飲み干した。

 そして今宵、葉月は大きくて丸い本物の月に、寄り添うように同じ大きさの満月を浮かべた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19:侵攻

 洋館内の空気は重たかった。

 その原因となっているのは、セイバーとキャスター。二人のサーヴァントによるものである。

 そもそもからして、ライダーとの邂逅から屋敷に戻る際の雰囲気も暗かったのである。

 セイバーは、あれからずっと思いつめた顔をしている。

 屋敷への帰り道でも同じ調子だった。

 帰り道の重い空気に耐えかねて、適当に気の利いたことでも言おうと波彦が口を開きかけたが、セイバーが纏っている張り詰めた空気の前に思わず引っ込めた。

 屋敷に戻り、圭人をベッドに寝かせ、居間へと向かう。

「キャスター殿、あなたはこうなることを予期していましたね?」

 セイバーは開口一番に、キャスターに問いかける。

「こうなる可能性は大いに有りうる。とは、考えていた」

 キャスターは厳かに首を縦に振る。

「弥生殿は、あなたのマスターでしょう?」

「ああ」

「サーヴァントは、マスターのことを守るべきものです」

「いかにも。ワシは弥生くんの願い出を尊重して、守ってやりたかった」

 キャスターの迷いない口調に、セイバーも少しだけ気圧されたようになる。

「彼女の願いが、自らの破滅を招くものだったとしてもですか?」

「リスクを冒さなければ手に入らないものが、この世には多く存在する」

 互いに自らの主張にこそ、正当性があると信じている。

 だから、一歩も引く意思はない。

 二人の間には、平行線が引かれている。

 このまま続けるのならば、二人は自らの正義を示すために力を振るわなければいけなくなっていた。それは、すなわち同盟の決裂に他ならない。

「キャスター殿、あなたの主張はよく分かりました。その中には正しさも含まれていると思います。しかし、拙者は、その意見が全面的な正しさを持っているとは思えません。けれど、もうこれ以上の口出しはいたしません」

 一定の理解を示しつつも、意見が平行線にあることの訂正はしないセイバー。

 その後、彼は言葉の通りに口を閉ざし、求められない限りは自らの意思を口に出さないように努めた。

 

「あーえっと、実は弥生ちゃんの居場所――ライダー陣営の本拠地については、もう掴めてるんだよね」

 険悪な空気を伺いながら、神無が慎重に発言する。

「千里眼って、ああいう移動も追えるの?」

 波彦は、かつては自分も、セイバーの高機動で夜の中を飛び回っていたのを彼女の千里眼によって、追われていたのを思い出した。

「いや、神無くんの千里眼は視界を自由に飛ばす能力。ゆえに、次元跳躍級の移動を捉えることはできない。弥生くんの居場所は、ワシとのパスを使って追ったのだ」

 バーサーカーの夜に波彦がセイバーとのつながりを辿って、戦場に導かれたのと同様に。

「相手もそのことは失念していたらしいな。君たちが帰ってくるまでに、ワシが弥生くんのいる大体の場所を割り出して、神無くんに探してもらっていた」

「すぐに見つけることができたよ。すごいことになってたからね」

「すごいこと?」

 思わず波彦が内容を聞こうと言葉の一部を返すと、神無は鼻高々になって答えた。

「街の外れに建設が途中で止まっちゃったビルあるじゃない?」

「ああ、あのなんで造ろうと思ったんだって噂の」

「あそこの中が、平安貴族の御殿みたいな感じになってる」

 その言葉を聞いて、波彦はよほど怪訝な顔をしてしまっていたらしく、神無からの指摘を受ける。

「疑ってる?」

「そりゃまあ」

「あたしも最初シートの中をくぐってみたときは、千里眼バグったって思ったけどさ。でもこれが本当なんだよね。そんでもって、弥生ちゃんは今、その御殿の中の座敷牢みたいな部屋に捕らえられてる」

 波彦は思わず真偽確認のために、キャスターの顔を伺う。

「神無くんの言っていることは、本当のことだ。ワシは直接見たわけではないが」

 本当になんでもありなんだな、聖杯戦争。と感じ入る。

「それじゃあ、早く助けに行かないと」

 当然のことのように、セイバーを連れて弥生の救出に乗り出そうとする波彦。

「いや、そのことなのだが……」

 と、それを止めたのはキャスターだった。

「弥生くんの無事は、しばらくの間は保証されているはずだ。だから、しっかりと準備をしてからにしよう」

 彼のその提案は、弥生のことを蔑ろにしているように感じられたらしく、セイバーが無意識に発している圧が一段高まった気がした。

 それに対しての弁明のような言葉をキャスターが続ける。

「ライダー陣営だって、弥生くんを生かしておいたなら居場所がバレることは分かっていたはず。なのに、そのリスクを犯してまで座敷牢に繋いでいるということは――」

「あたしたちが乗り込んでくるときを待っているということね」

「そういうことだろう。波彦くんたちが乗り込むのを待ち構えていて、迎撃する準備ができているという意思表示だと読み替えてもいい」

「えっと、じゃあどうすればいいんだ?」

「ワシらは、持てる情報を練り尽くして、彼らの意表を突く策を考えなければならない。そして、その考えている時間が、待ち構えている相手の精神をジリジリと削るはずだ」

 そうして、波彦たちは当初の予定通りに物資の補給をしつつ、陽が落ちるまで弥生救出の侵入ルートなどについて話し合うことにした。

 結果としてみると、この選択は間違っていたことになる。

 だが、誰が予想できるだろうか?

 弥生を攫ったのは、ただの無策からで、相手も時間経過を待っていたなんてこと。

 

 

 

 波彦とセイバーは、夜の落とす影に紛れるようにしながら、ライダー陣営の拠点である建設を途中で止めてしまったビルの様子を伺う。

「なるほど、確かに外からでは、内装がとんでもないことになっているだなんて、思いもよらないだろうな」

 灰色のシートに遮られていて、中の様子が秘匿されている。

「セイバー、準備は大丈夫?」

「はい、いつでも問題ありません」

 結局、このビルには、こっそり侵入できるような裏口はなかったので、正面から突入をするということになった。壁を登って、途中階から入ることはできなくもないが、敵側の索敵を逃れることは困難で、特にメリットも感じられないとのこと。

 なので、一番いいのは一直線に弥生の元に向かうこと。次善策として、少し撹乱する動きを入れながら弥生の元に向かうこと。

 余った時間で波彦は、この建物の地図を頭の中に叩き込まされることになった。

 お陰様で、灰色と夜の闇に閉ざされている建物の輪郭だけで、弥生のいる座敷牢が大体どこにあるのかを想像できるまでになっていた。

「よし、じゃあ行こう!」

 意を決して、セイバーと二人で建物の中に入り込む。

 入り口にトラップは仕掛けられていなかった。

 入った瞬間の違和感もなかった。

 違和感は侵入後、すぐの瞬間。

「明るい……」

 眩いほどではない。

 けれど、外の光を一切取り込んでいないはずの室内で、しっかりした光量ではっきりとモノが見える。

 もちろん、どこかに光源があるのだろうと、室内を見回した。

 しかし、どこにもそれらしきものはない。

 聞いていたとおりの和室。

 板張りの間。木目が美しく見えるように漆を塗られているのだろうか。

 金色に輝く襖に、次の部屋が遮られている。

 調度品は最低限に留められている。

 空間に和の空気が充満しているように感じられる。

 それだけなら、ただの大きめの和室で片が付くのだが、前述の通り光源もなしに、部屋全体がほの明るいことが波彦の中の違和感を掻き立てる。

 部屋全体が均等に明るくされているために、空間自体が発光しているような錯覚を覚える。

「マスター殿、待ち伏せられていました」

 ひととき、その不思議な光景に目を奪われていた波彦を、セイバーの声が呼び覚ます。

「えっ、ライダーはどこに?」

「源流的に似た気配ですが、違うと思われます」

「じゃあ、一体……?」

 波彦は、うす明かりの中に目を凝らす。

 左……いない。右……いない。

 そして、正面に人影を見つけると同時、それはこちらに飛びかかってきた。

 気が付くと、人影が突き出した槍をセイバーが受け止めている光景。

 弾き飛ばして、波彦から遠ざける。

 そのまま畳み掛けるように刃を放つ。

 しかし、今度は逆に避けられて反撃の一撃を、刀の腹で受けることになった。

 また、あのランサー戦の時と同じ。波彦には正しく認識できないレベルの攻防。

「何者かは存じませんが、やりますね」

 ライダーの拠点を防衛する謎の槍使い。

 その顔は霞んでいるように見ることができない。

 装いは、純潔を示すような一切の汚れのない白い衣。

 不明な存在ではあるが、その実力は確か。

 技量と身体能力は、セイバーと同等程度にあるように思われる。

 苦戦必須な相手なのだろうが、ここで時間を使っている余裕はない。

「セイバー、なるべく急がないと」

「承知しております」

 意を決した顔でセイバーは、白い槍使いに向かっていく。

 音の速さで向かってくるセイバーに対しての槍使いの返答は、突きと払いの結界。

 それは、いくらセイバーが速かろうが、まともに突っ込めば回避できない見事なまでの槍裁きであった。

 けれども、セイバーは減速することなく、その領域に臆することなく潜り込む。

 すると、不思議なことが起こる。

 槍の結界がセイバーの居場所だけを避けるように歪められる。さながら、水中から浮かび上がる空気の泡のように。

 セイバーの持つ相手の武器による攻撃に対する回避スキル。しかし、彼はこれを使うのをあまり好まない。

 生前は勿論このような異能を所持していなかったため、技量でもって敵の攻撃を避ける戦い方をしていた。けれど、このスキルを積極的に使うということは、すなわち敵の攻撃が当たるように戦うということである。

 そのような綱渡りのような戦い方は好まない。

 けれど、迅速に戦いを収めるための手段として用いた。いくら理屈では避けられると分かっていても、付け焼き刃のスキルに全幅の信頼は寄せきれない。精神が無視のできない消耗をする。

 槍使いの懐まで、そのまま全速力で駆け抜けて、一刀の元に切り伏せて無力化する。

 刀を腰の鞘に納めて、額の冷や汗を手の甲で拭い去る。

「さあ、行きましょうか、マスター殿」

「ああ、そうだなセイバー。早くここを離れないとマズい……」

 怪訝な顔をするセイバーに対して、波彦は部屋を見回す。

 その視線を追うようにセイバーも見ていって気付く。

 先程、セイバーが倒した白衣装と同じ格好の者たちに囲まれていた。少なく見積もって二十はいるだろう。

 一人の対処でさえ、かなり困らされていたほどの腕前。二十はもはや相手にできる数ではない。

 そして、その倒したはずの一人さえ、斬られた箇所をかばいながらも、ゆっくりと立ち上がってくる。

「付いてきてください」

 セイバーは迫りくる二十の敵の輪の一箇所を、刀を斬り払いながら一瞬だけ逃げ出すための隙を生み出す。波彦は無我夢中で、繰り出される槍や刀をかいくぐり、セイバーの後ろに付いていく。

 玄関広間から抜け出すと、迷路のように張り巡らされた板張りの廊下に出る。弥生のいる階層に至るために、上層への階段を探す。

 けれど、相手方もそれを易易とは許してくれない。

 当然、後ろからは振り払ってきた白装束たちの走りくる音が床板に響く。

 その他に、出会い頭で刀を振りかぶってくるもの、少しだけ開けたところでは膝上の高さを横薙ぎに槍で払ってくるもの、なんかがいた。

 しかし、それらもセイバーが刀の一振りで攻撃を受け止め、その間に隣をすり抜けていく。

 利便性よりも、侵入してきた敵に嫌がらせすることを重視した建築らしく、階段はひとところには固まっておらず、一階層昇るごとにフロアに隠された次の階段を探さなければいけなかった。

 そして、弥生の監禁されている階にまでたどり着いたのだけれど。

「ここは特に敵の数が多いな」

 守りの要所だけあってか、白装束の強襲が頻繁にあり、玄関広場の二十より多い数が廊下に立ち並ぶ。

 後ろからは、これまで巻いてきた者たちの追ってくる足音が迫ってくる。

「このままでは挟み撃ちにされてしまいます。残念ですが、一度そこの階段を登りましょう」

 ちょうど良いところに配置されていた階段を使って、一度その場を切り抜ける。

 合間を見計らって、また階段を降りてこようと思っていたのだが、中々そうはいかず、波彦たちは気付けば上へ上へと追い詰められていった。

「どうやら、最初からここに誘導するつもりだったみたいですね」

 最後の階段を登った先にある扉を開くと、空が開けた場所に出た。

 そこは、このライダーの築いた城の屋上。

 端っこの方に頼りなく一人立っているライダーのマスターと、中空に浮かぶ豪奢な馬車のような乗り物の姿がそこにはあった。

 そして、夜空の景色の果てしない違和感。

「月が二つ……」

 波彦が思わず漏らしてしまった言葉の通り、ライダーたちを挟むように、大きな二つの満月が浮かんでいた。

 夜空に描かれた二つの大きな円は、まるで大いなる存在の目のようで、何者かに常に視線を向けられているような、居心地の悪さを感じさせる。

「よく来たわね。正直、ここに来るまでに倒されてくれてると楽で良かったんだけど……」

 波彦たち目掛けて、人差し指を向けてくる少女。

「まあまあ、マスター様。そんなことになっては、興ざめもいいところではありませんか」

 二つ目の声は、車の中より聞こえてくる。

「よくぞいらっしゃいました。セイバーとそのマスターさん。歓迎いたしますわ」

「随分な歓迎だったように思いますが」

「そこは、当然のように切り抜けてきていただけるものと思って、配置していましたので、許して下さいまし」

 そんな余裕の受け答えをしているライダーに対して、マスターの少女は、

「えっ、全力で潰しに行く手はずだったんじゃなかった?」

 と不満げな声を漏らすが、当のライダーはどこ吹く風。

「ふふ、それでは妾自ら相手をして差し上げましょう」

 神々しく車の戸が開いて、そこから輝きを纏ったライダーが姿を現す。

 波彦は今朝のことを思い出して、全体像を見ようとしていた自分の目を制して、彼女の瞳を視界に収めないように少し俯く。

 装いが変わっている様子はない。けれど、月明かりの下、妖艶な美貌が輝きを増しているように感じられる。

「それでは失礼いたします」

 軽く空を掻くように、ライダーが波彦らに向けて腕を横薙ぎに振るう。

 それと同時、セイバーがその横薙ぎを受け止めるような軌道で刀を振るう。

 直後、波彦らのいる場所の両隣の床板の幾つかが、半ばでスパリと切断される。

「天人たちを、戦闘に呼ぶことはありませんから安心なさってください」

「それは助かります」

 セイバーは階段から、追ってきていた白装束たちの足音が聞こえなくなったことを確認してから、空に佇むライダーの元に向かって跳ぶ。

 それに対して、ライダーはすいーっと、中空を自在に移動して避けようとする。

 ライダーの元々いた場所に向かって跳んでいたセイバーの体は、その結果何もない空を目指す。しかし、ライダーのいる高さを越えたところで、身体を捻り何もないはずの空の一点を踏みしめて、方向転換しながら加速する。

 ライダーは咄嗟に右手をセイバーに向けて、先程も振るった魔力の刃を幾つか放って迎え撃つ。

 それをセイバーは、一息で切り払いながらライダーの元に迫る。

 首に向けて放たれる一刀。ライダーは左手を犠牲にして、それを受け止める。手首の半ばまで刃が進んだところで下に振り払い、剣閃を自らの身体から逸らす。

 しかし、その代償として、左手が親指だけを残して失われてしまう。

「ちょっと、大丈夫なのライダー?」

 不安げなマスターの声を無視して、楽しそうに微笑む着物の美女。自らの手から吹き出す血で召し物が汚れるのを嫌って、傷口を外に向け身体から離した状態。

「思っていたよりも、よっぽどやるではありませんか。これはかなり楽しめそうですね」

 残っている右手の人差し指で、左手の傷口をすすすっとなぞっていく。

 すると、抜けた歯が生え変わるように、新しい左手が生み出され、傷など元々なかったかのように継ぎ目一つなく復元される。

「まるで、妖魔の類ですね」

「心外でございます。単なる少し高度なだけの魔術ですよ」

「さて、どれだけ斬れば戻せなくなるのやら」

「ぜひ試してみてください」

 仕切り直し、攻防が再開される。

 その後しばらく、向かってくるセイバーに対してライダーが魔術で対抗するが、抗しきれずに傷を与えられる。しかし、ライダーの不思議な治癒術により、実質的なダメージは与えられていない。という構図が続いた。

 我慢比べに、先に耐えきれなくなったのはライダーの方だった。

 ただそれは、力尽きるということではなく、

「飽きました」

 という精神的なところだった。

 戦闘中に発するには素っ頓狂なセリフに、その場にいる面々が面食らう。

 だが、決して強がりなニュアンスは含まれていない、心からの余裕が感じられる口調だった。

「だとすれば、腹の探り合いはこれまでにして、宝具で決着を付けましょうか?」

「ええ、妾もそのように思っておりました。もう終わりにしましょう」

 いつの間にか、ライダーの後ろに数人の白装束が控えていた。

 彼ら数人は、夜の闇にも汚されない純白の衣を広げて立っていた。

「正直に言いますと、この手段はつまらなくなるので、使いたくはなかったのですが……」

 ライダーは、ふとマスターの少女の方に目をやる。

「マスター様、あとのことはお任せいたしましたよ」

「へっ? ちょっと待って、それってどういうこと?」

 急に不穏な言葉を聞かされた少女は、慌てて自らの従者を問いただす。

 けれど、何度も繰り返された通りに素知らぬフリで、行動を続ける。

 ライダーは両の手を中空に広げる。着物の袖が、夜に吹く風にたなびく。

 白装束たちが、うやうやしく近寄って行き、ライダーの身体にそっと被せるように、純白の衣を羽織らせた。

 直後、空が瞬きの間だけ眩い白光に覆われた。

 発光が終わった後、その場に残されたライダーの装いが変わっていた。

 妖艶さを醸していた着物のグラデーションが消え去り、神々しささえ感じさせる真白が空に浮いていた。

 その姿は、まるで夜空に浮かんだ三つ目の月のようであった。

 ふわりと無垢な笑顔をセイバーに向ける。

「はじめまして。消えてくださいまし」

 しなやかに手をセイバーの方に差し向ける。

 すると、突如セイバーの周囲の空から、深く皺の刻まれた妙齢の樹の枝が幾つも生まれでてくる。それらは、質量を増すように太く伸びて、セイバーの身体を絡め取るように迫ってくる。

「何、これはっ!?」

 急なことにセイバーは一瞬動揺するも、体勢を低く走り抜けて、枝の包囲網をかいくぐる。

 しかし、その姿を追うようにライダーの手が振るわれる。

 すると、次はセイバーの進行方向を塞ぐように、細く尖った竹の群れが襲いかかる。

 セイバーは身体の勢いを止めきれず、丸まり表面積を減らす努力までするが、全ての竹の槍を避けるまでには至らず、腕や腹の何箇所かに突き刺さり、血を流す。

 ダメージを与えたここを好機とばかりに、前の樹の枝はそのままに、セイバーの周囲から新たな樹の枝が生えて襲ってくる。

 それを見たセイバーは意を決したように、刀を持っている方の腕に刺さった竹を抜き去って一振り。

 身体に刺さっている竹を半ばから切断して自由を取り戻すと、途中を塞ぐ枝を切り払いながら、波彦の元に駆け寄ってくる。

「マスター殿、一度引きましょう!」

「おっ、おう。分かった」

 差し出された手に、波彦は咄嗟に自らの右手を伸ばし返す。

 セイバーは、波彦の腕を抜けかねない強さで引き寄せ、その身体を抱え込む。

 そして、いつかの夜のように、波彦を抱えたまま、ライダーの居城から夜の空に向かって跳び出す。

 

 

 

「あなたがちゃんと仕留めないから、逃げられちゃったじゃない!」

 まんまと逃げおおせたセイバーたちの姿を遠くに見やりながら、葉月はライダーに文句を言う。

 それに対して、ここまでのライダーであれば皮肉の一つも返していたであろう。

 けれど、今の白の衣装に生まれ変わったライダーはひとまず、

「はじめまして。あなたが妾のマスター様でございますね?」

 邪気を一切まとわぬ声で質問をする。

「え……ええ、そうよ」

 葉月は、今更な話をするライダーに動揺しながらも、威厳を保とうとする。

「あのような小物一つ構いません。今から街を蹂躙いたします」

「その小物に苦戦していたのは、誰だったのかしら?」

「そうですっ! マスター様も、妾の車に一緒に乗りにいらっしゃいませんか?」

「…………遠慮しておくわ」

 今までよりも葉月に対して、一見親切そうに見える。しかし、今までに増してマイペースで、こちらの言葉が通じていないような言葉のやり取りに、思わず寒気を感じる。

「そうですか、それは残念です」

 無邪気に本当に残念そうな素振りを見せながら、ライダーは車に戻っていく。

 夜はまだ始まったばかり。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20:作戦会議

 カッカランと音が響く。

 セイバーが身体から引き抜いた竹が、アスファルトの道に転がっていく。移動速度も相まって、すぐにはるか後方の夜の闇に消えていく。

 それと入れ替わるように、白装束の集団が迫りくる姿。

 一息の間に十歩分あった間が縮まる。

 白装束は手に持った槍は使わずに拳を振りかぶって、突き出してくる。

 セイバーのスキルは、武器を使用しない攻撃までは回避することができない。

 だから、刀を合わせて受け止めるしかなかった。

 刃を当てられた拳に傷は入らず、むしろ刀の方が折れそうなキーンという金属の揺れる音を、寝静まった町に響かせる。

 セイバーの小さな身体が弾き飛ばされる。

 それに抱えられていた波彦も、その衝撃にさらされる。転げ落ちてしまいそうな中、必死にしがみつく腕は、早くも情けなく悲鳴を上げ始めていた。

「真の主を得て、眷属たちの力も増しているということでしょうか?」

 セイバーの問いに誰も返答をしない。

 波彦の方は、離されないようにしがみついているだけで、いっぱいいっぱい。

 白装束たちは、そもそも喋っている姿をこれまでにみない。人語を介する機能が備わっていない可能性も十分に考えられる。

 しかし、戦闘の機能に関しては、もはやセイバーの身体能力を凌駕するほどにスペックが上昇している。そのことを、今の一瞬の攻防で思い知らされた。

 加えて、多勢に無勢。

 もはや、単に逃げおおせることすら、不可能なことのように思われた。

 

『次の角を左に曲がって! そのすぐ先にある交差点も左!』

 

 通話状態にしていた携帯電話から聞こえる、神無の声。

「セイバー、聞こえたか?」

「ええ、ばっちりと」

「何か、この場に対する打開策でも用意してくれてるのかな?」

「それは分かりませんが、もはや縋る以外に術はないでしょう」

 セイバーは追い打ちをかけてきた別の白装束の打撃の勢いを利用して、曲がり角の入り口までわざと弾き飛ばされた。

 向こうを見やると、家ひとつ分先に交差点があった。

 セイバーは、白装束たちを振り切るために、最短距離で交差点に入り、左に曲がる。

 波彦は自分にできることはないかと無我夢中で、逆側の道にあった標識に念動力をぶつける。生じた音で、後続の白装束が勘違いしてくれることを祈る。

 それを終えてからようやく、曲がった先を見た。

 地面から生えている如月拓人がいた。

 正確には、蓋の外されたマンホールから上半身だけを出している。

 そして、いつもの趣味の悪いスーツ姿に加えて、額部分にライトの付いたヘルメットをかぶっていた。

 如月は大きく手招きを一つすると、穴の中に潜っていった。

 色々と聞きたいことはあるが、状況は待ってくれない。

 セイバーは波彦を抱えながら狭い穴の中に飛び込む。穴のそばにあった蓋をはめ直しながら。

 

 

 

「ふー、はー、まさか家の中に続いているとは……」

 爽やかな地上の空気が、息苦しくて頭の痛くなる臭いの地下の空気を取り入れていた肺に染み渡る。

 マンホールの中は、地下水道になっていた。

 少し屈まないと通れないくらいの、コンクリートパーツを繋げて作られた道。

 波彦たちは、先をずんずん行く如月に付いていかなければいけなかった。そうでないと、ライトを持たない波彦たちは暗闇の中に取り残されることになっていた。

 汚水の臭いは、一息目に思わず胃の内容物が上ってくるほどのものだった。

 その水に足を付けるのは躊躇われて、最初の頃は水の通っているところをまたぐようにしていたのだが、前を行くマントが速いため、途中で諦めざるを得なくなった。

 おかげで今、靴の中がぬめっとした汚水でずぶずぶになってしまっている。

 地下水道を進んでいくと、途中で雑にコンクリートを破壊して作られた横道があった。

 更に狭くなる土むき出しの道、もう殆ど這っているような体勢で進んでいった。

 すると、しばらくして、少しだけ開けた空間と垂らされた縄梯子に行き当たる。

 その縄梯子を上った先が、フローリング床のリビングだった。

「ここは、お前の家か?」

「まさか、自分ちのど真ん中に、こんな大穴開けるわけないだろ」

「よそさまの家に開けるのだって非常識だ。家主が怒鳴ってくるぞ」

「ここの住人は、とっくに居なくなってるよ」

 その言葉に、ギョッとして、如月の顔色を伺う。

「やったのはオレじゃないよ。別の、おそらくはアサシンに殺されて、もぬけのカラだったところを勝手に使わせてもらっている」

「だとしても、不謹慎だ」

 余裕を取り戻した波彦が非難の言葉を向けるが、如月はどこ吹く風だ。

「で、そんなこと聞くために付いてきたわけじゃないんだろ?」

 そう聞かれて、如月の元に行くように指示したのは、神無であったことを思い出した波彦は、マンホール内で通話状態が切れてしまっていた電話番号にコールする。

『もしもし。見てたよ。臭そうだね』

「臭いけど、すっかり慣れてしまって、それほどでもないよ」

 正直に言えば、すぐにでも風呂に入って服を着替えたいレベルの不快感なのだが、それで死ぬわけでもないので放置しても良い。

「それで、如月拓人。お前は、俺たちに何をさせる気なんだ? 神無さんは、どうしてコイツに付いていくように言ったんだ?」

 バーサーカーの一件で如月は神無の千里眼を知っているものと見てよいだろう。

 如月は、波彦たちが逃げているのを見て、近くを神無の千里眼の視界が飛んでいると踏み、マンホールの中の逃げ道に導かせた。

 だとしたら、その隠し通路の存在を教えてでも、敵であるはずの波彦を助けたことには理由があるはずだ。

『あたしとしては、あの場面では彼も巻き込んだ方が、助かる確率増えるかな程度で道案内したんだけどね』

 先に出てきた神無の答えは、二人の間で合意がなされていたのだろうという波彦の予想の斜め下の打算的なもの。

 気が抜ける。

 いつも通りキザに振る舞ってる如月の顔にも、苦笑の色が張り付いているように見える。

『いや、だって声が聞こえるわけでもないし』

「そりゃそうだけどさ。もう少し取り繕ってくれても」

『実は彼の姿を見ただけで、考えていることの全てが魂で感じられて、あたしがそう感じていることも彼に伝わって、その運命的なシンパシーに従って波彦くんを案内した。って言ったら信じる?』

「馬鹿にしてるのかって思うよ」

『でしょ』

「あー、ちょっといいか?」

 脱線し始めた話を如月が制する。

「率直に言うと、オレはお前たちと協力してライダーを打倒したい。そのために、あの時あそこでお前を助けた」

 キザったらしく言うのだが、当然如月も地下水道の道を通ってきているので、ズボンの膝部分に土の塊が付いていて締まらない。

「空には二つの月が上がっている。ライダーのマスターは、空模様の改変能力を持っているのだろう。ライダーの伝承からして、満月でしか使えない宝具なのだろうが、相手がずっと満月を維持できるなら、時間経過での解決は望めない。このままではジリ貧だ」

 ライダーが天の羽衣を纏ったことで、白装束たちの能力も更に上がっていた。単純な身体能力だけなら、一体一体がセイバーをも凌駕している。それが、正確な数は分からないが五十以上。

 アーチャーの宝具は、あまり多勢に有効ではないのもあって、逃げ続けて参加者が少なくなった段階になると打つ手がなくなるというのが如月の考え。

「分かった。今回は手を組もう。こっちは拠点の場所も相手にバレてるから、早く手を打たないとマズイし」

 互いの利害の一致を確認して、ここに波彦たちと如月たちの共闘関係ができあがった。バーサーカーの一件のときにも、流れ上そのような形になっていた気がするけれど。

 

 

 

 

「そう言えば、あんたはどんな能力に目覚めたんだ?」

 ライダーのマスターも、満月を二つに増やす能力を持っていた。

 これまでのマスターたちは、誰もが同じように何かしらの超能力に目覚めてからサーヴァントを召喚している。

 だとしたら、如月も何かしらの能力を持っているのだろう。

 とは言え、波彦にはある程度の検討が付いていたのだが。

「なんだそんなことか」

 あっけらかんと言うと、

「ちょっと見ておけよ」

 開いた手のひらを、何のしかけもないとアピールするように、波彦たちの前に差し出してくる。

「こうして一度、握ってやって」

 意味ありげに微妙な捻りを付けつつ、指を握り込んでグーの状態にする。

「開いてやると、ほら」

 如月が握り込んだ指を開放すると、その手のひらの上には、饅頭が一つ乗っていた。

 どうだとばかりに自信満々な顔を向けてくる。

「いや、手品だろこれ?」

「これについてどう思うかは、お前次第だ」

 つまり、如月は自分の能力について、この場で情報を開示する気はないということ。

 ただ、波彦の予想としては、如月の本当の能力は、夕方に襲撃された時に使用していたとみられる人払いの力だろうと考えている。

 あの時の不自然な人通りの少なさは、超常的な力が働いていると考える方が自然だ

 この予想が当たっているのだとすると、今回の件について如月の能力が活躍する場面はないように思われる。

 なら無理やり本当の能力について喋らせる意味は薄い。

「食うか?」

「あの下水道を通ってきた身体に隠し持ってたんだろ? 汚いし、いらないよ」

「そうか。じゃあ、遠慮なくオレが貰っておくぜ」

 饅頭をひょいっと口の中に入れる如月。

 衛生面とか気にならないのかと、信じられないものを見る顔の波彦。

「じゃあ、まずは状況分析からだ。セイバーとアーチャーとキャスターが協力したとして、真正面からライダーを倒せるかどうかだ?」

「おそらく、無理でしょう」

 率直に答えるのは、実際にライダーと対峙したセイバー。

「数的優位は、彼女の眷属に完全に消され、むしろこちらが数的不利。それを差し引いても、現在のライダーは神がごとき力を有しています」

 何もないところから植物を生み出して、セイバーを攻撃した。

 あの攻撃は、まさしく世界の法則さえ無視した神の力だと思える。

「正面からの妥当が無理とするなら、真っ先に思い当たるのはマスターを狙うことだが……」

 強力すぎるサーヴァントを相手にする時の正攻法。

 そちらの方が易いなら、マスターの方を殺す。

 波彦はセイバーを召喚した夜に聞いた聖杯戦争の戦い方についての話を思い出す。

「ライダーを倒す方法が思いつかないなら、仕方ないよな……」

 波彦は一般人である。

 率先して人殺しをしようなんていう物騒な発想は持っていない。

 けれど、もしそれしか方法がないのだとしたら、仕方ないのではないかと思ってしまう。

 向こうはこちらを殺そうとしに来ている。

 なら逆に、殺されるかもしれない覚悟を持ってしかるべきなのではないか。

 そんな月並みな、自己正当化の理由を考えていたところに、待ったをかけたのがセイバーであった。

「拙者としては、ライダーのマスターを殺す策を練ることには反対でござる……」

 顔を俯かせているセイバー。

 波彦が横から顔を覗き込むと、口の端から血の流れる線が一本走っている。

 それは、自らその箇所を噛み切って溢れ出た血である。

 すなわち、ライダーのマスターを殺す流れになったことについて怒りを覚えて、すぐにでも怒鳴って反対したかったのだろう。

 けれど、自分の主張に理がないことも分かっているために、嘆願という形で意見するしかなかった。

 その際に冷静になるために、行われた自傷行為が表に表れ出たもの。

「拙者は殺しはしたくありません。けれど、それが拙者たちサーヴァントのような過去の亡霊や、自らの意志で死を覚悟して戦場に足を踏み入れてきたものなら、刀を向けましょう」

 実際、これまでにセイバーは、その言葉通りに刀を振るってきたことを、波彦は目にしている。

「だが、彼女や波彦殿、神無殿、弥生殿、睦月殿、この聖杯戦争に参加しているマスターを見ると、覚悟して戦場に踏み入れてきたようには見えない。拙者には、この聖杯戦争は、願いを釣り餌に人を陥れるための装置のように思えてしまいます」

 だから、マスターを殺す形での決着は受け入れられないと。

 ただ、それは本当に正しいことなのだろうか。

 ライダー陣営は間違いなく敵側である。

 殺さないと縛りをかけることによって、人質になっている弥生を危険に晒すことになるかもしれない。

 負けたときには、波彦たちの命だって奪われるかもしれない。

 それでも、情けをかけるだけの価値が、そこには本当にあるのだろうか。

「こんな話を切り出しておいてなんだが、そもそも相手もこちらがマスター殺しの策に出る可能性は考えているだろうから、十分に対策をしてきているかもしれないしな。例えば、あの白装束十人くらいに常に守らせているのだとしたら、実行は不可能に近い。安易に流されず、もっと根本的な弱点がないか考える必要があるだろう」

 如月の言葉に、波彦も思いを巡らせてみる。

 竹取物語――かぐや姫が翁の切った竹から生まれ、結婚志願者たちの誘いを退け、帝と相思相愛になりながらも、満月の夜に月に帰っていく話である。

 ぱっと思い出しただけだが、この話において、結婚志願者の男性たちの末路は書かれていても、かぐや姫自身の弱点はコレコレという話は出てきていなかったように思われる。

 ただ、今の状況、ライダーの宝具の数々が物語のクライマックスの月に帰る場面の再現だとするのなら、宝具の発動条件は空に満月が出ていることなのだろう。

 だからこそ、如月は時間経過で満月が消えない状況に危機を感じ、協力を提案してきたのだから。

「なあ、セイバー、月って斬れたりしないか?」

「波彦殿、流石にそれは無理でござるよ」

「やっぱり、そうだよなあ」

 月を物理的に消してしまえればと思って言ってみたのだが、そんなことは誰にだってできない。

『あ、でも、一時的に月を消すことだったら、できなくもないよ』

 波彦ができないと心の中で断定したことに対して、即座に反論を行いだしたのが神無。

「それはどんな方法だ? 聞かせてもらってもいいか?」

 如月の言葉を受けて神無が語りだしたのは、あまりにも突拍子のない内容。机上の空論であるように思われた。

 奇跡に奇跡が積み重なってようやくできるような夢物語。

 それぞれに役目があって、波彦の役目はその中でも際立って重要で困難なものだった。

「こんなのやれるわけないよ」

『大丈夫だよ、波彦くんならできるできる』

「簡単に言ってくれるなあ」

 無責任な言い草に波彦は呆れ果てる。

 それを横目に、神無の話を聞いてから顎に手を当て思案していた如月が、ようやく結論を出したようで口を開く。

「正直言って、成功する確率はサハラ砂漠の中から一粒の金を探し出すようなものだ。だが、考えれば考えるほど、それしか方法はないと思えてくる」

『でしょ』

「ライダーは、そのような奇跡を通さなければ打倒し得ぬほど強力な存在ということなのでしょう」

 直接対峙して、その力を身に受けた経験のあるセイバーの言葉には説得力がこもる。

 セイバーは、成功率の低いこの作戦を全面的に支持する意向を示す。

『あのね、セイバー……』

 作戦決定の空気に場が包まれ、これから細かいところを詰めていこうとなりかけていたところに、神無が水を差す。

 遠慮がちに。けれど、どうしてもこれだけは言って置かなければいけないと。

『この作戦を考えたのって、あたしじゃないの。キャスターさんなの。今、セイバーと険悪な雰囲気の自分が混じっても、空気を悪くするだけって黙ってるけど……』

 電話だけだから、屋敷の方の様子までは分からない。

 だが、波彦には、あの温厚で何にも同時なさそうなキャスターが、バツの悪い様相でこの話し合いを聞いているのが想像できた。

『セイバーは、キャスターさんに弥生ちゃんの安全のことをちゃんと考えるべきだって言っていたけど、ちゃんと誰よりも考えているんだと思うよ』

「そうで、ござったか……」

 少し前の自分を恥じ入るように、セイバーは小さく呟く。

 これで、セイバーとキャスターの間にあった、しこりも取り払われた。

 波彦たちは、万全の精神状態で、曲芸のごとき難易度の作戦に挑む。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21:屋上の決戦

 ライダーからの、そっけない報告でビル内に侵入者が来たことを知る。

 そして、その侵入者が凄い勢いで、天人たちを退けながら、葉月たちのいる屋上に向かってきているということも。

「やっと戻ってこれました。やれやれ、ここまで来るだけで一苦労です」

 ボロボロになりながらも、その袴姿の侍の佇まいだけは、以前から一つも変わることなく、余裕を漂わせている。

「あらあら、どなたかと思いましたら、一度取り逃した小鼠ではありませんか。穢れた臭いがいたしますね」

「やはり、ここに来るまでに下水道など通ってきたからでしょうか?」

 車の中から姿を表したライダーに指摘されたセイバーは、袴の裾を持ち上げてクンクンとお道化たように嗅いでみせる。

「さて、預けた勝負を果たしに来ました」

「それは、なんとも殊勝なことで。負けると分かっていながらも逃げないその姿勢は、真の武士と言ったところでしょうか? あら、前の時は隣にいらっしゃった、もう一人の方はどこにいったのかしら?」

「貴方の攻撃は範囲が広いですから、気にかけてばかりで本気を出せない拙者のことを慮って、マスター殿は今、隣ではなく、遠くより支援してくれています」

 ようするにマスターの方は、狙われるのが怖くなって逃げたということなのだろう。と葉月は推察する。

 この状況は、葉月たちにとっては好都合だった。

 天人たちを使って、小一時間に渡って街を探させたのだが、新たなマスターたちの居場所の手がかりすら見つけることができていなかった。

 マスターを捕らえているために、もはや相手する必要性のないキャスターの本拠地に戯れに兵を送って蹂躙してやろうかと悩んでいたところだった。

 もしかしたら、セイバーもそれを察して、今こうして前に立ちふさがろうとしているのかもしれない。

 だとしたら、なんと微笑ましい。

 そんな、仲良しごっこのために自分の身を犠牲にしようとしているのだから。

 ただ、完全に無策で登場したとは考えづらい。

 一発逆転の手を持って虎視眈々とそれを狙っていてもおかしくない。

 ライダーとの力の差は前回の対峙で感じているはず。

 だとしたら、その力の差を埋めるだけの奇策か、あるいは全く別の攻略筋……。

「ライダー、天人たちに私を守らせなさい。セイバーはマスター殺しを狙ってくるはずよ」

「そう言えば、マスター様をやられると妾の負けとなるのでしたね。いいです。皆様、マスター様を守って。蟻ん子一匹通してはいけませんよ」

 ライダーがそう指示すると、どこからか白装束に身を包んだ天人たちが現れて、葉月を守るように周囲を取り囲む。

「それでは、見せてもらいましょう。人類史に名を残す剣士様のご勇姿を」

 万全の状態となったのを見計らって仕掛けたのは、ライダーの方から。

 サーっと、白く透ける衣を棚引かせながら、軽く腕を振るう。

 すると、宙より枝葉が生まれでて、セイバーを取り囲むように襲う。

「これは、前回見せていただきました。同じとは芸がありませんね」

 ただ、前回はマスターを庇いながらの戦いだったセイバーは、今は一人思う存分に刀を振るうことができる。

 鞘から刀を抜き放ち、眼前のライダーに向かって構える。

 それだけにしか見えない動きを見せたセイバーの周囲を取り囲んでいた樹の枝たちが、ひとりでに千千に裂かれて地に落ちていった。

 否、その一本一本はセイバーの刀の、目にも留まらぬ妙技のもとに斬り伏せられたのだ。

「まさか、攻撃手段はこれだけですか?」

 ライダーはオーケストラの指揮者のごとく、セイバーに向かって腕を振るい続ける。

 しかし、もはや樹の枝が現世に姿を見せることはなく、次元の裂け目は現れるとともに真っ二つに分かれて消えていく。

 それをライダーの姿を見据えたまま、セイバーは片手間のごとく行っていく。

 想像を絶するセイバーの剣の技量に、葉月はもしかするとライダーは勝てないのではないかと心配になる。

「それでは、こちらから参ります」

 消える。

 空を裂く音。

 それを目で追っていくと、前方にあったはずのセイバーの姿が、既にライダーを越えた後方の中空にあった。

「あら、流石は剣聖とうたわれるほどの名高き剣士様」

 ライダーはしとやかに、口元に手を当て微笑もうとする。

 しかし、その動きに肘から先は付いてこれずに、重力に任せて落下していく。

「いけない。どうしても癖で動こうとしてしまいますね」

 けれど、それがどうということでもないと振る舞う。

 その余裕たっぷりの姿を見て、葉月は本当に大丈夫なのか、頭がおかしくなっているだけではないのかと、やきもきする。

「腕の一本や二本。差し上げても構いません。ただ命はいただきましょう」

 ライダーの失われた腕が生えてくる。

 自由自在に空間に樹の枝を生やしているのと同じように。

 それが樹ではなく、肉であるだけのこと。

 皮膚と血と骨が、のたうち回るように周囲を覆って、収束していって腕となる。

 そして、その手には、蔓を編み上げて作られた剣が握られていた。

「剣の勝負ですか?」

「ええ、お得意でしょう?」

「望むところです。稽古をつけて上げましょう」

 不思議な歩法で屋上に戻っていたセイバーと、宙に舞い続けるライダーが再び相対する。

 先に動き出したのはライダーだった。

 セイバーと変わらない速度で、力任せに一太刀浴びせる。

 しかし、こともなげに刃を合わせて受け止めるセイバー。

 ライダーは、弾き返された剣を返して横薙ぎ一閃。

 セイバーがそれを、一歩後退し、紙一重で避ける。そのまま剣の通り過ぎた刹那に踏み込み袈裟斬り。

 そこまでが、瞬きの間に行われた。

 当然、常人である葉月の目には止まらず、ライダーの身体を斜めに切断された状態からシーンが始まる。

「流石に剣のみの勝負では勝てませんか」

 右腕を生やしたときと同様に、肉が生まれて切断面を修復していく。

「こちらとしては、身体を真っ二つにしても無傷というのは、自身を無くしそうですが」

「ならば、合わせ技ならどうでしょう」

「問答は無用でござるか」

 宣言どおりに剣を振るうだけでなく、同時に空間に植物を生み出す力を用いて襲いかかるライダー。

 セイバーは一つ一つ確実にいなしていく。

 しかし、先の攻防と同じような手順で間を作って反撃というわけにはいかず、しばらく防戦一方になる。

「ほらほら、いつまで持つでしょうか」

「……仕方ないですね」

 セイバーが意を決して呟き、その眼をカッと見開きライダーを捉える。

 青白く光るそれに見入られた瞬間、剣と刀のぶつかり合う瞬間であったが、ライダーは蔦の剣を放り出し大きく後退する。

 セイバーは、その主を失った剣を軽々と両断した。

「驚きました。確かにチラチラと漏れ出ていましたが、勘違いだとばかり。まさか雷神の力を身に宿しているとは……」

 これまでの余裕の表情を崩して、この戦いの中で初めて驚愕した様相を見せるライダー。

 もはや、今までのように不用意に近付こうとする素振りを見せない。

「生前、運良く授かりまして」

「けれど、それは人の身には余るものでしょう」

「ええ、ほんの一時しか使えません。加えて単体では無意味。正しく斬れねば効果なしと、中々都合よく使えるものでもありません。……ですが、これで拙者を侮ることはできなくなったでしょう?」

「勿論。もはや、油断などしてあげられませんよ。全勢力をかけて叩き潰して差し上げましょう」

 その言葉とともに、街に散らばっていた天人たちが、一直線に主の元に戻ってくる。その数、総勢百にも及ぶ大勢力。その一人一人が精鋭中の精鋭。

 もはや、ただ一騎のみ存在する一騎当千などには、勝利の可能性はない。

「これを待っておりました」

 しかし、剣士は待ちかねたと、一つ一つが己と対等に立ち合える百に臆することなく立ち向かう。

「このように一人ではありませんでしたが、なぜか初めて戦場に立ったときのことを思い出しますね」

 様々な武器を手に持った白装束が、一人の侍を決して逃すまいと取り囲む。

「さあ、かかりなさい」

 ライダーの号令とともに機械のような統制の取れた動きで襲いかかる。

「さて、時間稼ぎ。……ではありますが、倒してしまうのも一興!」

 

 

 

 天人たちが屋上に集ったおかげで、警備する者のいなくなった屋敷内。

 弥生の閉じ込められている座敷牢の部屋の扉が静かに開く。

「…………」

 弥生は内心緊張しながらも、その感情を上手く外に出すことはできず、じっと入室者の動向を部屋の隅で座りながら待つ。

「助けに来たぞ」

 初対面の人だった。

 いや、もしかしたら会ったことがあるのかもしれないと記憶を掘り返そうかと思って、やっぱりやめる。

 一度、出会っていたならば、そうそう忘れることはないだろう印象的な格好をした人だった。

「……何かのコスプレですか?」

「一言目がそれかよ。っていうか、お前も人のこと言えないと思うぜ」

 そう言われて、弥生は自分の格好を見返してみる。

 使用人の服。弥生には馴染みのある服装だけれど、世間一般的には確かに仮装のイメージが強いのかもしれない。

 自分を害しに来たわけじゃないと分かると、弥生は不思議な服装の青年への興味が湧いてきた。

 木の格子で外の世界と隔てられている分、心理的に楽さがあったのもあり、立ち上がって格子の側まで近づいてみることにした。

「……あなたは誰? ……臭い?」

「随分な言われようだ。実際に下水道を通ってきたから臭いかもしれないが」

「下水道……に住んでる?」

「いや、一般的な家屋に住んでる。名前は如月拓斗。アーチャーのマスターをやっている」

「アーチャーの……」

 弥生がそれを聞いて思い出すのは、波彦が苦手そうに話していた記憶。

 夕暮れに家に襲撃してきて殺されかけたといっていた。

 ただバーサーカーとの戦いの中では共闘したとも聞いている。

 立ち位置の良くわからない人。

 弥生は今、実際に相対してみて、悪い人ではなさそうと感じた。

 第一声の「助けに来たぞ」から察するに、弥生のことを救出しにきたのだと思われる。

 それはすなわち、現時点で再び協力関係を結んでいるということ。

 格好は相当に奇抜だけど、考え方まで奇抜なわけではない。

 協力関係を結べるだけの信頼に足る人物。と、仲間が認めている(波彦は違うかもしれないけれど)ことが、弥生にとっては何より信頼をおいても良い証だった。

「今出してやるからな、待ってろ」

 如月が、弥生を閉じ込めている錠を外しにかかる。

 少しだけ苦戦をしていたが、程なくして檻の扉が開かれる。

「ほら、もう出れるぜ」

「……ありがとうございます」

 開かれた扉から出る。

 弥生は、それだけで、檻の中の鬱屈とした空気から開放された気がした。

 隔てていたのは、木の格子枠で檻の外も同じ空気が漂っていておかしくなさそうなものだけれど。

 もしかしたら、ライダーの魔術的な結界の要素があったのかもしれない。

 何にせよ、張り詰めていた気が抜けた。

 くぅ~、と弥生のお腹が鳴る。

「…………」

 弥生は、そういえば、今日の朝から食事を取っていないなと思い出した。

 少し恥ずかしくて、如月の顔をじっと見つめて、これはそういうのじゃありませんよと目で訴えかける。

 いや、実際にお腹は空いていて、何がそういうのじゃないのか分からないけれど。

「腹、減ってるのか? じゃあ、こんなのは――」

 如月が弥生の前に、空を握った手を差し出してくる。

 そして、手を開くと饅頭が生まれていた。

「食うか?」

「…………」

 背に腹は変えられず、弥生は目の前に差し出された饅頭に、パクと食いつく。

 その様子を見た如月は、自分から差し出したのにも関わらず、驚いたような顔をしていた。

「……おいしい」

「そりゃ、良かった。他の連中には受けが悪かったんだけどな」

「みんなは……?」

 如月が弥生の救出に来たということは、波彦や神無たちがライダーを足止めないし、打倒のために戦っているということだろう。

 ライダーは不思議な力を持つ宝具をいくつも持っていた。

 強敵だろう。

 それに立ち向かっているであろう仲間のことが、心配でならなかった。

「そうだな、そろそろ頃合いだろう。見物させてもらうとしようか」

 如月が座敷牢の部屋を抜けて、弥生を手招く。

 それに従って弥生も一日居続けた部屋を後にする。

 座敷牢の部屋は窓がなく、外の景色を眺めることもできずに退屈だった。

 ただ、それは他の窓がある部屋でも同じだったかもしれないと弥生は思った。

 如月に連れられるままバルコニーのようなところまでやってきたのだが、視界がビニールシートのようなものに遮られて、外の景色はやっぱり見えない。

「後は、連絡を待つだけだが……」

 そう如月が発したのと同時。

 携帯電話のコール音が一つだけ鳴る。如月の所持しているものだろう。

「来たか。やれ、アーチャー!」

 待ちかねたと、如月が彼のサーヴァントに指示を送る。

 同時、視界が開ける。

 一気に屋敷を覆っていた灰色のシートが取り払われたのだ。

 町の明かりが見える。

 夜の星々が見える。

 空には、二つの丸い月が浮かんでいた。

「この屋敷の屋上で、今セイバーとライダーが戦っているぜ」

 弥生は、その言葉に従って屋上の方向を見上げる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22:月の陰り

 波彦はビルから少し離れた、高台にある見晴らしのいい公園まで来ていた。

 後に控えた神経を張る仕事の前に体力を減らさないようにと言われて、走らないように早足でここまで来たが、待ち受ける大役への緊張と坂を登りきった疲れで、心臓の鼓動と息が同時に早くなってしまっていた。

 それらを押さえつけるのに、たっぷり二分間ほどかかった。

 セイバーが戦っているであろうビルの屋上を、落ち着いて見据えられるようになった。

 ポケットから携帯を取り出す。

 通話履歴から、ここ最近頻繁に繋いでいる番号にコールする。

 一コールも終わらないうちに、繋がり声が聞こえてくる。

『はい、もしもし、こちら神無です』

「準備OK。いつでも行けるよ」

『うん、見てた。大丈夫なら、キャスターさんに合図送ってもらうね』

「本当は、もう一回段取りを確認したいところだけど……そんな時間ないだろ?」

『そだね。結構ギリギリかも』

「じゃあ、やってくれ」

『それじゃあ、キャスターさんお願い』

 神無が電話先にいるキャスターに伝える。

 波彦は、その数秒先に起こる出来事のタイミングをコンマ秒も見過ごさないように、ビルの方を食い入るように見つめる。

 そして、その瞬間は、

『今!』

 ビルに被せられていた灰色の養生シートが、夜空に次々と舞い上がる。

 今の時間までに、アーチャーがシートを簡単に外れるように細工していた。それを今、キャスターから出された合図を持って、如月が双子に手分けして打ち上げさせている。

 建物を覆っていたベールが剥がされていく。

 これまでに内部の豪華絢爛な和風建築ぶりは確認しているが、隠されていた外観部分も壮観なものであった。

 例えるならそれは、平安の平たく広い貴族屋敷を無理やり角柱のビル型に詰めたもの。

 建物内部から発生する不可思議色の光で、夜の町にきらびやかに映える。

『……見とれてないで始めるよ、波彦くん』

「……ああ、サポートの方は頼んだよ」

 自分も見とれてちょっと固まってただろ、とは言わないでおくことにする。

 気を取り直して、波彦は打ち上げられた養生シートに目を向ける。

 まずはバラバラに散らばっているシートを、屋上を覆う大きなドームを形成するように念動力で移動させる。

 キャスターが立案し、神無が波彦たちに伝えた作戦は、ライダーのいる屋上の空間ごとシートのドームで覆うことによって、月の光を遮断して弱体化を図るというものだった。

 全てのシートを夜空に一斉に持ち上げるほどの念動力は発揮できない波彦のために、アーチャーによるシートの打ち上げが行われた。

 その空中にいるシートの群れを波彦が念動力で動かして、シートのドームを作り上げた。

 しかし、今作られたドームは不完全。

 ところどころ穴あきで、そこから月光が内部に漏れ出てしまっている。

 そのため、穴を塞ぐように微修正をかける必要があり、それを的確に指示してもらう必要があった。

『上の方……今動かしたのの二つ右側……それを傾けて左側にぴったりとくっつけて』

「……こうかな?」

『OK。次は奥側の横面。少し左下よりの……』

「ここ?」

『おしい。後もう一個下のめくれ上がってるのを、ぴんと伸ばしてもうちょっと内側に詰めて――』

 その指示の適任者は言うまでもなく、千里眼を持っている神無であった。

 ドームの状態を都度確認して、電話越しに波彦に指示を出して調整を行っていく。

 指示を具体的に言語化するのが難しいらしく、作業は中々に混迷していく。

『そこじゃなくて、一つ隣の……逆逆、逆だってば……』

「そう言われてもなあ」

『感じて』

「流石に、そういうエスパーじみたことは……」

 それでも次第に息があってくる。

 現実の視界が邪魔に思えてきて、目を閉じ電話越しの神無の声に意識を集中させる。

 そのうち、少し曖昧な言葉でも、神無の言いたいことが分かるようになってくる。

『手前左下の――』

「ああ」

『右下のちょっと奥側――』

「これかな」

『奥側の――』

「ここだ」

 神無の声が、波彦の視界になっていく。

 まるで感覚を共有しているかのように感じる。

 そして、シートが夜空に打ち上げられてから一分足らず。正確には五十二秒経過したところ。

『そこを閉じて……』

「うん」

『………………うん、どこも問題なし。全部塞がったよ』

 屋敷の屋上に月光を遮る養生シートのドームが完成した。

 後はセイバーがトドメを刺してくれることを、祈って待つだけ。

「そうだ、ここで使うって決めてたんだったな」

 セイバーのことを考えて思い出す。

 右手の甲、そこに描かれた文様に目を落とす。

 たった三画。

 貧乏性の波彦は置いておきたくなる衝動を振り切って、意を決する。

「令呪をもって命じる。セイバーの身体を万全の状態に回復して、立ちはだかる敵を打ち倒す力を」

 波彦の願いを聞き届け、一画の令呪が宙に霧となって消えていく。

 これで本当にやれることを全てした。

 今度こそ本当に、波彦たちにはセイバーの勝利を信じて待つことだけしかできなくなった。

 

 

 

 ライダー。なよたけのかぐや姫。彼女は日本最古の物語である『竹取物語』に登場する月人の姫。

 竹取の翁が偶然山で見つけた光る竹を切ったその中にいるのを保護されたところから、彼女の人としての生は始まる。

 人としてはありえない速度で成長していくかぐや姫を、翁は不思議に思いながらも実の子のように大切に扱い、またたく間に絶世の美女へと成長していく。

 かぐやには、物心ついたころより自分の出自に対しての自覚があった。

 姫でありながら月を追放された身。

 いつか自分が許されて故郷の月に戻るその日まで、せいぜいこの老人を利用してやろう。

 人とは違うかぐやのことを奇妙がったとしても瞳に宿る魅了の力を使って。

 そういうつもりで、翁が世話をすることを許していた。

 けれど、人とはまるで成長速度の違うかぐやを見て、きっと気持ち悪くなって捨てるに違いないという懸念を抱いていたかぐやに対して、魅了するまでもなく翁は変わりなく本当の子に向けるような純粋な愛情を持って接してくる。

 それでも、一度二度のことで、かぐやの心が氷解するようなことはなかった。

 五年。

 その長い期間、変わらぬ愛情を受けてようやく、かぐやは観念して、翁を育ての親として認めることにした。

 だから、この後の翁に対して、中々に無碍にできなかったところがある。

「かぐや、お前にまた客人が来ている」

「またですか。お断りいたしたいのですが……」

「そう言わずに一度会ってくれないか?」

「もう仕方ありませんね」

 こんな調子で、かぐや姫の美貌を聞きつけた貴族たちと面会を行うことが何度となくあった。

 この数年で、かぐやが金運を引き寄せたので、翁は裕福な暮らしができるまでになっていた。

 それでも、貴族たちには頭が上がらず、逆らったら殺されるがために、なくなく貴族の要望に沿うようにかぐやとの間を取り持つようなことをしなければならなかった。

 ただそんな貴族たちも大半は、かぐやがずっと素っ気ない態度を取っていると、いくら美貌があってもあんな愛想のない女はいらないと去っていった。

 けれどそうやっても引き下がらないやっかいなのが、五人ほどいたので、それらには暇つぶしで絶対に入手できない貴重品の入手を条件にあげて追っ払ったりもした。

「かぐや、お前に会いたいという方が――」

「またですか。懲りませんね。今度はどこの貴族のお方でしょうか? 断ってくれませんか」

 流石に飽き飽きしてきたかぐやは、その頃になると貴族相手でも、翁に断りを入れさせるように頼んでいた。

 かぐやがそう言うと、この頃には貴族に対抗できるほどの富を有していた翁は、かぐやのことを尊重して、貴族相手にも門前払いをするようになっていた。

 けれど、その日の翁は食い下がってくる。

「かぐや、今日の相手はそういうわけにはいかないのだ」

「お爺さまが、昔にお世話になった相手の子供とかでしょうか?」

「その程度の相手なら、断っている」

「では、どなたなのでしょう?」

「とにかく会ってくれ」

 と頭を下げて頼まれるので、断りきれずに会うこととなる。

 とにかく部屋に居てくれ、来てもらうからということなので、かぐやは一つその客人とやらをからかってみることにする。

 人には決して真似できない月人の持つ力で脅してみるも、その客人は怯えはせず姿を見せてくれないか、どうか自分とともに来てくれないかと誘ってくるような変わった人物であった。

 後にそれが、宮に住まう帝であったことを、かぐや姫は知る。

 帝はその訪問の後から、流石に訪問しに来るほど暇ではないようだったが、そこそこの頻度で手紙やら歌やらを送ってきた。

 かぐや姫は、最初の頃は面白がって皮肉を交えて返信を行っていた。

 どうせ帝ほどの人ならば、かぐや姫のことなど、二、三月もすれば忘れてしまうに違いない。そう思って、それまでの間ならばと付き合ってみることにしたのだ。

 けれど、三月どころか、一年、二年経っても帝は、誠実にかぐや姫との文通を続けている。いつしか、この人はどういった人なのだろうかと、こういったことを書けばどんな返答が返ってくるのだろうと、楽しみにするようになった。

 きっと、気づかぬうちにその気持ちを抱かされていた頃から、かぐや姫は帝に惹かれていたのだろう。

 そうして帝との文通から三年経った頃、忘れかけていた場所からの連絡が来た。

『もう戻ってきて良い。次の満月の日に迎えに行く』

 本当の故郷である月からの連絡であった。

 かぐやは戸惑う。昔は待ち遠しくて仕方なかった月への帰郷。

 けれど、今は幾人かの大切な人が地上にできてしまった。

 だから、彼らとの別れが近づいて、かぐや姫は柄にもなく夜な夜な涙を流すことになった。

 夜泣きに気づいた翁に迎えに来る話をし、それを聞きつけた帝が月人がかぐやを連れて行くのを阻止しようと私兵を使わせることになった。

 しかし、それではどうしようもないことを、月人の兵たちを退けるには敵わないことを、かぐや姫は分かっていた。

 だから、どうにかできないか、考えに考えて一縷の希望を、月の世界でも飛び切りの秘宝である不死の霊薬を帝に渡すことによって、繋ごうと考えた。

 かぐや姫の思ったとおり、地上の者に月人の邪魔はできずに、帰郷の車に乗ることになる。

 だが無事に帝に不死の霊薬を渡すことが叶った。

 これはかぐや姫からの暗のメッセージの籠もったものだった。

 かぐや姫が、月の民たちを説得して、月から今度地球に行くことができるようになるのは、途方もなく先のことになるだろう。それこそ人の生の長さでは待ちえないほどに。

 だからどうか不死の霊薬を飲み、長い長い年月を待っていて欲しい。

 その後に結ばれましょう。

 そう思って渡したものだった。

 けれど、帝はかぐや姫を失った悲しみで、不死の霊薬を焼いて捨ててしまう。

 ああ、違うのに。

 そうじゃなくて、不死を受け入れて、いつまでも待っていて欲しかったのに。

 そうしたら、いつしかあなたにもう一度月から遥々逢いに来ましたのに。

 そのようにして終えてしまった恋を取り戻すのが、かぐや姫の聖杯にかける願いである。

 分岐点である帝の選択肢。

 それをどうにかして捻じ曲げて、帝に地球で自分のことを待っていてもらう。

 それこそが、かぐや姫の願いであった。

 

 

 

 落ちていく。

 月の加護を失ったライダーは、空中にとどまっていることができずに、為す術なく落ちていく。

 そして月の力によって形作られていた百余りの月人も、原型を維持できずに空の中に融けるように消えていく。

「ああ、どうして。月が消えていく。妾の力が失われていく」

 もがくように天に空を伸ばす。

 けれど、見えなくなった月に届くわけもなく、溺れるように落下を続けていく。

「やり遂げたのですね、マスター殿」

 セイバーは、ドームに月光を遮られて、もはや薄れつつある月人の発光しかない暗闇の中で、自らのマスターに対して称賛を送る。

 後はセイバーがしくじらないように、一振り浴びせれば終わり。

 それを後押しするように、令呪の援護によって、戦いで受けた傷が回復していく。

「真っ向勝負という形では、拙者の勝利はなかったでしょう。そこに答えてあげられなかったのは、武人として心苦しいところではありますが……」

 ライダーの落下位置を見定めるように、セイバーは剣を構え直す。

「せめて一太刀で終わらせましょう。これこそは、形なきものを捉える退魔の力」

 セイバーは、その瞳に青白く光る雷神の力を宿す。

 いくら身体が回復したとはいえ、燃費の悪いその力をもう何度も使えるほどの余裕はない。

 すなわちそれこそが、次の一撃でこの戦いを終わらせるという決意の証。

「一之太刀」

 セイバーの絶技が、落下してきたライダーの急所を的確に断ち切る。

 二つに裂かれたライダーの上半身と下半身とが、別々の場所に同時に落ちる。

 もはや、妖か精霊の類と化していたライダーに対して、実体を捉えるセイバーの退魔の力は効果てきめんだった。

 ライダーは、天に向けて手を伸ばしたまま事切れる。

 そして、空に解けゆく月人とともに、夜空に霧のように消失していった。

 役目を失った養生シートのドームが力尽きたかのように崩れ、夜風にはためきながらゆっくりと落ちてくるのを横目に、セイバーはもう一つの落下物を受け止めに向かう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23:不殺の意味

 葉月は、最初イタズラで瞼を糊付けされたのかと思った。

 それほどまでに、気を取り戻してから、ただどうなっているかを確認するために目を開くだけなのに、全力の力を使わなければいけなかった。

 そうして、ゆっくりとゆっくりと目を開く。

 世界は白く霞んでいた。

 そして、片側にしか存在していなかった。

「………………ぁ」

 これは、と言おうとして掠れた音しか喉からは漏れ出なかった。

 何かを考えようとすると、頭にノイズがかかるようにして考えようとしていたことが阻害されて、何をしようとしてたのかすら分からなくなりつつある。

 それでも、ぼーっと見えるものを眺めて理解していく。

 世界が片側にしか存在していないのは、葉月が横向きに寝ている状態にあるから……。

 いや、この感覚は、それだけではないのだろう。

 そこで初めて、上側になっている左の瞼しか開けていないことに気付いた。

 状況の確認に努める。

「…………を、覚ましま……か?」

 ノイズ混じりの声が、左側から聞こえてくる。

 身体全体に伸し掛かる途方もない気だるさに逆らって、平らじゃない地面に手こずりながらも首を少しずつ捻って、眼球もいっぱいに声のする方に向けて、十秒はかけてようやく声の主の姿を視界におさめる。

 キャスターのマスター。

 相変わらず無表情の顔が、覗き込むように葉月の顔を見下ろしていた。

 それで、葉月はようやく現状が掴めてきた。

 葉月とライダーは敗北したのだ。

 そして今、葉月は不死の霊薬の副作用を受けている。

 あの霊薬は、飲んだ人間の身体の造りを月人のものに近づけることで、魔力量を増大させるものであった。

 しかし、人間はそう簡単に月人の身体の形になれるわけもない。人魚の肉を食べるときのように、適合しなかった人間は命を落とすこととなる。

 葉月は当然ながら適合できなかったということらしい。

 地上人の身体に月人の血を流した際の拒絶反応が起きている。

 身体の崩壊が始まっているのだ。

「……なたの、話を聞いたとき…………父親に捨てられた…………気持ちなんて分からないと聞かれたとき、……たしは、分からないと答えました」

 ゆっくりと耳元で囁くように語りかけてくる少女。

 ぶつぶつ途切れが少なくなってくる。

 偶然チューニングが合ってきているのだろう。

 断線したケーブルが偶然接触不良を改善して、生きているように見せるかのように。

 なんて腹の立つ偶然だろうか。

 この女の話なんて聞きたくもないのに。

「わたしは、小さい時に両親をなくしています」

 なるほど、捨てられた気持ちなんて分からないわけだ。

 いなくなったのだから。

 だからなんだというのだ。

 不幸自慢なんて聞きたくない。

 自分が不幸さで優位になって、お説教話を始めるつもりなのだろう。

 葉月は、少女の口を塞ぐか、自分の耳を塞ぐかして、話をシャットアウトしたかった。

 けれど、そうするための手は動かせないので、聞き続けるしかできなかった。

「交通事故でした。わたしが家で留守番をしているときに。わたしは、その時は幼すぎて、両親を失くしてしまったことにすら気づくことはできませんでした。後で気付いて、その時にようやく泣くことができました。ただ、両親の死についてはそれだけでした。

 ……それよりも辛かったのは、その後に起きたことです。

 両親の莫大な遺産を相続したわたしに近づいてくる大人たちは、どうにかしてそれを引き出させようとしたり、騙し取ったりしようとする人たちばかりでした。最終的には、一番信頼していた人にすら裏切られることになりました。

 そして、わたしは最近まで誰とも関わらないようにして生きてきました」

 少女の話を聞いて、葉月はやはりかという気持ちになった。

 自分の方がより不幸だ。

 だから、お前が父親に捨てられて一人親で生きてきたことなんて、ただの世界にありふれた不幸の一つに過ぎないというマウント取りなのだ。

 そういう意図があるような話口調だと、葉月には取れてしまう。

 少女の話の次に続く言葉はきっと、『だから自分だけが不幸だと思うな』という言葉に違いない。

「だから、母親と一緒に暮らしているあなたのことは、尊敬に値すると思いました」

 しかし、キャスターのマスターの口から出てきたのは、思いもよらない言葉だった。

 葉月は困惑する。

 このままでは、文脈が繋がっていないように感じる。

「ひとしきりの不幸が終わったとき、わたしが思ったのは、わたしが悪かったということでした。

 おかしいですよね。普通に考えれば、騙そうとしてくる人たちが悪いはずなのに。

 でもわたしは、わたしに不幸が降りかかるとき、わたしが悪かったからと思ってしまうんです。

 両親が死んだのは、わたしが悪かったから。

 親戚全員が両親の遺産を騙し取ろうとしてくるのは、わたしが悪かったから。

 家族同然だと思ってた家政婦さんに裏切られたのも、わたしが悪かったから。

 何かが起きる度に、わたしやその周囲の人が不幸に陥る度に、わたしはわたしの悪かったところ探しを始めてしまう。

 そうして、最後にわたしは誰とも関わらないように、一人の世界に閉じこもることでその連鎖から逃げました。

 だから、不幸を背負っても立ち向かい続けてきた、そんなあなたの生き方は尊敬できると思いました」

 少女の尊敬の言葉は、葉月の胸には響かない。

 響いてなんてやるものかと思った。

 ただそれでも、少女の言葉によって、葉月は自分の中の想いに一つ合点がいった。

「…………っかぁ」

 そっか、私は私のせいでこうなっているんだと思っていたんだ。

 という納得を葉月はする。

 葉月が母の胎内に宿ってしまったから、母は父に捨てられた。

 葉月を育てるために、母は他の一切を捨てて働き詰めの生活を余儀なくされている。

 葉月のために、母は自分の幸福を捨てなければならなかった。

 母親の周りの幸福を奪って生きているような感情を、心の奥底で無意識に抱いていた。

 少女は、葉月のことを不幸に立ち向かい続けてきたと形容したけれど、それは違う。

 なんてことはない、ずっと目を逸らして生きてきただけなのだから。

 でも、母を想う気持ちだけは間違いなく偽物じゃない愛だと言い切れる。

 なぜなら、葉月が聖杯にかける願いは、母親のことを思ってのものであるのだ。

 母親と父親の復縁。

 昔、父が母を捨てなかったイフの世界。

 葉月も交えて三人で、いやその後妹や弟が生まれて、家族は四人や五人になっているかもしれないが、家族みんなで幸せに暮らすこと。

 母親を捨てていった父親に、今度はとびきり家族想いの優しい父親になってもらう。

 そんな、意趣返し。

 それこそが、葉月が命を賭してでも叶えたい願いだった。

 残念ながら賭けには負けてしまったようだけれど。

「…………たい」

 最期に、これだけはと恥を忍んで、キャスターのマスターにお願いすることにした。

「…………けー……たい……ま……うけ……」

 絞り出すように声を出す。

 少女は気付いてくれたらしく、葉月の服のポケットをごそごそと漁りスマホを取り出す。

 母親が葉月に買ってくれた超格安契約のスマホ。

 その待受のロック画面には、葉月にとってとても大切な人の画像が使われている。

「…………これで、いいですか?」

 少女が葉月の目の前に、ロック画面を見やすいように近づける。

「……………………がと」

 葉月の感謝の意思は伝わったような気がした。

 もう少女の反応を見るだけの余裕もない。

 白く薄れゆく視界の中、食い入るように画面を見つめる。

 もはや叶わない夢に思いを馳せながら、葉月は最期の時を迎えた。

 

 

 

 ライダーのマスターの少女の最期を看取った波彦は、なんとも言えない気持ちを抱えていた。

「スマホの待受、アイドルの画像だったな」

 もう二十年近く芸能界でトップを走り続けている国民的アイドル。正直おじさんと言っていいくらいの年齢になっているはずだ。

「よっぽど好きだったんだろうな」

 聖杯戦争の関連で人が本当に死ぬところを見てしまった波彦は、現実を直視するのが怖くて、核心の部分に触れて言うことができない。

 それに、最期は眠るように安らかに息を引き取ったのだ。

 今だって、それが本当に最期だったのか確証が持てないくらいに。

「なあセイバー」

「なんでしょうか、マスター殿?」

「セイバーは、マスターを殺して勝つ策に反対してたよな?」

「はい、拙者は彼女のことを殺して勝利を得るべきではないと思いました」

「無駄になっちゃったな……」

 波彦たちは最終的には、一番可能性の高い綱渡りとして今回の作戦を決行した。

 一番可能性の高いのがマスター殺しではなかったのは偶然で、マスター殺しが最善の手であるケースも少なくないだろう。

 不殺というのは、その選択肢の全てを排除すること。必然、行動に大きな枷がかかることになる。

 自分にそれだけの枷をかけた結果が、結局ライダーのマスターが命を落とす幕切れになってしまった。

 それじゃあ、不殺の意味なんてなかったではないかと、そんなことを思ってしまっても波彦はおかしくないだろう。

「マスター殿は、この光景を見て本当に無駄だったと思いますか?」

「………………」

「質問を変えましょう。彼女が戦闘の中で命を落としていたとしたら、あのように穏やかな最期だったでしょうか?」

 例えば、天に浮かぶ車の中にいた彼女にこっそりと近づいて暗殺する手段があったとしたら……。

 彼女の最期は、何も気づかないままか、驚いて一瞬だっただろう。

 それは、確かに穏やかな眠りの時とは言い難いかもしれない。

 けれど、死んでしまったら何も残らない。

 穏やかに死ぬのと、驚いて一瞬で死ぬのと、一体何の違いがあるというのだろう。

「拙者は、それなりに信心深い人間なんです。魂というものがあることを信じている」

「魂……?」

「はい、人は死した後ただの土くれに返っていくのではなく、魂となってあの世に行く。そのあの世に行く時には、満たされた穏やかな状態で送り出してやりたいではないですか」

 セイバーの言っていることは分かる。

 ただ波彦は、どうしても納得をつけることはできない。

「今すぐに受け入れるというのは確かに難しいでしょう。拙者は受け入れるのに三年もかかりました」

「三年後…………は、聖杯戦争はとっくに終わっているだろうな」

「そうですね」

 今のモヤモヤした気持ちを払拭させるために、一秒でも早く答えが欲しい波彦にとって三年は途方もなく長い時間に感じる。

「今回のことに関して拙者の見解としては、マスター殿たちの尽力のお蔭で、彼女は魂を救われてあの世に穏やかな気持ちで行くことができた、とそういったところでござる」

「喜んでいいことなのかな?」

「ええ、勿論。誇っていいことです」

「そうなのかもな」

 少し無理やりなセイバーの結論づけを、波彦は心持ちを払拭できないながらも、素直に受け取っておくことにした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24:七不思議と忍び寄る災い

 ライダーとの戦いから数日が経ち、当初は沈鬱な雰囲気が漂っていた屋敷の空気も和らぎだしていた。

 この数日、波彦たちは残るアーチャーとアサシンの打倒のために、調査を行っていた。

 特に未だ謎多きベールに包まれた状態のアサシンの情報を求めて、神無が見たというアサシンの大量殺戮の現場に痕跡がないか確認しに行ったが無駄足に終わった。

 何か少しでも手がかりはないかと探すものの、何も発見できずに終わる日が続いて、アサシンの調査が始まった頃からの進展は一切と言っていいほどにない。

「アプローチを変えてみない?」

 神無の提案はいつも突然である。

 多分、進展がない状況に飽きて、別のことをやりたくなったのであろうと波彦は憶測する。

「それは、どんな?」

 とはいえ、波彦も似たような気分であったので、彼女の話を促す。

「藤之枝の七不思議って知ってる?」

「ああ、そう言えばそんなのあったな」

 最近、人々の間でまことしやかに語られている都市伝説である。

 その話は、波彦の場合は教室で誰からともなく話されていたもので、一週間以上の休みの間にすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

「その内容って、聖杯戦争に関係するものばかりだって思わない?」

「……どんな話ですか?」

 興味を持った弥生が話に混じってくる。

 ライダーとの戦いから心境の変化があったのか、彼女の方から積極的に波彦に声をかけてきてくれることも多くなった。

「例えば、一つ目は最近若者が超能力に目覚めたっていう話」

「わたし、神無さん、波彦さん、睦月さん、…………ライダーのマスターさん。如月さんは分かりませんが、参加者のマスターは全員が超能力に目覚めていますね」

「むしろ、超能力に目覚めることがマスターになる条件なんじゃないかな。如月も、俺を襲った時に変な能力を使ってたし、ほぼ間違いないと思う」

 波彦は黄昏時の如月たちの強襲のことを思い出して、度々そうしているように苦々しい気持ちになる。

「これまでに戦ってきたマスターたちが超能力者なら、アサシンのマスターも超能力者だから、その線で探してみようっていう話?」

「いや、それもあるけど、他の七不思議のことも気になって。……じゃあ次、人間の赤ん坊を食べる夜に徘徊する巨大な狼」

「……バーサーカー」

「正解!」

 銀色の巨躯を持つ狼の姿のバーサーカーに立ち向かった記憶は、波彦の脳裏にも強く焼き付いている。

「じゃあ、次の夜空に二つ昇る月は?」

「ライダーのマスターの超能力か」

「住宅街に突然現れる謎の洋館――」

「……ここのこと? わたしが隠しちゃってるのを解いた時を誰かが見ていた?」

「ヘンテコな遺跡が現れて、『勝負しようぜ』とどこからか声が聞こえてくる」

「アーチャーの宝具か。っていうか、これ数合わせじゃなかったのか。この話のせいで、俺の中での信憑性がガクッと落ちてたのに」

「という風に、確認されているものは全て、聖杯戦争に関係することになっているので、まだ確認できていない残り二つも確認する意味があるのではないかと思うわけですよ」

 神無の言う通り、七不思議について調査する意義はありそうだ。

「で、残りの二つってなんだった?」

「あ、本当に覚えてないんだね。まあ教えてあげる。一つは宙に浮く人の首、もう一つは出口のないトンネル」

 そう言えば、そんな話だったかなと波彦は自分の記憶を掘り起こして照合させる。

「このうち、宙に浮く人の首の方は、誰か運良く見た人に伝聞で情報を得るしかないわけだけど、もう一方は能動的に探しに行ける」

「……出口のないトンネル」

「そう、今からみんなで噂を確かめに行こうと思って」

 そんな感じで、その日の行動が決まった。

 

 

 

 調べた結果、件のトンネルは市の境にある山をくり抜いたトンネルで有ることが分かった。

 平日の昼間から、七不思議の解明をしようなんていう変わり者は他にいないらしく、町外れのトンネルの周りには事情を聞けそうな人は誰もいなかった。

「むしろ、誰にも見られることがないというのは好都合ということで」

 セイバーに車椅子を押されながら、やる気十分な神無。

「……どうなっているのか楽しみ」

 少し早めに先を行く車椅子に送れないように、ちょこちょこと少し忙しない足取りでついていくメイド服の少女。

 あの一件から、弥生の認識阻害は敵側にバレてきていることが判明した。そのため、ビクビクと怯えて屋敷の内に留まっている意味はないとのキャスターの意見により、ここ数日の調査には彼女も同行するようになった。

 波彦としては、セーフティーが外れたようで不安ではある。ただ最初にあった頃の他人とのコミュニケーションさえ拒絶しているような彼女が、積極的に行動するようになったというのは良い傾向なのだとは思う。

「ここが、例のトンネル……。なんの変哲もないわね」

 という神無の言葉通り、特に何か変わったところのある場所ではなかった。

 確かに道が蛇行していてトンネルの先までは見通せないが、そこまで古臭くない作りをしていて、近くには田畑や家屋もある何でもない開けた道の先にある。

 内部に明かりが点いていて、日常的に使用されていそうなトンネルであり、なぜここを七不思議の場所に加えようと思ったのか分からないほどに神秘性が一切ない。

「流石にこれは、嘘情報を掴まされたんじゃない」

「うーん、そんな気もする」

「さっさと、調べて帰ろうか。このトンネルが隣町にちゃんと続いてたら、噂は偽物なんだろ? 神無さん、千里眼で見てきてよ。……というか、最初から千里眼で見に来てたら良かったのでは?」

 流されるように、この場所までやってきてしまった後に、波彦は無意味な遠征だったことに気付いて、少し落胆する。

「あー無理だよ。言ってなかったかな? 私の千里眼って、市内限定だから」

 そういえば、そんなことを言ってたような気もする。

「だから、現地まで行こうって言ったのか」

「そういうこと。……ってことで、波彦くん、コレ」

 神無は笑顔で懐中電灯を差し出してくる。

「見てこいってこと?」

「うん、私たちはここで見ててあげるから、確認してきて」

 問答無用で送り出されることになる。

「別にいいけど」

 懐中電灯を用意する必要もなかった。トンネル内部は、等間隔に配置されたLED電灯に照らされていて足元を見失うようなことはない。

 確かに壁面の詳しいところまでは、懐中電灯の光を向けないと見えなかったが、特に変わったところもない。

 通り抜けるだけなら、全く無用のものだった。実際、途中から注意して壁面を見るのは馬鹿らしくなり電灯のスイッチを切ってしまった。

 トンネル内は陽が射さないこともあり、中々に心地よい環境だった。なんなら、待っている方が辛い役割だったかもしれない。

 散歩気分のトンネル通行も十分も歩けば終わりが訪れる。

 トンネルの出口の光が見えてきた。残念ながら逆光になっていて、先までは見通せないので出口までちゃんと歩いていかなければ、景色がどうなっているのかは見えない。

 けれど、トンネルを抜けて、隣町の景色を確認したら、一報電話を入れてまたトンネルを抜けて調査は終わり。噂なんて所詮は噂だったという証明が完成する。

 トンネルの先に人影が立っているのが見える。

 隣町の人だろう。彼らもトンネルを通っていくつもりなのだろう。なんてことはない、普段から当たり前のように使用されているトンネルなのだ。

「波彦くん、トンネルの先はどうだった?」

 人影が話しかけてくる。

 とともに、トンネルを抜けて人影の輪郭がはっきりしてくる。

「え?」

 それは、トンネルの前で波彦を待ってくれているはずの、セイバー、神無、弥生の三人だった。

 

 

 

 調査の結果、七不思議の噂は本物で、そのトンネルは通り抜けて向こう側に行こうとしても、入り口に戻ってきてしまう代物だったことが判明した。

 波彦が行った後、報告を聞いた神無たちが訝しんでいたため、今度は全員でトンネルに入っていったが結果は変わらず、入口に戻ってきてしまった。

 ただ原理は分からない。

 キャスターにも連絡して意見を求めたが、恐らくは侵入者を拒む結界魔術のような作用が働いているのだろうという曖昧なもの。

 どうしてこうなっているのか。

 誰が仕掛けたのか。

 何の目的で。

 全てが判明しなかった。

 拠点に入れないために仕掛けられたのではなく、藤之枝から出られないようにするように仕掛けられたその魔術のトンネルには何の意味があるのか。

 結局全てが分からないまま、波彦たちはそこを後にする他なかった。

 そんな、帰り道のことである。

「……あっ」

 最初に気付いたのは弥生であった。

 その声に他の三人も気付かされる。

 道の端、側溝の近くに小学生くらいの男の子が、うずくまるような格好で倒れていたのだ。

「キミ、大丈夫?」

 真っ先に動いたのは神無だった。

 自分で車輪を回して側に寄って、バランスを崩しながらも車椅子から降りて、状態を調べながら呼びかける。

「お姉ちゃんの声聞こえる? ……すごい熱」

「――たい、……いたい……よ。あつ……いよ」

 男の子は、絞り出すように痛みと高熱を訴える。

 目元からは涙が滲んでいる。……いや、既に涙の筋が浮かんでいる。

 つまり、一度涙が枯れるほどに泣いた後に、また涙が戻ってくるまでの長い間が経っているということ。

 よく観察すると、少年の身体の所々には痛々しい擦り傷と痣がある。そして、近場のアスファルトには、身体をぶつけた時できたものと思しき痕が残っていた。

「何かの病気? インフルエンザ……って感じでもないよね」

 高熱と聞いて真っ先に思いつく病気だが、波彦たちの知っているそれよりも更に症状が激しいように思われる。

「……別のウイルス性の疾患?」

「とにかく、救急車を呼ばないと」

 波彦が慌てて一一九番に連絡を取ろうとしている中。

「神無殿、少しどいてくれますか?」

 いつの間にか抜いた刀を今にも振り下ろさんと構えたセイバーが間に入ってくる。

「え、えーっ! ちょっと待ってセイバー何するつもり?」

「いや、治療をと思いまして」

「悪い部分を切除して治療的な? ちょっと待って現代医療は、これくらいの病気なら後遺症なしで治せるはずだから」

「ああ、すみません。驚かせてしまいましたか? そんなつもりはないでござるよ。とりあえず、拙者に任せていただきませんか?」

 セイバーがそう優しく言葉をかけると、神無は観念したように、

「もしもこの子に変なことしたら、怒るからね」

 と言いながらも、男の子から離れる。

 それを確認したセイバーは、男の子に眼を向けて集中する。

 セイバーの両目から、青白い閃光が迸る。

 と、同時。

 目にも留まらぬ剣閃が走る。

 気付いたときには、セイバーの刀は鞘に収められていた。

 今子供のこと、刀で斬らなかったかと、その場にいる者が不安に思った中で、

「すぅ……」

 と、男の子が穏やかな寝息を上げて、緊張感が解かれた。

「病だけを斬り伏せさせていただきました」

「心臓に悪いよ。やっぱり剣の達人なら、それくらいできて当然なの?」

「いえ、どちらかというと、刀よりも拙者の眼の方の力です。形のないものを斬ることが可能なのです」

「それ先に言っててくれないかなぁ」

 その後、波彦たちは救急車を呼んで男の子を病院に搬送してもらった。

 救急車を待っている最中に、帰りが遅いと探しに来た男の子の母親が現れて、波彦たちが事情を話した。母親は、こちらが申し訳なくなるほどに感謝の言葉を述べながら、息子と一緒に救急車で病院まで付き添っていった。

 その日起きたことはそれで終わりだった。

 波彦たちは気付けなかった。

 水面下でアサシンの侵攻が始まりを告げていることに。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25:来客

 一夜にして、藤之枝市は死の街へと変わってしまっていた。

 普段どおりなら押し流されてしまいそうなほどに溢れかえる朝の往来は、デバッグモードに突入したかのように人っ子一人いない状況となっていた。

 どころか、探すまでもなくそこかしこに打ち捨てられた人型。

 それは決してデパートが廃棄したマネキンなどではなく、今朝出来上がったばかりの新鮮な死体であった。

 死体の肌には、死の文様のような斑点が浮かび上がる。

 ニキビを酷くしたような粒が、額の先から首筋にまで、顔中に広がる。

 それぐらいならマシな方で、より酷い状態の死体を探すと、指先から手のひらに至るまでが壊死して黒く染まっているようなものまである。

 気付いたときには、街の全てが、そのような酷い状態に陥っていた。

 そして事態が知れ渡るとともに、人々が屋内に立て籠もったために、現在の藤之枝は死の匂いしか漂わないような街になってしまったのだ。

 なお、屋内に立て籠もった者たちにも徐々に魔の手は忍び寄り、着実に命の灯火は消えていっている。

 

 

 

「これで、もう大丈夫だろう」

 キャスターは運び込まれてきた患者の治療を完了する。

 彼、ミシェル・ド・ノートルダムは生前、医者の仕事をしていたことがあった。

 現在では怪しげな予言師としての顔が最も知れ渡っているが、医者や作家といった方面での複数の功績がある。

 屋敷内では、早朝に事態に気付いたときから、周辺住民の救助活動を始めた。

 二時間かけて、道に倒れて生存していた五人を搬送して、治療を施した。

 けれど、犠牲者はその百倍ほどの速度で増加しているだろう。

 焼け石に水もいいところだった。

「やはり、原因を絶たねばなるまい。その原因もおよそ推測することができる」

「キャスターさん、それ本当?」

 いつもどおり真っ先に反応する神無。しかし、それはいつもどおりの明るさに満ちたものではなく、気を張り詰めているような様子。

「ああ、……この症状は生前に経験したことがある」

 どこか遠いところを見るような顔。

「やってもらいたいことがある」

「……わたしたちにできることならやります、ご主人さま」

「ありがとう弥生くん。……他の方々もいいだろうか? 全員一丸となってなさねばならぬことだ」

 静かに頷くセイバー。

 それに続くように波彦。

「睦月くん、圭人くん、君たちもだ」

 バーサーカーの一件から、屋敷に居候している犬吠埼睦月少年。

 アサシンに襲われてから同様に居候している小林圭人少年。

 二人とも突然に話を振られたことに最初驚いていたが、二人して顔を見合わせた後に、意を決したようにキャスターに対して頷く。

「はい」

「分かりました」

「ああ、申し訳ないがお願いした」

 キャスターは二人の目を真剣な表情で見据えて語りかけた後、再びこの場にいる全員に目を向け直し、話を始める。

「これから君たちが行わなければいけないのは、街に溢れかえっていると思われるある生物の駆除だ」

「ある生物?」

「そうだ、その生物はネズミ。この病はネズミに噛まれることで感染していく」

「そう言えば、外に出て患者を運んでいる時に、ネズミの影を見つけたかも」

「ただのネズミと侮ってはいけない。恐らくはアサシンの能力の一つ。もはや魔獣の類だと思ってかかった方が良いかもしれないな」

 魔獣という言葉に、その場にいる全員が、思いもよらぬ大役がやってきたことに気付いて息を飲む。

「と脅かしたが、通常のネズミへの対策が効果的な可能性は高い。現代ではどのような対策を取っているのか調べてもらえないだろうか? 結論が出たら、また話を再開させよう」

「うん、分かったよ」

 波彦たちはキャスターに促され、ネズミの駆除方法について調べ始める。

 そんな中、

「セイバー、少しいいだろうか?」

「何でしょうか?」

 キャスターはセイバーを呼んで、他の者たちに気付かれないように話を始める。

 ………………。

 しばらくして、キャスターはセイバーに対しての依頼を語り終える。

「……それはつまり、そういうことでござるか?」

「ああ」

「弥生殿には?」

「いや、実際にその場面が来るまでは、秘密にしておいてもらえないだろうか」

 セイバーはキャスターの目を見つめる。

 そこにあるのは、覚悟を決めた者の眼差しだった。

「……任された」

「ああ、頼んだ」

 マスターたちには預かり知らないところ、二騎のサーヴァントが約定を結ぶ。

 

 

 

「何だかいけないことしてるみたい」

「……ドキドキ」

 市内にあるホームセンター。いくつかの切断された破片となって落ちている自動ドアを踏み越えて、明かりの付いていない薄暗がりの店内に侵入していく。

 目的は売られているネズミ駆除グッズの購入。……なのだが、資金はあるが残念ながら代金を支払うことはできなさそうだった。

「目当てのものはどこにあるのかな?」

 広い店内、暗がりの中での物探しは困難を極めるだろう。

 手分けして探すことを波彦が提案しようとしたその時。

「わっ!」

 と声を上げたのは圭人。

 とほぼ同時に、セイバーが抜刀。

 残ったのは真っ二つに切り開かれたネズミの死体。

 飛びかかってきて勢いがついていたのもあって、近くの商品棚に叩きつけられた状態で息絶えていた。

「大丈夫ですか?」

「はい、助かりました。ありがとうございます」

 そんなやり取りを見て、波彦は直前までの意見を変える。

「バラバラに行動するのは危ないな。みんなで固まって探していこう」

「さてはビビってるな?」

 うるさい。言わないでくれ。分かっている。とも、恥ずかしくて口に出せずに、波彦は先頭に立って歩き始める。

 入り口辺りで確保した大型カートに必要そうな物品を片っ端から詰めていく。殺虫スプレー、殺鼠剤、ネズミ捕獲用の粘着シート。

 そして、ネズミが嫌がる超音波発生機を見つけ出してから、店内の移動が楽になる。

 それまで一つ棚を超えるのに二匹は現れていたネズミの出現が途絶えた。

 結局大型カート一台では足りず、何台かを使ってネズミ駆除グッズを入り口付近にまで集めていく。

 一通りの作業が終わると、今度はカートを引いて街に繰り出した。

 ネズミの通り道になりそうなところに殺鼠剤と粘着シートをバラまいて、未だに生きている人のいるところを巡って殺虫スプレーと超音波発生機を渡して回る。

 そんな中で、避難所になっていた小学校の体育館内が全滅状態で、酷い死臭が漂っていたのはこたえた。

 家族を失って嘆く人の姿も、これから先のことが分からないにしろ大切な人との再会が叶って喜びを分かち合う人の姿もあった。

 結局、ホームセンター一つで用意できた物資を配り終える頃には、すっかり太陽が落ちて夜が訪れていた。そこまでしても、回れたのは藤之枝全域の一部もいいところ。

「みんな、今日はお疲れ様」

「明日も頑張ろう」

「おー」

 こんな風に、分担して行った一日の作業を終えて集まった頃には、空元気っぽくなるくらいには、各々がへとへとの状態になっていた。夜通し作業するというのはとてもじゃないができそうにない。

 しかし、一夜を超える頃には、被害はさらに拡大して数え切れないほどの人の命が失われるだろう。いや、一夜明けて助かっていてくれたとしても、もはや助けるための対策グッズの数も全く足りていない状況だ。

 この状況を打破するためには、何か根本の原因を取り除く必要があると思われた。

 そう、これがアサシンの宝具なのだと断定するとすれば、これ以上被害が拡大する前にアサシンを打倒する必要がある。しかし、どこにいるのかも分からないのが現状。

 波彦がみんなの顔を見回すと、少なからずの不安が表れているように見えた。

 少し沈鬱な雰囲気の中、帰り道に着こうかというそのとき、携帯電話のコール音が流れてきた。

 神無が、取り出した自分のスマホを、耳に当てていた。

「はい、もしもし。何かあった、キャスターさん?」

 

 

 

 キャスター以外の者たちが出払ってしまった屋敷。

 そのキャスターも、どこか遠くを見るような目をして座ったまま動かないために、夜風の音しかしないような静寂の中にあった。

 その静寂を破るように、尋ね人の到来を告げる呼び鈴の音が鳴る。

「鍵はかかっていないはずだ。さあ、入ってくるがいい!」

 客間から張り上げた声は玄関まで届かないかもしれないが、予想通りならば相手は反応があるかないかは気にもせず立ち入ってくるだろう。

 その間に、一部始終を聞いてもらうために、神無の携帯電話と通話状態にしておく。

 そして、迎える。

 客間に上がってきたのは、漆黒の布に包まれた人型。

 細く長いそのシルエットはナナフシを喚起させる。

 そして、顔は奇抜な色彩の仮面に隠されている。

 神無から聞かされた容貌と一致する。

 間違いない。此度の聖杯戦争に召喚されたアサシンであった。

「お邪魔するよ、君一人だけかい?」

「ああ、待ってたよ。ようこそお越しいただいた、【死神】くん」

 キャスターの返答に、アサシンはしばらくの間、面食らったように硬直する。

「……………………」

 それ対して、キャスターの方も慌てて何か追加で言うこともなく、まるでその空間の時間が止まってしまったようだった。

 ゆっくりと、三十秒は静寂が続いた後。

「あひゃひゃヒャヒャひゃひゃ」

 突如おかしくなったように、笑い声のような奇声を上げながら、長細の身体をよじらせる。

 静寂と同じ時間だけ、笑い続けた後、再び黙ったアサシンは一方の手を、その仮面の上に被せた。

「素晴らしい。大正解だよ、キャスター」

 アサシンは手にした仮面を、顔から外す。

 仮面の下に隠されていた顔が顕になる。

 そこには、肉の付いた人間的なものはなく、根源的な恐怖を励起させるような白色の骨がむき出しになった骸骨の面があった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

26:隠蔽された切り札

「一体どこで気付いたのかい?」

 興が乗ったアサシンは、キャスターの対面に窮屈そうに尊大そうな態度で座る。

「確信を得たのは、今朝、伝染病の患者を診察した時だ。ただ、神無くんの話からおおよその検討はついていた」

「ほう」

 興味深げな態度で、続きを促される。

「今朝に至るまでの段階。神無くんが遭遇したアサシンの情報から得られたアサシンの真名解明のヒントは三つ。

 一、仮面を被って顔を隠していること。

 一、多種多様な武器を有していること。

 一、ランサーが残した『ヴァーリ』という単語」

 アサシンは値踏みするようにキャスターの一言一言に小さく頷く。

 まるで、自分が出題したクイズに答える子供を見守るかのように。

「一つ目は、まさに現在のこの状況が物語っているだろう。

 アサシンの容姿に関する情報の中で、手足の長さや黒衣などの情報からの絞り込みは難しかった。だが、身に付けている仮面からは意図を想像することは容易い。

 当然、アサシンゆえ生前に素顔を晒すために付けていたという線も大きいだろうが、仮面の下を見られると真名を晒すに等しい秘密を知られるがために隠しているという可能性も十分に大きいだろう」

 実際に仮面の下には、今晒している骸骨面という秘密が存在していた。

「二つ目、ランサーとの戦闘と、その前に行っていた殺害方法から、あまりにも武器の種類が多すぎる。……というよりは、時代が広すぎるというべきだろうか。

 セイバーが使うような剣やランサーが使うような槍で一般人を虐殺していたかと思うと、いざランサーとの戦闘では現代的な複数の重火器を使用して戦った。

 そのことから、当初神無くんは銃を用いる英霊に絞って探していたようだが、それでは前時代的な近接兵器をも使用していることについての説明がつかない。

 そして、使用した銃について意味深にも『平和ボケした日本での知名度の低さ』を言及した。ちなみに神無くんが記憶していた特徴から、その銃は【AK-47】というアサルトライフルであることが分かった。この銃は、世界で最も多く使われた軍用銃ということらしい」

 キャスターは自らの推理を一つ一つなぞるように、アサシンに向かって話す。

 アサシンの骸骨の顔からは表情が読み取れず、彼がどういった心持ちで聞いているかを測ることはできない。

「三つ目、『ヴァーリ』とはランサー、ヘズに差し向けられた暗殺者の名前だ。光神を殺めてしまったヘズに激昂した主神ゼウスは、ヘズを殺害するためにヴァーリという子をもうけてヘズの殺害に成功する。

 ランサーが死の間際に、なぜ自らに差し向けられた暗殺者の名前を口に出すのか……。

 考えられるのは、例えばアサシンが実際にヴァーリだった場合。ただ、そうであれば前述した銃を使用するというのは、北欧神話に登場するヴァーリのイメージにそぐわない。

 例えば、北欧神話内における彼自身の行動の悔恨から口を出てしまった。しかし、そうであれば、この場面で実際に口にするのは『バルドル』の方が正しいだろう。

 だとすれば、残されたのは自らの死の状況に『ヴァーリ』と符合する何かがあったのだろう。

 例えばそれは殺害方法。

 アサシンの放ってきた攻撃に、『ヴァーリ』を想起させる要素があった。

 聞けば、アサシンはランサーを殺害するその場面のみ、重火器ではなく近接戦闘をしかけたらしい。そのまま重火器で押し切れる場面であるのに……。

 まるでその際に使用した方法こそ、ランサーを安全に確実に葬れる方法だと知っているかのように」

 結論を言う前に、すっかり冷めきってしまった紅茶で喉を潤してから。

「以上を踏まえてワシは、その時点でアサシンは武器ではなく、何らかの概念を攻撃方法として有しているものだと推測ができた。

 人々が恐怖的信仰を抱く武器や、サーヴァントなら生前に致命打となった武器を使い、そこに付随する何らかの記号的概念自体が攻撃の威力となっている。

 その概念とは恐らく『死』だ。

 人々が武器によって持たされた死への恐怖、生前の死亡理由となった武器への苦手意識。

 そういったものを使って攻撃してくると考えられるとしたら、【死神】というのは、考えられる可能性の一つだとは思わないか?

 死神の面に、人とは違う特徴があるのだとすれば、仮面を被っている理由にも説明がつく」

 そこまでのキャスターの話を聞いたところで、今まで口を出さないでいたアサシンが口を開く。

「面白い推理だ。だが、それはあくまで推論に過ぎない。断定するには弱すぎないかな?」

 キャスターを試すような口ぶり。

「ああ、まったくだ。その時点では断定できていない。

 だからこそ、確信したのは今朝の四つ目のヒントを与えられたときになった。

 あの病は『ペスト』とか『黒死病』と呼ばれる伝染病。中世ヨーロッパで猛威をふるい、人間を絶滅寸前まで追い込んだ病だ。

 生前、ワシが医者として活動していた際にも流行し、何人もの患者を診てきたし、数え切れないほどの犠牲者を目にしてきた。

 死神というと、大鎌を持っているイメージが想起されることが多いが、病を引き連れてくる騎手として描かれることも多かったようだ。

 すなわち、病は死の概念の具現化とも言える存在だ。

 前述の推理に、この事実が重なった以上、もはや断定せざるを得ないだろう」

 キャスターはキッと目を見開いてアサシンを見据え、カップから離した右手の人差し指を差し向ける。

「アサシン、貴様の真名は【死神】。いや、刈り取る者、【グリム・リーパー】といったところだろうか」

 アサシンは何がおかしいのか「ククク」と、しばらくの間小さく笑い続ける。

「改めて、称賛するよ。素晴らしい推理だったな、キャスター。そう、オレの真名はグリム・リーパー。ありとあらゆる世界中の神話に登場する死神そのものさ」

 キャスターは推理があたっていたことに、小さく一つ息を吐き安堵する。

「だが、あまりにも不用心すぎる。こんな推理を聞かせるために、お前はオレを間合いに入れてしまった。

 キャスターのお前と、アサシンのオレ。この間合いでより早く相手を殺せるのは間違いなくオレだ。キャスターの主戦場である遠距離で戦いを始めなければいけなかった。

 だとすれば、お前は奇襲の手でも打たなくてはいけなかったが、その線もない。

 オレは、これでも用心深くてね。お前の仲間が外に出ていることを調べてからここに来ている。お仲間のセイバーは遥か遠く。隣の部屋から飛び出て首を断たれるような心配もしなくていい」

 見れば、アサシンの手にはいつの間にか、先程までは存在しなかったナイフが握られている。

 しかし、その話を聞いても、ナイフを目に留めてもキャスターの余裕ぶった態度は崩れない。

「間抜けなのは貴様の方だ、アサシン。まさか、そこまで分かっているワシが何の準備もしていなかったと、本当にそう思っているのか?」

「……何を言っている?」

「すなわち、すでにワシの宝具は発動しているのだ。気付けないか? それも無理なかろう。少し説明をしてやるとしよう」

 アサシンはキャスターの言葉が、本気なのかブラフなのか測りかねている。

 周囲を気にしているが、キャスターの宝具を見つけられないでいる様子。

「ワシは宝具を二つ持っている。

 一つは四行詩の形で、天より予言を賜る力。これには一切の攻撃能力がない。

 そして、もう一つこそ今発動している宝具。絶大な攻撃性能を秘めた宝具だ。

 ワシの行った予言は、生前よりも死後の世界に大きな影響を与えている。

 四行詩の形で天より受け取るがゆえに、ワシ自身でさえ正確な内容を読み解けないそれを、どうにかして読み解き未来に訪れる脅威に備えようとする者たちが沢山あらわれた。

 その結果、建設的な意見も当然多く交わされたが、まるで狂気に支配されたかのような荒唐無稽な想像も数多上げられた。

 この宝具は、そういった人々の想像のエネルギーを用いて、想像を具現化する力である」

 宝具の説明で時間を稼ぎながら、キャスターは自分に抜かりがないかを確認する。

 屋敷に運び込まれてきた病人たちは、セイバーに頼んで外の安全な場所に運び込んでもらった。

 近隣住人たちに対しても同様に、被害にあわない場所にまで退避させるようにセイバーに話しておいた。

 今このときのために、今日は無理を言って住人たち全員をネズミ退治に向かわせた。

 弥生、自分のマスターについては、あの子の両親の残したものを失わさせてしまうことに申し訳無さを感じる。

 しかし、目の前にいる化け物が聖杯戦争の勝者となってしまった場合に訪れる破滅は多くの人々を絶望に落とし込む。

 そして弥生もその中の一人で、彼女の前に広がる未来が永遠に失われてしまうことだけは避けなければいけなかった。

『……令呪をもって命じます。ご主人さまに敵を討ち滅ぼす力を』

 スピーカーを最小にして繋げておいた電話機から、弥生の声が聞こえるとともに、キャスターは自分の中の魔力が高まるのを感じた。

 自分のほうが従者だと言っても、頑なにキャスターへの呼称を改めてくれなかった初めて出会った日のことを思い出して、口元に笑みが浮かんでしまう。

「何がおかしいのだ、キャスター?」

「ただ貴様をここで葬れることが、たまらなく嬉しいのだ」

「どれほど待っても何も起きないということは、やはり虚言だったのだな、キャスター」

「それはどうだろうな」

 もはや回避不可能な状態まで持ってこれたことに安堵して、さらなる時間稼ぎのためにキャスターはネタバラしをすることにした。

「何だコレは?」

 突如として様相を変えた室内に、アサシンが驚愕の声を上げる。

「気付かなかったのか? お前が来たときから常にそこにあったのだぞ」

 いや、正確には聖杯戦争が開始されたその日からずっと。

 銀河を想起させる無数の光が各々のスピードで周回を続ける円盤が部屋の上空に浮いているのを、アサシンはようやくのことで発見することができた。

 その円盤はマーキング。キャスターの宝具の発動位置を定めるためのもの。

 これを設置するのに半日、発動できるのは聖杯戦争一回につき一度のみという巨大な制約を伴う代わりに、キャスターの宝具は聖剣の一振りにさえ劣らぬ威力を有している。

 キャスターはこの必殺の一撃を隠すために、弥生と共に与えられた認識阻害の能力を使用し続けて、何があろうとも動かずにいることでいつでも宝具を使用できることを隠蔽し続けた。

 これを知っているのは、キャスターのマスターである弥生と、千里眼で屋敷の存在を発見し得た神無のみ。波彦たちにさえ知らせないことで、確実に今の状況を作り上げることができた。

『……重ねて令呪をもって命じます。どうかキャスターの宝具に未来を切り開く力を!』

 さらなる力が与えられる。

 普段は見せてもらえない感情的な少女の声に、愛しさを感じる。

「さあ、そろそろ聞こえるだろうアサシン。貴様を葬る偉大なる力の足音が」

「これは……」

 ゴゴゴゴゴッ、と地響きのような空気を震わせる音に包まれている。

「我が宝具の正体。それは、終末予言の迷信の昇華。大予言に向かられた信仰、恐怖、疑念といった人類が生み出した想像のエネルギーが、最も信じられた形をなして敵を討つ」

 そうそれは、大予言の内容についての最もポピュラーな予想である巨大隕石。

 それが、今まさにこの場に来たろうとしている。

『……さらに重ねて令呪をもって命ずる! ミシェル、あなたの正義を貫いて!』

「いざ来たれ、飛来する終末(アン・グラン・ロワ・デフレイエール)!」

 

 

 

 真実の姿を現したキャスターの宝具、巨大な隕石が屋敷に衝突し、その周辺部分までもを巨大なクレーターに変えていた。

 もはや、数瞬前までそこに立派な西洋風の屋敷が建っていたことなんて、その景色からは想像もつかないほどに跡形もなかった。

「ご主人さま……」

 全ての令呪を使い尽くし、そして自らの宝具で消滅してしまったサーヴァントのマスターは今、膝から崩れ落ちて静かに泣いていた。

 だが、彼女の願いは叶いアサシンは消滅しただろう。

 これで残るサーヴァントは、セイバーとアーチャーのみ。

 もはや最悪の存在に聖杯が渡り、世界が破滅へと導かれることはなくなったのだ。

 それを考えると、弥生には悪いけれど、神無の心は晴れやかな気分であった。

 千里眼の先の、舞い上がる砂埃が晴れて、その姿が目に映るまでは。

「嘘、アサシン……なんで、まだ生きてるの!?」

 神無の発したその一言が、弥生や波彦たちに一気に緊張を与える。

 アサシンは消滅していなかった。

 地形が変わるほどの一撃を受けてさえ生き延びている。

 そのことは、神無たちにアサシンを倒すすべは無いのではないかという絶望を感じさせた。

「そんな……」

 特にキャスターを失った弥生の落胆ぶりは大きかった。

 キャスターの決死の一撃が無駄に終わってしまったという事実が、彼女を苦しめた。

 神無は何でもいいから、好材料は無いかと探す。

「ちょっと、待って」

 砂埃がすっかり晴れて、アサシンの姿が完全に顕になった時に気付いた。

「右腕がなくなってる。キャスターさんの宝具は無駄なんかじゃなかった」

 黒のローブがボロボロになって、アサシンは右腕を失った姿になっていた。身体へのダメージも無視できないほどに大きいだろう。

「真名も明かしてもらった。大きなダメージも与えてもらった。キャスターさんのためにも、みんなでアサシンを打ち倒そう!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

27:死vs死

 アサシンは、片手で器用にバイクを駆る。

 あたかも、タロットカードに描かれている死の馬から乗り換えたように。

 彼は残ったサーヴァント、セイバーとアーチャーの狩りに向かう。

 腕を失って急速をするべきと見られる状況なのになぜなのか?

 それには、彼のマスターの意向と、アサシンの所持するスキルが関わっている。

 マスターの意向とは、すなわち今夜の内に全てを終わらせること。

 スキルのこととは、すなわち今夜中こそが最もアサシンが力を発揮できる時間であること。

 キャスターから食らった一撃。

 あれは平時のアサシンであれば、ほぼ間違いなく道連れにされていた威力を誇っていた。

 持ちこたえられたのは、『禁忌の数字』というアサシンの所持するスキルによる防御能力の上昇効果があってのものだった。

 禁忌の数字、聖杯戦争が始まって十三日目のみ、アサシンの能力は圧倒的なまでに上昇する。まるで十三という数字に込められた畏怖をその身に纏うかのように。

 しっかり療養して腕を治した通常状態と比べても、恐らくは腕を失っている今夜の方が戦闘能力が上となっている。だからこそ、今マスターに示されているセイバーの元へと向かう。

 そして、マスターに示されたポイントのほど近くに辿り着いた瞬間のことだった。

 

 ――――一閃。

 

 すれ違いざまの斬撃で駆っていたバイクがスライスされる。

 二つに裂かれた燃料タンク。ガソリンが空中にバラまかれ、引火して、一つ大きな爆発音とともに車体は燃える。

 アサシンは慌てること無く、残った左腕を立てて転倒を防止する。

「お覚悟を」

 セイバーは容赦なく、立て直す暇も与えずに畳み掛ける。

 一振り、二振りと必殺の斬撃がアサシンを襲う。

 しかし、アサシンは虚空から取り出した刀で、その斬撃を真っ向から受け止めて距離を取る。

 追い打ちをかけようとしたセイバーであったが、アサシンの持つ刀が目に入って足を止める。

「大典太……?」

「驚いたかな? キャスターに暴かれてしまったオレの宝具、時代移りゆく死の象徴(デス・クロニクル)は、その名の通り死を宝具と昇華したものだ。お前が生きた時代の死の象徴と言えば、やはり刀だろう?」

 そう言って、アサシンは一転攻勢、驚愕の内にいるであろうセイバーに向かって、稀代の名刀の具現化を振るう。

 しかし、セイバーの心境はアサシンの勘違いだった。

 一瞬揺らいだものの、冷静を取り戻していたセイバー。

 瞳に青い閃光を宿した剣士の打ち返しに、アサシンの手にある鋼の刃が中途のところで折れて吹き飛んでいく。

「ちっ!」

 役に立たなくなったそれを放り捨て、次なる名刀を具現化する。

「大包平……」

「くそっ!」

「不動国行……」

「ゴミがッ!」

「一期一振……」

「何故だ!?」

 次々と取っ替え引っ替えに、歴史に名を残す宝刀を次々と生み出していくが、そのことごとくをセイバーの一振りにねじ伏せられる。

「何故かと? 至極当然のこと。貴方が振るうのは幻の刀。決して本物ではありえない」

「バカを言うな。オレの宝具で形作られるのは、本物と何ら変わらないもののはずだ」

「刀は使い手を選ぶ。真に正しき心を持った使い手が握ってこそ本物になるのです。たとえ刀は本物でも、本物でない貴方が握れば偽物へ転ずる。至極当然の結論でしょう」

 セイバーはアサシンを追い詰める。

「なるほどな。お前に刀で勝負を挑むなんて馬鹿な話だったということか……」

 と言いながらも、アサシンは新しい刀を生み出してセイバーに向かって振るう。

「往生際が悪い!」

 打ち払い、とどめの一撃を与えようとしたセイバー。

 しかし、自分の身に走る違和感に気付いて、攻撃を取りやめてアサシンから距離を取る。

「刀が上手く握れない……」

 これと似た状況にセイバーはつい最近陥っている。

 それはアーチャーとのゲームに破れた時。

 そのときは一気にガクリと身体能力が下がった感覚を味わっていた。

 しかし、今セイバーが感じているのは、ジワジワと身体から力が抜け落ちているような感覚。

「ようやく効果が出始めたか」

 目前のアサシンが愉快そうに笑う。

「人間には人間である限り、一つ致命的に避けようのない死の概念がある」

「……そうか、『老い』でござるか」

 セイバーは、筋肉が衰えてしわくちゃになった自分の右腕に浮かび上がる血管を見ながら答える。

「大当たり。これからお前は、老いて体の機能を徐々に失いながら死んでいくんだ」

 それを証明するように、特に右腕が急激に老いていく。

 というよりも、風化して消えていく前兆のように肉が失われていき、骨が浮かび上がる。その骨もやせ細って、もう明らかに右と左で骨格レベルで形が変わっている。

 このまま行くと、分解されるように身体が失われていきそうな状態のセイバー。

 だがその身体が急に光りに包まれて、その場から消える。

「令呪で逃げおおせたか。だが、その身体で本当に逃げられるかな?」

 死神は逃した獲物を今度こそ仕留めるために、夜の闇を駆け始めた。

 

 

 

 如月はセイバーを追走しようとするアサシンを遠目から眺めながら、アーチャーに指示を出す。

「全く損な性分だ。我ながら」

 聖杯戦争において、マスター自らが表に出て敵サーヴァントと対峙するなんていうのは、相手に弱点を晒す自殺行為にならない。

 如月自身も、絶対的有利に立った時や、どうしても相手との対話を試みたい場合にしか、そうするつもりはない。

 アサシンは見るからに狂った思考の持ち主で、対話が成立するかも分からない。

 だから、無駄になる公算が高かったのだが、それでも如月はアサシンの前に出てみることにした。

「毒されているんだろうな、きっと」

 平和ボケしたセイバーのマスターたちのことが、ちらと頭によぎる。

 状況は、ちょうどアーチャーが初矢を射たところ。

 移動直線の少し前方に放たれた矢に、アサシンの足が釘付けになる。

 それを見計らって、如月は身を潜めていた建物の影から、死の具現たるアサシンの前に出る。

「アーチャーのマスターか。一体、何のマネかな?」

「悪いが通行止めだ」

「まさか、お前がオレの相手をしてくれるのか?」

「そうさ。オレのサーヴァントがな」

 と言い放つとともに、世界の様相が切り替わっていく。

 マヤ文明の球技場。

 石造りのハーフパイプのような奇妙な建築が、気付けば周りにできあがっている。。

「さあ、しょうぶだー」

「まけないぞー」

 それとともに、隠れていたアーチャーが如月のさらに前に飛び出てくる。

「足止めされつつ、少し話でも聞かせてくれや」

「お前が聞きたいというと……オレのマスターの話かな?」

「ああ、そうだ」

「悪いがあまり答えられそうにないな。なにせ、マスターからは最低限の指示を出されるだけで殆ど接触したことがない。今だって、オレがこれほどの怪我を負っているというのに令呪の支援の一つも無いと来たものだ」

 と言い終わるとともに、見計らったようにアサシンが虚空からクロスボウを取り出し、目の前に現れた球技に使用するゴムボールを撃ち抜く。

「あーなにするはんそくだぞー」

「ぶきつかっちゃだめなんだぞ」

 球技対決は始まる前に終わってしまった。

 アーチャーの作り出した球技場が消失していく。

 とともに、反則を働いたアサシンにステータスダウンの効果が及ぶ。

 一瞬、膝が揺らぐが、すぐに立て直すアサシン。

「おいおい、お前はアホなのか? 罠かもしれないものを躊躇なく撃つなんて。バーサーカーだって、もう少しは警戒するぜ」

 如月はアサシンを煽る。

 しかし、煽られたアサシンは、至って冷静な態度で答える。

「あれが何かは知ってるさ。あの球技で負けた方がペナルティーを負うんだろう? だが、この場面での本当の思惑は時間稼ぎで、その上その球技でアーチャーに勝てる可能性なんてのはないんだろう。なら、こちらとしてはさっさと負けるのが正解だ」

「ちっ!」

 そう、如月の煽りは焦りから出た行動だった。

 アサシンの推察は完全に正解で、最もされては困る行動だった。

「アーチャー、矢を撃って時間を稼げ!」

「がってん!」

「まかされた!」

 威勢のいい言葉とともに双子が矢を放つが、アサシンが取り出したナイフに弾かれてしまう。

「ヌルいな。死んでおくか?」

 そして、反撃のナイフを投げる。

「うわっ」

 と双子の一人が、手にした矢筒でナイフを受け止めるが、衝撃に負けて大きく弾かれる。

 それは、アサシンと如月を結ぶ直線上での衝突。

 すなわちマスター殺しを狙った一撃であった。

 反応できなかった。

 アーチャーに守られていなければ、気付く間もなく絶命していた事実に震える。

 やはり、前に出てくるべきではなかったなと、イメージに反して的確な行動をとってくるアサシンを前にして後悔の念が押し寄せてくる。

 しかし、先の死を感じさせられた一撃で、覚悟がついたのは嬉しい誤算だったかもしれない。

「アーチャー、第二宝具だっ!」

「えっでも?」

「いいのか?」

「ああ、決死の覚悟でアサシンを討つ!」

「りょうかい」

「さいしゅうきょくめんだな」

 

 

 

 アーチャー、フンアフプーとイシュバランケーは、マヤの創世神話『ポポル・ヴフ』に登場する双子の英雄である。

 彼らの神話での物語は、地中にある冥界シバルバーの神々を倒す物語である。

 彼らが平和に毎日球技で遊びながら過ごしていたところ、その様子を地上から漏れ出てくる音として聞いていた冥界の住人たちの癇に障ることになる。

 結果、双子は冥界に呼び出されることになる。

 冥界での日中。双子たちは、双子の殺害を目論む冥界神たちを球技で負かせることで諌める。

 これこそが、アーチャーの第一宝具である『生贄選びし血の球技場(トラチトリ・エスタディオ)』の元になった逸話である。

 そして、第二宝具の元になったのは、冥界での夜にまつわる逸話である。

 冥界の主は、双子に毎夜、趣の異なる恐ろしい館に泊まらせて試練を行う。

 『六つの館の試練(ホテル・シバルバー)』は、双子の乗り越えた試練に合わせた内容の攻撃に対しての耐性を与える力を持つ。

 その内訳は、闇・剣・獣・冷気・熱気。

 六つある内ここまで五つ。

 しかし、最後の館の試練に関してのみ、この宝具は耐性を与えるものではなく、状況再現を行うものとなる。

 すなわち、最後の試練の館である『蝙蝠の館』を現実に招く固有結界宝具になる。

 

 

 

 アーチャーの宝具発動と同時に、世界が塗りつぶされていく。

 今度は石の球技場ではなく、豪奢な、しかし不安を掻き立てるワンルーム。

 如月、アーチャー、アサシン。その場にいる全員が、いつの間にか世界を塗りつぶしてできた屋内へと移動させられる。

 と同時に、二人のアーチャーは、自らの小さい身体を今まで武器として扱っていた吹筒の中に押し込めて隠す。

 それは逸話通りの行動で、出現した館の主から身を隠すためにとった手段である。

 そして、如月は何処から来るともしれない脅威に、全神経を集中させる。

 前方からの風切り音。

 瞬間、如月は大きく一歩後ろに下がる。

 直後、金属同士がかち合うかのような高音が響く。

 前方を見やると、アサシンが膝立ちの状態で上空からの攻撃に対して、西洋刀を掲げるように構えている姿。

 アサシンが対峙しているのは、不気味でおぞましい雰囲気を身に纏った巨大な蝙蝠。

 不気味な蝙蝠が有する大鎌形状の爪による攻撃を必死で防いでいた。

 その蝙蝠こそが、この『蝙蝠の館』の主、死の蝙蝠『カマソッソ』である。

 双子の英雄はカマソッソのいる館で一夜を過ごす試練を受け、それに対抗して自らの持っていた吹筒に身を隠してやりすごす。

 アーチャーの宝具はその強大な戦闘能力を持つカマソッソを呼び出す能力と言い換えてもいいのだが、なにせ死の蝙蝠は双子の味方でも何でも無いので、敵味方問わずに攻撃をする。気を抜けば自滅が普通にありえるとんでもなく扱いづらい代物である。

 今は運良くアサシンを攻撃してくれたが、如月が標的になる可能性も十分に考えられた。

 そのために、先程かなり遠くの風切り音なのに、身体が思わず飛び退いてしまう反応を見せてしまった。

 前方の戦闘は、アサシンが押され気味になりながらも、鎌の一撃を跳ね返しカマソッソが再びに宙に身を隠して、状況が振り出しに戻ったところ。

「さて、後何度幸運を引き続ければ勝てるかな?」

 先程の攻防を見て痛感したのが、もし如月が標的にされる場面が訪れるなら、一瞬の内に解体させられてしまうだろうということ。

 そうならないためには、標的にされない幸運を引き続ける他にない。

 ノイローゼになりそうなくらいに神経を張り詰めながら、次の蝙蝠の一撃を待つ。

 

 ――――世界が横転する。

 

 如月は、そのとき死んだのだと思ってしまった。

 胸部辺りに、衝撃が走っていた。

 鋭利すぎる鎌で裂かれると、まるでパンチを食らうような鈍い衝撃が走るのかと感心もした。

 けれど、そうではないのだと気付く。

 腰の辺りに纏わりつく柔らかい感触。

 ふわりと舞い上がっていたビニールシートが、如月の身体を隠すように降りてきて触れる。

「何してんだお前?」

 如月は飛びついてきた物体の正体を確認して、思わず強い口調で問いかける。

「……助けに来ました」

 弥生は抑揚のない声で答える。

「こんなビニールシート一枚じゃ、流石に隠れたことにならないぞ」

「……大丈夫」

「大丈夫って、…………ああ、そうか」

 如月はメイド服の少女が、認識阻害の能力を有していることを思い出した。

 つまり、今ビニールシートに同じものがかけられていて、外部からは認識ができない状態にある。

「これなら、確かに問題なさそうだな……」

「はい!」

「でも、それにしたって、こんな戦場のど真ん中に飛び込んでくるなんて、正気じゃないぞ」

 如月は助かったことに安堵を覚えて、弥生への感謝の気持ちが際限なく湧いてきているのだが、それでも先に文句を言わずにはいられなかった。

「……この前助けられたから、わたしも助けたいって。そう思いました」

「この前って、たったあれだけのことでか」

 この前、ライダー打倒作戦の一環で、如月は弥生を直接開放しに行く役目を果たした。

 それは、少女に対して今感じている感謝と比べれば、とてもとても些細な話だと思う。

 あのときの彼女は決して、今しがたの如月のような死の瀬戸際に立っていたわけではなかった。

「わたしは、あなたに死んでほしくないと思っているんです!」

「……そうか。ありがとな」

 まだ言い足りない言葉を沢山抱えている如月であったが、少女の強い言葉に何も言えなくなってしまう。

「さて、最後まで見届けるか」

「……あまり顔を出しすぎると危ないです」

 如月は弥生と並んで腹ばいになって、ビニールシートの端の隙間から覗くように、続いているであろう戦闘の行方を確認する。

 アサシンは押されていた。

 右腕を失って、アーチャーの宝具による弱体化まで食らった身体では、カマソッソの猛攻は防ぎきれないらしい。

 間一髪のところで致命傷を避けているようだが、ボロボロの黒衣のアチコチが引き裂かれており、その裁断面の大きさからかなり深めの傷をいくつか受けていると考えられる。

 幾ら顔が骸骨で、身体も骨だけで構成されていてもダメージ無しとはいかないようで、アサシンは肩で息をするような状況になっている。

「クソがっ!」

 と剣を振り回すアサシンを嘲笑うように蝙蝠はヒラリとそれを避け、返しの一撃を放つ。

 防御の剣は間に合わず、まともに蝙蝠の一撃を食らったアサシンは大きくのけぞる。

「流石に自滅の危険があるだけあって、あの蝙蝠相当強いな」

 このまま押し切ってアサシンを葬れる期待が高まる。

 

「許容範囲外のダメージ。もはや温存はできないか……」

 

 冷たい声が空気に流れて届くと、気温さえも下がったような錯覚を覚える。

 一気にそれほどの寒気が走った。

 ボロボロの状態のアサシンは、虚空に存在する闇に手を伸ばす。

 今の圧倒されている状況を見ると、強がりにも捉えられる先程の発言だけれども、全くもってそうとは思えない雰囲気。

 その様子を察したのか、カマソッソがトドメを刺すためにアサシンに狙いを定める。

 勢いを付けて、アサシンが何かを行うより前に攻撃を加えようとする。

「まさか、コレを使わされることになるとはな」

 しかし、アサシンが闇から宝具を生み出すほうが早かった。

 闇が粘土を盛るように成形されていく。

 形が完全になるとベールを剥がすように闇が薄まっていって、神秘的にすら感じる鉄のキラメキが顕になる。

 それはカマソッソが爪として持っているものに近い、大鎌の形をしていた。

 アサシンは、自らの長身の三割増しほどもあろうかという大物を、片手で軽く振るい蝙蝠の爪を迎え撃つ。

「収穫の時は来た。刈り取れ、天への旅に誘う大鎌(デスサイズ)

 鎌と鎌が衝突する。

 同様に絶大な威力を内包している。

 それだけに、一時的に拮抗する。

 けれど、すぐに異変が訪れる。

 アサシンの大鎌の進行方向上にあるカマソッソの身体に突如ひび割れが走ったのである。

 赤に染まったその亀裂にアサシンが大鎌の刃を当てていくと、先程まで拮抗していたのが嘘のように、力のかかっている様子もなく亀裂の通りにカマソッソの身体は裂けていく。

 そして、これまで猛威を奮っていた死の大蝙蝠は、あっけなく絶命する。

 如月たちが呆気にとられている中、アサシンの攻撃が続く。

 カマソッソを殺した勢いのまま、今度は吹筒に隠れているアーチャーに狙いを定める。

 振り下ろされる鎌。

 いつもうるさいくらいに賑やかだった双子の英霊。

 最期の言葉を残す間もなく、二つの繋がりが途絶えたことを、マスターである如月は感じ取れた。

「やれやれ、思った以上の大仕事だった」

 もはやサーヴァントを葬った後のマスターに興味はないのか、それとも弥生の認識阻害で見えなくなったために諦めたのか、アサシンは大鎌を肩にかけた状態でその場を去っていった。

 

 

 

 しばらくは、呼吸すらできなかった。

 沈黙の時間は、五分を越えただろうかという頃に、ようやく独り言のように言葉を発する。

「生き残れちゃったな」

「……良かったです」

 二人して、のそのそとビニールシートから這い出る。

 とりあえず立ち上がって、これからどうするか相手から言ってくれないかを互いに待っているかのように、顔を見合わせる。

 そのときに、美しくしつらえられたメイド服に目立つ汚れがあることに目が行き、申し訳ない気持ちが強くなる。

 ただ、このままでは自分に残された最後の役割を果たすためのタイミングに遅れてしまうかもしれないと、先に如月が発言することになる。

「とりあえず、結末を見届けに行こう」

「……はい」

 セイバー、アサシン共に満身創痍の状態。

 天秤がどちらに傾くのかは分からないが、両者の戦いは開戦から間もなくして決着がつく。

 となると、あまり悠長にしている時間はないだろう。

「遅れたらシャレになんねぇな」

 如月は、その時のために今日までを過ごしてきたのだから。

「……急いでます?」

「ああ、少しな」

「……じゃあ、わたしは置いていって大丈夫ですよ」

「そこまでは、急いでないさ。ティーブレイクを挟めるくらいの余裕はあるはずだ」

 くぅ、とかわいい音が鳴った。

 どうやらティーブレイクという言葉に反応したらしい。

「あっ」

 と、前回にこんな事があったときには、気にもしていない様子の弥生だったが、今回は二度目ということもあってか、かなり恥ずかしがっている様子だった。

「くっくっくっ」

 思わず笑いが漏れる。

 すると、恥ずかしがっている少女の顔が、少しむくれているように変わった。ように見える。変化は薄かったけれど。

「悪い悪い。これ最後の一個だけど食べるか?」

 如月は、いつもやっているようにして、ポケットに残っていた大福を手のひらの上に移動させて、少女に差し出す。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

28:聖杯戦争の結末

 令呪を使って退避させられた後、セイバーは自身の不用心さと不甲斐なさに打ちのめされていた。

 相手が片腕を失っている状態で、セイバー側が絶対的に有利な剣術勝負を仕掛けてきたことで、圧倒的に優位な状況に至っているような錯覚を抱いていた。

 キャスターがやられて感傷的になっていた部分もあるし、アサシンの言動から頭を使った戦いを仕掛けてくるタイプに思えなかったのもある。

 そうした色々な理由があったとしても、アサシンの本当の狙いに気が付くことができずに迂闊な行動を取った自分を許すことができなかった。

 だから、波彦がセイバーの衰えきった右腕を心配そうに見ながら、

「令呪を使って、治しておこうか?」

 という提案をしてくれたのにも関わらず、

「いえ、最後の令呪は最後の最後の切り札として、本当に重要な機会のために取っておいてください」

 聖杯戦争最終局面。

 今こそがまさに最高潮の場面で、さらに非常に有益な使い方であるのに、セイバーはそれを断ってしまった。

 けれど正しい選択だったと確信している。

 まともに力の入らない右腕が無理にでも意識させられ、考えの足りなかった自らへの戒めとなっている。

 

 

 

「待たせたね」

 後数分で夜も開けようかという少しだけ白い空の中、アサシンは大鎌を背負いながら現れた。

 決戦の地となったのは川と海との出会う場所。

 何の因果か聖杯戦争最後の戦闘は、地の果てとも取れる終わりにふさわしい場所で行われることになった。

 水の流れによって砂利が敷き詰められた大地の上。

 身を隠すような場所もない、なだらかに傾斜のついた、長く広がる平地。

 セイバーとアサシンは対峙する。

「拙者に近接武器は効きませんよ」

「試してみなければ分からないだろう? どうぞ、食らってくれよ」

「それは……やめておきましょう」

 セイバーは、二週間続いた聖杯戦争の中で、自分に授けられた能力についての理解も深めていた。

 セイバーの武器無効能力は、あくまで武器本体の軌道を逸らすもの。

 武器が触れなくても効力を発揮するものや、宝具レベルの強大な余波を生む攻撃に対しては、無意味に等しい。

 神無が見ていたアーチャーとの戦闘の情報と、セイバーの忠告を聞いても自信を崩さないことから、スキルが大鎌の攻撃を退けてくれることは期待できないだろう。

 なので、別の側面から揺さぶりをかけてみることにする。

「その身体では、そう何度も刃をまじ合わせることは、できなさそうですね」

「それは、お前もだろう?」

「そうですね。あなたからもらったこれは、中々に辛いものです」

「侮られたものだ。それだけではないだろう。昨日はオレの撒いた病を鎮めるために、相当な回数、退魔の眼を使ったはずだ」

「なんのことやら」

 戦いは、それまで何をやっていたかとか、どういう障害を持っているとかは関係なく、そういった一切合財を含めて実力だとするのがセイバーの信条である。

 だから、今だってキャスターとアーチャーに弱らされきったアサシンを討つことにだって、よってたかってで狡いとは考えない。

 だから、もしもアサシンがセイバーたちを弱らせるために街に病を撒いたのだとしても、それを狡いとは考えない。

「問答は、この辺りで十分でしょう」

「ああ。では、最終決戦と行こうか」

 セイバーは利き腕ではない左腕で、刀を構える。

 アサシンも左腕で大鎌を構える。

 彼にとっても、それが利き腕でないことを、微細に生じる構えの違和感からセイバーは感じ取る。

 二騎のサーヴァントは、まるで鏡の中で戦っているかのように、普段とは左右反転の状態で、最後の最後を戦わなければならない。

 それこそが、これまでの戦いの凄まじさを物語っているようであった。

 向かい合ったまま微動だにしない。

 そんな時間が、しばらく続く。

 互いに必死に相手に隙が生じるのを待つ。

 しかし、どちらも自ずから一切の隙を見せはしない。

 とすれば、外部からそれを崩す干渉が起きることを待つ。

 しかし、それもまるで時が止まったかのように、風が停止しているために何も起きなかった。

 のだが…………。

 

 ――――突如の海風が、海から大きめの波を運んでくる。打ち付けるのが開始の合図だった。

 

 互いの一歩で一気に距離がなくなる。

 先に攻撃を仕掛けられたのは、より小さな獲物を有していたという理由でセイバーの方だった。

 横薙ぎ。

 セイバーは渾身の一撃で、アサシンを上下二つに裂きにかかる。

 それに対して、アサシンは大鎌を力なく、その軌道に差し込むことしかできなかった。

 けれど、それで十分だった。

「――なっ!?」

 アサシンが、にぃ、としてやったりの顔を浮かべているように見えた。

 パキリと、割られた刀の破片が宙に舞う。

 そう割られたのだ。

 大鎌に当たっただけで、硝子切りで切り込みが付けられるように、亀裂が入っていくのを見た。

 そして、その溝に従ってセイバーの愛刀は、無惨にも破壊されてしまった。

 神無に聞いていたはずだったのに……。

 セイバーはまたしても、アサシンの能力を過小評価してしまっていたらしい。

「これで終わりぃイイイイイ!」

 死神の鎌が振り下ろされる。

 避ける余裕はない。

 先の無くなった刀を掲げたとしても、防ぐことができないことを知っている。

 万事休す。

 一巻の終わり。

 そういった状況だった。

 ―――――本当に、終わり、なのか?

「違うっ! まだだあああああ!」

 自分に問いを投げかけた時、初めて気付いた。

 自分の中にある、新たに生まれた力のことに。

 なんてことはない。

 他の多くのマスターとサーヴァントが同じことをしていたのだ。

 セイバーにだけできない道理はない。

 だから、願う。

 アサシンの振るう大鎌に全神経を集中させる。

 もうセイバーの頭頂部に触れそうな場所にある。

 セイバー自身には確認できないが、もう先程の刀のように死の亀裂がセイバーの身体中に走っているかもしれない。

 だが、迫りくる恐怖を捨て去り。

 ただ、願う。

 大鎌がセイバーのことを、完全に避けてくれることを。

 イメージを強く持って、不可視の手で掴む。

「何ぃ、コレは一体――――」

 そして、強引に避けさせる。

 大鎌はセイバーのすぐ隣の地面に突き刺さる。

 驚愕の表情を浮かべるアサシン。

 咄嗟には動くことができない様子。

 一方のセイバーは、そうすることが当然のように身体が動いた。

 小刀のような長さになって、図らずしも取り回しが良くなった刀を、アサシンの高い位置にある胸の中心に向かって、突き出す。

 しかし、その絶好の機会の攻撃が、アサシンの元に辿り着いた瞬間に失敗に終わることを感じてしまう。

 普段使わない左手だったこと、全くと行っていいほどに残っている力が無かったこと。

 そんな言い訳の効かない自分の甘さによって。

 ようやく手に入れた勝利が、手から滑り落ちてしまうことを悟ってしまった。

 

「セイバー! 行けえええええええええええええええええ!!」

 

「マスター殿……」

 いつの間にか声の届くところまで近づいていた波彦。

 聖杯戦争初めの頃の頼りないとセイバーが感じた印象は、消え去った声。

「これは――――」

 滑り落ちる直前だった刀の軌道が急に安定した。

 波彦の声援の力。ではないだろう。

 だが、波彦の力ではあるようだった。

 セイバーのマスターは、自らのサーヴァントを助けるために無我夢中で、これまでに何度と無く使ってきたその能力を、最高の形で、最高の精度で、最高の強度で発動する。

 セイバーの持つ刀は、念動力の力で、がっちりと支えられていた。

 まるで、失われた右腕の代わりを果たしているかのように。

 頼もしい助力を得たセイバーは、後はただ力の限りに、まっすぐに腕を伸ばす。

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」

 

 

 

 アサシンは静かに、自然に帰るように消失した。

 セイバーは最後の突きに全ての力を使い切ったよう。

 そのままの格好で前方に倒れ込んでいく。

 常に余裕があるように見えたセイバーらしくないな、と波彦は思った。

「セイバー、大丈夫か? ちょっと待っててくれ」

 波彦は、勝利を収めた自分のサーヴァントを労うために近づいていこうとする。

 けれども、後ろから、

「波彦くん、波彦くん! 勝ったんだねっ! スゴい、スゴいよぉ!」

 と近寄ってくる神無の声が聞こえたので、止まる。

 セイバーがいるのは、小さな石が幾つも転がっている不安定な地面。

 車椅子の神無はおかまいなく来ようとするだろうが、無茶して転倒して怪我をしかねない。

 一瞬どちらを優先すべきか迷うものの、神無の移動を手伝うことに決める。

 慎重に神無の車椅子を押していって、セイバーの近くにまで寄る。

 その頃には、うつ伏せ状態で倒れていたセイバーが、自力で仰向けになり、身体を休めるように座った状態にまで至っていた。

「波彦くん、セイバー、おめでとう! 聖杯戦争の勝者だよ!」

 波彦自身に実感はなかったけど、そう言えばセイバーは最後の一騎になったのだった。

 つまり、そのマスターである波彦が聖杯戦争の勝者ということになる。

 全てセイバー自身の力のおかげなんだけれど。

「それで、お願いは何にするのかな?」

「そう言えば、何でも叶うって話だったね……」

 無我夢中で駆け抜けていたために、そんな聖杯戦争が終わった後のことなんて考える暇は無かった。

「何はともあれ、破滅の予言の方は回避できそうでござる」

「そうか、十四日目が終わる頃に聖杯戦争が終わるっていう予言だったな……」

 今は十三日目。

 いや、いつの間にか日が登って夜が明けているから十四日目。

 どちらにしろ、予言を間違わせることができたので、全ての憂いが無くなった。

 波彦は、ようやく日常が戻ってくるということに、安堵の息を吐き出した。

 直後、いつの間にか周りが暗くなっていることに気付いた。

「波彦くん、あれ見て!」

 神無の指差す方向には、太陽があった。

 太陽は、既に半分が黒く染まっていた。

 日食。

 月が太陽を隠す現象。

 ただそれは、現代の科学技術では予測できる現象で、まさか皆既日食でも起きるのなら、ニュースで事前に流れているはず。

 

「とりあえずボクの予定通りに動いてくれてありがとう、と言っておくよ」

 

 どこからか声が流れてくる。

「十四番目の日が死に絶え、紛いものたちの戦いに終止符がうたれる。

 嘘つきが、受け入れがたい真実を語る夜。

 死が息絶え、不完全な不死が、完全性を求める。

 完全なる闇は世界を包み込み、定められた滅亡へと突き進む。

 だったかな。まさか、本当にほぼその通りになるとはビックリだよ」

 キャスターが残した予言をそらんじる少年の声。

 波彦は、その声の主の姿を聞こえてくる方向から探し出す。

「ハハハハツ、ハハハハハハハハッ」

 何がおかしいのかしれないが、高らかに笑ってくれるために姿を見つけるのは早かった。

 先程まで波彦たちが隠れていた倉庫の裏手から、その人物は姿を表す。

 その人影は小さかった。幼い子供の姿。

 そして、無垢に邪悪な笑い声を上げ続ける。

「ハハハハハハハハハハハハ――――…………あッ!?」

 不注意だった少年は、足元にあった小さな石ころに躓く。

 そして、少年は身体を地面に落としてしまった。

 そう形容するのが正しいことが起きた。

 すなわち、少年の首から上がある位置は変わらず、身体だけが派手に転倒した。

 そうなれば当然、首は宙に浮いた状態となる。

 波彦は、最後の七不思議のことを思い出していた。

「宙に浮く人の首……」

 七不思議は単なる与太話ではなく、全てが事実であることがここに判明した。

 その宙に首が浮いている少年本人は悪態をつく。

「あーあ、もう本当にドンくさい身体だなあ。しっかりしてくれよ」

 自分の身体に対して高圧的な態度を取り、当の文句を言われた身体の方はというと、殊勝な態度でそそくさと首が機嫌よくハメられるように場所を用意する。

「さて、せっかくだけど本題の方をやっておこうか」

 呆気にとられた状態のままの波彦たち。

 セイバーもアサシンとの戦闘で体力を使い切ってしまっていた。

 だから、止めることができなかった。

「聖杯よ。ボクの願いを叶えろ。

 ボクの首と胴体をくっつけて、今度こそボクに完全なる不死の肉体を与えろ」

 地面から魔術師でもない波彦にさえ簡単に感じられるほど、凄まじいエネルギー。

 ――――魔力が湧き上がってくる。

 そして、小さな肉体の周りに渦を作り出し、かき混ぜられ圧縮されるように動きながら、少年の肉体の中に入っていく。

 しばらくそれが続き、止む。

 それが終わった後に、少年は首を持ち上げる動作をしたり、首をぐるんと振ってみたりする。しかし、先ほどみたいに首だけが外れて宙に浮くようなことは発生しなかった。

「ああ、もう何十億年ぶりだろう。こうして、ちゃんと身体がくっついてる状態になったのは」

 少年は首がちゃんと繋がっているか試していたのだった。

 そして、その結果は満足の行くものだったらしい。

「気分はサイコーだし、キミたちが知りたがってること全部教えてあげるヨ」

 少年は邪悪な笑みを、波彦たちに向ける。

 それは波彦たちの良く知っている少年の顔をしていた。

 小林圭人。

 神無がアサシンに襲われているところを助け、それから弥生の屋敷に居候をしていた幸の薄い少年。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

29:嘘つきの明かす真実

「ボクの本当の名前はラーフ。神に迫害されたかわいそうなアスラ族の一人さ」

 圭人……いや、ラーフは語り始める。

「アスラ族っていうと、インド神話の?」

「よく知ってるね。その通り、この世界ではインド神話として語り継がれているのが、ボクらが神に蔑ろにされる物語。

 神とボクたちは仲が悪かったけど、一度だけ共通の目的のために手を組んだことがある。それが全ての過ちだった。なにせ、アイツラはボクたちを出し抜くことしか考えてなかったんだからね

 さて、共通の目的っていうのは、何のことだと思う?」

 ラーフは波彦たちに問いかけてくる。

 勿論、波彦たちはここからの逆転の手を打つための方法を考えて行動しようとするのだが、何も思いつかずにとりあえずの時間稼ぎのために、無言を通す。

「…………時間切れだよ。つまらない人たちだね。

 正解は、不老不死。あらゆる生物の究極の願いさ。

 ボクたちは不死の霊薬『アムリタ』を生み出すために、クソッタレの神々と分け合うことを条件に協力して乳海攪拌を行った。

 長い長い撹拌の末に、乳海はようやくアムリタを生み出した。

 しかし、ボクたちが飲もうとしたアムリタは、神の策略によって盗まれて独り占めされてしまうことになる……」

 言葉が止む。

 見ればラーフの顔が、おぞましいほどの憎悪に染まって歪んでいる。

「なあ、許せるか? こんなの許せないだろ? 当たり前だろ?

 だって、ボクたちは不老不死になれるって言われたから、アホみたいに長い時間かけて、乳海攪拌を手伝ってやったんだぜ?

 だからさ、許せないからさ、ボクはアムリタを取り返すために、クソ神様たちの元に忍び込んで、アムリタを取り返しに行ったんだ!

 神々がボクたちの間抜けさを笑いながらアムリタを飲んでいる席に行ってさ、ハラワタが煮えくり返りそうだったけど我慢して、コッソリとボクはアムリタを口にして、その後に力づくで取り返してやるつもりだった!

 そしたらさ、ボクが変装して忍び込んでいることを見抜いて、告げ口したヤツらがいるんだよ!

 結果として、ボクはアムリタの回った首から上だけ不死化した状態で、首を切られて中途半端な不死になってしまう。

 ああ、もう思い出すだけで許せねえ!

 なあ、キミたちもそう思うよなあ?

 ボクは、その告げ口したヤツら、太陽神スーリヤと月神チャンドラに復讐してやろうと思って、丸呑みにしてやるんだけどさ、今見てもらった通りの身体だったから喉から出ていっちまう!

 まあ、もう身体がくっついたから、その心配はないんだけどさ」

 ラーフは、おどけたように、完全にくっついている証明のように、手で首を持ち上げようとして離れないところを見せてくる。

「あなたは、その目的を叶えるために聖杯戦争に参加を?」

 恐る恐る神無が尋ねる。

「あー、そう言えばキミたちは何も知らないんだよね。しょうがないから、全てのことを教えてあげようじゃないか。ボクもこんなに上手くいった計画の全容について、誰かに聞いてもらいたい気分になってるしね」

 ラーフは意地が悪そうな笑みを浮かべる。

「さて、あのノストラダムとかいうキャスターの予言の精度は素晴らしいね。『紛いものたちの戦いに終止符がうたれる』という部分、キミたちはサーヴァントイコール紛いものという予測をしていたんだけど、それは全く的はずれな解釈だったんだよ」

 そして、ラーフは受け入れがたい真実を告げる。

「紛いものっていうのはキミたちのこと。この世界は、たった一ヶ月前の月食の日にできたばかりの偽物の世界なんだよ」

 意味が分からなかった。

 ラーフの言葉は、荒唐無稽にもほどがある内容。

 だって、波彦の記憶には、一ヶ月以上前の日常の記憶が今もなお残っている。

 だから、ラーフの話は一笑に伏していいようなモノのはず。

 はずなのに、その言葉には、今まで隠していた舞台裏を明かす悪が、今更誰も信じないような嘘をつくはずもないという真実味が十分に含まれている。

「そ、そんなの嘘に決まっているじゃない! あたしには子供の頃から両親と暮らしてきた記憶が、あるもの……」

「はあ、うっざいなあ。そこら辺も含めて今から、この世界の成り立ちと証拠について語ってあげるから楽しみにして、黙っておいてよね」

 ラーフは、ヤブ蚊でも払うかのようなジェスチャーを行う。

「先程話した通り、ボクは途方も無い時間太陽と月に嫌がらせのようなことをしているんだけど、それは実を結ばずにいる。

 その傍らで、ボクは真の復讐のための材料と機会を探し続けた。

 そして見つけたのが、この星。

 あ、先に行っておくと『地球』のことじゃないよ。

 ボクが見つけたのは、誰にも見つけられていない宇宙の端っこに存在する、けれど魔力の塊のような潤沢なエネルギーに満ち溢れた無人無開拓の星。

 ボクは当然、その魔力を使って自分を完全な不老不死にしようとした。

 けれど、そこで問題が発生する。

 そのままの状態では、魔力を願いに変換するための手段がなかった。

 そこで、ボクはある儀式魔術を行うことで、星に蓄えられた魔力を使える形に変換することを思いついた」

「…………それが、聖杯戦争」

「そう、正解。

 ボクは、この星の上で聖杯戦争を開催することに決めた。

 けど、無人の星で聖杯戦争を開くことなんて、できない。

 それで、ボクは考えたんだ。

 じゃあ、創っちゃえばいいじゃんって。

 勿論、最初から全部創造するのは面倒だったから、適当に本当に存在する場所のコピーなんだけど。

 かくして、ボクは地球の極東の国のしょうもない地方都市の一つを、星の上にコピーして配置したんだ。キミたちの言ってる記憶ってのは、そっちのオリジナルが持っているもののコトなんだろうね。とはいえ、結構作り変えちゃったから、元の記憶なんていうのは欠片程度しか合ってないかもしれないけどね。

 割と簡単な作業だったよ。なにせ、それを行うための潤沢な魔力は、その場に星の形で存在していたからね。

 んでもって、聖杯戦争を開催することになるんだけど、ここでまた一つの問題が発生する。

 聖杯戦争に参加するサーヴァントを呼び出すマスターっていうのは、魔術師じゃなければいけない。けど、間違って救世主みたいな魔術師を巻き込んじまったら面倒だろ?」

「だから、魔術師でもない人間に超能力を与えて、擬似的に魔術師に……」

「大正解、冴えてきたじゃん!

 そうボクは一般人にほんの少しだけ魔術が使えるようにした、ゴミカスみたいなマスターを創って、聖杯戦争に参加させることにした」

 それが波彦たち、今回の聖杯戦争に参加したマスターたちのこと。

「そこまで来たら、後は不安要素を順番に排除していって、聖杯戦争が終わるのを気長に待っていればいい。

 そして、一番の不安要素はランサーだった」

「……………………ランサー」

 その名前が出た瞬間、神無の表情が露骨に曇る。

「アレはボクには、相性最悪の存在だった。

 神殺しにして、不死殺しのスペシャリスト。

 聖杯戦争が終結した時に、もしもアレが生き残っていたなら、万に一が起きかねなかったからね。

 だから、アサシンを差し向けて、安全に消させてもらった。

 ちなみに、アサシンのマスターはボクだよ」

 神無から圭人は、アサシンの危機にさらされているところを助けた、と波彦は聞いている。

 もうそのことさえも、仕組まれた罠だったということ。

「後はもう正直言って、消化戦だったよ。

 バーサーカーは勝手に片付けてくれたし。

 ライダーは焚き付けたら、簡単にノッてくれたし。

 そうだライダーとの戦いの最後ね。キミたちは、作戦がハマって月を隠したことによって勝利できたと思っているようだけど、アレもボクのお陰だから。

 普通に考えて、あんなシート一枚で光を完全に遮れるわけ無いでしょ。

 ボクが一時的に月の加護を消し去ったから、キミたちは勝てたんだよ。

 必死で無駄なことして。ほんと、アレは今思い出しても傑作だよね。

 そして最後に、昨日から、さっきまでのアサシンとの戦い。

 ここでのボクの狙いは、勝ち残ったサーヴァントがもう抵抗すらできないほどに満身創痍になるように仕向けることだった。

 どちらかと言えば、アサシンが敗退することが望みだったんだけど、それも叶って本当にキミたちは最高の働きをしてくれたよ」

「アサシンは、貴方のサーヴァントなのでしょう? なら、そちらが勝利していたほうが、望みの結末だったのではありませんか?」

「あー、実はボクにとって、ランサーの次の危険分子はアサシンだったんだよ。

 アレはああ見えて、善と悪の区別なく中立に死を与えて秩序を維持する存在なんだよ。

 その上、キミたちも戦って感じただろうけど、非常に強力な存在だ。

 生き残っていたなら、ちょっとだけ面倒なことになっていたかもしれない。

 何はともあれ、ここまでがどういうことがあったかっていう話。

 どう? 矛盾してる部分はないだろう?

 じゃあ、次はこの世界が偽物だっていう証拠を教えてやるから、ボクに心底絶望している顔を見せて、楽しませてくれよ」

 そう言われて、波彦は近くにいるセイバーと神無の顔を見る。

 ひどく沈んだ顔をしていた。

 そして、恐らく波彦自身同じくらいか、それ以上に。

 顔をペタペタと触ってみても、どんな表情をしているのかは分からなかったけれど。

「さて、何を言えば納得してくれるかな?

 ……………………そうだ、キミたちは世界の果てのトンネルを見に行ったんだよね?」

「世界の果て?」

「ああ、キミたちが藤之枝市の境にあるといって見に行ったトンネルさ。

 アソコをくぐっても、元の場所に戻ってきてしまう。

 そうだよね?

 そりゃそうだよ。だって、その先に世界は広がっていないんだから。

 ボクは藤之枝と呼ぶこの地のみを、星の上に投影している。

 その先の世界は創らなかった。だから、その端っこに生まれる矛盾を解決するために、外に抜けようとしても、元の場所に戻ってしまう機構を取り付けた」

「そ、そんなことだけで、信じられるわけないじゃないっ!」

 神無は食ってかかる。

 けれど、波彦はラーフの言を裏付けるようなもう一つの事項に気付いてしまう。

「神無さん…………千里眼、確か藤之枝の外には飛ばせないって言ってたよね?」

「……あ」

 波彦の言葉で神無も気付いてしまう。

 神無の千里眼は、藤之枝市内でしか使用することができない。

 外に出ようとすると、通信不通になったように、視界が消失してしまう。

 それのタネ明かしはなんてことはない。

 単に藤之枝の外の世界なんてものは無かった。と、そういうことなのだろう。

「他にも、星空の書き換えなんて馬鹿げた能力が存在するのは、所詮は空が天に貼り付けられただけのものであるから。

 世間を脅かす事件とか、不思議な建造物が突然現れても、世間が大騒ぎしないのは、ボクが世界を創造する際に、そういう

面倒くさいことが起きないように条件付けをしたから。

 他に何か、キミたちが納得するまで言ってやろうか?

 いや、その表情は、やっと納得いってくれた感じみたいだね」

 ラーフがそういう通り、もう誰も世界一つを自らの手のひらの上で転がし続けた魔神の話を否定することができない状態だった。

 波彦は真実を打ち明けられたことで、これまで起きたことの全てが無意味になったような喪失感に心を埋め尽くされていた。

 そう、回避できたと感じた予言は、全く回避などできていなかった。

 十四番目の日が死ぬときというのは、十四日目の日が沈むことをさすのではなかった。

 十四日目の日が日食で失われる今のことをさしていたのだった。

「さて、霞みたいな存在だったとしても、ボクの話で絶望の表情を見せてくれて、すっかり満足したよ」

 ラーフの身体から、周囲一体を埋め尽くすような莫大な可視化されるほど濃密な魔力が溢れる。

「……一体、何を?」

「知れたことだね。宝具で、この星の核まで侵食して、星の魔力をしゃぶり尽くして、全てボクのものにするのさ。それが終わったら当然、クソったれの太陽と月どもに、今度こそお灸を据えに行ってやるのさ。その後は、神々を順番に殺していってやろうか。創造神、破壊神、そして維持神さえも。完全になったボクであれば簡単に手にかけられるだろうね。ワクワクするよ」

 イコール世界を破滅に導く。ということを、本当に無邪気な子供のように語るラーフ。

「やらせ……ません……よ」

 ボロボロの身体にムチを打ちながら、セイバーが立ち上がる。

「はー、バカなの、キミ? その身体でなにかできるとでも。そもそも今のボクと比べたら、万全の状態であってもキミなんか、蟻ん子みたいなものなんだよ?」

「……たとえ、そうだとしても…………看過できないで……ござる」

「だったら何だよ。面倒くさいなあ」

 ラーフはゴミを見るような目で、セイバーの覚悟を否定する。

「我は凶兆の星。

 天の道行きの果て、光を閉ざす暗がり。

 生きとし生けるもの、遍く包み込む闇。

 密告の星を捕食し、今ここに復讐を為す」

 仰々しい呪文とともに、ラーフの周囲にあった魔力が、ラーフ本体に再集結していく。

 

「呑め、日月を喰らいつくす憎悪の闇(プーム・スーリヤ・チャンドラ・グラハン)

 

 世界が闇に堕ちていく。

 それはアーチャーの繰り出した固有結界に似て、されど非なるもの。

 固有結界が、世界のテクスチャを上書きするようなものだとするなら、ラーフの繰り出したこの宝具は、世界を芯から侵食するようなおぞましい外法。

 その闇を見るだけで、ありとあらゆる生物は恐怖し、生きる意志を失っていく。

 取り込まれたなら、それはラーフに捕食され、その一部となるも同然。

 もはや、この世に希望は存在せず、ほどなくして終焉を迎える。

 いや、それだけではなく、あの魔神によって、本物の人間たちが住む世界も無茶苦茶になって終わってしまうのだろう。

 太陽と月がなくては、人間は生きていくことはできない。

 そう、ラーフが当然果たすべきと思っている復讐は、人類の滅亡に結びついているのだ。

 

 ――――そして、世界が終わろうとした瞬間、希望の声は、波彦が一番苦手に思っている人物のキザな声で聞こえてきた。

 

「そこまでだ悪党。オレが世界を救いに来た」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

30:既に一度絶望した少年

 如月拓人は、歴史の浅い魔術師の家系に生まれた魔術師である。

 と言っても、家系の歴史が浅すぎて、できることと言えば、短距離間小さな物体を移動させる魔術と、人払いの結界魔術くらいのものである。

 親からは魔術の研究を続けて、次世代にその研究成果を繋げて、いつの日か訪れる一族の悲願の一部となるように教育を受け、そうするのが当然なのだと如月自身も受け入れていた。

 けれど、そんな自分自身が目的を達成できない一生になんて意味があるのか、という問とも密かに戦い続けてきた。

 

 そんな、如月の日常の転換点となったのが、一月前の皆既月食の日のことだった。

 近頃、如月は新たな研究のとっかかりとして、月の満ち欠けによる魔力の増減に何かを見いだせないかと考えていた。

 皆既月食なんていうのは言うまでもなく、普段周期的に月が満ち欠けていく中での特異点であり、如月は一ヶ月以上前から、その日のための準備を始めていた。

「月は一般的に、満ちる程に魔力を増幅し、欠ける程に魔力を減少させる。皆既月食では、この満ち欠けがごく短時間で行われるのと同じ現象が発生する。その謎を解明することで、月の魔力増幅作用の解明に繋がり、無限の魔力増幅の手段を発見できるなら、それすなわち根源への到達を意味する」

 ここ一ヶ月で何度となく口ずさんできた理論を、その日もルーチンワークであるかのように殆ど無意識で口にする。

 当然、月の満ち欠けなんていうのは、魔術師の中でも非常にポピュラーな研究対象であり、今まで幾人もの偉大な魔術師たちが、月食の研究も行ってきた。

 だが、如月が口にするほどの成果を上げられたものは今までにいない。……と恐らくは思われる。

 何しろ、魔術の研究というのは成果が上がっていても、軍事技術よりも秘匿されるのが常だからだ。

 ともかく、そんな先人たちが失敗を続けてきた月食の研究の成功について、如月は自信満々で挑む。

 先人たちが何の成果も上げられていないのは、方法が駄目だったからだ、と。

 自分が考えた方法なら、間違いなくうまくいくはずだ、と。

 根拠もなく、先人もそう思ってきたのと同じく、そう確信している。

 魔術師というのは、そんな生き物なのだから。

「天気は快晴。装置の状態良好。実験の段取りは完璧。これで、オレは三十分後、根源への大きな第一歩を進めることができるわけか」

 それが打ち砕かれたのが、三十分後の皆既月食最中。

 代わりに魔術的に珍しいものを手に入れることになる。

 

 

 

「まさか魔眼が手に入るとは、思いもしなかったな」

 そう月食の時、如月は魔眼に開眼した。

 代わりに、そのせいで実験はまともにすることもできずに失敗に終わる。

「まあいいさ。次はこの魔眼で根源への道を切り開いてやる」

 正直未練たらたらである。

 魔眼というのもピンからキリがあって、如月はまだ魔眼の力がどういったものかということにすら気付くことができていない。

 だが、それでもどの程度の能力が秘められているか測る簡単な方法がある。

 色を見ればいい。

 宝石色や黄金に輝いていると、非常に強力で希少性があるのだという。

 なので、鏡で確かめてみた。

 くすんだ銅褐色。

 うなだれた。

 魔眼であるというだけで、一般的な魔術師にとっては喉から手が出るほどに欲しい物であるのだが、如月は未だに月食の研究への根拠のない確信に執着気味だった。

 そんな気分を晴らすために、意味もなく街に繰り出していたときのことである。

 

 ――――視界がジャックされる。

 

 現実の目の前にあるはずの視界の比率が、別の視界に占拠されていく。

 何度も色を塗り重ねて、下地の色を消していくかのように。

 十パーセント……。三十パーセント…………。七十パーセント………………。

 そして、視界が完全に切り替わる。

 と言っても、それまでと似たような街を歩いている視界。

 ただ微妙な違和感。

 高さが違う。

 風景の揺れ方が違う。

 少し酔いそうだ。

 つまり、これは他人の視界を共有しているということらしい。

 視界共有の魔眼?

 あまり実用性はなさそうだ。

 と残念に思いながらも、そのままなりゆきを見守る。

 視界共有を果たした男性は、何事か荒れている様子だった。

『くそっ、あのくそ上司がっ! 死ね! ムカつく! はあ、いっそのこと会社潰れてくんねえかなあ!』

 声まで聞こえてくる。

 他人の声を、自分が発したような視点で聞くのは、かなり不思議な体験。

 勤めている会社と、自信の上司に対して、相当な悪感情を抱いているようで、ブツブツと見苦しい罵詈雑言を並べながら歩いていく。

 そんな見るに堪えないだけの状態が続いていく。

 いい加減に視聴を止められないかと、解除の方法を色々と探っていた矢先。

 男性は交差点で信号待ちをする。

 二回ほど蹴りを入れた、車道と歩道を分ける柵にもたれ掛かりながら。

 自分の憎悪の世界に入り込んでいたから、すぐには気付けなかった。

 ドン、と大きな音。

 声がする。

『危ないっ!!』

 顔を上げる。

 視界に大きく赤色。銀色。黒色。

 大きなものが自分に向かって、猛烈な勢いで転がってくる。

 それが、赤い乗用車だと気付いた時にはもう遅く。

『ぁ――――』

 

 ――――視界が切り替わる。

 

 如月は思わずよろめく。

 すぐ近くを歩いていた人に、「大丈夫ですか?」と声をかけられるが、

「問題ありません」

 と返すと、残りの人間は興味がないみたいで、人波は何も無かったかのように流れていく。

 如月はその中に、かなりの荒れ様を見せている男性がいることに気が付いた。

 胸騒ぎがして、その男性の後を気付かれないように付いていく。

 やはり、先程歩いた通りの道を男性は歩いていく。

 それを確認すると、如月は例の交差点を安全なところから見渡すことのできるポジションに先回りをする。

 汗だくで、近くにあった駅ビルに入るための階段を上った先に辿りついたタイミング。

 一台の制御を失ったくらいのスピードを出した車が突っ込んでくる。赤じゃない。

 その車が交差点を右折しようとしていた車に衝突する。赤だ。

 その車は映画でみるような見事な回転をしながら、交差点に突っ込んでいく。

 その先には、やはり、あの男性がいる。

 ……………………。

 即死。と結果を確認しなくても断言できる大惨事。

 その夕方のニュースでは、その事故に少しだけ触れていて、思ったとおりに男性は死んでいた。

 

 

 

 如月は自分に宿った能力について見極めるために、何日か使って外が見えるファーストフード店の席から、ひたすらに人が行き交う駅前通りを見続けるということを行った。

 結果、魔眼が発動したのは二回だけ。

 丸一日何も見れない日もあった。

 ただ、その二回ともが、もうすぐ死ぬ人の視界の共有であった。

 二回とも、その後をつけていくと、如月が見たとおりの方法で死んでいった。

「もうすぐ死ぬ人限定の未来視の魔眼ってことか?」

 これまでの実験の結果をまとめるとそういうことらしい。

「これ何に使えるんだ? 死霊魔術でも始めろってことか?」

 正直言って、スゴいものを期待していた如月にとっては、期待ハズレもいいところだった。

 せめて何か自分にメリットのあるものなら良かったのだが、むしろ不愉快なものを見せられる分だけデメリットしかない気がする。

 これをもらって喜ぶのは、スプラッタ好きのスリルに飢えているような人間だけだろう。

 そうしたまま、月食の日から一週間が過ぎて、次の運命の日がやってくる。

 

 その頃の如月は、魔眼がもたらす恩恵については諦めていたものの、能力の及ぶ範囲についての見極めを行っていた。

 その結果、平常時では、せいぜい一時間先の死の未来までしか視ることができないこと。

 未来予測は完璧ではなく、不確定養素によって外れてしまうことがあること。例えば、如月が死が起きるまでの道に、偽通行止め看板を置いたときにそうなった。

 もしかしたら、逆に別の人間を誘導させることで死の未来にない人間に死を与えることができるのかも知れないが、それは怖くて試していない。

 後は、魔眼に魔力を集中させることで、それを三週間先くらいにまで伸ばすことができること。

 この法則を見つけたのが、二日前で、それ以来一日に一回くらいの頻度で街並みの中で使うのを日課にしていた。

 多分、一週間もすれば飽きる日課。

 それをその日も、正午を十二分越えたタイミングで行う。

 

 ――――情報の濁流が、如月の脳内に押し寄せる。

 

 その場にいた全ての人間の、今後三週間分の記憶が一斉に流れ込んでくる。

 膨大すぎる情報に押しつぶされそうになりながらも、耐えた先にあったのは奇妙な事実だった。

 現実に戻ってきて、パンク寸前の頭を抱えながら、如月は今見たことの整理をする。

 全ての人が、それぞれの人生を送っていた。

 三週間後のその日も、特になにも異変のない通常の日を送っていた。

 そして、その瞬間も当然の日常を送っている。

 そんな場面で、シーンは例外なく途切れる。

 これまでの実験の結果で得られた魔眼の能力としては、死の直前の瞬間に場面切り替わりが行われるのが常だった。

 けれど、そんな予兆もないような日常のさなか。

 当然、如月は最初に考えたのは、魔眼の不調。もしくは、能力の変化。

 その後色々試してみたが、三週間後まで期間を広げなければいつもどおりに、死のビジョンのみが視えた。

 そこで、一日後、今度は人が少ない通りを、また三週間後までを視てみようとする。

 結果、全ての人間が二週間と六日後に唐突な終わりを迎えることになった。

「そんなバカな。まるで、この世が三週間後に唐突に消えてなくなるみたいな」

 荒唐無稽な想像だった。

 まだ、この付近に、三週間後に水素爆弾が落とされるといった方が現実味があるだろう。

「バカバカしいよな。本当に、バカバカしい」

 こんなこともう忘れてしまおうと考えながら、側にあったファッションショップのショーウィンドウに手をついた。

 ショーウィンドウには、如月自信の姿が映っていた。

 やめておくべきだ。という声が、内から響く。

 それとは相反するように、好奇心から心臓がバクバクと音を立てる。

 そして、如月は三週間後の自分を視る。

 結果、やはり三週間後に唐突に如月の人生は終りを迎えるようだった。

 そのシーンの後、如月の意識は連続的に現実に戻ることはできずに、闇の中に落ちていった。

 

 

 

 意識を取り戻した時、如月は病院のベッドの上にいた。

「起きたか?」

 この素っ気ないのは、如月の父親の声。

「魔術の研究をするのは立派なことだが、危険を冒すのはせめて後継者を用意してからにしろ」

「……はい、分かりました。気付いてたんですね、魔眼のこと」

「それが、我が一族の悲願を叶えるための大きな一歩となることを願っている」

 相変わらず、彼は如月のことを道具のようにしか見ていない。

「あの……」

「なんだ? 言ってみなさい」

「もしも、人類が後三週間で滅びるって言ったらどう思います?」

「……何を言うかと思ったら、バカバカしい」

 当然の反応をもらって、惨めな思いをする。

「ただ、もしも後三週間で世界が無くなるというのなら、三週間以内に根源へと至る方法を見つける。それだけだ」

 なんとも、魔術師の見本みたいな回答だった。

 如月が大丈夫そうなのを確認すると、父親はさっさと帰っていった。

 相変わらずの魔術師っぷりに辟易するが、最後の言葉を言えるだけの信念については少し尊敬している。

 時間を確認してみると、丸一日が経過していた。

 人類滅亡(予定)カウントダウンは、また一つ気付かぬ内に進んでいた。

 ただ、それもどうでもいいかも。という気持ちが芽生えかけていた。

 父親の言葉ではないけれど、ちょっと前にポっと出で生まれた魔眼の能力がまるで世界の終わりを示唆しているからなんだというのだ。

 それに、それを知ったからといって如月に一体何ができるというのか。

 なかったことにして、明日からいつもどおりの日常を送れば、楽ができる。

 という誘惑に従うことにしようと考えた。

 

 検査結果に異常はなく、目立った外傷もなかったため、点滴一本だけ刺されたが、如月はその日の内に退院することになった。

 しかし、そのまま直接帰る気にもなれず、なんとなく病院の中に留まった。

 病院の廊下を巡る。

 総合受付があって、外来が科ごとに分かれてあって、売店があって、入れないけど集中治療室があって、同じく入れないけど緊急外来があって……。

 外来じゃない場所に行くとすれ違うのは、医者、看護師、パジャマを着た入院患者くらいのもので、場違い感が出て居づらくなる。

 それに緊急患者とすれ違って、また死の未来を予知したとしても面倒なので、逃げるように外に出た。

 病院の中庭は、冷房がガンガンに効いていた院内と打って変わって、信じられないほどに熱気が漂っていた。

 そんな場所にいる変わり者は、如月の他には一人きりしかいなかった。

 そんな変わり者は、パジャマを着て、車椅子に乗っている少年。

 その少年の頭は包帯でぐるぐる巻きにされていて、あからさまに重篤な病にかかっている患者といった雰囲気だった。

 そんな彼を遠くから、三週間先に焦点を合わせて魔眼で未来を視た。

 ふと、もう一度だけ怖いもの見たさで、三週間先の破滅の確認をしたかったのだ。

 けれど、少年の追体験が終わるのは、今日から二日後のことだった。

 少年は大きな発作を起こした命を終える。

 考えれば、病院っていうのはそういうことが起きても全く不思議じゃない場所だったということを、失念していて面食らってしまった。

 如月は、あの少年に問いかけたらどういう反応が返ってくるのだろうと気になって、父親にしたものと同じ質問をしてみた。

「なあ、少年。もしも、人類が後三週間で滅びるって言ったらどう思う?」

 急に問いかけた結果、不審人物を見る目で見られる。

 実際、そのときの如月は変なやつだった。

「明日生きてるのかも分からないのに、三週間後のことなんて考えてられないよ」

 少年から皮肉たっぷりな返答をいただき、申し訳ない気分になる。

「すまん」

「あー、いいって。変な兄ちゃんだなあ」

「なんかナイーブになってたんだよ。不謹慎なこと聞いてしまって本当に申し訳ない」

 その殊勝な様子が少年の心を打ったのだろう。

 多分、かわいそうな人だなと同情を得たはずだ。

 少年から、今の言葉についての補足が入った。

「今のはさ、実際に三週間後のことまでは考えられないんだけど、明日があるとは思って生きてる」

「明日か?」

「そ。明日は何をしようかなとか。明日のために何ができるかなとか。多分、明日も明日のことを考えてるし、明後日も明日のことを考えてる。もしも生きているなら、三週間後も明日のことを考えてるし、一年後も明日の事を考えていると思う」

 残念ながら、少年に三週間後は訪れないことを如月は知っている。

「兄ちゃんは、違うの?」

「一週間前までは、一週間前のその日のことを考えて生きてきたかな」

 月食までの一ヶ月はずっと、月食の日の実験のことだけを考えて生きてきた。

「今は……正直何を考えて生きていけばいいのか分からないな」

「何それ。ゲームの発売日とかだったの? 買えなくて悲しくなってる?」

 少年の年相応の想像力に思わず苦笑する。

「ま、そんなところだ」

 如月の様子を見ながら、少年は何やら思案顔になる。

「じゃあさ、兄ちゃん。ちょっと頼まれてくれない? 明日までに調べてきてほしいことがあるんだけど」

「どうした?」

 いや、多分気を使われているんだろうということは分かったけど。

 その気持ちを無碍にするのも良くないと思ったし、何より何か気晴らしになることが欲しいと思っていたところだった。

 もうすぐ死ぬ少年のために、ちょっとしたお願いを聞いて上げるというのも悪いことじゃないだろう。

「兄ちゃんは、最近流行ってる七不思議って知ってる? その中の市境の戻ってきてしまうトンネルについて調べてきてほしいんだ。本当は自分で調べに行きたいんだけど、僕はあんまり遠くまで外出できないからさ」

 

 

 

「これは驚いた」

 少年のお使いを果たすために、件のトンネルにやってきて、実際に調べてみて驚愕する。

「よくも大騒ぎになっていないものだ」

 なんと、そのトンネルは魔術的な結界の作用で、出口に辿り着こうとすると入り口に戻る仕様になっていた。

 与太話だと思って、パッと確かめて、少年に「嘘っぱちだったぞ」と言ってやるために来たのだが、思わぬ事態になってさらに調査を行ってみることにした。

 その結果、藤之枝の市境になっているところは、トンネルだけでなく尽く同じ仕掛けがしてあるらしいことが分かった。

 まるで、藤之枝を出ることのできない檻にしているように。

 翌日、待ち合わせしていた病院の中庭で、そのことを少年に話すと、

「え、本当だったの。スゴいじゃん!」

 と全く信じてない口調で褒められた。

「じゃあ、次は別の七不思議を調べてきてもらおうかな?」

「できれば、七不思議ってやつ、全部一気に教えてほしいんだが……」

 昨日のことで、もしかしたら七不思議が、三週間後の世界の滅亡に関係しているのかもしれないと思った如月は少年に質問する。

 一つずつ教えられたのなら、全く間に合わないことを如月は知っている。

 少年は明日には発作を起こして死んでしまう。

「でも、僕。七不思議全部は知らないよ?」

「構わない。知ってることを教えてほしい」

「なんか今日はノリ気だね、兄ちゃん」

「ちょっと気になってしまってな」

「じゃあ――――」

 ということで、新しく聞くことができた七不思議は三つのみ。

 異能に目覚める若者。

 宙に浮く人の首。

 夜空に二つ浮かぶ月。

 聞いて真っ先に驚いたのは、もちろん異能に目覚める若者の話。

 月食というタイミングに突然手に入ったという共通点で、どうしても如月の未来視の魔眼のことと結びつけてしまう。

 トンネルの話が本当だったことを考えると、この話についても信憑性は高いかもしれない。

 他に魔眼を持っている人物を探すことが、重要かもしれない。

 他の噂については………………見たという人物を探すしかないだろう。

 と気が付けば、如月は七不思議の謎を解き明かすことにかなり乗り気になっていた。

 それは恐らく、取っ掛かりもなく存在した絶望的な破滅に対抗するための足掛かりが生まれたからなのだろう。

 この世界の裏側で何かを企んでいるやつがいる。

 なら、それを解き明かして、破滅の未来を回避してみるというのも悪くないと思い直したのだ。

「それじゃあ、兄ちゃん。明日も同じ時間にこの場所で……」

「あーそれなんだけど、明日はこの時間忙しくてな。もう少し遅い時間でも大丈夫か?」

「あ、うん。じゃあ、夕方ごろかな」

「おう、また明日な」

 嘘である。

 明日は少年が発作を起こして死ぬ日。

 待ち合わせを、その死ぬ時より後に回したかったのである。

 今日はかろうじて、まだ明日だからという気持ちで耐えられているけれど、明日になったら一体どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。

 だから、わざと会うことができない時間を選んで、今日それなりの状態で最後の別れを迎えたかったのである。

「じゃあな、少年」

「うん、また明日ね、兄ちゃん」

 当然、その明日が来ることはなかった。

 少年は昼間に発作を起こして命の灯火を消すことになった。

 朝、まだ平気なときに会ってやればよかったかなと思ったが、その場合もきっと来ることのない明日の約束をして同じ気持ちになっていただろう。

 ともかくして、如月はそんな少年との出会いを通して、七不思議という取っ掛かりを得ることになる。

 何よりもせめて明日を信じられる世界であるようにと願って、世界の破滅を回避するために奔走することになる。

 そして、少年が死んだ夜。

 七不思議の一つ、宙に浮く人の首が発見されたというネットの書き込みを手がかりに探したところ、偶然にも召喚の魔法陣を見つけてアーチャーを召喚することになる。

 まるで運命に導かれるように。如月は、こうして聖杯戦争への参加を決める。

 

 

 

「世界を救いに来ただって? 今さら、キミ一人に何ができるんだい?」

 漆黒に染まったラーフは、如月の言葉を嘲笑う。

「アーチャーの三つ目の…………いや、一つ目の宝具の話をしてやろう」

 急に、既に敗退したアーチャーの宝具の説明を始め出す如月のことを、ラーフは訝しむ。

「アーチャーの第一宝具は、双子の英雄が家の中に植えたトウモロコシの逸話の再現。

 双子は冥界シバルバーに行く前に、二人の命の状態をリンクするトウモロコシを植えた。

 双子が一度シバルバーの神々に破れて死したとき、そのトウモロコシも枯れた。

 しかし、双子の英雄は物語の中で復活し、シバルバーの神々への復讐を果たす。

 この双子が復活した時、一度枯れたトウモロコシも再び芽を出したという。

 その逸話通り、宝具のトウモロコシをサーヴァントに使っておくことで、死してもなおトウモロコシの復活とともに復活を遂げる」

「なるほど、アーチャーを復活させて戦わせようという話か。だが、今さらアーチャー一騎がこの戦いに加わったことで何になる?」

「誰が、復活させるのはアーチャーなんて言ったのか?」

 如月が復活させるのはアーチャーではない。

 聖杯戦争の開幕戦。セイバーとランサーの戦闘。

 偶然にも如月は、その戦闘に居合わせることができた。

 その戦闘を見た際に、如月の魔眼が発動して、死の未来予知が行われる。

 そう、ランサーがセイバーに倒されて敗退する瞬間を未来予知したのである。

 まだ聖杯戦争を裏から操るものの狙いが不透明な状態で、脱落者を出すのは得策ではないと感じて、アーチャーで二騎の戦闘に水を差して、その場を引かせる。

 けれど、その直後にランサーを魔眼で視認すると、再び別の死の未来予知が起きる。

 まるで、何者かがランサーを、どうしても敗退させたいかのようにランサーに死の未来が降り掛かっていた。

 だから、如月は賭けたのだ。

 これこそが黒幕のウィークポイントではないのかと。

 アーチャーに頼んで、ランサーを対象にして宝具を使用してもらう。

 後は、ひたすら我慢して、切り札を使うタイミングを待ち続けた。

 本当の目論見をひた隠すために、完全に誰かと手を組み続けるようなことはせず、ひと目見て誰もが頭がおかしいやつだと考える格好をして、意味のある行動を無意味であるように見立てた。

 全ては、今この時のため。

祈りの豊穣(ニカフ)。祈りのもとに甦れ、不滅を滅ぼす英雄ヘズ」

 静かに発動する宝具だった。

 発動の呪文を唱えた如月自身も不安になるような静けさの中、海の方からしっかりとした面持ちで歩いてくる懐かしの萌葱色の英雄。

 ラグナロクの終わり。自ら殺した兄と共に蘇るときのように。

 ただし、今はただ一人。これ以上無いほどの頼もしさで。

 ランサー――――ヘズは、世界の終焉に立ち向かう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

31:願いの刃

 新緑の英雄は既に宝具の準備を始めていた。

「ランサー…………?」

 思いがけず再び会えた自らのサーヴァントに、呆気にとられた表情の神無。

 ランサーは言葉は返さず、その背中で勇姿を見ていてくれと語る。

「おのれぇええええ! させるものかぁあああああアアアアアアア!」

 先程まで余裕ぶっていたラーフが吠える。

 少年の姿から、彼の本来の戦闘形態と思われる漆黒の邪竜の姿に一瞬の内に変貌する。

 宙に浮遊する、恐ろしい鉤爪のある手を持つ蛇といった風貌。

 必死の形相で弱々しい若芽の宝具を手にするランサーに襲いかかる。

 しかし、それよりも早くランサーの宝具が発動する。

 

「我が偉大なる兄を堕とした幼き若芽よ。

 かつて世界に破滅をもたらした我が腕で、今は破滅を阻止せんと。

 魔神の喉に食らいつけ、光を墜とす宿木の新芽(ミストルティン)!!」

 

 流星の如き、一条の緑の光が放たれた。

 とほぼ同時に、ラーフの振るった爪の生み出した衝撃波が、ランサーのいる海面に叩きつけられた。

 世界の命運を賭けた両者の攻撃の交錯。

 巻き上がった水しぶきが止み、半身を吹き飛ばされた状態で姿を現すランサー。

「ランサー!?」

 なりふり構わず車椅子を走らせ、ランサーの元に駆けつけようとする神無。

 しかし、地面の小石に車輪を取られて転倒し、辿り着けない。

「そんな顔しないでください、マスター」

 ランサーは神無に穏やかな表情を向ける。

「今一度、あなたに会えて嬉しいです」

「うん、あたしも。……何もできないマスターでごめんなさい」

「そんなこと言わないでください。私はマスターに出会えて幸せでしたよ。ただアサシンにやられた時、最後まで私があなたに何も返せなかったことだけ心残りだった」

 ランサーは残った右手で、前方に飛ぶ龍の姿を指す。

「だから、こんな最高の贖罪の機会を与えられて、私は本当に幸せでした」

 それだけ言い残して、ランサーは光の粒子となって消滅していく。

 神殺しの英雄の最期を見届けた波彦たちは、ランサーの指差した方向に改めて目を向ける。

 

「くそぅ。くそぅ。力が、魔力が抜けていく。

 こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな、こんな。

 おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、おノレェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!」

 

 それはさながら、針で穴を空けられた風船のようだった。

 取り込んでいた聖杯の星の魔力が解き放たれていく。

 もはや魔神が目指した完全なる不死性は、彼の手元には戻らない。

「許さないぞ! 絶っっっっっっっっっっっっったいに、オマエたちをボクは許さない! マズ手始めにこの場で、粉々にしてやって。それからオリジナルの方も、踏み潰してやって。生まれくる来世も再来世も、末代までに渡って、永遠に呪って、恨んで、殺してやるぅううううううううううう!!」

 復讐の魔神は、億年単位でようやく見つけたチャンスを潰した虫ケラたちに憤怒する。

 確かに如月が持ってきた切り札によって、ラーフの計画は潰えた。

 けれど、ラーフが消滅したわけではない。

 もはや波彦たちに邪竜に対抗する手段は残されていない。

 オリジナルの世界の破滅を防げたと、それだけで満足するべきなのかもしれない。

 

 ――――と、波彦は不思議な感覚を覚える。

 

 それは、浮遊感に近い。

 空間を大量に満たしているものに、漂っているような感覚。

 そして、それを自由に操れるような万能感も同時に。

 きっとこの万能感は、死の間際の走馬灯のような、おかしなテンションに入ったからということなのだろうと思いつつも、空想の中でなら何をやっても許されるだろうと、今脅威をもたらしている邪竜を叩きつけるようなイメージを思い描いた。

 轟音。

 衝撃。

 鼓膜が破裂しそうになるほどの空気の振動とともに、宙に浮かぶ巨大な邪竜が揺らめいた。

 誰も何が起きたか理解できず、静止する時間。

「キサマらァア、一体何をしたああああああ!!」

 ラーフの怒りの声に、波彦たちも続いて正気を取り戻す。

 そして、波彦は気付き、本能的に理解する。

 今の攻撃をしたのは、波彦。

 ただ、波彦の念動力は微弱なはずで、ここまでの攻撃ができるものではない。

 では、飛躍的に威力が上がった要因とは一体何なのか?

 考えるまでもない。

 ラーフが不死を失うことで、漏れ出ていった星の魔力だ。

 あれだけの力が漏れ出ていった後には、どうなるのか?

 まさか、自然に消失するとでも?

 否、今なお空間を充満するほどに漂っているのだ。

 としても、その膨大な魔力を波彦が使用できる理由にはならないのだが……。

「そうか。この念動力は、聖杯の願いを叶える力の一端だったのか……」

 それが答えだった。

 波彦の超能力は、テレキネシスではなくサイコキネシスなのが答え。

 遠くにあるものを動かす力ではなく、願いを実現させる力。

 まさに、万能の願望器である聖杯を象徴するような力。

 きっと、この力が波彦に宿ったのは、波彦が救世主だったからではない。

 むしろ、逆。

 月並みな人生を送る小市民だったからこそ、平凡に生きる人々の平凡な願いの代弁者として、この世界の行き先を願うためのこんな力を与えられたのだろう。

 この世界の破滅の折。

 最後の最後の場面にて。

 救世主でもなく、英雄でもなく。

 生きとし生けるものによる、世界の破滅を憂い、悪しきの打倒を願う、そんな当たり前の祈りが邪神を討つために必要な力になろうとしていた。

 

「令呪をもって命じる。セイバーに邪神を討つための力を」

 

 そして、波彦はその願いをセイバーに託した。

 瞬間、変化が訪れる。

 星に漂っていて、星に眠っていた全ての力が、セイバーの右眼に集まっていく。

 青。緑。赤。紫。

 と、セイバーの眼からは、星の煌めきを想起させる様々な色の光が発せられる。

「なんなんだよキサマらはよぉおおお! 大人しく死んでおけよぉおおお! ゴミなんだからサァアアアアアアア!」

 セイバーの変化を危険な状態だと判断したラーフは、半狂乱になりながらもセイバーに向かって爪を振るう。

 しかし、その衝撃波は宙にあるうちに、空気のいななく音とともに消滅する。

 セイバーは、死神との戦いで右腕も、刀も、体力の全ても使い果たした。

 もはや、まともに動くことはできず、自慢の剣術でラーフに斬りかかることはできない。

 でも、セイバーは負けない。

 なぜなら、いつもの自信に満ち溢れた、正義をなすための強い眼をしていたからだ。

「拙者は昔、無手勝流なんていう戦わずに逃げるためのトンチめいたことをしたことがありましたが、まさか本当に無手で世界を破滅に導くような強敵と戦うことになるとは思いませんでした」

 しみじみと語る。

 セイバーの瞳は、揺らぐこと無く邪竜を見据える。

 怒り狂った邪竜は、今まさにセイバーを標的に定めて、その凶暴な牙の犠牲にするために襲いかかろうとしていた。

「無手勝鹿島新当流、奥義――――」

 それは三つの極地に至った力を合わせることでのみ実現される、剣術の極地。

 一つは、セイバーが生前に刀を振るい続けて身に付けた、一切の無駄なく最適解の剣閃を通すための技術。

 一つは、セイバーが生前に雷神より授かった、定形のない概念さえも固定化し、ありとあらゆるものを斬り払うことができるようになる退魔の眼。

 そして、全人類の命運を救うための願いを束ねた力による、想いを実現させる力。

 そこから生み出された新たなる奥義とは、剣を振るうこともなく、願いの刃をもって、悪しきを完全に消滅する一撃。

 

「虚刃・一之太刀」

 

 虹色の刃が、空間に突如現れ、ラーフの巨大な肉体を、その先にある不完全な不死性を捉える。

「こんなことがあああああ! こんなバカなことがあってたまるかあああああ! あああああああああああ、おおおおおおおおおおおお、ううあああおおえええええええ! イヤだ、イヤだ! ボクが消えてしまう! このボクが、こんなゴミどものせいで…………」

 邪竜はもがき苦しみながらも、光の刃から逃れることができない。

 そして、光の中へと消えていく。

 かくして、人々の願いが悪鬼の野望を打ち砕き、新しい未来を切り開いたのである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

32:甘露の終幕

 今度こそ、本当に聖杯戦争にまつわる全てが終結した。

 波彦は、転倒したままの状態でセイバーの最後の一撃を見守っていた神無に近寄る。

 本当は車椅子に乗せなおそうと思ったけど、やっぱりやめる。

 代わりに、神無の隣に座る。

 尻に当たる石が少しだけ痛かった。

「終わったんだよね?」

「うん、それだけは間違いないと思う」

 巨大な邪竜が消失していく光は、波彦たちの勝利を祝福しているかのようだった。

「ねえ……?」

「何? いつもみたいにはっきり言えばいいと思うよ」

「創った張本人が消えてしまったみたいだけど、この世界ってどうなるのかな? やっぱり消えちゃうのかな?」

 波彦が考えもしなかったことを、神無は考えていた。

 確かに、用済みになってしまったこの世界が存続する確証はない。

 消えてしまう。

 そう考えると、やっぱり怖い。

 神無は、その恐怖にいち早く気付いていたのだろう。

「大丈夫だよ、きっと」

 そんな殊勝な態度が珍しくて、つい強がりを言ってしまう。

「根拠のない自信だなぁ」

「そっちの話にだって、根拠はないだろ」

「そうだけどさ」

 ポツリ。

 ポツリ。ポツリ。

 ポツリ。ポツリ。ポツリ。

 唐突に雨が降ってくる。

「雨だ」

 見たまんまの感想を口にしてしまう。

「本当だね」

 神無は空を見上げる。

 いつの間にか日食は終わっていて、太陽はそこそこの高さにまで上っていた。

 空に雨雲は一つもない。

 つまり天気雨だった。

 波彦が周囲を見回すと、他にも何人かが同じように空を見上げていた。

 突破口を切り開きに来た如月の隣には、寄り添うようにして弥生が空を指差している。

 圭人の突然の変貌に、建物の影に隠れていたらしい睦月は、恐る恐る表に出てきてその光景を目撃している。

 波彦も空を仰ぐ。

 雨はまるで光が粒となって、降り注いでいるようだった。

「あっ……」

 と、隣で声が上がる。

 何かあったのかと神無を見ると、彼女は何やら舌を空に差し出していた。

 その舌に雨粒が当たって、小さく弾ける。

 彼女は、したり顔をする。

「波彦くん、この雨甘いよ」

 まさかと思いつつも、波彦も作法に則って舌に雨粒が落ちてくるのを待つ。

 雨は甘かった。

「本当だ……」

「甘露というやつでござるかな?」

 いつの間にか近くまでやってきていたセイバーは、折れた刀を杖代わりにして立ちながら、空を見上げる。

「何でも、天地陰陽の気が調和すると、天から降るなどと聞いたことがあります」

「そっか、じゃあ世界を救ったご褒美ってやつなのかもね」

 けれど、そのご褒美にはどこか終末を思わせるような儚さを感じさせるものだった。

 その時、波彦は気付いた。

 遠くの風景、山の稜線が眩い光に包み込まれている姿を。

 世界の消滅は、ゆっくりとだけれど始まっているらしい。

 でも、言わなかった。

 寄り添って美しい光景を共有している、この時間を汚したくなかったのだ。

 もしかしたら、神無やセイバーも、波彦より先に気付いていたのかもしれないが、誰も最後まで言わなかった。

 ここで時間が止まればいい。

 とは言わない。

 でも、叶わない願いだとは知っているけれど、――――。

 

「また、みんなとこんな綺麗な景色を見れるといいのにな」

 

 また違うどこかで、みんなと再会して、幸せな時間が共有できるようにと願う。

 一応、聖杯戦争の勝者であるわけだし、それくらいの願いをしてもバチは当たらないだろう。

 

 

 

 そして、その幻の世界は消滅した。

 誰もその世界で起きたことについて語るものはない。

 世界は何かが起きていたことすら、ましてや危機が迫っていたことなど感知できないままに、普段通りに回っていく。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

33:遠い星の一日

「うわぁあああ!!」

 犬吠埼睦月は、叫び声とともに夢から醒める。

 悪夢を見た。

 母親が階段から転げ落ちて死ぬ夢だった。

「睦月、どうしたの? 大丈夫?」

 一階のリビングにいる先程死んでしまった母親から、睦月を心配する声が投げかけられる。

「……………………」

 返答はしない。

 いつもだったら、「うるさい黙れ」くらい言っていただろう。

 実際今も、心配の声を投げかけられてイライラしている。

 けれど、あまりにもリアルな母親の死の悪夢を見せられた後に、それをするのは躊躇われた。

 目覚めて……、いつもだと何もしないために、また目を閉じて眠りにつく。

 しかし、今日はそういう気分にはなれなかった。

 かといって、万年床になっている布団をたたむ気にはなれないし、そこかしこに置きっぱなしにされているペットボトルやスナック菓子の袋を片付ける気にもなれない。

 そういったことへの面倒さが、奇跡に等しい偶然にも、その日は勝ってしまったらしい。

 何を思ったのか、半年近くまともに出ていない家の外に出てみることにした。

 三日近く連続で着ている部屋着を放り捨て、衣装箪笥にいつの間にか入れられている洗いたての服に着替える。

 サイズが合わないので、かなりピチピチになってしまったが問題ない。

「……行ってきます」

 なるべく目を合わせないように、リビングをそそくさと出て玄関を目指す。

 ちらと見えた母親は驚きの顔をしていたと思う。

 

 

 

 睦月が目指すのは、睦月の通う中学である。

 …………そこまでは行けないかもしれないので、その近くにあるコンビニでスナック菓子でも買って帰ることになるかもしれないけれど。

 小学生の頃から使っているマジックテープ式の財布の中には、千円札が一枚入っているので、よほど欲張らない限りは金銭的にな問題はないだろう。

 問題なのは体力面である。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 と、まだ百メートルちょっとしか歩いていないのに、息が切れていた。

 夏なので日が照りつけていて、それに体力を奪われている部分があるにしろ、たった半年外に出なかっただけで、ここまで自分の体力はひどく落ち込んでしまっていたのかと驚いた。

 少し休憩したいが、あいにく信号の細い影くらいしかなくて、そこに睦月の身体は収まりそうにない。

 仕方ないので、日陰のある場所に向かって歩いて行こうとした、その瞬間。

 ブレーキ音。

 長く響くクラクション音。

 気がつけば睦月は、高校生から大学生くらいの歳の男の人に抱きかかえられていた。

「「危ねえだろうがっ!!」」

 耳元と十メートルくらい先に止まっている車の窓から同時に注意を受ける。

 車の方は、それだけ言うとそのまま走り去ってしまった。

「あり、がとう……」

 どうも助けられたようなので、とりあえず礼を言う。

「少年。もう少し、周りを見て歩いた方がいいと思うぞ」

 それに対して、もっともなことを返すお兄さん。

「というかお前臭いな。ちゃんと風呂に入ってるか?」

「ごめん」

「理想を言うなら毎日だが、せめて三日に一回くらいは身体を洗っておいた方がいいぞ」

「うん」

「それじゃあ、気をつけろよ」

 お兄さんは、睦月を立たせると歩きさっていく。

 その歩みの先にいるのは、女の人。年の頃は睦月とお兄さんの中間くらいだろうか。

「悪い待たせたな」

「……大丈夫」

「つい放ってしまったけど…………ああ、やっぱり卵とか割れてんな。おばさんに怒られちゃうな」

「……すぐに使うから問題ない」

 二人は仲睦まじそうに話しながら並んで歩いていく。

「……臭い?」

「やっぱりそうか」

「……名誉の腐臭?」

「いや、そんな上手いこと言った? みたいな目で見られても困るからな」

 睦月は恥ずかしくなって、自分の服に鼻を当てて嗅いでみる。

 しかし、鼻がすっかりおかしくなってしまっているようで、何も分からなかった。

 

 ゆっくりとゆっくりと休憩を入れながら歩いていく。

 その間にも、何人かの人とすれ違った。

 

「お母さん、それは私が持つってば。大変な時期なんだから無理しないで」

「あら、この子ったら、もうお姉さんの自覚が出てきたのかしら?」

「そうだな」

「笑ってないで、お父さんも、ちゃんと手伝って」

 夫婦と思われる男女と、その子供だと思われる女の人。

 三人とも、顔もスタイルも整っていて美形な家族だった。

 母親のお腹は、かなり膨らんでいて、新しい命が宿っているのだと思われる。

 その割には、娘は睦月よりも年上のように見える。

「それでね、この子ったら、弥生ちゃんが拓人くんに取られそうになっちゃって、焦ってちょっかいかけてるのよ」

「違うって言ったじゃないお母さん。あれは拓人が――――」

「あー、ごめんなさい。逆だったかしら、拓人くんのことを弥生ちゃんに――――」

「おーかーあーさーん!」

 

 ……………………。

 

「ほーらー波彦くん、早く行くよ!」

「別にそんな急ぐことないだろ」

「だって、楽しみじゃん!」

 高校生くらいの男女二人。

 元気そうなお姉さんが、小さな買い物袋を手に少し駆け足で先を行く。

 それに連れ回されているお兄さんの方は、少し大きめの買い物袋を持っている。

 買い物袋の中身のことに気を使いながら、お姉さんの様子を見て仕方ないなといった表情で小走りをしている。

「でも、確かにみんなで集まるのは久しぶりだもんな」

「そうそう。弥生ちゃんに葉月ちゃんに拓人くん、それから――――って、拓人くんの名前出しただけで露骨に不機嫌な顔してるね。そんなに苦手か?」

「いや、まあなんというか……。元気にやってるといいなとは思ってるよ」

 

 そんなこんなで、たかだが一キロもない道を歩くのに、一時間弱かかってしまった。

 ようやっとのことで、中学まで辿り着いたのだが。

「そっか、今日は日曜日だったか」

 その門戸は閉ざされていた。

 徒労に終わったという事実が、一気に疲労となって睦月の身体に押し寄せる。

「……帰ろうか」

 半年に及ぶ引きこもり生活のせいで、すっかり曜日感覚は失われていたらしい。

 いや、正確には日曜日が一般的に休みだという感覚がなくなっていた。

 今日が日曜日だということ事態は認識していたが、普段から週七で休日している睦月にとってはあまりにも特別感がなかった。

 このまま、門の前で待っていても何も起きはしないので、多分今度は二時間くらいかけて再び家まで戻ることにする。

 家に帰ったら、シャワーくらいは浴びてみるかと思っていた矢先だった。

 

「もし。そこの方。少し道をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 

 睦月は声をかけられる。

 他人と会話するというのが、あまりにも久しぶり過ぎる睦月。

 一瞬、そのまま聞こえていないふりをして逃げてしまおうかとも思ったけど。

 振り返る。

 今時珍しい和装の女の人が立っていた。

 いや、男の人かも知れない。

 中性的な顔で袴なんか履いているものだから、実際の性別は見当がつかない。

 けど、とりあえず睦月の中では、女性だろうということで話を進めることにした。

「……えっと」

「良かった。この近くに住んでおられる方でしょうか? 実は友人の家を訪ねようと遥々参ったのですが、道を見失ってしまいまして」

 といって、不思議な言葉遣いをするお姉さんが、目的地に印のついた地図を見せてくる。

 その地図は睦月の家の周辺が描かれていて、地図に記された赤い丸の場所を詳しく見ていくと。

「これって、あのお屋敷じゃん……」

 お金持ちが住んでいるという風変わりな洋館であることに気付いて、思わずポツリと呟く。

「知っていらっしゃるのですか? もしよろしければ、この場所への行き方を教えていただけませんか?」

 お姉さんは、睦月の呟きを聞き逃さなかったようで、追求してくる。

 どうしようと思う。

 とりあえず道順だけ教えて、迷ったら迷った側の責任だから、なんて言い訳を考えて。

「あ……えと……あ……」

 と上手く声が出なくなって。

 そこから、今日外に出ようと思ったのと同じくらいの気まぐれが睦月に降りてきた。

「もし、よかったら案内するよ……」

「本当に、そこまでお手を煩わせて、よろしいのでしょうか?」

「うちの近くだからさ……ついでに」

「本当ですか? では、お言葉に甘えて」

 睦月は、自分のした行動に驚いた。

 そして、それに対してとてもうれしそうな顔をするお姉さんの顔に照れた。

 その照れから逃げるように顔を背けて、屋敷の方向に向かって歩き出す。

 睦月の案内に従って、お姉さんもその少し後ろを歩き始める。

 悪夢から始まって、思い立って向かった学校は閉まっていて、今日は始まってそうそうに悪いことが連続して続いていた。

 でも今、睦月の心の中からは、いつもずっと狭い部屋の中で感じているような、嫌な気分の一切合切が消え去っていた。

 なんだか、今日は少しだけいい日になりそうな気がしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。