桃鳥姉の生存戦略 (柚木ニコ)
しおりを挟む

幼少編
ぜろ.苦労するニューゲーム


 心臓が鼓動を止め、思考が完全に磨滅して、脳細胞が壊れて──そんな状態を死と規定するのなら、澪は間違いなく『それ』を体験している。それも──幾度となく。

 

 一番最初──もう思い出すことも難しい──遠い遠い時間の果てでそれを迎えてしまった時は、

 

 痛みは辛かったけれど

 

 別れは悲しかったけれど

 

 暗闇は怖かったけれど

 

 終わりは苦しかったけれど

 

 だけど、ほんの少しだけ、嬉しかったのに。

 

──でも、神さまといういるんだかいないんだかも分からない謎の存在は、とことん澪が嫌いらしい。

 

 そんな僅かな安寧は新たな生という形で押し潰され、その度澪の魂は軋み、慟哭を上げた。

 安寧が齎されることはなく、終着点は訪れず、人生ぐるぐる──繰り返し。

 

 知らない人。知らない生き物。しらない、せかい。

 

 そんな場所で澪は時間の差こそあれ、必ず『澪』として意識を取り戻し、記憶を喚起してしまう。あまりにも唐突で理不尽だが、それは避けようもなく脳髄に全てを刻み込む。

 

 過去の自分が犯してきたすべての罪。侵してきたすべての罰。なにもかもが消えもせず、澪の中に蘇った。

 

 絶望があった。悔恨があった。諦観が支配した。途方もないほどの寂しさが澪を埋め尽くした。

 

 残酷なほど鮮やかに記憶に残る大切なひとたちは──この世のどこにも、いないのだ。

 

 誰も悪くなんかない。責める人なんかいない。みんながいないのは、当たり前。あえて言うなら、死んでしまった自分が一番悪い。

 

 それを理解してしまって、打ちのめされて、ぜんぶぜんぶ辛くなって。

 

 それでも自ら断ち切った試しがないのは、衝動的に終わらせようとしなかったのは、もし自分で喉を貫いたとしても、また『こう』ならないとも限らないという恐怖と(そしてその予想は当たっていたのだ)、『生前』の誓いという名を借りた呪いと──そして、新しい『誰か』の存在だった。

 

 新しく出会う家族、新しく出会う友人、道端で会話を交わし、笑顔を向けた誰か。

 紡がれていく親交に、向けられる親愛の情に、背を向けることはどうしてもできなかった。

 

 澪の中でごっそりと抉れてしまった部分が埋まることはなくても、記憶では感じることのできないあたたかさが、それを少しずつくるんでくれる気がした。

 

 けれど──澪にとってそれは邯鄲の夢のようなもので。

 

 どれだけ懸命に努力しても、今度こそはと願っても、終わってしまうのだ。大抵はひどく突拍子もなくてあっけなく、無残なかたちで。

 

 生まれて死んで、人生ぐるぐる──繰り返して、繰り越して。

 

 嵐のように訪れる理不尽に抗う手段も、根性もとうに尽きてしまった。

 

 だから、刹那に(こいねが)う。

 

 

──これで『おしまい』だったらいいのに。

 

 

 人骨を踏みしめ、怨念を啜り、血道を這うように生きてきた。

 

 もし『本当に』死を迎えることができて、地獄というものがあるなら自分はそこに行くのが当然だと思っていた。そこに疑問の余地はない。後悔もまた──ない。

 身の内に孕み続け、重ねに重ねた慚愧の念を刑罰という形で贖うことが叶うのならば、むしろ望むところだったのだ。

 

 しかし──運命というのは思う通りにならないのが常で。

 

 そんなの否応なく体験してきた澪だったけれど、どうやらそれは今回においても同様らしかった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 死んだと思ったら、既に次の段階だったなんてのはもう何度目のことか。

 

 しかも周囲の反応や父母たちを鑑みるに、かなり高い身分らしい。社会最底辺を這ってきた身として、この地位の爆上げっぷりには戸惑いしかない。

 

 今生での自分の身分は、なんでも世界貴族――天竜人という世界政府を創設した一族の末裔とかいう、言ってみれば王侯貴族?のような感じらしい。なにそれ気持ちわrげふん。

 

 ついでに言うなら、昔の天竜人がどうだったかは知らないが、現在の天竜人なんて権力を笠に肥え太った豚である。天井知らずに暴走した権力を、無能な輩が何の労苦も背負わずに得るとどうなるか、なんてお察しである。腐ってやがる、遅すぎたんだ……!

 

 幸いなことに、うちの父母は天竜人の中では比較的良識を持ち合わせていたので、そこだけはよかった。上げ膳据え膳の生活はまだしも、奴隷とか下々民とか……ないわー。そういうのがフツーに横行してるなんてデカダン趣味にもほどがあんだろうがよ。

 とはいえ出自は自分で選べないので、そこら辺は早々に諦め、ほどほどに日々を過ごして数年後、可愛らしい弟がひとり増え、ふたり増え、五人家族になった。

 

 ドフラミンゴとロシナンテ。

 

 可愛い僕の弟たち。

 

 守るべき、いとしい家族。

 

 まぁ、環境的に少々ドフラミンゴは天竜人特有のプライドキリマンジャロに毒されつつあるし、ロシナンテは逆に野に放ったら最後、三日でお陀仏になりそうなまれに見るドジッ子だが、それでも大事な家族である。

 

――なので。

 

 うちの父母が時々下界(という表現もイヤなのだが)で一般人に交ざって生活したい、とかドえらいことをのたまい始めたため、僕は家族を守るためにあらゆる手段と泥を被る決意を早々に固めざるを得なかった。

 父よ、ご高説はもっともだし同意もやぶさかではないが……リスクマネージメント能力をもう少し養ってくれまいか。下手を打つと家族が詰むぞ。……いや、マジで。

 

 前置きが長くなりましたが、どうもこんにちは今生での名前はドンキホーテ・ミオであります。

 

 生前がアレすぎたため、自分の世話をさせるのは最小限。奴隷を買うこともなければ気まぐれに殺すこともない、極めて特殊な子供と認識されております。いや無理だって。鳥肌止まらんし。

 

 まぁ、例外はあるけどね?

 

「この奴隷もう飽きちゃったえ~、動きもトロいしイライラするえ~」

 

 あほ丸出しの絵に描いたようなクソガキが、自分の人生の倍以上を生きてきた男を足蹴にしてやがる。

 周囲の人間は、そんな異常な光景に何も言わない。

 胸糞悪いが、これも『日常』のいちぶである。雲上人だから何をしても許されてしまう。許されて当然、という意識しか存在しないというのは本当に厄介だ。

 

「なら、僕がもらい受けても?」

 

 心の内でため息を漏らし、クソガキが『処分』を言い出す前にそう口に出す。

 今日はドフィもロシーもいないから、『こういうこと』ができる。クソガキはきょとんと首をかしげ、「いいのかえ?使い古しだえ?」と念を押してきた。

 すると、その隣にいたクソガキの友人らしきクソガキBがひそひそとクソガキに耳打ちする。

 

「こいつ、アレだえ。『中古好き』だえ」

「ああ、そうだったのかえ。納得だえー」

 

 するとクソガキがうんうん頷き、奴隷を繋いでいた鎖を手放す。

 

「好きにするといいえ」

「ありがとう。では、彼はこれより僕のものになりました。手配を」

「はっ」

 

 僕の隣にいた護衛というか傍仕え()のひとりがてきぱきと奴隷(むしろ被害者)譲渡の手続きを済ませ、こちらへと彼を誘導してきた。

 クソガキたちは手放した奴隷に興味などないのか、もはや姿も見えない。けたくそ悪い話である。

 

 ああ、自分で歩けるならまだ運が良い。身体つきもがっしりしているし、これならばそう遠くない内に『送還』できるだろう。

 まじまじと男性を観察していると、全てに絶望しきっていたような声がぽつりと落とされた。

 

「お前は……おれに、何をさせるつもりだ」

 

 淀んだ目には希望の欠片もなく、そこには生活に倦み疲れた者特有の諦観だけがあった。

 

「そうですね、まずはお風呂、投薬治療、食事による栄養摂取でしょうか」

 

 男に関する書類にざっと目を通しながら、さばさばと答えてやる。既往症もないね、よしよし。

 

「……あ?」

「身体が回復したら、最低限渡世できるだけの手に職をひとつは身につけてもらって……あとは、自由です」

 

 即殺されるだろうから復讐はお勧めできないが、それ以外ならば最大限の便宜を図る。故郷に帰るも行きたい国に行くも、好きにすればいい。

 

 そう淡々と告げるとぽかりと男が口を開けたまま動かなくなり、傍仕えの青年がくつりと笑う。彼も僕がもらい受けた『中古品』のひとりだ。

 

「ミオ様のお目に留まったお前は、運がよかったな」

 

 面白そうに呟き、男に向かって声をひそめて。

 

「ちなみに、おれも元は奴隷だ。勝手にすればいいと言われたから、ミオ様に登用してもらった」

「帰りたくなったら、いつでも言ってくれて構わないと言っているのに」

 

 いつもの言葉を投げると「いいえ」とこれまたいつも通りに首を横に振られる。

 

「おれはアンタが気に入ってるからな。もう少し付き合うさ」

 

 本来なら天竜人にタメ口をきいた時点で即打ち首だろうが、僕はべつだん気にしていない。彼もそれが分かっているから、こうして気安く話しているのだろうけど。

 

 年上なのに敬語はやめろと言われたので、それだけは不満ですわ。

 

「ありがとね」

 

 ぽつりと呟くと、傍仕えが茶化すようにかしこまった礼を返す。そんな気安い空気に男はようやく事態を飲み込んだのか、声もなく瞳からぼろぼろと涙をこぼした。

 

 雫が堕ちるたびに、瞳が洗われたように生気を取り戻していく。

 

「貴方の苦境に報いるには到底足りませんが……僕にできるのは、これが精一杯」

 

 知らず、声に悔恨が漏れる。

 

 僕は(自分が気付いた範囲程度でしか無理だが)奴隷が処分されそうな時に取引交渉を行っている。

 大抵はあっさり引き渡してくれるので、僕は彼ら(或いは彼女)を元気にして、ひとりで生きてゆけるだけのスキルを教え込み、頃合いを見て彼らの望む場所へと『送還』している。

 

 逃げるように故郷へ帰る者が大多数だが、時たま物好きな者がいて、彼らは僕に仕えてくれたり、故郷へ戻っても他の奴隷が『送還』される際に率先して手伝いをしてくれる、とても奇特でありがたい存在だ。

 

「貴族としての義務すら忘れ去った愚物の末席を汚すものとして、恥じ入るばかりです」

 

 貴族、まして王族が背負う義務は果てしなく重い。特権階級に座する者は、それを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれるべきなのだ。

 

 本来自分たちのような立場にいる者たちこそが社会の模範となるように振る舞うべきであり、それが社会的責任というものだ。そんな当然のモラル・エコノミーすら守れない自分たちのような存在など、権力と金に縋るしか能のない寄生虫と同義である。

 

「どうか、恨んでください。呪いあれと――願ってください」

 

 そうされるだけのことを、我々はしているのだ。

 

 許す必要などないのだと、それは貴方が持つ当然の権利なのだと道すがらに説いて、あとのことは傍仕えに任せて家に帰る。

 

 すると、廊下をぱたぱたと走る小さな足音がふたりぶん。

 

 可愛い家族のお迎えだ。

 

「あねうえ!」

「ね、ねぇさま……!」

 

 どうぶつみたいに跳ねてきたドフィを片手で受け止め、いつものようにつんのめったロシーをもう片方の手で掬うように抱きとめる。

 

「ただいま。ドフィ、ロシー」

 

 すると二人はぎゅうぎゅうと服を握って更なるハグを要求してきた。なんとも可愛らしいことである。

 

 まだまだ小さい弟たち。天竜人の中では変わり種扱いされている僕にも懐いてくれている。

 

 子供特有の高い体温としがみつく腕の力を実感して、その度に守らなければと強く思う。いやまぁ、自分もまだ子供っちゃ子供に分類される年齢なんだけど、中身がアレですからね、はい。

 

 某名探偵じゃないけど外見は子供でも中身は○○歳。天竜人の異常さや世界情勢の流れなんかは、うっすらとだが把握している。

 

 天竜人という種族に与えられる果てしない特権と、天上金などにまつわる様々な恩恵、そして天国というぬるま湯に隔離されているからこそ我々は生きることができているのだ。

 

 だからこそ、我が父の言う『下界で一般人に交じりともに暮らしたい』というお花畑願望に関しちゃ理解はできるが、実行するとなるとかなりの無理ゲーであることもまた、理解できてしまうのだ、これが。はっはー、胃が痛いぜ。

 

 なんせ、下界の人にとっちゃ我々なんて不倶戴天の敵だろう。

 

 蛇蝎の如く嫌われるくらいならまだいい方で、下手を打てば敵討ちという名の虐殺待ったなし。拷問されてもおかしくない。『天竜人』という後ろ盾を失った天竜人なんて体の良い生贄と変わらない。

 なので、折に触れては性善説を旨としている父にそれとなく下界の危険性を説いているのだが、わかっているかはいまいちだ。思考の差異があるとはいえ、父母も結局は天竜人。天国育ちの純粋培養だからなぁ。ダメだこりゃ。タガの外れた人間の醜さを、暴走を知らない。

 

 優しいのは父母の美徳だが、生きるにはそれだけでは足りないことを僕は骨身に染みて理解している。

 

 だもんで、早々に説得は諦めた。

 

 こうなると家族の今後を守るために奔走するのは僕しかいない。まぁ、こういうのは年長者()の役目でしょう。

 ちいさな身体が歯痒いが、それでも僕はおねーちゃんだ。

 家族を守る為に汚れ仕事を被るくらい、なんてことない。

 

「だいすきだよ、ドフィ、ロシー」

 

 抱きしめ返して、そっと告げるとふたりも満面の笑みを見せてくれる。

 

「おれも大好きだえ! あねうえ!」

「ぼ、ぼくも……だいすき」

 

 堂々と返すドフィと控えめながらに答えてくれるロシー。いつの間にかあらわれていた両親も微笑みを浮かべていた。

 

 今の自分は、言ってみれば中途までのセーブデータを無理矢理別のゲームでロードして『はじめから』進めているようなものだ。少なくとも自分はそう認識している。

 

 無理を押し通しているのだから合わない部分もあれば、それまで上げてきたレベルの分だけ突出している部分もある。基本操作が同じなら、選択肢に余裕だって持てるだろう。

 

 けれど、いや、だからこそ──バグも出る。

 

 たとえ空が空で、人が人でも、そこにある法則は自分の知るそれとは、大なり小なり違いが生じている。それが吉と出るか凶と出るのかは、その時にならなければ分からない。

 

 コンティニューですらないのだ。

 

 保持したままの『記憶』と『経験』が根幹にあるから、僕は自意識から逃れることすら叶わない。『やりなおし』じゃないことが、何よりきつい事実だ。

 

 ああ、頑張らなくちゃ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

いち.生存戦略開始!

 ついに、『その日』は来てしまった。

 

「あねうえ? 旅行に行くのかえ?」

「でも、にもついっぱい……」

 

 宅配業者もかくやという勢いで次々梱包されていく品々を見て、ドフィが首を傾げ、ロシーは困惑している。

 おいおい父よ、弟たちに説明してなかったのか。

 

「父様がね、お引っ越ししたいんだって。ロシーもドフィも、持って行きたいものをまとめておいで」

「……戻ってこられるのかえ?」

 

 頭の回転が早いドフィが、じいっとこちらを見上げてきた。たぶん、いや、絶対に無理だろうなぁ。

 ドフィはうちの家族にしては珍しく(いや普通の天竜人らしい、と言うべきか?)自分の血統至高主義である。なので奴隷の扱いも雑だし、それをして当然だという考えが、なぜだか染みついている。

 今回のことなんてもう少し分別がつく年齢だったなら真っ向から拒否していただろう。この『引っ越し』で受ける精神的痛手は、おそらく家族内でもひどい方だろうから。

 

 とはいえ、ただでさえ不安いっぱいな弟たちに、いらん不安要素を増やしても仕方がない。

 

「そこまでは僕にも分からないんだ。気になるなら父様に聞いておいで、もっと詳しく教えてくれるよ」

 

 ぽんぽん、と二人の頭を撫でると彼らは頷き合ってから廊下を走って行った。おそらくは尋ねに行ったのだろう。

 さて、僕も準備をしなければ。

 元々父から話が出た時点で準備は進めていたけれど、まだ細々とした処理が残っている。

 

「ミオ様」

 

 自室に戻る途中、長年傍仕えを務めてくれていた青年がこちらへ心配そうな目線を向けてきた。

 

「チェレスタ、長年ありがとう」

 

 僕は柔らかく笑んで部屋に入り、彼も当然のようについてくる。

 

「あなたたちの脱出については、例の手筈通りに」

 

 青年──チェレスタを始めとして僕を主として務めてきてくれた元奴隷の人たちを連れて行くことはできないから、そちらの準備を整えるのも必要不可欠である。

 

「そちらは万全です。ですが……」

 

 チェレスタが言い淀むなんて珍しい。

 まとめていた荷物から顔を上げると、彼の表情は沈痛そのものだった。

 

「チェレスタ?」

 

 名を呼んで話を促せば、チェレスタは苦虫を噛み潰したような渋面で絞り出すように呟く。

 

「……おれも含めて、あんたについて行きたいヤツばっかりだ」

 

 敬語をかなぐり捨てて、元奴隷の焼き印を上書きした星と魚の紋章──どうしても僕のものだったという『証』が欲しいとせがまれて許可を出したものだ──を見せつけるように。

 

「天竜人は今でも憎い。だが、あんたは、ミオ様は、おれたちをもう一度『人間』にしてくれた。恩人だ。それを――」

 

 いつの間にか集まってきていた、チェレスタ以外の元奴隷たちも一様に心配そうだ。彼らには分かるのだろう。

 天竜人という姓を捨て去ったものたちが下界で辿るであろう、末路を。

 

 でも、

 

「大丈夫だよ。みんな、ありがとう」

 

 僕はなにも死にに行くのではない。そのための準備を怠ったつもりはないし、それなりに作戦は考えている。

 なんせ自分だけじゃないのだから。

 大事な家族をみすみす可哀想な目に遭わせるつもりなんてないのだ。

 

「これでも僕はタフなんだよ、みんなのおかげで」

 

 独り稽古では無理のある時に付き合ってくれた元海賊。

 サバイバル知識をくれた元植物学者。

 世界情勢を教えてくれた元情報屋。

 裁縫を教えてくれた縫製屋や、庭師……みんな、僕に生きる術をくれた。

 

「きみたちがくれたもので、僕らは明日から生きていく。生きて、いけると思うんだ」

 

 だから、と僕は彼らひとりひとりと視線を合わせながら、

 

「みんなも、どうか笑顔で見送って欲しい」

 

 そうすれば、僕も笑顔で行ける。生きていけるんだ。

 

「みんなの幸せを、祈っているよ。──いつだって、どこででも」

 

 恨んでいいのに、呪っていいのに、唾を吐いてくれたっていいのに。

 

「ミオ、さまぁ……ッ!」

 

 優しい彼らは、僕の行く末を、この身を案じて涙を流してくれる。

 

 天竜人はなんて勿体ない奴等なのだろうと、つくづく思う。こんなにも、彼らはいとおしいのに。

 

 ただあれだ、これでも生き延びる気まんまんなので、そんなお通夜もかくやという空気を出されると困ってしまう。

 

「ほらほら、曲がりなりにも僕らの門出なんだよ。笑って笑って~」

 

 すすり泣きのおさまらないみんなを宥めている間に、時間になってしまった。

 船に揺られながら脳内で考えられる限りの事態を想定し、作戦を考える。

 

 天竜人というブランドを持つ家族に、仇討ちという大義名分を錦の御旗に掲げた民衆がどんな反応を示すかなんて想像に難くない。

 おそらく、絶死の思いをするだろう。

 父は後悔するかもしれない。彼の思想は正しく、けれど足りないものが多いから。

 

 しかし、それを補うのが家族というものだ。両手で自分の頬を軽く張り、気合いを充填する。

 

 生存戦略、始めます!

 

 

 

×××××

 

 

 

『天竜人、出てこい!』

 

 与えられた住居が世界政府『非加盟』の国、という点で懸念していた事態が的中してしまった。

 人の口に戸は立てられない。天竜人の船が停泊しあまつさえ家族が住み始めたらしい、なんてセンセーショナルな話題はあっという間に街中に広がった。

 

『お前達のせいで、飢え死ぬ奴等がどれだけいると思ってるんだ!』

 

 最初は半信半疑だった町の住民も、ドフィの口調や傲慢な態度、父母の気品にあふれた所作で確信を得てしまったらしい。

 

「ミオ、お前はこれが分かっていたのかい?」

 

 天竜人を出せとわめく、復讐と怨念で暴徒と化した民の声が壁一枚向こう側から聞こえる。

 荷ほどきすらしていなかった荷物を背負い、片手にロシナンテを抱えている僕へ青ざめた表情の父様が問いかけた。

 

「父様、人は善意だけで生きるものではない。再三申し上げましたよ」

 

 にこり、と笑って言ってやる。そもそも天竜人の腐りきった精神を見れば、他の人間だって似たり寄ったりとわかるだろうに。

 これまで思いつく限りの危惧を具申してきたけど、父様はやんわりと受け流すだけだった。考えたこともなかった、とは思っていないが、それを押しても行きたかったのだろう。

 それなら、できる限りで守るのは家族の役目である。辛いのは僕より心のきれいな父の方だろうから。

 

「ああ、だがまさかこんな……ミオ、すまな」

「家族に謝罪なんていりませんよ。それよりとっとと逃げましょう。ドフィ、走るよー」

 

 あらかじめ調べておいた噂の届いていない地域への脳内地図を浮かべながら、足を進める。

 ドフィの背中を軽く押して促し、戸に手を当てた。

 

「あいつらなんでひれ伏さないんだえ!?姉上!こんなのおかしいえ!」

「そりゃひれ伏す理由がないもんよ。口閉じてなさい、舌かむよ」

 

 ざっくりと説明して勝手口の方から這々の体で逃げ出す我が家族。やれやれだぜ。

 いちばん足が速いのは僕なのでしんがりを務めて、なんとか全員を無事に連れ出せた。

 

 この島に到着して、素性がバレる前に持ち出した宝石類を換金して購入しておいた隠れ家に案内する。

 

 燃えてしまった屋敷よりずっとこぢんまりとした、小さなおうち。まぁ今の僕らには相応だろう。

 

「姉様は、ぜんぶ分かってたの?」

 

 まさか家まで用意しているとは思っていなかったのか、唖然とする家族の中でいち早く復活したロシーが僕の服をぎゅっと握った。

 その頭を撫でてやりながら、くすりと笑う。

 

「まさか。でも、いくつか考えていたからね。これもその内のひとつ」

「すごいえ! 姉上!」

 

 目をきらきらさせるロシーとはしゃぐドフィ。いや凄くないから。逃亡生活で拠点の分散は基本です。

 大変なのはここからだよ、と噛んで含めるように言い聞かせる。この場所が割れてなければいいが、一時凌ぎになるかどうか。

 

 そう、ここまでは想定内だ。

 世界政府はおそらく自分たちを生かすつもりなんてない。最高の生贄として利用し潰すつもりだろう。

 それをかいくぐるには、なんとか策を練らなくてはならない。

 

 でも、なんとしてもやり遂げなくては。

 

「みんなは僕が守るから」

 

 だから、笑え。気丈に、威風堂々と、何も心配することはないのだと表情で伝わるように。

 

「だいじょうぶ、だよ」

 

 

 

×××××

 

 

 

 噂の届いていない地域へ行き着いて始めた僕の活動は氏素性を隠しての仕事と、『噂』流しである。

 こちらが天竜人だと先に勘付かれる前に、こちらから流してしまえばいいと判断しての行動だ。

 

 ただし、それは実際とは多少の違いがあるけれど。

 

 酒場の樽を担いでいると、今日も聞こえる世間話。

 

「元天竜人が近くにいるらしいって、アレ、マジか?」

「ああ、けどその天竜人に危害が及ぶといけないからって、あちこちに替え玉を用意したらしいじゃねぇか」

「じゃあ隣町で襲撃したってヤツらも?」

「そうかもしれねぇな。だとしたら可哀想な話だよ」

 

 よしよし、今日も順調に噂は広がっているようだ。

 

 僕がこの町で流した噂は『天竜人が姓を捨てて暮らしているらしい』『その天竜人を守るために、替え玉が用意されているらしい』『替え玉であることがバレるとその家族は天竜人に殺される』このみっつだ。この町で、幸運なことに協力者を得られた僕は彼の助力を得て噂を広めた。

 僕はともかく父母やドフィ、ロシーが天竜人らしく振る舞えば振る舞うほどこの噂は効力を発揮する。

 

「ケッ、天竜人のやりそうなこったぜ。胸糞悪ィ」

 

 吐き捨てるような男の言葉は、噂の信憑性が高まっている証左だ。

 

「おやっさん、お待たせしました!」

「ああ、そっちの樽は倉庫におねが……頼む。そしたら今日は上がっていいぞ」

「はい!」

 

 ほんの少しだけ言い淀んでしまったこの酒場のマスターは、過去僕が引き取った元奴隷だったひとだ。

 彼がこれまで受けてきた所行を考えれば、すぐさま自分たちのことを周りにバラしたっておかしくなかったのに、マスターは僕を雇うだけでなく噂まで率先して広めてくれた。もうマスターに足を向けて眠れない。

 

「ジマドールさん、ありがとう」

 

 倉庫から戻ってこっそりと礼を述べると、彼は樽みたいな身体をゆすって少しばかり照れくさそうにぷいと横を向いた。

 

「おれぁ、アンタに恩がある。それだけだ」

 

 作りすぎた、と賄いの余りを包んだ袋を受け取って思わず微笑んだ。まだ温かいそれは、彼の思いが詰まっている。

 もう一度頭を下げて、僕は家族の待つ家に帰った。

 

 実は、迫害による悪罵と暴力の凄惨さを肌身で味わった父は一度マリージョアへドフィたちの帰還を打診していた。返事はもちろん「ムリ。捨てたものは戻らないよ!」。そりゃそうだ。

 

 既に権威を失効した時点で僕らは彼らの仲間ではなくなった。『元天竜人』という体のいい生贄なのだから、せいぜい民の鬱憤の捌け口になってくれというのも当然である。

 断られた時の両親の落ち込みっぷりは尋常じゃなかったので、慰めるのにわりと苦労した。ほんと、いいひとたちなんだよ。……計画性がないことを除けば。

 

「ただいま」

 

 海の近くの小さな家が今の自宅である。

 ゴミ捨て場がわりと近くにあったので安価で借りられた。潮風のおかげでそうイヤな臭いはしない。

 「おかえり」とか細く呟く椅子でうなだれている父は、またぞろマリージョアに電話してボコボコにされたのだろう。スープを温めてカップに注いで置いておく。

 

「すまない、お前には苦労ばかりかける……」

「覆水盆に返らず、ですよ。過ぎた過去を悔やむよりも、今日を生きてください」

 

 オブラートに包んでいるが、ぶっちゃけネガキャンに付き合うのも限度がある。いい加減にしないとケツ叩いて森に放り込むぞ、という言葉は呑み込んで曖昧に笑むに留めた。

 そもそも手に職くらいつけてから出奔しましょうよ、財産に胡座かいてるからこうなるんです。

 同じようにスープを注いで全員分の食事を準備してから、まずは母のベッドに持っていく。

 

「母様、ただいま戻りました。食事ですよ」

「ありがとう、ミオ。ごめんなさい……」

 

 力なく微笑む顔色は白く、呼吸が浅いせいで声には力がない。母は随分痩せてしまった。

 やさしいひとだから、これまでの迫害による傷は誰よりひどい。絶え間ないストレスが心と身体を蝕み、家族を危機にさらすことになったという後悔が母を常に苛んでいるのだ。憔悴の色が濃い。

 ベッドの傍で心配そうに母を見上げているドフィとロシーにも声をかけた。

 

「ほら、二人もご飯にしよう。それとも母様と食べる?」

「……ん」

 

 ふるふると首を振り、ドフィはロシーを促してテーブルについた。

 粗末ではあるが、最低限の栄養は摂取できる食事。味については言及しないでくれ、僕の料理はなぁ……食べられるけど美味くないんだ。すまない。

 

 ちなみにドフィはちょこっと料理ができる。自分にもし何かあった時のために仕込んだのだ。ロシーは教えてみたが……包丁握らせたら死人が出そうだったんだ、察してくれ。

 

「……あねうえ」

「どした? ドフィ」

 

 ご飯を食べてから僕の膝によじのぼってきたドフィがぎゅうっ、と抱きついてきた。ロシーと父は母についている。

 

「あねうえは、父上が憎くないのかえ?」

 

 あらぁ、直球。

 

「ドフィは憎いんだ?」

 

 ぎっとこちらを睨み据えるドフィの目は子供とは思えないほどの憎悪に満ちて、貪婪だった。

 ドフィにしてみれば当たり前に享受していたものを全部剥ぎ取られて、勝手にどん底まで道連れ一直線。一方的で理不尽だ。抵抗できる手段が皆無だったのだから、そりゃ憎かろう。

 

「当たり前だえ! だって、ここに来てからイヤなことばっかり起こる! 誰も頭を下げない! 馬鹿にされて、叩かれて、うんざりえ!」

 

 恵まれた子供時代は勝手に幕を下ろされて、上がった二幕は地獄ときたものだ。

 

 地獄への道は善意で舗装されている、というのは上手い言葉だ。よかれと思って行ったことが悲劇的な結末を招いてしまうこと。うちの父はまさにそれ。

 欲しいものは手に入れて当然、イヤなものは遠ざけて当然。歪んだまま育っても許される地位は、父が放り捨ててしまった。まぁ、天竜人方式の育て方なんてほぼ優しい虐待だったのだが、こっちはこっちでもろにひどい。

 

「だよねぇ」

 

 住処を追われ、町に出れば罵倒や投石。ひとたび身分がバレたらまた逃亡。子供じゃなくてもイヤになる。うーん、改めて考えるとほんとにひっでぇな。

 

「こんな所で、生活で……それに、あねうえばっかりしんどいえ!」

 

 少しばかり驚いたけど、ドフィの優しさにほっこりする。

 頭のいいドフィなら、僕のしていることを少しは把握しているのかもしれない。ドフィの頭をゆるゆると撫でて、思ったことを口にした。

 子供は敏感で、聡い。嘘なんてすぐに見抜いてしまうから、素直に。

 

「父様のことは憎くないよ。多少、いやだいぶ、考えなしだったけどさ。色々、たいがい」

 

 出奔にあたり計画性皆無だったりとかな!

 

 弁護するとすれば、父本人としては心配してなかったのだろう。身分はなくても財産はある程度持ち出せたし、清く貧しく幸せに、人々と手を取り合って家族でともに生きて行こうと。夢を見ていたわけだ。

 

 現実は非情である。

 

「でもまぁ、父様がやりたかったんだからしょうがないよね。すごいめんどくさいけど」

「そ、それで片付けるのかえ!?」

 

 これで僕らが成人してりゃあ付き合う必要ないからよかったんだけど、未成年が両親の方針に巻き込まれるのはもうどうしようもない。

 親は子を選べないが、子供だって親を選べないのだ。ここまでくると不幸な事故に近い。遭遇したのは超運が悪かったけど、くじけたら終わりなのでなんとか踏ん張ろう、みたいな。

 

「そりゃそーだよ。あえていうなら、止めきれなかった僕も悪いから……ドフィは僕も憎んでいいよ」

「ッ!」

 

 反射的にかドン、とドフィは僕の胸を叩いて、それからまた抱きついた。

 

 そうだよね、ごめん、お姉ちゃん意地悪言ったわ。

 

「いたいよ。ドフィ」

「ずるいえ、あねうえ」

「うん、ごめん。大人はずるくて汚いんだ」

 

 子供は大人よりも周回遅れで走り出してるから、その背中を捕まえて引きずり倒すには死に物狂いで努力するしかない。

 僕はちょっとずるしてるけど、それでも足りない。食い潰されるだけなんてまっぴらだ。

 べそをかくドフィの背中を軽く叩きながら、寝物語のように言葉を紡ぐ。

 

「でもさ、ドフィとロシーが大きくなるまでは僕が守るから。そしたら好きに生きればいいよ」

「好きに?」

 

 うん、と頷く。

 べつに天竜人じゃなくたってドフィとロシーには未来がある。

 幸い、腕っぷしが立てば働けるクチはいくらでもあるような物騒な世界だ。彼らをこれから鍛え上げれば、そこそこには使えるようになるだろう。

 そうすれば賞金稼ぎになってもいいし、海軍に入ってもいい。いっそ海賊だって構わない。

 

 楽しく幸せになれるなら、それで。

 

「ねぇさま? なんのお話をしてたの?」

「んー? ドフィとロシーは僕が守るよって話」

 

 いつの間にか傍に来ていたロシーも抱き締めて、くしゃくしゃと頭を撫でてやる。

 猫のように擦り寄るロシーに微笑んで、二人分のぬくもりを感じながら正直なことを口にする。

 

「強くおなりよ、二人とも」

 

 なんせ父母がアレだ。

 頼れるものは必然的に己となる。

 まだまだ甘えたい盛りの弟ふたりには酷な話だけれど、こればっかりは知っておいてもらわないと今後どころか人生が危うい。

 

「教えられることは教えるし、鍛えるから。二人は賢いし、きっと強くなれる。そうしたら、好きなところに行っておいで。父様と母様は僕に任せて、さ」

 

 二人はなんにでもなれる。足枷は全部置いていって構わない。

 まぁ父と母に関してはある程度は面倒みるがそこそこで勘弁してくれよな、いい大人なんだから。

 

 とにかくこの世界は弱肉強食。強い方が生きやすい、そういう場所だ。

 

「色んな所に行って、色んなものを見ておいで」

 

 ぶっちゃけ腐敗したマリージョアより自分の肌には合っている。……父母と弟二人がどう考えているかは別問題だが。

 

「そうすれば──ここもそんなに、悪い世界じゃないよ。たぶん」

 

 そう締めくくって、僕らは寝床に入った。

 

 次の年の冬。

 

 環境の変化か過労かストレスか、その全てか……蝋燭の火が消えるようにひっそりと、母が息を引き取った。

 

 ドフィは8歳。ロシーは6歳。そして僕は12歳の時だった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

に.生存戦略おわり

 それからもしょぼしょぼと月日は流れた。働いて、ドフィたちを鍛えて、教えて、引っ越して、また働いて……。

 どこから話が流れていたのか、それまでで最も苛烈な迫害──否、暴徒と化した人々の襲撃に遭った。

 

「元天竜人だァ! 殺しても海軍は動かねぇ!」

 

 罵声とともに投げられる石からドフィたちを守り、父を促して走る。

 

「できるだけ生かすんだ! すぐ死なれたら興ざめだからな!」

 

 罵倒が飛び、無数の矢が降ってくる。

 悪夢のようだ。きっとこれは天竜人が話を流したのだろう、そんな確信がある。

 

「苦しめ!後悔しろ! 絶望しろよぉ!」

「痛めつけろ! できるだけむごたらしく! 凄惨に!」

 

 せっかくの生贄なのに、格好の的なのに、いつまで経ってもいたぶられることなく姑息に生き長らえる僕らにきっと業を煮やした。だから焚きつけ、熾火に油を撒いた。

 燎原の火は生半可なことでは、消えやしない。

 

 僕らは全力で逃げるしかなかった。着の身着のまま、路地から路地へ、人通りの少ない場所へと。

 

 でも、それも限界だ。

 

 町中すべてが敵だ。安全な場所がどこにもない。こうなってしまっては──仕方がない。

 

「はぁ、ハァ……!」

「いたい、いたいよぉ……」

 

 運良く人いきれの途切れた路地に入り込み、僕はドフィとロシーの怪我をみる。擦過傷はいくつかあるけれど、まだ五体満足。よし。

 僕は布を噛んで歯が割れないようにしてから背中の矢を引き抜いた。早く抜かないと筋肉が締まって抜けなくなってしまう。刺さったのが一本でよかった。

 

「ぅぐッ!」

「あねうえ! ち、血がぁ!」

「は、ぁ、へいき。動くから」

 

 幸い、重要な血管は傷ついていない。まだ動く。動ける間は大丈夫。

 慌てる二人をなだめながら手早く止血してから膝を折って視線を合わせ、二人の肩を掴む。

 

「いい? ふたりとも、僕の言うことをよく聞いて」

「! い、いやだ!」

 

 ああ、賢いドフィは勘付いてしまったか。

 でもだめなんだ。

 

「ドフィ、いいこだから」

「いやだッ!!」

 

 耳をふさいでイヤイヤと首を振るドフィの頭をあやすように撫でてみたが、拒否の姿勢は変わらない。

 一分一秒が惜しい今、子供のわがままを聞いているヒマはなかった。残念だな、お姉ちゃんの最後のお願いかもしれないんだけど。

 

「じゃあ、父様、ロシー。よく聞いて、あとでドフィに伝えてね」

「ね、ねぇさま?」

 

 この上なく真剣な様子にロシーも何かを察したのか、不安げにこちらを見つめている。

 聡いロシーに賢いドフィ。あと、頼りにならんけど父親。彼らならきっとなんとかなる。否、なんとかしてもらうしかない。だってもう彼らしかいないのだから。

 

 信じて、託す。

 

「お金や換金しやすい物は島のあちこちに隠してあるから、逃げ切ったら探して。場所はね──」

 

 常に身につけていた地図を取り出して×印の地点を手早く教えて、くるくると丸めて父のポケットに突っ込む。

 これは宝の地図。三人の命を繋ぐ糧。大事にしてね。

 

「それから、もし、どうしようもないことになった時は……星と魚の刺青を入れたひとたちを探してみて。きっとロシーたちの力になってくれる」

 

 星を見上げる魚。

 

 星が僕で、魚が自分たち。消費されるだけだったのに、いっとう綺麗な星に見つけてもらえた、幸運なさかな。そう誇らしげに教えてくれた。ずいぶんと照れくさい話だ。

 彼らは元奴隷だが、ありがたいことに僕を慕ってくれていた。刺青を上書きして、各々各地に散っている。僕の家族ならば、きっと邪険には扱われまい。

 

 それから、それから、ああ考えがまとまらない。でも、そうだ。

 

「父様、二人をお願いします」

「……ああ」

 

 この時ばかりは頼りない父も真摯に頷き、くしゃりと顔を歪めた。

 

「本当に、最後まで頼りにならない父ですまない。すまない……!」

 

 元々老けていたが、この短期間に随分とやつれてしまった。頼りない、計画性皆無の、色々とだめだめな父様。でもね、僕はあなたがあんまり嫌いじゃない。善を愛おしみ、ひとを信じようとする姿勢は、清廉でひどく眩しかったから。

 

 謝らなくていいって言っているのに謝ってばかりの父に、こんな時なのに笑みが浮いた。こんな時だからかな?

 

「適材適所ですよ。それに、逃げ切れるとしたら僕しかいない。父様には父様の仕事がある。それを全うしてください」

「ああ、ああ!」

「ねぇさま、なんでそんなこと言うの?そんな、それじゃ、それじゃあ……!」

 

 言葉の端々から悟ったのだろう、ロシーの目にみるみる涙が浮かぶ。ロシーはいい子だ。ドジばっかりで、それはもう呪いかよって勢いで厄払いを真剣に考えたけど。でも優しい。頭だって悪くない。ちゃんと人を思いやれる。いいこだ。

 僕はいつの間にか耳から手を離して涙を堪えているドフィと、ロシーを抱き締めた。

 このあったかさを、尊さを、ずっと覚えていよう。

 

「大丈夫。運が良ければまた会えるよ」

 

 そうだ、これだけは必ず伝えなくちゃ。

 

「ごめんね、ふたりが大人になるまで守れなくて」

 

 あわよくば生き残る気まんまんだけれど、もしもの場合はあるかもしれない。むしろそっちの可能性の方が笑っちゃうくらい高いので先に謝っておく。

 でも民衆の目を引きつけて、囮になって、できるだけ人数を削って、それでもなお逃げ切れるとすれば──僕しかいない。

 

「うそつき!」

 

 ドフィの鋭い声が胸に刺さる。

 

 でもじんわりと服が濡れて、背中にしがみつく手には強い力が籠もっていた。ロシーもだ。こんな状況だ。僕が何をしようと思っているのか分かっちゃったのだろう。

 いかないで。

 ここにいて。

 そんな声なき声が聞こえてくる。そりゃ、できるもんならそうしたいけど、そうなると全滅するんだよなぁ。それじゃ駄目なんだよ。

 少しだけ口の端を上げて作った笑みは、歪んでいるだろうか。

 

「そうだよ。大人はずるくて汚くて──うそつきなんだ」

「あねうえはまだ子供だ!」

「……そうだね」

 

 ドフィの言うことは正しい。肉体の年齢でいえば、まだまだ小さい。

 

 でもね、こころはそうじゃないんだ。そうじゃないから、頑張れることがある。

 それがなにより、僕には誇らしい。

 

「ドフィ、ロシー、父様」

 

 全力で二人を抱き締めて、そっと囁く。

 

「だぁいすき、だよ」

 

 寸の間も置かずに父に向かってふたりを突き飛ばし、踵を返して駆け出した。

 「ねぇさまあ!」「あねうえ!あねうえぇえッ!!」悲鳴が聞こえるけど追ってくる様子はないから、きっと父が止めてくれている。

 

 それを信じて駆け抜ける。

 

「いたぞ! 天竜人だ!」

「捕まえろ! 矢をありったけ持って来、ぐあッ!?」

 

 動きを止めようと躍り出た男の顎に膝蹴りをかまし、驟雨の如き矢を避け、手近な人間を片っ端から叩きのめす。

 その辺で拾った鉄パイプだって、立派な武器になる。

 

「邪魔ぁ、」

 

 弟たちのみちゆきを、未来を穢そうと立ちはだかる輩は全部敵だ。

 

「すんなぁあああああッ!!」

 

 信じられないくらいの怒声が出た。獅子吼だった。

 びりびりと気圧され、何人かの男たちが怯むが上回る怒りが再起動させる。構うもんか。

 銃を構えた男の手首をへし折り、胸ぐらを掴んで振り回す。倒れた頭を無慈悲に踏みつけ、周囲もまとめて吹っ飛ばす。力の限り暴れに暴れ、大通りの障害物に乗り上がり、少しでも家族からこちらへ意識が向くように。

 

 どうか逃げて、未来を掴んで欲しい。

 

 それだけが、お姉ちゃんの望みだよ。

 

 

 

×××××

 

 

 

 どれだけ暴れたか……いつの間にか振り回していた得物はなくなり、拳はぼろぼろ。多勢に無勢とはよくいったもので、さすがに限界が近い。打撲と骨折で腕が上がらない。あちこちに受けた矢で穴だらけだ。嘘みたいに血が流れている。思ったよりこの身体は丈夫にできている。

 でも、腿に受けた打撃がとどめだった。筋がイカれて動きがにぶってしまう。

 

「おい、まだ息があるぜ」

 

 蹴り飛ばされ、身体が転がる。ああ、これはヤバいな。体力も空っけつだ。

 

「そりゃいい。長く苦しんでもらわにゃあ」

「けど虫の息だぜ?」

 

 鼓膜もやられたのか、それとも死が近いのか声が遠い。抵抗しようにも動ける気がしない。

 

 でも、うん、いいや。

 

 たぶんドフィとロシーは逃げられる。父様は無能だし頼りないし考えなしのうえ計画性もないが、子供を思う気持ちだけは、それだけは本当だから。

 きっと助けてくれる。逃がしてくれる。それこそ命をかけてだって。

 

 だから、いいか。……いいな、うん。

 

「なぁ、殺すならおれがやってもいいか?」

「え? アンタが?」

「そうか、アンタ元奴隷だったもんな。恨みは深いか」

 

 水の中にいるように声が遠い。痛みも遠い。意識があるのが不思議だ。

 ドフィとロシーが大人になるまで守ってあげられないけど、ぼく、がんばった。わりと身体張ったし。ぼろぼろだ。ドフィはわがままばっかりだけど、ちょっとは鍛えられたし、ロシーもドジは直らなかったけど知識は与えられた。父様には必要最低限しか叩き込めなかったけど、あとは任せても大丈夫だと思う。

 

「どうせ長くは保たないだろうし、いいぜ」

「ああ、ありがとよ」

 

 声が途切れ、身体がふわりと浮いた気がした。ゆらゆらと揺れて、足がぶらぶらする。

 誰かが抱えたらしいことは、なんとなく分かった。誰だろう。父様じゃない、そんな力ないんだよなぁ、これが。

 べつに燃やしたってなにしたっていいけど殺してからにして欲しい。これ以上苦しいのはちょっと。見せしめもなぁ……もし見られたら、泣いちゃうかもしれないから勘弁してあげてくれないだろうか。

 

 ぼんやり考えて、気付くと、あんなにあった人の気配が消えている。うるさいくらいだった怒りの声も、恩讐の叫びも聞こえない。ふと潮風を感じて、腫れ上がったまぶたをがんばって上げると、こちらを見つめる瞳に見覚えがあった。

 

 彼は、かれ、は──

 

「ちぇ、れ、すた?」

 

 回らない舌をなんとか動かすと、目の前の顔がぐしゃりと歪んだ。

 チェレスタ。僕が初めて買った奴隷で、それからはずっと傍仕えになってくれた、元海賊。最後まで僕らについていきたいってゴネてた。

 

「ああ、そうだよ、おれだ。ミオ、ミオ様……なんでアンタがこんな、こんな、なんてひどい」

 

 ぽたぽたと頬になにかが当たってひどくしみる。目にも入って視界が歪んだ。

 ……そうか、涙か。チェレスタが泣いてるんだ。

 

 彼らはひどいのだろうか、よく分からない。

 

 恨みを晴らす相手がたまたま僕らしかなかった。だって天竜人は恐いもんね。下手に逆らったら死んじゃうし、死んでまで恨みを果たしたいひとはあんまりいない。奴隷にだってなりたくない。みんなそうだろう。

 でも『元』天竜人ならいたぶれる。いじめられる。こっぴどく痛めつけても報復されないから。やり返されないことをみんな知ってる。それに誰も責めない。むしろ褒めてくれる。

 不倶戴天の天竜人をいじめるなんて、偉いな、すごいぞ。だったらみんな、やるよなぁ。こわくないんだから。なんて都合のいいサンドバッグ。

 

 だったらこれは──仕方のないことなのだ。

 

「しょうが、ない、ね」

「しょうがなくなんてねぇよ!」

 

 チェレスタの声はほぼ悲鳴に近かった。

 

「全部あんたのせいなんかじゃ、ない。あんたはなにも悪くない。あんたは、ミオ様は、おれたちの恩人で、救ってくれた、命を、人生をくれたひとだ! なのに、おれは、あんたを助けること、すら……!」 

 

 慟哭だった。

 どうしようもないことを、己の不甲斐なさを嘆く懺悔だった。

 チェレスタが嘆くことなんてひとつもないのに。僕はやれることをやったけど力不足で不覚を取った。それだけだ。申し訳ないと思うと同時にちょっとだけ嬉しくなっちゃうのは、許して欲しいな。

 

「いい、よ」

 

 いいんだよ、本当に。

 

 ほんのちょっとだけ、誰かを助けられた。自己満足だった。でも報われた。それを確信できた。

 だってチェレスタが泣いてくれた。惜しんでくれた。彼なら惨めな遺骸を晒すことはしないでくれるだろう。

 

「ありがと、ちぇれすた」

 

 だから、これでじゅうぶんだ。

 

「……おれは、海賊だ」

 

 じゅうぶん、なのに。

 

「海賊は欲しいものを奪うんだ。だから──おれは、あんたを奪う」

 

 なんで、チェレスタはそんな不穏なことを言うのだろう?

 

 懸命に口を動かそうとしたら、ふわりと手で顔を覆われた。あたたかくて、少し乾いた、おおきな手。

 

「おれは、コチコチの実を食べた凍結人間。おれは触ったものを『凍結』させる。空間も、時間も──なにもかも」

 

 すぅ、と身体から力が抜けていく。

 くたくたに疲れた身体からもっと力が抜けて、痛みも薄れて遠ざかる。

 

 悪魔の実。

 聞いたことがある。人の域を超えた異能力を得る代わりに海に嫌われ、泳げなくなるリスキーダイス。

 

「今のおれじゃ、あんたの怪我を癒やせない。だからあんたの時間をここで止める」

 

 ちょっと待って。

 そんなの困る。困るよ。

 

「それじゃ、どふぃ、たちが」

「知るか。おれが大事なのはミオ様だけだ。いつまで経ってもミオ様におんぶに抱っこの、特権意識を、天竜人を捨てられない、くずどもなんか」

 

 吐き捨てるような声にイヤでも分かってしまう。これはダメなやつだ。

 チェレスタは本当にドフィたちのことをなんとも思っていない。そうだ、彼らは海賊。欲しいものは手段を選ばずに奪い取る、海の無法者たち。

 

「どうかおれを恨んでくれ。呪いあれと願ってくれ」

 

 凍る、凍り付く。なにもかも。

 温度が失せて、指先のひとつさえ動かない。ゆるゆると眠くなる。穏やかな午睡のような、柔らかな睡魔だ。

 

 どうしよう、抗えない。柔らかく手を取られて、連れて行かれる。

 

「それでようやく、とんとん(・・・・)だ」

 

 それきり、ぷつんと、僕の意識は消えて失せた。

 

「完治させられる場所まで運んで──必ず治す。グランドラインに医療技術が発達した国があると聞いた。そこなら、きっと……」

 

 

 

×××××

 

 

 

 同日、深更。

 

 夜闇に紛れて一隻の海賊船が出航した。無法者たちの名前は『ラグーナ海賊団』。

 ラグーナとは湖沼の意。転じて、取り残された(あるいは放逐された)魚たち――どこからも見放され、見捨てられたはずの無法者たちが作り上げたコミュニティの異称だった。 

 

 彼らは魚だった。

 陸揚げされてしまえば呼吸もままならず、消費され、磨り潰されることだけを運命付けられた哀れな魚だった。

 けれど地べたを這いずるだけだった魚は、星を見つけた。寄る辺のない絶望の闇のなかで、小さく輝く星灯り。

 

 小さな星は、懸命に彼らの願いを叶えてくれた。ていねいに掬い上げ、治療を施し、自由の海へと返してくれた。

 

 魚たちはならず者だけど恩を忘れなかった。受けただけの恩義を、一生かけてだって返したかった。

 

 

 そして──今しも儚く消えそうな星を大切に抱えて、彼らは一縷の望みを胸に大海原へと漕ぎ出した。

 

 

 

 




これにて『幼少編』は終了です。
ちょっとした閑話を挟み、それから時間がどかーんと進みます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間.ドフラミンゴの慨嘆

 

 

 

 ミオは天竜人としては異端の子供だった。

 

 集める奴隷は中古品ばかりで、虐げることもなく、気付くと増えたり減ったりしていた。何かしているようではあったが、周囲にそれを悟らせることはなかった。

 やりすぎて殺したとてそれは『普通のこと』であったし、元々奴隷は替えのきく代用品に過ぎないのだから誰も気に留めなかったからだ。

 ただ、ドフラミンゴが自分の奴隷を折檻しようとすると目に見えてげんなりするので、それが見たくなくて控えたりはした。

 

「そもそもガキが大人叩く時点で頭おかしいと思うし、奴隷であってもひとの形をしているものを良心の呵責なしに折檻とか、弱いものいじめじゃん……引くわー」

 

 不思議に思って尋ねたらそんな返事が返ってきた。

 変な理屈だし、ズレた返事でドフラミンゴの方が反応に困った。姉の価値観は異端らしく変だということしか理解できなかった。

 けれど試しに折檻をせずに注意で済ませてみたら、奴隷は言うことをよく聞いたし、いつもよりずっと長保ちした。なるほどと思う。効率は大事だ。

 

 ドフラミンゴはそんな妙ちきりんな姉が好きだった。それは姉に対する思慕であったし、珍奇な生き物を観察する好奇心でもあった。

 

 だからこそなのか、天竜人をやめるということをよくよく理解していたのだと思う。

 下界に行くという父を何度も説き伏せようとして失敗し、やがて諦めてからは何かをしていた。今なら分かる。それは家族を守るための準備だった。

 

 見下していた下々民でも、集まれば力だ。

 

 圧倒的多数の暴力に屈することなく生きるためには、知恵が必要だった。それを姉は理解していた。両親はそれを知らなかった。それは歴然とした差となって襲いかかってきた。家族数人ができる抵抗など限られている。既に権威を失墜した『天竜人』は、虐げられたものたちにとっては格好の的だった。

 

 『正義』は恐いものだとドフラミンゴは知った。

 

 浴びせられる罵声を聞き流し、理不尽な暴力をいなして家族を守る姉を、ドフラミンゴは心底尊敬していた。その辺で両親に対する好感度がダダ下がりだったのは致し方ないことだろう。

 人の感情の流れを把握して疑われぬようにと噂を流し、常に逃走経路を念頭に置いている姿はまるでおとぎ話の勇者のようで、そんな姉が誇らしかった。だから貧しい暮らしにも耐えられた。少ない食事も我慢ができた。

 

 だからこそ疑問だった。

 なぜ元凶を恨まないのか、と。父が阿呆な発案を実行したせいで自分たちはこんなに苦しんでいる。父は空回るばかりで母は病床について、姉ばかりが苦労している。それはどう考えてもおかしかった。

 そんな疑問に姉は疲れたように笑うだけだった。

 

──父様がしたかったんだからしょうがないよね、と。

 

 親の庇護下でしか生きられない子供なのだから、どうしようもない。それがイヤなら早く大きくなって強くなればいい。そのためならば協力は惜しまないし、独り立ちできるまでは守るから。

 親を恨むワケではないが面倒臭い。まぁ止めきれなかった自分も悪いから恨みたければどうぞ。

 つまるところそういうことだ。世界も理不尽だが姉の物言いもたいがいだった。

 

 けれどドフラミンゴは理解した。

 

 姉はそもそも両親に期待していない。

 だから、恨みもなければ憤慨もしない。

 地位を利用しても、拘泥していないから未練もない。

 そういう意味で、姉は誰より大人だった。父などよりずっと。外的要因は容易に喪失されうるものだという前提で生きていた。納得はできないが、恰好いいとすなおに思った。

 

 ドフラミンゴは、そんな姉に頼られたかった。

 

 ほんの数年、年嵩なだけの姉が懸命に守ったとて限界がある。

 元々身体が強くはなかった母は、環境の変化に耐えきれず、ある日糸が切れたようにぷつりと亡くなった。

 なんとか荼毘に付すことはできたが、悲嘆に暮れる暇はあまりなかった。迫害はますますひどくなり、姉は家族を守るために奔走した。働く合間にドフラミンゴを鍛え、ロシナンテに知恵を与え、父の尻を叩いて生き抜くための術を教え込んでいた。遊んでもらえないことは不満だったが、目の回るような忙しさだっただろうことは想像に難くない。

 

 姉は強かった。

 年齢に反して非常識なくらいに。何度挑んでも勝てなくて、ドフラミンゴはその時だけ自分たちのみじめさを忘れることができた。

 野生のどうぶつみたいな勘の良さと、危機管理能力の高さで姉は家族を守り続け、そうやってなんとか日々をしのいで数年の時が過ぎて──唐突にその日は訪れた。

 

 どこから住処が割れたのか、経験したことのない大人数の襲撃だった。否、町すべてが敵だった。悪意の坩堝で、敵意の塊だった。

 

 恐かった。ひたすらに。そして憎かった。数の暴力に酔って拳を振るおうとする人間たちが、原因である父が、ろくな抵抗のできない、自分が。

 

 どうしようもない混沌の只中でも姉の行動は的確だった。用心深く、慧眼だった。家族を、弟たちを守るために全力を尽くした。

 姉は賢く強かった。非常識なくらいに。そして優しく甘かった。

 

「ふたりとも、僕の言うことをよく聞いて」

 

 暗い路地裏、殺意と熱気が充満するなかで視線を合わせた姉の言葉にドフラミンゴは反射的に否を唱えた。何をしようとしているのか、分かってしまったから。

 けれどそんな子供の駄々で覆るような状況ではなかった。ちょっとだけさびしそうな表情を浮かべた姉は、すぐにロシナンテへ視線を移して口を開いた。

 

 告げられたのは生存の秘蹟だった。

 

 どれだけの時間をかけて準備していたのだろうか。人目の届かない各所にひっそりと埋められた資金と、刺青を目印にした人脈。

 

「ごめんね、ふたりが大人になるまで守れなくて」

 

 運が良ければ会えるとのたまいながら、次に飛び出した謝罪の言葉。

 うそつきと糾弾すれば姉はそうだよと嘯いた。大人はずるくて汚くてうそつきなのだ、と。

 

 姉は子供だった。

 大人よりずっと頼りになる子供だった。

 それが姉の不幸だったのだと、今なら分かる。強く優しく馬鹿だった。

 短い説明を終えた姉は、自分たちを抱き締めて、突き飛ばした。受け止めた父は、見たことのない強靱な意志と力でドフラミンゴとロシナンテを押さえつけた。

 どれだけ暴れても噛みついても父は離さなかった。根性なしのくせに、こんな時ばっかり父親面しやがって。身も世も無くドフラミンゴは泣き喚いた。ロシナンテも同様だった。野太い悲鳴が聞こえる。姉の声は聞こえない。今はまだ。

 

 姉は家族を守る為に、真っ先に自分を切り捨てた。

 

「だぁいすき、だよ」

 

 心からそう思っているとわかる声だった。ドフラミンゴだってそうだ。大好きな姉。なにより大事な家族。いなくなるなんて考えたことがなかった。何があっても一緒にいると勝手に信じていた。愚かなことに。

 稽古のたびにボコボコにされて、それでもいつかは勝って、高笑いしようと思っていた。もう守ってもらわなくても大丈夫なのだと胸を張りたかった。大人になって、力をつけて、どんな悪意からも守れるようになって、そうしたら姉も連れて行こうと思っていた。ここではない、どこかへ。

 

 ドフラミンゴの覚醒は間に合わなかった。

 

 ミオの消息は不明だった。一騎当千の働きで民衆を倒し、それでも力及ばず攻撃を受けた。虫の息だったと聞いた。遺骸はまだ見つかっていない。元奴隷だった海賊が意趣返しのために持ち去ったという噂があったが、真偽は不明だ。どれだけかかっても真偽を確かめ、突き止めなければならない。

 何より愛しい姉を奪ったのだ。報復はドフラミンゴの持つ当然の権利であると信じて疑わない。

 

 あの後、父を殺した。

 

 姉はうそつきだった。

 

 

 世界はちっとも楽しくない。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間.ロシナンテの懺悔

 

 ロシナンテは昔、少しだけ姉が怖かった。

 

 ドンキホーテ家の長女は変わり者で偏屈、というのが周囲の認識だったからだ。

 もちろん、家族にいつも優しい姉だったからそこを疑っていたわけではない。

 けれど集める奴隷は誰かの『使い古し』ばかりで、社交界にも興味が薄い姉はそこそこに評判が悪く、だからロシナンテは兄のドフラミンゴとは違った意味で怖かった。

 

 なぜ、姉は周りの言葉を気にせずいられるのかと。

 

 貴族社会は風聞が馬鹿にできない。それは気弱で臆病なロシナンテだからこそ痛いほどに理解している。

 なのに姉は露ほどにも気に留めない。誰に何を言われたって馬耳東風で、天竜人としての『常識』なんか知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいた。

 

 あるとき、ほんの些細な出来事がきっかけでそんな不安が爆発した。

 

 姉様はどうして平気なの。みんなが姉様は変わり者って笑ってるのに、どうして気にしないでいられるの。こわくないの?

 姉は笑って答えた。

 

「怖くないよ。だって心配してくれるロシーがいるもの」

 

 変な理屈だった。

 でも、『心配』という言葉はやけにストンとロシナンテの胸に落ちてきた。そうかと思った。ロシナンテは姉が怖いのではなく、不安で、心配なのだ。

 

「変わり者? 偏屈? 大いに結構。僕は大事なものを大事にしてるだけ。それを馬鹿にするひとなんてこっちから願い下げだから、それでいいよ」

 

 きっぱりと告げる姉はなんだか眩しくて、なぜだかロシナンテは泣きそうになった。

 それからロシナンテは姉が怖くなくなった。躊躇せずに駆け寄ってお喋りできるようになった。

 そうすると不思議なもので、見えなかったものがどんどん見えてきた。

 

 『天竜人』の連れている奴隷と、姉の連れている奴隷は瞳のいろが、まるで違っていた。

 

 人形のように虚ろな目で、己の葬列を歩くようなみすぼらしい格好の奴隷たちと、簡素だが清潔な格好で生き生きとなにくれとなく走り回る奴隷たち。

 外出の時なんてこっそり『馬』役を取り合って殴り合いが勃発したりするくらいには元気な彼らを、姉はたいそう大事にしていた。

 それは奴隷と主人の関係ではない、もっと美しくて、柔らかくて、尊いなにかだった。

 ロシナンテにはそれが分かった。

 

 大事なものを大事にする。簡単だけどとても難しいことを姉は実行しているのだと、理解できた。

 

 それからロシナンテは姉が大好きになった。

 それは、自分が怖がっている間も姉に構われていた兄に、ちょっぴり嫉妬してしまうくらい。

 

 姉は家族に優しく、わりと容赦がなかった。

 家族以外には時に平気な顔で残虐なことをする兄を真正面から叱り飛ばし、遠慮なくひっぱたいていた。

 とはいえ、それでドフラミンゴが姉が嫌いになるかというと意外とそんなことはなく、かといって更正するかというとそれもまた微妙で、たびたびやらかしては叱られていた。

 

「ロシーはドフィを見習わないで欲しいなぁ。もし同じ事をやらかすなら……おねーちゃんは心を鬼にしてロシーを叱って場合によってはひっぱたかざるをえない」

 

 疲れた顔で言い出された時はとても困った。

 頼まれても無理だと訴えると、安心したように笑う姉の顔が好きだった。

 

 姉は優しくて賢くて、家族をとっても大事にしていて、そしてとても強かった。ロシナンテはそう信じて疑わなかったし、それは事実でもあった。

 

 それが姉にとって悲劇だと分かったのはマリージョアから住居を移してすぐのことだ。

 

 天竜人という『壁』をなくした特権階級はあまりにも弱く、脆い。それを姉は理解していた。

 

 マリージョアという隔離空間の『常識』は通用しない。だってここは下界だから。下界の人間にとって『天竜人』はただの敵で、悪の代名詞だった。圧倒的多数の暴力に屈することなく生きるためには、姉が頑張るしかなかった。浴びせられる罵声を聞き流し、理不尽な暴力をいなして率先して家族を守るのはいつだって姉だった。

 

 いつまで経っても天竜人としての癖が抜けない兄や両親たちに疑いが向かないように噂を流し、働き口を見つけて収入を確保して、見つかってしまった時のための準備を常に整えていた。──すべては、家族を守るために。

 

 母が亡くなった時も悲しかったけど、辛かったけど、姉がいてくれたから耐えられた。姉は沢山のことを教えてくれた。兄を鍛え、父には生きるための術を教え込んでいた。

 不安なんておくびにも出さず生きる姿を、ロシナンテは凄いと思った。姉と一緒ならなんでも頑張れると思った。

 

 でも、それはもう叶わない。

 

 これまでで一番の襲撃だった。それは迫害なんて生やさしいものではなかった。ただの蹂躙で、私刑だった。

 

 膨れ上がった悪意と暴虐に家族数人で対抗なんてできるはずがなくて、姉は家族を守るための術を父とロシナンテに託して単身囮になった。

 父に塞がれた指の隙間から見えたのは、猛烈な勢いで集ってくる民衆を薙ぎ散らす姉の姿。

 

「だぁいすき、だよ」

 

 抱き締める手はほんの少しだけ、ふるえていた。ロシナンテは気付いた。気付いて──いたのに。

 気付いたら信じられないくらいの声で泣いていた。ロシナンテはその時、己の罪を痛いほどに理解した。

 

 ミオは子供でいることを許されなかった子供だった。

 

 庇護されて当然の年齢だったのに、父母は姉より弱かった。肉体面でも精神面でも。だったら姉が守るしかないじゃないか。

 

 辛くないはずがないのだ。いつだって姉の身体は悲鳴を上げていた。心は軋んで壊れそうだっただろう。不安で潰れそうな夜だってあったはずだ。

 それなのに。

 嫌だ、苦しい、逃げたい。そんな言葉は一言だって聞いたことがなかった。口にしてよかったはずなのに。そんな時間は与えてもらえなかった。

 

 ほんの数年先に生まれてしまったばかりに、子供らしさを許されなかった姉から自分たちは命すら簒奪してしまった。

 

 本当は、姉は家族を見捨てて逃げることだってできたはずだ。そうすれば器用で賢い姉は、間違いなく生き延びられただろう。

 でも、姉の大事なものが、家族が姉を縛り付けてしまった。枷になって、優しい姉は逃げられなかった。

 

 ロシナンテは己の弱さを呪う。幼さを嫌悪する。もっと大きく強ければ、姉はきっと生きられた。

 

 大好きと伝えると、嬉しそうにはにかむ姉が好きだった。ドジを踏んだとき、ちょっとだけ困ったような顔で抱き締めてくれる時のあたたかさが、好きだった。

 

 でも、それはもう見られない。誰でもないロシナンテのせいで。

 

 兄を止めることはできなかった。

 

 目印のひとたちはロシナンテのことを覚えてくれていて優しかったけど、とても哀しそうな目をしていた。ミオ様らしい、そうつぶやいて涙をこぼした。

 

 

 ごめんなさい、姉様。

 

 

 あなたのいない世界を、好きになれそうにないんだ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

お姉ちゃん?編
とある船長のねがいごと


 

「あんたになら、いいか」

 

 くひひ、と息だけで壮年の男は笑った。

 震える手が己の懐をまさぐる。足りない指先でつまんだ地図がふるえていた。古ぼけた、あちこちが血で汚れた地図だ。

 

「仲間を、家族と呼べるあんたなら」

 

 辺り一帯が奇怪な植物と、奇妙な生き物の残骸だらけだ。硝煙と血の臭いが蔓延している。

 得体のしれない熱が焦土から立ち上り続け、周りにはいくつもの肉塊が垂れ下がり、哀れな骸を晒していた。激戦のあとだ。

 焼け焦げた木の根が、かろうじて壮年男の身体を支えていた。

 駆けつけた時には遅かった。

 

「おれたちの隠し財宝、丸ごとぜんぶくれてやる」

 

 生き残っているのは、口を開けるのは、見える範囲では目の前の男だけだった。

 

「そりゃまた豪気な話じゃねぇか」

「くひ、地獄にゃ持っていけねぇからよ」

 

 一言、一言発するたびに、猛烈な勢いで彼の命が消費されている。

 長年海賊暮らしをしているのだ、それが痛いほどに理解できてしまう。

 目の前の壮年の男はとある海賊団の船長で、自分たちの友人だった。

 海賊のくせに奴隷が嫌いで(自分も嫌いだが)奴隷商を見つけちゃ潰して回るので、そういう界隈では災害扱いされていた。当然、そういった組織のブラックリストにも載っているため小競り合いなんてしょっちゅうで、たまにうちの海賊団も巻き込まれてえらい目に遭った。

 

 しかし、侠に生き、仁を貫き、義に報いることがおれたちの誇りなのだと恥ずかしげもなく嘯く友人たちのことを、自分は存外気に入っていた。

 

 予期せぬ奇襲を受けて壊滅寸前になっているという情報を受けた瞬間、全てを押して急行してしまうくらいには。

 

 それでも──間に合わなかった。

 

 島に上陸した時には既に彼らの仲間は死に果てて、かろうじて命を繋いでいる友人の命脈もあと僅か。海賊稼業で友人の死を間近で看取れるだけ僥倖といえば、そうかもしれない。

 血痰混じりの唾を吐き出して、友人は言葉を絞り出す。

 

「財宝ぜんぶくれてやるから、ひとつ、頼まれちゃあくれねぇか」

 

 今、喋れているのだって蝋燭の最後の瞬きのようなものだろう。

 奇跡で、長くは保たない。

 力なくつままれている地図は今にも落ちそうだ。友人の目が早く取れと促してくるから、男は慎重に地図を受け取った。

 

「こいつが隠し財宝とやらの地図か?」

「ああ、そこに溜め込んだ財宝と……おれたちのいっとう大事な『たからもの』が、ある」

 

 地図を無事に渡せたという安堵からか、男の全身が弛緩して見えた。

 泥のように木へもたれかかり、ひゅうひゅうと笛のような呼吸を繰り返す。

 

「『それ』は、それだけは大事にしてやってくれ。それが、頼みだ」

 

 おおよそ財宝を対価に口にするような頼みではなかった。

 

「大事に、だぁ?」

 

 そして友人の言葉だけでは『宝物』の詳細がてんで掴めない。

 大事にする?宝石か?生き物か?

 怪訝な顔をすると、男は少しばかり口の端を緩めた。死にかけた海賊が浮かべるものとは思えない、ゆるい笑みだ。

 

「ああ。なぁに、心配すんな、悪いもんじゃねぇ。きっとお前も気に入るさ」

 

 その時だけ、友人の瞳にほのかな光が宿った。

 本当に大切なものを誇るときのそれだ。

 息苦しそうな呼吸の隙間から、途切れ途切れに訴えた。

 

「けどよ、おれはこのザマだ。どうしようもねぇ。だからあんたに頼むんだ。白ひげ、頼む。おれたちの、いっとうだいじなおほしさまを──たのむよ」

 

 いっとうだいじな……『おほしさま』。

 なんだろう、やはり要領を得ない。

 だが、末期の友人の願いを断る方がどうかしている。考えるまでもなかった。

 

「ああ、任せとけ」

「ありがとよ」

 

 大柄な男の──白ひげの返事に、友人は安心したように深く息を吐き出した。

 

「これでようやく、筋がとおる。誇って逝ける」

 

 少しだけ笑って、静かになった。遠くで怪鳥のいななきが聞こえる。この静寂もそうは保たない。

 それは分かっていたが、白ひげはまだ動けない。

 潰える命のひとしずくまで、見届けなくてはならない。

 

 そうして、もう自分が目の前にいることを忘れたかのように、ぽつりと。

 

「ちくしょう」

 

 友人は、呻いた。

 悔しげに目を細めて、拳を握る。端から見てもろくに力が入っていなかった。

 目の端に、血の混じった涙のつぶが浮かぶ。生への渇望と未練が叫んでいるみたいだった。

 

「ちくしょう、ああ畜生、しにたくねぇ、なぁ……」

 

 死に瀕した海賊が口にする、当然の願いだった。

 けれど少し温度が違った。ひたひたと迫る死の感触を感じ、容認してなお残る後悔と未練。

 

「ほんとは……おれが、助けたかった。恨まれて、呪われて、怒られたかった。ふざけんなって叱り飛ばされて、そんで、」

 

 (はな)を啜り上げながらくしゃりと顔を歪めて、男は空を見上げた。

 グランドラインでは珍しいくらいの澄んだ夜。

 

 闇夜の中でひときわ煌めく星灯り。

 

 伸ばしたてのひらは、どこにも届かない。

 

「なかなおりが──したかった」

 

 その祈りは、到底海賊の口にするようなものではなかった。

 どこにでもあるような願いで、悩みで、希望で──だからこそ、なにより尊いもののように白ひげには思えた。

 

「ああ、けど……」

 

 いい大人がするとは思えない、悪戯をしでかした青臭いガキのような顔だった。

 バツが悪そうに照れくさくはにかんで、どこかくすぐったく、しあわせそうに。

 

「きっと、泣いてくれるんだろうなぁ」

 

 それが、最後だった。

 

 鼓動が止まり、命が消えた。

 

 奴隷嫌いで有名で、漁業が趣味の、すぐ医者を勧誘したがる風変わりな白ひげの友人たちがこの世から消えた瞬間だった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

さん.託して託され受け継がれ

 

 

 目を開けたら天井が見えた。

 

 映る紋様はゆらゆら、きらきらと形を変えて、海面の反射だとぼんやり思う。さわさわと耳を刺激するのは船が水を切る音だ。

 つんと刺激する臭いは消毒薬のそれで、目を瞬かせる。

 壁にも天井にも彩り豊かな紋様が描かれ、鈍く光る塗料は派手すぎず、かといって地味でもなかった。ベッドだけが真っ白で、色彩の中で浮いていた。

 

 腕からは何本ものチューブが繋がっていて、点滴の雫が一定の間隔で絶えず落ちている。左手の違和感に視線を動かすとギプスで固定されていて、まだ身体のあちこちに包帯が目立つ。

 

 どこだろう、ここ。

 

 なんでこんな大怪我してるんだっけ?

 

 動かそうとすると、からだのあちこちからじくじくと鈍痛が走って、起き上がるのは無理っぽい。

 少し息を吸うだけで肺がぎしぎし痛んで、呼吸そのものに難儀する。

 

 というか──そうだ、そうだよ。

 

 カチッとスイッチが切り替わった気がした。

 怒濤のように記憶が蘇って、こめかみがずきずきする。全身の血の気がざぁっ、と引いた。

 

「! どふぃ、ろし、とうさま、ちぇれ、す、ごほッ……」

 

 喉が掠れて激しく咳き込む。そうだみんな思い出した。

 あんにゃろう、なにしてくれたんだ。もしや拉致? 拉致ですか? 怪我人を拉致るとか鬼かよ。いや海賊だったわ、おいおいおい勘弁してくれよ。

 

 咳き込みまくってたら部屋の外からバタバタと足音が聞こえてきた。誰だ、チェレスタだったらぶん殴ってやる。

 

 そう間を置かずバン!と扉が開いた。

 

 顔を出したのは、知らないひとだった。気合いを入れたのに反応に困る。でもなんか、髪型が面白かった。パイナップルに似てる。あと背が高い。

 

 え、だれ?

 

 呆然としている僕とお兄さんは数秒視線を合わせ、ハッとしたように外へ怒鳴った。

 

「おいオヤジに知らせろ! 『おほしさま』が起きたよい!」

 

 任せろ! と何人かの野太い声と足音。よ、よい? 口癖かな? あとお星様ってなに?

 面白い口癖のお兄さんはそのままずかずかと部屋に入って、隅っこにあった小さな椅子をベッド脇に持ってきて腰掛けた。

 

「よお、随分寝てたなぁ。ひょっとしたら、このまんま目ぇ覚まさないのかと思ってたよい。まぁひでぇ怪我だったから、無理もねぇか」

 

 気安い感じで話しかけ、お兄さんは手に持った水差しを傾けてコップに水を注ぐと、差し出してくれた。ありがたく受け取って、ゆっくりと飲んだ。喉からじんわりと染み込む感じが心地良い。それにしてもまたよいって言った。やっぱり口癖みたい。

 随分とフランクかつ親切なお兄さんにどう答えればいいのか迷う。

 

「え、あの、えっと……おはよう、ござい、ます?」

 

 迷った末に出たのは朝の挨拶でした。いやだって、随分寝てたとか言うから。

 お兄さんは僕の返事に一瞬瞠目して、ぶはっと噴き出した。

 

「おうそうだな、おそようさん。あんた、自分の名前わかるか?」

「あ、はい、ミオと申します。はじめまして」

 

 頭を下げようとしたら、うまくいかなかった。

 それを見ていたお兄さんが、僕をそっと起こして背中にクッションを入れてくれた。いいひとだ。

 

「おれら的には初めましてって感じじゃねぇんだけどな、まぁいいか。おれはマルコ、よろしくな」

「よろしく、です。あの、ここどこですか?」

「海賊船だよい。おれたち白ひげ海賊団の」

 

 ……海賊船かーそっかー。

 じゃあなんだ、僕は略奪品かなんかだろうか。いやーそんな価値ないし、もっというと厄種に近いぞ。

 そもそもチェレスタは海賊だったので、マルコさんは同業他社? っていうのか? この場合。

 

 だめだわからん。

 

「……チェレスタて、知ってます?」

「『奴隷嫌い』の?そりゃ知ってるよい。だいたい、あんたはあいつらのもんじゃねぇのか?」

 

 奴隷嫌い。元奴隷なんだからそりゃ憎かろう。

 

 いやしかし聞き捨てならない点が。僕はチェレスタ率いる海賊団のもの扱いされている、みたい?

 状況的に考えるとそう、なのか? ボロ雑巾で保護? 拉致? されたワケで。

 

「略取品としてならたぶんそうですけど、強いていうなら僕は僕のもんだと思います」

「ほーん? 『おほしさま』だってのに報われねぇ話だねぃ」

 

 なぜかチェレスタに同情してるらしいマルコさん。なんでだ。

 

「てか、お星様ってなんでしょう?」

「チェレスタのやつがそう呼んでたって、オヤジが言ってたよい」

「なにそれ恥ずかしい」

 

 そんなメルヘンな呼び方しないでくれよ。

 しかしなんだろう、話が噛み合ってない気がする。マルコさんもそれは感じていたようで、腕を組んで不思議そうに首をひねっている。

 

「まてまて、あんたは『ラグーナ海賊団』の『隠し財宝』と一緒にしまい込まれてた。んで、オヤジはそれをあんたごと託された。ここまではいいか?」

「すいませんその海賊団の名前すら初耳です」

「ええ……?」

 

 しょっぱなからお互いの理解している部分が乖離しているという、残念な事実が発覚してしまった。

 お、おかしいぞ。

 海賊なんて無法者の代名詞みたいなひとがめっちゃ困惑している。だめだこりゃって顔してる。

 

 そこへ、

 

「おう、目ぇ覚めたって?」

「オヤジ」

 

 開けっ放しだった扉から窮屈そうにぬう、と常人離れした巨大な男性が入ってきた。

 肥えているとかではなく、均整のとれた身体つきで、そのまま大きい。なんだか遠近感が狂いそうだ。

 オヤジって呼ばれてたってことは、このひとが白ひげ海賊団の船長なのだろう。すごい、めっちゃ納得する。おひげが見事に白ひげ。逆三日月みたいなブーメランひげ。

 巨体の白ひげさんはこっちを見て、少しだけ目を細めた。迫力はあるけど、怖くはない。

 

「死にかけてたってのに大したもんだ」

「あ、えっと、」

 

 海賊団の船長とは思えぬ良識あふれた言葉に、戸惑ってしまう。いや、治療してくれたんだから、そんなヤバいひとには思えないけど。

 なんとか言葉を絞りだそうとすると、大きな指で頭を小突かれる。

 

「ああ、いい、いい。今日はツラ見にきただけだ。よく養生するんだな、面倒な話はそれからだ」

 

 それだけ言って、白ひげさんは出ていってしまった。マルコさんもそれに続く。ええー、聞きたいこといっぱいあるのに。

 しかし、養生がいちばんだと突っぱねられてしまうと、なにも言えない。

 満身創痍とはこのことか、というくらいにはボロボロであるからして。包帯とかすごい。皮膚呼吸が心配になるくらい巻かれてる。

 

 そして、入れ替わりに入ってきたのはマルコさんだった。この船の船医さんも兼ねているらしい。包帯を取り替えながら容態を説明してくれた。

 失血量が多かったから、一時は危なかったらしい。けれど峠は既に越えているから、重要な臓器や腱は無事なのでしっかり治療すれば、完治するとのこと。ありがたい。

 

 「ただ、傷痕だけはどうしようもねぇ」

 

 悔しそうに告げるマルコさんに僕は構いませんよ、と返した。

 

 「名誉の負傷ですから」

 

 付き合い方は知っているから、大丈夫だ。

 マルコさんは苦虫でも噛み潰したような顔で「……そうかよぃ」とつぶやいて、僕の肩をぽんぽん、と優しく叩いてくれた。

 

 

 

×××××

 

 

 

 肝心な疑問はちっとも解消されないまま、どんどんミオは回復した。

 

 そうなると肝心なことを何も聞けていないので、さりげなく探りを入れてみたりしたのだが、「それは完治してからオヤジに聞いてくれ」と言われるとぐうの音も出ない。

 

 迷惑をかけたいワケではないので、そうなると引き下がるしか選択肢がなかった。

 ちょっともどかしいが、同時に自分を心配してくれているというのがなんとなく分かってきたので、それ以上突っ込めなかったのだ。

 

 船員たちともわりと仲良くなった。

 というか、彼らは海賊なので年下の相手をするなんて機会がそもそも少なく、外見にびびらないミオに構いたくてしゃあないらしい。

 お世話になりっぱなしは心苦しいので手伝いを申し出たら、芋の皮むきとかをさせてくれたのでサッチという船員と仲良くなった。頭部がフランスパンに似ている。

 

 そうして大部分の包帯が外れた頃、唐突にその日はきた。

 

 甲板掃除を手伝っていたらオヤジが呼んでると言われたので、モップを近くの船員に預けてのこのこと船長室に向かった。

 軽くノックをしてから応えの返事を待って、ドアを開ける。中には珍しく白ひげしかいなかった。いつもは船員のひとりかふたり、何か相談したり報告したりしているのに。

 

「白ひげさん?」

「よく来たなァ、まぁ座れ」

 

 ちょいちょいと手招きされたので、椅子を引っぱって白ひげの近くにちょこんと腰掛けた。

 ミオはべつに白ひげの一員ではないので、迷った末に「白ひげさん」と呼ぶことにした。オヤジと呼ぶのはなんとなく、憚られた。

 白ひげはミオが椅子に座ったのを確認してから、口を開いた。

 

「今日はお前さんの疑問に答えてやる。聞きてぇこと、全部な」

「!」

 

 ぴん、と背筋が伸びる。

 これまで抱き続けていた疑問の数々が一気にあふれて、逆に言葉に詰まった。

 

 そんな様子を見て、白ひげは酒瓶を傾けて水みたいに呑んだ。そういえば白ひげが酔ったところをミオは見たことがない。よっぽどザルなのだろうか。

 そう考えたらちょっとだけ落ち着いて、最初の疑問が口を注いで出た。

 

「白ひげさんは、チェレスタを知っていますか?」

「ああ、『ラグーナ海賊団』の船長でおれたちの友人……だった、男だ」

 

 だった。

 

 薄々勘付いてはいたが、改めて言われると刺さる。

 何らかの理由で袂を分かった、ワケではないだろう。過去形で、痛ましいものを見るような白ひげの眼差しとくれば、イヤでも理解せざるを得ない。それでも確認はしなくてはならなかった。

 ふるえそうになる喉を叱咤して、絞り出す。

 

「その海賊団、今は……?」

「……全滅した。船長も含めて、だ」

 

 がつんと頭を殴られたような気がして、目の前が揺れた。

 

 頭のどこかでああそうか、と思う。

 船員たちはこれを危惧して何も教えなかったのだ。おそらくは知己のひとたちが全滅しているなんて事実を、病床の人間に聞かせるリスクを彼らは避けた。

 英断だ。分かる。自分でもそうするからだ。

 

 でも。

 

「あいつらは『奴隷嫌い』と揶揄されるくらい、奴隷を嫌ってた。いや、扱う人間を、か。奴隷商やヒューマンショップを見るとすぐ潰しやがる。方々で恨みを買ってやがった……睨まれた時点でお終い、そういう奴等からもな」

 

 最後の文言で事態は把握できた。

 天竜人だろう。奴隷が大好きなこの世の最高権力者。権力を笠に着てのさばり続ける豚どもにとっては、玩具を定期的に仕入れることができないなんて、我慢できない。

 原因をどうにかしろと駄々をこねて、焚きつけて、そして『どうにか』させられた。おそらくはそういうことだろう。

 

 手のひらでぐしゃりと髪を掴み、なんとか続けた。

 

「白ひげさん。チェレスタ以外の船員の名前を、教えてください。僕は、チェレスタしか──知らないんです」

「ああ」

 

 白ひげは思いつく限りの名前を挙げていった。時折酒で口を湿らせて、ひとつひとつ。

 疑問に全て答えると言ったのは嘘ではなかった。

 多くの名前を聞いた。知っている名前があった。知らない名前もあった。

 

 奴隷が嫌い。当然だ。

 扱う人間が憎い。そうだろう。

 かつて地獄を見た彼らは地獄を作る人間が我慢ならなかった。

 

 海賊にだって一定の不文律はある。海軍に目を付けられると面倒だ。それをかなぐり捨ててでも、彼らにはそうするに足る理由があった。ミオはそれを知っている。

 

 だけど、言わせて欲しい。

 

「……ばか」

 

 馬鹿、馬鹿なひとたち。

 

 彼らのしたことは褒められるべきことだ。

 無辜の民が奴隷から解放され、自由を得た。それは凄いことだ。彼らは得た自由を好きに使った。賞賛されてしかるべきで、責められるいわれなんてない。

 わかっているのだ、そんなことは。

 

 それでも辛い。苦しい。

 

 ミオは彼らに幸せになって欲しかった。長生きして欲しかった。死んで欲しく、なかった。

 どこかで生きているかもしれない、という希望は打ち砕かれた。けれどミオには聞く義務があり、白ひげには話す責務があった。

 

 だからミオは白ひげを責めたりしない。

 膝に乗せた手を痛いほどに握りしめ、つぶやく。

 

「彼らの遺体、は」

「おれたちで埋葬した。まぁ、見つけられた分だけだがな」

 

 白ひげは悔やむような声音だったが、じゅうぶんだ。

 むしろ海賊の死に様としては、上等の部類に入るだろう。海の藻屑になるのが道理の人たちが、土に還る権利を得たのだ。

 

 ミオは深く頭を下げた。

 

「ありがとう、ございます」

 

 その様子に白ひげは「ああ」と頷いただけだった。

 何かを悟ったのか、礼を受け取るだけで問いを返したりはしなかった。

 

 胸がいたい。苦しい。喉がひきつって、鼻の奥がつんとする。目の裏側が熱くなって目の前に白ひげがいるのも忘れて、椅子の上で膝を立てて丸まった。

 膝にまぶたを押し当てて、どうにか涙をこらえる。

 

「しんどい」

「だろうな」

「ばか、ほんとばか。えらいけど、すごいけど、長生きしてよぉ……たたみのうえで孫に囲まれて大往生とかしろよばーか」

「海賊にゃ夢のまた夢みてぇな話だ」

 

弱音と独り言にも、白ひげは律儀に合いの手を入れてくれた。ありがたい。ちょっとだけ気が紛れる。

 

「大体なんで、じゃあぼくだけ生き残ってんですか」

「お前はあいつらの『隠し財産』に混じってたからな」

 

 ああ、それはマルコさんが言っていたなと思い出す。それを白ひげさんに丸ごと託した、とも。

 

「あのアホンダラども、しょっちゅう海軍どもと揉めてたからな。あちこちに財宝を溜め込んでたんだ」

 

 理屈の上では、ミオが家以外のあちこちに金銭を隠したのと同じだ。

 海賊稼業がいくら板に付いているとはいえ、ここはグランドライン。天候不順による海難事故や、海軍・海賊との乱戦で船が壊れる可能性とは切っても切れない間柄である。

 

 そうした危険を常に孕んでいるのだから、高額な金銀財宝を持ち歩くのは現実的とはいえない。大切なものなら尚更だ。

 これが商人なら、現金を守る方法としての為替発行などもあるだろうが、そこは海賊。信用を担保できないのだから、銀行なんて無理だ。

 そうなると、資産をどこかに隠すくらいしか方法がない。

 

 白ひげによると、そんな隠し財産……財宝のひとつにミオが入っていたそうだ。

 

「『たからもの』で『いっとうだいじなおほしさま』。チェレスタの野郎は、おれに隠し財宝ぜんぶくれてやるから、お前を頼む、とよ」

 

 ……だから、白ひげ海賊団にミオは保護されていたのだ。友人の最後の頼みを引き受けたという、何よりの証拠だった。

 

「隠し財産の中に、お前はしまい込まれてた。あいつの、コチコチの実だったか? あの能力で固まったまま、おれが触った途端に息を吹き返した。虫の息で焦ったがな」

 

 そこまで語り、ややあってから白ひげは顔を上げた。どこか懐かしむような、得心入ったという風に。

 

「あいつら、腕も気骨も申し分ねぇくせに医者との縁だけはやたらと悪くてなァ……勧誘しちゃあ、やれヤブだった悪徳野郎だった、あんなのに治療は任せられねぇと愚痴ってたもんだ」

 

 あれはお前を治せる医者を探してたんだな、と白ひげは言った。

 

 ミオを確実に癒すことのできる医者が見つかるまでは危険極まりない海より、財宝と一緒に隠した方がまだ安全だと判断したのだろう。

 でも神様は意地悪で、本当に欲しい『縁』だけは彼らに与えてくれなかった。

 ろくな設備のない場所でヤブに任せたら、ただでさえ瀕死のミオは解凍した途端に死んでしまう。

 それじゃ生かした意味がない。

 信用のおける医者を確保できない限りミオを解凍できないので、結果大事な場所→隠し財宝と一緒に放置……安置? されていたわけだ。

 

「なんにせよ、あいつらはお前を死なせたくなかったんだろうさ。それこそ、何が何でもな」

 

 理解はできるが納得は別問題だ。

 沈黙が落ちる。

 泳ぎ疲れたあとのようなそれ。まばたきひとつすら重いようで、それがひどくもどかしい。

 なにか言わなくては、という気持ちはあるのだが、お腹の辺りが重くて様々な感情が渦巻いているようだった。

 

 心が詰まって言葉が出ない。

 

 何を言っても八つ当たりになりそうで、けれどここまできたらなにを言ってもいい気すらしてくる。

 

「海賊は勝手なやつばっかりだ」

 

 考えるより先に口が動いた。

 滑ったといってもいい。言葉が、そのまま。

 

 そして一度滑ったら止まらなかった。

 

「僕はあそこで死んでもよかったのに、ドフィとロシーと父様が元気でいられるならそれでよかったのに。ああこれで守れたって、大丈夫だって満足して勘違いできたのに、そんなのイヤだ僕ばっか割りに合わねぇっつって、凍らせて連れ去ったのチェレスタのくせに」

 

 自分が何を言っているのか実感がなかった。白ひげが珍しく驚いているようだった。

 

「なのに、いざ目が覚めたらチェレスタいないって、丸ごと全滅ってひどいよ。マイヨール、ヘリッタ、ネクト、自由で誰にも優しくない海が好きだって、だから海賊は最高なんだって言ってたじゃん。覚えてるよ。忘れないよ。そんな薄情じゃないよ」

 

 ミオは自分が買い上げた奴隷のことを、全員覚えている。忘れたりしない。

 

 

「ぼくだって、あいたかった」

 

 

 膝の上に乗せた手を、強く強く握りしめる。手の平に爪が食い込んでいるだろうけれど、どうでもよかった。

 

「ちゃんと起きて、なんてことしやがるって! 怒鳴って! ぶん殴りたかった! そしたら、ありがとうって言えた! いえた、のに」

 

 目の前の白ひげの存在すらどこかに行っていた。

 感情がそのまま言葉として吐き出される。これまで溜めていたものが、ぼろぼろと。

 

「ひとりぼっちにするなら、いっしょに、つれてってよ……!」

 

 白ひげ海賊団に預けられたって、託されたって、そんなの知らない。

 どうせ助けるなら、助けきってからやらかして欲しい。ミオだって会いたかった。ちゃんと怒って、怒られて欲しかった。

 

 だって、そうじゃなかったら、

 

「……チェレスタは、お前と仲直りしたかったって、言ってたぜ」

 

 

 仲直りだって、できないじゃないか。

 

 

「ッ、ぼくだってしたかった! くそ馬鹿! ゆるしてるよ! 大好きだよ! でも、置いてったことだけは、ゆるさない! 一生うらんでやる!」

 

 子供みたいにわめいて、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱して叫ぶ。

 

「ぜったい忘れてなんか、やるもんか!!」

 

 頬から熱いものが滑り落ちて──床に『転がった』。

 

 ひとつぶ、またひとつぶと落ちて床に散らばっていく。涙色のちいさな、ビー玉めいた鉱石のようだった。

 

 白ひげが目を瞠った。

 

「そりゃ、あいつの能力か?」

 

 ミオもびっくりして涙が止まった。

 悪魔の実の能力は、はっきり解明されていない部分がある。

 能力者が死亡後、どこかで同じ能力を持った悪魔の実が生まれるというのが通説だが、ひとを不老不死にできる悪魔の実があるという話もあるのだから、例外があっても不思議ではない。

 

 コチコチの実は、凍結のちからは──どうやらミオが受け継いでしまったらしかった。

 

 それはたぶん、チェレスタの根性と気合と願いが無理やり引き寄せた奇跡だった。

 

 涙の粒をひろって、理解して、ミオはそれを握りしめたまま何も言わずに涙をこぼした。

 

「よかったな、チェレスタよ」

 

 グラララ、と白ひげが笑った。

 乾杯をするように酒瓶を掲げて、うまそうに酒を干して、満足そうに息を吐く。

 

 そして、

 

 

「なぁミオ。おれの娘にならねぇか」

 

 

 なんでもないことのように、そう言った。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

よん.白ひげさん家の娘ちゃん

 

 

 え、むすめ? 白ひげさんの?

 

 白ひげさんの唐突な発言に、なんと答えればいいのか分からなかった。というか、そもそも意味がよくわからない。

 

「えーと、養子縁組ですか?」

「ちげぇよ。家族になれってこった」

 

 どうちがうのそれ?

 

 よく聞いてみたら、白ひげ海賊団は船員をすべて身内とみなして『家族』と呼んでいるそうだ。だから船員は一人残らずみーんな白ひげさんの息子で、家族。なるほど。

 ちょっぴり魅力的だが、こちとら死に際に親兄弟と引き離され海賊に拉致された身の上……まともに考えるとこれはこれでヤバいな。

 命冥加に生き延びられたことには感謝するが、そうなると今度は弟ペアの安否が気にかかる。

 

「お誘いすごく惹かれますが、僕、弟たちの安否確認したいのですが」

 

 あとおまけで父親。

 

「安否?」

 

 ああ、そういえばその辺りのいきさつを、白ひげさんは知らないのか。

 元天竜人云々はどうしようかなぁ、もう権利剥奪されてるから話す必要ない気もするんだけど、かといってそこを隠して説明しようとすると、チェレスタたちとの関係とか、瀕死だった理由がうまく話せない。

 

 うん、隠しごとはよくない。

 

 それに元天竜人ってたぶんスゲー厄ネタだから、勧誘された身としては白ひげさんには、そういうデメリットを説明しなくては駄目だろう。その辺はきちんとしないと道義に悖る。

 

「話すと長いんですけど」

「かまいやしねぇよ」

 

 言質を頂いたので、洗いざらい話した。

 元天竜人であること。チェレスタたちのこと。弟たちと父のこと。権威すべてを捨てた先での出来事。その顛末と逃亡の日々。とある島で迎えた最後の日。

 

 話し終える頃には、丸い窓から夕日が差し込んできた。まだ明るい、みかん色の夕焼けが部屋を柔らかく染めていく。

 

 白ひげさんは僕の長い話を、何も言わずに聞き続けてくれた。

 

「……そうか」

 

 聞き終えて、組んでいた腕をほどいて白ひげさんは僕へと手を伸ばした。

 ぽん、とおおきなてのひらが、頭に乗せられる。

 

「よく頑張ったなァ」

 

 しみじみと、心からの賞賛の声だとすぐに分かった。

 思いもよらない言葉と一緒に、ぐっしゃぐっしゃと乱暴に撫でられ、なんだか呆然とする。

 

「世界の悪意だの憎悪だのってよォ……ハナッタレのチビガキが、到底背負いきれるもんじゃねぇよ」

 

 白ひげさんの瞳はびっくりするほど優しいものだった。

 

「お前は家族を守った。大したもんだ。大人だって根を上げらぁ、それを弱音も吐かずに、そんな小せぇ身体がボロ雑巾になるまで気張ったんだ。誰にだってできるもんじゃねぇ、まずはそれを誇れアホンダラ」

 

 予想外のことばっかり言われて頭がパンクしそう。

 誇れアホンダラと言われても。その、困る。

 

「だって、そんなの、当たり前で。でも、最後まで守れなくて、だから」

「親が唐変木だから、お鉢が回ってきちまっただけの話だろうが」

 

 あ、反論できないどうしよう。

 うぐ、と言葉に詰まると白ひげさんはやれやれとばかりに肩を竦め、それから噛んで含めるように言った。

 

「お前の弟たちに父親がついてるってんなら、それを信じてやりゃあいい。大人だって馬鹿じゃねぇんだ、そこまでお膳立てされてりゃどうにでもならぁ。まぁ、弟たちを探すってんなら止めやしねぇが……」

 

 そう言って立ち上がった白ひげさんが、僕をそっと抱きしめてくれた。でっかくて硬くてあったかい。

 

「いいかげん、お前が守られる番になったって、誰も責めやしねぇよ」

 

 ぎゅうっと力がこもって苦しいくらいだった。でも、不思議と心地良い苦しさだった。なんだかすごく安心する。

 

「責めるやつがいたら、おれたちがぶっ飛ばしてやる。いいからとっとと娘になりやがれ。──白ひげはな、家族をいっとう大事にするんだよ」

 

 言葉はまっすぐに深く心の奥まで染み込んで、気付いたらまた涙が落ちていた。

 知らずに背負っていた荷物を外されたら、こんな気持ちになるのだろうか。

 苦しくないけど、つらくないけど、ぽろぽろ落ちて止まらなかった。

 

 こんな涙は、はじめてだった。

 

 そのすぐあと、泣きはらしてぐちゃぐちゃの顔だからイヤだって言ったのに、白ひげさんは僕を抱っこして「今日からうちの娘だ!」と船内中に触れ回った。

「やっとかよい、よろしくなぁ」「可愛い末っ子がきたぞー!」「野郎共であえであえ!末娘の爆誕だ!」「よっしゃ宴だああ!!」とあちこちで歓声が上がって恥ずかしかった。

 あと、喜びすぎじゃないかなと、思いました。

 

 

 

×××××

 

 

 

 真っ青な空に、建物みたいに硬そうな雲がよく映える。

 気候は春と夏との境目に似て、見張り台の上の日差しは眩しいくらいだ。

 

「ふあ」

 

 あくびを噛み殺し、気ままに揺れる波間から水平線へと目を凝らす。

 

 ミオが白ひげの家族になって、少し経った。

 

 客分から家族となると扱いが変わるのは当然のことで、とりあえずは現段階の実力と何ができるかの確認から始まった。

 

 幼い頃からあほみたいに鍛えていたミオは、いっぱしの船員なんか相手にならないくらいの技倆があった。

 加えて元は『彼』のものであった能力も、時間とともにようやく把握して、使いこなすことができるようになってきている。今は隊長格のひとからヒマな時に稽古をつけてもらいながら、こまごまとした雑用をこなしている最中だ。

 

 現在、ミオは『白ひげの娘』にはなったものの、『白ひげ海賊団』かといわれると首をびみょうにひねるようなポジションである。

 

 大きな要因は年齢的なもので、若いどころか幼い身空で日陰者になる決意を固める必要はないというのである。

 またミオの現在の目的が『弟たちの安否確認』ということもあり、変に立場を縛ると自由行動に差し障りが生じるだろう、と白ひげが案じてくれたことも大きい。

 

 今の内に身体を鍛えて学を修めて渡世を身につけ、ある程度のお墨付きを出せるようになったら一度世間に出て弟たちの安否を確認して、それからのことはその時に考えてもいいのでは? つまりはそういうことだ。

 

 ……精神年齢は横に置いても肉体的にもう14かそこらなので、早い者なら既に将来を見据えていいはずなのだが、どうも自分には適用されないらしい。

 

 というのも、ミオの身長が『生前』とさして変わらない……否、成長期の関係で当時より低いせいで、周りからかなり幼く見積もられているらしいのだ。

 確かに、周りの大人たちの身長がやたらと高いわガタイがいいわで、相対的にミオはひどくちんまりして映る。

 

 年齢を自己申告しても『もう背伸びしなくていいんだぜ…?』と生ぬるい微笑みを浮かべられてしまうと何も言えない。どうしろと。

 仕方がないので成長期に期待して、今のところは実力を上げることに腐心している。

 

 『ミオ は ちからを ためている!』というやつだ。

 

 といっても海賊船に乗っている以上、実力主義なところは健在なので海賊と矛を交えるなんて時は、容赦なく駆り出される。そういう割り切り方は好きだ。

 

 なので。

 

 

 

×××××

 

 

 

 がんがんがんッ!!

 

「おとーさーんんッ!!」

 

 船影を確認して襲撃用の鐘をガンガン鳴らしながら叫ぶ。

 

「二時の方向から新造船の調子見るっつって海にさんp……哨戒に行った四番隊のおふねが、海軍くっつけてまーっす!!」

 

 僕の声に反応してドヤドヤと船員たちが出てきて「なにやってんだよサッチ~」「疫病神じゃねぇか!」「海軍とやり合うのは久しぶりだなァ」と口々にぼやきながら準備を始めた。

 

「海軍はともかくどこの所属だ?」

「ミオ、見えるかー?」

「んん~~??」

 

 すごく目を凝らして見るが、いかつい海軍船以外の情報は見えない。

 けど、なんだろう、違和感がある。

 これまでの海賊船もそうだったけど、腕のいい海賊ってのは船の動きや甲板に立つ人間の動きでわかる。

 トリム合わせのタイミングやタッキングなどの操船技術もそうだが、何より、人の動きがきびきびとして無駄がないのだ。

 

「あ」

「どしたぁ?」

 

下のジョズさんが変な声を出した僕を見上げた。

 

「あの海軍、新兵さんたちかもしれない」

「はああッ!?」

「そりゃねーだろ、白ひげの船狙ってんだぞ?」

「いやだって船の人たち、あんまりキビキビしてないし! むしろ、こっち見てオロオロしてる……みたい?」

 

 ひょっとして、新兵たちの実践訓練で手頃な海賊船だと思って、狙ったのだろうか。運が悪すぎる。

 段々とサッチさんたちの船が近付き、それに伴って他の船員たちもくっついてる軍船の海兵たちを確認できたのだろう、殺意や敵意がどんどん目減りしていき、代わりに出てくるのは「え、どうする?」という困惑。

 

「グラララ……ずいぶんとドジな海兵もいたもんだ」

 

 呼ばれて出てきたお父さんだけど酒瓶から手を離すことなく、完全に傍観体勢。ぐびりと一口飲むと、ぐるりと背中を向けた。

 

「適当に教えてやれ。『白ひげ』に手ぇ出すとおっかねぇぞってな」

 

 『おう!』と声が揃い、それをグラグラ笑いながらお父さんは船長室に引っ込んだ。雑魚兵の相手をする気はないらしい。お父さん出ると一発で軍船終了のお知らせだからね、仕方ないね。

 そうそう、僕は悩んだ末に白ひげさんをお父さんと呼ぶことにした。オヤジさん、だと白ひげ海賊団に入ってるみたいだから。

 

 

「手柄、賭けねぇか?」

「あん?」

 

 ふと、ビスタさんが提案するとマルコさんが眉を寄せた。

 

「何をだよい」

「んー、一番手柄あげたヤツの隊で、一週間ミオが事務手伝いってのは?」

「乗った!」

「乗るなー!」

 

 全員の士気、爆上がり。僕の意見聞こう!? 

 慌てて見張り台から飛び降りた。みんな事務仕事嫌いすぎるだろ!

 僕の得物を持ってきてくれたマルコさんに礼を言って腰に佩き、ついでに提案。

 

「みんな頑張って書式とか簿記とかおぼえよ!? おしえるから!!」

「いや、おれたち海賊だから……」

「頭使うとか、むり……」

「ウッ、数字を学ぶと脳味噌破裂する病が……」

「もー!!」

 

 全員が示し合わせたように明後日を見る。まったく勉強意欲のないひとたちでちょっと悲しいです。

 などと、とてもどうでも言い争いをしている間に、軍船はどんどこ近付いて、ついにサッチさんたちの船と接敵可能な距離に。

 ついでにサッチさんたちの船も、こっちからアプローチできる距離になったので、それを確認しつつ各員ひょいひょいとモビー・ディック号を飛び越え、船に乗り込む。

 

「サッチてめぇなにくっつけてきてんだよい!」

「うっせー! ちょっとテンション上がって景気づけに一発撃ったらこのザマだすまん!」

 

 あ、うっかり海軍の船に当てたんですね。なるほど把握。

 

「自業自得じゃねぇか!」

 

 ジョズさんのツッコミが冴えわたる。

 そして一方海軍の船の方からは……阿鼻叫喚が聞こえる。

 

「中佐ぁあああ!? あんたこんなところでドジっ子発動させんでも!!」

「珍しく新兵訓練の引率引き受けるなんて言うから! 言うから!」

「あれ白ひげですよ!? 無理ですってむりむりむり!」

「もう駄目だぁ……おしまいだぁ……」

 

 ……なんか聞いてて可哀想になってくる叫びである。

 

「あのー、もうお互い見なかったことにした方がいいのでは?」

 

 マルコさんにくっついて船に移った僕は、片手を上げて提案してみる。

 そしたら手柄の話は立ち消え。事務仕事の押しつけもなし。素晴らしい。

 

「おれたちは最悪それでも構わねぇけど、海軍はそうもいかねぇんじゃねぇか?」

 

 マルコさんがちらと海軍へ視線を向ける。新兵諸君はぶるぶる震えながらも手に軍刀や鉄砲を手に取っていた。

 海賊と接敵して逃げ帰りました、と報告するワケにはいかないのだろう。本当に可哀想だ。

 象と蟻の戦いというか、もう完全に弱い者イジメなので、マルコさんたちもニヤニヤしている。イジメ、かっこわるい。

 

「その意気やよし、ってか? 手加減はしてやるよい。乗れミオ」

「おっす」

 

 言葉と同時、青白く煌めく炎がマルコさんの全身を覆い尽くし、美しい青い鳥へと姿を変える。

 『トリトリの実(モデル:幻想種)』のちからだ。すかさずその背に跨がると、バサリと羽根がはためく。

 中空へと舞い上がり、じゅうぶんな距離を取ってから燕の如き速度で疾走し、軍船へ一直線。

 

「あっズリィ! 一番とられた!」

「オラ野郎共行くぞ!」

 

 後方の声はとりあえず無視して軍船へIN。

 砲撃だのまどろっこしい手段取られる前に乗船しちゃうのは、いいんだかわるいんだか。

 

「ひぇッ!(気絶)」「ふ、不死鳥のマルコだ! 新聞でみたやつだ!(気絶)」「がんばれ、おれ!(気絶)」なんで甲板に降りただけで死屍累々なのだ。覇気とか使ってないのに。

 

「これで海軍大丈夫なのかねェ……?」

 

 これにはマルコさんもびっくりである。こっちの良心が痛むのは戦略なんだろうか。

 他の新兵らしきメンツも、軒並み子鹿のように震えているし、かろうじて戦意を保っているのは、中佐と呼ばれていた青年とお付きくらいだ。

 

「ちっとは歯応えありそうか? ミオ、その辺散らしとけよい」

「アイサー」

 

 ごきばきと指を鳴らすマルコさんに元気よく答え、軽快に駆け出す。

 こういう時は年齢関係なく実力で重用してくれる白ひげ海賊団、好きです。

 

「ミオ、だと……?」

 

 なんか名前呼ばれた気がするけど、気のせいだろう。

 敵が迫っていることを認識した海兵たちは、その相手が小柄であることでなんとか戦意を奮い立てせたのか、武器を構え、銃の照準を合わせ始める。がんばれ。

 

「せめて、あのちびだけでも討ち取るぞ!」

「お、おう!」

 

 意気込んでいるところに申し訳ないが、僕は『見かけ騙しのサメ』とか最近言われてるので、その、すまない。

 甲板の床を吹っ飛ばすような勢いで一気に距離を詰めると、鞘も抜かずにぶん回した。

 

「どっせーい」

 

 気のない声で振り回された武器はしかし、遠心力を味方につけて凄まじい勢いで新兵Aを吹っ飛ばした。

 腹に鞘をまともに喰らった新兵Aは「ひでぶッ」と潰れた声を漏らしながら吹っ飛ばされ、錐揉み回転のちの海ポチャである。

 

「え゛ッ!?」

 

 残った新兵たちがぎょっとする間も僕は動く。

 相手を武器ごと弾き飛ばし、時には鞘を軸に回し蹴り。わっしょいわっしょいと新兵たちを海へと叩き込んだ。

 面白いくらい新兵が飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。

 

「うそおおお!?」

「飛びます!」

「とびま~すッ!」

 

 ぼちゃぼちゃぼちゃん、と水音が響く。

 まぁ海賊と遭遇したのはすこぶる運が悪いが、血に飢えたタイプじゃないだけマシと思って欲しい。強く生きるんだ。運のない新兵諸君に幸あれ。

 

「あ、僕がMVPだったら賭け不成立じゃね?」

 

 ぼそっと呟いた言葉は幸い誰の耳にも届かなかった。

 

 水に落ちた船乗りは誰かに掬い上げられない限り、まず間違いなく死亡する。だから海に落ちた船乗りは、ただちに戦闘行動をやめる。これは海兵であっても同様だ。

 なので粗方の新兵を叩き出し、もういいかな、と振り向くとなぜだかマルコさんサイドは膠着状態だった。

 

「あれ?」

 

 てっきり適当にあしらって終了、かと思っていたので首をひねると、マルコさんがなんか変な顔をして手招きしてきた。

 のこのこ近付くと、こそこそと耳打ちしてくる。

 

「おい、ミオ、その海兵と知り合いか?」

 

 その海兵、を視線で示される。さっきの中佐と呼ばれていた、金髪のもしゃりとした髪で目許がよく見えない青年である。

 まだそんなに年食って見えないのだが、正直この世界だと年齢があてにならない。お父さんなんていくつ? めっちゃ強いし若々しいし元気だし。

 ちょっぴり生き別れている弟に似ていなくもないが、サイズから違うので却下。

 見覚えがなかったので、素直に首を振る。

 

「いや、海兵に知り合いとかいないんですけど」

 

 これまで世界政府と海軍が信用できない生活だったので。目が覚めてからは言わずもがな。

 

「だよなァ。なぁ、やっぱり人違いしてねぇか?」

 

 じゃっかんの戸惑いを含めたマルコさんが問いかけると、金髪の青年はがくんと床に膝をついてうなだれた。ネガティブ全開だった。

 

「たしかに海兵だが知り合いと、すら……!?」

 

 なんか衝撃受けてるみたいだけど、心当たりがないのでどうしようもない。

 そして大の男かつ中佐という、この軍船においてはトップであろうひとがこんなんで大丈夫だろうか。別の意味で心配である。

 

「本当に知らないのか? あいつ、さっきからずーっとお前のこと目で追ってたよい」

「なにそれこわい」

 

 やたら必死な形相で見てたので、ケンカをふっかけることもできなかったそうだ。なにそれこわい。

 ひそひそ話してたら、うなだれていた中佐とやらが気力を振り絞るように顔を上げた。視線は完全にこっち向いてる。もしゃ髪の間から覗く瞳は熱視線である。

 

「その、名前は?」

 

 ええーこの人に自分から名乗るのじゃっかんイヤだ。しかしマルコさんが肘でつついてくる。仕方がない。

 

「はぁ、ミオです」

「!!」

 

 なんでそこでショック受けるのかな?

 

「……そのひと大丈夫ですか?」

「中佐になんてこと言うんだこのやろう! これだから海賊は!」

「中佐はすごいんだぞ!? 肝心な時にドジだけど! ドジだけど!」

「ばっかそこが可愛いんだよ! ドジッ子最高だろうが!」

 

 大丈夫かどうかはともかく、慕われてはいるようだ。

 周りがやいやい言っているので多少は持ち直したのか、質問は続く。

 

「……家族構成、は?」

「血縁って意味なら両親と弟ふたりで、そうじゃないなら白ひげさんぜんぶ。んもーなんですか尋問ですかケンカ売ってるんですか買いますよ?」

「ち、ちがう!」

 

 腰に手を当てて眉をしかめると、もしゃ髪中佐さんが鋭く否定した。その声は鋭く、真剣だった。

 

「さいごに、ひとつだけ」

 

 その言葉は静かで、なんだか泣き出す寸前の子供みたいな表情に見えた。自然とこっちも身構える。

 

 でも、次に吐き出されたのは、

 

 

「『ロシナンテ』という名前に」

 

 

 僕にとっての──逆鱗だった。

 

「聞き覚えおぼろばぁッ!?」

「ちゅ、ちゅうさー!!」

 

 聞いた瞬間、頭が瞬間湯沸かし器みたいに沸騰した。

 何も考えず突撃を敢行、甲板を踏みしめ疾走しその勢いをまるごと叩き込むつもりで、もしゃ髪中佐の腹を前蹴りでぶち抜いた。

 もしゃ髪の大柄な身体が思い切りぶっとび、顔面から着地。何度も何度も床をごろごろ転がり、まだ無事だった新兵諸君を巻き込みながら派手な音を立てて停止した。

 うしろでマルコさんが「あーあ」とかつぶやいている。

 でもしょうがない。こいつが悪い。

 

 ずかずか甲板を歩いて、仰向けでひっくり返ってる中佐のお腹に跨がって胸ぐらを掴み上げた。

 

「なんで、その名前を知ってるの?」

 

 自分でもびっくりするぐらい低い声だった。

 

 もし同名の人間を探しているとしても、それを僕の前で口にする方が悪い。繋げて、連想できるような人間は限られている。

 元奴隷にこんなヤツはいなかった。家族じゃないのに、ともだちじゃないのに、知り合いじゃないのに……その名前を出す人間は僕にとって敵に等しい。

 

 ありったけの殺意をかき集めて凄んだ。

 

「もし、その名前のぬしを、僕の……だいじな家族になにかするつもりなら──ぶっころすぞ」

 

 僕を見てロシナンテの名前を出すなら、家族と知ってる公算が高い。しくじった、素直に答えるべきじゃなかった。油断していた。

 世界政府が、海軍が、僕の家族に仇なすつもりなら容赦はできない。

 

 そう思って凄んだ、のだが。

 

「……」

 

 もしゃ髪の中佐の瞳がまるまると見開かれ、次第にじわじわと潤んでいくのがわかった。

 

 そして、

 

「ふは」

 

 なんだろう──心底安堵したというように、せいせいと笑った。

 それは真冬の雲間から差し込む光に目を細めるような、寒い、寒いところからようやく暖炉にあたれた人のような、安心と喜びの混じった顔だった。

 

「は、ははっ、ふふ……そんなつもりはない。安心してくれ」

「ほんと? うそついたら真っ先に探し出して討伐するよ?」

 

 表情の変化に当惑しながら確認すると、しないしないと首を振る。

 

「本当だ、信じてほしい」

 

 なぜだかその言葉は、不思議とするっと信用できた。

 

「うん、わかった」

 

 即答しながらお腹からどいて、マルコさんの方を見ると両手に掴んでいたお付きさんABを解放するところだった。ああ、マルコさんが引き留めててくれたのか。感謝。

 あとうちの仲間たちがだいぶ集結して見物してた。時間経ってるからね、そりゃそうだ。

 

「中佐! 大丈夫ですか!?」

「ああ、問題ない。……うう、ぐすっ」

「泣いてる!? ちゅ、中佐! 中佐ー! お気を確かに!」

「なんでボロ泣きしてるんです中佐!? おいそこのクソチビ! 中佐に何をしやがった!」

「一発蹴り入れただけですけど!?」

 

 お付きBさんに悪鬼の形相で睨まれたので、慌ててぶんぶん首を振った。それだけで泣く中佐って方がやばいと思う。

 

「ずびっ、これ以上、新兵の損耗は、ぐずっ、好ましくない。撤退だ」

「アイアイサー! おら海賊ども出てけ!」

 

 号泣しながら指令を出す中佐さんに元気よく答えて、僕らを追い出しにかかるお付きさん。

 海ポチャしたひとたちの回収も、いつの間にか終わっていた。

 一応は敵対関係だけど、ここまでぼろくそに戦線崩壊している海軍を追い打つほど白ひげは鬼畜ではないので、やれやれと肩を竦めてみんなも船に帰った。

 

 なぜか中佐のひとが最後まで手を振っていたので、振り返したらやたらと嬉しそうだった。

 

 ちなみに、いちばん偉いひとを蹴っ飛ばしたので、事務仕事を押しつけられることはなかった。やったぜ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話.とある中佐の歓喜

 世界が丸ごとひっくり返るような驚愕と、歓喜で全身がふるえた。

 

 なんでもあり得るのがグランドラインだと思っていたが、これはその中でもとびきりだった。

 

 

 兄を見限り、姉の縁を辿って放浪生活をしていたロシナンテは海軍に拾われた。

 自分を拾ってくれたセンゴク中将は優しくも厳しく、その人柄に惹かれたロシナンテは海軍に入り勉学に励みながら研鑽を積み、本部付きの中佐にまで上り詰めることに成功した。

 

 成長できるのは嬉しかったが、感謝と罪悪感と寂しさがあった。

 姉と同じ年になった時、ロシナンテは少しだけ泣いた。

 

 海軍の情報網を駆使しても、姉の消息は終ぞ掴めなかった。

 いい加減諦めた方がいいのではないか、とセンゴク中将にやんわりと諭されたこともあるが、こればかりはどうしようもなかった。

 

 自分が探し続ける限り、死亡が確認されない限り、可能性がゼロになることはないと思えたからだ。

 ただ、情報精査に混じってくる『ドンキホーテ海賊団』の文字が増えてきたことが懸念材料だった。

 

 海賊界隈において、ドンキホーテ海賊団は恐ろしいほどの成長速度で頭角をあらわしつつある。このまま放置しておけば、いずれ海軍にとっての脅威に変貌するのもそう遠い話ではあるまい。

 これを重くみたロシナンテは、センゴクへドンキホーテ海賊団への潜入捜査を具申した。センゴクは多少難色を示したものの、ドンキホーテ海賊団の危険性を鑑みてこれを許諾。

 ただし、一時的とはいえ中佐の任を解くことになるため、仕事の引き継ぎや潜入に関する段取りを整えるため、潜入捜査は来年以降に実行される予定となった。

 

 そんな時、ちょっとしたきっかけでロシナンテは新兵の実地演習の引率を引き受けることになった。

 本来の引率がインフルエンザでダウンしたため、ちょうどいい人物がいなかったのだ。

 その上官が、自分が研修時代に薫陶を受けたひとだったこともあり、ちょっとした恩返しのつもりだった。

 

 実地演習といっても、情報部から近所に(たむろ)していて比較的レベルの低い海賊をリークしてもらい、それを討伐するという限りなく実践に近い演習だ。

 

 当該海賊の討伐は成功したものの、その後がいけなかった。

 いつの間にか近くに接近していた別の海賊から砲撃を受けた。

 砲弾が飛んできたのは一度きりで、海賊船はそのまま舵を切って逃走を始めた。

 しかし、勝利の昂揚に酔っていた新兵たちが、ついでにあの海賊もとっちめてやろうぜ! と息巻いて舵輪をぶん回したため、慌てて止めようとしたら甲板でスッ転んだ。己のドジが憎い。

 痛みに悶絶している間にみるみる距離が縮まり、気付けば接敵可能な範囲まで近付いてしまっていた。

 

 髑髏に不似合いなひげを蓄えたジョリー・ロジャーに気付いた瞬間、血の気が引いた。

 

「中佐ぁあああ!? あんたこんなところでドジっ子発動させんでも!!」

「珍しく新兵訓練の引率引き受けるなんて言うから! 言うから!」

 

 補佐に助け起こされながら怒られた。じゃっかんの理不尽を感じたが、新兵たちを止めるのは上官の務めなので、素直に謝った。ドジッ子ですまない。

 そして、間髪入れずに中空で舞い踊る青の炎。白ひげ海賊団一番隊隊長、不死鳥のマルコだとすぐに分かった。その背になにか、白いものが光った気がしたが何かは分からなかった。

 

 白ひげ海賊団。

 

 海賊王の時代から、今もなお戦い続けている古強者たちの中でも抜きん出た実力を誇る、世界最強との呼び声も高い海賊団だ。どう考えてもこの戦力で勝てるワケがない。

 どう撤退すべきか、と考えるヒマもなく舞い降りた青い鳥は即座に変化を解き、甲板に立つ二人の海賊。南国の果実めいた髪をした青年。

 

 不死鳥のマルコ。

 

 そして、その横に立っていた小柄な人物を視認した瞬間──ロシナンテの思考が完全に停止した。

 背後で新兵たちが不死鳥のマルコに怯えて気絶してゆくのも、意識から外れていた。

 

 初雪色の髪と、淡いコーラルピンクの瞳。華奢でいとけない、子鹿のような体躯。

 

──ロシナンテの記憶と、寸分違わぬ姉の姿がそこにはあった。

 

「ちっとは歯応えありそうか? ミオ、その辺散らしとけよい」

「アイサー」

 

 驚愕と混乱で棒立ちになる中、ミオ(同名だなんて!)と呼ばれた姉そっくりの少女は、元気いっぱいとばかりに駆け出した。

 自然と姿を目で追ってしまう。

 あり得ない。別人だと脳のいちぶで声がする。確かに姉ならば年齢が合わない。これでは逆転している。

 けれど、その仕草が、笑顔が、何もかもがミオ本人だとロシナンテの本能に訴えてくるのだ。

 

「せめて、あのちびだけでも討ち取るぞ!」

「お、おう!」

 

 意気込んでいる新兵にうっかり止めろと言いそうになって、口を噤む。そんなことをしたら免職である。

 だが、そんな心配は無用だった。

 ミオは踊るように軽快な足取りで、新兵たちを翻弄しながら次々に海へと叩き落としていく。鮮やかともいえる手際で、見とれてしまう。

 

「うちの末っ子になんか用かい?」

 

 あまりに見つめすぎていたのか、不死鳥のマルコが怪訝そうに聞いてくる。

 末っ子、という言葉には大いに疑問を呈したいが、それよりもなんとか言いつくろわねば。

 

「ああ、いや、知人かも、しれないと……」

「知人だぁ?」

 

 ますます不審を募らせる不死鳥のマルコはあらぬ方向を見て、手招きをした。

 さして待つことなく、鞘を腰のベルトにおさめながらミオが不死鳥のマルコの横に並ぶ。

 その光景に、なんだか腹がもやついた。新兵たちは粗方海に落とされたらしい。実力が記憶の通りならば無理もないと思う。

 

「おい、ミオ、その海兵と知り合いか?」

 

 不死鳥のマルコが問いかけると、ミオはちょっと考える素振りを見せてから首を振った。横に。

 

「いや、海兵に知り合いとかいないんですけど」

 

 にべもない返事にグサッとくる。

 ぐらぐらと頭が揺れて、立っていられずに膝をついた。

 人違いの可能性はほぼ消えて失せている。声のトーンも、口調すら変わらないのだ。

 

「本当に知らないのか? あいつ、さっきからずーっとお前のこと目で追ってたよい」

「なにそれこわい」

 

 ひそひそされてもよく聞こえる。

 まずい、このままでは変態だと思われてしまう。ロシナンテは気力で顔を上げた。

 

「その、名前は?」

 

 猛烈にイヤそうな顔をされた。

 現時点ではナンパか尋問かそうでなければ変態だ。めげそう。しかし答えてはもらえた。

 

「はぁ、ミオです」

「!!」

 

 人が名前を呼んでいることより、自分から名乗られる方がよっぽど衝撃だった。

 聞き間違えではなかったのだ。その事実になぜか愕然とする。

 

「……そのひと大丈夫ですか?」

「中佐になんてこと言うんだこのやろう! これだから海賊は!」

 

 呆然としていたら補佐たちがなぜか騒ぎ始め、少しだけ冷静さを取り戻せた。

 

「……家族構成、は?」

「血縁って意味なら両親と弟ふたりで、そうじゃないなら白ひげさんぜんぶ」

 

 淡々と答えながら不機嫌になるのが分かった。

 

「んもーなんですか尋問ですかケンカ売ってるんですか買いますよ?」

「ち、ちがう!」

 

 ケンカ腰になってきた声に慌てて否定する。

 そうじゃない。そうじゃないんだ。

 

「さいごに、ひとつだけ」

 

 聞くのが怖かった。

 けれど聞かずにはいられなかった。

 浮かび上がった可能性を確かめるためには、どうしても聞かなくてはならなかった。

 

 ふるえる唇で、祈るように言葉を紡いだ。

 

「『ロシナンテ』という名前に、聞き覚えおぼろばぁッ!?」

 

 瞬間、なぜか身体がぶっとんだ。

 

「ちゅ、ちゅうさー!!」

 

 補佐の声が遠く聞こえ、一瞬遅れて凄まじい速度と膂力で前蹴りをかまされたと理解した。

 慣性の法則でごろんごろんと転がり、新兵まで巻き込んでようやく停止した。受け身も取れなかったため、全身に痺れが走る。青天井というやつだ。

 仰向けでひっくり返っていると、どすんとお腹に重み。ミオが馬乗りになっていて、ロシナンテの胸ぐらを掴み上げた。

 

 瞳の奥には氷結の殺意。

 

「なんで、その名前を知ってるの?」

 

 低い、低い声音だった。

 ほんの少しでも返答を間違えば死ぬ。

 直感的に察するくらいの覚悟と、心臓を握り潰さんが如き圧力を感じた。

 

「もし、その名前のぬしを、僕の……だいじな家族になにかするつもりなら──」

 

 だが、それは間違いなく。

 

「ぶっころすぞ」

 

 ロシナンテにとっての、福音だった。

 

「……」

 

 叫びだしてしまいそうだった。景色がどんどん歪んでいく。

 手を伸ばして、抱き締めないようにするので精一杯だった。

 

 目の前にいるのは紛れもないドンキホーテ・ミオだった。

 

 家族を愛し、弟を慈しみ、そのためならば全てを捨て去ることを是とする、ドンキホーテ家の長女がそこにいた。

 

 そして、ロシナンテは理解する。

 姉の時間はロシナンテたちが幼い頃──おそらくは、最後の襲撃を受けた時だろう──で、止まっている。

 悪魔の実か、別の何らかの事象なのか、それは分からない。

 だから、ミオの中のロシナンテは幼いまま、変わっていないのだ。それでは成長した自分を認識できるワケがない。

 

 だが、目の前でミオは生きている。

 

 今はそれで──じゅうぶんだった。

 

「ふは」

 

 とてつもない安堵で笑ってしまう。

 何があって所属しているのかは分からないが、白ひげ海賊団なら構わない。彼らは、船員を家族として扱うことで有名だ。きっと大事にしてもらっているだろう。

 それと、家族に危害なんて加えられるはずがない。

 

 自分がその家族なのだから。

 

「は、ははっ、ふふ……そんなつもりはない。安心してくれ」

「ほんと? うそついたら真っ先に探し出して討伐するよ?」

 

 相変わらず家族以外には手厳しい姉が念押ししてくるので、しないしないと首を振った。

 なるべく真摯に聞こえるように、静かに告げる。

 

「本当だ、信じてほしい」

「うん、わかった」

 

 ミオは、拍子抜けするほどあっさりと信じて頷いた。

 無意識にどこかで、何かを感じ取っているのだろうか。どうぶつみたいな所のある姉だからあり得る。

 そうだとすれば、とても嬉しい。

 

 心地良かった重みが離れると、待ってましたとばかりに補佐たちが駆け寄ってきた。

 

「中佐! 大丈夫ですか!?」

 

 問題ないと答えながら、離れてしまうのが寂しくて、けれど感じていた温かさに姉の生を感じて……堪えていたものが噴出した。

 

「うう、ぐすっ」

「泣いてる!? ちゅ、中佐! 中佐ー! お気を確かに!」

「なんでボロ泣きしてるんです中佐!? おいそこのクソチビ! 中佐に何をしやがった!」

「一発蹴り入れただけですけど!?」

 

 あらぬ疑いをかけられている姉には申し訳ないが、しばらく涙は止まらないだろう。ごめんなさいと心の中で謝っておく。

 

「ずびっ、これ以上、新兵の損耗は、ぐずっ、好ましくない。撤退だ」

 

 涙声で(はな)を啜りながら命令すると補佐たちが動き始め、海賊たちを追い払っていく。

 

 積もる話は山ほどあった。

 自分がロシナンテなんだと叫びたい気持ちもあった。けれど、そんなことをしても混乱させてしまうだけだとも、思った。

 

 姉はとても楽しそうだった。怪我もなく、笑顔だった。

 

 今はそれでいい。

 それだけでいい。

 

 ロシナンテは大きくなった。

 強くなって、立場を得た。小さくなってしまった姉を守れるだけの力が、今のロシナンテにはある。

 撤退する間、堪えきれなくて遠ざかる姉に手を振ったら振り返してくれた。

 嬉しくて、幸せで、また涙がこぼれた。

 

 見上げた空はひたすらに青かった。

 常にかかっていた暗い紗のようなものが、取り払われた気がした。

 

 世界が塗り替えられたように何もかもが鮮やかで、きらきらしているように見えた。

 

 

 世界はなんて美しいのだろうと、ロシナンテは初めて思った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ご.軍曹と赤髪

 

 

 冬島で蜘蛛を拾った。

 

 ぬいぐるみぐらいのサイズで色は黒。全身の体毛がびろうどみたいで艶がある。複眼が暗い柘榴石みたいでわりと綺麗。

 八本あるはずの脚が二本くらい欠けてて、岩礁の端っこに引っかかっていた。

 特に恐怖を感じなかったので「くる?」と聞いたら、脚を上げて返事をしてくれたので招き入れた。みんなには内緒。

 

 水陸両用なのか部屋でも問題ないらしく、ベッド脇でぬいぐるみ役をしてもらった。

 普通の蜘蛛みたいに虫を食べるのかと思ったらなんでもイケる口だったので助かる。根菜が好みらしい。とっても異世界を感じる。あとサイズに合わない俊敏さでちょっと驚いた。

 ゴキ○リを駆逐する例の蜘蛛そっくりだったので、軍曹と名付けた。

 

 ミオが白ひげの娘になって二年。

 身長はちょっぴり伸びて、でも生前とそう変わらなかったので相変わらず小さい。ぎりぎり160cmにとど……かないので、相対的に仕方ない。

 

 隊長クラスとは、五回やって一回くらい不意打ちを食らわせられるようになった。

 手加減を忘れさせることができるようになったあたりで、戦闘面のお墨付きをもらえた。そこからは世情の勉強を頑張った。

 この前襲ってきた海賊と交戦したところ、悪魔の実をたまたま手に入れたので船内オークションを開催して軍資金を入手。ミオには既に忘れ形見という名の能力があり、悪魔の実を追加するのは危なすぎたのでちょうどよかった。

 

「なに買うんだよい?」

「ひとり用のふね!」

 

 マルコに聞かれたので正直に答えたところ、競り落とした船員がよってたかって責め倒された。「独り立ちしちゃうだろ馬鹿!」「まだ早いって!」「どこに貯め込んでたんだよ!」「くっそ落札額こっちで決めとけばよかった!」最後の後ろ暗い裏取引を口にした船員が爪弾きにされた。

 それから船員たちにさんざん引き留められたけど、白ひげの「可愛い子には旅をさせてやるもんだ」という鶴の一声で全員がしぶしぶ引き下がった。

 

「金を稼ぐアテはあんのか」

 

 ミオの弟捜索は白ひげ海賊団とはまったく関係のない私事である。

 なので、個人が餞別をくれてやるのはともかく白ひげから資金を出してやるのはなにか違うし、ミオもそこまで世話になるつもりはない。

 

「賞金稼ぎを目指します!」

 

 というか、白ひげを背負わずに自由がきいて、かつ選べる職種がバウンティハンターくらいしかなかった。

 

 討伐対象も選べるし、ミオの実力なら問題ないだろうと白ひげは頷き、晴れてミオは『はじめてのおでかけ』へと旅立てることになった。

 準備中、船員たちからの餞別で船がいっぱいになりそうだったので、各隊ごとに代表して渡す形式になった。

 水・食料・ログポースなどの基本的なものとは別に、白ひげ以下隊長数名のビブルカードと緊急用にと電伝虫の番号、暇つぶし用の本や防寒具とだいぶ過保護なラインナップである。

 

 それから船員たちに心配と激励を口々に言われ、最終的には連絡の義務付けとたまには顔見せに帰ってくることを約束させられ、号泣する船員をバックに出航するという、なんともアレな船出となった。

 

 ちなみに出航前夜、白ひげに挨拶と秘密にしていた新しい相棒というか、家族の軍曹を紹介したら二度見された。

 

「フクラシグモじゃねぇか、どこで拾ったんだ」

 

 フクラシグモというのは、水を吸って自由に体積を変えられる蜘蛛。

 分布図や生態の詳細は不明ながら糸は強靱で知られており、一度ひっかかると海王類でも抜け出すのは困難とかなんとか。

 まさに漁師垂涎の糸なのだが、その強さと捕獲の困難さから超がつく高級素材扱いらしい。パワー・スピードともに某軍曹並なのだから、それが巨大になればどうなるかといえばお察しである。

 

 うってつけの相棒だなと白ひげはグラグラ笑ってミオの頭を撫でた。

 

「気を付けて行ってこい」

「うん、行ってきます!」

 

 白ひげは、数奇な運命を辿る愛娘の門出を笑って見送った。

 

 かつての友人に託されたものは、彼の言う通り悪いもんじゃなかった。

 彼らが誇り、守るに値する、小さいけれど元気よく飛び跳ねるあかるい星だった。

 

 悲惨と称しても過言ではない過去を、そう悪いものではないと胸を張れる強い子供だった。

 弱音を吐くことも許されない環境で、なにも憎まずにいられる希有な子供だった。

 

 そうされて当然の年齢だったのに、頼ることも甘えることも許されなかった、哀れな、子供だった。

 

 息子たちも接する内にそれを察したのか、やたらと過保護になったり甘やかしたりしていたが、そうされるたびにぎこちなくなるのが可愛らしくも痛々しかった。

 年越しにようやっと、年相応の顔が見られることが増えてきていたのに、本人たっての希望で唐突な出奔だ。止める気持ちもまぁわかる。とはいえ、区切りをつけるにはいい年齢だとも思う。

 

──行ってきますと言ったのだから、おかえりと迎えてやるのを変わらず待っているのが、家族というものだ。

 

 白ひげは寂しがって泣いている馬鹿息子たちに喝を入れるべく、大きく息を吸い込むのだった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 白ひげ海賊団御用達の船大工さんから調達した船は、今日も快適である。

 

 簡単に説明すると、キャンピングカーならぬキャンピング船だ。

 船内の天井は高く、キッチン・バス・トイレに寝室までついた至れり尽くせりな作りである。

 普段は舵輪を回して操舵しているけれど、近場に島があるのに凪に当たってしまった時にはなんと、軍曹が牽いてくれる。どーだすごいだろ。いやすごいのは軍曹なんだけど。

 軍曹は海水につけるとみるみる大きくなり、最大だと八畳くらいのサイズになって、お尻の糸で船を固定して引っぱってくれるのだ。ありがたい。

 

「うーん」

 

 甲板に持ってきた椅子に座って、ニュース・クーから届く定期新聞に目を通しながらため息。

 世情の勉強をしていく内に、とても重大な事実に直面した。

 

 なんと僕は──浦島太郎状態だったのだ!

 

 きっかけは、お父さんが見せてくれた新聞の年号。

 本来の家族と生活している時は新聞代も惜しくて、そこらのゴミ捨て場にあった新聞を流し読むくらいだったのだが、それでも変だった。ズレまくっていた。

 慌てて教師役の隊長に聞いて、お父さんにも確認を取って、結論。

 

 ざっと見積もっても少なくとも十年くらい、僕は時間をスキップしている。

 時の流れが残酷すぎて涙でそう。

 

 どれだけ凍結されていたのか……こちら的にはいっても数ヶ月だと思っていたのだが、それがなんと十年ちょっとである。めっちゃ混乱する。そしてヤバい。

 

 そこまで時間経ったら、弟たちの見分けがつかないかもしれない。

 男子三日会わざれば刮目して見よ、なんて言葉があるのだ。二次成長を遂げた弟たちの顔がまったく想像できない。どうしよう。

 うんうん悩んでいたところで、更なる爆弾投下。

 

 なんと、最近破竹の勢いで成長している海賊団の中に『ドンキホーテ海賊団』なるものが存在するそうな。

 

 これはあれですね、確かめるしかないですね。

 人違いならそれでよし、そうでないならまぁ……いいか!(投げやり)

 人生楽しめといったのはお姉ちゃんであるからして、海賊でも人生謳歌してるならなんでもいいよ、もう。

 そうでも思わないとやっていられない。現実は厳しい。

 

 新聞を握りしめたまま、確かめなくてはいけないという義務感と、見たくねぇなぁという個人的感情で身もだえしていると、ふ、と影が差す。

 

「ん?」

 

 時刻は昼間で天気は快晴。影が差すとはこれいかに。

 軍曹が反応していないので、サイクロンとかでもないみたい。

 顔を上げて、赤い竜をかたどった船首が目に飛び込んできた。モビー・ディック号にも比肩しうる巨大な、僕の船なんか一発で轢き壊されるレベルの船だ。

 あらやだぜんぜん気付かなかった。

 

「おうい」

 

 大口あけて見上げていたら船首に一人の影。

 日差しで煌めく赤い髪。大柄な身体に似合わぬ稚気にあふれた動きでぶんぶん腕を振っている。

 大きく手を振り返し、ご丁寧に既に垂らされている縄ばしごを確認。碇を降ろしてから軍曹と一緒に上ると、案の定な方々がお出迎えしてくれた。

 

「こーんにーちはー」

「よっ、元気そうだな!」

 

 ニカッと笑ったのは筋骨隆々とした体躯に威風堂々、白ひげ海賊団にもたまーに遊びにきてた赤髪海賊団の船長。通称が赤髪のシャンクス。見たまんまでとてもわかりやすい。

 その横でタバコをふかしているのが副船長のベックマンさんで、骨付きまんが肉を貪ってるのがルゥさん。食生活の偏りが心配になるなぁ。

 見張り台でヤソップさんがサムズアップしているので、彼が気付いたらしい。

 

「なんだなんだ家出かおい? 誰とケンカしたんだよ、一緒に謝ってやろうか?」

 

 背中をべしべし叩いてくる親戚のおじさん感が半端ないシャンクスさんである。なんで家出一択なの?

 いや前科があるからなのだけど、原因は忘れたが一回船員とものすごいケンカをしてプチ家出(船内限定)したことがあるのだ。

 大捜索中にちょうど赤髪海賊団の皆さんが来て、めちゃめちゃに笑われた。ちなみに僕はたたんだ帆の隙間で拗ねていた。見聞色の覇気はずるいと思います。

 

「家出じゃなくて、ちょっとお出かけです」

「あの過保護な連中がよく許したな。その蜘蛛のおかげか?」

 

 過保護……うん、稽古と交戦時以外は過保護ですね。否定はしません。

 ベックマンさんは軍曹がフクラシグモだとすぐ看破したみたい。さすがです。

 ちなみに軍曹は絞ると縮むので、現在僕の肩に乗っかっている。サイズ的には仔猫。縮む限界がこれくらいなのだ。

 

「軍曹は関係ないですよ? そろそろ家族捜しに行きたくて、お父さんに許可もらっての旅路ですので」

「ん? ミオの家族は白ひげだろ?」

 

 シャンクスさんの疑問はもっともである。

 

「それはそーなんですけど、血が繋がってる方です。弟たちを捜しにえんやこらと」

「へぇ、弟なんていたのか」

 

 ブチィ、と豪快に肉を噛み千切ったルゥさんが口をもごつかせた。よく噛んで食べていただきたい。

 

「二人いるんです。可愛いのとくそ生意気なの」

「……家族と暮らすつもりなのか?」

 

 そこまで話を聞いて、なんとも複雑そうな顔つきになるシャンクスさん。お父さんとこも海賊なので、足を洗うつもりなのかと考えても不思議ではない。

 首を横に振る。

 

「んにゃ、純粋に安否確認です。元気でやってるなら、それで」

 

 どうするかは、会ってみなければわからない。

 というか、弟のどっちかが既に海賊デビューしているので、元気なのは間違いない気はする。

 とりあえず様子見したいなー、というのが正直なところだ。

 

 それに。

 

「僕、お父さん好きだし、白ひげのひとたち大好きなので」

 

 言ってる内に照れてきて、うへへと笑ってしまう。

 託されたからって、助けない選択だってあった。

 それを治療して、娘にしてくれて、みんなで大事にしてくれた。それを恩に着ない方がどうかしている。

 でも、恩とか抜きにしても彼らはもう、大事な家族だ。

 

「どうあれ、ちゃんと帰ります。だから、お出かけ」

 

 行ったっきり、ではないのです。

 ちょっとだけ目を瞠ったシャンクスさんは、ニカリと笑って僕の頭をガシガシ撫でた。

 

「そうかそうか! 気を付けて行けよ?」

「捜すといってもこの海だぞ。あてはあるのか?」

「う、あの、『北の海』の方です。港町らしいので、とりあえずはそこから」

 

 頭をバスケットボールくらいの気安さで揺さぶられているせいか思い出せない。

 なんだっけ、蜘蛛っぽい名前だったんだよな。

 頑張って捜すんだぞ見つからなくてもへこたれるなよそうだ宴やってくかと激励をもらって、赤髪海賊団から退散することに。宴は遠慮した。うちの弟海賊団(暫定)に拠点を移動されると困る。

 

「あー、お金については賞金首狙おうかな、と。さすがにお小遣いだけじゃむりなので」

 

 白ひげさん家でお金を稼ぐ方法は、海賊との交戦でお宝ゲットした時の山分けとかが主になる。それとお小遣い。

 年齢的な問題で主に雑用をこなしていたうえ、モビー・ディック号にいるとそこまで金銭に関わらないし、山分けとか心苦しいのでわりと遠慮していた。

 なので貯金があんまりなくて、あの悪魔の実オークションを開催できなかったら……あと半年くらいお出かけが延びていたかもしれない。

 

「お、おれを狙うつもりか!?だめだぞ!?」

 

 何を考えたのか、大げさに首元を隠すシャンクスさんである。グランドラインきっての実力者がなにを世迷い言を。

 

「どんだけ人生投げ捨ててんですか僕は。でも、ば~ん☆」

 

 誰も本気にしていないが丸分かりなので、遊んで指鉄砲作ったら「ぐあ-、やられたー」と大げさに倒れた。みんな爆笑している。仲良し海賊団。

 その間にベックマンさんが一旦部屋に戻り、餞別だと言ってワインと『北の海』中心に動いてる賞金首の手配書最新版をくれた。赤髪海賊団の副船長はデキる男です。

 お礼を言ったら「まぁ、がんばれ」と頭を撫でられた。どうも白ひげさんちの娘になってから、みんなに撫でられる。身長の問題だろうか。ちょっと悔しい。

 

 帰り際、拠点にしている町の名前を思い出した。おおスッキリする。

 

「そうそう、『スパイダーマイルズ』です。まずはそこから捜します!」

「よし行ってこい!」

 

 びしっと指差すシャンクスさんに敬礼して、消防士みたいにしゅーっと縄ばしごから降りて、まだ手を振ってくれているひとたちに大きく手を振ってから再出発した。

 

 なので、その後の会話を僕は知らない。

 

「……あー、お頭」

「ん? どうした?」

「『北の海』の『スパイダーマイルズ』は確か、『ドンキホーテ海賊団』とやらが勢力を伸ばしていた気がするんだが」

「えっ」

「まぁ、白ひげの連中に揉まれてたんだ。そうそう迂闊なヘマはしないだろう」

「うーん、ミオは勘もいいし、いざって時の逃げ足早そうだから大丈夫じゃねぇかな。……白ひげはそれ知ってんのか?」

「おれが知るかよ」

「だよな。…………おーい野郎共! 呑もうぜ!!」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ごのに.小さな密航者

 

 軍曹に引っぱってもらって『凪の帯』を抜け、やってきました『北の海』!

 

 うん、これ軍曹いなかったら詰んでたね、感謝。

 

 そんで、近くの町に停泊して生活必需品を買おうとしました。

 三回カツアゲされて全部倒して、うち一回賞金首だったので賞金をゲットしました。物騒じゃね?

 

 あっちから声かけてくる男は全部詐欺師だと思え、いや怪しいヤツはまず殴れとお出かけ前にさんざん言われてたのが正しい気持ちになってしまう。

 どう考えても過剰のはず、なんだけど。ううむ。

 臨時収入で懐があったかくなったと考えておく。やったぜー。……むなしい。

 買いたいものは買えたので、とっとと船に戻って目的地を目指そう。

 

 と、早足で戻ったのだけど船の手前で軍曹が警戒。ちょっと遅れて気付いた。

 誰か乗ってる。

 なんかスゲー足元見られたから、ドックに入れるのをやめたのが失策だったか。

 

 でも不思議なことに気配が小さい。

 子供が遊んで迷いこんだのだろうか。

 なんにせよ、自分の船に他人が密航してるのは面白くないので、軍曹には裏から回ってもらい、ズカズカ入って気配のある風呂場のドアをスライドさせた。

 

「ここ、僕の船なんだけど。乗る船間違えてない?」

「……間違いじゃ、ねぇ」

 

 空の浴槽からのっそりと出てきたのは、やせっぽちの子供だった。

 雪豹柄の帽子を被った、あちこち汚れてぼろぼろの、ひどく淀んだ目つきの少年だ。

 知っている。これは地獄を見た目だ。血と臓物の間を這いずって、怨念と泥水を啜って生き延びた目だ。

 わぁ……ドフィそっくり。

 昏い瞳をなお黒い憎悪で煮立たせて、少年は手榴弾のピンに指をひっかけた。

 

「あんた、スパイダーマイルズに行くんだろ。乗せていけ」

「ええで」

「えっ?」

 

 真顔で頷くと、少年がびっくりする。その隙にシャワーのコックをひねって水をぶっかけた。

 

「ぶわ!? な、なにしやがる!」

「火薬使うのにお風呂場選ぶ方が悪い」

 

 少年がはっとした顔をする。

 倉庫の方行けばいいのにと思ったけどあっち鍵かけてたので、たぶん行き場に迷ったのだと思う。

 びしょびしょの少年が忌々しそうに手榴弾を放り投げてくるので、ぱしりとキャッチ。

 

「それ、もうちょっと待つとお湯になるから。そんでそっちシャンプーとリンスで、身体はそっちの石鹸使って。服脱いだら洗濯するのでこっち渡してね」

「え、あ?」

「ちゃんとあったまってから出てね。タオルとか持ってくるわ」

 

 言うだけ言ってドアをスライドさせようとしたら「ま、待てよ!」と怒鳴られた。

 ええー、なんだよ。

 

「おかしいだろ! おれ、お前を脅したんだぞ!?」

 

 失敗してるからなぁ。別に気にしない。うーん、歪んでるけど悪い子ではなさそう。

 なので普通に言った。

 

「乗せてけって言って、いいよって言った。したら少年は密航者じゃなくて僕のお客だよ」

「なんだその理屈!」

「叩き出された方がいいの?」

「んなワケねぇだろ!」

 

 おっと案外に面倒くさいぞコイツ。……密航を企む少年が素直なわけないか。

 仕方がないので、お風呂場にずかずか入って身構える少年の帽子を取った。

 

「あっ!」

「これ返して欲しかったら、身体洗ってお風呂入ってあったまって」

「……チッ」

 

 形勢不利と見たのか、舌打ちをかまして服を大人しく脱ぎ始める少年。

 やれやれと嘆息して改めて風呂場をあとにする。

 バスタオルを用意してから帽子を綺麗に洗って絞り、形を整えていたらドアがちょっとだけ開いてびちょびちょの服が飛んできた。隙間から、小さい手が中指を立てている。

 

 すげぇクソガキだなぁ。

 

 当然子供用の服なんてないので、乾くまでは僕の服で我慢してもらおう。

 シャツと紐で腰を閉められる短パンを用意しておく。すまないが、ぱんつはない。

 服を洗濯して甲板に干していたら、軍曹が「どうする?」という感じでこっちを見つめていた。

 

「いいよ、出航しよう」

 

 了解、という感じで軍曹がもやい綱を解いてスルスルと碇を回収する。うちの相棒まじ優秀。

 その間にご飯の準備。

 昨日作ったおでんが余りまくってるので、お米を炊いておにぎりにしよう。二日目なので昨日よりはマシな味である。

 

 茶飯にでもすればよかったと炊き始めてから気付いた。くっ。

 

 はじめちょろちょろなかぱっぱ、と火加減を見ていたらだぼだぼのシャツを着た少年が飛び込んで来た。

 

 

「おい! なんで出航してんだよ!」

「スパイダーマイルズ行くんでしょ? いいじゃん」

「いいじゃん、って、おまえ……」

「ちゃんと髪拭いてくれ、廊下濡れる」

「うわ、さわんな!」

 

 タオルでぐっしゃぐっしゃと髪の水気を抜いたら、振り払われた。警戒心強くて猫みたいだ。

 あらあらとは思うけれど特にショックを感じないので、少年がそんな顔することないんやで。罪悪感が湧くので、そんな悲愴な顔をしないで頂きたい。

 世の中には、治療してもこっちを殺しにかかるヤツがいっぱいいるんだから大丈夫(経験)。

 

「……えらぶふね、間違えた」

 

 絞り出すような声が、なんだか笑えた。

 

「それは少年の審美眼が悪い。次は頑張って切符買おう。ところで、昨日作ったおでんがいっぱいあるんだよ渡航代として消費手伝ってくんない?」

 

 ぐぅううぅうう。

 

 軽い調子で問いかけたら、少年のお腹が返事をした。

 慌ててお腹を押さえる様子が面白かったので笑ったら「笑うな!」と怒られた。

 そこでちょうどご飯が炊きあがったので、おにぎりを握りながら具材を聞いたら「……梅干し以外」と答えてくれた。じゃあなまり節と鮭と昆布にしようか。

 

「あんまうまくねぇ」

「あはは、僕もそう思うけど上達しないんだ。ごめんね」

 

 おでんを食べての感想。

 失礼千万だけどゆるす。事実だから。これでも昨日よりマシなので勘弁してくれ。

 少年はおにぎりをもりもり食べて、おでんを食べて水を飲んでひと心地ついたのか、はー、と息を吐いてぼんやりと中空を見つめている。

 

「ところで、よくこの船がスパイダーマイルズ行くって分かったね」

「海図を買ってただろ」

「ああ、それで。僕ぐらいなら脅して制圧できると思ったんだ」

 

 すぐ後にカツアゲパート2を喰らったから気付かなかった。

 そうか、あれ隠れてる仲間じゃなくて少年だったのか。どうりで増援が来なかったワケだ。

 スパイダーマイルズまでの海図は、グランドラインみたいにエターナルポースがないのを失念していたので、慌てて購入した。不覚である。

 

「そうだよ。それに……次なんて、ねぇよ」

 

 少年は何度か視線を彷徨わせてからふてくされたように、あるいは何かを諦めたように、自分の腕を見つめながらぽつりとつぶやいた。

 

「おれは『白い町』で、育った」

 

 言われてみれば少年の肌には、やけに白い痣のようなものがある。雪花石膏、どころかそのもの(・・・・)の色だ。

 そして白い町といえば……あ、あー、もしかしてフレバンス?

 地理の勉強をしている時に知った町の名前だ。

 かつてのおとぎの国。上質の地層があったがために、世界政府の悪意と隠蔽に食い散らかされた町。

 その因果は次世代の寿命を削り、それが少年を苛んでいるとすれば、答えはひとつだ。

 

「珀鉛病」

「そうだ」

 

 合点が入った。

 少年は、文字通りの地獄を見たのだ。

 研究者が珀鉛病の治療法を確立するまで、世界政府は待てなかった。偏見と情報操作によって、町そのものが鏖殺された。

 悪意と迫害を一身に受けた少年。

 

 なるほど、似ているのも道理だ。

 

「そっか」

 

 うん、と頷くと少年は思っていた反応と違ったのか、少し動揺しているようだった。

 

「こわく、ねぇのか」

「自家中毒をおそれる必要はないでしょう」

 

 珀鉛という鉛の一種が引き起こす中毒症を『珀鉛病』という。

 環境汚染によって体内に蓄積された珀鉛は、世代を引き継ぐごとに人間の平均寿命を削り落としていく。

 おそらく、少年の寿命も相当に縮んでいるはずだ。

 世の栄耀栄華を享受していた者たちが作りあげた負の遺産を引き継ぐ羽目になったフレバンスの住人、おそらくはほぼ最後の生き残りである少年に思うところがないでもないが、口にするべきではないだろう。

 当事者ではない者から受ける同情や憐憫を受けて自己陶酔できるようなタイプとは思えない。

 

「どうあれ、少年は生きてここにいる」

 

 だから、言えることがあるとすれば。

 

「それは、とても、すごいことだと──僕は思うよ」

 

 あの病的に隔離された死の町から抜け出してきたのだ。

 辺り一面にはびこる死臭を振り切って逃げ延びるために、少年が何を覚悟して何を捨ててきたのか、想像するに余りある。

 十に届くか否か、それぐらいの年齢の子供が背負うには酷に過ぎた。

 まるで理解のできない宇宙の言葉でも聞いたような顔をしていた少年の顔が、唐突に歪んだ。

 

「おまえ、ひどいやつだ」

 

 怒っているようにも、泣きそうにも見える顔だった。

 

「そんなこと、いうな」

 

 小さくしゃくり上げ、椅子から下りてどこかへ行ってしまった。

 狭い船内だ。探せばすぐに見つかるだろうけど、そうしようとは思わなかった。

 

「……そうだね、ひどい」

 

 少年は生き延びた。

 

 諦めず、必死に、生にしがみついた。

 

 そしてここにいる。

 

 それを、僕は凄いと思う。

 

 賞賛する。心の底から。

 

 ……羨望すら、覚えた。

 

 小さな背中が、とても眩しいもののように見えた。

 

 

(だって、それは、僕が真っ先に切り捨てたものだ)

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ろく.【悲報】うちの弟がやべぇ海賊だった

 

 

 

 少年を乗っけたままうちの船はすいすい進んで、やってきましたスパイダーマイルズ!

 

 そして、到着直後に少年はいなくなりました。

 だろうな、という感じだったので驚きはない。会ったばっかりで自分から地雷差し出してきたので、こっちも不用意な発言しちゃったからしょうがないね。心の扉はフルクローズでした。

 結局名前もわからんかったけど、こっちも名乗ってないのでお互い様だ。

 

 スパイダーマイルズは港町なのでそこそこに大きな町である。

 まぁいくらスパイダーといっても、本物の蜘蛛を連れていると怒られそうな気がしたので、今回軍曹はリュックに入っていてもらうことにする。

 船は前回の教訓をいかしてちゃんと隠しました。

 

 そしてぼちぼちと町を散策しつつ情報収集に勤しんでいるワケですが、問題がぽこぽこ浮かんできてどうしようかという感じ。

 だいぶ疲れてきたので、近くの喫茶店でティーブレイクしつつ脳内作戦会議。

 議長も進行も書記もオール自分。すごい、良案が浮かぶ気配が欠片もない。

 

(ドンキホーテ海賊団のアジトは割れました。彼らはゴミ処理場をアジトにしています)

(闇を感じる)

(それな)

(それな)

(海賊団の規模が思ったよりでかい)

(人員豊富で思ったより海賊してた。しかもイタリアン形式だった。幹部とか噂になってる)

(シャンクスさんとかお父さんの海賊見てて麻痺してた感ある)

(わかる。もっと牧歌的な海賊でいてほしかった)

(我ながら牧歌的な海賊に矛盾を感じるけど、それより問題はどうやって弟に会うかです)

(最高幹部の更に上。船長。ボス)

 

「どうやって会いに行けばいいんだ……?」

 

 頭を抱え、可決も否決もしないままむなしくなって閉会した。

 ドフィなのかロシーなのかわからんけど、いや限りなくドフィっぽいけど、ドンキホーテ海賊団のボスなんてどうやって会えばいいのかさっぱりわからない。正直に名乗り出たところで詐欺師扱いがオチだ。

 お父さんにしろシャンクスさんにしろ、船長がフレンドリーもとい気さくすぎて参考にならない。

 

 お父さんの名前を使う?……迷惑かけそう。却下。

 

 こっそり忍び込む?……アジトは割れたけど地図は入手できてないので、途中で見つかると詰む。却下。

 

 手紙でも書く?……絶対他のひとのチェック入ってる。却下。

 

 誰かに相談する?……白ひげの誰に聞いても、見なかったことにして早く帰って来いって言われそう。むり。

 

 いい加減脳味噌が茹だってきたところで、なぜかお髭の似合うダンディーな紳士が脳裏をかすめた。

 

『逆に考えるんだ』

 

 僕は真理に気が付いた。

 名乗り出なくてもいいじゃない。

 

 海賊団の規模からしてボスに危害が加えられる可能性は低いし、わりとあくどいことしてそうなので資金も潤沢。反対勢力を黙らせられる兵力も完備している。そうそう潰れる気配はない。

 同姓なだけの別海賊団疑惑はこの町で払拭されているので、もう本気で顔だけ拝めればそれでいい気がする。

 うちの弟、お姉ちゃんがいなくても立派に独り立ちしてるよ。

 ボスがどっちなのかだけ確認して、もう片方を探しに行こう。両方いれば万々歳なのだけど、世の中そううまくできているとは思えない。

 

 限りなく投げやりな作戦だけど、考えついたのだから実行に移す。

 お会計を済ませてゴミ処理場を目指した。

 

 てくてく歩いている間に、ふと嫌な想像をしてしまった。

 

「うざがられたらどうしよう……」

 

 そうだよ、僕のしてることってカーチャンが息子の職場に見学来るようなもんじゃない? めっちゃ気まずくない?

 あああ思いつくんじゃなかった。めっちゃ悩む。困った。どうしよう、その辺で紙袋でも購入してかぶる? それはただの不審者だ。あうう。

 

 ……もういい、わかった。

 

「とりあえず船長の名前だけ確認して、帰ろう!」

 

 自分でハードルをがんがんに引き下げている自覚はあるけど、羞恥と申し訳なさで身悶えするよりマシだ!

 姉は自分が可愛い!

 そうこうしている間に『KEEP OUT』のテープがべたべたくっついた金網が見えた。

 ここから先がゴミ処理場、つまりはドンキホーテ海賊団のナワバリである。

 はーやれやれどっこいしょと金網を乗り越えて、さて誰か掴まるかいなと周囲をきょろきょろ。

 

「べっへへへ、また侵入者か?」

「観光にゃ物騒な場所だぞ、とっとと帰れ」

 

 すると警戒網に引っかかったのか、でっかいひとが二人出てきた。

 全体的にべったりした印象の大男と、しっしと手を振る全体的にひょろりと長い、カマキリみたいな男性。

 あ、この二人強い。

 見た感じ、お父さんは無理でも白ひげの隊長の何人かに迫るくらい。その辺のちんぴらとはレベルどころかステージが違うっぽいので、かなり地位は高いのではなかろうか。

 

「あのー、ここはドンキホーテ海賊団のナワバリであってますか?」

「そんなことも知らねーの? 迷子? んねーんねー、迷子?」

 

 にゅうっと首を動かして、すごく顔を覗き込まれた。

 なんだろう、このべったりなひとは煽り役担当とかなのだろうか。……見た目で? え、それは……ええー。

 

「? んねー、なんで気の毒そうなカオ? んーんー?」

「なんか勘違いしてそうだが、ちび。トレーボルの口調は元からだ」

 

 人材に恵まれて……いるんだろうか。この場合。

 ちょっとお姉ちゃんはこの海賊団に一抹の不安を覚えました。これ以上首を突っ込むと逆に心配が募りそう。実力がありそうなぶん、余計に。

 

「えーと……この海賊団の、船長のお名前を教えてもらえませんか?」

「なんだよ、入団希望者か?」

「ドフィのことも知らない入団希望者? それっておかしくねー?」

 

 あっハイ。

 もういいです。

 ドフィかー! やっぱりねー! 似合いすぎて困るー!

 

「入団は希望してません。ちょっと確認したかっただけなので、ありがとうございました!」

 

 ぺこりと頭を下げて、そそくさと踵を返す。

 

 ドフィ、いい仲間に恵まれたのかどうかの判断はつかないけど強く逞しく頑張ってくれ。

 お姉ちゃんは遠くから見守ってます。手配書とかで。なんかバラしてもややこしいことになりそうだし、僕がおらんでも元気いっぱいなのは理解したので草場の陰のままでいようと思います。グランドラインで会える日を楽しみにしていよう。

 その前にドフィの保護者さんもできれば見つけたい。ご挨拶しないと……。

 

 そしてロシーはどこだろう。

 またイチから情報収集しなくちゃなぁ。教訓を生かして所属が分かったら探るくらいで。ロシーにうざがられたら心が折れる。

 ドフィめっちゃ目立つから見つけられたけど、ロシー目立つの好きじゃなかったし、ドフィより難易度高いわー、はー、がんばろ。

 

 でも一回おうち帰るー。お父さんとこ帰るー。

 めちゃんこ疲れた。だるだるしたい。

 

 船に帰る道すがら、おいしい匂いに誘われてらーめん屋さんを発見した。

 麺料理は正義。入店した。

 まだちょっと時間が早いので店内には人がいなかった。席が空いてるから、と四人がけに案内してもらえた。ありがとうございます。おすすめらーめんと、軍曹用に大根餅を注文してお冷やをもらう。

 

「はいお待ち!」

 

 そう待たずに両方とも運ばれてきた。

 大根餅をリュックの隙間から放り込む。美味とのこと。それはよかった。お代わり頼む?

 豚肉と野菜の入ったらーめんは、熱くてちょっぴり辛くて細切りのネギがいい感じだ。美味しい。スープの絡んだ麺を噛みしめると小麦粉の甘み。口いっぱいに詰め込んだ。

 

「よう」

「むぐ」

 

 どすんと椅子が揺れる。

 らーめんを堪能してたら、見知らぬ大柄な男がいきなり向かいに腰掛けた。席、まだ空いてるのに。

 端整な顔立ちにサングラスをかけているので、カタギには見えない。

 二人掛けの椅子なのに、それが窮屈に見えるくらい大きい。たぶんピンクのもっふもっふしたコートのせい。とても邪魔そう。店内に入る前に脱いで欲しい。

 

 しかし、どちら様だろう?

 

 ひょっとしてカツアゲ?

 店内で犯罪行為はちょっと……あれっ店長がいない!? 店員さんも!? らーめんに人生捧げてる頑固一徹って感じの親父がいなくなってる!

 そして、あれれー、おかしいぞー? 店外から気配がするぞー?

 お店側と裏口にひのふのみ、これは逃がさない配置。おっと軍曹ステイステイまだ相手はなにもリアクションしてない、なんかこっち見て含み笑いはしているけれど。

 

「フッフッフ。お嬢さん、ひとりか?」

 

 ……人身売買のブローカーかな?

 

「もぐもぐ。身売りの予定はないのですが」

「ちげぇよ」

 

 ちがったらしい。反省。

 ひとを見た目で判断するのはよくな……いや、退路塞いでるしな、もっとタチの悪いひとと考える方が妥当か?

 麺がのびるのはイヤなのでらーめんは食べ続けます。

 ピンクいお兄さんは特に不機嫌になる様子はなく、むしろどこか楽しそうだ。「それで足りるのか?」とか聞いてくるので大丈夫ですと返した。

 

「ちいせぇのは食が細いせいか?」

「うるせーこちとら気にしてるんだよ」

 

 だいたい、こっちのご飯事情が大盛りすぎるのである。

 海賊は身体が資本なのはわかるけど普通の町でもわりと多い。生前からさほど変わらない食事量では、デザートに辿り着けないのだ。最終的にはお持ち帰りしかない。現場で食べたいというのに。切ない。

 

「フッフ、肝の方は随分と図太いじゃねぇか。変わらねぇなぁ」

「ん?」

 

 おっと聞き捨てならないワードが。

 変わらない? 肝が太いのは否定しないけれども。

 麺と野菜を食べきってからティッシュで口元を拭いながら、まじまじと目の前の相手を見つめてみる。

 サングラスはともかく、ガタイとかピンクモフの外部装置が目立ちすぎてその可能性には行き着かなかったけど、喉を鳴らしてご機嫌なお兄さんは幼少期にテンション上がったくそ生意気な弟に……。

 

 え、マジで?

 

「……ドフィ?」

 

 二分の一の可能性にかけるとピンクモフのお兄さんがにぃ、と唇を吊り上げた。

 ビンゴかよちくしょー。

 

「実の弟に挨拶ひとつねぇとは、薄情な姉もいたもんだ。おれから逃げるつもりだったのか?」

「なんで唐突に逃げるとか言い出してんのかわかんないけど、えええ、ドフィ? ドフラミンゴ? でっかくない? ちょ、脳内情報更新するからまってまって」

「……早くしてくれよ?」

 

 くつくつ笑いながらもお許しが出たので頭を抱える。

 あんなちっちゃかった弟が、こんな劇的ビフォーアフターを遂げているとは。

 やだショックでかいーぜんぜん可愛くないー。弟の爆速すぎる二次成長に驚きを隠せないー。

 うちの家系はそんなに伸びる家系だったっけ? なんで僕にはその遺伝子来てないの? 設計ミス?

 

「えーと、ドフィいくつ?」

「25」

「うおええええ? うっそぉ、めっためたに追い抜かされている……もう姉と名乗れば詐欺師まちがいなし、しんどい」

 

 じゃあロシーは23?

 男盛りですね本当に以下略。もうなにもかもが信じられない。現実が僕をサンドバッグにしてくる。

 ショック過多でらーめんのどんぶりを横にのけて突っ伏すと、上から声が降ってくる。

 

「そう、それだ」

「えー?」

 

 どれですか?

 お姉ちゃん今頭回ってないので、ろくな答えは返せないぞ。更新情報多すぎた。

 

「おれの目から見ても、姉貴はちっとも老けちゃいない。こりゃいったいどういう理屈だ?」

「ああ、それ。理屈というかあれですよ、悪魔の実。十年くらい凍ってて、最近解凍された」

 

 自分で言っててなんだけどこの説明、冷凍食品のレンチンみたいでなんかもにゃってなる。

 信じられない現象でも、無理やりに実現させてしまうのが悪魔の実だ。詳細説明なんかしなくても大体それで片付く。

 あくまのみって、すげー!

 

「命冥加に生き延びたけど、そんな時間経ってるとかわかんないし。この前知って超びっくりした。んで、弟ズの安否確認をしたくてここまできたワケです」

「フッフッフ、なら、なんだっておれの所に顔も出さずに島を出ようとしやがった」

 

 的確に突いてくるところまじドフィ。

 

「理由言って引かない?」

「聞かなきゃわかんねぇなぁ」

 

 せやな、ってなったのでしぶしぶ答えた。

 

「うざがられるのが恐かったからです」

「あァ?」

 

 ドフィの眉間に皺が寄るけど、聞いたのはそっちなのでここまできたら全部ゲロるぞ。

 

「だっていわば保護者の職場訪問だよ? 気まずくない? うざくない? げっ、あのババアなんで来やがったとか思わない?」

「思わねぇし、うざくねぇよ」

 

 何言ってんだこいつ馬鹿か、みたいな弟の目線がサングラス越しに突き刺さる。

 ドフィはうざくないのか。それはすげぇな。僕なら気まずさで内心悶死する。

 

「ドフィ案外に心広い」

「そんなくだらねぇ理由でシカトこいて逃げようとしたのかよ」

「くだらなくないですー、お姉ちゃん的には大問題だったんですー。まぁ、弟のうわこの姉めっちゃうざいという目線に耐えられる自信がなかったので、そこは逃げようとしましたごめん」

 

 素直にそこは謝罪しておこう。ごめんな、自己中心的な姉で。

 居住まいを正してぺこんと頭を下げると、ドフィは肩を揺すって笑い出した。

 ちょっと見ない間(推定十余年)にうちの弟が笑い上戸になっていた件。

 

「おれはミオをうぜぇと思うことはねぇし、言うやつがいたらおれが消してやる」

「やだ物騒」

「おれは海賊だぜ?」

 

 悪辣に過ぎるその顔、とっても上にヤの付く自由業っぽいです。

 そうだった。物騒の代名詞のボスだった。

 

「それにもうコラソンがいるんだ。今更じゃねぇか?」

「こら……だれ?」

 

 そんなコラ画像みたいなお名前に心当たりがないのですが。

 えっ、うちの父親どっかで隠し子こさえたりしてたの? それはできれば知りたくなかった。秘密のままにして欲しかった。

 

「ああ、そうか……ロシナンテだ。今はそう名乗ってる」

 

 まさかのダブル当選!

 よかったあのままスルーしないで! 的外れを延々探し回る羽目になってたわ!

 そしてよかった、父の不義の子追加説は消えた。

 

 ……それは、それとして。

 

「ドフィはまんま名乗ってるのに、ロシーは偽名? なにそれいじめ?」

 

 年上権限で弟に無体を強いているというなら、お姉ちゃんは心を鬼にしてドフィが泣くまで殴る所存。

 

「二代目コラソンが今のロシナンテだ。そう理解しろ」

 

 こぶしを握って決意を固める僕へ、ドフィが説明になってない説明を投げてきた。久しぶりに再会した弟が無茶ぶりしてくる。

 

 二代目ってことは初代がいるのだろうけど、ドフィが立ち上げたとすれば十年未満じゃろ?

 名前を引き継ぐという、もはや海賊じゃなくてマフィア式になってることは突っ込まないけど、世代交代してるのはちょっと疑問。あとでロシーに聞けたら聞いてみたい。

 

「ロシーが海賊って意外だなぁ。もしかして、お兄ちゃん権限とかっつって強引に勧誘したんじゃあるまいな」

 

 年上権限で弟に以下略。

 

「してねぇからその疑惑の目をやめろ。それとコラソ、ロシーは口がきけねぇ。あいつを見つけた時からそうだった」

 

 あのあと──僕がチェレスタに凍結されて、見ることもできなかった時間。

 ドフィとロシーには何があったのだろうか。いいことも悪いこともあったのだろう。

 でも、ドフィもロシーもここにいる。

 大きくなって、生きている。

 こうして再会して、会話できているのは何物にも代え難い奇跡だと思う。

 

 十年。

 たった二文字なのに、途方もない時間だ。

 

 人は変わる。自分はそれを支えることも、守ることもできなかった。

 

「……そう」

 

 あそこでくたばってたら悩むこともなかったんだろうけど、そう考えると幸せな悩みなのかもしれない。ちょっとへこむけど。

 ドフィは面影がちょっぴりしかないくらい大きくなって、海賊団を立ち上げて、そこには信頼できる仲間も弟もいる。

 あのべたっとしたトレーなんとかさんが「ドフィ」って呼んでるくらいだ。

 そう呼ばれることを、パーソナルスペースの広いドフィが許容しているのだから、浅い付き合いではあるまい。

 

 彼は彼の世界をちゃんと作っている。

 立派だ。いいことだ。

 

「ねぇ、ドフィ」

 

 でも、そうだな、できればだけど。

 

「僕はドフィのお姉ちゃんでいて、いいかな?」

 

 もうなにもかも全部、追い抜かれてしまっただめだめな姉だけど。

 その世界のほんの隅っこに、僕を置いといてもらえると、とても嬉しい。

 

「当然だろう?」

 

 即答するドフィの目はサングラス越しでもわかるくらい真剣だった。

 

 うん、それが聞ければお姉ちゃんは満足です。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ろくのに.よかったり悪かったりする再会

 

 

 

 小さな『姉』はほっとしたように息を吐いて、とても嬉しそうにふわりと微笑った。

 

「そっか、うん、そっかそっか。ありがと、ドフィ」

「フッフ、どういたしまして」

 

 そうだ、ずっとその顔が見たかった。

 

 雪みたいな髪をした、妙な子供がアジト近くをうろうろしていたという報告を聞いた瞬間、ドフラミンゴは椅子を蹴立てていた。

 トレーボルがドフラミンゴの名前を出した途端、ディアマンテの問いに入団希望はしていないと告げ、頭を下げて立ち去ったという。

 

「おい、そのガキの目の色は?」

「え? ああ……そうだな、ピンクが近いか?」

「べっへへへ、キャンディみたいだったなー」

「そうか。今すぐ探し出せ」

 

 ドフラミンゴの常にない厳命に、束の間動きを止めた二人だったがそこは幹部。すぐに部下たちを手配してきびきびと動き出す。

 姉だと半ば本能的に直感していた。報告を待つ間も惜しかった。

 

 真っ先に海岸線を封鎖して四方に部下を散らし、逃走を防ごうとしていたら近所の店にそれらしい姿を見つけたという急報。

 現場に駆けつけ、店主と店員を追い出して店の外に幹部を配置。

 念のため連れて来た二人に確認すると間違いなく本人だと言ったので、ドフラミンゴはひとりで店に入った。

 

 生存は絶望的でせめて遺骸を見つけようと血眼になって探していた姉が、五体満足でらーめん食ってやがる。

 

 夢中で麺を啜ってる姉に、身体のよくわからない部分から力が抜けるのを感じる。

 無残な死体を見つけたいとは思っていなかったが、浪漫もくそもない再会だった。

 

 ほんの少しばかり成長したようにも見えるが、記憶に残る姉の最後の姿は血と泥で汚れたあの時のままだ。自信が持てない。

 

 何も言わずに向かい側の席にどかんと腰を落とすと、びっくりしたように顔を上げた。

 

 さらりとして指通りのよさそうな初雪めいた髪に、ごく繊細に配置された目鼻立ち。際立って美しい瞳は飴玉のように愛らしいチェリーピンク。

 ただし口はもぐもぐ動いていたし、食事を止める気はさらさらないらしかった。

 無難なところから一人かどうか尋ねところ、ナンパを通り越して真っ先に人買いと疑われた。

 危機管理的には合格点だが、甚だ遺憾である。

 

 空になった皿がひとつとらーめんしかないので、それで足りるのかと聞いたら悪態を吐かれた。

 小さいのを気にしているらしい。このふてぶてしさ、間違いない。

 

「ドフィ?」

 

 ろくでもない確信だったが、名前を呼ばれて内心浮かれた。

 

 姉は小さかったはずのドフラミンゴが予想外に大きくなっていて混乱していたが、それはこちらも同じである。

 怪我と服装を除けば記憶とそう差異がないことを問えば、どうやらあの襲撃の日から十数年ほど凍結されていたとのこと。

 悪魔の実は時に人知を超える。

 姉の説明は雑にもほどがあったが、本人にも未だによく分かっていない部分が多そうではあった。今はそれでいい。

 

 顔も出さずに逃げるようなマネをしようとした事には純粋に腹が立ったのでなじったら、しぬほどくだらない理由で謝られた。

 相変わらず、奇天烈な論理で動く姉である。そこじゃねぇよ。

 ともあれ、再会が叶ったのだから逃がすつもりは毛頭ない。あんな思いはもうまっぴらだ。

 

「さて、行くか」

 

 食事も終えているので問題はないだろう。ガタンとドフラミンゴは立ち上がり、ミオに手を差し出した。

 

「お会計まだなんだけど」

「済ませてある」

「それはまた……ご馳走様です」

 

 なぜか上司に奢られた新人の風情で頭を下げるミオである。

 そのまま傍らに置いてあったリュックサックを背負って、特に何か考える様子もなくドフラミンゴの差し出した手に自分のそれを乗せた。

 ぎゅっと掴む。あちこちに胼胝(たこ)があって硬い、けれど小さい手だった。

 

 あの頃、こんなにも細い指で姉は家族を守っていたのだと思うと、過去の自分に腹が立って仕方がなかった。

 

 けれど、今日からは違う。

 

 ドフラミンゴは大きくなって力を手に入れた。もう、このちまっこい姉が肩肘を張る必要はない。

 時間に置き去りにされて、自分が十近く年上になっているのも素晴らしい。好都合だ。

 

 姉は報われるべきで、それは自分が与えればいいと疑いなく思う。

 

「ロシナンテにも挨拶してやるんだろう?」

「? それはもちろん」

 

 やんわり手を引くと頃合いを見計らったのか、すいっとドアが開く。うちの部下どもは優秀だ。

 外に出ると、控えさせていたトレーボルとディアマンテが既に待機していた。

 

「フッフッフ、聞いていたとは思うがおれの『姉』だ」

 

 二人が同時に頷いた。身長の多寡や年齢は関係ない。ドフラミンゴが言えばそれが正解なのである。

 

「あ、先ほどはどうも」

「んねーんねー、ドフィの身内だったの? ならそう言ってくれるー?」

「ええと、その節はすみませんでした。あといつもドフィがお世話になっているようで、ありがとうございます」

 

 ミオが二人にぺこりと頭を下げるとトレーボルが「うわーやめてー! 鼻でるわー!」とぶんぶん手を振った。本当に鼻水を出していたので「鼻炎……?」とかつぶやいている。

 ティッシュを出そうとするミオを制し、ドフラミンゴは眉間に皺を寄せる。

 

「おい、うちの幹部連中にいちいちやるつもりか?」

「やるつもりです」

 

 即答である。

 だって絶対迷惑かけ通してるだろう、と言外に告げる顔だった。

 

「やめろ」

 

 ボスの威厳とか沽券を切々と説き、ディアマンテが「そういうのいらねぇから」と言うとしぶしぶ諦めたような顔をした。

 しかしドフラミンゴには分かる。これはあとでこっそり言えばいいか、とか考えている顔だ。しばらくは監視していた方がいいかもしれない。ドフラミンゴの心の安寧のために。

 

 ああ、けれど、心が躍る。

 

 この煩わしささえも愛おしい。

 

 手を繋いだまま歩いていると、ミオはしっかりと絡ませた手をじーっと見て、それからドフラミンゴを見上げてぽつりとつぶやいた。

 

「ドフィ、でっかいなぁ。いいなぁ」

 

 十年の間に成長期を越えたドフラミンゴは体格もさることながら身長も高い。

 並んで歩くと大人と子供だ。どういう遺伝子の悪戯なのか、ミオの身長はさほど伸びていないようだった。

 それとも、これからなのだろうか。見たところまだ十代半ば、二十歳はいっていない。

 

「これからに期待か?」

「いや、どうだろ……どうかな? だったらいいんだけど」

 

 ドフラミンゴの成長ぶりに期待を抱いたのか、少しばかりわくわくしているようだ。これにはドフラミンゴの頬も自然に緩む。

 

「フッフ、そんなに大きくなりてェのか?」

「そりゃあ、そうだよ。このままずーっと弟たちを見上げ続ける生活じゃ、首痛くなっちゃう」

 

 すでにじゃっかん痛いのか、空いた方の手で首の後ろ辺りをさすっている。

 

「なら、抱えてやったっていいんだぜ?」

 

 迎え入れるように片腕を広げると、ミオはぱぁっと顔を輝かせた。

 

「ならおんぶして! おんぶ! 3mの視界ちょう見たい!」

 

 ミオがジャンプするたびに、繋ぎっぱなしの手がびよんびよんと跳ね踊る。

 あれ、姉はこんなんだっただろうか……実家でふざけてる時はこんなもんだった。

 プリンセスホールドを決めて華麗にアジトへ凱旋する、というドフラミンゴの構想は粉々に粉砕された。

 

「……」

 

 言い淀むドフラミンゴを、自然と上目遣いで期待するチェリーピンクの瞳には、きらきらとした星屑がたっぷり詰まっているようだった。

 

「…………アジト近くまで、だな」

「やったああ! ありがとドフィ! らぶ!」

「やっすいラブだなァ、おい」

 

 何か言いたげな幹部と部下をひとごろしの視線で黙らせ、ひょいとミオをおんぶしたドフラミンゴはコレジャナイ感を存分に味わった。

 

 そして当の本人はといえば。

 

「おお、もふもふ! もっふもふ! めっちゃ身体埋まる! 視界、高っ! でも安定感すごい! あははは!」

 

 ハイテンションが留まることを知らず、天井知らずに上がっていった。ついでに、おんぶのはずが肩車になっていたのはどういうことだろうか。

 

「すっごい、すごいよドフィ! ありがとう!」

 

 ドフラミンゴの後頭部にしがみついているミオは弾けるような笑顔で、昂奮で頬には朱の差し色。

 

 全身で喜びを表しているミオに笑みが漏れる。

 そういえば、自分は『弟』なのだったと今更理解する。

 姉の無茶な理不尽による被害を被るのは、弟の背負った宿命だし、この姉の理不尽なんて可愛いものだ。

 

 

──この世でいちばん愛しい姉を捕まえた。

 

 

 ここにはドフラミンゴがいて、ロシナンテがいて、新しい家族がいる。

 もう寂しい思いはさせないし、苦労なんて以ての外だ。欲しいものはすべて与えてやる。

 邪魔をするものはすべて押し潰して粉砕しよう。

 

 今なら分かる。心の底から理解ができた。

 

 

 この世界もそう──悪くはない。

 

 

「ところで、ドフィのコートすっごいね。ピンクでもふもふしててフラミンゴみたい」

「フッフ、似合うだろ?」

「着こなしてるのがすごいと思う。ファッションセンスの塊」

 

 真顔で頷いているが、それは果たして褒めているのだろうか。

 ミオの分のコートも誂えようとドフラミンゴは思った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

なな.【凶報】可愛かった方の弟が斜め上にグレてた

「フッフッフ、ようやくお前たちに紹介できるな……ドンキホーテ・ミオ。おれの実の『姉』だ」

 

 招集された幹部(らしい)ひとたちの前で、ドフィがそう言って僕の肩に手を置いた。

 

「ミオはおれたちの大切な実の姉。コラソン同様、傷一つでもつけた奴にはおれが死を与える!」

「与えんなよ! こっちが罪悪感で死ぬわ!」

 

 ずらりと並ぶキャラの濃いひとたちを前に、そうのたまったドフィに腹パンを喰らわせた。左ショートフックで一撃。

 突然のことで対応できなかったのか、もろに喰らったドフィは「ぐっ」とか言って腹を押さえてうつむいた。

 

「若様!」

「貴様ァ! 若様に何をする!」

「ち、『血の掟』を破っただすやん!?」

 

 途端に色めき立つ幹部らしきひとたち。

 ここのトップに拳入れたら当然の反応だが、姉として弟があほな事を言い出したら拳で言い聞か……え、あの青年、頭が膨らんでるんですけど?

 反射的に構えそうになると「よせ」とドフィが静かに告げる。船長ではなく『若様』呼びもマフィアっぽいよね。

 傷ひとつとか死を与えるとか、もろにマフィア思考で困る。海賊じゃないの?

 

「フ、フフ……的確に肝臓狙うんじゃねぇよ」

「理不尽なこと言うからだばーか。傷のひとつふたつでぐだぐだ言わないし、なんなら自分でやり返すからそういうのいりません」

「あァ、そうだな。自分で始末しねぇとスッキリしねぇか」

「ちっっげーよ!」

 

 マフィアどころかヤクザじゃねーか!! なんでそうなる!

 ぎゃいぎゃい抗議したものの、ちゃんと伝わったかどうかはすこぶる疑問。耳に指つっこんで「あー、わかったわかった」とか言いやがったからな。

 パンチ入れても反撃をくれることもなく、なおざりだけど説教を聞く姿勢になるドフィを見て、彼の仲間たちも一応は血縁だと納得してくれた模様。

 あの膨らんでいたひとも元に戻ったので一安心。

 

 改めてどうもどうもこんにちは、ドフィたちが常日頃お世話になっておりますと挨拶回りしつつ自己紹介。

 ドフィが案の定、苦虫を噛み潰したような顔をしていたが気にしない。挨拶大事。

 最初に会ったのがトレーボルさんとディアマンテさん。

 それからお爺さんから子供まで、性別から年齢層まで幅の広いこと広いこと。そう、こど……え、ちょっときみたちいくつ? あの赤ん坊も? へ、へぇ、若いね……いや、その年齢で海賊って色々察するけど、そうかぁ……。

 ちょっとしんみりしたけど気を取り直す。

 

「あれ、ロ……コラソンは?」

 

 危ない危ない。名前の変更なんて急に言われてもまだ慣れない。

 

「じき戻る。楽しみにしていろ」

 

 なんでも所用で少し出ているそうだ。

 この海賊団はそれぞれトランプのスートになぞらえた幹部がおり、各々役目が違うというのは情報集めの時に知っていた。今まで紹介された中にハートがいないということは、元ロシー現コラソンがハートの幹部なのだろう。

 

「若様のお姉様? 若様よりずぅっとお若く見えるわ?」

「だすやん?」

 

 こわごわと近寄ってきた黒髪の可愛い女の子と、体格がよくて触覚みたいに髪が伸びた男の子が揃ってきょとんと首を傾げる。ベビー5ちゃんとバッファローくんというそうな。

 膝に手を当てたまま折り曲げて目線を合わせ、怖がらせないようにとにっこり笑う。

 

「うん、色々あって十年くらい凍結……えーと、固まってたの。だから今はドフィの方が年上になっちゃったんだ」

「そうなんだすやん!」

「まぁ、童話のお姫様みたい! すてき!」

 

 すてき……どうだろう?

 延命措置としての苦渋の選択、という意味合いが強いので眠りの森のなんとか、みたいな浪漫は残念なことに存在しなかった。だいたいお姫様ってガラじゃないし。

 だがそれはこちらの話。子供さんの夢を壊すべきではない。

 

 

「すてきかどうかはちょっと難しいけど、ドフィとまた会えたから……うん、よかったなって思うよ」

 

 しみじみとつぶやいて、ベビー5ちゃんの頭をふわふわ撫でたらふにゃりと笑ってくれた。よしよし。

 

「フッフ」

 

 はいそこー、含み笑いしない。名前確認だけして帰ろうとしたのは悪かったよ。

 比較的可愛い子供さん組や、ジョーラさんという女性とお喋りしていると、唐突にドアがばたんと開き──でっかい大人の尻がスライディング入室してきた。

 

「のわ!?」

「きゃはは!コラさんがこけたー!」

「やっぱりだすやーん!」

 

 どうやら足がもつれて転んだようだが、それをやんやと囃すちびっこたち。

 その反応を見るに、どうもこの青年常日頃こういったことを引き起こしているということで……。

 身体を起こして立ち上がると、青年は随分と背が高い。ドフィとタメを張れるくらいの上背に黒いもっふりしたコートを羽織り、顔には道化師を思わせるペイントを施していた。

 

 ……うわー、イヤだなー! 現実から目を背けたいなー!

 

「フフ、フッフッフ……! しまらねぇ再会だな、コラソン」

 

 はい確定です。

 コラソンと呼ばれた男が、爆笑するドフィの指の先──つまりは僕を見て硬直する。

 ピエロな男がこちらを見て、ドフィを見て、あたふたしながら懐から小さな紙を出して何かを綴って差し出してくる。『ミオ?』と書いてあったので頷く。

 

「うん、えと、久しぶり」

 

 こくこくと必死で頷く様子は幼い頃を彷彿とさせるが、まさか可愛い方の弟がビジュアル系に成長しているとは夢にも、思わず……。

 抱き締めようと伸ばされた腕を避けても仕方がないと思って欲しい。

 もう全身で「なぜ!?」って感じでショックを受けているコラソンに僕はごめんと首を振る。

 

「ドフィもそうだけど、弟たちの進化の方向に驚きが隠せない……! 慣れるまでちょっと待って」

 

 頭を抱える僕と、オロオロし通しのコラソン。ドフィ、知ってて黙ってたな。

 

「どうだ、ミオ。おれの新しい家族たちだ」

 

 誇らしげに胸を張るドフィに自然、こっちも嬉しくなる。

 

「うん、いい家族だね」

 

 下っ端までは分からないけれど、幹部のひとはみんなドフィを慕っている。心酔しているといっても過言ではないくらいの好かれっぷりなので、別の心配はあるけどおおむね安心できる。

 素直にそういうと、ドフィは笑みを深めて自慢げに腕を広げた。

 

「だろう? お前も今日からファミリーの一員だ、気兼ねなく──」

 

 おいおい、さらっと何を言い出してるんだこやつは。

 

「え? 入らないよ?」

「……あ?」

 

 物凄い勢いでドフィの機嫌が降下した。

 グッピーならしんでる。

 殺気すら漂う様子に周囲のひとたちが一斉に口を噤み、コラソンがぎょっとする。この人数の中、痛いほどの沈黙があたりを包み込んだ。

 いやいやしかし、こちらにも言い分があるわけでして。

 僕は確かにドフィたちの姉だけど、それとこれとは別問題。いきなりファミリーとか言われても困ります。

 

「何故だ?」

「なぜって、ドンキホーテ海賊団って海賊じゃないですかー」

「そうだな」

 

 それがどうした、と言わんばかりのドフィである。え、そこからかよ。

 

「僕は二人の安否を確かめたくてここまで来たけど、海賊にはなれないよ。賞金稼ぎデビューしたばっかりだし」

 

 もし海賊になるとしても、お父さんところがいいかなとも思う。……これ、口に出すとなんかヤバそうだから言わないけど。

 

「転向しろ」

 

 お姉ちゃんの職業を弟に斡旋される悲しみ。

 相変わらずの傍若無人ぶりに少しげんなりする。そういうところは変わってないらしい。

 お断りなのでべぇ、と舌を出す。

 

「やだよ。職業選択の自由を主張します。べつに、ドンキホーテ海賊団をターゲットにするつもりはないから安心して」

「そうまでして、おれから逃げるつもりなのか?」

「なんでそうなる」

 

 最初に会ったときからドフィは僕が逃げることを懸念していた。そこがどうにも理解できない。

 あるいは、十余年の歳月で隔たったものが最も露出しているのが、その点なのかもしれない。

 

 家族は逃げるとか、そういう次元のものではないだろうに。

 とても不思議で、首を傾げた。

 

 なぜだろう。ドフィはおおきくなったのに、ちっともそう見えなかった。

 

「僕はどこにいても、何をしててもドフィたちの家族だし、それは変わらないよ」

 

 逆を言えば、それはドフィもロシーも同じこと。

 血は水より濃いとはよく言ったもので、切っても切れないのが肉親というものだ。

 ドフィが信頼するに値する家族を自力で手に入れたことはすごいと思うし祝福するけど、無理やり手元に置こうとか立場で縛られるのはお断りだ。

 

「大事な家族に会いたいから、顔が見たいなって思ったから会いに来た。遊びにきただけなんだからさ、その、就職の斡旋とか勧誘とか変じゃない?」

 

 言いたかないが、アレだぞ?

 久々に再会した姉が、職業不安定だから弟がおれの大企業(ただし法的にはアウト)にコネ入社しろって言い出してるようなもんだぞ?

 

 いつかは、どこかに所属する日がくるかもしれない。

 でも、それは今じゃない。海賊は自由なんだってお父さんが教えてくれた。ドフィが僕から自由を簒奪しようとするなら、仕方がないから戦おう。

 

 望外の幸運で手に入れた人生だ。

 僕には僕の、そしてドフィとコラソンにもそれぞれの人生があって道がある。それを邪魔すべきではないし、してはいけないと思っている。

 甘えるのもいいだろう、頼られるのも歓迎する。

 けれど依存して寄りかかられたり、所有されるとなれば話はべつだ。

 

 いつまでも一緒にはいられない。

 

 だって二人は──大人になってしまったのだから。

 

 ドフィの額に青筋が浮かぶ。

 びりりと空気が震え、凄まじい圧迫感が襲いかかってくる。まるでここだけが深海の底だ。計り知れない圧力がこちらを気圧してくる。

 悪寒で首筋がざわつき、ぶつぶつと肌が粟立った。知っている、これは。

 

「ドフィ」

 

 低く、鋭く、声を上げるとドフィの指先が不自然にぎしりと動いた。腰に佩いた柄に指先を這わせ、強くドフィを睨め付ける。

 

 

「今やろうとしていることを、本当にやるなら──()()()()()()()()()

 

 

 なんでかな、言葉は通じてるのに通じていない感じがして、すごく悲しくなる。

 

 ドフィが何をしようとしているのかは分からないが、おそらくは悪魔の実。その異能を発揮するというのなら、こちらも全力で相手をする。

 僕はドフィの部下ではないから、意に沿わないことは真っ向から反対するし、場合によっては叱り飛ばして喧嘩する。

 尻だって叩くぞ? 大人のお尻ぺんぺんはそういうプレイでもない限り羞恥の極みだぞ?

 

 呼吸すら難しいような、威圧と暴威の気配が室内にひたひたと満ちている。

 

 けれど。

 

「……昔から、そうだった。ああ、思い出した」

 

 ふ、と威圧感が消えた。

 

「思い通りになった試しなんか、一度もねェんだ」

 

 こちらへ伸ばそうとしていた腕で自分の頭をガシガシとかいて、肩を大げさに竦めて両手を上げた。降参、という感じだ。

 

「オーケイ。わかった、ようはミオの滞在中にここに住みてぇって思わせりゃ、おれの勝ちってことだ」

「そうそう、そーゆーこと。ひさしを貸してくれるってんなら、その分はちゃんと働くよ。外注とかそういう扱いでよろしく」

 

 フッフッフ、とドフィが笑う。

 

「おれたちはしつこいし手強いぜ? なんせ、こっちにはコラソンと家族(ファミリー)がついてるんだ」

「そいつは恐いね。お手柔らかにお願いしまーす」

 

 こっちも、ありもしないスカートみたいにコートの裾を引っぱって、優雅にカーテシーなんぞを披露してみせる。

 緊張が一気に弛緩して、コラソンがほっと息を吐いた。

 そうだね、こういうケンカ見るの苦手だったもんね、ごめん。

 

 そこへ──

 

「おいコラソン!さっきはよくも──」

 

 開きっぱなしだったドアから、小さな影が飛び込んでくる。

 なにがあったのか、せっかく洗濯した服は薄汚れてあちこちに傷をこさえた、先日の密航者の少年だった。

 情報収集のためにかけた時間は一週間。

 その間に少年を見ることはなかったから、てっきりもうこの町を離れたと思っていたのだが、思わぬ再会である。

 

「少年?」

「あっ、おま、なんで、ぶへッ!?」

 

 呼びかけに少年が驚くのと、コラソンが足を踏み出して長い腕で少年をぶっ飛ばしたのはほぼ同時。

 矮躯が軽々と吹っ飛び、壁に叩きつけられて転がる。

 

「うわあああ!? 唐突になにしてんだコラァ!」

 

 仰天して、全身で思いきりコラソンにドロップキックをかました。

 

「!?」

 

 まさかこっちから攻撃がくるとは思わなかったのか、コラソンのどてっぱらに渾身の蹴りが突き刺さり、その場でずでんとぶっ倒れる。なんてこった! 可愛かった弟がヤバい方向にねじ曲がっとる!

 周りの目も構わず、僕は激情のままに馬乗りになり、さっきの気分を引き摺ってることもあって、そのままお説教タイムへと突撃した。

 

「うっ、くそう、ドフィも大概だと思ったけどコラソンお前もかー! 年端もいかないガキんちょに手ぇ出すDV野郎に育つなんて!」

 

 十年で人は変わるだろうが、それにしたってこれはない。

 怒りと悲しみを込めてコラソンの胸ぐらを掴み上げ、顔面をびったんびったん平手打ち。

 

「もー、最低! 海賊じゃなくても普通に駄目だ! ファッションと化粧には言及しないけど暴力行為は咎めるし怒るし容赦もしない! 君が反省するまで! 殴るのを! やめない! オラ少年にごめんなさい、しろ!」

 

 腹パン! 腹パン!

 

「!? 、!」

 

 待って欲しいというニュアンスは伝わるが、待たない。全面的にコラソンが悪い。

 ぶつけた箇所を押さえながら少年が目を丸くしている。ちょっと待っててね、すぐ謝らせる。

 半泣きでアカン方向の非行に走ってしまったコラソンをボコ殴りにしていると、見かねたドフィが僕の腕を掴んできた。

 

「おいその辺にしておけ。コラソンはこれでもうちの幹部、」

 

 言うに事欠いて、組織の上下関係を引っ張り出されてぶち切れた。

 

「そんなもん関係あるかぁあ! ドフィもドフィだ! 幹部っつーなら、最高権力者兼兄貴があほやらかした弟叱らなくてどうすんの!?」

 

 矛先がこっちに向いたことを敏感に察したドフィは黙り込んで露骨に目を逸らした。

 あ、その態度。

 

「ちょ、おま、さては、ドフィ、今まで知ってて黙認──」

「あーわかったわかった、やるなら余所でやってくれ」

 

 言われてみれば、これ以上身内のごたごたを他人様にさらすのはよろしくない。

 少しだけクールダウンできたので、コラソンからどいて居住まいを正して頭を下げる。

 

「お騒がせしました! すみません!」

 

 唖然としている幹部さんたちから背を向けてドアに向かう。

 コラソンのコートは掴んだまま離さず、そのまま引き摺るようにして退室した。

 

 

 

 




副題:ロシナンテはタイミングが悪い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

はち.ロシナンテの裏事情

 

 

 

「あれがドフィの姉か」

 

 嵐が過ぎ去ったあとのような室内。

 見た目にそぐわぬ甲高い声で、ピーカがつぶやいた。ドフラミンゴの刺すような怒気をいなして平然とする姿は、全く年相応ではなかった。

 既に決定事項のようなものだったファミリー入りをあっさりと蹴り、遊びにきただけとぬけぬけとのたまう肝の太さはなるほど、彼の姉だと思わせるものがある。

 

「ああ、最高だろ?」

 

 ミオを連れて戻ってからこっち、ドフラミンゴは上機嫌だ。

 幼い頃、自分と弟を生かすために自分を囮にしたという姉。

 古参の幹部はその存在を聞き及んでいたし、つい先日まで死亡したとばかり思っていたので情報収集の傍ら、遺体を回収すべく動いていた。

 それが生きて姿を現したのだから少なからず混乱はあったが、現在はドフラミンゴがあれだけ求めていた存在が生存していたことを素直に喜ぼう、という空気だ。

 

「若様のお姉様はとっても強いのね! びっくりしたわ!」

「ニーン、コラさんボコボコだっただすやん!」

 

 ローに手を上げるのを見るや否や、鮮やかなまでのドロップキック。

 そこから平手打ちに腹パンまでのコンボは流れるようで、普段からひっぱたかれている子供たちは溜飲が下がる思いだった。

 

「若、よかったのか?」

 

 セニョール・ピンクが問いかける。

 あの僅かに垣間見えた所作から、ミオがそれなりの戦闘能力を有していることは誰にでも分かった。賞金稼ぎは伊達ではないということだろう。だが、ドフラミンゴの実力ならば、ファミリー入りを強行することも不可能ではなかったはずだ。

 

「構わないさ。言質は取ったからな」

「住み心地のよさだったらお任せザマス!」

「ドンキホーテ海賊団より良い場所などあるわけなかろう」

 

 ジョーラが胸を張り、グラディウスが腕を組んで頷く。

 ドフラミンゴに拳を叩き込んだ時は沸騰して思わず能力を発動させそうになったが、ドフラミンゴがミオを求めているならば最善を尽くす。それが当然なのだ。

 

「んねー、ドフィ。乗ってきた船はどうするー?」

「先に潰しとくんだイーン?」

 

 トレーボルとマッハバイスの提案に「よせよせ」とドフラミンゴは軽く手を振った。

 

「それをやると、どんな手を使っても逃げる。そういうヤツだ。こっちで保管しておけばそれでいい。……今はな」

 

 もし、それを実行に移すとすればドフラミンゴとミオの間に、決定的な溝ができた時だ。

 能力の発動をミオは察していた。

 十余年を悪魔の実によって凍結されていたとしても、まだ数年の空白がある。これまでミオがどこで何をしていたのかをドフラミンゴは知らない。

 問い質して聞き出せるかは、五分五分とみている。勝算が低い内は手を出さない。敵対こそ避けられたが、それはドフラミンゴがミオの『身内』だからだ。

 

 自分の成長は喜ばしいものではあったが、ある意味ネックとなっていることにドフラミンゴは気が付いた。

 ドフラミンゴは既に自他共に認める『大人』で、自らの海賊団を率いている。

 

 つまりは『独り立ち』しているのだ。

 

 そうなると、ミオにとって既に兄弟は庇護対象ではない。

 姉は当時、ドフラミンゴたちが大人になるまで守ると言っていたが、その論法でいくと既に約束は履行されている。

 ファミリーに入らないならば、賞金稼ぎという職業上、どこに出て行ってもおかしくない。手配書が回る類でもないから、もし逃げられると足取りを追うのも困難だ。

 そもそも、足枷ともいえる幼い弟と父母を抱えたまま逃亡生活を半ばまで成功させていたのは誰であろうミオである。雲隠れされると厄介だ。

 

 滞在期間を決めてはいないが猶予をもぎ取ったのだから、有効利用するしかない。

 

「ねぇ若様! 若様のお姉様は、私たちが頑張ったらずっとここにいてくれる?」

「フッフ。そうだな、上手に捕まえような」

 

 ベビー5の無邪気な声にドフラミンゴはにんまりと笑う。

 子供が嫌いでないのなら、懐かれて悪い気はしないだろう。離れたら子供が泣くぞというのはいい材料になりそうだ。

 そうして少しずつ見えぬ鎖をかけていけば、あの優しい姉は滞在期間を延ばさざるを得ないだろう。そうでなくとも、ちょくちょく立ち寄る理由付けとしてはじゅうぶんだ。

 

「フッフ、フッフッフ……!」

 

 イトイトの実の能力者は、己の能力同様見えぬ糸で姉を縛ろうと画策を始めた。

 

「……」

 

 暗い瞳でローは何を言うでもなく、ミオたちの去ったドアを見ていた。

 ローがひっぱたかれた瞬間、コラソンにネズミ花火みたいな勢いで蹴りをかましたのは……確かに一週間前、密航した自分を叩き出しもせずに風呂に入れてメシを食わせた変なやつだった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 最初は僕が引っぱっていたのだけど、どこで説教すればいいのだろうか。

 

 迷っていると、途中からコラソンが僕を引っぱって、まだ知らないドンキホーテ海賊団のアジトの裏側に連れて行かれた。

 ゴミ山というよりはガラクタの山があちこちに見える。

 錆臭い金網やぼろぼろになった塀の内側。おそらくは子供が遊ぶために誂えられた遊具なのだが、すでに塗料は剥げて埃がうっすら積もっていてなんともうら寂しい。

 

『すわれ』

 

 ぺらりと紙を見せられ、大人しく遊具のひとつに腰掛ける。それを確認すると、コラソンが指をぱちんと鳴らした。

 

「"サイレント"」

「え?」

 

 今喋りませんでした? と、疑問を口にする前に──コラソンを中心として同心円状に『何か』が広がった。

 これはおそらく悪魔の実の能力だ。コラソンも能力者だったのだ。

 咄嗟に効果範囲から出ようと腰を浮かしかけると、

 

 

「大丈夫だ、姉様を害するようなものじゃない」

「あ、うん?」

 

 しっかりと口を開いて、声変わりしてしまった低いそれが耳朶を打つ。

 

「おれはナギナギの実を食った無音人間。今、ここらに"防音壁"を張った。これなら外におれたちの声は聞こえない」

 

 コラソンも悪魔の実を食べていたのか。しかもなかなか便利そうな能力である。

 

 しかし、なんだやっぱり喋れるんじゃないか。

 安心しかけたところで声が脳裏をよぎる、わりと前に白ひげで接敵した可哀想な海軍。

 そういえば馬乗りになった時の体格は、ほぼ同じだった。

 もしかして、あのもしゃ髪の中佐って……?

 

「……転職したの?」

 

 おそるおそる問いかける。

 海軍から海賊へ身を窶すことになった話には事欠かない。コラソンもそうなのだろうか。

 

「やっぱり覚えていたか。いや、していない」

 

 してないのかやっべぇな。

 家庭内不和、じゃ済まないよこの場合。完全に潜入捜査やんけ。

 ああ、だからこんなメイクしているのか。なるべく奇抜な格好をしている方が印象がそちらに移りやすい。

 

「兄上には言わないで欲しい」

「言わないよ」

 

 転職せずに海軍所属のままだというのなら、喋れないという『設定』はなかなか都合がいい。

 なんにつけコラソンはドジだから、口を滑らせないようにするなら、いっそ喋れないという方が手っ取り早くて確実である。

 

「それにコラソンにはあんまり海賊似合わないから、なんか安心した」

 

 そう正直に言うと、コラソンは居心地悪そうに身じろぎした。

 

「今は、ロシナンテと呼んで欲しい。昔のように」

「うん、僕もそっちの方がいいな、ロシナンテ。ロシー」

 

 そう呼んでへらりと笑うと、コラソンもといロシーはくしゃりと泣きそうな顔で微笑んだ。ああ、その顔は変わらないね。

 

 さて、

 

「で、ちびっこに手を上げた理由は?」

 

 にっこり笑ってパン! と拳を自分の手の平に叩き付けて鳴らすと、ロシーはさっと顔色を悪くして両手をあわあわさせながら必死で理由を語り始めた。

 曰く、ドンキホーテ海賊団には日々大人から子供まで幅広い入団志望者があらわれる。

 大人はともかく未来ある子供たちを海賊にするわけにはいかないとロシーは『子供嫌い』を自称して、なるべく年少者を追い出すために苦心しているのだそうだ。

 頭を抱えた。

 

「小姑かよ……とりあえず問答無用でぶん殴ったのは謝る。ごめんなさい」

「いや、普通の感性、まして女性から見ればただの弱い者いじめだ。仕方がないさ」

「うう、そう言ってくれると申し訳ないやら罪悪感があるやら……あとそれ、ごめんだけど効果が薄くて確実性がわりと低い、かも」

「なぜだ!?」

 

 ガビンとショックを受けるロシーに顔を上げて、思うところを口にする。

 

「ぜんぶが無駄だった、なんて言わないよ。でも、にわか決意のガキんちょくらいなら有効かもしれないけど……あとがない子供は、暴力くらいじゃめげない、しょげない、諦めない。それに海賊はここだけじゃないから、別のところに行く可能性の方が高い」

 

 ロシーなりの理由があってのことだとは理解したが、本当の意味で海賊に入らないと生き延びることができないと肌身で感じている子供は、それを苦にしない。

 必死だからだ。

 他に行き場があるなら、先にそっちに行っている。どうしようもないから、犯罪者の中でも玉石混交の海賊に一縷の望みを賭けるのだ。

 

 おそらく、ドフィが黙認しているのは、それが『選別』に一役買っているからだろう。もし貴重な戦力を叩き出そうとしているなら、ファミリーを預かる身として、何らかの制裁を加えていて然るべきである。

 

 身を斬られるような思いで、心を鬼にして懸命に拳を振るってきたであろうロシーには申し訳ないが、成果は無駄とは言わないけれど余り芳しくないだろうことは伝えておく。

 ロシーの努力を切って捨てたくはないのだが、またぞろやらかされると僕の精神衛生上大変よろしくないので訥々と指摘した。

 ロシーは僕の言にがっくりと項垂れ、けれど悩むように顎に指を当ててこちらを見る。

 

「別の海賊なんていくらでもいる。それは、確かにそうだ……姉様なら、どうする?」

 

 うーん、これは相談相手がいなかったことも要因かもしれない。

 本格的に相談の姿勢になってきたので、こちらも腕を組んで真剣に考える。

 自分なら、物騒な海賊団に子供を置いておかないために、どうする?

 

「……僕なら、そうだな、比較的温暖で孤児院ないしは教会がある島にいくらか寄付を包んでから、頃合いをみてまとめて放り出す、かな」

 

 場所さえ選べば年中温暖な気候の島は存在する。そういう場所は、食糧自給率が高くて島民も穏やかな気質の者が多い。

 あらかじめ数人の子供たちをまとめておいて、ある程度の結束力ができあがった頃合いを見計らって放り出す。

 個人だと根性あるやつが戻って来るかもしれないけれど、数人いるとお互いが足枷になって思うように動けないだろう。生き延びるためなら協力するだろうし、そういう場合は人数がいた方が役割分担できて生存率も格段に跳ね上がる。

 

 そんな感じの思いつきを説明すると、ロシーも真剣な表情で頷き、やがてつくづくと言った。

 

「……すごいな、姉様」

「穴も多いし、机上の空論だからすごくないよ。子供を逃がそうって考えるロシーの方がすごいよ」

「え? あ、いや」

 

 行動はわりと稚拙だが、潜入捜査なんて薄氷の上を渡るような仕事中に、子供のことまで考えられるロシーはとてもまっとうな海兵らしい。

 

 ……まっとうで正しい、ああ、そうか。

 

 思い至って嬉しくなった。

 生来優しい子供だったけれど、この年齢になってもそれを失っていないなら、それは教え導くひとがいたからに違いない。

 

「ロシーはいい人に会えたんだね」

 

 すごいという言葉に照れていたロシーの頬が紅潮して、小さな子共みたいにきらきらした笑顔になる。ちょっぴり瞳が潤んだのは、その人を思い描いているからだろうか。

 

「! ああ!」

「ご挨拶したいなぁ」

「いや、それは難しい、かも……」

 

 だよね。

 今の立場とかあるものね。あと僕お父さんの娘なので、所属自体はしていなくても海兵さんにご挨拶するには外聞がとっても悪い。

 

「そういえば、白ひげから降りたのか? さっき賞金稼ぎになったと言っていたが」

 

 すでにエンカウント済みということは、ロシーは当然僕がお父さんの娘になったことを知っている。

 あの時は蹴り倒して脅してすまんやで。考えてみると僕、ロシーにやたら手を出している。理由ありきではあるんだけど、下手をするとこっちが訴えられそう……。

 ともあれ、誤解は解かなくてはならないので首を振る。

 

「ううん、二人の顔を見に『お出かけ』してるだけだよ。賞金稼ぎになったのは、私事だから自分のお金は自分で稼ごうって、そんだけ」

「そうか」

 

 首を振って否定すると、ロシーは明らかにほっとした様子で息を吐いた。

 

「姉様……ミオと呼んでも?」

「おっけーおっけー」

 

 年月ぶっとばしたぶん年齢差えげつないからね、ちょっと考えるよねそこんとこ。

 ついでに身長差もえげつない。不公平を感じる。

 

「うちの両親、僕を作る時だけ手抜きしたんじゃあるまいな」

「えっ!? いや、そんなことは……」

 

 暗い顔つきでしみじみ全然関係ないことをぼやいたら、ロシーが慌てた。そりゃね、今となっては分からないよね。

 ふと、ロシーの顔が真剣みを帯びる。

 

「それより、早く白ひげの元に帰った方がいい。ドフィの、ミオに対する執着は尋常じゃない」

 

 それはなんとなく感じた。

 生き別れた姉に再会できたという喜びとはなにか別種の、粘ついた感情が見えたからだ。

 

「ミオがファミリー入りを断ったとき、おれは心底ホッとしたんだ。あのとき頷いていればこれから先、ドフィは絶対にミオを手放さない」

「あーうん、確かにそんな感じだった」

「今だって安心とは言えない。どんな手を使ってでも、自分のもとに置こうとするはずだ。それは、それだけは、だめだ」

 

 ロシーの長い手が伸びて、そおっと、砂糖細工でも触るみたいに頬に触れてくる。

 ゆっくりとなぞって、手の甲で温度を確かめるみたいに輪郭を探る。

 そのあたたかさと、少し乾いた手の感触がくすぐったくて笑うと、ロシーの顔が痛いような笑みになった。

 

「ミオ、姉様。生きて会えたことは、嬉しい。本当だ。こうして話せるのが、幸せでしょうがない。──でも」

 

 息の中に言葉がつまって、ぐしゃりと顔が歪んで、大きな身体が僕を抱きすくめた。

 

 縋るみたいにぎゅう、と力がこもって少し苦しい。すっぽりとくるまれて何も見えない。親鳥に温められる雛みたいだと思った。黒いモフモフがおでこに当たる。

 潮と煙草と汗の匂いがロシーの匂いに混じっていて、胸の鼓動が聞こえた。そうか、自分と違う生き物なんだと、唐突に悟って驚いた。

 大人の男のひとなのに、間違いなく弟で、その落差にどうしようもなくもどかしさを感じる。

 

「できるなら、なるべく早く白ひげに帰ってくれ。おれの、ドフィの手の届かないところに。でないと、……」

 

 泣き出す寸前の絞り出すような声で、そこから先の言葉はロシーの喉でつぶれてしまった。

 ……本当に、いいひとに巡り逢えたのだろう。

 まっすぐで、優しいロシナンテ。

 こんないい弟にこんな声を出させるドフィに、ちょっとだけ腹が立つ。

 僕は精一杯腕を伸ばして、ロシーの背中をぽんぽんと叩く。まったく、もう、大きくなったのにドフィもロシーも肝心なとこがほんと変わってない。

 

「ロシー、ありがとう。ほんとできた弟に育ってて、お姉ちゃんは感無量です」

 

 早く帰れと言っているのに、その手はあの時とちっとも変わらない。言葉よりずっと雄弁にロシーのこころを教えてくれる。

 

 いかないで。

 ここにいて。

 置いていかないで。

 

 胸苦しくなる寂寞感と悲しみが伝わってきて、切なくて苦しくて、きゅうきゅうとお腹が軋んだ。

 唐突に理解できたのは、ロシーがいまひとりぼっちだということ。

 

「相変わらずの泣き虫さんだなぁ。だいじょうぶだよ」

 

 あの頃とは違う、強がりでも虚勢でもなく、心からの言葉を紡ぐ。

 僕はまっさきにこれを言わなくちゃいけなかったのに、すっかり遅くなってしまった。

 

「ロシナンテ、大きくなって、生きててくれて、ありがとう。また会えるって言ったのに時間かかっちゃって、ごめんね」

 

 僕が言葉を綴るたびにロシーの体温がどんどん高くなって、肌が汗ばんでいくのがわかった。

 小さな、引きつるような嗚咽が聞こえる。

 ドフィが離れたくないなら、ロシーだってそうだよね。

 

「しんどいこともあったけど、僕も生きてるよ。またこうやって会えて嬉しくて、すごく幸せ」

「おれも、おれもだ……!」

「うん、だからね、だいじょうぶ。なんでもできる。どこにだって行けるし、ドフィのあほな企みなんてどうにでもなるよ」

 

 上げたロシーの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、垂れ下がっているコイフを引っぱったら何も言わずにかがんでくれた。

 ぴたん、と両手で頬を挟み込む。熱い涙が指先を伝って落ちていく。

 

 涙の膜のむこうがわにある瞳を覗き込むと、ますますぶわわっと涙が浮いて、いよいよ収拾がつかなくなってきた。

 

「ロシーの目の前にいるのは、お姉ちゃんだよ。心配しなさんな、華麗にとんずらぶっこくから」

 

 最悪の手段としてお父さんに緊急援軍を要請するという切り札がある。やりたくないし、やるつもりもないけれど。身内の恥だから。

 でも、いざって時にそうして頼られない方がみんな悲しいって、もう僕は知ってる。

 申し訳ないとかで遠慮すると頼らせることもできないのかと、自分の不甲斐なさに腹を立ててしまう優しくて大好きな『家族』ができた。

 

 まぁ、そんなどうしようもない展開にはたぶんならない。

 ドフィは今のところ、軍曹の存在も僕の悪魔の実(暫定)の能力も知らないだろうから、逃げるだけならどうとでもなる。

 

「んもう、そんなに泣かないでよ。僕の年なんかとっくに追い抜いちゃったのに、これじゃ心配で帰ろうったって帰れないよ」

「ご、ごべんなさい」

 

 苦笑しつつハンカチで顔面をぐしぐし拭うと、メイクも一緒に剥げてものすごい有様になってしまった。鼻水がびろんと伸びて橋を作る。ティッシュにすればよかった。

 そういうところばっかり昔と同じで、懐かしくて笑ってしまう。

 

「いいよ、ロシーはドジッ子でひたむきでがんばりやさんで、おまけに我慢しいなの、よく知ってるから」

 

 ここはとても静かで、ロシーの音しか聞こえない。だから彼の心がよくわかる。

 他のひとの音を拒絶している壁の向こう側には、ドフィの仲間がいるけれど、それはロシーの仲間じゃない。

 心をゆるして傾けて、何も怖がらないでほうっと息をつける場所がここにはないんだ。

 

 うんと背伸びして「よしよし、ロシーはえらいなぁ」と口調は昔のまま、フードの隙間から手を突っ込んで、とうもろこしのひげみたいな髪をもしゃもしゃ撫で回す。

 

「ロシーの言う通り、長居はしないつもりだけど、いる間は甘やかしてあげよう」

 

 わざと偉そうに言ってみる。

 ほんのちょっとだけ、ロシーが息をつける場所になれたらいい。気を詰めて、ぴりぴりしないでいられるように。

 

「しんどい時にしんどいって言えないのは、しんどいよね」

 

 僕は、それを──教えてもらえたよ。

 

「ところで、ごめん。ロシーの部屋どこ? メイク直そう。やばいよ、ホラーだこれ、山姥みたいになっちゃった」

『……、! ──!!』

 

 自分を『無音』にしているのか、声もなくぼーぼー泣いているでっかい弟に道を聞きながらなんとかロシーの部屋に彼を送り届けることに成功した。

 

 そのあと、メイク越しでもわかるほど厚ぼったく目を腫らしたロシーの様子を見たドフィたちがぎょっとしたので、「泣くまで説教した」と言って誤魔化した。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

く.がらくたワルツ

 

 

 

 ロシナンテ──コラソンとの約束通り、一週間くらい滞在させてもらってさてそろそろいっぺんお暇を頂きたく……とドフラミンゴに申し出たところガチギレされた。解せぬ。

 

「解せぬじゃねぇよ。短すぎる、セミかよ」

 

 滞在期間に対して、十日と待たずに死に行く代表格を引き合いに出さないで欲しい。

 こちらとしても言い分があるので、くちびるをとんがらせつつ物申す。

 

「旅行とか、長くてもそんなもんじゃん」

「うちは出先じゃねぇだろ。ここを拠点にすればいい」

 

 賞金稼ぎにも拠点は必要なのだからドンキホーテ海賊団を拠点にしろ、というのがドフラミンゴの言である。

 それがイヤなら総力を挙げてふん縛るぞ、と指をわきわきさせながら言われ、少し考えてから了承した。目つきがガチだったから。ひと一人捕まえるのにそんな迷惑をかけないでくれ。

 

 ミオとしても、寄り道せずにスパイダーマイルズへ来たので、拠点とよべる場所がないからちょうどいいといえばそうだった。

 しかし、忘れがちだがドンキホーテ海賊団は海賊なので彼らも拠点を変える。

 特に海軍に目を付けられている……どころか、がっつり潜入されているドンキホーテ海賊団はしょっちゅう通報されては海軍船に襲撃されるので、そのたびに探し出すのはわりと面倒臭い。

 

 その辺りを聞いたら電伝虫の番号を渡された。

 ビブルカードではないのか、と疑問を覚えたのだがビブルカードはグランドライン中盤以降の文化なので、この辺りまでは浸透していないことに思い至った。

 

 なるほどと思いつつ、それからもう一週間くらい追加滞在してから念のためド深夜にこっそり出航して白ひげに帰ったら、ドフラミンゴから鬼電かかってきて電伝虫が過労死しそうになった。す、すまねぇ。

 海賊を狩りながらお土産を買って遊びに行ったら、しこたま愚痴を吐かれた。

 

「一ヶ月は滞在しろよ。あとベビー5たちに言ってからにしてくれねぇと、あいつらがやかましくてしょうがねぇんだが?」

 

 その言い方はずるいと思う。

 

「それは、そのー、ごめん。次は挨拶してからにするよ」

 

 お土産に購入したお高いワインを渡しつつ、じゃっかん気まずくなって目線を逸らす。

 

 成人をとっくに通り越した弟たちはともかく(まだまだ幼いデリンジャーはそうでもないが)ベビー5とバッファローはミオにとてもよく懐いてくれた。

 そのぶん、帰ろうとする気配を察すると全力で引き留めにかかるので難儀する。しかも、最近はことある事に海賊団に勧誘してくるので、言質を取られないようにするのが大変なのである。

 

 それがドフラミンゴの策略なのか、子供の純粋なお誘いなのかは判じかねるので、さすがにばっさり突っぱねられない。遊びに行くとこれでもかと構い倒して甘やかすので、それが要因な気がしなくもないが。

 

 基本、女子供は可愛がって守る主義である。

 

 劇的とはいえない再会をして、しばらくドンキホーテ海賊団に滞在していて分かったのは、この海賊団はすべてがドフラミンゴを中心に回っているということ。

 大人になる過程としての知識や手練手管そのものは学び取っているけれど、その本質は傲岸不遜でわがままで、子供の頃と変わっていない。

 むしろその点は助長しているようにすら見えた。

 

 幼い論理そのままに、ミオを自分のもとに縛り付けて繋ぎ止めておきたいのがよくわかったけれど、そんないい大人の駄々に付き合うほどミオは優しくもお人好しでもなかった。

 

 ミオはあくまで賞金稼ぎのスタイルを崩さなかったし、ドンキホーテ海賊団に入ることもなかった。

 ドフラミンゴのみならず、実力を認めたセニョールやディアマンテからも、やれ居着け襲撃行くぞ取引に付き合えとさんざん言われているがすべて「(∩゚д゚)アーアーキコエナーイ」と素知らぬ顔で通している。

 

 なんだか最近はドフフラミンゴも慣れたのか諦めたのか「出かけるならこの海賊潰してこい」と手配書を渡されている。

 やだお姉ちゃん便利に使われてる。大抵評判悪いからやるけど。

 

 その日もわりと長い間ご無沙汰していたので、ご機嫌取りの意味もこめてたっぷりのお土産を抱えてドンキホーテ海賊団を訪れた。

 

 ジョーラがお着替えさせていたデリンジャーに服とぬいぐるみを見せるとぱぁーと目が輝いて、彼女にも新作だという化粧品を渡した。

 他のちびっこ組を探してきょろきょろと歩く。

 

 最近拠点にしたばかりだという春島はのどかで暖かく、過ごしやすい気候だ。

 

 海岸の辺りをそぞろ歩いていると、遠目にバッファローとベビー5、ローがお喋りしているのが見えた。

 大きく手を振ると、こちらに気付いたベビー5たちが走り出す。

 

「ねーさま! ミオ姉様おかえりなさい!」

「おかえりだすやん!」

「ベビー5、バッファロー。よかったー、元気そうで」

 

 走る勢いそのままのベビー5を抱き留めると腕の中で本当に嬉しそうにはしゃぐものだから、だらしなく笑み崩れてしまう。

 海賊団には入らないと毎回言っているのだが、どうにも一員とみなされているらしい。

 

 姉と呼ばれるのはちょっとだけ申し訳なくて、とても嬉しい。

 

「ミオ姉様もドンキホーテ海賊団に入ればいいのに!」

「ニーン、若様も歓迎するだすやーん!」

「ええ-、でも僕がお出かけしないとお土産を買って来れないよ?」

「あっ!」

「そ、そうだった! 悩むだすやん!」

 

 あちこちの島で購入したアイスや、宝石みたいにきらきらしているお菓子を差し出すと、子供たちが目を輝かせてから「どうしよう!」という感じで顔を見合わせた。ローだけはそっぽを向いたままだったが。

 

 名も知らぬ少年改め、トラファルガー・ローはミオが知らない間にドンキホーテ海賊団に入団していた。ファミリーの幹部たちは既にローの病を知っているらしい。

 

 むしろその『白い町』にまつわる体験と憎悪を育てていっぱしの海賊にしよう、というスタンスのようだ。

 それに、海賊となれば普通に過ごすよりも悪魔の実と接触する可能性が高い。

 ミオが生き残ることができたのも、悪魔の実が持つ人知を超えた力があってこそだ。ローの治療を可能とする悪魔の実だって存在しているかもしれない。

 

 それを体験として知っているから、ミオはローもできればそうなって欲しいと願っている。ドンキホーテ海賊団は闇取引を主に扱っているので、他の海賊団よりも生存率は上がるだろう。

 

「ローも選べば? ミオ姉様、たくさん持ってきてくれたよ?」

「いらねぇ。それより稽古つけろ」

 

 己の寿命が尽きるまでに何もかもを壊したいと切望するローは、自分を鍛えることに余念がない。

 命の短さを知るからこそ、その焦燥と憤りは深く、切迫感に突き動かされるように稽古をせがむ。その必死な様子は見ていて痛々しいほどで、余裕がない。

 時々、ミオはなんともいえない気持ちになる。

 

「いいよ。でも今のアジトに戻ってからね」

 

 ローは幹部たちから稽古を受けているようだが、体格が小さいのに多数の海賊を打倒しているミオの体術を学びたいらしい。

 頷くと、ほんの少しだけローの頬がゆるむ。ローはミオが好きではないが嫌いでもないらしく、気が付くと近くにいることが多かった。

 

「あ、コラさんだ!」

「隠れるだすやん!」

 

 わぁわぁと騒ぎながらババッとバッファローたちがミオの後ろに隠れる。彼の体格ではミオの後ろに隠れたって丸見えなのだが、気分の問題らしい。

 最初の一件以降、守ってくれると学習したらしく、ミオがいる時はこうして防波堤扱いされるのだ。

 コラソンはコラソンで、最初の相談から子供に手を出すのを控えているのだが、ぱったり止めると怪しまれるし一定の成果はあるので頻度を減らして続行している。

 

「やっほう、コラソン」

「……」

「そうだね、久しぶり。今回は少し長く滞在するつもりだよ」

 

 筆談も用いることなくスムーズに会話をしていると、ベビー5がこてんと首を傾げた。

 

「なんでミオ姉様はコラさんの言っていることがわかるのー?」

「コラさん喋ってないだすやん?」

「んー、あんまり喋らなくてもわかることって、あるよ。あとは勘かな」

 

 生前──『前世』と言い換えてもいい──ミオは、沢山のひとと縁故を結んできた。

 中には饒舌なひとも、無口なひともいた。そんな人たちとのことを考えると、コラソンはむしろ分かりやすい部類に入る。

 コラソンは頷き、煙草を咥えてライターの蓋をカチンと開く。先の展開が読めてひくりとミオの頬が引きつる。

 火打ち石がじゃりりと音を立てて火花が散り、ボッと煙草を通り越して──コートに引火した。

 

「もう煙草やめたらどうかな!?」

 

 すかさず、自分の腰のホルスターから水鉄砲を取り出してコラソンめがけて打ち放つ。ぷしゅう、と弧を描いた水がコートにかかってまだ小さかった炎が鎮火された。

 

「……、!?」

「おっと」

 

 その、水鉄砲で濡れた地面で器用なまでの足捌きで滑って転びそうになるコラソンの腕を掴んで、引き寄せる。

 位置取りがいいのか、巨体に押し潰されることもなく相手の体勢を整えたミオは、眉をへの字に曲げてぺしりとコラソンの腕を叩いて苦笑する。

 

「もうコラソンのドジは奇跡的だね。お祓い行った方がいいよ、ほんと」

 

 再会してからもコラソンのドジッぷりは変わらず、むしろ煙草を嗜むせいで危険性が増したように思う。ミオはやむなく水鉄砲を購入して腰に常備している。

 水鉄砲の腕ばかり上がっても使いどころがないのが悩ましい。

 

「……」

「どういたしまして、え? ああ、そうか……ロー」

 

 ミオはコラソンの様子を見てからローに振り向き、ごめんねとつぶやいた。

 

「稽古はあとでもいいかな? ちょっとコラソンと話してくるから」

 

「えっ!? ……チッ、はやくしろよな」

 

 一瞬だけ悲しそうな表情を見せて、すぐにそれを打ち消して仏頂面で舌打ちするローにミオは申し訳なさそうに苦笑する。

 

「うん、ありがと。ちょっとだけあとでね」

 

 ぽすりとローの頭を帽子越しに撫でて、持っていたおみやげをバッファローとベビー5に渡してから、ミオはコラソンと連れ立ってどこかへ歩き始める。

 コラソンとミオの背中を眺めていたバッファローとベビー5が頬を膨らませて不平を漏らした。

 

「……コラさんに取られちゃっただすやん」

「ぶー、つまんないのー」

 

 デリンジャーが泣き止まない、といった事態でもないとミオはドフラミンゴとコラソンを優先する。

 子供たちがわがままを言えばその限りではないのかもしれないが、若様に睨まれるリスクが感じ取れないほど馬鹿ではないから、そういった時は大人しく見送るしかない。

 

 子供たちはミオが大好きだ。

 

 それはドフラミンゴに勧誘しろと言われていることもあったけど、たぶんそれがなくても好きになっていたと思う。

 

 ファミリーに所属していないミオは『血の掟』や上下関係に縛られることなく付き合うことができたし、遊びにくる時は必ずたくさんのお土産を手にあらわれる。

 稽古をねだると厳しいけれど、理不尽な行動を要求したりはしなかった。最後にはお疲れさまと、よくがんばったねと頭を撫でて褒めてくれる。

 

 ミオは人を陥れようとしない。無理な時は無理と言うし、いやだと思えば正直につっぱねる。自分たちを無条件に好いてくれていることが肌でわかるから、そういったあけすけで単純な好意は心地が良くて離れがたかった。

 

 だから──彼女がファミリーに入ってくれればいいなと思うけれど、それで彼女らしさが損なわれるのもイヤで強く出られないのも、本当なのだ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

じゅー.みすたーすくらっぷは気に入らない

 

 

 ローにとってミオは『奇妙ないきもの』である。

 

 白い町──かつてフレバンスと呼ばれた町に巣喰っていた因果は、幼い子供にどうにかできるようなものではなかった。

 隠蔽されたまま積み重ねられ続け、濃縮された毒素は世代を越えて猛威を奮い、ロー自身の命を刮ぎ落としていく。

 

 それは例えようもない恐怖で、絶望で、憎悪で自分を奮い立たせないとおかしくなりそうだった。

 

 憎かった。なにもかもが。

 

 臭いものに蓋をするように町を見捨てて、ごみ掃除みたいに家族や友人を殺していった政府も海軍もまとめて潰してやりたかった。目に付くもの全てを壊せるだけの力が欲しかった。

 おびただしい死体の隙間に小さな身体をねじこんで、埋まるように国境を越えてローは生き残った。まだ残る肉の温度はおぞましかったけれど、同時にとても悲しかった。

 

 心のどこかがこわれたのがわかったけれど、どうしようもなかった。

 

 必死で逃げて、走って、泥水をすするようにしてべつの町へ潜り込んだ。スパイダーマイルズで勢力を伸ばしつつある海賊がいると聞いて、狙いを定めた。

 

 壊すにも殺すにも、そのための力と技術をどこかで学び盗む必要があった。

 政府も海軍も信じられない今、非力な自分が力を得るためには非合法な組織でもリスクを覚悟して飛び込むしかない。けれどそこで問題になったのは渡航手段で、文字通り身一つで落ち延びたローにはなにもなかった。そうなると、どこかの船に入り込むしかない。

 

 密航先を吟味していた矢先、海図屋の軒先で、初雪色に目を奪われた。

 

 未だ捨てられぬ、美しかった頃の故郷を偲んでしまう色だ。まだ若い、少年のようにも少女のようにも見えた。

 

 スパイダーマイルズの海図を店員に尋ねていて、こいつしかいないと思った。先回りしてみるとさほど大きくない船を見つけて、忍び込んだ。中には誰もいなくて一人旅だということに少し驚いたが好都合だった。倉庫には鍵がかかっていたから、迷った末に風呂場に隠れた。

 

 武器はあの町で不発だった手榴弾がひとつだけ。

 見つかったときも、これを見せつけて脅せばなんとかなると思った。

 

 

 なんともならなかった。

 

 

 白い、小さな生き物は淡い桃色の瞳を見開いて、それからローの要求にあっさり頷いて許可を出した。

 即答されてうろたえたのはむしろローの方で、その隙に水をぶっかけられて火薬を駄目にされた。

 

 許可を出した時点でローは密航者じゃなくて自分の客だと謎の論理を振りかざし、反抗したら面倒そうに帽子を取られて、返して欲しけりゃ風呂入れと脅してきた。

 面白くなかったけど風邪を引いてもつまらないからおとなしく従った。

 

 そうして本当に久しぶりに湯船に浸かって、ほっとしていたら船が出航していてまた仰天した。

 飛び出したら警戒心ゼロで火加減を見ながらいいじゃんとか言われた。よくはねぇだろ。言い募ろうとしたら船代代わりにおでんを食べるのを手伝えと言われて、空腹を思い出した。

 

 温かい飯は久しぶりだった。おでんはあまり美味しくはなかったけど、じんわりと身体があたたかくなった。

 

 いいように流されているのが面白くなくて、白い町の者だと明かしたけど、すぐに後悔した。町の外で自分たちがどのように言われているのかを知っていたから。

 けれどミオは珀鉛病のことを知っていて、頷くだけだった。偏見や醜聞を意にも介さず、正しい知識を持っていた。

 怯えることも蔑むことも、薄汚い子供だからと嘲笑することもなかった。

 

 ただ、ローをまっすぐに見て、素朴に言った。

 

「どうあれ、少年は生きてここにいる」

 

 同情も憐憫も、嘘も嫌悪もそこには──ひとかけらだってなかった。

 

「それは、とても、すごいことだと──僕は思うよ」

 

 表情も変わらず淡々と告げられたのは、ただの感想だった。

 

 けれど、ローは頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。

 自分でもどこにそんな動揺するところがあったのかわからない。それでも、名乗りもしない、珀鉛病の、忌まわしい町の生き残りに投げかけるような言葉ではないと思った。

 

 どこかに行かないと、なにかとてもひどいことを言ってしまいそうで、そんな自分が許せなくて船外に飛び出した。

 心臓がどきどきして落ち着かなかった。

 

 ミオは追いかけてこなかった。

 

 気まずくて仕方がなかったが、当の本人はちっとも気にしていないようだった。

 スパイダーマイルズまでは数日かかるから逃げ場がなくて、ローはやっぱり選ぶ船を間違えたと後悔した。

 

 礼儀知らずの密航者のガキをミオは本当にお客さん扱いしていて、馬鹿なのだろうかと思った。

 夜になったら「児童虐待になる」と言って寝室に引っ張り込んできて、ベッドを譲って自分はどこにあったのか布団を敷いてさっさと寝てしまった。止める間もなかった。

 気まずくてむずがゆくて、腹いせのつもりで床の隅で寝て、朝になったらいつの間に運ばれたのかベッドに入れられていた。むかつく。

 

 一から十まで謎ばかり。だけどその距離感は、あまり嫌いではなかった。

 

 そんな地味で阿呆な攻防をしている間にようやっとスパイダーマイルズに着いたから、すぐに船を脱出した。結局、挨拶も名乗りもしなかった。

 

 ゴミ処理場で未処理の手榴弾を見つけて、身体に巻き付けてドンキホーテ海賊団に突撃して、無理やりに入団した。

 コラソンという子供嫌いの大男にこてんぱんにされたが、めげずに海賊団に居続けて一週間経ったとき、いつものように痛めつけられたコラソンにせめて文句を言ってやろうと幹部たちのいる部屋に駆け込んだらミオがいた。

 

「少年」

 

 これはなんと意外な、という口調で目を丸くしながらそう呼ばれて、なんだか泣きそうになったけどコラソンにぶっ飛ばされて──次の瞬間にはコラソンが蹴りで沈められていた。理解が追いつかない。

 

 呆気にとられている間にコラソンは馬乗りになって鬼の形相をしているミオにボコボコにされていた。子供に手を出すDV野郎と正論で殴っていてちょっとスッキリした。

 

 聞けば、ミオはドフラミンゴとコラソンの『姉』なのだという。意味が分からない。

 

 そういうプレイかと疑ったがどうやらそうではないらしく、本人を捕まえて問うたら悪魔の実の力でそうなってたと説明した。

 十年と少しくらい、凍結されていたのだと。

 その時には、ファミリー入りを正式に許可されると同時に悪魔の実の話を聞き及んでいたので、そういうこともあるのだと考えただけだった。

 

 ファミリーに入るのだろうかと、ほんの少しだけ期待した。

 

 ドフラミンゴからもファミリーに引き込めるように努めろと言われたけれど、やっぱり思うとおりになんかてんでならなかった。

 

 ミオはだいたい二週間から一ヶ月くらい滞在するとふらりといなくなり、またいつの間にかふらりとアジトに戻ってくる。

 気まぐれな猫か、そうでなければめちゃくちゃに仲のいい親戚みたいだった。そういうときは大量のおみやげを抱えてきて、バッファローたちに渡していたので後者の方が近いのかもしれない。

 

 ほぼ毎日ファミリーの幹部から虐待みたいに鍛えられてローは実力をつけていったが、その分見えていなかったミオの実力がわかるようになってきた。

 

 飄々としていてつかみ所がなくて、強いのに、強いから、ファミリーにも入らず、自由に海を渡り歩くさまは鳥みたいで腹立たしかった。

 

 そうこうしている間に賞金稼ぎとしてを名を上げ始めて、ドフラミンゴはファミリーに入れるよりその立場を利用して遊撃のような扱いをし始めた。

 ほっといても定期的に戻って来るし、そうそうくたばらないと判断したらしい。

 

 

 バッファローやベビー5がミオを気に入る理由はなんとなく分かっている。

 

 許容範囲が並外れて広く、好意にためらいなく好意と感謝を返せるからだ。誰かのせいにしないで、八つ当たりをしないからだ。

 

 それは当然のことかもしれないけれど、少なからず後ろ暗いことに関わって人間の薄汚いところを見ている自分たちにとって、とても物珍しい生き物のように映る。

 おまけに子供が好きだと公言してはばからず、あけっぴろげな好意を向けてくる。

 ドフラミンゴやコラソンに平気で口答えして、場合によっては手も出す。

 

 正直なのだ。ずるいくらいに。

 

 ローはミオのことが気に入らない。でも同情していないから、近くにいると気が楽だった。

 

 強くなるためには体格が近くて技術を持っている人間が必要だった。

 そう思って、言い訳して、ミオの滞在中にはしょっちゅう稽古をねだった。

 

 昼行灯みたいにぼやぼやしているくせに、いざ戦闘となると非常識なくらいに強かった。ほぼ詐欺みたいだった。

 この見た目に騙されて、油断して、他の海賊は討伐されるのかもしれない。

 そのくせローを適当にあしらったりはせず、ちゃんと強くなるために向き合ってくれていることが分かった。

 

 手合わせの時だけ帯びる、抜き身の刃物のような雰囲気。瞳に宿る高圧の焔。触れればたやすく斬り捨てられそうな、背中に氷柱を押し当てられるような寒気と恐怖。

 

 稽古が終わってしまえばそんな雰囲気はすっかり消えて失せて、いつものほにゃほにゃした空気に戻ってしまう。極端な落差が不気味で、けれどほんの少し憧れた。

 

 ──そして。

 

「……ッ」

 

 息が詰まった。

 

 春の穏やかな日差しから隠れるように、ひっそりと。

 海にほど近い、朽ちかけたベンチにコラソンとミオが寄り添って座っている。

 

 まるで恋人同士のような距離だったが、ミオの表情はローにも見覚えのあるものだった。

 かつて、自分が手のかかる妹に向けていたそれ。理屈抜きに、彼女が間違いなくコラソンとドフラミンゴの『姉』なのだと、理解させられる光景だった。

 

 どうやらコラソンは寝ているのか、ミオの小さな身体に頭を預けられずにどんどん傾いていく。

 ミオはやれやれとばかりに息を吐いてから腰を浮かして横にずれると、コラソンの頭を柔らかく引き寄せた。

 

 フードに隠れて顔が見えないせいで大きなカラスの雛みたいだった。

 ミオは病気の子供にそうするように、肩のあたりをゆるゆると撫でて、甘く、胸苦しくなるような表情で微笑んでいた。

 そうしてちらとローを見て、人差し指を自分の薄いくちびるに押し当てていたずらっぽく笑う。

 

 ぱくりと動いた口は、ないしょだよ、そう読めた。

 

「~~、──ッッ!!」

 

 息を呑んで、自分の中で感情がぐちゃぐちゃに混じって掻き回されて爆発しそうで、気付けば逆方向に走り出していた。

 開きそうになる口をぎゅっと引き結ぶ。そうでもしなければ叫びだしてしまいそうだった。

 

 なぜか目の前が潤んで、それが悔しくて乱暴に袖でぬぐう。なんで、どうして。そんな文言で頭がいっぱいになる。わけのわからない苛立ちと激昂で吐きそうだった。

 ローが生きるためにあきらめて、切り離して、捨ててきたものを、捨てざるを得なかったものを、ぜんぶミオは持っている。

 

 大切に集めて、こぼれないように抱きしめている。

 

 嫉妬で、羨望だった。

 

 殺意すら覚えるほどの。

 

 誰に対してなのかは、もうローにすらわからない。

 

 そうだ、ミオの傍にいると心が腐らない。

 

 肩の力を抜いて、余計なしがらみを考えないで、たったひとりの自分としていられる。そうあることをゆるされていると、なにも言わずとも伝わってくる。

 凍結されていたのか生来の気質なのか、ミオの周りは時間の流れが違うような気がする。

 木漏れ日色の空気のなかで、深い安堵を吸い込める。

 

 それがどれほど得難いものなのか、きっとあの兄弟は理解している。

 海賊だからこそ、余計に。

 だからドフラミンゴは手放せないし、手放したくない。あの手この手で引き寄せようとしては失敗している。

 

「くそぉ……!」

 

 ずるい。

 くやしい。

 ずるい。

 むかつく。

 どうして。どうしてどうしてどうして!

 

 おれには、もう、なにもないのに。

 

 それからがむしゃらに走ってアジトに戻るともうミオは待っていて、でも稽古をする気分には到底ならなかったから「やっぱりいい」と言い捨てた。

 

「そっか」

 

 ミオは怒るでもなく始めて会ったときみたいにあっさりと頷いて、それからふと思いついたように口を開いた。

 

「そういえば、もうすぐローの誕生日だね。欲しいものがあったらがんばるよ?」

「いらねぇよ。そんなの勝手に考えろ」

 

 お腹の中に重りが入っているみたいにわだかまりがあって、トゲだらけの言葉しか出てこない。

 ミオは残念そうな顔をしてそっかー、とつぶやいてから猫みたいなのびをする。

 

「じゃあ、ローがとびきり喜ぶものを考えないと。責任重大だ」

「そんなのいい」

 

 この頃になるともう口癖になっていた言葉を吐き捨てた。

 

「どうせ死ぬんだ」

 

 珀鉛の影響は日々身体を蝕んでいく。肌の色素が抜けて、上書きするように白粉めいた痣が身体のあちこちにでき始めていた。

 

 ミオがローに同情も憐憫も抱いていないと確信しているから、言えることでもあった。

 

 けれど、

 

「そうかもしれないけど、困るね」

 

 いつものように「そうかな」と曖昧な返事がくると思ったのに、まったく違う言葉がほろりとこぼれて、弾かれたように顔を上げた。

 

 ミオはローをまっすぐに見つめて、痛いような、苦しいような、なんだかこちらの胸まで軋むようなぎこちない笑みを浮かべていた。

 

 そうして、もういちど、ぽたんと言葉を落とす。

 

「ローがいなくなったら、さみしくて──困るなぁ」

 

 自分の無力さを心底嘆くような、情けない声だった。

 その音が耳から胸の奥に響いて、言葉のかたちになってぐるぐる渦巻いて、それが頭まで染み込んできてガンガンした。

 

「ッ、そんなこと、いうな!」

 

 ようやく絞り出した声はかすれて、途切れ途切れだった。

 

 それだけで息が詰まって、肺が締め上げられるように猛烈に苦しくなる。

 胸の奥の深くまで杭を突き刺されたような、じくじくとした痛みに耐えかねて服の上からぎゅっと掴む。

 顔を見ていられなくて俯いて、膝を叱咤して崩れないようにするので精一杯だった。

 

 わかってしまったのだ。ミオがローに抱いていたのは同情や憐憫ではなかった。そっちの方がずっとよかった。

 

 もっと自分勝手で、ひとりよがりで、厄介なものだった。

 

 ローには残された時間が少ない。

 

 自覚していたから必死だった。

 ろくな成長も望めないほど縮んでしまった命の全てを燃やし尽くしてでも、破壊したいものがあった。

 だから、がむしゃらに前だけ見て走ってきた。後ろを振り向く余裕はなかった。

 ひたすらに前へ、前へと。

 

 ミオはそんなローを止めなかった。

 でも意思に身体がついていかなくて、限界を通り越してぶっ倒れそうになると、いつの間にかそこにいて、寝床に運んでくれた。

 

 最初の印象から変わらない。ミオはひどいやつだった。

 ローの気持ちなんてちっとも斟酌してくれない、いやなやつだ。

 嘘も打算もない目でまっすぐに見てくるから、自分でもわからない胸の裏側まで見透かされそうで苦しかった。

 

「……ごめん」

 

 ほら、まただ。

 

 なんでそこで謝るんだよ。なんでそんな顔するんだよ。おれがいなくなったら困るって、そんなの、言われたってこっちが困るんだ。どうしようもないのに、そんなこというな。

 

 心残りなんか、作りたくないんだ。

 

 でも、そんな言葉をどこかで嬉しいと感じている自分が、うとましくて仕方がなかった。

 

 顔を見せたくなくて背を向けると、また、ぽつりと。

 

「そうか」

 

 しみじみと、ひとりごとのように。

 

「ロシーとドフィは、こんな気持ちだったのかな」

 

 意味がわからない。おもしろくない。

 

 

 やっぱり──ミオはひどいやつだ。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間.あくむとあさと中華鍋

 

 そこは地獄だった。

 

 凄惨で、血(なまぐさ)い、地獄のような光景だった。

 

 あちこちに打ち捨てられ、がらくたのように散らばっているのは、かつて人であったもの。

 生きて、動いていて、そうして無残に散らされた。薄汚い欲望や誰かの都合で、理不尽に鏖殺された果ての姿。

 

 これまで自分が食い散らかしてきた、ちっぽけな命ひとつで贖えない罪の証拠だ。

 

 土色の腕があった。蝋のように白い腿があった。生温い臓物を垂らす胴体が、首が、物言わぬ骸が足の踏み場もないほどに転がっている。

 

 死臭に引き寄せられた蠅がわんわんと集い、行き交う中、澪は裸足で歩いている。水よりも重く、おぞましいものが土を濡らしてぬかるんでいた。

 

 ぐちゃ、ぬち、と足を踏み出すたびに粘ついた音が聞こえ、指の間を醜悪な色の糸が引く。卵の中身のような脳漿が、鋭く尖った骨片が、緩んだ肉から引いた筋繊維が指に絡まり、足裏を傷つけ、形容し難い感触が心の膿んだ箇所を更に抉っていく。

 

 けれど、もうなんの痛痒も感じない。そんな感覚は、とっくに擦り切れてしまった。

 

 どうせ目を覚ました自分は何も覚えちゃいない。

 決まって次の日は眠れなくなる。それだけだ。単なる確認作業の一環に過ぎない。

 

 ぼたぼたと落ちてきた眼球が肩に落ちて、粘液を垂らしながら転がって、服を汚し、濁った視線が澪を責め立てる。忘れたことなどないのに、念を押すように。

 決して軽くないものを、複雑怪奇で重いものをやすやすと奪ってきた。流せる血の絶対量すら足りないくせに。

 

 ならば──背負えと。

 

 大事な何かが、やすりのように刮ぎ落とされていく。釣り合わない天秤を落としてしまった自分が、請け負わなければいけないことだと、納得して、歩くしかない。前を向いて、ひたすらに。

 

 ちゃんと、理解している。

 

 たとえ心が干涸らびても、砕けることすら許されない。そんな卑怯で下らぬ、最も愚かな道を選ぶことはできない。

 身の(うち)に孕み、足掻き、苦しみ、倒れることすら良しとせずただひたすらに、愚直なまでに歩を進めるしかないのだ。

 

 生きて、生きて、生き延びて──そして、その時がきたら。

 

 消化も叶わず、忘れたいけど、絶対に捨てちゃいけないものの集積所で、狂うこともできない少女が、曖昧に微笑んだ。

 

 

「また今度、ね」

 

 

 

×××××

 

 

 

 暗闇の中で目覚めた。

 

 荒く呼吸をつきながら、ミオは跳ね踊る心臓の動きを実感する。

 

 額に浮いている脂汗をぬぐい、寝汗で服が張りついていた。

 

「うわ……」

 

 じっとりとした不快感に眉をしかめ、ひらひらレースを引っ張ってため息をひとつ。

 

 背骨に冷水でも伝っているような悪寒と、頭のはしにこびりついているような恐怖の残滓。たまにあるのだ、こういう日が。

 夢の内容はさっぱり思い出せないが、寝起きはいつも同じだ。だから分かる。

 

「今日は寝れないなぁ」

 

 月に一度程度の割合で決まって、眠れない日がやってくる。こうなると睡眠そのものを身体が拒否しているように、眠気の欠片もやってこない。そうしてまんじりともせずに夜を明かし、明日を迎えなくてはいけない。合図はこの寝起きの悪さだ。

 

 昔は、どうしても眠りたくてホットミルクを飲んだり身体を酷使したり、と努力をしてみたものだが結局眠れなかったから途中で諦めた。それに、ほぼ習慣のようなものなので慣れている。ただ面倒なので朝っぱらだというのに夜のことを考えて憂鬱になってしまう。

 

 広いうえに天蓋までついたクイーンサイズのベッドからもそもそと降りて、ぺたぺたと裸足で窓に寄ってカーテンを引っぱった。目が眩みそうな光が差し込んでくる。

 そのまま窓を開けるとざぁ、と瑞々しく清澄な空気が室内に吹き込んで、肺の奥まで洗われるようだ。

 

 鳴き交わす小鳥の囀りも聞こえてきて、段々気分が浮上してくる。

 

「よし、ラジオ体操でもしよう」

 

 拠点なのだから部屋は必要だろう、と用意されていたミオの部屋はやたらと豪華で身の置き所にじゃっかん困る。

 あるものは利用しよう、の精神で箪笥に入っていたひらっひらのドロワーズは着心地そのものはいいけれど落ち着かない。夢見が悪かった気がするのは、この寝間着のせいではなかろうか。

 

 ドフラミンゴの心尽くしにひでぇ冤罪を着せつつ、ベッドの傍らに立てかけてあった自分の主力武器を指先で撫でる。

 

「おはよう、『庚申丸』」

 

 この世界ではたまに見る日本刀そのものの作りで、銘は『庚申丸』。

 ひょんなことから手に入れたのだが、歌舞伎の『三人吉三郭初買』に登場する因縁の刀の名前と同じなのが面白くて斬れ味も抜群、とても気に入っている。あちらは短刀だが、こちらは刀身が生前の愛刀と同じ長さなのも好んでいる要因である。

 

 自前のジャージに手早く着替えて、柔軟や腹筋、腕立て伏せ等の日課を済ませてからタオルを引っかけつつ廊下に出て、途中のランドリールームでさっきのドロワーズを籠に放り込んだ。

 そのまま外に出て、アジト周りを軽くジョギング。どこか適当に広いところで体操をしようかなと考えていたら、向こうからスーツ姿の男の姿が見えた。

 

「おはようございます、ミスタ・セニョール」

「ああ、おはよう」

 

 挨拶ついでに紫煙を吐き出すダンディな彼はセニョール・ピンク。ドンキホーテ海賊団の幹部のひとりだ。

 以前、若の血縁なのだから敬語はと苦言を呈されたのだが、どう見ても年上にそれは無理ですすいませんと謝り倒してしぶしぶ了承させた。

 

「トレーニング中に悪いが、若を起こしてきてくれないか?」

「まだ寝てるの珍しいですね。わかりました」

 

 あんなんでもマフィ……海賊団のボスなのでドフラミンゴの朝は早い。

 なんでも昨日の夜にどこぞの客人を接待して、疲れているだろうから今まで起こしていないとのこと。快く了承して、戻る道すがらにばったりコラソンに会った。

 

「あ、おはよう」

『おはよう』

「これからドフィ起こしに行くんだけど一緒に行く?」

 

 コラソンは少し考える素振りを見せて、ややあってから頷いた。ついでに厨房に寄ってからドフラミンゴの部屋に急ぐ。

 ノックしても反応がないのでドアを開けた。

 

「ドフィー、朝だよーうわ酒くさっ!」

 

 どうやら昨日の客とやらは結構な酒飲みだったらしく、室内には酒精の匂いが残っていた。

 

「うーん……二日酔いだったら、これ使うのまずいかな」

 

 厨房で借り受けた、すりこぎと中華鍋を見せつつひそひそ言うとコラソンがポケットからメモを取り出した。

 

『やれ』

「えっ」

『GO!』

「まさかの二枚目!?」

 

 ここまで推奨されたならばやるしかなかろう。

 最後のチャンスとして窓を思い切り開けたのだが、こんもり膨らんだ布団は身じろぎひとつしない。

 

「ドフィ……残念だ」

 

 しんみりつぶやくと、ロシナンテがミオの耳をそっとふさいでくれる。ワクワクしている空気が伝わってくるのは気のせいだろうか。

 いや正直ミオもわくわくしている。ドフィの反応、とっても楽しみです。

 

「では、」

 

 すりこぎを思い切り振りかぶり、中華鍋の裏側目掛けて叩き付ける!

 

 力一杯やったのでカーン、どころかゴォンッ!と鼓膜が爆撃されるような凄まじい音がした。手が振動でびりびりする。

 

「うぉ!?」

 

 間髪入れずにドフラミンゴが布団を跳ね上げた。

 敵襲かと思ったのか即座に周囲を警戒……しようとして、すりこぎと中華鍋を持ったミオと、その耳をふさいでいるコラソンを発見して動きが止まる。

 

「……」

 

 さっさとサングラスをかけて、なんだか地鳴りでもしそうな笑顔を浮かべるドフラミンゴは控えめに言っても超怖かった。

 

「ミオ、とコラソン。朝っぱらからやってくれるじゃねェか……フッ、フッフッフ」

「ひえっ、ごめん! ごめんー! でもおはよう!」

『大成功』

「コラソン出すメモ間違ってない!? 謝った方がいいって! すっげぇ機嫌悪いもん!」

「機嫌悪くした張本人がよく言うぜ……とりあえず、ふたりとも」

 

 くい、とドフラミンゴが親指をひっくり返す。

 

「正座しろ」

 

 それから昨日の接待の重要性と二日酔いの辛さを延々と説教され、ついでにミオは梅干しをくらった。こめかみをぐりぐりされるアレである。とても痛い。

 コラソンがやられないのはずるいので、焚きつけたことをチクッて同じ目にあってもらった。

 

「うう、まだ頭いたい~、ドフィひどい」

「フッフ、寝てる人間の耳元で中華鍋鳴らすのはひどくねェのか」

 

 キンキンする頭を押さえながらぶーたれると、没収した中華鍋をぶらぶらさせながらちくちく言われる。案外根に持たれていた。

 

「それはそれとして、ミオ。随分とダセェ格好してるな」

「その辺走ってる時にミスタ・セニョールにドフィ起こしてくれって言われたから、そのままこっちに。コラソンには途中で会った」

 

 ミオの格好はカエルというか青汁みたいな色をしたジャージである。ついでに首にタオルをかけているので、ダサいと言われれば反論の余地はない。

 

「おれの用意したコートは着ねェのか?」

「え゛」

 

 ぎくんとミオの肩がこわばる。

 用意したコートとは、ついこの間贈られたコートのことだろう。最高級品だと胸を張って差し出された……真っ白のもっふもふしたやつ。

 

「あれ、汚れ目立つし動きにくいんだよねー……」

 

 思わず遠い目をしてしまう。

 コラソンのコートが黒だったのは焦げが目立たないからだと知った時の切なさったらない。自分の年齢的にはともかく三姉弟でお揃いって、どうなの?

 なにより、一回試着して鏡を見て真っ先に、売れないロックシンガーじゃねぇかと自分にツッコミを入れてしまった。着られりゃいい、の精神でも限度がある。

 

 あれを着て三人で町を歩くとか、考えただけでつらい。そうだ今すぐモビー・ディック号に帰ろうと現実逃避してしまう。

 

「ごめんね、メンタルひょろひょろな姉で……」

「ザイルみたいなメンタルしてるくせに、何を言い出してやがる」

 

 その件に関しましては前向きに考えて検討させて頂きますのでいずれ、おいおい、日を改めて云々と全力で誤魔化していたところグラディウスが朝食のご用意が、と部屋に訪れたことで終了した。

 

「グラディウスさんありがとう」

「は?」

 

 意味が分からないという顔をされた。そりゃそうだ。

 しかしドフラミンゴの顔がまったく諦めていないので、いろいろ気を付けようとミオは決意する。

 

 後日、三人お揃いを見たくねェかフッフッフとコラソンまでそそのかしたドフラミンゴに猛攻を喰らうのだが、知らぬが仏というものだ。

 

 

 




テンポ悪いので前半のあちこちカットしました


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

じゅーいち.盲目ドン・キホーテ

 

 親兄弟の保護という枷から解き放たれたミオは、ドフラミンゴの予想の範疇を超えて自由気ままで奔放だった。

 

 何事か興味を引かれることがあればドフラミンゴの希望もむなしくあっちこっちを渡り歩き、電伝虫で連絡しなければ一ヶ月くらい平気で留守をする。戦闘において一日の長があり、ついでに生活力に長けて勘働きがよいのも悪い方に働いた。

 当初は資金がなくなれば戻らざるを得ないだろうとたかをくくって、借金でも背負わせて飼い殺しにするつもりまんまんだったのだが、本人が自力で賞金首を上げて金を稼いでいるので意味がない。

 

 一度、逆ギレして弟たちが海賊なんて姉として心配じゃねぇのかと聞いてみた。ファミリー入りを正面切って断ってきた当てこすりである。

 

 ミオは心底不思議そうに首を傾げた。

 

「謀反の心配がないのに、なにを心配すればいいの?」

 

 確かに部下は軒並み忠誠心が高く、またそうなるようにドフラミンゴは仕向けてきた。そういう意味では非の打ち所がない自慢のファミリーだ。

 だが、ちがう。

 なんかこう……違うだろ。

 

「もし倒産しても、うーん、資金の援助はむりだけど……あっ無職になっても一年くらいは面倒みるから心配しないでがんばれ! あくどいしずる賢いし経営手腕はあるって! 大丈夫大丈夫!」

 

 駄目押しに失礼千万な言葉とともにべしべし背中を叩かれ、元気付けられた。逆にげんなりした。海賊に倒産はない。

 

 そうだった。この姉は全力で斜め上にかっとんでいるのだ。認識の差異をドフラミンゴは改めて思いしった。嬉しくもなんともない。

 最近はドフラミンゴも引き込むことを諦めて、賞金稼ぎという地位を利用するようになってきた。下手に策を弄するより、ミオが出かけるときに手配書を渡すと、いつの間にか潰していることが多いのでなにかと楽なのだ。

 

 昔は光り物を大事にしていたことを思い出したので、戦利品の宝石類などの宝飾品をプレゼントだと大量に貢いでみたところ、単に資産価値が変わらなくて持ち歩きに便利だから最小化していただけだったという事実が判明した。

 宝石を飴玉の包み紙で包装するとバレにくくて便利だという『明日使えるかもしれない無駄知識』を得た。当時の苦労が偲ばれる。

 

 仕方がないので、海賊の手配書横流しを『外注』として成功報酬を支払うようにしたところ、こちらはすんなり受け取らせることができた。

 ただし、報酬額を高額にするとかかった経費と賞金首の値段から適正価格を算出されて、リテイクを言い出されるのでとても面倒臭い。請求書を用意しないで欲しい。ドンキホーテ海賊団をいちばん会社扱いしているのはミオである。

 

 スパイダーマイルズをアジトにしていたドンキホーテ海賊団は、勢力を拡大しつつ一路グランドラインを目指していたため、リヴァースマウンテンを越えたら追いかけるのは至難の業である。チャンス到来。

 

 山越えをしている最中はミオが不在になるように仕込み、頃合いを見計らって迎えを寄越そうかフッフッフと恩を着せようとしたのだがこれも失敗に終わった。

 

「リヴァースマウンテン越えたの? すげぇええ! おめでとう! お祝い楽しみにしててね!」

 

 電伝虫越しにはしゃいだ声が聞こえ、数週間後にプレゼントを山ほど抱えて合流した。あの小さな船でリヴァースマウンテンを越えたのなら大した手腕だが、船にはさしたる損傷はなかった。

 こっそり調べさせてみたのだが、やたら丈夫で設備が整っていることくらいしか判明しなかった。謎は深まる一方である。

 

 ドフラミンゴはミオを手元に置いておきたかった。

 自分の目の届くところで、真綿でくるむように大事に、掌中の珠のように愛でていたかった。それが許される立場だと信じて疑わなかった。

 

 己の未熟さゆえに姉を喪ったと確信したときの絶望と悔恨は、今もなおドフラミンゴの心の奥底に焼き付いている。

 

 でも、無力さに泣いていた子供はもういない。ドフラミンゴは大人になり、ミオはその時間を止められた。

 立場が逆転し、今度はこちらが守る番だと息巻いていたらこの有様だ。どうしろというのだ。

 

 ドフラミンゴはミオを愛している。

 

 執着し、拘泥している。そうでなければ、遺骸の捜索などという徒労に貴重な労力を割いて、十年来に渡って続けたりなどするものか。

 だからこそ、生きている姉の姿を見たときに感じたのははっきりとした歓喜だった。姿かたちがちっとも変わっていなくてもどうでもよかった。

 

 ドフラミンゴの独占欲は並外れて強い。

 それは本来の資質であったし、地獄の如き環境と経験でより強固に育った。家族は自分のもので、ファミリーは一人残らず所有物だ。そう思えばこそ、大切にする。裏切りは決してゆるさない。実の姉であれば尚更のことだ。

 

 けれど、ミオの家族というのはドフラミンゴのそれとはどうやら違うらしかった。

 

 身内を大事にするのは当然で、ドフラミンゴとロシナンテにも変わらぬ好意を抱いているのは言わずとも伝わるが、それを理由に拘束しようとも、されようともしない。

 

 ミオにとって『家族』は四六時中、一緒にいなければ絆を感じられないような稀薄なものではないようだった。

 

 ひとりひとりが、自分の人生を謳歌する。

 その手伝いはするけれど、強制はしない。根底にあるのは深い信頼で、変わらぬ愛情だった。

 

 けれど、もはやそれでは足りないのだ。

 

 ドフラミンゴはミオを愛して、甘やかしたい。──彼女なしではいられないほどに。

 

 姉を思い慕う心は苛烈な体験で歪み、執着と欲望で醸造された。あたたかで柔らかな姉弟の親愛を求める時期は、とっくに通り越して凍てついてしまった。

 

 再会してからドフラミンゴの欲望は日に日に募り、飢えて渇いてどうしようもなかった。触れる度、言葉を交わすたびそれは強くなる。

 心が蕩けそうなほどの安堵と、ぢりぢりと(うち)側に燻り続ける、煮えたぎるような感情。それは、愛しい日々を根こそぎ奪われた時からドフラミンゴに取り憑いてきた宿痾だった。

 

 奇跡と運命の重ね合わせであらわれた時非(ときじく)の花は──ドフラミンゴのものだ。

 

 もう十分だろう。我慢嫌いの自分がこれでも我慢してきたのだ。

 

 ミオが好き勝手にやっているのだから、こっちだって好きにすればいい。妥協してきてやったのにちっとも居着かないのが悪いのだ。

 好意を持って接して来た相手を、ミオは無下に扱えない。優しくされたら振り払えない。子供たちが良い例だ。その優しさが何より尊い最大の力で、弱点であることをドフラミンゴはもう知っている。

 

 ならばそこを狙う。苦い経験は繰り返さない。ドフラミンゴは海賊で、大人だ。

 大人がずるくて汚くて嘘つきだと教えたのは姉だった。すべてを駆使して奪うことに何の痛痒があろう。

 

「フッ、フフ……!」

 

 暗い部屋の中でドフラミンゴは喉を鳴らして嗤い続ける。

 

 欲しいものは力尽くで奪うのが海賊の流儀だ。

 

 

 

×××××

 

 

 

 ミオの与り知らないことだが、かつて『奴隷嫌い』で名の通った『ラグーナ海賊団』船長であるラウネ・チェレスタは他の海賊たちからも一目置かれる実力者だった。

 

 それは彼の卓越した技倆のおかげでもあったし、食べた悪魔の実の能力故でもあった。実の名前は『コチコチの実』。

 その能力を本人は『凍結』と呼び、また周囲もそう認識していたが、その本質はあらゆるものの『固定』である。

 

 コチコチの能力はとにかくなんでも固定する。

 炎も電撃も空間ごと固定され、分子運動すら停止させる彼の能力は攻め手にこそ欠けるものの汎用性が高く、無類の強さを発揮した。

 

 そしてコチコチの実は他の実にはない、ある特性を持っていた。

 

 それは能力者が死亡した際、いちばん『最後まで固定されていた生物』に、その能力を引き継ぐというものである。能力を引き継がれたものは、それがどんな生き物でも固定されたまま、誰か『別の能力者』に触れられるまで固定が解除されることはない。

 

 そういう意味で、ミオは本当に運がよかった。

 託された先が白ひげでなければ、もし先に別の下卑た海賊に隠し財産を発見されていたら、チェレスタの望みが叶うこともなくミオの命も無駄に散って終わりだっただろう。

 

 かくして、かつて数多の海賊をびびらせた能力を受け継いだミオはそのちからを知る彼の友人、エドワード・ニューゲートから開陳され、血の滲むような努力を続けて磨き上げ──とっても便利な冷凍庫として活用していた。

 

「こっちもください!」

「はいよ、気前いいねぇ」

 

 ぽんと渡された箱に入ったアイスクリームをこっそり『固定』してから紙袋に突っ込む。

 バッファローがアイス好きなのでよくお土産に買うようになったのだが、日持ちしないのでどうしたもんかと悩んでいて、ふと能力を使ってみたらいい感じに保存できたので活用している。もっと早く気付けばよかった。

 

 ドンキホーテ海賊団と縁故を結んでそろそろ二年の月日が経とうとしていたが、ミオの生活はあまり変わらなかった。

 変わったことはドンキホーテ海賊団の勢力が日毎に増していることと、ミオの行動範囲が広がっていることくらいだろうか。

 

 彼らがリヴァースマウンテンを越えたことで、毎回危険を侵して『凪の帯』を軍曹頼りに渡航しなくて済むようになり、ログポースなどの独特の文化を隠す必要がなくなった。そうなるとミオもエターナルポースなどを活用して島々を渡り歩くことが可能になり、結果──以前よりも行動範囲が広がったのだ。

 

「……」

 

 最近、少し悩む。

 

 ミオの生活はおおむね平和だ。

 ドフラミンゴとロシナンテと再会を果たし、彼らの職業を知ってしまったので海賊になることは保留にして賞金稼ぎとして活動している。

 賞金稼ぎとして生活が成り立っているので、白ひげも無理に白ひげに入れとは言わずに好きにさせてくれている。

 

 問題なのは生活面ではなく、ドンキホーテ海賊団の可愛いちびっこギャング……もっといえばローのことだ。

 

 ローは医者の息子で幼い頃から手ほどきを受けてきたのか医学に詳しく、自分のカルテから残り寿命を類推している。彼の計算ではあと一年、保つかどうか。そこに偽りはないだろう。

 

 ないから、厄介なのだ。

 

 彼を癒やせる異能を秘めた悪魔の実と出会うチャンスはこの先、本当にあるのだろうか。

 

 ドフラミンゴはローの運次第だと言っていた。事実、そうなのだろう。

 医学知識に乏しいミオではどうにもできない問題である。

 

 だから、遠出するたびに悪魔の実について探るようにしているが、成果は芳しくない。悪魔の実は無数にあり、能力は千差万別。食べてみなければわからない、なんてことも珍しくない。

 けれど、悪魔の実を食べられるチャンスはひとりにつき一度きり。欲を掻いて二つ目を口にしたものは死亡すると聞く。

 

 この広大な海の、どこかにあるかもしれないローを治療できる力を秘めた悪魔の実。それを探し出してローが食べられる可能性を考えると目眩を覚える。砂漠に落ちた砂金を探すようなものだ。

 

 時間が足りない。いつだってそうだ。歯痒くて、もどかしい。

 

「……ッ」

 

 知らず噛みしめていた唇がぎり、と音を立てる。舌に血の味。

 

 ミオのローへ向けている感情はなかなか複雑で、あえていうなら罪悪感がいちばん近いかもしれない。

 

 

 あの、運命の日。

 

 

 生きて弟たちの元に戻れるなんて、はなから期待していなかった。二人には悪いが、あの時すでにミオは生きた死人だった。彼らが生き残れるなら、自分の命なんてどうでもよかった。そうするだけの価値があって、大切な人のために命を賭すのは望外の喜びですらあった。

 

 ミオはいつだってその瞬間を欲している。そうとは知らず、無自覚に。

 己というものに価値を見出していないから、せめて大切だと、好意を寄せてくれたひとのために自分を使い潰して──果てたいのだ。

 

 幾度となく望まぬ生を受け、余人には言えない奇矯な人生を歩んでいるミオは、その芯が歪んでいる。平たくいえば病んでいるのだ。

 ただ、基本的に善人であるからこそ、気付かれることは少ない。

 

 そこそこの常識と倫理を被って、かろうじて人がましく擬態することに長けているだけで──とっくに『まとも』ではないのだ。

 

 無私と優しさを土台にして、まじめにこつこついびつな成長を遂げたミオは、まれにそれと知らずに人の心を踏みにじる。そこにあるのはねじくれ曲がった優しさで、本人なりの信念に基づいた行動なので悪気なんてかけらもない。狂人が己を狂人と自覚できないことと少し似ているかもしれない。

 

 大事なひとは、自分のぜんぶで大事にする。大事なひとの好きなものは傷つけず、なるべく大事にしよう。敵には相応の態度で臨んで、それ以外はテキトーに。

 そんなごく単純な論理で生きている。下手に実行できているからタチが悪い。

 

 だから──相手は傾けた心の分だけ傷を負う。踏み込めば踏み込むほど、より深く、より強く。

 

 それは悪人も善人も等しく変わらず。

 

 なべて人と人の関係はそういうものだが、ミオの場合はより強烈だった。

 

 そういう存在に、なってしまった。

 

 そうして、頑固であほで考えなしで、おまけに無類の死にたがりは己の命をびた銭程度で売り払い、嬉々として死出の旅へと飛び出した。

 

 ぼろくずみたいになって、心から満足して──うっかり生かされてしまった。

 

 文句を言おうにも、自分を生かした相手は墓の下。

 まんまと死に損なったミオは、ひとりぼっちになったのだと途方に暮れて──その直後に家族ができた。しかもいっぱい。

 

 白ひげの規格外の包容力と家族愛は、これまでミオが知らなかったもので、内心とても戸惑った。まっとうな家族というものに会った試しがなかったため、無条件に与えられる愛情がむずがゆくてこそばゆい。おまけに、白ひげの薫陶をうけた船員たちも年相応の子供扱いしてめいっぱい甘やかした。

 

 頼れる『大人』が、そうして欲しいと望んでいる人ばかりに囲まれた生活は新鮮で、これまで苦しかった日々のご褒美みたいだった。

 

 今を生きているのは奇跡のような偶然が糸のように撚り合わせられて、誰かさんの願いと根性が引き寄せてくれた、いわば余録のようなものだとミオは思っている。

 

 すでに命は売り払ったあとだ。

 

 思いがけず大切な家族に巡り会い、弟たちの成長を見届けることもできた。

 ぶっちゃけ、思い残すことは特にない。仮にここで誰かに殺されてもまぁいいか、と割り切れるくらいには未練がないのだ。弟たちは立派に成人して、白ひげ海賊団はお父さんがいるので安泰だ。

 

 心の底から切望していたことは、もう全部叶っている。

 

 だから。

 

 降って湧いた幸運で命を繋いでしまった自分と、ひしひしと迫る命の終わりを感じ取りながらも、懸命に前を向いて走る少年。

 

 

 ひどく、後ろめたい。

 

 

 ローに会う度、申し訳なさが募る。心配で、落ち着かない。それは同情のような綺麗な感情じゃなくて、もっと独りよがりなものだ。

 

 もし、ひとの寿命を粘土のように切り貼りできるのなら、ローにまとめてあげられればいいのに。

 あのまっすぐ斜めに曲がって未来を諦めきっている少年に、未来を、人生を、寿命を、渡すことができれば。

 

「そんな悪魔の実、ないかなぁ」

 

 ぽつりと、つぶやく。

 いかな悪魔の実にもそんな異能があるだろうか。わからない。寿命の左右となれば、それはもはや神の領域だ。

 

 初めてローを見た時、目つきが弟にそっくりだったから世話をした。

 

 ほんの気まぐれで、それ以上の意味はなかった。珀鉛病に侵された町の生き残りだと言われても、よく逃げ延びたものだと感心するだけだった。どうせこれきりの出会いだと、たかをくくっていたのだ。一期一会。

 事実そうなるはずだったのだけど、なぜだか弟たちの海賊団に入り込んでいて驚いた。

 

 そうなると向き合わないわけにもいかず、生き急ぐ子供の稽古に付き合って、彼の孤独に触れた。心配になって、情が湧いた。だからって、どうにもできないけど……。

 無力を痛感するたび、罪悪感で埋まりたくなる。目的もなくのうのうと生きていることが、自分にまだ寿命があることが、とてもひどいことのように思えるのだ。

 

「軍曹、ただいまぁ」

 

 解決しない問題に暗澹としつつ船に戻って番をしてくれていた軍曹に声をかけると、片脚をひょいと上げて部屋の一角を示した。

 一年くらい経った頃に脱皮した軍曹は、足りなかった脚も元に戻って今日も元気いっぱいです。

 

 テーブルに据えられた電伝虫が、ぷるぷると鳴っていた。

 

「あ、さんきゅ」

 

 買ってきたカブと人参とカボチャを放り投げると、軍曹は投げ網のように糸を出してキャッチしてぼりぼり食べ始めた。

 荷物を傍らに置いて椅子に座りながら電伝虫を引き寄せる。

 

 がちゃ。

 

『よう、ミオか?』

 

 にゅいーっと電伝虫の顔がドフラミンゴそっくりになる。毎回思うのだが、これは電伝虫のこだわりなのだろうか。

 

「こんにちは、ドフィ。なんか海軍本部? の、おつるさん? に襲撃されたから、しばらく連絡できないかもって言ってなかった?」

 

 実の弟という名の獅子身中の虫を飼っているドンキホーテ海賊団は、彼の密告によって海軍本部からちょくちょく襲撃を受けている。

 中でも熱心に追いかけてくるのは本部の『おつる』というおばあちゃんだ。遠目に見たことがあるけれど、老齢の域には入っていたものの姿勢のいい、矍鑠(かくしゃく)としたご婦人だ。女傑って感じ。

 

『目下逃走中だ。だが、問題が発生した』

「問題?」

 

 いちばんの問題は弟が海賊なんて犯罪者集団のボスやってることなのだが、置いといて。

 電伝虫が一度黙り、ややあってからひどく言いにくそうに口を開く。

 

『コラソンが、ローを連れて船を出た』

「え、家出?」

 

 コラソンの愚痴なんて山ほど聞いている。嫌気が差して出て行ったとて、誰が責められようか。いや、ドフラミンゴはボスなので責められるか。

 

『ちげぇ。『ローのびょーきをなおしてくる』だとよ』

 

 ……珀鉛病って、治せる類の病気なのか?

 

 あれは病気じゃなくて中毒症の一種だ。水俣病のような公害病にごく近い位置にあるとミオは認識している。

 普通の病気のように抗生物質の投与や腫瘍の摘出、なんて風に治せるとは考えにくい。でも、コラソンが行動を起こしたということは、それなりの理由があるのかもしれない。

 まさか何も考えず子供を誘拐同然に出奔なんて……ないよね?

 

「そっか、治るといいな」

 

 素直な気持ちを口にすると、電伝虫が面白くなさそうな顔つきになる。

 

『動じねぇな』

「だってコラソン優しいもん。驚きとかはべつにないな。むしろ案外遅かったなー、くらい」

『……そうかよ。こっちはまだ逃げてる最中だ。落ち着いた頃に連絡する』

「はいはい。逃走がんばって」

 

 てきとうに返事をして、がちゃりと通話を切る。

 

「……ふむ」

 

 コラソンがローを連れて家出した。

 

 彼はドフラミンゴに隠しているが海兵である。潜入捜査という立場をかなぐり捨ててもローを救いたいと思い、行動に移したのだろう。それは彼の性格上、いつやってもおかしくない。

 なぜ、二年という月日を経てから動き出したのかの方が、気になる。病院にかかるなら早期治療は基本である。もっと早く行動してもおかしくない。

 

 それが、なぜ、今になって。

 

「よし」

 

 気になるなら、聞きに行こう。

 決断すれば早い。船室から飛び出してもやい綱をほどき、帆を張りながらカボチャに齧り付いている軍曹に声をかける。

 

「軍曹、出発しよう! まずはそうだな、ドラム王国!」

 

 医療技術の傑出した国といえばドラム王国だ。

 グランドラインでも一、二を誇る医療大国だからコラソンたちが立ち寄る可能性が高い。

 確か世界会議にも出席していたはずだから、エターナルポースもどこかで入手できるだろう。

 

 この時、ミオはコラソンことロシナンテが直情的でまれに見るドジッ子だという事実を完全に失念していた。

 

 

 




主人公の精神構造は戦国期の人生葉っぱ隊のそれがいちばん近いです


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

じゅーに.ピノキオメランコリック

 

 

 

 はずれだった。ちくしょー!

 

 頑張ったのに。ものすごく頑張ってエターナルポース入手してドラム王国まで行ったのに、そこにはコラソンとローの姿どころか噂ひとつ存在しなかった。

 

 ドラム王国は冬島だ。

 見渡す限り銀世界の幻想的で、美しい場所だった。寒冷な気候は天然の滅菌空間。医療器具やウィルスの研究にはうってつけなので、他国に輸出できる事業として医療技術が発達するのも当然といえる。

 

「ひっひ、残念だったね」

 

 幸いだったのは、とっても博識かつファンキーなお婆ちゃんことDr.くれはから話を聞くことができたことだろうか。

 彼女は珀鉛病の研究こそしていなかったが、政府に隠れて研究を続けている医療機関をいくつか教えてくれた。すっっごいお金取られたけど。ほとんどオケラになったが悔いはない。

 たかだか知り合った子供のために、ほぼ全財産を「もってけどろぼー!」とためらいもせずに支払ったミオをDr.くれははわりと気に入ってくれたらしかった。

 

「あの町のことは聞いているよ。まったく、忌々しい話さね」

 

 医療に携わる者として、あの一件は憤懣やるかたないと彼女は静かに語った。

 治療法が発見されていないことを逆手に取った閉鎖政策。いわれのない偏見と情報操作で巻き起こった悲劇の戦争とその顛末は、医療従事者には殊更つよく胸を打つ出来事だった。

 

「生き残りがいたとは、ね。それが医者の息子となれば、なんて、皮肉な……」

 

 そこから先は、言葉にならなかった。

 黙祷にも似た時間が流れ、無言で立ち上がり、頭を下げる。二人がいないとなればこれ以上滞在する理由がない。

 

「見つかるように祈ってやるよ。ハッピーだろ?」

 

 Dr.くれははにんまり笑って見送ってくれた。

 船に戻る途中、医者に追われている医者という不思議以外のなにものでもない人物を匿ってあげたところ、結構なヤブだということが判明した。イモリの黒焼きは普通にだめだろ。

 

 さっきのひとたちに突き出した方がいいかなぁと悩んでいたら、ヒルルクというらしいその初老のヤブ医者はミオに感謝を述べると同時に、ひとつお願いをしてきた。

 

「あんたのその目を、よぉく見せてくれ!」

 

 なんでも彼は『サクラ』の研究をしているそうで、ミオの瞳の色を目に焼き付けたいという。

 とっとと船に戻りたいところだったが、あまりに必死な様子につい少しだけならと頷いてしまった。ほだされたとも言う。

 

 道端で長時間喋っていると普通にしぬ気候なので、知り合いの家でじっくり見たいと言うヒルルクに付いていったらDr.くれはの家にとんぼ返りすることになってしまった。

 

「こんなヤブ医者に捕まってんじゃないよ!」

 

 ヒルルクどころかとばっちりでミオまで物凄い勢いで叱られた。ひどい。

 Dr.くれはからミオの事情を聞いたヒルルクは、自分の心臓を抉り出されたようなひどい顔をして黙り込み、

 

「すまねぇ、だが……じゅう、いや、五分。五分だけでいい。おれの研究にはどうしてもその色が必要なんだ! 頼む!」

 

 地べたに座ってがばりと土下座した。

 そこまで言われて断れるほど非情ではないので、わかりましたと大人しく椅子に座った。ヒルルクはミオの頬を両手で包み込んで試す眇めつ、瞳の色を覗き込んでまなじりを緩めた。

 

 懐かしい、あこがれを見るようなまなざしだった。

 

「ああ、そうだ、この色だ。こんな色がいっぱいに広がって、こんな綺麗なもんが世の中にはあんのかって、魔法みたいだった。懐かしいなぁ……」

 

 その響きを口にするのが、幸せでたまらないとわかる感触の声だった。

 自分の瞳の色を通して思い返しているのは分かったけれど、それでも少しだけ照れて視線を動かそうとしたら「まだまだ」と固定された。

 

 ヒルルクはいつか見た『サクラ』に、命を救われたのだという。

 

 サクラ。桜。

 

 弥生の空は、みわたすかぎり。

 

 そんな光景を、見たのだという。

 

 ミオにとってもそれは故郷を偲ぶものだ。

 みっしりと花を抱えた枝からはらはら、ひらひらと、春に降る雪と見紛う幻想的に舞い散る花弁を思い出す。

 

 あの、風にすら色がついているような──胸の奥があたたかく満ちる景色でどんな病も癒えるというなら、それは世界でいちばんやさしい治療薬だろう。

 

「叶えてくださいね」

「ああ、もちろん!」

 

 別れ際にそう言うとヒルルクはガッツポーズを作って自信まんまんに笑って、風変わりな医者たちとミオはそうやって別れた。

 

 まだまだ時間はかかりそうだけど、きっと、いつか彼は夢を叶えるだろう。根拠はないけれど、そう信じさせるだけの情熱と意気込みがあった。

 

 

 それは誰かの心を救う、とびっきりの万病薬になるに違いない。

 

 

 

×××××

 

 

 

 コラソンがローを連れてドンキホーテ海賊団を抜け出して、五ヶ月が経過した。

 

 その間、コラソンはあらゆる大病院を巡りローの治療法を見つけるために活動していたが、結果ははかばかしいどころかむしろ最悪だった。

 

 国と世界政府が総力を挙げて作り上げた噂と印象操作による偏見は、町の人間どころか医療従事者にまで及び、彼らの心を苦しめた。

 悪質な流言飛語と『伝染病に感染するかもしれない』という恐怖から受ける迫害と罵声は、まるで幼い頃の焼き直しのようで、辛いと泣くローに申し訳なさが募る。

 

 大人たちから受ける差別と偏見の視線、侮蔑の言葉がどれだけ幼い心に傷をつけるのか、コラソンはいちばん知っているはずなのに。

 

 次の町には必ずいい医者がいる、と気休めににもならない言葉ももう何度目だろうか。

 

 それでも、次こそ。今度こそはと願い続けて──五ヶ月。

 

 正直、気が塞いでいた。

 出口のない迷路にいるような漠然とした不安が付きまとっていて、けれどそれをローに悟らせるわけにもいかず、袋小路だった。

 

 その島は夏島で、大きな町も病院もないごく素朴な島だった。

 

 次の島の中継として利用した場所だったので、気晴らしになるだろうかとローを連れて森に行き、自分の能力を披露した。

 

 コラソンの食べた『ナギナギの実』は周囲で発生するあらゆる音を遮断する事ができるため、それを利用して壷を割ったりバズーカをぶっ放したり。最終的には屁までこいた。ローにはブキブキの実の方が恰好良いと不評だった。グサッときた。確かにあれは恰好いいが、なにも正面から言わなくても……。

 

「だが"安眠"において、おれの右に出るものは……」

「どうでもいいよ!」

 

 ローが怒鳴り散らすと、前触れもなくその背後でがさりと音がした。小動物よりもっと重い──人間が枯れ葉を踏む音だ。

 

「ロー!」

 

 咄嗟にコラソンはローを庇って前に出る。ローも無意識にか、コラソンの足にしがみついて警戒も露わに音の発生源を睨み付けた。

 しばらくガサゴソと木立を分けるような音が聞こえ、恨みがましいのに耳に慕わしい、小鈴のような声が響いた。

 

「ああ、いたいた。やぁっと、見つけたぁあ」

「!?」

 

 木の間から出てきたのは、小柄な少女のように見えた。

 頭のかたちに沿うように切られた雪色の髪に、桜色の瞳。全体的にほっそりと華奢なので大人しそうな印象だが、内実が色々と裏切っている残念な子だということをコラソンはよく知っている。夏島なのに袖の長い服を着て、全体的にもっさりした様子であちこちにいくつも葉っぱをくっつけているミオだった。

 予想もしていなかった人物の登場に目を剥く。

 

「ミオ!?」

「お、おまっ、なんで!?」

 

 もしやドフラミンゴの命令で連れ戻しに来たのかと、コラソンに緊張が走る。

 子供を守る親猫みたいに威嚇するコラソンをなんだかぼへっとした顔で見たミオは、癇性に髪をがりがりとかくと、ため息を漏らした。

 

「なんでって、二人が家出したって言うから追いかけてきたんだよ……」

 

 ああくたびれた、とそのままぺたんと腰を下ろして重そうに膨らんだリュックサックを横に置いてそのまま大の字になってしまう。

 屍体でなければゾンビみたいだ。敵意どころかやる気もないその様子に二人からも緊張が抜けていく。

 

「勝手気ままにできるのが、自由業のいいところだよね」

「ドフィの命令じゃ、ないのか……?」

 

 寝そべりながらどや顔するミオにこわごわと近寄り、膝を折ってヤンキー座りで問いかけると、心底不思議そうな顔をされた。

 

「? なんでそこでドフィが出てくんの。僕が勝手に追っかけただけー」

 

 言われてみれば、ミオは『遊びにくる』だけでドンキホーテ海賊団に所属しているわけではない。賞金稼ぎという立場はどちらかというと、海兵の方が近いかもしれない。

 

「そう、なのか」

 

 あっけらかんとした言い方には嘘も虚飾もなくて、それだけでコラソンは安堵できた。

 そこでようやく事態を把握したらしいローは、コラソンの足元から飛び出してミオの頭を覗き込んだ。

 

「おいミオ! お前、知ってたのかよ!」

「なにがぁ」

「コラソン! 喋るの!」

 

 ずびっ、とコラソンを指差して捲し立てた。

 コラソンが喋れることをローが知ったのは、旅立つ本当に直前のことで、記憶している限りではバラす余裕なんてなかったはずだ。

 やきもきするローに対して、ミオは拍子抜けするほどこともなげに答えた。

 

「そんなん、初日から知ってるよ」

「ッ!? ドフラミンゴに言わなかったのか?」

「なんで?」

 

 胡乱な顔をされてローの方が戸惑った。なんで、って。

 その様子を見て、ミオはやれやれどっこいしょとオッサンくさいことをつぶやきながら身体を起こし、その場であぐらをかいて座り込む。

 

「コラソンが知って欲しくないって言ってたから、言わなかった。そんだけ」

「そ、それだけの理由、で?」

「いちばん大事じゃない? 兄弟だって人間だし、隠し事のみっつやよっつくらいしたっていいと思う」

 

 そう言われると困る。

 

「べつに弟たちの邪魔がしたくて会いに行ったわけじゃなし、隠したいことを吹聴して回るほど鬼じゃないよ?」

 

 なんでそんなことを聞かれるのだろう、といわんばかりの態度でようやくローにも理解できた。

 本当に大したことではないのだろう。

 弟が兄に隠し事をしていて、内緒にしてくれと頼まれたから了承した。ただそれだけの、本当に単純な話なのだ。ミオにとっては。

 

「そんなことより、コラソン。ローは治りそう? いい病院は見つかった?」

 

 痛いところを突かれて、コラソンが黙り込み、ローの頬がひきつった。その様子から察したのだろう、ミオは眉をしかめてから軽く手を振った。

 

「ああ、いい、いい。わかった。聞いてごめん。僕の方もね、あんまりちゃんとした実りがなかったから、偉そうなこと言えないし」

「え?」

 

 考えもしなかったことを言われて、動きが止まる。ミオは今、何を言った?

 

「姉様、いや、ミオ?」

 

 コラソンが問い質そうと口を開きかけ、ミオは話を聞いているのかいないのか、傍らに置いてあったリュックを引き寄せるとジッパーを開いていく。はち切れそうなほどいっぱいに詰まっていた紙の束が、何枚かまとまって飛び出した。一枚一枚にびっしりと文字が書き連ねてあり、読むだけでもうんざりしそうだった。

 

「こっちはまず、ドラム王国に行ってみました」

「ドラム王国って、あんな遠い国に!?」

「遠いけど、医療関係はドラムが有名だから。残念ながら、珀鉛病の治療法はわかんなかったけど。ごめん。でも、そこから世界政府に隠れて珀鉛について研究してる機関を教えてもらって、そこを回ってた」

 

 風に浚われそうな紙片をローが咄嗟に押さえると、それは論文のようだった。

 何気なく何行かに目を走らせてぎょっとする。途切れなく詳細に、地層の特質から掘り出す際の注意点から、人体に与える影響について。珀鉛の持つ特色と危険性に関するレポートだった。

 

「まさか、これ、ぜんぶ……?」

「持ち出しは無理って突っぱねられたんだけど、こっちも時間ないしさ、いやコラソンの電伝虫の番号聞くの忘れてた僕も悪いんだけど。しょうがないからこっちの事情話して拷も……必死の話し合いをして資料まるっと平和的にコピーしてもらった」

「いま拷問って言った!」

「いってない。だいじょうぶ、手は出してないからせーふせーふ」

「嘘だー!」

 

 ぜったい嘘だ。ならこの紙のはしっこについている、赤茶けた染みはなんなんだ。

 

「で、研究機関みっつ回って、その間に病院潰してる大男がいるって噂聞いて、それ追いかけて、きたって、わけ」

 

 説明している間にミオの声はだんだん途切れて、間延びしていく。瞳が眠たげに半分伏せられて、うとうとと。

 

「あっこら! 寝るな! 説明しろ!」

 

 肩を掴んでがくがく揺すると、ミオは子供がむずがるみたいにくちびるをへの字にして、なんとか言葉を作り出す。

 

「うえー、えーと、聞き込みしたらあの男の関係者かって、うー、弁償しろ、いわれるし、どくたーにお金はらってすかんぴんで、医者のたいど、むかつくし、それで、だから、ここまで強行軍、で……う、むり。げんかい」

 

 もうむりねむいと両手を上げる。

 後半はもにゃもにゃしていて聞き取りにくく、自分でもなにを言っているのかわかっているのかどうか。

 ごしごし、と目をこすってあくびをもらし、ねむたげな瞳のままミオは肩を掴んでいるローを見た。よくみたら目許にはひどい隈ができている。

 

「これ、たいへんだけど、読んでおいて。ろーならわかること、あるかも」

 

 ローに負けず劣らずの青ざめた顔色で帽子越しに頭を撫でながら、ふわりと微笑んだ。

 

 小さな白い、花みたいに。

 

「ぼく、ばかだから、これくらいしかできなくて、ごめんね」

 

 ふわふわと、おぼつかない口調で紡がれる陳謝の言葉。意識が曖昧なせいかまとまっていなくて、だからこそ本音だと知れた。

 

「ロー、コラソン、いっしょにいさせてね。……おいて、いかないで」

 

 それきり、とうとう限界がきたのかそのままかくんと俯いて動かなくなる。細い寝息が聞こえて、眠ってしまったのだとわかった。

 コラソンは置いてあったコートを取ってきてミオをそっと倒して、かけてやった。

 

「……しばらく寝かせておいてやろう」

 

 ローはなにも言わずに頷いて、紙を無理やりリュックに詰めてジッパーを閉めた。持ち上げようとしたら、子供の体重ではひっくり返りそうなくらい重かった。

 

 もう治らないと、死ぬのだと諦めきっているローに諦めるなとのたまう馬鹿が二人もいる。

 

 言葉だけではなく行動でそれを示してくる。

 コラソンとは別のアプローチで、けれど同じだけの時間をローのために使って駆けずり回っているひとがいた。

 

 それが分かってしまったから、どうしようもなかった。

 

 目の奥が熱くて、喉の奥がひきつる。涙にも温度があるのだと知った。瞼が熱い。たまらずしゃがみこむと視界がゆらゆらと揺れて、地面にいくつも染みができた。コラソンの(はな)を啜る音が聞こえる。

 なんでそっちが泣くんだよと言いたかったが、嗚咽が混じってしまうのが分かっていたので言えなかった。

 

 それからしばらく、泥のように眠りこける少女の横で男二人がべそをかくという、とても人には見せられない光景が展開された。

 

 ミオは本当に疲れきっていたらしく、夕日が落ちる頃になっても起きなかったので、コラソンがおんぶしてひとまずはと自分たちの船に戻ると、その横にしれっと彼女の船が係留されていた。

 船室で寝かせてやろうと船に乗り移ろうとしたら、シュタッと音を立ててローと同じくらいのサイズの黒い蜘蛛が現れてとっさに後じさる。

 

「うおおお!?」

「でっけ、蜘蛛!?」

 

 蜘蛛は声こそ出さないがキチキチと歯を鳴らして警戒しているので、ローとコラソンは迂闊に動くことができず顔を見合わせる。

 すると、その振動と声でミオが目を覚ましてしまった。

 

「あー……船まで運んでくれたんだ。ありがと」

「そんなことより蜘蛛! 蜘蛛が!」

 

 わたわたするコラソンの背中を「まぁまぁ」とミオはなだめるようにぺしぺし叩く。

 

「留守番しててもらったの、僕の相棒なんだ。ただいま軍曹。コラソンとローだよ、よろしくね」

 

 そう言いながら手を振ると軍曹と呼ばれた蜘蛛は、警戒をやめてしばらく二人を見つめるような仕草をしてから、よろしくという感じで片脚を上げた。

 意思疎通ができるのが驚きだが、フクラシグモと聞いてもっと驚いた。

 海王類も捕縛する強靱な糸と、それらを捕食できるだけの強さで知られる蜘蛛だ。

 

「ローはこっちの船おいでよ。夏島でも子供を野外で寝かせるのは、ちょっと」

「ああ」

「おれは!?」

 

 ガビーンとショックを受けるコラソンにミオはちょっとイヤそうな顔をした。

 

「子供連れでその船使い続けたっていうの、ぶっちゃけ引く……」

「引くな! すまん! 時間がなかったんだ!」

「ごめんごめん、冗談。二人でおいで」

 

 けらりと笑ってコラソンの背中から降りたミオはリュックサックを受け取り、そのまま手招きしてくる。コラソンが使ってきた船は、ロープと軍曹の糸でミオの船に繋いでもらった。

 よく見るとこの船はどことなく、くじらに似ている。

 

「この船、名前あるのか?」

 

 ローは以前とはまったく違う気持ちで船に足を踏み入れて、すでに勝手知ったるこの船のことを何も知らないことを思い出した。

 ミオはなぜだかえへへと照れくさそうにはにかみながら答えた。

 

「あるよ、モビーっていうんだ。モビー・ジュニア」

「ふーん?」

 

 ローに続いて船内に入るコラソンがそれを聞いて苦笑していた。

 

「いい名前だな」

 

 そうつぶやいているのが、なぜだか印象に残った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

じゅーさん.きみわずらい

 

 

 夜になって、美味くないけどまずくないびみょうな腕の料理を披露したら、ローは「なんで上達しねぇんだよ」と文句を垂れて、一口食べたコラソンが懐かしいと言って泣き出した。上達しなくてごめん。

 

「そうだ、なんで今になって飛び出したの?」

 

 追いついた安心感で寝てしまったが、これを聞こうと思っていたのだ。

 レタスの炒め物を食べていたコラソンは口の中のものを呑み込んでから、一度ローと視線を合わせた。ローが頷いたことを確認して、神妙に口を開く。

 

「ローは"Dの一族"だ」

 

 とん汁をすすっていたミオはお椀を置いてちょっと考えてからがおー、と大魔王のポーズ(両手を無意味に前に伸ばす)をした。

 

「Dってこれ? 食べちゃうぞの?」

「それだ」

「は-、えー、実在してたんだあれ。いや、かの『海賊王』がそれだったっけそういえば。それで、あー、そうかそうか。そりゃドフィから離したいか、ろくなことにならなそうだもんね。ふんふん、ふーん」

「勝手に納得してんなよ。なんなんだよ、それ」

「うちの地域の子供を躾けるときの常套句。悪い子はディーが食べちゃうぞって」

 

 ローが頬を膨らませるので適当に説明してやる。

 Dの一族にまつわるなんやかんやを知るまで、ミオの中のディー想像図は某食べちゃうぞの緑色の怪獣だったのだが、割愛。

 

「要はあれだ、ドフィとローはめっちゃ相性悪いってこと」

 

 食事を再開したコラソンが何度も頷き、とん汁を口に含んだ瞬間に噴き出した。すかさず用意しておいたお盆を立てて、おかずをガードする。

 それをぼんやりと見ていたローが、箸を置いてぽつりとつぶやいた。

 

「……おれは化け物かよ」

「さぁ? そういう話があるよってだけだから、どうなんだろうね、実際」

 

 コラソンの噴いた味噌汁を布巾で拭いながら、ものすごく適当かつざっくりした返事をされた。

 それにむっとしてローが口を開くより早く、話が続く。

 

「それに、僕にとってローはローだから、べつに怪物でもモンスターでも化け物でもなんでもいいかなぁ」

 

 日常会話の延長で世間話のように、本当に、心底からなんでもないことのように口にされた言葉だったから、衝撃を受けるひまもなかった。

 反応すらできずに硬直するローに首をひねってから、ミオはコラソンに向き直る。

 

「コラソンだってそうでしょ?」

「もちろん、そうだ」

「だよねぇ。じゃなきゃ、可愛くないくそがきをわざわざ連れ出したりしないし、僕だってこんなあっちゃこっちゃ行かない。理由も動機も、ぜーんぶローだからだよ」

 

 ぜーんぶ、とミオは両手を広げてローをとびきり綺麗な花でも見るみたいに笑った。

 

「ローが可愛くないけどほっとけないくそがきだから、できることをやっただけ。勝手にね。コラソンもそうだと思う。だからさ、そんな情けない顔しないでよ」

 

 そして、ちょうどケトルが甲高い音を響かせる。

 言いたいことは言ったとばかりに、ミオはお茶淹れてくるわと言ってさっさと席を立ってしまった。

 

「……あいつ、馬鹿だろ」

 

 ぐったりとテーブルに身体を預けて頭を抱えたローのか細いつぶやきに、コラソンは視線をあちこちに彷徨わせて、それから口元を苦く吊り上げながらもごもごと言った。

 

「まぁ、その、ああいうひとなんだ、昔から。あー、だからなんだ、うん、諦めてくれ」

 

 

 

×××××

 

 

 

 食後の皿洗いなどを追えたミオは、二人にとりあえずお風呂入ってきなさいとタオルと着替えを押しつけた。

 彼らがこれまで使ってきた船は、ドンキホーテ海賊団の救援用ボートのままで小さく、設備が乏しいからそれもむべなるかな。

 時刻も遅いし、ましてローは珀鉛の影響で徐々に体力が落ちているようだった。なるべく清潔を心がけるべきである。

 

 コラソンはタオルを受け取ったものの「こういうのはレディファーストだろう」と難色を示してきたので、ミオはちょっと考えてから折衷案を出した。

 

「じゃあ、ローと一緒に入る」

「んな!? アホ言うなばか! いいからさっさと行け! ばか!」

 

 瞬間湯沸かし器みたいな勢いで真っ赤になったローに怒られた。よく考えたらローの年齢的に恥ずかしかったかもしれない。悪いことをしてしまった。

 じゃあ先にさっさと入ってくるよ、と告げて浴室に行ったら後ろで「ぶじょくだ。おれ、男なのに」「よしよし、今のはミオが悪かったな。あとで言い聞かせておくからな」という会話が聞こえてきた。交流内容がびみょうである。

 

 なんとなく釈然としないまま浴室に入って身体を洗い、湯船に浸かる。ローはともかく、コラソンは全身つかれるかどうかギリギリだ。

 お湯はぽかぽかして温かく、疲労どころか思考までがとろけていくようだった。うんと身体を伸ばし、心地よさに吐息をもらす。ここまで追いつくのが本当に大変だったのだ。

 

「おあ~……」

 

 だらしない声を上げて、沈思にふける。

 

 ドラム王国から得た情報をもとに、秘密裏に珀鉛に関する研究機関を尋ね回ること約五ヶ月。

 

 表沙汰になった途端に潰されるから資料は渡せないと首を振る研究者をおど……話し合って資料を入手して、渡してもいいがその少年を治験にさせてくれないかとマッドな提案をしてきた博士をしば……そういう考えにいかないように説得して、極めつけはほぼ革命軍寄りの研究所だ。世界政府に反感を抱く研究者となれば予想して当然の流れなのだが、いちばんやばかった。しぬほど苦労した。

 睫毛と顔の濃いおネ、いやおじ、いやいや性別不詳のひとが口を利いてくれなければ無理だったと思う。

 

 資料が役に立つかどうかは、わからない。本当にローの運次第だ。

 

 いい病院というセンは、研究所を回る内にほぼ不可能と悟った。そうなると、悪魔の実に賭けるしかない。

 

 悪魔の実の能力は、万能な魔法でもなんでもない。

 扱うには相応の技術と知識が必要だ。そうなれば、珀鉛に関する資料はローの一助にはなるはずだ。なってくれることを、ただ願う。

 

「……ねむぃ」

 

 昼寝程度で抜けるほどの疲れではないので、身体があたたまるにつれて眠気が襲ってきた。能力者になってから余計に顕著になった気がする。

 このままだと溺れそうなので、のろのろと湯船を出て身体を拭いてから脱衣所でぱんつをはき、バスタオルを肩から提げて適当に水気を抜きながら戻った。

 

「お風呂あいたよ~」

 

 声に気付いたコラソンが「ああ、わるい、な……!?」と顔面を盛大に引きつらせた。

 

「き、キャアアアアアアッ!?」

「どうしたコラソン! って、ウワアアアア!?」

 

 雑巾を裂くような野太い悲鳴にローが飛び込んで来て、同じく奇声をあげた。

 幽霊でも見たような絶叫にびくっとして、寝惚けた頭が覚めてくる。

 

「うぉびっくりした。なんなん二人して」

「ちょ、なんッ、おま、ふく! 着ろ!」

 

 ローが帽子で自分の顔を覆いながら叫んだ。紳士。

 コラソンは慌ててコートをひっつかんで、駆け寄ろうとした挙げ句にスッ転んで大惨事である。

 

「あ、そーかごめんごめん。ねむくて忘れてた。いやー、いつも一人旅だったもんだから、つい」

「自己申告いらねぇよ! 早くしろ!」

「おっふ、そんな怒らんでも。ごめんて」

 

 なだめようと手を伸ばそうとしたら、もはや悪霊退散とか叫ばれそうな勢いだったので、仕方なしに早足で一旦戻って着替えた。

 紳士なのか、どちらもがまだ両手で顔を隠したままだったので「もういいよ」と声をかけたら「姉弟でも男なんだ気を付けてくれ!」「次やったら痴女で訴えるからな!」とやたらと息の合った二人は口々に叱り飛ばしながら風呂に行った。

 

「あったまってきてねー」

「うるせぇ! 分かってるよおたんこなす!」

 

 罵倒のレパートリーばかり増えていくことが悲しい今日この頃。

 

「あ」

 

 ……コラソンとローがお風呂に入ってしばらくした頃、二人が上げた悲鳴の意味に気付いて悪いことしちゃったなぁ、と反省した。

 

 

 

×××××

 

 

 

 思い返せば、ドンキホーテ海賊団が夏島をアジトにしている時も必ず長袖の服を着ていた。

 肌の露出があまり好きではないと言っていたから、そうなのかと思った程度だった。水着になったところを見たことがない。

 

 そして、それをドフラミンゴがからかうこともなかった。

 

 口からほとばしってしまった悲鳴は、決して羞恥と驚愕だけのものではなかった。

 

 愕然としたのだ。

 

 タオルとぱんつでかろうじて局部は隠れていたが、ミオの全身には惨たらしい疵痕が刻まれていた。

 柔らかな風貌に到底似合わない、凄惨な古傷である。拷問跡じみた切り傷や打撲傷に縫合痕。銃創や骨折の痕跡。火傷の痕だろうか、腹には皮膚が変色している箇所も見てとれた。

 

 華奢な体躯に執拗に刻まれたそれらは、海賊という生傷の絶えない環境で受けるそれとは明確に種類が異なっていた。

 父から受け継いだ医療知識がローにそれを教えてしまう。

 

 あれは死なないように丁寧に痛めつけられた──嬲り殺しにされそうになった人間の、傷だ。

 

「あれは昔、おれとドフィと……父を守るためについたんだ」

 

 シャンプーで髪を泡だらけにしながらコラソンがぽつりと言った。懺悔にも似た、舌に針でも刺さっているような声だった。同じ事を考えているのだと、その背中が語る。

 身体は温まっていくのに芯が冷えていくようだった。

 

「なにが、あったんだよ」

 

 ローはドフラミンゴとコラソンとミオの過去を知らない。気にする余裕なんてなかったのだから当然だ。

 それでも、この月日でコラソンの心に触れて、うっかりだとしても凄惨な出来事を思わせるものを見てしまえば、知りたいと思うのもまた当然で。

 

「ぐぉッ! う、その……うちの家系は、あんまり評判がよくねぇんだ。だからバレねぇように暮らしてたんだけどよ、バレて、ひでぇ目にあって」

 

 コラソンはシャワーで泡を流し、シャンプーが目に入ったのか悶絶しながら言葉をこぼした。

 

「そん時ゃ、おれもドフィもまだガキで、どうにもならなくて……ミオが、姉様がおれたちを庇ってくれた。そこから行方不明になって……あとは、悪い、かんべんしてくれ」

 

 たぶんシャンプーのせいだけではない涙目でコラソンは語って、湯船に浸かる。

 一人用の船にしては大きい浴槽だったけれど、コラソンが入るとギリギリだ。お湯があふれて、ローの身体もわずかに浮いた。

 

 コラソンの聞いているこちらの胸がつぶれてしまいそうな声音と、細い身体に刻まれた苛烈な半生を物言わず語る疵痕。そういえばコラソンにも傷が多い。

 

 奇妙なほどの納得と共感があって、ああそうかと思い至る。

 

 ローとコラソンたちは理由こそ違えど、似ているのだ。

 

 だからドフラミンゴは偏見の目を持たずにローを受け入れ、噂に踊らされて拒絶しようとしたジョーラを厳しく叱責した。他のどんな人間よりもまともに扱ってくれたのは、思い込みと無知が生み出す危険性を誰より知悉していたからに他ならない。

 

「……」

 

 身体はさっぱりしたけれど、なんともいえないわだかまりがあって、二人は何も言えずに浴室を出た。

 

 甲板で蜘蛛と一緒に涼んでいたらしいミオがそれに気付いて寄ってきて、今日はもう寝ようよと寝室へ誘う。ベッドは二人に譲るからとさっさと布団に入ろうとするのをコラソンが引き留めて、協議の結果ローとミオでベッドを使い、布団をコラソンが使うことになった。コラソンの体格だとベッドから足がはみ出るのである。

 

「おやすみ」

 

 ぎくしゃくするふたりにミオはちょっとだけ申し訳なさそうに苦笑したけれど、なにも言わなかった。

 ランプの灯が消され、カーテンの隙間からあえかな月光が差し込んでいる。

 

 ベッドはあまり広くないから自然と身体がくっついた。しなやかな硬さが目立つ、けれど柔らかい身体。

 

 低い体温と吐息。響く鼓動。

 

 生きている、とローは思った。当たり前だった。けれど、それは奇跡に等しい『あたりまえ』なのだとローはもう知っている。

 

「ごめんね」

 

 ほろ、と言葉がこぼれた。枕に頬をこすりつけながらミオがローを見つめて眉を八の字にする。

 

「子供に見せちゃ、だめだった」

 

 深い藍色の降りる室内で、その声はとてもしょんぼりと響いた。

 誰かの秘密を知ったとして、それで変わるのは自分の認識と感情だけで、本人が変わるものではない。まして、ミオのそれは彼女自身のせいではないのだ。

 

 横になった身体の、よじれた布の隙間から真珠色の肌に少しだけ見えた疵痕。縫い跡。つみのあと。

 

「……憎く、ないのかよ」

 

 傷から伝わる体験に触れて、ローは素直に聞くことができた。

 その問いに、なぜだろう、ミオはほんのりと微笑んだ。瞳はどこか傷ついているようだったけれど、それを上回る、何か、豊かな感情で潤んでいた。

 

「憎いとかはないんだ、ほんとに。まぁ、時々腹は立ったけど、生きるのにとにかく必死だったし、ろ、コラソンとドフィは生きてるしね」

 

 それに、と続ける。

 

「僕を殺そうとしたのは人だったけど、救おうとしてくれたのも──人だったから」

 

 そうなると恨みようにも恨めないんだ、困るねとミオはひっそり囁いた。ローから外れた視線の先で、何かを懐かしんでいるようだった。

 内緒話のように密やかな声はローの壊れてしまったところに染み込んで、ひりひりするような気持ちをもたらした。

 

 ささやかな波音が遠く聞こえて、濃紺の暗がりの中で自分の手を見つめる。まだまだ小さい手だ。所々に白い痣が浮かび、それがローを責め立てる。

 

 もし、もしも。

 

 ローがとびきり腕のいい医者になったら、あの疵痕を残らず消せるようになるだろうか。

 

 暑い日にプールに行って、人目を憚らず水着になって涼むことができるような。そんな、当たり前のことを考えつきもできないくらい、疵痕との付き合いに『慣れてしまった』ひとに、それを与えることはできないだろうか。

 

 叶いっこない願いがそれでも胸の中ではち切れそうで、ローはその夜夢を見た。

 

 そこにはコラソンがいて、大人になったローがいて、ミオがいた。

 

 果てしなくダサい柄のTシャツを着たミオとコラソンが手を振っていて、ローの横には見たこともないシロクマとツナギを着た若者たちがいた。

 

 

 みんな──笑顔だった。

 

 

 




明日までに完結までアップしてしまいたい…


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ふたりの泣殻

 

 

 

 ミオが合流してから三人の旅路はぐっと楽になった。

 

 船の設備もさることながら、一人旅のために白ひげの航海士から厳しい薫陶を受けたミオがいれば海の変化を敏感に察して相談することができるからだ。

 夕方、島での買い出しも済ませたから先に進もうと言うコラソンに、ミオは見張り台から南の空を見て、渡り鳥の飛ぶ高さを確認してから甲板に降りて、苦い顔をしてから首を振った。

 

「出発するなら明日の朝にしよう。たぶん、小さいけど嵐が来る」

 

 越えられないことはないだろうけど、リスクを背負うよりも一晩やり過ごして安全に行く方がいいと思うと言って、全員で船室に戻った。

 

 コラソンが料理を作るとキッチンが殺人現場みたいになるので、ミオとローで夕飯を作って食べているとにわかに風の音が騒がしくなる。扉に叩き付けてくる音を聞きながら明日にして正解だったなと頷きあった。

 

 それから、リビングとして使用している部屋に据えられたソファで、ローは軍曹を背もたれにしながら例の資料を食い入るように読み込んでいた。

 ミオが持ち込んでからこっち、ローは空いた時間をひたすらに資料を頭に叩き込む作業に注ぎ込んでいた。

 紙束にはいくつもの付箋が貼られ、気になる部分には線を引いて、種別分けされた束がそここに積まれている。さながら受験生か、それこそ医学研究生のようだ。

 

「やっぱり難しい?」

「走り書きの解読はちょっと面倒だ。けど、読めないわけじゃない」

 

 ローの両親は本当に優秀な医学者だったので、幼い頃からそれらの技術と知識に触れてきたローにとって、医学論文の解読は馴染み深いものでもあった。

 ミオはそんなローの向かいで床に敷いたクッションに座り込んで、裁縫道具を持ち出してコラソンの服になにやら縫い付けている。

 

「その服、ほつれてるところなんてあったか?」

「ほつれてないけど、ちょっと予防策というか最近物騒なので色々と。ほら、コラソンって肝心な時にドジ踏むから」

「ふーん?」

 

 喋りながら、淀みなく動く針と糸。刺繍のようにも見えたのだが、少し違うらしい。

 冬島が近いので火を入れたストーブの上には、薬缶が据えられて羽毛のような湯気をしゅんしゅんと吐き出している。

 

 ちなみにコラソンはソファの下で、こちらはクッションを枕にして爆睡している。彼も子供を守りながらの旅で相当に疲労していたのだろう。ローのことを任せられる人間が傍にいるというのは、大きい。

 ぐっすり休むというのと睡眠を取るというのは意味が違う。何かを警戒せずに眠れるという贅沢を思うさま享受しているようだった。

 

「一段落したら教えて。お茶にしよう」

「ほうじ茶な」

「うん、了解。そのときはコラソンも起こさないと。さびしがるから」

「……ん」

 

 しばらくは、時折聞こえる物凄いいびき以外は静かなものだった。ほっこりと暖かい船室。ぱちりぱちりと薪が爆ぜる音。

 

 興が乗ったのか口が暇なのか、小さな鼻歌。

 

 本当にささやかな声でうるさくはなかったから、ローは指摘しなかった。きっと指摘したらやめてしまう。それはなんとなく、もったいなかった。

 

 人の気配はあるけれど、それが互いの邪魔をすることはない。誰も自分を傷つけない。穏やかに流れる時間は心地がよかった。

 

 ミオが追加で参加するまでの間の二人旅で、ローの心には変化が起きつつあった。

 コラソンは誰より真剣に治療法を求め、ローへ向けられる悪意に誰より強く憤慨した。諦観と破壊衝動の塊だった心に、そんな行動のひとつひとつが波紋を起こしている。

 

 すでに何もかもに倦み疲れ、諦めきっている子供を叱咤して無理やりにでも引っ張り回して行動し続けるのは何故だろうか。普通の大人ならばとっくに諦めているのに、コラソンにはそんな気配がちっともない。

 

 

 その理由を知りたいと、少し思う。

 

 

 

×××××

 

 

 

 合流してからもコラソンはローを連れていくつか病院行脚をした。

 その病院はいずれも有名であったし、まだ希望を捨て切れていないせいでもあった。

 それでも対応はこれまでとほぼ変わらなくて、やれホワイトモンスターだあっちにいけと罵る声に素早くローの耳を塞いだミオは「そりゃ、火つけるわ」と顔をしかめていた。

 

「何をやってんだおれは……、」

 

 藍色に染まる空にひとつの月。

 

 明るく滲む月光の下でコラソンは物憂げにつぶやいた。

 服が汚れるのも構わずワインをラッパ飲みして、これまで後生大事に持っていた病院までの海図や資料をまとめて海にばらまいた。

 背後で聞こえるローの細い寝息。船までは距離があるからと今日は野宿だ。

 

「悲劇の町に生まれたガキに、散々悲劇を思い出させて……結果、少しもよくなりゃしねェ……!!」

 

 自分の無力を痛感させられる。どうにもならないことは世界にいくらでも転がっていることは知っていても、どうにかしてやりたかった。

 だから足掻いて、もがいて、けれど結果はついてきてくれない。

 

「"D"のためか?いや、それはもうどうでもいい……」

 

 自問して首を振る。そんなことはどうでもいいのだ、本当に。

 

「おれはずっと、同情してた……。傷つけるだけのこんなバカに、言われたくねぇだろうが」

 

 寝こけるローに近付いて、寝相ではだけてしまった毛布をかけ直してやる。白い痣はずいぶん増えてしまった。それが痛々しくて、ひどく悲しい。

 なにひとつしてやれないことが、情けなくてたまらなかった。身体は大きくなったのに、心はいつまでもガキのまま成長できていない気がした。

 

「まだ幼いクソガキがよ、「おれはもう死ぬ」なんて、かわいそうで……」

 

 あどけない寝顔に浮き上がる白。

 ぬぐっても消えない絵の具のようなそれが、コラソンにも突き刺さってぎりぎりと締め付けてくる。

 

「あん時おまえ、おれを刺したけど──」

 

 それは世界でいちばん優しい懺悔で、慟哭だった。

 

「痛くもなかった」

 

 あの熱さと痛みはそのままローの叫びだと思った。

 

 助けて、と言われた気がしたのだ。

 

「痛ェのは、おまえの方だったよな……ッ」

 

 けれどコラソンにはそれすらできない。悔しくて、苦しくて、たまらない。

 声がふるえて、涙が止まらなかった。

 

「かわいそうによお……っ、ロー……!」

 

 同情なんてされたくないだろう。わかっている。だけど無理だ。

 これ以上泣くとローが起きてしまう。

 視界がぐにゃぐにゃ歪む中で距離を取ろうとしたら、小石を踏んで思い切り転んだ。脳天を打って悶絶していたら、ふと影が差す。

 

「あ、また転んでる」

 

 薪をもったミオが自分の顔を覗き込んだ。涙について言及しなかったが、その顔は笑みのかたちだったけれど痛々しく、きっとコラソンと同じ気持ちなのだと分かった。

 転んで仰向けになっているコラソンを起こさずに、ミオは薪を置いて上を見上げた。滲むような月と、星屑の腕。

 

「……僕はね、ローに僕の寿命をあげられたらいいのにって、ずっと思ってた」

 

 小さな背でせいいっぱい、踵を持ち上げてうんと背伸びをして両手を伸ばす。

 

「だってほんとはあの時死んでた。でも死に損なった。生きて欲しいって願ってくれたひとはとっくにいなくなってて、でも、大きくなったコラソンたちにもこうして会えた」

 

 伸ばした指先はなにも掠めずむなしく揺れて、訥々と零れる言葉が、雨のようにコラソンの心を打つ。

 

「一緒にはいられなかったけど、二人は立派に自分の道を見つけてて、すごく安心したんだ。それでローに会って、申し訳なくてしょうがなかった」

 

 その気持ちは、コラソンにも少しわかる。

 己の命の終わりを知っている子供の前に立ったとき、未来がそこにあると変わらず思える自分にひどくもどかしい思いを抱くときがあった。

 ミオはコラソンには視線を向けずに、ただ空を見上げ、誓いのように宣誓する。

 

「だから、この拾った命をまるっとローのために使いたい。僕はじゅうぶん生きたよ。寿命も、未来も、ぜんぶあげて、幸せになってほしい」

 

 心臓のあたりに手を乗せて語る言の葉はひたむきで、まっすぐだった。

 こわいくらいに。

 

「けど、姉様」

 

 その時、ロシナンテは本当に自分が幼い頃に戻ったような気持ちで素直につぶやいた。

 

「そんなことしたら、ローもおれも泣くよ」

「うん、でもローがいなくなったらコラソンも僕も泣いちゃうよ。さびしくて」

 

 ままならないなぁ、とこぼす声は弱々しくかすれていて、ああ哭いているのだと思う。

 

 泣くことがひどく下手くそな姉の代わりに、月のこぼした涙のような星屑がこえなき声で嗚咽していた。

 

 

 

×××××

 

 

 

 大人たちの悔悟の言葉を、ローはすべて聞いていた。

 

 コラソンの理由は同情で、行動は親愛で、結論は慈愛だった。

 

 砕けて散ったはずの心がかたちを作っていく。

 コラソンの涙で芽吹いた感情が猛烈な勢いで育っていくのがわかった。ツギハギだらけの心が暖かいものでくるまれて、大切なもので満ちていく。

 ぽろぽろと、堰を切ったように、双眸から涙が零れてくる。頬を伝って毛布を濡らし、それでも止まる気配がない。

 

 たったひとりの、なにも持っていない少年のために恥も外聞もなく走り回るひとたちがいる。ローのために怒って悲しんで無力さに悔しいと、泣いてくれている。

 

 そんなひたむきな思いをすべて無視して、どうしようもないことだからと諦め続けるのは、なにか、とてもひどいことをしているように思えた。

 

「──、ぐす……!」

 

 こっそり洟を啜ると、頬があたたかいものに包まれた。おなかの辺りに細い腕が回ってミオだとわかる。

 触れる温度はいつもより高い。どうしてかはもう知っている。ローは寝惚けたふりをして胸の辺りに顔を埋めた。服に涙が染みていくのがちょっぴり申し訳なかったけど石鹸と埃とひなたの匂いがして、いっぱいに吸い込んだら冷え冷えとした淋しさがどこかに消えて行くようだった。

 

 そんな二人を守るようにコラソンが寄り添って、大きく腕を伸ばして抱きすくめた。

 息苦しささえ感じるくらいの窮屈さだけど、いやな感じはこれっぽっちもしない。煙草の匂いが混じってお互いの体温が毛布の中で曖昧になっていく。まるでひとつの生き物になったみたいで、安らぎに全身が包まれていく。

 

「おやすみ、ロー」

 

 夢寐にとろけるほどささやかな声で、聞き逃さなかったのが不思議なほどだった。

 

 ローはもう、とっくにひとりぼっちじゃなかった。

 

 目眩のような息苦しさを感じて毛布の上からこっそりと胸のあたりを掴む。もうあまり時間は残っていない。知っている。だけど、その残された時間すべてを二人のために使いたいと思った。

 

 それは、目に付くもの全てを壊すよりも──ずっとずっと大事なことだった。

 

 翌朝、しょぼつく目をこすりながら身体を起こすとミオが先に起きていて、屈伸運動をしながら朝食の準備をするからコラソンを頼むねと言い置いて、どこかへ行ってしまった。

 

 たぶん魚でも捕りに行ったのだと思う。

 アジト以外で会ったことがなかったから知らなかったが、彼女は大した野生児なのだ。

 

 爆睡しているコラソンの頬をひっぱったりしてみたが、ちっとも起きる気配がない。その間に思いついて、口の中でずっと言おうと思っていた言葉を転がして練習する。

 

「こらさん、コラさん……うん、よし」

 

ぷるるる……

 

 

ローは、コラソンの荷物の中から音がしていることに気が付いた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

じゅーよん.よろしい、ならば

 

 

 

 追加の薪と捕獲した魚を手に戻ったら、ぷるぷる鳴く電伝虫をほったらかしにしてコラソンがローを高い高いしながらぐるぐる回っていた。

なんだろうこの状況。

 

「カオスだ!」

「おっ、ミオ! 聞いてくれ!」

 

 喜色満面のコラソンが気付いて、ローを振り回しながら駆け寄ってくる。ぬいぐるみのようだ。

 ローは体格の問題でぶんぶん振り回されながらもそっぽを向いているけれど、その頬は照れているのかじゃっかん赤い。なんだなんだ可愛いな。

 

「ローがおれのこと、コラさんって呼んでくれた!」

「マジ!? よかったねコラソン! おめでとう!」

 

 それはめでたい。

 全力で喜びを表現しているコラソンと、魚を持ったままバンザイしたら「バカばっかりか! 電伝虫出ろって言ってるだろ!」と宙ぶらりんのローが怒鳴ってきた。

 電伝虫はじゃっかん疲れたような顔つきでぷるぷる言っているので、ひょっとしたらかなりの時間放置されていたのかもしれない。

 

 コラソンはいかにもしぶしぶ、といった体でローを下ろしながら「照れちゃって!」とか言いつつ上機嫌で電伝虫を取る。

 

『──おれだ、コラソン』

 

 聞き覚えのあるテノールボイス。響いた途端、コラソンの表情がびきりと強ばった。

 ドフィの声に、今までも浮かれきった空気がまとめて吹っ飛ぶ。そういえば、コラソンは喋れない設定で電伝虫をどうしていたのだろうか。スカイプみたいに相手の顔も見えないし。

 

『コラソン、おまえだな?』

 

 なんて思っていたら、コラソンはあぐらをかいて返事の代わりに電伝虫の頭を指先で叩く。

 トントントン、と三回。どうやらモールス信号のような感じで通話しているらしい。

 

『そうか、おまえらが飛び出してもう半年だ……ローも一緒か?』

 

 イエス。

 

『そうか、二人共無事で何よりだ。いい医者はいたのか?』

 

 これにはノー。二回叩く。

 

『──だろうな、ローを連れて船に戻れ。病気を治せるかもしれない』

 

 それは、どういう意味だろう?

 

 横で聞いていると、『オペオペの実』の情報を手に入れたのだとドフィが語った。

 コラソンの表情が驚きに変わり、こちらと顔を見合わせる。たぶん僕の顔も超びっくりしているだろう。世に知られている悪魔の実の中でもローを治せる可能性の最も高い実の名前なのだ。

 

 もちろん、こっちの反応なんか見えないので話は続く。

 海軍に巨額の金を提示された、価値を知らないバカな海賊が取引に応じるらしい。必ず政府が裏で糸を引いていて危険だろうが、これを奪うと。

 

『手に入れたら『能力の性質上』、最も信頼出来る人間が食う必要がある』

 

 ドフィの笑みが電伝虫越しでも深くなるのが、わかった。

 

『おまえが食え、コラソン──そしてローの病気を治すんだ』

「!」

 

 その言い方はどこかコラソンを試しているようで、内心うーんこれはと顔をしかめる。コラソンのこと、ひょっとして勘付いたか?

 僕はコラソンが海兵でドフィが海賊だと知っているが、それをどうこう言ったことは一度もない。二人が選んだ人生だから、それに口を挟むのは違うだろというのがその理由だ。

 

 二人の邪魔はしないけど、ちょっとした手助けはする。そういうスタンス。

 

 ドフィはオペオペの実強奪のための算段を、日付から場所まで微に入り細に穿ちとうとうと語り、最後に。

 

『それと……ミオ、そこにいるだろ』

「いるよー、なに?」

 

 ドフィから口頭で説明された内容を必死でメモっているコラソンから、ひょいと受話器を持ち上げて返事をする。

 

 コラソンたちを追いかけ始めてから、あっちこっちの国を回っていたのでドンキホーテ海賊団には一度も寄っていない。

 たまに電伝虫に連絡が入ってきたのだけど、大抵タイミングが悪くて「いま忙しいからあとで!」つってガチャ切りしていた。わりとひどいことをしている自覚はある。しかし反省はしていない。

 

『おれよりコラソンを取るとは……フフ、さすがのおれも傷つくぜ?』

「コラソンとローのコンビ旅とか心配の塊、そりゃ追いかけるって。追いつくのにめっっちゃ時間かかったけど。しかもドフィの電伝虫、タイミングくっそ悪いんだよ! おかげでエターナルポース一個割れたんですけど、弁償してくれませんかねぇ? ドラム王国のやつ」

 

 ちなみにドフィタイミング悪いランキングワーストは、海賊に襲撃されている真っ最中にかかってきたやつ。それでエターナルポースが壊れた。入手するのすごく大変だったのに。

 矢継ぎ早に文句をつけると、電伝虫の顔がじゃっかん歪んだ。心なし申し訳なさそう。

 

『あー、うちにドラムのエターナルポースはねぇな……』

「そっち闇取引ばっかだもんね。健全な取引はお呼びじゃないんですよねー、わかりますー」

 

 思い出してやさぐれてきたので、イヤミを込めてぶぅぶぅ言うと『それよりも、だ』と話を変えられた。ちっ。

 

『これ以上ご無沙汰していると、デリンジャーに顔を忘れられるぞ?』

「ええー、それは困るけど……ローとコラソン心配だから、しばらく顔出すのはむりかな」

 

 ドンキホーテ海賊団に身を置いている以上、子供たちの身の安全だけは保障されている。それなら先行きが不安な方につくのは当たり前である。

 僕はドフィの不満げな沈黙をあえて気にせず受話器に向かって続けた。

 

「それより、コラソンにオペオペの実食わせるって……本気で言ってる?」

『ああ、実の弟に食べさせるのに、なにか、不安要素でもあるのか?』

 

 えらい意味ありげに区切りながら問いかけてくるが、不安要素があるのかって、そりゃあ……ありまくりですよ。むしろ不安要素しかない。

 それは、僕よりドフィの方がよっぽど分かっていると思うのだけど。本人も認めた公認であるからして。

 

「いや、だって、コラソン……ドジッ子じゃん」

『あん?』

「コラソンだよ? 立てば転ぶし座れば火災、歩けば惨事のドジッ子ラソンだよ? 神がかり的なタイミングでドジをやらかすコラソンにオペオペの実なんて……本当にいいの? 後悔しない?」

『……』

 

 ドフィが電伝虫でもわかる物凄い形相で黙り込み、コラソンが半べそになっているのをローが必死で慰めている。ごめん、でも言わせてくれ。

 手術とか医療とか、繊細な作業の目白押しです。それを、日常生活においてあれだけドジをかますコラソンに与えるなんて、どう考えてもヤバい。ひとのいのちの危険が危ない。

 

「これ以上はコラソンの名誉を毀損しそうだから言わないけど、ドフィならお姉ちゃんの心配をわかってくれるものと期待します」

 

 確かにべつの人が絡むとドジは減るのだけど、皆無というワケではないので、ミリ以下のミスで人の命を左右する重要な仕事に関わる実を食べさせるって、どうよ。

 いやコラソンはもう能力者なのでおかわりは不可能なのですが。

 

 そんなことを考えていると、しばらくの沈黙ののち、ドフィが意外なことを言い始めた。

 

『フッフ、そうだな、確かにコラソンはドジッ子だ。なら、おまえが食べてもいいんだぜ?』

「はあああ?」

 

 おいおいなんの冗談だ。

 

 予想の斜め上にかっ飛ばしたことを言われて、眉間に皺が寄るのが分かった。いきなり何を言い出しているんだいマイブラザー。

 

「僕が? オペオペの実を? そもそもドンキホーテ海賊団ですらない、いち賞金稼ぎに渡してどーすんの」

『お前はおれを裏切らない』

 

 まるで、それが最も重要であると誰かに言い聞かせるように。

 

『信頼には信頼で応え、道義に悖る真似は絶対にしない。ミオのことはおれが一番よく知っている。食うのがお前でも文句はねぇさ。それならそれで、使いようもある』

 

 使いようとは言ってくれる。

 

 横でメモを書いていたコラソンの動きがぴたりと止まり、指で×印を作りながらこちらへ向けた。

 迷うような、すがるようなコラソンの眼差しにローもつられるようにこちらを見ていて……あ、そうか。

 お土産の保存のために便利に使っていたけれど、結局コラソンを含むドフィたちの前で、自分の能力を見せたことがない。引き継ぎの能力者が悪魔の実を食べると、どうなるのだろう? 考えたことなかった。

 

『オペオペの実は、人体改造能力の最北端……使いこなせばローの病気どころか、あらゆる難病奇病を治せる奇跡の手術ができるようになるだろう』

 

 それに、とつぶやくドフィの声は笑みを含んで甘く、したたるような毒に満ちているようだった。

 

『──その身体の疵を』

 

──けれど。

 

『消したいとは、思わないか?』

 

 言葉の衝撃でぼんやりした。

 

 なに、言ってるの。

 

 なにいってんの?

 

 僕のことは一番よく知っているとのたまったくせに、その口で、それを言うのか。

 頭の芯が熱くなるのを感じた。あるいは冷たく沈むのを。

 

「思わねぇよ」

 

 受話器を割れそうなほどつよく握りしめて、吐き捨てた。

 

「ばっかじゃねぇの」

 

 

 

×××××

 

 

 

『──その身体の疵を消したいとは、思わないか?』

 

 受話器を持っている手が凍り付くのがローにも分かった。

 

 華奢な身体に刻まれた凄惨な疵痕をローもコラソンも知っている。いくら気にしていない風を装っていたって、着替えるたびに目に映ってしまうだろう。

 ローの白い痣のように、逃げることもできないのだ。少女が持つには惨いそれを消したいと願っていたとて、誰も彼女を責められない。

 

 そう、二人は思っていたのだけど。

 

「──」

 

 ドフラミンゴの言葉にミオの顔から血の気が引いて、直後、溢れかえったのは濃厚な怒気と果てしない悲嘆。それはローが今まで一度だって感じたことのない感情の奔流だった。咲き誇る花が残らず枯れ落ちるような、死の匂い、虚無の気配、どこまでも空っぽなのにひたすらに強い、心臓が縮むような圧力だった。

 

 総毛立ち、ローは思わず数歩後じさる。全身から冷たい汗が噴き出して、小刻みに震えるのを抑えられない。

 腰が抜けてしまいそうで、思わずコラソンにしがみつくと彼も無意識にかローを守るように抱きしめる。

 

 表情という表情すべてが抜け落ちたまま、ミオが口をひらいた。

 

「思わねぇよ」

 

 唾でも吐くような言い方だった。

 

「ばっかじゃねぇの」

 

 心底の侮蔑がこもった声だった。

 

 ドフラミンゴが次の言葉を発する前にミオは受話器を落とした。ガチャンと音を立てて通話が切れる。

 

 ミオはその場でずるずるとかがんでうずくまり、ふーっ、ふーっ、と猫が威嚇するような呼気を漏らす。暴れそうになるのを決死の思いで抑えているようだった。

 めまぐるしいまでの感情の変化についていけず、コラソンとローは抱き合ったままミオの奇行を見ているしかない。

 

「うがああ! むっかつく!」

 

ゴンッ!

 

 満身の力をこめて振り上げられた拳が、えげつない音を立てて地面に叩き付けられる。草がめくれ上がり、土が露出した。

 びくっと二人が肩をそびやかすが構う余裕がないのか、がんごんがんと少女が出したらやばい音を響かせつつ拳で地面を抉りながら、ミオは怒鳴り散らした。

 

「ふっざけんなあの野郎! あああむかつく腹立つ頭にくる! よりにもよって! ドフィが! それを言うのかよッ!!」

 

 土だらけの手でぐしゃぐしゃぐしゃっと頭をかきむしり、子供みたいにわめき散らす。

 それはいつもお姉さん然として飄々と笑っている様子ばかりが目立つのミオの、初めて見るかもしれない強烈な感情の吐露だった。

 

「ローのためならなんでもするよ! 当たり前だ! だけど、僕は、自分の傷を消したいと思ったことなんて、一度もない! ねぇよそんなの!」

 

 ここにいないドフラミンゴにぶつけるように言葉を放つ。

 怒りすぎてなのか、目に涙すら浮かべて吼えた。

 

「あるわけないだろ! 汚くたって、好きじゃなくたって──誇りで、自慢だ! 傷も痛みもぜんぶぜんぶ、僕のものだ!」

 

 悲痛なまでの魂の叫びだった。

 

 けれど、暗闇の中で星がひととき壮烈に輝くような、それは宣戦布告だった。

 

 放たれた怒号に貫かれるように、コラソンは理解した。

 

 ドフラミンゴはそうと知らずミオの逆鱗の触れた。

 無遠慮にかきむしり、虚仮にしたのだ。ミオはあの疵痕を厭ってなどいない。人が見てしまうとイヤな気持ちになってしまうだろうから、と分別をつけているから普段は適当に隠していただけだ。

 

 あの傷は、ミオの生きてきた矜持そのもので、証なのだ。

 

 それをよりにもよって、ドフラミンゴが突いてしまった。

 本人の希望を質すような物言いは、そのまま相手を貶すのと同義だった。致命的なまでの認識の差異を理解していなかった。

 

 すなおにローのために実を食ってくれと言えば悩んだだろう。自分を不老不死にしてくれと言われたら、考えたかもしれない。だが、その選択はドフラミンゴ自らの手で潰してしまった。

 

「うう、も、ドフィなんかきらい」

 

 もう一度、きらいだとうめいて、ふらふらと座り込む。

 

「人が思ったこともないことを、したり顔でよくもまぁ……」

 

 散々叫んで疲れたのか項垂れて、それからはっとした顔で『おろ、おろ』と手元を動かした。

 

「あ、わ、わぁ、ごめんコラソン。電伝虫切っちゃった。どうしよう、かけ直す?」

「くくっ。いいよ、大丈夫だ」

 

 こんな時なのに、コラソンは笑ってしまった。

 腹の奥が愉快でたまらない。ざまぁみろとすら思う。我欲だけで動くからこうなるのだ。ミオは平素から利他的で優しくお人好しだが、決して譲れないものがあることをコラソンは知っている。

 

 侵そうとする人間は、それが誰であろうと絶対に容赦しないことも。

 

「喜べロー! 生きられる可能性はある! 医者なんかもういい!」

 

 浮かれた気持ちのまま、足にしがみついて事の成り行きを見守っていたローを持ち上げてぐるぐる回る。唐突な展開できょとんとした顔で頭に疑問符を量産しているローにできる限りで説明した。

 悪魔の実は便利な魔法じゃないから、扱うには相応の知識がいる。それならローが食べるのにうってつけだ。

 

「おれ? ドフラミンゴはコラさんかミオに食わせるって……」

「悪魔の実は二つ食えば死んじまう。ドフィはおれが能力者だと知らねェからそう言ったんだ。それに、ミオは」

 

 ちらと様子を窺うと、案の定ミオは怒りを引き摺っているのか猛烈にイヤそうな顔をしてから、取り繕うようににこりと笑った。

 

「食べるくらいならローに食べさせるし、それが不可能ならドフィの目の前で海に捨てる」

 

 絶対に食べない、という決意がありありと見えた。ローの命に関わることなのでそんなに勢いよく素振りをしないで欲しい。笑顔だがちっとも笑っていないのがよくわかる。

 今の怒髪天を衝く様子を見ていればだよな、という相槌しか打てない。

 

「おれもお前も、もうファミリーには戻らない! この旅が長引いた時から、そう決めてた」

 

 再会したときからコラソンが海兵だということをミオは知っているが、ドフラミンゴを含め誰にも漏らしていないことも、よく知っている。

 

 けれど今回の旅路は長すぎた。

 海軍への定期連絡も途絶えているから、襲撃の回数も激減しているはずだ。ドフラミンゴはコラソンをファミリー内の裏切り者と見抜いているだろう。

 

 『オペオペの実を食わせる』ということは、なにも病気快癒のためだけではない。

 能力者の命と引き替えに、不老不死をもたらすと言われる実である。自分を使って、ドフラミンゴが永遠の命を得るというハラなのだろう。

 

「いいか、ドフィたちを出し抜き! オペオペの実はおれ達が横取りするんだ!」

 

 コラソンはローの肩を力強く掴んだ。

 

「実はおまえが食え! 病気が無事治ったら二人でどこかに身を隠そう!」

「あ、それなら一緒に賞金稼ぎやろう! 楽しいよ!」

 

うってかわって楽しそうに挙手する顔は期待でわくわくしていて、コラソンも嬉しくなってミオとローを抱えてぎゅうぎゅうと抱き締める。

 

「うっぷ! おいコラさん!」

「そりゃいいな! 絶対に楽しいぞ!」

「でしょ! うん、それでさ、」

 

 コラソンのコートに半ば埋まりそうになるローが潰れた声をあげて、隣のミオの笑顔に剣呑なものが混じったのが分かった。

 これは知っている。

 なにかろくでもない悪戯を思いついた時のものだ。

 

「ドフィたちの取引前に当の海賊が『運悪く』、『賞金稼ぎ』に襲われたってそれはしょうがないことだよね? 海賊と賞金稼ぎは、そういう関係だから」

「は」

 

 おいおいちょっと待ってくれ。

 

 どうやらこの小さな姉は表面上落ち着いて見えるがその実、相当なおかんむりだったらしい。

 ちょっと大人しいのは、目の前にドフラミンゴがいなくて叫び疲れただけだったのか。コラソンの想像を遙かに超えてろくでもないことを考えている。

 

「それで乱戦の最中に『おたから』が行方不明になったってしょうがないし、それを偶然手に入れちゃったひとがどうしたって、そのひとの自由だよね?」

 

 冗談めかしてむふー、と小鼻を膨らまして胸を張っているのに、声は真剣そのものでぞわりと鳥肌が立った。

 

「おい、それは……」

 

 海賊と賞金稼ぎの関係性のみに焦点を絞れば正当な行為だが、ミオの立場からいえば明らかにドフラミンゴを裏切る行為だ。

 

 海賊と、賞金稼ぎ。

 本人のバランス能力でぎりぎり保ってきた危うい綱渡りのような生活を、自分で捨て去るということに他ならない。

 現に今、ドフラミンゴはコラソンに計画内容を言って聞かせて、ミオはそれを傍らで聞いていた。ドフラミンゴはそれを知っている。意図的に『不運な事故』を装ったとしたって、真っ先に疑われることになるだろう。

 

 そういった懸念があったのだが、ミオは清々しいほどはっきりと言い放った。

 

「ドフィはさ、ド級のケンカ売ってきたんだよ? そりゃもう高く買うよ? 買っちゃうよ? お値段的には、悪魔の実をポーンと買えるくらい」

「お、おう」

 

 完全に真顔だったので思わず頷いてしまった。

 

「ドフィを、ドフラミンゴをめっためたにへこましたい。けちょんけちょんにして吠え面かかせてやりたい。当分は会いたくないけど、とりあえず慰謝料としてオペオペの実は頂いちゃおう。ふんだ」

 

 ふんだ、とか可愛らしく言っているがその目つきはどこまでも本気のそれで、直感的にこれはヤバいと感じた。横のローもじゃっかん引いている。

 幼児期にドフラミンゴが癇癪起こして、奴隷を撃ち殺そうとした時と同じ目つきをしていた。否、当時以上かもしれない。

 

 あの時、ミオはドフラミンゴを全力でひっぱたいてから耳を掴んで両親の元に連行していた。

 

 ここまで怒っている姉を、コラソンは初めて見た。

 

 たぶん、自分のことを云々もあるが、ローの命をダシに使うような真似が、心底許せなかったのだろう。

 どうやって止めても、止まりっこないことを理解させられた。

 

「……わかった。とにかく、おれのツテで詳しい情報を聞いてみるから」

「っしゃあ! そうこなくっちゃ! コラソンらぶ!」

「らぶかぁ」

 

 ノリノリでガッツポーズを作るミオの頭を宥めるようによしよしと撫でて一旦離れ、出航の準備をしておいてくれと言い置いて電伝虫に慣れた番号をプッシュした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

じゅーご.嵐と選択

 

 

 

「フッフフ、怒らせちまった」

 

 底冷えするような声で、語彙力のない罵倒をもらした電伝虫がガチャリと切れて、ドフラミンゴは肩をそびやかした。コラソンの反応をみるついでの、ほんの余録のようなものだったのだが、思いの外怒らせてしまったようだ。

 ……実際は怒らせたどころかガチギレさせたのだが、幸か不幸かドフラミンゴはそのことを知らない。

 

 しかしおふざけはここまでだ。

 切れた電伝虫の前で気を取り直し、背後の幹部たちに問いかける。

 

「お前ら、どう考えてる?」

 

 以前から執拗にドンキホーテ海賊団を目の敵にしてきた海軍からの襲撃が最近、鳴りを潜めている。そしてそれはコラソンがローを連れて家出してから、これまでの期間とぴたりと一致するのだ。

 

「それまで、あいつが軍に情報を流してたってのか?」

「ウハハハ! 偶然かもしれねェ」

「そう願いたいもんだ。おれも疑いたくはねェよ……実の弟だ」

 

 ピーカとディアマンテの言葉にそう返した。

 そうだ、なにも疑いたいワケではない。コラソンは実の弟だ。だが、状況証拠と第六感に訴える感覚が、ドンキホーテ海賊団に入り込む虫の正体がコイツだと告げてくるのだ。

 

 ミオに関しては、どうせコラソンにくっついているだろうと思っていたので、行動を制限するつもりはない。なにせ、ミオは賞金稼ぎの浮草稼業。ファミリーだの『血の掟』だのは一切の関係がない。

 正直すぎるツッコミでちょっと悩んでしまったが、コラソンに実を食わせると言ったのは一種の賭けだ。

 ……確かに本当に食べさせるかどうかは考えた方が、いいか?

 

 そう、ただドフラミンゴは行動で証を立てて欲しいだけなのだ。

 

 コラソンはドンキホーテ・ドフラミンゴの弟なのだということを。

 

 

 

×××××

 

 

 

 コラソンのぼそぼそと話す声を半ば聞き流しながら荷物を手早くまとめていて、手が止まる。

 

 違和感が、あった。

 

 後方で毛布を片付けているはずの、ローの音がしない。

 

「ロー?」

 

 返事がこない。

 無性に胸騒ぎがして振り向くと、ローは毛布に突っ伏すような姿勢で動いていなかった。

 

「ロー!!」

 

 ちょうど通話を終えたらしいコラソンが異常に気付き、ローに駆けよって抱き起こす。

 

「おい、お前……ウソだろ!? しっかりしろ!」

「! 揺らしちゃだめ!」

 

 咄嗟に言ってミオもローのもとに飛び出した。コラソンの抱き寄せた華奢な肩に触れて──絶句する。

 

 異様に、熱い。

 

 慌てて顔を覗き込むと、ローは耳の先まで紅潮させて、ぐったりと脱力している。白い痣の部分だけが浮き上がるようで、あきらかに尋常ではない。

 

「やべぇ、熱がある……どうしたらいいんだ! 医者はどいつもこいつも使えねぇし……」

「コラソン、落ち着いて」

 

 ミオはオロオロと視線を彷徨わせるコラソンの後ろ頭を、落ち着かせるために一発はたいた。

 衝撃で目を白黒させるコラソンに構わず、ミオはローの頬に手の甲をそっと当てた。濡れているのは、ひどく汗をかいているせいか。

 

「ロー、ロー、わかる?」

「あ、う──」

 

 ローは薄目を開いて、こちらに焦点を向けたのが分かった。

 意識はあるようだが、朦朧としているらしい。反応はにぶく、頼りなかった。

 

「コラ、さん……?」

 

 熱に浮かされ潤んだローの瞳がコラソンを認識して、少し和らいだようだった。

 けれど呼吸は荒くて安定せず、身体に痛みがあるのか時々苦悶の表情を見せる。これまでの旅で溜まった疲れやストレスは、小さな身体では抱えきれないほどの負担をかけていた。

 風邪をこじらせたというより──病状の進行とみる方が妥当か。

 

「どうすりゃいい! 教えてくれ!」

「とにかく船に運ぼう。荷物は持つから、コラソンがローを運んで。揺らさないように」

「ああ、ああ!」

 

 一度、コラソンはローをつよく抱き締めてから柔らかく持ち上げる。それこそ、脆い細工の芸術品でも扱うように丁寧に。

 

「ロー、なんとか頼むよ……あと三週間、生きててくれよ……! チャンスをくれ!!」

 

 祈るような叫びに、衝動的に声が出た。

 

「死なせない」

 

 決意が燃え立つようだった。

 

「絶対、死なせない」

 

 

 あと三週間、なにがなんでも守り抜く。

 

 

 

×××××

 

 

 

 ひときわ大きな波に、持ち上げられて落とされる。

 船全体を襲う腰が砕けるような衝撃。緞帳のような雨に遮られて、雲の様子すら定かにならない。

 

 目的地である島までの航行中である。

 

「クソッ! こんなときに大嵐か……!」

 

 窓の向こう、真昼なのに夜のような暗さに、コラソンが忌々しそうに舌打ちする。

 まるで行く手を遮るような大嵐に苛立ちが募るのも、仕方がないことだろう。

 

「コラ、さん──」

 

 コラソンの声に反応したように、腕の中でローが小さくつぶやいた。薄目を開き、ひたむきにコラソンを見つめている。

 

 ローの身体は、あれから小康状態と発熱を繰り返している。

 医学的な根治が不可能な現状、対症療法しか方法がないのであまりに熱が高いときは解熱鎮痛剤を投与して様子を見るくらいしかできない。

 

 時々、まだ熱が引いていないのに無理していつも通りに振る舞おうとするのが切なかった。

 

 コラソンとミオに心配をかけまいと、ローなりに必死なのだとわかった。

 そんなとき、コラソンは心配で怒りながらローを抱き上げて布団に突っ込むので、ミオは水にひたした濡れタオルで汗をぬぐって、氷嚢を作って特に熱のこもる胸や頭部にあてがってやる。

 

 そんなやり取りが習慣化しつつあって、運悪く天候が崩れて、限界まで航行したもののさすがに動けなくなった。ミオは台所で氷枕を作るために氷塊を砕いている。

 

 だから、そこにいるのはコラソンとローだけだった。

 

「政府は、おれたちが死ぬことを知ってて……金のために珀鉛を掘らせたんだ……」

 

 その頬はげっそりと痩けて、目許の隈もひどくなっていた。

 声も聞き取れないほどか細いが、コラソンが聞き逃すはずがなかった。

 

「おれの家族も『白い町』も、政府が殺したんだ……!」

 

 毛布の隙間から、細い指がすがるようにコラソンの服を掴む。

 ローは高熱に冒されたまま、息苦しそうな呼吸の隙間で、途切れ途切れに問いかけた。

 

「だからもし、コラさんがその仲間の海兵なら……正直に言ってくれ……」

「バカいえ! おれは海兵じゃねェ!」

 

 コラソンは怒鳴るように即答した。他に言えることなど、あるはずがなかった。

 嬉しそうに、ローは痛々しいぐらいに、ほっとしたように微笑んだ。

 

「よかった……」

「それどころか、よく理解しとけ!」

 

 小さな身体を抱き締めて、コラソンは必死で捲し立てる。

 

「『オペオペの実』を盗むってことは、『ドフラミンゴ』も! 『海軍』も! 『政府』も! みんなを敵に回すって事だ! 生きるのにも覚悟しとけ!」

 

 今にも消えてしまいそうな意識を繋ぎ止めるために、『これから』の話を。

 

 ローは微笑んだままかすかに頷いて、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

 呼吸は細いが、生きている。今はまだ。

 

 今にもふつりと消えてしまいそうな鼓動を感じ取りながら、コラソンはローを抱き締め続けた。

 

 

 

×××××

 

 

 

 三週間というのは案外に長い期間で、ローの発熱が微熱程度に落ち着いたときも何度かあった。

 

 すっかり定位置になっていたソファの上。

 着替えやすいようにと、寝間着のようなラフな格好のローを毛布でぐるぐる巻きにして、コラソンが後ろから抱えていた。コアラの親子のようでなんだか微笑ましい。

 

「まぁ、そもそもさ」

 

 そして、これまた習慣付いてきた向かいのクッションであぐらをかいて、ミオがリンゴを器用に剥きながら、ふと口を開いた。

 

「僕はオペオペの実食べられないんだけどね。たぶんしぬ」

 

 しゅるしゅると細く赤い皮が用意されていた器に落ちていく。ちょっと理解が遅れた。

 いち早く気付いたコラソンが声を上げる。

 

「まさか、能力者だったのか!?」

「うん。悪魔の実は食べてないんだけど、能力者だったりするんだなぁこれが」

 

 だから二個目は食べられないんじゃないかな、と嘯いたミオは悪戯が成功したみたいにいひひと笑った。

 

「なんで黙ってたんだよ」

「聞かれたことなかったし、披露する場もなかったもんで」

 

 詭弁と言えば詭弁だが、声高に主張して回るものではない、ということくらいはローにも理解できる。

 ミオはナイフを置いて、まだ剥いていないリンゴをひとつ手に取るとひょいっと宙に放る。慣性の法則に従って弧を描いていたリンゴが中空でぴたり、と止まった。

 

「能力はこんな感じ。面白いでしょ」

 

 目を丸くする二人に、手品でも見せるように指をぱきりと鳴らす。すると、それまでの停止が嘘のようにリンゴが落ちてくる。

 それを受け止めて、ミオはニュートン先生涙目、とかわけのわからないことを呟いた。

 

「この能力で僕は十年以上……凍結、むしろ『固定』かな。『固定』されて、そのちからを受け継いだ。実の特性でね……その実の名前は、」

「『コチコチの実』」

 

 答えたのはコラソンで、ミオはやっぱりと言わんばかりに笑みを深くした。密着しているローはコラソンの胸の鼓動がいやに早くなっていることに気付く。

 コラソンは金魚のように口を開閉させて、おそるおそると。

 

「その能力は聞いたことがある。あらゆる攻撃を、空間をコチコチに固定する……『ラグーナ海賊団』の、船長の」

「そう、僕をあそこから連れ出して『固定』したのは、その船長だよ」

 

 全身の骨が抜けたように、コラソンは脱力してガタンとソファからずり落ちそうになる。危機回避能力を発揮した腕の中のローがとっさに脇に寄ると耐えきれなかったのか、ずてーんとひっくり返った。

 

 そしてそのまま動かない。

 

「おい、コラさん?」

 

 ソファの上から覗き込むと、天井を仰いでいたコラソンが自分の顔を手で覆って、やがてくつくつと笑い出した。

 

「は、はは……そうか、そうだったのか。なるほどなぁ」

「納得した?」

 

 いつの間にか小さく刻まれたリンゴを皿に乗せて、フォークを添えてからローに差し出しながらミオが問うと、コラソンもようやく起き上がる。

 

「ああ。けど、なんでおれたちに教えたんだ?」

「ん? そんなの決まってるじゃない」

 

 そう言って、ミオは皿を受け取ったローに視線を向けた。

 

「ロー、オペオペの実が見つかるまで『固定』して欲しい?」

「え?」

 

 食べようとしていたリンゴがぽろりと落ちた。

 

「オペオペの実を手に入れるまでの三週間、なんだったら実を手に入れて安全を確保できるまでローを今、この時点のまま『固定』することができる」

 

 そうすれば、少なくとも現時点以上は病状が進行することはないよ、と当の能力を受けて十数年を『固定』された生き証人が語る。

 

「『固定』されたら三週間どころか、何年でもほんの一瞬だよ。意識も『固定』されて、時間経過しないから」

 

 そこまで淡々と静かに語り、ミオは目線でどうする?と問いかける。

 

 コラソンは何か言いたげにローに向けて口を開きかけたが、一度強く首を振って、自分で自分の口を手でおさえた。どんな選択もロー次第で、口を挟んではいけないと思ったのだろう。

 ローは少し考えてから問うた。

 

「なんで、『今』だったんだ?」

「オペオペの実をローが食べてなくて、ローの病状が悪化しつつあるから。もしもだけど、ローを『固定』したあとで何かがあって僕が死ぬと、この能力はおそらくローに移譲される」

 

 そうなると、もうローがオペオペの実を食べることができるかどうか、わからない。

 

 万が一のリスクを背負って『現状維持』のまま、オペオペの実を待つか。

 

 それとも、固定されずに己を責め苛む病状と戦いながら、耐え抜くか。

 

「もちろん、どうするかはローが決めて。これは、そういうこともできるよって、それだけの話」

「……」

 

 ローはしょりしょりとリンゴを囓り、咀嚼して、呑み込んだ。

 そして、自分を見つめるコラソンとミオにそれぞれ視線を合わせ、胸元をぎゅっと握った。

 

「おれは、このままがいい」

 

 その声には硬い決意があった。

 

「『固定』された方が安全で、楽かもしれない。けど、でも、それより、おれは──」

 

 ローはまっすぐにミオを見つめた。

 

「苦しくてもいい、辛くてもいい、残った時間ぜんぶ、コラさんと、ミオと、一緒にいたい」

 

 返答を聞いて、ミオはふわりと柔らかく笑った。

 

「うん、わかった」

 

 なんだかとても、嬉しそうに。

 

「僕とコラソンと、一緒にいて」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

じゅーろく.突撃!となりの海賊団

 

 

 作戦内容そのものはとっても簡単である。

 

 ドフラミンゴに提示された日付の三日前に取引相手の海賊──バレルズ海賊団──を襲撃して悪魔の実を奪取。そのままとんずら。以上!

 海賊が根城にしているミニオン島には、コラソンが手を回して海軍の監視船が貼り付き、合流地点のスワロー島にも軍艦が二隻と大盤振る舞いである。

 

「コラソンは能力で自分を『無音』にしておいて。そっちの方が盗みやすい」

「わかった。けど、ミオも『凪』にしておいた方がよくないか?」

 

 コラソンの広げた地図を前にミオは首を振った。

 

「隠密裏に盗むならそうするけど、その海賊は『賞金稼ぎ』が潰す。むしろ盛大に暴れるから、コラソンはその間に悪魔の実を盗ってローのところに行って」

「それは……」

 

 昔のことを思い出したのか、一気に暗い顔になるコラソンの肩をぺしりと叩く。

 

「囮じゃなくて陽動だから、そんな顔しない。それとも、僕の実力じゃ信用できない?」

「そんなことはない!」

「うんじゃあよろしく。襲撃中、ローには軍曹をつけるよ」

 

 傍らにいた軍曹が、任せろという感じで脚を上げる。

 ドフラミンゴがコラソンの裏切りに気付いているとすれば、おそらく時間との勝負だ。短い打ち合わせを終え、ミオはコラソンからいくつか手榴弾を譲り受けた。

 

 ローは病状がかなりひどいので船に置いていくことも考えたのだが、頑としてついていくと言って聞かないので海賊のアジト近くに軍曹と待機していてもらうことにした。

 

「ロー、軍曹と待っててね。すぐだから」

 

 ミニオン島は冬だ。

 

 降りしきる雪の中、いつもの帽子と手袋に襟巻きを巻いて厚めの毛布でくるまれたローの頬を両手で包む。手が熱くなるくらいに熱が高い。

 ローの呼吸は浅く、痛みがあるのか安定しない。

 

 でも、もうすぐ、もうすぐだ。そう自分に言い聞かせて気合いを入れる。

 

「コラソンが悪魔の実と一緒に戻って来るから、そしたら離れちゃだめだよ」

「ミオ、は?」

 

 ローの心配そうな声にミオは不敵に笑いながら、腰に手を当ててえへんと胸を張った。

 

「僕は賞金稼ぎなので、海賊を討ち取ったらお金を請求する権利があるのです。隣町で落ち合う時にはお金持ちだ! なんでも買ったげるから楽しみに待ってて!」

「……そっか」

 

 つられるようにへへ、とローも笑う。

 そんなローを支えるように軍曹がぴたりと寄り添った。

 大きさは有事の際にローを乗せて走れるようにと、ポストぐらいのサイズである。

 最近慣れきってしまったのでアレだが、絵面だけだと大蜘蛛が子供を食おうとしているように見えるので、他人が見たらびびるかもしれない。

 

「ロー、ここでちょっと待っててくれ。きついだろうが……」

 

 コラソンがそう言ってローを抱き締める。

 それを微笑ましく見ていたミオはそうだと言って自分のポケットを探ると、手を握ったままローの上着の隠しに突っ込んだ。

 

「? なんだ?」

「いい子でお留守番をするローに、ごほうび」

 

 先払いだよと笑って帽子越しに小さな頭をぐりぐり撫でて、それからミオは膝を折ってローを包むように抱きしめて、その頬に自分のほっぺたをくっつけた。

 ぬくもりを尊ぶように、身体に焼き付けるようにほんのひととき、目を閉じて。

 

「元気になったらいっぱい遊ぼう、なんかして。もう、どうせ死ぬなんて言い訳は使えなくなっちゃうんだから、諦めちゃだめだよ。ローの望みはぜんぶ叶うから、だからさ、やりたいこと、してみたいこと、たくさん考えておいて。それで、僕らが戻ってきたら教えてね」

 

 たっぷりの愛情をこめて、囁いた。

 

「大好きだよ、ロー。行ってきます」

「すぐに戻るからな! オペオペの実を手に入れて!」

 

 アンバランス極まりない二人なのに、その背中がとても頼もしいものに見えて、少しだけ笑った。

 

 あとから何度も、ローはこの時の会話を思い出す。

 

 

 ローがミオの姿を見たのは、それが最後だった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 バレルズ海賊団のアジトは混乱の渦中にあった。

 

 突然、何の前触れもなく屋敷の一角が爆発したのだ。

 気付けば宝物庫には火の手が上がり、熱波が届いてくるのに依然として物音ひとつしない。明らかに異常である。

 

「火を消せ! どういうこったァ!?」

 

 船長のディエス・バレルズは命令を飛ばしながら、忌ま忌ましさに歯噛みした。これからという時になんという失態だ。

 三日後には、手の中の悪魔の実と引き替えに大金を手に入れる予定である。

 その額、実に50億。海賊でも海軍でも、一生に一度拝めるかどうかもわからない途轍もない金額だ。

 

「侵入者でもいるのか!?」

 

 油断なく周囲を見回しながら部下に怒鳴りつけた刹那、部屋中の灯りが落ちるように消えた。頭上からいくつものガラス片が降り注ぎ、ランプが割れたことが分かったがやはり無音。

 いくつか悲鳴が上がったので破片で怪我人が出たのかもしれない。

 

「誰か明かりをつけ、──」

 

 それ以上は言葉にならなかった。真横からの凄まじい衝撃でバレルズは吹っ飛ばされ、手の中にあった『オペオペの実』の感触がかき消える。

 焦燥を覚えると同時に、今度はけたたましい音を立てて扉が開いた。

 

「どうもご機嫌うるわしゅうバレルズ海賊団の皆々様! それとご愁傷様! 今夜が年貢の納めどきですよぉ!」

 

 靴音高く入り込み、その声は高く遠く、朗々と響いた。

 

「だ、誰だ!?」

 

 怒声混じりの誰何の声を、相手はとんと気にした風もなくけらりと笑う。

 

「言うに事欠いて、誰とはまたとんだご挨拶! やぁやぁ、遠からんものは音にも聞け! 近くば寄りて目にも見よ! 賞金稼ぎのおなりであるぞ! なぁんちゃって、あはははは!」

 

 足元には爆発のせいかなんなのか、倒れた部下の姿。それをあろうことか足蹴にした小さな影が呵々大笑する。

 薄暗がりに目が慣れて、ようやく慮外者の正体が明らかになる。

 

 その声の持ち主は一見すると少年のように見えた。

 外で降りしきる雪のように色の脱けた髪。淡い桃色の瞳。流麗な着流し姿で肩に打ち掛けを羽織り、腰から日本刀らしきものを提げている。

 

 部下のひとりを蹴り飛ばし、ついでにテーブルに飛び乗り仁王立ちになって腕を組み、船長を見下しながら戦意は万全。

 

「賞金稼ぎだとぉ!? くそったれ、こんな時に……! さてはオペオペの実を奪りやがったのもてめぇだな!?」

 

 賞金稼ぎは、清々しいほどそらっとぼけた態度で肩を竦めた。

 

「ええ~なんの話でござるかぁ? 僕はちょっと立ち寄った島に悪い海賊がいるっていうから、狩りにきただけですよ? まぁその、手元不如意なもので」

「ふっ、ざけるなあああッ! おいそいつをぶち殺せ!」

 

 おちょくるような態度に、あっという間に激昂したバレルズが怒声とともに命令を飛ばし、部下たちが動き出す。

 

「オペオペの実を盗みやがった黒コートもだ! 見つけ出して、取り返せ! 50億の取引だぞ!!」

「目の前でそれを言うとか、船長のくせにわりとお馬鹿さんですね、びっくり。それを許すと思います?」

 

 にやにや笑いの賞金稼ぎが、いっそ感心したようにつぶやいて組んでいた手をほどき、いつの間にか握っていた手榴弾の安全ピンを──ぴーん、とふたつまとめて躊躇なく引っこ抜いた。

 

「げぇ!?」

「よぉしまとめて吹っ飛べー! てきとうにー!」

 

 それなりの大きさの手榴弾を、豆まきのようにフルスイング。

 弧を描いて飛んだ手榴弾は黒コートの男が逃げ去った窓近くの壁にぶち当たって、ごろごろと転がり──大爆発!

 

 視界のすべてを白く染め上げ、爆風が部屋中の人間を強打する。

 点ではなく面での攻撃。密集している人間なんていい的以外のなにものでもなかった。木の葉のように人間が吹き飛び、テーブルの破片や瓦礫が凶器と化してかろうじて無事だった部下たちの皮膚を引き裂き、あるいは砕いた。

 

 バレルズも無傷ではいられず、あちこちに擦過傷を作った。

 

「くそっ、あのふざけたヤツはどこだぁ!」

「ここです、よッ!」

 

 間近で爆風を喰らったはずの賞金稼ぎは傷ひとつもなく、バレルズの進路を遮るように飛び込んでくる。

 

「てめ、おぶぅっ!?」

 

 不自然なまでの素早さにバレルズは対応できず、鞘で股間をしたたかに撃ち抜かれてその場にばったり倒れた。痛恨の一撃である。

 衝撃にぐるりと白目を剥き、口からぶくぶくと泡を吹いて手足が不規則に痙攣していた。

 

「船長ぉおおおお!?」

「て、てめぇ! やっていいことと悪いことがあるだろうがッ!」

「男にはなぁ、鍛えられない場所があるんだよぉ!!」

 

 男として股間が縮み上がる暴虐に及び腰になる部下の前で、賞金稼ぎは瀕死の蟹みたいになっているバレルズを蹴倒し、すらりと刃を引き抜いた。剃刀の如き刀身を太い首筋ぎりぎりに滑らせて、にぃと口の端を上げる。

 

「ほい人質」

「ぎえええ!? なんてことしやがる!」

「お前それでも人間か!」

「え、海賊に人権があるとか、本気で思ってるの……?」

「し、心底不思議そうな顔すんなぁ!」

 

 半泣きでぎゃわぎゃわと騒ぐ船員たちに『うるさいなぁ』とばかりに顔をしかめたそのとき──賞金稼ぎはなにかに引っぱられるように、全身で振り返った。視線の先は、先ほど自分が開け放した扉の向こう側。

 

 賞金稼ぎは顔を引きつらせ、慌てたように刀を引いてそそくさと踵を返した。

 

「やば、思ったより早っ! で、では、これにてどろん!」

「させるかよ」

 

 ずどん。

 

 容赦なく撃ち出された凶弾をからくも避けて、ごろごろと床を転がる。足元でのびていた、避けるどころか身動きすらとれないバレルズが無駄に被弾してしまった。

 けれどすぐに賞金稼ぎは跳ね起きて体勢を整え、新たな襲撃者を油断なく見据えた。

 

「あちゃー……」

「よぉ、なにやってんだ……『お姉ちゃん』?」

 

 苦く笑う賞金稼ぎを前に、硝煙をくすぶらせる銃口を向けたまま──ドンキホーテ・ドフラミンゴがちっとも楽しくなさそうに、にんまりと笑った。

 

 

 

×××××

 

 

 

 時は少しばかり遡る。

 

 バレルズ海賊団を急襲して『オペオペの実』奪取に成功したコラソンは、ミオが陽動のために突入する寸前、窓をぶち破って脱出を果たした。

 うずまき模様の入ったハート型の不気味な果物を大切そうに握りしめ、達成感と喜びに目の前が潤み──ドジを踏んだ。

 固まった雪に足を取られ、姿勢ががくんと崩れて耐えきれず、斜面を滑り落ちていく。

 

「うぉおおおぉぉおおおお!?」

 

 問題なのは、斜面を滑り落ちる勢いが尋常ではなかったことだ。

 

 ただのアイスバーンどころか完全に凍結され、ジェットコースター顔負けの勢いで急滑降していくコラソンは、見張りに立っていた海賊団の部下たちにも追いつけない。

 なにせ「あ、」と思った瞬間には遙か彼方だ。咄嗟に発砲してもパン!パン!とむなしく音が響くばかり。銃弾も届かず、どうにもならない。

 

「な、な、なんだこりゃ!? まさかミオ!? あいつ、なんかしてたのか!?」

 

 奇しくもコラソンは正解を言い当てていた。

 

 先行して悪魔の実を奪ってくると突撃したコラソンを心配したミオは、一計を案じていた。あらかじめコラソンが通りそうな箇所の斜面を、自分の能力で『固定』したのだ。

 なにをどうしたってドジを踏むのだから、もうこうなったら徹底的にドジらせてやろうという、投げやりというか逆の発想である。

 

 果たして、考え得る最速のスピードでバレルズ海賊団から脱出を果たしたコラソンは、斜面の終わりに対応しきれず、尻をしたたかに打ち付けて悶絶した。

 尾てい骨が割れたのかと思うくらい痛かったが、海賊と一戦交えると考えれば軽傷の方だろう。あまりの勢いでだいぶ距離が離れてしまったが必死で走り、コラソンはなんとかローの元に到着した。

 

「コラさん……!」

「見ろ! オペオペの実だ!」

 

 周囲に防音壁を張って、ピースサインを作って全身で喜びを表現する。

 先ほどからボカボカ爆発音はするし銃声は響くわで心配していたローは、コラソンの帰還に安堵のため息を吐いた。

 

「よかった。なんか、あったんじゃねぇかと……」

「そんな話してんじゃねぇ! 喜べよ! お前を救う悪魔の実だぞ!」

 

 そしてコラソンは有無を言わさず、ローの口に悪魔の実を押し込んだ。端から見ると完全に虐待のそれであるが、幸いというか、目撃者はいなかった。

 くっそまずい実を無理やり口に突っ込まれたローは、抵抗むなしく呑み込まされ、じゃっかん吐きそうになった。丸ごとはひどい。

 

「オエ、まっず……!?」

 

 瞬間、どくりとローの心臓がおかしな鼓動を刻む。

 自分のちからではない、形容し難いなにかが己に宿る感覚で全身が総毛立つ。それを見届けたコラソンは、ローに寄り添って大人しくしていた蜘蛛に声をかけた。

 

「ミオはまだ奴等のアジトで暴れているはずだから、行ってやってくれ。ローはもう大丈夫だ」

 

 約束通り隣町で落ち合おうと伝えると、頭のいい蜘蛛は片脚を上げて軽く振ると、目にも留まらぬ速さでその場からかき消えた。

 

「これでいい……ドフラミンゴを出し抜いた。おれたちの、勝ちだ!」

「コラさん! おれ、まだ能力者になるなんて心の準備もできてねぇよ!」

「準備もなにも、これでローは能力者だ。早いとこ、使いこなせるようにならなきゃな」

 

 おれも協力するから早く自分の病気を治そうなと笑って、コラソンはひょいとローをおんぶして歩き出す。

 さくさくと雪を踏んで歩くうち、ローはふと道が違うのではないかと思った。

 

「コラさん、隣町に行くんだろ?」

「ああ、けど、もうひとつ片付けなきゃいけないことが……ある」

 

 ドフラミンゴを出し抜いてオペオペの実を奪取してローに食べさせることはできた。

 けれど、これだけでドフラミンゴの計画が頓挫するワケではない。もうひとつ、手を打っておく必要があった。

 

 ごそごそと胸元を探ると指先にコツリと硬い感触。海軍ならば誰でも知っている鍵のついた金属製の筒。

 『情報文書』だ。兄を止めるために潜入捜査をしてきた、長年の成果がこの中に詰められている。

 

「西の海岸に『海軍の監視船』があった。そこに『これ』を渡せばもう、この島に用は──」

 

 それは、本当に神がかった……奇跡的なタイミングだった。

 

 朝から降り続けていた雪が自重に耐えかねて枝から滑り落ち、その勢いで跳ね返る。

 

「いでっ!?」

 

 僅かに残っていた雪が吹き飛んでコラソンの目に直撃して、思わず手にしていた金属筒を取り落としてしまった。それはカラカラと小さな音を立てて勢いよく転がっていく。

 

「コラさん? なにか落ちたぞ」

「えッ!? ああ、ドジッた!」

 

 よりにもよってこのタイミングで! と嘆きながら慌ててコラソンは筒を追いかけた。

 軽い音を立てて転がっていく筒は緩やかな斜面を転がり続けて、やがて誰かの足元にこつりとぶつかり、止まる。

 

「ん?」

 

 夢中で追いかけていたコラソンは、それが『誰』の足なのかに気が付くのが遅れた。

 それが海兵の格好だと悟った背中のローが全身を硬直させ、親切なのか純粋な好奇心か足元の筒を拾い上げた男は持ち主であろう、走ってくる相手に視線を向けて──気付いてしまった。

 

「コラソン!?」

「ヴェルゴ!?」

 

 コラソンの必死な様子と焦った声。手の中の『情報文書』。

 彼の背中に貼り付いているローを見て、ヴェルゴは全てを察してしまった。

 

 それがコラソンの犯したあまりにも致命的な──ドジだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

じゅーなな.トゥーランドットはねむりたい

 

 

 

「申し開きはあるか?」

「むしゃくしゃしてやった。反省も後悔もしてません」

 

 バレルズ海賊団の船長どころか船員まで区別なく死屍累々の中、きっぱりと言い放って胸を張ったらドフラミンゴの額に青筋が浮いた。

 

 けれどこちらだって怒っているのだ。おこではないのである。もう、激おこスティックファイナリアリティプンプンドリーム飛び越えて憤怒バーニングファッキンストリームぐらいにはむかむかしている。

 

「こちとら賞金稼ぎです。ジョブの一環として海賊を一件潰しました。問題ないでしょ」

「おれたちの『仕事』を知っていてしゃあしゃあとよく言うぜ……なら、海賊の流儀としててめぇを潰そうか」

 

 ぎしりとドフラミンゴの指先が奇妙な音を立てて軋んだ。

 

 彼の言い分もわかるっちゃ、まぁわかる。

 

 しかし、第三者から見れば海軍と海賊の取引を、更にべつの海賊が横槍入れようとしていたというだけの話。

 こっちはそれを更に利用して先んじて海賊団を襲って、奪った。ドングリの背比べではなかろうか。

 

「奪われる方が悪いってのは、海賊の専売特許だと思ってたよ。ああ、それともこう言おうか?」

 

 ここにドフラミンゴがいるなら都合がいい。

 今頃、コラソンはオペオペの実を持ち去ってローに食べさせているだろう。それさえ達成できれば、あとは尻に帆掛けて逃げるだけ。

 ミオはくちびるを歪めてあっかんべえ、と舌を出して下品に中指をおっ立てた。

 

「ざまみろばーか。すっげぇいい気味!」

 

 ドフラミンゴの笑みがなにか一線を越えて、固まったように見えた。苛立ちが殺気へと変換され、爆発する。

 

 ひたすらに濃密で信じがたいほどの威圧感は、それ自体がすでに攻撃のようだ。

 室内がびりびりと鳴動して、倒れ伏した海賊たちが一斉に呻き声をあげる。それは力の掟において、自らの上位存在を本能的に認めてしまった小動物の命乞いだ。

 

「ットレーボル! ここを任せる! 手足の一本くらいなら許してやる、こいつを捕まえておれの前に連れて来い!」

 

 悪魔の実がないなら用はないとばかりに踵を返し、ドフラミンゴの命令に従いトレーボルが進み出る。

 

「んねー、ドフィの姉ちゃんなのになーんでドフィの邪魔ばっかすんのー? んねー、んねー」

「大人のドフィより、子供の命の方が大事でしょ。どー考えても」

 

 見上げるほどの巨体に小柄なミオ。

 文字通りの大人と子供くらいの体格差があった。垂らす粘液じみた鼻ちょうちんがぷくうと膨らむ。

 身体中をいつも粘性の強い物体で覆っている──超人系・ベタベタの実の能力者。捕獲するには確かに最適の人選だろう。

 

「賞金稼ぎとして腕は立つみたいだけど、おれに勝てると思ってんのー? んねー、んねー?」

 

 己の能力そっくりのねばついて挑発的な態度はいつものことだが、どこか演技が混じっているように見えた。

 幼いドフラミンゴの、傑出した才能を見出したのは彼だという。有り体に言えば、トレーボルはドフラミンゴの『保護者』だったのだ。

 

 それは逆を言えば、あんなクソガキのまま育て上げたのもまた、トレーボルということで。

 

「さぁ、やってみれば分かるのでは?」

 

 ミオの八つ当たりの相手として、これ以上なかった。

 身体中に戦意が循環し、静かな高揚感が爪の先まで行き渡る。感覚がみるみる明瞭になり、それでも心は湖面の如き静謐さを。戦闘時における心得が水のように浸透していく。

 ごちゃごちゃ言わずにかかってこい、とばかりに手招きするとトレーボルのべったりとした態度にも、じゃっかん怒気が混じったようだった。

 

「"ベタベタチェーン"ッ!」

 

 衣服のように纏っていたゲル状の液体が毒蛇のようにうねり、捕らえようと迫ってくる。

 

 ミオはその軌道を見極め、足に力を込めて跳躍。

 壁を蹴って更に上へと駆け上がり、間髪入れずに引き抜いた庚申丸の刀身を壁面に突き込んだ。柄を握りしめたまま、ぶらりと身体を揺らしてトレーボルを観察する。

 

 ぐずぐずにとろけた蝋燭のような液体が床にわだかまっていく。

 おそらく、あれに捕まれば身動きが取れなくなる。とりもちをくっつけているようなものだ。

 

「べっへへへ、ちょこまかしてると逃げ場がなくなるけど、いーの? いーのかなー?」

「……」

 

 ミオはぶら下がったまま無言で片手で胸元から最後の手榴弾を取り出すと、安全ピンを歯でぴーん、と引っこ抜いた。

 

「べへぇッ!?」

「えいや」

 

 ていっと無造作に放り投げると、物凄い勢いで慌てたトレーボルが鼻水でそれをキャッチ。ドフラミンゴたちとは逆方向に思い切り投擲した。

 数秒ののち、地面を揺るがすような爆発音が響き渡り「何があったんだイーン!?」とか悲鳴みたいなのが聞こえた。

 

「いっ、いきなり爆弾投げるとかありえなくねー!?」

「あ、やっぱり燃えるんだ」

「冷静すぎて鼻出るわー! やっぱドフィの姉ちゃんだわー!」

 

 言葉の通り鼻水をべろべろに流しながら驚いている。あれだけ慌てるということは、あの粘液は可燃性らしい。

 

 ついでにあのベタベタ、とても防御力が高い。

 

 相当の膂力でなければ、攻撃はすべて絡め取られて封殺される可能性がある。そうなると、能力を使って対抗しない限り負ける。

 

「物理攻撃はおれには通じねーよ? どーする? んねー、どうする?」

「どーするって」

「あんた能力者じゃないんだろー? 勝ち目なくね? もうドフィにすなおに謝れよー」

 

 ここまで煽りに煽られて、反応できないほどミオは聖人君子でもなんでもない。むしろ沸点がひとより高い分、一度キレると厄介だ。

 

 ミオにとってトレーボルは『身内』ではない。

 ドフラミンゴの仲間であっても、そこには明確な区別があり、つまりは手加減無用。

 

「うるさい」

 

 どん、と壁が揺れた。

 

 壁を蹴たぐり、刀を無理やり引き抜きながらくるりと身体をひねって、まだ無事だったテーブルに着地する。

 

「"ベトランチャー"ッ!」

 

 そこを狙ってすかさずトレーボルが己の粘液を弾状にして一斉に発射した。

 

 粘液の弾丸は人間を死に至らしめるほどの威力はないが、それなりに衝撃はある。当たれば打撲を引き起こす程度には痛いし、おまけに粘液で動けなくなるはずだ。

 そんな驟雨の如き粘液の弾丸を前にミオは腰に刀を納め、ただふらりと両手を上げた。

 

 降参のように、見えた。

 

 けれどトレーボルは気付いた。

 

 降り注ぐ粘液の弾丸が、ミオに触れる寸前にぴたりと停止していることに。動きを阻害されることもなく悠然と立ち、そこには余裕すら垣間見えた。

 

「……『能力者だってことは、そうほいほい吹聴して歩くもんじゃないよい』」

 

 どころか中空で不自然に硬直して──否、固着、されている?

 

「『いざって時のとっておき、くらいに扱っとけ。その方が、相手さんも油断するってもんだよい』……以上、僕の大好きな『兄さん』の助言です」

 

 ぽつり、ぽつり、と温度のない声をもらしながらミオはてくてくてくと歩いた。

 

 ベタベタしたゲル状の粘液の──上を。

 

「能力には、相性がありますよね」

 

 よくよく見れば、粘液には冷え切ったもの特有の奇妙なツヤがあり、かっちりと凍り付いているようだった。その上を踏みしだくように進んでくる。迷いなく、力強い足取りで。

 トレーボルの背中に、ベタベタ以外の汗が伝う。

 

「んねー!? あんた、まさか──!」

 

 鼻水がまき散らされる寸前、踏み出した初速のままつるり、と氷上を滑るような不自然な動きでミオはトレーボルに肉薄すると、

 

「僕とトレーボルさんの能力は──とっても、相性がいいみたい♪」

 

 粘液から出ている生身の指先につん、と触れた。

 瞬間、びきりとトレーボルの表情から足先、のみならず全ての粘液が『固定』された。身じろぎひとつできず、まるでトレーボルだけが静止画にでもなってしまったようだ。

 

 騒音もない。危険も、もはやない。ひたすらの静寂。

 

 水を打ったように静かな室内で、白い息をふぅっと吐いた。

 

「"カウント・5"。五分経ったら、自由になれますよ」

 

 巷で名を上げている賞金稼ぎ、通称『音無し』の本領発揮であった。

 

「トレーボルさん、ドフィを甘やかしすぎです。途中退場した僕が言っても仕方がないけど、……まぁ、言っても聞こえないか」

 

 なんだかとても虚しい気持ちになって、ついぼやいてしまう。けれどここでぐずぐずしているヒマはないのだ。

 

 ローが待っている。

 

 この骨さえしびれてしまいそうな極寒の中で、苦しい身体で懸命にミオとコラソンを待っている。

 その気持ちで胸の奥が明るくなって、ドフラミンゴのいない方角の窓でも開けて出ようかと見回した、その時。

 

 銃声が轟いた。

 

 腹の底に響くそれは、一発ではなお飽き足らぬとばかりに二発、三発と続く。

 

「ッ!」

 

 うなじがぞわりと粟立ち、猛烈に嫌な予感がした。何も考えず銃声のした方へ身体が勝手に動いていた。

 外の世界はミオとトレーボルが争っている間、もしかしたらそれよりも前から、様相を様変わりさせていた。

 

 アジトを中心とした同心円状にあれは、なんだろう。

 鳥かごのような細い、糸のような格子が無数に走っている。

 

 目の前には硝煙をくすぶらせる銃把を握ったドフラミンゴ。その周りを守るように、トレーボルを除く幹部たちが勢揃いしていた。

 

 そして、うずたかく積まれたバレルズ海賊団の財宝と思しき宝箱のひとつに、もたれるようにして力なく横たわる──コラソンの姿。

 

 

 

 そこでは──すべてが終わっていた。

 

 

 

「これはさすが、というべきか? フッフ、トレーボルのやつは何をしてる」

 

 バレルズ海賊団のアジトから飛び出してきたミオを見咎めて、ドフラミンゴは少しばかりの驚きをみせた。彼の能力は捕獲に関して超一級だ。

 けれどその服にはベタベタの残滓ひとつ見当たらない。賞金稼ぎの名は伊達ではないということか。

 

 多少の感心と苛立ちをこめて見据えても、ミオはこちらに一瞥もくれない。

 状況から何が起こったのかを理解したのか、顔色を蒼白にして、幽鬼の如く頼りない足取りでコラソンの元に歩み寄る。

 

「コラソン……ロシー」

 

 雪の上に膝から崩れ落ち、震える指先を伸ばして抱き寄せて、頬に触れる。まだぬくもりは残っているだろう。流れ続ける血が白い肌と服を汚した。

 

「なぁ、ミオ。お前はロシナンテが海兵だと、知ってたな?」

「だったら、なに?」

 

 心底からどうでもよさそうな返事に、苛立ちが募る。

 

「不倶戴天の敵を腹の内に飼ってる海賊団は、さぞ面白かっただろうなァ」

 

 低く嘲弄を込めてなじるような物言いになったが、心の片隅ではわかっていた。

 

 ミオは本当にドフラミンゴとロシナンテの『職業』に関心がなかったのだ。

 

 海賊だろうと海軍だろうと、あるいは他の職業だろうと自分が充実して仕事ができる場所ならばなんでも構わない。

 そう、取るに足らぬ些事と割り切っていたから、ミオは気にすることなくドンキホーテ海賊団へ『遊びに』きていた。

 

 そもそもそんな確執を気にするようならば、危険を侵してドフラミンゴたちの前に現れることもなかっただろう。

 ただ、兄弟間の確執が姉の想像を遙かに超えて根深く、海軍と海賊には断絶があった。見敵必殺。発見したら殺し殺されるのが海軍と海賊だ。それが例え──身内であろうとも。

 

 そういう意味では、ミオは甘く見ていたといっていい。

 兄弟に手を上げることはあっても、殺すことはないと無意識に思い込んでいた。

 

「ドフィ」

 

 声には抑揚がなく、なんの感情も読み取れない。ただ、淡々とした確認作業のようだった。

 

「父様を殺したね」

 

 脈絡のない、けれど確信を持った言い方だった。

 のろのろと横顔がこちらを向き、ドフラミンゴの手にある拳銃に向けられる。

 そうだ、実の父親を殺したのはこの拳銃だ。鉛玉で撃ち抜き、殺した瞬間にドフラミンゴの『許し』は完了する。

 

 今も、また。

 

 ロシナンテに鉛玉をぶち込んで──許したところだ。

 すべての裏切りを、彼の死を以て精算した。

 

「ああ」

「……そう。ロシーが隠したがってたから、聞かなかったけど。やっぱり、そうだったの」

 

 不思議と納得したように頷いたミオはロシナンテに視線を戻し、血と雪で貼り付いた髪を梳くように撫でた。

 ドフラミンゴより、すでに事切れた死体に気を払うことが気に入らない。

 

「コラソン……ロシナンテはおれを裏切った大罪人だ。だからおれの手で処刑した。オペオペの実を食っちまったローは海軍に保護されたそうだが、なぁに、すぐに奪い返すさ」

 

 虚ろな声には感情のきざはしすら見えず、知らずドフラミンゴは意固地になって喋った。

 ミオの己を責めることも、声高に罪を糾弾することもない様子が、ひどく落ち着かない。むしょうに苛々する。

 

「てめぇも同罪だ、ミオ! オペオペの実を横からかっ攫いやがって……!」

「ローのために必要だったんだから、それくらい我慢してよ」

 

 冷めた口調でそれだけ言って、ミオは立ち上がった。

 

「それくらい、だと!? あの実にどれだけの価値があると──」

「ローの命を救う実なんだから、それだけの価値はあるでしょ。お兄ちゃんなんだから50億くらい見逃してよ。どうせ、唸るほどお金持ってるくせに」

 

 死ぬほど自分勝手な理屈をこねながら、どういう腕力をしているのか、ロシナンテの身体の膝裏と背中に手を入れてこともなげに担ぎ上げると、ドフラミンゴに背を向けてさくりさくりと歩き出してしまう。

 

「ローは海兵さんになるのかなぁ。でも、おっきくなれるなら、それでいいか」

「おい待て! どこに行く!?」

 

 思わず銃口を向けて質すと、白い息を吐き出しながらミオが振り向いた。

 

「どこでもいいでしょ。ロシーをこんな寒いところに置いていけないから、連れて行く」

 

 その瞳はドフラミンゴを見てはいるが、以前まで確かに存在していた親愛の情は、綺麗さっぱり消えて失せていた。

 

 義務のように無感動な口調で、ぽつりと。

 

「せいぜい家族を大事に、元気でね」

 

 そこには、叱責も動揺も義憤も殺意もなかった。

 

 ただ、ただ、すべてを諦めたような──否、もはやそれすら読み取れない、凪の如き瞳だった。

 

「ばいばい、ドフラミンゴ(・・・・・・)

 

 それは訣別の言葉で、込められたものはひたすらにからっぽだった。

 

 好意の反対は無関心とはよく聞くが、感情のひとかけらさえ己に向けられないという事実は、ひどくドフラミンゴに衝撃を与えた。

 

 ミオは自分の身内だと認めたものにはひどく甘い。

 

 それこそ親鳥が雛を守るが如き甲斐甲斐しさと、めいっぱいの親愛で包んで、愛してくれる。

 反面、身内以外の人間には容赦も遠慮も存在しない。そこにはくっきりとした断崖と、あまりにも深く底の見えない海溝がある。

 

 好意には好意で、敵意には敵意を以て鏡のように相対する。

 そして、それすら値しないと見なされたら最後──関心すら喪うのだ。

 

「お前も、おれを裏切るのか」

 

 気付けば撃鉄を引き起こしていた。

 銃口はひたりとミオに向けられて、ほんの少し引き金を引けば、最後の一発が彼女の薄い身体を貫くだろう。

 

「先に裏切ったのは、そっちでしょ」

 

 ようやく見せた感情の色は、怒りを孕んで揺れていた。

 

 

 対峙する二人を見て時が止まったような気がした。

 

 

 ぷつんと脳の一部が機能不全を起こしたように、なにも考えられなかった。正直、ドフラミンゴに何を言われて自分がどう答えたのかすら判然としていない。

 哀しみと虚脱感で腰が抜けてしまいそうだった。それでも最後の意識のひとかけらで、ここにロシナンテを置いていけないと強く思った。

 

 ドフラミンゴが思うほど、ミオは強くない。

 

 心は軋み、見えぬ血を垂れ流しながら悲鳴を上げて、嗚咽していた。

 関心がないのではなく、衝撃が強すぎてかろうじて平静を保てていたに過ぎない。

 全身から力の抜けた身体は存外に重い。ロシナンテなんて体格がいいから尚更のことだ。それを根性で担いでこの場から離脱する。

 

 それだけを、今は考える。

 

 海軍がローを保護してくれたのなら、安心して任せられる。なんせロシナンテを育てた場所だ。

 

「父様を殺して、ロシーに弾丸ぶち込んで、それで僕がドフィを変わらず好きでいるなんて……そんな都合のいいこと、ないでしょう?」

 

 本気でドフラミンゴの脳内構造はどうなっているのだろうと一瞬、心配になった。

 自分の意思でどうにもできない者には癇癪を起こして、『許し』と称して殺意の弾丸を撃ち込む。

 

 これでは、天竜人の頃となにも変わらないではないか。

 

「……ああ、そうだな」

 

 ミオの言葉にほんの束の間、何事か考えたらしいドフラミンゴがくるりと銃把を回して胸に仕舞いこむ。けれどミオの第六感に訴える嫌な感覚は強くなった。

 気候のせいではない悪寒が走る。頭皮の毛穴が残らず締まるような不快感があった。産毛が総毛立って、本能が警鐘を鳴らす。

 

 

「なら姉上にも──堕ちてもらおう」

 

 

 くい、とドフラミンゴの指先が踊る。

 

「おれと、同じところまで」

 

 瞬間──だった。

 

「うあ!?」

 

 まるでドフラミンゴの指先につられるように、ミオの身体がべしゃりと地に伏した。

 衝撃でロシナンテの身体まで投げ出されてしまう。口の中に雪が入って舌がびりびりした。

 

「な、なに、なんで」

「フッフ、フッフッフ、おれの能力を知っているか? あんたに使ったことはなかったが……」

 

 混乱がおさまらない間にも指先が動き、ミオの身体が本人の意思に反して動き出す。

 ぎくしゃくした動作で立ち上がり、歩き出し、視線の先にはロシナンテが持っていたであろう拳銃が──。

 

 まさか、まさか。

 

 血の気が引く。目眩がしそうだ。

 

「嫌われたくなかったからなァ。けど、愛されねぇってわかってんなら、いっそ憎悪されたいじゃねぇか」

 

 恍惚と、どこか陶酔の混じった声が遠く聞こえる。

 まるで、ではなくまさに、操られている。

 

 今、ミオはドフラミンゴの繰り出す糸に絡め取られた木偶(でく)人形だ。超人系・イトイトの実の能力者。その真骨頂。

 

 懸命に抗おうとするものの、身体の支配権が完全に乗っ取られている。勝手に動く。

 

「い、やだ」

 

 雪に埋もれるようにあった拳銃を拾い上げ、銃把に指が引っかかる。

 

「やだ、いやだ」

 

 冷や汗が背筋を伝う。

 

「ぜったい、やだぁあああ!」

 

 絶叫を上げ、惑乱したように首を振る。浮いた涙が散って、ドフラミンゴが気持ちよさそうに背筋を震わせながら哄笑した。

 

「フッフッフ! ああ、いい声だ。お前のそんな声がずっと聞きたかったよ」

 

 意思に反して動かされている腕はぶるぶるとふるえ、安定しない。それでも少しずつ焦点が定まっていく。

 未だ動かぬ、ロシナンテのおおきな身体に。

 

「さぁ、ロシーを撃て。ミオ」

 

 堕ちてこいとはそういう意味か。

 

 引き金を引けば、本当に引きずり落とされる。

 

 ドフラミンゴの糸に足をとられ、二度と身動きできなくなってしまう。それがわかる。

 

 意識には手を出していないのは、ロシナンテを殺したのはミオ自身なのだと、骨の髄まで知らしめるためだろうか。

 金属の冷たい感触が、頭蓋に刻みつけられる。ロシナンテは逃げられない。既に傷ついている身体に、更なる傷を与えるなんて冗談ではない。

 

 絶対に、駄目だ。

 

「ッ──」

 

 自分の肉体を、領土を侵されている。

 

 ならば、抗わなければならない。それはミオの魂の矜持。誰にも譲れぬ一線だ。

 できることがある。なんだってできる。どこにだって行ける。そう教えてきたのは自分なのだから、実行しなければ嘘になる。

 

 そんなのイヤだ。絶対に。

 

 歯を食いしばり、ミオの瞳に怪気炎が宿る。引き金に引っかけた指に不可視の力がかかる。

 

 

 それは、ほぼ同じタイミングだった。

 

 

「ドフィ~ッ!!」

 

 五分間の魔法から解き放たれたトレーボルが、大慌てでドアから飛び出してきた。

 

 瞬間──ミオの身体ががくんと不自然に傾き、転んだ。まるで『氷面で滑ったように』。

 

「お前の姉ちゃん! 能力者だッ!!」

「なに!?」

 

 驚愕にほんの一瞬制御が緩んだのか、ミオの手に馴染みはじめていた凶器の銃口がロシナンテから逸らされる。

 逃さず、身体を曲げて、銃把を握り込んだ手をかき抱き──引き金を引いた。

 

「な、やめろォ!!」

 

 ドフラミンゴの能力ではない怒声での制止など無意味だった。

 

 至近距離からの直撃に身体が震撼する。激痛と流血。銃声がくぐもって、一発毎に全身がいびつに跳ねた。

 構わず何度もぶち込んだ。手の平、腹、太股、そのうちの一発が自分の腰のベルト辺りに命中した。がちんっ、と弾切れの異音が響く。

 

 それはロシナンテのドジを未然に防ぐために常備していて、この寒さで中身が凍り付くと困るからと入れ替えた、ベルトに差し込んでいた水鉄砲。

 

 所詮は子供のオモチャだ。

 弾丸でいとも簡単にボトルが割れて、中身がこぼれ落ちる。手の平にぱしゃりと『それ』がかかる。

 

 

 能力者が最も忌み嫌う液体──海水が。

 

 

「う、ぁああ!」

 

 獅子吼を上げて、僅かに己の支配権を取り戻した。銃を放り捨てて能力を発動。

 痛みが支配を凌駕しているのか、変な脳内麻薬でも出ているのか、さほどの抵抗なく身体が動いた。

 

 バネ仕掛けの人形みたいな動きで跳ね起きて、獣の如き低い姿勢から地面を蹴り飛ばした。そのままロシナンテの腕を浚うように掴んで、信じがたい速度で滑走を開始する。

 

 流れ落ちた血液が瞬時に『固定』され、急制動など考えない摩擦係数ほぼゼロの滑走路を作り出しながら、最大速力でひた走った。

 

「くそ、待て! お前ら追えッ、逃がすなァ!」

 

 王者の一喝で部下たちが動く。

 だが追えと言われて追えるような速度ではなかった。天然の急斜面を更に凍結して滑り落ちていく。

 

 もっと。もっと。もっともっともっと速く!

 

 風が頬に当たって痛い。でもスピードは殺せない。息が苦しい。構わない。鼻が痺れて、風に打撃されて眼球が痛い。

 流星のように。燕のように。渡る風のように斜面を滑り、断崖からジャンプ台の要領でそのまま空中へと投げ出された。

 

 一切ブレーキを踏んでいないのだから、間近に迫るドフラミンゴの罠。人間の肉など簡単に裁断してしまう糸の檻。

 

 けれど怯まない。最後に残った一呼吸で叫ぶ。

 

「ッやっちゃえ! 軍曹!」

 

 いつの間にか、すぐ背後まで追いついていたミオの頼れる相棒が、全力で海水を噴射する。

 フクラシグモは海水を吸い込んで己の体積を自在に変える蜘蛛だ。体内に残っていた海水全てを一点集中。能力者の能力は総じて海水に弱い。

 

 何も考えず、勢いのまま海水をぶっかけた糸に渾身の蹴りをぶち込んだ。

 

 濡れた障子紙のように抵抗なく糸は千切れ、同時にミオも能力を発動。再び糸が再生しきる前に周囲を『固定』させて阻害し、くぐり抜ける。

 余剰海水すべてを吐き出してぬいぐるみサイズになった軍曹を片手に抱え、ロシナンテをもう片方の腕で抱き締めて、ぎゅっと目を閉じた。

 

「なむさん!」

 

 物理法則に従って落ちる先は夜の海。

 

 重油を流し込んだような、能力者にとっての魔女の釜の底。

 

 ドフラミンゴの支配から逃れて、部下たちが立ち入れない場所といったらここしかなかった。吸血鬼みたいだと思って少しだけ笑う。

 

 直後、全身がひきちぎられるような衝撃。

 

 上も下もわからない。ただ苦しい。真っ暗だ。力が抜けていく。能力者ってたいへん。でもロシナンテだけは離さない。絶対に。

 

 ミオは残った力を振り絞ってロシナンテにしがみつき、暗闇のような海の中へとただ沈んでいった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

残されたふたり

 

 

 

 ロシナンテとミオが海に落ちたと報告を受けた。

 

 手持ちの部下は能力者ばかりで回収不可能。厳寒の夜の海はただでさえ危険が伴うので、すでに老体であるラオGを行かせて死なれても寝覚めが悪い。

 能力者ではない実力者と言えばヴェルゴがいるが、彼は海軍に潜入させている手前使えない。

 

 まして、あの二人も能力者。

 

 ロシナンテはともかく、ミオの生存も絶望的だ。

 

「くそ、まさか自分を撃って弾切れさせるとは……」

 

 ドフラミンゴは歯噛みする。

 

 サングラス越しでも分かるほどその眼光は鋭い。睨み付ける、などという言葉では優しすぎる。凶悪さをいや増したそれは牙で抉るような眼差しだった。

 あれから海軍の中でもドフラミンゴを捕まえることに執心している『つる』に追われ、早々に撤退せざるを得なかった。

 

 船の上だ。

 

 雪は未だに降り止まず、甲板をうっすらと白く染め始めている。

 トレーボルによればミオの能力は、何かを固めることに特化しているとのことだ。彼自身も固められていたらしく、気付けばミオの姿は影も形もなかったらしい。

 

 自分が能力者だと土壇場まで明かさなかったミオは、なるほど昔から注意深かった彼女らしい。けれど腹が立つ。恨めしい。

 

 これでドフラミンゴはミオを二度、殺した。

 

 なにが悪かったのか。どこで間違えたのか。──否、間違ってなどいない。

 

 もう血の繋がった者はいない。すべてドフラミンゴの手から零れて落ちて、ぱしゃりと崩れた。

 

 けれど、彼には『家族』がいる。絶対にドフラミンゴを裏切らない忠義の徒がいるのだ。

 

 

 ならば、もう、それでいい。

 

 

 

×××××

 

 

 

 無数の砲撃音が響く中、子供が泣いている。

 

 

 五連の鐘のようにわんわんと、尽きぬ悲しみすべてを空にぶつけるように大声で泣き喚いている。

 

 あふれる涙を慌てて拭ってくれた手はもうどこにもない。

 

 不器用に、なだめるように頭を撫でてくれたひとはもういない。

 

 いつもどじばかり踏んでいるくせに、子供の悲しみにばかり敏感な男はもういない。

 

 いつもにこにこしているくせに、肝心な部分をないがしろにしていたあほな女ももういない。

 

 望みが叶うなんて大嘘だ。

 

 二人は子供の手の届かないところへ行ってしまった。

 

 否、本当ならすぐにだって届いた場所だった。けれどもう、子供はそこには行けない。

 

 それをしてしまえば、二人の努力そのものが水泡に帰してしまう。

 

 前が歪んでなにも見えず、足元の小石につんのめって転ぶ。

 

 痛くて、寒くて、でも、何もかもどうでもよくて。

 

 そんな子供の、上着の隠しから転がり落ちるものがあった。

 

 飴玉のようだった。既製品の包み紙にくるまれたそれがみっつ、雪明かりの中で輝いて見えた。

 

 小さな手で拾い集めると手の中でかちり、とぶつかり合って音がした。飴の出す音ではなかった。

 

 なにも考えずにひとつ、包み紙を開くと中から転がり出てきたのは大粒の宝石だった。

 

 色も輝きも種類もまるで違う、けれど価値だけは総じて高い鉱石がみっつ。

 

 その色はまるで三人をそれぞれ表しているようで──

 

「──ッ!!」

 

 魂の、脆い部分に手を突き立てられ、爪の先で執拗に削られた人間にしか生み出せない悲鳴だった。

 

 悲痛、無力感、絶望、後悔、悔恨、慚愧、それらもろもろが一気に心にあふれ、あまりの密度に心という容れ物が破けそうな、奇妙に虚ろでひどく、物悲しい。

 

 

 そんな哀哭が、しんしんと降り続ける雪に吸い込まれては消えていった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終幕.ロシナンテのねがいごと

 

 

 

「──ぶっは! し、しぬかと思った……!」

 

 ずぶ濡れの身体が放り投げられ、ごろりと転がる。全身の力が抜けきっていて立ち上がれる気がしない。海から上がった軍曹が、僕とロシーの身体に巻き付いた投網のような糸をブチブチと切ってくれる。

 肺が酸素を求めて変な風に膨らんでいる。耐えきれず、四つん這いになって思い切り咳き込むと、胃に入った海水がまろび出てきて一気に吐いた。

 

「ぼええ……」

 

 口の中がぜんぶしょっぱい。最悪だ。しかし今回、ほんと軍曹いなかったら死んでた。もう足向けて寝られない。

 

 僕の船の甲板の上である。

 

 横には、同じくずぶ濡れで転がってる巨体もといロシナンテ。

 

 

 あの、操られたとき。

 

 

 ドフィの糸自体を『凍結』というのも考えたのだけど、それが自分の神経もろもろにどういう影響を与えるのかが不明で止めた。万が一、意識がなくなったら完全に終了してしまう。

 不確定要素が多すぎて、ドフィたちから逃げおおせるために取れる手段はそう多くなくて、もう全部軍曹に預けてアイキャンフライ。

 結果は御覧の通りです。ああくたびれた。くそ寒いし身体中痛いし散々だ。

 

「ごめんね軍曹、いろいろ助かった」

 

 僕とロシナンテを回収した軍曹は脚をふりふり怒っている。もっと早く頼れと言われている気がしてよしよしと撫でてなだめた。

 『こ、こんなんじゃ納得しないんだからね!』という感じで憤慨する軍曹だけど、そのまま身体を支えるように脇の下の入り込んでくれた。ありがたい。

 

 そのままロシナンテのコートを掴んで、苦労して引き摺って船内に入ると軍曹が暖炉に火を入れに行ってくれた。なにもかもお世話になります。

 

「コラソン? ロシー? いやもうロシーでいいや。生きてるかー、死ぬなよー」

 

 適当にいいながらぺちぺちと冷え切った頬を叩いて、脈を取る。

 うん、ちょっと弱いけど脈はある。海水を飲んでいる様子はないので、ほんとに気絶してるみたい。

 

「意識はなぁ……とりあえず止血するか」

 

 ロシナンテのドジはどこで発揮されるかわからないのに、ドフィたちを出し抜いてオペオペの実奪取という危険極まりない橋を渡ったのだ。安全策はいくつあっても足りるもんじゃない。

 

 なので、いくつも仕込んでいた。

 

「しっかし、ドフィもひでーなー。撃つかふつー」

 

 ぶつぶつ愚痴りながら手早くロシナンテの服を剥いていく。ああ、やっぱり。

 身体のあちこちの皮膚が擦り切れて血が流れている。けれど、どれもそこまで深くない。

 軍曹の糸は天然の防弾繊維に等しい。

 衝撃につよくてとても丈夫だ。海王類を相手取っているのは伊達ではない。

 

 僕はローとの会話の片手間、ロシナンテの服のいわゆる急所に当たる部分に軍曹の糸を縫い込んでいた。今回使用した僕自身の仕事着にも同様に。

 おかげさまでお互い満身創痍だが、そうそう死にはしない程度に怪我をおさめられた。見た目よりはひどくない。

 

 内臓の重要な器官はなるべく傷つけず、まぁ皮膚の陥没と打撲と多少の流血は許容範囲と……諦めたくはないが、仕方ない。くそったれ。

 

 だからといって、放置していていい傷でもない。

 

 特にロシナンテは、放っておくと万が一もあり得るくらいにはひどい傷だ。応急手当でできることは限られているので、的確な医療と処置が必要である。

 何があったのか、全身打撲の痣まみれの上に銃創までこさえている。骨の一、二本くらいは……イッてるかも。

 

「う……?」

 

 とりあえず、この場でできる応急手当を済ませ、自分の止血をしていると、呻き声とともにロシナンテがうっすらと目を開いた。

 

「ロシー?」

「……ミオ、か?」

 

 声もがらがらに掠れてひどい有様だが、気付いてくれた嬉しさに笑えてしまう。

 

「そうだよ、お互いぼっろぼろだからこの止血終わったら病院行こう」

「え? あ、いや……」

 

 え、なんでそこで迷うの。

 

 視線をゆら、ゆら、と彷徨わせるロシナンテは自分が生きていることが信じられないようで、天井をぼんやり見つめたまま動こうとしない。

 

 それとも、あまり意識がはっきりしていないのだろうか。

 

「いや病院。僕もわりとアレだけど、ロシーの怪我も結構やばい」

 

 おかげさまで、穴ぼこもとい疵痕が増えました-。とても痛い。はは、くっそ次ドフィに会ったら殴る。絶対にだ。

 

「びょういんは、いやだ」

 

 夢うつつなのか子供返りでもしているのか、ロシナンテは小さく『いや、いや』と首を横に振ってぼんやりとつぶやいた。

 

 唐突になんつーことを言い出すんだ、このでけぇ子供はよぉ。

 

「いやいやいや、ほっといても治らないから。下手すると死ぬやつ。自覚ないかもしれないけど、ロシーの怪我ひどいよ、ほんと」

 

 痛みが通り過ぎて感覚が麻痺しているのかもしれないが、そうなると一層ヤバい。

 せっかく根性とか気合いとか次善策で、どうにかこうにか生き延びたのだから、ロシーに死なれるのはいやだ。

 

 こうなったら無理やり病院に突っ込むことも視野に入れるか、と僕の思考を読むようにロシーの手が伸びて僕の手首を掴む。

 冷え切った手が、信じられないくらい強く握りしめてくる。

 

 その瞳にひととき、譲れぬものが宿るのがわかってしまった。

 

「おれの医者は、ローだけだ」

 

 硬い、鉱石みたいな決意がそこにはあって、反論しようとした喉の奥に自分の言葉がひっかかってしまう。

 そしてもう一度、絞り出すように。

 

「ロー、だけなんだ」

 

 ああ、ほんと、もう。

 

 なんて瞳で、なんてことを言うんだ。ロシーこのやろう。

 

「ぼくに──チェレスタになれっていうの?」

 

 声がふるえて、たまらなくて、手首を握るロシーの指先を反対の手で包み込む。冷え切った体温がじわり、じわりとぬくもっていく。

 ここで僕が無理やり病院に入れても、ロシーは全力で治療を拒否するどころか脱走するだろう。分かってしまう。頑固で意固地で優しいロシナンテ。

 

 僕がいない間、ローと訪れた病院でどれだけの罵声と理不尽を浴びたのだろうか。

 

 五ヶ月という長い時間は、ロシーの中の医者像を粉々に打ち砕き、地の底にまで貶めてしまった。

 

 無理解の生み出す恐怖をロシナンテはよく知っている。

 それは色と形を変えてより強く、ひどく、おぞましく、鮮明に刻まれてしまった。心からの信頼を預けたローにしか、医療行為を任せたくないと願わずにはいられないくらいに。

 

 苦しくて、胸がぎしぎし音を立てて締め付けられるみたいで、目の前が滲んだ。

 

「う」

 

 もし、ここに、ドラム王国へのエターナルポースがあれば。

 

 そうすれば、あのファンキーなお婆ちゃんドクターとヤブなのに医者としての魂を持った二人に、会わせてあげられるのに。ちゃんとしたお医者さんはいるんだよって、教えられるのに。

 でも、エターナルポースは壊れてしまった。ドフィあのやろう、どこまで邪魔すれば気が済むんだ。

 

「うう~」

 

 歯がゆさと悔しさと、よくわからない感情で言葉が作れない。

 心があふれて落ちてくる。ロシーは意識が本当に曖昧なのか、なんでかへらっと笑ってもう片方の手で僕の頭をくしゃくしゃ、と撫でた。

 

「ごめんなぁ、ミオ」

 

 くるしい。しんどい。つらい。ああ、今ならチェレスタの気持ちがわかる。痛いほど。

 

 このひとに生きていてほしい。

 なにがなんでも命をつないで、元気になって、そうして笑ってほしい。幸せを掴んで欲しい。自分なんて、どうなったっていいから。

 

 でも、それができるのは、世界でたったひとりだけ。

 

「じゃあ、ローが大きくなるまで待たないと」

「ああ、きっとあいつは最高の医者になるぜ」

「そうだね。ローはがんばりやさんだもん」

 

 うまく笑えているだろうか。自信がない。

 

「まってて、すぐだよ」

 

 そうして僕は、握った手を通して──ロシナンテの時間を止める。

 

 意識すら閉ざされるその、ほんの、少しだけ。

 

 

「おやすみ、ねえさま」

 

 

 びっくりするほど満足そうに、ロシナンテは笑った。

 

 

「おやすみ、ロシナンテ」

 

 

 




これにて『お姉ちゃん?編』は完です
みなさま、ここまでのお付き合い、本当にありがとうございました

次回からは、原作本来の時間軸からのスタートになる予定です。

本当はこの中編(?)で終了予定だったのですが、大人ローのネタが出てしまったので…!
申し訳ありませんが、まだプロット段階なので、これからの更新頻度はがくーんと落っこちます

ですが、もし、引き続きよろしくして頂ければ、とても嬉しいです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編
番外.主人公設定とか余談いろいろ


 

『お姉ちゃん?編』が完結したので、うすぼんやりした主人公設定やボツネタなど

 

 特に読まずとも問題はありません。

 

 次回更新まで時間がかかりそうなので、ちょっとした備考兼暇つぶしです

 あくまでおまけの扱いでお願いいたします。

 

 

主人公(ミオ)

 死にたがりのあほ。

 大事なもののためにすぐヒャッハー道連れだー(物理)!しようとする自分勝手の塊。無自覚なのでとてもタチが悪い。

 名前を漢字にすると澪(澪標→身を尽くし、の洒落)

 人様にトラウマ作ることに定評がある。

 

 白い髪、桜色の瞳、華奢な体躯と無駄に愛らしい外見で中身はほぼ肉食鮫@ディー○・ブルー。とても見かけ詐欺

 動き回るイメージは小ト/トロ。目を離すとすぐいなくなる

 

 コラソン・ロー・主人公が三人揃うと大中小ト/トロ感がすごい、という思いつきが全ての始まりでした

 

 

余談:桃鳥姉のイメソン兼作業用BGM

 

全体(お姉ちゃん?編まで)の流れとしてはからふぃーなさんの『カラフ/ル』とボ/カロ『メア/リーと遊園/地』

 

個人だと、

 

ロシナンテ→米津氏の『アイ/ネクラ/イネ』

 

ドフラミンゴ→からふぃーなさんの『君の/銀の/庭』

 

主人公→同上で『mist/eri/oso』

 

子ロー→同上で『光の旋/律』

 

 まだ途中なので、この先増えたりすると思いますが、今のところこんな感じです。聞いてみると楽しいかもしれません。

 からふぃーさんが多いのは、某魔法少女映画を作業用BGMにしていたからです。そういえばあちらも愛と時間の物語。

 

余談の余談

 

チェレスタ→ささくれさんの『深海のリ/トルクラ/イ』

 

 

ボツになった分岐ルート

 

・白ひげ委託前にロシナンテが発見・保護からの主人公海軍入りルート

 ドフラミンゴ制止の相談中に某ヒューマンショップに姉弟で潜入捜査中、うっかりドフラミンゴに遭遇→お買い上げされて、かーらーのドシリアスルート

 間違いなく18NGになるうえ、下手すると監禁まっしぐらようこそメリーバッドエンドへな流れになってしまったためボツ。

 ちなみにこのルートの場合、ローも海軍入りします。

 

・ローが十年ぐらいの間に主人公厨兼コラさんクラスタ拗らせたルート

 十年の間に立派なクレイジーサイコラブ…もとい残念なヘンタイへ進化してしまったバイファルガー・ローさんが再会した二人をとっ捕まえてモノにするという、地雷しかないルート。

 片や細身(191cm)の青年で、片や身長293cmの大男&小柄だけど能力はピカイチな姉弟ペアなのにまったく勝てる気がしない。Bボタンが欲しいようと泣くふたり。姉弟丼は新しすぎるのではなかろうか。愛の前には関係ない? そ、そうか…(諦め)

 

 このルート、ローがひとりでツヤッツヤでコロンビアしてます。ドフラミンゴ涙目

 主人公とロシナンテは二人で「これ客観的にみてヤバいよね? めっちゃ爛れた関係だよね?」「うっう、おれたちが育て方間違えちまったばっかりに…(※べつに間違えてはいない)」「というか、第三者的にいうと僕が男二人侍らせてる構図になるのつらい」とめそめそ。

 

 しかし、これを本当に第三者がからかうとローが修羅と化す。

「おれが! ふたりを! 侍らせてるんだよ!」十年越しに思い人と恩人手に入れて人生が楽しくてしょうがないドヤファルガーさん

 

 こっちはもうちょっとマイルドになればワンチャンあるかもしれません

 

 

 原作編を上げるまでの、ちょっとした暇つぶしになれば幸いです

 

 

追加

 

・桃鳥姉の配達屋さんルート

 

 『ご.軍曹と赤髪』からのルート分岐で『はじめてのおでかけ』時に賞金稼ぎではなく『固定』能力フル活用で『雑貨屋兼配達屋さん』になっても面白かったかなと思いました。

 

 C家という最強のお得意様を相手にどちゃくそ便利な配達屋さんのまま穏便に十年超を過ごし、無事に死の外科医にコラソンを『配達』できるのか…ファイッ!みたいな(笑)

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

もしもの話(海軍分岐√)

反響を頂けたのでこんな感じになるんですおっかないですよね、と書いてみました。日曜日なので


 

 

 ドフラミンゴがそのヒューマンショップのオークションに立ち寄ったのは、ほんの気まぐれだった。

 

 この島に居を構える、とある富豪との裏取引。

 

 査定額に応じた金額を用意しておくとのことだったが、当日向かってみれば運搬船が天候不良で到着しておらず、取引を一日引き延ばして欲しいとのこと。

 

 多少の苛立ちはあれど、自然の理に文句をつけるのも馬鹿馬鹿しい。

 

 延長に表面上は快く応じ、さてどこかで時間を潰すかと考えていたところ、富豪が気を利かせて紹介したのが件のヒューマンショップだった。なんでも、本日は『とんでもない掘り出し物』が出品されるのだとか。

 物見遊山がてらに見物するのも一興か、と供にヴェルゴをつけてオークションが最も盛り上がる時間帯を見計らって足を踏み入れた。

 

 口元にも眼差しにも諧謔、皮肉の気色のみを浮かべていたドフラミンゴが、全ての表情を消し去ったのはその時だった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 運搬人の手が白絹のベールをふわりと外すと、室内は静かなどよめきに包まれた。

 

 それは言うなればスノードームだった。

 楕円状の、大きな硝子をかまくらの形に被せたケースの中──大きなクッションに座り込み、力無く身体を寄せ合う一組の男女。

 

 片や、天井の灯りを反射して強く煌めくアンティークゴールドの髪。

 

 柘榴石のような瞳に、通った鼻筋と酷薄なラインを描く口唇はどこか貴族的なのだが、顔の作りはむしろ精悍で、そのアンバランスさが不思議な色香を醸し出している男だった。

 3mはあろうかという大柄な身体を包むのは、クラシカルな乗馬服めいた黒のティルコート。立ち襟のフリルブラウスとクラヴァット、腰の辺りで切られたジャケットの下から覗くのは深緋のウェストコートだった。

 

 対するは、降り初めの垂り雪を想起させる、鮮烈なまでの白い髪。

 

 銀細工のような長い睫毛に縁取られた瞳は、遙か東で見られるという稀少な花のそれ。甘く繊細な面立ちの中、ゆるゆると潤んだ桜色の瞳に混じるひそやかな蠱惑。

 どこもかしこも華奢で儚げな様子は、一見すると少年にも少女ともつかない神秘性に満ちており、そこには確かに侵しがたい典雅と優美が同居している。

 

 そんな少女を彩るのは、黒いホルターネックに胸元で花開く繊細なフリル。

 なよやかにくびれた腰の後ろには、バッスルスタイルで白と黒の大きなストライプリボンとレースがあしらわれており、まるで大輪のブーケが咲いているようだ。

 形のいい頭には、斜めにつけられた大ぶりなドレスコサージュ。こちらには薔薇とリボン、そして鳥の羽根で彩られており愛らしくも華やかである。

 

 しかし、おとぎ噺の絵本から抜け出たような男女は、互いにもたれるように座り込んだまま微動だにしない。

 

 薄く開いた瞳には光がなく、部屋のどこをも見ていなかった。

 

「……こちらが、本日最後の『商品』でございます」

 

 競売人の声が静かに響く。

 

「さて皆様、こちらの『商品』に、皆様は幾らお出しになりますか?」

 

 競売人の言葉ののちに生じた静けさは、まさに嵐の前触れ。

 直後、爆発した熱気と欲望の渦は筆舌に尽くしがたい。会場に満ちる狂気の中、ただひとり、かの『商品』をひたすらに見つめている男がいた。

 

 よもや、まさか、反駁と惑乱が脳内を巡る。けれど、あれは、あの二人は紛れようもなく──

 

 すると、意固地なまでに注がれる視線に気付いたのか、少女がいかにものろのろとした動きで視線を辿り、ドフラミンゴを見てほんの僅か、薄い口唇を開いた。

 

「  」

 

 会場が一大酸鼻の地獄と化したのは、次の瞬間だった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 ヒューマンショップへの捜査のために『商品』として潜入に成功したしたロシナンテとミオはひとつ、致命的なミスを犯した。

 

 名前を尋ねられたとき、ロシナンテは『声が出ない』という設定だったため、あらかじめ決めておいた偽名……ではなく、慣れ親しんだ本名を書いてしまったのだ。

 片方さえ偽名ならば姉弟と思われることはないだろう、と偽名を名乗ることにしたのは彼の方で、ミオは先に名乗ってしまっていたため、血縁とバレてしまった。ドジッたのである。

 

 既に競売組織から販売先に至るまでのルートを保存した電伝虫は隙を見て外に放り出したので、あとは待機中の部下たちがそれを拾って突入するのを待つばかり。

 二人は折を見て脱出すれば晴れて任務達成、となるはずだった。ここまでならば、まだ計画の修正は可能な範囲だったのだ。

 

 問題だったのは、黙ってれば見目麗しいアンバランスな兄妹(だと思われている)は観賞用としての価値が非常に高く、健康状態という商品価値を引き下げてでも逃亡させない措置を取るべきだと競売人が判断してしまったことだ。

 

 果たして、箱詰めされたショーケース内にばらまかれたガスで仲良く痺れた二人はそのまま『出品』されてしまった。

 

 筋弛緩剤かなにからしいガスは意識こそ明瞭だったものの、指先ひとつ動かせない。ロシナンテも同様なのだから、体格の劣るこちらの薬が抜けるまでどれだけかかることやら。

 己が競りのマグロになった気分で瞳を欲望と狂気に濁らせたバイヤーの競り合いをぼんやりと眺めつつ、突入が間に合わなかったらもう購入者の運搬中、ないしは現地で逃亡するしかないかと脳内で計画を練り直している中、この熱気の中では逆に冷気すら感じるような、異様な視線を感じた。

 

 水を吸った衣服を着ているような重い倦怠感を堪えつつ、苦労しいしい上げた眼の先──硝子越しに見た驚きは筆舌に尽くしがたい。僅かな振動でロシナンテも気付いたことを理解する。

 

 おそらくは会場入りしたばかりなのだろう、ロシナンテに勝るとも劣らぬ大柄な体躯に纏った桃色のコートがひどく目立つ。サングラスを通しても分かるほど、射るような眼差しに含まれた驚愕と困惑。

 

 かの海賊の規模がこれ以上大きくなるようならば、自分たちで止められるように動かなくてはと相談していた矢先だったのだ。

 

 それが、なぜ、こんなところに。

 

 

 ドフィ

 

 

 思わず、口にしてしまったのが最大の失策だった。

 

 口角泡を飛ばしながら幇間さながらに客を煽り、本日最大の『商品』の値を吊り上げていた競売人の腹が、突如として裂けた。

 遅れて噴き上げた血しぶきがショーケースに降りかかり、べたりとした粘性の赤の幕が引かれる。腸は、競売人が倒れ伏した後に切り口から溢れだした。それくらい鋭利な切断面だった。

 

 それでも、かろうじて視界は保っていた。

 

 だから──二人は見てしまった。

 

 背をなにかの中毒者のように、軋む音が聞こえそうなほどに反らせ、喉をかぐらい天井に垂直に突き立て、両腕を水鳥のように広げるその姿。

 垣間見たはずの享楽的な空気は露と消え、冒涜的なまでに狂おしい、黒い炎が人の形を取っているようだ。

 

 かすかに耳が捉えたのは哄笑。

 ただひとりの喉から放たれているとは信じられないくらいの、轟々として滾る熱を孕んだ狂笑が広い会場に渦を巻いて、穢していく。

 

 指が動き、赤が散る。腕が落ちる。首が落ちる。悲鳴が響く。怒声が轟く。しかし、それすらひとりの哄笑には届かない。

 

 ただのひとりが引き起こしたとは信じられない凶行の中、それでも商売人は最高額を約束された『商品』を回収しようと屈強な男たちがケースに集り──虫のように潰された。

 

 穢れた血錆が硝子に貼り付き、もうここからは何も見えない。

 

 あれだけの狂乱を起こしていた会場の音が、気配が、命が死に果てるのにさほどの時間はかからなかった。

 

 砂漠のような、荒野のような、まるでここだけが世界から切り離されたと覚えるほどの静寂だった。

 

 そうして二人ぼっちで完結していた、赤茶けた緞帳に覆われた空間を突き破る硝子の破砕音。澱のように溜まっていたガスが霧散し、いくらか身体が楽になる。

 

 大きく呼吸すれば鼻腔に入り込む、むわりと濃密な鉄錆のそれと、断裂された肉の生臭さ。

 

「──ああ、やっぱり。間違いない」

 

 ひどく、ひどく嬉しそうな声だった。

 

 大きな身体を折り曲げて、こちらを覗き込む顔。

 残っていた硝子を引き剥がし、血とも脳漿とも知れない粘つくしずくを振りこぼしながら、残酷で、狂喜に満ちた声で。

 

「可哀想にな、つらかっただろう」

 

 それは優しく、短い言葉だったにもかかわらず、鬼哭啾々とした鬼気を底に秘め、自由の利かない身体であることを差し引いても、覚えたのはひたすらな恐怖だった。腰などとうに抜けている。

 

「もう大丈夫だ」

 

 返り血に濡れた頬で、ドフラミンゴは微笑していた。控えめに、それでいて晴れやかに。それは心の底から再会を喜ぶ『家族』の顔だった。

 

 鬼だ、と思った。

 

 鬼がいる。これは鬼が望んでやってのけた。鬼の所行だ。二人の想像していたドフラミンゴなど、現実の切れ端にすら及ばない。そんな可愛いものではなかった。

 人離れした鬼形、そんな恐ろしのもの(・・)が、一歩足を踏み出し、二人の肩を掴む。

 

「これからはおれが守ってやる。絶対にひとりにはしない、安心しろ」

 

 生き血を滲ませるような凄惨な笑みで、甘い、こちらの舌がしびれてしまいそうな糖蜜めいた声で、ドフラミンゴは二人をきつく抱き締めた。

 伝わる体温は自分の知る『弟』のそれで慕わしく、募る気配は狂気を孕んで凍てついていた。

 

「帰ろう、ロシナンテ、ミオ」

 

 忌まわしくもあたたかい、戦慄とともに吐き出されるそれは、甘い誘惑を伴っていた。

 

「愛している」

 

 まるで、身を任せてどこまでも、どこまでも堕ちたくなってしまうような──

 

 

 




こっちのSAN値が直葬されるので、この先は皆様の脳内補完に全てをお任せいたします…


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

もしもの話(配達屋さん√)

本編の息抜きに。活動報告でポロリした『もしも主人公が賞金稼ぎじゃなくて『雑貨屋兼配達屋』さんになっていたら?』というネタです。


 

 

 島が近付くにつれて、僅かに鼻に届いてくるのは嗅いでいるだけで舌先が痺れてしまいそうな甘い甘い香り。ああまた来てしまった……。

 

 弟たちのことがあったので海賊にはなれず、じゃあ手に職(能力)を活かしましょうと始めた小さな雑貨屋兼配達屋さん。

 

 どこぞの海上レストランみたいにお店そのものを雑貨屋さんとして、航海中の船で不足しがちな消耗品なんかが主な商品です。良心的なお値段で壊血病予防のためのビタミン関係とか、女性向けの商品なんかも扱っているので海賊・海軍間でもそこそこ認知されております。

 配達に関しては最初はおまけのつもりだったのだけど軍曹がいるので納期は完璧、能力で生鮮食品もとれぴちのまま運べるという触れ込みはバッチリ当たってお得意様もできてお仕事は今日も順調です。順調すぎた。

 

 現在、僕の配達屋さんとしてのお得意様はビッグ・マム海賊団……というかシャーロット家である。どうしてこうなった。

 

 いや原因は分かってる。コラソンやドフィたちとのあれこれから一度お父さんたちの船に戻り、雑貨屋さんて新世界ではどうなんだろうと販路を広げたのがまずかった。

 というのも、航海中に嵐で船を破損してしまった遭難船を発見したのだけど、そのお船がたまたまビッグ・マム海賊団に大量の貢ぎ物(青果)を贈りに行く途中の船で、納期が遅れたら殺されてしまうと全員で神に祈ってるというトンデモな状態だったのである。さすがに捨て置くこともできず、納期もかなりやばかったため僕の船で現地まで牽引するついでにこれ以上貢ぎ物が劣化しないように『固定』してあげた。

 

 で、それをホールケーキアイランド近海まで届けたところドえらい感謝された。命拾いしましたとガチで拝まないで欲しかったけど、そこまではよかった。

 なんかその辺から噂が広がって、万国の近くで生鮮食品を主に扱ってる業者の人たちからの依頼が激増したのも許容範囲だった。うん、生クリームとかフルーツ関係は鮮度が命ですよね。絞りたて、もぎたての時点で『固定』して運ぶのでお菓子の品質も上がりましたありがとう、と感謝も頂けてとっても嬉しいし光栄だった。

 

 だめなのはその先だった。

 

 万国のいちぶの島のお菓子の品質が急上昇したのを不思議に思ったらしいビッグ・マム海賊団の幹部? 大臣? が調査に乗り出してしまったのであーる。

 

 ビッグ・マムのお菓子好きはほぼ異常の域に達しており、『食いわずらい』という文字通りの病まで患っているためお菓子の品質は万国で暮らすものたちにとってまさに死活問題。そりゃ敏感になるのも当然で、特に隠しもせずにフツーに営業していた僕の名前は一発で相手に知られてしまった。

 

 それからご依頼リストに『シャーロット・○○』がまぁ増えること増えること。このままだと帳面が一冊まるまるシャーロット家なんて日も遠くない気がする。

 

 幸いなのは、僕がしがない配達屋さんとしてしか知られてないこと。いや『雑貨屋兼配達屋』には変な肩書きいらないから当然といえば当然だ。もちろん『白ひげ』や『ドンキホーテ海賊団』との関係がバレそうな気配がしたら全力で逃げる所存。相手はお父さんと同格の四皇の一角であるからして……怖っ。

 

「やぁ、待っていたよ。ペロリン♪」

 

 船着き場で僕に向かって片手を上げたのは、一見するとピエロと見紛うようなとってもサイケデリックな色彩の男性である。

 魔法使いの杖じみたキャンディケインに、お菓子の包み紙みたいな柄のシルクハットは無数のロリポップで飾られている。特徴的なのは仕舞うのが大変そうな口から伸びる大きな舌。

 

 彼こそがシャーロット家お得意様そのいち、ビッグ・マム海賊団の長兄にして『キャンディ大臣』を預かる『シャーロット・ペロスペロー』氏である。

 

 たかだか一介の配達人風情に国のほぼトップがお出迎えに現れるなんて何事だ。お大尽の登場にぎょ、と硬直しているとペロスペロー氏はにんまりと笑っておもむろにキャンディケインを一振りした。

 すると、その先端からしゅるしゅると飛び出す飴の縄。見る間に僕の船へともやい綱の代わりに巻き付いたそれは、あっという間に船着き場へと僕の船を牽引・固定してくれる。

 ペロスペロー氏は飴を自在に操り望む形を再現できる『ペロペロの実』のキャンディ人間。これくらいの細工はお手の物らしい。

 

「すみません、お待たせしましたか?」

 

 いつの間にやら出来上がっていた飴細工の架け橋をおっかなびっくり降りつつ尋ねると、ペロスペロー氏は首を軽く振った。

 

「いいや、私が待ち遠しかっただけのことさ」

 

 能力的なものではなく製菓技術も高いこの海賊団のお歴々はわりと趣味人な傾向がある。たぶん、本当に配達品が待ちきれなかっただけの話なのだろう。

 

「きみの届けてくれる果実で作るコンフィズリーは最高だからね」

「とても光栄ですが、お褒めの言葉はこの果物の生産者様にお願いしますね」

「くくく、違いない。けれど、きみが運ぶからこそ食材は最高の状態を保てるのだから、そこは誇るべきだよ」

 

 心なし弾んでいるようなペロスペロー氏が話している間に彼が引き連れていた部下たちがきびきびとした動きで配達品を運び出し、彼の前にずらりと並べていった。確認と解除を兼ねて箱を開けると、ほどよく熟れたイチゴが宝石みたいな煌めきを放ちながらお行儀よくぴっちりと詰まっている。

 

「ふむ」

 

 その中のひとつを無造作に選び取り、尖った爪の目立つ魔女のような指先でつまんで矯めつ眇めつ……この瞬間はいつでも緊張する。お金をもらって依頼を受諾している以上、万が一にも商品に不備なんてあってはならない。

 一通り眺めてから、ペロスペロー氏は満足げに吐息をこぼした。

 

「無傷。相変わらず見事なものだ」

「ありがとうございます」

 

 深く頭を下げる。

 航空機のないこの世界には空輸という概念がそもそも存在しない。そのため、製菓材料に使う食材の調達が結構な難事業だということに配達業に携わるようになって気が付いた。

 海賊行為だけでアーモンドプードルだのバニラオイルといったお菓子作りのための高級食材なんて到底賄うことができないのだから、ビッグ・マム海賊団が国土を有しているのも当然である。略奪できないなら作るしかないのだ。

 

「では、こちらに受け取りのサインをお願いします」

「ああ」

 

 ペロスペロー氏はボードに貼った配達票に慣れた手つきでサインをしてから、ふとこちらを見下ろした。

 

「ところで、先日の話は考えてくれたかね?」

「う」

 

 あまり聞かれなくなかったので、ぎくりと反応してしまう。さてはこれが言いたくて待ち構えてたのか。

 

 実は先日、ペロスペロー氏を筆頭にしたビッグ・マム海賊団の何名かに『御用配達人』になる気はないかと持ちかけられたのである。音に聞こえた将星なんて武闘派で囲まないで欲しい。あれがカツアゲだったら有り金全部はたいていた。御用商人はともかく御用配達人なんて聞いたことがないがまぁ、蓋を開ければ簡単な話。

 

「知っての通り、製菓材料は鮮度が出来を左右する物が数多く存在する。卵や生乳、傷みやすい桃やこのイチゴなんかもそうだ。この世界で『採れたてのものを時間差なく使える』なんていうのはね、製菓に携わる者にとっては夢のまた夢のような話さ」

 

 新世界の海は不安定なんて言葉じゃ足りないくらいの気候具合で、それに伴って船便での安定供給なんてあまりにも博打要素が強い。しかも、船が揺れれば繊細な食材はそれだけで傷んでしまうし、熟すまでの日にちを逆算して採取するから食べ頃にドンピシャで到着させられるかというのも微妙なところだ。

 僕の場合、生産業者からの配達依頼をちゃんと受けるようになってからは収穫したばかりのものをその場で『固定』して箱詰め、運搬してきた。『最高のものを最高の状態で届けたい』というのは職人気質としてごく自然なものであるし、僕としても否やはないので軍曹と一緒に精一杯協力した。協力したのでこの結果だ。どうしよう。

 

 ペロスペロー氏の話はまだ続く。

 

「それに、材料だけじゃない。ケーキ、アイスクリーム、プティングに……ああ、クーベルチュールチョコレートなんて風味に影響が出てしまうからね。『出来たてのお菓子を時間差なく提供できる』というのも、我々にとっては何より重要なのだよ」

 

 ……なんか雲行き妖しくなってきた。

 確かに諸島のあちこちで常に作られているお菓子の中にはクッキーやマカロンなどのそこそこ保存可能なものもあるけれど、生菓子も数多く存在する。ある程度は保冷剤などでリカバリーもできるだろうけど、限界はある。

 

 今までビッグ・マムにお菓子届けてください、みたいな依頼が来たことがなかったのは防犯上の話だと思ってたんだけど……これはもしかして。

 

「わかるかね? きみという存在は、私たちにとって腕のいいパティシエ……場合によってはそれ以上の価値がある。材料はお菓子作りの要。お菓子の鮮度は味の命さ」

 

 キャンディケインがすいっと動き、僕を示す。

 

「ママにきみの存在を知らせていないのは、まだ『確保』できていないからに過ぎない。美味しいお菓子がとびきり『美味し~いお菓子』に化けるんだ。知ったら最後、ママは絶対にきみを逃がさないだろうぜ。それこそ、おれたちと結婚しろとか言い出しかねないな。ペロリン♪」

「結婚はともかく、脅迫されてるような気がするんですが」

 

 ペロスペロー氏は心外だとばかりに肩を竦めた。

 

「まさか。ただ、我々が海賊行為をせずにこうして『交渉』している意味を汲んで欲しいとは思っているよ」

「えー……」

 

 紳士的なんだか強引なんだか微妙なラインだが、行動してないだけマシだろうか。

 ビッグ・マム海賊団専用の配達人という肩書きは僕にとって特に魅力的とは感じない。むしろ厄介の種にしかならない気がするので遠慮したいというのが本音である。主にお父さんのアレとかドフィとかのソレで。おっかない噂ばっかり聞くしなぁ、ビッグマム海賊団。

 

「船で寝泊まりしているそうだが、万国のどこにだって家を用意するぜ?」

 

 駄目押しのように一言。

 一介の個人営業配達業者にここまで優遇措置をとるというのだから、本当に僕のことを買ってくれてはいるらしい。

 

 ただなぁ……。

 

「……あのー」

「?」

「『キャンディ大臣』というお役目を預かっている方に言っていいことじゃないとは、思うんですけど……」

 

 さすがにお国を預かる方々のひとりに言うのは憚られて、口をもごつかせる。

 

「構わない。言ってみたまえ」

 

 視線に僅かな威圧を感じて、仕方がないと腹を括る。

 お父さんとかドフィの問題は横に置いても、僕はこの国に定住したいとは思わない。

 

 その理由は。

 

「僕、この国ちょっと苦手です」

 

 途端、足元からじわりとまとわりつく硬い感触。だから言いたくなかったんだけど。

 ペロスペロー氏のキャンディケインから伸びる飴がするすると身体を這い上がってくる。

 

「……それは、海賊が治めている国だからか?」

 

 シルクハットの隙間から覗く瞳は先ほどまでとは全く違う、それこそ『海賊』としての昏い色を宿してものすごい。

 

「あ、そこじゃないです」

「は?」

 

 即答すると、ペロスペロー氏は気の抜けた声を漏らした。染み出していた殺気がもろもろと砕けていく。

 じゃあどういうことだと言外に問われ、ものすごくしぶしぶと続けた。

 

「そのー、この国って家とか服とかみーんなお菓子で出来てるじゃないですか。雨かと思えば水飴だし、雪かと思えばわたあめだし」

 

 ペロスペロー氏が『キャンディ大臣』なんて役目を請け負っているのは、万国の建物の窓なんかが彼の管轄だからだ。

 ヘンゼルとグレーテルの魔女の家よろしく、この国の建物はほぼお菓子で出来ている。賞味期限切れにはそれを食べ尽くす専用の業者がいるくらいだ。ついでに天候もなぜだか甘い。あとチョコレートの島とか島中がほぼチョコレート製だ。噴水までチョコレートなのだから恐れ入る。

 

「ああ、それが?」

「居着かない理由、それです」

 

 生まれた時から住んでいれば慣れきっているから気付かないかもしれないけれど、僕にとっては右見ても左見てもお菓子、お菓子、お菓子の匂いのオンパレード。

 

 とても、しんどい。

 

「甘いものは嫌いじゃないですけど、四六時中チョコレートの香りとかカラメルの匂いに囲まれてると、もう食べる前からお腹いっぱいというか……匂いだけで糖尿になりそうで、ちょっと」

 

 正直、この国のひとは成人病とか虫歯にならないのかたまに心配になる。

 鼻が麻痺しきってしまえばまた話は変わるのかもしれないが、年がら年中甘い甘い匂いが充満している島にいるのはそこそこ辛い。僕が船で寝泊まりしているのは、潮風の強い海辺がいちばん匂いが薄いからだ。

 

「……」

 

 飴の拘束はいつの間にか解けていた。

 僕の話を聞くにつれ『え? この世に甘い匂いが嫌いな人なんているの?』みたいな顔で硬直していたペロスペロー氏は、じゃっかん可哀想なものを見る顔になってぽつりとつぶやいた。

 

「……きみ、糖尿病だったのか」

「いえ。なってないです」

 

 なりそうなのはむしろこの国の国民である。

 

「……そうか」

 

 なんとも言えない微妙な空気が漂い、とりあえず次の依頼の話になった。

 

 御用配達人の話はうやむやになった。助かった。

 

 

 

 

 




砂糖を煮詰める香りって暴力的なまでに甘いですよね
あ、ネタの詳細は主人公設定に追加しました


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

新生活と諸島編
1.A Lover's Concerto


ここから原作軸まで巻きます。ぐるぐる巻きます。


 

 

 治療費で路銀が尽きた。

 

 オペオペの実を巡るドンキホーテ海賊団と海軍と、僕ら三人ぼっち(内一名は非戦闘員どころか病人)のパーティで繰り広げられた三つ巴の闘争は、一応僕らの勝ちだと思いたい……で幕を閉じた。

 ローも無事にオペオペの実を食べられたようだし、海軍に保護されたとドフラミンゴが言っていたので当面の心配はいらないはず。病気に関しては本人の技倆に期待するしかないが、彼は大した努力家だったのでさほど不安はなかった。

 問題といえば、コラソンことロシナンテが『ロー以外に治療されるのイヤ、絶対』と空前絶後のわがままを言うので、僕が『能力』で凍結保存せざるを得なかったことだが、これはローが成長してめでたくお医者さんになれば自動的に解決する話。いや探し出したりなんだりする手間はあるけど。……あと何年かかるんだろう。

 

 そうなると、残った問題は自分自身のことで。

 

 ロシーには及ばずともこっちもわりと怪我人だった。怒濤の展開と脳内麻薬で麻痺してただけだった。

 ローに会うにせよロシーを『固定』し続けるにせよ、まずは自分が生き延びないと話にならない。

 ゼロ距離で自分に拳銃ぶっ放すなんてキ印入った真似をしてしまったため、入院は避けられず、そうなると身体が資本の賞金稼ぎはお金を稼ぐ手段を失ってしまうということで。

 

 退院してからなんとか節約しつつ移動していたけど、新世界への登竜門もといシャボンディ諸島で遂に資金が底を尽きてしまった。世知辛い。虎の子だった宝石類もローにあげてしまったからすっからかんだ。

 

 シャボンディ諸島は新世界への入口。

 

 有象無象の海賊やら人買いやらがわんさかいるため、賞金稼ぎも困らない環境である。その分レベルが軒並み高いので、体力が回復しきっていない自分ではちょっと相手しきれるか自信がなかった。

 しかし、お金がないのは首がないのと同じこと。

 

 要は、島からも出られない。

 

 どうしたもんかとウロウロしている間に道に迷って、ひょんなことからシャクヤクさんという女性と知り合い、彼女のお店で住み込みバイトをさせて頂けることになった。ありがたい。

 

 シャクヤクさん──シャッキーさんが経営しているバーは、ぼったくる雰囲気が全面に押し出されている。とても潔くて好きだ。

 そこで僕はお運びさんをしたりお皿洗いをしたり、暴れる海賊を物理で制圧したりついでにぼったくりの手伝いをしたり、と細々した雑用をこなしつつ日々を過ごした。

 

 ちなみに軍曹は夜になると僕の部屋に戻ってくるけど、昼間にどこで何をしているのかはいまいちわからない。

 時々、人さらい屋がバカでかい蜘蛛に襲われたとかの噂が流れてきたけれど、いまいちわかりません(すっとぼけ)。

 

 シャッキーさんのお店に訪れるお客様はやっぱり海賊が多いのだけど、たまに凄いひとが来るので油断ができない。

 いちばんびっくりしたのは、コーティング屋のレイさんことレイリーさんという初老の男性。なんと彼はかの『海賊王』の副船長だったそうだ。すごい。

 

 コーティングの腕に関しても一流だとのことで、早速お願いした。

 シャッキーの従業員から金を取るのはと渋い顔をされたのだけど、さすがにそこまで甘えるわけにもいかない。技術には相応の金額を払うべきだと全力で主張して、割引で引き受けて貰えることになった。

 

 『海賊王』のクルーだったレイさんはなかなか破天荒なひとで、お店に居着いていると思ったらいなくなったりと忙しい。

 

 ようよう体力も回復して、休日には手頃な賞金首を狩り出せるようになり、そろそろコーティング代もできるかなぁなんて思っていた頃。

 

 レイさんがとんでもないお客さんを連れて来た。

 

「おっ、ミオじゃねぇかどうした? 賞金稼ぎやめたのか?」

「あらミオちゃんと知り合いだったの?」

「うわああシャンクスさん!? お久しぶりです賞金稼ぎやめてません! それより、うで!うで!」

 

 

 それがなんと赤髪海賊団船長シャンクスさんそのひとで、しかもお別れしている間になにがあったのかシャンクスさんはトレードマークだった麦わら帽子と、片腕を無くしていた。

 僕の仰天ぶりにシャンクスさんは喪失した腕の辺りを撫でながら「ああ、これはちょっと色々あってな」と少し笑った。

 

 その笑顔には後悔の欠片も窺えず、ただ満足だけがあった。

 

 そうなると追及なんて野暮天は到底できなくて。

 

「……いろいろ、あったんですか」

「おう」

「めちゃめちゃびっくりしました」

「だよなぁ」

 

 いつもみたいにだははと笑ってから、シャンクスさんはレイさんとお酒を酌み交わし始めた。

 そういえばシャンクスさんも海賊王の元船員。見習い、だったか。尽きぬ話があるだろう。

 

 帰りしな、シャンクスさんが新世界に行くけどついでに送ってやろうかと言ってくれたので、ありがたくお言葉に甘えさせてもらうことにした。

 

 シャッキーさんから餞別に電伝虫の番号をもらい、ちょいちょい顔を出しに来ることを約束した。

 

 シャボンディ諸島はいい狩場かつ海軍本部も近いとあって、情報収集にはうってつけだ。

 

「あなたの部屋は残しておくから、いつでも来てちょうだいね」

「はい!シャッキーさん、いろいろありがとうございました!」

 

 煙草片手ににっこり笑うシャッキーさんに深く頭を下げてから大きく手を振って、シャボンディ諸島をあとにした。

 

 

 

×××××

 

 

 

 モビー・ディック号に帰ったら、心配していたみんなにもみくちゃにされた。

 

 怪我してから連絡こそ取っていたけど、帰れていなかったので当然といえば当然である。平謝りした。帰参が遅くなりまして候。

 

「なんで弟に会いに行くだけでそんなずたぼろになるんだよい」

「えーと、ケンカ別れしちゃって」

 

 呆れたようなマルコさんに苦笑いしつつ誤魔化した。

 

 実際はケンカ別れ、と称するにはヤバすぎるものだったけれど、濁した。下手に心配されたくない。

 マルコさんはふーんとか言って半眼になり、おもむろに僕の左手を掴んだ。長めの袖をくるくるとロールアップされて、手の平に新たに出来上がってしまった小さな痕が露わになる。

 

「ちょ、」

「姉弟喧嘩で弾痕こさえるほど、物騒な弟か?」

 

 なぜ気付く。

 

 銃弾が一発貫通したせいでどうしても痕が消えずに残ってしまったのだけど、小さいものだからまず気付かれないと思っていたのに。

 いえいえあははとか言いつつなんとか引き抜こうとするもののマルコさんの手はいっかな緩まず、むしろ早く言えと視線で急かしてくる。傍目には散歩に行きたくない犬状態だ。とても恥ずかしい。

 

「これは、そのー、ちがくて」

 

 ヤバイ。マルコさんの気配がめっちゃこわい。

 

 これ以上誤魔化そうとすると物理で聞き出されそうな気がする。いや、あの時は最適解だったんですって。マジでマジで。

 逃げたい一心で顔を逸らそうとしたら片手でぐわしと顔面を掴まれ、無理やり視線を合わせられた。ガンを飛ばされているというか、圧力すら感じるくらいの迫力である。ひええ。

 

「逸らすんじゃねぇよい」

 

 声ひっくい! 怖っ!

 

 指の力が強くなり、頬が潰されてみしみしいってる。これはひょっとして、かぎ爪が出かかっているのでは?頬骨がじんじんしてきた。痛い。

 もはやこれまで。

 

「う、あ、あれです! 自分で誤射しました!」

「はァッ?」

 

 詳細は省くけど、誤射といえば誤射だ。たぶん。地面か空かそうでなければ誰もいないどっかに撃てれば最高だった。

 あながち間違ってはいないけどすごくグレーな返事に、マルコさんは納得がいかないのかしかめっ面をしていたけれど、こちらがなんとしても言わないという空気を感じ取ったのか、結局ため息をひとつ吐いてアイアンクローをやめてくれた。

 

「……おれたちがいないところで無茶ばっかすんじゃねぇよい」

 

 最終的にはデコピン一発で許してくれました。首がもげ吹っ飛ぶような衝撃でした。星が見えた。

 

 それからお父さんのところに行って、報告と話をした。口に出してみると、自分の中でも案外整理がついていないことに気付いて内心驚く。だから、あまり言えることは多くなかった。

 弟たちには無事に会えたこと。

 色々あってケンカしてしまったこと。

 とっても賢くて頑張り屋さんの子供と暮らしたこと。ちゃんと言えたのはそれくらい。

 

 お父さんはまとまっていない話を黙って聞いてくれて、最後に頭を撫でてくれた。

 

「よく帰ってきたなァ」

 

 ほっとしたような、安堵と心配が混じった声だった。

 それで、帰って来れたんだと、おかえりと迎えてもらえたことが実感として浸透してきて、じんわりと目が熱くなった。

 

 ようやく、思ったより長かった『お出かけ』が一段落ついたと思うことができた。

 

「ただいま、戻りました」

 

 そんな僕を見て頃合いと思ったのか、お父さんはややあってからひとつの提案を口にした。

 

「なぁおい、ミオ。白ひげを背負ってみるか」

 

 賞金稼ぎとして動いているとき、僕は一切お父さんの名前を出さないし、利用しようと考えたことなんか一度もない。

 

 その分自由だけど、孤独はついてまわる。

 

 今まで、それは必要な措置だった。

 

 だって、ドフィたちがどんな職についているのか分からなかったから。海賊という文言だけで忌避されることがないとはいえない。

 

 けれど、そういう意味で区切りはついた。そう判断したからこそ、お父さんはそう言ってくれたのだと思う。

 背負うというのは、白ひげの庇護に入るということ。

 

 守り守られ、家族のように、ではなく──本当の『白ひげ海賊団』の家族として。

 

 居場所にして、いいんだと。

 

 それはとても魅力的な誘いだった。とりわけその時の僕は落ち込んで、しょんぼりしていたことも要素のひとつだ。

 実の弟たちが、片方は殺す気で銃把を握り、片方はかろうじて生きているけれど会話もままならない。

 

 だけど、だけど。

 

 無意識に唇を噛んで、拳を握った。

 ローのことが頭にちらついて離れない。海軍に保護されたということが事実だとすれば、ローはどこかの片田舎の医者なんて牧歌的な道よりも軍属に入る可能性の方が高い。

 

「……」

 

 例えば、大きくなったローにいざロシナンテを治療してくださいとお願いしたときに、海賊の言葉を聞けないと突っぱねられたりしないだろうか。

 これまでの付き合いでロー本人がそんな事を言い出すとは思えないけど、彼を取り巻く周囲はどうだろう。環境がそれをゆるしてくれるだろうか。わからない。考えすぎなのかもしれない。ただの杞憂なのかも。でも。

 

 自分の選択がロシナンテの命を握っていると思うと、どうしても受け入れることができなかった。

 

 だから考えて、考えて、挙げ句に出てきたのは……わがまま千万なものだった。

 

「僕、賞金稼ぎのままでいたい。でも、お父さんの子供のままでいたい……それは、いくらなんでもずるいよね」

「べつにずるかねェよ」

 

 お父さんは即答してくれた。

 

「そりゃ、これまでと変わらねぇってこった」

 

 そう難しく構えんなとお父さんは笑ってくれた。いくらなんでも甘えすぎだろうか、とおそるおそる聞いたら「家族に甘えねぇで、一体誰に甘えんだ?」と不思議そうに返された。

 

 それで、ちょっとだけ楽になった。

 

 僕の悩んでいることは、ちっぽけなものだと思わせてくれた。

 

 

「お父さん、ありがとう」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間.ある夜の繰り言

 

 

 (暫定)成人した誕生日にどっさりのプレゼントに囲まれて、酔っ払った頭でぼんやりいろいろ考えた。

 

 ぶっちゃけ、ひとところの世界に留まって二十歳を数えたのは初めてのことで──こんなにあっけなく越えられるものなのかとびっくりした。

 

 とにかくがむしゃらに走り回って鉄砲玉よろしく突っ込んで、ご破算。ご愁傷様。死して屍拾う物なし。

 

 そんな人生ばっかりだった。

 

 だもんだから、成人したらもっと劇的に『大人』になるのだと思い込んでいた。

 年相応の考え方とか、落ち着きとか、そういう大人に必要な要素が合体ロボみたいにくっつくのかな、と。

 

 けど、いざ体験してみたらぜんぜんそんなことなかった。

 思考も性格も感覚も全部が地続きで繋がってて、ぜんぜん変化なんてしなかった。そんな自分にがっかりする。

 

 誰かがおふざけで入れたらしい煙草を見つけて、吸ってみた。苦くてまずかった。しかもニコチンが重かったのか気持ち悪くなってひっくり返った。

 

 目が回る。馬鹿だ。

 

 なんでロシーはこれが好きなんだろう。苦いばかりで美味しくないし、お腹に溜まらないし、けむったいだけだ。

 余ってるのが勿体なくて、一気に残りを吸った。先端がぢりりと音を立ててどんどん灰になって、むせた。涙目になって吐くほど咳き込みながら、自分よりとっくの昔に二十歳を迎えた弟たちのことを考える。

 

 ドフラミンゴもロシナンテも大事な弟だ。

 

 それは変わらない。大好きで、大切で、失いたくなかった。どちらも。

 

 どっちの味方をするのか、ぱっきり決められれば楽だった。でも、そんなの無理だった。

 

 ……ほんとは、ちょっとだけ分かってた。

 

 二人の間に、埋めようのない溝ができていたこと。

 

 食事中の筆談でなされる会話や、すれ違うときの動作、誰かとの電話、ちょっとした時に感じる雰囲気の変化……あちこちに落ちている憂慮の種は、どうしようもないくらい、お互いの心が離れてしまっていたことを示唆していた。

 

 僕は、そんな崩壊の予兆を見ないふりしていた。

 

 ぎりぎりで保っていた均衡を崩してしまう何か、引き金のようなものを自分が引いてしまいそうで恐かったから。糾弾することも、話し合うこともせずにただ逃げたんだ。

 

 ずっと会いたかった。

 

 長い長い時間の果てで、初めてできた弟たち。

 

 でっかくなってても関係なかった。びびって顔だけ見ようと思ってたけど、いざ再会したらそんな気持ちは一発で吹き飛んでしまった。

 

 僕は二人といたかった。できるだけ、長く、一緒に。

 

 やっと会えたことに、変わらず好きでいてくれたことに浮かれてた。

 嬉しくて、幸せで、嫌われたくなかった。捨てられることを恐れた。

 

 初めてできた家族に、長く別れていた大好きなひとたちに嫌われてでもいいから向かい合う、なんて勇気をだせなかった。

 

 きっと三人揃って同じ所でご飯を食べられるのは、そう長い間じゃないと心のどこかで察してて、それでも臆病で弱虫で、おまけに意気地なしでずるい僕は、惜しんで、甘えていた。

 もう少しだけ、あとちょっとだけと、口の中に残っている飴を惜しむような気持ちで。

 

 あれも大事、これも大事で欲張って、結果がこれだ。自分のろくでもなさにうんざりする。

 

 本当は──どうすればよかったんだろう。

 

 僕がもっと頭がよくて、ちゃんと『年上のお姉ちゃん』だったら。誰も思いつかないような華麗な手段で快刀乱麻に問題解決、誰もが納得できるハッピーエンドになったのだろうか。

 そういう『大人』になってたら、もっと上手くやれる方法が思いついていたかと期待してたけど、これじゃあてんでだめだ。

 

 身体も心も大きくなれない僕は、年食っただけの子供だ。

 

 どうするのが正解だったんだろう。

 きっとどこかで間違えた。

 ちゃんとケンカすればよかったのかな。変な八つ当たりしないで本人に直接ぶつけてたら、何か変わっていただろうか。そんなの今更、遅いけど。

 くだらないことでカッとなって、いや僕にとったらくだらなくないんだけど、めちゃめちゃ気にしてることだったんだけど……ああ、いやだな。言い訳してる。すごくみっともない。恥ずかしい。こういう風に考えてるとき、僕は必ず間違えてるんだ。

 

 今でもちゃんと好きだよ。ロシーぶち抜ぬこうとしたのは、許してないけど。

 

 父様のことは、確認したかっただけで実はあんまり怒ってない。

 

 きっと一生口にすることはないけど、僕は父様も母様も嫌いじゃなかった。

 けど、好きかどうかは今になってもわからないんだ。ふたりが大事にしてたから、がっかりはしたけどそれだけだ。

 因果は応報されるべきだから、巻き添えで死ぬような思いをしたきみは『それ』をする権利がある。

 オペオペの実に関しては後悔なんかしてないけど横からかっぱらったのはそうだから、50億請求されたら一生かけてでもちゃんと払う。ローの命の代金としてなら安いもんだし。

 

 

──ごめんね、ドフィ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2.とある凶報と押しかけ弟子

 

 

 ある日、新聞をとある記事が賑わせた。

 

 魂消るとはこのことか、というくらいにびっくりしたミオは椅子から転げ落ちてしたたかに頭を打ってしまったのだが、さておき。

 過日、ドンキホーテ・ドフラミンゴがドレスローザという国の国王になったそうだ。あと七武海の一員になった。

 

 意味がわからない。七武海入りはまだわかるけど、海賊が国を治めるとは一体なにごと……?

 

 しかし、これでミオはいよいよもって白ひげどころか、そこらの海賊に所属することもできなくなってしまった。

 

 なんせドフラミンゴは絶大な権力と、海軍の中枢に食い込む七武海のひとりになってしまったのだ。

 

 海賊になる→賞金首の手配書が回る→ドフラミンゴに見つかる

 

 絶対こうなる。そうなったらとても困る。

 ロシナンテが全快してるなら見つかってもまだ、どうとでもなるんだけど、そうじゃないから駄目だ。

 

 白ひげ入りしなかったのは良かったのか悪かったのか……お父さんに迷惑かけたくないから、良かったと思おう。

 

 ミオは一年の数ヶ月くらいをシャボンディ諸島のシャッキーのお店を手伝いながら動き、残りは白ひげの敵になりそうな海賊を狩ったり、あっちこっちの海に出かけて評判の悪い海賊を決め打ちして活動している。新世界への玄関口なので情報が集まりやすく、他の賞金稼ぎがたくさんいるシャボンディ諸島は隠れ蓑としてちょうどよかった。

 

 そうこうしている間に、白ひげ海賊団の中では『食客兼賞金稼ぎ』という、傍から聞いたら意味のわからない地位を徐々に確立していくことになった。

 

 客というには近いけれど、常に白ひげ海賊団に所属しているわけではないから、家族といわれると本来の『白ひげ海賊団』とは少しずれがあるのが主な理由だ。

 元々、ミオが来る前もあとも基本的に傘下を除いて、白ひげ海賊団は女性の隊員はいないということになっている。

 白ひげことエドワード・ニューゲートその人が直接『託された』から一員扱いされていたので、そういう意味では妥当ともいえた。

 

 数年経った頃、能力者の能力を『引き継いだ』という特殊性ゆえなのか、ミオの身体はある時期を境にさしたる変化をしなくなってしまった。記憶に残る『生前』よりはほんの、ほんのすこーしだけ身長が伸びた気がするのだけど、周りが大きすぎてぜんぜん変わらない。ついでに胸もあまりない。この世界における胸囲の格差社会がつらい。

 

 精神は肉体の奴隷とはよくいったもので、いつまで経っても少女と女性との境目をうろうろしている気がする。おかげで白ひげの新入りにも毎回末っ子扱いされるのがとても遺憾である。

 

 何度か、スワロー島にもミニオン島にも行ってみた。海軍に保護されたと仮定すれば居着いてるとは思えなかったけれど、それでも気になった。結局、ローに会えることはなかったけれど……。

 

 誕生日プレゼントの中にカメラがあって、折に触れてはあちこちで写真を撮るようになった。

 

 なぜか遭遇率の高い赤髪のシャンクスに『東の海』はいいところだぞと激推しされたので、どれどれと試しに行ってみた。

 ご飯のすっごく美味しい海上レストランで舌鼓を打って、海賊王が処刑されたというローグタウンにも観光に寄ったところ、海兵と知り合った。スモーカーという名前で、悪魔の実の能力者の青年とその部下のたしぎ。

 

 たしぎはともかく、スモーカーという名前はロシナンテに聞いたことがあったから驚いた。

 

「坊主じゃないんだ……」

「あァ?」

 

 思わずつぶやいたら、この一言が知り合うきっかけになった。

 ロシナンテのことを尋ねたらたいそう驚いた顔をされて、昔世話になった中佐の名前だと言葉少なに教えてくれた。

 

「そういうアンタは中佐のなんなんだ?」

 

 姉です、と言うと弟にいらん性癖の容疑がかかりそうだったので、ちょっと考えてから答えた。

 

「お互いに大事なひとです」

 

 ちなみに、ミオは実年齢と外見年齢がどうがんばっても一致しないので自然と(見た目が)年上っぽいなひとには敬語を使うようになった。その方がトラブルが少なくていい。

 

「そうか……」

 

 その答えをどう捉えたのかは分からないけど、スモーカーはロシナンテ中佐の話は最近聞いていないから答えられない、と少しだけすまなそうに告げた。

 

「おれも気になっちゃいるんだが、悪いな」

「あ、いえ」

 

 当の本人は『固定』されて自分が所有しています、とは口が裂けても言えないので大丈夫です情報提供感謝します、と頭を下げた。

 それから思いついて、トラファルガー・ローという名前の見習いとかがいるかどうか聞いたら、自分の知る限りでは知らないとのこと。空振り。

 年齢的にいえば見習いとか雑用とかかもしれないので、さして期待していなかったから落胆も少なかった。

 

 たしぎとは刀談義で盛り上がり、賞金稼ぎより海兵になりませんかと勧められた。

 海兵は無理だけどお友達になりたいですと申し出たところ、ちょっとだけ驚いてから了承してくれてめちゃめちゃ嬉しかった。潤いの少ない男所帯ばかりだったので、貴重な女友達ゲットだぜ。

 

 これ以上逆走すると戻るのも一苦労なため観光はその辺りでストップして方向転換。双子岬の灯台守と大きなクジラに挨拶して、グランドラインに入った。

 

 ら、途中の島で弟子ができた。

 いやほんとに、なんでか。

 

 立ち寄った島で買い物をしたところ、今ここにタチの悪い海賊が居座ってるから、この買い物が終わったらすぐ島を出た方がいいと店主に忠告されたので、じゃあその海賊潰してこようと軽い気持ちで軍曹と一緒に海賊船を発見、強襲した。

 白ひげと新世界の海賊を相手にしてきたミオにとって『東の海』の海賊なんてものの数ではなかった。さくさく退治して回り、最後のひとりをタコ殴りにしていると視線を感じた。

 

 すわ残党かと顔を上げると、栗色の髪をしたまだ少年とも青年ともいえない微妙な男の子が年齢に不似合いなぎらついた目でこちらを見つめていた。

 

「頼む! 弟子にしてくれ!」

 

 そして開口一番、そんなことをのたまった。

 

 なんでも彼も賞金稼ぎとして動いているのだが、ガタイの違いで当たり負けしてしまうこともしばしば。体格が近いのに海賊を一掃できる腕前を盗みたいのだとか。

 我流で鍛えるには限界があるし、かといって師匠と仰げるような賞金稼ぎには出逢えた試しがない。だから弟子にしてくれと詰め寄られた。ほぼ押し売りである。

 

 大したことは教えられないけど、それでもいいならと了承した。ヒマだったし。

 

 シュライヤ・バスクードというこの世界では珍しい並びの名前の少年は、とにかく強くなることに貪欲で熱心だった。ちょっと昔のローを思い出して懐かしくなった。

 組み手をしてみたら、生まれ持った才能なのか身体能力が高く柔軟で、俊敏性に長けていた。

 ついでに動体視力にも優れていたので何かひとつの武器を決めて使うより、その辺にあるものを利用してのテクニカルタイプの方が似合うと思ったのでそう告げた。どうやら本人も特定の武器に固執するタイプではないらしく、あっさりと頷いた。

 

 あとは思考の瞬発力と反射の鍛錬をするために、場所を変え品を変えひたすら実践形式でやり合った。

 時々、手頃な海賊船を見つけて放り込んだり文句をつけたり、つけられたりしている間にシュライヤはどんどん強くなって、あるとき潰したい海賊がいるのだと零された。そこには隠しきれない憎悪が見え隠れしていて、ああなるほど、似ているわけだと納得した。

 

 相手を殺さないように捕らえるには相応の技術が必要なので、とにかく相手を戦闘不能に陥らせる戦法と、士気を削ぐ技術を磨くことに腐心した。

 そうして活殺自在というには荒削りだが、新世界はともかくグランドラインで生き抜けるくらいの知識と技術を教え込めたので、もう立派に独り立ちできると太鼓判を押した。

 

 職業が同じでも生きる指標も場所も、何もかもが異なっている二人である。

 

 連絡はしていたけれど顔をとんと出さないミオは、いい加減白ひげに帰らないと家出娘扱いされそうだしシュライヤには果たすべき目的がある。僅かな邂逅を留め置こうとて限界があった。

 

 ミオはここ数年でずいぶん身長が伸びて追い越されてしまったシュライヤの顔を見上げて頷いた。

 

「シュライヤはもうどこに行っても大丈夫。保証する」

「ああ。今までありがとよ、師匠」

 

 シュライヤは帽子の鍔をつまんで寂しそうに笑った。

 元々、期間限定の師弟関係だ。それでもある程度を仕込むまでは、とここまで引き延ばして修行に付き合ってくれた。

 とびっきりの技倆と身体能力を持っているのに、合理主義のくせにお人好し。ひどく不均衡な心を持ったあほな師匠。

 

 秘密主義でもないくせに結局素性をバラすことはお互いになかったが、それも自分たちらしいと思う。

 

 短くはない年月を過ごした師弟にしては淡白な別れになりそうだったが、ミオは海岸に視線を向けてから口をもごつかせ、もう一度シュライヤをまっすぐに見つめて、不意に笑った。

 

「お礼を言うならこっちの方だよ」

 

 胸を張って、誇らしげに。

 

「シュライヤに押しかけ弟子されて、僕は賞金稼ぎでいてよかったと思えたから」

 

 自分で選んだ道ではあるが、白ひげや海軍の所属を考えたことがないわけではない。年単位という時間はいかにも長い。

 根無し草のような生活には必定、孤独がついて回る。

 

 無条件に受け入れてもらえることが分かっている大きな容れ物に所属したいと迷った夜は数え切れない。

 

 けれど、シュライヤ・バスクードという危なっかしい賞金稼ぎの押しかけ弟子ができたら、そんなことは言えなくなった。

 

 偶然できた弟子に救われていたのは実のところ、ミオの方だ。

 

「こちらこそありがとう、シュライヤ・バスクード。きみは僕の自慢の弟子です」

 

 そう言って差し出された手を握り、シュライヤも笑った。

 湿っぽい空気になるのはごめんだとお互いにわかっていたから、握手した手を一度離して拳を作った。

 

「おう、師匠も元気でな!」

「シュライヤこそ無茶しないで、元気でね!」

 

 ごつりと拳を突き合わせて、二人は最後まで笑顔で別れを終えたのだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3.過日、白ひげにて

 

 

 年を重ねるにつれて、お父さんの具合が崩れる時が少しずつ増えてきた。

 若い頃に無茶をしたせいだと言うけれど心配で、不定期に戻るようになった。

 

 戻るたびに看護師が増えて、医療器具が増えて、お父さんが椅子に座っている時間が増えた。

 

 そしていつものようにモビー・ディック号に戻ると、お父さんから新入りの船員を紹介された。

 

「おれの新しい『息子』だ」

 

 大きな手がずいっと押し出したのは、くしゃりとしたくせっ毛で、そばかすがチャームポイントな黒髪の青年だった。

 七武海入りを蹴ったと新聞で報じていたので印象に残っている。ミオの記憶が確かなら彼は『スペード海賊団』の船長を張っていた『ポートガス・D・エース』のはずなのだが、なにがあったのか白ひげの一員におさまったらしい。

 

 しかしそんな大層な肩書きとは裏腹に、なんだか照れたように目線をそらしているのが面白可愛くて、ミオは相好を崩して新しい仲間の登場を喜んだ。

 

「おわー久しぶりの末っ子だ! ミオですよろしく!」

「お、おれはエース。よろしくな!」

 

 ぎこちなく差し出された手の平をぎゅうっと握ってニコニコするミオを見て、エースもにかりと笑った。

 

「グラララ……言っとくが、ミオはエースより年上だぞ。そうは見えねェだろうけどよ」

「うええッ!? 年上!? マジ!?」

「年相応の落ち着きがなくてごめんね! でもマジです」

 

 えへんと胸を張って実年齢を伝えると、エースは顎が外れそうなくらいな勢いで驚いた。白ひげの新しい隊員にミオを紹介したときの恒例行事のようなものである。

 

 あとから聞いたのだが、エースはかの『海侠』のジンベエ親分と五日間も喧嘩して(その時のエースはもっとガラが悪かったと聞いた)引き分けて、いざ白ひげ入りしてからもしばらくはお父さんを殺そうと狙っていたらしい。それが三桁に上るというのだから驚きである。けれど徐々にお父さんを認め始めて、最近ようやっと『家族』になったそうだ。

 

 余談だが、ミオが自分の立場というか賞金稼ぎであることを明かしてもあまり驚かなかったのは新鮮だった。

 大体は驚くし、場合によっては嫌悪されるし、こっぴどく貶されたことだって一度や二度ではない。

 

「海賊にだって色々あるんだから、賞金稼ぎにだって色々あったっていいんじゃねェか?」

 

 オヤジの迷惑になりそうな事はしないんだろ? じゃあいいじゃねェか。そう言ってもらえて、ミオはなんだかとてもホッとした気持ちになった。

 

「あ、おれは『姉ちゃん』って呼ばないといけねぇの?」

「どっちでもいいよ。エースが呼びやすい方で」

「んじゃ、ミオな」

 

 明るいひなたの笑顔を浮かべる新入り──エースが入ってからもミオの生活リズムはあまり変わらない。

 

 押しかけ弟子の育成中と期間が被ってしまったので、ジンベエの言う『人斬りナイフ』のような雰囲気を纏っていた時分のエースを知らないミオにとって、エースはいたずら好きで陽気な青年にしか見えなかった。彼の仲間たち(ペット込み)も白ひげ入りしているので事実上の吸収合併のようなものだろうか、と認識している。

 

 まぁ、変化があったとすれば。

 

「なぁなぁ、やっぱりミオも白ひげに入ろうぜ~!」

 

 なぜかエースに懐かれたことだろうか。そしてめっちゃ勧誘してくる。

 

 心当たりがあるといえば、どことなく弟子初号機……シュライヤに似ている気がして、ことある事に構い倒していたことだろうか。ちょっとした仕草とか、笑顔がお日様みたいなところとか、燃費が悪くて気が強いところ。さすがに食事中に突然死みたいに寝るなんてのはエースが初めてだが。

 

 だからなんとなく気になって、外見年齢が近いせいか『モビーディック』号にいる間はよくつるんで行動するようになった。見かけより手がかかるエースは、ミオのお姉ちゃん魂が刺激されてなにかにつけ世話を焼きたくてうずうずしてしまう。

 エースはエースで『どう見ても年下にしか見えないけど年上かつ白ひげ所属じゃないけど娘』という奇妙な生物が気になるらしく特に反発もせず普通に接していた。

 傘下でも白ひげでもないことを本人が望んでいるという変な距離感を面白がっているフシがあり、例えるなら実家近くに住んでる付き合いのいい兄ちゃんという感じだった。

 

 そんな気安い間柄だったのだが、最近やたら白ひげに入れと誘ってくるのである。

 色んな賞金稼ぎ云々と言ってくれた張本人のくせに。ナースより身近で付き合いやすいとか言ってた日々が懐かしい。手のひらくるっくるですごく戸惑う。

 

「なんと、今ならおれの部下になれるおまけつき!」

「入らない~、今の生活気に入ってるから~」

 

 子泣き爺のように背中にべったり貼り付くエースを引きずりながら船内を歩いていると「おーい、またエースがミオの背中にくっつき虫してるぞー」「重くなったら剥がせよー」と実に適当な激励を頂いた。

 もうこうなったら本当に子泣き爺として扱ってやろうか、としゃがんで足を掴んでおんぶしようとしたら「それはやめろ!」と器用に避けられた。しかし背中から離れるつもりはないらしく、お返しとばかりにヘッドロックを決めようとしてくるので腕をつねって牽制。

 

「いってぇ! わざわざ皮膚の内側を狙うんじゃねぇよ、底意地悪ぃの」

「エースがヘッドロックしようとするからじゃん。大体、なんで今更勧誘?」

 

 背中におぶさっているぬくもりはぽかぽかと熱いくらいだ。

 さすがに火傷はしないけれど、それでも湯たんぽでもくっつけてるんじゃないかと錯覚するくらいにはあったかい。彼が『メラメラの実』の能力者だからだろうか。

 

「だってよォ、ミオっていっぺん海に出ると何ヶ月か戻ってこねぇじゃん」

 

 確かに。

 

 ミオが海に出るときは遊撃兼賞金稼ぎのいわゆる本業か、シャボンディ諸島に出向いてシャッキーのぼったくりバーでバイトの時なので、一度外出してしまうとなかなか戻って来ない。

 それがすごくつまらないのだとエースがぶうたれるのでミオは眉を八の字にした。

 

「なんだそりゃ。エースってそんなに寂しがりだったっけ?」

「んなことねーよ。けど、ミオいねェと……」

 

 自分でも感情の整理が追いついていないのか、エースにしては珍しく歯切れの悪いもそもそした喋り方である。

 

「なんか、いつもよりつまんねぇ」

「ふーん? だが断る」

「バッサリ切るなよ!」

 

 うがー、と怒りながらもエースがミオを抱きしめるというか、しがみついている手はゆるまない。

 むしろぎりぎりと締め上げてくるので、離してたまるかという意思すら透けて見えそうだ。

 

「ごめんごめん。でもだめー」

 

 念押しに指で×印を作ると、剣呑な空気のままヘッドロック手前だった腕がほどかれて手が伸びてくる。片方の人差し指を掴んでぐにっと曲げられた。普通に痛い。

 

「いたいでござる」

「いたくしてるんでござるぅー」

 

 文句を言ってもどこ吹く風だ。完全に拗ねている。どうしたらいいんだろうか。

 というか、自分の周りはミオ含めてこんな感じの人ばっかりだ。

 子供のまま大きくなって、それをぜんぜん恥じたりしない。海賊というのはそういうものなのかもしれない。

 

「じゃあ、よ」

「んー?」

 

 悩んでいると、それまでの不機嫌が鳴りを潜めて雰囲気が変わるのがわかった。

 エースはどこか探るように横目でミオを見て、握り込んでいた指を離して、それから。

 

「もし、ミオが白ひげに入ることになったら、そん時はおれの部下な!」

 

 ×印の間にチョップが入って、細い小指をエースの小指で掬い上げられ、絡めて、ゆらゆらと。

 

「予約だ。よーやーく!」

「予約かぁ……」

 

 怒ると言うよりは念押しするように凄まれて、ミオはちょっと考えた。

 

 白ひげに入る、もしもの話。

 

 いつになるかは分からない。シュライヤやローのことがあるから、永遠にこないのかも。

 でも、こうして部下に欲しいとせがまれるのは単純に嬉しいと思う。

 エースはミオが賞金稼ぎでい続けようとするに至ったいきさつや事情を知らないし、知ろうともしない。そういうやつもいるよな、程度のごく軽い認識で交友関係を築いてくれたのでミオとしても付き合いやすかった。

 そういう関係をご破算にする危険性を分かっていてなお誘いたいと思ってくれる程度には、気に入られているらしい。

 

 それならば、と。

 

「うん、予約ならいいよ」

 

 エースは了承するとは思っていなかったのか、きょとんと目を丸くして、それから慌ててミオの正面に回って肩を掴むと目線を合わせた。

 

「マジで!? 撤回はナシだぞ!」

 

 悲しいくらい信用がない。

 長年奇妙な立場を貫いてきたという実績があるので、そう簡単に覆るとは思ってしないのかもしれなかった。

 

「しないしない。ただ、そもそもこの先白ひげに入るかは……わかんないけど」

「そこはいいんだよ! おれが頑張るから!」

「が、がんばれ?」

 

 やたらと強い勢いに押し負けてなんとなく激励してしまった。

 

「おう!」

 

 エースはそれこそ太陽みたいにニカッと笑い、ミオから離れると拳を固く握って天井に突き上げた。

 

「──よ、っしゃああああ!!」

 

 じゃっかん肩の辺りがメラッとしたのは、それだけ昂奮しているのだろう。

 喜びすぎていてもたってもいられないのか、エースは「なんかじっとしてらんねぇから、ちょっと自慢してくる! あっ飯は一緒に食うから勝手に食うなよ!」とそのままどこぞへ走り去ってしまった。誰に自慢するつもりだろうか。

 

 あまりのリアクションに驚いて呆然としていると、背中に声をかけられた。

 

「あーあ、あんな約束しちまってまぁ」

 

 振り向くといつから聞いていたのか、マルコが呆れた感じで立っていた。

 

「予約なんて初めて言われたので、つい。あ、なにか問題ありました?」

「いんや。ただちぃとばかり、面白くないねぃ」

 

 そう言いながら近付いてきたマルコは、さっきエースが取った手とは反対の手の小指を自分の小指で引っぱり上げた。

 

「エースの部下がイヤだったら、おれの部下になれよい」

 

 小指とマルコの顔を交互に見てから、ミオはハッとした顔になった。

 マルコはミオの知る限り普段はすごく真面目なのだが、たまにストライキでも起こしたのかというほど書類を溜めることがある。

 

「ま、また書類溜めてるんですか? 何日分? お手伝いいります?」

「ちげぇ! いや手伝いは欲しいけど、そうじゃねェよい!」

 

 マルコは即座に否定すると、小指は離さないくせにぷいと目線を逸らしてしまった。ひどくつまらなそうな、あからさまに顔に面白くないと書いてある。

 その様子が年上なのになんだか可愛くて、小さく笑ってしまう。

 本当に、なんだってみんなこんなに自分に素直なんだか。あれこれ考えていつも尻込みしてしまうのが、ばかみたいに思えてくる。

 

「それも、予約です?」

「予約」

 

 もしそんなことになったらエースが離すことなんてねぇだろうけど、と苦笑しつつマルコは言った。

 

「おれたちの『妹』をぽっと出の若造にかっ攫われるのは、癪なんでねぃ」

 

 適当に指切りして、指先が離れる。

 

「……」

 

 ミオはその小指を両方ともしげしげと見つめて──ぶわわっ、と顔を赤くした。最初は首筋から温度計のようにみるみる頬にまで赤みが差して、耳殻までが紅潮していく。

 その様子をまじまじと見てしまったマルコは、思ってもみなかった反応にびっくりした。

 

「うぉ、どした?」

「いやあの、なんか……ふ、へへ」

 

 変な笑いを漏らしながらミオは火照った頬を冷ますように自分の手で両頬を挟み、視線をあちこちにさまよわさせてから、観念したようにくしゃりと笑った。

 

 泣く寸前のような、溢れそうな喜びがはち切れてしまいそうな、そんな顔だった。

 

「なんだか変ですけど、あの、すごい、うれしくて」

 

 叶うかどうかもわからない、仮定の話でも自分が仲間になったらと考えるだけで、あんなにも喜んでくれるひとがいる。

 それが自分でも驚くほど嬉しいのだと素直に語った。

 

 頬が紅潮したまま、だらしなく笑み崩れる顔を隠そうと口元まで手で覆おうとする様子は、実年齢を知っていてもひどく愛らしく映る。

 こう、あまり構われたがらないタイプの猫がようやく懐いてくれたような、妙な達成感があった。

 

 うちの末妹がこんなにかわいい。

 

 口に出したら余計に恥ずかしくなったらしく、もじくさと照れ倒しているミオの前で思わず天を仰ぐマルコだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4.錯綜千夜一夜

 

 

 ニュース・クーに挟まれていた新しい手配書を部屋でめくっている内に一枚に目が留まり、わなわなと震え、ミオはゴンッとテーブルに頭を叩き付けた。

 ベッド脇で最近編み物に目覚めた軍曹がびくりと脚を動かす。

 

「海軍じゃないのかよぉおおお!!」

 

 

 痛恨事である。

 

 

 確かに、今年はルーキーが豊作な年だなぁとは思っていた。去年が不作だったのかもしれない。

 思い出すに、キャベンディッシュさんくらいしか印象に残っていない。

 シャボンディ諸島で恒例のバイト中になぜか花屋の前でばったり会ったところ、身構えられたのだ。一度、どこぞの海軍の駐屯所近くで海賊を引き摺っているところを見られたらしい。

 貴族のようなひらひらした衣服を纏った長身痩躯の、豪奢な金髪の巻き毛に端整な顔立ち。『美しき海賊団』という三日くらい徹夜したテンションでないと出てこなそうな名前の海賊団の船長は、その名に恥じない華やかな美形青年だった。

 そんな彼に新人さんは狩ったりしないから安心してください新世界で頑張ってね! と激励したらブチギレされた。

 

「間違いなく新世界の台風の目となるぼくに目を付けないなんて、賞金稼ぎの風上にも置けない! どうかしているとしか思えないね!」

「え、うん?」

 

 いや、目を付けないとかそういう話ではないのだけど。

 しかしキャベンディッシュさんは立て板に水とばかりに己の美辞麗句と愛馬の自慢をぺらぺら話し始め、いかに自分がこの先の海で脅威となるのかを説いてきた。

 十分くらいは聞いていたのだけど、いい加減面倒になってきたので迷惑そうにしていた花屋さんでいっとう綺麗に咲いていた薔薇を一輪購入して、キャベンディッシュさんに差し出した。

 

「キャベンディッシュさん!」

「そう、だから……うん?」

 

 差し出された薔薇を見てきょとんとするキャベンディッシュさんに、ぎこちなく笑った。

 

「キャベンディッシュさんがとっっても優秀な船長さんだということはよーく分かりました! 応援していますのでお近づきのしるしにどうぞ!」

 

 我ながらこんな感情の入らない言い方ができるのだなと思ったのだけど、キャベンディッシュさんはぱぁっと輝かんばかりに眩しい笑顔を浮かべて、薔薇を受け取ってくれた。

 

「そうか、狩らないとはそういうことか! きみがぼくのファンならそうと言えばいいものを! 新世界での活躍を楽しみにしていたまえ!」

 

 キラッキラの笑顔を浮かべたキャベンディッシュさんは、行くぞファルル! と手にした薔薇をてっぺんからむしゃむしゃ食べながら愛馬を駆ってどこぞへと去って行ってしまった。ああそれ、食べるんだ……。

 キャラが濃いというか、あそこまでナルシストなひとはあんまり見たことがなかったから驚いた。

 

 閑話休題。

 

 エースの弟らしい(しょっちゅう自慢している)『東の海』のモンキー・D・ルフィくん然り、『南の海』のユースタス・キッド氏然り、彼らが新聞を賑わすこと賑わすこと。このツートップに最近仲間入りを果たしたのが、『北の海』の海賊。

 

 ハートの海賊団船長、トラファルガー・ロー。その異名は『死の外科医』。

 

 手配写真の中のローはいつも被っていた帽子はそのままに精悍な顔つきになり、身体も大きくなっていた。相変わらず隈はひどいようだけど。無事に成長してくれていたのがわかって泣きそうになった。

 嘘ですちょっと泣きました。ホッとした。よかった。めっちゃ嬉しい。

 

 けど、海賊! 完全に想定外! なんでだ!

 

 あれ、おかしいぞ? おかしいぞ? ……おかしいぞ!?

 

 自分の部屋なので遠慮せず、腕を組んで考え込みながらウロウロウロと歩き回る。

 

「ひょっとして僕の記憶に間違いが……? いやいやいや、あん時保護されたって言ってた。それは絶対」

 

 ドフィがあんな切羽詰まった場面でわざわざ嘘を言うとは思えない。だから、僕はローは海軍に保護されてすくすく育ち軍医のルートへまっしぐら、と思っていたのだけど。

 

 もしかして、前提条件が違うのだろうか。

 

「……ん?」

 

 そこではた、と。

 最後までローと一緒にいたであろう『当事者』に確認してなかったことに気が付いた。

 

「ロシーには、聞いてない……!」

 

 ぬあああああ聞けばよかった! これは僕がドジッた! でもあの時聞ける雰囲気じゃなかった、だめだ言い訳はするまい。

 

「え、え、え!? てことは、あの時海軍が保護したのはローじゃなかった? それとも海軍から海賊堕ちしたってこと? あああわっかんねぇええ!!」

 

 頭を抱えてごんごろごろと部屋中を転げ回る。ベッドの足に激突した。痛い。

 しばらく悶絶してから身体を起こし、外の空気が吸いたくなってのろのろと外に出る。今日は久々の交戦があって、もちろん勝利した我が白ひげ海賊団は宴を開催している。僕もご相伴に預かったのだけど、まぁみんな呑むわ食べるわ。胃の内容量的な問題で一抜けして戻って朝の新聞を確認していたのけど、まさかこんな爆弾があるとは。

 

 どれだけ思考に埋没していたのか、すっかり深夜である。

 

 喧噪も遠く、甲板のあちこちには飲みつぶれた船員が三々五々にくたびれ果てていた。いつの間にか風も冷えていて少し肌寒い。

 水とあとなんか、果物でもあればいいなと思いつつ厨房を目指す。そういえば、今日はサッチさんが悪魔の実を手に入れたと自慢していた。「オークションしねぇの?」「しねーよ!」とか、からかわれていた。

 

 サッチさんが能力者になると、また海に落ちた能力者の救助要員が減るなぁ、とそぞろ歩いているとなんだか宴に似つかわしくない不穏な空気を感じた。反射的に気配を消しながら物陰に隠れ、様子を窺う。

 

 眉間に皺が寄るのがわかった。

 

 ちょっと遠目だけど、言い争っているあれはサッチさんと……ティーチ?

 

 ぶっちゃけ、ティーチはちょっと苦手だ。

 

 マーシャル・ティーチ。白ひげ海賊団の中でもわりと古株。たまにやりすぎることを除けば大雑把でおおらかで、そこそこに力量はあるのに上昇志向には乏しい。そんな印象。

 そう毛嫌いする要素なんてないし、彼も古いといえばそれなりなので多少の親交はある。そう声高に仲が悪いわけでもないのだが、不思議と好きになれないのが自分でも謎だ。

 

 けれど……なんというか、自分とは違う意味で白ひげの『家族』とはズレがあるような気がするのだ。単に生理的に合わないだけで、そんなの気のせいだと言われりゃそうかもしれないけど。

 

──などと、考えながら眺めている先でティーチが大ぶりのナイフを取り出し、慣れた手つきでサッチさんの肩目掛けて埋め込むのが、まるでコマ送りのように映った。

 

 飛び出す暇もないほど、鮮やかな手並みだった。

 

「ッ!」

 

 ティーチはそのまま片手でサッチさんが持っていた悪魔の実を強奪し、咄嗟に取り戻そうと動くサッチさんへ、もう一撃とばかりに引き抜いた血濡れのナイフを振りかぶった。

 正気に返った僕はとっさに手を伸ばして能力発動。

 ぜんぜん関係ないが、それまで『技に名前をつける』という文化が自分になかったので考えたことがなかったのだけど、エースにあった方が絶対いい! と激推しされたため、最近ひとつだけ名前をつけた。それがこれ。

 

「『凝結』!」

「!?」

 

 彼の握っていたナイフを腕ごと『固定』しようとしたら、そこはさすが古参というべきか、咄嗟に手を離されてナイフのみを固定できただけだった。

 ティーチの狙いは正確だった。確実に致命傷になる場所を狙っていた。

 

 産毛が逆立つような怒りがあって、感情のままに怒声を飛ばす。

 

「ティーチ! そこで何やってんだッ!」

「げぇ!」

 

 ティーチはあからさまにイヤなところを見られた、という顔をして慌ただしく視線を巡らせて中空に『固定』されたままぴくりとも動かないナイフに舌打ちすると、あっさりとこちらから背を向け──あろうことか舳先に足を掛けて海に躍り出る。

 

 巨体が水没する大きな水音が響き、嘲弄まじりの笑い声が夜の中でいやに広がった。

 

「ゼハハハ! とんだ邪魔が入っちまったが『ヤミヤミの実』はもらってくぜェ!」

「がっ、くっそ、待てティーチ! あの野郎……!」

「サッチさん動いちゃだめです!」

 

 サッチさんの声は掠れていた。泡食って駆け寄ったものの、暗くて傷の確認ができない。

 

「止めんなミオ! 今ならまだ、」

「怪我人が夜の海に入ったらどうなるかなんてサッチさんがよく分かってるでしょう!?」

 

 引き剥がそうとしてきた腕を掴んで凄むと、サッチさんが低く唸った。間近で見る顔色は白く、掴んだ布がじっとりと湿っている。出血量が多いのだ。

 今にもティーチを追いかけて入水してしまいそうなのを必死で押さえつけながら、慌てて僕は大声で誰でもいいから呼んだ。

 

「だ、誰かぁ! 来て下さい! サッチさんがぁああ!!」

 

 最初に駆けつけてくれたのは、お父さんの様子を見ていなければならない看護師さんのひとりだった。彼女は一目見てサッチさんの怪我に気付いて的確に指示を出してくれた。近くにいて、比較的酔いが回っていない船員を捕まえてサッチさんを医務室に運び込む。その職業意識の高さ、さすがです。

 少し遅れてあらわれたのはお父さんとマルコさんだった。マルコさんは真っ先に血で汚れた床を見て顔をしかめ、お父さんはこちらに視線を向ける。

 

「なにがあった?」

 

 誰何の声はいつになく硬い。

 

「僕も細かいことは……でも、ティーチがサッチさんをそこのナイフで刺して『ヤミヤミの実』、だっけ? サッチさんの戦利品だった悪魔の実を奪って、海に飛び込んだ」

 

 そこの、とまだ固定が溶けていないナイフを指差した。

 てらてらと濡れた色はサッチさんの血で、今更になってぞわりと悪寒が走る。うなじがざわついて、落ち着かない。

 

 今、絶対にティーチはサッチさんを殺す気だった。

 賞金稼ぎにせよ海賊にせよ、やくざな商売をしていると欲望と殺意の気配には敏感だ。だから、愕然とした部分もあったのも、本当だ。

 

 白ひげだって世にその名を轟かせる、歴とした海賊団。どんな思惑を持った船員がいたって不思議じゃない。知ってたはずなのに。

 

「慌ててナイフは『固定』した、けど、……間に合わなくて、ごめ」

「謝るな」

 

 お父さんにぴしゃりと制されて、反射的に口を噤む。

 

「ミオは悪くねぇ」

 

 口にしようとしていた言葉は形にならず、俯いて唇を噛みしめた。

 そうは言って貰えても、起きてしまったことを止められなかったことが、ひどく悔しい。

 

「──ティーチとサッチがどうしたって!?」

 

 後ろからの声に振り向くと、大分呑んだと分かるのに顔色が白くなってしまっているエースだった。彼はつい最近二番隊の隊長に昇格した。

 白ひげ以前の、彼が船長をしていたスペード海賊団の面々とティーチは、彼の部下ということに、なる。

 

「エース……」

 

 そこまで考えたら、なんだが目の前が暗くなって、ぐらぐら揺れた。いっぺんに色々起きたので突き抜けていた混乱が戻ってきた気がする。

 いつの間にか服と指についていたサッチさんの血を、エースから無性に隠したくてしょうがなかった。

 

 僕はティーチ苦手だけど、べつに嫌いだとか、憎いとか思ったことはない。ただなんとなく、本当になんとなく合わないなって、それだけで。

 

 でも、エースにとってティーチはもう守るべき部下で、食堂で隣に座ってご飯を食べながらお喋りしたりして、たまに笑い合ってた。そしてサッチとティーチは友人だった。僕はそれを知っている。

 

 なのに、ティーチは彼を殺そうとしたのだ。

 

 ティーチにとっての白ひげは、エースは、サッチは、簡単に捨てられるものだったのだろうか。こんなにあっけなく、もう用はないとばかりに。

 それとも、そんなにサッチさんが手に入れた悪魔の実が欲しかったのだろうか? わからない。聞けもしない。ティーチは逃げちゃった。サッチさんの傷も深い。

 

 どうしよう、エースになんて言えばいいんだろう。

 

 急にひどく心細くなって、言葉を探して、出てこなくて。

 

「エース、説明はおれたちがする。ミオは部屋に戻れ」

 

 ばん、とマルコさんに強めに背中を叩かれて我に返ることが出来た。

 

 何も言えずに頷いて、それでも足元がなんだかふわふわして頼りなくて、後ろでエースが何か言っているのによく聞こえなかった。

 戻る途中で手を洗って、部屋に入ってのろのろと小さな箪笥から服を取り出して、着替えて、その辺りでようやく。

 

「……そっか」

 

 ちょっとだけ、わかった気がした。

 

 白ひげは海賊団だけど、この十年、紛れようもなく僕の『家族』だった。泣いて笑って喧嘩して、それでも離れようなんて、微塵も考えついたことがなくて。

 それは、みんな同じだと思っていたのだ。強固な繋がりがあると信じていた。馬鹿みたいに思い込んでいた。

 

「不思議だね」

 

 それを、ティーチは。

 

「今、やっとドフィの気持ちがわかったよ、少しだけど」

 

 十年経って、本当にやっとだけど。

 

「家族が家族を捨てるって、こんなにさびしいんだ」

 

 それに、とてつもなくむなしくて、しんどい。

 

 殺そうとかは思わないけど、やり切れない怒りに似た感情が確かにある。

 悔しくて、悲しくて、胸の奥がつぶれたみたいに苦しい。なんで、どうして。そんな風に思ってしまう。

 ベッドにもたれるようにずるずるとうずくまって、膝を抱えて頭を押しつけていると軍曹が寄り添ってくれる気配がした。手を伸ばして、ぬいぐるみみたいに抱き締める。すべすべの感触が心地良かった。

 そのまま、寝付くこともできず、まんじりともせずに夜明けを迎えた。

 

 朝の光が窓から差し込んでくるのが、他人事みたいに見えた。

 

 すると、控えめなノックの音。

 

「ミオ、起きてるか?」

 

 エースの声だった。

 

「起きてるよ」

 

 顔も上げずに返事をするとドアが開いて、足音がする。潮と朝の匂い。

 

「あー、軍曹。わりぃけど、ちょっとミオ貸してくれ」

 

 軍曹はちょっと考える素振りを見せてから、僕の腕からすり抜けてベッド下に潜り込んでしまった。普段はあまり使わないけれど、そこには軍曹の巣がある。

 のろのろと顔を上げると、エースは見たこともない神妙な表情で僕の前であぐらをかいて──ガツン!と両側の床に拳を打ち付けながら頭を下げた。ぎょっとする。

 

「オヤジたちから聞いた! さっきはありがとう!」

 

 思ってもみなかった言葉に思わずこちらも膝立ちになって慌ててしまった。

 

「い、いや、止めるの間に合わなかったしサッチさん怪我しちゃったし、悪魔の実もティーチも逃がしちゃったから、」

「あそこで止めてくれたから、だ」

 

 自分でもよくわからない感情に突き動かされて言い繕ってしまうと、エースはそれを一言でぶった切った。

 こちらを見据える瞳はそれこそ炎のようで、ひゅ、と息を呑んでしまう。気圧される。

 

「怪我は治るけど、死んだら終わりだ。サッチは重傷だけどちゃんと生きてる。おまえがあそこに居合わせなかったら、たぶん、サッチは……」

 

 そこから先は言葉にならず、エースはぎゅっとくちびるを引き結んで、もう一度しっかりと頭を下げてから顔を上げた。

 

「ティーチの馬鹿を止めてくれて、ありがとう。二番隊隊長として、改めて礼を言わせてくれ」

 

 エースはこちらを真摯に見つめたまま、決然と言った。

 

「これから、おれはティーチを追う。どんな理由があるにせよ、サッチに手を出したティーチにはおれがけじめをつけなくちゃいけねぇ」

 

 ティーチは白ひげ海賊団において最大の禁忌を、鉄の掟を犯そうとした。『仲間殺し』は大罪であることは周知の事実である。

 サッチさんがなんとか生きているのは幸いだが、だからといってティーチが彼を殺そうとした事実は消えない。だから、エースは行かなくてはならない。

 

 それがひとつの隊を預かる者の責任で、義務だ。

 

「ティーチが、エースの部下だから」

「ああ、オヤジにはもう話をつけてある。すっげぇ反対されたけどな」

 

 そういえば、あれから何度か怒鳴り声を聞いた気がする。あんまり意識していなかったから自信ないけど。

 しかし、お父さんに反対されたというのが引っかかった。

 

 裏切りには制裁を。

 

 それは『船』という、沈むと全員諸共に沈む宿命を背負っている運命共同体においてはごく当然の約束事である。まして今回は『家族』に手を上げたティーチが相手だ。

 すぐに賛成してもよさそうなものを、お父さんが異を唱えたのは何故だろう。

 

「すぐに荷物をまとめて、行ってくる」

 

 だけど、これは『白ひげ海賊団』の中で起こった出来事だ。

 『食客兼賞金稼ぎ』の自分がくちばしを突っ込んでいい問題じゃない。

 

 筋は通されるべきもので、それを違えることを白ひげは何より厭う。わかっているからこそ迂闊なことは言えなかった。

 

「……わかった。気を付けて」

「ああ、それとこれ。ミオにも渡しとくな」

 

 目の前でびりっと破かれたのは白い紙。エースのビブルカードだ。

 

「いいの?」

「? 当たり前だろ。おれのストライカーもだけど、ミオの船もグランドラインを逆走できるんだから」

 

 エースの持ち船である『ストライカー』は、彼の『メラメラの実』の能力を動力源として動く船だ。風や潮目に左右されることなく自在に走れるから、小回りも利いて好きに航行できる。

 僕の『モビー・ジュニア』も普段は帆船だけど、軍曹に引っぱってもらえばどこにでも行けるから買い物なんかで重宝されているのだけれど、さておき。

 

 渡されたビブルカードにはエースの字で番号が記されていた。電伝虫の番号だ。これからも僕はあちこちを渡り歩くから、どこかでエースとかち合うことがあればいち早く察知して会うことが出来る。それくらいならば、大丈夫だろう。

 僕も慌てて戸棚から自分のビブルカードを出して裏に番号とサインを記すと、その部分を破ってエースに渡した。

 

 そうしてお互いのビブルカードを交換して、握手を交わした。

 エースのそれは僕の『おでかけ』とはワケが違う。

 海賊の中でも最も忌み嫌われる行為を犯したティーチという罪人を追いかけるのだから、何があるのか分からない。

 

「行ってらっしゃい、エース」

 

 だから、いちばん相応しいと思える言葉を贈った。

 

「御武運を」

「おっ、それ、格好よくていいな」

 

 そこで、ようやくエースはいつもの……にはほど遠いけど、ぎこちない笑みを見せてくれたのだった。

 

 

 

 




巻くのはここまでです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5.とあるバイトの人間関係

シャボンディ諸島編スタートです


 

 

 エースがティーチを追いかけて白ひげを出奔して数ヶ月。

 

 彼のことは気がかりだけど、新聞を見るにそろそろ『ハートの海賊団』がシャボンディ諸島に到着しそうだったこともあり、例年より少し予定を早めてシャボンディ諸島へ向かった。

 シャッキーさんのお店に顔を出して、宿賃代わりに雑用を引き受けるという恒例の交渉をして了解をもらう。

 

「えっ、そんなに!?」

 

 そこで、既に諸島に到着している大型ルーキーの数を聞いて驚いた。そろそろ十に届きそうだ。

 まだいくつかのルーキーが諸島に来そうな気配があるので、ひょっとしたらそれ以上かもしれない。大豊作すぎる。キャベンディッシュさんなんかごめん。

 

「ふふ、『ハートの海賊団』はまだだけど、時間の問題でしょうね」

 

 ふぅ、と紫煙をくゆらせて微笑むシャッキーさんは今日も美人さんである。

 シャッキーさんは情報通なので、僕はバイトのたびに『ハートの海賊団』に関する動向を聞いていた。そのせいか『ハートの海賊団』のファンであると思われている。

 間違ってはいない。間違ってないんだけど……こう、心理的には氷川○よしを見守るババアに近い気がする。あんなに小さかったのに大きくなって、みたいな。

 

 ちなみに、いつもの部屋にレイリーさんがいないのでどうしたのかと尋ねたところ、ここ数ヶ月は帰っていないとのこと。

 元海賊の性なのか放浪癖のあるレイリーさんはわりとちょくちょくいなくなる。あの人のことだから、その辺に女作って寝泊まりしているのだろうという意見で一致した。いつまでも若い御仁である。

 

 新しい手配書をめくりつつ、諸島に潜んでいるルーキーをシャッキーさんから聞きつつ照らし合わせていく。

 

「ふんふん、『怪僧』に『赤旗』、『海鳴り』……へぇ、『大喰らい』も? ここまで揃うのも珍しいですね」

 

 ユースタス・『キャプテン』・キッドと『殺戮武人』はワンセットとして、新聞を賑わせていたそうそうたる顔ぶれに感心すら抱いてしまう。

 

「ええ、ここまで揃うなんてそうそうあるもんじゃないわ」

 

 海賊の結成時期が違えば当然、諸島に着く時期だってそれぞれ違う。

 学園祭みたいに必ずこの時期に集まる、なんてことはまずないので本当に珍しい。もしかしたら初めてじゃないかな。

 どちらかといえば、異常だ。

 

「……ふむ」

 

 ここまで狙い澄ましたように物事が運んでいると、時代が動く先触れというか、運命めいたものが音を立てて回り出すような気配があってぞっとしない。

 あんまり真剣に手配書を見つめていたせいか、シャッキーさんがくすりと笑った。

 

「お使いがてらに見物してくる?」

「あ、行きたいです!」

「じゃあこれ、買い物のメモとお金ね」

 

 メモとお金を受け取って、一応読み上げ確認。うん、大丈夫そう。

 腰には得物を佩いたままだけどかさばる荷物は部屋に置いてきたので、あとは財布とリュックだけを装備する。

 

「気を付けて行ってらっしゃい、最近『賞金稼ぎ狩り』が多いらしいから」

「賞金稼ぎ『狩り』?」

 

 耳慣れないのにピンポイントなワードに聞き返すと、シャッキーさんはそういえば来たばかりだものねと説明してくれた。

 シャボンディ諸島はよその島と比べて奴隷の売買がわりと大っぴらに行われており、それに伴って人さらいを生業としている者達も存在する。

 『商品』の価値は強さや美しさ、物珍しさなど様々だがとりわけ能力者や他種族となると取引額も跳ね上がる。

 つっても、そういう種族は手に入りにくいからこそハイパーなお値段でやり取りされるわけで、そうしょっちゅう捕まえられるワケではない。

 

 そこで目を付けられたのが賞金稼ぎというワケだ。

 

 海賊が多い分、賞金稼ぎの数も段違いな諸島である。薄利多売にシフトした人さらいチームが実力が足りずに食い詰めた賞金稼ぎをだまくらかしたり、あるいは徒党を組んで襲いかかって身ぐるみを剥いで、親切ごかしに取り入って身売りさせる~なんてのが主な手口らしい。

 

「ただの人間よりよっぽど付加価値はつけられるし、力もあるだろうしね」

 

 『かの有名な○○海賊団を潰した~』なんて冠文句のひとつでもあれば、オークションでも箔が付くだろう。

 売るなら出来るだけ高く、は人情なので分からなくもないが迷惑な話である。

 

「特にミオちゃん目立つから、見つかると狙われるわよ」

「え」

 

 思ってもみなかったことを言われて、一瞬意味が分からなかった。め、目立つだと?

 昔から目立たないように目立たないように生きてきたつもりなのですが。

 

「……僕、目立ちますかね?」

 

 おそるおそる問いかけると、シャッキーさんは紫煙をくゆらせながら新聞でも読み上げるように淡々と言った。

 

「前はそうでもなかったけど、ここ何年かで目立ってきたわね。ミオちゃん神出鬼没だしずっと第一線で動いてるじゃない」

 

 シャボンディ諸島と新世界とグランドラインを行ったり来たりしているので、端から見れば神出鬼没に映るかもしれない。

 

 ただ、これには差し迫った事情がある。

 

 なんせ海軍本部が近いので、僕が世界でいちばん顔を合わせたくない海賊ことドンキホーテ・ドフラミンゴ……王下七武海が招集される時は全力で逃げ隠れするしかない。本当はジンベエ親分にご挨拶とかしたいのだけど、あの弟に見つかってしまう可能性があるような真似は、何が何でも避ける他ないのだ。

 

 あと、ソロの賞金稼ぎってわりと長持ちしないという定説もある。

 体力勝負だし相手が相手なのであっさりお陀仏していつの間にか、なんてのも珍しくないのだ。

 

「それはそうですけど、名前が売れるようなことをした覚えがないのですが」

 

 下手に逃がすと、変な噂を立てられないとも限らない。

 そういうのがめんどくさいので標的の海賊は大体全滅させるか、そうでなければひっそりこっそり船長とか副船長、航海士もしくは料理番なんかの今後存続に支障を来す役職の人間を狙っていた。隠密行動は得意である。

 評判を立てる相手がいないと思うのだけど。

 

「海賊はそうかもしれないけど海軍に知り合い、いるでしょ?」

 

 すぐに何人かの顔が思いつくのでそこは素直に頷いた。

 

「そりゃまぁ、この稼業長いのでそこそこは」

 

 十年以上も賞金稼ぎをしていれば海軍の知り合いが出来るのは自然の流れな気がする。

 そういえばスモーカーさんとたしぎちゃんは昇進したんだっけか。王下七武海サー・クロコダイルが砂の王国アラバスタでなんちゃらかんちゃら。

 

 特に諸島は海軍本部のお膝元なので、本部近くの町をうろうろしていれば海兵はなんぼでもいる。

 ロシーがお世話になったというガープ中将なんてわりと仲良くさせてもらっている方だと思う。おせんべいくれるし。そうでなければ、換金所で顔なじみになった海兵さん以外にも知り合いが何人か。

 弟の育ての親も同然だというセンゴクさんに関しては軍の中でも立場が上すぎて未だに会えていないのが残念だ。

 

「狙う海賊は懸賞金より評判重視で、しかも自分から名乗ることは一切ない。律儀な賞金稼ぎなんて珍しいから海軍筋からけっこう人気あるのよ。知らなかったの?」

「いろいろ初耳です。あー、海軍筋からかぁ……ぜんぜん考えたことなかった……」

 

 頭を抱える僕を呆れたように見ながらシャッキーさんが「ミオちゃんって時々抜けてるわよね」とつぶやいた。はい、うっかりしてました。海軍は知り合いになったひと以外はほぼATえむげほげほ換金所扱いしてました。

 目立つ理由は分かった。しかしどうしようもないから……これは開き直るしかない。

 

「ともかく、気になるので買い物がてらにちょっと見てきます。いざとなったら海軍監視下方面に逃げるんで、ちょっと遅くなるかもしれません」

 

 目立つ原因なので責任とってください。

 責任転嫁かどうか微妙なラインの台詞を吐くと、シャッキーさんは軽く手を振る。

 

「『音無し』を捕まえられるような人さらい屋はそうそういないと思うけどね。ええ、行ってらっしゃい」

 

 自室に置いてあるボンチャリで行こうと思ったけど、置き場所に困るので徒歩に変更。荷物はボンバックに入れてもらえば平気だし、いざという時に置いて逃げて自前のボンチャリ盗まれたらイヤだ。

 

 

 

×××××

 

 

 

 シャボンディ諸島はその名の通り、無数のシャボン玉が漂う幻想的な島である。

 

 その理由はこの諸島を作り出しているヤルキマン・マングローブの自発呼吸と、樹木から染み出している樹液である。呼吸のたびに空気が常に分泌される樹液を膨らませ、シャボン状の球体となって排出されるのだ。

 ミオは諸島に漂う無数のシャボンの上を、水切り石のようにひょいひょいと足場にしながら目的地を目指していた。

 人間にとって真上はわりと死角なので、ある程度の高さは保ったままで。勝手知ったる場所なので地図など見なくても到着できる。

 

 先ほどのシャッキーの話を聞くと無法地帯方面は避けた方が無難そうなので、街に出るまではこのまま行こうと思う。

 

 元々、数年前からドンキホーテ海賊団直営のヒューマンショップが1番グローブの方にできたので近付かないよう努めているのだけど、より気を付けた方がいいだろうと気を引き締めた。

 

「絶対やべーもんなぁ、っと」

 

 物騒な周辺をスルーして、造船所近くの商店街でようやくシャボン玉から降りた。

 馴染みの店主と挨拶をして買い物を済ませて『ボンバッグ』に入れてもらって、ひもをリュックに通して固定する。

 『ボンバッグ』はシャボン玉を利用した買い物袋のようなもので、シャボンが自発的に風船のように浮いているので重いものでも楽々運べる便利グッズだ。

 

「毎度あり! 今回はどれくらいいるんだい?」

「まだ決めてないんです。しばらくはいるつもりなんですけど、気になることがあるので」

 

 ともかくミオは逞しく(?)成長したローに会いたいので、それまでは滞在を決めている。

 

 気になることというのは、エースのことだ。

 

 彼の実力は知っているけれど、ティーチが口にしたであろう『ヤミヤミの実』の能力は未知数。妙な胸騒ぎがしていたミオは、もらった電伝虫の番号に時々連絡を入れていた。お父さんこと白ひげが反対していた、という不安要素も一因である。

 元々携帯みたいに電伝虫を持ち歩いたりしないエースとの連絡は繋がりにくく、たまに繋がったとしても弟の懸賞金が上がっただの、どこぞの海軍駐屯所のコーヒーがしぬほど苦くてまずかっただの、毒にも薬にもならない話ばかりだった。

 それはそれで元気な証拠だったので安心していたのだが、それからしばらくして連絡が完全につかなくなった。

 

 それから、さほどの時間も置かず新聞の一面を飾った事件。

 

 グランドライン『バナロ島』において起こったポートガス・D・エースと『黒ひげ』マーシャル・D・ティーチの決闘。

 この決闘の結果、エースは世界政府に引き渡されインペルダウンに収監。エースの身柄確保と引き換えにティーチが王下七武海へ加入を果たした。

 

 最初は内容が信じられず目を皿のようにして紙面を何度も読み込み、事実として飲み込んだミオはそこらの海兵にそれとなく尋ねて裏取りしてから白ひげに連絡した。

 海賊である以上、海軍に拿捕されることだって当然ありうる事態ではある。しかし、理解と納得は別問題。

 微妙な立場をふらふらしているミオと違って、エースは既に白ひげの『家族』だ。ミオだってエースが大事だし、『家族』に手を出された白ひげの苛烈さは筆舌に尽くしがたい。

 

 彼らの動向如何でミオも腹を括るつもりだった──のだけれど。

 

 電伝虫に出た相手はマルコで、返答はそっけなかった。

 

 曰く、エースの件はこちらでなんとかするからミオは関わるな。

 

 これは徹頭徹尾『白ひげ海賊団』と海軍との問題なので、余計な口を挟まないように。突き詰めるとそういう返答である。

 それを持ち出して突っぱねられてしまえば、ミオも頷かざるを得ない。

 どれだけ歯痒く、理不尽を感じようとも自分で望んだ立ち位置だ。勝手に動くには相手が悪すぎる。

 

 しかしミオの心情的にしおらしく座して待つなんて無理な話なので、そうなると海軍本部の近い諸島の方が情報が手に入りやすいし、いざという時の行動がしやすい。

 

 音に聞こえた新世界は『四皇』の一角、白ひげ海賊団の秘蔵っ子なんて海軍がどう扱うつもりなのか前代未聞すぎて予想がつかなかった。裏取引とかで穏便に出してくれれば喜ばしいのだが、エースはそういうことを甘んじて受けるタイプでもない。

 

 そんなワケで何かあれば動く腹積もりだけれど、今のところは『ハートの海賊団』の到着待ちというのが現状である。

 

「そうかい、ミオちゃんがいると安心できるからねぇ」

 

 この辺りの商店街のひととは大抵が顔見知りで、ミオが実力のある賞金稼ぎということを知っている。というのも、何年か前に無銭飲食している海賊をしょっ引いたからだと思っていたのだが、どうやらそれだけが理由ではないらしい。シャッキーに言われるまで気にしたことがなかったけれど。

 

 というのも、ミオはさきほどシャッキーに述べた通り賞金稼ぎと海軍の関係なんて外注と発注者くらいにしか考えていなかったのだ。個人的な友誼とは別物として認識していた。

 

 賞金稼ぎのあれこれなんて新聞に掲載されることはほぼないし、自船と白ひげとシャッキーのお店以外で定住場所は構えていない。猟場を決めていないから文字通りの神出鬼没。捕まえた賞金首はそのまま監獄直行なので、噂が広がることはないだろうと気楽に構えていた。

 

 個人的には食い詰め浪人、もしくは剣客商売程度にしか認識していなかったのである。

 

 しかし言われてみれば、海軍のネットワークは多岐に渡るしこと賞金稼ぎの情報に関して守秘義務はない。ソロ活動の限界でもあった。

 

 ちょっぴり暗澹としていると、去り際に、店主のおばちゃんがグランドラインまんじゅうをひとつ投げて寄越してくれる。

 

「なにへこんでんだか知らないけど、おやつにもってきな! 甘い物は元気が出るよ!」

 

「ありがとう! またよろしくお願いしますね-!」

 

 手を振ってから、キャッチしたおまんじゅうの包装をぺりぺりと剥がして、お行儀悪くかぶりつく。クリーム餡だった。美味しい。

 そろそろ長い付き合いにも関わらず、いつまで経っても店主のミオの扱いは微妙に子供のそれだ。実年齢を吹聴してはいないものの、そこそこの年だと分かっていそうなものなのだけど……。

 とはいえ、そういう好意は嬉しいので素直に受け取っておく。

 

「そういえば、シュライヤも『海賊処刑人』なんて異名ついてたもんな……」

 

 最近、生き別れだった妹と再会したことで賞金稼ぎから足を洗ったらしい弟子は、グランドラインでも名うての賞金稼ぎになっていたことを思い出す。普通に活動していたって異名がつくのだから、彼の数十倍以上に活動期間の長いミオが有名じゃないワケがないのだ。ちょっと反省。

 

 まんじゅうを食べ終えて、近くで買ったお茶で喉を潤していると──ぬうっとシャボン玉ではない影が差した。

 

「なんだ、あんたも来てたのかよ『音無し』」

 

 知った声に顔を上げると、まさかり担いだ金太郎……もとい、金太郎のような髪型と前掛けをした巨体の男がこちらを見つめていた。

 

「あれ、戦桃丸さん。こんにちは、お久しぶりです」

 

 彼は海軍本部科学部隊隊長という大層な肩書きを持つ将校である。

 主な任務は海軍で開発業務に携わっているDr.ベガパンクのボディガードなので、扱いは非正規の海兵ということになっている。こうして諸島で会うことはよっぽどタイミングが合わないとないことなので、非常に珍しい。

 ミオがぺこりと頭を下げると「あァ、確かに久しぶりだな」と戦桃丸も頷いた。

 

「今日はボディガードじゃないんですね」

「こんだけ諸島に億超えルーキーがいるんだ。わいらも奥に引っ込んでらんねェよ」

 

 自分の全長の倍以上ありそうなまさかりの柄で肩をとんとんと叩きながら、戦桃丸はしかめっ面になる。戦闘力の高い人員を遊ばせておけないと駆り出されたらしい。

 そういえば戦桃丸は、かの大将黄猿と知己のはずなので、大方彼に呼び出されたりしたのだろう。ご苦労様です。

 

 しかしこのガチッぷり。

 

 やっぱり今回の『諸島だよ、ルーキー大集合!』は海軍本部にとっても由々しき事態のようだ。

 

「『音無し』がルーキーの一人でも討ち取ってくれれば、わいらの仕事も減るってもんなんだが?」

「ルーキーは狩らないんですってば。前から言ってるじゃないですか」

「まーな」

 

 言ってみただけだ、と戦桃丸は軽くため息を吐く。

 『音無し』ことミオは賞金稼ぎの中でも古参で指折りの実力者だが、見た目はちっともそう見えないし、こうして対面していてもそんな雰囲気は欠片も窺えない。もっとも、その外見詐欺みたいな部分も実力の内なのかもしれないが。

 

「大体、今日の僕はしがないぼったく……居酒屋のバイトさんなので無理です」

 

 じゃっかん不穏なことを言いながらほらこれ買い物、とボンバッグをゆらゆらさせる様子はそこらの民間人と本当に変わらなかった。やせっぽちで小柄で、腰には一応用心のためか刀を佩いているが、それだって護身用だと言われれば頷いてしまいそうだ。

 ここらに漂っているシャボン玉のようにふわふわして掴み所がない賞金稼ぎは、そういう稼業特有のギラついた空気が一切ないのでどうにもこちらの気が抜ける。

 

「バイトって、金に困るようなことでもしてんのか」

「店主さんのご厚意でひさしを借りているので、宿賃代わりに雑用してるんです。お金はそこそこありますよ、もしもの場合に自分で自分を買えるくらい」

「ああ、例の『賞金稼ぎ狩り』か? んなの、お前みたいなヤツにとっちゃ物の数じゃねェだろ」

 

 そこらのちんけな賞金稼ぎならあり得るが、ことミオに限っては天地がひっくり返ってもあり得ないと戦桃丸は言い切れる。

 ソロの賞金稼ぎと銘打っているが、ちょっと関わった者なら『音無し』には規格外な『相棒』がついていることを知っているからだ。

 

「真っ向から来たら返り討ちにしますけど、できるだけの自衛はしますよ。万が一だってあるのが世の常ですので」

「そりゃそうか」

 

 つい最近、白ひげの隊長がぽっと出の海賊に討ち取られるくらいだ。

 万が一なんてどこにでも転がっていることくらい、戦桃丸でもわかる。

 

「それじゃ、お仕事頑張って下さいね」

「ありがとよ」

 

 世間話と挨拶くらいの関係だが、にこにこ笑って屈託なく言われれば悪い気はしない。

 

「そうだ、どっかでルーキー見かけませんでした?」

「? 狩らねぇんだろ?」

「狩りませんよ? ちょっと生ルーキー見物したいなって」

 

 今年めっちゃいっぱいいるから面白そうですよねと語るミオは、どう見てもそわそわしていた。

 仮にも軍属を前にしてよくまぁぬけぬけと言うものである。

 

「ただのバイト云々言ってたくせにルーキー見物とか言うんじゃねェよ! あとわいに聞くな!」

「すいません調子乗りました自分で探します!」

 

 そのまま手近なシャボン玉を足場にぴょんぴょんと乗り移りながら移動する様子は、控えめにいって(ノミ)のようだった。

 

 居酒屋のバイトさんはそんな動きしない。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6.恐竜のキャロル

 

 

 戦桃丸さんとお別れしてルーキー見物いえーい! とそこそこ治安悪くて海賊がご飯食べたり補給物資調達する方面に舵取りよーそろー、したら人さらいチームに襲撃された。フラグ回収早すぎて困る。

 シャボンディ諸島での活動歴が長いので、人さらいチームとのいざこざはそこそこ経験している。自分の職業を脇にのけてもそりゃ目の前で犯罪が行われれば現行犯逮捕は市民の義務であるからして。ほどほどに恨みも買ってるだろう。

 諸島においては彼らにも独自のネットワークがある。べつに吹聴はしていないが『音無し』であることを隠してもいないので、『賞金稼ぎ狩り』なんてのが流行ればターゲットにされてもおかしくはない。どこから話を聞きつけたのか、妙にデコトラちっくに改造されたボンチャリに乗った男たちに囲まれてしまった。周りをぐるぐる回っているのが昔の暴走族みたいでちょっと面白いなぁと現実逃避。

 

「囲め囲めー! そいつは高く売れるぞ!」

「『音無し』はソロだ! 仲間はいねぇ!」

「人をぼっちみたいに言うなこのやろう!」

 

 失礼千万なことを抜かす野郎にムカついたので、張本人目掛けて突撃した。

 マングローブの樹皮を削るような勢いで跳躍して相手のボンチャリを足場に乗り上がり、判断がにぶっていたらしい男の顔面を鞘でぶん殴ったら「あべしッ!」とか声を上げて吹っ飛んだ。

 ハイスピードで列をなしていたボンチャリの一台が止まれば、後続は当然玉突き事故である。見た目は単車みたいだけど重量に乏しいボンチャリは勝手にボコボコぶつかって、人さらいチームは衝撃に耐えきれず次々に投げ出されてしまう。昭和のコントみたいだった。

 残ったのは最後尾にいた頭部がモヒカンで、裸に革ジャケットというどっかの世紀末みたいな出で立ちの男。どうやらこのチームのボスらしい。生憎、人さらいチームには知り合いがいない……というか入れ替わりが激しすぎてチェックしてもわりとすぐいなくなる(物理)。

 

「えーと、まだやる? すごい勢いでみんな自爆してったけども」

「う、うるせええ! 野郎共ぼやっとしてんな! 行くぞ!」

 

 激昂したモヒカンが背負っていた曲刀を抜いてがむしゃらに斬りかかってきた。抜かれたら容赦はしないぞー。視認した瞬間、戦闘の昂揚が一気に全身を駆け巡る。

 お買い物モードからスイッチを切り替え、大ぶりの一撃を避けて曲刀を蹴り飛ばし関節を極める。いち早く回復したらしい仲間を蹴りで沈めて急所を突き直接的な打撃で吹き飛ばし、全滅までさほど時間はかからなかった。足元にごろごろ転がり、痛みに呻く大男たち。

 

 そのあっけなさに呆れ半分向こう見ずさに感心半分、なんともいえない気持ちで踵を返した。浮かれた気分に水を差された感じでちょっとげんなりする。

 

──その時、僕には油断があった。

 

 彼我の実力差ははっきりしていたし、こっちも刀を抜くとさすがにシャレにならない事態に陥りそうだったので鞘と拳と蹴りで全員沈めていた。

 なので、まだ意識を保っていた人さらい屋のひとりが苦し紛れに放った吹き矢をかるく首を傾けて避けた。それがいけなかった。

 標的を失った吹き矢は僕を素通りして、その更に後ろで浮いていたボンバッグに直撃。

 薬剤でも塗られていたらしくパァン! と音を立てて割れてしまった。

 

「あっ」

 

 シャッキーさんに頼まれていた買い物が空中でバラバラになって落っこちていく。

 中身を『固定』していなかったので、ガラス製の瓶が甲高い音を立てて割れた。有事の際でもない限り滅多に能力を使わないのが裏目に出てしまった。

 そちらに気を取られ、二の矢を失念していた僕目掛けて男は最装填した吹き矢を構えて──その後ろ頭を、誰かが凄い勢いで殴り倒した。殴打音がえげつなかった。

 

「ぐげぇ!?」

 

 つぶれた蛙みたいな声を立ててぶっ倒れてぴくりとも動かなくなった人さらい屋の後ろに、男が立っている。

 海賊のお手本みたいな古式ゆかしいトリコーンに、目元を覆う黒いマスク。胸には〝X〟のマークが刻まれている。手配書でさっき見たばかりのルーキーのひとり、堕ちた海軍将校こと『赤旗』X・ドレークがメイスを片手にこちらを見据えていた。

 

 民間人が襲われてるとでも勘違いしたのだろうか、『赤旗』はこちらを見つめてなんだか驚いているようだった。いや、僕もびっくりしてるけど。

 

 こちらは賞金稼ぎ、あちらは海賊。

 襲われたって文句を言えない間柄、のはずなのだがあまり警戒している様子ではなかった。どちらかというと、思いもよらない人間を偶然発見したかのような驚きと、少しの緊張。

 攻撃してくる気配がないのならと、深く考えず礼を述べることにした。

 

「どうも、助力感謝します」

「礼を言うのか?」

 

 意外そうな顔をされた。

 賞金稼ぎが海賊に? と暗に尋ねられた気がする。

 

「そりゃ助けてもらったんだから言いますよ」

 

 最低限の礼儀くらいは弁えているつもりである。

 ぺこりと頭を下げてからボンバッグ替わりにとその辺に漂っていたシャボンを捕まえて、散らばってしまったものを拾って歩く。比較的硬めの根菜類やソーセージなんかは大丈夫だけど、よっぽど当たり所が悪かったのか蜂蜜の入った瓶が割れてしまっていてしょんぼりする。

 

「あああ……トマトとレタスも潰れちゃって、もー」

 

 ぶちぶちと文句を垂れ流しながらかがんで砕けたガラスを適当にまとめていると、横で同じように『赤旗』が拾ってくれているのに気付いてギョッとした。

 

「うわ、うわ、ちょ、いいですよ! そこまでご迷惑かけられません!」

「おれがしたいだけだ、気にするな」

 

 なんだこのひと男前だな!

 堂々と言われ、無事だった買い物のいくつかを差し出されてしまえば言い募るのも無粋というものだ。

 

「……ありがとう」

 

 改めて礼を述べつつ受け取ると、『赤旗』は口の端を歪めて苦笑めいた形を作る。

 

「どういたしまして、と答えるべきか」

 

 そして口元の笑みを消すと、何かを考えるかのように視線を巡らせてから、もう一度こちらを見た。

 

「きみが賞金稼ぎの『音無し』で間違いないか?」

「はい。そう呼ばれています」

「……そうか。だとすれば」

 

 何か、緊張すら漂う真摯な表情に自然とこちらもじゃっかん身構える。シャボンに荷物を押し込みながらなので、さまにはならないけど。

 けれど『赤旗』の次の言葉は、意外にもほどがあるものだった。

 

「きみは、おれの恩人ということになる」

「……は? ?」

 

 ぽかりと馬鹿みたいに口を開けてしまう。

 恩人? 誰が、誰の?

 覚えている限り、『赤旗』とかち合った覚えは一度もない。初対面のはずだ。海軍から海賊に転向したというのも、わりとよくある話なので狙う理由もない。悪い評判も聞かないし。それが恩人とはこれ如何に。

 頭の上に疑問符を量産しているのを察したのか、『赤旗』は少しばかり迷うような口調で続けた。

 

「もう、十年以上前に存在した海賊団なのだが……『バレルズ海賊団』を覚えているか?」

 

 なぜここでそんな懐かしい海賊の名前が出てくるのかさっぱり分からないが、首肯する。

 その名前はよく覚えている。ちょっとやそっとで忘れられるはずもない。なんせオペオペの実を巡る闘争に身を投じることになった、元凶ともいえる海賊だ。あの海賊団そのものは、僕が陽動兼八つ当たりで船長もろともにノリノリでぶっ潰してしまったが。

 船長の名前だってバッチリ記憶に残っている。X・バレルズという、元は海軍だったのだがいつの間にか海賊に身を窶していたという、曰く付きの船長である。

 

 ん? X・バレルズ?

 ……X?

 え、ちょっと待ってくれ。まさか、まさかだよね?

 

 ざぁっと音を立てて血の気が引いていく。手配書が脳裏に浮かび上がった。『赤旗』の本名って、確か。

 とある考えに行き着き、よもやと思ってまじまじと『赤旗』を見つめる。

 ずいぶんと昔の出来事だし、当時は室内が薄暗かったから曖昧だけど、なんとなくその顔立ちが似ている、ような……?

 

 無情に答えは告げられた。

 

「X・バレルズはおれの父だ」

 

 ほぼ反射的にその場で土下座した。

 自分でも会心の動きだったと思う。

 たぶん顔色は真っ青になっているだろう、背中なんて冷や汗びっしょりで気持ち悪いくらいだ。

 

「まことに申し訳ありませんんんッ!!」

「だから、えッ!?」

 

 僕の突然の土下座に『赤旗』がめちゃくちゃ驚いたようだった。いやでもここは謝るのがスジでしょう。

 

「『赤旗』のパパさんとこの海賊団、ぶっ潰したのは確かに僕です! 恩人ってアレですよね、恩人と書いて仇って読むやつですよね? お礼参りってことですよねぇええ!?」

「か、かたき!? いや、そん、」

 

 十余年を越えた因縁がこんなところでこんにちは! そりゃ恨むわ!

 厳密にいえばあの事態にはドフィもいっちょかみしてたけど原因は八割がた僕にある。

 親御さんの海賊生命を絶った元凶なので息子さんなんて、こっちとしては謝る以外になにをすればいいのか。

 

「復讐とか仇討ちとかお望みでしたら受け付けますけど、ちょっと待って頂けますかねぇ!? この買い物を済ませたらすぐ──」

「ちがう! そうじゃないんだ!」

 

 テンパッて自分でもよくわからないことを口走りつつぺこぺこバッタのように頭を下げていたら、慌てた声で強く言われた。顔を上げると、『赤旗』は中途半端な位置で両手を上げて眉を寄せていた。そこには恨みとか怒りの感情は見えない。

 どっちかというと超困っている。

 

「……ちがう?」

「ああ、勘違いはもっともだが……恩人とはそのままの意味だ。きみに復讐したいなどとは、考えていない」

 

 なんにせよとりあえず立ってくれないかと心底困り果てた様子で言われたので、お言葉に甘えて立ち上がる。膝についた泥を払っていると、ほっとした顔の『赤旗』がためらいがちに自分のおでこを指で示した。そうかと思って袖で自分のおでこをぐしぐしと拭うと泥がついた。

 どうやら、本当に僕に対して物騒な悪感情を持っていないらしいのは一連の仕草や様子で窺えた。海賊なのにびっくりするほどいい人っぽくて、それはそれで申し訳なくて、たいへん気まずい。

 『赤旗』は倒れ伏している人さらい屋たちをちらりと一瞥してからつぶやいた。

 

「じきに奴等も目を覚ます。少し移動した方がいい」

「そうですね、買い物もし直さないとですし……」

 

 ぺちゃんこになってしまった野菜や蜂蜜を買い直さないといけない。しかし、ここで『赤旗』とお別れするのはいかにも消化不良で、どうしたもんかね。

 

「その、補給ならいくつか店を案内できるが」

 

 ボンバッグと『赤旗』を見比べて考えていると、なんともおそるおそるという感じで申し出てくれた。

 海賊御用達の店近辺の地理も把握しているけれど、ひとりで行くとまたぞろ面倒に巻き込まれそうだったのでとても助かる。馴染みの商店街まで戻るのが億劫でもあった。

 そういえば、彼も船長なのに供の一人も連れていないのだろうかと気になったので尋ねてみたら、先に食事をしているとのこと。『赤旗』は船に用事があったそうだ。なるほど。自分で聞いておいてなんだが、もっと濁してくれていいんですよ。

 

 けど、

 

「助かります。補給というか、バイト先のお使い途中なので」

 

 リュックから出したひもで改めてボンバッグ代わりのシャボン玉を固定しながら言うと、『赤旗』が立ち止まって首をひねった。

 

「……きみは『音無し』だよな?」

「そうですね」

「……バイト?」

「ぼったくおっと、居酒屋さんでバイトしてます」

「……そうなのか」

 

 なにかちょっと考えていた『赤旗』にあとで仲間とそちらに立ち寄った方がいいだろうか、と問われたのでやめた方がいいですよと返した。「そうだな、迷惑はかけられない」と納得していたけど、ちょっと意味が違うんだなこれが。

 

 うちに来ると海賊はもれなくぼったくられます。

 

 

 

×××××

 

 

 

 『音無し』という名前はX・ドレークにとってある種、特別な存在である。

 

 暴力に怯えながら、けれど未練無く立ち去ることもできず黙々と雑用をこなしていた19の夜。

 突如として現れ、父の海賊団をめちゃめちゃにした賞金稼ぎがいた。今でも当時の出来事は強く脳裏に焼き付いている。

 

 消えた灯り。燃え上がる倉庫。狂騒と惑乱の気配。

 

 その時、バレルズ海賊団は一世一代といえる莫大な額の取引を目前に控えていて、誰もが殺気立ち、ぴりぴりしていた。ドレークはそんな船員や父に鬱憤の捌け口にされるのがイヤで、理由を作っては目立たない方へと逃げていた。だからこそ、あの時助かったのだといえる。

 

「どうもご機嫌うるわしゅうバレルズ海賊団の皆々様! それとご愁傷様! 今夜が年貢の納めどきですよぉ!」

 

 何が楽しいんだか、あほみたいな馬鹿笑いを響かせながら突入してきた小柄な人影は一見すると自分より年下の、やせっぽちの少年みたいだった。

 遠目に見えた、暗闇で浮き上がるような初雪色の髪を揺らめかせて、けれど桜色の瞳には肉食獣めいた獰猛な色を炯々と宿らせた賞金稼ぎは──バレルズ海賊団の目論見をぜんぶ台無しにした。異名が『音無し』であると知ったのは随分と先のこと。

 

 『音無し』は小動物みたいな見た目のくせに、中身はとびきり獰猛な鮫だった。

 

 突然の闖入者に色めき立って襲いかかる船員たちを相手に、丁々発止の大立ち回り。卓抜した技倆で繰り広げられたワンサイド・ゲーム。

 単身乗り込んできた闖入者に殺気立つ船員たちを小馬鹿にするようにせせら笑って、激怒した父ことバレルズを一発で沈め、時に手榴弾を使っての面攻撃まで駆使して鎧袖一触とばかりにボコボコにされたバレルズ海賊団は結局一矢報いることすらもできず、新たな襲撃者によって完膚なきまでに叩き潰された。

 

 混乱と狂乱の隙間から、ドレークは運良く逃れることができた。

 海軍に保護されたことで、かつての夢だった海兵になることもできた。……結局、その立場は自分の手で捨ててしまったけれど。

 

 だから、ドレークにとって『音無し』は恩人だった。

 

 確かにバレルズ海賊団を潰した張本人だけれど、あの騒動がなければドレークは唯々諾々と父の海賊団にいたままだったかもしれない。それはそれでひとつの道かもしれないが、こんなにも自由な気持ちで気の置けない仲間たちと航海するなんてできなかっただろうことだけは、確信が持てる。

 そう思えばこそ、一目会って礼が言えればと願っていた。

 まさか会って早々土下座されるとは思わなかったので大分困惑したけれど。

 

「むぅ……」

 

 そんなドレークの恩人が、両手に蜂蜜の瓶を持ったままどちらを買おうか悩んでいる。

 天気がよくて、格子窓の間から差し込む光は柔らかだ。そんな陽の光に蜂蜜を透かして試す眇めつ、自分なりに厳選しているようだった。

 

 のんびりと穏やかな日常風景のいちぶめいた姿を腕を組んで眺めている自分が、なんだか不思議だ。

 

 『音無し』ことミオと名乗った賞金稼ぎは、ドレークの想像の埒外にいる人間だった。

 少しばかり成長したようだが、僅かな記憶に残る姿とそう変わらない華奢な体躯は一見するとほぼ同年代にはとてもではないが見えない。二十歳にも手が届くかどうか、せいぜい十代がいいところだ。

 そんな疑問を店までの道中にぶつけたら、ふてくされたような顔で「能力の副作用です。たぶん」と曖昧な返事が返ってきた。能力者らしいことに驚いたが、同時に納得もした。

 

 とにかく『音無し』は実体の掴めない賞金稼ぎとして有名なのだ。

 

 標的にされた海賊はその異名通りに音も無く、しかもほぼ確実に捕らえられてしまうため噂ばかりが一人歩きしているのが現状である。

 正体は筋骨隆々とした大男だの、実は数人で『音無し』を名乗っているから各地でその名前が散見されているだのといった、根も葉もない話が流れているけれど……その実体はこれである。分からないワケだ。

 

「よし。これくださーい」

「あいよ」

 

 ようやく決まったらしい。その一声でドレークの意識が引き戻される。

 ミオは会計で財布から紙幣を出して店員から蜂蜜の詰まった瓶を受け取り、ボンバッグに放り込んでいるところだった。

 ドレークだって実際の『音無し』を目撃したことがあるから気付けたが、こうしていると海賊だの賞金稼ぎだのというやくざな商売とは無縁の、本当にそこら辺にいる少女のようにしか見えない。

 流れている噂と本人との激しすぎる落差が、彼女を正体不明の賞金稼ぎにすることに一役買っているのだろう。ドレークの知る限り、明確な素顔を知っている海賊は存在しなかった。

 

「ありがとうございます、ドレークさん」

「いや、気にしないでくれ」

 

 馬鹿笑いしているイメージばかりが先行していたが、こうして話すミオは穏やかで理性的だ。

 初対面の土下座では度肝を抜かれたものの、その理由は納得できるものであったし、店へ案内する間にドレークがミオを恩人だと思ったいきさつを説明したときもそうだった。

 

「──僕みたいな厄種がパパさん海賊に突撃しなくても、ドレークさんは自分の道を選んでいたと思いますけど」

 

 大方の話を聞いて、ややあってからそう言われた。

 耳慣れないことを言われた気がして目を瞠ると、ミオはドレークを見上げたままごく素朴な口調で続けた。

 

「きっかけなんていくらでも転がってますよ。たまたま、強烈なきっかけになっちゃったみたいですけど」

 

 だから恩人なんて大層な考えは早々に捨てて欲しいと苦笑された。己の欲得に従った結果なので感謝を頂いても困ってしまう、とも。

 言われてみれば、あの時ドレークとミオは一言だって言葉を交わしていないし、顔だって合わせていない。本当に一方的な、言ってみれば片思いに近い。

 

 初対面。そう、初対面なのだ。

 

 初めて会ったばかりの人間に突然恩人だなんだと言われて感謝を捧げられたところで、それは困る。ドレークは思ったより自分が舞い上がっていたことに内心驚いて、それから恥じた。

 謝罪の言葉が口を突いて出そうになって、それを察したのかミオはちょっとだけ視線を逸らして早口で言った。

 

「あの、ですがもし僕がやらかしたことが回り回って、ドレークさんの決意を進める手伝いになってたとすれば……」

 

 その時だけ、ミオは浮かべていた微苦笑に僅かな安堵を滲ませた。

 

「それはなんというか少しばかり、救われますね」

 

 静かなつぶやきはドレークの耳にすんなりと通った。嘘のない声だった。というか、彼女はひどく正直だ。聞いているこちらが戸惑ってしまうくらい。

 

 そうか、きみはこんなひとだったのか。

 

「今日、きみに会えてよかった」

 

 思ったことがそのままこぼれて落ちた。

 

 脈絡があるようなないような奇妙なタイミングになってしまったけれど、ドレークの言葉に今度はミオが目を丸くして、それからどこかバツが悪そうに笑った。

 

「こちらこそ」

 

 ただ、気になる点があるとすれば。

 海軍に保護されたというくだりで、ミオの頬が引きつっていたのは少し疑問ではある。

 

「あ、ああー……そうか、ドレークさんだったんですね……なるほど……」

 

 うかつだった、とじゃっかん遠い目をしていたのは何故だろうか。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7.しろくまソナタ

 

 

 枕元に、ちいさな小箱がある。

 

 利便性一辺倒の無骨な船内には不似合いに過ぎる、繊細な細工の施されたその中には──みっつの宝石が仲良く眠っていた。

 

 月の光を浴びて輝きを増すのは、海の色をそのまま写し取ったようなアクアマリン。

 海の精の宝物が浜辺に打ち上げられ姿を変えたともいわれるその石は、海との関わりが深く、船乗りが安全な航海のお守りにする例も少なくない。

 

 中央にあるのは雪の中に虹の彩がかかるオパール。

 古くから希望と幸福の象徴であるその石は、持つ人の憂鬱を取り払い、その人本来の強い芯を作ることを助けてくれる力を持つという。

 

 そして最後のひとつが、熱さえ感じられそうな深緋(こきひ)を閉じ込めたルビー。

 『勝利の石』とも称され、自信と勇気を高め、あらゆる危険や災難から持ち主の身を守り、困難に打ち克ち、勝利へと導く力を与えてくれるのだそうだ。

 

 人の歴史に寄り添ってきた貴石にはそれぞれ意味があって、願いがある。……もっとも、渡した本人はそんなことをちっとも意識しちゃいなかっただろうけれど。

 それでも、ごほうびだとねじ込まれたそれには言葉が込められていた。

 

 しあわせに満ちていますように。

 苦しみを克服して、幸福を得られますように。

 もし、困難に直面するのなら、乗り越えられるだけの情熱と勇気を。

 

 それが、かたちのあるものをほとんど残してくれなかったあのひとたちの、よすがを伝えるしるべの石だった。

 

 この思いは宝石のように残ってくれるだろうか。ひとつも欠けることなく、どれだけの時を越えても──褪せず、倦まず、いつまでも。

 

 苦しいなら忘れていいと、あのひとたちは笑うのだろう。拘泥しないで好きにしなよと叱るのだろう。

 

 だったら──はやくそうしてくれ。

 

 もう告げる術を持たない言葉を閉じ込めて、叶わない願いを封じるように、ひとつもこぼさないようにふたを閉じた。

 

 まだ、夜は明けない。

 

 

 

×××××

 

 

 

 『ハートの海賊団』が新世界の入口であるシャボンディ諸島に到着したその日の夜。

 

 運悪くその日の留守番役になってしまったベポは、変なものに遭った。

 

 ベポはこの海賊団で航海士を務めているシロクマのミンク族だ。

 見た目はそのまま白熊のそれだが他のメンバー同様ツナギを着ており、二足歩行で動きも機敏。船長とも十年来の付き合いになる立派な船員のひとりである。

 

 無数のシャボン玉が浮遊する未知の諸島にベポの興味は大いにそそられたものの、くじに外れてしまったのだから仕方がない。彼らの母船である『ポーラー・タング』号の舳先によっかかって、夜でも煌々と光りを放つ方をぼんやり眺めていた。

 とりどりの光を漂うシャボン玉が反射してて、こんな時間なのにちょっと眩しい。しぱしぱと瞬きして、その視界にふと違和感を覚える。

 

「?」

 

 それがなんなのかいまいち掴めず、探るためにきょろりと一度周囲を見渡して、視界の端でひらひらするものを捉えた。

 

 そちらに顔を向ける。

 

 この諸島を作っているというヤルキマン・マングローブが呼吸のたびに排出するシャボン玉。そういえば、船員のシャチがふざけて乗ってもびくともしなかった。人でもすっぽりおさまってしまいそうなそれは、途切れることなく一定の間隔で宙に浮かんでいる。

 

 その間を、仄白いなにかが音も無く飛翔していた。鳥ではない。もっと大きいものだ。それはベポの見ている先で、シャボン玉の上から上へと、たんと跳ねてはふわりと舞って、楽しげな遊びのようにシャボン玉の上を渡っていく。

 

 蝶みたい。

 

 ひらひらと裾が長く、わずかな夜風を受けてもふわふわと膨らむ衣の様子から思ったのだが、よく見るとそれは人の形をしているようだった。

 

 全体的に白いので、それは夜空によく映えた。

 着地のたびに初雪めいた色の髪が揺れて、薄い、紗のような上掛けの間から見える曲線や華奢な手足は女性のように思える。肌の色も負けじと白く、雪の妖精がいるのならこんな感じなのだろうか。

 

「だれ?」

 

 幻想的な光景につい、警戒も忘れて声をかけてしまった。

 

 グランドラインで沢山の信じられないような経験をしてきたが、こんなものを見るのは初めてでベポは興味津々だった。

 

 諸島そのものは賑やかだけれど、海賊船である『ポーラー・タング』号は海軍の目の届かない場所にひっそりと係留させていたので、喧噪は遠い。

 海の底のように静まりかえった中でそのつぶやきは、思ったより大きく響き、届いた。何かを探すように動いていた白い蝶の顔が、ベポで留まる。

 

 その瞳は、極東に咲く花のいろをしていた。

 

 焦点を引き結ばれた先のベポは、血の気が凍るのを感じた。それは本能に訴えてくる恐怖だった。

 

 まっすぐすぎて、なんだかこわい。

 

 生きているのに、生きていないものに遭遇したら──こんな気持ちになるのかもしれない。ひょっとして、自分はとんでもないものに声をかけてしまったのではないだろうか。

 

 ぶわっと全身が毛羽立って、咄嗟に身構えようと手を上げかけたら、そのひとがいきなりふわりと微笑んだ。

 まるで大好きな花か、お菓子を見るような瞳でベポを見て、なんでか手まで振ってきた。しかもすごく嬉しそうに、めいっぱい。

 

 あれ?

 

 ほんの一瞬前に感じた妙な恐ろしさは、それでいっぺんにかき消えてしまった。自分の感情の変化を不思議がっている間に、そのひとは主人を見つけた犬みたいな勢いでぶっとんでくる。

 

「初めましてこんばんは!」

「うわ!?」

 

 シャボンを伝って甲板に降りるなり元気いっぱいに挨拶されて、ベポはとても戸惑った。こうして見ると随分と小柄で、色味が面白いだけで普通に見える。見慣れない服装で、ひらひらしていたのはただの薄っぺらい上着だった。

 白くて、ちっこくて、ふわふわで、今にもでへへとか言い出しそうな感じでにまにましている。

 

「こ、こんばんは?」

 

 言葉を探しあぐねて、とりあえず挨拶を返した。白くてちっこい人間はうんと頷いて、一度周りを窺ってからベポを見上げる。

 

「ここ、『ハートの海賊団』の船であってます?」

「あってるよ」

「で、あなたは船員のベポ?」

「う、うん、そう」

 

 ベポは手配書にも載っている。ただそれはほんとに一応という感じで、その額は500ベリーという破格の安さ。どうも海軍からは『ハートの海賊団』が飼っているペットという認識らしい。不服である。

 でも、不思議だ。ベポのことを手配書で知っているにしても、この白くてちっこい人間はベポにぜんぜん驚かない。

 おれ、喋る熊なのに。

 

「あのさ」

「ん?」

「おまえ、だれ?」

 

 だからって自分のことをわざわざ聞くのはためらいがあって、まだ聞いていなかったことを尋ねてみた。

 白くてちっこい人間は当たり前のことを問われただけなのに、なぜだか迷うように視線をあちこちに動かして挙動不審である。

 

「えーと、その、僕はあれです。『ハートの海賊団』のファンです」

「ファン? おれたちの?」

 

 思いもよらなかったことを言われて聞き返してしまう。海賊のファンなんているのか。

 白くてちっこい人間改め『ハートの海賊団』のファンは、はいそうですと頷いてから照れたようにはにかんだ。

 

「『ハートの海賊団』が諸島に着いたって聞いたらいてもたってもいられなくて、でも探し回ってたらこんな時間になっちゃったから……さすがに悪いかなと思ったんですけど」

 

 それでも一目見たくて目撃証言を元にうろうろしていたところをベポが見つけて声をかけた、という流れらしい。やたらと身軽で行動力のあるファンである。

 でも、ベポは少し納得した。ファンだからベポのことをよく知っていて驚かなかったし、やたらとはしゃいでいるのも憧れの海賊に会えたという昂奮だろう。正面切ってファンですと言われれば、邪険にしようとは思わない。

 

「時間はともかく、今うちにキャプテンいないんだけど……」

 

 『ハートの海賊団』のファンというなら、当然その中にはキャプテンのローも含まれているはずだ。むしろそっちの比重の方が大きいかもしれない。

 

 キャプテンは人間の雌によくモテるから。

 この白くてちっこいのも匂いが薄くて分かりにくいけどたぶん雌。

 会いたかったんじゃないかなと教えてみたのだけど、なぜだかファンは逆にほっとしたようだった。

 

「いやいや、いきなり会ったら色々パンクしそうだから、むしろよかったかも」

「そうなんだ?」

「そうなんです。心の準備したいので」

 

 したり顔で腕を組む。ベポにはまったく理解できないけれど、ファン心というのは複雑らしい。

 最初から大した緊張もしていなかったが、ここにきてベポはこのちっこいファンに対する警戒を完全になくしていた。

 

 だって、本当に嬉しそうなのだ。

 

 周囲に花でもぽわぽわ浮いているような様子で物珍しそうに甲板を歩き回って、ベポが止めるまでもなく船内に続く扉や洗濯物には一切触ろうとしない。

 それは美術館にあるショーケースの向こうにある絵画や、窓の向こうの景色を眺める瞳に似ていた。超マナーのいいファンだ。

 

 留守番で退屈していたこともあって、ベポはこの正体不明のファンをすぐに追い出そうとは思わなかった。

 危険性に関してはまったく浮かんでこなかった。よくわからないけど、ベポの動物的直感がこのファンは自分達の敵に回ることはないと告げてくるのである。

 

「『死の外科医』ってめちゃめちゃ物騒な異名ついてるけど、船長は本当にお医者さん?」

 

 敬語がむずがゆかったのでそこだけは取っ払ってもらった。

 

「アイアイ! キャプテンは立派なお医者さんだよ!」

「そっか~! よかった、倒した相手を解剖するからそんな異名がついたのかと」

「物騒! キャプテンはそんなことしな……くもなく、ない、よ」

 

 キャプテンの能力的に敵対した相手をバラすことは稀によくある。

 

「ないんだ……」

「う、うん」

 

 そこまで言うわけにもいかないので濁すしかないベポだった。ファンの心が離れないか心配である。

 それから『ハートの海賊団』が遭遇したいくつかの事件について尋ねられたので話して聞かせ、ファンはにこにこしながら聞いていた。子供が寝物語をねだるときみたいな楽しそうな表情が、こそばゆくてくすぐったい。

 

「そういえば、ベポは最初から『ハートの海賊団』に?」

「そう、結成したときから! キャプテンとおれはずーっと一緒だったんだよ。もう十年以上になるかなぁ」

「ほほー。じゃあベポも『北の海』育ちなんだ」

「生まれは違うけど、おれとキャプテンは『北の海』で大きくなったんだ」

「そっかぁ……」

 

 そう言ったファンはなぜかしばらく黙り込み、やがてごそごそと袂を探って一枚の写真を取り出した。

 

「『北の海』ってことはさ、ひょっとして『ここ』……知ってる?」

「んん?」

 

 差し出された写真を見て、驚いた。

 一枚の写真に納められていたのは、今では懐かしい、名前通りの鳥そのもののような造形をした大岩だ。

 

「スワロー島だ!」

 

 勢いよく覗き込んだからか、ファンはスワロー島の写真をそのままベポにどうぞと渡してくれたので遠慮無く受け取ってまじまじと見つめる。

 

「うわぁ懐かしいなぁ! こんな写真、どうしたの?」

「前に行った時に撮ったんだ。すごく綺麗だったから」

 

 ファンはカメラを持っているかのように構えて、かしゃり、と指でシャッターをきる動作をした。

 それにふーんと頷いて、改めて写真に視線を落とす。

 

 日の出の光をおびた橙色の雲と、桃色の影。薄まっていく藍色を背景に佇むツバメの姿は、今にも羽ばたいてしまいそうな迫力があった。

 

 ベポがキャプテンと初めて会った場所。かつてのいじめっ子がいつの間にか仲間になって、『ハートの海賊団』を結成して旗揚げした場所。

 苦しいこともあったけど、楽しいことの方がずっと強く覚えている。記憶のドアがノックされて、ほろほろと蘇って、鼻の奥がちょっぴりつんとした。

 

 確かに綺麗だった。けど、なんだかさみしい気持ちになる。写真は案外に撮ったひとの気持ちが伝わってくるらしい。

 

 ファンはどんな気持ちでファインダーを覗き込んで、シャッターを切ったのだろう。

 

「写真撮るの、好き?」

 

 ベポは自然とそう問うていた。

 ファンは一瞬きょとんとして、それから苦く笑った。

 

「ほんとはね、きらい」

 

 内緒話をするように人差し指をくちびるに当てて、ひっそりと。

 

「残るものってあんまり好きじゃないんだ。でも、他に思いつかなかったから」

「なにが?」

「プレゼント」

 

 そのとき、ファンはベポの方を見ていなかった。夜空を見上げる横顔は、ひどくやさしく歪んでいた。

 好きじゃないと即答して、なのに、おそらくは自前のカメラで撮った写真。適当に撮っただけじゃこんな写真にはならない。

 

 ひどい矛盾と裏腹の研鑽に、なんだかベポはぞっとする。

 

 返す言葉が思いつかなくて、喉がきゅうっと締まる。胸の奥がしくしくと疼く気がした。

 

 プレゼント。

 

 誰かへの贈り物のことを、こんなに苦しそうに口にする人をベポは始めて見た。

 

「とびきり喜んでもらえるようなプレゼントをね、あげたかったんだ。いろいろ考えてみたんだけどしっくりこなくて……そしたら、もう、これしか思いつかなかった」

 

 さみしそうに瞼を伏せて無意識にか、ファンは襟元に挟んでいたシガーケースからごく自然な動作で煙草を一本取り出して咥えると、マッチで火を点けた。

 

 するすると立ち上っていく細くて白い帯と、燐と煙の匂い。

 

「……あ、ごめん」

 

 ひとくち吸ってから思い出したように謝罪されて、ベポはややあってから煙の匂いで鼻に皺を寄せる。

 見た目から到底煙草を嗜んでいるように見えなかったから、少なからず驚いた。

 

「肺が真っ黒になっちゃうよ?」

「たまーにしか吸わないから、そんなに黒くなってないと……それ以前に吸わないひとの前で吸っちゃだめだ。ごめんね」

 

 もう一度謝罪してから自分で火を点けたくせに、ひどくまずそうにもうひとくち吸って、ファンは携帯灰皿を取り出していくらも吸っていない煙草を押し潰した。海に捨てないあたり、やっぱりマナーがいい。

 ぱちりとハートをあしらった携帯灰皿を閉じて、ファンは立ち上がりながらぺこりとベポに頭を下げた。

 

「あの、今日はそろそろお暇するね、お邪魔しました」

「え、おれにしか会ってないのに。他のメンバーとかいいの?」

「ベポに会えただけでじゅうぶん収穫だったよ。それに、あんまり遅くなっても悪いから。……また来てもいい?」

 

 さっきまでとは打って変わって、なんでだか自信なさげに質問されてベポが慌ててそれはもちろんと言うと、ファンはよかったと胸を撫で下ろしながら笑った。

 

「ありがと! じゃあまた近い内に。その写真はよかったらあげるよ」

「いいの?」

「どうぞどうぞ」

 

 ぴらぴらと手を振ってファンは船の舳先に足をかけて軽く跳躍すると、そこらに浮かんでいたシャボン玉に乗り移った。

 

 そうしてはた、と何かに気付いたように一度ベポに顔を向けた。

 

「そうだ、ベポ!」

「なぁに?」

 

 ファンは瞳を細めて口元に手を当てて、ベポにだけ声が届くように。

 

「船長のこと、お願いね」

 

 不思議なことを。

 

「器用なくせに不器用で、優しいのがわかりにくいひねくれ屋さんだけど、悪いやつじゃないから」

「そんなの知ってるよ!」

 

 なんでそんな、わかりきった当たり前のことを言われたのかが分からなかったけど、ベポはすぐにそう返した。

 

「それがおれの大好きなキャプテンだよ!」

「そか。なら安心だ!」

 

 その返事に、ファンは満足そうにいひひと笑って大きく手を振った。

 

「またねー」

「うん、またね!」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8.再会のバルカローラ

 

 

 シャボンディ諸島の情報を拾って歩いて、一度母船に戻る頃にはすっかり夜が明けていた。

 

 甲板には既に帰っていたらしい船員たちが各々勝手に動いている。地図を片手に情報のすり合わせをするもの、あくびを漏らしながら掃除するもの。

 

「あ、キャプテンおかえりなさい!」

 

 ローの帰還にいち早く気付いたベポが声を上げる。

 

「ああ」

 

 いちばん諸島に降りたくてうずうずしていたベポが、案外にへこんでいないことを内心意外に思う。

 出発前のくじ引きで留守番役になってしまったときはあんなに落ち込んでいたのに。

 

「うおおマジだ! 超懐かしい!」

「てか、スゲーな。朝焼けなんてまじまじ見たことねーから、なんか新鮮だ」

 

 ベポの周りでシャチとペンギンが騒いでいる。視線を向けると一枚の紙……写真? を囲んで何やら言い合っていた。

 

「なんだそれ」

「あ、キャプテン! なんか昨日、うちにファンが来たらしいっすよ」

「……はぁ?」

 

 シャチがなにを言っているのか分からない。眠いこともあって半眼になる。ファン? 海賊の?

 そんなローの反応を予想していたのか「やっぱそーなりますよね。でもマジです」「ベポが会ったそうですよ。ド深夜に」「アイアイ!」と三人が口々に言う。

 

 話を総合すると、なんでもベポが留守番をしている夜中に『ポーラー・タング』号にふらりと現れてファンだと名乗る(?)人物が現れて、お喋りしたのだという。

 

 ……胡散臭い。

 

「ファンだかなんだか知らねぇが、得体の知れねぇ輩をうちに上げるんじゃねぇよ」

 

 被害らしい被害が特にないからいいようなものの、それが他海賊や賞金稼ぎだったら目も当てらない事態になるところだ。

 事の大きさに気付いたのか「すいません……」とあっという間にしょげるベポに軽く手を振っておく。何もないならそれでいい。

 

「で、そっちの紙切れは」

「ベポがファンからもらったそうです。『北の海』出身ならこの場所知ってるかって」

 

 今度こそ頭痛がしそうだった。

 

「得体のしれねぇやつから貰うなよ……」

 

 もうこれは実害としてカウントしていいのではないだろうか。

 げんなりしつつ、キャプテンとして確認しておくかと指を軽く動かすと、意図を察したペンギンが写真を手渡してくる。

 

 受け取って視線を落とし、息を呑んだ。

 

 小さな枠におさめられた、朝焼けの中で飛び立つ時を待ちわびるような──ツバメの大岩。

 

「スワロー、島」

 

 口の中がいきなり乾いた気がして、つぶやきが掠れた。

 

「懐かしいですよねぇ、おれらもさっき写真見た時びっくりしましたよ」

 

 ペンギンが懐古を潜めた声で言って口の端を僅かに上げる。シャチとベポも似たような顔をしていた。

 けれど、ローは写真を持ったまま硬直して動けない。写真の中から視線を外すことができなかった。

 

──夜明けのときに、桃色の滲んだみたいになる雲の色には名前があるんだけど、ローは知ってる?

 

 ベポたちに会うよりも更に前の記憶が、柔らかく囁きかける。

 

──淡紅色(たんこうしょく)っていうんだけど、もうひとつあって、僕はそっちの方が好きなんだ。

 

「……あれ? それ、裏になんか書いてある」

「え、そうだったか? ぜんぜん気付かなかった」

 

 ペンギンとシャチの言葉が少し遅れて耳に届いて、なにも考えずローは写真を裏返す。

 写真の裏側には小さな走り書きが書かれていた。

 

「──ッ!!」

 

 その文字列を目で追うにつれローの瞳が限界まで吊れて、ぞわりと悪寒が背筋に走る。衝撃と痺れで全身が硬直した。

 

 濃い藍色のインクで書かれた文字には、見覚えがあったからだ。

 

 

『かくれんぼに使った岩陰より

 

 ここから見える朝焼けはすっっごく綺麗だった

 真冬で夜で豪雪だったからわかんなかったけど、意外と穴場のスポットなのかも?

 

 そうそう、こういう桃色の雲が〝(とき)色〟

 鴇が空を飛んで、太陽の光に白い羽根の根元が透けるとこんな色になるんだって。神秘!

 前に教えた気がするんだけど、覚えてくれてたら嬉しいです

 

 三人でこの景色を見たかったな

 

 ひとりだけで見るの、すごくさみしい

 

 僕のさみしさ、18才のローにとどけー!』

 

 

「キャプテン? 大丈夫?」

 

 あまりに必死な様子で読み込んでいたのだろう、心配そうにベポが近寄ってくる。気付けばシャチやペンギンも困惑したようにこちらを窺っていた。

 のろのろと顔を上げようとして、ベポのオレンジ色のツナギから嗅ぎ慣れない──否、過去にむせるほど嗅いできた煙の匂いが、僅かに香ってくることに気付いた。

 

「ベポ!」

「! な、なに!?」

 

 あまりに必死な様子でローに肩を掴まれ、そんな表情を見たことがなかったベポは気圧されて一瞬怯む。だが、それに構ってやる余裕がローにはなかった。

 

「昨日来たファンってやつ、どんな顔だった? 身長は? 声は? いや、それより髪と瞳の──」

「え? あの、その」

 

 矢継ぎ早の問いに、ベポは答えに窮して戸惑ってしまう。ローの様子が見たこともないほど必死で、焦っていたこともあるだろう。

 

 なんとかベポが言葉を作ろうとすると同時に、それこそ冗談みたいなタイミングで。

 

 

「──うっわああベポごめん!」

 

 

 問いの答えがやってきた。

 

 ローの記憶そのままの声で、シャボンを足場に大慌てでそれこそ狐か猫かと見紛う動きでぴょんぴょんと。

 

「あ、さっきの!」

 

 ベポが説明するより早いと顔を向け、同時にローも視線を巡らせた。

 

 そこには──

 

「はいさっきのファンですおはよーございます!」

 

 敬礼しつつ舳先にすたんッと着地すると、雪色の髪がさんざめく。

 

「さっきあげたやつ、写真間違えちゃったんだ! 交換してもらってもいいかな!?」

 

 本当に急いで戻ってきたのだろう、ほんの少し息を弾ませている自称ファンは──紛れようもなく、ローをかつて救い上げた恩人の片割れだった。

 呆然とする。頭が真っ白になるという感覚はなるほどこういうことなのかと、思考の隅で考えた。

 

「さっきのはあげられない方、でええええッ!?」

 

 どれだけ慌てていたのか、ベポ以外眼中に入ってなかったらしい恩人は駆け足でベポに近寄ろうとして、傍らのローに気付いて急制動。桜色の瞳をまん丸にして思い切り仰け反った。

 

 それから頭のてっぺんから足の先までまじまじとこちらを見つめて──束の間、泣きそうにくしゃりと顔を歪めて、思い直したようにぶんぶん首を振って、それから……ようやく、心から安心したように、ふにゃりと笑った。

 

「ロー、おはよう。背ぇ伸びたね」

 

 その、口にするのが嬉しくてたまらないとわかる響きで、背筋がふるえた。

 記憶よりほんの少しだけ大人びて、だけど相変わらず小さくて、今のローならばすっぽりと抱き締められてしまいそうな華奢な体躯。

 

 生きていた。海に落ちたと聞いて、コラさん諸共に死んだと思っていたのに。

 

 生きて会えた。相手の方から吹っ飛んできた。

 

 全身を駆け抜ける衝撃に半ば自失しながら、ローは久しく口にできなかった名前を無意識に紡ぎ出す。

 

「──ミオ」

 

 そうだ、あんたはいつだってそんなやつだった。誰かの予想通りの行動なんかしてくれなくて、好き勝手に動いて、こっちはいつも振り回されてばかりで。

 

「うん、久しぶり。大きくなっても目の隈消えてないのか……ちゃんと寝てる?」

 

 心配そうに、けれどとことんちゃらんぽらんな返事をしてくる様子に、ローはああ本当にミオなのだと確信を得て、心底安心した。疑う余地がない。こんな行動を本人以外が取れるわけがなかった。

 ゆえに、ローが次に取った行動は──彼にとっては至極当然の流れであった。

 

「"ROOM"」

 

 同時に、ローを中心とした薄い壁が同心円状に広がる。もちろんミオも効果範囲だ。

 

「は、部屋? えっ?」

 

 自分を取り囲む薄い、紗のようななにかにミオが目を瞠る。

 ローの能力を知っている船員たちが「キャプテン!?」とざわつくが、まだローの能力を図り切れていないミオは初動が遅れた。

 頓着せず、ローはそのまま担いでいた『鬼哭』の柄を掴んで抜き払い──『切断』で一閃した。

 

「ひぇッ」

 

 だがそこは歴戦の経験がものをいう。

 ミオは反射的にローの太刀筋を見抜いてその場で軽く跳躍することで回避、

 

「動くな!」

「ッ!」

 

 できなかった。

 ローの鋭い制止にびくりと動揺して、ミオの太股から下が真一文字にすっぱりと切断されてしまう。出血もなく、一拍遅れて足の付け根辺りからずるりと太股だけがずれていく。

 

「うわ、うわ? うわ!?」

 

 痛みを感じることなく、これまでくっついていたのが不思議なくらいに呆気なく外れた両足を咄嗟に押さえようとしていたが、どうにもならない。当然だ。

 突然の喪失感で平衡感覚を見失い、わたわたするミオは奮闘むなしく頭から倒れ込みそうになった。

 

「"タクト"」

 

 すかさず指を動かすと、ミオの身体は床に転ぶことなくふわりと浮いて滑るように動き、ぼすりとローの腕の中におさまった。特に抵抗らしい抵抗はされなかった。

 両足の体積分重量が軽くなっているのは分かっているが、それでも驚くほど軽くて儚い身体だった。

 

「え、あ、ちっっか! これ、ひょっとしなくてもローの能力? すごいね??」

「ああ」

 

 混乱が突き抜けたのか素なのか、相も変わらずズレまくった感想を口にするミオを小脇に抱え、ローはあっという間の出来事で動くこともできなかった船員たちを見渡す。

 

「寝る。起こすなよ」

 

 一日調査に潰していたので徹夜だった上に能力を使ってしまったため、ローの眠気は限界だった。

 ほぼひとごろしの目つきで言われ、その場にいた船員たちは赤べこのように首をがくがく振って了解を示す。

 

「それと、『こいつ』はミオ。おれの命の恩人だから警戒しなくていい」

「あ、アイアイキャプテン!」

 

 いち早く返事をしたのは先に邂逅を済ませていたベポで、ローはそれを見て小さく笑った。

 一方、荷物のように抱えられているミオはようやっと状況が頭に入ったのか、そこら辺に放り出されてうねうねしている自分の足に手を伸ばして嘆いている。

 

「僕のあしが物理的にキャストオフしたー!? 違和感がひどい! べつに逃げるつもりないのに!」

「信用できねぇ」

 

 ミオの抗議を切って捨てながらローはすたすたと船内に続くドアを開けて入っていってしまう。

 ちょっと目を離すといなくなるのがミオという生き物であることをローは知悉している。ここで逃がすなんて冗談ではなかった。

 

「今日、このあとバイトなんですけども……」

「休め」

 

 おずおずとしたつぶやきににべもない返事をしながら「ああ、足はあとで持って来い」とシャチたちに声をかけると同時にドアが閉まる。

 残された船員たちは怒濤の展開で呆気にとられてしまい、うまく動けなかった。

 

「キャプテン、すっごく嬉しそうだったね」

 

 ベポはちょうど近くに転がりながら本人の努力でぐねぐねしている片足を拾い上げた。

 芋虫みたいでじゃっかん気持ち悪いが、気にしない。ベポたちは分解された人体の回収に慣れているのだった。

 

「まぁ、テンション上がってたのはわかった」

「おれもー」

 

 ペンギンとシャチも頷き合う。

 

「恩人って……ひょっとして、あれか?」

「あれじゃね?」

 

 ベポ・シャチ・ペンギンの幼馴染み組はローから聞いたことがあった。かつて、少年だった彼の命を救ったひとたちがいたことを。

 ただ、そのひとたちは能力者なのに海に落ちたと聞いていたので、てっきり亡くなってしまったと思っていたのだが……(実際、当の本人もそう考えているふしがあった)。その話を聞いたのは随分と昔のことだ。

 

 だとすれば。

 

「生きてたのかぁ、そりゃキャプテン喜ぶわ」

「つか、あのひとがキャプテンの恩人なら、おれらにとっても恩人じゃね?」

「そーだよね。あのこがいなかったら、おれたちキャプテンに会えなかったんだもん」

 

 うんうん頷き、しばらくはそっとしておいてやろうぜということで意見は一致した。

 

 『ハートの海賊団』はキャプテンが大好きである。

 

 

 




HPにてローとの再会はロマンチックにしてくださいとお願いされたので頑張った結果がこれだよ!!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9.ふたりぼっちカノン

作者はまだロマンチックを残しているぞ…(迫真)


 

 

 可愛かった少年と十余年来の再会をした途端に足をぶった切られてお持ち帰りされました。

 

 意味が分からないだろう。安心してほしい、現在進行形でミオだってよくわかっていない。

 

 おそらく『オペオペの実』の能力なのだろうけど、太股のあたりからスパーンと両断された足は、感覚こそ残っているものの自分にくっついていないのでどうにもならない。痛みもないし、ふさふさとした感触が膝の後ろにあるので、ベポが持っているのかもしれない。腰から提げた庚申丸だけがぶらぶら揺れる。

 ずいぶんと縦に長く成長したローに手荷物よろしく小脇に抱えられたまま、ミオは彼らの母船にお邪魔することになった。

 

 相手が相手なので足を海に不法投棄されるとかの心配はしていない。文字通りアシがないので身動きがとれない……いや、ものすごく頑張れば多少のことはできるだろうけど、しようとは思わなかった。ローだし。

 問答無用で真っ先に機動力を封じてくるところに成長を感じる。

 

「おー……」

 

 ドアをくぐって、物珍しさに思わず声が出る。

 『ハートの海賊団』の母船である『ポーラー・タング』号はこの世界でもわりと珍しい潜水艦だ。あちこちの扉は鉄扉で緊急時に備えてだろう、ドアノブの他に取水管とかでよく見るバルブがついている。

 かすかに漂うのは消毒薬のそれで、ドアの隙間から見える部屋には医療器具が沢山積まれているところもあった。白ひげの看護師たちが常駐している部屋に似ていた。

 

「すごいな、病院みたい」

「大抵の処置はできるように誂えたつもりだ」

 

 『死の外科医』という異名の通り、本当に医者としての腕も磨いていたらしい。これならコラソンも安心して任せることができそうだ。感心していると、他とはちょっと違う色味の扉をローがためらうことなく開いた。

 

 見た途端に、あ、ローの部屋だ。と思った。

 

 大きな本棚に収まりきらなかったらしい、あちこちに積み上げられている医学書と機能性重視のデスクとぎちぎちのペン立て。ソファの上に放置されている何枚かのレポートは、何か研究でもしているのだろうか。

 ローはスタスタとデスクを素通りして片手に持っていた長刀を椅子に立てかけると、その奥にあるベッドの上にミオを下ろした。ぺしゃりとうつ伏せのままだ。

 体裁が悪いので両手を使って身体を起こし、ベッド脇に普通に座ろうとしたらバランスを保てず後ろにひっくり返ってしまった。天井が見える。

 両足というか、太股がないというのはびっくりするほど不便だ。尻だけでは体重を支えられません。

 

「足がないって不便」

「あとで返してやるよ」

 

 お気に入りなのか、あの頃と似たデザインの帽子を脱ぎながらしれっとしたものである。そうでないと困ります。

 昨日、『赤旗』ことドレークと会った帰りしなに『ハートの海賊団』を見かけたと聞いたミオは、シャッキーにおつかいの品を渡してすぐに捜索を開始した。

 諸島で海賊が船を係留できる場所は限られているのだけど、いかんせん『ポーラー・タング』は潜水艦。発見にえらい時間がかかってしまって、結局見つけることができたのは深夜を回ってから。

 

 海賊船とはいえ仮にも人の家にこんな時間はなぁ……と悩んでいたら不寝番についていた大きな白熊──ベポと目が合って、うわ本物だすごいほんとに喋ってるとわくわくが止まらなくて、つい突撃してしまった。

 

 手配書でしか見たことがなかった船と、ローの仲間。

 航海士だという二足歩行の喋る白熊は可愛くて大きくてもふもふで、試しにとスワロー島の写真を見せたらローの幼馴染みとわかってびっくりした。

 あんまり長居しても悪いかなと思ったから適当なところで話を切り上げて、お詫びに写真をあげて一旦バイバイして、戻る途中で写真を間違えていたことに気付いたから慌てて取って返した。

 

 そしたらこれだ。

 よもや出会い頭に両足を持って行かれるとは思わなかった。

 情報収集のために諸島で宿とってるなら、戻るまで時間がかかると思ってたのにとんだ誤算である。

 

「あ、そーだ電伝虫貸して電伝虫」

「なんだ急に」

「なんだもなにも、バイト先にお休みの連絡したいんだよ。無断欠勤なんて迷惑かけたらいかんでしょう」

「あァ……」

 

 こっちはきみのおかげで動けないんだから寄越しなさい、と手を出すと、ローは一度視線をずらしてからデスクにあった電伝虫を持ってきて手渡してくれる。

 お礼を言いつつ、あぐらもかけないので電伝虫の前で腹ばいになり、覚えておいたシャッキーの番号をプッシュ。いくらもしない内に出てくれた。

 

「もしもし。あの、急で申し訳ないのですが……今日ってお休み頂いても大丈夫ですか?」

 

 もし難しいようだったらローと交渉しなくてはならない。難航しそうなので、できれば許可して欲しい。

 怪我や病気でもないのに突然の欠勤とか申し訳ないなぁ、と内心しょぼくれていたのだけどシャッキーの声はなぜかとても柔らいものだった。

 

『ええ、いいわよ。ゆっくり休んでらっしゃい』

「すみません、ありがとうございます」

 

 言葉少なに通話を切って顔を上げると、ひょいと電伝虫を回収される。いつの間にかローは上着を脱いでシャツ一枚になっていた。寝るっつってたからそれはいい。

 無駄なく鍛え上げられた体躯は細身だけどしなやかで、黒豹めいて恰好良かった。こんなに大きくなって、立派に海賊やってるんだなという感慨があったのだけど──そんなことより。

 

「ウワアアアめっちゃ墨入れてるううう」

 

 ローの上半身をくまなく取り囲むトライバルタトゥに仰天して、ミオは思わず両手で顔を覆ってシーツに突っ伏した。衝撃である。あんなちっちゃかったローが刺青彫りまくってる、というのがなんかすごいショックだった。

 しかもあれじゃん、刺青のモチーフ全体的にハートだよね? これたぶん、いや絶対ロシーの影響だよね? どうしよう絶対泣くし怒るし場合によったら絶望するよこれうわほんとどうしよう。

 

「似合わねェか?」

 

 なぜそこで不安そうな顔をするのかさっぱりわからないが、嘆いているのはそこじゃない。そこじゃないんだ。

 

「似合ってるかそうでないかなら似合ってるけど! かっこいいけど! そういう問題じゃないんだよおおお!! うわくっそ油断した! 手だけだと思ってたのに!」

 

 以前の手配書で手に刺青を入れているのは知っていた。『DEATH』も大概だと思ってたけどふたを開けてびっくりだ。こんな驚きはいらなかった。

 べしべしシーツを叩いてもおさまらず、取り返しのつかない感じにごろごろ転がったら、おでこになにかがぶつかった。痛い。

 

「あだっ……ん?」

 

 手をどけて見ると枕元にあったのは小さな小箱だった。

 宝石箱だろうか、アンティークだけど瀟洒な細工が施されていてとてもお値打ちっぽい。時計とか短剣でないのが意外だなと思う。

 

「枕元に宝石箱ってすごく海賊っぽい」

 

 ローには似合わないけど海賊には似合うという不思議。

 ごく単純な感想でそう言うと、腕を組んでミオの奇行を眺めていたローが軽く顎を引いた。

 

「開けてみろ」

「いいの?」

「ああ」

 

 いいと言われたので、指でぱちんと掛け金を外してふたを開けた。

 びろうどみたいな布の上に丁寧に置かれていたのは、まばゆく光を弾く宝石たち。

 

 その輝きを目にしてミオの思考が止まった。

 

 ルビー、オパール、アクアマリン。

 

 大粒で純度が高く、見るからに価値の高いそれ。当たり前だ。虎の子にとっといたのは誰あろう自分である。

 見覚えがありすぎてしばらく硬直して、途中で我に返り、慌てて腕立てよろしく両手でがばっと半身を持ち上げてローを見上げた。

 

「売らなかったの!?」

「売れるかよ!!」

 

 噛みつくような怒声だった。

 それまでの静かな様子をかなぐり捨てた大音声がびりびりと部屋をふるわせて、鼓膜が痺れるようだった。

 

「ッ、」

 

 怯んで、ミオはびくりと肩をそびやかす。

 その間に怒りとも悔悟ともつかない表情のローはベッドに乗りかかって、あろうことかミオを背中から押し潰した。

 腹ばいになっていたため、ローの体重がモロにかかって耐えきれず顔面からシーツにダイブしてしまう。ぐえっと蛙がつぶれるような声が出た。

 

「あんたがくれた最後のもんを、おれがほいほい売れると思ってんじゃねぇよくそが……!」

 

 低く、呪詛のように絞り出すような声が背中にぶつかってきて、ローが口を開く度に振動が身体に伝わる。

 苦しいやら反応に困るやらで動けずにいると、焦れたように頭突きまでくらった。お互いが骨っぽいのでわりと痛い。

 ローは動きのにぶいミオのうなじに顔を押しつけて、腕をシーツの間に突っ込んで薄い腹に両手を回した。

 縋るように指先を服に絡めて、体温を感じる。少し早い鼓動がひびく。

 石鹸と埃とひなたの匂い。煙草のそれはほんの僅か。思い出す。大人たちの韜晦の夜。

 

 何もかもを喪って世界を憎んで全部壊したいとわめくくそがきのために、馬鹿なふたりが嘆いて願って悔しがった夜。

 

 トラファルガー・ローの──〝ハート〟ができた夜。

 

 ここにはミオとローしかいないけれど、コラソンもいると疑いなく感じる。記憶に刻まれていたものと同じ匂いに安心して、実感する。

 

 生きている。生きているのだ。このひとだけでも。

 

 細い首筋を鼻先で辿って、耳殻と髪の間に埋める。頬に当たる髪の感触がくすぐったいけれど、みっともなく歪んでいる自分の顔が間違っても見えないように。

 

「──大体、あんたもコラさんも残るもんなんか……何も残してくれやしなかったじゃねぇか……」

 

 我ながら情けないほど細い声だった。

 

 悪魔の実はとっくにローの腹の中で、能力そのものは確かに残るものかもしれないが、それじゃ駄目だ。これでは二人を偲べない。記憶はいつか薄れてしまう。

 それが恐くて刺青を入れた。魂と不可分の肌に痛みを穿って、見る度思い出せるように。コラソンのモチーフはすぐに浮かんだけれどミオのものは結局浮かばなかった。具体的なものでいちばん近いのは雪だったが、珀鉛を残すような真似は断じてできなかった。それでは本末転倒だ。

 

 だから、もう、あれしかなかったのだ。『オペオペの実』がコラソンなら、宝石はミオだった。

 

 年単位で関わっていたのに、ミオがくれた『物』は驚くほど少ないことに気付いたのはいつのことだっただろうか。あの頃、お土産にと購入してきたお菓子や靴、それに衣服。

 どれもが成長に従って捨てられるもの。いずれ忘れ去られてしまうものばかりだ。それだってドンキホーテ海賊団と袂を分かったことでなくしてしまった。自分が拒絶していた部分もあったがそれにしたって偏執的で、異常だった。

 

 二十歳を超えた図体のでかい、いい大人に乗っかられているというのにミオはといえば失礼なことにさして動揺していなかった。

 それはミオの中のローが少年時からてんで更新されていないせいでもあったし、男女の接触に求めるものが一切含まれていないことを感じていたせいでもあった。ただ、でっかくなってもローはローだなぁずいぶん重くなってと苦笑するほかない。

 

「あー、その、ごめん」

「軽く謝るんじゃねぇよ」

 

 ふてくされた調子を隠そうともしない。どうしろというのか。

 十年ちょっとという時間は長すぎて、一体何から話せばいいのかわからない。迷っていると、ろくな反応が返ってこないことに焦れたらしいローが再びぶつぶつと這うようなつぶやきを漏らす。

 

「……おれは、ミオとコラさんは死んだと思ってたんだ。能力者だけで海に落ちたらまず助からねぇ。ましてあんな状況で、」

「あ、それ」

「あァ?」

 

 そんなドスの利いた返しをされても、こちらとしても多少の言い分はある。むしろ確認したいことが。

 

「僕はこないだローの手配書見るまで、てっきり軍属入って軍医やってると思ってたんだ。なんでかっていうと、ドフィにローが海軍に保護されたって言われたからなんだけど」

 

 それは先日、もとい昨日ドレークに会ったことで解消された疑問だ。盛大に勘違いしていたせいで、ミオはまったくの見当違いを気に掛けていたことになる。

 

「あいつの話はやめろ」

「ごめんて。まぁそっちが誤解ってのはもう分かってるから、重要なのはそこじゃなくてさ。あー、その」

 

 ローはよっぽどドフラミンゴに憤懣やるかたない思いを抱いているのか頑とした調子だけれど、当時のことなので出さないと話が進まないのだ。ちょっとの間見逃して欲しい。

 こちらとしてもあまり思い出したくない記憶なのだが、ここを擦り合わせないと話にならないのである。

 

 言い淀んでいたら背中の気配が急かしてくるので、意を決して腹に気合いを入れる。

 

「あの時……ロー、『どこ』にいた?」

「──ッ」

 

 びくりとローの身体が硬直するのがわかった。

 ミニオン島での一件ではコラソンとミオは途中で一旦別れて行動していたので軍に保護されたのがドレークと分かった現状、逆にローが『あの時』どこにいたのかが疑問だった。

 満身創痍にされたコラソンを前にしてドフラミンゴと対峙した、雪降りしきるミニオン島。軍曹は途中でミオに付いてしまったので、こちらもローの行方については知らないままだ。

 

 落ち合う約束を交わした『となり町』でないのなら──どこに?

 

 長い、長い沈黙が落ちて、ローの腕が痛いほど強くミオの腹を締め上げる。

 

「……たからばこ」

 

 そして、口に出すのも苦しいのか、途切れ途切れに。

 

「コラさんのうしろに、あった、でかいやつ。あの中に……おれはいた」

 

 ……ああ。そうか。そうだったのか。

 記憶の中でいくつかのピースが合致して、ローの態度に納得する。同時に罪悪感もあった。あそこでのやり取りを聞いていればなるほど、死んだと思うのも無理はない。

 陸揚げされたマグロよろしく脱力しているミオの耳元、低い囁きが耳朶を打つ。

 

「外の音は、全部聞こえてた。だから──ぜんぶ知ってる」

 

 そうだ、ローはあの時のことを今でも覚えている。絶対に忘れない。

 漏れ聞こえた会話と、慕っていたひとの暴露。

 海兵の懺悔、心が掻きむしられるような拒絶と悲嘆の混じった絶叫。耳を弄する銃声、硝煙と血の臭い。二人が海に落ちたという誰かの報告。無力感と悔恨。叩き付けた拳の痛みも、喉が裂けるほどにわめいても届かなかった叫びまで、全部。

 

 忘れることなど、できるものか。

 

「ミオ。コラさんのために疵、増やしただろ」

 

 確信の籠もったローのつぶやきにミオはぐう、と唸って動かなくなる。

 

「見せろ」

「えええ……」

 

 心底イヤそうだった。

 

「おれは医者だ」

「知ってるよ。もう治ってるよ」

「この場で全部ひん剥いて確認したっておれは構わないんだが」

「やだ物騒。そもそも論で、それは医療行為とはいえません」

 

 やり取りそのものはのらくらしているが、見せたくないという意思は伝わってくる。しかしそれを大人しく聞くほどローは人間ができていない。

 

「ミオ」

 

 喉から絞り出された響きに混じった感情は、哀訴なのか懇願なのか。

 

「たのむ」

 

 その、どこか縋るような口調にミオはしばらく黙りこくり、やがて観念したように顔をシーツに埋めたまま、いかにもしぶしぶと左手を上げた。

 長い袖から手首までがずり落ちて、しなやかな指がわきわき動く。

 

「……ほれ」

 

 抱き締めていた片方の腕を解いて、ローはミオの手のひらにそっと触れた。指の腹で形を探るように辿っていく。

 昔と変わらない、細くて頼りないのに胼胝の目立つてのひら。邪魔にならないように短く揃えられてちんまりした爪。けれどそこにある、少しいびつな感触。

 

「あとはここにないけど太股とえーと、腹だったかな、たぶん」

 

 銃創なんて大層な怪我のはずなのだが、もうそれくらいは意識にすら上らないらしい。確かにいちいち気にしていたら文字通り身が持たないだろう。

 

「そうか……」

 

 ローの親指の先で触れる肌には弾痕らしき痕があって、皮膚の色が少しだけ違っていた。ひっくり返すと甲の同じ箇所にもあった。弾丸が貫通したのだとすぐに知れる。

 といっても、手の上に手をかざした時にできる、うっすらした影のような儚い色味のものだ。目を凝らさなければわからないだろう。ただ、ミオの肌自体がもともと白いので一度気付いてしまうとひどく目立つ。

 

「とにかく弾切れさせるのに夢中だったし、何発かは覚えてないからそれだけで勘弁して」

 

 あまり自分の手を好んでいないミオはローから手を引っぱって回収すると、胸元とシーツの間にしまい込んでしまった。

 ミオが己の手を矜持として誇ってはいるけれど、同時に厭ってもいることは知っている。だから握手はするけれど、一定の信頼を預けた相手……主に家族以外とは手を繋ごうとしない。袖の長めの服が多いのは腕にある傷痕を隠すためももちろんだが、手を布の中にしまい込むための用途の方が強い気がした。

 

 なにか、ひどくもどかしい感情を持て余す。

 

 ローは離れていた年数分年を取って成長したはずなのに、何を言えばいいのかわからない。言いたいことは沢山あったはずなのに、多すぎてかえって言葉が渋滞しているようだった。

 そんなローの雰囲気を察したのか、ミオがシーツに埋めていた顔を動かした。鼻先がくっついてしまいそうな至近距離で、桜色の瞳が悪戯っぽく揺れた。

 

「名誉の勲章ですよ?」

「……そうだな」

 

 堂々と言い切れることにローの口の端が僅かに上がる。

 言われてみれば、これはコラソンの身体に傷を増やさないというミオの決意の証。拒絶の意思が結実したものだ。

 おそらくはローが己に施した刺青と根元が近い。なんとなくそう思う。

 

「それはそれとして、ロー、いい加減いっぺんどいてくれ。この体勢しんどいし、さっきからベルトでおなかのとこ挟んじゃって痛いのなんのって」

 

 めんどくさそうにだらだらと言われ、やや満足したローは大人しく横にどいた。こっちの手に両足があるので逃げるのは無理だろうし、体勢がきついのは本当だろう。

 ミオは器用にごろりと仰向けになると腰のベルトを外して一息吐いた。ガンベルトめいて幅広のそれに固定されている鞘を掴んで躊躇なくローに差し出す。

 

「そこらへんに置いといてくれる? あ、こないだ鞘の底に海楼石仕込んだから、気ぃつけてね」

「あ? ああ」

 

 ずしりと重いそれを受け取って、言われるがままに注意してベッド脇に立てかける。柄を見る限り、作りも拵えも昔と変わらないように見えた。

 その間にミオは上着をもそもそ脱いで、雑に丸めると枕元に放り出した。長袖のシャツ一枚というラフな格好になって「あー楽」とか言いながらのびをしている。

 ちょっと待って欲しい。

 

「おい」

「どーせ誰かさんのせいでろくに動けないし、昨日っから寝てないし、ローも寝るなら僕も寝るから。さすがにきっつい。邪魔ならソファの方にでも運んでおくれ」

「いや、んなことしねェけど……」

 

 「ありがとー」とか言って寝そべってしまった。それまでの雰囲気がまとめて吹き飛んでローの頬が引きつる。

 ミオの両足をもいだ(・・・)のもここまで運んできたのも、ここで逃がしてたまるかというほぼ衝動みたいなもので特にどうこうしようという思いはなかった。相手がローだからこそ無防備で緊張感がないというのは分かるので嬉しいは嬉しいのだが、なんかこう……釈然としない。

 処理しきれない煩悶でぐるぐるしていると、ミオがよくわからないという顔をした。その顔をしたいのはこちらなのである。

 

「なんだどうした、さっきまで背中にひっついてたくせに。てか、しょっちゅう一緒に寝てたじゃん」

「うるせぇ」

 

 それは自分が子供の頃の話である。

 いやでもそうか、ミオの中のローはまだまだ可愛くないくそがき固定で動いていないのだ。

 どうやら手配書でローが成長していたことを知っていたようだが、直接再会したのはほんの数十分前。こっちもまだ戸惑いがあるのでそれも当然ではある。

 そうなると同じ布団で寝るくらい、どうってことないのだろう。なんせコラソンと合流してからベッドの都合でそれこそしょっちゅう一緒に眠っていたのだから。今更ローが縦に伸びたところで同衾程度ではなにも変わらないことが分かってしまい、なんともやるせない気持ちで顔面を手で覆う。

 

 ここで自分はもう守られるだけのガキではないと言うのは簡単で、実際そうしたいと思う自分もいるにはいる。けれど、それは今向けられている無防備であけすけな好意と引き替えであることも分かっている。

 

 ローにとって、ミオはもう二度と会えないはずの存在だった。

 募らせた思慕の念は少年時代のひたむきに無垢で純粋なまま、墓の底まで持っていって埋めるつもりだったのだ。

 それがこうもあっさりと再会してしまい、一体どうしたいのか、事ここに至ってもいまいち判断がついていない。

 

 だって──脳裏にこびりついた、思い出そのままの姿で現れるから。

 

「そもそも、なんで見かけが変わってねェんだよ」

 

 十年以上の年を経ているにも関わらず、ミオの姿はほとんどと言っていいほど変わっていない。改めて観察したところで少しばかり背が伸びて、服装が変わって、本当にそれだけだ。

 苛立ち紛れの疑問に、ミオはくちびるを尖らせてぶーたれる。

 

「僕だってコラソンくらい大きくなりたかったですー。くそ、ここまでくると弟たちに身長吸い取られたとしか思えない……ローにまで追い抜かれてるなんて、こっちだってやんなっちゃうよ」

「コラさんに変な冤罪かけんな」

 

 やんなっちゃうとか抜かしているが、ミオの身長はせいぜい160程度。ローどころか大抵の大人に負けている。

 あと、誰もそこまででかくなれとは言ってない。

 

「背はちょっと伸びたけど、あとは何年経っても変わらなくて……実の副作用説がいちばん有力なんだけど、ひどいよねほんと」

「胸もねェしな」

「うっせぇほっとけ! 僕だってむちむちぼいんぼいんになりたかったわ!」

 

 ぼすんと枕をぶつけられた。気にしていたらしい。

 ミオの能力はあらゆるものを『固定』するものだということはかつて聞いていたが、副作用として細胞の老化まで中途で『固定』、或いは阻害されてしまったのだろうか。

 深く考えたところで相手は悪魔の実だ。どんな副作用があっても不思議ではない。

 適当なところで思考を切り上げて、肩肘をついて頭を支えていると、騒いでいたミオが自分の身体を見つめていることに気が付いた。

 

「どうした」

「……うん」

 

 曖昧な返事をしながらゆるゆると視線が動く。ローの頬、首筋、シャツの隙間から覗くトライバルタトゥをなぞって、腕の先まで。

 観察するみたいにまじまじと見つめて、ようやく納得したのかちいさく頷いて、ほ、と吐息。

 

「……?」

 

 ぎゃあぎゃあ騒いでいたのがうそみたいなしおらしい態度にローが迷っていると、ゆっくりと桜色の瞳が眇められる。安堵のそれだった。

 

「よかった。──どこにもない」

 

 何を探していたのか、それで分かった。

 ミオは天井を仰ぐと両手で自分の顔を覆ってもう一度「よかった」とつぶやいてからローとは逆方向に寝返りをうって、団子虫みたいに丸まった。ローの目線の先、小さくミオの背中が時々しゃくり上げるように跳ねる。

 ああそうかと思い至って、ローは腕を伸ばしてなだめるようにミオの頭に手を置いた。自分でも驚くくらい、柔らかい声が出る。

 

「完治してる」

「うん、ちゃんとみた」

 

 必死に押し殺そうとしているが、ひきつるような涙声だった。なんだかたまらなくて団子虫をひっくり返して抱き寄せた。

 胸元に顔をおさめて背中に手を回すと、布越しに肌が汗ばんでいるのが分かった。さっきよりずっと身体が熱い。

 つむじを顎で押し込んで、笑みを含んだまま小声で話しかける。

 

「泣くなよ」

「ないてない。でもほっとした」

「コラさんとミオのおかげだ」

「ローがちゃんと頑張ったからだよ。あきらめなかったから、治せたんでしょ」

「まぁそうだな」

「えらいよ、すごい」

 

 ぐずぐずと洟を啜りながらよかった、すごいと繰り返すミオの背中をゆるゆると撫でて抱き締めたまま、ローはそっとまぶたを落とした。

 ありがとう、と聞こえた。内緒話みたいな消えそうな声。何も言わず、気付かれないように髪にくちづけた。

 

 胸の奥に星がふるような、そんな気持ちだった。

 

 煌めく星がまき散らすスペクトルが震えて弾け、火花のように輝いて。

 

 息が詰まってしまいそうな、胸に迫る感情の名前は分かっているけれど、いまはいい。

 

 生きててよかった。

 

 また会えて嬉しい。

 

 大事にしたい。

 

 

 今度こそ──ずっと一緒にいたい。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10.ハートのエチュード

しばらくローのターン!


 

 

 ローと再会してなんだかんだで一緒に仮眠を取ったら……すごく寝てしまったらしい。

 仮眠という名のガチ寝をしてしまった時特有の気怠い感じがあって、天井を見つめながらしばらくぼーっとしてたら「よく寝てたな」と声をかけられる。ローはデスクの方にいるようだったので、動く気配がしたのだろう。そうだここハートの海賊団だったと思い出し、自分の両足がくっついていることに安心する。

 口元に手を当ててくあ、とあくびをひとつ。

 

「ごめん、どれくらい寝てた?」

「もう昼回ってる」

「えっ」

 

 一気に目が覚めてがばっと身体を起こしながら壁掛け時計が目に入ったので、確認。マジだったことにびっくりする。五時間は爆睡していた。

 ベッド下に置いてあった靴を履きながら「起こしてくれてよかったのに」と愚痴ると聞きとがめたらしく「今日は休みなんだろ」としれっとした返事が飛んでくる。そりゃそうかもしれないけど、自分の部屋ならともかく仮にも海賊船で爆睡て、どうなんだろう。

 問答の間もローが近付いて来る気配はしなかったので、何をしているのか気になった。丸めてあった上着を伸ばして袖を通しながらベッドから下りて、少し歩くとローは先ほどの机に座って羽根ペンを動かしていた。前まで移動して何の気なしに覗き込んだら、文字列から察するにカルテのようだった。

 

 番号と名前を見てあれ、と思う。

 

「それ、ひょっとして僕のカルテ?」

「ああ、寝ている間に診察させてもらった。あんまり肺が強くねぇからもう煙草止めろ。あともっと肉を食え」

 

 これはひとの睡眠を脅かさないほど静かに診察できることを褒めるべきか、了解を得ずに勝手をしでかしていることを窘めるべきか。束の間迷った。

 

「ローにだけは言われたくないことを言われてる気がする……それに、確かに煙草は多少吸ってるけど一週間で一箱も──て、ない!」

 

 上着の裏側にあったはずの膨らみがぺしゃんこになっていて慌てそうになったら、その前にシガーケースと携帯灰皿を投げてよこされた。

 

「中身は没収だ」

「ひどくない!?」

「ひどくねェよ。ミオの健康を気遣った結果だ」

 

 いかにも医者の診断です、という感じで心なしドヤ顔されたのでえーってなる。

 ローがいくらお医者さんでも自分のお金で購入している嗜好品をとやかく言われるのはなんかこう、釈然としない。

 

 不満が雰囲気に出ていたのか、カルテから顔を上げることなくローがぽつりと付け足した。

 

「そんなに好きじゃないんだろ、煙草」

「……なんでそう思ったのか聞いても?」

 

 確信だけがそこにはあって、反論もあまり意味がなさそうだったが念のために聞いてみた。

 彼の前で吸っていないのだから、苦言を呈するに至る判断を下す経緯を知る相手は限られている。

 

「ベポだ。『すっごくまずそうに吸ってた』ってよ」

「あ~~ベポか~~、ならしょうがないな~~」

 

 秒で納得したミオはぺちんと手で自分の額を叩いた。彼の前でうっかり吸ってしまったので、モロバレだったんですねわかります。

 あれは悪いことしたなと思う。主に副流煙的な意味で。煙草はすべてシガーケースに移してはあったものの、おそらくローにはどの銘柄かバレているだろう。

 

 ……吸うようになったのは、本当になんとなくだ。

 

 二十歳を越えてから酒と一緒にたまに嗜むようになったけれど、ヘビースモーカーになることもなくここまで来ている。匂いというのは記憶に残るものだから、口とかが寂しいときに咥えて、吸っていた。

 

 だからってしおしおと言うことを聞くのも悔しいので、言うだけ言おう。

 

「本数少ないし、」

「やめろ」

「でも、」

「やめろ」

「…………」

「だめだ」

「念押しやめて。わかった、わかったから」

 

 足掻いてみたものの謎の圧に負けて頷いてしまった。

 両手を上げて降参すると、ようやくローも満足したらしい。

 

「隠れて吸ってもバレるからな。ベポは鼻が利く」

 

 ……読まれてたか。

 しかも自分ではなくベポを出すということは、それだけやめさせたいらしい。これは本当に禁煙するしかないのかもしれない。

 

 それきり会話が途切れて、沈黙が落ちる。

 

 なんとなく、お互いに距離感を図りかねているような微妙な雰囲気があって、ミオはちょっと居心地が悪い。たぶんローもそうだと思う。喋るタイミングを外して、変な緊張が抜けずにお尻がもぞもぞしてしまうあの感じだ。しかも苦し紛れに部屋をちょろつこうとするとローの気配が追いかけてくるので、どうにも困る。結局デスク前のソファに腰掛けつつ、本棚のやたら難しいタイトルを目で追ってみたりしてみた。

 

 理由は分かっているのだ。

 

 十年以上離れていた人間と再会して昔と同じようにすぐ喋れる、なんて無理な話である。ましてローにとってミオは既に故人のはずだった存在だ。

 思い出というには近く、知己というと少し遠い。距離感がつかめないから、うまく会話が繋げられない。何をどこまで話せばいいのか、話してもいいのか、聞いても大丈夫なのか、そういう許容範囲が探りきれていないから口を噤んでしまう。もどかしいけれど、これはミオにだってどうにもならない問題だ。

 

 とはいえ、なんだか据わりが悪いからって理由だけで逃げたりするのは違う気がする。

 

 バイトは休み(休んだ)で、ミオとしてもローともうちょっと一緒にいたいし話もしたい。

 

 そしたら、

 

「どうすればいいかね」

「なにがだ」

「ローとお喋りしたいんだけど、なにを話せばいいのかわからん。いっぱいあるはずなんだけど、なんか、どれから話せばいいのかとかぐるぐる考えちゃうし、こう、難しくて」

 

 思ったことをそのまま吐き出したら、少し驚いたようだった。

 

「……相変わらず馬鹿正直だな。おれだってわかんねェよ」

 

 感心すら滲ませて、ローは羽根ペンをくるくる回してペン立てに突っ込むと観念したように頬杖をついた。

 

「正直、おれの船にミオがいるって事実だってまだ実感が湧いてねぇ。こっちだって聞きたいことも言いたいことも山ほどある。が、どれから話せばいいのかさっぱりだ」

 

 思い出から突然飛び出してきた故人……だったはずの人間は、果たして自分の幻想や都合のいい夢じゃなくて本当に目の前にいるのか。

 ひょっとしたら、カルテ作りはローなりの確認作業の一環なのかもしれなかった。

 

「そりゃそうか。僕も手配書で生存確認できたときすっげぇびっくりしたもんなー、それで今日会ったらすごく緊張したし」

「嘘つけよ。出会い頭にひとの目の隈指摘してきたくせに」

「ほんとだよ。印刷と本物じゃ威力がぜんぜん違う。うわー生だ本物だ動いてるすげぇよかったーって思ったら、頭の中真っ白になっちゃって」

「生ってなんだ」

 

 半ばアイドルのような扱いが不服だったのか睨み付けてくるが、ミオは腕を組んでローを眺めながらしみじみと。

 

「だって手配書の百倍かっこいいし、隈ひどいし、声低いし、動いてるし? まぁ、人の足いきなりぶった切ってくるとは思わなかったけど」

 

 正面切ってかっこいいとか言われたローはちょっと口の端を上げかけたが、すぐに隈とか持ち出されたので真顔になった。

 

「ああでもしないと逃げそうだったからな」

「時と場合と相手によるよそんなの。ローだったらよっぽど切羽詰まってない限りは逃げない」

 

 遁走を図るに足る事態に陥るか、よっぽどの理由がなければローから逃げようとは思わない。

 

 少なくとも現時点では。

 

「断言はしないんだな」

「断言できる自信がないからできない。ごめん」

「……いや、そっちの方があんたらしい」

 

 しょんぼりしているが、できるかどうか分からないことは口約束でも確約しない、というのは本当に彼女らしい。

 ミオはもう一度ごめんと告げてからごくごく素朴な口調で続けた。

 

「それで、その、積もる話とかめんどくさい事をもろもろうっちゃって言いたいことだけ言うと……僕はローと昔みたいに仲良くしたいなぁと思ってるんだけど、ローはどう?」

 

 この際なのでずけずけとぶちまけることにした。

 

「十年以上も生死不明で音信不通だったヤツともっかい仲良くとか、虫が良すぎてやっぱりいやかな」

 

 へたに濁して中途半端に伝わったって意味がないことくらいは、ミオにだって分かるようになった。

 聞いていたローはといえば、途中で頬杖に乗せていた頭をがくっと滑らせた。落ちた頭を引き戻しながら眉間にものすごい皺を寄せて、猛烈に思考を動かしているのが端から見ていてもよくわかる。

 

 少しの沈黙ののち、ローはミオから視線を外しつつ、ぽつりと。

 

「──昔みたいに、は、無理だろ」

 

 思ったより真剣な声と眼差しだった。

 ムシのいい話だったかなと反省しかけたのだけど、考えてみればどだい無茶な話であると納得する。

 

 脳裏に浮かぶ弟たち。ドフラミンゴとロシナンテ。彼らも年を重ねて想像を遙かに超えてでっかくなって、なにより大人になっていた。

 ローも大きく成長して、もう成人だって越えている。親族ですらないのだから子供扱いは失礼だし『昔みたい』な付き合い方ができるワケがなかった。

 

 だから、たぶん。

 

「それ、仲良くすることに関してはワンチャンあるって解釈であってる?」

「ああ」

 

 頷くローに自分の考えが間違っていなかったことを確認できて、満足する。

 

「なら安心。よかった!」

 

 拒絶されないだけでミオとしては花丸満点である。笑顔で万歳して勢いのままに立ち上がる。

 そのまま一度ローの寝台まで戻り、立てかけてあった庚申丸を差したベルトを腰に巻きながら踵を返して机の前を素通りしようとすると、ローの腕が伸びてきて手首を掴まれた。

 

「おい、どこに行くつもりだ」

 

 打って変わって剣呑な雰囲気をまき散らすローに困ったようにミオは眉をしかめつつ、空いている方の手で自分の胃のあたりをぽんと叩いてみせた。

 

「いやさすがにおなか減ったし、外でなんか食べてこようかなと」

 

 安心したら空腹を思い出した。

 昨日の夕方から今まで食事らしい食事をしていないのでいい加減すかすかで、このままだと痛み出しそうだ。

 直球に人間の三大欲求を訴えられたローはしかし、不満そうな顔をしたまま手を離そうとしない。痛くはないけれど離れる気配がないそれを咎めようとして、ふと。

 

「ローはごはん食べてないの?」

「食ってねェ」

 

 ちゃんと聞いてみたらローが起きたの時間はミオが覚醒する数十分前で、起きてすぐに検診して、その結果をもとにカルテを作っていたから何も口にしてないとのこと。

 

「なんだ、じゃあ一緒に食べに行こう。シャボンディ諸島なんだかんだで長いから、いろいろ案内できるよ」

「食べに行くより厨房の方が近いだろ。諸島に関してはあとで聞かせてもらう」

 

 外食が面倒くさいという気配もあったのだが言外に含みを感じて、ミオはまだ掴まれたままの手首とローの顔を交互に見てから、ぽつりと。

 

「ローがごはん作ってくれんの?」

 

 くつりとローが喉を震わせる。

 

「冗談。逆だ」

「えーと、僕の料理のこと覚えてて言ってる?」

「それがいい」

 

 まっすぐにミオの瞳を見据えたままきっぱり言われると、拒否する理由は特になかった。

 

「……そか」

 

 文句言わないならいいよと頷けば手首を掴んでいた手がようやく離れ、ローは席から立ち上がって出口ではなく寝室へ向かった。

 なんとなくその背中を眺めていると、さして間を置かずに戻って来る。

 

「手ぇ出せ」

「ん?」

 

 何も考えずに出して手にぽん、と渡されたのはさっきまで宝石箱で存在を主張していた『ごほうび』がみっつ。

 

「え、いいよ返さなくて。あげるあげる」

 

 意図が読めず、目を丸くしたミオは反射的に突っ返そうとしたがローは受け取ろうとしない。どころか先ほどのように腕を組んでこちらを見下ろしてくる。

 

「いくら『ごほうび』っつっても、あんな時分のガキにやるようなもんじゃねェだろ」

 

 これまでローのよすがとなってきた重く冷たい鉱石たちは、ミオとの再会によってその役目を果たしたといってよかった。

 それならば持ち主に返すのが筋というものだ。疑問の解消にもちょうどいい。

 

「なに考えてたんだ?」

 

 ある程度の年を重ねてから名のある鑑定士に宝石を見せたとき、聞かされた鑑定額は目玉が飛び出るくらいの値段だった。みっつ合わせればそこそこの船くらい即金で買えてしまう。

 結末は別れだったとしても、当時ミオはそんなことかけらも考えていなかっただろう。自分だってそうだ。だというのに、少年だったローに『ごほうび』と称して渡すには宝石の価値が高すぎる。

 それならば、別の意図があったと考える方がしっくりくる。

 

 見下ろした視線の先、ミオは視線を泳がせながら気まずそうに言い淀んだ。

 

「なにって……まぁ、くだらないことなんだけど」

 

 そうだろうな、とは思ったが口には出さない。記憶に残っているミオは考えつく限り、大概くだらないことばっかり考えて行動していたので、今更だ。

 ミオはローの問いに手の中で宝石をひとつ持ち上げて電灯に透かしながら、ちょっとだけ懐かしそうに口を開いた。

 

 アクアマリンの水色を透過した瞳が玄妙な色味を帯びる。

 

「悪魔の実ってくそまずいって聞いてたから、口直し用のつもりだったんだよ」

「食えない宝石をか?」

 

 確かにオペオペの実は噂に違わぬくそまずさだったが、飴玉の包装に包まれていたとはいえ宝石は宝石。食べられない。

 

「ちがうちがう。この宝石と同じ色で形の飴玉持ってたんだ、あのとき。たしか魚人島で買ったんだっけかな?」

 

 彼女の使っている船は風の流れを無視した航行が可能なことは、ローとてよく知っている。ついでにその船を引くミオの相棒は海王類すら捕食する化物クラスの存在なので、あの頃どこで何をしていても奇妙ではなかった。

 そういえば、あの蜘蛛──軍曹は一緒ではないのだろうか。十年かそこらでくたばりそうではなかったのだが。

 

 ローの横道に逸れていた思考が、ミオの声で引き戻される。

 

「で、ローたちと合流してからそっちは食べられません残念でしたーって交換しようと思ってた」

「クソほどくだらねェ理由だった……」

 

 ここ十余年ローを支えてきたはずの宝石は、びっくりするほどどうでもいい理由で渡されていたものだった。

 こめかみを押さえてうなるローにミオは苦笑する。

 

「だからくだらないって言ったのに……でも、合流できなかったからかえって良かったかなって思ってた」

 

 有事の際に売り払って資金繰りでもなんでも使ってくれればいいと思っていたので、本当に意外だったとミオは語る。

 

「まさか戻って来るなんて、びっくりだ」

 

 面映ゆくつぶやいて、ハンカチを取り出して大切に宝石をくるんでいく。傷一つ見当たらないそれは、ローが本当に大事に扱っていた証拠だ。

 

「でも、返してもらうと『ごほうび』あげなかったことになっちゃう。それはよくないな」

「べつに、いいだろ。おれが勝手に返したんだ」

「いや、よくない」

 

 なにかこだわりがあるらしい。

 一度ひとに譲り渡したからには、その物品を相手がどう扱おうと自由だとしても、それとこれとは別問題なのだそうだ。よくわからない。

 

「この宝石ぐらい、はあげすぎだから無理だけどローの『ごほうび』になるもの、なんかあったかな……」

 

 ごそごそとあちこちのポケットを探り出すミオにローは顔をしかめる。

 

 変わらず律儀なのは結構なことだが、まだ子供扱いが抜け切れていないようでこちらとしては面白くない。ある意味では子供時代との訣別で、ミオとローの関係性が変化したことの象徴だ。

 代替品を渡されると、それこそ関係を引きずってしまうようで、こちらとしては困る。

 

「おい、おれは──」

「あ、そうか」

 

 けれどローが言い募る前にミオは何か閃いたのか、顔を上げる。が、またすぐ考え出した。

 

「でも、これはなぁ……あー、どうしよう……」

「?」

 

 眉を寄せて上目遣いにローを見て、それから足元を見たり壁にずらしたりと落ち着かなく視線をうろうろさせてからひとつ頷いた。

 

「まぁ、いいか。どのみちローのだし」

 

 結論が出たのか、ミオは上着の中に手を突っ込んで何かを引っ張り出す。

 さして厚くもない、オリーブグリーンの装丁の小冊子だった。ワインレッドと白の細いリボンのついたそれは、どうやらミニアルバムのようだ。

 

「はいこれ」

 

 なんの前置きもなく差し出され、ローは少し戸惑った。

 

「なんだこれ」

 

 返答は簡潔極まりなかった。

 

「誕生日プレゼント」

 

 ミオは弾かれたように自分を見るローに、してやったりとばかりに瞳を細めて微笑んだ。淡い色合いの中に確かに浮かぶ深い安堵と、渡すことができた喜び。

 

 甘い彩のかかった、とろけそうな笑顔だった。

 

「十一年分だよ」

 

 唐突に、少年のときに瞳に映していたものと同じ笑みを、見下ろしている自分がここにいることを自覚する。

 視線の先で、心なし目許の赤みを増したミオがはにかんだまま、照れくさそうに言う。

 

「ローがとびきり喜ぶ……かはわかんないけど、がんばって考えました」

 

 がつんと木槌で頭をぶん殴られたような衝撃だった。

 

 ローは息を呑み、伸ばそうとしていた指先が震えた。

 

「──ッ」

 

 なにかが胸に迫って、身じろぎひとつとれなかった。

 

──ミオ、おまえ。

 

 欲しいものを尋ねられて、苛立ち紛れに勝手に考えろと悪態をついた馬鹿なくそがきの暴言を真に受けて、本当に考えてやがったのか。

 

 十一年も。ずっと。

 

『じゃあ、ローがとびきり喜ぶものを考えないと』

 

 確かにそう言っていた。だが、言っていたからって本当にやってるなんて思わねぇだろ。

 

 ああ、本当に──このやろう。

 

「覚えて、たのか」

「忘れるわけないでしょー」

 

 考えろって言ったのはローの方だと唇を尖らせるミオに、そうだったなと返すのが精一杯だった。

 

 おれだって覚えてる。覚えてるに決まってるだろ、ちくしょう。

 

 衝動的に抱き締めなかった自分を褒めてやりたい。理性と一緒に目の前がぐらぐら揺れるようだった。

 なにかしないとやらかしてしまいそうだったので、反射的にアルバムを開いた。

 

「ほんとは次の誕生日か、そうでなかったら一緒にあげたかったんだけど、今でもいいや──て、ちょおおなんで開けんの!? 僕いなくなってからにしろよ!」

 

 どかんと顔を真っ赤にしたミオがさすがの俊敏さで手を伸ばしてきたので、ひょいと避ける。

 片手でアルバムを持ったままもう片方の手で白い頭を押さえてしまえば、ミオの手は届かない。

 

 今では、もう。

 

「身長差がにくいいい! 成長は喜ばしいけどにょきにょき伸びやがってくっそー!」

「おれがもらったもんをいつ開こうが、おれの勝手だろ」

 

 う、とぶんぶん振っていた手の動きが止まる。

 あっという間に気勢を削がれてたミオはじゃっかん気まずそうに視線を逸らす。

 

「そりゃそうかもだけど、恥ずかしいじゃん……あとにしてよ、あとに」

「おれに命令するな」

 

 回収を諦めたらしいミオは伸ばしていた手を引っ込めてしおしおとうなだれ、両手で顔を覆いながら命令じゃないよお願いだよと力なくつぶやく。

 

 そんな自称お願いを無視してローは改めてアルバムを開いた。

 

 クリーム色の台紙に丁寧に張られた写真と、その縁にはミオの字らしいとりどりのカラーペンで『Dear.Trafalgar Law Age.○』と必ず綴られていた。

 食い入るような目つきでページをめくっていくローに観念したのかため息をひとつ吐いて、ミオはぽつぽつと言葉を落とした。

 

「……荷物になるようなものはイヤだったから、写真にしたんだ」

 

 真昼の月

 

 朝靄の中で瑞々しく綻んだばかりのライラック

 

 かぎしっぽの猫

 

「一年に一枚だけって決めて、一緒に見たいと思った景色とか──」

 

 一面の、頭を垂れる稲穂が作った黄金色の海

 

 雪まみれのゴマフアザラシ

 

 はしっこが焦げているクッキーとちょっといびつなバースデーケーキ

 

「ローに見せたいなぁって思ったものを、毎年、選んでた」

 

 雲間から差し込む光が作る天使の階段

 

 魚が大口を開けた珍妙な船首の船

 

 水平線で星のように光り爆ぜるひなたの欠片

 

「……そうか」

 

 ミオがきれいだと思ったもの。

 

 ローと一緒に見たいと望んだ景色。

 

 写真はどれも綺麗だったが、なぜか沁みるようなさみしさがあった。

 

 ひどく遠いあこがれを閉じ込めたような、憧憬と隔絶。

 

 それはきっとローも感じていたものだ。

 

──ここにきみがいればいいのに。

 

 同じ道を歩むことはできなかったけれど、写真の数だけ追想して、重ねることはできる。

 

「見れば思い出すことって案外あるから、ローにも伝えやすいと思った、ん、だけど」

 

 だんだんと自信なさげに細くなっていくミオの声。十八歳の部分が空白な理由はもう分かっている。ベポに間違って渡したという、あの写真だろう。

 

 ここには貼られていない、朝焼けのスワロー島。

 

 きっと、すべての写真には裏書きがある。今剥がすとそれこそ手段を問わず没収しそうなので、これ以上のことはしないけれど。

 

「最高のプレゼントだ」

 

 そう零すとミオは気が抜けたようにへにゃりと眉を下げて、泣きそうな顔で笑った。

 そして、おそらくは何年もずっと口にしたかったであろう言祝ぎを。

 

「おめでとね、ロー。生きててくれて、ありがとう」

 

 おそらくは無自覚で、意固地なまでにひとに『残るもの』を渡そうとしてこなかったミオがローのために用意した『とびっきり』。

 

 それは、ミオの抱いてきた十一年分の痛みと願いがローに届いた瞬間だった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11.食後のリート

本日ふたつめ。これとあともう一話か二話更新したいところです


 

 

「なんでうまいんだ。おかしいだろ」

 

 案内してもらった厨房でチャーハンを作ってローに出した感想がこれである。

 

「失礼な。十年あればスキルアップのひとつやふたつするっての」

 

 向かいの席に座って頂きますと手を合わせ、スプーンで掬って口に運ぶ。うむ、我ながら上出来。

 余ってたご飯とベーコン、それに卵とネギのごく簡単なチャーハンだけどパラパラにできたので満足である。

 

「ましてバイト先がぼったくおっと、居酒屋さんですから。居酒屋メニューは鍛えられましたとも」

 

 栄養摂取のために自分で作るのと、人様からお金を頂いて供するとなれば、伴う責任は段違いだ。

 昔は無人島なんちゃらもびっくりな食べられたら御の字、なサバイバル食が主だったけど今生においては家族にも食べさせるからそこそこ、雑駁な味付けの圧倒的男飯となり、それからシャッキーさんに鍛えられ進化を遂げた現在。人の進化の歴史を凝縮したようなステップアップに改めて妙な成長を感じる。あと米料理はわりと上手くなったと自負している。

 

「ああ、言ってたな。どこにあるんだ?」

「13番GR」

「無法地帯かよ」

 

 昨日着いたばかりだというのに耳の早いことで。

 シャボンディ諸島は大体10グローブずつでそれぞれ特徴があり、番号が後ろになるほど治安がいい。1~29番まではヒューマンショップなんかの後ろ暗い店が多く、通称『無法地帯』なんて呼ばれている。

 

「初めて諸島に入ったときにそこの店主さんにお世話になって、それから年に何ヶ月か住み込みでバイトさせてもらってるの」

「その店主、どんなやつだ」

「どんなって、シャッキーさんって女のひと。昔海賊してたからあんまり海軍近くにいたくないんだって」

 

 ガープ中将に追いかけられたこともあるというのだから、名のある海賊だったのかもしれない。

 

「あとレイさんも住んでるよ。コーティング屋さんなんだけどおじいちゃんで、ここ半年くらいどっか行っちゃっててまだ帰ってきてないけど」

 

 レイさんことレイリーさんの放浪癖は今に始まったことじゃないのだけど、ローは露骨に顔をしかめた。

 

「……それ、徘徊してるんじゃねェのか?」

 

 なんてことを言うんだ。

 

「レイさんそこまでよぼよぼじゃない」

 

 なんたって『海賊王』の元クルーである。一回だけシャボンディパーク一緒に行く条件(デート予定だった彼女さんにドタキャンされた)で手合わせしてもらったけど、びっくりするほど強かった。老いたりとはいえ、たぶん今のローならあっさり負けてしまうだろう。

 

 あんまり素性を明かすのもよろしくないのでこれ以上質問されると困るなぁと思っていたのだが、ローはそれきり興味を失ったのか黙々とチャーハンを食べ始めた。

 僕もそれを見るともなしに見て、食事を再開する。先に食べ上げたローが腰を上げたので目で追っていると、しばらくするとコーヒー片手に戻ってきた。

 

「……」

 

 ご飯を食べている僕を眺めているローはちょっと楽しそうである。

 

「足りなかった?」

「いや」

 

 悠然とカップに口をつけて、薄く上がっている頬に少しばかりの皮肉げな色。普段はこんな感じなんだろうなとぼんやり思う。

 それから僕もご馳走様とスプーンを置いて、空になったお皿を洗い場に持っていって手早く洗って、ついでに自分の分のコーヒーをカップに注いで戻った。

 

「ごめん、カップ適当に借りちゃった。よかったかな?」

「ほぼ共用みたいなもんだ、構わない」

「ん。それで、シャボンディ諸島のどこら辺からレクチャーしようか」

「ああ、そうだな。まずは──」

 

 そんなやり取りをしていると、食堂のドアからオレンジ色のツナギと白い耳が『ぴょこぴょこ』と動いているのが視界の端に映った。その後ろには白いツナギの二人組。ローが心配で見にきたのだろうか。

 僕の視線を辿ってローも気付いたらしく「あいつら……」とため息をひとつ。なんだか微笑ましくて笑ってしまう。

 

「いいクルーだねぇ」

「ああいうのは野次馬っつーんだよ」

 

 おそると顔を覗かせるベポにおいでおいでと手招きすると、ベポは後ろのツナギくんたちと顔を見合わせてからローの方を見た。

 いかにもしぶしぶという感じでローがテーブルを指先でとんとんと叩くと、それが許可だったのかどやどやと三人組が食堂に入ってくる。

 

「どーも、お邪魔してます」

「うぉっ、そのう、初めまして!」

 

 最初に到着したキャスケット帽の似合う青年に挨拶すると、なぜかシャキンと彼の背が伸びた。そんな緊張しなくても。

 

「ベポはもう知ってるな。ガチガチになってるのがシャチで、後ろのがペンギン」

 

 ローの補足説明の後で二人が自己紹介してくれた。手配書で見覚えがあったので、名前と顔を一致させるのは容易である。

 キャスケット帽子の青年がシャチくんで、帽子のポンポンが可愛いのがペンギンくんか、了解。

 

「改めましてミオと申します。今日はバイトさんだけど、普段は賞金稼ぎしてます、一応」

「バイトはともかく、し、賞金稼ぎッスか??」

 

 職業をバラすとシャチくんが仰け反って、横のペンギンくんがびきっと凍り付く。

 なんか勘違いしてそうなので一応先手を打っておいた。

 

「ローの船狙ったりしないから安心してください。元々、ルーキーは狙わないようにしてるし」

「バイトとか言うから廃業したかと思ってたが、なら噂に聞く『音無し屋』は……あんただったか」

「あ、それ僕。屋はつかないけど、なんかそういう名前で通ってるみたいで」

 

 ローのつぶやきに露骨に反応したのは、シャチくんとペンギンくん。

 

「えっ、『音無し』!? 賞金稼ぎの!?」

「めっちゃめちゃ物騒なやつじゃん! 狙われたら終わりの代名詞じゃん!」

「そんな有名? 海賊界隈の噂ってとんと聞かないから知らなかったわー」

「本人がぜんぜん知らなそうなのが逆にリアル! ウワアアキャプテン! キャプテーン! あんたの恩人とんでもないんですけどぉおおお!!」

「うるせぇ。ミオがとんでもないのは昔からだ。慣れろ」

 

 シャチくんの魂の叫びをバッサリ切るローマジロー。そこまでとんでもないことをしてきた覚えはないのだけど、成り行き任せで色々あったからなぁ。

 その横の比較的冷静そうなペンギンくんは顎に指を当て、ややあってからこちらに顔を向けた。

 

「あのー、ミオさん」

「はいなんでしょう?」

「キャプテンの昔の恩人ってわりに、その、若くないですか?」

 

 ローの気安い態度から恩人の部分は疑っていないのか、さして警戒はなかったけれど純粋に疑問だったようだ。

 

「あ、うん。中身は三十路手前なんだけどね、悪魔の実の能力の副作用らしくて外見あんま変わらないんだ。あれだったら敬語の方がいいかな?」

「いや、いやいやいや!」

「勘弁して下さいしんでしまいます!」

 

 外見年齢と中身が一致していないがゆえの弊害なのでそう提案したら、二人揃っての全力否定である。仲良いな。

 

「ミオも能力者だったんだ。キャプテンより年上に見えなかったから、なんでかなって思ってたんだけど」

「ややこしくってごめん」

「ううん、むしろしっくりした」

 

 なるほどと頷くベポの横でペンギンくんとシャチくんは顔を見合わせて「みそッ……!?」とか言ってからまた固まってしまった。すまぬ。だが事実だ。

 年相応の落ち着きとか口調がぜんぜん伴わないのはたまに反省しているけれど、よく考えたら年相応に落ち着いて分別を身につけた大人というものがどういうものなのかいまいち分からない。参考になるのはシャッキーさんとかレイさんだろうか。あとは海軍? ガープ中将はしっかり……している、か? もうちょっとしっかりしたいものなのだけど、こればっかりは難しい。

 途中でベポに写真を渡してなかったことを思い出したので、交換予定だった写真を取り出して「さっきの写真、これでもいい?」と見せたら「あ、こっちは昼間なんだね。ありがとう!」とベポは明るく笑って受け取ってくれた。よかった。

 

 そんな中、ローがコーヒーからくちびるを離して、ぽつりと爆弾を投下した。

 

「つまり、ロリババアか」

「異議あり!」

 

 すかさず挙手。

 しゅばっと手を上げてローに向かって捲し立てる。

 

「それはちょっと聞き捨てならない! 訂正を要求します!」

「なんだよ事実だろ?」

「いや事実だよ? 事実だけどね? まぁ、ロリはしゃあない! 見た目はどうしようもないから! ババアも許す! 二十代にしてみりゃアラサーはババアでしょうよ! でもロリババアはダメ! 一緒よくない!」

 

 ここの世界全体的に大きいし大人っぽいから童顔まっしぐらな現状、ロリと呼ばれても反論が難しい。だがロリとババアは看過できるけどロリババアはダメ、絶対。僕だって色々気にしちゃうお年頃なのだ!

 というか、三十代をババア呼びするとシャッキーさんとかどうなんだって話になるから、ローはもう少し女性のびみょうな心の機微を学んだ方がいい。きっと彼女ができた時に苦労する。

 熱弁を振るうとローはちょっと驚いたように目を瞠ってから僕をまじまじ見つめ、そうだなと頷いた。

 

「まだババアには早いか。訂正する。ミオは立派な合法ロリだ」

「立派でもあんまり嬉しくないけど、うん、そっちの方がマシかな」

 

 「あ、いいんだ!」「心広くね!?」と三人がわぁわぁと騒いでいる。ババアじゃなきゃなんでもいいです。

 気を取り直すためにずー、とコーヒーをすすると舌先に感じる苦みと広がる香り。これを楽しめる年齢になったローがお向かいに座っているのがとても嬉しくて、油断するとすぐ口元がゆるゆるになってしまう。満腹感も相まっておなかの中がくすぐったい。

 薄い湯気の立ち上るカップをのんびりと眺めて、ちらりと盗み見たローも機嫌がよさそうだった。

 

 そんな僕らを見た三人もどことなく安心しているみたいで、ローは仲間に恵まれたんだなとしみじみ思う。

 

 再会からこっち、怒濤の展開でタイミングを逸して口にできなかったけどこれならロシナンテのことも任せて大丈夫そうだ。ローはちゃんとロシーおっとコラソンのこと好きでいてくれてるみたいだし、早いとこ連れて来よう、そんでローに怒られろ。

 

「おい、ミオ」

「ん?」

「おれの船に乗れ」

「ぐふっ」

 

 あっぶね、飲み込んでなかったら噴き出してたわ!

 

 いやちょっと、唐突になに言い出してるんだこの子は。ほら三人もびっくりして固まってるじゃん。

 ひっくり返しそうになったカップを慌てて支えながら見ると、ローの顔はびっくりするくらい真剣だった。

 

「まてまて、いきなりすぎる」

「唐突に出てきたのはそっちが先だ。ことあんたに関して、おれは我慢なんかしねぇからな。するだけ無駄だってことくらいはよく知ってる」

 

 『あいつ』だって途中から引き入れるの半ば放棄してただろ、とドフィのことまで引き合いに出されると何も言えない。

 

「お、おう……」

 

 ドフィの海賊団に所属しなかったのはコラソンが海兵だったことと、先にお父さんとこの娘になっていたという部分が大きい。お父さんとかシャンクスさん知ってるとドフィのところやばいなって思う。海賊のジャンルというか、系統が違うよね、あれ。

 今となると、そりゃドフィに見つかりたくないということが第一義なのだけど、これからローにコラソン(重傷)を引き渡せば万が一見つかったらという心配も解消される。

 

 そうなると、残る問題は優先順位。

 

 突然の『ハートの海賊団』勧誘にぐらぐらしていると、見計らったようにローが追い打ちをかけてくる。

 

「生きてるなら、もう失うなんてまっぴらだ。……おれは賞金稼ぎになれねぇから、あんたが海賊になればいい」

 

 声には熱があって、懐古の色が混じっていた。

 その文言から思い出されるのは、コラソンと僕が描いた未来予想図。ローに悪魔の実を横取りしたらどこかへ身を隠そうと言うコラソンに、僕は一緒に賞金稼ぎになろうと持ちかけた。

 コラソンはそれはいいって、きっと楽しいって笑ってた。ローも満更ではなさそうな顔をしていた。

 

 そんなことまで覚えて、いたのか。

 

 ぽかぽかしてたはずの胸が急速に冷えていく。ぎゅうって絞られたみたいに痛くなって、ひどく切なかった。

 

「ロー」

 

 名前を呼ぶと、ほぼ同じタイミングでローの手が僕の頬に触れる。気付いたら三人は食堂からいなくなっていた。

 まだまだ柔くてぷにぷにだった『おてて』が皮膚の硬い、大人の男のひとの手になっていた。その現実が急に押し寄せてきて、なんだか焦る。

 置いてけぼりをくっていたはずなのに、実は物凄く近くに待ち人がいた。それを見つけて驚いて、けどほっとするような、そんな。

 

 なんだろ、どきどきする。

 

 謎の感情で気持ちが逸って落ち着かず、やたらと瞬きしていたらローが喉の奥をふるわせて笑った。

 あの頃のローが笑った顔なんて数えるくらいにしか見たことがない。大体はひどいしかめっ面か、怒った顔、苦しみを堪えるときの渋い顔。

 

 そうか、ローはこんな風に笑うんだ。

 

「おれは元気になった。どうせ死ぬなんて言い訳は使えなくなったから、諦めねぇ」

 

 ぬくもりと一緒になにか、強い感情が伝わってくる気がした。

 

「おれの望みはぜんぶ叶うって言ったのはあんただ。やりたいこと、してみたいこと、山ほどできたから教えてやるよ」

 

 骨張った指が輪郭を確かめるようになぞって、むに、と痛くない程度につまんで引っぱられた。

 それはコラソンと僕とでバレルズ海賊団に突入する寸前、彼に別れ際に告げた言葉のローなりの焼き直しで、答えだった。

 

「ミオと一緒に世界を見たい。無理強いする気はねぇけど──逃がしもしねぇ」

 

 こちらを見据える瞳は海賊が獲物を見つけたもののそれで、ぞくりと背筋が粟立った。

 

 ハートの海賊団に入ることに関して、否やはない。約束は守るものだ。違えることは決して許されない。

 そして時系列順に考えるならば予約の優先順位は、確かにローとコラソンとの方が先だ。

 そうなると説得しないとならない壁がふたつほど出現するのだけど、これは安請け合いした僕が悪い。エースとマルコさんには責任を持って説明して土下座するしかない。

 

 そんな呑気な計画図を脳内で描いていたのだけれど、ローの次の言葉で思考が途中で寸断された。

 

「おれもあんたが大好きだ、ミオ」

 

 ローの声が耳から滑り込み、脳で咀嚼、理解して──ひゅ、と息が止まる。

 本能が訴える。第六感が全力で警鐘を鳴らす。

 

 自分が口にした大好きと、今のローの『大好き』は──ちがう。

 

 似てるけど温度が違う。字面が同じでも熱量が違う。舌に乗せた重さが違う。

 

 想いを武器に殴りかかられているようで目の前が揺れる。頭が真っ白になって目眩がしそうだった。

 

 半ば反射的に思う。

 

 

 これ、だめなやつだ。

 

 

「──ッ」

 

 心臓が凍るみたいに痺れてざぁっ、と音を立てて全身から血の気が引いた。予想外の反応に驚いたのか、ローがぎょっとして手を引っ込める。

 

 それは、だめだ。ちがう。どうしよう。

 

「だ」

 

 すがるように両手でカップを包み込んで、逃げるように視線を落とす。くろぐろとした水面が小刻みに揺れている。いつの間にか指先は冷え切ってて、カップの表面は熱いくらいだった。

 ローの視線は外れない。突き刺さるみたいで、どこか不審げな気配を帯びるのがわかった。

 

「だめ」

 

 喉の奥が引きつれを起こしてるみたいで、たった二文字を絞り出すのがやっとだった。

 

 どうしよう、今すぐ逃げたい。

 

 しかしさすがに前言撤回には早すぎる。毛穴が締まって背中に冷や汗が出そうだった。首の辺りがどくどくして、血の流れが気持ち悪い。貧血でも起こしたみたいにどんどん温度が下がっていく。

 

「……断る口実なり理由があるなら、全部吐かせてまとめて潰す腹積もりだけどよ」

 

 物騒なことを言うローの口調が、いつの間にか冷静にこちらを探るようなものに変化していた。

 

「その反応は正直予想外だ。あんた、なにをそんなに怯えてる」

 

 何を?

 それが分かっていれば、たぶんこんな気持ちにはならない。

 

「わ、わかん、ない」

「海賊に入ること……じゃねぇな、その時の反応は普通だった」

 

 顎に指先を添えてひとつひとつ、言動を確かめるようになぞっていくローの顔は『医者』のそれだ。

 そうだ、ローは『死の外科医』で、オペオペの実の能力者。自分の孕んでいた不治の病を克服できるだけの医療技術と知識を持ち合わせている。

 

「なら、そのあとか?」

 

 それは、即ち──

 

「ロー、やめて」

 

 患者の中身が暴かれる、ということだ。

 

「やめて」

 

 もう一度、自分でも驚くほど固くて、冷たい声が出た。

 

「ミオ」

 

 落ち着かせるように名前を呼ばれて、惑乱と恐慌の半歩手前でぎりぎり踏ん張っているのが自分でも分かった。

 ここから先に一言でも踏み入れられたら、自分でもローになにをしでかすか予想がつかない。

 

 とにかく、これだけはと思って口を動かす。

 

「ごめん、でもほんと、だめ。ローがお医者さんでも心配してくれてても、それ以上は、言わないで」

 

 これ以上、僕の中身を詳らかにしようとするなら、いくらローでも駄目だ。耐えられない。むしろ──ローだからこそ余計に無理だ。

 コーヒーを飲み干してくちびるを湿らせてからカップを置く。

 

「ローのこと大事だから、嫌いになりたくない。いま、わりと逃げないだけで、ぎりぎり」

 

 片方の手が愛刀の柄に伸びるのを止められない。指の腹で柄を撫でて、ようやく少しだけ正気を取り戻せた。

 

「……」

 

 呼吸を整えながらローを見つめると、こちらに伸ばしかけていた手を中途半端な位置で止めたまま、困惑しているのが見て取れた。

 無意識に席から立ち上がろうとしたらローの視線が動くなと怒鳴ってくるので、なんとか堪えて座り直す。

 

 どうかこれ以上は踏み込んでくれるなと願い、頭の中で言うべきことだけを選別する。

 

「あの、だめっていうのは、ハートの海賊団入りに関してじゃないから」

 

 ああ、煙草が欲しい。一服して落ち着きたい。

 

「そっちはだいじょぶ。ちょっと他の予約入っちゃってるから、先にそっちと交渉しないとだから今は難しいけど」

「……予約?」

 

 胡乱に聞き返すローに頷いてみせる。

 

「ごめん。でも一緒に行こうって僕とコラソンがローに言った時のが優先順位、高いから。ただ説得というか、交渉は手伝って欲しいかも」

「当然だろ」

 

 あともし、ハートの海賊団入りするならお父さんにも御挨拶しないとだな。

 

「予約してきたのは海賊か? ……ッ、まさか──!」

「言っとくけどドフィじゃないからね?」

 

 最悪を想像するのはいいことだと思うけど、僕だってそこまで色々投げ捨ててないです。

 

「ずーっとお世話になってる海賊さんのね、隊長さん」

「隊長?」

「が、二人」

「多いな」

 

 思わず、という感じでツッコミが入った。

 そこまでの会話でようやく、恐慌半歩手前から抜け出すことができた。

 

 深く酸素を吸い込んで、吐き出す。

 

「そんなワケでローの海賊入りは問題なしだけど、一旦保留にさせて。ちゃんとスジは通したいから」

「保留の件はべつにいい。最終的に『ハートの海賊団』入りするのが前提だが……あんたは、約束だけは守るからな」

 

 ローがかすかに瞳を眇めて、僅かに口の端を上げた。

 その笑みが先ほど浮かべていたものとは少し異なっているような気がしたけれど、いきなり変な行動起こしたやつ相手に同じ態度は無理だよなと勝手に納得する。

 漂っていた緊張がお互いに弛緩していくのが分かって、心底ほっとした。

 

「ありがと。それでえーと、今日のところは帰らせてください。ちょっと頭冷やしたい」

「……まぁ、構わねェけど。連絡先くらいは寄越してけ」

「あ、うん」

 

 ポケットからビブルカードを取り出して、ペンで電伝虫の番号と名前を走り書きしてからその部分をちぎり取る。

 

「ほいこれ、電伝虫の番号。繋がらなくて、それでも用があるときはビブルカードで辿ってみて」

「ビブルカード?」

「……ああ、そっか。ビブルカードはグランドライン後半にある文化なんだけど──」

 

 ローにビブルカードの説明をして、ついでにローの電伝虫の番号を聞いてから僕は『ポーラー・タング』号をあとにした。

 適当にシャボン玉に乗っかって上を目指し、ぎりぎりシャボン玉が弾け飛ばない程度の上空まで到着したところで、頭を抱えてしゃがみこむ。

 

「ぐあ」

 

 やってしまった。

 

 猛烈な後悔があった。予期せぬ方向から狙撃されたような気分だった。避けることも躱すこともできず、まともに食らって崩れ落ちた。

 無意識に懐をまさぐってシガーケースを開けたら空っぽで、そうだ煙草は没収されたのだと思い出して舌打ちする。

 

 必死で押さえつけていた動揺と混乱がぐるぐるとおなかの辺りでわだかまっているのがわかった。

 

「あ、あああぁぁああ……ッ!」

 

 意味のなさない音が喉から長々と垂れ流される。吐き出していないとおかしくなりそうだった。

 

 肺の中が空っぽになるまで唸り尽くし、膝を抱えて頭を押しつけできるだけ縮こまって丸くなる。しばらく動ける気がしない。

 

 ほんと、どうしよう。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Voi che sapete?

ロマンチックといったな?あれはウソだ。


 

 

 あれから、表面上の体裁だけはなんとか整え、ぎこちなさの抜けきらない苦笑を浮かべながら『ポーラー・タング』号をあとにするミオの背中を見送った。

 

 ローは自室でソファに寝そべりながら片手で小さなアルバムを開き、写真を肴にグラスを傾けていた。船員からの情報収集と統合を済ませ、誰も入室することのない深更である。

 予想通り写真の全てには裏書きがあって、物珍しい風景と相まって放浪趣味のローの目を大いに楽しませてくれた。──無論、『楽しい』のはその点のみではないけれど。

 

「……」

 

 ひととおりの写真を眺めて満足してアルバムを閉じ、グラスに酒精を注ぎ足しながら今日の出来事を反芻する。

 思いもかけぬ、どころか想像の遙か埒外にあった恩人との再会。捕獲と同衾……と称すには色気のない仮眠、起きてからの食事やあたたかくも騒がしく過ごした時間、上がっていた料理の腕、そして──。

 

『だめ』

 

 指先すら震わせながらコーヒーのカップを縋るように両手で包んで、ようやく吐き出された拒絶の二文字。

 

 それまでの会話におかしいものはなかったと断言できる。遠い昔に与えられた言葉に、ローの思いを重ねて返した。それだけだ。

 

 けれどあの一言で弛緩しきっていたはずの空気はまとめて吹き飛び、磁器めいて白い頬が更に青ざめ、くちびるすら血の気を失っていった。

 それほどに切迫した、息詰まるほどの緊張と焦燥に炙られた雰囲気。もしあそこでなおもローが言い募れば、ミオがどのような行動を起こしてもおかしくはなかっただろう。

 

 好意や愛という甘い感情とはまるで無縁の、恐懼にも近い表情だった。

 

 だが、同時にローは確信を得た。あの瞬間、ローはミオの心の裏側……己が最も忌避している柔く、脆い箇所に触れていた。

 いつかのドフラミンゴが傷痕を餌にオペオペの実をミオに食べさせようと目論んだ時の空気に似ていたが、当時を知っているぶん僅かに異なっていることは理解できた。

 

 それを目にしたローは劇的なまでの変化にギョッとして──背筋がぞわりと粟立った。

 

 心臓が早鐘を打ち、汗腺が開くほど昂奮(・・)した。歓喜にわななき、ともすれば歪みそうになる口元を隠し通すことができたのは、なにかの奇跡としか思えない。

 あんな顔を、ローは一度だって見たことがなかった。もしかしたら誰も見たことがないのかもしれない。そう考えるだけで仄暗い満足感がじわじわと湧いてきて、ああ自分はどうしようもなく海賊なのだと改めて感じ入る。

 

 万人へと向ける、花が綻ぶ様な笑顔という被膜を剥ぎ取られ、剥き出しになった感情そのままの表情。ローだけに向けられている、怯え歪んだ、その顔。最高だ。

 

 

 そうだ、おれはあんたのそんな顔を拝みたかった。

 

 

 ローにとってコラソンとミオは間違いなく己の命を救った恩人であり敬慕の対象だが、内情は少しばかり異なっている。

 今となっても褪せず残るコラソンへ向ける感情とて紛れのない愛情ではあるが、それは清廉に捧げる信仰にも似た感謝の色をしている。

 

 一方、ミオへ向ける思慕の念はコラソンへ向けるそれとは違う色味を宿していた。

 本来ならば汚されることなくあたたかな木陰色の、ひたむきに純粋で無垢なまま、墓の底に仕舞い込まれるはずだった代物である。

 けれど、再会を果たしてとっ捕まえて生身のミオと触れて話して確かめて、冬に春を偲ぶ気持ちにも似ていたはずのものはより強く、より激しく、より抗い難い感情に塗り潰されてしまった。

 

「……」

 

 舌先で味わうアルコールの刺激と琥珀の妙味を喉へと伝い流し、ほのかな酩酊を感じ取りながらローはミオから没収した煙草の一本を取り出して咥えた。

 仮にも医師を名乗る者として肺を蝕む嗜好品に手を出すつもりはなかったが、今夜は特別だ。ケースがなくても銘柄はわかっていた。火を点ければするすると滑り出す灰色の煙と馴染みのある香り。僅かに口に煙に含めば、独特の苦みがちりと肺を灼いた。

 

 瞼を落とせば、押し寄せるいくつもの情景が脳裏にひらめいては消えていく。ミオがたまに吸っていた理由など察するに余りあった。

 

──ほんの数時間前、徹夜と疲労で限界に達していたミオが眠りに落ちてから、ローは頭痛がするほどの眠気でまどろみながら意識の保つ限り長く、その華奢な身体を抱き締めていた。

 

 今は両足が欠損している(させた)ものの、かい抱く肢体はこれまで抱いてきた娼婦のような熟れて実った女としての柔らかな丸みこそ欠いていたけれど、けして男のように無骨に平坦なのでもなく、かといって未来を予感させるようなふくらみかけというのでもなく、現在で既に完成した──否、この場合は『固定』されたと表現した方が正鵠を射ているのだろう。

 女性と少女というよりは雌雄の間に佇むような……そんな危うい均衡の上に成り立った絶妙の起伏と曲線を描いているように思えた。

 

 そうして自分から転げ落ちぬようにと手の中の薄く、まろい肩をゆるゆると抱き寄せて──落とした瞼の白い睫毛が時折小羽のように震える様子とか、触れている布越しでもわかる肌のしっとりと吸い付く練り絹の如き滑らかさ、薄いくちびるから微かに届く息遣いの音、薄荷めいて涼しく甘い、それら全てを全身に刻み込むように堪能して──かつてなく、今更、初めての、暴風のような凄まじい衝動に襲われた。

 

 それは恋情愛情などと称するにはあまりにもおこがましい、もはや獣と呼ぶに相応しい欲情の発露だった。自分に食人の癖などないのだが、叶うならば髪の一筋から肘の内側、白くやわい肉から小さな爪先までも。それを思うだけで舌の根が引き攣り、ただでさえ空腹の下っ腹がきりきりと痛むようだ。

 

 けれど彼は野で獲物を喰らうだけの獣ではなく人間で、海賊で、『死の外科医』だ。貪り尽くしたいのは当然としても、それは肉体のみに留まらない。

 

 望むのは、丸ごとすべて。

 

 身体のみならずミオのすべてを余すことなく暴き詳らかにしたその上で──根こそぎ奪って喰らい尽くす。

 肌を重ね、情を交わすだけならばその先だ。それを思えばこそ、無防備を晒す身体に悪戯ひとつせずに耐えきることができた。

 

 だから短い仮眠ののちに、手始めに能力を用いてミオの中身を見せてもらった。作りは細いが健康そのもので安心した。

 カルテを作り、やや肺が弱いことが気になったのでようよう起き出したミオに禁煙を申し渡したところ仏頂面をされた。

 

 形見扱いしていた宝石を返却して代わりにと『プレゼント』を手渡されたときは、本当にやばかった。けれど同時にミオの中での『ロー』はまだ少年の頃のままだということも同時に察した。

 

 それでは困るので、食後の頃合いを見計らってまずは最初の一手を。

 

 種別は違えどまだ間違いなく好意を持っていることを確認して、仲間に引き入れることに関して否やがないこともわかった。言質もとった。

 そうして少年時代と今の自分は違うのだと、思い出を打ち砕き生身のローを刻みつけるための第一歩。

 

──果たして、試薬代わりの『大好き』が示した反応はローの予想を超えて劇的だった。

 

 改めてミオと話していて気付いたことがあった。彼女は決して正直なのではない。いや正直ではあるのだが、むしろこう表す方がしっくりくる。

 

 ミオは偽らないだけだ。――否、偽れないと言った方が良いだろうか。

 

 おそらく、彼女はまだ心の肝心な部分が成熟しきっていない。そうなるに至った経緯が過去の外的要因なのか本人の資質によるところなのかまでの判別はつかないが、だからこそ、未熟な雛が卵の内に閉じ篭もるように、ミオは自らの心を柔らかい殻で包んでいる。心の内に他人が触れようとすれば容易く指先はめり込むが、それは膜を隔ててのことで、真意に触れることは叶わない。

 

 その柔いが堅固な壁に、ローは踏み込もうとしたのだ。心の洞のような部分に容赦なく踏み込んで来ようとする存在は確かに恐怖だ。咄嗟に退けようとしたとて無理もない。

 

 だが、そんな反応ひとつでこちらが遠慮してやると思ったら大間違いだ。

 

 そんな分別をつけられるようなら海賊になんかなってやしないのである。分水嶺などとうに越えている。むしろ大いに滾った。

 ただあれ以上つつくと遁走を図りそうなことは想像がつくので、しばらくの間は様子見に徹するつもりである。根こそぎ暴くのはまだ先だ。布石を打ち、手順を組み上げ、しかるのちに障害を潰すのは彼の得意とするところである。しかも先に待ち受けるご褒美が、遠いあの日に恩人とともに失ったはずの思いの片割れだ。猛らぬわけがない。

 

──やはり自分は、世界でいちばん憎たらしいあの男と本質が近いのだろう。

 

 愛されないならせめて憎悪されたいと言ったのはドフラミンゴだっただろうか。全く同感だ。

 だがローはドフラミンゴではないから諦める必要はないし嫌われてもいない。あれがドフラミンゴの限界だとすれば、ローはその先に行く権利がある。ざまぁみろだ。なんせ彼はもうすっかり『大人』でミオの『血縁』ではないのだから、誰憚ることなく異性に『愛』を請い与えて許される立場である。

 

 固く閉じこもっているのならば、舌鋒をメスに、言葉を鉗子に、凝った心を切開し晒け出された患部にくちづけて、選り分けた血管ひとつひとつに愛を注ぎ刺して賦活させてやる。

 

 ローもミオも生きている。生きているなら諦めない。変えられるものがある。叶うことがある。それはローの人生が何よりの証明だ。

 ミオが欲しい。あの生き物が欲しくてたまらない。口にしたのは全て本当だ。もう一度失うなど耐えられない。誰かに盗られるなんて想像だけで腸が煮える。そう、それは新世界で胡座をかいているであろうドフラミンゴが相手ならば尚更だ。

 

おそらく、ミオの生存を知れば何を置いても奪取しようと目論むだろう。それだけは我慢ならない。一度全てを奪った怨敵にもう一度盗られるなんて冗談ではなかった。だったら、ドフラミンゴの入る余地をなくせばいい。

 

 そして、ローはそれを躊躇う理由もなければ必要もないのだ。

 

 あの反応を見る限り、道のりは随分と険しそうだが不可能とは思わない。珀鉛病を克服するより高いハードルなんてそうはないだろう。

 

 すっかり先が灰になってしまった煙草を消し潰し、冷えたグラスを額に押しつけて、死の外科医は密やかに微笑んだ。

 

「……くく」

 

 それは、笑顔と呼ぶにはあまりに悪辣に過ぎたものではあったのだけれど。

 

 ……そもそも、墓まで持っていくはずだった純粋な思慕の念を素知らぬ顔で引っ張り出したのはあちらの方だ。

 

 堰き止められたまま、いつかは乾き朽ち果てるはずだった思いの蓋をこじ開けて暴き立て、決壊させたのはミオなのだから、その責任は身を以て取ってもらわねばならない。

 

 

 

×××××

 

 

 

 いつかの昔、求めても得られないから諦めた。

 

 諦めて、子供じみた自己防衛で削り落として、ミオの『だいじなもの』はぽっかり欠けたままだった。

 

 それはそれでいーや別に死なないし、と自分に関してとかくぐうたらなミオはそのままほったらかしにし続けてしまった。

 彼女の周りにいた人たちはわりと常識的な部分が足りなくて、おまけに変なところで厳しいものだからミオはそれを長年かけて変な風に拗らせていた。

 

 自覚がないものを指摘もせずに勝手に気付け、というのは難しいものだ。懇切丁寧に教える必要はなくとも、きっかけくらいはあってしかるべきだっただろう。

 

 けれど、ミオの周囲環境はそれを許すほど甘くはなかったし拘っているヒマがそもそもなかった。

 

 そんな風に日々を乗り越えることのみに腐心している内に、生き抜く術や技術ばかりに特化してしまったミオは――地頭は悪くないのにあほになってしまった。

 

 研鑽を怠らないのに努力を放棄してしまった。欠けて拗れた挙句にでこぼこな心を、危うい均衡を保ったまま成長せざるを得なかったとも言える。

 付け加えるとすれば、たまさか機会に恵まれたことがあっても、それに気付いて自覚したり友情やら親愛からクラスチェンジする前に人生が物理終了していた。

 かくして『頑固なあほ』というなんとも扱い難い性格で固まってしまったミオはとても『だいじなもの』をなおざりにし続けて、結局――今もってしてもその辺りは改善されていない。記憶をリセットできない弊害は案外あるのだ。

 

 だからローの言葉は嬉しいといえば嬉しいものではあったのだけれど、同時にミオの鬼門でもあった。

 

 人が自分を好んでくれて、長い間仲良くしてくれる。それはとても尊くて、貴重で、稀なことだ。

 理解しているから、ミオも自分の精一杯で相手を大事にする。それはいつでもどこでも変わらないミオの約束事。

 

 けれど、そこに親愛や友愛以外のものが混ざると話は途端に変わってくる。

 欲望なら話は早い。欲望はミオにとってとても身近だ。叶えれば一時的にでも霧散する、刹那的だが断続する感情。

 

 けれどいわゆる異性に向ける情というのはそうではない。それはひとかけであってすべてではないからだ。そういう恋愛沙汰というものがミオにはよく分からない。さっぱりだ。

 とはいえ、ミオにとって未知は恐怖そのものである。

 培われてきた経験上『知らない』ということは即ち死に直結しているからだ。それは根幹にまで擦り込まれた不文律で、そうそう楽に変更できない。

 

 だからミオは僅かでも『そういう』気配を纏った言葉にはとかく敏感で、ひとたび遭遇してしまうと過剰なまでにびびり散らし、最悪の場合は拒絶してしまう。

 

 今回はまさにそれだった。

 

 しかも相手はローである。

 

 最悪だ。

 

「やっべぇ……」

 

 『ハートの海賊団』に入ることはほぼ決定事項である。ローは絶対にミオを逃がさないだろう。確信しかなかった。控えめにいって詰んでいる。

 ついでに、好きなひとなんてそうはいないだろうが自分の内面を暴かれるのがミオは大嫌いだ。探偵とかみんな尿管にごつい結石ができればいいと思っている。けれどローに見せてしまったあれこれは彼に疑問の種を植えるに十分すぎる。

 

「不審がられた、ぜったい」

 

 知ってる、あれアカンやつだった。

 

 誰が悪いって明らかに過剰反応してしまった自分が悪いのだが、あれはもう脊髄反射のようなものでミオ本人でもどうこうできる部分ではない。どうしようもなかった。

 ただ、あそこで頼み込んで追求を一応止めてはくれたので、この先押し込み強盗よろしく内面をかっぱいでくることはない、と思う。思いたい。頼む。もし無遠慮に暴き立てようとしてきた場合、物理的に距離を取るか記憶がなくなるまで固い物で殴打するしかなくなる。

 

「海馬って頭のどのへん狙えばいいんだ……」

 

 ローが物騒極まりない算段を立てているなんて露知らず、葛藤と後悔の坩堝で追い詰められているミオだった。

 

 

 




本編ファルガーさんのイメソンは西○カナのト/リセツ(強制)という感じ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12.昼行灯と麦わら帽子

 

 

 それから、ふらふらした足取りでシャッキーさんのお店に戻ったらどれだけひどい顔色をしていたのか、僕を見たシャッキーさんに今日はもう寝なさいと寝床に押し込まれた。

 ものすごく気の毒そうな顔をしていたので何か勘違いされているような気がしたが、修正する気力もなかった。

 

 一晩寝て、幾分かすっきりした頭で結論を出した。

 

「よし、放置」

 

 逃避とか言わないで頂きたい。妥当な判断だ。下手な考え休むに似たりなのである。

 どうせこれ以上うだうだ考えたって相手のいることなので結論なんか出ない。それならやるべきことをやって直面したその時にもっかい話し合うなり、最悪の場合は物理行使するなりすればいい。

 ローとはこれから長い付き合いになるんだろうし、相手もでっかくなってるのだから僕が全力で抵抗したって死なない。なるようになるだろ、たぶん。

 

 そんなことより、コラソンの方が大事だ。昨日は動揺が先に立ってローに切り出す前に帰ってしまった。ほんとごめん。

 

 さて、そうなると一旦船に戻ってコラソンを持って来なければ。なんせ彼は3m弱という巨体なので、部屋に置いておくわけにも往年のド○クエよろしく棺桶引き摺ってあるくわけにもいかない。

 なのでこれまでは箱詰めして自船の倉庫をいちぶ改造して押し込んでいた。我ながら表現がひどいな。いやでもあれですよ、業務用冷蔵庫の段ボール箱をどこに収納するみたいな話で、しかも扱いはデス○ートかエロ本だ。

 だって『固定』してるったって、見た目はほぼマネキンかご遺体だから他人に見られたら通報一択だもの。チェレスタが僕を『固定』したのち隠し財宝と一緒にしておいた気持ちもよくわかる。

 

「したらえーと、これから船に戻ってコラソン回収してローと連絡とって引き渡しの時間決め……あ、だめだ」

 

 そうだった、昨日休んだ分は働きますって言っちゃったから今日はお店に出ないと。コラソンも大事だけどお仕事も大事。義理と信用大事。

 突発的にバイトをサボ……サボッてはいないけど、穴を空けたのだから埋め合わせはちゃんとしないと罪悪感がマシマシになってしまう元日本人の悲しきサガ。

 

「じゃあローに先に伝えて……現物がないと駄目か」

 

 そこそこ重傷なので機材の準備しておいてくださいって言うのもアリかと思ったけど、ローの様子見た感じ目の前にコラソン(重傷)ないと信じてもらえない気がする。

 それかコラソン(重傷)引き渡すまでどっかの臓器を人質? 内臓質に取られたりしそう。再会早々にひとの足持ってった輩がなにをしでかしても驚かない。

 

 てなわけで、その日はシャッキーさんのお店で一日せっせと働いた。

 

 夕方頃に部屋に置いていた電伝虫にローから連絡が入ったので少し話をした。昨日のことを蒸し返されたらどうしようかと内心戦々恐々だったのだが、特に話題にされることはなかった。諸島は広くディープな部分もあるので、一日二日歩き回ったくらいでは新参海賊では集められる情報に限りがある。

 現在諸島に集まりつつあるルーキーの数やグローブごとの危険性など、聞かれることは多岐に渡った。前回、結局できなかったレクチャーの焼き直しという感じである。

 

「あとはそうだな……1番GRにドンキホーテ海賊団直営の人間オークション会場がある」

『……! 本当か』

「店の裏手にシンボルマークついてたから間違いないよ。様子見にこないとも限らないしぜっったい会いたくないから、その辺は気を付けてた」

『あァ。そりゃ、あんたはそうだろうな』

 

 せやで。

 カリカリと小さな音がするのは、ローがメモをとりながら話をしているからだろう。

 

「時々、天竜人も見かけるからあの辺はほんと気を付けた方がいいと思う。もし行くとすれば、だけど」

『……そうだな』

 

 僕にとってもローにとっても顔を合わせたくない筆頭の海賊であろう思われるので、注意喚起のつもりで言ったのだけどローの反応は微妙である。

 因縁深い相手な上に海賊同士なのだから、敵情視察したいと考えてもおかしくはないか。国王になってからの勢力拡大っぷりえげつないからな。

 

「あと明日……だと夜中になっちゃうか。明後日に時間とれる? できればローのお船で」

 

 僕が自船を停泊させている場所はお店からかなり遠く、朝からボンチャリを飛ばしても半日かかってしまう。

 コラソンを積んで(……)戻って直接ローの船に搬送できれば最善なのだが、それをするには『ポーラー・タング』号との場所が悪い。一日でこなそうとするとわりと大変だ。わざわざ移動させるのもクルーたちの手前気が引けるので、こっちから出向こうと思う。

 

『そりゃ構わねェけど、なんかあるのかよ』

 

 なんかあるというか、いるというか。

 ここまでくるとローをびっくりさせたくなってきた。ふははせいぜい魂消るがいい。

 

「ふっふっふ、ちょっとしたさぷらいずがあるのですよ」

『サプライズの意味が消失したがいいのか』

 

 含み笑いをしつつ言ったら冷静なツッコミを頂いた。

 いいんだよ、まだローは驚いてないからセーフなのです。サプライズプレゼントと言うには血生臭いが、その辺はローがなんとかしてくれ。

 彼も明日は用があるからちょうどいいとのこと。そりゃ、ローだってひとつの海賊団を預かる船長さんなので、僕にばかりかかずらっているわけにもいかないわな。

 

「じゃあ明後日によろしくー」

『ああ。……』

 

 詳しい時間を擦り合わせてから通話を切る直前、ローがなにか言いたげな雰囲気を出していたので受話器を置こうとした手を止めた。

 

 あ、そうか。

 

「ロー、おやすみ」

 

 最後にそう言い添えると、ふ、と空気が緩んだ。

 

『おやすみ、ミオ』

 

 たぶん、向こうでローはちょっとだけ笑っているんだろうな。

 

 

 

×××××

 

 

 

 コラソンを自船から回収してお昼も回った頃。

 

 ローに見つかるとめんどくさいもとい怒られるので、シャボン玉が割れてしまうぎりぎりの高度で喫煙タイムをとることにした。

 

 一週間で一箱も消費しない僕だけれど、いざ禁煙を申し渡されると逆に吸いたくなってしまうのはなんでだろうな。

 まかり間違って割れると困るのでシャボン玉のひとつを『固定』して足場を確保、あぐらをかいてさっき買った煙草をシガーケースに移しながら一本取り出して吸いながら火を点ける。

 肺いっぱいに吸い込んで、モクの味を堪能する。そういえばスモーカーさんは元気だろうか。あのひとの煙草の吸い方やばいと思う。

 

「ぷは」

 

 ううう久々に吸えた気がする。美味しくないけど染み渡るぜ。

 

 眼下に広がる明るい緑と虹色、それにゆっくりと動くシャボンディパークの観覧車を眺めつつ一服。なんとも贅沢なひとときである。

 満足感を覚えながら紫煙を吐き出し、携帯灰皿にとんとんと灰を落とす。

 

 今日は朝方の風がいい仕事をしてくれたので、思ったより早く自船に辿り着いてコラソンを回収することができた。とはいえ、引き渡し日時を設定してしまったのでローに渡すのは明日の予定。ローも用事あるって言ってたし。

 

 ちなみに梱包済みコラソンを積んだ僕のボンチャリは、鍵を掛けて万が一を考えて軍曹に見張りを頼んであるから置き引きの心配はない。

 なんでボンチャリをやたら気に掛けているかというと自分で買ったというのも勿論だけど、僕のボンチャリはただのカスタマイズを飛び越えて魔改造甚だしいからだ。この世界の物理法則はたまに謎現象で片付けるしかない部分もあるものの、概ねは基本的な理に従っている。

 

 そして僕はボ○ドカーとかあんぱん○ん号とか赤ジャケットおじさんの車にロマンを見出すタイプだ。カリオ○トロ(あっちでは緑ジャケットおじさんだけど)序盤のカーチェイス最高。

 

 構造が単純で安価、かつ改造もしやすい単車(?)をどうするのかなんて察して欲しい。

 何台潰したかは忘れたが、ちゃんと自転車としての機能は残しつつ僕の悪ノリと浪漫をあほほど詰め込まれたボンチャリはもはやモンスターマシンとも呼べる領域に達している。具体的に言うと、世が世ならこれで公道走ると捕まってしぬほど怒られて没収されるレベル。闇市で売ってた空島の貝殻シリーズ(凄い値段だった)ほぼ使い切ったからなぁ。

 風貝(ブレスダイアル)噴風貝(ジェットダイアル)はともかく匂貝(フレイバーダイアル)衝撃貝(インパクトダイアル)のギミックいらないよな普通。いやでもあれこそ浪漫だよ。今度閃光貝(フラッシュダイアル)でビーム作れるか試してみたい。目指せ波動砲。

 

 なんて、益体もない思考をもろもろと繰り広げていると──

 

「ん?」

 

 下の方から気配を感じた。

 

 そこら中に浮遊しているシャボン玉を足場に遊ぶ子供はたまにいるけど、こんな高い場所までは来ない。いくら耐久性があってもあくまでもシャボン玉。なにかの拍子に割れてしまう危険性はつきまとうし、途中で落ちたらグロいオブジェになるからだ。

 親の言いつけを守らないガキ大将タイプでも一回落ちると懲りるし大人は危険性を理解しているため、わざわざ昇って遊ぶ馬鹿は少ない。

 

「ほっ、よっ」

 

 そんな不安定なシャボン玉を足場に、まるで赤いキノコの配管工よろしく楽しそうにぴょんぴょんと。

 首にひっかけた麦わら帽子の目立つ少年が下の方から上ってきているのが見えた。黒髪黒目で目の下にある傷が目立つ──あれ?

 

「しょうねーん」

 

 その、どこにでもありそうなストローハットに僅かな既視感を覚えて、ついでに手配書とエースも一緒に思い出して声をかけた。

 

 とうとう彼もシャボンディ諸島に着いたのか。

 

「んあ? なんだ?」

 

 麦わら帽子の少年こと、今年のルーキーの中でも抜きん出て新聞を賑わせている海賊『麦わらのルフィ』がそこにいた。

 こっちをまっすぐに見て首を傾げる麦わらのルフィにふぅ、と紫煙をくゆらせながら適当に忠告してやる。

 

「それ以上シャボン玉で上を目指すと危ないよ?」

「なんでだ?」

 

 なんでって、そりゃ。

 

「割れるから」

 

 話を聞きながら、なおも次々にジャンプをしていた麦わらのルフィが乗ったシャボン玉が衝撃と気候空域を越えた影響でぱん、と割れた。

 

『あ』

 

 ハモッた。

 一瞬呆けたような顔をした麦わらのルフィは、そのまま落っこちてしまった。あーあ。

 うぎゃあああ、と尾を引く悲鳴が聞こえる。これくらいでくたばるようならここまで生き抜いてくるなんてできなかっただろうから、特に心配はしない。

 

 しかしそうか、彼も諸島に入ったのか。

 

 エニエス・ロビーの件もそうだけど、なにかと台風の目になりがちな麦わらのルフィだ。どんな騒動を起こしてもおかしくはないので、なるべく早くローにコラソンを渡した方がいいかもしれない。お店に戻ったら一回連絡してみるか。

 すっかり短くなった煙草を消し潰して携帯灰皿をぱちん、と閉じた。

 

「さてと」

 

 これで諸島に揃いも揃ったり、億越え海賊の超新星が11人。

 

 どうなることやら。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13.雪と桜のよしなしごと

しばらく一日一話更新できればいいなぁと思います(願望)


 

 特にギミックなんかは使用せず、きこきことボンチャリをこいでシャッキーの店に戻った僕はそのまま裏手に回って自室の窓から軍曹に手伝ってもらいつつコラソン箱()を引っ張り込んだ。店の中からなんて運びにくいし迷惑になってしまう。

 窓から棺桶サイズのでっかい箱をおーえすおーえすと引っ張り入れる光景になんか覚えがあると思ったらあれだ、ドラゑもん映画だ。あのガンプラ(違)作成途中のパーツ運ぶ光景と激似。

 

「かる○る手袋欲しいなぁ」

 

 そういえば誰も元ネタわからないのか。ちょっとさびしい。

 立てかけたコラソン入りの箱はサイズ感は棺桶なのだけど、それだけではさびしいしどうしても某ド○クエ気分になってしまうのでせめてもの抵抗に全力でラッピングしてある。極彩色のリボンと造花でこれでもかと飾ってあるから、もうこれが誕生日プレゼント(本命)でいいよ。アルバムはおまけということで。

 じゃっかん投げやりな気分で箱の表面を指先で撫でていると、なんだか不可思議な気持ちが湧いてくる。

 

 もうすぐお別れなことは嬉しいことに繋がっている。動かない屍体半歩手前よりも、生きて動いて喋っている方がずっといい。そうなんだけど、なんだろうな、変な気分だ。

 

「コラソン」

 

 生きた彼に会えるという嬉しさと、待ち受ける解放感へ向ける期待と安堵。

 この十年と少し、僕の生活の真ん中にはずっとコラソン(重傷)がいた。意識しているしていない関わらず、頭のどこかに据え付けられていた。

 それは当然のことではある。だって相手は動けないし喋れないけれど間違いなく生身の人間で、弟なのだから。

 

 もし自分に何かあると、それは諸共にコラソンの死に直結している。後悔なんかはしていないけれど、そこには今まで背負ったことのない責任と想像したことのない重みがあった。

 

 『固定』の能力は自分の意思で解除は自由だ。けれど気絶に類する突発事態に陥った場合の保証はできない。だからこそ、この十年はそれなりに沈没と怪我には敏感な生活を送ってきた。

 

 ちょっとした不自由と責任が願いと一緒にバトンタッチされる瞬間は、すぐそこだ。

 

 ローは立派に医者になって海賊になっておまけに今でもきみが大好きだ。二歳差という驚愕の事実におののくがいいふひひひ。

 そこまで考えて、ちょっとした気まずさを誤魔化すように物言わぬ箱へ向けて内心を吐露した。

 

「いちにち遅れなのは勘弁してね。もうすぐだからさ、ほんとに」

 

 ごめんね、コラソンだって早くローに会いたかっただろうに。

 

 ローに再会してすぐに言うべきだったのは分かってたけど、でも、コラソンがローに会いたい気持ちと同じくらい僕だってローに会いたかったし、少しでいいからゆっくり話したかった。……良かったかどうかはともかく。

 だってコラソンのこと言ったら、ローは絶対コラソンのことにかかり切りになって話なんかろくにできなくなってしまう。相手は長年の重傷患者なので医者として当然だしそうあるべきだけど、むしろそうでないと困るけど、僕だって少しだけでいいから再会の喜びに浸るひとときが欲しかった。

 

 だから、タイミングを逸したのは本当のことだけどロシーのことを口にしなかったのは、ちょっとだけわざとでもある。でも、ここに至るまで僕もすごーく頑張ったから許してくれ。

 

 あとでコラソンに文句言われたら謝ろう。ローを一日先取りしちゃった、って。

 だってねぇ、昔の養いっ子が大きくなるまで十年強待って、再会直後にコラソンの治療終わるまで延々どこかで待機するなら先にちょっとだけ話しておきたかったんだよ。

 

 それに。

 

 もしもこの先、状況が最悪の方向に転がったとしたら……僕はローにコラソンを託してゆかなくてはならないかもしれない。

 

「……」

 

 杞憂で済むならそれでいい。

 

 けれど、そうでないとすれば、せめて──はなむけが欲しかった。

 

 大好きな子供が大人になったことを目に焼き付けて、会話を交わして、長久を願って言祝ぎたかった。

 

 これは、そんな僕のわがままだ。

 

「……そーだ、電話」

 

 思い出したのでデスクに置いてある電伝虫でローに電話したところ、出たのはローのところのクルーさんだった。

 キャプテンはベポたちを伴って諸島散策に出かけてしまったとのこと。用事があると言っていたのでこれは仕方がない。よければ伝言しますよと言って貰えたのだけど、どうせ予定は取り付けてあるので丁重にお断りさせてもらった。

 さてそうなるとお店でなにか雑用があるか聞いてみよう。着替えてから壁にかけてあるエプロンをとって腰の辺りの紐を蝶結びにしながら階段を下りると、お客様の気配。

 

「いらっしゃいま、せ?」

 

 カウンターのシャッキーさんは横に置いて、そこに居並ぶ面々に驚いた。

 

 ただのお客様でも海賊でもない。

 

 冷蔵庫にかじりついて中を漁っているのはさっき遭った『麦わらのルフィ』と骨格標本にスーツとアフロを装備させた感じの男……性になるのかこの場合。煮豆がお気に召したらしく器用に箸でつまんで食べている。果たして食べたものはどこへ行くのか、味蕾がないのに味がわかるのか、そもそもなぜイキイキと動いて喋っているのか。この世にはまだまだ不思議なことでいっぱいである。

 冷蔵庫を勝手に開けて物色するという、礼儀なにそれおいしいの? という態度だがシャッキーさんが咎めていないのなら指摘する必要はないと判断して適当に流す。

 

 カウンター横で嬉々としてわたあめを頬張っているのはデフォルメされたトナカイのぬいぐるみ、というのがいちばんしっくりくる謎のいきもの。骨格標本()はともかく、トナカイの方は手配書で見覚えがあるので彼も麦わらの一味なのだろう。バラエティ豊かすぎてすごい。

 ついでに向こうのソファに座っているのは、十年前に一度お店で会ったタコの魚人だった。確か最近は船でたこ焼き屋さんを営んでいるらしいハチさんと、こちらは見たことのない若草色の髪をした年若い(おそらくは)人魚の女の子。それに喋るヒトデ。魚人島ってヒトデも喋ってただろうか?

 

 なんとも奇妙なメンバーにしばし硬直していると、シャッキーさんが気付いてこちらを振り向いた。

 

「あと、彼女がうちで唯一の店員。ミオちゃんよ」

「むあ? ん! さっきのケム子!」

 

 リスどころかゴム風船みたいに頬を膨らませている『麦わら』の口元からぽろぽろとハムの欠片が落ちる。うん、飲み込んでから話そう。

 

「ケム子て」

 

 あまりにもあんまりなあだ名に挨拶も忘れて苦笑してしまう。

 さっきタバコふかしてるところを見られたからだと思うが、それにしてもケム子て。

 

「さっきシャボン玉の上にいたってやつか?」

 

 わたあめをもろもろと頬張っていたトナカイ──『わたあめ大好き』トニートニー・チョッパーが顔を上げた。つられて視線をずらすとバッチリ目が合った、と思った瞬間に椅子の裏側に隠れてしまった。人見知りなんだろうか。隠れ方が逆だけど。ちょっとさびしい。

 

「おう!」

 

 ニコニコ笑顔で頷く『麦わら』は先ほどの出来事を仲間に話していたらしい。

 

「あらもう会ってたの?」

「はい、先ほど少しだけ。改めまして、シャッキーさんのお店に(今のところ)勤めているミオと申します」

 

 シャッキーさんの疑問に答え、『麦わら』の面々に向かって頭を下げる。

 『麦わら』は頬に詰まった食べ物をもぐもぐごくんと飲み込んで堂々と胸を張った。

 黒い瞳に籠もる自信と信念。

 

「おれはルフィ! 海賊王になる男だ!」

 

 そこにはある種の覚悟と、己の矜持のためにひたすら邁進している者特有の雰囲気があり、なるほどシャンクスさんが気に入るわけだと内心納得した。

 

「へぇ、それはすごいな」

 

 すなおな感心を口にすると『麦わら』改めルフィくんはいししし、と歯を出して笑った。

 太陽みたいに明るい、どこかエースに通じるものがある笑顔。血縁かどうかはこの際関係がない。問答無用で弟なのだと理解させられる説得力の塊だった。

 それからルフィくんがシャッキーさんと話している間に自己紹介を済ませ(骸骨にぱんつ見せてくれませんかと尋ねられたのは人生初めてである)、おしぼりなんかを準備しているとハチさんから声をかけられた。

 

「ニュ~、まだ店員やってたんだなぁ」

「年に何ヶ月かですけど、変わらず雇って頂けてます」

「はっちん知り合いなの?」

「ああ、前に来たときからの店員だ」

 

 若草色の髪の人魚さんはケイミーちゃんという名前でハチさんのたこ焼き屋を手伝っているらしい。

 ついでに喋るヒトデはパッパグ氏。職業はなんとデザイナー。世界は広い。

 

「ああ、確かにコーティングならレイさんがいちばんですね」

 

 ルフィくんたちはどうやら魚人島に行くために腕のいいコーティング職人を探しているとのこと。

 ハチさんはルフィくんたちにただならぬ恩義があるらしく、諸島案内を買って出てレイさんに会うためにシャッキーさんのお店まで連れて来たというのが事の経緯のようだ。

 

「だろ? 店にいないのか?」

 

「ここ半年帰ってきてないんです」

 

「ニュ!? そうだったのか、参ったな~」

 

 なんて会話をしているとシャッキーさんも同じ説明をしたのだろう、背後で『半年~ッ!?』とユニゾンが聞こえた。

 

「弱りましたね……じゃあ探すしかないですね。おおよそ見当はつきますか?」

 

 骨なので表情は分かりにくいが、ブルックさんの声は少しばかり困惑気味だ。

 

「そうね……」

 

 シャッキーさんはレイさんがいそうなグローブの範囲を挙げ、最後に範囲外ならと『シャボンディパーク』を付け加えた。

 

「遊園地か!! そこ探すぞ~~ッ!!」

「わーい! ゆーえんちー!!」

 

 それに食いつく麦わら海賊団+ケイミーちゃん。特にケイミーちゃんのはしゃぎっぷりがすごい。パッパグ氏は渋い顔をしているけれど。

 確かにレイさんあの遊園地好きだよね。可能性が高いかどうかはわかんないけど候補になるくらいには。

 

「ミオちゃん、お店の雑用はいいから探すのに協力してあげたら?」

 

 全員で遊園地に行く気まんまんのルフィくんたちを微笑ましそうに眺めていたシャッキーさんがこちらに水を向けた。

 僕としては雑用がレイさん捜索になるだけなので、今日一日くらいなら付き合っても大丈夫だ。なんたってエースが可愛がっている弟なのだから、それくらいはサービスします。

 

「そうですね、いいですよ」

「ん? 白いのも遊園地行くのか?」

 

 わくわく顔のルフィくんに軽く手を振って違うよと返す。

 

「ルフィくんたちが遊園地に行くなら、いくつか賭場に心当たりがあるからそっちを回って聞いてくるよ」

「て、手伝ってくれるのか?」

 

 チョッパーくんがこわごわと聞いてきたので、笑って頷くとようやくチョッパーくんも笑ってくれた。よかった。

 

「ええと、ミオさんは諸島にお詳しいので?」

 

 ブルックさんの質問にはいと頷く。

 

「長いことお店のお世話になってますので。もし見つけたら依頼人がいるから店に戻るよう伝えておきます」

「ミオちゃんも諸島長いものね。それなりに詳しいし、いい援軍になるんじゃないかしら」

 

 シャッキーさんが後押ししてくれたことで、ブルックさんはある程度信用できると踏んでくれたらしかった。

 

「それはそれは! ありがとうございます!」

「白いのも手伝ってくれんのか? なんだお前いいやつだな!」

 

 ルフィくんがこっちを見てニカッと笑う。

 なぜか『ケム子』から『白いの』にランクアップ(?)したらしい呼び名に物申したくなったけれど、しても仕方がなさそうなので諦めた。

 

「ありがとな! 白いの!」

 

 あああなぜかチョッパーくんまで飛び火している。いや白いは白いけど、名前に掠りもしてないって……。

 

 ……あれ?

 

 まじまじとチョッパーくんの帽子を見て、ふと懐かしさを覚えた。ピンク色の帽子で、真ん中部分に『×』マークがあしらってある。

 このマークのついた帽子をどこかで見た気がした。デザインとかではなくて、なにか、誰かが被っていたような……はて、どこだっただろうか。

 

 あ、もやもやする。絶対どっかで見たのが分かってるのに思い出せないこのもじょもじょ感。

 

「んー……?」

 

 腕を組んで中空に視線を泳がせ、悩んでいる間にシャッキーさんがルフィくんたちに億超えルーキーの説明を終えて出発の準備を整えていた。

 それを見たところで僕も思考を切り上げ、準備しなくてはと膝を動かそうとしてところ──

 

「えっと、白いの……じゃないや、ミオ、だったよな」

「うん?」

 

 なぜかチョッパーくんがこちらに近寄ってきて、自分の帽子を押さえながら心配そうにこちらを見上げてきた。

 

「あの……おれの帽子がどうかしたのか?」

 

 あんまりまじまじと見つめていたからか、チョッパーくんが気にしてしまったらしい。

 言われると一度は切り上げた思索が戻ってきてしまう。

 

「ああ、その帽子と似たようなものを昔、どこかで見た気がして……じろじろ見ちゃってごめん」

「ううん、それはべつにいいんだ。ただちょっと不思議だったから……」

 

 チョッパーくんは帽子の鍔を両手で器用につまんで、少しだけさびしそうに笑った。

 

 もう届かない、遠い場所にあるものを懐かしむ顔だった。

 

 ……あ。

 

「わかった。ドラム王国……あ、今はサクラ王国か」

 

 最近政変でもあったらしく国名が変わっていた。あの国のファンキーな老医者たちは元気にしているだろうか。

 

「え」

 

 それにピンク色に×印。そうそう。

 

「そうだそうだ、Dr.ヒルルクが被ってた帽子に似てるんだ」

 

 あのひとの帽子黒かったから思い出すのに時間かかっちゃったけど、うん、めっちゃスッキリした。アハ体験した。

 正答に行き着いた満足感とともにひとりごちたつもりだった。だってチョッパーくんからすればDr.ヒルルクと言われても誰のことかわからないだろうし、見知らぬ人の帽子と似ていると言われたところで困るだけだ。

 

「──ッ!」

 

 と、思っていたのだけど。

 突然表情を変えたチョッパーくんがその場で跳ね上がって僕の胸ぐらをヒヅメで器用に掴んだ。小さな身体がぶらりと揺れる。

 

「お、おまえドクターのこと知ってるのか!?」

「うぉ、ん?」

 

 唐突な重さにがくんと膝が傾き、至近距離の顔とあまりに必死な様子にたじろいでしまう。知ってる? 話の流れからすると、Dr.ヒルルクのことだろうか。

 チョッパーくんの変化にただならぬものを感じたのか、「どうしたチョッパー?」「チョッパーさん?」と仲間たちが声をかけたけれど気付いていないらしい。

 

「ええと、チョッパーくんが言ってる『ドクター』がDr.ヒルルクのことだったら知ってるよ。ずいぶん昔だけど、一度ドラム王国に用事があって……そこで行き会ったんだ」

 

 行き会ったというか、厳密に言うと匿ってから捕まったというべきなのかもしれないが。

 思い出してくすりと笑う。

 

「信念があって、優しくて、夢があって、ちょっとヤブなひと。合ってる?」

「……あってる」

 

 ぶら下がったままのチョッパーくんの表情がほどけて、同時にヒヅメも離れてぽとりと落ちる。

 周囲のざわざわをひとまず無視して、僕はそのまま膝を折ってチョッパーくんと目線を合わせた。

 たぶん、彼にとってDr.ヒルルクはとても大切なひとなのだろう。それはただならぬ様子というより、本能に訴えかける直感だった。

 

「チョッパーくん、気になるならドラム王国に行ったときの僕の話をするよ。でも、少しだけ長い話になりそうだからレイさんを見つけてからにしない?」

 

 ここで話して聞かせたって僕としては一向に構わないが、ルフィくんたちは一刻も早くレイさんを見つけてコーティングを頼みたいはず。

 僕のは過去にあった話でこの先で変化することはない。けれどコーティング職人を探すのは現在の話で仲間と船の安全がかかっている。

 

 どちらを優先すべきかはチョッパーくんがいちばんよく分かっているだろう。

 

「僕のは思い出話だからさ。目的を達成してからでも大丈夫だよ」

 

 チョッパーくんは少し迷うようにルフィくんと僕を見てから、うんと頷いた。

 

「そう、だな。あとで聞かせてくれるか?」

「もちろん。約束する」

 

 即答したことで安心したのか、ほっとした顔でチョッパーくんは「ありがとな」とつぶやいた。

 

「いいのか? チョッパー」

 

 僕らのやりとりに何かを感じ取ったらしいルフィくんがチョッパーくんにそう聞いた。

 

「うん、いいんだ」

 

 彼はリュックのひもをギュッと握ってからニカリと笑った。

 

「今はコーティング屋と、遊園地だ!」

 

 それを見たルフィくんも笑った。

 

「にししし、そうだな! 遊園地行こう!」

 

 うん、いい海賊団だ。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14.シャボンディ・バディヌリー

 

 収穫があろうとなかろうと夕方までには一度お店に戻ることを麦わらの一味と約束したミオは一度部屋に戻って着替え、装備を整えて裏手にあったボンチャリに跨がった。

 ヘルメット代わりにパーカーのフードを目深に被り、首から下げていたゴーグルを引き上げ、組み込んだスイッチを切り替えてペダルを固定。ぎゅっとハンドルを握る。

 

「軍曹!」

 

 一声呼べば、頼りになる相棒が待ってましたとばかりに背中のリュックに飛び込んできた。有事に備えてチャックは閉めない。

 ブォン、とエンジンの排気に似た音と共に噴風貝(ジェットダイアル)が唸りを上げ、ボンチャリがバイクの如く疾走を開始した。一度ウィリーのように半身を上げて『固定』した不可視の坂道を駆け上がり、そこそこの高度を維持したままグローブの木々の隙間を縫うように加速していく。

 

 この広い諸島を駆け巡るにはボンチャリの基本性能では機動力に欠けるため、ミオはヒマを見つけてはこつこつと自前のボンチャリを改造していた。

 自転車よりロードバイク、ロードバイクよりはスーパーカブ、スーパーカブよりは……と試行錯誤の末に出来上がったのがこのボンチャリである。普段は自転車として使用しているが、切り替えればこうして大型バイク同様の速度と性能を発揮することができる。

 

 果たして、あちこちのグローブに点在するレイリー馴染みの賭場を探し回ること三軒目。

 

「み、身売りぃ?」

 

 大負けして所持金が底を突いたレイリーがよりにもよって代金代わりに自分を売りに出した、という残念な事実が発覚してしまった。なにしてんだあのじいさん。

 いや普通ならべつに構わないのだ。凡百の人間など束になっても敵わない最強じいさんなので放逐したとて適当なところで抜け出し、ついでにどこぞで金を調達して何食わぬ顔で帰ってくるに違いない。

 それがいつになるのか分からないから問題なのだ。今は依頼人を待たせている状況である。

 

「ありがとうございました」

 

 話を聞いた賭場の常連に礼金を握らせると、手の中を確認して酒臭い息を吐きながらオッサンが乱杭歯を見せてにぃと笑った。

 

「おう、あんたもあの爺に担がれたクチか?」

「担がれちゃいませんが、用事があるんですよ」

 

 嘆息してからお酒はほどほどに、と軽く手を振ってミオは賭場をあとにした。

 

 歩きながら猛烈に思考する。ここの賭場が懇意にしているヒューマンショップといえば確かMr.ディスコ。

 そうなると、レイリーはこれから1番グローブのドンキホーテ海賊団主催のオークション会場で出品されるだろう。見た目は老齢の域に入った男性なので価値を正しく理解していなければ早々に出品されるか、もしくは手続きの関係で最後の方に回されるか。そこまでは分からない。

 

「うわああ行きたくねぇえ……」

 

 偽らざるミオの本音である。

 しかしぐずぐずしていられないのも事実。あのオークション会場には天竜人も出入りしているので、ないとは思うがレイリーを天竜人がお買い上げしてしまったら目も当てられない事態になる。

 ミオはあのオークション会場の内部構造と電伝虫の配置場所から警備員の数、オークションの手順までの諸々をほぼ完璧に把握している。おそらく、この諸島に現存するオークション会場の中で最も熟知している会場であるといっても過言ではないだろう。

 それもこれも、全てはドフラミンゴに会わないためだ。もし自分が売りに出されそうになってもすぐ脱出を図れるように調べ上げ、定期的に情報屋で動向を探るくらいには徹底している。

 

 そして現在、ドフラミンゴは諸島にいない。

 

 ついでにレイリーを救出する必要はない。そういう心配をするような次元の人物ではないからだ。

 ほっとけば帰ってくる。それが早いか遅いかだけの違いで、今はそれが最も重要な違いだ。──なので、ミオに求められているのは「依頼人が待ってるのでなるはやで戻ってきてください」というメッセンジャーとしての役割である。

 

 熟考すること、数十秒。

 

「……しょーがない、エースの弟のためだ」

 

 頭の中で忍び込む算段を組み立て、腹を括った。

 

 ボンチャリを1番グローブまで走らせ、グローブの象徴であるマングローブの裏側に回ってある程度の高度を維持したまま『固定』してから、ミオは無造作に空中を踏んだ(・・・)

 シャボン玉に紛れるように、見えない廊下でもあるかのようにとんとんとん、と小さな足音を立てて無事にオークション会場の屋根に辿り着くと能力を解除。普段はあまり頼らないがこういう小技が使えるので便利な能力なのだ。藁束みたいな屋根から下の方を見渡すと、既に開始時間が迫りつつあるためちらほらと客らしき人々の姿が見える。

 金回りの良さそうな商人風の男や貴族っぽい老夫婦、いかにも裏街道を歩いていますよという感じの集団や、海賊なんかもぼちぼちと。

 

 特に目立ったのは、燃えるような赤い髪の青年と水色と白のストライプ仮面着用の男。二人を中心として追従しているのはおそらくクルーたちだろう。億超えルーキー『キッド海賊団』のユースタス・キッドとキラーという二枚看板の登場に周囲の人が我先にと道を開けていく様子はモーセのそれだ。

 

「案外、海賊に買って貰った方が幸運かもわからんね」

 

 自分の海賊団に抱え込む以上、購入商品は厳選するだろうし、購入された側もクルーとして働くことで購入代金を稼いで足を洗うことだってできるはずだ。

 ……よっぽどその海賊団が外道でなければ、という前提はあるけれども。

 

「って、うげ」

 

 会場のちょうど玄関辺りに見覚えのある首輪と簡素な服を身につけた巨体の男を見つけ、ミオは露骨に顔をしかめた。留守番をさせられている犬のような男はおそらくは奴隷で、天竜人の『馬』だろう。誰が来ているのか知らないが、知っている顔だったらイヤだなぁとぼんやり思う。遙かな記憶ではあるが、いくつかの名前と顔は覚えている。もっとも、あちらは下々民と成り下がった相手のことなんかいちいち覚えてやしないだろうが。

 いつまでも見物していても仕方がないので、屋根を伝って明かり取りのための格子窓の隅っこをこっそりと破壊。軍曹には別ルートから侵入してもらうことにして、ミオは細い穴から身体を滑り込ませた。

 

 外からなぜか揉み合いの声が聞こえてきたがヒューマンショップに小さな諍いは付きものだ。あまり気にしなかった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 頭に叩き込んであった侵入経路を辿って、明かり取り用の出窓から中を窺うと──なぜだかここの司会が牢屋の前で泡吹いて倒れるところだった。なんだろう。

 警備の人間たちが慌ててディスコを担いで運んでいく。残っていた者も司会進行を兼ねているディスコの容態次第ではこれからの興業に影響が出るため、指示を仰ぐために出て行ってしまった。なんだか分からないがチャンス到来。

 

 窓からレイリーの姿を見咎めたミオはこっそりと呼びかけた。

 

「レーイさん」

「んん?」

 

 レイリーが顔を上げると同時にミオは猫のような動きで窓から飛び降り、柔らかく膝を曲げて音も無く着地を果たした。

 目深に被ったフードとゴーグルで人相は分かりにくいが、レイリーはミオだとすぐに看破できたのだろう、にやりと笑った。むしろ驚いたのは彼の隣に腰掛けていた巨人族の方で、一瞬腰を浮かせそうになっていた。

 

「どうしたねミオくん。私を迎えに来てくれたのか?」

 

 あながち間違ってはいないのだが、なんだかなぁ。生憎、金に困ったからって真っ先に我が身を売却するような人間を迎えにくるほどヒマではないつもりだ。

 茶化すような物言いにミオは眉をひそめつつ軽く肩を竦めた。

 

「じょーだん。レイさんにコーティングの依頼が来てるので、とっとと戻ってきてくださいって言いに来ただけです。ギャンブル好きはともかく身売りとか、もー」

「はは、手間を取らせたようだな。すまんすまん」

 

 びっくりするほど謝罪の籠もってないすまん、である。

 

「では、すぐに戻るとシャッキーに伝えておいてくれ」

「了解です」

 

 あっけないが、これでミオの役目は終わりである。

 伝えるべきことは伝えたので、あとは麦わらの一味とレイリーの間の話になる。店に戻ってまだ戻っていなければこの話をすればいいし、もし麦わらたちが捜索の伝手が欲しいというなら情報屋を紹介するくらいはしてもいい。

 突然の侵入者とのなんとも気の抜けるやり取りに、巨人族の男が首輪を揺らした。

 

「おちびさんよぉ、そんなこと言うためにこんなとこ来たのか。見つかったらどうすんだよ」

 

 突然の不法侵入者に不審は感じていたようだが、口に出されたのはこちらを気遣う文言だった。

 レイリーは酔狂で自分を売り出したが、それは何事が起きても対抗ができるという絶対的な自信に裏打ちされている。それをミオも知悉しているからここまで呑気極まりない真似ができるけれど、巨人族の男はそうではないだろう。何があったかはミオの理解の範疇ではないが、販売先から逃げ出せる可能性はそう高くない。

 そんな己の辿る道を察していないはずはないのに、素直にこちらを心配するような言葉をこぼす巨人族の男から少しばかりの申し訳なさを感じて、小さく頭を下げた。

 

「大丈夫ですよ。お心遣いに感謝を」

 

 ミオとて断じて長居したい場所ではないのだ。

 周囲の気配を探ってから巨人族の言葉の通り、すぐに脱出するべく天井の方へと視線を向け──

 

「て、店員さん?」

 

 恐怖にかすれた、若い声に弾かれたように首を向けた。そこには抵抗して暴行でも受けたのだろうか、鼻から血を流し、驚いたようにこちらを見つめる若草色の髪の人魚。

 ミオは仰天して一瞬全ての思考を忘れて慌てて走り寄った。麦わらの一味を案内していたハチと一緒に行動していた人魚のケイミーだった。

 

「え、ちょ、ケイミーちゃん!? なんでオークショ、うわ鼻血出てるし!」

 

 わたわたと懐から手ぬぐいを引っぱり出して、ぐしぐしとケイミーの涙を拭ってから下を向かせて鼻に布を押し当てた。周囲の探るような目線も気にならない。

 記憶の通りならばさきほど麦わらの一味たちと遊園地に行くと言っていたはず。彼らが友人を売り飛ばすとは到底思えない。むしろそういう輩を唾棄している類の人間だというのは、あの短い付き合いでもなんとなく分かる。

 ケイミーは顔見知りが目の前にいるという安心感からか、くしゃりと顔を歪めて更に涙をこぼした。

 

「わた、わだし、ゆーえんち、で、ふぇっ」

 

 まとまりのない短い言葉だったが、大体の理由を察してミオは一気に渋い顔になる。むしろ予期できない自分の方が間抜けだった。

 

「遊園地で、人攫いに襲われたのか」

 

 人魚の販売価格が凄まじいのは、諸島で『商品』を扱うものたちの常識だ。そして、それが常識であることを知っている人魚たちは自衛手段として諸島へ寄りつかない。どんなに遊園地が眩しくても、魅力的でも、底知れぬ悪意が手ぐすね引いて待ち構えているのだから当然である。

 きっとケイミーもそれを知っていて、それでも誰もが一度は行くことを夢見る場所で、そこへやってきた千載一遇のチャンス。麦わらの一味という破格のボディガードがいたからこそ彼女は遊園地へ行くことができた。

 パッパグの渋い顔が思い出される。彼が危惧していたのはたぶんこういう事態で、そして現実になってしまった。

 

 麦わらの一味に油断があったのか他の要因が重なったのかは定かではないが、見つけてしまった以上は放置できない。ケイミーはハチの仲間で、麦わらの一味の友人で、ミオの顔見知りだ。ほんの少ししか喋っていないものの、だからといって自業自得だと切り捨てられるほど木仏金仏石仏ではない。

 

「すぐに出してあげたいけど……鍵の位置が厳しいな」

 

 ケイミーはか弱い人魚ちゃんな上、売りに出されればその希少性ゆえに最悪の買い手も候補に挙がる。レイリーのように楽観視できない。

 けれど彼女の首にも既に首輪が装着されている。手枷の鍵も併せて探すとなると時間が足りない。警備員もすぐに戻って来るだろう。この場で枷を砕いて攫うことも可能といえば可能だが、不確定要素が多すぎる。ここで騒ぎを起こせば目も当てられないことになってしまう。

 

 どうしよう。どうすれば。

 

 必死で考えていると、レイリーから声が飛んでくる。

 

「ミオくん、お嬢さんと知り合いだったのかね」

「会ったのはさっきですけど立派な知り合いです。ハチさんの友達ですよ」

 

 思考を邪魔するような声に知らず、不機嫌な返しになってしまう。

 ハチの名前にレイリーは僅かに驚いたようだった。

 

「ハチが諸島に来てるのか?」

「そうですよ、二人が案内してきたのがコーティングの依頼人です」

「そうか……ふむ」

 

 レイリーは何かを思案するように顎に手を当て、ややあってから顔を上げてひたとミオを見据えた。

 それまでの剽悍とした仕草ではなく、真剣な眼差しにミオの背筋が無意識に伸びる。

 

「わかった、そういうことなら……お嬢さんは私に任せなさい。悪いようにはしないさ」

 

 魚人のハチはレイリーの友人だということをミオは知っている。ケイミーがその連れと知っては呑気にしていられないと判断したらしい。

 そして、おそらくレイリーはミオを気遣った。理由は話していないものの、彼はミオがこのオークション会場を毛嫌いしていることを知っている。

 

 なら、甘えよう。

 

 判断すれば早い。

 

「お任せました!」

 

 後方でドアノブの動く音が聞こえ、即座に頷いたミオは手の中の『何か』を掴んで一度強く引っぱった。

 

 すると──ミオの姿がその場からかき消えた。今までここにいたのが信じられないくらいの早業である。

 

「えっ!?」

「き、消えたぞ!?」

 

 うろたえるケイミーと巨人族にレイリーは人差し指を自分のくちびるに押し当て『静かに』とジェスチャーすると、そっと上を示す。

 

「なに騒いでやがる! もうすぐ出番だ、大人しくしてろ!」

 

 警備員たちがどやどやと入ってきたのはほぼ同時で、彼らの目を盗んで二人がそーっと指の先を見上げると、牢屋の天井近くに張り出している縁にヤンキー座りしているミオが両手を合わせてごめんね、という感じで頭を下げていた。

 その横には暗がりを凝縮したような黒く、ミオとそう変わらないサイズの大きな蜘蛛がいたのでケイミーと巨人族は咄嗟に悲鳴を飲み込んだ。どうも彼女のペットかなにからしい。あの蜘蛛が猛烈な勢いでミオを引っ張り上げたのだろう。

 

「……じいさんの知り合い、凄ぇな」

「生憎、あれほどの変わり種は私もミオくんしか知らんよ」

 

 くつくつと笑うレイリーはなんとも愉快そうだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15.ピーターパン・フーガ

 

 映像電伝虫に撮られる危険を避けるために牢屋兼倉庫にある明かり取り用の窓から一旦外に出て、壁を伝って逆戻り。

 

 生前というか、昔取った杵柄大活躍である。もともとド派手に動くより、こうして陰でこそこそと暗中飛躍する方が得意である。身体は忘れてないもんだ。

 

 屋根とホールの間には構造上の空洞があって、僕はそこを這うように進んでいた。立って歩けるほど空間がないので仕方がない。当然掃除なんてされていないのでうっすらと埃が積もっていて、あちこちに蜘蛛の巣が張っている。たまにネズミもちょろついているのがなんともかんとも。

 薄暗いので一応、先ほどどこぞから水を調達して大きくなった軍曹が先導してくれているが、進むだけで袖や膝がどんどん灰色になっていく。多脚と四足歩行の違いがここに。舞い上がった埃で鼻はむずむずするし喉がイガイガして、ゴーグルまでうすく濁ってしまう。くしゃみだけはしないぞ。

 

 何度か小さく咳払いしながら進むと、やがて暗闇の中でいくつか光が天井へ伸びていく箇所が目についてくる。ああ遠かった。そこまで辿り着き、板の隙間から覗き込むと段々畑のようになっている観客席が見えた。本当はここまで来る必要はなかったのだけど、ケイミーちゃんを見つけてしまったのでそうも言っていられない。

 オークションはどうやら中盤らしく、『商品』のうちひとりが自殺を図ったらしい。これからの己に自由がないと悟り、絶望しての凶行か、それとも脱出を図る方策としての自演なのかは不明だけれど。観客席のざわめきが邪魔でよく聞き取れないが、緊張で鼻血を吹いたとか嘯く司会の声がうっすらと聞こえてくる。やだなー、こういうの。

 

 べつにレイさんを信用していないワケではない。彼が悪いようにしないと言ったのだから、ケイミーちゃんは無事に戻って来るだろう。しかし心配は心配なので、様子見くらいはしようと思っての行動である。あと麦わらくんのことが少し気になった。どんな事情があったのか知らないが、友達のケイミーちゃんが人攫いに誘拐されてしまったのだ。どうにかして取り戻そうと行動するであろうことは想像に難くない。遠からずこのオークション会場に辿り着くだろう。

 

 だってルフィくんはエースの弟だ。

 

 彼は自分から誰かを奪おうとする輩を許さない。その過程で何をやらかしたって驚くに値しないのである。仮にエースだったらこの会場は今頃焼け野原だ。

 そういえば、最近海軍の方が騒がしい。エースのことは新聞の他に情報屋からドフィと並行して定期的に情報を買っているけど目立った変化はなかったはず。警戒のためにか、七武海の何人かは集められているみたいだけど……。

 

「ん?」

 

 ……あれ、おかしいな。なんか変だ。イヤな予感がする。第六感にビンビン引っかかる。

 

 僕、なんかすごい重大なことを見逃してない?

 

 

──そんな思考に埋没していた僕の意識は現実から遊離していて、気付くのが遅れてしまった。

 

 

 不意に、轟音。

 

「うお!?」

 

 一気に意識が引き戻される。

 地面というか会場全体が震撼して、ぱらぱらと小さな木片が落ちてきた。どうやら出入り口付近からの衝撃っぽいけど、何が起きたのかここからでは確かめようがない。ここやばいな。何かあったら逃げ場がない。

 マングローブで形成されている諸島に地震なんて存在しないのだから、攻撃でも受けたと考えるのが妥当だろうか。いや、海軍はヒューマンショップを腫れ物扱いしてるからよっぽどのことがなければ攻撃なんてありえない。例えば天竜人がボコられる、とか。

 そうでないならあとは、海賊の襲撃? メリットがない。……いや、心当たりならあるじゃないか。現在、大事な友達が攫われ烈火の如く怒っているはずの超新星の一角が。

 

 おい、まさか。

 

 とにかく階下の様子を確認したくて下を覗き込もうとした──その時、ドン! という腹の底から不快になる銃声が響いた。それも、何度も。

 

「ッ!」

 

 這いつくばったところで、ここからじゃ観客席しか見えない。『ハチ!』と女性の高い悲鳴が耳に届く。ハチさん? 撃たれた? というか、会場に来てた? うわそれは考えてなかった。そうだよな、危険でもシャッキーさんのお店で待つなんてできないか。え、じゃあ麦わらの一味もいるの? もしかしてさっきの衝撃か?

 もどかしくて苛々してくる。ああもう、ここからじゃなんも見えない! どうする? 穴開ける? 開けよう。

 

 狭い空間の中で懐からナイフを取り出して、床材が比較的薄い箇所に突き立ててゴリゴリゴリッ。いくらもしない間に大きめの穴が開いた。まぁこれくらいならバレないだろ。

 

 んで、広くなった視界でかろうじて見えたのは──天竜人の証としてシャボン玉製のマスクを被った小デブの側頭部を、麦わらのルフィくんが鬼の形相でぶん殴った瞬間だった。

 

「うわぁマジか」

 

 どれだけ重い一撃だったのか、小デブの天竜人らしき男の身体が竜巻の如く激しくスピンしながら観客席を突き破り、頭から瓦礫に埋まって動かなくなった。

 顔面は原型を留めないほどに腫れ上がり白目を剥いて、まだ生きている証として時々痙攣している。死にかけのエビみたいだった。特権階級の人間が無様に転がってるぜ、とせせら笑う勇気ある人間はいない。それより目に見える脅威が迫ってくることをみんな知っているからだ。

 

 やっちゃった。やっちゃったよルフィくん、すごいな。躊躇なしだ。

 

 ほんのひととき、水を打ったような沈黙が場を支配して、それからは阿鼻叫喚である。

 

 怒声と悲鳴が会場内に渦巻き、我先にと人々が出入り口に殺到して押し合いへし合い。それも当然か。

 なんたって海賊が天竜人に手を出したのだから、海軍が軍艦引っぱって『大将』を引き連れてやってくることが確定している。

 

「ケイミーは売り物じゃねぇ!!!」

 

 麦わらの声がやけにはっきりと聞こえた。そうか、これが麦わらのルフィ。エースの弟か。納得だ。強大な権力に阿ることなど一切なく、弱きを助け強きを挫く……言うなれば物語における英雄のような。

 天に愛されているから運が巡り、しょっちゅう試されては窮地に立たされるひとだ。そして、それを知らずに奇貨として好機を掴み取る器。仲間がものすごい苦労を背負い込まされる類だ。

 

 ああいうのを、()()()と呼ぶのだろうな。

 

 曰く形容し難い感動というか、すとんと腑に落ちるような感覚があって無意味にうんうん頷いていたら、唐突に軍曹が僕の襟首を思い切り引っぱった。

 

「ぐえっ」

 

 勢いに負けてごろごろ転がって埃と蜘蛛の巣まみれになり──今まで僕のいた場所に巨大な質量の『何か』が猛然と突っ込んできた。ひええありがとう軍曹。

 

 それは丈夫な屋根を壁を天井を粉砕しながら突き進み、怪我ひとつなく優雅にホールを滑空する。

 

 見た目は大きな、本当に大きな魚だ。

 

 トビウオの一種だろうか、進化した胸ビレと背中になぜかくっついている座席でハンドルを握る男がちらりと見えた。隕石みたいな勢いで屋根と壁をものともせずに貫通したトビウオは細かな木片や瓦礫をばらまきながら中空を滑り、まだ無事だった壁に大穴を空けつつ去って行く。なんだったんだ、あれ。そういえば、最近諸島に仲間入りした人攫いチームになんかそれっぽいのがいたような。トビウオライダーズだっけか。

 

 状況がどんどん進む。置いてけぼりをくっているのが分かるのだけど、どうすればいいやら。

 

 とりあえずはどんな状況なのか把握しようと馬鹿でかくなった穴から会場をこっそり窺うと、麦わらの一味勢揃いという感じだった。ああ、あのトビウオが運び屋してたっぽい。

 そして会場の正面──舞台の上に設置された、すでにまっぷたつになっている巨大な金魚鉢から顔を出しているケイミーちゃんに近寄る天竜人の女性が見えた。あれ、レイさんは?

 

「あいつらの狙いの人魚を殺すのアマス!」

 

 まだ支払いがーと追いすがる司会にまで発砲している天竜人の女性がキンキン声で怒鳴り散らしている。ああいう人々が変わらないのは世の常か。……この状況だ、誰がやったかなんてわかりゃしないだろう。

 僕はその辺に転がっている手頃な瓦礫をひょいと手に取り、振りかぶって全力で投擲!

 

「さぁ"魚"! 死ぬアマぶぎゃんッ!?」

 

 拳銃を構えて得意面していた天竜人の女性の顔面に過たず石くれがぶち当たり、そのまま真後ろにひっくり返った。やったねストライク。

 恐怖に怯えきっていたケイミーちゃんは、いきなり脅威が強制退場したことに呆然としている。ひらひら、と手を振ったら気付いたらしく戸惑いがちに小さく頷いてくれた。僕がリアクションしなくてもレイさんがなにか手を打った気はするけど、まぁ、知り合い未満にできる手助けとすればこんなもんだろう。頼まれれば話はべつだけど。

 

「えっ、瓦礫!?」

「あの石ころ横の方から飛んでこなかったか!?」

 

 小さくガッポーズしつつ視線を避けるために一旦頭を引っ込める。ざわざわしてるけど知りません。

 しかし参ったな、海軍が来るならとっととおさらばしたい。ケイミーちゃんたちだけ連れて戻れないかな。覗き見すると、会場に張られている破けた緞帳からさっきの巨人族のひととレイさんがひょっこりと出てくるところだった。

 姿が見えないと思ったら、どうも騒ぎに乗じて会場の金銭をかっぱらっていたらしい。それは海賊じゃなくて火事場泥棒では?

 

「あわよくば私を買った者からも奪うつもりだったんだがなァ」

 

 わりとあくどいことを適当に喋りながら酒瓶をあおり、巨人さんはそれを呆れたように見ている。既に首輪のない二人の登場で周囲が一気にざわついた。

 枷のない巨人を無力化して捕獲なんて芸当できねぇよと騒ぐ警備の者たちを尻目に、レイさんはハチさんを発見して周囲を見回し、ようやく現在の状況を把握したらしい。

 

「さて、……──」

 

 気を取り直したように顔を上げたレイさんが『覇気』を放った。

 

 覇気というのは悪魔の実とはまた違った特殊能力のひとつで、いくつか種類がある。努力次第で身につけられる技術なのだけど、『覇王色』の覇気だけは才能が必要で誰でも使えるものではないらしい。

 ちなみに僕はといえば『見聞色』と『武装色』を無自覚に使ってるときがあるような気がする、らしい。甚だ曖昧な上にらしい、というのは稽古に付き合ってくれた白ひげの隊長さんが教えてくれたからで、自分で使ってる自覚が特にないからだ。おそらく『生前』から身につけている技能諸々がこの世界に添うようカスタマイズされた結果なのだと思う。

 

 さて、覇王色の覇気というのは要するにとんでもない威圧だ。殺意とはまた異なるものの、喰らえば一定以上の膂力を持っていない人間はあてられて意識を吹っ飛ばされる。

 

 空気すら震撼するような、濃密で爆発的な威圧の暴威が会場内を暴れ回る。すごい、うなじめっちゃぞわぞわする。活火山の激流もかくやという勢いで雪崩れ込む途方もない不可視の奔流は、それ自体が攻撃のように押し寄せて会場内にいる全存在を打撃した。

 その衝撃に耐えきれず、糸が切れたようにばたばたと倒れ伏す観客や泡を吹いて転がる警備員。意識を保っているのは必定、一定以上の実力を持った麦わらの一味やキッド海賊団も無事……あらやだ、ローもいるじゃん。ベポたちも。用事ってこれか。なんだろ、ドフィの力がどんなもんになってるか見たかったんだろうか。

 

 あっという間に静かになったホールの中で、ケイミーちゃんの首輪をかるくぶっ壊したレイさんはいつになくイキイキしているように見えた。口ではもはや老兵なので平穏に暮らしたいとかなんとか言っているが、根から海賊なので血が騒ぐのかもしれない。

 

 そして、会場の外から包囲を完了したらしい海軍の怒声が拡声器越しに響いてきた。

 

『犯人は速やかにロズワード一家を解放しなさい! じき『大将』が到着する! 早々に降伏する事を勧める! ――どうなっても知らんぞルーキー共!!』

 

 ルーキー『共』ということは、ローとユースタスは麦わらの共犯者と見なされたらしい。これはご愁傷様と言うほかない。とはいえ、レイさんの覇気でもびくともしないのだから、脱出ぐらいは大丈夫でしょう。頑張れ。

 ほぼ野次馬のノリでぼんやりしていたらハチさんの傷を見ていたレイさんが顔を上げ、ぐるりと会場を見渡して──僕を見つけてにぃと笑った。おっと?

 

「ここに『関係者』はひとりもいないぞ。いい加減に下りてきなさい」

 

 レイさんの覇気で一部の海賊以外は軒並み気絶しているので、僕が姿を見られたところで特に困らない。司会のひとも裏に回るの見えたし。

 

「はーい」

 

 声をかけられてしまっては出て行かないと攻撃されそうな気もして怖いので、僕は大人しく返事をしつつ壊れた壁から顔を出した。無事な第三者がいると知った周囲が警戒を跳ね上げ、一斉にこちらへ視線を向けてくる。注目やだなぁ。あとローの目がこわい。なんでこんなところにいやがるって顔してる。こっちにも色々あるんです。

 

「よっと」

 

 ビシバシ刺さる視線を感じつつ瓦礫の間から身を乗り出してひょいっと身を躍らせる。中空できり、と身体をひねってバランスを維持してそのまま着地。

 歩きながらフードとか服をべしべしはたくと悪夢のように埃とかちっさいゴミが落ちてきた。うわあ。げんなりしながらのこのこ歩いていると、レイさん以外のほぼ全員がこちらを警戒しているのが伝わってくる。

 

「きみのことだ、様子くらいは見ていると思っていたよ」

「知り合いですし、ケイミーちゃん女の子ですし。それくらいはしますよ」

「なんだお前?」

 

 不思議そうにこちらを見つめるルフィくんは人のどこらへんを見て名前とか一致させてんだろう?

 

「コーティング屋さん探すのに協力するって言ったよね?」

「ん?」

 

 レンズが灰色になってしまったゴーグルを下ろしてフードをはぐと、ようやく誰だか分かったらしい。

 

「あっ、白いのか! そっか、コーティング屋探すの手伝ってくれるって言ってたもんな。ん? じゃあコーティング屋がここにいるのか?」

 

 あれこれ、もしかしてレイさんのこと分かってない?

 

「そうそう。賭場回ったらレイさん身売りしたって言うし、しょーがないから依頼人がいるって伝えに来たらこの状況ですよ」

「そっか、悪ぃな!」

 

 ニコニコ笑顔のルフィくんには悪意の欠片も見当たらない。天竜人ぶん殴ったのを悪いなの一言で済ますあたり、やっぱり大物って感じ。

 

「ルフィ、その子のこと知ってるの?」

 

 仲間たちを代表してか、『泥棒猫』のナミが訝しげに問いかけた。

 頭の形に沿うように切られたみかん色の髪が綺麗な女のひとで、こちらの出方を窺うように緊張を滲ませながら眉をひそめている。

 

「ああ! 白いのだ!」

「説明になってない!」

 

 スパーンと切れのいいツッコミが入った。

 ルフィくんに任せたらダメだと本能が訴えてきたので簡潔に自己紹介することにする。

 

「あー、シャッキーさんのお店でバイトしてるミオっていいます。そこのレイさんが徘徊して帰って来ないんで、探すの手伝ってました。この会場にはその過程でちょっと」

「私の外聞が悪くないかね」

「お店に半年寄りつかないのが悪いんですー」

 

 半目でじろりと睨め付けたらレイさんは小さく肩を竦める。

 しかし彼女たちはどうやらシャッキーさんのお店には寄っていないらしく、謎が深まってしまったようだ。ただ、僕とレイさんが気安く会話していることで多少は警戒を緩める気になってくれたようだった。

 

「ごめん、全ッ然わかんないわ」

「あ、あのな! さっきおれとブルックとルフィで店に行ったんだ! そしたら──」

 

 ハチさんの応急処置を終えたらしいチョッパーくんが『泥棒猫』に説明してくれた。助かります。

 そこへ、背後から警戒や緊張とはまた別種の視線を感じた。振り向くと、麗しい黒髪の女性──『悪魔の子』ニコ・ロビンと目が合った。

 黒曜石を縁取る空色の瞳はなんだか驚いたような戸惑っているような、不可解な色味を宿していた。そうか、エニエス・ロビーの件で彼女も麦わらの一味入りしていたのだっけか。懐かしいなぁ。

 

「あなた、ミオ?」

 

 遠慮がちに問いかけてくるニコ・ロビンに僕はへらっと笑って片手を上げる。

 

「よっす。ニコ・ロビン、元気そうで嬉しいよ」

 

 彼女とは古い馴染みだ。

 何年前かは忘れたけど、あっちこっちの海を回っているときにまだ小さな彼女を匿ったことがあった。というか、彼女が潜伏していた海賊をそうとは知らずにぶっ潰してしまったので責任とって頂戴と言われたのだ。でもあれはあの海賊団が悪い。海上で襲撃されたらやり返して潰すのは嗜みですよね。

 その辺にまつわるあれやこれやで、実は僕ってば青キジとめっちゃ仲が悪かったりする。島中にロリコンのペド野郎なんて噂流して悪かったよ。

 

 僕の気安い返事に彼女はほんのりと口元を吊り上げて小さく頷いた。

 

「ええ、あなたも」

「おいロビンも知り合いなのか?」

「ずいぶん昔の、だけれどね」

 

 ものすごく見覚えのある風貌をした長鼻の青年──たぶん『狙撃の王様』に問いかけられてニコ・ロビンはゆるく微笑んだ。

 ビビっているのが丸分かりな彼は狙撃の王様、なんて厳つい異名にちょっとそぐわない雰囲気の持ち主である。でもなんだろうな、顔のパーツとか狙撃の逸話聞いてるとなんとなーく某赤髪海賊団で狙撃手を張っているあの人がちらっちらするんだけど……ひょっとして血縁だったりして?

 

「各々積もる話もあるだろうが、話はあとにしよう。まずはここを抜けねばな……」

 

 レイさんがそう言って話を切り上げ、僕に視線を向けた。

 

「ミオくん、先にハチを店に運んでやってくれないか。きみの『愛車』であれば可能だろう?」

「いいですよ」

 

 ハチさんが撃たれてしまったことに関して防げなかった負い目がじゃっかんあるので、お安い御用だ。

 軽い調子で頷くと「おいおい外にはもう海兵がいるんだろ? 先になんて無理じゃねェか?」と全身サイボーグなんとか、みたいな青髪のお兄さんが口を挟む。

 

「ああ、僕はあっちから出ますから」

「あん?」

 

 あっち、と天井辺りに空いた大穴を指差すと『鉄人(サイボーグ)』フランキーはサングラスを押し上げて上を見上げた。

 派手なアロハに海パン一丁という風体はどちらかというとリゾートにいそうな感じだけど、彼なりの信念でもあるのだろうか。

 

「どーいうこった? トビウオはもういねェぞ?」

「ま、すぐわかりますから」

 

 教えるより見せた方が早いのでチョッパーくんに応急処置は済んでいるかを確認してからハチさんたちに歩み寄る。

 全身に包帯を巻いたハチさんの呼吸は弱々しく、なんだかその姿がコラソンとダブッて胸がきゅっとなった。

 

「すみません、ハチさん」

 

 気付いていれば防げたかもしれないという自責の念があってつい謝ってしまった。

 

「ニュ~……ケイミーが無事だったからな、いいんだ」

「ハチぃ」

「はっちん……」

 

 パッパグ氏とケイミーちゃんがまた泣きそうな顔になってしまう。おおう、いいひと揃い踏みで良心がずくずくしてしまうー。

 ハチさんは誰よりこの諸島の危険性を把握していただろうに、それでも彼女のためにここまで来てくれたのだ。せめて丁寧に、迅速にお店へ運ぼう。

 

 ああ、それなら。

 

「ケイミーちゃんとパッパグさんも一緒に行こう。危ないからさ」

 

 海賊と海軍のぶつかり合いの中に怪我人と一般人なんて危なすぎる。

 

「え、大丈夫なの?」

「オイオイ、どーするつもりなんだ? ハチのやつでっけぇぞ?」

 

 どーするって、もちろんこうします。

 

「えーとね、ハチさんに二人ともしがみついてくれる? できるだけぎゅーっと。そうそう」

 

 半信半疑ながらも、なるべく怪我に触らないようにハチさんの身体にくっつくケイミーちゃんとその背中にへばりつくパッパグ氏。

 ちゃんとくっついていることを確認してから、僕は真上で待機している相棒に声をかける。

 

「ぐーんそー! キャッチよろしく!」

 

 了解、という感じで片脚を上げてから畳サイズの軍曹が天井からすーっと下りてくる。怪我人をぐるぐる巻きにして持ち上げるのは負担が多そうなので、まるっと回収してもらった方がいいだろう。

 僕からすれば見慣れた光景なのでなにも考えてなかったのだけど、巨大な蜘蛛が音もなく真上から落ちてくるというのはなかなかにホラー案件だったようだ。

 

「ニ゛ュ!?」

 

 間近に迫るでっかい蜘蛛にハチさんが変な声を上げて全身を強ばらせた。軍曹のお腹側ってちょっと不気味だから気持ちは分かる。

 

「うおお! でっけぇええ!!」

「キャアアッ!? 蜘蛛!? クモぉお!?」

 

 馬鹿でかい蜘蛛に少年的なハートが刺激されて大興奮な男性陣と、たぶん生理的嫌悪が先に立って悲鳴を上げる女性陣に反応は二分された。

 あの『泥棒猫』、青ざめてるのはともかくタクト構えないでくださいニコ・ロビンは軍曹見たことなかったっけ? 無表情っぽいけど顔引き攣ってるよね。

 

「僕の相棒ですんで! 大丈夫ですんで! ハチさんたちも抵抗しないでね! 上に運ぶだけだから!」

 

 女性陣を宥めている間に軍曹は芝居がかった動作で脚をぐばっと広げ、ハチさんとケイミーちゃんをUFOキャッチャーよろしくがしっと掴んだ。楽しんでるな、あれ。

 三人の顔色がもう蒼白というか蝋人形なのはもうしょうがない。ごめんね、他にいい案がないんだ。

 

「なんだそれ! 白いののクモなのか!? すげぇ! いいなー!」

「おれも! おれもやりてぇ!」

 

 全員の目の前で下りてきた時と同じように、すすーっとハチさんたちを掴んだまま上昇する軍曹を見ながらルフィくんが目をびかびか輝かせてチョッパーくんがぴょこぴょこジャンプする。

 心なしか他数名もそわそわしているようだけど、無理だからね?

 

「ごめん、さすがに定員オーバーです。じゃ、お店に戻ってますんで」

「ああ、あとでな」

 

 レイさんが頷き、僕が天井の軍曹に手を上げるとぺとりと糸がくっつく感触。それをぐるぐると巻き付けてぎゅっと握りしめる。引っ張り上げてもらうためだ。

 

 合図のために手を下ろそうとした時、

 

「おい、ミオ」

 

 それまで僕らのやり取りに口を挟まなかったローがこっちに声をかけてきた。

 なんだ、てっきり他人のフリを決め込むつもりだと思ってたよ。ベポに『鬼哭』を預けて座席に悠々と腰掛けているローは偉そうな感じで面白い。

 

「ん?」

「レイさんって『冥王』のことだったのかよ」

 

 心なし憮然としているローに僕はにやりと笑ってみせる。

 

「言ったじゃんね。『そこまでヨボヨボじゃない』って」

「……確かにな」

 

 してやられた、みたいな顔をしておりますが嘘は言ってませんのであしからず。レイさん身バレ嫌いだから恣意的に情報は減らしたけど。

 そうだ、これから大将が来るなら明日なんて呑気なこと言ってられないな。

 

「あとで連絡するからがんばって逃げてね! あ、皆様も脱出頑張ってください!」

 

 すごく適当に激励してぐいっと糸を引っぱると、巻き尺みたいな勢いで真上に牽引される。天井に空いた大穴近く、まだしっかりしている部分に到着すると軍曹の後ろですでに気絶してるハチさんにしがみついたままのケイミーちゃんとパッパグ氏が「クモのご飯になっちゃうかと思った……」「おれなんか腹の足しにもなんねぇぞ!」とがくぶるしている。軍曹は大根が好きです。

 ちなみに、ちっさくした軍曹をくっつけて頑張れば木々の間を立体○動みたいに動けたりする。すごく大変だけど。

 

「……おいトラファルガー、あの変な店員と知り合いなのかよ」

「変は余計だユースタス屋」

 

 

「サンジ、さっきからどうしたんだ?」

「いや。あの店員ちゃん、どっかで見たような、気が……??」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16.リーダ・オーネ・ウォルテのお茶会

 

 オークション会場の屋根からそそくさと脱出したミオは、マングローブの裏手に停めてあったボンチャリにハチたちを乗せて一足早くシャッキーのお店に戻った。

 二人を落とさないようにとかなり速度を落としていたので億越えルーキー船長三人衆による無双っぷりも少しだけ見物することができ、ケイミーとハチは大興奮だった。

 

「ルフィちんやっぱりつよーい! がんばれー!」

「なんだありゃ! 億越えになると能力者って当たり前になんのか!?」

 

 視線の先ではわんさか配置されていた海兵がばったばったと倒れ吹き飛び切り裂かれ身悶えし蹂躙されていく。

 あちらでは麦わらの腕が巨大化していたりこちらでは人体切断ショー、またあちらでは某ロボット映画のようなメカニカルパンチが繰り出されていたりと目が幾つあっても足りないような光景である。

 

「どーだろーなー。能力者じゃない船長も知ってるけど、わりと多い気はする」

 

 ミオの知る中で能力者ではない船長というと真っ先に浮かぶのは赤髪のシャンクスだが、他の四皇は白ひげも含め皆能力者だったと思う。

 多少のカモフラージュはしたものの三人が大暴れして海軍の目を引き付けている隙を狙ったこともあって、幸いボンチャリが見咎められることはなかった。

 早々に帰り着いたミオたちを迎えたシャッキーはハチの怪我に驚き、事情を聞いて天竜人のくだりで「モンキーちゃんはさすがね」と笑った。奥にあるベッドを運んでハチを寝かせ、飲み物や簡単なお茶菓子の準備をしている間に海軍の包囲網を無事に抜けたらしい麦わらの一味がどやどやと店に戻ってきた。

 

 さすがというべきか、怪我人らしき姿は見えない。

 

「おっ、白いの早いな! ハチたち大丈夫か?」

 

 明るく笑うルフィはあの包囲網を破ってきたとは思えないほど元気いっぱいである。

 

「麦わらくんたちのおかげで早く戻れたから。揺らさないように気を付けてはいたけど、今はベッドに寝てもらってる」

「そっか、ありがとな!」

「いやいや」

 

 礼を言われるようなことはなにも、と遠慮がちに首を振るミオは着用しているエプロンも相まってどう見てもただの『店員』みたいだった。

 チョッパーがちゃんと傷を診なきゃとハチに駆け寄ったのを見て、薬瓶を置けるようにとふたつ椅子を追加する様子もごく普通だ。

 

 けれどミオと名乗ったこの店員はレイリーの『覇気』をものともせずオークション会場の天井近くに潜んでいたのである。

 

 今もこうして海軍の目をかいくぐって一足先にハチたちを連れて店に帰還しているのだから、『普通』なんてありえない。レイリーとはまた違った意味で得体が知れないのだった。菓子やお茶を運ぼうとしたところにサンジが手伝いを申し出たがお客様ですからとお断りしている。

 

「おい、あのドでけぇ蜘蛛は?」

 

 そんな中で三本の刀を椅子に立てかけた緑頭の青年──『海賊狩り』のゾロが席に座りながら視線を向ける。

 腰に佩いていた刀ももちろんだが、オークション会場でハチを運ぶのに一役買った大きな蜘蛛はミオの言葉に従っていたので純粋に興味があった。

 

「軍曹ならさっき水抜いた気がするから、僕の部屋か店の外か……散歩してるんじゃないかな、たぶん」

「水を抜く?」

「えー、さっきのクモいねェのか? すげー見たかったのに」

 

 蜘蛛の生態を知らないゾロが首を傾げ、ルフィが冷蔵庫に手をかけながら残念そうに口をとがらせる。

 女性陣が明らかにホッとしているように見えたのはおそらく気のせいではないだろう。あのビジュアルは確かに人を選ぶ。

 

「軍曹はフクラシグモって種類の蜘蛛で、水を吸って大きさを変えられるんだ。普段はもっと小さいよ。あんなに大きいと目立ってしょうがないし、なにより飲食店に蜘蛛はまずいでしょ」

 

 それもそうだ。

 いくらシャッキーの店がぼったくりバーとはいえ、それとこれとは別問題。申し訳ないが蜘蛛なんて衛生的にも見た目的にも店内にいて気持ちの良いものではない。

 

「それは、そうかも……」

 

 アラバスタのビビが大切にしているカルーと立ち位置的には同じなのだろうが、いかんせん相手は蜘蛛。

 ナミがつぶやき、ロビンが同意するように頷いていた。

 

「落ち着いたようだし、そろそろ話をするとしようか」

 

 頃合いを見計らったようにカウンターに腰掛けていたレイリーがぽつりと呟いた。

 それはレイリーが『海賊王』の船の副船長だったことから始まり、ハチとの出会いやゴールド・ロジャーが処刑に至った経緯、船医として同船した双子岬のクロッカスのこと……内容は多岐に渡り、ミオの知っている話も、知らない話もあった。

 固唾を呑んでレイリーの話に耳を傾ける麦わらの一味の反応を楽しむようにシャッキーは静かに紫煙をくゆらせ、ミオも店の隅で邪魔にならないように聞いていた。遠い昔のお伽噺のようだけれど、内容を紐解けばまだ二十数年前の出来事。当事者の口から語られる内容は興味深く、新鮮だった。

 

 その中でウソップが尋ねた『ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)』の実在に対する問いと、遮るルフィの絶叫を聞いてミオは素直にすごいと思った。なんというか、感動に近い衝撃を受けたのだ。

 

 星の数ほど海を跋扈する海賊たちの中で、これほど真剣に『ひとつなぎの大秘宝』を、『宝』を思う者がどれだけいるだろうか。

 

「つまらねェ冒険なら、おれはしねェ!!!」

 

 カウンターから乗り上がり、この海で一番自由な奴が海賊王だと宣言するルフィがとても眩しいもののように見えて、自然と目を細めた。気持ちがいいほどまっすぐな瞳と声がよく通る。

 自分はもう『夢』を見られないと思うからこそ、ほんのりとした憧れのような気持ちで胸がちりりと炙られたような気がした。

 

 ひととおりの話が終わった頃、薬瓶をリュックに詰め終えたチョッパーがハッとした顔になる。

 

「そうだ白いの! 約束!」

 

 ぴょんぴょんと跳ねて全身でアピールする小さなトナカイにミオはうんと頷いた。

 チョッパーとミオが交わした『約束』の件は移動中に聞いていたのか誰も疑問を差し挟もうとはしなかった。シャッキーが気を利かせてカップにお茶を注いでテーブルに出してくれる。

 

「ありがとうシャッキーさん。ちょっと待ってね、そっちに座る」

 

 そう言って店の隅からカウンターへと移動して、カップの置かれたブルックの隣に腰を下ろす。

 ミオはくるりと椅子を回して店内の海賊の一味にするすると視線を滑らせた。先ほど名乗っていたのでミオの名前は全員が知っているけれど、ミオからすれば麦わらの一味はそうでないから顔を見ておきたかったようだ。

 

「あんた、さっきロビンが知り合いって言ってたよな?」

 

 口を開いたのは先ほどのやり取りで気になってしょうがなかったウソップである。

 

 この店の単なるバイトがロビンと交友があったというのがまず信じられなかったし、過去の出来事からあまり人と関わりたがらない彼女があまり警戒の色を滲ませていなかったことがウソップには不思議でしょうがなかった。あんな乱戦の中では詳しいことまで伝えられなかったので「え、ロビンと?」「どーいうこった?」とナミとフランキーがざわついた。

 ミオはといえば、困ったなぁという感じで腕を組んで眉を八の字にしている。

 

「それはそうなんだけど、どう答えると分かりやすいかな……ともあれ、まずはチョッパーくんとの約束を果たさせてください」

「お、おう」

 

 のんびりとした口調と『ちょっと待ってね』のジェスチャーに思わずウソップは頷いて、ロビンへ視線を向ける。ロビンは少し考えてから必要だと判断したのかミオへと質問を投げた。

 

「あなた、さっきこの店のバイトって言っていたけれど……賞金稼ぎは廃業していたの? 『音無し』の名前はたまに聞くわよ?」

『賞金稼ぎィ!?』

 

 賞金稼ぎといえば海賊の怨敵といっても過言ではない連中である。

 室内に緊張が走り、麦わらの中でもビビリな方──ナミとウソップとチョッパーは一気に青ざめ、ブルックは真横の脅威に露骨に仰け反った。

 

「へぇ……」

「ん? バイトなのに賞金稼ぎなのか?」

 

 逆に鷹揚……むしろ怖い物知らずな方であるルフィとゾロは興味津々である。

 

「ミオちゃんは年に何ヶ月かうちでバイトしてるけど、普段は賞金稼ぎとして活動してるの。ルーキーは狙わないし、手を出すとしても評判の悪い海賊だからモンキーちゃんたちは大丈夫よ」

「それに、彼女はシャンクスとも知己の仲だ」

 

 そこへ助け船を出したのはシャッキーとレイリーだが、更に聞き捨てならないことを聞いたルフィが反応してしまった。

 

「えっ白いのシャンクスのこと知ってんのか!?」

「ルフィ! おれの話の方が先だからな!」

 

 どうもミオの過去がいくつか麦わらの一味と縁故があるようで、話がすぐに逸れてしまう。

 それは本人も話の流れから察していたようで、ルフィとチョッパーを交互に見てからチョッパーへと視線を固定した。

 

「シャンクスさんのことは知ってるけど、順を追って話すよ。まず、僕がドラム王国に行ったのは今から十年……シャッキーさんとこでバイトする前だからもっとかな? 十二、三年くらい昔の話です」

「は?」

 

 誰の声かは分からなかったがそんな声が出るのも無理はない。

 ミオの身長はナミより低く、よくよく見れば繊細で小作りな顔立ちはどう見ても十代か、せいぜい背伸びして二十代に届くかどうか。計算がちっとも合わないのだ。

 

「白いのっていくつだ?」

 

 ルフィの疑問はもっともだったが、さすがにそれは本人よりも外野が黙っていなかった。

 瞬間、すけーんと音を立ててルフィの頭にコップがぶち当たる。

 

「でっ!? なにすんだナミ!」

「ばかルフィ! 女の子に年齢なんて聞くんじゃないの!」

 

 ロビンとシャッキーとブルック、それにサンジもうんうん頷く。女性の年齢なんておいそれと聞いてよいものではないのである。

 

「うーん、その辺は適当に流してくれると助かる」

 

 実のところ、実年齢と外見年齢の乖離が恐ろしいことになっているので、ミオとしても気になる気持ちは分かると言えば分かる。が、率先して自己申告したいものでもなかった。

 

「それで、そのとき僕はある『難病』について調べてたんだ。当時からドラム王国は医療で有名だったからとにかく情報が欲しくて……そこで会ったお医者様がDr.くれはとDr.ヒルルク」

「ドクトリーヌにも……?」

 

 呆然とチョッパーがつぶやき、ドラム王国へ行った面子はひとときかの国へと思いを馳せるように口を噤んだ。ドラム王国は麦わらの一味がナミの治療に訪れ、新たな仲間を得た場所だ。

 そしてミオが口にした名前はチョッパーの師匠であり、ナミたちが世話になった老医師である。

 

「Dr.くれはのことも知ってるんだ。すごいよねあのおばーちゃん、情報料として全財産の9割払ったもんだからほぼすかんぴんになっちゃったあっはっは」

「ご、ごめん。ドクトリーヌがなんかごめんな」

 

 本人は軽く笑っているが、己の師匠のむしり取りっぷりを熟知しているチョッパーは物凄く申し訳なくなって反射的に謝ってしまった。

 けれどミオは首を横に振ってゆるく笑う。

 

「いや、治療法は無理だったけど研究機関は教えてもらえたし……支払える額にしてくれただけ感謝してる」

「ち、ちなみにおいくら?」

「んー?」

 

 銭勘定に敏感な航海士が興味津々で尋ねると、ミオは思い出すようにしばし考えてから指を折って「これくらい」と示した。

 

「……うそぉッ!?」

 

 理解したナミが卒倒した。

 そしてミオの指の動きを見てしまった麦わらのクルーも卒倒はしなかったが硬直した。ブルックは泡を吹きそうになり、チョッパーはヒルルクの話に行き着く前に泣きそうである。

 

「で、その帰り道にヒルルクさんに行き会ったというか、匿ったのちに捕まったというか」

「!」

 

 いきなり飛び出してきた、待ちわびてきた名前にチョッパーはびくりと肩を震わせる。

 麦わらのクルーはチョッパーとヒルルクの間に起こったことをそこまで深く知っているわけではないが、彼の反応からどれだけ大切な人物かは推し量ることができた。

 自然と視線がチョッパーとミオに集まり、ミオは何を思ったのか唐突に席から下りるとチョッパーの前で膝を折って目線を合わせる。

 

「な、なんだ?」

「ヒルルクさんにはね、僕の目の色をよく見せて欲しいってお願いされたんだ」

「白いのの、目?」

 

 そうだよ、とつぶやいてミオはチョッパーと目線を合わせたまま人差し指で自分のそれを指で示す。

 

「『研究のためにどうしても必要なんだ』って、僕の目の色を記憶に焼き付けたいって」

 

 そう言われて、改めてチョッパーはミオの瞳をまじまじと見つめた。

 さっきまでバタバタしていてあまり気にする余裕はなかったけれど、こうして見てみれば……そうか。

 

 どうして今まで気付かなかったんだろう。

 

 

「──サクラの、いろだ」

 

 

 うん、とミオは頷いた。

 

 ヒルルクの目指した『万病薬』。

 

 極東でほころび、ひらいて、彼の命を繋いだ花の色。

 

「僕とヒルルクさんの話はそれだけ。──でも、よかった」

 

 申し訳なさそうにつぶやいてからミオは柔らかく微笑んだ。

 

 桜色の瞳が眇められて、どこか安堵のそれを滲ませて。

 

「あの国にサクラは、咲いたんだね」

 

 確信が籠もっているのは──あの王国がその花の名前を冠したからだろうか。

 

「うん、咲いた」

 

 チョッパーの脳裏に鮮やかに浮かぶ桜の景色。旅立ちの門出。

 

 厳寒の空気の中で、それでも胸の奥があたたかく満ちていく藍の空に広がる一面の、どんな病もたちまち癒えてしまいそうなあの桜雪。

 

 世界でいちばんの治療薬。

 

「咲いたんだ。ドクターとドクトリーヌが咲かせたんだ」

 

 チョッパーの目から、ひとつぶだけ涙がこぼれて落ちた。

 

「ありがとな、ミオ。ドクターに協力してくれて」

 

 唐突な涙にミオは少しだけ困ったような、けれど優しい顔をして、どういたしまして、と差し出されたチョッパーの手を取って握手を交わした。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17.大遅刻エレジー

これにて一日一話更新も一旦打ち止めになります


 

 

 ひとまずの『約束』が果たされたことに安堵して、ミオはカウンターに戻ってお茶を口に含んだ。

 思い出を話している間に周りの緊張も随分と薄まってきたように思う。あんまりぴりぴりされても困るからよかった。

 

「それでえーと、シャンクスさんについてはわりと昔からの知り合いだよ。お店にレイさんがシャンクスさん連れて来たときもいたしね、びっくりしたけども」

「うっ」

 

 シャンクスが片腕を自分のために無くしたことに負い目があるのか、ルフィはさっきと同じように小さく唸った。ミオとしてはシャンクス本人が満足そうにしていたのでこれ以上追及するつもりはない。

 

「麦わらくんのことはシャンクスさんからちょっとだけ聞いてる。でも、その十倍くらいエースから聞いてるよ」

 

 十倍じゃ足りないような気もするけれど。

 さらっと付け足したらルフィくんは食べていたものを喉に詰まらせた。よもやミオの口からシャンクスのみならずエースの名前が出るとは思わなかったのだろう。

 

「え、エースのことも知ってんのか!?」

「でもあなた賞金稼ぎでしょ? いくらなんでも知り合いの幅が広すぎじゃない?」

 

 『泥棒猫』が驚いたように問いを口にする。

 ああ、そういえばアラバスタでルフィたちに会ったってエースが言ってたな、とミオはその時の嬉しそうな、電伝虫越しでもわかるほどに弾んだ声を思い出す。

 

「まるごと憎いわけでなし、ともだちはむしろ海賊の方が多いよ。四六時中賞金稼ぎなんてやってらんないです、疲れる」

「……まぁロビンが警戒してねぇってことは、それなりの理由があるってことだよな」

 

 納得いったようにウソップが腕を組んだまましみじみとつぶやいた。

 

「私がそのとき潜んでた海賊船を、彼女が潰したのよ」

「襲われたらね、そりゃ迎撃しないと」

 

 ロビンがさらりと当時の事を語り、ミオはくすくすと笑って相槌を打つ。

 幼いロビンが次の島に渡るために潜伏した海賊はあまり評判がいいものではなかったが、選択肢がない以上どうしようもなかった。

 下卑た笑いを浮かべる船長たちをなんとか口八丁で丸め込んで乗り込んだ数日後、その海賊が行きがけの駄賃くらいの気安さで襲った船の主がミオだった。

 

『おやまぁ、子供がいる』

 

 そこそこの強さを持っているはずだった海賊団はたったひとりのミオにけちょんけちょんにされて、残ったロビンを見ての第一声がそれだった。

 賞金稼ぎであるミオは『悪魔の子』ニコ・ロビンの名前と顔を知っていたはずなのに特に気にした風もなく、渡航手段を失ったのだからあなたが責任を取って頂戴と強気に出たら構わないと軽く頷かれた。ロビンに対する扱いはその辺の子供を保護するのと似たようなもので、拍子抜けするほどに『普通』だった。

 かといって安易に信じるには体験してきたものが苛烈に過ぎた。ロビンはミオが賞金稼ぎである以上いつ海軍に突き出されるかという恐怖をぬぐい去ることができず、頃合いを見て逃げ出した。

 

 それからしばらくは会うこともなかったけれど、とある島で傷を負っていた時に再会した。

 

『あらまぁ、怪我人になってる』

 

 初めて会った時と似たようなことをつぶやいて、やっぱりミオはロビンを保護した。

 それでも培われてきた警戒心は彼女を信じさせるに至らず、怪我が治った頃にロビンは置き手紙ひとつ残すことなく彼女の元を去った。

 経験してきた、数多ある別れの中でも最も穏当な別れ方だったように思う。

 

「あなたを信じられなくて、ごめんなさいね」

「こちらこそ信頼に足る大人(・・)になれなくて、ごめん」

 

 苦いものを口に含んでいるようなロビンにミオも謝罪を述べる。

 ミオとしては子供は守り慈しむべきものであるという、ごく当たり前の倫理に従った結果だった。賞金首でも子供ならば襲わないし、場合によっては手助けする。

 けれどそれ以上は踏み込まないし、踏み込ませようとも思わなかった。ただ自分はどうも『くそがき』に縁があるなぁと内心苦笑するだけだった。

 

 そんなロビンが信頼を預けるに足る大切な仲間に出会うことができて、こうして笑えている。 

 

 それが見れただけで、ミオは嬉しい。

 

「でもニコ・ロビンが今楽しいなら、それがいちばんだと思う」

 

 ほんの僅かな付き合いであっても縁のあった子供が幸せになったのはとても喜ばしいことである。

 あけすけなセリフにロビンは静かに微笑んで「ええ」と頷いた。

 

「でも、私のせいで青キジに睨まれているでしょう?」

「それこそニコ・ロビンが気にすることじゃないよ。あれは青キジが悪い」

 

 ロビンを保護している間に、どうもたまたま近くにいたらしい青キジ──クザンが『悪魔の子』の危険性を説きに来たのだがミオはそれをけんもほろろに追い返し、ついでに幼女に犯罪行為をしたがっている変態野郎がうろついているという噂を島中にばらまくという軍属にとっては痛烈な嫌がらせをした。

 もっとも、そのときミオはクザンが海軍所属だなんて知らずに『やべぇ、ロリコンのペド野郎がいたいけな少女狙っとる』という危機感を募らせて行動しただけで悪気があったわけではない。彼が軍属と知ったのはもっと後……昇進して『大将』として新聞に掲載されていた時だ。

 小さい島だったものだから噂はあっという間に広がってしまい、以来ミオは青キジにだいぶ嫌われている。

 

「やるじゃねェか」

 

 話を聞いてどこか痛快そうにつぶやいたのはゾロで、ミオは親指をぐっと上げてサムズアップした。見た目が可愛らしいだけにやり口のえげつなさが際立つ。

 ……その辺りでようやく話も一段落したと見たのだろう、レイリーがガタリと席を立った。

 

「──さて、キミらの船は41番グローブだったか。私が勝手に行ってこよう」

 

 船のコーティング作業は命を預かる仕事のため、三日を要するとのこと。

 その間麦わらの一味は『大将』や海軍から逃れるため諸島中に散らばって時を待ち、三日後の夕刻にレイリーのビブルカードを頼りに合流するという方針になった。

 ハチは怪我のために店内だが、ケイミーやパッパグ、シャッキーとともにミオも見送りのために店外へと出た。ケイミーとパッパグが口々に礼を言ってくれぐれも気を付けて欲しいと手を振る。

 

「三日後に会いましょう、見送りに行くわね」

 

 シャッキーもよほど麦わらたちを気に入ったのか、タバコ片手に軽く手を振った。

 

「おう! 白いのもありがとな。いい話聞けた!」

「ありがとな!」

 

 ニカリと笑うルフィとチョッパーにミオも笑って片手を上げた。

 

「こちらこそ麦わらくんたちに会えてよかったよ。三日後は、僕もお見送りするね」

 

 そうした別れ際、先ほどから時折こちらへ視線を向けていたぐるぐる眉毛の青年──サンジへと顔を向けて、その時だけは悪戯っぽく口元をにやりと上げた。

 

「あなたも気を付けてくださいね。……『へなちょこのチビナス』くん?」

 

 その呼称に対するサンジの反応は劇的だった。

 

「ありがとう優しきレ、えっ? ……──あッ!?」

 

 いつも通り紳士的に礼を返そうとしていたサンジが一瞬呆けたようにミオを見つめ、なにかに気付いたように瞠目すると温度計のようにみるみる顔が赤くなっていく。

 百面相するサンジに「おいサンジ?」「どうしました? お顔が真っ赤ですよ」と仲間が声をかけるが、当の本人はそれに答える余裕もないらしい。

 

「うわ、うわああ、そうか、なんで気付かなかったおれ……」

「いやぁ覚えてろって方が無茶だと思うよ。一瞬だったし」

 

 謎な会話をしてから心なししょんぼり、というかむしろ情けなさそうに肩を落としながら仲間の輪に戻って行くサンジである。

 

「サンジ、おめぇあの店員のこと知ってたのかよ」

「知ってたっつーか、今思い出したんだよ。あの店員ちゃん、バラティエに来たことがあった」

 

 フランキーに問われ、持ち直してきたらしいサンジは新しいタバコに火を点けながら吸い込んだ。

 驚いたのはウソップやナミたち『東の海』の出身者。

 

「ほんっとに行動範囲広いな、あの店員。どういう行動力してんだ?」

「けどよ、なんでそれでサンジが赤くなるんだよ」

 

 ゾロとウソップが水を向けると、サンジは何度かタバコをふかしてから観念したように俯きがちになってつぶやいた。

 

「その、ガキの頃に客に食ってかかって返り討ちにあって、店員ちゃんのテーブルに突っ込んじまったんだよ」

「あー……」

 

 こっそり聞き耳を立てていた面々が得心入ったとばかりに半目になる。

 サンジのことだ、注文された食事に文句をつけたクレーマー、もしくは食事を粗末にした客に激昂して手を出したのだろう。彼は食事を粗末に扱う者を決して許さない。

 しかし悲しいかな子供の体格だった時分だったので逆にやられてミオのテーブルを台無しにしてしまった、といったところか。

 

「ダセェ」

「うっせェクソマリモ! ああくそ、あん時のお客様だったのか……」

 

 見た目が変わっていなかったので気付きそうなものだが、サンジはそのあとオーナーゼフにしこたま叱られた記憶の方が強かったため気付くのが遅れてしまった。

 ミオとしても邂逅と呼ぶには本当に短いものだったので、相手が思い出すかどうか不明だったからこんなどんじりまで黙っていたのだろう。

 

「えーと、とにかく切り替えたまえよサンジくん。べつに悪気があって忘れてたワケじゃないだろ?」

「……おー」

 

 力ない返事にああこりゃしばらく引き摺るんじゃねェかな、と不安に駆られるウソップだった。

 

 

 

×××××

 

 

 

「そうだ、ミオちゃん」

「はい?」

 

 ケイミーちゃんとパッパグ氏も店内に戻ったところで、シャッキーさんが神妙な表情で僕に向き直った。

 

「さっきモンキーちゃんとの話に出てきた『エース』って、もしかして『火拳のエース』?」

「そうですよ?」

 

 エース、という名前そのものはそう珍しいものではないが話題に出たのはポートガス・D・エース。

 白ひげ二番隊隊長を預かる『火拳のエース』だ。

 

「そうだったの……」

 

 彼女にしては珍しく渋面を作り、シャッキーさんはこちらへ一枚の紙を差し出した。

 そこに大々的に印字された『号外』の二文字。自然と踊っている題字へと目を走らせ──僕は目を丸くして硬直した。

 

「さっき配られたものだったんだけど、教えるべきだったかしらね」

「ちょ、見せて下さい!」

 

 心配そうなシャッキーさんの声もこの時ばかりは耳に入らず、半ば奪うように『号外』を取って紙面を貪るように読んで、全身から血の気が引いた。

 

「エースの公開処刑……!?」

 

 それは白ひげ二番隊隊長、火拳のエースの公開処刑が決定したことを知らせる一面だった。

 

「世界政府もよくこんな決断を……? ミオちゃん、顔色が」

「ごめんなさいシャッキーさん!」

 

 シャッキーさんに号外を押しつけ、そのまま駆けだした。蹴破るような勢いでドアを開いて店内へ。

 

「ミオちん!?」

「ニュ?」

 

 転がり込むように入ってきた僕を見てケイミーちゃんたちが何か言っていたようだけど耳に入らなかった。

 中の扉から階段をかけ上がり、自室のドアを閉めるとデスクの電伝虫を乱暴に引き寄せガチガチガチッと番号を押す。部屋にいた軍曹が心配そうにこちらを窺っている。てっきりサイズダウンしているのかと思ったのだが、まだ水を吐き出しておらず大きいままだった。

 

 電伝虫は──繋がらなかった。

 

 かけたけど出ない、ではなく繋がらない。

 

 これが意味することは相手の使用する電伝虫が死んだ、あるいは野生へ返されたということ。

 震える手で受話器を置き、いちど深く深呼吸してから持ち上げて僕は考えつく限りの『白ひげ』の人たちへ電話をかけ続けた。

 マルコさん、サッチさん、ジョズさん、ビスタさん、イゾウさん、ハルタ、もちろんお父さんにも。そして知りうる限りの傘下の海賊団。しかし結果はすべて応答なし。

 

 十数人すべてが空振りだった。

 

「……くそっ!」

 

 徒労感のみが支配する中で受話器をデスクに叩きつけ、苛立ち紛れに髪をぐしゃぐしゃ掻き回す。イヤな汗が噴き出して背中をじっとりと濡らしていくのが不快だった。

 危機感がじわじわと足元から這い上がり、脳内の警鐘が全力で乱打されている。

 

 まずい。まずい。まずい!

 

 海軍からの通信傍受を避けるための、これまで使用してきた電伝虫の一斉廃棄。それはすでに情報封鎖が始まっているということだ。座して待つ、なんてことは天地がひっくり返ってもあり得ない。

 

 もう『白ひげ』は動き出している。おそらくは僕が諸島に到着する、ずっと前から。

 

 エースという『家族』を救うために情報網を整え策を練り、兵站を確保し、行動するために準備している。

 

 こんな号外が発布されるまで、なぜ気付かなかった?

 

 おかしい、変だ。しくじったといえばそれまでだが、うっかりで片付けるには規模が大きすぎる。エースの情報は常に集めていたし、何かあればすぐに連絡するようにと『情報屋』と契約している。

 あの情報屋がこんな重大時を新聞報道される前に僕へ伝えないなんてあり得ない。それは確信で、情報なんて水物を扱う人間が違えてしまえば商売そのものが成り立たない屋台骨である。そもそも新聞に出る前に伝えなければ情報としての価値が消失するのだから、伝えないという選択肢は存在しないといっていい。

 

 もし、得られるはずの金銭をかなぐり捨てても秘匿していたとすれば──それを『しなければならない理由』があった、ということだ。

 

「──」

 

 ……思い返せば、違和感はあった。

 

 前代未聞ともいえる億超え大物ルーキーがわんさといるにも関わらず、常とさほど変わらない……むしろ少ないとすら感じるくらいの海兵の数。七武海が緊急招集されていたことが示す意味。

 どこかで気付くことができたはずなのに、僕は呑気にもそれらすべてを見逃してしまった。疑念を持ち、追究するチャンスを逃していた。ローに会えるという楽しみの中で浮かれて、ようやく生身のコラソンと再会できると、多幸感に酔っ払ってみすみす見過ごしてしまったのだ。己の迂闊さに吐き気がする。

 

 焦燥感を押し込むように唇を噛みしめ、拳を額に打ち付ける。後悔するのはあとだ。

 

 考えろ、考えろ、考えろ。

 

 いちばん時間がないのは誰だ? 最優先にすべきは何だ?

 

 エースを助けるために、最優先にすべきことは何だ?

 

 所属は関係ない。

 白ひげは僕の『お父さん』でエースは家族だ。弟だ。絶対に助ける。そのためなら何でもする。賞金稼ぎじゃなくなったって構わない。

 処刑日は動かないだろう。それは海軍の沽券に関わる。僅かだが時間はある。『白ひげ』はエースの処刑阻止のために傘下含めてすべて動き出しているのなら、それは単なる小競り合いでは済まない。間違いなく戦争になる。

 

 処刑日前にエースを奪還できるなら最善だが、ひとりでインペルダウンには行けない。軍曹と僕の能力をフル活用すれば海軍の目をかいくぐって監獄に潜り込んでエースのもとに辿り着くことはできる。けれど、その先が続かない。単純に人手が足りないのだ。隠密裏にエースを無事にインペルダウンから脱出させるためにはどうしようもなく手札が足りない。

 

「ッ!」

 

 直後、思考を邪魔するようにズン、と頭を揺さぶるように衝撃が響いた。店全体が僅かに揺れて、びりりと窓が震撼する。遠いが砲撃のようだった。そうだ、軍艦と『大将』が来るのだ。もしかしたら、すでに到着しているのかもしれない。

 

 閃くものがあった。

 

「麦わら」

 

 いちばん時間がないのは『大将』に標的にされている麦わらだ。

 

 彼はこれを知っているのだろうか。否、知っていればとっくに行動しているはずだ。ケイミーちゃんを奪還するために天竜人をためらいなく殴れる麦わらが、大切な兄の一大事に動かないはずがない。

 

 麦わらのルフィ。モンキー・D・ルフィ。

 

 英雄ガープの孫で、エースのだいじな弟で──Dの名を持つ神の天敵。

 

 彼には頼りになる仲間がいて、大きな船があって、たぶん天佑がある。さっきと同じだ。僕は伝えるだけでいい。あとはどうしたってそれは麦わらの自由だ。ないとは思うけど、いずれは相対するから兄の人生に介入はしないとはね除けたって、それはそれで構わない。

 

 

 だけど、エースの生存する確率が僅かでも上がるなら、賭ける価値はある。

 

 

 慌てて踵を返したところでガッ、と足が大きな箱にぶつかったところではた、となった。そうだ、こっちもめちゃくちゃ大事。

 一度デスクに戻って電伝虫にローの番号をプッシュすると、出たのは午前中に出たクルーだった。どうも電話番らしい。彼らの母船は位置的にオークション会場からわりと離れているのでまだ戻っていないとのこと。

 

「じゃあ、ローが戻ってきたら『予定変更。今日中に渡すから待ってて』とだけ伝えてもらえますか? 海軍避けに潜水してても大丈夫ですから」

 

 軍曹がいれば海の中を散策してもらえるから、潜っていても問題ない。

 それだけを伝えて『あ、ハイ?』とクルーの戸惑ってるような声が聞こえたけど一方的に通話を切った。埃だらけのパーカーをはたいて羽織ってからゴーグルのレンズを磨き、窓を開けた。ざぁっと入り込む風の中に混じる争乱の気配。

 こんな中で一緒に行くのは危険だろうか。でも、時間がない。

 

「ロシーは必ずローに届けるから。約束するよ」

 

 桟に足を掛けて、有能な軍曹がロシナンテの入った箱を糸でぐるぐる巻いている様子を見てちょっとだけ笑う。

 

「……もし、僕がローを置いていってもゆるしてね」

 

 カタン、とちいさく箱が音を立てた気がした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18.襲撃コラール

 

 

 窓から飛び降りて店の裏手に停めてあるボンチャリを取って返すと、軍曹がコラソンの入った箱を下ろしておいてくれていた。

 大きいままだったのは、軍曹も何かを感じ取っていたからかもしれない。一人と一匹で荷台にコラソンを積んで、糸でがっちり固定させれば準備完了。

 

「行っくぞー!」

 

 大声で気合いを入れると軍曹は口の辺りから噴水みたいな勢いで水を噴き出してみるみる小さくなると、ぴょんとジャンプして僕の背中にくっついた。あ、リュック忘れた。いいか。

 ビジュアル系のリュックに見えなくもない軍曹を背中に貼り付けたまま、ボンチャリモードからバイク(?)モードに変更。ハンドルを握ればエンジン代わりの噴風貝(ジェットダイアル)が唸りを上げる。

 お店の斜面を利用して速度を上げて気配を探りながら障害物を避けつつ疾走する。コラソンのこともあるけど、今回は人捜しも兼ねているので高度は上げない。麦わらの一味、ルフィくんが見つかれば最善なのだが誰かひとり捕まえて伝えられればそれでいい。どんなに遅くなっても三日後には伝わるはずだ。

 

 諸島とマリンフォードの距離を考えれば、三日後に発覚してから目指してもじゅうぶん間に合う。

 

 しかし海軍と海賊が争っているのか、諸島のあちこちから混乱と暴力の気配がして麦わらたちを探りにくい。

 

「どっかに隠れてたら探しにくいかも……」

 

 ボンチャリならぬボンバイクの速度なら徒歩の彼らにすぐ追いつけると思ったのだけど……ゴーグルの中で眉をひそめてひとりごちた時だった。

 こちらの行方を遮るように唐突に、壁のような何かが現れた。

 

「うわ!?」

 

 慌ててぶつからないように急制動。逆噴射でことなきを得た。

 壁かと思われたものは人間だった。ただ縮尺を間違ったみたいにその大きさは規格外である。お父さんもだけど、こういうひとたちを見るとああ自分は違う世界にいるんだなーと再認識させられる。

 手には聖書、もじゃもじゃの髪に真一文字に引き結んだくちびる。

 

「……賞金稼ぎの『音無し』だな」

 

 渋い声はひたすらに平坦で、あまり感情らしきものは読み取れない。

 会ったことはないが、見覚えがあった。言うなれば彼はジンベエ親分やドフィの同僚ともいえる立場である。

 

「バーソロミュー・くま?」

 

 王下七武海の中でも政府にいちばん忠実と揶揄される男がそこにいた。

 

「大将はともかく、王下七武海まで諸島に来ているとは知りませんでした」

 

 海軍の内部事情にあまり興味はないし、そもそも僕は王下七武海に関してはジンベエ親分と……まぁ、あのひとのことはいいか、知り合いと呼んで差し支えないのは二人くらいで殆ど関わりがない。

 どこから話が伝わってドフィに気付かれないとも限らないからだ。親分はともかくもうひとりは半ば事故みたいなものだし、個人的には知り合いにカウントだってしたくない。そうでなければ自分から関わろうとは思わない。

 

 なのに、なぜだかくまは僕のことをご存じらしい。賞金稼ぎ稼業は長いし海賊で海軍に忠実という立場なので、勤勉そうな彼ならば僕のことを知っていても不思議ではない……か?

 

 曖昧に納得していると、くまはゆっくりとこちらへ歩みを進めつつ淡々と口を開いた。

 

「麦わらを狩るのか?」

 

 それは賞金稼ぎを生業にしていると思われる人間に対する、当然と言えば当然の問いだった。

 

 束の間、迷った。

 

 いちおうは軍属の立場に向けて、あけっぴろげにルフィくんのお兄さんが大変だって麦わらの一味に伝えに行くんですよと告げるのはさすがに憚られる。

 

 なので。

 

「職業上、お答え致しかねます。とにかく用があるので、そこを通してください」

 

 僕はくまを見上げ、どうとでも取れる言い方をした。七武海に睨まれるなんて御免である。

 

「……そうか」

 

 それをどう捉えたのか、ボンバイクに触れられそうな距離まで近付いていたくまはゆったりとした動きで一歩後ろへ引いた。

 道を開けてもらえたと解釈した僕は小さく会釈しながら再びエンジンをかけ直そうとして、

 

「旅行するなら、どこへ行きたい?」

 

いつの間に手袋を外したのか──くまの剥き出しになった手の平が無造作に突き出され、僕のボンバイクに触れた。

 

 

ぷにっ♪

 

 

「……?」

「旅行?」

 

 特になにも起こらなかった。

 曰く形容し難い、なんだかファンシーな音が聞こえただけだった。なんで旅行先の希望なんてくまが聞くんだ?

 

「……む?」

 

 くまは無機質な表情にほんの一瞬、訝しげな気配を乗せて唐突な疑問に首をひねっている僕とボンバイクを見て、触れていた自分の手を確認するように握って、開いて──じゃんけんでもするみたいに、もう片方の手を僕のお腹に突き出した。

 敵意もなにもない、ただ邪魔な虫を追い払うような仕草だった。

 

 けれどその瞬間、停止していた警戒心が再起動したみたいに途方もない悪寒がぞわあと背筋を奔り抜け──反射的にボンバイクをその場に『固定』していた。それは心の底まで染み付いていたほぼ本能みたいなもので、意味があるのかどうかも分からなかった。

 

 結果的に、その行動がコラソンを救った。

 

 衝撃。

 

「げうッ……!」

 

 凄まじい激痛が腹から腰までを貫通し、呻きを漏らせば血の味がした。身体が嘘みたいに軽々と吹っ飛び、歪んだ視界が恐ろしい勢いで流れていく。

 途方もない威力で、おそらくは能力者の攻撃を喰らった身体が悲鳴を上げて意識をシャットダウンしようとする。咄嗟に拳に噛みつき、なんとかそれだけは阻止できた。

 さきほどの行動とは威力が異なるのか、放物線を描いた僕の身体は痺れと痛みが抜けずに体勢を整えることもままならない。危険と判断した背中の軍曹が僕を掴んだまま勢いよく糸を放ち、放射状に広がった網目状の糸がどこかのグローブらしい枝に引っかかった。

 

 軍曹の爪先が肩とお腹に食い込んで限界まで突っ張った糸がびんッ、とピアノ線を引いたような音を立てる。

 凧揚げの凧よろしくほんの一瞬空中で動きが止まり、その隙に僕は近くに漂っていたシャボン玉を『固定』して全力でしがみついた。阿吽の呼吸で糸を切断してくれたらしく、軍曹の拘束が緩んで身体が一気に楽になる。

 

「──うぶ、ぐッ、げほっ」

 

 シャボンの上によじ登って血痰を吐き出し、ようやく許された酸素を貪るように呼吸する。全身に痺れるような鈍痛が残っていて、よっぽど爪先が食い込んでいたのかお腹と肩の辺りがひどく痛む。

 ひとしきり咳き込んで、呼吸が落ち着いたところで腕を伸ばしたりあちこちを確認。幸い、筋肉や筋に大きな怪我はない。打撲のせいか皮膚が熱を持っている箇所があったが、七武海にひっぱたかれてこれくらいで済んだのは幸いだと思う。

 シャツをぺろりとめくってみたら、くまにどつかれたお腹の辺りに猫の肉球みたいな痣ができていた。

 

「どんな能力? てか、え、いや、ええー……?」

 

 なんだったんだ、今の。

 

 理不尽とか怒りを感じるより混乱が先に立って、場違いに呆然としてしまう。会話を反芻してみるが、一体どこでバーソロミュー・くまが僕を攻撃するに足る琴線に触れたのかちっとも分からない。

 もっとも、かつての異名が『暴君』だったらしいから意味なく攻撃してくることもある、のか? そんな物騒な人物を『忠実』と称して重用するほど海軍はお気楽ではないだろうし、いつでもどこでも誰とでも、なユビキタス戦闘民族な七武海ならすでに在籍している。

 そうなると結局のところ僕がくまを怒らせた、ということになるのだが……だめだわっかんねぇ、振り出しに戻る。

 

 他に考えるとすれば、麦わらを狩る可能性のある賞金稼ぎを排除したかった、とか? 自分で考えといてなんだけど無茶がある。なんでじゃ。

 

「と、とにかくコラソン回収に行かんと……ぐあ、身体いってぇー、ほんとなんなんだくまー」

 

 くまーくまーと唸りながら強ばってしまった筋肉をゆっくりと伸ばしつつ屈伸運動。

 随分な距離を飛ばされてしまったため、戻るのも一苦労である。番号が振ってある諸島でほんとに助かった。

 背中の軍曹が腰のベルト越しにしっかりと巻き付き、オーケーだと合図してくる。ポケットから指ぬきグローブを引っぱり出してぎゅっとはめて、手を何度か握ったり開いたりして手袋を馴染ませつつため息をひとつ。

 これ、ほんっとーに疲れるからやりたくないんだよなぁ……。

 

 方角よし、高度もよし、準備は万端整った。

 

「絶賛強制安眠中のお姫さまをお迎えに、僕、いっきまーす!」

 

 やけくそで宣言して、ぴっと片手で目当ての枝を示してから思い切り跳躍!

 

 即座に軍曹が糸を射出して示された枝に巻き付け固定、ロープ代わりの真っ白な糸の束を掴めば慣性の法則に従い空中ブランコ、もしくはターザンよろしく身体がぐぃーんと揺れて飛距離を稼ぐ。

 凄まじい速度で全身が振り子のように持ち上がり、いちばん高い地点を見計らい一旦糸を切断、目の前の空間を固定してひらがなの『し』みたいなゆるい斜面を形成、スライダー代わりに滑り落ちる。

 バランスだけは維持したまま急滑走の勢いを殺すことなくスケボーよろしく更に大ジャンプ! 滞空中に新たに射出された糸を頼りにターザン、ターザン、またターザン。

 

 まぁ、要するに簡易的な蜘蛛男、もしくは木々の間を立体○動っぽく移動していると思えばいい。かなり変則的だけども。

 

 ボブスレーほどには無理だけど走るよりよっぽど早い。ただ軍曹と息を合わせるのが大変だし、なにより諸島くらい条件が揃ってないとできない荒技なのだ。

 しかし頑張った甲斐があり、市街を避けていたとはいえさほどの時間をかけずにコラソン箱もといボンバイクのあるグローブに戻ることができた。うう、摩擦熱で手がじんじんする。

 

「もう少し先に……え?」

 

 軍曹に先行してもらいながら道筋を辿っているとマングローブの横、『固定』されたままの僕のボンバイクの傍らに片手に剣をぶら下げたレイさんがぼんやりと立っているのが見えた。 

 さっきまで背負っていたコーティング用のハケなどの大荷物は持っておらず、大きな怪我は見当たらないがなんだか疲れているようだった。

 

 イヤな予感がした。

 

「レイさん!」

「ん? おお、ミオくん……どうしたね、その怪我は」

 

 いつもならすぐに気付くはずのレイさんは、ようやくこちらの存在を認識したようだった。

 けれどさすがというべきか、一目で僕の打撲やらを看破したらしい。

 

「これはさっき『くま』にふっとば、いや、んなことはいいんです。麦わらの一味を知りませんか? 僕、エースのことをルフィくんに伝えたくて……」

「くま……そうか」

 

 レイさんは一度頷いてから僕へ視線を向ける。そこにはどこか、悔しさのような感情が滲み出ているようだった。

 

「麦わらの一味は全員、バーソロミュー・くまに飛ばされた」

 

 そして告げられた言葉は、僕の想像も及ばない事態に麦わらの一味が陥ったという事実だった。

 

「とばっ、え、どこへ!?」

「それは私にもわからん。だが、さきほど麦わらは黄猿と交戦して、そこへくまが現れたのだが……」

 

 レイさんの話によると、激戦だったらしい。

 彼らの実力がグランドラインで通用するものであっても、『大将』に対抗できるかと言われれば別問題だ。特に自然系の能力者には明確な弱点でも突かない限り、覇気を会得していないと有効な攻撃を与えられない。バーソロミュー・くまを模した何体もの『人間兵器』と戦桃丸さん、そして『大将』黄猿の襲撃を受けた麦わらの一味は途中でレイさんが参戦したものの満身創痍になってしまった。

 

 そこへ現れた『本物』のバーソロミュー・くまが、麦わらの一味を問答無用で次々に消し飛ばした。

 

 どこへ飛んでいったかはレイさんにも不明。

 けれど、交戦中にレイさんがくまに耳打ちされた驚愕の内容。実はバーソロミュー・くまは革命軍の『幹部』で、ゆえあって麦わらの一味を諸島から逃がすための措置として彼らを吹っ飛ばしたらしいのだ。

 

 麦わらの命を守るため、死地から脱出させるために。

 

「……ああ、だからか」

 

 それを聞けば、さきほどの行動にも納得がいく。いやびっくりしたし、まだ痛いけどね。少なくとも妙な当たり屋みたいな疑いは払拭できた。

 おそらくバーソロミュー・くまは僕という賞金稼ぎが『麦わらの一味を狩る』かもしれないという可能性を危惧して、それを排除するために攻撃してきたのだろう。あれは僕の言い方がまずかったか。

 素直に言っておけばよかったと後悔するも、後の祭りである。

 

「じゃあ、麦わらくんたちはもう……諸島にいないんですね」

「ああ」

 

 麦わらの一味が一人残らず消し飛ばされる瞬間を、レイさんは目撃していた。

 

 麦わらのルフィに伝えることは、できなかった。

 

 あわよくば、くらいの感覚だったけれど僅かな無力感がある。だが、ここでへこんでいるヒマもない。ルフィくんに運が味方すれば、あるいはエースのもとに辿り着けるだろう。僕は僕にできることをする。それしかできない。

 ここにレイさんがいてくれてよかった。

 

「……」

 

 僕は一度強く瞼を閉じて、開いた。

 そしてレイさんに向き直り、がばっと頭を下げる。

 

「レイさん! 僕の船をコーティングしてください! お代はいつも通りレイさんの部屋に置いておきますので!」

「それは随分唐突だな。構わないが……何かあったのかね?」

 

 ゴタゴタ続きでレイさんは号外を読んでいないのだろう。僕だってシャッキーさんが教えてくれなければ、気付くのがもっと遅くなってしまったかもしれない。

 

「エースが公開処刑されるんです! だからなんとかして『白ひげ』に、お父さんに合流したくて……」

「エース? ポートガス・D・エースのことか? それに白ひげとは、また懐かしい名前を」

 

 そうか、レイさんは『海賊王』の元クルー。白ひげのことを知っていてもまったくおかしくない。むしろ知らない方が不自然なくらいだ。

 

 僕はこれまで話してこなかったことを洗いざらいぶちまけた。ためらいも迷いもなかった。

 開陳したことがなかったのは、『コーティング屋のレイさん』と『一介の賞金稼ぎ』にわざわざ付け加える必要がなかったから口にしなかっただけである。

 

 僕の家族──『白ひげ』のこと、お父さんのこと、エースが『弟』であること。なんとしても彼を助けたいこと。

 レイさんはそれを黙って聞いて、やがて頷いてくれた。

 

「……分かった。幸い道具は揃っている。きみの船の規模ならば、丸一日あればコーティングも終わるだろう。しかし、『白ひげ』の現在地が分かっていないのにコーティングが必要かね?」

「無駄になってもいいんです。もしかしたらって可能性なので、保険に近いかもしれません」

 

 今のところ白ひげが──『モビー・ディック号』がどこにいるのか僕にはわからない。なんせお父さん含めたクルー全員音信不通だ。

 GPSなんて便利機能は存在しないためグランドライン側に潜んでいるのかそれとも新世界か、それすらも不明である。

 ただ、最後に『モビー・ディック号』を出発したときに新世界にいたから、マリンフォードに乗り込むにしても魚人島を経由する必要があるので待ち伏せできたらいいな、くらいの言ってみれば思いつきに近い。

 

 その辺りはあとで『情報屋』に尋ねてみることにして、とにかく打てる手はなんでも打っておきたい。出たとこ勝負でしくじって泣きを見るのは自分だけでは済まないからだ。

 

「どうしてもお父さんたちが見つからなくて合流できなくても、それならそれでいいです。万が一の場合は、海軍船を徴発してマリンフォード特攻します」

 

 今のところ僕は単なる賞金稼ぎとしてしか認識されていないはず。海軍からはノーマークなので、いざとなったらその辺の海軍船をちょろまかして突撃する。

 スモーカーさんとかたしぎちゃんとか、せっかく友好な関係を築けた海軍のひとには申し訳ないけれどエースの方が大事だ。ちょっとだけさびしいけど仕方がない。

 

「ふむ……」

 

 思っていることをそのまま伝えると、レイさんは顎に指先をあてて渋い顔つきになった。

 

「白ひげ二番隊隊長の公開処刑を阻止しようとすれば海軍と『白ひげ』の、おそらくは全面戦争になるだろう」

 

 蕩尽の果ての通人のように振る舞っているレイさんだけど、決して世俗に疎いわけではない。含蓄のある口調は正鵠を言い当てている。

 そこら辺のいち海賊ならともかく、新世界に名を轟かせる四皇の一角たる『白ひげ』が持ちうる全ての戦力を投入してエースの救出に当たるというなら、規模の面を考えてもまさしく戦争というのが相応しい。

 もしかしたらレイさんですら体験したことのない、未曾有の事態になるのかも。

 『家族』に手を出した者を『白ひげ』は決して許さない。海軍のみならずぺーぺーの海賊だって知っている事実だ。どんな手段を用いても奪還しようとするだろうし、それは相手がエースでも変わらない。むしろ末っ子だから余計に力が入りそうである。

 

「そうなれば、キミはもう『賞金稼ぎ』ではいられなくなるぞ?」

 

 レイさんの声はいつになく静かで、こちらを諭そうとする教師めいているようにも聞こえた。

 僕とレイさんの付き合いは深くないけれどその分長い。それは純粋な心配と気遣いだったのだと思う。

 

 けれど、そんなまっとうな言に殊勝に頷けるような問題ではないのだった。

 

「どころか、命の保証すらあるまい」

「ああ、そんなの」

 

 続いた言葉に無造作に首を振ると、レイさんは虚を突かれたように瞠目した。

 長年守ってきた職業と地位をかなぐり捨てるのは惜しくないし、命なんてそれこそ今更だ。端金でとっくに売ったはずのものがたまたま今日まで続いてるだけのシロモノである。考慮に入れる必要すらなかった。

 

 むしろエースのために使えるなら僥倖というものである。

 

「こういう時のために、僕はなにも持ってないんですよ」

 

 唯一の『もちもの』も、これから渡しに行くから後顧の憂いなくいくことができる。そういう意味でもローにはとても感謝している。

 

 自然と浮かんだ笑みを隠すことなく胸を張ったら肩が痛かった。格好付かないなぁ、ちくしょう。

 そんな僕の様子を見たレイさんはまるで別世界の生き物でも見るような顔になって、それから耐えきれないとばかりに噴き出した。

 

「そうか、──そうか。どうやら、私はミオくんのことを見誤っていたようだ」

 

 口元は笑んでいるのに嘆息を滲ませてつぶやくレイさんの声にはほん僅か、憤りとも哀れみともつかない響きが滲んでいた。

 

「きみのような手合いはたまに見るが、事ここに至るまで私にも気付かせないのだから……まったく、ミオくんはその中でもいっとうタチが悪いな。我々海賊にとっては寝床の次に慕わしいのも問題だ」

 

 面白くもなさそうにくつくつと喉の奥をふるわせながら片手で己の額を覆い、髪の隙間から覗く瞳は先ほどとは打って変わって炯々としている。『海賊王』の副船長を務めていた時分の名残のようで、どこか空恐ろしいものを秘めているようだった。

 内臓の裏まで見透かされそうな視線に射竦められそうになりながら、それでも負けてたまるかと見つめ返す。

 

 たぶん、レイさんは本当に僕を心配してくれていた。遠からず訪れてしまうかもしれない未来を憂いて、精一杯の忠告をくれたのだ。

 

「白ひげは、キミが来ることを望んではいまい」

 

 告げる眼差しは僻眼(ひがらめ)に近かった。

 

 こちらを見ながら、その奥の彼方にある誰かを視ているようでもあった。なんだか懐かしくて、むしょうに儚い気持ちになった。

 

 僕の頭には沢山の思い出がある。それらは普段パソコンのファイルよろしく圧縮され、記憶の棚にきっちり並べて鍵をかけている。どれも大事なものには違いがないけれど、思い出に囚われていては目の前の出来事に向き合えなくなってしまうからだ。けれど記憶とは厄介なもので、音や匂い、皮膚感触などがきっかけで厳重にかけていたはずの掛け金があっさりと外れてしまうこともある。

 

 たとえばそれは、こんな瞳と出会ったとき。

 

 記憶が呼び覚まされ、錯綜する。心の(ひだ)が視線を通して、浮き出てくるようだった。

 

「……それは、僕が行かない理由にならない」

 

 無意識に胸元に手を当てて、布越しにぎゅっと握る。

 

 もう僕は決めてしまった。

 

「たとえ誰も望んでいなくても、僕は僕のために行くんです」

 

 たとえそれが、誰かの思いを踏みにじることになっても、どんな結末になろうと構わない。できることがあるなら全力でするし、やれることは全部やっておきたい。

 それで何もできなくてもいい。爪痕一つ残せず潰されたっていい。もし、ほんのちょっとでもつかみ取れるものがあればいいと思う。後悔なんてまっぴらだ。そういう性分だ。

 

 静かに告げると、レイさんは諦めたようにちいさく顎を引いて頷いた。

 

「……ならば、私に言えることは何もない。すぐにでも作業に取りかかろう」

「ありがとうございます」

「ああ、用を済ませてからで構わないから、もし時間が許せば彼らの船を警護してやってくれないか? キミほどの腕が援軍になれば『彼ら』も心強いだろう」

「麦わらくんの母船ですよね、時間あるかな……間に合ったら行ってみます。じゃあ、よろしくお願いしますね!」

 

 もう一度深く頭を下げて、僕はボンバイクの『固定』を解除して跳び乗りハンドルを握る。

 コラソン(重傷)も諸共に吹っ飛ばされていたらと思うとゾッとする。届ける前に怪我を増やすなんてことになったらローにどれだけ怒られるか。想像するだけで解体が進みそうだ。

 

「よっし」

 

 気合いを入れ直してエンジン代わりの噴風貝を起動させ、『ハートの海賊団』の母船が待つ諸島の端へと疾走を開始した。

 

「ミオくん。きみは──」

 

 だから、遠ざかる僕の背中にレイさんがそんなことをつぶやいているなんて、知らなかった。

 

 

「いったい、どこの戦場(いくさば)に魂を置いてきたのだね」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19.あなたの願いが叶うとき

 

 

 太陽が傾いで、長く伸びる光と影。雲さえその影に彩られて流れていく。

 マングローブの巨大な根の隙間に添うように係留されている『ポーラー・タング』号の甲板に立ったローは、腕を組んだままむっつりと唇を引き結んで中空を見据えていた。

 

 オークション会場での騒動はローにとっても痛快だったが、バーソロミュー・くま──彼を模した『人間兵器』との一戦は想定外だった。ユースタス・キッドとの共闘は到底歓迎できたものではなかったが、こうして逃げおおせたのだから文句は棚上げにしてやってもいい。

 海賊が天竜人に手を出したという事実はオークション会場どころか諸島そのものを揺るがす大事件だ。

 既に海賊の多くはとばっちりを回避するべく動いている。コーティングを終えている船は我先にと魚人島へ出発し、そうでなければ嵐が過ぎるのを待つようにひっそりと息を潜めてその時を待っている。

 

 もちろん『ハートの海賊団』であるこの海賊船とて例外ではない。彼らの母船『ポーラー・タング』号は潜水艦というアドバンテージがあるものの、海軍と接敵するなんて冗談ではなかった。完全に陽が落ちれば一度注水して海底に潜むことも視野に入れなければならない。クルーの命を預かる船長として当然の判断だった。

 

 分かっている──のだが。

 

 船内で指示を待っているクルーたちもそろそろ痺れを切らすかもしれない。

 だが、あと少し。もう少しだけとローの理性ではない部分が足を止めさせる。

 

「早く来い。あの馬鹿」

 

 帽子を押さえてぶつりと愚痴れば思ったよりも焦れた声だった。

 夕映えで広がる海はサフラン色のぬるま湯に浸かっているようで、どこでも少し物悲しい。海鳥が鳴く。

 

 そんなとろけるような飴色の残滓を全身に浴びる『ポーラー・タング』号に──大きな影が差した。

 

「みーつけ、たぁあ!! ごめん遅くなって!」

 

 見えないレールを辿る雪車(ソリ)のように危なげなく滑り降りてきたのは、見た目だけならボンチャリに近い。だが、後輪部分はスタンダードなシャボン玉をつけているものの前輪部はなぜかシャボンで覆われたタイヤが据え付けられ、いくつか排気管のようなものもくっついている。不思議なのはその更に後ろ──連結部分には荷台が設置されており、そこにはやたらと派手なラッピングを施された馬鹿でかい箱が梱包されていた。

 そんな原型を留めていないボンチャリ(?)に跨がっていたローの待ち人は、片手でゴーグルとフードを下ろして大きく手を振った。

 

「お待たせロー!」

 

 夕焼けを吸って煌めく雪色の髪を揺らして元気いっぱい──記憶とちっとも変わらないものだからたまに混乱しそうになるのが問題だ──なミオである。

 

「おせぇ」

「ごめんて! 急いだんだよこれでも!」

 

 ハンドルを器用に操り、ミオは『ポーラー・タング』号の甲板まで滑り込んで停車させると「お邪魔します!」とボンチャリ(?)から下りた。

 軽い動作ではあったのだが、その動きにローは違和感を覚えて顔をしかめた。ミオの仕草、挙動のひとつひとつ、それらから採取した情報をもとに医者としての冴えた観察眼がローに訴える。

 

「怪我してるだろ」

「してるしてる。ちょっと色々あってさ」

 

 否定もせずごく軽く頷いているが、ローとしてはオークション会場で別れてからさして時間も経ってないのに何やってるんだこいつ、という心境である。

 麦わらの一味とその仲間? とつるんでいたのはバイト関係だろうが、よもやオークション会場に忍び込んでいるとは夢にも思わなかった。……発見できなかった軍曹を確認できたのは、ちょっとした安心材料になったけれど。

 

「手当てしてやるから艦内に入れ」

 

 ともあれ、怪我人を放置なんて己の矜持が許さない。

 くい、と親指で扉を示すがミオはぴらぴらと手を振って『無用』の返事。なんでだ。

 

「大丈夫大丈夫、打撲と切り傷くらいだし」

「大丈夫じゃねェだろそれは」

 

 ローとしてはミオの治療以上に優先させるべきことはない。──現時点では。

 じゃっかんイラッとしたローに振り向きもせず、ミオは何やらごそごそと作業している。どうもボンチャリ(?)の連結部分をいじくっているようだった。

 

「おい、そんな箱より──」

「これがいちばん大事なんだよ! くらえサプライズー!」

 

 が、ローが言い募るより早くミオが連結部分を外して馬鹿でかい箱を担いでローの前にどかーん、と置く方が早かった。

 業務用の冷蔵庫か医療機器でも入ってるのか、というくらいの大型の白い箱。その箱はカラフルなリボンでド派手にラッピングされており、ローはあまりの巨大さと無意味に手の込んだラッピングにじゃっかん引いた。

 サプライズとか叫ばれてもさすがに困る。いくらなんでも大きすぎるだろう。

 

 そもそも。

 

「プレゼントならもう貰ったが」

 

 ミニアルバムと離れた年ごとに用意された写真は、ローの大事な物の仲間入りを果たしている。

 

「ああ、あんなんおまけだよおまけ。本命はこっち」

 

 自分で用意したからなのかぞんざいな物言いをしつつ気楽にぺしぺし箱を叩いてから、ミオは一度芝居がかった動作でパン! と両手を合わせてからぱっと開いて、箱の前で明るく笑った。

 

 そして、不思議なことを言った。

 

「今日、この時、僕はローだけの魔法使いだよ。使える魔法はひとつだけどね」

 

 人差し指をくるくると踊らせて、その時だけ、まるで道化師の動きを真似るように大仰な動作で。

 

「──"お寝坊さんの白雪姫を叩き起こすの術"だ!」

「ッ、」

 

 その動きと口調にローは何か、かたちにならない感情で胸がざわついた。

 ミオの動作はいつになく大げさで、こっちを楽しませようとする稚気に満ちていて、まるで──そう、『あのひと』のようで。

 

「その、図体のでけェ箱はなんなんだ?」

 

 這い上がる警戒に似た感覚が指の先まで奔り抜け、知らず口調は硬いものになってしまう。

 けれどミオは何がそんなに楽しいのか、ローの反応をニヨニヨしながら眺めているだけである。

 

「まぁまぁとにかく、開けてみ? ちなみに返品受付はしませーん」

 

 両手を『どうぞ』という感じで差し出しつつ嬉しそうにそう、促して。

 

「……」

 

 なんだってここで開けさせたいのかが分からない。

 とはいえ、中身が気にならないといえば嘘になるし、ミオがなんの意図もなく艦内に持ち込むにも難儀しそうな物を用意しないはずだという信頼も手伝って、ローは嘆息しつつ箱の前に膝を折って派手なリボンをほどきにかかった。

 

 リボンで作られた花と造花を外し、幾重にも巻かれたそれの結び目を解けばしゅるしゅると音を立ててほどけていく。

 赤、青、黄色、白に水色、タンジェリン・オレンジにオペラピンク。統一性がなくて、ひたすらにきらきらしているリボンが風で揺れる様子に目を眇めながら、ミオはぽつり、ぽつりと。

 

「プレゼント扱いなんてさすがに拗ねるかもしれん……けど、いいか」

「何の話だ?」

 

 プレゼント『扱い』?

 しかしローの疑問に答える気がないのか、ミオは視線すら向けずに小さく愚痴った。

 

「大体、向こうも悪いんだ。あんな土壇場で言い出すんだもんよ、ひどくね? 僕もあん時怪我人だったっちゅーのに」

 

 夕暮れのはじまりと、午後の最後の際の時間。ミオの頬の産毛が光を受けて金色に見える。

 腕を組んでうんうん頷きつつ、いかにも大変だったんですよという口調なのに名残惜しむような、どことなくくすぐったそうでもあった。

 

「ドフィに見つかったらいの一番に没収されそうだし、こーんなでっかいもん残しておちおち死ねないし、この十一年の頑張りを汲んでもらいたい──」

「おい」

 

 最後のリボンをほどいていたローの指がぴたりと止まり、顔を上げる。

 

 大きな、本当に大きな箱だ。機材は当然としても、普通どころか、大柄な人間の巨体ですらすっぽりと収まってしまいそうな……。

 

 とある思考が、ローの頭を埋め尽くす。

 

 ミオのテンションと、大きな箱。プレゼント。本命という言葉が示す意味。

 

 まさか、ありえないと理性が否を唱えている。馬鹿馬鹿しいほどの夢物語で、妄想の類だ。この世界はローに優しくない。痛いほどに思い知っているのだ、そんなことは。

 

──再会して行方を尋ねなかったのは聞きたくなかったことももちろんだが、ミオの傷をほじくり返すことになりはしないか、という危惧を覚えたからだ。

 腕の中で息絶えて、海の底に沈んだと彼女の口から語らせるような酷な真似はしたくなかった。あちらから言い出すこともなかったのは、辛い記憶をわざわざローに話して聞かせたくなかったのだろうと、そう、解釈していたの、だが……。

 

「これよりすごいプレゼントはどこにもない、と思う」

 

 手袋からはみ出した白い指先がローを後押しするようにしゅるん、と最後の紅いリボンをつまんで引き抜き、流れる風に放り出す。

 くるくると舞い踊る細くて綺麗な紅い色。

 

「ちょっと血生臭いのは勘弁してね。僕はお医者さんじゃないから、応急手当しかできなかったんだ」

 

 顔を上げた先、ミオはびっくりするほど優しく、泣きそうな顔で微笑んでいた。

 みかん色の長い光線に彩られて髪が光を孕んで内側から煌めいている様子は、それこそお伽話の魔法使いのようだった。

 

 苦しみ、傷つき、それでも生き抜こうとするものの前に現れて、本当に求めているものを、幸せになるための欠片をくれるひと。

 

「早く開けたげて。ローが大きくなって、立派なお医者さんになるのを──いちばん楽しみにしてたんだよ?」

 

 大きな箱。応急手当。十一年。

 

 それは、

 

 それは──

 

「──!」

 

 ローの脳天から爪先まで電撃のように直感が奔る。箱のふちに添えた指先が知らず震えていた。

 

 己の予想が正しいなら、本当に正答に行き着いているのだとすれば、中身は確かにこれ以上ない『プレゼント』だろう。

 ローが十一年、ミオと同じように、むしろそれ以上に慕い続けた、自分に惜しみない愛を注いで、命すら捧げ尽くしてしまった、ローの……。

 

 緊張で喉が変な音を立てた。口の中が急速に乾いていく。目の前の箱がパンドラの箱のようだ。中に詰まっているのは災厄か、それとも希望か。

 

 

箱の、中には──

 

 

 

×××××

 

 

 

 とびこんで来たのは、一面の黒。

 

 これだけ大きな箱の中、カラスのような、道化師のような、ぼろぼろのコートに埋もれるようにみっしりと詰まっているのは──大柄な男だった。

 

 海水に浸けてしまったせいかひどくみすぼらしくなってしまった羽根と、アンティークゴールドの髪を覆う、あちこちから塩を吹いている赤いコイフ。

 高い鼻梁に精悍な面立ち。血を拭ったのだろう、ところどころのメイクが剥げて、白い頬はどんな夢を見ているのかひどく満足げに緩んでいた。

 

 けれどそれは紛れようもなく、掠れ消えそうな記憶の中で、追い縋るように反芻し続けた、自分を愛してくれたひと。

 

「……コラ、さん……?」

 

 ずっと呼べなかった名前が口をついて出て、箱の前でローは崩れ落ちた。

 膝をつき、拳を地面に落とし、全身から力が抜けて、骨すら失ってしまったような虚脱感で動けない。視線だけはそらせなかった。

 

「……十一年前のあの日、僕が『固定』して時間を止めた。ローにもやろうかって言った、あれ」

 

 柔らかい声音が届く。

 限りなく遠くから話しかけられているようで現実感がなかった。耳の奥に文字の羅列がさらさらと流れて消えていく。けれど反射的に蘇るのは当時の記憶だ。

 暖かい空気の中で、背中に(わだかま)る重い熱の塊。怠い身体を守るように自分を抱き抱えてくれたひと。ミオはテーブルを挟んで向かい側に座っていた。

 

 オペオペの実を手に入れるまでの間、珀鉛のもたらす熱と苦しみが少しでも短く済むようにと提案されたことがあった。なんでもないような顔で、それまで開陳することのなかった己の能力の一端を説明して。

 

『オペオペの実を手に入れるまでの三週間、なんだったら実を手に入れて安全を確保できるまでローを今、この時点のまま『固定』することができる』

 

 そうすれば、少なくとも現時点以上は病状が進行することはないと、当の能力を受けて十数年を固定された生き証人としての言葉を投げた。

 ミオの能力はあらゆるものを『固定』すること。ひとたび『固定』されたものは解除されない限り、どれだけの時間を越えても能力を行使された当時のまま、変わることはない。

 

『『固定』されたら三週間どころか、何年でもほんの一瞬だよ。意識も『固定』されて、時間経過しないから』

 

 そうして視線で投げられた問い。どうする? と。

 

 ローはそれを断った。どれだけ苦しかろうが、辛かろうが、残った時間すべて二人と一緒に過ごしたかったから。

 

 それを、コラソンは──

 

 のろのろと、まだ目の前の現実が受け止められないローの指先がコラソンの頬に触れる。

 肌は人のそれとは思えないほどに硬く、温度がなかった。屍体のような冷たさも、生きている人間のぬくもりもない。医者として体験したことのない不可思議な感覚だった。ただ、命は喪われていないという確信だけがそこにはあった。

 

 喉の奥が引き攣って声が出せない。鼻の奥がつんとするのは随分と久しぶりだった。じわじわと熱いものが眼球の裏側から押し寄せてくる。どうしようもない。

 

 あふれ出る心を止める術はなかった。

 

 だってこんなの、止まるわけがないだろう。なんてサプライズだ。

 

「めちゃくちゃ撃たれてたし、ほっといて治るような傷でもなかったから……病院行こうって言ったんだけどね」

 

 やや疲れたような、しようのない弟のわがままを聞いた姉の声で、当時のことを思い出したのか苦く微笑んだ気がした。

 

「コラソン、『おれの医者はローだけだ』って言って聞かないんだもん」

 

 その言葉の意味が、ローには痛いほど理解できてしまった。

 

 小さなローを連れてコラソンが回った病院で受けた罵倒や拒絶は、誰より優しい彼の心すら確実に打撃していたのだ。

 次は、次こそはと希望を抱いて、その度に裏切られ、憤り、悲嘆に暮れていたあの人は、ローが思うよりもずっとずっと傷ついていた。本当に医者になる保証なんかどこにもなかったのに、オペオペの実を食べたローが医者になることを期待どころか確信して、自分の命がかかっている一大事でそんな突拍子もないことを口にしてしまうくらい、深く。

 

……もしかしたら、助かる気なんてなかったのかもしれない。

 

 命の終わりを悟ったがゆえの、ほんのわがままだったのかもしれなかった。けれど、そのわがままを叶えられるだけのちからを聞かされた方は、ミオは持っていた。

 そうなってしまっては、コラソンを知り、ローを知るミオには望みを叶えるしかなかったのだろう。コラソンの命の灯火を消さないように『固定』して、さりとて病院の対応や忌避感を肌身で体感しているから治療の無理強いもできず、となると本当にローが大きくなるまで待つしかない。

 

 不器用で優しい弟の最後になるかもしれないわがままを、不器用で優しい姉は持てるちからすべてを使って叶えたのだ。

 

 その結果がここにある。姉の助けを借りて、十一年かけてコラソンは辿り着いた。

 

 立派かどうかはさておいて、絶対にコラソンを治すことのできる医者になったローの前に。

 

「だから、ロー。コラソンを治してあげて」

 

 だから──ここから先は、ローの役目だ。

 

 

 

×××××

 

 

 

 どうしよう。

 

 僕は途方に暮れていた。

 

 箱の中に安置されてるコラソン(固定中)とご対面したローはその場に崩れ落ちて、何度か口を開閉させて、慌てふためいているようだった。

 十一年も死んだと思ってた恩人が実は生きていました、なんて事態に出くわしたらそうなるのも仕方がない。僕も多少、いやかなり狙ってやった部分もあるのでそんなローをちょっぴり微笑ましく眺めてました。仕込みの時間も十年超えという超長期的に仕掛けた悪戯大成功、みたいな満足感もあった。

 

 夢から醒めたような、現実を疑うような、そんなおっかなびっくりした様子でローはコラソンの愛称をつぶやき、焦れるほどにゆっくりした動作でその頬に指先で触れた。

 

 まだ魔法の解けていない肌は硬いけれど、ローが目の前の大男が現実に存在していることを伝えるにはじゅうぶんだったようで──途端、ぶわりと双眸に涙が浮いた。

 

「ゴラざん、ゴラざん、う、ぐっ、ゴラざん……!」

 

 嗚咽混じりにコラソンの名前を連呼しながらぼろぼろ涙をこぼし、ローは泣きに泣いた。大人の男がするなんて滅多になさそうな大号泣である。

 

 映画のワンシーンのような光景をやっぱり大きくなってもローはローのままだなぁ、と安堵を覚えつつ眺めていた。これでコラソンは大丈夫。確信を得ることができた。これからローはコラソンを治すために全力を尽くすだろうし、僕もようやくお役御免だ。とてつもない安心となんともいえない解放感があって、うんとのびをしたら少し身体が軽くなった気がした。

 あとはローが泣き止んだら『固定』の解除のタイミングを治療に合わせないと、なんて今後の算段をしつつ呑気にローの涙が終わるのを待つ姿勢になっていたのだけど……どうしよう、泣き止む気配がない。

 

 時間にすれば十分くらいだと思うのだけど、ローの泣きっぷりはこれまでどれだけ溜め込んできたのかというくらいぐずぐずのドボドボで途方に暮れてしまう。

 それはとりもなおさずローがどれだけコラソンを好きでいたかの証明であるのだけど、それにしても長い。気付けば陽も落ちきって、空がじわじわと藍色のグラデーションに染まっていく。

 

 なんかもうこのまま解除してローが泣いてる間に行っちゃおうかなと悪魔の囁きが去来しかけたけど、責任の一端は僕にもあるわけで。つうか、それをやらかしてまさかの事態にでもなったらローが舌噛んで事切れてしまいそうだ。

 

「ロー、ロー?」

 

 無粋とは重々知りつつも進退窮まって、とりあえずローの背中をぽんぽんと叩いて呼びかけるしかない僕である。

 

「ほらロー、おーい。コラソンを解除、ってか起こすよ? 起こしていい? というか、ローが治療してくれないとコラソン今度こそお陀仏だから、しゃきっとがんばっ──おぶうッ!?」

 

 脇腹直撃。泣き崩れていたローが何を思ったのか素早い動きで頭突きをかましてきた。とても痛い。

 そのまま渾身の力をこめてぬいぐるみよろしくギュギュギュ~と圧迫され、これではベアハッグもしくは鯖折りである。

 

「ローちょ、おま落ちつい──ぐえっ出る出る中身でる! あっまだ泣いてる! ごめん、ごめんー! 先に電伝虫で教えとけばよかったね!? ひええお願いだからそろそろ泣き止んで成人男性! あー! 違うんですクルーのひと! 決してお宅のキャプテンを悲しませる意図はなかったんです! むしろ逆! ただちょっとサプライズが過ぎて──」

 

 さすがに心配になって覗きに来たらしいクルーのひとが、僕らを見てびゃっと肩を跳ねさせながら「ウワー! 恩人がキャプテン泣かせてウワー!」とか叫んでしまった。ジーザス。

 それを聞きつけて気になっていたのかドアから数人のクルーが飛び出そうとしてぎゅうぎゅうに挟まっている。押しくらまんじゅう状態。「きゃ、キャプテーン!」「まさかの大号泣!?」「それもう恩人じゃなくね!?」とぎゃわぎゃわするハートの海賊団。

 

「きみらキャプテン大好きなのはいいけど僕に殺意向けるのやめて! 誤解なんです! むしろ悪いのコラソンだから!」

「うるせぇ賞金稼ぎの言葉が信用できるかー!」

「突然の正論やめよ!?」

「ってか誰だよコラソン!」

「おれの恩人だ!」

 

 がばっとローが顔を上げて怒鳴った。そこは反応すんのかよ。

 コラソンの名前を口に出したことでようやっと正気付いたらしいローは袖口でぐいっと目許を拭うと立ち上がり、船長の威厳でクルーたちを睥睨した。

 

「これからオペ室使うから準備しろ! 念のため気管挿管、輸液も用意しとけ!」

 

 突然の手術室使用の命令だが、そこはさすがハートの海賊団クルー。一気に真面目な雰囲気になると姿勢を正し『アイアイキャプテン!』と唱和してきびきびと動き出す。

 おお、今の今までコント集団みたいだったのにすごいな、このめっちゃ頼りになる感じ。医療ドラマとか国境なき医師団みたい。……それはそれとして、僕の服がべちょっとしてるのは彼の名誉のために黙っておこう。

 

 慌ただしく艦内に戻っていくクルーたちを見送って、ローはこちらを見下ろした。鼻のてっぺんとか赤いし、まぶたも心なし厚ぼったくなっているがイケメンなのはどういう理屈だろう。

 でもそこには皮肉めいた空気はどこにもなくて、緩く笑んだ頬には自信が満ちあふれているように見える。

 

「コラさんをオペ室に運ぶと同時に『固定』の解除を頼む」

「お任せあれ」

「それと、──」

 

 ローは帽子をむしり取ってがばりと深く頭を下げた。

 

「ありがとう、ミオ。コラさんの願いを叶えてくれて」

「それはコラソンが言うべきだろうけど……うん、どういたしまして」

 

 そして僕も頭を下げた。

 この願いはローが医者になってくれなければ成立しなかった、いわばバクチのような願いだったのだ。

 

「こちらこそありがとう、ロー。立派な医者になってくれて」

「立派かどうかはわかんねェけど、コラさんを完璧に治せる医者であることは保証する」

 

 なんせ異名が『死の外科医』なので、立派かといわれると迷うのかもしれない。

 異名が『腕の立つ外科医』とかだったらよかったのに……いや、それはただの某黒い外科医だわ。法外な治療費を要求して最後に返しちゃったりする憎い奴。

 益体もないことを考えてくすりと笑いながら顔を上げて、僕は片手でコラソンを示す。

 

「コラソンのことよろしくね。立場のこともあるだろうけど、十一年すっ飛ばしてるから説明とか大変だぞ~」

 

 実際、僕はとても大変でした。あの時の教育係隊長、もとい先生たちには本当にお世話になった。

 

「ああ、任せとけ」

 

 それはむしろ楽しみであるとでも言うように、ローは含み笑いを漏らす。……これ、コラソン治療終わっても海軍戻れる可能性あるのだろうか。逃がす気なさそう。

 あーでも十一年経ってるからもう除籍されてるか? どーなんだろそこんとこ。

 

「おれには、あんたが時々天使に見える」

 

 なに真顔で世迷い言口走ってんだ。

 

「ひとを思想顕現物扱いすんなし。せめて魔法使いにして欲しい。むしろ天使というならコラソンでは?」

「それな」

「だよね。ほれコラソン運ぶんでしょ? ストレッチャーとかある? 手伝おうか?」

「いや、こうする」

 

 同時、ローを中心に展開される薄い膜。能力発動の合図だ。確か"ROOM"だったか、このサークル内にいるものはローの意のままに改造することができる。

 先日僕の足がぶった切られても血の一滴も出なかったのは能力の特性ゆえだ。超人系・オペオペの実の『改造自在人間』。

 

 ローはくい、と指先を動かしながらつぶやいた。

 

「"シャンブルズ"」

 

 瞬間──僕とロー、それにコラソンは艦内に移動したらしかった。いきなりの場面転換にじゃっかん戸惑う。

 しらしらと明るい蛍光灯の下、部屋に充満している消毒液の匂いと、目の前にはすでにコラソンが大きな手術台に乗せられている。

 周囲にある医療器具のコードを踏みそうになり、慌てて後ろに下がるとドアにぶつかった。ローは手際よく手袋をはめて手術台の前に移動するとこちらを振り向く。

 

「いいぞ」

「あ、うん」

 

 手術着とか省略していいの? と思ったのだけど、この世界の手術現場をよく知らないのでなにも言えない。ローならコラソンの手術でヘマしないだろ。

 僕はローに言われるがまま、コラソンの『固定』を解除しようとして、ふと。

 

「あの、ロー」

「なんだ」

 

 早く容態を確認してしまいたいのか、ちょっとイラッとした感じのローに外を指差してみせる。

 

「コラソン解除したら、ボンチャリ回収してきていい? あれ大事なんだよ」

「ああ、あの変なやつか。それはいいが……戻って来るのかよ」

「変には大いに物申したいけど、経過が気になるからお見舞いには来るつもりです」

 

 その微妙な返事にローは一瞬顔をしかめたが、今はコラソンのことで頭がいっぱいいっぱいなのだろう、勝手にしろとばかりに顎を引いて頷いた。

 

「では」

 

 解除の方法は簡単だ。頭の中にスイッチをイメージして、それをオンにすればいい。

 今回は分かりやすいようにぱきり、と指を鳴らした。

 

 瞬間、コラソンは一度ぴくりと身体を揺らし、喘ぐように口を開けて大きく呼吸した。

 

「……ッは、ぁ──」

 

 しかしそれから微動だにしないところを見ると、意識はまだないらしい。

 

「ッ、」

 

 コラソンの反応にローはひゅ、と呼吸を止めたがすぐに医師としての顔つきになると動き始めた。スキャン、とか聞こえたのでまた能力を行使しているっぽい。

 それを契機にしたように準備万端整えた何人かのクルーが手術室に入り、完全にお邪魔虫になった僕は入れ替わりに手術室から出て、近くのクルーに道を聞きながら『ポーラー・タング』号をあとにした。

甲板になぜか注射器やメスが転がっていたのは、たぶんローの能力で自分たちと道具を『入れ替えた』ということなのだろう。

 

 ローの判断力がにぶっていたのは、あるいは幸運だったのかもしれない。

 

「ばいばい、ロー。コラソンをよろしくね」

 

 コラソン箱はそのままに連結部分をはめ直して、ボンチャリに跨がった僕はポーラー・タング号にひらひら、と手を振った。

 

「コラソンも、ローと一緒に幸せになってね。……今度こそ、さ」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20.策謀パルティータ

あと一話くらいで諸島編はおしまいの予定です


 

 

「あー、これかな?」

 

 とぷりと陽の落ちた薄暗がりの隅っこで、停めたボンチャリにペンライトを当てていたミオはあの時のバーソロミュー・くまの怪訝そうな表情にようやく得心がいった。

 エアバッグ代わりに仕込んだ衝撃貝が、すでに衝撃を内包している証としててっぺんの突起が沈んでいる。よほどの衝撃にも耐えるらしいとは聞いていたが、能力者のものまで範囲内とは恐れ入る。なるほど、これが正しく機能したからボンチャリは無事で済んだのだ。

 

 しかし一度衝撃を吸い込んだ衝撃貝は、一度中身を吐き出さないとエアバッグとして使用できない。どころか、今内包されている衝撃が暴発でもすればボンチャリの大破は確実である。

 そんな危なっかしい劇物と化してしまったものをいつまでもくっつけておけないので、ミオは手早く衝撃貝を外して懐にしまい込んだ。どこかで中身を放出したいものだが、どこでどうやれば安全だろう。

 

 まぁ、それは後で考えよう。今は目の前のことに集中しなければ。

 

 番号一桁の危険地帯にひっそりと居を構えている『情報屋』の前でミオは大きく息を吸って、吐く。『情報屋』はけっこう曲者なので、精神統一が必要なのである。

 

「おっし」

 

 マングローブの根の隙間に据えられた扉をぐっと押し開きざまに潜り、中の木製の階段を慎重に下りていった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 半地下にあるそこは広間のような空間である。

 頭上には梁や屋根板が剥き出しになっており、明かり取りの窓から差し込む月光が微細な彩を描き出す。

 

 

──きりぃ……ぃぃん──

 

 

 客人のおとないを告げる風鈴が鳴り響き、それは涼しく、甘く、懐かしい。

 足元は冷たい石造り。部屋の半ばまでは歩いて行けるが、中途からは風呂というには浅く、プールというには狭い水場があちらとこちらを隔てるように設えられている、

 密やかに澄んだ水をたたえ、透かした底にはとりどりの準鉱石。水晶だの瑠璃だの月長石だのといった鉱石がしらしらとした月光を浴びて、缶の中のドロップでも無造作に撒いた風に存在を主張していた。

 

「──おや。早うございますね」

 

 美しい声だった。瑞々しいのに練れて成熟した艶が匂うような、あやしの声音。

 

「今少し、遅うなると思っておりましたのに」

 

 ゆるりと眇められた瞳は、ぬめるような金のいろ。

 肩口から零れた黒髪も弱い光の中にも艶を孕んで美しく、抜けるような白皙のうなじにかかるそれはいかにもぬばたまと呼び習わすに相応しい。

 そして、水場に据えられた寝椅子に悠々と伸びた肢体。襦袢から伸びる手足はすんなりと長く、適度に膨らんだ胸とくびれた腰はモデルも裸足で逃げ出しそうな黄金律で形成されていた。

 裸足の指先を水に遊ばせるさまは吸い込まれそうな魅惑に満ちており、男となれば拝んで寿命も延びようかといった具合だがミオからしてみれば知った顔、馴染んだ相手なので特に感慨はない。

 

 そんな傾国然とした完璧な女性が部屋の主にして件の『情報屋』──アオガネである。

 

「夜分遅くになったことは謝ります。でも、アオガネさん。あなた、僕にエースのことをすぐに伝えてくれなかったでしょう」

 

 挨拶もそこそこに直球で本題をぶつけると、あっさりとアオガネは頷いた。

 

「ええ。いかな同郷のよしみとは申せ、できぬ事情がありまして」

「事情?」

 

 眉を八の字にしながら反芻すると、アオガネは楚々とした動作で傍らの水煙管を引き寄せ、吸い口を持ち上げながら吐息のように。

 

「あなたの二倍の値段で白髭の親父様から()()()ました。世間一般に露見するまでどうか話してくれるな、と」

「──」

 

 言葉の衝撃で目の前が揺らぐようだった。

 それは予想していたことでもあったし、レイリーから言われた通りのことを実行に移していたということでもあった。

 けれど、それでショックを受ける受けないは別の話である。分かっていてもきつい。

 

「愛されておりますね、ミオ」

 

 それを知っているだろうにしゃあしゃあと述べるアオガネは底意地が悪いというかなんというか。

 じろりと睨め付けてみるものの、彼女はどこ吹く風。

 

「わたくし、白髭の親父様にはご恩があります。頼み事を通り越しての脅しともなれば、とてもとても」

 

 するすると優しい紫色の煙を滑り落としながらそう続け、ひたりと双眸がこちらへと向けられる。

 

「もし、それを押してもなお聞こうと、知ろうとするのなら……」

「なら?」

「言伝を預かっております。白髭の親父様から、ミオ、あなたに」

 

 言伝。

 

 新聞に報じられれば、白ひげがどれだけ隠し通そうとしても知られてしまうのは確実である。そうなれば、ミオが情報屋を問い詰めるのはごく自然な流れだ。

 白ひげはそこまで見通していたから、アオガネに言伝まで残しておいたのだろう。

 

「お伝えしてからのことは、ようく考えるのですよ」

 

 まるで子を心配する母か教師のように告げて、アオガネはミオの反応を待つことなく上半身を起こしてそろりと手のひらで口元を覆う。

 

 すると──

 

『──生憎、『死にたがりのクソガキ』を連れ歩けるほどヒマじゃねェんだ』

 

 低く、落ち着いた、けれど厳めしい男の声である。

 自然と背が伸びて謹聴の姿勢を崩せない。声色を真似る、どころの話ではなかった。

 

『おれァよ、チェレスタの野郎にお前を託されたんだ。ああ、意味を履き違えてくれるなよ。お前はろくでなしのアホンダラだが、おれにとっても無鉄砲で可愛いばか娘だ、ミオ』

 

 なんの工夫かまじないか、静かな声は紛れようもない白ひげの──エドワード・ニューゲートその人の声である。

 アオガネの背後に当人が立っているような錯覚すら覚えた。

 

『嬉々としておっ死ぬようなところに、わざわざ大事な愛娘を近寄らせるわけにはいかねぇ。これに関してはおれだけじゃなく『白ひげ』の総意だ。エースのことは、おれたちに任せとけ』

 

 それはエドワード・ニューゲートが彼女を『託された』がゆえの責任で、義務で、紛れもない愛情だった。

 老獪な白ひげはミオの持っている気質を、魂の底にまで刻みつけられている宿痾のほぼ正鵠を見抜いていた。

 

『……後生だ、邪魔だから引っ込んでろよ。ついてきてくれるな』

 

 だからこそ、ミオが『命を賭けるに値する』場所へ連れて行くことを良しとしなかったのだ。

 

『それでも、この争いにくちばしを突っ込もうってェなら──そこまでだ』

 

 途端、声が威圧を帯びる。

 ぐびりと喉が変な音を立てた。伝言とは思えない、大船団の頭たる厳格な船長そのものの声はミオを肝胆から寒からしめる。

 

 『白ひげ』は、冷徹にひとつの宣告を告げた。

 

『その日、その時限りで、『娘』でなければ『親』でもねェと、そう覚えておくんだな』

 

 それは、事実上の絶縁宣言だった。

 

 これ以上ミオがエースの救出のために動こうとするのなら、まして処刑日に現場へ現れるようなことがあれば、ミオは完全に『白ひげ海賊団』から切り離される。

 先に総意であると明言されている以上、『白ひげ』の息のかかったすべてに所属する権利を永久に喪うことを意味していた。そうなれば、もうエースの部下にも、マルコの部下にもなれない。どころか、傘下のひとつに加わることすら叶うまい。

 

「……言伝は、ここまで」

 

 アオガネは口元を覆っていた手を外し、ふうと吐息をひとつ。

 ミオはいつしか俯いて、身じろぎ一つ取れなくなっていた。言伝の意味、含まれた意思、心の全てが臓腑の底まで染み込んでは重く広がっていく。

 

「白髭の親父様の言いつけを守るなら、よし。そうでなければ……さて、」

 

 どうするつもりと、アオガネの視線が問いかける。

 ほんのりと吊り上げられたくちびるはミオの反応を愉しむような、とびきりの芝居を待ちわびるような諧謔、滲ませて。

 

「……」

 

 血の気が引くほどに強く拳を握り、下唇を痛みを感じるほど強く噛みしめる。

 『白ひげ』の言葉は理解した。彼らがどれだけ自分を思い、気遣い、愛してくれていたのかを改めて痛感した。『白ひげ』がミオを心から愛していて、エースのためなら危険を承知で飛び込んでくることを確信しているからこそ、最後通牒を突きつけてでも阻もうとしていることも。

 

 ここが運命を決定づける──最後の分水嶺だと分かっているから。

 

 海軍と海賊がぶつかり合う戦場なんて危なくてしょうがないから、大事な娘を近寄らせるなんてとんでもない。とても単純で分かりやすい動機である。

 しかも、ミオがそんな指示ぐらいで素直に言うことを聞くようなタマではないことぐらいお見通しなので、駄目押しに勘当なんて切り札まで繰り出してきたのだ。

 

 理不尽とは、思わなかった。むしろ、ここまで言わせてしまったことが申し訳ないと思う。

 

 本当に大切だから、どうか来てくれるな。

 

 そんなエドワード・ニューゲート、ひいては『白ひげ海賊団』の願いを踏みにじってでも我を通そうとするのならば──絶縁などせずとも、もうミオは『娘』ではいられない。

 盃も交わさず、仁も通さず、義にも報いぬ不届き者がこの先『白ひげ』の『娘』を名乗ることなど、間違ってもあってはならない。何よりミオ自身がそれを許容できない。

 

 彼らは強い。純然たる事実だ。

 

 心配せずとも、彼らはエースの奪還を果たすだろう。世に名を馳せる四皇の『白ひげ』が任せろと請け負ったのだ。それだけの戦力と実力を兼ね備えた海賊団であることは、ミオがいちばんよく知っている。

 ものの役に立つかどうかも分からない馬鹿ひとりが参戦したところで戦局が有利に転ぶわけがない。むしろ邪魔になる可能性すらあった。ミオの参戦なんか誰にも……もしかしたら、当のエース本人にだって望まれていないのかもしれない。わざわざ言伝まで預けて頼むから引っ込んでいろと言われたのだから、大人しく引っ込んでいるのが道理である。

 

 だったら、その通りにすればいい。

 

 エースが帰ってくることを期待して、待っていればいい。簡単だ。そうすればミオは『白ひげの娘』のままで、何も変わらない生活に戻れるだろう。

 分かっている。理解している。共感すらする。大事なひとにはできるだけ傷つかないで欲しい。危ないところになんか行かないで、安全な場所で待っていて欲しい。それは誰だってそう考える。ミオだって同じだ。

 

 だけど。

 

 俯いたまま、ミオはパーカーのポケットに手を突っ込んで小さな革袋を取り出した。さして大きさはないものの、ずしりと重たいそれをアオガネ目掛けて放り投げる。

 

「?」

 

 危なげなく受け取ったアオガネは革袋をしげしげと見つめ、手入れの行き届いた指先で袋をつまんで逆さにすると中身を手の平で受ける。

 ひとつひとつが柔らかな布でくるまれたそれをほどいてみれば、飛び込む輝きは目も眩むほどの鮮烈さ。

 

「おや、まあ」

 

 ルビー、オパール、アクアマリン。

 

 粒は大きく、純度は最高。合わせてみっつ、『そこそこの船ならば即金で買える』だけの価値を秘めた宝石がアオガネの手の平の上に顔を出していた。

 

「……その額で出せる、現在の『白ひげ』の情報、あるったけ吐き出してください。戦力、規模、それぞれの船団の潜伏箇所。ああ、エースと海軍の動きも併せて頂けますか」

 

 顔を上げたミオの瞳は、不思議なほどに凪いでいた。

 透徹な意思の揺るぎなさを感じ取り、アオガネは驚いたように一度まばたきしてから。

 

「これはまた、思い切ったこと。白髭の親父様の言いつけはよいのかしらん?」

 

 試すような口ぶりに一転、ミオはにぃと口の端を吊り上げた。

 紙のような顔色で、くちびるすら青ざめて、けれど瞳には炯々と覚悟を募らせて。

 

「そりゃあ、よくはないですよ。もちろん」

 

 いいわけない。

 

 ミオが『白ひげ』にどれだけの年月お世話になってきたことか。『白ひげ』にどれだけの恩義を感じているか、どれだけ彼らが好きで大事でかけがえのない存在なのか、誰あろうミオが世界でいちばん理解している。

 

 最初の日を覚えている。ミオに根ざす『白ひげ』の原風景だ。目が覚めて。知らない船で、人で、自分は包帯だらけで。びっくりした。

 荒くれ者の代名詞みたいな海賊なのにお父さんはあったかくて、大したもんだって褒めてくれて、おれの娘になれって言ってくれた。それからずっと『家族』でいてくれた。それはあそこにいたみんながそうで、帰ったらおかえりって迎えてくれて、怪我をすれば心配してくれて、無茶したら叱ってくれた。

 

 みんなの笑顔や、怒ったときの顔や、言葉や、香りや、温度。数え切れないほどの昼と夜、朝と夕焼け、雨や、嵐や、渡る潮風を覚えている。

 

 彼らはミオの命を救い、傷を癒し、稽古をつけ、不器用でも精一杯の愛情と知識を与えてくれた。時に優しく、時に厳しく、笑って怒って喧嘩して、強く明るい道しるべになってくれた。

 

 その全てに今、ミオは背を向けようとしている。

 

「こわいに決まってるじゃないですか。べそかいてないだけで褒めて欲しいぐらいですよ、実際」

 

 考えるだけで足元が真っ暗になる。膝から力が抜けて、立っていられるのが不思議なくらいだ。胸がつぶれたように痛い。服の上からその箇所を掴む。指先なんか冷え切ったままで震えが止まらない。鼻の奥がつんとするのを堪えて、涙が落ちそうになるのを全力で押し殺した。

 

 わがまま通して戦場に行ったって四面楚歌だ。

 

 海軍に楯突くなんて御政道に反する真似をするんだから賞金稼ぎ稼業はおじゃん。七武海が招集されてるからドフラミンゴとぶつかる可能性だって高い。お父さんからは勘当されて、援軍どころか孤立無援のお先真っ暗が約束されているのだ。

 怖くないはずがない。苦しくないわけがない。悲しくないわけがない。寂しくないわけがなかった。

 

「でも、()()()()はエースを助けた後で困ればいい」

 

 けれど、それを上回って余りある感情があった。

 

「後悔するのも、絶望するのも、泣いて喚いて這いつくばって許しを請うのも、ぜんぶ、エースを取り返した後にします」

 

 口にしている間に、ふつふつと滾るものがある。腹の底から力が湧いて、揺らぎそうになっていた足に力が戻って来る。

 面白そうにこちらを見ているアオガネをはったと見据え、ミオは感情のままに声を出した。

 

「……馬鹿にすんな」

 

 なんなんだ、みんなして。

 

 『白ひげ』の娘が、危ないから、命のやり取りをするから、寄ってたかって爪弾きにすると言われてはいそうですかと頷くと、家族じゃなくなっちゃうのはいやだからシャッキーの店に戻るとでも──本気で思っているのか。だとしたら。

 

 ふざけんなよ。

 

 

──そんなに、僕は頼りないか。

 

 

 邪魔にしかならないからすっ込んでろと断じられるほどに、エース救出の責任の端っこすら負わせようとも思えないくらいに?

 

 メラメラの実の能力者で、テンガロンハットとそばかすがチャームポイントで、笑顔がお日様みたいな男の子。いつの間にか僕に懐いてくれて、なにかと部下になれって勧誘してくれた。

 いつでも強がりばっかりで、食いしん坊で、けっこう寂しがり屋で、ほんとは誰より繊細な、うちでいちばんちびっこの──ミオが守らなければならない『家族』。

 

 彼には未来がある。笑い合える仲間がいて、目標があって、努力している。ミオはそれを知っている。エースは報われなければならない。幸せにならなきゃだめだ。エースじゃない誰かがエースの寿命を決めるなんてことはあってはならないと強く思う。

 

 それを。

 

「家族なのに、家族だから、来なくていいと言われるなら──そんな肩書き、熨斗つけて返上したって構わない」

 

 遠ざけるのが『白ひげ』の不器用な愛情だということは理解した。だが、納得とは別問題。

 

 海軍なんかが、日時を区切って公開処刑なんて冗談じゃない。エースを馬鹿にされている気がしてどうしようもなく腹が立つ。

 

 待ってるだけなんて、そんなのは無理だ。できることがなくても、ほんの少しでも何かを見出したい。意味なんかなくても、手を伸ばしたい。そこにあるかもしれない可能性すら潰すなんて真似はできない。役に立てるかどうかなんて分からない。それでも動けるなら、行かなければ始まる前に終わってしまう。

 

 それを邪魔するような言うことなんか、聞けません。だってミオは『白ひげ』の娘だ。

 海賊の娘がしおらしく座して待つわけがない。気に入らないことがあったら力尽くで解決します。略奪強奪お手の物。使えるものはなんでも使ってエースの命をぶんどります。

 

 愛情の方向が相容れないなら、仕方がない。

 

 よろしい、ならばこちらも宣戦布告だ。

 

 ミオは笑う。きっと、獣が浮かべる笑みがあるならこんな顔になるのだろう。余裕も嘘もない必死の笑み。

 

 

「僕の『家族愛』を舐めるなよ──白ひげ海賊団!」

 

 

 エース。ごめんね。

 もう予約そのものが成立しなくなっちゃうけど、それでも、ちゃんと向き合って言うからさ。マルコさんにも。

 

 それすらできないろくでなしにはなれないし、なりたくないんだ。

 

 だから。

 

「だから、アオガネ。僕にエースに辿り着くための情報を寄越せ」

 

 靴のままずかずかと水面を踏み荒らし、ミオはアオガネのすぐ間近まで近付くと、濡れる裾も構わずに屈んで視線を合わせ──脅した。

 

「あなたの本分を全うしてくださいよ、ねぇ──(はね)持つ蟲の女王様」

 

 動物系ムシムシの実"モデル・女王蜂"。

 

 アオガネの情報収集における速度は他の追随を許さない。そして、その精度と確度において無類の信頼を誇るのはこの悪魔の実の能力に起因している。

 ミオとて全てを把握しているワケではないが、アオガネが得たのはその虫としての能力というよりは『女王蜂』としての特性──蜂からの情報獲得である。操るとなれば多少の制限はあるようだが、彼女は蜂と名の付く無数の虫から情報を引き出すことができる。新世界への玄関口に居を構えているのもその能力を最大限に生かすためだ。

 

 シャボンディ諸島に停泊している数多の船にほんの数匹蜂を忍び込ませて様子を探る。はずれならば捨て置き、気になるようならそのまま端末として引き続き潜ませておけばいい。目星さえついていれば、たとえ蜂が寿命で死んでも最寄りの島から新たな蜂を送り込めば事足りる。

 

 大量に押し寄せる情報を常に整理、統合するのは苦行を通り越して発狂してもおかしくないように思うのだが、その辺りは能力が補佐しているのか彼女の本来の気質ゆえなのかあまり問題ではないらしい。

 

 いわばアオガネは世界の各地に根を張った巨大なネットワークの集積所であり、たったひとりのハイヴ(大樽)なのだ。パソコンもネットも存在しないこの世界での優位性は計り知れない。

 

「──ほ」

 

 そんな彼女はミオの言葉に瞳孔をきゅうと()()すぼめ、口の端を吊り上げうっそりと笑った。

 

「ほ。ほ。ああ、よい啖呵。なんとも、胸の空くような宣戦布告。とても、とぅても──よいですよ、素敵だこと。白髭の親父様の娘ですもの、そうでなくては、の」

 

 堪えきれぬとばかりに伸ばされた指先がミオの頬に触れる。

 顔色を失った肌よりなお白く、ひんやりと冷たい感触がゆるゆると輪郭をなぞり、爪の先がかすかにおとがいをつついた。

 

「あなたの望むもの、この青金(アオガネ)が謳ってあげましょう。代価も上々、確かに受け取りましたからね」

 

 幼子をあやすように甘い声音で囁いて、黄金のような光沢を溜めた眸が愛おしげに細められる。

 かすかに鼻腔をくすぐるのは、深山の奥でゆらめく狭霧めいた水の香り。涼を帯びて、懐かしさを孕んだそれが呪いのように引き上げる追憶の情。

 

「ほんに……この(めずら)かな世は面白きこと。長虫に翅がつく日が来ようとは、お釈迦様でも思いますまい」

 

 かつてどこぞの御山の主だったというこの妖しの姫は、いつかの昔に山を追われ、流れ流れて──何の因果か宿業か、この世界に迷い出たらしい。

 そこで見つけた『珍かな果物(みずかし)』を興味本位で口にして、あまりのまずさに吐き出そうとしたとて後の祭り。たったの一囓りでも悪魔の力は彼女に宿り、以来、アオガネは『情報屋』としてこの諸島に居を構えている。

 

 時代は異なれど故郷を等しくするミオをアオガネは気に入り、こうして交友を続けてくれている。

 アオガネはひとしきりミオに構って満足したのか、するりと立ち上がると水面を揺らすことなくふたふたと小さな戸棚に歩み寄り、籠に宝石を丁寧に置いて引き出しから帳面を取り出した。

 

「とは申せ、白髭の親父様が厳命なさったとなれば、あなたが何処を訪ったところで門前払いが関の山。どうなさるおつもりか?」

 

 それはまぁ、そうだろう。

 

 縁切りまで仄めかされている現状、ミオがのこのこ『モビーディック号』や傘下の海賊団に向かったところで叩き出されるのがオチだ。

 ミオは腕を組んで少し考え、ややあってから顔を上げた。

 

「……お父さんの居場所より傘下の、そうだな、エースのことを『とびっきり助けたいと思ってる船長』がいい」

 

 何よりも、誰よりもエースの救助を第一義に考えている人物。

 それは誰でもそうだと言われるかもしれないが、更に付け加えるならば。

 

「それで、理性より感情が勝るひと。エースを助けるために『多少の無茶』をしでかせる、僕のことなんかより──エースのことだけで頭がいっぱいのひと」

「ははぁ、なるほど」

 

 それだけで得心入ったのか、アオガネは帳面をめくる手を止めて、こちらへと見せてくる。

 

「こちらの殿御(でんご)なら、あなたの望みに叶うのでは?」

 

 昔の大福帳のような帳面に綴られた名前を見て、ミオは迷わず頷いた。

 

 半ば直感にも近かった。

 

 彼なら、きっと。

 

「ですね。この船長の海賊団の所在を最優先でお願いします」

「承りました。ですが、少し、時間は頂きます。そうさな、明後日の朝までお待ちやれ」

「わかりました。なら、その頃にまた来ます」

 

 それからミオはアオガネから現在の海軍の状況や、知る限りの『白ひげ』の情報をざっと聞いてからその場を辞した。

 

 一応、約束だったので麦わらの母船にボンチャリを飛ばして行ったところ、先日のオークション会場で見かけたトビウオライダーズが彼らの船を守っていて大層驚いた。

 最初はまた麦わらの船を狙った輩と勘違いされまくったのだが、レイリーに頼まれたのだと告げるとすぐに警戒を解いてもらえた。聞けば、彼らのボスである『鉄仮面のデュバル』は『黒足のサンジ』に大変な恩を受けたらしい。

 

「ところで、おれってハンサムですよね?」

 

 新参だが『音無し』の噂を知っていたらしいデュバルはなぜか顔面を不気味に歪め、白目で問いかけてきた。

 どうやらウィンク? らしきものを繰り出したかったようなのだが、慣れてないのか壊滅的に才能がないのか、ただの百面相である。

 

「その顔だと判別し難いんですけど、おそらくそうなのでは?」

「ですよね! 聞いたか野郎共! おれ、ハンサム!」

『イエス! ハンサム!』

 

 彼の仲間たちが一斉に拳を突き上げ、声高にハンサムハンサムと囃し立てる様子がなんだか面白くてミオはくすりと笑うことができた。

 

 沈みきっていた感情がほんの僅か、その時だけは浮上してくれた。

 

 トビウオライダーズの底抜けな明るさは、少しだけ、ミオの心を軽くしてくれたのだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21.買い出しオペレッタ

次で諸島編は終了です


 

 

 夜明けを待って、麦わらの母船を守っているトビウオライダーズに一言断りを入れてミオは店に戻った。

 傷の手当てをしてからレイリーの部屋の机に約束通りの金額とお礼の手紙を置いて、仮眠を取るために自室のベッドに潜り込んで墜落するように眠った。夢も見ないほど深い睡眠だった。

 

 起きたら夕方だった。

 

「体内時計が変になる」

 

 げんなりつぶやき、しゃっきりするためにシャワーを浴びて、タオルで髪の水気を抜きながら猛烈に思考する。コラソンのことも一区切りついた、とのんびりするヒマもないのだからままならないものである。

 しかし、面倒というのはまとめてやってくるのが常だということも、後悔したくなければせいぜい強がり吐いて踏んばるしかないというのも分かっている。

 

 明日の朝、アオガネからもたらされる情報によってはすぐに動かなくてはならないので、出かける準備を整えてシャッキーに挨拶してから外に出て、ボンチャリを走らせる。

 

 エースのためにできることはなんだろう。戦争を止められるならそれが最善だが、既にその時機は逸している。エースの公開処刑が決定、世間に報じられた時点で詰みだ。

 もし、それをどうにかしようと思ったらバナロ島で対決する前にエースを止めるかティーチをどうにかするしかなかった。

 

 エースを奪還するなら、戦争中の混乱に乗じるしかない。

 

 それだって確実ではないけれど、もう他に思いつかない。せめてエースが収監されているインペルダウンの内部構造や看守の数が分かっていればミオにも与するチャンスがあったかもしれないが、現在の乏しい情報を頼みに突撃しても勝ちの目は限りなく薄い。行ったっきりにしかならない。それで下手を打って処刑時間に間に合わなければ目も当てられない。

 うっかり迷い込んでしまいました、が通用するような場所じゃないのだ。仮にも刑務所である。

 ついでにインペルダウンにはミオがとっ捕まえた海賊が一定数収監されているはずなので、どう考えても恨みを買っている。そういう輩が敵に回って邪魔されるとエースの奪還どころの話じゃなくなってしまうのでとても困る。

 

 とすれば、あとはやっぱり『白ひげ』のどこかと『交渉』して相乗りさせてもらうくらいしか手段がなくなってくる。

 マリンフォード近辺に隠れ潜んで処刑場のあたりで海軍に紛れることも考えたものの、規制が入って弾かれる公算の方が高い。海軍だってさすがに一般人に危害が加えられる可能性は徹底的に排除しようとするだろう。今後の情報統制にも関わる。

 

「……」

 

 曲がり角でちょっと考え、ミオはいつもの商店街とは違う方へハンドルを切った。

 海賊なんかも出入りできる商店街ではなく、海軍の監視の目がよく届く方面の商店街だ。誰が何を言わずとも戦争の空気というのは自然と広がり、それは肌感覚で伝わってくる。海軍の動きが知りたかった。

 食料品やちょっとした雑貨、出発に必要な諸々を購入したら結構な量になってしまった。

 早めの夕食も兼ねて購入したホットドッグをテラス席でもりもり食べてアイスティーで流し込む。

 

「ひと、多いな」

 

 抱いた感想をぽつりとこぼした。

 海軍本部にほど近いこのグローブは安全面でいえばピカイチなので、いつも人は多いけれどそれにしたって変だ。道を歩く親子連れや年若いカップル、老人の数がなんだか多すぎる気がする。

 そこまで考えて気付いた。そうか、避難してるのか。処刑場のあるマリンフォードには海軍の家族が主に住んでいる居住区があったはずだから、気が早い者はすでに避難を始めているのだ。処刑場が戦場になるとすれば、そこは世界でいちばんの危険地帯だ。

 

 海軍だって人である。誰かの親だったり、誰かの子供だったりするのが当たり前で、大切な人たちを遠ざけたいと考えるのはごく当然の流れである。

 

「……避難」

 

 させたかったんだろうなぁ。

 

「あらら、『音無し』のちびちゃんじゃないの。なんでこんなところにいんの?」

 

 沈思に潜りそうになった意識がどことなくイヤなものを見た、という感じの声で引っ張り戻される。

 弾かれたように上げたミオの顔からサーと血の気引いていった。やべぇ。

 

 見た目は長身痩躯の男性である。

 額につけっぱなしになっているアイマスクや茫洋とした雰囲気のせいか威圧感は感じられないが、その実力は折り紙付き。

 

「青キジ、さん」

 

 なんせ海軍の誇る最大戦力の一角──大将『青キジ』その人である。

 そしてミオにとってはできればドフラミンゴと並んで顔を合わせたくない人物である。なんせ勘違いで冤罪をバラ撒いてしまった相手であるからして。

 

「その節は申し訳ありませんでした……」

 

 反省はしているのでしおしおと項垂れるミオを見下ろして、青キジは片手をひらひらと振って適当に答えた。

 

「いやァ、昔の話だからもういいけどね。……おれ、未だにあの島出禁だけど」

「すいません、ほんと、すいませんでした」

 

 やらかした自覚があるため、冷や汗流しながらぺこぺこバッタと化して平謝りするしかないミオである。

 冤罪でひとつの島から閉め出された当人としては原因を作った張本人になんて目も合わせたくないだろうに、青キジは何を考えたのかミオの向かいの席にごく自然な動作で腰掛けた。勘弁して欲しい。唐突に登場した有名人に周囲の人がざわめき、畏怖とも敬意ともつかない感情で視線を送っている。

 それを気にした風もなく、青キジはミオの傍らにある荷物へちらりと視線を向けた。

 

「その大荷物ってことは、ちびちゃんも避難すんの」

 

 ちびちゃん呼びには物申したいが青キジと比べれば小さいし、負い目があるので言えない。せっかく生前より身長が伸びたというのにこの世界の人々の発育が良すぎてぜんぜん大きくなった気がしない。

 なんなんだろう、空気に成長促進剤もしくはプロティンでも含有されているのだろうか。

 

「避難というか、まぁ、はい」

 

 諸島を離れるつもりなことは間違いないけれど、避難というよりは突撃というか交渉というか……判断に迷うところである。

 

「ふぅん? そこらの海賊よかよっぽど腕の立つ『音無し』が、逃げる必要あるのかねェ……」

 

 なんだかとても意外なことを言われた気がして、ミオはためらいがちに言っていた。

 

「海軍大将からそう言って頂けるほど強くないと思います、けど」

 

 思い返せば、自分の周りは強いひとたちばっかりである。

 白ひげなんて言わずもがなだし、稽古に付き合ってくれたマルコやビスタ、ジンベエ親分たちにだってそうそう勝てた試しがない。

 エースも能力が能力なのでちっとも稽古にならないし、かといって自分の能力まで使うといつまで経っても勝負がつかず、ついこの前だってローに足をちょん切られたばっかりだ。

 

 比較対象が甚だおかしなことになっているとは露ほども思わず、負けっぱなしの日々を思い出してミオはしょんぼりぼやいた。

 

「喧嘩売るにしても確実になんとかなる海賊しか狙えませんし、その、もっと精進します」

「ちびちゃん自己評価低すぎじゃない?」

 

 いやいやそんなと首を振るミオだが、十年以上ほぼソロで活動しているにも関わらず五体満足でいられるだけで、それは既に実力があると言っているようなものである。

 謙虚を通り越してやたらと自己評価が低いらしい『音無し』だが、この自己評価の低さが危機管理能力に繋がっているのかもしれないと青キジはぼんやり考えた。能力に頼り切りになることもなく、油断も慢心もすることなく己に誠実な実力者というのは貴重である。

 

「ま、いいや。それで、ちびちゃんって海軍に協力するつもりある?」

「は?」

 

 夢にも思っていなかったことを出し抜けに問われて、ミオはぽかりと口を開けたまま固まった。

 青キジの表情はうすらぼんやりして読みにくいことこの上ないが、どうも本気で言っているらしい。

 

「いや、ホラ、白ひげ傘下の賞金額は知ってるでしょ。いくつか融通してもいいけど、どう?」

「どう。て」

 

 白ひげの隊長とか言い出さないあたり、どうやら戦争に直接参加させたいワケではないようだ。

 だとすれば、ミオに期待されているのは戦争時における戦力として──ではなく、おそらくは戦後処理。その意図するところは。

 

「……討ち漏らしを防ぎたい、と?」

「そ。さすが古参、話早いじゃない」

 

 賞金稼ぎとしてミオが海賊を討伐する際にまず狙うのは『海賊稼業をするにあたって必ず支障を来す人員』である。

 例えば船長、例えば航海士、次点でコック、船医などなど……この先航行不能に陥るであろう人間を狙い討つのが常套手段だ。『だらけきった正義』という、もうそれを正義と呼んでいいのかもよくわからん標語を掲げる青キジは海賊を見ればミナゴロシダー、というほどの過激派ではない。ミオに声をかけたのは確実性とこれまで海賊を殺さずに捕縛している実績ゆえだろう。

 

 なんとなく理解した。

 

 けど。

 

「どのみち、海軍に協力は無理ですよ」

「それ、どういう意味?」

 

 ミオの返答と同時──ひやりとした冷気が肌にまとわりついて、腕や首筋に鳥肌が立った。残っていたアイスティーが音を立てて凍り付く。

 青キジは自然系・ヒエヒエの実を食べた凍結人間。

 感情の変化で冷気が漏れ出すほど鍛錬を怠っているはずがないから、これは警戒と牽制の意味合いが強い。返答如何によっては実力行使も辞さないということか。

 ミオからしてみれば白ひげの傘下を狩るなんてまっぴら御免だし、軍属から正式な許可をもらえたところで最後衛に配置されてしまうのであれば旨みはない。

 

 何より、

 

「どういう意味もなにも……正直、いまそれどころじゃないんですよ。実は『お父さん』に勘当されるかどうかの瀬戸際で」

「はァ?」

 

 今度は青キジが呆ける番だった。

 よもや白ひげ海賊団に味方するつもりなのかと威圧を込めて問えば、返ってきたのはまさかの家庭事情である。

 

「そうなの?」

 

 怪訝な顔をするアオキジに、ミオは凍ってしまったアイスティーを逆さに振ってみたりしつつ陰鬱なため息を漏らした。

 

「そうなんですよ困ったことに。いくら危ないからって……いや心配してくれてるのはありがたいんですけど、でも親子の縁切るとまで言われると……」

 

 しょぼしょぼとつぶやく声は沈んでいて、その時を思い出しているのか顔色もすこぶる悪い。

 

「そうなの……」

 

 迂闊に突っ込んではいけない問題であると察してしまった大人な青キジは返答に窮した。

 そりゃ、まぁ、常識的に考えて大事な娘さんが長いこと賞金稼ぎやってるなんて親御さんは心配するだろう。あんな号外が出たのだから、心配になって帰って来いとせっつきたくなる気持ちもわかる。

 見かけはアレでも一応はそれなりの年齢の相手に縁切りまで持ち出すのはちとやり過ぎな感も否めないが、いくつになろうと娘は娘。親なんてそんなものかもしれない。

 

「あー……変なこと言って悪かったね」

「いえ、すいません」

 

 ぺこ、と頭を下げるミオに「まぁ、頑張りなさいや」とだけ告げて青キジは席を立った。

 さすがにこれ以上家庭の事情で思い悩んでいる者に食い下がれるほど人非人ではないのだった。

 

 あと、相談されても答えられる自信がまったくなかった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 翌日、朝方にアオガネから聞けるだけの情報を得たミオはその足でコーティング済みの自船に戻り、食料品等を倉庫に詰め込んで準備を整えていた。

 

 まだ時間に余裕はあるというか潜伏先と航路の問題で、確実にかの『船長』がいる船へ辿り着くなら数日待つ必要があった。猶予があるのは喜ばしいことだが、いつでも出航できるようにしておくのは大事である。マリンフォードが戦場になるならギリギリ気候内なので、ちょっと考えてからボンチャリも積んだ。

 

 黙々と作業していると、軍曹がこちらを窺っているのが分かった。長い付き合いだ、ミオの心情などすぐに察してしまったのだろう。

 びろうどみたいな背中を撫でて苦笑を漏らす。

 

「……へいき、だいじょぶ」

 

 自分に言い聞かせるようにひとりごちてみたが、我ながら説得力がなさすぎていっそ笑えた。大丈夫な要素がどこにあるというのか。

 

 マリンフォードは間違いなく戦場になる。

 

 これまで経験したことのない、それこそ剣林弾雨の最中に身を投じることになるだろう。

 おそらく、軍曹の身に何かあっても自分は助けることができない。そんな地獄の一丁目みたいなところに、死神の跋扈するところへ軍曹を道連れにするのは、それは。

 

 唐突に不安になった。

 

「軍曹はついてあいだぁッ!?」

 

 言い切る前に脚でバシンッと脛を猛烈に殴打された。とても痛い。思わず脛を押さえて蹲ってしまった。言葉を作れない軍曹は口以外がとてもお喋りだ。今だって、頭から湯気が出そうなくらい憤慨しながら脚をガシャガシャ動かして抗議している。柘榴石のような複眼すべてがこちらをひたりと見据えていた。

 瞳のひとつひとつに宿る、圧搾された憤怒と悲哀。

 

 叩き付けられた激情で正気に返る思いだった。くだらないことを言うなと、ふざけるんじゃないと叱咤された。

 

 そうか、そうだね。

 

 今、自分が言おうとしたことはミオが白ひげから受けて怒った理由()()()()だ。それをミオが軍曹に言うなんて、まかり間違ってもやってはいけない。

 

 それに何より、軍曹はエースをよく知っている。

 

 ミオは一度瞼を閉じて、両手で自分の頬を音高くはたいた。ばちんといい音がした。

 

「ふうッ、ごめん相棒。野暮言った」

 

 じんと痺れる頬を感じながら、にやりと笑ってみせる。

 軍曹だってエースを奪還したいのだ。蜘蛛という見た目や海王類すら捕食できるだけの膂力に恐れも抱かず接してきたエースは、間違いなく軍曹の友人でもあったのだから。

 だったら、ミオが言うべきは離別を問う言葉なんかではなくて。

 

「一緒に行こう」

 

 ぴたりと軍曹の動きが止まり、当然とばかりに一度大きく脚を打ち鳴らす。心強い。

 一通りの準備を終えて、工具箱を手に甲板に出る。積んでおいたボンチャリのシャボン玉を取り外して、こびりついた粘性の液体を一度綺麗に布巾で拭っていく。シャボンに関しては魚人島で採取させてもらったシャボンの出る珊瑚片があるので心配はいらない。大事な局面で整備不良なんかあっては一大事である。小さな傷にも目を凝らし、補修していく。

 

 時間ができたから、一度コラソンのお見舞いに行きたいと思う。お別れは口にしたけれど会えるなら会っておきたい。

 

「できること……できること。他になんか、ないかな」

 

 手だけは正確に動かしながら口の中でぶつぶつと呟く。

 自分にできることがあるのかないのか、それすら分からないのに動いている。動かなくてはならない。エースを取り戻す。迎えに行く。それだけだ。たったそれだけなのに、何故こんなにも途方もない気持ちになるのだろう。

 

 なにか。なにかなにかなにか。

 

 空回りしてしまいそうな思考を押さえつけ、出揃っている情報を頼みにいくつもいくつも考える。

 マリンフォードの地図。処刑場の構造。海軍の配置予想。海賊の動き。頭の中の予想と現実には天と地の開きがあるだろう。開戦してしまえば何が起きるかわからない。机上の空論なんかくその役にも立たない。経験でそれを知ってはいても、考えなければならなかった。そうでもしないとおかしくなりそうだった。どうしてだろう。わからない。なんでこんなに不安なんだ。足元がぐらぐらするようなおぼつかなさに焦る。自分にできることはなんだろう。またこの問いが頭をもたげそうになって、首を振った。

 

 胸が詰まってしまいそうなほどの切迫感が不思議で不可解で仕方がなかった。

 

 この先に待っているものをミオは知っている。

 

 既に覚悟も終えている。であれば、『以前』と同じように張り詰めながらも穏やかに残った時間を過ごすことができるはずだった。

 鉄火と闘争の坩堝へ身を投げ出す、ほんの手前。彼岸を越えた先にある桃源郷を待ちわびながら、断崖のきざはしへと、静かな昂揚を胸に押し殺して待つことができるはずだった。

 

 

──なのに、どうして。

 

 

 そこで思考が寸断された。

 

 気配に顔を上げると船室への扉が開き、軍曹が背中に何かを乗せてこっちに近付いてくるところだった。

 

「お、電伝虫?」

 

 軍曹の背中にはぷるぷると口を震わせる電伝虫が乗っていて、早く受話器を取れと恨みがましい顔をしている。誰だろう。

 電伝虫を不便に感じるのはこういう時だ。相手が誰なのかは取ってみるまで分からない。携帯電話みたいに着信相手が表示されたらもっと便利なのにな、と贅沢なことを考えながら受話器を取った。

 

「はい、もしもし?」

『よう』

 

 相手はローだった。

 電伝虫の顔が二割増しくらい悪辣そうに見えるのはなんでだろう。

 

「うわ、コラソンになんかあった?」

『ねェよ。おれがコラさんの治療で下手打つわけあるか』

 

 電伝虫が手まで再現できるなら中指をおっ立ててそうなくらいの喧嘩腰である。

 ミオとしては他に思いつかなかったのだが、ただでさえ不機嫌そうだったのに更に怒らせたようだ。

 

『いいから降りてこい。話がある』

「は」

 

 降りる?

 

 一瞬意味がわからず呆けたが、思い至って慌てて首を巡らせるとマングローブの一際太い枝の上、顔面に『不機嫌です』とでかでかと書かれたようなローが片手に子電伝虫、片手に鬼哭を携えてこちらを見上げていた。親の仇でも睨み付けてんのかというくらいの凶悪面である。

 ローはそのまま子電伝虫をポケットに突っ込むと親指で『とっとと降りてこい』のポーズ。居場所までバレている以上どうにもならないので、ミオも通話を切って軍曹に目配せしてからひょいと甲板から岸へと着地。

 

「よくここが分かったね。てか、コラソンは?」

「コラさんはペンギンとシャチが看てる。手術は終わってるし、あとは意識の回復待ちだ。ここまでは──」

 

 言いながら、ローはポケットから指先で紙切れをつまんで取り出した。それを見てミオは己の失策を悟る。

 

「あー、ビブルカード辿ってきたのか」

 

 ローが首肯を返す。

 ビブルカードは命の紙。持ち主の生命力を示すだけでなく、本人の行方へ少しずつ移動するという特徴がある。そのため、新世界では生存確認や合流の簡便化のために作る人が多い。とかく危険の伴う場所なので生存確認したいと思うのは人情だろう。

 ともあれ、ローはどうやらミオに用があって先日渡したビブルカードを頼りにここまで来たということだ。

 

「……どうしたの」

 

 ローがコラソンの治療から、ほんの束の間とはいえ目を離してわざわざミオの元まで来るというのは尋常ではない。本来ならば、それこそ電伝虫でちょっとツラ見せろと連絡すれば済む話だ。それをミオが了承するかは置いておくとしても。

 こちらへ向ける視線は今までの好意を孕んでいたそれとは全く異なっていた。むしろ敵に向ける方がしっくりくる。一挙手一投足を見逃さず、真意を探るようなそれはあまり居心地のいいものではない。

 自然と背筋が伸びて、じわじわと緊張が這い上がってくるようだった。

 

 ローの瞳がちらと動いてミオの背後、少しは古びてきているがまだまだ現役の船へと定められる。

 

 クジラを模した船首と広い甲板、案外に天井が高く設計されている船内。有事の際には軍曹が牽引できるように改造された船。

 少年だったローとコラソンがミオと共同生活をしてきた船なのだから、彼はその内部構造まですべてを把握している。

 

 息苦しくなりそうな剣呑な気配が漂い、口火を切ったのはローだった。

 

 

「あんたの、船の名前を思い出した」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22.やくそくトロイメライ

これにて諸島編は終了です


 

 

「昔、一度聞いたきりで随分と手間取ったが──ついさっきだ」

 

 ローがミオの乗っている船の名前を思い出せたのは、本当につい先ほどのことだった。

 

 ミオの『魔法』が解けたコラソンの容態は瀕死ではないものの、かなりの重傷だった。むしろ、常人ならば間違いなく致命傷になっていたが持ち前の頑丈な肉体で強引に重傷で留めていた、という方がしっくりくる。変なところで力技を発揮しているのがなんともコラソンらしく、執刀医らしからぬ笑みを浮かべてしまったのは秘密だ。

 ヴェルゴの容赦のない打撃やドフラミンゴによる銃撃を受けているのだから当然だが、打撲に筋肉の断裂や銃創は言うに及ばず、とりわけ折れた肋骨の処置はこれ以上遅れていたら肺に傷をつけていた可能性があった。十一年越しの迅速な手術、というなんとも奇妙な状況であったがミオには本当に感謝しかない。

 

 そして手術終了後、治療方針、完治までに必要なおおよその期間──点滴や包帯の交換すべてを終えて一段落したところで、ようやく目を通すことができた先日の号外(オークション会場で一騒動起こしていた時に諸島中に撒かれていたらしい)だという新聞。

 

 記事一面にでかでかと踊る文字の羅列を目で追うにつれ、ローの顔からは表情が抜け落ち、休みかけていた思考回路が音を立てて励起された。

 思えば、いくつものヒントをローはすでにミオから得ていたのだ。脳内で無数のパズルが音を立てて組み上がり──導き出された最悪の事態に全身が総毛立った。

 推測の域を出なくとも、ぐずぐずしていてはならないと第六感が警鐘を鳴らしていた。万が一、コラさんの容態に変化があれば連絡しろと言い置いて子電伝虫と鬼哭を抱えてローは艦から飛び出し、ミオから預かったビブルカードを頼りにここまでやってきたのだ。

 

 ビブルカードの示す先がバイト先だと言っていたはずの13番GRではないことで、推測はほぼ確信へと変わり──そうして辿り着いたのは明らかに出航準備を整えているミオの船と本人の姿。

 

 間に合ったという僅かな安堵と舌打ちしたくなるような苛立ちが同時に沸き上がる。

 

 それでも表面上は平静を装い、ある種の覚悟を固めたローは対峙するミオへと向けて口を開いた。

 

 ミオの船の、名前は。

 

「『モビー・ジュニア』。あの時、確かにそう言ったよな」

「うん、言ったよ」

 

 即答だった。

 迷いも偽りもない桜色の双眸がひたとローを見つめている。その頬がゆるんで、やんわりとした笑みを形作る。

 

「一度教えたっきりなのによく覚えてたねぇ」

 

 感心すらしているようにつぶやいて、背後の船へ向ける視線はあの頃と変わらない誇らしさに満ちていた。

 

「そうだよ、僕の大好きな海賊船から名前を分けてもらった。この船は『モビー・ジュニア』号だ」

「ッ、」

 

 あっさりとした返答にローは僅かに動揺したが、いちど唇を引き結んでから再びミオへと視線を固定する。

 『モビーディック』という名前は憧れと畏怖を込めて覚えられる。『新世界』にてまるで王者のように君臨する四皇、かの一角が使用する母船のそれとして。

 

「『モビー』の名を冠した船で、『隊長』っつう役職が振られるくらいの規模を有した『海賊』なんてのは『白ひげ海賊団』しかありえねェ」

 

 そして『モビーディック』の『子供』を堂々と名乗って許されるのは、その海賊の縁者でしかありえない。

 加えて、ミオはローの仲間に、『ハートの海賊団』入りすることを承諾していたが、そのためには説得しなければならない相手がいると言っていた。

 

 半ば確信に満ちた詰問を矢継ぎ早にぶつけたローは、核心を問うた。

 

「ミオ、あんたの説得したい『隊長』とやらの名前を言ってみろ」

 

 ミオは苦笑交じりに肩を竦めて、ごく軽い口調で答えた。

 

「エースと、マルコさん」

 

 名前には聞き覚えがあった。一番隊の隊長を預かる男と、そして。

 

「マルコ……『不死鳥』か。それに、フ、そうか、よりにもよって『火拳屋』かよ」

 

 嘲笑めいた笑みを浮かべてぐしゃりと帽子を掴んだローは、苛立ちに任せてむしり取った。

 

 当たって欲しくなかった予想は全てが大当たりのジャックポット。だが、これでいくつかの疑問が氷解する。

 ミオと『白ひげ』との間に繋がりがあり、それがローの少年時代から続いているとなれば、成程、ドンキホーテ海賊団に入るなんて露ほども考えられなかっただろう。今日までドフラミンゴを避けまくっていた理由は、おそらく『固定』したコラソンの没収を恐れてのことだろうが、『白ひげ』も要因のひとつにはなっていたはずだ。

 

 しかし、もはやコラソンはミオの手を離れ、ローへと移譲されている。そして『白ひげ』の隊長が、ミオの説得しなければならない片方が現在窮地に陥っている。

 

 『白ひげ』は『家族』を何より大事にしている。どんな海賊でも知っている事実だ。

 

 

 そしてもし、それを、ミオが遵守しようとしているのならば──

 

 

 ローは炯々とぎらつく双眸をミオへと叩き付けた。不安と焦燥で自然と声が荒くなっていく。

 

「ミオ。お前、まさか──おれとコラさんを置いて、『火拳屋』のために首突っ込むつもりじゃねェだろうなッ!」

 

 それはもはや怒号だった。

 ローにとって大事なのは艦と仲間とコラソンとミオだけだ。他のことなんか知ったこっちゃない。『白ひげ』なんてのは完全に他人も他人、むしろいずれ潰すべき敵とさえ言える。

 ()()()()()のために、大切な恩人が危険に身を投じようとしているなんて冗談ではなかった。

 

 けれど、それはあくまでローの中でのみ通じる論理であって、ミオのものではない。

 

 再会から共に過ごせた時間はほんの少しで、会えなかった時間のことをローは知らない。

 会うこと叶わなかった──否、生きているとも思わなかった十一年の間にミオが重ねてきたものを、ローは知らない。

 

 だからミオだって、ローのそんな理屈なんて知ったこっちゃなくて。

 

「うん」

 

 ただ、頷くのだ。

 恐れることもなく、平然と、何を当然のことを聞いているのかという態度で、ただ。

 

「行く」

 

 あまりにも端的な言葉に、ローは唖然とした。怒りすら通り越し、刹那の自失が奇妙な冷静さをローに注入していく。

 この先に待ち受けているであろう事態を、本当にミオは把握しているのかという疑問すら浮かんだ。

 

 新聞を読む限り、『火拳のエース』の公開処刑はマリンフォードで行われる。『白ひげ』はおそらく、持ちうる戦力すべてを投入して『火拳のエース』を奪還しようとするだろう。

 それを海軍本部が迎え撃つとなれば、それは未曾有の事態だ。

 下手をすれば今後の歴史にすら刻まれるほどの、まさしく戦争になるだろう。どちらが勝利を得たとしても世界は変換を余儀なくされる、それほどの事件に発展するであろうことは想像に難くない。

 

「分かってんのか。海軍と海賊が正面からやり合うなんて、前代未聞だぞ。どんな規模になるのか想像もつかねェ」

 

 ひどい裏切りを受けたような、伸ばした手を振り払うこともなく引き抜かれたような、例えようのない寂寞があった。

 

「……『白ひげ』と心中する気かよ」

 

 だとすれば、それは『ハートの海賊団』より『白ひげ』を取ったも同然ではないか。

 

「──」

 

 けれど、ローの吐き捨てた文言にミオは奇妙な反応を示した。

 親に捨て置かれたような子供のような、見たことのないそれは卑屈ともいえる顔だった。

 

「心中なんてできないし、しないよ」

 

 寂しさと焦燥の混ざった笑みを浮かべ、ミオは縋るように胸元の布をぎゅ、と握る。

 

「僕はともだちのエースを迎えに行く。それだけ」

「……それは、おれとコラさんより大事なことか?」

 

 我ながら駄々をこねる子供めいた物言いになってしまったが、真実問いたいことでもあった。

 ミオは少し考えてから答えた。

 

「今は、ね」

 

 残酷な、答えを。

 

 否、理屈の上では理解できるのだ。処刑日という明確な死を宣告されている『火拳のエース』と、すでに窮地を脱しているローとコラソン。

 それならば、命を区切られた方を優先させる。とても単純だ。ミオは難解なようで、いつだってわかりやすい論理で動いている。

 ローの時もそうだった。元気いっぱいのドフラミンゴより、頼りない方の弟と今しも未来を失いそうな少年を手助けすることを選んだ。

 

 そして今は、窮地に立たされているともだちを迎えに行きたい。たったそれだけなのだ。ミオにとっては。

 

 

──だが。

 

 

「……そうか」

 

 ローは帽子を被り直し、ごく自然な動作で片手を持ち上げた。

 

「"ROOM"」

 

 一拍の間を置いて、劫火のように身を焼く激情に任せてローは能力を展開した。虫の羽音に似た音を響かせて敷かれる円形のサークルはミオの船すら射程に納める。

 

「ッロー!」

「あんたの言い分は分かった。けど、気に食わねェ」

 

 焦りの混じる叱責の声に負けじとローも声を張った。

 

「あんたにとって大事でも、『火拳屋』なんておれにとっちゃどうでもいいんだよ!」

 

 大軍勢に一人と一匹が加わったところで何になる。それでひっくり返るような状況ではないことぐらい、本人が一番知っているだろう。

 

「おれが大事なのは──死んで欲しくねェのはミオだけだ」

 

 それでも無理を押し通そうとするのならば、ここでローがミオを止める。能力を行使してでも、絶対に。この前のように足をもいでも、場合によっては『モビー・ジュニア』を真っ二つにしてでも阻んでみせる。

 

 海軍、ひいては政府の悪辣さをローは肌身に浸みて痛感している。形の見えない悪意に世界でいちばん大切なひとが無為に潰される危険性を本人が行きたがっているからと大人しく看過できるほど、ローは殊勝でも大人でもない。

 かつてその悪意に蹂躙された者として、ミオの無謀で無茶な行動を黙認することなどできようはずがなかった。

 

「『火拳屋』のことは『白ひげ屋』に任せておけばいいじゃねェか! それで何の不都合がある!?」

 

 叫びざまに鬼哭を抜き払い、剥き身の刀身をさらけ出したローは柄を握り閉めて大上段に構えて振り抜こうと、して──

 

 

 

×××××

 

 

 

 限界だった。

 

 

「なんで」

 

 

 大上段に構えたローの前で、迎撃しようとも、それどころか構えるという概念すら失ったかのように棒立ちになったミオの瞳から、ぼろりと何かがこぼれ落ちた。

 まなじりを伝って落ちた球形のそれが地面にころりと転がる。それは涙色の鉱石に見えた。

 

「ッ!?」

 

 瞬間、鬼哭を構えたままのローの動きが唐突な涙で驚き、びきりと固まる。そのせいで集中力が途切れたのか、ついでに"ROOM"もふつりと消えてしまった。

 ミオはといえば、そんなことに気を払えないくらいいっぱいいっぱいだった。泣いていることにすら気付いているのかどうか。

 

 ローの言い分は、わかった。

 

 ローはミオがこの戦争に首を突っ込んだら『白ひげ』から勘当される、ということを知らないから、彼からしてみればミオのやろうとしていることは『ハートの海賊団』より『白ひげ』を取ったという解釈になる。

 『ハートの海賊団』入りを約束していたのだから手酷い裏切りに見えても当然で、それを引いても危険地帯に恩人がのこのこ行こうとしているのだから阻止に動くのも理解はできる。

 

 でも、だけど。

 

 能力を展開して鬼哭を構えたローの発した文言は、これ以上ないほど的確にミオの心を打撃した。その胸中を支配したのは理屈も論理もぶっ飛ばした単純な感情の奔流である。

 

 世界から放り捨てられたような形容し難いほどの心細さと、寂しさ。

 

 それはミオの魂に根ざした問題が露呈した瞬間でもあった。

 

 だからこそ──掛け値なしの限界だった。

 

「どうして、エース助けたいだけなのに、迎えに行きたいだけなのに、みんな来るなって言うのかな」

 

 心底からの疑問の声だった。

 迎撃の姿勢どころか突っ立ったまま微動だにしないミオに毒気を抜かれたのか、ローは構えを解いた。眉間の皺は取れないままだが、少なくともすぐさま攻撃に移るつもりはなくなったようだった。

 

「……そりゃ、止めるだろ。とりわけ、あんた、何かにつけ危なっかしくてしょうがねェし」

 

 ごく単純に感想を述べるローをぼんやりと見つめたまま途方に暮れた子供のように佇んで、ミオは譫言のように言葉を零す。

 

「死ぬつもりなんかないし、危ないのはそうだと思う。でも、動かないなんて、そんなのむりだよ。できっこないよ。僕にできることがあるのかないのかも、それだって、わかんないけどさ」

 

 溜まりに溜まっていた感情が涙と一緒にぼたぼた落ちてくる。それは流れ落ちた端から真珠のように凝って地面に転がったものと弾き合い、氷が衝突するような音を立てた。

 表情がろくに動かないものだから『泣いている』というより、目から変な水が出る玩具のようだった。

 

「でも、そんな条件はみんな同じはずなのに、なのにみんなはよくて、僕だけ駄目だって──そんなの、ひどい。大事だからってよってたかって爪弾きにされるの、さびしいよ」

 

 論理もへったくれもない子供の理屈だが、心の底からあふれた吐露だった。

 

 ミオはいつだって、どこででも、誰かのために動いてきた。

 願いを支柱に、託された思いをよすがの(しるべ)に、己の持てる力すべてを尽くして戦い抜いてきた。

 誰かのために戦って、なにかのために骨身を削って、たとえ粉になってもそれでミオは満足できた。大切なひととの約束を鉱石のような覚悟にして、伽藍堂の中身にそれだけを大事に詰め込んで、そのためだけに消え果てることができたのだ。

 

 目眩がするような陶酔を噛みしめながら、笑って手を振ることが。

 

 それがミオの病気で、狂気で──無意識の底で切望して追い求めている底抜けの白い闇だった。

 

 なのに、それがない。

 

 今生では、幼い弟たちのために。

 

 次はローとコラソンのために。

 

 だけど今回は、そうじゃない。

 

 エースを迎えに行きたい。

 

 狭苦しいだけの暗い所から連れ出して、仲間たちの待つ広い広い海へと。

 

 けれどそれはミオだけの願いで、望みで、誰ひとりとして一緒に戦ってくれと言ってはくれないのだ。

 支柱もなく、依る辺もなく、己の願いのみを頼りに動いたことのないミオには、それが苦痛で寂しくて悲しくて仕方がなかった。

 

 だからといって、諦めることもできなかった。

 

 できるわけが、なかった。

 

「みんなが走り回ってる中で、いつも通りの生活なんて送れないよ。しんどいよ。やれること全部やらないと、あとで後悔する」

 

 だってそんな自分を、ミオは許すことができない。

 あったはずの可能性を自分の手で潰しておいて知らん顔できるなら、それはもうミオではない。

 

「それに、もし、これで本当に僕がマリンフォードに行かないまま、エースになにかあったとしたら……絶対、恨む。たぶん一生、白ひげの、お父さんのことも、みんなのことも、ローのことだって恨んじゃう。逆恨みなことなんて百も承知で、それでも……」

 

 そこから先は言葉にならず、背筋を這い上がるような悪寒がして誤魔化すために拳を握った。瞬きをしたら目の前が霞んで眼球が熱かった。

 くちびるを引き結んで強く噛みしめて、呻く。

 

「そんなの、いやだ。誰かのせいになんかしたくない。考えたくないよ。エースが死ぬのはいやだ。それは、そんなの、ぼくが死ぬよりずっと、ずっとこわくて、いたい」

 

 そうして、どうしようもないから歯を食いしばって考えて、考えて考えて……大切な繋がりが断ち切られることすら是として踏ん張っていたのに、よりにもよってローにまで阻止されそうになっている。

 

 つらい。

 

「そもそも、エースがいなくちゃ説得できないじゃん。ローの仲間になるために通さなきゃいけないスジが立ち消えなんて、困るよ。なのに、なのにさ、エースの情報は差し止め、されるし……」

 

 そこまで吐き出して、喉の奥が引き攣って俯いた。鼻の奥が痛い。足元にはラムネ色をした小さな粒が無数に転がっている。

 能力が勝手に発動している。ろくな制御ができないくらい疲弊するのは白ひげにチェレスタたちの趨勢を聞かされたとき以来だった。

 

「お父さんにもくんなって言われるし、そんで、もしマリンフォードきたら、かんどー、するってぇええ……」

 

 自分で改めて口にすると現実がぶん殴ってきて、足元すらおぼつかなくなってきた。目の前がぐらりと揺れて、立っているのも辛くなってしゃがみ込む。

 心がぐしゃぐしゃで動ける気がしない。ここでなおローがミオを追い打つなら、もう抵抗すらできないだろう。

 

 奇妙な沈黙が落ちて、ややあってから声が落ちてきた。

 

「──おい」

 

 顔を上げると、目の前にはしゃがみ込んだローの姿。鬼哭を持っていない方の手が無造作に伸びてきて、反射的に仰け反ったミオの顔面──正確には額にぺたりと当てられる。

 

「……?」

 

 ちょっと間を置いて、ローは深々とため息を吐いた。

 

「やっぱりか。さっきから血色が良すぎるのが気になってたが……熱がある。打撲からの発熱みたいだが、本当に手当てしたのかよ」

 

 剣呑な目つきのローにかすかに頷いて答える。

 

「した、けど」

「じゃあ治療不足だ。うちで治療してやるから、それが終わったら飯食って、寝ろ。コラさんの横に寝床作ってやるから」

 

 ローの声と眼差しには有無を言わさない迫力があって、是とも否とも言わない間に腕を掴んで引っ張り上げられる。

 

「そこの軍曹も来い。大根やるぞ」

 

 マングローブの陰から様子を窺っていたはずの軍曹がシュタッと現れた。

 ローは軍曹を一瞥してからミオに視線を移し、少し考えてから軍曹に鬼哭を預けてひょいとミオをおんぶした。そのままスタスタと歩き出してしまう。

 

「え、え、ちょ、ロー?」

 

 一瞬抜け出そうかとも思ったが、細腕のわりにはがっつり掴まれているためろくに動けず、熱を自覚した途端に目の前が薄暗くなった。

 バーソロミュー・くまの攻撃はミオが考えるほど甘くはなかったらしい。

 

 急展開にただでさえ発熱で惚けている頭ではついていけないが、ローはどうも自船でミオを治療するつもりのようだ。

 

「……止めるつもり、じゃないの?」

「今だってそう思ってる。腕でも足でも臓器でも取り上げて邪魔してェに決まってるだろ」

「え゙」

 

 吐き捨てるように言われて、やっぱりビブルカードだけスり取って逃げた方が懸命だろうかと束の間怯えた。

 

「けど、ンな真似したらおれはあのくそ野郎と同類になる。おれは恨まれるなんて御免だ」

 

 クソ野郎と言われて真っ先に浮かぶのはドフラミンゴだが、おそらく間違ってはいまい。

 人の譲ることができない信念と覚悟を踏みつけにしてでも我を通そうとするような行為は、ローの矜持に悖るのだ。

 

「しかも一生とか言いやがって、どんな脅しだよ」

「でも本当に恨むよ。恨むというか……呪う?」

「効力がありそうだからやめろ。ったく、そんなに『火拳屋』が大事か」

「今の優先順位はエースだけど、大事度でいうならローとコラソンの方が大事」

「……そうか」

「うん、僕はローとコラソンになら殺されてもいいから」

 

 世間話の延長のような、明日の天気でも口にするようなごく素朴な口調だった。

 

「……」

 

 けれどそれを聞いた途端、一定の調子で歩いていたローの足がぴたりと止まった。

 

「……ロー?」

 

 ミオの位置からではローの顔は見えない。

 ローはミオを背負ったまましばらく沈思に潜り、やがて、

 

「……──ああ、そうか」

 

 心から納得したようなつぶやきを漏らした。

 

 

「それが、あんたの『基準』なのか」

 

 

 そして、再び歩き出した。

 

「しかし本当に面倒くせェな、ミオ」

「自覚はあります」

「余計にタチ悪ぃな。おまけに頑固で阿呆で融通の利かない馬鹿だ」

 

 ボロカスである。

 

「それは、うん、ごめんね」

「全くだ。惚れた弱みがなきゃ三回はバラしてる」

 

 そんなにか。

 

「本当、イヤなとこばっかりコラさんそっくりで……どうしようもねェ姉弟だよ」

 

 淡々としたつぶやきには諦めと面映ゆさと、なにか強い感情があった。

 

「……あんたが火拳屋の奪還に行こうとしてんのは、おれの仲間になるためか?」

「うん」

 

 エースの救命は、そのまま『ハートの海賊団』へ入団するための道に続いている。

 それを聞いて、ローは静かにつぶやいた。

 

「なら、おれは『ハートの海賊団』の船長として、おれの()()()を万全な状態で送り出す」

 

 それが、これまでの問答でローが出した答えで、覚悟だった。

 『火拳のエース』の奪還に動こうとしているミオを止めることは不可能だった。否、不可能ではないが、それをすれば最後──ローはドフラミンゴと同じ外道にまで成り下がってしまう。

 

 それだけは、できなかった。

 

 それならば、あの時コラソンにできなかったことを、傷を完璧に癒し、体調を整えさせて、信じて送り出す。

 

 そして、船長がクルーを信じるのは当然のことだ。

 

「だから、とっとと『火拳屋』を奪還して──全力でおれのところまで帰ってこい」

 

 それがローにできる勝負で、祈りだった。

 

「……うん、ありがとう。行ってきます」

 

 そう答えてからミオはふと、ベポを思い出した。

 

「あ、ちがうね」

 

 ローのことを、ベポは、確か。

 

 

「アイアイ、キャプテン?」

 

 

 ふ、とローは息だけで笑ったようだった。

 

 

「いい返事だ」

 

 

 

×××××

 

 

 

 それから、ミオは残されていた猶予いっぱいを『ポーラー・タング』号で過ごした。

 

 バーソロミュー・くまから喰らった打撲の他に、背中についた軍曹の爪傷がどうやら化膿しかけていたらしくローにしこたま叱られて抗生剤をぶち込まれた。

 残念なことにミオが滞在している間にコラソンが目覚めることはなかったけど、全身包帯塗れでも、温かく、柔らかく、胸を上下させて呼吸を繰り返す様子はミオを心底安心させてくれた。

 

「コラさんが起きたらミオのやらかしたこと、全部喋るからな。せいぜい怒られろ」

「ひでぇー」

「ひでぇのはおれたち置いて出ていくあんたの方だ。せいぜい言い訳考えとくんだな」

 

 ぐうの音も出ない正論である。

 

 

 そして、出発の前夜。

 

「ねぇ、ロー」

 

 ミオはローにひとつ、ある提案をした。

 

「約束だけで不安なら質種(しちぐさ)も渡そうか」

「質種?」

「そう、僕があげられる『ハートの海賊団』にぴったりの、質種」

 

 ミオの口にした『それ』はあまりにも突拍子のないものではあったが、ローは暫く悩んでから結局、その『質種』を約束の形に取ることにした。

 

「ちゃんと返してもらうから、大事にしてね」

「ああ。当然だ」

 

 それを聞いてふわりと微笑ったミオは準備万端整えて、万全の体調で出航したのだった。

 

 

 

 




次回から『頂上戦争編』スタートになります


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

頂上戦争編
序ノ幕.たとえば君だけは、


頂上戦争編、スタートです


 

 

 きっかけは、本当に些細なことだった。

 

 傘下でも白ひげでもないと公言して憚らないのに紛れもなくオヤジの娘なのだと胸を張る、どう見積もったって年下にしか見えない年上の『姉』なんていう、とびきりへんてこりんな生き物を白ひげの、エースの本当の仲間にしたいと思ったのは。

 

 冬島の近くだった。

 

 夕方から降り始めた粉雪は夜になる頃にはぽってり重たい牡丹雪で、舳先にもうっすら雪が積もっていた。空には星も月も見えなかったけれど、小さな灯りを雪が反射しているおかげか案外に明るい夜だった。

 モビーディック号に『帰宅』したミオが不寝番を引き受けたことを思い出したエースは、厨房からちょろまかした酒瓶片手に物見台に向かった。お互いに自己紹介をしてから暫く、お互いの距離感がようやく掴めてきて気安く話ができるようになった頃だった。ヒマを持て余していたらしいミオはエースの来訪を素直に喜んで、二人で小さな小さな宴会のようなお茶会のようなものをした。

 エースは持参した酒を、ミオは不寝番用にとサッチからもらったという熱いお茶を飲みながら、沢山の話をした。

 

 何がどうなってそんな話題になったのかは藪の中だ。

 

「そういえば、ミオは『海賊王』をどう思ってるんだ?」

 

 話に脈絡はあったような気もするし、なかったような気もする。要するに覚えていない。

 

 けれどなんとなく、本当になんとなく、気になったということは覚えている。

 

 海賊の娘なのに海賊じゃない、そんな奇妙な立ち位置にいる小さい姉は『海賊王』をどう捉えているのだろうか。偉大なる先達なのか、それとも世界最悪の犯罪者か。

 ミオはエースの唐突な質問に何度か目を瞬かせ、それからあまり深く考えた風もなくあっさりと。

 

「え、世界一周したおじさん」

 

 想定していた答えはどれも外れで、意味はわかるが謎の返答を寄こしてきた。

 

「は?」

「ん?」

 

 あまりにも思考の埒外にあった返答でエースは反応に困り、ミオはミオでそんなエースの反応が不思議だったのか首を傾げた。

 それから自分の言葉が足りなかったと思ったのか、指をぐーるぐる回しながら付け足される。

 

「えーと、世界をぐるっと回って同じ所に戻ってきたってことは、僕らが立っている()()が丸いことを証明した人なわけで、それは偉業だと思うのだけれども」

「それは、まぁ、そう……か?」

「どっかから援助もらった探検家でも冒険家でもない、いち海賊が達成したのは凄いのでは?」

 

 そう改めて言われるとそうなのかもしれないが、いまいちピンと来ない。そういう考え方をしたことがなかったからだ。

 

「な、なら『ひとつなぎの大秘宝』は?」

「お宝を見つけるのは海賊の仕事というか習性みたいなもんだと思うし……ああ、探せって言ったらしいからゴールド・ロジャーはその『お宝』を世界のどこかに置きっぱなしなんだった。気前いいなぁ」

「きまえがいい」

 

 もうミオが何を言っているのかわからない。本当に同じ言語で喋っているのかすら疑わしくなってくる。

 いや、理屈は分かるっちゃ分かるんだが、海賊間の認識とも世に広がっている『海賊王』を表する言葉のどれとも該当しないもんだからうまく飲み込めないのだ。

 

 そんなエースをどう思っているのか、ミオは寒さに鼻のてっぺんを赤くしながらいひひと悪戯っぽく笑った。

 

「いやだって、お父さんだったら手放さなかったんじゃないかな? わりとケチっちゅうか吝嗇家なとこあるんだよね、うちの大黒柱」

 

 そこら辺で唐突にエースは理解した。

 

 ミオにとって『海賊王』とは、その程度の意味しか持たない存在なのだ。

 

 世界的犯罪者でも偉大なる海賊の王でもない、世界をぐるりと一巡りしたひと。『ひとつなぎの大秘宝』を見つけて、気前よく世界のどこかに置いてきた、ひと。

 成し遂げたことはすなおに評価するが、ミオの興味はそこで止まっている。それから世界に波及した影響だの時代の立役者だのといった部分については、理解はしているようだがまた別の話らしい。

 

「……まァな」

 

 それが分かって、それだけは理解できて、エースはなんだかほっとした。

 

 安心して、気が抜けて、だから口が滑ったのだ。

 

「なら、もし、ロジャーにガキがいたら……」

 

 ミオにとっては他愛もない会話の延長で、エースはそれでよかった。

 おそらく己の出自をミオに語ることはないだろう。それでも好奇心が勝った。

 

 海賊なのに海賊じゃない、年上に見えない姉の返答は簡潔で明瞭だった。

 

「そりゃおめでとう、でいいんじゃない?」

 

 子供が生まれるということは、新しい命がこの世界に誕生するということ。

 

 それが幸なのか不幸なのかは、誰かが判断することなど到底できやしない。それこそ人それぞれという奴だし、意識の埒外で営まれていることだろう。それに(くちばし)を突っ込むのは、突っ込むことが出来るひとは限られている。

 

 でも、だからこそ――『おめでとう』でいいと――僕なんぞは思うのだと、ミオは語る。

 

「せっかく生まれてきてくれたなら祝福すべきだし、祝福されるべきだと思う」

 

 親の七光り、なんて言葉もあるように出生にはとかく偏見が付き纏うもので、エースは生まれ落ちたその時からそれに悩まされ縛られ呪われている。

 何も言わないエースに目線を合わせ、ミオは少しだけ眉を寄せながら皮肉げに頬を緩ませた。

 

 その時だけ、ミオは年上どころか擦り切れた老爺のような厭世的な空気を帯びる。

 

「だって生きるのって苦しいし、しんどいし、辛いことばっかりだからさ」

 

 それは誰もが無意識の内に理解している当然のことで、エースだって、ミオだって、みんなみんな分かってることだ。

 

「それならせめてスタートラインくらいは、ね」

 

 どこか独白するように呟いて、視線が落ちる。手の中の湯飲みに視線が吸い込まれていく。

 羽毛のような睫毛が雪の中で混じって消えてしまいそうで、何もかもに倦み疲れてしまったような雰囲気を滲ませるミオは脆く儚い硝子細工のようだった。

 

「おめでとうってお祝いして、ありがとうって抱きしめられたらいいと思う」

 

 それは、とても甘くてしあわせな理想だ。夢物語に近い。

 そんなに甘くないことを、優しくないことを、エースは知っている。――そしてきっと、ミオも知っている。

 望まれないのは苦しくて、祝ってもらえないのは寂しい。諦観は病毒のように心を凍らせて、虚無は寄生蟲のように蝕んで、いつしか食い尽くされて空っぽになってしまう。 

 

 それを、知っているからこそ。

 

 この世界にどんな形であれ生まれたことを、生まれてくれたことを、寿いで拍手して、祝福して万歳して、これから命が歩む道程に、少しでもいいことがあればいいと祈るくらいしたって、バチは当たらないはずだと、かぎりなく遠い、些細な理想を語る声は優しくて、甘くて、少しだけ苦かった。

 

「世間に求めるのが酷でも――僕は、そうしたいな」

 

 それは望みで、希望だった。

 ミオは顔を上げてしんしんと降る雪を見つめながらゆるゆるとはにかんで、それこそ夢でも見るように。

 

「それで会えたらきっと嬉しいし、一緒に遊んでみたいと思うよ。もし仲良くなれたら、とびっきりだ」

 

 もしも逢えたら『初めまして』、一緒に遊べたら『よろしくね』、仲良くなれたら『ありがとう』。

 山のように積み上げられたもしも、もしもの先にある、数えきれない仮定の果てにある、おはなし。

 

「僕の答えはそんな感じ」

 

 そして、その果てしない『もしも』のその先に──エースとミオはいた。

 

「そうか」

 

 その時、胸に募った感情をエースは今でも言葉にすることができない。

 

 息が詰まるような、喉がひきつってしまいそうな、何かがあふれてこぼれてしまいそうな。

 

 エースは酒瓶に残っていた中身を飲み干してにかっと笑った。雪降りしきる夜中だというのに、ひなたが差し込むような明るい顔だった。

 

「なぁミオ、やっぱり『白ひげ』に入っておれの部下になれよ!」

「おっと? そのやっぱりはどっから来たの?」

「どっかからだ!」

 

 自信満々に言ってのけるエースによくわからんという顔をしたミオは「むりー」とすげなくあしらったけれど、ここから始まったエースの「おれの部下になれ」コールは鳴り止むことはなく、やがて根負けしたミオから『予約』をもぎ取るまで続いた。

 

 ミオの言葉はべつに救いとかじゃなかったけど、いつも心のどこかに隠れている苛立ちと鬱屈を抱えた子供の頃の自分に、そっと灯りの見える方を示してくれたような気がした。

 強引に矯正するのではなく、頬をつついて悪戯するみたいに、こっちの方が明るいよと手を差し伸べられたような。

 

 そんな日が来るかどうか分からないけれど、いつか言えたらいいとエースは思った。

 

 

 

──そのとびっきりは、もうとっくに叶ってる──

 

 

 

「お前の父親は!! "海賊王"ゴールド・ロジャーだ!!」

 

 それが、世界政府が『白ひげ』と全面戦争を起こしてでもエースを処刑しなければならない理由である。

 

 世界各地より集められた海兵の精鋭──十万人にも及ぶ大軍勢、そして映像電伝虫の映像を固唾を呑んで見つめているであろう聴衆へ向けてセンゴク元帥がそう告げた。

 エースがどれだけ自分のオヤジは白ひげだけだと否定しようとも、命を賭して自分をこの世界へ産み落としてくれた大恩ある母の姓を名乗ろうとも、血の連なりは呪いのようにエースを捕らえて離さない。

 

 忸怩たる思いはある。納得はできずとも、海軍がそう判断するに足るだけの力を持つ名前なのだ。

 

 

 だが、それでもエースの『オヤジ』は『白ひげ』だけだ。

 

 

 その信念が、覚悟が肯定される瞬間はすぐそこだ。

 

 天を衝くかのように屹立している『正義の門』。

 開かないはずの大扉が、何かを招き入れるために音を立てて勝手に開いていく。

 

 そうして──大挙して押し寄せるは『白ひげ』傘下の大軍勢。

 

 新世界にて名を轟かせる海賊たちの船が続々と正義の門から押し寄せてくる。知っている顔がある。自分が下した船があった。

 声は遠く、けれど聞こえずとも伝わってくる。彼らすべてが集った理由はエースのためだ。

 

 そして、最初に気付いたのは誰だったのだろう。

 

 ごぼりとあぶくの弾ける音がした。

 

 三日月型をしたマリンフォードの中央、湾内で巨人が呼吸するように次々に泡の柱が沸き上がり、やがてぶち上がる波飛沫とともに水中から何かが躍り上がってくる。船だ。鯨を模したそれは巨大な海賊船だった。追従するように後続の船が次々浮上してはその威容を露わにする。海底を進んだ証である虹色のコーティングが外気に触れて次々に割れていく。揃った海賊船は実に四隻。

 

 乗船しているのはもちろん『白ひげ』擁する幹部の面々。

 

 そして『モビーディック』号の甲板、船長服を翻し愛槍片手に威風堂々。

 

「おれの愛する息子は、無事なんだろうな……!!!」

 

 存在の放つ威圧感のみで空気の色すら塗り替えてしまいそうな巨漢の男が、エースを視界に捉えて傲岸に笑った。

 

「オヤジィ!!」

 

 『海賊王』に最も近しいとも称される、エースが世界で一番敬愛する船長が己の船とともにあらわれた瞬間だった。

 

 

 

×××××

 

 

 

「ちょっと待ってな……エース」

 

 己の『息子』の無事とは言い難いものの確かに生存していることを確認した『白ひげ』はうっすらと笑い、振り上げた拳を宙へと叩き付けた。

 何もないはずの空間が轟音を響かせ、ヒビの入った大気が震撼する。先手を仕掛けたのは『白ひげ』だ。

 

「オヤジ……みんな、おれはみんなの忠告を無視して飛び出したのに、何で見捨ててくれなかったんだよ!! おれの身勝手でこうなっちまったのに……!」

 

 マリンフォードに『白ひげ』が姿を現した時点で戦争は止められないものとなった。それでもエースは叫ばずにいられなかった。

 

 あの時、エースはミオに嘘をついた。

 

 本当はやめておけと言われたのだ。話なんかついていない。今回ばかりは特例だと、妙な胸騒ぎがすると言う『白ひげ』を始めとした幹部から口々に止められて、それでもエースは強行した。

 『白ひげ』の、オヤジの顔に泥を塗ったティーチを許せるはずがなかった。ましてティーチは自分の部下だったのだ。どうあっても落とし前はつけさせなければならなかった。

 

 それがオヤジの息子としての責任で、隊長の果たすべき義務だと信じて、結果はこのザマだ。

 

「いや……おれは行けと言ったはずだぜ、息子よ」

 

 けれど、そんな親の忠告を無視して無様をさらしている息子へ、『白ひげ』は静かに告げる。

 

「嘘つけ! バカ言ってんじゃねェよ!! あんたがあの時止めたのに、おれは……!」

「おれは行けと言った。そうだろ、マルコ」

「ああ、おれも聞いてたよい。とんだ苦労をかけちまったなァ、エース」

「元はといえばおれが下手打ったせいじゃねェか! エース、ごめんなぁあ!!」

 

 『白ひげ』の有無を言わさないような頑とした口調に続いたマルコはただ頷き、その横に立っていたサッチは傷だらけのエースを見てほぼ半泣きになりながら鼻音混じりのだみ声でがなる。

 すっかり回復したらしいサッチを見ることができて、エースは少しだけほっとした。悪いのはティーチで、下手こいたのはエースで、サッチはちっとも悪くなんかない。だから、そんな顔をしないで欲しいと思う。

 

「この海じゃ、誰でも知ってるハズだ」

 

 マルコがこの世界の常識を紡ぎ、周囲の海賊すべてがそれに応えた。

 

「おれたちの仲間に手を出せば、一体どうなるかってことくらいなァ!!」

「おまえを傷付けた奴ぁ誰一人生かしちゃおかねェぞ、エース!!」

「待ってろ!! 今助けるぞオオオ!!!」

 

 万雷の鬨の声が開戦を告げ、『白ひげ』の拳ひとつで引き起こされた"海震"は、怒濤の津波と化してマリンフォードの両端から海軍を強襲する。"グラグラの実"の力は世界を滅ぼせるほどの異能である。爆発の如く隆起した波頭が渦巻き、まるで神話の光景だ。

 

「……あのハナタレは、おれの言いつけを守ったか」

 

 喧噪の隙間を縫うように『白ひげ』がぽつりと言った。

 

 この戦争からたったひとりだけ弾き出した、そうせざるを得なかった『白ひげ』のひとり。視界の届く範囲にあの小さな白い頭を見つけることは終ぞなく、マルコも小さく嘆息した。

 なんせマリンフォードに来たらその時点で『絶縁』するとまで言ってあるのだ。シャボンディ諸島に潜んでいる『情報屋』に預けた伝言は必ず届いているはずだろう。マルコにとってはいけ好かない()()()だが、それくらいの信用はあった。鳥と蛇は仲が悪いのだ。

 

「あァ、まぁ散々脅したし、来たくても来れねぇだろうよい」

 

 一応、傘下の連中にも追い返せと厳命してある。

 勘当まで盾に取るのは確かにやり過ぎな感もあったが、事実それくらいしておかないと安心できない危うさがミオにはあった。

 エースの危機とあれば、あの無鉄砲な馬鹿娘は必ず駆けつけようとするだろう。だが、それを許容することが『白ひげ』にはできなかった。

 

 ミオは確かに『白ひげ』が『娘』と認めたが、それ以前にエドワード・ニューゲートが『ラグーナ海賊団』ひいてはラウネ・チェレスタに託された『忘れ形見』である。

 

 真実『白ひげの娘』という肩書きのみならばいざ知らず、友誼を結んだ人間から託された信頼に背を向けて、彼らが己の残した莫大な隠し財産と引き替えにしてまで願った『いっとうだいじなおほしさま』に向かって『エースを取り返すために、おれたちと一緒に死んでくれ』なんて、口が裂けても言えるはずがなかった。

 

 だから、

 

「エースはおれたちで取り返すからよ……てめェは阿呆面下げて待ってろな、ミオ」

 

 届かぬことを知りながら愛娘へとつぶやいた『白ひげ』の声は、どこか祈りに似ていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二ノ幕.かいじゅうふたり

すいません、頂いた誤字修正を適用しようとしたところ文字が混ざってしまったため、上げ直しました(頂いた誤字報告を参考に加筆修正いたしました。ありがとうございます)。


 

 お父さんたちが湾内に姿をあらわしたことで、『白ひげ海賊団』の大船団はいわゆる魚鱗の陣に近い陣形になった。

 

 船長であるエドワード・ニューゲートの乗船する『モビーディック』号以下四隻を先頭に据えて、放射状に傘下のお歴々が続いている。

 中心が前方に突き出すような形で戦端が狭いため、相手を一気に突き崩すような攻撃向けの布陣……の、はずだけど、これはマリンフォードの湾内にぎりぎり入るだけの船を詰め込んだ結果という気もする。

 そも、お父さんを始めとした数の利なんて意味をなさない『能力者』が存在している時点で陣形もへったくれもないのかもしれない。俗に言う攻者三倍の法則とかこの世界には通用しなさそう。津波を引き起こせるお父さんもだけど、それを丸ごと凍らせる青キジさんも大概だよな。

 

 海軍の位置取りも大体把握できた。

 処刑台の前を守る三大将と、その前には何かの執念を感じさせる密度で配置されている海兵たち。海賊が攻め込める場所は限られているので、今は津波を凍らせた影響で氷浸けになった湾内近くに巨人部隊。それと、やっぱりというかなんというか、最前衛に配置されている七武海。数人欠いてるけど、うん、ドフラミンゴもいる。厄介な。七武海それぞれの能力についてはボア・ハンコックとえーと、なんかひとりだけ世界観が違うというかティ○バートン臭のする造形のカエルの鳴き声っぽい名前の……そうだ、ゲッコー・モリア。あれ以外は知ってる。

 

 海岸にずらりと並んだ砲塔が轟音とともに弾丸を吐き出し、負けじと海賊たちが気勢を上げながら船から飛び降り果敢に攻め込んでいく。

 

 とうとう始まってしまった。『白ひげ海賊団』と『海軍』とのがっぷりよつの潰し合い。

 

 時代のうねりというものを肌で感じる。凄まじい光景だ。斬撃が迸り、妖しい光線が煌めき、噴き上がる溶岩がビルみたいな氷塊を砕き溶かしていく。地獄か、そうでなければ神話みたいだった。

 

 だが、数と地の利は侮れない。

 

 もともと軍というのは防衛戦に優れているものだし、一気呵成に攻め入ったとしても戦車も航空機も存在しないこの世界では突破力が足りない。

 空を自在に駆けることができるのは、現時点で確認できるのはマルコさんだけ。前に出すぎて狙撃でもされると孤立して対応できなくなる危険があるし、さっきの『黄猿』の件もある。要であるお父さんの傍を離れるわけにはいかないのだろう。

 

 金城鉄壁を突き崩せるだけの一手が必要だった。

 

「オオオオオオ──ッ!!」

 

 それを機と見たのか、それとも我慢の限界だったのか──おそらくは後者だろう──マリンフォードにいる人間すべての鼓膜を聾する咆吼を上げて、超巨大な生物が動き出す。

 抹茶色の肌に牡牛のような角、ライオンのたてがみみたいな赤茶色の髪を揺るがせて、巨人族すら凌駕するこの世界でだって類を見ないほどの嘘みたいな大きさの巨体が進撃を開始した。

 

 リトルオーズJr.

 

 "国引きオーズ"の子孫だという見た目は怪物みたいな、ほんとは誰より優しくて、誰よりエースを助けたいと思ってる仲間のひとり。

 驀進するオーズの動きは少し鈍重だが、それは彼の規格外の重量を思えば当然のことだ。覚悟と決意を滾らせて、それこそゴジラか怪獣かという威容で迫るオーズは海軍からしてみればまさに悪夢のような存在だろう。

 

「駄目だオーズ! お前のデカさじゃあ、標的にされるぞ!!」

 

 退けと怒鳴るエースの声が僅かに聞こえる。彼の危惧はもっともだ。オーズの巨人族をも超える巨体は海兵にとって狙いやすい的以外の何物でもない。

 

 そんなことは文字通り見れば分かることで──だから、僕は()()にいる。

 

 アオガネが示し、僕が共犯者に選んだのはオーズだった。

 

 交渉するの超大変だった。どうやらお父さんが厳命していたらしくいきなり追い返された。用意周到すぎて悲しいやらやるせないやら。

 しょうがないので、引き返すふりして草木も眠る丑三つ時に単身忍び込んで、オーズと一対一で直談判。ひとつ『約束』することを条件に、なんとか同行させてもらった。

 なので、僕がここにいることを知っているのはオーズだけだ。移動中もオーズのポケットに入れてもらってたので、他の船員も知らない。ちなみに僕の船は軍曹がこっそり海底に引っ張り込んで隠している。軍曹との打ち合わせは終わっているから、軍曹は軍曹でもう動いているだろう。

 

 オーズが特攻ならば、僕はその援護が()()役目だ。

 

 周囲の軍艦の砲塔、居並ぶ海兵たちが一斉に武器を構えた。

 彼を狙い、放たれる黒い暴力。一発一発にそこまでの威力はなくても、そのダメージは確実に蓄積されてしまう。

 

「ごめん。ちょっと揺れるかも」

 

 こっそりと断りながら彼のふさふさした髪の間から半身を覗かせた僕は、普段あまり使わない連発式のボーガンを手に準備完了。

 迫る砲弾を前に安全装置を解除して狙いをつけて、引き金に指をかけて撃つ撃つ撃つ!

 

 着弾。爆発!

 

 オーズの巨体に命中すると思われた砲弾は、その悉くが彼の身体に当たる前に自ら爆発した。強い爆風と熱波がオーズと僕の肌をちりりと焦がす。破片の一部が当たってしまうかもしれないが、それでも直撃するよかマシだろう。

 

「なんだ、当たる前に爆発した!?」

 

 一部を見ていた海兵達から驚愕の声が上がる。ほぼオーズの髪に埋まるように潜んでいるので僕の姿までは確認できないらしい。ゾウに引っかかったマッチ棒みたいなもんだ。

 

 オーズの歩みは止まらない。着実に彼は進んでいる。処刑場、エースのもとへと。

 

 飛んでくる砲弾を次々狙い撃ち、引き起こした誘爆が他の弾を巻き込んで巨体へ届く前に散っていく。巨人族の海兵は彼自身が手にしている一刀を以てなぎ倒した。

 凄まじい膂力で振り抜かれた余波は当然こちらまで響き、なんとか堪えているとオーズがぼそりと言ってくれる。

 

「オイダの後ろに隠れてろ。エースぐんのところまでひといぎだ」

「うん!」

 

 その言葉に力強く頷き、耳の傍から肩と首の間まで移動すると衝撃に備えてぎゅうっとしがみつく。

 

「エースぐん!! 今そごへ行ぐぞォオオオオッッ!!」

 

 相打つ覚悟の威勢で相手を圧し断つ心の強さならば──きっとオーズは誰にも負けない。

 

 武器を放り捨て、豪腕で抱え上げた目の前の巨大な戦艦はそのまま強大な破壊力となって湾内への突破口を開く。まさに圧巻。超巨大な砲弾の如き勢いと質量は凄まじく、響き渡る轟音とともに氷塊が砕かれ外壁が瓦礫になり道が石くれとなって吹き飛ばされた!

 

「オーズが湾内への突破口を開いたぞォ!!」

「続けェ!!」

 

 怪獣が噛み潰したように抉れた壁を駆け上がり、海賊たちが次々にオーズの後を追う。

 

「仕様のねェバカタレだ。死にたがりと勇者は違うぞ」

 

 どうやらお父さんは僕の存在にはまだ気付いていない模様。助かる。

 

「おやっざん!! 止めねェで欲じい!! オイダ助けてェんだ!!」

 

 それはオーズの仲間を思い、友を慕い、窮地を駆ける魂からの咆哮だ。

 

「一刻も早ぐ!! エースぐん助げてェんだよォ!!」

 

 オーズの言葉は強く、重い。

 

 僕なんて、今や『白ひげ』の娘から絶縁一歩手前の厄介者を共犯者として引き入れてくれるほどに、強い強い思いなのだから尚更だ。

 

 そしてそれは──ここに出揃っている者みんなが抱いているものの代弁のようにも聞こえた。

 

 わかってらァ、と嘆息するお父さんの声が小さく鼓膜を叩く。

 

「てめェら! 尻を拭ってやれ!! オーズを援護しろォ!!!」

「「「オォ!!!」」」

 

 ぐらぐらと煮え立つような士気が伝播して、海賊たちの動きが勢いを増していく。

 戦場の空気にあてられて、心がどんどん澄んでいく。懐かしい感覚だった。かつてはいつもこうだった。

 大声で笑い出してしまいそうな昂揚があるのに、頭は冴えていて、鋭く尖っていくのがわかる。研ぎ澄まされていく。

 凍傷になりそうなほどの寒気に晒されながら、肌裂く風を心地良いと感じるような感覚に近い。何かが麻痺して、代わりに得るのは戦場でのみ発揮される鋭利で豪胆なものだ。

 

 だから、わかった。

 

 オーズの歩みは怪獣のそれだ。前に立つだけで生存本能が全力で騒ぎ立て、海兵たちの意気を削いでいく。けれど、そんなのをものともしない連中が最前線で敵意を膨らませている。

 王下七武海、そのひとり──バーソロミュー・くまが何かをしようとしていた。彼の能力はいちど喰らって理解した。おそらくは超人系・衝撃に類するもの。

 遠目では分かりにくいが見たところ、何かを圧し固めるような動作を繰り返している。仮に『衝撃』で周囲の大気を圧縮しているとすれば、それは天然の爆弾に等しい。ひとたび解放すれば、圧縮された大気は強烈な『衝撃波』を生み出すだろう。

  

「"熊の衝撃(ウルススショック)"」

 

 バーソロミュー・くまがゆるく開いた手の中、高密度に圧縮された衝撃爆弾とも呼べるものがふわりと浮いて、オーズの手前でぴたりと止まる。

 

 瞬間。

 

「"凝結"!」

 

 咄嗟に能力発動。オーズの前面、壁のように『固定』させた空間を屹立させた。

 果たして──バーソロミュー・くまの放った大気の凝縮された爆弾は過たず周囲を巻き込むほどの衝撃波を生み出した。余波を喰らった瓦礫がめくれ上がり、紙くずのように海兵たちが薙ぎ散らされ、砲台を据えていた土台が悲鳴の如き軋みを上げる。

 『壁』はほんの数秒しか保たなかったが、それで十分。さすがに無傷とはいかなかったものの、オーズを急襲しようとしていた衝撃波は『壁』によって軌道を逸らされ、その殆どを受け流している。

 

「お、オーズ未だ健在!」

「なにが起きたァ!?」

「く、くまの攻撃がオーズを避けたぞ!?」

 

 海兵たちに動揺が広がる中、変な顔をしているひとが何人か。うん、主にお父さんを始めとした『白ひげ』の隊長格……というか、僕の能力を知ってる、手合わせしたことのある面々。

 オーズは能力者じゃないのでそれも当然である。どうせもうすぐバレるから問題なし。ただギリギリまでは伏せておく。

 しかしくまの攻撃が効かなかったからといって海兵が攻撃を止める理由にはならない。むしろ数の暴力頼みとばかりに砲撃の数はいや増して、無数の砲弾を迎撃し続けるのでこちらもいっぱいいっぱいだ。

 何発かは手持ちの武器で対応し、爆発する粉塵に紛れる範囲の弾はすべて『固定』して速度を殺す。

 爆風で巻き上がった土埃の中を猛然と突き進み、じりじりとオーズが歩を進めていく。

 

「──フッフ、くまのやつ何しくじってやがる」

 

 僕の位置は硝煙やら砂塵やらでとうとう視界はゼロ。一時的に盲となったせいか、馴染み深い声はひどく鮮明に耳に届いた。

 ぞっと背筋が粟立ち、害意の気配が強烈なまでに伝わってくる。まずい、視認できなければ能力は行使できない。それ以前に超人系との相性はまちまちで、ドフラミンゴとはいいとはいえない。

 

 ここでドフラミンゴが仕掛けたら、僕じゃオーズを守れない!

 

「ッオーズ! う、わ」

 

 反射的に僕が声を上げるのと、オーズの身体が不自然に傾いたのはほぼ同時だった。

 

「ん?」

 

 バサバサと羽音を響かせる桃色が疑問の声を発したような気がするが、それどころではなかった。

 潮風が粉塵を吹き散らしようやく戻った視界に飛び込んできたのは、宙を舞う大きな大きな足。オーズの片足。それが足首の辺りからすっぱりと切断されて、まるで玩具のように血錆をまき散らしながら空中で踊っていた。

 

 ただの怪我とはわけが違う。唐突に人体の一部が欠けた喪失感にオーズは混乱し、傾く身体をその重量ゆえに止めることができない。

 唐突にバランスを崩してがくん、と落ちた肩から滑り落ちそうになった僕は弾切れになった武器をその場で放棄して真横の髪に全身でしがみついてぶら下がり──その間隙を縫うように、オーズの全身に激震が走った。びりびりとした痺れのような痛痒がこちらにまで伝わってくる。

 

「──ッ」

 

 声なき絶叫と、衝撃。それは肉体を貫く衝撃だ。どんな移動法を用いたのか、オーズの跪いた足元にちらりと見えたくまの姿で遅れて状況を理解する。相撲のつっぱりみたいな姿勢。文字通り身に覚えがあるからわかる。人体の水分を残らず揺さぶるような一撃がオーズを強襲したのだ。

 先の攻撃が上手く機能しなかったことを悟っての第二撃。ざわりと肌が粟立つ。かろうじて僕が五体満足なのは、本当に偶然の産物だった。

 オーズは身体のあちこちが不規則に痙攣している。もしかしたら意識も危ないのかもしれない。ここからでは彼の顔が見えない。

 

「オーズ!!」

 

 エースが悲鳴を上げた。このままでは、たぶんこの戦争でエースが直接目にする最初の犠牲者になってしまう。

 逃げて欲しいのだろう。この場にいれば今や片足を失っているオーズは格好の獲物だ。オーズひとりが突出している現状、数の暴力にいつか負けてしまう。

 

「エース、ぐん……!!」

 

 けど、オーズには諦めるなんて選択肢はない。そんなのは残されていなかった。彼の規格外の巨体は、この戦場に身を置いた時点で前進することしか許されない。もし、それが許されるとすればエースが自由の身になって撤退戦に移行した時だ。まだ戦は序盤も序盤。海兵にはオーズを生かしておく理由がない。だったらオーズは動ける限り進むしかないのだ。

 

 ひたすらに前へ、ただ前へ。一ミリでも処刑場の近くへ、エースのもとへ。

 

 たとえどれだけの砲弾を身に浴びようと、肉体を失おうと、身体を貫かれようとも、傷ついて血を流し、たとえそれで己の命をすべて燃やし尽くすことになったとしても──退くことはできない。

 

 

 そして、それを誰より分かっているのはオーズ自身だから。

 

 

 オーズは前のめりに倒れ込みそうになりながら、震える手をゆっくりと持ち上げた。エースの声を道しるべに、その声が聞こえる方へまっすぐに。

 無防備にさらされた隆々とした腕に、手に、砲弾がぶち当たって、そのたびあふれた血が肌を伝って落ちていく。けれど恐るべき頑健さでオーズの腕は小揺るぎもしない。

 

 それは道だ。オーズが僕にくれた、エースへ辿り着く道。

 

「いげ、ェ……!」

 

 苦悶混じりに絞り出された声に背を押される。くちびるを引き結んで、僅かに頷いた。わかってる。わかってるよ、オーズ。僕の友人。僕の共犯者。エースの、ともだち。

 

 僕がオーズと交わした『約束』はたったひとつ。

 

 必ずエースを取り返すこと。

 

「ありがとう、オーズ」

 

 ()()()()()()、エースを助けること。

 

「あとは任せて」

 

 だから迷わない。迷ってはいけない。それは彼を(そし)ることと同じだ。僕は約束を遵守する。履行する。そのためだったら──()()()()()()

 

 僕は走り出す。まっすぐに。振り返らず。何かしらの追撃を受けたらしいオーズの腕が落ちてしまう、その前に。

 

 処刑台までの最短ルートを、全力でひた走った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三ノ幕.生ぬるい牙

 

 

 ドフラミンゴに足を寸断され、ゲッコー・モリアの影の刃を腹に喰らったリトルオーズJr.の巨体が徐々に傾いでいく。

 白目を剥いたオーズにほぼ意識はないのだろう、処刑台へと伸ばされた指先もあといくらも保つまい。想定外の快進撃もここまでだと、センゴクは戦局を立て直そうと全景を把握するために首を巡らせ──違和感を覚えた。

 

「む?」

 

 半ば直感に従い弾かれたように首を戻せば真正面、オーズの顔の傍から何かが飛び出した。

 限界まで引き絞られ、放たれた征矢の如き速度で疾駆する白い影。よく見れば人間だった。

 

「な」

 

 思わずセンゴクは声を上げていた。否、状況が見えていれば誰もが同じように声を上げていただろう。

 

 目の前であまりにも荒唐無稽な事が起きている。たとえ想像したところで、誰も実行などするわけがない愚策の極み。

 

 オーズの巨体を隠れ蓑に、伸ばした腕を橋代わりに走り抜けて処刑台に肉薄するような馬鹿がいるなどと、想定しろという方が無茶である。

 しかも、その姿はオーズと比してしまうと本当にちんまりとして映り、到底このような場所にいるとは思えない。

 

「うそだろ……なんで、お前まで、」

 

 思わずといった風情で漏らすエースの声には驚愕と哀切が混じっているのがセンゴクでも分かった。目の前に迫ってくるのは絶対にいるはずのない──どころか、この場に()()()()()()()存在なのだということがありありと伝わってくる。

 声に反応したのか、小柄な存在が顔を上げてエースへと首を向けてまっすぐに彼を見つめた。センゴクにもようやく顔が見えた。色の脱けた髪をした小作りな面立ちの、まだいとけない少年にも少女のようにも見えた。

 確認してもまだこの場にいるのが嘘みたいな、場違いにすぎる少年だか少女だかは、仔猫を守る母猫の峻厳さで完爾と笑った。

 

「エース、かえろう」

 

 この状況で、戦火と闘争の坩堝の中──鉄火場を捩じ伏せるようなそれは、不思議なほど柔らかな笑顔だった。

 

「  」

 

 エースは口の中だけで、おそらくは相手の名前を呼んだ。

 

 センゴクは迎撃すべきかほんの一瞬、迷った。

 

 エースが反応を示し「かえろう」と口にした時点で『白ひげ』の一味と判断するのが妥当だ。迎撃すべきである。だが、海賊と断じるには浮かべた笑顔があまりにも淳良で、エースが生きていることに心から安堵しているのが伝わってきて──迷ってしまったのだ、らしくもなく。

 

 それが、致命的な隙だった。

 

 笑顔はすぐさま打ち消され、相手はオーズの指先を折らんばかりの勢いで踏みしめ、跳躍。

 

「オーズの手から何か飛び出したぞ!?」

 

 ようやくそれで周囲にも存在が確認できたのだろう、海兵たちに動揺が広がっていく。

 そんなこと毛程も気にせず処刑場へと見事に着地を果たすや否や、ぐん、と猫のように身体を沈み込ませて速度を殺すことなく肉薄した小柄な影は、未だ攻撃対象に加えるか否かで判断つきかねるセンゴクに問答無用で向こう臑へ拳を叩き込む!

 

「ッぐぅ!?」

 

 歴史上の豪傑すらその痛みに落涙すると呼ばれる箇所である。

 電撃の如く奔り抜ける激痛で反射的に屈みかけたセンゴクに、相手が更に繰り出した掌打は狙い違わず肝臓に突き刺さり、もはや声を出す余裕すらなかった。

 しかも相手は放った掌打でセンゴクの服を掴んで無理矢理に引き倒し、センゴクの首の辺りを駄目押しのように踏みつける。否、首のみならず頸骨、鎖骨、肺の辺りをめちゃくちゃに踏んで踏んで踏みまくった。呼吸もままならず、衝撃と痛みに呻く。がじゃりと何かが壊れる音がする。

 踏み下ろす、という行為の破壊力は見た目よりずっと凄まじい。重力と己の体重、そして筋肉の動きも加える打撃は人体の繰り出す攻撃としては最高峰である。

 

「が、ぁ、きさ──ッごぉ!?」

 

 それでも混乱から抜け出しかけたセンゴクが、慌てて己の能力を行使しようとした瞬間を狙い澄ましたかのように、口腔に猛烈な勢いで何かが突っ込まれた。

 人の口に納めることなど到底考慮に入っていないだろう質量が邪魔な歯を割り砕きながら、がつんと喉奥まで一気に押し込まれる。限界以上に開かされた頬骨が嫌な軋みを上げ、仰向けになっているため嘔吐くこともできず、何よりセンゴクが反射的に危機感を覚えたのは能力の発動が不可能なことだ。そして全身の骨が抜けるような途方もない倦怠と脱力感。

 

 これは、まさか。

 

 ざっと全身から血の気が引き──生理的に浮いた涙の膜の向こう、ようやく見えた相手はやはり小さく華奢な少女に見えた。否、見えるだけだ。

 纏う空気は心臓を握り潰すが如き圧力すら伴う氷結の殺気。色の脱けた髪の隙間から覗く桜色の瞳は、いっそ無残なほどに澄んでいた。

 

 こんな場所で凶行を引き起こしている張本人とは到底思えないそれが、今は何よりおぞましい。

 

「あなた、()()()()ですね」

 

 是も否も唱えられないセンゴクへ向けられた声は、ひたすらに平坦だった。

 視界の端で捉えたのは抜き身の白刃。センゴクは己の咥内を蹂躙しているのがおそらくは海楼石の仕込まれた刀の鞘であることをようやく察した。

 

「さよなら」

 

 だが、もう遅い。

 

 この処刑台にいるのはエースとセンゴク。そしてこの侵入者だけだ。

 虜囚であるエースはともかく戦力にもなるはずだった処刑人を下げてしまった今、センゴクは孤立無援である。状況を察した壁役の三大将の誰かが駆けつけるまで何秒かかるか。

 その数秒あれば、目の前の侵入者はセンゴクの命を容易く奪うだろう。

 

 抜かった。よもや白ひげにこんな隠し球が存在しているなど想定の埒外だった。──否、これは本当に海賊なのだろうか?

 人の皮を被っただけの化け物という方が余程信憑性が高いようにセンゴクには思えた。

 

 周囲の喧噪があまりにも遠い。近付く白刃が死神の鎌のようだ。

 

 危機的状況で限界まで引き延ばされた意識の中、ゆっくりと振り下ろされる薄刃がセンゴクの首へと迫るその──ほんの、手前で。

 

 

「センゴクさん!」

 

 

 いやにはっきりと聞こえたそれは、確かに誰かの悲鳴だった。

 

 センゴクが妙な懐かしさを覚えたそれは、魔法の声に等しかった。

 

「ッ」

 

 今しもセンゴクの命を刈り取ろうとしていた死神の動きがその一声でぴたり、と止まったのだ。

 同時にあれほど濃密だった殺気がふっつりと途切れ、桜色の瞳が何度か瞬きする。随分と幼い仕草だった。信じられないものを聞いたような、センゴクが真実『センゴク』であることを疑うような。

 

「……それじゃ、駄目だ」

 

 そして、人の皮を被った鮫は心底面倒そうに舌打ちすると、刃を引いてぐるりと回転させて、握った柄をセンゴクへ向けた。

 

「傷病での退役条件ってどの辺だろ。いいや、とりあえず顎もらいます。あとは失神しててください」

 

 殺気は霧散していても脅威は去っていない。

 つぶやきとともに片方の手で動脈を押さえ込まれ、無造作に振り下ろされた柄は破砕槌も同然の速度でセンゴクの顎を砕こうと──

 

「センゴクから離れんかバカモンがァッ!!」

「ッぐぅ、」

 

 したところで、唐突に現れたガープの鉄拳をまともに喰らって処刑台の外へ高々と吹っ飛ばされた。

 同時に、根性で手放さなかったらしいセンゴクの口に詰まっていた鞘が猛烈な勢いで引き抜かれる。新たな衝撃で真横に転がったセンゴクはせり上がる嘔吐感を堪えきれず、その場で吐いた。

 

「おいしっかりせい! 生きとるか!?」

「ッおぇ、ぐ、ぅ、は……」

 

 返事をしたいがまともに動けない。しこたま胃液を吐いてようやく落ち着きを取り戻したセンゴクは、口の端を汚す唾液を乱暴に拭った。

 泡を食ったようなガープが慌てて起こそうとしてくれたが、かろうじて上がる腕で拒否を示しながら身体を起こす。

 

「お、お前っ、アゴ外れとるぞ!? 一旦下がるか!?」

 

 この状況を分かってて言ってるのか。

 

「れひうはァ(できるかァ)! ……ぐッ」

 

 海兵たるもの最低限の応急手当は心得ている。

 自力で顎をはめ直したセンゴクは欠けた歯の交じった血痰を吐き出して、よろめきながら立ち上がる。身体のあちこちが激痛で軋みを上げた。頸骨が無事だったことは僥倖だったが、おそらく鎖骨が折れているし、あばらにはひびが入っている。能力を封じられてしまったのは不覚だった。

 

「ら、らんだったんだ、あの、小僧……」

 

 顎を動かすだけで砕けた歯から剥き出しになった神経に怪我とは別の激痛が響き、不明瞭な発音になってしまう。

 戦争の序盤も序盤でとんだ番狂わせがあったものだ。

 もし、あの一声とガープの横槍がなければセンゴクは文字通り早々に脱落していただろう。命令ありきで動く海軍の弱体化は必至である。なまじ各地から集められ人数の多い海兵にひとたび混乱が広がれば──万が一の場合には三大将が命令を担うだろうが──連携にも問題が生じてしまう。総崩れの危険すらないとはいえなかった。

 油断があったことは認めよう。オーズの登場で少なからず場が混乱していたことも。

 

 だが、それにしたって今の急襲は異常に過ぎた。

 

「ありゃ確か賞金稼ぎだったんじゃがな。ほれ、『音無し』の」

「賞金稼ぎ? 『音無し』……だと?」

 

 その名前はセンゴクにも聞き覚えがあった。

 確か、もう十年以上現役で活動し続けている古参のひとり。賞金稼ぎは出るのも減るのも早いが、その中でもたまに頭一つ飛び抜けた才と運で生き延びるものがいる。

 中でも『音無し』の名前はそこそこに有名だった。今まで捕縛した海賊は全て生きたまま数知れず。無軌道な真似をしたという噂を聞いた試しのない、優秀な賞金稼ぎだと認識していたが……。

 

「あれが、か?」

「いきなり襲われりゃそう思うわな。だが事実じゃぞ」

 

 なんせわしも会ったことがあるからなと語るガープは自分でも信じたくないという様子で、本当だというのがいやでも分かった。

 

「だが、まさか『白ひげ』の一味、いや、傘下か? どのみち、海賊だったとは……知らなんだ」

「十年以上隠し通し、賞金稼ぎとして動いていたということか。厄介な」

 

 隠しおおせたことも勿論だが、それ以上に問題なのはその行動である。

 愚直にエースを助けようとするだけならいざ知らず、この戦争での司令塔を担っているセンゴクを真っ先に狙い潰そうとする発想。オーズの行動不能すら奇貨として処刑台へ到達するための布石とした判断力。海楼石による能力封じ。なぜ殺すことを思い留まったのかは知れないが、それなら声を奪おうと切り替える悪辣さ。

 ひとつひとつは奇抜な動きに見えるが、その内実は理に適っている。最小の働きで最大の効果を狙う道理に基づいた、あまりにも海賊らしくない、冷たい数式で導き出した最適解である。

 場合によっては、優先して潰すことも念頭に入れるべきかもしれない。

 

「あいつは、ミオはオヤジの娘だ」

 

 そうセンゴクが思案する中、それまで口を噤んでいたエースがぽつりとぼやいた。

 

「けど、あんなの……おれだって見たことねェよ」

 

 信じられないものを見てしまったというような、呆然とした声だった。

 

「それだけ、お前を取り返したかったんじゃろ。おそらくな」

 

 ガープが苦虫を噛み潰したような顔で答えると、エースもまた苦しそうに表情を歪めて呻いた。

 

「ちくしょう……!」

 

 項垂れるエースを尻目に、センゴクは痛みに顔を引き攣らせながら自分を倒そうとした『音無し』改めミオとやらを探そうと首を巡らせる。

 先ほどガープが殴り飛ばした方へ視線を向けて──気付いた。てっきりガープに吹っ飛ばされどこぞの戦禍に落ちたと思われたミオは、なぜか宙に留まっていた。

 

「は、な、なんだ!?」

 

 違う。浮かんでいるのではない。処刑場から随分距離は離れたが中空に、まるで見えない足場でもあるかのように膝をついて、ガープに殴られた箇所を押さえながら眼下の『白ひげ』と睨み合っているようだった。

 その光景を見て、センゴクの中にいやな予感が走り抜けた。『音無し』が能力者だというのは聞いたことがあるが、詳細は分からない。

 

 だが、もしセンゴクの想像通りの『悪魔の実』を食べていたとすれば──非常に、まずい。下手をすれば戦局が一気に傾く可能性すらあり得た。

 

「ガープ! 『音無し』は何の能力者だ!?」

「わしも知らん!」

 

 使えない。しかし不確定要素は迅速に処理しなければならない。

 電伝虫から全海兵に注意を促そうとセンゴクは懐に手を入れ、指先に触れるいやな感触で反射的に指先を引っ込めながら顔面を忌々しげに歪ませた。

 

「やられた……!」

 

 懐に入れた連絡用の電伝虫が死んでいた。めちゃくちゃに踏んできたのは攻撃のみならず、これを狙っていたのだろう。

 連絡用に便利に使ってはいるが電伝虫は生き物だ。融通が利かない。海軍間に通達できる電伝虫を新たに持って来させなくてはならない。

 

 一分一秒が勝敗を分ける戦争のまっただ中で、これはあまりに痛烈な嫌がらせだった。

 

 




主人公はセンゴク元帥をモーガン大佐(婉曲表現)にする気まんまんだった。チッ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四ノ幕.常に本音のぶつけあい

夜?夜中?にもう一話更新予定です


 

 

「ほんとは、戦になる前に海軍崩すか、そうでなきゃエースだけとっととかっ攫っておさらばしたい」

「まぁ、理想だな。そうすりゃ白ひげ屋の被害も最小限で済む」

「だね。なんかいい案ない?」

「あったらそもそもこんな事態になってねェだろ」

「正論すぎて返す言葉もない。んと、マリンフォードの地形がこれで、処刑台がここで、で、そうなると……」

「……おれが海軍なら、まず最前衛に七武海を据える。三大将はもっと後衛だな。七武海なら誰が減っても海軍の瑕疵にはならねぇ」

「あー……、じゃあいるよね」

「いるな。確実に」

「……」

「やめるか」

「やめませーん。すぐ誘惑しない」

「チッ」

「舌打ちやめて。僕が行くの前提で考えて」

「ったく、……どうにかして七武海を素通りして海軍に気付かれず処刑台まで辿り着き、火拳屋奪還」

「ハードルたっっか! いくらなんでも無茶が……ん? いや、不可能ではない、か? えーと、待って、もっかい位置の整理させて」

「…………なぁ」

「ん?」

「……もし、おれが」

「ロー」

「……」

「何度も話したけど、それはだめです。……もし、うちと『ハートの海賊団』が同盟関係にでもあるってんなら、話は違うけど」

「けどよ、」

「迎えには来てくれるんでしょ?」

「当然だろ」

「即答とは頼もしい。なら、それでじゅうぶんだよ。ありがとう」

「……ハァ、あとは、誰かが動く前に海軍の地位の高いやつを潰せりゃいいんだがな」

「地位の高いの」

「ああ。作戦が周知されてるのは当然として、それを変えるにしろ始めるにしろ、指示を出すなら上の奴等だ。命令系統を乱せば多少の時間稼ぎにはなる」

「なるほど、道理。でも大将にケンカ売る方が難易度高くない?」

「指令を出すのは三大将に限らねぇ。参謀でも元帥でも……昔、あいつを追ってきたばーさんいたろ」

「ああ、おつるさんみたいなの。んー、まぁ、大将よりハードル高くなさそう、か」

「能力者の可能性はあるけどな。ついでに厄介なのは通信網か」

「それなんだよなー。あーあ、電伝虫の駆除剤とかぶんまけないかなー」

「仮に駆除剤があっても、だ。それだと白ひげ屋の海賊連中が持ってる電伝虫も軒並みくたばっちまうだろ」

「くっ、ままならん。でもそうか、とにかく偉そうなひとがいたら潰すチャレンジしてみる」

「おい、何度も言ってるが逃走経路は念頭に置いて動けよ。おれたちの浮上場所はここだ。多少の誤差は出るだろうが……しっかり覚えておけ」

「わかってるって。それにしても、挑む前から撤退のこと考えるって面白いね。なんてか、新鮮?」

「あんた、今までどういう……いやいい」

「え、そりゃ場合によりけりとしか言えないよ。でもそうだなぁ、防衛戦ならともかくこっちから挑みかかるような時はそこそこの策は用意するけど、最終的には後先考えてるヒマなくなるから結局覚悟決めて突っ込むしかないというか、死中に活を求めるよね、基本」

「やめろっつってんだろ!」

「ごめんなさい! ROOMやめて! これ以上質種取られたらさすがに動ける自信がない!!」

 

 

 

×××××

 

 

 

 なんて会話をしたのが数日前。

 

「センゴクさァん!!」

 

 シャボンディ諸島、マリンフォードの映像を映している巨大なモニターの前には無数の人々が集まり、事態の趨勢を見守っていた。

 そして開戦直後に登場したオーズの大進撃と──処刑場でエースの出自を語っていた元帥を急襲した謎の存在。

 

 周囲が混乱で沸き立つ中、その存在を正しく理解している人間がその状況を見て頭を抱えていた。

 

「あの馬鹿……」

 

 トラファルガー・ローである。

 マリンフォードへ駆けつける頃合いを見計らうためには状況を確認する必要があったため、準備だけは万端整えてモニター近くに向かったらこれだ。頭が痛い。

 

「生きては、いるみてェだけど……姉様、でも、状況的にはしかた、しか、う、うぅ……」

 

 その隣では規格より大分大きなサイズをした車椅子に腰掛けて、先ほど恩師の危急を見かねて絶叫していたコラソンが鬱々とつぶやきをこぼしながら項垂れている。

 彼が目覚めたのは本日早朝のことである。

 自分の置かれた状況が当然理解できず惑乱しきりだったが、ローが説明を繰り返し、侃々諤々の末になんとか理解させることに成功した。本当に本当に大変だった。

 コラソンからしてみればドフラミンゴに瀕死の重傷を負わされて意識を失い、目が覚めたら見知らぬ海賊船で余命いくばくもない幼い少年だったはずのローが成人済みでいち海賊を束ねる船長となってご対面、という状況である。わけがわからなくて当然だろう。

 ローは今にも点滴を引きちぎりそうなコラソンを寝台に押さえつけて誠心誠意、これ以上ないほど心を込めて説明した。最初は半信半疑だったコラソンも、ローがオペオペの実の能力者であることに加えて互いしか知り得ない情報──当時のミニオン島での顛末を微に入り細を穿ち話し聞かされたことでようやく信じ始め、理解と納得が胸中を巡る頃には己も知らずに落涙していた。

 

 そうして、コラソンは改めてローをまじまじと見つめて──くしゃりと泣きながら破顔した。

 

「でっかくなったなぁ、ロー」

 

 それは、あの時の激痛を意思の力でねじ伏せながら無理矢理作った笑顔ではなく、心からの安堵と言祝ぎをめいっぱい詰めた優しい笑顔で。

 それでローの涙腺も限界を迎え、大の大人が二人で朝っぱらから大号泣してしまった。

 

 しかし、それからが大変だった。コラソンにミオの行方を尋ねられ、ローは正直に答えるしかなかった。

 

 驚きのあまりコラソンの顎は外れた。

 

「ロー、おま、なんで止めなかったんだよ! 姉様の性格知ってんだろ!? 身内の悪口いいたかねぇけど絶対やべぇって!」

「ああ、分かってる」

 

 ミオはコラさんのいいところとドフラミンゴの悪いところをコトコト煮詰めたハイブリッドである。

 基本的にはお人好しで優しいように見えるが内実は極端なまでの身内主義で、ひとたび敵と定めた相手には容赦がない。思いつく限りのいやがらせを実行できるだけの膂力と勘の鋭さまで持ち合わせているのだから止まらないし、一度決めたら何が何でも貫き通す頑固者なので説得も難しい。本当に面倒臭いやつなのだ。

 

「なぁ、本気でやると決めて突っ走ってる最中のあいつが、止めて止まるヤツだと、思うか……?」

「あッ、ハイ。すまん。なんかすまん」

 

 虚ろな目をしたローの一言ですべてを察したコラソンは即座に謝った。しかしさすがと言うべきか、ならせめて状況はおれも見ていたいという言葉にまさか頷かないワケにもいかず、結局コラソンはベポの押す車椅子に乗せてモニターまで連れてくることになった。

 

 そして開戦した途端にこれである。

 

 自分の立場から考えてみればいちばん近いのは、ミオがコラソンを殺そうとしている場面を見ているようなものだろうか。コラソンの心境を察するに余りある。確かに偉そうな輩がいたら潰すとは言っていたが、いっそ清々しいまでの有言実行だった。もっとも、物理的な横槍が入って処刑台からの距離は開いてしまったようだったが。

 

「目立ちすぎだ」

 

 あの巨大な怪獣のような──オーズjrといったか。あの大男すら脱落している現状、ミオはあんな中空でほぼ孤立無援である。的にして下さいと言っているようなものだ。

 

「どうすんだよ、ミオ」

 

 そうぼやいた視線の先、ミオめがけて五色に煌めく刃の如き糸の本流が襲いかかり、ローは予定時間を早めて出航する決意を固めざるを得なかった。

 

 

 

×××××

 

 

 

「ちぇ、しくじった」

 

 ミオは口の中に残る血の混じった唾を吐き出して舌打ちをひとつ。

 ガープからパンチを喰らった箇所が痛みと熱を孕んでいるがあちらも反射的な反応だったのだろう、これくらいのダメージならば許容範囲だ。だが、多少の混乱は与えられたが決定打には至らなかった。せめてもの嫌がらせに電伝虫は潰せたと思うが、あの程度ではさしたる痛痒にもなるまい。内心忸怩たる思いで拳を握る。

 

 ラッキーパンチは一度きり。二度目はない。

 

 けれど仕方がない。息の根を止めることが最善だとは分かっていたが、あの偉そうなオッサンが真実『センゴク』であるならば──それは幼い弟を保護し教え導いた恩師である。姉としては感謝を述べて矛を収めるに値する人物に他ならない。

 とはいえ、戦場にいる以上はエース救出における障害である。それはそれ、次相対するとなれば全力で挑むしかない。

 

 それより、今はこっちの方が問題だ。

 

 能力で固定された空間を足場に睥睨する眼下の光景がもの凄いことになっている。

 なんだか泣きそうな顔でこっちを見つめるエースはともかく、無数の海兵が「センゴク元帥!?」「なんなんだよあのガキは!」「しょ、賞金稼ぎだ!『音無し』の──」「白ひげの一味だったのかよ!」「うそだろおれファンだったのに!!」などとざわざわしている。

 加えて処刑台手前に座る三大将、戦場の最前衛に位置する七武海、そして後方に控える白ひげ率いる大船団もろもろ全ての視線が自分へ向いていた。視線に含まれている感情はそれぞれではあるが、死ぬほど居心地が悪くてミオは身じろぎしながら眉間に皺を寄せた。

 

 そして──何より。

 

 我らが母船『モビー・ディック』号の舳先で、超重量の薙刀めいた愛用の得物を携えた『白ひげ』が射るような眼光でこちらを睨め上げていた。

 それを真っ向から受け止めたミオは、全身から放たれる威圧感に打撃されているようで知らず生唾を飲み込んだ。じわりと浮いた冷や汗が背中を濡らす。正直、何を言われるのか気が気ではない。己の信念に基づいた行動に後悔はなくとも、それとこれとは別問題だ。

 事ここに至ってもミオにとって『白ひげ』は尊敬すべき大人で、大好きな『お父さん』で、これまでの己を支えてくれた『師匠』であった。誰だって大好きなひとに怒られるのは辛いし、嫌だ。

 

 そんなミオの胸中を知ってか知らずか、この戦における最重要人物のひとり『白ひげ海賊団』船長──エドワード・ニューゲートはやぶにらみのまま大きく息を吸い込んで、怒鳴った。

 

「この大馬鹿野郎!!」

 

 爆雷のような怒号だった。

 

 何かの攻撃かと思うその咆吼は足元の氷にひびを入れ周囲にいた人間の鼓膜を残らず打撃し、比喩でなく空気がびりびりと鳴動した。おそらくは能力まで上乗せされた音波の襲撃はミオの足場まであっけなく打ち砕き、慌てて別の足場を形成して着地する。本当に振動と固定は相性が悪い。

 

「そうまでして親子の縁を切られてェのか! ああ!?」

 

 白ひげの怒声は止まらない。それはそうだ。白ひげからしてみれば、考えられる全ての手段を駆使してもこの戦争に参入させたくなかった人物が最前線の更に前まで突出してやらかした事実は到底容認できることではない。骨身に染みて理解している。おかげで大変だったのだ。怒られて当然だ。

 

 それでも。

 

 白ひげの声に、怒気に、すべてに全身を打擲されたミオはぎりっと唇を噛みしめ、それでも負けじと声を張った。無理にひん曲げた唇は不敵な笑みに見えるだろうか。

 

「上等だ!」

 

 そうだ。大人しく座して待っていられるくらいなら、こんなところまで来ないのだ。

 置き去りにされるなんてまっぴらだ。知らない間に大切に思っていた人が死んでたら、考えるだけで身が凍る。そんなのあんまりだ。もう懲りた。うんざりだ。

 

 だってチェレスタはミオの知らない間に死んでいた。

 

 残されたのは自分の命と彼の能力。それだけ、それだけだ。もうそれしか、彼らを偲べるものは存在しない。二度と逢えない。遺体もない。文句も言えない。ケンカして仲直りすることも、もう──できない。

 チェレスタだけじゃない。彼が率いていた海賊の中には幾人もの名前があった。ミオの知る奴隷だったひとたち。とても大切な、友人だったひとたち。

 

 もう喪うのはいやだ。あんな思いはまっぴらだ。

 

 悲しくて、悔しくて、さびしかった。誰もいないなら、せめて一緒に連れていって欲しかった。チェレスタの願いが自分を生かすことと知ってなお、そう願ってやまなかった。

 

 でも、だけど。

 

 そんな望みとも呼べない希求と哀悼だけを抱えて空っぽになった僕を抱き締めてくれたのは、お父さん、あなただったじゃないか。

 

 この、

 

「ばか親父!!」

 

 たった一言、吐き出すことができたのは──ありふれた親子喧嘩の常套句で、ちんけな文句だった。こんな血と土埃が乱れ舞う戦場には似つかわしくない、稚拙極まりない罵倒だった。

 

 けれど、それはまぎれもない決別の呪文だった。

 

 子供という庇護から抜け出さなくては並び立てないなら、娘という立場を返上する。無償に与えられる愛を退け、反抗して、独り立ちして──大人になる。

 

 それはまるで父娘という関係の、とびきりできの悪い戯画のように。

 

 手加減など必要ない、対等な存在だと認められるために。

 

「……ああ、そうかよ」

 

 精一杯に吠え立てたミオの声に、白ひげはぐっと眉根を寄せた。

 ほんの寸の間、目を伏せて、再び上げた表情は威厳を纏って手厳しい。それでも、叩き付けられる感情が怒りのみではないことはすぐに分かった。悔しさのようでも、悲しさのようでもあった。

 白ひげだって、こんな台詞を吐きたくはなかったのだろう。ここからでも歯の軋る音が聞こえそうなほど唇を噛みしめ、引き結んだ口をゆっくりと開いた。

 

「なら、今日限り、おまえはおれの『娘』じゃねェ」

 

 何らかの境界線を越えたらしい声は不思議と静かに響き、そして、握り込んだ長柄を甲板に大きく叩き付けた。冗談のように船が揺れ、大音声が響き渡る。

 

「──勘当だ! どこへなりと好きにしやがれ!」

 

 白ひげは、大事だった友人の忘れ形見へ、最後通牒さえ袖にした馬鹿な娘へと向けて、宣告通りの絶縁をつきつけた。

 ミオは一瞬、本当に一瞬だけ表情を歪めて、けれど転瞬、笑みのようなものを浮かべて応えた。

 

「分かった! 今日までお世話になりました!」

 

 そして、先ほどの無理やりではない、どこか傲慢さすら滲む表情のまま即座に続ける。

 

()()()()()()()()()()()!!」

 

 芝居がかった声はこの鉄火場においても朗々と渡り、白ひげを呆けさせるにじゅうぶんだった。

 とびきり頑固でアホで考えなしでおまけに極端な身内贔屓の馬鹿な娘は、肩書きすべてを擲って、それでも構わないと胸を張った。

 

 エースのために、たったひとりの『ミオ』として、この戦に参戦すると宣言してのけたのだ。

 

「……グラララ」

 

 僅かに瞠目し、内容を咀嚼して、白ひげはとうとう堪えきれぬとばかりに喉をふるわせた。

 

 これほど不愉快で痛快で馬鹿馬鹿しい切り返しがあるだろうか。

 

「そう来るか。本当にばかなやつだよ、おめェは」

 

 奇しくも馬鹿娘の『巣立ち』を見届ける羽目になった白ひげは、嘆息交じりに不思議と緩む口角を自覚しつつ傍らのマルコへ視線を向ける。

 油断すると口元が緩んでしまいそうだった。なぜか誇らしい気持ちになる。マルコも恐らくそうだろう。負うた子に教わるというのは面映ゆいものである。

 

 子を持つ親は誰もがこんな思いを味わうのだろうか。

 

「回収してこい。なんにせよ前に出すぎだ」

「了解!」

 

 苦笑を含んだ返事が来るや否や視界の隅で蒼い燐が舞い、驚くような速度でマルコが飛翔した。

 

 ほんの数秒のやり取りだったがこれでミオは海軍から白ひげの一味、どころか身内とみなされただろう。『賞金稼ぎ』の立場は完全に廃業せざるを得ない。

 白ひげからも勘当されて、有り体にいって正真正銘の無職に成り下がったわけだが、さてあの馬鹿はどうするのだろうかとほんの束の間考えたが、すぐに打ち消した。それどころではないし、どうにでもするだろう。

 

 なにせ、ミオは『白ひげ』の自慢の娘だったのだから。

 

 

 

 




死者は生きてるひとを(良くも悪くも)縛るよね、という話


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五ノ幕.人の話を聞きやがれ

なんとか今日中に二度目更新できました


 

 

 異変は助太刀宣言してすぐのこと。

 

 どれだけ時間が短くても僕とお父さん……『白ひげ』とのやり取りは海軍どころか周囲一帯の耳目を思い切り集めていた。

 センゴク元帥に蹴りを入れて宙に突っ立ってる不審者なんていい的以外の何者でもないので、ある意味必定といえる。

 

「ッ、」

 

 僕は半ば自動的に反応していた。暴威の気配を感じ取った身体が仰け反り、愛刀を居合いで抜き放つ。

 

 ぎんっ。

 

 同時に足元に何かが転がった。真っ二つにはなっているが、それは弾丸の形状をした糸の塊だった。役目をしくじったそれはあっという間にほどけて風に浚われ散っていく。

 刀を構えたまま弾丸が飛来した方向を睨み据えると、そこには戦場には不似合いなほど享楽的な格好をした大柄な男が、指先を突き出した格好で不気味な笑みを浮かべていた。

 

 やべぇ。バレた。

 

 露骨に血の気が引いてさっきとは別種の気まずさで唇をぎゅっと引き結んだ瞬間、五色に煌めく糸の群れが餓狼の動きで殺到する。

 咄嗟に刃を繰って受け流せばギャリリと鍔迫り合いさながらの重さと鋭さが伝わってくる。ただでさえ不安定な足場、どこまで凌ぎきれるか──と柄を握り込んだ、その時。

 

超過鞭糸(オーバーヒート)

「げッ!?」

 

 いつの間に忍び寄っていたのか足首に糸の束が巻き付き、猛烈な勢いで真下へと牽引された。掴まるもののない小さな足場からあっさり足が離れ、身体がカツオの一本釣りよろしく宙を舞う。

 ぐるんとバトンのように柄を回転、刃を滑らせて足首の糸は切断することができたが足場を形成する暇もなく糸製の弾丸が次々飛んでくる。片っ端から弾き、或いはいなしている間に地面は目前、きり、と身体をひねってなんとか足から着地することには成功した。

 

「他人の空似じゃあ、ねェ、ようだな。フッフ、まさか真っ先に元帥に手ぇ出すとはなァ……」

 

 流れ弾を恐れてか奇妙に人のいない空白にひとりだけ、僕を釣り上げた糸使いが、どこか信じられないといった口調でつぶやく。

 現ドレスローザの国王にして、この戦争に招聘された王下七武海の一角──ドンキホーテ・ドフラミンゴがやけに気軽な動作で片手を上げた。

 

「よう、久しぶりじゃねェか。感動の再会が、こんな味も素っ気もねぇ戦場とは皮肉なもんだ」

 

 この世でいちばん遭いたくなかった可愛くない方の弟が、口の端に浮かんだ笑みを深める。けれど、サングラス越しの視線には訝しむような気配が色濃く残っていて、おそらくは半信半疑といった感覚なのだろう。

 そりゃな、生死不明のまま十年以上行方をくらませていたねーちゃんとこんな場所で再会するなんて思ってもいなかっただろう。ある意味、ドフィの疑問が解消されるまではここらは他の場所より安全なのではなかろうか。別の危機はつきまとうけれど。

 とりあえず、刀を鞘に収めながらへらっと笑ってみせた。

 

「久しぶり、ドフィ。ここにきみがいることが残念だよ」

 

 偽らざる本音をつぶやき、その場で笑顔を消した僕は──全力で地面を蹴って低い姿勢のままドフラミンゴ目掛けて吶喊した。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 この状況下で呑気に感動の再会などとよくも吹いてくれたものだ。まともな会話が成り立つと思うなよ。

 

「ッ!」

 

 こちらの反応が予想外だったのかろくに動きを見せないドフィの眼前で跳躍。挨拶のように上げられていた腕を一閃するとほとんど抵抗なく刃が潜り込み、彼の腕を寸断した。肉を断つ感覚ではなかった。

 ひどい違和感に肌が粟立ち、反射的にぶった切った腕を目で追ってしまう。肘の辺りからすっぱりと両断された腕からは血の一滴も流れ出ることなく地面に転がり、ゆるく開いたままだった長い指先が──()()()とほどけた。

 

「──!」

 

 そこで己の失策を悟る。

 

 これは、まさか。

 

「フッフッフ、実の弟相手でも問答無用とは。ひでェ姉貴もいたもんだ」

 

 片腕を失ったドフィの唇が滑らかに吊り上がるのとほぼ同時──僕は限界まで研ぎ澄まされた第六感に従い、あらぬ方向へ向けて刃を振り抜いていた。

 それは半ば本能的な迎撃行動で、この状況下でのみ発揮される鋭敏な感覚の成せる技だった。

 

 端から見れば空を斬ったとしか見えなかっただろうが、指先には僅かに手応えあり。

 

 僕の一連の動きを見ていた片腕のないドフィの顔が露骨に歪み、舌打ちの音をひとつ残してぐしゃりと崩れた。それは見る間に色を失い、やがてもじゃもじゃとほつれた糸の山になった。

 脳裏にミニオン島での一件が蘇る。今の攻撃を受けていたら、また支配権を奪われていただろう。同じ轍を踏まずに済んだのは僥倖だったが、舌打ちしたいのはこちらの方だ。

 

「お互い様だ。そう同じ手を喰らってたまるか」

 

 ひとかたまりの糸山にそう吐き捨て、振り向けば──今の今まで相対していたはずのドフラミンゴが五体満足で立っていた。

 おそらくは能力で編みぐるみのように作り上げた替え玉だったのだろう。

 

「おいおい、おれの腕を切り落としてお互い様はねぇだろ。挨拶代わりの可愛い悪戯じゃねぇか」

 

 ドフィは剽げた仕草で肩を竦め、改めて僕を見下ろした。サングラス越しの視線から懐疑の気配は消えている。人を操ろうとしておいて可愛い悪戯とは言ってくれるものだ。

 

「そうだね、替え玉と見抜けなかったのは迂闊だったよ」

 

 戦場において強者が弱者を喰らうのが世の習いであるとしても、ともだちに手傷を与えた張本人に相応の傷を負わせられるチャンスがあるならば実行すべきである。生憎なことにチャンスを活かしきることはできなかったけれど。

 

 できれば戦力を削いでおきたかったが、もう油断してくれそうにない。

 

 自分の事情を外して考えても、ドフィの能力をこの戦争で発揮されると白ひげの勝率が下がる。イコール、被害が増えてエース救出が遅れる。最悪だ。

 

「よく言うぜ。しかし……」

 

 刃を収めるつもりがないことを見て取ったのか、ドフィは僅かに嘆息すると芝居がかった動作で自分の顔を手の平で覆う。指先に圧迫されたサングラスがかちりと震えた。

 指の隙間から覗く眼差しは浮かべている笑みを裏切るように鋭く、以前に感じていたそれよりも重い。

 

「十年以上も行方をくらましたかと思えば、賞金稼ぎはともかく今度は白ひげの娘ときたもんだ。おれァ驚いたぜ、本当によ」

 

 声音に混じる嘲弄の響きを感じ取り、口を開いた。

 

「おと、白ひげに助けてもらったのはドフィと再会するよりもっと前だよ。残念でした」

 

 妙な勘違いをされると困るのでそこだけは注釈を入れておく。

 それを聞いたドフィは「あん?」と一瞬だけ表情を歪めた。けれど我が家でいちばん優秀な頭脳があっという間に回答を導き出したらしく、不意にその瞳が理解の色を帯びた。

 

「ああ……合点が入った。そうか、ドンキホーテ海賊団(うち)に入らなかったのは、ふん、そういうことかよ」

 

 そして、一旦は引っ込んでいた笑みがなお悪辣に、凶悪な彩を帯びて浮かび上がる。口角は三日月、指先が誘うようにゆるゆると動く。

 

「けど、今ならいいよなァ」

「ん?」

 

 その不穏さに脳内の警戒度数が跳ね上がり、じりっと一歩後ろに下がる。悪巧みを思いついた時そのままの雰囲気を纏うドフィは、僕を見据えて口を開いた。

 

「フッフ、なんせ白ひげからは縁切り。元帥に手ぇ出した時点で賞金稼ぎもめでたく廃業だ」

 

 痛いところを的確に突きながら、ドフィはまるで僕を迎え入れるかのように両腕をおおきく広げた。

 

 そして、

 

「なぁ、ミオ──ここで『うち』に入れば、おれはあんたを許してやる。50億もチャラだ」

 

 まさに寝耳に水な提案をしてきた。

 許す許さないはともかく、こんな戦争の真っ只中で勧誘とかされても正直困る。ドフィの言う通り現時点の僕は全ての肩書きを失った完全無欠な無職だが、それはひとときだけのこと。

 既にハートの海賊団クルーが内定している現状、別の海賊に鞍替えするつもりは毛頭ない。

 

「この戦争は面白ェ。が、それだけだ。今後に差し支えるから趨勢は見届けるつもりだけどな、そう深く関わるつもりもねェよ」

 

 この口っぷりから察するにたぶん死の商人でもやってるな、こいつ。

 株価の変動でもチェックするような口調の裏側から弟の後ろ暗い商売の片鱗が垣間見えてしまい、こんな状況なのにげっそりしてしまう。

 

「けど、あんたがここで頷くなら、この先の手出しは、フフ、随分と適当になるだろうな」

「……」

 

 ……要するに、僕がここでドンキホーテ海賊団に入団するのであれば、白ひげ、それに連なる傘下の人たちへの手出しは海軍へのお義理程度で済ませてくれるということか。

 さっきまでのやり取りで僕が白ひげを『身内』として考えていることを類推して、お誘いにちゃっかり織り交ぜて脅迫してくるところが本当にドフィらしくて流石である。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、十数年くらいで彼の性格はそうそう変わらなかったようでお姉ちゃんはがっかりです。

 

 しかし、返答ならば決まっている。

 

 僕は刀を鞘に収めてしゃんと背筋を伸ばし、顔を上げてドフィを見上げた。

 

「そっちの海賊団には入らんし、深く関わる気がないならとっとと帰れ」

 

 戦に臨む覚悟も信念も気概も持ち合わせずにただいるだけだというなら、それはただの邪魔者である。下手に実力ばっかりあるもんだからタチが悪いことこの上ない。

 

「あ?」

 

 途端、ドフィの顔に浮かんでいた笑みが能面のように削げ落ちた。ざわりと空気が蠢き、濃密な怒気が場を支配する。遠巻きにこちらを窺っていた海兵たちすら尻込みしながら後ずさっていった。

 

「どういう意味だ」

 

 何かの感情の琴線を越えたのか軽佻浮薄な態度すら消え失せて、誰何の声はひたすらに平坦だった。

 簡単に頷くとは思っていなかっただろうが、これは僕の言葉が足りないのが原因だろう。……仕方ない。

 

「どういうもなにも見ての通り──僕は今、すっっげぇ忙しいんだよ!!」

「……はああ?」

 

 一気に怪訝そうになった視線も何のその、異議ありとばかりにびしっとドフィへ指をつきつけ、捲し立てた。

 

「あとそっち海軍サイド! 僕は海賊サイド! しかも元帥に手ぇ出したから海軍エネミーは確定済み! そんなんを堂々と勧誘すんなばか! やるならもっとこっそりやれ! 私掠勅許状取り上げられたらどうすんだよ!?」

 

 まったくこやつは己の立場をなんだと思っているのだろうか。王下七武海で強制招集かけられたというなら、そりゃ完全に海軍サイドである。

 ほんのちょっと前に元帥をボコにした僕にそんな言葉をかけるんじゃありません。誰かにリークされて軍法会議でもかけられたらどーすんだよ。

 

「つうか、物見遊山程度でこんなところにくるんじゃありません危ないんだから!」

 

 なんだってこんな場所で似合わない説教をかまさなければならないのだろうか。全部ドフィが悪い。

 一気に喋り倒すと、ドフィは何だかさっきとは打って変わって気の抜けた声でぼんやりぼやいた。

 

「おれの腕ぶった切ろうとしたくせに危ないとか、どの口で抜かすんだよ」

「うるせーそれとこれとは話が別だ! 仮にも一国を預かる王様なんだからもっと自覚持て!」

 

 王様が倒れたら国が路頭に迷うだろうが。

 

「僕だってオーズの落とし前除けばドフィと敵対なんかしたくねーんだよわかれ! あーもう、とにかく色々迷惑だからはよ帰れしっし!」

 

 とにかく言いたいこと全部言って犬の子でも追っ払うように手をぺぺいっと動かすと、ドフィは一瞬呆然としてから──まるで子供の頃みたいな声で、ぽつんと。

 

「……あんた、ひょっとして、おれの心配してんのか」

 

 今まで何聞いてたんだこいつ。

 

「当たり前だろうがー!」

 

 ほぼ反射的に怒鳴り散らしてしまった。

 色々と遺恨はあるが、べつにドフィを恨んじゃいない。そんなことより実の弟が命のやり取り前提の戦場にいる方が問題である。しかも七武海で王様なんて責任てんこ盛りの状態で。普通に心配するし、できればとっとと離脱して欲しい。

 即答すると、ドフィは妙な姿勢のまま硬直して、それから片手で口元を覆いながら堪えきれないとばかりに笑い出した。

 

「……ふ、フフ、フッフッフ! そうか、そうかそうか、おれのことが心配でそれで早く帰れ、か。フッフ!」

 

 それはなんだかこの場に似つかわしくない、腹の底から明るくなるような、せいせいした声だった。

 攻撃意思のちっとも見えないそれにこちらも毒気を抜かれ、腰に手を当てて呆れ混じりに答える。

 

「そうだっつーの。もう、これが片付いたら今度こっそりそっちの国に遊び行ったげるから──」

 

 その時、視界の隅から飛来する蒼い何かが猛烈な勢いでこちらへ迫り、すり抜けざまに逞しい蹴爪が僕の両肩を掴んでそのまま舞い上がった。マルコさんだ。手加減はしているのだろうけど、なんせ蹴爪なので肉にめり込んでくっそ痛い。

 慌てて両手でマルコさんの足首を掴んで負荷を軽減させながら、残った言葉をドフィめがけて叩き付けた。

 

「──その時は盛大なおもてなし期待してるよ、さびしんぼの王様!」

 

 どんどん遠くなっていく眼下のドフィはこちらを引き留めようともせずに見上げたまま、楽しそうににやにやと笑っていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六ノ幕.ヒーローがおちてきた!

お久しぶりです。
しばらくはぼちぼち更新できそうなので、改めてよろしくお願い申し上げます


 

 

「ったく、くんなっつっただろうがよい」

 

 ある程度の高度を維持しつつ、ミオを足首にくっつけたままマルコが飛翔しながらどこか楽しそうにぼやいた。

 ぶら下がったミオはマルコのすんなり伸びた首の辺りを見上げて口を開く。

 

「……手が届くかもしれない場所にいるエースの危機に駆けつけない家族なんてどのみち、もう家族じゃいられませんし。それならいっそ、ね」

 

 自分で手放してしまったことに対する寂しさも確かにあるが、こうしてマルコが回収してくれたということは『白ひげ』が助太刀を許可してくれたということだ。

 選んだ道を肯定してもらえたようで、嬉しかった。

 

 そうつぶやくと、マルコは先ほどの『白ひげ』とミオとのやり取りを思い出したのかくつりと喉を鳴らす。

 

「思い切りのよさは親譲りだな。おれとエースの予約はこれでパーってわけだが」

「そこはごめんなさい! です!」

 

 そこは素直に申し訳ないので謝っておく。

 マルコは「こんな事になるなんて誰も思ってなかったからな。気にすんなぃ」と言ってくれた。ばさりと羽音が響く度に蒼い燐光がゆらめく。

 

「にしても、どうすんだよい。オヤジはああ言ったが海軍には完全に身内だと思われてるだろ」

「どうもこうも、エース助けてから考えますよ。そんなもん」

 

 どのみち、ハートの海賊団に入団することになっているので考える必要がないとも言える。

 

「ま、そりゃそうだ」

 

 マルコはミオのそんな事情は知らないだろうけど、優先順位の問題かと適当に片付けてくれたらしい。

 方向的に一旦『モビー・ディック』号へ戻るつもりのようだ。せっかくオーズが稼いでくれた距離が振り出しに戻るのは少し残念だが、あのままだと蜂の巣になっていそうだったから諦める。

 

 仕切り直しだ。

 

 眼下に広がっているのはまさに戦場である。

 あちこちからひっきりなしに怒号が飛び交い、剣戟が響き、発砲音と悲鳴が不協和音を奏でている。争乱と鉄火の気配が満ち満ちて、肌が炙られるようだ。

 硝煙と煙が風に混じって喉にいがらっぽさが引っかかる。あと、内容までは聞こえないけどなぜかドフラミンゴが戦場のど真ん中で呵々大笑していた。なにやってんだよ……。

 

 じゃっかん呆れが混じった、その時だった。

 

「ドフラミンゴも使えないねぇ~」

 

 視界の端で真昼だというのに光がたばしったと思ったら、やけに間延びした声が後方から聞こえた。

 ぶつけられる敵意に首を動かすと、黄色とオレンジのストライプなんてとんでもない柄のスーツを着こなし、肩から軍属を示すコートを羽織った男性が指先を拳銃のように突き出している。

 

「とんだ不穏分子もいたもんだよ」

 

 先ほどマルコがぶつかった海軍の誇る最大戦力のひとり、シャボンディ諸島で麦わらの一味を窮地に追い込んだ大将『黄猿』があからさまに自分を狙っていた。

 

「黄猿!? ッチ、」

 

 遅れてマルコも気付き、咄嗟に回避行動を取ろうと翼を羽ばたかせようとして──

 

「うわぁマルコさんごめん!」

 

 それより早く、ミオがマルコの両足首を握りしめたまま勢いをつけてぐるりと反転した。

 

「うぉ!?」

 

 突然の行動にバランスを保つのに難儀しているマルコをよそに、ミオは慣性を味方につけて振り子のように身体を揺らし、マルコの脚に自分の足を搦めながらあろうことか両手を離した。サーカスの曲芸よろしく頭を地面へ向けてぶらりと逆さまに。

 不安定も極まった状態で素早く腰にくっつけたポーチを引きちぎって「でいっ」と黄猿目掛けてぶん投げた。

 

「え~?」

 

 苦し紛れの行動にしか見えなかったのだろう。黄猿は疑問混じりの声とともに、投擲された物体が自分にぶつかる前に迎撃した。

 

 構えた指先からそれこそ某アニメのビームのように収束した光線がキュンと放たれ──ポーチと接触した瞬間、紅蓮の炎が弾けた。

 ポーチを中心に嘘かと思うほどの爆熱が吹き荒れ、逆巻く風が猛烈な勢いで黄猿を巻き込んで視界を茶色く染め上げる。

 

 ミオが投げたポーチに詰まっていたのは手榴弾である。

 

 どうせ乱戦にもつれ込んだら使えなくなるので、まだ海賊サイドが到達していない海兵だけの区域にでも投げようと思って用意しておいたのだ。役に立ってよかった。

 レイリーとアオガネから黄猿の能力については聞いていた。自然系、光を自在に操る『ピカピカの実』の能力者。光は拡散させるに限る。決定打にはならずとも逃げるくらいの時間が確保できれば御の字だ。

 

「マルコさんはよはよ!」

「はよはいいけどよい、おま、そんなもんまで持ってたのか」

「いちおう装備は万端整えました! から! まさか黄猿相手に使うなんて思ってませんでしたけど」

 

 ずり落ちそうになっていたミオの足を蹴爪で掴んでいたマルコはじゃっかん引いていたようだが、これ幸いとばかりにスピードアップした。

 もうもうと舞う土埃の中から黄猿が飛び出してくるんじゃないかと身構えていたのだが、後方に下がる相手を追う気はないのか気配は感じられない。

 内心めちゃくちゃホッとしながら、ふと処刑台の方に目が行ったので軽く手を振ってみたところ、ものすごい顔をしたエースが馬鹿危ねぇぞほんと何やってんだ早く逃げろと怒鳴り散らしてくる。横にいるガープはしかめっ面のまま動かなかった。

 

「うわ、エースめっちゃ怒ってる~! 桃色お姫様ポジションのくせに~」

 

 不満そうにしているミオだがマルコとしてはエースの心中察するに余りある。

 自分を助けに来るのだって予想外だろうに、元帥には攻撃するわマルコが回収したらしたで黄猿に強襲されたと思ったら爆弾投げつけて誘爆させるとか。危ないどころの話ではなかった。

 

「そこは怒られとけよいっ、と」

 

 そう返しながらマルコが唐突にミオの足を離し、宙に浮いたと思ったらほんの一瞬だけ能力を解除、服を掴んで引き寄せられた。逃さず腕を伸ばして胴体にしがみつけば、既に腕は翼へと変化している。

 マルコとミオの付き合いは長いので、わりとこういう以心伝心の動きは得意だった。

 

「いきなり三大将が襲撃とはな、危険視されたもんだねぃ」

 

 元帥を狙った上、襲撃自体は成功しているので順当ではある。

 

「こわ、めっちゃこわ! さっきマルコさんよく相手できましたね!?」

 

 真っ先に『白ひげ』を狙いに来た黄猿をマルコが撃退していたのをミオは目撃していた。

 直に相対してみると、飄々とした好々爺然としているのにどうにも油断のできない剣呑さの漂う……どころか殺意バリバリで向かってくる姿は軍属というより上にヤのつく自由業みたいだった。

 しかし戦桃丸が『オジキ』と呼びたくなる気持ちがよくわかった。むしろ組頭じゃないのか。

 

「いきなり爆弾投げつけるのも相当なもんだと……あ、」

 

 追跡がないことに安堵したのか、マルコは何か思い出したように続けた。

 

「さっきはなんだって七武海になんか絡まれてたんだよい。しかもドフラミンゴなんか、いい噂聞いたことねぇぞ?」

「え? ああ、あれ弟っす。可愛くない方の」

 

 この先の対策やらに思考を割いていたミオはものすごくさらっと答えた。

 

「ハァッ!?」

 

 びっくりしすぎたらしいマルコががくっと傾き、高度が落ちる前に持ち直した。危ない。

 

「あれが例の弟!? 似てねぇな!」

「ですよねぇ。なんか身長とかみんな持ってかれちゃったんですよ」

「そこじゃねぇ! けど……あー、それでか……」

 

 マルコさんは口の中だけでぶつぶつと呟き、最後につくづくといった感じで。

 

「ケンカで弾痕こさえるわけだ」

 

 と、ため息をついたのだった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 そうこうしている内に『モビー・ディック』号の甲板へとミオは下ろされ、間髪入れずにマルコは再び空へと舞い上がった。全景を見渡す偵察役らしい。

 

 目の前の『白ひげ』は湾内へ視線を向けていてこちらに一瞥もくれなかった。さっきの今だ。気まずさここに極まれり。

 果たして『白ひげ』はこんなに大きかっただろうか、と考えてしまうほどミオは萎縮してしまう。

 

「おい」

「ひゃい!?」

 

 そこに突然声をかけられるものだから、変な声が出てしまった。

 相変わらず『白ひげ』の視線は前方へ固定されていたものの、言葉は間違いなくミオへと向けられていた。

 

「おめェなら、どう見る?」

 

 その一言で、完全にスイッチが切り替わった。

 目の前にいるのはこの戦を率いる大将であり、ミオが助太刀を願い出た船長である。

 視界が明瞭になり、呼吸が肺の奥まで浸透していく。ざっと全景へ視線を流し、事前に調べたマリンフォードの地図を脳裏に描いて照らし合わせていく。

 

「自分なら、じゅうぶん引き寄せてから、囲んで、潰す」

 

 これだけの兵力だ。数の利と地の利を最大限に生かして策を練る。こちらの目標がエースに固定されているのだから、まず間違いなく餌に使うだろう。

 そう述べると『白ひげ』はかすかに口元を緩め、

 

「いい読みだ」

 

 ぼん、と一度だけミオの頭を軽く叩いた。

 

「助太刀、期待してるぜ」

 

 その深い声に、信頼のきざはしを預けてもらえたことが分かって、心の底からの安堵が広がり奮い立つ。

 

「もちろん! いい働きします!」

 

 『白ひげ』も満足げに頷き──その手に乗っかった電伝虫がひっきりなしに騒いでいるのを見たミオは、駆除剤作戦を敢行しなくてよかったと思った。

 

「グラララ。さすがの"智将"も、持ち直すにゃ時間がかかったらしいな」

 

 にやりと笑う『白ひげ』の表情を見る限り、状況はそう悪くないらしい。

 どうやら海軍の命令系統に乱れが出ているのか、海兵たちの動きが微妙に揃っていない。あと"智将"というのがミオがボコにした元帥のことならば、もうそこそこ動けているらしいことが憎らしいやら悔しいやら。

 

「あの元帥だったら、喉奥どついて電伝虫潰すくらいしかできませんでした」

「くらい、じゃねェよ。出鼻は挫くに限る。あの"仏のセンゴク"の不意を討つなんてぇのはな、大したことだ」

 

 そこでようやく、『白ひげ』はミオを見下ろした。

 

 声を低めて、この時ばかりは愚痴っぽく。

 

「ったく、このはねっ返りのじゃじゃ馬が。チェレスタの野郎におれァなんて言やあいいんだよ」

「う」

「だが、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そこまで言って、『白ひげ』は指先でミオの頭を小突いてにんまり笑ってみせた。

 

「行ってこい。あんな啖呵聞かされて奮い立たないヤツなんざ、おれの息子たちにゃいねェぞ」

 

 低い、あたたかい声が背中を押してくれる。

 お腹のあたりがむずむずして、自然と笑ってしまう。全身に血液が巡って力が湧いてくる。

 ミオも顔を上げて白ひげを見つめ、花のように笑った。

 

「いってきます!」

 

 そして、そんな海賊たちを後押しするように頭上から声が落ちてきた。

 

「だから──……だって……だよ!」

「──のまばたきの──」

「……のせいにする気!?クロコォ!」

「ど……──いけどコレ死ぬぞ!下は氷張ってんだぞ~~!?」

 

 悲鳴や鬨の声とは別種の、言い争っているのか賑やかなざわめかしさに顔を上げると、冗談みたいな光景が目に飛びこんでくる。

 遙か空の上から落ちてくるものだから模型のように見えたそれは、本物の軍艦だった。

 逆しまになった建物ほどのサイズをした軍艦の周りに散らばっていたものはよく見れば人間で、一緒くたになって落下してくる。

 戦場にいる人々すべての視線が上に向き、それはある種壮観ともいえる眺めだった。物語的ともいえる。

 

 空から登場する第三勢力とは、誰も予想などできようはずがない。

 

 多数の人影の中にはミオの知る人物が多くいた。海峡のジンベエ、革命軍のイワンコフ、元七武海のクロコダイル、そして──

 

「ルフィくんすっげぇ」

 

 知らず、ミオはそうつぶやいていた。

 

 レイリーから話を聞いてからマリンフォードに到達できるのは絶望的かと思っていたのだが、こんな登場をするとは。

 ぞくぞくするような戦慄が爪先から脳天まで走り抜ける。遠目からでも血と汗と泥にまみれてひどいありさまだったが、その麦わら帽子と瞳の強さは変わらない。

 

 予想が確信に変わる。間違いなく彼には天佑があり、運命に愛されている。

 

 よくよく見れば、落下する集団には麦わらの一味はひとりも混じっておらず、囚人服の者が多い。ということは、インペルダウンに侵入して脱獄までしてのけ、新たな助力まで得た上でエースが処刑される前にマリンフォードまで辿り着いたということか。

 本人の資質ももちろんだが、一体どれだけの運を味方につければそんな離れ業ができるのだろう。空恐ろしい。海軍が危険視して賞金額を破格のスピードで吊り上げるわけだ。

 

 氷面に叩き付けられ登場と同時に脱落かと思われた闖入者たちは、揃って先ほどの攻撃で出来た水面へ軍艦ごと着水を果たす。理不尽なまでの運と偶然の噛み合わせが、彼らに花道を添えるようだ。

 

「──ルフィ!?」

「エ~~~ス~~~!! やっと会えたァ!!」

 

 悲愴な声で弟の名を呼ぶエースとは裏腹に、無事に船へ乗り上がったルフィは心底嬉しそうに彼の名を呼んで手を振った。

 

「助けに来たぞおおおおおッ!!」

 

 彼を中心として居並ぶ面子の迫力も相まって、このひととき、間違いなく彼らはこの戦の中心だった。

 先ほどまでミオへと注意を払っていた海兵たちの視線も根こそぎ浚い、誰もがこの時代の寵児から目を離すことができない。

 その求心力、資質を備えた傑物を古来より、人は英雄と呼ぶ。

 

「……よっし」

 

 そんな彼らを見届けたミオはそれ以上彼らの行動に視線を向けることもなく、白ひげにもう一度「じゃ、今の内に動きます」とだけ伝えて甲板から降りた。

 

 既に思考は戦闘時におけるそれである。

 戦意と昂揚が指の先まで循環して、視野が広がり澄んでいく。麦わらのルフィの目的は間違いなくエースの救出なのだから、それだけ分かっていればいい。

 

 ああいう手合いはとにかく目立つ。目立つということは集中砲火を喰らうということなので、あまり一緒にいたくない。

 

 ミオはエースを迎えに来たのだ。確かに麦わらのルフィはエースの弟だが、彼には頼れる協力者がいるようだし、実力があることも知っている。

 

 それならむしろ海兵の目を引き付けるだけ引き付けてくれることを期待して、自分は自分で動いた方がいい。

 

 マリンフォードの地図は頭に入っている。おそらく麦わらのルフィのことだ、突き進むとすれば中央突破を選ぶだろう。

 彼らが真ん中ならば自分は左翼からだ。海兵の数が減っていれば幸いだが、麦わらと自分への戦力を分散させるというならそれもいい。

 

「──さてと」

 

 ミオは終ぞ人へ向けた試しのなかった殺気を含んだ気配を隠すこともせず、表情を冷徹な、刃のようなそれへと変貌させた。

 近くにいた彼女を知る傘下の海賊たちが、終ぞ見たことのない表情の変化にギョッとする。しかしそんなことにはもはや頓着する余裕はない。

 

 波の形を保っているとはいえ、凍り付いた海面は天然のスケートリンクに等しい。海兵、海賊関わらず、踏ん張りのきかない氷面は彼らにとって戦いには不向きな場所に他ならない。

 だが──ミオにとってそれは障害になり得ない。むしろ、能力を得てからは好んで活用してきた戦法だ。

 

 ミオはほぼ足音すら響かせることなく、猫のように滑らかな動きで氷面を疾走した。

 

 姿勢は低く、重心を保ち、氷面を蹴るのは最小限。ふつうに走るより断然速い。みるみる上がる速度には目を瞠るものがあり、交戦する海賊たちの間を瞬く間にすり抜けていく。

 

 ちき、と鍔が音を立てる。

 

「な、!?」

 

 ルフィたちにばかり気を取られていた海兵はその接近に気付かず、それが致命的な隙だった。

 

 海兵の向けた視線の先で、怜悧な線が光って見えた。

 

 太刀筋の残像。刃の軌跡。

 

 それと理解するより速く、海兵の意識は闇に引きずり込まれる。

 

「隙あり、です」

 

 何かが落ちる音が聞こえた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七ノ幕.あいたくない、あいたい

 

 

 海兵たちが目にしたのは抜き身の刀身をさらしたまま、単身滑るように突っ込んで来る白い影。

 

「お、『音無し』だ!」

「くそッ、早く討ち取れ!」

 

 この中では最も地位の高い将校らしき男ががなる。

 『麦わらのルフィ』たちの登場で浮き足立っていた数多の海兵が慌てて武器を構え始めたが何もかもが遅すぎた。

 

「単身とは愚かな!」

 

 将校はせせら笑う。驚くべき速度ではあるがこちらは多数、あちらは一人。これだけの人数を相手取れば、必ず隙は出来る筈だ。

 しかし、そんな盲信が通用するような相手ではないことを痛感するのは、ほんの数秒後。

 

 刹那の内に振り抜かれた凶刃は獰猛に海兵を喰い千切る。

 

 迎撃せんと振り上げられた軍刀が腕ごと宙を舞い、もう一人が水平に振るったナイフを膝を落として避ける。

 

「な、」

「ガラ空き」

 

 そのまま返す刀で、ミオは海兵の足を両断した。

 

「ぐ、ぉ……この、賞金稼ぎ風情がァ!!」

 

 両足を失って前のめりに倒れる海兵を尻目に、行きがけの駄賃とばかりにもう一人。

 体勢の悪さを狙って振り下ろされた軍刀を紙一重で避け、立ち上がりざまにその喉元に一撃を突き入れる。

 

「げぉ、ぁ、ガ……」

 

 ミオの髪が数本犠牲になったが、呻き声には耳も貸さぬというように足を振り上げ、将校の腹に押しこんで強引に刃を引き抜く。ぶちぶちと血管やら筋繊維やらが引き千切れ、仰向けとなった身体から首を中心として染み出した血液が地面をしとどに濡らした。

 

 所詮は賞金稼ぎと侮り、警戒を怠った結果がこれだ。肉食獣の獰猛さと精密機械のような正確さで、小さな存在は圧倒的とも言えた戦力差をものともせずに戦場を滑り抜ける。

 

 多勢に無勢などという(ことわざ)は、この場において寝言も同然だった。

 

「ひぃっ、ひぃいい!」

 

 目の前で突如として起こった死の連鎖を目の当たりにした新兵は精神に恐慌を来たし、ろくな狙いもつけずに銃の引き金に指をかけようとした。

 

「残念」

 

 が、引き金を引くという僅かな動きを許す間もなく、一足で距離を縮めた血塗れの刀身が弧を描く。逆風の一刀は海兵の腹をやすやすと切り裂いた。

 一撃のもとに絶命して、断末魔すらなく噴き上げた凄まじい血煙。くず折れる海兵の背後から、初めて立ち止まった桜色の双眸が呆れたように向こうに居並ぶ海兵を睨み据えた。

 

「──どけば?」

 

 ぶん、と傘の水を払うような無造作な血振りの動作。地面に円弧の血が散って折り重なる屍を飾る。

 

 一呼吸あったかどうかの間に死屍累々、周囲に広がる一大酸鼻。

 

「あ、う」

 

 その威圧。死の気配。鉄錆と肉塊の臭いが新兵のみならず歴戦の海兵をも竦ませた。

 そんな意識の空白を見逃すわけもなく、頃合い良しとみたミオは口の端に笑みを刻んで音もなく跳躍、滑らかな動きで敵兵の只中へと再び突撃した。

 戦闘経験の薄い海兵たちは挑んだ仲間の末路を目の当たりにしていたせいで怯み、怯え、生存本能が上げる悲鳴に従って無意識に足が後退してしまう。

 

 ミオはそんな者たちを追い打つような真似はせず、ただ立ち塞がるすべてを手当たり次第に薙ぎ倒す。

 

 進路方向に点在する海兵を蹴散らし舞わせ、将校の骨が折られ新兵の肉を裂き、血をまき散らし悲鳴を涸らし、次々とくずおれていく。

 わざわざ殺すことを意識してはいないが、無傷の者はいなかった。速度を落としたくはなかったし、手傷を負わせることができれば交戦する海賊が有利になるだろう。

 

 氷のエリアを抜け、本来ならば船を係留させるための波止場へ乗り上げると、目に付いた海兵を片っ端から切り捨て御免。

 

「来るな! ルフィ~~ッ!!」

 

 そんな中、突如として大声が鼓膜を叩いた。

 処刑台でエースが必死の形相でがなっている。自分の不手際が弟すらこんな場所に招いた自責の念は相当なものだろう。エースは本当に弟が好きだから。その分心配して、拒絶して、これ以上巻き込みたくはないのだと全力で主張している。

 だが、麦わらのルフィがそんなことを聞く耳を持っているはずもなく。むしろ発奮材料になっているようである。おれは弟だルールなんかしらねぇ死んでも助けるぞと火に油どころかガソリンでもぶっかけられたような勢いで猛反発している。

 

 まぁ、そんな兄弟の主張合戦は横に置いて、とにかく進もう。

 

 騒ぎに紛れて距離を稼げるだけ稼いだがこの先はどうだろう。後方では光線だの爆発だのでえらい騒ぎだ。

 

『その男もまた未来の『有害因子』!! 幼い頃エースと共に育った義兄弟であり……』

 

 心なし不明瞭なセンゴクの声が拡声器越しに響き渡る。回復が早いのが恨めしい。それとも能力的なものでもあるのだろうか。

 

『その血筋は『革命家』ドラゴンの実の息子だ!!』

 

 その事実がもたらす影響はよほどのものなのだろう。海兵のみならず海賊たちにも動揺が広がっていくことが肌でわかる。

 ミオからすれば懐かしい名前の人が出てきたな程度の感慨しかない。珀鉛病に関する資料を追い求めていた時期に耳にしたことがあった。

 

「通すかぁッ!!」

 

 異常を察知したのだろう、海縁に配置されていたはずの巨人の将校らしき男がミオを強襲した。

 大抵の目は麦わらのルフィとその協力者たちに向いているが、こちらもこちらで元帥に痛い目を見せた張本人だ。そう甘くはないらしい。

 

「死ねェえ!」

 

 巨人の男は超巨大なバトルアックスを振り上げ、真上から思いっきり振るった。鋼色の不気味な光沢が地面に亀裂を入れ、瓦礫と土塊が舞い上がる。

 

「そんなん当たるか」

 

 べぇ、とミオは舌を出して踊るように身を翻し、地面へ突き刺さった刃の側面を蹴り飛ばして身を沈め──能力発動。

 摩擦係数を限りなくゼロに近付けスライディングの要領で足元に接近、踵の辺りを無造作に切りつけた。頑丈な靴の素材を貫通し、白刃が鮮血を帯びて振り抜かれる。巨人とはいえ人体構造はふつうの人間とさほど変わらない。

 

「ッぐぅ!?」

 

 腱を切断された巨人は反転することもままならず苦悶の呻きを漏らした。

 その足元をネズミのようにすり抜け、据えられた砲台の方へとちらと視線を移す。

 

「……んん?」

 

 登攀(とうはん)するには難儀しそうな壁の上に配置されている砲台なのだが、何か、違和感があった。砲台ではない。むしろ壁とこちらとの距離に、何か──

 

 そこへ、

 

「やはり貴様か。嬉しいぞ」

 

 低く、静かな、けれど確かな歓喜を含んだつぶやきが聞こえた。

 

 

 

×××××

 

 

 

「ッ!」

 

 それを知覚するより早く、ミオの身体が勝手に跳び退いた。

 

 同時、一刹那の風切音。

 

 限りなく鋭く速い、不可視の斬撃が今の今までミオの立っていた場所を奔り抜ける。

 ほんの僅かでも判断を迷っていれば自分の身体は今頃胴体と頭が泣き別れしていただろう。運悪く後方からミオを攻撃しようとしていた海兵たちのように。

 

 怪物と遭遇したような──否、相手が誰だかを理解しているからこその怖気で全身の毛が残らず逆立つようだった。

 

「でたーッ!?」

 

 全力の悲鳴である。

 

 ミオがこの世で最も遭いたくない身内はドフラミンゴで揺るぎないが、この世で最も関わり合いになりたくない人間がいるとすればこの男だった。

 お化けでも見たようなミオの声に、相手はかすかに眉をしかめたようだった。

 

「おかしなことを」

 

 首を向けた先で、西洋騎士のような羽根飾りのついた帽子を被った男性──ジュラキュール・ミホークが瓦礫の上に超然とした様子で佇んでいる。

 その手には黒瑠璃のような麗しい刀身をさらす長刀。世界最強の剣士が持つに相応しい黒刀、『夜』の名を冠する最上大業物12工が一振り。

 

「よもや逢えるとは思っていなかったが、これほどの僥倖。運命に感謝しよう」

 

 鷹を想起させるような黄金の瞳がひたとミオに据えられ、沁みるような威圧感がひしひしと場を支配する。

 

「ここでなければ、貴様はおれと戦うまい」

「当たり前です逃げるに決まってるじゃないですかやだー!」

「だろう」

 

 得たりとばかりに頷かないでください。本当に勘弁して欲しい。内心半べそで嘆いた。

 

 ミオにとって七武海の中でドフラミンゴとジンベエ以外の顔見知り──心底認めたくない──がこの鷹の目である。

 

 出会いは何のことはない。暇つぶしにグランドライン界隈をうろついていたミホークとミオが運悪くエンカウントした。それだけだ。

 

 ただ、その回数が半端ではなかった。

 

 最初の出会いでスタコラ逃げてからこっち、何が彼の琴線に触れたんだかミオがグランドラインに漕ぎ出すたび、ミホークは幽霊のように湧いて出ては勝負をふっかけてきたのである。

 さすがに押しかけ弟子ことシュライヤを鍛えている間は空気を読んだのか、登場することはなかったのだが……彼とお別れした次の日、無駄に剣気をまき散らしながらエレガント筏で特攻してきたのには心底びびった。おかしなセンサーでも搭載されてんのだろうか。

 

 ジュラキュール・ミホークといえば名実ともに世界最強と名高い剣豪である。

 そんなおっかない輩とまともにやり合っていたら命がいくつあっても足りるものではない。生命活動に支障を来しそうな暇つぶしなんぞに付き合ってられるか、と遭遇するたびにあの手この手でミオは逃げた。恥も外聞もない。とにかく逃げて逃げて逃げまくった。

 

 そんなこんなでミオが鷹の目と刀を交わしたのは、ほんの数合がせいぜいだ。両手にも満たない。

 

 ミオは鷹の目が嫌いではない。苦手というのもまた違う。ただひたすらに関わりたくない。できれば互いに存在を知ることなく一生を終えたかった。

 

「ここであなたとやり合うのいやです。すごくいやです。とてもいやです」

「戯言を」

 

 首を左右に振りつつ心底からの本音をぶつけてみたが、ミホークはどこ吹く風といった風情である。というか、彼は自分の中で大体の物事が完結しているため、基本的に人の話を聞きゃしないのである。困る。

 

「むしろ、()()以外のどこで貴様に逢えというのだ」

 

 鷹の目の声音に険が混じる。ぴりっ、と空気に剣気以外のものが走った。

 

「不退転の覚悟で臨む戦場。ここにしか、貴様は殺す相手を見出さんだろう」

「──」

 

 瞬間、ミオの顔から表情が抜け落ちた。表面上に浮かんでいた焦りや怯えが残らず消え失せ、くちびるが真一文字に引き結ばれる。

 

 実のところ、この世界でミオが人を殺したのはこの戦場が初めてだ。

 

 それまでの賞金稼ぎや生活において人を殺したことは一度もない。幼少時にドフラミンゴたちを逃がすために囮になったときは単に膂力が足りなかった。そして、賞金稼ぎが海賊を狩り出す際に殺そうが生かそうが支払われる額は一定だ。それなら殺さない。そうするだけの価値がないからだ。

 

 だが、ここでは違う。

 

 海兵は白ひげを、エースを、海賊たちを殺すためにここにいるのだ。それならば、ミオは海兵より『白ひげ』をとる。敵を削り、仲間を生かす。自明の理だった。

 

 価値がないから殺すのではなく、殺すだけの価値があればこそ──刀を振るい、屠るのだ。

 

 そういうミオの理念を、根幹を、鷹の目は理解している、否、しすぎているといった方が正しい。

 

「貴様がここでおれを止めねば、おれは海賊どもを斬って捨てるぞ」

 

 ミオの表情の変化を満足げに眺め、鷹の目が『夜』を振るう。無造作ともいえる動きだったが、世界最強の剣客が放つ攻撃はそれだけで死の颶風に等しい。

 放たれた一閃は不可視の斬撃と化して風を切り裂き、その先で固まっていた海賊たちを真っ二つにする──その寸前で停止した。

 

「させない」

 

 異様な光景だった。

 触れることすらできないはずの斬撃が空中で停まっている。氷結し、固着している。それをミオが拳でぶん殴って粉砕した。凍りついた斬撃はもろくも飛散し、雲母にも似た煌めきを放ちながら空中に散布される。狙われた海賊たちは死が遠ざかった安堵からか、揃ってへたりこんでしまった。

 

 コチコチの実、その異能が持つ真骨頂。現実世界に作用している()()であれば、ミオはそのすべてを『固定』させることができる。放たれた斬撃とて例外ではない。

 

 ダイヤモンドダストのような銀色の粒子をまとわせて、ミオは一度目を閉じ、開いた。

 

 逆巻く波濤の如き殺気がミホークへと叩き付けられる。

 覇気に勝るとも劣らぬ、それは臓腑をひり潰すが如き圧力だった。

 これまで一度たりともミホークがミオから受けたことのない、敵意と殺意、そして覚悟を滾らせた瞳がミホークを見据える。

 

「させて──たまるか」

 

 戦場という、常の理法が通らぬ異界の地でのみ発露する凜然とした艶姿に、鷹の目は満足げな吐息をこぼし、歩き出す。

 

 挙措はあくまでもしなやかでゆるく、悠然としたものだが、纏う気配は抜き身の刃そのもののように冷ややかだ。潜り抜ける隙などあろうはずがない。

 ルフィたちに戦力が偏っている現状、せっかく七武海にも当たらぬようあえて遠回りの針路を取っていたというのに、これで全部台無しだ。

 

「ならば、どうする」

 

 鯉口を切る乾いた金属音が、問いの答えだ。

 

 殺意を以て相対してきたものには、殺意を以て返さなければ禍根が残る。

 

 それはミオの中にある、ごく単純な約束事だ。おそらくは闘争に身を置くものたちが、誰しも無意識に抱く契約。

 

「そう、それでこそ、だ」

 

 待ちわびていたものにようやく巡り逢えた喜悦を胸に、ミホークは黒刀を構える。

 ミオもまた、先ほどまでの慌てようが嘘のように、張り詰めながらも穏やかな所作でゆるりと構えた。

 

 そして、つくづくと、つぶやいた。

 

「──ああ、いやだなぁ」

 

 いやだいやだと愚痴りながらも、その瞳はすでに猛禽類もかくやという炯眼でミホークへ焦点を引き結んで動かない。限界まで圧搾された敵意が滲むようだ。

 

 ミオは鷹の目が嫌いでも苦手でもない。それでも心底関わり合いになりたくないと願っていたのは。

 

「ミオ、生きるために死ぬ者よ。貴様の宿痾、満たせるとすれば──おれ以外におるまいよ」

 

 本当に相対したが最後、こうなるしかないと──分かっていたからだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八ノ幕.お馬鹿さんふたり

 

 

 動き出したのはほぼ同時。

 

 まずは小手調べとばかり、大上段に振りかぶったミホークの黒刀をミオは己の愛刀で受けて立った。

 

 

──激突!

 

 

 肩ごと外れそうなすさまじい衝撃が腹の底までびりびりと伝播する。やはり膂力では圧倒的に彼が上回る。ミオは歯を食いしばり、地面を縫いとめよとばかりに足を踏ん張った。

 剣圧の余波が髪をなびかせ、裾が暴れ回るように揺れる。

 

「ぐ、う──ッ!!」

 

 たまらず呻き、弾かれたようにミオの矮躯が後ろへ飛ぶ。自由にさせるのは癪だがこちらの腕が保たない。

 

「逃がさん」

 

 着地するか否か、すかさずミホークの追撃が猛威を奮う。

 堰を切ったように黒刃の輝線が文目を紡いで乱れ飛び、迎え撃つ白刃が壮烈な火花を散らして虚空を流れ散っていく。僅かに軌道を逸らされた連撃が四方八方へ穿たれ、そこら辺にいた人間が海兵・海賊問わず流れ弾に当たらぬよう蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 

 力では押されているものの、危なげなく剣を捌いていくミオにミホークは腹の底から愉楽を覚えて口の端を吊り上げた。

 

「ふ、面白い。面白いな、やはり貴様は()()であったか」

 

 黒刀をかち上げ、懐に入り込もうにもさすが百戦錬磨の剣士だ。そこまでの隙は見出せない。

 

「僕は楽しく、ッない!」

 

 心底愉しそうなミホークの言葉に猛烈に腹が立った。

 せっかく稼いだ時間という名の千金が目の前の不埒者に利子付きで吸い上げられているのだ。面白いわけがなかった。できればとっとと離脱したい。

 今更ながらに道筋を誤ったと痛感している。ドフラミンゴ以上に注意を払って然るべきだった。

 

「そんなはずはなかろう」

 

 鋼の触れ合う剣戟の合間を縫うように、不思議そうな声が耳朶を打つ。

 

「──貴様とて、()()()()()ではないか」

 

 そんなことは分かっている。

 

「だから、イヤなんだよ!!」

 

 瞬間、ミオは裂帛の怒号とともに攻勢に転じた。

 刺し違えるのも辞さぬ覚悟でひときわ深く踏み込み、袈裟懸けの一撃を振り下ろす。相打ち覚悟の一刀を前にミホークは即座に跳躍すると、己の愛刀に乗り上げ躱しきる。

 

 ぎぃんッ、と鐘打つような音が韻々と響いた。

 

「──ッ」

 

 この世界で最高の刀工が鍛造した鋼はさすがに硬く、武器破壊などは望めない。なまじ渾身の力を込めていたため、痺れるような痛痒が指先から首まで奔り抜ける。

 ミホークが己の得物に再び手をかける前にミオは一度大きく跳び退いて、ようやく距離を置いて対峙することが叶った。

 

「拒むのは勝手だが、随分と窮屈な生き方をするものだ」

 

 鳥のように地上へ降りたミホークは愛刀を引き抜きながら、僅かに眉をひそめる。

 

「おれにはできん」

「でしょうね!」

 

 それはそうだろう。彼にとってそんな生き方は死んでいるも同じだ。息が詰まってどうにもならず、どこかで爆発するに決まっている。

 

 間違いなく鷹の目とミオは同類で、同朋で、だからこそ真正面からぶつかり合いになることはできぬ相手だった。

 

 そもそも、初太刀から確信を得ていたから、ここまでミオは逃げ回ってきたのだ。

 

「──ゆくぞ」

 

 これくらいで死んでくれるなよと、交える干戈が伝えてくる。

 

 刃がひとつぶつかる度、捌く足が擦れる度、音が遠く、気配が遠く、喧噪が遠くなってゆく。

 

 世界が遠ざかってゆく。

 

 他のすべてを置き去りに、相手のことしか見えなくなる。研ぎ澄まされた感覚器すべてが彼にのみ注がれ、引き結ばれた意識が迎え撃つ。

 

 かすかな視線、呼吸、刃擦れの間断、筋繊維が伸びる予備動作までもを捉え、蓄え続けた経験に導き出された最適解が引きずり出されて勝手に動く。

 

 

──それはまるで、恋しいひとと踊るように。

 

 

 分かっていたからいやだった。察していたから遠ざけた。

 

 ミホークとミオは煎じ詰めればどこまでいっても似たもの同士の大馬鹿野郎で、ひとたび本気でぶつかり合えばこうなってしまう。

 

 きっと今、ミホークとミオは同じ顔をしている。

 

 

 剣に生き、剣に死ぬが道理の救いきれぬ宿業が臓腑の裏まで染み付いた──度し難き、戦馬鹿の顔を。

 

 

 もとより、勝てる勝負ではない。

 

 それは双方納得ずくである。

 

 ミオの強さは途方もない戦闘経験から培われた勘の良さと軽捷さ、そして視点の広さにある。ただ真正面から見据えることしか頭に浮かばぬ者たちと違い、背後から仰角から俯角からと多種多様な切り口を見いだせる。

 

 だが、それは鷹の目も同じ事。

 

 それに加えて『夜』の射程範囲は広く、ミオの間合いの上を行く。間合いと膂力の差が歴然である以上、じり貧は避けられない。──それこそ、命を捨て石にすることを前提に挑みかかるくらいのことをせねば、勝利なんてものは彼岸の先だ。

 

 生きながら死ぬというのは、つまりそういうことだ。

 

 そして、仮にミオがそうして死中に活を求めなければならない状況があるとすれば、それはこの戦場でしかありえないと鷹の目は言うのだ。

 

 ミオだってできることならそうしたいが、できない。──少なくとも、今は。

 

「隙だ」

 

 ほんの刹那に生じた思考の空白、それを逃がす鷹の目ではない。振り上げた『夜』は間合いの内だ。

 

「ッ!」

 

 咄嗟に生存本能に従ってのけぞり、迫る黒刃をからくも避けたが、一度躱された程度で戦闘行為が終わるわけがない。

 即座に軌道を変えた剣先が獲物に飢えた鮫の如き執拗さで追いかけてきた、その時──

 

 ちゅんッ

 

 どこからか飛来した一発の弾丸が、ミオの頬をかすめた。

 

「ッ、」

 

 直撃しなかったのは幸いだった。遅れて擦過傷特有のぴりぴりした痛みが肌を灼き──その痛みを契機として、ミオの意識は完全に『戻って』きていた。

 知覚の外に追い出していた海賊と海兵のぶつかる怒号が、渦巻く殺意が、戦場が、そのすべてが怒濤のように戻ってくる。

 

 一瞬、状況の把握に時間がかかり、引かれるように弾丸が飛んできた方へ首を向けると、少し離れた位置にいたドフラミンゴが指を突き出す例の仕草をしながらにやにやしていた。

 

「……無粋なことを」

「ひでェこと言うじゃねぇか。せっかく援護してやったってのに」

 

 心なし忌々しそうなミホークから、舌打ちが聞こえた気がした。

 

「果たしてどちらの援護か、わかったものではないな」

 

 そして気付く。

 いつの間にか麦わらのルフィがこの近くまで迫っていた。周囲にはその援護なのか網タイツにガーターベルトというアヴァンギャルドな衣装を纏った囚人?らしき人や、追いついてきたらしい白ひげの隊長たちの姿もある。

 

「──残念だが、逢瀬はここまでか」

「逢瀬いうな」

 

 それだけ言ってミホークから距離を取る。目線だけでドフラミンゴに感謝を述べると、貸し一つだとでも言わんばかりのにんまりとした笑みが返ってきて知らず苦笑してしまった。

 たぶん、ドフラミンゴは彼なりにミオを心配してくれている。なんせこの状況、幼少期における彼のトラウマを抉るに申し分ない材料が揃っているのだから。

 

 ミホークはあっさり切り替えたらしく、ゆるりと構えた『夜』の切っ先を変えた。

 

「さて、興が乗っていたところだが……運命よ。あの次世代の申し子の命、ここまでか、あるいは……この黒刀からどう逃す……」

 

 ひたすらに前だけを見ていたルフィにも、ミホークの姿が視認できたらしい。露骨にイヤそうな顔になった。

 

「あんな強ぇのと戦ってる場合じゃねェ! おれはエースを助けにきたんだ! ……ん?」

 

 当然、その近くにいたミオの存在にも気付いた。

 

「白いの! おまえ、なんでこんなとこに!?」

「エースが大事だから!」

「そうか!」

 

 ミオの雑な答えに秒で納得するルフィの代わりに「いやそれ答えになってねェよ!」と周りの囚人たちが突っ込んだ。

 ちょうどいいからルフィがミホークと対峙している隙に進もうか、とわりと鬼畜なことを考えるミオである。が、それを見透かしたように遠くのマルコから檄が飛んできた。

 

「オヤジが麦わらを死なせるなってよ!」

 

 見捨てるつもりはないが放置の方向ではあったので、慌てて脳内軌道修正しつつ「了解です!」と答えた。船長命令はぜったい。

 ルフィはミホークの眼前に到達する寸前で身体を捻り、その場からかき消えた。俊足で迂回して剣戟の隙間を縫って避けようという算段なのだろう。

 

 だが、一流に剣客相手にそれは悪手だ。ましてルフィの気配は目立つ。それが証拠にミホークの視線は、ルフィへと固定されたまま微動だにしない。

 

「射程範囲だ」

「ですよね」

 

 ルフィへと放たれた斬撃はしかし、猛威を振るうその寸前で停止していた。

 

「む」

 

 触れられず、見えもしない空気の斬撃が、完全に固着していた。先ほどの飛ぶ斬撃同様、ミオが能力で『固定』したのだ。

 

 戦場のただ中で突如として現出した──脅威を凝結させた細工物。

 

 その異様さ、静謐さは熱気渦巻く鉄火場だからこそ異常さが際立ち、ひととき戦場らしからぬ静けさを周囲にもたらすほどだった。

 

「え?」

 

 一拍遅れて事態に気付いたルフィは状況を理解してミオへ首を向けた。

 ミホークも心底不思議そうだった。

 

「なぜあれを庇う?」

「船長命令なので」

 

 そこにはいかにも不本意です、と顔に書かれている。

 ルフィは確かにエースの弟だが、こういうトラブルメイカーと一緒に行動すると厄介ごとが群れをなして襲いかかってくるので、実はあまりお近づきになりたくなかったりする。

 

「これ、白いのがやってくれたのか? ありがとな!」

 

 にかりと笑うルフィだが、その笑顔はやや精彩を欠いていた。

 無理もない。インペルダウンからマリンフォードまで、おそらく戦い通しだったのだろう。スタミナ切れでぶっ倒れていないのが不思議なほどだ。

 しかし、その笑顔にはやっぱりエースに似たものを感じてしまい、心中複雑なものを抱えて苦く笑うしかなかった。

 

「ん、どーいたしまして」

 

 それからかすかに嘆息して、指先をぱき、と鳴らした。

 ルフィを狙う別の海兵の足首あたりに能力でごく低い『壁』を形成。人間、小石程度で躓くのだからそれが縁石くらいになればどうなるか。

 目視できない壁に引っかかり「おうッ!?」「だっ」海兵たちが揃ってびたーんッとすっ転んだ。

 

「露払いくらいはしたげるから、ほれ、早くいきな」

 

 ルフィを通過させればどうせミホークはまたこちらを狙ってくるだろう。それなら、任せられる隊長格が追いつくまで自分がミホークの相手をした方が効率がいい。

 そう判断しての台詞だったのだが、ルフィはほんのちょっと考えて、ぱっと顔を輝かせた。頭に電球が灯るのが見えるようだ。

 

 あ。なんか、イヤな予感が。

 

「そーか!」

 

 で、当たった。

 

「え」

 

 ルフィはガシッとミオの腕を掴んでなんとそのまま走り出してしまったのだ。

 

「ちょいちょいちょーい、麦わらくん?」

「白いのの能力、ちょっと貸してくれ!」

 

 どうやらエースへの最短距離を踏破するにミオは有用だと判断されてしまったらしい。当たっているところが空恐ろしい限りである。

 これでは否も応もない。

 

「でも僕といると鷹の目がくるよどーすんの!?」

 

 ターゲットがひとまとめになっていれば狙ってくるのは当然だ。

 

「うえっそうだった! ……あ!」

 

 ルフィは一瞬周囲に視線を巡らし、いちどミオから腕を離すと勢いをつけて両手をびよーんと空へと伸ばし、何やら中空で発生していた砂嵐の中でぐるぐる回っている青い髪のオッサンをとっ捕まえた。

 

「ゴムゴムの……"JET身代わり"!!」

 

 そしてすさまじい速度で牽引した青髪赤鼻の男を、いつの間にか距離を詰めていた鷹の目の前に引きずり出したのだった。ひでぇ。

 

「ギャ──ッ!?」

 

 引きずり下ろされた男は小気味よい音を立てて胴体から両断され、しかしイキイキとルフィの胸ぐら掴んで文句を言い出す。

 

「──ッて何しとんじゃクラァ! 麦わらァ!!」

 

 血の一滴も出ていないところを見ると、どうやら彼も悪魔の実の能力者らしい。まぁ、そうでなければルフィが身代わりに使うことはないだろう。

 

「なんだよ斬ったのあいつだぞ!」

 

 胴体と足をバッサリ切られているのに平然と声を荒げるピエロ風の男──バギーの怒りはもっともである。ルフィはぜんぜん気にしていないようだが。

 しかしそんな会話をしているヒマもなく、再びミホークが剣戟を繰り出したのでルフィは再びバギーを盾にして難を逃れた。料理番組みたいに輪切りにされているが、わりと余裕そうである。

 

「よし、今のうちだ!」

 

 こうなってしまっては仕方がない。ミオは早々に腹をくくって頷いた。

 

「わかった、行こう!」

 

 そうして二人で走り出す。

 背後で「許さんぞ『鷹の目』ェ~~!! くらえ"特製マギー玉"! 消し飛ぶがいい!!」とかいう雄叫びとともに爆発が起こり、熱波と煙が後押ししてくる。

 

「ありがとうバギー! おめェのことは忘れねェ!!」

「ああ、あのひとが……」

 

 けっこう薄情な感じのルフィだが、それはバギーに対する信頼のあらわれ、なのかもしれない。たぶん、きっと、おそらくは……。

 そうこうしている間に白ひげの中でも指折りの剣客であるビスタを視界の隅で捉えたので、最悪の事態は避けられるだろう。

 

 そう判断してとっとと駆け出してしまうミオも、同類といえば同類なのだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九ノ幕.戦上手は謀り上手?

 

 

 並走し始めてから、ミオは改めてルフィの憔悴ぶりに内心驚いていた。

 

 先日のシャボンディ諸島での動きと今では雲泥の差である。最小限の動きで敵兵を倒しているが動きにキレがなく、息切れも目立つ。体力がすでに底を突いて、もはや気力だけで動いている段階に入っているようにも見えた。

 精神力が時に体力を凌駕することは往々にして起こりうることではあるし、戦場でそれはむしろ顕著に出るものだ。

 

 ただ、これは脳内麻薬という自前のカンフル剤をぶち込んでいるようなもので、当然ながら長持ちしない。

 

 麦わらのルフィは止まらないのではなく、止まれないのだと理解した。ひとたび足を止めれば、堰き止めていた疲労が一気に表出して指先一本動かせなくなることは想像に難くない。

 

「ルフィくん(おっそ)いな!」

「んな!? う、うるせえ!」

 

 素直な感想を述べるとルフィは露骨に顔をしかめた。馬鹿にされたと思ったのだろうか。

 べつに責めているわけではないのだが。

 

「? ここまで大変だったってことでしょ? でも僕が先行くと、さっきのバギーさんみたいにとっ捕まえられそうだからなぁ……しゃあない」

 

 ミオは手首を掴んでいたルフィの手を魔法のように外すと、自分から腕の辺りを掴んで引き寄せる。

 

「な、なんだよ!?」

「バランス崩さないことだけ考えて! でないと舌噛むぞ!」

 

 戸惑うルフィにそれだけ告げて、ミオはルフィの腕を抱えるようにしてたんと跳んで、能力発動──地面から僅かに上層の空間を『固定』して滑走開始。

 

「うぉおおお!?」

 

 ルフィは突然の事態で妙な声を上げながら必死でバランスを整えている。体幹は折り紙付きなのでこつさえ掴んでしまえば倒れることはあるまい。「そのままキープ!」とだけ告げてミオは空いている手で鯉口を切り、白刃を引き抜き構える。

 そして進路方向にいる障害物──海兵の群れを嘘のように薙ぎ散らしていった。

 

「こっちにきた──ぎゃあッ!?」

「邪魔だ!」

 

 速度を味方につけ、己の腕の延長のように刀を軽々と振るって海兵が迎撃行動に移るいとまを与えず、鎧袖一触──蹴散らしていく。

 ルフィを狙って飛来する弾丸や征矢はその場で空間を『固定』させ防ぎきる。範囲も狭くガラスのように薄いものだが、それでじゅうぶん。

 氷結させ、粉砕された空気が飛び散り、それは束の間白い濃霧となって二人の姿を覆い隠す。攻撃を防ぐだけでは飽き足らず、その砕けた破片を煙幕として視界を塞ぎ、敵に狙いをつけさせない。

 

「す、ッげぇな! 白いのこんなに強かったのかよ!」

「むかし護衛してたとき思い出すなぁ」

 

 ルフィの感嘆を聞いてるんだかいないんだか、そんなことをぼやくミオだった。かつて守っていたのはか弱い少女たちだったから、対するルフィはそこまで気を遣う必要がないのは楽である。

 

「エース! もうちょっとだからな! 待ってろよッ!」

「……」

 

 どうやら麦わらのルフィは『自分がエースを助け出す』ことに固執しているらしいことが、少し不思議だった。それぐらいの気概と覚悟がなければ今こうして動けていないのかもしれないが、それでも。

 

 ミオとてエースを救い出したいと思っている。何よりも強く、そう考えている。

 

 かといって、自分が必ず手ずから救出したい──というわけでは、ない。

 

 自分でもルフィでもいいし、白ひげでもその傘下でも……極論、(まずあり得ない話だが)海兵がエースを解放してくれるというならそれでもいい。

 

 結果としてエースが助かるのなら、過程は問わない。

 

 この戦争で処刑台に最も早く肉薄したのはミオではあるが、それだってオーズという縁に恵まれたからというだけの話である。

 そういう思考の差異が、あるいはルフィの持って生まれた気質なのかもしれない。

 己の矜持と信念を心の底から信じ抜き、決して折れず、めげず、ひたすらに前を見て立ち向かう。

 

 つまるところ──英雄の器、というやつなのだろう。

 

 そう考えた時、不意に周囲の喧噪が奇妙に歪んだ気がした。どよめきと、少しの混乱。

 

 先手を打ったのは『白ひげ』だが、後手に回ったからといって必ずしも不利になるわけではない。むしろ海軍の策はここからが本領発揮といえる。

 見れば後方、湾頭の辺りに新たな軍艦が現れていた。そして時を同じくして、横一列にずらりと並ぶ同じ顔。戦桃丸をリーダーとして、まるで金太郎飴のように顔から体型、果ては服装までもが『暴君』と寸分違わぬ……『量産型くま』としか形容できない巨体の群れがロボットのように整列していた。

 

「シャボンディ諸島にいたくまみたいな奴ら!! あんなに!!」

 

 ルフィはあの『量産型くま』と交戦経験があるらしい。

 

 ミオは脳内のマリンフォードの地図と漏れ聞こえる海賊たちの言葉から、白ひげと一致をみた予想が奇しくも正鵠を射ていたらしいことを悟る。

 海軍は軍艦をマリンフォードの外周からぐるりとひとまわりさせて湾頭を封鎖。そして伏兵として潜ませていた『量産型くま』による奇襲攻撃で海賊を追い込み、一網打尽にするのが目的だろう。

 

「包囲網を敷く、か」

 

 退路を断たれることへの恐怖、そして伏兵による奇襲攻撃のもたらす心理的衝撃は片方だけでも効果的である。

 過日、青キジがミオへ白ひげの残党を討ち漏らすことがないよう打診してきたくらいだ。海軍は海賊を一人たりとも逃したくないのだろう。

 

 だが、それはすべてが上首尾に運べば、という机上の空論に過ぎない。

 

 現に白ひげはミオと同じ結論に至っていたし、何の対策も講じていないはずがないのだ。

 

 『量産型くま』たちはオリジナルのように能力こそ使えないものの、ビーム兵器でも搭載しているらしくあちこちから光線と爆発が上がり始めている。だが、追い込み漁よろしく中央に海賊たちをせっつくにはバラけすぎていた。

 ある程度の損耗は織り込み済みで攻撃に転じたのは察することができたが、ミオが気になるのは海兵たちの動きだ。

 さっきまで果敢に海賊たちを押しとどめようとしていたのに、今はほぼ同じタイミングで撤退を始めている。否、撤退というより氷上から逃げようとしているような──

 

「余所見なんて余裕だねぇ~」

「ッあぶね!」

「!」

 

 文字通り光の速さであらわれた黄猿の蹴りが咄嗟にミオを押しのけたルフィの腹に炸裂し、すさまじい衝撃とともに二人もろとも大きく真後ろに吹っ飛ばされた。景色がみるみる真横に滑り、せっかく詰めた処刑台との距離が瞬く間にかけ離れていく。二人でもつれ合ってしまっているため、体勢を整えることもままならない。

 

「おっと」

 

 それを食い止めてくれたのは、後続からルフィを追いかけていた『海峡』のジンベエだった。

 ジンベエザメの魚人であるジンベエは水色の肌をした着流し姿の巨漢である。二人の前に、巨体を生かして壁のように飛び出してキャッチしてくれたのだ。

 

「無事かルフィくん!」

「ジンベエ!」

 

 ジンベエはルフィの安否を確かめてから、もうひとりに視線を向けて明らかにギョッとした。

 

「ルフィくんといるからもしやと思うたが、やっぱり()()か!」

「げほっ、親分さんお久しぶりです!」

 

 ミオはこの仁義を大事にする侠気にあふれた魚人の親分が大好きなので、彼が白ひげの元に訪れるたびによくお喋りさせてもらったりしていた。

 

「なんだ、ジンベエも白いの知ってんのか?」

「ああ、ようく知っとる。よくオヤジさんが許したのう!」

 

 白ひげとジンベエが知己ということは当然ミオとも面識があるし、ある程度の事情も察している。彼らとミオの関係を知るからこそ、この戦争に参戦していることが意外だったのだろう。

 ミオは地面に下りるとここぞとばかりに胸を張って笑う。

 

「おとうさ、『白ひげ』は許してないです!」

「は?」

 

 この状況にも関わらず、虚を衝かれたジンベエの表情はぽかんとしたものだ。

 しかし容赦なくミオは追撃する。

 

「よってたかってハブにされたんで無理矢理来ました! そんでさっき勘当されました!」

「あ、明るく言うことかァ! なにやっとんじゃ!!」

 

 ジンベエの至近距離の怒鳴り声がびりびりと鼓膜に響く。

 

「わしゃあ、オヤジさんたちが嬢やをどんだけ大事にしとるかはわかっとるつもりじゃ。なんだってそんなことに……」

 

 白ひげにとっておそらくは最初で最後の『娘』が、その立場を捨てた──否、白ひげ自ら『勘当』したという事実がジンベエには信じられなかった。

 

「? 白いのって『白ひげ』だったのか」

「ちがうよ」

 

 その辺りは複雑なのだ。

 

「でも『お父さん』の子供だった。さっき絶縁されたけどね」

「なんで絶縁されたんだ?」

 

 素直に疑問をぶつけてくるルフィにミオは笑った。

 

 いっそ傲慢にすら見える笑みだった。

 

「エースを助けたかったから、だよ」

 

 たったひとつ、そのために。

 

 それだけが目的で、それだけが理由だ。

 

 ルフィはミオの事情を知らないしあまり知る気もないだろう。だからミオはそれ以上の問答をしようとは思わなかったし、ルフィはルフィで更に問いただすようなことはせずにミオの顔を少しの間じぃっと見つめてから、ただ真顔で頷いた。

 

「そうか。そらしょうがねぇな」

「でしょ?」

 

 だってルフィとミオの目的はそっくり同じなのだ。

 

 物言わずとも通ずるものが、そこにはあった。

 

 そして一方、ある程度の内実を理解しているジンベエはルフィとミオのやり取りから大体の事情を察して片手で顔を覆った。

 

「……そうか、そういうことじゃったか。嬢やを巻き込まんためにオヤジさんはそう言うしかなかったんじゃろうが……エースさんのためとはいえ、思い切ったのう」

 

 両者を知るからこそ、互いの譲れないものをぶつけ合った結果をまざまざと突きつけられたジンベエの言葉は沈痛な響きすら滲んでいた。

 ミオは軽くジンベエの腕を叩いてから口を開く。

 

「僕はね、エースが処刑されるのがなによりいやなんです。親分さんもみんなも、そう」

 

 ジンベエにこんな顔をさせてしまったことは申し訳ないとは思うけれど、後悔はない。ここに来れないよりずっといい。

 

「だから、それさえ阻止できればいいんです。そのためにここにいます。それ以外はぜんぶ後回しで」

 

 他のことはあとで考えればいいのだ。泣いて謝るにしろ、エースに八つ当たりするにせよ、すべては処刑を阻止してからすればいい。

 

 そしてもし、叶うことのない結末を迎えることになろうとも──決して、ここに来たことを悔いたりはしない。

 

「……それも、そうじゃな」

 

 それでジンベエも切り替えたのか、表情が引き締まったものに変わった。ミオは一旦膝に手を置いて呼吸を整え、ぐっと背を伸ばして前を見据える。随分と飛ばされてしまったものだ。

 同時に、見覚えのある和服と香と硝煙の匂いが鼻をかすめた。

 

「エースの弟! もう体力切れか!?」

 

 女形のような風体に似合わぬ二丁拳銃の使い手、十六番隊のイゾウを筆頭とした白ひげ海賊団の隊長格が先陣を切るように横を駆け抜けていく。

 

「こりゃあ百人力」

「イゾウさん!」

 

 心強い援軍の登場にジンベエがつぶやき、思わずミオが声を上げるとイゾウはちらっと振り向いて口元をむっすりとへの字に曲げた。

 

「オヤジに縁切りなんかさせやがってこのやろう! まぁ気持ちは分かるけどな!」

「スゲーわかるけど来んじゃねぇよばか! あと助太刀言い出したんだからしっかりこなせアホ!」

「お前エースと仲良かったもんな! あれだけ前に出てたくせになんてザマだ!」

「き、共感するか文句つけるかはっきりしろォ!」

 

 イゾウどころか一緒にいた隊長たちに口々に言われて反射的に噛みついてはみたけど、あれだけ大々的に関係性を破棄したにも関わらず変わらないやり取りが嬉しかった。ちょっとむかつくけど。

 胸が詰まって、おなかの底から力が湧いてくるのが分かる。

 

「揃って『大将』一人に止められてんじゃねェ! 一緒に来い、海兵共が退いてく今はチャンスだ! 一気に突破するぞ!!」

 

 イゾウやキングデュー、ナミュールと続く隊長たちが進撃の速度を上げていく。彼らとてさざ波のように引いていく海兵の動きに不審を感じていないはずがない。

 だが、それでも自分たちを鼓舞して突破することこそが隊長格に課された役目だ。海兵がどんな策を弄そうとも白ひげを倒すことはできない、と仲間たちが心から信じていなければ勝てる戦も勝てなくなる。

 

 人は集団になると個の意識が希薄になり、流されやすくなるという傾向がある。小集団より虚報に騙されやすくなり、それに伴う迷い、混乱、恐怖の伝播が常とは比較にならないほど早くなってしまう。

 

 白ひげ海賊団は船長たるエドワード・ニューゲートをてっぺんに据えた強固な一枚岩だが、傘下の海賊はそれぞれに船長を置いた小さな海賊団が無数に集まって形成されている。

 

 彼らは確かに勇猛な個人の群れだが、完全に統率された軍隊ではない。

 

 海軍のように集団行動を旨として、血肉に混じるほど訓練を重ねてきた正規の軍隊との違いがそこにある。

 

 集団として十全の力を発揮できない、というのが白ひげ海賊団・傘下含めた連合軍が持つ最大の短所といえた。

 

 

──そして、対海賊退治のエキスパートたる海軍がそこに目をつけていないはずがないのだ。

 

 

「行くぞルフィくん!」

「よォし、今度こそ……!」

 

 走り出したルフィたちに続こうとミオも足を出しかけ、けれど何かに引っ張られるように後方に首を向けた。

 

 戦塵で霞む中、『モビー・ディック』号の先頭、堂々と仁王立ちする『白ひげ』の近くにサッチとマルコと……誰かの姿がちらりと見えた。

 己の身長をも凌ぎそうな長刀と、どこか愛嬌のある顔立ちにもじゃもじゃのソバージュ。それは『大渦蜘蛛』スクアードのようだった。ミオはそこまで深く親交を持ってはいなかったが彼も『白ひげ』を深く慕っていて、エースとも仲が良かったと記憶している。

 

 そんな彼がにわかに殺気立ち、突如として鬼気迫る表情で鞘から長刀を引き抜き『白ひげ』の胸元めがけて、その白刃を潜り込ませようとした──その、刹那。

 

 頭上から飛来した投網のような糸の塊がスクアードの全身に絡みつき、本人どころか周囲が戸惑うヒマもなくあっという間に簀巻きにされて芋虫のように『白ひげ』の足下に転がった。

 

「……助太刀に、なったかな」

 

 サッチが簀巻きにされたスクアードの首辺りを掴んでがくがく揺さぶってるのを遠目に見つつ、ミオはぽつりとつぶやいた。

 自分ではないけれど、相棒が助けになったのならちゃんと役目を勤められた、気がする。

 

 ここは戦場で、我々が身を投じているのは紛れもない戦争である。

 

 そしてそれは、なにも鉄火を以て行うものだけが全てではない。

 

 舌鋒を弄し、(はかりごと)を巡らせ、持てる全てを駆使して相手の凋落を狙うことこそが目的であり、本懐である。

 

 とりわけ詭弁と詐術を用いて敵の内部崩壊を誘発させる、なんてのは常套手段といえる。

 

 白ひげ海賊団は傘下含めて一枚岩だと、誰もがそう思っているだろう。だから、新世界に名だたる四皇たる『白ひげ』として君臨しているのだと、信奉しているに等しい。誰も獅子身中の虫がいるなど夢にも考えない。

 

 

 ()()()相手はそこを突こうとした。まったくもって正しい、戦における常道ともいえる戦術である。

 

 

 戦争には情報戦としての側面がある。おそらくスクアードには過去エースに類する何らかの瑕疵があり、そこを海軍の誰かにつけ込まれたのだ。

 

 この戦争における要はエースと『白ひげ』。どちらかが斃れれば海賊サイドの敗北が決定してしまう。なんとしても守らなくてはいけない。

 まして『白ひげ』は先日まで病床の身だったのだ。彼が現在本調子ではないことをミオは知っている。護衛としてマルコたちが付かず離れずにいるのはそういうことで、万が一に備えるのは当然だった。

 

 ミオと軍曹は二人しかいない。だから分けた。エース奪還の助力にはミオ、『白ひげ』の護衛として軍曹を配置して最低限の安全を確保できるように。

 

 そして、その保険は功を奏した。

 

 それだけに安堵を覚え、改めてミオは走り始めた。スクアードの悲痛な哀訴が途切れ途切れに聞こえてくる。

 内容は、傘下の海賊を生け贄にして最終的にエースが助かるように『白ひげ』は海軍とすでに密約を交わしている、という……まぁ、よくあるやつだ。どうも『赤犬』の仕業らしいが、詳細はよくわからない。

 

「スクアードさん『海賊王』と因縁あったのかぁ……」

 

 そりゃ海兵も狙うわ。すごくそそのかしやすい。

 

「馬鹿野郎! 担がれやがったなスクアード! なぜオヤジを信じない!?」

 

 マルコの鞭のような声がびりびりと空気を打撃する。

 そのまま走っていると、先ほどのイゾウたちに追いついてしまった。一様に足を止め、船へと首を向けたまま『白ひげ』とスクアードのやり取りから目を離せないようだ。

 視界の隅に映ったのかイゾウが一瞬だけミオへ視線を向ける。

 

「ミオ、お前の相棒のあの蜘蛛、ずっとオヤジに付けてたのか?」

「そりゃ付けますよ。心配だもの」

 

 あっさり頷くと、イゾウは「そうか。……よくやった」とぼん、と一回だけミオの頭に手を置いた。次いでナミュール、キングデューもぼん、ぼん、と続いた。

 もぐら叩きみたいで釈然としないが、褒められているのはなんとなく分かるのでどうにもむずがゆい。

 

「ミオと軍曹のおかげで、スクアードのやつはオヤジを刺さずに済んだ」

「忠義立てしてるオヤジに刃傷沙汰まで起こしちまったら、あいつは自責の念でそれこそ死んじまうよ」

 

 ナミュールとキングデューがそう言って、イゾウが嘆息してから「ちげぇねェ」とだけつぶやいた。

 

 

 マリンフォード中の視線が一点に集中する中で、『白ひげ』がスクアードを胸の中へと抱えながら力いっぱい抱きしめていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十ノ幕.まちがえたこども

 

 

「バカな息子を──それでも愛そう」

 

 戦場には到底似つかわしくない静かな声音と、己を抱きしめる強いちからと、染み入ってくる熱。

 

 そのすべてが密着した肌から、響きから、伝わってきて──スクアードは目が覚めるような思いだった。

 

 己の過ちを悟り、あんなにも猛り狂っていた敵意や憎悪がまとめて凍り付いていく。そうなってしまえば、押し寄せてくるのは途方もない後悔と自責の念だ。

 

 かつての仲間を殺したロジャーが憎い。

 その気持ちに嘘はない。どれだけ白ひげを慕い忠義立てしていても、その思いは今なおスクアードの胸の奥で熾火のようにくすぶり続けている。

 ロジャーへ傾けた憎悪の多寡は、そのままかつての仲間たちに預けてきた親愛の深さに繋がっている。奪い奪われるのが海賊の信条とはいえ、それで納得できる海賊などこの世にいない。

 

 おそらくこの憎悪が消えることはないだろう。それでよかった。かつての仲間たちに終生捧げるなら、湿っぽくて不甲斐ない船長の後悔や詫びなんぞより、消えることのない怨嗟の方が酒の肴に相応しい。

 

 それはこの世でたったひとり、『海賊王』に仲間を殺し尽くされた船長である『大渦蜘蛛のスクアード』だけが自由にできる感情だった。

 

 それを、勝手に利用されたのだ。今となってはまんまと乗せられた己が恥ずかしい。悔恨が頬を伝い、慚愧の念が報仇を求めて啜り泣く。

 

 エースがゴールド・ロジャーの息子だった。知らされた瞬間の驚愕は筆舌に尽くし難い。反射的に裏切られたと感じて、親愛の情がそのまま反転した。元々スクアードは情が深く直情的で、だからこそ悲憤も強かった。エースと仲良くしていた自分が愚かしいとさえ思った。

 

 怒りで沸騰した脳髄へ『赤犬』から注ぎ込まれる言葉をそのまま飲み込み、激情に突き動かされるままに現場を放棄して『白ひげ』を襲撃した。止まれるわけがなかった。

 

 

──結局、その襲撃は失敗に終わった。

 

 

 スクアードは一矢報いる間もなく簀巻きにされて転がる羽目になった。乱入してきたのは馬鹿みたいにでかい蜘蛛で、最初はなぜそんな化け物が『白ひげ』の味方をしているのか分からず混乱したが、そんなことよりしくじったという念の方が大きかった。行動不能になっただけで収まりがつくわけがない。身体が動かずとも口は動く。

 スクアードはあらん限りの面罵をぶつけ、『白ひげ』を非難した。一撃をくれる奇跡さえ起こせなかったが、傘下に混乱のひとつも与えることができれば御の字だと思った。

 

 白ひげ傘下の首と引き換えに、エースの生は確約されている。

 

 馬鹿馬鹿しい話だ。仮にも『白ひげ』へ籍を置く者ならば尚更信じるはずもない、駄法螺の中でもとびきりのホラ話だった。平素ならば笑い飛ばしていたかもしれない。

 だが、スクアードはそれを信じて踊らされてしまった。そうなるように仕向けられていた。

 『反乱分子』を名乗る『赤犬』の奸計で海軍の矛先は操作され、一笑に付して当然の与太話がよってたかって補強されていたのだ。鉄火場で狭くなった視野とロジャー憎しという感情を持ち続けていたスクアードが狙い撃ちされたのは、ある意味では当然だったのかもしれない。返り忠をそそのかすだけの材料が揃っている。

 

 しかし、だ。

 

 そんなお膳立てが整っていたとしても、スクアードが『白ひげ』に全幅の信頼を寄せていれば防ぐことは可能な策だったはずだ。

 

 『赤犬』の言葉に頷いたその瞬間、スクアードは間違いなく『白ひげ』より『赤犬』を信じていた。信じてしまっていたのだ。こんなにも大好きな人へ疑心を、抱いて。

 

 それを理解できてしまったからこそ、スクアードは己の愚挙を恥じた。

 

「親の罪を子に晴らすなんて滑稽だ。エースがお前になにをした……!?」

 

 ああ、そうだ。本当にその通りだ。スクアードの恨みつらみはロジャーにのみ向けて然るべきもので、エースとは一切の関わりがない。エースは自分に何もしちゃいない。喧嘩はしたし、気にくわないことだってある。殴り合いだってしょっちゅうだった。

 だからってそれは心底エースを嫌っていたとか、そんなことではなくて。

 

 もし、本当に心底嫌い抜いていたら、スクアードはこんなところに来ていない。だってスクアードは、小面憎いくせにいつも寂しそうにしているあのガキんちょのことが──

 

「仲良くやんな」

 

 今まさに自分へと刃を向けようとしていた馬鹿な息子へ向けて紡がれる言葉はただ、優しい。

 

「エースだけが特別じゃねェ、みんなおれの、家族だぜ」

 

 家族。

 

 海賊から遙かに乖離したその概念を誰より大事にしているからこそ、スクアードは『白ひげ』を慕っていたのだ。

 

 静かに教え諭すような言葉はそれまでで、滂沱と涙を流すスクアードから顔を上げた『白ひげ』の雰囲気は一変していた。

 

「おれが息子らの命を、売っただと……?」

 

 老いたりとはいえその瞳には一切の陰りはない。怒りに煮えて炯々とぎらつき、おもむろに振り上げられた拳で空間を力の限り殴りつけた。

 

 そのたった一撃で、『白ひげ』は己の生き様をすべての海賊たちに知ろしめる。

 

 空間が震撼し、邪魔な氷塊が砕け散る。退路が拓かれ、傘下たちはこれでいつでも逃げられる。

 

 その上で、『白ひげ』は傘下の海賊すべてを束ねる長としての威厳を纏い、問うのだ。

 

「海賊なら!! 信じるものはてめェで決めろォ!!!」

 

 傘下たちに広がっていたはずの焦燥が、戸惑いが、混乱が、その一言で鎮まっていくのがスクアードにはよく分かった。

 

 そうだ、これが『白ひげ』なのだ。船員たちをひとり残らず息子と呼んで尊び、慈しみ、守る。決して見捨てたりしない。

 

 

 その行動ひとつが、千言を尽くし、万言を弄するよりもなお雄弁に『白ひげ』を語る。

 

 

「おれと共に来るものは──命を捨ててついてこい!!!」

 

 

 応える声は海賊たちすべての覚悟を束ね、強く、激しく、荒々しく天へと轟き──豪雷のそれに似ていた。

 

 

 

×××××

 

 

 

「おれは……なんて事を……!! すまねェおやっさん……!! すまねェ!!」

 

 ついに出撃した『白ひげ』を見つめながら、甲板で転がったまま涙を流すスクアードにひとりの男が近づいた。

 

「まんまと海軍にしてやられちまったなァ、スクアード」

「サッチ……」

 

 サッチだった。フランスパンみたいな頭も変わらず、憐憫めいた感情を瞳に湛えながらも彼の傍らにしゃがみ込んで、少しぎこちない動きで愛用の包丁めいた武器でざくざくとスクアードの縛めを解いてやる。

 

「……お前がオヤジを刺さねェで済んだのは、軍曹のおかげだ。あとで礼言っとけよ」

 

 本当は言いたいことが山ほどあっただろうが、サッチはそれだけを告げて『白ひげ』のあとを追った。

 

「軍曹……?」

 

 おそらくあの蜘蛛の名前だろうが、あんなペットを飼っている船員などいただろうかと少し考えて、ようやく『モビー・ディック』号で時々見かける──先ほど盛大な啖呵を切って絶縁された──白ひげの『娘』が連れていた蜘蛛だということを思い出した。

 自船を持っているスクアードとしょっちゅう旅をしているミオは接点が少なく、さして仲がいいわけではない。せいぜいが時候の挨拶と、そうでなければエースとつるんでいるのを時々見かけるくらいのもので、紹介されるまで座敷童の類かと疑っていたくらいだ。

 

 しかし、今となっては……本当に座敷童かもしれないと逆に認識を改めてしまいそうだ。

 

 おそらくあの『娘』──ミオが横車を押し通してこの戦場にいなければ、あの蜘蛛だって当然ここにはいなかっただろう。そうなれば、スクアードはきっと白ひげを刺していた。殺すことはなくとも、傷を与えていたに違いない。

 

 そんなことになってしまえばと思うだけで、今更になって肝が冷える。

 

「すまねェ……、ありがとう」

 

 感謝を込めてつぶやくと、ちょうど見張り台の方へ戻ろうとしていた軍曹が片脚を上げたようだった。

 

 

 

×××××

 

 

 

 頃合い良しとみたのか、遂に『白ひげ』ことエドワード・ニューゲートが甲板から降り立った。

 

 この戦争において、最も重要な大将首である。

 

 群れをなして向かってくる雑兵たちを『白ひげ』は大薙刀で、あるいは拳でいとも容易く薙ぎ払い、能力の引き起こす威力も相まってそれはまさに出撃と称して差し支えがなかった。

 スクアードの引き起こした混乱もすでに収まり、我先にと海軍へ立ち向かっている海賊たちの結束は一連の出来事でいや増している。

 船長の下知は思いのほか効いたらしく、先ほどより動きが統率され、団結しているのが見て取れた。

 

 それは心強いことだが、同時に不安だった。

 

 海賊側が一気呵成に攻めているわりには、海軍の動きが妙に落ち着き払っていたからだ。

 

 現に白ひげが能力を駆使して処刑台の破壊を試みたが、それは三大将が阻止に成功している。三人がかりでないと難しかったのだろうが、白ひげが動き始めてから即座に配置に戻るあたり、徹底しているといっていい。

 

「なんか、まずいかも」

 

 それらを横目に見つつルフィの援護に努めていたミオがつぶやくと、聞こえたらしいジンベエとイワンコフが同意した。

 

「嬢やもそう思うか。あちらさん、何か仕掛けてくるぞ!」

「かといって麦わらボーイが止まらナッシブル!」

 

 先ほど合流したイワンコフはミオの存在に大層驚いていたが、お互い手短に説明して事なきを得た。

 十年以上前に会ったきりだというのに覚えられていたというのもそうだが、革命軍の重鎮がここにいる事の方がミオには意外だった。ただ、イワンコフはドラゴンに恩があると言っていたことを覚えていたので納得もした。

 

「それなんですよ、ッと、すとっぷ!」

 

 言いながら、ミオは白ひげの能力発動の気配を感じてルフィの襟首を引っつかみ無理やり方向を変えさせた。

 

「ぐえッ、なにすん、!」

 

 そう、文句をつけようとしたルフィの足下の氷が音を立てて崩れる。グラグラの実の影響である。進んでいたら危なかった。

 

「敵も味方もねェのかあのおっさん!」

 

 ぜい、と荒い呼吸をつくルフィにミオはいや、と答えた。

 

「僕ら慣れてるから。避けられるんだ」

 

 白ひげの人たちは船長の攻撃の直線上には出ないように実践で叩き込まれるので、身体が自然に動くのだ。

 

「船員達はわきまえて避難しとるわい」

 

 とはいえ、能力発動云々なんてのは一度でも連携をしていなければ分かることではないから、こればっかりはどうしようもないのかもしれない。

 しかもルフィは前しか見てないうえ、白ひげに注意を払う余力もないので、結局はジンベエたちがフォローに回るのがいちばん簡単なのだった。

 

 白ひげの参戦によって戦場が混乱したおかげで、海兵の邪魔は大分減っている。

 

 妨害のないことをチャンスと見たルフィは腕を伸ばして壁を掴み、一足飛びにエースの元へと向かおうしたのだが、突如としてグラグラの能力とは別種の震動がマリンフォードを揺らした。

 

 そうして氷を突き破りながら音を立てて屹立したのは、鋼鉄の壁である。

 

 高く、重厚感のある壁はそれだけでも厄介だが、ずらりと並ぶ砲塔の群れが不吉さを底上げしていた。

 

「な、なんだ!?」

 

 戸惑いの声を上げるルフィの横で、ミオは納得を覚えていた。海軍の策はこれだったのか。せり上がってくる鋼鉄の壁はまるで湾内を囲うかのように配置されている。海賊を追い詰め、物理的な袋小路に陥らせるように。

 海賊たちは戸惑いながらも壁に攻撃を仕掛けるが傷一つついておらず、どれだけの厚さで構築されているのか見当もつかない。

 

 唯一抜け道があるとすればオーズの超巨体を持ち上げきれずに空いている部分だが、あんなところにノコノコ向かえば狙い撃ちされてしまうだろう。

 

 その耐久力とあちこちから覗く大砲を見れば、海軍の目的など決まっている。そも、殲滅できるならそれに越したことはない。

 

 なら、海軍の動きが意図するところは──

 

「親分さんとイワちゃんさん! ルフィくんのこと頼みます!」

 

 自分のたどり着いた答えに血の気が引き、ミオは二人に向かってそう言うと返事も待たずにその場で現場を放棄。反転して走り始めてしまった。

 あまりにも唐突な行動だったので周りの人間も反応できなかった。

 

「どこ行くつもりだ!? 白いの!」

 

 気付いたルフィが慌てて腕を伸ばして肩を掴もうとするが、その鬼気迫る表情に何かを感じて引っ込める。

 

「別ルート探る!」

 

 それだけが聞こえて、みるみる遠ざかる背中を呆然と見るしかなかったルフィだが、どのみち目的は同じだ。すぐに前を向く。

 

 鋼鉄の壁の向こうから、何か異様な気配が渦巻いていた。

 

 それはあまりにも熱く、重く、破滅的で──

 

 

「"流星火山"」

 

 

 花火が打ち上がるような音とともに──空が、まばゆく輝いた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十一ノ幕.世界で一番とおせんぼ

 

 

 今、海賊たちが足場にしているのは青キジの能力で凍り付いただけの海である。

 

 溶かせば水になるし、砕けたらそれで終わりだ。

 

 ならば海軍は足場を奪うだろう。それを効率的にできる者がいるのだから、手っ取り早くて効率的な手段である。海兵たちが氷上から退避していた理由はおそらくそれだ。

 あの包囲壁とでも呼ぶべき鋼鉄の群れは、海賊にとってひたすらに邪魔だしエース救出の障害に間違いないが、同時に海軍を脅威から守る役割もあるのではないだろうか。

 

 直後に響いた轟音は、ミオの思考を裏付けるものだった。

 

 花火が上がるときに聞くような甲高い音が鼓膜を叩いた瞬間、本能的な直感に従って空を見上げたミオは、それをしっかりと視認していた。

 暗雲を突き破り、天高くから飛来した赤黒い、拳のような熱の塊がぐんぐん巨大になり、迫ってきて──氷上を殴り抜けた。否、墜落したと表した方が適切だろうか。

 

 幸いなことに距離があったから動きが阻害されずに済んだが、傘下の海賊船が木っ端みじんに砕かれた。遅れてきた衝撃波と熱波が白い髪をなぶり、服の裾がひらめく。

 

 隕石……むしろ、これは火山弾だ。

 

 火山から噴出する爆熱を孕んだ巌の塊が摩擦熱と重力を味方につけて、たったひとりの人間の自由意志によって無数に撃ち出されている。

 

 ミオは全身がけば立つような寒気を覚えた。

 

 本当に、こんなことまでできるのか。

 

 大将サカズキ。自然系・マグマグの実の『マグマ人間』。これでは動く活火山だ。でたらめにもほどがある。

 遠距離からの多角的な爆撃。海賊をまとめて滅ぼすのにこれほど効率的なことはない。船は木造、いくら氷が分厚いものだろうと高高度から墜ちてくる熱塊ですべて溶き砕かれるのは目に見えている。

 

 

 そして当然──ひとつでは終わらない。

 

 

 出現する無数の、数え切れないほどの熱の拳骨。空を埋め尽くすような、豆まきのようにばらまかれた──ひとつひとつが、船を砕き氷を溶かし、海賊たちの命を奪って肉塊に変えてなお余りある破壊力の権化。

 直撃すれば即死だ。そんな死の顕現が無造作に降ってくる。圧倒的な量に悲鳴が響き、海賊たちに動揺が走る。統率が乱れ、逃げ惑うしかない。だってこんなの災害じゃないか。

 

 恐ろしい数の火山弾で、地面すら暗くなっていく。世界が閉じていく。破滅という言葉を戯画にしたような、それはあまりにも理不尽な光景だった。

 

「──」

 

 ミオは絶望そのもののような光景を見て呆然と立ち尽くし、息を呑んだ。

 かたちのある呪いのようだ。お前たちなんかいらない、不要だ、とっととくたばれと言葉なき暴虐が告げてくる。死んで死んで死に尽くせと怒鳴りつけられているような気持ちだった。

 全身がすくんで、冷や汗がじっとりと背中を濡らす。

 

 

 けれど、だけど──

 

 

()()()()()()

 

 

 低い、獣の唸りに似ていた。

 無意識だった。口に出してから自分の声に気付いた。

 

 恐怖よりも、腹の底から沸々と滾るものがある。

 

 一方的で理不尽なものに対する、それは純粋な怒りだった。なんでそんなことを、お前に決められなくちゃならないんだ。

 これが戦争なのだと己の冷徹な部分が思考する。そうかもしれない。圧倒的な武力で敵を圧倒するのは、戦の常道。あちら側からしてみれば、最小の被害で最大の戦果をあげられる。国家間のものではないから、手心を加える必要もない。

 

 実行できるから、した。それくらいのものだろう。

 

 だが、それであっけなく潰されることを良しとできるかと言われれば、否である。たったひとりの攻撃で、大事なものを根こそぎ蹂躙されるなんて冗談じゃなかった。

 

 唐突で理不尽なものに、ふざけるなと怒鳴り散らすくらいの権利はミオにだってあるはずだった。

 

 そこまで考えて、ふと──

 

 

()()()()()

 

 

 あの鋼鉄の壁を見て、反射的に自分が動いた理由。

 

 そして、もうひとつ。

 

 『白ひげ』の親愛に、ローの心に、何もかもに背を向けて、なげうって、ここに来たことに意味があるとすれば──それはきっと、たったひとつ、この瞬間のために。

 

 脳裏で閃くものがあった。論理を抜いた確信がある。もはや天啓に等しい。

 

 ミオは助太刀すると言った。

 

 白ひげは期待していると言ってくれた。

 

 

──ならば、それに応えなくてはならない。

 

 

 シャボンディ諸島での思いが胸に蘇る。あのとき、自分が戦場で何ができるのかわからなかった。『モビー・ジュニア』を整備しながらずっと考えていた。ずっと不安で仕方がなかった。

 もし、自分に役割があるのなら、それは一体なんなのだろう。それはこの戦争が始まってからすら、ミオの心の片隅に引っかかっていた。

 

 でも、今、ようやくわかった。

 

「そうだよね」

 

 ひとりごちる。

 

 視線をずらせば、いつの間にか近づいていた『モビー・ディック』号。無意識の内に戻ってきていたらしい。

 片腕を上げれば腕に何かが巻き付く感触。待機していた軍曹が魚でも釣り上げるようにミオに糸を巻き付けて牽引してくれる。ミオの姿が見えたから白ひげについて行かなかったのだろう。助かる。

 

 あっという間に甲板に引き上げられて、ミオは軽く軍曹をひと撫でしてからしっかりと足を踏みしめる。

 

「ただいま、『モビー・ディック』号」

 

 さっきは伝えられなかったことを告げて、ミオは慣れた動作でするすると見張り台に辿り着くと顔を上げた。

 

 馴染んだ感触に安堵を覚える。そうだ、ここは『モビー・ディック』号。どんな荒波からだって船員を守って、苦難を一緒に乗り越えてきた『白ひげ』の母船で、みんなの寝床。僕らの大事な()()()だ。

 ミオにはできることがある。それはたぶん自分にしかできないことで、理屈を越えた部分でそれが分かる。安堵めいたものを覚えて、かすかに口の端がつり上がる。

 

 武者震いのような痺れがじわりとうなじを這い上がり、不敵に腕を組んで空を見上げた。なんだか負ける気がしなかった。

 

「『モビー・ディック』号は僕の、お父さんの、みんなの……エースの大事なおうちだ」

 

 それを、あんな無粋な岩石如きに壊させてたまるものか。怪我ひとつさせたくない。当たり前だ。

 

 胸の奥で決意が灯る。高圧で閉じ込めた焔のようだ。静かな戦意と高揚が爪の先まで循環して、あんなに暗かった視界が一気に広がっていく。

 『モビー・ディック』号が力を貸してくれてるみたいだった。遠くの遠くまでよく見える。

 処刑台のエースと目が合った気がした。

 ああ、やっぱりあんな表情も手枷も鎖もエースには似合わないなと思う。彼に似合うのは脳天気な笑顔と自由で大きな海とお日様だ。安心して欲しくて、自然と笑った。

 

「まーかせて」

 

 だってさ、エースを迎えに来たのに、そのせいでおうちが壊れたらあとでめちゃめちゃへこむに決まってる。意地っぱりなのにすげぇ繊細で、『モビー・ディック』号のことが大好きなの、よーく知ってるんだから。

 うちの末っ子は手間がかかるんだ。だから守る。だってそれなら、僕できる。

 

「チェレスタ、ありがとう」

 

 心からそう思う。この能力があってよかった。

 

 ルフィくんみたいに伸びないし、ローみたいに汎用性があるわけでもない、ドフィみたいに糸を操ることも、エースみたいに炎も出せない。お父さんみたいに世界を壊すちからも、まして救うことなんてできっこない能力だ。

 

 けど、誰かの足をひっぱることに関しては特級品だ。留めて、止めて、固定する。その場に縫い止めて、動かさない。

 

 たったそれだけの、それしかできない能力。

 

 そんなちっぽけなちからを駆使して、ミオはこれから拳骨の驟雨に立ち向かう。

 

 パンッ、と手のひらに拳を叩きつけて気合いはじゅうぶん。

 

「我らが船長の宝は『家族』。だったらお家だって当然お宝に決まってる! ぼーぼー燃えてる危ない塊なんか、ひとつも通してやらんからな!」

 

 自分を鼓舞するように押し寄せる地獄へ怒鳴りつけ、己の奥の奥でまどろんでいる悪魔を叩き起こす。能力を励起させ、呼び覚まし、解放する。

 

 

「──ここから先は"通行止め"だ!!」

 

 

 その言葉を鍵として、かつてはミオの大事な友人で、そしてエドワード・ニューゲートの友だった男から受け継いだ悪魔のちからが、そのすべてを解き放った。

 

 

 

×××××

 

 

 

 大将『赤犬』が噴出させた無数の火山弾という、絨毯爆撃もかくやという惨劇が海賊たちを阿鼻叫喚の地獄絵図に陥れていく……はず、だった。

 

 少なくとも海軍はそう信じて疑わなかったし、海賊たちはほんの数秒後に訪れるであろう蹂躙の気配に少なからず惑乱していた。

 

「な……ッ、!?」

 

 けれど、その場にいた海賊、海兵の区別なく、マリンフォードで空を見上げていた人間たちは、眼前に展開された状況に一人残らず呆然と口を開ける羽目になった。それまでの狂騒が鳴りを潜め、静けさすら漂う現状は戦場においても異常事態といえる。

 

──そんな中、たったひとり、『白ひげ』を除けばこの場で最も元凶のことをよく知っている王下七武海の一角だけが、堪えきれぬとばかりに喉の奥を震わせていた。

 

「フ、フッフ、フフフ、フフ……ッ!」

 

 せめて爆笑だけは抑えようとしているものの、漏れ出る笑いだけはどうしようもない。

 戦場でもなお享楽的な雰囲気を崩さないドンキホーテ・ドフラミンゴだが、それにしたってこれは予想だにしていない最高の隠し球だった。この戦の趨勢にてんで興味がないからこそ、おかしくてたまらない。

 

「フフッ、さすが我が家の血筋は優秀じゃねェか。まさか"覚醒"までしてるたァ、おれでも予想できねェよ」

 

 悪魔の実の能力者には、稀に"覚醒"する者がいる。

 その条件ははっきりしていないが、"覚醒"した者たちは揃ってこれまで以上のちからを発揮できるようになるのが通例だ。

 たとえば超人系の場合、本来なら自分と、ごく近距離にしか使えないはずの能力範囲が飛躍的に広がることが多い。ドフラミンゴもそうで、本気になれば自分のみならず周囲の街や地面にまで影響を与え、すべてを糸と化して自在に操ることが可能になる。

 

「しかもあの能力……とんでもねェ実を食ってたもんだ。海軍の奴ら、今頃泡食ってんだろうなァ?」

 

 十年以上にもなる最後の邂逅でミオが使ったという能力のことは、報告からいくつか予想はしていた。これはその中でもとびきりのビンゴだ。

 

 本人がどう認識しているかはともかく、『コチコチの実』は『オペオペの実』と同じくらい海軍が手元に確保しておきたい悪魔の実のひとつであることをドフラミンゴは知っている。

 

 というのも、『コチコチの実』は自然系と()()()()()()()()能力だと言われているからだ。

 

 他の能力者に関しては不明だが、こと自然系に関しては最大限その権能を発揮できるというのがもっぱらの噂である。

 

 

 そしてまさに、噂の証明が目の前に広がっている。

 

 

 『赤犬』の放った"流星火山"。

 それは活火山の噴火とほぼ変わらない。マグマを押し固めた無数の拳は、一発一発が破滅的な破壊力を秘めた災害そのものである。

 

 

 そんな天から降り注ぐ焦熱地獄が──何の前触れもなく、おおよそ視認できる範囲すべての拳が音もなくぴたり、と、一斉に止まった。

 

 

 『モビー・ディック』号の上空を基点として透明な膜でも張られているように、膨大な火山弾は物理法則を無視して落下を阻まれたまま停止している。映像電伝虫で画像を止めた時に似ていた。それが現実で起きている。

 

 異常で、異様で、壮観ですらあった。

 

 『赤犬』が意地になっているのか、まだ火山弾は降ってきているのだが、先に『固定』されている火山弾が邪魔して積み上がっていくだけだ。そうなると重なった拳もまとめて『固定』されてしまう。意味がない。

 阻まれ、止められ、押し留められたせいで上空でひしめき合っているマグマの塊は、もはや得体の知れない黒山になりつつあった。

 

「的を絞ったのが裏目に出たな」

 

 もう一度、ドフラミンゴはくつりと嗤う。

 

 マリンフォードは仮にも海軍の基地である。

 最新鋭の機器や海兵の家族が住む居住区、加えて世界中から招集した味方の海兵。それらの安全を最低限確保しなければならない以上、必然的に攻撃範囲は限られたものにならざるを得ない。

 

 それだって赤犬の規格外の攻撃力で基地そのものが損なわれることのないように、包囲網と称した鋼鉄の壁を用意した中でのみ可能な、ごく限定的なものだ。いくら『赤犬』とて、『白ひげ』を殲滅させるためにマリンフォードを焦土にする覚悟で野放図に発射することは出来ない。なんたって『絶対的正義』を掲げる海軍の大将様だ。

 

 その結果、マリンフォード湾頭部分というごくごくいちぶに雨あられと降らせた灼熱の拳は、ひとつ残らず中空で『固定』されることになった。

 

「見事なものだ」

 

 いつの間にか近くにいた、先ほどまでミオと打々発止の大立ち回りを演じていた鷹の目が、腕を組んだままつぶやいた。

 視線の先は上空ではなく『モビー・ディック』号、もっといえばそのてっぺんに備え付けられた見張り台に固定されているようだった。ドフラミンゴも目を凝らしてみれば、見張り台にぽつんと小さな頭が見えた。

 

 桜色の瞳に決意と覚悟を滾らせ、雪色の髪を揺らし、何かを押し上げるように片手を突っ張った妙な姿勢のミオがそこにいた。

 

「ああ、『コチコチの実』は()()()()()って噂だったが……海軍が捜索するわけだ」

 

 自然系と相性がいい、というのはそれに起因している。

 

「見る限り攻撃力に乏しく攻め手に欠ける、が、脅威に違いあるまい」

 

 ふむ、と鷹の目は指先で顎をしごきながら頷いた。

 

「自然系の天敵、というわけだ」

 

 自然現象と化した箇所から空間ごと固定されてしまうのであれば、なるほど、それは自然系にとっての天敵と呼んで差し支えないだろう。能力に胡座をかいているタイプには殊更に効くはずだ。

 とはいえ、なんでもかんでも『固定』できるなら初手で三大将を完封することもできたはず。それをしなかったということは、『固定』にも何らかの条件付けがされている可能性が高い。

 

 万能無敵な能力というのは存在しない。『コチコチの実』もそれは同じで、事実ドフラミンゴ相手にミオは苦戦していた。

 おそらく超人系や動物系とはさほど相性がよくない……それこそ能力次第でまちまちなのだろう。

 

 しかし、今、ここで海軍の最強戦力が放った攻撃を押し留めたという事実はとてつもなく大きい。

 

 果たして──ドフラミンゴの予想通り、そこらの海兵たちが持っている電伝虫から、怨嗟すら滲む怒号が一斉に響き渡った。

 

 

『誰でもいい!! あの小童を潰せェえええッ!!!』

 

 

 そりゃそうだろうよ、とドフラミンゴはさしたる感慨もなく納得する。

 

 元帥に喧嘩売ったと思えば今度はこれだ。海軍が是が非でも邪魔されたくない部分にピンポイントで当ててくるあたり、ドフラミンゴの悪辣な部分に通じるものがあってさすがうちの姉貴だなとニヤニヤしてしまう。

 ただ、いつまでもニヤニヤしていられないのが困りものだ。これでミオは海軍の明確な敵……どころか、下手すると『白ひげ』や『火拳』と同じくらいの『危険因子』にランクアップしているだろう。

 

 あんなんでも大事な姉だ。国で盛大なもてなしを期待されていることだし、くたばる前にとっととかっ拐ってしまいたいものだが……。

 

「そういえば、貴様はあの娘と何か関係があるようだが」

 

 思考を巡らせていると、鷹の目が唐突に水を向けてきた。先ほどの弾丸の件から多少の類推を働かせたらしい。

 俗世との関わりが薄いのが鷹の目だ。こいつには隠さなくてもいいかと、ドフラミンゴはこともなげに答えた。

 

「アイツはおれの身内だ。頑固で馬鹿でずるくて、おまけにろくでなしの可愛い身内さ」

 

 鷹の目はその答えに珍しく目を瞠り、ややあってから納得顔で頷いた。

 

「なんだ、貴様の娘であったか」

「ちげェよ」

「悪いが貴様の娘の命、いずれはおれが貰い受けることになると思うが──」

「おいやめろ。あと娘前提で話進めんじゃねェ!」

 

 頂上戦争とはまったく、これっぽっちも関係のない、とてもくだらない理由から王下七武海による同士討ちが始まりそうだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十二ノ幕.まばたき一つぶんの英雄

 

 

 『モビー・ディック』号のちょうど真上。

 ある程度の高度でまとめてボタ山みたいになっている『赤犬』の発射した無数の火山弾を『固定』で食い止めているミオは、それだけでわりといっぱいいっぱいだった。

 

「ぬぐぐぐ……!!」

 

 全身の毛細血管が発火しているようだ。脂汗が吹き出て、じっとりと背中を濡らすのが気持ち悪い。

 度重なる能力の使用、おまけに虎の子の"覚醒"まで使っている現状は消耗が激しく、能力を維持しているだけでがんがん体力がすり減っていくのが分かる。

 

 他の能力者の"覚醒"事情なんか聞いたことないからアレだが、ミオの場合は体力と集中力をごっそり持っていかれるので乱発はできないし、やったとしてもすぐにぶっ倒れるのが関の山。それが体感的に理解できていたから、本格的に使用したのだって実は初めてである。

 

 ほぼ出たとこ勝負だったけれど、効果はあった。

 

 大将『赤犬』の、燃えさかるマグマを自在に操る『マグマグの実』は有名だ。海賊にとっては恐怖の代名詞として語られるそれは当然、『白ひげ』だって知っている。

 ということは、海賊に向けて『赤犬』がマグマをぶっ放すくらい『白ひげ』は先刻承知していたはずで、問題があるとすれば相手がそれをやらかすタイミングだろう。

 

 そして、そのタイミングはミオが崩した。

 

 状況を確認して心構えを作り、立て直して、対抗策を講じる。

 

 それをこなすための数秒さえ稼げれば、あとはお父さんがなんとかしてくれる。その確信があればこそ、ミオはここで切り札を切った。

 

 したたる汗を拳で拭えば、遠目に見える『白ひげ』が能力を込めて得物をおおきく振りかぶるのが見えた。『グラグラ』と『コチコチ』の相性は最悪なので、能力が当たれば『固定』はあっさり解ける。

 

 果たして──能力を乗算して超重量の薙刀から繰り出される一撃は、宙に留まっていた巨大な黒山をまっぷたつに両断した。

 

「よっしゃあ!」

 

 思わずガッツポーズを作れば海賊側からも歓声が上がる。『覚醒』も解除したので身体がちょっと楽になった。

 雲間が晴れるように空が割れ、膨大な巨塊と化した火山弾が新たな衝撃に耐えきれず砕け散り、バラバラバラと落下してくる。ある程度の損耗は避けられないが、銃器の扱いに長けた傘下の海賊や隊長たちがとりわけ危険そうな塊を各自で撃墜している。火花と斬撃が虚空へと乱れ飛び、あれだけの絶望と恐怖を振りまいていた拳がみるみる削り取られていく。

 

「うぉわ!?」

 

 これなら『モビー・ディック』も大丈夫そうかなと考える余裕もなく飛来した弾丸を慌てて避けた。

 火山弾を通せんぼしたのがよっぽど腹に据えかねたのか、潰せと怒鳴る声はミオにも聞こえていたので狙い撃ちされるのは仕方がない。

 せっかく守った『モビー・ディック』号にこれ以上傷をつけられても困るので、見張り台から飛び降りて回避行動。一瞬目眩のように景色が白んだがぐっと堪えて、なんとか甲板へ着地して転がるようにその場で伏せた。やばい、思ったより消耗が激しい。余裕がない。

 

 逆巻く敵意の矛先がこちらに向くのを感じる。

 

 場所が場所なので直接乗り込んでくるような海兵はいないけど、その分狙撃の数が多い。戦争には呼吸みたいなものがあって、海兵が攻勢に転じる気配を台無しにした戦犯を許せないというのはわかる。逆の立場なら自分でも切れる。

 

 そんな中で、かすかな焦りの混じるセンゴク元帥の放送が響いた。

 

『これより速やかに、ポートガス・D・エースの──処刑を執行する!』

 

 まずい。『赤犬』の邪魔をしたのが裏目に出たか、それとも作戦予定の延長線上にあったことなのだろうか。なんにしても時間がない。処刑台まで距離がある。もどかしい。

 ここからリスタートして全力疾走しても処刑台まで何分かかる? おそらく海兵も殺到してくるだろう。いちいち捌いていたら間に合わない。

 

──それなら。

 

「軍曹! 行って!!」

 

 万が一のためにポーチとは分けていたものをポケットから引っ張り出して軍曹に放り投げる。

 器用に片脚に引っかけて受け取ったそれからミオの意図を察したらしい軍曹は、一瞬迷うような素振りを見せてから『任せろ』という感じで顔を上げ、それまで溜め込んでいた海水を噴出しながら『モビー・ディック』号の舳先から勢いよく落下。子猫くらいの大きさになって氷と船の隙間すれすれに身を躍らせて海面に着水する。海兵も海賊も手の出せない海中から岸へ向かうようだ。

 軍曹なら包囲壁が鋼鉄だろうがなんだろうが登攀できるし、何より海兵にさほど警戒されていないだろう。運んで欲しいくらいだったが、あいにくミオは目立ちすぎてしまった。

 

 そのとき、弾切れなのか銃撃が一旦鳴りを潜めたので急いで『モビー・ディック』号から離脱──視界の隅で突如としてぶち上がった海流に驚いたが──とにかく進めるだけ進もうと宙を滑走路のように『固定』しようとした──瞬間、ぞわりと肌が粟立った。ミオは己の直感に従い、能力の使用を取りやめてそのまま氷上まで真っ逆さま。

 

「"ホワイト・ブロー"!」

 

 落下速度を緩めなかったことが功を奏し、ミオの頭上すれすれを真っ白な煙の長い腕が、さながらロケットパンチのように通過した。

 その技には覚えがある。全身を煙と化して海賊を捕縛することに長けた自然系能力者で海兵のひとり。ロシナンテとも付き合いがあったという、いつも葉巻を二本咥えた壮年の……。

 

「げぇっ、スモーカーさん!」

 

 これ以上ないほど眉間に皺を寄せ、筋骨隆々とした白髪の海兵──通称『白猟のスモーカー』が片手を煙、もう片方の腕で愛用の十手を構えてミオを睨み据えていた。

 銃撃が途切れた理由はこれだった。他の海兵はまだ二の足を踏んでいるようだが、彼の能力ならたとえ氷上が砕けても落水しなければなんとかなる。というか、この人も招集されてたのか。実力あるんだから当然か。

 咄嗟に方向転換しようとしたが、察したようにスモーカーが遮るように動く。

 

「……おれァ、賞金稼ぎとしての『音無し』を評価してた」

 

 伸ばした腕を戻し、咥えた葉巻を千切れそうなほど噛みしめながら低くつぶやく。

 

「それがよりにもよって、『白ひげ』の娘とはな」

「さっき縁切られましたけどね」

「アホか。所属がどうあれ『白ひげ』の母船を守った時点で『白ひげ』側だ」

 

 呆れたように言われ、それもそうだと思った。

 そもそも、海賊の味方をしているのだからスモーカーがミオを倒す理由は余りある。正直、とてもやりにくい。実力も根性も申し分のない気骨のある海兵さんなのだ。好漢で、縁があり、情もある。

 

 そして何より──()()だった。

 

 ミオは彼の十手に応えるように佩いた刀の柄へ指先を這わせ、とん、とん、と小刻みに跳ねながらまっすぐにスモーカーを見て笑ってみせる。

 

「ですね! お察しの通り僕はエースと『白ひげ』が大事なので、そこどいてください」

「行かせるかよ。てめェはここで捕縛する」

 

 宣言通り、もわりとスモーカーの姿が煙でブレた。

 身体のいちぶが葉巻の煙に似た紫煙となって渦を巻き、のたくりながら猛烈な速度で迫ってくる。本人の言葉通り『モクモクの実』はとりわけ捕縛に特化された能力だ。

 物理的な攻撃は本人が煙なのでダメージそのものが通らず、たとえばエースのような能力者でもなければ拮抗状態を作り出すことすら出来ずに逃げるしかない。

 

 他に有効打があるとすれば覇気を込めた攻撃か、そうでなければ。

 

「できるものなら!」

 

 逃げても追尾されてしまうとなれば、短期決戦が望ましい。正面から迎え撃つ。

 至近距離まで迫る煙へと無造作に片手をふらりと持ち上げて触れようとしたのだが、第六感に閃くものがあった。身体が本能的に跳び退る。

 

「チッ」

 

 舌打ちがひとつ聞こえ、煙の隙間から覗く十手の先。そうだった、スモーカーの十手にはこれがあった。海楼石の仕込まれた先端が己を狙っていたと悟り自分の直感に感謝する。

 海楼石なんて食らったらただでさえ尽きかけている体力が底を突いてしまう。

 

「勘働きの良さにその厄介な能力。なるほど、『生き残る』わけだ。だが、今のではっきりした」

 

 何かの確信を得たようなスモーカーの様子からミオの眉間にも皺が寄る。

 お互いの手の内をそこそこ知っている相手は厄介だ。舌打ちしたいのはむしろこちらの方である。『鷹の目』とは別の意味でやりにくい。他の海賊もミオのことには気付いているが相手がスモーカーだと分かって手を出しあぐねているようだった。

 強烈な踏み込みと同時、繰り出された十手の先を抜いた庚申丸で薙ぎ払い、咄嗟にベルトから引き抜いた柄尻でスモーカーを狙うが器用にも部分的に煙が拡散して避けられてしまう。

 

「おれみたいな自然系は、直接触れなきゃ止められねェ。だろう?」

 

 言うが早いか、スモーカーが攻勢に転じる。身体の変化は最小限、二の腕を煙にして間合いを変えながら十手での猛追にこちらも庚申丸で応じるしかない。

 相手も能力者である以上、ミオの海楼石が当たれば無力化できるのは分かっているがそれを許す相手ではない。近付きすぎると十手の(かぎ)で刀身を持っていかれてしまうし、一時的な二刀流にならざるを得ないこの状況では能力行使も難しい。

 

 ミオの両手を塞ぐ。単純だが有効だ。

 

 スモーカーの狙いを悟り、じわりと内心焦りが生まれた。

 

 業腹だが、スモーカーの推理は正鵠を射ている。

 

 チェレスタから受け継いだ『コチコチの実』の能力はけっこうピーキーで、実のところそうなんでもかんでも『固定』できるわけではない。

 

 自然発生しているならともかく、能力者の生み出した現象なら『本人の意思』が繋がっているものには直接触れる必要がある。

 

 さっきの火山弾のように能力者から切り離されたものはその場で『固定』できるが、本人の制御下にあるものはたとえ"覚醒"していてもたぶん無理だ。スモーカーの有する『モクモク』の場合、よっぽど拡散していれば有効かもしれないが『腕を変化させて捕らえる』程度の使用では支配権はあちらにある。

 

 そんなわけで自然系にはそこそこ、超人系や動物系への優位性はほぼ皆無というのがミオのくだした自己評価である。

 

 以前のトレーボルとは本当にたまたま、相性がよかっただけだ。散らばったベトベトは本人と繋がってなくて『固定』できたので脅威にはならず、油断してくれていたから彼の生身に直接触れて、丸ごと停止させることもできた。

 

 意識ごと対象を『固定』するには相手の了解を得るか、そうでなければ思考の空白を狙うしかない。コラソンは本人が望み、ミオが応えたからこそなし得た例外中の例外である。戦場なんて極限状況の中では上手くいったとしても数秒がせいぜいだろう。

 

 とはいえ、それは能力者に限った話。

 

 こんなしち面倒くさい能力者とまともに戦っていては、いつまで経っても処刑台にたどり着けない。お綺麗な決闘試合ではないのだ。

 

「せいッ!」

 

 満腔に力を込めて十手の先を弾き飛ばし、ミオは大きく真後ろに跳んだ。

 すかさずスモーカーが距離を詰めようと飛び出すが、ミオがもう一段跳ぶ方が早かった。自分の真後ろの空間を『固定』して、三角飛びの要領で更におおきく跳躍してスモーカーという障害物の真上を飛び越える。

 

「逃がすか!」

 

 咄嗟に下半身を煙に変化させ追いすがるスモーカーにミオは中空で体勢を立て直し相対すべく刀を構えようとした、瞬間だった。

 

 ぐらん、と目の前が不規則に揺れた。

 

「──ッ」

 

 無茶に無理を重ねた反動だろうか、時間にすれば秒にも見たぬほんの僅かな間隙だが、それを逃がすほどスモーカーは甘くない。

 伸びてきたパンチを中途半端な体勢では避けきれずまともに食らってしまい、氷面でバウンドされる間もなく十手の先が突き刺さる。

 

「げうッ……!?」

 

 海楼石の仕込まれた先端が食い込み肺の空気が残らず押し出された。間髪を入れず全身に煙がまとわりついて、武器が弾き飛ばされる。背中がひどく冷たい。氷面のせいだろう。海兵サイドらしき歓声が聞こえた。

 生理的な涙を浮かべ、吐きそうな咳をするミオの前に油断など欠片も見せないスモーカーの眼差しはひどく怜悧だが、どこか怒りを孕んでいるようにも見えた。

 

「……たったひとりでよくもまぁ、ここまで荒らしてくれたもんだ」

 

 『音無し』とスモーカーの付き合いはさほど浅くはないが、長年に渡り海賊を殺さず捕らえてくる手腕や己にも他人にも公平な様子は彼の気に入るものではあった。

 だからこそ、『白ひげ』の娘だったという事実がひどくスモーカーの癇にさわる。氏素性を隠して賞金稼ぎをしていたことも海軍を小馬鹿にしているようで気に入らない。

 

 そして理由がどうであれ、今回ミオはやりすぎた。

 

 戦争開始時における元帥への攻撃に始まり、大将『赤犬』の放った火山弾すべてをたったひとりで食い止めてみせたのが決定打だった。

 

 おかげで『赤犬』の実力が文字通りの大量破壊兵器であることを体感として味わってしまった多数の海兵は、氷面が砕けていないにもかかわらず再突入をためらっている。

 スモーカーのような能力者や己の実力に自負を持っている者は果敢に飛び出しているが、そこまで突出していない海兵は明らかに腰が引けていた。ここに来て臆病風を吹かすんじゃねェと断じてやりたいところだが、原因が原因だけに迂闊に責めるのは酷だとも理解できる。

 

 『徹底的な正義』を掲げている『赤犬』は、その気になれば海兵の犠牲を厭わず再び"流星火山"を発射するかもしれない。()()()()()()()()()()()()()()()()、と海兵たちは骨身に沁みるほど理解してしまっている。本人のまったく意識していない副産物だろうが、『赤犬』の性格を知悉している海兵だからこそ出てきた弊害だった。

 

 軍隊でも海賊でもない、ただのいち個人が戦争をひっかき回している。

 

 それは、エース救出のためにインペルダウンから脱獄すらしてみせた『麦わらのルフィ』にも比肩しうる危険な存在であることの証左といえた。ここで殺されても文句は言えない。

 

 それに──なにより。

 

「あんた、()()()にどう言い訳するつもりなんだよ!」

 

 激昂を抑えきれず、スモーカーは吠えた。

 跳ねっ返りの自分を見捨てもせずに相手をしてくれたロシナンテ中佐のことを、スモーカーはまだ覚えている。忘れられるわけがない。

 ドジが多くてお人好しで誠実で、何より己の正義に忠実だった。スモーカーは彼を慕っていた。……かつて、スモーカーの問いにミオは『大事なひとだ』と口にしていた。ミオにとってのロシナンテも、ロシナンテにとってのミオも、互いに大事な存在なのだと。嘘のない言葉だった。ミオを気にかけていたのもそれが理由だった。

 

 それがスモーカーには我慢ならない。自分のみならず、今や遠い記憶になりつつあるロシナンテすら裏切っているようで許せなかった。

 

 怒声を全身に浴びたミオはびくりと肩をそびやかし、束の間スモーカーの言葉を反芻するように瞬きを繰り返してから、不意に。

 

「……ふはっ」

 

 気が抜けるように、笑った。

 

 馬鹿にしているわけでもなく、ただ、本当に予想外のことを言われて堪えきれず吹き出した。そんな印象だった。

 そしてその名前を口にするのが懐かしいとばかりに目を細めて、口の端をゆるく持ち上げる。

 

「ロシナンテはまぁ、怒るんじゃないですか。すんごい怒って、それから泣く。めちゃくちゃ泣く。あ、案外に手ぇ早いからぶん殴られるのが先かなぁ。でもしょうがないですね、ロシーの恩師に手出したのは僕だし」

 

 せいせいとした口調だった。

 まるで弟妹喧嘩の延長であるとでもいうような、なんてことのない物言いにスモーカーは鼻白む。

 自分がしでかしていることの重大さをまったく理解していないのか、それとも理解した上でこその台詞なのか。

 

「でも、それをここで出してくるのは()()()ですね。というか、スモーカーさん。駄目です」

「あァ?」

 

 なにがだ、と続けようとして──違和感に気付く。

 身体のあちこちが動かない。動かそうとしてもひどくぎこちなく、にぶく、重く──否、動かせない。まるでその場に縫い止められたかのようだ。

 

 固まり、凍り付き、それは『モクモク』の能力を発現していた箇所から──。

 

 うっそりと眇められた桜色がスモーカーを見上げている。

 

 薄いくちびるが、諭すように色のない言葉を紡ぐ。

 

「化けて出たりしないんで、僕みたいなのは問答無用で首を落としていいですよ。ここは戦場(いくさば)、恨みはしません」

 

 本気だと分かる声音だった。

 

 もしこの場でスモーカーが殺したとしても、ミオは半句ほどの文句も言わずに笑って逝くだろう。生きることを欠片も諦めていないくせに、心からそう思っている。

 

 それを本能的に察したスモーカーの背筋がぞわりと粟立った。

 

 眼前で転がっているのは賞金稼ぎの『音無し』ではなかった。それは何もかもが停止した世界でうつろに突っ立っているだけの、呼吸しているだけの死人だった。

 

 吐き気のする異形だった。

 

「だから、捕縛とか、しかるべき裁きとか、極めつけの非日常にそんなのを持ち込んだら駄目です。つけ込まれる。僕とかに」

 

 死人が喉をふるわせて音を作り、十手の鈎を掴んで、ぐっと身体を乗り出し器用にスモーカーに手を伸ばす。その背中から細長い物体が突き立ち、服の布地が不自然につっぱっているのが視認できた。

 

「な、──!?」

 

 十手の先がミオの胸、ちょうど心臓の真上あたりを貫通している。それは貫いているというより、手応えとしてはむしろ素通りしているようだった。人間の持つ最重要ともいえる臓器が、存在していないかのように。

 ありえない光景に寸の間思考が止まり、反応が遅れ、それが決定的な隙となった。

 

 ミオが笑う。人を惑わす猫のそれ。

 

「あいにく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 海楼石が仕込んであるのは十手の先端だけだ。

 それをどうやってか、物理的に避けていたとするならミオの能力は封じられてなどいない。

 

「その、残念でした」

 

 たよりなく、おぞましい温度の指先が蛇のように這い上がり──スモーカーが知覚できたのはそこまでだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十三ノ幕.白ひげの切り札

 

 

 ロー、ありがとう。きみに心臓預けてなかったらアウトでした。

 

 目の前でまるでそういう彫像みたいになっているスモーカーさんを押しのけ、なんとか海楼石を避けて脱出成功。とはいえ、状況が状況なのであと数秒もすれば復活してしまうだろう。

 周りの海兵が唐突に動かなくなったスモーカーさんを見て「ス、スモーカー准将!?」「うそだろどうしたんだ!?」とかざわついている。そんな中で馴染みのある気配に顔を上げれば、「スモーカーさんッ!!」と般若の形相をしたたしぎちゃんが駆けつけようとしていた。あちゃー。

 

 スモーカーさんも困るが、彼女に追撃されたらもっと困る。知り合いと進んで鍔迫り合いしたいわけがないのである。

 仕方がないので僕は素早くスモーカーさんの腕をしっかり掴んでぐるん、と回転した。

 

「どっせぇい!」

 

 遠心力を味方につけて巨体をぶん回し、そのままたしぎちゃんへ向かってスモーカーさんを思いっきり投げる!

 

「ええっ! ちょっと、『音無し』の──きゃああ!?」

 

 慌てふためくたしぎちゃんはまさか上司のスモーカーさんを避けることもできず、さりとて受け止めるには体格差が難となり……堪らず押し潰され、うぎゅう、と可愛らしい声を上げていた。

 

「ごめんねたしぎちゃん、ばいばい!」

 

 ほぼ言い逃げして脱兎のごとく走り出す僕である。数少ない女友達の喪失にしんどさ半端ない。

 駆け抜ける途中、スモーカーさんにかっ飛ばされた庚申丸と柄を拾っておいてくれたらしい海賊のひとが「おい座敷童! これお前のだろ!」と投げ渡してくれた。

 

「感謝です! でも座敷童ってなに!?」

 

 すかさずキャッチしつつ心底意味の分からないあだ名に超びっくりしていると、なぜか海賊のひとの方が不思議そうな顔をする。

 

「はァ? 船を守るのはクラバウ・ターマンか座敷童だろ?」

「なんスかその二択!?」

 

 クラバウ・ターマンってアレか。船に住み着く船の妖精っていうか、妖怪みたいなの。船大工の人にも聞いたことあるけど、ドイツにも似た伝承があった気がする。

 でもあれ、乗組員との関係がうまくいかなくなったり、船で犯罪が起きたりすると出てっちゃうって話だからまだ『モビー・ディック』号にいてくれているだろうか。

 

 いや、そもそもクラバウ・ターマン自体が船の座敷童とも言われてるみたいだし、どのみち一緒か。実質一択やんけ。

 

 そんな事を考えつつ、とにかく処刑台の方へ走って走って走る。足場を形成して体勢低く滑走し、飛び出してくる障害物(海兵)は張り倒し斬り払い薙ぎ散らす。それにしても数が多い!

 周りの海賊たちが援護に回ってくれたりしているけれど、それでも多くてうんざりする。完全な乱戦になってしまった。三大将とか七武海が出てこないところを見ると、どうも処刑台の方でも何かもめ事が起きているようだ。……ルフィくんだろうなぁ。

 

 三大将といえば、さっきの『赤犬』とやらが企んだ作戦って結構まずいんじゃなかろうか。

 

 超短期的、かつ一定の成果をおさめていれば有効だっただろうけど、今回に限っては悪手っぽいと思う。

 だって、『赤犬』が『単独で』敵の裏切りを誘発しようとした、というのは裏を返せば『集結させた精鋭の海兵全員を合わせても、海軍の勝利を確信できません』と、よりにもよって海軍の大将様が喧伝したに等しい。

 今は目の前の戦争の方にみんな目が行っちゃってるからいいけど、これ、あとですげぇ問題になったりしない?

 

「……離職率爆上がりとか?」

 

 いや、海軍の今後の離職率の心配なんかする必要ないんだけども。

 

「おいミオ!」

「ぐえっ」

 

 明後日の思考をぼやきつつ次の滑走路()を作りさぁジャンプ、というタイミングで襟首をむんずと掴まれた。

 貴族みたいに膨らんだ袖に胡桃色の髪、ハルタ隊長だった。

 

「ハルタ! え、なに」

「いいからこっちに来い! オヤジが"切り札"を使う、一気に広場へ出るぞ!」

「! わかった!」

 

 お父さんの"切り札"。その存在は知っている。アオガネが教えてくれた。

 先行するハルタを追いかけて走ると、氷上のとある一点に海賊たちが集結しているのが見えた。

 

 『赤犬』が氷面を砕かなくても、こっちにはお父さんがいる。世界を壊すと謳われる『グラグラ』の力は伊達ではない。

 

「──行くぞォ!」

 

 お父さんが満身の力を込めて足を思いっ切り氷面に叩きつける!

 

 能力の込められた一撃は天災に等しい。信じられない規模の揺れ。足場が縦に震動し、僕は自分の足が浮くのを感じた。

 お父さんの足下を中心として蜘蛛の巣のようにびきびきと亀裂が走り、音を立てて氷面が瓦解していく。それでもなお揺れはおさまらず、分厚い氷は耳障りな音を立てて割れて、互いを軋らせ、足場にならないくらい崩壊して──そして。

 

 氷面もとい、湾内深くに待機していた最後のコーティング船が、集結していた海賊たちをまとめて掬い上げるように真下から浮上した。

 

「ウチの船が出揃ったと言った憶えはねェぞ……!」

 

 海軍のどよめきを肌で感じているお父さんが面白そうにつぶやくのが聞こえる。

 『白ひげ』傘下問わず海賊たちはさすがの結束力で船に乗り込み、僕はといえば全身に海水を浴びたせいで襲ってきた脱力感で滑って死にそうになっていた。やべぇ、かろうじて引っかかってる指めっちゃふるえる。

 

「あ、なに落ちそうになってんだ馬鹿!」

 

 気付いたジョズさんが慌てて掴んで引っ張り上げてくれた。危ない。エース助ける前に自分がお陀仏になるところだった。

 

「め、面目ない。ありがと、です」

 

 へろへろになりつつ謝罪の言葉を口にする僕を見てなぜか顔をしかめたジョズさんは「おう」とだけつぶやいて、なんでか僕をものすごく適当に放り投げた。え!?

 全身が宙に浮いて混乱する間もなくひょい、という感じでお父さんが片手で僕を受け止めてくれる。なんだこのお手玉感。

 

「なんてェ顔色してやがる。土左衛門でも降ってきたのかと思ったぜ」

 

 さっきより憔悴の色が見え隠れするものの、まだまだ余力のありそうなお父さんはそう言ってにぃ、と笑った。

 

「よくやった。捨てる覚悟だったが、いざ残ると嬉しいもんだ」

 

 嬉しいと感じたのはもちろんだけどああ、やっぱりという思いが勝った。

 さっき『モビー・ディック』号に立った時に感じていたもの。看護師さんがいないのは当然としても、どことなくうら寂しい気配が漂っていたのは『白ひげ』が『モビー・ディック』を諦めていたからだ。

 

 エースを救出するために、『モビー・ディック』号を捨てる覚悟をしていたからだ。

 

 『白ひげ』にとっても苦渋の決断だっただろうけれど、その覚悟は僕がご破算にしてしまった。でも、それは間違っていたわけではない。

 確信できて、海水とはべつの意味で力が抜ける。報われた気がして、ふへっと僕も小さく笑った。

 

「エースは『モビー・ディック』号が大好きだから。もちろん僕も」

「ああ、おれもだ」

 

 衒いなく答えて、お父さんは僕を下ろして背中をばしんと叩いてくれた。

 

「ここから正念場だ、野郎ども! 気合い入れろ!」

『おお!!』

 

 僕を含めた周りの隊長たちも雄々しく応える。戦意が天井知らずに高揚していくのが肌にびりびり響いて、気力が満ちていく。

 

 それから、お父さんは前方を見据えたまま低く小さく、それこそ僕にしか聞こえないんじゃないかというくらいの音量で。

 

「広場に入ったら、海軍は狙い撃ってくるぞ。ここまできたらウチとの縁が切れたって意味がねェ。それくらいのことをしたってことを自覚しとけ」

 

 それはさっきのスモーカーさんとの交戦でイヤというほど自覚した。『モビー・ディック』号を守ったことに後悔なんかしてないが、『白ひげ』と一緒に行動すると集中砲火に拍車がかかりそうだから迷いどころである。

 

「おめェは十分やった。引っ込んでろと言いてェところだが、どうせ聞きゃしねぇだろ」

 

 "覚醒"の代償ですり潰された体力はけっこう深刻で、たぶんお父さんはそれを察している。

 でも、仮に大人しく引っ込んでいたとしても僕はもう海軍に追われる身だ。マリンフォードにいるだけで命の危機はついて回る。それを同時に理解しているからこそ、言ってくれたのだろう。

 

「うん。動ける内は大丈夫。生きてる間は──大丈夫」

 

 もう間近に迫る包囲壁。その一角、全身を引きずるように重々しく身体を起こす巨体の姿がある。

 あちこちの肉が抉られ、まぶたひとつ上げるだけでも億劫そうなほどの満身創痍だが、その瞳には炯々と覚悟が光を放っている。

 

 オーズ、きみとの約束を、僕はまだ果たしていない。

 

「どうせ、もうどこにいても一緒だしね! やれるだけやってみる!」

「グララ……、よく言うぜ。ああ、好きに暴れてこい」

 

 力強く頷くと楽しそうにお父さんは笑って、そのときだけ、てんで海賊らしくない祈りのように。

 

「……死ぬんじゃねェぞ」

「それは保証できない!」

「そこは嘘でも頷いとけ元馬鹿娘が!」

 

 即答したら怒られた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十四ノ幕.処刑台まで、あと

 

 

 虜囚にできることは、ただ、ただ、見つめることだけだ。

 

 瞳に焼き付け、記憶して、心に刻みつけることだけだ。

 

 処刑台の上、跪いたまま後ろ手に海楼石の枷で拘束されているエースにできるのは、それだけだった。

 

「野郎共ォ!! エースを救い出し!!! 海軍を滅ぼせェエエ!!!」

 

 『白ひげ』の大音声が号砲のように響き渡り、伝播して、仲間たちの応じる声が負けじと地を揺るがす。海賊たちの決意と覚悟、怒りと戦意が火柱の如くほとばしっているのを感じる。

 

 処刑台からは戦況がよく見える。

 

 『白ひげ』を頭に据えた隊長たちが相対するのは、海軍の主戦力ともいえる三大将。入れ替わり立ち替わり攻撃してはし返され、激戦を繰り広げている。

 そこに混じっているのは大切な弟。すでに体力なんかろくに残っていないのはここから見ていたって一目瞭然だった。

 

 瞳だけは不退転の覚悟を秘めて恒星のような煌めきを放っているが、果たしてどこまで持つか。すでに傷ついていない箇所を探す方が難しいほどの満身創痍である。

 意地と根性だけで身体を動かし、なんとか目の前の敵をぶっ飛ばしているが──遂に、底なしかと思われていた体力が限界の先を越えてしまったのか、別の海兵からの攻撃をまともに食らってぶっ倒れ、ダメ押しのように現れた『黄猿』が能力を込めた前蹴りを放った。

 

「ルフィ……!」

 

 避けることもできずに吹き飛ばされたルフィは水切り石のように軽々と宙を舞い、運良く『白ひげ』に受け止められ、後方にいた船医へと託された。

 どんな会話が交わされているのか、ここからでは聞こえない。もどかしい。苦しく、辛い。

 

 この戦争に参戦している海賊たちが──傷つき、血を流し、倒れる仲間たちが、抱いている思いはひとつだ。

 

 エースを助ける。救う。処刑なんかさせてたまるか。

 

 そのために、そのためだけに集結した『白ひげ』海賊団と傘下たち。──そして。

 

 ほんの数分前に『モビー・ディック』号で奇跡を起こした、『白ひげ』の元愛娘。

 

 迫る"流星火山"を睨み付けていたミオは、ふとエースを見て笑った。明るい表情だった。『モビー・ディック』号は守るから安心してね、と言われた気がした。

 

 

 エースのおうちはここだから──だから、早く帰っておいで。

 

 

 この戦争におけるとびっきりの異端児は『赤犬』の放った"流星火山"をたったひとりで食い止めるという信じられない偉業を成し遂げ、我らの偉大な鯨は今や遅しと仲間たちの帰りを待っている。

 

 そんな、もはや海軍にとっては『化物』のような存在はといえば、奥の手として潜ませていた外輪船(パドルシップ)で『白ひげ』と一緒に広場に突入していたのまでは確認できたのだが……途中で見失ってしまった。

 無理もない。ただでさえ『白ひげ』とルフィが最前線で戦い、仲間たちも入り乱れている。目玉がいくつあっても足りるもんじゃなかった。これだけの混戦を極めているのだから、戦塵の舞う中でちっこいミオを見失うのはある意味当然といえる。それにしても本当に忽然と姿を消していた。

 

 そして、それはどうやら海軍も同じなようで、背後の元帥の電伝虫から引っ切りなしに入る連絡の中でも発見できずという報告が入っていた。

 

 あちこちで爆発が起こり、砂嵐が巻き起こり、氷塊が砕け、光が弾け、煮え立つマグマが海賊たちに襲いかかっている。剣戟、あるいはビーム兵器、銃声と悲鳴と怒号、鼓舞と気勢の声が入り交じり、戦況は混沌としていた。

 

 凄まじい光景だった。そして、その光景を生み出すに至ったすべての起点は間違いなくエースなのだ。

 

 彼らの行動原理のすべてが伝えてくる。

 

 長年の疑問の答えが、ここにある。

 

 

『おれは、生まれてきてもよかったのか』

 

 

 幼い頃からエースに根ざしてきた問い。『海賊王』の血を継いだせいで呪いのように付きまとう疑問は、時々あぶくのように湧き出てエースの内側を激しく揺さぶってきた。

 

 けれど、仲間たちが口々に自分の名前を叫んでいる。呼び続けている。祈りのように、願いのように。

 

 エース。必ず助けるから、待っていろ。諦めるな。

 

「……くそ……おれは、歪んでる!」

 

 エースは己を嫌悪するように吐き捨てながら深く項垂れた。熱い涙が頬を伝って落ちてくる。

 

「こんな時に、オヤジが……弟が! 仲間たちが!! 血を流して倒れていくのに……!!」

 

 滂沱と流れる涙に込められているのは、悔悟でも悲嘆でもない。

 

「おれは嬉しくて……涙が止まらねェ」

 

 胸から湧き上がり、とめどなくまなじりからこぼれ落ちるのは──歓喜の涙だった。

 

「今になって、命が……惜しい!!」

 

 それは、エースの心の奥底に沈み込んでいた本音が長い、長い時間をかけて絞り出された瞬間だった。

 

 生への渇望と未練が泣き叫んでいる。こんな時なのにたまらなく嬉しかった。もうエースはひとりぼっちの海辺でうつろに膝を抱えていた子供ではなかった。孤独は怖い。寂しいのは地獄だ。けれどもう、エースには仲間がいる。大事なものがある。それが実感できる。心の底から。

 

 帰りたい。いきたい。オヤジたちのいる『白ひげ海賊団』と──もっと、一緒に。

 

 だって仲間たちが望んでくれている。こんな鬼の子の無事を願い、救い出すためにすべてを賭けて戦っている。もう捨て鉢でいることなんてできなかった。それは命を賭している者たちへの侮辱に他ならない。

 

 

 異変が起きたのは、その直後だった。

 

 

 エースの位置からでも分かった。見えてしまった。

 

 群がる海兵を相手に大型の肉食獣を思わせる威圧と迫力とともに大薙刀を振るっていた『白ひげ』が、唐突に体勢を崩したのだ。動きが不自然に止まり巨体をくの字に曲げ、苦悶するように身をよじる。

 目撃した仲間たちから悲鳴が上がり、マルコを筆頭にした隊長たちがそれに気付き──『白ひげ』の体調の激変に見せた一瞬の狼狽。

 

 それが隙となり、優勢だった海賊勢に乱れが生じた。

 

 最初に狙われたのは一番隊隊長『不死鳥』マルコだった。『白ひげ』に意識を割いたために動きがにぶり、それを『黄猿』が狙い撃ったのだ。光熱のレーザーがマルコの肉を貫通し、三番隊隊長のジョズが半身を青キジに凍らされてしまったのもちょうど同時期だった。一番隊と三番隊、二枚看板ともいえる隊長たちが大将の攻撃を浴びたことで動揺が伝播する。

 

 そして寸の間もおかず『赤犬』が『白ひげ』へと肉薄した。マグマと化した拳を振りかぶり、その巨体へと潜り込ませた。

 

 焦げ付いた臭いが辺りに漂い、血飛沫が待った。

 

 生きながら焼かれる苦痛はただの怪我とは一線を画す。『白ひげ』の負担は相当なものだっただろうが、頑健な精神力で無理やりそれらをねじ伏せた『白ひげ』は小揺るぎもせず──間髪入れず至近距離の『赤犬』をぶん殴った。

 

「ぬぅッ!」

 

 痛烈なカウンターに『赤犬』は反撃に転じることが出来ず吹き飛ばされ、瓦礫の上に転がったがすぐに起き上がる。

 『白ひげ』はなんとか立て直したが、海賊たちに広がった衝撃は大きい。

 

 海賊側に勢いが乗っていたことが不利に働いていた。統率が崩れ、生じた迷いが全体の動きにまで影響を与えてしまう。海賊団の中核をなす『白ひげ』が斃れるというのはそういうことだ。

 

 総崩れを起こす危険性もあり得るほどの致命的な隙だった。

 

 けれど、そんな窮地を狙い澄ましたかのようなタイミングで事態を動かす存在がここにはいた。

 

「ウォォオォオオォォ──!!!」

 

 ただのひとりが発しているとはとても思えない、地鳴りの如き大音声。

 それは、今の今まで瀕死の状態で船医に預けられていたはずのエースの弟の喉から反撃の狼煙として上げられた、獅子の如き咆吼だった。

 

 そして──ルフィは再び走り出した。

 

 全身に刻まれた傷も、底を突いたはずの体力もすべてが嘘だと言わんばかりの、まさに破竹の勢いで吶喊するルフィは並み居る海兵を片っ端から拳で足で頭突きで粉砕する。

 海兵は次々に骨を折られ肉を潰され血をまき散らし悲鳴を嗄らしながら、小石のように吹き飛んでいく。どういう理屈かは不明だが、体力さえ回復してしまえば実力と気概と覚悟が違うルフィに海兵が勝てる道理などない。

 

 詰まる。詰まっていく。エースとルフィとの距離が。

 

「オヤジぃい!!」

 

 体勢を立て直しきれていなかったのはむしろショックから抜け出せていない『白ひげ』たちの方で、『黄猿』のダメージから回復する前にマルコは海楼石の錠をかけられ、ジョズに至っては全身を氷付けにされてしまった。

 『白ひげ』が劣勢に立たされた今逃がすわけにはいかぬとばかり、『元帥』の檄が飛ぶ。

 

「ぐずぐずするな! 全員で『白ひげ』の首をとれぇえッ!!」

 

 号令一下、『白ひげ』の周りを取り囲んでいた海兵たちが一斉に武器を構え、あるいは躍りかかり、それは教本にでも載りそうな一糸乱れぬ総攻撃だった。

 四方八方から軍刀が迫り、無数の弾丸とバズーカという、いち個人に向けるには明らかに過剰な暴力が『白ひげ』を穿つ──その、刹那。

 

 ガガガガンッ!!

 

「……えっ?」

 

 思わず間抜けな声を出してしまったのは海兵だった。それはそうだろう。『白ひげ』を的に放たれた剣林弾雨すべてが弾き飛ばされ、あさっての方向へ散らばってしまったのだから。不可思議な現象だった。

 

 それは──まるで、『白ひげ』の眼前に突如として()()()()()でもあらわれて衝突したかのように。

 

 当の『白ひげ』はといえば謎の現象にかすかに瞠目したものの、すぐにくつりと喉をふるわせる。

 

「心配、かけちまったか」

 

 攻撃を食らったと誤解したらしい海賊たちが口々に悲鳴を上げて殺到しようとしたところを「来るんじゃねぇ!!」と制し、『白ひげ』は豪放磊落に笑った。

 

「グラララララ! おれは食らってもいねェよ!」

 

 その様子に今度は海兵たちが動揺する。

 誰の仕業かは先刻承知している上の者たちが顔をしかめ、あるいは「まだ見つからんのか!」と電伝虫にがなっているが、どうやら本当に発見できないらしい。

 あれだけの耳目を集めたにもかかわらず煙のように消え失せて、けれど『白ひげ』の危機は見逃さない。本当に幽霊か座敷童の類にでもなってしまっているようでなかなか痛快だった。

 

「どこから見てやがったんだか、元馬鹿娘がお節介焼きやがった」

 

 広場に突っ込んでからすぐに姿を消していたミオがこんな戦場のどこで油を売っているのか気になるところだが、今は目の前に集中すべきだろう。

 『赤犬』の一撃以外の傷が見当たらないことが海賊たちにも見えたのか、明らかに安堵の気配が漂う。そうなると、噴き上がるのは海軍への殺意である。

 

「助けなんざいらねェってのに……これしきで、おれが死ぬわきゃァないだろうが」

 

 不意にぐん、と『白ひげ』の武威が圧搾される。

 

「おれァ『白ひげ』だァッ!!」

 

 恐ろしいまでの殺意と怒気が獰猛に吹き荒れ──振るわれた大薙刀が圧倒的な暴力となって海兵たちへ襲いかかった!

 

 轟音。

 

 地響き。粉塵が舞い上がる。『白ひげ』の攻撃が爆裂する。瓦礫がめくれ上がり、海兵がまとめて雲霞のように薙ぎ散らされ吹き飛ばされ血をまき散らし蹂躙される。

 生半可な輩では太刀打ちできない。力の差は歴然である。数の暴力など通用しない。

 

 これが『四皇』の一角を冠する『白ひげ』なのだ。

 

「おれが死ぬこと……それが何を意味するか、おれァ知ってる……!!」

 

 ロジャーと時代を生きた男の言葉は、重い。

 

「だったらおめェ、息子たちの明るい未来を見届けねェと、おれァ死ぬわけにはいかねェじゃねェか……」

 

 それが、『白ひげ』がここに立っている理由だ。

 

 新しい時代が来ている。もうすぐそこまで。皮肉にもこの戦争がそれを証明している。それが『白ひげ』には少しだけ喜ばしい。

 

「なぁ、エース」

 

 処刑台のエースを見上げる。愛すべき息子。若い命を散らせてたまるものか。次代に受け継ぎ、託し、繋がなくてはならない。

 

 それが『父』としての義務で、『白ひげ』としての責務だった。

 

「未来が見たけりゃ今すぐに見せてやるぞ、『白ひげ』!!」

 

 元帥が吠えると同時、背後の処刑人が処刑刀を大きく振り上げる。あれが振り下ろされれば、エースの首が飛ぶ。

 

「無駄だ、それをおれが止められねぇとで、も──」

 

 こんなにも肝心な時なのに、『白ひげ』の身体は本人の意思に反して悲鳴を上げた。内臓が軋み、目の前が揺れる。外傷とこれは別問題だ。

 体内の病巣という名の時限爆弾が疲弊と同時に露出してしまう。視界が霞む。立っているのがやっとだ。

 

 自由にならぬ内臓を叱咤して掻きむしり、その『白ひげ』の様子を奇貨として振り下ろされた刃はエースの首へと吸い込まれ──。

 

 

 エースの大事な義弟にして稀代の革命家の血を引く麦わら帽子の船長が、起死回生の一手を放ったのは、まったくの同時だった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十五ノ幕.ひだまりで待ち合わせ

 

 

()()()()()()()()()()()()!」

 

 

 魂を擦り削るような、爆雷の如き怒号が響き渡り──途方もない威圧の激流が雪崩のように押し寄せる。それ自体が攻撃であるかのように、ルフィの獅子吼が広場にいた全存在を打撃した。

 

 それは覇気の中でも最も稀少な『覇王色』と呼ばれる覇気の発露だった。随一の傑物のみが発することのできる、魂の威圧だった。

 

 凡百の海兵たちは耐えきれず、糸が切れたようにばたばたと倒れ伏していく。それは処刑人すら同様だ。実力の足らぬ海賊にも被害が出たが、ルフィの目には見えていない。

 耐えることができたのは、相応の技倆と実力を兼ね備えた強者だけだった。

 

 道が、開けた。

 

 海賊、海兵関わらず惑乱が広がる中、ルフィはただ走る。エースのことしか考えていない弟は自分が引き起こした事態の重要さなんか歯牙にもかけず、当然エースしか見ていなかった。

 

 一分でも、一秒でも早く。あの白刃が再びエースの首へ迫る前に。ただ、前に。ひたすら前に!

 

「野郎どもォ!」

 

 だから、『白ひげ』の発した命令なんぞ耳に入っていなかった。

 

「麦わらのルフィを──全力で援護しろォ!!!」

 

 ルフィのスピードが上がっていく。周りの海賊が一斉に動いたからだ。ルフィを狙う海兵を片っ端から潰してくれる。助かる。

 

「一点突破だ! おれたちと来い!」

 

 西洋騎士のような海賊が怒鳴ってくる。一点突破。その通りだった。

 『麦わらのルフィ』を先鋒に据えた即席の布陣ができあがっていく。船長の命令に即応してみせたのは、ルフィがエースの弟だからというわけではなく、これまで走ってきた道程を『白ひげ海賊団』が見ていたがゆえだろう。迷いがなく、迅速だった。

 

「一大事よ麦わらボーイ! 世界一の海賊がヴァナタを試してる! ヴァナタ、『白ひげ』の心当てに応える覚悟はあんのかいって聞いてんノッキャブル!!」

 

 真横の海兵を蹴り飛ばしながらイワンコフから問われる言葉もろくすっぽ聞いちゃいなかった。

 

 けれど、ルフィの返事なんか決まっている。

 

 エースはルフィの大事な兄だ。だから助ける。そのために、ここにいる。

 

「白ひげのおっさんが何だか知らねェけど!! おれがここに来た理由は!! はじめからひとつだ!!」

 

 目の前の海兵に拳を叩き込み、あらわれた『鷹の目』の攻撃をあわやというところで防いでくれたのは『白ひげ』の誰か──ではなく、クロコダイルの部下だった。

 ともに脱獄したとはいえ、因縁のある相手だ。でも今は心強い。ルフィには拳しかないから避けるしかないし、『鷹の目』にルフィは敵わない。少なくとも、今はまだ。

 

 聳え立つ処刑台が近い。あんなにも遠かったのに、こんなにも間近に見える。

 

 いつの間にか海賊と海兵の戦闘は拮抗状態になっていた。海賊たちが一丸となって道を作ってくれている。確かにこれは援護だった。

 

「処刑台は近い! 麦わらボーイ。ヴァナタ、真っ直ぐに走りなさい!」

「ああ!」

 

 言われずともルフィはただまっすぐに走る。もうエースがどんな表情をしているのかもわかった。

 

 ひたすらに足を動かすルフィの横を、誰かが追い抜いていく。

 

 それはイワンコフではなく、オレンジと白という奇抜な髪色、片手にワイングラスを持った洒脱な男。彼の仲間である革命軍の『イナズマ』だった。

 彼はワイングラスを投げ捨てると両手を裁ちバサミの形にして地面へと突き刺し、そのままじょきじょきと裁断していく。彼は『チョキチョキ』の能力者。切り取ったものを紙のように操ることができる。見る間に切り取られた地面はたやすくめくれ上がり、処刑台へと音を立てて倒れ込む。スロープのようだった。

 処刑台へ続く坂。思いつく限りの最短距離。

 

「ルフィ君、ゆけ!!」

「おう! ありがとう!」

 

 駆け抜けざまに礼を言って、まっすぐに処刑台へ続くスロープへと足を踏み出す。

 

「来たぞ~~~!! エース~~~ッ!!」

 

 視界が広がる。エースは目前。遠目じゃわからなかったが、エースはひどい顔色をしていた。あちこちに傷も目立つ。目の前の光景が信じられないのか、夢でも見ているような顔をするエースの顔が、突如として遮られた。

 

 ぬか喜びなどさせぬとばかりに真上から降ってきた衝撃と共に、岩作りのスロープからみしみしと悲鳴が上がり、重量に耐えかね亀裂が入る。端から瓦礫をこぼすスロープに立ち塞がったのは、猛々しくも苦渋の表情を隠しもしない『英雄』ガープだった。

 

「じいちゃん……! そこどいてくれェ!」

 

 ルフィが叫ぶ。嘆願のそれだった。

 ルフィにとってガープは祖父だ。すぐゲンコツが飛んでくるし、頑固で自分勝手でわがままで大好きな祖父だった。

 

 事ここに至っても、戦いたくなどなかった。

 

「どくわけにいくかァ! ルフィ、わしゃァ『海軍本部』中将じゃ!」

 

 だが、それを許すガープではなかった。否、そうすることができないから、ガープは立ち塞がっているのだ。

 海賊と海軍は不倶戴天の敵同士。ウォーターセブンの時とは事情がちがう。肉親の情があっても許すことのできない一線が、ここにある。

 

「おまえが生まれる遥か昔から、わしは海賊たちと戦ってきた!!」

 

 それを教え諭すように、ガープは言葉を紡ぐ

 

「ここを通りたくば、わしを殺してでも通れ、『麦わらのルフィ』!!」

 

 海軍と海賊とは、そういうことだ。

 

 エースを救うにはそれしかない。理屈ではわかっても納得できない。やりたくない。殺せるわけがなかった。

 

「それがおまえらの選んだ道じゃァ!!」

 

 突き放すようなガープの言葉がルフィに突き刺さる。

 あと少し、あとほんの少しでエースは助けられる。分かっているのに、どうしても速度が落ちていく。握った拳が震えてしまう。

 

「できねェよじいちゃん! どいてくれェ!!」

 

 ルフィはそう叫ぶしかなかった。

 エースを助けたいだけだ。邪魔をしないで欲しい。ガープと争いたくない。けど、そんなことをしたらエースが死んでしまう。

 

 祖父と義兄。比べることのできない選択を、よりにもよって祖父が強いてくる。

 

 それでもガープは威圧と敵意を纏いながらなおも言い募ろうと口を開き、

 

「できねばエースが──おぶぅッ!?」

 

 死ぬだけじゃ、と続けようとしたガープに何かが炸裂した。

 

「は?」

 

 一瞬、ルフィは目の前の出来事が信じられず、思わず呆けたような声が出る。

 

 ルフィどころか、誰も理解できなかった。そんな可能性を思いつくものはいなかった。先ほど似たようなことをして戦場に乱入を果たした『麦わらのルフィ』はここにいるからだ。

 

 けれど唐突に、信じられない速度で飛来してきた人影の放った渾身のドロップキックは──海賊は捕らえねばならぬという責務と、エースを見殺しにしなければならぬという悲嘆を押し隠しながら、海軍としての役目を果たすために羆の如き偉容でルフィを通せんぼしていたガープの頭部へものの見事に直撃したのだった。

 

「な、なんじゃあ!?」

 

 ルフィしか見てなかったガープは側面から突っ込んできた痛烈な打撃に耐えきれず、そのままスロープからずるりと身体を滑らせた。イナズマが即席で作った道は細い。ほんの少しのバランスが命取りだった。

 

()()()()()()はよそでやれやぁ!」

 

 ガープに蹴りをくれた張本人が怒鳴りつけ、それでようやくルフィにも誰だか分かった。

 白い髪、細い体躯。何があったのか全身ぼろぼろの砂まみれだが、桜色の瞳は怒髪天を衝くような怒りで煮えている。さっき確かに別ルートを探るとは言っていたが、一体どんな手段でここまで辿り着いたのかルフィにはわからなかった。

 

「ミオ!?」

「白いの!」

 

 処刑台のエースとルフィの声が奇しくも揃う。

 さすがに勢いを殺せなかったらしくガープ諸共に真下へ落っこちながら、ミオは息の合ったハモりに小さく吹き出した。

 

「エースのこと頼んだ!」

「任せろ! あと、ありがとな!」

 

 託されたものを明るく請け負って、ルフィは走り出す。

 

 

 細くてもろい、最短ルートが崩れ去る前に──エースのもとへ。

 

 

 

×××××

 

 

 

 処刑台にほど近い高度からほぼ直線で落下したのだから、その衝撃は推して知るべしである。

 

 遠慮呵責なく地面に叩きつけられ、全身に奔る痛みと痺れに仰臥したまま身じろぎひとつ取ることのできないガープは、自分を肉布団にしてまんまと助かった元『白ひげ』兼賞金稼ぎを見上げた。

 

「……ものの見事にかき回してくれたもんじゃ。おい、聞いとるか『音無し』のちびっこ」

 

 ただ、その声には隠しきれない安堵の色があった。

 それをミオも分かっているのだろう、苦笑交じりに答えた。

 

「はいはい、聞いてますよガープさん。過日はお世話になりました」

「よもや世話を仇で返されるとはなぁ。せんべいやるんじゃなかったわい」

 

 ガープとミオには年単位の付き合いがあり、やり取りはこんな状況なのにやたらと気楽だった。

 始まりはガープが海軍の駐屯地に海賊を引きずってくるミオを見かけて手伝ってやったことで、それからどんな巡り合わせなのかたまに顔を合わせては世間話をしたり、ときにはお茶をしたりとそれなりに親交を深めていた。

 

 賞金稼ぎの中では古参に入る実力者。と称して差し支えないのだが、その全体的にうすぼんやりしている印象と穏やかな性格は賞金稼ぎどころか海賊にも到底そぐわないもので……ガープはそこら辺を常々心配していたものだ。

 

 まぁ、そんな印象は今日まとめて吹き飛ばされたが。

 

「それなりお世話になったのは認めますけど、ぶっちゃけガープさんよりエースのが好きだし処刑とかどうしてもイヤだったもので……まぁ、頑張りました。すごく」

「頑張った結果がこれかい。とんでもない賞金稼ぎもいたもんじゃ」

 

 実際とんでもない、どころの騒ぎではなかった。

 

 ミオがこの戦争で成し遂げてきたものは、そのひとつひとつが確実に海賊を援護して海軍を打撃するものだった。これから先、仮にエースや『白ひげ』がどうなろうと、海軍に付け狙われることになるであろうことは想像に難くない。

 たまさかミオが逃走に成功したとしたら、とんでもない額の懸賞金がかけられるだろう。かつての賞金稼ぎが賞金稼ぎに狙われることになるのだから皮肉な話である。

 

「しかし、わしらに気取られもせず、いつの間にあんな場所まで……それも能力か?」

 

 ふと湧いた疑問を何も考えずにぶつけると、隠す気がないのかミオはあっさりと答えた。

 

「能力は能力ですけど、僕のじゃありませんよ。おかげで擦り傷まみれの砂だらけです」

 

 呑気そうにつぶやいてはいるものの、ガープの顔の横で片膝をついているミオはひどく疲弊しているようだった。

 

 秒にも満たないやり取りでは分からなかったが、まじまじ見るとその憔悴ぶりに少し驚く。

 服のあちこちはすり切れ、身体を動かすたびに砂つぶらしきものがさらさらと落ちてくる。袖から覗く皮膚には擦り傷も多く、顔にもいくつか生傷があった。

 

「もう二度とやりたくないですねぇ、そもそも相手が拒否するでしょうけども……ゲホッ」

 

 喉を押さえて咳き込む様子と今の話から、大体のことは読めた。

 

 傷だらけの身体。全身から落ちるさらさらの砂とくれば──

 

「クロコダイルか。お前さんの頼みを聞くようなやつとは思えんが」

「交渉したんです。わりといけましたよ」

「ほーう。やるのう」

 

 ガープは感心したようだが、クロコダイルがミオの願いを聞いてくれたのはべつにミオの功績ではない。

 

 話は少し遡るが、『白ひげ』海賊団とともにオーズの助けを借りて外輪船で広場に突入したミオは──まず、能力を駆使して空気を歪ませ『固定』することで自分の姿を隠し、気配を殺して隠密行動を開始した。

 『白ひげ』と旧怨あるらしいクロコダイルは案外近くにいたので、その辺の板きれ片手に単騎突入。交渉した。

 

「僕を上までぶっ飛ばして頂けませんか!?」

「てめェにそんなことしてやる義理がどこにある」

 

 すげなく断られたが、もう他に手段が思いつかなかったので食い下がった。

 クロコダイルのことは知っている。元王下七武海で『スナスナの実』の能力者で、ドフラミンゴとは犬猿の仲だとかなんとか。

 

 そこでぴんと来て、再挑戦。

 

「そこをなんとか! ええと……ドフラミンゴが最後におねしょした年齢とかどうでしょう!?」

「クハッ」

 

 吹き出したクロコダイルの手にはすでに砂嵐の卵ができあがっていた。話が早くて助かった。

 さしたる間も置かず、どぉっ、と息苦しいほどの風が吹き上がりミオは躊躇なくそこに飛び込んだ。板きれにしがみついて体勢を保ち、全身が撹拌されそうな砂嵐の痛みに耐えて、耐えて、ある程度の高度に達したところで板きれを放り出して能力発動。

 『固定』した空間に着地して、それからはずっと戦況を観察して機をうかがっていた。あいにく上昇中だったために『白ひげ』が『赤犬』に攻撃されることは防げなかったが、こればかりはタイミングが悪かったと思うしかない。

 

 海軍と海賊の壮絶な鍔迫り合い、そして──『麦わらのルフィ』が発した途方もない覇王色を纏った『覇気』。

 

 海軍の凡そ半分が倒れたことをチャンスと見なしてミオはその場から飛び降り、処刑台──の手前にいたガープを蹴り落としたのだった。回想終わり。

 

 ちょっと身体を動かすだけで髪からも砂が落ちてきてうんざりする。頬もさりさりして不快だし、叶うなら一度顔を洗いたかった。

 

「……ルフィが、エースを助けられると思うか」

 

 不思議と確信できたので即答した。

 

「やり遂げますよ」

 

 それだけを胸に抱いて、覚悟して、全てを賭してここまできたのだ。できるに決まっている。

 

「だって、ルフィくんだし」

 

 さらりと答えたところで、ふと頭上が妙に明るくなった。

 

 ミオが顔を上げると、処刑台の上で金色に輝くおおきな仏像としか形容できない巨体が顕現していた。

 

「!? え、な、な、なんじゃありゃ!?」

「ありゃセンゴクじゃ。なんだ知らんかったんか」

「ええ!? あんな有り難そうな大仏様が!?」

「ぶはッ!」

 

 ミオの驚愕にガープはなぜか吹き出し、それと同時に──処刑台を支える支柱のひとつが唐突に爆発した。めきり、といういやな音と、猛烈な熱波が衝撃を伴ってここにまで届いてくる。

 

「今度はなんじゃ!? 原因はわしか!?」

「いや、たぶん軍曹ですね」

「あのけったいな蜘蛛は自爆までできるんか!?」

「ちっげーよ!」

 

 ガープの勘違いに反射的に突っ込んだ。

 先行させた軍曹にミオが持たせたのは手榴弾(耐水性)である。エースがぴんちになったら支柱にくくりつけて爆発させてねと言い含めておいたのだ。

 軍曹には糸があるので支柱に手榴弾を絡ませ、ついでに安全ピンに糸を引っかけておけば、あとは任意のタイミングで引っ張ればいい。

 

 巨大な金ぴか大仏と化したセンゴクの重量と爆発で吹き飛ばされた支柱とあれば、処刑台の崩壊は秒読みと言って良かった。

 

「そんじゃ、僕も戻りますね。ぐずぐずしてると大将とか来そうなので」

 

 今は処刑台に全海兵の目が釘付けになっているが、エースが脱出すれは撤退戦に移行するだろう。ミオは立ち上がりながら両頬をぱちんと叩いて「よっし!」と気合いを入れる。

 

「……あーその、ちびっこ。その前にちょっと、こっち来てくれんか」

 

 なんとか身体を起こせるくらいには回復したらしいガープが膝に手を置いて身体を起こし、もう片方の手でちょいちょいと手招きしてきた。

 

「? はい、なんでしょう」

 

 何も考えずにノコノコと近付いたミオにガープは、なぜだかニカッと笑った。

 

「すまんな!」

 

 がちゃん。

 

「え゛!?」

 

 あまりにも迅速で反応できなかった。

 ガープはミオの左手をがっしり掴むとどこに持っていたのか、もう片方の手で器用に細い手首へ手錠をかけたのである。

 

「ちょ、これ、なん、う、ぁ……!?」

 

 わけもわからず混乱するミオの目の前がさぁー、と暗くなる。身体から力が抜ける。体力切れとは別種の倦怠感に襲われ、足下がふらふらと揺れてしまうのを止められない。

 

 これは、まさか。

 

「海楼石の手錠は海兵のたしなみじゃい! よく考えたらお前さんセンゴクのやつに一発入れとるし、ちゃんとお返しはしとかんとな! ぶわっはっは!」

「そりゃそうだけど! そりゃそうですけど!」

 

 能力が使えなくなるのはともかく、ただでさえ体力が空っけつになっているところにこれは痛い。大打撃だ。

 撤退戦に協力しようにも、ろくな戦力どころか足手まといにしかならないではないか。

 

「なァに、心配するな!」

 

 惑乱するミオを片手でひょいと抱え上げてガープは呵々と笑い、真上に向かって第一投のポーズ。

 

「お前さんのことはエースが守ってくれるじゃろ。たぶん」

「たぶんじゃ外して欲しいなー!?」

「わし海兵だからイヤじゃ」

「ここで正論はずるい!」

 

 海楼石の手錠とは別の意味で顔色を悪くしているミオへ、ガープは顔を近づけ、そのときばかりは神妙な声と表情を作る。

 

「これが……わしからの礼じゃ。これくらいしかできん」

 

 おそらく、エースは死なずに済むだろう。あそこでガープがルフィを退治する必要も物理的に消失した。

 

 エースが捕らわれてからずっと続いていた苦悩と鬱屈から蹴り出してくれた恩人に、ガープができるささやかな返礼だった。

 

「ほぉれ行ってこい! せいぜい死なんように気ぃつけるんじゃぞ!」

「いやむしろこっちのがしぬかも──ひぇッ!?」

 

 びみょうな反論に耳を貸すことなくガープは問答無用でミオをぶん投げた。

 身体に痛みは残っていたが、普段は砲弾を野球ボールくらいの気安さで投げ飛ばしているガープである。ミオくらいの体重なんぞ屁でもなかった。

 

「うぉわああッ!?」

 

 ものすごい勢いで投擲されたミオはガープの狙い違わず、処刑台の近く──今まさに炎の吹き上がった火中のど真ん中へと放り込まれたのだった。

 

 渦巻く炎の中で「うわあっづぅ!」「はァ!? なんでミオが飛んでくるんだよ! しかもそれ海楼石だろ!?」「二人のじーさんにつけられたー! 責任とれー!」「なんでミオはそうツメが甘いんだよ馬鹿!」「じいちゃんなにやってんだ!?」などとぎゃわぎゃわと元気な声が聞こえてきて、ガープは心底安堵した。

 

 無事に逃げ切れるかどうかは、まだ分からない。

 

 けれど、もし、海兵が何をしたとしても──()()()()()()()があればエースは撤退を優先させるだろう。

 

 エースとルフィに無事に生き延びて欲しい。

 

 海兵として口にできない祈りを込めたガープのできる精一杯の餞別で、祖父としての願いだった。

 

 

 




これにて更新期間は一旦終了です
次回更新は未定なので、のんびりお待ち頂ければ幸いです


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十六ノ幕.ちいさなご褒美

お久しぶりです!
話数が溜まったので本日から頂上戦争編終了まで毎日更新です。
よろしくお願い致します。


 

 

 ガープさんひでぇや。

 

 いや、最初にセンゴク元帥殺そうとしてたのたぶんバレてるし、お互い様といえばそうなので文句をいえる立場じゃないな、うん……。

 海楼石の錠をかけられたのは左手だけなのだが、生憎自分含めてエースもルフィくんも能力者なので外してもらうのは無理だ。規格が男性なのか、手首にかかったそれは多少ゆるかったけど外せるほどの余裕はない。非能力者がいたところで鍵もないから結局どうにもならないのだった。思ったより厄介な餞別をくれたものである。

 

「火拳のエースが解放されたァ~~ッ!!」

 

 海賊と元囚人たちから上がる歓呼の声と、海軍側から湧き上がる動揺と驚愕の混ざった怒声が波を打って気配と一緒に渦巻いている。

 僕だって本当に嬉しい。このためだけに来たといっても過言ではないので当然である。予断を許さない状況なのは分かっているけど、気を抜くとただでさえ力が入らないのに頬がゆるゆるになりそうだ。

 

「ルフィくん、ありがとう!」

「ししっ、おう!」

 

 超至近距離に見えるルフィくんにお礼を述べると、彼は達成感にみちあふれた明るい笑顔で応えてくれた。

 ところでルフィくんがぶら下げている処刑人スタイルのひとは誰だろう。随分とやつれた感じだが……たぶん味方と思っておくことにする。

 

 それより。

 

「エースおかえり! おかえりぃいい! あとごめん、ほんっとごめん!」

 

 エースが脱出と同時に放った炎の渦に無理やり突っ込まれる形になった僕は、現在エースの手荷物である。本当に申し訳ない。

 ルフィくんの襟首もひっつかみながら落下しているエースは自由の身になって早々に両手が塞がれているという、傍から見たら子守りにしか見えない感じなので罪悪感がもりもり湧いてくる。

 

 半べそになりながらおかえりと謝罪を連呼すると、じゃっかん呆れのまじった怒声が返ってきた。

 

「ジジイ相手に油断すんじゃねェよ! 厄介な錠までつけられやがって!」

「いやほんとそれな!」

 

 このくっっそ大事な局面でどんなしくじりを犯しているのだという話である。

 とかく海に嫌われている悪魔の実の能力者は、同じエネルギーを秘めた海楼石に触ると能力は封じられるわ全身のちからが抜けていくわで大変なことになるのだ。僕だって例外ではないので、能力はまったく使えないしさっきからだるさと目眩がおさまらない。たちの悪い風邪の初期症状みたいだった。

 

 ガープさんはああ言ってくれたけど足手まといになるくらいなら置いていかれる方がマシなので、僕の手首を掴んでいるエースの大きな手を軽く引っぱりつつ、提案。

 

「こっから大変だし邪魔になるのイヤだから、なんなら捨て置い「ふん!」とても痛い!」

 

 言い終える前にゴンッ! とエース渾身の頭突きが僕の脳天に炸裂した。強烈な衝撃でただでさえぐらぐらする脳みそが更に揺さぶられる。

 両手が使えないから頭突きなのだろうけど、それにしてもひどい。あの爺にしてこの孫ありか。

 

「うぐぅ、ま、まだ全部言ってない……」

「言わせるかよ! それ以上言ったら頭突きだからな!」

 

 「もうしとるガネー!?」とさっきのげっそりオジサンがツッコミを入れてきた。ナイスです。

 ずきずきするおでこを左手で押さえている僕を睨みつける瞳の強さは、身震いしそうなほどに剣呑だった。さっきまでの苛立ちなんかとは比べ物にならない、それは本気の怒りである。

 

「なんでそうあほなこと言い出すかなあんたは! いい加減にしねェとおれだって怒るぜ!?」

「もうギンギンに怒ってんじゃん!」

「うるせェ当たり前だ! 長年うちで娘やってたくせにそんなこともわかんねェのか!!」

 

 顔面が物理的な炎になりそうなくらいの怒髪天でほぼ反射的に出てきたであろうその怒声は、僕の中身を揺さぶるにじゅうぶんな言葉だった。

 

()()()()()()()()()()()!?」

 

「──!」

 

──がつん、と。

 

 さっきとはまったく異なる衝撃で目が覚めるような思いだった。

 

 逆サイドにいるルフィくんがエースの言葉に吹き出して、そうだったこの二人兄弟だもんなぁと変な感想を抱く。根がそっくり。それ以前に仲間を見捨てるような輩は『白ひげ海賊団』には存在しないし、そも、そういう海賊団ならエースのためにここまでしないわけで……。

 

 つまるところ、僕はものすごくあほで極めつけにばかばかしいことを言い出したのだ。そりゃエースだって頭突きくらいするか。

 

 しょぼしょぼと俯く僕を見つつ、エースはさっきまでの怒りを打ち消して静かに言った。

 

「つーか、ミオだってここまで頑張ってきただろ。めちゃくちゃ頑張ってたの、見えたぜ?」

 

 だから、と、自分だって相当ぼろぼろなくせにてんで平気そうな顔をしてエースは続けた。

 

「ここからはおれが守ってやるから、心配すんな」

 

 ガープさんの予想通りの返事をしてくれるのが不思議に嬉しくて、ちょっとおかしかった。なんだ、ガープさん二人のこと大好きじゃん。

 炎熱の盾に守られて地上に落ちるまで、ほんの少しの、言ってみればご褒美みたいな時間の中で。

 

 エースはほんの一瞬だけ、照れくさそうにはにかみながら早口でつぶやいた。

 

「あと、ただいま」

 

 全身の傷が痛々しいけど、浮かべた笑顔は僕が『モビー・ディック』号にいるときエースが浮かべていたものにそっくりで。

 

 それで、ようやく。

 

 ああ、ここに来てよかったと思った。思うことができた。胸がぎゅーっとなって、幸福感と安心でぱんぱんになって、こわばっていた不安がとろけた気がした。

 

 ただ、状況が状況なのですなおに喜んでもいられないのが辛いところだ。

 

 エースはすぐに表情を変える。眼光鋭く周囲を見回し状況把握。

 

「気ィ抜くなルフィ! 一旦バラけるぞ!」

「おう!」

 

 即応するところがさすが兄弟である。

 エースはルフィくんを離して僕だけ片腕で抱え込み、大きく腕を振り上げる。

 

「"火柱"!!」

 

 振り下ろされた腕が膨大な炎熱の柱と化して、着地地点の周りにいた海兵たちを一掃する。

 熱波が吹き荒れ、吹き飛ばされた海兵がいた箇所に引かれた炎の同心円。ルフィくんとエースを中心としたそれは余計な海兵を近寄らせない。

 

 ルフィくんとエースさんが背中合わせに立ち、示し合わせたように構えて拳を握る。

 

「戦えるか、ルフィ!」

「もちろんだ!」

 

 意気軒昂そうではあるものの、ルフィくんは少し心配が残る。

 どんな奇跡を使ったのか(たぶんイワちゃんさんの能力だと思う)回復したように見えるけれど、累積された疲労は並大抵の量ではあるまい。かといって加勢できないのが歯がゆい限りである。

 

「おまえに助けられる日が来るとは夢にも思わなかった。ありがとう、ルフィ」

 

 小さく、けれど誇らしげにつぶやかれた言葉にルフィくんはむずがゆそうに鼻の下を指でこすり、「にししっ」と笑った。

 

「白ひげのおっさんたちが助けてくれたからな!」

「だな。ミオはおれに海楼石当てんなよ。またあほなこと言い出したら張り倒すからな」

「……お世話かけます」

 

 場合によっちゃ放逐しろと言いたかったが先に釘を差されてなにも言えない。能力を封じられた体力底辺のお姉ちゃんは無力である。

 のんきな会話はそこまでで、大挙して押し寄せる海兵がすぐそこまで迫ってきていた。

 

「助かった気になるなァ! ここがおまえたちの処刑場だ!!」

 

 それぞれに構えた銃から吐き出される連続の発砲音。だが、ここにいるのは自然系のエースと超人系とはいえゴムのルフィくんだ。弾丸はエースを素通りし、ルフィくんは食らっても肌が伸びて弾き飛ばす。その跳弾?を食らった数名の海兵から悲鳴が上がる。

 僕はといえば海楼石がすこぶる丈夫なので、自分に迫る弾丸は手錠を利用して弾いた。多少痛いし腕は痺れるが、直撃に比べればどうということはない。こういう事には便利じゃん海楼石。

 銃が駄目なら、と軍刀に切り替えた海兵たちが再び猛追してくるが、もはや脅威とは呼べなかった。

 

 この場は、二人の独壇場だ。

 

「弟なんだ。手出し無用で頼むよ」

 

 真横に振り抜かれた軍刀をしゃがんで避けたルフィくんの頭に手を乗せて、曲芸めいた動きでエースは海兵を睨めつけた。

 

「"火拳"!!」

 

 窮屈な海楼石に押し込められていた悪魔の炎が、これまでためてきた鬱憤を吐き出すように噴出する。猛々しい猛火が荒れ狂い、けれどそれはルフィくんと僕には傷ひとつつけない。一秒とて同じ形を保たない慌ただしい橙色は味方に暖かく、敵に激しい、それはエースの命のいろだ。

 応えるようにルフィくんの動きもキレが増していく。伸びる拳が猛威を振るい、海兵たちを鎧袖一触、蹴散らしていくさまは壮観だった。掛け算というよりは、乗算。お互いの呼吸を知り尽くしているからこそできる、兄弟ならではの流れるような連携である。

 

 見惚れてしまうようなコンビプレイで開かれた方角へ首を向けると、ハルタたちを筆頭とした海賊たちが待っていた。

 

「二人の逃げ道を作れェ!!」

 

 ハルタの号令に雄々しく応え、海賊たちも撤退に向けて迅速に動き出す。……僕はエースの手荷物だし、走ってないのでカウント外なんだろう。自業自得なので拗ねてなんかいません。

 エース奪還という目的を達成したので海賊たちの士気は今や爆上がりである。海賊というものは撤退戦というものに一家言ある生き物だ。お宝を奪って逃げるのは海賊の基本ジョブであるからして。

 

 炎を纏って構えながら、エースはつくづくとつぶやいた。

 

「強くなったな、ルフィ」

 

 二人は血がつながらなくても兄弟だ。成長を目の当たりにできたことが本当に嬉しいのだろう。

 

「いつかエースも越えてみせるさ!」

 

 明るく応える弟に、エースはそうか、と頷いてから前方に鋭く視線を移す。

 

「じゃあまだ、今はおれが守ろう」

 

 ここからでも感じ取れる零下の気配。ぞわりと背筋が震え、首を巡らせると案の定な人物が見えた。

 見上げるような上背に、こんなところでも外さないアイマスク。気怠げだが隙のない立ち姿には実力と自負が透けてみえる。

 

「明日もねェのにいつかって……こっから、逃げられるわけねェじゃねぇの」

 

 いつの間にか、三大将の一角が不機嫌も露わに待ち構えていた。

 

「青キジさん……」

 

 思わずつぶやくと、青キジさんは白けたような、けれど怒気を含んだ瞳でこちらを見据えてくる。

 僕を抱えているエースが「いつ青キジと知り合ったんだよ」とか言ってくるけど答える余裕がありません。

 

「やってくれたもんだよ、ちびちゃんもさ。さんざん暴れてくれちゃってまァ……おかげでこっちは大損害だ。あんとき殺しておくんだったよ」

 

 だるそうながらしれっとつぶやかれた物騒な発言に、エースの手に力が入る。

 

 いろんなことが起こりすぎてもう随分と前にも思えるけれど、数えてみれば近々の出来事である。この戦争が始まる少し前、僕は青キジさんから協力の打診を受けた。

 そのときの僕は、青キジさんからしてみればちょっと実力のある一介の賞金稼ぎである。諸々を鑑みて戦争後における事後処理──白ひげ海賊団の残党狩りを要請というか、お誘いをしてくれたわけだ。

 で、僕はそれをお断りした。『親子関係破綻の危機』を理由にして。親子関係というのはまぁ、言わずもがなというやつである。

 

「それは残念でした」

 

 あの時点で青キジさんに身バレしていたらそりゃもう大変だっただろうから適当に誤魔化しただけだが、青キジさん的には白ひげ海賊団の一味をみすみす取り逃がしていたということで憤懣やるかたない、といったところか。

 腹が立つのはわかるし悪いことしたなぁとはちょっと思うけど、こればっかりは仕方がないことでもある。

 

「嘘は言ってなかったんですけど、ね」

 

 だから、謝罪はしない。後悔していないのに謝るのは卑怯だし、違うだろう。

 

「まァ勘当はされたわな。けどそりゃ詐欺師のやり口だよ。ったく、タチ悪いったら」

 

 がりがりとアイマスク越しに頭を掻いて、僕を見下ろす青キジさんの瞳は底冷えするような殺意を孕んでいた。

 

「さっきまでので確信したがあんた、危険だよ。ぶっちゃけそこの二人と同じくらいやべェから──ここで、死んどいてくれや」

 

 言葉を体現するように、周囲の温度が急激に下がっていく。青キジさんの構えた指先が音を立てて凍りつき、空気中の水分をも凍らせてみるみる質量を増やしていく。

 エースは僕を放り出して「さがれルフィ」と不敵な笑みを浮かべて前に出ると、全身から発火して紅蓮の炎を巻き上げる。唐突にほっぽりだされて対応できず、無様に転がりそうになった僕をルフィくんが支えてくれた。

 

 その、視線の先で──

 

「"暴雉嘴(フェザント・ペック)"!!」

「"鏡火炎(きょうかえん)"!!」

 

 エースから迸る爆炎と青キジさんの繰り出した怪鳥を模した氷の化け物が──正面から激突した!

 

 相性でいうならエースに不利なことは間違いないが、ここで必要なのは相手を打ち負かすことではない。両者の勢いは拮抗しており、衝突した箇所から高温に炙られた氷が瞬時に蒸散して猛烈な水煙と化して周囲の視界を塞ぐ。超高熱と氷といえど水分がぶつかるのだから、水蒸気爆発が起こらないのが不思議なくらいだ。

 

 もうもうと熱気を孕んだ蒸気で霞む視界の中、エースは流れるような動きで反転すると駆け出しざまに「悪ぃ」とつぶやきながら僕を肩に担いで再び走り出す。いやほんと役立たずだな僕。やべぇよ。この手錠早いとこ外さないと。

 

 足止めを食う羽目になった青キジさんが顔をしかめるのが、濃霧の隙間からちらりと見えた気がした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十七ノ幕.親愛なる尊きひとたちへ

 

 

 爆音を轟かせながら空転する、巨獣の如き外輪船がたったひとりの片腕によってたやすくその場に留められていると──誰が信じられるだろう。

 

 暴れ馬を宥めるように片手を船の船底に添えて突っ張っている『白ひげ』はたいそう大柄とはいえ、威圧的な巨大船に比べればあまりにも小さく見えた。

 

 それは甘言に惑わされ、仲間たちを窮地に追いやった己の罪過を贖うにはこれしかないと覚悟を決めて、外輪船を死地へと出航させたスクアードをも愕然とさせたに違いない。

 

「子が親より先に死ぬなんてことがどれほどの親不孝か、てめェにゃわからねェのか、スクアード……! つけ上がるんじゃねェ!」

 

 そう、口にする『白ひげ』の声はどこまでも透徹で、まっすぐで。

 

 自分の命で贖罪をなそうとしたスクアードよりもなお硬く、重く、いっそ無慈悲にすら思えるほどの切れ味を含んでそこにあった。

 

「ここでの目的は果たした。もう、おれたちはこの場所に用はねェ」

 

 だから、ミオにはわかってしまった。

 

 先に続くであろう言葉も、意味も、覚悟も、何もかもが本当に、はっきりと理解できた。できて──しまった。

 

「今から伝えるのは、最期の"船長命令"だ……!」

 

 自分を担いでいるエースの身体がふるえて、指先の温度が急激に冷えていくのが痛いほどに伝わってくる。受け入れがたい言葉に愕然として息を飲む海賊たちの気配も、誰かが今にも泣きそうなことも。

 

 『白ひげ』が一体どこでその覚悟を固めるに至ったのかは、わからない。戦場での発作か、肝心なときに思うように動かなかった身体か、それとも──病に取り憑かれたとうの昔から、か。

 

 ミオだってたいていろくでもない宿痾を抱えているが、海賊だって負けていない。

 

 彼らは海で生きて、海で死ぬ。それが矜持で、誰も侵すこと許さぬ不文律だ。船乗りとして、海賊として、『白ひげ』が残る命を燃やし尽くすのはここでしかない、という確信を得たのだろう。

 そして限界まで膨らんだ肺から繰り出された大喝は、さぞ仲間たちの胸を揺さぶったことだろう。

 

「お前らとおれはここで別れる!! 全員!! 必ず生きて!! 無事、新世界へ帰還しろ!!」

 

 予感していた通りの言葉の羅列に、周囲から果てしない驚愕と、かすかに啜り泣きに似た音が漏れてくる。

 

 けれど、彼らは『白ひげ海賊団』だった。

 

 戦と船長に命を懸けるのを当然としている海賊たちは、船長の意気地に命を懸けて応える義務があった。──それが、どんなにか自分たちの心をすり潰す決断だとしても。

 

 『白ひげ』が豪腕を振りかぶる。愛すべき息子たちを戦場から一人でも多く逃がすために。

 

「おれァ時代の残党だ……! 新時代におれの乗り込む船はねェ……!!」

 

──そうか、それが理由か。

 

 すとん、と腑に落ちた。

 

 大気が割れて、桁外れの地響きが轟き、世界が揺れる。エースに気兼ねする必要のなくなった能力は脅威的な威力で海軍に猛威をふるった。

 親を慕い泣き叫ぶできの悪い息子たちを『白ひげ』はダメ押しのように叱りつける。

 

「船長命令が聞けねェのか!!! さっさと行けェ! アホンダラァ!!!」

 

 電撃のような怒号に倣うように、他の息子たちが動いて叱咤する。ぐずる仲間の背を蹴飛ばして、腕を引き、最後の意気地を貫こうとする意思に殉じて涙を呑んで、背を向ける。

 『白ひげ』隊員ほどには紐帯の太くないルフィとて彼の覚悟のほどを見てとったのか、幾分か冷静さを取り戻したような神妙な顔でエースを促した。

 

 その時、ふと。

 

 死に場所を定めた男がエースたちへと視線を向けて──かすかに頬を綻ばせた。

 

「──!」

 

 言葉なき激励がつよく背を押して、誰もがそれを受け入れるしかなかった。

 

 新しい時代。芽吹いた新芽を守れた安堵。老兵が去るには申し分のない檜舞台がここにある。

 無数の海兵も城塞も破砕され、何もかもを道連れにせんばかりの破壊力が島中を覆い尽くす中でミオは『白ひげ』の言葉を咀嚼して、飲み込んで、納得した。

 

 エースはふらつく身体でそっとミオを傍らに下ろすと、猛烈な勢いで炎を噴出して『白ひげ』の周囲にいた海兵たちを蹴散らした。『白ひげ』の堂々たる立ち姿を前にがばりと両膝をつき、拳を地面に叩きつける。

 

 ほんの束の間の一対一。爆音も喧騒も遠ざかり、親子の時間が訪れる。

 

 敬慕の焔が飾り、親愛の炎が彩りを添える。

 

「言葉はいらねェぞ……ひとつ聞かせろ、エース」

 

 我が子を守り、決して退かぬ覚悟を決めた『白ひげ』の、父としての問いだった。

 

「おれが親父で、よかったか……?」

「勿論だ……!!!」

 

 止めるすべのない涙を滂沱とあふれさせ、迷いひとつなく答えるエースを見て、『白ひげ』は口元をゆるめて、ひどく満足そうに笑った。これで思い残すことはないと言わんばかりの、あたたかい表情だった。

 

 血の繋がりはなくても、つながっている。こんなにもかたく強靭に、結ばれている。

 

 受け継ぎ、託し、託され、このとき──たしかにエースは『白ひげ』の遺志を継いだのだ。

 

 

──本当は、ここで永のお別れだった。

 

 

 エースは父との訣別を受け入れ、『白ひげ』はここで命の最後の一滴まで燃やし尽くす。海の男ならば一度は憧れるような、歴史に残るほど壮烈に華々しく、己の命を爛漫と咲かせて散るだろう。

 それは、なんと天晴な死に様、海賊の本懐ここにありと後の世にまで謳われる海戦絵巻となるに違いない。

 

 けれど──

 

 エースのそばに突っ立っていたミオは『白ひげ』をじっと見つめてから、痛いほどくちびるを噛み締めているエースを見下ろして、もういちど顔を上げて、呆れて、ため息をついて──音を立てて息を吸い込んで。

 

 割れんばかりの怒号を放った。

 

 

「──ふっ、ざけんなぁああああああッッ!!!!!」

 

 

 『白ひげ』に勝るとも劣らない、ものすごい大声だった。

 

 エースが弾かれたように顔を上げて、『白ひげ』が瞠目する。海兵どころか海賊たちまでもが驚きで涙を引っ込めざわついて、ルフィもぎょっと振り向いた。

 けれどミオは止まらなかった。止まれるはずがなかった。

 

 ミオは怒っていた。本当に、腹の底から怒っていた。額に血管が浮かぶほど切れていた。もはや衝動に近かった。ゆるせなかった。

 

 ミオは目的のために手段を選ばない。エースを連れ出す、そのためにここに来た。それ以外は全部些事だと放り投げて、背を向けて、そうしてようやくたどり着いた。

 もうちょっと頑張れば、目的は達成できる。だってエースはここにいる。

 

 なのに、なのに──

 

「さいごの、船長命令? 別れる? 挙げ句の果てにはさっさと行け!?」

 

 かつて『白ひげ』の愛し子だった、ちびで馬鹿な娘は──そんなこと知ったことかとばかりにがむしゃらに、正面から『白ひげ』を罵倒した。

 

「寝言は寝て言え、エドワード・ニューゲート!!」

 

 ミオがこんなところにいるのは徹頭徹尾エースのためで、それがすべてだ。

 

 だからこそ、こんな顛末を許容できるわけがない。

 

 ふらつく身体を意思でねじ伏せて仁王立ち。『白ひげ』を真っ向から見据えてミオはただただ言い募る。

 

「だいたい、ただでさえ親子関係の話になるといっつもぺなぺなしてるエースの前で『白ひげ』が死んでみろ! あとから自分のせいだとか後悔して突っ走った挙げ句に仇討ちとか言い出して手の込んだ自殺に踏み切ろうとするに決まってる!」

「ぺなぺなって、おい!」

 

 思考の処理が追いついてないエースがなにか言いかけたが、ミオのひと睨みで思わず黙る。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ッ!?」

 

 

 『白ひげ』は黙って聞いていた。かすかに眉をしかめ、なにか言葉を探しあぐねているようだった。

 

「息子のこといちばんわかってるのはそっちのくせに! なんで! そういうこと言い出すかなぁ!? 船長がいなくなった海賊の末路だって知ってるでしょう!?」

 

 『白ひげ』という求心力を失った『白ひげ海賊団』がどうなるかなど想像に容易い。奪ったぶんだけ奪いつくされる。それは後生大事に守ってきた土地も命も宝もすべて。

 それが船長を亡くした海賊を待ち受けているものだ。奪って奪って奪い尽くしてきたものたちは、奪われ、掠奪され、踏みにじられる。例外なんかない。

 

「それをぜんぶ可愛い子どもたちに押し付けて自分だけ満足してとっとと逝こうなんて、冗談じゃない! ()()()()『白ひげ』ぇ!!」

 

 支離滅裂で手前勝手な暴論を吐き散らし、ミオは瞳を炯々と滾らせて『白ひげ』を射抜く。

 

 『白ひげ』がどれだけの覚悟をしているのか、どんな決意を胸に秘めて死地を駆けようとしているのか、ミオには痛いほど理解できる。

 だから、ここにいるのが他の誰かで、同じ覚悟を胸に抱いていたとすれば止めなかった。それができることへの憧憬を秘めて、心から武運を祈り、送り出した。

 

 

 死すべき場所で死すべき道を喪ったみじめな人間の末路が──他でもない自分だからだ。

 

 

 けれど、だから。

 

 知っているから踏みにじる。わかっているから蹂躙する。どれほどの無理難題を強いているのかをすべて把握していながら、それでもミオは、ミオだけはその決断に否を唱えなければならなかった。

 

 だから、こそ──

 

 ぜい、と荒く呼吸を吐きながら、立っているのも限界で腰の刀を鞘ごと引き抜いて杖代わりに地面へ突き刺すと、ミオは残った空気すべてを使って最も効果的で、悪意ある言の葉を紡ぎだした。

 

「あんたそれでも、()()()()()()!!」

 

 それは、おそらく──その一言は、この場で『白ひげ』がもっとも聞きたくなかった言葉だった。

 

「……ッ!」

 

 だってそれで『白ひげ』の表情が変わったから。

 これまでの船長としての威厳がゆらぎ、瞳が移ろう。その視線の先にいるのは、目を離してはならない仇敵の海軍──ではなく、『白ひげ海賊団』だった。

 

 愛すべき、彼の『家族』だった。

 

 そしてその仕草、瞳の動き、気配の変化すべてからミオはわずかな光明を見出した。

 

 こんな言葉だけで『白ひげ』が命令を覆すわけがない。十年以上『娘』だったのだ。それくらいわかる。彼には意地があり、覚悟がある。腹をくくった人間ほど厄介なものはない。相手が『白ひげ』なのだから、なおさらだ。

 

 そんな彼を動かすには、ミオの覚悟だけでは不十分だ。命であってもまだ足りない。

 

 それなら、と。

 

 

 『白ひげ』の覚悟という超重量の天秤を動かすためにこれからミオは、一世一代の博打に出る。

 

 

 

×××××

 

 

 

 とうに体力なんか底をついているだろうに、瞳だけは狂的な色を含んだまま『白ひげ』を怒鳴る声はいちいち『白ひげ』の心を打撃していた。

 

 左手に海楼石の錠、死人みたいな顔で頬だけを赤くしたミオはふらつく身体を愛刀を杖代わりにして支えながら、嘔吐くような咳を何度も繰り返している。

 

「……跳ねっ返りにもほどがあらァ」

 

 そんな元愛娘を見下ろしながらつぶやかれる『白ひげ』の声は、自分でも驚くほど力がこもっていなかった。

 長い旅の終わりがこれならば悪くないと覚悟を決めた。乗る船のない海賊ほど滑稽なものはない。確信して、残った命すべてを使い尽くして子供たちに未来を渡せるのなら本望だった。

 

 けれど、ミオはそれに否という。

 

 海賊『白ひげ』ではなく、数多の息子を持つ父としての責任を問い、痛罵する。かつての仲間たちと、エースのために。

 

 それは骨の髄まで海賊だった『白ひげ』の『宝』が一風変わっていればこそ、飛び出してきた難題だった。

 

 息子たちはミオの言葉に揺れているようだった。エースも洟をすすり、『白ひげ』の答えを固唾を呑んで見守っている。

 

 生まれてくる息子を拝むことなくロジャーは逝った。エースを置いて海賊として死のうとしている自分は、ロジャーとどう違うのだろうか。

 

 それでも、海賊には意地がある。意地も張れなくなったらおしまいだ。

 

 そして一度張った意地を貫き通すのが、海賊の矜持だ。

 

 『白ひげ』はミオを見下ろして、駄々をこねる子供に言い聞かせるように。

 

「おれがてめェの言うこと聞いてやる義理は……もう、ないんだぜ?」

 

 もう親子じゃない。娘じゃない。繋いだ縁はちぎれて途切れ、海賊でも海軍でもなくなった、宙ぶらりんの根無し草。

 

 それでも『白ひげ』はミオを愛している。わからんちんで馬鹿で無鉄砲で、親友の忘れ形見の可愛い愛娘。エースを奪還してミオまで生き残っていたのは幸いだった。

 どちらも海軍から目をつけられているのだから、できるだけ迅速にこの戦場から離脱して欲しい。

 

 『白ひげ』は子供たちのために海賊でいなければならない。

 

 だったら、こう言うしかない。

 

「助太刀はもう終いだ! てめェもとっとと退散しろ!」

 

 ミオは『白ひげ』の怒声に一瞬びくりと肩を竦ませてから、平然とした顔で頷いた。

 

「うん、そりゃそのつもりですよ。なんたって危ないし」

 

 でも、とつぶやくミオの横には軍曹がいる。ミオの手助け以外では『白ひげ』と付かず離れずの距離を保っていたあの蜘蛛が、器用に何かを手渡している。

 それは糸玉に見えた。白くて、一本一本の糸が妙に太い。ロープと毛糸の間のような糸玉。

 

「置いていかれるのも、置いていくのも、もう懲りたよ。うんざりだ」

 

 独り言のようにつぶやかれる言葉にこもる実感は、重い。

 ミオの歩いてきた道程を思えば、また同じような思いをさせることにじゃっかんの罪悪感が湧いて出る。

 

「でもおとう、『白ひげ』の言いたいこともわかる。……半分だけね」

 

 不思議なことをつぶやいて、ミオは唐突に踵を返すとエースに走り寄って毛糸玉を押し付けた。

 

「? なんだよ、これ」

 

 ミオはエースの疑問に答えず『白ひげ』に向き直り、傲然と言い放つ。

 

「だから、もう知らん! だって僕もう白ひげじゃないし。白ひげじゃないし! 勝手にしろ、『白ひげ海賊団』!」

 

 根に持っているのか同じことを二回言って、エースの手の中にある糸玉を適当にほどいて先端を見せつけるようにして、なんでもないことのようにさらりと。

 

「この糸、『白ひげ』につながってるから」

「はァ!?」

「ッ!?」

 

 ぎょっとエースが目を見開き、『白ひげ』も予想外の言葉に瞠目する。

 

 確認すると、光の加減でかすかに細く、きらきらしたものが『白ひげ』の身体のあちこちを取り巻いていた。ほどけない程度にゆるく、間違っても悟られないように慎重に、そして決してほどけぬように。

 

 もしかして、軍曹が『白ひげ』とつかず離れずの距離にいたのは、すべて、このための──

 

「『おたから』を持って帰るのは海賊なら普通のことだし、でっかいなら紐でもつけて引っ張らないとね?」

 

 それはまさに、地獄で垂らされた蜘蛛の糸。

 

 それを引くか引かないかは、彼の『息子たち』に委ねられた。

 

「まぁでも、好きにしたらいいよ。引いてもいいし、切っても構わない。撤退には……邪魔だし?」

 

 けたりとミオが笑い、意味を飲み込んだ息子たちが我先にとエースに殺到して糸玉をほどいて掴んでいく。ロープ状のそれは無数に枝分かれしており、そのすべてが『白ひげ』へとつながっている。

 

 最初にそれを引いたのはサッチだった。

 

「おれは! まだオヤジに食ってもらいてェもんが山ほどあるんだ! こんなところに置いて、帰れるもんかよォ!!!」

 

 決死の顔をしたサッチが両手でロープを掴み、泣きながら叫んだ。腕が、足が引っ張られる。

 ものすごい勢いで走り込んできたハルタが「エースに渡して燃やされたらどうすんだばかやろう!」と糸玉をひったくり、次々に息子たちがロープを握りしめている。何人かは船長命令が頭にあるのか戸惑っていたが、やがて意を決したようにロープへと手をのばす。

 

 今なら糸を切ることはできる。覇気をこめて薙刀を振るえばいかに海王類すら囚える糸でもあっさりと断ち切れるだろう。

 

 けれど──

 

 堰を切ったように息子たちの声が雪崩を打って押し寄せる。

 

「いやだオヤジ! 置き去りになんてできねェ!!」

「あとでいくら怒ってくれても構わねェ! 帰ろう!」

「おれたちのオヤジを、『宝』を! 海兵なんかにくれてたまるかァ!!」

「オヤジ! オヤジィ!」

 

 鼻水を垂らし涙を流しながら、海兵の存在など忘れたかのように一心不乱で自分をひっぱる力とわめき散らす息子たちの声。声。声。

 

「てめェ……!」

 

 やられた、と心底思った。

 

「ちなみに、僕は『白ひげ』が死んだら地獄まで追いかけてもういっかい殺すから!」

 

 物騒な台詞をやたらと爽やかに言い放ち、その瞳がどうする? と問いかけてくる。

 

 『白ひげ』の膂力があればその場に踏みとどまることは容易だが、そうなるとロープを引いている息子たちが海兵の攻撃にさらされる。自分のためにこれ以上犠牲を出しては意味がない。

 

 ミオはあろうことか、『白ひげ海賊団』の命を盾に『白ひげ』を脅しているのだ。

 

 これ以上ないほど卑怯で、あくどいやり口で──『白ひげ海賊団』の一員であったなら、まず用いることのできない手段だった。

 

 ぐずぐずしてもいられない。引かれるがままに自分から足を踏み出さざるを得ず、『白ひげ』はミオを睨めつけ、口の端だけは堪えきれず釣り上げながら言った。

 

 

「てめェは、魔女か」

 

 

 人を惑わし、運命を惑わし、求めるものを手段を問わずに与える存在を他になんと呼べというのだろうか。

 

 返事の代わりにミオは笑った。

 

「──くひひっ」

 

 薄いくちびるを限界まで引き上げて瞳を細め、普段のそれとは違うひどく悪辣で、しゃっくりするような引き笑い。

それは、かつて『コチコチの実』を食べた『白ひげ』の朋友にして『ラグーナ海賊団』を率いる船長のそれと……そっくり同じだった。

 

 そして、魔女と称された白い髪の異端児は笑みを崩すことなく、ひとりごちるように。

 

「『白ひげ』は時代になんかならなくていい。世界でいちばんしあわせで、平凡で、なんてことない老後を『家族』に看取られて……大往生、するんだよ!」

 

 『白ひげ』の抱えたすべてを台無しにして──ミオは魂の底の底から本音を吐いた。

 

「海賊にとっての、夢のまた夢に──なって、みせて」

 

 それは、かつて『白ひげ』の言った夢の果てへと連れて行こうとする、祈りのようにも聞こえた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十八ノ幕.魔女の求めたハッピーエンド

 

 

 戦場で死に花を咲かせるよりも、帰還を選んだ『白ひげ』は呼吸を整え、大薙刀を一度地面へと強く打ち鳴らした。

 

 不思議と葛藤はなかった。あれだけ自分の『宝』たちから求められて、惜しまれて、それを目に見える『糸』として可視化までされてしまえば、もう海兵に命をくれてやるのは馬鹿らしい。

 しかも、どうやら『白ひげ』は『(息子たち)』にとっても大事な『お宝』らしいのだから、これが納まるに最もふさわしいのは『白ひげ海賊団』に決まっている。

 

「今度の"船長命令"はしっかり聞きやがれよバカ息子どもォ!! しんがりはおれが務める! 船長としてこれは譲れねェぞ! 肝に銘じて……走れェ!!」

 

 応! と答える海賊たちの声は力強くも明るく、ほんの数秒前まで蔓延していた鬱屈などすべて吹き飛んでいた。

 現金なやつらだと軽く笑い、『白ひげ』は自分の止めた外輪船へと顔を上げた。まだ呆けたような顔をさらしているスクアードを見上げ、背中に喝でも入れるように怒鳴り散らす。

 

「スクアード! 詫び入れる気があるならしっかりしやがれェ!」

 

 その文言が鼓膜を叩き、脳髄に染み込ませたスクアードの瞳にはようやく光が戻っていた。

 

「任せでぐれェ! オ゛ヤ゛ッざんんん!!」

 

 ただ、その涙声ばかりはどうしようもなかったが。

 悲愴な孤軍奮闘は、今や撤退戦の補助へと役割を変えている。外輪船を操っているスクアードたちは、ある意味最も効果的に『白ひげ』を援護できる立場にある。これで滾らぬわけがなかった。

 『白ひげ』は足を踏み出し大薙刀を旋回させ、能力を乗せて海兵へと思い切り振り抜く。それだけで周囲の建物や地面のみならず、海兵も小虫も同然に吹き飛ばされていった。

 

 途端、『白ひげ』の周囲を取り巻いていた軍曹の絡めた無数の糸が──ぷつん、と切れた。

 

 全身を取り巻いていた霧雨のような細い糸がお役目御免とばかりに、『白ひげ』が動くたびにさらさらと肌を滑って消えていく。その、まるで誂えたかのようなタイミングに──『白ひげ』はようやくミオと軍曹の『悪巧み』の全容を察して、ちいさく鼻を鳴らした。

 

「まんまとおれを乗せやがって……悪ィなぁチェレスタ。お前らの『おほしさま』は、ずいぶんな悪ガキに育っちまった」

 

 その声音に隠しようもない含羞めいたものが混じっていたことは、『白ひげ』が生涯胸に抱えていく秘密だ。

 

 

 

×××××

 

 

 

 前言撤回して先ほどにもましてイキイキと薙刀を振るう『白ひげ』を背に、さぁ全力で逃げようぜ! となっている現状。

 

 僕は全力で怒鳴ったせいなのか唐突に目の前が真っ白になり、あれ、と思ったらその場で倒れ込んで動けなくなった。擬音にするとばたーん、みたいな。たぶん傍から見たらコントみたいなぶっ倒れかたしたと思う。

 背中にはちっこくなった軍曹がくっついて心配からか僕の頬をぶすぶす脚で突いてくる。海兵を散らすのに海水を粗方吐き出してしまったのだろう。これでは乗せて運んでもらうのは無理だ。それはそれとして痛いからやめてくれ。刺さる。

 

「ミオ!?」

「白いの!?」

 

 エースとルフィくんがキョドッた声を上げ、ようやく追いついてきたジンベエ親分まで「嬢やどうした!?」とびっくりしている。いちばん驚いてるのはたぶん僕だと思うけど。

 

「いやその、ごめん。ぜんぜん、うごけない」

 

 身体を起こそうにも指先すらふるえて、てんで役に立たない。どうしよう。なんだろうこれ。海楼石のせいかと思ってたんだけど、なんか違う。そこそこ意識ははっきりしてるのに、身体から意識だけ外れてるみたいだ。

 このままでは役立たず以前の問題だ。こんなのでかいマネキンじゃん。

 

 どうしよう。どうすればいい。どうしよう……どうしよう!?

 

「あ……」

 

 このとき、この戦場に来てはじめて頭の中が真っ白に塗りつぶされた。

 

 生きている間は、動ける間は大丈夫。いつもそう思って、言い聞かせて、大体のことは意地と根性で踏ん張ってきた。

 

 だからこんなのは正真正銘、はじめてだった。

 

 瀕死の重傷ならまだわかる。ドフィたちのときはそうだったし、ほんとのほんとにどうしようもない状態だったから受け入れることができた。まぁ、それは第三者の横槍というか、思いがけない救助でご破算になってしまったけど。

 

 しかしだ、ここまではっきりどうにもならないのは疑問より混乱が先に立ってしまう。体力がいくら底をついていたって、ここまで動けないのは変だ。原因がわからない。不安で、焦る。

 こんな土壇場で、こんな。ただのでくの坊に成り下がってしまう、なんて、悔しい。どうしよう。困るとかそういう問題じゃない。置いていかれるのは構わない。むしろそうして欲しい。だって本気で邪魔だ。このままじゃ……。

 

 エースが無事に逃げるための最大の障害になってしまう。他でもない、自分自身が。

 

 全身の血の気が引いて、頭皮の毛穴がぎゅっと締まる。ぶわりと冷や汗が浮いてうなじを伝う。

 それは僕にとって何よりも恐ろしい、恐怖そのものだ。それは、それだけは避けなければ。だめだ。だめだ。それだけはだめなんだ。絶対。

 

「ごめ、えーす、やっぱり、置いて」

 

 懇願のままに絞り出す声は、我ながら笑ってしまうほどか細かった。

 

「いくか馬鹿!」

 

 けれどエースはそれをしっかり聞いていて、言い終わる前に僕を担ぎ上げて走り出してしまう。

 まっすぐで、苛烈で、優しくて……仲間を見捨てるなんてできない、お日様みたいなエースに、僕みたいな臆病者の嘆願は戯言にしか聞こえない。わかってるけどそうじゃない、そうじゃないんだよ。

 

 エース。

 

 熱い肌の温度が布越しに伝わってくるのが、なんだか泣きそうになる。

 

「やめ、だめだよ。いいよ、ほんとに」

「だまってろ!」

 

 拒絶しようにも並走するルフィくんと親分さんまで「そうだぞ!」「そうじゃ! 置いていくわけがあるか!」と同調してくる。僕にとっては追撃に等しい。

 親分さんがちょっとだけスピードを上げて僕の顔を覗き込んでくる。今まで見たことがないくらい必死の形相で、逆立った眉で怒りの程度がわかった。否定の言葉が喉に詰まってひゅ、と変な呼吸になる。

 

「オヤジさんが帰るのを決めたんは! 嬢やたちが頑張ったからじゃろうが! それを置き去りにしたらわしらの立つ瀬がないわい!」

 

 状況がゆるせば、親分さんは僕の肩を掴んで揺さぶるくらいはしたかもしれない。それくらいの勢いがあった。

 

「あのオッサン縛ったのはそのクモだけど、て、ありゃ?」

 

 ルフィくんが怪訝な声を上げて、それに倣ったエースと親分さんも変な声を上げた。僕に向けていた怒りも霧散する気配がしたので、原因がなんとなくわかった。ああ、切れたかな。

 

「おいミオ! オヤジの糸、あれ」

 

 超至近距離でめちゃめちゃしかめっ面しているエースに、僕は俯いたままぼそぼそと。

 

「すぐ切れるようにしてあったの、あれ。逃げるのに邪魔になっちゃ本末転倒だし、危ないから」

「意味ねェだろそれ!」

 

 横のルフィくんが声を上げるが、後ろの親分さんは何やら考えを巡らせているようだった。

 

「いいんだよ。お父さんが海兵なんかより僕らの方がいいなって、ちょっとでも思ってくれたら、それで」

 

 命を守るも捨てるも個人の自由だ。でも、僕はなるべく死んでほしくなかったからできるだけのことをした。それだけだ。

 愛すべき『家族』がどれだけ『父』を愛しているのかをまざまざと見せつけて、どれだけ必要とされているのかを目に見える形にして問うただけ。そういうのってわりと馬鹿にならない効力を持っているから。

 

 どうせ死ぬ気なら、海兵より僕らと心中する覚悟をして欲しい。

 

 それで帰る気になってくれるならそれで良し、初志貫徹して吶喊するというなら……それまでだ。諦めるしかなかった。

 どのみち戦闘行為において拘束なんてのは邪魔以外の何ものでもないので、すぐちぎれるよう軍曹に頼んでおいたのだった。

 

 船員たちもすぐに糸が切れたことに一瞬動揺していたみたいだけど、撤退命令が『白ひげ』から発令されたばかりだ。

 今更、やっぱり海軍に特攻するぜなどと『白ひげ』が言い出したりしないことくらいは百も承知なので、混乱も最小限に留まっているようだ。数人『白ひげ』へと振り向いて確認しているのもいるけど、許容範囲だろう。

 

「……つまり、オヤジさんを嵌めたんか」

「それ言うならおれらもだろ。ミオはたまにおっかねェよな。知ってたけど」

「白いのってロビンみたいなのにウソップに似てんだな」

「ここにきて僕の株大暴落かよー。いいんだ、僕の人生だいたいハッタリとばくちだから。七割くらい」

「多いな!」

 

 ドン引きの気配を感じるがなんとでも言うがいい。

 ……ここまで来ると、だいぶ投げやりになってきた。僕にだって意地はあるけど、それをあっさり通させてはくれない。エースは、『白ひげ』は、そういう人の集まりだ。

 

 言葉がなくても伝わってくる。

 

 こんなときすら頼らせてくれないのが、さびしくて、悔しい。ちゃんと頼れ。

 

「……そうだね、ごめん」

 

 どうせ身体の自由はきかないのだから置いていかれても、それで死んでも恨まないし、運んでくれるならめいっぱい感謝する。

 

 今の僕にできるのは、きっとそれぐらいだ。

 

「にしても、なんかおれが『ハトのやつ』ぶっ飛ばしたときみたいだな、白いの」

 

 なんて考えてたら、ルフィくんが僕を見ながらふと思い出したようにつぶやいた。え、なにそれどういう事!?

 

「そ、それ詳しく!」

 

 一気に覚醒して、なんとかすべての力を込めて片腕を上げることに成功。ルフィくんの服の裾を指先に引っ掛けて、ぐっと力を込めた。

 「うぉ!?」「動くなよバランス崩れるだろ!」「嬢やあとにせい!狙われとるんじゃぞ、おまえさんらは!」一斉にお叱りを受けてしぶしぶ指から力を抜く。

 

「だって早く動けるように……」

「あとにせいと言うとるんじゃ! ここで生き残らんでオヤジさんに顔向けできると思うとるんか!?」

 

 親分さんが般若の形相で正論をぶつけてくる。ぐうの音も出ない。周囲からだってあっちこっちから走れ走れと矢の催促だ。

 ここで団子状に転びでもしたら海兵から集中砲火が来る。わかってるけど、一刻も早く自由の身を取り戻したい僕にとってはルフィくんの発言もすごく大事だったのである。

 しかし親分さんの方が正しいことは明白なので、「ごめんなさい」とルフィくんに謝罪した。

 

「いーよ。けど、白いのはすげェへばってるだけで、ちょっとすれば動けるようになるんじゃねェかな?」

 

 ルフィくんは軽く許してくれて、ついでにありがたい助言までくれた。

 どうも類推するに、ルフィくんと『ハトのやつ』とやらが激闘を繰り広げたところ、勝ったけど肉体的疲労が限界を超えてルフィくんは動けなくなってしまった、みたいな感じだろうか。で、しばらく時間を置いたら動けるようになったと。

 

「だといいんだけど……」

 

 しかし、僕にはルフィくんほどの体力も根性も備えていないので、動けるくらい回復する時間がどれだけ必要なのかはわからない。これはもう祈るしかない。頼むから早く動いてくれ、これ以上の手荷物はいやだー。

 

 周囲の海賊たちは連携して撤退しているため、ひっきりなしに情報が入ってくるらしく教えてくれる。『モビー・ディック』号を操舵する組と、潰された海賊船の代わりに軍艦を奪ったグループがいること。僕らが乗るとしたら距離の近い『モビー・ディック』号の方だろうか……あ、ローたち今どの辺だろう。もうマリンフォード近辺にいるのだろうか。一応、合流できるように準備はしておいたんだけど、あれ、まだ無事だろうか。

 

 目まぐるしく思考を回転させつつ祈り倒していて──僕だけがエースに抱えられて後ろを見れたから、気付いた。

 

「本気で逃げられると思うちょるんか……! めでたいのう」

 

 海兵たちが突然規律正しく、否、まるで脅えるように道を譲り、出来上がった通路からひとりの男がやってきた。溶鉱炉のように煮えたぎる拳が放たれ、いくつもの海賊たちが被害に遭い苦鳴の呻きを漏らしている。

 まるで僕たちの希望をまるごとくじくように、大将『赤犬』が傲慢な様子で仁王立ちしていた。

 

「まずい。『赤犬』がきた!」

 

 反射的に声を上げると、エースたちの走るスピードが上がった。こんな疲弊した状況でまともぶつかれる相手ではない。

 濃密で爆発的で、まるで活火山の如き殺気が、それ自体が攻撃のような圧力を伴って全身に押し寄せてくる。

 

 けれど、奇妙なことに『赤犬』の声は平静だった。

 

「エースを解放して即退散とは……とんだ腰抜けの集まりじゃのう、白ひげ海賊団」

 

 心底の侮蔑を込めた、びっくりするほど安い挑発に僕は思わず目を丸くした。目的達成してとっとと逃げない海賊なんかいませんよ?

 

『なにィッ!?』

 

 それでも反応しちゃう元うちの海賊団。

 何人かが引っかかるなとすぐ諌めているが、みんな自分の海賊団がすっごい好きなのでその分とことん煽り耐性が低いのである。

 

「まァ船長が船長……それも仕方ねェか」

 

 そんな仲良し海賊団ならば与し易いと判断したのだろうか、『赤犬』は自分の帽子をとって見せつけるように髪をなでつけ、諧謔の響きで『白ひげ海賊団』のいちばん大事なひとを玩弄した。

 

「『白ひげ』は所詮、先の時代の"敗北者"じゃけェ……」

 

 ただ正直なところ、『赤犬』の言いたいことが僕にはさっぱり、ぜんぜん、わからなかった。

 生きてるだけで丸儲けな海賊が今日まで生きてるだけで上等だし、具合は悪いけど酒呑んで宴できるし、一部はアレだったけどみんな仲いいし、年齢のことを考えると大勝利も大勝利って感じだが。

 

 『赤犬』言葉選び失敗してないか、と疑問に思った瞬間、エースがその場でぴたりと立ち止まった。

 

「……敗北者……?」

 

 横顔から見える瞳には炯々と憤怒の業火がゆらめき、囁くような声にはぞっとするほど煮えたぎる感情が含まれていた。

 

 僕にとってはさほどではなくても、エースにとってその文言は逆鱗だった。

 

 その場で足を止めて、両腕から堪えきれぬとばかりに炎が噴出し、とうとうその場で振り向いてしまうほどに。

 

「取り消せよ、今の言葉……!」

 

 低く、炎が爆ぜるような赫怒のそれだった。

 周囲の海賊が馬鹿よせやめろと止めに入るが、エースの耳には入っていない。掴まれた腕を振り払い、吠えるように。

 

「あいつ、オヤジを馬鹿にしやがった!」

 

 まんまと引っかかったことを確信したのか、『赤犬』はにぃと口角を上げてなおも追撃する。

 

「取り消せ、じゃと? 断じて取り消すつもりはない。そりゃそうじゃろうが」

 

 余裕たっぷりといわんばかりの、まるで演説でもするような朗々とした語り口だった。

 

「おまえの本当の父親、ロジャーに阻まれ、"王"になれず終いの永遠の敗北者が『白ひげ』じゃァ。どこに間違いがある」

 

 海兵からみた『白ひげ』はそんな感じなのだろうか、いや、むしろ『赤犬』からみた『白ひげ』評といったところだろうか。多分に挑発用にカスタマイズされてる気はするな。

 そもそも、『白ひげ』はべつに王様になりたくて海賊やってるわけではないのだけど。かの船長が一番大事なのは物理的な宝でも後世にまで名を轟かせるような名声でもないのだから。

 

 聞こえた海賊たちから一斉に怒りの感情が噴出しているが、あちらがヒートアップすればするほど僕はなんだか冷静になっていくようだった。

 

「オヤジ、オヤジとゴロツキ共に慕われて、家族まがいの茶番劇で海にのさばり……」

「やめろ」

 

 エースの言葉ではいそうですかとやめるくらいなら、『赤犬』はこんなところで演説をぶったりしないだろう。

 

「何十年もの間、海に君臨するも、"王"にはなれず、何も得ず……」

 

 当然、止まらなかった。

 

 どころか、嘲弄の響きすら込めてエースを見下したまま、続けた。

 

「しまいにゃあ口車に乗った息子という名のバカに裏切られ、それらを守るためにあの有様じゃ……」

 

 乗った方もそりゃ悪いけど、その口車を吹いたのはどこの誰だと思ってるんですかねぇ?

 

 『赤犬』の挑発演説はエースのみならず、周囲の海賊たちの怒りまでまとめて引きずり出し、地鳴りのような殺意が『赤犬』ひとりに注がれている。

 そんなものどこ吹く風と言わんばかりに、『赤犬』はわざわざエースと『白ひげ海賊団』へ向けて問いかけた。

 

「──実に空虚な人生じゃあ、ありゃあせんかね?」

 

 開いた口が塞がらない、というのはなるほど。こういうときに使うのだなぁと思ってしまった。見当外れが過ぎて呆れてしまう。

 

 だって、『白ひげ』ほど人生を謳歌している海賊を、僕は知らない。『赤犬』の文言は的外れもいいところだ。

 

 けれどそこが、エースの怒りの限界だった。

 

「やめろ!」

 

 エースの怒りを表すように炎が荒れ狂い、一歩を踏み出してしまう。

 イゾウさんたちが慌てて声を上げる。

 

「乗るなエース! 戻れ! ミオも止めろ!」

 

 イゾウさんに頷き、怒りのあまり僕を手放すことすら忘れていたエースの横っ面に、僕は渾身の頭突きをかました「がッ!?」。さっきの仕返しである。

 

「てめェミオ、」

「救出直後に自殺しようとすんな!」

 

 元気いっぱいの『赤犬』と疲労困憊のエースじゃ勝負は歴然。しかし怒髪天を衝いているエースにそんな理屈が通用するはずもなく、エースは痛みなんか感じてないような勢いで僕を乱暴に落として胸ぐらを掴んできた。

 相変わらず身体にちからが入らないので、ぐらぐらと揺さぶられるままだ。ちょっと苦しい。

 

「オヤジは、おれたちに生き場所をくれたんだ! あんなやつにオヤジの偉大さの何がわかるってんだよ!!」

「わっかるわけないじゃんそんなもん! 相手海兵で、大将だぞ!? わかってたら逆に怖いわ!!」

 

 なぜか怒りの矛先をぶつけられ、さすがにカッとなって言い返す。

 

「てか、僕らがどんだけハッピー海賊ライフ送ってたってそう言うしかないんだって! あと、今言っとかないと他で言える機会一切ないぞこのひと!」

 

 勢い任せにびしっ、と『赤犬』を顎で差しながら豪語すると「あァ?」とドスの利いた声が返ってくる。そりゃ当然聞こえますよね。

 

「そんなのッ! ……ん?」

 

 一方エースはといえば、僕の言ってる意味があんまりトンチンカンに聞こえたのか、一時的に怒りがちょっとどこかに行ったらしい。

 

「ミオ、おまえなに言ってんだ?」

 

 エースが真顔になって、僕は胸ぐら掴まれてだらりと弛緩したまま。

 

「え、だって僕らがお家帰ったら今度は海軍が敗北確定だし、下手に機材入れて放送しちゃったから隠しようないし、したらこっからの海軍控えめにいって地獄じゃんね」

 

 こんな状況だというのに、思ったことをつらつらと。

 

「どういう事だよ」

 

 エースどころか周りの海賊まで「なに言い出してんだあいつ」という空気が蔓延してきてしまった。しかし『赤犬』の眉間の皺が天井知らずに寄っていくのが不穏すぎていやだ。あれ、ひょっとして動揺してるのだろうか。

 

 いや、だってさぁ。

 

「どういうって、たぶんこれから海軍の離職率めちゃめちゃに上がって逆に就職率ダダ下がりするし、そんで世界政府から責任追及の突き上げ食らうでしょこれ。処刑失敗して『白ひげ』取り逃がしたら、そうなるよたぶん。それで、これから治安めたくそに悪くなって住民からクレームじゃんじゃん来るだろうから、ほんとに得意ヅラして悪態吐くチャンスなんて今しかないんじゃないの?」

 

 昔ロシナンテに聞いた海軍の内情や、賞金稼ぎ時代に見聞きした情報からの推測だが、そこまで間違っていないと思う。

 ここまで大々的に喧伝した処刑が失敗に終われば、海軍の信用はそれなりに落ちるだろうし、そうなると治安の悪化は必定。そしたら住民の苦情は当然官憲役を務めている海軍に殺到する。

 海軍も当然リカバリーを図るだろうけど、それを間に合わせるには大々的な予算が必要になってくる。んで、おそらく今回の事件にはかなりの資金が投入されていたはずで、なのにそれをしくじったとしたら新たな資金投入をお上が許してくれるだろうか。……来期の予算カッツカツになるくらいならまだいい方で、下手したら三大将の誰かが降格させられたりとかありうるのでは。

 

 僕としては煽るもくそもない、ただの予想だったのだが『赤犬』から噴出した火柱の如き殺気はまっすぐに僕へと矛先を変えていた。

 

 額には青筋が浮き上がり、足元がぐつぐつと煮えている。明王様もかくやという形相で発された胴間声。

 

「黙って聞いてりゃあ、好き勝手言いよって……クソ餓鬼風情にわしらの何がわかるっちゅうんじゃあ!!」

「さぁ? なんにも知りませんよ。だって海軍じゃありませんし。よろしければご教授頂けます?」

 

 なるべく慇懃無礼にそう返すと、「海軍を愚弄するんかおどれェ!!」と怒声が響く。わぁ怖ぇ。

 覇気でも込めているかのようにびりびりと肌が痺れるが、半ばやけっぱちになっていた僕は軽く小鼻を鳴らして首を口をひん曲げ『赤犬』を見る。

 

「愚弄なんてお互い様! そっちだって『白ひげ海賊団(うち)』が、どれだけみんな仲良しで、楽しくて、幸せな日々を送ってるかなんて知るよしもなけりゃ、興味もないでしょ」

 

 じゃなきゃ、あそこまで『白ひげ』を虚仮にする台詞なんて吐けるものか。

 

「当たり前じゃろうが! 人間は正しくなけりゃあ生きる価値なし! おまえら海賊に生き場所はいらん!」

 

 そして『赤犬』は何を今更とばかりに答えを返す。

 

「『白ひげ』は敗北者として死ぬ。わしがここで引導を渡しちゃる。ゴミ山の大将には誂え向きじゃろうが!」

「──ッ!!」

 

 瞬間、エースが僕を大きく突き飛ばした。

 避けられず、僕は結構な勢いでごろごろ転がって──ルフィくんの足元で停止する。その間にエースはぐん、と姿勢を低く足を踏み出した。

 

「『白ひげ』はこの時代を作った大海賊だ!」

 

 全身から乱舞する爆熱を『赤犬』めがけて撃ち出し、獅子吼を上げた。

 

 

「──この時代の名が、『白ひげ』だァ!!」」

 

 

 それがエースの譲れないものだった。

 

 僕は『白ひげ』が時代になんかならなくていいと言った。それは滅びたあとに称されるものだからだ。

 無残に滅びたそのあとで美々しく飾り立てられるのだとしても、これからも生きて、老いて、できることなら天寿を全うしてほしかった。

 

 けれど、エースにとっての『白ひげ』はそうじゃなかった。

 

 彼の中で『白ひげ』は父であり、恩人であり、船長であり、そして──『生きた伝説』なのだ。

 

 生きているからこそ、歴史に刻まれる名前なのだ。

 

 それを否定され、『赤犬』がその時代を脅かそうとするからこそ──エースはすべての怒りを込めて渾身の拳を放った。

 

 だが敵もさるもの、『赤犬』の拳が「ぼこりっ」と音を立てて赤黒く変形し、マグマと化した拳を放つ。

 質量を伴った溶岩と炎では相手に分がある。熱泥はたやすく炎を突破しエースの身体を焼き焦がし、たまらず転がったエースはうめき声を上げながら身を捩る。

 

「エース!」

 

 僕を抱えあげようとしていたルフィくんと僕の声が奇しくも揃った。エースはもう満身創痍。体力だってほぼなくなっているはずだ。

 

「『自然系』じゃいうて油断しちょりゃあせんか? お前はただの『火』わしは『火』を焼き尽くす『マグマ』じゃ!わしと貴様の能力は完全に上下関係にある!!」

 

 服のいちぶを焼き焦がしながら語る『赤犬』にそれはダウトだろオッサンと叫びたかったが、そんなことよりエースを助けに行きたかった。

 けれど動けない。こんなときなのに、エースが大変なのに、身体はぎしぎしとぎこちなく、満足に立つことすらままならない。

 

「エース……!!」

 

 隣で立ち上がろうとしたルフィくんの膝が、唐突に崩れた。押しつぶしてしまわぬよう咄嗟に横へ跪き、顔を覗き込むとあまりの顔色の悪さに心臓が縮んだ。さすがのルフィくんも、すでに限界をとうに超えていたのだ。

 

「おいルフィくん!! お前さん、もう限界じゃ!」

 

 親分さんも止めようとするが、ルフィくんの耳には入っていないようだった。荒い呼吸を繰り返し、地についた両腕がふるえている。

 

「あ」

 

 不意に、ルフィくんの肩口からなにかがこぼれ落ちた。それは白い紙片で、ビブルカードに見えた。

 じわじわと移動する紙片の先はエースに向かっている。そうか、エースのビブルカードだったんだ。きっと、これを頼りにここまで来たのだろう。

 

 ルフィくんが震える指先を懸命に伸ばし、離れていこうとするそれを引き留めようとする。

 

 その先で、膝をついたエースの前に立つ『赤犬』が吠えた。

 

「"海賊王"ゴールド・ロジャー。"革命家"ドラゴン。この二人の息子たちが義兄弟とは恐れ入ったわい……! 貴様らの血筋は既に大罪だ!!」

 

そこで、不意に『赤犬』の鋭い視線が僕を射抜く。

 

「元帥への攻撃、わしらの作戦に対する数々の妨害工作……そこのクソ餓鬼も同罪じゃあ!! 誰を取り逃がそうが、貴様らだけは絶対に逃がさん!」

 

 赤犬の煮えたぎる宣言が場を震わせ、転瞬、あまりにも不吉で静かなつぶやきが、僕の耳朶を叩いた。

 

「よう見ちょれ」

 

 殺気の矛先が変わる。

 躊躇なく押し寄せた熱泥がこちらへと猛烈な勢いで迫ってくる。エースの悲鳴が聞こえた。そうか、ルフィくんを先に殺す気か。ついでに僕も巻き込めたら最高だもんな。

 ルフィくんは避けられない。呆然と『赤犬』を見上げたまま、指先ひとつ動かせないようだった。どうすればいい。僕がなんとかするしかない。でも、どうすれば。

 

 何もかもがゆっくり見えた。炙られる髪も、巨大な拳の形をした溶岩が近付くのも、『赤犬』の形相も。

 

 驚愕の表情を浮かべていたエースが──必死に足を踏み出し僕たちの前に出ようとするのも。

 

「──ッ!」

 

 肌が、心が、本能が考えるよりも先に理解する。これがしのげなきゃ全員終わりだ。

 

 僕らが死ぬ?

 

 それともエースが?

 

 僕らを、かばって?

 

 ローとの約束も果たせずに、こんなやつのせいで?

 

 

 絶対に、いやだ。

 

 

 得体のしれない感情が腹の底から湧いてくる。海賊が憎い。結構だ。気に入らない。海軍なら当然だ。だが、目の前の男がエースたちを狙う理由はそこではないと言う。血統がそもそも罪だなんだとエースやルフィくんが海賊であること以前の、本人でもどうにもならない部分に難癖をつけて、責め立てている。

 

 『徹底的な正義』を掲げているのに、このひとの正義にはずれがある。否、こんなものを僕は正義とは認めない。

 

 

 そんなやつに負けてやるのは──死んでもいやだ!!

 

 

 その、おそらくは刹那にも満たない時間。

 

 無意識に探っていた手になにかが触った。そして、視界に入った海楼石。

 

 それらが噛み合ったパズルの如く音を立てて繋がり、身体が嘘のように動いた。

 

 ルフィくんを背にエースを押しのけ、誰よりも前に左手を突き出した。

 

 手のひらにはおおきな貝殻。

 

 あまりにもちっぽけな抵抗に見えたのだろう、『赤犬』がせせら笑うように口元を歪めた。

 

 発動するかは賭けだ。失敗したら左手はきれいになくなるだろう。だが構わない。

 

 これくらいしなきゃ、ここにいる意味がない!

 

 だから──旅行先がどこになるかなんて知らないが──

 

 

「──ぶっとべ、赤犬」

 

 

 拳が触れる。ぞっとするような熱さと同時に奇妙な冷たさ。

 

 貝殻の擦れる音。めきめきと肉の中で響く骨の折れる音。

 

「ぐ、う――っぁあ!!」

 

 吼え、全力で更に手のひらを押し込んだ瞬間──だった。

 

 

 ぱっ、と。

 

 

 嘘のように。

 

 魔法のように。

 

 拍子抜けするほどあっけなく、目の前の『赤犬』が、その場からかき消えた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十九ノ幕.最大、最速、大喝采!

 

 

 海賊は、明日死ぬのが不思議ではない稼業だ。

 

 それはすべての海賊たちの根底に根ざす不文律である。こればかりは古参も新参も関係がない。

 どれだけの船団を率いていようが、無敵の肉体を誇っていようが、ともすればあっさり死ぬのが海賊という生き物で、そんな因果な商売に好んで身を窶したものたちに相応しい末路ともいえる。

 

 そして、宿業ともいえるそれを本能に刻まれた海賊たちの中でも命知らずで物見高い新参者たちが、まるで示し合わせたように集まっていた。

 

 マリンフォードの沖合、海軍の攻撃も届かない海域にはのちに『最悪の世代』と謳われるルーキーたちの海賊船が実に七隻、それぞれに戦塵の吹き荒れるマリンフォードの趨勢を見守っている。

 

 そして、そんな不揃いに海賊船が並ぶ海域から突出──どころか、ほぼマリンフォードに肉薄せんばかりの距離につい先程浮上したばかりの船がある。

 

 他の海賊船に比べればいささか小ぶりな、鋼鉄の壁に素っ頓狂なひまわり色の塗装を施された潜水艦だった。

 壁面の真ん中あたりにシンボルマークがでかでかと描かれているので、かろうじて海賊船と認識できる。

 その甲板兼デッキの上では、揃いのツナギ姿をした船員たちが慌ただしく出たり入ったりしている。手には双眼鏡や電伝虫、場合によっては必要になるかもしれないので狙撃銃を手にしている者までいた。

 

「見えたか!?」

「ぜんッぜん! ッつか、戦況がわからん! どっちが勝ってんだあれ」

 

 彼ら『ハートの海賊団』が現在血眼で探しているのは、未来のクルー(暫定)であるミオの姿である。

 過日、船長であるトラファルガー・ローにおんぶされて『ポーラー・タング』号へ来訪したミオは数日間をこの潜水艦で過ごして、マリンフォードへと旅立ってしまった。

 

 理由は全員が知っている。というか、ローがミオを連れ込んだ初日にクルーたち全員に話して周知させたのだ。

 

 当時昏睡状態だったコラソンの身内であること。ローの命の恩人がこの二人であること。ミオはゆえあってマリンフォードに行かなければならないこと。

 そして、マリンフォードから見事戻って来れた暁には、『ハートの海賊団』の一員になる予定であること。

 

 元々、船長至上主義なきらいのあるハートの船員たちは特に否を唱えたりはしなかった。ジャンバールの件が良い例だ。船長が船員たちに無断で誰かをスカウトしてくることはまれによくある。

 しかも相手が船長の命の恩人とあれば、それはひいては『ハートの海賊団』にとっても恩人ということだ。ついでにいうなら、逗留……もとい療養の間にミオの人となりは船員たちも多少知ることができた。

 賞金稼ぎの『音無し』と知ってびびるものもいたけれど、本人はうすらぼんやりして掴みどころがないものの、悪い人間ではなかった。むしろお人好しの部類に入るタイプで、最終的にはマリンフォード行きを心配するクルーまで出たくらいである。

 

 だから、シャボンディ諸島の放送で流れた『白ひげの娘』だった、という事実には混乱よりも納得が先に立った。マリンフォードに単身乗り込む理由には十分すぎる。

 

 そんな交流の甲斐もあって、甲板の上では船員たちが大わらわだ。

 ベポやシャチたちはもとより、中でも同性であることでかなり仲良くなっていたイッカクの熱の入れようは凄まじい。長い黒髪を邪魔そうに払いのけ、双眼鏡を頑として手放さずに血眼でミオのちっこい姿を捉えようと躍起になっている。

 

 そんな船員たちを横目に見つつ、甲板の先でコラソンの乗る車椅子の後ろに佇むローはぼそりとつぶやいた。

 

「たしかに戦況が見えねェ……どうなってやがる」

 

 シャボンディ諸島からマリンフォードまでの渡航時間の間、彼らは当然ながらマリンフォードでの戦況の推移を知る術がなかった。

 少なくない時間の間にどれだけの出来事が起きたのだろうか。戦況は刻一刻と変化する。把握すら難しい。

 

「まァ、姉さまのことだから死んではいねェ、はず……」

 

 ドフィもいるし、とはコラソンは思ったけれど口に出さなかった。ローはコラソンの実兄を蛇蝎のごとく嫌っている。

 すでにコラソンは『ハートの海賊団』の一員のような位置づけになってしまっているが、センゴクの件もあるし、海軍はコラソンの古巣である。思うところは当然あったが、戦争の発端やらの情報を得てしまうと一概に海賊側を糾弾する気にはなれないし、ミオにはもっと言えない。ミオと『白ひげ』の付き合いは長い。むしろ、ああそりゃ行くに決まってるわなと諦めの気持ちの方が勝ってしまう。

 

「そうでなきゃ困る。おれはミオを迎えに来ただけで、遺体の回収なんか冗談じゃねェ」

 

 ローは懐に大事に仕舞っている『質種』にそっと触れた。

 あたたかく、かなり速いが脈打っている。ローの能力でミオの身体から取り出された、人体の中でも最も重要な臓器。そのひとつ。

 心臓が鼓動を刻んでいる間は、確実にミオは生きている。

 

「だよな。おれも、これがいきなり消えたらと思うとゾッとする」

 

 コラソンも手の中にあるミオのビブルカードに視線を落とす。磁石に引かれるようにじりじりと動くミオの命を示す紙は、ローから譲り受けたときからサイズはさほど変わっていないように見えた。

 

「……」

 

 生存を確認できる手段があるのは有り難いが、一秒先は分からない。戦場というのはそういう場所だ。

 

 ミオの口にした、たったひとつの約束だって守られるかどうかわからない。そんなことはわかっている。本人は意地でも遵守しようと奮闘しているだろうが、外的要因がこうも物騒では確実に履行されるかどうかの保証などない。

 

 それでもローはその約束に賭けた。

 

 ミオが後顧の憂いなく『ハートの海賊団』のクルーになるためには、どうしても必要な過程なのだと悟ったからだ。

 だから、こうしてここにいる。信じて、待っている。どんな怪我をしてたって構わない。ローは『死の外科医』だ。死んでないなら、どんな重傷でも必ず完治させる自信はある。

 

 だが、もし、もしも──

 

「くそッ」

 

 がん、と苛立ち紛れに拳を鉄柵に叩きつける。不安は拭えない。焦燥がじりじりと身を灼く。

 

「……死んだら、殺すぞ」

 

 懐の心臓へ話しかけるような、低い、低い、呪詛のようなつぶやきだった。

 

 まだ、発見の声は上がっていない。

 

 

 

×××××

 

 

 

 シャボンディ諸島でバーソロミュー・くまに受けた攻撃を吸い込んだ衝撃貝(インパクトダイアル)

 処分に困っていたが、その威力は絶大だった。

 

「ッだ」

 

 遅れてやってきた凄まじい衝撃で全身がしたたかに打ちのめされ、地面に叩きつけられる。ミオはくまではないから、反動があることを考慮に入れるべきだったのだ。

 

「ぐえっ」

 

 おかげで背中に庇っていたルフィを思い切り潰してしまった。ゴム人間なので、余人のように骨が折れたりすることがないのは幸いかもしれない。

 ミオは跳ね起き、荒い呼吸を繰り返しながら油断せず周りを見渡す。赤犬の姿はどこにも見当たらない。

 くまに食らった第二撃は、自分をシャボンディ諸島を横断させてしまうくらいの力が秘められていたのだから、あの衝撃貝に込められた衝撃は如何ほどのものだったのだろうか。果たして自然系にどれほどの効果が見込めるかは不明だが、しばらくは戻ってこれない、と思いたい。

 

 思考しつつ、左手をぞんざいに振ると手首にかかっていた海楼石の錠が音を立てて落ちた。

 

 引っかかっていた関節が砕けてしまったのだから当然だった。おかげで倦怠感は消えたが、ぐんにゃりと折れ曲がった手首は力が入らないし、指先が動くかも分からない。まだ痺れが強くて痛みは遠かった。

 肩に力を入れて左手を持ち上げながら覗き込むと、指先は焦げが目立つし手のひらに砕け散った衝撃貝の破片がいくつも刺さって流血している。

 

 周囲は奇妙に静かだった。

 海賊にとっては最大の脅威が、そして海兵にとっては自分たちを束ねる将のひとりが忽然と姿を消してしまえば、混乱以前に頭が真っ白になるのも当たり前かもしれない。

 

「ミオ」

 

 目立つ破片を引き抜いていると、ルフィの傍らで膝をついたままの姿勢だったエースが死にそうな声を出した。

 あんまり悲愴な声だったのでぎょっとして慌てて振り向くと、呆然としたまま蒼白の表情のエースはなぜだか口ごもり、逃げるように視線を落とす。

 

「その、ルフィが白目剥いて気絶してんだが」

 

 奇しくも衝撃吸収材の役目を押し付けられたルフィは衝撃に耐えきれなかったのか体力の限界か、おそらくはその両方で意識を失っていた。しばらく目を覚ますことはないだろう。

 

「あ、その、『赤犬』をぶっ飛ばした反動が思ったよりすごくて……大事な弟さんをごめんね!」

 

 ルフィを押しつぶすつもりはなかったのでさすがに申し訳なくてへにょりと眉を下げると、エースは立ち上がりながらものすごく慌てた。

 

「ちがう! そうじゃねェ、いや、そうじゃなくねェけど……ああもう!」

 

 ぐしゃぐしゃと頭をかきむしり、なにか、もどかしい感情に突き動かされるようにエースは腕を伸ばしてミオを抱きしめた。痛いほどのちからと、熱い肌の感触と、血と汗と埃の臭い。

 エースの生きている証が染み込んで、ミオは心の奥のどこか、自分でも届かないところでほっとした。

 

 生きてる。エースも、ルフィくんも、自分も。腕だってまぁ、シャンクスみたいにちぎれたわけじゃない。

 

「悪ィ、本当に……ごめん! おれのせいで、」

 

 だから、自分の暴走が招いた怪我だと罪悪感で今にも泣きそうな声を出すエースの額をびすっと突いて、ミオはちょっとだけ笑った。

 

 『赤犬』の挑発をエースが無視していればこうならなかったのかといえば、分からない。

 

 無傷で逃げ切れる可能性だってあったかもしれないが、逆に、想像もつかない強烈な攻撃を食らってそれこそ三人揃ってお陀仏になっていたかもしれない。

 今だって衝撃貝が機能してくれたから生きているが、無駄撃ちにしかならなかったらと考えるとぞっとする。エースでも自分でもルフィでも、誰が死んでもおかしくなかった。

 

「そりゃそうだけど、いいよ。死んでないから」

 

 それを思えば、自分の片手がぶっ壊れたくらいでなんとか生き延びている今の方がずっとマシだと思ったのでさばさばと言って、エースの抱擁から抜け出して無事な方の手でその背中をばしんと叩く。

 

「ほら、僕はエースを迎えに来たんだから、ちゃんと助かって! それでチャラにしたげるから!」

 

 エースはそんなミオを見下ろして、一度ぎゅっと目を閉じて、開いて、ぎゅっと握った拳を自分の手のひらに叩きつけた。

 

「おう!」

 

 瞬間、背後から飛来した光弾がエースの腿を貫いた。

 

 エースが激痛に顔を歪め、間髪入れず陽炎のように現れた『黄猿』が体勢の崩れたエースの側面に強烈な前蹴りをぶち込んだ。身体を炎に変える暇すら与えない、まさに光速の動きである。

 「エースさん!」と背後でジンベエが声を上げたので、どうやら彼が受け止めたらしい。同時に海賊・海兵問わず再起動を果たしたらしく、喧騒が一気に戻ってくる。

 

「エース!」

「やってくれたねェ~、『はしっこいおチビ』さん」

 

 その呼び名は、戦桃丸に時々呼ばれていたものだ。おそらく前から話を聞かされていたのだろう。

 『黄猿』の視線はエースを一顧だにせず、ミオにのみ注がれていた。傍らで威嚇音を上げている軍曹にすら気を払っていない。声音だけは間延びしているが、渦巻く殺意はこれまでの比ではなかった。

 

「アンタがなんかしたんだよねェ~……、『赤犬』は、どこに行っちゃったんだい?」

 

 笑みの形の瞳の奥は鋭く、問いの形をとってはいるがその凄み、威圧の気配は他の追随を許さない。周囲の海賊たちの構える銃すら意に介していない。

 産毛が残らずそそり立つような怖気を感じながら、ミオは『黄猿』をまっすぐに見据えて口を開いた。

 

「どこかにぶっ飛ばしただけです。威力については、バーソロミュー・くまにでもお尋ねになられては?」

「くまァ? くまねェ~、ああ、そういうことかァ……」

 

 『黄猿』はミオの足元に落ちている衝撃貝の欠片や言葉から、大体のことを察したらしい。

 指先で顎をしごきながらミオに視線を戻し、『黄猿』は心底不思議そうに首をかしげた。

 

「なんでお嬢ちゃんはそんなに頑張ってるのかねェ~? そんな忌み子どもは、ここで死んだ方が世のためってもんでしょうが」

 

 『黄猿』の声にはどこか諭すような響きがまじっていたのだが、ミオは逆にしらけたようにふ、と表情を消した。

 

「エースたちが死ななきゃ維持できないような世界なら、いっそ滅んじゃえばいいのでは?」

 

 ごく真面目に口にされた言葉に、『黄猿』はじゃっかん引いたような顔をした。

 

「ええ~……本気で言ってる?」

 

 じりじりと強くなる威圧感に背筋を震わせ、ミオは痺れが抜けて襲ってきた激痛に脂汗を浮かべて、それでもまっすぐに突っ立ったまま。

 

「本気ですとも」

 

 能面のような顔に、明らかにそうと分かる嘲弄を貼り付けて、せせら嗤う。

 

「僕が死んでも、あなたが死んでも、エースでもルフィくんでも海賊でも海軍でも……誰が死んだって滅んだって、勝手に朝が来て、夜になる」

 

 誰がどこで何をしていても、世界は勝手に動いてて、世界は勝手に美しい。その平等さは容赦がなくて、ともすれば無情なことだが──それでいいとミオは思う。

 

 どこでだって同じだ。遼遠で美しく、厳しく無残で残酷で、誰にも優しくなんてない。

 

 それを思えば、人が夢想する『世界』という定義のなんとちっぽけで狭隘なことか。

 

 そういう意味において、ミオと海軍はどこまでも相容れない存在かもしれなかった。

 

「人間なんか世界とぜんぜん関係ないし、おこがましいなぁ──あのね海兵さん」

 

 彼らの矜持を、凡そ海軍に身を置く者すべてが根幹に据えたものを揺さぶり、心から侮蔑しながら、ただの事実を。

 

 

()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 転瞬、サングラス越しの『黄猿』の目の色が変わるのがわかった。

 限界まで圧搾された殺意が光のかたちに変換され、持ち上げられた指先が無言でミオを標的に定める。それは『黄猿』にとっての銃口に等しい。

 これ以上は一言だって聞きたくないとばかりに『黄猿』の指先から放たれようとした光弾は、けれど凄まじい勢いで割って入った闖入者二人に阻止された。

 

「ッの、馬鹿野郎!」

「無茶をするな!」

 

 ビスタの立てた刀身にビームは弾かれ、マルコの覇気を込めた蹴りが『黄猿』を強襲する。

 エースのお返しとばかりにその一撃をまともに食らって吹き飛ばされた『黄猿』を警戒しながらマルコたちが怒鳴った。

 

「あんなもん相手にしてんじゃねェよい! とっとと逃げろ!」

「『赤犬』がいないチャンスを逃がすな!」

 

 鞭のような声に背を伸ばしたミオは「はい!」と返事をしてから視線だけで感謝を示し、踵を返して走り出す。軍曹もぴょいと飛んでミオの頭にしがみついた。そこへ背中にエース、片手にルフィを抱えたジンベエが並走する。

 さっきの『黄猿』の一撃が思ったより効いているのか、エースはジンベエの首あたりにしがみつきながら痛みを堪えるように荒い呼吸を繰り返していた。炎に変わる余裕もないらしい。

 

 今ならルフィを引っ張って行った時のように足場を『固定』してジンベエを引きずっていくこともできるだろうが、生憎片腕だけでそれをできる自信がない。途中で放り出してしまったら一大事じゃ済まない。

 

「あとは逃げるだけじゃ! とにかく走るぞ!」

 

 海楼石という文字通りの枷から開放されたおかげでミオの足取りに不安はない。けれど、ジンベエは不規則に揺れる左腕を気遣わしげに見やりながら言った。

 

「嬢やも辛いならわしが背負っていくぞ。その手では辛かろうに」

 

 ジンベエの言葉に、痛みのせいで血の気の引いた青っちろい顔色で汗の粒を浮かせたミオは半泣きで笑う。

 

「そりゃーむちゃくちゃ痛い、けど、いいです。さっきよりマシなので」

 

 まぁ、人目がなければエビみたいに丸まりながら悶絶して泣きわめきたいぐらいには痛いし辛い。

 けれど、さっきまでの情けなさと悔しさで死にたくなるような気持ちを抱えてエースに担がれていた時よりずっとマシだ。お荷物にならないで済む。

 

 それに、ルフィとエースを抱えているジンベエの負担をこれ以上増やしたくないし。

 

「あと、そしたら親分さんがめちゃくちゃ狙われますから」

 

 そして、自分の発言にハッとした。

 海軍の『必ず殺すリスト』に入っているであろう三人が仲良く逃走というのは、海兵に狙ってくださいと言っているようなものだ。

 マルコたちの足止めだっていつまで保つかわからない。現時点でいちばん狙われるのは、たぶんミオだ。なんせ海軍大将をふっ飛ばした張本人であるからして。

 

「麦わらボーイが無事で安心したけど、無茶も大概にするのねキャンディガール!」

 

 そこへ追いついたのはイワンコフだ。ミオはそれを見て咄嗟にイワンコフの方へ走り寄って、服の裾を掴んで引っ張る。

 

「イワちゃんさん! 麻酔系のやつ一発ください! 短時間でいいから、キッツイの!」

 

 イワンコフはホルホルの実の能力者で、ホルモンを自在に操る『ホルモン自在人間』。その実力はルフィを回復させた実績もあって折り紙付きだ。

 ミオの腫れ始めている左腕をチラッと見て、イワンコフはちょっと考えるような素振りをしつつ指先の爪をにゅっ、と伸ばした。

 

「ヴァターシの能力は痛みを誤魔化すだけ。あとでちゃんと治療を受けチャブル!!」

「わかってます! 心配ご無用、()()()()()()()()()()がいますから!」

 

 その時だけ、ミオは蒼白の頬に笑みを浮かべた。宝物を自慢するような明るい笑顔だった。

 それで納得したのかイワンコフは「じゃあいくよ! ヒーハー!」と雄叫びを上げながら、ミオの左腕めがけて注射針のように変化した爪先をぶすっと刺した。

 

「あ痛ぁッ!」

「我慢おし! すぐ効くよ!」

 

 イワンコフの言葉通り一瞬痛みを感じたが、数秒もすると爪先注射を打たれたあたりからすーっと激痛が引いていった。

 試しに左手を揺らしてみても違和感はあるが痛くはない。相変わらず力が入らないのでぶらぶらと揺れるだけだが、痛みがないのは素晴らしい。吐き気も消えたし汗も引いた、これで怖いもんなしだ。

 

「ありがとうございますイワちゃんさん!」

「ンーフフ、どういたしまして!」

「じゃあ別行動します!」

『なんでだよ!!』

 

 なんと周囲全員からツッコミが入ってしまった。

 しかしチャンスは今しかない。固まって行動しているから海兵も狙いやすいのだ。

 

「このまま三人でいると集中砲火食らうし、そもそも『白ひげ』じゃない僕はここらでとんずらします! 元気でね! 特にエース! あとで電話するから! たぶん!」

 

「とんずらはいいけど、おい!」「たぶんじゃ駄目だろ!」という海賊たちの声を背中で聞きつつ、ミオはほぼ言い逃げの体で今度こそ能力を発動してダッシュした。

 

 目指すは折よく近くに来ていた外輪船──の、端っこにくっつけておいた『モビー・ジュニア』である。

 

 撤退時に必要になることはわかっていたから、軍曹と相談しておそらくは最後に使用されることになるであろう外輪船の船体部分につけていた。海底、というのはそういうことだ。

 

 さっきよりあからさまに増えた海兵をばったばったとなぎ倒し、外輪船へとにかく走る。

 恐ろしい気配がこちらを追跡しているのを感じるが、構わない。両方釣れてしまったら、そのときはそのときだ。痛みがないのでずいぶん身体が軽い。

 それはいい。とてもいい、の、だが……。

 

「なんでついてくるんですか親分さん!?」

 

 思わず背後に振り向いて怒鳴り散らすと、ジンベエ(+α)は走りながら困ったような顔をしていた。

 

「エースさんが追いかけろっちゅうんじゃ!」

「ここで別れたら、そもそも生きて会えるかもわかんねェじゃねェか! ふざけんなよ!」

「ふざけんなはこっちの台詞じゃー! 分散の! 意味!!」

 

 ぎゃあぎゃあと言い争いつつ走りまくっていたら、もう外輪船は目の前である。こうなったら仕方がない。状況は止まってくれないのだ。

 頭に乗っていた軍曹がぴょんと降りて凄い速さで外輪船の壁を登坂し、固定していた『モビー・ジュニア』に取り付いて糸を切ってくれる。

 へばりつくように糸でぎちぎち固定していたが、すべての糸を切断しなくても途中からは自重で勝手に切れていく。いくらも経たないうちに垂直落下してきた『モビー・ジュニア』が地響きを立てて広場に落ちてきた。外輪船と違ってこちらは普通の船なのでここでは動かすことなどできない。

 

「お前、『モビー・ジュニア』まで……いや、ここで下ろしてどうすんだよ! 海でもねェのに!」

「いいから乗って! なんとかするってか、なんとかなるからわざわざこっちに回ってきたんだから! もー!」

 

 ミオは軍曹を再び頭に乗せてジンベエの背中に回ってぐいぐい押しながら船に登らせつつ、しがみついているエースの尻を怒りに任せて一発はたいた。

 

「だっ! 何すんだよ!?」

 

 唐突な臀部への打撃にエースが超びっくりした顔をしたが、これくらいでミオの感情が納まるわけがなかった。

 心配してくれるのはありがたいし、嬉しくないといえば嘘になる。が、時と場所と場合を考えて欲しい。確かに守ってやると言ってくれたが、それにしたって。無事に戦線離脱しなきゃならない人物筆頭のくせに。

 

「ちゃんとみんなのとこ戻れば話早いのに! ばーか! ばかエース! こうなったら一蓮托生だからあとで文句言うなよな!」

「言わねェから何発も叩くな! 地味に痛ェぞこれ! あとおれが馬鹿の精鋭みたいな言い方やめろ!」

 

 ひとしきりエースの尻をしばいてからミオは一度船室へ入り、戸棚に入っていた包帯を持てるだけ持ってすぐに出てきた。

 

 

 その時──この戦争でも初めてといっていいくらいの激しい揺れが船全体を襲った。

 

 

「うわ!?」

「ッ、オヤジだ!」

 

 エースにはすぐ察知できたらしい。慌てて『白ひげ』の姿を探すと、いた。

 

「受け取れ海軍!!」

 

 多少の焦げや傷を負っているもののかろうじて戦火を逃れ、今や他の海賊船と同じく撤退のために動き始めている『モビー・ディック』号の甲板。

 

「土産だァああ!!」

 

 まるで戦争の始めに時間が巻き戻ったように、船員たちに支えられながら舳先で大薙刀を振り抜いた姿勢の『白ひげ』の姿がそこにはあった。

 

 『グラグラ』の異能を最大限に込められた一撃はマリンフォード中を震撼させ、地割れを引き起こし、威力は減衰されることなく──海軍の基地そのものに直撃した。

 

 壮烈な音を立てて頑丈にできているはずの基地の壁が音を立てて剥離し、瓦解していく。がらがらと崩れて、建物のあちこちから海兵が飛び出してくる。当然だが、海軍の混乱は相当なようだ。

 

「──」

 

 あまりの破壊力に口を閉じることも忘れて見入っていると、ふと視線を感じて顔を上げた。

 舳先の『白ひげ』はまっすぐにミオを見つめていた。「早く行きやがれ」と言われた気がして頷くと、『白ひげ』は満足げにかすかに顎を動かし、またすぐに海賊たちの方へ首を向けてしまった。

 

 けど、それでよかった。

 

 改めて包帯を右手と口で器用に左手に巻きながら、ミオは船室の裏手に回った。船室の裏手は倉庫の形になっている。引き戸になっているそれを足で引きながらジンベエたちを呼んだ。

 

「おま、こんなもん……」

「嬢や、これは……」

 

 中に入ったジンベエ、否、エースも同様に驚愕の表情を浮かべていた。

 まさかこんなものを銃弾飛び交う鉄火場に持ち込むとは思ってもいなかったのだろう。ミオはちょっぴりだけ口の端を上げて胸を張った。

 

「撤退用に持ってきた。これで一気に逃げるから、しっかり捕まってて。そんでルフィくん落とさないようにね」

 

 言葉少なに説明しながらミオはそれにまたがり、ハンドルにも包帯を巻いて自分の左手をしっかり固定していた、その時。

 最初に気付いたのはジンベエだった。

 

「ぬゥ! 嬢や、『黄猿』じゃ!」

 

 その言葉が終わるか否か、いくつもの光弾が飛来して壁を屋根をぶち抜き床で炸裂する。

 もうもうと木屑が舞う中でミオは舌打ちした。

 

「ほらぁ! やっぱり! そりゃこっち来るわ! 早く乗った乗った!」

「よし、いくぞエースさん!」

「あ、ああ!」

 

 ジンベエが慌ててミオの後ろにまたがり、その間に珊瑚片を取り出したミオが素早くシャボンをふくらませる。ほんの数秒保てば御の字だ。

 

 そして──『黄猿』のビームが倉庫を半壊させると同時、()()()()()()()が咆哮を上げた。

 

 アクセル代わりの噴射貝を限界まで噴射させ、稲妻の如きスピードで疾駆する!

 衝撃に耐えかねシャボン玉は早々に脱落したが、そのときのために魔改造……もとい、タイヤを装着していたのだ。何ら問題ない。

 『モビー・ジュニア』周りへ集結しつつあった海兵たちの顔が「な、なんだあれは!?」「ボンチャリ!?」「馬鹿な!!」と驚愕に歪み、想像だにしなかった二輪駆動の登場であからさまに腰が引ける。

 

()きっ殺すぞおおおおおッ!!」

 

 そんな海兵たちを馬鹿にするように悪辣な笑顔を顔に貼り付けたミオは、そのまま海兵たちの頭上すれすれの空間を『固定』して一気に駆け抜けた。能力が使えるのならばコース設定は思うがままだ。

 

「ボンチャリにこんな使い方があったとはのう!」

「ひゅーッ! すっげェなミオ! ルフィも目が覚めてりゃなァ!!」

 

 撤退のために軍艦を奪っていた『白ひげ』たちからも歓声が上がり、エースたちまで必死でしがみつきながらもあまりの速度に笑っている。

 とはいえ、ミオは笑ってもいられない。狙われ続けているのだから、どれだけ速度を上げてもいずれは追いつかれてしまう。光速には敵わない。けっこう焦る。

 

 ミオは坂のかたちにコースを作って駆け上がっていく。目指すは一点。脳内地図と現在地を照らし合わせ、()()()()()の場所を目指してハンドルをぐっと握り込む。

 

「ぎょえええ!? なんじゃァああああ!!」

 

 ブレーキなんて欠片も頭になかったため、途中で空中をふわふわしていたピエロもといバギーを跳ね飛ばしてしまった。普通に交通事故なのだが、これはもう運が悪かったと思ってもらうしかない。必要のない犠牲でした。すいません。

 

 内心で謝罪しつつ、人間では到底出せない速度で疾駆することしばらく──やがて、見えた。

 

 滞在の間にすっかり見慣れたひまわり色。

 

「キャプテン! 三時の方向からぼ、ボンチャリっぽいのが!」

 

 甲板には何人もの、これまたすっかり見慣れたかの船のクルーたち。

 

 そして、

 

「? ボンチャ……、やっとか!」

 

 慌ただしくこちらへ走り寄ってくる、肩に長刀、もふもふ帽子の隈のひどい船長さん。

 その横では、いつ頃目が覚めたのだろうか、でっかい車椅子を動かそうとして柵に引っかかってにっちもさっちもいかなくなっているドジの多い、ミオの弟。

 

『ミオ!』

「ロー! コラソン!」

 

 ユニゾンする二人を見下ろして、ミオは大きく手を振ってあかるく笑った。

 

 

「おまたせ!」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十ノ幕.願いと誠意と我儘と

 

 

 マリンフォード全体が霞んで見えるほどの戦塵があたりを漂い、爆音と剣戟と悲鳴と怒号がひっきりなしに響いている。

 遠目から見ても海軍基地としての威容は見る影もない。建物どころか島の地盤にも亀裂が入り、次々に瓦礫が崩落していくさまは島そのものが身悶えする巨獣を思わせた。

 

 それでもちょっと戦闘という行為に身を窶した経験のあるものならわかる。かの地からはすでに終いの空気が場に満ち始めていた。

 

「……あー。やめだ、やめ」

 

 面白くもなさそうに戦場を見据え、もじゃもじゃの黒髪に粗暴な空気を纏った巨躯の男──海賊『黒ひげ』ことマーシャル・D・ティーチはあっさりと退くことを決めた。

 『黒ひげ』はエースを海軍に引き渡した張本人だ。彼からしてみれば七武海に入るための手段としてそうしたに過ぎないが、あえて原因を求めるとすれば……この戦を引き起こしたのは『黒ひげ』であるといえる。

 

「よろしいので?」

 

 近くにいた細身の男がシルクハットに手を添えながら問いかける。この戦争に介入できるよう小細工を施したのはこのラフィットである。

 船長の決定に否やを唱えるつもりはなくとも、理由くらいは聞かせてもらってしかるべきだろう。

 

「ああ。目的は達成できたしな」

「ずいぶんと弱腰じゃねェか、おれたちの『船長様』がよ」

 

 葉巻を咥えた男が揶揄すように口を開き、その近くにいた囚人服のものたちも口々に不平を漏らす。

 最初にティーチを咎めた『雨のシリュウ』を筆頭に、囚人服を着ている者は全員ティーチが大監獄『インペルダウン』から『勧誘』したばかりの囚人だ。本来なら二度とシャバの空気を吸うことすらできずに大監獄で朽ちることを運命づけられていた、最悪を極めた札付きのワルである連中は総じて血の気が多い。ティーチの臆病ともいえる判断に不満が出るのも当然といえた。

 

 だが、ティーチはそんなシリュウたちの態度をこそ小馬鹿にするように鼻を鳴らす。

 

「馬鹿野郎、おれァ仲間思いの『船長様』なんだぜ? せっかく勧誘した仲間たちにハナッから死なれちゃァ、寝覚めが悪くてしょうがねぇ」

 

 ティーチは一見粗暴に見えるが観察眼が鋭く、引き際の見極めに長けていた。

 

「お前ら引き連れて海軍に喧嘩売って、多少くたびれちゃいるが『四皇』の一角とドンパチしろってか? そりゃちっとばかし分の悪い賭けだ」

 

 囚人どもは長年に渡る監獄生活で体力はもとより、なにより戦場の勘を取り戻していない。

 無論、一筋縄ではいかないあれくれ者の集まりなのだから遠からず膂力も勘も戻ってくるのだろうが、その前に死なれてはわざわざ監獄に行った甲斐がないというものだ。なんせ、仲間を募るためだけにティーチは『七武海』の称号を手に入れたのだから。

 

「まァ、それでも行きてぇヤツがいるなら勝手にすりゃあいい。止めやしねェよ」

 

 とはいえ、戦争特有の空気で血が沸いて辛抱できないというのならば仕方がない。そういう馬鹿揃いなのは承知の上だ。

 ティーチのぞんざいな物言いに元囚人たちは鼻白んだが、それがかえって彼らの闘争心を冷ましたようだった。いくら高揚したからといって、あんな場所に乱入したところで何が得られるわけでもない。歴戦の猛者たちの嗅覚はそこまで落ち込んではいなかった。

 奪うお宝もないのに危険を冒す海賊なんていないのだ。

 

「もう少し『白ひげ』がボロカスになってりゃあなァ……」

 

 忌々しげに舌打ちひとつ。それだけはティーチも惜しいと思っている。戦争で疲弊した『白ひげ』ならばあわよくば、とも思っていたが予想より『白ひげ』の損耗が低い。

 『ヤミヤミの実』のためにサッチを殺しかけたティーチがノコノコ顔を出せば、海賊たちから集中砲火を食らうのは確実である。殺す気で仲間を手に掛けたというのはそれだけ重い。『白ひげ海賊団』ならば尚更だ。首を突っ込むならそれなりの旨味がなければ意味がない。

 

「……フン。なら、楽しみはあとにとっておくか」

「そうしろそうしろ。なァに、どうせそんな待たせねェから安心しろよ」

 

 『黒ひげ』の言い分にひとまずは納得したのか、シリュウは「期待してるぜ」とだけ言ってさっさと船の方へ行ってしまった。

 そんなシリュウを目線で追いながら、ティーチは逆方向で今にも死にそうな馬に跨って死にそうな咳をしている矮躯へ問いかける。

 

「おいドクQ、どう見る?」

 

 乗馬、というよりはもはや馬首にかろうじてしがみついているような有様のドクQと呼ばれた男は、伸ばしっぱなしのむさくるしい金髪の隙間から瞳を覗かせながら、にぃと口の端を無理矢理に引き上げた。

 

「ゼェ……早くて、三ヶ月……いや、運命がかの御仁を生かすというなら、もっと……ガフッ」

 

 ぶつぶつとうわ言のように呟き、なぜか吐血までしているこの海賊団の船医にティーチはぼりぼりと頭をかいた。

 

「ケッ、なら倍でみとくか。あいつらのナワバリは知り尽くしてる。なんとかなんだろ」

 

 すでにティーチの思考は今後へと向けられ、未だ戦乱吹き荒れるマリンフォードを一顧だにしていなかった。

 脱出するなら海兵の目が向かないよう早いに越したことはないし、これからに備えてやるべきことは山ほどある。

 

 最後にティーチは一度だけ振り向き、マリンフォードの端へと視線を向けた。

 

 シャボンディ諸島で流通しているボンチャリ──のようなものにまたがる小さな影と、その背中にしがみついて鈴なりになっている元七武海と『麦わら』とエース。

 

「テメェさえいなきゃ、よかったんだろうぜ」

 

 『白ひげ』の娘だった、見かけと裏腹に年食った忌々しいガキんちょ。サッチを殺そうとした自分を止めて、こんなところにまでノコノコやってくるような大馬鹿野郎。

 

 極めつけの阿呆だ。けれど、その阿呆はとびきりの実力と戦況の潮目を見極める抜群の『眼』を持っていた。

 

 おかげで『黒ひげ』は『白ひげ』の能力を奪う千載一遇のチャンスを逃した。心底憎たらしい。

 

 とっととくたばってくれや、と『黒ひげ』はミオへ向けて親指を下へ向けた。

 

 

 

×××××

 

 

 

 マリンフォードからの砲撃がぎりぎり届くかどうかの位置で浮上したひまわり色の潜水艦は、ミオにはまるで灯台のように見えた。

 

 見知った顔が慌ただしく甲板を行き来していることを確認できただけで、胸が詰まっていっぱいになる。

 ローがいる。車椅子だけどコラソンがいる。ちゃんと意識が戻って、元気そうだ。迎えに来てくれた、本当に。嬉しさと安心感でぐちゃぐちゃになって、涙を堪えるのがやっとだった。

 

──けど、ここはまだゴールじゃない。

 

 ゴールにしたかったけど、そうもいかなくなってしまった。

 ぐっと息を吸い込み、『ポーラー・タング』号のちょうど真上あたりでブレーキをかけ、ボンチャリは半円を描くように止まった。ミオは再会を喜ぶ暇もなく大きく声を上げる。

 

「ジャンバール! ベポ!」

「え?」

「む?」

 

 二人が声に反応した途端、ミオは「ほら終点だぞ降りろオラァ!」とあろうことかジンベエをボンチャリから振り落とした。

 

「ぬぅおッ!?」

「ジンベエ!?」

 

 タイミングが絶妙だったのかジンベエはあっけなくボンチャリからずり落ちる。当然エースもルフィも諸共である。

 ジンベエのような巨体が突然落下してくるものだから、ほぼ真下にいたジャンバールが慌ててキャッチした。なぜだか横のベポが「よし! それでいいんだ!」とか言いながらサムズアップ。

 

「じ、嬢や! どういうつもりじゃ!?」

「おいこらミオ! なんだよこいつら!」

 

 ジャンバールに抱えられたままジンベエとエースが口々に声を上げる。『ハートの海賊団』は『白ひげ』の傘下でもなんでもないのだから、意味がわからなくて当然だ。

 周りのクルーたちには三人がどれだけの重傷なのかすぐに看破できたのだろう、「うわひっでェ怪我!」「あんたらよく生きてるな!」とか騒いでいるが、ローたちはそれどころではない。

 

 甲板から身を乗り出し、ローはボンチャリから降りようとしないミオへ怒鳴りつけた。

 

「あんたも早くしろ! すぐ海に潜る!」

 

 ミオはその言葉に返事、どころか視線もよこさずエースたちを見下ろしながらローを指差す。

 

「その船は『ハートの海賊団』で、目つき悪いもこもこ帽子はロー! んで、僕が世界でいちばん信頼してるお医者さん!」

 

 医者、という言葉にジンベエとエースは顔を見合わせ、同時にルフィへと視線を落とした。この中で最も重傷なのは、未だに意識の戻らないルフィである。生乾きの傷から流れる血はまだ止まっていない。

 『白ひげ』にだって腕のいい医者はいるが、どこにいるかを探るのは至難の業だ。撤退戦に移行して手近な船に乗り込んだ船医を探し出す時間が惜しいことは確かである。

 

 二人の胸中を察しているのか、ミオはそこでようやくローへ首を向けた。

 

「ロー、その三人をお願い! ひっどい怪我だから、たぶん『死の外科医』じゃなきゃ無理だと思う!」

 

 まっすぐに自分を見つめるミオの姿は、送り出した時を思えばひどいものだ。

 髪はぐしゃぐしゃで頬にも擦過傷が目立つ。服なんか埃と泥で汚れ放題である。中でも気になるのは、ハンドルに固定しているらしい左手だ。包帯越しでは判別が難しいが、何があったんだかめちゃくちゃに腫れ上がっている。

 転がり込んできた奴らよりはマシかもしれないが、それでも相当にひどい怪我を負っているだろう。

 

 だというのに、三人をお願いとはどういうことだ。

 

 それでは、まるで。

 

「お願いって、あのな、おれたちがなんのために──ッ」

 

 ミオの表情と瞳から、ローの背筋に猛烈に嫌な悪寒が這い上がる。

 その表情は静かだった。砂や傷で汚れてひどいもんだが、瞳だけは澄んでいた。純度の高い鉱石のような何かがあった。

 

 この状況で、問い質すことすらイヤな思考が脳裏を埋め尽くし、口の中が一気に渇く。

 

 

──こいつ、まさか。

 

 

 一秒すら生死を分ける戦場であるまじき硬直に襲われ動けないローに、ミオは不思議に清廉な笑みを浮かべた。

 

 そして。

 

「僕は、あとで追いつくから」

「いやだ!」

 

 反射的に声を上げたのはローではなく、その横にいたコラソンだった。ローよりよほど顔色をなくし、恐懼にも近い表情でミオへと必死に腕を伸ばす。

 それはお世辞にも成人した大人の仕草ではなかった。大事なものを取り上げられて泣きわめく寸前の子供の方がよほど近い。

 

 コラソンの脳裏に蘇ったのは、幼少時のトラウマとも呼べる記憶だ。

 

 戦塵と硝煙の臭いが勝手に記憶の蓋をこじ開ける。呼び戻す。頭の中で時計が狂ったように逆回転しているようだ。指先から温度が消えて、胸がざわめいてどうしようもない。

 

 狂気と憎悪で染まった夜の街。

 

 周りは敵しかいなかった。生き延びるにはミオが囮になるしかなくて、自分と兄は止められなくて──そして。

 

 遠ざかっていった、ちいさな背中。

 

「それは、それだけは駄目だ! やめてくれ! 早くこっちに来てくれ! 頼むから!」

 

 捨てられた親に追いすがる子供のようなコラソンに、ミオはバツが悪そうに「ごめん」とつぶやいて身じろぎした。

 

「でもまだ、僕は一緒に行けない。合流がちょっと遅れるだけだから、そんな顔しないで」

「ここまで来てなに言い出してやがる!」

 

 怒号を上げたのはロー、ではなく、ジンベエの横で膝をついているエースだ。

 身体のあちこちから炎が噴出しているが、うまく形になっていない。ガス切れ寸前のカセットコンロのようだった。

 監獄からこっちろくに食べておらず、ここまで連戦続きですでに体力は底を尽いて久しい。能力を使おうにも、もうコントロールできるだけの力が残っていないのだ。

 

 そんなエースにミオは苦く笑って、宥めるように言葉を紡ぐ。

 

「ここまで来れたから言ってるんだよ。『ハート』のクルーに迷惑かけたらあとで吊るし上げるからな!」

 

 エースにとっちゃ『ハートの海賊団』は得体のしれないルーキー海賊団に過ぎない。

 あとで喧嘩を売られても困るので先に釘を刺し、すぐに眉をきっと吊り上げてジンベエに抱えられたルフィを右手で示す。

 

「つか、エースはお兄ちゃんでしょ。ルフィくん守ったげないと」

「う……」

「そのためにも、僕はいったんここから離れて、大将のひとりでも『ポーラー・タング』号から逸らしてみる。幸い、とは言えないけど……僕はだいぶ恨み買ったしさ」

 

 なんたってこの戦場で最も注目されていた面子がここまで揃っているのは『ポーラー・タング』号だけだ。

 喋っている間にも砲撃が何発も発射されて水柱をぶち上げているし、恐ろしい気配が近づいているのを肌で感じる。多少の距離はあるが、傷病者の安否は『ポーラー・タング』号の航行にかかっている。

 

 そして、そんな事情を抜いても万が一、ここで『ポーラー・タング』号になにかあったら──ミオは死ぬ。

 

 この戦争には本来、縁もゆかりもなかったはずのローたちが、船が、自分のせいで轟沈してしまったら、もう生きていけない。胸に穴が空いて、きっと死んでしまう。

 ルフィを盾にされて黙りこくってしまったエースを横目に、ミオはハートのクルーたちへと首を巡らせる。

 

「ボンチャリの速度を限界まで上げて、大回りしてから追いつくから待ったりしないで大丈夫。最速で潜航して。僕には軍曹がいるから、海底でも見つけられる」

 

 任せろと言わんばかりにミオの頭に乗っている軍曹が脚を上げた。

 状況は切迫している。今だってぎりぎりだ。海兵の軍艦がこの船に目をつけ始めた。砲撃の音はいや増すばかりだ。水柱との距離がじりじりと近づいている。ここに来て大将たちにまで襲われてしまえば、無事で済む保証はない。

 潜水艦は精密機械の塊。一発でも食らってどこかが故障でもしてしまったら、それだけで『ポーラー・タング』号の命運は尽きる。

 

「……なるべく早く追いつけよ」

 

 最初に決断したのは状況判断に優れているペンギンだった。

 

「うちのキャプテンはそう気が長くねェんだからな!」

 

 ありありと苦笑を浮かべているペンギンの横で泣きそうに怒鳴るシャチに「わかってる」とミオも真面目に頷いた。

 クルーたちも無言で現在の状況と船長とを天秤にかけて決断したらしい。ジャンバールを筆頭に何人かのクルーが頷き、それに驚いたのはベポだ。

 

「でも、ミオだって危ないよ!」

 

 大将を相手に単身囮になって、それを撒いて戻ってくる。それがどんなに無茶な夢物語なのか、ベポにだってわかる。

 けれど、ベポの悲鳴めいた声にミオは首を振る。

 

「今、いちばん危ないのはこの船だよ。ベポたち、もといローを呼んだのは僕だし、エースたちを途中で落とさなかったのは僕のわがまま」

 

 もし、ミオだけが『ポーラー・タング』号に辿り着けば、ここまで集中砲火されることはなかったし、ジンベエたちを途中で白ひげ傘下の海賊団の近くで落とすことだってできただろう。

 でもそれをすることができなかったのは、この戦場で最も卓越した医療知識と技術を持っているのはローであるという確信と、エースたちの怪我のひどさを肌身で感じてしまったから。つまりは、エースたちには死んでほしくないというミオのわがまま。

 

「だから、責任を取らないと」

 

 ミオが『ハートの海賊団』と逃げおおせるチャンスを逃したのは──他でもない、自分なのだ。

 

 自業自得なら、責任を取らなくてはならない。彼らが無事に安全圏へ逃げおおせるよう、手助けをしなければならない。

 でないとミオはこの先、晴れて仲間になれる日が来たって自分が『ハートの海賊団』のクルーだ、と胸を張って名乗ることができなくなってしまう。

 

 それは、それだけは心の底から、いやだった。

 

 ベポはミオを見上げて、落ちてくる言葉を拾って、理解して、ぐすりと鼻を鳴らした。

 

「……すごく。すっごくわかりたくないけど、わかった。早くね。おれたち、先に行ってるから」

「うん」

 

 頷き、さてあとはこの船のキャプテン様と弟だけだとミオは二人へ口を開こうとしたのだが。

 

 それより早く、ローが怒号を上げた。

 

「おれたちがここまで来たのは、あんたを迎えに来たんだよ!」

 

 ローからすれば冗談ではない。同じルーキー同士の『麦わら』はともかく、『火拳』のエースもジンベエもなんら関係がない。

 

「その意味わかってて言ってんのか!」

 

 そんなのにミオの帰還を邪魔されるなんて、本人の望みだろうとはいわかりましたと頷けるはずがなかった。

 

「わかってる。わかってるけど、ごめん。お願い」

 

 ミオのローを見つめる瞳はどこまでも真摯で、ひたむきだった。

 

「ローはさ、お医者さんじゃん。()()()()()を間違えないで」

 

 トリアージ。患者の重症度に基づいて、治療の優先度を決定して選別を行うこと。今だけに絞っていえば、船の安否も含まれる。

 確かに『ポーラー・タング』号は『ハートの海賊団』旗揚げ以来の危機的状況といえる。これだけの海軍と大将から標的にされているのだから当然だ。

 ある程度の危険は織り込み済みでマリンフォードまでやってきたが、現実は想定をやすやすと超えてくる。

 この船を預かる船長として、クルーの命を抱えるキャプテンとして、ミオの判断が間違っているわけではないことは、わかる。わかるが、納得も看過もできない。できるわけがない。

 

 ミオを回収できないなら、ここに来た意味そのものが消失する。それでは本末転倒もいいところだ。

 

 反射的にローは眉間に思い切り皺を寄せ、さっきより大声で怒鳴った。

 

「ふざけんな! 馬鹿も休み休み言え! 大将にやられたらどうするつもりだ!」

「そっ、そん時はローが治してよ! 這ってでも追いつくから!」

「どんな怪我でも治すに決まってんだろ馬鹿が! だが追いつける保証がどこにある!!」

「なんとかする! 大丈夫!」

「ウソつけ信用できるか! なんだその左手! シオマネキみてェになってんじゃねぇか!!」

 

 秒と持たずに否を唱えてくるローの形相はあまりにも必死なもので、勢いで頷いてしまいそうな迫力があった。

 けれど、ここで折れるわけにはいかない。

 

「平気! ちょっと時間はかかるかもしれないけど、必ず追いつくから!」

 

 まだ痛みは遠い。勝算というには頼りないが、なんとかする算段もある。

 このまま『ハートの海賊団』に合流して諸共に死ぬより、全員生き延びる可能性に賭けたかった。

 

 互いの覚悟と我儘がぶつかり合い、火花を上げ、先に切れたのはローの方だった。

 

「ッ"ROOM"」

 

 おもむろに持ち上げた手から能力が唸りを上げる。ザッとミオの顔から血の気が引いた。

 まずい、能力で船内の何かと自分を入れ替える気だ。今度は前回のようにはいかない。気迫も覚悟も段違いだ。

 

「ロー!」

「らちが明かねェ。あんたをこれ以上戦場に置いて、いかせて──たまるか!!」

 

 怒りの煮える声だった。けれど、ひどく物哀しい響きだった。

 ローは二度も置いていかれるなんて御免だった。もう少しで手が届く。手に入る。たとえ世界でいちばん大切な少女がそれを拒んでいても、ここで折れるわけにはいかなかった。

 

 己の無力に咽び泣いた夜がある。

 

 骨さえ痛むような雪の夜。喉が枯れて涙が底をつくまで泣いて、わめいて、胸が軋んで、それでも歩くしか許されないことが苦しくてたまらなかった。

 

 もうあんな思いはいやだった。あの夜に空いた胸の空洞はようやく埋まろうとしているのに、それが叶う前に永遠に喪われてしまうかもしれない。それは底知れない恐怖で、絶望だった。

 

 全力で発動させた能力が虫の羽音に似た音を立てて船を覆い、もう少しでミオも射程範囲に入る。

 

 ミオはほんのわずか、迷うように視線をさまよわせたが、すぐにそれを引き剥がすように言葉を紡ぐ。

 

「本当にごめん、ロー」

 

 ローは聞いてくれない。当然だ。だって無茶を言ってるのはミオの方だ。そんなのわかってる。

 

 わかってるから、もう、これしかない。

 

 外道でも卑怯でも、使えるものすべてを使って、ただ、みんなで生きるための手段を。

 

「これを、ここで言うのはずるい。わかってるけど、でも、必ず追いつくから。僕のもうひと踏ん張りのために──ちからを貸して」

 

 そのくちびるが、吐息のように誰かを呼んだ。

 

 

「お願い、     」

 

 

 誰にも聞こえないはずのささやきが、けれど確かに届いた。

 

 こえなき言葉が、瞬きの間に消えてしまった(こいねが)うような眼差しが、ミオの望みを物語る。

 

 

 だから──()()()()()()()()()を押しのけて、ローの腕を掴んで扉の方へぶん投げた。

 

「ッな、コラさん!?」

 

 想像だにしていない方向からの強襲。

 よもやコラソンがそんな行動をするとは夢にも思っていなかったのだろう、ローの能力がふっつりと途絶えた。表情からありありと驚愕が伝わってくる。

 

「コラさん! なんで邪魔するんだよ!」

 

 けれどすぐに再び腕をもたげようとしたローに、車椅子を蹴倒すようにコラソンが飛び出してしがみつき、でかい図体を利用して羽交い締めにする。

 怒りに任せて全力でそれに抵抗しながら、ローはコラソンへも怒鳴った。

 

「あんたはいいのかよ!?」

「いいわけねェだろ!!」

 

 至近距離で反射的に怒鳴り返すコラソンの瞳には涙が滲んで、今にも零れそうだった。ローはそれに驚き、束の間思考が止まってしまう。

 

「いいわけねェよ! 行ってほしいわけがあるか! おれだって、おれだってなァ……!!」

 

 声には心底からの悔悟があって、ローを掴む手は震えていた。

 

 己の中の葛藤を封じ込めるように、コラソンの力がつよくなる。

 

 わなわなとくちびるを震わせ、絞り出された叫びは血を吐くようだった。

 

「けどミオが、姉様が、望んでるんだよ!」

 

 コラソンは、ずっと後悔していた。

 

 ミニオン島で、コラソンは自分の命はここで終わりだと思っていた。だから、末期の祈りにも似た願いを口にした。

 愛しい子供が、ローが珀鉛病を克服して大人になって、すごいお医者さんになる未来を夢に見て、眠るように逝けるのならば、こんなに幸せな終わりはないと思った。

 

 たとえそこに自分がいなくても、きっとそこにはミオがいる。それだけで満足できた。思い残すことなどなかった。

 

 だけど、だから──ローに救われて嬉しかったのは本当だ。

 

 ローと再会して、過ぎた年数に愕然とした。同時に、ミオがどれだけ骨を折ったのだろうかと考えて、気が遠くなった。並大抵、どころの努力では済まない。途中で心が折れなかったことは奇跡どころか半ば狂気の沙汰だ。半死半生の木偶の坊など捨て置けばよかった場面なんていくらでもあったはずだ。

 

 それでも絶対に諦めず、愚直なまでにひたむきに、十年以上の時をかけて、己のすべてでコラソンの思いに応えたミオ。

 

 そしてそれはきっと、コラソンに関わらなければミオが得られたはずのたくさんの幸福や、人との縁、そんな形にできない(たっと)い何かを犠牲にして──ようやく成り立たせることができた『奇跡』なのだ。

 

 生き延びたがゆえの贅沢な悩みと言われればそれまでだが、それでもコラソンは苦しかった。

 

 コラソンが口にした子供の駄々にも似た夢物語を、小さな姉は本当に実現させてくれた。叶えてくれた。

 

 だったら、今度はコラソンの番だ。

 

 たとえそれが、コラソンの意に沿わぬ願いであったとしても。

 

 たとえそれが、結果的にローの心を挫くような結末を連れて来るとしても。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……!?」

 

 だって、そうでなければ、それぐらいのことすらしてやれないなら──本当に、姉は報われない。

 

 それは、あんまりだった。

 

 だから。

 

「──行け! そんですぐ戻ってこい! おれはミオを信じる!」

 

 コラソンは顔を上げて、ミオを見つめてへたくそな笑顔を作った。

 

「言っとくけど戻って来なかったらおれが泣くし、ローも泣くからな!?」

 

 馬鹿みたいな最高の脅しにミオは短く吹き出して、明るく笑った。

 

「わかった! すぐ戻る!」

 

 シャチが双眼鏡片手に「キャプテン!『青キジ』だ!」と悲鳴を上げたのは、その時だった。

 表情を引き締めたミオが即座に足でボンチャリのハンドル真下にあるレバーを思い切り蹴り上げるとガコンッ、と音を立ててボンチャリの後部座席が外れて落ちた。

 そのまま思い切りハンドルを逆に回そうとした──ところで、一瞬だけ手を離して懐から何かを取り出して「エース!」放り投げた。

 

「!」

 

 放物線を描いたそれをエースは咄嗟に受け止める。小さな紙切れの束だった。適当にメモをちぎったかのような、無数の紙片が金属製のリングで綴じられている。

 

「それでみんなに合流できる! ロー! できれば()()()()もよろしく!」

 

 それだけ言って、今度こそミオはハンドルを思い切り回した。

 

 

 瞬間──轟音。

 

 

 遅れてやってきた衝撃波に海面から飛沫がぶち上がり、最初は爆発かと全員が思った。

 海兵の攻撃かと錯覚しそうになるそれは、ミオのボンチャリから発されたものだった。宣言通り『ポーラー・タング』号とは真逆の方向へ、近くに迫っていた軍艦の隙間をぶち抜き常識を逸脱した速度で疾走したボンチャリはもはや親指程度にしか視認できない。

 

 パンッ! パパァンッ!

 

 爆竹のような音が聞こえてくる。外れた後部座席から飛び出したいくつものパイプから噴き上がる、赤と青のまだらな爆炎が遠目には火花のように弾けていた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十一ノ幕.待つものたちにできること

 

 

「ッ、急速潜航! 海底だ! 急げ!」

 

 いち早く我に返ったローは咄嗟に能力を発動。甲板にいた全員を"シャンブルズ"で船内におさめ、自分で甲板の扉を閉めながら声を張った。

 一拍遅れて『あ、アイアイキャプテン!』と唱和が響き、こういった強制移動に慣れているクルーたちは慌ただしく動き始める。

 

 その間にローはコラソンを伴って手術用の部屋に移動して、何が起こったのかわからず呆けていたジンベエたちをざっと眺めて口を開いた。

 

「見たところ、いちばんひでぇのは『麦わら屋』だな。よく生きてるもんだ」

 

 ローはジンベエに抱えているルフィを近くの寝台に寝かせるよう指示を出し、いくつかの機材のスイッチを入れる。

 

「すぐ処置に入るから大人しくしてろよ」

 

 まぁさすがに動けねェだろうが、と言ったところで『注水完了!』と伝声管からクルーのくぐもった声が響いた。

 ほどなく、ぎしぎしと船体が軋むような音が全体に伝播し始める。水中に入ったのだろう。

 

「そりゃありがたいが、お前さんは一体……」

 

 ジンベエの問いに、ローは棚から何本ものチューブを取り出し、選んだものをコラソンに手渡しながら面白くもなさそうに小鼻を鳴らす。

 

「ミオが言ったろ。おれは医者だ」

 

 確かにメスや注射器、小瓶に入った薬剤を選び取るローの手に淀みはない。慣れた手付きから察するに、医者というのは本当のことだろう。

 

「そこがわかんねェ。お前、そこのでかいのもだ。ミオのなんなんだ?」

 

 先程ミオに託された紙切れを見つめていたエースが顔を上げて二人を睨めつける。警戒は当然だが、面白いものではない。

 コラソンとローは顔を見合わせ、先にコラソンが口を開いた。

 

「コラソンでいい。さっき聞いてただろうけど、おれはねぇ、いや、ミオの弟だ」

「おと……?」

 

 エースがコラソンの言葉を飲み込むのに数秒はかかった。

 

「……はああ!?」

 

 理解はできたが納得は無理だった。うすらでかい図体の男が弟。ミオの。意味がわからない。

 混乱するエースにローが畳み掛ける。

 

「トラファルガー・ロー。あいつは、おれのクルー(になる予定)だ」

 

 こっちはこっちでえらいことをしれっとのたまいやがった。

 

「はあああ!? なんだそりゃどういうことだよ! あいつは! おれの! 部下になるって予約入ってんだよ!」

 

 ほぼ瀕死のくせになんで元気いっぱいなんだこいつ、とローは眉をしかめながら口の端を吊り上げるという器用なことをした。

 

「生憎だがそりゃ無理だろ。そもそも『白ひげ』から勘当されてたじゃねェか、ミオのやつ」

「ぐっ……まぁ、そうなんだけど、よ」

 

 映像まで放送されてしまった痛恨の事実に歯切れ悪く口をもごつかせ、エースは俯いて手の中の紙束に視線を落とした。

 

 こんなものをあんな状況で投げて寄越してくる意図が読めなかった。

 けれど、手の中の紙片をもう一度確認して──その中に、不自然なほど縮んだ紙切れが混ざっていることに気が付いた。

 紙切れの中に混ざる親指の爪先ほどの小さな、本当に小さな、メモすらできないほどに小さな紙の欠片。それは炙られた虫のように身を捩りながら、エースの手の中で湯に落とした氷の速度で面積を縮めていく。よくよく見れば、そんな紙片はいくつもあった。

 そしてそんな紙束の中にひとつ、あまりにも見覚えのある筆跡の紙片を見咎めたエースはぞっと肌が粟立ち、同時に紙片の正体に辿り着いた。

 

 それを横から覗いたコラソンがつぶやく。

 

「それ全部、ビブルカードじゃねェか」

 

 命の紙。ビブルカード。

 それはミオがこれまで『白ひげ海賊団』から託されてきた信頼の証だった。ビブルカードには走り書きされているものが多かった。

 マルコ、エース、ハルタにイゾウ、ジョズにサッチ。隊長格の紙片の中に紛れるように、『白ひげ』のものまである。エースはそれが『存在している』ことに途方もない安堵を覚えた。

 

 ミオが投げてよこした理由が、エースにもようやく理解できた。

 

「『みんなに合流できる』って、そういうことかよ」

 

 てんでバラバラに撤退している者たちの安否が、これなら一発で分かる。その気になれば追跡も容易だ。

 

「マルコも、オヤジもサッチも……まだ、生きてる」

 

 きっと最初に千切られたときより随分とちびているだろうが、消えていないなら間違いなく生きている。

 

「……よかった、オヤジ……!!」

 

 エースはビブルカードの束を握りしめたまま静かに涙を零し──そのまま真横にぐらりと倒れた。

 

「ッエースさん!?」

 

 ジンベエが焦って肩を掴んで支えるが、エースは目を閉じたままぴくりとも動かない。意識を喪失しているようだった。

 

「緊張が緩んで落ちたか。ちょうどいい『海峡屋』、『火拳屋』をそっちのベッドに」

「あ、ああ」

 

 さばさばとローは告げて、ジンベエはなるべくそっとエースを寝台に横たえた。

 インペルダウンで蓄積されてきた疲労に加えて、これまでの連戦で負った怪我と疲弊を思えば、ここまで意識を保ってこられたことの方が不思議なくらいだ。

 

 それを横目で見るともなしに見ながら、コラソンは懐を探って紙片が存在していることに触れて確認して、ほっと息を吐く。

 

 ミオは生きている。少なくとも、今はまだ。

 

 ここまできたら、信じるしかなかった。

 

 コラソンはローから受け取った治療器具を持っている自分の手を見つめる。

 

「……」

 

──あのときの父の思いが、今ならわかる気がした。

 

 加勢する力もない、無力で不甲斐ない自分が情けない。それでも請われたのだから、応えるしかない。

 

 それだけがミオの望みであるのなら、最後になるかもしれない願い事を跳ね除けることなんて──できない。

 

「……ロー、ごめんな」

「謝んな。コラさんは悪くねェよ」

 

 コラソンの謝罪に、ローは手術用の手袋をはめながらそっけなく返した。

 

「悪いのはどう考えてもミオだからな。患者だけ放り込んで面倒増やした挙げ句に、本人はまた突っ走って結局合流すらできてねェときた」

 

 冷静に考えてもなんだそりゃという話である。

 文句も不満も山程あるが、それは本人にぶつけるために溜めておくしかない。あとで覚悟しろよと思う。とりあえずしぬほど説教して輪切りにする。絶対にだ。

 

 それから、

 

「……あいつの治療はとびきり痛くすっから、それでいい」

 

 返していない心臓は元気に脈打っている。心配も憤りも不安もあるが、ローとてわかっていた。もはや事態が覆せないのならば、信じるしかない。

 

 自分にできることを、するしかないのだ。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 海底へと急速潜航する『ポーラー・タング』号は、当然『青キジ』の攻撃を受けていた。

 

 極寒の冷気が海面から海中へと小さな潜水艦を猛追する。

 

 無数の砲弾と急速冷凍されていく海中を逃げ惑う潜水艦は、持ちうる技術すべてを駆使して全力で海底を目指していた。

 それでも、おそらく『青キジ』も全力なのだろう、海水の凍りつく速度は尋常ではない。音を立てて凍りつく氷の柱が、潜水艦を囲う檻のように形成されつつあった。

 このままでは氷の檻に閉じ込められる方が早いかもしれない、とクルーたちは冷や汗をかいていたのだが、ある一点を過ぎた途端だった。

 

 嘘のように『青キジ』の攻撃がゆるんだ──ようにクルーには思えた。

 

 凍りつく速度があからさまに遅くなり、凍った端から溶けていってしまうので『ポーラー・タング』号にはかろうじて氷が届かない。

 これ幸いにとクルーたちは『ポーラー・タング』号の速度を限界まで上げ、それが嵩じてなんとか危険区域からの脱出に成功することができたのだった。

 

 ……クルーたちは軒並み逃走することにいっぱいいっぱいで気付いていなかったのだが、『ポーラー・タング』号の真上ではとある潮流が常に蛇行していた。

 

 それは政府の軍艦のみが通行を許されている潮流で、一般には『タライ海流』と呼ばれている。

 

 それは常に動き続ける底深い水路だ。力強く船を運ぶ水の動きはそれに比例して強く、影響は当然海の底深くまで波及している。

 

 

 『青キジ』の攻撃を、渦巻く水脈(みお)が押し流し、防いで、邪魔をして、『ポーラー・タング』号の航路を拓き──導いていた。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 マリンフォードのほど近く。周囲の軍艦が認識するにはまだ間があるが、気付かれるのは時間の問題だろう。

 

 気付かれたところで構わない。むしろ連絡する手間が省けて結構だ。

 

 乗船している誰も彼も、海軍からの攻撃や轟沈の可能性など欠片も考えていない。その海賊船はそれだけの異名を轟かせている。

 竜を象った船首をした、赤を基調とした船体のてっぺんで左目に3本の傷がある髑髏の旗がひらめいている海賊船とくれば、それは『レッド・フォース』号しかありえない。

 

 その甲板では『赤髪海賊団』のクルーたちが揃って同じ方向を見つめている。

 

 彼らは、この戦争を終わらせるためにここまで来た。

 

「見えるか?」

 

 その中で船長である新世界で名を馳せる『四皇』のひとり、『赤髪のシャンクス』は甲板から物見台へと声をかける。

 『赤髪』の異名通りのワインレッドの髪に片腕の偉丈夫の問いに、物見台で双眼鏡を覗き込んでいる狙撃手──ヤソップは短く答えた。

 

「終いっぽいんだが、どうにも掴めねェな……せめて、もう少し戦塵が晴れてくれりゃあなァ」

 

 それは、この戦争で駆り出されるであろう人数と能力者のお歴々を鑑みれば無理からぬことである。

 

「そうか」

 

 さして残念そうでもなく返事をしたシャンクスはマリンフォードへと視線を移し、けれど何かに引っ張られるようにがばっと天を仰いだ。

 そのまましきりに瞬きを繰り返し、ややあって目の前に映っている光景が幻覚でもなんでもないことを知り、口を半開きにして唖然とした。

 

「おいおいおい、どういうことだよ。こりゃあ」

「お頭?」

 

 その妙な動きに傍らの副船長──ベン・ベックマンが訝しげに声をかける。

 シャンクスはベックマンの声を聞いているのかいないのか、甲板の一点を示しながら慌ただしく片腕を振った。

 

「お前らそこから離れろ!」

「はァ?」

「どういうことでさ?」

 

 唐突かつ意味のわからない命令で目を白黒させるクルーに、シャンクスはなおも珍しく焦り顔でがなった。

 

「早くしろ! さもないと()()()()()()ぞ!」

『いッ!?』

 

 その物騒極まりない台詞にクルーたちは瞬間的に飛び退き──ちょうど開いたその空間めがけて、上空から何かが猛烈な勢いで落下した。

 砲弾でも落ちてきたような凄まじい衝撃で船体が激しく揺れ、木片の焦げ付くような臭いがクルーたちの鼻をつく。

 

「なんだぁ……──ッッ!!??」

 

 だが、衝撃そのものより、その落下物の正体に対しての驚愕の方が大きかった。

 

『あ、『赤犬』!?』

 

 落下物は海賊にとっての不倶戴天の敵、その中でもとびきりの危険人物──海軍大将『赤犬』だった。

 さすが自然系といったところか大きな怪我はなさそうだが、仰向けになった身体を押さえつけるように、甲板の床板を巻き込んでまるで猫の肉球のようなかたちに凹んでいるのが奇妙である。

 

 咄嗟に戦闘態勢になるクルーたちを軽く手を振って制し、シャンクスは『赤犬』の前に歩み寄った。

 

「招かれざる客ってのは、こういうのを言うんだよなァ。なぁ、『赤犬』」

 

 一方の『赤犬』は、意識まで失っていなかったのか即座に跳ね起き、(おこり)のように身体を震わせながら地鳴りのような声を上げた。

 

「~~!! あ、の、ゴンタクレのくそ餓鬼がァアアアッ!!」

 

 骨すら残さず溶かし尽くすような、それは怨嗟の咆哮だった。

 

 一体全体、なにをされたら人間ここまで憤怒を溜めることができるのだろうか、と勘ぐりたくなってしまうほどの赫怒の形相。こめかみに浮かぶ血管はおどろに膨れ上がり、激情に支配され尽くした視界には自分の落下地点すら映っていないらしい。

 シャンクスの存在すら認識できていないのか、『赤犬』の放つ激怒と殺気の塊がびりびりと周囲に伝播して船体そのものすら怯えているようだった。

 

「ようも、ようも邪魔してくれたのう……あの餓鬼、あのくそ餓鬼はわしが必ず殺す! ドラゴンの息子ども諸共、わしが地獄に落とさんと気が済まん!!」

 

 口にしたことで激昂に燃料が追加されたかのように『赤犬』の足元が焦げ付き、熱泥と化す瞬間には『赤犬』はすでに甲板から跳躍していた。

 そのまま活火山の噴火のような小刻みな爆発を利用して空中を砲弾のように駆けながら、八つ当たりのように四方八方へ火山弾を撃ち出している。あちこちから爆熱の残滓が漂い、野放図に放たれた火山弾が海面と衝突して派手な飛沫と蒸気を上げる。とんだ災害兵器だ。

 

 どうやら足場にした『赤髪海賊団』の存在は最初から最後まで気付かなかったらしい。時間にしてみれば数秒にも満たない僅かな間ではあったのだが、ここまで相手にされないとなるとある種の感心すら浮かんでしまう。

 

「ありゃあ……相当お冠らしいが、だからっておれたちすら眼中の外か」

 

 何があったんだかなぁ、とシャンクスは飛んできた流れ弾を一刀のもと切り裂きながら呆れ顔である。

 『赤犬』怒りの拳骨火山弾は未だ降り止まず、ひっきりなしに爆音が轟いてくる。海面が衝撃で頻繁に波濤を上げるものだから『レッド・フォース』号どころか近海の軍艦すら進退に難渋しているようだ。

 ベックマンも似たような顔で相棒のマスケット銃をくるりと回した。

 

「一発くらいいっとくか?」

「いいさ。どうせすぐに会う」

 

 シャンクスはそう言って、考え込むように眉を寄せた。

 これまでの経験上『赤犬』は確かに逆上しやすい方だが、だからといってあの怒り方はどう考えても異常である。『徹底的な正義』を掲げる『赤犬』が、果たして『赤髪海賊団』の存在すら視界の外に追いやるほどの怒りを抱えるような事態となると、さすがのシャンクスでも見当がつかない。

 

 ……能力者である『赤犬』が『レッド・フォース』号に墜落したおかげで命拾いした、なんて事実を認めたくないがために無意識に意識下から排除していた。なんて可能性ならまぁ、なくもない。結果論としてではあるが、これほどの屈辱は、潔癖のきらいがある()()海軍大将様には許し難いだろう。

 

 そうでないなら、あとは──『あほほど煽られた』くらいの、それこそ馬鹿みたいなことしか思いつかない。

 

 立場的に『赤犬』へ物申す輩なんてそうそういないうえ、煽り慣れていても煽り返される経験は少ないだろう。

 海軍の戦略を徹底的に邪魔しまくって苛々させて、最高潮になったところで軍にとって後ろ暗くて痛いところを的確に小突いて煽り倒し、逆鱗にとどめでも刺せば、あるいは。

 

 ただ、そういうこすっからくて地味で目立たない嫌がらせをこつこつ繰り出せるような酔狂者が『白ひげ海賊団』には……。

 

「いたわ」

 

 脳裏で唐突に、とびきりお人好しだが身内意識が高すぎて一旦敵認定すると己の持てる手段を駆使して全力で嫌がらせする、無自覚に嫌いなやつの地雷をぶち抜くタイプのちびっこがピースサインしている図が浮かんだ。

 

 『白ひげ』は戦争に参加させるつもりなど毛頭なさそうだったが、シャンクスは本人の気質を知っている。あれは救うべき身内を見定めたら、誰が反対しようがなりふり構わず参戦するだろう。絶対に止まらない。可能性だけなら、じゅうぶんある。むしろ高いぐらいだ。

 

 シャンクスのつぶやきはごく小さいもので、隣のベックマンには幸いにも聞こえていなかった。

 

「なにか言ったか、お頭?」

「いんや。ただ、もしかしたら……おれたちの出番はねェかもな」

 

 今の『赤犬』の様子やマリンフォードから感じる気配から、シャンクスは思ったことを口にする。

 

「それなら、その方がいいだろう」

「そりゃそうだ」

 

 ベックマンの正論にシャンクスは苦笑して肩をすくめ、甲板の床板の修繕を部下に命じた。どのみちマリンフォードに行かなければなにも分からない。

 

 それより、甲板は船乗りの誇りだ。焦がされたままでは格好がつかない。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終ノ幕.求めたひとつの、なれのはて

 

 

 風が頬に当たって鋭い痛みが走る。鼻先が冷たい。息が苦しい。

 

 足元は海面ギリギリだ。

 

 ひしめく軍艦の隙間を奇跡的にすり抜け、広い海へ。流星のように、疾風のように、弾丸のような速度で改造ボンチャリが走る。否、走るというよりもはや真横に吹っ飛んでいるといった方が適切だ。

 改造ボンチャリに残った最後の機能。魔改造の果ての究極の悪ふざけ。残っていた衝撃貝と噴射貝もろもろすべてを組み合わせて作り上げた、圧縮空気を衝撃波とともに瞬間的に開放する疑似エグゾーストキャノン。

 

 その威力は絶大だった。絶大すぎてボンチャリの方が壊れそうだ。こんなの派手な自爆である。

 

 ともすれば意識すら持っていかれそうになる中、抵抗するように僕は必死でがなっていた。

 

「エースのばああああッッかああああ!!」

 

 というか、大声で愚痴っていた。

 

「なんで! あそこでついてくんの!!! もう馬鹿! くそばか! ふざけんなよおおおおおお!!!」

 

 だってそうだろう。あそこでエースがこっち来なければ、こんなわけわからん賭けに出る必要なかったのだ。

 ルフィくんのこととか考えちゃって振りほどけなかった僕も悪いが、全面的に悪いのはエース。そうでも思わないとやってられない。

 

「ビブルカード渡せたのだけはね! よかったけど! それにしたってさぁ!」

 

 ビブルカードをエースに渡せたから、これでもう、『モビー・ジュニア』にはなにもない。

 

 手紙もメモも海図も航海日誌も燃やしてしまった。書架は売り払い、エターナルポースはぜんぶ叩き割って海に捨てた。電伝虫も出発前に野生に返してしまったし、財産だって僅かな現金を残してシャッキーさんの店で借りていた部屋に置いてきた。

 

 だから、この戦争に臨んだ時点で『モビー・ジュニア』にあったのは、食料など最低限の荷物とボンチャリ、そして医療器具だけだった。

 

 がらがらになった『モビー・ジュニア』は、僕がはじめてこの船に足を踏み入れたときとはまったく違っていた。なんだかとてもからっぽで、びっくりするほどさびしかった。無性に泣きそうになったけれど、どうしても必要な措置だったから仕方がなかった。

 

 もし、『モビー・ジュニア』が海兵に奪われてしまうような事態に陥ったとしても、万に一つだって『白ひげ海賊団』へ辿り着くことがないように。……結局あそこで『モビー・ジュニア』は壊れてしまったから、僕の判断は間違ってなかったといえる。

 

 処分にあたり、いちばん困ったのはビブルカードだった。濡らそうが燃やそうが消失しない命の紙は保存に便利だが処分に難渋する。海兵の手に渡ったら最も困るものなので、迂闊なこともできないし、こうして信頼できる人間の手に渡すことができてよかったと思う。

 

 だからって、よかった探しにも限度ってもんがある。

 

 だって、僕だって、僕だってさぁ……。

 

「僕だって! ローと! コラソンと! ハートのみんなのところに! 帰りたかった!! 帰りたかったに決まってんじゃんかぁああ!!!」

 

 掛け値なしの本音だ。

 

 そのために頑張って、歯を食いしばって、ぎりぎり死なずにここまで来たのに。結局突っぱねなきゃいけなくなって。

 

「そんで二人に! いっぱい、謝って! これからは、ずっと、いっしょだって……!」

 

 そう言って、抱きしめて、ローにぶつぶつ文句言われながら怪我治してもらって、お説教されながらコラソンとご飯食べて、たくさんおしゃべりしたかった。

 

 けど、僕のせいでローたちまで轟沈したらと考えてしまったら、そんな弱音も本音も後回しにするしかなかった。

 

「話すことも、話したいことも、いっぱいあるんだよ……!」

 

 あふれてくる悔しさを誤魔化すようにぎりっとくちびるを噛みしめたら血の味がした。

 

 僕とローが再会して、一緒に過ごせた時間はまだほんの少しで、コラソンなんかもう分にも満たないぐらいで。

 

 足りない。足りない。なんにも足りてない。だから早く帰りたい。そのために今頑張るしかない。そのためのひと踏ん張りだ。気合だ。

 

 わかってるから、現状の不満を怒鳴り散らすことくらいはせめて、勘弁してほしいところだ。

 

「だから、はやく、かえりたいよぉおおおおお!!!」

 

 肺の酸素が空になりそうなほど叫び、不意に第六感に響くものがあった。

 

 反射的に身体ごと振り向いて──ぞっとした。

 

 エグゾーストキャノンの効果は抜群だった。この速度では『青キジ』は追いつけない。どころか、これに追いつける船だっていない。

 

 けど、『速度』に関してならば誰にも負けない、他の追随を絶対に許さないものがたったひとり、いる。

 

 視界の端で閃くものが見えた。

 

 自分の頬がひきつるのが分かる。『黄猿』だ。ほんとに釣れたよ。ひとり釣れたら御の字と思っていたが、いざ明確に狙われているとなればその緊張は段違いだ。

 文字通り光の速さで追いかけて来ている『黄猿』を退けるには、どうすればいいのだろうか。かなりの距離があるが、そんなのすぐに詰められてしまう。なんせ相手は光速だ。

 

「はは」

 

 変な笑いが漏れた。というか、笑うしかできない。全身から冷たい汗が噴き出して、呼吸が耳障りだ。

 空間を固定して明後日の方に反射できないかと考えたけど、僕が認識して固定するまでのタイムラグで確実に死ぬ。

 

 そこで天啓のように脳裏に閃いたのは、さっきのマルコさんとビスタさん。ビスタさんは刀身の反射を利用して光弾を弾いていた。

 

 光と化している本人に、それができるだろうか。そもそも僕にそれを為せるだけの技倆があるかどうか。

 

──否、ちがう。

 

 できなくたって、やるしかない

 

 そうでなきゃ、僕は帰れない。

 

 そのためなら、なんだって。

 

「できる」

 

 自然と心が静かになる。肚が決まって、腰が据わる。

 

 左手をハンドルに固定していてよかったと心底思う。

 

 柄に触れて、握る。指先が馴染んでひとつになる。これまでずっとずっと、細胞の奥に染み込むように鍛錬してきた。一日だってサボッたことはない。それを信じる。僕は僕を信じて、いのちをかけて博打に出る。

 

 一点賭けだ。

 

 鯉口を切る。引き抜いて、神経を研ぎ澄ます。晒した刀身がぬめるような煌めきを放っている。

 

 高速と光速。

 

 勝負は瞬きの間につくだろう。

 

 すべての音が遠ざかる。景色が止まっているようだ。

 

 感じ取れるものがある。空気に混じり、空間に混じり、いっさんに駆けてくる存在がひとつだけ。怒りと焦燥。憎悪と敵意。殺意を含んだ正義を掲げる矛盾のひかり。

 

 

──それを。

 

 

 ふと、頭の中がからになる。

 

 

──いま。

 

 

 刹那にも満たない時間だった。

 

 けれど見えた。光の線。

 

 それがかざした刀身にぶつかって、折れ曲がって、明後日の方向に消えた。

 

 光速で近づいてきたのだから、遠ざかるのだって光速だ。人に戻るのも間に合うまい。あくまで人の意思で姿を変えているのだから。

 

 異様な軽さに視線をずらすと刀身が半ばからぽっきり折れていた。

 

「ごめんね、庚申丸」

 

 気づけば、エグゾーストキャノンの効果もそろそろ切れようとしていた。徐々に速度が落ちている。

 刀身に額を押し当て、万感の思いを込めてささやく。

 

「今まで、本当に──ありがとう」

 

 みんなに合流して、落ち着いたら弔ってやらなければならない。ここまで一緒にきた相棒の喪失は悲しいが、お別れができるのは幸いかもしれない。

 

 悲しむのも惜しむのもあとだ。ここでぐずぐずしてはいられない。

 

 もう一度『黄猿』が追いついてくる前に、なんとか合流しなければ。海中は能力者にとって魔女の釜の底。『ポーラー・タング』号に拾ってもらえれば、勝機はある。それだけを今は考える。

 

 鞘に庚申丸をおさめ、僕はハンドルを握り直した。

 

「もうちょっと走ったら、軍曹いっかい潜ってみてくれる?」

 

 返事代わりに背中をタップされながら、方向を定めようと海面の様子を見つめる。

 

──このとき、僕は完全に油断していた。

 

 最大の脅威をなんとかいなすことができたと安心していた。安堵してしまっていた。

 

 だから、気付くのが遅れてしまった。

 

 それが致命的な僕の──しくじりだった。

 

 唐突に、突然に、上空から飛来した拳を模した溶岩の塊。

 

 

 気付いた時にはもう、遅い。

 

 

 迫ってくる。

 

 ひどくゆっくりと、憤怒の拳が迫ってくる。

 

 咄嗟に空間をいくつも『固定』したが、ろくな集中もできなかった空間の壁をそれはめきめきと破り抜きながら押し寄せて、僕ごとボンチャリを無慈悲に押し潰した。

 

「──」

 

 海水が猛烈な勢いで蒸発する音がする。何かにひどく身体を引っ張られた。

 

 視界が暗くなって、感覚が錯綜する。

 

 捻れて、軋んだと思った。そしたらずんと重くなった。かぁっとお腹が熱くなって、引き千切れんばかりの激痛で声も出ない。喉がごぼりと音を立てて、海中なのかと遅れて悟った。

 潰れたなと思った。骨どころか、肉がつぶれて、挽かれたかもしれない。麻痺したように身体が動かない。

 

 ああ、どうしよう。また怒られる。心配もさせちゃうなぁ。はやく合流しなきゃいけないのに、なんでこう、うまくいかないんだろう。ままならなくっていやになる。

 

 ……せっかく、せっかくここまで来れたのになぁ。

 

 やるせないなぁ。しんどいなぁ。

 

 どうしよう。困った。困るよ。どうしよう。

 

 

 これ、ローでも治せるかなぁ……?

 

 

 

×××××

 

 

 

 『赤犬』が苛立ち紛れに撒き散らした火山弾は、本人も知らぬ間に『赤犬』がこの世で最も憎悪している少女を撃墜していた。

 

 それは大海に逃げた小魚に石を当てるぐらいの馬鹿みたいな確率で、本当に偶然の産物で、そういう意味でミオは究極的に運が悪かった。

 それまでの戦争においてやらかしてきた無茶無謀の数々で運を使い果たしたツケが回ってきた、といってもいいかもしれない。

 

 嵐のような狂乱が過ぎ去った海はいちぶが騒がしく、いちぶは静かだった。

 

 戦争の舞台となったマリンフォードの湾内、及びその周辺は戦後処理の軍艦や運悪く残っていた海賊船などで慌ただしく、まだ騒乱の気配が漂っている。

 

 静かなのは、今回の戦争から逃れるために海兵たちが避難させていた住民たちの居住区の周りである。

 

 海面には大小さまざまな木片や瓦礫の欠片、ときにちぎれた腕や誰かの靴、轟沈した海賊船のものらしき髑髏のついた旗などのガラクタが浮かび、無数の土砂と血肉を巻き込んだ海中はにぶい土色に濁ってすこぶる視界が悪い。海兵たちもまだ手が回らない箇所ということもあり、漂っているのはさめざめとした潮騒と船の屍体ばかり。

 

 現実にまろびでた地獄のような光景の中に、ぽつんと、小さな白いものがあった。

 

 かろうじて浮力の残る木片に、小柄な体躯が寝そべるように浮かんでいた。そして、それに寄り添うように──守るように、大柄な蜘蛛が木片を支えている。

 

 ミオと軍曹だった。

 

 うつ伏せのままぴくりとも動かないミオの意識は完全に喪失している。けれどまだ、ミオはかろうじて生を維持していた。それは軍曹の功績だった。

 

 あの、『赤犬』の落とした火山弾が直撃する寸前、軍曹はとっさの判断でミオを海中へ引っ張り込んだのだ。おかげで二人とも即死だけは免れたが、代償は大きかった。

 

 ボンチャリは全壊し、軍曹はその脚の半分を喪った。

 ミオも文字通りの虫の息だ。胸から腹にかけての傷は肉が抉れて、おそらくは内蔵まで達している。軍曹が糸でできる限りの止血を施してはみたが、血液はじわじわと糸を超えて海中に染み出している。かすかに生きてはいるが、それだってなにかの気紛れか奇跡のようなものだ。

 

 奇跡が尽きた瞬間、ミオは死ぬ。

 

 軍曹も脚を喪ってしまったために思うように動けず、海流に流されるままにこんなところまできてしまった。『ハートの海賊団』捜索のために海底まで行きたいのは山々だが、この脚ではそれも難しい。

 それに、ミオも能力者のせいなのか、軍曹が木片を支えていないとすぐに海に引きずり込まれそうになるのだ。これでは迂闊に動くことすらままならない。

 

 今、ミオに必要なのはローだと誰より分かっているのに、それができない我が身が歯痒かった。

 

 人間はとても脆いのだ。軍曹はそれを知っている。軍曹の脚はもげたところで時間が解決してくれるが、人間は、ミオは、そうはいかない。

 

 ミオの呼吸は細い。糸のようだ。体温も低く、失血も多い。顔色は髪色と競うように白く、死蝋のようだ。これ以上水に漬けていたらミオの体力が底をつく。海兵に見つかっても殺される。誰も助けてくれない。助けてくれる人間との合流は絶望的だ。これでは、わざわざミオを苦しませる時間を長引かせているようなものだ。

 

 八方塞がりだった。

 

 それでも軍曹はなんとかしたかった。軍曹にとってのミオは、最初で最後のともだちで、かけがえのない相棒だった。

 

 軍曹には仲間と呼べるものがいない。本来のフクラシグモは確かに海王類すら餌にする凶悪な蜘蛛だが、ここまで賢くなったりしない。軍曹は、フクラシグモの中でもとびきり異形の成長を遂げてしまった、極めつけの異端だった。

 

 軍曹のナワバリにしていた海域は、ある時、周囲の島ごと空中に浮かび上がってしまった。

 

 その時の軍曹はただのフクラシグモで、周囲の環境変化に思うところなどなく、本能の赴くままに獲物を狩って貪っていた。海を切り取られたため、ナワバリは激減したが雑食だから食事には困らなかった。島にはさまざまな動植物があふれ、気の向くままに果実を、花を、魚を、動物を食べて暮らしていた。

 

 変化が訪れたのは、ある時期を境にやたらと襲いかかってくるようになった凶暴な獲物を返り討ちにして食べ続けていた頃からだ。

 

 それは本当に突然の出来事だった。あまりにも唐突に視界が広がり、思考が芽生えた。みるみるそれは明瞭になり、獲物を食べるごとに増していくようだった。

 

 その島の名は、『メルヴィユ』といった。

 

 そこは、かつての『海賊王』と雌雄を決した『金獅子のシキ』が舞台に選んだ巨大な実験場。

 シキ子飼いの研究者、Dr.インディゴの実験によって進化を促す薬剤を投与され凶暴化した動物たちを捕食し続けた軍曹は、その屍体から微量の薬剤を摂取し続けることになり──結果、その脳は異常なまでの進化を遂げてしまった。

 

 蟲にあらざる思考回路、そして理性を会得してしまった軍曹は以前のフクラシグモとしての生活を送れなくなっていた。もはや自然とともに生きるには、軍曹は賢くなりすぎてしまったのだ。

 

 あの島の異常性すら察せられるほどに進化を遂げてしまった軍曹の居場所は、もはや『メルヴィユ』には存在しなかった。たまに見かける妙な連中に気付かれて捕縛されたらと考えたら、空中庭園と化していた『メルヴィユ』からの脱出を試みるまで、そう時間はかからなかった。

 

 そして飛び降りた途中で嵐に遭い、流された先で出会ったのがミオだった。

 

 ミオは軍曹を恐れず、異様に賢しいことにも頓着しなかった。あちこち抜けていて、適当で、雑で、名前をくれて、相棒と呼んで、一緒にご飯を食べてくれた。

 

 月日を過ごす内に、ミオの心の奥底にあるおぞましさや、いびつさに気付いた。『白ひげ』がミオを『魔女』と称したが、これほどぴったりな異名もないかもしれない。ミオの中身はいつだって穴だらけで、空っぽで、不均衡で、でこぼこだったから。

 

 それでも人を愛し、誰かのために『人間』であろうと足掻く姿は滑稽で、醜く、そして尊かった。

 

 人にあらざる魂を抱えたままひたすら『人間』たらんとするミオと、もはや蟲にあらざる魂と成り果ててしまった軍曹。

 

 こんなにも広い世界で出逢った魂の同胞の存在に、軍曹は心から感謝した。

 

 だから、軍曹はミオと生涯一緒にいようと誓った。誰でもない、己の心と魂に。

 

 だから、こんなところでミオに死んで欲しくなかった。まだまだ一緒にいたかった。だけど、けれど、どうすればいいのかが分からない。ここにはミオの味方がいない。軍曹だけではミオの零れ落ちそうな命を掬い出せない。助けて欲しいと、誰に祈って、願って、請えばいいのか、神を知らない軍曹にはわからない。

 

 それでも何かせずにはいられなくて、いてもたってもいられず、軍曹はミオを糸で木片に固定して、祈るような思いで一度だけ潜水した。

 

 瓦礫をのけて、土砂をかきわけ、濁った表層を越えて、海の底、深海を目指して、ひたすらに下へ、下へと。

 

 ミオの安否も気にかかるため捜索は数十分程度で、目立った戦果は得られず、暗澹たる気持ちで軍曹は木片に繋いだ糸を辿って海面を目指し──その糸が、瓦礫同士に押し潰されて千切れていることに気付いた。

 

「──!!」

 

 例えようのない恐怖と不安で全身の産毛が逆立ち、全力で海面へ浮上した軍曹が見つけたのは先程までミオが倒れ込んでいた木片と、その木片にべったりと残る血溜まり。

 

 その血溜まりには、いくつもの()()()()()が付着していた。

 

 

 

×××××

 

 

 

 『彼』がその存在を見つけることができたのは、まったくの偶然だった。

 

 戦争の終焉を見届けることもなく、『上』の命令に従ってとある人物を血祭りにあげた帰り道。

 

 これ以上の騒ぎに巻き込まれるのは御免だったから人気のない居住区の端から、空に浮かぶ雲に己の能力で糸をひっかけて移動を始めて──それに気付いた。

 

 最初はただの土左衛門かと思い、素通りしようとして、けれど第六感に訴えるものがあった。

 

 それが不思議で、不審で、改めて近づき、確認して、それが棺桶に片足どころか身体ごと半分ぐらい突っ込んでいる己の最愛の『家族』であることに、全身の産毛がそそけ立つような驚愕を覚えた。

 

 それからのことは無我夢中で、彼自身あまり覚えていない。

 

 止血に巻かれていた布のようなものを切断して、溢れ出す血液の隙間を縫うように己の能力を最大限に使用して患部へと潜り込ませた。

 無数の糸が単細胞生物のように撚り集まり、繋がり、それはどんな腕のいい医師すら到底敵わない集中力を以て慎重に、繊細に、緻密に進められた。

 

 血は水より濃いとはよくいったもので、彼と実の血縁関係にあるためか、患部との馴染みは抜群に良かった。彼はその場でできる限りの措置を施し、欠けた内蔵を織り上げ、肉を捩り、神経を紡いで皮膚を覆った。

 

 そして、彼は最後に患部どころか小さな全身を繭のようにぐるぐる巻きにして硝子細工でも扱うような繊細な動作で胸元に抱え込み、全速力でその場を離れた。

 

 行く先はとりあえず近海に停泊させている自船、ひいては彼の統治する国である。

 

 

 約束通り『盛大なおもてなし』をしてやるから、どうか死んでくれるなと──ドフラミンゴは腕の中のミオを、もう一度抱きしめた。

 

 

 ……このとき、ドフラミンゴはふたつほどミスを犯していた。

 

 

 ひとつは、本人は気付いていなかったが、彼の能力が半ば暴走していたこと。

 

 胸が焼けて爛れて膿んでくじれてしまいそうな戦慄と焦燥と怒りと不安と憎悪と惑乱の只中、ドフラミンゴは文字通り、己の持ちうる能力のすべてをその小さな体躯に空いたおおきな穴へと注ぎ込んだ。

 感情によって振り幅を左右される悪魔の実の能力は、まさしく悪魔の如き権能を発揮して欠けた臓器や筋繊維、皮膚や血管といった患部の隅々にまで浸潤し──その全てを見事に修復してしまった。

 

 それは『赤犬』の攻撃で喪ったもののみならず、ミオが()()()()()()()()()()()()()()までも。

 

 

 そしてドフラミンゴの犯したもうひとつのミスは──突然激減したビブルカードに泡を食ってむりやり浮上した、とある海賊船のとあるクルーが、空を渡って自船へと降り立とうとする彼を双眼鏡越しに目撃していたことだった。

 

 

 

 




これにて『頂上戦争編』は完結となります。
えらく中途半端なのは仕様()なので、ご寛恕頂ければ幸いです。

皆様、ここまでのお付き合いありがとうございました!次回シリーズはまだネタを練っている段階なので、のんびりとお待ち頂ければ幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

失せ物探し編
零.墓標とゆびきり


お久しぶりで申し訳ありません…;;
なんとか話数が溜まったので、しばらくは連続更新いたします。


 

──落ちていく。

 

 

 落ちていく。

 

 落ちていく。

 

 ふんわり、落ちていく。

 

 ここはどこだろう。これはなんだろう。わからないけど、ただ、ただ、落ちていく。

 

 落下。重力。引力。そういう何かとは、べつのもの。

 

 だけど、沈み込むような。深く、深く。どこまでも、引き込まれるような。

 

 夢か、現か、それすらも判然としない。

 

 そういえば、と。

 

 いつかのどこかで聞いた、無呼吸ダイバーの話。海で下へ下へと潜ると抵抗が途中でなくなり、ある一点で引き込まれるようになるのだそうだ。

 

 ただ、底へと。

 

 落ちる。落ちていく。

 

 ただ、ただ、底の方へと。

 

 闇のような、夜のような。慕わしいけど、どこか馴染めない。妙な感じ。

 でも、怖くはない。ただ不思議だなぁ、と。それだけを思う。

 

 まわりには、無数の輝きのかたち。

 泡みたいな、流し込んだ水の中できらめく小さな粒。煌めいて、儚くて、もろい、だけどあたたかいもの。

 

 ほろほろして、ふわふわして、綺麗。なんだろう。

 

 仄青くてあかるい色がとりまいて、流れて、こぼれていく。

 コーヒーに落とした角砂糖がくずれて、とろけて、消えるみたいに。それはひとときまたたいて、きらきら光って、ふつりと消えていく。

 

 雪のように。歌のように。

 

 いのちの──ように。

 

 僕はなんだかそれが、さびしかった。わけもなく悲しくて、苦しかった。

 

 ……さびしい?

 

 ああ、そうか。そっか。そっかぁ……。

 

 青。青い色。それは空いっぱいに広がる色で、僕らのさいはての色。

 

 僕は、旅をしていた。

 

 そんなに長い旅じゃなかったけど、僕にとっては一生分の旅。

 

 奇妙な世界で出逢った小さな子供。女の子。茶色いおかっぱ頭がよく似合う、まっすぐで可愛い子。その子と交わした約束をひとつだけ抱えて、僕は『彼ら』についていった。

 女の子の大事なものは家族で、ともだちで、自分を育んでくれた土地だった。それを守ることが、僕たちの交わした約束。僕はみんなみたいにはなれなかったけど、目的は同じだった。

 

 奇妙な世界で出逢った『彼ら』。大切な仲間たち。刀を未だ腰に携えた人斬りたち。彼らは、戦が欲しくてたまらなかった。己の力を真に活かせる地をのみ求めていた。狂わんばかりに、欲していた。

 

 だから、窮状に喘ぐ農民たちに請われるままに彼らは頷いた。あまりにも無謀で傲慢で、此の上なく真摯な頼み事。ひたすらに蹂躙されることに耐えかねた嗚咽と報仇の全てを、農民たちは彼らに託したのだ。

 それは実際に命を賭すこととなった者たちにとって、目眩がするほどの陶酔をもたらしたことだろう。

 

 その証拠に、誰も彼もが嬉々として自由意思で集結し、馬鹿みたいに強大で無数でおおきな敵を相手に、十にも満たない人数で、最後の大勝負へと赴いた。

 

 そんな死に場所へ行くために生きる馬鹿の群れに、歩く死人たちの求め続けた極上の晩餐に。のこのこと。

 

 死出の旅路へ、同道した。

 

 彼らは、みんなは、忘我の極地で自らの矜持の残滓に酔いながら、目標に向かってひたすらに奔り抜け──そして。

 

 幾人かはそんな幸せの極みの最中で砕けて、散って。

 

 そして、僕は──

 

 耳を弄する瓦解の音を聞いた。ひびの入る音。軋んで、たわんで、崩れる、いやな音。終わりをもたらす音。覚えてる。

 

 空。生と死が行き交い、血と機械油の中で死の舞踏を刻んだ――あまりにも美しい、底のない棺桶。

 

 かつて自分が何者であったのかを思い出し、消え果てる。彼らの望んだ桃源郷。

 

 最終決戦の地。大空を駆ける城塞。

 

 崩壊に巻き込まれ、がれきが嵐のように全身を取り巻いて、目を閉じた。ああ、これでお終いなんだ、とか。こりゃどうにもならないなぁ、なんて。思って。後悔なんてなかった。

 見届けられなかったことは申し訳なかったけど、村はもう大丈夫だって確信があったから。生き残った面子もいたし、やれるだけのことをして、できるだけのことを成せた。

 

 あの子とのたったひとつの約束を、村を守るという約束を――果たせた。

 

 だから、満足してた。

 

 死への恐怖なんてとうに消えていて、来たるべき時が来たという、それだけのことだった。抵抗することもなく、身を任せた。

 

 だって──世界でいちばん大切なひとと同じところに骸を混ぜられるなら、それはとても幸せなことなんじゃないかな、と、思ったから。

 

 旅路で××になったひと。背の高いあなた。空ばかり見ているひと。無口で、朴念仁で、とびきり強くて、呆れるくらいまっすぐな、ひどいひと。

 最初は敵だった。何度も切り結んだし、喧嘩もした。それから好敵手になって、仲間になって、たまに助けてくれて、いつの間にか背を預けられるようになって、それから。

 

 それから……。

 

 野良猫みたいなひと。きれいなひと。頭の中は空ばかりで、こっちの事情なんかちっとも斟酌してくれなくて、僕はなんだか振り回されてばっかりで、本当に自分勝手な、ずるいやつ。

 それは最後の最後までずっとそうで、それがあのひとで、生き様だった。己の信念をひたすらに研ぎ澄まして、そのためにすべてを斬って捨ててきた、抜き身の刃そのもののような、あのひとの。

 

 僕は、最後を見届けることができた。心の底の底にまで刻まれるような忘れ得ぬ追憶と、消えぬ傷痕を、はなむけにもらった。それでよかった。最後の終わりのどん詰まりでも、あのひとはあのひとだったから。ひとつも揺らがず、いったから。

 

 でも、だけど。だけどね。

 

 本当は。

 

 

 僕は、僕の気持ちに、名前をつけてあげたかった。

 

 

 ちょっとした会話とか。思いも寄らないところで見つけた、とか。ただ、隣にいてくれた、とか。

 

 なんでもない時に、なんでもないことで、少しずつ、しんしんと。

 

 降り積もっていった、あのひと宛の気持ち。

 

 むねの奥で、きらきらして、ちくちくして、きれいで、やわくて、でもちょっと苦くて、いたい。

 

 ほしがふる、ような。

 

 煌めく星がまき散らすスペクトルが震えて、弾けて、火花のように輝いて。

 

 あの、言葉にならない、できない、とくべつな気持ちに名前をつけて、ちゃんと、おしまいにしたかった。

 

 心残りといえば、それくらい。

 

 名前をつけて、ひとつもこぼさないように大事にひろって、抱きしめて、そうしたら。

 

 

──墓標に刻むことが、できたのに。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一.楽園、水葬

 

 

 最近、ベビー5は毎日が楽しい。

 

 ベビー5は美しい女性である。うねる黒髪に意思の強そうな瞳。すらりとした脚を彩る際どい短さのメイド服に真っ白なエプロン。口にはタバコを咥えているが、今日はまだ火を点けていない。

 随分と男性嗜好の粋を盛ったようなメイドさんに見えるかもしれないが、これはこれで機能的なのでベビー5は気に入っている。

 彼女はご機嫌に鼻歌なんぞを口ずさみつつ、廊下を歩いていた。

 

 ここはドレスローザ。ドンキホーテ・ドフラミンゴの治める愛とおもちゃと情熱の国。

 

 国王の住まう居城の奥の奥。宝物でも隠すような位置にある部屋の大きな扉をいちおうの礼儀としてノックして、返事がないことをちょっぴり残念に思いつつポケットから鍵を取り出す。差し込んで、ガチャガチャと外してスキップするようにベビー5は部屋に飛び込んだ。

 そのまま豪奢な天蓋付きのベッドに駆け寄り、まずは朝のご挨拶。

 

「おはよう、ミオ姉様」

 

 寝台に沈み込むように眠っているのは、真っ白な少女。……実年齢を鑑みるととっくに『少女』ではないのだけれど、見た目はベビー5が慕っていたあの頃と何も変わらない。

 初雪色の髪は少し伸びて、包帯からわずかに覗く肌は負けずに白い。全身の至るところが何かの執念を感じさせる巻き方の包帯に覆われて、これまたいくつも繋がれている点滴のチューブが痛々しい。特にひどいのは左手で、今はギプスで固定しているが彼女が目覚めたらリハビリをしなくてはならないそうだ。

 

 ドンキホーテ・ミオ。ドフラミンゴの実姉で、つまりはこの国のお姫様ということになる。

 

 そしてベビー5からすると十数年前から大好きな姉のような存在で、それは今でも変わらない。

 マリンフォードで起きた『白ひげ』と海軍の起こした一大決戦──今は『頂上戦争』と呼ばれるそれに、七武海の義務として参戦したドフラミンゴがお土産みたいに持って帰ってきたのがミオだった。ベビー5はたいそう驚いたが、そのミオが重傷なんて言葉で片付けられないほどの傷を負っていると知って更に仰天した。

 

 致命傷になりそうな箇所はすでにドフラミンゴが能力を駆使して手当を施してはいたものの、それでもまだ傷は重い。即座にドレスローザから選りすぐりの医者が集められ、治療が開始された。

 

 粉砕骨折した左手の手術に傷の縫合、それに輸血も大量に。いざという時のための生命維持の機材まで運び込まれ、それから一ヶ月と少し、ミオは未だに目を覚まさない。極度の疲労にひどい体力の低下、おまけに危うく失血死寸前だったのだからそれも仕方のないことだろう。

 

 看病にはベビー5が名乗りを上げ、看護師たちから手ほどきを受けてからは毎日こうしてミオのお世話に勤しんでいる。

 点滴のチェックに包帯の交換、肌の清拭などもそうだがメイドさんの本来の業務として、部屋の清掃やお見舞いの花が活けられた花瓶の水替え。やることは煩雑で多岐にわたるがベビー5は充実している。

 

 ミオの世話をしていると、自分は必要とされていることが実感できるからだ。

 

 ……ミニオン島での出来事は今でもこびりついているけれど、こうして帰ってきてくれたから、それでいいとも思っている。

 ミオもコラソンも死んだと思っていたのだ。ベビー5はあの時本当に悲しかったし、辛かったし、わんわん泣いた。

 

 でも、ミオはこうしてここにいる。コラソンは本当に死んでしまったのかもしれないけれど、ミオは生きてくれていた。それだけでも、ベビー5は嬉しい。

 連絡のひとつもくれなかったことはちょっと、怒っているけれど、それはこれから帳消しにしてもらうからそれでいい。

 

 だってこれからは、ずぅっと一緒。

 

「あら、いけない」

 

 持ってきた包帯の替えが足りないことに気づいたベビー5は小さくひとりごちて、汚れた包帯をまとめて一度部屋を出た。

 そして新しい包帯をいくつか手に部屋の扉を開けて、持っていた包帯を全部落とした。

 

「……ッ」

 

 寝台の上、きれいな桜色の瞳が自分を見つめていたから。

 

「まぁ! よかった!!」

 

 胸いっぱいに歓喜があふれて、ベビー5はそのままの勢いで跳ねるように寝台に駆け寄った。

 

「やっと目が覚めたのね! お姉さま!」

「おね、……?」

 

 そう声をかけるものの、ミオの反応はなんだかぼんやりしていて、にぶかった。無理もない。一ヶ月以上昏睡していたのだから。状況だって把握できていないのかもしれない。

 ミオはベビー5をまじまじと見つめてちょっとだけ首をかしげつつ、やっぱり茫洋とした様子でくちびるを開いた。

 

「ええと、その、()()はお姉さんのあね、では……」

 

 もしかしたら、ミオにはベビー5をベビー5と認識できなかったのかもしれない。

 予期せぬ別れをしてから実に十年以上。一目でわかってもらえなかったのはちょっと寂しいけど、あの頃のちびっこは成長して、立派な女性になったのだから。

 だから、さしたる疑問も持たずにベビー5は頷いた。

 

「もちろん! お姉さまは若様のお姉様ですもの!」

 

 力強く頷いてみせてから、ハッとする。そうだ、この吉報を一刻も早く伝えなくてはならない相手がいるではないか。

 

「そうだわ! 若様呼んでこないと! ちょっと待っててくださいね!」

 

 ベビー5は胸の前で手を叩いて踵を返し、慌ただしく部屋を出て廊下を走り抜けた。

 幸いなことにドフラミンゴはどこにも出かけておらず、すぐに見つけられた。もっともミオを担ぎ込んでからこっち、出かけるときは必ずベビー5に言い置いて行っていたので心配はいらなかったのだけど。

 

 報告を聞いたドフラミンゴは一瞬真顔になってから「そうか」とかすかに安堵めいた吐息を漏らしてからにんまりと笑い、手にしていた書類すべてを放り出して椅子から立ち上がって大股で歩き出した。

 

 散らばった書類を反射的に集めていたベビー5は「ついてこい」と言われたので乱雑にまとめてテーブルに置き、慌てて追従する。追いついたベビー5の頭を乱雑に撫でるドフラミンゴが最近では滅多に見ないくらいの上機嫌なことはよくわかった。これでもう大丈夫。みんな上手くいく。そんな根拠のない自信と安心感で足取りも自然と軽くなった。

 

 このとき、ベビー5はミオの目覚めたことに対する喜びで頭がいっぱいでちっとも気付いていなかったし、長いこと会っていなかったのですっかり忘れていた。

 

 ベビー5が開けるひまもなくミオのために用意された部屋の扉を、ノックもなしにドフラミンゴは蹴破るような勢いで開いた。

 高い天井。豪奢な調度に合わない消毒薬の匂い。薄いカーテン越しに柔らかな日差しが差し込む、大きな窓。

 

 大きなベッドでクッションを背を預け、ちんまりと寝そべっていたミオが驚いたように瞳を見開いてから、かすかに眉を寄せた。

 

 その反応にベビー5は僅かな違和感を覚えたのだけれど、ドフラミンゴは気にした様子もなくずかずかと歩み寄ってベッド脇で行儀悪く膝を折ってその顔を覗き込んだ。

 

「フッフッフ、よぉ姉上。気分はどうだ?」

 

 白皙の肌に落ちかかる、負けじと白い初雪色の髪。寝付いていたせいか記憶よりも細く見える首。けれど、あの戦争直後の死に瀕していた状態を思えば随分と回復しているようでドフラミンゴは安堵する。内臓も問題なく機能しているようだ。

 

 正直なところ、生きて、こちらを見て、呼吸している今が幻でもおかしくない。それほどの重傷だったのだ。

 

 左手のギプスばかりが目立つが、むしろ問題だったのは包帯に秘された箇所──胸から腹部にかけての傷である。

 

 骨や内臓にまで達していた損傷は甚大で、その殆どはドフラミンゴが己の能力を最大限に駆使して修復したが、不安は拭えなかった。

 なんせ、どういう状況だったのか……他の臓器は多少の損傷で済んだものの、心臓だけは丸ごとごっそりドフラミンゴ謹製の代物である。心臓が鼓動を打っていることがほぼ奇跡の産物なのだ。

 

 あの時、偶然通りかかったのがドフラミンゴでなければ確実に死んでいた。否、ドフラミンゴの決死の治療が成功する確率も高いとはいえなかった。

 小さな体躯の肉は削られ皮膚は焦がされ、血も失いすぎていた。ひとつ手順を間違えれば。ドレスローザへの到着が、あと一秒遅れていたら。彼女の命は脆くも砕け散っていたことだろう。当然、昏睡状態でも予断がゆるされる状況ではなかった。仮に目覚めることなくあの世に逝ったとしてもまったくおかしくなかったし、重度の障害や、植物状態も視野に入れざるをえなかった。

 

 この一月ほどの間にドフラミンゴも半ば覚悟を決めかけていたのだが、いざ目覚めてみると拍子抜けするくらいミオの様子は、単なる重傷の怪我人だった。

 

 顔色も悪いしくちびるは乾燥してかさかさだし、すべての機能が衰えきっているから点滴は当分外せないだろうし、これからのリハビリなんかはわりと地獄になりそうだが、逆にいえばそれくらいだ。あの激戦を掻い潜り、半死半生をさまよった代償とするなら破格である。

 

 ミオは視線をドフラミンゴの頭から足の先までじっくりと滑らせて、なんというか、変な顔をした。

 

「あねうえ……」

 

 口の中で転がす様子はぎこちなく、しきりにまばたきを繰り返す。思いもよらない形容をされて腑に落ちない、そんな様子だった。

 

 その、一連の動作を見るにつれドフラミンゴの頬から自然と笑みが徐々に削げて、落ちていく。

 

 ドフラミンゴが感じ取ったのは、奇しくもベビー5と同じ、違和感。それもひどく強烈な。

 

 どこからどう見ても、目の前の人物はミオで間違いない。他人の空似などありえない。そのはずだ。

 

 なのに──()()()

 

 なにかが異なっている。どこかが乖離している。ドフラミンゴの本能とも呼べる部分がしきりに警鐘を鳴らしていた。

 

 しかし、ドフラミンゴの煩悶をよそにミオはくちびるを動かす。

 

「気分、は、さほどよくは、ありませんね」

 

 枯れた声で、口元には自嘲めいた笑み。

 

 そして己を見つめる瞳の持つ意味を、ドフラミンゴはよく知っていた。

 

 それはミオが初めて会う人間へ向ける警戒と疑心、そしてかすかな好奇心。

 

「それで、()()()()()()()()()()()()()()()()? あいにく、自分に兄弟がいたことはないのですが」

 

 ありていに言って、不審者を見る目つきだった。

 

「──!?」

 

 ドフラミンゴの表情が完全に凍りつき、ベビー5は言葉を失って両手で口元を覆う。

 

 ベビー5は、ミオと長い間離れていたせいですっかり忘れていたのだ。

 

 普段はお姉さんっぽく振る舞ってわりと泰然としているけれど、ミオは結構なトラブルメーカーで、その被害はだいたいドンキホーテ兄弟が被っていたことを。

 

 ……今回の場合被害がどこまで及ぶのか、予想もつかないのが難点だ。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 ドフラミンゴとベビー5を揃ってお通夜みたいな空気にしてしまった当のミオはミオでたいそう混乱していた。

 

 頭痛がしたので寝過ぎかなぁ、などとぼんやり思って目を開いたら見たこともない天井だったのだ。驚く。

 

 飛び起きようとしたら全身痛くてろくに動けなかったし、よく見れば全身は包帯だらけで左手なんかギプスである。視線をずらすと点滴のチューブまでが何本も。控えめにいって満身創痍だ。

 動くのは早々に諦めて、首だけを少しずつ動かして周りを確認してみると、寝かされているベッドは古い時代の王侯貴族が使ってたみたいな天蓋つきの豪奢な寝台。清潔なリネンと、ベッドヘッドには大きな羽根枕や筒型のピロークッション。

 枕元には水差しとコップと、小さな花瓶。テーブルは石モザイクと木の細工。いけられている生花の色は赤で、咲いたばかりなのか瑞々しい芳香を放っている。

 

 やたらと豪華で目眩がした。そもそも、なんだって()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「まぁ! よかった!!」

 

 そんな混乱と疑問と不安で頭が沸騰しそうになったところで、唐突にハイな声をぶつけられてミオは普通にびびった。

 やたらとテンションの高いメイドさんは男の浪漫全部乗せ、みたいなビジュアルでますます混乱したし、「お姉さま」呼びも謎すぎる。脳内が疑問符でそろそろキャパオーバーになりそうだ。

 

 しかし姉について否定しようとすれば、「もちろん! お姉さまは若様のお姉様ですもの!」と力強く謎理論をかまされ、尋ねる間もなく出ていってしまうし。なにがなんだか。

 

 いったい誰が、誰の、姉だというのか。

 

「……なんなんだ」

 

 不明なことが多すぎて別の意味で頭痛がしてきた。

 

 身体の半分くらいを棺桶に突っ込みつつ、けれど偶然と運命の重ね合わせの末に奇跡の生還を果たしたミオは──誰にとっても不幸なことに──今生での記憶を。

 

 

 つまり『ドンキホーテ・ミオ』としての一切合財を、失っていた。

 

 

 かの『頂上戦争』でミオが受けた傷は深手なんてものじゃ済まないくらいに深く、重く、致命的で、ほんの半歩間違えればあっさりと命を落としていた。ドフラミンゴを始めとした医師たちが懸命の努力をしている間にも、文字通り生と死の境を行きつ戻りつ、ぎりぎりの綱渡りを余儀なくされていた。

 そして、その、魂の底にへばりつく無意識の生への執着が、冥くもどこか慕わしい死の誘惑をはねのけて、驚異的な土俵際の粘りをみせている間の、どこかで。

 

 ぽろっと。

 

 記憶を、落としたらしかった。昔のゲーム機みたいだった。

 原因はわからない。失血量か、体力の極端な低下か、海水に体温を奪われすぎて脳に何らかの影響を与えたのか、はたまたそれら全てか。

『頂上戦争』でのあれやこれを鑑みるに、代償が記憶くらいで済んだのは僥倖ともいえるが、状況はわりと深刻である。

 

 魂にリセット機能が搭載されていないミオの中には、いくつもの生の記憶がある。

 

 ゲームのように捉えるなら『ドンキホーテ・ミオ』という『最新のセーブデータ』が深刻なエラーを起こしている、と考えればわかりやすいかもしれない。エラーのせいで『最新のセーブデータ』をロードできず、混乱したミオの中では連鎖反応的にいくつものバグや誤作動が発生し──結果。

 

 ミオは、すでに終了しているべつの『セーブデータ』を無理やりロードして、それを『最新の記憶』だと勘違いしたまま目覚めてしまったのだ。

 

 ある意味、定番の「ここはどこ? 私は誰?」よりも厄介で面倒くさい状況である。

 

 なぜなら、ロードしてしまった『セーブデータ』は、ミオがはじめて異なる世界に渡ってしまったときのもの。生まれ故郷から、ちょっとしたきっかけで訪れる羽目になってしまった宇宙のはてよりなお遠い、『機械のサムライ』なんて妙な巨大ロボットが跋扈する異世界に落っこちてしまったときの記憶、その最後。

 

 空中に浮かぶ城塞などという馬鹿げた代物へ、頼れる仲間たちとともに、敵の首魁を討つために特攻隊よろしく突撃して、死に物狂いで戦って、がむしゃらに突っ走って。

 そうこうしている内に空中城塞が爆発、崩壊して、瓦礫に押し潰されて真っ暗になって、目を閉じた。それでおしまい。

 

 二度と更新されることなどありえない、完結してしまった物語。それがどんなバグなのか、うっかりロードされてしまったのである。

 

 実際、ミオはそこで死亡していたので、どっこい生きているのは本人にとっても謎すぎてなんかの冗談としか思えなかった。かといって、あの世と考えるには傷の痛みが生々しすぎるものだから、なにがなんだかわからない。

 

 ついでに、メイドさんの言う『若様』というワードには危機感しか覚えなかった。

 

 なぜならミオの記憶にある『若』呼びされていたやつこそが敵の首魁で、やばいことをしようとしていた張本人で、つまりは不倶戴天の敵だった。というか、ミオはそいつの首級を上げるためだけに仲間たちと敵陣へ討ち死に覚悟の特攻をかましたのである。

 

 もし、万が一、生き延びていたらとしたら、自分が『若』を殺さなくてはならない。

 

 そうでなければ、先に散った仲間たちに申し訳が立たない。何より『約束』すら果たせていないことになってしまう。

 諸悪の根源を討つのは、村を守るための絶対条件。それを反故にするのは、ミオの魂と矜持がゆるさない。助けてくれたとて、それとこれとは話がべつだ。

 

 ……しかし、だとすると、あのメイドさんは『若』の新しい愛妾か何かだったのだろうか。ちょっと同情する。

 

 じゃっかん横道に逸れつつもだいぶ悲愴な覚悟を決めて待ち構えてみれば、やってきたのはド派手な大男である。

 ちょっと意味がわからない。え、こんな派手で享楽主義の塊みたいなひとしらんのだけど。

 

「フッフッフ、よぉ姉上。気分はどうだ?」

 

 サングラス越しでもわかるくらい上機嫌な不審者はそう言って、ベッドのそばでヤンキー座りした。

 視線を合わせようとしてくれるあたり、わりと親切なのかもしれない。けど、また姉呼び。

 

「気分、は、さほどよくは、ありませんね」

 

 声はガッサガサだしくちびるは痛いしで声を出すのも一苦労だ。

 とはいえ、これだけは告げておかなくてはなるまい。ミオは苦労しいしい、なんとか言葉を紡いだ。

 

「それで、大きなお兄さんは、どちら様でしょう? あいにく、自分に兄弟がいたことはないのですが」

 

 いるとすれば、水盃を交わした仲間くらいだろうか。それだって何人生き残ってるんだろう。三人ぐらい生き延びてくれれば御の字、くらいには後がない状況だったからして。

 

 

 そんなことを考えつつ正直に言えば、二人の顔は同時に凍りつき──そして話は冒頭に戻るのである。

 

 

 さっきまでの上機嫌など丸ごと吹き飛ばして地獄の如く沈黙してしまったドフラミンゴを見て、ミオは内心かなり安心していた。

 『若様』とは似ても似つかない大男。それなら、彼もメイドさんも敵の残党とかではないらしい。ならば無問題。

 

 だとすれば、ミオがまず言うべきことは。

 

「……どうやら、自分が命冥加に生き延びたのは、貴方がたのおかげのようですね」

 

 包帯の量や点滴を見れば、彼らがどれだけミオを助けるために尽力してくれたのかはなんとなくわかる。

 

「ひとまずは、感謝を」

 

 深く頭を下げて、上げると、ミオが発言してから真っ青な顔色で半べそになっていたメイドさんがいなくなっていた。どうやらが派手なお兄さんが退出させたらしい。

 

「しかしまぁ、奇特な御仁とお見受けします」

 

 そうでなければ、特に縁もゆかりもないこんな死に損ないをわざわざ治療してくれるはずがない。

 心底からそう思って微苦笑を浮かべると、ミオが喋るたびに機嫌を下方修正していた派手なお兄さんが眉間に皺を寄せながら、問うた。

 

「覚えて、ねェのか」

 

 どこか、縋るような苦味を含んだ声だった。

 相手の望む返答ができそうにないことに対する罪悪感は多少湧くが、いったい何を尋ねたいのかが、ミオにはわからない。

 

「さて、貴殿の仰る『覚えている』ことが何を指しているのかが、自分にはわかりかねます」

 

 ゆえに、素直に心情を吐露することしかできない。

 

「とは申せ、命の恩人に自己紹介をしないのは礼を欠いていますね、失礼いたしました」

 

 心からそう思い、動かせる右手をぎこちなく胸元に当てて、真摯に。

 

「自分は姓を()()、名をミオと申します。……お名前を、伺っても?」

 

 ドフラミンゴにとっての絶望を、口にした。

 

 

 

 




ちょっとした補足


ここまでのご拝読、ありがとうございます!
今回はさすがに事が事()なので、少しばかりの補足をば。


・主人公についてのあれやこれ

頂上戦争での数々のやらかしと『赤犬』の流れ弾を食らったせいでOP世界での記憶が丸ごとぶっ飛んでしまった。
『おきのどくですが ぼうけんのしょは 以下略』状態(例のBGM)。本人にはその自覚がないのがやばいところ。

・現在主人公がロードしている記憶について

主人公が『多重転生者』になるきっかけともいえる、生まれ故郷からとある異世界にはじめて『トリップ』したときのもの。
世界観と仲間連中が揃って人生葉っぱ隊を極めていたため、その影響がぜんぜん抜けていない。そのため主人公の性格もそこそこドライ(桃鳥姉比)。

本来ならガチ死亡していた記憶なので、色々やりきった感がつよすぎてほぼ燃え尽き症候群の現状。下手するとふらっといなくなってどっかで勝手にくたばろうとするかもしれない。ドフラミンゴの交渉力が試される()。がんばれ。


※ちなみに、主人公の恋とか愛に関するあれやこれやは、この異世界での顛末が原因のほぼ8割を占める。

(作品を知らずとも分かるように努めて執筆していますが、当の異世界は『SAMUR.AI7』というアニメ作品です。もしご興味がありましたら是非)



こんな感じです。

ただの記憶喪失じゃ面白みがないか?と思ってチャレンジしたのですが描写の難しいこと山のごとしで、普通の記憶喪失にしておけばよかったー!と執筆中に何回か思いました。
しかし、こっちの方が面白そうなネタを入れられそうなので頑張っています(自分から地獄に突っ込んでいくスタイル)。

余談ですが、主人公の『SAMUR.AI7』トリップに関しては作者の管理サイトにて連載しているものが下地になっています(未完)。
もしご興味ありましたら、プライベートにやり取りできるメッセージ等でご連絡頂ければURL等お伝え致しますのでお気軽にどうぞ~。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二.迷いのあさ

 

 

 朝の気配に意識が浮上した。

 

 部屋の中は薄暗く、まだ全身が重くて身じろぎひとつも難儀する。鈍痛があちこちで響くものだから眠りも浅く、夜中に何度も目が覚めた。

 眠気の残る身体を引きずるように、掛け布団の隙間から半ばずるりと降りて絨毯の上にへたり込む。しばらく呼吸を整え、気合を入れて膝に手を当ててひどくゆっくり立ち上がると、途端に目眩がした。本当に体力が底部を這っているらしい。鍛え直さなければならない。

 

 水を吸った服を着ているように身体は重い。信じられないほど時間をかけて窓辺にたどり着いてカーテンに指をかけ、引いて、ミオはまぶしさに目を細めた。

 

 窓を開ければ小鳥の声と朝の光、清澄な空気が室内へ一気になだれ込んでくる。鮮烈な刺激を伴ってくるそれは、細胞が生まれ変わるような心地だった。

 

 

──否、実際生まれ変わったようなものだ。

 

 

 眼下に広がる光景は、ミオのまったく知らない景色。高台にあるらしいこの建物からは街の様子がよく見える。

 

 向日葵の目立つ大きな花畑を越えてとりどりの色彩で彩られた煉瓦作りの家や、遠目に見える巨大な建物は、なんだろう。つくりは大昔の歌劇場、あるいは闘技場のように見える。まるで古代ローマのコロッセオだ。

 朝の空気は馴染んでいたそれよりも暑さを孕んで僅かに甘く、時々潮の匂いが混じる。

 

「うみ」

 

 特有の匂いに思わずつぶやく。

 海なんてもうどれだけ見ていなかっただろう。これまで砂と岩と機械と、あとは森とか谷とか田畑ばかりだったから。

 

 見上げた空は高く、雲ひとつない。青さは記憶よりも色が濃いように見えた。どこか目がしみるような放射性のコバルトブルー。海外の、それも外洋の空だ。

 

 見知らぬ空気、見知らぬ街、見知らぬ人々。ここはミオにとっての異界で、異国で、名前といえばドレスローザ。

 

 ついでに今日からミオが生きていかなければならない場所だ。なんの冗談だろうと思う。しかし現実なのだ。残念なことに。

 どんなお国柄かはまだ分からないが、考えてみれば体力がゼロどころかマイナスぶっちぎった怪我人かつ一文無しがリスタートを切るなら、どんな世界でも国でも厳しいだろう。弱くてニューゲーム。つらい。

 

 しかも早々にとんでもない額の借金まで背負ってしまった。難易度もはやルナティック。

 

「50億とか、ねぇ……」

 

 口に出してもまだ実感が湧かない。借金も一定の額を超えると麻痺するものらしい。

 ちなみに通貨は円でも銭でもドルでもリラでもなくベリーという。ジンバブエではないのだ。インフレもしていないらしい。なんてこった。

 

 とはいえ、だ。

 

 どれだけ法外な金額をふっかけられようがそれが『救い料』であるなら返済するのが道理だ。まぁ治療する間の衣食住は保証してくれるというし、完治後しばらくは仕事の斡旋もしてくれるというのだから多少難易度は下がるような気がしなくも……ない。

 

 しかしそれを約束してくれたのも借金背負わせたのも同一人物である。もうなにがなんだか。

 

「ミスタ・ドン……ああ、いや、『若旦那』か」

 

 『ミスタ・ドンキホーテ』と呼んだら全力で拒否されたので折衷案の末にこうなった。申し訳ないがあの年齢の人間を『若様』と呼ぶのは抵抗があった。……その名称自体にトラウマも。

 

 あの、全力で胡散臭くて享楽主義の権化みたいな人物がこの国の主だというのだから、本当にこの世界は不思議だ。そして、よりにもよってそんな人物に命を拾われた自分は果たして運がいいのか悪いのか。

 かの御仁を判断するには材料が足りないが……現時点での印象は最悪をぶっちぎっている。べつに嫌いではないんだが、間違っても一文の得にもならない死に損ないを善意で救う性質のひとではない。

 

 しかしそうなると、なんだって自分を助けたりしたんだという話になるわけで。

 

「よくわかんない人なんだよなぁ」

 

 昨日の顛末を思い出しながらミオは癇症な吐息を漏らし、一晩経っても未だに整理のつかない頭をぐしゃぐしゃと片手でかき混ぜた。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 ミオが懊悩を抱えて悶々としていたのと同時刻、ドフラミンゴは似たような煩悶を抱えながら急遽幹部たちを集め説明を行っていた。

 

 ちなみにベビー5は昨日のショックをまだ引きずっていて席にはついているものの、まだ発言すらしていない。

 他の幹部からの反応はだいたい「なんと、若の姉君がそんなことに!?」「とんでもない悲劇ざます!」「若様、なんとお労しい……!!」と同情一色である。

 幹部たちはドフラミンゴのミオへの執心具合も、今回ミオを救うためにどれだけ苦心していたかを知っているので当然といえる。

 

 そんな中、当時幼かったがゆえにミオとの縁故がさほど深くないデリンジャーが遠慮がちに口を開いた。

 

「でもそれじゃあ、若さまどうするの?」

 

 それをドフラミンゴも迷っている最中である。

 肉体だけでいえば疑いようもなくドフラミンゴの最愛の姉ではあるが、今の『中身』はほぼ別物といっていい。それは昨日の会話で理解している。

 

 今のミオは『ミオ』であっても、『ドンキホーテ・ミオ』ではない。

 

「そりゃ、若がどうしたいかによるだろ」

 

 ドフラミンゴより先に答えたのはセニョール・ピンクだった。

 過去の事件からスーツを脱ぎ去り首にはスタイ、頭にはピケハット、口にはおしゃぶりという傍から見ると変態的な格好にしか見えないが、その実義理人情に篤く部下からの評判も高い。信頼できる幹部である。

 セニョール・ピンクは口に咥えたおしゃぶりを軽く鳴らしながら続けた。

 

「記憶がなくなっちまったのは確かにひでェが、意識が戻ったのだって奇跡みたいなもんなんだ」

 

 ドフラミンゴの『家族』は誰しもが過去に何らかの瑕疵を抱えているが、セニョール・ピンクはその中でもある種特別な瑕疵を抱えている。

 おそらく、現状のドフラミンゴの感情を最も理解しているのは彼だろう。

 

「そこは、大事にしなくちゃいけねェところだぜ。若」

 

 事故で最愛の息子を喪い、心の砕けた妻に最期まで寄り添い続けた男の言葉は、重い。

 

「……ああ」

 

 ドフラミンゴは僅かに顎を引いて頷いた。

 

「けど、記憶がなくなってしまったのはまだしも、自分を別人と思い込むなんてあるんザマスか?」

「おれァその道の専門家じゃねェからな……だが、世の中には自分の中に別の人格を持っている人間だっている」

 

 妻の病状を調べていた時に知ったのだろう、ジョーラに答えるセニョールの言葉に淀みはなかった。

 

「ありえない症状ではない、ということか」

 

 グラディウスが重くつぶやき、それを皮切りに意見交換を始めた幹部たちを見るともなしに見ながらドフラミンゴは沈思にふけっていた

 

 ドフラミンゴは幹部たちに『ミオはこれまでの記憶を喪い、自分を別人だと思いこんでいる』程度の非常にざっくりした説明しかしていない。

 

 それは結局のところ、ミオをどう扱うかはセニョールの言う通り『ドフラミンゴがどうしたいかによる』からだ。

 ドフラミンゴの『家族』は彼の決定が最優先。どんなものであろうが必ず従う。そこにミオの都合や人格は一切含まれていない。

 

 しかし、その肝心なドフラミンゴ自身の方針は未だに定まっていなかった。

 

 それは現在のミオがあまりにもドフラミンゴの知る姉とかけ離れているせいでもあるし、その中身に関する推測に確信があっても口に出せる類の問題ではないせいでもある。

 そして、仮にドフラミンゴの推測が当たっていたとしても──あまりにも荒唐無稽すぎて、自分ですら信じ切ることが未だに難しい。直感と理性は別の話なのである。

 

 ……けれど、腑に落ちてしまう部分があったりしてしまうのが悩ましいところだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三.あなたいいひと?わるいひと?

 

 

「ミスタ・ドンキホーテ。随分と身分のある方とお見受け致しました。ですが、今あなたに報いるものを自分はなにも持っていません」

 

 内心の戸惑いを押し隠しながら自己紹介すると、ミオはそう苦笑しながら「しかもこんなズタボロですし」と片手をふらふらと揺らした。

 この時点ではまだ記憶喪失と偽っている疑いが抜けていなかったドフラミンゴは、大仰に肩をすくめてみせた。

 

「おれが好きでしたことだ。が、大いに恩には着て貰おうか」

 

 ミオは「ええ、もちろん」と間髪入れずに頷く。

 記憶を失っているわりには受け答えが明瞭すぎるし、嘘を言っているようにも思えない。

 さてこれは本当に詐病かもしれないと訝りはじめたドフラミンゴだったが、続いた言葉でそれは一気に覆された。

 

「一宿一飯では足りぬことでしょう。元は()便()()を務めていたのですが、荒事にも慣れています」

「……あ?」

 

 耳慣れない言葉にドフラミンゴの眉が跳ね上がる。なんの冗談だと思った。

 

「何事かあらば多少のお役には立てると、いいのですが。いかんせんもう少し回復しないと……」

 

 そんな反応にも気づかず自信なさげにしょんぼりとつぶやくミオだったが、ドフラミンゴはそれどころではなかった。

 

「郵便屋?」

 

 疑問がそのまま零れ落ち、ミオは真顔で頷く。

 

「ええ。おおきな街の中をあちこち回って手紙だの、荷物だのを配って歩いてましたね」

「どこだ」

 

 硬い問いに対する答えはひどくあっさりと、けれど耳慣れない響きだった。

 

「『虹雅峡』です。ご存知ですか?」

 

 コウガキョウ。

 

 ドフラミンゴはこれでも世界情勢は常に把握しているし、ある程度の地図は頭に叩き込んである。だが、そんな名前の街の名前は一度たりとも聞いたことがない。

 けれどミオの表情には嘘がない。真実そういう名前の街があることを前提に話していることが、会話の感触から伝わってくる。

 

「いや、聞いたこともねェな」

「……そう、ですか」

 

 否定するドフラミンゴにミオはさして驚くこともなく──けれど、心なし落胆したようにまぶたを伏せて──そうつぶやくだけだった。

 その仕草、表情の変化をまざまざと注視していたドフラミンゴの背筋に曰く形容し難い怖気のようなものが走る。

 

 直感的に思う。

 

 姉上はおれの前でこんなカオをしない。()()()()()()()()()

 

 これは──()()()

 

「いくつか質問、いいか」

 

 ドフラミンゴの喉が急速に乾いてひりつく。そんな声の変化にすら、今のミオは気づかない。

 ただ、どこか苦笑めいた表情で「どうぞ」と促す。

 

「答えられるものであればいいんですけど」

「おまえは『どこから』来た?」

 

 あまりにも頓狂な質問だ。そのはずだ。

 けれど、半ば確信にも似た思いがドフラミンゴには去来しつつあった。

 ミオは驚いたように眉を動かし、それから少しばかり俯いて、ややあってから答えではなく問いを返した。

 

「こちらの場所はなんと?」

「ドレスローザ。知ってるか」

 

 国の名前を告げられたミオの表情の変化は劇的だった。

 張り詰めていたものが一気に剥がれ落ちたようにくしゃりと顔を歪ませ、自由な拳がシーツを強く握りしめる。

 くちびるがみるみる色を失い、それはいっそ貧血を起こしたようにも見えた。

 

「……寡聞にして、存じません」

 

 細く、吐息のような言葉には絶望と諦観の響きがあった。

 その変化にドフラミンゴは少なからず驚いていたが、声をかける暇もなくミオは一度強く首を振り、大きく、深く呼吸する。

 

 上げた顔からは、既に先程の気配が消えていた。

 

「──ミスタ・ドンキホーテは『都』ないし、あるいは『カンナ村』という場所に聞き覚えは?」

 

 まっすぐに向けられる瞳にはどこか、縋るような色があった。知っていて欲しいと、希うようでもあった。

 

 けれど、ドフラミンゴにはミオの欲しい答えを与えることはできない。

 

「ねぇな」

 

 にべもない返事に、けれどミオは泣きそうな顔でかすかに微笑んだだけだった。

 

「そうですか。……それは、残念、です」

 

 ミオは俯いてそれきり口を噤み、焦れたドフラミンゴが眉尻を釣り上げる。

 

「おれの問いに答えちゃくれねェのか?」

「ああ、失礼。どこ、というとカンナ村と虹雅峡の間にあった砂漠の上空、だいたい……4000メートルくらいかなぁ、あれは」

 

 ちょっと待て。

 わけのわからない数字と場所?にさしものドフラミンゴの思考も珍しく停止した。

 

「……上空? よんせん?」

 

 だというのに、ミオはといえば大した反応もせず続ける。

 

「でも墜落途中だったから、厳密にはもうちょっと高度低かったかもしれません」

「聞きたいのはそこじゃねェよ」

 

 あと墜落ってなんだ。

 意味はまぁわかる。沈没や轟沈とそう変わらないはずだ。分かるからより謎だった。

 

「そんなこと言われても……『都』と呼ばれる急襲型揚陸艦、あー、空飛ぶ戦艦みたいなのの上でドンパチしてたんで、墜落したらそりゃ諸共に落ちるとしか」

 

 まぁそれ墜とすために突っ込んだんですけど、と物騒極まりないことをのたまうミオの顔にはありありと困惑があった。おそらく、彼女の中では『そういうもの』があって当たり前で、常識なのだ。しかし戦艦が軍艦のようなものだとして、船のように空を駆ける乗り物が存在するのだろうか。

 否、そんなものが発明されていたらドフラミンゴの耳に届かないはずがないし、一大ニュースとして世界中を駆け巡っているだろう。それは冗談ではなく世界が変わる代物だ。

 

 ドフラミンゴの中でじわじわと形をつくり始めていた推測のかたちが、にわかに現実味を帯びてくる。

 

 

 空を自在に駆け回る軍艦が常識にまで組み込まれている世界があるのならば、それは──

 

 

「実際、死んだと思ってたんですけど、ね」

 

 ため息交じりに紡がれる言葉には、厭世的な響きがあった。すべてに倦んで、なにもかもに疲れてしまったような。

 かといって、ここで引き下がれるほどドフラミンゴは善人ではなかった。

 

「おい、はぐらかすのもそこまでにしとけよ」

 

 苛立ち任せに舌打ちしたドフラミンゴに凄まれ、ミオは寸の間口を閉ざした。会話を無意識の内に明後日の方に投げていくのはよくあることだが、今回は濁らせようという明確な意図を感じる。

 だが、お互いに確認を済ませた。

 

 場所が違う。状況が違う。文化も、乗り物も、何もかもが。

 

 だったらもう、答えは出ている。それがどんなにか奇想天外で常識はずれな事柄であってもだ。

 

「答えろ。おまえはどこで、なにをしてきた? 怪我の理由は? なんだって死ぬような目にあった?」

 

 サングラス越しにまっすぐ視線を向けられ、矢継ぎ早の詰問に対してミオは押し黙ったまま不意に、にっこりと笑った。

 

 その笑顔の意図するところを、ドフラミンゴは知っていた。

 

 完全なる拒絶のそれである。

 

「いやです」

 

 で、当たった。

 

「それには答えたくありません」

「……本気で言ってんのか」

 

 いや、こればっかりは聞かなくても分かる。笑顔と雰囲気で理解せざるを得ない。こいつ、微塵も答える気がない。

 

「それはもう」

 

 ほらやっぱり。

 

「感謝はしてますけどね、それとこれとは話がべつです」

「なんでだよ」

 

 じゃっかん拗ねた物言いになったのが自分でもわかる。しかし意味がまったくわからない。

 

「なんで、って」

 

 ミオは笑顔を打ち消して、一転真顔で答えた。

 

「だって、あなたと僕は『ともだち』じゃありませんもの」

 

 なんだその理由。

 

「テメェおれを馬鹿にしてんのか」

 

 ドフラミンゴのこめかみに青筋が一本浮かんだし、心なし殺気も滲んだ。

 しかしミオは開き直ったのか、怯む様子もなく続ける。

 

「してません。けど、ミスタ・ドンキホーテと僕はべつに仲良しってわけじゃないですよね」

 

 なにそれ刺さる。

 

「そりゃ恩人でしょうけど、それでも知人でぎりぎり、少なくとも友人ではありませんよね。とりあえず今のところは」

「……」

 

 さらなる追撃にじゃっかんドフラミンゴはへこんだ。そりゃミオサイドから見ればそうなのだろうが、ドフラミンゴ的にはかなりきつい。ぐさぐさくる。

 いや思い返せばドフラミンゴはミオにわりとひでーことをしているのだが、本人はそれにもめげず親愛を懐き続けていてくれたことが件の頂上戦争で判明していたので余計に。というか、わりとどころか自分なら縁切り通り越して物理的に細切れにするぐらいのことはやらかしている自覚がある。そういう軋轢をものともせずにちゃんと弟扱いしてるミオはだいぶヤバい。さすがうちの血筋。やべー奴を輩出するのに定評がある。

 

 記憶はともかくガワは完璧に『姉上』なミオの口から飛び出す言葉の矢にぶすぶす刺されて現実逃避気味のドフラミンゴの様子に気付いているのかいないのか、ミオはそのまま続けた。

 

「なので、『思い出話』なんて価値共有の難しいものの極みみたいなものを、ほいほい話したくないんですよ」

 

 ……これは、要するに事情説明がどうこうというよりも、おそらくはそれと分かちがたく結びついている『誰かとの思い出』をドフラミンゴに聞かせたくない、ということのようだった。

 

 心から大切にしている記憶だから、話したくない。信頼のない相手には。

 

 確かに、かたちのない記憶や、誰かの遺品、あるいは子供のらくがきとか、友人から譲り受けたもの。大事にしている当人以外には価値を持たないものは世の中にはいくらでもあって、それはわけた相手に思うように扱ってもらえないと、それなりに傷つくものだ。

 そんな扱いが厄介の塊みたいなものを、ぽっと出のドフラミンゴに明け渡したくないという理屈は、わからないでもない。

 

──しかし、しかしだ。

 

 そんな大事な記憶を、『ドンキホーテ・ミオ』としてのすべてを、ドフラミンゴとの生活を、生まれた端から現在に至るまでごっそりなくしやがっているのが現在のミオである。

 

 ドフラミンゴは猛烈にイラッとした。

 

「……おまえがそれを言える立場かよ」

 

 これに尽きる。

 

「は」

 

 ミオはなに言ってんだこいつ、という顔をしているがその顔をしたいのはドフラミンゴである。

 記憶をなくしているのだから当然、ミオにはドフラミンゴが苛立つ理由がわからない。それが余計腹に据えかねて、ムカつく。無性に鬱憤がたまる。頭にくる。

 

 半分どころかほぼ死人のミオをおそらくこれまでの人生で最も必死に治療して、昏睡状態が続く日々は気が気じゃなかった。目覚めた報告をベビー5から受けた時は心底安堵したし嬉しかった。

 

 そして意気揚々と見舞いに行ったらこれだ。おかしいだろ。感謝しているというのは本当だろうが、それとこれは別って。そりゃそうかもなという部分もあるっちゃあるが、それにしたってもうちょっとこう、手心とか加えてもいいはずだ。恩人っつったのお前だろ。

 

 ドフラミンゴは秒にも満たぬ間にそこまで考えて──不意に、閃いた。

 

 冷静になって考えたらどう贔屓目に見ても悪手だったのだが、怒りと不満と失望で脳みそ茹だり気味の若様はそこまで思い至れなかった。

 

 じゃなかったら、こんな馬鹿なことは言い出さなかった。はずだ。

 

「……50億」

「え?」

 

 ぼそりとつぶやいたドフラミンゴは眉を八の字にしているミオへとずいっと顔を近づけて、もう一度言った。

 

「おれがおまえの命を救った。値段にするなら50億だ」

 

 それは奇しくもミオたちに邪魔されて御破算になった『オペオペの実』の取引額。

 べらぼうな金額である。普通なら額が大きすぎて理解すら拒否するだろう。ドフラミンゴだって取引でこんな額を扱うことはめったにない。

 

「ごじうおく」

 

 ミオは内容が頭におっついてないのか、おうむ返しに値段をつぶやいてから一度俯いて、顔を上げた。

 

「救い料ってことです?」

「ああ」

「僕の命の値段、高すぎやしませんか」

「ここは新世界で、ドレスローザで、おれの治めるおれの国だ。相場はおれが決める」

「わぁ暴論」

 

 無感動に言うミオの顔には、なぜだか驚愕だの悲壮だのといった負の感情は見えなかった。

 

 ドフラミンゴはすごくいやな予感がした。

 

「……えーと、お支払いできる気がしないんで、この首ひとつで勘弁して頂けますか」

 

 言いながら、ミオは流れるような動作で自由な方の手で点滴の針を固定しているガーゼごと引き抜き、針の先から薬液がしたたるそれを無造作に己の頸動脈に滑らせ──ようとした瞬間、ドフラミンゴは反射的に糸で針先をみじん切りにした。

 

「却下に決まってるだろうが!」

 

 半ば直感に従った行動だったが、正解だったことがなお恐ろしい。手の中で寸断された針先を見つめたまま「ちぇー」とか舌打ちするミオに、ドフラミンゴは内心かなり動揺していた。

 

 こいつ、死に対する躊躇がほぼ存在しない。

 

 それが何故なのかは分かる。今のミオにとって、ここには『大事なもの』がなにひとつないからだ。だから未練も躊躇もない。身内意識が高いくせに自己評価が底部を這っているのは今も昔も変わらないらしい。

 どう頑張っても無理ならここで払っとこうくらいのノリで死を選べるくらいにはそれは強固で揺るぎなくて……とても面倒くさい。

 

「恩返しはするべきだと思ってますけど、50億ぶん一括返済できるならしない手はないかなって、つい」

 

 つい、で頸動脈をさっくりしようとしないで欲しい。

 

「死んだら役に立つもくそもねェよ」

「そりゃそうなんですけど。あんまりべらぼうな金額だったもので」

「べつに期限を定めたりしねェし、急かしたりもしない。利子もなしだ。べつにどれだけかかろうが構わねェ」

「……それはまた、お優しいことで?」

 

 借金の返済と考えれば破格の待遇に、ミオは困ったようにちょっとだけ笑った。

 唐突に莫大すぎる借金を背負わせてきたドフラミンゴを相手に、怒りとか反駁とかは特に抱いてないらしかった。

 理不尽だと怒ってもそれはそれでまっとうなのに、こういう肝心なところで微妙に情緒が仕事しないのも変わらないようだ。

 

「ま、確かに阿呆みたいな値段だけどよ」

 

 それを好機とみて、ドフラミンゴはにぃと唇を歪ませながらたたみかけた。

 

「あんたの『思い出話』とやらを聞かせてくれるなら、勉強してやってもいいぜ」

「うわひっでぇ。てかどんだけ好奇心旺盛なんですか、あなた」

 

 唐突な物言いにミオは鼻白んではいたが、やっぱり嫌悪の色とかはないのだった。

 

「というか、ここまでくるともう強奪ですよね」

「フッフ、言い忘れてたが、おれは海賊でもあってな。気になったモンは意地でも奪るのが流儀だ」

「は、犯罪国家じゃん……」

「違ェよ」

 

 ドン引きするのはそこなのか。

 頭を抱えて「ここはニュー・プロヴィデンス島だった……?」とかぶつぶつ呪詛めいたつぶやきを漏らしていたミオは、やがてものすごーく渋々と片手を上げて『お手上げ』のポーズをした。

 

「ああ、もう、わかりました。わかりましたよ、話します」

 

 根負けしたように首を振り、「ただし」とミオは付け加えた。

 

「減額とかはなしで。余人から僕の『思い出』を金額に換算されるのは御免被ります」

 

 粘り勝ちににやにやしながらドフラミンゴは快く了承した。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

「荒唐無稽な話になります。文句は受け付けませんからそのつもりで。何卒、気違い者の……与太話と受けて頂ければ、幸いです」

 

 そんな前置きしてから、ミオはぽつり、ぽつりと、話し始めた。

 

 それは、『夕凪ミオ』の記憶の糸をたよりに紡がれる、ひとつの旅路だった。

 

 ドフラミンゴの知る条理とは異なる世界。異なる場所で生きた、ひとりの少女の旅の物語だった。

 

 宝物のように、己の中の記憶をいとおしむように語られる言葉に触れる度、ドフラミンゴの中にあった推測が風船のように膨らみ、やがて弾けた。

 

 最初は記憶の混乱から作り出した妄想の類という可能性を捨てきれていなかったドフラミンゴだったが、やがてはそれも霧散した。

 ミオの言葉には、雰囲気には、意思には、生々しいまでの『実感』があった。重みがあった。夢や絵空事では片付けられない人間としての汚穢と葛藤があった。

 

 物語のヒーロー、或いはヒロインですらないことがミオの悲劇といえた。

 

 快刀乱麻に事態を解決することもままならず、理不尽に抗い、過酷さに苦しみ、みじめに死の淵まで追い詰められ、それでも生にしがみついて。

 血反吐を垂らし、慚愧の念に喘ぎながらも決して諦めず、まるでそれしか知らないのだと言うように、愚直なまでにまっすぐに進むしかなかったミオ。

 

 友を思い、仲間を愛し、自らの信念に文字通り全てを捧げ続ける()()()

 

 それはドフラミンゴの知るミオの姿そのままだった。

 

 どこの『世界』でもミオは、ミオだった。

 

 

 それはドフラミンゴに不思議な安堵にも似た感覚をもたらした。

 

 

 信じる方が間抜けであることは重々承知の上で、ドフラミンゴの中で確信という種子が芽吹いて根を張り、猛烈に育っていくのが分かった。

 

 これは『ドンキホーテ・ミオ』が生まれる前、いわば『生前』の話──『前世』の話と言い換えてもいい──であると。

 

 そして、ミオはこの『前世』を『ドンキホーテ・ミオ』となってからも抱え続けていた。今ならそれがよくわかる。旅慣れた様子や勘働きの良さ、戦闘経験に裏打ちされた身のこなしは生前の知識あってこそだ。

 

 幼少期から備えていた知識や妙な場所で発揮される勝負強さ、権謀術数に長けていた理由、そして今回の頂上戦争での行動。

 そう考えればすべてが腑に落ちた。知らぬ間に抜けていたパズルのピースがぴったりとはまるような爽快感すら覚えた。

 

「……ここ一番の大戦(おおいくさ)の最後の最後で、しくじりました」

 

 ドフラミンゴの猛烈に思考を巡らせている間にもミオの話は続き、言葉の調子から締めくくりなのだと分かった。

 

「けれど首魁の首は上げましたし、カン……我らが大将殿を生かして帰せたことだけは分かったので、そこだけは、うん、幸いだったと思います」

 

 当の本人は爆発と崩落する瓦礫に巻き込まれ、それから先の記憶はないのだという。

 

 それがおそらくは、『夕凪ミオ』の旅の終わり。『ドンキホーテ・ミオ』へと続く人生の幕切れ。

 

 そんな避けようのない死を覚悟した『夕凪ミオ』の中で、なぜか続いている生。それは現状を信じられないだろうし、混乱して当然だ。

 

「──なるほどなァ」

 

 あらゆる意味を含んだ深い納得のつぶやきに、ミオはこれはなんと意外な、という感じで瞬きを繰り返した。

 

「おやまぁ、よく信じる気になりますね」

「嘘でここまで話を作れるとすりゃあ、大したもんだがな。それはそれで一種の才能だ」

「はは、それは確かに」

 

 軽く笑ったミオだったが、信じてもらえたことへの安堵なのか、その声にはどこか穏やかな響きが滲んでいた。

 

 それから、他人行儀にもほどがあるので『ミスタ・ドンキホーテ』は勘弁してくれと申し立てしたところ、侃々諤々の末『若旦那』呼びで決着した。

 

 『若様』呼びは諸事情あって受け付けないそうだ。ちょっと釈然としないが、本人が心底嫌そうな顔をしていたので納得するしかなかった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間.きみが不在の成果と相談①

明けましておめでとうございます!
鈍足更新ではありますが、引き続き楽しんで頂ければ幸いです!


 

 

 ばくばくムシャムシャぼりぼりガツガツ……

 

 世間の喧騒も、常識外れの天候すら遠い"凪の帯"の中に存在する女ヶ島、『アマゾン・リリー』。

 普段ならば喧騒すら響かないその島の湾岸で異音が響いている。

 

「ハキ? むぐ、しらねェ!」

「まさかとは思ってたけど、ルフィおまえ、ば、ごりっ、もぐもぐ。ごくん。覇気もしらねェで、よくここまで……」

 

 肉を片手になぜか堂々と胸を張るルフィと、半ば感心すら含めながら呆れたようにつぶやくエース。二人の全身は衣服の必要がない気すらするほど包帯に覆われ、中にはまだ血が滲んでいる部分もあって痛々しい。

 だが、そんな二人の前には調理された肉や野菜、果物などが山盛りに積まれており今も着々とその量を減らしている。その速度は二人とはいえちょっとえげつないくらいで、見ている方の食欲が落ちそうだ。

 

 モンキー・D・ルフィとポートガス・D・エース。

 

 先だってのマリンフォードで勃発した戦争、現在では『頂上戦争』と世間では呼ばれている一大決戦で瀕死の重症を負った二人である。

 

 片や戦争の引き金ともいえる処刑対象、片やその処刑対象たる兄を助けにマリンフォードへ突撃したいち海賊。

 

 そんな生き残っただけで奇跡といえる二人が、なんだって海軍の追手に怯えることもなく呑気に飯をかっ喰らっているかというと、それはひとえにルフィに恋に恋する『海賊女帝』ボア・ハンコックの助力あってこそである。

 ほんの二週間前、生死の境をさまよっていた二人を治療・保護していた『ポーラー・タング』号を追尾していたハンコックは、彼らが浮上すると同時に接触、二人の療養地として己の領地たる『アマゾン・リリー』を提案したのだ。

 ボア・ハンコックが七武海である以上、あまりにも常識からかけ離れた提案だったのだが、そんなことは彼女の一途な恋心の前には些事である。

 ことがことなので海軍の追手に気を揉んでいた『ポーラー・タング』号はその提案を受け入れ、ハンコックの迎えの船とともに一路『アマゾン・リリー』へと舵を切り、現在の療養生活に至る。

 

 ただ、男子禁制という鉄の掟を持つ女ヶ島への上陸は、ルフィのみならともかく彼の兄や『ハートの海賊団』の面々まで揃ってとなると当然却下である。侃々諤々の議論の末、特例として『ポーラー・タング』号は『アマゾン・リリー』の湾岸への停泊を許可され、張られた天幕内でのみ自由行動を許されることになった。

 

 女ヶ島はグランドラインの両端を挟む"凪の帯"の中に位置する島で、気候は常に温暖。"凪の帯"は嵐ひとつ起こらない代わりにその海面下では大型の海王類がひしめいており、海軍も専用の軍船がなければ近寄ることすら難しい。

 天然の要塞に囲まれている女ヶ島は二人の療養地としてはうってつけだった。

 

 医者の知見からすればルフィにせよエースにせよ生きているのが不思議なくらいの重傷で、特にルフィは凡そ人体が許容できるダメージの範囲を大きく逸脱していた。ショック死していないのが奇跡である。

 

 ハンコックが強奪した軍船に潜んでいたインペルダウンの元囚人──イワンコフを始めとしたニューカマーの面々──の話を聞くに、『頂上戦争』の前から相当なダメージを蓄積していたらしい。それでも『頂上戦争』であれだけ暴れ回ってこうして生き延びているのだから、よほど天運に恵まれているのだろう。

 

 そしてエースはというと、外傷もひどいがそれにもまして内臓へのダメージの方が深刻だった。

 インペルダウンでの悪辣な環境で体力と気力を底部まで削られほぼ餓死寸前の状態のまま、あれだけの大立ち回りをしてみせたのだからその消耗も頷ける。

 長期間必要な栄養を摂取することができなかった内臓機能はひどく衰え、回復にはどれだけの時間がかかるか見当もつかない。──と、不本意ながらも彼らの主治医となったローは医者として判断していたのだけれど。

 

 ローのそんな予想は現在進行形でことごとく覆されっぱなしである。

 

 一週間ほどの昏睡から脱したルフィは全身ズタボロのくせに開口一番に「にく!!」と雄叫びを上げ、駄目だ粥でも食ってろというローの制止も聞かず「にく食ったら治るんだ!」と本当に肉をもりもり食べ始めてしまった。

 そしてそれはルフィから少し遅れて目覚めたエースも似たようなもので、馬鹿野郎まずは重湯からだ胃を慣らせ死ぬぞというローの注進を最初は聞いていたがそれも二日ともたず、二人は再会を喜び合いながら毎日とんでもない量の飯を腹におさめているという現状である。しかもそれで本当に二人の回復力が飛躍的に上昇しているのだから意味がわからない。ローはさじを投げたくなった。

 まぁ、医者として手がかからない領域まで回復したというのは素直に喜ばしいことではある。ちょっと、釈然としないけど。

 

 とはいえ、ローとしても二人以上の『重大事』を抱えている身だ。最近は包帯の交換や経過観察以外には手がかからなくなった二人を横目に、自分の『重大事』を注意深く観察している。

 

「どうだ?」

「生きてはいる。それ以上は……」

 

 二人の近くにある岩陰に腰掛けたローは、松葉杖を傍らに立て掛けてながら隣に座るコラソンにそう答えた。

 

「そうか。こっちも、まぁ、そこまで変化はねェな」

 

 コラソンの手のひらに注意深く乗せられている小さな紙片。

 一度はビーズくらいにまで縮小していたそれは、ようやく親指の爪程度の大きさにまで回復している。

 それは本人の生命をあらわす奇妙な紙。ミオのビブルカードである。

 

「けど、生きてるってのがわかるだけマシだ。居場所のことは考えたくねェけど」

「……ああ」

 

 短い返事をして、ローは『あの時』を思い出して鬱々とため息を漏らした。コラソンも似たようなものだ。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

──あれは、どれくらい時間が経ってからだろうか。

 

 ミオが単身囮として離れ、『ポーラー・タング』号が戦線離脱している最中だった。

 『青キジ』からの攻撃を辛くも避けながら海中を全速力で潜航しているその最中で、突然コラソンが半狂乱で悲鳴を上げて今すぐ海上に出てくれと訴えたのだ。

 

 しかし、ちょうどローは緊急手術の真っ最中。

 

 こんなド級の危険地帯でキャプテンの許可もなしに浮上できるかと今にも暴れ出しそうなコラソンを手の空いているクルー総出で食い止めて、それはローが手術を終えるまで続いた。

 コラソンは立て続けの手術で集中力も切れかけていたローが手術室から出るなり食ってかかり、ローはローで最初は戸惑っていたものの、コラソンが手の中にあるものを見せた途端に短時間の浮上を命じた。

 

 コラソンが見せたものは、指先でかろうじてつまめるくらいの小さな紙片。今なおじわじわとサイズを減らしつつある、ミオのビブルカードだった。

 

 慌ててローも胸元にしまい込んでいたミオの心臓を確かめると、鼓動を感じることはできた。生きてはいる。けれど安堵はできない。脈がひどく弱っていた。

 なにかあったのだ。

 危険はついて回るがつべこべ言っていられる状況ではなかった。浮上までの時間ももどかしく、甲板が海面から顔を出した瞬間ドアを蹴破る勢いで開き、まだ濡れそぼる柵にぶつかるように体を預け、コラソンは片手に乗せたビブルカードで方向を確認、もう片方の手で持ってきた双眼鏡を構える。

 

 果たして、コラソンが分厚い硝子越しに見つけたのは──遥か彼方の空を駆ける、豆粒ほどの桃色の塊だった。

 

 余人が見ればただの鳥にも見えたかもしれないが、このときばかりはコラソンの中の血脈が痛いほどに告げてきた。

 

「……ドフィ……──ッッ!!」

 

 コラソンは飛び出しそうになった怒声を意思のちからで抑え込み、奥歯が軋むほどに唇を噛み締めた。

 追いかけるには遠すぎるし、今『ポーラー・タング』号には重傷の患者が収容されている。万が一にでも危険に晒すような真似はできなかった。それではミオが単身囮になった意味そのものが消失してしまう。胸が抉れるような悔悟の念に侵されようと、追跡は断念せざるを得なかった。

 

 だが、ある種の信頼が湧いて出たのも……本当だ。

 

 身内に至上の価値を見出しているあの男ならば、彼女を粗雑に扱うことはまずしない。どんな怪我を負っていても全力で癒そうとするだろう。

 それは、それだけは、信じられる。……それからのことは、考えたくないが。

 

 結局、追いついてきたローにコラソンは見たことをそのまま伝えることしかできなかった。

 それを聞いたローの顔はそれはもう恐ろしい形相になったが、そこは患者とクルーを預かるキャプテンとしての責任と理性がものを言う。

 おおむねコラソンと同じ結論を叩き出し、クルーに再び潜水を命じて患者の治療を優先させた。

 

 だいたいの治療を終えて船室に戻ったローは暗がりの中ぶつかるようにベッドに腰を落とし、巾着から取り出したミオの心臓を両手で包み込み、誓うようにそっとひとりごちた。

 

「今は無理でも、取り戻す」

 

 あのとき無理にでも船に押し込めておけば、という腸が煮えるような慚愧の念はあれど、すでに事態は動いたあとだ。

 

 なら、ローがすべきことは決まっている。

 

 いとしい人たちを永遠に喪ったと感じた、あの途方も無い絶望と焦燥を抱えて生きてきた年数を思えば、今の状況はまだマシとすら考えれる。吹けば飛ぶような余裕だが、ないよりいい。冷静になれる。相手がドフラミンゴなら尚更だ。必要なものは見えている。辿り着くべき場所もわかる。己が成すべきことが、分かっている。

 

 だったら、ローは耐えられる。

 

 耐え忍び、力をつけ、情報を集めて、地道に進むだけだ。

 

 弱々しいがあたたかい、いのちの証にもう一度、決意を込めて囁いた。

 

「必ずだ」

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 包帯まみれになりながらも山盛りの食料を元気よく食べ続けている怪我人組と、お通夜もかくやという雰囲気をダダ流しにしている医者とそのクルー(暫定)。

 

「これではどっちが病人だか、わかったもんではないのう」

 

 エースとルフィの怪我の様子を見にきたジンベエは片手に読みさしの新聞をぶら下げながら、つくづくといった口調でつぶやいた。

 ジンベエも重傷ではあるが、その回復速度はエースたちのような化け物クラスではない。その証拠に、彼の歩き方にはまだ違和感がある。

 

「うるせェぞ『海峡屋』」

 

 聞こえたらしいローが力なく悪態をついた。

 ローとコラソンの気持ちも分かるので、ジンベエは言葉を選びつつ新聞を広げる。

 

「ビブルカードもそうじゃが、お前さんの持っとるそれが脈打っとるということは、嬢やが生きておるという証拠じゃろ?」

 

 ローが肌身離さず持っている小さな巾着。柔らかな布地に自船のマークが刺繍されたそれの中身は人間の最重要臓器、ミオの心臓である。

 中身の正体を知ったときは仰天したが、ローの能力かつ本人が『質種』に差し出したという経緯を聞けば納得できる部分もあった。

 

「それに、海軍も嬢やの生死を未だ確認できておらん。その証拠に、ほれ」

 

 と、ジンベエは新聞に挟まれていた一枚の手配書をローへと放った。

 危なげなくそれをキャッチしたローが視線を落とすと、そこには例の映像からトリミングされたらしいミオの姿と、とんでもない額の賞金、そして海軍がつけたらしい彼女の異名がでかでかと載っていた。

 横からそれを覗き込んだコラソンがその異名を目にして苦笑する。

 

「『白の魔女』だってよ。金額もすげーけど、わりと当たってるとこあるかもな」

「おおかた、麦わら屋が白いの白いの連呼してたせいだと思うが……」

 

 あとは『白ひげ』がミオを魔女と称したせいでもあるのかもしれない。

 

「新聞、あとでおれにも貸してくれ」

 

 コラソンの言葉にジンベエはもちろんじゃと軽く頷いた。

 ジンベエの持っている新聞は以前よりページも増えて分厚い。『頂上戦争』からこっち世界は荒れている。しばらくは新聞社もネタに困ることはないだろう。

 

 今回の『頂上戦争』において『白ひげ海賊団』の『勝利』と、海軍の『敗北』は、海軍側がエースの公開処刑のために持ち込んだ機材のせいで隠蔽することなど到底叶わず、大々的に報じられた。

 

 当然海軍は世界政府から激しい突き上げを喰らって敗北の責任を問われ、現在大規模な再編成を余儀なくされている。海軍サイドとすれば当然報復に討って出たいところであろうが、まずその余裕がないというのが現状だ。ミオの語った未来予想図はおおむね正鵠を射ていたというわけだ。

 

 ただ、予想とは異なっている点だってもちろんある。

 

 海軍の敗北は確かに一般の人々にとって絶望そのもののような事実だが、相手が『新世界』にその名を轟かせるかの『四皇』の一角たる『白ひげ』ならばこの結果もやむなし、と考える市民も多かった。

 そのため、市民からの評判はガタ落ちする一方で、危機意識の向上から己の家族は己で守るしかないのだと奮起する人々が自警団を結成したりしているため、島々の治安は一定の水準を維持することに成功している。

 

 ……と、『海軍』に関する情報は新聞等からある程度得られるが、海賊に関してはそうはいかない。

 

 まして現在地は『女ヶ島』。現世と隔絶していると言っても過言ではないこの島だからこそルフィやエースが安心して療養できているが、こと情報収集に関しては困難極まりない。

 

 しかし、それは唐突に現れた二人の来訪者によってあっさりと解決することになる。

 

 ひとりは海からやってきた。

 嵐によって船を失ったものだから仕方なく泳いできた、と今しがた仕留めた海獣を片手に飄々とそう口にしたのは、かの『海賊王』の右腕を務めた伝説の男『冥王』シルバーズ・レイリー。

 既に老齢の域に達してはいるものの、その纏う空気、鍛え抜かれた体躯には未だ彼が現役の海賊であることがじゅうぶんに伝わってきた。レイリーは麦わらと浅からぬ縁があるようで、『ボア・ハンコックが麦わらのルフィに恋をして匿ってるんじゃない?(意訳)』という同居人のトンデモ推理に乗っかってここまで辿り着いたそうだ。ほぼ正解を引き当てているあたり、その同居人とやらの勘の良さが窺える。

 

 そして、レイリーの来訪にどよめく海賊たちに追い打ちのかけるかのようにさほどの間を置かず、空から飛来したもうひとり。

 エースのビブルカードを辿ってきたという『白ひげ海賊団』一番隊隊長、『不死鳥』のマルコである。

 先だっての戦争で負った傷は浅くはないはずだが、単に隠すことに慣れているのか憔悴の色はあまり見えない。

 

「ルフィくんに会いに来たのだが、思いがけず懐かしい顔にも出会うとは。驚いたよ」

「まったくだよい。まさかエースの弟とあんたに繋がりがあったとは……海賊の世間も狭いもんだ」

「はは、確かに」

 

 どこか懐古の念を滲ませながら瞳を眇めるレイリーとマルコはいくつか会話を交わし、そうこうしている間にルフィとエースがジンベエに背負われて転がり込むように駆けてきた。

 

「レイリーのおっさん!! それに、白ひげのおっさんとこの……」

「マルコ! それに、あの爺さんがレイリー? レイリーって、『冥王』か!?」

「本物か……!? 驚いた……」

 

 三者三様の反応を示すルフィたちに、レイリーはマルコからエースへと顔を向けた。

 

「!、……」

 

 謎の壮年男性が『海賊王の右腕』と知ったエースは視線を伏せ、くちびるを引き結んだまま無言を貫いている。

 おそらくは、どう反応すればいいのかわからないのだろう。彼にとってレイリーは実に複雑な立場にいる男だ。

 

「直に会うのは初めてだな、エースくん」

 

 そんなエースを見つめるレイリーの瞳にふと、どこか仄暗い、けれど柔らかな彩が宿る。

 

「そうか──そうか。ああ、うん……」

 

 いとしい故郷を偲ぶ、老爺のそれによく似ていた。

 

「エースくん。きみはおそらく、言われたくないだろうが……」

 

「言わなくていい」

 

 短いが、明確な拒絶だった。

 けれど顔を上げたエースの表情に嫌悪の類は浮かんでいなかった。

 

「おれは『ポートガス・D・エース』で、オヤジの『息子』だ」

 

気負いも衒いもない言葉だった。

 

「今までも、これからもな」

 

 レイリーは少しばかり目を瞠り、それから小さく吹き出して苦笑した。

 

「はは、あいつ(ロジャー)が聞いたら泣くな……。だが、そうだな、我ながら無粋を言うところだった。忘れてくれ」

「……ああ」

 

 それで話はしまいとばかりにレイリーはマルコを視線で促し、自分は本来の目的の人物へと向き直る。

 

 レイリーはルフィへ、そしてマルコはエースへと。

 

 マルコは表情を引き締め、エースもつられるように雰囲気が硬くなっていく。

 

「エース。おれがきた理由は察しがつくだろぃ?」

「……ああ、もちろんだ」

 

 その場で膝を折ったエースはまだ包帯の取れぬ両手の拳を握りしめて地につき、細く、呻くように吐き出した。

 

「言い訳はしねえ。おれのしでかしたことが発端で、オヤジにも、みんなにも、どんだけ迷惑をかけたかしれねェ。どんな処分も受け入れ──」

「馬ァ鹿」

 

 しかし、マルコはエースの言葉が言い終わらぬ内に、そのおでこにデコピンをかました。

 

「だッ!? ……え?」

 

 その衝撃にエースはのけぞり、額をおさえて目を白黒させる。

 そんなエースを見つめるマルコは呆れたように嘆息してから自分も膝を折り、目線を合わせながらつぶやいた。

 

「それもあるが、そんなもんは後だ、あと。おれがきた理由はもっと単純だ。決まってんだろい」

 

 そうして、マルコはエースの存在を確かめるように腕を伸ばしてそっと抱きしめた。

 

「おれは、うちの末っ子の安否を確かめに来たんだ」

 

手のひらからほんのりと蒼い炎が灯る。それは慈しむようにエースの肌へじんわりと沁みていく。

 

「あの状況から、よく……よく生き延びてくれた、エース」

 

 心からエースの生還を寿いでいるとわかる声音に、呆けていたエースの瞳に理解が灯り、くしゃりと歪んだ。

 かすかに肩がふるえ、俯いたエースの真下の地面に点々と染みができていく。エースの口の中だけでつぶやかれた言葉は周囲には拾えず、マルコだけが何度か頷き、けれどなにも言わずにしばらくそうしていた。

 最初は心配そうに様子を見ていたルフィも安心したのか、レイリーの横で珍しくおとなしくしていた。

 

「……さて、こっからはエース。話をしなきゃいけねェ」

 

 エースから身体を離したマルコが言い、エースも一度おおきく洟をすすってから「ああ」と頷く。

 

「船長命令に背いて招いた今回の顛末だ。本来なら白ひげからの永久追放ってところだが……」

「だろうな」

 

 エースは真顔で頷く。

 戦争開始時に白ひげ本人の口からは「命令した」とは言っていたが、それはあくまで海軍に対する建前に過ぎない。

 エースが白ひげの命令に背いてティーチを追ったというのは、『白ひげ海賊団』内部では周知の事実である。知らないものがいるとすれば、当時エース本人から嘘を教えられたミオくらいのものだ。

 船長命令に背いたという事実は重く、まして今回の被害は計り知れない。厳罰を与えるのは、組織維持の観点からも当然の措置といえた。

 

「しかし、マルコ。追放はいくらなんでも……」

 

 エースの胸中を知るジンベエが口を挟もうとしたところを、マルコは片手を振って制止しながら続けた。

 

「けど、そうもいかねェんだ」

「え?」

「どういうことじゃ?」

「どうもこうもあるかよい」

 

 二人が疑問を飛ばし、マルコは肩をすくめながらどことなくさばさばと言う。

 

「エースを追放したとあったら、『白ひげ』がなんのために命張ったんだかっつう面子もあるがそれより……ミオのことがある」

 

 唐突に飛び出した名前に、ほぼ他人事の体で聞いていたローが顔を上げた。

 

「うちの末妹が、うちとの縁故と命までかけて戦場に臨み、エースの弟と協力してエースを助け出した。結果論だがオヤジのことも、な」

 

 本人にその自覚はないだろうが、ミオが今回の戦争で成してきたことは『白ひげ海賊団』にとってかなりでかい。功績といっていい。

 オヤジの命を掬い上げ、彼らの母船たる『モビー・ディック』号を守り、『赤犬』からの攻撃を最低限にまで抑え込んだ。

 

 そして、それらすべては()()()()()()()()()()()、なのだ。

 

「そんなわけで、エース。おまえは隊長格を剥奪。下っ端の下っ端、見習いの新入り以下のクルーにまで降格してもらう」

 

 マルコの口元にかすかな笑みが浮かぶ。

 

「仁義を欠いちゃ渡世はできねェとおれたちに教え込んだのはオヤジだ。元娘とはいえ、きっちり仁義を通したんだ。それに報いねェとあっちゃ、もう白ひげとはいえねェだろい?」

 

 恩義の貸し借りというのは、ときに紙の契約などよりよほど重い効力を持つ。それが海賊ならば尚更である。

 肝心要を叩き出すような罰を与えるには、『白ひげ』がミオへ返すべき『借り』の多寡が大きすぎるのだ。

 

「それ、エースはまだ『白ひげ』にいられるってことだよな! よかったなエース!」

「い、いいのか? そんなの……」

 

 ジンベエは声もなく胸を撫で下ろし、ルフィはすぐさま喜びはしゃいでいるがエースはまだ戸惑いの色が濃い。

 

「こんな折衷案、滅多にあるもんじゃねェよ。エースはせいぜい二人に感謝しろい」

 

 そんなエースにマルコは少しばかり語調を強めつつそれに、と付け足した。

 

「残れるっつっても、それはそれで厳しいよい。体調が回復次第、エースにはそれこそ馬車馬みてェに働いてもらうことになるからな」

 

 エースの救出という目的自体は達成できたとはいえ、『白ひげ海賊団』の被った被害は尋常ではない。

 潰れた傘下は数しれず、中にはこの機に乗じて『白ひげ』の縄張りの乗っ取りを企む海賊も数多い。

 

「手始めに、あちこちの島を回ってアホな海賊どもを蹴散らしてもらうことになる。寝る暇なんかねェから覚悟しろよい」

 

 にや、とマルコが焚きつけるように笑うと、エースの表情にもようやく笑みが戻った。

 

「おう、どこにだって行ってやるさ。望むところだ!」

「その意気だ」

 

 そう言うマルコの瞳に、かすかに陰りが浮かんだ。

 

「……そうやって命張って『白ひげ海賊団』守ってりゃ、他のやつらも、納得はできなくても理解はするだろうよい」

 

 いつになるかはわからねェがな、と締めくくったマルコの言葉の意味をいち早く理解を示したのはジンベエとレイリーだ。

 

「確かに、エースさんが『白ひげ』に残り続けるとすれば、そうする他ないか」

「こればかりは時間をかけていくしかないことだからな……」

 

 そんな様子を少し離れた位置で眺めていたコラソンは脇のローにこっそりと尋ねた。

 

「『不死鳥』の言ってること、わかるか?」

「ああ。簡単な話だ」

 

 ローは帽子の隙間からコラソンを見上げる。

 

「『白ひげ屋』の仲間も傘下も、今回の戦争で受けた被害は甚大。例えば船長をなくした傘下の海賊連中、そうでなきゃ大事なやつをなくしたクルーとかな。生き残れなかったのがそいつの実力不足といえばそれまでだが、そいつは感情で割り切れるもんじゃねェだろう」

 

 その船長が慕われていれば慕われているほど、大事なひとが大事なほど、エースに対する負の感情はどうしたって湧き上がってくるものだ。

 『エースの救出』が目的であった以上、彼が生きていることは喜ぶべきことで間違いないが、それとこれとは別問題である。まだ混乱が残る現状ではそこまで考える余裕はなくとも多少の落ち着きができれば、そういったある種の不満はどこかで噴出するであろうことは想像に難くない。

 

「だから、これから『火拳屋』は、自分が生還できたことには意味があったと、犠牲になった『誰か』は無駄じゃねぇんだと、その生き様で証明し続けるしかねぇ」

 

 それは、もしかしたら海賊団からの強制追放よりも辛く苦しい、茨の道かもしれなかった。

 

「そうすりゃ──『火拳屋』の成すことが、そいつらの功績になる」

 

 視線を眇めてそう告げるローの横顔には、奇妙なまでの実感がこもっているようだった。

 

「……そうか。そう、だな」

 

 その様子に、コラソンはなぜか妙に胸が騒いで、そう答えるので精一杯だった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間.きみが不在の成果と相談②

 

 

 レイリーの用件はルフィへの修行の誘いだった。

 

 最初は「仲間に会いに行きてェんだ」と難色を示していたルフィだったが、エースやジンベエに『覇気』の重要性を説かれ、シャボンディ諸島での逃亡劇やインペルダウンでの騒動、そしてマリンフォードでの顛末には本人にも思うところがあったらしく結局はそれを受け入れた。

 そうなると、次に必要となるのは現在散り散りになっている仲間たちへの連絡手段である。

 なんせ三日後の約束だったのに、それをすでにぶっちぎって更に年単位で延長しようというのだ。集合場所はともかく、どうにかしてそれを仲間たちへ知らせる必要があった。

 

「けど、おれ、あいつらが今どこにいるのかもわからねェんだ……」

「ああ、それなら私に案がある。こちらがあちこち探すより確実だろう」

 

 しょんぼりするルフィにレイリーはあっさりとそう言ってから『案』を口にした。

 それは多少の危険は伴うものの、レイリーの言う通りかなり確実性の高い手段だった。話を聞いていたジンベエが真っ先に協力を申し出て、次いでエースも同行するという。

 

 話がまとまったところで、そういえばとレイリーが顎に手を当てながら周囲を見回した。

 

「件のミオくんは、まだ治療中かね?」

 

 シャボンディ諸島で中継されていた映像は最後の方はひどく途切れ途切れで、レイリーからはミオの行方がわからなかった。

 

「ああ、おれもそれが聞きたかった。ミオのやつ、最後の方でお前らの船の方に向かってたよな?」

 

 マルコもそれに続く。あの撤退戦の最中では自分と『白ひげ』を守るのに精一杯で、他に気を払う余裕がなかったのだ。

 二人の質問で周囲の雰囲気は一気にどん底まで落ち込んだ。振り幅がひどい。

 

「……」

「……あー、それが」

 

 ジンベエとエースは口ごもり、チラチラと視線を送る。

 それを受けて、じゃっかんばつが悪そうに帽子を押さえたローが答えた。

 

「あの馬鹿は『火拳屋』たちをおれに預けて、単身囮役を買って出てそれきりだ」

「行方はわかってねェのかよい」

「いちおう、見当はついてる。だが……」

 

 いまいち歯切れの悪いローを訝しげに見ていたマルコだったが、不意にはた、となにかに気付いた顔をした。

 

「まてまて。なんでレイリーがミオのことを知ってんだよい?」

「? ミオくんから聞いていないのか?」

「何をだよい? つか、そこのルーキーとの関係もわかってねェんだ、おれは」

 

 オヤジは何か知ってるみたいだが、と頭をひねるマルコである。

 どうもお互いに知っている情報には微妙な齟齬があるようだった。

 

「……いちど、わしらの知っとる嬢やのことを擦り合わせた方が良い気がするんじゃが」

 

 そう、空気を読んだジンベエがゆるく片手を上げて発言し、このときばかりは「確かに」と全員が頷き、唐突な情報交換会が始まってしまった。

 そうして、あらかた情報が出揃ったところでマルコが頭を抱えた。

 

「ミオのやつ、どんだけ危ない橋渡ってんだよい……」

 

 それを皮切りに、皆も口々に所感を述べるが表情は一様にどんびきのそれである。

 

「秘密主義もここまでくると恐ろしいもんじゃのう……」

「出稼ぎとかっつってなかなか帰ってこなかったの、そりゃシャボンディ諸島なら時間かかって当然だよな……」

「しかも、タチの悪ぃことに誰に対しても嘘は吐いてねェんだよ……」

「すまねェ……うちの姉さまが、なんか、本当にすまねェ……」

 

 あまりといえばあんまりな空気感に思わずコラソンが謝罪の言葉を口にして、それを見ていたレイリーがなぜか爆笑した。

 

「はっはっは! こうなると、海軍のつけた異名は実にミオくんに似合いじゃないかね」

 

 けったいなことを言い出すレイリーに全員の視線が集中する。

 それを受けたレイリーは面白そうに口の端を上げながら滔々と語った。

 

「我々には理解し得ない論理と信念に従い勝手気ままに暴れ回り、あちこち引っ掻き回しては番狂わせを引き起こし、もちろんこちらの都合はお構いなしだ」

 

 最後にレイリーは悪戯めいた仕草で人差し指をぴんと立てて、こう締めくくった。

 

 

「良くも悪くも人心を乱すものを──()()と称するのは、至極当然のことだと思わないか?」

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

「しかし、そうか。ミオくんがここにいないなら納得だ。ようやく話が繋がった」

「どういう意味だ」

 

 不審げに眉をしかめるローにレイリーは顎髭をしごきながら「いやなに」と苦笑した。

 

「シャボンディ諸島の13番GRに店がある。知っているかね?」

「ああ、ミオのバイト先だろ」

「そうだ。そこには彼女の()()もある。バイトのときは下宿していた」

「ッ!」

 

 部屋、という言葉にびくりとローが僅かに肩を跳ねさせ、レイリーは首肯を返す。

 

「一度訪れてみるといい。それと、」

「まだあんのか」

「むしろ本題というならこちらだよ。きみに会いたがっている女性がいる」

「女……?」

 

 ローにはさっぱり心当たりがなかった。

 シャボンディ諸島で娼館を利用した覚えはないし、そもそも上陸してからすぐにそれどころではなくなった。

 むっつりと押し黙ったローを面白そうに眺めつつレイリーは続けた。

 

「女性といっても彼女は有数の情報屋で、ミオくんと既知の仲だ。きみに会いたいというのも、おそらくは彼女に絡んだことだろう」

 

 情報屋の指定した人物が『ハートの海賊団』のキャプテンだったことが疑問だったのだが、ミオ本人がここにいないことを知っていたがゆえの人選なら納得したという。

 

「……女性っつーか、女怪だろうよい。あの()()()は」

 

 唐突に口を挟んだのはマルコで、エースが「知ってるのか?」と問うと猛烈に嫌そうな顔をしながら頷いた。

 

「アオガネっつう名前の情報屋だ。有能なのは否定しねェけど、エースも会うことがあったら気をつけろよい。おまえみたいなのがノコノコ近づいたら、あっという間に丸呑みにされるぞ」

「丸呑みぃ?」

「物理的にな」

「物理的に!?」

 

 反射的に突っ込み、エースのアオガネ脳内予想図が大変なことになったが、ローはしばらく考え込む素振りを見せてから顔を上げた。

 なにせ海賊王の右腕と白ひげ海賊団の一番隊隊長が有能だと太鼓判を押す情報屋である。

 

あちらが会いたがっているのなら好都合だ。

 

「そのアオガネって情報屋が何考えてんのかは知らねェが、会っておいた方がよさそうだな」

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 あの場でミオに関する情報交換会にいた面子は数名を除き、分別を弁えた大人であり、海千山千の猛者ばかりである。

 つまり、口に出すことでミオの不利になりそうな情報を握っている者たちは、現状を鑑みて、あるいは純粋な気遣いからその辺りを意図的に伏せて会話していたということだ。

 

「ちょっと邪魔するよい」

 

 女ヶ島の一角、出航に向けて準備していた『ポーラー・タング』号の甲板にふわりと舞い降りたマルコは、驚き固まるクルーたちを意に介さずベポと航路について相談していたローに歩み寄った。

 

「なんの用だ、『不死鳥屋』」

「用、じゃねェんだ」

 

 その様子が思いの外真面目なものだったので、ローは軽く手を振って合図を送り、ベポは戸惑いがちにだが海図を丸めてシャチたちの方へ退散する。

 クルーたちとある程度の距離ができたところで、マルコは口を開いた。

 

「礼を言いに来た。先日は言いそびれちまったから」

 

 そして、海賊らしからぬ動作できっちりと頭を下げる。

 

「ありがとう。おかげで、エースたちは命を拾った」

「……ミオに頼まれたからな。おれは医者としての本分を果たしただけだ」

 

 かの白ひげ海賊団一番隊隊長から真正面の礼を受け、ローは軽く帽子を下げてそう返した。

 

「それでも、だ。この借りは何かの形で必ず返すよい」

 

 いくらミオの頼みだとて、いずれ敵対するであろう海賊を治療するなんて酔狂を実行する海賊なんてそうそういない。

 しかもそれがとびきりの医療技術を持つ『死の外科医』なんて、どんな奇跡だという話である。

 

「……返すなら宛先が違ェだろ」

「もちろんミオにも返すさ。けど、実行してくれた人間にだって礼はいるだろうよい」

 

 すげない返事にもマルコはめげない。むしろ「面倒くさい性格してんだなこいつ」くらいは考えてそうな苦笑を浮かべているので、ローとしてはやりにくいことこの上なかった。

 実際、ルフィはともかくミオに頼まれたからエースの治療にあたったようなもので、彼らの事情に斟酌するつもりも関わるつもりもない。『白ひげ海賊団』に貸しを作った、と考えれば利用価値があるかもしれないがこの先の世界情勢如何ではどう転ぶかもわからない。

 食い下がられても扱いに困る、というのが正直なところだ。

 そこまで考えて、ローはふとミオからの『頼まれごと』を思い出した。

 

「礼っつーなら……」

「ん?」

 

 ただ、それは『できれば』という但し書きがついていたが。

 

「『白ひげ屋』のカルテを……いや、やっぱりいい」

 

 言い淀み、途中で考え直して首を振った。

 あの馬鹿野郎、仮にも四皇の一角の治療をよろしくされても旗揚げ数年のルーキーにそんな極秘事項ホイホイ教えるわけねェだろうが。

 

「あン? オヤジのカルテだ?」

 

 ローの予想通りマルコの眉間に皺が寄り、声に険が交じった。それはそうだろう。

 だが、予想外だったのはその後で、マルコは一度くちびるを噤んで視線を彷徨わせてから「あー……」と額に手を当てた。

 

「おおかた、それもミオの頼みごとだな」

「よくわかるな」

「そりゃあ、わかるよい」

 

 言外におまえが深入りしようとするとは思えない、と言われた気がしたがおおむね同意なので何も言わない。基本的に面倒事は御免である。

 マルコはそんなローをじっと見つめながら腕を組んで、つくづくと言った。

 

「ミオのやつ、よっぽどおまえのことを信じ切ってんだなァ」

 

 それに関してはローも自信がある。

 というか、極限状態だったとはいえあんな文言が飛び出すということは『白ひげは体調が悪い』とローにぶっちゃけているに等しい。いずれ敵対を余儀なくされるであろう『四皇が病に冒されている』と、『ルーキー海賊に』伝えるリスクを量れないほどミオは阿呆ではない。

 ということは、それを上回るだけの信頼をローに預けているということで、医者としてのローを信用しているということである。

 

 そして、それを察せないほどミオとマルコの仲は浅くないのだった。

 

「元末妹の頼みとあっちゃ仕方ねェか。そうだな、オヤジの許可が出れば教えてやるよい」

 

 あっさりとそう答えを出すマルコに、むしろローの方が驚いた。

 

「いいのかよ」

「うちは元末妹には甘いんだよなァ」

 

 返事になってないような返事をしながらマルコはローの前にペンとメモ帳を差し出した。

 なんとなく釈然としない気持ちのまま電伝虫の番号をさらさらと書いて突っ返すと、マルコはそれを受け取って番号を確認してからポケットにねじ込んだ。

 

「近い内に連絡するから、そんときはよろしくな」

「あ、ああ……」

「ああそれと、」

 

 マルコはあくまで気軽な調子で続けた。

 

「おまえと一緒にいた、ギプスでドジの大男。ミオの弟って名乗ってたよな」

「ドジは余計だ。確かにコラさんはミオの弟だが」

 

 松葉杖で滑って転び、真上にぶっとんだ松葉杖がコラソンの頭にジャストミートする瞬間をマルコに見られたのは失態だった。そしてはたから見れば体格といい年齢といい性格といい、納得できないのはよく分かる。普通は逆だと思うだろう。

 それがどうした、とローが続けるより早くマルコが言った。

 

「いや、全員が全員似てねェ姉弟もいるもんだと思っただけだ。まァ、あの()()()とは似ない方がいいだろうけどよい」

 

 マルコの言葉にローの表情が凍りつく。

 さっきの情報交換ではその情報は一切出てこなかった。ローはもちろんのことコラソンはコラソンで通していたし、ジンベエとエースとルフィはそもそも知らない。ドンキホーテのドの字も出ていない。

 

「それを、どこで……」

「ミオが『可愛くない方の弟』っつってた。あれが『可愛い方の弟』ってことならまぁ、納得だ」

 

 そう言ってマルコは軽く手を振った。

 

「心配しなくてもエース含めて誰にも言ってないから安心しろい。混乱の元にしかならねェからな」

 

 確かに、もしあの場でその話が出れば、更なる混乱を招くだけで誰の得にもならなかっただろう。

 

「そう、だな……」

 

 無意識に安堵めいた溜息を漏らすローに向かって、マルコは不思議と柔らかい声音でつぶやいた。

 

「トラファルガー・ロー」

 

 名を呼ばれ、自然とローの背筋が伸びる。

 真正面のマルコはそれこそ、独り立ちした妹を心配しながら送り出す兄そのものの表情で。

 

「知っての通り、無類のあほで、お人好しだが無鉄砲で考えなしの、ひっでぇ妹だけど……ミオのこと、よろしく頼むよい」

 

 そう言って、ゆっくりと頭を下げた。

 

 ローは僅かに瞠目したが、すぐに深く息を吸って、決意を以て答えた。

 

「ああ、ミオはうちの──大事なクルーだ」

 

 本当はクルーとかなんとかよりずっとずっと大切だし、なんならコラソンと同じく自分の心臓だと答えたって良かったのだが、よその海賊に伝えてやるつもりにはならなかった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四.勘違いコンチェルト

 

 

 今の僕、マイルドにやばいのでは?

 

 気候が肌に合っているのか、それともこの世界の法則がびみょうに違うのか意識を取り戻してからこっち、僕の怪我はわりと僕の常識から外れた回復をみせている。

 左手のギプス以外の包帯は大体取れて、現在はリハビリに精を出す日々。これも正直、下手したら半年以上はかかると思っていたのに僕の身体はめきめきと筋力を取り戻し、これなら戦闘の勘が戻るのも時間の問題といった感じ。

 

 そんな、はたから見れば順風満帆に回復の兆しをみせている僕がなんだって『やばい』と感じているのかというと、それは先日ベビー5さん(いちおう年上だと思うのだけど、こう呼ぶと悲しそうな顔をさせてしまう。理由は今のところ不明)にねだって入手した新聞に端を発する。

 

 この世界の新聞は基本的にすべて英字で表記されている。いちぶ謎の文言もあるにはあるが、それはこの世界特有の単語なのだろうと斜め読みしている。

 

 ……斜め読み、できてしまうのだ。

 

 異世界に吹っ飛ぶ、なんてトンチキ体験をする前の僕の英語の成績は中の中。リスニングはそこそこ、文法はまぁまぁ、平均点よりはマシかなー、というのが毎回の小テストで叩き出してきた点数である。

 そんな僕がオール英字の異世界新聞を日本語の新聞くらいの気安さですらっすら読めてしまうのだ。どう考えてもおかしい。翻○こんにゃく食べた覚えはないぞ。

 

 そして極めつけが、新聞の隙間からバサバサと落ちたプリントの束。

 

 この世界には数えるのがバカバカしいくらい数多の海賊が跋扈しており、某開拓時代の映画よろしく賞金首の写真付き手配書がデパートの折り込みチラシくらいの気安さで入っているのである。

 

 で、その中で見つけてしまった。

 

 どえらい金額をかけられた、どうやらトリミングらしい、鋭い目つきで周囲を警戒しているような、刀を構えた色の脱けた髪のどこかで見た顔。

 

 はい、どう見ても僕です。どうもありがとうございません。

 

 よく似た別人、と現実逃避したいがさすがにそれすら無理そうな()()()()ぶりで名前もばっちりミオだし逃げ場がねぇ。あ、あれれ~おかしいぞ~~??(少年探偵風に)

 

 見つけたときにはめちゃくちゃ動揺……どころかパニックを起こしかけて頭を抱えたが、それまで読んでいた新聞を思い出して、ちょっと思考の方向をシフトさせた。

 新聞の内容は、先日発生したという海軍と海賊の大規模なぶつかり合い──『頂上戦争』に関することで、僕らしきひとの賞金がバカ高い理由なんかも記されていた(『海軍の作戦行動を著しく妨害した行為は、先の戦争における重要性を鑑みれば大罪であることは自明であり云々……』とかなんとか)。

 

 どうやら僕らしきひと、その戦争とやらで大暴れした挙げ句に行方をくらませたらしい。海軍も総力を上げて捜索中らしいが、まだ生存確認はできていないとのこと。

 

 これらの情報を統合して、めちゃくちゃぶっ飛んだ仮説が僕の脳内に去来した。

 

 確信はないし、これからそれを得られる気もしない。普通の人間なら狂人認定待ったなしの発想である。けど、今のところ他の仮説は思いつかなかった。

 

 ……僕、もしかしてよその世界の『僕』に憑依、あるいは意識を乗っ取ってしまったのでは?

 

 世界を超える、なんてわけわからん体験をしてしまうと『絶対にない』と言い切れないのが困りものである。

 本来ならば交わることは永遠になかったであろうべつの次元、べつの世界のどこかで、自分と似たような人間が存在してるかどうかなんて誰にも分からない。どう確認すればいいんだ。肯定も否定も難しい。

 そんな前提を踏まえて、あの機械仕掛けのサムライたちが跋扈する世界で命を落とした僕の魂が、件の戦争で瀕死になった『僕』が意識不明なのをいいことにあろうことか世界を越えて緊急避難的に滑り込んでしまった……とか。

 

 いくらなんでも論理が飛躍しすぎて破綻してる気もするが、そうなるとじゃあ確かな実感を伴ってここで生活している僕はなんなんだ? という話になるわけで。

 

 もし、そうだとすれば。

 

「うわ罪悪感でしにそう」

 

 ぶっとび過ぎてやべぇ仮説だけど、そう考えると英字新聞すーらすら読める理由とか、記憶と怪我の位置が違うこととか、見知らぬ古傷がやたら多い理由がしっくりきてしまうんだよなぁ。なんだこれは、どうすればいいんだ。

 しかしそうなると、現在の『僕』の意識というか魂? がどうなっているのかが問題である。

 僕自身がとうに死人であるなら、どっこい命を繋いでいる『僕』に肉体を速やかに返却すべきだし、そうしたい。身体的ダメージがひどすぎて単に休眠状態にあるだけで、時期がくれば勝手に復活してくれるなら万々歳。こっちはとっととダイナミック成仏もやぶさかではない。

 

 あんまり考えたくないんだけど、もし僕が『僕』の魂を弾き出して居座ってるとしたら……それはないな。そこだけは不思議と、本能ともいうべき部分で断言できる。

 

 死者は生者に勝てないものだし、そもそも、あのときの僕は死ぬ気まんまん……いや、違うな。助からないことを確信して、自分の死を受容していたのだ。かすかな心残りはあれどさほどの未練もなく、己の生の終わりに仄かな満足すら抱いていた。

 

 今でも──思い出すだけで内臓が冷えるような、あの感覚。

 

 残酷なまでに美しい蒼穹。

 

 落下特有の浮遊感が絶えず身体を襲う中、視界の端に映った瓦礫に混じる、かつては自分とともにあったはずのひしゃげた腕。

 

 見つけてしまった、あの子と約束した、僕のゆび。

 

 骨肉の区別なく挽かれたと、理解より早く識ってしまった絶望と、あの途方も無い喪失感。全身をしとどに濡らす、かたちのない命。覆しようのない、どうしようもない終わりの気配。

 

 そう、だから、僕は、本当に。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

 それに比べれば、ここでの『僕』はまだまだ気力にあふれている。世界は違えど自分のことだ。

 

 『僕』は──『ミオ』には、新聞とかの僅かな情報頼みの類推ではあるけれど、絶対に死んでたまるか、というもはや執念にも近い生きる気概がある。辿り着くべき場所があって、目的があって、そのために進んでいる。それがわかる。

 

 だとすれば、僕がすべきことはなんだろうか。

 ここには僕の仲間たちはいない。約束を交わした幼子もいない。守るべき村もないのだ。

 ないない尽くしでこんな異境の街に放り出されても、何をすればいいのかわからな……あ。

 

「いや、借金があったわ」

 

 思わず自由な方の手をツッコミの形に。

 そうだった、例の若旦那に背負わされた借金があった。50億なんてべらぼうな金額である。

 いちおう、治療費の体なのだから返さなければならない。肉体の治療に関する話なので、『僕』でも同じように借金をこさえる可能性もあるが、受諾したのが僕である以上、責任は僕にある。くっそ、値切ればよかった(痛恨)。

 あのときは自分の身体だと思ってたからなぁ……命で精算しなくてよかった。

 とはいえ、いずれ目覚めた『僕』が、身に覚えのない借金を山程抱えていると知ったら絶望するだろう。50億なんて普通に首くくる額である。復活直後にショック死しかねない。それはいくらなんでも申し訳無さすぎる。安請け合いするんじゃなかった。けれど覆水盆に返らず。後悔は先に立たないので、これはもうしょうがない。

 

 だったら僕は、『僕』が目覚めるまでにできるだけ借金を減らしておくしかない。

 

 ここはこれまでの常識も論理も法則も違う世界だけど、共通していることだってある。

 

──借りたものは、必ず返さなくてはならない。それが金銭ならば尚更だ。

 

「うん、うん。よし」

 

 目的が定まって、身体に一本芯が通った気がした。

 いつバトンタッチの瞬間が来るかは分からないけど、それまで僕は僕のできるすべてで少しでも借金を返そう。

 それがこの身体を無断借用している『僕』へのお礼というか家賃代わりになれば……ならんか。むしろ罪滅ぼしの類だこれは。

 

 ざっと考えをまとめて、気合を入れて立ち上がる。今日は若旦那が幹部のひとたちを紹介してくれるそうなので、身支度を整えておかなくてはならない。

 

 あれ、そういえば若旦那は『僕』と面識があるのだろうか。いやー、さすがに知人に50億ふっかけたりしないか。どんな知り合いだそれは……ん?

 

「……すごい恨み買ってたらワンチャン?」

 

 仮にそうだとしても確かめるすべがないので、僕は考えるのをやめた。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 重厚な石造りの城内を、相変わらず場違い感が拭えないまま迎えに来てくれたベビー5さんの背中を見つめながら歩く。

 

 このお城、なんというか不思議なつくりをしている。

 リハビリのためにあっちこっちウロウロしてみたのだが、設置された装飾品や調度品はそれぞれにきらびやかで派手派手しく、ザ・海賊のお宝!って感じなのだが、お城そのものの構造への印象は実利に全振りした質実剛健さがちらつく。

 ひとつひとつは本当に小さな違和感なのだけど、一度気付いてしまうとやたらと気になってしまう。

 

 どことなく統一感に欠けるというか、ちぐはぐなのだ。

 

 そんなことを考えつつ辿り着いたのはひとつの大きな扉。『スートの間』と呼ばれているらしいそこはすでに開け放たれて、中には人の気配があふれている。

 

「ここよ。どうぞ?」

 

 にっこり笑顔のベビー5さんに促されるまま、「し、失礼します」と遠慮しいしい入室すると、部屋にはずらりとここの海賊団の幹部連らしき人々が揃っており壮観である。

 

「フッフッフ、よぉミオ。調子はどうだ?」

「おかげさまでだいぶ復調しました。あとはこの手だけです」

 

 ひとりだけ離れた位置にある豪奢な椅子に腰掛けて片手をふらりと上げる若旦那にギプスの取れない片手を三角巾から外して持ち上げると、「そりゃあ結構」と含み笑いが返ってくる。

 他の椅子にもそれぞれ誰かが座っており、トランプのスートを模した椅子にはそのスートになぞらえて名付けられた軍の最高幹部が、それ以外のソファやスートの近くに設置された椅子にはめいめいその軍麾下の幹部や戦闘員が腰掛けているそうだ(ちなみに、主に僕のお世話をしてくれているベビー5さんはスペード軍所属らしい)。

 たったひとつ、ハートを模した椅子だけが誰も腰掛けていないのが少し気になったけれど、今はそれどころではない。気を引き締める。

 

「改めまして、夕凪ミオと申します。このたび、若旦那に命を拾われました」

 

 しゃんと背を伸ばし、できる限りの礼を尽くしてご挨拶。

 

「まだ全快にも至らぬ体たらくを晒す無様な身の上ではありますが、ご迷惑にならぬよう努めて参ります」

 

 深く頭を下げるとあちこちから元気よく、あるいは戸惑いがちに、そしてあるいは仕方なくといった風に諾の返事を頂き安堵する。ひとまずは大丈夫そうだ。

 どうもこの海賊団(ここまで規模と軍の編成が出来上がっているともはやマフィアに近い気もするけど)、若旦那の言葉が絶対的に守られるべきという不文律があるようで、僕みたいな謎の人物すらある程度許容してくれている。

 

 しかしまぁなんというか、ここのファミリー若旦那含めて誰も彼もキャラが立っているというか……すごく濃ゆい。

 

 年齢層も御老体から幼女まで幅広く、そのファッションもパンクだったり赤ちゃんモチーフだったり鎧兜だったり髪型もセット方法がまるでわからない奇抜なものだったり、とここまでくるとどこかのコスプレショーみたいである。

 

 だいたいの挨拶回りを終えて、頭の中で名前の反芻をしつつさてあとは誰が残ってるかなぁと思ったところで「ねぇ」と僕の肩のあたりをつんつん、と手入れされた細い指先がつついた。

 

「?」

 

 振り向くと、僕よりちょっとだけ背の低い──声からしておそらく──少年が、ちょこんと立っていた。

 頭には角飾りのついた帽子にくりくりの大きな瞳。すんなりと長い足を惜しげもなく晒して足にはかかとの鋭いピンヒール。

 

「あたし、デリンジャー! よろしくね、ミオねぇ……じゃなくてミオちゃん!」

 

 なんでだかちょっとだけ言い淀みながらもにっこり笑うデリンジャーくん。

 稚気に溢れた表情になんだかこちらまで嬉しくなって、僕は「こちらこそ」と言いながらデリンジャーくんの前で大きく片膝を折って、腰を落とそうと──

 

「あら」

 

 ガシッ

 

 したところを、デリンジャーくんが咄嗟に両手で僕のお腹あたりを掴んで止めてくれた。

 

「──」

 

 変な沈黙が落ちて周囲の目線が集まり、一拍遅れて僕は己の奇行に気付いた。

 

「……あれ?」

 

 僕、なんで今、ナチュラルに屈もうとした?

 いや、でも、()()()()()()()()()……いやいや膝折る必要ないじゃん? デリンジャーくんべつにそこまで小さくないし。え?

 自分でも自分の行動に説明がつかず疑問符を量産する中、目の前ですっと真顔になっていたデリンジャーくんが唐突に「キャハ!」と笑った。

 それは短いながらも思いがけず宝物を見つけたような、驚きと喜びにあふれていた。

 

「大丈夫! あたし、もうそんなに小さくないわ!」

 

 言いながら、細腕に似つかわしくない膂力で立たせてくれる。僕は自分でも謎の行動に戸惑うやら申し訳ないやらでデリンジャーくんに平謝りするしかない。

 

「ご、ごめんなさい。そうだよね、デリンジャーくん大きいのに……」

「ううん! 謝らなくていいの! いいの!」

 

 にこにこしているデリンジャーくんは心から楽しそうで、そのまま僕をぎゅうぎゅう抱きしめながらほっぺをくっつけてなんだかご満悦。

 

「ね、ね、ミオねぇって呼んでもいい?」

「ど、どうぞ?」

「キャー! やった!」

 

 ピンヒールをものともせずにぴょんぴょん飛び跳ねてはしゃぐデリンジャーくんは今にも踊りだしてしまいそうだ。

 背後から「デリンジャーずるいわよ!」「だすやん!」と謎のブーイングが飛んできたけど本人はどこ吹く風。気にした様子もなく僕の顔を両手で挟み込んで明るく笑う。

 

「ミオねぇ、お洋服とか選んであげるから街に行きましょうよ! あたしが案内してあげる! あとね、レストランも! デザートの美味しいお店とか、あたしいっぱい知ってるんだから!」

「え、でも僕お金ないどころか借金……」

「そんなの気にしなくていいの! ねぇ若さま!」

 

 振り向いたデリンジャーくんにつられて首を向けると、若旦那は片手でサングラスを押さえ、くつくつと笑いを堪えているようだった。

 

「フッ、フフッ、あァ、好きなだけ買ってこいデリンジャー」

 

 ようやく、といった感じで笑いをおさめて「軍資金だ」とコートの中から札束を放る若旦那。金銭感覚どうなってるんだろう。

 危なげなくキャッチして「やったー! ありがとう若さま! さ、行きましょ!」とハイテンションで背中を押してくるデリンジャーくんに流されるままに歩き出すと、「あ、あたしも!」「ファッションならあたくしの出番ザマス!」とベビー5さんとジョーラさんの声が後ろからついてきた。

 

 なにがなんだか分からないけど若旦那の許可が出たならまぁいいのかな、と、ちょっぴりわくわくしてみたりしつつ、僕はほぼなし崩し的にはじめての街巡りに繰り出すことになったのだった。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 かしましく騒ぎながらデリンジャーたちが『スートの間』からミオを連れ出し、その気配が完全に消えた頃を見計らって最初に口を開いたのは『ドンキホーテ海賊団』の中でも最古参のひとり、トレーボルだった。

 

「べっへへぇ……あのさードフィ、アタマはともかく、カラダは覚えてるみたいじゃね~?」

 

 相変わらずの鼻音混じりで粘着質な喋り口調だが、内容はしごく真面目である。

 組んだ足に腕を乗せて頬杖をついたドフラミンゴは上機嫌に「ああ、かもな」と答えた。

 

「あー、あいつの知ってるデリンジャーと顔を突き合わせようと思ったら、そりゃあ屈むよな」

 

 その会話でようやく流れが掴めたらしいディアマンテが続き、横のラオGが頷く。

 

「若の姉君がデリンジャーをあやしてた頃は、よちよち歩きの赤子だったからのう」

「デリンジャーが喜ぶのも道理か」

 

 グラディウスがつぶやき、ソファに座っていた麗しい若草色の髪の女性──モネが顔を上げる。

 

「若様のお姉様はデリンジャーの小さい頃を知っているのね」

「むしろ、小せェ時分しか知らねェのさ」

 

 ドフラミンゴが当時いなかった面子へ向けて言葉を放つ。

 

「だから記憶はなくても、身体が勝手に動いた。片膝ついて、万が一にも小せェデリンジャーが転びそうになったら抱き留められる姿勢をとろうとした」

 

 それは、まだ『ドンキホーテ海賊団』が小規模ないち海賊だった頃、ミオが彼らのアジトに滞在しているときによく見られた光景だった。

 おしゃぶりも取れないデリンジャーが駆け寄ろうとしたとき、ミオが必ずしていたことだ。抱き留めて、抱きしめて、ねだられればおんぶして。

 ローとコラソンが消えた時期とミオが消えた時期はほぼ符合する。デリンジャーにとってそれはかなり遠い記憶で、ともすれば綺麗さっぱり覚えていなくてもおかしくない。

 けれど、明確な『母親』が存在しないデリンジャーにとってミオの存在はそれなりに大きかったらしく、成長した今でも彼はミオのことを忘れてはいなかった。幼い頃から面倒をみてくれたジョーラとはまたべつの、ある意味『とくべつ』な存在だったのだ。

 

 そんな彼の前で、ミオはデリンジャーのことを『記憶にはなくても覚えている』と無意識に証明してみせた。

 

 それは嬉しくてしょうがないだろう。

 

「ふーん」

 

 興味なさげに指に刺したグレープにぱくつきながら、片目に透明なアイパッチを施した小柄な幼女──シュガーがつぶやく。

 

「じゃあ、デリンジャーのママになってたってこと? 若様の姉さん」

「どうだかな」

 

 ドフラミンゴは肩をすくめる。

 

「チビたちを猫ッ可愛がりしてたのは事実だが、そう長い期間ともいえねェし……確かめようにも本人に記憶はねェときた」

 

 デリンジャーに聞いてみるんだな、とドフラミンゴが水を向けると「……めんどうくさいわ」とシュガーは水色の髪を揺らして首を振る。

 

「それに、どっちでもいいし」

 

 シュガーはドフラミンゴのことはともかく、デリンジャーのことにそこまで突っ込む気はさらさらなかった。

 

 基本的にドライな性格なのだ。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

「ンまぁ~~!! ミオ! あーたのセンスどうなってるザマス!?」

 

「ひえ~~服飾文化の違いが僕を襲うー!! どうって言われてもここまでセンス違うとどー選べばいいんだか……あ、これ安い」

 

「キャー! 三足1000ベリーの靴下とかだめだめ! おしゃれは足元からなんだから!!」

 

「そうなの!?」

 

「そうよ! しかもミオねぇは若様のお、王宮に住んでるんだから! 良いもの揃えないと!」

 

「いっそメイド服なんかどうかしら? わ、わたしとお揃いで……!」

 

「却下ザマス!」

 

「どーしてよ!」

 

「当たり前でしょう!? ミオさ……ミオに使用人の服を着せたりしたら、あたくしが若様に怒られるザマス!」

 

「! それもそうね……」

 

「いや若旦那に借金してる身だし、僕は使用人の服でもぜんぜん……」

 

『駄目(なの)(よ)(ザマス)!』

 

「ここだけ結託するの勘弁して頂けますぅ!?」

 

 

 

 

 




ひとまず、今回の更新はこれにて打ち止めになります。
次回更新は今のところオフとの兼ね合いもあり、申し訳ありませんが未定です。
なるべく早くお届けできるよう頑張りますので、のんびりとお待ち頂ければ幸いです!

ありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五.はりぼてネバーランド

 

 

 懸命なリハビリと弛まぬ鍛錬によって、ほぼ記憶と同程度の身体能力を取り戻すことに成功したミオは、仕事をするに差し支えないと判断したので、手始めに身支度を整えることにした。

 

 簡単にいえば変装と武器の調達である。

 

 ミオの手配書はニュース・クーという、この海でも珍しい全国区の新聞に挟まれるくらい世に広がってしまっている。

 これをどうこうするのは個人の力では不可能なので、となるとミオ自身が変わるしかない。身長などは無理でも、相手の受ける印象が変わればそれでいい。

 

 そんなわけで、手っ取り早く髪を染めることにする。

 髪を染めるのは初めてだったので色見本片手にさんざん悩み、途中で通りがかったドフラミンゴの鶴の一声でなぜか金色に決まった。

 ここ数ヶ月の間に伸びた髪を切ることはせず、淡く弾けるシャンパンゴールドに染まった髪をベビー5が嬉々としてみつ編みにまとめてくれた。

 そして、額のあたりには雑貨屋で見つけたいくつかの細いヘアピン。小指の爪よりも小さなハートの飾りがついたものが気に入って、よくそれをつけている。

 

 それでも不安なときには、赤いフレームの伊達メガネを。つねに顔周囲には特徴をひとつ、を心がけている。それが特徴的であればあるほど、人は顔に印象を持ちにくいからだ。

 

 念には念を入れて、和を感じさせる装いも封印した。パステルカラーのシャツに若草色の薄手のコートを羽織り、下は紺のスラックス。さすがに腰周りのベルトは武器を携行する性質上変えるわけにはいかなかった。

 

 ドレスローザという国の建築様式は、どことなくスペインに似ている。

 

 からりと乾いた夏の陽気と、この国の名物だというコロシアム。煉瓦造りの壁を彩るカラフルな屋根には天を衝くような細長いものもあって、目にも楽しい。

 更に特徴的なのは、この国の王が海賊ということもあって、あちらこちらで存在を主張する彼らの海賊旗をモチーフとした装飾品だ。にんまりとした笑顔にも見えるそれはドフラミンゴのそれを彷彿とさせる。

 

「ああ、これは失礼」

 

 くん、となにかに引っ張られる感覚にミオが首を向けると、おおきなウサギの人形が会釈した。

 そのウサギの頭の更に上、宙に浮いた糸受けから伸びる繰糸のいちぶがミオの袖に引っかかっていた。ミオはそれをていねいにほどいて、会釈を返した。

 

「こちらこそ失礼を」

「ホゥホゥ、ではお互いさまということですなァ!」

 

 妙に明るい態度で一度だけぴょんと跳ねて、大げさにかくんと頭を傾けるウサギはまさしく『オモチャ』そのものだ。

 ドレスローザとスペインとのいちばんの違いは、このウサギ──街中いたるところで見かけるオモチャたちの存在である。彼らは人間と共存しており、よき隣人で、友人で、恋人で、家族であるらしい。

 街に出ることすら日の浅いミオには、でっかいオモチャがごく自然に歩いている姿に違和感を覚える。

 

「いずれは慣れる、のかなぁ」

 

 ウサギのオモチャを見送って、歩くことしばらく。

 ふと、誘われるように細い路地へ足を踏み入れた。薄暗い路地で、見上げると陽を遮るようにいくつもの洗濯物が建物の窓を通した紐からぶら下がっている。

 風でそれらがはためくたびに、ちらちらと地面の影が遊び回った。

 それらを追うように路地の奥へ奥へと進んでいくと、突き当りの少し前、視線の先にひっそりと小さな露天を見つけた。

 店主は女物の日傘を差した老人がひとり。

 

「いらっしゃい」

 

 低い声の老人の目の前には木箱に布を敷いただけの簡素な陳列台。だが、売っているものはダガーだのボーガンだの鉈だのと妙に物々しい。

 なんだろうこの店、とミオが疑問を抱くよりも先に老人が続けた。

 

「待っておったよ」

「待ってた?」

 

 今日、ここに辿り着いたのは偶然だ。

 けれど老人は頓着した様子もなく「ああ」と答えながらいちど木箱の下のあたりに身体を深く折り曲げ、やがて起き上がった。

 老人の手にあったものを見た瞬間、声が出ていた。

 

「ッ、それ」

「昨夜からこいつが妙に騒ぐでな、やかましくてかなわん」

 

 老人が取り出したのは、鞘に納められた一振りの日本刀だった。

 その鞘、拵え、伸びた紐からぶら下がる玉飾り。何もかもをミオが見紛うはずもない。

 

「小狐丸……」

 

 いつでも、どこまでも、苦楽を共に生き抜いてきた、たったひとつの相棒の名が、気付けば零れ落ちていた。

 

「それを、どこで?」

「どこぞの難破船から手に入れたらしいが、詳しくは知らん」

 

 どうもこの爺さん、難破船専門のトレジャーハンターが持ち込んでくるお宝を買い取って販売しているらしい。

 

「なにをしても抜けん刀なんぞいらん、と売りつけられてのう」

 

 それはそうだろう。小狐丸はミオの手でしか抜けない。

 そういう刀で、相棒で、呪いだ。

 

「おいくらですか?」

「もしお前さんが抜けるなら、お代なんぞいらんよ」

「いや、それは」

 

 この爺さんにも生活があるだろう。せめて小狐丸を買い取った金額くらいは払わせて欲しい。

 そう食い下がると、爺さんはそんじゃ、と続けた。

 

「抜けたらその刀をよぉく見せておくれ。わしのような物好きには、何よりのお代じゃ」

 

 そういってにぃ、と乱杭歯を見せて笑う老人の顔はなるほど、抑えきれぬほどに沸き立つ好奇心が見て取れた。

 

「お安い御用ですよ」

 

 差し出された小狐丸を恭しく受け取り、ミオはまるごと抱きしめるようにして鞘に頬を押し当てた。

 老人の目など気にならなかった。くっついた頬はひんやりと冷たいが、その馴染んだ温度が信じられないほどの安堵をもたらしてくれる。

 

「こんなところまで付いてきてくれたんだ……ありがとう」

 

 よかった、ずっと不安だったんだ。

 

「ごめんね、待たせて」

 

 ミオはそっと囁き、柄頭をするりと撫でるとごく自然な動作で柄へ指を絡ませて鯉口を切り、刀身を露わにした。

 海水に浸っていたというのにサビ一つ浮いていない黒瑠璃の如き刀身は、陽の光を弾いて濡れたような輝きを放つ。

 

「どうぞ」

 

 それを差し出すと、老人は「おお……」としわくちゃの手で小狐丸をそっと受け取り、時折陶酔の滲む声を漏らしながら試す眇めつ、時間が許す限りじっくりと見分した。

 

「位列にも載っていない名刀、いや、妖刀か……こんな逸品に出逢う日が来るとは、長生きはしてみるもんじゃ」

 

 何度か瞬きして、老人はミオに小狐丸を返しながらゆるゆると笑う。

 

「お前さんとその刀はよくよく縁があるようじゃ。大事にしてやりなさい」

「もちろん。本当にお代はいいんですか?」

「いらんいらん。むしろ、わしが払いたいくらいよ」

 

 心底満足そうに言われてしまえば、ミオでもさすがに空気を読む。

 

「では、ありがたく頂いていきます」

「ああ。……まいどあり」

 

 冗談めいた口調でつぶやき、老人はゆるく手を振った。

 ミオはそれに深く礼を返し、小狐丸をベルトに差した。

 

 慣れ親しんだ重みと柄の感触に、ミオはようやくこの地をしっかりと踏みしめることができたような気がした。

 

 ……不覚にもちょっと泣きそうになったのは内緒だ。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 奇縁が巡り、頼りになる相棒(小狐丸)が手に入ったおかげで目下の課題が片付いたミオは、仕事を始める前にやらなければならないことがある。

 それは、部屋の棚に仕舞われていた折れた刀──おそらくはそれまでの『ミオ』が愛用していた刀の弔いだ。

 

「どこがいいかなぁ……」

 

 この刀に己がどれだけ救われていたのかは、刀身についた細かな傷や鞘の欠け、鍔のひびから容易に読み取れた。

 ただ捨てるには忍びなく、かといって墓地というのも何か違う。打ち直すことも考えないではなかったが、あいにくと鋼が足りない。だったら感謝と哀悼を込めて、なるべく静かに眠れる場所へと埋めてやりたい。

 丁寧に磨かれ、布にくるまれたそれをバッグに入れてシャベルを肩に担ぎながらノコノコと城の廊下を歩いていたら、秘書よろしくベビー5を連れたドフラミンゴが向こうからやってくるのが見えた。

 

「こんにちは、若旦那。ベビー5」

「よう、まだ仕事の斡旋した覚えはねェはずだが……何かあったか?」

 

 ドフラミンゴはミオの担いでいるシャベルをサングラス越しに見つつ問うた。

 

「ああ、これは仕事前にしておきたくて」

 

 ミオは肩から下げたバッグへ視線を落とし、ぽつりと。

 

「ちょっと、お墓を作りに」

 

 ドフラミンゴとベビー5は一瞬顔を見合わせ、それから長い足を駆使して一歩でミオとの距離を詰めてると、こともなげにシャベルを取り上げた。

 

「え、ちょっと」

 

 手をのばすより先にドフラミンゴが口を開く。

 

「あァ、心配すんな。うちには腕のいい掃除屋も揃ってる。現場どこだ?」

「……ん゛ッ!?」

「大丈夫よ! ミオねー……、ミオ! ここは若様の国だもの! たとえ殺しちゃったって弁護士いらずの一発無罪!」

「ヴァー唐突に物騒だし慰めが力技すぎる! なんでだ!」

「それにしてもお優しいなァ、海にでも落とせば済むってのにわざわざ埋めてやろうってか」

「あいにく死体処理に悩んでるワケじゃねーんですけどねぇ! 人の話聞けやおピンクフラミンゴ!」

 

 誤解を解くのに三十分くらいかかった。

 なんとかシャベルを返してもらい、ついでにあまり人の寄らない場所を尋ねるとベビー5が答えた。

 

「それなら、島の端のグリーンビットかしら」

「おい」

 

 咎めるような一声にベビー5が口を噤む。

 ミオはすでにこの島の全景を記憶しているから、ベビー5の言った場所のことをすぐに察した。

 

「グリーンビット、あのやたらと緑が繁茂してるところですよね。確かに、いいかも」

「あそこはやめとけ」

 

 けれど、ドフラミンゴが待ったをかけた。

 

「なんでです?」

「あの辺り、物騒なモンがうようよいるんだよ。橋を渡る間に食いつかれるのがオチだ」

 

 聞けば、あの小さな島に渡るには鉄橋を渡らねばならないのだが、その周辺には『闘魚』と呼ばれる巨大かつ獰猛な魚類が回遊しており、人間すら餌にするのだとか。

 しかし、今のところ他にいいアイデアも浮かばない。

 

「ご忠告に感謝を。とりあえず行ってみて、無理そうだったら別の手段を考えます」

 

 ミオは軽く頭を下げて、ドフラミンゴの横をすり抜ける。

 しょせんは魚と侮っているわけではないが、行くだけ行ってみなければどれほど危険なのかも判断つかない。

 

「ベビー5、教えてくれてありがとうね」

「い、いいのよ。気を付けてね!」

「なんなら、ヒマなやつをつけてやってもいいぜ?」

「御冗談。無駄飯ぐらいの食客以下に、そこまでの過分なお心遣いなぞ無用です」

 

 ドフラミンゴにさらりと返し、ミオはそのまま小走りで廊下を去っていく。

 その姿はだいぶ回復していると見て取れるが、どことなく危なっかしくも映った。あの『頂上戦争』で暴れまわっていた全盛を知っているからこそ、かすかな所作のずれが目につくのだ。

 

「……ねぇ、若様」

「どうしたベビー5」

「どうしてミオ姉さまには、あの『お姫様』の治療をしなかったの?」

 

 実は、この城には治療に特化した能力者がいる。

 それはこの海賊団周知の事実であるし、同時に秘匿されている存在でもある。

 けれど相手は記憶を失ってはいても、ドフラミンゴの実の姉。治療を受けさせる資格はじゅうぶんにある。

 なにより、彼女の能力で回復させればミオの回復にここまでの時間もかからなかっただろう。

 

「あァ、そりゃ簡単な話だ」

 

 ドフラミンゴはベビー5の頭をぐしゃりとかき混ぜて、いつものように笑う。

 

「現状、ミオの身体のいちぶはおれの能力で賄ってる。あの治療能力との相性が読めねェ以上、危ない橋は渡らねェに限るだろ」

 

 彼女の治療能力は確かに希少だし有用だが、それがミオに通用するかは未知数だった。

 とりわけ、ドフラミンゴの『イトイト』で賄っているものは人間の最重要臓器である。もし、治療の過程で『イトイト』が解除されてしまえば、その場でミオは死ぬだろう。

 

「ンなことになったら、おれァあのお姫様を殺しちまうだろうしな。多少の時間がかかっても、自己回復力とミオの根性に賭けた方がいい」

「なるほど……」

 

 こくこくと頷くベビー5にドフラミンゴはそれに、と続けた。

 

「万が一、ミオがあのお姫様と会って話せば……あいつは、あのお姫様につく。必ずだ」

「ッ、そんなこと」

「あるに決まってんだろ。あれは()()()()?」

 

 確信すら籠もった断言だった。

 今のミオにとってドフラミンゴはただの『恩人兼債権者』で、それ以上の感情を抱いていない。

 そこへ、海賊団総出で騙くらかしていいように使っているお姫様なんて存在を見つけたらどうなるか。

 

 十中八九、ミオは彼女の味方につく。

 

 そして、もし、お姫様からの縁で小人たちにでも会ってしまったら……それこそ最悪だ。

 この島の全容が露呈すれば最悪ドフラミンゴと敵対、どころか、暗殺を企てる可能性すらないとはいえない。

 そんな事態になったら泥沼である。

 

「ベビー5、幹部連中と他の奴らにも言い含めておけ。ミオとお姫様を会わせるな。なにがあろうと、な」

「……そうね、わかったわ。若様」

 

 硬い表情で頷いたベビー5は、こうしてはいられないとばかりに駆け出した。

 それを眺めていたドフラミンゴは癇性にがり、と頭をかきながら嘆息する。

 

「存外、扱い難いもんだ」

 

 

 

 




お久しぶりすぎて申し訳ありません!そしてお待たせいたしました!
私生活もぼちぼち落ち着いてきたので、また不定期ではありますが少しずつ更新できればと思います。

引き続き楽しんで頂ければ、これ以上のことはありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六.伝承ニライカナイ

 

 

 この世界──というか、ドレスローザでは『妖精』の存在が信じられている。ということをミオは最近知った。

 

 曰く、つむじ風のようなものに遭って持ち物がなくなっていたら、それは『妖精』の仕業だから潔く諦めなさい。

 よくあるおとぎ話の類のようなものなのだろうと認識していたのだが、それなりに被害(と呼ぶのもおかしいのだが)に遭っている人間がいることも街で聞き及んでいる。

 ミオはなんとなく、道すがらの露天で蜂蜜飴を袋で買ってバッグに突っ込んだ。蜂蜜を用いた菓子や酒は妖精の好きなものだ。あくまでミオの知識の中では、だけど。ないよりマシだろう。

 

 そうして歩いて、喧騒が遠ざかり、グリーンビットと島とを繋ぐ鉄橋に到着した。

 物々しい、巨大な鉄橋の前にこれ見よがしに『KEEP OUT』のテープが飾られ、ドフラミンゴの忠告を思い出す。近所の人にも冒険家でもないならやめておきなと止められたし、闘魚とやらはそれほど恐れられているらしい。

 かといって、他にあてがあるでなし、ミオはおっかなびっくりテープをくぐってなるべく気配を殺してそろそろと橋を渡った。

 幸い、闘魚とやらには遭遇することなく渡り終えることができたけれど、広がる光景にあんぐりと口を開けた。

 

「でっけえ」

 

 でかいのである。何もかもが。

 島の面積として考えるのなら、そう大きなものではないのだろうが繁茂している植物群がとにかくでかい。

 葉っぱ一枚が大型トラックくらいのものや、プレハブ小屋くらいはありそうなキノコ。そんなものがわさわさと生えているのだから、サイズ感が違いすぎて自分が小人にでもなったような気分だ。

 その生命力の旺盛さに圧倒されてしまって、果たしてここにお墓を立てていいものかと疑問が湧いてきてしまった。

 

「いや、でもなあ……」

 

 シャベルを持っていない方の手で髪をぐしゃ、とかき混ぜる。

 自分がどれだけの感謝と敬意を抱いていたとて、この刀はあくまで"モノ"だ。人のためにある霊園に埋葬するのは……何かが違う気がした。

 ひととおり散策してみて、無理そうならまた何か考えるか。

 

 消極的ながらにそう決めて、ミオは自分の身長より大きな葉の下をくぐって内部へと足を踏み入れた。

 木々の隙間から入ってくる日差しは細く、元気よく広がる葉っぱがいちいち視界を遮ってくるし、人の手が入ってないのか獣道すら見当たらなかった。足元は自分の太ももの倍くらいはありそうな根があちこちに伸びてめちゃくちゃ歩きにくい。

 下手すると地面が露出している部分を見つけようとすることすら困難そうで、そりゃ若旦那も止めるかと妙な納得があった。

 まるで自分が小ト◯ロにでもなってしまった気分でざかざかと草木を分け入ってどれくらい経っただろうか。

 

 ふいに、ぴゅうっと。

 

「うん?」

 

 小さな気配を感じた。と、思ったら腰から下げていたバッグが忽然と姿を消していた。それこそ、魔法かなにかを疑ってしまいそうなほど鮮やかに。

 さては、これが妖精の仕業なのだろうか。これは、困ったな。

 小銭や蜂蜜飴はどうでもいいが、中には埋葬予定だったミオの愛刀……だったものが入っているのだ。

 というか、ミオの知識だと妖精という存在はなべて鉄や錆を厭うと思っていたものだから、バッグに手を出されるとは夢にも思っていなかった。

 

「……」

 

 しばしミオはその場に立ち尽くし、さてどうすべきかと少し考えた。

 この島にある妖精伝説は本物なのだろう。まさに今、自分が体感したわけだし。

 となると、このグリーンビットはさしずめイギリスでいうところ彼らの住まう妖精の國、『ティル・ナ・ノーグ(常若の國)』といったところだろうか。バリバリに地続きだけど。伝承では彼らは戦いに敗れてブリテンの支配権を失い、塚の下から地底の異界に去って行ったらしいけれど、ここにも地下があったりするのだろうか。

 どちらにせよ、領土侵犯をしたのは自分であるし、罰として代償に荷物を取られるのは妥当ともいえる。

 でも、あの刀はミオにとっても大事なものだ。せめて自分の手で静かに眠らせてあげたいと思う。

 

 となると……。

 

「僕たちの"よき隣人"、"お隣さん"。どうか、どうか、お願いします」

 

 ミオはそっと、呼びかけた。

 妖精、と呼ばなかったのは妖精というワードは直接使うべきではない、という伝承に則ったものだ。

 それは無粋というより、直接種族名を呼ばないことで敬意を表す、という婉曲的な表現である。ミオなりに妖精へ精一杯の敬意を払ったというかたちだ。

 

蜂蜜酒(ミード)はここにはないけれど、その蜂蜜飴はぜんぶ差し上げます。ううん、荷物はみんな持っていってかまわない」

 

 虚空に話しかけていると、かすかな、小さな気配を周囲にちらほらと感じる。妖精がいるのだろうか。

 

「けれど、ただひとつ。ひとつだけ。折れてしまった刀だけ、どうか返してくださいませんか」

 

 あいにく、自分は()()()人ではないから、わからないだろうけど。

 

「それは……庚申丸は、僕の大事な刀です。ずぅっと一緒に頑張ってくれたけれど、折れてしまった。役目を果たした大切なものを、僕の手で葬ってあげたい」

 

 ミオはただ真摯に、ひたむきに言葉を紡いだ。

 それしかできることが思いつかなかった。

 

「ここに埋めるのが失礼ならば、立ち去ります」

 

 彼らの領土に勝手にお墓を作るのが失礼だというなら、それはそうだ。お墓はべつに探せばいい。

 

「だから、お願いします」

 

 深々と頭を下げる。

 そうすると、ミオの聴覚でも捉えきれないほどの小さな囁きがひそり、ひそりと響いた。

 その姿勢のままでいること数分、やがて──カチャン、と音がした。

 

 顔を上げると、目の前にぐるぐると布で巻かれた庚申丸が無造作に置かれていた。

 どうやら返してくれるようだ。

 

「ありがとう、本当にありがとう!」

 

 精一杯の感謝とともに庚申丸を手に取ると、不思議なことにあれだけミオの道行きを邪魔していた葉が不自然な動きでずれてゆく。

 さやさやと梢が鳴る。日差しが灯り、それはまるで道のようだ。

 

 案内してくれる……の、だろうか?

 

 庚申丸を握りしめ、立ち尽くしていると踵をつつかれるような感触があった。押されるように歩くことしばし。

 やがて、少しだけ開けた場所に出た。あれだけ繁茂している植物の隙間を縫うようにぽかりとそこだけ土が露出している。

 

「こんなところ……いいんですか?」

 

 露出した土の周りには嘘みたいに大きな花が咲いている。天使が羽根を広げたような、真っ白でうつくしい花。かたちを見るとサギ草のようにも見えた。

 まるで神秘の欠片を前にしたようで、どこか申し訳ない思いでつぶやいてしまう。

 

──戦士の誇りを汚すわけにはいかないれすから

 

 葉擦れの囁きのような声がミオの耳朶をくすぐり、それきり何も聞こえなくなった。

 都合のいい幻聴かもしれない。でも、他にこれ以上の場所を見つけられるとは思えなかった。

 ミオは意を決して土の露出している場所にシャベルを突き立てて小さな穴を掘り、最後にもう一度だけ庚申丸を強く抱きしめてからそっと穴の中におさめて、埋め直した。

 

「きっと、"夢でもあなたを思う"」

 

 作ろうと思っていた墓標はいらない。この美しいサギ草が目印になってくれる。

 

「ありがとう、ここまで僕を連れてきてくれて」

 

 土をかけた部分をゆっくりと撫でて、黙祷を捧げて、ミオは立ち上がった。

 

 妖精の姿を見れなかったことが、少しだけ残念だと思った。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 だれかが、僕の手を引いている。

 

 だれだろう、小さい子。

 小さい頭からすっぽりレインコートを着てて、男の子なのか女の子なのかもちょっとわかんない。雨も降ってないのにね。

 

 ちっちゃなおててで僕の手をぎゅっと握ってて、ちょっぴりひんやりしてるのにそれが慕わしくて、なんだかとても懐かしい……懐かしい?

 

 はやくはやく、という感じで引っぱってるから僕は流されるままに歩いてる。

 周囲はぼんやりミルク色で、どこに向かってるのかもよくわからない。

 

 でも、いやな感じはちっともしないから、とりあえず歩いてる。だってこの子が行きたがってるんだもの。

 レインコート越しでもその子はなんだか誇らしげで楽しげで、もう片方で握っている木槌をふりふり勇ましい。なにに使うのかな。……ああ、修理だ。そうだ、そうだね。とっても大切なものだ。

 

 だってこの子は、僕の、だいじな──

 

 ふ、と霧が晴れた。

 

 いつのまにか、そこは甲板近くの舳先の上。

 

 ああ、うん、ここは。知ってる。知ってるよ。

 

 ここは、ぼくのお気に入り。とびきりの特等席。

 

 このみんなを乗せた大きなくじらが、白波を裂いて意気揚々と、見えぬ海路を進む姿が、とても好きだった。

 

 小さな子が、僕の大事な子が胸を張って、僕はありがとう、そうだねって頷いた。

 

 その子は僕の手をいちど、痛いくらいぎゅっと握って、それからレインコート越しにこちらを見上げてにっこりと笑った。

 それからゆっくり、本当にゆっくりと手が離れて、いつの間にいたのか、もう一人の子の方へ駆けていく。色違いのレインコートに、片手に木槌。ちょっとだけあっちの子の方が背が高いかも?

 その子は僕の手を引いていた子の頭をよしよし、という感じで撫でて、僕に向かっておおきく手をふった。僕も振り返した。

 

 浮かんでる、まんまるの月。潮騒が耳朶を打つ。光の強い星々がきらきらしてる。月がこぼした涙みたいな、尊くてさみしい、たくさんの星。

 

 月の光が海面に回廊を作って、それはひととき道筋になる。遠くまで。

 

「まァた面倒くせぇことになってんなァ、おい」

 

 ぼす、と頭に重み。

 声も重くて、しみるみたいで、あったかい。

 振り向くとおおきな、本当におおきな身体が精一杯に腰をかがめて、僕を見つめている。

 

「身体はガタガタ、心臓は作りモノ、おまけに記憶までどこぞに落としてきやがって。無茶に無謀を重ねてそれだ、ちっとは反省しろアホたれが」

 

 おおきな身体、おおきな心、おおきな白いおひげ。

 

「けど、よく頑張った。おめェは確かに生き延びた。おれの娘はそうでなくっちゃいけねェ」

 

 僕の大好きなひとが、さびしいくらい優しい顔で微笑んでいる。

 おおきな手が、いつものように僕をすくうように抱き上げて。酒瓶を傾け、ぐいぐいあおる。

 

「海賊にいちばん大事なのはよ、生き様よりも死に様だ。好き勝手に暴れたんだ、好き勝手に暴れ続けて笑って散るのが相応ってもんだ。馬鹿みたいにな」

 

 ぶはあ、と吐息をこぼし、口の端を面映そうに上げて、だってのに、と。

 

「それを台無しにしやがって。まったく、おめェは手に負えねェじゃじゃ馬だよ」

 

 愚痴みたいなのに、世界でいちばん愛しいひとへ語るように。

 

「誇れ、ミオ。おれの愛しいばか娘、チェレスタの"いっとうだいじなおほしさま"」

 

 にっ、と白いひげが動く。

 それは海賊の笑みなのに、父親が家族を世界に自慢するときみたいな満面の笑顔だった。

 

「最後はちぃっとゴタゴタしちまったが、まァ、おおむね大往生だ」

 

 するりと僕をおろして、大きな身体が動く。

 酔っ払い特有の重力のない動きで、両腕をめいっぱいに広げて、まるでファンファーレみたいに。

 

 

「おめぇは確かにやりきった!」

 

 

 それが、その一言がすべてだった。

 思いが伝わる。はち切れそうだ。なにかが堰を切った。心臓の奥のもっと奥にじんじん響いて、溶けて、膝からちからが抜けていく。

 

 ぜんぶ、ぜんぶわかってしまったから。

 

 そうか、そうなんだ。

 意味はあった。間違いだらけでも、貫き通した意地はここに報われた。連れて行けたのだ。夢のまた夢の、その先へ。だけど、僕はもうあえない。あえないんだ。

 僕の大好きなひと。大事なひと。生き方を教えてくれたひと。どうしても、生きてほしかったひと。

 

「おとう、さん」

 

 これが夢ならどんなにいいか。でも、そうじゃない。

 

 そうじゃ、ないから──

 

「グラララ……せいぜいあっちで土産話をたらふく聞かせてやらあ」

 

 心があふれて止まらなかった。

 

「好き勝手に生きろ、ミオ。馬鹿みたいにな」

 

 ぼろぼろこぼれて、落ちて、息の仕方も忘れてしまいそうだった。どうやって止めればいいんだろう。そんな術は知らない。

 

「あー、泣くな泣くな。べっぴんさんが台無しになっちまう」

 

 もう一つ、声。

 ぐしゃぐしゃ、となだめるみたいに髪をかき混ぜる感触。渋くて、ちょっぴり甘い声。僕はこの感触と声をよく知ってる。

 

 ああ、なんてことだ。

 

「オヤジの供回りなんて大役だろ?」

 

 茶目っ気混じりのウインクひとつ、フランスパンみたいな髪が揺れる。

 その周りで、二人のクラバウターマンが踊るようにきゃらきゃらとまとわりついていた。

 

「悪ィけど、ウチの末っ子を頼むぜ。スゲェ荒れてんだわ。アイツはなんも悪くねェのによ」

 

 夢中で頷くしかできなくて、それがひどく歯痒かった。

 大好き。大好きだからさびしくて、苦しくて、つらい。大好きな人たちがいなくなる。ここでないどこかへ、旅に出る。

 いかないで、ここにいて。だけど、それは口にしちゃダメだ。

 

「じゃあな、ミオ」

「愛してるぜ、ミオ」

 

 この世界は優しくない。海賊はそういうものだと知っている。

 

「船出の時間だ」

 

 だから、僕にできることは──

 

「ぼくも、あいしてる!!」

 

 力の限り叫んだ。

 それしかできなかった。

 

「ありがとう────!!」

 

 耳元で風が鳴る。

 いつの間にか岸壁にいた。

 大きな船が遠ざかっていく。月の道をたどるように。追従するように小さな船が見える。水音が大きくなっていく。

 

「ずっとずっとずっと、だいすき────!!!!」

 

 胸が熱くて目が熱くて苦しくて切ない。

 さようなら、と口にできない弱さをどうかゆるして。

 

 おとうさん、サッチ、モビーディック、モビー・ジュニア。

 

 どうか、どうか、よい旅を。

 

 

 

 




今回はここまでです。
次回更新は年内を目指しているのですが、現在の進捗を鑑みるとちょっと厳しいかもしれません。申し訳ありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。