速水龍一で始める『はじめの一歩』。 (高任斎)
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1:道。

ついカッとなって書いた。
反省も後悔もしていないが、最終話までの筋道が見えないことを後悔している。


「息子が学校で虐められている」

 知人が漏らした言葉に、グラスに伸ばしかけた手が止まった。
 困惑しつつ視線を向けたが、知人はじっと自分のグラスを見つめているだけだ。
 その横顔からは、私に相談したいのか、それともただ聞いて欲しいだけなのかを察することができなかった。

 いじめ、か。
 どこかで聞いたような対応策がいくつも浮かぶ。
 浮かぶのだが、その程度のことは私がアドバイスするまでもないだろう。
 私も、知人も……いい大人だ。

 いや、いい大人だからこそ……自分たちの経験が、今の子供たちの役に立たないことを良く知っている。
 自分の子供時代を振り返れば、『子供が純粋な存在』などとは口が裂けてもいえない。
 子供なりに、社会のゆがみに触れ、大人の弱みを知り、いつだって周囲を出し抜こうとしていた。
 そして、今は……あの頃よりも、大人の立場が弱い。
 それは、相対的に子供が強くなったことを意味する。

 悪いことをした子供を叩けば事案発生だ。
 叱るだけでも事案発生。
 話せばわかると言う者もいるが、言葉に対して銃弾が撃ち込まれるのが人間社会というものだ。
 そして、子供は、子供だからこそ、相手の弱点を無邪気に、無慈悲にえぐってくる。

「それで……理由はわかってるのか?」

 私の問いに、知人はただグラスを傾けた。
 そしてポツリと。

「名前だとさ」
「名前?」
「子供たちの間で人気の、アニメだか漫画だか……その悪役の名前が、うちの息子と同じなんだとよ」

 眉をひそめる。
 名前がきっかけなのか、それともただの口実なのか。
 しかし、そういうことではあるまい。

「あいつの将来を願って、妻と一緒に精一杯考えた名前だったんだがな……泣きながら『なんでこんな名前をつけたんだよ』って言われると、こたえるなぁ……」

 ……かける言葉が見つからないというのは、こういうことを言うんだろうな。

 グラスに手を伸ばし、傾けた……が、のどを通っていかない。
 仕方なく、そのままグラスを戻す。

 悪役、か。
 私にも、覚えがある。
 まあ、悪役ではなく、やられ役というか、かませ犬、か。

 私の名前は、龍一。
 速水龍一、という。
 どこにでもいそうな、それでいて、ちょっとばかり格好いいと思える名前だ。

 速水龍一。
 それは、20年以上昔、ちょっと話題になった名前。
 そして最近、また少し話題になった名前。
 ある人気作品に出てくる、登場人物の名前。

 知人に教えられて、数年ぶりに読んだが……心がざらついた。
 いい大人でさえそう思うのだ、子供ならなおさらか。
 おそらく、創作物における『実際にはいそうもない名前のキャラクター』というのは、このあたりのことを考慮しているのかもしれない。
 酒を飲むでもなく、ただそんなことを考えていた。



 知人と別れ、夜の街を歩く。
 何気なく……ふっと右腕を振ってみた。

『ショットガンやってくれ』

 大学時代、何度も聞いた言葉。
 私の名前が『速水龍一』だからって、いつの間にか、宴会芸になってたんだよなあ。
 もちろん、ボクシングの構えを取ってから、缶ビールに穴を開けて『ショットガン飲み』だけどな。
 まあ、さすがにもうあんな若さに任せた飲み方はごめんだが。
 もちろん、みんながみんなそのネタがわかるわけじゃない。
 そしてまた、『速水龍一』という名前のネタが説明される。
 私は、それをおとなしく聞くしかなかった。

「速水龍一、か」

 主人公のために用意されたやられ役。
 挑戦し、打ち倒すための、レベルの高い、本来なら勝てるはずのない、主人公にとって都合の良いかませ犬。
 それで終わったはずだった。
 日本王者を争う舞台で再登場したのはいいが、ただ残酷な結末だけが示された。
 今度こそ終わったと思った、思っていた。
 それが再び、作品に登場して……ボクシングの残酷さを表現するために、都合よく使い捨てられるのか。

 もう一度、左手を振り、返しの右。
 うん、全然だめだな……。
 名前のせいで、ボクシングに興味を持ったからこそ……それがわかる。

 速水龍一でありながら、私は野球少年であり、高校球児だった。
 もしも、私がボクシングをやっていたらどうなっていたやら。
 まあ、インターハイを優勝するなんてことはできなかっただろうな。
 そして、『速水龍一なのにボクシング弱い』とか言われたか。

 これは、親の七光りに近い感覚なのかもしれないな。
 逃げても親の名は追いかけてくる。
 ならば乗り越えるしかない。
 強くなるしかない。
 周囲を黙らせるほどに。

 その強さをどこに求めるか……の選択だ。

 知人のことを思った。
 知人の息子は、ある意味、今が正念場だという気がする。
 誰かに助けを求めるというのも、ある種の強さだ。
 転校を選択するのも強さ。
 独りでいられるのも強さ。

 強さにも、種類がある。
 そして、何かを選ばなければならない。


 少し、酔っているのかもしれないな。
 自分の中の青い部分。
 若さとは言い切れない何か。
 私は、死ぬまで速水龍一だ。
 その名前を背負って、生きていく。

 信号が青に変わり、私は歩き始めた。

 まぶしい光。
 クラクション。

 私の死。














 ……うむ。

 唐突に記憶がよみがえった。
 子供時代から人生をやり直しってわけじゃなさそうだ。
 なんせ、両親の顔が違うし、下の名前も違う。
 生まれ変わりというやつだろうか。

 なのに、私の名前は速水龍一だ。(震え声)

 混乱した。
 そして、猛烈にいやな予感を覚えた。
 スマホを探そうとした自分に気づき、舌打ちする。
 前世の記憶、そしてどこか曖昧な今世の記憶をかき分けるように思考する。
 残念ながら、ネットがない時代だ。
 子供が情報を集める手段は、テレビと新聞ぐらいしかない。
 新聞を探す。
 スポーツ欄をめくる。

 ボクシング。
 ボクシングはどこだ。

 昨日は試合がなかったのか、それとも単に試合結果が載ってないのか判断がつかない。
 そういえば、タイトルマッチでもない限り、結果が記載されないこともざらだった気がする。

 電話帳の存在に思い至るまで、しばらく時間がかかった。
 探せ、探すんだ。

『鴨川ジム』を。

 ここが『はじめの一歩』の世界で、私があの『速水龍一』だとすれば、速水龍一は、主人公のひとつかふたつ年上だったはずだ。
 だとすると、今は原作が始まる10年と少し前というところか?
 確か、鴨川ジムは20年の歴史があった気がする。
 ならば、今もあるはずだ。

 ただ、名前だけでは、それが私の知る鴨川ジムなのか、同名の鴨川ジムなのかはわからない。
 名前からして、会長も鴨川なんだろうけど、名前が源二なら覚悟をきめたほうがいいだろう。
 前世の記憶もちで、生まれ変わりで、時代が逆行とか、この時点で常識は投げ捨てるほうがいい。

 人生という名の現実ってやつは、いつだって想像の斜め下をぶっ飛んでいくものだ。

 電話帳をめくりながらふと思った。

 鴨川ジムって、東京都にあったんだったっけ?

 電話帳を見る。
 自分の、私の家族が住む家の住所を思い出す。
 いかん、深呼吸でもして落ち着こう。
 大きく吸い、時間をかけてゆっくりと吐き出す。
 それを、繰り返す。

 鴨川ジム、そして音羽ジムか。
 間違いなく、首都近郊だろう。
 東京、神奈川、千葉……あたりか。
 少なくとも、一歩の家は海からそれほど離れてはいない。

 電話帳で直接調べるのは無理だ。
 家の近くのボクシングジムを調べ、そこで日本プロボクシング協会だか連盟の連絡先を聞いて、鴨川ジムの代表者の名前を聞けば……。
 まあ、まだプライバシー保護なんて言葉が希薄な時代だ、なんとかなるだろう。

 いや、落ち着け。
 それを知ってどうする。
 私は、私だ。
 この新しい人生で、今度こそプロ野球の選手になるという夢をかなえたっていいじゃないか。

 仮にこの世界が『はじめの一歩』の世界であったとして、私があの『速水龍一』だとしたらだ。
 ボクシングの世界に足を踏み入れたところで、鳴り物入りでデビューしたのはいいが、ビッグマウスを叩きながら一歩に負けて……ああなって、こうなる。

 ははは。

 一撃で肋骨を持っていく殺人パンチに相対しろと?
 沢村みたく、顔面の形を変えられろと?
 デンプシーロールの餌食になれというのか?

 ああ、『速水龍一』とやるときは、まだそこまでいかないのか。
 間柴の肘をオシャカにする程度だよね。
 そして、『速水龍一』のアゴをぶっ壊す程度。(白目)

 ここはひとつ、主人公(いっぽ)の活躍を遠くからお祈りさせていただくということで、ファイナルアンサー。
 私、速水龍一は、野球少年として少年期を過ごすことにします。










 あかん。
 この身体、野球にむいてない。

 子供の頃からなんとなくそうじゃないかとは思っていたが、この身体、運動神経は良いし足も速いが……中学1年の夏で成長が止まり、どうも身長が170センチを超えないことがはっきりした。
 確かに、父親も、母親も、そろって背が低い。
 そして、前世に比べて筋肉があまりつかない。
 前世も含めて、日本ではほとんど情報が流れないが、人間の身体は生まれた瞬間に筋肉量の上限が定まる。
 そして、努力で上限に近づけることができるが、上限そのものは変わらない。
 これは、1980年頃には欧米のスポーツ界では常識に近いものだった。
 まあ、だからこそドーピングなんてものが生まれたわけだが。
 ドーピング違反に対してのコメントが、欧米では『ルール違反、スポーツの定義が乱れる』というものが多いのに対し、日本では『ずるい、卑怯』というコメントが多くなる。

 日本では、筋肉がつかないのは、『努力が足りないせい』という考えが主流だからだ。
 対して、欧米におけるスポーツ思想の根底には『優れた遺伝子の選別』という考えがある。
 そして、だからこそ、ドーピングが禁止されている。

 あと、遅筋と速筋の割合も生まれたときに決まってしまう。
 要するに、生まれた瞬間、筋肉の資質で向いている競技と向いてない競技が決まっている。
 もちろん、筋肉の質だけですべてが決まりはしないが、大きな要素であることは間違いない。
 海外では運動能力に優れた子供に検査を受けさせ、それから競技を選択させるなんて事もある。
 日本も一部ではやっているだろうが、報道はされない。

 私は努力の大切さを知っている。
 しかし、それを盲信はしない。

 




 そして中学3年、私は野球に決別を告げた。
 現時点では、そこそこいい選手と評価されているが……すでに伸びしろがほとんどないのがわかったからだ。
 というか、前世のほうが選手としては間違いなく上で、先は望めない。
 どうせスポーツをやるなら結果を残したい。

 身長が低く、速筋が多め……柔道もレスリングもだめだろう。

 目はいい。
 反射神経も優れている。

 何気なく、右手を振る。
 涙が出そうになった。

 左、そして返しの右。

 ステップを踏む。
 足でリズムを刻み、手を出す。
 もちろん、素人の動きだ。
 素人の動きなんだが……これだけの動作で、野球よりもはるかに『向いている』のがわかってしまう。
 まるで、世界が私にボクシングをやれと言っているかのように。


 その夜、デンプシーロールでリングの外に吹っ飛ばされる夢を見て目が覚めた。
 汗が冷たい。
 呼吸が荒い。

 まだだ。
 まだ、この世界が『はじめの一歩』の世界と決まったわけじゃない。
 だって、あれから調べてないから。
 つまり、シュレディンガーの世界なんだよ。(震え声)

 汗を拭き、シャツを着替えて寝なおした。
 夢は、見なかった。 




 数日後、世界が容赦なく私に現実を突きつけてきた。

 伊達英二の世界挑戦が決定したというニュース。
 もちろん、相手は『リカルド・マルチネス』だ。
 場所は、メキシコ。

 ……うん。
 間違いないな。
 そう、なのか。









 自分の部屋で、鏡を見た。
『速水龍一』の顔を見る。

 ははは。
 好みは分かれるだろうけど、イケメンですね、この野郎。

 私が速水龍一である限り、前世の記憶が追いかけてくる。
 これは、私自身が乗り越えなければいけないことなんだろう。

 逃げても無駄だ。
 そして、前世の記憶なんてネタ、相談する相手はいない。
 私だ。
 私が乗り越えなければいけない壁だ、これは。


 ははは。
 やったるわ。

 スポーツの世界に背を向けるぐらいなら、ボクシングをやる。
 過信はしないが、才能があるだけでもラッキーと思おう。
 大口を叩いて結果を残し、ファンの女の子にキャーキャー騒がれてやろうじゃないか。
 そこにたどり着けないなら、所詮私はやられ役にもなれない偽者なんだろう。


 目を閉じ、主人公を思う。
 殺人パンチ。
 デンプシーロール。
 練習が、特訓が、すべて血肉になっていく、才能の化け物。



 ……骨を強くしないと。
 ガムをかんで、地道にアゴを鍛えなくちゃ。

 それと、プロになるまで、食事制限は控えたほうがいいか。

 人が摂取した栄養素はまず生命活動のために使われ、余剰エネルギーを身体の成長へとまわす。
 身長は伸びなくとも、筋肉や骨の成長は続く。
 その時期に栄養を十分に摂取しないと、当然弱くなる。
 アマチュアとはいえ、高校生の時期にきつい減量をするのは、影響が大きいと思う。



 電話帳を開く。
 家から通える、ボクシングジムを探す。

 私……いや、俺の、速水龍一の、『はじめの一歩』を踏み出そう。



いつものような、完結まで毎日更新、というのはできません。
というか、まだ終わらせ方とか何も考えてないの。(震え声)

2話が書きあがったので、1時間後(19:30)に投下予約入れておきます。


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2:原作まであと何マイル?

一歩と戦って、そこがエンディングでいいんじゃないかなという気がしてきた。(白目)
あと、ボクシングの階級の呼び名や、大会の状況は、原作の1990年前後を想定してますが、うろ覚えなので『現在』や『過去』と色々混ざってると思いますがご了承ください。


 両親に心配された。
 まあ、普通はそうか。
 ボクシングと言えば殴り合いで、この世界でも、日本のボクシング熱はすでに冷めている。
 世間の認知度も低い。
 そこを、利用する。

「父さん、母さん。ボクシングといっても、プロじゃなくてアマチュアの話だよ」

 父親譲りの甘いマスクで、さらりと言葉をつむぐ。
 嘘じゃない。
 ただ、誤解を招く言い方なだけ。

 許可が出たのは、両親がちょろいのか、それとも息子への愛情か。

 うん……ひとつ、枷をはめようと思う。
 高校の3年間で、インターハイで優勝できなければボクシングをやめる。
 これは、自分との約束。
 そして、自分なりの覚悟。



 さて、どのジムに入門しようかと思ったところで、首をひねった。

 そもそも、地元でもないのに、一体どういう流れで、速水龍一(おれ)は音羽ジムに所属することになったんだろう?

 原作の音羽ジムを思い出す。
 そういえば、ヴォルグもあそこだっけ?
 そして、板垣のライバルも……。

 有力選手を契約金つきで所属させるってスタンスか?
 インターハイで優勝して、音羽ジムに呼ばれたって感じなのか。

 それって……今から入門しようとするジムに、後ろ足で砂をかけるようなことになるのでは?

 原作ブレイクをしたいのだが、原作ブレイクしてないか不安になる。
 なんだろう、このもどかしいような矛盾感は。

 もう一度、ジムを見る。
『練習生募集』の『練習生』って、プロじゃないんだよな。
 ジムに会費を払って、ボクシングを教えてもらったり、施設を利用したりする。
 逆に、プロは会費が必要じゃないが、ファイトマネーの一部をジムがとるわけで。
 とすると、プロを所属させない、練習生だけのジムもあるのか。

 うん。
 入門して、高校にいって、インターハイを勝ってから考えよう。
 音羽ジムに誘われないようではだめ、と。



 まずは、現状のサイズ。

 身長168.1センチで、中学1年の夏から2ミリ伸びたが、誤差だな。
 体重はナチュラルで53キロ。
 プロだと黄金のバンタムで……アマチュアもバンタム、少し絞ってフライ級か。
 まあ、まだ成長期だ。
 原作ではフェザー(57.1キロ)で、後に1階級落としてたからな。

 何はともあれ練習だ。


「……変わってるな、お前」

 せっせと腹筋をしていた俺に、会長が声をかけてきた。
 休まず、言葉を返す。

「何がです?」
「いや、初心者は大抵、サンドバッグとか叩きたくなるもんだが」
「最近まで野球少年でしたから。まだ、ボクサーの身体になってないのに、意味ないでしょう。まずは身体作りですよね」
「……かわいげのないガキだなあ」

 そう言って、会長が苦笑を浮かべた。

 まあ、プロ野球選手に農作業をさせたら、1時間たたずに根を上げたという話もある。
 老人が平然と作業を続けているのに、だ。
 そのスポーツに必要な筋肉というか、身体というのがあるのだ。
 基礎工事をせずに家を建てようとしても意味がない。
 ただでさえ体重制限のある競技だ、無駄な筋肉の存在が許されるはずもない。

 短期と長期の目標を定め、努力する。
 いつものことだ。




 秋が過ぎ、冬が来る。

 自分の身体を鏡にうつしてみた。

「野球選手の身体じゃなくなってきたなぁ……」

 シャープな身体。
 特に意識してはいなかったが、体重が少し落ちた。
 野球に必要な筋肉が減って、今の俺の身体は、素体とでもいうべき状態か。
 ここに、ボクシングの肉がついていくのだ。
 いや、すでに太ももやふくらはぎには兆候が出ている。
 野球選手のそれとは違う、ボクサーの太ももとふくらはぎだ。
 野球選手の太ももは、ストップアンドゴーに耐えられるように、太く成長していくことが多い。
 ふんばる、勢いをとめるなど……下り坂で止まろうとすると、太ももの前部分に力が入るが、その能力が必要とされるからだ。
 まあ、ボクサーの場合は、タイプによって変わるんだろうが……主人公の一歩のアレは極端な例だといえる。

 俺は俺だ。
 またちょっと走ってくるか……。



 2月。
 伊達英二が、メキシコのリングに沈んだ。
 傷心の帰国。
 引退からの、カムバック物語の序章か。


 何かが、背中に迫ってくるような圧迫感。 
 意味もなく、後ろを振り返る。

 あの日。
 はじめの一歩を踏み出した俺の背後には、まだ道と呼べるようなものはない。

 前を向く。
 人間の身体は、前に向かって歩くようにできている。
 前に進むしかない。

 地元の、ボクシング部がある高校の選択肢は多くなかった。
 俺が思っていたよりも、アマチュアボクシングの競技人口は少ない。
 おそらく、選手間のレベル差は大きいだろう。
 出回る情報も少ない、か。

 原作で、俺はどの高校に進んだのか。
 原作ブレイクするための道は見えない。
 それでも、ただ前へ。
 俺は、歩いていく。






 モノが違うとはこういうことか。

 アマチュアの1Rは2分。(シニアルールは3分)
 3R6分間。
 俺は、先輩に一度も触れさせなかった。
 速度が違う。
 反射神経も違う。
 やらなかったが、先輩のパンチを見て、それをパンチで叩き落とすこともできた。

 次の日、先輩はボクシング部をやめた。
 かけるべき言葉はない。
 振り返ることもしない。
 前へ。
 ただ、前へ。

 誰かを蹴落としていくのは、ボクシングに限ったことじゃない。



 ルールが違えば、セオリーも変わる。
 競技の骨格を成すのはルールそのものだ。

 いわゆる、アマチュアルール。
 グローブの有効部分を、相手選手の有効部位にヒットさせるポイント制。
 もちろん、ダメージによるノックダウンはある。
 パンチが当たったかどうか、有効か無効か、それらを審判が判定する。
 認められなければポイントにならないし、認められればポイントになる。
 ダメージではなく、審判に認められやすいパンチの打ち方……それも技術だ。

 ただ当てるだけの速いパンチ。
 ダメージを与えるパンチ。
 虚と実。
 アマチュアボクシングがテクニック重視といわれる所以か。

 逆に、ポイントとして認められないが、ダメージを与える部位がある。
 ポイントにならないからと、防御が甘くなりやすい場所。

 どんな競技であれ、大事なのはルールを熟知することだ。
 ルールがセオリーを作る。
 長所も短所も、ルールが作る。

 そして、人を知ること。
 人は人であることに縛られる。

 俺は、試合を通じてボクサーを学習していく。
 言動、挙動、その傾向を学んでいく。
 追い詰められたとき、どう動くか。
 チャンスと思ったとき、どう動くか。
 弱いパンチにどう反応する?
 強いパンチは?
 当てが外れたとき。

 1Rで終わらせるなんてもったいない。
 学ばせてくれ。
 じっくりと見せてくれ。
 俺に、ボクサーを教えてくれ。

 県大会から、俺はすべてフルラウンド戦ってきた。
 ボクシングをなめているわけじゃない。
 試合でしか得られない経験を、貪欲に吸収したいだけだ。
 弱い相手も。
 強い相手も。
 学ぶべきところがある。

 それが、勝負をなめているというのならそれでもいい。
 それをねじ伏せてでも、俺はあの場所へとたどり着く。
 主人公が待つあの場所へ。



 最終R、ポイントは俺がリードしている。
 連打で相手を防御させる。
 さあ、ジリ貧だ。
 どう打開しようとする?

 目の色が変わる。
 ガードを固めて突っ込んできた。

 そうか。
 お前もそうか。
 じゃあ、いいや。

 左のショートアッパーでアゴをかち上げ。
 緩んだガードの隙間に、右のパンチを叩き込む。

 インターハイを制したとき、俺の連打は『ショットガン』と呼ばれるようになっていた。





 夏休みが終わり、ボクシングなんて興味ないって顔をしてた女子生徒が寄ってきた。
 校舎にかかる垂れ幕のせいか、それともテレビのニュースのせいか。
 どちらでもいいが、現金だな、と苦笑したくなる。

 まあ……この連中が離れるような試合はできないってことだ。
 まずは勝つ。
 その上で、求められる何か。
 先は遠い。

 それでも、今の俺の後ろには……ほんの少し道ができただろうか。
 その道を延ばすためにも、次は国体だな。
 1年でインターハイを勝った以上、高校6冠が目標だ。

 しかし、選抜大会は……この時代はなかったのか?
 なんか、高校8冠が最大だった気がするが……。
 全日本アマ選手権って、高校生が出られなくなったのはいつからだったっけ?
 あんまり深く考えないほうがいいか。



 国体少年男子。

 2年のインターハイ。

 国体少年男子。

 3年のインターハイ。

 大きなグローブにヘッドギア。
 アマチュアの試合で、ダウンは多くない。
 だからこそ、観客の目を奪う。
 相手を倒せる選手には、注目が集まる。

 そして俺は、倒せる選手だ。

 マスコミには大口を叩いて話題を提供する。
 ファンの女の子にはリップサービスを。
 男性客には、興奮と熱狂を。

 原作の、速水龍一の気持ちがわかるような気がする。
 こうして見回しても、リングを見つめるのは、競技関係者ばかりだ。
 参加している選手と、応援に来ている部員や、教師を含めた保護者。
 一般のファンは、おそらく数える程度だろう。
 それらは熱心なファンであり、熱心なファンしかいないのが実情だ。

 どこか閉塞感さえ感じるこの世界を、外へと押し広げたいと思う。
 そのためには、話題だ。
 話題性だ。
 安っぽい言葉だが、スター性。
 それを求めたのが、速水龍一という男だ、きっと。

 甲子園の観客に及ぶはずもない。
 それでもだ。

 声を上げてくれ。
 拍手をしてくれ。
 俺を見てくれ。
 俺は。

 速水龍一だ。

『ショットガン』コールに包まれ、俺は決勝の相手をリングへと沈めた。




 音羽ジムの会長が声をかけてきた。
 まあ、最初に声をかけられたのは、1年の国体のときだったが。
 すでに、高校卒業後にお世話になることが決まっている。

 契約金は秘密。

「無敗の王者、速水龍一のプロデビューのプランのためにも、国体も勝ってくれ」
「デビューに関係なく、負けるつもりはないですよ」
「はははっ、本当なら今すぐにプロデビューさせたいところだがな」
「スポンサーの要求ですか?」

 俺の言葉に、音羽会長がにやりと笑う。
 野球もそうだったが、ボクシングもなかなかに闇が深いというお話だ。

 たとえば、俺が高校6冠を達成して、どこか地方のボクシングジムに所属したとしよう。
 まず、デビュー戦ができない。
 なぜかというと、ジムの指導者の立場になって考えてみてほしい。

 自分の教え子には勝ってほしいと思うのが普通だろう?

 つまり、普通は……勝ち目の薄い対戦相手とは試合を組ませない。
 強い自分に勝ち目があるのは、当然強い選手だ。
 じゃあ、その強い選手を、強い選手にぶつけたいと思うか?
 強い選手は、そのジムにとって金の卵だ。
 最初は、特にデビュー戦は、手ごろな相手をと思うのが普通だろう。
 でも、その手ごろな相手はこちらを敬遠する。
 強い選手にとって、前評判の高い選手にとって、手ごろな相手とは試合が組めないってことになる。
 どんなに強くても、1人で試合はできない。
 対戦相手が、うんと頷かなければ、試合はできない。
 試合を承諾してくれるボクサーは、何かわけありの選手に限られてくる。

 少し補足すると、プロボクサーが現役でいられる期間は短い。
 そして、負けたボクサーは出場停止期間が設けられ、しばらく試合を行うことができなくなる。
 不幸な事故を減らすためのルールだが、負けるということはそれだけ現役でいられる期間が削られることを意味する。
 強い選手を負けさせる、そのリスクは一般人が思っているよりも重いものだ。

 じゃあ、どうするかって言うと、最後は金だ。
 高額のファイトマネーを提示して、転んでくる選手を探すのだが、今の日本ではそういう選手は希少種だ。
 そして、最後の最後の手段が、金で、海外から相手を引っ張ってくるというものだ。
 これは、ファイトマネーに加えて、渡航費用と宿泊費なども負担する必要がある。
 もちろんそこに至るまでの交渉にかかる費用を含めればさらに金額は跳ね上がる。

 ちなみに、日本のC級ボクサーのファイトマネーが数万円という相場だ。
 それだけで、海外から人を呼ぶという行為がどれほど割に合わないか理解できると思う。
 しかし、そうしないと試合が組めないのならそうするしかない。
 対戦相手が外人ばっかりという戦歴の裏には、日本人の相手が見つからないからというケースもある。

 さて、地方の弱小ジムにそんなことができるかと言うと、金銭面や人脈の上でも不可能だ。
 ほかにもいろんな要素があるが、アマチュアで結果を残した選手は、有力ジムに所属するしかないというのが実情のようだ。
 あるいは、途中で有力ジムに移籍する、とか。

 俺は、まだプロライセンスも持っていないのに、すでにデビュー戦の相手を海外で物色しているそうだ。
 スポンサーであるテレビ局が、デビュー戦から追いかけることも決まっている。
 ボクシングの試合というより、『速水龍一』という商品を売り出すためのプロジェクトだ。
 それが、水面下で始動している状態。

 負けるわけにはいかない。
 俺が負けたら、すべてがパーになる。


 ……うん。

 これ、原作どおりなんだよね?
 こんな重圧の中で、速水龍一は戦ってたんだよね?

 ははは、燃えるぜ。(白目)



 そして俺は、高校最後の国体も制して、高校6冠を達成した。
 公式戦は、41戦41勝、無敗。

 原作が、ようやく見えてきた。



とりあえず、次話の更新は未定。

7月になれば、ネカフェに寄れる機会が増えるとは思うんですが、わかりません。


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3:デビューの裏で。

今日から、幕之内一歩との試合まで、毎日更新です。(予約済)
あと、伏線とはいえいやな部分だけリアルにしていくスタイル。(震え声)


 卒業式より先に、音羽ジムに通える場所に引っ越した。
 もちろん、独り暮らしだ。
 そして、お世話になる就職先への挨拶。
 引越し先の保証人から全部、音羽ジムの会長が引き受けてくれたことだ。

 引越しの様子とか、就職先への挨拶とか、テレビカメラが回ってたけどな。(震え声)

 決められたレールの上を走りたくないなどと、ロックなことを言える雰囲気じゃない。
 というか、本音を言うとすごく楽。
 主体性がないなどといわないでほしい。
 やるべきことが決まっている。
 それが、どれだけ恵まれた環境であるかはいうまでもない。

 まあ、いくらカメラを回そうと、その映像が日の目を見るかどうかはすべて俺次第だ。
 負ければ、当然パーになる。
 テレビの番組なんてそんなものだろうと思うことにした。


 さて、本当なら、3月にもデビュー戦というスケジュールだったんだが、何かの事情で流れた。
 なので、新しい仕事や生活に慣れつつ、俺はじっくりと音羽ジムで汗を流す日々が続いた。

 アマチュアでの経験は多いが、ある意味で楽な試合が多すぎた。
 身体も、心も、極限状態での戦いを経験していないのはマイナスだ。
 俺の提案に、会長が頷いてくれる。
 スパーの相手に困らないのはうれしいが、デビュー前の新人に、A級ボクサーを連れてくるのはいいんだろうか?
 戸惑ったが、これは会長の判断が正しかった。
 普通に戦える。
 そういえば、板垣のライバルの今井も、日本王者の一歩にスパーを頼んでたっけ。
 まあ、A級ボクサーもピンキリだが。

 慣れてくると、自分自身に追い込みをかけていく。
 マスクをつけたままダッシュを繰り返し、呼吸が整わない状態でそのままスパー。
 疲労と、酸素不足で思考能力が鈍った状態で戦う。
 足が動かない状態、手があがらない状態。
 相手の攻撃をいなし、回復するための手段、テクニック。
 学習し、慣れ、乗り越えていく。


 夏になり、ようやくデビュー戦の相手が決まった。
 試合は10月。
 正直、待たされたという気分。 

 でも、原作世界の裏を知ってちょっと興奮した。

 俺の場合、アマの実績を加味してB級からスタートすることも可能だったのに、その話がいったん流れて……1年あけてC級からスタートで、新人王ルートを選択することになった。
 なぜかと言うと、伊達英二の復帰があったから。
 引退からの復帰、そして鮮やかな勝利。
 前回の世界挑戦の縁もあってか、世界再挑戦プランがテレビ局のほうで企画にあがったからだ。

 まあ、俺と同じフェザー級だからね。
 企画がぶつかっちゃったわけだ。
 そのしわ寄せが、俺のデビュー戦を含めたスケジュールにやってきたと。

 つまり、伊達英二が世界に挑戦するために日本チャンピオンを返上、空いた王座に俺が挑戦する(もちろん、俺がひとつ負ければパー)というスケジュールを組みなおされたわけだ。
 原作における、主人公の一歩が、伊達英二に挑戦して……あれは、本来なら余分な試合だったといえる。
 返上された王座を、ランキング1位の選手と2位の選手と争う……そこに、主人公の一歩ではなく『速水龍一』が入るというのが、現状における企画のスケジュールになる。

 仮に、伊達英二が復帰していなければ……俺は、B級ライセンスを取得し、3月にデビュー戦を行って6回戦からキャリアを開始していたことになるんだろう。
 デビュー戦が流れたのは、6回戦デビューの予定が、4回戦デビューになったかららしい。

 まあ、世界王者に挑戦するってのはきれいごとだけじゃすまない。
 年に2試合しか試合をしない王者なら、2年前からのスケジュールの調整が必要になるし、話を進めても王者が交代すれば全部パーだ。

 世界タイトルを日本でやろうとしたら、相手選手のファイトマネーはもちろん、会場の手配やらその他を、主宰のジムがやらなきゃいけない。
 その金銭面の負担や、会場手配のノウハウを持っているのがスポンサーのテレビ局。

 つまり、原作で一歩が伊達英二に勝ってたら……スポンサーは頭を抱えてただろうね。
 主人公らしいと言えば主人公らしいけど、俺と伊達英二の企画を二つまとめてぶっ潰したことになってただろうから。
 おそらくあの試合は、伊達英二のわがままから来たものだろうし。


 うん、まあ、終わったことというか、決まったことだ。
 俺は、勝って前に進むしかない。
 少なくとも俺は恵まれている。

 





 10月。
 俺の、速水龍一のデビュー戦。
 タイから呼んだ選手だ。
 正直、戦績なんてあてにならないが、3戦して3勝らしい。

「……」

 テレビ局のクルーが何か言ってるが無視した。
 リングのこの位置で、右で倒してくださいとかふざけるなって話だ。
 リングの上は、ボクサーの場所だ。


 リングに上がって最初に思ったのは、『深い』という言葉だった。
 すり鉢状の、深い底。
 原作で使われた『海の底』という表現が、俺の中でうまくかみ合った気がした。
 ここが、後楽園ホールか。
 観客ではなく、選手として感じる舞台。
 アマチュアの会場とは大違いだった。
 確か、満員で3000人収容だったか。
 どの席からもリングが良く見えそうだ。

「「「速水くーん!」」」

 黄色い声援に、手を振って応えておく。
 最初の印象はともかく、今ではその応援がありがたいと思える。
 俺を見るために、俺のボクシングの試合を見るために、時間と金を費やして、この後楽園ホールに足を運んでくれたファンの女性。

 彼女たちが抱いているのが幻想だったとしても、その存在は、俺が歩んできたことによってできた道の一部だ。

 まあ、努力するのは当たり前だ。
 そして、努力を感じさせないのが、プロか。
 ファンに夢を抱かせるのが、スターか。

 俺の、速水龍一の道を、また一歩。
 まあ、勝つことだ。
 そして、何かを積み上げる。



「ローブローとバッティングには注意して……」

 レフェリーの言葉、相手に通じてるのかね。
 さり気なく、相手の目を見る。

 ……狙ってそうだな。

 目は口ほどにものを言う、か。
 曲者っぽい雰囲気がある。

 開始のゴング。
 お互い手を伸ばして、挨拶のようなもの……からの、強襲か。
 振りがでかい。
 雑というより、威嚇かな、これは。
 まあ、俺がデビュー戦という情報ぐらいはあるだろうし。

 軽くかわして後ろに退き、左へ、左へと回る。
 目を見る。
 足を見る。
 呼吸を読む。

 飛び込んできたところに、左のフックを引っ掛ける。

 うん、いける。
 いつもどおり。

 観察。
 気を抜いたと見たら、速くて弱いパンチを飛ばしておく。
 様子を見ながら、餌をまいていく。

 自分にできることは相手にもできる。
 それは全力か?
 三味線をひいてないか?

 手に入れた情報を、経験に照らし合わせて、戦略をくみ上げていく。


 静かに、1Rを終えた。

「いけると思ったら、決めていいぞ」
「どうですかね。相手次第ですよ」

 会長と言葉を交わし、2Rへ。

 ん?
 遠い間合いで……足を止めた?

 体当たりのような右を、巻き込まれるのを嫌って大きく避けた……が、それも計算のうちだったようだ。
 大きく広げた左腕に腰をつかまれた。
 乱暴に引き寄せられ、胸に肩を押し付けられた体勢で、コーナーへ持っていかれる。

 やられた。
 アマチュアではめったに味わえない、ラフファイトってやつだ。

 上等!

 肩を、頭を、押し付けながら、くっついてガチャガチャの打ち合いを望む相手の攻撃をさばきながら、冷静に見る。
 もみ合うような十数秒。
 右の大振りに合わせて、左のショートアッパーで突き上げた。
 はね上がった顔面に、右の軽い連打を3発入れて突き放す。

 そして、俺はコーナーから脱出せずに、両手を広げて誘った。

「速水ッ!ムキになるなっ!」

 ここでムキにならずして、男の子とは言えんでしょ。

 体重を乗せたパンチと言うのは簡単だが、実行するのは難しい。
 最も簡単で、最も威力のある攻撃は、体当たりと言われているぐらいだ。
 肩、腕、肘、手首を固定して、運動エネルギーをそのまま乗せるイメージ。
 でも、それをパンチへと昇華させて、ようやくボクサーを名乗れる。

 後はタイミング。
 相手の飛び込み。
 そして、パンチを伸ばして腹筋が緩む瞬間を予測。
 踏み込み、体重移動、腰の回転……拳を突く。

 深い手応え。

 相手の動きが止まって、俺は見せ付けるようにして悠々とコーナーから脱出。
 まあ、一種の挑発だ。
 頭に血が上ると……回復してすぐに、こんな風に、無防備に振り返る。
 顔面に、右の連打。
 そして左フックが、アゴに入った。

 一瞬、棒立ちになる。

 そこをもう一度、アッパーでカチ上げ、右をボディに叩き込む。
 相手の身体が折れる、が、すぐに顔を上げて俺を見た。
 容赦せず、左右の連打をうちこむと、相手がリングにうずくまった。




「速水、お前そのすぐムキになる癖をどうにかしろ!」

 もちろん、テレビカメラが回ってます。(目逸らし)

 この場面で、俺は素直に頷けばいいのか、それとも大口を叩けばいいのか。
 演技指導はないんですか?

 まあ、何はともあれこれで新人王戦にエントリーする資格を手に入れた。


 あと、本当は前渡しだったけどファイトマネーの件。
 どこのジムも大体、3分の1をジムがとり、3分の2が選手にって感じだ。
 まあ、全部チケットで渡されるけどね……その売り上げが、ファイトマネーになる。
 知り合いや、職場の人に配ったから手取り0だけどね。

 ボクシング、盛り上げなきゃ。

 知人や友人に、それもさほどボクシングに興味のない人間に『チケットを売る』っていうのも、ハードルが高いと思う。
 前世で、趣味でバンドやってる知人にライブのチケットを買わされて、もやっとした気分になったことがあるから、余計に強制はしたくない。
 なので、『興味があればどうぞ』と、俺は配るだけにした。
 俺がいい試合をして、『また試合を見たい』と思えば、次は買ってくれるかもしれない。

 ボクシングと同じだ。
 これもまた積み重ねだろう。
 まあ……全部売っても、4万円ぐらいなんだけど。

 何度でも言う。
 ボクシング、盛り上げなきゃ。(使命感)






「……まいったな」
「どうかしたんですか?」

 音羽会長が、俺を見た。

「新人王戦が始まるのは6月頃だから、最低でも2月にもう1試合やりたいが……対戦相手が見つからん」


 ああ、なるほど。
 ん?
 そういえば、宮田や間柴がデビューする頃じゃないのか?

 宮田はともかく、間柴なら受けてくれそうだが……下手にKO負けすると3~4ヶ月試合に出られなくなって、新人王戦は棄権することになる。
 まあ、成立しないな。
 逆を言えば、相手を棄権させられるチャンスだが……そんな勝手が通るはずもない。

「仕方ない……また海外から呼ぶか」

 事情を知らない人間は、金で海外からかませ犬を連れてきた結果の、上げ底戦績とか言うんだろうな。

「何か、希望はあるか?」
「できれば、メキシコの選手を」
「ほう?」
「俺の目標は、リカルド・マルチネスですからね」

 会長が笑う。

「……メキシカンの4回戦は、日本の6回戦以上に相当するといわれている。油断するなよ」

 この人、選手をのせるのうまいよなあ。
 言葉ではなく、態度で、なんだけど。
 負ければ全部パーになりかねないのに、試合を組んでくれようとしてくれる。

 まあ、ここで負けるようなら話にならない、か。




 宮田の試合を、間柴の試合を、見た。

 強い、そして怖い。
 戦うなら、宮田だ。
 ある意味、ボクサーとして洗練されているだけに、予想が立てやすい。
 アマチュアの経験をそのまま活かせる気がするし、俺にとってはやりやすい相手といえる。

 間柴は、その……勝てるとは思う。
 技術的には甘いし、ボクシングなら勝てる。
 でも、ボクシング以外の部分が怖い。

 そして、幕之内一歩のデビュー戦を見た。

 いい試合だ。
 人気が出るのがわかる。
 技術云々の話ではなく、人をひきつける試合。

 今なら勝てる。
 話にならないぐらい差がある。
 それでも、じわりと汗がにじむ。

 あれが、幕之内一歩か。
 1試合1試合、別人のように進化していく主人公(ばけもの)か。

 無意識に、アゴを撫でていた。
 指先がかすかに震えているのがわかる。

 アゴを壊されると聞くと、『アゴの骨が砕ける』ことを連想する人がほとんどだろうし、前世の俺もそうだったが、医者の知人が教えてくれた。
 あの原作を読む限りでは、また『アゴがバカになっている』という表現からも、アゴの骨の噛みあわせがずれた、あるいは緩んで戻らなくなった状態だろうと。
 正直、ピンとこなかったが、『ドアの蝶番のネジが緩んだイメージ』に近いらしい。
 つまり、しっかりと骨が固定されていないところに衝撃を受けると、がたつくために、大きく、そして一度の衝撃で何度も脳が揺れる。
 そして、ドアの開閉を繰り返すことでだんだんとドアの蝶番が壊れていくように、アゴもだんだん『バカ』になっていく。
 そして何よりも、アゴへの衝撃で脳が揺れることを、身体と、精神が覚えてしまう。
 ほんの少しの衝撃で……精神が、身体が、楽になろうとしてしまう。
 原作の速水龍一のケースは、身体よりも、精神的なトラウマを起因とする、パンチドランカーと判断されるとか。

 まあ、下手をするとそれが俺の末路なんだが。(震え声)

 息を吐く。
 拳を握りこむ。
 覚悟を決めていく。

 リングを降りた幕之内一歩が、俺のそばを通り過ぎていく際、ちらりと、鴨川会長が俺を見たような気がした。




 2月。
 メキシカンのパンチが伸びるとは聞いていた。
 厄介なことに使い分けてくる。
 普通のパンチ。
 そして、目標を打ち抜くようなパンチ。
 その瞬間、肩を入れてくるぶんだけリーチが伸びる。
 あるいは、手首をねじりこんでくる。
 パンチの一つ一つに、意味があり、距離感を狂わせようとしてくる。
 強敵だ。
 いや、これが世界では当たり前の水準なのか。
 はは、日本でどうこう言ってる場合じゃないな、これは。

 ジャブの応酬。
 観客席が静まり返る。
 拳が鋭い。
 ジークンドーで言うところの、縦拳も混ざる。
 グローブを縦に横に、そして斜めに変化させ、ガードをすり抜けてくる。
 参考になる。
 俺の知らない技術、知らない世界。

 目がくらんだ。
 ジャブとはいえ、こんなに綺麗にもらったのは久しぶりだ。

 押し返す。
 ムキになっているわけではなく、ここが勝負どころ。
 ステップを刻み、上体をゆすって的を絞らせない。


 クリーンヒットはあの1発のみ。
 ポイントはとられたな。

「おい、大丈夫か?」
「……強いですね」
「正直、想定外だ……無名の選手って聞いてたってのに」
「まあ、なんとかしますよ。会長が高い金を払って呼んでくれた相手ですし」

 なんとかする。
 勝たなければ前へと進めない。

 少し、防御に意識をシフト。
 相手のジャブを叩き落していく。
 あるいは、こちらのグローブで押さえていく。
 ガードも、ポイントをずらして受ける。
 とにかく、気分良く打たせないことを重視した。

 いつもと同じパンチなのに、感触が違うと感じるはずだ。
 違和感はいら立ちに変わっていく。

 人は冷静さを失うと得意なパターンを頼りがちになる。
 単調さが芽生える。
 俺も、気をつけないとな。

 タイミングを合わせ、頭を下げながら踏み込む。
 ボディではなく、わき腹の上に右を入れた。
 パンチを打つとき、脇の下の筋肉が弛緩する。
 アマチュアではポイントにならない部位だが、カウンターで入れるとダメージが入る。
 そして、このパンチにはもうひとつ意味がある。

 2発で、相手の左ジャブが鈍り始めた。

 ローキックで足が動かなくなるのと同じ。
 筋肉にダメージを与える技術だ。
 もちろん、精神的なものも含めて。

 2Rの残りを全部使って、相手の左を殺しにいった。



「会長、なんとかなりそうです」
「……えぐいこともできるんだな、お前」
「アマチュア時代、色々試しましたからね」
「はは、頼もしいな……まあ、決めてこい」
「そのつもりです」


 3R。

 コーナーから出てきた相手の表情が良くない。

 ここからは俺の番だ。

 ここでようやくギアを上げる。
 ステップを刻む。
 細かく、速く。
 1歩ですむところを、2歩、3歩と。
 体重移動。
 もちろん、虚実を交えて。

 主導権を完全に奪う。

 1発。
 軽いパンチを2発放り込み、距離をとる。
 反撃をいなして、また軽いパンチを放り込む。
 ガードを固めた瞬間、ショートアッパーでアゴをかちあげる。
 後ろに退いた。

 逃がさねえよ。

 踏み込み、上、下、横と、ガードを空けた場所に次々と放り込む。
 軽いパンチを、相手の反撃に合わせて、叩き込む。
 手を出したらやられるという、強迫観念を心に刷り込んでいく。
 そうすると、手が出なくなる。
 後ろへ、後ろへ。
 それを誘導し、コーナーへと追い詰める。

 左右の連打。
 亀のように閉じこもる……そんな相手には慣れっこだ。
 ガードの隙間。
 そして、上にパンチを集めて、ガードを上げさせる。
 ガードを抜けてアゴをとらえる俺の左。
 かくんと、ひざが折れた相手に、容赦なく右を打ち下ろして勝負を決めた。




「いい試合だったね」
「いい相手でしたからね」

 俺の言葉に苦笑するのは、原作でもおなじみ藤井さんだ。
 音羽ジムに所属するときに、初めて顔を合わせた。

「4回戦の試合じゃなかったよ。6回戦、いや8回戦でも通じる内容だったと思う」
「メキシコの、いや、世界のボクサーのレベルが高いってことでしょうね」
「……否定しづらいな」

 この世界のこの時代、日本には世界チャンピオンがいない状態が続いている。
 鴨川ジムの『あの人』は、まだその手を世界には届かせていない。

 藤井さんと言葉を交わす。
 取材というより雑談のようなもの。

「でもまあ、久しぶりに『勝った』と思える試合でしたよ。お客さんも喜んでくれましたし」
「……客の反応を心配するのは、ボクサーの仕事じゃないぜ」

 口調こそ柔らかいが、藤井さんの目が笑っていない。

「じゃあ、誰の仕事ですか?」
「それは……」
「いいものは黙っていても売れる……って言うのは甘えですよ。いい試合をした、お客さんが喜んでくれた。でも、まずは見てもらえないことには始まらない」

 みなまでは言わない。
 言う必要もない。
 ボクシング雑誌の記者である藤井さんには、このあたりの事情は釈迦に説法ってやつだ。

「ボクシングを盛り上げたい、と?」
「誰もやらないなら……俺がやりますよ。そして、周囲がそれを利用してくれれば、俺もまたそれを利用できる」





「新人王、期待してるよ」

 最後にそういい残して、藤井さんは去った。
 そして俺は、練習に取り掛かる。

 最近俺は、また夢を見始めている。
 主人公に、幕之内一歩にぶっ飛ばされる夢を。

 リバーブロー。
 ガゼルパンチ。
 デンプシーロール。

 まだ、一歩が手に入れていないはずのパンチで、何度も何度も倒される夢を。
 応戦し、反撃もするが、いつもねじ伏せられて、最後はぶっ飛ばされる。
 その繰り返しだ。
 まあ、幕之内対策のための、リアルなスパーと思えば、うん。(震え声)


 拳を握りこみ、ステップを刻む。
『ショットガン』の進化系。
 手数を増やそうとすると、パンチは軽くなる。
 なので俺は、ステップを増やすことにした。
 1歩ですむところを、2歩、3歩。
 ステップの数だけ、重いパンチが打てる。
 ただ、やはり手数そのものは減ってしまう。
 状況に応じて、使い分けるしかない。
 緩急、そして強弱。

 新人王戦は、もうすぐだ。
 原作の、あの場所。
 幕之内との勝負。

 サンドバッグを揺らす。
 揺らし続ける。
 右へ、左へ移動しながら、連打を放ち続ける。
 悪夢を振り払うように。



初期の原作を読み直すと、なんか色々間違って覚えている自分に気づいたりします。


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4:新人王戦、開幕。

ちなみに、公式ガイドか何かだと、速水は一歩のひとつ年上っぽい。
たぶん、インターハイを勝った後、高校に在学したままプロデビューして……という流れで、出身も東京近郊を想定してるんだと思います。
でも、この物語では、ふたつ年上で、地方出身という設定です。


 東日本フェザー級の新人王戦の組み合わせが決まった。

 うん、宮田に、間柴、そして幕之内一歩。
 ああ、テクニシャンの小橋君もいる。
 なつかしいなあ、ジェイソン尾妻。
 うむ、この試合は見に行こう。

 と、原作キャラはおいといて……肝心の俺、速水龍一は、と。
 ほう、運よく1回戦がシードで、ひとつ勝てば準決勝……まあ、俺がポカをしない限り、そこで幕之内一歩とやることになるだろう。


 ……うん?


 うろ覚えだけど、速水龍一って一歩と戦うとき、4戦4勝じゃなかったか?
 今俺は、2戦2勝で……ひとつ勝つと、3勝。

 ……気のせい、か?

 まあ、そのあたりは……特に影響もないだろう、きっと。

 何はともあれ、短期間で次々と試合をこなしていく新人王戦で、1試合少ないのは大きい。
 その分、負担が減るからな。
 とはいえ、1試合少なくとも、勝ち上がっていくなら9月、11月、12月と、4ヶ月で3試合をこなし、2月には西日本の新人王、千堂武士と……か。

 そっか……千堂がいたか。(震え声)

 原作どおりの流れなら、幕之内に勝てたとしも、決勝はあの間柴とやり、そして幕之内と匹敵するハードパンチャー、いや1発の威力なら幕之内を凌ぐと思われる千堂と全日本で、か。

 なんか、地獄に向かって進んでいるんじゃなかろうか、この道って。
 まあ、ボクシングに限らず、スポーツは全部そんなもんといえばそれまでだが。

 というか、そもそも今年のフェザー級の新人王の面子は、レベルが異常だ。

 スポーツの成長期ってのは、大抵3段階ある。
 完全な初心者が、競技に慣れていく上での成長期。
 そして、身体的成長に伴う、能力の成長期。
 競技を熟知することによる、戦略的な成長期の3つだ。
 まあ、実際はその複合なんだけど。

 ボクシングというのは、基本的に身体的成長期を過ぎてからはじめるものだから、2段階に分けられることが多い。
 最初の2~3年が急激な成長期にあたり、あとは、自分の持ち味をどう活かすかという、技術的、戦略的なうまさを身につけていく段階にいたるわけだ。

 そういう意味では俺、速水龍一はアマチュア時代から数えて4年……急激な成長は見込めない状態にある。
 ひとつ技を増やして戦略性を広げるとか、そんな段階。
 もちろん、何かのきっかけで殻を破ることもあるかもしれないが。

 そして、宮田も子供の頃からのボクシング経験者だから……急激な成長は見込めない時期だった。
 ジョルトカウンターという『破壊力』を手に入れて、ブレイクスルーを果たすまでは……まあ、これからどう成長するかは不明だからなんともいえない。

 問題は、間柴、千堂、幕之内の3人だ。
 ボクシングの世界に身を投じてから、日が浅い。
 急激に伸びる時期。
 原作のように成長するかどうかはわからないが、伸びることだけは間違いないのだ。

 本音を言えば、1日でも早く戦ったほうが、俺の勝つ可能性は高い。

 そういう意味では、幕之内は一番運が悪い。
 そのはずだ。




 夢の中とはいえ、スパーの回数は豊富だしな。(震え声)

 油断も慢心もする余裕なんかねえよ。
 ボディ一発で悶絶させられたり、土下座KOさせられたり、ぶっ飛ばされ方のバラエティが豊かで、たーのしー。(白目)







 6月。
 幕之内一歩対ジェイソン尾妻。

 盛り上がった。
 興行的にはいい試合だったといえる。
 俺も、見ていて興奮した。
 だが、ボクサーとしての視点で見れば、未熟に映る。

 尾妻はフックにこだわりすぎた。
 心に余裕がなかったせいだろう。
 自分の得意なパンチにすがり……それがあだとなった。
 何が来るかわからない状態でフックを避けるより、フックが来ると予想してそれを避けるのでは、難易度が違う。

 ボクサーとして言わせてもらえば、同じパンチは打たないほうがいい。
 同じパンチでも、少しずつ角度やタイミングを変えるべきだった。
 それに尽きる。

 そして、幕之内は……やはりあの破壊力は恐ろしいし、少々妬ましい。
 尾妻は、わき腹を押さえて顔をゆがめていた。
 おそらく、肋骨を折られたのだろう。
 原作での細かい部分は忘れたが、成長前の今の段階でも、幕之内の破壊力を警戒するに越したことはない。

 息を吐く。

 確かに、あの破壊力は恐ろしい。
 それでも、勝てる。
 パンチをもらわない自信はある。

 ただ、今の俺は、『速水龍一』は、鴨川会長の目にどう映っているのか?
 俺が気づいていない癖。
 俺の知らない攻略法。
 何かがあるはずだ。



 幕之内一歩が通路を歩き、俺の近くを通り過ぎていく。
 また、鴨川会長に見られた気がした。








 あるぇぇぇぇ?

 俺の、新人王戦の相手が、棄権した。
 1回戦で拳を痛めたとのことらしいが、音羽会長は『お前には勝てないと踏んで逃げたんだろうよ』なんて言ってたが、本当のところはわからない。

 しかし、棄権?
 俺の記憶では、この安川という相手がアマチュア出身で、ラフファイトに持ち込んできたとか、そういう試合だった気がするが。

 ふ、と。
 頭をよぎる『原作ブレイク』の言葉。

 原作ブレイクが起こるべき何かがあったのか、それとも、同じ条件でも同じ事が起きるとは限らないという、不確実性とか、ゆらぎの結果なのか。

 右足から歩き出すか、左足から歩き出すか、本質的にどうでもいいこと。
 そのときの体勢、ちょっとしたタイミング。
 昼飯に何を食べるか。
 コーヒーを買おうとして立ち止まったら、歩く方向に車が突っ込んできたとか。

 まあ、そもそも俺という異物が紛れ込んでる時点で、ブレイクもへったくれもない。
 最初の原作ブレイクは、俺が速水龍一であることだ。
 原作も、現実も関係ない。
 何が起こるかわからない世界に俺は生きていて、何かが変わると信じて、努力を重ねながら進んでいくだけだ。

 前向きに考えよう。
 また、1試合減った。
 それは、悪いことじゃないはずだ。
 俺の負担が減る。
 
 いや、待て。
 次の試合は、小橋君と幕之内の勝者で、11月か?
 2月から……半年以上のブランクができるな。

 ……スパーの数を増やすしかないか。



 などとぼやいていたら、会長がやってくれました。

 伊達英二とのスパーです。

 会長を見ると、目を逸らされた。
 スポンサーの意向なんですね、わかります。

 伊達英二のカムバック物語と対比して、デビューしたばかりの俺の姿を重ねていく……そんなところか。
 映像という素材が多ければ、後で編集するのも楽だろうし。
 はは、俺が幕之内に負ければ全部パーだけどな。
 リスクを背負っているのは、俺だけじゃないって話だ。

 ……まあ、いい機会か。
 少なくとも、全盛期の伊達英二ってわけじゃない。
 今の俺の立ち位置を知るためのものさしと思えば悪くない。

「ヘッドギアはいいんですか?」
「いらねえよ。勘が鈍る」
「俺はつけますけどね」


 これは、あくまでもスパーだ。
 とはいえ……な。

 上体を揺らす。
 グローブの位置を小刻みに変える。
 目線。
 肩の動き。

 まずは、パンチを出すことのないやりとり。
 集中が高まっていく。
 周囲の雑音が消える。

「シッ!」

 糸を引くように飛んできた左ジャブを、右ではじいた。

 速い、というより読みにくい。
 予備動作を極限まで少なく、あるいは別の動作で隠す。
 フェイントやフットワークの中に、予備動作を紛れ込ませて、ひとつの動作に複数の意味を持たせたりする。
 言葉にすれば、なんでもないようなこと。
 レベルが高くなればなるほど、そういう部分で差がつく。

 フェイントで誘うが、相手にされない。
 鍵のかかったドアを、力任せに叩き壊すかのように、ジャブを浴びせてくる。

 なるほどな。
 強い相手に勝つためには、相手より強くなるって世界の住人か。
 本当に強い存在には、攻略法なんてない。

 つい、笑みがこぼれた。

 それが癇に障ったのか、やや雑なパンチが飛んでくる。
 カウンター気味に左を返した。

 ……なるほど。

 その口元の笑み、癇に障るな。
 手の速さは、俺の武器だ。

 ギアをあげる。
 そして、上げっぱなしにはしない。
 速く、遅く、軽く、重く。
 練習していた、例のメキシカンのジャブも試していく。

 ジャブの応酬。
 ちっ。
 ヘッドギアが邪魔に感じる。
 避けたはずのパンチが、ヘッドギアをかすめていく。
 お返しに、俺のジャブが相手の頬をかすめる。

 スパーのはずが、熱が高まっていく。
 敢えて、メキシカンのジャブを多用した。
 リカルドのジャブを知っている相手へ、問いかけるように。
 俺を見る目つきが鋭くなる。
 挑発と思われたか。

 最初のクリーンヒットは俺。
 その直後に、俺も顔をはねあげられた。

 お互いに距離をとる。

 俺に見えるように、伊達英二が右のグローブを握りこんだ。
 俺も、見えるように握る。

「お、おい英二!スパーだぞ!」
「落ち着け、速水!」

 止められた。

 スパーね。
 うん、ただのスパー。
 俺は落ち着いてる。

 あらためて、スパーを開始。

 1Rは、ジャブだけで。
 2Rは、右を交える。
 3Rは、リング全体を使い、本当の意味でのスパーになった。


「……ありがとうございました」
「かわいげがねえなあ、お前は」
「ほめ言葉と受け取っておきますよ」

 返事をしながら、『これって速水じゃなくてスピードスター(さえきたくま)っぽいな』などと考えた。

「こんなのが新人王を争うって言うんだから、詐欺だよな、まったく」
「今年のフェザーの面子は、洒落になってませんよ」

 俺がそう言うと、意外そうな視線を向けられた。

「なんだ?お前で当確じゃないのか?」
「伊達さんに、あしらわれる程度のボクサーですよ、俺は」
「ははは、むかつくなあ、コイツ」

 肩を小突かれた。
 でも、悪い雰囲気じゃない。

 がしっと、肩を抱かれた。

「……時間があるなら、また頼めるか?お前の左、ムカツクからよ」
「次の試合は11月の予定です」


 結局、8月、9月は、伊達英二のスパーリングパートナー状態で過ごすことになった。
 なかなかいい経験がつめたと思う。
 仲代会長も、音羽会長も最初こそ不安そうだったが、最後のほうは満足そうだったから、まあ、良かったということで。

 攻撃に転じる際にガードが甘くなるときがあると指摘してもらえたが、左右の連打にこだわるとどうしてもガードが開く。
 もともと俺の連打は手数で圧倒して、相手に手を出させないというコンセプトだが……それを耐えられたとき、すり抜けられたときに不安が残るか。
 かといって、カウンター狙いにすると、手数が減る。

 伊達英二とのスパーを通じて、予備動作というか、武術でいうところの『おこり』の大事さを痛感した。
 なので、スパーを通じて俺は試行錯誤を重ねた。
 俺の連打、ハンドスピードを防御へと転じる手段。

 額を指で押さえられると立ち上がれなくなる遊びがある。
 あれは、立ち上がる前の、頭を動かして体重移動を行うという予備動作を封じられるために起こる現象だ。

 その予備動作を、パンチで押さえることができたなら……まあ、言うは易し、だ。
 それでも、取り組む価値はあると思う。
 
 あと、なんか視線がうっとうしかったので、去年のフェザー級の新人王の沖田とは話をしていない。









 東日本新人王戦のベスト4が出揃った。

 試合をしてないのにベスト4の俺。(目逸らし)

『月刊ボクシングファン』の、新人王特集。
 注目は、東日本のフェザー級……原作では『速水龍一』が優勝候補筆頭だったが、どうやら俺はその評価を下げずにすんでいるようだ。
 やはり、対抗が宮田で、3番目が間柴という評価。
 そして、幕之内一歩が大穴の扱いなのも変わらない。

 まあ、これは『月刊ボクシングファン』だからの評価で、世間的に言えば幕之内はノーマークでみそっかす扱いだ。
 しかし、主人公だからと言ってしまえばアレだが、みそっかす扱いの幕之内が、『速水龍一』を破り、決勝では間柴を倒して優勝する。
 そのまま新人王を獲り、日本タイトルマッチに向かって駆け上がっていく展開は、胸熱だった……『速水龍一』の件を抜きにすれば、だが。

 ボクシングを盛り上げるために、『相手の力を8や9に見せて、10の力で勝つ』という風車の理論を実践し、幕之内と正面から打ち合うという、相手の土俵で戦うことを選択し、不覚を取った『速水龍一』。

 油断と慢心、自業自得といってしまえばそれまでだが……俺は、そこまで勇敢になるつもりはない。

 ただ、勝つことだけを考える。
 もちろん、原作ではない『速水龍一』に対する作戦を考えているだろうから、あまり原作にとらわれすぎるつもりもない。
 むしろ危険だろう。



 新人王戦の件で取材にやってきた藤井さんと話す。

「幕之内の印象ですか?」
「ああ、速水君から見て、どうだい?」

 やっぱり藤井さんは幕之内のファンなんだなあと苦笑する。

「ぞっとする破壊力ですね。正直、怖いし、妬ましいです」
「……小橋戦を見ての印象かい?」
「あれは小橋くんをほめるべきでしょう。あの防御テクニックはレベルが高かったし、幕之内くんは、経験不足だった。逆に見れば、伸びしろが大きいとも……」

 藤井さんの表情に気づいて、俺はいったん言葉をとめた。

「どうかしました?」
「いや、意外なほど、幕之内への評価が高いなと思ってね」
「ベスト4の3人で、強いのは宮田だと思いますよ。でも、怖いのは幕之内で、戦りたくないのは間柴です」

 藤井さんが苦笑を浮かべた。

「面白いコメントだが、記事にはできないね」
「はは、俺に期待されてるのは、ビッグマウスですか」
「まあ、そういうことさ……君が幕之内のように『精一杯がんばります』なんてコメントを残したところで、誰も喜ばない」
「……客商売の、つらいところですね」

 俺も、藤井さんも、苦笑するしかない。
 と、そうだ。

「幕之内がお気に入りなら、西日本の千堂はどうなんです?」
「おや、もう全日本の話かい?気が早いというより、耳が早いというべきかな」
「はは、アマチュア時代の知り合いがいますからね。うわさは聞こえてきますよ」

 と、ごまかしておく。

「幕之内は、日本人好みのボクサーだが……そうだな、千堂は、不良少年の憧れというポジションだよ。どちらも、物語性がある。そして、試合は派手で、観客を魅了する」

 それは同感だけど、ね。
 苦笑を浮かべて、俺は言う。

「逆に、俺みたいなタイプは、日本では嫌われる……でしょう?」
「……リングに立てば、関係ないさ」

 フォローになってませんよ、藤井さん。

 まあ、言葉ではなく、行動で語れっていうのが日本の文化だからなあ。
 関東と関西でもまた少し話が違うし。

「じゃあ、オフレコのついでに、藤井さんの俺への評価はどうなんです?」

 このぐらいは許されるだろう。
 原作に登場するキャラによる、俺への評価が気にならないといったら嘘になる。
 優勝候補筆頭と見られているのは確かなようだが。

「……特集として、宮田や間柴を含めた『3強』扱いではあるが、本音を言えば、速水君の1強だよ」





 うん?
 高くない?
 俺への評価、高くない?

 ああ、リップサービスか。
 大人の対応ってやつだな。

「速水!休憩はそのぐらいにしておけ」
「はい!あ、すみませんね、藤井さん」

 頭を下げ、断りを入れておく。
 ビッグマウスとは別に、社会人として最低限の礼儀は必要だ。

「いや、練習の邪魔をして悪かったね」


 マスクをつけ、練習を始める。

 人間の身体は、環境に適応しようとする。
 負荷をかけた結果、筋肉が増えるというのは……負荷をかけられる環境に対応しようとする働きでもある。
 肺活量もそうだ。
 伸びると思うなら、負荷をかけてやらねばならない。
 素質があるなら、それに対応しようとしてくれる。
 ハードな練習は、物理的な身体への負担が大きい。
 減量のある競技では、身体にあまり負担をかけずにすむ負荷のかけ方も重要になってくる。

 練習をしながら、思考を続ける。
 頭の重量は体重の1割程度だが、酸素消費量は2割を超える。
 息を止めて、何も考えずにいるのと、計算問題を考えるのとでは、我慢できる時間が大きく変わってくる。

 つまり、思考することで酸素消費量をあげられる。
 逆を言えば、何も考えなければ酸素の消費量を抑えられる。

 練習では平気なのに、試合ではスタミナが続かないというタイプは、練習ではあまり考えず、試合のときだけ色々と考えていることが多い。
 それは、試合のための練習になっていないと俺は思う。
 もちろん、練習に集中した上で、思考しなければ怪我の元になるが。

「よし、リングに上がれ。ミット打ちだ」
「はい!」

 俺のミット打ちは、変則だが3人で行う。
 通常のミット打ちの合間に、もう1人が数字を叫び、俺はそれに対応してコンビネーションを打ち込んでいく……いわゆる、ナンバーシステムというやつだ。
 数字に対応した場所にパンチを放つわけだが、この数字は当然考えられた順番でなければならない。
 メキシコのボクシングトレーナーがやっている方法らしく、本当なら2人でできるのだが……まあ、指示を出すタイミングとか、熟練しなければ厳しい。
 なので、客観的に眺められる第三者としての3人目を用意したわけで。


 反射、対応、そして変化。
 このパンチに対して相手がどう反応するか。
 詰め将棋のように、相手を追い詰めていく。

「ラッシュ!」

 ミット打ちの10R。
 一番きつい状態での、連打。
 パンチを叩き込み続ける。
 チアノーゼ一歩手前の状態で、視界が歪んでも、連打を放ち続ける。
 身体が悲鳴を上げるまで。

 ブザーが鳴る。
 そこからさらに5秒。
 3分でスイッチのオンオフを作るのは大事だが、ゴングが鳴っても気を抜かない習性も大事だ。
 それと、身体に、楽を覚えさせないため。

「よーし、上がりだ……シャドーやって調整に入れ」
「はい」

 音羽ジムのプロボクサーは俺一人じゃないし、練習生はもっと多い。
 特別扱いされている俺へのやっかみは少なからずある。
 それを黙らせるためにも、気は抜けない。
 やるべきことをやる。
 それは、周囲への最低限の礼儀で、敬意を示すことにもなるだろう。

 鏡に向かう。
 思い浮かべるのは、幕之内の姿。

 ……昨夜は、パンチで一回転させられた。
 一昨夜は、リバーブローから、ガゼルパンチ、そしてデンプシーロールだった。(白目)

 アマチュア時代から、いまだ負けなしの俺だが、夢の中では負けっぱなしだ。

 勝てるはずだ。
 いや、勝つ。

 そのとき俺は、ぐっすりと眠れるだろう。




「……お疲れ」
「あれ、まだいたんですか、藤井さん?」

 もう、夜も遅いのに。

「練習量もそうだが、ほかのジムでは見ない練習も多くて、飽きなかったよ」
「……うちの会長は、思考が柔軟ですからね」
「聞けば、君の提案した方法も多いそうじゃないか」

 俺は、にやりと笑って見せた。
 ビッグマウスの叩きどころ。

「世界を目指してますからね……良さそうな練習は、色々試します」
「ははっ、新人王は通過点、目指すは世界……ってところかい?」
「好きに書いてください……本音を言えば、世界はまだまだ遠いと思ってますが」
「そう聞くと、安心できるね……なんせ、日本人ボクサーの世界戦の連敗記録は続いている。挑戦できるから挑戦するというのでは勝てんよ」
「それ、オフレコですよね?」
「もちろんさ」

 藤井さんは駅に向かって。
 俺は、アパートに向かって。
 ほんの少しだけ、肩を並べて夜道を歩いた。

「俺は幕之内のファンだが、速水君には期待しているよ」
「じゃあ、俺のファンになってもらえるように努力しますよ」

 互いに笑いあい、軽く手を上げて別れた。


 アパートに帰り、電気をつける。
 さて、幕之内との試合まで1ヶ月と少し、か。

 ……今夜は、どんな夢を見るんだろうなあ。(震え声)



少しずつ、目に見える変化は起きてます。


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5:約束の場所。

ボクシングの描写って……難しい。(震え声)
ボディを叩いたときの反射行動や、反応なんかを描写したら、絶対にテンポが悪くなるんだけど……千堂と一歩の、日本タイトルマッチのアレを文章で書いてみたい私がいる。


 ジムで汗を流す。

 いや、減量はほとんど必要ない俺だが、あまり汗は流れない。
 フェザー級のリミットは126ポンド(57.1キロ)だが、この調子なら特に意識することなく、当日は125、あるいは125.5ポンドあたりになるだろう。
 俺のナチュラルウエイトは59~60キロで、ジュニアフェザー(スーパーバンタム)までなら、あまり苦労せずに落とせる。
 ジムの方針にもよるだろうが、俺の場合ならもっと絞って階級を落とせと言われるケースが多いと思う。

 日本には減量神話みたいなものがあるが、海外ではそこまで過酷なイメージをもたれていない。
 もちろん、どちらも個人差はある。
 基本的に、日本のボクサーというより指導者は、選手を少しでも下の階級へ落としたがる。
 その是非はともかく、基本的に過酷な減量は身体にダメージを与えるし、ダメージの回復も遅くなる。
 人間が摂取した栄養は、まず生命活動のために消費され、あまったエネルギーが成長や回復にまわされるのは前に言ったとおりだ。
 その上で、減量の意味を考えて欲しい。
 海外に比べ、日本のボクサーの試合数が少ないのは、もちろんルールもあるだろうが、減量による回復力の低下の影響もあると思う。
 単純に比較できるものではないが、海外の選手は大抵ナチュラルウエイトに近い階級で試合に挑む。

 俺も、そのスタイルでやっているが……周囲の選手に比べて明らかに負担が軽いし、試合後の回復も早い。
 まあ、これまでほとんどパンチをもらってないのもあるだろうが。

 思えば、幕之内もフェザーではほぼナチュラルウエイトだったはずだ。
 原作におけるうたれ強さというか、頑丈さは、過酷な減量とは無縁であったことと無関係とは思えない。
 それでいて、パンチ力は、反則級と。
 まあ、他人の長所をうらやんでも仕方がない。

 幕之内も、俺の試合のビデオを見て、器用さや速度をうらやむことがあるのだろうか。
 だとすると、少し楽しい気がする。
 おそらく、鴨川ジムでは俺への対策として猛練習を重ねているのだろう。
 原作では、左のショートアッパーに対して、カウンターで右のフックをかぶせてくる、だったか。
 参考にはするが、盲信はしない。
 俺は速水龍一として戦ってきたが、原作の速水龍一とは違う。
 原作とは違う戦い方をしてきた自覚があるし、それは当然原作とは違う打開策を見出してくることを意味する。

 俺としては、特に幕之内対策はしていない。
 何があっても対応できるように冷静であること。
 そして、パンチをもらわないこと。
 このふたつだ。

 ああ、それともうひとつ。
 いざというときは、自分からダウンする。

 ダウンを拒否して、追撃を食らうのが一番まずい。
 幕之内との試合では、ボクサーの本能に逆らってでも、さっさと倒れて時間を稼ぎ、少しでもダメージを抜き、冷静になるほうが良い結果につながる可能性は高い。

 ……1発なら、何とかなるはずだ。
 今の幕之内は、夢の中で俺をぶっ飛ばし続ける幕之内じゃない。
 そう信じる。

 藤井さんは、俺の幕之内への評価が高いことに驚いていたが、現時点では俺が世界で一番幕之内を高く評価している自信がある。
 多少過大評価気味かもしれないが、毎晩毎晩、死ぬような目にあわされる夢を見続けたら、誰だってそうなるだろう。

 現状、世間の幕之内の評価は低い。
 その評価が、完全に間違っているというわけでもない。
 しかし、成長過程のボクサーは、当日ふたを開けるまでその真価がわからないものだし、幕之内一歩というボクサーは、試合ごとにレベルアップしてくる主人公(ばけもの)だ。

 うん、幕之内の評価が低いのが良くないんだ。
 準決勝とはいえ、新人王戦では俺の初戦にあたる試合。
 派手な映像がほしいと、スポンサーから暗に要求されている。

 そういえば、原作でも……『速水龍一』は1Rから決めにいってたな。

 仮に、アウトボクシングに徹して4R逃げ回り、判定勝ちをしたら……スポンサーの件は抜きにして、ある程度のブーイングは避けれないだろうな。
 俺も、幕之内も、すべての試合をKO勝利で飾っている。
 KOによる決着を、無意識に望んでいる観客は多いはずだ。
 倒して勝つことは、ある意味で力の象徴。
 その力の象徴に、人は夢を見る。
 世界への夢だ。


 攻撃に重点を置けば、どうしても防御が甘くなる。
 俺のパンチは、特に速さを追及したパンチは軽い。
 もちろん、同じ階級のボクサーの水準以上ではあるが、原作に登場するキャラと比べたらどうしても見劣りする部分がある。
 そして、幕之内の頑丈さと一発の破壊力はいまさら説明するまでもない。
 まあ、現状ではころころダウンしてるイメージだけどな。
 そこからの大逆転へつなげられる破壊力ではなく、ダウンから起き上がれる頑丈さはやはり無視できない要素だ。
 
 と、すると……まずは視界を奪うべきか。
 距離感をつぶせば、攻撃が当たりにくくなり、防御の一環になる。
 それと、来るとわかっているパンチと、不意をつかれたパンチでは、受けるダメージが全然違うからな。
 こちらの攻撃力も増すことになる。

 リーチ差を活かして、ジャブの集中砲火……うん、原作でのスピードスター、冴木の試合を参考にするのもいいか。
 スピードスター、冴木卓麻。
 俺のひとつ年上で、アマチュアの舞台では高1の時に1度対戦したきり。
 俺が2年の時は、冴木はひとつ上の階級でインターハイを制したこともあり、インタビューやなんかで、話をしたことは何度もある。
 友人とまではいかないが、知人である……そんな関係だ。
 当時の冴木は丸坊主だったから、俺がその正体に気づいたのはずいぶん後になったがな。

 まあ、参考にするといっても、4回戦の試合だ。
 時間は限られている。
 視界を奪うまで2R。
 残り2Rで倒しにかかる、か。

 2Rか。
 漫然と目を狙うだけでは時間が足りないな。
 身体の芯にダメージを与えるパンチと、皮膚を腫れさせるパンチは少し違ってくる。

 手首のしっぺがあるが、あれにもコツがあるのと同じだ。
 骨に響かせるうち方と、瞬間的な痛みを与えるうち方。
 皮膚をこするようにうつと、痛みは走るが、ダメージが芯には残らない。
 肘から先を棒のようにして、そのまま叩きつけると骨まで響く。

 ただ、ボクサーによっては、打たれてもあまり腫れない体質のものもいる。
 しかし、これまで見てきた試合では、幕之内は顔を打たれると腫れが目立つ体質をしているように思う。

 分の悪い作戦ではないと思えるが……どうかな。
 まあ、試合が始まるまでは、いくらでも作戦がたてられる。
 そして、実行しない限り、失敗する作戦はない。

 もちろん、世界はそんなに甘くはないが。
 ミスやアクシデントはいつだって起こる。
 それに対応できるかどうか、それだけの余裕があるかどうかが、強さにもつながってくる。










「速水選手、幕之内選手、ともに計量パスです」

 前日計量は、ともに余裕を持ってパス、と。

 あらためて、幕之内の身体に視線を向けた。

 ふむ、原作と違って目に見えるアザがあるわけでもなく……カウンターの練習をしなかったか、それともあっさりとカウンターを取得してしまったか。
 あるいは、別の攻略法の練習に費やしたか。
 まあ、考えるだけ無駄か。

 しかし、あのトランクスの下には、ビッグマグナムが隠されているのか。
 見れば男の尊厳を失うとまで評されたそれを、見てみたいような、見たくないような……考えないほうがいいんだろうな。

「すいません、握手をお願いします」

 記者から要求され、俺は幕之内に向かって手を伸ばした。

 ……おーい。

 苦笑しながら、声をかける。

「幕之内くん、俺たちの握手の写真が欲しいそうだ」
「え?あ、握手ですか?」

 ごしごしとズボンに手をこすりつけ、俺の手を握る。
 向かい合っての握手。

 うん、こうしてみると……まだ少年というイメージが強いな。
 緊張しているのか。
 対戦相手が俺でなければ、微笑ましいとも言えるが。

 そういえば、俺は緊張はしていないな。
 少し不思議な気分だ。

「ほら、目線」
「え?」

 次は、握手をしたまま、記者のほうに目線を向ける。
 いくつも、フラッシュが光る。
 現時点では、ほぼすべてが俺目当て……だが、試合の結果次第で、すべてがひっくり返る。
 いや、俺から離れていくだけか。
 どんなものも、なくすときは一瞬だ。

「ありがとうございました」

 写真撮影は終わり。
 次はコメントか。

「……練習したことを、精一杯ぶつけるだけです」

 うーん、優等生。
 その分余計に、俺のコメントへの期待が高まる。

「幕之内くんには悪いが、俺にとっては通過地点ですよ」

 こういうコメントをすると、大抵意地悪な返しがくる。

「では、眼中にないと?」

 俺は少し笑い、肩をすくめながらどちらとも取れるコメントを返す。

「道の途中ですからね。靴紐がほどけてないかどうかの確認ぐらいはしますよ」

 そして、幕之内を見る。

「デビューしたばかりとはいえ、フェザー級屈指の破壊力を持つ相手ですからね……みなさんよりも、俺のほうが幕之内くんを評価してると思いますよ。なんせ、彼のパンチを浴びるのは、みなさんじゃなく俺ですから。真剣にもなろうってもんです」

 かすかな笑い声。

 ……うむ、アメリカンなコメントは受けが悪いな。
 なら、仕方ない。

「まあ、明日は彼のパンチを一発ももらうつもりはないですけどね。完封するつもりです」

 ……なんで、こういうコメントだと反応がよくなるかね。
 ジョークとかウィットを利かせるほうが楽しいのに。





 さて、対戦相手に挨拶を、と。
 幕之内の付き添いの、鴨川会長に頭を下げておく。
 挑発と受け取られても、だな。

「すみませんね、幕之内くんを軽んじるつもりはないんですけど」
「ふん。じゃが、本音なんじゃろう?」
「ええ、彼のパンチは痛そうですから」
「言いよるわ」

 俺が笑い、鴨川会長が笑う。

 ああ、いいな。
 この人は、鴨川会長は、いい。
 俺と気が合うというより、気質がかみ合う。
 そんな感じがする。

 ……おい、幕之内。
 なにを他人事みたいな表情をしてるんだ。

「幕之内くん、手、いいかな?」
「え、は、はい」

 握手ではなく、拳を握ってもらった。
 これが、幕之内一歩の拳か。
 間柴や千堂、ヴォルグなどの強敵を相手に……努力と、勇気で勝利を掴み取るはずの拳。

 そして、『速水龍一』を打ち砕くはずだった拳。

 感慨深いな。

「……怪我には気をつけろよ」
「え?」
「パンチ力があるということは、それだけ自分の身体に負担がかかるってことだ。額や顎、それに頬骨、あるいは肋骨と、硬い部分を叩けば、そのダメージは自分の拳に返ってくる」
「……はい」
「相手選手に与える衝撃が、この拳にはいつも返ってくることを忘れないで欲しい。ボクサーにとって、パンチ力というのは宝物だからな。大切にしてくれ」

 そして、幕之内の顔を覗き込み、口にする。
 俺の覚悟。

「明日は、拳の怪我をする心配はない。思いっきり、打ってきな」
「はい、思いっきり打っていきます!」

 ……違う、そうじゃない。

「そうじゃないわ、このバカタレ!」

 鴨川会長がステッキを振り回しながら、言ってくれた。
 この何気ない行為に、感慨を覚える俺がいる。

「速水はな、小僧のパンチなど当たらんと挑発しとるんじゃ」
「そ、そうなんですか?」

 ……天然だなあ。

 幕之内らしいといえば、らしいか。
 イメージどおり。
 そう、イメージどおりでほっとする俺がいる。


 周囲にもう記者はいない。
 それでも、俺と幕之内は、もう一度握手を交わした。





 その夜、俺は新型デンプシーロールで、リングの外へとぶっ飛ばされた。(震え声)
 完成したんですね、やったぁ!

 ははは。
 いつもどおり、いつもどおりさ。


 そう、いつもどおりの朝。
 今日もまた。
 前へ、進むだけだ。






「……どうした、表情が硬いな」
「あ、わかりますか?」

 原作では脇役以下のお調子者のイメージを与えるような扱いだが、この音羽会長だってひとかどの人物だ。
 大きなジムを経営するというのは、簡単なことじゃない。

「まあ、確かに幕之内のパンチは脅威だ。だが、当たらなければどうということもないさ」

 会長、それフラグです。

 さて、と。
 そろそろか。

 立ち上がり、軽くステップを踏む。
 左、そして右。

 俺の何気ない動きが、周囲の人間の視線を集めているのがわかる。

「速水選手、準備してください」

 声がかかる。
 会長が、俺の肩を軽く叩く。

 ……行くか。

 約束の場所。
 越えるべき壁。
 そして、通過点だ。

 また、一歩前へ。
 それが、俺の歩む道になる。





 女性ファンの声援。
 そして、男性からのヤジ。

 身体が軽い。
 緊張して、地に足が着かないとかじゃない。
 今日の俺は、調子がいい。

 ロープに手をかけ、リングへと跳び上がる。
 観客席に向かって手を上げ、声援とヤジを浴びた。

 俺の視線の先。
 幕之内一歩。

 リングに立ってみると、やはりフェザー級では小柄に見える。
 しかし、肩が、腕が、脚が、太い。
 エネルギーの塊という感じがする。
 これでまだ、成長の初期段階なのだから、恐れ入る。

 確か、幕之内の身長は164センチだったと記憶している。
 俺とは約5センチの差。
 なのに、同じ階級。

 筋肉の重量が、俺よりも2~4キロ多く積まれているといえる。
 それは、車で言うなら、エンジンの馬力が違うということだ。

 ……タフな試合になるだろう。
 またひとつ、俺は覚悟を決めた。



 レフェリーからの注意伝達。
 心拍数の上昇を自覚する。
 悪くない。
 程よい緊張と、身体の熱。


 コーナーに戻る。
 会長の言葉。
 セコンドアウトの合図。
 そして、ゴング。

 リングの中央で、グローブを合わせた。

 原作ではおなじみのピーカブースタイル。
 ただでさえ低い的が、さらに低く。
 左右のグローブが顔の下半分をガードして、その上にこちらをのぞくように幕之内の目が見える。
 腕の太さが、ボディもある程度カバーと。

 ……なるほど、やりにくい。

 頭をゆすりながら、近づいてくる。
 幕之内一歩が、近づいてくる。
 現実と、幻想の、圧力がのしかかってくる。
 自分の中で、修正を入れる。

 俺は小さく息を吸い、ジャブを飛ばした。
 狙いは幕之内のグローブ。
 ガードの上から、目を狙う。

 馬力はともかく、リーチと速さ、そして技術が違う。
 距離を保ち、幕之内のグローブを叩いていく。
 ジャブを出そうとする、その動きをとがめるように。
 距離が近づく。
 グローブが動いた瞬間、俺のジャブが幕之内の顔をはねあげていた。

 すかさず、右の軽いパンチを3発叩き込む。
 もちろん、狙いは目だ。
 容赦はしない。
 そんな余裕はない。

 距離が開き、またピーカブースタイルに。
 やり直し。

 いったん足を止め、幕之内を見る。
 目を見る。
 視線の先は……俺の足か。

 低い前傾姿勢。
 俺の足の位置で距離を見ている、か。

 うん、経験不足だな。

 ジャブを飛ばす。
 ステップを刻む。
 右。
 左。
 幕之内の顔が動く。
 反応が遅れる。
 そこを叩く。

 ジャブが入る。
 はね上がった顔を、速いパンチで追撃。
 すべて左目に集中させる。
 強いパンチはいらない。

 まだ幕之内は一発もパンチを出せていない。
 観客は、防戦一方と見ているだろう。

 ひとつ、癖がわかった。
 幕之内の動きは、ピーカブースタイルが起点になっている。
 ジャブで顔をはねあげられても、反撃ではなく、ピーカブーに戻そうとする。
 反復練習の賜物だろう。
 しかし、長所は短所だ。
 ピーカブースタイルに戻って、そこから動き出しまでのタイムラグがある。 
 もちろん、余裕がなくなればどうなるかわからない癖だろうが、それまでは容赦なくつかせてもらおう。

 それともうひとつ。
 余裕があるうちに試しておくか。

 足の位置を変えた。
 幕之内の視線の先。
 幕之内の距離を測る。
 そして、距離感とパンチを見る。

 近づく距離。

 幕之内の左。
 技術はともかく、これでジャブか。
 そして、右……は、欲張りすぎだ。
 開いたガードに、ジャブを放り込んだ。
 続けて2発、3発。
 はね上がった顔を叩き続けて、ピーカブースタイルへ戻させない。

 突き放し、右へ回った。
 不用意に振り向いたところを、ジャブで迎えてやる。
 左目。
 執拗に、左目を狙う。
 右へ右へ回りながら、皮膚をこするように、ジャブで狙っていく。

 俺はまだ、軽いパンチしか打っていない。
 そして、追撃以外は一発一発、角度やタイミングを変えている。

 振り向くタイミングで、また左目を狙う。

 執拗に繰り返していると、意識的か、それとも無意識なのか。
 あるいは、痛みへの反射反応か。
 幕之内のガードが、わずかにあがった。

 踏み込み、ボディに一発。
 すぐに離れた。
 リスクは最小限に。

 戸惑いが伝わってくる。
 悩め。
 考えろ。
 その分だけ、反応が遅れる。

 ガードの高さを戻せば上に。
 ガードが上がれば下へ。
 打ち分けていく。

 顔には追撃を入れるが、ボディへは単発で離れる。

 距離を保つ。
 幕之内を翻弄しているように見えるだろう。
 そんな格好いいものじゃない。 
 勝つことだ。
 俺は、勝つことだけを考えている。

 静かに、時間が過ぎていく。
 穏やかに、1Rが終わっていく。

 ラスト10秒。
 はね上がった幕之内の顔に2発叩き込み、一瞬だけタイミングをずらす。
 ピーカブーに戻ろうとする瞬間、ショートアッパーをカウンター気味に入れた。

 ひざが揺れている。
 速いパンチで追撃。

 ゴングが鳴った。




「よーし、いいぞ速水。後30秒あれば終わってたのになあ」

 上機嫌の会長に、少し釘を刺しておく。

「どうですかね……判定までいくかもしれません」
「おいおい、弱気だな」
「……まだ、幕之内が何を狙っているかわからないんですよ」
「手も足も出ないってやつさ」

 考えなしのように聞こえるが、慎重な選手には楽観的な言葉をかけるのが会長のやり方だ。
 俺が積極的なら、逆に慎重になれと言うだろう。
 バランスをとるのがうまい。

 ふと、気づいた。
 そういえば、原作では1Rで終わったんだったか。

 原作ブレイク。
 見えない未来に向かっていく。

 まあ、いつものとおりだ。
 俺はずっと、手探りで歩き続けてきた。

『セコンドアウト』

 さあ、2Rの始まりだ。



次で、決着よ。
ちゃんと明日も更新の予約済みだから。

週刊漫画の次の展開を夢想しながら1週間待って、翌週、雑誌を手に取る。
この、待たされる感覚がいいと思うの。(ゲス顔)

なお、やりすぎるとハードルが爆上がりする罠。


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6:事故。

この頃の一歩は、1試合ずつ地道に作戦立ててたなぁ。(遠い目)


「速水ッ、前だっ!!」

 会長の叫び。
 立ち上がりかけた体勢。
 反応が遅れた。
 揃った両足。

 2R開始早々の、幕之内の特攻。

 左手を伸ばし、幕之内の右を押さえにいく。
 いや、軌道をずらす。

 俺の左手は大きくはじかれたが、幕之内の右を危うくかわせた。

「速水ーっ!!」

 会長の叫びに、今は返事をする余裕はない。
 まずは、幕之内を突き放して、コーナーから脱出。

 左を……。 

 その一瞬の思考が生んだタイムラグ。
 そして、やる気満々の幕之内。
 見切りなんて余裕はなく、身体を傾けるようにして幕之内の追撃を大きくかわした。

 今のが、ボディだったらやばかったかもな。
 幸運の女神が俺に微笑み、幕之内は勝機をひとつ逃した。

 パンチを振り切って身体が流れた幕之内。
 その顔に。

 右。

 幕之内の顔がはじかれる。
 そこに、速い右の連打。
 ヒットポイントを深くとり、幕之内の顔を、押しのけるように突き放す。

 そして、コーナーを脱出。

 大きく距離をとり、左手を握る。
 まだ痺れが取れない。
 まったく、でたらめなパンチだぜ。(震え声)

 突進してくる幕之内。
 右の速いパンチをガードではじかれる。
 幕之内の目を見る。
 見ているのは、足ではなく俺の右か。

 右のフェイント。
 踏み込んできた幕之内。

 この試合で初めて見せる、体重を乗せた重いパンチで打ち抜いてやる。

「……っ!?」

 幕之内が、たたらを踏んだ。
 そこを、軽いパンチで突き放し、また距離をとる。
 左手を握る。
 もう少し。

 幕之内の突進。
 軽いパンチ。
 強い右。
 タイミングをずらし、軽いパンチ。
 そして、強いパンチ。
 速く、遅く、軽く、重く。

 幕之内の困惑の気配が伝わってくる。

 いいよ、どんどん悩め。
 というか、休ませろ。
 左手を握る。
 いけるか。

 距離をとり、左を打ってみる。
 いける。

 幕之内、再びの突進。
 なにか、意図めいたものを感じる。
 右をフェイントに、左のジャブで目を狙う。
 一転して、左の連打。
 そして右の追撃で、また突き放した。

 ちらりと、時計を確認。
 時間の流れが遅く感じる。
 余裕のない証拠。
 落ち着け。

 真正面から受け止めてどうする。

 突進を、右に回ってかわした。
 ジャブを放つ。
 幕之内の目を見る。
 少し、芯をはずして打つ。
 皮膚をこするように。
 ガードがあがる。
 すかさずボディに入れ、離れ際に上へと返す。

 原作のせいで、フリッカージャブがムチの様にしならせるパンチというイメージが広がったが、あれは独特の軌道そのものを目的としたパンチではない。
 人間の視野は、前面が160度と広いのに対し、上下は60度ほどしかないとされる。
 もちろんこれは通常時の視界で、速度が上がると当然狭くなる。
 そして、フリッカーは、下から向かってくるパンチだ。
 左を警戒して下を向けば右に対して無防備になり、右を警戒して上を見れば、左に対して甘くなる。

 その構えだけで、上下の打ち分けを意識的に作り上げる手段ともいえる。

 ボクシングは、距離感の奪い合い。
 そして空間の奪い合い。
 それともうひとつ。
 集中力の奪い合いだ。

 右へ左へ、ステップを踏んで幕之内の身体を振り回し。
 上へ下へ、パンチを散らして幕之内の視界を振り回す。

 突進をかわし、左右からパンチを浴びせてやる。

 それでも、ガードを固めての突進。
 身体ではなく、心がタフだ。

 原作と同じく、狙われているのはショートアッパーか?

 ……違う気がする。

 それなら、もう少し低く飛び込んだほうがいいはずだ。
 小柄な幕之内が低く構えれば構えるほど、下からの攻撃で身体を起こしたくなる。
 そして、俺は打ち下ろしのパンチはほぼ使わない。
 わかっているはずだ。

 幕之内を突き放し、距離をとった。
 右へ、右へ。
 リングを丸く使う。

 考えろ。
 やばい気がする。
 繰り返される特攻。
 狙いは、なんだ?

 同じ攻撃の繰り返し。
 パターンの学習。
 何かの誘導。

 幕之内の攻撃パターン。
 まずもぐりこむこと。

 なのに、開始早々の特攻は、顔だけを狙ってきた。
 あれが、ミスではないとすると。
 鴨川会長の指示だったならば。

 この試合、まだ一度もボディを狙われていない……な。

 決め付けはしない。
 だが、注意を払う。

 足を止め、幕之内を見る。
 特攻のチャンス。 

 幕之内が来る。
 警戒。
 右のフェイント。
 幕之内の身体が沈みこんだ。
 すでに俺の目線は下へ。

 幕之内の、深いステップイン。

 最初に頭をよぎったのはガゼルパンチ。
 すぐに否定。

 角度を決めた左肘。

 リバーブロー。
 夢の中で、数え切れないぐらいもらったパンチ。

 焦るな。
 タイミングと速さ。
 そして正確さ。
 幕之内の顔。
 そこに右手をまっすぐ突き出すだけでいい。

 それが、カウンターになる。





 幕之内一歩が、尻餅をついた。



 ニュートラルコーナーで息を吐く。
 タイミングがずれたり、躊躇ったら肝臓をえぐられる。
 ガードしたら、動きの止まった俺の顔面に返しの右が飛んで来る。
 良く知ってるんだ俺は。(震え声)

 ……タイミングで倒しただけだからな。
 普通に立つだろう、幕之内なら。

 心拍数が高い。
 心が削られた自覚。
 息を吸う。
 脳に酸素を。
 身体に酸素を。
 呼吸を整え、落ち着けていく。


「ファイトッ!」

 幕之内が近づいてくる。
 そして、俺が距離をつめる。

 いきなり右から入った。
 さっきフェイントに引っかかった意識があるはずだ。
 ガードさせるための強い右。
 幕之内の体勢は崩れていない。
 足の踏ん張り、ダメージは?

 速いパンチを散らす。

 俺が相手をしているのは、逆転の幕之内。
 詰めの甘さは死につながる。

 反撃のパンチ。
 生きている。

 ジャブを返す。
 まだ2Rだ。
 先は長い。
 また、速いパンチで目を狙う。
 それを、幕之内が嫌がりだしているのがわかる。

 人の嫌がることを、進んでやりましょう、だ。
 スポーツはそういうものだ。
 それが、ボクシングという戦いならなおさら。

 幕之内の目の腫れが目立つようになってきた。
 それでも目を狙う。

 顔を動かして俺の姿を追う動作が目立ってくる。
 死角と思われる方へ回り、パンチを放つ。
 そしてまた、視界に現れ、パンチを打たせる。

 目こそ腫れているが、幕之内のパンチや足に、ダメージの気配は見られない。
 重いパンチはあまり使ってないが、嫌になる。

 残り10秒の合図。

 前に出る。
 ガードの上から、強いパンチをたたきつけた。
 右。
 左。
 ステップを刻み、右から左から、上へ下へと叩き込み、動きを封じたまま2Rを終わらせる。

 Rの残り10秒というのは、大事な時間帯だ。
 何もできないとでも思わせることができれば、心のたて直しに時間がかかる。
 そうすれば、セコンドのアドバイスも時間が限られる。
 相手の時間を奪うということは、次のRを有利に運ぶことにつながる。



「慎重だな」

 そう、見えるのか。
 あるいは、俺の気持ちをほぐすため。

 深呼吸してから、言葉を返す。

「左手がはじかれたのを、見たでしょう?あの後、左腕がしびれて、動かなかったんですよ」
「……そこまでか」

 そうつぶやいて、会長が幕之内に視線を向けた。

「さっきのダウンも、タイミングで押し倒しただけです。それほど効いてません」
「2R始めの奇襲みたいなのだけには気をつけろ」
「ええ、もちろん」


 3R。

 開始早々、主導権を奪いにいった。
 さっきのRとは逆。
 相手のコーナーに釘付けにして、連打を叩きつけていく。

 そして、観察。

 足元。
 ひざ。
 腕。
 そして、目。

 死んでいない。

 そりゃそうか。
 折れず曲がらず、勇気の幕之内だ。

 足、そして肩の動き。
 相手のやる気をそぐように、ちょこんとバックステップして距離をとった。

 幕之内のパンチが空を切る。
 狙いはボディか。
 さっきのRとは別の指示が出たか。

 距離をつめようとしたところを、左の強打で止めた。
 またひとつ、俺の手札をさらした。
 俺の手札は無限じゃない。
 それでも、相手の行動をひとつひとつ丁寧につぶしていく。

 幕之内が慣れてきたところで、目先を変えてやる。
 ジャブ。
 ボディへの連打。
 反撃の右をかわし、アッパーで突き上げる。
 ガードを固めようとしたところを、もう一度アッパー。

 うん?
 やけに当たるな?

 フェイントを交え、もうひとつ突き上げてみた。
 幕之内のひざが、かくんと、折れた。

「小僧ーっ!!」

 鴨川会長の声が響く。
 生き返る。
 幕之内の右がうなりをあげる。
 左、そしてまた右。

 パンチは生きている。
 しかし、距離感が死んでいる。
 左目の視界を奪ったことが、活きてきた。

 容赦なく打ち込み、一瞬、間をあける。
 反撃を誘う。

 幕之内の左。
 パンチを見てから、カウンターで返してやる。
 速さを重視した、軽いパンチだ。
 腫れた左目を狙い、痛みを刻んでいく。
 手を出せば、痛い目にあうと、わからせていく。

 幕之内の手数が減った。
 ガードに意識が向かっている。
 強いパンチの出番。
 ガードの隙間。
 そしてアッパー。
 もうひとつ。
 幕之内の腰が落ち、ガードが開いた。

 いける。

 俺の中の意地のようなもの。
 コンプレックス。

 深い踏み込みと腰の回転。
 渾身の右を、幕之内へと叩き込んだ。




 ニュートラルコーナーで、呼吸を整える。

 焦るな。
 ムキになるな。
 ダメージは与えている。

 原因は、幕之内の低い姿勢。
 目標が下にある分、俺のパンチのフォームが微妙に狂っている。
 体重を乗せ切れていない。
 力むと、余計にフォームが狂う。
 ただ、アッパーは効いている。
 防御に不慣れなのは明らかだ。


 幕之内が立つ。
 それはわかっている。


「ファイトッ!!」


 幕之内に近づく。
 向こうからは来ない。
 ダメージか、誘いか。

 ちらりと時計を確認し、鴨川会長に目をやった。
 タオルは持っていない。
 声を上げてもいない。
 まだ何か、信じるものがあるのか。
 狙いがあるのか。

 ゆっくりと距離をつめ、右のフェイントから入った。
 反応する。
 左のジャブ。
 ガードを固めている。
 ちょん、とガードを押さえてから、右のボディフック。
 そして左のアッパーへと……。

 手応え。
 止められた。
 十字受け。
 またの名をクロスアームブロック。

 強い右で、いったん突き放す。

 俺のアッパー対策か。
 悪手だ。
 タイミングが悪い。

 正面からだ。
 ブロックの上から、強い右を、左を、叩きつける。
 1発、2発、3発。
 幕之内の足元がおぼつかない。
 コーナーへと、幕之内を後退させていく。

 フックは必要ない。
 幕之内の距離になる。
 正面から、ストレート系のパンチで押しつぶす。

 固いガード。
 パンチを出しにくいガード
 そのガードを緩める余裕を与えない。
 手を出させない。

 思い出したように、ボディへ。
 単調さは危険だ。

 だが、またとないチャンス。

 このR、俺はすでにダウンを一度奪っている。
 ダメージはともかく、2Rにもダウンを奪っている。
 このまま、反撃させずにつめていけば、レフェリーストップが狙える。
 それは、レフェリーが決めること。
 勝ち方はひとつじゃない。
 恨むなよ。

「小僧ーっ!退くな!」

 気づかれたか。
 でも、もうコーナーだ。
 押しつぶす。

「手を出せ!出すんじゃ小僧!」

 堅固なガードが解けた。
 ならば、カウンター狙い。
 幕之内の右。

 俺はステップを踏んでそれを……。

 トン。

 俺の背中が、何かに触れた。

 おい?

 コーナーを背負っているのは幕之内だ。
 ロープでもない。

 幕之内の右が迫る。

 俺は、何かに背中を預けた状態で、片足立ち。
 動けない。

 幕之内の拳。

 気づいた。
 俺の背中にあるもの。
 俺の逃げ道をふさいだもの。

 マジか。
 これが、主人公補正か。

 考えてる場合じゃない。
 ガードを。

 衝撃。

 俺の動きを封じたもの……。
 それは、レフェリーの身体。














「……速水ーっ!!」

 まぶしい光。
 音羽会長の叫び。

 混乱。
 戸惑い。

 そして、レフェリーのカウント。

 意識が飛んでいた?

 身体を、いや、頭を起こす。
 右手、左手。
 いける。
 脚……は、まずいな。

「4!」

 息を吸う。
 頭からつま先まで、痛みが走り抜けていった。
 激しい頭痛。

 1発だけか?
 それとも、まとめてもらったか?
 すげえな。
 わざとダウンするとか、そんな虫のいい話はなかった。
 ああ、でも。

 前世の記憶。
 前世、最期の記憶。

 車にぶっ飛ばされたときよりはマシだ。

 俺の身体は、まだ動く。

「5!」

 カウント7まで。
 時計を確認。

 ……見るんじゃなかった。
 まだ1分以上ある。

 頭痛に耐えながら、息を吸う。

「6!」

 片ひざ立ちの姿勢をとる。
 グローブで太ももを軽く叩いた。
 動いてくれよ。

「7!」

 なんでもないように、静かに立ち上がる。
 あくまでも主観だ。
 周りからどう見えているかはわからない。

 はは、立ち上がったはずなのに、脚の感覚が曖昧だ。
 ふわふわしてる。

「8!」

 構えを取る。
 レフェリーが俺を見る。

 目の前で指を出された。

「何本かね?」
「伸ばした指が3本」

「君の名前は?」
「速水龍一」

 続行可能と判断した気配。

 ……もう少し時間を稼ぐ。

「さっきのは、俺のミスだ」

 レフェリーが戸惑ったように俺を見た。
 ルール上は問題ないにしても、自分のせいで俺がダウンしたという罪悪感は持ってるはずだ。
 そこを利用させてもらう。

「これから、鮮やかに逆転して勝つさ。だから、安心していいぜ」
「……」

 俺の言葉の時間。
 そして、レフェリーが言葉に詰まった時間。

 それで稼いだ数秒の時間が、俺にとっては何よりも貴重。
 ずるいとは言わないでくれよ。
 勝つためだ。
 やれることをやる。
 

 レフェリーが離れた。

「ファイトッ!!」


 セコンドの声が響く。

「速水ーっ!!」
「ためらうな!行け、行くんじゃ小僧ーっ!!」

 チャンスと見るや、瀕死の状態の選手が生き返る。
 ボクサーってのは、不思議な生き物だ。

 さて、どうしのぐか。

 俺の右。
 意に介さず、幕之内が飛び込んでくる。

 大振りだ。
 見えてる、見えてるんだが。
 足がまだ、ダメだ。

 半身になり、幕之内に肩からぶつかるようにして身体を預ける。
 右手で腰を抱き、ボディを打たれないように、左手で幕之内の右手首を押さえた。
 そのまま、倒れてもいいという感覚でもたれかかると、幕之内がよろけた。

 ……幕之内のダメージも相当か。

 レフェリーが割って入った。
 俺と幕之内を分ける。

 離れ際に、ジャブを2発。
 幕之内の額を押さえるように、グローブを押し付ける。
 重心を落とさせない。
 構えを取らせない。

 ただ、時間を稼ぐ。

 足を確かめる。
 戻ってきた、もう少し。

 幕之内の左。
 そして、右のタイミングで抱きつく。
 左肩で幕之内の右脇を押さえ、右を殺す。
 そして俺は、幕之内の左手を抱える。

 ホールドの反則。
 だが、それで時間が稼げる。
 幕之内の焦りがわかる。
 ここで決めたいという気持ちが見える。

 レフェリーが、俺たちを分ける。
 注意。
 ほんの1秒程度の時間。
 そして再開。

 観客のブーイング。
 うん、だいぶ足が戻ってきた。

 幕之内の攻撃が大振りに、そして、雑になっている。
 左目が腫れているのもあるか。

 カウンターのタイミングでジャブ。
 続けて速い右を放り込む。
 それでも止まらない。
 このパンチは怖くない。
 そう、思ってくれたか?
 どちらも手打ちの軽いパンチだ、無理もない。

 足の感覚。
 リングを、踏む。
 つま先。
 いける。

 左のジャブ。
 そのまま突っ込んでくる。
 前しか見ていない。
 見えていない。

 うん。

 ステップを刻んだのは、俺の足。

 さっきまで俺がいた場所を、幕之内のパンチが通り過ぎる。
 幕之内の死角から。
 幕之内のアゴをめがけて。
 握り締めた拳を。

 打ち抜く。

 一瞬の硬直。
 そして、つんのめるように、幕之内がひざをついた。


 時計を見る。

 あと16秒か。
 どうやら、このRはしのげたな。

 ん?
 あ。

 冷静でなかった自分に気づく。
 知らず知らず、入れ込んでいた自分を知る。

 しのぐも何もない。
 4回戦の試合だから、1Rに2回のダウンで試合終了。

 2R、そして3R。
 自分から戦略の幅を狭めていた。

 それでもだ。


 息を吐く。
 そして大きく吸う。

 さりげなく。
 しかし、強く。
 右の拳を握った。


 まずは、勝てたか。


 リングに上がってくる鴨川会長を見ながら、俺は音羽会長の待つコーナーへと。

 ゆっくりと、歩いて戻った。

「いやあ、ひやひやしたぜ、速水」
「はは、盛り上がりましたか?」
「まったく、あのへぼレフェリーが……」
「あれは、レフェリーの位置を認識してなかった俺のミスです」

 少し強い口調で、釘を刺す。
 音羽会長が俺を見て、頷いた。

「……そういうことにしとくか」
「ええ、勝ちましたからね」

 音羽会長が笑った。 
 マスコミに対する、受けのいいコメントだと思ったのだろう。




 幕之内は……上体を起こしているが、まだ座ったままだ。
 挨拶は、しておいたほうがいいか。


 幕之内のコーナーへ近寄り、鴨川会長に声をかけた。

「鴨川会長、幕之内くんはどうですか?」
「意識はある……ただ、まだ足がふらついちょる」

 幕之内を見る。
 八木さんの言葉に答えてはいるが、どこかぼうっとした感じ。
 話しかけるのはやめておくか。

「なんか、意外ですね」
「何がじゃ?」
「いや、幕之内くんって、倒しても倒しても立ち上がって、恐ろしいパンチを振り回してくるイメージが……」
「……貴様の中で、小僧はどんな化け物になっておるんじゃ……」

 どこか呆れたように言われた。

 いや、まあ。
 毎晩毎晩、夢に見るぐらいですよ。(震え声)

 しかし、ここから容赦なくレベルアップするんだよな。
 ガゼルパンチに、密着した状態でのボディーブロー。
 そして、デンプシーロール。

 今の段階で戦えた俺は、運が良かった。
 そう思うべきだろう。
 そして次は……こうはいくまい。

 鴨川会長に色々と聞いてみたいことはあったが、勝者の礼儀だ。
 控えるべきか。

「幕之内くんに伝言を」
「なんじゃ?」
「試合には勝ったが、パンチをもらったから、勝負は俺の負けだ、と」
「ふん、ぬかしおる……」

 鴨川会長が視線を落としてつぶやいた。

「小僧の、そしてワシらの負けじゃ。ミスもあったが、付け入る隙がなかったわい」
「今日は、ですよね?」

 見られた。
 鴨川会長の鋭い視線を浴びる。

「ああ。今日は、じゃ」

 握りこまれた拳が目に入る。

 熱い人だ。
 70過ぎの老人とは思えない。

 ほんの少しだけ。
 俺が、鴨川ジムの戸を叩く……そんな光景を夢想した。

 でも俺は。
 速水龍一だ。
 幕之内一歩じゃない。

 頭を軽く下げ、別れた。

 リングを降りる。
 観客に向かって手を振る。

 女性ファンの声援。
 そして、男性からのヤジ。
 まあ、一部だ、一部。

 通路を歩く。
 前へ向かって歩いていく。

 原作とは違う、新しい道。
 速水龍一の道。
 それが、続いていく。


 今夜は。
 今夜ぐらいは、いい夢が見られるだろうか?




サブタイトルは最初『続いていく道』にしてたのですが、不吉さを与える『事故』にしてみました。
サブタイトルで、勝敗が予想できたら興ざめかなと思ったので。(目逸らし)
話の途中で敗北のスリルを感じていただけたらなによりデス。(棒)

一歩の脅威というか、ある種の理不尽さを表現できていたなら幸いです。
まあ、リアルでこれだけ考えている余裕ねえよといわれたらそれまでですが。(苦笑)

一歩との試合って、お化け屋敷の『出るぞ出るぞ』の感覚に似ている気がする。

ひとまず、連続更新はここまでです。
不定期で、ごめんなさい。(今、6月27日ですが、7月になるまでは更新できないのが確実です)

先に宣言しておきますが、速水のアゴはもちろん、身体は無事です。(笑)

だから速水龍一は、今夜は安らかに眠っていいのよ。(優しい目)


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7:次の相手は……。

知 人:「1990年頃って、まだ当日計量じゃなかったか?」
 私 :「……言われてみれば、連載初期は当日計量だった気がする」(震え声)
知 人:「ヘッドギアも、強いパンチには意味がないって廃止の方向に向かってるし」
 私 :「ま、まだ研究の余地があるって聞いたし、このころは普通やし」

私が思っているよりも、今と昔のルールや設定がガバガバ状態かもしれません。
怪しい部分は、雰囲気重視のスルー推奨です。(目逸らし)

さあ、速水龍一の冒険の再開だ。


 迫る幕之内。
 うなる豪腕。
 俺は必死で応戦する。
 カウンター気味に渾身の右。
 左フックを返して、さらに右。
 そして、衝撃に備えて歯を食いしばる。

 幕之内が倒れた。

 ……あれ?

 蚊にでも刺されたかのように平然と打ち返してきて、俺をぼろぼろにしてぶっ飛ばすんじゃないの?

 ああ、夢か。

 いや違う、夢じゃなくて……いや、夢か。
 いつもの、ぶっ倒される夢じゃなくて、倒す夢。

 そうか。
 現実で幕之内を倒したから、夢でも倒せるようになったのか。

 俺は握り締めた拳を高く上げた。
 壁を越えた実感。
 それを夢の中で感じることを、笑いたくなる。 

 いきなり場面が暗転し、再び幕之内が現れた。

 心なしか、一回り成長して。

 おい。
 待てよ、おい。(震え声)

『今日は、思いっきり打っていきます!』

 にこやかに。
 さわやかに。
 笑顔で宣言される。

 そして俺は、思いっきりぶっ飛ばされて目が覚めた。

 全身の汗。
 激しい動悸。
 荒い呼吸。

 ははは、いつもどおり、いつもどおり。
 普段どおりの夢だってば。




 試合の後のドクターの診察、そして病院での精密検査。
 異常なしの結果にほっとする。
 アゴについて結果に間違いないか念を押してしまったが、医者に笑われてしまった。
 まあ、プロの判断とプライドを信じることにした。
 2日ほど続いた頭痛も、3日めには消えた。

 でも、異常はあると思う。
 なんというか、俺の精神的な方向で。(震え声)





 幕之内との試合の次の週。
 ハナの金曜日という言葉に奇妙な懐かしさを覚えつつ、俺は仕事が終わってから、ジムに顔を出した。
 顔を出すだけだ。
 試合でダウンもしているだけに、しばらくはロードワークもしない。
 本当は、安静に寝てすごすのが一番なんだが、そうもいかない。
 ボクシングだけでは食っていけない、悲しさってやつだ。

 多くの人間が汗を流している。
 大きすぎず、それでいて小さくない挨拶を。

「こんにちはー」

 俺の姿に気づいた練習生たちから、声をかけられる。

「こんちはー!」
「速水さん、ちゃっす!」

 俺も挨拶を返し、ジムの先輩にはあらためて挨拶をする。

 ジムの中を見渡す。
 会長室かな?
 ガラス張りの部分から覗き込むと、気づかれた。
 手招きされる。

「おう、速水。身体の具合はどうだ?」
「ぼちぼちですね。問題はなさそうです」
「まあ、2週間はおとなしくしておけよ」

 精密検査の結果がでた日に報告はしておいたから、挨拶のようなものだ。

「宮田と間柴の試合、明日でしたよね?」
「おお、見に行くのか?」
「そのつもりです」
「予想は?」
「8対2で宮田ですね。というか、間柴とはやりたくないです」

 音羽会長が笑った。

「まあ、間柴の所属する東邦ジムの会長さんも頭を抱えてたからなあ。素行はともかく、ボクサーとしては有望なのがまた悩ましいってな。ちなみに、俺は7対3で宮田だ……が、お前の試合じゃないが、何が起こるかわからん」
「何か起これば、勝ちきるだけの能力を、間柴が持ってるのは認めますよ」

 幕之内との試合の後、記者の取材で聞かれたのはあのアクシデントだ。
 あの日は、テレビ局も入っていたから余計に気を使った。

 まあ、テレビ局とは別に、2人ほど意地悪な記者がいたが、『俺のミス』で突っ張っておいた。

『勝ちも負けも、全部俺自身の責任ですよ。勝敗の責任を他人に任せるつもりはありませんね』

 俺がそう言ったら、鼻白んでいたっけな。
 まあ、レフェリーへの文句か、悪口でも言わせたかったんだろうが、乗せられるのはごめんだ。


 映像を確かめたら、試合をとめようとしたのか、ちょうどレフェリーが駆け寄ろうとした瞬間に、俺がステップを踏んで……という状況だった。
 場所がコーナーだったことも災いしたといえる。
 正直、誰が悪いというわけでもなく……俺が勝ち、怪我もしなかったからには、事故の二文字で片付けるか、勝った俺が『自分のミス』と言い張るのが一番角が立たない。

 そして、あの空白の瞬間に俺がもらったパンチは3発。
 避けそこなった右のあと、返しの左フックに、右ストレートだ。
 まだ成長初期段階の幕之内だとしても……無事でよかった。

 しかし、後の2発は記憶にない。
 映像で見る限りは、俺もガードしようとして反応はしているように思えるが。
 少し不思議な気分だ。


 ……結果論だが、幕之内はボディを狙うべきだった。
 2Rの開始早々の特攻のときもそうだ。
 おそらくは布石だったのだろうが、1発で試合をひっくり返すことができるパンチを持っているからには、徹底して俺の足を止めにかかるべきだった。

 まあ、重ねて言うが、結果論だ。

 そして、結果論とはいえ……俺が、速水龍一が負ける道筋はいくつもあった。
 経験、技術、戦略。
 大きな差がありながら、すべてをひっくり返される破壊力。
 これを理不尽と言うなら、スポーツなんかやるべきではないだろう。

 俺にパンチ力がないわけではないのだ。
 連打をまとめて倒す力があるのは確か。

 パンチの威力そのものというか、破壊力を求めても仕方ないな。
 タイミング、呼吸、間合い……そういう要素で補助すべきだろう。
 宮田のカウンターではないが、死角からの一撃、あるいは意識の外からの一撃、気を抜いたタイミングの一撃。
 やれることはあるはずだ。

 そもそも、人間の目と言うのは、高性能すぎる部分に落とし穴がある。

 陸上競技のスターティングブロックは、スタートの合図から0.1秒未満に一定以上圧力がかかるとフライング判定を出す。
 人間の反射には、0.1秒以上かかると、さまざまな実験を元に、そう定められた。
 それより速いというのは、『スタートの合図が鳴る瞬間を予測して動き出す』行為……つまり、フライングであると。

 脳の情報処理にかかる時間、それが0.1秒程度。

 目に映った視覚情報を処理して、ようやく見たことになる。
 それは、速い動きをリアルタイムで構築できていないことを意味する。

 最初はそんなバカなと思ったが、どうやら人間の脳は、処理の遅れを補正するために動く物体の像を進行方向の前方に構築するらしい。

 前世で、ワールドカップのオフサイド判定の約4分の1が誤審だったという統計があった。
 移動する選手の姿を、実際よりも前方に見てしまうのが人間の目であるとすれば。
 そして実際は、オフサイドラインを選手は行ったりきたりを繰り返しているのだから、動きの数だけ、ズレがうまれることになる。
 誤審の多さは必然といえるのか。
 それでも、ビデオ判定の導入に踏み切るまでに10年以上かかったそうだが。

 目で見えるものを疑うというのは、それだけ心理的抵抗が大きいのだろう。


 ボクシングにおいて、見て、判断し、避ける……という防御は、本来成り立たないと言われているのも、これを踏まえると良くわかる。

 ボクシングにおいて、予備動作のないパンチ……特にジャブをかわすというのは、『読みによるフライング』か、『相手のパンチが外れている』ということに収束される。
 だからこそ、パンチの挙動を、予備動作をなくすのが、ボクシングのベクトルになっているわけだ。
 そして、細かく動き続けて、相手に的を絞らせないのも、防御のベクトル。

 それでも、ボクサーは、俺も含めて『ジャブを見て避けている』と思っている。
 これはこれで、間違っているわけじゃない。
 見えているつもりなんだから。

 ボクサーとしての練習が、経験が、『このパンチがこうくる』と理解し、脳が補正を入れて、俺たちにそう認識させている。
 見えていなくても、見ている。

 野球でいえば、人間は『ボールの軌道を予測して』視線を動かすことがわかっている。
 だから、初心者は簡単にボールの行方を見失い、熟練者は『練習で覚えたボールの軌道』を元に、ボールの行方を予想して視線を動かす。

 消える魔球はロマンだが、あれは空想ではなく、理論上は可能だといわれている。
 打者の予測をはずす、ボールの軌道を生み出せれば、と注文がつくが。

 前世でそれを聞いたとき、色々と夢が壊れたなぁ……。


 あと、中心視や周辺視という言葉が日本で普通に語られだしたのは90年代後半からだが、人間の目の研究そのものはそれよりもっと早かった。
 そして武術においては『観の目』とか『八方目』、『遠山の目付け』などと呼ばれる周辺視の重要性を物語る教えが普通にあった。

 視線を動かさず、周辺視で相手の全身を見る。
 これをしていると、『どこを見ているかわからない目つき』になるそうだ。

 間違いなくリカルドは使っているだろうし、周辺視という言葉を知らなくても、使ってる人間は多いはずだ。
 野球でも、それと知らずに使う。
 それが特別なことと思うこともなく……もちろん、レベルの差はあるだろうが。

 だから、速さではなく、『見えない』ことを追求するなら、この周辺視から、中心視へと……視線の誘導が重要になる。

 いわゆる『幻の右』も、相手の視線を誘導してパンチを見えない状態にさせたものだし……原作での木村の『ドラゴンフィッシュブロー』もそうだ。

 俺の連打。
 相手の不意をつけるコンビネーション、か。

 ……まあ、色々試しながら考えよう。

 急に答えが出るようなものじゃない。









「速水さん」

 宮田と間柴の試合を見にいった後楽園ホールで、声をかけられた。

「おお、幕之内くん……言っちゃわるいが、ひどい顔だな」
「これでも、ずいぶんマシになったんです」

 顔を腫らした幕之内が、恨むような目で俺を見た。
 俺は笑って、自分のこめかみを指先でとん、と叩いた。

「はは、俺も頭痛が2日続いたんだ、おあいこだよ……と、検査は受けたのか?」
「はい。かなり打たれたから熱が出ちゃいましたけど、精密検査では異常はありませんでした」
「そうか……まあ、お互い無事で良かったな」
「はい」

 奇妙な会話だ。
 まあ、喧嘩じゃなく、お互いにボクサーだから殴り合っただけの話だが。
 それでも、宮田との対戦を望んでいた幕之内にとっては、複雑な思いを抱く相手だろうに。
 そんな俺に普通に話しかけてくることができる……そのまっすぐさが、少しまぶしい。

 ……ある種の天然と言うか、鈍感さかもしれないが。

 と、幕之内と宮田の関係を、俺が知るわけはないな。
 口に出さないように注意しないと。

 うん。
 意味なかった。


「それでですね、宮田君はすごいんです」
「そっか、すごいのか(棒)」

 幕之内の口から『宮田君』のすごさを延々と聞かされて、砂糖でも吐きそうな気分。
 でも、そのあたりの人間関係が原作とほぼ変わらないことを確認できたのはよしとするか。

 無理にでも話題を変えよう。
 とはいえ、ボクシングの話ぐらいしかない。
 自然と、俺たちの試合の話になった。

 俺の試合に向けて、どんな練習をしたのか……何気なく口にしたのだが、幕之内がぺらぺらとしゃべってくれる。
 鴨川会長の分析が聞けて、俺としてはなかなか興味深い。
 興味深いのだが、それでいいのか幕之内?
『クールそうに見えて熱いんです』とか、ボクサーにとって、性格って重要な情報だからな。
『宮田君』のプライバシーもそうだが、危機管理とか、情報管理がガバガバだぞ。

 いや、この時代の日本人の感覚は、みんなこんなもんだったか。

「2Rの特攻は、試合前から言われてました。速水さんは、1Rは相手を見てくる傾向があるから、そこでリズムを変える、と」
「ほう、それで」
「会長に『ええか、速水は連打を意識すると脇が少し開くことがある。絶対ではないが、脇がしまっとる時は、強い右が来ると思え。その強い右を空振りさせたときにこのパンチを使え』と言われてたんです。特攻を繰り返せば、左ではなく、強い右でとめに来るはずだから、それをもぐりこめたときは、ズドンといけと」

 ……めっちゃ、読まれてる。
 いやまあ、セオリーといえばセオリーなんだけど。

「だけど、速水さんのパンチは、一発一発タイミングも威力も違って、もぐり込むタイミングがつかめなくて……だからあの時、つい飛び込んでしまって……」

 どこか恥ずかしそうに、幕之内が言う。

 はは。
 何が『付け入る隙がなかった』だよ。
 ちゃんと対策立ててるじゃん。

 うん、脇ね。
 一度修正したつもりだけど、また昔の癖が出てるのかな。
 チェックしとこう。

 あれ、俺が修正したのって伊達さんとのスパーの後だよな?

 そっか。
 2月以降に試合をしてないから、分析するデータがなかったってのもあるのか。
 安川くんの棄権が、良いほうに働いたのかもしれないな。

 ……まあ、チェックはしておこう。




「……なるほどな。基本は後半勝負の予定だったのか」
「はい。ギャンブルだが、まともにやれば勝ち目はないぞと」

 ははは。
 俺知ってるよ、勝ち目って破壊力なんだよね。(白目)

 スタミナには自信があるつもりだが、確かに幕之内との試合はゴリゴリと精神が削られている自覚はあった。
 それはつまり、普段の練習に緊張感が足りないってことか……ふむ。

 しかし、後半勝負というと、まるで、ヴォルグのポジションだな。

 ん?

 そういえば、ヴォルグってどうなるんだろう?
 売り出し中の俺がフェザー級にいて、スポンサーの企画そのものも続いてるから……音羽会長が受け入れるって話にはならないとは思うが。

 原作の時代背景としては、グラスノチからソ連崩壊で、日本人の注目を集める要素はあった。
 そして、俺と違って、ヴォルグは世界アマ王者だ。
 格というか、看板の大きさが違う。
 あと、日本人は総じて外国人というか、欧米、スラブの人種に対して弱い部分がある。
 日本人男性の金髪コンプレックスを例に挙げるまでもない。

 うん、あらためて考えると、ヴォルグというボクサーの商品価値は高いな。
 音羽ジムじゃなくても、ほかのジムと契約するなんて事もありえるか。

 とすると……俺がヴォルグと戦うことがあるかもしれないと。

 ……少なくとも、今は勝ち目がないか。

 正直、ヴォルグも原作では割りを食ったポジションだ。
 日本に来て、ボクシングスタイルの改造中だったというだけでなく、慣れない生活で弱体化していたと考えれば、頷けなくもない、が。
 普通に考えると、世界王者クラスの実力者。
 まあ、原作でも世界王者になったしな……『サンキュー、アメリカ』とか、俺も言ってみたい。

 

 まずは決勝だ。
 そして、千堂だ。
 戦って、勝ってから考えよう。

 靴の紐は、いつの間にか結び目が緩んでいたりするものだからな。



 さて……宮田一郎対間柴了の試合か。
 幕之内に散々聞かされたから、しばらく宮田のことは考えたくない。

 なら、間柴か。

 原作のヒロイン、間柴久美の兄。
 両親が事故で死んだんだったっけか?
 まあ、俺なんか前世で自分が事故で死んでるけどな。(目逸らし)
 ボクサーとしては長身でリーチが長く、フリッカージャブの使い手。
 後の死刑執行人、だ。

 この試合、原作では宮田が圧倒し、追い込まれた間柴が宮田の足を踏んで逆転する。
 しかし、原作はすでにブレイクした。
 幕之内が俺に負けたこと……それが、宮田に何かしらの影響を与えるかもしれない。

「……速水さんは、どう予想しますか?」
「俺の予想は宮田だ」

 いや、うれしそうな顔するなよ。

「ただ、きれいなボクシングの試合で終わったら、の話だ」

 首をかしげる幕之内を立たせ、構えを取らせた。
 俺のことを色々教えてくれたお礼だと思って。

「幕之内くんは、俺の足の位置で距離を測ってただろう?」
「は、はい。なんで……」
「いや、目線でばればれだったからな……」

 苦笑しつつ、説明していく。
 距離のとり方、つぶし方、そして、相手の足を封じる手段。

「こうして肩を押し付け、片足に重心を集めると……どうだ?」
「動けません、ね」
「幕之内くんのパワーなら、パンチをガードさせて棒立ちにさせるのも可能だろう」
「さ、参考になります……」

 ああ、こういうところを見ると主人公なんだなと思う。
 素直というか天然というか、どこか、ほうっておけないところがある。

「じゃあ、次は……反則めいた技だ」

 踏み込みの足を、幕之内の前足のかかとに置いてやる。

「後ろに動けるか?べた足のインファイターと考えて、だが」
「……動けません。試合の最中にやられたら、戸惑うと思います」
「誰かに教えてもらったことはあるか?」
「ありません」

 幕之内の目を見て、言葉を続ける。

「左目の視界がふさがれて、死角からくるパンチは効いただろう?」
「え、まあ……はい」
「パンチが来るとわかってたら耐えられるパンチも、不意にもらったらダウンしてしまう……それと同じさ。知らないということは、怖いことなんだ。ならば、知るための努力をすべきだと俺は思う。それを使えというんじゃなく、対抗するために、だ」
「……わかる気がします」
「そして、間柴は、ボクシング以外の知識を持ってるし、勝つためならそれをやれる。危険な相手だと俺は思ってるよ」

 肩をすくめて、リングを見る。

「まあ、今日の俺たちはボクサーじゃなくて、観客だ。黙って見守るとしようぜ」
「はい!」









 結果だけ見れば、宮田の圧勝、か。

 序盤はおおむね原作どおりの展開だったといえる。
 フリッカージャブの連打。
 それに対応してからの、宮田の攻勢。

 カウンターで、ダウンを奪ったのも原作どおり。
 そこで一気に試合を決めにいかなかったのが、結果としては勝因だったのか。

 幕之内は気づいてなかったが、間柴が宮田の足を踏みにいった場面もあった。
 それをかわした瞬間は、思わず立ち上がりかけたが。

 間柴のパンチは当たらず、宮田のジャブだけが当たる。
 そして、苦し紛れの大振りのパンチにカウンター。
 絵に描いたような試合運びで、4Rに2度のダウンを奪って勝利した、か。


 もしかして、だが。
 幕之内に勝った俺に対して怒ってた?
 本当なら、ダウンした間柴に対して一気に決めに行く性格をしてるよね?

 なんとなく、俺と幕之内の試合を意識しての試合運びだった気がする。


 うん、まあ間柴と戦らずにすんだ。
 ならばよし。












 なのに、夢に出てくるのは幕之内(バージョン2)なんだよなあ。(震え声)





 12月。

 街が彩られていく時期。
 前世の記憶のせいか、微妙に地味というか、控えめに感じるが。
 デコレーションされた一般家庭もほとんど見かけない。

 しかし、宮田との決勝は12月の……クリスマスイブか。
 知人や職場の同僚に、チケットを配りづらい日程だな、おい。

 体調は問題ない。
 汗の出にくい季節だが、ウエイトも問題なし。

 そして、宮田対策というわけでもないのだが……。

「よう、久しぶりだな、速水」
「また、中途半端な時期にプロ転向しましたね、冴木さん」
「いやあ、一応オリンピック(バルセロナ)を目指してたが……こう、なんか違ったんだよなあ」

 ……出たよ。

 スピードスター、冴木卓麻。
 まあ、一種の、スリルジャンキーだ。
 俺のひとつ上だと大学3年生……だが、プロ転向ってことは、中退したんだろうな。
 ボクシング推薦で入学したはずだし。
 6回戦からキャリアスタートで、この前A級にあがったはずだ。

「ダウンを奪う1発と、ジャブの1発が同じ価値ってのはな……」
「ルールですけどね……それで、プロですか」
「ああ」

 冴木が破顔して、俺の肩を叩いた。

「いいな、プロは……こう、パンチの一発一発に、こもってるものを感じるよ。アマチュアの『当てる』じゃなくて、『殴る』『倒す』『ぶっ飛ばす』って感じの、人の心の原形質みたいな感情が伝わってくる」
「……それを、ギリギリで避けるのが最高って言うんだろ」
「そうさ……誰も俺をとらえることができない。それを証明する場所に、俺はプロのリングを選んだだけのことさ」

 冴木が、俺の拳をつかむ。

「今日は、ワクワクさせてくれよ……」
「ははは、俺は4回戦の選手ですよ、冴木さん。俺が胸を借りる立場です」
「ははは、面白い冗談だな、速水」

 冗談も何も……事実だし。(目逸らし)






 冴木の左が、俺の鼻先をかすめる。
 一種の挨拶だ。
 俺が左を返すと、冴木の口元に笑みが浮かんだ。

 示し合わせたように、左の差し合いが始まる。
 細かく動き続ける。
 打った後、同じ位置にはいない。

 冴木の、後ろで束ねた髪が踊る。
 なかなか絵になる光景だ。
 高校時代は丸坊主だったくせにな。

 相手の姿を見て打つのではなく、相手の動きを予想してパンチを放つ。
 あるいは、相手の動きを制限しておびき寄せる。

 フェイントの応酬。
 リーチは、俺のほうが短い。
 1センチ、2センチが遠く感じるやり取りだ。

 冴木の動きが良くなってくる。
 ギアがあがっていく。
 最初は拳ひとつ分あけて避けていたのが、半分になり、今は1~2センチ。

 冴木は、気分屋のところがある。
 スイッチが入るのに時間がかかるといってもいい。
 パンチのやり取り。
 そのスリルの中で、自分を盛り上げていく。

 たぶん、自分の神経をとぎすさませるために、『スリル』が必要なんだろう。
 真価を発揮するためには、プロのほうが向いていたのかもしれないな。

「いいぜ」

 冴木の言葉。
 それは、暖機運転終了のお知らせ。
 本当のスパーの始まり。

 冴木の左。
 俺の左。

 リングの中を、めまぐるしく動く。

 ハンドスピードは負けてない。
 しかし、フットワークは一歩譲る、か。
 速度負けするのは、少し新鮮な感覚だな。

 冴木が飛び込んでくる。
 ボディから顔面への切り返しが速い。
 ヘッドギアをかすめた。

 冴木はノーヘッドギア。
 打ってきていいとは言われているが、気は使う。

 冴木のステップの音は独特だ。
 キュ、キュという音ではなく、たんたんたんと、リングを蹴ると言うか、はじいている様な音がする。
 陸上の短距離選手のノリだな。
 それでいて、構えそのものは野球選手の守備に似ていて、俺としてはそれをどこか懐かしくも感じる。


 2Rめ。

 冴木の動きが、ますます冴える。
 動きが速くなったというより、反応がよくなった感じ。

 うん、宮田を想定したスパー相手としては上等。
 現状では、上等すぎたかもな。 

 ギアを上げた。
 左の差し合い。
 フェイントの応酬。

 冴木の踏み込みに合わせてボディ。
 退く動きに合わせて踏み込み、アッパーへつなげる。
 顔を上げてかわしたそこに、左。
 右手で外へはじかれる。

 ガードが開いた俺の顔に冴木の左。
 首をひねりながら右のクロスを返す。

 パンチの交錯。
 そして、距離をとる。

 周囲から、ため息のようなものが聞こえた。

 また動き出す。

 冴木の左。
 右。
 速い。
 しかし、素直。

 トップスピードの上はないのか。


 3Rめ。
 予定では、最後のR。

 そろそろいくか。

 パンチの緩急。
 タイミングの変化。
 ステップの緩急。
 リズムの変化。

 冴木の、気持ちの良いリズムを邪魔してやる。
 かと思えば、気持ちの良いリズムに戻してやる。

 かみ合っていた動きに乱れが出る。

 何かが崩れる。

 相手の力を8にも9にも見せて10の力で勝つのではなく、3や4に落とし込むやり方。
 勝負に限って言うなら。
 冴木はまだ、甘い。

 その甘さが、少し羨ましい。


 トン、と。

 威力はないが、俺の拳が冴木をとらえる。
 戸惑いの表情。
 避けたはずのパンチ。

 またひとつ。

 威力はない。
 ただ、当てるだけのパンチ。

 そこに普通のジャブ。
 踏み込んだ。
 左右のボディから、アッパー……を、アゴの手前で止めた。

 意地を張るでもなく、冴木が尻餅をつく。

「おい、なんだよ今のジャブ?」
「はは、別のジムの……それも同じ階級のボクサーに教えるはずないでしょ。見せてあげたのは、俺のサービスです」

 そう言って、片目をつぶっておく。

 まあ、種明かしをすれば、『フォームを崩した』だけの話。
 それでパンチの軌道をずらした、インチキっぽい、小手先の技だ。

 冴木も、宮田も、目がいい。
 反射速度もいい。
 でも、それは時として速すぎるときがある。

 一瞬の躊躇。
 余計な思考。
 それが命取りになるのが、ボクシングのリングだ。
 だからこそ、集中力の奪い合いが重要になってくる。

 それは疲労だったり、ダメージだったり、心理的な駆け引きだったりするわけだが。


 カウンターパンチャー相手には、いくつか対抗策がある。

 まずは、こちらのパンチを学習させないこと。
 イメージとしては、居合いだな。

 次は、間違って学習させること。
 1発1発、タイミングや角度を変えて打つ、とかだな
 俺がいつもやっていることだ。
 ただ、じっくりと分析されると、性格などの癖が出る。

 力の差で押しつぶすのは、脳筋の天才にお勧めだ。
 タイミングがわかっても、パンチが見えても、避けられない、間に合わない……まあ、先に相手の心が折れるかな。

 ほかにもあるが、試合が始まるまでは、色々と考えるだけはできるんだ。
 ただ、それが実行できるかどうかが問題なだけで。

 綿密に作戦を立てたところで、当日の体調が悪ければおしまいだ。
 あらゆる想定をしつつ、なおかつ、偏らない。
 もちろん、自分の能力が高ければ高いほど、選択の幅は広がり、能力が低ければ、選択は少なくなる。

 ただし、選択するということは、その分判断するまでのタイムロスが出る。
 できることがひとつだけで、何も考えずにそれだけを実行する……そんなタイプが、一瞬を争う競技ではすべてをひっくり返すことが少なくない。

 身体を鍛えるだけじゃなく、最速で最善の選択をし実行へと移す……そういう、思考のトレーニングも重要だ。
 まあ、俺のやっているナンバーシステムなんかが、それに該当するが。

 練習方法もそうだが、ほかにも色々と考えている。
 まだ、形にもならないもの。
 何かをつかみかけた気がするもの。
 考え続けることだ。

 いつかそれが力になると信じて。







 12月23日。

 ……実はひっそりと、俺の誕生日。
 これで20歳になった。

 今は関係ないけどな。
  
「宮田選手、速水選手、計量パスです」

 東日本新人王戦。
 それぞれ日程はばらばらだが、決勝に関してはすべての試合を同日に行う。
 なので、今日の前日軽量には、出場選手が勢ぞろいする。

 まあ、最も注目されているのはフェザー級だ。

 ほかの階級の選手への取材はほどほどに、俺、速水龍一と宮田一郎に、記者の興味が集中する。
 たぶん明日は、女性ファンも多いだろう。
 ただし、男性のアンチは確実に俺のほうが多い。

 お決まりの、握手の撮影に始まり、コメントを述べる。

「別に。特に言うことはないね」

 そうか、俺をピエロにしたいのか、宮田一郎。
 いや、確かにそういうところが女性ファンには支持されるかもしれないが……しれないが、なあ、もうちょっとさぁ。

 盛り上げようじゃないか。

 日本のボクシング人気の凋落について、一番わかりやすいのはファイトマネーの変遷だ。
 昭和40年代後半に、人気の某日本人ボクサーは1試合のファイトマネーで6千万~7千万もらったって逸話がある。
 それが、平成20年頃にタイトルを何度も防衛した某世界チャンピオンのファイトマネーが700万になってしまうのが前世における現実だ。
 人気の有無に左右されるとはいえ、40年の物価上昇分を考えたら、10分の1ではすまない。

 昭和50年代前半に、某プロ野球選手の年俸が最高で8000万ぐらいだったことを考えると、1流のプロ野球選手の年俸が、平成20年頃に400万とか500万になるぐらいの衝撃だ。
 その年俸だと、プロ野球選手にあこがれる少年は激減するだろう。

 キレイごとを否定はしないが、金はパワーだ。
 わかりやすい欲望。
 逆に言えば、金になると思えば……ボクシングに寄ってくる連中はいる。
 プロ野球にしても、多くの人間の努力とビジネス戦略によって、職業として成立させたわけだからな。

 でも、今は宮田にそれを頼むのは筋違いか。
 宮田は宮田で、幕之内を倒してここにいる俺に対して、複雑な思いがあるのだろう。
 何も言わないのではなく、何も言いたくないのかもしれない。

 まあ、記者連中はそんなことを知らないし、関係ないけどな。
 だからこうして、俺に期待する視線を向けている。

 俺は速水龍一で、プロのボクサーだ。
 その期待に応えるのがプロだろう。

 ビッグマウスの時間だ。



昭和40年代、ボクシングはマジでプロスポーツとしては花形だったようです。
身体ひとつで、その拳だけで成り上がられるという幻想は、多くの少年に夢を与えたんでしょうね。(ごく一部の選手に限ります)

アマチュアボクシングの採点基準も、色々変わったので、もういつの時代のどのルールだったのか覚えてません。(震え声)

(チラッ)明日も、更新予約を入れました。


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8:ただ、勝つために。

展開について、好みが分かれると思います。


『1Rで終わらせる!』
『1Rあれば十分でしょ?』

 俺の発言が〇〇スポーツと〇△スポーツで大きく取り上げられたぞ、やったぁ!

 ……言ってねえよ。
 そんなこと言ってねえよ。(震え声)

 ちなみに、俺の発言はこうだ。

『明日はクリスマスイブですね。試合数も多いし表彰式も控えてますから、できるだけ早く終わらせて、スケジュール進行に協力したいですね』

 こう、宮田への挑発を含めて、ウィットに富んだアメリカンな発言だろ?
 それがなんで、こんな安っぽい発言にされてしまうのか。
 文字数制限があることは百も承知だが……こう、なんというか……バカっぽい。
 それと、その片方が、俺のスポンサーであるテレビ局と関連性が深い新聞社であるところに、救いのなさを感じる。

 これは、スポンサーからのある種の釘刺しなんだろうな。
 アクシデントとはいえ、世間的には格下とされている幕之内にダウンさせられた俺への不満。

 俺は、人である前に速水龍一という名の商品。
 商品価値を下げるような真似は許されないし、状況の変化で価値が下がっても切られる。
 シビアな世界だ。


 ……前向きに考えるか。
 世界戦でもなく、たかだか東日本新人王決勝戦程度がスポーツ新聞の2面や3面に大きく記事になるなんてのはほぼありえない。
 12月という時期が良かったのもあるだろうが、少なくとも話題にはなっている。
 またアンチが増えるだろうが、金と手間をかけて試合を見に来てくれるなら立派なファンだ。

 ネットも、動画も、ツイッターもない時代だ。
 マスコミの力を借りずに、個人でどうこうするのは厳しい時代でもある。
 見てもらわなければ始まらない。
 何かを感じてもらわなければ始まらない。

 日本人好みの演出、か。
 

 意識を切り替える。
 覚悟を決めていく。
 ボクサー、速水龍一として。

 今日の試合は、幕之内とは別の意味で神経を使う試合になるだろう。

 圧力、プレッシャー、重圧、いろんな言葉がある。

 たとえば、幕之内のパンチをもらってはいけないという重圧はどこからくるのか?
 もちろん、その破壊力だ。
 一発で倒されるかもしれないという恐怖。
 防御に重点を置くという方法を俺はとったが、それは試合時間が長くなるというデメリットを生んだ。
 1秒でも早く試合を終わらせるというのも、ひとつの手段だ。
 攻撃に重点を置き、積極的に倒しにいく……ただし、反撃を食らう可能性が増える。

 どちらにせよ、幕之内の攻撃に対して『意識を振り分ける』必要が出てくる。

 注意しなければいけない何か。
 対応しなければ痛い目に合わされる何か。
 俺は、それが重圧の本質だと思っている。

 人間の集中力は、意識は、有限だ。
 どこかに集中すれば、ほかはおろそかになる。

 それはつまり、自分が相手に意識させられる長所を持っていれば、その分相手の集中力を奪えるということだ。

 俺が宮田から感じる脅威。
 そして、宮田が俺に感じている脅威。

 試合が始まる前から、集中力の奪い合いは始まっている。

 自分の強みと弱みを知る。
 相手の強みと弱みを知る。
 そのうえで、相手がどう動くか、どう動かざるを得ないかを考える。

 読みとか、戦略とか言うのは、それからの話だ。

 まあ、俺と宮田のスタイルは、わりと似ている。
 俺はファイターより、宮田はアウトボクサーよりのボクサーファイター。
 長所も短所も似ている気がする。

 だからこそ、神経を使わざるを得ない。
 裏をかくために。











「速水選手、準備をしてください」

 軽く、身体を動かしながら、歩いていく。

 原作をブレイクした後の、俺の道。
 速水龍一の道。

 体調は悪くない。
 ただ、幕之内戦が大きなピークだった。
 今日、大きなダメージをもらわずに試合を終えたら、千堂との試合の2月にまたピークを持ってこれるだろう。

 宮田はどうだろうか。
 まあ、考えても意味がない。
 リングに立ち、この目で見て、グローブを合わせるまでわからないことはいくらでもある。



 俺を応援する女性ファンがいる。
 宮田を応援する女性ファンがいる。

 今日は、クリスマスイブだ。
 ここに足を運んでくれた意味を重く受け止める。

 俺に罵声を浴びせる連中がいる。

 それでもいい。
 熱だ。
 ここには、熱がある。

 人の熱は、伝播する。
 熱気が、興奮が、新たな熱を生む。

 あるいは、焚き火のようなもの。
 その光に、熱に、誘われて人が集まる。

 リングへと向かう通路を歩きながら、拳をぐっと握り締める。

 音羽会長と相談し、覚悟は決めた。

 リングの上で手を上げた。

 歓声。
 ヤジ。
 あぁ、いいね。

 くるりと、円を描くようにステップを踏み、左右の連打を見せる。
 無意味なパフォーマンスと、笑わば笑え。

 今日、初めてボクシングを見る人に。
 今日、初めて後楽園ホールに足を運んでくれた人に。
 楽しかったと。
 面白かったと。
 感じた熱に、方向性を与えてやる必要がある。

 何が起こるかわからない。
 びっくり箱のような驚き。
 そして、物語のような……劇的な何か、を。

『ボクサーの考えることじゃないぜ』

 藤井さんの言葉を思い出す。
 それでも、だ。

 それを目指したのが、『速水龍一』という男だろう。

 パフォーマンスを終え、俺はまた観客に向かって手を上げる。
 大きくなった歓声とヤジ。
 それでいい。
 負けたらピエロ。
 俺は、それさえわかっていればいい。

 そして、宮田のやってくる方角に向けて、拳を突き出す。

 宮田が現れる。
 宮田が歩いてくる。

 ……うん、宮田にパフォーマンスは期待してなかったけどさ。

 ボクサーとは、孤独な人種だ。
 それを実感する。




 レフェリーの言葉。
 耳には入ってこない。
 俺をにらみつける、宮田の目。
 それだけが気になる。

 幕之内を倒したからか。
 約束の場所を、俺が奪ったからか。
 宮田だけじゃない。
 幕之内だけでもない。
 人は、誰もが約束の場所を持っていて、そこに向かって歩いていく。

 ボクシングの、スポーツの本質は、残酷さの中にある。
 誰かの大切なものを踏みにじって歩いていく。
 そんな世界だ。
 奪われる覚悟は必要だ。



「気負うな。そして、油断するな。それだけでいい」

 音羽会長に向かって、頷いておく。

 宮田と戦うためのプランは10種類以上考えていた。
 まあ、あの新聞のせいで半分以上ぶっつぶされたが。
 スポンサーは、俺を助けつつ、俺の選択を縛る存在でもある。
 俺も、それを利用させてもらう。


 セコンドアウトの合図。
 マウスピースの感触。

 そして。
 東日本新人王決勝の開始を告げるゴング。

 さて、いくか。




 きゅっきゅっと、俺と宮田のリズムを示す音だけが響く。

 俺の出した(ジャブ)に対し、返礼のように返ってくる(ジャブ)
 リーチは、宮田のほうが長い。

 宮田を見る。
 リングを回りながら。

 宮田の左。
 届かない距離。
 それでも、左を伸ばしてくる。

 俺の踏み込みに合わせて左。
 からの右。
 糸を引くような軌道。

 これが、幕之内があこがれたという、宮田のワン・ツーか。

 俺への威嚇だろう。
 あるいは、怒り。

 俺の左が空を切る。
 その引き手に合わせて、宮田の左が来る。
 それをはずして、俺もまた左。

 左の差し合い。
 そのまましばらく、宮田のリズムに合わせた。
 気分良く、進めてやる。



 お互いの存在をぶつけ合うような殴り合いがあり、お互いを出し抜こうとする心理戦がある。 
 ボクシングに限らず、スポーツ選手はいつだって『最高のギア』を温存しておくものだ。
 これ以上はないと見切られた瞬間、底が見えてしまう。

 その上限以上を警戒していた分の集中力を、ほかに回されてしまうからだ。

 リアルを争いながら、自分の姿を大きく見せる。
 相手に幻想を抱かせる。
 それもまた、ひとつの戦い。


 激しい左の差し合い。
 アウトボクサー同士の、息詰る主導権争いに見えるだろう。
 綺麗なボクシングだ。
 無駄のない動き。
 ある種の機能美。

 動きはめまぐるしい。
 気は抜けない。

 でも……そろそろか。

「ひとつ!」

 音羽会長から、『1分経過』の合図がとんだ。
 マウスピースを強く噛む。
 覚悟を決める。

 ひとつの変化。

 この試合、俺が初めて見せるメキシカンのジャブが、宮田の頬をかすめた。
 かすかに、宮田の表情が変わる。
 その瞬間。
 俺は、ガードを固めて突っ込んだ。

 ふたつめの変化。

 戸惑いの表情。
 それで、1Rからの勝負を予想してなかったことが知れた。
 切り替える余裕を与えない。

 変化と奇襲は、2度続けて意味が出る。
 どちらの情報を先に処理しようか、迷いが出るからだ。
 迷いは、そのままタイムラグに直結する。
 動揺すれば、その傷はさらに広がる。

 宮田のバックステップ。
 俺はそれを追いかける。
 突き放そうとする左。
 俺はそれをはじいて踏み込む。

 みっつめの変化。

 ここで、ギアを上げた。
 リズムを変える。
 そしてボディへ一撃。

 バックステップ。
 逃がさない。
 またボディへ。

 回ろうとする宮田。
 突き放そうとするジャブが雑になっている。
 追いかけていく。
 追い詰めていく。

 コーナーへ。


 宮田の動きが止まる。
 自分の位置を確かめるようなそぶり。

 コーナーを背負った宮田に、接近戦を挑む。
 宮田の長所を殺し、俺の長所を活かす場所。
 俺が決して幕之内に与えなかった場所。

 連打。
 細かく早く。
 リズムとタイミングを学ばせないための、フェイントと捨てパンチも混ぜる。
 ガードの上からも叩き、反撃を殺しながら、攻撃する。

 防御の上手さ、反応のよさは、幕之内のはるかに上。
 だが、俺の速さと技術も、幕之内のはるかに上。
 そして、本来攻撃のほうが防御よりも有利だ。
 見て避けるのでは遅い。
 攻撃を読みきって、ようやく渡り合える。
 かわせないパンチがでる。
 ダメージが入る。
 そして。

 宮田には幕之内の頑丈さがない。

 ボディからのアッパー。
 ぐらつく。
 倒れさせないために、アッパーで起こす。
 容赦はしない。
 俺のパンチも、タイミングも。
 学ばせる時間を与えないために。
 ここで、終わらせる。

 連打。
 宮田の腰が落ちる。
 それをまた、アッパーで立たせる。
 左右のフックに、宮田の身体が揺れる。
 しかし、宮田の目が生きている。
 またアッパーで……

 レフェリーが、俺と宮田との間に飛び込んできた。
 とめるな。
 まだ死んでない。

 俺の目の前で。

 宮田が座り込むように尻餅をついた。



 ニュートラルコーナーで、歓声と悲鳴を浴びながら、俺は宮田を見る。
 リングに拳を叩きつける宮田を見る。

 レフェリーがダウン宣言をするのが少し早かった。
 あと3発、いや、2発でよかった。

 ……仕方ない。
 もう一度だ。

 今の攻防で、俺のタイミングがつかまれた可能性はある。
 集中だ。

 残り時間を確認。
 ほぼ1分。


「ファイトッ!」

 合図と同時に襲い掛かる……と、見せかけて手前でいったん止まる。
 宮田の右が空を切る。
 その引き手にあわせて飛び込んだ。
 余裕はない。
 足もない。
 それが見えた。

 宮田の右を警戒して、左のガードは残しておく。
 そして、右の連打。
 宮田の足元がおぼつかない。
 それでも目が生きている。
 右に意識を向けて、左のアッパー。
 はね上がった顔面に右。

 俺の視界から、宮田の目が消えた。

 左右の連打で……。



 こつん、と。

 ガードを空けた俺のアゴを、宮田の右がこすっていった。



 ただ手を出しただけのパンチ。

 意識はある。
 痛みはない。

 幕之内とは別の種類の絶望。
 パンチを打つための、踏み込みができずにいる俺。

 宮田も、ローブを背にして立っているだけ。

 やってくれる。
 タイミング。
 そして、俺の意識が完全に攻撃に向かった瞬間。
 生粋のカウンターパンチャーというのは、こういうものか。


 時間にして1秒か2秒ほど。
 お互いが、回復を待つ奇妙なお見合い状態。
 その、終わりが来た。

 ……それまでのダメージの蓄積の差。

 この結果は、実力差じゃなくて戦略の差だ。
 次に戦る時は、こううまくはいかないだろう。

 踏み込む。
 宮田の目を見る。

 俺は、宮田への敬意を示すように、ワンツーで勝負を決めた。





 リングの上で、高々と拳を突き上げた。
 そして、リングを歩いてまわる。
 観客全員に、俺の顔が見えるように。

 歓声と拍手、そしていくつかの罵声。
 ははは、いつもの。

 でも、女性ファンの罵声は心に刺さるな。
 それに対して、俺の女性ファンが文句を……それはやめて。

 ぼろぼろの勝者というのも絵にはなるが、俺は、勝者らしく振舞う。
 胸を張る。
 看板は小さいが、王者らしい姿を。

 もう一度、拳を突き上げ、アピールした。


 というか、1Rで終わらせたの、アマチュアを通じても初めてなんだよな。
 それを知ってれば、『1Rで終わらせる』なんて言葉を使うはずがないんだ。
 せめて、選手のプロフィールぐらいは調べた上で、記事を書いて欲しいとは思うが……結局、これが今のこの国でのボクシングの扱いなんだろう。

 まあ、今回は特別だ。
 宮田という、カウンターパンチャー相手だからこそ、選ぶことのできた戦略。
 とりあえず、有言実行は果たした。


 リングを降りる。

 宮田には声をかけなかった。
 当然のことだが、宮田一郎は、幕之内一歩とは違う。
 勝った俺がどんな言葉をかけたとしても、与えるのは屈辱だけだろう。

 俺は、そう思う。



 歓声に向かって手を振りながら通路を歩いていく。

 新人王戦東日本代表。
 プロボクサーになってからの、初めての勲章だ。
 小さな小さな、勲章。

 俺が道を振り返ったとき。
 この勲章が、速水龍一の『はじめの一歩』であるように。

 顔を上げて、歩いていこう。
 






 次の階級の決勝が行われる。
 その裏で、東日本を制した俺へ記者が集まる。

「いやあ、宣言どおり、1RのKO。見事でしたね」

 ははは、〇〇スポーツの記者さんは何を言ってるのか。
 ……宣言してないからな。
 顔は笑顔でも、心は絶許だから。

「実力差じゃなくて、戦略の差ですよ。最初に1分使って、宮田くんのボクシングに付き合った。そこで、いきなりインファイトに切り替えて、戸惑っている間に、勝負を終わらせただけです」

 アゴをなでながら、言葉を続ける。

「最後の詰めの瞬間に、カウンターをもらいましたからね。ヒヤッとしました。宮田くんに余力が残っていたら、正直危なかったですよ」

 俺の言葉に頷くか、不満そうな表情を浮かべるかで、ボクシングへの理解度がわかる。
 ボクシングの専門誌の記者は当然前者で、スポーツ新聞の記者は後者が多い。
 結局、ほかのスポーツの話題がない時期(12月)だから、紙面の穴埋めに近い状態なんだろう。

「次は全日本ですね」
「ええ、西日本の千堂です」

 俺の言葉に首をひねる記者がいる。
 不勉強とは言うまい。
 世界戦以外は、さほど興味はもたれない。
 そして、世界戦のときだけ、付け焼刃の知識で記事を書くのも珍しくない。
 これが、現状だ。

 ちょうどいい機会だ、俺の口から千堂のことをプッシュしてやろう。

 なにわ拳闘会所属、千堂武士。
 全試合、派手なKO勝利。
 難波の虎と呼ばれる存在。
 浪速のロッキーと呼ばれる男。
 いや、ロッキーといっても、映画の方じゃなく、無敗のまま引退した伝説のボクサーの方じゃないと、千堂くんに失礼かな、などと持ち上げておく。

「絵になる男。物語になる存在だと聞いてます。油断できない相手でしょうね」

 藤井さんの言葉を借りて、締めておく。

 これで、少しでも興味を持ってくれたら万々歳。
 戦うのは俺だ。
 千堂の姿が大きく見えれば見えるほど、俺もまた大きく扱われる。
 それは、ボクシングの盛り上がりへとつながるかもしれない。

 ……まあ、負けたら俺がピエロになるのは変わらないが。


 しかし、原作と違って千堂が東京にやってくるイベントはないんだろうな。
 千堂から見て、俺というボクサーが『心ゆくまでどつき合いを楽しめる相手』ではないことは確かだし、怪我や都合で俺が棄権する予定もない。
 原作ブレイクの結果か。
 少し寂しいような気もする。

 あ。
 今思うと、幕之内とヒロインのフラグ折れてないか、この流れ。

 ……赤い糸で結ばれた二人なら、きっと出会うと思うんだ。
 うん、そういうことにしておこう。

 それに、俺の知らないところで、別のイベントが起きると思えば……それでいいか。
 何が起こるかわからない。
 それが世界の選択で、現実ってやつだろう。
 それでいいはずだ。



 すべての階級の試合が終わった。

 東日本新人王になった選手が集まり、リングの上で表彰を受ける。

 ん?
 ああ、全日本だけじゃなく、東日本でもMVPがあるんだったか。
 まあ、もらえるなら有難く。

 当然のような顔をして受け取り、女性ファンの声援に応えていたら、背後から舌打ちが聞こえた。
 ならば、女性ファンを増やす努力をしてるのかと、心の中でつぶやくだけにしておく。

 そして、選手全員で写真撮影。

 前世では、西日本代表は、西日本・中日本・西部日本各地区の勝者が争って決める(参加人数的な関係)ものになっていたが、この世界のこの時代は、西日本はひとつのブロックとして扱われているようだ。
 全日本の会場も、後楽園ホールと大阪府立体育会館を交互に使用していたが、いつからか後楽園ホールで統一されたし、その時期も12月になっていた。

 ただまあ、この世界の、この時代、俺たちは大阪へと乗り込むことになっている。
 今ここにいる東日本の代表の、何人が勝ち残れるだろうか。

 そして何よりも。
 千堂武士を相手に、俺は生き残ることができるだろうか。

 西日本の準決勝、そして決勝の映像を見る限りで言うなら、俺と戦ったときの幕之内よりも上だ。
 ただ、ボクシングそのものは荒い。
 でも、千堂の荒っぽさは、ある種の技術といえる荒っぽさだ。
 そしてタフだ。
 喧嘩の場数を踏んでいる分、痛みにも強い。

 正直、俺とは相性が悪い。
 また、集中力を削られる試合になるに違いない。



 祝勝会は後日ということにして、音羽会長と別れて後楽園ホールを後に……。

「速水さん!」

 どきりとする。
 幕之内。
 顔は穏やかだが……どうかな。

「よう、幕之内くん。今日は俺の……じゃなくて、宮田くんの応援か」
「あ、いえ……はい」

 幕之内を見て、言う。

「ずるい試合だっただろ?」
「……」
「宮田くんの場所ではなく、俺の場所で戦ったからな」

 苦い思い。
 原作の『速水龍一』の言う『相手の力を8にも9にも見せて10の力で勝つ』というやり方を実行できるほど、俺は自信家にはなれない。

 まずは勝つ。
 負けて悔いなしというのは幻想だ。
 勝たなければ始まらない。
 前世の経験。
 俺の、慎重さと臆病さが、原作の『速水龍一』をブレイクした。
 それでも、という思いはある。

「……以前、速水さんが教えてくれたことを会長に話したんです」

 教えた?
 何を……ああ、宮田と間柴の試合のときのことか。

「鴨川会長が言ってました……『ボクシングに対して真摯な男じゃな』と」

 真摯か……うん。
 そうか。
 少し、救われる。

「宮田君が負けたのは正直残念だったけど、僕はずるい試合だったとは思いません。フェイントや駆け引きだって、ボクシングですよね。僕は不器用なボクシングしかできませんが、速水さんはいろんなことができて、そのひとつを選んだらああいう試合になった……そういうことなんだと思います」

 前世の名前が速水龍一だったことで多少複雑な思いを抱きはしたが、『はじめの一歩』という作品そのものが好きだった。
 登場人物も好ましいと思う。
 今日、俺が殴り倒した宮田一郎だって好きなキャラだ。
 嫌いになれるわけがない。

 だからこそ。
 この世界で、実際に見て、感じて、そして生きて……俺は、速水龍一は、好ましいと思われるボクサーでありたい。
 俺という筆で、速水龍一という男を、この世界に描きたい。

 すべてではないにしても、そういう想いが少なからずある。
 口には出せない、俺だけの秘めた思いだ。

 勝ちにこだわる自分。
 それを正しいと思いながら、心のどこかで卑しく感じている。
 
 そんな俺には、まっすぐな『幕之内一歩』の言葉が……尊い。

 まいったな。
 泣いてしまいそうだ。

 俺はただ、笑ってそれをごまかした。


「次の全日本も、がんばってください」
「ああ。幕之内も、次は6回戦か。そろそろ復帰に向けて絞られ始めたか?」
「はい」

 ぐっと、拳を握って。

「宮田君との約束とは別に、速水さんの後を追いかけるつもりです。そして、今度こそ、アクシデント抜きにしてパンチを入れますから」

 ははは。
 おい、やめろ。
 夢に見そうな事を言うんじゃない。(震え声)

 でもまあ、今はこう、か。

「はは、待ってるぜ」

 軽く右手を上げて、俺は幕之内に背を向けた。
 そして、歩き出す。
 俺の背中を、幕之内がじっと見つめているような気がした。








 その夜、夢の中で俺はバージョン2の幕之内を退け、新しく現れたバージョン3の幕之内に思いっきりぶっ飛ばされた。

 よーし、これでまた、俺は強くなれるぞ。(白目)



この流れ、宮田の海外遠征とかどうなるんだろう。
そして、すっかり忘れていた一歩と久美ちゃんのフラグは。
青木さんとトミコは出会えるのか。

そう考えると、現実って、偶然の積み重ねでできているんだなと思います。


(チラッ)筆が走ったので、千堂戦と第一部のラストまで連続更新の予約を入れました。
11話で、第一部終了予定。


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9:破綻。

いつからかは忘れましたが、今は新人王決定戦は、全部後楽園ホールでやります。
あと、A級トーナメントはなくなりました。
最強後楽園と名前を変えて存続はしてますが、ランキング上位しか出場できません。
A級なら誰でも出場できるのは、物語としてはとても都合が良い存在だと思います。


 幕之内(バージョン3)は強いなあ。(白目)

 すかっとさわやかにぶっ飛ばされて、寝汗でじっとりした目覚めを味わう。
 これが、久しぶりに帰省した実家の、めでたいお正月の目覚めか。
 まあ、明日には東京へと帰る予定だが。

 両親と兄妹との団欒、そして初詣。
 久しぶりの休暇だ。

 夜は、高校時代の友人や知人と再会した。
 少し、いじられた。

 ……ははは、〇〇スポーツと〇△スポーツめ。
 友人知人のほうが、俺のことを良くわかってるよ。


 そして次の日。
 東京へと戻る俺を、両親が駅まで見送りに来てくれた。

 危険じゃないスポーツなんてものはないが、ボクシングの危険度が高いのは確かだ。
 親不孝といわれたなら、否定はできないだろう。

「元気でね」

 おそらくは、万感の想いがこめられた母親の言葉に、俺はただ笑顔で返す。
 どんな言葉も、嘘になってしまいそうだから。

 電車が動き出す。
 俺の、『速水龍一』の故郷を離れていく。
 俺が、ボクサーの『速水龍一』へと戻っていく。

 全日本新人王決定戦。
 フェザー級西日本代表の千堂武士との試合は2月だ。

 宮田との試合が終わってまだ10日ほどしか経っていないのに、おそらくはこれが最後の休暇になるだろう。
 俺は、速水龍一はボクサーだ。
 やるべきことは多い。

 去年の暮れには……いわゆる、ソ連崩壊が起こった。
 国家事業として支えられていた、スポーツエリートの流出現象が始まる。
 もちろん、それはスポーツに限ったことではなく……前世では、研究者なども含めた大きな社会的現象へとなったのだが。
 この世界ではどうなるのか。

 そして、日本に来るのか……ヴォルグ・ザンギエフ。

 車窓から見る景色が流れていくように、時もまた流れている。
 







 千堂武士。
 いまさらだが、危険な相手だ。
 音羽会長も、警戒している。

 もちろん、原作知識ではなく、西日本新人王戦における千堂の試合の映像を見ての感想だ。
 どちらかというと、豪腕という言葉は幕之内よりも千堂にふさわしいと俺は思う。
 幕之内は小柄なせいもあって、現状では超接近戦で連打でまとめてくるタイプだが、千堂は中距離で一発一発、相手に重圧を与えるタイプだ。
 ストレート系よりも、フック、そして原作ではスマッシュだったか。
 スイング系のパンチに頼っている。
 言葉は悪いが、暴力にボクシングの皮を一枚かぶせたような、まだまだ荒っぽい印象だ。
 もちろん、その荒っぽさがある意味で、技術になっていることも見逃せない。
 間合い。
 そして、手を出すタイミング。
 人を殴るということを良く知っているのがわかる。

 コンビネーションとはいえない。
 なのに、相手を追い詰めていく。
 空間を削るようにして、逃げ道をふさいで相手を押しつぶす……そういう試合運びは、技術だと認めるべきだ。

 幕之内に対しては、リーチと速さと技術の3つで対抗したが、千堂の場合『リーチ』の有利が失われ、速さと技術の2つで対抗しなければいけない。

 まあ、動きそのものは直線的だから……リングを丸く使い、速さを活かして判定勝ちするのが理想か。
 その場合は、俺の技術が問われる試合になるだろう。
 言葉にするのは簡単だが、実際にリングに上がって感じる千堂の圧力を、最後まで受け流せるかどうか。
 こればっかりは、映像ではわからないものだ。

 それと、判定狙いは……どこかで他人任せになる。
 大阪開催。
 そして、千堂の地元。
 人の印象は、たやすく環境に左右される。

 まあ、考える時間はまだある。





 千堂戦に向けての情報分析、いくつかの作戦を立て、練習プランを組んだところで横槍が入ってきた。
 天下無敵の、スポンサー様の要求だ。

 一言でまとめると『派手なKO勝利で決めてね』って。

 千堂を相手に、インファイトか。
 できなくはない。
『今』の千堂ならば、まだいけなくもない。
 ただ、やり切れる確率というか、勝利の可能性はさがる。

 そして、俺が戦うのは『今』という過去の試合の千堂ではなく『未来』の、当日の千堂だ。

 ボクシングを始めて日が浅い……急激に伸びる時期の、未来の千堂。
 おそらく、さらに可能性はさがる。


 あと、俺も音羽会長も失念していたのだが、ある問題が表面化した。
 千堂に勝って新人王を獲ると、俺はフェザー級のランキング10位が与えられる。

 ちなみに、このランキングというのは強さの順位ってわけじゃない。
 完全に無関係というわけじゃないが、このランキングというのは『日本王者に挑戦する優先順位』という意味合いのランキングだ。
 ようするに、新人王を獲ると、王者に挑戦する行列の10番目に並ぶ権利を得るってことだ。
 日本のフェザー級で10番目に強いと認定されたわけじゃないってことね。
 もちろん、その行列に並んでいなければ、王者に挑戦することはできない。

 少し話がそれたが、ここで俺がプロ入りしてからの成績を振り返ってみよう。
 デビューから4戦4勝4KO。
 千堂に勝つと、5戦5勝になる。

 4回戦、C級ライセンスを持つボクサーが4勝すると、6回戦のB級ライセンスの試合に出場することができるようになる。
 そして、6回戦で2勝すると、8回戦、A級ライセンスの試合に出場を許される。
 日本王者に挑戦する試合は当然8回戦のA級ライセンスが必要で、8回戦で1勝しないと、タイトルマッチの10回戦には出られない。

 つまり、日本ランキング10位に入っても、8回戦の試合に出場できないんだな、これが。
 ははは、新人王トーナメントで棄権しやがった安川くん、ナイスアシスト。

 幕之内戦では、最新の情報を与えないという意味で良い方に転んだが、今度はそれが悪いほうに転んだわけだ。

 というわけで、『俺が千堂に勝つと仮定』した上で、音羽会長は『6回戦ボクサーの俺の対戦相手を探さなきゃいけない』状況にある。
 そう、対戦相手を探さなきゃいけない。

 ……うん、いつもの。(遠い目)

 今になって思うけど、原作の主要キャラって、良く対戦相手が見つかるよなあ。
 
 音羽会長が、うめく様につぶやく。

「また、海外から呼ぶしかなさそうなんだが……予定とか、スケジュールとか、無茶苦茶だぞおい。どうすんだ、これ……」

 2月に千堂。
 そして、できれば3月、遅くても4月に1試合戦って、8回戦に。
 秋には伊達英二の世界再挑戦のプランが表面化する予定だから、王者返上からの、ランキング1位と2位の王者決定戦が冬には行われるというタイムスケジュール。
 そこに入り込むには、ランキングを上げるためのA級賞金トーナメントに参加して優勝するしかないんだが……。

 順番に並べるとこう。

 11月に幕之内。
 12月に宮田。
 2月に千堂と。
 3~4月に海外から呼ぶ誰か。
 そして、A級トーナメントはたぶん3試合ぐらいを、夏から秋にかけて。
 そのまま、返上された日本王者決定戦を、12~1月ぐらいか。

 幕之内から始まって、約1年で8試合のマラソンスケジュール。
 でも、これがスポンサーの想定する、スケジュールだ。
 そりゃあ、勝ちさえすれば、ルール上は2週間後には試合を組むことはできる。
 あくまでも、可能というだけだ。

 幕之内との試合でダウンした俺は、2週間ほどロードワークすら禁止され、安静にしていたことを考えて欲しい。

 つまり、王者決定戦以外の7試合を、『次の試合をすぐできるように』大きなダメージを受けることなく、疲労も残さず、勝利する必要があるわけだ。
 そしてその間、回復期間も、減量期間も、ほとんどなし。

 まあ、本当かうそかはともかく、前世において有名な言葉がこれだ。

『プロ野球選手は、毎日試合やってるじゃん。なんで、それがプロボクシングでできないの?』

 素人は……スポーツの素人は恐ろしい。
 その素人が、周囲を振り回す……。

 まあ、いまさらだ。

 というか。
 八つ当たりかもしれないが、全部安川くんが悪いと言うことにしておこう。

 新人王が始まる前に、もう1試合やっておくんだったというのは後の祭りだが、『1回戦シード』に『2回戦の相手が棄権』なんてピンポイント攻撃を予想するのは無理がある。
 参加人数の少ない重量級でもなければ、普通は2勝したボクサーが新人王を獲ったらそのまま8回戦の資格を得られるものなのよ。
 だからこそ、新人王戦は、『A級への最短距離』と呼ばれている。
 短期間で、対戦相手を探す手間もなく、ただ勝ち続ければいいという……強さに自信のある選手には、夢の快速切符ともいえる存在。

 ひとつ予定が狂うと、すべてが狂うとは……よくできた言葉だ。

 というわけで、俺と音羽会長は、会長室で2人して頭を抱えていたりする。

 うん。
 スポンサーの存在がありがたいだけじゃないってわかってくれるだろうか。

 もちろん、スポンサーの意向はわかる。
 倒して勝つというのは、一番わかりやすいし見た目も派手だから一般には受ける。
 玄人好みのボクシングをする選手は、一般受けが悪いというか、視聴率が取れない。
 視聴率が取れないということは、番組のスポンサーが集まらないということで……金にならない。
 俺が選ばれたのは、『倒せるボクサー』だったからだ。
 これはあくまでも最低条件。
 その条件から外れるのなら、俺を選び続ける理由はない。
 音羽ジムからもらった契約金だって、もともとはテレビ局から出た金だ。

 つまるところはスポンサーからのテスト。
 ここまではっきりと要求してくるってことは、視聴率の取れる、一般受けするボクサーとしての能力を示してくれという重要な試金石だと思う。

 しかし、あの千堂を相手に、インファイトで、無傷で、派手に倒して勝てと。
 そして、それはその後のマラソンスケジュールへの第一歩、か。

 俺も、会長も、しばらく黙り込んでいた。
 ボクサーだからこそ、ボクシングにかかわっているからこそ、これが無茶なことがわかってしまう。
 でも、会長の口からは……立場的には言えない言葉がある。
 それでも黙っているってことは、俺への配慮なんだろう。
 俺から、切り出すしかない。

 スポンサーに逆らってでも、勝つことを優先。

 どうせ、負けたら切られるんだし……所詮は利用しあう関係にすぎないんだ。
 宮田のときとは条件が違う。
 利害が対立したなら……仕方ない。

 俺は、静かに覚悟を決めた。
 スポンサーを失う覚悟。
 そして、もしかすると、音羽会長との関係が悪化するかもしれない覚悟を。

「会長。千堂に勝つことを優先しましょう」

 会長を見る。
 そして、会長も俺を見る。

「その意味を……いや、理解はしてるよな、お前なら」

 会長がため息をついた。

「一応、春に海外から呼ぶ準備だけはしておく……が、覚悟はしておけ」
「はい」

 スポンサーを失えば、世界への道は、苦難の道だ。
 極論だが、海外から対戦相手を呼べなかったら、俺はデビューすらできなかったことになる。

 世界を狙うには、現状では俺はまだ力不足だ。
 力をつけるための時間。
 それを与えられたと思おう。

 今までが恵まれすぎていた……そういうことだ。

 俺の、速水龍一のボクサー人生の難易度変更の時間がやってきたということだ。












 来ちゃった。(白目)

「速水、お前はつまらんボクシングをするが、なかなかわかっとる男や」

 などと、上機嫌で俺の背中をバンバンたたくのは、浪速の虎、千堂武士だ。
 ディスられているように思うかもしれないが、千堂にとっては心からのほめ言葉。
 そして、千堂がなぜここにいるかと言うと、先日発売された月刊ボクシングファンの俺のコメントが発端だ。

『浪速のロッキー。いや、ロッキーといっても、映画の方じゃなく、無敗のまま引退した伝説のボクサーの方じゃないと、千堂くんに失礼かな』

 あの発言が、心の琴線に触れたらしい。
 前世でわりとこの手のタイプとの付き合いが多かったので慣れてはいるが、それだけで新幹線に乗って大阪から東京までやってきちゃったか。

 若いなぁ。

 しかし、これが千堂か。
 生の千堂。

 ……俺にいい考えがある。

 千堂を、幕之内に会わせてやろう。
 上手くいけば、2人にスパーさせられるかもしれない。
 試合まで1ヶ月以上ある、大丈夫だ。
 というか、俺が見たい。
 いろんな意味で、見てみたい。

「千堂くん。君と真正面からどつきあいできるボクサーに心当たりがあるんだけど、会いたくないかい?」
「なんやて!?」

 フィッシュ。

 ……若いなぁ。(ゲス顔)

 まあ、一応鴨川ジムにはアポを取ってから、と。
 千堂のトレーナーには……連絡先知らないし、千堂自身が対応することだよね。






 幕之内一歩対千堂武士。

 スパーとはいえ、原作を知る俺としては金を払ってでも見たいカードだ。
 原作の新人王決定戦は幻となってしまったが、日本タイトルマッチの目はまだまだある2人の組み合わせ。
 問題は、鴨川会長がうんと頷くかどうかだったが、幕之内の復帰戦に向けて、千堂とのスパーは悪くないと判断したらしい。
 あるいは、東日本代表である俺への援護か。

 それにしても……。

「強い……が、荒いな」

 鴨川会長の言葉に頷く。

「ええ、迫力はありますが……でも、なかなか骨が折れそうです」

 ちなみに、千堂の所属するなにわ拳闘会には、鴨川会長が連絡を取ってくれた。
 このあたりは、大人の、指導者としての常識なのだろう。
 相手の了解もとれたから、何の問題もない。

 ただ、俺が、速水龍一がその場にいるかどうかを、告げたかは知らないが。


 連打の幕之内。
 豪腕の千堂。
 懐に入ろうとする幕之内を、千堂が強引に振り払おうとする。
 迫力ある攻防が続く。

「こいつは、ラッキーだったな」

 そして、なぜかちゃっかりといる藤井さん。
 まあ、鴨川ジムには幕之内だけじゃなく、『あの人』もいるし、取材として足を運びやすいのだろう。

 リング外とは別に、リングの中の攻防は激しさを増していく。

 幕之内の上体が、ガードごと後方へはじかれる。
 そこから立て直して、千堂の追撃のパンチをかいくぐり、左のボディを放つ。
 それを、千堂が強いパンチで突き放す。

 ヘッドギアあり、そして16オンスの大きなグローブとはいえ、激しいやり取りだ。
 なかなか燃える。
 
「幕之内くんは、防御から攻撃が、ずいぶんスムーズになりましたね」
「貴様との試合で、良い意味で思い知ったからの……復帰戦に向けて、練習にも気合が入っとるわ」

 上体をゆすり、幕之内がすぱっと飛び込んだ。
 リバーブローから、アッパー。

 藤井さんが、小さく口笛を吹く。

「今の幕之内なら、速水君も苦戦するんじゃないか?」
「あの時も、決して楽な試合ではなかったですよ」

 千堂のスマッシュ。

 ガードした幕之内の身体が浮きかける。
 それほどの威力か。
 あれも、上下の打ち分けと同じで、注意していないと意識の外から来るパンチだ。
 いきなり打ってくるならカウンターの餌食だが、それを使うべきタイミングを千堂が間違えるとは思えないな。

 それと、気合のノリで千堂はタイミングも威力も変わるな、気をつけないと。


 たった2R、わずか6分間。
 しかし、熱のこもったスパー。
 いやあ、二重の意味で、いいもの見せてもらった。
 生で見れて、色々参考にもなったし。
 帰りの新幹線代を出してあげてもいいと思うぐらいに、俺はウキウキだったのだが。

「おい、小者」

 首根っこをつかまれた。
 もちろん、鴨川ジムの『あの人』だ。

「新人王で戦う相手だけにスパーさせて帰ろうってのか?」

 あ。
 夢よりもハードな相手だ、これ。

 立場こそ日本ミドル級王者にすぎないが、明らかに別格。
 デビューから全試合、1RKO勝利。

 いや、一度試合を見たが、あれは試合とはいえなかった。
 勝負じゃなく、蹂躙。

 鴨川会長に視線を向けた。

「せっかくの機会じゃ……速水よ、少し勉強していけ」

 わあ、善意で言ってくれてるのがわかる。
 本気で、俺に勉強させてあげようと思ってる顔だ、これ。

 青木さんや木村さんはいませんか?(震え声)








 いや、落ち着け。
 ある意味で……世界レベルを味わえるチャンスか。

 伊達英二は、まだ全盛期の姿を取り戻してはいない……ならば、世界を味わえる、その片鱗に触れるめったにないチャンス、か。
 ヘッドギア。
 そして、16オンスのグローブだ。
 やるべきだ。
 試してみたいこともあるしな。



 集中。
 呼吸を整える。
 それでいてなお、心拍数が高い。

「鷹村よ、わかっとるな」
「わかってるよ、ジジイ。小者相手に、本気なんか出すかよ」


「ヘッドギアはいいんですか?」
「小者のパンチなんざ、間違って当たっても知れてる。気にするな」

 ……当たる可能性が0とは言わないか。
 言葉のあやかもしれないが、評価されてると思おう。


 開始の合図。

 
 でかい、な。
 身長差は、20センチ近い。
 いや、的が大きいと思え。

 呼吸。

 左を飛ばす。
 千堂に見られていてもかまわない。

 連打。
 かわされる。
 16オンスの重さがわずらわしい。
 拳と手首の角度を、無意味にする大きさ。

 と、いうか……その緩々の雰囲気が、な。

 予備動作。
 視線。
 肩。
 フェイント。

 息を吸う。

 左のジャブ。
 そして。
 左手で、ポンと自分の左の太ももを叩いた。

 その動きを追った顔面に、右を叩き込む。

「……っ」

 じろりと、見られた。

 来るぞ。

 日本人ボクサー最高のプレッシャー。
 











「だ、大丈夫ですか、速水さん!?」

 ふ、ふふ……見たか。
 見てくれたか、幕之内。
 あの鷹村に、2発、パンチを入れたぞ、俺は……。
 1発目は不意打ちだが、2発目は、マジだ……たぶん、きっと。

「ちっ……小者のくせにいい度胸してやがるから、ついムキになっちまった」
「そのわりには、3分近く逃げられたな」
「逃げ足の速さと、防御のうまさは認めてやるが……しょせんは小者よ。その小者にぼろ負けした一歩は、小者以下ってな。わははははっ」
「この、バカタレが!」

 顔を上げられない状態だが、たぶん、鴨川会長がステッキを振り回しているんだろう。
 
 しかし、もらったパンチは全部ボディか。
 顔面へは、威嚇とフェイントがほとんど。
 傍若無人ではあるが、ちゃんと考えてるんだよなあ。

 ……程よく手を抜かれてるということでもあるが。

 あれが、世界か。
 遠い、な。








 その夜、俺は珍しく夢を見なかった。
 たぶん、幕之内(バージョン3)が気を利かせて休ませてくれたんだと思う。

 なお、千堂の帰りの新幹線代は、俺が立て替えた。
 まあ、これでも働いてるし。








 2月下旬。

 俺は大阪へ。
 音羽会長の人脈だろうが、大阪のボクシングジムにお邪魔した。
 調子はいい。
 試合当日にきちんとピークを持っていけそうだ。
 2階級上のボクサーを相手に、接近戦と、中距離戦と、遠距離戦のすべてを試す。

「よーし、いい調子だなぁ、速水」

 音羽会長は大阪に来たついでに色々とあいさつ回りをするらしく、これはトレーナーの村山さん。

「ええ、いい感じです」

 そして、スパーの相手をしてくれた相手に、頭を下げて礼を言っておく。
 だって、ライト級の日本ランカーなんだもん、この人。
 礼儀として、ね。

「俺も関西の人間として速水(お前)を応援はでけへんが、千堂は強いで。西日本のバリバリのエースや」
「知ってます。というか、千堂くん、この前東京に来ましたからね」
「マジか?何をしてんねん、千堂のやつ……」

 などと、敵地であることを感じさせない雰囲気で調整も終了。




 前日計量。
 千堂との再会。

 そして、記者が俺たちに集中した。

「殴り倒して、ワイが勝つ」
「千堂くん、まずはこの前立て替えた新幹線代を返してくれよ」
「おう、MVPの賞金で返すわ」
「そいつは困ったな。返してもらえないじゃないか」

 友人同士のような、和やかな会話に、記者たちが戸惑う。
 それでも、ピリピリと肌を刺す何か。

 握手。
 千堂の手。
 幕之内とは別の、力強さを感じる手。

 明日は、この拳と殴りあい、か。
 いや、俺が一方的に殴るだけだ。
 殴り合いはごめんだな。

 気がつくと、千堂が俺を見ていた。
 さっきまでの目じゃない。
 敵を見る目。
 戦う相手を見る目。

 軽い笑みを返すと、つまらなさそうに、目を背けられた。

 気は合うが、どこかかみ合わない。
 明日の試合も、きっとそんな感じになる。






 大阪府立体育会館。
 確か、6000人ほど収容できると聞いた記憶がある。
 もちろん、会場のセッティングによって違うんだろうが。

 広い。
 後楽園ホールとは違う。
 ここも、観客ではなく、ボクサーとしてみるとぜんぜん違うな。
 いつの間にか後楽園ホールを基準に考えている自分に気づく。

 千堂が現れた瞬間、会場の雰囲気が変わった。
 大歓声。
 熱気。
 興奮。

 当然、千堂と戦う俺には罵声だ。
 敵地であることを強く意識する。 

 東日本の選手は、この雰囲気に飲まれやすいらしい。
 大阪で開催したときの、東日本代表の勝率は低いとされている。
 まあ、後楽園ホールでは逆なんだろうが。

 前世の経験から言えば、関西某所の競艇場に通えば、この程度の罵声は軽く流せるようになる。

 それに、実際に戦うのは観客の罵声じゃなくて、千堂だしな。
 恐れるべき相手。
 試合前だというのに、雰囲気が別物だ。
 それでいて、どこか不機嫌そうな雰囲気。

 幕之内とスパーしたから、俺が相手だと余計に不満なのかもな。

 まあ、心ゆくまでどつきあいなんてのは、俺はごめんだ。
 映画で見る用心棒のように、交互に殴り合ってどちらが強いか競い合うなんて行為にロマンを感じないとはいわないが。




 リング中央。
 レフェリーの声。
 千堂の殺気。
 俺はそれを笑って受け流す。

 千堂の気配を、どこか懐かしく感じる俺がいる。

 前世の、上の兄とその友人たち。
 彼らの放つ気配に良く似ている。
 もちろん、性格はひとりひとり違うが。

 普段は気のいい(あん)ちゃんなのに、わりと暴力へのハードルが低い。
 そして大怪我はしないように、骨折程度でおさめる知識と技術。
 感情の乱高下に隠れる、天然の計算高さ。
 挙句の果てに、『昔はやんちゃしてた』などと一言ですませる。

 ろくでもないように聞こえるが、ルールが少し違うというだけだ。
 その違いを理解すれば、言葉通りの、気のいい兄ちゃんにすぎない。

 まあ、嫌いじゃなかった。
 付き合うのが疲れるってだけで。


 もう一度、千堂を見た。

 ……いろんな意味で、タフな試合になるだろうな。
 





 コーナーへ戻り、息を吐く。

 幕之内戦とは違う、別の覚悟。
 そして集中。

 ボクシングだけにとらわれると、罠にはまる。


 さあ、ゴングだ。



速水龍一対鷹村守……夢のカード。

千堂のキャラが、ちょっと不自然かな。
鴨川ジムを訪ねる口実に使った分、不自然さが表面化したのだと思います。
知人のイメージに引っ張られているわけではないと思いたい。


某テレビドラマで、不良がバイクで校舎内を走り回るシーンを見て『現実感がない』と知人がゲラゲラ笑ってましたが。

……リアルなんだよなあ、あれ。(震え声)


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10:熱戦の果てに。

ちょっと実験。
この書き方で、試合の描写が延々と続くと、読むのが厳しい気がします。

あと、新人戦の今のルールでは4勝以上している選手同士の地区決勝、全日本は5R(5回戦)扱いになりますが、この頃は6回戦扱いでやってた……記憶がある。


 リング中央で、グローブを合わせる。

 千堂と相対して、実感する。
 攻撃的な構えだな、と。
 ガードではなく、パンチを打ちやすい位置にグローブを置いている。
 そして、身体の向きは、フラットに近い。

 ビデオと、幕之内とのスパーで見た感じだと、無駄な動きはせず、届く距離で手を出す。
 倒せる位置、タイミングで牙を向いて飛び掛ってくる。
 荒々しい暴力に、ボクシングの皮を一枚かぶせたイメージだ。

 正直なところ、俺としてはやりにくい相手だ。
 俺のボクシングの経験が、大きく殺されるから。
 理詰めの、理の部分で何かが狂う気がする。

 相性の悪さはお互い様と言いたいが、逆に千堂はボクサーとの対戦にはなれているだろう。


 のそりのそりと近づいてくる千堂。
 眠りから覚めた獣を思わせる。
 いや、それは原作のイメージか。

 それを、細かく動きながら待ち構える俺。

 足。
 距離。
 目。
 見えないラインを越えた。

 左で、千堂の顔をはねあげた。
 速い右で追撃。
 右へ回って、反応を見る。

 ゆっくりとした動きで、千堂が俺を見る。

 ボケてもツッコんでくれない会話のようだ。

 左。
 もうひとつ左。
 右の追撃。

 千堂の踏み込み足。

 即座にとび退いた。

 千堂の右フックのスイングが、俺の身体をかすめたような気がした。
 錯覚だ。
 千堂の殺気が、俺の距離感を狂わせている。
 しかし、ジャブもなしに右フックか。

 千堂が俺を見る。
 俺を見ている。
 どこか不機嫌そうな表情。

 野球少年が、文学少年に向かって『野球で勝負しようぜ!』って言ってるようなもんだろう、それは。

 そういうのは、幕之内とやってくれ。
 あるいは、島袋と。

 左。
 また左。
 動きながら、ジャブを打ち続ける。

 俺も見る。

 千堂を見る。
 距離を。
 癖を。
 傾向を。

 とはいえ。
 宮田の言葉じゃないが、『逃げてばかりでは勝てない』だったか。

 どこかで、勝負には出る。
 前へ出る。
 そのタイミングを。
 俺は待つ。

 豪腕。
 千堂が痺れを切らしたように、振り回してきた。

 左。
 右。
 カウンター気味に返す。

 そのまま突っ込んでくる。

 一度フェイントを入れてから、右へと回った。
 リング中央で、千堂を見る。
 のそりと、こちらを振り返る千堂。

 大歓声。
 そして、大罵声。

 人気者だな、千堂。
 豪快で、人を魅了するボクシングか。

 少し、妬ける。


 迫力はある。
 だが、荒い。
 気合のノリが悪いのか、調子が悪そうにも見える。

 セコンドの叫び声。
 聞き取れない。

 打つ。
 千堂の顔を打っていく。
 まだ様子見の段階だ。

 どこかで、いきなりギアがはね上がる。
 そういう人種だ。
 感情に左右される、爆発力。

 残り10秒の合図。

 来た。
 右へ回ってかわす。
 ジャブを返す。
 返事は大きなスイング。

 この荒さになれるとまずい。
 ギアがはね上がったときに、食われる。
 天然の、ペースチェンジ。

 ゴングが鳴る。

 コーナーへ戻りながら、背中に千堂の視線を感じていた。




「気分屋だとわかってはいたが、ひどいな」

 呆れたように、音羽会長がつぶやく。

「俺が相手じゃ、気分が乗らないんでしょうね」
「本気で、気分の問題なのかよ……」
「でも……無理でしょうね」
「何がだ?」
「千堂みたいなタイプは、負けるのが死ぬほど嫌いなんですよ……どこかで突然、爆発的にギアを上げてきます」


 2R。

 千堂の手数が減った。
 俺をじっと見つめ、じりじりと距離をつめてくる。
 うん、そのほうがやりにくい。

 だから、リスクをとって手を出させる。

 ひょいっと。
 ガードを下げた。
 手招き。

 いきなりの右。

 その大振りに合わせて。
 丁寧に。
 速いパンチを合わせてやる。

 全部で5発。
 それでようやく、わずかに千堂が退く。
 いや、自分から距離を開けた、か。
 怒りが冷めている。
 あるいは、怒ったまま冷静に。

 ガードを下げ、俺にも聞こえるように大きく息を吐く。

 俺は、拳を握り締めた。

 くる。

 この試合初の、千堂のジャブ。
 そして右ストレート。

 スイング系からの変化。
 それをわかっていながら、戸惑う。
 左も、右も。
 まっすぐ俺の顔を狙ってくる。

 右。
 また右。
 もうひとつ右。

 違和感。

 ガードを固めた瞬間、スマッシュの衝撃が来た。

 死角から飛んで来るだけじゃなく、過程が上手い。
 しかも、ストレートの連発からの、スイング系パンチだ。
 たぶん、計算じゃなくて、天然でやってる。

 人を殴るための才能か。

 追い込まれる。
 ガードしたせいで足を止めてしまった。
 ストレートと、スイング系のパンチ。
 直線と曲線で、空間を削ってくる。

 逃げ道。
 あるが、そこが誘いだろう。
 そんな甘い相手じゃない。

 なら、前へ。

 千堂の顔面に、いきなり右をたたきつけた。
 別の意味で意表をつけたらしい。
 千堂がたじろぎ、俺は一息つく。

 何故笑う。
 その『やればできるやないか』って目はやめろ。

 うれしそうに振り回してきたパンチにカウンターをいれ、俺は千堂と位置を入れ替えるように距離をとった。

 大歓声。
 千堂への歓声とわかっていても、気分が高揚する。

 襲い掛かってくる千堂。
 1Rとは別人。
 速さも、キレも、威力も。

 右。
 左。

 ガードを通して伝わる衝撃。

 意識を防御にシフト。
 観察のやり直し。
 呼吸を。
 足を。
 タイミングを。

 ……バラバラのように見える。
 それでも、わかることはある。

 パンチが上に集まる。
 集めてくる。

 微かに退き、上体を反らす。
 スマッシュをやり過ごし、右を叩き込む。
 そして左のアッパー。

 お返しにボディをもらった。
 それを右で突き放す。

 ……きついな。

 なめていたつもりはなかったが、厳しい。

 気分良く打たせるとまずい。
 ガードじゃなく空振りだ。
 そこからだ。

 残り10秒の合図。

 考えることは同じか。
 俺と千堂、同時に距離をつめた。

 千堂の右をかわして、右。
 踏み込んでアッパー。
 ボディを返される。
 左のアッパーで返し、右で突き放す。

 ようやく離れた。

 ゴングが鳴る。

 千堂が俺を見る。
 俺も、千堂を見る。

 時間にして、2、3秒。

 同時に背を向け、コーナーへと戻った。



「この歓声と、敵地だ。判定を狙うなら、そのつもりでな」
「あれ?倒してこいと言わないんですか、会長」
「……正直、少しなめていた」

 いつもと逆の反応だ。
 それが少し楽しい。

「会長。俺は伝説を作る男ですよ」
「はは、そうだったな」

 ぱしんと、背中を叩かれた。

 さあ、3Rだ。


 開始早々コーナーへと走る。
 振り払うようなパンチをかいくぐって、ボディへ。
 千堂の距離ではない、接近戦。

 まるで、幕之内のように。
 それを苦笑したくなる。

 もうひとつボディ。
 丁寧に。
 千堂の腹を叩いていく。

 ボディの防御が甘い。
 むしろ、無頓着なのではと思える部分。
 攻撃力が突出した選手にありがちな防御の甘さ。
 まあ、今だけの甘さになるんだろうが。

 踏み込みと同時に千堂の脇が開く。
 とん、とグローブで手首を下へはじいてやった。
 逆の手で腹を突き上げる。
 そこからアッパーへ。
 そして距離をとる。

 接近戦から千堂の距離へと戻る。
 気持ちよくパンチが打てる距離。
 だからこそ反射的に出るパンチ。
 それをかわして、またボディをうつ。
 内側から、そして下から。

 反撃のタイミングを、ある程度コントロールする。
 接近戦と中距離の繰り返し。
 それが、俺と会長が出した答え。

「千堂ーっ!上は当たらん!腹を打ち返せ!」

 余計なことを。
 だが、的確な指示。

 いったん距離をとった。

 一転して、上を。
 右へと回りながら、左でポンポンと千堂の顔をはね上げる。
 止まらない。

 千堂の左のジャブ。
 鈍い、ただ置くだけのパンチ。

 疑問。
 違和感。

 千堂の左が、目の前に置かれたまま。
 
 俺の視界を奪う……不良が喧嘩で使う技術。

 左腕のガード。
 間一髪。
 しかし、ガードを通して伝わる衝撃。
 大きくよろめく。

 崩れた体勢の俺。
 踏み込んでくる千堂。

「速水ーっ!」

 音羽会長の声が、悲鳴に近い。

 千堂の左フック。
 衝撃と同時に、視界が一変。

 千堂の返しの右が見える。

 左腕の痺れ。
 無理。

 踏ん張るな。

 右ひざと太ももの力を抜く。
 ひざカックンの要領。

 位置エネルギー。
 重力に引かれて、俺の身体が傾く。
 千堂の豪腕が、俺の上をかすめていく。

 そして俺は。
 すとんと、尻餅をついた。


「ダウン!」

 レフェリーの宣告。

 千堂が俺を見ている。
 どこか不服そうな表情で、俺を見下ろしている。

 まあ、俺も不本意だ。


 その場から動かない千堂を、レフェリーが押すようにしてニュートラルコーナーへと行かせた。

 レフェリーのカウントが始まる。



 命拾い。
 追撃をもらわずにすんだ。
 そのはずだ。

 前向きに。


 深呼吸を2度。

 このダウンで、ほぼ判定の線は消えた。
 敵地であることを考えて、1Rはイーブン。
 2Rは千堂。
 そして、この3Rで俺のダウン。
 この時点で3ポイントの差が付いていると見たほうがいい。
 この試合は6回戦扱いだが、敵地でポイントを取るってことは、結局わかりやすく圧倒しなければいけないってことだ。

 つまり、どのみち倒しにいくしかない。

 うん、冷静だ、俺は。
 きちんと計算ができている。
 最悪を想定し、リカバリーを目指す。

 カウント7で立つ。

「やれるか?」
「当然。これから逆転しますよ」

 手は動く。
 痺れは抜けた。
 足も、平気だ。

 しかし、千堂相手にインファイトか。
 それをやり続ける、か。
 まあ、やるしかない。


「ファイトっ!」



 千堂がゆっくりと近づいてくる。

 俺は、拳を握りこむ。
 わずかに重心を落とす。
 少しだけスタンスを変える。

 強い右から入った。
 千堂が首をひねってかわす。 
 左をボディへ。
 そしてまた、右を顔面へ。
 千堂の頬をかすめる。

 千堂の目。
 俺を見る目。

 また、左をボディへと突き刺した。
 パンチの反動。
 そして、身体を戻そうとする反動でまた右を上へ返す。
 千堂の顔が、後方へはじける。

 千堂がガードを固めた。
 そのことが、俺を調子に乗らせる。
 上から下へ。
 下から上へ。
 左はボディ、そして右はかまわずにガードの上から。

 ボディを返された。
 痛みが、俺を引き戻す。

 単調になるな。
 冷静に。

 接近戦。
 腕の回転。
 上下の打ち分け。

 アッパーで、千堂の身体を起こす。
 腰を落とさせない。
 身体を起こす。
 それでパンチの威力がいくらか殺せる。

 窮屈そうな千堂の右をかわし、左のボディアッパー。
 下から上へ。
 右のアッパーは、避けられた。
 左をボディへ。
 また千堂の顔が下がる。
 そこをまた右で狙う。
 千堂が頭を上げて、それをかわす。
 また伸びた腹に左を入れてやる。

「……ッ」

 距離をとり、千堂の反撃を誘う。
 千堂の左。

 もぐりこみ、腹を突き上げる。
 続けてアゴへ。
 それをかわせば、またボディへ。

 相打ち。

 俺のアッパーを避けずに、ボディへ打ち込んできた。
 息が詰まる。
 しかし、千堂の動きも止まる。

 大きいのはいらない。
 細かく、速く。

 ボディ。
 千堂の手がアゴをかばう。
 ならば、右フック。

「ッ!」

 またボディへ返す。
 そしてアッパー。
 千堂も、俺のボディへ。

 有効打の割合は、俺が圧倒的に多い。
 技術と速度の差だ。
 俺は、たまにボディをもらうだけ。
 顔へのパンチだけはもらわない。

 これで互角の打ち合いになるのがムカツク。

 焦るな。
 力むな。
 そして、羨むな。

 宮田のカウンターを思う。

 殴り倒すのではなく、動けなくすればいい。

 動きを止めるパンチ。
 脳を揺らすパンチ。

 角度。
 タイミング。
 やれることを。

 連打。
 俺の、速水龍一の連打。

 接近しての連打。
 アゴ。
 みぞおち。
 テンプル。
 急所を、正確に。
 そして速く。

 距離をとる。
 俺の連打を邪魔するボディ。

 わずらわしい。
 連打を中断させられるのがわずらわしい。

 腕の回転を速く。
 さっきより1発多く打てた。

 正確に狙う。
 千堂の反撃がさっきより遅くなった。

 接近していられる時間が長くなる。
 連打の時間が長くなる。

 千堂の目を見る。
 足を見る。
 ひざ、腰、腕。

 ダメージは与えている。
 でも、棒立ちになっているわけじゃない。

 千堂の癖。
 苦しいと、振り払いに来る。
 豪腕に頼る。

 みぞおち。
 肝臓。
 パンチをボディに集め、距離をとった。

 打って来い。

 踏み込み足の動きと脇。
 それが、千堂のスマッシュの予備動作。

 千堂の左腕が通り過ぎる。
 振り切った左腕の脇の下から、俺は右のアッパーを突き上げた。

 千堂のひざが揺れた。
 左でもう一発突き上げ、よろめかせる。
 右フックでアゴをとらえる。
 千堂の腰が落ちる。

 勝負どころ。
 たたみこむ。
 力むな。
 速く、細かく、正確に。

 顔を。
 頭を。
 揺さぶる攻撃を。

 退がる。
 あの千堂が退がる。
 右を。
 踏み込んで左を。
 棒立ちの千堂に、左右の連打を叩き込む。
 ぐらつく。
 観客の悲鳴を後押しに、俺は右ストレートを振り切った。


 ニュートラルコーナー。
 拳を突き上げた。
 興奮している自分がわかる。
 興奮している自分を誇らしく感じる。
 観客が、千堂を見ているのが許せないように感じて、もう一度拳を突き上げる。
 俺を見ろと叫びたい。

 千堂相手のインファイト。
 打ち勝った。
 退かせた。
 興奮のままに、もう一度、拳を高く突き上げる。

「速水!冷静に!」

 会長の声。
 引き戻された。

 熱が冷める。
 時計を見る。
 千堂を見る。

 心の中で、会長への礼を言う。


 千堂が立つ。

 立ち上がった千堂が俺を見ている。
 射抜くような目で。


 そこで、ゴングが鳴った。

 俺は、コーナーへ。

 ……ゆっくりと、コーナーへ戻った。



「よーし、よしよしよし。良くひっくり返した、速水」
「……会長」
「どうした?」
「千堂のボディが効いちゃってます」

 左の太もも。
 かすかな痙攣。
 興奮が冷めて、それに気づけた。

 さりげない動きで、村山さんが俺の足をマッサージしてくれる。
 痙攣が、治まった。
 治まっただけだろう。
 ひとつ、爆弾を抱えた。
 
 大きく息を吸い、吐く。

 俺のミスから始まったダウン。
 ミスには、代償を払わなければいけない。
 それがめぐって、今の状況だ。

 パンチ力の差を理不尽とは嘆くまい。
 さっきの攻防の感触が残っている。
 俺の目指す方向が見えた気がした。

 向こうのコーナーで、千堂がじっと俺をにらみつけている。

 原作どおりに、気絶して終わっては……くれないだろうな。


 セコンドアウトの合図。

 ゆっくりとだが、千堂が立ち上がる。

 俺は、幕之内一歩じゃない。
 俺の、速水龍一の結末を手繰り寄せるだけだ。

 ふと気づいた。
 試合では初めての4R。
 未知の世界か。

 4R。



 ダメージの気配を濃厚に残しつつ……千堂が近づいてくる。
 そして俺は、受けて立つという感じに、コーナーから少しはなれた場所で待ち構える。

 足が止まる。
 千堂の距離。

 たぶん、最初は……。

 右のスイング気味のパンチを放つ前に、俺が左を合わせた。
 速いパンチで出鼻をくじく。
 パンチを出そうとするたびに、千堂の顔がはね上がる。

 いつものパターン。
 手を出せば殴る。

 まあ、止まらないタイプだ、千堂は。
 わかっている。

 だから俺は、狙っている。
 静かに待っている。
 現状を打開しようとする、千堂の大振りのパンチを。

 千堂のジャブ。
 右ストレート。
 かわして、ジャブを返す。
 2つ続いたストレート系のパンチ。

 予感。

 千堂の口が開く。
 何かの言葉。
 叫び、あるいは獣の咆哮。

 千堂より速く、俺の踏み込み。

 右を振りぬいた。
 千堂がぐらつく。
 左右のフックでアゴを狙う。
 連打をまとめる。

 認める。
 一発で倒せない自分を認める。
 認めてやる。

 右。
 左。

 千堂のボディをよける。

 また連打を。
 千堂の顔が左右にはじける。
 ボディで顔を下げさせ。
 アッパーでカチ上げる。
 右フック。
 左ストレート。

 千堂との距離が開く。

 踏み込んで右。

 ぐらついたのは俺。

 左足。
 痙攣。
 こんな時に。

 よろける千堂を追いかける。
 気持ちだけ。
 左足がついてこない。

 右足でリングを蹴る。
 そして、半ば押し倒すように、右ストレートで千堂を殴り倒した。

「ダウン!」

 絶叫。
 悲鳴。
 歓声は聞こえない。
 ここは、敵地だ。

「ニュートラルコーナーへ」

 俺の左足。
 ニュートラルコーナーが遠い。

 拳を突き上げ、ごまかしながら左足を引きずっていく。
 観客はごまかせても、向こうのセコンドは……どうかな。

 俺に背中を向けるように倒れている千堂を見る。
 その頭が動く。

 最後の一発。
 殴り倒しただけだった。
 あれではダメだ。
 もっと、狙いを正確に。
 もっとだ。


 気がつくと、千堂コールが始まっていた。
 広がっていく。
『せ・ん・どぅ!せ・ん・どぅ!』の千堂コールが、大阪府立体育会館を埋め尽くす。

 大合唱。
 空気の振動。
 大勢の声は、物理的な圧力をもつ。

 それが、千堂に届く。

 千堂が拳をつき、上体を起こす。
 千堂の目が、右へ、左へ。
 そして、俺のいる場所を向いた。


 俺は、左手でポンポンと太ももを叩く。
 痙攣は治まらない。

 正直、ここで止めて欲しい。
 しかし、この大声援だ。

 止めにくいだろうな。
 止まらないだろうな。
 





『千堂コール』を浴びながらの、長い長い待ち時間。

 そして。

「ファイトっ!」

 大歓声。

 チクショウめ。

 両足を引きずるように千堂が近づいてくる。
 その目だけがギラギラとしているが、押せば倒れそう。

 でも、その一押しをどうするか。

 太ももの痙攣。
 腹筋も、小さく震えだした。

 人間の身体はつながっている。
 一部分の悲鳴は、全身へと広がっていく。

 まあ、それでも、か。

 右足に重心を移して、俺は構えを取った。

 千堂が来る。
 千堂の右。

 千堂も人間か。
 気力だけで、足がついてこないのだろう。

 左で応戦。

 半身になって、後ろ足、右足で蹴るように手を伸ばす。
 連打ではなく、単発の繰り返し。
 全部当たる。
 もう、千堂は避けるだけの反応ができないのか。

 そして俺も、体力は残っていて、冷静でもあるのに……もどかしい。
 何度か、左足でリングを踏む。
 蹴ろうとする。
 反応が鈍い。
 俺の足ではなく、棒きれがくっついている感じだ。

 左を打つと、腹筋が引っ張られる感じがする。
 押せば倒れそうなのは、俺も同じ。

 向こうのセコンドも気づいた。
 声が飛んでいる。

 くそ。

 左手を伸ばす。
 千堂の顔が揺れる。
 もう一発。
 また顔が揺れる。
 何度でも。
 左。
 外れた。
 いや、かわされた。

 寒気。

 大きく沈み込んだ千堂の身体。
 右の拳。
 踏ん張りの利かない俺に向けて。

 改良型という言葉が頭をよぎった。

 それも利き腕の。

 必死のガード。

「……ぉぐ」

 俺の声。
 顔ではなくボディに持ってこられた。
 腹筋が痙攣する。
 連動するように左足が震える。

 それでも。
 これは千堂のミス。
 おそらく、一番威力のあるパンチに頼った。

 千堂の右は、俺の左側からの攻撃。
 俺の右足で踏ん張れたし、耐えられた。
 逆なら、終わっていたかもしれない。

 震える腹筋に力をこめた。
 マウスピースをかみ締め、顔を上げた。
 ここをどうにかしのいで……


 一瞬の静寂。
 そして、悲鳴。

 倒れた千堂にレフェリーが駆け寄り……腕を交差した。

 え?

 千堂のセコンドがリングの中に。
 それで、試合が終わったのはわかる。

 倒れたまま動かない千堂。
 そして、ただそれを見つめる俺。

 悲鳴とため息。

 音羽会長が、トレーナーの村山さんが駆け寄ってきたが、俺は夕暮れの公園に、独り取り残されたような気分だった。




 千堂が担架で運ばれ、俺は左足を引きずりながらリングを下りた。

 少ないながらも、俺を応援してくれた観客に手を振る……が、罵声にかき消された。

 千堂というボクサーが、とても愛されている。
 そういうことだろう。




 寝転んで、マッサージを受ける。
 栄養ドリンクを一口。
 東日本の関係者から、『おめでとう』の言葉がかけられる。
 礼をいい、これから試合の関係者には激励の言葉を返す。


 ようやく痙攣が治まった。
 そして寄ってくる記者連中。

 千堂のことを聞いたが、病院に運ばれたということしかわからないらしい。

「きつい試合でしたよ。強いというか、とにかくタフで……3Rにダウンをもらって、判定はあきらめました。倒しにいくしかなかったですね」
「パンチ力不足では?」

 ひとりの記者の言葉に、ほかの記者連中がぎょっとした表情を浮かべる。
 いるんだよなあ、こういう人。
 とにかく、怒らせて、刺激的なコメントを聞けたら勝ちだって勘違いしてるというか。

「かもしれませんね」

 笑って流す。
 自分が良くわかっている。
 いまさら腹も立たない。

「パンチ1発でダウンもしたし、打たれ弱いんじゃないですか?」

 ……喧嘩売ってきてるな、こいつ。
 でも俺は笑顔。

 何も言わずに、肩をすくめてやった。

 まあ、ほかの記者連中に追い出されたからよしとしよう。
 後で、どこの記者か聞いておくけどな。


 音羽会長も交えて、今後の予定の話に切り替わる。
 そうすると、新聞記者ではなく、専門誌の記者がメインになった。

 春に1試合。
 それで8回戦の資格を手に入れ、その後は未定……と。

 まあ、そう言うしかない。

 結果的に、俺は千堂にKO勝利を収めた。
 それが派手だったかはわからないが。

 でも、おそらく。
 俺は、スポンサーに切られる。

 今年のフェザー級の新人王戦のレベルが高かったなどと、わからない人間もいる。
 幕之内戦につづいて、千堂戦でもダウンを奪われた。
 俺というボクサーの力に対して、疑問を抱くのは……必然だろう。

 今、この国には世界チャンピオンがいない。
 国内を圧倒的な強さで駆け抜けていく……そんなボクサーに、世界への夢を託したいと思うのは自然だろう。






 取材が終わり、その場にぽつんと藤井さんだけが残っている。
 俺のほうから水を向けた。

「どうしました?」
「……速水君、これはオフレコだ。記者として、いや、1人の男として誓ってもいい」
「大仰ですね……何を聞きたいんです?」

 藤井さんが、俺を見た。

「あのダウン……わざと倒れたのかい?」

 藤井さんが俺を見つめる目。
 正直に答えることにした。

「あそこで、千堂くんの右をもらったらまずいと思いましたから。倒れたほうが良いと判断しました」
「そうか……」

 藤井さんは、視線を足元に向け、もう一度つぶやいた。

「そうか……わかった」
「何がです?」
「俺が、君じゃなくて幕之内のファンである理由だよ」
「……」
「速水君の試合を見て、強いと思ったことはある、巧いと思ったことがある、すごいと思ったこともある……それでもだ」

 右手を自分の胸にあて、藤井さんが言葉を続けていく。

「胸が熱くなったことはない。いや、なかったんだ」
「……今日は、熱くなれたと?」
「そうだ、熱くなれた。速水君にもこんなボクシングができたのかって、驚きもした」

 言葉が途切れる。
 また、口を開いた。

「なあ、速水君……あのとき、君は本当に千堂君のパンチに耐えられなかったのか?いや、何故、耐えられないとあきらめてしまうんだ?」
「耐えたら、もう一発もらうかもしれませんよ」
「いや、君の言いたいことはわかってるつもりだし、理解もできる……実際にリングの上で、命を削って戦うのがボクサーだとしてもだ」

 藤井さんが、ぐっと右手を握りながら言う。

「限界に挑み、そして、限界を超えていく姿……時として戦いあう二人が限界を超えていく……そういう姿が、そういう試合が、人を熱狂させるんじゃないのか?いや、こういう言い方は卑怯か。俺は、そういうボクシングが見たくて、記者をやっている」

 勝手な言い草だが、心のどこかで、それに頷いている俺がいる。

「今日の試合を見て、俺はまた速水君のそういう試合を見たいと思った。自分で自分を見切らないでくれ……それだけだ。1人の、ボクシングファンとしての言葉だよ」
「そうですか……参考にしますよ」

 沈黙。
 そして、俺に背を向けかけた藤井さんが、ふっと振り返った。

「忘れていた。新人王、おめでとう」
「ありがとうございます」

 藤井さんの背中。
 その、右手が上がる。

「ナイスファイト」

 藤井さんの姿が見えなくなっても、その言葉が響いているような気がした。








 


 スポンサーの件。
 そして、藤井さんの言葉。

 俺にあるもの。
 そして足りないもの。

 俺の道。
 速水龍一の歩いている道。


 その夜。
 夢は見なかった。



先に言っておきますが、千堂は無事です。

しかし、千堂は書くのが難しい。
たぶん、別人のイメージの影響だと思います。

あと、藤井さんがわりといい空気を吸ってる。

次の話で一区切り。


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11:速水龍一の翼。

サブタイトルでちょっと悩みました。

予約投稿だから天気はわからないけど、今日は七夕ですね。
ささやかなレベルでいいので、皆さんに何かいいことがありますように。




 千堂との試合から約1ヶ月。
 3月末に、俺の試合が組まれた。

 藤井さんには、その日程を少し心配されたが、俺からは何も言えない。
 音羽会長が何も言わないからには、言えることはない。
 しかし、3月末という年度末に合わせたスケジュールに、なんとなく感じるものはある。

 タイから呼んだのは、サウスポーのボクサーらしい。
 サウスポーか。
 アマチュアでは、2試合しか戦っていないから貴重な経験になるだろう。
 そして、その経験を与えてくれる会長に感謝だ。

 俺は、千堂戦のあと10日ほど安静に過ごし、残り2週間で体調を整えて試合に臨んだ。




 そして、試合当日。

 調子は、決してよくはない。
 千堂戦のダメージや疲労の自覚はないが、どうかな。
 まあ、これも経験と思おう。

 リングに上がる。

 こうしてリングの上に立つと、後楽園ホールに帰ってきたという感じがする。
 たった1試合、別の会場で試合をしただけなのにな。
 不思議な気分だ。

「「「「「速水くーん(さーん)!!」」」」」

 帰ってきたという気がする。
 というか、少し増えた気がする。
 手を振っておく。

「速水ーっ!新人王よかったぞー!」
「良くやったぞ!」

 手を振り、軽く左の連打を見せておく。

 実感する。
 俺の歩いてきた道を実感する。

「また海外から、かませ犬を連れてきたのか!」

 などとヤジも飛ぶ。

 ははは。
 俺の戦歴をチェックしているあたり、おっかけだろ。
 この時代は、まだポケベルの時代だ。
 ネットで検索なんてできないし、当然動画もない。
 情報が、貴重だ。
 俺のことを、そして対戦相手のことを覚えてくれている。
 感謝だ。

 うん。
 ここは。
 リングの上は、いいな。



 試合開始。

 中央でグローブをあわせ、向き合う。

 立ち姿はオーソドックス。
 ただ、サウスポーな分、違和感がある、か。

 相手の右。
 とりあえず、打たせる。
 それを見る。
 右のジャブ。
 その感覚を、その距離感を覚えていく。

 通常の左のジャブが、顔の正面に向かってくるイメージなのに対し、サウスポーというより、このボクサーの右ジャブは、俺の左目の視界の外から現れる感じがする。

 好きに打たせてみたが、今のところ、あまり脅威は感じない。
 セオリーを無視して、左と右、どちらにも回って、その反応を確かめた。
 ジャブに見るべきところがないなら、たぶん、怖いのは左の大砲。

 俺のほうから、左を伸ばした。
 相手の右とぶつかる。

 む。

 ジャブの打ち合いで、拳が、肘がぶつかる。
 なるほど、これはやりにくい。

 でも、まあ……動くガードと思えばいい。
 ガードの隙間を狙って、パンチをねじ込む。
 いつもやっていることだ。

 セオリーでは、サウスポー相手には、左に回って相手の正面にいきなり右を打ち込んでいくんだが……。
 当然、相手もそんな戦いには慣れっこだろう。
 サウスポーの右フックが、俺の視界の外から来るということは、逆に俺の左フックが、相手の視界の外から来るということだ。
 慣れてはいるだろうが、見にくいことには変わりはないだろうし、俺のパンチのタイミングをつかむまでは、うかつに動いてはこないだろう。

 少し、試すか。

 左手を、少し前に出す。
 イメージは、小橋君、あるいは沢村の構え。

 やってみて気づくことはある。

 俺の左手、グローブが相手に近いということは、盾のような働きをできる。
 そして、通常より相手の視界を削れる。

 相手の右ジャブを、左手ではじく。
 パンチの軌道に、グローブを置いてやると、やりにくそうだ。
 ステップを踏み、位置を変えようとする。
 追いかける。

 俺が何もしないのに、勝手に相手が乱れていく。
 雑な右のジャブに、左フックをかぶせた。
 すぐにバックステップ。

 左のロングフックが、空気を切り裂いた。

 ……なるほど、大砲だ。
 なかなかスリルのある、左のパンチ。
 まあ、千堂や幕之内ほどじゃない。

 また、右のジャブが飛んで来る。
 タイミングはつかんだ。
 左手を引き、構えを戻した。

 それを見て、相手の表情が、良くなる。
 相当やりにくかったんだろう。

 ジャブを手元へ引き込み、右手で斜め下方向へはじいた。
 相手の右肩の上から左フックをかぶせる。
 これで、相手の大砲は死ぬ。
 イメージとしては、右肩と右肘の関節を極めてやる感じ。
 俺の踏み込み足が、相手が振り返ろうとする動きを阻害する。

 また、右のジャブを横にはじく。
 左フックを警戒した相手の下から突き上げた……踏み込みが浅かった。
 フックよりも深く、足を絡めるぐらいに踏み込まないと。 

 うん?

 俺から逃げるように、距離をとられた。
 過敏な反応。
 何かある。

 少し様子見をして、1Rを終えた。



「厄介そうな相手だな」
「え?」

 思わず、会長の方を振り向いた。
 会長も俺を見る。

「……やりにくそうに見えたが?」
「いえ、たぶん次のRで終わります」

 会長にそう言って、俺は立ち上がった。

 千堂戦でつかんだあの感覚。
 速く正確に、だ。
 雑なパンチは、雑なダメージにつながる。



 リング中央。
 もう、相手がサウスポーという意識はない。 

 相手のジャブに、左フックをかぶせた。
 また右のジャブを伸ばしてきたので、左フックでアゴを叩く。

 どこか戸惑ったような表情の相手に。
 俺の太ももを相手の前足の横にぶつけるように踏み込み、突き上げた。
 そのまま右。
 相手の反撃の左は届かない。

 速く正確に。
 それだけだ。

 もう一度下から。
 ぐらつく相手のアゴを、再びアッパーで突き上げる。
 振り回してきた左をもぐりこんで、みぞおちを打つ。
 動きが止まったところを、アッパーで突き上げた。
 そして右を顔面に。

 上下の打ち分けに、まったくついてこれない。
 特に、下が見えていない。
 何かが欠けているというより、何かを失ったという感じがする。
 怪我か?

 まあ、今の状態では、確かにかませ犬だ。

 ガードを固めて突っ込んできたところを、ショートアッパーで迎撃。
 マウスピースが転がる。
 もう一度突き上げ、左右のフックをまとめると、両ひざを付いてリングに倒れた。

 目が死んでいる。
 たぶん、起き上がる体力ではなく、気力がない。

 そのまま俺は、ニュートラルコーナーで10カウントを聞いた。

 色々と学ぶべきところはあったが、プロ入りしてから、一番つまらない相手だった気がする。


 観客席に手を振って応え、俺はリングを下りた。
 何はともあれ、俺はこれで8回戦の資格を得たことになる。

 ちなみにこの試合は6回戦だから、ファイトマネーも多かった。
 チケットの枚数が増えただけなんだけどね。(遠い目)





 月は変わって4月の頭。

 俺は、会長室に呼ばれた。
 俺と目をあわそうとしない会長を見て気づく。

 ああ、良くない話だ……きっと。
 来るべきものがきた、か。
 覚悟を決める。

「速水……」
「はい」
「……ジュニアフェザー(スーパーバンタム)に階級を落としてくれないか」

 戸惑う。
 てっきり、スポンサーに切られたという話だと思ったのだが。

 先日の試合はしょっぱかったが、6戦6勝6KOで、新人王を獲った俺に、階級変更。
 減量が厳しくて階級を上げるならともかく、下げろとは……。

 ふと、思った。
 そういえば、原作の速水龍一は何故階級を下げたのか。
 自信家の天才ボクサーが、幕之内のいる階級から逃げようとするか?
 そもそも、原作のアレも油断と慢心による敗戦といえるもの。
 アゴを壊したことが理由なら、そもそもボクシングをやめていたのではないか?

 何かがつながる。
 あるいは、パズルのピース。
 スポンサー。
 そして、音羽ジム。

「……ヴォルグ・ザンギエフ」

 俺のつぶやきに、音羽会長がはじかれたように顔を上げた。

「知ってたのか、速水?」

 そうか。
 ここにつながるのか。

 すとんと、胸に落ちてくるものがある。

 アマチュア世界王者。
 200戦以上の試合をこなして無敗。
 日本の高校生相手に無敗の俺とは桁が違う。
 確かな実力に、甘いマスク。
 昨年暮れのソ連崩壊、そして旧ソ連のエリートボクサーという話題性。
 俺との、商品価値の違い。
 俺との、能力の違い。

 同じフェザー級だからこその、『速水龍一』から『ヴォルグ・ザンギエフ』への切り替え。

 つまり、俺に対する要求というかハードルの高さがあがったのは……世界アマ王者の『ヴォルグ』という商品が現れたからか。

 もしかすると、ボクシングの世界王者のいない現状に、世界戦で連敗を続ける現状に業を煮やしたのかもしれない。
 日本人の世界王者ではなくとも、この国のジムに所属するボクサーが世界王者になることで妥協することを考えたのかもしれない。
 世界アマ王者のヴォルグ。
 確実で手っ取り早いと、『素人』ならそう考えても無理はない。

 まあ、そのあたりの理由や理屈はどうでもいい。

 俺も、他人を蹴落として上がってきた人間だ。
 蹴落とされることに思う部分はあるが、それを受け入れないのは片手落ちだろう。

 今問題なのは、俺の階級を落とす意味……。
 階級が別なら、かち合わない。
 メインはヴォルグだが、俺もサブとして……。

 なるほど。
 一番、泥をかぶったのは、会長か。
 泥をかぶってくれた。
 俺のために。

「別の階級にするから、スポンサーであり続けてくれと、頼んでくれたんですか?」
「お前は連続KO勝利中のホープなんだよ……はいそうですかと引き下がったら、うちのジムは業界でいい笑いものさ。決してお前のためだけじゃないし、それにスポンサーといっても、名目だけだ。ないも同然の扱いさ……恨んでくれていい。すまん」

 ヴォルグの件は、テレビ局そのものか、その関係者あたりがヴォルグの存在に目をつけ、関わりの深い音羽ジムに話を持ち込んだという形なんだろう。
 原作でも、千堂に負けてあっさりと切られたドライさは、いかにもそれっぽい感じがする。

 第一、音羽会長は人情派だしな。


 なら、せめて俺は笑おうか。
 なんでもないことのように。

「わかりましたよ、会長。伝説をつくる男には、挫折ってヤツがつきものですしね……つまり、俺は選ばれたってことでしょ?」
「速水……」

 会長が俺を見る。

 そんな顔、会長には似合いませんよ……という軽口を飲み込み、事務的な話に切り替えることにした。

「それで、俺の今後の予定はどうなります?」
「……未定だ。新人王を含めて連戦だったからな。少し休んで、それからランキングを上げるか……場合によっては、A級トーナメントに参加するか、だな」
「じゃあ、休養中にロシア語でも勉強しますかね。世界アマのヴォルグに話を聞くのも、勉強になりそうですし」

 会長が、笑った。

「はは、伝説を作る男は、言うことが違うな」
「そりゃもう。俺は、速水龍一ですからね」
「でも、世界を目指すなら、ロシア語より英語だろう」
「英語なら、簡単な会話ぐらいならできますよ」
「ほう、たいしたもんだ」

 笑顔で、軽やかに。
 そこが、リングの上のように会話をかわす。

「じゃあ、会長。俺はこれで……」
「ちょっと待て」
「はい?」
「この前の試合だが、お前……相手が弱く見えたのか?」
「……たぶん、どこか怪我を抱えてたんだと思いますよ。まあ、サウスポーだったなと言うぐらいの印象ですね。デビュー戦の相手のほうが面倒だったかな、と」
「そうか……なるほどな」

 会長が、小さく頷いた。
 何度も。

 良くわからなかったが、俺はちょっと笑って、会長室を後にした。
 汗を流している練習生たちに適当に声をかけ、ちょっとしたアドバイスもしつつ、俺は、ジムを出る。

 その足で、街を歩く。

 桜だ。
 春の陽気。
 空を見上げる。

 11月の幕之内から始まり、5ヶ月で4試合だ。
 先日の試合はともかく、きつい試合の連続だったのは確かなんだ。
 しばらく、身体を休めるか。

 そう、しばらく……休憩だ。

 目を閉じ、歩いてきた道を、振り返る。

 高校時代はボクシングを学んだ。
 デビュー戦は後楽園ホールの雰囲気を知った。
 メキシカンは世界のレベルの高さを垣間見せてくれた。

 新人王戦。

 幕之内に勝って。
 宮田に勝って。
 千堂に勝って。
 新人王を獲り、前評判どおりの活躍を見せた。

 原作ブレイクだ。
 なのに。

 手探りで歩いていた道。
 速水龍一のものだったはずの道。
 その道から、何者かにはじき出されたような奇妙な感覚。
 不快感に近い。

 もしかすると、フェザー級から、ジュニアフェザーに落とすことに不安を感じているのだろうか。
 減量は、やってみないとわからないが、たぶん平気だ。
 何を不安に感じる?

 確かめるように、言葉にしてみる。

「ジュニアフェザー……原作だと、真田の返上した王座をめぐって、小橋君と決定戦。そこで、アゴにもらって一発失神KOか」

 真田、真田一機。
 原作では、医者志望のボクサーで、ジュニアフェザーのタイトルを5度防衛だったな。
 たしかに、この前のチャンピオンカーニバルで、ジュニアフェザーの新王者を獲得してたっけな。
 今年から来年の秋にかけて、防衛戦を5度、タイトルを返上して幕之内と戦う……うん、時期的にも間違いないな。
 俺がいくら原作ブレイクを目指したとしても、所詮それは俺の周囲と、その影響範囲だけか。

 まあ、難しく考えることはない。
 ボクサーである以上、目指すはチャンピオンだ。
 ならば、普通に……次の目標は、真田一機であるべきだろう。


 これが、道のはずだ。
 それが、俺の前に続いている道のはずだ。
 歩けばいい。

 それでも、心の中で『違う』と叫んでいる俺を感じる。

 勝った俺がいる。
 勝ち続けた俺がいる。
 原作ブレイクした俺がいる。

 会長にあんなことを言いながら、心の中で割り切れていないのがわかる。

 他人を蹴落としてきた俺が、蹴落とされた。
 それだけだ。
 ただ、それだけ。

『君の試合を見て胸が熱くなったことはなかった』

 藤井さんの言葉。
 あれは、純粋にファンとしての言葉だろう。
 あるいは、ボクシングを盛り上げたいと語った俺へのアドバイス。

 戦い方を決めるのは俺だが、俺という商品を評価するのは他人だ。

 俺に、足りないものがあった。
 能力だけではない、スポンサーに、認めてもらえない何か。

 日本人であるという付加価値がありながら、俺の商品価値がヴォルグに劣った……。



 空を見上げた。
 鳥の姿。

 翼があれば。

 わけもなくそう思った。




 ふと、思い出す。

『宮田君との約束とは別に、速水さんの後を追いかけるつもりです。そして、今度こそ、アクシデント抜きにしてパンチを入れますから』

 幕之内の言葉。

『はは、待ってるぜ』

 俺の、速水龍一の返事。

「約束、か」


 俺の歩く道。
 その先にあるものが。
 その先の光景が。

 幕之内との約束を守るものになる可能性は……。

「一応、断りを入れておくのが礼儀だな……」







 鴨川ジムのドアを開いて挨拶。

「こんにちはー」
「あれ、速水じゃねえか。うちのジムに何しに来やがった」

 原作ではギャグ担当の青木さん。
 パンチパーマがトレードマークといっていいのか?
 まあ、特徴がありすぎる人だ。
 でも、リアルで考えるなら、原作どおりであるならば、間違いなくこの人の進む道は、ほかのボクサーたちの道しるべであると思う。
 方向性はともかく、努力と工夫を重ねる部分は尊敬できる人だ。

「はは、幕之内くんにちょいと用事がありまして」
「一歩に用事か?一歩なら、まだ来てないぜ」

 と、これは木村さん。
 外見は好青年で、中身もそんな感じ。
 まあ、高校時代は青木さんとつるんでヤンキーをやってたが、今は昔。
 そして、瞬間最大風速で人気を稼いで……お笑い担当になる予定の人。
 そうなるかどうかはわからないが。

 千堂をここに連れてきたときは、この2人はいなかったんだよな。
 原作でおなじみの人がポンポン出てくると、ちょっとうれしくなる。

 ぬっと、影が差した。

「誰かと思えば、小者じゃねえか。何しに来やがった」

 うれしくなる……はずだ。(震え声)

 ボクサーとしては認めるが、この人とは日常で関わりたくない。
 
「やるか?スパーやるか?」
「1週間前に試合やって、休養中です。勘弁してください」
「クソがっ!小者たちばっかり試合しやがって、スーパースターである俺様はろくに試合を組めないとはどういうことだ!」

 ああ、ミドル級はなぁ……。

 前世のように、ネットが世界をつないだ時代ならともかく、この世界の今の時代は、世界の中重量級より上の階級は、まず話そのものが回ってこない。

 ボクシングのショービジネスとしての本場ラスベガス。
 世界タイトルマッチってのは、基本的にラスベガスのホテルが主催するイベントだったという経緯がある。
 ギャンブルの街だ。
 世界中から金持ちが集まってくる。
 彼らがホテルのカジノに落とす金。
 ホテルに、宿泊客を、人を呼ぶためのイベント、ショーの一環。
 それが、高額のファイトマネーを生んだ。

 相手が日本人だと、客が呼べない。
 ラスベガスに集まる金持ち客の注目を集められないといったほうが正確か。
 世界ランキングを手に入れるためには、強い相手、できれば世界ランキング持ちの相手と戦うことが必要だ。
 なら、世界ランカーが、わざわざ日本人と戦うメリットはあるか?
 金は、当然ショービジネスの本場の向こうのほうが持っている。
 ランキング、金、名誉……その、どれも手に入らない相手を、対戦相手に選ぶメリットはない。

 つまり、世界ランキングを手に入れるための戦いにすら参加できない……それが、この世界というか、この時代の鷹村さんの置かれている状況といえる。
 逆に、ラスベガスの金持ち客が注目しない軽量級や、軽中量級の階級は、ほかと比較して金持ちの日本人にせっせとチャンスを与え、次々とカモられてるという、泣きそうな現実もあるのだが。

 ネットの普及を受け、放映権やその他のビジネスの発展で、対戦相手としての価値が上昇した結果……状況が変化したのが、前世の21世紀以降のボクシング事情だ。

 まあ、闇が深すぎる話はやめておこう。

 というか。

「ああ、試合してえ、試合してえ、試合してえよぉ!」

 などと大声を上げながら、バケツを蹴り上げる鷹村さんの姿を見ると……なあ。

 ため息をついていたら、木村さんに、肩を叩かれた。

「ストレスたまってるんだ……触れると危険ってやつだから、目を合わせるなよ」

 ははは、言われなくても。
 俺は小さく頷き、賛意を示した。


 いすに座って鴨川ジムの連中の練習を眺めていたら、声をかけられた。

「……なんじゃ、速水じゃないか」
「鴨川会長。お邪魔してます」

 立ち上がり、頭を下げておく。

「いまさらじゃが、千堂とは、ええ試合じゃったの」
「ありがとうございます……少しすっきりしない勝ち方だったんですがね」
「相性の悪い相手に打ち勝ったんじゃ、胸を張ってよいぞ」

 もう一度、頭を下げた。
 結局、千堂は夜には目覚めて、精密検査でも異常なしだったらしくて、ほっとした。
 そっちの原作ブレイクはごめんだからな。

「それで今日は、何の用じゃ?」
「ええ、幕之内くんに少し……謝らなきゃいけないことがありまして」
「なにか、あったのか?」

 ためらい。
 そして戸惑い。

 聞いて欲しいのだろうか、俺は。

 口を、開いた。

「階級を、ジュニアフェザーに落とすことになりました」
「なんじゃと?」

 鴨川会長が、俺を見る。

「……わけありか?」
「ははは……まあ、ヴォルグ・ザンギエフを、ご存知ですか?」
「知っておる。世界アマ王者の……」

 言葉が途切れる。

「うちのジムと、契約することになりました……あ、正式発表はまだなので、しばらくはここだけの話ということに」
「……うむ、そうか」

 それだけで、鴨川会長はある程度事情を察してくれたらしい。

「こんにちわー」

 タイミングよく、幕之内の登場だ。

「……って、速水さんじゃないですか。どうしたんですか、今日は」
「ああ、実はな……」
「速水よ、立ち話の内容ではない。ええから、会長室で話せ」






「……とまあ、細かい事情はともかく、俺と幕之内くんは別の階級になっちまうってことだ。すまないが、パンチをもらってやる約束は守れないってことを報告にきたわけだ」
「なんで……そんな」
「小僧!」

 鴨川会長の制止。

「音羽ジムには音羽ジムの都合がある。何よりも、速水が飲み込んでおるのじゃ……小僧がどうこう言う話ではないわ」
「……わかりました」

 ……果たせなかった約束、か。

 ふと、思った。
 つついてみようか、と。
 原作ファンなら、誰もが夢見た、あのカード。

「幕之内くん、最近宮田くんには会ったか?」
「え?いえ……」

 卒業式の後、会ってはいないのか。
 まあ、好都合だな。

「宮田くん、また少し背が伸びてたぜ……幕之内くんの言ってた『約束』だけど、早くしないと間に合わなくなるかもな」

 俺の言葉に、幕之内は首をかしげ、鴨川会長がうなった。

 俺は、宮田に会ってもいないし、背が伸びたかどうかも知らない。
 ただ、ボクサーに限ったことではなく、食事制限を強いられている成人前のスポーツ選手が、怪我などで休養中に身長が伸びてしまった話は聞いたことがあった。
 人間が摂取した栄養はまず生命維持活動のために消費され、その余剰分が成長や回復に消費される。

 子供の頃から父親の背中を追い続けてた宮田のボクシング生活……もしかすると、原作での間柴に負けた後の休養は、物心ついてから初めての休養だったのではあるまいか。
 原作の宮田の成長に伴う減量苦が……間柴に負けた後の休養期間にあったとすれば。

 俺に負けた後……身長が伸びている可能性はある。

 まあ、間違ってたら勘違いですむ話だ。

「あの身長じゃあ、減量が厳しいはずだ。フェザー級にいられる時間は、それほど長くないかもしれない」

 言葉を切り、鴨川会長を見た。

「理想は、お互いが最高の状態で戦うことなんでしょうけど……本当の本当に、最高の状態で試合に臨めることなんて、ボクサーに限らず、スポーツ選手の競技生活でせいぜい2度か3度でしょう」

 鴨川会長が目をつぶった。
 しかし、その口が開くことはない。

 俺にできるのはこれが精一杯、か。
 どんな形でもいいから、実現して欲しいんだよなあ、このカード。

「じゃあ、俺はこのぐらいで」

 ぺこりと頭を下げて部屋を出てこうとした呼び止められた。

「ちょっと待て、速水よ。少し話がある」


 幕之内がいなくなって、鴨川会長と2人きり。
 はて、何の話か?


「鴨川会長、話って何でしょう?」
「小僧との試合の、あの事故のことじゃ」
「……?」

 いまさら?
 何だろ?

「あの試合のあの場面、もちろんワシは勝つことだけを考えて小僧に指示を出した。リングに立っている以上、勝つことがすべてじゃ。じゃが、小僧が勝っていたらどうなっていたと思う?」
「どうって……俺が負けて、幕之内くんと宮田くんが決勝で……どっちが勝つかという話ですか?」

 鴨川会長が首を振った。

「そうではない……おそらく、多くの者が傷つく結果になっただろうと思う」
「……」
「『あの事故のせい』、『レフェリーの八百長』など……まあ、心ない者が、無責任にそうした言葉を口にするのは目に見えておる。ましてや貴様は、注目株じゃ……レフェリーやワシらへの悪意が集まっただろう」

 ……想像はできる。

「負けたことは口惜しい。じゃが、貴様に負けた後の小僧は、両足でまっすぐに立ち、前を向いておる。あの負けは、明日へとつながる敗戦となった」

 鴨川会長が、まっすぐに俺を見た。

「悔いの残る敗北はええ。それをバネにすることもできる……じゃが、悔いの残る勝利は厄介じゃ。いつまでもしこりとなって残り、心を苛む……特に小僧は、そういう性格をしておる」

 そして、鴨川会長が頭を下げた。

「良くぞ立ち、良くぞ勝った……そしてようも『自分のミス』と突っ張ねたものよ。貴様の背中が、小僧にまっすぐ前を向かせた……礼を言うぞ」

 鴨川会長を、見る。
 そして、答えた。

「わかりました。その気持ちは受け取ります。でも、俺はボクサーです。勝つためにやるべきことをやっただけです」

 ふと、思った。
 自分とレフェリーのことばかり考えてたが、あのとき、幕之内はあのアクシデントをどう思っていたのか?
 もしかすると、あれは焦りではなく、動揺だったのか?

「幕之内くんは……あのアクシデントにいつ気づいたんです?」
「貴様をダウンさせたときは、無我夢中だったようじゃな……何かおかしいとは思ったそうじゃが……すべてを知ったのは、試合が終わった後じゃ」
「そうですか……」

 あのときの、幕之内のパンチが雑になっていたことを思い出す。
 もちろん、ダメージや疲労、そして焦りもあったんだろうが……何か、腑に落ちないものを抱えて戦っていたのか。
 あれは……俺だけのアクシデントではなかったということだ。

「まあ、すべてを知った後……小僧は晴れ晴れとした顔で『速水さんはすごいです』と言っておったわ。闘争心のなさを嘆くべきか、そのまっすぐさをほめるべきか、悩むわい」

 そう言う鴨川会長の顔が、どこか誇らしげに見えたのは、俺の感傷かもな。

「やるべきことをやる……それでいいんじゃないですか?」
「そうじゃな、貴様がレフェリー相手に、時間稼ぎをしたことも含めてな」

 一瞬の間。

「あ、ばれてました?」
「試合が終わった後にな……ふん、強かな男よ」

 鴨川会長は少し笑って……最後に、真顔に戻って。

「腐るなよ、速水」

 頷きかけて……気づいた。

 幕之内の試合の件ではなく、おそらくこちらが本命。
 この言葉を言うために、引き止めてくれたのだ、きっと。

 まっすぐに立ち、前を向いて……か。

「……まだ成長中の青い果実ですからね。腐るのは10年早いですよ」
「ふん、嫌いじゃないわい、貴様のような男は」

 そして俺は、会長室を出て、鴨川ジムを後にした。

 きて、良かったと思った。
 何気ない言葉。
 ちょっとした出会いが、何かを変えることもある。

「速水さん」

 振り返る。
 幕之内。

「あの、考えてたんです。まだ、速水さんが約束を破ったとか、守れないって言うのは少し違うかなあと」
「んん?」

 何?
 何の話?

 幕之内が、俺を見る。

「速水さんがジュニアフェザーで勝ち続ければ、いずれ2階級制覇とか狙うんですよね?それなら、またフェザー級で試合することだって……だからそこで、その、僕と、戦ることだって、できるんじゃないかと」

 どこか恥ずかしげに言う幕之内の姿に、俺は納得するような気持ちになった。

 やっぱり、勝とうが負けようが主人公だわ、幕之内は。

 それ、王者になるって宣言だけど、たぶん気づいてないよなあ。
 そして、原作では俺はもちろん、幕之内も……。

 まあ、いいか。
 どちらにしろ……勝たなければ、始まらない。
 勝ち続ければ、また何かが変わるだろう。
 その先に……。

 そういう原作ブレイクは、ありだろう。

 俺は、笑みを浮かべて幕之内を見た。

「はは、じゃあ(世界で)待ってるぜ」
「はい。僕もがんばって(日本王者を)目指します」


 手を振って別れた。


 勝ち続ければ、交わるかもしれない道。
 遠い約束だ。






 川の土手を歩きながら、あらためて空を見あげた。

 鳥が飛んでいる。

 鳥の翼を羨んでどうする。
 俺は人で、速水龍一だ。

 与えられたものを精一杯使って、戦うしかない。

 翼はなくとも、俺には足がある。
 ならば歩こう。
 歩いていこう。
 ただ前へと。

 ここからだ。
 ここから、また始めよう。
 あの日、はじめの一歩を踏み出したように。

 俺の、速水龍一の。

 再出発(リスタート)だ。



はい、第一部完!
すぐにエンディング曲を流そう!(選曲は各自お好みで)

試合とは別の場所で挫折を味わい、そこからの切り替えと言うか再出発ですね。
ちょいと、鬱な展開になってしまって申し訳ないです。

衝動的に書き始めてから展開を考えるという状態だったにしては、ここまではきれいにまとまったかなという気がします。
『ここで終わったほうが美しい』なんて囁きも聞こえてきますが、一応スポンサーを悪者にして伏線も張りましたし、原作の戦力インフレを上手く表現できなくなるあたりまでは続けたいですね。(震え声)

第二部は、みんな大好き『ヴォルグ』が来日するところからを予定してます。
『伊達』と『ヴォルグ』の日本タイトルマッチを書いてみたいと思ってるのですが(悪魔のささやき)、その場合、主観というか『語り手は誰になるのか』という部分など、いろいろと問題山積みです。

とりあえず、色々と考えたいのでしばらく時間をください。
目標としては8月に再開できればいいなあと。
そしてまた、区切りのいいところまで連続更新の感じでいきたいです。
とはいえ、私はいきなりネタが落ちてくるタイプでもあるんですが。

しばしのお別れです。


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裏道1:鴨川源二ではじめる速水攻略。

七夕様の贈り物。
これが、みなさんにとっていいことでありますように。(11話の前書き参照)

しばしのお別れとはなんだったのか……まあ、これも予約投稿ですけど。(目逸らし)
感想で鴨川会長が人気だったので気分転換を兼ねて書いてみましたが……試合前はともかく、試合中の描写は変な感じがします。
まあ、これもひとつの実験ということでお試しに。


『7月上旬。(ジェイソン尾妻戦のあと)』

 小橋対吉田のビデオ。

 近づけばクリンチ。
 離れ際にジャブ。
 その繰り返しで試合が終わった。

「時間の無駄だったな」
「誰だよ、こんなもん持ってきたの」

 青木と木村の愚痴に、藤井がそっと目を逸らしおったわ。

 確かに、地味な試合じゃったが……この小橋という男、巧い。
 小僧が振り回されて4Rが終わる可能性はある。

「いや、しかしですね。インターハイを準優勝した選手に、何もさせないって言うのはすごいことなんじゃないですか?」

 ……青木や木村にも問題はあるが、小僧は小僧で、もう少し闘志が欲しいのう。





 小僧たちを会長室から追い出し、藤井を見た。

「藤井よ。頼んだものは持ってきてくれたか?」
「ええ」
「……手間をかけさせたな」
「いえ、速水君は注目選手ですからね……ダビングしただけですよ」

 紙袋から、藤井が取り出した2本のテープ。

「こっちがデビュー戦、そしてこっちが……例の、2戦目です」
「そうか。相手はメキシカンだと聞いたが」
「デビュー戦はタイから呼んだ選手です……対戦相手を探すのに、音羽ジムの会長が苦労しているようですよ」
「まあ、うちも鷹村がおるからの。他人事ではないわ」








「……どうです?」
「……強い、の一言じゃ。特に2戦目は、対戦相手のレベルの高さもあって、8回戦の試合といわれても疑う者はおらんじゃろ」

 テープを巻き戻し、最初から試合を見る。

「1Rの前半はやや劣勢じゃったが後半で対応し、2Rではそれをつぶす……しかし、驚くのは3Rよ。こやつ、このRまで流しておった」
「……ええ」
「劣勢を感じながら、そのまま対応し、対策を講じる……正直、この3Rの実力が本気なのかどうかもわからん」

 藤井が、ポツリとつぶやいた。

「速水君は『久しぶりに勝ったと思える試合でした』って言ってましたよ」
「……小生意気なセリフじゃが、本音なんじゃろう」

 アマで無敗、プロでもこれか。
 まあ、生半な相手では、苦戦すらできまい。
 強い相手と戦いたい。
 それは、ボクサーとしての本能のようなものじゃ。

 テープを入れ替える。
 デビュー戦。

「デビュー戦の相手も曲者じゃが、それを、苦もなく対応しておる」
「アマチュアルールだと、顔は正面を向いていなければダメですからね。頭を下げる、その姿勢だけでバッティング(頭突き)の反則を取られます」(日本は特に厳しいといわれてました)
「アマチュア出身の選手が、ラフファイトに弱いといわれる所以じゃ……そもそも、頭をつけての打ち合いや、頭を下げて接近するという経験がないからの」

 画面を見つめる。
 速水龍一という男を見つめる。

 小僧のデビュー戦のときは誰かと思ったが、尾妻戦のときもしっかりと見ておった。

「……練習熱心な男ですよ」
「見ればわかる。才能におぼれた男のボクシングではない……むしろ、慎重な男じゃろ」
「ビッグマウスで有名なんですけどね」

 藤井の言葉を、鼻で笑う。

 倒して勝ってはおるが、注目すべきは防御の巧さじゃ。
 鼻っ柱の強い男なら、これだけの力があれば、最初から倒しにいく。
 なのに、2試合とも最初は相手を見ておった。
 分析し、相手の優位を奪い、自分の優位を確立してから仕留めにかかる。

 この男、理論派のボクサーじゃ。
 拳は、嘘をつかんわい。

「この男のせいで、フェザー級の参加者(エントリー)が減ったという話もうなずける……」
「今年の東日本は14人でしたね……ここ数年は、20人を超えることも少なくなかったんですが」

 藤井が、言葉を続けた。

「それと、速水君とあたるはずだった相手が、1回戦で拳を痛めたという理由で棄権するそうです……おそらくは口実でしょうけど」
「……速水の2戦目は2月じゃったな?なら、次の試合は……11月か?」
「ええ、新人王戦の最中ですからね、スパーはともかく、試合を組むこともできないでしょう」
「う、む……」

 小僧は、先日の試合で尾妻には勝ったが、内容そのものはどちらに転んでもおかしくはなかった。
 いや、運に恵まれたともいえる。
 見るほうは楽しいかもしれんが、あれではな。
 小僧のパンチ力は魅力だが、当たったもん勝ちのボクシングでは先は望めん。
 土台作り。
 体重移動。
 地道に、脚力強化と防御技術の研鑽こそが近道なんじゃが……。

 画面に目をやった。

 本当なら、小僧にはもっと防御を意識させ、基礎技術を教え込む時期じゃが……宮田とのこともある。
 選手のやる気を無視するようでは、指導者は名乗れん。
 そのやる気を上手く誘導し、成長へと導いてこそ本当の指導者よ。

 とはいえ……悩ましいところじゃ。

 まあ、小僧が小橋に勝ってからの話か。
 小橋に当たらないようでは、速水に当てるのは無理じゃ。

「それにしても……」
「なんです?」
「音羽の会長も、たいしたものだと思ってな。楽な相手と試合を組んで、張りぼての戦績を作り上げるジムも少なくない時代じゃが……デビュー戦にはラフファイトあり、2戦目にはレベルの高いメキシカンを呼んで戦わせておる」

 いったん言葉を切った。

 音羽の会長という指導者は速水というボクサーを信じ、速水というボクサーがそれに応える。
 確かな信頼関係。
 良き、師弟よ。

「強くなるぞ、この男は」

 そしてそれは。
 小僧の道をふさぐ、大きな壁になることを意味する。

 古いと言われるかもしれんが、強き相手と戦うのは、ボクサーとしての喜びよ。
 そして、やるべきことをやりつくしてリングへと送り出すのがワシの仕事。

 燃えてくるわい。







『8月末。(対小橋戦直後)』


 ……薄氷を踏む思いじゃったな。

 鷹村たちの夏合宿に参加してから、小僧の追い足は目に見えて進歩した。
 体重移動がスムーズになり、あの強打を連打できる土台ができてきたといえる。
 それゆえに、先のことを考えて小僧を鍛えた。
 小橋相手なら、どうにかなるじゃろうと……。

 慢心しておった。
 小僧ではなく、ワシの怠慢じゃ。

 目の前の小橋ではなく、先の速水戦を見ておったこのワシの……何たる無能か。
 あそこで小橋が打ち合いにこなければ、間違いなく小僧は負けておった。

 通路。
 そちらに目を向ける。

 ……今日は、来ておらんのか。

 もう、見るべきものはないと思うたか、速水よ。

 貴様との試合までの残り2ヶ月。
 楽な試合にはさせんぞ。






『9月上旬。』


 速水の試合のビデオを見て、小僧が絶句しておる。
 まあ、無理もない。

 む?
 木村と青木が、小僧の肩に手をおいて……。

「残念だったな、一歩」
「まあ、こういうこともあるさ」
「や、やめてくださいよ!こ、この人に勝たないと、僕は……宮田君と……」

 小僧が握り締めた拳。

 その闘志は、あくまでも宮田との約束か。

 ……まあええ。
 前向きであるならば、やりようはある。

 と、今度は鷹村か。

 そっと、ステッキを引き寄せた。

「……一歩。お前、どうやって勝つつもりだ?うん?」
「そ、それは……」
「一発当たればどうにかなるって、甘いこと考えてるのか?」

 小僧の表情……まだ望みを持っておるな。
 甘い。

「当たらねえよ。4R追い掛け回しても、お前のパンチはかすりもしねえ。そのぐらいの差がある」

 そして、さすがに鷹村はわかっておるか。

「……でもよ、鷹村さん。一歩のダッシュ力だってなかなかのもんだぜ?」
「そうそう、一歩がしつこく食い下がれば、ワンチャンスもあるんじゃないですか?」

 ……青木と木村はわかっておらんのか。

「なあ、一歩……お前、この速水と宮田、どっちが強いと思う?」
「それは、その……宮田君だって強くなってるし」
「考えるな。考えれば考えるほど、希望や期待が評価を歪ませる。このビデオを見た瞬間、お前がどう思ったか……それで答えろ」

 一瞬の沈黙。
 そして、小僧は搾り出すように答えた。

「速水さん、です」

 うむ。
 そこからじゃ。
 自分の立ち位置を、正しく認識してからじゃな。

 鷹村も、なかなかええことを言うわい。

「小僧よ。はっきりいって、ベスト4の中では速水の実力が大きく抜けておる。まずそれを認めい」
「でも、それじゃあ……」
「自分に何ができるか、自分に何が足りないか……すべてはそこからじゃ」

 ステッキの先で、小僧の胸を押さえた。

「速水にパンチを当てるためには何が必要か?速水にパンチが届く距離に近づかねばならん。速水にパンチが届く距離に近づくにはどうすればいい?速水のパンチを避けねばならん。速水のフットワークに追いつかねばならん」

 トン、と小僧の胸を突く。

「わかるか?なんとなくではダメじゃ。小橋戦のように、近づいて一発当てれば……などという、曖昧なボクシングではどうにもならん。それは試合だけでなく、練習も同じよ」

 ワシを見る小僧の胸を、また軽く突く。

「思い出せ。小僧が、宮田のことだけを追いかけていた頃を……フットワークから、パンチのひとつまで、『宮田に勝つためだけに』練習を重ねたじゃろうが。あれと同じじゃ」

 ワシは、ステッキを床につき、視線を落とした。

「小橋戦は、指導者としてのワシの怠慢よ……目の前の小橋ではなく、誰でもない曖昧なものを相手に戦わせてしまった、ワシのミスじゃ」

 顔を上げ、小僧を見る。

「試合までの約2ヶ月、速水に勝つための練習をする。宮田と戦いたいなら、死ぬ気でついて来い」
「はい!」






「おい、ジジイ」
「わかっとる……じゃが、速水に勝つとすれば、宮田よりも、間柴よりも……小僧に一番目がある」
「……だな。一番相性が悪いのは、間柴だろうぜ」

 鷹村が、テレビ画面に眼をやった。

「それで……どうすんだよ?」
「とにかく走らせる。小橋戦のように相手のリズムで4R振り回されても、スタミナ切れしない持久力が大前提じゃ」
「……まあ、そうだな」
「防御を鍛え、4R戦うという前提で作戦を立てるしかない。スタミナ、集中力、それが途切れた一瞬を逃さず、小僧のパンチが当たれば……」
「えらそうなこと言いやがって!結局は、当たったもん勝ちの作戦じゃねえか!」
「細かな作戦はこれからじゃ、バカタレが!」

 そもそも、小僧のボクサーとしての能力を引き上げねば、作戦すら立てられんわ。









『10月下旬。(速水戦の10日ぐらい前)』

 しかし、小僧もたいしたものよ。
 鷹村が連れてきたときは、センスのかけらもなく、気も弱い、どうしようもないと思ったが。

 最初は、そのパンチ力に驚かされた。
 日本人ボクサーには珍しい、ハードパンチャーとしての資質。

 じゃが、どうしようもなく不器用じゃった。
 いわゆる、センスがない。

 今の時代は、『何でもできる』ボクサーが主流じゃ。
 相手を分析し、強み、弱みを理解して、戦略を組み立てていく引き出しの数こそが、高い能力とみなされる。

 小僧にできるのはインファイトのみ。
 誰が相手であろうと、接近し、相手の攻撃をかいくぐりながらパンチを繰り出す戦いしかできん。
 いや、インファイトのみに高い適正があると言った方がええか。
 それに加えて、小柄な体格、短いリーチ。
 小僧にとって有利な距離、場所は、接近戦にある。

 対戦相手のほとんどは、その距離を避けようとするだろう。
 自分に有利な場所で戦いたいと思うのは自然じゃ。
 ゆえに、小僧は常に『相手を追いかける』姿勢を強いられる。

 ……永遠の挑戦者じゃ。


 汗を流す小僧。
 黙々と、ワシに言われたとおりの練習メニューをこなす小僧を見る。

 小僧が、この鴨川ジムの戸を叩いてから1年半ほどか。
 その限界を探るようにハードなトレーニングを課してきたが、まだ底が見えぬ。

 小僧の才能。
 努力し続けることのできる精神。
 そして、その努力に応え続ける身体。

 ……偏った才能よ。

 鍛えれば鍛えるほど、偏っていくように思える。
 時代遅れのボクサー。
 言葉を変えれば、少数派であり、希少価値。
 小僧という存在に、戸惑いを覚える可能性はある。

 ……じゃが、その先はどうなる?

 研究される。
 脅威を感じれば感じるほど、その対策を練られるじゃろう。

 じゃが、小僧には、なんでもはできん。
 できることだけ。
 高い適性を持つ、インファイターの戦い方だけ。 

 打ち勝つには、インファイターとして進化し続けるしかない。
 現状に甘んずることなく挑戦し続ける心。

 ……苦難の道じゃな。

 その進化が止まったときが、小僧の、ボクサーとしての死につながる。
 いや、その前に壊れる……か。

 ボクサーが、ボクサーでいられる期間は短い。
 長くボクサーであり続けたいなら、打たれてはならん。
 打たれずに打つのが理想じゃが。

 忌々しいことに、それを体現しておるのが速水よ。

 速水は、センスの塊じゃ。
 その才能を、きちんと努力で磨いておる。

 小僧の活路は、接近戦にしかない、が。
 接近戦にしても、技術の差は埋めがたい。

 その差を、作戦でいくらかは埋めるつもりじゃが。

 本音を言えば。
 今は、時間が足りん。


「小僧、次はミット打ちじゃ。リングに上がれ!」
「はい!」

 小僧の体格。
 小僧の骨格。
 小僧の筋肉。

 パンチがスムーズに出るフォーム。
 威力を引き出せるタイミング。
 それは、ひとりひとり違う。

 塊を、磨いていく作業。

「また、防御がおろそかになっておる!」

 ミットで小僧を張り倒す。

「はい!」

 返事はいい。
 素直でもある。

 じゃが、不器用じゃ。

「がらあきじゃ!」

 再び小僧を張り倒す。

「はい!」

 恨まれてもええ。
 憎まれてもええ。

 選手にとって一番ツライのは、負けることじゃ。
 勝つことが何よりの喜びよ。

 そしてそれは。
 ワシら指導者にも同じことが言える。

 勝ったときの、選手の顔。
 ただ、それが見たい。









『1R』


「……可愛げのない」
「会長?」

 リングの上の2人から視線をはずさず、八木ちゃんに説明してやる。

「小僧の目が狙われておる」

 小僧の破壊力を警戒したか、速水よ。
 徹底的に、リスクを避けてきおったか。
 アマの経験があるとはいえ、プロで3戦目のボクサーの試合運びではないわ。

 じゃが、後半勝負の目が出てきたわい。

 試合が長引くほど……『何か』を起こせる可能性は高くなる。
 むろん、小僧が何もできず……という可能性も高くなったがな。



 小僧が帰ってきた。
 うがいさせ、汗を拭く。
 目の腫れをチェック……むう。
 下手にアドバイスしても、小僧を混乱させるだけか。

「会長」
「なんじゃ?」
「鷹村さんの、僕のパンチがかすりもしないって言葉の意味がようやく実感できました。『当たるところまで届きません』」

 小僧の目。
 折れてはおらん。

「わかっておるな。このR、始まってすぐ、じゃ」
「……はい」
「これから、きつい展開になる。覚悟せい」


『2R』

 小僧が走る。
 速水の反応が遅れておる。

 はまった。

「行け!小僧ーっ!!」

 はじかれた速水の左手。
 崩れた体勢。

 拳に力がこもる。
 その拳を、リングにたたきつけた。

 さすがに、甘くないわ。

 顔ではなくボディなら……いや、いまさらじゃ。
 小僧にそんな器用な真似はできん。

「む?」

 速水の左。

 合点がいく。
 R最初の攻防で、おそらく痺れておる。

「……」

 今、小僧に別のアドバイスを送ったところで、混乱させるだけ。
 見守るしかない。

 しかし、速水の右。
 腹が立つぐらいに、多彩よ。
 あれでは、小僧にタイミングはつかめん。
 明らかに戸惑っておる。


 速水の左。
 回復したか。

 リングを広く使い出す。
 小僧が振り回される。


 速水が足を止める。
 小僧が飛び込む。

 拳を叩きつけていた。
 誘われた。

「会長!」
「心配ない。押し倒されたダウンじゃ……立つことはできる」

 しかし、鮮やかに迎撃された。
 鮮やか過ぎるほどじゃ。
 小僧の攻撃パターンの分析や予測はできているということか。


 ……ダウンを奪ってなお、小僧の目を狙ってきおるのか。

 徹底しておる。
 勝ちに対する執念を感じる。

 嫌な感じよ。
 こちらのやることが、ひとつひとつ潰されていくような。

 小僧が、顔を動かして速水を追うシーンが増えてきた。

「八木ちゃん。氷を用意してくれ。小僧の目がふさがっちょる」

 気休めじゃ。
 ……厳しい。

 ただ、そろそろ速水は倒しにくる。
 小僧のパンチが届く距離。

 相打ち狙い?
 ボディ?
 何ができる?

 当たるか?

 ワシは、小僧に無理を強いておるのか……?


 残り10秒。
 速水が小僧に襲い掛かる。
 小僧だけでなく、セコンドのワシらにも揺さぶりをかけておる。



「すみません、会長。フェイントに引っかかってしまって」
「しゃべらんでええ。まずは落ち着け、ゆっくりと息を吸え」

 焦るな。
 小僧を落ち着かせるのが先じゃ。
 そうせねば、アドバイスなど、耳に残らん。

 腫れた左目を冷やす。
 足のマッサージ。
 汗を拭く。

 小僧の呼吸が落ち着いていく。
 信頼されておる。
 応えねばならん。


「……ええか、良く聞け」

 速水は、死角から狙ってくる。
 まずは左手のガードをしっかりと。

 速水の追撃のリズムを思い出せ。
 ボディは単発で離れていく、追っても無駄じゃ。
 左手のガードに衝撃を感じたら、踏み込んで右のボディ。

 小僧が頷く。

 複雑な指示は無駄じゃ。
 左手のガード。
 そして右でボディ狙い。
 この2つ。

 それと、最後にひとつ。

 速水の足が止まったら、ボディではなく上を狙え。


 言いたいことはもっとある。
 伝えたいことも。
 それでも。
 送り出さねばならん。

「小僧、がんばれ」



『3R』

 2Rのそれをやり返された。

 いかん。
 ワシの指示が、小僧の頭から飛んでおる。

 後手後手にまわっておる。

 声を飛ばし、リングを拳で叩く。
 セコンドの存在。
 ワシの存在。

 それを思い出すことで、アドバイスもよみがえる。

 小僧のボディ。
 しっかりと見られた。

 口惜しいわ。
 こちらの対応を見て、手を変えてくる。
 なんでもできるボクサーの強み、か。


 小僧の顔がはね上がる。

 様子を見るように、もう一度アッパー。
 いかん、下からのパンチが見えておらん。

 小僧のひざが揺れる。
 決めにきた。

 届かない声。
 それでも、ワシは叫ぶ。

「小僧ーっ!」 



 小僧が立つ。
 あきらめておらん。
 あのアッパーをどうにかせねばならん。

 小橋。
 十字受け。
 あれなら、アッパーは防げる。
 しかし……。

 ええい、迷うな。



 再開。
 速水がくる。

 速水のアッパーを押さえた。
 拳を握る。

 距離をとり、速水の猛攻が始まる。
 ガードの上から、ラフに攻め立てて……。

 いかん。
 速水の狙いは、レフェリーストップ。
 なんと冷静な男じゃ。

「小僧ーっ!」

 退くな。
 手を出せ。

 そう、手を……。




「か、会長……今の?」
「……小僧のパンチをかわしてカウンターを狙っておった。その速水の動きを、レフェリーがふさいだ」

 ニュートラルコーナーで、小僧が肩で息をしておる。
 たぶん、わかっておらん。
 じゃが、このホールの微妙な雰囲気に、何か気づくかもしれん。

「……選手を勝たせるのがセコンドの仕事じゃ、八木ちゃん」
「ええ。しかし……」
「迷うな。小僧が勝つことだけを考えるんじゃ」
「……そうですね、わかりました」


 速水が立った。
 足がふらついておる。

 止めるか?
 続行か?


 なんじゃ?
 今、速水が……何か言うたか?

 レフェリーの表情。
 微妙な間。

 再開。

「ためらうな!行け、行くんじゃ小僧ーっ!!」


 小僧のダメージと疲労も相当じゃ。
 ここを逃すと、もう勝機はない。

 クリンチ。
 鍛えられておる。
 そして、忌々しいほど冷静じゃ。
 むしろ、小僧のほうに余裕がない。

 また、クリンチ。

「レフェリー!ホールド!注意して、注意!」

 八木ちゃんの声。

 速水はまだ回復しておらん。
 回復を待っておる。
 パンチは手打ちじゃ。

 じゃが、嫌な予感がする。

 足元を確かめる仕草。





「……ぁ」

 軽やかに。
 速水の足がステップを刻んだ。


 唇をかみ締めながら、ワシはリングに上がって小僧の下へと駆け寄った……。




「……え?……ぁ?」

 小僧が、顔を動かす。

 ……勝たせてやれなんだ。
 己の無力さを噛み締める瞬間よ。

「試合は終わったよ、一歩くん」
「……ぇ?」

 認識できておらんな。

「八木ちゃん。無理にしゃべらせんほうがええ」
「はい」








「鴨川会長、幕之内くんはどうですか?」

 少し話したが、小僧を高く評価していたことはうかがえた。
 そして。

「幕之内くんに伝言を」
「なんじゃ?」
「試合には勝ったが、パンチをもらったから、勝負は俺の負けだ、と」
「ふん、ぬかしおる……」

 ……手玉に取られた。
 あのダウンも、事故のようなもの。

「小僧の、そしてワシらの負けじゃ。ミスもあったが、付け入る隙がなかったわい」

 付け入る隙がなかった。
 それが、ワシの本音。
 そして、『ミスもあったが』という言葉は、強がりよ。

「今日は、ですよね?」

 顔を上げる。
 速水を見る。

 煽りよる。
 それとも、小僧に、何かを感じたか。

 期待には、応えてやらねばならんな。

 ぐっと、拳を握る。

「ああ。今日は、じゃ」


 去っていく速水龍一の背中を見送る。


 また、一から出直しじゃ。
 出直しじゃが……。

 小僧の新人王戦は、これで終わりじゃ。
 宮田の件は残念じゃが、しばらくはゆっくりと休め、小僧よ。

 あらためて、小僧を見た。
 速水に散々打たれて、腫れた顔。

 時間をかけて、顔を腫らすことなく勝てるボクサーに鍛えてやるわ。



速水龍一の認識と、周囲のずれを楽しんでいただけたならいいのですが。

もう、予約投稿はしてません。
第二部の再開まで、しばらくお待ちください。

なお、昭和の終わり頃から平成はじめの(日本)ボクシングジョーク。

解説1:「〇〇選手の世界王者への挑戦、残念な結果に終わりました」
解説2:「ええ、東洋に敵なしと言われた〇〇選手でしたが、世界の壁は高かったです」
解説1:「しかし、半年後に〇△選手の世界挑戦の話があると聞きましたが?」
解説2:「そうです。〇△選手も、東洋に敵なしと言われています。期待したいですね」

〇〇選手と〇△選手は、『同じ階級』の『日本人』の選手です。(震え声)
東洋に敵なしとはいったい……。

安易な世界挑戦(そして敗退)が相次ぎ、世界挑戦は最低でも日本王者を獲ってからという『暗黙のルール』ができたのもこの時代だと聞いてます。
とにかく、勝てる相手との試合を組み、無敗のボクサーが多かったとか。
原作で、強敵とも試合を組む鴨川会長のマッチメイクが『強気』と評される背景でしょう。


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