速水龍一で始める『はじめの一歩』。 (高任斎)
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プロローグ。
01:道。


ついカッとなって書いた。
反省も後悔もしていないが、最終話までの筋道が見えないことを後悔している。


「息子が学校で虐められている」

 

 知人が漏らした言葉に、グラスに伸ばしかけた手が止まった。

 困惑しつつ視線を向けたが、知人はじっと自分のグラスを見つめているだけだ。

 その横顔からは、私に相談したいのか、それともただ聞いて欲しいだけなのかを察することができなかった。

 

 いじめ、か。

 どこかで聞いたような対応策がいくつも浮かぶ。

 浮かぶのだが、その程度のことは私がアドバイスするまでもないだろう。

 私も、知人も……いい大人だ。

 

 いや、いい大人だからこそ……自分たちの経験が、今の子供たちの役に立たないことを良く知っている。

 自分の子供時代を振り返れば、『子供が純粋な存在』などとは口が裂けてもいえない。

 子供なりに、社会のゆがみに触れ、大人の弱みを知り、いつだって周囲を出し抜こうとしていた。

 そして、今は……あの頃よりも、大人の立場が弱い。

 それは、相対的に子供が強くなったことを意味する。

 

 悪いことをした子供を叩けば事案発生だ。

 叱るだけでも事案発生。

 話せばわかると言う者もいるが、言葉に対して銃弾が撃ち込まれるのが人間社会というものだ。

 そして、子供は、子供だからこそ、相手の弱点を無邪気に、無慈悲にえぐってくる。

 

「それで……理由はわかってるのか?」

 

 私の問いに、知人はただグラスを傾けた。

 そしてポツリと。

 

「名前だとさ」

「名前?」

「子供たちの間で人気の、アニメだか漫画だか……その悪役の名前が、うちの息子と同じなんだとよ」

 

 眉をひそめる。

 名前がきっかけなのか、それともただの口実なのか。

 しかし、そういうことではあるまい。

 

「あいつの将来を願って、妻と一緒に精一杯考えた名前だったんだがな……泣きながら『なんでこんな名前をつけたんだよ』って言われると、こたえるなぁ……」

 

 ……かける言葉が見つからないというのは、こういうことを言うんだろうな。

 

 グラスに手を伸ばし、傾けた……が、のどを通っていかない。

 仕方なく、そのままグラスを戻す。

 

 悪役、か。

 私にも、覚えがある。

 まあ、悪役ではなく、やられ役というか、かませ犬、か。

 

 私の名前は、龍一。

 速水龍一、という。

 どこにでもいそうな、それでいて、ちょっとばかり格好いいと思える名前だ。

 

 速水龍一。

 それは、20年以上昔、ちょっと話題になった名前。

 そして最近、また少し話題になった名前。

 ある人気作品に出てくる、登場人物の名前。

 

 知人に教えられて、数年ぶりに読んだが……心がざらついた。

 いい大人でさえそう思うのだ、子供ならなおさらか。

 おそらく、創作物における『実際にはいそうもない名前のキャラクター』というのは、このあたりのことを考慮しているのかもしれない。

 酒を飲むでもなく、ただそんなことを考えていた。

 

 

 

 知人と別れ、夜の街を歩く。

 何気なく……ふっと右腕を振ってみた。

 

『ショットガンやってくれ』

 

 大学時代、何度も聞いた言葉。

 私の名前が『速水龍一』だからって、いつの間にか、宴会芸になってたんだよなあ。

 もちろん、ボクシングの構えを取ってから、缶ビールに穴を開けて『ショットガン飲み』だけどな。

 まあ、さすがにもうあんな若さに任せた飲み方はごめんだが。

 もちろん、みんながみんなそのネタがわかるわけじゃない。

 そしてまた、『速水龍一』という名前のネタが説明される。

 私は、それをおとなしく聞くしかなかった。

 

「速水龍一、か」

 

 主人公のために用意されたやられ役。

 挑戦し、打ち倒すための、レベルの高い、本来なら勝てるはずのない、主人公にとって都合の良いかませ犬。

 それで終わったはずだった。

 日本王者を争う舞台で再登場したのはいいが、ただ残酷な結末だけが示された。

 今度こそ終わったと思った、思っていた。

 それが再び、作品に登場して……ボクシングの残酷さを表現するために、都合よく使い捨てられるのか。

 

 もう一度、左手を振り、返しの右。

 うん、全然だめだな……。

 名前のせいで、ボクシングに興味を持ったからこそ……それがわかる。

 

 速水龍一でありながら、私は野球少年であり、高校球児だった。

 もしも、私がボクシングをやっていたらどうなっていたやら。

 まあ、インターハイを優勝するなんてことはできなかっただろうな。

 そして、『速水龍一なのにボクシング弱い』とか言われたか。

 

 これは、親の七光りに近い感覚なのかもしれないな。

 逃げても親の名は追いかけてくる。

 ならば乗り越えるしかない。

 強くなるしかない。

 周囲を黙らせるほどに。

 

 その強さをどこに求めるか……の選択だ。

 

 知人のことを思った。

 知人の息子は、ある意味、今が正念場だという気がする。

 誰かに助けを求めるというのも、ある種の強さだ。

 転校を選択するのも強さ。

 独りでいられるのも強さ。

 

 強さにも、種類がある。

 そして、何かを選ばなければならない。

 

 

 少し、酔っているのかもしれないな。

 自分の中の青い部分。

 若さとは言い切れない何か。

 私は、死ぬまで速水龍一だ。

 その名前を背負って、生きていく。

 

 信号が青に変わり、私は歩き始めた。

 

 まぶしい光。

 クラクション。

 

 私の死。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……うむ。

 

 唐突に記憶がよみがえった。

 子供時代から人生をやり直しってわけじゃなさそうだ。

 なんせ、両親の顔が違うし、下の名前も違う。

 生まれ変わりというやつだろうか。

 

 なのに、私の名前は速水龍一だ。(震え声)

 

 混乱した。

 そして、猛烈にいやな予感を覚えた。

 スマホを探そうとした自分に気づき、舌打ちする。

 前世の記憶、そしてどこか曖昧な今世の記憶をかき分けるように思考する。

 残念ながら、ネットがない時代だ。

 子供が情報を集める手段は、テレビと新聞ぐらいしかない。

 新聞を探す。

 スポーツ欄をめくる。

 

 ボクシング。

 ボクシングはどこだ。

 

 昨日は試合がなかったのか、それとも単に試合結果が載ってないのか判断がつかない。

 そういえば、タイトルマッチでもない限り、結果が記載されないこともざらだった気がする。

 

 電話帳の存在に思い至るまで、しばらく時間がかかった。

 探せ、探すんだ。

 

『鴨川ジム』を。

 

 ここが『はじめの一歩』の世界で、私があの『速水龍一』だとすれば、速水龍一は、主人公のひとつかふたつ年上だったはずだ。

 だとすると、今は原作が始まる10年と少し前というところか?

 確か、鴨川ジムは20年の歴史があった気がする。

 ならば、今もあるはずだ。

 

 ただ、名前だけでは、それが私の知る鴨川ジムなのか、同名の鴨川ジムなのかはわからない。

 名前からして、会長も鴨川なんだろうけど、名前が源二なら覚悟をきめたほうがいいだろう。

 前世の記憶もちで、生まれ変わりで、時代が逆行とか、この時点で常識は投げ捨てるほうがいい。

 

 人生という名の現実ってやつは、いつだって想像の斜め下をぶっ飛んでいくものだ。

 

 電話帳をめくりながらふと思った。

 

 鴨川ジムって、東京都にあったんだったっけ?

 

 電話帳を見る。

 自分の、私の家族が住む家の住所を思い出す。

 いかん、深呼吸でもして落ち着こう。

 大きく吸い、時間をかけてゆっくりと吐き出す。

 それを、繰り返す。

 

 鴨川ジム、そして音羽ジムか。

 間違いなく、首都近郊だろう。

 東京、神奈川、千葉……あたりか。

 少なくとも、一歩の家は海からそれほど離れてはいない。

 

 電話帳で直接調べるのは無理だ。

 家の近くのボクシングジムを調べ、そこで日本プロボクシング協会だか連盟の連絡先を聞いて、鴨川ジムの代表者の名前を聞けば……。

 まあ、まだプライバシー保護なんて言葉が希薄な時代だ、なんとかなるだろう。

 

 いや、落ち着け。

 それを知ってどうする。

 私は、私だ。

 この新しい人生で、今度こそプロ野球の選手になるという夢をかなえたっていいじゃないか。

 

 仮にこの世界が『はじめの一歩』の世界であったとして、私があの『速水龍一』だとしたらだ。

 ボクシングの世界に足を踏み入れたところで、鳴り物入りでデビューしたのはいいが、ビッグマウスを叩きながら一歩に負けて……ああなって、こうなる。

 

 ははは。

 

 一撃で肋骨を持っていく殺人パンチに相対しろと?

 沢村みたく、顔面の形を変えられろと?

 デンプシーロールの餌食になれというのか?

 

 ああ、『速水龍一』とやるときは、まだそこまでいかないのか。

 間柴の肘をオシャカにする程度だよね。

 そして、『速水龍一』のアゴをぶっ壊す程度。(白目)

 

 ここはひとつ、主人公(いっぽ)の活躍を遠くからお祈りさせていただくということで、ファイナルアンサー。

 私、速水龍一は、野球少年として少年期を過ごすことにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あかん。

 この身体、野球にむいてない。

 

 子供の頃からなんとなくそうじゃないかとは思っていたが、この身体、運動神経は良いし足も速いが……中学1年の夏で成長が止まり、どうも身長が170センチを超えないことがはっきりした。

 確かに、父親も、母親も、そろって背が低い。

 そして、前世に比べて筋肉があまりつかない。

 前世も含めて、日本ではほとんど情報が流れないが、人間の身体は生まれた瞬間に筋肉量の上限が定まる。

 そして、努力で上限に近づけることができるが、上限そのものは変わらない。

 これは、1980年頃には欧米のスポーツ界では常識に近いものだった。

 まあ、だからこそドーピングなんてものが生まれたわけだが。

 ドーピング違反に対してのコメントが、欧米では『ルール違反、スポーツの定義が乱れる』というものが多いのに対し、日本では『ずるい、卑怯』というコメントが多くなる。

 

 日本では、筋肉がつかないのは、『努力が足りないせい』という考えが主流だからだ。

 対して、欧米におけるスポーツ思想の根底には『優れた遺伝子の選別』という考えがある。

 そして、だからこそ、ドーピングが禁止されている。

 

 あと、遅筋と速筋の割合も生まれたときに決まってしまう。

 要するに、生まれた瞬間、筋肉の資質で向いている競技と向いてない競技が決まっている。

 もちろん、筋肉の質だけですべてが決まりはしないが、大きな要素であることは間違いない。

 海外では運動能力に優れた子供に検査を受けさせ、それから競技を選択させるなんて事もある。

 日本も一部ではやっているだろうが、報道はされない。

 

 私は努力の大切さを知っている。

 しかし、それを盲信はしない。

 

 

 

 

 

 

 そして中学3年、私は野球に決別を告げた。

 現時点では、そこそこいい選手と評価されているが……すでに伸びしろがほとんどないのがわかったからだ。

 というか、前世のほうが選手としては間違いなく上で、先は望めない。

 どうせスポーツをやるなら結果を残したい。

 

 身長が低く、速筋が多め……柔道もレスリングもだめだろう。

 

 目はいい。

 反射神経も優れている。

 

 何気なく、右手を振る。

 涙が出そうになった。

 

 左、そして返しの右。

 

 ステップを踏む。

 足でリズムを刻み、手を出す。

 もちろん、素人の動きだ。

 素人の動きなんだが……これだけの動作で、野球よりもはるかに『向いている』のがわかってしまう。

 まるで、世界が私にボクシングをやれと言っているかのように。

 

 

 その夜、デンプシーロールでリングの外に吹っ飛ばされる夢を見て目が覚めた。

 汗が冷たい。

 呼吸が荒い。

 

 まだだ。

 まだ、この世界が『はじめの一歩』の世界と決まったわけじゃない。

 だって、あれから調べてないから。

 つまり、シュレディンガーの世界なんだよ。(震え声)

 

 汗を拭き、シャツを着替えて寝なおした。

 夢は、見なかった。 

 

 

 

 

 数日後、世界が容赦なく私に現実を突きつけてきた。

 

 伊達英二の世界挑戦が決定したというニュース。

 もちろん、相手は『リカルド・マルチネス』だ。

 場所は、メキシコ。

 

 ……うん。

 間違いないな。

 そう、なのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分の部屋で、鏡を見た。

『速水龍一』の顔を見る。

 

 ははは。

 好みは分かれるだろうけど、イケメンですね、この野郎。

 

 私が速水龍一である限り、前世の記憶が追いかけてくる。

 これは、私自身が乗り越えなければいけないことなんだろう。

 

 逃げても無駄だ。

 そして、前世の記憶なんてネタ、相談する相手はいない。

 私だ。

 私が乗り越えなければいけない壁だ、これは。

 

 

 ははは。

 やったるわ。

 

 スポーツの世界に背を向けるぐらいなら、ボクシングをやる。

 過信はしないが、才能があるだけでもラッキーと思おう。

 大口を叩いて結果を残し、ファンの女の子にキャーキャー騒がれてやろうじゃないか。

 そこにたどり着けないなら、所詮私はやられ役にもなれない偽者なんだろう。

 

 

 目を閉じ、主人公を思う。

 殺人パンチ。

 デンプシーロール。

 練習が、特訓が、すべて血肉になっていく、才能の化け物。

 

 

 

 ……骨を強くしないと。

 ガムをかんで、地道にアゴを鍛えなくちゃ。

 

 それと、プロになるまで、食事制限は控えたほうがいいか。

 

 人が摂取した栄養素はまず生命活動のために使われ、余剰エネルギーを身体の成長へとまわす。

 身長は伸びなくとも、筋肉や骨の成長は続く。

 その時期に栄養を十分に摂取しないと、当然弱くなる。

 アマチュアとはいえ、高校生の時期にきつい減量をするのは、影響が大きいと思う。

 

 

 

 電話帳を開く。

 家から通える、ボクシングジムを探す。

 

 私……いや、俺の、速水龍一の、『はじめの一歩』を踏み出そう。

 




いつものような、完結まで毎日更新、というのはできません。
というか、まだ終わらせ方とか何も考えてないの。(震え声)

2話が書きあがったので、1時間後(19:30)に投下予約入れておきます。


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02:原作まであと何マイル?

一歩と戦って、そこがエンディングでいいんじゃないかなという気がしてきた。(白目)
あと、ボクシングの階級の呼び名や、大会の状況は、原作の1990年前後を想定してますが、うろ覚えなので『現在』や『過去』と色々混ざってると思いますがご了承ください。


 両親に心配された。

 まあ、普通はそうか。

 ボクシングと言えば殴り合いで、この世界でも、日本のボクシング熱はすでに冷めている。

 世間の認知度も低い。

 そこを、利用する。

 

「父さん、母さん。ボクシングといっても、プロじゃなくてアマチュアの話だよ」

 

 父親譲りの甘いマスクで、さらりと言葉をつむぐ。

 嘘じゃない。

 ただ、誤解を招く言い方なだけ。

 

 許可が出たのは、両親がちょろいのか、それとも息子への愛情か。

 

 うん……ひとつ、枷をはめようと思う。

 高校の3年間で、インターハイで優勝できなければボクシングをやめる。

 これは、自分との約束。

 そして、自分なりの覚悟。

 

 

 

 さて、どのジムに入門しようかと思ったところで、首をひねった。

 

 そもそも、地元でもないのに、一体どういう流れで、速水龍一(おれ)は音羽ジムに所属することになったんだろう?

 

 原作の音羽ジムを思い出す。

 そういえば、ヴォルグもあそこだっけ?

 そして、板垣のライバルも……。

 

 有力選手を契約金つきで所属させるってスタンスか?

 インターハイで優勝して、音羽ジムに呼ばれたって感じなのか。

 

 それって……今から入門しようとするジムに、後ろ足で砂をかけるようなことになるのでは?

 

 原作ブレイクをしたいのだが、原作ブレイクしてないか不安になる。

 なんだろう、このもどかしいような矛盾感は。

 

 もう一度、ジムを見る。

『練習生募集』の『練習生』って、プロじゃないんだよな。

 ジムに会費を払って、ボクシングを教えてもらったり、施設を利用したりする。

 逆に、プロは会費が必要じゃないが、ファイトマネーの一部をジムがとるわけで。

 とすると、プロを所属させない、練習生だけのジムもあるのか。

 

 うん。

 入門して、高校にいって、インターハイを勝ってから考えよう。

 音羽ジムに誘われないようではだめ、と。

 

 

 

 まずは、現状のサイズ。

 

 身長168.1センチで、中学1年の夏から2ミリ伸びたが、誤差だな。

 体重はナチュラルで53キロ。

 プロだと黄金のバンタムで……アマチュアもバンタム、少し絞ってフライ級か。

 まあ、まだ成長期だ。

 原作ではフェザー(57.1キロ)で、後に1階級落としてたからな。

 

 何はともあれ練習だ。

 

 

「……変わってるな、お前」

 

 せっせと腹筋をしていた俺に、会長が声をかけてきた。

 休まず、言葉を返す。

 

「何がです?」

「いや、初心者は大抵、サンドバッグとか叩きたくなるもんだが」

「最近まで野球少年でしたから。まだ、ボクサーの身体になってないのに、意味ないでしょう。まずは身体作りですよね」

「……かわいげのないガキだなあ」

 

 そう言って、会長が苦笑を浮かべた。

 

 まあ、プロ野球選手に農作業をさせたら、1時間たたずに根を上げたという話もある。

 老人が平然と作業を続けているのに、だ。

 そのスポーツに必要な筋肉というか、身体というのがあるのだ。

 基礎工事をせずに家を建てようとしても意味がない。

 ただでさえ体重制限のある競技だ、無駄な筋肉の存在が許されるはずもない。

 

 短期と長期の目標を定め、努力する。

 いつものことだ。

 

 

 

 

 秋が過ぎ、冬が来る。

 

 自分の身体を鏡にうつしてみた。

 

「野球選手の身体じゃなくなってきたなぁ……」

 

 シャープな身体。

 特に意識してはいなかったが、体重が少し落ちた。

 野球に必要な筋肉が減って、今の俺の身体は、素体とでもいうべき状態か。

 ここに、ボクシングの肉がついていくのだ。

 いや、すでに太ももやふくらはぎには兆候が出ている。

 野球選手のそれとは違う、ボクサーの太ももとふくらはぎだ。

 野球選手の太ももは、ストップアンドゴーに耐えられるように、太く成長していくことが多い。

 ふんばる、勢いをとめるなど……下り坂で止まろうとすると、太ももの前部分に力が入るが、その能力が必要とされるからだ。

 まあ、ボクサーの場合は、タイプによって変わるんだろうが……主人公の一歩のアレは極端な例だといえる。

 

 俺は俺だ。

 またちょっと走ってくるか……。

 

 

 

 2月。

 伊達英二が、メキシコのリングに沈んだ。

 傷心の帰国。

 引退からの、カムバック物語の序章か。

 

 

 何かが、背中に迫ってくるような圧迫感。 

 意味もなく、後ろを振り返る。

 

 あの日。

 はじめの一歩を踏み出した俺の背後には、まだ道と呼べるようなものはない。

 

 前を向く。

 人間の身体は、前に向かって歩くようにできている。

 前に進むしかない。

 

 地元の、ボクシング部がある高校の選択肢は多くなかった。

 俺が思っていたよりも、アマチュアボクシングの競技人口は少ない。

 おそらく、選手間のレベル差は大きいだろう。

 出回る情報も少ない、か。

 

 原作で、俺はどの高校に進んだのか。

 原作ブレイクするための道は見えない。

 それでも、ただ前へ。

 俺は、歩いていく。

 

 

 

 

 

 

 モノが違うとはこういうことか。

 

 アマチュアの1Rは2分。(シニアルールは3分)

 3R6分間。

 俺は、先輩に一度も触れさせなかった。

 速度が違う。

 反射神経も違う。

 やらなかったが、先輩のパンチを見て、それをパンチで叩き落とすこともできた。

 

 次の日、先輩はボクシング部をやめた。

 かけるべき言葉はない。

 振り返ることもしない。

 前へ。

 ただ、前へ。

 

 誰かを蹴落としていくのは、ボクシングに限ったことじゃない。

 

 

 

 ルールが違えば、セオリーも変わる。

 競技の骨格を成すのはルールそのものだ。

 

 いわゆる、アマチュアルール。

 グローブの有効部分を、相手選手の有効部位にヒットさせるポイント制。

 もちろん、ダメージによるノックダウンはある。

 パンチが当たったかどうか、有効か無効か、それらを審判が判定する。

 認められなければポイントにならないし、認められればポイントになる。

 ダメージではなく、審判に認められやすいパンチの打ち方……それも技術だ。

 

 ただ当てるだけの速いパンチ。

 ダメージを与えるパンチ。

 虚と実。

 アマチュアボクシングがテクニック重視といわれる所以か。

 

 逆に、ポイントとして認められないが、ダメージを与える部位がある。

 ポイントにならないからと、防御が甘くなりやすい場所。

 

 どんな競技であれ、大事なのはルールを熟知することだ。

 ルールがセオリーを作る。

 長所も短所も、ルールが作る。

 

 そして、人を知ること。

 人は人であることに縛られる。

 

 俺は、試合を通じてボクサーを学習していく。

 言動、挙動、その傾向を学んでいく。

 追い詰められたとき、どう動くか。

 チャンスと思ったとき、どう動くか。

 弱いパンチにどう反応する?

 強いパンチは?

 当てが外れたとき。

 

 1Rで終わらせるなんてもったいない。

 学ばせてくれ。

 じっくりと見せてくれ。

 俺に、ボクサーを教えてくれ。

 

 県大会から、俺はすべてフルラウンド戦ってきた。

 ボクシングをなめているわけじゃない。

 試合でしか得られない経験を、貪欲に吸収したいだけだ。

 弱い相手も。

 強い相手も。

 学ぶべきところがある。

 

 それが、勝負をなめているというのならそれでもいい。

 それをねじ伏せてでも、俺はあの場所へとたどり着く。

 主人公が待つあの場所へ。

 

 

 

 最終R、ポイントは俺がリードしている。

 連打で相手を防御させる。

 さあ、ジリ貧だ。

 どう打開しようとする?

 

 目の色が変わる。

 ガードを固めて突っ込んできた。

 

 そうか。

 お前もそうか。

 じゃあ、いいや。

 

 左のショートアッパーでアゴをかち上げ。

 緩んだガードの隙間に、右のパンチを叩き込む。

 

 インターハイを制したとき、俺の連打は『ショットガン』と呼ばれるようになっていた。

 

 

 

 

 

 夏休みが終わり、ボクシングなんて興味ないって顔をしてた女子生徒が寄ってきた。

 校舎にかかる垂れ幕のせいか、それともテレビのニュースのせいか。

 どちらでもいいが、現金だな、と苦笑したくなる。

 

 まあ……この連中が離れるような試合はできないってことだ。

 まずは勝つ。

 その上で、求められる何か。

 先は遠い。

 

 それでも、今の俺の後ろには……ほんの少し道ができただろうか。

 その道を延ばすためにも、次は国体だな。

 1年でインターハイを勝った以上、高校6冠が目標だ。

 

 しかし、選抜大会は……この時代はなかったのか?

 なんか、高校8冠が最大だった気がするが……。

 全日本アマ選手権って、高校生が出られなくなったのはいつからだったっけ?

 あんまり深く考えないほうがいいか。

 

 

 

 国体少年男子。

 

 2年のインターハイ。

 

 国体少年男子。

 

 3年のインターハイ。

 

 大きなグローブにヘッドギア。

 アマチュアの試合で、ダウンは多くない。

 だからこそ、観客の目を奪う。

 相手を倒せる選手には、注目が集まる。

 

 そして俺は、倒せる選手だ。

 

 マスコミには大口を叩いて話題を提供する。

 ファンの女の子にはリップサービスを。

 男性客には、興奮と熱狂を。

 

 原作の、速水龍一の気持ちがわかるような気がする。

 こうして見回しても、リングを見つめるのは、競技関係者ばかりだ。

 参加している選手と、応援に来ている部員や、教師を含めた保護者。

 一般のファンは、おそらく数える程度だろう。

 それらは熱心なファンであり、熱心なファンしかいないのが実情だ。

 

 どこか閉塞感さえ感じるこの世界を、外へと押し広げたいと思う。

 そのためには、話題だ。

 話題性だ。

 安っぽい言葉だが、スター性。

 それを求めたのが、速水龍一という男だ、きっと。

 

 甲子園の観客に及ぶはずもない。

 それでもだ。

 

 声を上げてくれ。

 拍手をしてくれ。

 俺を見てくれ。

 俺は。

 

 速水龍一だ。

 

『ショットガン』コールに包まれ、俺は決勝の相手をリングへと沈めた。

 

 

 

 

 音羽ジムの会長が声をかけてきた。

 まあ、最初に声をかけられたのは、1年の国体のときだったが。

 すでに、高校卒業後にお世話になることが決まっている。

 

 契約金は秘密。

 

「無敗の王者、速水龍一のプロデビューのプランのためにも、国体も勝ってくれ」

「デビューに関係なく、負けるつもりはないですよ」

「はははっ、本当なら今すぐにプロデビューさせたいところだがな」

「スポンサーの要求ですか?」

 

 俺の言葉に、音羽会長がにやりと笑う。

 野球もそうだったが、ボクシングもなかなかに闇が深いというお話だ。

 

 たとえば、俺が高校6冠を達成して、どこか地方のボクシングジムに所属したとしよう。

 まず、デビュー戦ができない。

 なぜかというと、ジムの指導者の立場になって考えてみてほしい。

 

 自分の教え子には勝ってほしいと思うのが普通だろう?

 

 つまり、普通は……勝ち目の薄い対戦相手とは試合を組ませない。

 強い自分に勝ち目があるのは、当然強い選手だ。

 じゃあ、その強い選手を、強い選手にぶつけたいと思うか?

 強い選手は、そのジムにとって金の卵だ。

 最初は、特にデビュー戦は、手ごろな相手をと思うのが普通だろう。

 でも、その手ごろな相手はこちらを敬遠する。

 強い選手にとって、前評判の高い選手にとって、手ごろな相手とは試合が組めないってことになる。

 どんなに強くても、1人で試合はできない。

 対戦相手が、うんと頷かなければ、試合はできない。

 試合を承諾してくれるボクサーは、何かわけありの選手に限られてくる。

 

 少し補足すると、プロボクサーが現役でいられる期間は短い。

 そして、負けたボクサーは出場停止期間が設けられ、しばらく試合を行うことができなくなる。

 不幸な事故を減らすためのルールだが、負けるということはそれだけ現役でいられる期間が削られることを意味する。

 強い選手を負けさせる、そのリスクは一般人が思っているよりも重いものだ。

 

 じゃあ、どうするかって言うと、最後は金だ。

 高額のファイトマネーを提示して、転んでくる選手を探すのだが、今の日本ではそういう選手は希少種だ。

 そして、最後の最後の手段が、金で、海外から相手を引っ張ってくるというものだ。

 これは、ファイトマネーに加えて、渡航費用と宿泊費なども負担する必要がある。

 もちろんそこに至るまでの交渉にかかる費用を含めればさらに金額は跳ね上がる。

 

 ちなみに、日本のC級ボクサーのファイトマネーが数万円という相場だ。

 それだけで、海外から人を呼ぶという行為がどれほど割に合わないか理解できると思う。

 しかし、そうしないと試合が組めないのならそうするしかない。

 対戦相手が外人ばっかりという戦歴の裏には、日本人の相手が見つからないからというケースもある。

 

 さて、地方の弱小ジムにそんなことができるかと言うと、金銭面や人脈の上でも不可能だ。

 ほかにもいろんな要素があるが、アマチュアで結果を残した選手は、有力ジムに所属するしかないというのが実情のようだ。

 あるいは、途中で有力ジムに移籍する、とか。

 

 俺は、まだプロライセンスも持っていないのに、すでにデビュー戦の相手を海外で物色しているそうだ。

 スポンサーであるテレビ局が、デビュー戦から追いかけることも決まっている。

 ボクシングの試合というより、『速水龍一』という商品を売り出すためのプロジェクトだ。

 それが、水面下で始動している状態。

 

 負けるわけにはいかない。

 俺が負けたら、すべてがパーになる。

 

 

 ……うん。

 

 これ、原作どおりなんだよね?

 こんな重圧の中で、速水龍一は戦ってたんだよね?

 

 ははは、燃えるぜ。(白目)

 

 

 

 そして俺は、高校最後の国体も制して、高校6冠を達成した。

 公式戦は、41戦41勝、無敗。

 

 原作が、ようやく見えてきた。

 




とりあえず、次話の更新は未定。

7月になれば、ネカフェに寄れる機会が増えるとは思うんですが、わかりません。


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新人王戦編。
03:デビューの裏で。


今日から、幕之内一歩との試合まで、毎日更新です。(予約済)
あと、伏線とはいえいやな部分だけリアルにしていくスタイル。(震え声)


 卒業式より先に、音羽ジムに通える場所に引っ越した。

 もちろん、独り暮らしだ。

 そして、お世話になる就職先への挨拶。

 引越し先の保証人から全部、音羽ジムの会長が引き受けてくれたことだ。

 

 引越しの様子とか、就職先への挨拶とか、テレビカメラが回ってたけどな。(震え声)

 

 決められたレールの上を走りたくないなどと、ロックなことを言える雰囲気じゃない。

 というか、本音を言うとすごく楽。

 主体性がないなどといわないでほしい。

 やるべきことが決まっている。

 それが、どれだけ恵まれた環境であるかはいうまでもない。

 

 まあ、いくらカメラを回そうと、その映像が日の目を見るかどうかはすべて俺次第だ。

 負ければ、当然パーになる。

 テレビの番組なんてそんなものだろうと思うことにした。

 

 

 さて、本当なら、3月にもデビュー戦というスケジュールだったんだが、何かの事情で流れた。

 なので、新しい仕事や生活に慣れつつ、俺はじっくりと音羽ジムで汗を流す日々が続いた。

 

 アマチュアでの経験は多いが、ある意味で楽な試合が多すぎた。

 身体も、心も、極限状態での戦いを経験していないのはマイナスだ。

 俺の提案に、会長が頷いてくれる。

 スパーの相手に困らないのはうれしいが、デビュー前の新人に、A級ボクサーを連れてくるのはいいんだろうか?

 戸惑ったが、これは会長の判断が正しかった。

 普通に戦える。

 そういえば、板垣のライバルの今井も、日本王者の一歩にスパーを頼んでたっけ。

 まあ、A級ボクサーもピンキリだが。

 

 慣れてくると、自分自身に追い込みをかけていく。

 マスクをつけたままダッシュを繰り返し、呼吸が整わない状態でそのままスパー。

 疲労と、酸素不足で思考能力が鈍った状態で戦う。

 足が動かない状態、手があがらない状態。

 相手の攻撃をいなし、回復するための手段、テクニック。

 学習し、慣れ、乗り越えていく。

 

 

 夏になり、ようやくデビュー戦の相手が決まった。

 試合は10月。

 正直、待たされたという気分。 

 

 でも、原作世界の裏を知ってちょっと興奮した。

 

 俺の場合、アマの実績を加味してB級からスタートすることも可能だったのに、その話がいったん流れて……1年あけてC級からスタートで、新人王ルートを選択することになった。

 なぜかと言うと、伊達英二の復帰があったから。

 引退からの復帰、そして鮮やかな勝利。

 前回の世界挑戦の縁もあってか、世界再挑戦プランがテレビ局のほうで企画にあがったからだ。

 

 まあ、俺と同じフェザー級だからね。

 企画がぶつかっちゃったわけだ。

 そのしわ寄せが、俺のデビュー戦を含めたスケジュールにやってきたと。

 

 つまり、伊達英二が世界に挑戦するために日本チャンピオンを返上、空いた王座に俺が挑戦する(もちろん、俺がひとつ負ければパー)というスケジュールを組みなおされたわけだ。

 原作における、主人公の一歩が、伊達英二に挑戦して……あれは、本来なら余分な試合だったといえる。

 返上された王座を、ランキング1位の選手と2位の選手と争う……そこに、主人公の一歩ではなく『速水龍一』が入るというのが、現状における企画のスケジュールになる。

 

 仮に、伊達英二が復帰していなければ……俺は、B級ライセンスを取得し、3月にデビュー戦を行って6回戦からキャリアを開始していたことになるんだろう。

 デビュー戦が流れたのは、6回戦デビューの予定が、4回戦デビューになったかららしい。

 

 まあ、世界王者に挑戦するってのはきれいごとだけじゃすまない。

 年に2試合しか試合をしない王者なら、2年前からのスケジュールの調整が必要になるし、話を進めても王者が交代すれば全部パーだ。

 

 世界タイトルを日本でやろうとしたら、相手選手のファイトマネーはもちろん、会場の手配やらその他を、主宰のジムがやらなきゃいけない。

 その金銭面の負担や、会場手配のノウハウを持っているのがスポンサーのテレビ局。

 

 つまり、原作で一歩が伊達英二に勝ってたら……スポンサーは頭を抱えてただろうね。

 主人公らしいと言えば主人公らしいけど、俺と伊達英二の企画を二つまとめてぶっ潰したことになってただろうから。

 おそらくあの試合は、伊達英二のわがままから来たものだろうし。

 

 

 うん、まあ、終わったことというか、決まったことだ。

 俺は、勝って前に進むしかない。

 少なくとも俺は恵まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 10月。

 俺の、速水龍一のデビュー戦。

 タイから呼んだ選手だ。

 正直、戦績なんてあてにならないが、3戦して3勝らしい。

 

「……」

 

 テレビ局のクルーが何か言ってるが無視した。

 リングのこの位置で、右で倒してくださいとかふざけるなって話だ。

 リングの上は、ボクサーの場所だ。

 

 

 リングに上がって最初に思ったのは、『深い』という言葉だった。

 すり鉢状の、深い底。

 原作で使われた『海の底』という表現が、俺の中でうまくかみ合った気がした。

 ここが、後楽園ホールか。

 観客ではなく、選手として感じる舞台。

 アマチュアの会場とは大違いだった。

 確か、満員で3000人収容だったか。

 どの席からもリングが良く見えそうだ。

 

「「「速水くーん!」」」

 

 黄色い声援に、手を振って応えておく。

 最初の印象はともかく、今ではその応援がありがたいと思える。

 俺を見るために、俺のボクシングの試合を見るために、時間と金を費やして、この後楽園ホールに足を運んでくれたファンの女性。

 

 彼女たちが抱いているのが幻想だったとしても、その存在は、俺が歩んできたことによってできた道の一部だ。

 

 まあ、努力するのは当たり前だ。

 そして、努力を感じさせないのが、プロか。

 ファンに夢を抱かせるのが、スターか。

 

 俺の、速水龍一の道を、また一歩。

 まあ、勝つことだ。

 そして、何かを積み上げる。

 

 

 

「ローブローとバッティングには注意して……」

 

 レフェリーの言葉、相手に通じてるのかね。

 さり気なく、相手の目を見る。

 

 ……狙ってそうだな。

 

 目は口ほどにものを言う、か。

 曲者っぽい雰囲気がある。

 

 開始のゴング。

 お互い手を伸ばして、挨拶のようなもの……からの、強襲か。

 振りがでかい。

 雑というより、威嚇かな、これは。

 まあ、俺がデビュー戦という情報ぐらいはあるだろうし。

 

 軽くかわして後ろに退き、左へ、左へと回る。

 目を見る。

 足を見る。

 呼吸を読む。

 

 飛び込んできたところに、左のフックを引っ掛ける。

 

 うん、いける。

 いつもどおり。

 

 観察。

 気を抜いたと見たら、速くて弱いパンチを飛ばしておく。

 様子を見ながら、餌をまいていく。

 

 自分にできることは相手にもできる。

 それは全力か?

 三味線をひいてないか?

 

 手に入れた情報を、経験に照らし合わせて、戦略をくみ上げていく。

 

 

 静かに、1Rを終えた。

 

「いけると思ったら、決めていいぞ」

「どうですかね。相手次第ですよ」

 

 会長と言葉を交わし、2Rへ。

 

 ん?

 遠い間合いで……足を止めた?

 

 体当たりのような右を、巻き込まれるのを嫌って大きく避けた……が、それも計算のうちだったようだ。

 大きく広げた左腕に腰をつかまれた。

 乱暴に引き寄せられ、胸に肩を押し付けられた体勢で、コーナーへ持っていかれる。

 

 やられた。

 アマチュアではめったに味わえない、ラフファイトってやつだ。

 

 上等!

 

 肩を、頭を、押し付けながら、くっついてガチャガチャの打ち合いを望む相手の攻撃をさばきながら、冷静に見る。

 もみ合うような十数秒。

 右の大振りに合わせて、左のショートアッパーで突き上げた。

 はね上がった顔面に、右の軽い連打を3発入れて突き放す。

 

 そして、俺はコーナーから脱出せずに、両手を広げて誘った。

 

「速水ッ!ムキになるなっ!」

 

 ここでムキにならずして、男の子とは言えんでしょ。

 

 体重を乗せたパンチと言うのは簡単だが、実行するのは難しい。

 最も簡単で、最も威力のある攻撃は、体当たりと言われているぐらいだ。

 肩、腕、肘、手首を固定して、運動エネルギーをそのまま乗せるイメージ。

 でも、それをパンチへと昇華させて、ようやくボクサーを名乗れる。

 

 後はタイミング。

 相手の飛び込み。

 そして、パンチを伸ばして腹筋が緩む瞬間を予測。

 踏み込み、体重移動、腰の回転……拳を突く。

 

 深い手応え。

 

 相手の動きが止まって、俺は見せ付けるようにして悠々とコーナーから脱出。

 まあ、一種の挑発だ。

 頭に血が上ると……回復してすぐに、こんな風に、無防備に振り返る。

 顔面に、右の連打。

 そして左フックが、アゴに入った。

 

 一瞬、棒立ちになる。

 

 そこをもう一度、アッパーでカチ上げ、右をボディに叩き込む。

 相手の身体が折れる、が、すぐに顔を上げて俺を見た。

 容赦せず、左右の連打をうちこむと、相手がリングにうずくまった。

 

 

 

 

「速水、お前そのすぐムキになる癖をどうにかしろ!」

 

 もちろん、テレビカメラが回ってます。(目逸らし)

 

 この場面で、俺は素直に頷けばいいのか、それとも大口を叩けばいいのか。

 演技指導はないんですか?

 

 まあ、何はともあれこれで新人王戦にエントリーする資格を手に入れた。

 

 

 あと、本当は前渡しだったけどファイトマネーの件。

 どこのジムも大体、3分の1をジムがとり、3分の2が選手にって感じだ。

 まあ、全部チケットで渡されるけどね……その売り上げが、ファイトマネーになる。

 知り合いや、職場の人に配ったから手取り0だけどね。

 

 ボクシング、盛り上げなきゃ。

 

 知人や友人に、それもさほどボクシングに興味のない人間に『チケットを売る』っていうのも、ハードルが高いと思う。

 前世で、趣味でバンドやってる知人にライブのチケットを買わされて、もやっとした気分になったことがあるから、余計に強制はしたくない。

 なので、『興味があればどうぞ』と、俺は配るだけにした。

 俺がいい試合をして、『また試合を見たい』と思えば、次は買ってくれるかもしれない。

 

 ボクシングと同じだ。

 これもまた積み重ねだろう。

 まあ……全部売っても、4万円ぐらいなんだけど。

 

 何度でも言う。

 ボクシング、盛り上げなきゃ。(使命感)

 

 

 

 

 

 

「……まいったな」

「どうかしたんですか?」

 

 音羽会長が、俺を見た。

 

「新人王戦が始まるのは6月頃だから、最低でも2月にもう1試合やりたいが……対戦相手が見つからん」

 

 

 ああ、なるほど。

 ん?

 そういえば、宮田や間柴がデビューする頃じゃないのか?

 

 宮田はともかく、間柴なら受けてくれそうだが……下手にKO負けすると3~4ヶ月試合に出られなくなって、新人王戦は棄権することになる。

 まあ、成立しないな。

 逆を言えば、相手を棄権させられるチャンスだが……そんな勝手が通るはずもない。

 

「仕方ない……また海外から呼ぶか」

 

 事情を知らない人間は、金で海外からかませ犬を連れてきた結果の、上げ底戦績とか言うんだろうな。

 

「何か、希望はあるか?」

「できれば、メキシコの選手を」

「ほう?」

「俺の目標は、リカルド・マルチネスですからね」

 

 会長が笑う。

 

「……メキシカンの4回戦は、日本の6回戦以上に相当するといわれている。油断するなよ」

 

 この人、選手をのせるのうまいよなあ。

 言葉ではなく、態度で、なんだけど。

 負ければ全部パーになりかねないのに、試合を組んでくれようとしてくれる。

 

 まあ、ここで負けるようなら話にならない、か。

 

 

 

 

 宮田の試合を、間柴の試合を、見た。

 

 強い、そして怖い。

 戦うなら、宮田だ。

 ある意味、ボクサーとして洗練されているだけに、予想が立てやすい。

 アマチュアの経験をそのまま活かせる気がするし、俺にとってはやりやすい相手といえる。

 

 間柴は、その……勝てるとは思う。

 技術的には甘いし、ボクシングなら勝てる。

 でも、ボクシング以外の部分が怖い。

 

 そして、幕之内一歩のデビュー戦を見た。

 

 いい試合だ。

 人気が出るのがわかる。

 技術云々の話ではなく、人をひきつける試合。

 

 今なら勝てる。

 話にならないぐらい差がある。

 それでも、じわりと汗がにじむ。

 

 あれが、幕之内一歩か。

 1試合1試合、別人のように進化していく主人公(ばけもの)か。

 

 無意識に、アゴを撫でていた。

 指先がかすかに震えているのがわかる。

 

 アゴを壊されると聞くと、『アゴの骨が砕ける』ことを連想する人がほとんどだろうし、前世の俺もそうだったが、医者の知人が教えてくれた。

 あの原作を読む限りでは、また『アゴがバカになっている』という表現からも、アゴの骨の噛みあわせがずれた、あるいは緩んで戻らなくなった状態だろうと。

 正直、ピンとこなかったが、『ドアの蝶番のネジが緩んだイメージ』に近いらしい。

 つまり、しっかりと骨が固定されていないところに衝撃を受けると、がたつくために、大きく、そして一度の衝撃で何度も脳が揺れる。

 そして、ドアの開閉を繰り返すことでだんだんとドアの蝶番が壊れていくように、アゴもだんだん『バカ』になっていく。

 そして何よりも、アゴへの衝撃で脳が揺れることを、身体と、精神が覚えてしまう。

 ほんの少しの衝撃で……精神が、身体が、楽になろうとしてしまう。

 原作の速水龍一のケースは、身体よりも、精神的なトラウマを起因とする、パンチドランカーと判断されるとか。

 

 まあ、下手をするとそれが俺の末路なんだが。(震え声)

 

 息を吐く。

 拳を握りこむ。

 覚悟を決めていく。

 

 リングを降りた幕之内一歩が、俺のそばを通り過ぎていく際、ちらりと、鴨川会長が俺を見たような気がした。

 

 

 

 

 2月。

 メキシカンのパンチが伸びるとは聞いていた。

 厄介なことに使い分けてくる。

 普通のパンチ。

 そして、目標を打ち抜くようなパンチ。

 その瞬間、肩を入れてくるぶんだけリーチが伸びる。

 あるいは、手首をねじりこんでくる。

 パンチの一つ一つに、意味があり、距離感を狂わせようとしてくる。

 強敵だ。

 いや、これが世界では当たり前の水準なのか。

 はは、日本でどうこう言ってる場合じゃないな、これは。

 

 ジャブの応酬。

 観客席が静まり返る。

 拳が鋭い。

 ジークンドーで言うところの、縦拳も混ざる。

 グローブを縦に横に、そして斜めに変化させ、ガードをすり抜けてくる。

 参考になる。

 俺の知らない技術、知らない世界。

 

 目がくらんだ。

 ジャブとはいえ、こんなに綺麗にもらったのは久しぶりだ。

 

 押し返す。

 ムキになっているわけではなく、ここが勝負どころ。

 ステップを刻み、上体をゆすって的を絞らせない。

 

 

 クリーンヒットはあの1発のみ。

 ポイントはとられたな。

 

「おい、大丈夫か?」

「……強いですね」

「正直、想定外だ……無名の選手って聞いてたってのに」

「まあ、なんとかしますよ。会長が高い金を払って呼んでくれた相手ですし」

 

 なんとかする。

 勝たなければ前へと進めない。

 

 少し、防御に意識をシフト。

 相手のジャブを叩き落していく。

 あるいは、こちらのグローブで押さえていく。

 ガードも、ポイントをずらして受ける。

 とにかく、気分良く打たせないことを重視した。

 

 いつもと同じパンチなのに、感触が違うと感じるはずだ。

 違和感はいら立ちに変わっていく。

 

 人は冷静さを失うと得意なパターンを頼りがちになる。

 単調さが芽生える。

 俺も、気をつけないとな。

 

 タイミングを合わせ、頭を下げながら踏み込む。

 ボディではなく、わき腹の上に右を入れた。

 パンチを打つとき、脇の下の筋肉が弛緩する。

 アマチュアではポイントにならない部位だが、カウンターで入れるとダメージが入る。

 そして、このパンチにはもうひとつ意味がある。

 

 2発で、相手の左ジャブが鈍り始めた。

 

 ローキックで足が動かなくなるのと同じ。

 筋肉にダメージを与える技術だ。

 もちろん、精神的なものも含めて。

 

 2Rの残りを全部使って、相手の左を殺しにいった。

 

 

 

「会長、なんとかなりそうです」

「……えぐいこともできるんだな、お前」

「アマチュア時代、色々試しましたからね」

「はは、頼もしいな……まあ、決めてこい」

「そのつもりです」

 

 

 3R。

 

 コーナーから出てきた相手の表情が良くない。

 

 ここからは俺の番だ。

 

 ここでようやくギアを上げる。

 ステップを刻む。

 細かく、速く。

 1歩ですむところを、2歩、3歩と。

 体重移動。

 もちろん、虚実を交えて。

 

 主導権を完全に奪う。

 

 1発。

 軽いパンチを2発放り込み、距離をとる。

 反撃をいなして、また軽いパンチを放り込む。

 ガードを固めた瞬間、ショートアッパーでアゴをかちあげる。

 後ろに退いた。

 

 逃がさねえよ。

 

 踏み込み、上、下、横と、ガードを空けた場所に次々と放り込む。

 軽いパンチを、相手の反撃に合わせて、叩き込む。

 手を出したらやられるという、強迫観念を心に刷り込んでいく。

 そうすると、手が出なくなる。

 後ろへ、後ろへ。

 それを誘導し、コーナーへと追い詰める。

 

 左右の連打。

 亀のように閉じこもる……そんな相手には慣れっこだ。

 ガードの隙間。

 そして、上にパンチを集めて、ガードを上げさせる。

 ガードを抜けてアゴをとらえる俺の左。

 かくんと、ひざが折れた相手に、容赦なく右を打ち下ろして勝負を決めた。

 

 

 

 

「いい試合だったね」

「いい相手でしたからね」

 

 俺の言葉に苦笑するのは、原作でもおなじみ藤井さんだ。

 音羽ジムに所属するときに、初めて顔を合わせた。

 

「4回戦の試合じゃなかったよ。6回戦、いや8回戦でも通じる内容だったと思う」

「メキシコの、いや、世界のボクサーのレベルが高いってことでしょうね」

「……否定しづらいな」

 

 この世界のこの時代、日本には世界チャンピオンがいない状態が続いている。

 鴨川ジムの『あの人』は、まだその手を世界には届かせていない。

 

 藤井さんと言葉を交わす。

 取材というより雑談のようなもの。

 

「でもまあ、久しぶりに『勝った』と思える試合でしたよ。お客さんも喜んでくれましたし」

「……客の反応を心配するのは、ボクサーの仕事じゃないぜ」

 

 口調こそ柔らかいが、藤井さんの目が笑っていない。

 

「じゃあ、誰の仕事ですか?」

「それは……」

「いいものは黙っていても売れる……って言うのは甘えですよ。いい試合をした、お客さんが喜んでくれた。でも、まずは見てもらえないことには始まらない」

 

 みなまでは言わない。

 言う必要もない。

 ボクシング雑誌の記者である藤井さんには、このあたりの事情は釈迦に説法ってやつだ。

 

「ボクシングを盛り上げたい、と?」

「誰もやらないなら……俺がやりますよ。そして、周囲がそれを利用してくれれば、俺もまたそれを利用できる」

 

 

 

 

 

「新人王、期待してるよ」

 

 最後にそういい残して、藤井さんは去った。

 そして俺は、練習に取り掛かる。

 

 最近俺は、また夢を見始めている。

 主人公に、幕之内一歩にぶっ飛ばされる夢を。

 

 リバーブロー。

 ガゼルパンチ。

 デンプシーロール。

 

 まだ、一歩が手に入れていないはずのパンチで、何度も何度も倒される夢を。

 応戦し、反撃もするが、いつもねじ伏せられて、最後はぶっ飛ばされる。

 その繰り返しだ。

 まあ、幕之内対策のための、リアルなスパーと思えば、うん。(震え声)

 

 

 拳を握りこみ、ステップを刻む。

『ショットガン』の進化系。

 手数を増やそうとすると、パンチは軽くなる。

 なので俺は、ステップを増やすことにした。

 1歩ですむところを、2歩、3歩。

 ステップの数だけ、重いパンチが打てる。

 ただ、やはり手数そのものは減ってしまう。

 状況に応じて、使い分けるしかない。

 緩急、そして強弱。

 

 新人王戦は、もうすぐだ。

 原作の、あの場所。

 幕之内との勝負。

 

 サンドバッグを揺らす。

 揺らし続ける。

 右へ、左へ移動しながら、連打を放ち続ける。

 悪夢を振り払うように。

 




初期の原作を読み直すと、なんか色々間違って覚えている自分に気づいたりします。


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04:新人王戦、開幕。

ちなみに、公式ガイドか何かだと、速水は一歩のひとつ年上っぽい。
たぶん、インターハイを勝った後、高校に在学したままプロデビューして……という流れで、出身も東京近郊を想定してるんだと思います。
でも、この物語では、ふたつ年上で、地方出身という設定です。


 東日本フェザー級の新人王戦の組み合わせが決まった。

 

 うん、宮田に、間柴、そして幕之内一歩。

 ああ、テクニシャンの小橋君もいる。

 なつかしいなあ、ジェイソン尾妻。

 うむ、この試合は見に行こう。

 

 と、原作キャラはおいといて……肝心の俺、速水龍一は、と。

 ほう、運よく1回戦がシードで、ひとつ勝てば準決勝……まあ、俺がポカをしない限り、そこで幕之内一歩とやることになるだろう。

 

 

 ……うん?

 

 

 うろ覚えだけど、速水龍一って一歩と戦うとき、4戦4勝じゃなかったか?

 今俺は、2戦2勝で……ひとつ勝つと、3勝。

 

 ……気のせい、か?

 

 まあ、そのあたりは……特に影響もないだろう、きっと。

 

 何はともあれ、短期間で次々と試合をこなしていく新人王戦で、1試合少ないのは大きい。

 その分、負担が減るからな。

 とはいえ、1試合少なくとも、勝ち上がっていくなら9月、11月、12月と、4ヶ月で3試合をこなし、2月には西日本の新人王、千堂武士と……か。

 

 そっか……千堂がいたか。(震え声)

 

 原作どおりの流れなら、幕之内に勝てたとしても、決勝はあの間柴とやり、そして幕之内と匹敵するハードパンチャー、いや1発の威力なら幕之内を凌ぐと思われる千堂と全日本で、か。

 

 なんか、地獄に向かって進んでいるんじゃなかろうか、この道って。

 まあ、ボクシングに限らず、スポーツは全部そんなもんといえばそれまでだが。

 

 というか、そもそも今年のフェザー級の新人王の面子は、レベルが異常だ。

 

 スポーツの成長期ってのは、大抵3段階ある。

 完全な初心者が、競技に慣れていく上での成長期。

 そして、身体的成長に伴う、能力の成長期。

 競技を熟知することによる、戦略的な成長期の3つだ。

 まあ、実際はその複合なんだけど。

 

 ボクシングというのは、基本的に身体的成長期を過ぎてからはじめるものだから、2段階に分けられることが多い。

 最初の2~3年が急激な成長期にあたり、あとは、自分の持ち味をどう活かすかという、技術的、戦略的なうまさを身につけていく段階にいたるわけだ。

 

 そういう意味では俺、速水龍一はアマチュア時代から数えて4年……急激な成長は見込めない状態にある。

 ひとつ技を増やして戦略性を広げるとか、そんな段階。

 もちろん、何かのきっかけで殻を破ることもあるかもしれないが。

 

 そして、宮田も子供の頃からのボクシング経験者だから……急激な成長は見込めない時期だった。

 ジョルトカウンターという『破壊力』を手に入れて、ブレイクスルーを果たすまでは……まあ、これからどう成長するかは不明だからなんともいえない。

 

 問題は、間柴、千堂、幕之内の3人だ。

 ボクシングの世界に身を投じてから、日が浅い。

 急激に伸びる時期。

 原作のように成長するかどうかはわからないが、伸びることだけは間違いないのだ。

 

 本音を言えば、1日でも早く戦ったほうが、俺の勝つ可能性は高い。

 

 そういう意味では、幕之内は一番運が悪い。

 そのはずだ。

 

 

 

 

 夢の中とはいえ、スパーの回数は豊富だしな。(震え声)

 

 油断も慢心もする余裕なんかねえよ。

 ボディ一発で悶絶させられたり、土下座KOさせられたり、ぶっ飛ばされ方のバラエティが豊かで、たーのしー。(白目)

 

 

 

 

 

 

 

 6月。

 幕之内一歩対ジェイソン尾妻。

 

 盛り上がった。

 興行的にはいい試合だったといえる。

 俺も、見ていて興奮した。

 だが、ボクサーとしての視点で見れば、未熟に映る。

 

 尾妻はフックにこだわりすぎた。

 心に余裕がなかったせいだろう。

 自分の得意なパンチにすがり……それがあだとなった。

 何が来るかわからない状態でフックを避けるより、フックが来ると予想してそれを避けるのでは、難易度が違う。

 

 ボクサーとして言わせてもらえば、同じパンチは打たないほうがいい。

 同じパンチでも、少しずつ角度やタイミングを変えるべきだった。

 それに尽きる。

 

 そして、幕之内は……やはりあの破壊力は恐ろしいし、少々妬ましい。

 尾妻は、わき腹を押さえて顔をゆがめていた。

 おそらく、肋骨を折られたのだろう。

 原作での細かい部分は忘れたが、成長前の今の段階でも、幕之内の破壊力を警戒するに越したことはない。

 

 息を吐く。

 

 確かに、あの破壊力は恐ろしい。

 それでも、勝てる。

 パンチをもらわない自信はある。

 

 ただ、今の俺は、『速水龍一』は、鴨川会長の目にどう映っているのか?

 俺が気づいていない癖。

 俺の知らない攻略法。

 何かがあるはずだ。

 

 

 

 幕之内一歩が通路を歩き、俺の近くを通り過ぎていく。

 また、鴨川会長に見られた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あるぇぇぇぇ?

 

 俺の、新人王戦の相手が、棄権した。

 1回戦で拳を痛めたとのことらしいが、音羽会長は『お前には勝てないと踏んで逃げたんだろうよ』なんて言ってたが、本当のところはわからない。

 

 しかし、棄権?

 俺の記憶では、この安川という相手がアマチュア出身で、ラフファイトに持ち込んできたとか、そういう試合だった気がするが。

 

 ふ、と。

 頭をよぎる『原作ブレイク』の言葉。

 

 原作ブレイクが起こるべき何かがあったのか、それとも、同じ条件でも同じ事が起きるとは限らないという、不確実性とか、ゆらぎの結果なのか。

 

 右足から歩き出すか、左足から歩き出すか、本質的にどうでもいいこと。

 そのときの体勢、ちょっとしたタイミング。

 昼飯に何を食べるか。

 コーヒーを買おうとして立ち止まったら、歩く方向に車が突っ込んできたとか。

 

 まあ、そもそも俺という異物が紛れ込んでる時点で、ブレイクもへったくれもない。

 最初の原作ブレイクは、俺が速水龍一であることだ。

 原作も、現実も関係ない。

 何が起こるかわからない世界に俺は生きていて、何かが変わると信じて、努力を重ねながら進んでいくだけだ。

 

 前向きに考えよう。

 また、1試合減った。

 それは、悪いことじゃないはずだ。

 俺の負担が減る。

 

 いや、待て。

 次の試合は、小橋君と幕之内の勝者で、11月か?

 2月から……半年以上のブランクができるな。

 

 ……スパーの数を増やすしかないか。

 

 

 

 などとぼやいていたら、会長がやってくれました。

 

 伊達英二とのスパーです。

 

 会長を見ると、目を逸らされた。

 スポンサーの意向なんですね、わかります。

 

 伊達英二のカムバック物語と対比して、デビューしたばかりの俺の姿を重ねていく……そんなところか。

 映像という素材が多ければ、後で編集するのも楽だろうし。

 はは、俺が幕之内に負ければ全部パーだけどな。

 リスクを背負っているのは、俺だけじゃないって話だ。

 

 ……まあ、いい機会か。

 少なくとも、全盛期の伊達英二ってわけじゃない。

 今の俺の立ち位置を知るためのものさしと思えば悪くない。

 

「ヘッドギアはいいんですか?」

「いらねえよ。勘が鈍る」

「俺はつけますけどね」

 

 

 これは、あくまでもスパーだ。

 とはいえ……な。

 

 上体を揺らす。

 グローブの位置を小刻みに変える。

 目線。

 肩の動き。

 

 まずは、パンチを出すことのないやりとり。

 集中が高まっていく。

 周囲の雑音が消える。

 

「シッ!」

 

 糸を引くように飛んできた左ジャブを、右ではじいた。

 

 速い、というより読みにくい。

 予備動作を極限まで少なく、あるいは別の動作で隠す。

 フェイントやフットワークの中に、予備動作を紛れ込ませて、ひとつの動作に複数の意味を持たせたりする。

 言葉にすれば、なんでもないようなこと。

 レベルが高くなればなるほど、そういう部分で差がつく。

 

 フェイントで誘うが、相手にされない。

 鍵のかかったドアを、力任せに叩き壊すかのように、ジャブを浴びせてくる。

 

 なるほどな。

 強い相手に勝つためには、相手より強くなるって世界の住人か。

 本当に強い存在には、攻略法なんてない。

 

 つい、笑みがこぼれた。

 

 それが癇に障ったのか、やや雑なパンチが飛んでくる。

 カウンター気味に左を返した。

 

 ……なるほど。

 

 その口元の笑み、癇に障るな。

 手の速さは、俺の武器だ。

 

 ギアをあげる。

 そして、上げっぱなしにはしない。

 速く、遅く、軽く、重く。

 練習していた、例のメキシカンのジャブも試していく。

 

 ジャブの応酬。

 ちっ。

 ヘッドギアが邪魔に感じる。

 避けたはずのパンチが、ヘッドギアをかすめていく。

 お返しに、俺のジャブが相手の頬をかすめる。

 

 スパーのはずが、熱が高まっていく。

 敢えて、メキシカンのジャブを多用した。

 リカルドのジャブを知っている相手へ、問いかけるように。

 俺を見る目つきが鋭くなる。

 挑発と思われたか。

 

 最初のクリーンヒットは俺。

 その直後に、俺も顔をはねあげられた。

 

 お互いに距離をとる。

 

 俺に見えるように、伊達英二が右のグローブを握りこんだ。

 俺も、見えるように握る。

 

「お、おい英二!スパーだぞ!」

「落ち着け、速水!」

 

 止められた。

 

 スパーね。

 うん、ただのスパー。

 俺は落ち着いてる。

 

 あらためて、スパーを開始。

 

 1Rは、ジャブだけで。

 2Rは、右を交える。

 3Rは、リング全体を使い、本当の意味でのスパーになった。

 

 

「……ありがとうございました」

「かわいげがねえなあ、お前は」

「ほめ言葉と受け取っておきますよ」

 

 返事をしながら、『これって速水じゃなくてスピードスター(さえきたくま)っぽいな』などと考えた。

 

「こんなのが新人王を争うって言うんだから、詐欺だよな、まったく」

「今年のフェザーの面子は、洒落になってませんよ」

 

 俺がそう言うと、意外そうな視線を向けられた。

 

「なんだ?お前で当確じゃないのか?」

「伊達さんに、あしらわれる程度のボクサーですよ、俺は」

「ははは、むかつくなあ、コイツ」

 

 肩を小突かれた。

 でも、悪い雰囲気じゃない。

 

 がしっと、肩を抱かれた。

 

「……時間があるなら、また頼めるか?お前の左、ムカツクからよ」

「次の試合は11月の予定です」

 

 

 結局、8月、9月は、伊達英二のスパーリングパートナー状態で過ごすことになった。

 なかなかいい経験がつめたと思う。

 仲代会長も、音羽会長も最初こそ不安そうだったが、最後のほうは満足そうだったから、まあ、良かったということで。

 

 攻撃に転じる際にガードが甘くなるときがあると指摘してもらえたが、左右の連打にこだわるとどうしてもガードが開く。

 もともと俺の連打は手数で圧倒して、相手に手を出させないというコンセプトだが……それを耐えられたとき、すり抜けられたときに不安が残るか。

 かといって、カウンター狙いにすると、手数が減る。

 

 伊達英二とのスパーを通じて、予備動作というか、武術でいうところの『おこり』の大事さを痛感した。

 なので、スパーを通じて俺は試行錯誤を重ねた。

 俺の連打、ハンドスピードを防御へと転じる手段。

 

 額を指で押さえられると立ち上がれなくなる遊びがある。

 あれは、立ち上がる前の、頭を動かして体重移動を行うという予備動作を封じられるために起こる現象だ。

 

 その予備動作を、パンチで押さえることができたなら……まあ、言うは易し、だ。

 それでも、取り組む価値はあると思う。

 

 あと、なんか視線がうっとうしかったので、去年のフェザー級の新人王の沖田とは話をしていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東日本新人王戦のベスト4が出揃った。

 

 試合をしてないのにベスト4の俺。(目逸らし)

 

『月刊ボクシングファン』の、新人王特集。

 注目は、東日本のフェザー級……原作では『速水龍一』が優勝候補筆頭だったが、どうやら俺はその評価を下げずにすんでいるようだ。

 やはり、対抗が宮田で、3番目が間柴という評価。

 そして、幕之内一歩が大穴の扱いなのも変わらない。

 

 まあ、これは『月刊ボクシングファン』だからの評価で、世間的に言えば幕之内はノーマークでみそっかす扱いだ。

 しかし、主人公だからと言ってしまえばアレだが、みそっかす扱いの幕之内が、『速水龍一』を破り、決勝では間柴を倒して優勝する。

 そのまま新人王を獲り、日本タイトルマッチに向かって駆け上がっていく展開は、胸熱だった……『速水龍一』の件を抜きにすれば、だが。

 

 ボクシングを盛り上げるために、『相手の力を8や9に見せて、10の力で勝つ』という風車の理論を実践し、幕之内と正面から打ち合うという、相手の土俵で戦うことを選択し、不覚を取った『速水龍一』。

 

 油断と慢心、自業自得といってしまえばそれまでだが……俺は、そこまで勇敢になるつもりはない。

 

 ただ、勝つことだけを考える。

 もちろん、原作ではない『速水龍一』に対する作戦を考えているだろうから、あまり原作にとらわれすぎるつもりもない。

 むしろ危険だろう。

 

 

 

 新人王戦の件で取材にやってきた藤井さんと話す。

 

「幕之内の印象ですか?」

「ああ、速水君から見て、どうだい?」

 

 やっぱり藤井さんは幕之内のファンなんだなあと苦笑する。

 

「ぞっとする破壊力ですね。正直、怖いし、妬ましいです」

「……小橋戦を見ての印象かい?」

「あれは小橋くんをほめるべきでしょう。あの防御テクニックはレベルが高かったし、幕之内くんは、経験不足だった。逆に見れば、伸びしろが大きいとも……」

 

 藤井さんの表情に気づいて、俺はいったん言葉をとめた。

 

「どうかしました?」

「いや、意外なほど、幕之内への評価が高いなと思ってね」

「ベスト4の3人で、強いのは宮田だと思いますよ。でも、怖いのは幕之内で、戦りたくないのは間柴です」

 

 藤井さんが苦笑を浮かべた。

 

「面白いコメントだが、記事にはできないね」

「はは、俺に期待されてるのは、ビッグマウスですか」

「まあ、そういうことさ……君が幕之内のように『精一杯がんばります』なんてコメントを残したところで、誰も喜ばない」

「……客商売の、つらいところですね」

 

 俺も、藤井さんも、苦笑するしかない。

 と、そうだ。

 

「幕之内がお気に入りなら、西日本の千堂はどうなんです?」

「おや、もう全日本の話かい?気が早いというより、耳が早いというべきかな」

「はは、アマチュア時代の知り合いがいますからね。うわさは聞こえてきますよ」

 

 と、ごまかしておく。

 

「幕之内は、日本人好みのボクサーだが……そうだな、千堂は、不良少年の憧れというポジションだよ。どちらも、物語性がある。そして、試合は派手で、観客を魅了する」

 

 それは同感だけど、ね。

 苦笑を浮かべて、俺は言う。

 

「逆に、俺みたいなタイプは、日本では嫌われる……でしょう?」

「……リングに立てば、関係ないさ」

 

 フォローになってませんよ、藤井さん。

 

 まあ、言葉ではなく、行動で語れっていうのが日本の文化だからなあ。

 関東と関西でもまた少し話が違うし。

 

「じゃあ、オフレコのついでに、藤井さんの俺への評価はどうなんです?」

 

 このぐらいは許されるだろう。

 原作に登場するキャラによる、俺への評価が気にならないといったら嘘になる。

 優勝候補筆頭と見られているのは確かなようだが。

 

「……特集として、宮田や間柴を含めた『3強』扱いではあるが、本音を言えば、速水君の1強だよ」

 

 

 

 

 

 うん?

 高くない?

 俺への評価、高くない?

 

 ああ、リップサービスか。

 大人の対応ってやつだな。

 

「速水!休憩はそのぐらいにしておけ」

「はい!あ、すみませんね、藤井さん」

 

 頭を下げ、断りを入れておく。

 ビッグマウスとは別に、社会人として最低限の礼儀は必要だ。

 

「いや、練習の邪魔をして悪かったね」

 

 

 マスクをつけ、練習を始める。

 

 人間の身体は、環境に適応しようとする。

 負荷をかけた結果、筋肉が増えるというのは……負荷をかけられる環境に対応しようとする働きでもある。

 肺活量もそうだ。

 伸びると思うなら、負荷をかけてやらねばならない。

 素質があるなら、それに対応しようとしてくれる。

 ハードな練習は、物理的な身体への負担が大きい。

 減量のある競技では、身体にあまり負担をかけずにすむ負荷のかけ方も重要になってくる。

 

 練習をしながら、思考を続ける。

 頭の重量は体重の1割程度だが、酸素消費量は2割を超える。

 息を止めて、何も考えずにいるのと、計算問題を考えるのとでは、我慢できる時間が大きく変わってくる。

 

 つまり、思考することで酸素消費量をあげられる。

 逆を言えば、何も考えなければ酸素の消費量を抑えられる。

 

 練習では平気なのに、試合ではスタミナが続かないというタイプは、練習ではあまり考えず、試合のときだけ色々と考えていることが多い。

 それは、試合のための練習になっていないと俺は思う。

 もちろん、練習に集中した上で、思考しなければ怪我の元になるが。

 

「よし、リングに上がれ。ミット打ちだ」

「はい!」

 

 俺のミット打ちは、変則だが3人で行う。

 通常のミット打ちの合間に、もう1人が数字を叫び、俺はそれに対応してコンビネーションを打ち込んでいく……いわゆる、ナンバーシステムというやつだ。

 数字に対応した場所にパンチを放つわけだが、この数字は当然考えられた順番でなければならない。

 メキシコのボクシングトレーナーがやっている方法らしく、本当なら2人でできるのだが……まあ、指示を出すタイミングとか、熟練しなければ厳しい。

 なので、客観的に眺められる第三者としての3人目を用意したわけで。

 

 

 反射、対応、そして変化。

 このパンチに対して相手がどう反応するか。

 詰め将棋のように、相手を追い詰めていく。

 

「ラッシュ!」

 

 ミット打ちの10R。

 一番きつい状態での、連打。

 パンチを叩き込み続ける。

 チアノーゼ一歩手前の状態で、視界が歪んでも、連打を放ち続ける。

 身体が悲鳴を上げるまで。

 

 ブザーが鳴る。

 そこからさらに5秒。

 3分でスイッチのオンオフを作るのは大事だが、ゴングが鳴っても気を抜かない習性も大事だ。

 それと、身体に、楽を覚えさせないため。

 

「よーし、上がりだ……シャドーやって調整に入れ」

「はい」

 

 音羽ジムのプロボクサーは俺一人じゃないし、練習生はもっと多い。

 特別扱いされている俺へのやっかみは少なからずある。

 それを黙らせるためにも、気は抜けない。

 やるべきことをやる。

 それは、周囲への最低限の礼儀で、敬意を示すことにもなるだろう。

 

 鏡に向かう。

 思い浮かべるのは、幕之内の姿。

 

 ……昨夜は、パンチで一回転させられた。

 一昨夜は、リバーブローから、ガゼルパンチ、そしてデンプシーロールだった。(白目)

 

 アマチュア時代から、いまだ負けなしの俺だが、夢の中では負けっぱなしだ。

 

 勝てるはずだ。

 いや、勝つ。

 

 そのとき俺は、ぐっすりと眠れるだろう。

 

 

 

 

「……お疲れ」

「あれ、まだいたんですか、藤井さん?」

 

 もう、夜も遅いのに。

 

「練習量もそうだが、ほかのジムでは見ない練習も多くて、飽きなかったよ」

「……うちの会長は、思考が柔軟ですからね」

「聞けば、君の提案した方法も多いそうじゃないか」

 

 俺は、にやりと笑って見せた。

 ビッグマウスの叩きどころ。

 

「世界を目指してますからね……良さそうな練習は、色々試します」

「ははっ、新人王は通過点、目指すは世界……ってところかい?」

「好きに書いてください……本音を言えば、世界はまだまだ遠いと思ってますが」

「そう聞くと、安心できるね……なんせ、日本人ボクサーの世界戦の連敗記録は続いている。挑戦できるから挑戦するというのでは勝てんよ」

「それ、オフレコですよね?」

「もちろんさ」

 

 藤井さんは駅に向かって。

 俺は、アパートに向かって。

 ほんの少しだけ、肩を並べて夜道を歩いた。

 

「俺は幕之内のファンだが、速水君には期待しているよ」

「じゃあ、俺のファンになってもらえるように努力しますよ」

 

 互いに笑いあい、軽く手を上げて別れた。

 

 

 アパートに帰り、電気をつける。

 さて、幕之内との試合まで1ヶ月と少し、か。

 

 ……今夜は、どんな夢を見るんだろうなあ。(震え声)

 




少しずつ、目に見える変化は起きてます。


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05:約束の場所。

ボクシングの描写って……難しい。(震え声)
ボディを叩いたときの反射行動や、反応なんかを描写したら、絶対にテンポが悪くなるんだけど……千堂と一歩の、日本タイトルマッチのアレを文章で書いてみたい私がいる。


 ジムで汗を流す。

 

 いや、減量はほとんど必要ない俺だが、あまり汗は流れない。

 フェザー級のリミットは126ポンド(57.1キロ)だが、この調子なら特に意識することなく、当日は125、あるいは125.5ポンドあたりになるだろう。

 俺のナチュラルウエイトは59~60キロで、ジュニアフェザー(スーパーバンタム)までなら、あまり苦労せずに落とせる。

 ジムの方針にもよるだろうが、俺の場合ならもっと絞って階級を落とせと言われるケースが多いと思う。

 

 日本には減量神話みたいなものがあるが、海外ではそこまで過酷なイメージをもたれていない。

 もちろん、どちらも個人差はある。

 基本的に、日本のボクサーというより指導者は、選手を少しでも下の階級へ落としたがる。

 その是非はともかく、基本的に過酷な減量は身体にダメージを与えるし、ダメージの回復も遅くなる。

 人間が摂取した栄養は、まず生命活動のために消費され、あまったエネルギーが成長や回復にまわされるのは前に言ったとおりだ。

 その上で、減量の意味を考えて欲しい。

 海外に比べ、日本のボクサーの試合数が少ないのは、もちろんルールもあるだろうが、減量による回復力の低下の影響もあると思う。

 単純に比較できるものではないが、海外の選手は大抵ナチュラルウエイトに近い階級で試合に挑む。

 

 俺も、そのスタイルでやっているが……周囲の選手に比べて明らかに負担が軽いし、試合後の回復も早い。

 まあ、これまでほとんどパンチをもらってないのもあるだろうが。

 

 思えば、幕之内もフェザーではほぼナチュラルウエイトだったはずだ。

 原作におけるうたれ強さというか、頑丈さは、過酷な減量とは無縁であったことと無関係とは思えない。

 それでいて、パンチ力は、反則級と。

 まあ、他人の長所をうらやんでも仕方がない。

 

 幕之内も、俺の試合のビデオを見て、器用さや速度をうらやむことがあるのだろうか。

 だとすると、少し楽しい気がする。

 おそらく、鴨川ジムでは俺への対策として猛練習を重ねているのだろう。

 原作では、左のショートアッパーに対して、カウンターで右のフックをかぶせてくる、だったか。

 参考にはするが、盲信はしない。

 俺は速水龍一として戦ってきたが、原作の速水龍一とは違う。

 原作とは違う戦い方をしてきた自覚があるし、それは当然原作とは違う打開策を見出してくることを意味する。

 

 俺としては、特に幕之内対策はしていない。

 何があっても対応できるように冷静であること。

 そして、パンチをもらわないこと。

 このふたつだ。

 

 ああ、それともうひとつ。

 いざというときは、自分からダウンする。

 

 ダウンを拒否して、追撃を食らうのが一番まずい。

 幕之内との試合では、ボクサーの本能に逆らってでも、さっさと倒れて時間を稼ぎ、少しでもダメージを抜き、冷静になるほうが良い結果につながる可能性は高い。

 

 ……1発なら、何とかなるはずだ。

 今の幕之内は、夢の中で俺をぶっ飛ばし続ける幕之内じゃない。

 そう信じる。

 

 藤井さんは、俺の幕之内への評価が高いことに驚いていたが、現時点では俺が世界で一番幕之内を高く評価している自信がある。

 多少過大評価気味かもしれないが、毎晩毎晩、死ぬような目にあわされる夢を見続けたら、誰だってそうなるだろう。

 

 現状、世間の幕之内の評価は低い。

 その評価が、完全に間違っているというわけでもない。

 しかし、成長過程のボクサーは、当日ふたを開けるまでその真価がわからないものだし、幕之内一歩というボクサーは、試合ごとにレベルアップしてくる主人公(ばけもの)だ。

 

 うん、幕之内の評価が低いのが良くないんだ。

 準決勝とはいえ、新人王戦では俺の初戦にあたる試合。

 派手な映像がほしいと、スポンサーから暗に要求されている。

 

 そういえば、原作でも……『速水龍一』は1Rから決めにいってたな。

 

 仮に、アウトボクシングに徹して4R逃げ回り、判定勝ちをしたら……スポンサーの件は抜きにして、ある程度のブーイングは避けれないだろうな。

 俺も、幕之内も、すべての試合をKO勝利で飾っている。

 KOによる決着を、無意識に望んでいる観客は多いはずだ。

 倒して勝つことは、ある意味で力の象徴。

 その力の象徴に、人は夢を見る。

 世界への夢だ。

 

 

 攻撃に重点を置けば、どうしても防御が甘くなる。

 俺のパンチは、特に速さを追及したパンチは軽い。

 もちろん、同じ階級のボクサーの水準以上ではあるが、原作に登場するキャラと比べたらどうしても見劣りする部分がある。

 そして、幕之内の頑丈さと一発の破壊力はいまさら説明するまでもない。

 まあ、現状ではころころダウンしてるイメージだけどな。

 そこからの大逆転へつなげられる破壊力ではなく、ダウンから起き上がれる頑丈さはやはり無視できない要素だ。

 

 と、すると……まずは視界を奪うべきか。

 距離感をつぶせば、攻撃が当たりにくくなり、防御の一環になる。

 それと、来るとわかっているパンチと、不意をつかれたパンチでは、受けるダメージが全然違うからな。

 こちらの攻撃力も増すことになる。

 

 リーチ差を活かして、ジャブの集中砲火……うん、原作でのスピードスター、冴木の試合を参考にするのもいいか。

 スピードスター、冴木卓麻。

 俺のひとつ年上で、アマチュアの舞台では高1の時に1度対戦したきり。

 俺が2年の時は、冴木はひとつ上の階級でインターハイを制したこともあり、インタビューやなんかで、話をしたことは何度もある。

 友人とまではいかないが、知人である……そんな関係だ。

 当時の冴木は丸坊主だったから、俺がその正体に気づいたのはずいぶん後になったがな。

 

 まあ、参考にするといっても、4回戦の試合だ。

 時間は限られている。

 視界を奪うまで2R。

 残り2Rで倒しにかかる、か。

 

 2Rか。

 漫然と目を狙うだけでは時間が足りないな。

 身体の芯にダメージを与えるパンチと、皮膚を腫れさせるパンチは少し違ってくる。

 

 手首のしっぺがあるが、あれにもコツがあるのと同じだ。

 骨に響かせるうち方と、瞬間的な痛みを与えるうち方。

 皮膚をこするようにうつと、痛みは走るが、ダメージが芯には残らない。

 肘から先を棒のようにして、そのまま叩きつけると骨まで響く。

 

 ただ、ボクサーによっては、打たれてもあまり腫れない体質のものもいる。

 しかし、これまで見てきた試合では、幕之内は顔を打たれると腫れが目立つ体質をしているように思う。

 

 分の悪い作戦ではないと思えるが……どうかな。

 まあ、試合が始まるまでは、いくらでも作戦がたてられる。

 そして、実行しない限り、失敗する作戦はない。

 

 もちろん、世界はそんなに甘くはないが。

 ミスやアクシデントはいつだって起こる。

 それに対応できるかどうか、それだけの余裕があるかどうかが、強さにもつながってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「速水選手、幕之内選手、ともに計量パスです」

 

 前日計量は、ともに余裕を持ってパス、と。

 

 あらためて、幕之内の身体に視線を向けた。

 

 ふむ、原作と違って目に見えるアザがあるわけでもなく……カウンターの練習をしなかったか、それともあっさりとカウンターを取得してしまったか。

 あるいは、別の攻略法の練習に費やしたか。

 まあ、考えるだけ無駄か。

 

 しかし、あのトランクスの下には、ビッグマグナムが隠されているのか。

 見れば男の尊厳を失うとまで評されたそれを、見てみたいような、見たくないような……考えないほうがいいんだろうな。

 

「すいません、握手をお願いします」

 

 記者から要求され、俺は幕之内に向かって手を伸ばした。

 

 ……おーい。

 

 苦笑しながら、声をかける。

 

「幕之内くん、俺たちの握手の写真が欲しいそうだ」

「え?あ、握手ですか?」

 

 ごしごしとズボンに手をこすりつけ、俺の手を握る。

 向かい合っての握手。

 

 うん、こうしてみると……まだ少年というイメージが強いな。

 緊張しているのか。

 対戦相手が俺でなければ、微笑ましいとも言えるが。

 

 そういえば、俺は緊張はしていないな。

 少し不思議な気分だ。

 

「ほら、目線」

「え?」

 

 次は、握手をしたまま、記者のほうに目線を向ける。

 いくつも、フラッシュが光る。

 現時点では、ほぼすべてが俺目当て……だが、試合の結果次第で、すべてがひっくり返る。

 いや、俺から離れていくだけか。

 どんなものも、なくすときは一瞬だ。

 

「ありがとうございました」

 

 写真撮影は終わり。

 次はコメントか。

 

「……練習したことを、精一杯ぶつけるだけです」

 

 うーん、優等生。

 その分余計に、俺のコメントへの期待が高まる。

 

「幕之内くんには悪いが、俺にとっては通過地点ですよ」

 

 こういうコメントをすると、大抵意地悪な返しがくる。

 

「では、眼中にないと?」

 

 俺は少し笑い、肩をすくめながらどちらとも取れるコメントを返す。

 

「道の途中ですからね。靴紐がほどけてないかどうかの確認ぐらいはしますよ」

 

 そして、幕之内を見る。

 

「デビューしたばかりとはいえ、フェザー級屈指の破壊力を持つ相手ですからね……みなさんよりも、俺のほうが幕之内くんを評価してると思いますよ。なんせ、彼のパンチを浴びるのは、みなさんじゃなく俺ですから。真剣にもなろうってもんです」

 

 かすかな笑い声。

 

 ……うむ、アメリカンなコメントは受けが悪いな。

 なら、仕方ない。

 

「まあ、明日は彼のパンチを一発ももらうつもりはないですけどね。完封するつもりです」

 

 ……なんで、こういうコメントだと反応がよくなるかね。

 ジョークとかウィットを利かせるほうが楽しいのに。

 

 

 

 

 

 さて、対戦相手に挨拶を、と。

 幕之内の付き添いの、鴨川会長に頭を下げておく。

 挑発と受け取られても、だな。

 

「すみませんね、幕之内くんを軽んじるつもりはないんですけど」

「ふん。じゃが、本音なんじゃろう?」

「ええ、彼のパンチは痛そうですから」

「言いよるわ」

 

 俺が笑い、鴨川会長が笑う。

 

 ああ、いいな。

 この人は、鴨川会長は、いい。

 俺と気が合うというより、気質がかみ合う。

 そんな感じがする。

 

 ……おい、幕之内。

 なにを他人事みたいな表情をしてるんだ。

 

「幕之内くん、手、いいかな?」

「え、は、はい」

 

 握手ではなく、拳を握ってもらった。

 これが、幕之内一歩の拳か。

 間柴や千堂、ヴォルグなどの強敵を相手に……努力と、勇気で勝利を掴み取るはずの拳。

 

 そして、『速水龍一』を打ち砕くはずだった拳。

 

 感慨深いな。

 

「……怪我には気をつけろよ」

「え?」

「パンチ力があるということは、それだけ自分の身体に負担がかかるってことだ。額や顎、それに頬骨、あるいは肋骨と、硬い部分を叩けば、そのダメージは自分の拳に返ってくる」

「……はい」

「相手選手に与える衝撃が、この拳にはいつも返ってくることを忘れないで欲しい。ボクサーにとって、パンチ力というのは宝物だからな。大切にしてくれ」

 

 そして、幕之内の顔を覗き込み、口にする。

 俺の覚悟。

 

「明日は、拳の怪我をする心配はない。思いっきり、打ってきな」

「はい、思いっきり打っていきます!」

 

 ……違う、そうじゃない。

 

「そうじゃないわ、このバカタレ!」

 

 鴨川会長がステッキを振り回しながら、言ってくれた。

 この何気ない行為に、感慨を覚える俺がいる。

 

「速水はな、小僧のパンチなど当たらんと挑発しとるんじゃ」

「そ、そうなんですか?」

 

 ……天然だなあ。

 

 幕之内らしいといえば、らしいか。

 イメージどおり。

 そう、イメージどおりでほっとする俺がいる。

 

 

 周囲にもう記者はいない。

 それでも、俺と幕之内は、もう一度握手を交わした。

 

 

 

 

 

 その夜、俺は新型デンプシーロールで、リングの外へとぶっ飛ばされた。(震え声)

 完成したんですね、やったぁ!

 

 ははは。

 いつもどおり、いつもどおりさ。

 

 

 そう、いつもどおりの朝。

 今日もまた。

 前へ、進むだけだ。

 

 

 

 

 

 

「……どうした、表情が硬いな」

「あ、わかりますか?」

 

 原作では脇役以下のお調子者のイメージを与えるような扱いだが、この音羽会長だってひとかどの人物だ。

 大きなジムを経営するというのは、簡単なことじゃない。

 

「まあ、確かに幕之内のパンチは脅威だ。だが、当たらなければどうということもないさ」

 

 会長、それフラグです。

 

 さて、と。

 そろそろか。

 

 立ち上がり、軽くステップを踏む。

 左、そして右。

 

 俺の何気ない動きが、周囲の人間の視線を集めているのがわかる。

 

「速水選手、準備してください」

 

 声がかかる。

 会長が、俺の肩を軽く叩く。

 

 ……行くか。

 

 約束の場所。

 越えるべき壁。

 そして、通過点だ。

 

 また、一歩前へ。

 それが、俺の歩む道になる。

 

 

 

 

 

 女性ファンの声援。

 そして、男性からのヤジ。

 

 身体が軽い。

 緊張して、地に足が着かないとかじゃない。

 今日の俺は、調子がいい。

 

 ロープに手をかけ、リングへと跳び上がる。

 観客席に向かって手を上げ、声援とヤジを浴びた。

 

 俺の視線の先。

 幕之内一歩。

 

 リングに立ってみると、やはりフェザー級では小柄に見える。

 しかし、肩が、腕が、脚が、太い。

 エネルギーの塊という感じがする。

 これでまだ、成長の初期段階なのだから、恐れ入る。

 

 確か、幕之内の身長は164センチだったと記憶している。

 俺とは約5センチの差。

 なのに、同じ階級。

 

 筋肉の重量が、俺よりも2~4キロ多く積まれているといえる。

 それは、車で言うなら、エンジンの馬力が違うということだ。

 

 ……タフな試合になるだろう。

 またひとつ、俺は覚悟を決めた。

 

 

 

 レフェリーからの注意伝達。

 心拍数の上昇を自覚する。

 悪くない。

 程よい緊張と、身体の熱。

 

 

 コーナーに戻る。

 会長の言葉。

 セコンドアウトの合図。

 そして、ゴング。

 

 リングの中央で、グローブを合わせた。

 

 原作ではおなじみのピーカブースタイル。

 ただでさえ低い的が、さらに低く。

 左右のグローブが顔の下半分をガードして、その上にこちらをのぞくように幕之内の目が見える。

 腕の太さが、ボディもある程度カバーと。

 

 ……なるほど、やりにくい。

 

 頭をゆすりながら、近づいてくる。

 幕之内一歩が、近づいてくる。

 現実と、幻想の、圧力がのしかかってくる。

 自分の中で、修正を入れる。

 

 俺は小さく息を吸い、ジャブを飛ばした。

 狙いは幕之内のグローブ。

 ガードの上から、目を狙う。

 

 馬力はともかく、リーチと速さ、そして技術が違う。

 距離を保ち、幕之内のグローブを叩いていく。

 ジャブを出そうとする、その動きをとがめるように。

 距離が近づく。

 グローブが動いた瞬間、俺のジャブが幕之内の顔をはねあげていた。

 

 すかさず、右の軽いパンチを3発叩き込む。

 もちろん、狙いは目だ。

 容赦はしない。

 そんな余裕はない。

 

 距離が開き、またピーカブースタイルに。

 やり直し。

 

 いったん足を止め、幕之内を見る。

 目を見る。

 視線の先は……俺の足か。

 

 低い前傾姿勢。

 俺の足の位置で距離を見ている、か。

 

 うん、経験不足だな。

 

 ジャブを飛ばす。

 ステップを刻む。

 右。

 左。

 幕之内の顔が動く。

 反応が遅れる。

 そこを叩く。

 

 ジャブが入る。

 はね上がった顔を、速いパンチで追撃。

 すべて左目に集中させる。

 強いパンチはいらない。

 

 まだ幕之内は一発もパンチを出せていない。

 観客は、防戦一方と見ているだろう。

 

 ひとつ、癖がわかった。

 幕之内の動きは、ピーカブースタイルが起点になっている。

 ジャブで顔をはねあげられても、反撃ではなく、ピーカブーに戻そうとする。

 反復練習の賜物だろう。

 しかし、長所は短所だ。

 ピーカブースタイルに戻って、そこから動き出しまでのタイムラグがある。 

 もちろん、余裕がなくなればどうなるかわからない癖だろうが、それまでは容赦なくつかせてもらおう。

 

 それともうひとつ。

 余裕があるうちに試しておくか。

 

 足の位置を変えた。

 幕之内の視線の先。

 幕之内の距離を測る。

 そして、距離感とパンチを見る。

 

 近づく距離。

 

 幕之内の左。

 技術はともかく、これでジャブか。

 そして、右……は、欲張りすぎだ。

 開いたガードに、ジャブを放り込んだ。

 続けて2発、3発。

 はね上がった顔を叩き続けて、ピーカブースタイルへ戻させない。

 

 突き放し、右へ回った。

 不用意に振り向いたところを、ジャブで迎えてやる。

 左目。

 執拗に、左目を狙う。

 右へ右へ回りながら、皮膚をこするように、ジャブで狙っていく。

 

 俺はまだ、軽いパンチしか打っていない。

 そして、追撃以外は一発一発、角度やタイミングを変えている。

 

 振り向くタイミングで、また左目を狙う。

 

 執拗に繰り返していると、意識的か、それとも無意識なのか。

 あるいは、痛みへの反射反応か。

 幕之内のガードが、わずかにあがった。

 

 踏み込み、ボディに一発。

 すぐに離れた。

 リスクは最小限に。

 

 戸惑いが伝わってくる。

 悩め。

 考えろ。

 その分だけ、反応が遅れる。

 

 ガードの高さを戻せば上に。

 ガードが上がれば下へ。

 打ち分けていく。

 

 顔には追撃を入れるが、ボディへは単発で離れる。

 

 距離を保つ。

 幕之内を翻弄しているように見えるだろう。

 そんな格好いいものじゃない。 

 勝つことだ。

 俺は、勝つことだけを考えている。

 

 静かに、時間が過ぎていく。

 穏やかに、1Rが終わっていく。

 

 ラスト10秒。

 はね上がった幕之内の顔に2発叩き込み、一瞬だけタイミングをずらす。

 ピーカブーに戻ろうとする瞬間、ショートアッパーをカウンター気味に入れた。

 

 ひざが揺れている。

 速いパンチで追撃。

 

 ゴングが鳴った。

 

 

 

 

「よーし、いいぞ速水。後30秒あれば終わってたのになあ」

 

 上機嫌の会長に、少し釘を刺しておく。

 

「どうですかね……判定までいくかもしれません」

「おいおい、弱気だな」

「……まだ、幕之内が何を狙っているかわからないんですよ」

「手も足も出ないってやつさ」

 

 考えなしのように聞こえるが、慎重な選手には楽観的な言葉をかけるのが会長のやり方だ。

 俺が積極的なら、逆に慎重になれと言うだろう。

 バランスをとるのがうまい。

 

 ふと、気づいた。

 そういえば、原作では1Rで終わったんだったか。

 

 原作ブレイク。

 見えない未来に向かっていく。

 

 まあ、いつものとおりだ。

 俺はずっと、手探りで歩き続けてきた。

 

『セコンドアウト』

 

 さあ、2Rの始まりだ。

 




次で、決着よ。
ちゃんと明日も更新の予約済みだから。

週刊漫画の次の展開を夢想しながら1週間待って、翌週、雑誌を手に取る。
この、待たされる感覚がいいと思うの。(ゲス顔)

なお、やりすぎるとハードルが爆上がりする罠。


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06:事故。

この頃の一歩は、1試合ずつ地道に作戦立ててたなぁ。(遠い目)


「速水ッ、前だっ!!」

 

 会長の叫び。

 立ち上がりかけた体勢。

 反応が遅れた。

 揃った両足。

 

 2R開始早々の、幕之内の特攻。

 

 左手を伸ばし、幕之内の右を押さえにいく。

 いや、軌道をずらす。

 

 俺の左手は大きくはじかれたが、幕之内の右を危うくかわせた。

 

「速水ーっ!!」

 

 会長の叫びに、今は返事をする余裕はない。

 まずは、幕之内を突き放して、コーナーから脱出。

 

 左を……。 

 

 その一瞬の思考が生んだタイムラグ。

 そして、やる気満々の幕之内。

 見切りなんて余裕はなく、身体を傾けるようにして幕之内の追撃を大きくかわした。

 

 今のが、ボディだったらやばかったかもな。

 幸運の女神が俺に微笑み、幕之内は勝機をひとつ逃した。

 

 パンチを振り切って身体が流れた幕之内。

 その顔に。

 

 右。

 

 幕之内の顔がはじかれる。

 そこに、速い右の連打。

 ヒットポイントを深くとり、幕之内の顔を、押しのけるように突き放す。

 

 そして、コーナーを脱出。

 

 大きく距離をとり、左手を握る。

 まだ痺れが取れない。

 まったく、でたらめなパンチだぜ。(震え声)

 

 突進してくる幕之内。

 右の速いパンチをガードではじかれる。

 幕之内の目を見る。

 見ているのは、足ではなく俺の右か。

 

 右のフェイント。

 踏み込んできた幕之内。

 

 この試合で初めて見せる、体重を乗せた重いパンチで打ち抜いてやる。

 

「……っ!?」

 

 幕之内が、たたらを踏んだ。

 そこを、軽いパンチで突き放し、また距離をとる。

 左手を握る。

 もう少し。

 

 幕之内の突進。

 軽いパンチ。

 強い右。

 タイミングをずらし、軽いパンチ。

 そして、強いパンチ。

 速く、遅く、軽く、重く。

 

 幕之内の困惑の気配が伝わってくる。

 

 いいよ、どんどん悩め。

 というか、休ませろ。

 左手を握る。

 いけるか。

 

 距離をとり、左を打ってみる。

 いける。

 

 幕之内、再びの突進。

 なにか、意図めいたものを感じる。

 右をフェイントに、左のジャブで目を狙う。

 一転して、左の連打。

 そして右の追撃で、また突き放した。

 

 ちらりと、時計を確認。

 時間の流れが遅く感じる。

 余裕のない証拠。

 落ち着け。

 

 真正面から受け止めてどうする。

 

 突進を、右に回ってかわした。

 ジャブを放つ。

 幕之内の目を見る。

 少し、芯をはずして打つ。

 皮膚をこするように。

 ガードがあがる。

 すかさずボディに入れ、離れ際に上へと返す。

 

 原作のせいで、フリッカージャブがムチの様にしならせるパンチというイメージが広がったが、あれは独特の軌道そのものを目的としたパンチではない。

 人間の視野は、前面が160度と広いのに対し、上下は60度ほどしかないとされる。

 もちろんこれは通常時の視界で、速度が上がると当然狭くなる。

 そして、フリッカーは、下から向かってくるパンチだ。

 左を警戒して下を向けば右に対して無防備になり、右を警戒して上を見れば、左に対して甘くなる。

 

 その構えだけで、上下の打ち分けを意識的に作り上げる手段ともいえる。

 

 ボクシングは、距離感の奪い合い。

 そして空間の奪い合い。

 それともうひとつ。

 集中力の奪い合いだ。

 

 右へ左へ、ステップを踏んで幕之内の身体を振り回し。

 上へ下へ、パンチを散らして幕之内の視界を振り回す。

 

 突進をかわし、左右からパンチを浴びせてやる。

 

 それでも、ガードを固めての突進。

 身体ではなく、心がタフだ。

 

 原作と同じく、狙われているのはショートアッパーか?

 

 ……違う気がする。

 

 それなら、もう少し低く飛び込んだほうがいいはずだ。

 小柄な幕之内が低く構えれば構えるほど、下からの攻撃で身体を起こしたくなる。

 そして、俺は打ち下ろしのパンチはほぼ使わない。

 わかっているはずだ。

 

 幕之内を突き放し、距離をとった。

 右へ、右へ。

 リングを丸く使う。

 

 考えろ。

 やばい気がする。

 繰り返される特攻。

 狙いは、なんだ?

 

 同じ攻撃の繰り返し。

 パターンの学習。

 何かの誘導。

 

 幕之内の攻撃パターン。

 まずもぐりこむこと。

 

 なのに、開始早々の特攻は、顔だけを狙ってきた。

 あれが、ミスではないとすると。

 鴨川会長の指示だったならば。

 

 この試合、まだ一度もボディを狙われていない……な。

 

 決め付けはしない。

 だが、注意を払う。

 

 足を止め、幕之内を見る。

 特攻のチャンス。 

 

 幕之内が来る。

 警戒。

 右のフェイント。

 幕之内の身体が沈みこんだ。

 すでに俺の目線は下へ。

 

 幕之内の、深いステップイン。

 

 最初に頭をよぎったのはガゼルパンチ。

 すぐに否定。

 

 角度を決めた左肘。

 

 リバーブロー。

 夢の中で、数え切れないぐらいもらったパンチ。

 

 焦るな。

 タイミングと速さ。

 そして正確さ。

 幕之内の顔。

 そこに右手をまっすぐ突き出すだけでいい。

 

 それが、カウンターになる。

 

 

 

 

 

 幕之内一歩が、尻餅をついた。

 

 

 

 ニュートラルコーナーで息を吐く。

 タイミングがずれたり、躊躇ったら肝臓をえぐられる。

 ガードしたら、動きの止まった俺の顔面に返しの右が飛んで来る。

 良く知ってるんだ俺は。(震え声)

 

 ……タイミングで倒しただけだからな。

 普通に立つだろう、幕之内なら。

 

 心拍数が高い。

 心が削られた自覚。

 息を吸う。

 脳に酸素を。

 身体に酸素を。

 呼吸を整え、落ち着けていく。

 

 

「ファイトッ!」

 

 幕之内が近づいてくる。

 そして、俺が距離をつめる。

 

 いきなり右から入った。

 さっきフェイントに引っかかった意識があるはずだ。

 ガードさせるための強い右。

 幕之内の体勢は崩れていない。

 足の踏ん張り、ダメージは?

 

 速いパンチを散らす。

 

 俺が相手をしているのは、逆転の幕之内。

 詰めの甘さは死につながる。

 

 反撃のパンチ。

 生きている。

 

 ジャブを返す。

 まだ2Rだ。

 先は長い。

 また、速いパンチで目を狙う。

 それを、幕之内が嫌がりだしているのがわかる。

 

 人の嫌がることを、進んでやりましょう、だ。

 スポーツはそういうものだ。

 それが、ボクシングという戦いならなおさら。

 

 幕之内の目の腫れが目立つようになってきた。

 それでも目を狙う。

 

 顔を動かして俺の姿を追う動作が目立ってくる。

 死角と思われる方へ回り、パンチを放つ。

 そしてまた、視界に現れ、パンチを打たせる。

 

 目こそ腫れているが、幕之内のパンチや足に、ダメージの気配は見られない。

 重いパンチはあまり使ってないが、嫌になる。

 

 残り10秒の合図。

 

 前に出る。

 ガードの上から、強いパンチをたたきつけた。

 右。

 左。

 ステップを刻み、右から左から、上へ下へと叩き込み、動きを封じたまま2Rを終わらせる。

 

 Rの残り10秒というのは、大事な時間帯だ。

 何もできないとでも思わせることができれば、心のたて直しに時間がかかる。

 そうすれば、セコンドのアドバイスも時間が限られる。

 相手の時間を奪うということは、次のRを有利に運ぶことにつながる。

 

 

 

「慎重だな」

 

 そう、見えるのか。

 あるいは、俺の気持ちをほぐすため。

 

 深呼吸してから、言葉を返す。

 

「左手がはじかれたのを、見たでしょう?あの後、左腕がしびれて、動かなかったんですよ」

「……そこまでか」

 

 そうつぶやいて、会長が幕之内に視線を向けた。

 

「さっきのダウンも、タイミングで押し倒しただけです。それほど効いてません」

「2R始めの奇襲みたいなのだけには気をつけろ」

「ええ、もちろん」

 

 

 3R。

 

 開始早々、主導権を奪いにいった。

 さっきのRとは逆。

 相手のコーナーに釘付けにして、連打を叩きつけていく。

 

 そして、観察。

 

 足元。

 ひざ。

 腕。

 そして、目。

 

 死んでいない。

 

 そりゃそうか。

 折れず曲がらず、勇気の幕之内だ。

 

 足、そして肩の動き。

 相手のやる気をそぐように、ちょこんとバックステップして距離をとった。

 

 幕之内のパンチが空を切る。

 狙いはボディか。

 さっきのRとは別の指示が出たか。

 

 距離をつめようとしたところを、左の強打で止めた。

 またひとつ、俺の手札をさらした。

 俺の手札は無限じゃない。

 それでも、相手の行動をひとつひとつ丁寧につぶしていく。

 

 幕之内が慣れてきたところで、目先を変えてやる。

 ジャブ。

 ボディへの連打。

 反撃の右をかわし、アッパーで突き上げる。

 ガードを固めようとしたところを、もう一度アッパー。

 

 うん?

 やけに当たるな?

 

 フェイントを交え、もうひとつ突き上げてみた。

 幕之内のひざが、かくんと、折れた。

 

「小僧ーっ!!」

 

 鴨川会長の声が響く。

 生き返る。

 幕之内の右がうなりをあげる。

 左、そしてまた右。

 

 パンチは生きている。

 しかし、距離感が死んでいる。

 左目の視界を奪ったことが、活きてきた。

 

 容赦なく打ち込み、一瞬、間をあける。

 反撃を誘う。

 

 幕之内の左。

 パンチを見てから、カウンターで返してやる。

 速さを重視した、軽いパンチだ。

 腫れた左目を狙い、痛みを刻んでいく。

 手を出せば、痛い目にあうと、わからせていく。

 

 幕之内の手数が減った。

 ガードに意識が向かっている。

 強いパンチの出番。

 ガードの隙間。

 そしてアッパー。

 もうひとつ。

 幕之内の腰が落ち、ガードが開いた。

 

 いける。

 

 俺の中の意地のようなもの。

 コンプレックス。

 

 深い踏み込みと腰の回転。

 渾身の右を、幕之内へと叩き込んだ。

 

 

 

 

 ニュートラルコーナーで、呼吸を整える。

 

 焦るな。

 ムキになるな。

 ダメージは与えている。

 

 原因は、幕之内の低い姿勢。

 目標が下にある分、俺のパンチのフォームが微妙に狂っている。

 体重を乗せ切れていない。

 力むと、余計にフォームが狂う。

 ただ、アッパーは効いている。

 防御に不慣れなのは明らかだ。

 

 

 幕之内が立つ。

 それはわかっている。

 

 

「ファイトッ!!」

 

 

 幕之内に近づく。

 向こうからは来ない。

 ダメージか、誘いか。

 

 ちらりと時計を確認し、鴨川会長に目をやった。

 タオルは持っていない。

 声を上げてもいない。

 まだ何か、信じるものがあるのか。

 狙いがあるのか。

 

 ゆっくりと距離をつめ、右のフェイントから入った。

 反応する。

 左のジャブ。

 ガードを固めている。

 ちょん、とガードを押さえてから、右のボディフック。

 そして左のアッパーへと……。

 

 手応え。

 止められた。

 十字受け。

 またの名をクロスアームブロック。

 

 強い右で、いったん突き放す。

 

 俺のアッパー対策か。

 悪手だ。

 タイミングが悪い。

 

 正面からだ。

 ブロックの上から、強い右を、左を、叩きつける。

 1発、2発、3発。

 幕之内の足元がおぼつかない。

 コーナーへと、幕之内を後退させていく。

 

 フックは必要ない。

 幕之内の距離になる。

 正面から、ストレート系のパンチで押しつぶす。

 

 固いガード。

 パンチを出しにくいガード

 そのガードを緩める余裕を与えない。

 手を出させない。

 

 思い出したように、ボディへ。

 単調さは危険だ。

 

 だが、またとないチャンス。

 

 このR、俺はすでにダウンを一度奪っている。

 ダメージはともかく、2Rにもダウンを奪っている。

 このまま、反撃させずにつめていけば、レフェリーストップが狙える。

 それは、レフェリーが決めること。

 勝ち方はひとつじゃない。

 恨むなよ。

 

「小僧ーっ!退くな!」

 

 気づかれたか。

 でも、もうコーナーだ。

 押しつぶす。

 

「手を出せ!出すんじゃ小僧!」

 

 堅固なガードが解けた。

 ならば、カウンター狙い。

 幕之内の右。

 

 俺はステップを踏んでそれを……。

 

 トン。

 

 俺の背中が、何かに触れた。

 

 おい?

 

 コーナーを背負っているのは幕之内だ。

 ロープでもない。

 

 幕之内の右が迫る。

 

 俺は、何かに背中を預けた状態で、片足立ち。

 動けない。

 

 幕之内の拳。

 

 気づいた。

 俺の背中にあるもの。

 俺の逃げ道をふさいだもの。

 

 マジか。

 これが、主人公補正か。

 

 考えてる場合じゃない。

 ガードを。

 

 衝撃。

 

 俺の動きを封じたもの……。

 それは、レフェリーの身体。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……速水ーっ!!」

 

 まぶしい光。

 音羽会長の叫び。

 

 混乱。

 戸惑い。

 

 そして、レフェリーのカウント。

 

 意識が飛んでいた?

 

 身体を、いや、頭を起こす。

 右手、左手。

 いける。

 脚……は、まずいな。

 

「4!」

 

 息を吸う。

 頭からつま先まで、痛みが走り抜けていった。

 激しい頭痛。

 

 1発だけか?

 それとも、まとめてもらったか?

 すげえな。

 わざとダウンするとか、そんな虫のいい話はなかった。

 ああ、でも。

 

 前世の記憶。

 前世、最期の記憶。

 

 車にぶっ飛ばされたときよりはマシだ。

 

 俺の身体は、まだ動く。

 

「5!」

 

 カウント7まで。

 時計を確認。

 

 ……見るんじゃなかった。

 まだ1分以上ある。

 

 頭痛に耐えながら、息を吸う。

 

「6!」

 

 片ひざ立ちの姿勢をとる。

 グローブで太ももを軽く叩いた。

 動いてくれよ。

 

「7!」

 

 なんでもないように、静かに立ち上がる。

 あくまでも主観だ。

 周りからどう見えているかはわからない。

 

 はは、立ち上がったはずなのに、脚の感覚が曖昧だ。

 ふわふわしてる。

 

「8!」

 

 構えを取る。

 レフェリーが俺を見る。

 

 目の前で指を出された。

 

「何本かね?」

「伸ばした指が3本」

 

「君の名前は?」

「速水龍一」

 

 続行可能と判断した気配。

 

 ……もう少し時間を稼ぐ。

 

「さっきのは、俺のミスだ」

 

 レフェリーが戸惑ったように俺を見た。

 ルール上は問題ないにしても、自分のせいで俺がダウンしたという罪悪感は持ってるはずだ。

 そこを利用させてもらう。

 

「これから、鮮やかに逆転して勝つさ。だから、安心していいぜ」

「……」

 

 俺の言葉の時間。

 そして、レフェリーが言葉に詰まった時間。

 

 それで稼いだ数秒の時間が、俺にとっては何よりも貴重。

 ずるいとは言わないでくれよ。

 勝つためだ。

 やれることをやる。

 

 

 レフェリーが離れた。

 

「ファイトッ!!」

 

 

 セコンドの声が響く。

 

「速水ーっ!!」

「ためらうな!行け、行くんじゃ小僧ーっ!!」

 

 チャンスと見るや、瀕死の状態の選手が生き返る。

 ボクサーってのは、不思議な生き物だ。

 

 さて、どうしのぐか。

 

 俺の右。

 意に介さず、幕之内が飛び込んでくる。

 

 大振りだ。

 見えてる、見えてるんだが。

 足がまだ、ダメだ。

 

 半身になり、幕之内に肩からぶつかるようにして身体を預ける。

 右手で腰を抱き、ボディを打たれないように、左手で幕之内の右手首を押さえた。

 そのまま、倒れてもいいという感覚でもたれかかると、幕之内がよろけた。

 

 ……幕之内のダメージも相当か。

 

 レフェリーが割って入った。

 俺と幕之内を分ける。

 

 離れ際に、ジャブを2発。

 幕之内の額を押さえるように、グローブを押し付ける。

 重心を落とさせない。

 構えを取らせない。

 

 ただ、時間を稼ぐ。

 

 足を確かめる。

 戻ってきた、もう少し。

 

 幕之内の左。

 そして、右のタイミングで抱きつく。

 左肩で幕之内の右脇を押さえ、右を殺す。

 そして俺は、幕之内の左手を抱える。

 

 ホールドの反則。

 だが、それで時間が稼げる。

 幕之内の焦りがわかる。

 ここで決めたいという気持ちが見える。

 

 レフェリーが、俺たちを分ける。

 注意。

 ほんの1秒程度の時間。

 そして再開。

 

 観客のブーイング。

 うん、だいぶ足が戻ってきた。

 

 幕之内の攻撃が大振りに、そして、雑になっている。

 左目が腫れているのもあるか。

 

 カウンターのタイミングでジャブ。

 続けて速い右を放り込む。

 それでも止まらない。

 このパンチは怖くない。

 そう、思ってくれたか?

 どちらも手打ちの軽いパンチだ、無理もない。

 

 足の感覚。

 リングを、踏む。

 つま先。

 いける。

 

 左のジャブ。

 そのまま突っ込んでくる。

 前しか見ていない。

 見えていない。

 

 うん。

 

 ステップを刻んだのは、俺の足。

 

 さっきまで俺がいた場所を、幕之内のパンチが通り過ぎる。

 幕之内の死角から。

 幕之内のアゴをめがけて。

 握り締めた拳を。

 

 打ち抜く。

 

 一瞬の硬直。

 そして、つんのめるように、幕之内がひざをついた。

 

 

 時計を見る。

 

 あと16秒か。

 どうやら、このRはしのげたな。

 

 ん?

 あ。

 

 冷静でなかった自分に気づく。

 知らず知らず、入れ込んでいた自分を知る。

 

 しのぐも何もない。

 4回戦の試合だから、1Rに2回のダウンで試合終了。

 

 2R、そして3R。

 自分から戦略の幅を狭めていた。

 

 それでもだ。

 

 

 息を吐く。

 そして大きく吸う。

 

 さりげなく。

 しかし、強く。

 右の拳を握った。

 

 

 まずは、勝てたか。

 

 

 リングに上がってくる鴨川会長を見ながら、俺は音羽会長の待つコーナーへと。

 

 ゆっくりと、歩いて戻った。

 

「いやあ、ひやひやしたぜ、速水」

「はは、盛り上がりましたか?」

「まったく、あのへぼレフェリーが……」

「あれは、レフェリーの位置を認識してなかった俺のミスです」

 

 少し強い口調で、釘を刺す。

 音羽会長が俺を見て、頷いた。

 

「……そういうことにしとくか」

「ええ、勝ちましたからね」

 

 音羽会長が笑った。 

 マスコミに対する、受けのいいコメントだと思ったのだろう。

 

 

 

 

 幕之内は……上体を起こしているが、まだ座ったままだ。

 挨拶は、しておいたほうがいいか。

 

 

 幕之内のコーナーへ近寄り、鴨川会長に声をかけた。

 

「鴨川会長、幕之内くんはどうですか?」

「意識はある……ただ、まだ足がふらついちょる」

 

 幕之内を見る。

 八木さんの言葉に答えてはいるが、どこかぼうっとした感じ。

 話しかけるのはやめておくか。

 

「なんか、意外ですね」

「何がじゃ?」

「いや、幕之内くんって、倒しても倒しても立ち上がって、恐ろしいパンチを振り回してくるイメージが……」

「……貴様の中で、小僧はどんな化け物になっておるんじゃ……」

 

 どこか呆れたように言われた。

 

 いや、まあ。

 毎晩毎晩、夢に見るぐらいですよ。(震え声)

 

 しかし、ここから容赦なくレベルアップするんだよな。

 ガゼルパンチに、密着した状態でのボディーブロー。

 そして、デンプシーロール。

 

 今の段階で戦えた俺は、運が良かった。

 そう思うべきだろう。

 そして次は……こうはいくまい。

 

 鴨川会長に色々と聞いてみたいことはあったが、勝者の礼儀だ。

 控えるべきか。

 

「幕之内くんに伝言を」

「なんじゃ?」

「試合には勝ったが、パンチをもらったから、勝負は俺の負けだ、と」

「ふん、ぬかしおる……」

 

 鴨川会長が視線を落としてつぶやいた。

 

「小僧の、そしてワシらの負けじゃ。ミスもあったが、付け入る隙がなかったわい」

「今日は、ですよね?」

 

 見られた。

 鴨川会長の鋭い視線を浴びる。

 

「ああ。今日は、じゃ」

 

 握りこまれた拳が目に入る。

 

 熱い人だ。

 70過ぎの老人とは思えない。

 

 ほんの少しだけ。

 俺が、鴨川ジムの戸を叩く……そんな光景を夢想した。

 

 でも俺は。

 速水龍一だ。

 幕之内一歩じゃない。

 

 頭を軽く下げ、別れた。

 

 リングを降りる。

 観客に向かって手を振る。

 

 女性ファンの声援。

 そして、男性からのヤジ。

 まあ、一部だ、一部。

 

 通路を歩く。

 前へ向かって歩いていく。

 

 原作とは違う、新しい道。

 速水龍一の道。

 それが、続いていく。

 

 

 今夜は。

 今夜ぐらいは、いい夢が見られるだろうか?

 

 




サブタイトルは最初『続いていく道』にしてたのですが、不吉さを与える『事故』にしてみました。
サブタイトルで、勝敗が予想できたら興ざめかなと思ったので。(目逸らし)
話の途中で敗北のスリルを感じていただけたらなによりデス。(棒)

一歩の脅威というか、ある種の理不尽さを表現できていたなら幸いです。
まあ、リアルでこれだけ考えている余裕ねえよといわれたらそれまでですが。(苦笑)

一歩との試合って、お化け屋敷の『出るぞ出るぞ』の感覚に似ている気がする。

ひとまず、連続更新はここまでです。
不定期で、ごめんなさい。(今、6月27日ですが、7月になるまでは更新できないのが確実です)

先に宣言しておきますが、速水のアゴはもちろん、身体は無事です。(笑)

だから速水龍一は、今夜は安らかに眠っていいのよ。(優しい目)


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07:次の相手は……。

知 人:「1990年頃って、まだ当日計量じゃなかったか?」
 私 :「……言われてみれば、連載初期は当日計量だった気がする」(震え声)
知 人:「ヘッドギアも、強いパンチには意味がないって廃止の方向に向かってるし」
 私 :「ま、まだ研究の余地があるって聞いたし、このころは普通やし」

私が思っているよりも、今と昔のルールや設定がガバガバ状態かもしれません。
怪しい部分は、雰囲気重視のスルー推奨です。(目逸らし)

さあ、速水龍一の冒険の再開だ。


 迫る幕之内。

 うなる豪腕。

 俺は必死で応戦する。

 カウンター気味に渾身の右。

 左フックを返して、さらに右。

 そして、衝撃に備えて歯を食いしばる。

 

 幕之内が倒れた。

 

 ……あれ?

 

 蚊にでも刺されたかのように平然と打ち返してきて、俺をぼろぼろにしてぶっ飛ばすんじゃないの?

 

 ああ、夢か。

 

 いや違う、夢じゃなくて……いや、夢か。

 いつもの、ぶっ倒される夢じゃなくて、倒す夢。

 

 そうか。

 現実で幕之内を倒したから、夢でも倒せるようになったのか。

 

 俺は握り締めた拳を高く上げた。

 壁を越えた実感。

 それを夢の中で感じることを、笑いたくなる。 

 

 いきなり場面が暗転し、再び幕之内が現れた。

 

 心なしか、一回り成長して。

 

 おい。

 待てよ、おい。(震え声)

 

『今日は、思いっきり打っていきます!』

 

 にこやかに。

 さわやかに。

 笑顔で宣言される。

 

 そして俺は、思いっきりぶっ飛ばされて目が覚めた。

 

 全身の汗。

 激しい動悸。

 荒い呼吸。

 

 ははは、いつもどおり、いつもどおり。

 普段どおりの夢だってば。

 

 

 

 

 試合の後のドクターの診察、そして病院での精密検査。

 異常なしの結果にほっとする。

 アゴについて結果に間違いないか念を押してしまったが、医者に笑われてしまった。

 まあ、プロの判断とプライドを信じることにした。

 2日ほど続いた頭痛も、3日めには消えた。

 

 でも、異常はあると思う。

 なんというか、俺の精神的な方向で。(震え声)

 

 

 

 

 

 幕之内との試合の次の週。

 ハナの金曜日という言葉に奇妙な懐かしさを覚えつつ、俺は仕事が終わってから、ジムに顔を出した。

 顔を出すだけだ。

 試合でダウンもしているだけに、しばらくはロードワークもしない。

 本当は、安静に寝てすごすのが一番なんだが、そうもいかない。

 ボクシングだけでは食っていけない、悲しさってやつだ。

 

 多くの人間が汗を流している。

 大きすぎず、それでいて小さくない挨拶を。

 

「こんにちはー」

 

 俺の姿に気づいた練習生たちから、声をかけられる。

 

「こんちはー!」

「速水さん、ちゃっす!」

 

 俺も挨拶を返し、ジムの先輩にはあらためて挨拶をする。

 

 ジムの中を見渡す。

 会長室かな?

 ガラス張りの部分から覗き込むと、気づかれた。

 手招きされる。

 

「おう、速水。身体の具合はどうだ?」

「ぼちぼちですね。問題はなさそうです」

「まあ、2週間はおとなしくしておけよ」

 

 精密検査の結果がでた日に報告はしておいたから、挨拶のようなものだ。

 

「宮田と間柴の試合、明日でしたよね?」

「おお、見に行くのか?」

「そのつもりです」

「予想は?」

「8対2で宮田ですね。というか、間柴とはやりたくないです」

 

 音羽会長が笑った。

 

「まあ、間柴の所属する東邦ジムの会長さんも頭を抱えてたからなあ。素行はともかく、ボクサーとしては有望なのがまた悩ましいってな。ちなみに、俺は7対3で宮田だ……が、お前の試合じゃないが、何が起こるかわからん」

「何か起これば、勝ちきるだけの能力を、間柴が持ってるのは認めますよ」

 

 幕之内との試合の後、記者の取材で聞かれたのはあのアクシデントだ。

 あの日は、テレビ局も入っていたから余計に気を使った。

 

 まあ、テレビ局とは別に、2人ほど意地悪な記者がいたが、『俺のミス』で突っ張っておいた。

 

『勝ちも負けも、全部俺自身の責任ですよ。勝敗の責任を他人に任せるつもりはありませんね』

 

 俺がそう言ったら、鼻白んでいたっけな。

 まあ、レフェリーへの文句か、悪口でも言わせたかったんだろうが、乗せられるのはごめんだ。

 

 

 映像を確かめたら、試合をとめようとしたのか、ちょうどレフェリーが駆け寄ろうとした瞬間に、俺がステップを踏んで……という状況だった。

 場所がコーナーだったことも災いしたといえる。

 正直、誰が悪いというわけでもなく……俺が勝ち、怪我もしなかったからには、事故の二文字で片付けるか、勝った俺が『自分のミス』と言い張るのが一番角が立たない。

 

 そして、あの空白の瞬間に俺がもらったパンチは3発。

 避けそこなった右のあと、返しの左フックに、右ストレートだ。

 まだ成長初期段階の幕之内だとしても……無事でよかった。

 

 しかし、後の2発は記憶にない。

 映像で見る限りは、俺もガードしようとして反応はしているように思えるが。

 少し不思議な気分だ。

 

 

 ……結果論だが、幕之内はボディを狙うべきだった。

 2Rの開始早々の特攻のときもそうだ。

 おそらくは布石だったのだろうが、1発で試合をひっくり返すことができるパンチを持っているからには、徹底して俺の足を止めにかかるべきだった。

 

 まあ、重ねて言うが、結果論だ。

 

 そして、結果論とはいえ……俺が、速水龍一が負ける道筋はいくつもあった。

 経験、技術、戦略。

 大きな差がありながら、すべてをひっくり返される破壊力。

 これを理不尽と言うなら、スポーツなんかやるべきではないだろう。

 

 俺にパンチ力がないわけではないのだ。

 連打をまとめて倒す力があるのは確か。

 

 パンチの威力そのものというか、破壊力を求めても仕方ないな。

 タイミング、呼吸、間合い……そういう要素で補助すべきだろう。

 宮田のカウンターではないが、死角からの一撃、あるいは意識の外からの一撃、気を抜いたタイミングの一撃。

 やれることはあるはずだ。

 

 そもそも、人間の目と言うのは、高性能すぎる部分に落とし穴がある。

 

 陸上競技のスターティングブロックは、スタートの合図から0.1秒未満に一定以上圧力がかかるとフライング判定を出す。

 人間の反射には、0.1秒以上かかると、さまざまな実験を元に、そう定められた。

 それより速いというのは、『スタートの合図が鳴る瞬間を予測して動き出す』行為……つまり、フライングであると。

 

 脳の情報処理にかかる時間、それが0.1秒程度。

 

 目に映った視覚情報を処理して、ようやく見たことになる。

 それは、速い動きをリアルタイムで構築できていないことを意味する。

 

 最初はそんなバカなと思ったが、どうやら人間の脳は、処理の遅れを補正するために動く物体の像を進行方向の前方に構築するらしい。

 

 前世で、ワールドカップのオフサイド判定の約4分の1が誤審だったという統計があった。

 移動する選手の姿を、実際よりも前方に見てしまうのが人間の目であるとすれば。

 そして実際は、オフサイドラインを選手は行ったりきたりを繰り返しているのだから、動きの数だけ、ズレがうまれることになる。

 誤審の多さは必然といえるのか。

 それでも、ビデオ判定の導入に踏み切るまでに10年以上かかったそうだが。

 

 目で見えるものを疑うというのは、それだけ心理的抵抗が大きいのだろう。

 

 

 ボクシングにおいて、見て、判断し、避ける……という防御は、本来成り立たないと言われているのも、これを踏まえると良くわかる。

 

 ボクシングにおいて、予備動作のないパンチ……特にジャブをかわすというのは、『読みによるフライング』か、『相手のパンチが外れている』ということに収束される。

 だからこそ、パンチの挙動を、予備動作をなくすのが、ボクシングのベクトルになっているわけだ。

 そして、細かく動き続けて、相手に的を絞らせないのも、防御のベクトル。

 

 それでも、ボクサーは、俺も含めて『ジャブを見て避けている』と思っている。

 これはこれで、間違っているわけじゃない。

 見えているつもりなんだから。

 

 ボクサーとしての練習が、経験が、『このパンチがこうくる』と理解し、脳が補正を入れて、俺たちにそう認識させている。

 見えていなくても、見ている。

 

 野球でいえば、人間は『ボールの軌道を予測して』視線を動かすことがわかっている。

 だから、初心者は簡単にボールの行方を見失い、熟練者は『練習で覚えたボールの軌道』を元に、ボールの行方を予想して視線を動かす。

 

 消える魔球はロマンだが、あれは空想ではなく、理論上は可能だといわれている。

 打者の予測をはずす、ボールの軌道を生み出せれば、と注文がつくが。

 

 前世でそれを聞いたとき、色々と夢が壊れたなぁ……。

 

 

 あと、中心視や周辺視という言葉が日本で普通に語られだしたのは90年代後半からだが、人間の目の研究そのものはそれよりもっと早かった。

 そして武術においては『観の目』とか『八方目』、『遠山の目付け』などと呼ばれる周辺視の重要性を物語る教えが普通にあった。

 

 視線を動かさず、周辺視で相手の全身を見る。

 これをしていると、『どこを見ているかわからない目つき』になるそうだ。

 

 間違いなくリカルドは使っているだろうし、周辺視という言葉を知らなくても、使ってる人間は多いはずだ。

 野球でも、それと知らずに使う。

 それが特別なことと思うこともなく……もちろん、レベルの差はあるだろうが。

 

 だから、速さではなく、『見えない』ことを追求するなら、この周辺視から、中心視へと……視線の誘導が重要になる。

 

 いわゆる『幻の右』も、相手の視線を誘導してパンチを見えない状態にさせたものだし……原作での木村の『ドラゴンフィッシュブロー』もそうだ。

 

 俺の連打。

 相手の不意をつけるコンビネーション、か。

 

 ……まあ、色々試しながら考えよう。

 

 急に答えが出るようなものじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「速水さん」

 

 宮田と間柴の試合を見にいった後楽園ホールで、声をかけられた。

 

「おお、幕之内くん……言っちゃわるいが、ひどい顔だな」

「これでも、ずいぶんマシになったんです」

 

 顔を腫らした幕之内が、恨むような目で俺を見た。

 俺は笑って、自分のこめかみを指先でとん、と叩いた。

 

「はは、俺も頭痛が2日続いたんだ、おあいこだよ……と、検査は受けたのか?」

「はい。かなり打たれたから熱が出ちゃいましたけど、精密検査では異常はありませんでした」

「そうか……まあ、お互い無事で良かったな」

「はい」

 

 奇妙な会話だ。

 まあ、喧嘩じゃなく、お互いにボクサーだから殴り合っただけの話だが。

 それでも、宮田との対戦を望んでいた幕之内にとっては、複雑な思いを抱く相手だろうに。

 そんな俺に普通に話しかけてくることができる……そのまっすぐさが、少しまぶしい。

 

 ……ある種の天然と言うか、鈍感さかもしれないが。

 

 と、幕之内と宮田の関係を、俺が知るわけはないな。

 口に出さないように注意しないと。

 

 うん。

 意味なかった。

 

 

「それでですね、宮田君はすごいんです」

「そっか、すごいのか(棒)」

 

 幕之内の口から『宮田君』のすごさを延々と聞かされて、砂糖でも吐きそうな気分。

 でも、そのあたりの人間関係が原作とほぼ変わらないことを確認できたのはよしとするか。

 

 無理にでも話題を変えよう。

 とはいえ、ボクシングの話ぐらいしかない。

 自然と、俺たちの試合の話になった。

 

 俺の試合に向けて、どんな練習をしたのか……何気なく口にしたのだが、幕之内がぺらぺらとしゃべってくれる。

 鴨川会長の分析が聞けて、俺としてはなかなか興味深い。

 興味深いのだが、それでいいのか幕之内?

『クールそうに見えて熱いんです』とか、ボクサーにとって、性格って重要な情報だからな。

『宮田君』のプライバシーもそうだが、危機管理とか、情報管理がガバガバだぞ。

 

 いや、この時代の日本人の感覚は、みんなこんなもんだったか。

 

「2Rの特攻は、試合前から言われてました。速水さんは、1Rは相手を見てくる傾向があるから、そこでリズムを変える、と」

「ほう、それで」

「会長に『ええか、速水は連打を意識すると脇が少し開くことがある。絶対ではないが、脇がしまっとる時は、強い右が来ると思え。その強い右を空振りさせたときにこのパンチを使え』と言われてたんです。特攻を繰り返せば、左ではなく、強い右でとめに来るはずだから、それをもぐりこめたときは、ズドンといけと」

 

 ……めっちゃ、読まれてる。

 いやまあ、セオリーといえばセオリーなんだけど。

 

「だけど、速水さんのパンチは、一発一発タイミングも威力も違って、もぐり込むタイミングがつかめなくて……だからあの時、つい飛び込んでしまって……」

 

 どこか恥ずかしそうに、幕之内が言う。

 

 はは。

 何が『付け入る隙がなかった』だよ。

 ちゃんと対策立ててるじゃん。

 

 うん、脇ね。

 一度修正したつもりだけど、また昔の癖が出てるのかな。

 チェックしとこう。

 

 あれ、俺が修正したのって伊達さんとのスパーの後だよな?

 

 そっか。

 2月以降に試合をしてないから、分析するデータがなかったってのもあるのか。

 安川くんの棄権が、良いほうに働いたのかもしれないな。

 

 ……まあ、チェックはしておこう。

 

 

 

 

「……なるほどな。基本は後半勝負の予定だったのか」

「はい。ギャンブルだが、まともにやれば勝ち目はないぞと」

 

 ははは。

 俺知ってるよ、勝ち目って破壊力なんだよね。(白目)

 

 スタミナには自信があるつもりだが、確かに幕之内との試合はゴリゴリと精神が削られている自覚はあった。

 それはつまり、普段の練習に緊張感が足りないってことか……ふむ。

 

 しかし、後半勝負というと、まるで、ヴォルグのポジションだな。

 

 ん?

 

 そういえば、ヴォルグってどうなるんだろう?

 売り出し中の俺がフェザー級にいて、スポンサーの企画そのものも続いてるから……音羽会長が受け入れるって話にはならないとは思うが。

 

 原作の時代背景としては、グラスノチからソ連崩壊で、日本人の注目を集める要素はあった。

 そして、俺と違って、ヴォルグは世界アマ王者だ。

 格というか、看板の大きさが違う。

 あと、日本人は総じて外国人というか、欧米、スラブの人種に対して弱い部分がある。

 日本人男性の金髪コンプレックスを例に挙げるまでもない。

 

 うん、あらためて考えると、ヴォルグというボクサーの商品価値は高いな。

 音羽ジムじゃなくても、ほかのジムと契約するなんて事もありえるか。

 

 とすると……俺がヴォルグと戦うことがあるかもしれないと。

 

 ……少なくとも、今は勝ち目がないか。

 

 正直、ヴォルグも原作では割りを食ったポジションだ。

 日本に来て、ボクシングスタイルの改造中だったというだけでなく、慣れない生活で弱体化していたと考えれば、頷けなくもない、が。

 普通に考えると、世界王者クラスの実力者。

 まあ、原作でも世界王者になったしな……『サンキュー、アメリカ』とか、俺も言ってみたい。

 

 

 

 まずは決勝だ。

 そして、千堂だ。

 戦って、勝ってから考えよう。

 

 靴の紐は、いつの間にか結び目が緩んでいたりするものだからな。

 

 

 

 さて……宮田一郎対間柴了の試合か。

 幕之内に散々聞かされたから、しばらく宮田のことは考えたくない。

 

 なら、間柴か。

 

 原作のヒロイン、間柴久美の兄。

 両親が事故で死んだんだったっけか?

 まあ、俺なんか前世で自分が事故で死んでるけどな。(目逸らし)

 ボクサーとしては長身でリーチが長く、フリッカージャブの使い手。

 後の死刑執行人、だ。

 

 この試合、原作では宮田が圧倒し、追い込まれた間柴が宮田の足を踏んで逆転する。

 しかし、原作はすでにブレイクした。

 幕之内が俺に負けたこと……それが、宮田に何かしらの影響を与えるかもしれない。

 

「……速水さんは、どう予想しますか?」

「俺の予想は宮田だ」

 

 いや、うれしそうな顔するなよ。

 

「ただ、きれいなボクシングの試合で終わったら、の話だ」

 

 首をかしげる幕之内を立たせ、構えを取らせた。

 俺のことを色々教えてくれたお礼だと思って。

 

「幕之内くんは、俺の足の位置で距離を測ってただろう?」

「は、はい。なんで……」

「いや、目線でばればれだったからな……」

 

 苦笑しつつ、説明していく。

 距離のとり方、つぶし方、そして、相手の足を封じる手段。

 

「こうして肩を押し付け、片足に重心を集めると……どうだ?」

「動けません、ね」

「幕之内くんのパワーなら、パンチをガードさせて棒立ちにさせるのも可能だろう」

「さ、参考になります……」

 

 ああ、こういうところを見ると主人公なんだなと思う。

 素直というか天然というか、どこか、ほうっておけないところがある。

 

「じゃあ、次は……反則めいた技だ」

 

 踏み込みの足を、幕之内の前足のかかとに置いてやる。

 

「後ろに動けるか?べた足のインファイターと考えて、だが」

「……動けません。試合の最中にやられたら、戸惑うと思います」

「誰かに教えてもらったことはあるか?」

「ありません」

 

 幕之内の目を見て、言葉を続ける。

 

「左目の視界がふさがれて、死角からくるパンチは効いただろう?」

「え、まあ……はい」

「パンチが来るとわかってたら耐えられるパンチも、不意にもらったらダウンしてしまう……それと同じさ。知らないということは、怖いことなんだ。ならば、知るための努力をすべきだと俺は思う。それを使えというんじゃなく、対抗するために、だ」

「……わかる気がします」

「そして、間柴は、ボクシング以外の知識を持ってるし、勝つためならそれをやれる。危険な相手だと俺は思ってるよ」

 

 肩をすくめて、リングを見る。

 

「まあ、今日の俺たちはボクサーじゃなくて、観客だ。黙って見守るとしようぜ」

「はい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果だけ見れば、宮田の圧勝、か。

 

 序盤はおおむね原作どおりの展開だったといえる。

 フリッカージャブの連打。

 それに対応してからの、宮田の攻勢。

 

 カウンターで、ダウンを奪ったのも原作どおり。

 そこで一気に試合を決めにいかなかったのが、結果としては勝因だったのか。

 

 幕之内は気づいてなかったが、間柴が宮田の足を踏みにいった場面もあった。

 それをかわした瞬間は、思わず立ち上がりかけたが。

 

 間柴のパンチは当たらず、宮田のジャブだけが当たる。

 そして、苦し紛れの大振りのパンチにカウンター。

 絵に描いたような試合運びで、4Rに2度のダウンを奪って勝利した、か。

 

 

 もしかして、だが。

 幕之内に勝った俺に対して怒ってた?

 本当なら、ダウンした間柴に対して一気に決めに行く性格をしてるよね?

 

 なんとなく、俺と幕之内の試合を意識しての試合運びだった気がする。

 

 

 うん、まあ間柴と戦らずにすんだ。

 ならばよし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なのに、夢に出てくるのは幕之内(バージョン2)なんだよなあ。(震え声)

 

 

 

 

 

 12月。

 

 街が彩られていく時期。

 前世の記憶のせいか、微妙に地味というか、控えめに感じるが。

 デコレーションされた一般家庭もほとんど見かけない。

 

 しかし、宮田との決勝は12月の……クリスマスイブか。

 知人や職場の同僚に、チケットを配りづらい日程だな、おい。

 

 体調は問題ない。

 汗の出にくい季節だが、ウエイトも問題なし。

 

 そして、宮田対策というわけでもないのだが……。

 

「よう、久しぶりだな、速水」

「また、中途半端な時期にプロ転向しましたね、冴木さん」

「いやあ、一応オリンピック(バルセロナ)を目指してたが……こう、なんか違ったんだよなあ」

 

 ……出たよ。

 

 スピードスター、冴木卓麻。

 まあ、一種の、スリルジャンキーだ。

 俺のひとつ上だと大学3年生……だが、プロ転向ってことは、中退したんだろうな。

 ボクシング推薦で入学したはずだし。

 6回戦からキャリアスタートで、この前A級にあがったはずだ。

 

「ダウンを奪う1発と、ジャブの1発が同じ価値ってのはな……」

「ルールですけどね……それで、プロですか」

「ああ」

 

 冴木が破顔して、俺の肩を叩いた。

 

「いいな、プロは……こう、パンチの一発一発に、こもってるものを感じるよ。アマチュアの『当てる』じゃなくて、『殴る』『倒す』『ぶっ飛ばす』って感じの、人の心の原形質みたいな感情が伝わってくる」

「……それを、ギリギリで避けるのが最高って言うんだろ」

「そうさ……誰も俺をとらえることができない。それを証明する場所に、俺はプロのリングを選んだだけのことさ」

 

 冴木が、俺の拳をつかむ。

 

「今日は、ワクワクさせてくれよ……」

「ははは、俺は4回戦の選手ですよ、冴木さん。俺が胸を借りる立場です」

「ははは、面白い冗談だな、速水」

 

 冗談も何も……事実だし。(目逸らし)

 

 

 

 

 

 

 冴木の左が、俺の鼻先をかすめる。

 一種の挨拶だ。

 俺が左を返すと、冴木の口元に笑みが浮かんだ。

 

 示し合わせたように、左の差し合いが始まる。

 細かく動き続ける。

 打った後、同じ位置にはいない。

 

 冴木の、後ろで束ねた髪が踊る。

 なかなか絵になる光景だ。

 高校時代は丸坊主だったくせにな。

 

 相手の姿を見て打つのではなく、相手の動きを予想してパンチを放つ。

 あるいは、相手の動きを制限しておびき寄せる。

 

 フェイントの応酬。

 リーチは、俺のほうが短い。

 1センチ、2センチが遠く感じるやり取りだ。

 

 冴木の動きが良くなってくる。

 ギアがあがっていく。

 最初は拳ひとつ分あけて避けていたのが、半分になり、今は1~2センチ。

 

 冴木は、気分屋のところがある。

 スイッチが入るのに時間がかかるといってもいい。

 パンチのやり取り。

 そのスリルの中で、自分を盛り上げていく。

 

 たぶん、自分の神経をとぎすますために、『スリル』が必要なんだろう。

 真価を発揮するためには、プロのほうが向いていたのかもしれないな。

 

「いいぜ」

 

 冴木の言葉。

 それは、暖機運転終了のお知らせ。

 本当のスパーの始まり。

 

 冴木の左。

 俺の左。

 

 リングの中を、めまぐるしく動く。

 

 ハンドスピードは負けてない。

 しかし、フットワークは一歩譲る、か。

 速度負けするのは、少し新鮮な感覚だな。

 

 冴木が飛び込んでくる。

 ボディから顔面への切り返しが速い。

 ヘッドギアをかすめた。

 

 冴木はノーヘッドギア。

 打ってきていいとは言われているが、気は使う。

 

 冴木のステップの音は独特だ。

 キュ、キュという音ではなく、たんたんたんと、リングを蹴ると言うか、はじいている様な音がする。

 陸上の短距離選手のノリだな。

 それでいて、構えそのものは野球選手の守備に似ていて、俺としてはそれをどこか懐かしくも感じる。

 

 

 2Rめ。

 

 冴木の動きが、ますます冴える。

 動きが速くなったというより、反応がよくなった感じ。

 

 うん、宮田を想定したスパー相手としては上等。

 現状では、上等すぎたかもな。 

 

 ギアを上げた。

 左の差し合い。

 フェイントの応酬。

 

 冴木の踏み込みに合わせてボディ。

 退く動きに合わせて踏み込み、アッパーへつなげる。

 顔を上げてかわしたそこに、左。

 右手で外へはじかれる。

 

 ガードが開いた俺の顔に冴木の左。

 首をひねりながら右のクロスを返す。

 

 パンチの交錯。

 そして、距離をとる。

 

 周囲から、ため息のようなものが聞こえた。

 

 また動き出す。

 

 冴木の左。

 右。

 速い。

 しかし、素直。

 

 トップスピードの上はないのか。

 

 

 3Rめ。

 予定では、最後のR。

 

 そろそろいくか。

 

 パンチの緩急。

 タイミングの変化。

 ステップの緩急。

 リズムの変化。

 

 冴木の、気持ちの良いリズムを邪魔してやる。

 かと思えば、気持ちの良いリズムに戻してやる。

 

 かみ合っていた動きに乱れが出る。

 

 何かが崩れる。

 

 相手の力を8にも9にも見せて10の力で勝つのではなく、3や4に落とし込むやり方。

 勝負に限って言うなら。

 冴木はまだ、甘い。

 

 その甘さが、少し羨ましい。

 

 

 トン、と。

 

 威力はないが、俺の拳が冴木をとらえる。

 戸惑いの表情。

 避けたはずのパンチ。

 

 またひとつ。

 

 威力はない。

 ただ、当てるだけのパンチ。

 

 そこに普通のジャブ。

 踏み込んだ。

 左右のボディから、アッパー……を、アゴの手前で止めた。

 

 意地を張るでもなく、冴木が尻餅をつく。

 

「おい、なんだよ今のジャブ?」

「はは、別のジムの……それも同じ階級のボクサーに教えるはずないでしょ。見せてあげたのは、俺のサービスです」

 

 そう言って、片目をつぶっておく。

 

 まあ、種明かしをすれば、『フォームを崩した』だけの話。

 それでパンチの軌道をずらした、インチキっぽい、小手先の技だ。

 

 冴木も、宮田も、目がいい。

 反射速度もいい。

 でも、それは時として速すぎるときがある。

 

 一瞬の躊躇。

 余計な思考。

 それが命取りになるのが、ボクシングのリングだ。

 だからこそ、集中力の奪い合いが重要になってくる。

 

 それは疲労だったり、ダメージだったり、心理的な駆け引きだったりするわけだが。

 

 

 カウンターパンチャー相手には、いくつか対抗策がある。

 

 まずは、こちらのパンチを学習させないこと。

 イメージとしては、居合いだな。

 

 次は、間違って学習させること。

 1発1発、タイミングや角度を変えて打つ、とかだな

 俺がいつもやっていることだ。

 ただ、じっくりと分析されると、性格などの癖が出る。

 

 力の差で押しつぶすのは、脳筋の天才にお勧めだ。

 タイミングがわかっても、パンチが見えても、避けられない、間に合わない……まあ、先に相手の心が折れるかな。

 

 ほかにもあるが、試合が始まるまでは、色々と考えるだけはできるんだ。

 ただ、それが実行できるかどうかが問題なだけで。

 

 綿密に作戦を立てたところで、当日の体調が悪ければおしまいだ。

 あらゆる想定をしつつ、なおかつ、偏らない。

 もちろん、自分の能力が高ければ高いほど、選択の幅は広がり、能力が低ければ、選択は少なくなる。

 

 ただし、選択するということは、その分判断するまでのタイムロスが出る。

 できることがひとつだけで、何も考えずにそれだけを実行する……そんなタイプが、一瞬を争う競技ではすべてをひっくり返すことが少なくない。

 

 身体を鍛えるだけじゃなく、最速で最善の選択をし実行へと移す……そういう、思考のトレーニングも重要だ。

 まあ、俺のやっているナンバーシステムなんかが、それに該当するが。

 

 練習方法もそうだが、ほかにも色々と考えている。

 まだ、形にもならないもの。

 何かをつかみかけた気がするもの。

 考え続けることだ。

 

 いつかそれが力になると信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 12月23日。

 

 ……実はひっそりと、俺の誕生日。

 これで20歳になった。

 

 今は関係ないけどな。

  

「宮田選手、速水選手、計量パスです」

 

 東日本新人王戦。

 それぞれ日程はばらばらだが、決勝に関してはすべての試合を同日に行う。

 なので、今日の前日軽量には、出場選手が勢ぞろいする。

 

 まあ、最も注目されているのはフェザー級だ。

 

 ほかの階級の選手への取材はほどほどに、俺、速水龍一と宮田一郎に、記者の興味が集中する。

 たぶん明日は、女性ファンも多いだろう。

 ただし、男性のアンチは確実に俺のほうが多い。

 

 お決まりの、握手の撮影に始まり、コメントを述べる。

 

「別に。特に言うことはないね」

 

 そうか、俺をピエロにしたいのか、宮田一郎。

 いや、確かにそういうところが女性ファンには支持されるかもしれないが……しれないが、なあ、もうちょっとさぁ。

 

 盛り上げようじゃないか。

 

 日本のボクシング人気の凋落について、一番わかりやすいのはファイトマネーの変遷だ。

 昭和40年代後半に、人気の某日本人ボクサーは1試合のファイトマネーで6千万~7千万もらったって逸話がある。

 それが、平成20年頃にタイトルを何度も防衛した某世界チャンピオンのファイトマネーが700万になってしまうのが前世における現実だ。

 人気の有無に左右されるとはいえ、40年の物価上昇分を考えたら、10分の1ではすまない。

 

 昭和50年代前半に、某プロ野球選手の年俸が最高で8000万ぐらいだったことを考えると、1流のプロ野球選手の年俸が、平成20年頃に400万とか500万になるぐらいの衝撃だ。

 その年俸だと、プロ野球選手にあこがれる少年は激減するだろう。

 

 キレイごとを否定はしないが、金はパワーだ。

 わかりやすい欲望。

 逆に言えば、金になると思えば……ボクシングに寄ってくる連中はいる。

 プロ野球にしても、多くの人間の努力とビジネス戦略によって、職業として成立させたわけだからな。

 

 でも、今は宮田にそれを頼むのは筋違いか。

 宮田は宮田で、幕之内を倒してここにいる俺に対して、複雑な思いがあるのだろう。

 何も言わないのではなく、何も言いたくないのかもしれない。

 

 まあ、記者連中はそんなことを知らないし、関係ないけどな。

 だからこうして、俺に期待する視線を向けている。

 

 俺は速水龍一で、プロのボクサーだ。

 その期待に応えるのがプロだろう。

 

 ビッグマウスの時間だ。

 




昭和40年代、ボクシングはマジでプロスポーツとしては花形だったようです。
身体ひとつで、その拳だけで成り上がられるという幻想は、多くの少年に夢を与えたんでしょうね。(ごく一部の選手に限ります)

アマチュアボクシングの採点基準も、色々変わったので、もういつの時代のどのルールだったのか覚えてません。(震え声)

(チラッ)明日も、更新予約を入れました。


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08:ただ、勝つために。

展開について、好みが分かれると思います。


『1Rで終わらせる!』

『1Rあれば十分でしょ?』

 

 俺の発言が〇〇スポーツと〇△スポーツで大きく取り上げられたぞ、やったぁ!

 

 ……言ってねえよ。

 そんなこと言ってねえよ。(震え声)

 

 ちなみに、俺の発言はこうだ。

 

『明日はクリスマスイブですね。試合数も多いし表彰式も控えてますから、できるだけ早く終わらせて、スケジュール進行に協力したいですね』

 

 こう、宮田への挑発を含めて、ウィットに富んだアメリカンな発言だろ?

 それがなんで、こんな安っぽい発言にされてしまうのか。

 文字数制限があることは百も承知だが……こう、なんというか……バカっぽい。

 それと、その片方が、俺のスポンサーであるテレビ局と関連性が深い新聞社であるところに、救いのなさを感じる。

 

 これは、スポンサーからのある種の釘刺しなんだろうな。

 アクシデントとはいえ、世間的には格下とされている幕之内にダウンさせられた俺への不満。

 

 俺は、人である前に速水龍一という名の商品。

 商品価値を下げるような真似は許されないし、状況の変化で価値が下がっても切られる。

 シビアな世界だ。

 

 

 ……前向きに考えるか。

 世界戦でもなく、たかだか東日本新人王決勝戦程度がスポーツ新聞の2面や3面に大きく記事になるなんてのはほぼありえない。

 12月という時期が良かったのもあるだろうが、少なくとも話題にはなっている。

 またアンチが増えるだろうが、金と手間をかけて試合を見に来てくれるなら立派なファンだ。

 

 ネットも、動画も、ツイッターもない時代だ。

 マスコミの力を借りずに、個人でどうこうするのは厳しい時代でもある。

 見てもらわなければ始まらない。

 何かを感じてもらわなければ始まらない。

 

 日本人好みの演出、か。

 

 

 意識を切り替える。

 覚悟を決めていく。

 ボクサー、速水龍一として。

 

 今日の試合は、幕之内とは別の意味で神経を使う試合になるだろう。

 

 圧力、プレッシャー、重圧、いろんな言葉がある。

 

 たとえば、幕之内のパンチをもらってはいけないという重圧はどこからくるのか?

 もちろん、その破壊力だ。

 一発で倒されるかもしれないという恐怖。

 防御に重点を置くという方法を俺はとったが、それは試合時間が長くなるというデメリットを生んだ。

 1秒でも早く試合を終わらせるというのも、ひとつの手段だ。

 攻撃に重点を置き、積極的に倒しにいく……ただし、反撃を食らう可能性が増える。

 

 どちらにせよ、幕之内の攻撃に対して『意識を振り分ける』必要が出てくる。

 

 注意しなければいけない何か。

 対応しなければ痛い目に合わされる何か。

 俺は、それが重圧の本質だと思っている。

 

 人間の集中力は、意識は、有限だ。

 どこかに集中すれば、ほかはおろそかになる。

 

 それはつまり、自分が相手に意識させられる長所を持っていれば、その分相手の集中力を奪えるということだ。

 

 俺が宮田から感じる脅威。

 そして、宮田が俺に感じている脅威。

 

 試合が始まる前から、集中力の奪い合いは始まっている。

 

 自分の強みと弱みを知る。

 相手の強みと弱みを知る。

 そのうえで、相手がどう動くか、どう動かざるを得ないかを考える。

 

 読みとか、戦略とか言うのは、それからの話だ。

 

 まあ、俺と宮田のスタイルは、わりと似ている。

 俺はファイターより、宮田はアウトボクサーよりのボクサーファイター。

 長所も短所も似ている気がする。

 

 だからこそ、神経を使わざるを得ない。

 裏をかくために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「速水選手、準備をしてください」

 

 軽く、身体を動かしながら、歩いていく。

 

 原作をブレイクした後の、俺の道。

 速水龍一の道。

 

 体調は悪くない。

 ただ、幕之内戦が大きなピークだった。

 今日、大きなダメージをもらわずに試合を終えたら、千堂との試合の2月にまたピークを持ってこれるだろう。

 

 宮田はどうだろうか。

 まあ、考えても意味がない。

 リングに立ち、この目で見て、グローブを合わせるまでわからないことはいくらでもある。

 

 

 

 俺を応援する女性ファンがいる。

 宮田を応援する女性ファンがいる。

 

 今日は、クリスマスイブだ。

 ここに足を運んでくれた意味を重く受け止める。

 

 俺に罵声を浴びせる連中がいる。

 

 それでもいい。

 熱だ。

 ここには、熱がある。

 

 人の熱は、伝播する。

 熱気が、興奮が、新たな熱を生む。

 

 あるいは、焚き火のようなもの。

 その光に、熱に、誘われて人が集まる。

 

 リングへと向かう通路を歩きながら、拳をぐっと握り締める。

 

 音羽会長と相談し、覚悟は決めた。

 

 リングの上で手を上げた。

 

 歓声。

 ヤジ。

 あぁ、いいね。

 

 くるりと、円を描くようにステップを踏み、左右の連打を見せる。

 無意味なパフォーマンスと、笑わば笑え。

 

 今日、初めてボクシングを見る人に。

 今日、初めて後楽園ホールに足を運んでくれた人に。

 楽しかったと。

 面白かったと。

 感じた熱に、方向性を与えてやる必要がある。

 

 何が起こるかわからない。

 びっくり箱のような驚き。

 そして、物語のような……劇的な何か、を。

 

『ボクサーの考えることじゃないぜ』

 

 藤井さんの言葉を思い出す。

 それでも、だ。

 

 それを目指したのが、『速水龍一』という男だろう。

 

 パフォーマンスを終え、俺はまた観客に向かって手を上げる。

 大きくなった歓声とヤジ。

 それでいい。

 負けたらピエロ。

 俺は、それさえわかっていればいい。

 

 そして、宮田のやってくる方角に向けて、拳を突き出す。

 

 宮田が現れる。

 宮田が歩いてくる。

 

 ……うん、宮田にパフォーマンスは期待してなかったけどさ。

 

 ボクサーとは、孤独な人種だ。

 それを実感する。

 

 

 

 

 レフェリーの言葉。

 耳には入ってこない。

 俺をにらみつける、宮田の目。

 それだけが気になる。

 

 幕之内を倒したからか。

 約束の場所を、俺が奪ったからか。

 宮田だけじゃない。

 幕之内だけでもない。

 人は、誰もが約束の場所を持っていて、そこに向かって歩いていく。

 

 ボクシングの、スポーツの本質は、残酷さの中にある。

 誰かの大切なものを踏みにじって歩いていく。

 そんな世界だ。

 奪われる覚悟は必要だ。

 

 

 

「気負うな。そして、油断するな。それだけでいい」

 

 音羽会長に向かって、頷いておく。

 

 宮田と戦うためのプランは10種類以上考えていた。

 まあ、あの新聞のせいで半分以上ぶっつぶされたが。

 スポンサーは、俺を助けつつ、俺の選択を縛る存在でもある。

 俺も、それを利用させてもらう。

 

 

 セコンドアウトの合図。

 マウスピースの感触。

 

 そして。

 東日本新人王決勝の開始を告げるゴング。

 

 さて、いくか。

 

 

 

 

 きゅっきゅっと、俺と宮田のリズムを示す音だけが響く。

 

 俺の出した(ジャブ)に対し、返礼のように返ってくる(ジャブ)

 リーチは、宮田のほうが長い。

 

 宮田を見る。

 リングを回りながら。

 

 宮田の左。

 届かない距離。

 それでも、左を伸ばしてくる。

 

 俺の踏み込みに合わせて左。

 からの右。

 糸を引くような軌道。

 

 これが、幕之内があこがれたという、宮田のワン・ツーか。

 

 俺への威嚇だろう。

 あるいは、怒り。

 

 俺の左が空を切る。

 その引き手に合わせて、宮田の左が来る。

 それをはずして、俺もまた左。

 

 左の差し合い。

 そのまましばらく、宮田のリズムに合わせた。

 気分良く、進めてやる。

 

 

 

 お互いの存在をぶつけ合うような殴り合いがあり、お互いを出し抜こうとする心理戦がある。 

 ボクシングに限らず、スポーツ選手はいつだって『最高のギア』を温存しておくものだ。

 これ以上はないと見切られた瞬間、底が見えてしまう。

 

 その上限以上を警戒していた分の集中力を、ほかに回されてしまうからだ。

 

 リアルを争いながら、自分の姿を大きく見せる。

 相手に幻想を抱かせる。

 それもまた、ひとつの戦い。

 

 

 激しい左の差し合い。

 アウトボクサー同士の、息詰る主導権争いに見えるだろう。

 綺麗なボクシングだ。

 無駄のない動き。

 ある種の機能美。

 

 動きはめまぐるしい。

 気は抜けない。

 

 でも……そろそろか。

 

「ひとつ!」

 

 音羽会長から、『1分経過』の合図がとんだ。

 マウスピースを強く噛む。

 覚悟を決める。

 

 ひとつの変化。

 

 この試合、俺が初めて見せるメキシカンのジャブが、宮田の頬をかすめた。

 かすかに、宮田の表情が変わる。

 その瞬間。

 俺は、ガードを固めて突っ込んだ。

 

 ふたつめの変化。

 

 戸惑いの表情。

 それで、1Rからの勝負を予想してなかったことが知れた。

 切り替える余裕を与えない。

 

 変化と奇襲は、2度続けて意味が出る。

 どちらの情報を先に処理しようか、迷いが出るからだ。

 迷いは、そのままタイムラグに直結する。

 動揺すれば、その傷はさらに広がる。

 

 宮田のバックステップ。

 俺はそれを追いかける。

 突き放そうとする左。

 俺はそれをはじいて踏み込む。

 

 みっつめの変化。

 

 ここで、ギアを上げた。

 リズムを変える。

 そしてボディへ一撃。

 

 バックステップ。

 逃がさない。

 またボディへ。

 

 回ろうとする宮田。

 突き放そうとするジャブが雑になっている。

 追いかけていく。

 追い詰めていく。

 

 コーナーへ。

 

 

 宮田の動きが止まる。

 自分の位置を確かめるようなそぶり。

 

 コーナーを背負った宮田に、接近戦を挑む。

 宮田の長所を殺し、俺の長所を活かす場所。

 俺が決して幕之内に与えなかった場所。

 

 連打。

 細かく早く。

 リズムとタイミングを学ばせないための、フェイントと捨てパンチも混ぜる。

 ガードの上からも叩き、反撃を殺しながら、攻撃する。

 

 防御の上手さ、反応のよさは、幕之内のはるかに上。

 だが、俺の速さと技術も、幕之内のはるかに上。

 そして、本来攻撃のほうが防御よりも有利だ。

 見て避けるのでは遅い。

 攻撃を読みきって、ようやく渡り合える。

 かわせないパンチがでる。

 ダメージが入る。

 そして。

 

 宮田には幕之内の頑丈さがない。

 

 ボディからのアッパー。

 ぐらつく。

 倒れさせないために、アッパーで起こす。

 容赦はしない。

 俺のパンチも、タイミングも。

 学ばせる時間を与えないために。

 ここで、終わらせる。

 

 連打。

 宮田の腰が落ちる。

 それをまた、アッパーで立たせる。

 左右のフックに、宮田の身体が揺れる。

 しかし、宮田の目が生きている。

 またアッパーで……

 

 レフェリーが、俺と宮田との間に飛び込んできた。

 とめるな。

 まだ死んでない。

 

 俺の目の前で。

 

 宮田が座り込むように尻餅をついた。

 

 

 

 ニュートラルコーナーで、歓声と悲鳴を浴びながら、俺は宮田を見る。

 リングに拳を叩きつける宮田を見る。

 

 レフェリーがダウン宣言をするのが少し早かった。

 あと3発、いや、2発でよかった。

 

 ……仕方ない。

 もう一度だ。

 

 今の攻防で、俺のタイミングがつかまれた可能性はある。

 集中だ。

 

 残り時間を確認。

 ほぼ1分。

 

 

「ファイトッ!」

 

 合図と同時に襲い掛かる……と、見せかけて手前でいったん止まる。

 宮田の右が空を切る。

 その引き手にあわせて飛び込んだ。

 余裕はない。

 足もない。

 それが見えた。

 

 宮田の右を警戒して、左のガードは残しておく。

 そして、右の連打。

 宮田の足元がおぼつかない。

 それでも目が生きている。

 右に意識を向けて、左のアッパー。

 はね上がった顔面に右。

 

 俺の視界から、宮田の目が消えた。

 

 左右の連打で……。

 

 

 

 こつん、と。

 

 ガードを空けた俺のアゴを、宮田の右がこすっていった。

 

 

 

 ただ手を出しただけのパンチ。

 

 意識はある。

 痛みはない。

 

 幕之内とは別の種類の絶望。

 パンチを打つための、踏み込みができずにいる俺。

 

 宮田も、ローブを背にして立っているだけ。

 

 やってくれる。

 タイミング。

 そして、俺の意識が完全に攻撃に向かった瞬間。

 生粋のカウンターパンチャーというのは、こういうものか。

 

 

 時間にして1秒か2秒ほど。

 お互いが、回復を待つ奇妙なお見合い状態。

 その、終わりが来た。

 

 ……それまでのダメージの蓄積の差。

 

 この結果は、実力差じゃなくて戦略の差だ。

 次に戦る時は、こううまくはいかないだろう。

 

 踏み込む。

 宮田の目を見る。

 

 俺は、宮田への敬意を示すように、ワンツーで勝負を決めた。

 

 

 

 

 

 リングの上で、高々と拳を突き上げた。

 そして、リングを歩いてまわる。

 観客全員に、俺の顔が見えるように。

 

 歓声と拍手、そしていくつかの罵声。

 ははは、いつもの。

 

 でも、女性ファンの罵声は心に刺さるな。

 それに対して、俺の女性ファンが文句を……それはやめて。

 

 ぼろぼろの勝者というのも絵にはなるが、俺は、勝者らしく振舞う。

 胸を張る。

 看板は小さいが、王者らしい姿を。

 

 もう一度、拳を突き上げ、アピールした。

 

 

 というか、1Rで終わらせたの、アマチュアを通じても初めてなんだよな。

 それを知ってれば、『1Rで終わらせる』なんて言葉を使うはずがないんだ。

 せめて、選手のプロフィールぐらいは調べた上で、記事を書いて欲しいとは思うが……結局、これが今のこの国でのボクシングの扱いなんだろう。

 

 まあ、今回は特別だ。

 宮田という、カウンターパンチャー相手だからこそ、選ぶことのできた戦略。

 とりあえず、有言実行は果たした。

 

 

 リングを降りる。

 

 宮田には声をかけなかった。

 当然のことだが、宮田一郎は、幕之内一歩とは違う。

 勝った俺がどんな言葉をかけたとしても、与えるのは屈辱だけだろう。

 

 俺は、そう思う。

 

 

 

 歓声に向かって手を振りながら通路を歩いていく。

 

 新人王戦東日本代表。

 プロボクサーになってからの、初めての勲章だ。

 小さな小さな、勲章。

 

 俺が道を振り返ったとき。

 この勲章が、速水龍一の『はじめの一歩』であるように。

 

 顔を上げて、歩いていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 次の階級の決勝が行われる。

 その裏で、東日本を制した俺へ記者が集まる。

 

「いやあ、宣言どおり、1RのKO。見事でしたね」

 

 ははは、〇〇スポーツの記者さんは何を言ってるのか。

 ……宣言してないからな。

 顔は笑顔でも、心は絶許だから。

 

「実力差じゃなくて、戦略の差ですよ。最初に1分使って、宮田くんのボクシングに付き合った。そこで、いきなりインファイトに切り替えて、戸惑っている間に、勝負を終わらせただけです」

 

 アゴをなでながら、言葉を続ける。

 

「最後の詰めの瞬間に、カウンターをもらいましたからね。ヒヤッとしました。宮田くんに余力が残っていたら、正直危なかったですよ」

 

 俺の言葉に頷くか、不満そうな表情を浮かべるかで、ボクシングへの理解度がわかる。

 ボクシングの専門誌の記者は当然前者で、スポーツ新聞の記者は後者が多い。

 結局、ほかのスポーツの話題がない時期(12月)だから、紙面の穴埋めに近い状態なんだろう。

 

「次は全日本ですね」

「ええ、西日本の千堂です」

 

 俺の言葉に首をひねる記者がいる。

 不勉強とは言うまい。

 世界戦以外は、さほど興味はもたれない。

 そして、世界戦のときだけ、付け焼刃の知識で記事を書くのも珍しくない。

 これが、現状だ。

 

 ちょうどいい機会だ、俺の口から千堂のことをプッシュしてやろう。

 

 なにわ拳闘会所属、千堂武士。

 全試合、派手なKO勝利。

 難波の虎と呼ばれる存在。

 浪速のロッキーと呼ばれる男。

 いや、ロッキーといっても、映画の方じゃなく、無敗のまま引退した伝説のボクサーの方じゃないと、千堂くんに失礼かな、などと持ち上げておく。

 

「絵になる男。物語になる存在だと聞いてます。油断できない相手でしょうね」

 

 藤井さんの言葉を借りて、締めておく。

 

 これで、少しでも興味を持ってくれたら万々歳。

 戦うのは俺だ。

 千堂の姿が大きく見えれば見えるほど、俺もまた大きく扱われる。

 それは、ボクシングの盛り上がりへとつながるかもしれない。

 

 ……まあ、負けたら俺がピエロになるのは変わらないが。

 

 

 しかし、原作と違って千堂が東京にやってくるイベントはないんだろうな。

 千堂から見て、俺というボクサーが『心ゆくまでどつき合いを楽しめる相手』ではないことは確かだし、怪我や都合で俺が棄権する予定もない。

 原作ブレイクの結果か。

 少し寂しいような気もする。

 

 あ。

 今思うと、幕之内とヒロインのフラグ折れてないか、この流れ。

 

 ……赤い糸で結ばれた二人なら、きっと出会うと思うんだ。

 うん、そういうことにしておこう。

 

 それに、俺の知らないところで、別のイベントが起きると思えば……それでいいか。

 何が起こるかわからない。

 それが世界の選択で、現実ってやつだろう。

 それでいいはずだ。

 

 

 

 すべての階級の試合が終わった。

 

 東日本新人王になった選手が集まり、リングの上で表彰を受ける。

 

 ん?

 ああ、全日本だけじゃなく、東日本でもMVPがあるんだったか。

 まあ、もらえるなら有難く。

 

 当然のような顔をして受け取り、女性ファンの声援に応えていたら、背後から舌打ちが聞こえた。

 ならば、女性ファンを増やす努力をしてるのかと、心の中でつぶやくだけにしておく。

 

 そして、選手全員で写真撮影。

 

 前世では、西日本代表は、西日本・中日本・西部日本各地区の勝者が争って決める(参加人数的な関係)ものになっていたが、この世界のこの時代は、西日本はひとつのブロックとして扱われているようだ。

 全日本の会場も、後楽園ホールと大阪府立体育会館を交互に使用していたが、いつからか後楽園ホールで統一されたし、その時期も12月になっていた。

 

 ただまあ、この世界の、この時代、俺たちは大阪へと乗り込むことになっている。

 今ここにいる東日本の代表の、何人が勝ち残れるだろうか。

 

 そして何よりも。

 千堂武士を相手に、俺は生き残ることができるだろうか。

 

 西日本の準決勝、そして決勝の映像を見る限りで言うなら、俺と戦ったときの幕之内よりも上だ。

 ただ、ボクシングそのものは荒い。

 でも、千堂の荒っぽさは、ある種の技術といえる荒っぽさだ。

 そしてタフだ。

 喧嘩の場数を踏んでいる分、痛みにも強い。

 

 正直、俺にとっては相性が悪い。

 また、集中力を削られる試合になるに違いない。

 

 

 

 祝勝会は後日ということにして、音羽会長と別れて後楽園ホールを後に……。

 

「速水さん!」

 

 どきりとする。

 幕之内。

 顔は穏やかだが……どうかな。

 

「よう、幕之内くん。今日は俺の……じゃなくて、宮田くんの応援か」

「あ、いえ……はい」

 

 幕之内を見て、言う。

 

「ずるい試合だっただろ?」

「……」

「宮田くんの場所ではなく、俺の場所で戦ったからな」

 

 苦い思い。

 原作の『速水龍一』の言う『相手の力を8にも9にも見せて10の力で勝つ』というやり方を実行できるほど、俺は自信家にはなれない。

 

 まずは勝つ。

 負けて悔いなしというのは幻想だ。

 勝たなければ始まらない。

 前世の経験。

 俺の、慎重さと臆病さが、原作の『速水龍一』をブレイクした。

 それでも、という思いはある。

 

「……以前、速水さんが教えてくれたことを会長に話したんです」

 

 教えた?

 何を……ああ、宮田と間柴の試合のときのことか。

 

「鴨川会長が言ってました……『ボクシングに対して真摯な男じゃな』と」

 

 真摯か……うん。

 そうか。

 少し、救われる。

 

「宮田君が負けたのは正直残念だったけど、僕はずるい試合だったとは思いません。フェイントや駆け引きだって、ボクシングですよね。僕は不器用なボクシングしかできませんが、速水さんはいろんなことができて、そのひとつを選んだらああいう試合になった……そういうことなんだと思います」

 

 前世の名前が速水龍一だったことで多少複雑な思いを抱きはしたが、『はじめの一歩』という作品そのものが好きだった。

 登場人物も好ましいと思う。

 今日、俺が殴り倒した宮田一郎だって好きなキャラだ。

 嫌いになれるわけがない。

 

 だからこそ。

 この世界で、実際に見て、感じて、そして生きて……俺は、速水龍一は、好ましいと思われるボクサーでありたい。

 俺という筆で、速水龍一という男を、この世界に描きたい。

 

 すべてではないにしても、そういう想いが少なからずある。

 口には出せない、俺だけの秘めた思いだ。

 

 勝ちにこだわる自分。

 それを正しいと思いながら、心のどこかで卑しく感じている。

 

 そんな俺には、まっすぐな『幕之内一歩』の言葉が……尊い。

 

 まいったな。

 泣いてしまいそうだ。

 

 俺はただ、笑ってそれをごまかした。

 

 

「次の全日本も、がんばってください」

「ああ。幕之内も、次は6回戦か。そろそろ復帰に向けて絞られ始めたか?」

「はい」

 

 ぐっと、拳を握って。

 

「宮田君との約束とは別に、速水さんの後を追いかけるつもりです。そして、今度こそ、アクシデント抜きにしてパンチを入れますから」

 

 ははは。

 おい、やめろ。

 夢に見そうな事を言うんじゃない。(震え声)

 

 でもまあ、今はこう、か。

 

「はは、待ってるぜ」

 

 軽く右手を上げて、俺は幕之内に背を向けた。

 そして、歩き出す。

 俺の背中を、幕之内がじっと見つめているような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、夢の中で俺はバージョン2の幕之内を退け、新しく現れたバージョン3の幕之内に思いっきりぶっ飛ばされた。

 

 よーし、これでまた、俺は強くなれるぞ。(白目)

 




この流れ、宮田の海外遠征とかどうなるんだろう。
そして、すっかり忘れていた一歩と久美ちゃんのフラグは。
青木さんとトミコは出会えるのか。

そう考えると、現実って、偶然の積み重ねでできているんだなと思います。


(チラッ)筆が走ったので、千堂戦と第一部のラストまで連続更新の予約を入れました。
11話で、第一部終了予定。


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09:破綻。

いつからかは忘れましたが、今は新人王決定戦は、全部後楽園ホールでやります。
あと、A級トーナメントはなくなりました。
最強後楽園と名前を変えて存続はしてますが、ランキング上位しか出場できません。
A級なら誰でも出場できるのは、物語としてはとても都合が良い存在だと思います。


 幕之内(バージョン3)は強いなあ。(白目)

 

 すかっとさわやかにぶっ飛ばされて、寝汗でじっとりした目覚めを味わう。

 これが、久しぶりに帰省した実家の、めでたいお正月の目覚めか。

 まあ、明日には東京へと帰る予定だが。

 

 両親と兄妹との団欒、そして初詣。

 久しぶりの休暇だ。

 

 夜は、高校時代の友人や知人と再会した。

 少し、いじられた。

 

 ……ははは、〇〇スポーツと〇△スポーツめ。

 友人知人のほうが、俺のことを良くわかってるよ。

 

 

 そして次の日。

 東京へと戻る俺を、両親が駅まで見送りに来てくれた。

 

 危険じゃないスポーツなんてものはないが、ボクシングの危険度が高いのは確かだ。

 親不孝といわれたなら、否定はできないだろう。

 

「元気でね」

 

 おそらくは、万感の想いがこめられた母親の言葉に、俺はただ笑顔で返す。

 どんな言葉も、嘘になってしまいそうだから。

 

 電車が動き出す。

 俺の、『速水龍一』の故郷を離れていく。

 俺が、ボクサーの『速水龍一』へと戻っていく。

 

 全日本新人王決定戦。

 フェザー級西日本代表の千堂武士との試合は2月だ。

 

 宮田との試合が終わってまだ10日ほどしか経っていないのに、おそらくはこれが最後の休暇になるだろう。

 俺は、速水龍一はボクサーだ。

 やるべきことは多い。

 

 去年の暮れには……いわゆる、ソ連崩壊が起こった。

 国家事業として支えられていた、スポーツエリートの流出現象が始まる。

 もちろん、それはスポーツに限ったことではなく……前世では、研究者なども含めた大きな社会的現象へとなったのだが。

 この世界ではどうなるのか。

 

 そして、日本に来るのか……ヴォルグ・ザンギエフ。

 

 車窓から見る景色が流れていくように、時もまた流れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 千堂武士。

 いまさらだが、危険な相手だ。

 音羽会長も、警戒している。

 

 もちろん、原作知識ではなく、西日本新人王戦における千堂の試合の映像を見ての感想だ。

 どちらかというと、豪腕という言葉は幕之内よりも千堂にふさわしいと俺は思う。

 幕之内は小柄なせいもあって、現状では超接近戦で連打でまとめてくるタイプだが、千堂は中距離で一発一発、相手に重圧を与えるタイプだ。

 ストレート系よりも、フック、そして原作ではスマッシュだったか。

 スイング系のパンチに頼っている。

 言葉は悪いが、暴力にボクシングの皮を一枚かぶせたような、まだまだ荒っぽい印象だ。

 もちろん、その荒っぽさがある意味で、技術になっていることも見逃せない。

 間合い。

 そして、手を出すタイミング。

 人を殴るということを良く知っているのがわかる。

 

 コンビネーションとはいえない。

 なのに、相手を追い詰めていく。

 空間を削るようにして、逃げ道をふさいで相手を押しつぶす……そういう試合運びは、技術だと認めるべきだ。

 

 幕之内に対しては、リーチと速さと技術の3つで対抗したが、千堂の場合『リーチ』の有利が失われ、速さと技術の2つで対抗しなければいけない。

 

 まあ、動きそのものは直線的だから……リングを丸く使い、速さを活かして判定勝ちするのが理想か。

 その場合は、俺の技術が問われる試合になるだろう。

 言葉にするのは簡単だが、実際にリングに上がって感じる千堂の圧力を、最後まで受け流せるかどうか。

 こればっかりは、映像ではわからないものだ。

 

 それと、判定狙いは……どこかで他人任せになる。

 大阪開催。

 そして、千堂の地元。

 人の印象は、たやすく環境に左右される。

 

 まあ、考える時間はまだある。

 

 

 

 

 

 千堂戦に向けての情報分析、いくつかの作戦を立て、練習プランを組んだところで横槍が入ってきた。

 天下無敵の、スポンサー様の要求だ。

 

 一言でまとめると『派手なKO勝利で決めてね』って。

 

 千堂を相手に、インファイトか。

 できなくはない。

『今』の千堂ならば、まだいけなくもない。

 ただ、やり切れる確率というか、勝利の可能性はさがる。

 

 そして、俺が戦うのは『今』という過去の試合の千堂ではなく『未来』の、当日の千堂だ。

 

 ボクシングを始めて日が浅い……急激に伸びる時期の、未来の千堂。

 おそらく、さらに可能性はさがる。

 

 

 あと、俺も音羽会長も失念していたのだが、ある問題が表面化した。

 千堂に勝って新人王を獲ると、俺はフェザー級のランキング10位が与えられる。

 

 ちなみに、このランキングというのは強さの順位ってわけじゃない。

 完全に無関係というわけじゃないが、このランキングというのは『日本王者に挑戦する優先順位』という意味合いのランキングだ。

 ようするに、新人王を獲ると、王者に挑戦する行列の10番目に並ぶ権利を得るってことだ。

 日本のフェザー級で10番目に強いと認定されたわけじゃないってことね。

 もちろん、その行列に並んでいなければ、王者に挑戦することはできない。

 

 少し話がそれたが、ここで俺がプロ入りしてからの成績を振り返ってみよう。

 デビューから4戦4勝4KO。

 千堂に勝つと、5戦5勝になる。

 

 4回戦、C級ライセンスを持つボクサーが4勝すると、6回戦のB級ライセンスの試合に出場することができるようになる。

 そして、6回戦で2勝すると、8回戦、A級ライセンスの試合に出場を許される。

 日本王者に挑戦する試合は当然8回戦のA級ライセンスが必要で、8回戦で1勝しないと、タイトルマッチの10回戦には出られない。

 

 つまり、日本ランキング10位に入っても、8回戦の試合に出場できないんだな、これが。

 ははは、新人王トーナメントで棄権しやがった安川くん、ナイスアシスト。

 

 幕之内戦では、最新の情報を与えないという意味で良い方に転んだが、今度はそれが悪いほうに転んだわけだ。

 

 というわけで、『俺が千堂に勝つと仮定』した上で、音羽会長は『6回戦ボクサーの俺の対戦相手を探さなきゃいけない』状況にある。

 そう、対戦相手を探さなきゃいけない。

 

 ……うん、いつもの。(遠い目)

 

 今になって思うけど、原作の主要キャラって、良く対戦相手が見つかるよなあ。

 

 音羽会長が、うめく様につぶやく。

 

「また、海外から呼ぶしかなさそうなんだが……予定とか、スケジュールとか、無茶苦茶だぞおい。どうすんだ、これ……」

 

 2月に千堂。

 そして、できれば3月、遅くても4月に1試合戦って、8回戦に。

 秋には伊達英二の世界再挑戦のプランが表面化する予定だから、王者返上からの、ランキング1位と2位の王者決定戦が冬には行われるというタイムスケジュール。

 そこに入り込むには、ランキングを上げるためのA級賞金トーナメントに参加して優勝するしかないんだが……。

 

 順番に並べるとこう。

 

 11月に幕之内。

 12月に宮田。

 2月に千堂と。

 3~4月に海外から呼ぶ誰か。

 そして、A級トーナメントはたぶん3試合ぐらいを、夏から秋にかけて。

 そのまま、返上された日本王者決定戦を、12~1月ぐらいか。

 

 幕之内から始まって、約1年で8試合のマラソンスケジュール。

 でも、これがスポンサーの想定する、スケジュールだ。

 そりゃあ、勝ちさえすれば、ルール上は2週間後には試合を組むことはできる。

 あくまでも、可能というだけだ。

 

 幕之内との試合でダウンした俺は、2週間ほどロードワークすら禁止され、安静にしていたことを考えて欲しい。

 

 つまり、王者決定戦以外の7試合を、『次の試合をすぐできるように』大きなダメージを受けることなく、疲労も残さず、勝利する必要があるわけだ。

 そしてその間、回復期間も、減量期間も、ほとんどなし。

 

 まあ、本当かうそかはともかく、前世において有名な言葉がこれだ。

 

『プロ野球選手は、毎日試合やってるじゃん。なんで、それがプロボクシングでできないの?』

 

 素人は……スポーツの素人は恐ろしい。

 その素人が、周囲を振り回す……。

 

 まあ、いまさらだ。

 

 というか。

 八つ当たりかもしれないが、全部安川くんが悪いと言うことにしておこう。

 

 新人王が始まる前に、もう1試合やっておくんだったというのは後の祭りだが、『1回戦シード』に『2回戦の相手が棄権』なんてピンポイント攻撃を予想するのは無理がある。

 参加人数の少ない重量級でもなければ、普通は2勝したボクサーが新人王を獲ったらそのまま8回戦の資格を得られるものなのよ。

 だからこそ、新人王戦は、『A級への最短距離』と呼ばれている。

 短期間で、対戦相手を探す手間もなく、ただ勝ち続ければいいという……強さに自信のある選手には、夢の快速切符ともいえる存在。

 

 ひとつ予定が狂うと、すべてが狂うとは……よくできた言葉だ。

 

 というわけで、俺と音羽会長は、会長室で2人して頭を抱えていたりする。

 

 うん。

 スポンサーの存在がありがたいだけじゃないってわかってくれるだろうか。

 

 もちろん、スポンサーの意向はわかる。

 倒して勝つというのは、一番わかりやすいし見た目も派手だから一般には受ける。

 玄人好みのボクシングをする選手は、一般受けが悪いというか、視聴率が取れない。

 視聴率が取れないということは、番組のスポンサーが集まらないということで……金にならない。

 俺が選ばれたのは、『倒せるボクサー』だったからだ。

 これはあくまでも最低条件。

 その条件から外れるのなら、俺を選び続ける理由はない。

 音羽ジムからもらった契約金だって、もともとはテレビ局から出た金だ。

 

 つまるところはスポンサーからのテスト。

 ここまではっきりと要求してくるってことは、視聴率の取れる、一般受けするボクサーとしての能力を示してくれという重要な試金石だと思う。

 

 しかし、あの千堂を相手に、インファイトで、無傷で、派手に倒して勝てと。

 そして、それはその後のマラソンスケジュールへの第一歩、か。

 

 俺も、会長も、しばらく黙り込んでいた。

 ボクサーだからこそ、ボクシングにかかわっているからこそ、これが無茶なことがわかってしまう。

 でも、会長の口からは……立場的には言えない言葉がある。

 それでも黙っているってことは、俺への配慮なんだろう。

 俺から、切り出すしかない。

 

 スポンサーに逆らってでも、勝つことを優先。

 

 どうせ、負けたら切られるんだし……所詮は利用しあう関係にすぎないんだ。

 宮田のときとは条件が違う。

 利害が対立したなら……仕方ない。

 

 俺は、静かに覚悟を決めた。

 スポンサーを失う覚悟。

 そして、もしかすると、音羽会長との関係が悪化するかもしれない覚悟を。

 

「会長。千堂に勝つことを優先しましょう」

 

 会長を見る。

 そして、会長も俺を見る。

 

「その意味を……いや、理解はしてるよな、お前なら」

 

 会長がため息をついた。

 

「一応、春に海外から呼ぶ準備だけはしておく……が、覚悟はしておけ」

「はい」

 

 スポンサーを失えば、世界への道は、苦難の道だ。

 極論だが、海外から対戦相手を呼べなかったら、俺はデビューすらできなかったことになる。

 

 世界を狙うには、現状では俺はまだ力不足だ。

 力をつけるための時間。

 それを与えられたと思おう。

 

 今までが恵まれすぎていた……そういうことだ。

 

 俺の、速水龍一のボクサー人生の難易度変更の時間がやってきたということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 来ちゃった。(白目)

 

「速水、お前はつまらんボクシングをするが、なかなかわかっとる男や」

 

 などと、上機嫌で俺の背中をバンバンたたくのは、浪速の虎、千堂武士だ。

 ディスられているように思うかもしれないが、千堂にとっては心からのほめ言葉。

 そして、千堂がなぜここにいるかと言うと、先日発売された月刊ボクシングファンの俺のコメントが発端だ。

 

『浪速のロッキー。いや、ロッキーといっても、映画の方じゃなく、無敗のまま引退した伝説のボクサーの方じゃないと、千堂くんに失礼かな』

 

 あの発言が、心の琴線に触れたらしい。

 前世でわりとこの手のタイプとの付き合いが多かったので慣れてはいるが、それだけで新幹線に乗って大阪から東京までやってきちゃったか。

 

 若いなぁ。

 

 しかし、これが千堂か。

 生の千堂。

 

 ……俺にいい考えがある。

 

 千堂を、幕之内に会わせてやろう。

 上手くいけば、2人にスパーさせられるかもしれない。

 試合まで1ヶ月以上ある、大丈夫だ。

 というか、俺が見たい。

 いろんな意味で、見てみたい。

 

「千堂くん。君と真正面からどつきあいできるボクサーに心当たりがあるんだけど、会いたくないかい?」

「なんやて!?」

 

 フィッシュ。

 

 ……若いなぁ。(ゲス顔)

 

 まあ、一応鴨川ジムにはアポを取ってから、と。

 千堂のトレーナーには……連絡先知らないし、千堂自身が対応することだよね。

 

 

 

 

 

 

 幕之内一歩対千堂武士。

 

 スパーとはいえ、原作を知る俺としては金を払ってでも見たいカードだ。

 原作の新人王決定戦は幻となってしまったが、日本タイトルマッチの目はまだまだある2人の組み合わせ。

 問題は、鴨川会長がうんと頷くかどうかだったが、幕之内の復帰戦に向けて、千堂とのスパーは悪くないと判断したらしい。

 あるいは、東日本代表である俺への援護か。

 

 それにしても……。

 

「強い……が、荒いな」

 

 鴨川会長の言葉に頷く。

 

「ええ、迫力はありますが……でも、なかなか骨が折れそうです」

 

 ちなみに、千堂の所属するなにわ拳闘会には、鴨川会長が連絡を取ってくれた。

 このあたりは、大人の、指導者としての常識なのだろう。

 相手の了解もとれたから、何の問題もない。

 

 ただ、俺が、速水龍一がその場にいるかどうかを、告げたかは知らないが。

 

 

 連打の幕之内。

 豪腕の千堂。

 懐に入ろうとする幕之内を、千堂が強引に振り払おうとする。

 迫力ある攻防が続く。

 

「こいつは、ラッキーだったな」

 

 そして、なぜかちゃっかりといる藤井さん。

 まあ、鴨川ジムには幕之内だけじゃなく、『あの人』もいるし、取材として足を運びやすいのだろう。

 

 リング外とは別に、リングの中の攻防は激しさを増していく。

 

 幕之内の上体が、ガードごと後方へはじかれる。

 そこから立て直して、千堂の追撃のパンチをかいくぐり、左のボディを放つ。

 それを、千堂が強いパンチで突き放す。

 

 ヘッドギアあり、そして16オンスの大きなグローブとはいえ、激しいやり取りだ。

 なかなか燃える。

 

「幕之内くんは、防御から攻撃が、ずいぶんスムーズになりましたね」

「貴様との試合で、良い意味で思い知ったからの……復帰戦に向けて、練習にも気合が入っとるわ」

 

 上体をゆすり、幕之内がすぱっと飛び込んだ。

 リバーブローから、アッパー。

 

 藤井さんが、小さく口笛を吹く。

 

「今の幕之内なら、速水君も苦戦するんじゃないか?」

「あの時も、決して楽な試合ではなかったですよ」

 

 千堂のスマッシュ。

 

 ガードした幕之内の身体が浮きかける。

 それほどの威力か。

 あれも、上下の打ち分けと同じで、注意していないと意識の外から来るパンチだ。

 いきなり打ってくるならカウンターの餌食だが、それを使うべきタイミングを千堂が間違えるとは思えないな。

 

 それと、気合のノリで千堂はタイミングも威力も変わるな、気をつけないと。

 

 

 たった2R、わずか6分間。

 しかし、熱のこもったスパー。

 いやあ、二重の意味で、いいもの見せてもらった。

 生で見れて、色々参考にもなったし。

 帰りの新幹線代を出してあげてもいいと思うぐらいに、俺はウキウキだったのだが。

 

「おい、小者」

 

 首根っこをつかまれた。

 もちろん、鴨川ジムの『あの人』だ。

 

「新人王で戦う相手だけにスパーさせて帰ろうってのか?」

 

 あ。

 夢よりもハードな相手だ、これ。

 

 立場こそ日本ミドル級王者にすぎないが、明らかに別格。

 デビューから全試合、1RKO勝利。

 

 いや、一度試合を見たが、あれは試合とはいえなかった。

 勝負じゃなく、蹂躙。

 

 鴨川会長に視線を向けた。

 

「せっかくの機会じゃ……速水よ、少し勉強していけ」

 

 わあ、善意で言ってくれてるのがわかる。

 本気で、俺に勉強させてあげようと思ってる顔だ、これ。

 

 青木さんや木村さんはいませんか?(震え声)

 

 

 

 

 

 

 

 

 いや、落ち着け。

 ある意味で……世界レベルを味わえるチャンスか。

 

 伊達英二は、まだ全盛期の姿を取り戻してはいない……ならば、世界を味わえる、その片鱗に触れるめったにないチャンス、か。

 ヘッドギア。

 そして、16オンスのグローブだ。

 やるべきだ。

 試してみたいこともあるしな。

 

 

 

 集中。

 呼吸を整える。

 それでいてなお、心拍数が高い。

 

「鷹村よ、わかっとるな」

「わかってるよ、ジジイ。小者相手に、本気なんか出すかよ」

 

 

「ヘッドギアはいいんですか?」

「小者のパンチなんざ、間違って当たっても知れてる。気にするな」

 

 ……当たる可能性が0とは言わないか。

 言葉のあやかもしれないが、評価されてると思おう。

 

 

 開始の合図。

 

 

 でかい、な。

 身長差は、20センチ近い。

 いや、的が大きいと思え。

 

 呼吸。

 

 左を飛ばす。

 千堂に見られていてもかまわない。

 

 連打。

 かわされる。

 16オンスの重さがわずらわしい。

 拳と手首の角度を、無意味にする大きさ。

 

 と、いうか……その緩々の雰囲気が、な。

 

 予備動作。

 視線。

 肩。

 フェイント。

 

 息を吸う。

 

 左のジャブ。

 そして。

 左手で、ポンと自分の左の太ももを叩いた。

 

 その動きを追った顔面に、右を叩き込む。

 

「……っ」

 

 じろりと、見られた。

 

 来るぞ。

 

 日本人ボクサー最高のプレッシャー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だ、大丈夫ですか、速水さん!?」

 

 ふ、ふふ……見たか。

 見てくれたか、幕之内。

 あの鷹村に、2発、パンチを入れたぞ、俺は……。

 1発目は不意打ちだが、2発目は、マジだ……たぶん、きっと。

 

「ちっ……小者のくせにいい度胸してやがるから、ついムキになっちまった」

「そのわりには、3分近く逃げられたな」

「逃げ足の速さと、防御のうまさは認めてやるが……しょせんは小者よ。その小者にぼろ負けした一歩は、小者以下ってな。わははははっ」

「この、バカタレが!」

 

 顔を上げられない状態だが、たぶん、鴨川会長がステッキを振り回しているんだろう。

 

 しかし、もらったパンチは全部ボディか。

 顔面へは、威嚇とフェイントがほとんど。

 傍若無人ではあるが、ちゃんと考えてるんだよなあ。

 

 ……程よく手を抜かれてるということでもあるが。

 

 あれが、世界か。

 遠い、な。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、俺は珍しく夢を見なかった。

 たぶん、幕之内(バージョン3)が気を利かせて休ませてくれたんだと思う。

 

 なお、千堂の帰りの新幹線代は、俺が立て替えた。

 まあ、これでも働いてるし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2月下旬。

 

 俺は大阪へ。

 音羽会長の人脈だろうが、大阪のボクシングジムにお邪魔した。

 調子はいい。

 試合当日にきちんとピークを持っていけそうだ。

 2階級上のボクサーを相手に、接近戦と、中距離戦と、遠距離戦のすべてを試す。

 

「よーし、いい調子だなぁ、速水」

 

 音羽会長は大阪に来たついでに色々とあいさつ回りをするらしく、これはトレーナーの村山さん。

 

「ええ、いい感じです」

 

 そして、スパーの相手をしてくれた相手に、頭を下げて礼を言っておく。

 だって、ライト級の日本ランカーなんだもん、この人。

 礼儀として、ね。

 

「俺も関西の人間として速水(お前)を応援はでけへんが、千堂は強いで。西日本のバリバリのエースや」

「知ってます。というか、千堂くん、この前東京に来ましたからね」

「マジか?何をしてんねん、千堂のやつ……」

 

 などと、敵地であることを感じさせない雰囲気で調整も終了。

 

 

 

 

 前日計量。

 千堂との再会。

 

 そして、記者が俺たちに集中した。

 

「殴り倒して、ワイが勝つ」

「千堂くん、まずはこの前立て替えた新幹線代を返してくれよ」

「おう、MVPの賞金で返すわ」

「そいつは困ったな。返してもらえないじゃないか」

 

 友人同士のような、和やかな会話に、記者たちが戸惑う。

 それでも、ピリピリと肌を刺す何か。

 

 握手。

 千堂の手。

 幕之内とは別の、力強さを感じる手。

 

 明日は、この拳と殴りあい、か。

 いや、俺が一方的に殴るだけだ。

 殴り合いはごめんだな。

 

 気がつくと、千堂が俺を見ていた。

 さっきまでの目じゃない。

 敵を見る目。

 戦う相手を見る目。

 

 軽い笑みを返すと、つまらなさそうに、目を背けられた。

 

 気は合うが、どこかかみ合わない。

 明日の試合も、きっとそんな感じになる。

 

 

 

 

 

 

 大阪府立体育会館。

 確か、6000人ほど収容できると聞いた記憶がある。

 もちろん、会場のセッティングによって違うんだろうが。

 

 広い。

 後楽園ホールとは違う。

 ここも、観客ではなく、ボクサーとしてみるとぜんぜん違うな。

 いつの間にか後楽園ホールを基準に考えている自分に気づく。

 

 千堂が現れた瞬間、会場の雰囲気が変わった。

 大歓声。

 熱気。

 興奮。

 

 当然、千堂と戦う俺には罵声だ。

 敵地であることを強く意識する。 

 

 東日本の選手は、この雰囲気に飲まれやすいらしい。

 大阪で開催したときの、東日本代表の勝率は低いとされている。

 まあ、後楽園ホールでは逆なんだろうが。

 

 前世の経験から言えば、関西某所の競艇場に通えば、この程度の罵声は軽く流せるようになる。

 

 それに、実際に戦うのは観客の罵声じゃなくて、千堂だしな。

 恐れるべき相手。

 試合前だというのに、雰囲気が別物だ。

 それでいて、どこか不機嫌そうな雰囲気。

 

 幕之内とスパーしたから、俺が相手だと余計に不満なのかもな。

 

 まあ、心ゆくまでどつきあいなんてのは、俺はごめんだ。

 映画で見る用心棒のように、交互に殴り合ってどちらが強いか競い合うなんて行為にロマンを感じないとはいわないが。

 

 

 

 

 リング中央。

 レフェリーの声。

 千堂の殺気。

 俺はそれを笑って受け流す。

 

 千堂の気配を、どこか懐かしく感じる俺がいる。

 

 前世の、上の兄とその友人たち。

 彼らの放つ気配に良く似ている。

 もちろん、性格はひとりひとり違うが。

 

 普段は気のいい(あん)ちゃんなのに、わりと暴力へのハードルが低い。

 そして大怪我はしないように、骨折程度でおさめる知識と技術。

 感情の乱高下に隠れる、天然の計算高さ。

 挙句の果てに、『昔はやんちゃしてた』などと一言ですませる。

 

 ろくでもないように聞こえるが、ルールが少し違うというだけだ。

 その違いを理解すれば、言葉通りの、気のいい兄ちゃんにすぎない。

 

 まあ、嫌いじゃなかった。

 付き合うのが疲れるってだけで。

 

 

 もう一度、千堂を見た。

 

 ……いろんな意味で、タフな試合になるだろうな。

 

 

 

 

 

 

 コーナーへ戻り、息を吐く。

 

 幕之内戦とは違う、別の覚悟。

 そして集中。

 

 ボクシングだけにとらわれると、罠にはまる。

 

 

 さあ、ゴングだ。

 




速水龍一対鷹村守……夢のカード。

千堂のキャラが、ちょっと不自然かな。
鴨川ジムを訪ねる口実に使った分、不自然さが表面化したのだと思います。
知人のイメージに引っ張られているわけではないと思いたい。


某テレビドラマで、不良がバイクで校舎内を走り回るシーンを見て『現実感がない』と知人がゲラゲラ笑ってましたが。

……リアルなんだよなあ、あれ。(震え声)


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10:熱戦の果てに。

ちょっと実験。
この書き方で、試合の描写が延々と続くと、読むのが厳しい気がします。

あと、新人戦の今のルールでは4勝以上している選手同士の地区決勝、全日本は5R(5回戦)扱いになりますが、この頃は6回戦扱いでやってた……記憶がある。


 リング中央で、グローブを合わせる。

 

 千堂と相対して、実感する。

 攻撃的な構えだな、と。

 ガードではなく、パンチを打ちやすい位置にグローブを置いている。

 そして、身体の向きは、フラットに近い。

 

 ビデオと、幕之内とのスパーで見た感じだと、無駄な動きはせず、届く距離で手を出す。

 倒せる位置、タイミングで牙を向いて飛び掛ってくる。

 荒々しい暴力に、ボクシングの皮を一枚かぶせたイメージだ。

 

 正直なところ、俺としてはやりにくい相手だ。

 俺のボクシングの経験が、大きく殺されるから。

 理詰めの、理の部分で何かが狂う気がする。

 

 相性の悪さはお互い様と言いたいが、逆に千堂はボクサーとの対戦にはなれているだろう。

 

 

 のそりのそりと近づいてくる千堂。

 眠りから覚めた獣を思わせる。

 いや、それは原作のイメージか。

 

 それを、細かく動きながら待ち構える俺。

 

 足。

 距離。

 目。

 見えないラインを越えた。

 

 左で、千堂の顔をはねあげた。

 速い右で追撃。

 右へ回って、反応を見る。

 

 ゆっくりとした動きで、千堂が俺を見る。

 

 ボケてもツッコんでくれない会話のようだ。

 

 左。

 もうひとつ左。

 右の追撃。

 

 千堂の踏み込み足。

 

 即座にとび退いた。

 

 千堂の右フックのスイングが、俺の身体をかすめたような気がした。

 錯覚だ。

 千堂の殺気が、俺の距離感を狂わせている。

 しかし、ジャブもなしに右フックか。

 

 千堂が俺を見る。

 俺を見ている。

 どこか不機嫌そうな表情。

 

 野球少年が、文学少年に向かって『野球で勝負しようぜ!』って言ってるようなもんだろう、それは。

 

 そういうのは、幕之内とやってくれ。

 あるいは、島袋と。

 

 左。

 また左。

 動きながら、ジャブを打ち続ける。

 

 俺も見る。

 

 千堂を見る。

 距離を。

 癖を。

 傾向を。

 

 とはいえ。

 宮田の言葉じゃないが、『逃げてばかりでは勝てない』だったか。

 

 どこかで、勝負には出る。

 前へ出る。

 そのタイミングを。

 俺は待つ。

 

 豪腕。

 千堂が痺れを切らしたように、振り回してきた。

 

 左。

 右。

 カウンター気味に返す。

 

 そのまま突っ込んでくる。

 

 一度フェイントを入れてから、右へと回った。

 リング中央で、千堂を見る。

 のそりと、こちらを振り返る千堂。

 

 大歓声。

 そして、大罵声。

 

 人気者だな、千堂。

 豪快で、人を魅了するボクシングか。

 

 少し、妬ける。

 

 

 迫力はある。

 だが、荒い。

 気合のノリが悪いのか、調子が悪そうにも見える。

 

 セコンドの叫び声。

 聞き取れない。

 

 打つ。

 千堂の顔を打っていく。

 まだ様子見の段階だ。

 

 どこかで、いきなりギアがはね上がる。

 そういう人種だ。

 感情に左右される、爆発力。

 

 残り10秒の合図。

 

 来た。

 右へ回ってかわす。

 ジャブを返す。

 返事は大きなスイング。

 

 この荒さになれるとまずい。

 ギアがはね上がったときに、食われる。

 天然の、ペースチェンジ。

 

 ゴングが鳴る。

 

 コーナーへ戻りながら、背中に千堂の視線を感じていた。

 

 

 

 

「気分屋だとわかってはいたが、ひどいな」

 

 呆れたように、音羽会長がつぶやく。

 

「俺が相手じゃ、気分が乗らないんでしょうね」

「本気で、気分の問題なのかよ……」

「でも……無理でしょうね」

「何がだ?」

「千堂みたいなタイプは、負けるのが死ぬほど嫌いなんですよ……どこかで突然、爆発的にギアを上げてきます」

 

 

 2R。

 

 千堂の手数が減った。

 俺をじっと見つめ、じりじりと距離をつめてくる。

 うん、そのほうがやりにくい。

 

 だから、リスクをとって手を出させる。

 

 ひょいっと。

 ガードを下げた。

 手招き。

 

 いきなりの右。

 

 その大振りに合わせて。

 丁寧に。

 速いパンチを合わせてやる。

 

 全部で5発。

 それでようやく、わずかに千堂が退く。

 いや、自分から距離を開けた、か。

 怒りが冷めている。

 あるいは、怒ったまま冷静に。

 

 ガードを下げ、俺にも聞こえるように大きく息を吐く。

 

 俺は、拳を握り締めた。

 

 くる。

 

 この試合初の、千堂のジャブ。

 そして右ストレート。

 

 スイング系からの変化。

 それをわかっていながら、戸惑う。

 左も、右も。

 まっすぐ俺の顔を狙ってくる。

 

 右。

 また右。

 もうひとつ右。

 

 違和感。

 

 ガードを固めた瞬間、スマッシュの衝撃が来た。

 

 死角から飛んで来るだけじゃなく、過程が上手い。

 しかも、ストレートの連発からの、スイング系パンチだ。

 たぶん、計算じゃなくて、天然でやってる。

 

 人を殴るための才能か。

 

 追い込まれる。

 ガードしたせいで足を止めてしまった。

 ストレートと、スイング系のパンチ。

 直線と曲線で、空間を削ってくる。

 

 逃げ道。

 あるが、そこが誘いだろう。

 そんな甘い相手じゃない。

 

 なら、前へ。

 

 千堂の顔面に、いきなり右をたたきつけた。

 別の意味で意表をつけたらしい。

 千堂がたじろぎ、俺は一息つく。

 

 何故笑う。

 その『やればできるやないか』って目はやめろ。

 

 うれしそうに振り回してきたパンチにカウンターをいれ、俺は千堂と位置を入れ替えるように距離をとった。

 

 大歓声。

 千堂への歓声とわかっていても、気分が高揚する。

 

 襲い掛かってくる千堂。

 1Rとは別人。

 速さも、キレも、威力も。

 

 右。

 左。

 

 ガードを通して伝わる衝撃。

 

 意識を防御にシフト。

 観察のやり直し。

 呼吸を。

 足を。

 タイミングを。

 

 ……バラバラのように見える。

 それでも、わかることはある。

 

 パンチが上に集まる。

 集めてくる。

 

 微かに退き、上体を反らす。

 スマッシュをやり過ごし、右を叩き込む。

 そして左のアッパー。

 

 お返しにボディをもらった。

 それを右で突き放す。

 

 ……きついな。

 

 なめていたつもりはなかったが、厳しい。

 

 気分良く打たせるとまずい。

 ガードじゃなく空振りだ。

 そこからだ。

 

 残り10秒の合図。

 

 考えることは同じか。

 俺と千堂、同時に距離をつめた。

 

 千堂の右をかわして、右。

 踏み込んでアッパー。

 ボディを返される。

 左のアッパーで返し、右で突き放す。

 

 ようやく離れた。

 

 ゴングが鳴る。

 

 千堂が俺を見る。

 俺も、千堂を見る。

 

 時間にして、2、3秒。

 

 同時に背を向け、コーナーへと戻った。

 

 

 

「この歓声と、敵地だ。判定を狙うなら、そのつもりでな」

「あれ?倒してこいと言わないんですか、会長」

「……正直、少しなめていた」

 

 いつもと逆の反応だ。

 それが少し楽しい。

 

「会長。俺は伝説を作る男ですよ」

「はは、そうだったな」

 

 ぱしんと、背中を叩かれた。

 

 さあ、3Rだ。

 

 

 開始早々コーナーへと走る。

 振り払うようなパンチをかいくぐって、ボディへ。

 千堂の距離ではない、接近戦。

 

 まるで、幕之内のように。

 それを苦笑したくなる。

 

 もうひとつボディ。

 丁寧に。

 千堂の腹を叩いていく。

 

 ボディの防御が甘い。

 むしろ、無頓着なのではと思える部分。

 攻撃力が突出した選手にありがちな防御の甘さ。

 まあ、今だけの甘さになるんだろうが。

 

 踏み込みと同時に千堂の脇が開く。

 とん、とグローブで手首を下へはじいてやった。

 逆の手で腹を突き上げる。

 そこからアッパーへ。

 そして距離をとる。

 

 接近戦から千堂の距離へと戻る。

 気持ちよくパンチが打てる距離。

 だからこそ反射的に出るパンチ。

 それをかわして、またボディをうつ。

 内側から、そして下から。

 

 反撃のタイミングを、ある程度コントロールする。

 接近戦と中距離の繰り返し。

 それが、俺と会長が出した答え。

 

「千堂ーっ!上は当たらん!腹を打ち返せ!」

 

 余計なことを。

 だが、的確な指示。

 

 いったん距離をとった。

 

 一転して、上を。

 右へと回りながら、左でポンポンと千堂の顔をはね上げる。

 止まらない。

 

 千堂の左のジャブ。

 鈍い、ただ置くだけのパンチ。

 

 疑問。

 違和感。

 

 千堂の左が、目の前に置かれたまま。

 

 俺の視界を奪う……不良が喧嘩で使う技術。

 

 左腕のガード。

 間一髪。

 しかし、ガードを通して伝わる衝撃。

 大きくよろめく。

 

 崩れた体勢の俺。

 踏み込んでくる千堂。

 

「速水ーっ!」

 

 音羽会長の声が、悲鳴に近い。

 

 千堂の左フック。

 衝撃と同時に、視界が一変。

 

 千堂の返しの右が見える。

 

 左腕の痺れ。

 無理。

 

 踏ん張るな。

 

 右ひざと太ももの力を抜く。

 ひざカックンの要領。

 

 位置エネルギー。

 重力に引かれて、俺の身体が傾く。

 千堂の豪腕が、俺の上をかすめていく。

 

 そして俺は。

 すとんと、尻餅をついた。

 

 

「ダウン!」

 

 レフェリーの宣告。

 

 千堂が俺を見ている。

 どこか不服そうな表情で、俺を見下ろしている。

 

 まあ、俺も不本意だ。

 

 

 その場から動かない千堂を、レフェリーが押すようにしてニュートラルコーナーへと行かせた。

 

 レフェリーのカウントが始まる。

 

 

 

 命拾い。

 追撃をもらわずにすんだ。

 そのはずだ。

 

 前向きに。

 

 

 深呼吸を2度。

 

 このダウンで、ほぼ判定の線は消えた。

 敵地であることを考えて、1Rはイーブン。

 2Rは千堂。

 そして、この3Rで俺のダウン。

 この時点で3ポイントの差が付いていると見たほうがいい。

 この試合は6回戦扱いだが、敵地でポイントを取るってことは、結局わかりやすく圧倒しなければいけないってことだ。

 

 つまり、どのみち倒しにいくしかない。

 

 うん、冷静だ、俺は。

 きちんと計算ができている。

 最悪を想定し、リカバリーを目指す。

 

 カウント7で立つ。

 

「やれるか?」

「当然。これから逆転しますよ」

 

 手は動く。

 痺れは抜けた。

 足も、平気だ。

 

 しかし、千堂相手にインファイトか。

 それをやり続ける、か。

 まあ、やるしかない。

 

 

「ファイトっ!」

 

 

 

 千堂がゆっくりと近づいてくる。

 

 俺は、拳を握りこむ。

 わずかに重心を落とす。

 少しだけスタンスを変える。

 

 強い右から入った。

 千堂が首をひねってかわす。 

 左をボディへ。

 そしてまた、右を顔面へ。

 千堂の頬をかすめる。

 

 千堂の目。

 俺を見る目。

 

 また、左をボディへと突き刺した。

 パンチの反動。

 そして、身体を戻そうとする反動でまた右を上へ返す。

 千堂の顔が、後方へはじける。

 

 千堂がガードを固めた。

 そのことが、俺を調子に乗らせる。

 上から下へ。

 下から上へ。

 左はボディ、そして右はかまわずにガードの上から。

 

 ボディを返された。

 痛みが、俺を引き戻す。

 

 単調になるな。

 冷静に。

 

 接近戦。

 腕の回転。

 上下の打ち分け。

 

 アッパーで、千堂の身体を起こす。

 腰を落とさせない。

 身体を起こす。

 それでパンチの威力がいくらか殺せる。

 

 窮屈そうな千堂の右をかわし、左のボディアッパー。

 下から上へ。

 右のアッパーは、避けられた。

 左をボディへ。

 また千堂の顔が下がる。

 そこをまた右で狙う。

 千堂が頭を上げて、それをかわす。

 また伸びた腹に左を入れてやる。

 

「……ッ」

 

 距離をとり、千堂の反撃を誘う。

 千堂の左。

 

 もぐりこみ、腹を突き上げる。

 続けてアゴへ。

 それをかわせば、またボディへ。

 

 相打ち。

 

 俺のアッパーを避けずに、ボディへ打ち込んできた。

 息が詰まる。

 しかし、千堂の動きも止まる。

 

 大きいのはいらない。

 細かく、速く。

 

 ボディ。

 千堂の手がアゴをかばう。

 ならば、右フック。

 

「ッ!」

 

 またボディへ返す。

 そしてアッパー。

 千堂も、俺のボディへ。

 

 有効打の割合は、俺が圧倒的に多い。

 技術と速度の差だ。

 俺は、たまにボディをもらうだけ。

 顔へのパンチだけはもらわない。

 

 これで互角の打ち合いになるのがムカツク。

 

 焦るな。

 力むな。

 そして、羨むな。

 

 宮田のカウンターを思う。

 

 殴り倒すのではなく、動けなくすればいい。

 

 動きを止めるパンチ。

 脳を揺らすパンチ。

 

 角度。

 タイミング。

 やれることを。

 

 連打。

 俺の、速水龍一の連打。

 

 接近しての連打。

 アゴ。

 みぞおち。

 テンプル。

 急所を、正確に。

 そして速く。

 

 距離をとる。

 俺の連打を邪魔するボディ。

 

 わずらわしい。

 連打を中断させられるのがわずらわしい。

 

 腕の回転を速く。

 さっきより1発多く打てた。

 

 正確に狙う。

 千堂の反撃がさっきより遅くなった。

 

 接近していられる時間が長くなる。

 連打の時間が長くなる。

 

 千堂の目を見る。

 足を見る。

 ひざ、腰、腕。

 

 ダメージは与えている。

 でも、棒立ちになっているわけじゃない。

 

 千堂の癖。

 苦しいと、振り払いに来る。

 豪腕に頼る。

 

 みぞおち。

 肝臓。

 パンチをボディに集め、距離をとった。

 

 打って来い。

 

 踏み込み足の動きと脇。

 それが、千堂のスマッシュの予備動作。

 

 千堂の左腕が通り過ぎる。

 振り切った左腕の脇の下から、俺は右のアッパーを突き上げた。

 

 千堂のひざが揺れた。

 左でもう一発突き上げ、よろめかせる。

 右フックでアゴをとらえる。

 千堂の腰が落ちる。

 

 勝負どころ。

 たたみこむ。

 力むな。

 速く、細かく、正確に。

 

 顔を。

 頭を。

 揺さぶる攻撃を。

 

 退がる。

 あの千堂が退がる。

 右を。

 踏み込んで左を。

 棒立ちの千堂に、左右の連打を叩き込む。

 ぐらつく。

 観客の悲鳴を後押しに、俺は右ストレートを振り切った。

 

 

 ニュートラルコーナー。

 拳を突き上げた。

 興奮している自分がわかる。

 興奮している自分を誇らしく感じる。

 観客が、千堂を見ているのが許せないように感じて、もう一度拳を突き上げる。

 俺を見ろと叫びたい。

 

 千堂相手のインファイト。

 打ち勝った。

 退かせた。

 興奮のままに、もう一度、拳を高く突き上げる。

 

「速水!冷静に!」

 

 会長の声。

 引き戻された。

 

 熱が冷める。

 時計を見る。

 千堂を見る。

 

 心の中で、会長への礼を言う。

 

 

 千堂が立つ。

 

 立ち上がった千堂が俺を見ている。

 射抜くような目で。

 

 

 そこで、ゴングが鳴った。

 

 俺は、コーナーへ。

 

 ……ゆっくりと、コーナーへ戻った。

 

 

 

「よーし、よしよしよし。良くひっくり返した、速水」

「……会長」

「どうした?」

「千堂のボディが効いちゃってます」

 

 左の太もも。

 かすかな痙攣。

 興奮が冷めて、それに気づけた。

 

 さりげない動きで、村山さんが俺の足をマッサージしてくれる。

 痙攣が、治まった。

 治まっただけだろう。

 ひとつ、爆弾を抱えた。

 

 大きく息を吸い、吐く。

 

 俺のミスから始まったダウン。

 ミスには、代償を払わなければいけない。

 それがめぐって、今の状況だ。

 

 パンチ力の差を理不尽とは嘆くまい。

 さっきの攻防の感触が残っている。

 俺の目指す方向が見えた気がした。

 

 向こうのコーナーで、千堂がじっと俺をにらみつけている。

 

 原作どおりに、気絶して終わっては……くれないだろうな。

 

 

 セコンドアウトの合図。

 

 ゆっくりとだが、千堂が立ち上がる。

 

 俺は、幕之内一歩じゃない。

 俺の、速水龍一の結末を手繰り寄せるだけだ。

 

 ふと気づいた。

 試合では初めての4R。

 未知の世界か。

 

 4R。

 

 

 

 ダメージの気配を濃厚に残しつつ……千堂が近づいてくる。

 そして俺は、受けて立つという感じに、コーナーから少しはなれた場所で待ち構える。

 

 足が止まる。

 千堂の距離。

 

 たぶん、最初は……。

 

 右のスイング気味のパンチを放つ前に、俺が左を合わせた。

 速いパンチで出鼻をくじく。

 パンチを出そうとするたびに、千堂の顔がはね上がる。

 

 いつものパターン。

 手を出せば殴る。

 

 まあ、止まらないタイプだ、千堂は。

 わかっている。

 

 だから俺は、狙っている。

 静かに待っている。

 現状を打開しようとする、千堂の大振りのパンチを。

 

 千堂のジャブ。

 右ストレート。

 かわして、ジャブを返す。

 2つ続いたストレート系のパンチ。

 

 予感。

 

 千堂の口が開く。

 何かの言葉。

 叫び、あるいは獣の咆哮。

 

 千堂より速く、俺の踏み込み。

 

 右を振りぬいた。

 千堂がぐらつく。

 左右のフックでアゴを狙う。

 連打をまとめる。

 

 認める。

 一発で倒せない自分を認める。

 認めてやる。

 

 右。

 左。

 

 千堂のボディをよける。

 

 また連打を。

 千堂の顔が左右にはじける。

 ボディで顔を下げさせ。

 アッパーでカチ上げる。

 右フック。

 左ストレート。

 

 千堂との距離が開く。

 

 踏み込んで右。

 

 ぐらついたのは俺。

 

 左足。

 痙攣。

 こんな時に。

 

 よろける千堂を追いかける。

 気持ちだけ。

 左足がついてこない。

 

 右足でリングを蹴る。

 そして、半ば押し倒すように、右ストレートで千堂を殴り倒した。

 

「ダウン!」

 

 絶叫。

 悲鳴。

 歓声は聞こえない。

 ここは、敵地だ。

 

「ニュートラルコーナーへ」

 

 俺の左足。

 ニュートラルコーナーが遠い。

 

 拳を突き上げ、ごまかしながら左足を引きずっていく。

 観客はごまかせても、向こうのセコンドは……どうかな。

 

 俺に背中を向けるように倒れている千堂を見る。

 その頭が動く。

 

 最後の一発。

 殴り倒しただけだった。

 あれではダメだ。

 もっと、狙いを正確に。

 もっとだ。

 

 

 気がつくと、千堂コールが始まっていた。

 広がっていく。

『せ・ん・どぅ!せ・ん・どぅ!』の千堂コールが、大阪府立体育会館を埋め尽くす。

 

 大合唱。

 空気の振動。

 大勢の声は、物理的な圧力をもつ。

 

 それが、千堂に届く。

 

 千堂が拳をつき、上体を起こす。

 千堂の目が、右へ、左へ。

 そして、俺のいる場所を向いた。

 

 

 俺は、左手でポンポンと太ももを叩く。

 痙攣は治まらない。

 

 正直、ここで止めて欲しい。

 しかし、この大声援だ。

 

 止めにくいだろうな。

 止まらないだろうな。

 

 

 

 

 

 

『千堂コール』を浴びながらの、長い長い待ち時間。

 

 そして。

 

「ファイトっ!」

 

 大歓声。

 

 チクショウめ。

 

 両足を引きずるように千堂が近づいてくる。

 その目だけがギラギラとしているが、押せば倒れそう。

 

 でも、その一押しをどうするか。

 

 太ももの痙攣。

 腹筋も、小さく震えだした。

 

 人間の身体はつながっている。

 一部分の悲鳴は、全身へと広がっていく。

 

 まあ、それでも、か。

 

 右足に重心を移して、俺は構えを取った。

 

 千堂が来る。

 千堂の右。

 

 千堂も人間か。

 気力だけで、足がついてこないのだろう。

 

 左で応戦。

 

 半身になって、後ろ足、右足で蹴るように手を伸ばす。

 連打ではなく、単発の繰り返し。

 全部当たる。

 もう、千堂は避けるだけの反応ができないのか。

 

 そして俺も、体力は残っていて、冷静でもあるのに……もどかしい。

 何度か、左足でリングを踏む。

 蹴ろうとする。

 反応が鈍い。

 俺の足ではなく、棒きれがくっついている感じだ。

 

 左を打つと、腹筋が引っ張られる感じがする。

 押せば倒れそうなのは、俺も同じ。

 

 向こうのセコンドも気づいた。

 声が飛んでいる。

 

 くそ。

 

 左手を伸ばす。

 千堂の顔が揺れる。

 もう一発。

 また顔が揺れる。

 何度でも。

 左。

 外れた。

 いや、かわされた。

 

 寒気。

 

 大きく沈み込んだ千堂の身体。

 右の拳。

 踏ん張りの利かない俺に向けて。

 

 改良型という言葉が頭をよぎった。

 

 それも利き腕の。

 

 必死のガード。

 

「……ぉぐ」

 

 俺の声。

 顔ではなくボディに持ってこられた。

 腹筋が痙攣する。

 連動するように左足が震える。

 

 それでも。

 これは千堂のミス。

 おそらく、一番威力のあるパンチに頼った。

 

 千堂の右は、俺の左側からの攻撃。

 俺の右足で踏ん張れたし、耐えられた。

 逆なら、終わっていたかもしれない。

 

 震える腹筋に力をこめた。

 マウスピースをかみ締め、顔を上げた。

 ここをどうにかしのいで……

 

 

 一瞬の静寂。

 そして、悲鳴。

 

 倒れた千堂にレフェリーが駆け寄り……腕を交差した。

 

 え?

 

 千堂のセコンドがリングの中に。

 それで、試合が終わったのはわかる。

 

 倒れたまま動かない千堂。

 そして、ただそれを見つめる俺。

 

 悲鳴とため息。

 

 音羽会長が、トレーナーの村山さんが駆け寄ってきたが、俺は夕暮れの公園に、独り取り残されたような気分だった。

 

 

 

 

 千堂が担架で運ばれ、俺は左足を引きずりながらリングを下りた。

 

 少ないながらも、俺を応援してくれた観客に手を振る……が、罵声にかき消された。

 

 千堂というボクサーが、とても愛されている。

 そういうことだろう。

 

 

 

 

 寝転んで、マッサージを受ける。

 栄養ドリンクを一口。

 東日本の関係者から、『おめでとう』の言葉がかけられる。

 礼をいい、これから試合の関係者には激励の言葉を返す。

 

 

 ようやく痙攣が治まった。

 そして寄ってくる記者連中。

 

 千堂のことを聞いたが、病院に運ばれたということしかわからないらしい。

 

「きつい試合でしたよ。強いというか、とにかくタフで……3Rにダウンをもらって、判定はあきらめました。倒しにいくしかなかったですね」

「パンチ力不足では?」

 

 ひとりの記者の言葉に、ほかの記者連中がぎょっとした表情を浮かべる。

 いるんだよなあ、こういう人。

 とにかく、怒らせて、刺激的なコメントを聞けたら勝ちだって勘違いしてるというか。

 

「かもしれませんね」

 

 笑って流す。

 自分が良くわかっている。

 いまさら腹も立たない。

 

「パンチ1発でダウンもしたし、打たれ弱いんじゃないですか?」

 

 ……喧嘩売ってきてるな、こいつ。

 でも俺は笑顔。

 

 何も言わずに、肩をすくめてやった。

 

 まあ、ほかの記者連中に追い出されたからよしとしよう。

 後で、どこの記者か聞いておくけどな。

 

 

 音羽会長も交えて、今後の予定の話に切り替わる。

 そうすると、新聞記者ではなく、専門誌の記者がメインになった。

 

 春に1試合。

 それで8回戦の資格を手に入れ、その後は未定……と。

 

 まあ、そう言うしかない。

 

 結果的に、俺は千堂にKO勝利を収めた。

 それが派手だったかはわからないが。

 

 でも、おそらく。

 俺は、スポンサーに切られる。

 

 今年のフェザー級の新人王戦のレベルが高かったなどと、わからない人間もいる。

 幕之内戦につづいて、千堂戦でもダウンを奪われた。

 俺というボクサーの力に対して、疑問を抱くのは……必然だろう。

 

 今、この国には世界チャンピオンがいない。

 国内を圧倒的な強さで駆け抜けていく……そんなボクサーに、世界への夢を託したいと思うのは自然だろう。

 

 

 

 

 

 

 取材が終わり、その場にぽつんと藤井さんだけが残っている。

 俺のほうから水を向けた。

 

「どうしました?」

「……速水君、これはオフレコだ。記者として、いや、1人の男として誓ってもいい」

「大仰ですね……何を聞きたいんです?」

 

 藤井さんが、俺を見た。

 

「あのダウン……わざと倒れたのかい?」

 

 藤井さんが俺を見つめる目。

 正直に答えることにした。

 

「あそこで、千堂くんの右をもらったらまずいと思いましたから。倒れたほうが良いと判断しました」

「そうか……」

 

 藤井さんは、視線を足元に向け、もう一度つぶやいた。

 

「そうか……わかった」

「何がです?」

「俺が、君じゃなくて幕之内のファンである理由だよ」

「……」

「速水君の試合を見て、強いと思ったことはある、巧いと思ったことがある、すごいと思ったこともある……それでもだ」

 

 右手を自分の胸にあて、藤井さんが言葉を続けていく。

 

「胸が熱くなったことはない。いや、なかったんだ」

「……今日は、熱くなれたと?」

「そうだ、熱くなれた。速水君にもこんなボクシングができたのかって、驚きもした」

 

 言葉が途切れる。

 また、口を開いた。

 

「なあ、速水君……あのとき、君は本当に千堂君のパンチに耐えられなかったのか?いや、何故、耐えられないとあきらめてしまうんだ?」

「耐えたら、もう一発もらうかもしれませんよ」

「いや、君の言いたいことはわかってるつもりだし、理解もできる……実際にリングの上で、命を削って戦うのがボクサーだとしてもだ」

 

 藤井さんが、ぐっと右手を握りながら言う。

 

「限界に挑み、そして、限界を超えていく姿……時として戦いあう二人が限界を超えていくような……そういう姿が、そういう試合が、人を熱狂させるんじゃないのか?ボクシングを盛り上げるっていうのは、そういうことだろう?」

 

 そこでいったん言葉を切ると、藤井さんは髪の毛をかき混ぜながら補足した。

 

「いや、こういう言い方は卑怯か。正直に言うと、俺は、そういうボクシングが見たくて、記者をやっている」

「ファンの目線を持つことは大事だと思いますよ。読者に受け入れられなければ、雑誌は売れませんし」

 

 俺の言葉に、苦笑を返し……。

 

「俺は、本当の限界なんてものは、自分ではわからないと思っているんだ。試合で、戦いの中で、勝つために、死力を尽くしていく中で……思っていた限界を超える自分に気づく。あるいは対戦相手も、そうなるかもしれない」

 

 千堂と幕之内、か。

 原作でもベストバウトと名高い、2人のタイトルマッチ。

 

 ボクシングスタイルがかみ合ったというより、千堂は対戦相手に全力を振り絞らせようとするところがある。

 相手の力を8にも9にも『見せて』、10の力で倒すのではなく、相手の力を8にも9にも『引き上げて』、10の力で倒す感じだ。

 

『相手が千堂だからこそあそこまで戦えた』

 

 原作において、幕之内がそんなセリフを口にしたが……千堂と実際に戦ってみて、その気持ちが少しわかる気がする。

 そして、千堂に人気が出るのもよくわかる。

 

 ただ、憧れるボクシングスタイルに、向いているとは限らない。

 やりたいスタイルが、できるとは限らない。

 

「俺に、千堂くんのように戦えと言われても無理ですよ」 

「……いや、別に今のスタイルを捨てろと言ってるんじゃない。自分で自分を早々と見切らないでほしいと思ってるんだ」

「そう、見えるんですか?」

 

 わずかな間。

 

「言っちゃ悪いが、君は自分の限界を設定し、安全に安全に、正確に作業を実行している……そんな気がする」

「……」

「俺も、ボクシングをやっていたから、ボクサーにとっての『ダウン』の重みを理解できるつもりだ。しかし君は、あっさりと『わざとダウンした』などと言う……もちろん、とっさにその判断ができること、実行できるのはすごいとは思う、思うんだ……ただ、君のファンはあの場面で『倒れないでくれ。がんばってくれ』と願っていたんじゃないか?」

「勝ちはしたが、あの場面においては期待を裏切った……ですか」

 

 わざとダウンしたと言えば、少なからず非難を受ける。

 ルール上問題ないということと、それが好まれるかどうかは別問題だ。

 それはわかっているが……そうか、その場面においてファンの期待を裏切っているという考えはなかったな。

 

「あのダウンの後、君が倒しにいくのは想像していた……千堂相手のインファイト。俺には、あの中で君のボクシングが変化していくように見えた」

「破壊力ではかなわないと認めたんですよ」

「威力では千堂、手数では君……それが、最後には君が圧倒した。なあ、あれは速水君が試合前に想定していたインファイトだったのかい?」

 

 俺は、何も言わなかった。

 

 まだ、形にならない何か。

 おぼろげなもの。

 それでも、何かをつかんだ。

 

「今日の試合を見て、俺はまた速水君のそういう試合を見たいと思った。記者ではなく、1人の、ボクシングファンとしての言葉だよ」

「そうですか……参考にしますよ」

 

 沈黙。

 そして、俺に背を向けかけた藤井さんが、ふっと振り返った。

 

「忘れていた。新人王、おめでとう」

「ありがとうございます」

 

 藤井さんの背中。

 その、右手が上がる。

 

「ナイスファイト」

 

 藤井さんの姿が見えなくなっても、その言葉が響いているような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スポンサーの件。

 そして、藤井さんの言葉。

 

 幕之内一歩が、幕之内一歩のボクシングに憧れていたとは思わない。

 幕之内一歩が憧れたのは、宮田一郎のボクシングだろう。

 そして、幕之内一歩には、憧れよりも先に『強いってなんですか?』という問いかけがあった。

 

 幕之内一歩は、幕之内一歩にできることを突き詰めて……ああいう戦い方になった。

 この世界では、別のスタイルを模索するかもしれないが、俺はそう思う。

 

 俺が求める、憧れよりも先にあるもの。

 そのために必要なものが、勝利だ。

 いや、最低限必要なものが、勝利。

 

 俺は、負けられない。

 

 そして……勝つということは、現実(リアル)の先にある。

 

 俺にあるもの。

 そして足りないもの。

 

 俺の道。

 速水龍一の歩いている道。

 

 

 

 

 

 その夜。

 夢は見なかった。

 




先に言っておきますが、千堂は無事です。

しかし、千堂は書くのが難しい。
たぶん、別人のイメージの影響だと思います。

あと、藤井さんがわりといい空気を吸ってる。

(7月16日)ちょいと、藤井さんの発言が言葉足らずだったみたいなので、色々と修正しました。

次の話で一区切り。


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11:速水龍一の翼。

サブタイトルでちょっと悩みました。

予約投稿だから天気はわからないけど、今日は七夕ですね。
ささやかなレベルでいいので、皆さんに何かいいことがありますように。




 千堂との試合から約1ヶ月。

 3月末に、俺の試合が組まれた。

 

 藤井さんには、その日程を少し心配されたが、俺からは何も言えない。

 音羽会長が何も言わないからには、言えることはない。

 しかし、3月末という年度末に合わせたスケジュールに、なんとなく感じるものはある。

 

 タイから呼んだのは、サウスポーのボクサーらしい。

 サウスポーか。

 アマチュアでは、2試合しか戦っていないから貴重な経験になるだろう。

 そして、その経験を与えてくれる会長に感謝だ。

 

 俺は、千堂戦のあと10日ほど安静に過ごし、残り2週間で体調を整えて試合に臨んだ。

 

 

 

 

 そして、試合当日。

 

 調子は、決してよくはない。

 千堂戦のダメージや疲労の自覚はないが、どうかな。

 まあ、これも経験と思おう。

 

 リングに上がる。

 

 こうしてリングの上に立つと、後楽園ホールに帰ってきたという感じがする。

 たった1試合、別の会場で試合をしただけなのにな。

 不思議な気分だ。

 

「「「「「速水くーん(さーん)!!」」」」」

 

 帰ってきたという気がする。

 というか、少し増えた気がする。

 手を振っておく。

 

「速水ーっ!新人王よかったぞー!」

「良くやったぞ!」

 

 手を振り、軽く左の連打を見せておく。

 

 実感する。

 俺の歩いてきた道を実感する。

 

「また海外から、かませ犬を連れてきたのか!」

 

 などとヤジも飛ぶ。

 

 ははは。

 俺の戦歴をチェックしているあたり、おっかけだろ。

 この時代は、まだポケベルの時代だ。

 ネットで検索なんてできないし、当然動画もない。

 情報が、貴重だ。

 俺のことを、そして対戦相手のことを覚えてくれている。

 感謝だ。

 

 うん。

 ここは。

 リングの上は、いいな。

 

 

 

 試合開始。

 

 中央でグローブをあわせ、向き合う。

 

 立ち姿はオーソドックス。

 ただ、サウスポーな分、違和感がある、か。

 

 相手の右。

 とりあえず、打たせる。

 それを見る。

 右のジャブ。

 その感覚を、その距離感を覚えていく。

 

 通常の左のジャブが、顔の正面に向かってくるイメージなのに対し、サウスポーというより、このボクサーの右ジャブは、俺の左目の視界の外から現れる感じがする。

 

 好きに打たせてみたが、今のところ、あまり脅威は感じない。

 セオリーを無視して、左と右、どちらにも回って、その反応を確かめた。

 ジャブに見るべきところがないなら、たぶん、怖いのは左の大砲。

 

 俺のほうから、左を伸ばした。

 相手の右とぶつかる。

 

 む。

 

 ジャブの打ち合いで、拳が、肘がぶつかる。

 なるほど、これはやりにくい。

 

 でも、まあ……動くガードと思えばいい。

 ガードの隙間を狙って、パンチをねじ込む。

 いつもやっていることだ。

 

 セオリーでは、サウスポー相手には、左に回って相手の正面にいきなり右を打ち込んでいくんだが……。

 当然、相手もそんな戦いには慣れっこだろう。

 サウスポーの右フックが、俺の視界の外から来るということは、逆に俺の左フックが、相手の視界の外から来るということだ。

 慣れてはいるだろうが、見にくいことには変わりはないだろうし、俺のパンチのタイミングをつかむまでは、うかつに動いてはこないだろう。

 

 少し、試すか。

 

 左手を、少し前に出す。

 イメージは、小橋君、あるいは沢村の構え。

 

 やってみて気づくことはある。

 

 俺の左手、グローブが相手に近いということは、盾のような働きをできる。

 そして、通常より相手の視界を削れる。

 

 相手の右ジャブを、左手ではじく。

 パンチの軌道に、グローブを置いてやると、やりにくそうだ。

 ステップを踏み、位置を変えようとする。

 追いかける。

 

 俺が何もしないのに、勝手に相手が乱れていく。

 雑な右のジャブに、左フックをかぶせた。

 すぐにバックステップ。

 

 左のロングフックが、空気を切り裂いた。

 

 ……なるほど、大砲だ。

 なかなかスリルのある、左のパンチ。

 まあ、千堂や幕之内ほどじゃない。

 

 また、右のジャブが飛んで来る。

 タイミングはつかんだ。

 左手を引き、構えを戻した。

 

 それを見て、相手の表情が、良くなる。

 相当やりにくかったんだろう。

 

 ジャブを手元へ引き込み、右手で斜め下方向へはじいた。

 相手の右肩の上から左フックをかぶせる。

 これで、相手の大砲は死ぬ。

 イメージとしては、右肩と右肘の関節を極めてやる感じ。

 俺の踏み込み足が、相手が振り返ろうとする動きを阻害する。

 

 また、右のジャブを横にはじく。

 左フックを警戒した相手の下から突き上げた……踏み込みが浅かった。

 フックよりも深く、足を絡めるぐらいに踏み込まないと。 

 

 うん?

 

 俺から逃げるように、距離をとられた。

 過敏な反応。

 何かある。

 

 少し様子見をして、1Rを終えた。

 

 

 

「厄介そうな相手だな」

「え?」

 

 思わず、会長の方を振り向いた。

 会長も俺を見る。

 

「……やりにくそうに見えたが?」

「いえ、たぶん次のRで終わります」

 

 会長にそう言って、俺は立ち上がった。

 

 千堂戦でつかんだあの感覚。

 速く正確に、だ。

 雑なパンチは、雑なダメージにつながる。

 

 

 

 リング中央。

 もう、相手がサウスポーという意識はない。 

 

 相手のジャブに、左フックをかぶせた。

 また右のジャブを伸ばしてきたので、左フックでアゴを叩く。

 

 どこか戸惑ったような表情の相手に。

 俺の太ももを相手の前足の横にぶつけるように踏み込み、突き上げた。

 そのまま右。

 相手の反撃の左は届かない。

 

 速く正確に。

 それだけだ。

 

 もう一度下から。

 ぐらつく相手のアゴを、再びアッパーで突き上げる。

 振り回してきた左をもぐりこんで、みぞおちを打つ。

 動きが止まったところを、アッパーで突き上げた。

 そして右を顔面に。

 

 上下の打ち分けに、まったくついてこれない。

 特に、下が見えていない。

 何かが欠けているというより、何かを失ったという感じがする。

 怪我か?

 

 まあ、今の状態では、確かにかませ犬だ。

 

 ガードを固めて突っ込んできたところを、ショートアッパーで迎撃。

 マウスピースが転がる。

 もう一度突き上げ、左右のフックをまとめると、両ひざを付いてリングに倒れた。

 

 目が死んでいる。

 たぶん、起き上がる体力ではなく、気力がない。

 

 そのまま俺は、ニュートラルコーナーで10カウントを聞いた。

 

 色々と学ぶべきところはあったが、プロ入りしてから、一番つまらない相手だった気がする。

 

 

 観客席に手を振って応え、俺はリングを下りた。

 何はともあれ、俺はこれで8回戦の資格を得たことになる。

 

 ちなみにこの試合は6回戦だから、ファイトマネーも多かった。

 チケットの枚数が増えただけなんだけどね。(遠い目)

 

 

 

 

 

 月は変わって4月の頭。

 

 俺は、会長室に呼ばれた。

 俺と目をあわそうとしない会長を見て気づく。

 

 ああ、良くない話だ……きっと。

 来るべきものがきた、か。

 覚悟を決める。

 

「速水……」

「はい」

「……ジュニアフェザー(スーパーバンタム)に階級を落としてくれないか」

 

 戸惑う。

 てっきり、スポンサーに切られたという話だと思ったのだが。

 

 先日の試合はしょっぱかったが、6戦6勝6KOで、新人王を獲った俺に、階級変更。

 減量が厳しくて階級を上げるならともかく、下げろとは……。

 

 ふと、思った。

 そういえば、原作の速水龍一は何故階級を下げたのか。

 自信家の天才ボクサーが、幕之内のいる階級から逃げようとするか?

 そもそも、原作のアレも油断と慢心による敗戦といえるもの。

 アゴを壊したことが理由なら、そもそもボクシングをやめていたのではないか?

 

 何かがつながる。

 あるいは、パズルのピース。

 スポンサー。

 そして、音羽ジム。

 

「……ヴォルグ・ザンギエフ」

 

 俺のつぶやきに、音羽会長がはじかれたように顔を上げた。

 

「知ってたのか、速水?」

 

 そうか。

 ここにつながるのか。

 

 すとんと、胸に落ちてくるものがある。

 

 アマチュア世界王者。

 200戦以上の試合をこなして無敗。

 日本の高校生相手に無敗の俺とは桁が違う。

 確かな実力に、甘いマスク。

 昨年暮れのソ連崩壊、そして旧ソ連のエリートボクサーという話題性。

 俺との、商品価値の違い。

 俺との、能力の違い。

 

 同じフェザー級だからこその、『速水龍一』から『ヴォルグ・ザンギエフ』への切り替え。

 

 つまり、俺に対する要求というかハードルの高さがあがったのは……世界アマ王者の『ヴォルグ』という商品が現れたからか。

 

 もしかすると、ボクシングの世界王者のいない現状に、世界戦で連敗を続ける現状に業を煮やしたのかもしれない。

 日本人の世界王者ではなくとも、この国のジムに所属するボクサーが世界王者になることで妥協することを考えたのかもしれない。

 世界アマ王者のヴォルグ。

 確実で手っ取り早いと、『素人』ならそう考えても無理はない。

 

 まあ、そのあたりの理由や理屈はどうでもいい。

 

 俺も、他人を蹴落として上がってきた人間だ。

 蹴落とされることに思う部分はあるが、それを受け入れないのは片手落ちだろう。

 

 今問題なのは、俺の階級を落とす意味……。

 階級が別なら、かち合わない。

 メインはヴォルグだが、俺もサブとして……。

 

 なるほど。

 一番、泥をかぶったのは、会長か。

 泥をかぶってくれた。

 俺のために。

 

「別の階級にするから、スポンサーであり続けてくれと、頼んでくれたんですか?」

「お前は連続KO勝利中のホープなんだよ……はいそうですかと引き下がったら、うちのジムは業界でいい笑いものさ。決してお前のためだけじゃないし、それにスポンサーといっても、名目だけだ。ないも同然の扱いさ……恨んでくれていい。すまん」

 

 ヴォルグの件は、テレビ局そのものか、その関係者あたりがヴォルグの存在に目をつけ、関わりの深い音羽ジムに話を持ち込んだという形なんだろう。

 原作でも、千堂に負けてあっさりと切られたドライさは、いかにもそれっぽい感じがする。

 

 第一、音羽会長は人情派だしな。

 

 

 なら、せめて俺は笑おうか。

 なんでもないことのように。

 

「わかりましたよ、会長。伝説をつくる男には、挫折ってヤツがつきものですしね……つまり、俺は選ばれたってことでしょ?」

「速水……」

 

 会長が俺を見る。

 

 そんな顔、会長には似合いませんよ……という軽口を飲み込み、事務的な話に切り替えることにした。

 

「それで、俺の今後の予定はどうなります?」

「……未定だ。新人王を含めて連戦だったからな。少し休んで、それからランキングを上げるか……場合によっては、A級トーナメントに参加するか、だな」

「じゃあ、休養中にロシア語でも勉強しますかね。世界アマのヴォルグに話を聞くのも、勉強になりそうですし」

 

 会長が、笑った。

 

「はは、伝説を作る男は、言うことが違うな」

「そりゃもう。俺は、速水龍一ですからね」

「でも、世界を目指すなら、ロシア語より英語だろう」

「英語なら、簡単な会話ぐらいならできますよ」

「ほう、たいしたもんだ」

 

 笑顔で、軽やかに。

 そこが、リングの上のように会話をかわす。

 

「じゃあ、会長。俺はこれで……」

「ちょっと待て」

「はい?」

「この前の試合だが、お前……相手が弱く見えたのか?」

「……たぶん、どこか怪我を抱えてたんだと思いますよ。まあ、サウスポーだったなと言うぐらいの印象ですね。デビュー戦の相手のほうが面倒だったかな、と」

「そうか……なるほどな」

 

 会長が、小さく頷いた。

 何度も。

 

 良くわからなかったが、俺はちょっと笑って、会長室を後にした。

 汗を流している練習生たちに適当に声をかけ、ちょっとしたアドバイスもしつつ、俺は、ジムを出る。

 

 その足で、街を歩く。

 

 桜だ。

 春の陽気。

 空を見上げる。

 

 11月の幕之内から始まり、5ヶ月で4試合だ。

 先日の試合はともかく、きつい試合の連続だったのは確かなんだ。

 しばらく、身体を休めるか。

 

 そう、しばらく……休憩だ。

 

 目を閉じ、歩いてきた道を、振り返る。

 

 高校時代はボクシングを学んだ。

 デビュー戦は後楽園ホールの雰囲気を知った。

 メキシカンは世界のレベルの高さを垣間見せてくれた。

 

 新人王戦。

 

 幕之内に勝って。

 宮田に勝って。

 千堂に勝って。

 新人王を獲り、前評判どおりの活躍を見せた。

 

 原作ブレイクだ。

 なのに。

 

 手探りで歩いていた道。

 速水龍一のものだったはずの道。

 その道から、何者かにはじき出されたような奇妙な感覚。

 不快感に近い。

 

 もしかすると、フェザー級から、ジュニアフェザーに落とすことに不安を感じているのだろうか。

 減量は、やってみないとわからないが、たぶん平気だ。

 何を不安に感じる?

 

 確かめるように、言葉にしてみる。

 

「ジュニアフェザー……原作だと、真田の返上した王座をめぐって、小橋君と決定戦。そこで、アゴにもらって一発失神KOか」

 

 真田、真田一機。

 原作では、医者志望のボクサーで、ジュニアフェザーのタイトルを5度防衛だったな。

 たしかに、この前のチャンピオンカーニバルで、ジュニアフェザーの新王者を獲得してたっけな。

 今年から来年の秋にかけて、防衛戦を5度、タイトルを返上して幕之内と戦う……うん、時期的にも間違いないな。

 俺がいくら原作ブレイクを目指したとしても、所詮それは俺の周囲と、その影響範囲だけか。

 

 まあ、難しく考えることはない。

 ボクサーである以上、目指すはチャンピオンだ。

 ならば、普通に……次の目標は、真田一機であるべきだろう。

 

 

 これが、道のはずだ。

 それが、俺の前に続いている道のはずだ。

 歩けばいい。

 

 それでも、心の中で『違う』と叫んでいる俺を感じる。

 

 勝った俺がいる。

 勝ち続けた俺がいる。

 原作ブレイクした俺がいる。

 

 会長にあんなことを言いながら、心の中で割り切れていないのがわかる。

 

 他人を蹴落としてきた俺が、蹴落とされた。

 それだけだ。

 ただ、それだけ。

 

『君の試合を見て胸が熱くなったことはなかった』

 

 藤井さんの言葉。

 あれは、純粋にファンとしての言葉だろう。

 あるいは、ボクシングを盛り上げたいと語った俺へのアドバイス。

 

 戦い方を決めるのは俺だが、俺という商品を評価するのは他人だ。

 

 俺に、足りないものがあった。

 能力だけではない、スポンサーに、認めてもらえない何か。

 

 日本人であるという付加価値がありながら、俺の商品価値がヴォルグに劣った……。

 

 

 

 空を見上げた。

 鳥の姿。

 

 翼があれば。

 

 わけもなくそう思った。

 

 

 

 

 ふと、思い出す。

 

『宮田君との約束とは別に、速水さんの後を追いかけるつもりです。そして、今度こそ、アクシデント抜きにしてパンチを入れますから』

 

 幕之内の言葉。

 

『はは、待ってるぜ』

 

 俺の、速水龍一の返事。

 

「約束、か」

 

 

 俺の歩く道。

 その先にあるものが。

 その先の光景が。

 

 幕之内との約束を守るものになる可能性は……。

 

「一応、断りを入れておくのが礼儀だな……」

 

 

 

 

 

 

 

 鴨川ジムのドアを開いて挨拶。

 

「こんにちはー」

「あれ、速水じゃねえか。うちのジムに何しに来やがった」

 

 原作ではギャグ担当の青木さん。

 パンチパーマがトレードマークといっていいのか?

 まあ、特徴がありすぎる人だ。

 でも、リアルで考えるなら、原作どおりであるならば、間違いなくこの人の進む道は、ほかのボクサーたちの道しるべであると思う。

 方向性はともかく、努力と工夫を重ねる部分は尊敬できる人だ。

 

「はは、幕之内くんにちょいと用事がありまして」

「一歩に用事か?一歩なら、まだ来てないぜ」

 

 と、これは木村さん。

 外見は好青年で、中身もそんな感じ。

 まあ、高校時代は青木さんとつるんでヤンキーをやってたが、今は昔。

 そして、瞬間最大風速で人気を稼いで……お笑い担当になる予定の人。

 そうなるかどうかはわからないが。

 

 千堂をここに連れてきたときは、この2人はいなかったんだよな。

 原作でおなじみの人がポンポン出てくると、ちょっとうれしくなる。

 

 ぬっと、影が差した。

 

「誰かと思えば、小者じゃねえか。何しに来やがった」

 

 うれしくなる……はずだ。(震え声)

 

 ボクサーとしては認めるが、この人とは日常で関わりたくない。

 

「やるか?スパーやるか?」

「1週間前に試合やって、休養中です。勘弁してください」

「クソがっ!小者たちばっかり試合しやがって、スーパースターである俺様はろくに試合を組めないとはどういうことだ!」

 

 ああ、ミドル級はなぁ……。

 

 前世のように、ネットが世界をつないだ時代ならともかく、この世界の今の時代は、世界の中重量級より上の階級は、まず話そのものが回ってこない。

 

 ボクシングのショービジネスとしての本場ラスベガス。

 世界タイトルマッチってのは、基本的にラスベガスのホテルが主催するイベントだったという経緯がある。

 ギャンブルの街だ。

 世界中から金持ちが集まってくる。

 彼らがホテルのカジノに落とす金。

 ホテルに、宿泊客を、人を呼ぶためのイベント、ショーの一環。

 それが、高額のファイトマネーを生んだ。

 

 相手が日本人だと、客が呼べない。

 ラスベガスに集まる金持ち客の注目を集められないといったほうが正確か。

 世界ランキングを手に入れるためには、強い相手、できれば世界ランキング持ちの相手と戦うことが必要だ。

 なら、世界ランカーが、わざわざ日本人と戦うメリットはあるか?

 金は、当然ショービジネスの本場の向こうのほうが持っている。

 ランキング、金、名誉……その、どれも手に入らない相手を、対戦相手に選ぶメリットはない。

 

 つまり、世界ランキングを手に入れるための戦いにすら参加できない……それが、この世界というか、この時代の鷹村さんの置かれている状況といえる。

 逆に、ラスベガスの金持ち客が注目しない軽量級や、軽中量級の階級は、ほかと比較して金持ちの日本人にせっせとチャンスを与え、次々とカモられてるという、泣きそうな現実もあるのだが。

 

 ネットの普及を受け、放映権やその他のビジネスの発展で、対戦相手としての価値が上昇した結果……状況が変化したのが、前世の21世紀以降のボクシング事情だ。

 

 まあ、闇が深すぎる話はやめておこう。

 

 というか。

 

「ああ、試合してえ、試合してえ、試合してえよぉ!」

 

 などと大声を上げながら、バケツを蹴り上げる鷹村さんの姿を見ると……なあ。

 

 ため息をついていたら、木村さんに、肩を叩かれた。

 

「ストレスたまってるんだ……触れると危険ってやつだから、目を合わせるなよ」

 

 ははは、言われなくても。

 俺は小さく頷き、賛意を示した。

 

 

 いすに座って鴨川ジムの連中の練習を眺めていたら、声をかけられた。

 

「……なんじゃ、速水じゃないか」

「鴨川会長。お邪魔してます」

 

 立ち上がり、頭を下げておく。

 

「いまさらじゃが、千堂とは、ええ試合じゃったの」

「ありがとうございます……少しすっきりしない勝ち方だったんですがね」

「相性の悪い相手に打ち勝ったんじゃ、胸を張ってよいぞ」

 

 もう一度、頭を下げた。

 結局、千堂は夜には目覚めて、精密検査でも異常なしだったらしくて、ほっとした。

 そっちの原作ブレイクはごめんだからな。

 

「それで今日は、何の用じゃ?」

「ええ、幕之内くんに少し……謝らなきゃいけないことがありまして」

「なにか、あったのか?」

 

 ためらい。

 そして戸惑い。

 

 聞いて欲しいのだろうか、俺は。

 

 口を、開いた。

 

「階級を、ジュニアフェザーに落とすことになりました」

「なんじゃと?」

 

 鴨川会長が、俺を見る。

 

「……わけありか?」

「ははは……まあ、ヴォルグ・ザンギエフを、ご存知ですか?」

「知っておる。世界アマ王者の……」

 

 言葉が途切れる。

 

「うちのジムと、契約することになりました……あ、正式発表はまだなので、しばらくはここだけの話ということに」

「……うむ、そうか」

 

 それだけで、鴨川会長はある程度事情を察してくれたらしい。

 

「こんにちわー」

 

 タイミングよく、幕之内の登場だ。

 

「……って、速水さんじゃないですか。どうしたんですか、今日は」

「ああ、実はな……」

「速水よ、立ち話の内容ではない。ええから、会長室で話せ」

 

 

 

 

 

 

「……とまあ、細かい事情はともかく、俺と幕之内くんは別の階級になっちまうってことだ。すまないが、パンチをもらってやる約束は守れないってことを報告にきたわけだ」

「なんで……そんな」

「小僧!」

 

 鴨川会長の制止。

 

「音羽ジムには音羽ジムの都合がある。何よりも、速水が飲み込んでおるのじゃ……小僧がどうこう言う話ではないわ」

「……わかりました」

 

 ……果たせなかった約束、か。

 

 ふと、思った。

 つついてみようか、と。

 原作ファンなら、誰もが夢見た、あのカード。

 

「幕之内くん、最近宮田くんには会ったか?」

「え?いえ……」

 

 卒業式の後、会ってはいないのか。

 まあ、好都合だな。

 

「宮田くん、また少し背が伸びてたぜ……幕之内くんの言ってた『約束』だけど、早くしないと間に合わなくなるかもな」

 

 俺の言葉に、幕之内は首をかしげ、鴨川会長がうなった。

 

 俺は、宮田に会ってもいないし、背が伸びたかどうかも知らない。

 ただ、ボクサーに限ったことではなく、食事制限を強いられている成人前のスポーツ選手が、怪我などで休養中に身長が伸びてしまった話は聞いたことがあった。

 人間が摂取した栄養はまず生命維持活動のために消費され、その余剰分が成長や回復に消費される。

 

 子供の頃から父親の背中を追い続けてた宮田のボクシング生活……もしかすると、原作での間柴に負けた後の休養は、物心ついてから初めての休養だったのではあるまいか。

 原作の宮田の成長に伴う減量苦が……間柴に負けた後の休養期間にあったとすれば。

 

 俺に負けた後……身長が伸びている可能性はある。

 

 まあ、間違ってたら勘違いですむ話だ。

 

「あの身長じゃあ、減量が厳しいはずだ。フェザー級にいられる時間は、それほど長くないかもしれない」

 

 言葉を切り、鴨川会長を見た。

 

「理想は、お互いが最高の状態で戦うことなんでしょうけど……本当の本当に、最高の状態で試合に臨めることなんて、ボクサーに限らず、スポーツ選手の競技生活でせいぜい2度か3度でしょう」

 

 鴨川会長が目をつぶった。

 しかし、その口が開くことはない。

 

 俺にできるのはこれが精一杯、か。

 どんな形でもいいから、実現して欲しいんだよなあ、このカード。

 

「じゃあ、俺はこのぐらいで」

 

 ぺこりと頭を下げて部屋を出ていこうとしたら呼び止められた。

 

「ちょっと待て、速水よ。少し話がある」

 

 

 幕之内がいなくなって、鴨川会長と2人きり。

 はて、何の話か?

 

 

「鴨川会長、話って何でしょう?」

「小僧との試合の、あの事故のことじゃ」

「……?」

 

 いまさら?

 何だろ?

 

「あの試合のあの場面、もちろんワシは勝つことだけを考えて小僧に指示を出した。リングに立っている以上、勝つことがすべてじゃ。じゃが、小僧が勝っていたらどうなっていたと思う?」

「どうって……俺が負けて、幕之内くんと宮田くんが決勝で……どっちが勝つかという話ですか?」

 

 鴨川会長が首を振った。

 

「そうではない……おそらく、多くの者が傷つく結果になっただろうと思う」

「……」

「『あの事故のせい』、『レフェリーの八百長』など……まあ、心ない者が、無責任にそうした言葉を口にするのは目に見えておる。ましてや貴様は、注目株じゃ……レフェリーやワシらへの悪意が集まっただろう」

 

 ……想像はできる。

 

「負けたことは口惜しい。じゃが、貴様に負けた後の小僧は、両足でまっすぐに立ち、前を向いておる。あの負けは、明日へとつながる敗戦となった」

 

 鴨川会長が、まっすぐに俺を見た。

 

「悔いの残る敗北はええ。それをバネにすることもできる……じゃが、悔いの残る勝利は厄介じゃ。いつまでもしこりとなって残り、心を苛む……特に小僧は、そういう性格をしておる」

 

 そして、鴨川会長が頭を下げた。

 

「良くぞ立ち、良くぞ勝った……そしてようも『自分のミス』と突っ張ねたものよ。貴様の背中が、小僧にまっすぐ前を向かせた……礼を言うぞ」

 

 鴨川会長を、見る。

 そして、答えた。

 

「わかりました。その気持ちは受け取ります。でも、俺はボクサーです。勝つためにやるべきことをやっただけです」

 

 ふと、思った。

 自分とレフェリーのことばかり考えてたが、あのとき、幕之内はあのアクシデントをどう思っていたのか?

 もしかすると、あれは焦りではなく、動揺だったのか?

 

「幕之内くんは……あのアクシデントにいつ気づいたんです?」

「貴様をダウンさせたときは、無我夢中だったようじゃな……何かおかしいとは思ったそうじゃが……すべてを知ったのは、試合が終わった後じゃ」

「そうですか……」

 

 あのときの、幕之内のパンチが雑になっていたことを思い出す。

 もちろん、ダメージや疲労、そして焦りもあったんだろうが……何か、腑に落ちないものを抱えて戦っていたのか。

 あれは……俺だけのアクシデントではなかったということだ。

 

「まあ、すべてを知った後……小僧は晴れ晴れとした顔で『速水さんはすごいです』と言っておったわ。闘争心のなさを嘆くべきか、そのまっすぐさをほめるべきか、悩むわい」

 

 そう言う鴨川会長の顔が、どこか誇らしげに見えたのは、俺の感傷かもな。

 

「やるべきことをやる……それでいいんじゃないですか?」

「そうじゃな、貴様がレフェリー相手に、時間稼ぎをしたことも含めてな」

 

 一瞬の間。

 

「あ、ばれてました?」

「試合が終わった後にな……ふん、強かな男よ」

 

 鴨川会長は少し笑って……最後に、真顔に戻って。

 

「腐るなよ、速水」

 

 頷きかけて……気づいた。

 

 幕之内の試合の件ではなく、おそらくこちらが本命。

 この言葉を言うために、引き止めてくれたのだ、きっと。

 

 まっすぐに立ち、前を向いて……か。

 

「……まだ成長中の青い果実ですからね。腐るのは10年早いですよ」

「ふん、嫌いじゃないわい、貴様のような男は」

 

 そして俺は、会長室を出て、鴨川ジムを後にした。

 

 きて、良かったと思った。

 何気ない言葉。

 ちょっとした出会いが、何かを変えることもある。

 

「速水さん」

 

 振り返る。

 幕之内。

 

「あの、考えてたんです。まだ、速水さんが約束を破ったとか、守れないって言うのは少し違うかなあと」

「んん?」

 

 何?

 何の話?

 

 幕之内が、俺を見る。

 

「速水さんがジュニアフェザーで勝ち続ければ、いずれ2階級制覇とか狙うんですよね?それなら、またフェザー級で試合することだって……だからそこで、その、僕と、戦ることだって、できるんじゃないかと」

 

 どこか恥ずかしげに言う幕之内の姿に、俺は納得するような気持ちになった。

 

 やっぱり、勝とうが負けようが主人公だわ、幕之内は。

 

 それ、王者になるって宣言だけど、たぶん気づいてないよなあ。

 そして、原作では俺はもちろん、幕之内も……。

 

 まあ、いいか。

 どちらにしろ……勝たなければ、始まらない。

 勝ち続ければ、また何かが変わるだろう。

 その先に……。

 

 そういう原作ブレイクは、ありだろう。

 

 俺は、笑みを浮かべて幕之内を見た。

 

「はは、じゃあ(世界で)待ってるぜ」

「はい。僕もがんばって(日本王者を)目指します」

 

 

 手を振って別れた。

 

 

 勝ち続ければ、交わるかもしれない道。

 遠い約束だ。

 

 

 

 

 

 

 川の土手を歩きながら、あらためて空を見あげた。

 

 鳥が飛んでいる。

 

 鳥の翼を羨んでどうする。

 俺は人で、速水龍一だ。

 

 与えられたものを精一杯使って、戦うしかない。

 

 翼はなくとも、俺には足がある。

 ならば歩こう。

 歩いていこう。

 ただ前へと。

 

 ここからだ。

 ここから、また始めよう。

 あの日、はじめの一歩を踏み出したように。

 

 俺の、速水龍一の。

 

 再出発(リスタート)だ。

 




はい、第一部完!
すぐにエンディング曲を流そう!(選曲は各自お好みで)

試合とは別の場所で挫折を味わい、そこからの切り替えと言うか再出発ですね。
ちょいと、鬱な展開になってしまって申し訳ないです。

衝動的に書き始めてから展開を考えるという状態だったにしては、ここまではきれいにまとまったかなという気がします。
『ここで終わったほうが美しい』なんて囁きも聞こえてきますが、一応スポンサーを悪者にして伏線も張りましたし、原作の戦力インフレを上手く表現できなくなるあたりまでは続けたいですね。(震え声)

第二部は、みんな大好き『ヴォルグ』が来日するところからを予定してます。
『伊達』と『ヴォルグ』の日本タイトルマッチを書いてみたいと思ってるのですが(悪魔のささやき)、その場合、主観というか『語り手は誰になるのか』という部分など、いろいろと問題山積みです。

とりあえず、色々と考えたいのでしばらく時間をください。
目標としては8月に再開できればいいなあと。
そしてまた、区切りのいいところまで連続更新の感じでいきたいです。
とはいえ、私はいきなりネタが落ちてくるタイプでもあるんですが。

しばしのお別れです。


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裏道1:鴨川源二ではじめる速水攻略。

七夕様の贈り物。
これが、みなさんにとっていいことでありますように。(11話の前書き参照)

しばしのお別れとはなんだったのか……まあ、これも予約投稿ですけど。(目逸らし)
感想で鴨川会長が人気だったので気分転換を兼ねて書いてみましたが……試合前はともかく、試合中の描写は変な感じがします。
まあ、これもひとつの実験ということでお試しに。


『7月上旬。(ジェイソン尾妻戦のあと)』

 

 小橋対吉田のビデオ。

 

 近づけばクリンチ。

 離れ際にジャブ。

 その繰り返しで試合が終わった。

 

「時間の無駄だったな」

「誰だよ、こんなもん持ってきたの」

 

 青木と木村の愚痴に、藤井がそっと目を逸らしおったわ。

 

 確かに、地味な試合じゃったが……この小橋という男、巧い。

 小僧が振り回されて4Rが終わる可能性はある。

 

「いや、しかしですね。インターハイを準優勝した選手に、何もさせないって言うのはすごいことなんじゃないですか?」

 

 ……青木や木村にも問題はあるが、小僧は小僧で、もう少し闘志が欲しいのう。

 

 

 

 

 

 小僧たちを会長室から追い出し、藤井を見た。

 

「藤井よ。頼んだものは持ってきてくれたか?」

「ええ」

「……手間をかけさせたな」

「いえ、速水君は注目選手ですからね……ダビングしただけですよ」

 

 紙袋から、藤井が取り出した2本のテープ。

 

「こっちがデビュー戦、そしてこっちが……例の、2戦目です」

「そうか。相手はメキシカンだと聞いたが」

「デビュー戦はタイから呼んだ選手です……対戦相手を探すのに、音羽ジムの会長が苦労しているようですよ」

「まあ、うちも鷹村がおるからの。他人事ではないわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……どうです?」

「……強い、の一言じゃ。特に2戦目は、対戦相手のレベルの高さもあって、8回戦の試合といわれても疑う者はおらんじゃろ」

 

 テープを巻き戻し、最初から試合を見る。

 

「1Rの前半はやや劣勢じゃったが後半で対応し、2Rではそれをつぶす……しかし、驚くのは3Rよ。こやつ、このRまで流しておった」

「……ええ」

「劣勢を感じながら、そのまま対応し、対策を講じる……正直、この3Rの実力が本気なのかどうかもわからん」

 

 藤井が、ポツリとつぶやいた。

 

「速水君は『久しぶりに勝ったと思える試合でした』って言ってましたよ」

「……小生意気なセリフじゃが、本音なんじゃろう」

 

 アマで無敗、プロでもこれか。

 まあ、生半な相手では、苦戦すらできまい。

 強い相手と戦いたい。

 それは、ボクサーとしての本能のようなものじゃ。

 

 テープを入れ替える。

 デビュー戦。

 

「デビュー戦の相手も曲者じゃが、それを、苦もなく対応しておる」

「アマチュアルールだと、顔は正面を向いていなければダメですからね。頭を下げる、その姿勢だけでバッティング(頭突き)の反則を取られます」(日本は特に厳しいといわれてました)

「アマチュア出身の選手が、ラフファイトに弱いといわれる所以じゃ……そもそも、頭をつけての打ち合いや、頭を下げて接近するという経験がないからの」

 

 画面を見つめる。

 速水龍一という男を見つめる。

 

 小僧のデビュー戦のときは誰かと思ったが、尾妻戦のときもしっかりと見ておった。

 

「……練習熱心な男ですよ」

「見ればわかる。才能におぼれた男のボクシングではない……むしろ、慎重な男じゃろ」

「ビッグマウスで有名なんですけどね」

 

 藤井の言葉を、鼻で笑う。

 

 倒して勝ってはおるが、注目すべきは防御の巧さじゃ。

 鼻っ柱の強い男なら、これだけの力があれば、最初から倒しにいく。

 なのに、2試合とも最初は相手を見ておった。

 分析し、相手の優位を奪い、自分の優位を確立してから仕留めにかかる。

 

 この男、理論派のボクサーじゃ。

 拳は、嘘をつかんわい。

 

「この男のせいで、フェザー級の参加者(エントリー)が減ったという話もうなずける……」

「今年の東日本は14人でしたね……ここ数年は、20人を超えることも少なくなかったんですが」

 

 藤井が、言葉を続けた。

 

「それと、速水君とあたるはずだった相手が、1回戦で拳を痛めたという理由で棄権するそうです……おそらくは口実でしょうけど」

「……速水の2戦目は2月じゃったな?なら、次の試合は……11月か?」

「ええ、新人王戦の最中ですからね、スパーはともかく、試合を組むこともできないでしょう」

「う、む……」

 

 小僧は、先日の試合で尾妻には勝ったが、内容そのものはどちらに転んでもおかしくはなかった。

 いや、運に恵まれたともいえる。

 見るほうは楽しいかもしれんが、あれではな。

 小僧のパンチ力は魅力だが、当たったもん勝ちのボクシングでは先は望めん。

 土台作り。

 体重移動。

 地道に、脚力強化と防御技術の研鑽こそが近道なんじゃが……。

 

 画面に目をやった。

 

 本当なら、小僧にはもっと防御を意識させ、基礎技術を教え込む時期じゃが……宮田とのこともある。

 選手のやる気を無視するようでは、指導者は名乗れん。

 そのやる気を上手く誘導し、成長へと導いてこそ本当の指導者よ。

 

 とはいえ……悩ましいところじゃ。

 

 まあ、小僧が小橋に勝ってからの話か。

 小橋に当たらないようでは、速水に当てるのは無理じゃ。

 

「それにしても……」

「なんです?」

「音羽の会長も、たいしたものだと思ってな。楽な相手と試合を組んで、張りぼての戦績を作り上げるジムも少なくない時代じゃが……デビュー戦にはラフファイトあり、2戦目にはレベルの高いメキシカンを呼んで戦わせておる」

 

 いったん言葉を切った。

 

 音羽の会長という指導者は速水というボクサーを信じ、速水というボクサーがそれに応える。

 確かな信頼関係。

 良き、師弟よ。

 

「強くなるぞ、この男は」

 

 そしてそれは。

 小僧の道をふさぐ、大きな壁になることを意味する。

 

 古いと言われるかもしれんが、強き相手と戦うのは、ボクサーとしての喜びよ。

 そして、やるべきことをやりつくしてリングへと送り出すのがワシの仕事。

 

 燃えてくるわい。

 

 

 

 

 

 

 

『8月末。(対小橋戦直後)』

 

 

 ……薄氷を踏む思いじゃったな。

 

 鷹村たちの夏合宿に参加してから、小僧の追い足は目に見えて進歩した。

 体重移動がスムーズになり、あの強打を連打できる土台ができてきたといえる。

 それゆえに、先のことを考えて小僧を鍛えた。

 小橋相手なら、どうにかなるじゃろうと……。

 

 慢心しておった。

 小僧ではなく、ワシの怠慢じゃ。

 

 目の前の小橋ではなく、先の速水戦を見ておったこのワシの……何たる無能か。

 あそこで小橋が打ち合いにこなければ、間違いなく小僧は負けておった。

 

 通路。

 そちらに目を向ける。

 

 ……今日は、来ておらんのか。

 

 もう、見るべきものはないと思うたか、速水よ。

 

 貴様との試合までの残り2ヶ月。

 楽な試合にはさせんぞ。

 

 

 

 

 

 

『9月上旬。』

 

 

 速水の試合のビデオを見て、小僧が絶句しておる。

 まあ、無理もない。

 

 む?

 木村と青木が、小僧の肩に手をおいて……。

 

「残念だったな、一歩」

「まあ、こういうこともあるさ」

「や、やめてくださいよ!こ、この人に勝たないと、僕は……宮田君と……」

 

 小僧が握り締めた拳。

 

 その闘志は、あくまでも宮田との約束か。

 

 ……まあええ。

 前向きであるならば、やりようはある。

 

 と、今度は鷹村か。

 

 そっと、ステッキを引き寄せた。

 

「……一歩。お前、どうやって勝つつもりだ?うん?」

「そ、それは……」

「一発当たればどうにかなるって、甘いこと考えてるのか?」

 

 小僧の表情……まだ望みを持っておるな。

 甘い。

 

「当たらねえよ。4R追い掛け回しても、お前のパンチはかすりもしねえ。そのぐらいの差がある」

 

 そして、さすがに鷹村はわかっておるか。

 

「……でもよ、鷹村さん。一歩のダッシュ力だってなかなかのもんだぜ?」

「そうそう、一歩がしつこく食い下がれば、ワンチャンスもあるんじゃないですか?」

 

 ……青木と木村はわかっておらんのか。

 

「なあ、一歩……お前、この速水と宮田、どっちが強いと思う?」

「それは、その……宮田君だって強くなってるし」

「考えるな。考えれば考えるほど、希望や期待が評価を歪ませる。このビデオを見た瞬間、お前がどう思ったか……それで答えろ」

 

 一瞬の沈黙。

 そして、小僧は搾り出すように答えた。

 

「速水さん、です」

 

 うむ。

 そこからじゃ。

 自分の立ち位置を、正しく認識してからじゃな。

 

 鷹村も、なかなかええことを言うわい。

 

「小僧よ。はっきりいって、ベスト4の中では速水の実力が大きく抜けておる。まずそれを認めい」

「でも、それじゃあ……」

「自分に何ができるか、自分に何が足りないか……すべてはそこからじゃ」

 

 ステッキの先で、小僧の胸を押さえた。

 

「速水にパンチを当てるためには何が必要か?速水にパンチが届く距離に近づかねばならん。速水にパンチが届く距離に近づくにはどうすればいい?速水のパンチを避けねばならん。速水のフットワークに追いつかねばならん」

 

 トン、と小僧の胸を突く。

 

「わかるか?なんとなくではダメじゃ。小橋戦のように、近づいて一発当てれば……などという、曖昧なボクシングではどうにもならん。それは試合だけでなく、練習も同じよ」

 

 ワシを見る小僧の胸を、また軽く突く。

 

「思い出せ。小僧が、宮田のことだけを追いかけていた頃を……フットワークから、パンチのひとつまで、『宮田に勝つためだけに』練習を重ねたじゃろうが。あれと同じじゃ」

 

 ワシは、ステッキを床につき、視線を落とした。

 

「小橋戦は、指導者としてのワシの怠慢よ……目の前の小橋ではなく、誰でもない曖昧なものを相手に戦わせてしまった、ワシのミスじゃ」

 

 顔を上げ、小僧を見る。

 

「試合までの約2ヶ月、速水に勝つための練習をする。宮田と戦いたいなら、死ぬ気でついて来い」

「はい!」

 

 

 

 

 

 

「おい、ジジイ」

「わかっとる……じゃが、速水に勝つとすれば、宮田よりも、間柴よりも……小僧に一番目がある」

「……だな。一番相性が悪いのは、間柴だろうぜ」

 

 鷹村が、テレビ画面に眼をやった。

 

「それで……どうすんだよ?」

「とにかく走らせる。小橋戦のように相手のリズムで4R振り回されても、スタミナ切れしない持久力が大前提じゃ」

「……まあ、そうだな」

「防御を鍛え、4R戦うという前提で作戦を立てるしかない。スタミナ、集中力、それが途切れた一瞬を逃さず、小僧のパンチが当たれば……」

「えらそうなこと言いやがって!結局は、当たったもん勝ちの作戦じゃねえか!」

「細かな作戦はこれからじゃ、バカタレが!」

 

 そもそも、小僧のボクサーとしての能力を引き上げねば、作戦すら立てられんわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『10月下旬。(速水戦の10日ぐらい前)』

 

 しかし、小僧もたいしたものよ。

 鷹村が連れてきたときは、センスのかけらもなく、気も弱い、どうしようもないと思ったが。

 

 最初は、そのパンチ力に驚かされた。

 日本人ボクサーには珍しい、ハードパンチャーとしての資質。

 

 じゃが、どうしようもなく不器用じゃった。

 いわゆる、センスがない。

 

 今の時代は、『何でもできる』ボクサーが主流じゃ。

 相手を分析し、強み、弱みを理解して、戦略を組み立てていく引き出しの数こそが、高い能力とみなされる。

 

 小僧にできるのはインファイトのみ。

 誰が相手であろうと、接近し、相手の攻撃をかいくぐりながらパンチを繰り出す戦いしかできん。

 いや、インファイトのみに高い適正があると言った方がええか。

 それに加えて、小柄な体格、短いリーチ。

 小僧にとって有利な距離、場所は、接近戦にある。

 

 対戦相手のほとんどは、その距離を避けようとするだろう。

 自分に有利な場所で戦いたいと思うのは自然じゃ。

 ゆえに、小僧は常に『相手を追いかける』姿勢を強いられる。

 

 ……永遠の挑戦者じゃ。

 

 

 汗を流す小僧。

 黙々と、ワシに言われたとおりの練習メニューをこなす小僧を見る。

 

 小僧が、この鴨川ジムの戸を叩いてから1年半ほどか。

 その限界を探るようにハードなトレーニングを課してきたが、まだ底が見えぬ。

 

 小僧の才能。

 努力し続けることのできる精神。

 そして、その努力に応え続ける身体。

 

 ……偏った才能よ。

 

 鍛えれば鍛えるほど、偏っていくように思える。

 時代遅れのボクサー。

 言葉を変えれば、少数派であり、希少価値。

 小僧という存在に、戸惑いを覚える可能性はある。

 

 ……じゃが、その先はどうなる?

 

 研究される。

 脅威を感じれば感じるほど、その対策を練られるじゃろう。

 

 じゃが、小僧には、なんでもはできん。

 できることだけ。

 高い適性を持つ、インファイターの戦い方だけ。 

 

 打ち勝つには、インファイターとして進化し続けるしかない。

 現状に甘んずることなく挑戦し続ける心。

 

 ……苦難の道じゃな。

 

 その進化が止まったときが、小僧の、ボクサーとしての死につながる。

 いや、その前に壊れる……か。

 

 ボクサーが、ボクサーでいられる期間は短い。

 長くボクサーであり続けたいなら、打たれてはならん。

 打たれずに打つのが理想じゃが。

 

 忌々しいことに、それを体現しておるのが速水よ。

 

 速水は、センスの塊じゃ。

 その才能を、きちんと努力で磨いておる。

 

 小僧の活路は、接近戦にしかない、が。

 接近戦にしても、技術の差は埋めがたい。

 

 その差を、作戦でいくらかは埋めるつもりじゃが。

 

 本音を言えば。

 今は、時間が足りん。

 

 

「小僧、次はミット打ちじゃ。リングに上がれ!」

「はい!」

 

 小僧の体格。

 小僧の骨格。

 小僧の筋肉。

 

 パンチがスムーズに出るフォーム。

 威力を引き出せるタイミング。

 それは、ひとりひとり違う。

 

 塊を、磨いていく作業。

 

「また、防御がおろそかになっておる!」

 

 ミットで小僧を張り倒す。

 

「はい!」

 

 返事はいい。

 素直でもある。

 

 じゃが、不器用じゃ。

 

「がらあきじゃ!」

 

 再び小僧を張り倒す。

 

「はい!」

 

 恨まれてもええ。

 憎まれてもええ。

 

 選手にとって一番ツライのは、負けることじゃ。

 勝つことが何よりの喜びよ。

 

 そしてそれは。

 ワシら指導者にも同じことが言える。

 

 勝ったときの、選手の顔。

 ただ、それが見たい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『1R』

 

 

「……可愛げのない」

「会長?」

 

 リングの上の2人から視線をはずさず、八木ちゃんに説明してやる。

 

「小僧の目が狙われておる」

 

 小僧の破壊力を警戒したか、速水よ。

 徹底的に、リスクを避けてきおったか。

 アマの経験があるとはいえ、プロで3戦目のボクサーの試合運びではないわ。

 

 じゃが、後半勝負の目が出てきたわい。

 

 試合が長引くほど……『何か』を起こせる可能性は高くなる。

 むろん、小僧が何もできず……という可能性も高くなったがな。

 

 

 

 小僧が帰ってきた。

 うがいさせ、汗を拭く。

 目の腫れをチェック……むう。

 下手にアドバイスしても、小僧を混乱させるだけか。

 

「会長」

「なんじゃ?」

「鷹村さんの、僕のパンチがかすりもしないって言葉の意味がようやく実感できました。『当たるところまで届きません』」

 

 小僧の目。

 折れてはおらん。

 

「わかっておるな。このR、始まってすぐ、じゃ」

「……はい」

「これから、きつい展開になる。覚悟せい」

 

 

『2R』

 

 小僧が走る。

 速水の反応が遅れておる。

 

 はまった。

 

「行け!小僧ーっ!!」

 

 はじかれた速水の左手。

 崩れた体勢。

 

 拳に力がこもる。

 その拳を、リングにたたきつけた。

 

 さすがに、甘くないわ。

 

 顔ではなくボディなら……いや、いまさらじゃ。

 小僧にそんな器用な真似はできん。

 

「む?」

 

 速水の左。

 

 合点がいく。

 R最初の攻防で、おそらく痺れておる。

 

「……」

 

 今、小僧に別のアドバイスを送ったところで、混乱させるだけ。

 見守るしかない。

 

 しかし、速水の右。

 腹が立つぐらいに、多彩よ。

 あれでは、小僧にタイミングはつかめん。

 明らかに戸惑っておる。

 

 

 速水の左。

 回復したか。

 

 リングを広く使い出す。

 小僧が振り回される。

 

 

 速水が足を止める。

 小僧が飛び込む。

 

 拳を叩きつけていた。

 誘われた。

 

「会長!」

「心配ない。押し倒されたダウンじゃ……立つことはできる」

 

 しかし、鮮やかに迎撃された。

 鮮やか過ぎるほどじゃ。

 小僧の攻撃パターンの分析や予測はできているということか。

 

 

 ……ダウンを奪ってなお、小僧の目を狙ってきおるのか。

 

 徹底しておる。

 勝ちに対する執念を感じる。

 

 嫌な感じよ。

 こちらのやることが、ひとつひとつ潰されていくような。

 

 小僧が、顔を動かして速水を追うシーンが増えてきた。

 

「八木ちゃん。氷を用意してくれ。小僧の目がふさがっちょる」

 

 気休めじゃ。

 ……厳しい。

 

 ただ、そろそろ速水は倒しにくる。

 小僧のパンチが届く距離。

 

 相打ち狙い?

 ボディ?

 何ができる?

 

 当たるか?

 

 ワシは、小僧に無理を強いておるのか……?

 

 

 残り10秒。

 速水が小僧に襲い掛かる。

 小僧だけでなく、セコンドのワシらにも揺さぶりをかけておる。

 

 

 

「すみません、会長。フェイントに引っかかってしまって」

「しゃべらんでええ。まずは落ち着け、ゆっくりと息を吸え」

 

 焦るな。

 小僧を落ち着かせるのが先じゃ。

 そうせねば、アドバイスなど、耳に残らん。

 

 腫れた左目を冷やす。

 足のマッサージ。

 汗を拭く。

 

 小僧の呼吸が落ち着いていく。

 信頼されておる。

 応えねばならん。

 

 

「……ええか、良く聞け」

 

 速水は、死角から狙ってくる。

 まずは左手のガードをしっかりと。

 

 速水の追撃のリズムを思い出せ。

 ボディは単発で離れていく、追っても無駄じゃ。

 左手のガードに衝撃を感じたら、踏み込んで右のボディ。

 

 小僧が頷く。

 

 複雑な指示は無駄じゃ。

 左手のガード。

 そして右でボディ狙い。

 この2つ。

 

 それと、最後にひとつ。

 

 速水の足が止まったら、ボディではなく上を狙え。

 

 

 言いたいことはもっとある。

 伝えたいことも。

 それでも。

 送り出さねばならん。

 

「小僧、がんばれ」

 

 

 

『3R』

 

 2Rのそれをやり返された。

 

 いかん。

 ワシの指示が、小僧の頭から飛んでおる。

 

 後手後手にまわっておる。

 

 声を飛ばし、リングを拳で叩く。

 セコンドの存在。

 ワシの存在。

 

 それを思い出すことで、アドバイスもよみがえる。

 

 小僧のボディ。

 しっかりと見られた。

 

 口惜しいわ。

 こちらの対応を見て、手を変えてくる。

 なんでもできるボクサーの強み、か。

 

 

 小僧の顔がはね上がる。

 

 様子を見るように、もう一度アッパー。

 いかん、下からのパンチが見えておらん。

 

 小僧のひざが揺れる。

 決めにきた。

 

 届かない声。

 それでも、ワシは叫ぶ。

 

「小僧ーっ!」 

 

 

 

 小僧が立つ。

 あきらめておらん。

 あのアッパーをどうにかせねばならん。

 

 小橋。

 十字受け。

 あれなら、アッパーは防げる。

 しかし……。

 

 ええい、迷うな。

 

 

 

 再開。

 速水がくる。

 

 速水のアッパーを押さえた。

 拳を握る。

 

 距離をとり、速水の猛攻が始まる。

 ガードの上から、ラフに攻め立てて……。

 

 いかん。

 速水の狙いは、レフェリーストップ。

 なんと冷静な男じゃ。

 

「小僧ーっ!」

 

 退くな。

 手を出せ。

 

 そう、手を……。

 

 

 

 

「か、会長……今の?」

「……小僧のパンチをかわしてカウンターを狙っておった。その速水の動きを、レフェリーがふさいだ」

 

 ニュートラルコーナーで、小僧が肩で息をしておる。

 たぶん、わかっておらん。

 じゃが、このホールの微妙な雰囲気に、何か気づくかもしれん。

 

「……選手を勝たせるのがセコンドの仕事じゃ、八木ちゃん」

「ええ。しかし……」

「迷うな。小僧が勝つことだけを考えるんじゃ」

「……そうですね、わかりました」

 

 

 速水が立った。

 足がふらついておる。

 

 止めるか?

 続行か?

 

 

 なんじゃ?

 今、速水が……何か言うたか?

 

 レフェリーの表情。

 微妙な間。

 

 再開。

 

「ためらうな!行け、行くんじゃ小僧ーっ!!」

 

 

 小僧のダメージと疲労も相当じゃ。

 ここを逃すと、もう勝機はない。

 

 クリンチ。

 鍛えられておる。

 そして、忌々しいほど冷静じゃ。

 むしろ、小僧のほうに余裕がない。

 

 また、クリンチ。

 

「レフェリー!ホールド!注意して、注意!」

 

 八木ちゃんの声。

 

 速水はまだ回復しておらん。

 回復を待っておる。

 パンチは手打ちじゃ。

 

 じゃが、嫌な予感がする。

 

 足元を確かめる仕草。

 

 

 

 

 

「……ぁ」

 

 軽やかに。

 速水の足がステップを刻んだ。

 

 

 唇をかみ締めながら、ワシはリングに上がって小僧の下へと駆け寄った……。

 

 

 

 

「……え?……ぁ?」

 

 小僧が、顔を動かす。

 

 ……勝たせてやれなんだ。

 己の無力さを噛み締める瞬間よ。

 

「試合は終わったよ、一歩くん」

「……ぇ?」

 

 認識できておらんな。

 

「八木ちゃん。無理にしゃべらせんほうがええ」

「はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

「鴨川会長、幕之内くんはどうですか?」

 

 少し話したが、小僧を高く評価していたことはうかがえた。

 そして。

 

「幕之内くんに伝言を」

「なんじゃ?」

「試合には勝ったが、パンチをもらったから、勝負は俺の負けだ、と」

「ふん、ぬかしおる……」

 

 ……手玉に取られた。

 あのダウンも、事故のようなもの。

 

「小僧の、そしてワシらの負けじゃ。ミスもあったが、付け入る隙がなかったわい」

 

 付け入る隙がなかった。

 それが、ワシの本音。

 そして、『ミスもあったが』という言葉は、強がりよ。

 

「今日は、ですよね?」

 

 顔を上げる。

 速水を見る。

 

 煽りよる。

 それとも、小僧に、何かを感じたか。

 

 期待には、応えてやらねばならんな。

 

 ぐっと、拳を握る。

 

「ああ。今日は、じゃ」

 

 

 去っていく速水龍一の背中を見送る。

 

 

 また、一から出直しじゃ。

 出直しじゃが……。

 

 小僧の新人王戦は、これで終わりじゃ。

 宮田の件は残念じゃが、しばらくはゆっくりと休め、小僧よ。

 

 あらためて、小僧を見た。

 速水に散々打たれて、腫れた顔。

 

 時間をかけて、顔を腫らすことなく勝てるボクサーに鍛えてやるわ。

 




速水龍一の認識と、周囲のずれを楽しんでいただけたならいいのですが。

もう、予約投稿はしてません。
第二部の再開まで、しばらくお待ちください。

新人王戦の参加数は(原作では20人)とか、小橋戦を速水が(見てました)とか、ちょっとメタいかなと思って消しました。

なお、昭和の終わり頃から平成はじめの(日本)ボクシングジョーク。

解説1:「〇〇選手の世界王者への挑戦、残念な結果に終わりました」
解説2:「ええ、東洋に敵なしと言われた〇〇選手でしたが、世界の壁は高かったです」
解説1:「しかし、半年後に〇△選手の世界挑戦の話があると聞きましたが?」
解説2:「そうです。〇△選手も、東洋に敵なしと言われています。期待したいですね」

〇〇選手と〇△選手は、『同じ階級』の『日本人』の選手です。(震え声)
東洋に敵なしとはいったい……。

安易な世界挑戦(そして敗退)が相次ぎ、世界挑戦は最低でも日本王者を獲ってからという『暗黙のルール』ができたのもこの時代だと聞いてます。
とにかく、勝てる相手との試合を組み、無敗のボクサーが多かったとか。
原作で、強敵とも試合を組む鴨川会長のマッチメイクが『強気』と評される背景でしょう。


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A級賞金トーナメント編。
12:伊達英二の事情。


再開(会)の喜びは後回し。
わりと、状況説明回です。

なお、ジュニアフェザー級は現在ではスーパーバンタム級と呼ばれてますが、基本は原作の中で使われている呼び名でいきたいと思います。


 朝の公園。

 いや、早朝というべきか。

 まだ、薄暗い公園を、俺は走っている。

 

 出勤前にランニング、仕事が終わればジムで練習。

 身体の調子を確認しながら、練習量を調整する。

 それが、ボクサーとしての速水龍一(おれ)の日常だ。

 

 ジュニアフェザーに階級を落としてくれと頼まれたあの日。

 再出発を誓ったあの日から、ほぼ1ヶ月。

 ジムでの練習を再開してからは1週間か。

 結局、俺は8回戦に昇格を決めた試合から、ちょうど1ヶ月ほど休養をとったということになる。

 

 ……ロードワークはジムの練習とは別腹だからノーカウントで。

 

 

 今日は黄金週間(ゴールデンウイーク)の初日。

 4月29日の『みどりの日』だ。

 前世の記憶が、こんな形でも俺を戸惑わせたりする。

 

 前世の記憶と、この世界とのずれは、あまり深く考えないことにしている。

 個人が知りえる世界は狭いものだし、詳細を比較するに耐えるほど、人の記憶は確かなものとはいえない。

 この世界でも、いずれ『みどりの日』が5月4日へ移動するのかどうか?

 正直、わからないとしか、俺には言えない。

 

 歴史は偶然の積み重ねという人がいる。

 歴史には必然の流れがあるという人もいる。

 

 たぶん、どちらも正しいと俺は思う。

 偶然と必然によって世界は構成されている。

 

 歴史などと大げさな話ではなく、人間関係に目を向ければよくわかる。

 挨拶のときに頭を深く下げたか下げないか、あるいはちょっとした言葉のやりとりで、人との関係はがらりと変化したりもする。

 

 人の営みが歴史を作るなら、ほんのちょっとしたことで歴史は変わるだろう。

 そこで生きていくのなら、毎日を、その瞬間を、真摯に生きていくしかない。

 

 犬を散歩させている老人。

 すれ違う際に、軽く会釈をしておく。

 無視はしない。

 しかし、認識はしてますよという自己主張だけはしておく。

 こうした積み重ねが、何かの変化をもたらすこともある。

 

 というか、俺はマスクをつけて走っている。

 まだ、『ストーカー』なんて言葉はこの国で使われていないが、フードこそかぶっていないものの、素顔を隠すような俺の格好は、怪しいといわれたら否定はしづらい。

 普段から、周囲とのコミュニケーションをしておけば、無用のトラブルを避けられることもあるだろう。

 逆もあるかもしれないが、長い目で見れば減るはずだ。

 

 正直、この公園のランニングコースから追い出されるのは困る。

 

 原作で、幕之内はもちろん、鴨川ジムの面子がロードワークに使っているあの道や斜面もそうだが、下が舗装されていないランニングコースは、都会では貴重だ。

 アスファルトの上を走ると、その衝撃が自分の身体に返ってくる。

 そんなものはわずかな差だと笑い飛ばされるかもしれないが、毎日、そこそこの距離を走りこむ人間にとっては、その小さな差が累積されて、ひざや腰などの負担へとつながる。

 本来、骨や関節、靭帯など、その負担の回復に、摂取した栄養が使われるのだが……スポーツ選手は普段から節制を心がける。

 体重制限のある競技の選手は、さらに神経質にならざるを得ない。

 

 ある意味、スポーツ選手は必要な栄養を摂取はするが、余分な栄養を取る余裕がないといえる。

 だとすると、栄養と休息を十分に取る一般人よりも、回復そのものが遅くなる可能性を否定はできない。

 

 一番いいのは、プールの運動だろう。

 ただ、あれはあれで、余分な筋肉がつくというデメリットがあるが。

 

 

 ペースを上げる。

 もうひとつ上げて、今度はいきなり落とす。

 インターバル走とは違う、ギアチェンジの確認のようなもの。

 同じペースで走っていると、そのリズムやテンポに身体が慣れてしまい、反応できなくなることがある。

 複数のギアを持つ意識は、前世で野球をやっていたときに学んだことだ。

 当時としては、異端の指導者だったと思う。

 それが評価され始めるのは、ずっと後になってからのことだった。

 正しさは、時代とともに移り変わっていく。

 

 変化を恐れないこと。

 変化を忘れないこと。

 

 それはきっと、前に向かって歩き続ける姿勢にもつながるだろう。

 

 

 前方に人影。

 普通の走り方に戻す。

 ギアを意識する走り方は、傍から見れば怪しいことこの上ない。

 なので、周囲に人がいないときにやることにしている。

 

 犬を連れた女性。

 さっきの老人とは違って、顔なじみの人だ。

 軽い会釈と『おはようございます』の声かけを。

 会釈と、笑顔が返ってくる。

 この女性も、最初は会釈するだけだった。

 今では、俺がボクシングをしていること、そしてそこそこの選手であることも知られている。

 これも、積み重ねの成果だろう。

 

 俺が上京してから2年あまり。

 ボクシングとは関係ないところでも、人とのつながりはできていく。

 

 

 気がつけば、日の出を過ぎていた。

 あわてて、時間を確認する。

 走り始めたのがいつもより早かった分、長かったかもしれない。

 

 今日は約束がある。

 伊達英二との、スパーの約束が。

 

 まあ、それが理由で早起きしたわけじゃない。

 幕之内(バージョン3)にぶっ飛ばされて目が覚めたら、中途半端な時間だっただけだ。(目逸らし)

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんにちはー」

 

 仲代ジム。

 祝日とはいえ、午前中だからか、人は少ない。

 なんだかんだ言いながら、ジムが人でにぎわうのは夕方から夜にかけてだ。

 ジムによっては、練習生とプロの時間を意図的にずらしたりもする。

 

「おお、速水くん」

「お久しぶりです、仲代会長」

 

 仲代会長とは、去年の夏、いや秋以来になるか。

 世界には届かなかったものの、フライ級で東洋を獲った選手だと、以前音羽会長が教えてくれた。

 原作では触れられなくても、ひとりひとりが背負っている過去がある。

 ちなみに、音羽会長自身はどうだったのかと尋ねたら、目を逸らされた。

 たぶん、それ以上は触れない方がいい。

 

「今日は悪かったね、午前中から」

「伊達さんとのスパーは久しぶりですからね。早起きしちゃいましたよ」

 

 俺の言葉に、仲代会長が苦笑した。

 

「お手柔らかに頼むよ……英二は、今が疲労のピークなんだ」

「つまり、ボコボコにするチャンスですか?」

「おいおい……」

「冗談ですよ。まあ、俺も練習を再開したばかりですしね」

 

 何気ない会話。

 しかし、触れようとしない話題。

 たぶん、スパーが終わった後に、話があるだろう。

 

「ところで……伊達さんは?」

 

 周囲を見渡したが、その姿はない。

 沖田はいたけど、なぜか目を逸らされた。

 

「英二なら……と、きたか」

 

 むっと、汗のにおいを漂わせながら、伊達英二が現れた。

 何気ないシャドウ。

 その動きに、ピンときた。

 

 ……コークスクリュー、か。

 

 威力のあるパンチと言っても、話は単純ではない。

 まあ、敢えて単純に考えるならば……パンチの威力は、相手にぶつける物体の重さと速さで決まる。

 言い換えれば、運動エネルギーそのものが、パンチの威力といえる。

 そのエネルギーをしっかりと相手に伝えられるかというのは、また別の話になる。

 

 手首と拳だけ。

 肘から先。

 肩から腕全体、と。

 ぶつける速さが同じなら、重量で威力が異なる。

 体重を乗せるというのは、自分の拳にどれだけの身体の部分を一体化できるかが重要になる。

 

 原作でいう宮田の『ジョルト』は、拳から身体まで……全身を一体化させるのが理想だが、本当にそれが実現できたら、殴る場所にもよるだろうが、自分の拳が壊れるだろう。

 幕之内にも言ったことだが、パンチの威力は自分の身体に返ってくる。

 ボクシングの初心者が、指導者に無断でサンドバッグを全力で殴りつけたら肋骨が折れたなんて事故がたまに起こるが、パンチの反動が自分の身体に返ってくるいい例だ。

 

 パンチの速度と質量。

 ここで、ひねりという回転を加えるとどうなるか。

 回転するという、運動エネルギーが加わることになる。

 運動エネルギーそのものが増加するなら、パンチの威力はあがる、と。

 

 ただ、動きが複雑になればなるほど、当然難易度は上がる。

 普通のパンチでも、体重移動、身体のひねり、関節の位置、タイミングなど、やることは多い。

 ひねりを加えることを意識しすぎて、バランスが崩れたら意味がない。

 モーションが大きくなれば、避けられる。

 

 それと、人はひとりひとり、骨格や筋肉のつき方が違う。

 この、ひねりを加えるという動きがスムーズにできるかどうかは、本人の資質によるところが大きい。

 

 原作では、幕之内が野球のシュートを投げるような動きと説明していたが、シュートを無理なく投げられる人間は少ないとされている。

 特に、日本人には不向きらしい。

 カットボールではなく、シュートを持ち球にしている投手の人数を調べたら、その少なさに気づくかもしれない。

 日本人の骨格か、筋肉のつき方か、あるいは生活習慣によるものかは不明だが、無理に投げようとすると、いわゆる予備動作が大きくなって見抜かれやすいし、怪我の元にもなる。

 たぶん、スクリューブローにも同じことが言える。

 

 というか、コークスクリューブローは俺には合わなかった。

 沢村のように、肘から先だけのひねりも試してはみたが、連打の速度が落ちることにくわえ、肘への負担が大きい感じがしてやめた。

 スポーツ選手にとって、怖いのは怪我だ。

 前世も含めて、身にしみている。

 

 

 あらためて、伊達英二を見る。

 

 去年のスパーでは見ることがなかったパンチ。

 あれから覚えたのか?

 今日のスパーで、見せてもらえるのか?

 

 少し、楽しみだ。

 

 

「おい、英二」

「ん?お、おお、速水か」

 

 俺の姿に気づいて、伊達英二がちょっと右手を上げ。

 

「新人王については、祝いの言葉はいらないよな?」

 

 そのままポンと俺の肩を叩き……笑った。

 

「それよりお前、スポンサーに切られたんだってな。高校6冠も、アマの世界王者の前じゃ、かすんでしまったか」

 

 ……まあ、気を使われてるのはわかる。

 敢えて真正面からというのも、ひとつの優しさの形であろう。

 

 ただ、仲代会長は手で顔を覆ってるけど。

 

「……ははは、今日のスパー、楽しみですね、伊達さん」

 

 ……別に、怒ってはいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なるほど、疲労のピーク、か。

 

 伊達英二の動きが鈍い。

 ただ、やはり巧い。

 要所要所で、はぐらかされる。

 

 引き出しの数の多さ。

 そして、それをタイミングよく使う判断力。

 

 ……学ばせてもらおうか。

 

 ギアをあげた。

 追い詰めることで、色々と見せてもらう。

 

 挑発するように、ジャブを叩きつけていく。

 手を出そうとしたところを、右の速いパンチで押さえ込む。

 すかさず追撃。

 1発目は軽く。

 しかし、2発目の重いパンチを、きっちりといなされた。

 

 決して偶然ではない。

 読みなのか、勘なのか。

 理由はともかく、技術と言えるだろう。

 

 感心しつつ、手は緩めない。

 

 左のジャブから。

 踏み込んで、左のフック。

 角度を変えて、左のダブル。

 右のフェイントから、左のトリプル。

 

 伊達英二の顔がはね上がった。

 

 踏み込んで、右のボディフック。

 すぐに退いた。

 

 俺の鼻先をかすめていったのは、右のアッパー。

 

 伊達英二の、俺を見る目が鋭い。

 

 威嚇するような左ストレートが飛んできた。

 右フックへつなげてくる。

 さらに踏み込んできて、俺のボディへ。

 

 接近戦の位置取り。

 

 どうやら、それが課題らしい。

 俺も足を止め、それに応じる。

 スパーリングパートナーとしての、最低限の礼儀。

 

 ボディへのパンチを、下へ打ち落とす。

 ブロックでは連打は止まらない。

 千堂戦の反省から考えていた、防御手段のひとつ。

 その確認。

 

 パンチの出始めをはじく。

 手元に引き込んで、強くはじく。

 体勢を崩して、細かいパンチで反撃。

 

 その動きを読まれたのか。

 はじいたはずの手が、そのまま顔に来た。

 経験の差だろう。

 対応が早い。

 

 立て直す。

 体重移動だけでなく、細かくステップを刻む。

 そして細かい連打。

 やはり、防御が巧い。

 ブロックではなく、受け流す感じで、こちらの体勢を崩される。

 

 反撃を避ける。

 相手のパンチをはじいてから攻撃へのつなぎ。

 単調になると、すぐに反撃をもらう。

 

 接近戦でありながら、お互いに有効打が出ない。

 純粋な技術から、駆け引きへと、ステージが変化する。

 

 やはり、伊達英二とのスパーは面白い。

 俺の、素直な感想だ。

 

 しかし、それを口にするとなぜか怒る。

 

 

 

 2Rも、示し合わせたように接近戦からはじめた。

 

 俺から仕掛ける。

 最初から肩を狙って右フック。

 ブロックさせてからぐっと押しこみ、体勢を崩して左。

 そう思わせて、右の連打。

 2発めのパンチで、顔をはねあげた。

 

 自分から首をひねったわけじゃない。

 去年、それを狙ってカウンターを決めてから、俺とのスパーでは使わなくなった。

 あれは、一瞬とはいえ視界を失うからな。

 わかっていれば、狙える。

 

 反撃の右をかいくぐり、左でボディを。

 アッパーをちらつかせ、右の連打で突き放す。

 

 俺のパンチを浴びながらの強い右。

 避けはしたが、攻守が逆転した。

 

 パンチをさばいていく。

 捨てパンチにフェイント、そして本命の強いパンチ。

 俺には、なんとなくしかわからない。

 さっきされたような、弱いパンチを読みきって反撃はできない。

 

 俺の反撃のタイミングが限られてくる。

 誘導されていくのがわかる。

 どこかで、相手の読みをはずしたい。

 しかし、それを待たれている可能性がちらつく。

 

 飛んでくる左。

 それを引きつけて、右で上にずらした。

 はじくのではなく、受け流すやり方。

 

 伊達英二が、俺をにらむ。

 ははは、盗めるものは盗みますよ、と。

 

 たぶん、ムキになってもう一度同じ左を叩きつけてくる。

 

 的中。

 相手の左を肩の上を滑らせるように踏み込み、ボディに右フック。

 そこから、左のアッパー。

 

 右のフックをカウンターでもらった。

 いや、相打ち、か。

 

 ほぼ同時に体勢を立て直す。

 

 左で突き放そうとして、相手の右がためられているのに気づく。

 伊達英二の、コークスクリュー。

 

 わずかな逡巡。

 

 ……ほんの少しだけ、好奇心が勝った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 心臓打ち、か。

 不思議な感覚だったな。

 

 心臓は、筋肉の塊だ。

 電気の刺激で筋肉が反応するのをカエルの解剖で学んだ人間は少なくないと思うが……これは逆もある。

 筋肉を動かすと、電気信号が発する。

 これは、筋肉の収縮に関して、細胞内の電荷物質のやり取りを必要とするからだ。

 

 乱暴だが、心肺停止時の心臓マッサージとして胸を叩くというやり方がある。

 下手をすると肋骨を折ってしまうので素人にすすめられる方法ではないが、衝撃を与えることで電気ショックを与えるのと似た効果が得られる。

 そして通常、心臓は動き続けている。

 

 まあ、ものすごく簡単に言うと、心臓に強い衝撃を与えると、心臓を動かそうとする本来の信号が乱れる現象が起こることがある。

 心臓は神経が集まっている部分でもあるし、心臓の動きと身体の動きが連動している部分は多く、身体全体の動きが空白状態に陥る……と。

 推測だが、この技は、心臓の鼓動のタイミングでも効果が大きく変わってくると思う。

 

 というか、おそらく今のは不完全だった。

 

「おい……今の、避けられただろ?」

「いやあ、去年のスパーでは見せてもらえなかったパンチでしたし」

 

 俺は立ち上がり、大きく息を吸った。

 ダメージはある。

 でもまあ、何とかなるだろう。

 

「約束は4Rですよね?ちゃんと付き合いますよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「お疲れ、速水くん」

「いえ、面白かったし、勉強になりました」

 

 伊達英二がぷいっと顔を背けた。

『面白かった』という言葉ではなく、スパーの続きを俺が優勢に進めたからだろう。

 

 2Rの心臓打ちでかなり神経を使ったんだろうと思う。

 あの後は、疲労もあってか、動きも悪くなっていた。

 なので、4Rは俺も流す感じにしたが……それも気に食わないのだ、きっと。

 

 俺も万全とは言えないが、今の伊達英二のコンディションなら勝てると思う。

 ただ、勝てると断言できないところが、伊達英二の強さであり、巧さだろう。

 負けん気が強いイメージがあるが、その本質は理論派だ。

 どんなに不利な状況でも、それに対応し、打開しようとしてくる。

 

 ……真田との試合は、たぶんこんな感じになるはずだ。

 幕之内とは別の意味で、気が抜けない。

 

「それで、速水くん……この後ちょっといいかな?少し話があるんだが」

 

 仲代会長が会長室へと誘う。

 不自然に避けていた話題、ヴォルグの件だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仲代会長の話を聞いて、俺は頭を抱えたくなった。

 伊達英二は、さっきから顔を背けたまま。

 

 いや、しかし……そういう事情だったか。

 

 そりゃそうか。

 伊達英二の企画と、俺の企画はある意味つながっていた。

 俺と伊達英二は戦う予定がなかったから、こんな風に気軽にスパーを行っていた。

 俺をはずして、ヴォルグを配置するってことは……当然、こちらにも影響が出るってことで。

 

 俺は、よそのジムの会長室であることを忘れ、大きく息を吐いた。

 

 

 

 この時代、日本プロボクシングが認めている……というか、加盟している国際ボクシング団体は、WBA(世界ボクシング協会)とWBC(世界ボクシング評議会)の2つ。

 

 WBAフェザー級王者、リカルド・マルチネス。

 原作では無理ゲー状態だったが、この世界でも、フェザー級史上最高の王者という評価を受けている。

 ある意味、高すぎる壁だ。

 なので、フェザー級の世界ランカーのほとんどがリカルドを避け、WBCの王者へ挑戦する道を選ぶ。

 世界王者は一定期間内にランキング1位の選手と戦う義務があり、それを指名試合と呼ぶのだが……その1位の選手がリカルドから逃げているのが実情らしい。

 リカルド陣営も、『戦う価値のある相手としか、試合はしない』と明言している。

 金も栄誉も手に入れて、あとは意味のある戦いだけを望む状態なのか。

 

 リカルドに挑戦しようと思ったら、『ランキング1位になる』か『リカルド陣営に認められる実績をもとに、挑戦状を叩きつけるか』のどちらかになる。

 

 国際ボクシング団体の主な収入源はタイトルマッチの認定料だから、リカルドのような世界王者は、正直なところ都合が悪い存在といえるだろう。

 

 認定料、あるいは承認料と呼ばれるのは、『この試合に勝ったほうを、自分たちの団体の世界王者だと認定します』と、保証させるために支払う金のことだ。

 選手のファイトマネーの総額の数%に加え、タイトルマッチの主催者も金銭の支払いを求められる。

 契約の期日までにその認定料を払わないと、タイトルマッチと認められないし、試合に勝ったとして世界王者にはなれない。

 

 団体ごとに細かい部分は違うが、階級ごとに上限や下限が定められている。

 仮に選手がノーギャラで戦っても、決められた下限額の金を払う必要があるし、タイトルマッチの主催者も、その規模や、黒字赤字に関係なく、一定の金を支払う必要がある。

 他にも、タイトルマッチに派遣される役員へのギャラや、宿泊費、渡航費用なども負担しなければならない。

 

 これは、複数の団体の統一王座のときも同じだ。

 それぞれの団体に、お金を払わないと認めてもらえない。

 単純に、2つの団体なら2倍、3つの団体なら3倍の費用がかかることになる。

 つまり、それだけ大きなビジネスにしないとペイできないし、次が続かない。

 

 ホームで開催するということは、このビジネスをきっちりやりとげることを意味する。

 タイトルマッチのたびにこのビジネスを成立させないと、どこかで破綻する。

 

 この時代、スポンサーというか、テレビ局がバックにつかないボクサーが、世界に挑戦しようとすることがどれだけ厳しいかは、これだけでも想像がつく。

 

 挑戦できればいいという話でもない。

 勝たなければいけないのだが……この国には、世界王者がいない。

 5年前、伊達英二がリカルドに挑戦したときも、世界王者は日本にはいなかった。

 たぶん、この世界では前世の同時期よりもひどい状況が続いている。

 

 この時代の、世界戦における日本人ボクサーの勝率の低さ。

 その理由を選手やマッチメイクに求める前に、世界王者に挑戦するためには、世界ランカーになることが必須であることを、俺は重視する。

 試合によって条件は異なるが、世界王者と世界ランカーの戦いであることに変わりはないのだ。

 

 世界タイトルマッチは、ホーム開催した選手サイドの勝率が少し高いとされている。

 しかし、日本人ボクサーはホーム開催が多いにも関わらず勝てていない。

 ならば、日本人ボクサーに与えられた世界ランキングそのものに問題があると考えるのが自然だ。

 

 意地の悪い考え方だが、国際ボクシング団体はタイトルマッチをどんどんやってもらわないと収入が増えない。

 そして、物価の高い国、経済力のある国の選手のほうが、収入面で都合がいい。

 だとすれば、タイトルマッチにつながるランキングの発表も、実力以外の部分に恣意的なものがあると思ったほうがいい。

 

 世界的には不人気傾向にある軽い階級で、日本人ボクサーが次々と世界戦に挑み、負け続けてきた背景には……そういう部分があると俺は思っている。

 

 

 

 ……もう一度確認する。

 リカルドに挑戦しようと思ったら、『ランキング1位になる』か『リカルド陣営に認められる実績をもとに、挑戦状を叩きつけるか』のどちらかになる。

 

 リカルドや、世界前哨戦の相手との交渉がうまくいかなかったのか……スポンサーがひねり出した一手。

 

「……世界アマ王者を倒したという、箔付けですか」

 

 俺がぽつりとつぶやくと、仲代会長がうつむいた。

 

「こっちだって、寝耳に水の話さ……ただでさえ、速水くんにはデビューの件で迷惑をかけてるっていうのに」

「迷惑……ですか?」

 

 仲代会長が、俺を見た。

 

「速水くんはもともと、すぐにB級でデビューするはずだっただろ?それが、英二の復帰プランが絡んで、1年遅らせた上でC級デビュー……そして今回の件だよ」

「むしろ、必要な経験を積めたと思ってます。スパーで勉強もさせてもらってますし」

 

 仲代会長と、そっぽを向いたままの伊達英二に向かって言っておく。

 気休めかもしれないが、こういうことは言葉にしておいたほうがいい。

 

「……こんなことを聞けた義理じゃないんだが、どうなんだい?ヴォルグ・ザンギエフは?」

「いや、実はまだ会ってないと言うか、見てないんですよ」

 

 ヴォルグが日本にやってきたのは10日ほど前。

 すぐに練習を始めたらしいが、音羽ジムで汗を流すのが、午前中から午後にかけてで、夕方になる前に帰るらしい。

 そして、仕事を終えた俺がジムに顔を出すのが夕方だ。

 

 平日はすれ違うというか、会えない。

 

「会長から、走り込みを中心に基礎メニューが多めの練習と聞いてますし、もしかすると少々のブランクがあるかもしれません」

「そうか……」

 

 考えてみれば、ソ連崩壊の後ではなく、その前からトレーニング環境は悪化していたんじゃないだろうか。

 それまで何の影響もないとは考えにくい。

 

 俺の沈黙を別の意味で受け取ったのか、仲代会長が口を開いた。

 

「交渉が難航しているとはいえ、それでもまだ、リカルドに挑戦するほうがマシなんだよ、速水くん。それほど、今のWBCへの挑戦権は、大渋滞の状態だ」

「あぁ……王者が交代するたびに、交渉権があっちこっちに転がるってことですか?」

「そうなのさ……今思えば、5年前の世界戦の話がスムーズに進んだのも、リカルドの評価が向こうでは相当に高かったことの裏返しだったんだろうな」

 

 ……ありそうだ。

 

「……実際、あの時ってリカルドの情報とか、どの程度入手できたんです?」

「映像は、リカルドが王者になった試合の、KO直前の十数秒だけさ。防衛戦の映像は入手できなかったよ」

 

 テレビ局が手に入れられなかったのなら、どうしようもない、か。

 情報収集の妨害はもちろん、ファンが相手選手に嫌がらせするのも、世界基準なら当たり前だ。

 こんな時代だからこそ、テレビ局がスポンサーにつく大きなメリットとして挙げられるのが、その情報収集力。

 国を超えた人脈と言うかコネがあるというのは、この時代において相当の強みとなる。

 

 ただ、家庭用というか、民生用のビデオカメラが普及し始める時期にさしかかっているだけに、情報面でのメリットは失われていくのかもしれない。

 ネットが普及し始めたら、その傾向は顕著になるだろう。

 

 

「……タイトルマッチが決まった時点で、もうベルトはもらった気分だった」

 

 伊達英二のつぶやき。

 鼻の傷跡を指先でなぞりながら、続ける。

 

「右のファイター。そして、戦績をチェックしてパンチはあるんだろ……ぐらいだったよ。文字通り、高い鼻を折られて帰ってきたがな」

 

 伊達英二が、ようやく俺を見た。

 

「なあ、速水。正直に言うと、ヴォルグが強くなきゃ困るんだよ」

「……強すぎても、困りません?」

 

 笑う。

 伊達英二が笑う。

 

「オレも、今年で29になる。1年に3試合か4試合……世界戦が絡んでくると、前哨戦のスケジュール調整なんかで、2試合ってとこか。引退までに、あと何試合できるか、なんてことも考えるのさ」

 

 握りこまれた拳。

 

「戦うなら、強い相手とだ」

 

 感情をそのまま押し出すような言葉。

 

「わかるか、速水。お前と違って、オレにはもう時間がないんだよ……相手がリカルドじゃなくとも、負ければ引退。それでも、オレには時間がない。戦うのは強い相手じゃなきゃダメなんだ」

「強い相手だからこそ、得るものがある、ですか?」

 

 伊達英二が、俺を見つめる。

 

「正直、オレはまだブランクを取り戻しちゃいない……スパーの相手に『面白かった』なんて、笑顔で言われるのがその証拠さ」

 

 なんとなく、目を逸らしてしまった。

 俺が思っていたより、重い言葉だったらしい。

 

 そんな俺を見て、仲代会長が笑った。

 

「あの頃は、英二のスパーの相手を探すのも一苦労だったんだ……2度めは受けてもらえなくてね」

「世界戦のときは、わざわざ海外から呼んだのに3日でダメになっちまった」

 

 微笑を浮かべたまま、仲代会長が少しだけ遠い目をした。

 

「……世界王者を作るためには何人もスパーリングパートナーをつぶさなきゃならないって言葉は、こういうことかと思ったもんだよ」

 

 ブランク、か。

 

 俺の知る、この世界での伊達英二の経歴はこんな感じだ。

 

 高校2年からボクシングをはじめ、大学1年で全日本アマを制し、そのままB級でプロデビュー。

 6戦目で日本王座を獲得。

 防衛を重ねて東洋へ。

 東洋でも防衛を重ね、めぐってきた世界への切符。

 

 23歳の伊達英二は、メキシコのアステカスタジアムで、2つ年下の若きリカルドの前に、2Rで散った。

 

 原作では、帰国した伊達英二を待っていたのは、愛する奥さんの入院と、流産。

 この世界では、どうなのかわからないが……俺が踏み込める領域ではない。

 ただ、この試合のあと……伊達英二はリングを去った。

 

 そして、約3年の空白を経て仲代ジムに戻ってきた。

 実践的なトレーニングを積み、カムバックの宣言。

 復帰して3戦目に、日本王者に返り咲く。

 去年の夏、俺がスパーの相手をつとめたのは、そのあとだ。

 

 

「オレがリカルドに負けたのは……初の世界戦で気負ったとか、緊張したとかじゃない。単純に力の差だ」

 

 相手が悪かったといえばそれまでだ。

 ただ、伊達英二のようなボクサーにとって、情報不足というのは大きな要素だと俺は思うが。

 まあ、口を挟める雰囲気じゃない。

 

「ブランクを取り戻すだけじゃ足りないのさ……オレは、リカルドの前に立ちたいんじゃなく、勝ちたいんだからな」

 

 仲代会長が、苦笑を浮かべた。

 

「速水くんに言うことじゃないが、英二は、ヴォルグとやるまで日本王座の防衛を続けなきゃならないんだ」

「あぁ……なるほど」

 

 仲代会長が、俺を見つめる。

 

「……速水くん、何かあるのかい?」

「いえ、なんというか……スポンサーは、伊達さんとヴォルグの両天秤をかけてるのかなあと」

 

 この国に世界王者のいない現状。

 日本のジムに所属する世界王者という妥協案。

 

「ヴォルグが予想以上に強くて、伊達さんを倒すのであれば、それはそれで別のプランへ移行というか……伊達さんのプランと、ヴォルグのプランが同時に動いてると思います」

 

 テレビ局やスポンサーの判断は、企業の判断だと考えていい。

 不確かなものに全賭けはない。

 最低でも、元を取ろうとするはず。

 

「ヴォルグに足りないのは日本での知名度です。つまり、ヴォルグも伊達さんを倒さなきゃ箔がつかない」

 

 うん、良くできてる。

 伊達英二と、ヴォルグの、お互いの不足する部分を補うための企画。

 

 そして、余った俺はポイっと。

 

 情報収集面で協力はする……ぐらいの捨扶持扱い。

 ただ、捨扶持をもらってるぶん、紐はついている。

 あるいは、伊達英二とヴォルグの2人がつぶれた場合のスペア……か。

 

 たしかに、当事者の気持ちを無視すれば……悪くない企画ではあるんだよなあ。

 少なくとも、強いボクサーを争わせるのは正しい。

 

 

 気がつけば、2人とも黙り込んでいた。

 

「あくまでも推測です……スポンサーを利用するぐらいの感覚でいいと思いますよ」

「まあ、な」

「……しかし、それが正しいとすれば、なおさら速水くんは貧乏くじを引かされたよなあ」

 

 ははは。

 これからフェザー級は魔境と化すんだよなあ。

 

 もちろん、逃げ続けるつもりはない。

 幕之内との、約束のようなものもある。

 

 今はただ、状況が変わることを信じて……勝ち続けるしかないが。

 

 

 

「速水くん」

「はい?」

「連休に予定してた英二とのスパーはキャンセルさせてもらうよ」

 

 俺を見つめる穏やかな眼差しに、ほっとする。

 

「経緯はどうあれ、ヴォルグは速水くんのジムメイトになるんだ。弱点を聞き出そうとなどとは思わないが、下手にかんぐられるのも困るし、英二もそれを良しとはしないさ」

 

 スポンサーに対して思うところがあろうとも、勝負には関係ない、と。

 そして何よりも、仲代会長は伊達英二を信じている。

 

 今日のスパーも、おそらくは情報のすりあわせと……俺への同情か。

 

「ヴォルグには、オレのコークスクリューでも、心臓打ちでも、好きに伝えていいぜ」

 

 伊達英二が、パチンと右の拳を左手に打ちつけた。

 

「オレは、正面からねじ伏せるからよ」

「とか言って、情報を多く与えて迷わせるつもりですよね?」

「まあな」

 

 伊達英二が笑い、俺が、仲代会長が笑った。

 その笑いが、とぎれる。

 

「オレじゃなく、同じジムのヴォルグを応援してやれよ。それが筋だぜ、速水」

 

 え?

 俺、伊達英二を応援するように思われてる?

 

「はは、ヴォルグが勝てば、音羽ジムの興行で俺がセミファイナルをつとめることになるでしょうね。注目されるという意味では、伊達さんよりもヴォルグが勝ったほうがいいんですよ、俺は」

「……っ!」

 

 伊達英二が投げつけた雑誌を避け、入り口まで退避。

 そしてドアを開く。

 

「伊達さんとのスパーは、学ぶべき部分が多くて楽しみでしたよ……リカルドと戦う時は、またパートナーに指名してください。じゃあ、仲代会長。俺はこれで失礼します」

 

 そう言って、すぐにドアを閉める。

『ムカツク』とか『かわいげがない』とか聞こえたような気もするが、たぶん気のせい。

 

 

 しかし、ヴォルグと伊達英二か……どうなるかな。

 

 まず、ヴォルグは世界アマ王者だからA級ライセンスというか、8回戦デビューだ。

 1試合こなさないとランキングに入らないからタイトルマッチはできない。

 とすると、原作のようにA級トーナメントに参加するのか。

 

 考えてみたら、そこでヴォルグが負けたらどうするつもりなんだ?

 

 幕之内……は、おそらく間に合わないな。

 俺に負けた時点で4勝だから、6回戦で2試合こなす必要がある。

 宮田はあとひとつ勝てば8回戦。

 千堂も、あとひとつ……ただ俺に負けたのが2月末で、3ヶ月の休養をはさめば6月。

 たぶん、間に合わない。

 間柴も6回戦だが、たぶん階級を上げることになるだろうし……。

 

 ……まあ、実際にヴォルグを見てからの話か。

 すでに、原作の流れは壊れている。

 原作の知識よりも、この目で見て、肌で感じるものを信じるべきだ。

 

 

 

 帰ろうかと思ったら、沖田と目が合った。

 そしてすぐに逸らされる。

 去年はうっとうしい目つきで睨まれていたんだが……これはこれでうっとうしい。

 

 もしかして、俺が階級を落とすと聞いたのか。

 伊達英二を狙う敵じゃないと理解した……か。

 原作では、伊達英二を崇拝する勢いで憧れてたが、この世界でもそんな感じだろうか。

 

 沖田圭吾、か。

 前年度のフェザー級の新人王で、無敗のホープ。

 先月のランキング発表では5位だったが、同じジムの伊達英二が王者だから挑戦はできない。

 足踏みしながらタイトル返上を待つ状態だ。

 ある意味、スポンサーに貧乏くじを引かされている仲間ともいえるのか。

 

 あれ。

 いい相手じゃね?

 

 近づき、話しかけてみた。

 

「……なあ、沖田くん」

「な、なんだよ……?」

「俺と試合しない?ジュニアフェザーで」

 

 首を振られた。

 もちろん、横に。

 

「新旧の新人王の対戦。こいつは、客が呼べるぜ」

 

 首を振られた。

 ぶんぶん振られた。

 

 やはり、原作のように伊達英二のフェザー級への思い入れが強いのか。

 あるいは、減量の問題か。

 まあ、5位のランカーが俺と戦うメリットはないもんな。

 

 そうなんだよなあ。

 ランキング10位って、ランクのないボクサーには狙われても、ランク上位のボクサーにとっては、『試合をする』以上の意味がないんだよなあ。

 勝ってもランクが上がるとは限らないが、負ければ確実にランクが下がる。

 さっき伊達英二が言ったように、『ボクサーが引退するまでの試合数は限られている』とすれば、意味のある試合、そして自分の価値を高める試合を選ぶべきだろう。

 

 とはいえ、俺の10位は、あくまでも『フェザー級』のランクだ。

 ジュニアフェザーで試合をして、その内容を認められて、ようやくジュニアフェザーのランキングになる。

 つまり、ジュニアフェザーで試合をしない限り、俺は王者の真田に挑戦することはできない。

 そして試合をしなければ、すぐにランク外へと落ちる。

 

 ここでもまた、マッチメイクに苦労するわけか……音羽会長が。

 

 ……うん。 

 

 たぶん、今の俺にはA級トーナメントに参加するしか選択肢が無い。

 ボクサーに限ったことではないが、スポーツ選手ってのは、つくづく不自由な生き物だ。

 




とりあえず、A級トーナメントが始まるまでは、連日更新で。
状況説明が続いてくどいから、連日更新でごまかしたいとも言う。(目逸らし)

なお、この世界には、T吉もO塚もT久地もいません。


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13:ヴォルグの事情。

説明をはさむと、文字数がバラバラに。(汗)
理想は、全ての話をプラマイ1000文字の誤差に収めたいのですが、なかなか難しいです。


 ボクシングジムの、人の入れ替わりは結構激しい。

 プロボクサーよりも練習生のほうが数は多く、その分、ジムから消えていく人数も多い。

 

 練習生が増えるのは、春と秋が多い。

 春は、学生なら学年が上がるなど、環境の変化に合わせて何か始めたいという気持ちになるのだろう。

 秋は、身体を動かしたいとか、日常の変化を求めてとか、そんな理由が多かったように思う。

 

「速水さん、ちょっといいですか?」

「ん、どうした?」

 

 練習生が話しかけてくる。

 

 月謝を払って指導を受けるのが練習生で……ジムの経営的には、わりと重要な存在だ。

 大事なことだからもう一度。

 練習生は、ジムの経営的に重要な存在だ。

 プロだからといって、練習生をバカにするような態度をとることはありえない。

 もちろん、自分の練習を邪魔されない範囲で、という条件がつくが。

 

「インファイターって、足の幅を広くとりますよね?あれって、何か意味があるんですか?」

「そりゃあ、あるさ。まずは、重心が下がることと、力の分散によって重心の触れ幅そのものが広がるから倒れにくくなる……と口で説明するより、実感したほうが早いか」

 

 練習生を立たせ、身体を押したり、姿勢を崩したりしてやる。

 まあ、上から見て、足の幅の外側に重心が移動したとき、何もしなければそのまま倒れてしまうわけだが。

 理屈で説明したほうがいい場合と、実感させたほうがいい場合があり、それは相手にもよる。

 

「それともうひとつ……てこの原理だな」

「てこの原理、ですか?」

 

 棒状のトレーニング器具を持たせた。

 それを、回転させる動き。

 持つ位置によって、必要な力が変化することを実感させる。

 

 ボクシングのパンチは、腕だけじゃなく、身体の回転する力を使う。

 よく使われるのが、腰の回転。

 この場合、身体の回転軸は、身体の中心線にあると見ていい。

 つまり、そこが作用点にあたる。

 

 足幅を広く取る。

 それはつまり、身体の回転軸、作用点から距離が離れることを意味する。

 

 右足、そして左足。

 地面を蹴る力が、身体を回転させようとする力。

 足の幅を広く取ると、同じ力であっても身体を回転させやすくなる、と。

 

「あ、あぁ、わかります。なんか、わかりやすいです」

 

 まあ、腰を回転させるのには、膝を入れるとかつま先を絞るとか、いろんなやり方があるが……中級者向けだから今は教えない。

 

「……ただ、いいことばかりってわけじゃないんだ、これ」

 

 回転はさせやすくとも、角速度の問題が出てくる。

 

 作用点から距離をとるほど、一定の角度を回転させるために多くの動きが必要になる。

 長い距離を動かなきゃならない。

 それは、時間がかかるってことだからな。

 遅いってのは、ボクシングが求めるベクトルとは逆だ。

 

「インファイターは、接近戦で左右の連打を放つ。パンチが相手に届くまでの距離が短いことを想定しているからな。連打のしやすさと、倒れにくい安定感を求めて、自然とスタンスが広くなる……そのかわり、アウトボクサーのような動きは難しくなる、と」

 

 ぽんと、練習生の肩を叩き。

 

「まあ、自分の身体と戦い方に合った姿勢が一番ってことさ。色々考えて、実験してみるんだな」

「はい、ありがとうございます」

 

 はは、なんだかこそばゆいね……って。

 気がつけば、練習生が数人俺たちの話を聞いていた。

 

「おまえら、練習もせずに何してんの?」

「速水さん、俺も聞いていいですか?」

「……なんだよ?」

「相手と距離をとって戦う場合、ジャブを出しながら左へ……えっと、相手の右手のほうに回れって教えられたんですけど、速水さんは、逆のほうにも回りますよね?」

 

 ちょいと困る質問だ。

 セオリーと逆のことを、今教えていいもんかね、これ。

 

 ……セオリーの意味を考えさせたほうがいいか。

 

「逆に聞くが、なんで相手の右手のほうに回ったほうがいいと思う?」

「……」

「……」

 

 練習生たちが、顔を見合わせる。

 

 なんか、別の意味で心配になってきた。

 練習生の中には、アマチュアとして競技に参加しているものもいる。

 試合というか、勝負は、相手がいて成立するのに……自分の都合しか考えてないってことか。

 

 自分がこう動けば、相手はどう感じるかなんて、勝負事の初歩の初歩なんだが。

 

「まあ、構えてみろよ」

 

 オーソドックスな、右ボクサーの構え。

 左足と、左手が前にある。

 この構えで、何故右が大砲かというと、利き腕というだけじゃない。

 後ろ足の、右足が地面を蹴る力で身体を回転させやすいのが重要だ。

 

 相手が、右手のほうに回る。

 足の位置がそのままだと、上体をひねってそれを見る。

 それで、右を打とうとすると……。

 

「……打ちにくいですね」

「そういうこと。間接的に、相手の右を封じる動きなのさ」

 

 右ストレートは、脇をしめて打ち出すパンチだ。

 ある意味、自分の身体の内側へと向かって打つパンチ。

 その、外側に移動するのが、いわゆる相手の右手側に回るという動きの意味のひとつ。

 

 この動きにはもうひとつ利点がある。

 こちらの動きに合わせて、相手は足の位置を変えなきゃならない。

 こちらの動きで、相手を動かす……先手がとりやすいってことだ。

 

 俺の言葉に、練習生たちがうなずく。

 

 ……ついでだ。

 対策も教えておくか。

 

「その動きを止めるには、やはり強い右が有効だ。左のジャブを出して回るとわかっていれば、迎え撃つように右のフックでボディを狙う」

 

 これは、相手の右に回ろうとするステップが、どういう動きになるか考えるといい。

 左足が前で、左でジャブを打ちながら回ろうとすると……動きの起点は右足からになりやすい。

 左足は、右足のあとに動く。

 

 つまり、右フックでボディを狙うと、わずかに反応が遅れる。

 

 もちろん、踏み込まないと届かないし、相手だってその対策は考えているから……そこでようやく、駆け引きらしいやり取りが始まる。

 ボディじゃなくて、動きを止めるために相手の左肩を狙うのもありだ。

 カウンターで脇の下に打ち込んでやれば、うるさい左ジャブを黙らせることもできる。 

 

「とまあ、そんな単純でもないが、セオリーと言われるような事は、大抵はちゃんと意味があるんだよ。何故そうなのかと考えると面白いぜ」

「じゃ、じゃあ、なんで速水さんは逆に回るんですか?そんな人、あんまりいませんよね?」

 

 ヒントは与えたから、質問する前に考えて欲しいんだが……まあ、いいか。

 

 相手が左のほうに回る。

 自分の姿勢は、左を前に出した、ある意味半身の状態。

 さて、どうなるというと。

 

「……これ、視界が?」

「そういうこと。相手の左に回ると、俺の姿を追おうとして、動くんだよ……顔が」

 

 速い左を二発。

 練習生が、息を呑む。

 

「いい目標、だろ?」

 

 ぽんぽんぽんと、練習生たちの頭を軽く叩いておく。

 

「さっきも言ったが、自分の身体と戦い方に合ったスタイルが一番だぜ。色々考えて試すのは、俺も賛成だけどな」

 

 ほら、練習に戻った戻った……と、追い払う。

 

 まあ、音羽ジムに来てから2年が過ぎたとはいえ、世間的には俺はまだ二十歳の若造にすぎない。

 だから、こんな風に俺に話しかけてくる練習生は、俺と同年代か年下のほうが多い。

 

「……速水はいい指導者になりそうだなあ」

 

 練習生とのやりとりを聞いていたのだろう。

 感心したようにつぶやいたのは、トレーナーの村山さん。

 

 俺に聞きに来ることに危機感を持つべきでは……という言葉は飲み込んでおく。

 練習生の数が多いから、どうしても細かい指導が行き届かない部分はあるからだ。

 まあ、運動不足解消のために通う、ボクササイズというか、フィットネス気分の練習生も少なくはないのだが……これは、年配の社会人に多く、本格的な指導は必要ない。

 基本を教えた後は、怪我をさせないように目を配る感じになる。

 

 というか、まだ二十歳の若造に、引退したあとのことを語るのはやめて欲しい。

 

「村山さん。俺に何か?」

「おっとそうだった。速水、会長が呼んでいる。話があるそうだ」

「話ですか……なんだろ?」

 

 首をかしげながら、俺は会長室へ向かう。

   

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 音羽会長は、『一見』上機嫌だった。

 まあ、それがわかる程度につき合いも長くなった。

 

「速水、喜べ」

「何をです?」

「ジュニアフェザーの、めぼしいランカーに声をかけたが、全部断られたぞ」

 

 予想はしてたけど、何を喜べと言うんですかね。(震え声)

 

 俺の疑問と、不機嫌さを読み取ってくれたのだろう。

 会長が説明してくれた。

 

「お前がA級トーナメントへの参加を表明すれば、参加者が激減するってことだ」

 

 ……その発想は無かった。

 

 8月から11月にかけて、A級トーナメントは行われる。

 決勝は8R、それまでは6Rの試合形式だが、参加者が4人と8人だと、優勝するまでの道のりが2試合と3試合の違いになって現れる。

 組み合わせでシードを受けるのは、基本的にランキング上位の選手。

 俺は、参加者の中では間違いなく下位扱いだから、5人以上になるとほぼ強制的に3試合。

 考えたくないが、9人以上なら4試合だ。

 

 階級にもよるが、6~8人の参加数というパターンが多い。

 基本はランカーと、ランク外の昇り調子の者が参加する。

 そして、王者とのタイトルマッチを控えている者や体調が良くない者は不参加になるため、ランクが2~8位の選手プラスアルファというところに落ち着くからだろう。

 

 なので、トーナメント優勝者は、たいてい4ヶ月で3試合をこなし、ランキング1位を手に、王者との対戦へと挑むことになる。

 それぞれの階級の王者と1位の選手の対戦が、1月から4月にかけて次々と行われる……それが、チャンピオンカーニバルだ。

 A級トーナメントに参加する以上、これが最終目的になる。

 

 ただ、参加者が全員A級ボクサー、しかもランカーであることを考えれば、新人王戦よりも厳しく、ダメージと疲労の残る状態で王者と戦わなければいけない。

 つまり、参加者が減って4人で収まってくれれば……タイトルマッチにいい状態で臨める可能性が高くなる。

 

 

「……って、会長。世界アマのヴォルグが相手じゃあるまいし、俺との対戦を断るのと、俺から逃げるってのは、全然別でしょう」

 

 ランキング上位の選手は、無理に俺と戦うメリットが無い。

 そりゃあ、普通の試合を申し込んでも断られる。

 でも、A級トーナメントは別だ。

 優勝すれば、賞金(50万)と、王者への挑戦権が得られる。

 そこに意味があれば、俺との戦いを避ける必要は無い。

 

「速水……お前って、妙に自己評価が低いよな?」

「そうですかね?」

「フェザー級で、6戦6勝6KO……まあ、幕之内や千堂のあれは別格として、普通は攻撃力の高いボクサーとして評価されるんだよ。それが、今度は階級を落としてくる……逃げてもおかしくないだろ?」

 

 ……いまひとつ、ピンとこない。

 

 俺は対戦相手を再起不能にしたりはしてないし、大きな怪我もさせていないはず。

 

 ……千堂は失神しただけだから、平気。

 

 

「とりあえず、俺の今後の予定はA級トーナメントに参加ってことですね?」

「ああ、そのつもりでいてくれ……お前なら勝てるさ」

 

 まあ、出場するからには勝たないとな。

 うん。

 とりあえずの予定は決定と。

 

「それで会長」

「ん?」

「悪い話が、あるんですよね?」

 

 ついっと、目を逸らされた。

 人の善さは、スポーツ選手としてはマイナスに働くことが少なくない。

 音羽会長がボクサーとして大成しなかったのは、そういう部分もあるんじゃないだろうか。

 

「その、あれだ……ちょっと、言いにくいんだが、な」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後楽園ホール。

 前世では、格闘技の聖地として名高い場所だったが、この世界でも似たイメージだ。

 わりと勘違いしている人が多いが、この『後楽園ホール』はひとつの独立した建物というわけではなく、ある建物のひとつのフロアを指して言う。

 いわゆる、多目的スペース。

 何かのイベントを企画する人間がこのフロアを借りて、それを行うわけだ。

 なので、当然普段はリングなんか設置されていない。

 フロアを借りた企画者が、リングの一式も借りて、試合前に設置している。

 照明なんかもそうだ。

 

 ボクシングだけでなく、プロレス団体や、いろんな格闘技の団体が、この後楽園ホールを借りて、イベントを行っているため、わりと予約は詰まっていることが多い。

 

 ボクシングの場合は、興行主というか、主催者は規模の大きなジムであることが多い。

 海外でいうところの、プロモーターをジムが兼任しているイメージ。

 メインおよび、客の呼べそうな目玉となるカードの予定を立ててから、詳細を詰めていき、ホールの日程を押さえ、リングの設置から会場のセッティングを行い、試合を進行させていく。

 当然、主宰するジムに所属するプロボクサーを中心としたマッチメイクになる。

 

 逆に、プロボクサーの数が少ない、いわゆる弱小ジムと呼ばれる存在や、地方のジムなどでは、自らが主催して興行することは難しい。

 この場合、興行を主宰するような他のジムの打診を受けて、自分のジムのボクサーの試合を組ませる。

 当然、主催する側は自分のジムのボクサーが勝てるような相手を選んで打診する。

 逆に、弱小ジムは……断る自由はあるが、思うようにマッチメイクできない状況に置かれる。

 

 もちろん、ボクシングの興行はホールだけで行われるわけではなく、全国各地で行われている。

 ただ、どうしても人口の違いからくる集客の問題と、興行に必要な選手の数をそろえることが、地方ほど難しくなるのが現状だ。

 

 ちなみに、新人王戦やA級トーナメントは日本ボクシング協会の主催で行われる。

 原作での『ボクサーはライセンスでホールの試合が見れる』というのは、間違ってはいないが無条件というわけではない。

 他のジムの主宰の試合だとその限りではない。

 

 さて、立ち見客も詰め込んで、3千人を収容できるとされるホール。

 逆に言えば、3千人が限界。

 立ち見客は2500円だが、指定席Cで5千円、Bで7千円、Aで1万。

 座席数は2千に届かないぐらいだが、仮に、一律5千円で計算すると……最大で1500万の入場料収入となる。

 そこからホールのレンタル料。

 会場の設置費用や、資材のレンタル費用。

 選手のファイトマネー。

 人件費。

 マッチメイクにいたるまでの雑費など。

 

 具体例を挙げると、たとえば、俺の2戦目の相手のメキシカン。

 選手とセコンド2人の、合わせて3人の渡航費に、宿泊費、そしてファイトマネーに、事前交渉にかかった費用。

 当時4回戦ボーイの俺のために、おそらくは200万かそれ以上かけている。

 これはあくまでも、俺の対戦相手にかけた費用だ。

 その費用だけで、ホールが限界の超満員だったとしても入場収入の約7分の1が吹き飛ぶ。

 

 夢も希望も無い話だが、主催するほうも色々と大変で、人が集まらずにホールがガラガラ状態になると……当然赤字になる。

 どのジムも、客が呼べるボクサーは貴重だ。

 

 

 そして、今日は……客の入りは座席3割以上4割未満で、立ち見を含めて800人ぐらいか。

 まあ、この時代のタイトルマッチやトーナメントが絡まない興行としては、平均的な客数といえる。

 

 ボクシングに限ったことではないが、イベントの本質は客が少ないときにこそはっきりと現れる。

 盛り上がるのは、試合の関係者のみ。

 ある試合では会場の一部で応援が始まり、別の試合では違う場所から声援が飛ぶ。

 おそらくは、選手の関係者が固まって座っていて……それは、ファイトマネーとして選手に支給されたチケットが元であることは想像に難くない。

 

 ホールにおけるボクシング興行の目安は、全部で50R。

 たとえば、4回戦の試合が6試合で24R、6回戦が3試合で18R、メインの8回戦が1試合で8Rなら、全部で50Rということになる。

 これは、ホールを借りられる時間帯の問題で、たいていは夕方の6時から始まり、終わるのは夜の9時から10時の間になるように調整されている。

 タイトルマッチや新人王戦の決勝なんかは別だが、基本的に選手の入場は同時に行われる。

 選手入場と簡単な紹介に2分。

 1Rは、インターバルを合わせて4分……判定が続けば長引き、KOが多ければ進行が早まる。

 

 ただ、良くも悪くも……ボクシングの試合の生観戦は、選手の入場と紹介、試合、そしてまた入場と、休憩を挟みながら、淡々とそれが繰り返される。

 原作ではよく、鴨川ジムの青木さんと木村さんの泥仕合が描かれていたが……ああいうときの、会場の冷め具合はちょっと言葉にしにくいものがある。

 

 もちろん、選手は必死なのだが……観客には関係ない。

 

 

 俺は、通訳の人に声をかけた。

 

「生で見るボクシングの試合はどうですか?」

「え、あ、いや……なんというか」

 

 どこか困ったように、言葉を濁された。

 まあ、ボクシングファンでもない人間の正直な感想だろう。

 

 幕之内、宮田、千堂、間柴など……原作での彼らは例外だ。

 昔と違って、この時代、ホールが純粋に客で埋まることなどめったに無い。

 ホールの客を沸かせる試合も、珍しいからこそ話題になる。

 

 選手のファイトマネーであるチケットの客の割合が多いと、会場には身内感が強く漂う。

 関係者の試合にしか注目しないからだ。

 試合が終わると、エレベータ前の灰皿置き場に、喫煙者が殺到する。

 誰が悪いわけでもないが、タバコのにおいが嫌いな人はひるむだろう。 

 エレベータではなく階段に目を向けると、壁いっぱいに落書きがなされている。

 お世辞にも、上品なものとはいえない。

 そもそも、落書きは禁止されている。

 もちろん、それがいいという人もいるし、こうでなきゃと感じる人もいるだろう。

 

 ただ、選手ではなく、ファンとしての目線でもなく、一般人としての感覚。

 

 この、格闘技の聖地は……閉鎖的な雰囲気に満ちている。

 それは、女性ならなおさら強く感じるだろう。

 

 俺は、試合を見に来てくれるファンに感謝したくなる。

 女性ファンについては、特に強く感じる。

 俺の試合が終わると、そそくさと帰ってしまうのを引き止めようとは思えない。

 

『速水龍一』は、この光景を知っていたはずだ。

 

 かつての、ボクシングに熱狂していた時代を、言葉でしか知らない世代。

 世界戦の視聴率が50%を超えるのは当たり前、日本タイトルや、人気選手のノンタイトル戦にテレビ中継が入った時代。

 ボクサーとして、ボクシングに関わる者として……それを取り戻したいと思うのは自然だ。

 価値観の分散ともいえる時代の流れを知っている『俺』でさえ、どうにかしたいと思う。

 

 今は、力が無い。

 発言力が足りない。

 二十歳の若造の言うことに耳を傾けてくれる人は少ない。

 

 同じスポーツジャンルの、野球や大相撲、サッカーなどに勝る利点を示さねば、企業人は興味を持たない。

 利益でつるには、ファンを増やさねばならない。

 

 この、目の前の光景を見せて……利益を語ればむしろ滑稽だろう。

 ボクサー個人ではなく、ボクシングというジャンルを盛り上げなければ意味がない。

 

 ジムが主宰の興行であっても、業界間の取り決めのようなものは存在する。

 音羽ジムが勝手をすれば、確実に圧力はかかるだろう。

 味方を増やせば、敵も増えるのはお約束だ。

 

 現実は、なかなかに厳しい。

 まあ、最初からわかっていたことだ。

 

 

 リングを見つめる、ヴォルグとラムダコーチ。

 2人には、そこそこ英語が通じる。

 というか、ラムダは俺よりも英語が上手だった。

 

 通訳の人はボクシングがわからない……ということで、今日は俺が案内役としてこの場にいる。

 これが、音羽会長の頼み事のひとつ。

 

 世界アマ王者のヴォルグ。

 そして、旧ソ連のトップ指導者のひとりであるラムダ。

 彼らが夢想していたのは、世界トップレベルの選手や、その関係者が話す、華やかな世界戦の光景ではなかっただろうか?

 

 ヴォルグとは、ジムで自己紹介し、ここに来るまでにも話をした。

 原作を思わせる、人懐っこい感じがする好青年。

 あるいは、何とかしてこの日本になじもうとする意欲がそうさせるのか。

 

 病気の母のため、母に楽な生活をさせるために、この国にやってきたと。

 求めるのは名誉でもなく、強い相手でもなく、母を楽にさせるためのお金だ、と。

 

 金が目的ならば、現実を見てもらうしかない。

 資本主義の基本は、『人はみんな、払った金額に応じたリターンを求める』ことだろう。

 

 この、後楽園ホールを客で埋められるか?

 ホールを埋めた客を満足させ、また来たいと思わせることができるか?

 その上で、勝ち続けることができるか?

 

 ヴォルグは、輸入ボクサーとして毎月の手当てが出る。

 給料と言っていい。

 仕事は、年に3試合か4試合、そして24時間全てをボクシングに打ち込み、給料に見合うリターンを、音羽ジムとスポンサーに与えること。

 

『ヘイ、速水』

『なんですか、ラムダさん?』

『この国では、駆け引きや、細かい技術戦は好まれないのか?』

『その傾向は、あります。欧州とは別物と思ってください』

 

 少し考え込み、ラムダがヴォルグに話しかけた。

 ロシア語だろう。

 時々、聞き覚えのある単語が耳をかすめるが、それだけだ。

 

 某ヘビー級ボクサーの、日本での防衛戦。

 あれが、予想以上に受け入れられた。

 ファンではなく、一般人に。

 おそらく……テレビ局の基準は、あれになっている。

 一度成功したモデルへの固執。

 

『ラムダさん、そしてヴォルグ』

 

 2人が俺を見る。

 

『ファイトスタイルよりも大事なことがあります……それは負けないこと』

 

 日本人には、『無敗信仰』みたいなものがある。

 負けたことが無い。

 全勝。

 知らないジャンルでも、興味の無い競技でも、『負けたことが無い』という言葉に、気を惹かれる。

 もちろん、それは世界でもそうだろうが……日本人は、その傾向が強いと俺は思う。

 

 俺が、勝ちにこだわる大きな理由のひとつ。

 無敗は、アマ時代からの、俺の財産だ。

 

 それは、ある種の魔法。

 ひとつ負けるとたちまち消える。

 魔法が消えるまでに、知名度をどれだけ高められるか。

 

 落ちた犬というか、幻想を叩きまくるのも、日本人の特色だ。

 挫折からの復活話がお約束なのも、ある意味、そういうカバーストーリーが必要になるぐらい『常勝』や『無敗』への信仰が強いからだと思う。

 

『200戦以上戦って負けたことが無い。それはヴォルグ、君の大きな利点だ。この国では、世界アマ王者よりも負けたことがないということが大事かもしれない』

 

 ヴォルグが負けるところを見たい人。

 日本人がヴォルグを倒すのを期待する人。

 ある種のアンチを巻き込んで勝ち続けた先に……より広い道が開けるかもしれない。

 

 俺は、2人を利用する。

 だから。

 俺は、2人に対してできる限り手を貸す。

 

 俺とヴォルグ。

 日本と世界で、負けたことが無い2人。

 耳目を集める、ウリになるはずだ。

 

『勝つことだ。何よりも勝ち続けることが大切だと俺は思う』

 

 自分自身に言い聞かせるように。

 俺はそう言った。

 

 

 

 

 

 帰りの電車の中で、頭をよぎったのは、前世の記憶。

 ソ連崩壊よりも前に、やってきた輸入ボクサーの6人。

 3人はすぐに帰国させられた。

 残った3人のうち2人は、世界王者になった。

 2人の世界王者。

 1人は、ボクシングファンでなくとも名前を知っている程度に有名になり、人気も出た。

 しかしもう1人は……勝ち続けても、世界王者として防衛を重ねても、客が集まらなかった。

 テレビ放送はなし。

 後楽園ホールですら、客で埋まることは無かった。

 

 勝ち続けても、だめなことはある。

 それでも、勝ち続けなければ話にならない。

 

『リュウ』

『ん、どうした、ヴォルグ』

 

 原作のイメージでつい『ヴォルグ』と呼んでしまったのだが、笑顔で『それなら、私はリュウと呼んでいいですか?』と返された。

 どうも、『速水』の『み』も、『龍一』の『い』の発音も、ヴォルグには難しいらしい。

 なので、『リュウ』だ。

 

『今日は……』

 

 少し言いよどみ……口を開く。

 

「キョウハ、アリガトー」

 

 素朴さを感じさせる、穏やかな微笑み。

 幕之内とはまた少し違う、放っておけないというか、手助けしてやりたくなる印象がある。

 

「気にすることは無いよ。同じジムの仲間だしな」

「……?」

 

 英語で、言い直す。

 

『ジムメイトだ。俺がヴォルグに世話になることもある……そのときは頼むよ』

『……自信が無いです』

『俺も自信はないが、ちゃんと『スパシィヴァ』って言うからさ』

『ノー。リュウ、『スパシーバ』です』

 

 ヴォルグが笑う。

 つられて、俺も笑う。

 

 それを見る、ラムダの表情が少し柔らかい。

 

 

 明日からは3連休。

 音羽会長の頼みごとの2つめ。

 

 ヴォルグの、スパーリングパートナー。

 

 ヴォルグとのスパーなんて、こっちから頼みたかったぐらいだ。

 スポンサーとか関係ないというか……ヴォルグ個人には、何も含むところは無いのにな。

 

 まあ、問題は……俺がちゃんと、ヴォルグの練習相手になれるかどうか、だな。

 世界アマ王者の実力を発揮できるなら、それは世界ランカー相当と思っていいだろう。

 

 ただ、少し話をした感じでは……やはり、ブランクがあるらしい。

 3年前の世界選手権。

 そして、去年の世界選手権。

 旧ソ連のナショナルチームでメダルを取った仲間の多くは、ペレストロイカの名の下に、ヨーロッパでプロへの転向を果たしたらしい。

 しかしヴォルグには、故郷に病気の母親がいた。

 病気の悪化と、その治療費捻出のために……母親の世話を人に頼み、はるばる日本までやってきた、か。

 

 おそらく、日本行きを世話してくれた関係者や、音羽会長にも話したことなのだろう。

 だから、初対面の俺にも個人の事情を話してくれたのだと思う。

 というか、去年の世界選手権の前後からヴォルグへの働きかけがあったとか。

 

 つまり、俺が幕之内と戦う前から、俺を切り捨てる準備をしていた。

 結局、宮田や千堂と戦う際に感じていた俺の悩みは、ほぼ意味が無かったってことだ。

 

 とはいえ、だ。

 ……少なくとも、テレビ局の連中は、世界への挑戦を失敗した日本人ボクサーを見続けてきた。

 

 やはり、今の俺には『何か』が足りないように見えたのだろう。

 世界を獲るための何か。

 あるいは、世界挑戦に失敗する日本人ボクサーと同じ何かを感じた。

 

 スポンサーに腹を立てるのは簡単だが、俺は俺で、きちんと現実を見なければいけない。

 利益には聡い連中が、俺を切った。

 そこを、忘れてはならない。

 

 

 ふっと、伊達英二の姿が浮かんだ。

 ブランクを取り戻すために、強敵を求める姿を。

 

 俺もまた、足りない何かを手に入れなければいけない。

 あるいは、足りないものを埋めてなお余るぐらいの何かつかまなければならない。

 

 ヴォルグとのスパーで……何か、つかめるだろうか。

 




ヴォルグとのスパーまでいけなかった……。(目逸らし)

なお、今は、立ち見が大人3500円になってます……指定席は秘密。
ボクシング業界の状況も、個人的には悪化してるように感じます。


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14:狼の牙。

ようやく、ヴォルグのとのスパーです。
先に言っておきます。
強さ云々は、『速水の主観』です。
そして、勝負のあやを生む、相性を忘れてはいけません。


 3連休の初日。

 ヴォルグとのスパーリングの日。

 

 ……俺の目覚ましが優秀すぎる。

 

 デンプシーロールにカウンターを入れたのに、止まらないって反則だろ……。

 もう1発カウンターを入れたが、体勢を崩されてそれが限界。

 規則正しいリズムでぶっ飛ばされた。

 

 原作のデンプシー対策って、間違ってるんじゃないだろうか。

 まあ、間違っているのは夢の中の幕之内なんだろうけど。

 

 

 ため息をつき、朝食の準備をする。

 ボクサーの体脂肪率は総じて低い。

 栄養補給をせずに、ロードワークに出るのは危険だ。

 

 筋肉の収縮運動には細胞の電荷物質のやり取りというか……まあ、暖機運転のための最初のエネルギー源が必要になる。

 その基本は、炭水化物というか、糖であり、グルコース。

 炭水化物が身体の中で加水分解されると、グルコースができる。

 

 そして、心臓は筋肉の塊だ。

 暖機運転の段階でのガス欠は、心臓麻痺の可能性がはね上がる。

 痩せている人間は、目が覚めたら、ジュースを一口、あるいは飴玉をなめるのでもいい。

 それだけで、かなり危険は避けられる。

 

 人の身体は、思っているよりも丈夫だが、考えているよりも繊細だ。

 奇跡のようなバランスで、人の命は成り立っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんにちはー」

 

 あちこちから挨拶が返ってくる。

 3連休の初日に、せっせとジムで汗を流しやがって……ほかにやること無いのかね。

 

 これが、ブーメランか……。

 

 まあ、仕方がない。

 プロボクサーは、生活のための仕事と、ボクシングという仕事のダブルワークに加え、否応なしに生活としての雑事が食い込んでくる。

 

 ……正直、趣味に費やす時間は、ないよなぁ。

 

 強いて言うなら、試合のあとの休養が自由な時間、か。

 

 色恋関係も、難しいと言わざるを得ない。

『恋愛』を望む女性は、相手の男性にも同じだけの『恋愛』を望む傾向がある。

 自分が費やしたのと同等の、『手間隙』をこちらにも求める。

 

 それはまあ、女性に限った話でもないか。

 苦労に対してのリターンを求める気持ち……それは多かれ少なかれ、誰もが持っている。

 

 もしかすると、『努力は報われる』系の教育を施すこの国の人間は、その傾向が強くなるのかもしれない。

 

 とまあ、仕事を『2つ』抱えているボクサーに、そういう女性の相手は正直きつい。

 往々にして、若い女性はそうなりがちで……基本的に、ボクサーは若い。

 

 プロのボクサーはわりと姉さん女房が多い気がする。

 仕事をしている自立した女性を相手に、お互いの生活を尊重する感じの……まあ、プロボクサーもピンキリだから、これも独断と偏見になるが。

 結婚するからボクシングを引退するなんてことも聞くし、就職を機に引退するという話も聞く。

 

 ボクサーの仕事として、基本的に接客業はアウトだ。

 雇用主がいくら理解があっても、客が嫌がる、あるいはぎょっとする可能性がある時点でどうしようもない。

 ボクサーであることを明かして就職面接にのぞむと、敬遠される職種は多い。

 実態はどうあれ、少なくはない人が、それを『暴力』の気配として受け取るからだ。

 

 マイナスの可能性は、面接において当然不利になる。

 

 俺の職場の社長は、音羽ジムの後援者だ。

 若い頃、ファンになったボクサーが音羽ジムに所属していた関係らしい。

 当時の音羽ジムの会長は、今の会長の伯父さんだったらしいが、人脈は受け継がれている。

 もちろん、代替わりを機に失われた人脈もあるのだろうが、新たに生み出される人脈もあるわけだ。

 後援者にも交友関係が存在するわけで、何らかの形で助力を願うことだってある。

 そうして、ジムを後援する人とのつながりができていく。

 そのつながりが、俺の就職だったり、アパートを借りるときに力を発揮することになる。

 

 人とのつながりは財産だ。

 当然だが、それはしがらみとなってデメリットをもたらすこともある。

 

 俺もまた、昔ほど自由ではいられない。

 とはいえ、真面目にボクシングに取り組み、仕事もきちんとやってれば、大きなひずみは生じない。

 もちろん、職場でもジムでも、俺への陰口が完全に消えることはない。

 これはある意味、仕方の無いことだろう。

 

 ジムでいえば、俺は会長に目をかけられて、ひいきされている状態といえる。

 当然、それを面白く思わない人間はいる。

 というか、それが自然だ。

 職場では、仕事に対して腰掛け状態と見られても仕方ない。

『ボクサーだから』という言い訳は、甘えになる。

 ほかの人と同じだけの仕事をしても、色眼鏡で見られる。

 周囲より仕事ができれば、生意気だと思われることもある。

 

 人はひとりひとり、立場と価値観が違う。

 何らかの形で、反発は生まれるものだ。

 

 味方と敵対と中立の割合が、1対1対1になるのが正常な人間関係であり、普通のバランスであるというのは誰の言葉だったか……。

 逆に考えれば、7割、8割の人間に支持される状態は、どこか歪んでいるといえる。

 自分が何かを偽っているか、敵対者が常軌を逸しているか。

 

 まあ、俺がやろうとしていることは、勝ち続けることで、ある種の『歪み』を生み出すことだ。

 熱狂は、熱に狂うと書く。

 

 もしかすると、俺に足りないものは……正常ではない『何か』なのかもしれないな。

 

 

 

 基礎訓練。

 フットワーク。

 休日ということで、念入りにこなしていく。

 

 

「コ、コニチハ」

 

 ヴォルグだ。

 振り返り、挨拶を返す。

 ヴォルグが俺を見て微笑む。

 

 ……ん?

 

 ジムの中を見渡した。

 

 挨拶に挨拶を返す。

 それが、ない。

 

 近くの、練習生2人を捕まえた。

 

「ジムに入るときは挨拶。挨拶されたら、挨拶を返すって、一番最初に教えられることだよな?ん?んん?」

 

 目を逸らされたので、ちょいと物陰へ連れていく。

 体育会系とか、そういう問題じゃない。

 

 

 

 

 

 頭を抱えた。

 なんというか、あの2人の主張を一言でいうと。

 

『だって、あいつのせいで速水さんは、階級を変える羽目になったんですよね?』

 

 別にヴォルグのせいじゃないんだが、さすがに練習生にディープな事情を話すのもはばかられる。

 しかし、この空気はまずい。

 

 たぶん、あの2人の俺云々はおいといて、よそ者って意識がメインだろう。

 俺だって、音羽ジムに来て半年から1年ほどは、妙な目で見られ続けたしな。

 会長がいるときといないときで、露骨に空気が変わったっけ。

 

 リングの上ならまだしも、普段のこの空気は、ヴォルグにとってよろしくない気がする。

 俺は、ヴォルグを利用すると決めている。

 だからこそ、放ってはおけない。

 

 

 

 とりあえず、俺も練習生全員に顔を利かせられるわけではないので、できる範囲から。

 

「「「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)」」」

 

「み、ミニャ ザブート……(私は、〇〇です)」

「ミニャ ざ、ザブート……」

「ミニャ ザブート……」

 

「コニチハ。私、ヴォルグ・ザンギエフ、デス」

 

 まあ、この手の空気というか、雰囲気は一朝一夕ではどうにもならない。

 ただ、言葉を交わせば情もわく……と思いたい。

 それを目にすれば、周囲も少しずつ変わっていく……と思いたい。

 

 しかし、拙いながらも、日本語をしゃべってるよなあ。

 来日して2週間ほどなのに、ヴォルグって相当頭が良くないか?

 

 まあ、そうでなきゃ世界一にはなれないか。

 

 

 俺は、ヴォルグを連れてジムにいるひとりひとりに、挨拶して回った。

 古株の連中の一部には、俺という存在を煙たがっているのもいるのだが、こちらから挨拶して回るのを無碍にもできまい。

 どんな形でも、顔をつなぐと言うのは大事だ。

 特に、この国では。

 

 

 

 

 

 ……2、3、5、7、1、6、4、5、2……。

 

 2つ前の数字を足していき、合計が10を超えたときは、1の位の数字と10の位の数字を足す。

 それを頭の中で延々と繰り返しながら、答えの数字に対応したパンチをサンドバッグに打ち込んでいく。

 もちろん、マスクはつけたままだ。

 

 合計が10を超えるときに、わずかに動きが停滞する。

 思考の工程が増えるからだ。

 

 

 画面に映る矢印と同じ方向を指差す。

 画面に映る矢印と、反対の方向を指差す。

 

 これにかかる時間を計測すると、後者のほうが多く時間がかかる。

 

 前者と後者の違いは、『矢印が指している方角の反対の方向を判断する』という部分。

 つまり、矢印の認識、方向の認識……という工程に、新たにひとつ工程が加わることを意味する。

 その分、時間がかかるのだ。

 

 釣りのゲームで、魚が泳ぐのと逆の方向に竿を倒すというシステムがあるが、あれをイメージするとわかり易いかもしれない。

 あれが苦手な人は、視点変更でキャラクターを逆方向から見るとゲームをクリアしやすくなる。

 魚が泳いだ方向にレバーを倒す……逆の方角から見ているから、竿は逆の方向に倒れる。

 つまり、思考の工程をひとつ減らせる分だけ、早く行動に移せる。

 

 スポーツのセオリーは、パターン化することによって思考の工程を減らし、判断を早くするために生まれる。

 まあ、それとは別に、思考速度を高める訓練によって、判断までの時間が短縮できると思いたい。

 これがうまくいくかどうかはわからない。

 自分を実験体にして、試行錯誤するしかない。

 

 少なくとも、思考することで酸素消費量を増やし、心肺に負担をかける効果はある。

 

 

 そんな俺を、ラムダが見ていた。

 旧ソ連の、トップ指導者のひとり……といっても、俺が知るのは情報としてだけ。

 正直、ラムダには、ヴォルグ以上に興味を持っている。

 

 

 常識は時代とともに移り変わる。

 たとえば、乳酸は筋肉の疲労物質だと長い間信じられていた。

 しかし、実際は疲労状態を緩和する働きを持つものだと発表されたのは、前世では21世紀になってから。

 筋肉が疲労することによって乳酸がたまることから誤解され、乳酸を調べることによってその長年の誤解が解けた……とされているが、実際は少し違う。

 

 乳酸の働きそのものについては、それ以前から何度も発表はされていた。

 それがいろんな理由で認められずにいたのが、ようやく認められたというか、公になったのが21世紀になってからというだけ。

 

 そもそも、乳酸菌は有機体が生命維持の過程で行う新陳代謝において『乳酸』を産む菌類の総称だ。

 筋肉の疲労物質とされていた乳酸を発生させる乳酸菌飲料を『身体にいい』と売り出されたのが、いつだったかを考えてみればいい。

 21世紀になるよりもずっと前のことだ。

 

 世間の常識の全てがそうとは言わないが、ある種の儚さはイメージできるだろう。

 ドーピングが話題になってから、筋力トレーニングの理論が出回り始めたのも同じだ。

 あれも、海外の理論とはずいぶんと違うものだが、日本ではあれが常識として語られ続けた。

 情報は、選択され、タイミングを選んでばらまかれることが良くわかる一例だ。

 

 

 俺がラムダに興味を持っているのは、まさにそこに理由がある。

 国家の威信をかけたスポーツ選手の指導者には、かなり新鮮な情報や理論が入ってきてたはずだ。

 少なくとも、日本の一般人レベルよりも遅れているとは思えない。

 経験則も馬鹿にはできない。

 自分を実験して確かめるよりも、多くの人間を見て、育てた人間の経験は宝石のように貴重だ。

 理論と情報、そして経験をすり合わせていけば、正解に近いところにたどり着ける。

 

 まあ、そのためにも……。

 ヴォルグとのスパーで、いいところ、あるいは悪いところを見せたい。

 良くも悪くも指導者は、素材を目にすれば手を伸ばしたくなる生き物だと俺は思う。

 一言や二言のアドバイスでもいい。

 

 それがもらえるなら……。

 もらえたらいいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 グローブは12オンス。

 座布団と称される16オンスより軽いが、試合用よりは重くてクッションが効いている。

 俺もヴォルグも、ヘッドギア着用。

 予定は3R。

 

 あくまでも、主役はヴォルグだ。

 俺は、スパーリングパートナー。

 2人に話しかけた。

 

『ラムダさん、ヴォルグ。リクエストはあるか?一応、インファイトからアウトボクシングまで、一通りこなせるつもりなんだが』

『ノー、速水。君の実力を知らない状態では、注文も何も無い。まずは、好きなようにファイトしてくれていい』

 

 そう答えたのはラムダ。

 

 そうか。

 好きなように、ね。

 

 それは……何をされても対応できるってことか。

 実力の裏づけのある自信だな。

 

 プロと違って、アマチュアは大会期間中に、毎日のように試合をする。

 計量も、試合のある日は毎日行う。

 試合前の対策に時間はかけられず、無名の相手や新星のごとく現れた選手なんかは、そもそも情報が手に入らない。

 それら全てに対応し、一度も負けることなく勝ち続けてきたのが、ヴォルグという存在だ。

 アマチュアにはアマチュアの、プロよりも厳しい部分がある。

 

 原作知識はともかく、ヴォルグのデータは無いに等しい。

 ヴォルグ(狼)の名から、上下のコンビネーションが白い牙と名づけられて恐れられていたこと、ぐらいか。

 

 まあ、自分の目で見て、あるいは味わって、確かめるしかない。

 条件は、同じ。

 

 息を吸い、吐く。

 心拍数は、高めか。

 

 軽く、グローブをあわせ……距離をとる。

 

 ヴォルグの構えを確認。

 重心は後ろ足。

 

 左の3連打から入った。

 右を飛ばして、距離をとる。

 

 ヴォルグに驚きは無い。

 なんでもないように対応された。

 

 ヴォルグの左。

 右が空気を切り裂く。

 

 挨拶は交わした。

 ……いくか。

 出し惜しみは無しだ。

 

 トップギア。

 

 ステップを踏みながら、小刻みな連打を叩きつけていく。

 手を出させる暇を与えない。

 ただし、パンチの質は軽い。

 

 これにどう対応するかで、ヴォルグの性格を知る。

 ボクサーとしての性格。

 

 

 俺を見ている。

 少なくとも、見られてはいる、か。

 

 この程度なら、あわてる必要は無い。

 それでも、確認はする、と。

 

 相手の戦力の分析から入る、理論派タイプか。

 そして、こちらの戦力を見ながら、自分の戦力は見せない。

 情報戦にたとえるなら、俺が圧倒されている。

 

 10秒。

 20秒。

 俺の、見せかけの攻勢。

 

 情報をさらけ出しながら、『攻めている』以外のポイントは奪えない。

 まあ、そろそろだろ。

 

 ヴォルグの前足。

 あるかなきかの動き。

 

 そこで、ジャブを変えた。

 タイミングをずらす。

 そして、ガードの隙間を狙う。

 

 ヴォルグのスウェー。

 それに、肩を入れて届かせた。

 

 オープニングヒット。

 リングの周囲で声があがる。

 

 ただし、ヴォルグも、ラムダも、特に反応は無い。

 

 ようやく、ヴォルグが足を使い出す。

 何気ないステップ。

 右に左に。

 軽くフェイントをかけながら、近づいてくる。

 

 腕、肩、目線。

 ボクシングが始まる。

 

 

 左の差し合い。

 いや、打たされている。

 少しずつ、少しずつ、俺の対応する時間を削られていく。

 

 ガードのタイミング。

 そして、パンチを出すタイミング。

 間合い。

 はっきりとはわからない何か。

 

 技術戦では、俺のレベルが劣る。

 それがわかるだけ、マシか。

 

 ヴォルグの何気ない左。

 ガードした手に、威力を感じる。

 幕之内や千堂とは違う種類の、強打者。

 パンチの威力そのものではなく、力を相手に伝えるのが上手い。

 

 

 カウンターは、相手の勢いを利用するというより、相手が衝撃を逃がせないパンチを打つと表現したほうが正しい。

 前足に重心が乗っているとき、後ろ足に重心がかかっているとき、姿勢の違いなどで、どの方向からの、どういうパンチが効くかが変わってくる。

 

 相手の顔にパンチを入れたら、相手が大きくのけぞる。

 見た目は派手だが、のけぞるという動きで威力を拡散されているともいえる。

 

 こちらに向かって前かがみに前進してきたときに、顔にパンチを入れる。

 大きくのけぞることはないかもしれない。

 しかし、ダメージそのものはこちらの方が大きくなる。

 

 

 背筋が寒くなる。

 俺の動きだけじゃない。

 重心移動と姿勢を予測して、効果的なパンチを出してくる意味。

 

 既に、ボクサーとして丸裸の状態ってことだ。

 

 じわじわと、圧力をかけられる。

 少しずつ、俺の逃げ道がふさがれていく。

 

 完全にふさがれる前に、踏み込んだ。

 

 右のボディを打ちたい気持ちをぐっとこらえ、アッパーから入る。

 ヴォルグが覚えたはずのリズム。

 それを変える。

 

 反撃の気配を感じ、距離をとる。

 

 ヴォルグの手が止まったところを、再び踏み込む。

 今度は素直にボディを打つ。

 ガードがさがる。

 

 ならば、上を……。

 

 一瞬、視界が消える。

 

 あれ?

 どこを見てるんだ、俺……。

 

 わけのわからないまま、ガード。

 腕に衝撃が来た。

 防いだ。

 

 痛みの認識。

 膝に力が入らない。

 

 もらった?

 いつ?

 何を?

 

 視界。

 ガードの隙間。

 思考。

 

 たぶん、もらったのは左のアッパー。

 ボディのガードではなくて、アッパーを打つ準備。

 

 踏み込んできたヴォルグに、左を叩きつけた。

 続けて右の連打。

 距離。

 そして、一息。

 

 はは、すげえや。

 

 まっすぐは向かってこない。

 俺の逃げ道をふさぐように。

 あるいは、俺の反応を確かめるように。

 軽やかなステップと、小さな動きでこちらをけん制してくる。

 

 強い。

 俺相手のスパーに限れば、明らかに伊達英二より強い。

 

 余計なことを考えるな。

 今は、目の前に集中。

 

 応戦する。

 しかし、追い込まれていく。

 

 ちょっとした動き。

 何気ないモーション。

 見る人が見ればわかる、テクニックの数々。

 

 意地でも、3R続ける。

 

 細かいパンチ。

 それを、ガードの隙間に。

 あるいは、ガードの上から。

 

 ダメージが抜けた。

 

 ぐっと、前足に力を入れた。

 ヴォルグに、それを見せた。

 

 そこで、いきなりギアを落とす。

 はじめて、ヴォルグの表情が変わった。

 誘われたのがわかったのだろう。

 

 ヴォルグの右をすかして、左フックを横っ面に引っ掛けた。

 欲張らず、ロープ際から脱出。

 

 また一息……つかせてくれない、か。

 

 ヴォルグの左。

 敢えて、俺は左を返さない。

 待ちの姿勢。

 

 フェイント。

 駆け引き。

 伊達英二のそれとは違うやりとり。

 

 経験の不足を実感する。

 

 俺は、こういうボクシングを、ほとんどしてこなかった。

 いや。

 そういう相手が、ほとんどいなかった。

 

 たぶん、ヴォルグは、こういうボクシングを数え切れないぐらいしてきた。

 そして、全てに勝利を収めてきた。

 

 ヴォルグの戦場。

 それが、楽しい。

 

 また、左フックを引っ掛けた。

 俺が出し抜いたのではなく、ヴォルグのブランクのせいだということがわかる。

 万全ではない。

 俺以上に、ヴォルグは万全じゃない。

 

 右の連打で突き放す。

 ヴォルグのパンチが割り込んでくる。

 

 

 あっという間に、1Rが終わった。

 

 たぶん、俺は笑っていたのだろう。

 音羽会長が、『楽しんでこい』と言ってくれた。

 

 

 

 ヴォルグのエンジンがかかってきたように思える。

 

 近づいてきたヴォルグをひきつけ、いきなり右。

 ガードさせて左フック。

 とめられた。

 

 きちんと修正してきた。

 

 ボディへのパンチを叩き落す。

 俺のアッパーが避けられる。

 接近戦。

 接近戦でありながら、押し引きがある。

 連打の合間に、半呼吸あけて、こちらの反撃を誘う。

 当然、カウンターの準備がある。

 

 近づき。

 離れ。

 打ち合い。

 

 めまぐるしく、状況が入れ替わる。

 身体だけじゃなく、意識もトップギア。

 

 はは、俺のやってきた練習は……ぬるいなあ。

 

 同時に思う。

 

 なあ、ヴォルグ。

 俺は、お前の練習相手に足りているか?

 

 

 

 2Rを終えた。

 

 楽しい。

 そして、感謝。

 スポンサーへの感謝。

 

 ヴォルグを、この国につれてきてくれたこと。

 

 

 3Rの合図とともに、飛び出していく。

 

 

 ヴォルグの速度、タイミングに慣れてきた。

 気のせいかもしれないが。

 

 予定は3R。

 終わる前に、一矢報いたい。

 

 しかし、ヴォルグの動きがいい。

 最初からトップギアの俺は、そろそろまずい。

 というか、経験不足のボクシングで消耗した、か。

 

 

 身長も、リーチもほぼ同じ。

 それでも、ヴォルグの距離と俺の距離は少しだけ違う。

 

 ストレートからアッパーまで。

 全てにおいてレベルが高い。

 

 ただ、アッパーが強い。

 左も、右も。

 

 俺の細かい連打の合間に割り込んでくる、このパンチが厄介だ。

 それでも、何度も見れば多少は慣れてくる。

 

 ヴォルグの左アッパー。

 それを、右手で押さえて、左フック。

 

 ……そのつもり、だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……やられた。

 

 すっかり、忘れていた。

 上下のコンビネーション、ホワイトファングのことを。

 いや、コンビネーションじゃないんだな、あれは。

 

 あくまでも、状況に応じたパンチの組み合わせ。

 

 ボクシングのワンツーは、左ジャブからの右ストレートの、基本的なコンビネーションパンチだ。

 しかし、最初からワンツーを打とうとするのは、相手の事を無視しているといえる。

 ワンツーの、ワンとツーの間に、『相手の状態』『どのパンチが有効か』などの判断をくだして、ツーを打つかどうか、あるいは別のパンチにつなげるかを決める。

 

 つまり、ヴォルグは、あの時の俺に有効だと判断して、右の打ち下ろしをもってきた。

 

 見事なぐらい、俺の死角から、意識の外から、耳を……いわゆる耳の裏、三半規管につながる部分を打ち抜かれた。

 まあ、耳の裏と呼ばれてはいるが、ある意味硬い頭を殴りつけるわけだ。

 威力があればあるほど、拳の保護という意味で、多用はできない。

 

 12オンスのグローブと、ヘッドギアを通してなお、この威力か。

 

 

『……リュウ。大丈夫?』

『ああ、なんとか……最後のは、右のストレート?』

『フックです。スイング気味の』

『そうか』

 

 立ってみる。

 ふらつく。

 

 まあ……ヴォルグの練習にはならないか。

 3Rの途中だが、ここで打ち切ろう。

 

 俺がそう言うと、ラムダが頷いた。

 

『すみませんでした、ラムダさん。ヴォルグのパートナーとしては不足でしたか?』

『いや、そんなことはない。速水、君はクレバーで勇敢なボクサーだったよ……ただ、あの時カウンターを狙ったのは不注意だったな』

 

 苦笑するしかない。

 あの時、狙ってしまった。

 

 正確に言うと、ヴォルグに誘われた。

 左フックの成功の記憶が、俺にあの選択をさせた。

 おそらく、それも読まれた。 

 

『何か、アドバイスをいただけますか?』

『……ヴォルグとのスパーは、君に経験を与えるだろう。ただ……』

『厳しい言葉への覚悟はできてますよ』

 

 ラムダが俺を見つめ……言った。

 

『今日見た限りでは、君のボクシングには圧力が足りない……ヴォルグにのびのびとボクシングをさせた』

『……怖さが足りない?』

『ノー。怖さではなく、圧力だよ……相手の精神を削っていく何か、だ。それは、速さだったり、パンチの威力だったり、あるいは……相手を陥れる戦略だったりするが、ね』

『難しいですね』

『ヴォルグが相手なら、とは言っておくよ』

 

 怖さではなく、圧力、か。

 ボクシングは、集中力の削りあい。

 今日の俺のボクシングでは、ヴォルグの集中力を削ることができなかった。

 もしくは、不十分。

 

 色々やろうとしすぎたか。

 あるいは、真正面からいきすぎた。

 

 まあ、ヴォルグとのボクシングを楽しんだ部分は確かにある。

 純粋な勝負をしてなかったか。

 

 

 

 なんにせよ、きれいにダウンをもらった。

 練習を中断し、休憩する。

 

 それにしても、だ。

 原作では、幕之内があれに勝つのか。

 

 

 ……ちょっと想像できないんだが。

 

 

 幕之内のことはともかく、あれが世界のレベル。

 

 俺に足りないのは、『何か』ではない。

 足りないのは、実力だ。

 

 月並みな言葉が、頭に浮かぶ。

 

 世界は広い、と。

 

 

 

 ほろ苦い気持ちを抱えて、俺はヴォルグとの最初のスパーを終えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 なお、音羽会長とラムダ、そして俺とヴォルグを交えて話し合った。

 休日は、ヴォルグとのスパー。

 余裕があれば、平日にも一度。

 

 週に一度か二度のペースで、俺はヴォルグのスパーリングパートナーをつとめることになった。

 




大まかな状況説明も終わりました。
たぶん、文字数も安定してくると思います。

くどいようですが、もう一度。
強さ云々は、『速水の主観』です。

第二部を、ヴォルグの来日からではなく、疲労のピーク状態の伊達との『約半年振り』のスパーから再開したことをお忘れなく。

……どっちが勝つかわからない方が、ドキドキワクワクできますよね?


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15:A級トーナメントに向けて。

知 人:「……A級トーナメントって、全階級でやってなかった気がする」
 私 :「え?」
知 人:「うろ覚えだけど、年度によって開催される階級が違ったような……」
 私 :「こ、この物語はフィクションだから……(震え声)」

あとで原作を確認したら、しれっと『7階級』などと書かれていたりする。
日本はミドルまでだけど、ミニマム(ストロー)級からなら、ミドルまで13階級。
レギュラー階級なら7階級なんだけど……真実を知るのが怖いので、調べません。
ツッコミは、みなさんの心の中に。


 ヴォルグとのスパーを始めてから、ヴォルグはもちろん、ラムダとも話をする機会が増えた。

 

 ……というか。

 旧ソ連、ロシアといっても、その地域は広いが、日本の食生活とは違う。

 当たり前と言えば当たり前だが、日本のそれは欧米とも違う。

 

 慣れない食生活に苦労しているのかと思ったが、もっと大事なことがあった。

 

 減量というか、体重制限のある競技での、栄養バランス。

 ヴォルグとラムダには、日本の食材の知識が乏しい。

 カタコトの日本語はしゃべれても、ヴォルグは漢字が読めない。

 通訳の人は、ボクシングというか、スポーツの専門知識がない。

 

 俺の部屋の資料からめぼしい物をコピーし、通訳の人にも頼んで訳していく。

 

 まさかとは思うが……原作において、ヴォルグのコンディションは来日してから悪くなっていたんじゃないだろうな。

 正直、笑えない。

 

 ちなみに、ヴォルグは日本食への適応が早かった。

 本人曰く。

 

『私の故郷、とても貧しい。それを思えば、きちんと食べられるだけで幸せ』

 

 ……強いというか、たくましい。

 そう思う。

 

 そしてラムダは。

 

『青年の頃、私は軍にいたんだよ』

 

 あ、はい。

 

 ……たぶん、触れないほうがいい。

 

 

 

 

 スパーも順調に消化している。

 というか、ラムダの指導は細かい。

 

 俺の経験でいうと、スパーが終わった後、あるいはRの合間。

 もしくは、スパーを続けながら注意点を指示として飛ばす指導者が多い。

 

 ラムダは、たびたびスパーを中断させ、指導と修正を行った。

 

『悪いことをしたら、その場で叱りなさい』という、子供のしつけと同じか。

 

 なんとなくではなく、その場で注意点を明らかにし、改善させる……そして、スパーを再開して、ヴォルグがそれに応える。

 

 それを見て、俺はなるほどなあと感じる。

 こうすれば良くなるというか、相手がどう感じるかを、実際に体験することになるのだ。

 ヴォルグへの指導が、そのまま俺への教科書になった。

 

 5月が過ぎ、6月に入ると……俺とヴォルグのスパーは、ほとんど中断されることは無くなった。

 

 すると、今度は逆に、俺への注文がつき始めた。

 といっても、スパーの前に『インファイト、ボディを攻めてくれ』などと、ヴォルグへの課題のための注文だが。

 

 注文がつく程度には、ラムダに認められている。

 

 ……そう思うことにしている。

 

 しかし、クレバーなボクサーとか、優秀なボクサーと言われるより、ただ一言、強いボクサーと言われてみたい。

 

 

 

 

 6月の半ば、ヴォルグにA級ライセンスがおりた。

 それと同時に、音羽ジムと世界アマ王者のヴォルグとの契約が、正式に発表された。

 ボクシング雑誌には大きく、新聞記事としては小さく。

 もちろん、記事として採用されなかった新聞もある。

 

 6月末が締め切りだったA級賞金トーナメントにも、正式にエントリー。

 もちろん、ヴォルグはフェザー級、俺はひとつ下のジュニアフェザー級。

 組み合わせの正式発表は、7月の中旬あたりになるだろう。

 

 噂では、フェザー級のランカーを抱えるジムは、阿鼻叫喚状態らしい。

 

 ヴォルグの来日そのものは知っていても、日本タイトルではなく、最初から東洋、あるいは世界を狙うと思っていた関係者も少なくなかったのだろう。

 伊達英二のいる仲代ジムは、スポンサーがらみで先の展望を知っていたからこその反応だ。

 

 冴木から俺の家にも電話がかかってきたが、『はは、がんばれよ』とだけ伝えて切った。

 A級トーナメントにエントリー済みだったらしい。

 

 冷たいようだが、それ以外に何を言えと。

 

 まあ運がよければ、冴木はスリルをおなかいっぱい味わえるはずだ。

 うん、ヤツも本望だろう。

 

 ……たぶん、食べすぎておなかを壊すことになるだろうが。

 

 そしてひっそりと。

 俺、速水龍一の階級変更の記事が、月刊ボクシングファンに掲載された。

 専門誌はともかく、新聞記事にはならなかった。

 

 これまでの記事の大半が、スポンサーの影響だったということかもしれない。

 

 まあ、勝ち続けるだけだ。

 前に向かって、歩き続ける。

 

 今は、俺にできることだけを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数ヶ月前に、同じことをやった気がする。

 

 ……来ちゃったか。(白目)

 

「ワレ、階級を下げるってどういうことや!」

 

 ……ふむ、何事も主導権は大事、と。

 

 とりあえず、勢いをとめるために腹パン。

 もちろん、軽くだ。

 

「貴様、何を……」

 

 そして追撃を。

 千堂の顔の前に、すっと手のひらを出す。

 

「大阪からわざわざ、新幹線代を返しにきてくれたのか、悪いね千堂くん」

「……」

 

 千堂が、目を逸らした。

 

 これで、勝ちを確信する。

 ボクシングでも、これぐらい簡単だったらなと思わなくもない。

 

 千堂が気まずさを感じたところでぽんと肩を叩いて親しさを示し、流れるように世間話へ移行。

 そして、『階級を変更すると聞いて、俺を心配してわざわざ大阪から来てくれたのか。ありがとう』と頭を下げることで、止めを刺しておいた。

 

 基本、千堂のようなタイプは面倒見がいい。

 そして、一度冷静になれば、それなりに空気も読める。

 俺に文句を言いに来たんだろうが、『心配してくれてありがとう』と礼を言われてしまった以上、黙るしかない。

 

 スポンサーの関係とか、意向とか、それらを説明したところで腹を立てるだけだろう。

 まあ、千堂も上を目指すことになれば、面倒を抱え込むことになる。

 

「というか千堂くん。君、仕事とかしてないのか?」

「あ?なんやそれ?」

 

 聞けば、ファンというか、結構な人数の後援会が発足しているらしい。

 実家暮らしでもあり、ボクシングに打ち込める環境は揃っているようだ。

 

「なんや……ワレ、ボクシングだけやのうて、仕事もしとるんか?」

「別に、俺だけじゃないぜ?幕之内くんだって、家の仕事を手伝っている……ボクシングだけに打ち込めるのは、ごく一部さ」

「……面倒な話やのう」

 

 幕之内といえば、5月末に試合をして勝っていた。

 2Rで倒したものの、鴨川会長に怒鳴られていた。

 間柴はやはり階級をジュニアライト(スーパーフェザー)にあげ、8回戦に昇格した。

 おそらくA級トーナメントには、出てくるだろう。

 宮田の復帰戦については、何も聞こえてこない。

 

 そして千堂は……。

 

「7月にようやく復帰戦や。誰かさんのせいで、強制的に3ヶ月休養させられたからな」

「じゃあ、A級トーナメントには間に合わないのか?」

「ワイは基本的に、関東では試合はせんよ」

 

 ああ、そういう方針なのか……。

 千堂ならキャパが後楽園ホールの倍の大阪府立体育会館を満員にできるだろうしな。

 遠征なんかしなくても、関西で独自路線を歩めるか。

 

「ん?7月って、7月のいつだ?」

「7月の頭や」

 

 とりあえずもう一度腹パン。(やや強め)

 

 東京に来てる場合か?

 

 会長に頼んで、なにわ拳闘会にも連絡を入れてもらった。

 一応、試合前のクールダウン……疲労を抜く時期と聞き、少し安心する。

 

 まあ、仕方ないので俺のアパートに泊めたが。

 仕方ないので、また新たに帰りの新幹線代を俺が立て替えたが。

 

 ……たぶん、次に会ったときもこのネタで何とかなる。

 そう考えれば安い、か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 7月の頭。

 

「森田クミコ……ああ、なんか聞き覚えはあるな」

 

 俺がそう言うと、練習生たちが、うわぁという感じの表情を浮かべた。

 

 たぶん、アイドルの名前。

 前世もそうだったが、芸能人には疎い。

 

 学生時代は、学校と、ボクシング(野球)と、ボクシング(野球)。

 そして今は、仕事と、ボクシングと、生活。

 

 逆にたずねたくなる。

 芸能人を知る時間なんて、どこにあるんだと。

 

 そう言ったところで反論されるのはわかっているから、黙っておく。

 

「それで、その森田さんがどうした?」

「いや、うちのジムに取材に来るらしいですよ」

「雑誌じゃなくてテレビですよ……俺も、テレビに映りますかね?」

 

 ああ、と納得する。

 ヴォルグの売り出しか。

 A級トーナメントに向けて、ヴォルグをマスコミを通じて露出していく。

 つまり、あのスポンサーというか、テレビ局の番組だろう。

 そして、ボクシングが絡むとなると……。

 

 

 

 ……こうなる。

 

 テレビ局というか、番組作成のクルーが、気まずそうな表情を浮かべていた。

 そりゃ、俺とは顔見知りだし。

 引越しの様子やら、伊達英二とのスパーやら、撮影してくれた仲だ。

 

 そして、空気を読めないのか、あるいは敢えて読まないのか、森田クミコというアイドルが、ものめずらしそうに、ジムの内部を見渡していた。

 

 浮き足立つ、練習生たち。

 

 心の中で、『自分に縁のある女性に目を向けるほうが現実的だぞ』と呟いておく。

 

 まだ、カメラは回っていない。

 たとえ5分しか放送しない内容だとしても、撮影そのものはその何倍もかかる。

 あとで編集して、その時間に収めるわけだ。

 

 そして、撮影の前にきちんとうちあわせというか、細かい取り決めをする。

 それにまた時間がかかる。

 

 おそらく、ヴォルグの練習の撮影を含めて、3時間ほどはつぶれるだろう。

 

「この人にしましょう。顔もいいし、画面映えすると思います。私と並んでも背が高すぎることも無いですし、画面バランスも悪くないと思います」

 

 ジムの紹介、あるいはボクシングの説明のために、質問に答える役。

 ジムの、ボクサーからそれを選ぶ。

 

 彼女、森田クミコが選んだのが俺だった。

 

 クルーの顔が引きつる。

 カメラマンの人は、俺に頭まで下げた。

 

 とりあえず、気にしないでいいですと声をかけておく。

 

 しかし、このアイドルの希望が通るってことは……まあ、番組制作上、強い立場からの推しがあるってことか。

 まあ、俺にはこれっぽっちも関係ないが。

 

 そして当然だが、ジムにいる人間は、普段どおり、真面目に練習するフリをする。

 画面のバランスもあり、位置なんかも細かく指定される。

 編集ではどうしようもない部分を、こうして打ち合わせで調整していく。

 

 

 コンセプトは、栄光をつかむために旧ソ連からはるばる日本にやってきた、アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフという一人の青年の紹介だ。

 インタビューはこんな感じ。

 

 世界アマチュアボクシングの大会、オリンピック、そして世界選手権の、ほぼ全ての階級の優勝者を輩出した歴史を持つ旧ソ連。

 その、今は亡き祖国の実力と栄光を証明するために、日本へやってきた。

 世界王者になることは、自分の使命。

 

 世界へ向けてのステップとして、まずは伊達英二のベルトをいただく。

 

 

 もちろん、台本を元に、ヴォルグが語り、通訳の人が訳すわけだが。

 

 台本も含めて、ヴォルグは手馴れた感じだった。

 まあ、旧ソ連のスポーツエリートであったことを考えると、納得だが。

 若くとも、国の威信をかけて戦っていた立場の人間だからな。

 

 

 病気の母の治療費のために……という事情が語られることは無い。

 日本人には、その方が受けがいいだろうが……おそらくテレビ局の、伊達英二との決戦として盛り上げたい意向が透けて見える。

 そのために、敢えてヴォルグの精悍さや決意をクローズアップさせる構成にしたのだろう。

 

 ヴォルグ単体を推すなら、病気の母のためにという部分はカットしないだろう。

 練習風景を流し、インタビューに答え、そして最後にニコッと微笑ませて『ヴォルグ・ザンギエフです。応援してください』などと言わせるはずだ。

 真剣な表情と、人懐っこさのギャップ。

 俺ならそうする。

 

 まあ、テレビ局だって、遊びでやっているわけじゃない。

 

 ヴォルグが伊達英二に勝利したならば、おそらくは『狼と称されたボクサーの素顔』みたいな感じに、視聴者に対して親しみを感じさせる構成の露出を始める。

 

 そこで受け入れられることを信じて、ヴォルグもまた勝ち続けるしかない。

 

 

 

 撮影は進み、今はヴォルグのミット打ちの様子を追っている。

 

 ラムダが構えるミットは、ボールというか球状のミット。

 大きさは、ハンドボール以上、バレーボール未満ぐらいか。

 それを、ラムダが自分の左の拳にはめる感じで、ヴォルグを指導している。

 

「なんだか、不思議な形の……ミットって言うんですか?ボールみたいですね」

 

 カメラの前だと森田嬢の口調が違う。

 アイドルもまた、プロだ。

 

 そんな森田嬢の質問に、俺が答えていく。

 

「ちなみに、普通のミットはこんな形です」

 

 ここで言うミットは、野球のグローブとは違う。

 革と綿でできた、長方形の板のような形をしている。

 

「これをどう使うかと言うと……」

 

 ジムの中を見渡し……目線でアピールしてくる練習生を無視して、トレーナーの村山さんを呼んだ。

 カメラに向かって、軽く紹介してから、ミットを構えてもらった。

 

「構えたところに、テンポ良く、パンチを打ち込んでいきます」

 

 ただ、このミットは板のような形をしている。

 この、板に対して垂直にパンチを打ち込まなければいけない。

 つまり、ミットをどの位置に構えるかだけではなく、どの角度で構えるか。

 それを見て、ボクサーは、どのパンチを、どの角度で打つかを判断して実行しなければいけない。

 

 もちろん、角度がずれると、いい音は出ないし、パンチの手ごたえも失う。

 

 最初はゆっくりと、基本のパンチから。

 少しずつ少しずつ、子供の手を引くように、『次はこのパンチを打てばいい』と教え込んでいくのが、ミットを持つ指導者の腕の見せ所といえよう。

 

 まあ、へたくそな人がミットを持つと……本当にひどいのだが。

 

「すごーい。ミットを構える人って、ボクサーにとっては母親みたいな存在なんですね」

「はは、まあそんな感じかもしれないかな」

 

 既婚者の村山さんが照れながら、森田嬢に答える。

 

 俺の反応が、枯れすぎなんだろうか……?

 

 まあ、今は撮影への協力に集中しよう。

 長引いたら、練習時間が削られるだけだからな。

 

「じゃあ、あのボールみたいなミット?は、変なんですか?」

「うーん、変と言うか……上級者向けですね」

 

 普通のミットは、いわば板だ。

 角度さえ合えば、有効な面積は広い。

 しかし、今ラムダが構えている球状のミットは、球状なだけに有効な面積、芯が極めて狭い。

 

 クルーの一人から、スケッチブックとマジックペンを借りて、円を描いた。

 それを、カメラに見せながら、説明していく。

 

 球状のミットの中心に向けて、まっすぐ打ち込むパンチ。

 円に向かって矢印を描く。

 この、矢印の向きが、少しでもずれると……球状のミットの表面にはじかれる、あるいは滑っていく。

 

 何よりも、正確性が求められる形状。

 

「そして、もうひとつの利点……あらゆる方向からのコンビネーションに、対応できることです」

 

 板状のミットは、パンチに対して垂直に構えなければいけない。

 しかし、ラムダの構える球状のミットなら、狙わせる場所に置くだけで、上下左右からのパンチに対応できる。

 

「さあ、そろそろヴォルグに注目してください……」

 

 ミット打ちのフィニッシュに向かって。

 ラムダから指示が飛ぶ。

 

 左右のフック。

 

 こじ開けられたガードを、俺は幻視した。

 

 そして、高速の上下のコンビネーション。

 ホワイト・ファング。

 

「え、え、今の?」

 

 良くわかっていない森田嬢に、そしてテレビカメラに向けて説明した。

 まず、右の打ちおろしから入り、左のアッパーで突き上げた。

 ゆっくりと、その動きをトレースしてやる。

 

 ボディで相手の顔を下げさせてからあれにつなげると、防ぐのは難しいだろうな。

 コンビネーションが全て死角から飛んでくる。

 そして、どちらもクリーンヒットすれば単独でダウンが奪えるパンチだ。

 

 

 

 取材が終わると、練習生が何人も森田嬢にサインをねだりにいったが……その姿がどこかほほえましい。

 

 とりあえず俺は、クルーのひとりひとりに、『お疲れ様です』と声をかけておいた。

 また、一緒に仕事をすることもあるかもしれないし。

 現場の人間を敵に回すとろくなことがない。

 少なくとも、悪い印象はもたれないようにしたい。

 

 

 余談だが、番組での俺の解説がわかりやすいと好評だったそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 7月中旬。

 A級トーナメントの組み合わせが発表された。

 日程は、各階級をおおまかに『軽量級』『中量級』『重量級』の3つにわけ、それぞれのカテゴリーで試合を消化していく。

 ジュニアフェザーの俺と、フェザーのヴォルグは『中量級』の同じカテゴリーなので、試合日程も同じになるのだが……。

 

 フェザー級のエントリーは4人。

 そして、ジュニアフェザー級のエントリーは『5』人。

 

 ……チクショウ。

 

 3月から試合をしていない俺は、当然ランキング外へと落ちている。

 そんな俺と、参加者の中でもっともランキングが低い選手との組み合わせが1回戦。

 それを勝って、準決勝だ。

 

 優勝するつもりなら、俺は3試合やらなきゃいけない。

 

 しかし、フェザー級のエントリーで、興味深い名前があった。

 組み合わせはこうなる。

 

『ヴォルグ対沖田』と『冴木対鈴木』。

 

 沖田圭吾は、伊達英二と同じジムに所属しているから、優勝してもタイトルマッチには挑めない。

 というか、スポンサーの想定は、『伊達英二対ヴォルグ』だ。

 

 たぶん、伊達英二のために……自分が闘ってヴォルグの情報を引き出したいとか、そんなとこだろう。

 おそらく、仲代会長も、沖田に押し切られた、か。

 

 冴木の相手の鈴木は、5月のタイトルマッチで伊達英二に負けた、インファイターだ。

 ベテランで、駆け引きも含めてわりと荒っぽいこともできる。

 技術と速度で勝る冴木が、それをどうさばくか。

 わりと面白い試合になりそうな気がする。

 

 

 

 

 7月下旬。

 

 最終調整段階の、ヴォルグとのスパー。

 4Rを、無事に終わらせた。

 

 最近は、ダウンはもらわない。

 ラムダの指示で防御に徹したときは、ほぼパンチをもらわなかった。

 ただ、防御だけでは勝てないからな。

 

 もちろん、ダウンを奪ったことは一度もない。

 

 経験というか、やはり慣れというものはある。

 そしてその分、ヴォルグの、ボクサーとしての奥を知る。

 

 ヴォルグというボクサーを語るのに、その上下のコンビネーションだけを取り上げても意味は無いが……とにかく、バリエーションというか、組み合わせが豊富だ。

 

 これはあくまでも、変化の一種なのだが。

 

 ヴォルグのアッパーをブロックする。

 こちらは、返しの打ち下ろしに意識を向けている。

 あるいは、空いている手でカウンターを狙う。

 そこで、ヴォルグの手がブロックしている俺の手をほんの少し押すのだ。

 

 人の身体は、押されたらバランスをとろうと反応してしまう。

 ある意味、無意識の反応。

 

 無意識に、それを押し返そうとする。

 わずかに、姿勢が前かがみになるというか、重心が移動する。

 

 正確に言うと、その、押し返そうとする俺の動きに合わせて、打ち下ろしをもってくる。

 

 人間の身体を熟知したラムダの指導、そしてヴォルグというボクサーの稀有な才能。

 その二つが可能にした、高度なテクニック。

 それを、さり気なくやる。

 

 傍から見れば、ホワイトファングの一言で片付けられてしまうだろうが、実際にそれをもらう俺に言わせれば、別種のコンビネーションだ。

 タイミング、角度、威力……多くのコンビネーションの中からひとつを選択して繰り出してくる。

 

 俺の連打は、細かく早く正確に……を目指していたが、瞬きするような時間の中の駆け引きの存在を知ると、安っぽく思える。

 自分がパンチを打ちやすいタイミングではなく、相手にパンチを当てやすいタイミング。

 

 まだ、できることがある。

 山は高く、海は深い。

 そして、世界は広い、か。

 

 

 

 ……まあ、ヴォルグが相手だと、そもそも連打の段階にもっていくのが困難なのだが。

 

 防御に関してはレベルが上がった気はするが、攻撃面では停滞している感じがする。

 というか、レベルアップした実感が持てない。

 そりゃあ、慣れもあってか、ヴォルグにパンチを当てることはできる。

 ただ、追撃を許してくれるような相手じゃない。

 

 

『ヘイ、速水』

『ああ、ラムダさん。どうしました?』

 

 ラムダの手には、球状のミットボール。

 

『ルールというか、マナー違反なんだがね……少し、見てあげよう』

 

 

 

 

 ラムダの構えるミットボールに、打ち込んでいく。

 

『速く、正確に。続けて』

 

 ミットの位置は、アゴの位置。

 距離は近い。

 

 左右のフック。

 そしてアッパー。

 

『連打だ。左右のフック』

 

 芯をはずしてしまう。

 それでもラムダは、俺に接近状態における高速の連打というか、コンビネーションを強要する。

 そして、ボディは打たせない。

 アゴの位置だけを狙わされる。

 

 3分という時間を越えて、ひたすら打ち込む。

 

 最初の一発目はいい。

 しかし、後続のパンチが芯をはずす。

 

 ミットボールを構えるラムダの手が、パンチを受けて細かくぶれる。

 その分、狙いが……。

 

 あ。

 

『……気づいたかね?』

 

 パンチを当てる。

 衝撃が、相手に伝わる。

 反動が、自分に来る。

 

『速水。君の連打は、速くて正確だ……しかし、間違った正確さだよ』

 

 ラムダが、俺の目の前でミットボールを左右にゆらゆらと揺らした。

 

『パンチを当てれば、相手の身体は動く。そして、元に戻ろうと反応する』

『俺は……俺が狙っているのは……同じ場所です』

『楽をしてはいけないよ、速水。考えることをやめてはいけない。なにより、クレバーさは君の武器だろう?パンチの衝撃でどう動くか、そして相手の反応を予測して、次のパンチを打つ』

『もっと、相手を見る?』

『ノー。大事なのはイメージだ。パンチを当てたあと、相手がどう動くか。反撃する余力があるかどうか、戦う意思が残っているかどうか。姿勢、バランス、そして自分の体勢。そして、相手の視界をもイメージすることだ』

『視界……ですか』

『シャドーボクシングでは、戦う相手を想像しておこなうね?それは君の視界だ。相手の視界を想像する。相手から見える自分をイメージする。君もそれをやっている……が、まだ浅い』

 

 

 目で見て、パンチを避ける事はできない。

 予測して避ける。

 なら、攻撃も同じか。

 予測して攻撃する。

 パンチを打とうと思ったときと、パンチを当てるときとでは、相手の身体、急所の位置はずれている。

 俺が良く狙うアゴは、なおさらだ。

 

 

 人間の脳は、頭蓋骨という器に満たされた液体の中に浮かんでいるようなものだ。

 頭部に衝撃を与えると、慣性の法則で脳が揺れる。

 その、人間の頭を支えているのは首だ。

 

 てこの原理。

 

 アゴの先を狙う。

 首から遠く、負担のかかる場所。

 左右のフックで狙えば、人の頭は瞬間的に回転する感じで大きく揺れる。

 

 それ故に、ピンポイントで狙わなければ、効果は薄い。

 少しのずれが、台無しにする。

 

 正確さ。

 間違った正確さ、か。

 

 

『ありがとうございます、ラムダさん』

『……別の指導者がついている選手への指導は、マナー違反だ。口外しないでくれ』

 

 え?

 ああ、そういう……。

 

『この国では、こうするのだったか?』

 

 ラムダが、一本指を立てて、唇の前にあてた。

 

『内緒だ』

 

 い、意外と、お茶目なところもあるんだ……。

 

『スパシーバ、ラムダさん』

『速水。君が、このジムにいた幸運に感謝する。おかげで、ヴォルグをいい状態でリングへと上げられそうだ』

 

 ミットボールをはずし、ラムダが俺に背を向けた。

 そして、立ち止まる。

 

『……ヴォルグはアマで200戦以上戦ってきたが、ここ2年の成績を知ってるかね?』

『いえ、詳しくは知りません』

 

 振り返り、ラムダが微笑んだ。

 

『国内、欧州、そして世界選手権。その全ての試合を、2R以内にRSC(レフェリーストップコンテスト……まあ、KO勝ちみたいなもの)だよ。それが、ヴォルグ……『私の』ボクサーだ』

 

 

 ラムダが歩き去り、しばらくしてから気づいた。

 

 もしかしてほめられたのか、俺?

 初めてのスパーも、一応2Rは耐えたし。

 

 

 考えることをやめるな、楽をしてはいけない、か。

 確かに……そうか。

 防御に比べたら、細かく正確にとか、フェイントも含めて、自分のやりたいことをやっていただけかもな。

 どんな状況でも、相手あってのボクシングだ。

 

 ……練習生相手に、『頭を使え』ってドヤってたのは誰だよ。

 

 

 

 しかし、私の(マイ)ボクサーか。

 本当に、海外のトレーナーはそういう表現を使うんだなあ。

 

 選手をモノ扱いした表現と言う人間もいるだろうが、もっと、こう……温かみを感じる言葉だよな。

 家族、あるいは一心同体という感じの。

 

 ふと、考える。

 俺は、誰のボクサーなんだろう?

 

 最初に門を叩いた、故郷のジム。

 高校の、ボクシング部の顧問。

 そして、音羽ジムの……まあ、村山さんになるのか。

 会長は、結構忙しいしな。

 

 あんまり、マンツーマンで鍛えてもらった記憶は無いんだよなあ。

 基本はともかく、自分で調べて、考えて、工夫して……練習スケジュールも、自分で決めてやってるし。

 俺のやり方は、ちょっと極端かもしれないけど、ある程度自由にやるのはボクサーとして珍しくはない。

 

 幕之内と鴨川会長のように、絆のようなつながりを持つ師弟は……たぶん、少数派。

 まあ、ほかに指導しなきゃいけないボクサーがいるのが普通。

 マンツーマンに近い指導は、どうしても専属トレーナー状態じゃないと、厳しい部分がある。

 

 

 ラムダの構えたミットボール。

 そして、次々と飛ばされる指示。

 

 ちょっと憧れる、かな。

 

 まあ……人は人、自分は自分、だな。

 

 

 それよりも、月が変われば、A級賞金トーナメントが始まる。

 暑い夏になりそうだ。

 




さあ、次からトーナメント開幕よ。

とりあえず、明日も更新。(予約)


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16:異変。

A級賞金トーナメント開始。
一応、全部の階級で開催されていると思ってください。
なので、日程とかそのあたりは分散したということで。


 8月。

 

「今日も、暑いよなぁ」

「はは、そうっすね」

 

 独り言じみた会長のつぶやきに、相づちを返す。

 

 7月末から、太平洋高気圧が例年よりもせり出してきているそうだ。

 日本列島の各地は、猛暑に見舞われている。

 

「ヴォルグ、大丈夫か?」

「何、デスか?」

 

『日本の夏は、かなり特殊らしいからな。きつくないか?』

『私の故郷、冬は寒く、夏は暑い。大丈夫、と言いたいけど……やっぱり暑いよ』

 

 そう言って、ヴォルグが笑う。

 

 ヴォルグの故郷の村は、いわゆるシベリアと呼ばれる地域にある。

 まあ、シベリアといっても広いのだが、大陸内部の、1年の寒暖差が激しい地域だ。

 冬は、氷点下20~30度……気温が低すぎて、雪そのものはそれほど多くないそうだ。

 ただ、すべてが凍りつくような雪原を、風が強く吹きぬけていく、と。

 

 そして、夏は……時には、30度に達することもある、と。

 

 

 まあ、連日、30度を越えるのが当たり前の日本の夏だからな……一部地域を除く。

 前世も含めて、俺の感覚としては、都会は暑い。

 あと、湿度。

 

 しかし、ラムダは平然としている。

 70を越す鴨川会長ほどじゃないけど、ラムダも還暦が近い年齢なんだが。

 

 

 

 

 前日計量。

 

 明日の試合に出場する選手が集まって、計量を受ける。

 もちろん、全階級の試合を一度に行うことはできないから、おおまかに軽量級、中量級、重量級の3つにわけて日程が組まれている。

 基本的に、同じ階級の選手は、同じ日程だ。

 回復期間などの、不利が出ないようにする配慮だろう。

 なので、今日のジュニアフェザーの選手は、唯一の1回戦に出場する2人しか来ていない。

 

 バンタム級、ジュニアフェザー級、フェザー級、ジュニアライト級の4階級。

 近い階級のA級ボクサーが、20人近く集まる光景は壮観だ。

 そしてほぼ全員が、ランカー。

 

 見れば、鴨川ジムの木村さんもいる。

 軽く、右手をあげて挨拶しておく。

 そういや、ライト級の青木さんとは、別の日程になったんだな。

 

 東邦ジムの、間柴もいた。

 面識は無いから、見ないふりをした。

 ただ、身長が180近いから、さすがに目立つ。

 しかし、フェザーの頃より、肌の感じは良く見える、な。

 

 2人とも、ジュニアライト(スーパーフェザー)級のエントリー。

 

 そして、俺の戦場はジュニアフェザーだ。

 とはいえ、ヴォルグがエントリーするフェザー級の方に、知り合いは多い。

 

「よっ、速水」

「ああ、冴木さん……このたびは残念でしたね」

「おい」

 

 肩を小突かれる。

 そして、耳元で。

 

「一応、オリンピックを目指してたから、噂では聞いちゃいたが……ヴォルグってのは、そこまでなのか?」

「はは、俺が遊ばれる程度ですよ」

 

 冴木が顔色を変えた。

 

「12オンス、そしてヘッドギアで、何度かKOされてます」

「……マジかよ」

 

 まあ、高校時代からの古いなじみだ。

 脅かすだけってのも、あれか。

 

「足は冴木さんのほうが速いかな」

「……それ以外は、全部劣るってことか」

 

 冴木が、ヴォルグのいるほうを見つめ……目を閉じた。

 そして、開く。

 

「スリル、ありそうだな」

 

 この、切り替えはさすがだな。

 でもまあ、鈴木との試合に勝ってからだ。

 冴木がヴォルグとやるとしたら、その次の、決勝での話。

 

 

 音羽会長が、仲代会長と話をしていた。

 ということは、沖田もいる。

 ちょっと、声をかけづらい雰囲気だな……。

 

 しかし、仲代会長が俺を見た。

 

「よう、速水くん……どうだい、調子は?」

「ぼちぼちと言いたいですが、この暑さにまいってますよ」

「確かになぁ……」

 

 一応、沖田にも声をかけておいた。

 

 ……ヴォルグしか見てねえな。

 

 

 

「計量を始めます。最初に、バンタム級の選手から。名前を呼ばれたら……」

 

 ジュニアフェザーは、バンタムの次か。 

 少し近づいておく。

 

 

 フェザー級の契約体重は、122~126ポンド。(約55.3~57.1キロ)

 ジュニアフェザーでは、 118~122ポンド。(約53.5~55.3キロ)

 

 俺は大体、125ポンド前後で試合に臨んでいた。

 つまり、いつもより3ポンド……1.4キロほど、絞る必要があるわけだ。

 

 ダイエットと減量は異なる。

 ダイエットは、健康を目指し、健康的に体重を減らしていく。

 しかし減量は、健康な身体から『何か』を失う作業だ。

 その期間が長くなれば長くなるほど、消耗も激しくなる。

 

 俺は、普段から節制を心がけていた。

 それゆえに、少し甘く見ていたかもしれない。

 

 わずか、1.4キロという現実を。

 

 

 前世では、選手の健康のためにと提唱された前日計量は、新たな技術を生み出し、新しいゆがみを生んだ。

 前日の体重と、試合当日の体重とで、5~6キロの違いは当たり前という状況をまねいたのだ。

 ルールが変わると、それに対応する『技術』が生まれる。

 わかりきっていたことだ。

 これはボクシングに限らない。

 目に余るというので、前日計量との差異がリミットの5%を越えたらダメという方針を打ち出した競技もある。

 

 後追いの対応などと言うが、基本、対応とは後を追うものだろう。

 

 その技術の一つに、『水抜き』というものがある。

 

 PH7.4。(あくまでも基準値)

 人間の身体は、血液のそれを保とうとする。

 塩分を取ると、酸性に傾く。

 水が欲しくなる。

 カリウムを摂取すると、アルカリに傾く。

 水が欲しくなる。

 

 つまり、身体から水分を抜く場合、重要なのはバランスだ。

 これは、数値を測定しながら適切な栄養素を摂取する必要がある。

 汗を流し、尿を出し、数値を測定。

 バランスをとるための栄養素を摂取し、また水分を搾り出す。

 その繰り返しだ。

 しかし、バランスを保ったからといって、その状態でいられるのは3日ほど。

 それを過ぎると、むくみというか、身体が水分を出さなくなる。

 汗が出ない、尿が出ない、本来は出さなきゃいけないものを出さないのだから、身体のバランスは崩れ、体調は悪化していく。

 

 水抜きと呼ばれる減量法の基本は、短期間で一気に減らすこと。

 そして、すぐに回復させること。

 もちろん、消耗の度合いが少なくなるという意味だ。

 消耗せずに減量できるという意味ではない。

 

 当然だが、失敗すると……消耗どころか、会話の受け答えさえ満足にできない状態に陥る。

 身体の生命活動の基本である、電荷物質のやり取りそのものが阻害されるからだ。

 

 そして、この方法は知識だけではできない。

 適切な栄養タブレットや、医薬品、そして専門知識を持つ健康管理者の存在が必須。

 この時代は、『まだ』そこまで技術が発展していない。

 やれたとしても、非常にコストがかかるだろう。

 ノウハウの蓄積も無く、一般レベルまでその情報や技術が降りてくるのは、ずっと先のことだろう。

 ただ、遠い未来ではない。

 それは確かだ。

 

 

 

 

 さて、顔には出していないつもりだが、調子が悪い。

 最悪とまではいかないが。

 

 ぶっつけでの、ジュニアフェザーへの減量。

 減量の時期を、タイミングを間違った。

 理想は、計量日の、その瞬間に、タイミングを合わせること。

 仮に、体重を早めに落とすと、計量日まで維持しなきゃならなくなる。

 それも、体力を消耗する原因となる。

 

 ダイエットでも、摂取カロリーを減らすと風邪をひきやすくなったりする。

 さまざまな形で、身体の抵抗力が落ちるからだ。

 なので、ビタミンやミネラルなどのタブレットを併用する手法がとられるのだが、これは普段めちゃくちゃな栄養バランスの食事をしている人間にも成り立つ。

 普段から、ビタミンやミネラルが不足がちなのになんともない。

 しかし、ダイエットを始めると、急に風邪を引いたり、体調を崩したりすることがある。

 

 これは、三大栄養素が生み出すカロリーが、サポートしてくれているからだ。

 ある意味、生命力みたいなもの。

 もちろん、限度はあるが。

 

 そして、減量は……その生命力を減らすことだ。

 その状態を維持することも、身体の消耗をまねく。

 減量が、健康な身体から『何か』を失う作業というのは、そういう意味だ。

 

 いきなり暑くなったのも災いした。

 結果として、消耗する時間が増えてしまった。

 

 5月か6月に、一度試合を想定して、減量を経験しておくべきだった。

 ヴォルグとのスパーに夢中になって、何とかなるだろうですませてしまった。

 

 ボクシングを甘く見た、俺の罪。

 そして、罰だ。

 

 まあ、スポーツの世界で、相手に弱みを見せるなんてもってのほかだ。

 いつもどおりの、俺を装う。

 ただし、会長には言ってあるが。

 

 そして、いつもの会長だ。

『お前なら、なんとかなるさ』と。

 俺がナーバスになれば、楽観的に。

 俺が調子に乗れば、注意してくれる。

 

 ニュートラルであること、普通であること。

 普通であれば、俺は勝てると……会長なりの、俺への信頼。

 

 

「ジュニアフェザー級に移ります。速水選手、佐島選手、お願いします」

 

 返事をして、服を脱ぐ。

 

 周囲からの視線を感じた。

 見られている。

 肌艶の悪さは隠せない……と言いたいが、薄くクリームを塗ってある。

 

「122ポンド。速水選手、OKです」

「どうも」

 

 計量係の人に頭を下げ、退く。

 服を着る。

 

「やあ、速水君。明日はよろしく」

「こちらこそ、ですよ。佐島さん」

 

 明日の俺の対戦相手。

 ジュニアフェザーの参加者の5人の中では、俺とこの佐島がランキングが低いってことだ。

 

 佐島……ランキング7位だが、5人の中で最年長。

 2年前、そして4年前にタイトルマッチを経験している。

 特に、4年前のタイトルマッチは判定で、引き分けだ。

 戦績は、28戦して19勝8敗1分。

 力はある。

 ただ、所属するジムの力が弱かった。

 うまくやれば、もうひとつ上にいけたんだろうが……もたもたしているうちに、ボクサーとしてのピークが過ぎたと見られている。

 年齢的にも、これが、ラストチャンスだろう。

 

 まあ、チャンスを与えるつもりも無いが。

 

 

「しかし、何故速水君はジュニアフェザーに階級を落としたのかな?」

 

 そう言って、佐島がわざとらしく首をひねる。

 

「雑誌の記事には、その辺の事情が書かれていなかったからね」

「おい。うちのジムの事情に……」

 

 音羽会長の言葉を手で制した。

 そして、にこりと笑う。

 

「テレビ局から要請されたんですよ。ジュニアフェザーでやってくれと」

 

 絶句という言葉がふさわしい表情。

 佐島も、そして周囲も。

 

「お、おい、速水……」

「あ、これって、内緒でしたっけ?」

 

 音羽会長を見て、しまったという表情を作る。

 まあ、内緒もなにも、嘘なんだが。

 そして、すべてが嘘というわけでもない。

 

「すみません佐島さん。詳しい話はテレビ局に聞いてください」

 

 その、伝手があればな……とまでは言わないでおく。

 

 ……いい表情だ。

 

 安い挑発は、俺の力を認めてくれた証拠だ。

 とはいえ、俺も木石ってワケじゃないんでね。

 

 先に挑発してきたのは、そっちだ。

 文句は言うなよ。

 

 

 ……誤解の可能性も、わずかだがあるかもしれない。

 単に空気が読めない人だった、とか。

 

 

 

 

 しかし、これまでなら計量後は記者が集まってきたものだが……。

 スポンサーを失うというのは、こういうことなのかね。

 

 記者の目当ては、まずヴォルグだ。

 通訳の人を介してのやり取りだから、普通よりも時間がかかる。

 ヴォルグの日本語は、簡単な挨拶や日常会話程度ならともかく、踏み込んだ取材に応じられるようなレベルじゃない。

 俺の体調が万全なら、サポートしてもいいんだが……さすがに、な。

 

 そして、対戦相手の沖田は、握手の写真を撮られただけで、後は放置状態。

 

 沖田も、新人王を獲った無敗のホープだ。

 注目を受けるのが当たり前だっただろうに。

 あれもなかなかきつそうだ。

 

 と、藤井さんが単独でいったか。

 あの人、わりと判官びいきのところがあるような気がする。

 まあ、それがあるからこそ、ボクサーに対する親身の取材というか、記事が書けるという部分があるんだろう。

 

 

 まあ、ヴォルグへの取材が終わるまで待って、一緒に帰るか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 軽く、身体を動かす。

 なんともいえない、気持ちの悪さ。

 

 昨日より大分ましだが、俺は、調子が悪いと感じている。

 

 それなのに。

 身体が、いつもより動いているように思える。

 

 俺の中のイメージと、現実のずれ。

 

 冴木とのスパーで、わざとフォームを崩して予測をずらし、パンチを当てたこと。

 今、俺は自分の身体にそれを仕掛けられているようなものだ。

 

 試合が始まったら、まずは細かい修正から、か。

 しかし、長い試合にはしたくない。 

 

 

「速水選手、準備をしてください」

 

 ヴォルグに向かって手を振っておく。

 

 今日は、ジュニアフェザーの試合は、1試合だけだ。

 俺の試合の後に、ヴォルグと沖田の試合になる。

 

「リュウ。ファイト」

 

 うなずきを返し、俺は控え室を出た。

 

 

 

 

 

 リングに上がる。

 観客に向かって、手を振る。

 いつもの俺を演じる。

 

 足の運び。

 手を上げる動作。

 俺のイメージと、現実をすり合わせていく。

 

 集中。

 いつもより、観客の声が遠い。

 

 

 リングの中央。

 レフェリーの注意。

 佐島の、俺を見る目。

 

 コーナーに戻る。

 

「楽に行け、速水」

「ええ」

 

 ……どうかな。

 

 相手の目が、笑ってないんだよなぁ。

 まあ、昨日のこともある。

 

 

 ゴング。

 

 

 リングの中央。

 俺が伸ばした右手に、相手の左手が伸びる。

 

 ……わかりやすい。

 そして、雑だ。

 俺の右手に、利き腕をのばしてこない理由。

 

 ポン、と。

 佐島の左手が、俺の右手を外へと強くはじく。

 

 そして、利き腕の右で……。

 

 細かく狙わず、相手の鼻をめがけて左を繰り出した。

 全部で5発。

 突き放した。

 

 ラムダの言葉を思い出す。

 

『圧力を感じない』

 

 つまり、なめられやすいってことだろう。

 

 アマのエリート。

 苦労知らずの、若造。

 それが、スポンサーに切り捨てられた。

 階級変更。

 挫折。

 

 佐島から見た俺は、そんなところか。

 まあ、精神面で揺さぶろうとするってことは、ボクシングは評価してくれてるのだろう。

 そこは、素直に受け取っておく。

 

 

 追撃はせず、俺は肩をすくめて観客にアピールしておく。

 この試合は、見られている。

 ジュニアフェザーのランカーたちに。

 余計な情報は与えないつもりでやる。

 

 ……弱みは見せない。

 

 相手が立て直したのを見て、俺も再び構えを取った。

 

 確かめるように、左を打つ。

 軽いステップ。

 

 左の修正が最優先。

 そして、フットワーク。

 

 

 佐島の動きが大きい。

 上体を大きく振り、時折、足でドンと音を立てる。

 

 ……まあ、パンチの届く距離に入らない限り、相手にはしない。

 

 顔を突き出し、すぐに引っ込める。

 けん制と幻惑、そして俺の距離を探るためだろう。

 あるいは、挑発。

 

 俺は、手を出さずにじっと待つ。

 

 前、後ろ、前、後ろ。

 そろそろ、はずしてくるか。

 

 佐島の大きな踏み込み。

 

 左で、はねあげた。

 踏み込んでもうひとつ。

 

 

 上体を揺らす。

 トリッキーな動きがあまりなじんでいない。

 隙が大きい。

 

 ひきつけて、左。

 丁寧に。

 確かめるように。

 相手の出鼻をくじき続ける。

 

 左の感覚。

 それをつかむ。

 

 ヴォルグに学んだタイミング。

 前足に重心を移動する瞬間。

 拳に返ってくる、感触が違う。

 

 もちろん、そのタイミングに固執すると単調になる。

 

 

 佐島の動きが、オーソドックスに戻った。

 と思ったら、ラフにきた。

 

 半身になって、身体ごと突っ込んでくる。

 

 横に回り、佐島の横顔に右を叩きつけた。

 イメージとずれる。

 左を2発。

 距離をとる。

 

 また、半身で肩から突っ込んでくる。

 ただし、左手を広げて。

 

 敢えて、左手のほうに回り、その手を下に叩き落した。

 振り返った顔に、右。

 右。

 右。

 

 パンチが伸びる。

 

 これは、減量のせいか?

 

 減量による、消耗期間が長かった。

 そして、いつもより体重が少ない。

 

 少なくとも、身体全体のエネルギーは少ないはずだ。

 調子も良くない。

 なのに、身体は動いているように思える。

 

 ……いい気になると、ガス欠コースだな。

 

 抑えていく。

 余裕で流しているように見せかける。

 

 

 

 何度も仕掛けてくる。

 それを、丁寧にあしらう。

 

 佐島の表情が歪みだす。

 馬鹿にしているわけじゃないんだがな。

 俺は俺で、必死なんだ。

 

 次は、フックを確かめる。

 

 左のフェイント。

 相手を踏み込ませる。

 遅い。

 ガードも甘い。

 

 左フックを打ち込む。

 追撃はせず、回り込んだ。

 

 

 ん……む?

 ずっと、ヴォルグとスパーしてたから、基準が狂ったか?

 いくらなんでも、手ごたえが無さ過ぎる感じが……。

 

 まあ、今日の俺としては都合がいい。

 

 今度は、左フックをガードの上に叩きつけた。

 そして、右フックでアゴを打ち抜いてやる。

 少し、狙いがずれた。

 

 相手の動き。

 相手の反応。

 癖。

 

 ずれは、自分だけじゃない。

 予測を、読みを、修正していく。

 

 イメージと現実を重ねていく。

 作業を積み重ねていく。

 

 

 

 大分ピントが合ってきた。

 なのに、佐島が仕掛けてこなくなった。

 

 疲労か?

 あるいは、作戦を考えているのか?

 

 残り10秒。

 

 両手を広げて相手を誘ったが、近づいてこなかった。

 

 

 

 コーナーに戻ると、音羽会長が肩に手を置いてきた。

 

「……速水、次で終わらせてやれ」

「え?俺がいじめてるみたいじゃないですか」

「みたいじゃねえよ……佐島のやつ、まともなパンチを一発も打ててないじゃないか」

 

 あぁ、まあ……丁寧に、全部潰していったからなあ。

 

「客も、女性ファン以外は静かになっちまって……」

 

 音羽会長に言われて、観客席に目をやった。

 

 ……ん。

 

 2階に幕之内を発見。

 木村さんの応援か。

 

 ちょっと遠いが気づくか?

 

 なぜか、目を逸らされた。

 

 

 

 2R。

 

 

 警戒しながら、コーナーを出た。

 

 佐島は来ない。

 

 終わらせろと言われても……。

 倒すには、相応のダメージを与えなきゃならない。

 そして。

 

 ……近づいてこないから、俺から近づくしかない、か。

 

 身体が動く分、気持ちはのんびりいこうか。

 急がず、慌てず。

 左右にフェイントを仕掛けながら、近づいていく。

 

 佐島の距離。

 左。 

 

 手を出そうとした瞬間に殴る。

 俺の、いつものやり方。

 小さいパンチには細かく。

 大振りには強く。

 

 ホールの客なら、俺がこれを始めると終わりが近いことを知っているはずだ。

 当然、佐島も。

 

 突っ込んでくる。

 

 ガードの隙間から、アッパーで突き上げた。

 右フックでアゴを狙う。

 狙いがずれた。

 左フックを返す。

 これも、狙いが甘い。

 

 やりなおし。

 

 右のアッパーで突き上げ、左のフック。

 右でボディを。

 頭が下がったところを、左のアッパーで。

 そこを、右フック。

 

 ん?

 

 俺の目の前で、すとんと、佐島が膝から落ちた。

 そのまま、前のめりに倒れる。

 

 レフェリーが近寄り、両手を交差。

 試合を終わらせた。

 

 そして俺は、右手を見つめる。

 

 ……最後の右フック。

 なんか、手ごたえが違った。

 いや、キレイに抜けた感じ、か。

 

 それが、正しいのか間違っているのかわからないのがもどかしいな。

 正しかったとしても、今のは、偶然でしかない。

 

 

 

 勝ち名乗りを受ける。

 

 いつもの女性ファン。

 そして、いつもより静かな観客席。

 

 なんだろね。

 静まりかえっちゃって。

 どんな相手でも、倒せばそれなりに盛り上がるものなのに。

 

 

 まあ、そんなことよりも大事なことがある。

 

 リングを後にしながら、会長に話しかけた。

 

「会長、ヴォルグの試合を見た後、ジムでちょっといいですか?」

「何をするんだ?」

 

 声を潜めて。

 

「たぶん、スタミナが続きません。この状態で、どのぐらい保つかを確かめたいんです」

 

 会長の表情が、変わった。

 

「……そうなのか?」

「たぶん……フェザーの感覚で動き回ると、8Rは無理な気がします」

「調整を失敗したからじゃなく、か?」

「今日を基準にすれば、それはそれで見えるものもありますし……俺の次の相手は、あの人ですよ」

「……それもそうか」

 

 おそらく、瞬間最大風速でいうなら、この階級の方がいい。

 しかし、8R、10R、あるいは12Rの戦いを想定すると……ベストとはいえない。

 それは、戦略の幅が減少することを意味する。

 

 相手に知られたら、長期戦に持ち込まれる。

 それは当然、余計な焦りを生む。

 

 自分の限界を知らなければ、焦りは加速するだろう。

 知らないことは、怖いことだからな。

 

 俺は、自分を……ジュニアフェザーの自分の身体を、知るべきだ。

 

 

 

 通路の途中で、ヴォルグとすれ違う。

 まずい、次の試合だから、もたもたしてると終わってしまう。

 

『ヴォルグ、ラムダさん。幸運を』

『ありがとう、リュウ』

『ノー。幸運が必要な展開には、ならない』

 

 ラムダが、かすかに微笑む。

 本音なのか、ジョークなのか……判断が難しい。

 

 

 

 

 

 

 ヴォルグが登場した瞬間、会場の空気が変わった。

 ああ、やはりな。

 

 今日のホールの客の目当てはヴォルグだ。

 

 旧ソ連のボクサーは、ペレストロイカが始まるまで、アマチュアで実績を残しながらも、プロの世界へと飛び込んでくることは……まあ、その手段は、亡命するしかなかった。

 日本人のボクシングファンにとっては、ベールに包まれた実力者。

 その、お目見えだ。

 

 沖田には悪いが……ホールの客の期待は、裏切られないだろう。

 

 試合開始直後から、沖田が仕掛けた。

 猛烈にラッシュをかける。

 

 10秒。

 20秒。

 

 そろそろか。

 

 俺も、ヴォルグも、相手を観察する。

 俺は、観察に1~2分、時には丸々1Rかける。

 しかし、ヴォルグはそれが早い。

 経験か、あるいは俺に見えないものが見えているのか。

 俺とのスパーのときは、30秒ぐらいだったな。

 それが、相手とのレベル差によるものだったら、ちょっとツライものがある。

 

 沖田の猛攻の最後。

 コークスクリューブロー。

 

 ……悪手だ。

 

 最後の最後まで、隠しておくべきだった。

 通用するかしないかは別として。

 

 たぶん、焦りだろう。

 ヴォルグという圧力に屈して、札を切らざるを得なかったか。

 

 

 ヴォルグの細かいパンチ。

 それを機に、連打が始まった。

 まずは、ガードの上から。

 ラフに見えるが、あれで反撃のパンチを封じる。

 そして次は、ガードの隙間を狙う。

 

 ヴォルグのアッパーが、沖田の顔を突き上げた。

 流れるように、右ストレートで突き放す。

 あっという間に、ロープ際。

 

 チャンスだが、まっすぐは行かない。

 狼の狩り。

 一匹狼という言葉があるが、狼は集団で狩をする。

 左右へのフェイントのステップ。

 クイックシフトをはさみながら、至近距離に。

 

 左右、上下から、狼の牙が襲い掛かる。

 

 

 最初のダウンから立ち上がったのは、せめてもの沖田の意地だろう。

 しかしそれも、10秒もしないうちに叩き折られた。

 

 一瞬静まり返ったホールが、大歓声に包まれる。

 

 歓声。

 空気の振動。

 それを味わいながら、俺は目を閉じた。

 

 俺の試合の後とは違う。

 これが、ヴォルグと今の俺との差だな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジムに戻って、マスクをつけてのミット打ち。

 音羽会長と、村山さんの2人を相手に、コーナーからコーナーへと移動しながら、パンチを放ち続ける。

 

 リングの外では、ヴォルグとラムダが見守ってくれている。

 

 2R。

 3R。

 

 5Rの途中に、それはきた。

 

 全身の重み。

 出足が鈍る。

 パンチが鈍る。

 

 はは、こんなに早く……か。

 フェザーのウエイトなら10Rこなして、まだ動けたんだが。

 

 相手の攻撃はない。

 ダメージもない。

 マスクはつけているが、試合よりもぬるい負荷だ。

 もちろん、試合ならずっと動きっぱなしにはならないけどな。

 

 良く考えて、試合の2Rも含めて6~7R。

 悪く考えて、全力で4R。

 

 まあ、調整失敗の分もあるだろう。

 しかし、最悪とまではいかずとも、悪いほうに考えておくべきだ。

 

 しかし、これは本当にガス欠か?

 呼吸は、それほど苦しくない。

  

 

 脳の血管は、極めて細い。

 血管の中の、大きな分子量のエネルギー源は、脳には届かないというか、不適切とされている。

 単純な分子構造の、グルコースのみが、脳へのエネルギー源。

 グルコースは、炭水化物が体内で加水分解されて生成される。

 

 炭水化物をカット、あるいは計算せずに極端に減らしたダイエットを実行すると、頭がボーっとするのはそのせいだ。

 

 もちろん、グルコースは身体を動かすエネルギー源でもある。

 ただし、グルコースが不足すると……人の身体は、脂肪とたんぱく質……主に、筋肉たんぱくを分解して、エネルギー源を作り出す。

 その比率は1対1と言われ、炭水化物をカットしたダイエットは、脂肪だけでなく、筋肉も減らす。

 

 そうして作り出したエネルギー源は、分子量が大きく、脳へのエネルギーにはならない。

 身体を動かすエネルギーとして使われる。

 

 今、俺の思考が鈍っているという自覚はない。

 つまり、脳の栄養素、糖分は供給されている。

 

 ならば、ガス欠ではなく、疲労か。

 この程度で、か?

 

『……おそらく、減量が原因だよ、速水』

『ラムダさん……』

 

 俺と、会長がラムダを見た。

 もちろん、音羽会長も英語は話せる。

 

『君の過去の試合は見せてもらった……豊富な手数を支えるスタミナも十分うかがえた』

 

 ラムダが、指を二本立てた。

 

『体力、スタミナには、2つの柱がある……ひとつは、肺活量。そしてもうひとつは、回復力』

 

 ラムダが語る。

 

 減量は、身体の機能そのものを低下させる。

 推測だが、減量、あるいは調整ミスによる消耗によって、俺の身体の回復力が低下した。

 これまで、疲労と回復がつりあっていたバランスが、崩れたのかもしれない、と。

 

『人の筋力は、40歳近くまで成長力をキープする。しかし、ダメージからの回復などは、20歳を過ぎれば衰えていく……怪我の治りが遅くなったと聞いたことがあるだろう?』

 

 スポーツ選手にとっての、3つの時期。

 20歳、23歳、28歳。

 

 20歳から、回復力が衰え始める。

 23歳から、成長力が衰え始める。

 28歳から、目の働きが衰え始める。

 

 もちろん、個人差はある。

 

『速水。君はあと1年か2年で、ジュニアフェザーを卒業すべきだと思う。ヴォルグも、あと3年経てば、ベストウエイトはジュニアライトになるはずだ……人の身体は、年齢とともに変化していくからね』

 

 そして、最後にラムダは言った。

 

 アスリートは、過去ではなく、今の自分に向き合うべきだ、と。

 変化を受け入れ、対処していこう、と。

 

 

 

 なるほど。

 高校のときから、ほとんどナチュラルウエイトでやってきた分……認識が甘くなっていたか。

 忘れていたわけではなかったが、どこかで甘く見ていた。

 

 俺の、次の試合は約1ヵ月後。

 まずは、体重をどこまで戻すか。

 そして、体重を戻すペースをどうするか。

 その上で、いつ、減量を始めるか。

 

 減量が消耗期なら、増量は回復期にあたる。

 大きく回復させたら、減量で大きく消耗する。

 バランス、だな。

 

 今の自分と向き合う、か。

 




オリキャラと言うか、独自路線に入ったのでやや心配。
残りの2試合は、対戦相手の存在感みたいなものを表現できたらいいなと思います。


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17:19勝して2KOの男。

モデルはいません。(目逸らし)


 9月。

 

 暑い夏は終わったが、暑い秋が訪れた。

 まあ、暑さ寒さも彼岸まで……だといいが。

 

 

 先月の試合の後。

 まずは、ラムダと音羽会長の話を聞いてプランを立てた。

 休養中の最初の3日の食事のケア。

 減量後のボクサーの身体は、乾いたスポンジに似ている。

 前世で一時流行った、カーボローディング……それの古典状況だが、試合前ならともかく、試合後のそれはいろんな意味であまり良くない。

 減量のダメージは、胃腸や消化器官系にまで及んでいるからだ。

 

 そして、減量状態での試合で傷ついた筋肉のリカバーに、たんぱく質というか、アミノ酸の補給。

 たんぱく質と言っても、身体に必要なアミノ酸は30種類あるとされ、市販のプロテインをぶっこめばいいという話でもない。

 

 とまあ、ここまでなら俺も知識としてはあった。

 ただ、あくまでもスポーツ選手としての知識。

 そして、ラムダはボクシング指導者としての専門家だ。

 

 3日を過ぎた後の、4~7日にかけての、体重の戻し方。

 炭水化物とたんぱく質のバランス。

 このあたりの細やかさは、ラムダの知識にはかなわない。

 当然個人差はあるが、経験がある程度それをカバーする。

 

 そうした知識やノウハウが積み上げるもの。

 ひとつひとつは小さいかもしれないが、積もれば大きな差となって現れるだろう。

 

 とりあえず今回は、完璧ではないが、ベターな減量ができたと思う。

 少なくとも、前回とは雲泥の差だ。

 

 

 しかし……前世での知識が、旧ソ連での1970~80年代のノウハウに余裕で遅れをとるって、どういうことですかね。(震え声)

 

 まあ、国家のバックアップがあってこそのノウハウもあるので、それら全てを実行することもできないぶん、ラムダとしてももどかしく感じる部分はあるんじゃないだろうか。

 最善ではなく、次善。

 現実の中で、ベターを選ばなければいけない状況。

 アスリートと指導者には、冷徹なリアリストの部分が必要なのが良くわかる。

 

 強さを求めるなら、金が全てとはいわないが、少なくとも、金をかけられるほうが良い。

 

 ボクシングはただでさえ体重制限のある競技だ。

 高額のファイトマネーが飛び交うようになると、タイトルマッチはビジネスになる。

 

 専門のスタッフが対戦相手を分析する。

 リスクが最小の戦術。

 それを可能にする肉体改造と、練習プラン。

 重ねて言うが、ボクシングには体重制限がある。

 対戦相手にフック系のパンチが有効だとしたら、速くて強いフックを打つための筋肉を増強する。

 その、増強した分は、どこからか削らなければいけない。

 肉体のバランスが変われば、能力というか戦力も変わる。

 そして、戦い方も。

 

 それを含めての分析で、専門スタッフの存在だ。

 

 つまり、勝てるプランがあり、肉体改造できる期間を確保してから、対戦相手を決定する。

 そして、勝てない、あるいはリスクが高い相手からは、対戦から逃げる。

 スタッフにとっては、スポーツではなく、ビジネスだから当然だろう。

 スタッフの要求に応えるため、選手個人にもきわめて高い能力が要求されるのは言うまでもない。

 

 そうすると、ビッグマッチが成立するためには……ファイトマネーで折り合うケースか、仮に負けても選手の商品価値が下がらないケースに限られてくるのかもしれない。

 ファンが熱望するビッグマッチがなかなか実現しないのも当然か。

 

 まず勝ってから臨むのは、戦略としては完璧に正しいのだが……ファンが求めるのは『勝負』だろう。

 どちらが勝つか、どちらが負けるかわからない。

 戦いの中に、勝ちと負けがある。

 そしてそれは、どちらに転ぶかわからない。

 それこそが勝負で、願わくは名勝負になることを……。

 

 ……正直、戦いに挑む人間としては、できるだけそういう戦いは避けたいと思うが。

 衣食足りて礼節を知る、と言うわけではないが……栄誉とか、満足のいく戦いを、などと言い出せるのは、ある程度満たされてからじゃないかとも思う。

 

 まあ、高額のファイトマネーが定期的に手に入る状況でない限り、専門スタッフを抱えて……なんてことは難しくなる。

 スポーツトレーナー、医療スタッフ、広報担当……複数の優秀な人間、そして必要な機材をそろえる企業を設立するようなものだ。

 しかも、選手としての寿命が、企業の寿命に直結するわけだ。

 

 スタッフやプロモーターは、それに代わる選手の育成と『養殖』に余念が無いことだろう。

 

 

 光を求めれば影ができる。

 強い光を求めれば、影も濃くなる。

 

 ……難しいところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 計量場所を見渡す。

 

 今日というか、明日はフェザー級の試合は無い。

 参加者が4人で、先月に準決勝を終わらせたから、次は決勝になる。

 なので、ヴォルグはお休みだ。

 

 今日ここに集まっているのは、バンタム級、ジュニアフェザー級、ジュニアライト級、そしてライト級の4階級の選手たち。

 どの階級も、明日は準決勝が行われる。

 

 この前はいなかった、ライト級の青木さんもいる。

 そして、木村さんも。

 

 まあ、間柴もいる。

 また少し、身体つきが変わった感じがするな。

 推測になるが、間柴は筋肉がつきにくい体質だろう。

 階級を上げたことによって、トレーニングに幅が出せたのかもしれない。

 

 

 前回は少しさびしかったジュニアフェザーだが、一回戦を勝った俺と、残りの3人の、合計4人。

 勢ぞろいしている。

 というか、俺への視線を感じる。

 

 高校のインターハイも、こんな感じだったな。

 あの頃は、興味や敵視、そして嫉妬など、さまざまな視線にさらされた。

 

 ジュニアフェザーは、良く言えば群雄割拠。

 そして、悪く言えばどんぐりの背比べと評されている。

 というのも、この数年、3度以上防衛を果たした王者がいなかったからだ。

 王座奪取から最高でも2度の防衛ということは、ほぼ1年未満でころころとベルトが人から人へと移り渡っていることを示している。

 関係者が苦笑しながら『ジュニアフェザーのベルトは移り気だ』と語るのも無理はない。

 現王者の真田にしても、原作では5度の防衛を果たしたが、今はまだ初めての防衛戦をクリアして、2度目の防衛戦が近づいている状況に過ぎない。

 初の防衛戦は難しいとされるが、真田もかなり苦戦した。

 それで、少し評価を落とした……現状はそんな感じだ。

 

 とまあ、ジュニアフェザーのカオス状態を示すように、この前の試合相手の佐島もそうだったが、俺以外の参加者全員が、タイトルマッチ経験者だったりする。

 

 ただし、ランキング4位の和田は、バンタム級のタイトルマッチで敗れて階級を上げてきたクチだ。

 バンタムのランキング1位としてタイトルマッチに挑んだことからも、実力はうかがえる。

 サウスポーで、やや変則のボクシングをする。

 

 そして、真田の初防衛戦の相手で、雪辱を期しているであろう後藤。

 ランキングは3位。

 インファイターよりの、右ボクサー。

 

 最後の1人が俺の相手になるんだが……ジュニアフェザーの、前王者だ。

 3度目の防衛戦となるチャンピオンカーニバルで、真田にベルトを奪われた。

 この人も、防衛戦3度目の壁に阻まれたことになる。

 

 ただし、この人はその前にも王座についていたことがある。

 そのときは、初めての防衛戦で敗れた。

 その後に、復権というか、奪い返したわけだ。

 実績で言うなら、この人が抜けている。

 

 ランキングは2位。

 珍しいタイプというか、生粋のアウトボクサーだ。

 戦績は、22戦19勝2敗1分で、KO勝ちは2つしかない。

 負けは2つとも、KO負けだが……ひとつは、最初の防衛戦のもので、相手のバッティングで目の上を切って視界がふさがれた状態での負けだ。

 あれを無いものと考えると、負けたのは現王者の真田にだけということになる。

 

 いくつか試合を見たが、まず思ったのは、足が速くて巧いというもの。

 ただ、ものすごく速くて巧いかと言うと、そうでもなく……こう、のらりくらりと試合が進み、終わってみるときっちり判定勝ちになっている。

 押されている様に見えても、ポイントは勝っている試合もいくつかあった。

 たぶん、審判の印象というか、とにかくポイントを取るのが巧いとしか言えない。

 無理に一言でまとめると、老獪な試合巧者。

 

 俺は、このタイプのボクサーとは戦ったことが無い。

 

 判定勝負に自信を持っている相手に、判定勝ちを収めるというのもなかなかそそるシチュエーションだが……まだジュニアフェザーに慣れていない身体で、長期戦のリスクは避けたい。

 それでいて、スタミナは万全だと、周囲の人間には思わせたい。

 

 それが理想だが……まあ、いつだって、理想の横面を張り飛ばしてくるのが現実だ。

 

 一見地味だが、確かな技術と戦略性を持っている相手は怖い。

 飛躍の場を与えられていないだけの可能性がある。

 22戦して19勝2敗1分……東洋、あるいはその先への話があってもおかしくない戦績だ。

『倒さずに勝つ』ボクシングが、彼に翼を与えずにいるのか。

 それとも、実力以上に勝ち方がうまいのか。

 

 前者なら要注意。

 後者なら、その手管に注意。

 

 実際にリングの上で手を合わせればわかるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「速水選手、122ポンド、OKです」

「ありがとうございます」

 

 計量係の人に礼を言い、ズボンをはいた。

 

「サニー田村選手、121と2分の1ポンド、OKです」

 

 サニー田村は、リングネームだ。

 田村が苗字で、名前が『太陽』と書いて『あきら』と読むらしい。

 読みにくいとか、わかりにくいと言われて、『サニー』というリングネームにしたと聞いた記憶がある。

 

 計量には何の不安も無かったんだろう、Tシャツを着たまま、秤に乗っていた。

 

 

 今日は、ヴォルグがいないせいなのか。

 記者が数人、集まってきた。

 藤井さんもいる。

 

「明日はよろしく、速水君」

「いえ、こちらこそ……田村さんと、サニーさんのどちらで呼んだほうがいいんですか?」

「うーん、サニーで呼ばれるほうが多いかな」

「じゃあ、サニーさんと呼ばせてもらいます」

 

 まずは、握手の写真。

 次は、目線の変更。

 

 手馴れた感じで撮影をこなし、記者への質問に答えている。

 王者だった経験だろうか。

 

「何とか判定に持ち込みたい、かな」

 

 試合の抱負に対しての答えがこれだった。

 記者連中が笑っているあたり、定番なのかもしれない。

 

「速水君は、やっぱりKO狙いだよね?」

「サニーさんに、判定勝ちの秘訣を教えてもらいたい気持ちもあるんですけどね……まあ、倒すつもりでいきますよ」

 

 おっと、藤井さんが動いた。

 

「速水君に、いいかな?対戦相手のサニー君をどう思う?」

「え?本人がいる前で、それを聞くんですか?」

 

 小さな笑いが起こる。

 

「でもまあ……きわめて危険な相手だと思ってますよ」

「ほう?」

 

 俺の答えが意外だったのか、藤井さんはもちろん、記者たち、そしてサニーもまた俺を見つめる。

 なので、少し言葉を足した。

 

 判定のジャッジを下すのは3人。

 そして、3人が3人なりの、判定の基準を持ち、Rの優劣を決めていく。

 その、3つの価値観をコントロールし、勝利に持っていく技術。

 人を知ること。

 人の考えを読むこと。

 人の印象を操作すること。

 

 それは、対戦相手にまで及ぶと考えておくべきだ、と。

 

「……結婚相手の機嫌をとるのに四苦八苦してる記者さんもいるんじゃないですか?奥さんが3人いたら、逃げ出したくもなるでしょう?」

 

 最後は、笑いで落としておく。

 

 ただ、サニーだけは笑っていなかったが。

 

 

 

 記者たちがいなくなり、サニーが口を開いた。

 

「こっちも言わせてもらうよ、速水君」

 

 伸びてくる右手。

 それを握った俺の手が、ぎゅっと強く握られた。

 

「君は、きわめて危険な相手だ」

 

 もう一度強く俺の手を握ってから、サニーは俺に背を向けた。

 歩いて、去っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カラコロ、カラコロ……。

 

 下駄の音ではなく、口の中で飴玉を転がしている音だ。

 ダイレクトな、糖分補給。

 

 計量は昨日だったとはいえ、強烈な甘みに脳がしびれる感じがする。

 

「よう、速水。この前はおっかねえ試合をしたんだってな。一歩のやつがビビッてたぜ」

「ああ、木村さん。青木さんはしばらくぶりですね」

 

 自分とは関係ない階級の2人だが、直接の観戦はともかく、試合の結果はなんとなく程度に追いかけている。

 関係者の評価は、総じて木村さんのほうが高い。

 青木さんは、変則のイメージが、評価に響いている気がする。

 

 とはいえランキングに差は無く、A級トーナメント開始前の時点で、2人とも3位にランクされていた。

 

「おっかないって……俺よりも、ヴォルグでしょう?」

「……まあな。同じ階級の一歩が、気の毒に思えたぜ」

 

 木村さんの同意。

 そして、青木さんが口を開く。

 

「あれとリングの上で向かい合うのは勘弁だよな」

「はは。そんなヴォルグのスパーリングパートナーが、俺なんですけどね……」

 

 俺の言葉に、2人揃って表情を歪めた。

 幕之内の相手をさせられているであろう2人も、俺のことは言えないと思うが。

 

 

 そういえば、原作では2人とも、この準決勝で負けるんだったか。

 特に、木村さんは判定で引き分けに持ち込んだけど、トーナメントルールの延長戦で敗れたぐらいの接戦で。

 実力は相手が上。

 その差を埋めるために、スタミナを使い果たした。

 

 原作どおりかはわからないが、今日の2人の相手もなかなかの評判だ。

 

 

 ……スタミナ、か。

 

 なんとなく、2人に飴玉を手渡した。

 

「食います?」

「……ガキのお使いじゃないんだからよ」

「いや、俺もそう思ってたんですけどね……ボクシングとかやってると、普段から甘いものとか控えるようになるでしょ?」

 

 俺の言葉に、2人が頷く。

 

「正直……美味いですよ。この糖分が、最後のギリギリで、力になるかもしれませんし、おひとつどうぞ」

 

 俺に押し切られた感じに、2人が飴玉を口の中に放り込む。

 表情が変わる。

 

「……やべえ」

「この甘さは……くるな」

「噛んじゃダメですよ。ゆっくりと、口の中で最後まで転がしてください」

 

 カラコロ、カラコロ。

 

「ヴォルグのトレーナーが言ってたんですけどね。甘みを感じ、口の中に固形物を入れておくことで、心拍数の余計な上昇が抑えられる効果があるそうです。試合前にエネルギーを補給しながら、余計な消耗をせずにすむ、と」

「ほう」

「なるほど、ね」

 

 二十歳を超えた男三人が、真面目な表情で飴玉を転がす。

 この場違い感がなんとも。

 

 そう思ってたら、声をかけられた。

 

「な、なあ、速水。俺にもひとつ、いいかな?」

 

 同じ階級の和田だ。

 まあ、今日戦うわけじゃない。

 

「……どうぞ、和田さん」

「あ、俺もひとつ」

 

 と、別の手が伸びてくる。

 

 この『ヴォルグのトレーナーが言ってた』という説得力ときたら。

 

 いや、むしろ試合前のボクサーの不安感か。

 心のよりどころになるものを探してしまう……そんな気持ちが、飴玉ひとつに手を伸ばさせる。

 

 

 

 

「はや……え?し、失礼しました。速水選手、準備をしてください」

 

 まあ、控え室の選手が、そろって飴玉を口の中で転がしてたら、驚きもするか。

 気持ちはわかる。

 

 ちなみに、間柴は別の控え室。

 

 

 さて、口の中の甘みを忘れて、切り替えるか。

 

 

 

 

 

 

 リングの上。

 サニーは、昨日と同じで、穏やかな表情を浮かべている。

 この階級としては、かなり長身の部類だろう。

 プロフィールでは、173センチ。

 俺とは、4センチほどの違い。

 当然、身体の線は細く見える。

 

「また、判定狙いかサニー!」

「倒されたら、全部パーだぞ!」

 

 野次が飛ぶ。

 

 確かに、倒せば判定は意味が無いし、見た目もすっきりわかりやすい。

 しかし、それで切り捨てるのはもったいない。

 思考停止でもある。

 

 技術にまで昇華するのは難しくとも、知識として知っているだけでも違う。

 次からは想定ができる。

 対応策を思いつくかもしれない。

 

 ……知識は力。

 しかし、溺れるな、と。

 

 知識を手に入れるごとに、判断力と決断力のハードルが上がる。

 

 

1:有効打撃の数。

2:ダメージを多く与えたかどうか。

3:攻勢をかけていたかどうか。(手数)

4:技術全般。

5:印象。

 

 ジャッジの基準として示されるのは、こんなところか。

 まあ、細かいところを言いだすと、キリが無い。

 

 というか、『5』に関しては、ツッコミどころが満載だが。

 前世では、『ボクサーの顔じゃない』という名言というか、迷言を残したジャッジもいたっけな。

『優勢だったかもしれないが、血を流していたからダメだ』という迷言を残したジャッジも。

 

 前半は守勢、後半は攻勢でも、どちらを優先するかは、ジャッジ次第。

 R終了前の印象が強く残るという人もいるが、それを逆に考える人もいるだろう。

 レフェリーと3人のジャッジが完全に一致するような試合はほぼない。

 それぞれの価値観を持って判定を下す複数の人間の印象を、コントロールするのは至難の技だ。

 

 ただ、忘れてはいけないのは……ジャッジの人間が座っている場所から見える試合と、テレビカメラが映す試合は別物であるということ。

 まあ、このホールもそうだが、ジャッジ席の方角と、テレビカメラを設置する方角は同じにすることが多い。

 ただし、角度が変わってくる。

 角度が違えば印象も変わる。

 

 方角まで変わる観客席ならなおさらだ。

 

 観客や視聴者と、ジャッジの判断が異なるのは、ある意味当たり前だと言える。

 それは、きわどい試合であるならなおさらだ。

 

 判定勝ちに必要なのは、観客ではなく、ジャッジへのアピール。

 そして、ジャッジの情報を集めることだ。

 選手ではなくジャッジを追いかけて試合を見れば、ある程度傾向は見えてくる。

 

 

 まあ、この程度のことは、ボクシングに限らず、スポーツをやってるものなら誰でも考えることだ。

 高校野球でも、主審によってストライクゾーンの傾向は異なるし、捕手の後ろのどの位置に立っているかも含めて、バッテリーは配球を考え、計算しながら試合を進める。

 

 試合中に何度もストライクのコールをもらった、外角低めのストレート。

 大事な場面、それがわずかに外れると判断したら、捕手はとっさに審判の視界の邪魔をする。

 視界を完全にふさげなくても、主審は球筋を確認するために、『見る位置』や『姿勢』を変えなければならなくなる。

 あるいは、ボール半分ずらしたコースを要求したうえで、審判がそれまでと同じ位置をキープできないように仕向ける。

 それがもたらす、わずかな感覚の狂い。

 そうなると、それまでの印象がものをいう。

 今までストライクだった球筋だったように思える……これも、ストライクかな?

 

 主審のストライクのコールに、捕手はほくそ笑むわけだ。

 

 もちろん、自然な動きでなければ逆効果になるし、練習試合も含めてめったに使えない技術だが……そういう小さな積み重ねが、強さにつながる。

 

 ほんのちょっとしたこと。

 それが、全てにつながる。

 

 俺の知らない努力。

 俺の想像の外にある何か。

 

 サニーには、サニー田村というボクサーには、そういう何かがあるのかもしれない。

 わからないことから目を背けると、死角から、意識の外から、一撃をもらう。

 

 まあ、そうやって相手に色々と考えさせることから、サニーの戦いは始まっているのかもな。

 

 

 

 

 試合前の、レフェリーの注意。

 サニーは、きちんとレフェリーを見てその言葉を聞いている。

 これも、小さな印象につながるのだろうか。

 

 

 

 

 

 試合開始。

 リングの中央で、軽くグローブをあわせる。

 

 軽快なステップ。

 動きは軽い。

 速度で相手を引っかき回すタイプではないが、アウトボクサーらしく動きは速い。

 

 左を伸ばしてくる。

 ほんの少し、届かない距離。

 

 これに反応して俺が頭を振ると、サニーが攻めているように見えるだろう。

 

 なら……。

 

 すっと、距離をとられた。

 気配、あるいは呼吸を読まれた。

 

 また近づいてくる。

 届かないジャブ。

 そして、一発だけ届かせ、距離をとる。

 

 けん制と、焦らしか。

 同時に、ジャッジへのアピールにもなっている。

 

 

 ふと、名手のファインプレーは目に見えないという言葉を思い出した。

 最初の一歩。

 それにつながる判断。

 危険になる前に処理してしまう。

 傍から見れば、なんでもない動き。

 名手のファインプレーは、その中にこそ潜むという意味だ。

 

 

 じわりと、距離を詰めた。

 右に、左に、サニーがステップを刻む。

 動きは軽く、速い。

 

 レベルの高さはうかがえる。

 そして、調子も良さそうだ。

 真田戦のときより、良く見える。

 

 

 距離をとる、というか、間を取るのが巧い。

 きちんと、左を突きながら逃げるから、人によっては足を使って翻弄しているようにも見えるか。

 

 ここまで徹底できるのなら、たいしたものだ。

 

 

 まあ、俺は俺で……罠を張る、か。

 

 

 その場で、ステップを踏む。

 リズムを刻む。

 

 届かないジャブ。

 それを、パンチではじく。

 

 タン、タン、タンと、その場から動かず、サニーのジャブを待つ。

 

 また、はじいてやる。

 サニーが、距離をとった。

 

 踏み込まれるのを警戒したんだろう。

 しかし、俺は踏み込まない。

 

 ただ、ジャッジから見える印象はどうかな?

 

 パンチをはじかれ、踏み込まれるのを恐れて距離をとる。

 それは、『逃げ』と思われないか?

 

 そして、『この』パンチは見えているという俺からの挑発。

 

 まあ実際は、今日の感覚に慣れようとして、時間を稼いでいるんだけどね。

 調整そのものは、前回とは雲泥の差。

 でもやっぱり、自分のイメージと現実の動きが、少しピンボケ気味かな。

 前回よりはましだけど。

 

 

 サニーのパンチが変わった。

 さっきまでの気の抜けたジャブじゃない。

 速い、本当のジャブだ。

 俺の中で、ひとつピースが埋まる。

 

 ようやく、ひとつ手札をさらしてくれたか。

 相手の速さを知らないまま飛び込むほど、俺は勇敢じゃない。

 まあ、まだ上のギアを残している可能性もあるが。

 

 

 また、パンチの速度を落とそうとしてきたので、それをはじいてやった。

 

 サニーが、俺の周囲を回りだす。

 徹底している。

 俺の距離には入ってこない。

 気の抜けたパンチを、いくつかはじいた。

 

 速いジャブ。

 大きくはじき、踏み込む。

 ……逃げ足が速い。

 

 最初から逃げを考えている。

 打ち合うつもりはなさそうだ。

 それは、アウトボクサーだからというわけじゃなく……。

 

 サニーには速度もある。

 情報不足のまま、それに付き合うと……。

 

 そろそろ、右を見てみたいな。

 

 

 ステップを止め、肩をすくめる。

 ただし、警戒したまま。

 

 速いジャブ。

 踏みこみながら、俺も左を返す。

 肩を入れて、鼻先にわずかに届かせた。

 

 すぐに、速いジャブが何発も返ってくる。

 俺のパンチが当たったこと、それの印象消し、か。

 

 一歩踏み込み、黙らせた。

 

 本当に徹底している。

 ここまでくると、逆の意味で興味がわく。

 俺もリスクを回避する性質だが、サニーは度を越しているように思える。

 

 

 残り時間を確認。

 

 いつもは残り10秒で動く。

 敢えて、20秒で仕掛けた。

 

 距離を詰めていく。

 あわてずに。

 サニーの逃げ道を狭めて、詰めていく。

 

 伸びてきた左を上にはじいた。

 サイドステップ。

 それについていく。

 

 手の届く距離。

 それでも、右がこない。

 ただ、逃げていく。

 

 

 そのまま、1Rが終わった。

 

 野次が飛ぶ。

 逃げるサニーに対して。

 

 あ、俺に対しての野次も少しあるな。

 消極的に見えるからだろう。

 

 しかし、この野次を浴びながら、判定勝ちを収めてきたボクサー、か。

 見た感じ、応援団のようなものも見当たらない。

 王者にまでなったボクサーで、それは珍しいと言える。

 

 それでも、勝ち続けてきた。

 

 俺の知らない強さだ。

 

 

 

 

 

 

 

「巧いのはわかるんだが、イライラするな」

「俺はそうでもないです」

「……我慢強いなあ、速水は」

 

 会長の言葉に、少し笑いたくなる。 

 

「……スタミナは?」

「ほとんど動いてませんからね……6Rなら、問題ないと思います」

「そうか……それで、いつ仕掛ける?」

「……右を見たいんですよね」

 

 19勝して、KO勝ちは2つ。

 ひとつは、全日本新人王の決勝。

 もうひとつは、最初のタイトルマッチ。

 両方とも、大事な試合で、大舞台でのものだ。

 

 いずれも終盤。

 ポイントをリードされ、焦りと疲労の見える相手に、右のカウンター狙い。

 それでも、相手は攻めなければいけない状況。

 そうして、コツコツとカウンターを積み重ねてのKO劇。

 

 一発の怖さはない。

 それでも、甘く見ると、かみ殺される。

 そんな気がする。

 

 拳に不安を抱えている……そんな理由があれば納得はできるんだが。

 

 

 セコンドアウトの合図。

 

 また、餌をまくか。

 

 そして、奇襲に注意、と。

 




次の話の都合上、試合の途中で切りました。
次(明日)で決着です。


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18:奔流。

後半。


 2R開始。

 

 俺もサニーも、仕掛けることなく静かな立ち上がり。

 

 ただ、俺はインファイターのように、距離を詰め始めた。

 ダッシュではなく、足元を確かめるような前進。

 それと同時に、右手を細かく動かしてけん制する。

 

 無意識の選択。

 無意識の傾向。

 

 サニーの情報を集めていく。

 まあ、向こうも俺の情報を集めているんだろうが。

 

 

 ジャッジ席に背中を向けているとき。

 そして、ジャッジ席が横にあるとき。

 

 リングのどの位置にいるかで、姿勢と、動きが変わる。

 それが、俺にもわかってきた。

 

 背中を見せているとき、ジャッジには距離感はわかりにくい。

 つまり、届かないパンチであっても、攻めているように見える。

 ジャッジが真横にいるとき、攻撃ではなく、高い技術の防御を見せつける。

 相手の攻撃をきちんとさばいているという印象を与えるためだろう。

 

 速度と高い技術。

 そして戦術。

 

 それを見せつけられると、倒しきれない結果の判定勝ちではなく、『敢えて』判定勝ちを狙っているような気さえしてくる。

 

 倒せる力を持っているのに、判定勝ちを狙う。

 このケースが、一番怖いな。

 

 

 

 2Rも1分を過ぎたが、この試合、サニーはまだ一度も右を見せていない。

 ビデオで見た限り、ここまで右を見せないパターンは皆無だ。

 

 俺は足を止め、大きく息を吐いた。

 身体の感覚は十分につかんだ。

 こっちから、仕掛けるしかないな。

 

 ただし、俺からは手を出さない。

 フットワークだけで、サニーを追う。

 

 左右に。

 ジグザグに、距離を詰めていく。

 手は出さないが、目線と、肩や手の小さな動きで仕掛け続ける。

 

 サニーも、俺から距離をとることに専念している。

 

 お互いに、手を出さない。

 パンチのギリギリ届く距離を保ちながら、リングを移動し続ける。

 

 奇妙な一体感。

 そして、不思議な緊張感。

 

 いつの間にか、野次がやんでいる。

 

 残り40秒。

 

 残り20秒。

 

 残り10秒。

 

 ……まだか。

 

 残り5秒。

 

 ふいに、サニーが足を止めた。

 

 サニーの左。

 俺の左。

 

 俺が速い。

 顔をはねあげたところで、2Rが終わった。

 

 サニーの背中を見送り、コーナーへ戻る。

 

 一番リスクの低い時間帯に、俺を確かめにきた。

 しかし、我慢すべきだったと思うがな。

 

 ポイントに色気を出したか。

 

 

「会長」

「なんだ?」

「右を打てないのか、右を打たないのか、賭けませんか?」

 

 会長が少し考え、言った。

 

「打たない、だな」

「……まあ、昨日の計量のときに、握手もしましたしね」

 

 ケガの線は無いだろう。

 だとすると、駆け引きのためだけの伏せ札。

 相手の情報を集めてから動く、俺の戦い方を見越して……だろうな。

 

 まあ、それはそれで順調、としておこう。

 認識が広がれば、手札に使える。

 

 

 逃げに徹した相手は時間がかかる。

 防御だけを考えた俺が、ヴォルグにほとんどパンチをもらわないのと同じだ。

 

 ただ、それだと判定勝ちに直接は結びつかない。

 

 何か材料がある。

 少なくとも、サニーの心の中には。

 

 

 ふたつ、思い当たることがある。

 

 ここ数戦、俺はアッパーとフックを多用している。

 その距離では戦いたくない。

 ストレート系の距離に、俺を置いておきたい。

 同時に、俺のリズムを崩し、色々考えさせて、か。

 

 そして、もうひとつは……。

 

 

 セコンドアウトの合図。

 

 椅子から立ち上がった。

 

 3Rか。

 

 

 ゆっくりと、リングの中央へ。

 

 さっきと同じ距離。

 動き出す。

 

 手を出さない追いかけっこ。

 我慢比べ。

 

 コーナーへ誘導する動きはかわされた。

 なら、こういうのはどうかな。

 

 レフェリーの存在。

 幕之内との試合の記憶。

 

 誘導。

 そして切り返し。

 

 サニーの進む先。

 

 サニーの視線が、レフェリーをとらえた。

 慌てたように、バックステップ。

 回りこんで、激突を避けた。

 

 

 ……それほど余裕も無い、と。

 

 そして。

 やはり、手は出してこない。

 

 

 サニーを追う。

 そして、目を見る。

 

 おそらく、だが……。

 

 こいつ、俺のスタミナ面の不安に気づいている。

 

 前半、中盤をイーブンで耐えて、後半勝負か。

 それまで、徹底的に自分の手札をさらさない。

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、そこまで付き合うつもりはない。

 

 方向転換。

 フェイント。

 誘導。

 

 コーナー、そしてレフェリーの位置。

 俺たちの動きを追う、レフェリーの動きの癖。

 その予測。

 

 

 サニーを見る。

 サニーに残した2つのルート。

 

 コーナーか。

 レフェリーか。

 選べ。

 

 サニーの選択は、レフェリー。

 レフェリーを避けるために、軌道が歪む。

 

 その瞬間、俺はギアを上げた。

 

 左のボディアッパーをみぞおちに。

 一瞬、動きが止まる。

 

 もうひとつ……。

 

 俺の右手が押さえられた。

 抱きつかれる。

 

 近づきすぎた……。

 いや、呼吸を読まれた。

 逃げると読んだが、逆に踏み込まれた。

 

 左拳を握る。

 左ひざを意識。

 

 幕之内のアレには遠く及ばないが、左手でサニーのみぞおちを突いておく。

 パンチではなく、体当たり感覚で拳を突く。

 表面的なダメージは無くとも、瞬間的に息が詰まる。

 2度。

 3度。

 

 レフェリーが割って入る。

 力を抜くフリ。

 しかし、集中。

 

 離れ際。

 サニーのジャブにカウンター。

 

 距離が離れる。

 踏み込む。

 サニーの目。

 サニーの腕。

 

 永遠の一瞬。

 その駆け引き。

 

 逃げた。

 追う。

 しかし、最初の一歩だけ。

 

 すぐに退いた。

 

 俺のいた場所に、サニーが踏み込んでいる。

 俺に抱きつこうとしていたサニーの腕。

 

 左のアッパーの構えを見せた。

 

 サニーの、開いた腕が閉じる。

 ガード。

 その下へ。

 

 右のボディフック。

 胃に持っていった。

 みぞおちに。

 左のボディアッパー。

 

 ガードが下がった。

 

 右のフェイントを入れる。

 

 ようやく釣れた。

 サニーの右。

 

 それをすかして、左アッパー。

 このまま……。

 

 と。

 

 サニーが尻餅をついた。

 

 レフェリーに促されるより先に、ニュートラルコーナーへ歩いていく。

 そして、サニーを見た。

 

 1、2Rが互角だとしても、この3Rでダウン点も含めて2ポイントの差がつく。

 逆転を目指すなら、前に出てくるしかない。

 

 ……1~2Rは最低でも互角だよな?

 

 判定は、他人任せなのがやはり恐ろしい。

 

 そういう意味では、他人に全てを委ねられるサニーは強い。

 いや、自分の判断を信じている、か。

 

 

 そして、さっき見せてもらったサニーの右は悪くなかった。

 タイミングも、悪くはなかったが……。

 

 身長がある分、小回りが利かない、か。

 たぶん、連打の回転が悪い。

 幕之内とは真逆の、インファイトに適性がないタイプ。

 相手を誘い込み、一撃を加えて離脱。

 

 相手を前に出させるボクシング。

 逃げの特化。

 

 相手を戸惑わせる。

 考えさせる。

 疲労と、焦り。

 

 おそらくは、いろんな理由の複合だろう。

 勝つために選択し、たどり着いた戦法か。

 

 なら、勝ちに徹したボクサーだな。

 

 

 カウント8で立ち上がる。

 

 俺の、左アッパー1発でダウン。

 少し体勢を崩してはいたが、サニーは打たれ強くない。

 

 それも含めての、判定狙い。

 

 

 残り時間を確認する。

 

 もう、このRは終わりだ。

 

 

 

 

「体調は?」

「問題ないです」

 

 会長と俺との間に、特に言葉はない。

 

 サニーは、勝つことにこだわっているボクサーだ。

 野次を浴びながらも、勝つための最善の道を選択してきたのだろう。

 ならば、次のRからは前に出てくる。

 そうするしかない。

 

 逃げ一辺倒の相手は面倒だが、前に出てくるなら問題ない。

 慎重に、丁寧に、仕上げる。

 

 今日の試合が8R勝負でなかったのは幸運だったか。

 それならもう少し、なんとかする必要があっただろう。

 

 

 

 4R。

 

 

 サニーの左。

 届かない距離から。

 

 ……いや。

 

 ジャブを打ちながらの、細かい前進。

 そして、ワン・ツー。

 

 やはり、勝ちに来た。

 前に出てきた。

 

 そしてある意味では……サニーの負けパターン。

 

 その決意に、敬意を。

 

 

 サニーの速い左。

 かわしていく。

 あるいは、はじく。

 

 ジャブの合間に、左フックをねじ込む。

 浅い。

 

 左が返ってきた。

 ヘッドスリップでかわす。

 右ストレート。

 ガードで受ける。

 

 いったん距離をとる。

 

 近づきすぎると、クリンチが来る。

 地味なようだが、アレも相応の技術が必要だ。

 

 ボクサーに抱きつくのは、言うほど簡単じゃない。

 

 呼吸、フェイント、タイミング……そして間合い。

 接近戦に必要な要素が詰まっている技術だ。

 

 クリンチの練習をしていないボクサーは、両腕を広げてノーガードで飛び込んできたりする。

 

 

 サニーの左。

 まだ、速度は落ちてない。

 

 ……ひとつひとつのパンチは悪くない。

 しかし、コンビネーションが少し甘い。

 

 ……穴を掘ってみるか。

 

 

 左の連打でけん制。

 一呼吸。

 わずかに、左のガードを空けた。

 

 サニーの左。

 ヘッドスリップで避ける。

 ワン・ツーを打ちやすい位置。

 

 そのツーに合わせて、踏み込む。

 左で、肝臓を突き上げた。

 

 サニーの左フック。

 頭をかすめた。

 

 雑になった。

 集中。

 

 もう一度左を肝臓へ。

 返しの右を、胃に。

 

 抱きつこうとした手を払いのける。

 ショートフックを見せ、ガードを意識させた。

 

 肋骨の下。

 呼吸をつかさどる、横隔神経を突き上げる。

 

 足が止まれば、サニーはそこで終わる。

 

 サニーの右。

 外へ大きくはじいた。

 

 懐に入るとはっきりわかる。

 小回りが利かない。

 打たれ強くないサニーにとって、この距離は厳しい。

 

 逃げようとする。

 飛んでくる左をはじいて、またボディへ。

 

 サニーの右。

 それを空振りさせ、伸びた腹に一撃。

 

 ボディもタイミングしだいで威力が変わる。

 

 また逃げる。

 しかし、その先はコーナーだ。

 

 それを判断する余裕も無い、か。

 

 コーナーに詰めた。

 威嚇するように、右ストレートを逃げ道にめがけて打ち抜く。

 釘付けにする。

 

 左のジャブを上に。

 そして右。

 

 上を意識させて下へ。

 それでも、ガードはさがらない。

 それを承知で、上へ。

 ガードの上から。

 そして、ボディへ返す。

 

 アッパーをちらつかせると、顔を上げてガードを固める。

 容赦なく、ボディへ。

 我慢強い。

 

 ガードにフックを叩きつけ、下へ返す。

 腹に力をこめるタイミング。

 それを殺していく。

 

 アッパー。

 ただし、ボディへ。

 

 ようやく、頭が下がった。

 左フックでガードをこじ開ける。

 右アッパーですくい上げた。

 

 ひざが揺れる。

 腰が落ちる。

 

 無防備なアゴ。

 無防備に見えるアゴ。

 

 反応。

 予測。

 計算。

 

 小さく。

 鋭く。

 

 左フックで打ち抜く。

 すでに、返しの右フックの体勢。

 

 狙うのは、予測の先。

 

 鋭く振りぬいた。

 

 

 サニーが、顔を傾けたまま、倒れていく。

    

 

 

 ……今のも、たぶん違うな。

 

 しかし、これをフィニッシュじゃなくて、普段からやらなきゃならない、と。

 

 まあ、少しずつだ。

 いきなりできるようなものじゃない。

 

 

 

 ニュートラルコーナーで時計を確認。

 

 

 サニーが、上体を起こした。

 しかし、そのままころんと転がってしまう。

 

 意識はある。

 だが、足が利かない。

 

 カウント7まで数えて、レフェリーが腕を交差した。

 

 

 女性ファンの歓声。

 そして、俺は控えめに右拳を突き上げた。

 

 そのままリングを一周する。

 

 ……ホールの客の反応。

 俺を見ている。

 退屈していたという感じではない。

 

 

 右手。

 左手。

 足。

 

 違和感は無い。

 動いたのは実質2Rと少し。

 少なくとも、前回とは違う。

 

 抑えていけば、いけるか?

 次の決勝は8R。

 タイトルマッチは10Rだ。

 

 それでもやはり、不安は残る。

 

 

 セコンドに肩を借りてリングを下りたサニーが振り返った。

 見ているのは、俺ではなく、リングか。

 

 それを見て、音羽会長が何かをつぶやいた。

 

「……なにか?」

「いや、なんでもないさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 準決勝のもう1試合。

 

 俺の、決勝の相手が決まるのを見つめる。

 

 さっき控え室で俺から飴玉をもらったサウスポーの和田が、5Rで後藤を倒して勝った。

 後藤は、現王者の真田の初防衛戦で9Rで倒されている。

 初防衛戦という状況も含め、単純な比較はできない。

 

 予想どおりと言うか、やはり和田の方が来た。

 もともとバンタムではかなり評価の高い選手だった。

 アマチュア時代に、オリンピック(ソウル)にも出ている実力者だ。

 

 むしろ、今日の試合は手こずった印象だ。

 

 今日も含めて、階級を上げてからの2試合、どこか精彩を欠いている。

 階級変更でバランスを崩したのか、あるいは、タイトルマッチの負けを引きずっているのか。

 

 だとしても、調子を戻してくるイメージでいたほうがいい。

 

 動きが速く、サウスポーで、しかも少々変則。

 アマ出身で変則スタイルというのは珍しい。

 経験という意味では、該当するような相手はいない。

 

 その、独特のリズムと距離感に慣れるまでが、重要だな。

 

 

 

 

 帰ろうと思ったのだが、次の試合が木村さんだった。

 なんとなく、見てしまう。

 

 アウトボクサー同士の、緊張感あふれる接戦。

 

 最終6R。

 やや疲れを見せた相手を、木村さんが攻めたてる。

 

 結果、木村さんの判定勝ち。

 

 ジャッジは、1人がドローで、2人が1点差で、木村さんを支持。

 最終Rの攻防が、勝負を決めたと思う。

 

 え?

 飴玉のせい?

 

 

 気になったので、さらに見てしまう。

 

 

 間柴が、3Rで片付けた。

 片付けられたのは、俺が飴玉を渡した選手。

 

 

 そしてライト級。

 パンチパーマの青木さんの登場。

 

 激しい乱打戦。

 3Rに青木さんがダウンを奪われる。

 しかし、4Rに青木さんがダウンを奪い返す。

 

 手に汗を握る試合展開に、ホールが盛り上がる。

 

 5Rでは、お互いにダウンを奪い合う展開。

 盛り上がりは最高潮。

 

 しかし、ダメージと疲労で、5Rの終盤から、2人の動きが目に見えて鈍った。

 6Rは、ぺちぺちと、泥仕合の模様。

 

 観客からの野次を浴びながらも、青木さんが魂の右フック。

 相手も、ロープをつかみながら立ち上がる……が、判定へ。

 

 ジャッジは、1点差が2人、2点差が1人で、3人が青木さんを支持。

 最終Rで、ダウンを含めて2ポイントだから、勝利を引き寄せた、か。

 

 

 ……原作って、飴玉でブレイクできるらしい。

 

 まあ、それは冗談だが。

 接戦は、ほんのちょっとしたことで勝敗が分かれる。

 同じ条件でやっても、同じ結果になるとは限らない。

 

 今日は、木村さんと青木さんに、何かが傾いた。

 そういうことだろう。

 

 

 ただ……木村さんの次の相手は間柴なんだよなぁ。

 

 今日の間柴の出来なら、木村さんにも目はありそうな感じだが。

 間柴は、階級も上げたしまだ成長期。

 そして、木村さんはある程度完成されたボクサーだ。

 

 決勝ではなく、1回戦で戦っていたなら……勝率は現状より高かっただろう。

 

 そして、青木さんもそうだが、今日の熱戦。

 疲労とダメージ。

 おそらく、次の決勝では2人ともコンディションが落ちる。

 

 倒すのは目の前の相手だが、次の戦いへとつながっている。

 これも、トーナメントの厳しさだ。

 

 

 

 

 

 ホールから駅への道。

 声をかけられた。

 

「速水さん」

「ん?おお、幕之内くん」

 

 ホールで、存在に気づいてはいた。

 ただ、鷹村さんがいたから近寄りたくなかっただけで。

 

「木村さんも青木さんも勝ったな」

「はいっ」

 

 本当にうれしそうに返事をする。

 

「……あ、速水さんも。おめでとうございます」

「うん、まあ、ぼちぼち、かな」

 

 幕之内が俺を見る。

 

「どうした?」

「……僕と、宮田君の試合が決まりました」

 

 その言葉。

 心に届くまで、少しかかった。

 

「勝ったほうが、8回戦昇格です」

「そいつは……いや、待てよ」

 

 宮田が俺に負けたのは12月。

 そして、今は9月、だ。

 

 長い、長い休養。

 その、理由は……このためか。

 

「速水さんの言うとおり、宮田君、背が伸びてました」

 

 嘘つきにならずにすんだか。

 

「もともとジュニアライトでも厳しかった、今はライト級でも厳しい……そう、宮田君のお父さんが言ってました」

「そう、か」

 

 幕之内の視線が、足元へと。

 

「僕、まだ減量ってしたこと無いんです」

「よし。ほかのボクサーには絶対言うなよ」

「あ、わかってます……そのつもりです」

 

 幕之内が語る。

 

 デビュー戦は124ポンドだったと。

 練習を重ねると、自分に力がついているのがわかる。

 サンドバッグの感触。

 ロードワーク。

 先輩とのスパー。

 

 贅肉が減ったのがわかる。

 それでも、オズマさんとの試合は124ポンドだった。

 

 贅肉の代わりに、筋肉がついた。

 

「強くなるって、こういうことかなって思いました」

 

 新人王戦で俺に負けて。

 鴨川会長の課す練習メニューをこなして。

 5月の復帰戦。

 

「124と2分の1ポンドだったんです……2分の1ポンド、200グラムちょっとですよね。僕の身体に、力がついた」

「それ以上かもな」

「え?」

「減量はしなくても、普段から食事とか気にするだろ?無意識に、それまでの生活よりも、食事の量が、摂取する栄養素が減るもんさ」

 

 細かく検査をすれば、骨密度が落ちているかもしれない。

 見えない部分が、弱くなっている可能性はある。

 

「……以前、木村さんに言われたことがあるんです。『俺たちは、体重を落とすためのトレーニングだが、お前は肉をつけるトレーニングだよな。うらやましいぜ』って」

 

 体重制限のある競技の宿命。

 ボクサーとしての成長期、ボクサーとしての身体ができた後は……純粋に力をつけることはできなくなる。

 何かを得るために筋肉をつけると、その分、別の筋肉を削り落とさなければならない。

 もとから、余分なものは無いのだ。

 何かを手に入れ、別の何かを失う。

 対戦相手に合わせて、細かなモデルチェンジを繰り返す……それが、プロのボクサーだ。

 

 そして、階級を上げるなら……筋肉をつけられる。

 これまで削っていたものを、失わずにリングに持っていける。

 

 

 幕之内が、顔を上げた。

 俺ではなく、空を見上げる。

 

「宮田君は……宮田君が、力をつける機会を、奪いたくはないと思いました」

「憧れ、だよな」

「はい」

 

 強くあってほしい。

 輝いていて欲しい。

 そういう存在。

 

 もしかすると、それは約束よりも重いもの、か。

 

「……次が、宮田君の、フェザー級の最後の試合です」

 

 つぶやくような声。

 そして、幕之内が俺を見た。

 

「この後、僕と宮田君が戦うことはありません……その試合を、速水さんに見てもらいたいです。速水さんの言葉がつないでくれた約束の試合ですから」

「日程は?」

 

 俺の問いに、幕之内の視線がかすかに泳いだ。

 やがて、その視線を落とす。

 

「本当は……8月にやる予定でした」

「……ケガか?」

「復帰戦の後にちょっと、僕の家の事情で……1ヶ月近く練習ができなかった時期があって……」

 

 家の事情……?

 

 思い出す。

 いや、それが正しいかどうかはわからない。

 原作で語られた『家の事情』。

 

 幕之内の母親が、確か入院したとか、そんな感じの……。

 

 幕之内の家は、釣り船屋をしている。

 母親と、子供の頃からそれを手伝ってきた幕之内……その2人による家族経営。

 その片割れともいえる幕之内が、ボクシングに熱中したらどうなるか。

 

 原作では、確か母親が倒れたのが、A級トーナメントの組み合わせが決まった頃。

 

 幕之内の復帰戦は5月末だったな……少し時期が違うのか。

 

「あ、いや、今は大丈夫です。ちゃんと、練習もできてますから」

「……そうか」

 

 訳知り顔で、踏み込むわけにもいかない。

 原作通りかどうかはともかく、母親との二人暮らしで、家の事情ときたら……母親の健康状態の問題である可能性は高い。

 

「僕の個人的な事情で、これ以上宮田君を待たせるわけにはいかないとも思いました……それでも、宮田君は『待つ』と言ってくれました」

 

 幕之内が、ぐっと右拳を握る。

 そして、空を見上げた。

 

「……僕のわがままで、宮田君の時間を、貴重な時間を奪ってしまいました」

 

 新人王戦の敗退が去年の12月。

 最初の予定でも、8月。

 新人としちゃあ、復帰戦までが長い。

 

 宮田の父親の言葉から察するに、フェザーにとどまる意思はあったのだろう。

 でもそれは……約束のためか。

 

 宮田は、復帰戦を勝てば8回戦に昇格だった。

 幕之内は、2つ勝たないと8回戦にはあがれなかった。

 

 幕之内がもうひとつ勝っていたら。

 あるいは、俺に負けた後の復帰が早かったら。

 

 もしかすると、宮田はA級トーナメントに、約束の地を求めていたのかもしれないな。

 

 

「試合は10月、来月の下旬です……メインは鷹村さんですけど」

 

 トーナメントの決勝が11月の上旬。

 その直前か。

 

 青木さんに木村さんの2人も決勝に出る……鴨川ジムも大変だな。

 

「わかった。見に行くよ」

「あ、速水さんにはチケットも送りますから」

「ちゃんと買うよ……ただ、プロとして値段に見合う試合を見せてくれ。それが条件だ」

「が、がんばります……」

 

 宮田と幕之内か。

 下手をすればあっけなく決着がつくだろう。

 

 願わくば、名勝負を。

 

 ボクサーではなく、ファンとしての願い、か。

 人間って生き物は、勝手なものだな。

 

「それで、勝てそうかい?」

「え、あ、いや……そのですね。宮田君との試合は、勝ち負けよりも約束とか、そういう……」

「勝てるのかい?」

 

 幕之内が俺から目を逸らし、両手の指先を突き合わせ始めた。

 

「……シャドーはもちろん、想像の中では全部負けてます。最近は、夢の中でもですね……」

 

 ははは。

 お前が言うな。

 俺の目覚まし時計の、幕之内(おまえ)が言うな。

 

 とは、口にはできない。

 

 

 

 

「この前のような試合だと、危ないぜ……宮田くんも、復帰戦でブランクがあるとはいえな」

「え?見てたんですか?」

「ああ、鴨川会長に怒鳴られてたのも、な」

 

 幕之内も半年振りの復帰戦で、試合勘もへったくれもなかったんだろうが。

 最初に出鼻をくじかれて、リズムが狂って、ようやく身体が動き出したのが1Rの終盤だ。

 

 その後は……お察しだ。

 

 幕之内のパンチにガードをぶっ壊されて、ビビって逃げたところをボディブロー。

 2R開始早々、またボディに連打をもらって足が止まり……南無。

 

 最初からそれができれば、ほとんどパンチももらわず1Rでけりがついている。

 まあ、鴨川会長も怒鳴りたくなるだろう。

 

 たぶん、もどかしく思ってるんだろうな。

 

「速水さんは、ほとんどパンチをもらいませんよね。何かコツでもあるんですか?」

「俺と幕之内くんとじゃ、条件が違いすぎるからなあ……」

 

 目のよさと、反射速度。

 この2つに関しては、おそらく俺のほうがかなり優れている。

 

 俺は、予測と距離感、そして連打を使って避ける。

 幕之内は、小刻みに身体を動かして、当てさせない、だ。

 

 防御の意味というか、定義が違う。

 

「じ、自分が不器用な自覚はあります」

 

 不器用と言うより……持ち味を活かせてない感じだが。

 

 素直で愚直。

 ある意味で、職人タイプ。

 

 攻撃に60、防御に40とか、意識を配分して戦えるタイプじゃない。

 

 今は攻撃100、次は防御100、みたいなイメージ。

 そうすると、重要なのは攻撃と防御の切り替えのタイミング。

 その切り替えを、どうしのぐか。

 

 結局、相手の攻撃を一番もらいやすいのは、自分が攻撃するときだ。

 カウンターパンチャーの宮田が相手なら、なおさらだろう。

 

 

 原作では、避ける動きを攻撃の予備動作につなげた、デンプシーにたどり着いた。

 あれは、攻防一体ではなく、攻撃のみを考えた技だ。

 その動きが、結果として『当てさせない』という防御の意味を持っただけ……俺はそう思っている。

 

 本来、『デンプシーロール』は技のひとつでしかない。

 しかし、結局その技が、幕之内のボクシングスタイルそのものを変えさせた。

 いつでもデンプシーが出せる戦闘スタイルへと。

 

 攻撃と防御の切り替えが苦手な幕之内にとって、『デンプシー』をメインに考えられたスタイルは、やりやすかったんだと思う。

 そこにいたるまでの努力を否定するわけじゃないが、ある意味で、ボクサーとしては『楽』をした。

 

 純粋なインファイターなのはいい。

 それは、適性の問題だ。

 

 ただ、一口にインファイターと言っても色々ある。

 なのに、インファイターとしての幅を広げることをやめてしまった……俺はそう思う。

 

 とまあ、これは原作でのお話だ。

 

 この先、どうなるかわからないけど……俺が何か言っていいのかね。

 ちょっとしたアドバイスならともかく。

 

 原作のデンプシーロールは、幕之内自身がたどり着いた答えだ。

 だからこそ、鴨川会長もそれを尊重した。

 選手の自主性、やる気を重視する……その判断は、正解不正解ではなく、指導者として尊い。

 

 たった1人で考え、努力し、掴み取ったものを否定する指導者に、人はついていかないだろう。

 

 しかし、鴨川会長は……それとは別の成長というか、違うスタイルを思い描いていたはず。

 

 打たせずに打つ。

 打たれる前に打つ。

 

 その、鴨川会長が描いていた未来に、興味がある。

 

 

 

「じゃあ、ちょっとだけアドバイスだ」

「はい」

「反撃をもらわないタイミングでパンチを出すんだ」

 

 じとっとした目つきで見られた。

 その気持ちはわかる。

 でもな。

 

「基本中の基本だろ?」

「それはそう……ですけど」

「相手の懐にもぐりこむのと同じだよな、相手を空振りさせて踏み込む。相手を空振りさせてパンチを打つ」

 

 身体を振り、右、左と、小さくパンチを打つ。

 

「相手が右を空振りしたら左を打つ。左なら右を。パンチを打たせることで空いたガードをめがけて、パンチを打つ」

「理想、ですよね」

「理想だよなあ」

 

 なんとなく、2人して笑ってしまう。

 

「自分がどういうときに一番パンチをもらうか……それをきっちり理解するってのも大事だな」

 

 統計。

 分析。

 原因の除去。

 あるいは、緩和。

 

「……フックは大きく振り切れ。それが防御になるって言葉もあるしな」

「え、隙が大きいんじゃ?」

「ある意味正しいんだ……こうやって、振り切ると」

 

 二の腕、そして肩が、自分のあごを守ってくれる。

 まあ、ボディはがら空きになるが。

 

「パンチをもらいにくい攻撃手段を考える。相手が攻撃しにくくなる状況を考える……考えて考えて、自分に何ができるか、何が可能か……そうやって、積み重ねていくしかないよな」

「そうです、ね」

 

 自分が動けば、相手も動く。

 自分のパンチが届くと思った距離は、次の瞬間にはそうじゃなくなる。

 

 相手あっての勝負。

 

 自分のパンチがガードされたら、相手の攻撃手段を奪ったともいえる。

 相手に攻撃させない。

 手を出させない。

 それも、立派な防御だ。

 

 

「まあ、鴨川会長とも相談してみな……あの人なら、色々考えてるはずだ」

 

 話を切り上げる。

 今は夜で、試合の後だ。

 

 軽く、手を振った。

 

「じゃあな。試合、楽しみにしてるよ」

「あ、はい、速水さんも。トーナメント、勝ってください」

「ああ。木村さんと青木さんにもよろしく言っておいてくれ」

 

 背を向ける。

 歩き出す。

 

 

 ……というか、ヴォルグの話題が出なかったな。

 今は、宮田との試合のことで頭がいっぱいか。

 

 

 ふと、夜空を見上げた。

 日中は暑いが、夜になるとそうでもない。

 

 残暑は厳しいが、夏は終わった。

 季節は移る。

 時は流れていく。

 

 幕之内対宮田、か。

 

 原作とは違う、時が流れている。

 

 その違う時の流れを、俺は、歩いている。 

 

 それを、強く意識した。

 




たぶん、後半でサニーの印象が飛んでる人が続出したのではと。(目逸らし)

先に言っておきます。
一歩と宮田の試合描写は、本編ではやりません。
まずは第二部を終わらせること、そして本編の第三部を優先します。

これは、と思えるものが書けたら裏道で出したいなとは思います。
私自身も含めてハードルが高いので、確約はできませんが……いい試合が書けたら、書けたらいいな、書けるかなあ……どうだろう。
というか、半端な出来だと自分で自分を恨みそうな気がします。
……書けなかったならごめんなさい。


そしてこっそりと勝っている、青木さんと木村さん。
つまり、10月下旬から11月上旬にかけて、鴨川ジムの4人は全員試合に臨む、と。

露骨な伏線とか言わないで。


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19:決勝に向けて。

タイトルどおりです。
またちょっと嫌な感じにリアルを。


 仕事が終わり、ジムへと向かう。

 

 時刻は夕方。

 日中の暑さも、幾分和らいでいる。

 

 まだ9月か、もう9月か。

 太陽が沈むのも、早くなった気がする。

 

 トーナメントの決勝が行われる11月の上旬なら、もっと早くなっているだろう。

 

 

「こんにちはー」

 

「ちゃーす」

「ちわっ」

「おー、お疲れさん」

 

 ジムが活気付く時間帯だ。

 

「もう、練習再開ですか?」

「いや、今日は病院の検査結果の報告だけな」

 

 そう言って、手に持っているかばんを示す。

 

 パンチをもらってなくとも、試合の後は検査をしなきゃならない。

 減量や、そこにいたるまでのトレーニングによるダメージ。

 試合前の簡易検査ではわからなかった何かが、試合後に現れるかもしれない。

 

 面倒くさがる選手もいると聞くが、長く現役でいたいなら……まあ、やるべきだ。

 

 とはいえ、試合だけでなく、病院の検査のために仕事を休むと……少々、周囲から痛い視線も向けられるけどな。

 ボクシングに対して理解のある職場(社長)。

 それが、どれだけありがたいことか。

 

 純粋にボクサーであり続けたいなら、力仕事も避けたいところだ。

 日常的な仕事で、ボクシング以外の余分な筋肉がついてしまう。

 

 ただ、そんな贅沢ができるボクサーがどれだけいるか。

 俺は、恵まれている。

 

 

 会長室。

 

 ……と、電話中か。

 

 電話が終わるのを待ち、ノックせずに、ガラス張りの部分でひらひらと手を振った。

 それに気づき、音羽会長が手招きする。

 

「おう、速水。順調か?問題ないか?」

「ええ、ぼちぼちです」

 

 大事にされているのがわかる。

 そんなやりとり。

 

 自然と、今後のこと……決勝についての話になった。

 

 

「決勝の相手は和田か……後藤が勝ってくれてれば、フリーパスだったのによ」

 

 フリーパスって……そこまで言いますか。

 

 苦笑しつつ、ツッコミを入れておく。

 

「もともと、和田さんが上がってくるって、予想してたじゃないですか」

「そりゃそうだがな……真田とやる前に、サウスポーの、しかも変則タイプの和田だぞ?そして、実力もある。あまりやりたい相手とはいえんだろ」

 

 現王者、真田一機は、右のボクサーファイター。

 これといった癖の無い、正統派タイプで、隙の無いイメージだ。

 

 原作だと、フック、そしてアッパー系……そして、軌道を変化させるジャブ『飛燕』を使いこなして、初の防衛戦の雰囲気にあてられた幕之内を敗戦寸前まで追い詰めたイメージが強い。

 

 だが、現状では……むしろ、ストレート系のパンチが強い。

 正確なジャブ。

 距離感を保ち、押しては退き、退いては押す。

 冷静に試合をコントロールし、基本のワン・ツー、そして、カウンターも含め、右ストレートがフィニッシュブローになることが多い。

 

 ジュニアフェザーという階級に縛られている以上、現状では大きな変身はないと見ていいだろう。

 

 

 まあ、サウスポーで少々変則の和田とは、色々違う。

 チャンピオンカーニバルでの真田との戦いを見据えていうなら、スタイルそのものは真田と似ていた後藤が相手であったほうが都合が良かったのも確かだ。

 

 和田を想定した練習をこなせばこなすほど、真田戦において大きな修正が必要になってくる。

 

 肉体改造および、スタイルの変更は1ヶ月や2ヶ月ではできないし、俺の身体のバランスはデビュー時にほぼ完成していた。

 力をつけるのではなく、技を磨く。

 あるいは、身体のバランスを崩さずにすむ新しい技を身につける。

 そして、今持っているもので作戦を考えるのが普通のボクサーのやり方だ。

 

 体重に余裕があり、筋肉をつけやすく、なおかつハードトレーニングに耐えられる……原作の幕之内のような存在は、例外中の例外と言える。

 

 

「まあ、和田も好きでジュニアフェザーに階級を上げてきたわけじゃないしな……文句を言っても始まらないか」

「……どういうことです?」

 

 バンタム級のタイトルマッチで負けたことを契機に、手ごろに見えるジュニアフェザーに階級を上げてきた。

 俺はてっきり、そう思っていたのだが。

 

 会長が俺を見た。

 

「和田がタイトルマッチで負けた相手、知ってるだろ?」

「石井さん、ですよね?世界を目指せる器だって評判の」

 

 ただし、『目指せる』であって、『獲れる』じゃないんだよな。

 これが、鴨川ジムの誰かさんだと『チャンスさえあれば世界が獲れる器』と言われる。

 そして伊達英二もまた『獲れる』と評価されていた。

 今は『狙える』になっているが。

 

 俺の場合は、『目指せる』だったな。

 

 無意識なのか、それとも意識的にか……マスコミというか、人の言葉は時に残酷だ。

 

 とはいえ、石井に実力があるのは確かだ。

 そして和田は、その石井とのタイトルマッチで接戦だった。

 去年……じゃなくて今年のチャンピオンカーニバルの中ではベストバウトだったとの評判の試合。

 俺の見た感じ、石井がやや有利、絶対とはいえない程度の差。

 

 まあ、すぐに再戦を挑めるはずもなく……次は勝てるとも言い切れない。

 だからこそ、ひとつ上の階級のベルトを狙いに来た……わけじゃないのか?

 

「和田は、タイトルマッチ以前にも、石井に負けてるんだ。つまり、2回負けた……暗黙の了解というか、国内での3度目のマッチメイクは無い。3度目をやるなら、上の舞台に行くしかないってな」

 

 それは初耳……というか。

 

 そういえば、原作でも幕之内と千堂がそんな感じだったか。

 同じ舞台、日本タイトルマッチでは戦わないというか……確かに、再戦そのものが珍しいって雰囲気はある。

 

 和田は、バンタムに石井がいる限り、タイトルは狙えない……そういう感じになるのか。

 まだまだ俺の知らないことが多いな、この業界。 

 

「じゃあ、日本をすっ飛ばして東洋へってのは……?」

「和田の所属するジムには単独でそれをやれる力が無い……そして、今のバンタムは国内は石井、そして東洋は塚田にスポンサーがついて、テレビ局がバックアップの体制をとってる」

「……うわぁ、どこかで聞いた話ですね、それ」

 

 不機嫌そうに、音羽会長が足を組み変えた。

 

「塚田の世界への話が進まないと、国内の石井には東洋への順番が回ってこないのさ。そして、石井が国内を卒業しないと、和田にタイトル挑戦の目は無い」

「……なるほど。あのタイトルマッチは、和田さんにとって、そういう試合だったんですか」

「接戦だったとはいえ、石井に負けちまったからな。もう和田が入り込む余地はない」

 

 ふと、前世で一時期よく使われたフレーズを思い出した。

 絶対に負けられない戦い、か。

 

「……じゃあ、ジュニアフェザーでなんとかってとこですか」

「どうかな……」

 

 そうつぶやいて、会長が苦笑を浮かべた。

 

「速水にはいまひとつピンとこないかもしれないが、ボクシングのオールドファンの世代には、『バンタム級』と『フライ級』ってのは特別なんだ。そのオールドファンの世代の経営者というか、スポンサーもつきやすいし、テレビ局のバックアップもつきやすい……それに」

「今の時代は、日本人が世界挑戦しやすい、ですか?」

「まあ、そういうことだ……」

 

 ミニマム級から、ジュニアフライ(ライトフライ。ただし、呼び名は統一されていない)、フライ、ジュニアバンタム(スーパーフライ)、バンタムと、いわゆる軽量級が、日本人ボクサーが世界へと挑戦する主戦場だ。

 

 これが、ジュニアフェザー以上の中量級になってくると、中南米勢が強くなってくる。

 WBCの本部がメキシコ、WBAの本部がパナマにあることからもわかるように、根強い人気があり、競技人口も多く、総じてレベルも高い。

 昔はこの階級でもそこそこやれたが……今は世界全体の競技人口が増えて、逆に層が薄くなったとされる日本人には厳しい戦場になっている。

 

 そして重量級は……鷹村さんの境遇からもわかるように、アジア人にはほぼノーチャンスだ。

 重量級で最も軽いミドル級においても、これまでにアジア系の国から生まれた世界王者はたった一人だけ。

 それも、第二次世界大戦前のことになる。

 高額のファイトマネーが飛び交うようになってからは、ますますその傾向が強くなった。

 

 前世でも、90年代に日本人のミドル級の世界挑戦が決まったと聞いて、多くのボクシングファンが『え、なんで?』と首を傾げたぐらいに厳しい。

 挑戦権が回ってきたことが、そもそもの奇跡。

 

 

 軽量級は、世界で見れば不人気といえる階級だ。

 タイトルマッチというビジネスを成功させられる経済力というか国のひとつが日本だ。

 物価の高い日本に王者を招いて、日本人ボクサーが挑戦を繰り返す。

 それが、現状。

 

 つまり、今の時代はバンタムから階級を上げると……いきなり、世界挑戦への難易度がはね上がる。

 チャンスを手に入れるという意味でもそうだが、実力の面でもだ。

 競技人口を見ても、この時代は軽量級の人数が少ない。

 そして、日本人は軽量級の層が厚い方だ。

 

 この時代、日本人で、運動能力が優れていて、体格のいい子供はボクシングには目を向けないことがほとんどだ。

 周囲がそうさせないというべきか。

 野球や相撲、柔道、バレー、サッカー……など、周囲の大人が自然とそちらへ誘導する。

 

 その国で、ボクシングの人気があるかないかというのは、そのまま競技人口に直結する。

 重量級は、体格的に日本人に不利と言われるが、正確には重量級で戦える可能性のある素質を持った子供は、ほかの競技に流れると言うべきだろう。

 

 たとえば、プロ野球選手の平均身長は、日本人男性の平均身長と比べて10センチ近い差がある。

『背は低くとも関係ない』などと本気で口にする指導者は、現実が見えていないといえる。

 

 運動能力で金を稼ぎたいと夢見る子供たちにとって、ボクシングは魅力的な競技ではない。

 少なくとも、体格的に優れた子供たちにとってはそう思うのだろう。

 

 身体が小さく、運動神経が優れている……そういう子供たちの受け皿のひとつとしてボクシングがある。

 それが、この国での現状だ。

 

 

 

 気がつくと、音羽会長が俺を見つめていた。

 

「どうしました?」

「いや、結局……和田というボクサーには運がないってことさ。オリンピック(ソウル)を目指して大学にいって、その後も次のオリンピック(バルセロナ)を目指すかどうかで揉めて……デビューが遅れた」

「……」

「バンタムには、塚田がいた、そして石井がいた……ジュニアフェザーに階級を上げたら、ちょうど同じ時期に、速水、お前がフェザーから階級を下げてやってきた」

「いや、会長。それ、俺が負けたら、俺に運がないって言われるパターンじゃ……?」

「はは、そりゃそうだ」

 

 会長が少し笑い……視線を落とした。

 

「……覚えておけよ、速水。バンタムとジュニアフェザーは1階級しか違わないが、世界挑戦のためにかかる費用と手間は大きく変わってくる。そして、フェザーより上は、また大きく変わる」

 

 会長の手。

 握りこまれた拳。

 

「ジュニアフェザーは、中量級では不人気の階級とも言える……それでも、バンタムよりは厳しい。世界を目指せるチャンスは、いろんな意味で少ない」

「はい」

「チャンスをつかんだら、絶対に逃すなよ。和田じゃないが、2度目はあっても、3度目のチャンスは絶対に無いと思え」

「……何か、あったんですか?」

 

 一瞬の間。

 

「千堂戦のあと、タイから呼んだサウスポーと()らせただろ?」

「ええ……それが?」

「……あの時、お前を国内でもたもたさせられないと思ったのさ」

「そんな強い相手でしたか?現地のプロモーターからの情報にだまされてません?」

 

 会長がちょっと笑った。

 

「ま、お前はそれでいいさ……そもそも、初めて会ったときから目線の位置が違ったもんなぁ」

「千堂や宮田、そして幕之内のほうが、よっぽど手ごわかったですよ?」

「そこで、その3人を比較対象に……まあ、いいか」

 

 また会長が笑い、ガラス張りの壁……ジムへと目を向けた。

 

「ヴォルグとのスパーで成長するお前を見て……東洋は確実に獲れると思った」

「……まあ、勝ち続けるつもりです」

「ああ、勝てよ速水。和田も、真田も、ぶっ飛ばしてやれ」

 

 和田、そして、王者の真田。

 

 あと2つ勝てば、とりあえず日本王者。

 速水龍一の、途切れた道。

 その先。

 

 

 どんな景色が……見えるんだろうな。

 あるいは、ただ道が続いているだけか。

 

 

 

 

 

 

 

 10月上旬。

 

 ヴォルグとのスパー。

 なんとか、4Rを終わらせた。

 

 少し変則だったから、ヴォルグは本気じゃない。

 

「アリガトウ、リュウ」

「いや、ちょいと新鮮だったからな」

「シンセン?新シイ?」

 

 ヴォルグが、首をひねる。

 

『いつもと違うスタイルだったから、楽しめたよ』

『ああ、うん。リュウは、器用だよね』

 

 A級賞金トーナメントの決勝。

 俺は和田と。

 そして、ヴォルグは冴木とだ。

 

 フリッカーはともかく、フットワークだけなら俺も冴木の真似事ぐらいはできる。

 多少、速度は落ちるが。

 まあ、ヴォルグのスパー相手として……そういうことだ。

 

『ありがとう、速水』

『お役に立てましたか、ラムダさん』

『具体的なイメージをつかむには十分だった。君は、他人の特徴をつかむのが実に巧みだ』

『知り合いですからね。昔、アマの大会で試合をしましたし、プロになってからスパーをしたこともあります』

『なるほど』

 

 ラムダが小さく頷く。

 

『……君の友人には、厳しい結果になるよ』

 

 何が起こるかわからないのが勝負とはいえ、な。

 

 心の中で、冴木にがんばれと呟いておくことにした。(目逸らし)

 

 

 

 ヴォルグは帰ったが、俺は練習を続ける。

 休養も大事だが、ヴォルグと違って俺は平日に時間が取れない。

 

 きちんと、追い込むべきところは追い込まなければならない。

 自分で自分を追い込む方法は、どこかに甘えが出やすい。

 

 よく、『吐くまで追い込め』と言うが、あれは一般的な認識とは別の、重要な意味がある。

 ハードトレーニングそのものではなく、自分の力を搾り出す訓練。

 意識の切り替え。

 神経のトレーニング。

 

 いわゆる、火事場の馬鹿力を利用するためのスイッチと言うか、メンタルトレーニングにも分類されるべきものだ。

 一部で『もがき』と呼ばれる練習法。 

 

 自覚はあるが、俺は間違いなくそこが弱い。

 

 とはいえ、それなりにコツのようなものはつかんではいるが。

 たとえば千堂戦のあの時。

 余力とか、ペース配分とか、そういうものを全部取っ払うしかなかった精神状況。

 あれをイメージする。

 自分を出し切り、全部搾り出す感覚。

 

 まあ……選手が吐くぐらいのハードトレーニングをさせるだけが目的になっている指導者は多いが。

 これは、きちんと選手を管理して行わないと『吐かない様に、無意識に流してしまう』癖がつく。

 苦痛を避けるための、自己防衛だ。

 

 倒れないように、怪我をしないように、ペース配分をつける。

 もちろん、本人はそれを自覚していない。

 全力を振り絞ったつもりなのに、余裕を残している。

 そして、『俺もずいぶん体力がついたな』などと仲間と笑いあったりするのだ。

 

 ……野球部員には、意外と多い。

 

 吐けるまで練習できるのも、ひとつの才能だ。

 ただ、その場合は怪我には注意だが。

 余力を残さず振り絞るということは、やはりそれなりのリスクを伴う。

 

 

 

 荒い呼吸のまま、鏡に映る自分と向かい合う。

 

 和田のイメージ。

 それを動かす。

 俺も動く。

 

 右のジャブでなく、右のフックから入ってくることが多い。

 実際に見てみないとなんともいえないが、対戦する相手はみんなそれを避けにくそうにしていた。

 

 俺の左手の外。

 視界の外から飛んでくるフック、か。

 映像で見る限り……俺の右手のほうに上体を傾けて、無造作に打っているように見えるのだが。

 

 たぶん、独特のリズムがあるのだろう。

 

 千堂戦の後にやった、あのサウスポーとの対戦が参考になるだろうか。

 

 

 練習生に断りをいれ、スペースを確保。

 

 反復横とび。

 横の動きを意識。

 縦の動きからの連打ではなく、横の動きからの連打。

 

 低く。

 速く。

 連打。

 ギアチェンジ。

 動作の中断。

 そこからのラッシュ。

 

 技術と思考を支える体力。

 そして、酸素。

 

 これをそのままリングの上に持っていけたらと思う。

 誰もがそう願う。

 しかし、無いものねだりだ。

 

 

 床を拭き、スペースを空けた。

 練習生に礼を言う。

 

 休憩。

 いや、今日はもう上がりか……あんまり待たせてもな。

 

 近づいてくる人影。

 

「速水君。ちょっといいかな?」

「藤井さんじゃないですか。ヴォルグなら帰りましたよ」

 

 わかっていてそう言うと、藤井さんが困ったように頭をかいた。

 

「そういじめないでくれよ……雑誌的には、ほら、君ならわかるだろ?」

「はは、理性と感情は別ですよ」

「まいったなあ……」

「冗談ですよ……それで、今日はなんです?トーナメント決勝についてですか?」

「まあ、そんなところさ」

 

 A級賞金トーナメント決勝について少し話をした。

 

 

「なあ、速水君」

「はい?」

「伊達と……伊達英二と、ヴォルグ・ザンギエフ。どちらが強い?」

「ヴォルグが冴木さんに勝ってからの話ですね」

「まあ、そうなんだがな……」

 

 口ごもると、藤井さんは間を取るように窓の外に視線を向けた。

 なんとなく、俺もそれを追う。

 外はもう真っ暗だ。

 

「……2人とスパーをした君の意見は貴重だろ?」

「じゃあ、1人のボクサーとして……当然オフレコですよ?」

「ああ……少し残念な気もするがな」

 

 俺は、思うところをそのまま言葉にした。

 

「強いのはヴォルグです」

「……断言できるのかい?」

「ええ。相性も絡んできますが、強いのはヴォルグだと思います……ただ」

「ただ……なんだい?」

 

 藤井さんを見て、言葉を続けた。

 

「やりにくいのは伊達さんなんですよ」

「それは……どういうことだい?」

「ボクシングに限ったことじゃないですが、よく『経験がものをいう』って言葉が使われますよね?」

「いや、それはそうだが……ヴォルグは、アマで200戦以上……」

 

 首を振る。

 そして、一言。

 

「経験って、何ですかね?」

「それは……いろんな相手と戦って、いろんな戦い方や、場面を知ることだろう?」

「俺もうまく説明できる自信が無いんですがね……戦い方とか技とかって、自分とは別の『価値観』であって、経験ってのはそれらとの接触を意味してるんじゃないかって思います」

 

 スポーツは、どこまでいっても人と人との戦いだ。

 記録と向かい合う競技にしても、最初に良い記録を出すなど、相手に精神的重圧をかける駆け引きは随所に見られる。

 

 人との戦い。

 異なる価値観との接触、ぶつかり合い。

 自分の知らない価値観を知る。

 それが、経験。

 

「俺、ボクシングを始める前は野球をやってたって話しましたよね?」

「ああ」

「……俺はボクサーだけど、野球選手としての価値観も持ってるんですよ。その価値観が、時折ボクサーとしての俺を救ってくれたりします」

 

 ヴォルグは、生粋のボクサーだ。

 田舎の村で育ち、人との出会いは少なかった。

 

 子供の頃からボクシング。

 指導するラムダも、ボクシングの専門家。

 

 それに対して伊達英二は……。

 ボクシングを始めたのが、高校2年になってから。

 1度引退し、社会人となって3年ほど働き、さまざまな価値観に触れて生きていた。

 そして復活。

 しかし、ボクシングの戦歴そのものは、ようやく20戦に届いたぐらい。

 引退前の強さとは違う、別の強さ。

 

 何を持って、経験と語るか?

 

「……多くの価値観に触れてきた、人生そのものだと思うんですよ、俺は」

「なる、ほど……いや、興味深い話だと思う。オフレコにするのが惜しいね」

「ヴォルグは、ボクシングについては深く知っている大人です……しかし、それ以外については、むしろ素朴な少年を思わせます」

「そして伊達は……どちらも、大人か」

 

 ボクシング以外の価値観を、ボクシングの技術でヴォルグにぶつけるとき……意外なもろさを見せるかもしれない。

 残念ながら、今の俺にはそれをスパーで指摘することができなかった。

 

 心臓打ちではないが……完全に無防備な状態での、一発。

 それで、ボクシングの勝負は決まってしまう。

 

「強いのはヴォルグです……勝敗については、俺からはなんとも言えませんね」

「いや、参考になったよ……去年、東日本新人王の取材に来たことを思い出したね」

「ああ、あれですか……」

 

 強いのは宮田。

 怖いのは幕之内。

 戦りたくないのは間柴。

 

 

 その、強い宮田と、怖い幕之内の試合、か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 土手の道を歩く。

 

 春、以来か。

 

 いいランニングコースだよな。

 ここが近所なら、ロードワークに使うのに。

 

 景色を眺めながら、鴨川ジムへと歩いていく。

 

 

「チケット、2枚で良かったんですよね?」

「ああ。ヴォルグと見に行く予定なんだ」

「ヴォルグって……ヴォルグさんですか!?」

「ああ、たぶん、そのヴォルグさんだよ」

 

 笑いをこらえつつ、チケット代金を幕之内に手渡した。

 

 メインは鷹村さんだからな。

 なんだかんだいっても、あの人の試合はホールを客で埋める。

 幕之内に話を通してなかったら、いい席のチケットが手に入らなかったかもしれない。

 

「それで……順調かい?」

「え?ええ、まあ……順調だと思います」

「そのわりには、冴えない表情だな」

 

 約束。

 特別な試合。

 

 一度交わった道が、そこから遠く離れていく。

 そんな試合か。

 

「……今持ってるものを、全部ぶつけるつもりです」

 

 幕之内がはじかれたように顔をあげ、俺を見た。

 

「ああ、図星だったか……からかうつもりじゃなかったんだが」

「い、いえ……でも、それしかないと思います。宮田君に、全部見せようと思います。あれから、あの日から、僕が身につけたもの全部を」

 

 呟くように言いながら、幕之内が何気なく右の拳を振った。

 

 ちょっとした動き。

 それでも、体調の良さは伝わってくる。

 

『目標は高く持て』

『優勝を目指せばベスト4どまりになる』

 

 前世でも、良く聞かされた心構え。

 

 人は……なかなか全てを出し切れない生き物だ。

 その悲しさが伝わってくる言葉。

 

 ボクシングに置き換えれば、『世界を目標にすると、東洋、国内どまりになる』……そんなところか。

 

 

 負けて悔いなしという言葉を俺は認めない。

 いや、認めたくない。

 勝つか負けるかわからないから『勝負』。

 負けて悔いが無いなら……それは『勝負』ではなかったことを認めてしまったことになる。

 

 

「幕之内くん、ひとついいか?」

「な、なんですか?」

「たとえば、俺がA級トーナメントの決勝に負けたとする」

「強いらしいですね、速水さんの決勝の相手……」

「たとえ負けても、運がよければ引退せずにすむ」

 

 幕之内が驚いたような目で俺を見ていた。

 無視して続ける。

 

「ボクサーを続けられれば、そして運がよければ、もう一度A級トーナメントに挑戦できる」

「ま、待ってくださいよ速水さん。運がよければとか、引退とか……何かあったんですか?」

「何も無いさ……でも、何があるかわからないだろ?」

「……」

「スポーツ選手は……ボクサーは、無事にリングを降りられるかどうかわからない。試合に勝ったとしても、現役を続けられる保障は無いんだ、そうだろ?」

 

 ボクシングに限らず、スポーツ選手もまた……ちょっとした日常の出来事で、選手生命を失うことだってある。

 まあ、試合のたびに遺書をしたためる格闘家の心境には至れないが、な。

 

「俺の次の試合……A級トーナメントの決勝は、やり直しができるかもしれない試合だ」

 

 やや芝居がかっているなという気恥ずかしさを感じつつ、右の拳でとんと、幕之内の胸……心臓の部分を突いた。

 

「君の次の試合……宮田くんとの試合は、絶対にやり直しができない試合じゃないのか?約束ってのは、勝負だろう?決着をつけるってことだろう?」

 

 もう一度、胸を突く。

 そして、一言。

 

「勝てよ……勝って、宮田くんを悔しがらせてやれ」

 

 悔いを残すなとは言わない。

 それでも、悔いは少ないほうがいい。

 

 俺の、わがままだ。

 

 2人の試合を見たかった俺の、な。

 

 

 

 軽く手をあげ、幕之内に別れを告げた。

 

 俺は、歩き出す。

 幕之内の視線を背中に感じながら。

 

 

 ラムダの言葉。

 

『君はあと1~2年でジュニアフェザーを卒業すべきだと思う』

 

 あれを音羽会長も聞いていた。

 たぶん、焦っている。

 

 フェザーにはヴォルグがいる。

 

 もちろん、あの時は調整を失敗した状態だった。

 ラムダの判断も、それを見てのことだ。

 

 スポーツの世界では、上に行けば行くほど道が狭くなる。

 その狭くなった道を、切り開き、こじ開け……邪魔者を殴り倒していく。

 そうして歩いていく。

 

 ……足踏みしている余裕は、ないだろうな。

 




ごめんなさい、トーナメント終了まで書けると思ったんですが、ラストまで仕上がりませんでした。
連日更新はここまでです。

しばらく、ネットカフェに寄る時間が作りにくい感じです。
たぶん、週末……8月の10~11日ぐらいに投稿できるかも?(その場合、更新は11日か12日です)

あと、感想返しもちょっと後回しにします……ごめんなさい。


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20:戦いに挑むもの。

お待たせしました。


「速水選手、122ポンド、OKです」

「ありがとうございます」

 

 

「和田選手、121ポンド、OKです」

「ども」

 

 A級賞金トーナメント。

 全13階級でおこなわれたトーナメントも、決勝戦。

 ただし、2日かけて行われる。

 

 例の、ホールの興行の目安50Rというやつだ。

 

 A級トーナメントの決勝は8Rで行われる。

 たとえばそれが7試合だと、合計56Rになってしまう。

 

 軽量級は判定が多く、後半までもつれ込みやすい。

 重量級はKO決着が多く、予想以上に早く終わることもある。

 そのあたりの兼ね合いで、各階級をバランスよく混ぜてスケジュールが組まれた。

 

 その結果、俺のジュニアフェザーと、ヴォルグのフェザーは、別の日程に分かれた。

 そして、鴨川ジムの木村さんのジュニアライトと、青木さんのライトも別の日程。

 俺と木村さんが同じ日程。

 ヴォルグと青木さんが同じ日程だ。

 

 

 

 

 俺と和田への記者連中の集まりはぼちぼち。

 

 ほかの注目は、ジュニアライトの間柴と、ミドルの玉木あたりか。

 ヴォルグがいない分、少しばらけたか。

 

 

 さて、握手をしようとしてふと気づく。

 左利きの人には、どっちの手を伸ばすべきなんだろうな?

 

 まあ、ここは年上にあわせておくか。

 

 俺が伸ばした左手。

 和田がそれを握った。

 

「和田さん、明日はよろしく」

「ああ。この前の借りは返すぜ、速水」

「借り?何かありましたっけ?」

「飴玉の、さ」

「いやそれ、恩をあだで返すって言いません?」

「はは、若いうちに苦労をしろと言うだろ。俺なりの恩返しってヤツだ。遠慮なく受け取ってくれ」

 

 俺たちの会話に、記者たちの一部が首を傾げる。

 

 あるいは、以前からの知り合いと思われたか。

 同じアマ出身とはいえ、俺と和田は年代が重ならない。

 デビュー時期も違う。

 これまで接点は無かった。

 いや、無くもないのだが、直接の接点は無かった。

 

 あの飴玉が接点か。

 そして、この決勝。

 

 質問が飛ぶ。

 

 抱負。

 意気込み。

 そして、『倒して勝つ』と、記者たちが望む言葉を、俺も和田も口にする。

 

 最後に、お互いのあごの下に拳を構えての写真。

 

 

 記者たちが離れると、和田がため息をついた。

 

「……倒すだけがボクシングかよ」

 

 アマボクシングはメジャー競技とはいえないが、トップ選手ともなればさすがにマスコミに慣れる。

 オリンピックに出場するような選手ならなおさらだ。

 ただ、そのぶん……すれたりもする。 

 

「まあ、記事を書くのは記者さんですが、記事を読むのは一般の人ですからね……あの質問も、読ませる記事を書くための質問ですよ」

「そのぐらいはわかってるさ……オリンピック(ソウル)で嫌になるぐらい経験したからな」

「やっぱり、ひどいんですか?」

「……注目競技の注目選手に比べりゃマシだった、とは言っておく」

 

 苦笑だけにしておいた。

 たぶん、突っ込んでもろくなことが無い会話だ。

 

「それで、速水よ。8Rもちそうなのか?」

 

 不意打ち。

 とまではいかない。

 

 サニーとの試合で、ある程度覚悟はした。

 相手の無能を願うのは、自分が無能である証拠だろう。

 

 俺を見つめる和田の目。

 それを、見返した。

 

「ぶっこんで来ますね」

「……試合前にいきなり飴玉なんかなめ始めたら、馬鹿でも気づくぜ。そうさせる何かがあった……ってな」

 

 それもそうか。

 わざわざ、『ヴォルグのトレーナーが言ってた』などと、煙幕を張ったつもりだったんだが。

 

 そして、これはサニーとは別の路線での気づきだ。

 

「まあ……不安があるとだけ言っておきます」

「なるほどな……試合を見た感じだと、わからないのが不安ってとこか」

 

 息を吐き、和田が視線を落とした。

 

「探るような真似して悪かった……ただ、俺にも事情があってな。注目されてるお前を派手に倒して、アピールしたいんだよ」

「ああ、ガス欠でヘロヘロになった俺を倒しても意味が無いってことですか……それは俺もごめんですね」

 

 顔を上げ、和田が苦笑を浮かべる。

 

「ま、俺の都合だ……」

 

 和田の視線。

 ここではない、どこかをみているように感じた。

 

「プロも……色々と面倒だよな」

「……冴木さんに言ってやって下さいよ」

 

 和田は、冴木が通ってた大学のOBだ。

 オリンピック候補のアマ選手が所属するような大学のボクシング部は限られてくる。

 ただ、俺より5歳年上、そして冴木の4つ上だから、同じ時期に在籍していたわけではない。

 ちょうど入れ替わりのタイミング。

 

「速水、お前あいつの知り合いか……ああ、ひとつ違いだもんな。お前は最初からプロ志望だったが……冴木のやつはなぁ」

 

 額に手をあて、大きなため息。

 そして出てくるのは、冴木への愚痴というか、大学に絡んだ人間関係への愚痴。

 

 冴木のプロ転向の……一連の動き。

 

 相当もめたようだ。

 大学関係者はもちろん、いろんな人間の面子をつぶしたことになったのだろう。

 オリンピックに出た先輩として、冴木を説得……みたいな事もさせられたとか。

 やはり冴木は、大学をやめるしかなかったようだ。

 

 うん、この話題、振るんじゃなかった。

 そして、この場にヤツがいなくて良かった。

 

『プロも面倒』って言ってたけど、この人、アマに嫌気をさしてプロに転向したクチかもしれないな。

 

 

 愚痴が終わったというより、我に戻ったのだろう……和田が気まずい表情を浮かべた。

 

「その……なんだ。悪かった……」

「いえ、こちらこそ余計なことを……」

「……速水。今の、やばいネタもあるから……な?」

「わかってます。言いませんから」

 

 そこで会話が途切れた。

 なんとなくという感じで別れる。

 

 別の人と、口直ししたい気分だが……音羽会長は、別のジムの人と話しこんでいる。

 

 

「よお、速水」

「ああ、木村さん」

 

 向こうから来てくれるとはありがたい。

 ん?

 

「……あれ、取材は?」

「お目当ては俺じゃなく、間柴だとよ……」

「間柴って、取材にちゃんと対応できるイメージが浮かばないんですが……」

「東邦ジムの会長さんが、汗を流しながら対応してるよ」

 

 そう言って、木村さんが肩をすくめた。

 

「……難敵ですね」

「まあな……でも、やるしかないさ。俺が勝てば、あの注目は全部俺のモンになる……そうだろ?」

 

 言葉とは裏腹に、表情が硬い。

 

「そして、賞金とランキング1位、何よりもチャンピオンへの優先挑戦権、だ」

 

 そこにある何かをつかむように、拳が握りこまれる。

 

「印象に残る試合ができたら、MVPまでつきますよ」

「おっと、それもあったな……そうだな、強い相手で幸運だったってことだ」

 

 拳を手のひらに打ち付ける。

 2度、3度と。

 

 ……緊張は隠せない。

 

 分が悪いという、自覚があるんだろう。

 

 間柴の距離。

 そして、木村さんの距離。

 

 距離をとっての左の差し合いは木村さんに不利だ。 

 木村さんが比較的有利に戦えるのは、近距離だろう。

 ただ、アウトボクサーの木村さんはそこが苦手なはずだ。

 不慣れなボクシングをしながら、間柴の打ちおろしのパンチを警戒しなければならない……リスクは高く、リターンは少ない。

 しかし、近づかなければボクシングにならない。

 

 どう近づくか。

 どう戦うか。

 

 戦略も、戦術も、難しい試合であることは間違いない。

 

 

 少し話題を変えるか。

 

「別の日程に別れましたけど、青木さんの調子はどうなんです?」

 

 木村さんの表情が曇った。

 

「……良くないんですか?」

「アイツ、準決勝で倒し倒されの熱戦だったからな……ダメージと疲労を抜くだけでずいぶん時間がかかった」

 

 ダメージと疲労を抜くといっても、ただ安静にしているだけでは身体が動き方を忘れてしまう。

 人間の身体は、動くことでメンテナンスされる……そういう部分はある。

 しかし、安静にしていなければ、回復は遅くなる。

 

「軽い、調整程度ですか……」

「ああ。ただ、昔から青木は、追い詰められてからがしぶといんだ。今度の試合も、きっと何か考えてる……アイツとは、古いなじみだからな、わかるのさ」

 

 そう言って、笑う。

 緊張を感じさせない、柔らかい笑み。

 

 ある種の、心の支え、か。

 

 

「そういえば、幕之内くんはどうしてます?」

 

 宮田との試合のあと、会っていない。

 まあ、自分の試合もあったしな。

 

 木村さんが俺を見る。

 

 ん?

 んん?

 その表情は?

 

 ぽんと、肩に手を置かれた。

 

「なあ、速水……お前、ヴォルグと伊達さんがタイトルマッチをやったら、ヴォルグを応援するよな?」

「え、ええ、まあ……同じジムの仲間ですし」

「そうだよな……日本人とか、国とか関係なく、同じジムの仲間なら、そういうもんだよな」

 

 ぼそりと。

 低い声で。

 

「あのやろう、間柴の妹に鼻の下を伸ばしてやがった……」

 

 え?

 あぁ、そういう……。

 

 宮田との試合が終わって、いろんな意味で気持ちが切れてないか心配してたんだが。

 まあ、元気そうにしてるならいいか。

 

 

「俺が間柴と戦るのを知ってて、仲良く話をしてやがるんだぜ?」

「ああ、ちょっと無神経かも知れないですね……」

「だろう?」

「まあ、幕之内くんも試合が終わって気が抜けてるんですよ……ここは、木村さんが先輩らしく余裕を見せてあげるところですって」

「そ、そういうもんか……」

 

 木村さんに相づちを返しながら思った。

 

 どうやら今日は、そういう巡り合わせらしい、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後楽園ホール。

 

 控え室。

 

 A級トーナメントの参加者に、ライセンスの差は無い。

 それでも、年齢や、実績などで、言葉遣いの変化や、遠慮が見え隠れする。

 試合相手なら別だろうが、それは別の控え室。

 

 少なくとも今日は、戦うことの無い集まり。

 

 

 俺の出番は3試合目だ。

 

 軽い階級からの順番。

 俺の次に、ジュニアライト……木村さんと間柴の試合。

 

 4回戦の試合は判定までもつれても15分ほどで終わるが、今日は全部8Rの試合だ。

 長ければ30分。

 そして、早ければ1Rで終わる。

 

 まあ、あんまりな場合は進行の調整をするだろうが、俺の前の2試合がともに1Rで終わったなら、入場も含めて10分ぐらいで出番がやってくることになる。

 

 慌てずに。

 そして、いつでもいける心構えで。

 

 バナナを半分食べてから、飴玉を転がし始める。

 

 果物に含まれる果糖は、砂糖とは違う。

 同時に食べても、分解される速度が異なり、エネルギーに変換されるまでの時間は、果糖の方が遅い。

 

 会場の様子を見ていた村山さんが戻ってきた。

 

「会長、1試合目は判定までいきそうです」

「そうか……」

 

 待つ時間。

 

 無理に動く必要は無い。

 

 

 

 1試合目の選手が戻ってくる。

 控え室の人間の視線がそちらを向く。

 

 不思議な話だが、2試合目以降の選手が戻ってきたときはこうならない。

 最初に戻ってきた選手が、勝ったか負けたか。

 それを気にする。

 

 まあ、ここにいるのは全員A級ボクサーだ……4回戦ボーイのように、『勝ち運がついてる』とか『じゃあ、次は勝てる番だな』とか、声をかけられるようなことはない。

 それでも、視線だけは向けてしまう。

 そんな癖がついている。

 

 

 歓声。

 それが、控え室に届いていてくるということは……。

 

 立ち上がる。

 予感のようなもの。

 軽く、ステップを踏む。

 

 村山さんが現れる。

 

 そして、スタッフ。

 

「速水選手、準備をお願いします」

 

「いくぞ、速水」

「はい」

 

 

 2試合目の選手とすれ違う。

 また、こちら側の負けか。

 

 まあ、関係ないけどな。

 

 体調は、いい。

 

 

 

 2試合目が予定より早く終わったせいか、俺と和田の、プロフィールが紹介されている。

 

 会場に流れるアナウンスを聞いていると、俺も、和田も、アマのエリートという印象が強い。

 格に関しては、当然オリンピックに出た和田の方が上だが。

 

 まあ、リングの上に持っていけるのは、今の自分だけだ。

 

 

 

 レフェリーからの諸注意。

 

 和田を見る。

 身長は、俺とほぼ同じ。

 和田の身体を見る。

 バンタムから、ジュニアフェザーに階級をあげてきた身体。

 良く見える。

 

 しかし、ジュニアフェザーでの2戦。

 精彩を欠いているように見える。 

 

 石井とのタイトルマッチでみせていた、あの躍動感。

 

 俺のイメージは、バンタム時代の和田の姿。

 

 

 

 コーナーへ戻った。

 

「ぶっ飛ばしてこい、速水」

「ええ、そのつもりです」

 

 ……始まる。

 

 

 

 リングの中央。

 

 伸びてきた右手。

 ジャブを打つ手。

 俺は、左手を伸ばす。

 

 グローブをあわせ、距離をとった。

 

 リングの感触を確かめるように、回りだす。

 

 和田の姿勢は、今のところオーソドックスだ。

 距離が近くなると、少し低くなる。

 

 右のジャブ。

 俺の左に押し付ける感じ。

 とん、とん、と。

 俺のガードにぶつけてくる。

 

 俺が左を出しても、途中でぶつかる。

 そんな軌道。

 

 ふっと。

 和田の身体が沈む。

 上体を折りたたむようにして、左のボディストレート。

 

 バックステップでかわした。

 

 仕切りなおし。

 

 今度は俺から。

 左。

 さっきされたように、2発。

 和田の右手にぶつける。

 

 和田の顔が動く。

 左手の影に。

 

 軽い衝撃。

 

 遅れて、歓声が聞こえた。

 

 距離をとった。

 なるほど、見えなかったな。

 今のが和田の右フックか。

 

 左手と顔の動きで視線を誘導し、視界の外から右フック。

 タイミングも独特だ。

 

 

 ……横っ面をはたかれた、お返しはしないとな。

 

 左。

 ジャブ。

 そして、強打へ。

 和田の顔ではなく、ガードを目標にした左ストレート。

 

 踏み込む。

 少しバランスを崩した和田の顔に、左フック。

 

 今度は和田が距離をとった。

 その場で、軽くステップを踏んでいる。

 

 近づく。

 左。

 和田の右。

 

 いわゆる、ジャブの差し合いにはなりにくい。

 

 右利き同士なら、お互いの左は平行軌道を描く。

 しかし、右と左が相対した場合……。

 お互いのジャブは、軌道がクロスする。

 

 出したジャブが、相手のグローブに、肘に、腕に、ぶつかってしまう。

 

 対サウスポーのセオリーで、相手の外に回って右ストレートから入るというのは、相手の右に対して、こちらの右が平行な軌道を描くから。

 そして、真正面から強い右を打ち込みながら、こちらはパンチをもらう危険性が少なくなるからだ。

 

 まあ、当然……サウスポーは、対右利きの試合には慣れている。

 

 

 左ストレート。

 

 和田の二の腕、肩の辺りをめがけて打つ。

 ガードされるならそれでもいい。

 

 和田の右腕が折りたたまれる。

 

 サイドステップ。

 左フック。

 拳は縦。

 そして、ガードの隙間へねじ込んだ。

 

 和田が距離をとる。

 そして……目が据わった。

 

 上体を動かしながら接近。

 右ジャブの連打。

 左ストレート。

 また、右。

 

 和田の頭。

 

 俺は左前方に踏み込んだ。

 和田の右肘を押さえる。

 

 右の強打。

 和田のガード。

 動きの止まった和田の肝臓を、左で突き上げた。

 

 和田が大きくバックステップ。

 距離をとり、またその場でステップを踏む。

 両手をぶらぶらさせる。

 

 硬くなっているのか。

 

 息を吸い、吐くのがわかった。

 

 

 軽快なステップ。

 和田が、俺の周囲を回りだす。

 

 おい。

 おい、まさか。

 

 俺の中のイメージ。

 バンタムで、石井とタイトルマッチをやった和田のイメージ。

 それと重なる。

 

 和田の右。

 左のボディストレート。

 

 動きがいい。

 間違いない。

 

 横の動き。

 右。

 そして左。

 時折見せるボディストレートが、攻撃にアクセントをつける。

 

 和田の右。

 そして左……。

 

 また横面を叩かれた。

 右フックだ。

 

 また、歓声が耳に届く。

 

 

 残り10秒の合図。

 

 左右へのフェイントをかけて接近。

 強い右。

 それをガードさせた。

 もうひとつ右。

 

 左フックをねじこむ。

 そしてバックステップ。

 

 空振りする右フックの軌道を確認。

 

 

 1Rが終わった。

 

 

 

「会長、見ましたか?」

「ああ……和田のやろう、ジュニアフェザーの2試合、三味線ひいてやがったな」

「たぶん……真田とのタイトルマッチを想定してたんでしょうね」

 

 まあ、自分の考えることは他人も考えるか。

 

「しかし、和田さんって人気あるんですね。俺がパンチをもらうたびに歓声が飛びますし」

「……速水、お前がまともにパンチもらったの、千堂戦以来だからな。たぶん、そのせいだ」

「……そうでしたっけ?」

 

 スパーで、殴られてるからなあ……。

 

 

 セコンドアウトの合図。

 

 さて、2Rか。

 

 

 

 横の動きが多い。

 和田も、俺も。

 

 パンチを当てる軌道を、自分が動くことで探る。

 

 和田のボディストレート。

 

 上体を倒して左手を俺のボディへと伸ばしてくる動き。

 右手は顔をガードしている。

 アッパーで迎え撃とうとしても、和田の左手の方が射程距離が長い。

 

 うん、これをどう攻略するか。

 あるいは、スルーできるか。

 

 そして、右フックか。

 

 和田というボクサーの、ボクシングの組み立て。

 その柱から、壊す。

 

 左に回る。

 左を飛ばす。

 意識的に、ガードの上へぶつけている。

 ただ、ヒットポイントと、タイミングをずらしながらだが。

 

 腕が伸びきる寸前。

 そこでパンチをあてるのが一番効く。

 

 強いパンチをガードできるのは、ヒットポイントがすれているからという理由がある。

 

 なら、最初からガードを狙って打つ。

 ガードに、一番強い衝撃を与えられる距離で。

 

 

 左フックを右肩に。

 当ててから、ねじりこむ。

 バランスを崩す。

 

 そこを右の強打。

 ガードさせて踏み込む。

 

 和田の右フックが割り込んできた。

 

 マウスピースを強く噛む。

 そして、左アッパーを振り抜く。

 

 和田のひざが揺れる。

 

 また、右の強打をガードに叩きつけた。

 今度は、肝臓に左を返す。

 

 その左腕を抱えられた。

 抱きつかれる。

 

 右の拳。

 右ひざ。

 

 みぞおちを突く。

 2発目。

 右腕も抱えられる。

 

 レフェリー。

 

 

 離れ際。

 

 和田の、いきなりの左。

 ガード。

 そこを、また右フックにはたかれる。

 

 軽いパンチ。

 しかし、軽視はできない。

 

 歓声がうるさい。

 

 

 お互いに距離をとった。

 

 にらみ合い。

 

 情報の整理。

 作戦の構築。

 

 

 同時に動いた。

 

 ボクシングの始まりだ。

 

 丁寧に。

 和田のパンチをさばいていく。

 

 やはり、この右フックからの組み立てが、和田の生命線。

 ジャブのように、使いこなしてくる。

 一発一発、微妙に角度が違う。

 そして、妙なためを作って、タイミングをずらしてくる。

 

 差し合いではなく。

 ターン制のように。

 

 お互いのパンチが、交互に繰り出される。

 

 避けて返す。

 あるいは、ガードして打ち返す。

 

 唐突に繰り出されるボディストレート。

 

 威力も迫力も感じないが、これでリズムもタイミングも、全部壊される。

 厄介なことに、予備動作が読みにくい。

 和田の変則なリズムに良くなじんでいる。

 

 

 お互いにパンチを出し合いながらの膠着状態。

 しかし、危ういバランス。

 

 残り10秒の合図。

 

 フェイントを入れ、踏み込んだ。

 和田の右フック。

 その下へ。

 

 右脇の下に、左フックを打ち込んだ。

 和田の動きが止まる。

 もう一発。

 

 和田の左。

 かいくぐる。

 右のボディアッパー。

 

 ここで2R終了。

 

 

 和田が俺を見る。

 しかし、すぐに背中を向けた。

 

 俺もコーナーへ。

 

 

 

「いまひとつ押し切れない感じだな」

「ええ……あのボディストレートが、いい仕事をしてます」

 

 会長が、声を潜めた。

 

「体調は?」

「大丈夫です……まだ抑えてますし」

 

 水を一口だけ含む。

 

 なぜか、飴玉の甘さがよみがえった。

 気のせいか?

 まあ、どっちでもいい。

 

 

 3Rの開始だ。

 

 

 

 2R後半と同じような形が繰り返される。

 

 和田の右フック、そして足を奪う。

 そのために、俺は執拗にボディと、右脇の下を狙った。

 

 少しずつ、和田の右の数が減っていく。

 

 しかし、ダメージではなく意図的に減らしている。

 脇の下の筋肉は、相手の腕が伸びたところを、カウンターで叩き込まないと効果は薄い。

 

 

 和田のボディストレート。

 

 これが増えてきた。

 攻めではなく、防御のための攻撃。

 

 いくらなんでも見せすぎと思ったところで、右が来た。

 右のボディストレート。

 重い。

 

 いったん距離をとった。

 

 タイミングか。

 距離か。

 

 鈍い衝撃が残っている。

 軽視できない威力。 

 

 

 

 息を吐く。

 そして吸う。

 

 前進。

 

 左のフェイント。

 強い右から入った。

 

 もうひとつ、左のフェイント。

 右のアッパー。

 かわされたが、これは威嚇。

 左のボディフック。

 そして右フックを顔面に返す。

 

 和田の左。

 前髪をかすめた。

 

 右アッパー。

 かわされる。

 

 反応が速い。

 そして、よく動く。

 

 伸びた腹へ、左を。

 右フックを上に。

 

 その下にもぐられた。

 

 和田の右フック。

 ガード。

 強い右だ。

 

 右の警戒を上げる。

 

 和田の左。

 連打の回転が上がっていく。

 

 まだ上のギアを隠してたか。

 

 押し返す。

 上へ。

 下へ。

 パンチを散らす。

 

 本命はボディ。

 時折、フックでアゴを狙う。

 

 和田の左は避ける。

 しかし、右ははじく。

 2度。

 3度。

 

 はじかれないように、強いパンチを。

 その意識を狙う。

 

 大振り。

 

 ドンピシャのタイミングで、脇の下に叩き込んだ。

 右腕を伸ばしたまま、和田の動きが止まる。

 

 細かく、鋭く。

 

 右のショートフック。

 

 反応された。

 

 抜けた感覚。

 手ごたえはわずか。

 しかし、アゴの先をかすめた。

 

 和田の身体が揺れた。

 尻餅をつく。

 

 今の……?

 

「ニュートラルコーナーへ」

 

 レフェリーに促されて歩き出す。

 

 俺の右を見つめる。

 右のグローブを。

 

 普段の、自分の手……拳の大きさ。

 横幅はおよそ指4本……10センチに満たない。

 しかし、グローブの横幅はもっと大きい。

 

 ……ああ、そうか。

 拳を当てないのか。

 

 パンチの手ごたえがあるということは、それだけ抵抗があるということだ。

 

 アゴの先を狙って脳を揺らすなら……手ごたえは抜けたほうがいい。

 

 拳を当てようと意識すると、グローブの大きさの分だけパンチの当たりは深くなる。

 拳ではなく、グローブの部分で当てる。

 

 本当に、空振りと紙一重。

 ピンポイントのパンチ。

 

 多用するものじゃない、か。

 

 

 和田に視線を向ける。

 

 カウント7。

 グローブを、太ももに叩きつけ……立ち上がった。

 

 ファイティングポーズはしっかりしている。

 しかし、ひざがかすかに揺れている。

 

 

 体力が尽きると、足が伸びる。

 気力が尽きると、腕が伸びる。

 

『かわいがり』にかけては定評のある、相撲部屋の親方の言葉だ。

 

 相手の状態を見抜かなければ、ちゃんとした『かわいがり』はできないと……穏やかな目をして語っていた。

 

 

 ボクシングをしていると、この言葉が正しいことが良くわかる。

 いいパンチをもらって意識が飛ぶと、ガード……腕が落ちる。

 そして、気力はあっても足が動かない……そういう光景は良く見る。

 

 ダメージの質の見極め。

 

 

 時計を見た。

 

 間に合うか?

 

 

 試合再開。

 

 和田に向かって、走った。

 

 和田の右。

 左。

 死に物狂いの連打。

 

 手が出せない。

 

 そこに、レフェリーが飛び込んだ。

 

 

 3Rの終わり。

 

 息を吐く。

 

 今の和田のダウンは、ダメージを積み重ねたものじゃない。

 時間がたてば、三半規管の麻痺は回復する。

 

 やりなおし、か。

 

 まあ、あれはラッキーパンチのようなものだった。

 

 切り替えよう。

 

 

 

 

「いやぁ、惜しかったな。あと2、3秒あれば終わってただろ」

「……ですね。でも、終わりませんでしたから……やり直しですよ」

 

 さっきのR。

 劣勢になってから、和田がギアを上げてきた。

 たぶん、あれが全開。

 

「……問題ないか、速水?」

「自覚できる範囲では……会長の目から見てどうですか?」

「変わりはない……そう見える」

 

 また、水を一口。

 甘い味はしない。

 やはり錯覚だったのか。

 

 口の中にしみこませてから、吐き出す。

 

 

 セコンドアウト。

 

 

 4R。

 

 和田のコーナーへと詰める。

 

 右へ。

 左へ。

 パンチの届く距離。

 

 身体を左右に振って、右フック。

 それを、和田の左の肩へ。

 止まる。

 足元もしっかりしている。

 

 バックステップ。

 

 和田の左ストレートが空を切る。

 右フック。

 それをガードした。

 

 右フックのタイミングはつかめてきた。

 

 踏み込む。

 左のショートアッパー。

 とめられた。

 右フック。

 これもガード。

 

 もう一発右フックの体勢。

 和田の反応。

 肘をたたみ、小さくアッパーで突き上げた。

 威力は出ないが、印象には残る。

 

 和田の右フックに、左のフックをかぶせる。

 懐にもぐりこんだ。

 ボディへ、左右のフック。

 

 一呼吸おく。

 

 またボディへ。

 アッパーにつなげる。

 

 反応された。

 

 和田が左を振りかぶる。

 

 ガード。

 うちおろし。

 体勢が崩れた。

 

 目の前に右。

 痛み。

 マウスピースを噛み締める。

 

 足の位置だけを見て、右を振った。

 手ごたえ。

 

 和田がたたらを踏んでいる。

 

 和田の反応は速い。

 左フック。

 このパンチをきっと避ける。

 避ける方向。

 その先に。

 

 返しの右フックを。

 

 テンプルを直撃した。

 重い手ごたえ。

 カウンター気味に入った。

 

 いける。

 

 和田の右フックが割り込んだ。

 何度もらえば気がすむ。

 

 俺の踏み込み。

 深すぎた。

 

 右腕を抱えられた。

 

 左拳。

 みぞおちに。

 

 抱きつかれる。

 強い力。

 振りほどけない。

 

 レフェリーが割って入った。

 

 離れ際。

 大きく距離をとられた。

 

 しかし、さすがに足が重そうだ。

 

 追う。

 しかし、真っ直ぐは追わない。

 右に。

 左に。

 

 和田に、右を打たせた。

 ステップイン。

 和田の視線。

 

 俺の左。

 

 肝臓へ持っていく。

 次は、脇の下へ。

 そして上へ。

 

 まともに入った。

 返しの右。

 

 和田がよろめく。

 ここで決めたい。

 

 集中。

 細かく。

 

 左右のフック。

 和田の身体が揺れる。

 ガードの隙間。

 ねじ込む。

 

 反撃の右。

 はじいた。

 空いたガードへ。

 

 和田の腰が落ちる。

 

 アッパーは警戒されている。

 

 左右のフックでまとめていく。

 

 残り10秒の合図。

 和田がガードを固めて丸くなった。

 

 狙う。

 

 左フックを右腕の外から叩きつける。

 意識を外へ向ける。

 2発目の左フック。

 ガードの隙間へ。

 アームブロックの左腕を、外へとこじ開ける。

 真中に、隙間が開いた。

 

 右のアッパーをねじ込んだ。

 

 ゴングの音。

 レフェリー。

 

 

 息を吐く。

 そして吸う。

 

 コーナーへ戻る。

 

 

 

「あと2、3秒あれば……って、さっきもやったか」

「ええ」

 

 とはいえ、さっきとは状況が違う。

 さすがに、このRで決めたい。

 

 右手。

 左手。

 

 大丈夫だ。

 違和感は無い。

 

 水。

 甘くはない。

 

 ただ……しみる。

 

 まだ、動けるはずだ。

 

 目を閉じる。

 

 焦るな。

 恐れるな。

 そして。

 

 驕るな。

 

 

 セコンドアウトの合図。

 

 目を開け、立ち上がる。

 

 

 5R。

 

 

 和田の動きが鈍い。

 

 距離を詰める。

 

 左から入る。

 和田の右フック。

 鈍い。

 

 大きく踏み込む。

 右ストレート。

 ガードさせる。

 返しの左を下へ。

 

 和田の身体が折れる。

 

 右アッパー。

 反応する。

 アッパーへの警戒が強い。

 

 ならば。

 右のボディから左アッパーへ。

 

 これを。

 和田に避けさせる。

 

 本命は、その次の右フック。

 

 予測の先。

 振りぬいた。

 

 あえかな感触。

 消えそうな手ごたえ。

 

 和田の上体が揺れている。

 

 俺は。

 左フックを振りぬいた。

 

 

 

 倒れる和田。

 

 それを確認して、右手を突き上げる。

  

 右手を強く、握りこむ。

 さっきの感触を、確かめるように。

 

 眩しい、照明の光。

 歓声が耳を打つ。

 

 

 

 

 10カウント内には立てない。

 ニュートラルコーナーへと向かいながら、そう感じた。

 理由はない。

 ただ確信する。

 

 

 和田を見つめた。

 

 

 身体を起こす。

 片膝を立てようとして、尻餅をつく。

 視線を左右に投げる。

 

 ……そこは、リングの中央だ。

 つかめるロープは無い。

 

 カウントが進む。

 

 和田の手が、太ももを叩く。

 何度も。

 

 カウント10。

 

 動きを止め、最後にもう一度。

 和田は自分の太ももを叩き、うなだれた。

 

 

 

 

 

 

 

 セコンドに肩を借りて、和田が近づいてくる。

 

「速水」

「和田さん、今日は勝たせてもらいましたよ」

「……最後のアレ、狙ったのか?」

「はい」

「……えげつない倒し方するよなあ、お前。意識ははっきりしてるのに……えげつないよなあ」

 

 そう言って、和田が笑う。

 

「なあ、速水。真田に勝ったら、すぐに上に行く話はあるのか?」

 

 茶化す感じではない。

 真面目な話だ。

 

「ないんだよ、和田君」

 

 音羽会長。

 

「今の速水に……そういう話はない」

「……そうですか」

 

 和田は視線を落とし……上を見上げた。

 そのまま数秒。

 

「そういや、飴玉の借りを返せなかったな」

 

 ぽんと、肩を叩かれた。

 

「真田とのタイトルマッチのときに、飴を1袋、差し入れしてやるよ」

「1袋って……2個もあれば十分ですよ」

「よしわかった。2袋だな」

「単位が違いますって」

 

 1袋に15個とすれば、30個だ。

 多すぎる。

 

 もう一度肩を叩かれた。

 

「俺の差し入れを全部使い切る頃には……世界の王様になってるだろうよ」

「……だといいんですけどね」

 

 俺の言葉に、また和田が笑った。

 三度、肩を叩かれる。

 

「がんばれよ、速水」

 

 和田が、背を向ける。

 やや怪しげな足取りだが、歩いていく。

 観客の声援を浴びながら。

 リングから、降りていく。

 

「……和田さん、引退ですかね?」

「だろうな……和田も26だ。石井やお前がベルトを返上するのを待つ余裕は無い」

「強かったんですけどね」

「先代会長……俺の伯父さんが言ってたよ。ボクサーがリングの上で戦えるのは、夢のような時間だってな」

 

 夢の時間か。

 前世でも、似たようなことを聞いたな。

 

「1分1秒でも長くボクサーであるために、対戦相手の時間を奪うのさ……まあ、俺は奪われたほうだ。もっとも、たいした時間でもなかったけどな」

 

 負けたら、現役でいられる時間を奪われる、か。

 

 夢の時間。

 夢から覚めたら……引退か。

 

「まあ、引退するしないは相手の都合だ……玉座は、血塗られているってな。それはボクシングでも例外じゃねえよ」

 

 ぽんと、会長に背中を叩かれた。

 

 観客席に目を向ける。

 右手をあげ、リングを一周。

 

 照明の光。

 

 今日と同じ光の下で。

 デビュー戦のときと変わらない光の下で。

 

 次は、真田と戦う。

 




……この、第二部完!と書いてしまいそうな流れよ。(笑)
まだ、ヴォルグたちの試合が残っているから、続きます。

ちなみに、第三部は『チャンピオンカーニバル編』です。


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21:眩しい光の下で。

ちょっと実験。
主人公目線の試合観戦だと、こんな感じかなと。


 俺の試合が終わった後も、トーナメントの決勝は続く。

 

 控え室へと続く通路の奥。

 

 鴨川会長と篠田さん。

 そして、木村さん。

 

「音羽の。まずはおめでとうと言っておくぞい」

「ありがとうございます、鴨川さん」

 

 鴨川会長の祝福の言葉に、音羽会長が軽く頭を下げる。

 

「……次を勝たなきゃ意味が無いですから」

「言いおる……まぁ、こちらはそうも言えん」

 

 

「木村さん。会場は、そこそこ暖まってますよ」

「どうせ、お前の女性ファンはぞろぞろと帰ってるってオチだろ?」

 

 肩をすくめ……そして、笑った。

 硬い笑顔。

 

「さっさと取材を終わらせてきな……もたもたしてると、俺と間柴の試合に間に合わないぜ」

「倒しちゃいますか」

「……だと、いいんだがな」

 

 表情が引き締まる。

 緊張は隠せない。

 

 それでも……なにか、勝算を持っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 試合後の取材は、それほど時間がかからなかった。

 

 対戦相手の和田の印象。

 フィニッシュを決めたパンチ。

 そして、チャンピオンカーニバルへの抱負。

 

 お決まりと言えばお決まりの質問だが、仕方が無い。 

 今日はA級トーナメントの決勝。

 取材対象は多いし、次の試合も控えている。

 

 次の日に記事を載せるスポーツ新聞の記者はともかく、専門誌の記者なんかは、細かい取材は後日と割り切っているだろう。

 

 それに、新聞記事の場合……ほとんどは結果のみ。

 紙面に余裕があれば、1試合が写真つきの記事に、そしてもう1試合、簡潔な試合内容を添えた記事になる。

 

 この、写真つきで取り上げられる選手が……まあ、スポンサーやテレビ局が絡んでいることが多くなる。

 というか、ほとんどだ。

 新聞もまた、広告料が収入源のひとつであるから……そういう選手を記事にすることで、円滑な関係を構築する助けとなりうる。

 

 とはいえ、スポーツ新聞は多くの人に……その目をひくための紙面作りが欠かせない。

 良くも悪くも、ボクシングは、この国、この時代のメジャーなスポーツではない。

 メジャーなスポーツ関連の大きな出来事があれば、今日のA級トーナメント決勝の試合の記事は、すべてが結果のみになるだろう。

 スポーツ新聞も、取材した内容が記事として選ばれることよりも、選ばれずに見送られることのほうが多い。

 

 記者としても、自分が取材したネタが選ばれないのはつらいだろう。

 だからこそ、編集長に選ばれるようなネタを手に入れようと、汗を流すわけだ。

 人目をひけそうな題材。

 読み手が驚くような何か。

 

 誠実な言葉よりも、暴言のほうが記事になる。

 そういう部分はある。

 

 新人王戦の時のあれも、その一環と思えば……まあ。

 

 

 もちろん、ボクシング記事の掲載率が高いスポーツ新聞と、そうでないスポーツ新聞があり、そういう部分で新聞の独自色が生まれたりもする。

 

 ただ、この時代はやはり野球が強い。

 どうしても、各スポーツ新聞のメインは、プロ野球関連の記事になりやすい。

 

 この前提が崩れるのが、プロ野球のオフシーズン。

 そして今は11月。

 

 野球のネタが減少しても、スポーツ新聞は紙面を埋めなければならない。

 そのために、これまで見送られていたメジャーとはいえないスポーツの記事の掲載率が高くなってくる。

 

 ボクシングの新人王戦とA級トーナメントの決勝、そしてチャンピオンカーニバル。

 それらがすべて、プロ野球のオフシーズンに集中しているのは、偶然ではあるまい。

 

 晩秋から冬季にかけて、色んな競技のイベントが行われているのも、一種の住み分けだろうと思う。

 いきなりではなく、時間をかけて少しずつそうなった。

 

 前世において、いわゆる夏季オリンピックの時期が8月に固定というか、固執するようになったのも、世界のスポーツビジネスの事情だ。

 売れ線のコンテンツを、同時期に開催するのは損失になる。

 日本ではなく、世界の事情が優先される。

 いや、世界の中で、発言力が大きい地域の声が優先される。

 

 この世界でも、その傾向は見えている。

 戦後復興のシンボルになった東京オリンピックが10月開催だったが、ソウルオリンピックは9月。

 バルセロナは、7月末から8月初頭にかけて。

 選手の健康を危惧する声を、ビジネスという都合がねじ伏せる。

 

 

 ……ボクシングという業界の発言力。

 それが、この国では弱いのが現状。

 

 人がボクシングに注目する。

 人がボクシングの情報を求める。

 そうした下地が生まれて、はじめて、地殻変動が起きる。

 

 選手個人をとりあげ、露出を増やす方式では……騒がれたとしても、一過性のものに終わってしまう。

 世界王者になって、年に3試合をこなす。

 それでは、ボクシングという情報の継続性が無い。

 

 継続的な情報が、習慣性をもたらす。

 

『そういえば、あれはどうなったのか?』

『あの選手、今はどうしてるの?』

 

 ひとりひとりのこういう積み重ねがうねりになり、ベクトルが生まれる。

 

『野球は毎日できるのに、ボクシングはどうしてできないの?』

 

 この言葉、スポーツの視点ならば素人だ。

 しかし、ビジネスの視点なら……何よりもビジネスを成立させるための『継続性』を重視した言葉。

 

 結局、人はそれぞれ見ているものが違う。

 必要なものが違って見える。

 

 

 ボクシング業界内部の発言力。

 スポーツ業界における、ボクシングの発言力。

 この国における、ボクシングの発言力。

 

 ボクシングを盛り上げるのに必要なのは、この3つだ。

 それを手に入れてようやく、お互いの利益を考えた話し合いができる。

 

 

 ……ぐらいのことは、俺にもわかっている。

 

 ただ、ボクサーとして歩む道とは異なる。

 俺にできるのは、他者から見た利用価値を高めること。

 ボクサーとしての商品価値。

 

 知名度を高める手段がマスコミ頼みの状況が少々恨めしい。

 

 

 

 そんなことを思いながら、ホールの2階へ。

 

 多少ロングだが、リングを見下ろす視点。

 動きや位置取りに関しては、ここが一番良くわかる。

 

 既に試合は始まっていた。

 

「……」

 

 ロープ際。

 滅多打ちに近い。

 

 

 フリッカージャブ。

 腰の上のあたりから、顔にめがけて放つパンチ。

 

 通常のジャブが、肩口から一直線に飛んでくるのに対して、フリッカーは下から上へと向かってくる。

 前者は初動が読みにくい。

 後者は、初動そのものはわかりやすくても、軌道が独特で……要するに、慣れていないから戸惑うとも言える。

 

 肘を曲げ、リズムを取るように揺れる左腕。

 実は、あれが肝だ。

 

 人の目は、ひとつのものに集中すればするほど、その視界が狭くなる。

 

 剣道の竹刀の先端に集中すると、たやすく動きを見失うことに似ている。

 素人は、竹刀の動きを理解していないからなおさらだ。

 

 フリッカーを脅威に思う。

 よく見て、はずそうと思う。

 そうした思いが、ますますフリッカーの軌道を見失わせる。

 

 慣れていない軌道を、予測して思い描くことはできない。

 

 その目に、顔に、身体に。

 多くのパンチを浴び、文字通り身体でその軌道を学習したとき、自分の視界は下方向に向いている。

 視界の外から飛んでくるのは、打ちおろしの右だ。

 間柴の身長の高さが、リーチの長さがそれを助長する。

 

 ただ、このフリッカーだが……それほど便利なパンチでもない。

 もしそうなら、みんながこれを使う。

 使い手を選ぶパンチ……ではあるが、これは肉体的特長だけの話ではない。

 

 拳、手首、肘、そして肩。

 これらが一直線になり、なおかつパンチの角度が一致したときに、その威力は正しく伝わる。

 

 肩口からまっすぐ打ち出すパンチに比べ、下から上へ、それも左右に揺らしながら放つフリッカー。

 このパンチのヒットポイントは、普通のパンチに比べて、きわめて狭い。

 

 優れた距離感覚。

 そして、使いこなす器用さ。

 

 最低でもこの2つ……それを持たないものが使ったとしても、手打ちで芯をはずしまくる、できそこないのパンチになる。

 逆に言えば、間柴はボクサーとして高い能力を持っている証明とも言える。

 

 

 間柴への対応のひとつとしては、左手ではなく全体を見ること。

 いわゆる周辺視。

 

 パンチを見るのではなく、パンチを打ってくる挙動を見る。

 少なくとも、相手に当てようとしてパンチを放つのだから、その瞬間が読めれば、対応はしやすくなる。

 

 あるいは、ヒットポイントが極めて狭いことを逆手に取る。

 フリッカーが威力を発揮する距離は狭い。

 前に出る。

 それだけで、芯がずれる。

 威力は半減どころか、フリッカーを打つ手首や肘に負担がかかって怪我の危険性が増す……フリッカーの使い手が増えないのは、これが大きな原因でもある。

 

 ただ、ヒットポイントをずらすと、皮膚を擦るような角度で当たるため、目にもらうと腫れやすい。

 

 3つ目。

 宮田がやったように、間柴に対して半身で構える。

 ボクシングの攻撃は、上半身前面のみに許されている。

 間柴から見て的が小さくなるだけでなく、パンチの角度が制限される。

 ただ、半身の状態から攻撃に転じる手段の有無が、この対策の肝といえる。

 

 まあ、そのまま肩から突っ込めば、間柴は右の打ちおろしが使いづらくなる……角度的に、後頭部や背中への反則パンチになるからだ。

 

 4つ目。

 フリッカーで痛めつけ、とどめに右の打ちおろし。

 間柴の必勝パターン。

 

 

 ……とどめに来るパンチが決まっている。

 

 なんとなくだが、木村さんはこれを選ぶような気がする。

 間柴のほうから、近づいてきてくれる。

 来るパンチも決まっている。

 

 そこを、右のカウンター。

 

 木村さんが間柴に対して比較的有利に戦えるのは、接近戦の距離だ。

 これは、いかに間柴の懐にもぐりこむかが重要になる。

 しかし、原作でもそうだったが……木村さんには一撃で勝負を決める武器が無い。

 原作のタイトルマッチと違い、これは連戦となるA級賞金トーナメント。

 対間柴を想定して新しい技を身につける時間は無かったはずだ。

 

 

 フリッカーをかいくぐって接近戦でコツコツと積み上げていくリスク。

 ただ一撃に全てをこめるリスク。

 

 間柴は、対戦相手をのんでかかる傾向が強い。

 木村さんと手を合わせて。

 無防備に打たれる木村さんを見て。

 さっさと勝負を決めに来る可能性は……ある。

 

 問題は。

 試合で初めて見る右の打ちおろしのタイミングに合わせられるかどうか。

 

 そして。

 

 

 そのときに。

 

 

 その、余力があるかどうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 間柴が決めにいった。

 振りかぶる。

 

 木村さんの右。

 

 おそらく。

 この試合、最初の右。

 

 歓声。

 

 

 

 俺は、目を閉じた。

 

 

 

 木村さんのパンチは届いた。

 ただ、勝利には届かなかった、か。

 

 

 初見のタイミング。

 それまでのダメージ。

 間柴の、いつもと同じ右の打ちおろし。

 木村さんの、低い姿勢から迎え撃つ右ストレート。

 

 さまざまな要素が絡み合った結果だ。

 

 

 ほぼ同時。

 

 間柴は大きくぐらつき。

 木村さんは倒れた。 

 

 

 原作とは違う舞台で。

 原作とは違う状況で。

 

 なのに、結末は……似てしまうのか。

 

 いや、健闘したと見る客はいないんだろうな。

 倒れる前の、最後の一矢。

 

 たぶん、そう評価されるんだろう。

 

 ただ。

 リングを照らす光の下で。

 間柴だけはじっと、倒れた木村さんを見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 A級トーナメント決勝の2日目。

 

 初日は7試合。

 今日は、表彰式があるからか、6試合。

 

 13試合で、全13階級の優勝者が決まる。

 

 

 

 

 ヴォルグの試合前。

 

 音羽ジムの主宰の興行ならともかく、さすがにほかの選手もいる控え室に入っていくのははばかられた。

 

 なので、入り口で待つ。

 

 

『ヴォルグ』

『はい、コーチ』

 

 出てきた。

 すぐに気づかれる。

 

『行ってくるよ、リュウ』

『ああ……必要ないかもしれないけど、幸運を』

 

 ヴォルグではなく、ラムダが微笑んだ。

 珍しい。

 

 そのまま見送る。

 

 通路を抜け、リングへ向かう。

 光の下へ。

 

 

 

 と、俺も戻るか。

 

 

 

 

 ボクシングは、各国の代表が出場できるなんてことはない。

 世界各地のオリンピック予選で、それなりの成績を残したものだけが出場できる。

 階級によって違ってくるのだが、出場者は20人を越えるぐらい。

 

 階級の数は10個ほどあるが、日本人が出場できる階級は、3~4名。

 そして大抵、1~2回戦で負けて返ってくる。

 もちろん、政治的なボイコットなどが絡むと、変わってくる。

 

 もちろん、ルールやグローブの大きさなどが違うので、アマの実績がそのままプロで通用しないケースもあるが……多くは、プロでの実績に直結すると言われている。

 

 

 オリンピック出場は確実と言われた冴木。

 その相手は、世界アマ王者のヴォルグ。

 

 全振りでヴォルグを応援といいたいところだが。

 心の中で、冴木にもエールを。

 

 ……ほんの少しだけ。

 

 

 

 

 静かな立ち上がり。

 

 冴木の独特な構え。

 上半身を柔らかく使うために、ほぼノーガード。

 足のスタンスは、前後ではなく左右。

 

 野球の守備というより、俺には、テニスのレシーバーに近いと思える。

 

 いつもの冴木だ。

 手を出さず、相手に手を出させようとする。

 それを避けて、リズムを作っていく。

 テンションを上げていく。

 

 

 2階から見ると、両者の間合いが良くわかる。

 冴木がいまひとつ踏み込めていない。

 

 ヴォルグの高速のコンビネーション。

 あれを、エンジンが暖まっていない状態で避けられるか?

 

 ヴォルグがじっと見ているのがわかる。

 けん制のジャブすら放たない。

 冴木の左右の動きを、小さく、回るように正面に置く。

 

 地味だが、その場で回転する細かいステップは難しい。

 

 ヴォルグの前進。

 冴木の後退。

 

 冴木が回る。

 ヴォルグが小さく回る。

 

 1分過ぎ、試合が動いた。

 

 冴木が仕掛けた。

 間柴とは違うタイプのフリッカー。

 ダメージではなく、相手を幻惑するような軌道。

 

 連打。

 

 1発顔をかすめた。

 ヴォルグが距離をとり、ホールが沸いた。

 

 冴木の速度が上がる。

 エンジンが暖まってきたか。

 

 速度が上がるほど、ステップは細かく。

 そうしないと、方向を変えられない。

 

 ホールが沸く。

 

 しかし、俺の目には別のものが見えている。

 おそらくは、冴木も。

 

 

 ヴォルグの左。

 この試合初めてのパンチ。

 冴木の反応は速い。

 

 冴木のジャブがヴォルグを捕らえた。

 

 しかしそれだけだ。

 

 ヴォルグの左。

 避ける冴木。

 

 

 1Rが終わった。

 

 ……次のRだな。

 

 

 2R。

 

 冴木が動く。

 動かされている。

 

 ヴォルグの動きへの対応。

 冴木の判断は悪くない。

 いや、ベストに近いだろう。

 

 しかし、流れの中で、選択肢が削られていく。

  

 ここからは、冴木の表情は確認できない。

 おそらく、厳しい表情をしているのではないか。

 

 2階から見下ろすリング。

 それが、チェス盤のように思えた。

 

 

 ヴォルグの右が冴木の腹をとらえた。

 それだけを見ると、冴木が自分から飛び込んでいったように思えるだろう。

 

 距離をとろうとする。

 しかし、ヴォルグは甘くない。

 繊細に、正確に。

 そして、ラフにいく。

 

 あの強引さは見習いたい。

 

 何とか逃げようとする冴木の左。

 その二の腕に、ヴォルグの右フックが当たる。

 

 冴木の身体が大きく泳いだ。

 

 ……今の、狙ったのか?

 

 

 左のアッパー。

 頭の動きでかわした……そこに。

 

 一閃。

 ヴォルグの右フック。

 

 上下のパンチ。

 そこに、当然のように左右のフックが混ざる。

 

 そのとき、その瞬間に。

 選んで放つパンチ。

 それが、ヴォルグのコンビネーション。

 

 そこから3発。

 パンチをまとめられて、冴木が沈んだ。

 

 

 

 

 ……自分の足で歩いてリングを降りたから無事だろうと思う。

 

 

 

 

 

 控え室に向かったが、既に記者連中が集まっていた。

 その後ろから、背伸びして顔を出し、手を振っておく。

 

 ヴォルグが浮かべた微笑み。

 その笑みに、少し安心する。

 

 

 幸運ではなく幸福を、か。

 誰の言葉だったかなあ。

 

 伊達とのタイトルマッチの結果によって、ヴォルグの人生は大きく変わるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 またホールの2階に戻る。

 

 ライト級の決勝。

 

 

 意外なものを目にすることになった。

 

 青木さんのアウトボクシング。

 距離をとり、左を突く。

 

 たぶん、これだけを見れば、変則のインファイターとは誰も信じない。

 

 まあ、一番面食らったのは対戦相手だろう。

 おそらく、接近しての打ち合いになると思っていたに違いない。

 

 リズムが狂って空回りしているのがわかる。

 

 突進。

 大振りのパンチ。

 

 それをひらりとかわし、丁寧に左を突く。

 この繰り返し。

 

 2Rの終盤、ようやく相手が立ち直りを見せ始めた。

 

 

 3R、試合が動く。

 

 開始早々、青木さんのインファイト。

 相手の心理状態を読むのが巧い。

 常に先手を取って振り回している。

 

 相手のリズムが、またガタガタになっていく。

 

 かと思えば、また距離をとってアウトボクシングに戻る。

 

 ホールが沸いている。

 どこか、笑いを含んだ盛り上がり方。

 

 

 見ていて楽しい試合だ。

 それと同時に、危惧を抱いた。

 

『軽い調整のみ』

 

 木村さんの言葉。

 

 判定狙い……と思わせつつ、短期決着が本命ではないのか?

 

 相手を振り回し、大いに消耗させた。

 その先の戦略。

 

 

 

 そして4R。

 

 

 

 

 

 

 

 

 リングの上に、カエルが跳んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ……この試合、完璧に青木さんがコントロールした。

 あるいは、作戦がはまったと言うべきか。

 

 なのに。

 

 ホールに飛び交う、歓声と、笑いと、ヤジ。

 

 こう、言葉で表現しにくい、独特の盛り上がり。

 

 俺には無理だ。

 それがわかる。

 

 

 

 何とか立ち上がった相手。

 冷静に、丁寧に。

 青木さんはしとめて見せた。

 

 2匹目のカエルは必要としなかった。

 

 

 

 リングの上で、青木さんが何度も両手を突き上げる。

 

 そして、声援と、笑いと、ヤジが飛ぶ。

 

 

 俺としては、そんな周囲の評価に思うところがないわけでもないが。

 

 ……そういうキャラなんだと思おう。

 

 

 

 鴨川ジム所属の青木勝は、A級賞金トーナメントのライト級を制した。

 

 勝った青木さんと、敗れた木村さん。

 リングの上の勝負のように、2人の明暗は分かれた。

 

 それでもきっと。

 木村さんは優勝した青木さんをうらやみ、そして祝福するんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 A級賞金トーナメントは終了した。

 

 ひそかに期待していたが、MVPはヴォルグが獲った。

 

 ……たぶん、裏の事情とか深く考えないほうがいい。

 素直に、ヴォルグを祝福しておこう。

 

 

 

 表彰式を終え、ホールを出ると……まあ、遅い時間だ。

 

「リュウ」

「どうした、ヴォルグ」

「この国の夜は、明るいね」

「あぁ……」

 

 言葉を探す。

 

『田舎に行けば、夜は真っ暗だぞ……建物はあっても、夜の9時には真っ暗だったりするからな』

『……僕のいた村みたいに、電気もない?』

『いや、電気はあるけどな』

 

 ……レベルが違う、か。

 

 

「リュウは、ボクシングが好きですか?」

「……色々だなあ」

「イロイロ?」

「いいなと思うときがある。嫌だなと思うときもある。ただ、やめようと思ったことは無いかな」

 

 どんなスポーツも、いつかはやめなければいけないときが来る。

 やめたくなくても、続けられなくなることもある。

 ケガで。

 能力で。

 金銭的事情で。

 理由は、さまざまだ。

 

 あらためて、ヴォルグを見る。

 

『俺が子供の頃に目指していたのはプロ野球の選手だったよ。ただ、俺には向いてなかった』

 

 俺の記憶。

 そして、速水龍一という存在。

 

 スポーツの世界で名を残したいという自己顕示欲か。

 

 まあ、きっかけなんて……そんなもんだろうと思う。

 

『ヴォルグは、学校の運動能力テストでリストアップされたって言ってたか?』

『ええ……その後、細かい検査を受けて、どの競技が僕に向いているかを説明されて、選べといわれました』

 

 自由、か。

 狭い自由。

 限られた選択。

 

『国家の代表になれば、母親の生活が楽になる……そう思いました。だから、最も適正が高いとされた競技、ボクシングを選んだ……』

 

 日本人の感覚で言うと正直重い理由だ。

 

 ただ、『親に強制された』と言い換えたら、幾分マイルドになるか。

 学校の成績がよければ、『医者か弁護士を目指せ』って強要される話を何度も聞いたしな。

 

 母親のため……か。

 

 人の気持ちは、感情は、色々なものが混ざり合って構成されていると俺は思う。

 

 白黒をつけるなんて言葉があるが、特別な状況で使われるようなイメージがある。

 限られた状況。

 ほかにどうしようもない時。

 

 人は、白と黒の中間、灰色の存在。

 その濃淡が、個人を形成する。

 何かにこだわると、その黒が、白が強く表に出てくる。

 

 ヴォルグが日本にやってきて、もう半年か。

 

 故郷に残してきた母親。

 ヴォルグにとって、その存在は大きい。

 この、異国の地における半年という時間が、その存在をさらに大きくするのだろう。

 

 

『……大事な気持ちは、ひとつじゃなくてもいいと思うぜ』

『どういう意味?』

 

 成長する身体。

 サンドバッグの感触。

 強くなるのがわかる。

 巧くなるのを実感する。

 

『昨日までできなかったことができるようになった……そういう、小さな喜びはあったんじゃないかってな』

『そう……だね』

『母親のために始めた……それはそれで持っておきな。ただ、ボクシングをする過程で得たもの……それも抱えて進んでいけばいい。俺はそうしてる』

 

 俺は、ずっと変わらない気持ちはないと思っている。

 人は変わっていく。

 留まらず、流れていく。

 

 ラムダが言ったように、『今の』自分と向き合うべきだ。

 

『ちなみに、俺の母親はボクシングが嫌いなんだ』

『そうなんですか?』

『俺が怪我をするのが嫌なんだそうだ……でも、相手はどうなってもいいって言うんだぜ?勝手だろ』

 

 ヴォルグが笑う。

 

『ヴォルグの母親も、そうなんじゃないか?暴力が嫌いなんじゃなく、自分の息子のヴォルグが傷つくことが嫌いで、それを恐れている……』

『……』

『母親って、そういうものらしい……俺は母親じゃないし、女でもないから良くわからないけど』

 

 まあ、高校のとき……妹には、『野蛮人』って言われたけどな。(震え声)

 思春期特有のアレだ、たぶん。

 人と殴りあうスポーツ……信じられないって感じか。

 

 そのくせ、去年帰省した時は、俺にお年玉を要求してきやがった。

 

 母親と妹は、同じ家族でもきっと違うカテゴリーの生物だと思う。

 

『まあ、なんだ……どうせボクシングをやるなら、無傷で相手を倒せばいいのさ。ヴォルグが、元気で、怪我をせずにがんばっている……それが一番なんじゃないかなぁ』

 

 一般論。

 あるいは、逃げ。

 

 それでも、俺にはほかに言える言葉が見つからない。

 

 人それぞれだ。

 10人いれば10人の事情があり、その10人に連なる人間は何倍もいる。

 

 どこかで割り切るか、全てを抱えて進む覚悟を決めるか。

 たぶん、答えなんて無い。

 

 

 ボクサーがリングの上に持っていけるものはそう多くない。

 体力。

 技術。

 自分の身体の中に収まるもの。

 

 ただ、心は、気持ちは……いくらでも持っていけるかもしれない。

 

 豊かとはいえないが、ジムでの交流。

 俺とのやりとり。

 

 それらがほんの少しでも、ヴォルグの支えになっていればいいんだが。

 

 

 

 チャンピオンカーニバルは、年明けの1月から始まる。

 

 まだ日程は不明だが、早ければ2ヵ月後。

 遅ければ5ヵ月後。

 

 俺は真田と。

 ヴォルグは伊達と。

 

 おそらく、伊達とヴォルグの試合は最注目のひとつになるだろう。

 チャンピオンカーニバルの最初か、中盤の目玉。

 

 3月にはいるとプロ野球の話題が増え、相対的にボクシングの記事に割り振られる紙面は減るからだ。

 

 チャンピオンカーニバルは、日本プロボクシング協会の主催する興行だ。

 注目の選手、注目のカードは、やはり話題になりやすい時期を選びたがる。

 

 もちろん、選手の体調や試合相手の調整もあるので、一概には言えないが。

 

 俺も、できれば早い時期がいい。

 注目されるされないじゃなく、試合が早ければ、その分だけ次の動きを早くできる。

 

 2ヵ月後と5ヵ月後だと、3ヶ月も違う。

 3ヶ月あれば、1試合こなせる。

 

 防衛戦か。

 あるいは、東洋への足がかりか。

 

 まあ、まずは真田に勝つ。

 全ての話はそれからだ。

 




……木村さんのファンの人にはごめんなさい。
原作とはタイトルマッチの順番が入れ替わったと思ってもらえれば。

というわけで、第二部『A級賞金トーナメント編』の終了です。
裏道は……例のドリームマッチはともかく、ちょっと考え中です。

第三部開始まで、またちょっと時間をあけます。
というか、今月はネカフェに寄れる機会が少なそうなので。
再開予定は9月。
第三部は『チャンピオンカーニバル編』で、ちょい短めになりそう。




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裏道2:???がはじめる速水攻略。

速水の評価は、人によって違います。
本人、そして鴨川会長の評価との違いをお楽しみください。


『8月』

 

 

 夕方になっても、まだ暑い。

 この猛暑の時期に試合をするボクサーに少し同情してしまう。

 

 チケット売り場で状況を確認。

 指定席はほぼ全滅、か。

 まあ、時間の問題だろう。

 

 ……考えることは同じなのかな。

 

 A級賞金トーナメントではなく、1人のボクサーへの興味。

 

 旧ソ連からやってきた、世界アマ王者。

 ヴォルグ・ザンギエフ。

 

 おそらく、今日のホールの客は……ディープなファンと、ボクシング関係者の割合が高いだろう。

 

「はい、あるよあるよ、チケットあるよ……」

 

 かすかな驚きと、納得するような気持ち。

 

 大きな声ではない。

 しかし、不思議と通る声。

 

 指定席のチケットを手に入れ、高値で転売する『ダフ屋』行為は認められていない……ある種のアンダーな世界の住人だ。

 この声に反応して振り返っても、誰がしゃべっているのかわからない。

 ただ、売り場から離れると、そっと近づいてくる……らしい。

 

 そこから、金額の折り合いと言うか、交渉が始まるわけだ。

 本来、7千円や1万円の指定席が、いくらで売られるかは……その日の試合の注目度が決める。

 つまり、ホールが満員になるような試合が無ければ、ダフ屋は現れない。

 

 そして、ダフ屋が客を探す声は、この場所を離れると聞き取りにくくなる。

 

 口を動かさず、しかし声は届ける。

 指向性を持つ特殊な発声法。

 刑務所にお世話になった人間が、否応なしに覚えてしまうと聞いたことがある。

 

 声は空気の振動だ。

 音源から満遍なく広がっていく……と、理論ではそうなる。

 

 頭では納得できないからこそ、ひとつの技術なのだろう。

 

 

 今日は、『ライセンス』で入場できるんだけど……普通に立見席を購入した。

 金を払うだけの価値はある。

 

 

 

 

 

 2階席。

 目の前で見なければわからないことはあるが、遠くから見なければわからないこともある。

 

 ……まあ、これは立見席のひがみかな。

 

 

 ホールは満員。

 しかし、声援も、ヤジも、ほとんどない。

 試合後の拍手も、どこかおざなりだ。

 

 やはり、今日のホールの客の目当てはヴォルグ選手なのだろう。

 

 ……この雰囲気、ほかの選手はやりにくいだろうな。

 

 

「やあ、チャンピオン」

 

 振り返る。

 

「……ああ、サニーさん。こんにちは」

 

 サニー田村。

『元』王者。

 

 その『元』をつけさせた自分としては、少し反応しにくい相手だ。

 

 ベルトを奪い取った相手というだけではなく、あまりかかわりたくはないのが正直なところ。

 苦手というか、合わない。

 理屈ではなく感覚、そして感情に起因するものだろう。

 

 リングの上で戦い、その気持ちは強くなった。

 ボクサーとして向かい合いながらも、その視線が自分ではない別のものにむけられている気がしたからだ。

 何かがかみ合わない。

 

 そして、試合もかみ合うことなく終わり、勝ちはしたが……あの、なんとも表現しがたい、すっきりしない気分を思い出してしまう。

 

「今日は、偵察かな?」

「ええ、ヴォルグ・ザンギエフというボクサーを見に」

「……ふうん」

 

 うかがうような視線。

 

「速水君と佐島さんの試合はどうでもいいと?」

「目当てがヴォルグ選手というだけで、見ないとは言ってませんよ」

「……ふうん」

 

 小さく息を吐いた。

 ボクサーではなく、真田総合病院の跡取り息子としての意識を前面に出す。

 子供の頃から、いろんな大人に触れてきた。

 好ましい人間、嫌な人間。

 

 それを適度にあしらう……そういう技術。

 

「それに、2度目の防衛戦がありますからね。チャンピオンカーニバルのことを考えるのは、まだ早いかな、と」

「確かに」

 

 サニー田村が笑う。

 大人というより、社会人の表情。

 

 そして、当然のように……自分の隣を陣取られてしまった。

 

「……速水君の試合は見たかい?」

「千堂くんとの新人王戦だけは見ましたよ」

「あぁ……なるほど」

「何を、言いたいんです?」

「いやなに、チャンピオンは余裕でうらやましいなあと」

 

 サニー田村は、性格が悪い。

 外面は良くても、腹は黒い。

 それを確信した。

 

「はは、余裕なんてないですよ。初防衛戦でも苦戦しましたしね」

「ああ、そうだねえ。そのせいで後藤君も、次は勝てると思ったのかやる気満々でこのトーナメントに参加してるし」

「……次の防衛戦はもう少しマシな試合を見せられると思いますよ」

「だといいね」

 

 自分たちの周囲から、人が離れていくのがわかる。

 

 

 バンタム級の3試合が終わった。

 次は、ジュニアフェザー。

 

 2人のボクサーがリングに上がる。

 

 速水くんと佐島さん。

 順当なら、速水くんが勝つだろう。

 アマのエリート。

 千堂くんとの試合はレベルが高かった……が、隙はあった。

 前半と後半のスタイルの変化。

 相手を倒しにいくのはともかく、ムキになる部分がうかがえた。

 マスコミ受けを狙っているのか、発言だけでなく、ボクシングにも派手さを求めているのかもしれない。

 彼が勝てば次は……。

 

 サニー田村に視線を向けた。

 

 ああいうタイプは、こういうボクサーにころっと転がされたりする。

 

「……調整ミスかな」

 

 もう一度、サニー田村に視線を向けた。

 視線はリング。

 

 どうやら無意識の呟きらしい。

 

「速水くん……ですか?」

「……うん。いつもの活気がない。客へのアピールがどこかおざなりで……今も、自分の足元を確かめた」

「……詳しいですね」

 

 サニー田村が、こちらに視線を向けた。

 

「たまたまだけど、彼の2戦目を見てね……それから、可能な限り追いかけている」

「違う階級だったのに?」

「うん、それはわかっていたんだけどね」

 

 サニー田村がちょっと笑った。

 

「あの試合は、新人王戦の試合よりよっぽど見ごたえがあったなぁ……」

 

 自分が映像で見たのは、千堂との全日本の試合のみ。

 ダウンもしたし、最後は足が動いていなかった。

 

 正直なところ、チャンピオンカーニバルでのタイトル挑戦などが重なり、新人王戦のチェックなどはほとんどできていない。

 

「新人王戦は、彼本来の出来ではなかったと?」

 

 自分の問いかけに、サニー田村がまた少し笑った。

 からかわれている感じはない。

 

「千堂君との試合のあとの、彼の6戦目は……見ていてちょっと怖かったよ」

 

 そう言って、またリングに視線を投げる。

 

 答えのようで答えではない。

 どこか禅問答めいたやり取り。

 

「たぶん、あの時はもうヴォルグとの契約の話があって、階級変更や、スポンサーに切られるのも決まっていたんだろうね……彼は、もっと自由に戦うべきだと思ったよ」

 

 詳しい話はともかく、音羽ジムがヴォルグ選手と契約した結果、速水くんが階級変更を余儀なくされたということは聞いた。

 スポンサーの件も、面倒なことがあったんだろうな程度のことはわかる。

 

 しかし……。

 

「自由、ですか?」

「……千堂君との試合で成長したとは思わなかったな。彼にはもともと、それだけの力があった……僕はそう思っている」

 

 この、会話がギリギリ成り立つ受け答えが……いちいち癪に障る。

 

 知りたきゃ自分で調べろと突き放されたほうが、気が楽なんだけど。

 

 

 ゴングが鳴った。

 

 佐島さんが最初から仕掛ける……それを速水くんが連打で突き放した。

 

 ……速い。

 

 しかし、動かない。

 カウンター狙い?

 

 仕掛けて来る佐島さんをいなすというか……これは。

 

「僕はね、今日、ヴォルグではなく彼を見にきたんだ……自由という翼を手に入れただろう彼の姿をね」

 

 独り言か、会話か、微妙な音量で、サニー田村が呟く。

 

「でも……今日は無理かな。身をもって味わうことになりそうだね、これは」

 

 

 

 

 

 

 正直、速水くんと佐島さんとの試合は残酷なショーとしか思えなかった。

 

 速水くんが本気を出したと見えるのは、最初の連打だけ。

 あとは、ひとつひとつ、確認するように佐島さんのやることをつぶしていった。

 

 佐島さんのパンチは一発も当たらない。

 

 1Rの終了間際、速水くんのノーガードに対し、逃げてしまった。

 もう、この試合は終わりだ。

 

 そしておそらくは、試合だけじゃなく……。

 

 1Rの終了。

 しかし、佐島さんのセコンドに動きはない。

 

「馬鹿な、まだ続けるつもりなのか……」

 

 思わずそんな言葉が漏れる。

 もう、棄権するしかないだろう。

 

「……佐島さんのことを知らないから、そんなことが言える」

 

 皮肉ではなく、非難。

 珍しい物言い。

 

 サニー田村を見た。

 いや、リングから目を背けたかった。

 

 リングを見つめたまま、サニー田村が語りだす。

 

 

 

 王者から逃げられ続けた。

 ならばチャンピオンへの優先挑戦権が与えられるA級トーナメントに参加して……と思ったところで、突然王者サイドからタイトルマッチの打診。

 話を進めている途中で、いきなり話を無かったことにされ……そのときはもう、トーナメントへの参加申し込みは終わっていた。

 それが5年前。

 

 A級トーナメントを制し、チャンピオンカーニバルに臨んだ4年前。

 最初から猛烈に攻め立て、4Rにダウンを奪ったが……このときに右拳を骨折。

 左手一本でアウトボクシングに移行。

 判定は1対0。

 ジャッジ1人が9点差で佐島を支持し、残りの2人はドロー。

 判定勝ちのためには、2人以上の支持が必要となるため、引き分け。

 

「おそらく、前半の攻勢の印象が強すぎたんだろうね……佐島さんのアウトボクシングを、『逃げ』と判断した、ということかな。まあ、あの時はホール全体が大騒ぎだった……記事にはならなかったけど」

 

 サニー田村は、どこか遠い目をしてリングを見つめている。

 

「結局、このときの右拳の骨折が……佐島さんの、ボクサーとしての何かを奪った。怪我から復帰はしたが、復活はできなかった」

 

 右拳、か。

 拳というか、指の部分は複雑に神経が絡み合い、ただの骨折で終わらないことが多い。

 日常生活への復帰ではなく、指先の繊細な感覚を取り戻す治療となると厄介になる。

 医学の世界では、『ノーマンズランド』……人が立ち入るべき領域ではないとまで言われるぐらい、手術による治療の難度が高いことで知られている。

 

 かすかな違和感。

 それが、バランスを狂わせることも多い。

 違和感をごまかしているうちに、決定的に何かを狂わせてしまう。

 

 治療とリハビリの過程で、それまで積み上げてきたものをぶち壊しにしてしまうこともある。

 怪我をしていない部分をいつも以上に動かさないと、肉体はもちろん、脳も身体の動かし方を忘れてしまう。

 しかし、怪我が治ったとき、怪我をした部分と怪我をしていない部分の身体のバランスが崩れている。

 

 本当に時間をかけなければいけないのは、怪我が治ったあと……身体のバランスを戻すまでの時期。

 バランスが崩れたまま、以前の練習を再開すると……肉体が、技が、心が、全て崩れていってしまう。

 

 

 2R開始のゴングが鳴る。

 

 佐島さんが倒れた。

 立ち上がらない。

 身体よりも、心が折れた……それがはっきりとわかる。

 

 

 一部の女性ファンを除き、ホールは静かにそれを見守っていた。

 佐島というボクサーの死。

 

 それを確認するための儀式のようにも思えた。

 

 

「チャンピオン……お先に失礼するよ」

「ヴォルグ選手の試合は見ないんですか?」

「……僕は、佐島さんに憧れていたんだよ」

 

 ニコリともせず呟いたサニー田村に、初めて好意のようなモノを覚えた。

 

 

 

 

 

『11月』

 

 

「やあ、チャンピオン」

 

 振り返り、少し迷ってから声をかけた。

 

「……引退するそうですね」

「うん」

 

 口調も、表情も明るい。

 

 自分も防衛戦が控えていたから、直接試合は見ることはできなかった。

 完全に押さえ込まれたと聞いたが、満足できる内容だったのだろうか?

 

 あるいは、諦めるしかない試合だったのか。

 

「プロで23戦……初めてボクシングができた。負けただけじゃなく、勝てないことを教えてもらった……グローブを壁にかけるには十分な理由さ」

「……『初めて』、ですか?」

 

 サニー田村……いや、田村が笑った。

 

「僕のボクシングを認めてくれただけじゃなく、リングの上でそれを学ぼうとしていた。ボクサーとしての能力の差を持ち出すとキリが無いけどね……判定に持ち込んでも、僕は速水君には勝てない。それがよくわかったし、どこかで満足してしまった……もう戦えないよ」

 

 判定狙いの彼を相手に、4RでKOか。

 強い、な。

 

 ようやくそれを実感した。

 

 しかし、ずいぶんと評価がばらついている。

 ボクシングにムラがあるタイプなのかと思ったが、そうでもないようだ。

 

 デビュー戦と2戦目、そして6戦目と、海外から呼んだ選手との試合……このあたりかな、評価が分かれている原因は。

 

 業界の噂は、人から人へと伝わる。

 ある意味、人間関係で噂の方向性が定まってしまう。

 

 

「23戦19勝3敗1分……2つのKO勝利。新人王を獲り、ベルトも2度巻いた……まあ、心残りはあるけど、おおむね満足さ」

「そうですか……」

 

 下からすくい上げるように顔をのぞきこまれた。

 

「……心残りが何かと聞いてくれないのかな?」

 

 ……うっとうしい人だ。

 引退を決めても、そのあたりは変わらないらしい。

 

「聞いて欲しいなら、そう言ってください」

 

 笑みを浮かべたまま、田村がホールを見渡した。

 

「KO勝利じゃなく、判定勝利で歓声を浴びたかったかな」

 

 倒して勝つ。

 ボクシングに対するその認識は根強い。

 

「そういえば、真田君とのタイトルマッチは、客席が寂しかったよね」

「はは、当時のチャンピオンに人気が無かったですからね」

「いやいや、チャンピオンに人気がなくても、挑戦者に人気があれば客は呼べるものだよ」

 

 お互いに微笑み合う。

 

 口調は穏やかだが、また、周囲から人が離れていく。

 

 どうやら、自分はとことんこの人と相性が悪いらしい。

 

「でも、チャンピオンは……ここ数試合はほぼKO勝ちだよね。普通は、上に行くにつれてKO率が下がっていくものだけど」

「ええ……最近、ようやく自分のボクシングをつかみ始めた気がします」

 

 相手をコントロールする。

 それがわかってきた。

 

「僕と違って、これから人気は出てくるはずさ……倒して勝てば、周囲の評価も上がる」

 

 疑問。

 それを口に出していた。

 

「何故サニーさんは、判定勝ちにこだわったんですか?」

 

 リスクは理解できる。

 しかし、倒して勝ちにいくこともできたはずだ。

 この人のKO勝利は、全日本新人王と、最初のタイトル挑戦における2つ。

 弱い相手を倒して勝ったわけじゃない。

 

 見つめられた。

 そして静かに。

 

「勝つためさ。ボクサーにとって、勝つこと以外に何かあるのかい?」

 

 言葉に詰まる。

 

 自分が、ボクサーとして異質である自覚はある。

 

 医者である父を尊敬し、医者という職業に憧れを持っている。

 まだ、医学生でしかないが……誇りのようなものもある。

 人生というスパンで考えれば、最終的な目的は医者であること。

 患者に信頼される、良き医者でありたい。

 

 ただ、ボクサーである自分を、ボクサーとしての自分を否定するつもりもない。

 

 ボクサーとしての強さ。

 それが、勝つことだけとは思わない。

 

 医者としての強さは?

 人としての強さは?

 

 医者は、怪我や病気を通して患者と向き合う。

 

 何を持って勝ちとするかは曖昧だが……医者は、勝てない勝負に挑まなければいけないこともある。

 患者を支えること。

 患者の心を救うこと。

 ミスをせず、最善を尽くすこと。

 

 強い相手、か。

 勝てないと思えるような相手。

 心の強さ。

 

 強大な相手を前に、ミスをせず、最善を尽くす。

 そしてやり遂げる。

 

 そんな自分の強さを、実感したい。

 

 そう思う自分は、やはりボクサーとしては異質なんだろう。

 

 

 試合が進む。

 ジュニアフェザーの決勝。

 

 しかし戦うのは、バンタムから上げてきた和田さんと、フェザーから落としてきた速水くんだ。

 

 

「……速水君と和田さんのどっちと戦りたい?」

 

 田村の問いかけに、何の気負いも無く答えていた。

 

「強いほうですね」

「じゃあ、速水君か」

 

 田村を見つめる。

 

「好カードと言われているけど、勝つのは速水君だよ」

「それは、希望を込めて?」

「いや、ただの予想さ……でも、和田さんが相手なら、僕は勝つ自信があるね」

「判定で?」

「もちろん判定で」

 

 苦笑する。

 しかし、その言葉に何の根拠もないとは思えなかった。

 

「……速水君は、相手を見るというか、どこかで相手と合わせてしまうところがある。僕のボクシングに付き合ってくれたのがいい例さ……もしかすると、相手の土俵で勝つことを意識しているのかな」

「千堂くんとの試合は、むしろかみ合ってないように見えましたが?」

「前半はともかく、後半はバチバチの殴り合いだっただろう?盛り上がりはしたけど、僕としては評価できない試合だった」

 

 相手に合わせる、か。

 

「……それって、対戦相手の心が折れませんか?」

「折れる折れる、ポキポキ折れちゃうよ……自分の経験というか、ボクサー人生を、塗りつぶされていくんだもの」

 

 明るい笑顔で、ひどいことを言う。

 

 それを見て、彼の引退を実感した。

 

「結局……彼には、強い相手が必要なんだと思うよ」

「……」

「僕の中ではね、速水君のベストバウトはデビュー2戦目の試合なんだ。あの試合、速水君は明らかに楽しんでいた……いろんな意味でね、彼には強い相手が必要なんだ。僕は、そう思う」

 

 

 ゴングが鳴る。

 速水くんと和田さんの試合。

 

 フェザーから。

 バンタムから。

 

 それぞれの事情を抱えて、ボクのベルトを奪いに来た。

 あるいは、ただの通過点。

 

 

 速水くんが、パンチをもらう。

 ただ、それだけのことでホールが沸く。

 

 防御が巧い。

 勘がいい。

 

 千堂くんとの試合、それは忘れたほうが良さそうだ。

 

 

 ラウンドが進む。

 いい試合だ。

 

 ……しかし。

 

 和田さんが押されていく。

 速水くんが勝つ。

 勝負に絶対はないが、それがわかる。

 

 和田さんは全開で、後は落ちていくだけ。

 そして、速水くんがまだ余裕を残しているのがわかる。

 

 千堂くんとの試合では、ストレート系のパンチにこだわっているイメージがあった。

 それが消えている。

 

 大振りがない。

 むしろ、ここぞという場面で、振りが小さく、鋭くなる。

 

 ひとつ。

 またひとつ。

 和田さんのやることがつぶされる。

 行動が制限されていく。

 

 ラッキーパンチを許さない雰囲気。

 それがわかるから、和田さんも、投げ出すことができない。

 自分の全てを振り絞らされていく。

 

 

 そして5R。

 

「ん」

「……今のは、完全に狙ったね」

 

 3Rのそれとは違う。

 

 誘導し、ピンポイントで振りぬいた。

 

 ダウンを奪ったのは左だったが、その前の右フックで勝負がついていた。

 

 

 リングの真ん中で、和田さんが自分の太ももを叩く。

 完全に足にきている。

 

「立てない、な」

「うん……終わったね」

 

 10カウント。

 

「お、珍しいな」

「何がですか?」

「いや、速水君が笑っている……彼にとってもいい試合だったのかな」

「……笑わないんですか、彼?」

「ファンにアピールするときは別だけどね……あまり笑っている印象はないよ」

「……そうですか」

 

 

 

「さて、チャンピオン」

「何です?」

「速水君に負けたあと、どうするんだい?」

 

 さすがにカチンときた。

 

 しかし、抑える。

 表情で、からかわれているのがわかったからだ。

 

「……強い、ですね」

「認識が遅いよ。だから『チャンピオンは余裕でうらやましいなあ』って言ったのさ」

 

 そう言って、田村が笑う。

 

 あまり、悪い気はしない口調と笑顔だった。

 だから素直に言えた。

 

「面目ない」

「まあ、僕も個人的には速水君を応援したいんだけどね……」

 

 ちょっと言葉を切り、田村がホールを見渡した。

 

「生え抜きのジュニアフェザーの人間としては、別の階級からやってきた連中にベルトを奪われるのは少々癪でね」

「ああ、その気持ち……少しわかりますよ」

 

 それぞれ事情はあるにしても、『ジュニアフェザー』が軽く見られたという意識は持ってしまう。

 

 バンタム、そしてフェザーに挟まれて……『群雄割拠ではなく、どんぐりの背比べ』などと評されるのは気に食わない。

 理性ではなく、感情。

 意地のようなもの。

 

「なら、ジュニアフェザーのベルトを巻いた仲間として、少しアドバイスだ」

「謹んで承りましょう」

「速水君は、スタミナに不安を抱えているよ」

「……そうなんですか?」

「確信はないけどね……ジュニアフェザーに階級を落としてから3試合、彼の試合運びは省エネを心がけているように思える。たぶん、間違いない」

 

 なんとなく、リングに目を向けた。

 今日の試合は、5Rか。

 

「今日は彼にとって初めての5Rだよ」

「……あまりこだわるのも危険ですね。それに、逃げ回っても追いかけてこなければ意味がない」

「聞いた話だけどね。僕との試合から、控え室で飴をなめ始めたそうだよ」

 

 ため息をついた。

 

「……どこで、そういう情報を集めてくるんです?」

「人とは仲良くするものさ」

 

 もう一度、ため息をついた。

 

「判定勝ちのコツ、教えようか?」

「いや、結構です。付け焼刃でどうにかなる技術でもないでしょう」

「んー、じゃあひとつだけ」

 

 ……素直に聞かせたいと言えばいいのに。

 

「ジャッジは、大体2種類に分かれる」

「……というと?」

「ラウンド後の採点でね、『優勢だと思ったほうから点をつける』か、『赤コーナーの選手から点をつける』かの2タイプだよ」

 

 田村が笑う。

 

「ジャッジというか、人は不思議なものでね……判断が難しいラウンドほど、『自分が採点しようとする選手のコーナーを目で確かめる』んだよ」

「……」

「覚えておいて損はないよ……僕は、ジャッジの点数予測をはずした事はほとんどない。そうじゃなきゃ、判定勝ちなんて狙えないさ」

「言われてみれば納得はできるし、すごいとは思うんですが……努力の方向が少し間違っているような気が」

「はは。他人がやらないことをする……それで差がつくと言って欲しいね」

 

 ぽんと、肩を叩かれた。

 

「まあ、僕の予想では……判定にならないんだけどね」

「正直、ボクもそう思いますよ」

「じゃあチャンピオン。僕はこれで……」

 

 そう言って、背を向けた。

 しかし、立ち止まる。

 嫌な予感。

 

「そういえば、チャンピオンは次が『3度目』の防衛戦だったっけ?」

「ええ」

「ここ数年の、ジュニアフェザーのベルトのジンクス、知ってるよね?」

 

 3度目の防衛戦の壁。

 当然知ってはいる。

 そもそも、自分のタイトル挑戦は、サニーにとって3度目の防衛戦だった。

 

「いやあ、あの時はなぜか調整がうまくいかなくてねえ……まるで呪いだ」

「……ボクが負けることを期待しているとしか思えないんですが」

「はは」

 

 右手をあげて。

 

「僕は、速水君のファンだからね……どっちが勝っても悔しいし、楽しめる。引退した人間ならではの楽しみ方さ」

 

 ため息をついた。

 やはり、あの人は好きになれない。

 

 その背中を見送り、リングに目を向ける。

 

 既に、次の試合が始まっている。

 

 目で見てはいても、心が見ていない。

 

 

 3度目の防衛戦。

 チャンピオンカーニバル。

 自分がタイトルに挑戦し、ベルトを奪った舞台。

 

 対戦相手は、速水龍一、か。

 

 まだ、日程も決まってはいない。

 それでも、試合は既に始まっている。

 




ドリームマッチって、本当にドリームマッチですね。(遠い目)

とりあえず、本編再開に向けて、しばらく一歩と宮田との試合の執筆は棚上げしようと思います。


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チャンピオンカーニバル編。
22:晩秋の病室で。


お待たせしました。
第3部、チャンピオンカーニバル編の再開です。


 俺の距離。

 そして、幕之内の距離。

 

 届かないパンチは当たらない。

 

 左。

 あるいは右で。

 幕之内の前進を阻む。

 

 

 人間は、頭を傾けると距離感が微妙に狂う。

 ゴルフでは、地面の傾斜に対して細心の注意を払う。

 野球やサッカーは、頭を傾けず、揺らさない走り方を叩き込まれる。

 距離感を失わないためだ。

 

 

 速く、細かく、幕之内の頭が左右に揺れる。

 防御の一環だが、これは幕之内の距離感を狂わせる要素のひとつだろう。

 

 もちろん、これは幕之内に限ったことではなく、多くのボクサーは上体を激しく動かす。

 そのために、左というか、ジャブで距離感を測る重要性が増すわけだ。

 左で相手の動きを止め、右を放つ。

 ボクシングのワン・ツーが、基本中の基本と言われる理由。

 コンビネーションそのものではなく、距離感の重要性を示している。

 

 

 幕之内がくる。

 

 それを突き放す。

 突き放せるうちは、突き放し続ける。

 タイミング。

 そして、パンチの強弱。

 

 もちろん、左右の動きも忘れない。

 距離と同じぐらい、パンチを放てない位置取りは重要だ。

 

 

 幕之内は、俺の足を見て距離を測っている。

 そして、パンチをはずしてダッシュで懐に飛び込もうとする。

 リーチの短さを補う一瞬のダッシュ力が、幕之内一歩というボクサーの生命線。

 

 ただ、その前進を続けるスタイルは、相手のパンチを常にカウンター気味に受けることを意味する。

 その勇気とは裏腹に、身体にダメージは蓄積されていく。

 いや、勇気の分だけ……傷ついていくと言うべきか。

 

 

 夢の中では、Rの概念はない。

 俺が幕之内にぶちのめされるまで、夢が続いていく。

 

 ……バージョン4への移行はまだかなあ。(震え声)

 

 

 数え切れないほどの突進。

 延々と続く繰り返しに根負けして、ミスともいえないようなわずかな緩みがでてしまう。

 幕之内はそれを見逃さない。

 見逃してくれない。

 

 懐に飛び込まれて、舞台(ステージ)は接近戦に。

 幕之内のパンチが届く距離。

 

 ジャブ。

 左右のフック。

 そして、アッパー。

 

 唸りを上げる豪腕。

 連打が全て強打でくる。

 

 ヒットポイントをずらしてガード。

 あるいは空振りさせる。

 または、はじくように受け流す。

 一番大事なのは、自分の身体の軸を保つことだ。

 体勢を崩すと、反応が遅れる。

 意識はしても、身体がついていかない。

 

 最小限の動き。

 当てさせない。

 

 そして、細かく、速く、鋭く。

 連打で応戦する。

 パンチを振り切る余裕はない。

 あくまでも、防御に意識をおいた攻撃だ。

 

 幕之内は止まらない。

 俺も、殴り続ける。

 

 ボディへ。

 アゴへ。

 テンプルへ。

 

 何十発、何百発と叩き込んだところで、幕之内はひるまない。

 そして、一発でひっくり返される。

 

 幕之内の頭の動きが激しくなる。

 そろそろボーナスステージだ。

 文字通り、一発でひっくり返される。

 

 前進して回転をつぶす。

 バックステップでカウンターを狙う。

 俺は、そのどちらも狙わない。

 

 ちなみに、バックステップで距離をとったら、パンチを打たずに前進してきて距離をつぶされる。

 原作でも、その手を使えばカウンターを食らわなかったんじゃなかろうか。

 

 幕之内の頭の動きが激しくなってきたら、そこでつぶしにかかる。

 前進を、ジャブや強い右で止めようとするのと一緒だ。

 振り子運動そのものを、パンチでとめる。

 

 当然、難易度は高いが……リカルドはそれをやったんだろう。

 それも、(ジャブ)だけで。

 

 俺はリカルドじゃないから、初見でそんなことはできなかった。

 ただ、嫌になるほどぶっ飛ばされれば、勇気よりも慣れが芽生える。

 諦めと、開き直り。

 

 観客も、声援もない暗闇の中。

 幕之内をひたすら殴り続けるだけの夢。

 

 その、終わりをもたらすのは幕之内の拳。

 アッパーで身体を起こされ、腹をえぐられた。

 悶絶して身動きできない俺に向かって飛んでくる拳。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 

 ……目覚めの時間だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日はそこそこ寒い。

 もうすぐ冬が来る……というか、冬至まで1ヶ月。

 俺は、前世に比べて少し寒さに弱くなった気がする。

 

 ……皮下脂肪の違いだろうか。

 

 病室のネームプレートを確認し、少し苦笑した。

 前世で、プライバシー保護のために病室入り口のネームプレートがなくなったのを思いだしたからだ。

 

『今』を生きていながら、『昔』を懐かしむような……不思議な気分。

 

 今年の5月から、郵便局の土曜日営業が無くなった。

 週休二日が一般的になっていく過程。

 そんな時代を、俺は生きている。

 

 

 病室を見渡し、位置を確認する。

 目当ての人物は、6人部屋の窓際のベッドにいた。

 

 窓の外に視線を向けている姿は、年相応の老人のように見える。

 まあ、70を超えてれば、本人の気持ちに関係なく、老人ではあるだろう。

 

「鴨川会長」

 

 振り向く。

 

「おお、速水……貴様、なんで……というより、良く来てくれたと言うべきじゃな」

 

 ちょっと頭を下げ、音羽会長に頼まれた果物かごをベッド脇の台の上に置いた。

 

「これ、うちの会長からです。顔を出せずに申し訳ないと」

「そうか。すまんなと伝えてくれ。なに、少し疲れが出ただけでな、周りが余計な心配をして騒いでしもうた」

「まあ……心配してもらえる誰かがいるってことで、のみ込んでおきましょうよ」

「貴様も、ワシを年寄り扱いか……」

「サウスポーをサウスポー扱いするなって言ってるようなもんですよ、それ……俺なら、周囲が年寄り扱いするならそれを利用することを考えます」

 

 鴨川会長が顔をしかめ、呟いた。

 

「口の達者な男じゃな、貴様は……」

「ここはリングの上じゃなく病院ですし」

「ふん」

 

 そっぽを向かれた。

 おそらく、いろんな人間に『身体を大事に』と言われ続けたんだろう。

 1人2人ならともかく、何人も続けば『過保護』と感じてしまう……それが余計に反発を生むのかもな。

 まあ、あまりいじらないでおこう。

 

 10月下旬から11月上旬にかけて、鴨川ジムの4人の試合が重なった。

 選手の練習を見るだけでなく、相手選手の研究からファイトプランの構築、そのための練習内容の決定など……やろうと思えばどこまでも忙しくなるのが指導者だ。

 そして今年の夏は暑かった。

 試合が終わり、気が抜けたところでたまっていた疲労が表に出てきた……そんなところではなかろうか。

 

 本来、鴨川会長は鷹村さんだけを見る立場だったんだろうなと思う。

 そこに、幕之内一歩という少年が現れた。

 

 日本人離れしたパンチ力。

 愚直とも思える素直さ。

 そして、不器用さ。

 鴨川会長が手を出さざるを得なかったのだろう。

 

 その結果……鴨川ジムから、1人のボクサーと、1人のトレーナーが出て行った。

 残った指導者は、鴨川会長と篠田さんの2人。

 もともと宮田父は、息子専属に近い立場だっただろうが、空いた時間で練習生を見ていただろうと思う。

 その1人が抜けたのだ、鴨川ジムは慢性的な指導者不足の状態に陥ったともいえる。

 

 ちなみに音羽ジムの場合、会長とは別に、村山さんを含めてトレーナーが4人いる。

 もちろん、人を多く雇うということは、それだけ費用がかかるわけで……まあ、それだけの練習生を抱えたり、プロボクサーの興行収入があることを意味する。

 ジムとしての規模は、鴨川ジムよりも大きい。

 

 

 あらためて、鴨川会長を見つめた。

 

「なんじゃ?」

「いえ、年が明けたら鷹村さんと青木さんのタイトルマッチで嫌でも忙しくなりますし……その前にゆっくり休めと神様に言われたんでしょう」

「ふん、どうせ神など信じてはおらんだろう、貴様は」

「まあ、神様に祈っても強くなれませんしね。ならば、俺はその時間を練習か研究にまわしますよ」

 

 俺の言葉に、鴨川会長が苦笑を浮かべた。

 

 俺がこういうことを言うと、たいていは可愛げがないという気持ちを抱くらしいし、鼻白む者もいる。

 ここで苦笑を浮かべるあたり、やはり俺と鴨川会長は気質がかみ合うのだろう。

 

 他人が信じているものを否定しようとまでは思わないが、神とか天に祈るのは、人事を尽くしてからのことだ。

 そして人は、人事を尽くすことなどできはしない。

 

 時間、資金、人とのしがらみ……どこかで、不満というか不足は生まれる。

 完璧を望み過ぎれば、そのぶんだけ不平不満は大きくなる。

 

「……ワシのことよりも、自分の心配をせい。貴様も、タイトルマッチを控えておるだろう」

「ファイトプランは、おおむねできあがってます」

「ほう?」

「相手が決まるまでろくな対策を立てられない王者と違って、狙う立場の人間は考える時間がありますからね」

 

 鴨川会長が俺を見る。

 

「……真田は強いぞ?」

「ええ。あのワン・ツーは厄介だと思います……あれをどう壊すか、ですね。あとは、向こうから前に出てくる展開にできたら言うことはないんですが」

 

 俺のスタミナの不安を知られているという前提でプランを立てる。

 理想は、真田から前に来てもらう。

 そのためには、序盤でわかりやすくポイントリードするべきだが……。

 

「やはり、ジュニアフェザーはきついのか?」

「……わかりますか?」

 

 まあ、俺が飴をなめてるのは鴨川会長にも見られたしな。

 仕方ないのか。

 

 鴨川会長が俺を見つめ、すっと両手を構えた。

 

「千堂戦のあと、貴様の攻撃は明らかにフック系のパンチが増えた」

 

 小さく、右、左と腕を振る。

 

「フック系のパンチに必要な筋肉は、大胸筋など、胸まわりの筋肉じゃ。階級を落としながら、小僧と戦った頃とは微妙に身体つきが変わっておる……その増えた分が余計に減量を厳しくさせておるのじゃろう」

 

 ……あ。

 

 そういやそうだ。

 戦い方が変化すれば、当然筋肉のつき方も変わる。

 春からずっと、ヴォルグ相手にスパーを続けて3ヶ月か……なるほど、な。

 

 よっぽど高度に管理されたトレーニングでなければ、必要な部位に必要なだけ筋肉をつけるなんてことはできない。

 どこかに筋肉がつけば、それを補助するように……バランスをとるための筋肉がつく。

 

 たぶん、1ポンドまではいかない。

 おそらくは、半ポンドほどの増量。

 それに気づかず、普段の体重を以前と同じ重さでキープすれば……当然、減量までに蓄えられる体力も減る。

 

 A級賞金トーナメントの初戦は、そのあたりが顕著に出たか?

 

 

 顔を上げると、どこか呆れたような表情で鴨川会長が俺を見ていた。

 

「……貴様、まさか今気づいたのか?」

「ははは、そんな感じです」

 

 俺としては、苦笑するしかない。

 

「音羽め、何をやっとる……」

「あ、いやうちの会長のせいじゃないんです。そのあたりは、俺がかなり好きなようにしてるんで……その俺のせいというか、自業自得かなと」

 

 ボクサーは、身体のサイズが変わるほどの増量はできないことがほとんどだ。

 実際、俺がデビューしてから、腕回りと胸囲のサイズは1センチも変化していない……その程度なら誤差の範囲内だろうと思っていた。

 

 ……やっぱり、いろんな人間の視点ってのは重要なんだろう。

 

 ラムダは、以前の俺の身体を映像でしか見てないしな。

 そしてスパーでは、上半身も服を着たままで行うから、わからなくても仕方がない、か。

 

 でも、ラムダの意見もおそらくは正しいのだろう。

 

 加齢による、回復力の低下。

 増量に伴う、回復期の体重設定のミス。

 減量期間の失敗。

 そして、猛暑か。

 

 悪条件が重なったのかもしれない。

 

 楽観はしないし、するつもりもないが……まあ、少し気が楽になったかな。

 それでも、やはり全力で動き回って7Rあたりをリミットと考えておくべきだろう。

 調子に乗ってガス欠というのが、一番取り返しがつかない。

 

 体力を失えば、速度だけじゃなく思考能力も衰える。

 速度と思考力を失えば、ボクサーとしての俺は死に体だろう。

 

 

 防御を意識して、相手に手を出させて迎え撃つ。

 俺の目のよさ、反射速度、そしてハンドスピードを考えると、それが一番体力を使わずにすみ、はまりやすい。

 正直に言えば、もっとパンチ力があれば最高だが。

 攻防一体ではなく、ある種の攻防分離。

 

 ただこの戦い方は……客の評価が分かれるというか、良くないことが多い。

 前世でも『見ていてつまらない』とけなすコメントは多かった。

 

 ガードを上げて、プレスをかける。

 手を出させてからカウンター。

 相手からすれば、手を出すと強烈なカウンターが飛んでくる……それを恐れれば恐れるほど、手数は減っていく。

 それは当然、全体の動きが少なくなっていくことを意味する。

 

 実際は、駆け引きと、一瞬の速度、そして高い技術を必要とするのだが……客の目に見える部分は、単調な繰り返しの試合になりがちだ。

 

 ファンの目線にも色々ある。

 お気に入りのボクサーが圧倒的な強さで相手を叩きのめすのを楽しみにするファンもいれば、激しい殴り合いを望むファンもいる。

 激しい殴り合いといっても、足を止めての殴り合い、めまぐるしく位置を変えていくボクシングなど、好みは分かれる。

 その一方……いつばったりと倒れるかわからない4回戦の試合が一番面白いというファンもいる。

 

 いろんな楽しみ方があるが、結局は比率の問題だ。

 動きと変化の少ない、高度な駆け引きのボクシングを好むファンは……やはり多数派とはいえないだろう。

 

  

 毎月のようにリングに上がっていた時代のボクサーは、防御がうまくなければ活躍できなかったと聞いている。

 というか、そうでなければ身体がもたないからだろう。

 それでも、ボクシングは人を熱狂させていた。

 

 時代とともにファンの好みが変化したのもあるだろうが、『毎月のように』リングに上がっていたのは、見逃せない要素だ。

 つまり、露出の機会が多かった。

 3~4ヶ月に1試合では、どうしても印象は薄れる。

 毎月のようにリングに上がり、定期的にその勇姿を見せ付ける……ファンの、『ボクシングを見る習慣化』という要素があったんじゃないだろうか。

 まあ、ボクサーの身体の健康面を考えたら、同じことをやれとはとてもいえないが。

 

 

「ところで、速水よ」

「なんです?」

 

 何気ないボクシングの話題から、ラムダの話へと移っていく。

 

「ほう、興味深いな……」

「ええ、色々と驚かされます」

 

 指導方法、トレーニング論。

 身を乗りだすようにして、俺の話に耳を傾ける鴨川会長の姿はまるで子供のようだ。

 

「しかし、足を踏まれたときの対処法の練習とはな……発想が違うな」

「ええ、踏まれないように、ではなく、踏まれた後にどう対応するかですからね」

 

 原作では、宮田と間柴の試合でクローズアップされた、足を踏む反則。

 インファイターの試合ではしばしば見られるが、反則と言ってもあくまでも故意にやればという話であり、レフェリーが偶然とみなせばそのまま流される。

 

 なお、海外ではこれを故意にやる選手は結構いる。

 追い足のないボクサーが逃げようとする相手の足を止めるために、そしてインファイト同士でも、リズムを崩す、あるいは相手の集中力をそぐためにこれをやるケースは少なくない。

 ボディブローのフリをして、金的狙い(ローブロー)で動きを止めるのも『テクニックのうちだろう』と嘯くボクサーも少なからずいる。

 タイの英雄と言われるボクサーにしても、世界タイトルの防衛戦での『肘』のKO勝利は一部で有名だったし、本人が後日のインタビューで『あれは狙ったもの』と答えているぐらいだ。

 特筆すべきは、それをやられた本人でさえ『肘』でやられたと認識できなかったことだろう。

 映像をスローで確認してもはっきりとはわからず、レフェリーの位置からはそれを判断できない……となると、これはもう立派な技術と言うしかない。

 レフェリーが気づかなければ、試合が終わってしまえば……それで終わりだ。

 試合が終わった後にアピールしたところで、良くて再試合というか再戦どまりだろう。

 

 世界を目指すなら……それなりの対策は練習すべきだろう。

 そして、まずはきちんと知るべきだ。

 アマチュアのヴォルグやラムダが、それを普通にトレーニングに取り入れている以上、この国のやり方が甘いと言われても仕方ないと思う。

 

「ふむ、言葉で聞いても、ちとわからんな」

「ああ、ちょっとやってみますか」

 

 ベッドから降りた鴨川会長に、俺の足を踏ませる。

 

「俺の足を踏んでいる以上、重心バランスそのものは、踏んでいる人間のほうが不安定になります」

 

 逃げるのではなく、前に。

 コツとしては、カウンターのタイミング。

 

「膝で、相手の足、ふくらはぎや膝、太ももを押す、と……」

「……なるほどな、前足に重心をかけている以上、よろけざるを得ない、か」

「そのタイミングで、ジャブで突いてやれば……」

 

 すっと、鴨川会長の目の前に拳を突き出す。

 

「ピンチどころか、ダウンが奪える、か……」

「まあ、膝で押すタイミングなんかも、慣れるまでは面倒なんですけどね……もともと踏ませるつもりはないですけど、踏まれたら踏まれたで、チャンスかなと思える程度にはなりました」

「アマでも、足を踏まれたりすることが多いのか?」

「日本ではほぼないと思います。でも、世界にいくと、減点覚悟でやらかす選手は結構いるみたいですね」

「……踏ませないよりも、それを逆手に取るほうが相手をけん制できる、か」

 

 対処方法を知っていること。

 それだけで、いざというときの心構えも変わってくる。

 

「いや、これはええことを教えてもろうた……ただ、これができるのは、相応の能力が必要じゃろうな」

「かもしれません……うちのジムの練習生にやらせてみたら、動きがバラバラになりましたから」

 

 踏み込み足。

 角度。

 タイミング。

 

 ああでもない、こうでもないと、鴨川会長と語り合う。

 

 

「病室でなにをやっているんですか!」

 

 

 看護師……まだこの時代は看護婦か。

 2人揃って怒られるはめになった。

 

 たぶん、病人をおとなしくさせておかなかった俺のほうに責任があるんだろう。

 

 

 少し興が乗ったのか、鴨川会長が昔の話をしてくれた。

 戦後の話は聞けなかったが……その後の話は興味深かった。

 

 鴨川会長が自分のジムを開いてから約20年。

 そして、鴨川会長の年齢は70を超えている……ボクシングと言うか、拳闘を引退したのが30歳前後だとすれば、ボクシングジムを開くまでの20年余りをどう過ごしていたのか。

 まあ、当然ボクシングに関わって生きてきたのは想像していたのだが……。

 

 戦後、日本人の海外渡航……いわゆる、海外旅行が自由にできるようになったのは、1964年、昭和39年の頃のことだ。

 それ以前は、留学や移住などの目的を持った者しかパスポートが発券されなかった。

 観光と言っても、総額500ドルまでだから……長期滞在は難しい。

 

「……知人と2人で、本場のボクシング理論を知るために海を越えた」

 

 などと、遠い目をして語っているが……このとき、鴨川会長は既に40を越えている。

 英語も片言で……日本に来ていたトレーナーの伝手を頼って、飛び出したとか。

 

 というか……知人って、浜さんなんだろうな。

 原作では、真田と、そしてヴォルグのトレーナーについた浜団吉。

 

 そして、鴨川会長は数年で日本に戻り、『知人』は現地に残った。

 しかし、その志は同じ。

 

 自らの手で育てた日本人ボクサーで、世界を獲る。

 

 

 海外から日本に戻ってきて、自分のジムを開いたあたりの資金とか、ものすごく気になったんだが……どうも、自分のジムを開く資金を貯めながら、海外で勉強する機会をうかがっていたらしい。

 

 原作と同じく、鴨川会長は独り身だ。

 ボクシングに人生をささげ、文字通りボクシングとともに生きてきた。

 

「日本でも、指導者というかトレーナー同士の交流がもっとあればいいんじゃがな」

「……生意気な意見に聞こえるかもしれませんが、日本のトレーナーって、新しいやり方や理論を勉強する時間も、チャンスもほとんどないように思います」

「それじゃ」

 

 ぽんと、鴨川会長が手をうった。

 

「ジムの練習生や、ボクサーを見るので手一杯というのもあるが、どこで、何を学ぶかという道筋ができておらんように思える」

 

 1人のボクサーを本気で指導しようと思ったら、最低でも週に5日、1日3時間の指導時間は必要だろうと思う。

 ヴォルグとラムダのように完全マンツーマン、おそらく2人を受け持てばキャパは限界だろう。

 選手への指導時間のほかに、指導方針やら、練習方法を考える時間が必要だ。

 

「将来を期待するボクサーに、海外のジムで修行させることはあっても……トレーナーを海外で修行させるジムは、この国ではほとんど聞かんな。言葉の問題もあるしの」

 

 鴨川会長が、ため息をついた。

 

「まあ、ワシもえらそうなことは言えん。ボクシングに限ったことではないが、理論や技術は日々進化を続けておるし、今も世界のどこかで新しいやり方が生まれておるじゃろう。学ぶことをやめた瞬間から、退化が始まる……できる限り情報を仕入れようとは心がけておるが、一度立場ができてしまうと若い頃のように動けんこともある」

 

 学校の教師と同じかもな。

 日常業務が忙しすぎて、教師としての勉強をする時間がない。

 新しいやり方を試す時間もない。

 

 まあ、指導者に関してはボクシングに限ったことじゃない。

 野球でも、ひどい指導者は少なくない。

 カーブが何故曲がるのか説明できない指導者、バッティングで『ヘッドを立てる』意味を理解していない指導者、自分の感覚を言葉にできず、精神論と怒鳴り声でごまかす指導者など、例を挙げればきりがない。

 悪いところを指摘するだけで、どうやればそれを修正できるかを説明できない指導者は……まだましなほう。

『それじゃダメだ。こうやるんだ』と自分でバットを1回振っておしまいとか、具体的に悪いところを指摘せず、修正点を言葉にしないのは、指導とは言えないだろう。

 

 とはいえ、きちんと『指導』ができる指導者は、本当に一握りのように思える。

 そして、その指導者が優秀であることを選手が理解して選べるケースなど、ほぼ皆無だろう。

 合う、合わないという面もあるし、あまり好きな言葉ではないが、結局は縁と運としか言えない。

 

 ただこれも、指導者が勉強や研究する時間がないことも理由に挙げられる。

 新しく学べない指導者は、自身の経験だけが教科書になる。

 自分が指導者からなんとなくで教えられたことを、なんとなくで選手に伝える。

 それは、コピーの劣化現象以下だろう。

 

 無論、何が正しいかを断言することは難しいが……確実に間違っていることを押し付けられるのは、お互いに不幸でしかない。

 

 俺もそうだが、自分で考えるタイプの選手にとっては、余計なことをしない指導者が2番目にありがたい。

 もちろん、優秀な指導者が一番ありがたいのだが……やはり、運だと思う。

 

 そして、指導者が優秀だと選手がきちんと伸びるかというと……これも断言はできない。

 あくまでもイメージだが、指導者が選手に手を伸ばす。

 そして、選手が手を伸ばし……お互いの手が触れ合い、がっちりと握り合ったとき、そこから本当の指導が始まる……そういうものだと俺は思っている。

 

 あるいは、指導者と選手がお互いに別の言語を使ってコミュニケーションをとろうとする……それが指導の本質だと言い換えてもいい。

 

 一方通行では指導にならない。

 上手くなりたい、強くなりたいということに対する飢えと、相手への信頼。

 そして、お互いの使用する言語(価値観や感覚、そして知識など)が、似通っているかどうか。

 

 身もふたもないが、やはり運だと思う。

 

 原作の話に限って言うなら……幕之内と鴨川会長の信頼の絆は美しくはあるが、鴨川会長は練習の意図をもう少し幕之内に説明したほうがいいような気がする。

 言われたままに練習するよりも、選手もまた意味を知り、考え、思索を深めていくことが大事だと思うが……これはあくまでも俺の感覚だ。

 

 俺が、鴨川会長に指導を受けても伸びるかどうかはわからない。

 俺は細かい説明を求める性質だし、鴨川会長がそれをどう受け止めるかは不明だ。

 

 不満や不快感が募れば、お互いの言葉は、気持ちは、すれ違い始めるだろう。

 

 理論派がいれば、感覚派もいる。

 自分にあったやり方が一番大事だろう。

 

 だからこそ、海外におけるボクシングのフリーのトレーナーは選手個人に雇われ、深く信頼しあったり、すぐに首を切られたりする。

 これは、名トレーナーと呼ばれる存在でも変わらない。

 

 世界チャンピオンを何人も育てたトレーナーの指導でも、それをあわないと感じる選手はいる。

 そして、別のトレーナーを雇い、世界チャンピオンになったりする。

 

 

「しかし、速水よ。高校からボクシングを始めただろうに、よう勉強しておるな?」

「人間の身体については、野球をやってた頃に学びました……あとはいろんなジャンルからつまみ食いしつつ、自分の身体で試して、合うものを探す感じです。陸上競技とか、あと意外ですがゴルフなんかも、人体の理論とか研究が早いですよ」

「ゴルフじゃと?」

「ええ……ボールの飛距離や、クラブの初速度など、数字がはっきりと出ますからね。そのままは無理ですが、参考にする価値はあると思ってます」

「ふうむ……」

「相撲も、参考にしましたよ」

 

『小指一本で投げを打つ』という言葉は有名だが、あの言葉には先があるし、奥もある。

 そして、ちゃんと根拠がある。

 

 相撲に限らず、小指の重要性を語るスポーツは多い。

 剣道では、小指の絞りが語られる。

 野球では、打撃で力みを防ぐために、バットのグリップを中指、薬指、小指の3本で握らせて打たせることがある。

 

 人間の手というか、5本の指。

 この5本の指は、親指と人指し指の2本と、中指と薬指、そして小指の3本のグループに分けることができる。

 

 前者は上腕二頭筋と連動し、後者は広背筋と連動する。

 

 これは、動かない物体……建物の柱などを引っ張ることで確かめることができる。

 あるいは、別の人間と手を引っ張り合うのでもいい。

 親指と人差し指の2本で引っ張ろうとすると、自分の身体が柱に近づいていくのがわかると思う。

 逆に、中指、薬指、小指の3本で引っ張ると……力を入れている感覚はあるのに、距離は保たれたままになる。

 

 スポーツの経験者で、自分が身体のどの筋肉に力を込めているかを意識できるなら、ただ、指で何かを握りこむ動作だけでも確認できるだろう。

 

 上半身の筋肉で、最も力が強いのは背中の、広背筋だ。

 強い力を発揮する……重いものを持ち上げるなど、小指を意識するのは、この広背筋を使うため。

 

 野球の打撃に関して、ボールとバットの距離感は非常に重要だ。

 このとき、親指と人差し指に力を入れると……上腕二頭筋に力が入り、腕が曲がろうとしてしまう。

 つまり、打撃のミートポイントが狂いやすい。

 人差し指をピンと立ててスイングする選手は、おそらく『力まないため』と指導されて従っているのだろうが、実際は、『ミートポイントを狂わせないため』という理由が正しい。

 

 この、指の働きについて、相撲の世界ではかなり理解が深い。

 相手を吊り上げるときは、広背筋を使う……つまり小指だ。

 相手を投げるとき、相手の身体を浮かし、引っ張る……これも、タイミングと力を必要とする。

 

 そして、レベルが上がると……体勢不十分のまま投げを打たざるを得ない駆け引きがある。

 こちらが体勢を整える間に、相手もまた体勢を整えてしまうようなときも含めて。

 まず投げの体勢に入ってから、親指を意識して相手をひきつける。

 投げの半径を小さくする。

 相手のバランスを崩す。

 いくつか理由があるが、投げを打っている間に意識する指を変えて、間合いを調節する……それができて、ようやく一人前らしい。

 

 

 この知識をボクシングにどう活かすかというと、ジャブやストレート系統のパンチで、小指を握ることを意識することによって広背筋を意識しやすくできる。

 ぎゅっと単純に拳に力を込めると、上腕二頭筋にも力が入って速度が鈍り、パンチの軌道もスイング気味になる。

 

 以前、冴木とのスパーで少し触れたが……力を入れる指を変えるだけで、パンチの軌道を少しずらすことができる。

 まあ、あれはほかのやり方を使ったが……微妙なずれを作るのには有効だ。

 もちろん、やりすぎるとフォームが崩れる恐れもあるが。

 

「……フックの場合、微修正が効きます。俺の感覚だと、拳半分ぐらいですけど……カウンター狙いの相手は、戸惑うでしょうね」

 

 俺の言葉を聞いて、鴨川会長が腕を振るう。

 最初は速く。

 そして、次はゆっくりと、確かめるように。

 

「……感覚的に理解はしていたが、こうして説明をされると、いろいろと腑に落ちることも多いの」

 

 競技は違っても同じスポーツなら何かのヒントがある。

 医者や研究者でない以上、一から研究して実証する時間はない。

 まずヒントをもらい、人間の身体を大まかに理解した上で、自分の身体を使って確かめていく……それが選手としては一番効率がいい。

 ただ、周囲にはあまり理解されないまでがセットだ。

 異質なやり方は排除されやすく、良くて変人扱い。

 

 そう、スポーツに熱中する人間は、周囲には理解されないことが多い。

 

 

「病室で何をやってるんですか?」

 

 怒鳴られるよりも、笑顔で優しく言われるほうが怖いこともある。(目逸らし)

 

 

 

 看護婦さんの視線が怖いので、退散することにした。

 

「じゃあ、鴨川会長。お大事に……」

「……速水、ちと頼みがある」

「え……頼み、ですか?」

「後でワシからも音羽には連絡を入れるが……小僧を貴様と一緒に練習させてくれんか?2、3日でいいんじゃが」

 

 ……え?

 




ちょっとトレーナーについても触れておきたかったので。
焦らしているわけでは……ないですよ、きっと。(目逸らし)

なお、ジムによってはトレーナーがボランティアのケースもあるとかないとか。
無償なのに、自ら勉強して……という人間は、変人の部類だと思います。
結局、ここでも金の問題というか、嫌なリアルが立ちはだかってきます。


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23:初冬、祭りの前。

説明的な話が多くてすみません。


 朝まずめに、夕まずめという言葉がある。

 もともとは、違う意味で使われていた言葉らしいが、今はもっぱら釣り人が使う。

 多少の時間のずれはあるかもしれないが、朝まずめは夜明けから陽が昇るまでの時間帯を指し、夕まずめは陽が沈み始める頃から暗くなるまでの時間帯を指す。

 そしてどちらも、魚を釣るには良い時間帯と言われている。

 

 あくまでも釣りに適した条件の目安でしかないが、一応根拠はある。

 

 夜から朝にかけて、明るくなり始めると水中の植物プランクトンが光合成を行うために浮上を始める。

 これを餌にする小さな魚が動き、その小魚を捕食する大きな魚が動く。

 これに対し、夕方から夜にかけて、暗くなると夜行性の動物プランクトンが行動を開始する。

 

 結局、水中における食物連鎖が活発になる時間帯、ということだ。

 

 まあ、潮の流れや水温など、いろんな要素があるし、釣り人には釣り人の、時間の都合と言うものがある。

 

 ……何が言いたいかというと、『釣り船幕之内』にお客さんがやってくる時間は、基本的に釣り人の都合で左右される。

 

 原作においてよく描写されていたのは、船に乗る釣り人のクーラーボックスをいくつも抱えた力仕事。

 あとは、揺れる船の上で、バランス力が鍛えられるといったところか。

 

 当然、ほかにも仕事は多い。

 お客様が帰った後の、船の甲板掃除。

 これは、真水を使って塩分を洗い流すというか、デッキブラシなどでゴシゴシとこする。

 この力を込めての清掃作業は、ダイレクトに広背筋を鍛えることができる。

 それも、下半身と連動しての動きの中で。

 

 帳簿はともかくとして、コマセの仕入れもある。

 船の燃料も仕入れる。

 まあ、これはどちらも漁協とのやり取りだろうが。

 

 漁船のエンジンは、基本的にディーゼルエンジンだ。

 なので、燃料は軽油を使う。

 大型の船だと、軽油と似た成分の重油を使うと聞いた記憶があるが、まあ釣り船程度の大きさなら関係ないだろう。

 小型の、船外機を使うような……モーターボートをイメージして欲しいが、あの場合はガソリンだ。

 

 船の片舷に4~5人が釣りをするスペースがあるのが遊漁船の一般的な大きさだが、全長が14~15メートルぐらいで、5トン(容積量)程度だったはずだ。

 直接見たことはないが、釣り船幕之内の船も、そのぐらいの大きさじゃないかと思う。

 

 余談だが、船は道路を走らないので自動車関連税がかからない。

 そのぶん漁協から安く買えるわけだが、当然一般人は買えない。

 漁業権を持つ者だけが、漁協から購入できる……幕之内の父親は漁師だったから、釣り船を始める以前から組合員だったはずだ。

 

 車の燃費は、ガソリン1Lで何キロ走るかを目安にするが、漁船の場合は1時間で何L使うかを目安にして語られることが多い。

 当然、速度や船の大きさ、そして船の形によって燃費は変わる。

 ただ、燃料費の高騰によって漁師に打撃というか、船を出すだけ赤字になるという現象が起こることから、船のメンテナンスと燃料費がコストの多くを占めていることは想像できる。

 

 

 

「……く、詳しいですね」

「釣りが好きな友人がいたからな」

 

 と、いったん言葉を切り……俺は、幕之内を見た。

 

「そもそも、俺の練習時間帯と合わせられるのか?」

「……難しいですね」

 

 俺の練習時間は、平日は仕事があるから基本的に夕方から夜にかけてになる。

 仕事が終わってからそのままジムに行って夜の10時ぐらいまで。

 

 幕之内の家は、朝まずめを狙う客の予約があれば、当然朝は早い。

 出航は4~5時ってところだろう。

 もちろん、その準備もある。

 逆に、夕まずめからの夜釣りを楽しむ客の予約があれば、深夜、日付が変わるような時間帯まで、船の清掃などの仕事がずれ込む。

 

 そして、俺の休日は、基本的に釣り人となる客の休日でもあるわけで。

 

「休日は基本的に、船の予約が入ります」

「……だよなあ」

「ただ、冬になるとどうしても予約の客は減りますから、何とかなると思います」

「そうか、それは良かった……と言ったらダメか。『釣り船幕之内』にとっては、お客さんが少ないってのは、死活問題だろうし」

「ええ、まあ……そうですね」

 

 あらためて幕之内を見る。

 そして、鴨川会長の言葉を思い出す。

 

『小僧が、宮田との試合が終わってから腑抜けちょる……小僧は今が一番伸びる時期じゃというのに……この時期にどこまで伸びるかではなく、どこまで伸ばすかでボクサーとしての将来が決まってくる』

 

 情熱と、選手への愛情があふれる言葉。

 

 直接言えばいいのにと思うが……昔かたぎの日本人らしいといえば、らしい。

 

『ちょいと乱暴じゃが、小僧に刺激を与えたい』

『あの、鴨川会長……俺、幕之内くんと戦う立場なんですが?』

 

 俺がそういったら、鴨川会長ににやりと笑われた。

 

『貴様もどうせ戦うなら、腑抜けた小僧ではなく強い小僧のほうが良かろう?』

 

 まあ……いい性格をしてるよなあ。

 

 ボクシングスタイルの違いは承知で、俺が思うように練習させていいとまで言われたしな。

 まあ、1日2日の話だ。

『ぼくのかんがえたさいきょうの幕之内一歩』を実現できるわけじゃない。

 

 

 

 

 そして12月。

 結局、平日は都合があわず、休日の朝、幕之内が音羽ジムにやってきた。

 正確には、音羽ジムの入り口までやってきた……だが。

 

 それを教えてくれたのは、練習生の1人だ。

 

「あの、速水さん。なんか、入り口でうろうろしてるやつがいるんですが、入会希望者ですかね」

 

 ……付き添いも無く、初めての場所に入ってくることができる性格じゃなかったな、確かに。

 

 まずは会長に会わせる。

 後はトレーナーと、ジムにいたボクサーや練習生への顔合わせ。

 

 

「あ、あの、速水さん」

「ん?」

「速水さんと一緒に練習するっていうと、なぜかみなさんに優しい目で見られたんですが……」

「気のせい気のせい。練習そのものは、鴨川ジムのほうが厳しいと思うぜ」

 

 ……体力面はな。

 

 ヴォルグを除き、ほかの連中にいわせると俺の練習はとにかく細かくて理屈っぽいらしい。

 アドバイスは良く求められるが、1日一緒の練習をしようという人間はほとんどいない。

 

 

 柔軟体操。

 ランニングからストレッチ。

 

「……ずいぶん念入りにやるんですね?」

「平日がおろそかになっている分、な」

 

 ボクシングに限ったことじゃないが、身体の柔らかさというか、関節の稼動域を広くすることは重要だ。

 単純に考えても、動きを大きくできるし、変化もつけられる。

 自分の拳を相手に叩きつける距離が長くなる……もちろん、相応の筋力が必要になるが。

 

 そしてまた、ランニング。

 さっきのウォームアップのためのランニングではなく、心肺機能を高める、あるいは維持のためのもの。

 なので、幕之内にもマスクをつけさせた。

 

 800メートル走は鴨川ジムでやっているようだから……あえて別の練習を選んだ。

 

 インターバル走を、距離ではなく時間でやる。

 40秒ダッシュから10秒流して走る、50秒を4回で1セット。

 時間にすると、3分20秒。

 これを10セット。

 

「は、速水さん……」

「……どうした?」

「な、なんで、40秒ダッシュ、なんですか?」

 

 10セットやり終えてから疑問を口にするところが、実に幕之内らしい。

 

 40秒という時間でピンと来る人間もいるだろうが、いわゆる無酸素運動の限界点だ。

 ちなみに、無酸素運動は、呼吸を止めての無呼吸とは違う。

 筋肉を動かすエネルギー生成において、酸素を使わない運動を無酸素運動という。

 

 筋肉が最大筋力を維持できる時間は、わずか数秒に過ぎない。

 100メートル競走では、スタート、中盤、終盤と、速いランナーほど、別の筋肉を使って走る技術が高い。

 この使い分けができないランナーは、素質があってもどこかで壁にぶつかる。

 

 無酸素運動にも2種類あり、乳酸系と、非乳酸系に分かれる。

 いわゆる、筋肉に乳酸がたまる云々は、乳酸系のエネルギー生成を行う運動の強度だが、この乳酸系と非乳酸系の持続時間の限界をあわせたものが、ちょうど40秒ぐらいになる。

 この運動のエネルギー源になるのが、いわゆるグリコーゲンやクレアチンリン酸だ。

 

 運動強度をぐっと落とすと、エネルギー源は脂肪のほうが多く使われる。

 その脂肪を分解する際に酸素が使われるために、有酸素運動と言われる。

 ダイエットでおなじみの、軽い運動を長く続けて脂肪を燃やす……というあれだ。

 

 まあ、燃やすだけなら安静にしているときのエネルギー源が主に脂肪なんだけどな。

 まず食べる量を減らせというのは、どうあがいても正義だということがそれだけでわかる。

 

 同じインターバル走でも、乳酸耐性を高める強度と、最大酸素摂取量……心肺機能を高める強度は変化する。

 そして、俺と幕之内が今やったのは、いわゆる高強度インターバル。

 

 とりあえず、一番きつい。

 

 

「な、何を、言ってるのか、よくわかりませんが……とにかくすごいことは、わかりました」

「そ、そうか……」

 

 どうやら、俺と幕之内は違うタイプだ。

 

 座り込んでいた幕之内を無理やり立たせた。

 

「幕之内くん……歩くんだ。そのほうが、回復しやすい」

「は、はい……」

 

 しかし、初めてマスクをつけ、初めてのトレーニングを……よろけながらもこなせてしまうのか。

 俺と一緒に練習を……という連中は、マスク無しでも大抵ここでリタイアするんだがな。

 

 不慣れでも、疑問を持っていてもきっちり全力を出し切れる。

 やはり、幕之内のトレーニング適正は高い。

 

 まあ、幕之内は成長を続ける化け物と言うことか。

 

 ……何で俺は、化け物を強くする手助けをしてるんだろうか。(震え声)

 

 たぶん、深く考えたらダメだ。

 

 強いボクサーが、鎬を削りあう……そのためだ。

 そう、ボクシングを盛り上げるためだ。

 

 いい選手がいて、いい敵がいて、いいレフェリーがいて、いい観客がいて、その上で最善を尽くしてようやくいい試合ができる。

 

 うん。

 練習しよう、そうしよう。

 

 

 ジムに戻り、体幹トレーニングを行う。

 身体のひねりだけでメディシンボールを投げ合う。

 腹筋や背筋、そして首も。

 

 幕之内がいるから、ちょうど良い。

 身体を寄せて押し合う。

 

 ……いや、押された。

 

 身体のパワーではかなわないことがこれだけで実感できる。

 前世の体格なら勝てるはずだが、それは負け惜しみだ。

 

 どうせならと、クリンチワークの練習も追加した。

 

 クリンチは、逃げや休憩のためと思われているが、うまくやらないと逆に疲労がたまる。

 休みたいのに、休めない。

 相手に体重をかける。

 イメージとしては、やたら重みを感じる酔っ払い。

 身長が高い人間は相手にのしかかればいいが、身長が低い人間は一工夫必要だ。

 相手を持ち上げる、重心を崩す、引きつけて膝を曲げさせるなど、振り回して疲れさせるのも手だ。

 

 ただ、無理に振り払おうとすると、相手を投げてしまい……反則になる。

 そして、投げられた相手は、その間休める。

 相手に投げられるフリをして倒れこみ、時間を稼ぐのも技術といえる。

 

 

 こうして一緒に練習するとよくわかる。

 幕之内の体幹、特に足腰が強い。

 崩そうとすると力がいる。

 押そうとしても押せない。

 

 試合ならそれを受け流すんだが、これは練習だ。

 幕之内の力を、存分に負荷として味わう。

 

 幕之内に抱きつかせ、それを振りほどこうとする。

 力ではなく瞬発力。

 そしてタイミング……のはずだが、(パワー)の前に屈した。

 

 正直、この手の練習は、力が弱いほうが倍疲れる。

 

「……だ、大丈夫ですか、速水さん」

「まあ、な」

 

 くそう、さっきと違って幕之内はもう息が整い始めてやがる。

 このフィジカルエリートめ。

 

 

 基礎練習を終えて、軽く水分と栄養補給。

 

 準備運動気味に、シャドーから練習を再開。

 

 リズムの確認。

 速度を上げていく。

 そして、同じ動きをゆっくりと繰り返して、フォームの確認。

 フットワーク。

 コンビネーション。

 ディフェンス。

 丁寧に、チェックしていく。

 

 

 柔軟体操をして身体をほぐす。

 休憩と疲労抜きの意味もある。

 

 そしてまた、別の練習へ。

 

 

 

 

 サンドバッグが縦に揺れる。

 俺だけじゃなく、ジムの中にいる人間の時間が止まった。

 

 ……いいなあ。

 

 自分が持っているもので戦わなきゃいけないとはわかっているが、やはりうらやましい。

 

「……フェザーのパンチじゃないよなぁ」

 

 どこか呆れたような会長の呟きに、激しく同意する。

 同意はするが、俺は俺だ。

 というか、無いものねだりをしても仕方がない。

 基礎トレーニングやフォームの修正である程度まではパンチ力は上がるが、それはあくまでも30や40の人間を100に近づけていくというだけのことだ。

 世界レベルで言うなら、100に近づけてようやく並というところ。

 

 世界レベルというのは、150や200のパンチを持っているヤツのことを言う。

 

 

「……幕之内くん」

「はい?」

「サンドバッグをただ叩くだけじゃ、ただの筋トレにしかならないぜ?相手のどこを殴るかを想定し、ちゃんと防御も意識しないと」

 

 そう一声かけてから、俺なりのやり方を見せた。

 

 幕之内はインファイターだが、俺はそうじゃない。

 右に、左に。

 ステップを踏んでからパンチを放ち、真正面でスウェイやダッキングをいれ、またサイドに回ってパンチを放つ。

 ワン・ツーでサンドバッグを突き放し、踏み込んで左フック。

 タイミングがずれると、サンドバッグに体当たりされる。

 

 前後左右の動きを繰り返し、パンチを上下に散らす。

 

「……と、まあ俺の場合はこんな感じだが」

「う、動きが多いんですね。まるで試合をやってるみたいで」

「相手が殴り返してこないのなら、試合も楽なんだけどな」

 

 試合に勝つための練習だ。

 漫然とやっていると、いつのまにか練習のための練習に成り下がってしまう。

 

 

 1分の休憩は、ゆっくりと動いてフォームをチェックする。

 ジャブ、ストレート。

 俺は色々と小細工をするタイプだから、こうして常にフォームをチェックする必要がある。

 

 ガードの隙間狙いや、狙いすました一撃に必要なのは、何よりも正確さ。

 それも、俺の意識と一致した正確さだ。

 

 

 気がつくと、幕之内に見られていた。

 

「……どうした?」

「いや、なんかすごく丁寧だなあと思って……」

「幕之内くんと違って、パンチが無いからな」

「そんな……今まで全部KO勝ちじゃないですか」

「……結果的に倒して勝っているだけさ。国内はともかく、世界に出たら俺のパンチはいいとこ……並ってとこだろう」

 

 仮に日本国内でナンバー1になっても、世界の国の数だけ国内ナンバー1がいる。

 天才と呼ばれる者も同じだ。

 日本で天才と呼ばれる者は、世界に出て、それぞれの国の天才と相対しなければならない。

 その天才達をなぎ倒して、ようやく自分が世界で一番の天才だと証明できる。

 

 それが、世界チャンピオンって存在だろう……俺はそう思う。

 

 スポーツというか、ボクシングではそれが顕著だ。

 野球やサッカーならポジションがあるが、ボクシングは……いや、階級があるか。

 そして、複数の団体もある。

 

 絶対王者として君臨しながら、統一戦や複数階級制覇に乗り出さないリカルドは、どういう考えを持っているんだろうな。

 王者を名乗りたいならかかって来い……というような性格ではないと思うが、前世での世界王者乱立の時代を知っているだけに、リカルドのようなあり方をどこか痛快なものと思える。

 

 

 また軽く柔軟体操をはさみ、ミット打ち。

 

 ミット打ちなんだが……。

 

「え、やるんですか、村山さん」

「あのパンチは、ちょっと受けてみたくなるだろ」

 

 

 

 

 

「す、すみません。大丈夫ですか?」

 

 ミット越しに、肝臓にいいのをもらって村山さんが悶絶した。

 うん、村山さんにはこの言葉を贈ろう。 

 

 ……無茶しやがって。

 

 幕之内のパンチは、ボディへのパンチのほうが威力があるように思えるんだよな。

 足腰の連動というか、現状では一番体重が乗るんだろう。

 逆に、千堂のパンチは顔面のパンチのほうが重かったように思えた。

 

 まあ、今のうちだけなんだろうけど。

 

 

 

 

 

「基本は、ワン・ツーでいくぞ」

「はい」

 

 ラムダのミットボールもそうだが、ミット打ちも、日本と海外では色々と違う。

 日本の指導者のミット打ちは身体の近くに構えてパンチを受けるタイプが多い。

 人間の身体に対し、どの場所を、どの角度で攻撃するか……それを教えるのには、悪くない方法だと思う。

 ただ、身体の近くで構える分……どうしてもミットの取り回しが遅くなりがちだ。

 熟練したトレーナーは、切り返しも含めて速いが……少数だ。

 

 海外のミット打ちは、ミットを身体から離して受けるタイプが主流だ。

 それも、ミットを相手に向かってパンチを打つように動かす。

 それをパンチで迎撃する感じか。

 選手に対して攻撃も頻繁に行うし、全体的にスピーディーで、見栄えはいい。

 実践的な動きを養えるが、フォームのチェックという部分では少し厳しい。

 むろん、海外ではきちんと基礎練習でフォームが固まるまでは、ミット打ちをさせないとも聞く。

 

 俺が選んだのは、当然海外式のほう。

 村山さんの二の舞はごめんだ。

 

 俺が右のミットを出し、幕之内が左のジャブで打つ。

 そして、左のミットをごつい衝撃が貫いてくる。

 

「はいっ!」

 

 最初だから、掛け声をかけて、左フック。

 それを、幕之内がダッキングで避ける。

 そして、またワン・ツーから繰り返す。

 次は右フックを避けさせる。

 あるいは、左右のフックで、2度避けさせてから、ワン・ツーを打たせたり。

 

 リズムが良くなってきたところで、次へ進むことにした。

 

「じゃあ、次は、ワン・ツーからのコンビネーションを」

 

 ワン・ツーのあと、俺が少し下がりながら攻撃する。

 ダッキングしながら踏み込み、肝臓の位置を想定したミットに打ちこむ。

 そこから、同じ左でアッパーへとつなげていく。

 

 肝臓打ちから、同じような動きでアッパーへつなげるのが肝だ。

 肝臓打ちを食らったなら動きが止まるし、ガードしたなら嫌でも先のパンチが印象に残ってしまう。

 そこを、同じような動きからアッパーが襲う。

 肝臓打ちをアッパー気味に打てたら最高だが、踏み込みを低く入りすぎるとパンチを当てるまでの距離が開いてしまう。

 幕之内のパンチ力なら、強いパンチを打とうとする意識はいらない。

 細かく、最短距離を打ち抜く……それでいいだろうと思う。

 

 このアッパーをかわされたら、右のフックを返す。

 幕之内なら、ここまでは容易につなげられるはずだ。

 

「ストップ!今、ガードがさがった」

 

 左のダブル。

 今は、ボディからアッパーのダブルだが、身体のねじりの反動が使えないために、無意識に打ちやすい行動を選択してしまう。

 右手を下げることで、左のアッパーを打ちやすくしようとした。

 いわゆる、予備動作を作った。

 

 それを注意し、ゆっくりとした動作でガードがさがらない動きをさせる。

 

 

 なので、次は容赦なくミットで幕之内の横面をはたく。

 うん、ガードが甘い。

 

「また、下がってましたか……」

「右手じゃなく、頭を小さく振る意識をしたらどうだ?右手のガードは、顔にくっつける意識で」

「こ、こうですかね?」

 

 幕之内が動く。

 

 ……鴨川会長の苦労を、強く実感した。

 

 まあ、幕之内のパワーで、何でもできる器用さを持ち合わせていたらある意味チートか。

 俺は器用だが、幕之内のようなパワーがない。

 

 現実(リアル)ってのは、往々にしてこんなものだ。

 

 踏み込みの位置、足の幅。

 膝の角度。

 ガードの位置。

 

 それらを少しずつ変化させ、スムーズなコンビネーションが出せる姿勢を模索する。

 ミット打ちというより、コンビネーションのチェックだけで時間が経過した。

 

 

「コンニチワ」

 

 と、ヴォルグが来たか。

 

 一緒に練習するとはいえ、さすがに俺とヴォルグのスパーを幕之内に見せるのは無理だ。

 そもそも、俺がヴォルグのスパーリングパートナーをつとめているのは周知だが、スパーそのものはこれまでずっと非公開だったから、色々と問題がある。

 たぶん、鴨川会長もそのあたりはわかってくれるだろう。

 

 まあ、もう夕方だし、そろそろ切り上げるか。

 

 

 

「今日は、ありがとうございました」

「ああ。俺も面白かったよ」

 

 幕之内が俺を見る。

 

「……まだ、練習ですか?」

「ああ、軽く水分と栄養補給してから、色々とチェックして……ヴォルグとのスパーだ」

「す、すごいですね……朝から夜までですか」

「リングの上で楽をするためさ」

「……」

「というか、平日は仕事があるからな……だから、その分休日にしわ寄せが来る」

 

 長くやればいいってモノでもないが、俺の場合はこういうやり方に慣れている。

 考えながら練習していくぶん、どうしても時間が長くなる。

 

「鴨川会長にも言われたんじゃないか?日々の積み重ねだって」

「……はい」

「1日は24時間しかないから、どうあがいてもそれ以上は練習できない。食事を取る、風呂に入る、生活の糧を得るために働く。そうして残った時間をつぎ込むしかないだろう」

 

 時間をつぎ込むだけでは足りない。

 練習そのものを、深くするしかない。

 日常に、練習を結びつける。

 歩き方ひとつとっても、重心移動を確認できる。

 そうして、アスリートとしての、ボクサーとしての純度を高めていく。

 

 それを……他人に粉砕されるのが、スポーツの無常ってやつだ。

 俺に対して、そういう理不尽さを思った者も少なくないだろう。

 

 幕之内が俺を見つめ、もう一度頭を下げた。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

 顔を上げる。

 少し、表情が変わっていた。

 

「ああ……次はどうする?」

「いえ……僕は僕でがんばっていこうと思います」

 

 また頭を下げてから、幕之内が帰っていった。

 ちょいと格好つけすぎだったかもしれないが、まあ、鴨川会長のリクエストには応えられたと思う。

 

 ジムの中に戻り、俺はもう一度マスクをつけた。

 

 ヴォルグがラムダの持つミットボールを叩いている。

 俺も、準備をしないとな。

 

 

 

 

 

 

 ヴォルグのスパーリングパートナーになってから、もう半年か。

 当然、お互いの手の内は知れている。

 様子見なんてことはほとんどなく、最初から激しい展開になる。

 

 無造作にけん制のジャブを打つと、タイミングを合わせてはじかれる。

 ヴォルグが、冴木との試合でやったあれだ。

 

 ボクシングのパンチでは、パンチを打った後の引き戻しの速さが重要になる。

 まっすぐ打ち、まっすぐ戻す。

 それを、ショートフックで横に軌道が流されたらどうなるか。

 

 意図せずに体勢が崩れるため、無意識レベルでそれを修正しようと身体が動く。

 腕の引き戻しが、その分遅れる。

 流れた身体。

 そして、ノーガード。

 大振りしてくれたらありがたいが、相手はヴォルグだ。

 

 

 様子見はないが、その分、フェイントやけん制の時間が増えた。

 

 目線。

 そして、左を小さく。

 それでヴォルグを動かす。

 

 いきなり、ノーモーションの右ストレートをもっていく。

 ヴォルグの髪をかすめた。

 

 ヴォルグの左。

 

 かわして、右に回る。

 

 左のダブルがきた。

 ボディにきたそれをガード。

 足が止まる。

 

 大きくスウェイ。

 ヴォルグのアッパーが目の前を通過。

 

 左を返す。

 ヴォルグもしっかりとガードする。

 

 お互いに距離をとった。

 

 足を使う。

 そしてヴォルグも。

 今日のスパーに、ラムダからの注文はない。

 どうやら、今日はそういう気分らしい。

 

 左の差し合い。

 距離感、そして空間の奪い合い。

 

 お互いに目が慣れたところで、下から来た。

 右手で受け止め、左のショートフックを返す。

 

 ヴォルグの右手が、俺の左手をはじく。

 俺の上体が流れた。

 

 慌てず、ヴォルグとの距離を詰めた。

 密着してヴォルグの左を殺し、半身の体勢で、右をボディへ。

 そして俺も、ボディにお返しをもらう。

 

 接近戦。

 きわどいパンチの交差。

 あるいは、出どころをそのまま押さえる。

 

 肩と肩がぶつかる。

 地面を蹴り、押す……そしてすぐに退く。

 

 体勢を崩したヴォルグ。

 左を見せてから、右をボディへもっていった。

 もう一度左を見せ、また右をボディへ。

 

 ヴォルグが前かがみに……いや、肩で強く押された。

 

 右のアッパーで身体を起こされ、左をボディにもらう。

 

 分が悪い。

 そう判断して距離をとった。

 

 右が空を切る。

 横に回られた。

 

 ダッキングからサイドステップで、ヴォルグの左右のフックを避けた。

 

 左の連打。

 強弱を混ぜる。

 右。

 ヴォルグの肩へもっていった。

 それで動きを止め、今度こそ距離をとった。

 

 やはり、攻撃を意識すると少し押される。

 このレベルだと、防御で自分のリズムを作り、相手のリズムを壊すのが俺にはあっているのかもな。

 

 ガードを上げ、距離を詰めていく。

 

 集中。

 ヴォルグの全身を意識する。

 

 前足の荷重。

 来ると思ったときに、ステップを踏む。

 サイドから、連打を浴びせた。

 

 俺のやり口を知っているせいか、まずガードを固められた。

 そのまま距離をとろうとする。

 

 追う。

 ワン・ツー。

 

 たぶん、アッパー。

 

 どんぴしゃ。

 ヴォルグのグローブを、下からはねあげた。

 

 アッパーを流されて伸びた腹を一撃。

 追撃のアッパーはかわされ、ジャブで突き放された。

 

 ヴォルグの前進にあわせて、ボディストレートを打つ。

 和田の使っていたあれだ。

 大して威力のないパンチだが、カウンターで決まったときだけは別だ。

 

 ヴォルグが少し驚いた表情を浮かべ、また動き出す。

 

 手の内を知る相手とのスパーはやりにくい。

 しかし楽しい。

 ボクシングが、どんどん深くなっていく。

 

 

 

 

 

 スパーを終え、ラムダや音羽会長を交えて話し合う。

 

 まず、俺とヴォルグは、互いに気づいたことを指摘して、別の可能性を探る。

 それを元に、ゆっくりとした動きで、お互いの動きをチェックし……ラムダや会長が、何ができるか、何ができなかったかを語り合う。

 これは、技術面のチェックではなく、作戦というか戦術面でのチェックだ。

 

 ヴォルグの相手は伊達英二。

 そして、俺の相手は真田一機。

 

 事前に想定できる部分は、埋めておく。

 

 

 真田のボクシングの軸になっているのは、ワン・ツーだ。

 ワン・ツーを主体に、様々な攻撃へとつなげていく。

 中間距離をもっとも得意にしているイメージ。

 

 接近戦が苦手というのではなく、相手の全身を目で確認して判断したいのだろう。

 

 退くべきときは退き、行くべきときに行く。

 良くも悪くも、無駄のないボクシング。

 

 相手を研究して対策を考えるのは、まだ初歩でしかない。

 相手もまた、自分を研究して対策を考えるから……相手が自分をどう分析し、どういうボクシングをしてくるかを読む必要が出てくる。

 

 過去の試合の分析にしても、まず相手選手の分析からはじめなければならない。

 相手選手をどう分析して、このファイトプランを選択したか。

 それを繰り返すことで、真田というボクサーの中身が見えてくる。

 

 パンチが強い、足が速いというのは、所詮カタログスペックだ。

 そのスペックをどう運用してくるか……読み合いというのは、そこから始まる。

 

 真田が俺をどう分析し、どういう戦い方を挑んでくるか……それを読みきらないことには、本当の作戦は立てられない。

 これはボクシングに限ったことではないし、スポーツに限ったことでもない。

 社会人としての取引や交渉など、誰もが普通にやっていることだ。

 

 自分の都合を押し付けるだけでは、同じように誰か他人の都合を押し付けられたときに窮地に陥る。

 

 だからこそ、スポーツでは、ボクシングでは、自分だけの強みを求める。

 自分の強みは、自分の都合を相手に押し付ける材料となるからだ。

 

 

「……会長。俺が真田に対してどういう作戦を考えるかわかります?」

「試合開始直後の奇襲だろ」

 

 ……むう。

 

「宮田戦を除き、1Rから勝負をかけた試合はない。その宮田戦にしても、最初は様子見だったしな……意表をつくとするなら、それしかないだろ」

「ということは、読まれやすいですか」

 

 ヴォルグとラムダに聞いたら、ほぼ同じ答えが返ってきた。

 

『タイトル戦と言うのは、普段と違うことをやりたいと多くのボクサーが考える。スタミナの不安の件が加われば、1Rからの奇襲は、かなり可能性が高いと判断しておかしくない』

 

 ふむ……もう一ひねり必要か。

 

 奇襲といっても、ダメージではなく、タイミングによるフラッシュダウンでいい。

 1Rでダウン点も含めて2ポイントの差がつけば……真田はポイントを取るために前に出てくるしかない。

 

 長期戦を想定して逃げ回ったら、俺は追いかけない。

 スタミナ云々は、動き回ってこそだからな。

 観客からのブーイングはすさまじいだろうが、相手が逃げ、俺が追いかけなかったらポイントの差はつかない。

 

 最初にわかりやすくポイントを奪うということは、そういう意味だ。

 

「会長、チャンピオンカーニバルの日程が発表されるのって、いつです?」

「対外的には、年が明けてからだな……早い日程の試合の選手には、そろそろ連絡が来るはずだ」

 

 

 原作では、鷹村さんのミドルから開幕だったか。

 確か、減量をミスって……大丈夫だよな?

 

 開幕のカードには注目の試合をもってくるだろうから……やはり、ミドル級か、あるいは……。

 

 俺は、ヴォルグを見た。

 

「リュウ?」

「いや、もしかすると……フェザー級から始まるかもなと」

「いつでもいいよ」

 

 ヴォルグが笑う。

 そして、その拳を握りこむ。

 

『エイジ・ダテに勝つ準備は、できているから』

 

 

 今は12月で、まだ冬が始まったばかり。

 ヴォルグは、この国の冬を暖かいと言う。

 

 ヴォルグの試合に歓声を飛ばした後楽園ホールのファン。

 伊達英二との試合では、それらが全て……敵に回ると思ったほうがいい。

 

 試合前と試合中はともかく、せめて、ヴォルグが伊達英二に勝った後……拍手と歓声が送られる程度には、この国がロシアからやってきた朴訥な少年にとって暖かいものであることを俺は願う。

 




焦らしているわけじゃ……ないんですよ。(目逸らし)


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24:前哨戦。

コミッション、協会、連盟……ややこしいですね。


「リュウの予想、当たったね」

「うん、まあ、そうだな……」

 

 12月中旬、チャンピオンカーニバルの一部日程が、選手の所属するジムへと通達された。

 

 フェザー級タイトルマッチ。

 王者伊達英二と、同級1位ヴォルグ・ザンギエフが、カーニバルの始まりで1月の下旬。

 

 俺が予想したように、やはり注目度の高いカードを初っぱなにもってきた。

 鷹村さんの、ミドル級は2月中旬。

 同じ注目カードでも、ミドル級の場合は、日本最強王者と称される鷹村守への個人的な注目が理由だろう。

 挑戦者の玉木も、アマ出身で相応の評価はされているが、デビューから12試合連続1RでのKO勝利を続けている王者のそれにはかなわない。

 最強の挑戦者を迎えて、この記録を伸ばすことができるのか……という注目のされ方だ。

 王者の勝ちは堅いと見られているぶん、好カードとは言いがたい。

 

 後は、ジュニアライト級……間柴の試合が、2月上旬。

 

 とりあえず開幕から、フェザー級、フライ級、ジュニアライト級、バンタム級、そしてミドル級の5階級の日程が決定したということになる。

 

 俺もそうだが、青木さんの試合もそれ以降にずれ込むようだ。

 本音を言えば、初っぱなでも良かったんだが……少し残念だ。

 

 チャンピオンカーニバルの主催はボクシング協会だが、俺と真田の試合は重要視されていない可能性が高いのかもしれない。

 

 ちなみに、良く勘違いされるが、JBC(日本ボクシングコミッション)とボクシング協会は別物だ。

 そして、アマチュアのほうは日本ボクシング連盟。

 通称というか、よく使われるのが、コミッション、協会、そして連盟なんだが……一般人にとっては、受験生を時々悩ませる、国際連盟と国際連合のどちらが先か……程度にややこしいだろう。

 

 というか、ボクサーである俺自身がよくわかっていない。

 

 おおまかにだが、コミッションが日本のプロボクシングの最高統括機関。

 日本各地のジムが主催するプロボクシングの試合を正式なものと認定し、日本ランキングを正式に認定するのもここだ。

 ボクサーやレフェリーなどのライセンスを発行するのもそうだが、日本のプロボクシングジムと、ボクサーを管理する立場でもある。

 

 そして協会は、ボクシングジムによる組織。

 

 コミッションが、ライセンスやルールの業務を担当しているとすると、協会は興行面について担当しているともいえるが……まあ、色々ある。

 一応、両者は独立した組織である……と言うことになっている。

 

 そして連盟は、アマチュアボクシングを統括する団体だ。

 日本オリンピック委員会と、国際ボクシング『協会』に加盟している。

 アマチュアボクシングのニュースでは、『連盟』と『協会』の名前がどちらも出てくることが多いから、プロボクシング協会との混同が起こりやすい。 

 

 世間というか、一般人は、アマチュアとプロがあって、その上部にボクシング全体を統括する組織がある……みたいな認識だろう。

 しかし残念ながら……アマチュアボクシングとプロボクシングの両者を統括する団体はない。

 

 冴木がオリンピックを蹴る形でプロ転向する際に、揉めに揉めたという理由が察せられると思う。

 連盟サイドからすれば『他人の米びつに手を突っ込んでただで済むと思ってるのか』であり、プロ側からすれば『本人が望んでるのにごちゃごちゃ言うな』である。

 これに、オリンピックからみの……大学や企業の面子と金が絡んで、ドロドロである。

 

 俺の場合は、高1でインターハイを勝った時点でプロ志望を表明し、アマ側の人間を諦めさせた。

 だから、揉めてない……表面的には。(目逸らし)

 

 

 

 

 

「チャンピオンカーニバルは、本当にチャンピオンカーニバルだったんだよなあ……」

 

 微妙な表情で、会長が呟いた。

 

「どういう意味です?」

「以前は、全階級のタイトルマッチを、2日に分けてやったんだよ」

「え、そうなんですか?」

 

 全試合タイトルマッチとか、超見たい。

 というか、塩展開のタイトルマッチはあるだろうが、1日に5試合?のタイトルマッチとか、それだけでも足を運ぶ価値はあるように思える。

 

「……確か、最初はコミッション設立25周年だか30周年だかの記念行事という名目だったが……実際は、大好評だったプロレスのチャンピオンカーニバルを真似た……という噂にしておこうな」

「……ああ、噂ですね、わかります」

 

 まあ、プロレスファンならチャンピオンカーニバルと言えば、某団体の『春の祭典』であるチャンピオンカーニバルが真っ先に浮かぶだろう。

 

「そりゃあ、盛況で客が呼べた……だから、次の年からも続いて……なのに、もともと客が呼べるタイトルマッチを同じ日にやるのはもったいないって言いだして、10年ぐらい前から、1試合ずつ別の日程で開催されるようになったのさ」

 

 会長の口調が、どこか苦い。

 

 チャンピオンカーニバルという名前だけが生き残った……そんな意識をもっているんだろう。

 

「客を呼ぶには、いいカードを多く組まなきゃダメさ……もちろん、いいカードを組んでも客が呼べないこともある。それでもやっぱり、客を帰らせないためには……いい試合が複数必要だろうよ」

「じっくりと煮込んだスープを、水で薄めてしまったと……」

「まあ、そういうことだ……協会じゃ、俺なんかただの若造だからな、意見なんか通りゃしねえよ。世界チャンピオンの一人も育ててから口をきけってな」

 

 ……どのジャンルでも、人間は似たようなことをするんだなあ。

 

 会長はボクサーとしての実績もないらしいから、余計になんだろう。

 スポーツの世界は、実績を残した者の声が大きくなる傾向が強い。

 すべてが間違いだとは思わないが、選手と指導者、そして経営者としての能力は別物だろう。

 

 と、すると……強いボクサーとの試合を組む鴨川会長も、あまり協会内部では良い目では見られていないんだろうな。

 強いボクサーは基本的に人気がある。

 一人で客を呼べるボクサー同士を戦わせたらもったいないとか、せっかくの戦績に傷がつくとか……まあ、そういう考え方も理解できないわけではないが、それが主流になるのはちょっとな。

 

 まあ、無敗神話を利用しようとしている俺が言うなって話になるかもしれない。

 ただ俺は、世間がそういう認識なら、それを利用しようってだけだからな。

 

 日本で一番強いボクサーが世界へと向かい、頂上を目指す……それが一番シンプルでわかりやすいと思う。

 

 強いボクサー同士が戦って、負けたほうはいきなり弱くなるわけじゃない。

 戦績ではなく、内容を……と思うのは俺のわがままなのか。

 

 野球における大記録は、積み重ねの歴史だ。

 記録を達成する直前よりも、その積み重ねの過程にこそ、選手の本質、プレイの偉大さがあると思うが……注目されるのは、記録が達成される前後であることが多い。

 

 内容ではなく、その道のりを評価する癖がついてしまうと……ボクシングというジャンルは厳しい。

 どんなにいい試合をしても、1勝はただの1勝で、負けは負けでしかない。

 

 俺は、強さとは所詮相対的なものだと思っている。

 強敵を相手にどう戦うか、どう対応するか……そういう部分で、強さの質が問われる。

 まあ、弱い相手を倒せば、一見強くは見えてしまう。

 自分の力を発揮し、やりたい放題になりやすいからな。

 

 対戦相手の圧力を受け、不自由さを強いられて……それでも強さを見せられる。

 そういうボクサーになれたなら。

 

 ……たぶん、世界が見えてくるんだろう。

 

 世界を見て、どうするか。

 頂を目指す。

 手を伸ばす。

 その過程で、またほかの人間を蹴落とし、殴り倒して先に進む。

 

 逆に蹴落とされるかもしれない。

 殴り倒されるかもしれない。

 あるいは、もう少しで世界の頂に手が届く……そのときに、多くの戦いで傷つき、満足に動けなくなっているかもしれない。

 

 まあ、今の俺は……世界を目指す以前の問題だ。

 世界を見るための、見ることができるようになる場所。

 そこを奪い取るための、日本タイトルマッチだ。

 

 日本ランカーから、挑戦状が一枚も届かない……そういう勝ち方をして、ようやく東洋へと一歩が踏み出せる。

 

 

 

 

 

 

 年末、俺は実家には帰らなかった。

 ヴォルグと伊達英二との試合まで残り1ヶ月を切っている状況で、スパーリングパートナーの俺が離れるわけにもいかない。

 仕事が休みの年末年始は、ヴォルグの追い込みに付き合った。

 

 そして年が明けて、チャンピオンカーニバルの全日程が発表された。

 13階級26人の選手を集め、スポーツ記者も呼んでの発表会。

 といっても、場所はホールの近くの料理店だが。

 

 対戦相手との2人の写真。

 そして、試合に向けての抱負というかコメントを、全選手に聞いて回るのだが……どうしても、注目の選手とそうでない選手との間の差が出てきてしまうのは仕方がない。

 

 試合が近いということもあって、これに勝てばそのまま世界へという話がある伊達英二とヴォルグに集まるのはある意味当然だ。

 そして、鷹村さんと、対戦相手の玉木……バンタム級の石井に、世界戦の話が浮上しているフライ級の三石など。

 あの間柴でさえ、後回しの状態だ。

 

 というか、あとで選手全員の集合写真を撮るから残っていてくれって……先に撮影して、取材とは関係ない人間は帰っていいことにしてくれないだろうか。

 取材が無ければ、はっきり言って手持ち無沙汰だ。

 

 そして、それは俺だけじゃない。

 

 

「いやあ、お互い蚊帳の外ですね、青木さん」

「……」

「青木さん?」

「お、おお……速水。俺は大丈夫だ、緊張なんかしてないぞ」

 

 あ、これアカンやつだ。

 

 原作のあれはオーバーだとしても、痩せたり太ったりするんだろうか?

 

「青木さん、まだ1月です。青木さんの試合は、3月の頭ですよね?まだ2ヶ月も先です」

「お、おお、わかってる。俺、この試合にかけてるからな、やるぜ、俺は」

 

 そう言って、ぎこちなく笑う。

 

 まあ……今のうちに緊張しておくのもいいのか。

 

 せっかくだし、色々と話しかけてみるか。

 アマ時代の知り合いを除けば、俺ってあまり知り合いがいないんだよな。

 デビュー前は、会長がスパーの相手を呼んでくれたけど……デビューしてからは、それもほとんどなくなった。

 特に、新人王を獲ってからは……スパーをしたのは伊達英二とヴォルグだけだ。

 伊達英二とはあの一回だけだし、正直、俺はボクサーとしてかなりスパーが少ない部類に入るだろう。

 

 とりあえず、暇そうというか手持ち無沙汰な感じの人間に、挨拶をして回る。

 間柴には無視されたが、そういうタイプなのはわかっていたし仕方がない。

 

 と、いうか……俺の存在があまりよく思われていないっぽい。

 間柴だけじゃなく、ほかのボクサーも。

 

 ベテランはさらりと対応してくれるのだが、若手はわりと塩対応。

 挨拶しても、『ああ』とか『どうも』とか返されて、『お前、どこか行けよ』みたいな雰囲気がある。

 

 タイトルマッチを控えて、みんなピリピリしているからと思いたいが……もしかすると、俺って嫌われ者なんだろうか。

 まあ、それでも挨拶をしておくかと気を取り直して……。

 

 

「速水くん」

「あっと、チャンピオンから声をかけさせて申し訳なかったですね」

 

 少し頭を下げ。

 

「さっきは自己紹介もできませんでしたし。あらためてよろしく、速水です」

「こちらこそ。ボクは真田……って、なんか変な感じだね、こういうのは」

 

 真田が苦笑する。

 スーツ姿が似合っているのは慣れのせいか。

 わりと、スーツに着られている感じのボクサーが多いんだが。

 

 好青年、そしてイケメン。

 真田総合病院の跡取り息子。

 

 ……うらやましいよりも、大変だろうなと思ってしまう。

 

「なにやら、話し相手を探しているように見えたから声をかけたんだけど……迷惑じゃなかったかな?」

「いや、助かりますよ。せっかくの機会だからと、挨拶して回ってたんですが……どうも、お呼びじゃない感じでして」

 

 人あたりが良いというか、柔らかい。

 俺としては、かなり話しやすいタイプに思える。

 

「わかる、と言ったら失礼かな。どうもボクも、こういう集まりでは周囲から浮くタイプらしくてね。速水くんが話しやすそうで助かるよ」

「ああ、去年も……」

「そう、去年は挑戦者として参加させてもらった……けど、話し相手がいなくてね。可哀想に思ったのか、伊達さんがちょっと話しかけてくれたぐらいかな」

 

 周囲を見渡し、苦笑を浮かべた。

 

「こうやって見ると……ボクサー同士の交流って、あんまり無いんですかね?」

 

 取材を受けていないボクサーは1人で立っているだけだ。

 あるいは、2人でぼそぼそと会話を交わしているだけ。

 

 まあ、ただの日程の発表会だから……飲食物もない。

 場所こそ料理店だが、団体客用のスペースを借りているだけ。

 

「結局、所属するジムの上が親しいかどうかで、交流が決まる感じなのかな。試合を主催するにしても、わりと関わりの深いジムとの協賛になりやすいし」

「ああ、そりゃそうですね……今日のような催しがないと、まず接触することがない」

 

 試合会場の観客同士、あるいは選手として試合前の控え室、付き添い。

 その場合、顔見知り、知人どまりか。

 ああ、スパーを通じての交流もあるか。

 しかし、スパーにしても、ジムの交流があるという前提で交渉するものが多いだろうしな。

 

 幕之内はともかく、千堂は例外で……宮田と俺みたいな関係が普通と言えば普通なんだろう。

 

 真田が俺を見て、少し笑った。

 

「なんです?」

「いや、こうして話していると……速水くんは、あまりボクサーらしくないなあと思ってね。まあ、これはボクも良く言われるんだけど」

 

 あらためて真田を見た。

 ああ、うん……ボクサーには見えない。

 

「そういや、チャンピオンは……2月って、大学の試験期間じゃないんですか?」

 

 俺と真田との試合の日程は、2月の26日。

 ついつい、歴史的な事件を連想してしまう日だから……あまり良いイメージはない。

 

「そうなんだよ……」

 

 どこか困った感じの表情を浮かべ、真田が呟いた。

 

「試合の日はもう試験が終わっているけどね……問題は試合までの時期だよ」

 

 試験にレポート、医学部生だから、実習なんかもあるのか?

 タイトルマッチ前に、それは厳しいだろうな。

 

「……ご愁傷様です」

「ははは」

 

 真田が朗らかに笑う。

 

 ……好青年だよなあ。

 

「まあ、ボク自身が選んだ道だからね……なんとかするし、言い訳もしないさ」

 

 確か、俺のひとつ上だから今は4年、そして来年度は5年、か。

 実家が真田総合病院だから、バイト云々はさておき……医学部生はそれまで以上に大忙しになる時期のはずだ。

 

「俺としては、人間の身体についての論文や、実物に触れる機会があってうらやましいなと思うこともあるんですけどね」

「……医学に興味が?」

「医学というより、人間の身体そのものというか、トレーニング理論ですかね。強いて言うならスポーツ医学ってことになるのかも」

「……」

「どうしました?」

 

 真田が、口元に手をあてた。

 

「いや、失礼かもしれないが、少し意外だと思ってね……たぶん実感してるとは思うけど、日本のボクシングで理論云々を表立って口にする人は少ないから」

「ああ、まあ……そうですね」

 

 たぶん、真田も自分で色々考えてやってきたクチだろうな。

 真田はこれまでに1回だけ敗戦を経験しているが、それはデビュー戦のものだ。

 引き分けひとつをはさんだが、そのあとは全て勝ってきた。

 そして最近は、連続KO勝利と……まだそれほど目立ってはいないが、成長し続けているように見える。

 

「スポーツ医学は、この国だとこれからの分野って感じかな……トレーニング理論だと、H大のたんぱく質研究が絡んでくると思う」

「脳たんぱく質の寿命が最短で4日って発表したとこですよね?」

「……詳しいね」

「筋肉たんぱく質の寿命とか、調べたんですよ」

「ああ、なるほど……ドーピング問題が話題になってから、いろいろと情報だけは飛び交ったからね」

「『超回復』って、日本でしか通じませんよね?」

「……少なくとも、論文で語られる内容は別物だよ」

 

 ふと、言葉が途切れ……お互いを見詰め合う。

 そして、笑った。

 

「うん、ボクサー同士の会話じゃないな、これは」

「確かに」

 

 特に、申し合わせたわけでもないが、お互いに手を出して握り合った。

 

「いい試合をしよう」

「俺は、チャンピオンを引退させるつもりですよ」

「……へえ」

 

 俺の手を握る力が、瞬間、強くなった。

 

「5年になると、医学部生は半端じゃなく忙しくなるでしょう。医者の道に専念してください」

 

 俺を見る目。

 

「キミからは、ボクが中途半端に見えるのかな?」

「それは、チャンピオンが決めることですよ……ただ、チャンピオンがボクシングだけに打ち込んだなら、どこまでいけるのかってのは興味がありますけどね」

 

 真田の手を、強く握り返す。

 そして、放した。

 

「……と、いう方向で盛り上げませんか?」

「ん、ん?」

 

 真田が、困惑の表情を浮かべた。

 

「いや、俺がトーナメントで戦った人、みんな引退するってことになったじゃないですか。たぶん、試合前のマスコミは、そこをクローズアップしてくると思うので」

「……こちらから、話題を提供しようと?」

「どうせなら、注目されて盛り上がったほうがいいじゃないですか」

 

 そう言って、俺は記者の集まっている方向を示した。

 そして、それ以外のボクサーを。

 

「わざわざ集められて、ほとんど放置って……この状況、あんまりだと思いません?」

「あはは、なるほどね」

 

 真田が小さく頷いた。

 

「うん。速水くんが、ビッグマウス扱いされていたわけがわかった気がするよ……キミは、プロのボクサーで、エンターテイナーなんだね」

「多少、不本意なんですけどね……」

 

 いったん言葉を切り、苦笑する。

 

 納得できる理由が与えられたら受け入れる、と。

 ……やはり、冷静というか理知的な性格だな。

 

 原作知識がある分、機会を見つけて確かめないとファイトプランに狂いが生じる。

 

 挑発とか、そういうのは意味がないだろう。

 ごく自然に、自分を見つめ、理解し、できることをやるタイプ。

 こういうタイプは、不利な状況でも、戦略、戦術面でひっくり返してくるから気が抜けない。

 

「本音を言えば、ボクシングのことだけやっていたいですよ……ただ、ボクシングの現状を考えると、ちょっと」

「いいよ、協力しよう。ただ、この方向だと、キミがヒールで、ボクがベビーフェイスってことになるね」

「まあ、そこは仕方ないです……言いだしっぺは俺ですし」

「うん、なんだろう……子供の頃できなかった、悪戯を大人になってからやるような気分だね」

「……楽しそうですね」

「楽しいね……ボクシングとは別の部分で自分を演じるというのかな、少しワクワクしている。誰に迷惑をかけるわけでもないというのがいいね、うん」

 

 真田が、軽く右手を振った。

 言葉通り、それを楽しんでいるように思える。

 

 

 真田総合病院の跡取り息子、か。

 周囲のプレッシャーと言うか、視線を浴びせられ続けたら……まあ、子供の頃から優等生を演じるケースは多いよな。

 その上でまっすぐに成長した感じだろうか。

 

 前世では、いいとこのお坊ちゃんである苦労や、医学部生の苦労なんかは、数多く見聞きした。

 しかし、そういう立場の人間は……誰かに与えられたものではなく、自分で選び、掴み取ったものに執着することはしばしばある。

 

 真田にとってのボクシング。

 娯楽や逃避の側面もあったかもしれないが……医学部生との両立で苦労を背負い込むことを受け入れている。

 練習時間をひねり出すだけでも、大変なはずだ。

 原作とは関係なく、この王者の心は……そう簡単には折れないだろうことは推測できる。

 

 真田を、二兎を追うものは……とは言うまい。

 逆に、医学部生として十分な練習時間が取れない状況でありながら、日本タイトルを取った事実を俺は恐れる。

 ボクシングだけに打ち込めば、どこまでいけるのか……それは俺の本音だ。

 

 原作でも、鴨川会長への対抗心はあったかもしれないが、あの浜団吉が『選んだ』ボクサーであることを忘れてはなるまい。

 雇われたのではなく、浜トレーナーが真田を選んだ。

 世界ランカーを何人も手がけたトレーナーが選ぶだけの何か。

 

 幕之内、宮田、千堂の時と一緒だ。

 この時期に戦える俺は、運がいい。

 

「それで、ボクはどうしたらいい?握手拒否とか?」

「表面上はにこやかに、ですかね……右手で握手、左手で殴り合いって感じの」

「ああ、わかるわかる……そういうのは得意だよ」

 

 そう言って、真田が俺の耳元で囁いた。

 

「ボクを引退させるってのは、キミの本音だろう?」

「……ええ。日本ランカーから挑戦状が届かないような、ベルトの奪い方をしたいですね」

「目指すは世界、かな?」

「まだそこまでは……その手前を」

 

 真田が離れる。

 

「正直、ボクのほうが分が悪い試合だと思っているけどね……まあ、もう一度言うよ」

 

 

『いい試合をしよう』

 

 

 その言葉を残して、真田が背を向けた。

 

 

 

 記者たちのお目当ての取材が終わり、ぽつぽつと、間柴や俺へと流れ始める。

 それが終われば、集合写真だ。

 

 王者サイドと挑戦者サイドに別れて、1枚。

 

 ……王者は全員ベルトを肩にかけるはずだったのだが、鷹村さんがベルトを忘れてきたのはご愛嬌だ。

 

 

 

「リュウ」

「ああ、ヴォルグ……お疲れ」

 

 ヴォルグが笑う。

 そして、英語でしゃべりだした。

 

『うん、本当に疲れたよ』

『何か、あったのか?』

『……あの人たちの多くが、僕の勝利を望んでいないことがわかった』

『……』

『まあ、覚悟はしてたことだから……地元の選手に声援が飛ぶのは当然だね』

 

 言葉はわからなくても、気持ちは通じる。

 特に悪意は、言葉を越える。

 

 とはいえ、明確な悪意ではないだろう……見て興奮する試合をして、その上で伊達が勝てばいい。

 その程度の認識。

 

 音羽会長も、ヴォルグよりも俺を見ている。

 それはそれで俺としてはありがたいが、契約したジムの会長が自分以外を見ていることに……そこはかとない疎外感程度は覚えてしまうだろう。

 

 俺を見て、またヴォルグが笑った。

 

『僕の手は2本しかない……右手にコーチ、左手にリュウ、そして心に母さんを……僕が試合に勝って、ジムのみんなが笑ってくれれば、それだけで十分』

 

 言葉に詰まる。

 しかし、なんとか絞り出す。

 

『勝つしかない。勝つしかないんだ、ヴォルグ』

『うん、わかってる……勝つよ』

 

 

 

 今日の日程発表に参加した王者の中には、6度7度と防衛を重ねている者もいる。

 

 間柴の挑戦するジュニアライトの王者も、これが6度目の防衛戦だ。

 タイトルを返上することもなく、世界どころか、東洋への話もなさそうだ。

 ただ、淡々と防衛を重ねて……チャンスを待っている。

 

 軽量級とは違う、中量級の現実がそこにある。

 実力か、あるいは資金か。

 

 ヴォルグは、伊達英二に勝てばベルトと世界ランクを奪うことができる。

 道は開けるはずだ。

 そう、信じたい。

 

 あらためて実感する。

 本当に……ボクサーは勝つことしかできないよなぁ、と。

 

 俺も含めて、多くのボクサーにとって、勝つことは救いであり……地獄に垂らされたクモの糸のようなものだろう。 

 勝つこと以外は、前に向かって歩いている実感が持てない。

 あるいは……その場にとどまる権利を死守するための勝利。

 

 

 

 チャンピオンカーニバルに臨む、13人の王者と、13人の挑戦者。

 いくつの王座が移動するかはわからないが、何人かの道が閉ざされることになるんだろう。

 

 ここはもう、ボクサーとしての生き残りをかけて戦う場所だ。

 




日程発表に使われた飲食店……わかる人はわかるでしょうけど、名前は出さないようにお願いします。
えっと、あくまでも架空の世界のお話なので。(笑)


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25:世界への切符の行方、前編。

誤字報告、ありがとうございます。
20人ぐらい報告があって、一瞬切腹を考えましたが……ほぼ同じ部分の指摘だったのでちょっとだけほっとしました。
いや、ほっとしちゃいけない……誤字がなくなるように精進します。


 今年の冬は暖冬らしい。

 エルニーニョ現象が……などと、テレビで呪文のように連呼しているが、冬には変わりない。

 吹き付ける風は強く、冷たい。

 

 ヴォルグは平然としている。

 故郷では、0度を超えたらとても暖かい日らしいからな……まあ、桁が違うというやつだろう。

 それでも、2年、3年と日本に滞在していれば、日本の温度に慣れていってしまうのだろうか。

 

 原作では、A級トーナメントで幕之内、そして伊達が返上して空位となったフェザー級の日本王者決定戦において千堂に敗れ……ヴォルグは音羽ジムからマネジメント契約を切られて故郷に帰ることになった。

 

 1回負けても平気、などと楽観はできない。

 どうも俺の感覚では……原作の物語よりも、スポンサーやテレビ局の判断がドライだ。

 伊達英二に『世界アマ王者を倒した』という肩書きをつけたならそこで用済み……みたいな展開が十分にありえるように思う。

 ヴォルグとのマネジメント契約は音羽ジムとのものだが、契約金の出所は別だ。

 

 ヴォルグが日本に来てから戦ったのは2試合で、A級トーナメントだから音羽ジムが主催したわけじゃない。

 ヴォルグとラムダ2人分の住居、生活費を含めた給料に、通訳の人の費用など……現時点では大幅な持ち出しになっているのは言うまでもない。

 

 金の切れ目が縁の切れ目と言うが……極端な話、勝敗に関係なく、ヴォルグの商品価値が下がれば切られる。

 

 そのあたりは、音羽会長を交えてヴォルグとラムダには説明した。

 たぶん、ヴォルグよりもラムダのほうが良く理解しているように思う。

 

『オール・オア・ナッシング……ボクシングとは、そういうものだろう?我々にできることは、勝つことだけだ』

 

 ヴォルグは負けを知らない。

 しかし、指導者のラムダは知っている。

 

 

 今日は、1月の15日。

 成人の日だ。

 ヴォルグと伊達英二の試合まで、あと10日ほど。

 

 今日は、音羽ジムに取材が入る。

 タイトルマッチ前の、公開スパーリングだ。

 

 スパーの開始予定時間は、午後の3時。

 ただ、その前にヴォルグの練習の様子などを撮影すると聞いているから、2時ごろから記者連中が集まることになるだろう。

 ほかのボクサーや練習生には事前に告知して、混乱が起こらないようにはしてある。

 

 スパーリングパートナーの俺は、午前中はいつものように練習だ。

 そして、記者連中が来る前に、ヴォルグとラムダを相手に打ち合わせをする。

 

『ラムダさん。今日のスパーはどうします?』

 

 俺が聞くと、ラムダが音羽会長を見た。

 

『軽く流したほうがいいのかな?それとも、エイジ・ダテに圧力をかけるような内容がいいかな?』

『速水とヴォルグのスパーの初公開ってことで、かなり話題になってる。全力とは言わないが、少しサービスしてやって欲しい』

『なるほど……』

 

 ラムダが両手を組み……呟いた。

 

『3Rか……アウトボクシングを1R、2Rはインファイト……最後のRはどうするかな』

 

 会長が苦笑する。

 

「速水。贅沢な悩みだよなあ……何でもできるってのは」

「ですね」

 

『ふむ。ヴォルグ、速水……3Rは好きにしていい。ただし、7~8割の力で、全体的に防御的にいこう』

『はい、コーチ』

『わかりました』

 

 ラムダが微笑み……。

 

『ヴォルグ。上下のコンビネーションは使ってもいいが、アレは、使わないように』

 

 ヴォルグが頷く。

 

『速水。いつものように、華麗な防御を見せて欲しい』

 

 ……うん?

 伊達英二に対する、何らかの仕掛け……なんだよな?

 

 俺の疑問を読み取ったのか、ラムダがあらためて説明した。

 

『ここは日本だからね。君の防御に対する、周囲の反応を確かめたい』

 

 ああ、なるほど……ね。

 

 

 

 

 

 昼の1時前、気の早い記者が早々と……。

 

「やあ、速水君」

「ああ、藤井さん……まだ1時前ですよ?」

「そりゃあ、気も逸るさ。金が取れるスパーだぜ、これは」

 

 まあ……一応俺は、アマで無敗、プロでも無敗のホープか。

 

 でもこれって、日本のマスコミが試合前に『速水ならやってくれる。必ず勝つ』みたいな感じに煽ったはいいが、結局は惨敗するパターンだよな。

 そして海外では、『日本の若者の、無謀な挑戦が妥当な結果に終わった』などと、さらりと流されるまでがお約束。

 

 一応じゃなく、自分が十分に日本のホープと呼ばれる存在だとわかってはいるつもりだが……いまだに、ヴォルグから一度のダウンも奪えないのが現状だ。

 防御に徹すれば、判定までは持ち込めるような気はするが……それで勝てるイメージはわかない。

 

 と、いうか……そもそも、記者連中に見せるためのスパーなんだが。

 

「……先に言っておきますけど、お互い、全力のスパーじゃないですよ?」

「まあ、それはわかっているんだが……」

 

 藤井さんが、俺を見る。

 

「沖田は1R、冴木は2R……随所にスーパーテクニックは見られたが、ヴォルグ・ザンギエフというボクサーの実力の底どころか、その一端すら拝ませてもらっていないってのが正直な感想なんだ」

「ああ、そういう……」

 

 俺が目当てじゃなく、俺を当て馬に、ヴォルグの実力が見たいわけか。

 

「まあ、伊達さんとの試合でのお楽しみですかね」

「そんな頼りないこと言わないでくれよ、速水君……」

 

 さて、練習練習と。

 

 ヴォルグは地下のリングにいる。

 そういや、1階のリングでのスパーは、今日が初めてになるのか。

 

 

 

 

 

 2時。

 

 記者連中が集まり始めた。

 それにあわせて、ヴォルグとラムダが1階へと上がってくる。

 

 俺はというと、練習にならないから身体を冷やさない程度に柔軟やストレッチでお茶を濁す。

 

 ……しかし、思っていたよりも人数が多いな。

 記者連中だけじゃなく、ボクシング関係者も、か。

 人数を制限して、これか。

 

 と、仲代会長だ……挨拶しとくか。

 

「お久しぶりです、仲代会長」

「おお、速水くん」

 

 ぽんと、二の腕のあたりを叩かれた。

 

「ジュニアフェザーで、ずいぶんと暴れたなあ」

「まあ、ぼちぼちです」

「はは、対戦者を全員引退させておいて、ぼちぼちか……英二のやつが笑ってたぜ」

「……笑う理由を聞くのが怖いんですが」

 

 仲代会長が、楽しそうに言った。

 

「『速水はオレが育てた』ってさ」

「いやまあ、確かに育てられた部分があるのは認めますけど」

「まあ、勘弁してやってくれよ……速水くんが活躍して喜んでるのは確かなんだ。スポンサーの件が無けりゃ……と、いまさらだな。まあ、リカルドとやるときは約束どおり、スパーリングパートナーに指名するさ」

「……立場的にも、心情的にも、『はい』と返事はできないんですよ」

 

 もう一度、腕を叩かれた。

 

「タイトル取ったら、マッチメイクが大変だぜ」

「さっさと国内に敵無し状態にしたいですね」

 

 仲代会長が真面目な表情をして、俺の腕をひいた。

 

「〇△スポーツの記者に気をつけなよ。速水くんの悪い噂をばらまいてるみたいだ」

「……?」

 

 苦々しい表情で、仲代会長が吐き捨てた。

 

「態度が悪いとか、素行が悪いとか、天狗になって練習もおろそかにしてるとか……速水くんと面識のある人間なら、信じるはずのない馬鹿馬鹿しい噂さ」

 

 ん?

 待てよ……。

 

「もしかして、新人王戦の取材で妙に突っかかってきた記者って……」

「それは知らないが……速水くんのことが気にくわないとか、そんなしょうもない理由だぜ、きっと」

 

 ああ、でも……あの時は、挑発するような物言いもしたしなあ。

 あるいは、自分が望む言葉を口にしてくれない生意気なガキが……ってのもあるか。

 

 どうしよう……頭痛が痛いって、こういうときに使うんだろうか。

 

「俺のところには、また聞きぐらいで噂が回ってきたんだ……たぶん、普段音羽ジムと交流のないボクシング関係者にばらまいてるんだと思うよ」

「……チャンピオンにカーニバルの日程発表会で、ほかの選手に挨拶して回ったんですが……その噂、影響してるんですかね?」

「そこまではわからないけど……噂ってのは怖いぜ。ボクシング業界は、狭い上に閉鎖的だから余計に、さ」

 

 ……人の恨み、妬みは恐ろしい、か。

 

 前世の、高校球児への大げさとも言える指導の意味をあらためて痛感する。

 公共の乗り物では、座席が空いていても絶対に座るな、とか……色々言われたよなあ。

 ただ座席に座っている……それだけで、高野連に苦情の電話が届くのが高校球児という存在だと。

 まあ、座らずに立っていれば立っていたで、『周囲を威圧する姿だ。球児にどんな教育をしているんだ』とか抗議の電話が届くらしいが。

 駄菓子屋で買い食いすれば、高校球児にあるまじき行為、とかもあったか。

 

 高校球児に夢を持ちすぎてこじらせたのか、あるいは高校球児そのものが気に入らないのか。

 世の中にはいろんな人間がいるとしかいえない。

 

 まあ、良くも悪くも……俺も、ボクサーとしてそういう悪意にさらされる立場になったことを喜ぶべきか。

 というか、精神衛生上、そう思ったほうがましだな。

 

「スパー前に、変な話をして悪かったね」

「いえ、知らないよりは知っていたほうがいいですから。ありがとうございます」

「一応、音羽会長にも教えておくよ」

「……お手数をおかけします」

 

 気を取り直して……と。

 

 

 

 

 

 3時前。

 リングの周囲に人が集まる。

 かなり多いな。

 テレビカメラまで、か。

 ジムが狭く感じるほどだ。

 ヴォルグと伊達英二の一戦が、世界への切符をかけたものということも含めて……最注目のカードということがわかる。

 

 今日の俺の立場は、刺身のツマだが……注目されるのは悪くない。

 

 

 1R。

 

 絵に描いたようなアウトボクシング。

 左の差し合い。

 足を使いながら、高速のやりとり。 

 

 周囲の人間から、ため息のようなものがこぼれる。

 

 2R。

 

 一転して、インファイト。

 しかし、防御的に。

 接近戦でパンチをかわしながら、お互いにクリーンヒットはない。

 

 感嘆のため息ではなく、『おっ』とか『ああ』とか、言葉にならない声がこぼれだす。

 

 

 そして3R。

 

 出入りの激しいボクシング。

 中距離から近距離へ。

 かと思えば、距離をとって、けん制しあう。

 

 ラスト30秒。

 

 コーナーで、俺はヴォルグの攻撃をさばき続ける。

 スウェイ。

 ダッキング。

 ブロッキングに細かなポジショニング。

 そして、パーリング。

 

 ラスト5秒で、俺はヴォルグのパンチを受け流し、コーナーを脱出した。

 

 リングの中央。

 突き出したグローブに、ヴォルグがちょんとグローブをあわせて、終了。

 

 

 ……反応は様々、か。

 俺の防御に感心する人もいれば、ヴォルグの調子が悪いのかと首を傾げる人もいる。

 ただ、殴り合いを期待していた人間にとっては、拍子抜けの内容だったのか。

 

 そんな彼らの反応を、ラムダがじっと観察している。

 

 

「……やれやれ。覚悟はしていたが、きつい試合になりそうだ」

 

 と、これは仲代会長。

 

 藤井さんの言葉は面白かった。

 

「……和田君が強かったのがよくわかるよ。速水君に、何度もパンチを当てたんだからな」

 

 まあ、この2人は……スパーの内容に肯定的な方だろう。

 

 

 ……極端に否定的なのは、『ヴォルグも大したこと無いな』という感じで、某スポーツの記者が聞こえよがしに言っていたもの。

 

 どちらにせよ、3R分の材料は与えた。

 それをどう判断するかは、個人の自由だ。

 当然好みは分かれる。

 

 ただ、その個人の判断を……政治力学を加えたうえで、絶対的に正しいものとして世間に発表するのがマスコミなんだよなぁ。

 

 明日のスポーツ新聞は……記事になればだが、意見が分かれるのが当然だが。

 もし、どの紙面の意見も一致していたとすれば……スポンサーやテレビ局の意向が働いていると見たほうがいい。

 あるいは、記事にしないことで……また別の関係性が見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1月下旬。

 

 その日、都内では昼過ぎから雪が降り始めた。

 都内では、この冬初めての雪。

 

 

『この国では……こういう雪の降り方をするんですね』

『まあ、地域によって違うはずだ……たしか、気温が低い地域だと、もっとさらさらした感じの雪が降るらしいが』

『……僕の故郷は、冬は手袋が必須です。素手で金属に触れると、取れなくなるから』

 

 ……冷凍庫みたいなもんか。

 マイナス20度、30度が当たり前の地域じゃ、そうもなるよな。

 

『ん?ヴォルグの村って、電気が通ってなかったっけ?』

『ええ……長い冬は、夜も長いです』

 

 空を見上げる。

 そして、呟く。

 

『だから、春の訪れは……美しいです』

 

 故郷に残してきた母親、か。

 交流は、手紙のやり取りのみ。

 

 日本人の感覚からすると、手紙が届けられ、返事が来るのも遅い。

 ソ連崩壊の影響か、あるいは外国だからか。

 

 母親からの手紙を開くヴォルグの顔……あれが、ボクサーではなく、アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフという青年の素顔。

 

『リュウ、今日は、ありがとう』

『なにがだ?』

『僕のセコンド、ついてもらって』

『ああ、そのことか……』

 

 セコンドのライセンスとか、大丈夫なのかと思ったが……そのあたりは、ジムの会長にある程度権限があるらしい。

 会長が認め、それを申請すれば……まあ、たいていはOKらしい。

 

 ただ、当然だがメインはラムダだ。

 セコンドは3人まで認められるが、Rの合間、リングの中に入ることができるセコンドは一人だけ。

 俺は、リングの外から声をかけ、見守るだけだ。

 

 

 また、ヴォルグが空を見上げた。

 

『雪、積もるかな?』

『どうだろうな……予報じゃあ、都内では積もっても精々1~2センチらしいが』

 

 ぽつりと。

 

『この雪を、母の応援と思って戦います』

『そうか……止まないといいな。試合の間中、ずっと』

『……勝つよ』

『ああ』

 

 空ではなく、前を見る。

 後楽園ホール。

 

 話が終わったと判断したのか、ラムダが近づいてきた。

 

『ヴォルグ、……』

『……、コーチ』

 

 ……俺のロシア語は、ほとんど上達していない。

 ある程度英語で意思のやり取りができるから、甘えが出てるんだろうな。

 

 

 

 

 

 タイトルマッチだからなのか。

 ヴォルグには、専用の控え室が用意されていた。

 

 集中できるともいえるし、どこかさびしいとも思える。

 

 ちらりと覗いたが、ホールは満員だ。

 冬なのに、熱気がすごい。

 その熱気にあおられたのか、前座からわりと派手な試合展開になっているようだ。

 

 雪は、まだ降っているだろうか。

 

『……落ち着いてないね、リュウ』

『自分で試合する方がマシかもな』

 

 俺がそう言うと、ラムダが笑った。

 

『試合が始まると、もっとだよ』

『……ですか』

『コーチとリュウが、安心してみていられる試合にしたいです』

『ノー、ヴォルグ。そんな甘い相手ではない……虚勢も、過信も、過小評価も必要ない。相手と自分の現実を見つめ、対処するために全力を尽くす……そうすれば、自然と勝利をつかむことができるだろう』

『はい、コーチ』

 

 

 セミファイナルが終わった。

 ここで、会場設定というか演出のために少し時間が空く。

 

「ヴォルグ選手、入場の準備をしてください」

 

 ヴォルグが立ち上がる。

 

 ……もう、ボクサーの顔だ。

 

 

 

 ホールの光量が絞られる。

 

 スタッフの合図。

 青コーナーサイドの通路を、ライトが照らした。

 

 先頭をラムダ。

 後ろにヴォルグ、左右をセコンド2人で囲む。

 

 馬鹿なことをするヤツはいないとは思うが、観客に注意だ。

 

 

「おいおい、セコンドやるのか速水ぃ!?」

「タイトルマッチはどうした!?」

「グローブ忘れてるぞ!?」

 

 ……観客に注意だ。

 

 でも、聞こえない。

 聞こえないったら聞こえない。

 

 なんだろう。

 この、ボクサーとしてリングへ向かうときとは違う、恥ずかしい気分は。

 

 

 ヴォルグがリングに上がり、ゆっくりと一周する。

 そしてまた、ホール全体の光量が絞られた。

 

 光の帯。

 日本フェザー級王者、伊達英二の登場だ。

 ホールが歓声に包まれる。

 

 やはり、伊達への声援は多い。

 日本人のボクサーとしては、最も知名度の高いうちの1人。

 先日は、『伊達英二、挫折からカムバックへの道』みたいな特集番組も組まれたしな。

 スポンサーというか、テレビ局も本気だ。

 だからこそ、世界戦の話は具体性がある。

 

 試合前だというのに、コールが始まる。

『ダーテ!』と『エ・イ・ジ』の2種類。

 統一されてないところに、むしろファン集団の広がりを感じた。

 

 

 もしヴォルグじゃなくて、俺が挑戦者の立場だったなら。

 

 まあ……正直、俺はヒール役が嫌いじゃないんだよな。

 客の視線を奪うというか……千堂との試合の時は、良くも悪くも客は千堂しか見てなかったからムカついたが。

 この大声援が静かになって……悲鳴じみた声援に変わったら気持ちいいだろうなと思う。

 

 もちろん、日常生活ではごめんだが。

 

 まあ、戦うのは俺じゃなくヴォルグだ……声援はもちろんだが、2人が気づかない何かを探すことに専念しよう。

 

 

 普段の試合よりも、前置きが長い。

 タイトルマッチだからといえばそれまでだが……観客は、どう感じているんだろうな。

 テレビは、生中継でない限りは編集されるけど。

 

『落ち着きがないね、速水』

『え、ああ、すみません……集中しないと』

 

 ラムダが微笑む。

 

『変に構えなくていい……君のそういう姿が、ヴォルグの力になる。ありがたいことだよ』

『……そういうものですか?』

『勝利を願ってくれる、心配してくれる……周囲の人間のそういう当たり前のことが、技術を超えた先の、一押しになってくれる』

 

 

 ヴォルグがコーナーへ戻ってきた。

 そして、ラムダと俺……もう1人のセコンドを見る。

 

『プランに変更はない』

『はい』

 

 最終確認。

 

 

 今、ゴングが鳴った。

 

 

 中央、グローブをあわせて、離れる。

 

 大歓声。

 王者だからではない、日本人だからでもなく、伊達英二への応援。

 それがよくわかる。

 

 

 2人がゆっくりと回る。

 ちょうど一周。

 

 先にヴォルグが手を出した。

 そして、伊達が。

 ボクサーとしての、無言の挨拶のようなもの。

 

 あらためて距離が離れて……。

 ゆっくりと、ヴォルグから行く。

 王者がそれを迎え撃つ……そんな構図だ。

 

『……』

 

 ラムダの呟き。

 

『何か?』

 

 リングから目を離さず、ラムダが言う。

 

『君の言うように、エイジ・ダテは誇り高い王者だ』

『ええ……』

『……そこに隙がある』

 

 ヴォルグのインファイト。

 それに応じる王者。

 

 原作とは相手が違うが、構図は同じだ。

 

 世界を目指すがゆえに。

 世界の頂を経験したがゆえに。

 

『国内の対戦相手を、力でねじ伏せられずに世界を語ることはできない……そういう考えを持っているんだろうね。それにふさわしい力もある』

 

 リングの上の激しい攻防とは裏腹に、ラムダはただ静かだ。

 

『誇りと過信は、コインの裏表だよ』

 

 日本国内の試合。

 しかし、ヴォルグは……世界レベルだ。

 

 舞台は既に、世界の前哨戦。

 

『今のままなら速水、勝ちに徹する君の方がよほど強敵だ』

 

 まだ1R。

 まだ1分半。

 

 ヴォルグが、接近戦で伊達英二を押し始めている。

 

 なのに、王者が退かない。

 正面から、ヴォルグの圧力を受け止めようとする。

 

 ヴォルグの拳が、伊達英二の腹を叩いた。

 反撃をかわし、もう一発。

 

 瞬間、動きが止まる。

 

 右。

 フェイントを入れてから、丁寧にもう一度腹を叩く。

 またボディへ。

 

『ヴォルグを……いや、勝負を甘く見ている間に、足と体力を奪わせてもらう』

 

 

 ヴォルグの執拗なボディ狙い。

 逆に、伊達英二の攻撃は顔狙いだが、空転し……1Rが終わった。

 

 まだ、それほど汗は出ていない。

 うがい水を用意し、うがいさせた。

 

 ラムダから特に指示は出ていない。

 確認とその返事だけ。

 

 想定どおりなのだろう。

 

『気をつけろよ、ヴォルグ。次のR、王者は怒って出てくるぜ』

『うん、わかっているよ』

 

 ……判定は考えない方がいい。

 そんな言葉は、口にするまでもない。

 

 俺よりも、2人のほうがよくわかっている。

 

 

 2R。

 

 ヴォルグがコーナーからゆっくりと離れる。

 

『速水、君の予想は?』

『早いRならヴォルグ、後半にもつれ込むようなら……面倒ですね』

『うむ……王者の動きが変わってきたね』

 

 ラムダの視線が鋭い。

 

『学習能力が高い。試合の最中でも修正してくる……セコンドではなく、本人がクレバーだ』

『……それでも、打ち合いを望むと思います』

『この国では、横綱相撲、というのだったかな?』

 

 横綱らしい相撲を。

 王者らしい振る舞いを。

 挑戦者らしく。

 

 そういう考えを全ては否定しない。

 だがそれは、勝てるから言えることだろう。

 次があるから言える。

 

 勝つために、ルールの範囲内で全てをやりつくす。

 話はそれからだ。

 

 

 ヴォルグを真正面から受け止める王者。

 この構図は、2Rも変わらない。

 

 押しているのはヴォルグだ。

 しかし、押し切れてはいない。

 もちろん、伊達英二の力がある、技術がある、上手さがある。

 

 ただ、この試合で……ヴォルグがまだ一発もアッパーを打っていないことに気づいている人間はどれぐらいいるかな?

 

 ヴォルグのボディ。

 王者の反応が、わずかに遅い。

 

 ボディではなく、アッパーが頭の中にあるからだろう。

 伊達英二の頭から、まだアッパーは消えていない。

 

 そしてヴォルグも、アッパーを封じた戦いを自ら課している。

 楽ではない。

 

 

 この試合、ヴォルグが初めてのクリーンヒットをもらった。

 しかし、ひるまない。

 ラムダも、騒がない。

 

 良くも悪くも、もう2人は覚悟を決めている。

 

 やはり、セコンドではなく、自分が試合をやる方が楽だ。

 そう思うのは、逃げなんだろうか。

 

 2Rの後半。

 王者が、ヴォルグのボディを嫌がりだしたのがわかる。

 しかし、距離をとらない。

 攻撃で、押し返そうとしている。

 

『誇りが獅子を殺すか』

 

 ラムダの呟き。

 それが正しいのか、間違っているのか。

 まだ、わからない。

 

「あっ」

 

 声が出た。

 

 ヴォルグの右フック。

 そこに、伊達英二の左がカウンター気味に入った。

 ホールが揺れる。

 

 思わずラムダを見てしまう。

 しかしラムダは、小揺るぎもせず、ヴォルグを見ている。

 

 ヴォルグが立て直した。

 そしてまた、王者の腹にパンチを叩き込む。

 

 試合の展開が速い。

 後半勝負とかじゃなく、2Rにして既に中盤を思わせる。

 

 

 2Rが終わった。

 

 うがい水。

 タオルで汗を拭く。

 

『次のRで、リズムを変える……いいね?』

『はい、コーチ』

 

 ……正念場だ。

 

 事前のファイトプランでは、ここをキーのRと定めていた。

 このR次第で、あとの作戦が変化する。

 

 

 3Rの、開始だ。

 

 

 中間距離と、近距離。

 前後の出入り。

 

 近づいてボディ。

 離れて、ジャブ。

 

 ヴォルグは、さっきまでとは別のボクシングを展開している。

 

『……苛立っているね』

『はぐらかされた……そう感じているんだと思います』

 

 おそらく、このRも打ち合う覚悟を決めていたのだろう。

 退けば、圧力に屈することになる。

 そう考えていたはずだ。

 

 それが、押していたヴォルグのほうから退いた。

 そこに、達成感はない。

 

 クレバーだが、ムキになりやすいタイプだ。

 スパーでもその傾向は強かった。

 

『さて……前に出てくるか、それとも、このまま付き合うか』

 

 ラムダの呟き。

 

 王者が威嚇するように大きく右を振り……距離をとった。

 

 一瞬だが、俺のほうを見た気がした。

 あるいは、ラムダを見たのか。

 

 

 王者が、ヴォルグのボクシングに合わせた。

 傍目から見ればそうだ。

 

 しかし今、伊達英二はひとつ、心に何かを飲み込んだ。

 

 

 中間距離。

 やや攻撃主体の王者。

 そして、防御主体でカウンター狙いのヴォルグ。

 

 1、2Rに比べ、速い動きの攻防。

 目が離せない。

 

 パンチを振り切れる距離。

 一瞬の油断が、ミスが、アクシデントが、戦況を大きく動かしかねない。

 

 集中力が削られる。

 そして、めまぐるしい動きは体力を削る。

 

 ヴォルグが打ち込んだボディの影響は、まだ目に見えない。

 

 

 このRも……ヴォルグは、アッパーを打っていない。

 

 

 うがいとタオル。

 むしろ、さっきよりも汗は少ない。

 呼吸も穏やかだ。

 

『問題はないかね?』

『はい』

 

 ヴォルグの表情。

 

 次のRが、最初の山場だ。

 あるいは、試合そのものが決まるR。

 

 セコンドアウトの合図。

 

『行ってくるよ、リュウ』

『ああ』

 

 4R。

 

 ヴォルグが、コーナーを飛び出す。

 向かう先は、赤コーナー。

 

 伊達英二の対応は遅くない。

 しかし、早くもなかった。

 

 迫ってくるヴォルグを突き放す、左ジャブ。

 

 反射的な動き。

 誘導された攻撃。

 

 

 冴木戦で見せた、相手のリードパンチ(ひだり)への右フック。

 

 王者の上体が大きく泳いだ。

 

「よしっ!」

 

 俺は拳を握り、突き上げた。

 

 この試合、ヴォルグが初めて見せるアッパー。

 上下のコンビネーション。

 白い牙。

 

 伊達英二が倒れ、ホールは悲鳴に近い叫びで埋まった。

 

『……まだだよ、速水』

「えっ?」

 

 つい、日本語で返したが、ラムダの視線は、ニュートラルコーナーのヴォルグへ。

 

『ヴォルグ!まだ終わっていない!』

 

 ヴォルグが小さく頷く。

 

 

 ヴォルグとラムダ。

 そして、俺が見つめる先で……王者がゆっくりと、身体を起こしていく。

 

 ホールを揺らしていた悲鳴が、歓声に変わる。

 そして、巻き起こる大コール。 

 

 

『……最初のアッパーがわずかに浅かったし、返しのパンチは、自ら首をねじって威力を殺されたね。ダメージをまとめたダウンとはいえない』

 

 ラムダの呟き。

 

 その正しさを示すように、カウント6で、伊達英二が立ち上がった。

 レフェリーではなく、ヴォルグを見ている。

 

 

 俺は、時計を確認した。

 

 4Rはまだ始まったばかり……。

 




観客目線で書くとちょっとあれだったので、速水にはセコンドに入ってもらいました。
ライセンス云々は、ちょっとご都合主義ですが……スルーしてください。(懇願)


今、後編を書いてます。
始発までに間に合うかな……。


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26:世界への切符の行方、後編。

始発までに間に合いました。
そして、決着です。


 立ち上がった伊達英二が、ヴォルグを見ている。

 たぶん、レフェリーの話なんか聞いちゃいない。

 

 

 試合再開。

 大歓声。

 

 声は、空気の振動だ。

 ダイレクトに、衝撃として肌に伝わってくる。

 ホールは満員。

 空間内で、3千人に届こうかという人数が発する振動。

 

 それは時に人を萎縮させ。

 時に奮い立たせる。

 

 

 ……このカードに、後楽園ホールは少々狭い。

 俺は、そう思う。

 

 ラムダが、ヴォルグに向かってハンドサインを送る。

 

 声援が大きいと、指示の声が聞こえないこともある。

 そのためのサインだ。

 

 

 王者がゆっくりと前に出てくる。

 その、足の運びを凝視した。

 

『ダテのダメージをどう見るね、速水』

『効いてはいると思いますね、でも、誘いのようにも思えます』

『うむ……』

 

 ヴォルグも、ゆっくりと距離を詰めていく。

 

 あと一歩で、手の届く距離。

 

「えっ?」

 

 伊達のスクリューブロー。

 

 打っただけだ。

 当たるはずはない。

 

 威嚇か。

 ダメージは無いことを示すためか。

 それとも、何かの駆け引きか。

 

 

 悩む俺とは裏腹に、ヴォルグが行く。

 2人のパンチが交錯する。

 

 

 ヴォルグのボディ。

 王者の顔が歪む。

 

 ラムダが右手を握りこんだのがわかった。

 

『ゴーだ、ヴォルグ!』

 

 ラムダの後押しを受けて、ヴォルグがさらに踏み込んだ。

 そこを左フック。

 そして、回る。

 

 いや、動きが鈍い。

 距離がとりきれていない。

 

 

 セコンドは、レフェリーを除けばもっともボクサーに近い。

 なのに、これほど違うのか。

 

 リングの上が遠い。

 セコンドの視点と、ボクサーの視点。

 見えるものと見えないもの。

 さっきの、伊達英二をダウンさせたヴォルグの攻撃もそうだが……ダメージ判断も間違っている。

 やはり、俺はセコンドとしては素人だ。

 それを痛感する。

 

 

 ヴォルグが追う。

 伊達英二を攻め立てる。

 

 ガードの隙間。

 そして、ガードの上から。

 

 アッパーの構え。

 ガードを上げた伊達英二の腹を、ヴォルグのパンチが容赦なく襲う。

 

 クリンチに逃げ込まれた。

 腕を抱え込む。

 頭を押さえるように抱える。

 レフェリーには見えない角度で、ヴォルグの頭を叩いている。

 

 いよいよ、なりふり構わなくなってきた。

 

 

 レフェリーが2人を分ける。

 

 ヴォルグが行く。

 直線的だ。

 

『ヴォルグ!冷静に!』

 

 何度も叫ぶ。

 ラムダは、俺が叫ぶのを止めない。

 たぶん、間違ってはいないのだろう。

 

 こちらを見たヴォルグに、またラムダがハンドサインを送る。

 

 左に、右に。

 ステップを刻みながら、ヴォルグが詰めていく。

 

 王者が応戦する。

 

 ヴォルグが、ボディではなく顔を狙い始めた。

 この試合では、変化。

 しかし、これがいつものヴォルグだ。

 

 はっきりと、優勢と劣勢に分かれた。

 

 ヴォルグのパンチが、伊達英二の身体にダメージを積み重ねていく。

 ホールを揺らす声援の質が変わっていく。

 

 このRで決めたい。

 ヴォルグのスタミナに不安があるわけじゃない。

 それでも、決められるときに決めたい。

 立っている限り、拳を握る力がある限り、何かが起こる可能性はある。

 

「残り30秒だ、英二!」

 

 赤コーナーから、仲代会長。

 声援の中でも通る声だ。

 

 伊達英二がガードを固めた。

 しかし、ただガードしているわけじゃない。

 その隙間から見ているのがわかる。

 

 ヴォルグの猛攻。

 フックからアッパー。

 何度も突き上げて、ガードを壊していく。

 

 崩されたガードを修復しようとする。

 その隙を突いて、ボディへ。

 王者の背中が丸くなった。

 

『ヴォルグ!気を抜くな!』

 

 ラムダの叫び。

 

 前傾姿勢をとっていたヴォルグの身体が伸びた。

 アッパーだ。

 アッパーを返された。

 

 動きが止まる。

 ヴォルグの膝が揺れている。

 

『ヴォルグ!』

 

 また、ラムダが叫んだ。

 俺も叫ぶ。

 

 何故だ?

 なぜ、あんなアッパーをもらった?

 わからないこと。

 見えないもの。

 

 それを振り切るように、ただヴォルグに向かって叫ぶ。

 

 

 幸い、伊達英二の追撃はない。

 

 ヴォルグが立て直したところで、ゴングが鳴った。

 

 ピンチをしのいだのか。

 チャンスを逃したのか。

 

 よくわからないが……俺は、大きく息を吐いた。

 やはり、自分で試合をするほうが楽だ。

 

 

 

 コーナーに戻ってきたヴォルグの汗を拭く。

 

 ラムダは、確認するようにヴォルグの太ももをマッサージし、何かを問いかけた。

 ヴォルグが頷く。

 

 

 見れば、王者のコーナーも動きがあわただしい。

 仲代会長が、伊達英二のふくらはぎをマッサージしているのがわかる。

 それを隠す余裕もない。

 

 セコンドアウトの合図。

 1分が短い。

 

 

 5R。

 

 

『あのアッパーは……ボディを狙ったヴォルグの腕を押さえてから打った』

『……ボディが効いて丸くなったのではなく、抱えた?』

 

 ラムダが小さく頷く。

 

『押さえるのは一瞬でいい。不意をつかれた上に、思い切り振り切られた……さすがに、色んな技を持ってるね』

 

 ……俺とのスパーでは見せなかった技か。

 

 

 ヴォルグの左。

 距離をとって、また左で突く。

 それを、王者は追わない。

 

 回復しているのかいないのか。

 動かないことで、その情報を与えない。

 

 そして、ヴォルグは……。

 

 ヴォルグの足。

 ステップ。

 

 ……回復した。

 

 

 ヴォルグが足を止める。

 深い、呼吸。

 ジグザグに距離をつめ、倒しにいった。

 

 ガードの上。

 そして、ガードの隙間。

 

 ラフさと正確さ。

 それを、上下に打ち分ける。

 

 ショートアッパーの連発。

 

 伊達英二の顔が、はね上がった。

 腰が落ちる。

 

 上下のコンビネーションへのつなぎ。

 がら空きのボディへ。

 

 王者の右手のガードが下がった。

 違和感。

 そして、予感。

 

『来るぞ、ヴォルグ!』

 

 わずかな溜め。

 

 王者の右。

 伊達英二のコークスクリュー……。

 

 

 

 

 

 

 

『ヴォルグ!ヴォルグ!ヴォルグ!』

 

 叫ぶ。

 呼びかける。

 リングに両手を何度も打ち付ける。

 

 3千人の大歓声。

 

 対抗するのは、俺とラムダを含めたセコンドの3人。

 

 リングに両手を叩きつけながら、ただ呼びかける。

 

 

『ヴォルグには、オレのコークスクリューでも、心臓打ちでも、好きに伝えていいぜ』

 

 あの日、あの時の、伊達英二の言葉を思い出す。

 

 当然、俺は2人に伝えた。

 

 そして、伊達英二は防衛戦でも、心臓打ちを使って勝負を決めた。

 

 

 

 手玉に取られた。

 

 4R、ダウン直後の、あの無意味なスクリューブローの意味を、ようやく悟る。

 あれは。

 

『ヴォルグの認識レベルを確認した』

 

 

 そして今。

 心臓打ちを。

 コークスクリューを。

 

 心臓ではなく、顔めがけて打ってきた。

 

 本来心臓打ちは、顔をガードする相手に対して有効だ。

 逆に、心臓をガードしようとすれば、顔の防御の意識が甘くなる。

 

 知っていることが、裏目に出た。

 知っているから、丁寧にガードして反撃しようとした。

 

 

 遅い。

 何もかもが遅い。

 

 俺が、ヴォルグの足を引っ張った。

 

 

『ヴォルグ!ヴォルグ!ヴォルグ!』

 

 叫ぶ。

 両手を叩きつける。

 

 カウントが進む。

 

 ヴォルグが動かない。

 

『ヴォルグ!ヴォルグ!ヴォルグ!』

『ヴォルグ!ヴォルグ!ヴォルグ!』

 

 俺とラムダ。

 日本語も英語もロシア語も関係ない。

 ただ、名前を叫ぶ。

 

 反応。

 上体が起きる。

 

 頭が、右へ、左へ。

 

 状況がわかってないのか?

 

『ヴォルグ!試合中だ!ヴォルグ!タイトルマッチだ!』

 

 ヴォルグが、こちらを見た。

 ヴォルグの身体に、力がこもったのがわかる。

 

 暗闇に、明かりがついた。

  

 立て!

 そして、勝ってくれ!

 

 拳をつく。

 片膝を立てる。

 

 コークスクリューとはいえ、単発のダメージだ。

 立ってしまえば。

 立ちさえすれば。

 

 カウント9。

 

 ヴォルグが、ファイティングポーズをとる。

 

 

 俺の視線は、ニュートラルコーナーの伊達英二へ。

 

 呼吸。

 目線。

 足。

 腕。

 

 大歓声に飲み込まれる前に、叫ぶ。

 

『ヴォルグ!チャンピオンが寄ってくるまで休むんだ!』

 

 ヴォルグが、小さく頷いたのが見えた。

 

 

 

 試合続行。

 

 王者が、ニュートラルコーナーを離れた。

 大声援に押されるように、そろそろと前に。

 

 明らかに、鈍い。

 

 相手のダメージを確認する。

 それで、力が出るのがボクサーだ。

 

 ヴォルグが、スタンスを広く取った。

 そうして、伊達英二が近づいてくるのを待つ。

 

 

 王者のKO勝利を期待する大声援。

 

 高校野球なら、地方の決勝でも1万人近く集まる。

 たかだか相手は3千人。

 負けてたまるか。

 

 俺は、セコンドとしては素人。

 だから、声を出す。

 

 いつだって、どこだって、同じだ。

 やれることをやる。

 

 

 2人の距離が縮まる。

 手の届く距離。

 

 先に手を出したのは王者。

 

 ヴォルグのガード。

 足元が怪しい。

 

 しかし、伊達英二の上体が流れている。

 やはり、ダメージはある。

 

 ヴォルグのボディ。

 浅い。

 

 それでも、王者の動きが止まる。

 余裕はない。

 

 ヴォルグにも、まだ余裕はない。

 しかし、ヴォルグのダメージは回復が見込めるダメージだ。

 

 

「残り30秒!」

「あと30秒だ、英二!」

 

 俺の声と、仲代会長の声が重なった。

 

 行くのか。

 しのぐのか。

 

 王者は、打ち合いを選んだ。

 そして、ヴォルグは耐えることを選択した。

 

 クリンチ。

 振りほどこうとする王者。

 しがみつきながら、ヴォルグが横腹を叩く。

 

 レフェリーが2人を分けた。

 

 またクリンチ。

 そして地道に、腹を叩く。

 

 

 そして、ゴングが鳴った。

 5Rの終了。

 

 

 

 ラムダが足のマッサージを。

 俺は、タオルで汗を拭く。

 

『……ヴォルグ、わかっているね?』

『はい、コーチ』

『ダテは衰えている、そして君も、それなりに消耗している』

 

 セコンドアウト。

 

 そして、ラムダが声をかける。

 

『冷静に、確実に、しとめてきなさい』

 

 

 6R。

 

 コーナーを出るヴォルグを見送りながら、ラムダが呟いた。

 

『……ダテは、作戦ではなく、序盤の対応を間違ったね』

 

 油断ではない。

 慢心でもない。

 

 ただ静かに……終わりを予感させる言葉。

 

 そして俺は、汗を拭いたタオルを絞る……。

 

「……ッ」

 

 痛み。

 自分の手を見た。

 手のひらからわずかに血がにじんでいる。

 大した傷ではない。

 少し、皮がめくれた程度。

 

 ……ああ。

 リングを叩き続けたからか。

 

 納得した俺は、リングに視線を向けた。

 

 

 ヴォルグの攻撃。

 そして、伊達英二の反撃。

 

 大声援。

 

 反撃をやり過ごし、ヴォルグがボディを叩いた。

 動きが止まる。

 その背中が丸くなる。

 

 もう一発。

 表情が歪む。

 もう、それを隠せない。

 

 誰の目にも明らかなぐらい、王者が失速した。

 

 ヴォルグが、丁寧に攻撃をまとめていく。

 大振りはしない。

 あくまでも、細かく、鋭い連打。

 きちんと、防御の意識も残っている。

 

 原作で、幕之内と戦った時のヴォルグとは違う。

 一筋の希望も残さない、押しつぶすような攻め。

 

 伊達英二への声援は途切れない。

 しかしそれは、もはや勝利を期待する声援ではない。

 

 王者の手数が減っていく。

 単発の攻撃。

 それをきちんと防御し、2発3発と返す。

 クリーンヒットは逃れているが、ガード越しでもダメージが蓄積されている。

 

『……粘るね』

『たぶん、ヴォルグのホワイトファングを狙ってるんだと思います』

 

 それが、最後の希望だろう。

 

 ラムダは少し考え……。

 

『リスクはあるが、アレを使うよ、速水』

『……俺に断らなくてもいいですよ』

『アレは、元々君への対策だからね』

 

 ラムダが声を出す。

 

『ヴォルグ!』

 

 そして、ハンドサイン。

 

 

 ヴォルグが決めにいく。

 そういう雰囲気が支配する。

 

 ボディで動きを止めた。

 伊達英二が、わずかに前傾姿勢になる。

 そこを、すくい上げるような左のアッパー。

 

 王者の反応が速い。

 アッパーを右手で受ける。

 間髪いれず、左のショートフックの体勢。

 

 ボロボロになりながらも、やはり狙っていた。

 それがわかる。

 

 上下のコンビネーションの間に割り込む攻撃。

 うまくいけば、ノーガード状態のヴォルグからカウンターが取れる。

 

 でもそれは……ヴォルグとのスパーで、俺が何度も何度もしつこく狙った攻撃だ。

 

 

 

 

 王者のショートフックが空を切った。

 

 

 ……ヴォルグがダウンを喫したスクリューブローと同じだ。

 知らないことは怖い。

 だが、知るということは視野が狭くなることも意味する。

 

 白い牙……ホワイトファングは、上下のコンビネーションに過ぎない。

 下の次は上。

 それを意識した人間には……上しか見えない。

 

 

 ショートフックを、ダッキングでかわしたヴォルグ。

 右アッパーの体勢。

 伸び上がるように、突き上げた。

 

 伊達英二の顔がのけぞる。

 俺の位置からも、そののどが見えた。

 

 返しの左フック。

 それを、無防備にもらい……地面に立てた棒が倒れるように、王者の身体が倒れていった。

 

 

 ダウンした伊達英二に駆け寄り、レフェリーは……両手を交差させた。

 

 

 拳を握る。

 

「よしっ」

 

 ラムダと目が合い、握手した。

 

 違和感。

 

 見れば、ラムダの手にも、血がにじんでいる。

 笑みがこぼれた。

 そして、もう1人のセコンドと、握手する。

 

 

 レフェリーが、ヴォルグの手を上げる。

 試合終了と、勝利者のアナウンス。

 

 ラムダが、俺が、そしてもう1人が、リングの上へ。

 

 ヴォルグとラムダが抱き合う。

 そして、俺と抱き合う。

 

『……、リュウ、……』

 

 興奮しているのか、たぶん、ロシア語だ。

 かまわない。

 

 おめでとう、ヴォルグ。

 道は、続くはずだ。

 きっと……。

 

「……ありがとう、リュウ」

 

 

 

 

 

 

「よう、王者が王者らしくしないと、観客が戸惑うぜ」

 

 伊達英二。

 ヴォルグが首を傾げる。

 

『王者は王者らしく、胸を張れってさ』

 

 ちょっと意訳。

 

 しかしヴォルグは、少し困ったような表情で、視線をめぐらせた。

 

「私が勝って、みんな、喜べない」

「……ったく」

 

 伊達英二が、ヴォルグの右腕をつかんだ。

 リングの中央へ。

 

「こうするんだよ」

 

 高く上げる。

 

 最初はどこかで。

 そして、まばらな拍手。

 それが、広がっていく。

 ホール全体に。

 

「堂々としてろ、いいな」

 

 そう言って、ヴォルグの背中を叩く。

 

 そして。

 

「速水ぃ!」

 

 頭を抱えられた。

 ヘッドロック……未満?

 

「な、何ですか伊達さん、俺は何もしてませんよ」

「うるせえよ。あんな、オレの神経を逆なでするような作戦に、お前が関わってないわけないだろうが……2対1で戦ってる気分だったぜ」

 

 締め付けられる。

 しかし、力は強くなく……数秒で解放された。

 

 じっと、見つめられる。

 

「速水、お前がオレの立場なら、ヴォルグとはどう戦った?」

「……カウンター狙いですかね。とりあえず、自分からは攻めません」

 

 伊達英二は、何でもできるタイプのボクサーだ。

 ただ、攻めっ気が強い。

 今日は、能力ではなく性格を攻めた。

 

 俺は、伊達英二の全盛期を知らない。

 現時点において、俺の判断ではヴォルグの地力が上だ。

 今日の試合も、展開次第でどう転ぶかわからなかったが……全体的にはヴォルグが押していたように思う。

 

 それが正しいかどうかはわからないが、地力が上の相手に真正面から戦うことを俺は選択しない。

 俺は、自分の力を過信するぐらいなら、敵を過大評価したい。

 敵の方が強いと思えば、常に最大限の努力を尽くせる。

 

「……そうか。お前の見立てでは、オレよりヴォルグが上か」

 

 そう呟いて、リングの上の、照明を見つめる。

 

「……鷹村の言葉じゃねえが、ただのオッサンになっちまったか」

 

 そんな伊達英二の姿に、ホールが静かになっていく。

 

 ボクサーのデビューを見守る後楽園ホールは、ボクサーを見送ってきた場所でもある。

 それは、ここの常連客も同じだ。

 

 客席から、声が飛び始めた。 

 

「やめるなよ、伊達!」

「まだやれるぞ!」

 

 それらの声は、聞こえている。

 しかし、届かないだろう。

 この敗戦からやり直すには……時間が足りない。

 

 リカルドと戦えないなら意味がない。

 そういう考え方をする男だ。

 

 伊達英二の視線が足元へと落ち……ヴォルグを、そして俺を見る。

 

「速水、約束を守れなくて悪かったな」

「え?」

 

 俺に背を向けて、歩き出す。

 

「……いろんなヤツとスパーしたが、お前は本当にムカツクパートナーだったよ」

 

 何も言わず、黙って見送る。

 おそらく、返事は求められていない。

 

 

 仲代会長と目が合った。

 俺がちょっと頭を下げると、微笑んでくれた。

 そして、戻ってきた伊達英二の肩を抱き、背を向けた。

 

 手を上げて観客に応えながら……伊達英二が、リングを降りていく。

 ホールの客が、拍手でそれを見送る。

 通路を歩く。

 リングから遠ざかっていく。

 

 その姿が、通路から消えても……そのボクサーへの拍手は鳴り止まなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 試合よりも、取材の時間のほうが倍以上かかった。

 それら全てから解放されたときには、もう夜の10時を過ぎていた。

 

 とはいえ、解放されたのは俺たちだけだ。

 音羽会長は、取材ではない連中に捕まっている。

 

 伊達英二のために敷かれていたレール。

 そこに、ヴォルグが乗る……そのはずだが、どうだろうな。

 

 仮に、世界を目指すのが伊達英二なら……挑戦する王者はリカルドでいい。

 敗北からの復活、そして再挑戦という物語(シナリオ)が書ける。

 これが、ヴォルグならどうかだ。

 

 あくまでも、俺の推測だが……。

 

 テレビ局は、確実性を求めるだろうと思う。

 伊達英二なら、負けてもスポンサーは納得する。

 ヴォルグなら、浪花節ではなく、結果を求める。

 世界に挑戦して、散ってもらっては困る。

 

 勝てる可能性が高い相手。

 獲れる可能性が高い世界。

 

 おそらく、リカルドではなく、別の路線を選ぶ。

 そんな気がする。

 

 音羽会長が捕まったのは、そういう話をするためだろう。

 まあ、話し合いのための下準備の段階だろうが。

 

 

 そんなことを考えながら後楽園ホールの建物から外へ出ると、雪がまだ降っていた。

 あれからずっと、降り続けていたのだろう。

 人の通らない場所には、うっすらと雪化粧が施されている。

 

『……』

 

 空を見上げて、ヴォルグが呟く。

 ロシア語だが、俺にもわかる単語だ。

 

 邪魔をしないほうがいい。

 俺も、ラムダも、ただ見守る。

 

 そういえば、日本タイトルを獲って、次の試合までは少し時間が空くはずだ。

 一度、里帰りとかできるんじゃないだろうか。

 いや、冬という季節的に厳しいのか。

 ソ連解体から1年ほど。

 前世で、その頃のソ連、そしてロシア事情に詳しい大学教授から聞いた話が頭をよぎる。

 情報は金……それを知って、仕事の引継ぎで後任に情報を渡さないなど、社会システム的混乱が相次いだらしい。

 

 ヴォルグの故郷は田舎である分、混乱が少ないとも思えるし、別の意味で混乱が多いとも思える。

 

 俺が思うほど、里帰りは簡単ではない……か。

 

 

 強い風が吹いた。

 そして、風が止んだと思ったら……雪も止んでしまった。

 

 母親の応援と思って……か。

 

 異国で戦う息子への思いが、雪を降らせた。

 そんな話があってもいいじゃないか。

 そういう夜があってもいいだろう。

 

 ヴォルグが、振り返る。

 

 あまり腫れない体質のようだが、今日は結構打たれたからな。

 少々、痛々しい。

 

『ごめんね、リュウ』

『何が?』

『4R、相手の届かないパンチに反応してしまった……あのミスが、5Rのピンチを呼んだ』

『いや、俺は気づくのが遅すぎた……まあ、勝ったからよしとしよう』

『ノー、違う』

 

 ヴォルグが首を振る。

 

『僕は今日、かなり打たれたから……しばらく、リュウのスパーリングの相手ができないよ』

 

 俺は、苦笑した。

 

『……無傷で勝つってのは、ちょっとムシが良すぎるだろ』

 

 とはいえ、だ。

 俺と真田との試合まで、約1ヶ月。

 

 ヴォルグには、あまり無理はさせられない。

 なんせ、今日はダウンまでしてるからな。

 1週間は安静に、ロードワーク再開まで……早くても2週間かな。

 

 うん、無理だな。

 

 というか、俺って本気でスパーの相手とかいないな。

 間柴とかなら、スパーを断らないと思うけど……タイトルマッチは2月の上旬で、目前だ。

 時期が合わない。

 

 時期だけでいうなら、青木さんはちょうどいいのか。

 ただ、お互いの思惑が一致するかどうかは別だ。

 タイトルマッチに向けて、意味のあるスパーを求めるのが普通だ。

 

 ある程度は、俺があわせることもできるが……どうだろうな。

 

 暗黙の了解というか、取材のための、タイトルマッチ前の公開スパーはやらなきゃいけないだろうし。

 

 

 まあ、明日考えよう。

 今日は、ヴォルグが勝った。

 それだけでいい。

 

 

『ゆっくりしてると、電車がなくなっちまう。ヴォルグ、ラムダさん、帰りましょう』

『うん』

『ああ、そうだね……』

 

 俺とヴォルグは、肩を並べて歩き出す。

 ラムダはその後ろに。

 

 止んでいた雪が、また降り始めた……。

 

 さっきまでの応援ではなく、ヴォルグの母親の祝福。

 そう思おう。

 




伊達さんのファンには申し訳ない結果になりました。
書いてる私が言うのもなんですが、好きなキャラを負けさせるのって心が痛みます。
ややあっさり風味だったかもしれませんが、この組み合わせ、終盤までもつれ込むイメージができませんでした。

例のドリームマッチを書くための試行錯誤で、いろんな視点、観戦位置を試したのですが、ヴォルグと伊達の試合を書くのに、このセコンド視点が一番しっくりきたので選択しましたがどうだったでしょうか。
いろんな発見があるので、これからも試行錯誤していきたいと思います。

なお、連続更新はここでひとまず終了です。
速水と真田の試合展開を考えるのにちょっと時間をもらいます。
しばらくお待ちください。(1週間ぐらいの予定?)


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27:魔法使いに出来ること。

ま、待たせたな……。(震え声)
そして、説明話だったり。


 かぼちゃの馬車が走り始めた。

 シンデレラ(ヴォルグ)を乗せて。

 

 馬車を用意した魔法使い(スポンサー)が、良い魔法使いなのか、悪い魔法使いなのかはここでは関係ない。

 重要なのは、お城の舞踏会(世界の舞台)へと連れていく……その能力の有無。

 まあ、ヴォルグにとって重要なのは、故郷の母親の生活を楽にするための金を稼ぐことだから、純粋に『世界を獲る』ことが目標なのではなく、それに付随するモノが真の目的ともいえる。

 とすると……生ける伝説である、リカルドへの挑戦はリスクの高い選択と言えるだろう。

 そういう意味では、ヴォルグの目標とスポンサーの目的は大きくは乖離しない。

 

 多少、斜に構えた見方ではあると思うが、リカルドとの再戦を熱望する伊達英二の姿勢は、スポンサーの意向から外れていた可能性はある。

 スポンサーが必要としていたのは、『世界王者』という肩書きで、伊達英二が必要としていたのは『リカルドを倒す(戦う)』ことだった。

 スポンサーとしては、伊達英二に世界王者になってもらいたいのであって……ルートが二つあるならば、リスクが低いほうを選ばせたいのは言うまでもないだろう。

 

 もしかすると……その両者の齟齬が、ヴォルグの割り込みを許した要因のひとつになったのかもしれない。

 

 まあ、いまさらそんなことを考えても仕方がない。

 とりあえず、走り始めたという実感こそがヴォルグにとって今は大事だろう。

 ただ、走り始めたからと言って安心はできない。

 様々な思惑によって、馬車が途中で立ち往生することもあるし、放り出されることもないとはいえないからだ。

 

 ……ソースは俺自身。(震え声)

 

 俺のプロデビューから始まった流れを、みもふたもない表現をすればこうなる。

 

 魔法使いに選ばれて馬車に乗り込んだと思ったら、別の馬車に割り込まれて順番待ちに。

 順番待ちをしていたら、別のシンデレラに馬車から蹴り出された。

 そして今は、灰をかぶりながら日々を過ごすシンデレラ予備軍に後戻り、と。

 なお、俺に順番待ちをさせていた伊達英二は、お城に向かう途中で別の馬車に体当たりされてリタイア。

 

 これだけを取り上げるとひどい話のように思える。

 しかし、本来、強いもの同士が争って王者への挑戦者の資格を得るべきなのは間違いない。

 ならば、同じ日本人同士で……『順番待ち』などという環境はぬるま湯と言われても仕方ないだろう。

 

 当事者としてひとつだけ反論させてほしいのは……この一連の動きに関して、俺や伊達英二、そしてヴォルグが関与できる部分がほぼ無かったというところ。

『だからどうした』と言われたらそれまでだが。

 

 何はともあれ、魔法使いによるシンデレラオーディションはひとまずの決着がついた。

 選ばれたのはヴォルグ。

 羨ましくないと言ったら嘘になるが……まあ、俺も人間だもの。

 そもそも世界を獲る力が無ければ、お城に運んでもらったところで王子様のダンスの相手を満足に務めることもできないわけだ。

 

 そう、今俺がやるべきことは、指をくわえてかぼちゃの馬車を見送ることではなく……。

 

 

『あ、あの……リュウ?私は、何を……?』

『なんというか……広報活動の一環かな?』

『広報……?』

『世界アマ王者になったあと、施設への慰問や、お偉いさん方とのパーティとかやらなかったか?この国の人間に、ヴォルグを紹介する活動と思ってくれ』

『……そう、なの?』

 

 

 ……やや戸惑い気味のシンデレラの付きそいをすることだ。(目逸らし)

 

 

 

 さて……戸惑い気味のヴォルグはともかく、俺はいろんな意味で経験者だ。

 前世では、ジャンルは違うが野球の世界において、学校およびチームメイトが世の中にどう売り出されていったかを経験したし、今世ではプロデビューに向けて売り出された。

 

 意外かもしれないが、俺は高校3年になるまでは、ボクシング関係者を除き、ほぼ無名の人間だった。

 基本的に、新聞やニュースでアマチュアボクシングの選手を取り上げることなどほとんどない。

 地元の、地方新聞のスポーツ欄で『速水、インターハイを制覇』などと写真つきの記事が掲載され、2年の時に『地元の注目スポーツ選手』の1人として、インタビューされたぐらいのもの。

 なので、学校では有名人だが……地元で時折『あ、あの人見たことあるかも』という反応をされるのがせいぜいで、良くも悪くも野球というメジャージャンルとの格差を感じていた。

 

 それが、正式に音羽ジムとの契約が内定し、プロデビューに向けて売り出し……情報の露出が始まってから、俺の周囲の環境が大きく変化した。

 テレビ局は、インターハイ3連覇のタイミングに合わせて番組の特集を組み、最後の国体では『高校6冠』『完全制覇』などとボクシング界の新しいスター誕生的な盛り上げを行った。

 そして、若い女性をターゲットにして雑誌などでも露出を増やし……俺を応援してくれる女性ファンの多くは、そのときに増えた。

 

 今だから言えるが、伊達英二の復活やら何やらでデビューが遅れて、露出の間延びというか、効果が薄れてグダグダになった感がある。

 正直、失敗したんだろうなと俺は思っている。

 あるいは、テレビ局のほうで『世間の反応がいまいち』だと判断したのかもしれない。

 

 

 

 ネットの有無、あるいは普及度合いによって、情報収集作業の手間は大きく変化するのは言うまでもない。

 ボクシングの日本王者を階級別で調べるとして、ネットがない場合……『ボクシングを知ってそうな人』に情報を求めるか、アドバイスを請うしかない。

 まず最初に、『どうやったら調べられるか?』を考える必要があるわけだ。

 何をやったら良いかわからない状態から、自分の人脈を通じてヒントを探していく……ネットの検索作業は、その部分を省略してくれる。

 まあ、ネットがあったとしても……日本ではなく、タイやフィリピンのボクシングの国内王者を調べろと言われたら、頭を抱える日本人は少なくないと思う。

 日本人にわかりやすい形で『情報』をネットに提供する人がいるかいないか……ネットもまた、情報を共有はしても、『人から人へと』情報が流れるという本質は変わらないのかもしれない。

 

 ネットの情報は、蓄積されていく。

 しかし、ネットのない時代は……情報を蓄積するのは人だ。

『ある部族の長老が死ぬと、小さな図書館の蔵書に匹敵する知識が失われる』という言葉を前世で耳にしたことがあったが、人間ひとりひとりが蓄積する情報量は決してバカにできるものではない。

 まあ、知識や経験から来る知恵がそのまま生存術に直結した時代の名残と言われたらそれまでだが……個人的には、簡単に調べられるようになると、人の知識の蓄積能力は減少するように思う。

 大事だから覚えようとする。

 興味があるから調べようとする。

 テレビは有力な情報源ではあるが、流される情報は、ただ流れていくことが多く……ビデオなどの媒体に記録しようとする人間は、最初から『それを残そう』と考えている人でなければならない。 

 ネットもまた、『情報を残そう』とする人がいなければ同じことになる。

 

 

 とはいえ、ネットのない時代の情報の拡散というか、テレビの影響はやはり大きい。

 テレビの普及という下地があってこそだが、情報を一度に拡散できるからだ。

 どんな情報を出すかを選択できるのも重要だ。

 

 知名度を上げるということは、多くの人に知ってもらうこと。

 多くの人に情報を手渡すこと。

 人から人への流れ、ラインをできるだけ切らないこと。

 

 そうすると、だ。

『人から人へ』の部分を考えて情報を流さないと、効果は薄れる。

 

 日本の核家族モデルにおいて、人と人のつながり、情報のラインの中心となるのは母親であることが多い。

 家の外で働く父親が、息子や娘と情報をやり取りする機会は少ない。

 少なくとも、母親との会話より多いということはほとんどない。

 父親は、仕事というコミュニティで人とかかわり、子供は学校や塾など、同年代のコミュニティで人と関わる。

 その両者を取り持つのは、母親になることが多い。

 つまり、母親……あるいは、家庭におけるそういう存在を押さえれば、家族が持つコミュニティ同士の情報のラインがつながっていく。

 

 と、まあ……こんな風に、メインターゲット層はもちろん、社会情勢やら構造やらを分析した上で計画を立てるのも広報のお仕事になる。

 流すべき情報を『作る』のは、分析と計画の後だ。

 ある程度興味をあおらなければ、テレビで流した情報はただ流れておしまいになる。

 

 なので、今はその前段階。

 テレビで情報を流す前に、『ヴォルグ・ザンギエフ』という名前というか、固有名詞を拡散させるための手を打ち始めたところ。

 

 ……などと、俺としては普通に理解できる流れなんだが、ヴォルグに説明するのは難しい。

 

 

 

「コニチワ。今日は、ヨロシクお願いします」

 

 体重制限や階級の違いはあるが、日本のボクシングの選手はわりと小柄な部類に入りやすい。

 日本において、『スポーツ選手は身体が大きい』という思い込みがかなりあるようで、実際に俺を見て『小柄』なことに驚く人は少なくない。

 俺の身長は170センチに届かず、同年代の日本人男性の平均以下だから、思い込みの分だけ『あれっ?』と思ってしまうのだろう。

 ヴォルグもちょうど170センチと、俺の身長とほとんど変わらない。

 ただ、『外国人……西洋人は身体が大きい』という、間違いではないが思い込みの一種がありがちなので、日本人が『海外のトップアスリート』のイメージを抱いて、実際にヴォルグに会うと……。

 

「あーうん、なるほどねー……こう、守ってあげたい感じがするわね、彼」

 

 俺のプロデビューに向けての露出でお世話になった女性編集者の1人が、ヴォルグを見て何度も何度も頷く。

 

 ちなみに彼女は、3年前はティーン向けの女性ファッション誌に所属していた。

 今は、20代後半の女性をターゲットにしたファッション誌に所属している。

 ヴォルグにどういうメディア露出をさせるかはテレビ局の意向であり……企画スタッフというより、おそらくは外注の専門家の指示だろう。

 

 ファッション誌に限らず、雑誌において時々不思議な企画がページを使ったりするが、雑誌の編集の企画ではなく、外部からページを買われたケースが多い。

 当然、直接の金でのやりとりではなく、その取引として雑誌に広告を入れるなどの手段で代価を支払ったりする。

 今回は、テレビ局と雑誌社だから、余計にわかりやすい関係と言える。

 

 ただ、上はそれで納得するだろうが、現場は別だ。

 ねじ込まれた企画を作成することになる現場のモチベーションが、地を這いかねない。

 ここで、『こんなのボクサーのやることじゃない』などとふてくされてことに臨むと、出来はひどいものになるだろう。

 思うことがあっても、現場が仕事をやりやすいように振舞ったほうがいい。

 

 もう一度言う。

 

 俺がやるべきことは、指をくわえてかぼちゃの馬車を見送ることではなく……戸惑い気味のシンデレラの付きそいをすることだ。

 

 幸い、あの時俺に関わった人たちからの、俺への評価は悪くない……はず。

 当時は何度か『いやぁ、速水君が大人で助かるわぁ』的な言葉をかけてもらった記憶がある。

 逆に考えると、持ち込まれた企画において、『大人じゃない』対象が少なくなかったのだろう。

 

「あ、紹介しておくわ。こちら、〇〇誌の〇△さん。こっちは……」

「はじめまして、今日はお世話になります……」

 

 頭を下げながら、芸能人のマネージャーって、こんな感じなんだろうかと考える。

 

 上に政策あれば下に対策ありというが、今ここには2つのファッション誌と、ライトファンのためのスポーツ誌の関係者が集まっていた。

 ねじ込まれた企画は、別の形で代価が支払われるために、現場での予算が渋いケースが多い。

 やっつけ企画なら、2誌合同でスタジオを借り、衣装と演出は別にしても短期間で撮影して費用を圧縮したりとか……あるんだろう。

 それに便乗して、待ち時間やセッティングの合間に取材なんかも済ませてしまう、と。

 

「じゃ、速水君も準備してね」

「はい」

 

 ファッション系の露出だと、モデルの身や体格をそろえなければいけないケースも多い。

 もちろん、その逆もあるが。

 とりあえず、今回は『無料』で、『体格の似た』モデルが使えるのは、雑誌にとっても都合が良かったのだろう。

 ヴォルグに付き添うことで、俺の露出が増える……役得だ。

 

 そう……思おう。

 

 ケースバイケースだが、俺はもちろん、ヴォルグにもモデル料は出ない。

 良くも悪くも、文字通り、売り出しのための露出は『ボクサーの仕事ではない』のだ。

 たとえば世界王者になり、『請われての』出演は、出演料が出るが、これは『商品価値を高めるための必要宣伝費』であり、『商品』は黙ってそれに従うしかない。

 俺も、ヴォルグも、『契約』で縛られているから、そうなる。

 

 ヴォルグの肩に手を置いた。

 

 さあ、ヴォルグ……がんばろう。

 俺もがんばるから。

 

 

 有名になり始めたスポーツ選手が、ジャンル違いの雑誌などに登場しているのを見かけても『なんやこいつ、こんなもんに出て。調子に乗ってるんちゃうか?』などと単純に思ってはいけない。

 

 本人が望んでいるとは限らないし、ギャラがもらえるとも限らないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 撮影はサクサク進み、取材も、両者のボクシング知識の齟齬を俺がフォローする感じで終了。

 解放されて、俺とヴォルグはちょっと休憩。

 

『……日本に来て色々と刺激的な経験をしたけど、今日は格別だよ、リュウ』

『うん、まあ……そうだろうなあ』

 

 旧ソ連で、母親を守るためにボクシングをはじめたヴォルグ。

 ボクサーとして日本にやってきて……取材はともかく、モデル撮影か。

 

 俺も同じ経験をしたけど……俺の場合は、その意味を理解していたからなあ。

 自分が何のためにこれをしているかを理解しているのとしていないのとでは大きく違う。

 まあ、ヴォルグにもそこは割り切ってもらうしかない。

 

 だって、今日で終わりじゃないからな。

 

 今日の撮影も含めて、それらが世間に出回るのは2月下旬から3月にかけてのことになる。

 もちろん、計算された情報量なのだろう。

 それらがある程度浸透してから、『ヴォルグ・ザンギエフ』の物語がテレビで語られる。

 たぶんこれは、4月になってからか。

 

『……ごめんね、リュウ』

『ん、どうした?』

『スパーの相手が出来ないだけじゃなく、リュウの試合の応援も出来ない』

 

 俺の、真田とのタイトルマッチは2月26日。

 それに先駆けて、ヴォルグとラムダは、世界に向けての視察旅行のスケジュールが組まれている。

 

 俺の試合の前日、2月25日にメキシコで絶対王者リカルドのノンタイトル戦がある。

 文字通り、タイトルのかかっていない……おそらくリカルドにとっては試合感覚を空けないための調整試合だろうが、時差を考えると、俺の試合と数時間違いじゃなかろうか。

 

 そして3月上旬には、アメリカでフェザー級のタイトルマッチ。

 WBAの世界王者がリカルド・マルチネス。

 つまり、WBCの世界タイトルマッチ。

 この2つの試合を、ヴォルグとラムダに生観戦させるのが主な目的。

 

 露出とは関係なく、この視察旅行だけでヴォルグの世界挑戦の話が現実味を帯びてくる。

 

 ヴォルグとラムダへの、『どちらのベルトを目指す?』という問いかけであると同時に、『リカルドに勝てるか?』という疑問だろう。

 その上で、道を選ばせる。

 かなりの好条件といっていい。

 

 上り坂に下り坂。

 どちらも苦しく、危うい道だ。

 しかし、前に進むしかない道。

 人生を変えるのは、分かれ道だ。

 

 どちらの道を選ぶか……それで、ヴォルグの人生が変わる。

 勝負の結果ではなく、選択で変わる。

 

 まあ、そのために……ヴォルグとラムダは、現地の案内人とともに、2月下旬から日本を離れることになる。

 帰って来るのは、3月の中旬以降。

 当然、俺の試合は終わった後だ。

 

 ヴォルグとしては……タイトルマッチに挑む俺の役に立てないことが申し訳なく思えるのだろう。

 だから俺は笑って答えた。

 

『ヴォルグの目で見た世界のレベル、その土産話を楽しみに待ってるよ……日本王者としてな』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヴォルグと別れ、音羽ジムに戻る電車に乗り、色々と考える。

 

 ノンタイトルとはいえ、リカルドの試合の生観戦か。

 メキシコのアステカスタジアム。

 本来はサッカー競技場で、メキシコオリンピックにあわせて作られた世界最大級の競技場。

 前世においては、改修とかで座席数が減ったらしいが、本来の座席数は13万を超える規模。

 ボクシングにあわせてステージを作るなら、入場できる人数はもっと増えるかもしれない。

 

 ……というか、スタジアムの最上段からリングの上のボクサーが見えるのかね?

 

 後楽園ホールが、座席数は一応2千人ほど。

 大阪府立体育館が6千人ぐらいで……新人王戦の頃、そこを客で埋めていた千堂は、たぶん日本では屈指の集客力を誇るボクサーの1人だろう。

 借りる費用が高いらしい日本武道館に、時期によっては絶対に借りられない両国国技館は1万1~2千人ぐらいだったか。

 日本のボクシングだと、例外はあるがこのあたりが頂点だろう。

 

 伊達英二は、敵地(アウェー)とはいえ10万人以上に見つめられて世界タイトルマッチを行った。

 負けはしたが、その規模に羨ましさを感じてしまう。

 

 露出、か。

 

 ヴォルグは、日本よりも世界のほうで知られているだろう。

 仮に知らなくても『世界アマ王者』という看板で、ある程度は注目を集められるはず。

 欧米において、ボクシングの世界アマ王者の名は日本人が考えている以上に重いものだ。

 

 テレビ局がヴォルグの露出を画策しているのは、あくまでも『日本での』認知度を高めるためだ。

 それは、日本での利益を上げるためであり、日本で利益を上げることを目的とすれば、ヴォルグを世界で露出させる意味はない。

 

 つまり……テレビ局は、ヴォルグの世界挑戦の日本開催に固執するだろう。

 そのための投資。

 

 興行面で突き詰めて考えれば、どれだけ客を呼べるかという点においてボクサーは芸能人と変わらない。

 ライブやコンサートで、集客予想をして、そのキャパに見合う会場を探して費用計算を始める流れは、そのままボクシングの興行にあてはまる。

 実際は、ボクサー個人の集客力に、『ボクシング』という競技そのものの集客力を加えたものとなるのだろうが、現状はこのボクシングの集客力が落ちていく最中なわけだ。

 だからこそ、こうして認知度を高める手間隙をかけなきゃならなくなってるわけで。

 

 ……前世において、『ボクサーはただの商品』という言葉が色々と物議をかもしたが、何よりもボクサー自身が口にした言葉として、別の角度で評価されるべきなんだろう。

 

 前世で野球をやって、今世で野球から離れたからこそ身にしみることがある。

 野球選手が野球だけをやっていれば良かったのは、その影で、その裏で、『野球』というコンテンツで利益を得るシステム作りに尽力してくれた存在があるからだ。

 そして、野球選手が野球だけでいられるように、ファンがファンのままでいられるシステムも必要だ。

『ファンによるファン活動』が『利益』を生むのは、そういうシステムを構築したからであり、『ファン』が『お手軽』に『ファン活動』を楽しむための便宜を図るのがシステムだ。

 

 まあ、規模と競技形態が違うから、どうあがいても野球のシステムをそのままボクシングに取り入れることは不可能なのはわかっている。

 

 システムとは言いがたいが、俺の女性ファンの多くは『日曜祝日は、俺がほぼ一日中音羽ジムで練習している』ことを知っている。

 日曜祝日の、俺の練習の休憩時間にジムを訪れれば、俺に会える可能性が高いことを知っている。

 なので、その時間帯に『俺の試合のチケットを購入しに来る』ことが多い。

 そして俺も、休憩時間だから女性ファンにチケットを直に手渡したり、お礼の言葉をかけたりする。

 

 俺やジムは、『チケット販売の手間が軽減』できて、女性ファンは『ジムに直接出向く』という手間が増えるが、『俺の姿を見る』『チケットを手渡してもらう』『言葉をやり取りする』という利益が与えられる。

 これもまあ、ファンサービスの一環といえなくもないだろう。

 

 

 車窓から、流れていく景色を眺める。

 

 仮に……俺が、スポンサー抜きに世界に挑戦するならば。

 世界での認知度を高める必要がある。

 スタイルはおろか、名前も知らない相手を、対戦相手としてリストアップするのはハードルが高い。

 少なくとも、『日本には、〇〇と言うボクサーがいるらしいぞ』という程度には、知られている必要があるだろう。

 日本で戦う限り、日本でしか知られない。

 

 海外で名を売るためには……海外で試合をする必要がある。

 海外で試合をするためには、海外に呼ばれるだけのきっかけというか、やはり知名度が必要か。

 

 ……スポンサーに、テレビ局に依存する限り、世界には知られないというジレンマだな。

 

 4回戦、6回戦あたりならともかく、国内王者クラスになると、海外遠征や修行は、ファイトマネーが絡んでくる分だけハードルが高くなる。

 

 4回戦でメキシコの選手を呼んだ際、200万ほどの費用がかかった。

 まあ、たぶんアレは交渉で足元を見られたんだろう。

 選手とセコンド2人分の費用負担は、世界戦の扱いだ。

 交渉次第だが、東洋レベルなら、主催者が負担するのは選手とセコンド1人分の費用負担が普通らしい。

 万全の体制で……などと、日本からセコンドやスタッフを連れて行くなら、その分は自腹になる。

 

 後楽園ホールで、俺とヴォルグが、お互いに海外からレベルに見合う選手を呼べば……費用だけでなくファイトマネーも含め、それだけで興行は赤字になりかねない。

 金を積む交渉は、そういうリスクがある。

 

 勝利は、現実(リアル)の向こうにある。

 

 前世でもそうだったが、ある一定レベル以上のスポーツ選手にとっての圧倒的現実は、大抵が金なんだよなあ。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 2月11日、貴重な祝日だ。

 1日中、練習が出来るという意味で。

 

 例によって、ヴォルグは忙しい。

 そして俺も、ヴォルグに付き添ってばかりはいられない。

 もちろん平日は無理で、休日は午前中に付き添いをして、午後からは練習だ。

 ヴォルグの絡みだろう、音羽会長も忙しそうで、ジムにいないことが多い。

 

 スパーリングパートナーは、色々悩んだが、選択肢が無かったと言うか、木村さんと冴木を指定した。

 冴木はともかく、木村さんは身長やリーチ、そしてファイトスタイルなど、真田との類似点は多い。

 

 木村さんに関しては、最初は鴨川会長に断られたが、タイトルマッチを控えた青木さんのスパー相手を何回かこなすことと、条件付で許可をもらった。

 

 今日のスパーは夜の7時からの予定。

 タイトルマッチが夜の8時過ぎになるだろうから、公開スパーはともかく、時間は合わせておきたい。

 

 汗を流し、夕食代わりの栄養補給を兼ねた休憩中に、冴木が現れた。

 

「よう、速水」

「ああ、冴木さん、今日もお世話になります……あれ、木村さんも一緒に来たんですか?」

「いや、ちょうどそこでかち合ったんだ」

 

 と、冴木の後ろから木村さん。

 

「まあ、今日も勉強させてもらうぜ」

 

 2人がアップを始めてからしばらくして、最後の1人が現れた。

 

「ちわーす」

 

 バンタム級の細野。

 冴木の伝手で連れてきてもらった。

 

 

 ケースバイケースだが、スパーリングは両者、あるいは所属するジムの会長が『お互いの練習になる』と同意するなら無償で行う。

 それはつまり、『謝礼金を払って』相手をしてもらうこともあるということだ。

 ボクサーの時間を、金で買って自分の練習相手にするわけだ。

 これは当然、相手のレベルによって価値が変わってくる。

 

 なので、俺がデビュー前にA級ボクサーを呼んでスパーしてたのは、スポンサーからの費用負担があったわけで……まあ、うん。

 あと、俺にとっては、ヴォルグとのスパーリングは『金を払ってでも頼みたい』ものだったが、『金をもらってもごめんだ』と思う人もいるだろう。

 

 だから、まあ、その、なんだ。

 

 ……冴木先輩(パイセン)、ありがとうございます。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、ちょいと早いが……やるかい?」

 

 冴木の言葉を受けて、木村さんと細野がリングに上がる。

 もちろん、3人一緒にやるわけじゃない。

 

 12オンスのグローブ。

 ヘッドギア。

 そして俺は、呼吸を制限するためにマスクをつける。

 

 

 

 まずは細野から。

 

 リングの中央。

 最初から全開のラッシュ。

 それをさばききって、一撃を返す。

 

 10秒。

 細野から木村さんにチェンジ。

 

 木村さんも、全開で俺に襲い掛かる。

 わずかな隙を突いて、左フックをねじ込んだ。

 立て直し、またラッシュをかけてくる。

 

 10秒。

 木村さんから冴木へ。

 

 フリッカーの連打。

 さばいていく。

 押せば退く。

 反撃できないまま、10秒が過ぎた。

 

 細野ではなく、木村さんが来た。

 

 

 速度、スタイル、リーチ、すべてが違う3人に、次々と襲い掛かってもらう。

 人工的な、チェンジオブペースへの対応。

 ただ、どうしてもパートナーがチェンジするのがわかるだけに、本当の意味では練習になってない。

 ある程度慣れてしまうと、なおさら効果は低くなる。

 

 ラムダは、このスパーを見て苦笑し……『速水。君もまた、ヴォルグの貴重なパートナーなんだよ』と肩を叩かれた。

 

 今回の件でヴォルグというスパーリングパートナーの価値を強く実感した。

『何でも出来る』、『何でも対応できる』相手は確かに貴重だ。

 

 鴨川会長に『速水よ、貴様の相手をまともにやったら、木村がつぶれる』と断られたときは、いまひとつ理由がわからなかったが、今なら、まあわかる。

 なので、俺の反撃は1発のみだ。

 防御に徹すると、逆に相手が雑になるのでそうした。

 

 当然だが、こんな屈辱的な条件を受けてくれる相手は……なおさらいるはずもない。

 

 

 

 1Rが終わり、冴木が舌打ちする。

 

「くそっ、当たらねえ」

「……冴木さんが言いますか、それ」

 

 細野の突っ込みは届かない。

 というか、この形式だと冴木のノリが良くない。

 ある意味力の発揮できない設定なのは申し訳なく思う。

 

 

 次のRは、ロープ際。

 

 後ろに下がれないからこそ、ロープを利用する技術が必要になる。

 そして、細かいポジショニングで相手の攻撃を制限する。

 ある意味では、リングの中央よりも守りやすい部分もある。

 

「速水。そもそもお前、ロープ際に追い込まれるのか?」

「だから練習するんですよ」

 

 

 最後にコーナー。

 

 位置的にパートナーのチェンジが難しく、本当の意味で追い込めないのが厳しい。

 相手のパンチをはじいたり、ガードすることに重点をおいて防御する。

 

 

「よし、ここから本番な」

 

 続いて冴木への報酬。

 俺とのスパー。

 これを2R。

 

 たぶん、わずかな違いなんだろう。

 俺の基礎的能力が上がったというより、無駄な動きが減って、バランスが良くなった。

 そのわずかな差が生んだ余裕が、次の動作の余裕につながり、全てに余裕を持たせていく。

 ヴォルグとのスパーでは感じられない余裕が、俺のボクシングを楽にする。

 

 とりあえず、冴木のボディを執拗に攻めて終わらせる。

 正直、冴木との比較が、自分の成長を一番強く実感できた。

 

 

 

 

「……あー、チクショウ。話にならねえ」

 

 冴木の性格は『陽』だ。

 暗いところがない。

 それを見せないだけかもしれないが、どこかラテンっぽい。

 

「まあ、しゃーねえ」

 

 と、切り替わるところは特に。

 

「しかし、速水。お前、構えが少し変わったよな?」

「わかりますか?」

「右も、左も、拳ひとつ……いや、半分ぐらいか。身体から離して……気持ち、指一本ぐらい位置も低くなったな」

 

 相手の攻撃を前でさばくためというか、前でさばけるようになった分だ。

 ある意味、防御的な構え。

 

「……なあ、冴木」

「なんだよ木村」

「お前のジャブって、フリッカーだよな?何をやられたら嫌だ?」

「……ああ、間柴対策か」

 

 2人が、構えを取りながら色々と意見を交わし始める。

 

 冴木も、体育会系で揉まれているので基本的に面倒見がいい。

 体育会系は結束が強いと言われるが、逆に言えば異分子は排除される傾向がある。

 まあ、そういう世界でやってきたなら……自然と面倒見は良くなるのかもな。

 

 しかし、間柴か。

 

 先日のジュニアライト級のタイトルマッチで、間柴が新しい王者となった。

 新人王戦の同期で、タイトルホルダーの一番乗り。

 

 新聞などの試合前の予想では5分……こういう場合、たいていは王者側に対して少々採点が甘くなることが多い。

 序盤は、リーチの長い間柴がフリッカーで試合を優位に進めた。

 中盤で王者が勝負に出て、目の離せない展開に。

 しかし6R、間柴の打ちおろしの右が王者を捕らえ、一気に試合の流れを持っていき、粘る王者を7Rで押し切った。

 

 

 チャンピオンカーニバルの流れは、今のところこんな感じか。

 

 まず、オープニングで挑戦者のヴォルグが、王者の伊達英二を倒した。

 

 カーニバル2戦目であるフライ級。

 世界戦の話が浮上していた王者三石が、7Rまで攻勢を積み重ねながら、8Rの後半、逆転を目指した挑戦者のパンチで歯車が狂った。

 ダウンから立ち上がったものの、9Rで再びのダウン……そのままリングに沈んだ。

 

 そしてカーニバル3戦目が、間柴のジュニアライト級。

 

 と、ここまでが政権交代3連発である。

 

 この、王者サイドにとって嫌な流れを食い止めたのが、バンタム級の石井だ。

 危なげなく、6Rで挑戦者を倒したようだ。

 

 次に控えているのはミドル級のあの人。

 3度目の防衛戦になるのだが、木村さんや青木さんから話を聞く限り、原作とは違って、減量を失敗するということも無さそうだ。

 たぶん、あっさりと勝つだろう。

 なんせ、世間での注目が『1RKO勝利が継続するかどうか』だ。

 コンディションさえ普通なら、まず問題はあるまい。

 

 ミドル級が終われば、その次がライトフライ級……そして、2月26日に、ジュニアフェザー級。

 

 ……ん?

 

 考え事をしている間に、冴木と木村さんの雰囲気が怪しくなっていた。

 何か、あったのか。

 

「木村……ちょいとキツイ事言っていいか?」

「……言ってくれ」

 

 冴木が口を開く。

 

「お前、ボクシングの取り組みが雑だよ」

「雑?」

「間柴のフリッカー対策の前に、分析が足りねえわ。お前、間柴とのリーチ差がいくらか理解してるか?」

「……間柴のリーチは187センチ。俺が173センチだから14センチ。この差をどうにかしなきゃならねえってんだろ」

 

 え?

 

 俺は首をかしげ、冴木が手で顔を覆った。

 

「……せめて、2で割れよ」

「は?」

「木村さん。リーチって、両手を広げて計測しますよね?胴体の幅はともかく、右手と左手の差の合計です」

 

 まあ、指の長い人間は拳を握りこむと、差が縮まるなんて事もある。

 なので、両手を広げるにしても、拳を握りこんで測定するのが正しいという地域もあるんだが……基本的に、この国では指を伸ばした状態で計測する。

 

「……あ」

 

 今気づいたという木村さんの反応に、冴木が息を吐く。

 

「まだまだあるぜ。間柴の構えはこんな感じで、ねじこむように肩を入れてくるからその分射程が伸びる……回転は悪くなるがな。あと、身長差も考慮しなきゃな」

 

 そう言って、冴木が左手を伸ばした。

 

「もっともリーチが長く使えるのは、肩の高さでパンチを出すときだ。間柴の構えで、肩の高さで突き出せば、木村、お前のアゴの位置だよな?」

「……?」

「それに対して、木村が間柴のアゴを狙うと……肩の位置より高く突き出さなきゃならない。斜めになる分だけ、遠くなる……これもリーチ差になる」

「……」

「フリッカーをかいくぐるとか、そういうことの前に……縮めなきゃいけない距離を把握しなきゃ、対策も何もないだろ。雑ってのはそういう意味だぜ。適当な分析は、曖昧なボクシングを生み……まあ、それで勝てるなら何も言わないけどな」

 

 冴木がズバズバと切り込んでいくのに感心する。

 普段『陽』の性格の冴木が、あんなふうに真面目に言えば相手は真剣に受け入れざるを得ない。

 誰かに教える、指導するって行為は、いろんな意味で難しい。

 俺の場合、ほどほどを心がけてはいたが……高校時代は、いい先輩とはいえなかったと思う。

 

「木村が低く構えれば、間柴は斜めにパンチを出さなきゃならない。高低、左右、構えやポジショニングに注意すれば、10センチなんてすぐだぜ。そもそも、間柴よりも木村のほうが速いんだから、前後じゃなく、斜めに動くんだよ」

「お、おう……」

 

 間柴はアウトボクサースタイルだが、フットワークで距離をとって戦うアウトボクサーじゃなくて、ジャブで突き放して、相手を待ち構えるタイプ。

 アウトボクサーでありながら、フットワークは速くない。

 だからこそ、待ち構えるスタイルなんだろう。

 

 アウトボクサーは基本的に自分より速い相手に苦戦しやすい。

 新人王戦で、間柴が宮田に綺麗にやられたのも……結局は、手ではなく足の速度の差が大きい。

 

 たぶん、冴木は……間柴に対して相性がいいだろう。

 冴木の速さというか特徴は、トップスピードに入るまでが早いことだ。

 なので、冴木のフリッカーは、短い距離で最高速度に入る。

 近距離でも、突き放すようにジャブの連打が放てる。

 逆に間柴のフリッカーは、腕を揺らす予備動作に加えて、長い距離を使って加速する。

 冴木から見れば、間柴は隙だらけに見えるのだろう。

 

 ただ、冴木の言う戦法は、木村さんの速度だと……ちょっと厳しいかもしれない。

 

 

「俺が言ってるのは、全部ほんのちょっとしたことさ。でも、そのちょっとしたことが、1センチ、あるいは1ミリ、自分の拳を伸ばしてくれるし、相手の拳を遠ざける」

 

 冴木が、木村さんに向かって拳を振るった。

 もちろん、鼻先でぴたりと止まる。

 

「だからよ、木村。お前が、間柴に対して縮めなきゃいけない距離は何センチだ?わかるか?全部、そこからなんだよ。そこからようやく、自分が積み重ねるべき距離を考えられるんだ、違うか?」

「……アマのエリートってのはすげえな。そこまで細かく考えるのか」

「階級は違うが、俺もお前もランキングは同じ3位だからな。エリートなんてモンじゃないさ」

 

 冴木が、ちょいと笑って俺の方を見た。

 

「まだ、こいつのほうがエリートっぽいぜ」

「ははは、冴木さん。元オリンピック候補が何を……」

「お前がアマでやってたら、俺の出番はねえよ……言いたかないが、高校時代、お偉いさんに『速水には勝てないから階級変えろ』って言われたんだぜ、俺は」

 

 ……はい?

 

 高校時代、俺と冴木が大会で戦ったのは一度だけだ。

 俺が1年、冴木が2年のインターハイ。

 当時はお互いにバンタム級(この頃は51~54キロ)だった。

 

「……お前は1年のインターハイを制した時点で、高校を卒業したらプロ入りするって表明したからな。アマチュアのお偉いさんとしては、速水にアマチュアの予算を使いたくなかったのさ。だから、俺と違って強化選手指定もされなかったし、合宿にも呼ばれなかったし、専属指導者の斡旋も無かっただろ?」

 

 え、何それ?

 

「俺は、1年のインターハイで準優勝した時点で専属コーチが派遣されたよ。決勝で負けたのは調整ミスだったしな。そして国体で優勝して、強化選手に指定された。気がつけば進学する大学まで決められて……まあ、正直あの頃はボクシングを舐めきってたからな。2年に上がって、優勝間違い無しと言われて臨んだインターハイの1回戦でなぁ」

 

 冴木が木村さんを見ながら、俺を指差した。

 

「相手が、地方の、聞いたこともない学校の選手でよぉ、当時は無名のコイツ」

 

 俺は笑いながら答えた。

 

「ははは、いきなりジャブを2発もらって、さすが全国に来るとレベルが違う、って焦ってました」

「よく言うぜ。本当に最初だけだったじゃねえか……2Rで圧倒されて、3Rまで引き伸ばされた挙句に、ガードの上から、隙間から、『ショットガン』でなぶり殺しだぜ」

 

 木村さん、そして細野が『うわぁ』という表情を浮かべる。

 

 ……まあ、全国レベルの選手を心行くまで観察しようと思ったら、1回戦の相手が最強でしたとかいうオチ。

 冴木がぶっちぎりの優勝候補などと知ったのは、インターハイを制した後だ。

 ボクシング強豪校でもなければ、全国に行くと顧問の人脈もほとんどなく、そういう情報すら回ってこない。

 俺は俺で、高校1年のインターハイなんて、自分のことだけで精一杯だったし。

 

「そういや、俺の『ショットガン』って、冴木さんが名付け親でしたね」

「……名付け親って言うか、1回戦で負けた俺のコメントが一人歩きしたってとこだな」

 

 冴木が、速い左を打ちながら呟いた。

 

「俺は、速水の連打の『速さ』を見て『ショットガン』に例えたわけじゃなかったんだけどな」

 

 細野が、首をかしげた。

 

「……違うんですか?」

「じゃあ、逆に聞くが『ショットガン』って、どういうイメージよ?」

「散弾銃だよな?速いって言うより、手数……か?」

 

 と、これは木村さん。

 

「まあ、当時の速水の戦い方を知らないとピンとこねえか。1Rは観察、2Rで圧倒、ポイント差が開いたら距離をとって観察。そして3Rで……」

「冴木さん、ちょっと」

 

 制止する。

 あれは、1年の時だけで……。

 

「最後は、破れかぶれの特攻か、心が折れてガード固めて逃げるしかないのよ。で、ガードを固めると、観察しながら近寄ってきて、容赦なく、ズドン!もう、目の前に拳の弾幕が見えるのよ。だから『ショットガン』ってコメントしたんだ。俺としては、速さじゃなくて、パンチの種類とか変化を表現したつもりだったんだけどな」

 

 あぁ、木村さんと細野の俺を見る目が……。

 

「高校6冠で41試合とか、本当ならもっと試合数は多かったはずなのになあ、速水?」

「……都会と違って、地方は予選の試合数が少なかったのもありますけどね」

 

 まあ、俺が2年のときは……全国も含めて、棄権者が多かったのは事実だ。  

 

「……さっきも言ったが、俺はボクシングを舐めてたからな。負けっぱなしじゃいられねえと思って、練習に打ち込んだつもりだった。それが、国体前に『階級変えろ』って言われたわけだ」

 

 冴木の言葉が……腑に落ちた。

 そういうことか。

 本人の意向を、指導者や学校が、あるいはその上の意向がねじ曲げることは、少なくない。

 

「……アマのお偉いさんにとっちゃ、俺は次のオリンピック候補だったのさ。企業の協賛を見据えて、プッシュする選手にそれなりの肩書きが必要だったんだろうな。速水と別の階級なら、勝てるからってな……まあ実際に、その後は全部勝ったよ。高校3年間で、国体3連覇に、インターハイ優勝1回に、準優勝1回」

 

 そして、冴木が笑う。

 

「新聞の記事でも、俺がメインになって……速水は結果だけなのさ。強化選手の合宿に参加しても、速水がいない。ここまで贔屓されたら、嫌でもわかるさ」

「そいつは……」

 

 木村さんが、言葉を失ったようにうつむいた。

 

 メジャー競技とマイナー競技なら、扱いが大きいのはメジャー競技だ。

 これは、読者を意識した選択と言える。

 潜在的読者が多いほうを記事にするわけだ。

 じゃあ、同じぐらいならどうなる?

 階級が別とはいえ、同じ競技の同じ優勝者ならどうなる?

 テレビのニュースなら時間に限りがあり、新聞なら紙面に限りがある。

 どちらを大きく扱うかは、そのメディア自身が選択する。

 たとえば、地方新聞なら、俺の地元でそうだったように、その地域出身の選手をメインで扱うだろう。

 

 じゃあ、全国紙で扱いが変わるのは……広告収入を占める企業の意向が働いたりする。

 

 でもまあ、卒業してプロ入りする選手なら、予算を使いたくないと言う気持ちはわかる。

 俺に予算をつぎ込んでも無駄金になるからな。

 記事で扱われるのは、結局宣伝につながるわけで……アマチュアを続ける選手をメインに据えるのは、むしろ正しい選択だ。

 

 俺が全国区で有名になったのは、プロデビューに向けての露出の一連の動きが始まってからだが……。

 このからくりは、プロボクシングを良く記事にするメディアと、アマチュアボクシングを良く記事にするメディアが別ってところにある。

 インターハイ3連覇をテレビで取り上げたのは、プロと関わりの深いテレビ局の方。

 アマチュアと関わりの深いほうは、当然のようにスルー。

 一種の住み分けであり、縄張り争いともいう。

 当然だが、アマチュアボクシングを支援する企業と、プロボクサーのスポンサーに名乗りをあげる企業もまた、スポーツ用品メーカーを除けばほとんど一致しない。

 

 とまあ、そういう関係だからこそ、冴木のプロ入りの件で揉めまくったわけだ。

 

 

 ボクシングに限らず、金が絡めばどの競技も変わらない。

 学校の部活動でさえ、1学年10人として、3学年30人の部員にそれぞれ試合用ユニフォームや、バッグなどの小物を購入させればすぐに100万からの金が動く。

 メーカー、あるいはスポーツ用品店の営業が、学校をめぐって担当になろうと画策するのも当然だ。

 もちろん、部員が多い競技や学校が優先されるのは言うまでもない。

 スポーツをやるということは、多かれ少なかれ、こういう現実と接することを意味する。

 とはいえ、こんな現実(リアル)は嫌だと投げ出してしまえばおしまいだが。

 

 プロ入りの件で冴木が失ったものは大きい。

 アマのトップ選手として関係各所に迷惑をかけたという『悪評』は、プロになってもついて回る。

 

 つまり、テレビ局というか、スポンサーは……関係者への配慮も含めて、冴木に手を差し伸べることはないだろう。

 そして、冴木もそれを承知して……その上で投げ出した。

 

 そういえば、原作でも冴木は……千堂との日本タイトルマッチをやっただけだったか。

 幕之内が新人王を獲った直後から、トーナメントで板垣と戦うまでの数年間。

 実力者でありながら、舞台に恵まれていないのが明らかだ。

 もしかすると、この手の裏の事情が影響していたのかもしれない。

 

 勘繰りすぎかもしれないが、この『世界』も、世知辛くて残酷なことに変わりはない。

 だからこそ、『魔法使い』は絶大な権力を持つ。

 

 そして俺は……どうやらその『魔法使い』にとって都合の悪い存在になりつつあるらしい。

 

 つい先日、俺の悪い噂を流している記者について……情報が入った。

 まあ、それをやってるのがテレビ局と同系列のスポーツ新聞の記者ってところに、悪い予感はしてたんだ。

 情報源は、例のテレビ局の番組作成クルーの1人と、ヴォルグの付き添いで知り合ったスポーツ雑誌の記者の2つのルート。

 

 根本にあるのは、出世争いと言うか、派閥争い。

 俺がA級トーナメントで派手に勝ちあがったのが、きっかけと言えばきっかけになる。

 つまり、テレビ局のスポーツ枠の『魔法使い』の足を引っ張るために、『日本人』の俺を切ってヴォルグを招いたのが失敗だと責め立てる連中の存在。

 ちなみにこの連中、『魔法使い』を蹴り落としたとしても、俺を取り上げるつもりはない。

 そもそも、『ボクシング』というコンテンツを重要視していないらしく……この連中が『魔法使い』になったら、ボクシング業界が、テレビで取り上げられる機会が確実に減少する。

 ボクサーである俺としては、この連中が台頭するのはお断りしたい。

 

 というか、俺としてはヴォルグをお城へと連れて行く『魔法使い』を、全力で擁護したい。

 ヴォルグを日本に、音羽ジムにつれてきてくれたことは、心から感謝しているしな。

 

 ……感謝はしている。

 

 人は、自分の立場を守るために戦う。

 誰かを傷つけてでも。

 

 それがわかっているから、理解はできる……できるんだが……なぁ。

 

 どちらも虚偽であるとして、悪い噂とよい噂で、広がりやすいのは悪い噂。

 そして、噂を否定するのは付き合いが深い人間だけ。

 噂が広まった後で、対象者と付き合いのない、あるいは浅い人間を取材し、記事を作れば悪評まみれの人物像が出来上がる。

 情報操作の、基本的なテクニック。

 

 とはいえ、『魔法使い』は、俺の『悪評』を記事にするつもりはない。

 ただ、『俺を切った理由』が『実力ではなく素行の問題』という言い訳に、真実味を持たせたいだけだろう。

 出世争いの相手が、裏を取ろうと動いたとしても……出てくるのは俺の『悪評』だ。

 それを否定するのは、俺との付き合いが深い人物ばかり。

 その否定は『身内をかばう発言』だと指摘すればそれでいい。

 

 ゲームの選択肢には『正解』があるが、現実の選択肢には『現状維持』と『悪化』と『最悪』しかないことがほとんどだ。

 そして時折、こんな風に『最悪』と『最悪よりマシ』の二択が現れたりする。

 ヴォルグのことを考えると……俺としては『沈黙』して、『魔法使い』を守る立場にいるしかない。

 

 禍福はあざなえる縄の如し、というが……『魔法使い』が俺を見切ったからヴォルグがこの国にやってきた。

 世界を目指す道のりは厳しくなったが、ボクサーとしての実力的にはプラスになった。

 そのプラスが、またマイナスとして俺に降りかかるわけか。

 

 まあ、『魔法使い』は魔法使いで、ボタンを掛け違えたかのような思いをしてるんだろうな。

 状況が状況だけに、自分を守るためにヴォルグを全力でプッシュして、成功させるしかない。

 そうしないと、自分の立場が危なくなる。

 ただ、これはヴォルグにとって追い風になっているだろう。

 

 自分の周囲だけでなく、人はあらゆる場所で、今をもがくように生きている。

 そんな色んな人間の思いがめぐりめぐって、運と言うか、風のようなものがヴォルグに吹いた。

 もちろん、ヴォルグが伊達英二に勝ったことでつかみ取った運だ。

 

 今は、ヴォルグの幸運を喜ぼう。

 そうやって、飲み込むしかない。

 

 いつか、俺に風が吹くとき。

 運をつかみ取れるチャンスが来たときのために。

 冴木の言葉じゃないが、ほんのちょっとしたこと。

 1センチ、1ミリを積み重ねながら、歩き続けるしかない。

 




魔法使いは、アマにもいるよと。
その対比のための、冴木の登場です。

病院で、昭和40年ごろボクサーだった老人から話を聞く機会がありました。
話半分どころか、4分の1ぐらいで聞かないと、内容がやばかったですが。
まあ、昔ボクシングジムを経営していたという老人の話よりはマシでしたが。

……聞くんじゃなかった。(白目)

やっぱ、闇が深いのは野球に限ったことじゃない。


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28:メキシコからの旅人、前編。

謎の老人が登場します。(目逸らし)


 公開スパーリング当日の朝。

 

 肝臓撃ちで動きを止められて顔面へ……がよくあるパターンだが、今日は動きが止まってから同じ場所(レバー)を丁寧に4回えぐられた。

 これは、油断するなという警告か、あるいは、さっさとバージョンアップさせろという催促なのか。

 

 痛みはないが、なんとなく肝臓のあたりを手で押さえながら身体を起こす。

 暦の上では春だが、肌に感じる冷気はまだ冬のものだ。

 

 俺のスパーリングは午後の3時の予定。

 そして、真田の公開練習は夕方の6時からの予定になっており……記者連中は大変だろう。

 まあ、平日だと俺は仕事があるから夜じゃないとダメだし、真田は真田で、今は試験期間中。

 そのあたりの事情が重なって、休日にスケジュールを詰め込む感じになった。

 

 朝食をとり、短めのロードワークを終えてからジムに向かう。

 

 

 

「おう、速水」

「おはようございます、会長」

 

 少し驚きながら、挨拶を返した。

 俺の試合のこともあるが、ヴォルグの世界挑戦に向けて、会長もなかなか忙しい日が続いている。

 

「なんか久しぶりですね、会長」

「……まったくだ」

 

 と、会長が苦笑した。

 

「今日はヴォルグの海外視察の案内を務めてもらう人が来日するんだ。これから空港に迎えに行ってくる……一応スパーまでには戻ってくるつもりだが、飛行機が遅れたりしたらどうなるかわからんぞ」

「わかりました。案内って現地のボクシング関係者ですか?」

「ああ、そうだ。お前のデビュー2戦目のメキシカン、あれを呼ぶのを仲介してくれた人だよ」

 

 なるほど。

 選手を呼ぶにも、情報はもちろん、伝手や交渉の仲介なんかが必要なわけで。

 

 今思うと、いきなりメキシカンとやりたいなんていわれても困っただろうなと苦笑する。

 

「先代、俺の伯父さんがまだ若くて……まだボクシングが拳闘って呼ばれてた頃から付き合いがあった人でな。まあ、あの人が世界のボクシングを学ぶために海外に渡って、伯父さんが死んだ後は……」

 

 ん?

 んん?

 

 ど、どこかで聞いたエピソードだぞ。(震え声)

 

 そういや、鴨川会長が入院したときに、お見舞いを渡されたよな。

 それは、以前から鴨川ジムと音羽ジムとの間にある程度の関係があったってことで。

 

 音羽ジムの先代会長……今の会長の伯父さんが、鴨川会長より少し上の世代だったはずだから、戦後の拳闘時代からがっつりと面識があっても……。

 

 音羽会長が時計を見た。

 

「と、遅れたら何を言われるかわからねえからな。俺がハナ垂れ小僧だった頃を知ってるからか、電話ならともかく、面と向かうと頭が上がらない相手なんだよ」

 

 そう言って、会長が出かけていく。

 空港まで、『誰か』を迎えに。

 

『誰か』かぁ……。

 

 うん、心構えだけはしておこう。

 驚かないように。

 

 ただ、俺は今まで一度も聞いたことがないんだよなあ、『浜団吉』というトレーナーの名前を。

 鴨川会長が話してくれた昔話でも、『知人』としか言わなかったし。

 

 原作では、手がけたボクサーはみんな世界王者や世界ランカーになってるとか、中量級の本場であるメキシコでも引っ張りだこの名伯楽……だったか。

 さて、そういうトレーナーの存在が……単純に日本に情報が回ってこない可能性は高い。

 

 ……あるいは、『ダン』と呼ばれたりしていて、現地ではそもそも日本人と認識されていない可能性もあるか。

 

 原作で語られたように、手がけたボクサーが全員世界王者や世界ランカーになっているトレーナーがいるとすれば、『良い素材』を見極めたうえで『自分と合う相手』を選んで指導したと考えたほうが無難だ。

 

 さて、会長が迎えに行ったのが本当に『浜団吉』だとしたら……俺というボクサーは、その目にどう映るんだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「速水さん、お先です」

「ああ、悪いな」

 

 午前中にトレーニングを終えた練習生が、そそくさと帰っていく。

 午後の俺の公開スパーに備えてだ。

 ヴォルグの時ほどではないだろうが、ボクシング関係者や記者連中が集まれば練習にならなくなる。

 

『リュウ。調子はどう?』

「ああ……」

 

 おっと。

 

『まあ、悪くない』

 

 そう答えたら、ヴォルグが笑った。

 

「そのぐらいナラ、日本語で問題ないよ」

『……英語で話しかけられたら、英語で返したほうがいいのかなって思っちゃうんだよ』

 

 俺の返答にまたヴォルグが笑って……まあ、苦笑するしかない。

 そんな俺たちのやり取りを、ラムダが微笑みを浮かべて静かに見つめているのがまた少し照れくさい。

 

 ヴォルグとラムダ。

 今日ジムに来たのは、会長が迎えに行った『誰か』との顔合わせのためだろう。

 ヴォルグたちが日本を発つのは、明後日の予定だ。

 

 後々のために、試合観戦および、現地のジムで汗を流す映像を確保するなどと言ってたから、後1人か2人、付いて行くことになるんだろうか。

 あるいは、テレビ局の伝手を使って、現地で確保するのか。

 

 それらを含めて今日と明日は、スケジュール確認を含めた打ち合わせが必要だろう。

 

 

 

 

 

 

「よぉ、速水君」

「……相変わらず早いですね、藤井さん。まだ、1時半ですよ?」

「人が多いと、落ち着いて取材も出来ないからね」

 

 そう言って、藤井さんがちらりとヴォルグのいる方に視線を向けた。

 

「できれば、ヴォルグにも、試合の展開予想を聞いてみたいね」

「……ヴォルグとラムダさんは、たぶん打ち合わせがあるんですよ」

「ほう?」

 

 一応、周囲を確認。

 

「今月末、リカルドのノンタイトル戦がありますよね?」

「あぁ、確か契約ウエイトで……」

「それを見に行くんです」

 

 藤井さんが目を見開き、ヴォルグのいる方に顔を向け、すぐに俺を見た。

 

「決まったのかい!?」

「いや、戦るかどうか、生で見て判断するって感じですね……それ以上は、俺の口からは言えません」

「……こういう時の君は、絶対口を割らないからな。まあ、だからこそ、スポンサーというか、テレビ局がらみなんだってことがわかるんだけど」

「なので、ヴォルグにも聞かないでくださいね」

「わかってるさ……今の情報も、君のサービスなんだろう?」

「何のことです?俺は、ヴォルグとラムダさんが、ちょっと里帰りするのかなって言っただけですよ」

「わかったよ。俺は、君の取材に来た……それだけさ」

 

 ……うむ。

 

 声を潜めて、話しかけた。

 

「あの、藤井さん」

「なんだい?」

「正直なところ、俺と真田さんとの試合、盛り上がってます?」

「……チケットは結構売れてると聞いてるよ」

 

 藤井さんの優しさがツライ。

 というか、『結構売れてる』って表現がもう……盛り上がってないってことじゃないか。

 

 黙りこんだ俺のことをどう思ったのか、藤井さんが少し慌てたように口を開いた。

 

「試合前の予想が、『速水君有利』を越えて、『確勝』ムードになっているからだろうな……俺の周りじゃあ9対1か8対2で、速水君って感じだよ」

「俺が有利っていわれてるのは知ってましたが、そこまで偏ってるんですか?」

 

 藤井さんが、正面から俺を見つめた。

 

「……いいかい。真田は初防衛戦で後藤を9Rで倒して勝ち、和田はトーナメントで後藤を5Rで倒して勝った。どちらも危なげない内容だったが、和田が流して戦っていたのが、君との試合で明らかになったからね。その時点で、真田よりも和田のほうがやや上と見る。速水君は、その和田を5Rで完勝というか、圧勝したと言えるだろう?なら、君のスタミナの不安を入れて、やっと8対2……そういう評価に落ち着くと、俺も思うね」

「……そういう比較論は、あんまり意味がないと思うんですけどね。10Rのタイトルマッチと、6Rや8Rの試合じゃ、条件がぜんぜん違いますし」

 

 ボクシングスタイルの相性、当日のコンディション、作戦、試合条件など。

 優劣ならまだしも、勝敗はそんな単純なものじゃ……と、俺が言っても仕方ないことか。

 

 正直なところ、優劣で語るなら現時点で俺は真田に勝っていると思っている。

 同じ条件で何回も戦ってのトータル勝負なら間違いなく勝ちこせるだろうが、試合はあくまでも一発勝負。

 一発勝負の怖さは、主に情報不足による不確定要素が絡み合って勝負の綾を生み出すところにある。

 

「俺よりも、速水君の方が真田の評価は高そうだな。ビッグマウスを演じているが、君は油断するタイプじゃないし」

「まず、距離の認識力が高いですね。それが緻密なボクシングを可能にしています……が、王者のボクシングを語る上で重要なのは、身体のスペックよりも、ここでしょう」

 

 そう言って、俺は自分の指先でこめかみの辺りを2回突いた。

 

 この前青木さんが弱気になってたから言ったのだが、スペックの優劣なんて『ダメージ』と『疲労』がない状態での比較に過ぎない。

 奇襲でも何でもいい、先にダメージを与えてしまえば……スペックの優劣はすぐにひっくり返る。

 相手を迷わせれば、反応が遅れ……スペックが落ちる。

 スタミナを失えば、足が止まる、判断力が鈍る……そうなれば、当初のスペックの優劣は無意味になる。

 

 つまり、試合の中で1秒か2秒、決定的な状況を作り出せば……ある程度のスペックの差は覆せる。

 10R30分、1800秒の中の1秒か2秒。

 その1秒か2秒が、試合に勝つチャンスを生み、隙を作れば敗北につながる。

 

 俺が思うに、その1秒か2秒を『作り出す能力』が高いからこそ、真田は強い。

 ただ、それを具体的に説明するのが難しい。

 

 俺は、藤井さんの前で、構えを取った。

 

「真田さん、試合でふっと攻撃の手を止めて、相手を観察するように動きを止めることがありますよね」

「うん、良く言えばクレバー、悪く言えば積極性に欠けるとも……」

「そこで、いきなり右の大砲を持ってくるケースがあるでしょう」

「ああ、確かに。そして、そのときに限って、相手がそのパンチをまともに食らうのが不思議なんだが……」

 

 藤井さんが、俺を見た。

 

「……わかるのかい?」

「あれ、相手の瞬きのタイミングを見てるんだと思います」

「えっ?」

「理屈では、人間の視界が完全に失われるわけじゃないですけどね……反応は遅れます」

 

 中心視と周辺視のときに少し触れたが、人の目の網膜の光受容体は、中央に多く、周縁部には少ない。

 簡単にいえば、自分が見ている中心は詳しく、その外側に行くほどぼんやりとした情報になる。

 なので、人間は無意識にその眼球というか視線を動かして情報量を増やし、脳で処理して、『光景』を合成する。

 

 ならば、視線を動かさないように誘導すれば、『情報量』は減る。

 たとえば、相手に自分の左を警戒させる。

 相手の視線をそこに集中させると……眼球運動が減り、結果的に、全体の情報量は減少する。

 

 中心視において、『意識して集中する』と、一時的に瞬きの回数が減る。

 それは眼球の乾燥を招き、高い確率で反動を呼ぶ。

 つまり、時間が経過すると、瞬きの回数が増える。

 連続した瞬きを待ち、そのタイミングで右のパンチを放てば、相手の視界情報の処理の遅れによって、対応が遅れる。

 

 とまあ、これはあくまでも理屈というか、理論上の話だ。

 試行錯誤を重ねるにしても、相手に『今、どう見えた?』と確認したところで、無意識の分野だから意味がない。

 タイミングや視界の角度など、独断と偏見で、自分の技術としていくしかない。

 その上で、相手によって細かい違いはあるはずで……試合の中でそれを探る必要がある。

 

 

「……と、まあ、ほとんどの人間は、これに時間を費やすぐらいならほかの練習をするでしょうね」

 

 推測混じりの説明を終わらせて、藤井さんに視線を向けた。

 

 ……その表情は、困惑、か。

 それでも、理解しようとするだけ、視野と言うか受け皿は広い。

 

 原因がわかれば、対処法を考えることが出来る。

 原因が、理由がわからなければ、人は対処法が考えられない。

 対処法を考え付いても、それが実行可能かどうかは別だが……勝負の上で本当に怖いのは、『相手の強さの理由がわからない』ことだ。

 次に怖いのは、『相手の強さの理由を間違える』こと。

 

 間違った考えでも、方針があれば人は動ける。

 方針が決まらないと、人は動けず、無防備になる。

 

 しかし現実では、『理由がわからない』から軽んじる、甘く見る……そういう人間が少なくない。

 

「医者の卵らしいアプローチだと思いますよ。人間が人間である限り逃れられない身体の反射と言うか、ちょっとしたことを積み重ねて、ボクシングに活かしているんだと」

 

 藤井さんが、ぽつりと呟いた。

 

「評価されるためには……わかりやすさってのも、必要なんだろう、な」

 

 そのまま言葉を続けていく。

 

「俺も、記事を書く際に悩むことがあるよ……良くも悪くも、『月刊ボクシングファン』って雑誌は、ボクシングの『専門誌』なんだ。読み手は基本的に、ボクシングに興味を持ち、一定の知識を持っている」

「……記事内容の、幅ってヤツですか?」

「ああ、そうさ。入門者用から、ディープなファンまで……トレーニングの仕方も含めてだが、必ず『こんなレベルの記事は不要だ』っていうお叱りの言葉を、一定数いただく羽目になるんだ」

「……全員を満足させるのは困難ですよね」

「……ボクシングの試合もそうなんだが」

 

 珍しく、藤井さんがファイティングポーズをとった。

 

「ごく稀に、その場にいる全員が熱狂するような試合に出会うことがある……その熱狂を、文字で、写真で読者に伝えたいと思う。しかし、文字にした瞬間、写真にした瞬間……その熱狂が、自分の指の隙間からすり抜けていく……あれが、悔しくてね」

 

 藤井さんの、熱を感じた。

 

 色んな見方があるだろうが、この人はボクシングが大好きなんだろう。

 たぶん、俺よりも純粋に。

 

「でも、藤井さん」

「ん?」

「俺たちボクサーが『いい試合』をするための努力をするなら、藤井さんたちは『いい記事』を書く努力をすべきですよね?」

 

 にっこりと笑って、言葉を続ける。

 

「『ボクサーの仕事じゃないぜ』って言われたこと、俺は忘れてませんからね」

「……結構根に持つんだな、速水君は」

 

 困ったように頭をかく藤井さんに代わって、俺は軽くステップを踏みながら、シャドーボクシングを始める。

 

「『いい試合』とか『いい記事』を定義するのは難しいですが、野球の世界では、『試合が壊れる』っていう言葉がありますよ」

 

 ピンと張り詰めた空気が、球場を支配している……一体感とも言いがたい、なんともいえない感覚。

 それは、接戦に限らず、大差がついていても起こりうる。

 そして、上手く言葉には出来ないが、『あ、今何かが切れた』とわかってしまう経験をした人間は多い。

 

 投手の失投。

 不用意なエラー。

 審判のミス。

 控えの選手が、ボールを受け損なって試合を中断させる。

 観客のピントはずれの応援や、携帯電話の着信音。

 球場の外から聞こえてきた、パトカーのサイレン。

 

 選手の、審判の、あるいは観客の集中力が、何かのきっかけでよそを向く。

 なんでもないことのはずなのに、その試合においてそういう感覚は戻ってこないのだ。

 

「いい試合には、いい対戦相手がいて、いい審判がいて、いい観客がいて、試合に関わるいいスタッフがいて、試合が終わった後の、いい記事が必要で……」

 

 一旦言葉を切り、俺は動きを止めた。

 

「……ってのは、さすがに欲張りすぎですかね?」

「それは……完璧主義にもほどがあるだろう」

「です、ね……」

 

 笑って、終わりにする。

 

 人間が考えること、信じることは、ひとりひとり違うものだ。

 むしろ違っていることが、正しい。

 

 ただ、あれは……『完璧』というのとは少し違う気がする。

 盛り上がるとか、熱狂とも違う……たぶん、ボクシングで言う『いい試合』とは別のものなんだろう。

 そして、前世でも一時流行った『ゾーン』と呼ばれるものとも違う。

 

 

 まあ、それはそれとして。

 

 A級トーナメントの決勝で、俺は和田の右フックを何発か無防備にもらった。

 同じ右フックなのに、防いだり避けたりすることの出来た右フックと、『反応できなかった』右フックとの違い。

 

 俺の姿勢。

 視線の方向。

 右フックの角度。

 タイミング。

 

 俺のディフェンス力が評判になりつつあるからこそ、真田は徹底的に分析しただろうな。

 大人と子供ほどに差があるならともかく、俺と真田との差なら、いくらでもやりようはある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後の2時半を過ぎて、人が集まりだした。

 ざっと見た感じ……記者連中はヴォルグの時の半分ぐらいか。

 というか、記者じゃない関係者がそこそこ集まっている。

 

 

 

 ……音羽会長、帰ってこないんですけど。

 

 まあ、時間が来ればやるしかない。

 トレーナーの村山さんと俺とで、記者連中に声をかけていく。

 

 冴木と2R。

 そして、木村さんとも2R。

 

 木村さんから『始まってすぐに倒されたらまずくないか?』と言われ、冴木が『じゃあ、俺も混ぜろ』と……なので、相手を2人用意した形になった。

 

 しかし、木村さんの付き添いは篠田さんか。

 音羽会長が迎えに行った『誰か』を考えると、鴨川会長でなくて良かったのかもしれない。

 

 さて、と。

 切り替えるか。

 

「よっし、やろうぜ、速水」

「そうですね」

 

 冴木の言葉に頷き、リングに上がり……中央で向かい合う。

 

 

 手を合わせ、離れた。

 

 周囲を回りだす冴木。

 それを見る俺。

 

 呼吸。

 気配。

 ふくらはぎの緊張。

 

 空気が、動く。

 

 冴木の、遠距離のジャブ。

 そのまま踏み込んできた。

 至近距離。

 そこで、ジャブの連打がくる。

 

 速いが、軽い。

 両手でさばいていく。

 

 連打の速度がわずかに緩む。

 そのひとつを選んで、大きくはじいた。

 

 冴木の顔面に向かう、俺の右。

 当たる寸前に、顔が遠ざかっていった。

 

 バックステップの速度。

 俺のフットワークが、冴木のそれに一歩譲る部分。

 重心の位置をほとんど動かさず、蹴り脚がそのまま身体を動かすような一体感。

 あれを真似するのは難しい。

 真似をしても、俺にとっては失うものの方が大きい。

 

 息を吐き、俺は一歩前に出る。

 

 細かいステップ。

 速度は鈍るが、ワンステップで進むところを、ツーステップで進む。

 冴木の動きは速い。

 動きは大きくなりがちだ。

 反応速度を逆手にとって、一度動かしてから、選択肢を削ってやる。

 

 しかし今、冴木は動かず、俺をじっと見ている。

 

 

 スパーリングの回数を重ねるうちに、少し冴木のボクシングが変わってきた。

 俺の基礎能力がそれほど変化していないのに、以前よりも軽くあしらわれるようになったのは理由があると思ったのだろう。

 わずかなフォームの変化を見抜いたように、俺を観察し始めた。

 俺が、伊達英二とヴォルグから学んだように、冴木もまた、俺から何かを学びだした。

 

 俺も、冴木も、速度と反射神経で相手に対応してきたところがある。

 それで『避けられた』から。

 しかし、速く動けば、止まるのにも力が要る。

 

 俺のボクシングを変化させたきっかけは、次の3つ。

 

 フェザーからジュニアフェザーに階級を変えたことで減量に失敗し、体力の消耗を抑える動きを考え始めたこと。

 ヴォルグのスパー相手を務めたこと。

 そして、ラムダの助言。

 

 相手のレベルが上がれば、ジャブが届くかどうかの距離で、アッパーや、フックを打ってくることはない。

 フェイントや牽制はともかく、基本的に、相手に届く距離で、有効的な種類のパンチを放つ。

 肩が触れ合うような接近状態なら、フルスイングの右ストレートを打つより、フックやアッパーなどの、近距離用の攻撃をするだろう。

 

 つまり、距離で相手の攻撃の選択肢を減らせる。

 

 相手の正面ではなく、右に立つ、左に立つ。

 位置取りでも、相手の攻撃の選択肢を減らせる。

 

 相手の攻撃の選択肢を減らせば、こちらは限定的な予測が可能になる。

 予測ができれば、小さな動きで避けられる。

 結果、無駄な動きが減っていく。

 

 言葉にするのは簡単だが、それを実行するのは難しい。

 相手のレベルが高ければなおさらだ。

 

 以前、ラムダが助言してくれたこと。

 

『相手の姿をイメージするだけでなく、相手の目に映る自分の姿をイメージする』

 

 相手の動きの予測。

 どちらが先手を取るかにもよるが、相手の動きは、俺の動きによってもたらされる。

 だからこそ、相手の視界をイメージする。

 

『俺の動きが、相手にとってどう見えて、どういう反応をするか、どういう対処をしようとするかをイメージする』

 

 誘導とか、先読みなどの難しい言葉を使う必要はない。

 一言で言える。

 

 コミュニケーションのレベルを上げろってことだ。

 

 誰かと話をする。

 相手の言葉に、行為に自分が何を思うか……それはただ、反応しているだけだ。

 

 自分の視線が、表情が、口調が、言葉が、身振りが、態度が……相手にどう受け取られるか。

 相手の対応を予測して、その上で動く。

 友好的に、あるいは敵対的に。

 

 

 反射神経や速度というスペックが優れていたから、ボクサーとしてのコミュニケーションのレベルが低かった。

 

 俺は、ラムダの助言をそう解釈している。

 まだまだラムダが思う水準には届いていないだろうけどな。

 

 ボクサーの、スポーツ選手の試合におけるコミュニケーションは、『相手を正しく理解』し、自分を『間違って』理解させることに尽きると思う。

 

 ……千堂あたりからは異論が出るかもしれないが。

 

 

 

 動かない冴木を見る。

 自分から動きたいタイプなのに、よく我慢している。

 

 俺は、わずかに左拳を動かした。

 冴木の視線が動く瞬間。

 踏み込む。

 

 冴木の、わずかな遅れ。

 伸びてくる左。

 俺の右に回ろうとする動き。

 

 その全てが想定内に収まった。

 冴木の腹を、右のボディフックで捕らえる。

 

 あえて一呼吸待ち、冴木に選択肢を与えた。

 

 冴木が跳び退くのと同時に踏み込む。

 また右のボディフック。

 冴木の重心が、後ろ足にかかっている。

 そのまま冴木の腹を押して、棒立ちにさせた。

 

 動きを限定させる。

 後は、タイミング。

 

 回避と踏み込みが、ほぼ同時。

 また、右でボディを狙う。

 

 反応された。

 冴木の右。

 相打ち狙い。

 

 ガードしながら、右。

 

 浅い。

 逃げられる。

 

 踏み込んで、ボディストレート……は届かなかった。

 

 冴木の表情が、緊張感に包まれる。

 足のステップ。

 たぶん、冴木は今何かを試そうとしている。

 生みの苦しみ。

 試行錯誤。

 

 おそらく、傍目には冴木の調子が悪いと思われているだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 俺に腹をしこたま殴られて、2Rの途中で冴木が両手を上げた。

 

「すまん、ここまでだ速水」

「……はい」

「というか、何で全部ボディなんだよ……」

「だって冴木さん、顔を意識してたじゃないですか」

「まあ、そうだけどよ……」

 

 冴木がリングから下り、木村さんと交代……。

 

 俺の視線が止まる。

 目が合う。

 

 音羽会長。

 その隣に立つ老人。

 

 頭にニットの茶色い帽子、下は洗いざらしのジーンズ、上は灰色のトレーナー、そしてジャケットというか、くすんだ緑色のジャンパーを羽織っている。

 色彩はともかく、老人としては、いささかカジュアルな感じが強い。

 帽子とあごひげによって顔の半分以上が隠れているが、あごひげの白さとは対照的に、肌は浅黒い。

 

 日本人と言われても、ちょっと首を傾げてしまいそうな感じだが……うん。

 ただ、『知っている』のは不自然だから、そこは気をつけようか。

 

 手招きされた。

 素直に近づく。

 

「……なんでしょうか?」

「ヌシの攻撃には、テーマがないの」

 

 聞き慣れない単語。

 つい、聞き返す。

 

「テーマ、ですか?」

「ワン・ツー・スリーの3連打で1セットの攻撃を意識してみるがいい。ただし、『ツー』を相手に避けさせた上で、『スリー』を必ず当てるという制限つきでな」

「……当てない、ではなく、避けさせる?」

 

 小さく頷かれる。

 

 ……これ、公開スパーリングなんだよなあ。

 

 でもまあ、いいか。

 

 3連打。

 そして、2発目を避けさせる、か。

 

 ……避けさせる、ねぇ。

 

 和田との試合でやった、右ボディ、左アッパー、右フック……が、それに相当するのか。

 しかし、あれは和田が俺のアッパーを警戒していたから、避けさせることで身体を起こし、アゴをピンポイントで狙って……。

 

 ん?

 それが『テーマ』ってことか?

 

 要するに、当たるから攻撃してるだけって言われてるわけか。

 いや、当てるまでじゃなく、当ててからの工夫がないってことか?

 

「……おい、速水」

「あ、すみません、木村さん。やりましょう」

 

 とはいえ……。

 

 と。

 

 木村さんのジャブを受け止め、気持ちを切り替える。

 

 

 ……切り替えたつもりだったが、1Rはグダグダになった。

 集中できていない。

 記者連中が騒がしいが、インターバルの1分を使って、考えをまとめていく。

 

 ワン・ツー・スリーの3連打は、コンビネーションとして流れが出来ている。

 たとえば、左ジャブ、右ストレート、左アッパーのコンビネーションは、右ストレートをかいくぐって懐に飛び込んできた相手を迎撃して身体を起こすことを想定したものだ。

 しかし、ツーの右ストレートをガードされたり、後ろに下がることで避けられたら、スリーの左アッパーは宙に浮いてしまう。

 

 ツーを避けさせて、スリーを必ず当てるということは……スリーを当てる位置に、相手を誘導しなきゃいけないってことになる。

 たぶん、それが『テーマ』ってことなんだろう。

 攻撃の狙いであり、目標。

 一連の攻撃に区切りをつけるための……それをきちんと当てるための、流れ。

 

 ふむ。

 木村さんは、ヤバイと感じたら一旦距離をとって落ち着こうとするタイプ。

 つまり、『ツー』をストレート系にすると、後ろに退く選択肢を選ぶ確率が高くなる……。

 避けさせるにしても、後ろに退く余裕を与えずに選択させる?

 

 ……『避けさせる』だから、ガードもありか。

 

 基本のワン・ツーで、ツーの右をガードさせて、踏み込んでボディ。

 いや、踏み込むと連打と判断されないか。

 なら、中距離じゃなく近距離からのワン・ツーで、ガードさせてボディにもっていく。

 

 ここからやってみるか。

 

 

 2Rの始めはともかく、半ばから形が出来始めた。

 というか、俺の攻撃が3連打で一旦途切れると、木村さんが認識したので、誘導しやすくなった。

 

 冴木と同じく、顔面への攻撃を警戒しているので、『スリー』をボディにもっていくとほぼ無警戒。

 2度、3度と続いたところで、木村さんの意識がボディへと向いたのを感じた。

 

 あえて、『ツー』を大振りにする。

 

 木村さんのヘッドスリップ。

 その避けた先に、左フックを置く感じで……。

 

 木村さんが大きくぐらついたところで、2Rが終わった。

 

 左拳に残る感触。

 半分、向こうからぶつかってきた感じだけど、そういうカウンターも、ありか。

 

 自分の攻撃を、相手に避けさせて誘導する。

 

 相手の目に見える、自分の攻撃。

 何が出来るか、どう反応できるか。

 そして、どう対処させるか。

 

 ああ、これって……ラムダの助言と同じことを言われてるんだな。

 

 ふっと、リングの外に視線を向けたら、なにやらラムダと熱心に話し込んでいた。

 

 ……。

 

 ちょっとイラッとしたが、とりあえず取材を受けよう。

 この後真田の公開練習も控えているし、サクサク終わらせて、俺は俺で練習を再開したい。

 

 でも、まあ……盛り上がっていないなら、燃料を投下するしかないよな。

 

『真田さんは俺なんかより才能あると思いますよ』

『帝大医学部を目指しても入学できる者はごくわずか』

『ボクサーで、日本王者になれる者はごくわずか』

『文武両道といえば格好いいですけど、片方に集中すれば、どこまでいけるんですかね?』

 

 などと話をつなげて、にこりと笑いながら。

 

『もったいないから、このタイトルマッチの結果で、片方に集中してもらおうと思ってますよ』

 

 一瞬遅れて、記者連中が沸いた。

 

「速水君、それって……真田を、引退させるってことかい?」

「え?ひとまず、ボクシングに専念する選択だってあるじゃないですか?」

 

 俺はやんわりと否定しておく。

 こういうのは、いきなり過激な発言をしても上滑りする。

 誤解やすれ違いも含めて、少しずつエキサイトしていくのが、周囲にとっては楽しく思えるからな。

 

 この後、真田の公開練習に移動した記者連中は、俺の発言を真田に投げかけるだろう。

 そして真田が、笑顔を崩さず、少しだけ毒をにじませてコメントするだろう。

 

 ……真田なら、やってくれるはずだ。

 真田は宮田とは違うと、俺は信じている。

 

 スポーツ紙の記事になれば良し。

 その上で、前日計量で両者が顔を合わせる、と。

 

 うまくいけば、周囲が勝手に盛り上げてくれる。

 

 ……藤井さんが、なぜか疑いの視線を俺に向けている。(目逸らし)

 

 

 

 

 取材を終え、記者連中は真田の公開練習に向けて移動を始める。

 俺は、木村さんと冴木に礼を言ってから、練習を再開。

 そして、会長たちは、ラムダやヴォルグも含めて会長室へ。

 

 気にならないと言えば嘘になるが、練習に打ち込む。

 

 

 

 

 一息つき、ちらりと時計を見る。

 夕方の6時を過ぎていた。

 木下ジムでは、真田の公開練習が始まっているだろう。

 

 夜に向けて、休憩と栄養補給……のタイミングで、音羽会長に呼ばれた。

 

 会長室には、会長と、ヴォルグとラムダの2人。

 そして……まだ名前を教えてもらってないから、どう呼べばいいのかわからない老人が1人。

 

「ヌシは……」

 

 老人が口を開く。

 

「見知らぬ人間の言葉を鵜呑みにして、タイトルマッチ前の公開スパーを棒に振るとは考えなかったのかな?」

 

 表情と口調に、どこか揶揄するような気配がある。

 ヴォルグは下を向いていて、ラムダは、日本語がわからないはずなのに微笑を浮かべているだけだ。

 そして、会長はそっぽを向いている。

 たぶん、言い含められている、か。

 

 ……どう答えるのが正解なのかね。

 あるいは、正解なんてものはない、か。

 




一体、何者なんだ……。


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29:メキシコからの旅人、後編。

海外および、メキシコのボクシング事情というか背景についての説明が語られますが、説明しづらい部分を含めて、ぼかしたり、現実とは変更した部分があります。
なので、決してリアルそのままではありません。
というか、作品の時代は1992年前後の想定だから約30年前で、謎の老人が語っているのは70~80年代の事情なので、さらに昔です。

ただ……細かい部分は、調べようがなかったので今後の展開の都合の良い感じにしてます。

える、知っているか?
アメリカのハワイ州は、東洋太平洋の管轄なんだぜ。(なので、有力選手はアメリカの本土へ行く)


 老人の目を見つめ、俺は静かに答えた。

 

「器が足りない分は、入り口を広げることで補おうと思ってます」

「……ほう」

 

 やや回りくどい表現で『人のアドバイスは大事にしますよ』と答えてみたものの、可もなく不可もなくって反応だな。

 それでも、考え無しの馬鹿は相手にしたくないって気配は感じる。

 

「人の話を聞いて、自分で試して、ダメだったら、それがダメってわかる分、無駄なことでもないかなと」

「時間は、無駄ではないのかの?」

「自分ひとりで考えて工夫する方が、よっぽど時間がかかりますよ……少なくとも、ヒントなり、何かの糸口程度のものは、他人に任せたいですね。大事なのは、そこから自分のものにするまでの過程ですし」

 

 老人の、目尻のしわが深くなった。

 

 なんとなく理解した。

 たぶん、ちょっと面倒くさい感じの人だと思う。

 なんせ、表情の変化を『わざと』見せてる。

 

 老人が、俺に見せるようにため息をつき……呟くように言った。

 

『……英語が話せると聞いたが?』

『時々怪しくなりますが、日常会話程度なら。あ、メキシコってスペイン語ですよね?それはわかりません』

『……ふむ。ワシの知る日本人ボクサーとは、随分と毛色が違うな』

 

 ……先に、礼を言っておくか。

 

『間違いで無ければ、御礼を言わせてください』

『何の、かな?』

『俺がデビュー2戦目に戦ったメキシコ人のボクサーを呼ぶのに、力を貸してくれたと聞きました』

 

 老人が、じっと俺を見つめる。

 

『……彼は、どうだったかね?』

『俺の知らないボクシングをしていて、ワクワクしましたね。あとは、左を一発綺麗にもらいました』

 

 それを聞いて、わずかに老人の目が開く。

 

『左を一発……それだけか?』

『ええ。アマ時代は、ほぼパンチをもらったことが無かったので』

『ふむ……』

 

 老人が少し目を伏せた。

 息を吐く。

 

『……ヌシに負けた後、彼がどうなったか話しておこうか』

『?』

 

 老人が、ラムダとヴォルグに視線を向けた。

 

『ちょうどいい機会でもあるし、メキシコのボクシング事情というか、背景について説明するとしよう』

『それはありがたいね』

 

 微笑を浮かべたままラムダが軽く受け、ヴォルグが顔を上げた。

 

『ごめんね、リュウ。しばらく黙ってろと言われたから』

『いいよ。すぐわかったから』

 

 老人が、メキシコのボクシング事情を語り始める。

 

 

 ボクシングは、『貧者のスポーツ』とも呼ばれる。

 その地域の経済事情が、ボクシングの競技人口に大きく反映されることが多い。

 

 1970年代のはじめに起こった石油ショック。

 石油資源のあるメキシコでは、それを契機に経済成長が始まった。

 開発や工場誘致も含めて、金利の安いアメリカから、金利の高いメキシコへと資金が流れ込み、好景気が続く。

 その中で、金持ちが生まれ、しかし貧しいままの者もいて……それでもやはり、この時期、メキシコのボクシング人口は減少へと向かった。

 

 しかし、アメリカの金利引き上げ政策が開始されると、状況は一変。

 これにより、資金の流れが逆流して景気が後退し……メキシコは膨れ上がった対外債務の利子払いができなくなり、80年代に入って一度破綻した。

 ここからの経済立て直しの是非を判断するのは難しいが、結果として金持ちはより金持ちになり、貧しいものはより貧しくなったと言われている。

 ここからまた、メキシコのボクシング人口は増加へと向かった……。

 

 

 前世の、バブル経済以後の雰囲気というか気配というか……確かにカオスだった記憶がある。

 あれと同じで、生まれた時から貧しいのと、貧しくなっていく過程を知っているのとでは、全然違ってくるのだろう。

 上昇を味わったからこそ、全てが失われ、奪われていくような感覚は強烈であるに違いない。

 道徳や社会通念、誇りといったものは、大人から子供へと……言葉に出来ない、気配や空気のように伝わっていくものが多い。

 急激な変化は、それを破壊する。

 

 ふと、思う。

 そんな中での、英雄リカルド・マルチネスか、と。

 

 80年代の半ばに、リカルドは世界王者になった。

 原作では 自分の試合に子供たちを招待して『子供たちよ、誇りを忘れないで欲しい』とか言ったんだったか……背景を考えると、かなり重いセリフだ。

 リカルドの年齢を考えると、生まれたのが60年代の半ばぐらい……子供時代に国全体が上昇気流に乗って、少年から青年期にかけての多感な時期に、色んなものが壊れていくのを見つめてきた世代になる。

 考えすぎかもしれないが、子供たちに向かって『誇りを忘れないで欲しい』などと発言するからには、『誇りが奪われていく』あるいは『誇りを失う、忘れていく』光景を嫌になるほど見てきた、見せ付けられてきたと考えるほうが自然だ。

 試合のほとんどをメキシコでやるのも、挑戦者に戦う価値を求めるのも……自分の国の子供たちに誇りを見せるためと考えれば、納得はいく。

 無論、それが全てではないにしても……そういう部分があってもおかしくはない。

 

 ただ、英雄であり、希望でもあるんだろうが……残酷な希望だよな、きっと。

『0』ではないというだけの希望の道。

 いや、『誇り』とは本来そういうものか。

 

 ……まあ、これはあくまでも原作の話であって、この世界ではどうなのかはわからない。

 

 とはいえ、メキシコの社会情勢というか背景が、ボクシング強者を生み出す理由のひとつなのは間違いない。

 日本の男の子が、自分の意思で、あるいは周囲の意思によって、野球のバットとグローブを手に取るのに対し、メキシコでは、多くの男の子たちが、ボクシングのグローブを手に取らざるを得ない。

 自分の身体だけが財産という状況なら……そうなる。

 

 日本人は意外に思うだろうが、メキシコにはプロボクサーのライセンスがない。

 いや、ないというと語弊があるんだが、プロの定義と言うか、概念が違うと言った方がいいのか。

 これは、日本ではおなじみのタイも、メキシコと同じだ。

 極端な話、プロモーターと契約さえ出来れば試合に出られる。

 日本人が反射的に考える『プロボクサー』の概念と、海外における『職業がボクサー』、あるいは『ボクシングで金を稼ぐ』という概念の間には、大きな溝がある。

 

 まあ、日本人で『プロライセンス』ではなく『職業』がボクサーといえる人間はそれほどいない。

 バイトで年に150~200万を稼ぐことは不可能ではないが、ボクシングで年にそれだけ稼ぐのは、本当に数えるほどだろう。

 ちなみに、去年の俺は『ボクシング』ではそれだけ稼げていない。

 去年、全日本新人王戦の千堂に始まり、A級トーナメント決勝の和田との試合まで、5試合戦った。

 新人王のMVPの賞金と、トーナメントの賞金の合計額の方が、5試合のファイトマネーより多い。

 A級トーナメント優勝の賞金50万円が、ボクサーにとって大金であることがわかるだろう。

 

 日本の一般人の考える『プロスポーツ選手』の概念は、良くも悪くも『普通に働くより大金を稼いでいる選手』というイメージだろうか。

 だとすると、俺は『プロスポーツ選手になろうとしている人間』に過ぎず、『プロライセンス』は、日本のコミッションが許可する試合に出場する資格でしかない。

 

 ……自分で言ってて、泣きそう。

 

 

 日本のジム制度に対し、海外では基本的にマネージャー制度なので、背景が違う。

 なので、システムが違ってくるのも当然だ。

 プロモーター、ジム(練習場)、マネージャー、選手の4つに分けると、日本のジムは前者3つが融合したようなイメージで、そこに選手が入門するという形式を取る。

 もちろん、プロモーターライセンスを持っていないジムもあるというか、そっちの方が数が多かったりする。

 そのジムは、自主興行ができず、他のジムの興行に所属のプロボクサーを参加させることになる。

 

 さて、これが海外(地域によっても違うが)だと、4つはバラバラだ。

 選手(トレーナー)と練習場が契約、そしてマネージャーと契約、最後にプロモーターと契約して試合を行う。

 この関係は、日本に比べるとかなり流動的で、条件がいい話が出ると、別の存在と契約するのが普通。

 もちろん、トレーナー無し、マネージャー無しで、選手個人でプロモーターと交渉するのも、できなくはない。

 海外のジムは練習場でしかないが、そこには多くの人間が出入りする。

 プロ、アマ、練習生、フィットネス目的……そして、プロモーターが訪れるようなジムも存在するからだ。

 そこでがんばれば、可能性がないとは言えない。

 

 世界基準でいえば、日本のあり方が特殊といえる……とはいえ、フィリピンの一部では日本のジム制度に近いところもなくはない。

 もちろん、海外といってもメキシコとタイは違うし、同じ国でも形態が違ったりするので、大まかなイメージでしか説明できない。

 

 日本とは違うと、それだけ理解していればいい。

 

 ちなみに、アジアでは国内にコミッションが存在する国のほうが少なく、国内のランキングや王者の認定を、東洋太平洋ボクシング団体がやっている状態。

 つまり、それらの国では最初からプロボクサーライセンスなど管理のしようがないし、日本のようなプロテストなんて不可能だといえる。

 日本と違って、言語が違ったりするのは当たり前で、統一した規格による管理など、どれだけの手間がかかるか想像するだけでも面倒だ。

 日本の管理システムの特殊さは、日本という国の特殊さから来ていると考えるのが無難だろう。

 

 

 メキシコに話を戻すが……ライセンスがなくとも、プロボクサーはいる。

 職業というより、ボクシングで金を稼ぐ人間。

 もちろん、それだけで食っている人間は、日本と同じでごくわずか。

 なら、ボクシングをやる上で、日本のプロのライセンスって何なのって話になる。

 

 これは、さっき述べたとおり、日本のコミッションが許可を与えた興行に参加する資格だ。

 

 現状、日本のコミッションが認めている世界ボクシング団体はWBAとWBCの2つ。

 WBOやIBFは認めていないし、日本のプロボクサーがそれに挑戦することも許可しない。

 前世で、それらがまだ認められていない時期に、これに挑戦するため、結局はコミッションに引退届を提出したボクサーもいた。

 まあ、コミッションとしては……ルールを守らせるのが仕事なので、それに沿って許可を与えるし、認めていない団体の試合に参加させるわけにはいかないのも理解は出来る。

 

 ただ、引退届けを提出し、ライセンスを返上してタイトルマッチに挑戦したということは、日本のプロボクサーライセンスの有無は、海外で試合を行う場合、何の意味もないということがわかるだろう。

 事実、プロモーターと契約し、現地の基準……健康診断などを満たせば、日本のライセンスなど必要ない。

 

 だからといって……俺が日本を飛び出して、海外のプロモーターとすんなり契約が出来るかといわれたら、答えはノーだろう。

 実力の問題ではなく、契約であり、システムであり、人のしがらみの問題だ。

 

 

 ここで、『記録に残さない』試合ではなく、『記録に残らない』試合を考えてみよう。

 

 興行主が、コミッションに金を払って興行の許可をもらうから、その試合は『正式なもの』とされ、そのコミッションの公式試合としての記録が残る。

 では、コミッションの許可が下りない、あるいは許可をもらわずに興行を行ったらどうなるか?

 

 会場を借りる、宣伝もする、ボクサー、レフェリー、ジャッジを集めて、客を呼ぶ。

 会場が、どこかの空き地でも、学校の体育館でも、規模と見栄えが違うだけで、本質は変わらない。

 

 この興行、ボクシングを見にきた客にとっては、許可の有無は何の影響もない。

 プロモーターも、大事なのは収支。

 そしてボクサーは……試合をして、ファイトマネーをもらう。

 

 一見、普通の興行と何も変わらない。

 ただ、試合の記録が残らないだけだ。

 

 もちろん、日本でこれをやろうとすると、参加したボクサーはコミッションから処分される。

 日本のプロボクサーは、他の格闘技の興行試合への参加は認められないし、演劇などでもコミッションに許可をもらわないと参加できない。

 これは、プロモーターも同様で、ボクシング以外の興行をするのは……まず許可がおりない。

 そのあたりの事情は、ちょっと霧の深い闇の話になるので省略するが、無許可でボクシング興行を行った興行主も、たぶん無事ではすまない可能性が高い。

 あと、アメリカだと政府管理下のアスレティックコミッション(プロレスなども含む徒手格闘技系の興行管理組織)の管轄になり、法律的に処罰の対象になるから、興行としては無理。

 

 じゃあ、これが問題にならないか……あるいは、バレない地域はどうなるか?

 日本でも、興行の資格やら許可やら、書類提出云々……そんなことを全然知らない人間の方が多い。

 なので、海外では、これが何の問題にもならないし、調べようがない地域は当然存在する。

 ギャンブルの対象としてボクシングの試合をさせるという形態も……当然ある。

 ボクサーは、試合をして、ファイトマネーをもらうだけだから、違いはない。

 繰り返すが、試合の記録が公式に残らないだけだ。

 

 前世の21世紀以降とは状況が違うし、70年代に比べると数が減ったとはいえ、メキシコではこういう公式に記録に残らない試合がたくさんある。

 金額の多寡はあれど、この試合に出た選手はファイトマネーを手に入れる。

 金を稼ぐという意味ではこの時点でプロボクサーだが、国際ボクシング団体に連なる下部組織も含めたコミッションに認可されているわけではないので、この試合の記録は残らない。

 そういう試合を見て、あるいは噂を聞いて、プロモーターがこれはと思う選手と契約し、日本で言うところのコミッションの許可を取った興行に参加させて試合を行うと……公式記録が残る。

 

 たぶん『記録が残る試合』と『記録が残らない試合』の区別を考えていないボクサーもいるだろう。

 こういうボクサーに『戦績』を聞いて『60試合ぐらい戦ったかな?負けたのは、5~6試合だったと思う』などと返ってきたとしても、『記録に残っている試合』は全然別物になる。

 

 日本の一般人の感覚でいうなら、公式記録が残っているボクサーが『プロ』で、記録の残らない試合はアマ活動という認識になるかもしれない。

 しかし、メキシコにおいて『2戦2勝』の公式記録を持つボクサーは、『記録に残らない』キャリアが見えてこない。

 見えないキャリアがその10倍以上あるとしても、日本人にはわからない。

 ただ、公式記録が残っている時点で、少なくとも、ボクサーたちの集団から、マネージャー、あるいはプロモーターに見出された存在だ。

 なので、『2戦2敗』という戦績のボクサーを、『海外からかませ犬を連れてきた』と判断するのは危うい。

 もちろん、そういう『出稼ぎ専門』のボクサーもいるのは否定はできない。

 金を稼ぐのが目的なら、勝つか負けるか、金になるほうを選ぶのは自然ともいえる。

 

 プロモーターの目的は興行の成功なので、その目的に沿ったボクサーを探して契約するが、基本的には『強い』ボクサーほど、見出される可能性は高いのは間違いない。

 だから……メキシコの『プロ』ボクサーのレベルは、高い。

 実際のボクシングのピラミッドの上位部分が凝縮されているといえるだろうから。

 

 よく耳にする『日本王者クラスが、メキシコでは6回戦程度』という言葉は……そもそも、日本の背景とメキシコの背景が別物であるという前提が抜けている。

 日本のプロボクサーは4回戦からデビューするが、メキシコのボクサーは4回戦に公式デビューする前、少年時代からキャリアを積み重ねてきているから、同じ4回戦、6回戦で比較するのは意味がない。

 無理やり日本でイメージすれば、野球の規模でアマチュアボクシングが行われていて、そこで結果を残した人間だけが、プロという『公式記録が残る』ステージでデビューする感じだろうか。

 

 もちろん、本気で図抜けた存在は最初から、あるいはすぐに公式試合デビューをする。

 しかし、多くの子供はジムにも通えず、試合をのぞき見て、ボクサーの真似をして……『俺も試合に出してくれ』と頼み込み、わずかなファイトマネーをつかもうとするところからスタートだ。

 当然、記録に残らない試合にも、格の上下みたいなものはある。

 最底辺は、ギャンブルの対象としての、喧嘩の延長戦上……だろう。

 

 ボクシング人口の多さによる全体のレベルアップがメキシコという国の背景だとすれば、公式デビューにいたるまでの道のりが、強者と弱者を篩い分けるシステムといえる。

 

 

 

 

『……まあ、メキシコのボクシングを支える事情はこんなとこじゃよ』

 

 そう言って、老人が一旦口を閉じる。

 

『……メキシコの、アマチュアボクシングはどうなっているんですか?』

 

 ヴォルグの質問が飛ぶ。

 

『……基本的に、裕福な人間がそれをやる。いや、生活に余裕のない人間には出来ないとも言える。金持ちに支援されて、それをやる人間がいなくもないが、な』

 

 日本でも、大会に出るためには、ボクシング用具はともかく、選手登録料、大会参加費、旅費に宿泊費など……全国大会にいけば、優勝するまで1週間の宿泊料金が必要になる。

 学校が負担してくれるケースもあるが、そのレベルになるまでは自腹だ。

 

 試合に出ても金が手に入るわけでもなく、費用ばかりかかる。

 同じ戦うなら、わずかでも金が手に入るほうを選ぶか。

 アマチュアで結果を残してプロデビューというのは、恵まれたものに許される道なんだろう。

 

 

 ……ふむ。

 

 俺は、老人の目を見て問いかけた。

 

『それで、俺と戦ったボクサーがどうなったか……と言う話は?』

『……誤解はしないで欲しいが、メキシコ人のボクシング関係者の多くは、メキシコ人を通じて情報を得る』

『?』

『強いメキシコ人ボクサーの相手から、日本人を見なくなった。しかも、メキシコ人ボクサーとの対戦の話があっても避ける……だから、彼らはこう思う。日本人は、ボクシングが弱いし、勇敢でもない、と』

 

 70年代までは、日本人も敵地で挑戦とか、ノンタイトル戦とかやっていた。

 以前は日本人の名前を聞いていたのに、それを聞かなくなったら……そういう解釈もあるか。

 

『……伊達英二は、勇敢なボクサーだったと評価されておるよ。ただ、かの地において、伊達英二は例外扱いじゃな』

 

 老人が、深く息を吐く。

 

『1人だけでは、個人としてしか評価されん。日本人ボクサーが、何人も、続けて……その勇姿を見せ付けねば、日本人の評価は変わらん。あるいは……ただ1人のボクサーが、強烈な印象を植え付けることが出来れば、もしかするやもしれんの』

 

 まあ、早い話……昔はともかく、今の日本人ボクサーはメキシコでは評価されていない、と。

 

 ……あぁ、つまり『弱い』日本人に負けて戻ってきたボクサーが、どういう扱いを受けるかってことか。

 メキシコでは、プロモーターが選手を見出して契約するわけだから……。

 

『俺に負けて、干されましたか?』

『うむ。契約を切られた』

 

 そう言って老人が目を閉じ……また開いた。

 俺を見る。

 

『正直、ワシも彼が負けて戻ってくるとは思っていなかったよ』

『ちょっ!?』

 

 音羽会長が、腰を浮かした。

 

『俺、言いましたよね?説明しましたよね?大事な金の卵だって!ちょうど良さそうな相手をお願いしますって、頼みましたよね!?』

『うむ』

 

 老人が、目を細めて笑った。

 

『新人王戦の参加資格である1勝はすでにクリアしていると聞いたからの。アマで無敗のエリート。早いうちに負けを教えてやるための、強すぎない、ちょうどいい相手を紹介したつもりだったよ』

『だからですか!?だからあんなっ……勝ったからいいものの、俺がどれだけ肝を冷やしたと思ってるんです!』

 

 会長と老人の言い合いを、ヴォルグは少し慌てたように俺を見て、ラムダは微笑みを浮かべて傍観している。

 

 

 会長と老人……両者の言い分はわかる。

 老人のそれは、多少皮肉っぽい悪意が混ざってはいるが、いわゆる俺を成長させてやろうという親切だ。

 そして会長のそれも、うん。

 

 ただ、あの試合で俺が負けてたら……スポンサーとか、テレビ局の予定がぶち壊しだったんだよな。

 会長、そのあたりは説明したんだろうか?

 まあ、結局は壊れたから関係ないが。

 

 すれ違いって怖い。

 俺としては、本気で『ちょうどいい』調整相手だったんだけど。

 

 まあ、話が進まないし……止めるか。 

 

『まあまあ会長、ここは結果オーライってことで』

『いや、速水。こういうのはきちんと言っておかないと、この人はまた同じことをやる』

『本人がいいと言っているぞ、(かず)坊』

『……俺はもう、40を過ぎたんですよ。その呼び方は、勘弁してくださいよ、本気で……』

 

 ……和坊って、会長のことか。

 

 まあ、子ども扱いされた時点で、勝ち目はないよな、こういう時って。

 とりあえず、流れを変えてあげるとするか。

 

『……ところで、干されて話はおしまいなんですか?』

『……いや、続きは、ある』

 

 屈辱をバネにしての復活か?

 メキシコの地で、俺を倒すために牙を研いでいるとかなら、燃える展開だが。

 

『干されていた彼に、1年ほど過ぎてから別のプロモーターが目をつけた』

『……ほとぼりが冷めた感じですか?』

『……だと良かったんじゃがな』

 

 ん?

 

『復帰しての2戦、彼は鬱憤を晴らすかのように快勝した……『弱い日本人に負けた』はずの彼が、強い勝ち方をした』

 

 老人が、一旦言葉を切った。

 

『それで、周囲の見る目が変わってきた……彼が負けた日本人は弱くなくて、強かったんじゃないのか、と。正直、ワシは悪い気分ではなかったよ。日本を離れて20年余り、自分のルーツが日本にあると、再確認したような気分だった』

 

 老人の口調、そして話の流れに……俺は、悪い予感を覚えながら先を促した。

 

『あー、つまり……彼に目をつけたのは、裏があったんですね?』

『復帰して3戦目……彼の相手は、一応デビュー戦という触れ込みだった』

 

 評価は、揺れ動く。

 反動もある。

 一度下がった評価の上げ幅。

 あとは、話題、か。

 

『……壊されましたか?』

『うむ……もう、ボクシングを続けるのは無理じゃろう』

 

 老人が頷き、俺を見た。

 

『ヌシに負けて、人生が変わった……と見ることも出来るの。あるいは、仲介したワシのせいで、な』

『思うところがないとは言いませんが、俺は俺の人生を大事にしたいですね』

 

 俺は俺で、他人のことは言えない。

 ひとつ間違えたら、『アレ』が待っている。

 

 負けることは大きなリスクだ。

 ならば、負けるほうが悪い。

 冷たいと言われようと、そうして割り切るしかない。

 

『……彼が順調に成長したとしても、メキシコの国内ランカー、それも下位に届くかどうかというのがワシの見立てじゃったよ』

『遅かれ早かれ……ですか』

 

 老人の目が、細められる。

 

『彼を壊したボクサーの2戦目を見たが、自分の中の暴力性をまるで制御できておらんかった。噂では、スパーでも相手が動かなくなるまで殴り続けるらしい。ボクサーとしての素質は間違いなく高い。しかし指導者が手綱を取れない限り、どこかで壁に当たるだろう』

『……まだ若いんですか?』

『ヌシよりも下じゃよ。まだ少年で、あの時、16か、17……そのぐらいじゃろう』

 

 なら今は……18ぐらいってとこか。

 戦績はあてにはならないが、デビュー戦であのメキシカンをぶっ壊す……か。

 

 しかし、スパー相手を動かなくなるまで殴り続けるとか……ん?

 

 まさか……死神(ミキストリ)の若い頃じゃないだろうな。

 幕之内のチャンピオンカーニバルの対戦相手をたどると、伊達英二、真田、島袋、武……4~5年後ぐらいと考えると、計算は合うのか。

 ただ、成長期であることを考えると……階級が違うか。

 

 

 

 俺は、思考を打ち切って時計を見た。

 

『色々と話を聞けてよかったです……俺は、練習に戻りますが、ヴォルグとラムダさんのことをよろしくお願いします』

『……出来る限りのことはさせてもらう』

 

 会長室を出て、練習を再開する。

 ただ、話を聞いただけ。

 それでも、世界のボクシングに触れたような、不思議な高揚感がある。

 

 老人は……『誰か』は、俺に名乗ることをしなかった。

 それだけは、少し残念に思う。

 名乗るまでもないと思われたか、あるいは自分とは合わないと判断されたか。

 あのアドバイスも、音羽会長への義理のようなもの、か。

 

 冴木とのスパーをちょっと見て、即座に俺の問題点を指摘するあたり……優秀だろう。

 ただ、契約するにしても……金が無いというか、報酬に見合う試合が用意できないんだよなあ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日、仕事が終わってからジムへ。

 ちょうど、帰ろうとしていたヴォルグがいた。

 

「やあ、ヴォルグ。帰るのか?」

「うん、うち……うちあわ……話、終わったから。明日、朝の飛行機に乗るよ」

『事故と病気だけは気をつけろよ。あと、治安も良くないらしいから、日本と同じ感覚でいると危ないぞ』

『ありがとう、リュウ』

 

 さりげなく英語に変えたが、日本語を覚えさせるという意味では良くないんだろうか?

 少々悩ましい。

 

 と、ラムダも一緒だったか。

 

『ラムダさんも、体調に気をつけてください。アメリカは、何度も行ったことがあるんですよね?』

『ああ。メキシコも大会で一度訪れたことがある。話を聞く限りでは、ずいぶんと様変わりしたようだから、少し楽しみだよ』

『……メキシコオリンピックの時ですか?』

『残念ながら、そのとき私の指導していたボクサーは国家代表選手には選ばれなかったよ』

『そうですか……2人の旅に、幸運を』

『ありがとう、速水』

 

 そのまま、別れた。

 

 2人が日本に戻ってくるのは、予定では約3週間後。

 3月の中旬、だな。

 桜には、まだ少し早い時期か。

 

 

 

 

 

 

 夜の9時まで、約3時間。 

 特に意識せず、基礎練習をこなしていく。

 

 練習後の、体重のチェック。

 計量の前日、1日水を絶てば……リミットだろう。

 

「……」

 

 振り返る。

 老人。

 

「どうしました?」

「ヌシの、試合のビデオを見てな……新人王戦で、苦戦した理由はわかっているかの?」

 

 苦笑する。

 

「……倒さなきゃという意識が強かったのもありますが、色々とこだわり過ぎました」

 

 パンチの威力。

 最高の威力を求めていた。

 

 最も力の出せる姿勢。

 最も力を込められるタイミング。

 最も……。

 

 最高を目指せば目指すほど、条件は厳しくなる。

 つまり、同じ姿勢、同じタイミングで、パンチを放つようになる。

 それは、柔軟さを失い、攻撃の幅をなくし、相手に読まれやすくなることを意味する。

 

 新人王戦の3試合……あの3試合は、あの3人は、俺にとって特別な相手だった。

 それを意識しすぎて、俺は自分のボクシングのスタイルを崩してしまった。

 

 最初の幕之内との試合は……理不尽な破壊力を前にして、ムキになってしまった。

 宮田との試合は、当てるまではともかく、当ててから単調になった。

 千堂との試合では、そのあたりが一番ひどくでてしまったと思う。

 

 藤井さんが千堂との試合で俺に言ったのは……心がけ、『気持ち』の部分だ。

 ダウン云々はさておき、『技術』が褒められたわけではない。

 2戦目のメキシカンとの試合は、普通に『試合内容』を評価してくれた。

 いい試合だった、熱い試合だった……と、藤井さんが、ボクシングを楽しむ、あるいは評価したいのは、ボクサーの想いが伝わってくるような、そういう試合なんだろう。

 それは、世界戦から4回戦まで、全てのボクシングの試合を楽しめる可能性があるスタンスといえる。

 

 世界戦のレベルじゃないと、ボクシングは面白くないよね……というスタンスの人間もいるだろうが、それはそれで、ボクシングの面白さをみんなに伝えるのは難しくなると思う。 

 

 

 まあ、つまるところ……幕之内が宮田にはなれないように、俺は幕之内にも、宮田にも、千堂にもなれないし、なる必要もない。

 俺は、速水龍一であり……『速水龍一』になる必要もない。

 

 最高のパンチなんてものは、相手が避けられない、対応できない状況、あるいはとどめの一撃だけでいい。

 1種類しか撃てない100の威力のパンチより、様々な変化をつけられる60や70の威力のパンチのほうを、俺のボクシングは必要としている。

 

 無駄な動きをなくすことを心がけている俺が言うのもあれだが、無駄な動きをなくすのと同じぐらい、無駄な動きをすることは大事だ。

 俺の右手の、0.1秒の無駄な動きが、相手の0.11秒の迷いや逡巡を生むなら、それは無駄にはならない。

 相手に猶予を与えることで、判断が、動作が遅れるからだ。

 

 いつ、どのタイミングで、どの部位を無駄に動かし……その無駄が『相手にどう見える』か。

 相手の視界を、反応をイメージできなければ、有効な無駄を作り出せない。

 

 ラムダの助言はシンプルで……とても深い。

 そしてそれが、俺のボクシングのボトルネックになっている。

 

「月並みですが、自分を見失わず、冷静に、勝ちに徹する……それが出来てませんでしたね、きっと」

「ふむ。理解しているか。ならばいい」

「でも、あの3人は強かったんですよ?」

「……強い、弱いは、所詮相対的なものに過ぎん」

 

 そう言って、老人が俺を見る。

 その目に、感情は見えない。

 

「強い相手は、壁よ」

「……はい?」

「人は、壁を相手にしたとき、登ろうとする、回り込もうとする、あるいは、地面を掘ろうとする」

「……破壊するというのは?」

「それで壊せるような壁は、壁とは言わんな」

 

 ごもっとも。

 

「ボクサーは、壁にぶつかることで、ボクシングが深くなる。壁を超えるための、試行錯誤がそうさせる。だからといって、常に壁を求め続ければ……そのボクシングは、どこか歪なものとなるじゃろう」

「……深くなるなら、悪いことではないのでは?」

「弱い相手とやらねば……ボクシングが広がらん」

 

 老人が、俺の目を見つめながら問いかけてきた。

 

「ヌシは、アマチュア時代……弱いボクサーを相手に、色々と出来ること、出来ないことを確認していったのではないかな?」

「……あぁ、そうですね。そうだと思います……試合をわざと引き伸ばして、経験を積もうとか考えてましたから」

「能力が違いすぎれば、対戦相手などサンドバッグと何も変わらんよ。つまり、ヌシのアマ時代の経験は、経験とは言いがたい……かもしれんの」

 

 ……老人が、俺の精神を殺しに来ている。(震え声)

 

「何事も、バランスじゃよ。強い相手と戦い、弱すぎない相手と戦う。ボクシングを広げ、その上で深くする。狭いまま、深く深く掘り下げていけば……歪を過ぎて、行き止まりじゃな」

「先が……ないですか?」

「ヌシは、強い相手にまずはパンチを当てるために試行錯誤したのじゃろう。しかし、2発、3発と、攻撃を続ける余裕が無いまま、スパーを繰り返せばどうなる?」

「……」

「相手が強いから、防御に、避けることに特化する。相手が強いから、1発を当てることにしか集中できない。鍛えられるのは、その部分ばかり……まるで、苦行僧じゃな」

 

 黙りこんだ俺を見て、老人のあごひげが動いた。

 それが、大きく口を開けて笑ったのだと、気づく。

 

「スパーの相手が、伊達英二に、世界アマ王者のヴォルグ・ザンギエフとはの。ヌシは、つぶれずに生き延びたことを誇っても良い」

「つぶれるって……別に、毎日やったわけじゃないんですけどね」

「なるほど……和坊の言うとおり、どこかずれておる」

 

 また少し笑って、老人が俺に背を向けた。

 

「現状、ヌシのボクシングには、スタイルはあるがシステムがない」

「……えっと、決まった形と言うか、必勝パターンがないって感じですか?」

「体格、能力、性格から、自分が戦いやすいやり方がスタイル。自分のスタイルを活かし、勝利へと導くためのやり方がシステム……ワシは、そう定義しておるが、どうかな?」

 

 すっと、俺の胸の中に入ってくる表現。

 

 スタイルとシステム。

 うん、なるほどな。

 つまり、スタイルは背骨のようなものだが、試合相手によってシステムは変更される。

 

「相手より優位な部分で戦う……のは、システムじゃなく、行き当たりばったりですか」

「国内なら、今のままでいけるじゃろう。しかし、その上で戦うなら……現状はまだ、器用貧乏以上、万能未満というところじゃな」

「厳しいですよね、やっぱり……」

 

 わずかな沈黙。

 それを、老人が破る。

 

「……世界といっても、ピンキリだからの。弱い世界王者はいないが、強くない世界王者なら珍しくない。ヌシが目指すのが、キリならば……」

「出来れば、ピンを目指したいんですけどね」

「ピンを目指すか……人によって評価は変化するだろうが、ピンの1人として確実に挙げられるのが……」

 

 老人が捨てた言葉尻。

 それを、俺が受ける。

 

「リカルド・マルチネス、ですね」

 

 かすかに、ほんのわずかに、老人の背中に力が入ったように見えた。

 

「……あのチャンピオンは強い。攻守ともに、ほぼ完璧といえるじゃろ」

「ヴォルグは、どうです?」

「ワシは、ヴォルグを映像では見たが生で見ていない……が、かなり厳しいと思っておるよ。世界王者を目指すなら、回避したほうがいいじゃろう。世界を獲る実力は十分あるのじゃから」

 

 かなり厳しい、か。

 しかし、無理とは言わない。

 勝ち目があると思えるだけ……やはり、ヴォルグもまた世界のトップクラスか。

 

 とはいえ、俺はリカルドを生どころか、映像でもろくに見ていないんだよなあ。

 

「まあ、ヌシはひとまずタイトルマッチに勝って、和坊を喜ばせてやるんじゃな。あれは、まあ……善人ではある」

「スポーツ選手には向いていない、ですね」

 

 老人の肩が、かすかに震えた。

 どうやら、笑いをこらえているらしい。

 

「では、の」

 

 歩き出した老人の背中に向けて。

 手ではなく、言葉を伸ばす。

 

「結局、名前は教えてくれないんですね?」

「……メキシコで、国籍不明のアジア人としてトレーナーをやっておる」

「日本で、そこそこ有望だと評価されているボクサーをやってます」

 

 ゆっくりだった歩みが、止まる。

 

「……ワシが契約しているボクサーが、6月にアメリカでの試合を控えていてな。それに勝てば、世界前哨戦へとコマを進められる」

「世界前哨戦って……指導しているボクサーは、ランカーですか?」

「シングル(一桁)ではないが、な。ただ、その対戦相手は3月にも試合を組んでいる。その後の世界前哨戦の話も含めて、全部対戦相手と契約しているプロモーターが持ってきたようじゃ」

 

 つまりその対戦相手は、今はランカーでもなんでもない……?

 

「……それ、狙われてません?」

「手頃な世界ランクを奪い、世界前哨戦を勝って挑戦権を手に入れ……そのまま、ベルトも奪うという青写真を描いているのだろうな。間違いなく、強敵じゃろう……そうでなければ、こんな仕掛けはせん」

 

 試合をさせたくないという想いが、口調から感じ取れた。

 

 つまり、もう遅い。

 契約で縛られている。

 この一連の大仕掛けに関わるボクサー全員が、縛られているのだろう。

 

 世界王者には、手頃と思える挑戦者と巨大なマネーを。

 世界前哨戦の相手には、世界への挑戦権を。

 老人のボクサーには、世界へのチャンスにつながる道筋を。

 たぶん、3月に戦う相手には……世界ランカーと戦う、ステップアップを。

 

 話を持ちかけられた時点では、大きなチャンス。

 それぞれがチャンスだからこそ、飛びつく。

 それぞれが飛びついてしまうからこそ、道が出来る。

 生贄で作り上げる、世界王者への道が。

 

 無名だからこそ……無名のうちにしか出来ない大仕掛け。

 世界ランカーでもなんでもない、おそらくはまだ無名のボクサーを……段階を踏ませて、経験と、世界ランクと、世界への挑戦権を与えていく。

 

 最初に交渉しなければいけなかった相手は世界王者か。

 それを餌にして、飛びつきそうな相手を厳選しつつ、自分が売り出そうとしているボクサーまでつなげていく。

 契約となれば、会場はもちろん、試合の時期からファイトマネーまで、すべてが整っている必要がある。

 

 いくら金を使ったかは知らないが、この仕掛けが失敗したら破産まであるな。

 そして、この仕掛けが出来るプロモーターが、そこまで入れ込むボクサーって……たぶん、ヤバイ。

 

「……3つ勝てば、世界王者ですね」

 

 俺の言葉が、どこか空ろに響く。

 負ける。

 そんな予感がある。

 

「欧米社会では、『契約』は重い。様々な人種民族、そして価値観が錯綜するからこそ、契約を重視する。そしてワシは、トレーナーじゃからな。契約も含めて、この手で世界王者をという、想いもある」

 

 おそらく、老人も俺と同じ予感を抱いている。

 試合をさせたくないという、感情がにじみ出ていることからも明らかだ。

 

「欧米社会では契約は重い。しかし、この国では……日本人にとって『約束』は契約よりも重い。ヌシは、ワシに日本人であることを強く認識させた。だから、ワシはヌシには名乗らんし、何の約束もせん」

 

 そう言い残して、老人は俺の前から去った。

 

 

 

 

 

 日本人にとって、『約束』は契約よりも重い、か。

 

 原作では、老人が真田と組んだのが……おそらく、今年の9月か10月。

 つまり、その時点で老人は、フリーの立場だった。

 そして今は、契約に縛られている、か。

 

 なかなか噛み合わないものだな、人生ってのは。

 




謎の老人は、謎の老人のままです。(目逸らし)
話の展開上、魔法使いと世界を説明できる存在と流れが必要ではあったんですが、もうちょい滑らかな物語にしたかったですね。
体調不良の前に、筆が止まってた理由でもあるんですが……話のテンポが悪いです。

なお、現実だとメキシコは90年代にも経済破綻をしてます。
そして、21世紀に続いていくリアル世紀末タウン。
昔見たマッド映像、北斗の拳の曲に合わせたメキシコシティ観光紹介で大爆笑したんですが……もう見られない感じ。 


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30:タイトルマッチ前日。

正統派プロレス。(笑)


 2月25日。

 

 後楽園ホールの4階のロッカールームで、計量を行う。

 本来は午後の3~4時ぐらいに行うのだが、交渉して夕方以降にしてもらった。

 

 ……平日は仕事。

 

 ダメ元の交渉だったのだが、真田も『大学の都合が……』ということで、両者の合意の下、俺たち2人の計量は夕方以降に変更されたわけだ。

 

 今計量場所にいるボクサーは、俺と真田の2人だけ。

 たぶん、前座のボクサーの計量はいつもどおりに行われたのだと思う。

 あとは、所属するジムの会長と、記者連中。

 

 冬は汗が出にくいから減量が厳しいというが、乾燥した空気が曲者だ。

 冬の空気はもちろん、暖房の効いた室内は余計に乾燥する。

 尿や汗としての、目に見える排出量は減るかもしれないが、空気と接した部分から奪われていく水分は無視できない。

 その上、肌が荒れたりすると、減量期でありながらその修復のために余計なエネルギーと栄養素を必要とするので……当然ケアが必要になる。

 ハンドクリームにワセリン……減量中なのに、身体(肌)から水分を奪われるのを防がなきゃいけない。

 冬の減量は、汗が出にくいから厳しいというより、体調を崩しやすいから難しいというのが真実に近い。

 

 飲食物についても、冷たいものを摂取すると、身体の中で『体温』まで暖めるエネルギーが失われる。

 熱いものならいいのかというと、それはそれで熱を発散するために余計なカロリーが奪われる。

 通常時ならともかく、バランスが崩れて体調を崩してしまう可能性がある。

 

 首を傾げてしまうかもしれないが、『食事』がカロリーになるまで時間がかかることを忘れてはいけない。

 つまり、身体の中のエネルギーが少ない状態で、消化のために必要以上のエネルギーを使うような食事を取ると……どうなるかって話だ。

 なので……減量末期は、人肌というかぬるいものを口にすることになる。

 

 減量が終わった後、『ヒャア、もう我慢できねえ!』と冷たいものを飲んだり、考え無しに食事をしたら……当然、ギリギリであればあるほど体調を崩すのは言うまでもない。

 

 とはいえ、食事を取り、消化し、栄養を吸収するというのも、人によって差がある。

 食が細い人間、脂モノがダメな人間がいるように、それもまた才能のひとつだ。

 人間が動くにはカロリーが必要で、練習を多くするのには、それだけのカロリーを取らなければならない。

 つまり、『食事をたくさん食べ、消化できる』という才能は、スポーツ選手にとって重要だ。

 それだけの栄養素を、自分の中に取り入れることが出来る。

 動くためのカロリー、成長するためのエネルギー、回復のための栄養……それらをどれだけ『食べることが出来る』かは、紛れもない才能であり、環境といえる。

 

 客観的に言えば、俺はわりとそっちの才能にも恵まれていると思う。

 ただ、主観的に言えば……前世よりも弱くなったなぁと。

 弱くなったという実感が、俺を神経質にさせているのは間違いない。

 

 

 ……さて。

 

 息を吐き、秤に乗る。

 問題は無いと思っても、緊張する一瞬。

 

「……速水選手、121と4分の3ポンド。OKです」

 

 ……4分の1ポンド(約110グラム)は、計量時間がずれ込んだ分だと思っておこう。

 

 音羽会長に軽く肩を叩かれ……身体が冷えるのを防ぐために服を着た。

 水筒のぬるいスポーツ飲料を一口飲み、息をつく。

 

 2人とも、計量はクリア。

 これで、何かアクシデントが起こらない限り、明日は問題なくタイトルマッチが行われる。

 

 その前に……明日の試合に向けての取材だが。

 

 ちらり、と真田を見た。

 一瞬だけ視線が交錯し、お互いに目を逸らす。

 

 ……うん。

 

 俺の公開スパーの後の発言は、例によって『引退させてやるぜ』的なアオリ文句に加工されたが、それに対する真田のコメントが……スポーツ新聞の記事では、こうだ。

 

『ん?ああ、ボクシングしかやってこなかった、視野の狭い人間の言いそうなことですね』

 

 これこそまさに、会話のキャッチボールだろう。

 

 ただ、俺が真田と会話したのは、チャンピオンカーニバルの日程発表のあの時だけ。

 それなのに、こちらの意図を読み、きちんと応えてくれた。

 人間関係でいうなら望ましいが、ボクシングで戦う相手となると……こちらの意図を読み取られるのは、なかなかに怖いものがある。

 

 まあ、それは今更だが……真田のコメントが、悪役寄りになっているのが気になる。

『ボクシング』の取材に『ボクシングしかやってこなかった視野の狭い人間』などと口にすれば、反感を買って当然だ。

 真田なら、それを理解していないはずはないと思うんだが。

 

 俺が悪役(ヒール)でいくとあの場で言ったが、真田として何か不都合があったのか、あるいは……『君のコメントから意図を読み取ったように、こちらの意図を読み取ってくれるよね?』という問いかけなのか。

 頭の中で色々と想定しながら、俺はビスケットを2枚、スポーツ飲料でふやかしながら飲み下した。

 

 

 俺と真田が、記者連中と向かい合う。

 

「まずは、王者から一言お願いします」

 

 沈黙。

 

 真田に視線を向けると、にこやかに微笑んだまま……反応しようとしていない。

 周囲がざわつき始めたところで、初めて真田が表情を動かした。

 

「あれ?王者って、ボクのことですか?」

 

 ……おい。

 

 どうやら、真田は本気で悪役(ヒール)をやるらしい。

 なら、俺もそのつもりでいくしかない、な。

 

「ボクが何Rで倒されるかとばかり予想されてるようですから、てっきりボクは王者とは思われてないんだなと勘違いしてましたよ」

 

 にこやかに吐き出された真田の毒に、記者連中の顔が引きつった。

 

 これまで、紳士というか優等生のイメージの強かった真田の言葉だけに、戸惑いが見える。

 俺は俺で、そんな記者連中を眺めて楽しんでいたり。

 

 5秒ほど経って、ようやく口を開いたのが藤井さんだった。

 

「いや、まあ……予想は予想に過ぎないということで」

「そこは嘘でも否定してくれると嬉しいんですけどね」

 

 真田は、あくまでもにこやかに毒を吐く。

 

 なんとなく、だが……基本的に、真田は真面目なんだろうなという気がした。

 優等生をイタズラに誘うと、本気でイタズラに集中してしまう……そんなイメージ。

 もしかすると、試合が注目されず、負け確定の予想が飛び交う現状に腹を立てていたのかもしれないが。

 

 さて、と。

 

 真田ではなく、記者連中のほうを見ながら口を開いた。

 

「……そんなにいじめちゃかわいそうですよ、『元』王者(チャンピオン)

「……気が、早くないかな?」

 

 真田もまた、俺ではなく記者のほうを見ながら言ったのが、気配でわかった。

 

「1日ぐらいなら、誤差でしょう」

 

 一旦言葉を切り、ここでようやく俺は真田の横顔に視線を向けた。

 

「それに、『元』ボクサーとは言ってませんし」

 

 ゆっくりと、顔ではなく身体の向きを変えて、真田が俺を見る。

 そして俺は、真田を見返す。

 

 カメラのフラッシュ。

 記者連中のざわめき。

 

 こうなると、もうコメントは不要だ。

 熱だけを残して、記者連中に想像の余地だけを与えるとしよう。

 

「じゃあ、真田さん。次はリングで会いましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホールの5階。

 リングが既に設置されていて、多少驚く。

 

「昨日ボクシングに使われて、今日は予約が入らなかったんだろうな……だから、照明はともかく、リングは解体せずに置いといたんだろうよ。もちろん、明日はちゃんとチェックするけどな」

 

 音羽会長の言葉に、納得する。

 

 ホールを借りるのは、ボクシングやプロレスだけじゃない。

 なので、試合の前にリングを設置するし、終われば解体して片付ける。

 まあ、ホールと興行主同士の間で合意が得られれば……そういうのもありなんだろう。

 

 俺はポケットから時計を取り出し、明日俺がリングに向かう青コーナーの入場口へ移動した。

 

 入場をイメージしながら、いつものペースでリングへ向かい……時計をチェックする。

 人それぞれだろうが、俺にとってリングの上は勝負の場だ。

 さすがに、今の格好、そして土足で、リングに上ろうとは思わない。

 

 リングにつくまでの時間、足元、松脂をつけ、階段を上る時間、リングに上がってからは観客に向かって手を上げて一周……それに、何秒かけるか。

 

 明日の、真田とのタイトルマッチ。

 実は俺にとって初めてのメインになる。

 

 俺が今何をしているかと言うと……。

 

「『リングの上』じゃなく、『リングで会いましょう』って言われたから、もしかしたらと思ったんだよ」

 

 苦笑しつつ、振り返った。

 

 真田と、木下ジムの会長の2人。

 他は……いないか。

 

 新聞記者は、記事の作成と選別で締め切りが早いため、ネタになるかどうかが重要だが、藤井さんのような専門誌の記者は、ある意味で腰をすえられる。

 さっきも、藤井さんが妙な視線で俺を見ていたし。

 

「時間、大丈夫ですか?」

「2時間ぐらいなら問題ないかな」

 

 2時間、ね。

 つまり、真田も話をするつもりだった、か。

 

 まあ、とりあえず……。

 

「真田さん、俺が悪役(ヒール)をやるって言ったじゃないですか」

「いやぁ、ボクは子供の頃から優等生をやってたからさ。実は、悪役ってやってみたかったんだよ」

 

 などと頭をかく真田の後ろで、木下ジムの会長が、音羽会長にぽんと肩を叩かれているのが見えた。

 何をやるかぐらいは、報告しておいたほうがいいと思うんだ。

 俺もあまり人のことは言えないけどな。

 

「……まあ、試合が話題にもならないし、早いラウンドでのボクのKO負けの予想ばかり聞かされて、うんざりしてたのも事実だけど」

 

 ……いい性格をしてらっしゃる。

 

 

 

 音羽会長は木下会長と。

 そして、俺は真田と。

 

「それで、さっきは何のチェックをしてたのかな?」

「ああ、入場曲のタイミングのチェックです」

「……?」

「俺は、メインも入場曲を使えるのも初めてですからね」

 

 ホール全体を見渡すように、視線をめぐらせた。

 

「ホールは狭いですからね……何も考えずに入場すると、その曲を象徴する部分に入る前に切られたりするじゃないですか」

 

 と、真田に同意に求めたのだが……おかしそうに笑われた。

 

「……?」

「いや、本当にエンターテイナーなんだなって」

「小学校の運動会でさえ、予行演習があるじゃないですか?試合を思い通りに演出するのは困難ですが、入場のタイミングは簡単に確認できるし、調整もできますからね。やって当然でしょう」

 

 ほんのちょっとしたことの積み重ね。

 ボクシングと変わらない。

 キリが無いともいえるが、手を伸ばせるところには手を伸ばす。

 

「うん、確かにそうだね……何の曲を使うんだい?」

「それは明日のお楽しみにということで……クラシックジャズの人を紹介してもらって、俺の好きな曲をアレンジしてもらいましたからね」

「へえ」

「収録のスタジオを借りるのも含めて、20万ちょいかかりましたけど」

 

 真田が、おそるおそるといった感じに、聞いてきた。

 

「それ、この試合のファイトマネーのほぼ全額なんじゃあ……?」

 

 他の大きな会場でも使えるように、ショート、ミドル、ロングの、3種類のバージョンをアレンジして作ってもらった。

 俺の要望も反映された、いい仕事。

 いい仕事だから高くない。

 高くないったら、高くない。

 

 ただ、前世の……デジタル音源全盛の、セルフ収録が出来た時代がちょっとだけ懐かしくなったのは確かだが。

 

「真田さんの入場曲は、ボレ〇でしたっけ?」

「あ、うん、同じフレーズの繰り返しで盛り上げていく感じが好きなんだよ」

「……個人的には、入場に時間がかかる広い会場に向いた曲のような気もしますが」

「……かもしれない」

 

 ここまでは、当たり障りのない会話。

 

「それで、真田さんも……俺と話をするつもりだったんですよね?」

「話をすることで、勝つ可能性を上げたいなと思ってね」

 

 性格。

 価値観。

 会話を交わすことで、その一端が知れる。

 

 情報のやり取り。

 情報を与えることで、裏をかくことも出来る。

 しかし、嘘をつけばつくほど、自分をさらすことになる。

 

 ふと、真田が俺を見た。

 

「速水くんも、そうだろ?」

「……ですね。いい試合をするためには、ある程度かみ合う必要がありますし」

「なら、ボク達が話をすることには、何の問題もない」

 

 わずかな、間。

 

 ここは、俺から譲歩すべきか。

 

「俺に、何を聞きたいですか?」

「いくつもあるけど……一番気になったのはあれかな」

 

 真田の目は、俺に向けられたまま。

 

「なぜ、野球をやめてボクシングに転向したのか?」

「……それを、聞いちゃいますか?」

「速水くんを、『挫折知らずのエリート』と評する人間は多いけど、ボクはそうは思わない。野球を諦めたことは、キミにとって大きな挫折だったと思うんだけど、どうかな?」

「挫折ですよ」

 

 短く。

 そして続ける。

 

「自分が野球選手としては大成できないことがわかってしまいましたからね」

「中学生の時点で?評価されていたと聞いたけど?」

「俺が中学に上がる前ですけどね、甲子園優勝校のレギュラーの1人が母校の中学校で野球教室っぽいことをやると聞いて、見学にいったんですよ」

 

 後輩達に『どこまで飛ばせるか見たい』と請われ、『軟式と硬式は打ち方から違うから意味無いぞ』と前置きした上で……フルスイング。

 強打で甲子園優勝を勝ち取ったと言われるチームの、5番打者のフルスイング。

 

「……俺の見ている前で、ボールが千切れ飛びました」

「……」

「……」

「え?野球のボールって、千切れ飛ぶものだったっけ?」

 

 真田が動揺する表情はレアかもしれない。

 

「硬式はともかく、軟式のボールは……まあ、古くなってゴムが劣化すると、衝撃に耐え切れずに割れることはあるんですけどね」

「ボールが、古かった?」

「新品ではなかったですが、その中学校で普段の練習で使っていたボールでした。それを含めて5球打って、2球はボールが割れて、残り2球もボールが振動しながら異音を発しつつ飛んでいって、飛距離は出ませんでしたよ」

「……5球で、3球か。偶然とは言えないね」

 

 頷いておく。

 

「俺は、中学に上がると身長の伸びがすぐに止まって……結局、野球選手として大成するための前提条件、基礎体力が足りないというか、俺では届かないことがわかってしまいましたからね」

 

 中学生でも身体能力が高ければ、ボールの状態によっては、打撃練習で割ってしまう。

 ただ、千切れ飛ばしたり、5球で3球を破壊となると……基礎体力の違いと言ってしまえばそれまでなんだろう。

 

 俺に衝撃を与えた、野球のボールを千切れ飛ばした人は……結局プロから声がかかることはなかった。

 基礎体力は、あくまでも前提条件でしかない。

 野球選手として必要なものは他にもたくさんあって、やはり適正がなければ厳しい。

 

 時速150キロのボールは、投手の手を離れてから約0.4秒でストライクゾーンを通過する。

 プロの1流選手のスイング速度で、始動からインパクトまで約0.2秒。

 投手の手を離れてから0.2秒で、ボールの軌道を予測し、狙いどころを定めて正しくスイングする。

 これが、プロのバッティング。

 中学生ならごく普通、あるいは標準以下のレベルの時速100キロでも、到達するまで0.66秒。

 スイング速度は相応に遅くなるが、まあ約0.4秒で、ボールの軌道を予測し、正しくスイングするとして……中学野球とプロ野球との差は、0.2秒ほど。

 この0.2秒の中に、ギュッと濃縮された無限のハードルが存在する。

 

 野球に限らず、あらゆるスポーツにおいて……上位に近づけば近づくほど、人間の反応限界、0.1秒に挑戦する争いになる。

 

「野球はダメだと理解して、じゃあどうするかとなると……体格的に、体重制のスポーツかなと。そして、曲がりなりにも『プロ』が存在するスポーツということで、野球の代わりになるものがボクシングでした」

 

 ……と、この説明でそれほど設定に穴は無いはずだ。

 

 事実と、確かめようがないエピソードの組み合わせ。

 前世も含めて、ほとんど嘘はついてない。

 

 

「……なるほど」

 

 真田が頷いた。

 

「なんだか、ずいぶん計算高い印象だね」

「……多数派とは言いませんけど、高校野球をやる人間は計算高くないと厳しいですよ?」

「というと?」

「高校で、甲子園を目指すようなところで野球をやろうとすると、どのぐらい費用がかかるかわかります?」

 

 指を折りながら、真田に説明していく。

 

 毎月の部費、そして保護者会の会費……仮に月に1万として、引退するまで約30万。

 ゴールデンウイークと夏休みの、年に2回の遠征……1回に5万として、引退までに5回で25万。

 試合用のユニフォーム一式、バッグ、遠征バッグ、その他諸々……学校にもよるが、これらが約10万。

 グローブは、いくら丁寧に手入れをしても寿命がある。

 革と革の間の油脂……これが、衝撃のたびに飛ぶのだが、表面に油を塗ってもダメで、職人に頼まない限り回復は出来ない。

 結局、あるレベルの衝撃を与える……何回ボールを受け止めるかがグローブの寿命で、捕球を繰り返すことで寿命が尽きてしまう。

 軟式グローブに比べて、硬式のグローブは高い……2~3万を、引退までに2つ。

 キャッチャーやファーストなど、ポジションによっては複数のグローブが必要になる。

 スパイクは、交換式の刃が約1000円だが、この刃は早ければ1ヶ月、まあ2ヶ月は保たない。

 その前に、半年から1年程度でスパイクそのものを履きつぶしてしまう。

 試合用も考えると、1足1万円としても、引退までに5万程度は見ておくべきで、これに交換用の刃の金額が加わる。

 そして、意外にもアップシューズが金食い虫だ。

 ダッシュや、サーキットトレーニングなど、左右前後の動きが激しく、運動靴は2ヶ月保つかどうか。

 ランニングシューズは、基本的に横の動きへの耐久力が弱く、高い安いはあまり意味がない。

 年に6足から8足を履きつぶす羽目になる。

 1足2~3千円の安物でも、引退までには最低でも3万以上必要だ。

 

 学校によってはトレーニングマシーンがなく、近くのジムに通うためにジムの費用がかかる。

 練習前に食事をさせる学校なら、栄養費が必要になる。

 

 ざっと挙げただけでも引退までに約100万……寮に入れば、さらに上乗せされる。

 

「……とまあ、経済状況も含めて、親が乗り気ではない家庭の子供は、本気で野球をやるなら高校進学前に『これだけ金を出してくれ』と両親を説得しなきゃいけないんです。場合によってはリターンを示さなきゃならない……プロにいける可能性か、大学進学の推薦、あとは実業団野球ぐらいしかないでしょう。計算高くなきゃ、野球そのものが続けられなくなるんです……まあ野球に限った話ではないですが、野球は他のスポーツより金食い虫なのは確かなので」

 

 親に養ってもらっている以上……金を出してもらうために、自分をプレゼンするしかない。

 かかる費用に、自分の可能性、そして親の愛情さえも計算に含めて、出資させる。

 失敗すれば、そこで終わり。

 

「自分が野球選手として大成しないことを理解した上で、これだけ金を出してくれ……と、俺は言えなかったですね。それは、俺の自己満足にもならない無駄金としか思えませんでしたし」

「うん……医者の卵であるボクとしては、ちょっとコメントしづらいかな」

 

 真田の言葉に、苦笑を浮かべた。

 医学部も、金がかかることで有名だ。

 

 まあ、金がかかるのは野球に限った話ではないが、この手の話は、話題に上ることがほとんどない。

 ネガティブな話は、イメージが悪くなるために情報として流れないものだ。

 

「あと……野球で飯を食う線引きはどこにあると思います?」

「……プロになることじゃなくて?」

「大卒のサラリーマンの生涯賃金が、2~3億って言われますよね?なので、前提としてプロ野球選手として得た稼ぎが、最低でも平均的サラリーマンのそれに匹敵しなければ、飯を食うとはいえない、と」

 

 この世界、日本のプロ野球では1億円プレイヤーがトップクラスの時代だが、中堅のレギュラーの年俸が4千万から5千万程度。

 大きな収入は税率が高いため、手取りで考えると……レギュラーとして、8年から9年、活躍しなければいけない計算になる。

 CM出演など、副収入は除くが……そんなものは、基本的に知名度の高いトッププレイヤーだけだ。

 

 ドラフト7位までとして、12球団で毎年約80人のプロ選手が誕生する。

 つまり、同学年の野球少年からプロになれるのは80人。

 第二次ベビーブーム世代は1年で約200万人が生まれ、半分は女子、100万人の男子のうち、この時代は高校球児になるのが10万人程度、男子の10人に1人は退部者も含めて高校球児になる。

 そして、中学から高校に上がる時に野球を諦める人間は、経験的に6割程度か……仮に半分としても、5人に1人以上の男子が、少年野球、中学野球の選手になっていて、最低20万人の中からトップ80人に滑り込まないと、プロにはなれない。

 

 さて、プロになった80人の中で、レギュラーとして8年間、活躍できる選手の割合は……。

 

「うわぁ……」

 

 真田がドン引きした。

 

 いくらドン引きされようと、野球の道を志す少年にとっては……中学生の時点で、就職活動が始まっている。

 本人が自覚してなくとも、周囲の大人が自覚している。

 極端な話、特待生として高校に入った野球少年は、条件にもよるだろうが、その時点で『授業料などの諸費用』を野球で稼いだと言えるだろう。

 たぶん、下手をするとボクサーとしての俺よりも稼いでいる。

 

「ちなみにこれ、元々はドラフトを蹴って就職した人の発言というか理論らしいですよ……それも、言ったのがテレビの企画番組の収録中」

「……うわぁ」

 

 真田、再びのドン引き。

 

「番組としては、『プロ野球選手には夢がある』というテーマだったらしいですけど……まあ、台無しですよね」

 

 当然、番組は放映されなかったそうだが。

 

 まあ、番組の雰囲気が自分の人生の選択を否定するようなコメントを求める感じだったそうだから、当人が反発するのは当然だろう。

 それに、その人がドラフトを蹴った時代は、まだそれほど世の中でプロ野球が認められてはいなかったのもあるから……そもそも条件が違う。

 

「……その理論で言うと、ボクシングで飯を食うって、奇跡レベルじゃないのかな?」

「伝説を作るレベルじゃないと、無理なんですよねえ」

 

 俺がそう言うと、真田が俺を見つめてきた。

 

「速水くん、その人の影響受けてるよね?」

「受けてますよ。ええ、かなり受けてます」

「……だろうね」

 

 息を吐く。

 たぶん、真田が相手なら……言ってもいいだろう。

 

「コメントで真田さんを中途半端なんて言いましたけどね……俺は、純粋にボクシングだけが好きとは言えない人間です。どこまで行っても、計算高い、元野球少年の部分が残ってますから」

 

 ボクシングが好きで、ボクシングに全てをささげる……この国の人間は、そういう物語を好む。

 たぶん……俺の本音を非難する存在もあるだろう。

 

「うん……うん、そうか。たぶん、ボクが考えているより、大きな挫折なんだろうね、それは」

 

 話に一区切りついた感じだったので、俺は真田に水を向けた。

 

「ところで、真田さんはどうなんです?ボクシングを始めたきっかけってのは?」

「……そうだね。次はボクが語る番か」

 

 広告で見かけたボクシングジム。

 真田と、ボクシングの出会い。

 

 グローブをつけ、サンドバッグを思いっきり殴る。

 爽快感。

 

 どこにでもありそうな、ありふれた始まり。

 ただの気分転換、あるいは体力づくりとしての運動の一環。

 

「ジムに通い始めて半年ぐらいだったかな。会長がいないとき、スパーに誘われてね」

「……指導者がいないのに、練習生にスパーさせるのはありえないのでは?」

「いや、トレーナーは1人いたんだ……ただ、ボクは練習について質問攻めにしたからね、嫌われていたんだと思う」

「……ますますありえないんですが」

 

 もしかすると、金持ちのボンボンと見た真田へのちょっかいか嫌がらせ、あるいは嫉妬。

 女性ファンの声援を浴びる俺に野次が飛ぶのと一緒。

 人が集まれば、そういうことは当然ある。

 

「当然だけど、ボコボコにされたよ。ボコボコにされたことよりも、自分が思うように動けなかったことに納得が出来なくて、自分なりに考えて練習に励んだ」

 

 真田の言葉から俺が抱いたのは孤立のイメージ。

 理論派で、金持ちのボンボンで、イケメンで……嫉妬も含めて、たぶん、浮いた存在だったんだろう。

 

 俺も理屈を口に出すタイプだが、アマでの実績があった。

 体育会系でも、格闘技、武術系の場合……道場の師弟関係ならともかく、上下関係は、実力で覆る部分は少なくない。

 だからこそ、性質が悪いともいうが。

 

 たぶん、俺とは違う意味で……真田が歩んだボクシングの道は、なだらかではなかったのだろう。

 おそらく、実力を示すことで……周囲の反応が変化した感じか。

 

「そういえば、真田さん……デビュー戦で負けたんでしたっけ?」

「はは、記念というか、大学に進学する前に1試合だけプロでやろうと思ってね……試合前も、試合が始まっても、勝てると思って……なぜか負けた」

 

 真田の口元は、笑っている。

 その視線は、どこか遠い。

 

「納得できなくてね……共通一次試験前だったけど、2戦目を組んでもらった」

「いや、受験前に試合って……」

「大学受験は、年によって多少の上下幅はあるけど、基準になるゴールはほぼ決まっているからね。受験対策なんて、そのゴールを2年で超えるか、3年で超えるか、直前に超えるかだけの違いだよ」

「いま確実に、全国の受験生を敵に回しましたよ」

 

 真田が俺に向けて、にこりと笑う。

 

「これは、ボクとキミとの間だけの話だろう?」

「……ああ、自覚はあるんですね。ならいいんですが……」

「別に、ボクが特別ってワケじゃないしね。受験の準備はできていたし、両親にも何も言われなかった。だったら……何よりも、自分が納得するほうが大事だよ」

 

 そして、2戦目で初勝利。

 勝って、ボクシングをやめるつもりだった。

 しかし、もっと楽に勝てるはずだった。

 相手は、そんなに頑張れるはずじゃなかった。

 

 また、真田がリングを見つめながら笑う。

 

「……納得できなくてね。大学の合格が決まったあと、3戦目を組んでもらった」

 

 結果は引き分け。

 

 そして、4戦目に挑み……。

 

 

 高校時代に2試合。

 大学1年時に4試合。

 大学2年時に4試合。

 大学3年時に4試合……この4試合目が、チャンピオンカーニバルでのサニー田村とのタイトルマッチ。

 

 そして、今は大学4年。

 防衛戦を2試合こなして、俺との試合が3試合目で、通算17試合目。

 これまで、16戦14勝1敗1分。

 

 真田が『納得できなかった』ことの積み重ねがこの結果か。

 それは、満足してしまったら……引退するということなんだろうか。

 

 ある種の向上心。

 言い訳ができなくなったら、悔しいと思えなければ、それ以上戦えないという言葉と同じようなもの。

 満足すれば、そこで競技者は終わる。

 

 ただ、良くも悪くも……真田の意識は、対戦相手ではなく、自分自身に向けられている。

 そんな気がした。

 

「新人王や、A級トーナメントは出てませんでしたよね?」

「スケジュールが厳しいからね」

 

 真田が、苦笑を浮かべた。

 

「速水くんは、医学部の生徒が留年したと聞いたらどう思う?」

「……俺、地方の出身なんで、そのあたりの事情は結構詳しいんですが」

 

 俺の世代だと、地方では特に、成績がいいと『医者か弁護士を目指せ』と言われることが少なくない。

 本人の興味だけでなく、周囲の大人が語るために自然に詳しくなっていく。

 

「おっと……じゃあ、一般的にどう思われる?」

「まあ、勉強もせずに遊びまわった挙句……ですかね?」

「そういうケースも、無くはないけどね」

 

 医学部の必修単位。

 座学だけじゃなく、実習も含まれる。

 

 人の身体が必要な実習。

 生徒数は一定でも、都合よく実習に必要な人体が集まるとは限らない。

 

「……数が足りないときはね、成績順で実習を受けられるかどうかが決められるんだ」

「実習が受けられないと?」

 

 真田が、にこりと笑う。

 

「当然留年だよ。そして、その年に取った単位は全部リセットで、次の年に全部取り直す必要がある。その1年は、進級という意味では全部パーになるね」

「うわあ……」

「合格水準に達していても、全体の中で順位が低いって事はそのまま留年の危機なんだよ。安心できるラインは、上位3割ってとこかな。まあ、大学によって違いはあるけど……結局は、運次第の部分はある。改善しようにも、天災と同じでどうしようもない」

 

 医学部は、特に私立は学費が高い。

 運不運で留年が左右されるなら、裕福な家庭でなければ……最初から背水の陣か。

 とはいえ、1人の生徒を卒業させるまでに費用が1億円以上かかると聞いた覚えがあるから、学費を考えても、医者を育てる教育は最初から赤字を見込んでいることになる。

 

 真田が、俺を見た。

 そして笑う。

 俺に見せるための笑い。

 

「本意じゃないとわかっていてもさ、『ボクシングと医者、どちらも中途半端』なんて言われるとね?」

「あー、それは申し訳ない。謝罪します」

「うん、その謝罪を受け取ろう」

 

 真田が差し出す手を、俺が握り返す。

 

 言葉は選ばないといけない。

 良くも悪くも、俺は本当の意味で真田の事情を知ってはいないのだから。

 

 というか、わりと根に持つタイプか。

 あるいは、そういうフリか。

 

「医者を目指す道も、わりと残酷なんだよ……医学部に合格するためには試験の点を取ればいいけど、医者の資質に関してはノータッチだからね」

「外科医を目指していたけど、不器用だったとか?」

「あるね……かなり高いレベルの繊細さ、器用さが求められる。なのに、医学部に入学して、時間が経ってから『キミは外科医には向いていない。諦めなさい』って突きつけられるんだ」

 

 両親、あるいは身内に医者がいるかどうかで、変わるんだろう。

 地方の、歴史のある進学校なら、医学部を希望する生徒には注意点や医学部の特殊性がある程度説明されるらしいが、それを知らない受験生は、入学してから行き止まりに直面したりするんだろうか。

 

「看護婦も、身長制限があるんでしたっけ?」

「患者の介護や、器具のサイズの絡みもあって、身長が低い、体力がないってことは、どうしても医療の現場ではネックになるよ」

「ああ、そういう理由ですか……ひとりひとり適性を調べるなんて出来ないから、線引きするしかない、と」

 

 どの世界の、どんなルールにも、それなりの理由はある、か。

 同じ育てるなら、同じ費用と手間をかけるなら、当然素材を選ぶか。

 

 

 

 その後も、話をした。

 

 アマ時代のことを、俺が語る。

 父親への尊敬と、医者という職業について真田が語る。

 語り合う。

 聞き合う。

 時に質問する。

 ボクシングに限らず、医療に限らず、様々なジャンルを。

 

 真田を知り。

 俺を知られる。

 

 そして。

 

「ボクが、明日の試合でキミのスタミナ切れを狙うと言ったらどうする?」

「どうするも何も、勝つために色々とやらせてもらいますよ」

「色々と言うと……それは、客が喜ぶいい試合にならなくても?」

「真田さんが、『納得できる試合』を目指すように、俺は俺で勝ちを目指しますよ。その上で、客が盛り上がるいい試合が出来れば最高ですが……良くも悪くも、試合は2人でやるものですからね」

 

 真田の視線から目を背け、ホールの天井を見上げた。

 

「どんなボクサーでも、1人で試合は出来ない……試合をしない、試合が出来ないボクサーは、たぶんボクサーとは呼ばれないと思うんですよ」

 

 視線を、リングへ。

 

「リングの上で戦うことで、ボクサーはボクサーでいられる。なら、自分がボクサーであるために、リングの上で最優先されるのは、勝つことでしょう」

「……勝つため、か」

「……おかしいですか?負けて、客が呼べなくなったボクサーなんて、試合を組んでもらえませんよ?前座はともかく、メインを張るボクサーは興行の中心ですからね、自然に立ち位置が違ってきますよ」

 

 真田が首を振り、ちょっと困ったような表情を浮かべた。

 

「いや、以前サニー田村さんと話をしたときにね、聞いたんだ。『何故、判定にこだわるのか?』ってね」

「勝つためでしょう?」

 

 足元に視線を落とし、真田が頭をかいた。

 

「うん、そうなんだ。『勝つためだよ。他に何かあるのかい?』と不思議そうに返されたよ。今思うと、王者じゃなくなったあの人は、試合を組むのが難しい立場だったんだなって」

 

 相手が王者なら、強くても対戦するだけのメリットがある。

 じゃあ、実力のあるランキング2位ならどうか?

 

 正直、サニーと試合をしたがるボクサーは……少なかったと思う。

 もちろん、『判定ばかりでパンチがないならイケル』などと判断したボクサーは、ランキング狙いで試合を申し込むのだろうけど。

 

 つまり、客が呼べなければ、客を楽しませなければ、ボクサーでいられなくなるリスクは高まる。

 

「ボクサーであるために、試合を組むための努力をする、勝つための努力をする……だからこそ俺は客を喜ばせるような『いい試合』をしたいですね」

 

 これは俺の都合でしかない。

 

 しかし、俺のスタミナ切れを狙うといっても……実際はどうやるのかって問題がある。

 少なくとも、俺を動かさない限り、スタミナを浪費はしない。

 じゃあ、どうやって俺を動かすか。

 それが、作戦の指針になる。

 

 俺が真田を倒そうとして猛攻をかける……その展開は、もちろんありだ。

 しかし俺は、『いい試合でなくても、勝ちを優先する』と宣言した。

 耐久作戦には応じないし、フットワークを含め、速度は俺の方が真田を上回っている。

 俺が倒しに行かない限り、空振りしてしまう。

 つまり、勝ちの目は薄い。

 

『いい試合をしよう』という提案は、俺の都合だが、それだけじゃない。

 真田にとっても、悪くない提案だと俺は思っている。

 

 今日、ここで話をする機会がなかったとしても……真田が『それ』を選択する可能性は高かったはず。

 

「……速水くんは、いつもこんな駆け引きを?」

「相手が真田さんだからですよ……ほら、俺は計算高い、元野球少年ですから」

「はは、見込まれたかな、ボクも……」

 

 アゴに手をあて、真田が黙り込んだ。

 

 長い、長い沈黙。

 

「……これは、ボクの興味本位の質問なんだけど」

「何ですか?」

「速水くんは、人の強さってどういうものだと思う?」

「また、抽象的な質問ですね……ボクサーではなく、『人』の、ですか……」

 

 原作の、幕之内。

 そして、真田。

 

 何かに勝つ、達成する……そういう強さとは別のもの。

 たぶん、相手がいて初めて証明できる種類の強さではないのだろう。

 

 自分が自分であるためのもの。

 自分を支えるもの。

 背骨。

 

「……俺のイメージですが、人が生きていくってことは、急流に逆らって立つようなものだと思っています」

「……うん」

「理想は、自分の身体だけでまっすぐに立つことでしょうけど……ごくわずかな限られた人間にしか出来ません。それは、与えられた強さであって、目標とすべき強さではないと俺は思っています」

 

 ならばと、急流に流されないように、川底に刺さった1本の棒にしがみついて支えにする。

 それで、流されずに耐えられる。

 

 しかし、それを傍から見るとどうか。

 

「美しくないかな、と思うんです」

「……美しくない?」

「ええ……」

 

 身体の中心線は崩れ、ただ棒にしがみつく姿。

 それは、立っているといえるか?

 

 急流に逆らって立つ姿。

 普段の立ち姿。

 その2つを、出来る限り重ねたい。

 

 1本の棒ではなく、2本ならどうか。

 1つのものにすがるから、姿勢が崩れる。

 だから、2つのもので自分を支える。

 右手と左手で、別の棒を持つ。

 しがみつくのではなく、すがりつくのでもなく、支えにして立つ。

 

 2本の棒。

 そして、両足からつながる、自分の背骨を意識する。

 三角形。

 

 偏らず、頼り過ぎない……バランス。

 見苦しくない、綺麗な姿勢。

 

「誰かに、何かに支えてもらう、しかし、自分の背骨も意識する。それでバランスを崩さず、姿勢を美しく保つ……俺が考える強さは、そういうイメージです」

 

 頭をかき、真田に視線を向けた。

 

「まあ、上手く言葉になってませんね……ボクサーが、1人じゃ試合が出来ないように、医者は患者がいなければ医者じゃないのかとか……強さってのは、自分ひとりで完結するようなものじゃない気がします」

 

 真田の視線が、俺からホールの天井に。

 そして、自分の足元に。

 

 長い沈黙。

 

 真田が、顔を上げた。

 

「うん。今日、この場でキミと話せてよかったと思う」

 

 俺に向かって手を差し出してきた。

 

「明日は、『いい試合』をしよう」

「ええ、お互いに」

 

 握り返す。

 そして、手を放す。

 

「じゃあ、次は……リングの上で」

 

 右手を上げ、真田が……木下会長と連れたって、ホールを去っていった。

 

 そして、音羽会長が近寄ってくる。

 

「……話は終わったのか」

「ええ」

 

 真田の姿が消えた方角を見つめながら、呟く。

 

「明日の試合は、短期決戦です」

「……予定どおりか?」

「どうですかね」

 

 俺も、真田も、相手を観察するタイプ。

 長所も短所もあるが、それを捨てて……ハイスピードの攻防戦。

 お互いがお互いを、倒しにいく。

 

 俺を動かすなら、自分も動かなければならない。

 しかしそうすることで、真田もそうだが、俺のスタミナも削られる。

 

『いい試合』を目指すなら……お互いのスタミナが切れる前に、倒しにいかなければならない。

 スタミナの不安をわかっていながら、俺はそれに付き合うしかない。

 焦りと不安は、迷いを生む。

 身体と精神に負担をかける試合展開。

 そこに、紛れが生まれる。

 

 試合を盛り上げる。

 いい試合をする。

 そうして、真田を誘導していったつもりではあるが、俺の計算では、もともとこの試合展開が一番真田にとって勝ち目があると思っている。

 

 ハイペースの攻防のリズムに慣れたところで、ギアを変える。

 速度とリズムの変化。

 それに対応しようとするなら、俺は警戒のために『余力』を、一段階上のギアを残しておかなければならない。

 しかし、仕掛ける側はその瞬間まで全力を尽くせる。

 これだけでも、俺と真田の身体能力のスペック差は縮まる。

 

 かといって、俺が全力でねじ伏せにいっても……防御に徹せられたら、そこまでのスペック差はない。

 真田を追い込めるだろうが、猛攻をかける分だけ、俺のスタミナの方が多く浪費される。

 もちろん、真田をプレッシャーで押しつぶす可能性も無くはないが、俺が多くスタミナを消費する展開は避けたい。

 自然と、真田の攻撃を受け止め、はね返す展開になる。

 

 俺と真田の強みと弱み。

 分析すればわかる、膠着感。

 

『いい試合をしよう』というのは、俺と真田の約束であると同時に、縛りだ。

 

 まあ、このあたりまでは真田も承知の上だろう。

 だからこそ、俺の提案を呑んだ。

 ここが、スタートライン。

 ここから先の読み合いが、勝敗に大きく影響してくるだろう。

 




試合前の語り合いのシチュエーションとか好きです。(昭和世代)
まあ、一人称で真田を語らせるためには、速水に語らせるしかないともいう。

千堂もそうでしたが、真田のキャラをつかみ損ねているかもしれません。
ファンの方には申し訳ない。


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31:タイトルマッチ。

例によって、タイトルに悩む私。


 2月26日。

 

 早朝に目覚め、軽く栄養補給。

 散歩と体操を1時間ほど。

 家に戻り、また軽く食事を取る。

 

 早めに家を出て、会社へいく。

 午後から休みをもらっているが、今は月末だ。

 朝から働いてますよとアピールしておかないと、職場の人間関係に支障が出る。

 そうして昼過ぎまで仕事。

 

 家に戻って、軽い食事を取り、2時間ほど睡眠をとる。

 

 夕方の4時。

 また、軽い食事を取り、荷物をまとめた。

 和田からもらった飴の大袋……から2つ取り出しておく。

 

『俺の差し入れを全部使い切る頃には……世界の王様になってるだろうよ』

 

 和田の言葉。

 たぶん、賞味期限のことは考えていない。

 あと、大袋ひとつに飴が40個ほど入っている。

 それが2袋。

 

 1試合に2個として、40戦。

 

 全部勝てば49勝……王様というか、伝説になりそうだ。

 

 なんとなく、もう2つ飴を取り出して荷物に入れ……家を出た。

 ホールではなく、ジムに向かう。

 

「こんちわっ」

「ちわっ」

「ちゃーっす」

 

 練習生の挨拶。

 平日の夕方、ここにいる練習生は、ほとんどが学生だ。

 俺ではなく、むしろ周囲の方が緊張しているようにも思える。

 

「おう、来たか速水」

 

 音羽会長。

 そして、村山さん。

 

 今日はメインだから、試合は遅い。

 

 デビューしたての頃、大相撲のように、その日試合に出るボクサーが全員リングに集まって、観客に向かって顔見せするのもいいんじゃないかと考えたことを思い出す。

 メリットはあるだろうが、デメリットもある。

 メインの選手ほど、待たされる。

 試合相手と、試合前に同じ場所にいること。

 ボクサーだけじゃなく、それに拒否感を持つ客が一定数いることを知った。

 これから殴りあう2人が、仲良くしていると冷める、と。

 

 何かを変えるということは、そこにある理由を覆すことは、難しい。

 

 

 ジムを出る準備。

 練習生の応援を受けながら……いや、見に来ないのかよ、お前ら。

 俺のツッコミに、練習生達が散っていく。

 

 まあ、無料ならともかく、立ち見でも2500円……練習生というか、学生には厳しい金額だ。

 見て覚える、習うという面もあるが、学生の2500円なら、時間も含めて自分の練習のためにつぎ込む方がいいだろう。

 藤井さんには悪いが、ボクシング雑誌を買う金があれば、立ち読みで必要な情報だけ手に入れて、その金を自分の練習につぎ込む方がいい。

 

「じゃあ……勝ってくるから、お前らもちゃんと練習しろよ」

「「「はいっ」」」

 

 手を振って、ジムを出る。

 

 

 

 

 ホールに着く。

 既に、1試合目が始まっている。

 

「へえ、個人専用の控え室なんですね」

「メインで、タイトルマッチだからな」

 

 準備には、まだ早い。

 バナナを半分、そして飴をひとつ。

 

 目を閉じる。

 

「どうした?」

「いえ……タイトルマッチは特別って聞いてたんですが、今のところ変わらないなあと思いまして。リングに上がると、ってヤツですかね?」

 

 音羽会長、そして村山さんが笑った。

 

「どうしました?」

「いや、なんというかな……」

 

 会長が、笑いをこらえるように言う。

 

「これほど安心して見られるタイトルマッチは初めてなんだよ」

 

 ……また会長がフラグを立てにいく。

 

 誰かさんとの試合で、『当たらなければどうということもないさ』とか言ってたのもこの人だ。

 

 

 

 

 

「よう、速水」

 

 冴木が現れた。

 

「おや、冴木さん」

「必要ないとは思うが、激励だ」

「ありがとうございます。冴木さんには、スパーの件でも世話になったし、足を向けて寝られませんね」

「間違っても、リングの上で寝るなよ」

「ははは、倒されるのは勘弁ですね」

 

 雑談しているところに、和田が現れて冴木の動きが止まった。

 

「あぁ、和田さん。飴の差し入れ、ありがとうございます」

「おう。子供の小遣い程度だからな、遠慮はいらねえよ」

 

 そう言って、和田が冴木の首に腕を回した。

 

「お前はちょっと遠慮しろ、な?あれから一度も挨拶に来ないってどういうことよ?ん?」

「そ、その節は……和田さんには迷惑をかけまして……」

 

 冷や汗を流す冴木の背中を一発どやしつけ、和田が笑った。

 

「まあ、しゃーねえ。俺が先輩だから、後輩の面倒見るのも義務のうちってな……だから冴木、中退したとか関係なく、お前も後輩の面倒は見ろよ」

「ウ、ウィッス」

 

 美しき(?)体育会系の姿を見せて、2人が姿を消した。

 

 

「やあ、速水君」

 

 どこか飄々とした感じで、サニー田村がやってきた。

 

「ありゃ、サニーさん。久しぶりです」

「ははは、もう現役じゃなくなったからね……でも、君の試合はちゃんと見てるよ」

「ありがとうございます。今日来てくれたのは、正直、ちょっと意外でした」

「ははは、応援8割、恨みが2割かな。速水君が上に行くと、戦った僕としても誇らしいしね」

 

 そう言って、サニーが笑う。

 俺も、曖昧な笑みを返すしかない。

 

 すっと、サニーが俺の耳元に顔を寄せてきた。

 

「さっき、真田君の控え室に行ってきてね、『今日までお疲れ様』って言って、逃げてきた」

 

 ……はい?

 

「……え、えっと、仲が悪いんですか?」

「僕のベルトを奪ったのは、真田君だよ?速水君と違って、彼とは合わないなあ」

 

 ……もっと、好人物っぽくなかったか、この人。

 

 あ、冗談か。

 一部のスポーツ新聞じゃあ、俺と真田のやり取りが記事になってたしな。

 タイトルマッチの前だからって、気を使ってくれたのかもしれない。

 

「あぁ、試合前に長居する気はないよ。速水君らしい試合が見たい。それだけかな」

「まあ、いい試合が出来るようにがんばってみます」

 

 サニー田村が出て行った。

 

 なんだか、嵐が通り過ぎたような気分だ。

 

 

 

「よう、激励に来たぜ、速水」

「こ、こんばんわ」

 

 木村さんに、幕之内。

 鷹村さんがいないことに、ほっとする。

 まあ、青木さんや木村さんと違って、ほぼ関わりもないし。

 

「青木からの伝言だ、『応援にいけなくて悪いな』ってさ」

「はは、3月に入ってすぐに青木さんの試合じゃないですか。悪いもなにもないですよ」

 

 周囲の戦前予想は3対7で、3が青木さんの方。

 勝ちの目はあるが、そのためには1つか2つ、勝負に出る必要があるだろう。

 

「あ、あの、速水さん。ち、調子はどうですか?」

 

 緊張しまくった幕之内の姿に和む。

 

「一歩よぉ、戦るのは速水だぜ?」

「わ、わかってはいるんですけど……自分の知り合いがタイトルマッチに出るって思うと……」

 

 タイトルマッチに挑む俺と、応援に来た幕之内。

 その立場に、少し感傷めいたものを感じた。

 

「あの日、俺じゃなく幕之内くんが勝ってたら……タイトルマッチに挑むのは、そっちのほうだったかもな」

「え?僕、フェザー級ですよ?」

 

 ……違ウ、ソウジャナイ。

 

 説明は出来ないけどな。

 

「……まあ、幕之内くんとの約束もあるからな。世界の前に、まずは日本タイトルを獲るよ」

「はい……え?」

 

 首を傾げた幕之内を見つめた。

 あの日の記憶を思い出し、そして気づく。

 

「なんだよ、一歩、速水となんか約束してるのか?」

「え、はい。でも、あれ?何か……すれ違いがあるような……」

 

 ……約束は、契約より重いらしい。

 なので、容赦なくバラす。

 

「二階級制覇をした俺と、世界のベルトをかけて戦おうという約束ですよ、木村さん」

 

 

 また、目を閉じた。

 

 幕之内が木村さんに弄られている声が聞こえてくるが気にしない。

 たぶん、ジムでも弄られるだろうけど、気にしない。

 

 タイトルマッチに向けて、ゆったりと、時が流れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホールの明かりが絞られた。

 観客のざわめきが、収まっていく。

 

 青コーナーへの入場口。

 スポットライト。

 

 静かな、ピアノの単音が響き始める。

 

 試合に挑む、選手の心臓の音をイメージして作られたイントロ部分。

 アレンジで、この部分を長くしてもらった。

 

 ピアノの音が大きくなっていくにつれ、鼓動の高鳴りを感じる。

 緊張ではなく、高揚。

 入場のタイミングは、もう少し先。

 

 

 ジュニアフェザー級の日本タイトルマッチ。

 ここまでは、原作でも『速水龍一』は来た。

 

 時期は違う。

 相手も違う。

 それでも。 

 

 幕之内に敗れた『速水龍一』は、返上された王座の決定戦とはいえ、ベルトをつかむ戦いの場所までたどり着いた。

 

 だから。

 ここからだろう。

 

『速水龍一』のたどり着いた、その先。

 途切れた道の、その先へ。

 

「行くぞ、速水」

「はい」

 

 速水龍一の、『はじめの一歩』。

 

 

『挑戦者、速水龍一の入場です!』

 

 イントロから、メインテーマへと移り変わるタイミング。

 俺は、スポットライトに身をさらした。

 

 黄色い歓声。

 

『映画、炎の〇ンナーのテーマ曲とともに、デビューから9戦9勝9KO、アマ時代も含めて、50戦してまだ負けを知らない挑戦者がリングに向かう!』

 

 大きくなっていく、メインフレーズ。

 同じフレーズの繰り返しで盛り上げていく曲の構成は、奇しくも真田が好きといったボレ〇のそれと同じ。

 

『新人王、そしてA級賞金トーナメント、そして今、日本タイトルマッチ!』

 

 俺が選んだ入場曲は、後に別名でシングルカットされたが、もともとの名前は『タ〇トルズ』。

 お披露目には、似合いの曲だ。

 

『今日まで走り続けてきた!これからも走り続けていく!挑戦者にとって、ここはまだ通過点!』

 

 階段を、駆け上がる。

 

 リングの上。

 眩しい光。

 

 曲を楽しみながら、リングを一周。

 最後に、右手を突き上げた。

 

 

 

 

 

 再び、明かりが絞られた。

 

 ボレ〇の曲にのって、王者がリングへとやってくる。

 淡々と、静かにリングに上がり、観客に向かって手を上げる真田。

 

 俺は、それを静かに見つめる。

 

 足元。

 照明。

 観客席。

 

 タイトルマッチか。

 まだ、特に違いは感じない。

 俺が鈍いのかもしれない。

 

 試合の前の、タイトルマッチ認定宣言。

 目に見える違いはこのぐらい。

 

 王者の真田から、ベルトが一旦預けられる。

 あまり興味はない。

 

 リカルド・マルチネスのベルトと他の世界王者のベルトが同じ価値とは思われないように、ベルトはベルトでしかなく、その価値は、それを巻く王者が決める。

 

 俺が見るべきなのは、向かい合うのは、真田だ。

 

 

 リングの中央。

 レフェリーの注意。

 

 俺も、真田も、お互いの身体のあちこちに視線を向ける。

 

 真田の肌に、かすかに汗が浮いている。

 真田の身体から、わずかに熱が伝わってくる。

 最初から飛ばすために、アップはすませてきたか。

 

 自分のコーナーに戻る前、一瞬だけ俺と真田の視線が重なった。

 そして、背を向ける。

 

 コーナー。

 マウスピース。

 会長の言葉。

 

「いまさら、何も言うことはねえよ……試合開始直後だけ気をつけろ、ぐらいだな」

 

 ゴングを待つ。

 

 

 鳴る。

 

 真田を見ながら、中央へ進んでいく。

 そして真田も、俺を見ながら中央へ。

 

 左手を伸ばす。

 左手が伸びてくる。

 触れた。

 離れる。

 

 真田が、息を吸う。

 

 踏み込み。

 いきなり、ワン・ツー。

 

 ガード。

 既に射程外。

 

 また踏み込んでくる。

 左。

 左から右。

 

 そして、距離をとる。

 

 真田の目。

 

 約束だろう?

 

 そう話しかけられた気がした。

 

 踏み込んだ。

 左。

 あえて、真田のグローブに。

 そして右も、ガードの上から。

 

 距離をとる。

 真田が踏み込む。

 

 真田が距離をとる。

 俺が踏み込む。

 

 お互いの呼吸がわかってくる。

 リズムが。

 タイミングが。

 かみ合い始める。

 

 攻撃と防御が、混ざり始める。

 

 ジャブとストレートの応酬。

 中間距離。

 それを保ったまま、俺と真田が激しく動いていく。

 

 いきなりの展開に、観客の声が大きい。

 

 キーポイントは、俺が接近戦に持ち込めるかどうか。

 おそらくそこで、均衡が崩れる。

 

「1分!」

「ひとつ!」

 

 木下会長と、音羽会長の声が重なった。

 

 止まらない。

 止めない。

 

 俺も真田も。

 走り続けていく。

 

 

「2分!」

 

 木下会長の声。

 

 真田の動きの、粗が見えてきた。

 ハイスピードの攻防に慣れていない。

 俺にはヴォルグがいたが、真田にはいなかった。

 

 歌、あるいは朗読の息継ぎのタイミングが重要なように、ハイスピードの攻防も、抜くべきところは抜く必要がある。

 

 右手。

 左手。

 右足。

 左足。

 

 登壁の3点保持のように、身体のどこかを休ませる。

 緊張を緩ませて、筋肉の弾力を取り戻させる。

 

 そうしないと……。

 

 わずかに速度の鈍った真田の右を、受け流した。

 真田の身体が、流れる。

 

 小さく。

 鋭く。

 真田の顔面に、2発左を入れた。

 

 右。

 それをガードさせて、踏み込む。

 真田の視線を意識しながら、左拳を握りこんだ。

 

 肝臓へ。

 真田の動きが一瞬止まる。

 

 間合いがわずかに遠い。

 

 あえて見せるために、そして威嚇の意味も込めて、そのまま右アッパー。

 真田の目の前を通過させた。

 

 距離をとられる。

 俺が追う。

 

 真田のワン・ツー。

 ツーをヘッドスリップで、踏み込む。

 

 肝臓へ。

 真田のガード。

 

 もう一発。

 同じフォーム。

 真田のガードは動かない。

 

 膝を意識する。

 肝臓打ちからアッパーへの移行。

 かすめたのは、真田の頬。

 

 視界の隅で何かが動く。

 跳び退いた。

 

 俺の鼻先をかすめていく、真田の右フック。

 

 息を吐く。

 真田が息を吸う。

 

 左の差し合い。

 

 真田のステップが細かい。

 左を打ちながら、前後に細かく動く。

 距離感を迷わせる動き。

 

 足ではなく、肩を見る。

 肩の位置から腕の長さ。

 それが、射程。

 

 真田の右。

 

 違和感。

 

 再びの右。

 

 違和感が、形になる。

 

 リズム。

 タイミングがわずかに違う右。

 あえて、俺に見せてきた。

 

 俺の、踏み込みへの牽制か。

 

 それでも、前へ。

 今は、踏み込みの位置を。

 タイミングを、見せていく場面。

 

 真田の左。

 ヘッドスリップでかわしながら踏み込む。

 

 目の前に迫る、真田の右アッパー。

 ガード。

 無理にふんばらず、後ろに跳んだ。

 

 目の前を通り過ぎていく、真田の左フック。

 

 

 俺の踏み込みに対して、真田の反応が良くなってきた。

 慣れてきたのだろう。

 

 慣れてくれないと困る。

 ここまで、同じ位置、同じタイミングで踏み込んでいる。

 慣れてくれないと、仕掛けられない。

 

 攻防を重ねながら。

 俺も。

 真田も。

 種を蒔いている。

 

 

 残り10秒の合図。

 

 休まず、左の差し合いから。

 踏み込もうとした瞬間、1Rが終わった。

 

 

 

 

「……どんな感じだ?」

「和田さんとの試合を考えると、まあ……6Rまでは確実に動けると思います」

 

 ……ダメージさえ受けなければ、だが。

 

「そうか。しかし、真田は……今のペースじゃ保たないよな」

「……10Rは無理でしょうね」

 

 真田が失速する前に……か。

 ダメージが入り始めたら、すぐだろうな。

 

「しかし、真田が……ここまで振り切れたボクシングを出来るとはな」

 

 感心したように、会長が真田のいるコーナーに視線を向けた。

 

「まあ、日本王者だ……力があって当然か」

「……そろそろ、気の抜けない展開になりますよ」

 

 そう言って、俺は立ち上がった。

 

 

 

 2R開始。

 

 

 俺と真田が、中央へ進んでいく。

 歓声が、背中を後押しする。

 殴り合いへの期待。

 ペースダウンは、求められていない。

 

 中間距離。

 パンチを振り切れる距離。

 

 左の差し合い。

 そこから、仕掛けた。

 

 角度を変えて、斜めから。

 真田の顔がはじける。

 

 踏み込んで、右のボディ。

 すぐにサイドステップ。

 真田の右をすかして、肝臓打ち。

 

 俺から半歩退く。

 

 曖昧で、中途半端な距離。

 真田が選択に迷った隙。

 

 ワン・ツー。

 振りぬいた。

 

 ジャストミートはしていない。

 右ストレートで、押す感じになった。

 しかし、真田の体勢は崩れる。

 

 踏み込む。

 そう見せかけて、止まる。

 

 右が来るかと思ったが、左の細かい連打。

 まだ、心に余裕があるか。

 

 なら、こういうのはどうかな?

 

 集中。

 

 真田の右は、少しずつタイミングをずらしている。

 しかし、左は同じ。

 あるいは、誘いか。

 俺の踏み込むタイミングを、限定させる。

 

 攻撃と防御を入れ替えながら、呼吸を読む。

 気配を読む。

 真田を、読む。

 

 先の先。

 

 俺の右拳で、真田の左が伸びる前に押さえる。

 真田の拳を押しながら、踏み込んだ。

 驚きからか、真田は反応できていない。

 

 肝臓を、突き上げた。

 真田の動きが止まる。

 

 身体を起こし、反撃を待った。

 カウンター狙い。

 

 真田の右手が、わずかに揺れ……。

 

 俺はダッキングで、左フックを避けた。

 読みが外れた。

 そして、まだ真田は冷静だ。

 

 それでも、徐々に俺が押し始めている。

 

 集中だ。

 俺なら、罠を仕掛けるのは相手が攻勢に転じた時。

 

 相手を信じ、作戦を立てる。

 対策を練る。

 

 たぶん、真田も。

 俺というボクサーを信じて、作戦を立てている。

 

 警戒。

 

 リズムか。

 速度か。

 あるいは……。

 

 また、この間合い。

 中間距離。

 

 仕掛けるか。

 

 真田の左。

 

 あわせて、大きく左前方に。

 

 違和感。

 練習で繰り返した動きを、身体がトレースし始める。

 それで、気がついた。

 

 足を踏まれた。

 

 真田の顔。

 驚き。

 

 ああ、アクシデントだ。

 

 余計な思考。

 動きが鈍った。

 判断が遅れた。

 

 真田の右が見えた。

 腑抜けたパンチ。

 たぶん、真田も想定外。

 

 反射的に避けようとする。

 顔を、上体をひねる。

 バランスを崩す。

 

 真田の右が、俺の額をかすっていった……。

 

 

 

 

 

 

 

「ダウン!」

 

 レフェリーの宣告。

 

 尻餅をついたまま、息を吐いた。

 そして吸う。

 

「スリップ!スリップだろ!」

 

 会長の声。

 

 会長に向かって首を振り、グローブでとんとんと、額を叩いた。

 理解したのか、会長が口を閉じる。

 

 やっちゃったか……。

 

 思い浮かべたのは、ラムダの微笑み。

 

『試合で発揮できない練習は、無意味だよ速水』

 

 お小言まで想像できた。

 笑いそうになる。

 

 足を踏まれたときの対処の練習。

 1試合に1度あるかないか。

 そこで失敗したら、何の意味もない。

 

 立ち上がる。

 踏まれた足の確認。

 足首。

 軽いステップ。

 うん。

 

 安堵の呼吸。

 

 ジャンプ。

 これは、セコンドと、真田に無事だと教えるため。

 俺に、問題はない。

 

 

 俺が大きく左斜め前方に踏み込んだ左足を踏んだのは、真田の『右足』だった。

 右オーソドックススタイルのボクサーの、前に来るのは左足。

 本当なら、踏まれるはずのない位置でもあった。

 

 つまり、俺が仕掛けるタイミングで、真田も仕掛けた。

 

 ダウンはしたが、ノーダメージで、真田の策を1つ知ることが出来た。

 俺は、ついている。

 

 

 レフェリーに向かって、構えを取る。

 

 とん、と自分の額を叩き、一言。

 

「ナイスジャッジ」

「……私語は慎みなさい」

 

 頷きで返した。

 

 今日の俺は、幸運だ。

 

 いい相手、いいレフェリーに恵まれた。

 いい試合ができそうだ。

 

 

 試合再開。

 

 真田と向かい合う。

 パンチを交し合う。

 

 ……。

 違和感。

 

 疲労?

 ダメージ?

 誘い?

 

 真田の目。

 

 マウスピースを強く噛み締めた。

 

 ギアを上げて襲い掛かる。

 真田のガードに、パンチを叩きつけていく。

 

 自分が、馬鹿なことをしている自覚はある。

 確実に勝つためなら、余計なこと。

 それでも。

 

 ガードの上から、真田をのけぞらせた。

 踏み込んで……。

 

 真田の身体を抱え込む。

 耳元。

 マウスピースがわずらわしい。

 ゆっくりと。

 

「足を踏まれたのも、すっ転んだのも、俺のミスだよ」

 

 そして、真田の身体を突き放した。

 

 構える。

 手招きする。

 

 挑発。

 そして、提案。

 

 いい試合を、しようじゃないか。

 

 真田が、手招きする俺の手を見る。

 俺の眼を見る。

 

 真田が、左手を伸ばしてきた。

 俺も、左手を伸ばす。

 

 試合開始直後と同じように。

 

 お互いのグローブが触れ。

 離れた。

 

 

 真田の動きにキレが戻った。

 

 きっと、足を踏んだことを気に病んでいたんだろう。

『いい試合』をしようという約束が、たぶんそうさせた。

 真面目な真田らしい。

 

 

 真田のワン・ツー。

 ガードした俺の左手がはじかれた。

 

 踏み込まれる。

 

 右手を伸ばす。

 真田の左肩。

 左足を引きながら、ぐっと身体の内側へ流した。

 

 真田の上体が、泳ぐ。

 

 左を見せる。

 手首を返して、甲を地面と平行に。

 アッパーの打ち方。

 

 真田の反応を待って、肝臓へもっていく。

 同時に、真田の左が俺の頬をとらえた。

 

 最初から相打ち狙い。

 一番面倒な対処法。

 

 マウスピースを噛み締め、足元を確かめる。

 

 サイドステップ。

 右のボディフック。

 

 真田の視線がこっちを向いた瞬間に、またサイドステップ。

 左を肝臓へ。

 そして、バックステップ。

 

 真田の右フック。

 通り過ぎてからまた踏み込む。

 

 左を見せる。

 拳は縦。

 真田の右手が、ガードに動く。

 

 右フックをテンプルに持っていった。

 真田の膝が揺れる。

 

 ジャブで突き放す。

 右。

 ガードされた。

 

 残り10秒。

 

 左拳を、揺らす。

 真田の視線を誘う。

 

 正面に踏み込む。

 いきなり右アッパーから。

 ギリギリでガードされた。

 

 即座に右フックが返ってくる。

 それを避ける。

 

 この試合、真田のフックが多い。

 ……何かあるな。

 

 

 2Rが終わった。

 

 

 

 コーナーに戻り、椅子に座る。

 うがい。

 そして、ほんの少し水をふくむ。

 

「……真田に、何か言ったのか?」

「……足を踏まれたのも、転んだのも、俺のミスだと」

 

 会長が笑う。

 

「お人よしだなあ、おい」

「……すみません」

「あの瞬間、真田がスイッチした」

「……はい」

「空手や拳法なら、追い突きって言うのか?ステップじゃなくて、右足で歩きながらの右だ」

 

 ……俺は踏み込んだ。

 そこに、真田が右足を踏み込む。

 間合いは近い。

 

 ……打つなら、フックか、アッパーだろう。

 

 真田のあの右は、反射的に手を出した……か?

 

 ノイズだな。

 俺の踏み込みに合わせて、スイッチした。

 確実なのはこれだけだ。

 

「……お前の踏み込みに合わせた仕掛け。タイミングだけはばっちりだった。それだけは注意しろ」

「はい」

 

 セコンドアウトの合図。

 

 立ち上がる。

 

 

 3Rだ。

 

 

 リングの中央。

 

 真田が、ここで速度を上げてきた。

 

 わずかな動揺が、俺の反応を遅らせた。

 真田の右がこめかみをこすり、一瞬視界がぶれた。

 一気に持っていかれそうになる。

 

 退いたら押し込まれる。

 大きくヘッドスリップ。

 それを、左から右へ。

 狙いを、外す。

 

 真田の空振り。

 対応する余裕が生まれた。

 

 真田の拳を捕まえる。

 連打をガードする。

 慌てずに。

 さばいていく。

 少しずつ、反応時間を、距離を取り戻していく。

 

 身体の近くで。

 遠くで。

 パンチを処理する位置を変えて、真田のバランスを崩す隙をうかがう。

 

 ここ。

 

 小さくはじく。

 わずかに、真田の身体の軸がぶれる。

 パンチが限定される。

 

 狙いの予測。

 そこに、ガードを構えた。

 真田の右がくる。

 受け止める……そのタイミングで手をどける。

 

 ガードされると思っていたところの空振り。

 それで、真田の身体が大きく泳いだ。

 

 反撃への移行。

 ジャブを返す。

 右を揺らし、ガードを誘ってから、左。

 左の小刻みな連打。

 

 被弾しながら、真田が退かない。

 

 ガードの上に、右をたたきつけた。

 踏ん張らせてから、もぐりこむ。

 

 左の拳を、腰の位置で回す。

 

 打たない。

 相打ちのタイミングで放たれた真田の左フックを、すかした。

 

 空振りした真田の左肘。

 その肘を、押さえて……。

 右フックを無防備なボディに叩き込む。

 

 左のアッパーをちらつかせる。

 もう一発、右をボディに。

 

 真田が退いた。

 視界が開ける。

 

 追い風。

 そんな錯覚。

 

 警戒。

 仕掛けるならここ。

 俺も、真田も。

 

 真田の左。

 踏み込んだ。

 

 真田が、近い。

 スイッチか。

 

 左のガードに衝撃が走る。

 おそらく、右フック。

 視界の外。

 

 俺の左足を。

 真田の右足のかかとの後ろに置いた。

 

 逃がさない。

 

 身体を寄せるようにして、右をみぞおちへともっていく。

 真田の動きが止まる。

 遅れて、上体がくの字に折れる。

 

 跳び退いた。

 

 くの字に折れたのは、フェイク。

 パンチの出所を隠された、右アッパーがかすめていく。

 

 真田が突き上げたままの、右手。

 視界をふさがれたまま、反射的に、ヘッドスリップ。

 真田の左ストレートが前髪をかすめる。

 

 つい、かぶせるように、左のロングフックを放ってしまった。

 

 もぐりこまれた。

 呼吸を止める。

 腹に衝撃。

 

 打ち終わった真田の顔が上がる。

 そこに、俺の右。

 

 浅い。

 しかし、真田が退く。

 

 また、中間距離。

 

 呼吸を読む。

 

 真田の……左に。

 踏み込むのではなく、右のカウンター。

 

 真田の腰が落ちた。

 

 左。

 そして。

 右を振りぬく。

 

 バランスを崩したように、真田が尻をついた。

 

 

「ダウン!」

 

 

 ニュートラルコーナーへ向かう。

 

 カウントが始まる。

 

 

 良くも悪くも、真田が俺との攻防に慣れてきた。

 だから、はまり始めている。

 

 膝立ちでカウントを聞く真田。

 すぐに立ち上がることが出来る体勢。

 目を閉じ、左の手首に、右のグローブを当てている。

 

 その姿に、山場が近いことを感じた。

 

 

 カウント7で、真田が静かに立ち上がる。

 8で、構えを取る。

 

 

 俺は、息を吸い、吐いた。

 

 ……いくか。

 

 

「ファイッ!」

 

 

 休まない。

 俺も真田も。

 

 真田の右。

 わずかに、鈍い。

 

 ダメージか、疲労か、誘いか。

 

 全てを飲み込み、前へ。

 突き放そうとする真田。

 受け止め、俺も右を返す。

 

 中間距離。

 

 また、この距離。

 間違いなく、意図がある。

 

 同じタイミングの左。

 わかっていて、踏み込む。

 

 真田のスイッチ。

 それも承知。

 サイドステップで、右に跳んだ。

 真田を信用して、そうした。

 

 同じことを、やるはずがない。

 

 真田の左フック、それが見えた。

 俺に右を意識させてから、視界と意識の外から左の攻撃。

 

 頭を下げながら踏み込む。

 空振りする、真田の表情は見えない。

 

 右で、ボディを突き上げた。

 真田の上体が折れ、一歩退く。

 

 踏み込んで追う。

 低い位置の、真田の顔。

 

 左アッパー。

 

 反応された。

 いや。

 上体を起こして避けていく動きがスムーズ。

 

 真田の目。

 

 アッパーではなく、俺を見ていた。

 防御ではなく、攻撃に意識が向いている。

 

 和田の試合で俺が見せたコンビネーション。

 アッパーからフックへの、スムーズな移行。

 突き上げた腕の肘を横に引くことで、フックの回転を作り出す。

 

 脇があく。

 そして、次の攻撃もフック。

 

 俺の顔面が、アゴががら空きになる瞬間がある。

 空間がある。

 

 俺の目は、アッパーを避けていく真田の顔を追っている。

 真田の右手は、見えない位置。

 

 俺が突き上げた左腕が、余計に俺の視界を狭める。

 

 

 ……伊達英二との試合、あの時、ヴォルグはこんな気持ちだったんだろうか。

 

 肘を。

 横に引くのではなく。

 下に向かって。

 振り下ろした。

 

 見えない位置。

 そこで、俺の左腕が何かとぶつかる。

 

 それで。

 真田が何をしようとしたのかがわかる。

 

 タイミングを合わせるための、タメが可能な攻撃。

 アッパーを避ける動きと連動させた、スイング気味の、斜め下からのパンチ。

 見えない角度からのカウンター。

 

 ヴォルグとのスパーで、同じことをやられた。

 やられたから、対応できる。

 

 

 真田の動きが止まる。

 俺は、反応を待っている。

 すぐに反撃すると、相打ちの可能性が高くなる。

 

 真田の気配に合わせて、ダッキング。

 

 頭の上を、真田の左フックが通過していくのを感じながら。

 真田の肝臓を突き上げた。

 続けて、右をみぞおちに。

 真田の動きが止まる。

 

 左。

 

 真田の腕が、アゴのガードへ動く。

 

 その下。

 もう一発肝臓へ。

 

 真田の口から。

 マウスピースがこぼれる。

 

 落ちていく。

 上から下へ。

 

 俺の右。

 下から上へ。

 

 拳が。

 マウスピースとすれ違う。

 

 真田のアゴを、突き上げた。

 

 真田の顔がのけぞる。

 よろけるように、一歩退いた。

 両腕が、下がるのが見えた。

 

 前へ。

 

 左フックをテンプルへ持っていく。

 返しの右フックをアゴへ。

 

 棒立ち状態の真田の膝が、カクンと折れた。

 

 沈んでいく真田の頭部を追いかけ、左フックを打ち下ろす。

 そして。

 再度返しの右を……。

 

 構えたところで、真田の膝が地についた。

 そのまま、ダイブするように倒れていく。

 

 行き所をなくした右拳。

 上に向かって。

 眩しい光に向かって。

 突き上げた。

 

 

 音が、戻ってくる。

 

 歓声。

 レフェリーの声。

 胸を押された。

 

 ……ああ、ニュートラルコーナー。

 

 凝縮された時間の感覚が戻ってくる。

 

 ニュートラルコーナーに向かって、歩き始めた。

 

 ヴォルグとラムダ。

 2人への感謝を胸に。

 

 そして、小さな敗北感を飲み込む。

 

 

 ハイスピードの攻防。

 動きと判断に、速度を求められる。

 

 だから、癖が出やすい。

 真田が狙っていたのは、ペースチェンジではなく……そういうことだ。

 カウンターを取るためのタイミング。

 それを、調整することに重点をおいた。

 

 俺は。

 どこかで、真田に読み負けた。

 

 俺には、ヴォルグとラムダがいた。

 真田にはいなかった。

 その違い。

 

 息を吐き、そして吸う。

 

 パンチ力は、幕之内や千堂に劣り。

 速度は、冴木に劣り。

 技は、伊達英二に劣り。

 

 戦略は……真田に劣ったか。

 

 

 老人の言葉を思い出す。

 器用貧乏以上、万能未満。

 

 この国で一番だと、胸をはれるものは……ない、か。

 バランスと、総合力で……世界を目指す、か。

 

 

 

 カウント6で、真田が身体を起こし始めた。

 

 まだ戦るか。

 

 俺の踏み込みに対してのスイッチ。

 接近戦に対しての罠。

 

 まだ、用意している何かがあるか。

 

 真田の足元が怪しい。

 それでも、カウント9で構えを取った。

 

 まだ、動けるか、真田。

 

 レフェリーが、じっと真田を見ている。

 

 長い、沈黙。

 

 離れた。

 

 声を待つことなく、俺は、歩き出す。

 

「ファイッ!」

 

 左右にステップを踏みながら、真田に迫る。

 真田は動かない。

 

 左から入る。

 真田のグローブの位置。

 細かく、連打。

 真田のガードが上がる。

 ガードが固まる。

 

 ボディへ。

 

 ガードは下がらない。

 しかし、膝は揺れている。

 余力はない。

 

 中間距離より近く、接近戦より遠い。

 そんな間合いで、俺は上下左右にパンチをばらまいた。

 

 ガードの上。

 ガードの隙間。

 がら空きのボディへ。

 

 真田の目が見えない。

 

 真田の肘を、フックで狙った。

 ガードがずれる。

 すかさずテンプルへ。

 真田がぐらつく。

 

 目が見えた。

 真田の目。

 

 強く、肝臓を突き上げた。

 右のボディフックにつなげる。

 

 左フックをテンプルに。

 

 真田の手が動いた。

 反撃とは言えない、ゆっくりした動き。

 空いた隙間。

 

 アゴの先端。

 

 右のショートフックをねじ込んだ。

 

 腰が落ちた。

 膝が落ちた。

 

 そして……。

 

 レフェリーが真田の身体を受け止めたとき。

 

 俺は、投げ込まれたタオルに気づいた。

 

 

 眩しい光の下。

 聞こえてくる歓声。

 

 俺はしばらく真田を見つめ、手を上げて歓声に応えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お疲れさん、速水」

「ええ、まあ、何とか終わりましたね……」

 

 音羽会長に肩を抱かれながら、息を吐く。

 

「……ここからが長いんだ。客にアピールして、間をもたせてこい」

 

 グローブをはずしてもらい、また客に応えながらリングを回る。

 

 いつもと違う。

 試合が終わった後で感じる違い。

 

 メインで、タイトルマッチ。

 次に控えている試合はない。

 

 やがて、儀式のようなものが始まる。

 コミッションによる認定。

 

 気がつくと、真田の姿は消えていた。

 試合が終わってすぐか、あるいは儀式が始まる前か。

 

 昨日、真田とは話をした。

 今日も、リングの上で語り合った。

 

 ……試合が終わる直前の真田の目。

 

 足を踏んだ時と同じように、俺との約束がきっと真田を縛った。

 あんな目をさせてしまった。

 

 今日の試合は。

 真田にとって納得の出来る試合だっただろうか。

 

 そんなことを考えた。

 

 

 儀式は進み、ベルトを腰に巻いた。

 実感はない。

 

 ただ、観客の歓声だけが現実(リアル)だ。

 約2千人。

 いや、試合が終わった後、残って見守る客はそんなにいない。

 混雑するから時間をつぶしている客もいるだろう。

 

 2階席。

 幕之内と木村さんの姿が見えた。

 熱心に拍手している幕之内の姿に和む。

 

 俺の視線に気がついたのか、木村さんが軽く右手を振った。

 

 

 

 勝利インタビュー。

 マイクを向けられた。

 

 試合が3Rで終わって、時間が余ったのもあるのだろう。

 

 さて、何を言おうか。

 

 言いたいこと。

 言えないこと。

 言葉に出来ないこと。

 言葉にならないこと。

 

 こういう時は、定番から始めるべきか。

 

 ファンがいなければ、ボクシングの試合は成り立たない。

 しかし、ファンだけでも、ボクシングの試合は続けられない。

 

 口を開く。

 

「そうですね、月並みな言葉ですが……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 観客に手を振りながら、俺はリングを下りた。

 

 足元に視線を落とす。

 

 一歩前へ。

 足は動く。

 

 まだ、歩いていける。

 俺は歩いていける。

 

 顔を上げた。

 

 手を振って、観客に応えながら、歩いていく。

 道は、続いていく。

 

 俺の。

 速水龍一の道は、続いていく。

 道の続きを。

 速水龍一は、歩いていく。

 

 この道は、世界へと続いている。

 そう信じて。

 ただ、前へ。

 




速水の戦い方が変化してきたのを、きちんと表現できたかどうか不安ですが、ここで第三部としては一区切りです。

明日は、エピソード的な裏道です。


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裏道3:???が語る、速水龍一。

連続更新は、今日まで。


 3月上旬。

 月刊ボクシングファン編集部。

 

 

 

 新王者の口からこぼれたのは、『感謝を』という言葉だった。

 王者が前置きしたとおり、月並みな言葉。

 しかし、それに続いた感謝の対象は……客、関係者、対戦相手、ホールのスタッフ、記者……そして、これまでボクシングに関わった過去の存在全てにまで及び、最後に家族の名前が出た。

 

 高校6冠。

 プロデビューしてからは、新人王、賞金トーナメント、そして日本タイトル。

 アマで41戦して無敗。

 プロでも10戦10勝10KO。

 負けを知らずに駆け上がっていくその姿からイメージするのはどんな人物像だろうか?

 

 意外に思うかもしれないが、彼の道のりは順風満帆という感じではない。

 アマの実績がありながら、4回戦デビューを強いられた。

 デビューそのものは、高校を卒業してから半年以上過ぎた10月だ。  

 対戦相手を探すのも簡単ではない。

 そして、階級変更。

 彼は、黙々と練習を続け、勝ち続けた。 

 

 ビッグマウスと言われ、派手な言動に包まれてはいるが……王者は、記者の知る彼は、繊細な人間だ。

 あの、勝利者インタビューからも、それがわかると思う。

 

 少なくとも、後楽園ホールの切符売り場のスタッフへの感謝の言葉を口にしたボクサーを、記者は他に知らない。

 

 

 

 

 ……中略……

 

 

 

 

 賞金トーナメントで戦った3人。

 佐島、サニー田村、和田は、彼に敗れた後引退を表明している。

 そして、真田も……正式に届けは出していないものの、引退を口にした。

 ジュニアフェザー級の上位ランカーは、壊滅状態といえる。

 

 本人は、『まだ、世界がどうこう言えるレベルじゃないですね』と言うが、国内のジュニアフェザーで、彼の相手を探すのは困難だろう。

 本人の言葉をそのまま受け取るにしても、今後、彼の立ち位置は微妙なものとなる。

 世界には届かない。

 しかし、明らかに国内には敵がいない。

 

 ……おのずと、方向性は限られるだろう。

 

 彼の進む道は……

 

 

 

 

 

 手を止め、文字を見つめる。

 自分の書いた記事。

 書こうとしている記事。

 

 頭をかき……もやもやした気分を、吐き出した。

 

「なんか、違うんだよな……」

 

 のどに刺さった魚の骨のように、速水の言葉を思い出してしまう。

 

『いい記事を書く努力をすべきですよね』

 

 これは、いい記事なのか?

 自問。

 答えは出ない。

 

 目を閉じ、速水と真田の試合を思い出す。

 意外といえば意外な展開。

 ふたりの特長ともいえる、探り合い、観察をぶっ飛ばして、最初からお互いがお互いを倒しにいった。

 いや、ハイペースだったが……そこに、数多の駆け引きが存在したはずだ。

 

 アッパーは、手の甲を床に向けて……そう指導される。

 しかし速水は、縦でも横でも、アッパーを打つ、ボディも打つ。

 試合中幾度も、真田の目に、自分の左拳を確認させていた。

 最初は真田に反応させ、逆を打つ。

 真田が相打ちに持ち込めば、フェイントですかされた。

 一手、また一手と、変化していく駆け引き。

 

 また、頭をかく。

 

 試合のビデオを何度も見返して、それを細かく説明すればいい記事になるか?

 

 ため息をつく。

 そして、吐き出す。 

 

「……ならないんだよなぁ」

 

 タバコに手を伸ばした。

 火をつける。

 

 紫煙をくゆらせた。

 気分は晴れない。

 

 タバコをくわえたまま、また目を閉じた。

 

 速水の対戦相手。

 真田を含め、引退した4人への取材を思い出す。

 

 

 真田。

 

 

『彼には、悪い事をしました』

 

 微笑みながら、真田はそう言った。

 

『足を踏んでしまったことかい?あれは、事故だろう?』

『いえ、3R……2度目のダウンから立ち上がったとき、ボクは、この試合を少しでも長く続けていたいと思って立ったんです』

 

 真田の目。

 かすかな後悔の色。

 

『……彼に勝つためではなく、ボクはただ、試合を引き伸ばすために立った』

『いや、それは……』

『彼との試合は……いや、試合の前、彼と話をしたときからワクワクしてました。子供の頃にできなかったことをやり直しているというか……イタズラ感覚と言うと怒られてしまうかもしれませんが』

『試合前の、速水君とのコメントは、やはり申し合わせていたのかい?』

『いえ、ほぼアドリブですよ。盛り上げようって話した後は、最初に速水君がコメントを出し、後は流れでそのまま……』

 

 真田が言葉を切り、こちらを見た。

 

『オフレコでお願いしますね』

『……どのみち、書けないさ』

『ですよね』

 

 真田が笑い……自分の手を見る。

 

『試合は、楽しかった。スピード感、駆け引き、読みあい、騙しあい……もちろん楽しかっただけではありませんが……終わらせたくなかったんです。もっと続けていたいと思った』

 

 息を吐く。

 

『……もう、その時点で勝負はついていた。蛇足ですよ……ボクの自己満足にすぎない』

 

 懺悔するように。

 

『試合が終わる直前、彼、ちょっと寂しそうな目をしたように見えました……まあ、気のせいかもしれませんが、試合は2人でやるものなのに、1人にしてしまった……彼を独りにしてしまった』

 

 また言葉を切り、真田がうつむく。

 

『もう一度、彼と戦いたい……そういう気持ちもあるんです』

『なら』

 

 顔を上げた、真田の目。

 言葉を、続けられなかった。

 

『でもそれは、彼に勝ちたいではなく、戦いたい、なんですよ。ボクの自己満足で、勝負とはいえない。また、彼を独りで戦わせてしまうだけかなと……それが申し訳なくてね』

『ボクサーがリングに上がる理由は、ボクサーの数だけあっていいんじゃないかな?』

『ええ。ボクは、それを否定しません』

 

 だから、自分の決断も否定しないで欲しい。

 

 真田の目が、そう語っているように見えた。

 

『それより、速水くんにも取材したんですよね?どんな様子でした?』

 

 対戦相手ではなく、ファンとして、あるいは知人としての興味。

 それがわかった。

 

『新しく王者になったボクサーに、いつもする質問があるんだ。覚えているかい?』

『ああ、次の朝、どんな夢を見て目が覚めたか、ですね』

『派手にぶっ飛ばされて目が覚めたそうだよ……誰にぶっ飛ばされたかは教えてもらえなかったけどね』

 

 よく聞き取れなかったが、クソゲーとかバージョンとか……まあ、夢の中で戦ったのは、強敵なんだろう。

 

『……世界王者ですかね?』

『どうだろう……ただ、彼が以前からよく目標として口にしていたのは、絶対王者、リカルド・マルチネスだったな』

『……一度映像で見たことはありますけど、あの王者が相手なら……うん、派手にぶっ飛ばされても仕方ないのかな』

 

 真田と2人で、少し笑った。

 

 恥ずかしながら、ボクシング専門誌の記者である俺も、リカルドの1試合通しての映像は、2試合だけしか見たことがない。

 そのどちらも、対戦相手は何も出来ずに負けた。

 

 最近は、挑戦者そのものが現れないために、ノンタイトル戦も少なくない。

 

 しかし、生ける伝説も……27、いや今年で28歳か。

 伝説が伝説でいられなくなる時は、いつか来るのだろう。

 あるいは、負けを知らないまま引退してしまうのか。

 

『ボクシングファンの教授がいましてね、欧米にもボクシングが好きな知人がいるらしいんです。世界王者のビデオでも手に入れて、彼にお祝いとして送ることにしますよ』

『リカルドのかい?』

『そこはまあ、フェザーには彼と同じジムと契約したヴォルグ選手もいますし……ジュニアフェザーの世界王者のものをね』

 

 

 取材の最後に、真田はほんの少し……心配そうに呟いた。

 

『……彼は、速水くんは、少し振り切れすぎている、そんな気がします』

『振り切れ……というと?』

『練習や、ボクシングへの姿勢……必要だから、当然だからと、それをずっと、ずっと繰り返して日々を過ごしているという話を聞くと……ボクはそこまで振り切ることはできないなと思うと同時に、心配と言うか……』

 

 真田がちょっと口を閉じ、言葉を探すそぶりを見せた。

 

『……医者の卵として、できれば友人として……見守りたいですね』

 

 

 目を開け、タバコの灰を落とした。

 またくわえて、目を閉じる。

 

 真田の言う、『振り切れすぎ』という表現が、心に残る。

 速水のそれは、リングの上では、また違うものに感じるのだろうか。

『独りにしてしまった』と真田はいったが、独りにされたのはむしろ真田のほうではなかったのか。

 付いていけず、置いていかれた。

 勝てないことを、納得させられた。 

 

 説明してはもらえなかったが、真田が引退を決めた理由に……そのあたりが絡んでいるようにも思う。

 

 もう一度タバコの灰を落としてから、再び目を閉じた。

 

 賞金トーナメントで戦った3人。

 三者三様の取材。

 

 

 佐島。

 

『……殺された。いや、殺してもらえた、だな』

 

 そう言って、佐島は自分の拳を見つめた。

 

『タイトルマッチで、拳を壊した時……判定結果が納得できなくて、治療とリハビリもそこそこに練習を開始して……自分で自分を殺した。そして、自分が死んだことを認められなかった』

 

 独白。

 それが、ただ続いていった。

 

 ……俺が思うに、あの試合はバラバラだった。

 速水は、自分の調子を確かめるためだけに、佐島をサンドバッグ扱いにしたようなものだし、佐島は佐島で、速水のことが見えていなかった。

 真田の表現を借りれば、佐島はこれ以上なく、リングの上で独りにされた。

 

 それでようやく、佐島は自分を見ることができたのか。

 

 経験と技術で、ボクサーを続けた。

 しかし、本人が思う、ボクサーの佐島は死んでいた。

 割り切りも、切り替えも出来なかった4年間。

 

 不遇のボクサー。

 佐島を評するなら、その一言。

 

 怪我がなかったら。

 あの判定がまともだったら。

 そもそも、王者が逃げ回らずに佐島の挑戦を受けていたら。

 

 年齢は違うが、佐島は伊達英二と同時期にプロの世界に入ってきた。

 階級も近く、伊達と佐島……と、2人セットで将来を嘱望された時期もあった。

 

 しかし、伊達が世界へ挑戦する頃、佐島は日本王者から逃げられ続けていた。

 

 何かが足りなかった。

 歯車が狂ったのか。

 あるいは、この世界ではよくあること。

 

 少なくとも、佐島に運はなかった。

 

『速水を応援しようなんて思わないね。感謝もしない……ただ、拳を壊す前なら、どういう試合が出来たか……それを考えたことぐらいはある』

 

 そう言って席を立った佐島の背中は……やはり、燃え尽きることができなかった想いに満ちているように思えた。

 

 燃え尽きるのにも才能と運が必要なのかもしれない。

 

 

 サニー田村。

 

『予想通りだね』

『真田に勝ったこと、かい?』

『まあ、色々かな』

 

 明るく、快活に、速水のファンだと公言する。

 それが意外で、質問を口にする。

 

『引退させられたわけだろう?』

『逆に聞くけど、ボクサーとしての僕に、先があると思いましたか?』

 

 言葉に詰まった。

 サニーの実力は、国内レベルなら疑いようがない。

 しかし、上にいけるかというと……。

 

 そしてサニーは、客が呼べないボクサーだった。

 

 俺に向かって、楽しそうに、からかうように、サニー田村が言葉をつむぐ。

 

『僕は、佐島さんに憧れて……佐島さんのようになりたくはないと思った』

『……』

『巡り会わせなんだろうね』

 

 そう呟いたサニーの目が、なぜか印象に残った。

 

 

 

 和田。

 

『そりゃ、速水が勝つでしょ。俺も、真田には勝つつもりでいたし』

 

 速水の勝利を、当たり前に受け止める和田。

 

『とはいえ、真田はいい試合をしましたよね。こう、いつものすかした感じじゃなく、戦ってるって感じがして、見てて気持ちのいい試合だった』

『ああ、いや、出来れば和田君自身の試合について……』

 

 和田が笑う。

 つい、こぼれてしまった感じの、自嘲を含んだ笑み。

 

『……結局、俺はプロになってからは伸びなかった』

『そうでもないだろう?』

『プロルールに慣れはしましたね、巧くもなったかもしれない。でも、強くはなれなかったと思ってますよ』

 

 そして、ぽつりと。

 

『あの日の、速水との試合の出来なら、石井には勝てた』

『……かもしれないな』

 

 明言は避けたが、半分以上同意する気持ちがある。

 俺の知る限り、プロではあれが和田のベストバウト。

 しかし、和田は引退を選んだ。

 

『あれは、相手が速水だからですよ。俺の力じゃなく、速水に引っ張り上げられた』

 

 和田が語る。

 

『たまにいるでしょ?こう、誰とでも接戦になるボクサーって』

『ああ、いるね』

『速水は、こう……受身というか、相手に合わせるところあるじゃないですか』

『……確かに』

『良くも悪くも、普通はジャンケンのような対処になるんですよ。グーにはパー。パーにはチョキってね。だから、何でも出来るボクサーが、対応の幅があるから強い。俺はサウスポーで、普通のヤツは右ストレートから入ってくる。セオリーってのは、理由と利益があるからセオリーなのに、速水は、左フックとか、左のアッパーを平気で使ってくる』

 

 身振り手振りを交えて、和田が熱心に、楽しそうに語る。

 

『俺がグーを出してるのに、チョキでも勝てるかもしれない……と、色んなチョキを出してくる。そして、それで俺のグーを乗り越えてくるんですよ。じゃあ俺も、それに対処するしかない……そして、速水のそれはまだ手探りでやってるように見えるから、対処ができる。それでまた速水が、違うチョキを出す。その繰り返しで、気がつくと……引っ張り上げられている。自分の持っているものを、引きずり出されてしまう』

『……それは、欠点じゃないのかい?』

 

 真面目な表情。

 俺を見る、和田の目。

 

『……アマの経験があるのに、速水のボクシングは、まだ若いっていうか……こう、出来てないんですよ』

『出来てない?』

『未完成、ちぐはぐ……どう言えばいいかな』

『成長中、ではなくて?』

『試合中にね、こっちが対応すると、それをふっと超えてくる……それは元々余力があるからなんですよ。成長じゃない』

『どういう意味かな?』

『こっちが振り絞るものがなくなったら、速水はそこで止まる……強い相手が必要なんですよ、きっとね』

 

 和田が、呟く。

 

『それと、冴木から聞いたんですけどね、速水はスパーでヴォルグに倒されたらしいじゃないですか……つまり、対応できなかったはずなんですよ』

『素直に、実力の違いじゃないのか?』

『速水は、今もヴォルグのスパーリングパートナーを続けている』

『それは……』

 

 和田の視線。

 口調が、ぞっとするような響きを帯びた。

 

『スポーツの世界は、そんな甘くない。世界アマ王者を獲った選手は、指導者は、役に立たないスパーリングパートナーなんて相手にしませんよ。友人として、仲間として付き合うことはできても、トレーニングの役に立つか立たないかは、はっきりと線を引きます』

 

 俺の知らない世界。

 いや、経験することが出来なかった世界。

 

 和田は、オリンピックと世界戦手権で、ともにベスト8の結果を残している。

 

『ヴォルグも、そしてトレーナーのラムダでしたか?たぶん、その二人が一番正しく速水を評価してるんじゃないですかね?』

『それは……でも、他に相手がいないってこともありえるだろう?』

『はは……』

 

 和田は笑って首を振り……呟いた。

 

『つぶれますよ。まず、早い段階でつぶれますね……身体もそうですが、精神が保たない。レベルの違う相手と戦うってのは、とんでもないストレスがかかる。ひたすら殴られる、反撃も出来ない、そして相手が手を抜いていることまでわかったら、役満ですね』

 

 ふっと、雰囲気を和らげるように、和田が笑った。

 

『いいじゃないですか、欠点で。大きな段差よりも、小さな段差のほうが乗り越えやすい。言ってみれば、自分で負荷をかけて鍛えているようなもんですよ。そうして接戦を繰り返せば、速水はまだ伸びますよ』

 

 楽しそうに、嬉しそうに。

 そして、少しだけ寂しそうに。

 和田は、速水を語った。

 

『俺が、オリンピックのベスト8で戦った相手、知ってます?』

『いや、結果だけだ。聞いたことはあるかもしれないけど覚えていないな……悪いね、アマボクシングは、担当してないものだから』

 

 和田の口から出てきた名前。

 

 オリンピック銀メダリスト。

 そして、現WBAジュニアフェザー級世界王者。

 

 思わず、和田の顔を見てしまった。

 そして、和田が笑う。

 

『俺が戦ったのは、何年も前ですしね』

『アマとプロは違う』

『それでも』

 

 静かに、和田は呟いた。

 

『俺は、今の世界王者と戦ったことはありません』

『でも……俺が戦った銀メダリストよりは強く感じましたよ』

 

 

 

 

 目を開け、タバコを灰皿に押し付けた。

 そして、息を吐く。

 

 まあ、和田の評価は……多少贔屓もあるだろう。

 速水に対する好意というか、思い入れというか、熱のようなものを感じた。

 あの評価には、おそらく願望も混ざっている。

 人の評価はそれぞれで、相性もある。

 

 ただ、速水のディフェンス力は高い。

 新人王戦以降、その傾向は顕著になってきた。

 

 12R。

 ホームでの試合。

 パンチをもらわず、倒すのではなく、ポイントを奪う試合展開。

 声援が、ジャッジを後押しする。

 互角であれば、十分に勝てる。

 パンチをもらわなければ、そして軽くともパンチを当てれば……ジャッジが速水を支持しないのは難しい。

 

 あるいは、という期待感はある。

 王者より強いとは言えないが、勝つことなら、可能かもしれない。

 

 ただ、彼は……。

 

「そういう戦い方を、良しとするだろうか?」

 

 判定狙いそのものではなく、地元有利の状況への不満。

 自分への不都合や不利益は飲み込んでも、相手の不都合や不利益を良しとしないところはある。

 勝ちにこだわりつつ、『強い勝ち方』への憧れのようなもの。

 

 むしろ、敵地に乗り込んで勝つことに意義を見出す……そういうものを、抱えている。

 

 

 答えは出ない。

 そして、設定そのものが幻想に過ぎない。

 

 もう一度、タバコに火をつけた。

 

 

 

 

 

「おい、藤井」

「ああ、編集長」

 

 視線が動く。

 編集長の隣に立つ女。

 口笛を吹きかけて、自重した。

 

「そのお嬢さんは?」

「ああ、彼女は……」

「飯村真理です、はじめまして。スポーツライター希望です」

 

 ……目上の人間の言葉をさえぎって、自己紹介、ね。

 

 心の中で、評価を下げた。

 まあ、まだ学生なんだろう。

 

「藤井、チャンピオンカーニバルの記事、順調か?」

「あぁ、なんと言うか……」

 

 机の上の、原稿に目をやる。

 順調といえば、言えなくもない。

 取材もすませた。

 速水の試合も含めて、3試合分。

 

 俺の原稿は手書きだから、清書してもらう分だけ締め切りは早くなる。

 

「拝見してよろしいですか?」

 

 女が、そう言って原稿を手に取る。

 

 さらに評価を下げた。

 

 抗議の意味も含めて、編集長を見た。

 耳元で囁かれる。

 

「帰国子女でな……まあ、いいとこのお嬢さんで……その、コネだ。今、他のスポーツ雑誌も回ってもらってる」

「……厄介者の気配しかしません」

 

 独断と偏見で、自己主張の強さは海外帰りのせいだと理由付けた。

 それで、耐えられる。

 

「その、ボクシングに関しては、お前が面倒見てやってくれ」

「あ、取材に行かなきゃ」

「待て」

 

 腕をつかまれた。

 逃がさないという、強い意志を感じる。

 

「知識はあるんだよ。頭もいい。文章もいけるし、優秀なんだ」

「地雷の枕詞じゃないですか」

「スタイルのいい美人だ、喜べ」

 

 硬い声で割り込まれた。

 俺の原稿を、見ながらだ。

 

「……女性であることは否定しませんが、それ以外の部分で評価してくださるとありがたいです」

 

 マイナスだよ、という言葉を飲み込んだ。

 編集長が、そっぽを向く。

 

 息を吐き、自己紹介がまだだったことを思い出す。

 まあ、社会人の先輩として、大人の対応をするべきか。

 

「ここの記者をやっている藤井だ。そして、未完成の原稿を読まれたくない記者は多い、覚えててくれ」

「……失礼しました」

 

 素直に、原稿を戻す。

 すこし、評価を持ち直す。

 

「確か、海外の大学は日本とは卒業時期が違うんじゃなかったかな?」

「……国によって違いますが、単位を全てとったら卒業でした。なので、卒業の時期は人それぞれですけど、私は12月で卒業しましたわ」

「ああ、日本は一律4月入社だから、もてあますのか」

「……そういうことですね」

「ボクシングは好きなのかい?」

「ええ、最初は知人に誘われて。それがきっかけで、ラスベガス、メキシコ、イギリス、タイにも足を運びました」

「ほう、好きなボクサーは?」

 

 飯村の口から、世界の一流どころのボクサーの名前が出てくる。

 それだけじゃなく、こちらがハッとするような、日本では無名の名前も挙げてくる。

 

 ……だが。

 

「……日本のボクサーは?」

「あまり、興味が持てませんね。世界を見た後では、どうしてもスケールの違いを感じてしまって」

 

 ……じゃあ、なんで日本に戻ってきたんだよ。

 

 そんな言葉を飲み込む。

 

 地雷だ。

 これを、ボクサーの取材に連れて行ったら……どうなる。

 

 編集長を見る。

 そ知らぬ顔で、窓の外を見つめている。

 

「先ほど拝見した記事、速水選手、ですか?」

「知っているのかい?」

「名前だけは……経歴を見るだけなら、これまで何人も生まれて消えていった日本人ボクサーと違いはないと思えます……でも」

 

 飯村が、俺を見た。

 

「違うと感じているから、さっきの原稿を書かれたわけでしょう?」

「……変わったボクサーだよ。一言では説明しづらい」

 

 俺の言葉を聞いて、飯村は、少し微笑んだ。

 

「……何だよ?」

「いえ、面白いスタンスで、彼、速水選手を見ているのかな、と」

「さっきも言ったように、変わったボクサーだ。世界を口にしながら、世界は遠いと口にする。ビッグマウスを演じながら繊細で、練習量と、真剣さについては疑いない。クレバーなのに、熱いものを抱えている。複雑で、矛盾を感じさせるボクサーだ」

「……自分を理解しているだけでも、好感が持てますね」

 

 飯村が、静かに語りだす。

 

「世界、世界と言葉は勇ましく、周囲が本人を持ち上げて……ふたを開ければ、2Rや3Rで、KO負け。世界では、日本人ボクサーはそこそこ高額のファイトマネーを寄付してくれるお得意様ですよ。そして、本当の一流どころを呼ぶだけの、ファイトマネーは用意できない。だから、世界のトップには相手にもされていない、違いますか?」

「……否定は出来ないな」

 

 この国から、世界王者が消えて、もう何年になるか。 

 日本人の世界挑戦は、失敗が続いている。

 

 中途半端な世界挑戦……それが興行として成り立っているから、変わらない。

 

「ただ、日本人ボクサーの主戦場が軽量級ってこともあるさ。軽量級は、世界では不人気だからな」

「栄養状態が良いとはいえなかった昔ならともかく、今の日本のプロボクサーで、人数が多いのは軽量級よりむしろ中量級ですよね。選手層ではなく、他の要因で軽量級を主戦場にせざるを得ない。そういうことでは?」

「……日本人の体型は、胴長短足、そして短腕と言われる。体重をそろえると、どうしても小柄になるんだ。ジュニアライトの日本王者、間柴のリーチの長さは有名だが、世界なら、あの身長であのリーチは、特に珍しいレベルじゃない」

「身長が160センチ代の半ばで、ライト級、ウエルター級のクラスで戦うボクサーは、世界では普通ですよ。もちろん、人種民族、そして個人の体質は否定しませんが」

「……何が言いたい?」

「世界は、金、名誉のために、人気のある階級を目指します。現状なら、重い階級や、レギュラー階級に。でも、日本は……逆ではないですか?」

 

 飯村が、俺から視線をはずして……呟いた。

 

「弱い相手を探している……リカルドと戦った伊達英二が特殊と思えるほどに」

 

 人気の階級のほうが、金になる。

 金を稼ぐために、上の階級でやろうとする。

 そうして、強いボクサーが集まるからレベルが高くなり、人気も上がる。

 

 この10年ほどで、ボクシングの階級は数を増やした。

 クルーザー、スーパーミドル、ジュニアバンタム、ミニマムの階級は1980年代になってから。

 日本が誇る、タイトルを13度防衛した世界王者のライトフライ級も、1975年に新しく出来た階級だ。

 ジュニアフェザーも、過去に存在した階級とはいえ、廃止されたものを1976年に復活させた。

 

 階級だけじゃない。

 もともと1つだった世界ボクシング団体が分裂し、WBAとWBCに、そしてまた内紛でWBOとIBFなどが、既存団体への反発から他の団体も生まれ……それぞれの団体が、増やした階級も含めて世界王者を抱える。

 ボクシングという市場のパイを、増えた団体と、増えた世界王者で切り分ける。

 

 ボクサー人口がそれほど変わらないとしたら、一つの階級に振り分けられる強いボクサーの数は、当然減ってしまう。

 

 言いにくいことだが、昔に比べて複数の理由で世界王者の価値は落ちた。

 その落ちた価値を高められる階級と、それが出来ない階級があるのは否定できない。

 

 安易な世界挑戦は……むしろ、貶める行為でもある、か。

 

 飯村の言ってるのは正論だ。

 だが、正論が過ぎる。

 

 あと、ボクシングファンのための雑誌の記者として、言いたくても言えない事、書きたくても書けない事もあるんだよ。

 

 ……一言で言えば、生意気でムカツク。

 

「ボクシングに限らず……私は、スポーツライターとして、人が世界に目を向けるような記事を書きたいと思っています。その中で……日本人の、本当の世界挑戦が生まれるのではないかと、信じています」

 

 飯村を、見た。

 眼鏡のレンズの向こう。

 熱を感じた。

 

 生意気で、ムカツキはする。

 それでも。

 

 ボクシングが好きなことは認めてやるのが、大人の対応ってやつか。

 

 それに、この地雷は……放っておくと危ない。

 間違いなく、問題を起こす。

 

「まあ、なんだ。言いたいことは理解した……よろしく頼む」

「……ええ、よろしく」

 




はい、途中に間が空いてしまって申し訳なかったですが、これで第3部のチャンピオンカーニバル編の終了です。

正直、第4部への伏線を張りつつも、書くか書かないで悩みながら第3部に取り掛かったので、ヴォルグの試合の後の説明回……情報を詰め込んだのは、読み手もそうでしょうけど、明らかにテンポが悪くて書き手としてもストレスになりました。
ただ、第4部でその情報を自然に小出しできるかと言うと……私の筆力および構想力では無理だなと。
結局、きっちりとプロットを練らずに書き始めたしわ寄せというか、自業自得ですね。
書き手として、私の力不足を読者に押し付けてしまったことは申し訳なく思います。

体調に関してご心配をおかけしましたが、ラジオ体操を終えられる程度には回復しました。(息切れしないとは言ってない)
しばらく体調回復および、体力回復に努め、第4部の再開はそれからということに。

しかし、原作初登場時からすると、飯村さんは……丸くなりましたよね。(遠い目)

さて、青木さんのタイトルマッチは、どうしようか。
……あと、ドリームマッチも。(震え声)


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幕間~交差点~
ドリームマッチ前編。


リテイクし過ぎて、自分の判断に自信がないです。(震え声)
ただ、知人からはゴーサインが出たので。

どの時期に、どの舞台で戦うかで、この二人の描く物語は変化するように思います。


『4月中旬』

 

 

「もっと、頭を振れ!」

「下に返せ!すぐじゃ!」

 

 会長の構えるミットめがけて、ボクは打ち込んでいく。

 

「動きを止めるな!」

 

 パンチの打ち終わり。

 動きが途切れたところを、会長のミットで頭をはたかれた。

 

 パンチとパンチのつなぎ。

 その合間の防御。

 そこが、スムーズにできない。

 

 約半年ぶりの復帰戦にむけて、やらなきゃいけないことがたくさんある。

 悩んでる時間なんて……ない。

 ないはず、なんだけど……。

 

『宮田くん、また少し背が伸びてたぜ……幕之内くんの言ってた『約束』だけど、早くしないと間に合わなくなるかもな』

 

 速水さんの言葉が、ぐるぐる頭の中を回っている。

 

 会長のミット。

 パンチが、芯を外す。

 

 反射的に首をすくめたけど……予想していた会長の怒鳴り声は飛んでこなかった。  

 

「……集中できておらんの」

 

 会長の目が見られなくて、うつむいてしまった。

 怒られるよりも、ツラい。

 

 会長の足がくるりと反転した。

 

「ま、待ってください、会長」

 

 集中します。

 ちゃんと練習しますから……。

 

「ついてこい」

 

 

 

 

 

 

 

 会長室。

 会長とボク、そして八木さんの3人。

 

「小僧」

「は、はい!すいませんでした!」

 

 直立不動から、頭を下げる。

 八木さんが、笑っている気配。

 

 ……怒って、ないのかな?

 

「小僧よ。貴様、宮田に……宮田一郎には会ったのか?」

「え、あ、いや、会ってません」

 

 会長が、じっとボクを見つめてくる。

 

「何故じゃ?」

「何故って……その、来月の試合はもう決まってますし、それに集中しないと」

「……その挙句に、気になって集中できんなど、本末転倒じゃろうが」

 

 会長の言葉に、またうつむいてしまう。

 

「……174」

「え?」

 

 顔を上げた。

 

 会長は、ボクに背を向けて窓の外を見ていた。

 

「会長がね、宮田さん、一郎君のお父さんに電話をかけて聞いてみたそうだよ」

「174って、宮田君の今の身長が、ですか?」

 

 デビュー時のデータじゃ、172センチだったはずなのに。

 間柴さんほどじゃないけど、それでも、ボクより10センチも高いのか。

 

 と、いうことは……ボクとやった時と、リーチも違ってる?

 

 リーチが1センチ伸びれば、ボクと宮田君との距離は1センチ広がる。

 以前なら届くはずだった攻撃も、届かなくなってしまう。

 

「……そこで拳を握り締めるぐらいなら、会いに行かんか」

「あ、会いにって……いや、でもですね、その……」

 

 次に会うのは、リングの上だって……。

 それに、『何しに来た?』って突き放されるような……。

 

「率直に聞く。小僧よ、宮田と戦りたいか?」

「は、はい!もちろんです!」

 

 約束。

 新人王戦ではダメだったけど、プロのリングで決着をつけるって……でも。

 

「あ、いや、今は次の試合ですよね」

 

 復帰戦。

 速水さんに負けて、約半年。

 あれからずっと、基本の練習を積み上げてきた。

 その成果が問われる、大事な、試合。

 

「……小僧よ、西川ジムの小田裕介を覚えておるな?」

「あ、はい、小田さんですよね、ボクのデビュー戦の相手の」

 

 宮田くんがジムを移籍して……すぐにボクの誕生日が来て、プロテストを受けて、そしてまたすぐにデビュー戦が決まって、その相手が、小田さんだ。

 青木さんが、『根性無しで有名』とか言ってたけど、全然そんなことはなくて……。

 

 そうか、あれは去年の1月だったから、ボクがデビューしてからもう1年が過ぎたんだなぁ。

 ボクも宮田君も、この春で高校を卒業して……。

 

「……貴様のデビュー戦の相手に、何故小田裕介を選んだかわかるか?」

「え?」

 

 そんなことを言われても……。

 

 戸惑うボクを、会長がじっと見つめている。

 

「2戦目の藤原義男、覚えておるか?」

「は、はい、覚えてます」

 

 デビュー戦から1ヶ月ちょっと後で、2月だった。

 ボクの得意な接近戦で、頭突きをされた。

 今ならわかるけど、あれは『近づけば痛いめに遭う』という脅しで、ボクはそれにはまって踏み込めなくなり、自分の距離で戦えなくなった。

 

「何故、2戦目の相手に、藤原義男を選んだかわかるか?」

 

 会長の言葉。

 問いかけ。

 

「わか……わかりません」

 

 何故なんて、なんか意味があるんだろうか?

 

 会長が視線を机の上に落し……あらためて、ボクを見た。

 

「元々、貴様のデビューはもっと後の予定だった」

「え?」

 

 それはどういう……?

 

「一歩君」

 

 八木さんの方を見た。

 

「プロテストはね、ジムの方針にもよるけど、1年ぐらい練習を積み重ねて、それでようやく許可を与えられるものなんだ」

「そうなんですか?」

「アマで基本を学んでいたりするケースは別だけどね……良くも悪くも、ボクシングって競技は危険を伴う。未熟な人間をリングに上げるわけにはいかない。そのためのプロテストではあるんだけどね、『テストを受けてもいいかどうか』は、ジムの裁量に委ねられているんだ」

 

 八木さんの言葉が続く。

 

 約1年、最低でも半年。

 投げ出さずに、つらい練習を続けられるかどうかで、精神的な適正を見る。

 そして、攻撃と防御の基本が身についているかどうか。

 

「……ジムに通って半年でプロテストっていうのは、素質がある子が多い、ね」

 

 ボクは、鷹村さんと出会って……。

 

「うん、一歩君はこのジムに来て半年で、プロテストを受けた」

「……え?」

 

 会長を見る。

 

「小僧よ、貴様は不器用だが素質はある、が……ワシとしては、1年かけてじっくりとボクシングの基本、基礎を叩き込んでからプロテストを受けさせるつもりだった」

「じゃあ、なんで……」

「言っておくが、宮田一郎は、子供の頃からボクシングに親しんでおった。ズブの素人で、ボクシングに興味すらなかった貴様とは、立ち位置が全然違う」

 

 会長を見つめるボクに、八木さんが、優しい声で語りかけてきた。

 

「一歩君。一郎君がこのジムから川原ジムに移籍したあとのこと、覚えているかい?」

「それは……」

「一郎君がいなくなって……うん、気が抜けていると言うか、『何をやっていいのかわからない』という印象を受けたよ」

 

 宮田君と、いきなりスパーをやらされて。

 宮田君との再戦に向けて、3ヶ月も会長に付きっ切りで指導を受けて。

 

 あぁ、もしかして……。

 

「だから、急いでボクにプロテストを受けさせたんですか?」

「技術はもちろん大事じゃが、選手にやる気がなくては話にならん」

 

 八木さんが、ボクを見て言う。

 

「一郎君も、移籍してすぐにデビュー戦をやったからね……1年かけてからプロテストを受けると、もう一郎君と戦える新人王戦には参加できないことになっていた」

 

 会長が、息を吐いた。

 

「そのせいで、パンチ力が突出した、防御のなってないボクサーを、プロデビューさせることになったがな……指導者としては汗顔の至りじゃわい」

 

 ……そうか。

 この半年、会長がボクにひたすら基本と基礎を繰り返させたのは、そういうことだったんだ。

 失った半年を、今、か。

 

「それを踏まえて、じゃ」

 

 会長が、口を開く。

 

「貴様がプロテストで相手を派手にぶっ飛ばしたのもあるが、場慣れした相手を選ぶ必要があった」

「……?」

「お互いデビュー戦で、カチカチに緊張したボクサー相手に、まぐれでも何でも、貴様のパンチが当たったらそこで試合が終わってしまうわ。勝ったとしても、そこには何も残らん。リングの上で、しっかりと戦わねばボクサーとしての経験は得られん」

 

 あぁ、小田さんは確か、ボクとやる前は3勝2敗で。

 

「そして案の定、貴様はデビュー戦で防御がなってないことを露呈し……その反省と練習をし、忘れないうちに同じようなタイプ、ファイターとの試合を選んだ」

 

 それで、試合間隔が短かったのか。

 

 会長が、息を吐く。

 

「できればもう一戦、足を使うタイプのボクサーと試合をしたかったがな、そこでタイムリミットじゃ」

「え?」

「……新人王戦は6月からじゃろうが。KO負けすれば、3ヶ月は試合に出られん……その時点で棄権じゃ。かといって、必ず勝てるような相手は、貴様の経験にならん」

 

 ……意味が、あったんだ。

 

「足を使うタイプというか、はぐらかす相手との試合が組めなかったことが、小橋戦ではもろに出た……その次の、速水との試合に目が向いていたワシのミスでもあるんじゃが」

 

 ボクが知らない、知らなかった、いろんな意味が。

 

「……ぁ」

「ん?」

「ありがとうございます、ありがとうございます。ボクのためにそんな、色々と考えてくださって……」

「貴様に感謝してもらいたくて説明したんじゃないわ!」

 

 会長の怒鳴り声。

 それが気にならない。

 

 これほどまでに気にかけてもらえる。

 そこに、感謝しかない。

 

「……まぁ、ええわい。それで、じゃ」

「はい、なんでしょうか」

 

 

『今、貴様が宮田一郎と試合をすることに、どんな意味がある?』

 

 

 ……え?

 

 会長の言葉。

 それを理解するまでに時間がかかった。

 

 意味?

 意味なんて。

 約束で。

 約束だから。

 

 会長が、八木さんが、ボクを見つめている。

 

 なぜか、言葉が出ない。

 

「……小僧、良くも悪くも、貴様は宮田一郎のことを良く知っておる。ボクシングと出会い、半年でプロデビューし、5戦して4勝1敗と戦績はともかく、ボクサーのひよっこともいえる貴様が、2回も試合形式でスパーをしたボクサーと戦って、何を得られる?それで強くなれるのか?小橋戦のようなことを繰り返さないために、今まで経験したことがないタイプのボクサーと戦うことを選ぶべきではないか?」

「それは……」

「ボクサーがボクサーでいられる時間は長くない。ならば、1戦1戦に意味を持たせ、学び成長していくことが重要になる」

 

 違う、そうじゃなくて。

 意味なんかじゃなく、約束で……大事な約束だから。

 

 その言葉を、口に出せない。

 

「小僧よ。貴様は、まず鷹村と出会ってボクシングを知った。宮田一郎と出会って、ボクシングを始めたわけではない、そこを履き違えるなよ」

「……」

「一歩君、会長は意地悪で言っているんじゃないよ。悪い意味で、入れ込みすぎていることを心配してるんだ」

「入れ込みすぎ、ですか?」

「さっきも言ったけど、一郎君がいなくなった後の君の様子を思い出すとね、不安なんだ。試合の後、また目標だけじゃなく、目的を見失うんじゃないかって」

 

 プロのリングで。

 宮田君との約束を。

 

 ……その約束を果たした後?

 

「何故ボクシングをやるのかは……人それぞれじゃ。同世代だからと、お互いに競い合わせようとしたワシが言うのもなんじゃが、貴様の原点は宮田一郎ではあるまい」

 

 ……原点?

 

「……この老いぼれは、老いぼれなりに、貴様のことを考えておる。練習方法しかり、対戦相手しかり、どうすれば小僧が強くなれるか、どうすれば小僧が成長できるか、とな。それは、ボクシングだけに留まらず、人間的にも……と願ってはおるがな」

 

 会長が、ボクを見る目。

 厳しいと言うより、どこか心配するような眼差しに思えた。

 

「宮田一郎は既に5勝。あとひとつ勝てば8回戦昇格じゃ。わかるか?今、小僧が宮田と試合をしたいといえば、来月の貴様の試合のあと、それまで宮田一郎をフェザーで待たせる必要がある」

 

 会長の座っている椅子が、音を立てた。

 

「新人王戦のようなトーナメントと違って、ボクシングの試合は、お互いが求め、状況がそれを許さねば組むことができん……速水龍一にしろ、全勝全KOで新人王を獲っても、周囲の都合で階級変更を強いられた。思うところはあろうが本人はそれを飲んだ。目的があるから、それを飲んだんじゃろう」

 

 沈黙。

 

 そして、会長が窓の外に視線を向けた。

 

「小僧よ、宮田一郎と会ってこい。会わずとも、せめて見てこい。そして、宮田一郎と試合をする理由を、意味を見つけたら、それをワシの前で言え。ワシを納得させん限り、試合は組まん」

「……会長」

「行け。今すぐじゃ」

「……わかりました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 宮田君の家。

 鴨川ジムをやめると聞いたあの日、初めて訪れた場所。

 そして、約束をした場所。

 

 家はある。

 家はあった。

 それなのに、表札がない。

 ここだけじゃなく、周辺が全部そんな感じで、取り壊されている家も少なくない。

 

 通りかかったおばさんに話を聞いたら、ここに大きなマンションが立つ予定らしい。

 

 何かを叫びたいような、それでいて何を叫べばいいかわからないような不安感。

 川原ジムに向かって、走っていた。

 

 

 川原ジム。

 宮田君はいない。

 でも宮田君のお父さんがいた。

 たぶんだけど、練習生に指導する姿は昔と変わらない。

 

 ……窓から覗いていたら、見つかった。

 

 

 川原ジムの近くの、ベンチすらない小さな公園。

 宮田君のお父さんと2人。

 

 ジムの移籍のタイミングで、家は売りに出したそうだ。

 マンションが立つ計画もあったしな、と……宮田さんは、少し笑って説明してくれた。

 

「……一緒に住んでないんですか?」

「……ああ」

 

 宮田さんの微笑みに、それ以上は聞けなかった。

 

 それまでの環境を、全て変えた。

 全て捨てた。

 心機一転とは、少し違う気がする。

 

 ここに来た理由を、全て話してしまっていた。

 正直に、ではなく……どこか宮田さんに甘える部分があったと思う。

 

「『どんな意味がある?』か、はは、会長らしいな」

 

 楽しそうに、それでいて寂しそうに、宮田さんが呟く。

 宮田君はもちろん、宮田さんもまた……現役時代からずっと慣れ親しんだ鴨川ジムを離れて、ここにいる。

 

 ボクが、ボクシングを始めなかったら……今も2人は、鴨川ジムにいたんだろう。

 

「幕之内」

「は、はい」

「私としては、一郎とお前を試合させる意味はあると思っている」

「そ、それは、どんな意味ですか」

「はは、それは『私が考える』一郎への意味であって、一郎自身がそう思っているとは限らんさ」

 

 宮田さんは、空を見上げたまま言葉を続けた。

 

「幕之内自身に意味を考えさせる……それが、会長らしいと思ってな。強引な指導者なら、さっさと自分で決めてしまうさ、きっと」

 

 それから少し話をした。

 宮田さんの現役時代の話、八木さんの話、川原ジムの会長は、宮田さんのトレーナーをしていた人らしい。

 

 宮田さんを見る。

 日本王者。

 そして東洋王者として防衛を重ね、当時世界に最も近いボクサーと呼ばれていた……宮田くんの憧れで目標の人。

 

「……と、そろそろ一郎が来る時間か」

「あ、すみませんでした、急に押しかけて」

 

 宮田さんがボクを見つめた。

 

「幕之内、練習を覗いてもいいが、一郎には見つかるなよ」

「え?」

「……見られたくはない、そう思っているだろうからな」

 

 

 

 夜。

 宮田さんが、出てきた。

 

「待たせたか?」

「……はい」

 

 口を開く。

 

「宮田君に、試合の予定はないんですよね?」

「ないな」

「ずっと、ああなんですか?」

 

 鴨川ジムにいた頃から、宮田くんはストイックだった。

 それでも、他の人との会話はあったし、あんなに張り詰めた空気を身にまとってはいなかった。

 

「そうだな、口数が少なくなったのは移籍後から……そして、おそらくお前の言う切羽詰った雰囲気は、新人王戦が終わってから、だな」

「……」

「速水に負けて、1ヶ月ほど休養して……成長期など終わったと思っていたのに、その1ヶ月で2センチ近く背が伸びた」

 

 そう言って、宮田さんが口元をゆがめた。

 

「……子供の頃から基礎を積み上げ、成長期が終わってから完成させたバランスだからな。ステップの幅、体重移動、タイミング、リズム……1つ狂えば、全てが歪んでいく」

「そうは、見えませんでした」

「……修正しているからな、ただ……」

「ただ、なんですか?」

 

 沈黙。

 そして、どこか祈るような表情で宮田さんは、ボクを見た。

 

「もう、一郎にフェザーは無理だ。減量云々ではなく、一郎が目指すボクシングに必要な力、速度を、フェザーのウエイトでは維持しきれない」

「……そんな」

「先に言っておくぞ、幕之内。もう、一郎はお前とは万全の状態で戦うことはできない。フェザー級としてのベストを目指すことはできても、ボクサーとしてのベストを目指すことはできない」

 

 宮田さんの表情に、その目に、会長から言われた言葉を思い出す。

 

『今、貴様が宮田一郎と試合をすることに、どんな意味がある?』

 

 たぶん。

 いや、きっと……会長は、このことを知っている。

 そして……宮田くんは、ボクと戦いたいと思っている。

 

 意味は、ある。

 そこで、宮田君が待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会長室。

 

「……意味は見つかったのか、小僧」

「会長の言う『意味』はわかりません、でも宮田くんが待っています」

 

 宮田くんの歩く道。

 憧れたお父さんのボクシングで、世界を獲る。

 世界王者になることじゃなく、宮田さんのボクシングスタイルを世界に認めさせる……そういうことなんだろう。

 

 そしてボクは……強くなりたい。

 強さの意味を知りたい。

 それは、ボクシングじゃなくても良かったのかもしれない。

 でも、ボクはボクシングと出会い、ボクシングを選んだ。

 

 会長を見る。

 

「……ふん。まあ、そこそこ見れる顔つきじゃな」

 

 そう言って、会長は電話の受話器を手に取った。

 

「鴨川じゃ。うむ、例の件……」

 

 

 短く、でも長い電話が終わった。

 

「小僧」

「はい」

「8月の頭じゃ。わかるか?来月の試合、負けることは許さん、必ず勝て」

「ありがとうございます!」

 

 八木さんが、微笑みながら言った。

 

「KO負けなんかしたら、試合が流れるからね」

「勝ちます」

「ふん、宮田一郎とのラバーマッチに入れ込みすぎて、足元をすくわれるなよ」

 

 ラバーマッチ?

 え、ラバーって……。

 

「ボ、ボクと宮田くんは、そういうのじゃないですから!会長までそんなこと……」

「……何を想像しとるのか知らんが、頬を染めるな、気色悪い」

「ははは、一歩君。ラバーマッチっていうのは、同じ相手との1勝1敗で迎えた3戦目の試合を指す言葉なんだよ」

「あ、そうなんです、か」

「でもまあ、一歩君の解釈も間違いではないんだけどね……昔と違って、同じ相手と戦うことが難しい時代でありながら、3試合も戦うってことは、恋人のように離れがたい組み合わせ……転じて、ラバーマッチって呼ばれるようになったって説が有力だし」

 

 八木さんが、少し寂しそうに言葉を続けた。

 

「ただ、1勝1敗の、この試合で決着をつけるって……もう二度と会わない、決別の意味でもあるんだ」

 

 宮田君との、ラバーマッチ。

 スパーじゃなく、本当の試合。

 

 もう二度と会わない。

 決別の、意味。

 

 ふと、速水さんのことを考えた。

 

 階級変更。

 それを、わざわざ告げに来てくれた。

 

 宮田君とは別の約束。

 その約束が果たされることは……あるんだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『6月下旬』

 

 

「気を抜くな!」

「動け!」

「下に返せ!右も!」

 

 会長のミットを追う。

 

 ミットの位置。

 先月の復帰戦に向けての練習とは違う位置にあるのがわかる。

 

 試合の相手に合わせて、会長のミットは、そこに置かれる。

 どれだけの時間をかけて、会長はミットの位置をつかむんだろう。

 

 集中しなければ申し訳ない。

 

 感謝しながら、ボクはパンチを打つ。

 宮田君の位置を想定した、ミットめがけて。

 

「一歩君!」

 

 八木さん?

 

「なんじゃ、練習中じゃぞ!」

「今、電話があって、お母さんが倒れて病院に運ばれたって……」

「母さん、が……?」

「とにかく、詳しいことは何もわからないんだ、病院はこっちのメモに……」

 

 

 

 

 病室で、点滴を受けて眠っている母さんを見つめる。

 過労らしい。

 

 高校を卒業して、その分時間に余裕ができた。

 でも、ボクは……。

 

 ずっと復帰戦にむけてボクシングの練習を重ねていた。

 復帰戦が終わった後は、すぐに宮田君との試合に向けて練習を始めた。

 

 ボクは、何をやっていたんだろう……。

 何を見ていたんだろう……。

 

 ごめん、母さん。

 

 

 

 

『7月上旬』

 

 

 家の仕事。

 母さんの見舞い。

 

 弱音は吐けない。

 母さんが、ずっとやっていたこと。

 ただ、ボクシングの練習をする時間がない。

 

 宮田君との試合まで1ヶ月。

 そろそろ決断しなきゃいけない。

 早いほうが、いい。

 

 雨が降って、釣り船の予約がキャンセルされた日、ボクは宮田君に会いに行った。

 

 

 

 

 

「待つぜ」

 

 ボクの話を聞いて、宮田君は一言、そう言った。

 

「違う、違うよ、宮田君……試合じゃなくて……試合じゃなくて……ボクは……」

「それでも、待つぜ」

 

 宮田君の目。

 絶対に折れないことがわかる。

 意地になっているんだろうか。

 

「……ごめん、ボクが、ボクが負けたから」

 

 東日本新人王戦の決勝。

 ボクが速水さんに勝っていれば、宮田君と戦えた。

 

「オレも負けている」

「そういうことじゃ……」

「お前は3R、ダウンも奪った……」

「あれは、事故で……」

「オレは、無様に1Rで予告KOされた」

「~~~~っ!」

 

 宮田君が背を向けた。

 

「待って、宮田君」

「8月の試合は延期。それはもう聞いた」

 

 このわからずやと、そんな言葉が口に出せない。

 そこまでして、待ってくれている。

 それが、とんでもなく重荷で……嬉しく思う。

 

 

 傘を差すことも忘れ、ずぶ濡れになって家に帰った。

 

 その夜……梅沢君が家に訪ねてきた。

 

 

 

 

 

 

 

『8月』

 

 

 母さんがひとまず元気になったのと、梅沢君がウチで働き始めたこと。

 また、ボクシングの練習ができるようになった。

 

 A級トーナメント。

 木村さんの応援。

 

 今は、速水さんと佐島さんの試合……なんだけど。

 

「おーおー、ひでえ試合してやがんな」

 

 試合開始直後の、ラフな仕掛けから……佐島さんは、何もさせてもらえない。

 

「……速水さん、怒ってるんですかね?」

 

 鷹村さんが、ボクの頭を小突いた。

 

「お前は良く見とけ」

「え?」

「減量失敗した小者が、精一杯虚勢をはってんだよ」

「え、え?」

 

 減量失敗?

 階級を下げたから?

 

 リングと、鷹村さんを交互に見る。

 

「もう一度言う、お前はよく見とけ……速水の姿は、お前と戦う時の宮田の姿かもしれないんだからな」

 

 1Rが終わった後、速水さんがこっちを見た気がしたけど反射的に目を背けてしまった。

 そしてまた、鷹村さんに小突かれた。

 

 

 

 

 

『9月』

 

 A級トーナメント。

 青木さんと木村さんの応援。

 

 そして、延期になっていた宮田君との試合が決まったこと。

 それを、速水さんに報告する。

 

 ……速水さんが負けたら、すごく微妙な雰囲気になりそうだから、勝ちますように。

 

 

 速水さんの試合が終わって、ふと気づいた。

 先月の佐島さんとの試合に続いて、今日のサニーさんとの試合でも、1発もまともなパンチをもらっていない。

 

 そういえば、デビュー戦のビデオでも……まともなパンチはもらってなかった。

 2戦目は、ジャブを1発だけ。

 

 ……えぇ?

 

 宮田君との試合は……アゴを掠めたのが1発。

 千堂さんとの試合は、ボディはもらってたけど、顔は……ダウンした1発だけ?

 ボクの試合は、事故みたいなものだけど、一応3発、か。

 

 え、6試合で……6発?

 ボクなら、1試合どころか1Rでそれ以上打たれてる。

 

 なにか、コツでもあるのかなぁ。

 宮田君との試合が決まった報告の時に、ちょっと聞いてみよう。

 

 

 

『反撃をもらわないタイミングでパンチを出すんだ』

 

 ……ボクシングの上達に、近道はないってことなんだ、きっと。

 

 

 

 

 

『10月中旬』

 

 宮田君との試合はすぐそこ。

 調子はいい。

 できることはしたはずだ。

 

『もう、一郎はお前とは万全の状態で戦うことはできない』

 

 宮田さんの言葉を思い出す。

 

 今のベスト。

 現在の最善を、ぶつけ合う。

 そんな試合。

 

 八木さんの呟きが浮かんでくる。

 

『本当なら、もっと上の舞台でやらせたかったんだよ』

 

 同じジムにいたのに、袂を分かった。

 新人王戦。

 そのつぎは、A級トーナメント。

 もしかすると、タイトルマッチで。

 

 競い合い、高めあい……最高の舞台で。

 

 ボクも宮田君も、まだ6回戦の選手で。

 勝てば、8回戦……A級昇格。

 

 ボクはともかく、宮田君はもっと、もっと上にいけるボクサーだ。

 

 速水さんがいなければ、今頃はA級トーナメントの決勝に向けて調整していたかもしれない。

 ボクがいなければ、きっと、今も鴨川ジムで汗を流していた。

 

 ボクのできること。

 ボクの持てる力全てを出し切る。

 何のために、鴨川ジムから川原ジムに移籍したのか。

 そんな後悔をさせるわけにはいかない。

 

 ……そんなことを考えていたから。

 

『……今持ってるものを、全部ぶつけるつもりです』

 

 速水さんの言葉に、心臓が止まるような思いをした。

 

『たとえ負けても、運がよければ引退せずにすむ』

『ボクサーを続けられれば、そして運がよければ、もう一度A級トーナメントに挑戦できる』

『スポーツ選手は……ボクサーは、無事にリングを降りられるかどうかわからない。試合に勝ったとしても、現役を続けられる保障は無いんだ、そうだろ?』

 

 この人は、速水さんは……ボクとは覚悟の量が違う。

 

『君の次の試合……宮田くんとの試合は、絶対にやり直しができない試合じゃないのか?約束ってのは、勝負だろう?決着をつけるってことだろう?』

『勝てよ……勝って、宮田くんを悔しがらせてやれ』

 

 

 チケットを振りながら『金返せ、と叫ばなきゃならないような試合はしないでくれよ』と言い残して、速水さんが背を向けた。

 その背中を見送る。

 

 速水さんだけじゃない。

 母さんに梅沢君、会長に八木さん、篠田さん、鷹村さん、青木さん、木村さん……みんなを納得させるだけの試合をしなければいけない。

 

 そして誰よりも……宮田君だ。

 宮田君を納得させる試合をしなきゃ……いや、するんだ。




試合は後編ね。
なお、デビュー時期とか、対戦相手の理由とかは、勝手に推測したものです。


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ドリームマッチ後編。

まあ、好みの分かれる結果だと思います。
久しぶりに、幕之内一歩の恐怖を味わっていただければ。


『10月下旬、試合前』

『宮田一郎』

 

 

 シューズの紐。

 いつもどおり、一発で長さが決まった。

 

 視線を感じて、顔を上げる。

 

「……どうかしたのかい、父さん」

「いや、落ち着いていると思ってな」

「よしてくれよ、父さん……オレに言わせれば、緊張なんて、余計なことを考える余裕がある証拠さ」

 

 ……今日の相手は、幕之内だ。

 そんな余裕、あるわけない。

 

 でも、このギリギリの感じが、たまらなく楽しみなんだ。

 

 最初のスパーは、ど素人に追い詰められた。

 3ヵ月後のスパーでは、見事にやられた。

 

 あれから……2年か。

 5月の復帰戦では、相変わらず不細工な試合をしていたが、そんなものは何の参考にもならない。

 

 

 ふっと、父さんの表情に気付いて、苦笑した。

 

「心配しなくても、この試合が終わったら……アイツと決着をつけたら、もう、フェザーではやらないよ。やる理由がない」

「……そうか」

「というか、アイツとの試合そのものに反対されると思っていたよ」

 

 フェザー級だけでなく、上下2階級まで含めた、国内トップクラスのパンチ力だろう。

 今のオレにとって、危険な相手なのは間違いない。

 

「速水は、いいのか?」

「どういう意味だよ?」

「負けた相手にリベンジを果たしてから……という気持ちはないのか?」

「ない、とは言わないよ。でも、進んで戦いたい相手じゃないね」

「ほう」

 

 父さんの浮かべた表情に、少しイラッとした。

 

「別にまぐれで負けたとは言わないし、速水の強さは認めるよ……でも、幕之内とは違うんだよ、父さん」

 

 ……うまく、言葉にはできない。

 

 幕之内はこちらが自分をぶつければぶつけた分だけ返ってくる……ギリギリで、それがたまらない。

 他の相手じゃ、あの感覚は味わえない。

 こだわっているだけかもしれないけど、アイツは、幕之内は特別なんだ。

 

 まあ、普段はうっとおしいだけだけどな。

 

 対照的に、速水はたぶん……こちらがぶつければそれをひょいと避ける感じだ。

 自分の全力をぶつけられる安心感のようなものはない。

 熱くなれるような試合ができるとは思えないし、きっと楽しめない。

 

 だから、わざわざ試合をやってみたいとは、思えないな。

 タイトルマッチとかならともかく、ね。

 

「……あの、予告KOについてはどう思っているんだ?」

「あの時、速水はそんなこと一言も言ってなかったさ。記者が勝手に書いたものだってことぐらい、オレもわかってるよ」

「そう、アレは新聞記者が勝手に書いたものだ……ただ、速水がそれを実行しようとした意味はわかっているか?」

 

 意味?

 

 父さんを見つめた。

 

「おそらく、速水はスポンサーから1Rで倒せと要求されたんだろう」

「……は?」

「千堂との試合、ヴォルグ・ザンギエフの来日……新人王戦で、速水はかなり窮屈な戦い方を強いられていたんだろうな」

 

 父さんが、言葉を続けていく。

 

「結局、スポンサーは速水から下りたらしいが……1Rで倒せと要求されて、その1Rで最初の1分を撒き餌に使った。その事実に、私は速水の精神的な強さと凄みを感じるがな。できれば、お前にもその凄みを感じて欲しいと思っている」

「……何が言いたいんだよ、父さん」

「ああ、すまんな。少し話が脱線したか」

 

 父さんが視線を足元に落し、あらためてオレを見た。

 

「一郎。私は、自分のボクシングが完成品だなんて思ったことはない」

「……父さんのボクシングは、最高さ。こだわるなと言われても、オレは父さんのボクシングを目指すし、続けるよ」

「そうか……」

 

 父さんが小さく頷く。

 そして、ゆっくりと……自分のアゴをなで始めた。

 

 一度砕かれたアゴ。

 父さんを引退させ、全てを失わせた試合。

 

「この試合を受けた甲斐があったな」

「なんだよ……?」

「今日の試合……お前は絶望を感じるかもしれん」

「……オレが、幕之内に負けるって言うのか?」

「そうではない」

 

 父さんが首を振る。

 

「幕之内は危険な相手で、お前は万全とはいえないが……それでも、お前の勝ちの目の方が高いだろう。私の言う絶望とは、勝負とは関係ない。そして……」

「そして……?」

 

『リスクを承知で、私は、お前にその絶望を知ってほしいために、この試合に賛成した』

 

 父さんが、まっすぐにオレを見つめている。

 冗談でもなんでもなく、本気で言っているのだろう。

 

「……試合の途中で『絶望』の意味を理解したなら、前もって知っていた分、立っていられるだろう」

 

 そう言って、父さんは自嘲気味に呟いた。

 

「……甘いんだろうな、私は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『幕之内一歩』

 

 入場前に、鷹村さんの控え室に顔を出した。

 

「鷹村さん、行って来ます」

「おう……つまらねえ試合するんじゃねえぞ」

「はは、面白い試合になるかどうかはわかりませんけど……できるだけのことはやろうと思います」

 

 鷹村さんがボクを見つめ……口を開いた。

 

「一歩よ、リングに上がったボクサーは、万全だ。万全じゃなきゃならねえ。覚悟を決めてから、リングに上がれよ」

 

 覚悟、か。

 

 宮田君のために。

 自分のために。

 この試合に向けて、迷惑をかけたみんなに、お世話になったみんなに。

 

「小僧、出番じゃ。行くぞい」

「はい」

 

 前を行く、会長の背中。

 

 メインの鷹村さんの前の、セミファイナル。

 B級ボクサー同士の、A級昇格をかけた試合。

 

 隣を歩く、八木さんを見た。

 

 華やかな舞台とはいえないかも知れないけど。

 全力を尽くします。

 

 

 リングの上。

 レフェリーの声。

 そして、宮田君。

 

 1勝1敗とは言うけれど、どちらも負けていた試合だった。

 勝ったのは、アゴを掠めたラッキーパンチのおかげ。

 そこを狙っていたのならともかく、宮田君が避けようとして、偶然そこを掠めただけだ。

 

 宮田君に……一度は勝ちたい。

 

 そう思った瞬間、身体が震えた。

 

 そうだ。

 これが最後。

 この機会を逃すと……ボクは、もう宮田君に勝つことはできないんだ。

 

 握った拳に、力がこもる。

 

 速水さんの言う、覚悟はまだよくわからない。

 それでも、今この瞬間が、宮田君に勝つ最後のチャンスだってことは、ようやく実感できた。

 

「小僧、わかっておるな?」

「はい」

「口に出せ、今すぐ」

「同じ攻撃を繰り返さないこと。攻撃は、小さく速く、鋭く。常に頭を動かすこと」

 

 セコンドアウトの合図が鳴った。

 

「行ってこい、小僧」

「はい」

 

 ゴングが、鳴った。

 

 リングの中央。

 

 向かい合い、実感した。

 背が伸びている。

 

 手を合わせ、離れた。

 

 受身にならない。

 そして、パンチを見せ過ぎない。

 

『宮田のおっかねえところは、学習能力の高さだ』

 

 鷹村さんのアドバイス。

 だったら、最初は、こちらのタイミングやリズムを覚える時間。

 

 前に出て、こちらから手を出す。

 

 踏み込んで、左を……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……あれ?

 顔の前に、壁がある。

 じっとしているのに、身体が揺れている感覚。

 

 ……え、あ、あっ!

 

 両手。

 ボクシンググローブ。

 壁じゃない。

 押す。

 顔を上げる。

 レフェリー。

 

 音が戻ってくる。

 声。

 

「立てぇっ、立たんか、小僧ーっ!」

 

 身体を起こす。

 

「ふざけんなっ!立てっ、幕之内!」

 

 そうだ、まだ始まったばっかりじゃないか。

 

 膝。

 足。

 

「エイト!」

 

 カウント8!?

 

 立たなきゃ。

 慌てずに、まっすぐ……立つ!

 

 構える。

 

 レフェリーを見る。

『貴様なら睨み付けるぐらいでちょうどいい』って、会長の言葉を思い出す。

 

 ボクの手をレフェリーが持つ。

 

「やれます!」

 

 まだ何も。

 ボクは見せられてない。

 

 

「ファイッ!」

 

 続行だ。

 

 足元を確かめる。

 大丈夫、踏ん張れる。

 

 ボクの左に、カウンターを合わせられた。

 たぶん、右。

 

 この試合、最初のパンチに、いきなり合わせられた。

 リズムを、タイミングを、学習するまでもないってことなのか?

 ボクと宮田君との差は、そんなにあるのか?

 

 目の前に宮田君がいる。

 

 手を出さなきゃ。

 わかっている。

 でも。

 

 目がくらんだ。

 

 殴られた感触が、後からやってくる。

 ピーカブー。

 アゴを守る。

 でも、顔の上半分は……。

 

 マウスピースを噛み締めた。

 

 左を、耐える。

 

 そうだ。

 顔全部を守ることはできない。

 速水さんとの試合で、それを学んだ。

 

 避けようと思っても避けられない。

 ガードだけでも守りきれない。

 だから。

 

 常に頭を動かす。

 的を絞らせない。

 当てさせない。

 

 それでもダメな分は、歯を食いしばって耐える。

 それが、ボクにできることの全て。

 

 宮田君のジャブが届く距離は、ボクのパンチが届かない。

 殴られたと思って殴り返しても、意味がない。

 

 受け止める。

 パンチの芯を外す。

 空振りさせる。

 

 いつもやっていること。

 これまでやってきたこと。

 

 前に出る。

 ボクの距離まで近づく。

 そこでもまだ、我慢する。

 

 どうせ手を出しても出さなくても、殴られるんだ。

 ギリギリまで前へ。

 もっと、前へ。

 

 ここだ。

 届く。

 

 

 

 

 

 

「小僧ーっ!」

 

 ああ、さっきはこれをもらったのか。

 

 さっきは見えなかったし、わからなかった。

 でも、今のは見えた。

 

 見えたから、さっきよりもダメージは少ない。

 

 頭を上げ、上体を起こす。

 太ももを軽く叩く。

 感触がある。

 痺れもない。

 大丈夫だ。

 

 立てる。

 

 カウント7で立ち上がり、聞かれる前に言った。

 

「やれます!」

 

 まだまだこれからだ。

 宮田君を相手に、倒されないですまそうなんて甘すぎる。

 

 理由はわからないけど、とにかく、ボクの左のタイミングは、完全に宮田君につかまれている。

 ジャブを出すために、別のパンチを出すことから始めなきゃ。

 そして、そのために……ボクのパンチが届く距離まで近づく。

 そこからだ。

 

 低く構える。

 右に、左に。

 宮田君の姿を追って、その場で回転する。

 

 ……速水さんより、宮田君の方が素直な動きかもしれない。

 

 でも、これなら……ある程度は読める、かな。

 

 頭を振る。

 前に出る。

 

 宮田君がパンチを打つタイミング。

 宮田君がステップを踏むタイミング。

 

 そのタイミングで、ボクは前に出る。

 宮田君が嫌がるタイミングを探す。

 

 前に出ては突き放される。

 突き放されても、前に出る。

 

 1Rが終わった。

 

 

 会長に、疑問をぶつけた。

 

「いきなり、カウンターを合わせられたんです。そんなに差があるんですか?そんなにわかりやすいんですか?」

 

 会長はボクの目の辺りをチェックし、口を開いた。

 

「小僧。貴様は、宮田一郎を想定したシャドウを続けていたな?」

「はい」

「……つまりは、そういうことよ」

「え?」

「宮田一郎もまた、貴様との試合を想定して、シャドウを続けていた。貴様の試合を見て、修正を重ねながら、貴様の動きやリズム、タイミングを覚えこんだんじゃろう」

 

 え、それって……。

 

 ごつん、と会長の額が、ボクの額にぶつけられた。

 

「わかるか?同じではイカンのだ。宮田一郎の想定を超えろ。同じではなく、成長した姿を見せ付けろ……2度目のスパーを思い出せ。貴様も、宮田一郎も、お互いがお互いの想定を超えていった、あの試合のことをな」

 

 想定を、超える。

 成長を、見せる。

 

「立ち止まるな。成長を求め続けろ。前に進み、上を目指し続けろ」

「はい」

 

 

 

 2R。

 

 

 立ち止まらない。

 頭を動かし続ける。

 前に向かっていく。

 

 まだ、ボクの距離にならない。

 でも、ボクが手を出さない限り……芯にくるパンチはこない。

 

 パンチが届く距離じゃダメなんだ。

 だって、カウンターを狙っていない限り、宮田君は距離をとろうとする。

 身体が密着するぐらい近くまで。

 

『同じではイカンのだ』

 

 会長の言葉。

 

 いつもと同じなら、踏み込みながら相手の右を避けて、肝臓打ち。

 でも、宮田君は左を連打してくる。

 踏み込んで左を出したら、カウンターで狙われる。

 

 考える。

 頭を動かす。

 右に、左に。

 

 宮田君の左。

 これを……外に。

 

 宮田君の左が、ボクの左頬を掠める。

 反撃の来ないタイミング。

 右をボディに。

 

 ……ダメだ。

 

 躊躇している間に、距離をとられた。

 

 宮田君の構えは、半身に近い。

 肝臓打ちの感覚で、右のフックをボディに持っていくと背中に当たる。

 反則打になる。

 

 どうする。

 

 まずは動く。

 頭を動かし続ける。

 そして前に。

 さっきよりも前に。

 

 宮田君の左に、少し慣れて来たかもしれない。

 

 でも、まだ遠い。

 宮田君の動きを止めたい。

 ボディを狙いたい。

 

 あれ、他になんかあったような?

 動きを止める方法。

 

 ああ、そうだ。

 

 右フック。

 それを、宮田君の肩に、押し付ける。

 

 踏ん張ろうとする動き。

 その瞬間、動きが止まる。

 

 左アッ……。

 

 危ない!

 

 宮田君の右を、上体を傾けて避けた。

 一旦離れる。

 

 そうだった。

 攻撃は、小さく速く、鋭くだ。

 

 同じ攻撃はしない。

 頭を動かし続ける。

 前に。

 進み続ける。

 

 

 踏み込む。

 突き放される。

 踏み込む。

 距離をとられる。

 もっと踏み込む。

 左フックを引っ掛けられた。

 

 

 2Rが終わった。

 

 手も足も出ない。

 でも、少しずつ……距離が縮まっている感覚はある。

 

 

「目は見えとるな?」

「はい」

「苦しいじゃろうが、今のままでええ。別の攻撃を見せれば、迷いが出る。迷いが出れば、いつもの攻撃にも反応が遅れる。いきなりは無理じゃ、我慢せえ」

「はい」

 

 

 3R。

 

 前に出る。

 まず、距離を詰めなきゃ始まらない。

 頭を振り続ける。

 

 何度突き放されても。

 何度逃げられても。

 

 ボクには、それしかない。

 それしかできない。

 

 追いつけない。

 宮田君のボクシングだ。

 羽が生えたように、リングを舞う。

 

 それでも、これは……万全じゃないんだ。

 

 マウスピースを噛む。

 前に。

 1分1秒が惜しい。

 

 ロープに。

 コーナーに追い詰めたい。

 するりと逃げられる。

 

 ……逃げられる?

 

 距離をとろうとする動きが増えたのか?

 

 前に。

 

 見える。

 宮田君の左が、見える。

 

 慣れじゃない。

 宮田君の速度が、わずかだけど、落ちてきた。

 

 ボクはまだ、1発も宮田君にパンチを当てていない。

 

 マウスピースを噛み締める。

 何かを振り払うように前に。

 

 宮田君の速度が落ちきる前に。

 ボクのパンチを……。

 

 祈るように繰り返す。

 

 捕まえた。

 ボクの距離。

 届く。

 当たる。

 

 宮田君の速度が上がった。

 違う、戻った。

 

 誘われた。

 

 

 すごいなあ、宮田君は。

 なのに、なんで。

 

 ……そんな苦しそうに、パンチを出すんだろう。

 

 

 

 頭を起こす。

 上体を起こす。

 太もも。

 膝。

 足の指の感覚。

 大丈夫。

 

 立てる。

 

 カウント7まで待って、立つ。

 構える。

 

「やれます」

 

 レフェリーが、ボクの手を押さえようとする。

 それに反発して力を入れた。

 

 じっと、見られる。

 

 

「ファイッ!」

 

 

 まだいける。

 まだやれる。

 

 頭を振り続ける。

 前に出て、距離を詰める。

 攻撃は、小さく速く、鋭く。

 同じ攻撃はしない。

 

 できることを全部。

 やれることを全部。

 宮田君に。

 みんなに見せるんだ。

 

 よし、行こう。

 

 何度突き放されても。

 何度逃げられても。

 

 宮田君に向かって。

 

 

 

 

 

 

 ……3Rが、終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『宮田一郎』

 

 

「……まだ動けるか、一郎?」

「平気さ」

 

 一発もパンチをもらってはいないんだ。

 まだ、動ける。

 

 

 4R。

 

 ゆっくりとリングの中央に……。

 アイツが、近寄ってくるのを見る。

 

 ダウンも奪っているし、オレの方が派手に攻めているように見えるんだろうな。

 

 止まらないウィービング。

 止まらない前進。

 

 攻めるためじゃなく、守るために打たされている。

 そんな気分だ。

 

 左。

 ガードの上。

 左。

 芯をはずされた。

 

 無防備にオレの左を浴び続けてくれていたあの頃が懐かしいぜ、ホントに。

 

 左。

 かわされた。

 踏み込まれる。

 

 ……っと!

 

 左足のかかとの後ろにつま先を置かれそうになったのをかわした。

 こんなこともできるようになったのか。

 

 不器用なインファイター。

 それ以外はできない。

 そう、思っていたんだがな。

 

 ……いや、不器用なのは相変わらずか。

 

 足で相手のフットワークを邪魔するのも。

 右フックを相手の肩に引っ掛けるのも。

 やろうと思えば、オレならもっと上手くできる。

 

 ディフェンスだって、な。

 

 左を突く。

 幕之内の頭が跳ね上がる。

 

 手ごたえは、ある。

 あるんだ。

 

 前進を続けるアイツにとっては、全部がカウンター気味のパンチになる。

 もちろん、ジャブはジャブでしかない。

 わかってはいても。

 

 ……ムカツク。

 

 やはり、右しかないのか。

 その右を、打つチャンスがなかなか来ない。

 

 ただ前へ。

 自分の距離になるまで。

 自分の距離になっても。

 そこからもう1つ、踏み込んでくる。

 

 以前は、パンチが届く距離になったら慌てて攻撃してくるイメージだったんだけどな。

 そこで我慢されると、カウンターのタイミングが取りづらい。

 1Rは、やりやすかったんだけどな。

 

 また、左を突く。

 単調にも思える繰り返しが、精神と身体を削っていくのがわかる。

 

 また、向かってくる。

 前へ。

 ただ、前へ。

 

 亀のように。

 猪のように。

 

 踏み込まれた。

 突き放す。

 踏み込まれた。

 左フックを引っ掛けて、まわした。

 

 慣れか?

 打ち疲れか?

 

 追い詰められていく。

 

 右を打つチャンスを待つんじゃなく、右を打つチャンスを作る。

 さっきのRでやったこと。

 

 踏み込まれた。

 わずかに、タイミングを遅らせる。

 逃げ遅れた。

 そう、思わせる。

 

 もう一歩前に。

 呼び込む。

 

 幕之内の左。

 オレの右。

 

 2つが交差し、幕之内が倒れる。

 

 

 

 息を吐く。

 ニュートラルコーナーに立つ。

 

 カウンターで鮮やかにダウンを奪った。

 そう、見えるんだろうな。

 

 ……今のは失敗だ。

 

 それでも、ダメージがないなんてことはないはずだ。

 

 幕之内が、上体を起こす。

 確かめるように、太ももを叩く。

 レフェリーのカウントを聞いている。

 

 その、ダウン慣れした仕草が、ムカツク。

 

 そして。

 当たり前のように。

 なんでもないことのように。

 

 立ち上がる姿が。

 

 苛立ちと。

 焦燥感と。

 不安をかきたてる。

 

 

 

 

「ファイッ!」

 

 

 続行の合図。

 

 幕之内が、アイツが来る。

 

 ピーカブー。

 頭を振る。

 前に出てくる。

 

 ダウン直後だ。

 

 なんで。

 なんで、さっきと同じように動ける。

 

 踏み込まれる。

 突き放す。

 踏み込まれる。

 距離をとる。

 また踏み込まれる。

 左フックでまわる。

 

 止まらない。

 止められない。

 

 ただ一撃で相手を倒す、芸術的な父さんのボクシング。

 父さんのボクシングは、間違ってない。

 だったら、間違っているのは、きっとオレの方で。

 

 また、踏み込ませる。

 幕之内の左を誘う。

 右拳に力を込める。

 

 右のカウンター。

 

 幕之内がぐらついた。

 倒れない。

 打ち返してきた。

 ブロック。

 ガードした腕が痺れる。

 

 距離をとった。

 

 幕之内が、追いかけてくる。

 

『今日の試合……お前は絶望を感じるかもしれん』

 

 このことか。

 このことかい、父さん。

 

 

 鴨川ジムでの、アイツとのスパー。

 アイツ以外とのスパー。

 

 プロデビュー。

 オレのカウンターで倒れていった対戦相手。

 

 それを見て、どこかで安心したオレがいた。

 アイツだけが、特別なんだと。

 

 新人王戦の間柴。

 オレのカウンターをもらって、立ち上がった。

 2度目のダウンも立ち上がってきた。

 3度目のダウンも、立とうとした。

 

 オレは、カウンターではなく、新人王ルールの2ノックダウン制で勝った。

 

 

 気づいてはいた。

 薄々、わかってはいたんだよ、父さん。

 

 

 踏み込まれる。

 突き放す。

 突き放せない。

 右で突き放す。

 カウンターじゃない、普通の右。

 

 崩されていく。

 オレのボクシングが、崩されていく。

 

 

 

 4Rが終わった。

 

 

 コーナーへ戻る。

 父さんが、迎えてくれる。

 

 4回戦、6回戦クラスならともかく……その上を狙うなら。

 オレのパンチは……軽いんだな。

 

 椅子に座り、足元を見つめた。

 

「力んだな」

 

 顔を上げ、父さんを見る。

 

「倒しきれなくて、ムキになって力んだ。それでタイミングが少しずれた」

 

 そうじゃ、ないだろ……。

 

『幕之内の突進をさばくためにフットワークを重視して、パンチが手打ちになって軽くなっている』

『無意識に、幕之内との距離をとろうとしているな。ほんのわずかだが、ヒットポイントが遠くなっている』

 

 さっきから、気休めは……やめてくれよ。 

 

「それと……」

 

 グローブを、太ももに叩きつけた。

 

「はっきり言ってくれよ。倒しても倒しきれない。すぐに回復されてしまう。オレのパンチは軽いんだって」

 

 どこか、思いつめたような父さんの表情。

 

「今お前が感じている絶望は、ずっと昔に、私が乗り越えたものだ。もう一度言う。私は……現役だった頃も含めて、自分のボクシングが完成したなどと思ったことは一度もない」

「……」

「パンチの軽さを補うカウンターはある、ただし、リスクは高いぞ」

 

 セコンドアウトの合図。

 

 椅子から立ち上がる。

 

「今さらだよ。オレは、ボクサーなんだ」

「そうか……」

 

 父さんが視線を足元に落し、もう一度『そうか』と呟いた。

 そして、顔を上げた。

 

「……ずいぶん時間がかかったが、私も覚悟を決めよう」

 

 

 

 5Rが始まる。

 また、アイツが来る。

 

 幕之内は。

 ひたすら、前へ。

 

 オレは。

 ひたすら、左を突く。

 

 愚直なのは、どっちだ?

 

 1Rからずっと。

 同じことの繰り返しだ。

 

 何秒過ぎた?

 いつまで続ければいい?

 倒すまで終わらないか。

 

 時間の感覚が怪しい。

 

 

 左を突く。

 手ごたえがおかしい。

 

 バックステップ。

 違和感。

 

 サイドステップ。

 食いつかれた。

 

 止められない。

 逃げられない。

 

 ガス欠か。

 6Rなら、と思ったんだがな。

 

 ……なんて顔、してるんだよ。

 お前のチャンスだぜ、幕之内。

 

 幕之内の頭。

 動き続けていた頭が、オレの胸に押し付けられた。

 

 マウスピースを噛み締める。

 腹に力を込める。

 

 くるぞ。

 

 肝臓。

 衝撃が、背中に抜けた。

 

 オレの意思を越えて、苦痛に身体が支配される。

 上体が、折れる。

 

 幕之内が、身体を起こすのが見えた。

 見下ろされる視点。

 幕之内の呼吸音が、聞こえた。

 

 右フックが本命。

 アッパーの可能性も少し。

 

 悩むな。

 決めろ。

 そこに、自分を投げ出すのがカウンターだ。

 

 両腕で腹を抱えたくなる気持ちを抑えて、アイツの右フックに左を合わせる。

 

 幕之内の上体がのけぞる。

 踏みとどまられた。

 

 アイツの視線と、オレの視線が絡まる。

 

 踏み込んでくる。

 反応が遅れる。

 

 左じゃ止められない。

 右だ。

 

 いつもの感覚で打っちまった。

 鈍い。

 

 アイツの顔が、右下に逃げていく。

 オレの右が、アイツの髪をかすめて抜けていく。

 

 くる。

 

 マウスピース。

 腹筋。

 衝撃。

 

 痛みに、身体の反射に逆らわず。

 幕之内が身体を起こす前に。

 のしかかるようにして抱きついた。

 

 ……鍛えたつもりなんだけどな。

 

 腹の中に、拳の大きさの異物が放り込まれたような気持ち悪さ。

 痛みと吐き気。

 背中に痛みを感じるのは、錯覚なのか。

 

 レフェリーが、オレとアイツをわけた。

 

 痛みがまだ、腹の中でうねっている。

 いつまでも続く予感。

 

 ふざけたパンチだ。

 

 

 再開。

 

 幕之内が一歩前へ。

 そこで、5Rが終わった。

 

 

 幕之内の視線に背を向け、歩き出す。

 

 3メートルほどの距離だってのに。

 ……遠いな。

 

 

 椅子に座り、呼吸をする。

 

「……お前は、速度とタイミングでカウンターを打っている」

「間違っているのかい?」

「いや、お前がそれしか使ってないという話だ。試合で使う機会はほとんどなかったが、腕の重さで打つカウンターに、重心移動で打つカウンター、お前の知らないカウンターはいくらでもある」

「……聞いて、すぐに使えるものじゃなさそうだね」

「まあ、そうだな」

 

 思わず笑ってしまい、父さんもまた微笑んだ。

 

「指導者らしく、今のお前にできることをアドバイスするとしよう」

 

 父さんの手が、オレの腹に触れた。

 

「まだ動けるか?」

「ダメだね。ガス欠も合わせて、もう足はガタガタだよ。アイツを倒さなきゃ倒される、そういう状況さ」

 

 父さんが、肩越しに幕之内のコーナーを見た。

 

「ポイントも、観客の評価も、こっちが圧倒的に有利のはずなんだがな」

 

 再び、父さんがオレの腹に触れた。

 

「もう1発、耐えられるか?」

「それしかないなら、耐えてみせるよ」

「そうか……幕之内の肝臓打ちには、癖がある。近距離での打ち合いで放つ肝臓打ちではなく、パンチをかいくぐり、踏み込んで放つ肝臓打ちに、だが」

「……打たせろってのか?」

 

 迎撃じゃなく?

 

「いいから聞くんだ。幕之内は、パンチに耐えるために、呼吸を止めてやってくる。耐えて、よけて、踏み込んで……肝臓打ちを当てると、相手の動きが止まる。そこで一旦、間を取ろうとする。頭を上げて呼吸をし、攻撃に移ろうとする」

 

 説明が続く。

 

「頭を上げて、息を吐き、吸う。わかるか?その瞬間、攻撃に耐える意識が緩む。頭を上げることで、腹の筋肉が伸びる。狙うのは、幕之内が息を吐ききって、吸おうとする直前のタイミングだ。肺が膨らもうとする瞬間に、みぞおちに放り込め」

「……それで、倒せるの?」

「人は、息が詰まると呼吸を回復させようと神経に過剰な信号が送られる。そのタイミングで、内臓へ衝撃を与えると、迷走神経によって信号が脳に伝えられてパニックを起こし、動きが止まり無防備になる。これは、人間の反射的行動で、幕之内の頑丈さ、我慢強さとは関係無しに起きる……そこを仕留めるんだ」

 

 パンチじゃなく、呼吸のタイミング。

 それに、アイツが頭を上げるタイミングを重ねる。

 

 これも、カウンターなのか。

 

「無理か?」

「……いや、難易度高いね」

 

 アイツの肝臓打ちをもう一度、か。

 耐えられなきゃ、耐えても、パンチが打てなきゃアウトか。

 

「……みぞおちへのパンチは、ストレートでいいんだよね?」

「ああ、この場合は、下から突き上げるより、正面か斜め上から突き下ろすほうが、起こりやすい」

「そうか」

 

 セコンドアウトの合図に合わせて立ち上がる。

 

「なら、問題ないね」

 

 

 6R。

 

 

 足元を確かめながら、進む。

 

 リングの中央。

 幕之内。

 

 ん?

 こないのか?

 

 幕之内が、手を伸ばしてくる。

 

 そうか、そうだったな。

 これが、最終Rだったな。

 

 オレとアイツの。

 最後の、ラウンドだ。

 

 手を伸ばす。

 合わせる。

 

 離れて、幕之内が構えた。

 前へ。

 

 突き放せないのがわかっていても。

 左を突く。

 

 受け止められる。

 はじかれる。

 

 オレの左をかき分けて。

 アイツが踏み込んでくる。

 

 違う。

 

 右手でアイツの頭を押さえ、受け流した。

 

 次か。

 その次か。

 

 

 アイツが振り向く。

 

 前へ。

 踏み込まれる。

 踏み込ませる。

 

 ダメだ。

 

 身体を回し、なんとかやり過ごす。

 そろそろ限界だな。

 

 肝臓打ちを待つんじゃなく、打たせるしかないか。

 右を空振りして、肝臓打ちを誘う。

 

 腹の中をかき回されるような鈍い痛みが残っている。

 

 息を吸い、吐く。

 

 幕之内の前進。

 

 踏み込みに合わせて、小さく右を動かす。

 逃げていく頭。 

 

 ハーフスピードの右を放ちつつ、マウスピースを噛み締める。

 腹に力を込めろ。

 

 腹にめり込み、背中に抜ける。

 上体が折れる。

 幕之内の頭が上がっていく。

 息を吐く音。

 吐き終わる前に。

 

 右足。

 膝。

 太もも。

 

 右拳を握りこみ。

 みぞおちめがけて、突き立てる。

 

「かはっ!」

 

 幕之内の口から、声にならない何かがこぼれた。

 腰が退けている。

 両腕が、中途半端な高さに落ちる。

 無防備。

 

 こんな風になるのか。

 

 踏み込んで……。

 

 オレの左が伸びていく。

 十分に踏み込めなかった左。

 その分、距離感も怪しい。

 

 届いた。

 軽い手ごたえ。

 

 それでも、幕之内の身体が後ろに倒れていく。

 受身を取る気配もなく、幕之内の後頭部がキャンパスで跳ねた。

 

 少し遅れて。

 

「ゴホッ、ゴホッ!」

 

 幕之内が、腹を押さえて咳き込む。

 

 

 

 足を引きずりながら。

 腹の痛みに耐えながら。

 ニュートラルコーナーへ向かう。

 

 今ので、アイツは5度目のダウンか。

 それでも、仕留められなかった。

 

 呼吸を繰り返す。

 腹の痛みが、いつまでも尾をひいている。

 

 足元の感覚。

 回復はしない。

 回復はできない。

 

 手を握る。

 なら、十分さ。

 

 

 幕之内が、オレを見ていた。

 

 ……不思議そうな顔をしやがって。

 さっさと立てよ。

 

 立ち上がる。

 

 続行。

 

 

 残り時間は見ない。

 判定は、趣味じゃない。

 

 オレは、最後まで倒しにいく。

 

 アイツが来る。

 オレも、前へ。

 

 左。

 ガードではじかれた。

 

 踏み込まれたタイミングで、右を叩きつける。

 突き放せない。

 

 スウェー。

 幕之内のパンチが、鼻先を掠めた。

 

 殴られた腹が疼いている。

 スウェーは危険だ。

 

 腕が重い。

 かわせない。

 見えているのに、反応できない。

 ガードを固める。

 右に、左に、身体を振られる。

 

 自分の羽がむしられていく感覚。

 できること、やれることが、どんどん減っていく。

 

 至近距離。

 アイツのパンチに合わせた。

 一瞬だけ、動きを止められる。

 

 一瞬だけだ。

 

 ガードの上から、頭を揺さぶられた。

 

「小僧!時間がないぞ!」

 

 ……鴨川会長の声。

 

 ボディへの衝撃。

 痛みで意識が引き戻される。

 

 幕之内の右。

 大振りだ。

 

 拳を突き出す。

 

 また、一瞬だけ動きを止められた。

 

 倒せない、か。

 

 ボディ。

 上体が折れる。

 幕之内の足が見えた。

 

 グローブが視界に飛び込む。

 

 衝撃。

 

 ライトの光。

 

 身体が浮く感覚。

 

 背中に、何かがぶつかる。

 

 立たなきゃ。

 腹の痛み。

 転がる。

 頭を上げる。

 

 立てる。

 立つぞ。

 

 ゴングの音。

 

 待てよ、早すぎる。

 まだ……オレは。

 

 上体を起こして、レフェリーを探す。

 

 幕之内の背中。

 なんだ?

 何を見てる?

 

 時計。

 残り時間は、ない。

 

 あぁ、そうか。

 最終ラウンド。

 

 3分、過ぎたのか。

 ダウンカウントは、そこで……。

 

 試合は、終わった。

 終わったんだ。 

 

 はは。

 間柴のときと同じか。

 

 オレは。

 オレは……また、ルールで勝ちを拾った。

 

 

 

 

 

 

 判定は3対0。

 

 父さんに肩を借りて立っているオレが勝者で。

 自分の足で立っているアイツが敗者か。

 

 オレは、笑えずにいる。

 アイツは、笑っている。

 

 握手を求められて、手を出す。

 ……。

 ……。

 

「なあ、いつまで握ってるつもりだ?」

「あ、ご、ごめん」

 

 勝者が敗者にかける言葉はないって言うけど。

 敗者が擦り寄ってくる場合は、どうすりゃいいんだろうな。

 

 同じか。

 突き放す。

 話すことなんて、ないしな。

 

「じゃあな、幕之内」

「宮田君。ボクは、見てるから。ずっと応援してるから」

 

 ……そういう発言をするから、鷹村さんたちにからかわれるんだよ。

 

 右手を上げ、背を向ける。

 

 父さんに肩を借りたまま、歩き出す。

 

「……父さん」

「なんだ?」

「……せっかく教えてくれたのに、できなかったよ」

「足が、動かなかったか」

 

 リングを降りる。

 

「……カウンターを、教えてくれるんだよね?」

「ああ……さっきも言ったが、リスクは高い。失敗すれば、私のようになる」

「どうして、今まで教えてくれなかったんだ?」

「教えてもそれを実行する能力が不足していたことと……おまえ自身が、今のカウンターに満足していたこと」

 

 一旦言葉を切ってから、ぽつりと、父さんが呟いた。

 

「私が、その覚悟を決められなかったこと……だな」

 

 父さんが、アゴに手をやる。

 

「カウンターに威力を求めれば、拳や手首、肘や肩を怪我する可能性は高まる。そして、失敗した時のリスクも高い……私が、いい例だ」

「……」

「志半ばで道を絶たれて、それでも生きていかねばならない地獄……そんなものを、お前に味わわせる可能性を、私は恐れた」

「……オレはボクサーで、父さんの息子なんだ」

「歩き続けてなお、手が届かない……それも地獄か」

 

 父さんが、笑う。

 

「どちらの地獄が、マシかな?」

「アイツを、幕之内をダシにしたんだな……」

「そうでもしないと、お前は……固執し続けたはずだ」

 

 そうか。

 ああ、そうだな。

 

 立ち止まり、リングの方を振り返る。

 同じように、通路の途中で振り返っていたアイツと目が合った。

 

 リングの上でだけ、交差する道。

 オレとアイツは、別の道を歩いている。

 

 しまらない結果になったが……。

 

 あばよ、幕之内。

 

 背を向ける。

 歩き始める。

 

 オレの隣には、父さんがいる。




とりあえず、この時点で2人を戦わせると、どうしても宮田が新しい武器を手に入れるためのイベント的なお話にならざるを得ないかなと。

2人の試合を形にして投稿できたことに、良くも悪くも安堵したのが本音です。
もう、リテイクしなくていいんだ……と。(遠い目)

リテイクしまくってる時に感じたのですが、一歩の試合は、展開に変化をつけられない、描写に変化をつけられない、単調になっていく……おう、もう。
これを一歩視点で書くと、相手の変化に敏感だと一歩らしくないし……絵として視覚的な強みのある漫画はともかく、文章なら色々できる主人公の方が書きやすいのだなと実感しました。
それゆえの途中での視点変更と、周囲の思惑と、宮田の状況、心情を絡めて……こういう形に押し込んだので、二人の戦いを心ゆくまで……と思っていた人には物足りなく、もやっとする結末だったのではないかと思います。
サブタイトルは、ドリームマッチじゃなく『交差点』の方が良かったかも。

まあ、書き手としての力不足といわれたらそれまでですが……これからも精進を重ねたいと思いますが、現状ではこうなりました。
何らかの形で楽しんでいただけたのなら幸いです。

呼吸に合わせてみぞおちを突く……は、武術系で散見できる技で、ボクシングをやっていた方も、『余裕があれば、クリンチの時に狙っていく』と言ってました。(余裕がないからクリンチするとは言ってない)
柔道でも、寝技にまぎれて肘で強く押すとか……目に見えない攻防があるそうです。
とはいえ、危険なので真似はしないでください。
迷走神経は、脳に直接つながっている神経の1つで……まあ、エロ要素もあるので、調べると面白いかもしれません。(目逸らし)

気付いた人もいるかもしれませんが、話の中にこっそりと速水も登場してます。
まあ、指定席A(お値段1万円)を購入して、ドリームマッチにワクテカ状態だったのが、1R20秒ほどで終わりかけたら、叫びたくもなるかなと。
あと、宮田の父親は速水への評価が高いです。


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