【完結】エゴの救世主 (四ヶ谷波浪)
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だが優しさの中で育てられた

 ここは、箱庭だ。

 

 

 

 

 青い空。澄んだ空気。柔らかく暖かい風。穏やかに流れる水。青々と茂る草。たくさんの果樹。健康な家畜たち。良質な木がとれる林。

 立ち並ぶのはまちまちの大きさの木の家。魚を釣るための小さな船。外界の、俺たちが見たくないものをすべて覆い隠す現実との狭間には、頑丈な扉。

 そして、俺たち、選ばれた人間がいくらかだ。

 それだけがこの場所を構成する。

 ここには雪はない、争いはない、悲しみはたまにしかやってこない。飢えはない、孤独はない、惨めになることは、ない。

 だれかがここは天国のようだと言ったが、そうじゃない。ほんのたまに俺たちは天国にいる天使でもなんでもなく、ただの人間だと分からせるように寿命による静かな死がやってくるからだ。

 天使というのももしかすると普通に死ぬのかもしれないが、真偽は誰も知らないことだ。ただ俺たちはどこまでもただの人間でしかない。死ぬとその人の亡骸はだんだんと生き物らしく萎びて、俺たちは仲間を失ったことに多かれ少なかれ泣いて、遺体を木の下に運んで、みんなで弔って、埋める。そのとき俺は人間であることを再び自覚する。

 そのほかは何も苦しいことはない、らしい。毎日決められたことをめいめい分担してやって、穏やかに悩みと苦しみのない日々を過ごすだけだ。

 

 もちろん良くも悪くも物事の少ないここにも昼も夜もある、極端ではないが気温の変化もある。雨だってたまには降る。だが、そのすべては外に比べれば穏やかで、毎日野宿したところでなんら困ることは無いのだから、めいめい決められた最低限の仕事をこなせばあとは好きなことをやって過ごせる。そしてそれが許される。

 それもこれも、救世主さまのおかげ、だ。

 

 俺はどうしてもその「おかげ」に「らしい」とか「聞いたところによると」とか付けたくなるが、俺が最初の方に「救済」された人間の一人だから、そう断定するしかない。

 なにせ、ここは救世主さまが直々に創りたもうた救いの地、らしい。俺だってやろうと思えば一日で一周できるくらいの広さの、突き当りのある、行き止まりの楽園だ。ここにいる奴らはここで安寧を享受し、世界のバラバラなところから来た仲間とゆっくりと親睦を深め合い、そしていつか穏やかに眠って、死ぬ。

 申し分ない人生だと口を揃えてみんな言う。そこしか知らない子どもも、外で長く生きた老人も。二度と会えない人はいても、ここは孤独じゃあない。人々は誰よりも優しさを知っていて、だがひたすら人間同士集まるわけではなく、適度に一人になれる。

 しかも、ここには外から来た奴らが皆何かしら味わってきたひとりぼっちの悲しさ、あるいは飢える苦しさも、あるいは貧しさや、凍えるような寒さも、自分や大切な人の命の危険もない。

 だから多分、ここにいる人間は大抵、幸せになれるようになっている。穏やかさゆえに物足りなさを感じるやつはたまにいるが、いつしか幸せの方が勝って、結局隣にいる、穏やかな顔をした大切な人とゆっくりと歳をとる。

 そういう奴らのあいだで子どもが生まれることもたまにあるが、ここで生まれた子どもが大人になるほどここは長く存在していない。ここ育ちが一番長いのは、まだまだ子どもの俺の妹、マヤだ。

 

 その穏やかさの中で俺はどうも、ここにいる人間の中では少々異端だと思う。ひたすらに穏やかで、何かに苦しむことのない現状に感謝はしているが、どうも違うような気がしてならねぇんだ。なにより、その状況を創り上げた、特別な力を持つ優しく慈悲深い救世主さまが完璧な救済者であることに違和感を持っている。

 その彼の、兄のような、あるいは父のような優しさに包まれて成長してきたくせに、いつだって柔らかく微笑んで俺たちを見守る姿にほかの姿を求めてしまう。

 もし、歳を取らず、いつまでもその美しいかんばせを持ち続ける彼こそが、本物の天の使いであるというのなら、俺はそれに納得するしかないってのに、俺は、彼もただの人間のはずで、それゆえにあるはずの苦しみをこっちに吐き出してほしいとまで思う。

 彼が苦しんだり、助けを求めたりするなんてことは一度もなかったのに、俺は潔癖なまでに完璧な救世主さまに違和感を持って仕方がなかった。もっと彼は愚直なはずで、優しさしか知らない無垢な子どものようで、大切に育てられた可愛らしい存在で、苦悩するただの人だったのではないか、と。

 

 それはきっと、俺がとうとう彼よりも見た目には年をとって、見ようによっては弟のようだからそう思うんだろうか。背丈はまだ勝てないが。それとも、そこかしこに見受けられる育ちの良さと危うさが、完璧ではない儚い微笑みがそう思わせるのだろうか。

 

 やまない吹雪の中でマヤと二人、凍え死にそうだった幼い日、不思議な青い光に包まれて現れた救世主さまが現れた。その時から俺たちは救われ、穏やかな人生を約束された。救世主さまに選ばれたからだ。

 俺たちは、すべての不安から安心させられるように泣きそうな顔で優しく微笑みかけられ、気がつくと二人いっぺんに彼に抱えられて、瞬きした次の瞬間には雪の気配のまったくないここにいた。あれから俺たちは一度も「外」を見ていない。

 ここには当時、どこか今よりもくたびれたロウじいさんと、ひどく怯えているが気の強そうな年上の女の子、マルティナがいて、まだここには今みたいに家も船もなかった。

 だがどこまでも俺たちにはあたたかくて、安心できるところだった。簡素な一枚の敷布だけがそこにあって、凍えていた俺たちをじいさんが慌てて介抱してそこに寝かせてくれた。髪を凍らせるほどまとわりついた雪を払ってくれる皺のある手に俺たちは初めて優しさを教えられ、飢えを忘れさせてもらって大切に育てられた。

 

 そのとき救世主さまと呼ばれたその青年は、新しい仲間だと俺たちを二人に紹介した。なんとなく俺はなにか他にふさわしい呼び名があると思って、言い返したかったのを覚えているが、慈しむように頭を撫でられて、何も言えなくなった。撫でられる事に凍えていた体に温かさがじんわりと染みとおっていった。

 

 外見の年齢は十五か十六ぐらいの、いつだって真っ黒くてデカい剣を担いだ、抜き指グローブとさらさらの髪がトレードマークの救世主さま。

 誰よりも強く、沢山の人を外から救済してくる救世主さま。あの日から俺たちは飢えからも寒さからも解放されて、救世主さまの救った子どものひとりになった。まだ赤ん坊だったマヤがもう腹が減って泣くことが無くなったのが、幼いながらに嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。

 救世主さまは俺たちに丈夫な新しい服を着せて、たまに不安になって泣き出した俺たちを温かいその膝に乗せてあやしてくれた優しい思い出。

 あの頃、俺はまだ三つくらいで、物事の何も分からなかったが、手馴れたように作られた温かいシチューの味が世界で一番だと思ったのは間違いないことだろう。

 そのあと、俺たちが見よう見まねで自分たちの最初の家……というよりは子どもの秘密基地の規模だが……を建てたり、じいさんに字を教わったりしている間に時期もまちまち、人数もまちまちに人はどんどん増えていった。

 人が増えても食べ物で困ることは無かったし、連れてこられる人たちはたいてい酷い目に遭ったばかりか、遭う直前の、救世主さまが救いを差しのべるのを見逃すはずもない人たちだったから、俺たちはどんどん受け入れた。

 人が増えても一晩くらいは星空のしたで眠っても風邪をひくことはないくらい暖かい場所だったから、そういう時は身を寄せあって救世主さまを取り囲んでみんなで眠った。どこか一線を引いていた彼はそのときばかりは拒まず、決まって俺たち兄妹を抱き寄せて眠った。救世主さまは寝る時ばかりは普通の人間らしくよく眠るが、こういう時が一番人間らしく見える。そういう時一番に抱き寄せられる俺たちは、多分、彼に気に入られている。

 そう思うのはほかに何人かいる「お気に入り」よりも隣に置かれることが多かったからだ。だが、それに自惚れるよりも、なぜ俺たちなんだと疑う気持ちの方が強かったが。今もそういうものなのだと受け入れるしか納得の方法は無い。

 

 だが、その整った横顔を眺めている時が一番心安らぐひとときに違いなく、俺たちは、いや、俺はそれを受け入れている。マヤがどこかに遊びに行っても彼は俺の隣で時たまうとうととしていた。外見が年齢であるというなら、年相応に幼い顔をして。

 俺の父のようだった少年は、すぐに兄のようになり、今はもう、弟のようだ。人間であり続ける俺と違って、歳を取らない救世主さま。彼は俺をだんだん子ども扱いするのをやめて、だんだん俺にこの箱庭の管理を任せるようになった。

 管理といっても、今までだって手伝っていたような薪割りや、家を建てる時の采配などだったが。ただの人間の俺に彼の本当の「仕事」を手伝える日は来ないんだろう。

 ある時、どうしてここに人間を連れてくるのかと聞いたことがある。彼は眉を下げ、珍しく困ってから、しばらく考えて、「僕のエゴだ」と答えた。返事をする頃にはいつものように、夜空の星ぼしのような、煌めく、どこか遠い笑顔になってだ。

 

 エゴ。

 

 ただのエゴで、こんなにここが穏やかなものか。増える人数だってエゴと言うには多すぎる。救済を受けた人はどんどん増えた。村を、いわれのない罪で焼かれそうになった一つの村の人間をまるごと連れてくることもあったくらいだ。

 

 連れてこられたといえば、珍しく抵抗しながら連れてこられた、城に仕えていたというグレイグという男が元々仕えていた王族だったらしいマルティナとロウじいさんと一緒に過ごすようになったのもそのころだったか。

 グレイグと同時期に「救済」を受け、暫く手負いの獣のようになんにも信じられない様子だったホメロスという男とはもともと知り合い、いや多分……友だちで、何かあったのか、まだ少々わだかまりがあるらしい。

 

 俺たち、箱庭の住人は向こうから言われなければ外のことは聞かないことにしている。元々の身分も本人から聞かなければ知らない。

 何故なら、ここに来たのならば王様だって、その小間使いだって同じ仲間になって、同じことを協力してやって、同じように火を囲んで食事をし、いつしか家族になるか友になるか、あるいは師にして共に生きるからだ。

 元々の責務を果たしたいのなら、果たすことで穏やかになれるのならば好きにすればいい。だが俺たちまでそれに付き合うことは無い。

 身分の差を主張し、それを強制するような気性の人間はそもそもここに連れてこられることはなく、だから王族がいようと平和なものだが。とはいえその王族が本当の最初の最初に救済された人間だしな。人の良いロウじいさんと俺たちの姉の存在であるマルティナが何かをするはずもない。二人を見ていればしがらみがない事くらい簡単にわかる。

 

 だから、久しぶりに元々の身分に囚われるやつを見つけて、珍しくて、まぁだからと言って何をすることもなく見ているだけだったが。今はただただ、二人とも憑き物が落ちたように穏やかだった。

 とはいえなかなか素直になれない大人を見るのは面白い。からかいに行こうとするマヤを止めて、なまやさしく見守る。時間と、ここでの穏やかな生活は魂を洗って、俗世間でのわだかまりを浄化する。

 たまに二人で静かに話しているのも見かけるから、解決は遠くなさそうだしな。どう見ても俺よりもひと回りは年上のくせに子どもみたいに口喧嘩をしている時もあって、その時は聖地の魔法使いの女やその妹、あるいは最近芸人になった騎士、それか二人の主に値する姫が止める。

 

 俺はなんとなく二人を見ていると違和感というか、不思議な気持ちになって、眺めているだけだ。喧嘩を止める腕に覚えのある面々には逆に既視感があるような気も、する。何故だろうか。俺は彼らと違って戦えないし、生活は共にしていても出身すら共通点はないはずなのだが。

 そうだ、その魔法使いの姉妹の出身である聖地ラム……なんとかと呼ばれる場所の人をまるまる連れてきたこともあったな。あのときは救世主さまを他の誰かと勘違いして感動するのでみんなで説明するのが大変だった思い出がある。

 

 俺たちの救世主さまは、あくまで俺たちの救世主さまで、そのユウシャとかいう別の救世主的存在とは違うのに。ユウシャはかなり前から行方が分からないらしいが、仮に彼がそうだと認めたとしても、救世主さまとどうしたって年齢が合わないからおかしい。……なぜ、幼い時から箱庭にいる俺がそれを知っているのか?

 ユウシャ、というのはロウじいさんの行方知らずの孫だからだ。名前はイレブンと言って、ロウじいさんとマルティナが救済される直前にはぐれてしまって、それっきりらしい。

 

 何かの奇跡でも起きない限り……亡くなっているはずの、亡国の王子。ロウじいさんは未だに心を痛めている。ロウじいさんの良き友だった、老衰で亡くなったテオじいさんの死と同じくらい。俺はロウじいさんに恩がある。本当の孫のように、もともと知り合いだったマルティナとは違うのに、マヤともども育ててもらった恩が。

 だから、誰よりも救世主さまと話す機会があり、多分一番気に入られているらしい立場を利用してでも孫息子に会って欲しくて、幼い頃、ユウシャ、いや、ロウじいさんの孫の救済を頼んだこともある。ロウじいさんは少しだけ、救世主さまが近寄らない人だから。何故かはわからないが、かつてのテオじいさんやシルビアやグレイグ、ホメロスに救世主さまは似たような対応をしているから、なにか理由があるんだろう。

 

 だが救世主さまの返事は無情で、しかし、仕方の無いものだった。

 

「ごめんね。できないんだ。

 あの日の嵐の中、ロウさんの娘さんとお孫さんだけは……僕が到着した時には遅かった。ユグノアが滅んだ時、誰を助けるのか迷ってしまって、結局二人しか救えなかった。そのあと、同じ魔の手に落ちたデルカダール……マルティナのいた国からは騎士の二人を洗脳される前に連れ出すので精一杯だった。僕の力不足だよ」

 

 珍しく、饒舌になった救世主さまは特に救えなかった二人の話をする時は特に辛そうな顔をしていた。特にロウじいさんの娘は目の前で魔物に斬り殺されるのを見てしまったという。

 あと少しだった、と拳を震わせる姿に、俺は安易な気持ちで頼んだことを後悔した。ロウじいさんはたまたま物陰でその会話を聞いていたらしく、俺の頭を優しく撫でて、俺を抱きしめた。それは孫にしたかっただろうに、無関係の、俺にしてくれた。

 

 そして俺が知らない、自分たちを救ってくれた時の救世主さまのことを語ってくれた。ずぶ濡れになって気を失っていたマルティナを抱き抱えた救世主さまは、そのとき、娘に見えて驚いたのだと。だが駆け寄るとそれは似た顔立ちの少年で、ひどく泣きそうな顔をして、あなたを救う者だと言ったのだ、と。

 どうにもたまに、ロウじいさんは救世主さまをエレノアと、亡き娘の名前で呼んでしまうことがある。二人は本当に似ているらしい。それなら多分、孫のイレブンも救世主さまに似ているんだろうな。呼ばれるたびに救世主さまは困った顔をしている。

 一度だけイレブン、と間違えて呼んだロウじいさんは、何故か振り返った救世主さまを潤んだ目で見つめて、その日、一日一人で、何かを考えて、ずっと釣りをしていた。

 

 曰く、救世主さまの紫の服はロウじいさんの国の兵士が昔着ていた服だと。二人になにか関係があるのかもしれないと思ったが、当の本人は何も言わないし、ロウじいさんが分からないのなら、俺にはもっとわかるわけが無い。

 

 

 

 

 

 

 救世主さまが言われなき罪で焼かれそうになった村をまるごと連れてきてから、連れてくる人数は加速的に増えている。どこかの富豪の家族を連れてきたり、ずぶ濡れになった漁師を一人連れてきたりする時もあったし、赤い髪の親子と、その家族が敬う黒い髪の男を連れてきたときは、四人がもともといたなんとかという里はどうなったんだという質問に対して無言で首を振っていたことは記憶に新しい。

 外から来たばかりのやつは、外にいる知り合いや元いたところが気になるだろうが、救世主さまには聞かないのが暗黙のルールだ。救世主さまは万能ではなく、救える人しか救わない。仮にそういう人間は救えても、箱庭に馴染めず、きっと不和が生まれると分かっている時は連れてこないとはっきりと宣言している。

 

 救世主さまは救ったあと、ここにいる人間のことを、外の人間よりも明らかに大事にする人だからだ。懐に入れた家族には優しい人だ。心を砕いてくれる。料理だってしてくれる。よく献立を決めてその腕を奮ってくれるが……その際煮込み料理が多いのは間違いなく俺のせいだ。

 ただ、外のことを救世主さま以外に聞くのは自由だ。気になって後から救済された人に片っぱしから聞いている奴もいる。たいてい全く違う地域からバラバラの時期に救済されてきているから収穫があったやつを見た試しがないが。

 

 そうだ、救済についておかしなことと言えばいつも変わらずひょうひょうとしている救世主さまが、どこか思い詰めたような騎士の青年とその父親、そして二人に仕える老執事を連れてきた時は疲れきった様子だった。もっとたくさん連れてきた時にだってそんな顔をしなかったものだから、みんなで元気づけるために彼の好物のシチューを作ったのを覚えている。

 ここで一番料理が上手いペルラさんの味付けのシチューを彼が大好きなのはみんなが知っている周知の事実だ。それを食べるとどんな時でも、救世主さまというよりはみんなの息子か弟のように彼は穏やかな、幼い顔をするから。

 

 ちなみにそのとき連れてこられた騎士は、芸人になった騎士でゴリアテともシルビアともいうらしい。人々を笑顔にするために芸人になりたくて、それを反対する父親と大喧嘩して、故郷の町を飛び出そうとしたところ、ダーハルーネという都市が魔物に攻められたという話を聞き、聞き逃すわけにもいかずにそれを助けるために戦っていたが、数があまりにも多く追い詰められ、大変なところを救われたらしい。

 同じように戦っていたほかの人はどうなったのか、彼……いや、彼女は気になって仕方がないようだが、俺たち人間は外に出ることはできない。外に出るための扉は開かないし、救世主さまは青い光、聖地のベロニカ曰くルーラという呪文で移動するから、扉が役に立ったことはない。

 

 そういえば……これは一体何時だったかもう曖昧だ。箱庭に居ようとも俺はただの人間だ。それは間違いないが、天国に一番近いところに長いこと住んでいて、時間の止まった救世主さまのそばにいつもいるとどうにも時間が曖昧だ。だから、今さっきの救済の順番が正しいとは思えない。

 俺が何歳の頃にあったことだ、とはっきりわかるのは最初の救済の時だけだ。きっとそんな俺よりももっと、マヤは、天使に近いんだろう。マヤのこの前は数年前、昨日は同じように「さっきのこと」だ。時間なんてあってないようなものだから仕方ない。毎日は穏やかにすぎていく。

 ここに救世主さまによって選ばれ、救済される人に俺はあまり共通点を見いだせなかったが、総じて穏やかな気質を持つ、争いを好まないような人が多い。

 ここで穏やかに過ごせる人を救うというのなら、俺が救われた理由が全くわからない。俺だけ、どこか浮いたようだった。だが中途半端に外を知っているのに、長いことここにいるからそう思ってしまうだけかもしれない。

 

 俺は、外といえばあの白くて寒い景色しか知らない。争いといえば、軽い喧嘩ぐらいならしたが、それは他の奴らもするものだ。くだらない喧嘩以上に争う理由はない。だがどうにも純真なあいつらと違うような気もする。

 だがここは救済の箱庭。俺が悩んでも、俺は救われた人間なのだから考えても何も起こりやしない。救世主さまだけが救う人間を決められる。

 救済によってどれだけ人数が増えても食料に困ることは無い。寒さに悩まされることはない。ただの風邪以上の病気もない、着るものに困ることもない。

 だが、当然この箱庭に閉じ込められていればおのずと外に出たくもなる。そんな気持ちを持ったのは俺だけじゃなかった。外にいる、知人に連絡を取りたいと言った人もいた。外に出られないことを承知で、だがそれでも救世主さまに頼んだ。

 

 だが救世主さまはこう言った。

 

「外の世界はもうすぐ滅ぶ。君たちはここにいて、すべてが終わってから外に出るまでちょっとだけ我慢していてほしい。君たちがいれば、きっと世界は滅ばずに済むのだから。大丈夫、僕は君たちを飼い殺しにするために連れてきたんじゃないから」

 

 ってな。

 誰が納得するだろう。だが納得なんてしなくて良かった。みんなの親のようで、兄のような、そして弟のような、窮地を救ってくれた恩人の、稀に見る涙を流しそうなその顔に誰が抗えるだろう。どこか俺たちと距離を置いた彼は、それでもだれにでも好かれていた。

 あの出来事は、俺がいくつの時の話だろう?ゆっくりと時が流れるこの場所では年齢なんてあまり意識していないことだ。

 救世主さまは、ここをたまに箱庭と呼ぶ。ここはまさしく箱庭なのだ。世界が滅んでも、人間が滅ばないようにするための箱庭なのか。俺たちは選ばれて、ここで平和に過ごす。そして「もうすぐ」世界が滅んだら、滅んだ世界の生き残りとして世界に飛び出していって、救世主さまがまた俺たちを導くのだろう。

 

 ただ、俺もマヤもすっかり大きくなって、ロウじいさんが年をとって、マルティナがすっかり大人になっても彼は微塵も背が伸びず、幼さの残る少年の顔つきをしたままだった。俺たちに微笑みかけたあの日のままだ。世界は「もうすぐ」滅ぶらしいが、まだ滅ばない。

 

 思えば救世主さまは歳を取らないのだから、「もうすぐ」俺が老いて死ぬっていうくらい気長な話なのかもしれないな。

 優しい救世主さまは時折、それでもせめて外を見たいという誰かの願いを少しでも叶えるために左手を空へ振りかざす。するとかつて見た誰かの景色を映し出すことが出来る。未だに危機に瀕して恐怖が抜けない子どものために優しい夢を見せたこともある。そういう力を彼は持っていた。

 幻と、かつての現を彼は見せる。

 そういうことをするとまたラムダのやつらが騒ぐが、ユウシャの祖父のロウじいさんが違うと言うのだから違うだろうに。いくら顔立ちが娘に似ていても、明らかに年齢が合わないんだ。もちろんロウじいさんは孫息子の、普通の赤ん坊の姿を何度も見てきたしな。

 

 ……時折、思うんだ。俺は、救世主さまというのは、その力を使って俺たちに、わざと救いを求めるような幻覚を見せてからここに連れてきているんじゃないかってな。俺たちに雪の幻覚を見せ、ロウじいさんとマルティナにユグノアという国が滅ぶ様子を植え付けた、とか。

 だが、ほんのちょっと思っただけだ。間違いなくあの冷たさは本物だった。ロウじいさんの見た残酷な光景は本物だった。マルティナは今でも手を離してしまったユグノアの王子のことを悔いているし、その赤ん坊をどうしても救えなかったことを、救世主さまはとても悔やんでいるようだった。だから、それらが偽物だったとは思えない。

 

 俺たちは、救世主さまの名前すら知らないのだから、彼の行いに踏み込んではいけないのかもしれない。

 いや、正確には違う。みんな、何かしらの名前は知っている。ただ、彼が名乗る名前は毎回変わるから、きっと嘘なのだろうとみんな思っている。

 俺に名乗った名前は、ハンス。だがマヤにはジョンと明らかな偽名を名乗って、曖昧に誤魔化す。だから今はもうそれぞれに名乗られた名前よりも救世主さまとただそれだけ呼ばれている。

 

 

 

 

 

「何回やり直したっけ」

 

 勇者は箱庭の前の扉に立って、呟いた。何度、時のオーブを壊しただろう。何度、世界の滅びるさまを見ただろう。何度、失敗しただろう。

 とうとう今回、時間が狂ってしまって自分が生まれてすぐに飛ばされてしまった。それを利用して、死んで欲しくない人を自分のエゴで、預言者の消えた預言者の家に集めた。僕が勝手に選んで、勝手に連れ去った。

 

 世界は滅ばない。今度こそ。繰り返した僕にはウルノーガを討つのは簡単だった。まだ若いグレイグと、闇に魅入られる前のホメロスを「救った」ついでに倒しておいた。だけども、そのあとが難しい。僕には邪神をうまく倒すことが出来ない。

 正確には九回ほど倒して来た。だが毎回、かけがえのない仲間が一人、死んでしまう。誰一人死ななかった時もあるけれど、そのときはどうやら僕が死んだらしい。それを嘆いた誰かが自分の骸を使って時のオーブを壊したらしい。その誰かはわからない。勇者の力がないと過ぎ去りし時には戻れない。

 結局、その誰かは戻れなくて、時のオーブを割るために使われた僕だけが戻った。

 だから決意したんだ。なら一人で倒して、かつてのみんなの元に戻ると。

 

 今回はだいぶ運がいい。カミュやマヤちゃんは幼いころから「箱庭」にいるから誰に虐げられることなくすごく平和に過ごしているんだ。ロウじいちゃんには悪いことをしたけれど、本当に母を助けるのは間に合わなかった。時を戻った瞬間に、目の前でなくなってしまったから。赤ん坊の自分は多分、僕がこの時代に来たせいでいなくなってしまった。ユグノアも、守れなかった。だけど、それは今までと同じ。

 

 今更元々はどうやったって救えないところを悔やんだって仕方ない。前を向かなければ進めないから。

 

 僕は、かつてのカミュが嵌めてくれた手袋で勇者という紋章も立場を隠しながら、今日も空を睨みつけた。

 

 邪神は、きっともうすぐ復活する。「勇者」の星は随分落ちてきていた。




2021/2/1 改稿


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それは勇者の失敗ではなく

 ある日、俺たちはロウじいさんに大事な話があると集められた。俺たちというのは、マルティナと、魔法使いの双子ベロニカとセーニャと、騎士ゴリアテと、同じく騎士グレイグだ。

 その場にはマヤとホメロスもいたが、ロウじいさんが呼んだ訳じゃない。だがいても構わないとも言う。無関係ではないから、と。ロウじいさんが暮らす小さい小屋の中にこれだけの人間がいると狭いが、わざわざここに野次馬は来ないだろう。誰が何をしていたって誰も咎めることはない。

 

 俺とマヤはせめてもの場所の確保のために小さい時のようにベッドの上に二人まとめて乗せられた。小柄な双子も背の低いタンスの上に並んで乗せられた。体感したことがない過密だ。

 

「ロウじいさん、それで話ってのはなんだ?」

「救世主さま、のことなんじゃよ」

 

 すかさず、セーニャが言う。

 

「救世主さまは、今出かけていらっしゃいます」

 

 みんな分かっている。だからこそのタイミングだろう。ここ最近、出かけていない方が少ないじゃないか? 夜だって毎日帰ってくるわけじゃない。ご飯を作って待っていたペルラさんに、毎日帰れるかわからないからって、大好物を断っていたくらいだ。

 

 最近救世主さまは傷を負って帰ってくることが多くなり、外から何とかという町の孤児院の人間をそっくり連れてきたっきりとんと人間を連れてくることがなくなった。様子は確かにおかしいが、だからって、致命的になにか変わるだろうか?

 

 ロウじいさんが、わざわざなにか話すくらい、何かがあるって言うのか?

 俺たちはうすうす、ロウじいさんと救世主さまに並々ならぬ関係があるとは思っている。それは悪い意味ではなくて、きっと本当は歓迎すべきことだと。

 だが、その仮説は何度も俺は頭の中で否定している。どうやったって、それは「ありえない」。年齢がありえない。状況がありえない。どうやったら生まれたての赤ん坊が成人そこそこの、歳を取らない少年になって、ロウじいさんの前に現れるというのか。

 

 証拠になるのは救世主さまがロウじいさんの娘によく似ているってだけのこと。マルティナも言っているからそれは正しいだろうが、それ以上のことはない。他人の空似ですべて済む。まさかロウじいさんがそんな信憑性のないことでわざわざ俺たちを集めたりすることもないだろうに。

 

「外の世界に危機が迫っているというのはみんな気づいているじゃろう」

「……外に出たいって言うのなら俺たちが何をしたって、ロウじいさんでも無理だぜ。世界はもうすぐ滅ぶんだから」

「あぁそうじゃの。だが出る必要があるのならば、あの子もわしらを出さざるを得ないはず。その為には確証が必要じゃ。あの子にバレないように、してほしいのじゃ」

 

 あの子、とは救世主さまのことだ。いつからかロウじいさんは彼のことを「あの子」と呼ぶようになった。外見ならば祖父と孫だから違和感はない。ロウじいさんの亡くなった孫を想って呼んでいるのは周知の事実だ。

 そういえば、テオじいさんもそんなところがあったな。

 

「方法はどのようなものにするのですか? 救世主さまは、箱庭の誰よりも強い。彼に気配を悟られずに何かをするというのは難しいかと」

 

 珍しくこんな、箱庭の調和を乱すことにホメロスは異論がないらしい。ここの繁栄のために知識を、と争いの絶えない外でも通用するくらい使う頭がいいホメロスは……何せここのやつらは基本的に非戦闘員で、しかもほとんどがもともと平民だったから、貴族が知っているような何かの運営ができるやつなんてほとんどいない……極度に平穏を愛している。

 グレイグと同じ場所からほんの数日の差でやってきたと、曖昧な記憶ながら覚えているが、その数日で一体何があったのか決して語らないし、救世主さまも何も言わない。とにかく酷い目にあったのだろう。

 それはともかく、ホメロスが味方になるなら頼もしい。

 

「実行はカミュじゃ。カミュならば近寄れるし、警戒もされんじやろう。夢見の花で眠りを深くし、その上からラリホーを更にかける。必要ならば麻痺も使うべきじゃな……なんとかしてあの子を眠らせ、動けない状態をほんの少し作ってほしい」

「麻痺ぃ? 救世主さまにそんなこと出来るかよ! 俺は降りるからな」

「必要ならば、じゃ。必要ないとおぬしが思うのならば最初からそのような手段はなかったことにしても良い。やることは左手の手袋を外して、手の甲を確認するだけじゃ。あの子に気づかれないように」

「……」

 

 左手か。幻と現を見せる救世主さまの力はそこから放たれているように見える。そういや、今まで一度もあの革製の抜き指手袋を外しているのを見たことがない。だが、その下に何があるって言うんだ?

 それはそんなに重要なのか? 睡眠薬を盛ってまですることなのか?

 

 だが、最近どうにも睡眠すら削ってまで外へ行く様子はいただけなかった。彼がぐっすり眠ってもらうのに貢献できるっていうなら、やぶさかじゃない。そのついでに手袋をひっぺがすくらいならまぁ、してもいい。外へ行こうとするなとは言われたが、手袋をひっぺがすなとは言われていないしな。

 小さい頃は手袋越しに頭を撫でられるのが不満だったな。だが、なんとなく、本人にそれを告げたことはない。俺が言えるようなことではないような気がして。

 

「……それで?」

「左手にある印を覚えて、わしのところで絵で出来る限り再現する。それだけで良いのじゃ。あの証があるならば、あの子が……」

「ロウさま、でもイレブンは……」

「勇者の奇跡が、時間の順番を飛ばし、あまつさえ止めてしまうことがないとは言いきれんのじゃよ、姫や」

「まてよ、救世主さまがじいさんの孫かどうか、まだ疑っていたのか?」

 

 ロウじいさんはゆっくりと頷く。そのユウシャの奇跡とやらで、本来あの時赤ん坊のロウじいさんの孫があの十六かそこらの姿になって、それから十六年も止まったままっていうのもありえるっていうのか?

 そんなこと、ありえるわけない。そんなありえないことをロウじいさんが真剣に考えるようなユウシャって、一体何者なんだ? どこから力を得ているんだ?

 ロウじいさんの孫ってことは、間違いなく人間の子なんだろう? 神父の語る天の使いではなく、俺たちと同じように血と肉で出来ている一人の人間なんだろう?!

 

 だが、現実に救世主さまは俺が三つのときから十九になるまで微塵も成長していない。髪や爪は普通に伸びるが、髪型を変える気はないらしく、顎元で切りそろえたままで、その姿はちっとも変わらない。

 服装を変えていることはあるが、箱庭の中ではいつだってだんだんぼろぼろになっていく、ロウじいさんの国の兵士の服をいつだって着ている。服だけは昔よりも時間によって古びてきていて、着ている本人が全然変わらないのがひどく浮いている。

 元々かなりぼろぼろだったのに、今はもう、繕ったあとが酷く目立つ。だから外に行く時には別の服を着ていることも多いが、それでもあれを着ているからお気に入りらしい。

 

 たまに寝ぼけている時には何故か、ペルラさんのところの村で着ているような服を着ている。それも昔っから同じやつを着ているんだ、丈が足りなくなることもない。そんな人間的な成長から切り離されている存在なんだぜ、救世主さまは。

 まぁ救世主さまの力の出処もユウシャと同じで分からないけど。俺には分からないけど、だけども、みんな救世主さまが力を持っていることに違和感があったことなんてない。だって「そういうもの」だろ。

 

「俺がすることは眠った救世主さまの手袋をめくって、そこにある印を見て、それをじいさんに伝えるだけってことか……」

「頼まれてくれるかの?」

「……それくらいなら、いいか。最近救世主さま寝ていないしな。それで、救世主さまが仮にイレブンというじいさんの孫ならどうするつもりなんだ? 感動の再会にはずいぶん遅くねぇか?」

 

 救世主さまの正体を突き止めたい気持ちはわからなくもないし、生き別れた家族ならなおさらそうだろうが。

 なら、別に呼ぶのは俺だけで良くねぇか? なんでこんなに人を集めたんだ、夢見の花を盛りたいなら料理をするヤツらに頼めば、救世主の寝不足を心配しているヤツらは普通にやるだろうし、なんなら俺がやったっていい。こんなに人を集める理由が分からない。

 

「仮にあの子がイレブンなら……外の世界には邪神が復活しているはず。そしてあの子は一人で戦うつもりということになるんじゃ」

「邪神?」

 

 聞き覚えがない。とはいえ俺は外の世界に関しては完全に無知だ。読み書きはロウじいさんに教わったし、外のことはうわさ程度にたまにしか聞かない。頭の出来も飛び抜けていいやつらがいるんだ、明らかに凡庸だ。

 

「勇者が覚醒する時、また闇も目覚める時。イレブンが生まれた時点で勇者の証は左手にあった。世界には必ず、闇が生まれている。実際ここに救済された人間の殆どは魔物に襲われたところを助けられているじゃろう。

 本来、きちんと魔よけをしているところに住んでいるならば魔物が襲ってくる事はないのじゃよ、カミュ。これは魔物が活発化している証拠じゃ」

 

 救世主さまはいつだって一人で外に行く。外で戦って、救済すべき人間を見つけたらここに連れてくる。いつだって一人で、戦っている。だから俺たちはせめて、ここに帰ってきた時には少しでもその疲れがとれるように、ここで安らげるようにしている。

 ロウじいさんは救世主さまの手伝いをすべきだって言うのか?

 

 だが、ここには救世主さまを助けられるほど強い人間はいないじゃないか。少しなら戦えるやつらはいる。城で兵士をやっていたそこの二人や、騎士のゴリアテ……じゃなかった、芸人のシルビアがそうじゃないか。

 だけど、それは、常日頃から剣の鍛錬をし、魔物と戦っている救世主さまと見比べてみれば圧倒的に劣るっていうのが完全な素人の俺でも分かるんだぜ?

 それなのに着いて行ったら邪魔になるだけじゃ、無いのか? 助けられるものなら助けたいが、邪魔になるくらいなら最初から着いていかない方がいい。

 

「カミュ。わしたちはきっとそろって何かを忘れている。わしはそれが何か結局思い出せなんだ。だが忘れていることは思い出した。カミュ、おぬしならきっと思い出せる。『救世主さま』ではない、あの子の本当の姿を知っているはず。カミュ、おぬしならば」

「本当の姿……」

 

 ふと、シチューを食べている時の無邪気な笑顔が思い出した。うたた寝をしている幼い姿も。そういう、無防備な姿が次々と脳裏をよぎり、それはなにかに重なるように思えて……その何かはわからないのだけど。

 

 耳元でカミュ、と呼ばれたような気がした。彼の声で。

 

「……イレブン?」

 

 振り返る。紫の服を着た「イレブン」の微笑みが幻になって消える。高潔な救世主さまではなく、年相応に微笑む姿。

 イレブン。今までロウじいさんの亡くなった孫の名前という、俺にとって曖昧で、他人で、ただの記号だった言葉が酷くいとおしい友のもののように思えた。

 幻覚が消えたあとにあるのはただの木の壁。なのに俺はそこにすがり付きたくなった。ひとりで行くな、と言いたくなって。

 

 どこへ? 救世主さまが「イレブン」なら、必ずここに戻ってくるはずだ。どうして俺は不安になる? 「イレブン」がどこかに失われてしまうことを恐れているんだ?

 違和感を覚えたのは俺だけじゃなかった。ベロニカは居心地悪そうにもぞもぞとして、体の違和感を訴えた。もっと小さかったはず、とか。その姉にセーニャは涙を流して縋り付く。ベロニカがいなくなってしまうように感じたと言って。

 二人はここに来る前も、そして箱庭にいるあいだもずっと一緒にいた。どうして二人は不安を感じるんだ? 双子なのに、片時も離れていないのに、どうしてだ?

 

 その俺も隣にいるマヤが俺を不思議そうに見ているのがとんでもなく奇跡のように思える。マヤが、息をして、そこでごく普通に健やかに成長している。俺は嬉しくなって、かけがえのない事だと思った。なのに、喪失感が止まらない。俺には大切な存在がもう一人、いたはずなのに。

 

「……どうじゃ、カミュ。いいや、皆。多かれ少なかれ、なにか思うところがあったのではないか?」

「わかりません、ロウ様。私には、ただ、『あの子』を今度こそ守らなくちゃって……『今度こそ』?」

 

 マルティナの困惑した声。見知らぬ記憶に怯えるように、だが懐かしそうに。

 周りを見回すと、自分の手をじっと見つめるホメロスは、見たこともないほど険しい顔をして考え込んでいた。おっかない顔をして子どもたちがわらわらと逃げてしまった時よりも怖い顔だ。隣にいるグレイグは自分のペンダントを握りしめながら、やはりよぎる既視感の正体を必死で探っているらしい。

 

 シルビアはすっと立ち上がって、板についてきた明るい笑顔になった。

 

「確かめないことにはどうしようもないわね」

「そうだよな……」

「救世主ちゃんがイレブンちゃんだって分かったら、ちゃんとお話しましょう! どっちにしたって怪我して帰ってくるのに放っておくことは出来ないもの!」

 

 ここに連れてこられる人間は、何かしらの悲劇や恐ろしさを経験してきている。いくらここが穏やかであたたかくとも、最初は馴染めずに怯えて、心を開かないやつも多い。

 幸せや笑顔を忘れたそいつらを笑顔にするのがシルビアの役割で、夢だ。

 そのシルビアが笑顔にする対象に救世主さまだとしても「イレブン」が含まれていることが、とても自然なことのように思えた。

 

 目をつぶると、幻の中の「イレブン」が背を向けて立っている。俺は彼に無言で呼びかけると、その空のような青い目はこちらに向いて、少し笑う。

 そして彼は大仰な黒い剣を背負い、白く眩いオーブに向かって美しい剣を突き立てるのだ。それを、もう、そんなことは「やめさせなければ」ならない。俺があんなことを言わなければ、すべて始まらなかったのだから。

 

 ……この、胸の内から湧き上がる言葉の意味も、もうすぐきっと、分かるはずだ。

 

 

 

 

「ふぁ……」

 

 たらふくシチューを食べ、夢見の花入りの茶を飲んだ彼はひどく無防備に小さな欠伸をする。俺はすかさず食器を片付けにかかる。すると夢見の花の効果が出始めたのか、普段なら一緒に片付けを手伝ったり、子どもたちになにか話をしたりするのが日課のはずなのにとろんとした目で背もたれに寄りかかった。

 何も知らない箱庭の住人には、「救世主さまは特にお疲れのようだ」と言ってある。別に嘘はついていない。

 だから子どもたちも今日は話をねだりにこないし、大人たちは救世主さまの外見の幼さから微笑ましく見守る。ご飯のあとに眠ってしまうわが子を見るように、今ばかりは神聖視することもなく、子どもたちを見るときと同じような顔をして。

 

 彼が少し近寄らないメンバー以外で主に事は決行する。思えば、近寄らないのは大人ばかりだ。それも、ここに来る前から成人している人間のことを彼は少し、避けている。

 それを逆手取るようで悪いが、害することを知らない無邪気な子どもの顔をして、セーニャはさらに眠りに誘うべく優しい竪琴の音色を奏で始め、ベロニカはあたたかい膝掛けをそっと掛けた。

 マヤは「お気に入り」として最初からぴったりと「イレブン」にくっついている。示し合わせた通り、マヤが眠そうなふりをすると、「イレブン」は緩慢な動作でマヤの頭を撫でながら、つられるようにうつらうつらしはじめる。

 

「あら、マヤちゃんもう眠いの?」

「うん……おねぇちゃん」

 

 打ち合わせ通りのマルティナとのゆっくりした会話に反応した「イレブン」はゆるゆると目を開けると、つられるように僕も眠い、と子どものように言った。そしてそれとなく近づいていた俺を見つけると、マヤを寝かしつけてくるように言う。

 が、俺たちが彼に盛ったのは本来戦闘中の敵すら眠らせる夢見の花。安静状態で使えばそりゃあよく効くだろう。既にほぼ夢うつつの「イレブン」は言葉を最後まで紡ぐこと無く眠りに落ちた。

 椅子からずり落ちそうになるのを受け止める。俺にも簡単に支えられた。その体が軽いと嘆くべきか。俺が大きくなったととらえるべきか。俺でも背負えるのだから作戦が決行しやすくなったと思うべきなのか。

 たった一人で、少なくとも俺たちを家族と呼び、その命を背負って戦っているのに、こんなに軽い。

 

「……成功だな」

「静かにな、マヤ」

「おう」

 

 自然と俺は眠っちまった救世主さまを家に連れていくことになった。幼い時は反対だったねぇと微笑ましげに口々に言われるが、それを軽く流して背負って進む。穏やかな寝息と子どものような体温。「イレブン」が何年生きているのかは分かりやしないが、その入れ物は間違いなく子どものものだった。

 ゆっくりと到着した「救世主さま」の家も、俺たちのそれとそこまで変わらない。強いていうなら家の周りにたくさんの花が咲いていることくらいか。殺風景な家に少しでも華やかさを、とみんなで植えたものだ。

 

 外の世界には鍵のある扉が沢山あるらしいが、ここには外界との境の扉とトイレくらいしかほとんど鍵がない。両手が離せなくて、半ば体当たりのようにして扉を開けた。

 万が一、鍵をかけることができる数少ないこの扉がしまっていた時のためにシルビアやホメロスが先に何とかしてくれるという算段も、少なくとも上手くいっているらしい。

 別に「イレブン」は俺たちに自分の家に入るなと言ったことはない。むしろ小さい時はよく遊びに行ったものだ。しかし最近は遊ぶような年齢でもないから、部屋の中を見るのは久しぶりだった。

 

 そこにあるのはベッドと机と椅子。それからやたらと大きなタンスと、黒くて大きい彼の剣だけがそこにあって、相変わらず物が無い。ベッドの上に乱雑にたたまれた寝間着だけが「イレブン」の生活痕で、それ以外は人が住んでいるような感じはない。タンスを開けると世界中から集めたような雑多なものがたくさん詰まっているのを知っているが、そこを開くことは滅多にないことも、知っている。

 ともかく、彼を絶対に起こさないように最大限の注意を払って、ベッドに寝かせる。ブーツを脱がせ、ベルトだけは外して服をくつろげ、布団を引っ張り出して被せると、もう他の子どもたちと「イレブン」の明確な違いが俺には分からなかった。

 あどけない顔、穏やかな寝息。だというのにこの手袋に包まれた手は常に俺たちを守り、安心させ、幸せをくれた。この小さな背で。

 

 俺は慎重に左手の手袋をずらした。手の甲にはロウじいさんが言った通り、不思議な形のアザがある。俺はそれをしばらく見つめ、それから手袋を元通りに戻して、そっと家から出た。

 アザを見た瞬間から俺の目から、涙が止まらなくなったのは参ったが、幸い夕飯でみんながひとところに集まっているために誰にも出くわさずにロウじいさんの家に着くことが出来た。

 

 俺は、あのアザを知っている。とても良く、知っている。それを記憶のどこかが思い出して、涙が出てきた。しかし俺にはわからない。恐らく、俺はそれを「経験していない」からだ。

 だがあと少し、あと少しで「イレブン」の真意を知れる。あと少しきっかけがあれば全てを思い出せる。

 俺は涙が止まるまで、玄関に入ってすぐのところで目元を押さえていた。おずおずと誰かが俺を中に連れていく。ハンカチを受け取り、涙を止めようとするがなかなか止まらない。あたたかな部屋の中、俺は、涙を拭いながら差し出された紙に紋章を描いた。

 

「勇者の紋章だわ……」

「間違いなく、イレブンの手にあった紋章じゃ」

「……」

 

 ユウシャが救世主さまで、救世主さまの名前はイレブン。すんなりと、しっくりと、胸の中にストンと落ちた。

 

「ではどうするのですか」

 

 ホメロスの、無表情。何かを思い出したのかもしれないが、隣にはグレイグがいて、彼らはここまで仲違いすることなく、ここにいる。切磋琢磨する必要がないここで穏やかに過ごしたこのホメロスは敵になる理由がない。

 ……敵になる、理由?

 

「元の記憶を、なんとしてでも思い出すしかあるまい。イレブンのことをわしらはすべて忘れてしまった。それでは、後ろから手を伸ばしても届くまい」

 

 手を伸ばす? ふっと、あの白い手が、紋章を光らせて現れたように感じた。

 白い光に包まれる顔が、何度も脳裏に過ぎる。無表情の顔、泣きそうな顔、せめて勇気づけようと笑った顔、そして、俺が冷たいイレブンの手を握って、あの美しい剣を持たせていて、イレブンは目を閉じている……。

 

 ぐったりした体を俺は無理やり立たせて、情けなく咽び泣きながら、返してくれと叫んで。戻りたいと思って。

 だが、オーブが割れた瞬間、抱きしめていたイレブンの体は消え失せた。「過ぎ去りし時」に戻れるのは勇者だけだからだ。

 俺は失敗した、多分イレブンは失敗し続けていた。

 だからって、一人で背負うことはないはずなのに。

 

 俺の知らない俺の記憶が渦巻く。記憶の奔流に堪えきれなくなって、頭を抱えて、その記憶がまた彼方へ流れていくのを引き止めようとする。

 あの紋章が輝く、勇者の紋章が、光って、あの青い瞳が俺に向かって微笑む。俺の喉は勝手に言葉を紡ぎ始める。何が起こっているのかわからなくなり、もがき暴れる俺を誰かが押さえつける。こんなふうに無理やり押さえつけられたことがあったような気がする。

 箱庭育ちの俺が、そんな経験をしたはずがないのに!

 

「イレブン、イレブン、お前はいつも他人のことばかり」

 

 俺の中の俺が言う。

 

「エゴなんかじゃない、お前はいつも、他人のことばかり、俺が死んでも、気にするんじゃない、お前は自分の幸せを」

 

 喉が詰まる。何回目かの「俺」の言葉は、「俺」自身が死ぬことによって中断されたらしい。

 

「過ぎ去りし時へ、俺も連れていってくれ!」

 

 目の前が黒に染まっていく。俺は、そうだ、俺は! 十一回目の、勇者の時渡り。勇者の亡骸を使って時のオーブを壊した大罪を犯し、そしてすべてを狂わせた。

 イレブンは生まれた直後に飛ばされて、元凶の俺は何も知らずに雪に埋もれていた。

 ひび割れていく、幻想の世界が。勇者の紋章はイレブンの手にあったが、嘆きの叫びは届いていた。夜だというのに空が明るい。窓から外を見ると、空には勇者の紋章が浮かび上がっていた。

 紋章はかつてよりも霞み、ひび割れ、それでもなんとかその形を保っていた。

 

 俺はふっと悟った。恐らく、イレブンの中の勇者の力は、想いの力ではなく、大樹に愛された子という意味の勇者の力は、回数を重ねる毎にすり減って、もう限界なのだと。

 だからこそ、もう失敗できないイレブンは、俺たちを外から隔離し、一人で挑もうとしているのではないかと。

 俺は目を開けた。俺を抑えていたグレイグの顔に髭がないことがおかしくて、小さくなっていないベロニカが見慣れなくて、俺の手ではなくイレブンの手に盗賊の手袋があることがおかしくて、俺は、悲しくて、イレブンを一人にしてしまった余りにも長い時間が悲しくて。

 涙が伝う。今度は静かに、涙は器から零れるように、流れる。イレブンを想って。

 

 幼い俺の頭を撫でる、イレブンの手があんなにあたたかかったのが、イレブンを置いて死んでしまった俺を赦してしまったように思えて、そしてイレブンの目がまだ諦めていないのことが、もはや、戦うことを止められなかったことが悲しくて。

 俺は相棒だったのに。勇者の、いや、イレブンの。隣に立てず、庇護されるだけの、子どもになって、平和の中で甘えた子どもになった。イレブンはずっと十六歳のまま、足踏みしているのに。

 

「なぁじいさん。俺がグロッタの南にキラキラしたものが見えたって、言わなければこうならなかったのか? ベロニカの代わりに俺が死んだ時、俺がイレブンに言葉をすべて伝えられていれば、イレブンは、孤独にならずに済んだのか? なぁ、あの時、イレブンを無理やりにでも止めることが出来たらこうはならなかったのか?」

 

 じいさんは首を振った。じいさん自身も四周目でイレブンを庇って死んだ。

 順繰りに俺たちは失敗し続けた。勇者が、ではなく。俺たちが失敗し続けたのだ。もう、止めなければならない。すべての終止符を打たなければならない。

 

 記憶がだんだん、帰ってくる。この期に及んで勇者の奇跡は俺たちを見捨てない。

 紋章から降り注ぐ光が俺たちにかつての力を取り戻させた。

 

 イレブン。今度は、終止符を打とう。

 

 宿敵は空にいる。




2021/2/1 改稿


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赦しとエゴ

「うぅん……」

「おはよう、イレブン。よく眠れたか?」

 

 カミュの柔らかい声がする。僕はもぞもぞと布団の中で身じろぎする。起こしに来たのがベロニカだったら既に布団を引っペがされているのに、カミュはなんとなく僕に甘い。どうしても起きなきゃいけない時はザメハしてくれるくらい。

 あ、いや、別に、マルティナだってきっと同じくらい甘いけれど、年上のお姉さんに甘やかされることがどうにも気恥ずかしくって、カミュほど素直に甘えることは出来ない。さしずめ、カミュは僕の相棒であり、そして兄のような存在なんだ。

 

「おはよう……久しぶりによく寝た気がする……」

「そりゃ良かった」

 

 ぽんぽんと布団が叩かれる。ゆっくり起きろよ、という意味だ。僕はまだ重いまぶたをなんとか持ち上げた。視界は眠くて眠くて仕方がないからか、少し霞んでいる。

 青いひとが、こっちを見て笑っているような気がする。ええっと、何かがおかしいような。……カミュって、そんな色の服だっけ? いつものカーキ色のパーカーじゃないし、盗賊王の衣装でも、海賊王の衣装でもないし。見たことないけどそれ私服? じゃあ今日は休みにしたんだっけ?

 

 それに、ここはどこ?

 寝ぼけた僕を見てカミュは起こすのを諦めたのか立ち上がった。まばたきすると、ゆっくり視界がはっきりしてくる。まるで普通の街の人のような格好のカミュは部屋から出ていこうとして、動作を止めると、ちょっと振り返った。

 

「疲れているだろ、まだ休んでいてもいいんだぜ。そんで起きたら俺たちとゆっくり話をしようぜ。話すことは山ほどある。なぁ、イレブン」

「話すこと……」

 

 頭の中のモヤが晴れない。これさえすっきりしたら分かる気がするのに。寝ぼけた僕の顔が相当間抜けだったのか、カミュはおかしそうに笑う。なのになんとなく、悲しそうに、笑ったような気もする。

 

「じゃ、待っているぜ」

 

 カミュが出ていって、扉がパタンと音を立てた。

 

 僕はゆっくりと体を起こすと、何も無い部屋をぼんやりと見つめていた。なにかおかしなことはないか点検しながら。

 魔王の剣はちゃんとある。一度粉々になった剣は、もしものためにあの時欠片を集めておいたからこれは僕が打ち直した特別製で、これなら何度遡ってもホメロスの闇の力で阻まれることは無いし、負荷に負けて砕け散ることもない。

 それにしてもこの部屋のタンスは大きいな。僕たちの荷物が全部入るんじゃないかな。

 

 だんだん、寝ぼけた頭もはっきりしてきて、何か酷い忘れ方をしているような気がしてきた。とはいえ、僕は何度も何度も十六歳を繰り返している。外見の年齢が時間に固定されていなければ、随分外見に違いが生まれて、みんなに不審がられてしまうくらいに。

 どれが、いつ、話したことなのか。僕にはもうわからない。記憶なんていつも混濁している。気を付けているのは、決して僕が時間をさかのぼってきた存在であることを言わないこと。絶対に誰かの既視感を掘り下げないこと。下手に刺激してあの凄惨な記憶、それも場合によっては自分の死すら思い出すようなことになったら、いけないから。

 さて。今はいつだ? ここはどこなんだ? ここ、宿屋じゃないよね?

 

「昨日、何したっけ……」

 

 すごく眠い。眠気が尋常じゃない。僕は諦めて布団にもう一度潜った。重くなっていく瞼をそのままに、ゆっくり考える。カミュがあんなふうにゆっくり落ち着いていられるってことは、今は多分、魔導士ウルノーガを倒した後。いつものように邪神を倒す目処が経っていて、ちょっと休もう! みたいな、そういう僕の中での数少ない小休止。

 ……本当に?

 

 僕の中の僕が囁く。そんなに呑気にしている場合なの? 小休止? そんなふうにいつまで経っても呑気だから仲間を死なせてしまうんじゃないの? 今も時間を惜しんで少しでも稽古を重ねて強くなるとか、生存に向いた装備を考えるとか、した方がいいんじゃないの?

 それもそうか。自問自答にしては尤もだ。目をつぶったまま僕は起き上がる。目が覚めるようにぐいっと伸びをする。

 するとなんだか僕は両手に違和感があった。

 手を見る。そこにはなぜかカミュの手袋がはめてあった。カミュに手袋を貰ったのは、二周目だからかなり前。でもそれは仕舞いこんでいた。だって同じ手袋が二つもあるのはおかしい。なのにこれをはめるようになったのは? 最近じゃないの?

 

 何でしているんだっけ。カミュに不審がられるのは分かっているんだから、付けないようにしていたのに。どうせすぐウルノーガは倒せるから、正体を隠すために紋章を隠す意味は無い、のに……?

 

 紋章を隠す意味?

 紋章を、隠す意味!

 

 あぁ思い出した、隠しているのは僕が勇者じゃなくて、「救世主」だからだ!

 そしてカミュは僕をなんて呼んだ? 救世主ではなく、名前を呼ばなかった? 僕が寝ぼけていただけ? いいや、確かだ、イレブンって、あの声で、昔のように!

 カミュは僕の手によって箱庭に閉じ込められて、味わってきたすべてのことを目隠しされた。だからカミュは海賊のところにいたことがないし、盗賊じゃないし、だからこの手袋を持ってないし、僕の名前も知らないはず!

 

 なぜ? どうして?

 僕は扉に体当たりするように家から出た。素足のまま、寝起きのぐちゃぐちゃの頭のまま、テオじいちゃんのコートに皺を寄せたまま、走る。カミュの家に向かう。足の裏に直接触れる草がチクチクする。でもここには足を切るようなとがった石すらない。そんな、危険さえないところなんだ。だから僕は構わず走る、走る!

 

 ノックも忘れて、僕は扉を蹴破った。中には、僕が来ることを分かっていたらしく、かつての仲間たちが勢揃いしていた。彼らは僕のめちゃくちゃな格好に目を丸くして。

 カミュは今の僕にはよく見慣れているけれど、らしくないごく普通の格好のままにやりと笑う。あぁ憎らしいほど不敵な笑み。盗賊カミュがお宝を見つけた時の顔。

 僕たちが、面白おかしく、魔王に指名手配されていた頃のようだ。ベロニカたちとサマディーへ向かったあの頃、そして何も知らずにラムダへ向かって命の大樹を目指し、未来を明るく思い描いていたあの頃! 僕は何も知らなくて、カミュの贖罪の理由も勇者の使命も、何もわかりやしなかった。

 

 あぁ、呑気なかつての僕の手を、引いてくれる人。僕の相棒、僕の運命、どうか笑いかけないで。

 

「ようイレブン、よく眠れたか? その様子だと、」

「いつからなの! ねぇ、いつから、君たちは思い出してしまったの!」

 

 遮って、叫ぶ。この場所は僕のエゴ。君たちは自由なはずだったのに、僕のエゴだけを理由にして閉じ込められた。なのに、前のようにあたたかい表情を、こうやって向けられるなんて、絶対におかしい。僕は、恨まれるようなことをしたはずなのに、どうして!

 セーニャが、自分と同じ背丈のベロニカと一緒に微笑んだ。シルビアはウインクする。マルティナは慈愛を込めて微笑んだ。ロウじいちゃんは、僕の形相をものともせずにこちらに歩いてきて、小さい子どもをなだめるように背中をぽん、と叩いた。

 あたたかかった。

 

 グレイグが椅子を持ってきて、今にも暴れだしそうな僕を座らせた。なんとなく視線を感じて顔を上げると、マヤちゃんとホメロスが物陰からこっちを見ていた。マヤちゃんは僕のめちゃくちゃな格好を見て信じられない様子でぽかんとしていて、ホメロスは視線に気づくと僕からそっと目をそらした。

 僕は悟る。少なくともここにいるみんなには何周目のものかは分からないけれど、記憶があると。どうして? どうやって? 何もわからない。今まではそんなこと、一度もなかったのに!

 だけど、今の記憶もちゃんとあるらしい。そして今の経験の方が確からしい。と、僕は願う。だからホメロスは「気まずい」顔をしたんだって。

 

 僕は、ここに連れてくる人を執拗に選んでいた。つまり、いわゆる「悪人」は救わなかった。僕が救いたいと思った人しか選ばなかった。僕にその人を本当に改心させて、変えられると自惚れることはできなかったから。

 ホメロスはどう見積もっても、僕らにとっては「悪人」だったろう。世界から見ても闇に堕ちた存在だったろう。でもグレイグにとってはそうじゃない。そして僕が遡ったのは幸いにもホメロスが闇に魅入られる前だった。

 僕はもう何ひとつ、後悔の種を作りたくなかった。

 だから、勇者の紋章を使ってホメロスには強烈なマヌーサに似た幻覚を見せた。命を懸けて僕らを守り、六周目で命を落としたグレイグに報いるために。

 あぁ、それはベロニカの幻覚を見せたホメロスにだって詰られても仕方ないようなものを見せたんだ。彼が決して、穏やかに暮らすこと以外のことを考えないような、僕が見てきた滅びを混ぜこぜにしたような……最悪なものを。

 僕はそこから救った救世主となりおおせて、まだ若かったホメロスが悪夢から覚めれば、ここはなんの危険もない箱庭なのだ。僕は手を差し伸べて、まだ若い彼はもちろん、危険から解放された安堵で何も知らずに手を取る。

 当然、彼は安心する。すべては悪い夢だったのだと思うかもしれないけれど、ここにいることが、普通に連れてくるよりも貴重なことに思えるように僕が仕組んだことに気づかずに。目の前には、その醜悪な悪夢によって無事だったかもわからない親友が、五体満足でいる。

 魔に堕ちゆく城から救い出された唯一の同胞で、親友で、自分のことを心底心配してくれる相手がいる。僕がグレイグを連れてこれば、感動の再会だ。二人の仲を強固なものにして、二人の棘を切り落とせば、かつての二人ではもうないかもしれないけど、二人は死なず別れずそばに居るだろうと思ったんだ。

 

 マルティナはわざと、ホメロスが落ち着くまで近づけさせなかった。でも、マルティナはここに来て、ここで育ったものだから、二人になんら強いることは無い。

 僕は知りうるかぎりの手段を使って、ホメロスという人格をめちゃくちゃにして、無理やりこちら側に留めさせた。

 ホメロスは、ウルノーガの操る君主もなく、競い合うことのない平穏なところで親友とともにいれば、本当にただの青年だった。頭が良くて、ちょっと皮肉屋な人であるだけだった。それは彼本来のものなのだろうか。もう分からない。僕はそもそも彼の人となりを人伝にしか知らないから。

 僕の知っているホメロスは、きっとかつてのグレイグの親友とは別人なのだろう。

 

 僕はみんなの元の生活と、個性を奪い尽くして、危険な目に遭わないように生かした。生かしただけだ。

 あぁ、かつての世界で辛かったこともあったろう。悲しみだってあったろう。やるせないことも、後悔も。それらからすべて守ったように見える僕は救世主に見えるだろう。でも違う、僕は同時に、かつて存在した幸せを奪い尽くし、平坦な何も無い平穏にすり替えただけなのだ。

 そしてこれはホメロスだけに言えることじゃない。こんな感じに僕は、連れてきた人の際立ったところを削り取って、箱庭の穏やかな住人に仕立てあげた。みんなだって、別人みたいなものなんだ。

 だからマルティナは武術を欠片も知らないし、ベロニカもセーニャも、僕と出会った頃くらいの魔法の技量しかない。下手に戦える技量があったら巻き込んでしまう可能性があるから、僕は、平和を与えてみんなから戦う力を取り上げたようなものだ。

 僕はここをできうる限り平和にしたんだ。魔物は元々いないけど、他に何に尽力したかって、連れてくる人を選びに選んだんだ。ここでいさかいが起きないように。何周もした世界で見てきたんだ、本当に心が澄んだ人はどんな場所でも諍いを起こさないと。だから僕はエゴの塊なんだよ。

 他のみんなはどうであれ、どう考えたって苦難の連続だった人生を、僕に会えたからこれで良かったんだと告げたカミュのその人生を、ただのまっ平らなものに変えたことは後悔していないのだから、僕はきっと善なる者であるはずがない。

 

 僕は、僕の一番の罪は、相棒の手だけはどうしても離せなかったことだろう。何かしらのトリガーを引いてしまう危険性を理解していてもカミュには干渉してしまった。きっと、幼い頃からカミュは僕に干渉されて鬱陶しかったろうけど、僕は。

 僕は知りえなかった相棒の幼少期を見て、その日々が穏やかであることを喜んだ。僕は兄妹が暴力に悩まされることなく、また寒さや空腹に苦しむことのないことが嬉しかった。慎ましい二人の生活にあったはずの確かな幸せを奪い尽くしながら、喜んだんだよ。

 僕はそんな中で成長した君に肯定されたかったんじゃないさ。認められたかったんじゃないさ。ただ、君の、僕をいつだって助けてくれた君だけは、幸せに過ごしているか、ずっと確認していたかった。僕を助けてくれた、道しるべの星みたいな君が穏やかであれと、願っていたから。

 君は僕より小さかった。幼い時の栄養が足りてないんじゃないかって心配した。だから絶対に飢えさせなかった。君は、かつて僕を守るために庇ったね? だから、そんなことを微塵も考えないように、僕は君から力を取り上げて、僕はここで努めて強い救世主であるように心掛けた。

 

 僕は勇者であることを隠した。ウラノスの言う、運命とは僕が勇者であると分からなければ始まらない。当然、贖罪そのものがないのだから運命も何も無いのだけど、僕は勇者ではないのだという顔をして生きていく。

 絶対に、君と運命が交差しないように。カミュが死ぬことがないように。そう心の底から願っているのに、僕はカミュの手を離せない。矛盾して、おかしいのに、僕はカミュが妹と笑っているのを遠くで見守るのではなくて、近くで見ていたかった。

 僕はカミュの手袋をしたままの手をきつくきつく握りしめた。みんなの記憶が戻ったのは、僕がそうやって自分に甘かったからじゃないかって。

 僕が箱庭を作ったのがそもそもの間違いで、みんなと一切関わらずに一人で戦えばこうならずに済んだのではないかと。

 他のみんなだって、あぁ、ベロニカとセーニャなんて、特に干渉してしまった。二人が引き離されないか不安で不安で、それを理由にして。二人が幸せに笑っているなら、僕はいくらでも戦えた。僕は、二人によく話しかけていたし、二人は僕のことを優しく受け止めてくれた。二人は僕の心配に反して穏やかに育った。間違っても、勇者を守るために命を犠牲にするような魔法を覚えない環境で。

 ラムダで育っていないのだから、あの頃の二人ではないのだろう。僕がみんなをめちゃくちゃにしてしまったから。でも、僕はその時たしかに心おだやかだった。まだ頑張ろうって思えた。

 

 あぁ、でも失敗したんだ。僕は救世主になりえない。勇者としてさえ、失敗してきたのだから。僕は不完全だ。

 

「……大丈夫か、イレブン」

「大丈夫なもんか……」

「なぁ、もう、分かったんじゃないのか。俺たちは欠片もお前を恨んじゃいないし、むしろ感謝してる。思い出してしまったんじゃない。そう願って、思い出したんだ。記憶を取り戻せたのは俺たちだけの力じゃないが、それでもきっかけは自分たちで望んだことだ」

 

 カミュ。君は優しい。他のみんなだって優しい。ここに僕が連れてきた人間はみんな温かい人たちばかり。僕はきっと誰にも糾弾されない。

 あぁ君なら望むだろう。君たちなら、思い出すことを望むだろう! 僕を気にかけてくれる優しい人たち! 勇者ではなく僕を見てくれる人たち! 僕の代わりに戻りたいと言った人たち!

 

 そうして、また僕は誰かを失ってしまうの? もう失うのは嫌なのに!

 僕は、もう、たくさんなんだ。誰かが死んでしまうことが、誰かが大切な人を失って悲しむことが。僕のせいじゃないと言われながら、その実、僕が不甲斐なかったということでしかない。僕がもっともっと強ければ! それなら!

 君の手を離せたならば、僕は、失わずに済むのだろうか?

 

 ()()()()()()()()()()()()。僕は、君に手を引かれて初めて立つことが出来るのだから。君の星を追いかけて、導いてもらって、隣に立っていてもらって、僕は初めて戦えた。前を向けた。

 

「イレブン、あなたがくれた穏やかな時間、私たちは大好きだったのよ。お願い、後悔しないで」

「そんなの、僕がここしか知らせなかったからだよ」

「違う。私はすべて思い出しても、こんなに穏やかに過ごした時間は一度もなかった。

 ロウさまと貴方を探した十六年が不幸だったわけじゃないけれど、ここで過ごした時間も同じようにかけがえのないものだったの。貴方は私たちのことを本当に愛してくれた。そうじゃなきゃ、こんなことできないわ」

「マルティナ、それはね、最初の四人だからそれが言えるんだよ」

 

 僕は許されてはならない。真実を言わなきゃフェアじゃない。

 僕は、僕は、救世主あらざる自分の姿についてちゃんと言わなきゃならない。

 僕は救世主ではなく、また、勇者らしくもなくこの過去で罪を重ねたのだから。

 

「僕はね、目の前でお母様が亡くなったその瞬間、この時代に来たんだ。そして生き延びたおじい様とマルティナを探して、見つけた。赤ん坊の『イレブン』の存在を塗りつぶしたくせに救世主面をしてね。そのあと急いでクレイモラン地方に行ってカミュとマヤちゃんを探した。二人も見つけて、連れてきた。ここまではみんなが知っている通りだよ」

「……ここまでってお前、世界の崩壊と時系列が合わないと思ったら」

 

 この世界は崩壊しちゃいない。だからほとんどあれらの悲劇は起きていない。でも、これから邪神が何をするかわからない。そんな不確定なことで僕はみんなの日常を奪い去った。

 

「そうさカミュ、僕が真の意味で救世主だったのは……ほかにホムラの四人だけ。でもそれも、僕が悲劇の前に火竜を倒したから連れてきたのはただのエゴさ。ヤヤクを連れてこなかった意味、わかるだろう?

 ここに他者を切り捨てるような統率者はいらない。身分の差も、僕が『管理』する上では不要だったから。ここでは綺麗事がまかり通るのだから。

 僕は、みんなに嘘と幻を見せてきた。特にソルティコの三人は危機的な目に遭うことはないから、魔物に侵略されたダーハルーネと幻覚を混ぜなきゃならなかったね」

 

 僕は紋章を隠した手をさらにきつく握りしめた。僕のこと、失望してくれたらいい。そうしてみんなが僕の前から去って、生き残ってくれるならどれだけいいか。

 皮肉なことに長いこと勇者の力を使っている内にちょっと変わったことまで出来た。マヌーサは使えないけど、似たようなことならできる。特に無抵抗な相手ならね。

 あぁでも、最近はちょっと、調子が悪い。前ほど力がないというか、なんていうか、限界だ。僕自身は別段異常もなく平気だけど、勇者としてはもう。もう幻覚を見せるほどの余力はない。ニズゼルファの闇の結界を破る力が必要だから。

 

 ダーハルーネの真実を言っても、シルビアの、前と変わらぬ優しい笑顔は、僕の言葉でもちっとも歪まず、変わらず、むしろ彼女は僕の頭を優しく撫でた。

 僕は泣きそうになった。シルビアに嫌われることは、できそうにない。シルビア。優しいあなたに、戦わないで人々を笑顔にする道を選んでもらうことが出来るなら、僕はその分戦えるのに。

 

「焼かれたことのないイシの村を焼いたように見せかけた。デルカダールがウルノーガの魔の手に落ちていたのは本当だけど、僕は二人を連れて帰ってすぐにウルノーガを倒したから、本当はマルティナもふたりも帰れたんだ。僕は、ラムダに何一つ問題がないのに崩壊の悪夢を見せたし、ドゥルダの人たちには勇者であることを隠し通せる気がしなかったから連れてくることをあきらめた。それから……」

「イレブン様、もう、いいのです」

「セーニャ、僕は君たちの故郷を奪ったようなものじゃないか」

「そうやって嫌われようとしたって無駄なのよ。里ごと連れてきておいて故郷を奪ったなんてよく言うわね。それに私たちにも記憶がある。どんな手段を使っても死なせたくないということも理解できる。自分を責めないで」

「……ベロニカ」

 

 どうして許そうとするの。赦してはいけないはずじゃないか。

 僕のやってきたことは、君たちの全部を否定することだ。

 

「僕は失敗してきたんだよ?」

「それは同時に俺たちの失敗だ」

 

 そんなはずあるか、カミュ!

 

「そんなことない!」

「ならばイレブン、失敗は死ぬ事なのか?」

 

 黙りだったグレイグが、口を開いた。その目は静かで、僕は口をつぐんだ。そんなわけない。ベロニカの死が、ベロニカの失敗なものか。グレイグの死が、グレイグの失敗なものか!

 

「前回、俺たちはお前を死なせてしまった。勇者の盾としての使命を全うできずに、死なせてしまった。俺は酷く悔いた。世界に平和は訪れたが、俺たちには平和とは欠片も思えなかったものだ。そして俺たちは……」

「グレイグ、続きはあなたが言うことじゃないわ」

「……はい、姫様。出すぎたことを」

 

 グレイグが口を噤んでさがる。マルティナはシルビアと入れ替わるように僕の前に立ち、屈んで目線を合わせた。

 

「そしてこれは私が言うことでもないの。イレブン、このあとまだ時間がある。だから聞きなさい、贖罪と懺悔を。そしてそれは、私たちのものでもある。

 あなたを一人で苦しませてしまった。今まであなたの優しさに甘えてなにも知らずに過ごしてしまった。あなたはそれでいいと思うかもしれないけれど、どうか自分をそんなに軽視しないで。私たちは、あなたが大切なの。あなたは私の大切な仲間よ。そして私の可愛い弟なのよ、ずっと」

 

 マルティナは僕を抱きしめた。その温かな体温は僕の冷えきった体を温めて、少し、体の力を抜いていく。

 ここで育った小さな少女はとっくに大人になり、かつてのマルティナと同じように美しい人になった。そして、その心も変わらないんだ。

 僕は、僕は、マルティナの腕の中でようやく独りじゃないって理解出来て、泣きたくなった。でも僕は勇者なのだから、一欠片の涙すら零すことなく、安心を享受していた。

 

 何一つ、何一つ、解決したことはないのに赦されて。

 僕はかつての仲間たちの記憶が戻ったことが怖かったのに、それ以上に安心して。

 また失ってしまうんじゃないかと心の奥底で怯えながらも、もう震えは止まっていた。

 

「ねぇ……」

 

 でも、まだ、怖かった。だからひどく小さな声しか出なかった。

 

「僕、僕、間違えたんだ。きっと、もっと、いい方法があった。でも、みんなをここに閉じ込めたこと、ちっとも後悔してない。それを、」

「俺が許す。誰が何を言ったって、俺は許す」

 

 カミュが遮った。青い目はまっすぐで、僕はやっぱり泣きたくなった。僕はならいいか、と楽観的に思う。

 君が許してくれるなら、もういいや、と。

 

「良いところだけかっさらわないでよ! あたしだって許すわよ。許すも何も怒ってないんだから!」

「そうですわ。ここで過ごした日々は、確かにかつて、私は望んだのですわ」

 

 ベロニカが笑う。セーニャが微笑む。そのセーニャの微笑みは髪を切った悲壮な決意と対になるように穏やかで、優しかった。

 そうか。僕は、セーニャの望みを叶えることが出来たのか。ベロニカと過ごす、穏やかな日々を。

 僕はくしゃくしゃに歪んだ顔を、なんとか真顔に戻すことが出来た。

 

「一つ、いいだろうか」

「いいよ、なんでも」

 

 ホメロス。君に肯定が貰えると思っていないけれど。僕はなんだって受け止めようと思う。罵倒だろうか、非難だろうか。それとも、良く見積もって、そうせざるを得なかったという理解だろうか。

 

「なぜ、私を助けたんだ?」

「何故って、聞いたらきっと幻滅するけれど」

「構わない」

「僕はね、グレイグとあなたの幼少期を見たんだ。命の大樹の根を通じて。グレイグの為だからって、完全な悪を僕は救おうとは思えない。でもあなた、違ったでしょう。僕の遡った地点では、まだ魅入られる前で間に合った。間に合わなかったら連れてこなかった。それだけ」

「本当に?」

「何故疑うの。あなたは、別に……世界を滅ぼしたかったわけじゃなかったじゃないか。記憶があるあなたなら、グレイグがずっとホメロスを追い、ホメロスがグレイグを追っていたことを覚えているでしょう。だから僕はここを真っ平にした。あなたたちは何者にも比べられず、ただお互いがあるだけになった。価値を比べる者はいない。弱い心につけ込む者もいない。切磋琢磨する張り合いもない。そうしたら、あなたは闇に堕ちない。堕ちなかった。それだけ」

 

 ただ、ごめんなさい。僕はあなたを救いたかったわけじゃなかった。

 次がもしあるならば、僕はその時こそあなたを救うために動くだろう。あの時、僕はあくまで救いたかったのはグレイグだった。

 僕は大して知らない人にそこまで親身になれない、どこまでも普通の人間だった。今は知った。だから救うだろう。

 

「僕さ、勇者には向いていないと思う。そう思わない? エゴの塊だものね」

 

 ホメロスはちょっと笑った。

 

「お似合いだ、エゴの救世主」

「納得してくれて何よりだよ」

 

 僕もちょっと笑った。僕は救いたくてたまらなかった人が、救いたかった人を救ったのだ。それをエゴと言わなくてなんというのだろう。

 ホメロスはもう何も言わず、僕のその人間くさいところに納得してくれた。そう思う。どこか探るような目をして、でも、もう何も言わなかったから。

 

「今回が終わりならいいのにね」

「必ず、終わらせよう」

 

 諦めないカミュ、君の方が勇者みたいだ。

 

「そうなったらいいのにね」

 

 僕は、未来を見据えることだけは苦手だった。みんなの未来が幸福であれ、と願うことは出来ても、そこに自分の姿を見ることは出来ないんだ。

 僕はそのあと、カミュの贖罪を聞いたけれど、僕はこう思っただけだった。僕はもう、戻ることには慣れっこだったから。

 

「次、僕だけが死んだならば、僕を取り戻そうとしないで」

 

 僕は心から安堵した。僕は孤独から救われた。それでもう、十分だったんだ。

 疲れすぎていた。繰り返し、繰り返し、死に絶望して、失敗を責めて、僕は戻る。過去へ、過去へ、くるくると。

 僕は失敗する。みんなも失敗したらしい。でも、もういい。

 どうせ次は戻れない。だから僕のことは忘れてほしい。僕は疲れてしまった。僕の戦いは、どちらにしろ最後なんだ。

 僕はいつものように救世主然として微笑んで、引っ張ってもらえる手に安堵して、みんなをどうやって生かそうか、そればっかり考えていた。

 

 あぁ、宿敵は、空にいる。空の黒い太陽に生贄を捧げる時だ。もうみんなを奪わせはしない。




2021/2/1 改稿


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少年は救世主、だった

「絶対に死なないで。ニズゼルファとの戦いではザオリクが効かないと思ってくれていい。何割かの確率で、たぶん、魂そのものを……命の大樹にある葉、そのものを消滅させてくるから」

 

 僕はいつも通り、何度も何度もみんなにくり返した。きっとうんざりするほど繰り返した。その度にみんなは頷いて、神妙な顔をする。みんなにも、記憶が欠けることなくあるのに、いつもより繰り返したかもしれない。

 でも僕以外はどこかで死んでしまったものだから、僕の記憶が一番正しい、と思う。少なくともそれまではそれでうまくいってきた。十回目の分だけはどうやったら生き残れるか、僕以外で話し合っていたようだけど。

 詳しく、詰めていく。絶対に間違いがないように。例えば、乗り込んで僕が闇の衣を剥がしたあとの一撃でカミュが狙われるから避けてとか、避けたあとの追撃は僕に来るから、それはなんとか出来るとか、邪神の子が現れた時、僕が一掃するのだけども、そのあと、ベロニカとセーニャと僕がまとめて狙われるのにグレイグは気づいても助けないでほしいとか。

 グレイグが助けなくても、僕は受け止められるし、二人も死なない程度の攻撃で、もし万が一死んだとしてもこれに限ってはザオリクがきちんと発動するから、とか、言い訳して。本当のところは僕一人が被弾した方が回復をまとめられて楽だから。ここは僕が全部受け止めてベホマでさっさと回復するべきだ。

 対処法は何で、誰が狙われるとか。このタイミングで攻撃するんだ、とか。倒し方はわかっている。別に僕の一撃じゃなくてもいいらしい。でも、僕の一撃で倒した前回以外は誰かが死んでいるからトドメは僕がさすと強く主張して、受け入れられた。

 

 これは僕の繰り返した時間すべての意味。それを余すこと無く伝えた。そして僕が最後に死んだ時の一撃の対処も僕なりにきちんと考えた。

 みんなの意見としては来るとわかっているのなら、僕はスカラにマホカンタ、フバーハを固めて防御するまで、ということ。僕は了承した。それで受け止められるのなら、次を考えられる。

 僕は話しながら、どこか虚しかった。たとえ僕が死んだ一撃を防げても、僕はそれ以上を知らないんだ。前回、僕の死でニズゼルファは満足したらしく、それ以上の追撃もなく滅ぼせた、らしい。だけど、僕が今回そこで生き残ってしまったら、もっと悪あがきをして、また誰かが犠牲になるかもしれない。

 その時は、誰かが狙われる時は、僕が絶対に守る。それは言わなかった。言わなかったけれど聞かれたらきちんと答える用意がある。生き延びるために限界まで防御を固めた僕が受けるのが正解だってね。そうでしょ?

 どうか、どうか、もう、誰も死なないで。

 

 僕のその必死さに、最初は助太刀をと申し出たホメロスは引っ込んだ。なにせ、僕の語る戦法は八人で挑む前提だ。一人増えたらもうそれでまた一から組み直し。僕が繰り返した意味は無い。でも、彼は彼なりに祈ってくれるだろう。僕たちにはそれで十分だった。

 僕たちは、この世界で旅を経験していない。みんなの肉体は奇跡の力で元の力を取り戻したようだけど、僕は彼らが真に同一人物であると分かっているけれど、それでも、マルティナ、カミュ、ベロニカ、セーニャは僕の愛しい子どもたちで、姉で、兄で、同胞なんだ。ロウじいちゃん、グレイグ、シルビアは祖父で、仲間で、友で、愛しい民なんだ。

 祈りを。どうか一つでも多く、祈りを。愛し子たちの無事を祈ってくれ。

 愛し子たちに大樹の祝福を。僕は彼らを守るためにここにいる。宿敵を討とう、終止符を打とう、平和を取り戻そう。

 その未来に、僕はいなくてもいいんだ。僕は失敗しすぎたのだから。ただみんなは健やかであれ、と。僕は救世主らしく願う。本当は、自分を見失ってしまっただけの無様な人間なのに。

 

「ケトス、また、お願いするね」

 

 僕は白銀の鯨の背を撫でる。いつだって、誰が死んだって、他のみんなを無事に送り届けてくれる空飛ぶ気高い鯨は高い声で鳴いて答えてくれた。

 続けて僕は、大樹に向き直って跪いて祈る。三周目からの、癖のようなものだ。命の大樹に祈って、僕は、せめて心を慰める。みんなの葉を散らさないでくれと乞う。

 そして僕は、みんなの姿を目に焼き付けようと努力した。僕はもう、これでみんなとは別れのつもりだったから。それに気づいたのか、みんなは絶対に生き残るからと、言ってくれる。僕は嬉しくて笑った。

 あぁそうだよ、みんなは生き残るんだ。みんなは死んじゃダメだ。僕が絶対に守るから。念には念をとセーニャは一人一人に聖女の守りをかけていく。

 時間経過で解ける祈りの力を、戦闘中も、なるべく欠かさないようにしてくれるという。有難い。これでみんなは一度なら持ちこたえるし、だから僕は一度か二度、予定よりも多く誰かを庇えるわけだ。

 だけどカミュ、君はいつだって僕のことを見透かしている。僕がどうしても手を離せない君は、僕のことをよく理解している。

 

「イレブン、お前、絶対に誰もかばうなよ」

 

 見透かされている。僕は予想していたので普通に受け流した。

 

「作戦で言ったよね、ベロニカとカミュが受けたら死んでしまう攻撃は、僕なら生き残れるんだよ。他にも僕が受けなければ誰かが死んでしまう場面が多い」

「……事前に言ってあるやつはアリにしてだ。俺たちは生き残れると思っている。全員。だから、そう、思い詰めた顔をするなよ。一緒に帰るんだろ。

記憶があるのはイレブン、お前だけじゃないんだ。二度とあんな目はごめんだからな」

 

 あぁ、そうだろうとも。分かっている。分かっているけれど、僕はやめないよ。「もしも」、またみんなを失うような展開になるなら。僕はこの身を喜んで差し出すだろう。

 

「うん」

 

 僕は嘘をついた。帰れる気なんてちっともしていない。ただ、経験が、みんなは必ず生かして返せると確信をくれたから僕は微笑んで返事ができた。

 カミュはまだ鋭い目をして、僕を探るように見ていたけれど、とうとう諦めたのか素手のまま僕の背中をとんとんと叩いた。

 うん、頑張れって言っているの、わかるよ。頑張る。

 

 僕は背中から勇者の剣を引き抜き、構えた。黒い太陽がだんだん近づいてくる。速かった呼吸がゆっくりになって、僕はリラックスしたかのように穏やかに笑った。

 今更緊張するものか。してやるものか。もう邪神には誰も渡さない。

 僕の体の震えはぴたっと止まった。震えるくらいなら、僕は挑まないさ。みんなが死んでしまう方がよほど恐ろしいんだから。

 研ぎ澄ませ、全てを。ゾーンを解放し、僕はみんなの顔を見た。あぁ愛しい人たち。どうか健やかであれ。

 

「いくぞ!」

 

 僕は勇者の剣を振りかざし、呼応するひび割れた勇者の紋章は最後の力を振り絞ってニズゼルファの闇の衣を剥ぎ取った。僕は仮面の顔を睨みつけ、いつもと同じように眼前に躍り出て仮面を叩き割った。

 

 

 

 

 

 

 

 イレブンの背中が、とてつもなく大きく感じる。イレブンの話した作戦は、今までの戦いは、言うならば幾度も繰り返したイレブンだからこそある、並外れた強さで成り立っている。

 俺たちが立ち止まっている間に、どんどんイレブンは強くなっていき、たとえかつての力を取り戻したとしても、俺たちは敵わない。

 俺たちにあるのは記憶。積み重なった記憶だ。かつての能力はかつての能力でしかなく、積み上げた経験ではない。

 だがだからこそ、出来ることがある。

 俺たちは知っている、同じように。だからイレブンの言う最後の一撃のあと、どうなったのかを知っている。イレブンが死んだ前回、どうして俺は誰にも咎められずに亡骸を連れ去って忘れ去られた塔に立てたと思う?

 

 「遡ってきたのはイレブンだけではない」、と、ニズゼルファはとうとう勇者を殺した高揚で口走った。あいつも繰り返している、何故か、記憶を持っている。

 そしてもはやわざと前の通りに動き、最後の最後で誰かを殺すことで「楽しんできた」のだろう。俺たちはそれに気づいて、そして俺が遡ることで止めようとして、だが悲しみは俺の役割を忘れさせた。

 俺は、ただイレブンを取り戻したいだけでオーブを割った。十回の時渡りでは、イレブンは世界を滅ぼさせないと、そして死んだ誰かを取り戻すと、そしてきっと笑って過ごせると、そう約束するように言って、遡る。

 俺は最初、もう一度旅をしようと、また会おうと言ったくせに、ただの一度も思い出すことなく、報いることなく、そして約束を二度とすることなく、見送り続けた。そして、その代償を自分で払うのではなく、イレブンを孤独へ送り出し、あだで返した。

 俺は決して勇者ではなく、ただ無様に失敗した。そして無邪気な少年の笑顔をすべて殺し、救世主たらんとする、星のような微笑みの下でなにも知らずに育った大馬鹿者だった。

 これで終わらせよう、勇者と邪神の因縁を。俺たちが何故ここにいるのか? それはあいつらを出し抜くためなのだろう。邪神だけでは足りない。イレブンをも出し抜かなければきっと気づかれる。

 俺たちは決して邪神の前で記憶がある素振りを見せてはならない。あいつは、これが勇者と邪神の戦いだと信じ込んでいる点ではイレブンと同じだ。

 俺たちはあくまでおまけだと邪神は考え、「余興」に殺す。前回とうとう相打ちまで持ち込んだみたいだが、役者を自ら揃えたことには気づかないらしい。

 それを利用して、俺たちはただの愚かな人間で、苦しみ何度も時間を遡る勇者の隣で仲間だという顔をしながら、気付かずに死んで、また苦しませる。そんな存在だと思わせておけばいい。邪神は俺たちを侮り、だから終止符を打てる。

 

 俺たちはもう死なない、そしてイレブンを独りにはしない。

 

 じいさんの魔法が炸裂する。ベロニカの魔力が暴走し、寄り添うように立つセーニャの魔力も呼応するように高まる。見た目は派手だが、かつてと同じような威力になるように、今までと同じ状況になるように、絶妙に加減されている。その余力の隙に、セーニャに集められた魔力が、神話の主役たちに気づかれないように、全員を生存させるための祈りに変わる。

 グレイグとシルビアの攻撃が連撃となって降り注ぐのをあいつは大したことではないと切り捨てて、無防備に「立っている」俺を殺そうとする。俺は必死な顔になって、なんとか捌ききったように演じる。邪神の嘲笑を睨みつける弱者のフリをしながら、俺たちは力を蓄えて、全てを賭ける一撃に備える。

 あいつを倒すためのダメージ自体はすぐに蓄積した。何せ、イレブンは本来、こいつを一人で屠ることが出来るだろうからだ。しかし、その守りは疎かで、死ぬことを前提とした特攻だ。一人で戦わせれば、相討ちになって、イレブンは決して帰ってこなかっただろう。

 

 対して邪神は、繰り返すその死闘を楽しんでいる。滅ぼされても必ず遡ってくると確信して、楽しんでやがる。だからあっさり倒されたような顔をして、誰を殺そうか楽しそうに選んでいるのだ。

 

 今回、誰が選ばれるか? そりゃあ俺だろう。

 一回目は、大樹で俺たちを守って死んだベロニカ。邪神は戦うこともなくウルノーガに肉体を滅ぼされた。世界は崩壊し、イレブンは勇者として多くの人の命を救うために独りぼっちで長い旅に出たとき。まだこの因縁はなかった。

 二回目、最初の「余興」は俺。邪神をとうとう倒しきったと思った、全員が気を抜いたすきにあえなく心臓の近くを撃ち抜かれて、イレブンに最後の言葉を伝え切ることなく死んだ。

 三回目、マルティナ。俺の死を知っていたイレブンが俺の前に立ちはだかって攻撃を弾き、今度こそ全員生還したと思った瞬間、狙われたイレブンを咄嗟に庇って死んだ。

 四回目、じいさん。戦闘後、俺たちを全員庇うつもりのイレブンが俺やマルティナを守りきり、自分への攻撃にも対策したのを愉快に見届けたクソッタレが一番離れて立っていたじいさんの半身を消し飛ばした。

 五回目、セーニャ。イレブンが俺を守り、マルティナを庇い、自分への攻撃を防御せずとも死なないと判断して、被弾しながらも即刻じいさんの所に跳び、危険な位置から遠ざけたその隙に嘲るように撃ち込んだ闇の一撃は、セーニャを即死させた。

 六回目、グレイグのおっさん。じいさんとセーニャを、被弾してずたずたになった体で避難させたイレブンが、更に自分に向かって飛んでくる一撃に死を覚悟したのか……目を閉じて甘んじて受けようとした時に、盾として庇って、死んだ。

 七回目、シルビア。諦めるとグレイグがかばうということに気づいたイレブンが、自分の命を諦めることなくその一撃をなんとか受けきった瞬間の隙に、邪神はノーマークだったシルビアに滅びへ向かって崩れゆく自らの腕を叩きつけて即死させた。

 八回目、ベロニカ。シルビアの死を防ぐために自分への攻撃を受けきった瞬間に跳び、更にシルビアの前に躍り出て攻撃を庇って受けたイレブンは既に瀕死で、駆け寄って介抱しようとしたベロニカが目の前で首を落とされるのを見てしまった。

 九回目、イレブン以外。イレブンはこの回でとうとう未来から来たこと、俺たちが殺されてしまうことを隠して、勇者の奇跡で未来が見えたと誤魔化し、先のことを語った。

 そのお陰でベロニカの死までは救うことが出来たが、俺たちは戦いを知っている素振りを出してしまった。その後、覚えているのはニズゼルファが不気味に笑う顔のみ。誰の記憶にもないことから、恐らくあの時のイレブンは仲間の全員を殺されたのだろう。

 十回目、この回では世界が崩壊した記憶がある。恐らく仲間全員を殺されたイレブンには時渡り直後のホメロスの奇襲すら対応出来なかった。一回目の世界と同じように仲間を集め、ラムダでベロニカの死を知ったイレブンは、忌々しい歯車を取り出し、俺たちに詫びると忘れ去られた塔に連れていき、表情を失くした顔でオーブを割った。

 十一回目、イレブン。俺たち全員をとうとうその体一つで守りきったイレブンは、邪神の悪あがきの一撃すら受けきって、崩れ落ち、抱きとめた俺の腕の中で眠るように死んだ。表情はやり遂げたように穏やかだったが、身体の傷は凄惨で、傷のないところはどこにも無かった。その身体の傷を治した時、俺はイレブンの懐に忘れ去られた塔の歯車の鍵を見つけた。

 

 俺は、ケトスの覚醒の時、忘れ去られた塔にひどく、既視感を感じていた。俺はほかの皆も同じだと確信していた。俺たちは既視感に導かれるままに忘れ去られた塔にケトスを呼んで行くと、勇者の剣をイレブンの亡骸に持たせた。勇者のあざは剣を持たせるとイレブンが生きていた時と同じように輝き、俺は喪失感のままにオーブを叩き割った。

 俺の罪の結末は知っての通りだ。イレブンの体はオーブを割った瞬間に掻き消え、勇者の剣は砕け散った。俺はイレブンを今度こそ失ったことを悟ると、愛用のナイフで自分の首を掻き切った。

 きっとあの時、俺はわかっていた。あの場で俺が死ななくとも、過去の世界はすぐに勇者の存在する世界に収束して消えることも。

 だからあの死はすぐになかったことになったのだろう。

 

 そして、俺は何も知らない雪に埋もれたガキになっていた。

 クソッタレの邪神にもかつての記憶がある。ベロニカをイレブンの目の前で殺したところから明らかだ。イレブンが防いでも、絶望させようとばかりに次々と殺す様子からも分かる。

 前回、滅びゆく邪神が見たのは絶望する俺の腕の中で息絶えたイレブン。あの場で、邪神が最も絶望した顔を覚えているのは俺じゃないか?

 最初に戦闘において狙った俺を最後にも狙う。いかにもやりそうな事だろう。

 それに、あいつは俺たちがイレブンにかつての情報を伝えられたと分かっていると全員を殺そうとする可能性がある。それを分かっていたイレブンは俺たちが思い出した時にあんなに取り乱したのだろう。

 だが、邪神はきっと、俺たちが伝え聞いただけではなく、かつての記憶も全部あるのだとまでは知らないだろう。だから完璧に俺たちはなぞる。今までの戦いを。

 俺たちはイレブンにこっそりと防護魔法をかけ、ほんの誤差で済む程度に邪神の邪魔をするとイレブンには話してある。

 本当のところは違う。俺たちには経験はないが、積み重ねた分の記憶がある。かつてよりも、戦える。だから気づかれないように手加減しているわけだが。

 

 ……きた。イレブンの鋭い一撃が邪神を滅びへと導き、邪神は不気味に笑いながらイレブンを絶望へ突き落とそうとする。

 イレブンが俺に向けて飛んできた一撃に躍り出ると、剣で弾いた。今までのように俺は驚いた顔を作って、イレブンを見る。次の攻撃に気付き、弾かれたようにイレブンを庇おうとしたマルティナを押しのけてイレブンが被弾した。

 見た目には派手な出血が起きるが、セーニャの無言の魔法は血しぶきに隠れてイレブンの傷を癒す。極限まで研ぎ澄ませたホイミなら血しぶきよりも光が小さい。仕込み、一つ目だ。

 俺は今までの俺をなぞって邪神の右目にナイフを投げ、命中させた。まだ油断しないと言わんばかりの顔で、これから狙われることも知らないようなふりをして。

 次にイレブンが思いっきり跳躍して、じいさんとセーニャを攻撃到達地点から突き飛ばす。同時にセーニャが狙われた闇の一撃がイレブンの腹をえぐるが、グレイグかセーニャのこっそりかけたスカラが見た目ほどのダメージを出さない。敢えて皮膚が切れるように調節されているので、邪神が気づいた様子はない。

 血が飛び散る。セーニャが聞き慣れた、型通りの悲鳴をあげる。ここで咄嗟に回復魔法をかけるのは今まで通りだ。だが放たれたのはベホイムではなく、ベホイムに偽装したベホマだ。

 イレブンはそれに全く構わず、自分を殺そうとする一撃を受けとめ、シルビアの前に躍り出た。闇の一撃がシルビアの代わりにイレブンを焼く。魔法攻撃はわかっている分にはこれで最後で、それがわかっているベロニカが反撃にメラガイアーを唱えて、炎が目くらましになった瞬間にマホカンタをかける。

 俺は頃合いを見て、邪神の頭をどうやったらぶっ飛ばせるかをじっくりと品定めを始めた。もちろん、今までの俺から逸脱しないようにイレブンに駆け寄りながらだ。

 直接まっすぐ跳ぶか? 迎撃される。目をもう一つ潰してから攻撃するか? 俺たち全員が自爆に巻き込まれて焼かれる可能性がある。

 イレブンがベロニカを庇って左腕をばっさりと斬られた。俺は奥歯を噛み締め、代わってやりたい気持ちを堪えながら、行動をなぞって叫び、邪神に向かってありったけの力を込めた陣を仕掛ける。

 背後を回るか? 気づかれる。魔法に紛れて攻撃するか? それとも、邪神が得意な、不意打ちを狙おうか?

 怒りに身を任せたじいさんの魔法が完成する。グレイグの重い一撃が邪神を襲う。既に滅びゆく神に向かって追撃が加えられる。シルビアが、ベロニカが、セーニャが、マルティナが、俺が、前をなぞって一斉に攻撃する。

 勇者の盾によって、イレブンが殺された一撃が受け止められる。イレブンは、勢いで後ろに随分吹き飛ばされ、衝撃で傷口から血を流しながらも、立っている!

 

 俺たちはその瞬間、前をなぞっていた攻撃を切り替えた。イレブンの元にグレイグが向かう。これでもかと防御魔法が掛けられたグレイグの仁王立ちはそのへんの盾よりも堅い。執念のように繰り返される邪神の攻撃はグレイグに膝すらつかせることが出来ない。

 邪神はどんどん、空気に溶けるように崩れゆく。じいさんの闇の魔法があいつを粉々にする。ベロニカが爆散させる、それをセーニャが風で微塵にし、シルビアが、マルティナが、それを激しく拡散させる。

 そして俺は、悲鳴を上げながら誰を殺そうか画策する邪神の顔を、ただ、なんということもなく、斬り捨てた。

 俺は速かった。今までよりも。邪神は俺たちを侮った。

 光が満ちる。邪神は光に還る。

 

 俺たちの光は、生きている。

 

 悪あがきするように崩壊しきった体を動かそうとした邪神ニズゼルファだったものは、俺の陣の発動によってとうとう、本当に粉々になって、消えた。

 

「イレブン! 生きてるか!」

「みんなこそ!」

 

 イレブンは血まみれだった。だが、立っていた。剣を下ろして、涙に濡れる目をそのままに、俺たち一人一人を確認して。

 

「あぁ……」

 

 イレブンは、気が抜けたように座り込む。それを全員で心配して我先にと介抱しに行ったものだから、ぶつかって、転がって、イレブンはそれを見ておかしそうな顔をする。

 

「みんな、生きてる」

 

 イレブンは、夜空の星がきらめくように微笑むのではなく、かつてのように幸せそうに、笑った。

 

「ねぇ、まだ助けたい人がいるんだ。忘れ去られた塔に行こう。セニカさまを解放して差し上げよう」

 

 だというのにまだ真面目に誰かを救おうとするものだから、俺はまったく、敵わねぇなと、イレブンの肩を叩いて労った。

 晴れやかな気持ちであの神秘的な塔に向かうのは恐らく全員、初めてだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ねぇ。みんな、ありがとう。

 僕を独りにしないでいてくれて。

 

 僕は孤独じゃなくなった。だから僕たちは、こうして誰の犠牲も出さずにいられたんだ。僕がみんなを生かそうとしたように、みんなが僕を生かそうとしてくれたから僕はここにいる。

 みんなは優しくて、本当に強かった。すべては僕の驕りだったんだね。守って、隠して、すべてを見せない選択をした僕は間違っていた。

 

「セニカさま、勇者の力をあなたに託します。僕にはもう使えないけれど、あなたには使えるはず。そして、その勇者の力でひとつだけ僕の願い事を叶えてくださいませんか」

 

 僕は、一人じゃなくなった。かつての記憶を持つみんながいるから。

 でも、それってさ、裏を返せば、みんなにもかつての辛い記憶があるってことだ。

 カミュは僕の隣で、僕の顔とセニカさまの顔を、見比べている。僕が何を言い出すか予想もできないんだろう。僕は、このわがままをもって、それで、僕の勇者としての……いいや、「エゴの救世主」としてのおこないを終わらせようと思う。

 

 みんなの見る、僕の目は、かつてのように希望に輝いていたのだろうか。僕は自分が淀みきった目をして、それでも救世主らしくなんとか微笑んでいるに過ぎないと思っている。ガラス玉をはめ込んだ顔。

 それをみんなは気づいているけれど、優しいから触れないでいてくれる。僕の時間が止まっていても、人間のフリをした救世主の人形でありたいと願っているから、人間の扱いをしてくれる。

 僕はカミュになんでもないことなんだよ、と言わんばかりの表情を作って見せて、一瞬だけ油断させた。

 みんなは、真に救われるべきなんだ。この記憶は持っているだけでその人を削り取る。悪夢に悩まされるかもしれない。後悔があるかもしれない。そんなものを背負わなくていい。

 

「ここにいるみんなの、過ぎ去りし時の記憶をすべて消してください。それは、持っているのには辛すぎる。縛られちゃあいけないんです」

「……えぇ、勇者のあなたが望む唯一のわがままなら、叶えましょう」

「ありがとう……」

 

 僕は、止めさせようと、掴みかかろうとするカミュの意識を瞬時にうばった。簡単なことだ、ラリホーをかけただけ。

 あの時の僕もこんなふうにぐっすり眠っちゃったのかな。戦いでもないのだから、眠りの魔法は面白いくらいによく効く。もしかしたら君が使ったのは夢見の花かもしれないけど、同じこと。これは小さなお返しなんだ。君たちへの。これは感謝だ。

 ラリホーマはみんなの意識を次々と刈り取っていく。無念そうな顔を、僕は微笑んで見守る。救世主の微笑みで、僕は見送る。すべてを忘れて、穏やかに過ごすといい。

 箱庭にみんなを運ぼう。僕は何も無かったようなふりをして、世界の危機がついに去ったと言って、箱庭の扉を開くんだ。

 そして帰るところがある人たちを帰そう。ない人たちが穏やかに過ごせるようになるまで、暫くの間は救世主でいよう。

 

「あなたの記憶も消してあげましょうか?」

「……いいえ」

「そう……でも、あなただって、幸せになるべきです」

 

 セニカさまは意味ありげに微笑んだ。途端に、僕の意識まで混濁する。あぁ、間違えた。僕はまた、選択を間違えた。

 相手は賢者だ。魔法においても、何においても勝てるわけがない。出し抜けるわけがない。相手を誰だと思っているんだ。僕は未熟で何度も何度も失敗した勇者なんだ。

 彼女がここにとどまっていたのは、彼女が勇者でなかった、ただそれだけのことだ。僕は賢者の慈悲によって、長い旅の記憶から解放されることを悟った。

 

「どうか、良い夢を……あなたはたしかに救世主だったのよ、愛しい人の生まれ変わり。幸せになって」

 

 声が、優しく溶けた。僕の頬を優しい手が撫でた。

 僕は、何もわからなくなって、意識を失う。なんだか次目を覚ました時には素晴らしいことが起きるような予感を持って。

 

 

 

 

 

 

 

「イレブン、おい、イレブン!」

「うぅ、あとちょっと……」

「おいおい、ここがどこか分かって言えよな!」

「うぅん……」

 

 薄目を開ける。キラキラと輝く破片が転がっているのが視界に飛び込んできた。あれは、なぁに?

 

「だめだ、ねぼすけは起きそうにないぜ。さっさと降りるか」

「そうね。イレブンちゃんが一番疲れているのだから仕方ないわ」

 

 僕は抱き上げられたような気がして、さすがに目が覚めた。急いでもがく。目を見開くと、キラキラ光っていたのは割れた時のオーブだとわかった。セニカさまはどうやら無事に戻れたらしい。よかった。

 ところでなんで僕寝ていたの?

 

「お、おろして!」

 

 運ぶ適任として選ばれたのだろうグレイグの手からするりと抜け出すとカミュが大笑いした。

 

「おう、おはようイレブン。それじゃあ帰るか。どこへ行く? デルカダールか? イシか? それともラムダか?」

「えっ?」

「寝ぼけてるなこりゃ。さっき邪神を倒して、時の番人になっちまったセニカさまに勇者の力を渡して、見送ったとこだろ。その時の衝撃で俺たちみんな眠っちまったらしい。だがまぁいつまでもいる訳にはいかないだろ。ここは人がいていいところじゃない」

 

 カミュは少し背伸びして、素手で僕の頭を撫でた。いつだって手袋越しだったのに。僕はやっと欲しかったものが手に入ったような気がして、目を細める。

 僕、褒められたかったんだ。君に。よくやったなって、なんのしがらみも泣く。いつだって甘い君にさ。僕はまだ子どもみたいだね。

 

「よく頑張ったな」

「ううん、みんながいてくれたから……」

「素直に受け取れよ」

「うん……」

 

 目から幾筋か涙がこぼれ落ちる。キラキラと涙が落ちていく。僕の服を濡らして、手に当たって、地面にもこぼれ落ちていく。ぱたぱたと、時の止まった塔の中に涙がこぼれる。

 俯くと、滲んだ視界に黒いものが映った。カミュの手袋だ。僕はおかしな違和感と、変にしっくりくる感覚の両方を覚えた。

 

「あれ……僕、なんでカミュの手袋しているんだろ」

「ん?ほんとだな」

「はい、返すよ」

「おう」

 

 妙に馴染んだ手袋を外して、返す。カミュが受け取って、いつものようにはめる。

 素手の僕の左手には勇者の証のあざはすっかりなくなっていた。

 僕たちは、ゆっくりと塔をくだる。何故か、大きな喪失をしたような気持ちになる。だけどそれ以上に長い長い旅が終わったような安堵があって、僕は何度もみんなに労いがてら揉みくちゃにされた。

 塔から最後に足を踏み出す時、僕は振り返った。どうしてだろう、そう何回も来たわけじゃないのに、何回も来たような気がするんだ。だから後ろ髪を引かれるのかもしれない。

 

「これで救世主さまの旅路は終わりだな。なぁ、落ち着いたらまた旅をしないか?」

「うん、約束だったものね」

「あぁ、約束だった」

 

 僕は過ぎ去りし時を求めてここに来た。ベロニカの死はもう、真実じゃない。セーニャとベロニカは仲良く寄り添っている。命の大樹が落ちたということもない。ウルノーガはすぐに討ったから、悲劇は起きていない。

 これから、すべてが良くなる。ウルノーガ亡き今、デルカダールのモーゼフ王は失われたマルティナとの時間を取り戻していくんだ。

 シルビアは世界中の人を笑顔にするために本格的に活動を始めることだろう。

 ロウじいちゃんは、どうするのかな。僕ができることなら手伝いたいな。

 カミュとは、また旅をしようって約束していたね。

 

 村の復興が終わったら、きっとしよう。

 ……いつこの約束をしたんだっけ? なんだか、随分前の約束な気がするのに、カミュはよく覚えていてくれたなぁ。とっても嬉しい。

 

「これからきっと、イレブンさまは語り継がれることになりますわね」

「えぇ……そんなの照れくさいから嫌だよ」

「受け入れなさいよ。あなたが負けずに、諦めずに成し遂げてくれたこと、それはすごいことなのよ!」

「そうだ、イレブンさまはなんという名前で語り継がれるのでしょうか?」

 

 気が早くない?普通に勇者、とか?あぁ、でも、もっとふさわしい言葉があるよ。

 僕の旅路は、エゴだった。なんとなく、そう言いきれる。

 

「僕はきっと、エゴの勇者って言われるよ」

「そりゃすごい、人間のエゴ一つで世界を救っちまうなら大したもんだ」

「もう、褒めてないのはわかっているよ。でもしっくりくるんだ。そうでしょう?僕はエゴの救世主なんだ、ずっと、ずっとね」

 

 そういえば僕、救世主の方が、勇者と呼ばれるよりもしっくりしちゃうな。何故だろう。

 

「……俺は来ないけどな。普通に救世主さまじゃだめなのか?」

「あ、なんだかカミュにだけは呼ばれたくないなぁ、その呼び方」

「そうか。俺もなんとなく呼びたくなかったところだぜ」

 

 カミュは苦々しく笑った。確かに、カミュはそんな呼び方よりもさ、いつもみたいに相棒って呼んでほしいよ。他人みたいだもの、救世主さまだなんて。

 その名前は、今の僕には、もう、相応しくない。

 

「さぁ、帰ろう。一緒に」

 

 僕はみんなと輪になって手を繋ぐ。僕が唱えたルーラで、みんなと一緒に空を飛ぶ。

 僕は心の底から、笑った。

 

 僕は過ぎ去りし時を求めた。そして取り戻したかったものをすべて取り戻せた。そして、今、明るい未来を思い描いて、笑っている。




2021/2/1 改稿


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