私は彼女の魔嬢(まじかるすてっき) (茶蕎麦)
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プロローグ 虚飾

 

 魔法というのは人間の世界には存在しない。それは、外の法則。魔なる力の発露。

 

「やっつけるよー」

『気をつけてね』

 

 人に掴めるはずのないソレ。しかし、その少女は魔法を用いることが出来た。多分なルール、それを手に持つ杖にて触れることで破壊して、彼女は魔物と相対する。

 

「大丈夫だよ、こころちゃんは無敵だからね!」

『私に腕相撲で勝てないようなひ弱さんが、よく言うね』

 

 魔法少女は、彼女に獣のように見えるソレの毛深い腕による攻撃をひらりと躱して杖を向けた。魔杖の先端からは光る線が延びていく。それから逃れきれず摩訶不思議な魔法の先端に触れたことで痛苦を覚えた魔物は、きゃいんという悲鳴を上げた。

 

「ふふー。今回の魔物さんは弱いね」

『私が全ての魔法を起こしていることを忘れずにね』

「わかってるよー。こころちゃんはすてっきーがないとただの女の子だから。二人揃って無敵なんだよ」

 

 そして魔法少女は逃げんとする魔物を背中から桃色の羽を広げて飛翔し追い抜いて、逃げられないよと相対してから、その幼い顔を綻ばせた。彼女はファンタジックな装いの中、唯一モノトーンで硬質な、その手に持つ杖に口付ける。

 

『うえー。子供じゃないんだから止めてよ。女同士だよ?』

「ふふー、私には今のすてっきーはそのままステッキに見えるから、平気だよ」

『普通に見えちゃう私が一番損してるなぁ』

 

 先から、魔法少女に話しかけている声。それは、今の少女にはステッキに見える、彼女の親友から発せられているものだ。ステッキな親友にとって世界はずっと変わらない様子に見えるようだから、自分に向けられた同性の口づけなんてものはきっと嫌で仕方なかったのだろう。

 

『まあ、いいや。とにかく、アイツを倒すよ』

「もっちろん!」

 

 切り替え、相手を直視した杖によって、全ては桃色に歪んでいくように魔法少女には見えた。流石、と彼女は思う。

 魔法少女のために杖へと変じた彼女は、自分の目線に従わせて、周囲までも魔的に移ろわせる。狂わせた法則は、全て魔法少女のため。誰知らず、どこまでも、マジカルステッキは献身的だった。

 そんな明らかな異常を見つけ、魔物は怯える。捕食が悪なのか。蹂躙はそれほど善に虐げられなければならないものなのか、そんなことを考える脳すら彼にはない。ただ、野生に従い逃げんとした。

 

「あ、リスさんみたいな魔物、逃げるよー」

『はぁ。心にはそう見えるのね。……まあ、私が逃がすわけないでしょう』

 

 硬質から冷徹な声が響いたと思うと、魔物の周囲に地から不明なピンク色が伸び、檻となった。最低でも、魔法少女にはそう見える。頼もしい杖の力に笑んでから、彼女はその切っ先を身動きの取れなくなった獣に向けた。

 

「えーい!」

『消えろ』

 

 喜色と、冷然。温度差があるその声色は重なる。二種の言葉と共に顕になったのは、桃色の光条。極光を思わせる多色を容れたそれを、魔法少女は綺麗と思いながら、それが当たるようにただ願う。

 そして、願いは叶う。光は、敵を呑み込み、僅かな抵抗も許さない。ぎゃあという断末魔の悲鳴を聞いて、魔法少女は笑みを深めた。

 

「やったー! 今日も勝ったよ!」

『この世が少し、綺麗になったね』

「うん!」

 

 ふわふわとしたセミロングが、弾む。ただ、勝利は甘い。その手元で苦味を嚥下している存在など、彼女には知る由もなかった。

 

「これで、皆、幸せになるね!」

『……そう、だね」

 

 機械のように冷静だったステッキの声は、多少の熱に歪む。実はその心根が優しすぎたために。

 

「うん? 何か変なの、見えた?」

『気のせいじゃない?』

 

 途端、喜劇が揺らいで悲劇が湧き出そうになった。剥がれそうになった虚飾を、慌てて彼女は貼り直す。

 目を擦った魔法少女には、一瞬ばかり醜悪な世界が見えたような気がした。だがまた優しさに包まれたがために、それは勘違いと処理される。

 

「今日はこれで終わり?」

『感じ取れるのは、もうない、かな』

「よーし、明日も頑張るぞー」

 

 発奮する少女の愛らしさ、それを間近で眺めて、ステッキの少女はため息一つ。そうしてから呟いた。

 

『明日が、あれば良いのだけれど……』

 

 

 そう、世界はあまりに不定。未だ、魔法少女は目に見えるものと現実の相当な錯誤に気づくことがなかった。

 

 

 



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第一話 子犬

 人はアレを除いて、生きている。私は、アレを覗いて生きている。それが、大きな違い。

 

 

 青を隅っこに追いやって不確定未確認に蠢く空を見たくはなくて、私はなるだけ下を向いて歩く。人との距離は充分で、ゴミは端に退かれているがために、硬いばかりの歩道に注目点は何処にもない。だから、ただ歩くだけに不安はなくて、視界の端にローファーやシューズがちらほら映ってこようとも、靴の持ち主達に近寄ることもなく、ただ孤独な歩みを続ける。

 私が黙って先に進むために踏みつけ続けているここ、瀞谷(とろや)町は人口二万四千人程度の町だ。栄と銘打たれた山々に囲まれているそんな町の中央の地区。町人の多くが集うそんな場所にわざわざ出向いて歩んでいても、しかし私の心は賑やかにならず、静まり返ったまま。

 

「心(こころ)、約束通りに来ているかな……」

 

 ただ、私は彼女のことを心配する。あの癖っ毛を定刻通りに見ることが出来るかどうか、その確率はきっと半々程度。漫ろで、惑いっぱなしな彼女は、何かに囚われると目的なんてそっちのけ。よく猫に連れられて迷う心を見つけるのは、私の仕事だった。

 

「動物じゃなくても、何かあったら直ぐそっちに気が向いちゃって、元に戻れなくなっちゃうし……あんなに、助けが必要な子って、珍しいよね」

 

 嵐山(あらしやま)心は、人の厚意で生きているような、そんな少女だ。手がかからない、そればかりが取り柄の私とは正反対。

 

「羨ましい、とはもう思わないけれど」

 

 保護によって生存している可愛い可愛い、無垢な子供。そうなりたいと、思わなくなったのは、何時の日のことだろう。何となく、お兄さんの顔が頭に過ぎった。

 

「ま、今日も友達を、やりましょうか」

 

 ちょっと前まで色々と思惑が合った関係でも、それは終わっていて。今はただ、彼女のことが好きなのだ。ならば、仲良くするのが当たり前。ただ、それがこれまで中々出来なかった。

 つい、天を仰ぐ。捻れて癒着し、崩れた体を重ねる連なり。あんな風にはなりたくなかったから。

 

「人とアレは違う……よくよく判っていたつもりだったのにね」

 

 下を向きスマホを立ち上げ、到着時刻に狂いがないことを確かめながら、私は少し、足を早めた。この人の海の中、孤独でなくなるために。

 

 

 商店街の手前。人が交差する、目的地たる映画館との中間地点。そこに辿り着いたことに気付いた私は伏せていた顔を上げる。すると、そこには期待していた彼女の姿が見つかった。

 

「おはよう、すてっきー。あはは。今日も綺麗だねー」

「おはよう、心。もう来てたんだ」

「えっへん。そう何度も遅刻するこころちゃんじゃあ、ないのです!」

 

 目の前で両手に作られたピースが左右に揺れる。そして、なんのてらいな無さそうな、満面の笑顔が、眩しい。

 何処かで誰から学んだのか、典型的なアホの子路線を進んでいる、こんな少女こそ私の友達。誰も使わない、私大須滴(おおすしずく)のマイナーなあだ名を好む残念な子こそ、心だった。

 

「……沢井(さわい)君、かな?」

「ぎくっ」

「心ってホント、オノマトペ好きだよねえ。それって、言葉にするものじゃないよ?」

「小野さん?」

「話題にしているのはどっちかというと、小野さんよりも沢井君の方ね」

 

 最愛の友で、私は遊ぶ。心に言葉を差し出す度に、クエッションマークが空に飛んだ。無闇に周囲を明るくしようと浅学をひけらかすような私と心は好対照。分からない、それでも彼女は平気で笑っている。

 

「すてっきーにはバレバレだー。そう、こころちゃんは、今日も永大(つねお)ちゃんに助けて貰っていたんだよっ」

「彼ったら、甲斐甲斐しいことこの上ない人だよね。私なら、こんなに面倒な幼馴染が居たら、とうの昔に括っちゃっているかも」

「くび?」

「心、首に巻いたチョーカー今日も似合ってるね」

「うんっ。何しろ、すてっきーがくれた誕生日プレゼントだから、似合わない筈ないもの。何時だって着けちゃうよ」

 

 それは、冗談の類。本命をバッグに隠し、プレゼントと偽って差し出したまるで飼い犬を縛るために用いるような赤いチョーカー。それを喜んで受け取って己の一部のようにしてしまった心は、やはり阿呆。だがそれはとても可愛らしい、抜けっぷりだった。

 

「心が学校にまで着けてきた時は、ちょっと焦ったなあ……」

「もうやらないよ! だって、皆にワンちゃん扱いされるのは疲れるからねっ」

「指摘されるその都度わんわん言って返して、校則違反を指摘しに来た先生にまで犬語で喋ろうとして怒られる、そんな思春期女子は、多分心しか居ないよ」

「そう、こころちゃんはオンリーワン! わんわん!」

「お、珍しく間違えていないね」

 

 頭に手の平を二つ立てて犬の耳を型取り、心はふざけ続ける。こうして見ると、ぱっちりお目々に、櫛が先に音を上げそうな程に自由奔放な髪、私を見上げる低身長、そんな要素が愛らしく纏まっているのが不思議だ。まるで、子犬のよう。だから、私は彼

女を怖がらず抱けるのだろう。

 

「お手」

「わん」

「ほら、ぎゅっと繋いで……さあ、何時までも遊んでいないで行きましょうか。映画はあと少し、定刻通りに始まるでしょうから」

「わわっ、わん!」

「まだ言うの……」

 

 人の海は割れてはいないが、しかし隙間だらけで通りやすい。やたらめったら目のいい私は、それを見逃さずに、通っていく。左手に感じる温もりを忘れずに。

 そう、悪辣にも星の光どころか空気すら頂くその天辺を無視して、私は地べたを茶色いわんわん言う少女と共に歩く。また一つが、そこから零れ落ちたことに気付きながら。

 

 

「面白かったねー」

「うぅ……心、どうして貴女はアレだけ素晴らしい内容を見て、泣いていないのよ……」

「うーん。あれって悲しかったんだ……分かんなかった!」

「そうね。共感力の欠けている心に、理解力の足りないワンちゃんに相応の感想を求めるのは間違いだったわね……ぐす」

 

 在り来りの悲劇も、重ね連ねて強調して、そして無駄を極限まで廃せれば、それはもう傑作に至るのは当たり前。話題通り、近年稀に見る素晴らしい映画を見た私はグスグスと泣いて、心はヘラヘラと笑った。どうして私はこの子と映画を観に来たのだろうと、目頭をこすりながら真剣に疑問に思う。これから行うショッピングに意外と参考になる彼女の意見を採り入れる予定を、すっかり忘れて。

 

「すてっきー泣かないでー」

「良いのよ。悲しい時は、思いっきり泣くの。感情は、表に出すのが一番なんだから」

「そうなんだ」

「それも周りを見て、だけれどね。……これだけの落涙があれば、私のものなんて隠れてしまうでしょう」

 

 のろりと歩き、背中を丸めて涙を流す女子の集団。異様ではあるが、しかしそれは悲しませるために作られた代物を受け取った場合の自然。その中で、笑顔をしている心こそ異常である。

 

「すん。原作著者の森々森然(もりもりしんぜん)先生も、自分の映画をここまで理解しない、しようともしない少女がいるとは思わないでしょうね……」

「うーん。こころちゃんは、判んなくても楽しいからそれで良いと思うんだけれどなー」

「貴女は、零点を取る達人ね……ふぅ、もう、いいわ」

 

 そして、私は背を伸ばした。目尻を拭い、悲しみに暮れきった私は再び心登らせる。それがあまりに早い、私も確かにおかしいのだろう。思わず、悲哀の中で笑顔が二つ並んだ。

 

「いいの?」

「うん。充分、悲しんだわ。……涙を何度も拭うのも、疲れるし」

 

 映画の代金分は、感情を踊らせられた。それは間違いない。悲しくとも恋愛がああいうものであるとも学べたところであるし、とても良い時間を過ごせた。そう、たとえ悲劇を外してしまえば心に僅かにしか残るものがなくとも、それでも傑作は傑作だったのだろう。

 

「虚構を悼んでいる、そんな時間が人生にあんまり多くてもね」

「きょこー?」

「出来の良い嘘のこと。さっきの映画も、そうよ」

「やっぱり、嘘だったんだー。信じちゃ、駄目だよね」

「そうね。たとえ嘘のようでも、現実と向き合わないと」

 

 そう、どんなに魅力的で信じたくても、嘘は嘘。決して正面から対面できるものではない。

 反して、どれほど悍ましくとも目を反らしたくなろうとも、現実は眼前に広がっていた。

 屋根に蓋をされてもその圧倒的な気配の多動は感じてしまうもの。私以外の誰にも理解できない天の怪物は今日もうごめく。

 私の感覚質は訴える。早くここから逃げて、と。逃げ場所は何処にもないというのに。だがしかし、そんな危機が隣り合わせの今にだって、生きていかなければならないのだから仕方ない。ああ、望まずとも望んでしまう、そんな現実を生きよう。

 

「それにしても、リーフウォークは何時だって混雑してるわね。まるで町中の人が集まっているみたい」

「すてっきー、茉莉(まり)ちゃんがいるよ!」

「襲田(おそだ)さん? あ、ホントだ」

「茉莉ちゃん、ここだよー」

 

 私が人足の多さを確認していると、何気にせず空を見上げられる心は、群れの中から友を見つけたようだ。呼ばれて、少しはにかみながらこっちにやって来るのは二組の襲田茉莉さん。私が通っている瀞谷中学の二年で同級生だった。

 

「……心ちゃん、大須さん。こんにちは」

「こんにちは」

「こんにちはー」

 

 心と同じくらいには小さい襲田さんは私を見上げて頬をふやけさせる。小さい瞳に蕩けるような笑顔が、彼女の特徴である。あまり仲良くした覚えはないのだけれど、それでも私は彼女に勝手に好印象を持っていた。

 だからただ歓迎して、私は一歩引く。ずいずい前に出て行く駄犬を見逃しながら。

 

「ねえ、ねえ。茉莉ちゃん、今日はどうしたの?」

「お母さんとお買い物に来たの。あそこでカートを押しているのが私のお母さん。ところで、二人は、何をしに?」

「映画アーンドショッピング!」

 

 娘さんそっくりな笑顔と私が会釈をした横で、ぴょんぴょんと心が跳ねる。素直に、友達と会えた奇遇がうれしいのだろう。私の親友は、無駄に高い運動神経を発揮させて、見つめる襲田さんの顔を上下させた。

 

「……二人、仲が良いよね。羨ましいな」

「茉莉ちゃんも、麻井(あさい)さんと棟木(むねき)さんといつも一緒……いたっ。どうしたの、すてっきー?」

「心の馬鹿。ごめんね、襲田さん」

 

 私は表情から襲田さんの痛みを察して、心の軽い頭を叩いて彼女にとって悪い方向に向かいかねない会話を中断させる。

 そう、友達の様な顔をしながら望まないことを平気で行う麻井瞳(ひとみ)と棟木早良(さわら)の事を、私は好いていない。むしろ、麻井等は私の犬猿の仲でもあった。襲田さんも、纏わりつくあいつらが苦手であるようだ。

 それを知らず、いや一度聞いておきながらも忘れた心は痛みと隣で下がった私の頭を見て、それにならう。

 

「茉莉ちゃん。なんだか分かんないけど、ごめんねー」

「ううん。私、気にしていないから……それにあの二人も、良いところはあるし」

「それを向けずに、想ってくれさえしない人と仲良く出来る襲田さんはとても素敵な人だと思うけれど……それでも潰れそうになったら言ってね?」

「え? 駄目だよ茉莉ちゃん、潰れないでー」

 

 茉莉ちゃんがハンバーグみたいになるのは嫌だよー、と騒ぎ出した子犬を見つめ、私が行うのは溜息を吐くばかりであるが、襲田さんがするのは違った。

 再び、頬を緩ませて崩れずとも溢れるように、彼女は笑顔を浮かべる。

 

「ふふ……うん。大丈夫だよ。心ちゃんに元気、貰ったから」

「良かったー」

「……そうね」

 

 そして、場には温かいものが広がった。微笑みは交わされ、ただ一人冷たい中に私だけが取り残されながら。果たしておふざけこそ、人の心を暖める最適解なのだろうか。幾ら分析しようとも、私にそれは分からない。

 

「……ふふ。それじゃあ、私行くね。心ちゃんに大須さん。また明日、学校で会おうね」

「じゃあね!」

「また明日」

 

 少し私が呆けている間に友情が十分に交じったのか、眼前の二人は別れを切り出していた。合わせて、私も笑顔を作る。とっさであったために、それが上手く出来たかどうかは不明だったが。

 

「それじゃあ、行こうね、すてっきー!」

「ええ。行きましょうか。散財の用意は十分整っていることだし」

 

 私は、次を思って笑顔を本当のものにする。多少のもやが胸元に残っているが、また切り替えるべきだろう。

 空を見ようとしない私は地べたをうろつく人の装いなどを気にするタイプ。また、自分のものだって気に掛ける方。着飾るために、衣服やアクセサリーを買うのは好きで、だから今日という日は楽しみだった。

 

「すてっきー。私、あんまりお金持ってきていないから、今日は小物中心に見ていかない?」

「まあ、別に良いかな。そういえば心、びょんびょん狐のキャラグッズを買いたいって言ってたよね。そっちから先でもいいよ」

「やったー。びょんちゃん、びょんちゃん!」

 

 今流行りのお腹がやたら伸び縮みするピンク色の狐を、当然のように好んでいる心は、私の提案に大喜び。早くその欲求を叶えたいのか、私の手を取り引っ張り出す。もっとも、小さな心の全力でも、大きめな私はそうそう動くこともない。ただ、その気持ちを感じて、私も少し楽しくなった。

 

「こら、焦らない。ゆっくりしないと怪我するばかりだよ?」

「怪我はいやだなあ。分かったー」

 

 微笑んで、注意する私に向かって下げられた頭を、私はなるべく優しくなでつける。心の奔放を、私は愛しんだ。

 

 

 



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第二話 喪失

 私は自分で思っているよりも大分、見目が良いらしい。間違いなく性格は悪いのだろうが、人当たりには気を遣っているので、あまりそれが表に出て来ることもなかった。

 私には理解できないが、だからだろうか、異性からの告白というものはそれなりに経験している。もっとも、一度だろうと、私がそれを受け取った試しはないのだが。

 

 

「大須さん。それで……オレ達、どこに向かっているのかな?」

「秘密」

 

 隣で男の子が何やら頬を掻きながら疑問を呈して、私を伺う。それに、ろくろく答えず勿体振って、私は前を向く。校門を抜けたところで向かう先を思い少し逸った私の足に、しかし大柄な彼は軽々と付いてきた。

 

「ふーん。それは、楽しみだ」

 

 再び並んでから笑みを向けてきた彼、柾健太(まさきけんた)君は、どうやら格好良いらしい。昨年クラスメイトで関係もあったことから、悪い人ではないとも知っていた。

 確か部活はバスケ部、だったろうか。体育の時間でレイアップを綺麗に決めていた姿が印象的。成績も中々良いと聞いたことがあったような気がする。まあ、兎にも角にも優れた子だ。私なんかに告白をしてきたのが不思議である。

 

「別に楽しい場所じゃあ、ないかな」

「そっか」

 

 でも私は、その高水準に惹かれない。ただ、この先を思って柾君を注視しなかった。それでも彼はニコニコしている辺り、何だかやっぱり気持ち悪いな、とは思う。

 

 

 私は休み時間に人気のない自転車置き場前でこっそりと行われた、柾君の告白に少しも胸をときめかせることはなかった。

 好きではないものが自分を好きだと知ったところで、特に何も感じない。好意の返報性なんて言葉は私に通じないのだ。どうしようもなく、好き以外はどうでもいい。

 更に私は、決して他に理解できないものと通じてすらいた。真っ当ではなく気持ち悪い生き物。それとくっつく相手は可哀想。だから、彼に向ける返事はごめんなさいというものしかあり得なかった。

 

 しかし、同じように拒絶した以前の例と違って、柾君は怒ることも困惑するようなこともない。笑んで、彼は大須さんのそういうところが良いんだよなあ、と言う。暖簾に腕押し。流石に私は、困ってしまった。

 よくよく話を聞くと、柾君はどうにも目立つようになった自分のことを殆ど見なかった相手、ということで私を特別に思ってしまっているようだ。無視を喜ぶなんて彼は随分と被虐的な性質だな、とは思う。

 そんな性癖を知ったからとはいえ、惹かれる私ではない。だが、はにかむような柾君の笑みに記憶を刺激されて、思わず付き合えないけれど、帰りにちょっと付き合って、と言ってしまった。それが故の、二人の帰り道である。

 

 

「それにしても、心ったら冷たいの。誘ったのに、付いてきてくれないなんて」

「はは。彼女は相変わらず随分と優しかったと思うよ。オレに対しては、だけれど」

「幼馴染みの男子と一緒に私たちの冷やかしに徹したあの子が優しいなんて、やっぱり柾君は変わっているね」

「ははは」

「はぁ……」

 

 爽やかにも笑みに白い歯を覗かせる柾君をちらと見て、私は溜息を吐く。

 直近の疲れる事態を思い出す。私は帰り際に、柾君も帰り道を共にしても良いか心に訊いた。すると、あの子はきゃあきゃあ言って、すてっきーが格好良い男の子を連れてきたよ、と騒いだ。それに同調した沢井君もこれは俺らが邪魔しちゃだめだね、とはやし立てた。

 相当な人目、嫉妬の視線も含めて集めた、玄関前の小さな騒動。そこから逃げ出した私に柾君は付いてきて、こうして二人きりになった。

 明日、私を嫌う女子等に何と揶揄されるか思うと、今から頭が痛い。つい、よく通るばかりが自慢の長髪をかき分けた。頬を、数多の黒線がはらはらと撫でていく。

 

「柾君は見られても平気なのかもしれないけれど、私はそうでもないの」

「それは何か、隠しているから?」

「……へぇ。分かるんだ」

 

 柾君の確信を持った断言を受けて、私は感心する。顔の向きを変えると、横には先と変わらぬ笑顔がそこにあった。何となく、細まったその視線に粘度を覚える。

 交差点の赤信号にて止まって黙した私には、空の蠢きがよく聞こえた。異常で不快で、しかし時折あまりに美しくもあるその音色は延々と続く。だから、私に静寂はあり得ない。

 異常が身近なそんなこんなを上手く隠せていると思ったのだけれど、そうでもないみたいだ。それなりの観察者には判ってしまうようである。

 

「他の人は、大須さんをクールだとか、憂いを感じるとか言うけれど、違うよね。きっと近寄らせなくて、悩んでいるだけじゃないかな」

「暗いだけ、とは思わない?」

「オレが好きになった人なんだ。きっと暗いだけじゃないよ」

 

 信号機に青色が灯って、皆は歩き出す。私のはじめの一歩は大股で、次第に早足になった。何となく彼の言葉はしゃくに障る。それに、自分が特別と思い込んでいる子供と並んで歩いていくのは恥ずかしい。なにせ、少し前の自分を見るようだから。

 しかし、ウドの大木な私よりも尚、少し背の高い柾君は直ぐに追いついて来た。気遣わしげに、彼は私を見る。

 

「気に触った?」

「……多少は」

「ふぅ……それでも、大須さんはオレに注目してくれないんだね」

 主人公になりたがりさんは私を追い越し、自分を晒しながら、そう口にした。確かに、少しうざったかろうとも、好きでないものを私は気にしてはいない。

 左右対称の間違いの少ない顔。整髪料で仕上げられた髪。確かにこうして見ると、柾君は見にくいところがない。好まれて、然るべきだろう。

 しかし、私が真っ直ぐに彼を見ると、どうしても空が目に入ってしまう。何かの生活圏、大勢の理解不能を。そのいやらしくも黒くならない多色の凝縮の元に、少年の整列は希薄だ。

 

「私は、おかしいから」

 

 どうしても、醜いものこそが、私の心を奪う。生き物らしく勝手に標準装備されてしまっている警戒心は、空を仰がせたがるのだ。けれどもそんな怖いものを見るのが嫌だから、私はついつい下を向いてしまう。

 そして、私は私を好きな彼を無視して残り少しの道を見る。

 

「だから、人が見ないものを見るの」

 

 そう、目的地はすぐそこだった。忘れられない場所。私以外の誰からも忘れられてしまった彼女が過ごしていた駄菓子屋。思い出されることもなく、一年足らずで寂れ果てたそこに私は遠慮なく足を踏み入れる。

 

「お邪魔します」

「……失礼します。廃墟っぽいけど……オレも入って良いのかな。駄菓子屋か何かだった、みたいだけれど」

「……うん。きっと、あの人も喜ぶと思う」

 

 言い、私は未だてらてらとした極彩色が残る捕食痕に荒れた室内を眺め見た。散乱する期限切れの菓子類を避けながら、私はその中心にて安堵する。まるで巨大なミミズの化け物が這った後のような惨状に、無理に過去を重ねながら。

 私の中学校からさして遠くない、老婆が切り盛りしていた駄菓子屋。その繁盛が、今やあまりに遠い。

 

「柾君、思い出せない?」

「思い出す、って言っても……オレはここに来たこと、一度もないよ」

「本当に?」

「ああ。だって、オレはここを知らなかった」

 

 願いを込めて、私は柾君に聞き返す。だがしかし、現実は無情。有り得ないものの腹の中に入ってしまったあの人、安田菊子(あだきくこ)さんの存在を、彼は否定する。きっと、私には丸見えなバケモノの痕跡すら、この少年にはよく見えていないのだ。

 誰も彼もそれは一緒。おかしくて、私は笑ってしまう。

 

「ふふ。皆、そう言うんだ。お隣さんですら、知らないっていうんだよ。変だと思わない?」

「それは……」

「それに。この写真に映っているのは、柾君、だよね」

 

 私は、スマホを操作して、学生服を身に纏う子供達が散見される、在りし日の安田駄菓子店の姿をデータとして柾君の前に差し出した。私には、写真の端にて満面の笑みを見せる菊子さんとはにかむ彼の様子が目に映っている。

 

 でもきっと、健太(・・)君にはアレに食まれてしまった老婆の姿は知覚出来ないのだろう。

 

 だが、確かに健太君は一度ならずこの店に訪れたことがある。自分の笑顔でそれを知った、菊子さんに纏わる因果を奪われここで過ごした大体の記憶を失くしてしまった彼は、狼狽する。

 

「ここに来たことがある、のか……どうして、忘れて……」

「ふふ。多分、ここで一番に楽しそうだったのが、健太君だったよ。何しろ●●さん……私の中から出ると名前も無かったことにされちゃうのか……まあ、ここの店主さんと仲が一番良くって。ふふ。一度仲良しな理由、聞いたんだ」

「……オレ、なんて言ってた?」

「亡くなったお婆ちゃんに似ていて優しいからって」

「婆ちゃんのこと、言った覚え……いやそもそも、大須さんとそんなに喋ったこと、ない筈……」

「●●さんを介しての仲だったからね。あの人が失われたから、私と仲良かったこと、全部無かったことになっちゃって。滴ちゃんって呼んでくれなくなったの、ちょっと残念だったんだぞ?」

 

 悍しいモノに汚されていても、輝く記憶を私はほじくり返して微笑む。

 整い切る前、成長痛に悩まされる前の健太君は、それなりに愛らしかった。私を見上げ、どうしたら滴ちゃんの背を抜けるかな、と呟いていたことも覚えている。よく髪を撫で付けてくる私に、照れていたっけ。

 

「知らない……何を、言ってるんだ……」

「そうだよね。もう、健太君は、知ることは出来ない。調子に乗って私なんかに告白したのが、その証拠。それを認めたくなかったのだけれど……」

 

 健太君の顔は、もう蒼白だ。そんな様は、私も初めて見る。必死に記憶をさらって、何もないことに恐怖した結果なのだろう。可哀想なことをしたものだと思うけれど、でも私は藁にも縋りたかったのだ。私は彼に僅かでも、思い出して欲しかった。

 

「今もお空に蔓延っているアレのせいとはいえ、●●さんを忘れちゃった健太君は、嫌い。少し前まで結構好きだった分、余計」

 

 一年前。私と健太君は、それなりに仲良くしていた。けれども、関わりがこの駄菓子屋においてばかりだったのが災いした。私が菊子さんと一緒の時にばかり彼と言葉を交わしていたのも、悪かったのかもしれない。

 あの日、天から落ちた一滴。それに気づいて逃げた私は、落ちた先が安田駄菓子店であると知らなかった。だから、菊子さんがあの怪物にどれだけ苦しまされ食べられたのかも、判らない。

 そして、あり得ないモノの一部となってしまったあの人はその存在があったこと、そのまつわりすら忘れられたのだ。そう、私が立ち向かわず、見て見ぬふりをした結果の一つが、大好きな人の私以外全てからの喪失だった。

 

「私は覚えてる。●●さんの可愛い笑顔も、額のシワも、曲がった背中も。ハッカのような匂いも柔らかな声色だって、忘れられない」

 

 ただ独り、あり得ないモノを知覚出来てしまう私ばかりが、世界の異常に気づけてしまう。おかしなモノの一部となった菊子さんを覚えてしまっていた。そして、楽しかった過去を見て見ぬふりが出来ないことが、少しばかり辛い。

 そんな私が、幾ら仕方ないとしても、忘れ去ってしまった全てに情の無さを覚えてしまうのは、仕方ないことだろう。

 

「知らない……オレは、そんなの、全然、判らない!」

「そう……」

 

 どうして健太君は見てもらいたがったのか。それは、自分に対する愛、肉親のものに近いほどの優しさを失った後遺症のようなものから、だったのかもしれない。喪失という病巣に気づいてしまった彼は、頭を振ってそれを失くそうと慌てる。

 

「嫌だ! オレはただ、大須さんのことが好きで……」

「ふふ。忘れていたのに、白々しいね」

 

 無視を喜ぶなんて気持ち悪い性癖と一時は思ったが、今考えるとそれは違う。故の見つからない胸中の親愛と無関係を必死に結びつけたが為に、好意がねじれておかしくなっただけ。きっと、健太君は健全だ。

 だから、これ以上違えないでと、私は彼を突き放した。

 

「……ぐぅっ!」

 

 堪えきれなくなった健太君は、溢しながら逃げ出す。その背中を最後まで私は見守り、気配が遠ざかってから、呟いた。

 

「泣かしちゃった、か」

 

 後悔はない。けれども、少し、悲しかった。

 

「もし健太君が覚えてくれていたら……ごめんなさい、はなかったかもね」

 

 しかし、そんなもしもはないのだった。私が特別なんかではなくただの異常であるということと同じくらいに、現実を変えること等、出来ない。

 

 

 仰いだ空は、今も醜く豊かに形を変えている。

 

 

 



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第三話 雨音

 

 

「わあっ、すてっきー、速いよー」

「私じゃあスマッシュを遅くは出来ないよ、っと」

「あっ、手前に落とさないでー」

 

 世間では空梅雨が騒がれている中、ようやく降ってくれた雨が音を立てて、空の軋みを聞こえなくさせる。混ざりながらも大いにあいつらを隠してくれる雨雲といい、休日ということもあって私にとって今日は中々気持ちの良い日だ。

 更に大きな屋根の下運動を楽しんでいるとあれば、機嫌が良くなるのが自然。体育館で行われている心とのバドミントンシングルマッチの中、私は彼女を笑顔でハメた。

 

「もー」

 

 だが、突然のドロップショットにより落ち込んできたシャトルに運動神経の良い心は反応し、ロブを上げる。

 

「はい」

「あー……」

 

 もっともそれを予想して下がっていた私は、ふんわりと絶好の位置にやってきたシャトルを叩きつけた。心のコートにて羽根は跳ね、そして二十点目を私が先取することとなる。

 

「ふふ。私のマッチポイントね」

「うう、すてっきーったら、ずるいよー……急に落としてくるんだもの」

「私は力が強すぎるせいで前後にしか上手く振れないんだから、心なら警戒していたら大丈夫なんじゃないの?」

「すてっきーってラケットを雑に振るから、結構左右にも動くんだよねー。時々際に落ちて来ることもあるし、ハイ……クリアだったっけ、を使って後ろに下げても強引に力で私のコートの端まで平気に返して来るし。怖いの多くて大変だよー」

「ふうん、そうなんだ。流石、小学の頃クラブに入っていただけあって、バドミントンのことは良く分かってるね」

「分かってないすてっきーがこんなに強いの、ずるい!」

 

 ぷんぷんと怒る心。でも、良い子ちゃんな彼女は、確りとシャトルをラケットで器用に拾って私に渡してくれる。笑みながら、飛んできた羽根を受け取った。

 この対戦は、休みに体育館の一部を借りて行っているばかりの遊戯。だが私達のバドミントンの実力は伯仲だった。だから、どちらが上か示すため、意地を張って頑張ってしまうのも仕方ないことだろう。

 因みに、交わされた言葉の通りに、バドミントンにおいては、心に一日の長がある。適当にラケットを振っている私が食らいつけているのは、主に身長体重差等に起因する力に違いがあるからだろう。

 そこらの男子よりも筋力のある私は、シャトルを小さな彼女に向けて常に重く弾いていく。それはそれは小柄な彼女にとってやりにくいことだろう。

 また、私には長いリーチがあり知覚力が高いことも大きいのかもしれない。そのために、バドミントンばかりはよく分からなくても、何とかなるのだった。

 けれども、雑なために全てが上手くいくとも、限らない。折角一歩だけ早くにマッチポイントを手に入れたというのに、私は力に振り回されて、ポカをやらかす。

 

「あ」

「わ、プッシュですっごく飛ばしちゃった」

「アウト、かあ」

 

 前に出てきた心の虚を突き押し込むようにして打ち込んだところ、力を込めすぎてラインオーバー。得点二十対十九と、追いつかれてきてしまう。

 

「でも後一点っていうことは変わらない。思い切っていこうかな」

「ふふー。ここからがこころちゃんの本番だよ!」

「なら、心にとって今までは何だったの……」

「えっと、前番?」

「疑問形にされても……まあいいや、いくよ!」

 

 心からよく分からない言葉が飛び出たけれども、何時ものことだと試合再開。

 私は心がよくやるように手前のライン際に落とす、ショートサーブなんて出来ないから、むしろ後ろのラインに向けて大きくシャトルを飛ばす。下がった心がそれを叩いてから、羽根の行き来は大いに回数を重ね出した。

 

「心、ミスしてよー」

「やだねっ」

 

 だが、互いに緩急織り交ぜても私達の間でシャトルが落ちることはない。

 私の場合はなんとなくの偶々続けていられるだけだが、本番と言うだけはあって心の集中力は高まっているようだった。小さな身体でちょこまかと、私がよく飛ばすシャトルの全てをはじき返していく。

 このまま素直に行うばかりでは千日手。たまらず、私は手前に落とした。

 

「今の私にネットプレイは自殺行為だよ!」

 

 だが心は焦れて手を変えること読んでいたのだろう。彼女は左手前に落とされたシャトルへと踏み込み、そうして眼前に私を伺いながら右に払った。

 確かこの技名はクロスネット、といっただろうか。私が陣取っている、その反対方向にシャトルは流れていく。

 手の届かない所へ向けて飛び去っていく、白い羽根。だがそれに私は慌てない。

 

「ふふ、心の得意なそれで来るの予想してたよ。今!」

「わっ、ラケット投げたー!」

 

 そして私は握られたその手を放す。いやむしろ、手の中のモノを勢いづけてぶん投げていた。

 宙を飛翔するガットがピンと張られた黒いマイラケット。それは、真白な羽根と交錯し、弾き返す。そして、ぽん、ガラガラと辺りに音が響いた。

 

「よしっ、入った!」

「えー……すてっきー、モノは大事にしなよー」

 

 ドン引きした様子の心の声を、私は真剣に聞かない。確かにラケットが可哀想だとは思う。だが、下手が上手に敵うには、得意を活かすだけでなくここぞという時に賭けることも肝要。笑顔で、私は宣言する。

「私の勝ち!」

「本当ならこれって多分私の得点になると思うけれど……ま、いっか。遊びだもんね。あーあ、すてっきーに負けちゃった!」

 

 えへへと空手で頬を緩めている私に対して、残念を表情に出しながら、心はバトンのようにラケットを瞬く間に数度くるりと回した。相変わらず、棒状のものの扱いがやけに得意な子である。私は感心しながら、ラケットを拾い上げた。

 そこに、ぱちりぱちりと拍手が響く。

 私が音源へと向くと、端でバスケをしている男児達を除けば唯一の観客、心の幼馴染である沢井永大君が手を叩いているのが目に入った。金髪スポーツ刈りを掻きながら、その色と根性以外平均的な男子は微笑んで言う。

 

「いや、凄かった。心も良かったけど、やっぱ滴さんは瞬発力がとんでもない。最後の判断も、ならでは、かな」

「どういうこと?」

「滴さんはクールに見えて、意外と負けず嫌いだから」

「だよねー! 永大ちゃん、分かってるー」

 

 心は、心外な沢井君の言葉を全肯定。そして改めて飼い主を見つけた子犬は、飛びつく。頬ずりをして、下手をしたら甘噛すらやり始めかねないほどに懐いた様子を見て、私はげんなりとした。

 男子に抱擁をする女子。だが、それが全くいやらしく見えないのが不思議だ。傍から見れば稚児を受け入れる少年。あまりに似合いのツーピース。早く、くっついてしまえばいいのに、と思う。

 

「……こら、心。抱きついてこない。はしたないな」

「え? 走ったよ?」

「沢井君が言ったのは、走ってないじゃなくて、はしたない、ね」

「そうなんだー。ふふー」

「はぁ。分かってないな」

 

 心は沢井君の言葉を無視して、腹に頭をゴシゴシこすりつける。匂いに汗までTシャツに付けられてしまった彼は、ため息を一つ。そうして右手に持っていたものを差し出した。

 

「ほら、運動するからって、外してた首輪」

「ありがとー。つけつけ……ぐえ」

「心、自分で首絞めないの……ほら、よし」

 

 私は穴一つを間違えて、勢いよく自分の首をくくってしまった親友の喉を開放する。そうして、改めてしっかりとチョーカーを巻き付けてあげた。

 

「んー。これ付けてバドミントンした方が良かったかな? なんか、無いとしっくりこないんだよねー」

「学校の時だって、付けてないだろ」

「うん。だから、つい授業中ぼーっとしちゃうの」

「この子、集中力のなさを私のせいにするつもりだ!」

 

 思わず、大声を出す私。しかし、どうしてか、心は私を見つめて不思議そうな表情をした。傾いだ首が、左右に二つ。

 

「すてっきーが思ってるのとちょっと、実際は違うと思うけど……まあ、そうだねー。ぼうっとしちゃうのは確かにすてっきーのせいだ! えいっ」

「わ、今度は私にハングしてきた!」

「ぶらーん」

 

 無駄に器用で素早い心は、沢井君から離れ、直ぐ近くの私へとジャンプした。その小さな背に手を回し損ねた私は、首で彼女をぶら下げる。

 そうしてしばし、ぷらぷらと。何故か子どもたちの掛け声が聞こえて来なくなってきた中で、沢井君の嘆息がよく響いた。

 

「はー。滴さんだからこそ出来る荒業だね。俺じゃあ首に心をぶら下げられないよ」

「いや、少し重いのだけれど」

「少し、で済むんだね……心、懸垂みたいなことしてるんだけど」

「すてっきー、パワー凄い!」

「まあ、力は自慢かな」

 

 首元で上がったり下がったりしている心を見下げながら私はぽつりと言う。だが、同級男子には優れても、父と兄に腕相撲で勝った試しがないので、あまり実感はない。

 しかし、驚かれたので器具の間違いだとして改めて弱く握り直したけれど、やっぱり女子で握力計を一周させてしまえるのはおかしいのだろうか。男子は私の半分が精々だったのを思うと、やはり異常なのかもしれない。

 

「流石、龍夫(たつお)先輩の妹さんってだけあるね」

「お兄さんは、ねー……」

 

 沢井君に話題として差し出されたために私は実兄、大須龍夫のことを思う。あの人はとても、優れた兄だ。異常な私を知らずに、人と違う部分は隠すべきだとよく私に教えてくれた。

 運動関係で素晴らしい成績を出しすぎたお兄さん。よりどりみどりの就職先を全て蹴って、夜中までどこかでぶらぶらしている彼は、それでも私の一番の教師。

 故あって言葉交わした回数少なくとも、様々な金言を与えてくれた。その中にて特に実感の込められた一つを思い起こす。

 

「友達は大切にしろ、か……」

「きゃー、髪型崩れちゃうー」

「また撫ぜられて嬉しそうにして……」

 

 私は少し大好きだけれど遠い、お兄さんのことを思い出してメランコリックな気持ちになる。だが心は変わらず私の手の下でくりくりとした子供の目を向け、やけに嬉しそうにするのだった。

 

「はは」

 

 沢井君はそんな私達を見て、笑う。どこか少し、眩しそうにして。

 

 

「すてっきーって、雨の日はなんだかテンション高いよね。びょんちゃんみたいで可愛い!」

「雨が降ると色々と隠れてくれるからね。しかし、キャラ付け不明なびょんびょん狐と一緒? うーん。心にとっては他の人で言う花とか動物で容姿を喩えた褒め言葉みたいなものなのかな……」

「多分心は、好きなものを並べただけで何も考えてないな……」

 

 赤青ピンク。三色の傘が、階段状に高さを変えながら並んで歩く。私はラケットケースの位置を変えながら、先まで世話になっていた体育館を振り返える。だがやはり、どこか全ては雨に紛れてぼやけていた。

 

 あの後は、こんなところででも学習塾の宿題を広げてやっていた、心に誘われたから来ただけなのだろう沢井君を無理に付き合わせて、三人でバドミントンを楽しんだ。

 途中から、こちらに興味を示してやって来たバスケ少年達や、ネットを張り張り始まったママさんバレーに付き合ってやって来た女児も交えて、盛大に笑顔は花開く。それは、夕焼け小焼けのチャイムの音色を聞いて、散会するまでずっと続いた。

 今日は心に連れ出されて良かったな、と思う。

 

「びょんちゃん、びょんちゃんー……あ、そろそろ分かれ道だね」

「ホントだ」

 

 先の楽しさを思い出して、つい口元を歪めてしまったその時に、心の言葉を聞いた私は周囲を意識する。瀞谷町に唯一通っている国道に、私達は差し掛かっていた。

 自動車が大いに走る、この道を大隠(おおがくれ)市側に行くのが私の帰り道。栄の方へと向かうのが心と沢井君の帰り道だ。ここで分かれるのが、自然。だから改めて向き直って、私は二人に挨拶をした。

 

「それじゃあ、さようなら。心に沢井君。気をつけてね」

「さようなら、すてっきー。また明日ね!」

「さようなら。滴さんも気をつけてね」

「うん。分かった」

 

 確かに、その時は笑顔でそう返したと思う。だがしかし、私は間違いなく気をつけることは出来なかったのだった。

 

 

 ぽつり、ぽつりと滴は落ちる。

 そう、私は、雨のせいで聞こえず、見て取ることも出来ず、それが落ちていたことに気づけなかった。雨音に、ノイズは消える。見て見ぬふりを続けていても、この世にアレがあることは変えられないというのに。

 

「え」

 

 それは二人と別れて十分は経った頃だろうか。私はふと路地を見て、それを思い出した。

 どうして、と呟くのはもう遅い。機会は向かわずには手に入れられないのかもしれないけれど、運命はポッカリと目の前に口を開けて待っていた。

 一寸先は闇。そう、運命が暗黒ならば、いっそその方がまだ良かったかもしれない。私にだって、完全には不明なモノ。その大体が黄土色のようであることしか判然とせずに、色彩以外の異様な視覚情報が私を混乱の渦に取り込んでいく。

 

 そして中心と、目が合った。

 

「ひっ、く」

 

 目玉によるものではない。しかし、空間に広がり舐るソレは認識を集中して、明らかに私を見つけていた。

 粘性はおそらく惰性で、空間の窮屈さは歪みによって解消されている。全体の乱はしかし定期的であり、それがおそらくコレを生き物たらしめている元凶なのだろう。

 汚い色は異常の端でしかないが、それでも混濁した全体的に塗布されているということは、つまり醜いものこそこの中で一番正常であることを示してはいないか。

 瞬く間のこと。懸命に理解しようと足りない頭を回転させても、果たして私はそんなことだけしか見て取ることは出来なかった。

 内面に行き着かない外見に恐れるだけでなく、理解できない情報の圧倒で私は汚い簡単な言葉すら吐けない有り様だ。もっともそれは、相手が悪いからだろう。

 ああ、今すぐにでも逸らさなければ、目が潰れる。

 

 

『(大きな通じない筈の響き)』

 

 

「あぁああぁ!」

 

 明らかにソレは魔的な存在、或いは死であった。

 

 

 どれだけ走っただろう。私は何処に向かったのだろうか。アレは、魔物は私を見つめたままに、離れない。

 雨中に、出歩くものは少なかった。そのおかげかそのせいか、アイツは私ばかりを餌食にしようと蠢き追いかけてきてくれている。

 蠕動を、組織的にしたかのような所作。触腕を窮屈そうにして迫って来る、そのスケールは乗用車を二つ重ねたよりも大規模だ。故に、私の全速力でも一向に突き放すことは出来なかった。

 

「は、ぐぅ」

 

 上手く、息が呑みこめない。遠く、眺めていたものとは比べ物にならない嫌悪と不安と恐怖。それが私を襲う。もう、濡れたことも、投げつけたラケットの行方も気にならない。

 ただ、私は走る。

 

「ぐぅっ!」

 

 しかし、そんな下手な逃避が続くわけがない。私以外の全てには見えない怒涛からの重圧のためか、足をもつれさせて、転がった。

 水たまりの泥水を呑み込みながら、私は足掻く。だが、震える両足はまるで棒のようで、中々持ち上がらない。

 その間にも、魔物は近寄ってくるというのに。

 

 

『(不通の鳴き声)』

 

 

 濡れて、変わった黄土色が震えた。解らない。見えて聞こえて、きっと嗅げてしまう私にもアレは不明だ。ただ、それが私を下に見て、そして食もうとしていることばかりは分かってしまう。

 窮鼠はどうして噛もうとするのか。それは、死を理解しているから。でも、私は怖くて死に対することすら出来なかった。

 

 ああ、これは逃げに逃げてきた今までのツケなのだろうか。何も知ることが出来ずにこれに食まれるばかりの人々のためにと、警鐘を鳴らすことすらしなかった小心への罰なのかもしれない。だが、そんなこと、果たして受け容れられるだろうか。

 

「やだ」

 

 私は頭を振る。だが、死は遠慮なく迫ってきている。幾多の魔物の手が地を撫でる音まで聞こえてきた。でも、自分だけではきっとこのまま終わってしまう。それは、嫌だった。

 

「た、助け……」

 

 どうしようもない時に、助けを求めることは、恥ではない。そんなお兄さんの言葉を思い出した。そして、私が思わず求めたのは、小さく頼もしい少女の助けだった。どうしてだか判らずに、震える唇を正して、私は叫ぶ。

 

「――――心、助けてっ!」

 

 その声は辺りに響いた。本来なら、迷走の末の、こんな小さな悲鳴のような声が届くはずがない。無情に死が訪れるはずである。

 

 だが、現実は思ったより私に優しいようだった。温かい柔らかさが、伸ばした先に触れる。

 

 

「うん、分かった。助けるよー」

 

 

 傘を手放し、心は汚れた私の手を取った。少女は優しく微笑む。

 そして、それで何からかな、と彼女は首を傾げた。

 

 

 



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番外話一 心の勘違い

 きっと皆、何かしら相手のことを勘違いしていると思うのです。


 嵐山心は、大須滴が好きだ。それは、常識的な範囲を多分に超えて、どんな形にも留まらなかった。茫洋と、ただ思って彼女は彼女の近くで安堵する。

 だから、一息つける家の中、最愛だった家族の間であっても今やつまらなくなっていた。ぬいぐるみに溢れたベッドの中、心は中々眠れずに身じろぎする。

 

「うーん。すてっきーは、怖がっていないかな? ちょっと心配だなあ」

 

 心は、ゲームセンターのUFOキャッチャーにて永大に取って貰ったびょんびょん狐のぬいぐるみを代わりと、抱きしめそう言った。

 そう、滴が何かを常に恐れていることを、彼女は知っていたのだ。沸き起こる庇護欲に、少女は抱擁を強める。

 

「あんなに可愛い子、他に居ないよね」

 

 あまりに美しい一皮剥けば、そこには独りの臆病な少女。心は、何時だって滴を抱きしめたいと思う。震えを止めて温めてあげるためにも全身を預けて、そうして彼女を独り占めしたいのだった。

 だが、嫌われるのが怖くて、そんなことはそうそう出来ないのだが。

 

「恋とは、違うけれど……」

 

 自分の恋愛の相手は、きっと幼馴染みの永大が相応しいのだろうと、心は思う。自分を守るために、悪いことまで覚えてくれた、そんな彼は男の子の中で一等好きだ。他がからかうばかりの問題外であるから、当然といえばその通りだが。

 とはいえ、滴が恋するに値しない、という訳ではない。隣にいて当たり前である永大に対する思いすら小さく感じられてしまうくらいに、彼女の存在は心の胸の内を占めている。同性であることなど問題にならないくらいに、一番好きだった。

 だが想いが大きすぎて、最早恋人という関係に至ったくらいでは足りない気もしてしまう。

 

 愛する対象は近いほうが良い。だが別に、過度に触れて混ざり合いたい訳でもないのだ。別段心に、性愛に惹かれる部分がない、ということもないが。

 

「すてっきーはおっぱい大きいもんね! きっと、ふっかふかだよ!」

 

 そう言って布団の中、心は残念無念な自分の胸元を掴みそこねる。握った空手に、思ったものとの落差を感じて、少女は笑った。愉快である。

 そう、性徴足りない自分だからこそ、きっと滴の隣に居ることが許されるのだと、その事実を理解して彼女は口元を歪ませていた。

 

「あはは。綺麗で、大っきくて、とっても優しい子。私はそんな素敵な子の引き立て役」

 

 未成熟で、ちんちくりんで、分からないから自分中心。心は、自分がそういう子供であることだけは知っていた。でも、だからこそ大人な滴の笑顔を引き出すことが出来る。そのことばかりは、皆に評価されていた。

 

「すてっきーが、もし下を向かないで周りを向いていたなら、何か違ったのかなあ」

 

 滴は何かを恐れて、下を向いている。だから、高みを見ないで、多くの視線に気づきもせずに低きを見つめるその所作から、小ぶりな心と目が合ったのは自然なことだっただろう。

 

「誰よりも優れていて、明らかに、主人公さんなのに」

 

 人より手が届く範囲が広く、宝石の如くに誰もが目を奪われてしまうくらいに輝いている。だが、滴は自分が世界の中心であると思いもしなかった。

 少し視線を上げれば、素敵な光景が見えるかも知れないのに。けれども、彼女はそうしない。だからこその、今がある。

 

「私なんかにすてっきーは勿体無いって、分かってるけど……でも譲れない。好きなの」

 

 心は丸まり、自分言葉に僅か熱くなった胸を押さえる。過ぎた友愛のじゃれ付きは、しかし滴に親友によるものと認められていた。だが、彼女の想いは親愛なんてとうに超えている。

 

 ああ、あの夜空を流し込んだような黒髪が愛おしい。滴の瞳と比べてしまっては、メノウですら汚らしいもの。あの独特の芳しさ、美人は果たして代謝ですら美しいのか。全てが、他を逸している。

 更には、その内までが負けずに、純。そんな彼女の隣に在れることが、どれほどの歓喜を胸中に呼ぶものか、余人に分かるものではないだろうと、幼き少女は思う。

 

「まあすてっきーとならきっと誰も相応しくないから、良いのかな?」

 

 そう言って、心は先に振られた少年のことを考えた。あんまりなまでに不相応な告白をしたらしい彼、柾健太。彼のことを問題にせずに送り出したけれども、それはむしろ残酷だったのかもしれない。

 消沈どころではなく、抜け殻のようになってしまった様子の少年を、相変わらず下ばかりを見つめている滴の代わりに少女は見ていた。

 そして健太から聞こえた、思い出せば、という言葉は果たして何だったのだろう。心には解らない。そして、わからなくて良いとする度量が彼女にはあった。だから、少年の苦悩は届かない。

 

「格好良い、程度じゃねー。こころちゃんくらいに強くなければ駄目なんです!」

 

 おどけて口にしているが、それは間違いのないこと。滴という太陽の側でも挫けない強さが、要った。嫉妬と恥の炎に焼かれても笑い飛ばせる図太さが必要なのだ。そして、周囲の怖じに共感しない心根も。それは、他には中々あり得ない。

 

 たとえば多く、麻井瞳に棟木早良のような周囲で文句を繰り返す存在は自分を見てくれないことに捻て、目に入るところで悪いことをしているばかりの小物である。加害者として滴の注目を得て自尊心を得ている、そんな子たち。

 そして、身体が小さいからこそ滴の低視線に這入れた襲田茉莉。こちら等はむしろ強かな方である。麻井等に目を付けられて、些細な虐めを受けて助けを求め、そうして被害者として注目を頂いて彼女は笑うのだった。

 

 心は、正直なところ麻井と棟木よりも茉莉の方が苦手である。それでも友達であるからこそ笑いかけるが。けれども、相手が自分を本当に友と感じているかは疑問である。なにせ、勝手に隣へと視線が集まっていくものだから。

 滴の周囲で起こるのは上辺と中身がちぐはぐで、奇々怪々な人間関係。それは、主人公以外の全ては道化であることを考えると、道理であるのかもしれない。

 

「皆、すてっきーの魔力にやられているんだよねー」

 

 私も含めてと溢し、そっと心は身体を起き上がらせた。そして、くせっ毛を弄ってから、枕元に置かれた血のように赤いチョーカーに優しく触れる。

 

「すてっきーは何時か、私を独り占めしてくれるのかな?」

 

 心は首輪を贈る意味をインターネットで調べていた。その中の一つに、独占というものが見つかって、思わず胸がきゅんきゅんしてしまったのを、彼女は覚えている。

 普段から考えて喋っている滴のこと。まさか、彼女が特に何も考えずに選んだのであると心は、思いもしない。

 

「私をワンちゃんみたいにしたいのかなー。よいしょっと……わんわん」

 

 心が首輪で思いつくのは犬だった。おもむろにチョーカーを付け、今は亡きポメラニアンのお姉さん、オチバの鳴き声を真似て、彼女は小さく丸まる。

 イメージとしては、カドラーの真ん中で抱き上げられるのを待つ子犬。だが、首元の締め付けだけで心は満足できなかった。呟かずには、いられない。

 

「……私はすてっきーのモノでいいのに」

 

 半端な自由が恨めしい。もっと、縛って刻んで欲しい。少女はそう思わずにいられなかった。

 

「でも、どうして、私だったんだろ…………あふぅ」

 

 だがここまでが、分析的でない少女の限界。幾ら興奮したところで、眠気は忘れずやってきた。首元の幸せな硬さに触れながら、心は眠りに落ちていく。鎖が欲しい、いや紐の方が可愛いかなと思いながら、どんどんと意識は沈む。

 翌日、首輪は跡になって目立つようになり、盛大に滴にからかわれることとなる。そんなことを知らずに心は目を閉じる。

 

 

「心を使って自分を隠そうとしている、そんな感じだ」 

 

 

 そして、完全に眠りに落ちる直前。心は以前に呟かれた、そんな観察者の言葉をふと、思い出した。

 だが、それも夢中に消えていく。相変わらず、彼の痛みに共感できないままに。

 

 

 



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第四話 欺瞞

 太陽とはアレに隠されて見えないもの。光はソレを透過し薄汚れたものしかない。

 私にとって、バケモノ溢れる空は、世界に組み込まれた自然だった。大いに醜く、時に美しくも形を変える埋まりきった空。それを事実として理解し生きていることが普通。物心ついてしばらくはそう思っていた。

 だがそんな思い違いは、破られる。初めは母。病床、きっと死の淵にずっと居続けていたのだろうあの人は、太陽というものが分からないと喋る私に言った。

 

 かわいそうに、と。

 

 大須家は異常の集まり。そういうものが流れ落ちる最後の場だと母は語る。不自然が連なりすぎて、一族となってしまったものだと。

 幼い私はよく分からなくともその言に反発した。それって私達が特別ということじゃないの、と。

 しかしあの人は、薄く笑って答えた。きっと、何時か分かるわ、と私の髪を撫で梳いて。

 次に、セカイだって壊せる力なんて、一度も使わないのであればただ邪魔なだけなのだからと、そう呟いた。何かを見つめるその瞳から彼女の達観を覗いて、私は何時ものように抱きつくことは出来なくなってしまう。

 

 そして、戯れに母が空を爪の先で欠いた先には、地獄が見えた。

 

 

 私達の異常は世界を侵す。それを知っていた。

 殊更、私のシリアスは重い。だからこそ、きっと本気を出してしまえば世界にすらも嫌われてしまうことだろう。この世に怪力乱神なんてものは必要ないのだから。

 でも、私には魔物だって要らない存在だと、そう思う。侵略するばかりの現実との接点が極めて少ない異相のバケモノ。そんなの、あって欲しくないと思ってしまうのは、間違いだろうか。全力を持って排除したくなってしまうのは、きっとおかしくない。

 不可視であって、見えてしまっても悍ましい、魔物はこぞって恐ろしいモノ。いや、かもすればそれよりもアイツらに想起させられてしまう自分の力の方が私には怖いのか。

 

 見えるのは、解すことが出来るのは、似通っているから。私は、魔に通じる力を持っている。

 

 あれが空で蠢く数多の何かなら、私は地に這いずる孤独な一つ。人の海に紛れ込んだ、異常。

 自分の内臓を見つめたがる人はそういないだろう。それが、穢らわしく見えるのならば、尚更に。汚い私の中身の似姿は、ずっと空に浮かんでいながら時折落ち込んで人界を害す。

 それは、私も同様に中身を披露することさえあれば、人を害すことが可能であるということでもあった。

 

 自分が死そのものであるという、そんな現実は嫌だ。だから、目を潰したくなってしまうくらいに、見たくなかった。

 

「でも」

 

 それでも、逃避して、たどり着いた先に思わず縋ってしまうくらいに愛らしいものがあってしまっては今を見ずには居られない。可愛く首を傾げる心を見上げながら、私は急速にやってくる気配を、振り返って認める。

 そう、対決するために私は魔物を真っ直ぐ見つめ、睨みつけた。

 

「すてっきー、泥だらけ! 何から逃げて来たの? なにか見てる……んー、何も見えないけれどー……」

 

 大げさに、首どころか身体ごと動かしながら、周囲を見回す心。逃避に巻き込んでしまった彼女のために、私は力を込めた手を後ろに伸ばす。光を食んだ結果の黒を纏った掌が、少女を包み込んだ。

 

「それはね」

「わっ……」

 

 決めた。まどろっこしい自己分析はもう止めだ。私は、巻き込んでしまった大好きな心を大嫌いな自分の力で守ろう。

 現の数値にまで歪みを持ち込む、魔なる法則の力。常識を死なせてしまう、そんな異常で私は彼女を包んでいく。

 

「教えてあげる」

「な、何だか体がくすぐったいー」

 

 私の先端は、指ではない。そもそも、全ては五体に納まっていなかった。意識を持って、私は魔の力を粘液の触手のように心の身体に這わしていく。少女はそんな見えもしない不明なものによる刺激に身じろぎをした。

 そして、全体を私だけの黒で繭のごとくに覆わせてから、心に魔法を掛ける。

 

「すてっきーから、光が?」

 

 まずは、魅せるために、心の五感に影響を与えた。異変の導入として、まずは私の力を視認させる。

 少女に受け入れやすいだろう暖色の光に誤認させているのは、そのままでは拒絶されるだろうという、私の諦観によるもの。驚きに、彼女の瞳はこぼれんばかりに大きく開いた。

 

「私は……そう、ステッキでいいかな』

「すてっきーが、ホントにステッキに!」

 

 そして、心の視界の中にて私は変質していく。力を絞っている時の私は、誰かに引かれなければろくろく動けない。それこそ棒とさして変わらないのであるからには、あだ名の通りのステッキとでも認識してもらった方が気楽だ。

 白黒二色の冷たい棒に見せて、自らをろくに飾ることも出来ないのは、私の照れのせいかもしれない。

 

『でも、心なら、可愛いのもきっと似合うよね』

「今度は私の服が、ピンクのふりっふりになっちゃった!」

 

 私はせめてものサービスとして、心を守るために纏わせた力を衣服と同調させて、変化させた。少女な彼女をフリルが沢山飾っていく。肥大化した私の全身に響くくらいに、嬉しい悲鳴が上がった。

 良さそうである。今回はこれを一時、世界に適応させてみようか。そして私は可憐な少女を力で包み込み、常人の目から秘した。可愛い心の異常な様子を知るのは、私だけで良いのだから。

 

『これで魔法少女の出来上がり。最後に……』

 

 そして、次が肝心。心を私の力で守る。そんな準備をしたところで、真実を見せる訳にはいかない。彼女まで私のようにかわいそうに、なって欲しくはないのだ。だからさらに、欺瞞する。

 さあ、少女の中で、天から堕ちた存在を、既存生物に貶し込もう。検閲してから、いたずらに可愛らしくして、私は心の瞳に魔物の姿を届けさせた。

 

『目を細めて、見てみて』

「……え? わっ、おっきい、タコさんだ!」

 

 差し迫るは、脅威ではない。コミカルに口を開けて近寄ってきているのは、丸みを帯びた巨大な海棲生物。決して、不明な空から人を食みに来た多足ではないと、能力で心の目を少し弄って機能を一時拡張させた私は、結果そう見せた。

 アレの粘液に、不揃いの歯列なんて、私が知っているばかりでいいのだ。

 

「どうしてこんな所に……タコさん色も変だし、私も変だし、すてっきーはもっと変だし、なにコレ!」

『落ち着いて』

「そんなこと言われてもー」

 

 検閲の効果はてきめん。命に届く牙に異常を覗けない心は、ただその巨体に困惑するばかりだった。足をもつれさせることもなく早足で私を引っ張り彼女は逃げ出す。

 

「わ、逃げてもこっち来るよ。どうしよう?」

 

 雨中でスニーカーを水溜りで汚して何十歩か。しかし、付いてくる黄土色のタコに、ミディアムヘアが驚きに弾む。彼女は意外な速度に焦る。その手の中にステッキのようにあるようで、実は反対に心を手にしている私を見つめ、問いを放った。

 対して、当然のように、私は用意していた答えを提案する。

 

『私の魔法の力で、戦ってみる?』

「突然で何だか分かんないけど……ひょっとして、今すてっきーが魔法の力っていうので助けてくれているの?」

『うん』

「あははっ。なら、疑問なんてどうでもいいや。戦うよー!」

 

 信じているから。締まりのない彼女の口の端からそんな言葉が漏れたのを感じて、私は悦んだ。

 

 ああ、やっぱり私は心が、大好きだ。

 

『なら、私も戦わないと。自分が見て見ぬふりをしてきたものと』

 

 心の隣で何恐れることなく迫ってくる魔物に対面するのが、怖い。自由な醜さに、思い知らされる。無思慮な無法さに、怒りすら覚えてしまう。総じて、今までずっと、関わりたくなかったものだ。

 だが、こいつらと対決できる人間は、私以外に居ないのだ。幾ら今まで無視をしてきたとはいえ、心を助けたければ、克つしかない。

 

 私は震える手を、伸ばした。そしてその先端から更に、力を引き出していく。内臓から中身をひっくり返すような痛苦を共にして、それはそれは黒く大きな花が、心と私達の前で、咲いた。

 

「わ、桃色の、お花が……」

『盾ユリ』

「きゃっ」

 

 その一枚一枚に力を込めて、妄想を形に。物創りの手間の殆どを省いて、私の魔法は花状の大きな力の防壁を産む。そして、私の口が勝手に名付けたところの盾ユリは、魔物と私達の間に広がった。

 

『(大きな痛苦の誕生への騒々)』

 

 ばちり、とその強力によって雨雫と一緒に魔物は弾かれて、大きな醜い悲鳴を上げる。タコの似姿は触腕の肉を私の力とその身の交差点にて多分に消失させたのだ。

 そして花は、次第に萎れて閉じ消える。世界は何時までも魔法を許さないのだ。疲れた私は、ユリを枯らす。

 だが、その防御魔法の効果は絶大だった。手痛い窮鼠の一撃を食らわせた私達に怯えた魔物は、硬直しその身を窮屈にうねらせる。私は、つい先程覚えた気持ち悪い感触を忘れ、満足して頷いた。

 

『こんなもの、かな』

「すっごーい! バリアだー。でも、タコさん痛そう……」

『アレが人食いだと知ったら、どう思う?』

「うん。もっと痛めつけてあげようねっ!」

『了解』

 

 私が真実の一部を披露した途端に、心の鳶色の瞳は、嗜虐的に歪んだ。

 私は彼女の変わり身をおかしいとは思わない。自然に有るからとはいえ、手に余るとはいえ、敵う相手を放って置くのは間違いだ。そして、それを続けていた私は、そんな当たり前を尊く思う。

 だから、変わろう。今度は、自分を押し通す。心の小さな手を右の手でぎゅっと握り、反対の手を大きく差し向けた。そして、私の気持ちを更に押すために、心に加害の意を向けるように、言う。

 

『私を、強く握って、想って』

「分かった……すてっきー、やっちゃって。えーい!」

 

 きっと、私の惑わしによって杖を振っているのと勘違いしているのだろう、心は繋がれた私の手をきゅっと握ってから上下に振った。僅かなアクション。しかしその中に確かにある敵対の意思を解し、私は本気を出すことを決意する。

 

『デンドログラムの槍』

「きゃ」

 

 自分はきっと、貫き通せない。選択によって未来は変貌して、何時か振り返ってみれば定まる道がどれだったかもわからないくらいの可能性の連続があったに違いないだろう。

 それと、同じ。優柔不断な私の創った槍は切っ先を一つに決めなかった。黒は、先の花より盛んに広がり、周囲を呑み込む大樹となる。展開していく勢いは、怒涛。数多の鏃は、常を破壊せずに透過し、異常のみを否定する。

 太く鋭くも捻じ曲がった黒い根の数々は、辺りの家々すらも飲み込んだようにも見えるが、だがしかし空想が現実と混じり合うことはなかった。ただ、悪夢の怪物を、刺し貫いて殺す。そのために、私の殺意は展開したのだから。

 

『(断末魔の悲鳴)』

 

 人界に隠れた異常。狭さに尖りきったその力を、受け止め得る肉など、そうありはしない。それが幻想に近いものであるならば、尚更に。悲鳴と共に、魔物は闇に呑まれてかき消えた。

 

「すごい……」

 

 ひょっとすると心には、魔物が光に呑まれたかのように見えたのかもしれない。私なんかが美しさを魅せることが出来たのなら、嬉しくも思う。

 至近で感動による震えを感じて、私は頬を綻ばす。そして、辺りに飛び散った魔物の残骸が動かなくなったのを確認してから、私は世界と彼女から力を引かせて、手を離した。

 

『これで、良いかな。魔法、解くよ」

「わ、ステッキが、すてっきーに!」

「魔法の時間は、これでお終い。ご質問の時間は、また今度」

「うー、残念!」

 

 私が会心の笑顔で行った粗雑なごまかしに、心は騙される。驚きを、問いたい気持ちを、私の思う通りに引っ込めてしまう、そんな深い思い遣りを私は感じた。

 

「ありがとう」

 

 とても優しい心を守れたのだ。今なら無残な自分の力を誇らしく思える。真っ直ぐに、私は小さな彼女の瞳を見つめた。

 だがそれは、悪手だったのだろう。感情と共に、彼女から問いが溢れた。

 普通に戻り、ジャージ姿の濡れねずみの少女は夢から醒めたかのようにして、私を想う。

 

「……すてっきーってひょっとして、普段からあんなのと戦っているの?」

「ううん。独りで、私は戦えないから」

 

 それは、本音。私は独りでは、普通でない、かわいそうな自分を思い出してしまうから、アイツ等を認めることなんて出来ないのだ。戦うなんて、もっての外。その逃避のためには、他人の死すら受け容れてしまっていた程だ。

 悔しいけれど、怖くて、怖くて。

 

「そっか……」

 

 そんな、内心の怯えを知ってか知らでか、少し頭を垂らして私と交わした視線を断つ。そうして少し経ってから、心は再び前を向いた。その目に、強い意志を湛えながら。

 

 

「なら、私が一緒に戦う!」

 

 

 私は眼の前で、心はそう口にした。

 

 さて、私はこの時、どんな表情をしていたのだろう。間違いなく、彼女は微笑んでいたけれども。

 

 きらきらきらきら、輝く心は私の前で、ただ綺麗でしかない。

 

 

 



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第五話 白杖

 

 魔法、とは何だろうと思う。

 このクラスは進みが良いからと随分と先んじて三平方の定理を教えて下さっている先生の言葉の大半を無視して、授業中に私はそんな余計なことを考える。

 字面から読み解くと、簡単だ。悪なる迷わしの、法則。今は夢や希望の無法をも包括している言葉ではあるが、私の力は恐らく純な意味に通じている。

 

 何時しか科学は信仰に並んだ。むしろ今や、超えている部分も多々あるだろう。

 そう、人の世は定まった法則の観測によって安堵している。故に、接点不足で観測すら出来ない力によって強行される、私の意志というその場その場で引かれて直ぐに消えてしまうような再現性のない無法なんて、邪魔なのだ。

 

「三角形に、繋がりが増えたら計算が狂っちゃうものね。それにもし……いたずらにこっちを欲されてしまっても、困ったものだし」

 

 私は手の中で、輝くことのない漆黒の力を無為にうねらせた。これは私のものだと、確かめるように。強く、思いを固める。あくまでコレは、魔であると。

 

 実りのない一過性の奇跡など、迷妄しか産まない。そんなこと、分かりきったことだ。また、私は信仰など、別に要りはしない。

 

「アレ等が、それに値するモノだったら、私の心も平穏だったのかもしれないけれど……」

 

 だが、魔物が神のごとくに振る舞うことはなかった。生き物のように、関係の薄い私達を食むばかり。おかしな力が振るわれることもなく、ただ非常識は常識的に抵抗できない動物を頂いていく。

 

「捕食者を崇めることも、ないことはないのだろうけれど……アレじゃあ有難味がなさすぎるよ。バカで気持ち悪いもの」

 

 恐らく、魔物たちは知恵足らず。いや、要らず、か。故に、力を持とうと魔法とまではそれを使えない。あれで満足してしまっているから、進化や深化や神化がなかったのだろう。

 対して、力持ちで人な私は、それを気楽に操れた。別段、私には人間の範囲に収まる程度の知能しかないというのに。

 

 勿論、全てが意のままではない。だが、私の力に触れた殆どは思い通りになるし、力自体の変化も楽だ。

 もっとも、力の限りの結果しか出すことは出来ないのが残念なところだが。だからきっとその気になっても、私の独力で空を青くすることは不可能なのだろう。

 私は感覚器から伺える空の歪みを仰ぐことなく伺って、不快からもしも綺麗さっぱりこれを失くせたら、と思わずため息を溢した。

 

「はぁ」

「ん、誰だ? 大須か……でっかいため息だったな」

 

 私が時と場を弁えずに行った辛気臭い嘆息を、香川裕二(かがわゆうじ)先生は見咎める。痩躯を揺らがせ珍しいものを見た表情をした香川先生に対し、私は疾く頭を下げた。

 

「授業中に、すみません」

「いや、その大きさが少し、気になっただけだ。まあ若いんだ。授業中だろうが悩むことがあっていいだろう。ただ黒板への集中も、忘れないでくれたらありがたいところだが」

「気をつけます」

 

 香川先生は、数学の先生。そして、私のクラスである二組の担任の先生でもある。何だか薄くて白くて頼りない、と評されたりしているようだが、私は鷹揚なこの先生が嫌いではない。だからつい、真っ直ぐに望んでしまった。

 

「……っ、それならいい」

 

 だが、香川先生はどうしてだか一拍を空けてから大げさに首を振って、繋がった視線を断ち切る。思わず首を捻る私の他所で、クラスメイトの雑談が湧き出す。

 その中から私の耳が、過ち、魔性、等の何だか穏やかではない言葉を拾い始めたその時、先生は咳払いをしてから掌を叩いた。

 

「ほら。教え子の視線に照れちゃった先生が悪かったからとはいえ、騒ぐなー」

 

 私は、照れ、という香川先生の言葉を上手く呑み込めない。どこに、既婚者の先生が見慣れた私を見て恥ずかしがる要素があるのだろう。私の容姿がそれほど並外れている訳でもあるまいし。

 そう、少し悩んでいる最中にも、話は変わって進んでいく。

 

「あまり、気楽にして貰っても困るぞ。今教えているのは未習とはいえ、そう難しい訳ではないからな。何しろ来年、たっぷりとコレをややこしくしたのが問題として出るんだ。判らなくとも少しは記憶に残しておいた方が有利とは思わないか?」

「ピタゴラスの定理、ですか……」

「お、大須、やる気あるか?」

「どうにも私がお話の腰を折ってしまったようですので、償いとして少しでも助けになれば、と」

「真面目だなあ……」

 

 居住まいを正し、二の舞にならないよう視線を胸元に向けて喋る私を、先生はそう形容した。だが、それは違うと思うのだ。

 

「ふん。いい子ぶっちゃって……」

 

 反発を抱いたその同時に聞こえた、麻井の呟き。こっちの方が私の評として、きっと正しい。私が行っているのは、角を立てずに済む、誰かの真似ごと。振り、でしかないのだ。なにせ、おかしな私は真っ直ぐになれないのだから。

 

「じゃあ、これ分かるか? 三センチ、四センチの二辺で直角を挟んだ三角形の斜辺の数値だが……」

「五センチ、ですね」

「おお、正解だ。解き方、説明できるか?」

「目測です」

「えぇ……」

「すみません。冗談です」

 

 先に間違って形容されたことに胸中の反発を抑えきれず、勝手に動いた口は、嘘をつく。こんなつまらないことを言っても、と思ったが時既に遅し、発言は返って来ない。香川先生の長躯が、困惑にうねる。その謝罪には少し、気が入った。

 

「……おかしなタイミングでの冗談は、止めような。で、本当のところは?」

「勿論、先に教えて頂いた法則から、です。この場合は……」

 

 改めて、私は現から導き出した素敵な法則を使って解法を語る。魔法の杖が口にすることではないな、と思いながらも、私は正解を口から紡ぎ出していった。

 

 

「ねー、すてっきー。昨日のは何だったの?」

 

 大きな鳶色の瞳がきらきらと、零れんばかりに見開かれて、下方から私を見つめる。それが、心が持つ綺麗だと気づいて、私は相好を崩した。

 

「うーん。昨日の、かあ……」

 

 嘘みたいな現実を語るには、少し寂しいくらいが丁度いい。そっと周囲を見上げず足元ばかりを望んでみたら、人集りは遠かった。だが狭い教室内ではこれから私が行うだろう戯言のようなあり得ない会話が届いてしまうかもしれない。

 何故か遠巻きにしているクラスメイトに愛想のためにそっと笑んで、私は心の手を掴んだ。

 

「わっ。すてっきー、大胆!」

「何言ってるの。ほら、おててつないで」

「……わわ、引っ張らないでー」

 

 騒ぐ心の手を引きながら、私は皆が空けてくれた通路を歩く。その際にふと顔を上げて見回してみると、沢井君と目が合うことになった。流石に、金髪は目立つのである。

 一応、私は飼い主に声をかけた。

 

「沢井君。心、借りてくよ」

「ちゃんと洗って返してくれよ?」

「こころちゃんは、おべんと箱じゃなーい!」

「はいはい」

 

 ふざけた言葉に何故か憤慨した心を雑になだめながら、私は早歩きで空場を探す。三時間目の十分休みはそう長いものではない。校舎内は存外声が響くものだし、外に出ようかと思いながらよそ見をして歩く。

 そうして、階段を降りた曲がり角にて、私は誰かとぶつかりそうになった。

 

「おっと」

「ごめんなさい……って、柾君?」

「きゃ。ちょっと痛いよ、すてっきー」

 

 それは、嫌な偶然。私は衝突への驚きに柾君の顔を見上げた。斜め上に張られた面に、彼の悲しみを覗く。思わず、私は心の手をぎゅっと握り締めてしまった。

 

「ごめんね」

「もー」

 

 私はふくれっ面の心の手を優しく握り直して、再び視線を下げる。そして、ぶつかることすらない柾君を無視するようにして、私達は彼の横をすり抜けた。

 

「……健太君、とはもう言ってくれないんだね」

「やっぱり、どうも、ね」

「そっか」

 

 複雑を孕んだ音色。すれ違いざまに、柾君は二言ばかり口にした。果たしてこれは一種の別れとなるのか否か。下ばかり向いていた私は彼がその時、どんな表情をしていたのかは、判らなかった。

 

 後から思えば、この時顔を上げていれば良かった、と思う。

 

 

 空は低くアレが立ち込めていて青く透き通っておらず。生々しい騒音によって沈黙の素晴らしさなど知ることは出来ない。風には、死の匂いと血の味が混じっているような、そんな気もする。

 それでも、今私の手は、確かに柔らかくて可愛いものに触れていた。優しく繋がった彼女がいれば、私はまだまだ濁った四感の中でも頑張っていけることだろう。

 

 それにこの程度、一度垣間見た、あの地獄に比べればまだまだ温い。きっと他人には青いのだろう空の下、私は心に魔物と私の一部分だけを端的に語った。

 

「なるほどー。あの悪いタコさんは魔物で、普通の人には見えない……でもすてっきーは、それを見つけることができて、そしてやっつけることの出来る魔法の力を持ってもいるんだねっ」

「そんな感じ……だけど、制服で鉄棒なんてやっちゃ駄目じゃない」

 

 心は理解を示しながら、私の手から離れて間近の鉄棒を掴んで飛びかかり、上手に前回りをした。白いブラウスに黒いプリーツスカートが翻る。真っ白なパンツが見えた。思わず、私は注意する。

 しかし、鉄棒から上手に水溜りを避けて飛び降り、手をぱんぱんと叩いた心は、納得せずに頭を横に傾けた。

 

「すてっきーしか、見ていないのに?」

「でも、もし他に誰か見ていたとしたら、と思わない?」

「うーん。私は、すてっきーの目以外どうでも良いからなあ」

 

 ぽりぽりと、お餅のように柔らかそうな頬を掻いて、心はそんな妙なことを言う。彼女はひょっとしたら見た目だけでなく内心までも性徴が、遅いのだろうか。異性よりも親友を意識してしまう辺り、もしかしたらそうなのかもしれない。

 心は、続けて言う。

 

「だから、私はすてっきーの言ってること、信じるよ。――貴女が見ていること、それが一番、大切だから」

「心!」

「わ、すてっきー引っ付かないでー」

 

 嬉しい。友達は大切にしろ、兄の言葉は正しいものだった。大好きな親友を、私は抱きしめる。

 他人には共有出来ない、するべきではないモノを見えて触れてしまうことがどれだけ孤独なものかを、心は知らないだろう。だが、それでも彼女は私の異常を認めてくれた。それがさわりばかりを垣間見た結果でも、私の寂寥は慰められる。

 それがくすぐったくて、涙が出た。そして、秘していた心の一部も口から出ていく。

 

「私、あんなの、嫌だった。あれと同じものを自分が秘めているということも……そもそも私が皆と違うっていうことも!」

「ああ……だから、すてっきーはずっと、怖がってたんだね」

 

 私の悲鳴のような本音を聞いて、心はぎゅっと、抱きしめ返してくれた。温かさが、確かな触感が私を落ち着かせる。ぽんぽんと、背中を優しく叩く手は、止まらない。

 たっぷりと、始業のチャイムを終わりまで聴いてから、私達は離れた。

 

「ぐす。授業、始まっちゃったね……」

「そんなの、いいよー。遅れて行こう?」

「そうだね……」

 

 心の言葉に、私は頷く。今は無理をして他と合わせることはない、そんな気持ちだった。私は余裕を持って、涙を拭う。そこに、笑顔で心は追撃をする。

 

「私はすてっきーと同じ力なんて持ってない。こころちゃんは、わかんないけど、それで良いんだ。だってすてっきーが見えない私の杖になってくれるもの!」

「心っ!」

「またハグだ! ひょっとして、エンドネス?」

「ぐす、エンドレス、ね……」

 

 再び、心は私の涙に濡れる。私は果たして盲者の杖となれるのだろうか。その他大勢のためには無理だろう。でもきっと、たった一人のためならなれるのだ。心のためなら、私が全てに触れて世界を明るくさせてしまったって、いい。

 それこそ魔を秘めたまま、魔物にだって、対そう。

 

「私、頑張る」

「あはは。こころちゃんが付いているんだから、無理しなくてもいいよー」

「ふふ……千人力ね」

 

 ああ、この子はどれだけ可愛いのだろう。素敵な、私の心。望んだものを、全て私に与えてくれる。こんな純心、大切に縛して、閉じ込めたくなってしまうじゃないか。

 でも、それは出来ない。心は、望んでいるから。

 

「ねえ、すてっきー」

「なあに?」

「一緒に、戦おうね」

「……うん」

 

 少女は危険を知らない。ただ、私の陰りばかりを知っている。戦えなかった後悔こそ私に下を向かせているのであればと、手を取って戦(洗)場へと引っ張ってくれているのだ。

 

「あは」

 

 柔らかく、重力に逆らう癖っ毛を持ち上げて微笑む心は、ただ私ばかりを向いていた。

 

 



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第六話 家族

 

 私の家は、他と違う。それは、家族がおかしいというばかりでない。たとえるならばそこは世界の傷口付近。大幅に狂った流れの中にある。

 だから、それが極まれば、時に死んだはずの母が居ることだってあった。台所の中配膳の手を休め、今もこっちを見て、母は言う。

 

「お帰りなさい」

「ただいま」

 

 しかし、目を瞬かせたその間に、優しいその形は消え去る。だが、先の母の姿は妄想ではないのだ。その証拠として、香り豊かに湯気を立てるご飯の数々は、そのまま残っている。

 

「久しぶり……かな。向こうはそうでもないのかもしれないけれど」

 

 違う世界から来たっているのか、或いは時が揺らいでいるのか。母は、家と属性を頼りに別界からもよくやって来ている。この世界の彼女は死んでいるのに、愛豊かにも、或いは未練がましくも。

 これが僅かな時間で時折にしか起きないのは、死者がうろつくことが常態であることを世界が許していないためなのだろう。白い私の碗を指でなぞりながら、そう考えた。

 あの日の胸の痛みを思い出す。だが、その悲しみは報われない。これこそ、母の異常だった。

 

「葬式に、意味があったのかな……」

 

 亡くなる時に、また来るねと言って目を瞑った母。それがどういう意味か知ったのは、泣きはらしたその翌日のことだった。思い出に浸りながら椅子に座り、私は一人分ばかりの食事の前でいただきますと口にする。

 

「……死人のご飯も、美味しいんだよね」

 

 食んだ鮭の塩気の丁度良さに、私は思わずそう零しながらも空手を強く握った。勢いよく、ほかほかご飯を朱塗りの箸を掴んで一口二口。何時ものように動かした逆手は味噌汁をあおらせる。嚥下したその旨味に、私は満足を覚えた。

 

「はぁ……」

 

 ぽり、と漬物を齧りながら、ため息を吐く。おかしな中にある日常。こんなのに浸り続けていたのだから、私が今ひとつ普遍を持てていないのも、仕方のないことだと思う。

 

「私は異常、だからなあ……」

 

 余所の力で奇想天外に歪められなくても、既に狂った異常はこの世にあった。そう、私を含めたこの家などに。

 こんな家と外とを見比べて、そして出来たのが分析的な私。参照するために偏執的なまでに内へと視線を向けている私は、だからこれまであまり外を見ていなかった。汚いものなど、尚更に。

 

「でも、これからは、アレも観ないと、ね」

「ほう。何か、あったのか?」

「お父さん……」

 

 独り言に、返事が返る。父がぽっと、隣の席へと座って相づちを打っていたのだ。母の消え方が異常であれば、今度は現れ方が異常。全く、どうして家の人たちはお兄さん以外まともに世界に馴染めないのだろう。

 上位であれば、画用紙の中の絵の道のりのように、それを変えて縮めることも、消してなかったことにしてしまうのも簡単だ。そんな風にして、父はただ帰宅のために距離も時をも無意味と化させていた。私が言うのも何だけれど、無茶苦茶だ。

 

 大須というこの世の血溜まり、血栓。それの一。この異常な柱こそ、私の父親だった。

 

 それにしても、とにかく優しげで美しい母と違い、父は特徴的な面構えをしている。厳めしい、というのがぴったりな渋い表情を湛えた顔。日焼けした肌に、走る皺ですら強い意志を表現しているようにも思えた。

 そんな、父が眉をひそめる。正直なところ、私でも少し怖かった。

 

「私は滴が見ているよく分からないものの存在を、信じている。とはいえ、見て、曰く魔物と対すことのできるのは、お前だけだ。だが、それでも滴、お前は見て見ぬふりを選んでいたな」

「そうだね」

「それで、お前が良いなら、私も良かった」

 

 瞳に険は見当たらない。父はどこまでも優しかった。

 家族は、妄想のような私の世界を受け入れてくれている。それだけで救われているというのに、それによる影響を心配までしてくれていた。ありがたいことである。

 そも、私が魔物と呼ぶに至った理由は、父だった。天上の怪奇を普遍的な呼称で堕とせ。そう言ったのが、見目に優しい部分が見当たらないこの人なのである。ならば、と私はアレを魔とそのまま呼んだ。

 せめて呼び方くらい定まったお陰か、以降私の心も少しは凪いだのだった。

 

「対する気がないならば、それを摂理と考え、定めと思え。諦めるための言葉なんて、他にも至る所に転がっている。確か私は、そう言ったな」

「うん」

「だが、立ち向かう気ならば、今度は相手を敵と考え、餌食とすら思え。別に、翻そうとも恥ではない……奮起させる言葉だってまた、この世には数多あるのだから、利用するべきだ」

「上位者(お父さん)らしい言葉だね」

「だが、そう間違ってはいないだろう」

 

 茶目っ気を出すつもりなのだろう、片目を瞑って父は言う。やたらと精悍なウィンクに、私は苦笑いで返す。愛が、少し嬉しくて。

 父は下等に均って生まれた私を、どう思っているのだろうか、と考えた時があった。曰く、別段上の者が下のものに目を向けない、なんてことはあり得ず、愚かを愛さない理由も無い、そうだ。

 そんなこんなを、母との馴れ初めを交えて答えてくれた父は、やっぱりずれているのだと思う。

 

「にしても、あいつは私の分を用意しておいてくれなかったのだな……」

「拗ねないでよ。それに、お母さんが、お料理作らなかったのも仕方ないと思うな。ろくに定刻に家に帰ってこないお父さんだって、悪いんだよ?」

「悪いとは思っているが……」

 

 偶にしか有り得てはいけない最愛の人の手作り。私から横取りするなんて考えもしないが故に、それを味わえない父は、しょげる。そんな可愛い大人を横目に、私は黙ってずず、と味噌汁を底まですすった。そして、手を合わせる。

 

「ごちそうさま。……お父さん、何が食べたい? 軽いものなら直ぐ作れるよ」

「娘の手作りか……これはこれで早く帰った甲斐があるな。そうだな……カレーはだめか?」

「……アレを使えば時短出来そうだし、お兄さんの分にもなるから、良いかな」

「頼んだ」

 

 頷き、私は母の居たはずの調理場へと足を進める。食器整えられ、シンクに水滴一つないその様子に、立つ鳥跡を濁さずということわざを思い出しながら、冷蔵庫の扉を開いた。

 

「楽しみだな」

「ふふ」

 

 精一杯、喜びを表情に出している父を横目に、私は冷凍庫から飴色玉ねぎを取り出す。そうしてパックご飯の数を伺いながら、何気なく炊飯ジャーの確認をしてみる。途端、声が漏れた。

 

「お母さん、分かってたんだ……」

 

 中で湯気を立てていたのは、おおよそ二人分のご飯。カレー用には丁度いい。勿論、これを用意したのは、夕飯はお兄さんとパスタの予定を立てていた私ではない。母だ。

 しかし、不定期の父の分まであるとすると、それは母が、父が帰ってくること、そしてそれから起きる仔細を、予想していたとしか考えられなかった。神出鬼没の動きを何で、どうして分かったのだろう。愛、という奴のおかげなのだろうか。

 

「怖い怖い」

 

 優しい母。しかしその実一番によく判らない怖ろしい人。まあ、幽霊みたいなものだからそれも当然なのかもしれない。薄く笑う私を、父は不思議そうに眺めている。

 

「それにしても、お兄さん、遅いなあ」

 

 カレー粉をまぶした野菜を炒めている中、私はあと一人の家族を思う。

 

 けれどもその日、お兄さんは家に帰ってこなかった。

 

 

『スクランブルの羽根』

「わわ、凄い凄い! こころちゃん、飛んでる!」

 

 飛ぶための揚力、それは引力を引っ掻き回すことによって生まれた。魔力によってぐちゃぐちゃになった指向は、直ぐ様私の意思によって一本化されていく。

 心の背中に展開された黒翼、彼女にはピンクの羽根に見えているだろうそれは、ただの象徴でしかなかった。わかり易さ。だが、それは一定の常識の阻害を生む。

 要は、羽根を創ってあげた方が、心を飛ばしやすいのだった。

 

「それで……新しく出てきた魔物さんって、どこ?」

『んー。空からだとわかり易いね。あっち』

「わ、園々(そのぞの)川の側だねー」

 

 それは、町の端の田園風景溢れる地帯に落ちている。短毛に、四足。それなりに長く首を伸ばしたその姿は、数多の棘を抜けば、どこか放牧的だ。もし、コレを例えるならば、あれだろう。

 

「ヤギ?」

『そう、見える?』

「大っきくて水色だけど、そう見えるー」

 

 私の認識、たとえによって堕ちた魔物の姿を心は間違いなくヤギと受け取ってくれた。食性は大分違うだろうが、動作に似たものはあるだろう。そう思いながら、私は心と繋がりながらヤギの魔物の元へと近寄っていく。

 そして地に足を付けたその時に、私は気付いた。

 

『……やられた』

『(食への歓喜)』

「え? 何? 変……何か、急に見辛くなっちゃった」

 

 そして、私が見て取ってしまったのは、魔物が行っていた、幼子の踊り食い。急いで、心に与えている情報にノイズをかける。そうして、私は彼の死がなかったことになることを、認めた。

 だが決して、許さないという気持ちになりながら、強く魔物を睨み付けて。

 

 ぐしゃり、と血が飛び散ったのを、私一人だけが見て取った。

 

 これは、私が常々避けて通っていたこと。トラウマとの接触を拒んだ私は、それによる被害をずっと黙認していたのと変わりない。だから、今更間に合わなかったことに、怒りを覚える資格なんて、本当はないのだろう。

 

『でも、でも……これからは、戦うって決めたんだ! それなのに……』

「……すてっきー」

 

 初めてといっていい、奮起。空から魔物が分断した音に気付いた私は、心を頼りにするために呼んで、放課後に集まり魔法を使った。そして、急いで駆けつけたのだ。その筈なのに、助けられなかった。

 一息足りない遅さを作った自分の躊躇い。それがとても、悔しい。

 

「途切れ途切れで良く分からないけれど、もしかして、アイツに怒っているの?」

『うん。とっても!』

「なら、このヤギは、私の敵だね!」

 

 心は形相を変え、私を掴んだ手を伸ばす。そして、きゅっと小さな手の平による握りを強くした。

 

「頑張って、すてっきー!」

『分かった! 濡羽カッター――――消えろ』

 

 それは、ぬらりと光る、巨大なカラスの羽の似姿。間違ってインクに浸けて羽ペンのような黒は、私の瞋恚の暗がり。

 切れ味の邪魔になりそうなその水気は、魔物に本体がぶつかったその際に弾けて飛散し、弾と化した。そして、全てが鋭利な、刃として働く。

 

『思い知れ』

 

 痛みを知れ。苦しみを覚えろ。そうして、ただ痛めつけるために飛散した刃は大いに対象を傷つけた。

 

『(過多な刺激による騒々)』

 

 それは、命に響く刺激。初めて感じる滅びへのカウントダウン。体液を撒き散らして、魔物は暴れた。

 

『見苦しい』

「えーい!」

 

 あまりに無防備にしているそれを、心は汁気が取れて輝く羽根の刃で大きく二つに裂いた。だが、食まれた少年は、砕かれ潰された死骸が出てくることはない。

 所詮、地に堕ちた魔物なんて、歯列の一部に過ぎないのだ。きっともう、内臓に運ばれているのだろう。肉体内部の繋がりまでは、私には見てとることは出来ない。

 後は、魔物の残骸なんて、私以外触れ得ないのだから、気にするべきではないだろう。私は淡々と、告げる。

 

『終わり、ね』

「成敗、だね!」

『ええ……ふぅ、もう、いいわ」

「あ、すてっきー、戻った!」

「ふふ。終わり、ね……」

 

 そして、私は全てを不通に戻す。魔法での疲れを隠し、そして未だ拭いきれない怒りも蔵して私は笑った。

 

「本当に、いいの?」

「良いのよ」

 

 ただ、そんな誤魔化しは通じてくれない。彼女はそう言い、しかし私はそう返した。

 

 

 悍ましき空の元。貼り付けた笑顔のままに、下を向く。ただ、繋がった手ばかりが、目に入った。

 

 

 



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第七話 笑窪

 

 

 最近あまり彼女が、笑っていなかった。違いはただ、それだけの筈だったのに。

 

 

「魔物、弱いね!」

「強かったら私、戦わないよ」

「それもそうかー。痛いことされちゃったら、困るものね」

 

 夜。空のあいつらから透過してきた月の光を浴びながら、私は三度目の魔物退治の帰り道、そんな会話をして歩く。

 影を左右に遊ばせながら、心は私の歩みの余所で行ったり来たり。私の電話による要請で夜な夜な家から抜け出してきた、その禁忌感をどうにも彼女は気に入っているようだ。笑顔の花から、上機嫌な言葉が響く。

 

「すてっきーと二人で夜更かしなんて悪いことするの、楽しいね!」

「まあ、それでも魔物を倒すのは、多分良いことだと思うけれど」

「あ、そうだった。良いことのために悪いことをして……うーん。こころちゃん、いい子なのか悪い子なのか分かんないね!」

「ふふ……そんなもの、だよね」

 

 聞き、コンビニエンスストアに置かれた青い蛍光を見上げて、私は微笑みながらその是非を思う。ばちりばちりと、羽虫は熱に向かって死んでいく。きっと、人の為は、正しいばかりではない。

 善悪は、不明だ。そう、関わり薄く一方的に危害を加えてくるとはいえ、果たして魔物を殺して平気にしていて、本当に良いかどうかも私には分からない。だが、そんな曖昧こそが、傾きを許すもの。揺れがなければ人は動かずに、私は戦えない。

 

 分からないから、自分のために、断じよう。魔物は悪で、だから善く私達は戦うのだ。そう、決めた。

 

「ねー?」

「何?」

 

 そうこう考えていると、先でけんけんしていた心は疑問を浮かべながら、振り返った。焦げ茶より暗く陰った瞳と、私は目を合わせる。

 

「魔物って思ったより出てこないよね。普段から、これくらいなの?」

「そうね。多分、ここらに落ちてくるのは一週間に、一度か二度」

 

 あれだけ空に広がっているのだから恐らく落ちてくる触手はこの町ばかりではない。だが、高位や煩雑な情報の重みに引かれているのだとしたら、こちらに集中している可能性もあるだろうか。正解であるとしたら、その事実は少し、重い。

 だがまあ、今までの飛来を考えるに、週一が、アレら(群体)の食餌の期間に違いなかった。深読みに面を変えず、私は言い切る。

 

「そうなんだー。魔物って、後どれくらい居るか分かる?」

「数えられないくらいに」

「ええっ! それ、一匹ずつ倒していて、大丈夫なのー」

 

 流石に驚きを隠せない様子の心は、全部倒すまでにお婆ちゃんになっちゃうよ、と騒ぐ。それもその通り。空を完全に綺麗にするまでには、少し果てしなさ過ぎていた。

 

「大丈夫、だと思いたいなあ……」

 一つの捕食部を破壊したとして、私の届かない他の所に魔物が落ちていくばかりなのかもしれない。だが、それでもせめて、出来る範囲では助けたかった。そのために、多少の無理は許容しないといけないだろう。

 本当に、多少は。

 父の手を借りろという、自分の声が内から聞こえる。だが、それは出来ない。何故なら、あの人を煩わせるということは、世界の寿命を縮めるということ。

 日々、皆々様のように当たり前に世界を守るために戦っている父を止めてまで、私は戦いたくないのだった。

 

 本当は今だって、あんなのと対するのは怖くて、嫌なのだから。

 

「そっかー。まあ、無理は禁物だもん。ゆっくりやろうね」

「そうだね……」

 

 私の懊悩は、多分理解されない。けれども、それでいいのだ。心が笑えているのならば。

 目を閉じる。夏に近づいていたこの季節のじわりとした熱。それも辺りの闇に水気に溶かされていく。瀞谷町は、山と川の町。凹凸に影深く、どこか寒さを持った場所である。

 しかし、人の擦れ合い、情感の温度はどこであっても変わりないのだろうか。あ、という喜び籠もった心の声に私は目を開く。

 

「永大ちゃんだー」

「え、沢井君?」

 

 意外に驚いたが、しかし心が間違えているというようなことはなかった。何時も通りの曖昧な表情で、手を振り沢井君が私達へと近寄ってくる。その金髪は暗がりの中でも目立った。

 

「大須さんと一緒だったか。探したぞ、心。心の父さん母さん、カンカンだったぞ?」

「えー。どうしてばれちゃったの?」

「行ってきます、と言うのを忘れないのは美徳と思うが、見事な抜き足差し足の最後にそれじゃあ、全部台無しだぞ」

「心……」

 

 隠れて、最後に尻尾を披露し出て行く。きっと、嵐山家は一人娘の珍妙な夜中の出歩きに騒動になったことだろう。そう、いい子ちゃんの心には、隠し事なんて出来ないのだった。

 

「うーん。悪いことは出来ないねえ」

「なんだ、心。悪いこと、してたのか?」

「ううん。良いことのために、夜歩きなんて悪いことをしていたの」

「そっか。なら、いい」

 

 沢井君は、了承もなしに手を繋いできてから大いに振り回してくる心を自由にさせながら、その勝手も認める。少女が嘘を吐けないことを知っている彼は、言葉をそのまま信用して、笑んだ。

 けれども、同時に私の不審までも呑み込まれてしまったのは、何となく納得いかず、つい零してしまった。

 

「……何で私が心を呼び出したか、聞かなくて良いの?」

「ああ、聞かないよ。嫌われたくはないからね」

「誰に?」

「勿論、心に」

 

 心一筋の少年は、私に向かって断言する。それもそうだ。沢井君の好きは、私にだって理解できるもの。私の問いは、愚問だった。

 お馬鹿な心が、馬鹿にされ過ぎないように、隣で目配せしている不良然。沢井君は鈍感な私ですら分かるくらいあからさまな牽制を行っていて、時にそれを乗り越えやり過ぎた者に制裁を加えることすらあった。それに、老若男女加減などはない。

 まるで愛玩犬の番をする狂犬。そんな形容を聞いたこともある。

 

「へへーん。永大ちゃんは、私にメロメロンだからねー。えっと、恋は盲燃す、ってやつだよ!」

「……色々惜しいな……あと、別に俺はお前に恋している訳じゃない」

「えー」

 

 二人のいちゃつきの隣で、私は沈黙したままこっそり驚く。異性に対してここまで相手に心を配っているそれが、恋情でなくて何なのだろう。気になった私は、そのまま続きを待った。

 しかし、それは心に容易く看破される。

 

「何なのー? すてっきーも気になってるみたいだよ!」

「あ、私は……」

 

 心によって唐突に向けられた水に慌てる私。だが、沢井君は優しげな目で私を認めた。そして、意外な言葉を続けていく。

 

「大須さんも気になるか。まあ、そうだな……強いて言うなら、依存しているだけだ」

「いぞん?」

「恋愛相手なんかよりもずっと、俺はお前が必要だってことさ」

「わー。これって告白? でも私にはすてっきーが居るからなー」

「知ってる。だから、別に求めたりはしないさ」

「ちゅーくらいならしてあげるよ?」

「小さな頃、飽きるくらいしただろ」

「そーだっけ」

 

 衝撃的な、会話の連続。どう考えてもおかしなそれが、違うことなく続いていく。或いは、普通の人ならこれを気持ち悪いものと感じるのだろうか。

 辺りの空気は薄桃色で、どこか甘い。おかしいは、揃えば合致するのか。正にぴったり合った、二人の世界。果たして、その横で私はどうすればいいのだろう。 

 

「わー……」

 

 とりあえず、深い情の籠もった会話に顔を赤くしながら、その甘さと疎外感にげっそりとした。

 

 

 

「ふわあ」

「おっきな欠伸!」

「心は、一緒に夜更かししたのにどうしてそんなに元気なのよ……」

「朝、お父さんのコーヒー一口飲ませて貰ったら、しゃっきりしちゃった!」

「カフェインが随分よく効く体質ね。羨ましい……みぁう」

 

 結局、落下音で気づいた魔物を倒し、心と沢井君の甘々空間から逃れた私が眠ることが出来たのは、深夜二時。

 私が夜更けに抜け出したことを当然のように気付いていたお兄さんに朝、小言をプレゼントされたことを思い出しながら、口から出そうになった溜め息なのかあくびなのか良く分からないものを無理やり飲み込む。

 しかし、それに失敗した私の口は、変な音を立てた。

 

「あはは。すてっきー、今度は変な声出してるー」

「うう、眠い……今日の体育は、体育館だったっけ?」

「しっかりしてー。グラウンドだよっ」

「そうだったね……体力測定終わったんだった。球技大会前の練習……今日はソフトボール、だったっけ?」

「そうだよ。楽しみだね! 行くよー」

「あんまり強く引っ張らないでね……」

 

 目をごしごしと擦りながら、途切れそうになった意識の糸をつなぎ直して、再び状況把握。それでも眠気によって断線しがちなのろのろとした私の手を心が引いていく。

 確認のための放言の通り、今私達は体育の授業のために、他の女子から随分と遅れて更衣室へと向かっている途中。重い頭に何時もより視線を低くしながら、心以外に足なき道を行く。

 私が目に優しいリノリウムの廊下の緑色に何となく助けられながらうとうとしていると、また心がざわめいた。

 

「すてっきーがゆっくりしていたから、今日は二人だけかも。すてっきーのふっかふか独り占めだね!」

「手を出す勇気、ないくせに……ふあ」

「な……あ、あるもん! えいっ!」

「つんつんしないでよー……」

 

 無駄に大きな私の胸や腕をその小さな指で触れたり離れたり。心の口ほどにもない子供じみた触れ合いに、私は笑み、思わず顔を上げた。自然愛らしい赤面が目に入ったが、認識できたのはそれだけではない。

 ああ、やはり窓の向こうに今日も、青を食みながら醜悪に空に魔が広がっていた。

 圧倒的なリアルは、受け手の曖昧なんて、超過するもの。眠かろうが何だろうが関係なく、充満した空は蠢きを鮮明に見せつける。今日も随分と、あいつらは活きが良いようだった。

 

「うーん。ちょっと目が覚めたかな。気持ちいい目覚めじゃないけれど」

「えいえい……」

「まだやってる……ほら、階段だよ。前見ないと」

「え、あ。そうだ。危ないもんね」

 

 そう、そのまま眺めるのは嫌だったから、冷めた私は前を見たのである。死に近いものを観て、そうして不安に気をつけるという在り来たり。しかし、口に出しながらそれを行ったことは、きっと正しかった。

 

 

「じゃあね」

 

 

 そして、私が唐突にも意図されきった影から現れた彼女のその小さい姿を見逃すのがなかったことはきっと、幸運だったのだろう。

 あまりに当然のように、少女は心の背を押した。思い切り勢い付けられた体はそのまま次の着地を外して宙へと投げ出されていく。

 

「あ」

「心!」

 

 そう。心は突き落とされたのだ。彼女が首から落ちてしまうまでの、瞬く間も惜しいその時。私は咄嗟に手を伸ばした。

 

「っ」

 

 でも、届かない。なら、更に伸ばそう。幸運にも、私には手段があった。内から出てくる痛みも不愉快も無視して、ただ心の体にまで魔力の影響を与えていく。

 包み込み、護る。そう意識した私の魔は硬い糸を創り上げた。それはやがて少女を巻き込む、白くて何重にもなる、想いの守り。

 

「マユピース……間に合った。心!」

 

 その一糸一糸は衝撃すら頂く。攻撃を無にする防壁の中で、心は無傷の筈。しかし、もしもを恐れて私は身体能力任せに階段を無視して飛び降りる。そして、魔を解いて霧散させてから、彼女の間抜け面を発見した。

 

「うーん」

「……良かった、無事だ。それにしても、誰が心をっ!」

 

 驚き過ぎて、気を失わせたのか、心は目を瞑ったままにその場に仰向けで倒れたまま。ざっと触れて大丈夫と確認してから、そうして私は怒りのままに、下手人を下から仰ぎ、睨みつけた。その相手、彼女の意外さを知らずに。

 

 だから、認めた私は惚けるばかりだった。

 

「何だか不思議。心ちゃん、ちょっと浮いてた……身体の強さもそうだけれど、やっぱり、大須さんは特別、なのかな」

「襲田、さん?」

「あああ。失敗しちゃった」

 

 少女は、場違いにも笑っている。ふやけているようなその笑みは私を見つめて深まって、やがて蕩けて消えさった。

 後には、真顔が一つその場に残るばかり。つるりとした、幼気。そんな犯人の無表情に、恐れを覚えた私は思わず、心を背に隠す。そして、襲田さんへと問う口元を、抑えられなかった。

 

「どうして……」

「心ちゃんから、大須さんの匂いがどんどん強くなって……もう、羨まし過ぎて我慢出来なくなっちゃったの。だったら、そろそろ交代の時間かな、って」

 

 分からない。それは思い届かぬ不通の言葉。心と沢井君の間に通っていた愛情よりも意味不明。

 とても、独善的で一方通行な、私の知らない愛情が、目の前でねとりと黒く輝いている。その小さき少女を見上げ、私はその瞳の暗さを初めて知った。

 震え、私は思わず彼女の以前に縋る。

 

「襲田さんはこんなことする子じゃ……何時も浅井と棟木の虐めに怯えて震えてたくらいで……」

「本当に、貴女は私を何時も、見てくれていた?」

「え?」

「それに、私はあの子達の自由を許していただけ。私はただ、大須さんが見てくれたことの喜びで震えていたの」

 

 小さいものは、可愛い。私は何時からそう勘違いしていたのだろう。

 悪意はそこで凝って固まり、嫌に柔らかさに似通う弾みを持った暗色となった。いや、それは偽物の愛らしさだったのか。今も彼女の髪、二つの房は漆黒に光を飲み込み、静かに流れ落ちている。健康的でしかない筈の褐色の肌は、最早闇に馴染んだがための色にしか見えなかった。

 そう、私はこの時初めて、襲田茉莉という彼女を認めたのかもしれない。私の視界に這入れるくらいに、他と離れて外れていた女の子を。

 

 蠢き、襲田茉莉は口を歪める。頬がねじ曲がって笑窪を作った。愛らしくて然るべき、少女の笑み。だが、かもしたら、これは一等醜いものの歪みに似てはいないだろうか。

 

 

 彼女はくすくすくすくすと、笑う。

 

 

「ねえ、私はそんなにか弱く見えた?」

 

 私は、何も答えられなかった。

 

 

 




 ヤンデレ?


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番外話二 茉莉のヤンデレ

 

 生きるというのは、休まらぬことだ。そう、襲田茉莉は考える。

 真にこの世は忙しない。そうでなくても長々と、星々は廻り、熱を持ち続けている。一体全体さぞ疲れていることだろう、この世の全てが停まってしまえばいいのに、とすら思うのだ。

 善意を持って、彼女はこの世の死滅を願う。

 

 

 

「あああ、うるさいうるさい。私も停まりたいなあ」

 

 茉莉は、静寂が好きだ。望ましいのは、無音。

 だがいくら他から距離を取ろうとも、何時だってうるさく自らの心の臓は鳴り続ける。早く死ねばいいのに、と自らを思うが、そうしてしまうとあの美しいものを見て取れなくなってしまう。それだけは、ごめんなのだった。

 

「ああ、大須さん……」

 

 茉莉が想うのは、天上の綺麗、大須滴。彼女を見つめた時から、この世の全てが殊更醜く思えるようになった。

 滴は暗い世の中で唯一の光。茉莉がそう錯覚してしまえるくらいに、少女の美しさは度を超していた。先達の理性をも犯す、それは正しく魔性である。黄金比なんて下らない。彼女が正しき美であった。

 

「もっと、私を見てくれれば、いいのに」

 

 ただ、その輝石ですら比べるに足りない滴の瞳は主に下を向き、視線は地を這っている。それは、一等小さな茉莉ですら、見つけられることが希なほど。

 物憂げなその様子ですら美しきことこの上ないが、もし、滴が胸を張って己を誇ったらどれだけ綺麗に輝いてみえることだろう。茉莉も一度はそれを見てみたいと思うが、それが常態になって欲しいとは思わない。

 何しろ、滴に見惚れる数多の中で、友と言える人間は大凡四人きりなのだ。その内の一人である茉莉には、彼女が周囲を見直して親しむ対象を増やされるというのは望ましくない。きっとあの深い瞳に映る機会が減ってしまうだろうから。

 そう考え、次に茉莉は思いを飛躍させるのだった。

 

「やっぱり、皆死なせてあげた方がいいのかな?」

 

 滴の瞳が動くモノを追うのであれば、私以外の動物は要らない。そうとすら、思う。愛。それはこんなにも殺意に近いものになるのだろうか。ただ、凝って重なり続けたものは、大概が黒に似るのである。

 そして、茉莉の周囲に集うは、暗がりの、闇。この日この時彼女は独り、体育館倉庫に閉じ込められていたのだ。けれども、少女は焦らず恨みもせずに、ただ決まった助けを待ち望む。

 そうして、茉莉は己の中で終わってしまっている結論を口にした。

 

「人って死ぬのが一番だから」

 

 そう、茉莉はそんな答えを出してしまっていたのだ。シレノスの知恵を、彼女は早く、識り過ぎた。誰に教わるでもなく下らないその人生から、そんな回答を導き出していたのである。

 善悪人界全て、泡沫の夢。無常こそが自然であるならば、滅びを見つめない有様こそ間違っているのではないか。そんな言い訳を持って茉莉は死を想う。

 終わりに比べれば、つまらない者達からの自分への悪口なんて、大したことはない。父親からの隠れた虐待ですら、どうでもいいことだ。少女はそう、考えたいのである。

 

 大事なのは、死ぬことだ。それは、滴以外の全てに適応できた。

 

「でも、どう考えたところで、大須さんには生きていて欲しいな」

 

 直ぐにでも消えて欲しい全てに反して、長く、それこそ永久に。

 もし自分がその他全てを食らいつくして、その後彼女に捧げてあげれば、かもしたらそれも可能になるのだろうか。そんな妄想でしかない不可能ごとをすら、茉莉は考えてしまう。

 何しろ、茉莉にとって、滴は特別過ぎるから。

 

 

 茉莉にとって、この世はただ単に、情のない骸に近いものだった。大事こそ自分を虐げて、どうでもいいものこそ慰めになる。そして、幾ら愛を向けようとも返ってはこないのだ。

 だから、茉莉が生を感じることが出来るのは、走っている時くらい。あえぎ苦しみ、熱を持つ間ばかりが、明確だった。

 

 じりじりとした暑さに疲れ、熱中に倒れ伏してしまった、あの夏。極端な気持ち悪さに苦しみの中、茉莉は起きることを望まなかった。

 寒さすら覚える暗中にて、ただただ蝉の鳴き声が、うるさい。もう、茉莉は雑音に疲れていた。だから、最期の時くらいは静かにしてと、文句を言いたくて、彼女は顔を上げる。

 

「だ、大丈夫?」

 

 その時に、茉莉は光を見た。ぼうっとした視界に、光を呑み込み輝く、美しすぎる瞳が映る。彼女の闇すら、あっという間にそこに呑み込まれていくような気がした。

 

「今、助けを呼んでくるね!」

 

 そうして、助けに去って行くのだろう、視界から輝きは逸らされ消えようとしていた。けれどもそれを嫌い、相手がのぞき込んだために近くにあったのだろうその手を引き、茉莉は呼び止める。

 

「なに?」

「手を、握って」

 

 そして、茉莉は求めてしまった、確かな、美しいだけの愛を。

 何時も裏切られていた、期待。しかし、少女は確かに茉莉の手を握ってくれた。冷たく、温かい。ああ、なんて心地良いのだろうか。

 

「必ず、貴女を助けるからね。それまで、ここで待ってて!」

 

 そして、そんな心地良い声色を聞き、茉莉は、信じてうなずく。もう彼女が、離れていくことを恐れることはなくなった。

 そうして茉莉の命は救われる。起き抜けに見た助けてくれた少女、眦に涙を溜めた滴の姿を目に入れ、初めて少女は生きていて良かったと思うのだ。

 

 

 打てば響いて返ってくる。応答こそ、生の実感を生むもの。ただ嬲られるだけでは、あまりにつまらないのは、自然だった。

 

 茉莉は滴に愛を向け、そして返ってくるのを期待した。しかし、下ばかり見てしまう彼女は中々自分を見てくれない。心という子は、視界に入れたのに。

 それでもうろうろしていれば、滴を愛する周囲に鬱陶しがられるもの。影で嫌われ排斥されそうになったのを、流石に良心が咎めた心が止めた。

 やがて友となった心とちょっかいをかけてくる周囲の間でまだ行ったり来たりしていると、とうとう彼女が目を留めたのだった。

 

 その時の興奮を、眩しさに目を細めながら、茉莉は今再び思い出す。

 

「アイツらが口に出したから見つけられて良かったけれど、今回ばかりは意地悪の度を超しているよ! 襲田さん、大丈夫?」

 

 光を負って、滴は現れた。思ったよりも早い助け。カランと転がった錠に走る、鋭い切れ口は何なのだろう。

 だが、そんな観察はどうでも良かった。ただ、この美しい少女の綺麗な瞳の中に入ることが出来たのが、嬉しくてたまらない。歓喜に震えながら、茉莉は言う。

 

「大須さん、ありがとう」

 

 少女はその顔をふやけさせて、笑みのようなモノを作り出した。

 

 

 愛している、愛している、愛しています。だから、私に貴女以外を殺させて。そんな思いを、この日茉莉は胸の奥に閉じ込めることが出来た。

 だが、明日は、明後日は。何時まで我慢していればいいのだろう。

 

「茉莉ちゃん、大丈夫ー?」

「あ、心」

「うん……ありがとう、心ちゃん」

 

 苛立ち、揺れる想い。自分と違って、嵐山心は、何の努力もなしに、そこにいる。最愛の、滴の隣に。羨ましさが、茉莉の心をかき乱させる。

 

「心ちゃん。何時、私と交代してくれるんだろう……」

 

 誰にも聞き取れないような声で、そう口走ってしまうことを、止められなかった。友達、なら代わってくれても良いのではないだろうか。そう、思ってしまう。

 

 

 そして、ぎしりと沈む、夜が来る。

 

 

 きっと、何時かは早いのだろう。

 

 

 



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第八話 味方

 

「どうしよう……」

「むにゃむにゃ」

 

 私は階段の中程で心を抱きしめ、そのまま停まっていた。どうしようもないと、固まって。無垢にも柔らかく眠っている心の姿ばかりが救いだ。

 そう、私は好きな襲田さんに、攻撃を加えるどころか文句を言うことすら出来なかった。大好きな心が害されようとしたのに。それなのに、満足そうに消えていった、暗がりの彼女に、私は怯えてしまったのだ。

 

 私は、弱い。幾ら力を持っていようとも、心が弱すぎた。だから、私はまた、強いものを持った人に怯えてしまう。

 

 そう、ふつふつと沸き起こるものを溢れさせ、彼の面を鬼のように変えてしまっているそれは、強い怒気。何時、聞いたのだろう。そして、間に合わなかったことに、どれだけ腹を立てているのだろうか。

 何時しか、沢井永大君が、上階から私を見下ろしていた。しかしその目は、心しか映していない。がに股で降り、のぞき込んで心の無事を確認した彼は、一瞥もせずに言った。

 

「どうしたもこうしたも、ないだろ」

「沢井、君……」

「あの餓鬼、ぶちのめす」

 

 それは、本気。握った拳は、容易く解かれることはないだろう。彼は、心狂いの獣。きっと、あんなに小さな女の子では、抗うことは出来ない。

 

「止めて!」

 

 暴力なんて、振るう方、振るわれる方、両方にとって良いものではない。私は糾弾される沢井君に、ぼろぼろになった襲田さんを想像して叫び声を上げた。

 そんな私を、沢井君は白々しいものと見る。棘のような視線が、私に突き刺さった。

 

「心が突き落とされたのは、お前のせいだろう。俺が原因の言葉を聞いてやる理由もないな」

「でも……あの子、きっと、追い詰められてて……そう。ただ私のせい、なんだ」

 

 想う。言っていることがおかしかった。おかしかったということは、歪んだせい。どれだけのストレスが愛らしい彼女の内を醜くしたのか。きっと、そこに傷を作って黒く染まった思いを溢れさせてしまったのが、私なのだろう。

 だから、私がどうにかしなければいけない。けれど、恐怖で咄嗟に正せなかった私が一人で、何が出来るのか。

 震える私に溜息を吐いてから、沢井君は告げる。

 

「はぁ。なら、解決するまで原因のお前は当分心に近づくな。そのくらい出来るだろう?」

「それ、は……」

 

 きっと、そのくらいはやらなくてはいけない。けれども、どうしてか私は中々うんとはいえなかった。情は時に絡んでどうにもままならない。それが、依存に近いものであっては尚更に。

 今更心と離れることなんて、嫌だった。でも、そんな私を知って、沢井君は言う。

 

「はっ。元々、大須さんはおかしな心を自分の異常隠しにするために近寄った、それだけだった筈だろ?」

 

 それをどうして知っているのか。愕然とする私の前で、沢井君はそっと、心の首と膝裏に手を入れ、お姫様抱っこの形で持ち上げた。

 

「それじゃあ、俺は心を保健室へ連れてくよ」

「むにゃ、うーん。永大ちゃん?」

「はいはい。俺だよ」

 

 寝言を呟く心は沢井君の手により除かれていく。それでも私はやっぱり、動けなかった。

 

 

 

「それで、私はどうするべきか、か」

「うん……」

 

 私は大切な家族の前で頷く。相談内容に、父の精悍さと母の美しさのいいとこ取りをした容姿の美丈夫が眉を寄せた。そう、彼は私のお兄さん。大須龍夫という名の人間の角である。

 お兄さんは人として限界の能力を保持しているのだけれども、それとは別に、ただ単に優れた人間でもあった。故に、相談相手には最適であるだろうと、その帰宅を待ったのである。

 

 夜遅く、帰ってきたお兄さんは、しかし疲れも見せずに私の相談に応じてくれた。耳たぶのピアスを弄り、少しばかり思案してからお兄さんは言う。

 

「いや、聞いたけれどさ。別段どうしようもない、訳ではないぞ?」

「そう?」

 

 学校では沢井君の威嚇に遭い、家では単に留守番続きで、私はつい先ほどまで久方ぶりに、独りを味わっていたばかり。故に、その苦みを取ることが出来るであろう、お兄さんが示す方策は気になった。

 僅か、身を乗り出してしまうくらいには。

 

「ああ。要は、滴。お前はその二人共が好きで、片方が片方に悪いことをしたけれど、後で二人共と仲を取り戻したい訳だよな」

「……うん」

「なら、やることは一つだな。確か、襲田とかいったよな。その子は悪いことをしたのだから滴が嵐山の娘に謝らさせろ。きっとそれが一番の禊で近道だ」

 

 襲田さんに、反省してもらい、謝罪をさせる。それは、悪行を水に流すための最低限の世の習わし。私も最初、そうしてもらうことを考えた。

 

「それは……」

「怖いか」

 

 でも、私は震えてしまう。これまでずっと、罪悪感からなるべく人を避けてきて、それで耐性なんてものは育ててこなかった。だから、自分に向けられたものではなかろうと、襲田さんの強い悪意に怯えてしまったのである。

 そんな弱くて情けない様を見て、お兄さんは言った。

 

「……オレもさ。あんまり滴のことを見てやれなかったのを、正直申し訳ないと思ってるんだよ。一緒に色んなところに行って、色んな人と出会うようにしてやった方がよかったな」

「それは……お兄さん、大変だったから……」

「まあ、世界に注目されるっていうのは生半可ではなかったし、迷惑をかけないように家族から離れるのも、悪手とは言い切れなかったところはあっただろう」

 

 お兄さんは、天才。私達の様に鬼才ではない。故に、一度は世界に認められた。全てが度を越して優れた人間である、と。

 だが、幼い頃から過去の記録の歴史を打ち破り続けたお兄さんは、成長して極まり、そうして疑われるようになった。曰く、あれは人ではないと。見下げ果てたことに、無遠慮に持ち上げた全ては、お兄さんを見捨てたのだった。

 

 しかし、人でなしの私が断じよう。お兄さんは、人間でしかなかった、と。

 

 ずっとお兄さんは、全てを恨みながらも、認めて守らんと働いている。そして、私のために、額に皺作り、深い悔悛を表情に出すことすら厭わない。この人はそんなにも、優しいのだから。

 お兄さんは、語り続ける。

 

「でも、家族なのだから、もう少し構ってやっても良かった筈だ。せめて、安心できるくらいに愛を教えてあげとけばなあ」

「愛……」

「いや、それでも、難しいか。自分だけ、ずっと空に、変なのが見えるんじゃあなあ。同じでない他人を信じ切れないのは、自然。よく、滴は気を狂わせずに頑張っていると思うよ」

 

 私は、お兄さんの言葉に、何も返すことが出来ない。だって、それはあまりに図星だったのだから。

 私はきっと、誰も信じ切れなくて、寂しい。優しさや、劣るものから得られる安心ばかりが、求めるものだった。

 

「感覚器異常。辛いよな。まあ大須家ではありがちな障害ではあるが……しかし、健全でしかないオレは、それを羨ましく思ったこともある」

「そんな……こんなの、嫌なだけだよ?」

「分かっているけれど、分かってやれないのが辛かったんだ」

 

 優れて、天上に近い所にいる、ハズレの大須であるお兄さんは、泣きそうな顔をしながら言う。

 共感こそ、その人に寄り添うことであるのならば、私は決してされない。けれども、こうも思って貰って、揺らがないことなどあるものか。私は、目尻が湿潤するのを覚える。

 

 そして、微笑みながら発された次の言葉に、私はそれを零したのだった。

 

「安心しろ。オレはずっと、滴の味方だ」

「……ありがとう、お兄さん!」

 

 私は、涙を流しながら、抱きしめる。強く強く、自分の限界まで。魔に触れて感覚器ごとスケールを引き伸ばされた私の抱擁は、万力よりも恐ろしい。

 

 けれども、そんな私の信じられない力を、お兄さんばかりは、受け止めてくれた。

 

 

 

 後は、私達の作戦会議。気を良くして少し大きくさせた私は、お兄さんと襲田さんに語るべき言葉を模索し始めた。少年のように奔放に、にやりとした笑顔で彼は話す。

 

「で、どうガツンと言ってやるか、一緒に台詞を考えてみるか。何だか、楽しくなってきたな」

「お兄さん……遊びじゃないんだから」

「分かってる分かってる」

 

 そう、私は本気。どうしようもなく何時も真剣であるが、今回ばかりは成功させたいからこそ本当に頑張るつもりだった。

 好きが、好きあってくれたら、とても嬉しい。仲違いなんて、やはりつまらないのだ。それを、大好きなお兄さんのお蔭で私は心から理解できた。

 

 そのまま、ああだこうだ。適当なものを思いつかずに、雑談を交えて夜更かししていると、また、あの音が私の耳に這入った。

 

「あ」

 

 それは、絶望のための福音。頂きますの、音色。私にだけ聞こえる、どちゃりというような異音が、大きく辺りに轟いた。

 

「堕ちた……」

「ふうん……アレの一つが、落ちてきたのか。……滴、どうする?」

「行かないと……でも、心が居ない。私独りじゃ……」

 

 私は、焦る。果たして、心を呼んで良いものなのか。何も解決せずに、負担を強いた相手を頼るなんて、間違ってはいないか。しかし、不正解程度で人命救助を怠っても良いものか。

 答えが見つからず、ただ目を走らせる私に向かって、お兄さんは平然と言う。

 

「悩むか」

「……悩んでいる暇、本当はないのに……」

 

 そう、刻一刻、どころか一瞬で人の命なんて亡くなるもの。助ける時間なんて、きっと僅か。急いだところでどうしようもなかったことだって、経験しているのに。それでも、二の足を踏む、そんな自分が憎い。

 

「知っているからとはいえ、野生の怪物の食事に関する責任はない。そもそも、今までずっと見逃してきたんだろう? 今更、一人くらい守れなかったところで、心を痛めることはないだろ?」

 

 お兄さんは、きっと全てを見据えて言っているのだろう。私の過去と今。大体を上から眺めて、見捨てたところで問題ないと、口にした。

 けれども、それでも。そんな彼の中の仮想ではない私は。どうしようもなく、戦いたいのだった。叫びが、喉から転び出る。

 

「でも、私は、助ける喜びを知ったの! 魔物に対する嫌悪も、もっと深く知った! だから私はもう、自分を裏切れない!」

 

 私は、魔物が心から嫌いで、思いの外、人間が好きだったようだ。苦労した後、人々の幸せを眺めた時に、私は良かったと思った。それが、忘れられない。忘れてはいけない。

 

 それが隣人に対する愛だというのであれば、きっとそうなのだろう。

 

「よし、じゃあ、行くか。幾ら優れていようとも、人の耳に音が届く距離だ。バイクなら直ぐだろ」

 

 そして、全てを識っていたかのように、言を聞いたお兄さんは、ひらりとその身を翻し、玄関へと迷いなく向かっていく。不明と戦う。その怖さを、きっと判らない筈がないのに。それでも、真っ直ぐに彼は歩んでいる。

 それが不思議で、私はその名を呼ぶ。

 

「龍夫、お兄さん?」

「なあに。妹のためなら、魔法青年くらい、やってやるさ」

 

 ひらひらの衣装だけはごめんだがな、と振り返ったお兄さんはニヒルに笑んで言った。

 

 

 



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第九話 魔者・前

 終わりの始まり、始まりの終わり。


 

 私は、流れる風の中、お兄さんの背中にひっしと掴まる。少し気恥ずかしいけれども、そうでもしなければ、危ないのだ。

 なにしろ、今時速八十キロは下らないだろう速さで疾走するバイクの上に身体がある。亡くなるのは、あまりに簡単だ。ただ、手を離せば良い。傷心から、そうしたくなる思いだってどこかにある。

 

 お母さんも言っていた。死は、誘惑だ。

 

 けれども、私は誰かのために、お兄さんの背中を手放すことはないだろう。人のために、私の胸は早鐘を打つ。

 

「さっきは栄方面って言っていたが一応聞く。次の分かれ道どっちだ?」

「少し、移動した! やっぱり左折して!」

「了解!」

 

 ヘルメット越しに地鳴りのようなノイズを聞きながら、私は移り行く分かり難い景色を、目を細めて望む。そして、お兄さんの言葉に、都度反応していく。

 行き先の大体は教えた。それでも、相手は生き物で蠢くものでもある。僅かな魔物の蠕動を聞くために耳をそばだてながら、私はちょくちょく方向に修正を加えていく。

 

「なんか、嫌な予感がするな……」

 

 お兄さんが行ったカーブの際の重心移動に沿わせたその時。抱き付いた身体から呟きが響いた。予感。しかしそれがこの世で最高の精度を持つならば、果たして予言と何が違うのだろう。

 きっと、殆ど当たってしまう世界一のお兄さんの勘を思えば、これから嫌なことが起こってしまうのは間違いない。でも、そんなのは怖かった。

 

 否定したくて、ぎゅっとその広い背中を抱きしめる。お兄さんは、現場に着くまでそれ以上何も口にすることはなかった。

 

 

 

 辿り着いたそこは、公園だった。だだっ広い、真夜中の大森公園。入り口付近の明かりの側にて駄弁っていた人たちを無視して進んだ更に先。

 暗く沈んだ中で、水を吐き出さない噴水が不気味なオブジェと化し、鎮座している。

 

「で、だ。俺には魔物とやらの居場所が判らないのが困ったところだな。せめて、見て取れれば……」

 

 高身長から周囲を見回す、その様子になんの怖じも見当たらない。お兄さんは、バケモノが潜む闇の中であっても平常運転。

 しかし、頼もしきことこの上ない彼も、流石に感覚器が届かない相手には眉をひそめるものだった。私はその険を取ってあげるために、その手に触れ、引く。

 

「何だ?」

「顔、下げて」

「こうか」

「そう、そのくらい――黄昏グラス」

 

 私は、高いところから下がってきた強面ながらもどこか甘い顔に手を向けた。一度、お兄さんが瞬いたその間にそれは完成する。

 見えざるものが見える、そんな瞬間をもしこの世に固定できるならば。私はそれを願ってお兄さんにそれをかけてあげた。きっとこれで、彼の視界は私と同じくらいに広がっただろう。

 

「お、眼鏡か。なるほどまず視覚の拡張とは堅実だ。似合うか?」

「うん。格好いい」

「そうか。……なるほどな。実に気持ちの悪い空だこと」

 

 お兄さんがためしのように、仰いだ空には、未だに醜いレイアが展開している。それを、眼鏡越しに覗いたお兄さんは、どう思うのだろう。きっと、気持ち悪いと思うのだ。だから、私は視線を下げる。

 

「ごめんね、嫌なもの見せちゃって」

「謝るな、むしろ嬉しいもんだ……これは視界、一時だけの共有だろう。なら、判るとは言わない。それでも、少しは滴の苦しみ察せたよ」

「お兄さん……わっ」

「これにずっと耐えているお前は偉い! だから、今日くらいは思って、守らせてもらう」

 

 お兄さんは、ごしごしと私の頭を撫でた。髪の毛が、暴れて、長い黒線がゆらゆらと視界に踊る。思わず頬を紅潮させる私に、彼は高みから微笑んだ。

 

「あは」

 

 私も、笑う。なんて、気安い接触。しかし、それがとても嬉しい。何せ、遠巻きに見られることばかりでは、緊張するばかりなのだから。

 

 誰かが言っていた。私は、お兄さんと違う、見た目だけの中身なし。そのために、注目は当たり前なのだろう。それでも私は、こうして触れてほしかったのかも知れない。

 

 しかし、そんな私であっても、無遠慮な悪意は、流石に嫌う。聞こえるか聞こえないかの微かな、とす、という音に向けば、そこには魔物の姿があった。

 細い四足を地につけて、裂ける程に顎門を広げてそれは私へと目を向ける。その歪んだ赤の側には大げさな感覚器が備えられていた。ピンと立ち上がる耳と、尖った鼻。その歪んだどれもが、大好きな動物を思い起こさせた。

 吐き気を催しながら、私は言う。

 

「犬?」

「ふうん。これが魔物か……確かに、気持ちの悪いアレンジがなされているが、イヌ科の動物にも似ている姿だ。サイズは……そこらのダンプと同じくらいと。まあ、それはどうとでもなるが、しかし二匹も居るっていうのは厄介だな」

「二、匹?」

「後ろだ」

 

 お兄さんの、僅か緊張の孕んだ声のその内容を理解して、私はばっと後ろを振り向いた。すると、そこには鏡写しのように似通った魔物が存在していた。低い体勢で、少し出っ張った腹を地面に付けながら、私を睨む赤。それに私は怯える。

 

「ひっ」

 

 私に気取られず、背後を取っていた獣。前の存在は囮だったのだろうか。この魔物は狙うためにその蠕動すら隠しながら音もなくゆるりと動いて、もう一匹と合流する。

 そして、バカでかい二頭が、視認している私達の前で牙を向きながら様子を見始めた。

 私は彼らに今までの魔物にない知恵を感じ、戦慄を覚える。そして、更に嗅げて聞こえる筈の私に察せなかった魔物の存在を見もせず先に解していたお兄さんが不可解に思えた。だから、問う。

 

「お兄さん、見ていなかったのに……どうやって分かったの?」

「勘。それと、強いて言うなら無いものがこの世で動いていたら、ちょっとは違和感を覚えるもんだ。それを、俺は逃さない」

「お兄さん……」

 

 私は、忘れようとしていた。お兄さんが彼方の人物であるということを。人の範疇でありながら、決して届かない最高の存在。私のような外道とは違う、正道の理想像。魔物なんて、きっと彼の敵ではないのだ。

 こんな素晴らしい人が、大須家に生まれてくれたのはどうしてだろう。きっと、私というマイナスな存在への補填なのだ。そう思い、見たことのない日輪をお兄さんの背中に想起する。

 

 そして、私はその全身を飾る眩い鎧を思いついた。私は、それを創り上げるために、両手を大きな手のひらに重ねる。

 

「今、魔法を……」

「滴はまだ、人に委託しないと戦えないか。それでもいいが、今は変身している暇なんてないな……来るぞ!」

「きゃ」

 

 しかし、それを許すほど今回の魔物は悠長ではなかった。あからさまに私達を敵と認めて彼らはぐるると牙を剥く。

 巨体は全身の繊維をバネにして、飛びかかってきた。あまりに速い二つに、私達は逃れるばかりで精一杯。故に、私の魔法は中断されて、半端なものがお兄さんのその手に残った。魔が凝った小さな形を持って、彼は構え出す。

 

「用意できた装備は、これくらいか」

「王冠エンド……そんな手甲なんかじゃっ」

 

 それは、王に被せるものの端。揃って初めて意味を持つ鎧の一部。敵対する先端。それだけでは、魔に触れることが可能になる程度の効力しか持たない。

 

 しかしお兄さんは、それをぎちりと握って確かめてから、爆ぜた。

 

「十分だ」

「え?」

 

 私が彼を見逃してから、爆音と共にきゃうん、という悲鳴が遅れて聞こえた。見ると、お兄さんが仁王立ちしているその先に、巨体が一つ、転がっている。

 あまりの早業。かもしたらお兄さんが手甲で殴りつけたのだろうか。異形は歪んで震えて、明らかな戦闘不能となっていた。

 だが、それは片割れ。私の視界が瞬きで閉ざされた合間に、もう一頭の魔物が、お兄さんに覆いかぶさらんとする。

 直ぐ様私が上げんとした悲鳴は、しかし形にならなかった。

 

「どうにも、聞いていたみたいに屠殺するばかりの作業とは、いかなそうだ!」

 

 ダイアウルフどころではない、象と比するレベルの魔物の巨体が、お兄さんのアッパーカット一つによって浮かび上がったのだから。やがて、バケモノ犬はそのまま、ごちゃりと落ち崩れた。そして、僅かに身じろぐ。

 

「不可解な殴り心地だ……仕留め損ねたな」

「お兄、さん……」

 

 筋力、人間の身体で想定される限界。

 速力、人にはありえないと否定されてしまう程。

 握力、そんな身を軋ませる威力の歪。

 それらが全て本気で用いられれば、こうまで高まってしまうのか。

 

 暴力。拳を振るうだけの行為は、天のどこまで届くのだろう。最低でも、空から堕ちた程度の存在であっては、お兄さんに敵うべくもなかった。

 魔でも鬼でも何でも無い。純な力の最高峰。これが、最高の人間の一端。私は、思わず唾を飲みこむ。

 

「さて、ただの野生にしてはどうも不思議なものを感じるが……しかし、これ以上に何もないなら、次でお終いだ。これ以上滴の手を、借りるまでもない」

 

 一頭は、内臓を突撃でしっちゃかめっちゃかに。もう一頭は、殴打で頭部を破損させられて。動くことすら難儀する彼らを見れば、私からもお兄さんの追撃に応じることなど不可能に見えた。

 

「と、このまま続けるのは甘い考えだ。滴。すまないが、やはり力を借りよう。万全で行く」

「……うん!」

 

 しかし、お兄さんは自分の優位を過信しない。四肢に頭。武器になるだろう二頭の五端を確りと眼鏡越しに目へと入れながら、私の元へと歩み寄る。

 それは、二歩も掛からない程度の距離だったろうか。私がお兄さんにかけるための王冠の魔法を用意しながらそれを縮めるのを待つ僅かな時。私の耳に、何かが沸騰するような音が聞こえた。良く分からない。

 

 だから、私は注意を換気させようと口を開こうとして、そうして遅きに失した。

 

「――ばあ」

「そっちか! 滴、動くな!」

「あ……」

 

 私には察せない間隙。その間、何の攻撃が行われたのだろう。私は、少し目を瞑ってしまっても居たから判らなかった。

 言われるまでもなく、私は身動きを取ることなど不可能。しかし、また私が何もしていない間に、状況は最悪へと転がっていく。

 

 目を開けると、辺りには、飛散した臓器のようなもの。そんな魔物が秘めていた悪臭に混じって、肉の焦げる匂い。人を消化する内分泌液にて足を灼かれたお兄さんが膝を付いていた。私を庇って、手甲焦がしながら。

 

「ちっ。流石に、腹からの攻撃なんて、想像してなかったな……」

「お兄さん!」

 

 私は涙目になりながら、最愛の家族に駆け寄る。どうして。命持たせる内腔を、飛散させるような、生き物なんて居るはずがない。自死を容認してまで攻撃するなんて、人間ではないのだから。

 そこまで、考えて、私はぞっとした。声。ああ、まさか、まさか。

 

「――誰?」

 

 胃の袋を破ってそれは、新芽のように、ゆっくりと、立ち上がる。そして、腸(ちょう)舞い散る、離(はな)の園に、一人。彼女は呟いた。

 

「……犯されるより、犯す側の方が、やっぱり気持ち良いね」

 

 いや、それは一柱。どうしようもない高みに引っかかってしまったヒトだったものが、私に向かって、笑っている。くしゃりと、はにかむように、喜色は蕩けだした。

 

「襲田、さん……」

 

 何時もの笑みが、場違いな場所で花咲いた。しかし、どうみても魔と癒着したその身は、ただごとではない。

 

「あはは。そうだ。思い出した。私は、襲田茉莉だったね』

 

 その声色は、最早私以外にはきっと聞こえない。しかし、そのことをすら悦んでいるのだろう、襲田茉莉であった、少女は笑う。

 

「あはははは!』

 

 収斂、蠢き、魔物だったもの、そして動けない魔物ですら少女の感情の渦に呼応して、肉が踊る。それは、どこまでも命に対して冒涜的な光景だった。

 

 

「やっと私だけを見てくれたね』

 

 

 ああ、全てはきっと、それだけのため。死、そのもののように生(な)った、少女はただ私を誘惑する。

 

 襲田茉莉。今や彼女は完全に魔なる者。魔者だった。

 

 

 



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第十話 魔者・後

 

「は、何言ってるか解んないが、どうにも既知のご様子だ。なら、こいつは……元人間の、さしずめ魔者といったところか。俺の記憶にはないが、滴の知り合いだったりするのか?」

「……うん。きっと、襲●さん。私のお友達」

「あはは。嬉しい。まだ私のこと、お友達って言ってくれるんだ!』

「醜いが喜んでるみたいだな……なんか、俺の記憶にも引っかかりがある。ひょっとしたら、まだ手遅れではない、のか?」

 

 混濁色の臓器から出でた、腑海の主。生まれたままの姿を魔物の内臓で隠したその姿は、あの小さく愛らしい襲田茉莉に酷似していた。

 しかし、私は認めたくない。完全に、そのグロテスクさは、魔物に類する、魔者。明らかに人類から外れている。今も、内から飛散した魔物の肉体の蠕動に同期して、その胸が上下していた。

 お兄さんの言、手遅れでないというそんな文句がむなしく響く。

 

「遅い遅いよ、周回遅れ! 私は食べられて、食べちゃった。そして、お父さんもお母さんも食べちゃった。ふふ、それが少しも拙いと思えずに、むしろ美味しく感じたのが不思議!』

「そんな……」

「だから、大須さんの味も知りたくて、誘い出したのに……そのお兄さんに、邪魔されちゃった』

「ふん。ごちゃごちゃ言っているみたいだが、そんなに邪魔な俺が気になるか? この破廉恥少女、随分と憎そうに見つめてくるもんだ」

「お兄さん、●田さん……」

 

 お友達とお兄さんが、私をよそに睨み合う。ぎちりと片手の小手が強く握られ、触手のように内臓がゆらりと揺れる。これは、良くない。でも、きっとこんなになってしまった襲田さんを放置してしまう方が良くないのだろう。

 二体の狼の魔物を内から開いて全体を自分のものにしてしまったその様子は、寄生生物のよう。まさか襲田さんには、未知を支配する力でもあったというのだろうか。それが、こんな形で発揮されてしまうなんて。

 そして、最愛であるべき肉親を笑って食べてしまったと語る、その異常。理解に苦しんで、私は顔を歪めてしまう。きっと、泣きそうな、怖がっているような、見られないものになっているに違いない。

 

「大須さんって、そんな表情も出来るんだ。でも、それは頂けないな。もっと、笑顔笑顔! ほら、こんな風に』

「う……」

 

 口の端を指で引っ張り、大げさに襲田さんは笑む。くしゃりと、何時ものように彼女は歪んで蕩けた。決して、その全体はいつも通りではないというのに。直視し辛い緑がかった体液に塗れたその小ぶりな身体は、魔と直接的に繋がって蠢いていた。

 そんな、魔者な少女の笑みを見て、お兄さんは吐き捨てるように言う。

 

「はっ。随分と、造り込まれた白々しい笑顔だな」

「このお兄さん、小姑みたいにうるさいね……』

「ん。そうだ。そのむっとした顔の方が自然だな」

 

 お兄さんは血液体液内分泌液を頼りに周囲を渡る数多の触腕を無視して、ただ一つのヒトガタに注目している。彼は眼鏡をくいと上げながら、魔者と化した襲田さんを恐れずに、むしろ見下げていた。

 それも当然のことか。お兄さんはどうしようもなく人の最高。魔に逸したばかりの人なんて、敵には映らないのだろう。その瞳は、今も強い。

 望ましき治癒能力に、抜群のやせ我慢を持ってして、穴が塞がったばかりの足を屈伸させてその自在を確かめてから、さも当たり前のように驚くべき内容を話し出した。

 

「さて、取り敢えずこいつを引き千切ってやるとするか」

「お兄さん?」

「へぇ……やる気なんだ』

 

 困り続ける私を余所に、緊張の糸はぴんと強まり、二人の目は細められていく。お兄さんの言葉の真意は不明で、私には聞き返す他になかった。

 

「でも千切るって……」

「何。あの人っぽい部分が大事で別段他は要らないんだろ? なら、乱暴だがそこを分断してやればいい。恐らくそうすれば無力化出来て、滴が魔法をかける時間だって稼げるだろ」

「なんだかこうなってからずっと不思議な力を感じていたけれど、大須さんって魔法使いなの? 素敵! でも、そこの偉そうなお兄さんが私を倒すって言うのは無理だね。べー』

「ふうん。俺を挑発するか。魔者。偉そうなもんだ」

 

 それは、留まらない体液に窄められ尖らせられた腸によって行われたあかんべえ。自由な両腕は手のひら向けて、左右に振られていた。口元からはちろりと、襲田さんの真っ赤な舌が覗く。

 そんな、妖しい子供の挑発を呑み込むお兄さんに向けて、襲田さんは更に言い募った。

 

「それはそうだよ。世界最高の人間だって、所詮人でなしの餌食。美味しそうな、ただの人肉の塊だもの!』

 

 途端、言に伴って数限りなく、が害するために立ち上がる。うねる動物だったもの。肺臓も骨は槍のようになり、血すら手となって切っ先を向けてきた。その尖った先端を数え、お兄さんは私を庇うように手を向ける。

 

「百は自在か。文字通り、手数が多いな。まあ、俺一人ならどうとでもなりそうだが……そうだな、滴。お前は遠くまで逃げていろ」

「お兄さん?」

「滴は、こいつを傷つけられない、そして俺も妹に友人を傷つけさせたくない。なら、どうすることも出来ないお前は今人質にすら成りかねない、ただの足手まといだ」

 

 巨大生物の骸の怒涛を前にして、お兄さんは冷静に断言した。私をないがしろにしたその言葉に対する反発は、思ったよりも少ない。

 

「私だって、魔法で……」

 

 だって、私は震えていたから。きっと魔法さえ使えば、蠢いているだけの魔の者を斃すことは簡単だ。しかし、それを友人に向けられるのだろうか。

 そもそも、ただ一人、誰の手のぬくもりも借りることなく魔法を公使するなんて、想像も付かないことだった。

 怖い。でも、逃げてしまうのも、怖いのに。それでも、お兄さんと襲田さんが争うところなんて、見たくもなかった。

 

 私は人を助けたかっただけだったのに、どうして大切な存在同士を戦わせるようなことになってしまったのだろう。嫌だ。目を塞いで蹲っていたい。何時ものように、見て見ぬ振りをしていたかった。

 

「はぁ」

「あ……」

 

 そんな情けない私の頭に、柔らかいものが乗っかる。それは、お兄さんの厚い手のひらの感触だった。顔を上げると、そこにはお兄さんの笑顔。きっと作ったものではない、私への愛から成ったその優しげに、私の視線は集中する。

 

「なあに、大丈夫。お前の友達はお兄さんが助けてやるよ」

 

 それは信頼すべき人の、甘い言葉。とても頼りがいの有るお兄さんに、私の弱い心は溶かされてしまった。

 だからきっと、悪い方へと流れていってしまうのだ。

 

「余計なお世話!』

 

 そして、怒った襲田さんのぷくりと膨らんだ頬に同期するように一体全体は膨張する。暗黒の中、全てが沸騰するかのように熱を持ち、ぱちりぱちりと音を立てた。全身に怖気だつ。きっと臨界点は直ぐ側で、だから私はそこから反転して走り出す。

 そう、あんまりな現実から逃げるために。

 

「来るぞ……振り返るな、走れ!」

「行かないでー』

「止めようってか? いいや、行かせるさ!」

 

 二人の本気に、私は背を向けた。

 

 

 

「はぁ、はぁ……」

 

 息つかぬ私の疾走のバックグラウンドにて、水気が爆発したかのような音が連続する。一向に静かにならない一角を離れるために、私の脚は止まらない。

 離れないと。言われたから。

 でも、私があの場にいないというそれだけで、果たして事態は好転するのだろうか。最高のお兄さんなら、手に薄く魔に対するものを纏っただけの装備で魔者に勝てて、襲田さんを解放出来る。私にはそう断言できる根拠がなかった。

 

「嫌、嫌!」

 

 それでも、頭を振りながら私は逃げるのだ。だって、不安を考えるのすら怖いから。今も暗黒の空に、私を害する全ては浮かんでいる。だからなるべくずっと、縮こまっていたというのに。どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 

「ああ、私が……悪い」

 

 ふと、天啓のようにそんな後ろ向きな答えを私は閃く。思えば私はずっと虚構に生きていた。全てを見ないで、自分の都合のいいものばかりを見つめていたのだ。

 そんないけないことばかりをしていた私が、最悪に行き着いてしまうのは、きっと当たり前。

 自業自得に、視界が濡れる。

 

「うう、私が……もっとちゃんとしていたら……」

 

 自虐を続け、そんなもしもを思って私はぐすぐす涙をこぼす。

 知らず、音は聞こえなくなり、落ち込んだ私の脚は停まっている。振り仰ぎ、アーケードを見つけた。ああ、ここは。

 

「心……」

 

 それは、商店街の手前。心と私を待ち合わせて映画館に向かうには程よい、あの日の中間地点。以前、ここで待ち合わせた時。ただ楽しかったあの時間を私は掘り起こす。

 

「ああ……心、心!」

 

 そして、私はポケットから携帯電話を取り出して縋るようにそれを握りしめながら、彼女の番号を呼び出す。

 通話相手へと繋がったことを確かめもせず、そして、私は一言。

 

「助けて!」

 

 端的なそれに返ってきたのは。

 

「うん、分かった。助けるよー」

 

 心のそんな嬉しい言葉だった。

 

 それは、あの日の焼き直し。でも、これはきっと不自然ではない。だって、心は何時だって、私の味方。私に勇気をくれる、魔法少女なのだから。

 

 

 

 私は心と集合場所へと指定して、再び逃げた大森公園へと向かう。怖いからとはいえ、逃げてどうするつもりだったのだろう。見なくても、それはなかったことにならないのに。やはり、私は弱すぎる。

 でも、それでも手は繋げた。そうして勇気を付けることは出来るのだ。

 なけなしの強さのひとかけら。それを大事に持って、私は襲田さんとお兄さんがぶつかりあっているだろう公園へと向かっていく。

 

「すてっきー!」

 

 後少し。心の姿が見えた。声も聞こえる。起こしてしまって、酷く申し訳ないと思う。何か私が声をかけようとした、その時。

 

 大空が翳る。

 

「え……」

 

 

 天の一角が崩れ、私が向かうその先に、ばちゃりと、堕ちた。

 

 

 



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番外話三 龍夫の死闘

 

 大須龍夫は、人として外れている大須家の中で、唯一人として優れた人間だった。

 往々にして理解できないものに通じている家族。そのなかで龍夫だけは、人に通じていたのである。

 

 しかし、龍夫は抜群で、度が過ぎた。人知れずよく分からない不明と戦い続けている、普通一般から見れば奇人の集まりでしかない一族から出た、輝石。それは、世間に大いに取り上げられて、持ち上げられたものだった。

 曰く、神童。全ての記録を過去にする存在。幼き頃から龍夫の知恵はまずまずであったが、その他は凄まじいものだった。子供の力を大人と計るなんて、序の口。ただの駆けっこで獣に並んだ。

 最高値の人間。龍夫がそうなることを、誰もが想像した。

 

 当の本人はそんな当たり前の成長なんて、どうでもいいことと考えていたが。

 

 

 放任主義の大須家から世論が龍夫を取り上げ、その強靱な肉体には物足りない賢さを重点的に鍛えられていた頃。大須の家に、子供が産まれた。

 それは、産まれたことにあまりに激しく泣いた、曰く元気な女の子。自分不在の中で滴と名付けられた妹に、家族――真っ当な子に触れかね世に龍夫の世話を託した異人たち――というものに何の期待もしていなかった龍夫は何の情も抱かない。

 そんなことより理解不足の外国語の習得に勤しまなければ、と考えてすらいた。

 だから、カメラの前に現れ、久しぶりに会った両親にすら笑みを向けず、彼らの手の中でひたすらに泣き続ける赤ん坊に仏頂面を向けさえする。

 しかし、それは世間体として拙いと知っていた龍夫は表情を素早く変え、内心おっかなびっくり差し出された弱い子に触れ、そうして彼は呟いた。

 

「柔らかい……」

 

 そう、それは柔和。差し出された指を小さな手のひらでぎゅっと握った赤ん坊は龍夫に触れられることで安心して、きゃ、と笑う。あまりに似合ったその笑顔が産まれて初めて作られたものことであるということに、少年は狼狽した。

 そして、子供はようやく愛の存在に気づく。胸元を強く握って、何の目的もなくただ成長していた彼は、言うのだ。

 

「こいつを、守れるようになりたいな……」

 

 そう、少年は夢を持った。

 

 

 夢のために、頑張る。そんな当たり前を遅まきながら知った龍夫は努力を重ねた。

 度を超した負荷をすら持ち上げて、彼は己を鍛え続ける。やがて、彼の能力を比するに自然界の数多では物足りなくなった日。少年は唐突にも世界に裏切られた。

 曰く、一般人ではない。これは病。ただの歪んだ病巣だと。そう、勝手に症例として扱われ、常人から除外されて。龍夫が打ち立てた数々の世界最高の記録は無かったことになった。

 そして、手のひらを返した数多の手にでっち上げられた嘘の罪で龍夫の経歴は汚れていく。

 

 龍夫の手に残ったのは、病気とされた能力に金銭と社会の侮蔑のみ。その全ての変貌ぶりに悔しい、とは思った。けれども、折れず腐らなかったのは、夢が彼に残っていたがため。

 誰も石を投じることのない、恩を知る故郷の地に再び足を踏み入れたその時に、龍夫はそれを思い出す。

 

「守ろう」

 

 妹、家族を守る。そのためだけに、成年となっていた元少年は、奔走した。数多の敵と戦い、平和を守って。

 

 表舞台の元最高。それを狙う者は、殊の外多い。

 ブーン財閥が独占している龍夫の生きたデータ取りのために行われる誘惑の手なんていうのは甘いもの。嫉妬の炎によって怪物と化した人間、計るために数多のモルモットを送り出してくる狂人、龍夫の偽物等など。

 それら敵対者達は滴のための平穏の邪魔となる。そのため、住処を二つにして小さなアパートを主たる住居とし、危険と共に妹と距離を別った。普段は会う時間も漫ろで、愛してはいても、その手を取ることも少なく。

 

 だから、今回、滴を混乱から救えて、文字通りこうして身を挺して妹を守れているのは、良かったと龍夫は思うのだ。

 

 

「後は、こいつを片付けるだけか……」

「どうしようもない……何、この人……』

 

 魔者、襲田茉莉の諦めの籠もった言葉も当然か。緑色の血の海、尖る臓器に液の山にて、数多の突端を破壊しすり抜け、龍夫は生存を守る。

 野生をとうに超えた俊敏と柔軟。そして、測定を拒絶する破壊力。それらは、鋭さばかりが褒められるくらいの檻に収まる程度のものではない。

 眼鏡のつるを弄りながら涼しい顔をして、龍夫は悪意の海を目に持つ茉莉の前に平然と立つ。そして、問う。

 

「さて、俺は妹のために、お前を生かしたい。だが、どうしようもなくてそれが無理なら全てのために遠慮なく、叩き潰してやろう。さあ――お前は未だ人間か?」

 

 言を聞いて、茉莉の顔は歪む。

 今や人外の自分の声は届かないだろう。しかし、見えているならば、ジェスチャーは行える。ただ頷くだけで永らえられるに違いない。龍夫はそんな、意志の強い断固とした瞳をしている。けれども、それはどうにも認め難かった。

 人の間なんて、もう嫌だったから。

 

「人間なんて、嫌い』

 

 貪られるのはもう、ごめんだ。無視も拒絶も、要らない。唯一、彼女の愛だけが欲しい。

 滴を食べたかったなんて、嘘。ただ、変わった眼でもう一度彼女を見たかっただけ。そして、違う瞳を持ってしても愛おしさが何も変わらなかったことで、茉莉は思ったのだ。

 

 ああ、今なら滴の目に映るものを自分だけに出来ると。

 

 己がどうにもホラーでスプラッタな様態であるのは仕方ない。けれども、呑まれて潰されぐちゃぐちゃに組み込まれたあの時の苦しみも、あの冷たい宝玉のような少女を抱くためにあったのだと思えば、許せるのだった。

 故に、茉莉は龍夫の前であざ笑った。彼曰く白々しい代物を、更に歪めて台無しにして。

 途端、睨むようにしていた龍夫の顔の色は全て消え、拳が再びぎちりと握られた。

 

「そうか」

 

 途端、再沸騰する一帯。溢れる触腕は全てが必殺。数えきれないそれが、龍夫を刺し貫かんと動く。だが、彼はそれを無視して濡れた少女に一歩近づく。そして、人間の最高に位置するその手を向けた。

 思わず、茉莉はぎゅっと目を閉じる。

 

「……お前は、人間なんだな」

「え?』

 

 困惑。主に近付き過ぎた敵手に、触手がうねる。そして、何より胸中の少女が疑問符に脳裏を埋めていた。

 そう、残酷なまでに久しぶりに、茉莉は抱きすくめられたのだから。

 

「魔者。俺にはお前の名前を思い出すことは出来ない。きっと、殆どこの世のものじゃないんだろうな。それでも、喜怒哀楽を持ち合わせたお前は間違いなく大切な人の子だよ」

 

 じゅうと、少女に這い回る体液によってその身の表皮一枚が溶けることを苦にせず、龍夫は断言した。彼には判るのだ。その瞳に宿った憎しみには、理由がある。

 少女の悲劇を想って、愛伝えるために、彼は敢えて危険を犯した。

 

「子は大人に守られるべきだ。なら、お前も守ってやる。……俺は、人間を守りたいんだ」

 

 夢は成長と共に広がる。愛するものも、多くなった。嫌いも増えて、しかしそれでも諦められない。手が最高に長いというのも困りものである。届くから、助けてあげたくなってしまうじゃないか。そう思い、少女の前に助けの手を伸ばす。

 

「あ……』

 

 最高の青年から底辺の少女に蜘蛛の糸は降ろされた。

 

 

 

「なっ」

「あは。気持ち悪い。死んじゃえ!』

 

 しかし、優しきその手は魔者に食い千切られる。怒り狂った茉莉ごと、数多の触手は龍夫を貫く。

 

「がはっ!」

「あはははは!」

 

 予感に、身動ぎで急所は避けた。しかし、それでも茉莉と繋がり、動くことすらままならない。共に内部の傷から血を吐く二人。しかし、狂った魔者はあまりの嫌悪に大いに嘲笑った。

 

「お兄さん。私は、人間なんかじゃないんだよ?』

 

 そう、人と魔者では温もりの感じ方が違う。あまりにその熱さが、気持ち悪かったのだった。低体温は、灼かれて苦悶の声の代わりに唾棄をする。

 

「ああ、どうしようも、なかったのか……」

「遅い遅いよ、周回遅れ! 理解もその愛も、紙一重で遅かった! ありがとう、ごめんなさい。あはは。襲田茉莉はきっと、バケモノに喰まれるのが望ましかったんだよ!』

 

 それは愛を否定し痛めつけるため。多く、貫通した触腕が揺れて龍夫の傷を抉る。彼は沸き起こる獣のごとき悲鳴を、呑み込んだ。

 慌て、龍夫はその高き望ましきその身に力を込めて、全身を隆起させる。そうして、千切った。哄笑から離れて、そのまま疾く逃れた身の遅さを、思い知りながら。

 

「はぁ……はぁ……」

「はは、辛そうだね。楽にしてあげようか?』

 

 ダメージは、最高を既知へと貶した。その全ては、動物園で知れる程度。ファインダーに収められるくらいの、目に留まらず。

 茉莉にも判る。ならば、ここで最高だって殺せるのだ。でも、ただでやられはしないだろう。もっと、命奪うためのマイナスが必要だ。そのために、空まで続く不可視の内臓を、思い切り引っ張った。

 

「……皆、死んでしまえば良い』

 

 そして、少女は心の底から本音を示す。襲田茉莉の動く遺骸は彼女を継いで、この世の死滅を願った。

 そして、それはきっと少しくらいなら叶うのだろう。人類最高よりも遙か上空から、それらは堕ちてくる。

 

「ああ、ヤバイな」

 

 魔物、魔物、魔物。無数の地を映した空の似姿。どうしようもない、存在を食む大いなる生き物達。そいつ等は、茉莉が振った指先に合わせて解けていく。歌詞に応じ、バラバラになって、大量質量の槍と化し、全ての遺骸は降ってくる。

 それは、臓腑で出来た、夜空に掛ける、首飾り。その誕生を寿ぐならば、それは。

 

 

「(絶望の歌)』

 

 

 何より美しい、奇々怪々な音色が、誰知らずに、響いた。

 

 

 

「ははっ……」

 

 空が堕ちてくる。質量は無限大。だって、それは、人を潰すための重みなのだから。どうしようもなく、耐えきれるものではないのだ。

 きっと、これは天を支えることに足る。この地の命を守るには、神の偉業の再現が、必要となるだろう。

 

「なんだ、それだけか」

 

 それがどうした。超越者たる親父は今も立派に世界を支えている。それに一時とはいえ、こんなもの神話の半神如きでも支えられたものだ。人間様が出来ない筈がない。

 龍夫はそう、願う。だから、生まれて初めて死を覚悟し、生存の為に闘うのだ。

 

「守るよ」

 

 このままでは、魔物の死体に圧されて皆が、死ぬ。知らずに潰れて、きっと瀞谷町の二万四千人は不明な骸と化してしまうだろう。

 だから、誰彼の生存のために、大須龍夫は命を掛けた。

 

「っ」

 

 そのために、地を踏み、跳ぶ。砕けた足元を遙か下にして、空へ急いだ。そして、何より醜い全てが蠢き堕ちていくその様に、龍夫は誰より近づく。跳躍よりも、落下の方が自然。凄まじい速度と力量を彼は目にする。

 それに怖じを覚えながらも呑み込み、龍夫は言った。

 

「俺が、俺が最高なら、未知へと届かせろ!」

 

 宙。ここに来て、とうとう耐えきれずに偽の王冠、手甲は割れた。何も持たずに龍夫の空手は、空を掻く。ただの、超越者モドキでは、これ以上なにも出来ようもない。意味なく空に踊るばかり。

 けれども足掻く。青年は、自分の最高を信じる。

 

 守りたい。何より妹を。そのために、向かい来るものに届かず自由落下を始めた自分の手のその切っ先を伸ばす。しかし、指は空を切る。それは、無様。弱々しい、ただの馬鹿げた行動。

 

 思えばこれまでも、無駄を続けた人生だったのかも知れない。家族の異常さに自分を添わせるために、龍夫は自身も異常と弾かれた。

 でも、辞められなかった。夢のために。そして結局は、何より自分も家族――同じ――で居たかったから。悔しかったのだ、自分だけ違う世界で生きているのが。

 

 ああ、空飛ぶ鳥を見て、跳ねるばかりの魚が幾ら見苦しくても、それは。

 

 哀れ、青年は空から降り堕ちた魔の弾丸に吸い込まれる。全ては暗黒に染まったかのように思われた。

 

「……奇跡、貰うぞ!」

 

 しかし今際の際にて、彼は星を掴んだ。

 

 

 全ての星に意味がない訳がなく、変わり続ける空の皆だって無意味ではない。

 

 

 絶望よ、唄われるな。その願いはきっと届く。

 

 夜空に、巨いに孤星は輝いた。

 

 

 



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第十一話 赫怒

 

 私はその時、生まれて初めて、星を見た。

 抱き締めたくなるくらいに小さく、儚い、しかし巨いなる全て。青黒いキャンバスに眩い点描。夜空に光る、数多。更に、何よりも綺麗な一等星を。不可思議なほど近くに見えたその閃光は、とても美しく輝いていて、どこか優しくも思えた。

 そして、私は地上で何より輝いていた、眩い光を見失う。

 

 そう、私が空に突如として現れた堕ち来る魔物を消し飛ばした光に見ほれながら、現場へと駆け付けた時、既にお兄さんの姿は無かったのだ。

 心の手を引きながら、私はあの人の大きな背中を探す。

 

「お兄さん? ……お兄さん!」

 

 その場には先ほどからのグロテスクな腑海の広がりが変わらずあるというのに、お兄さんの姿は無い。でも、そんなのおかしいのだ。だって、彼は約束してくれた。助けると。

 

「ああ、私と繋がっていた内臓の殆ど全部が消し飛ばされちゃった。これじゃあ、流石にこの世は食べきれないかも』

 

 助けられて、私が元に戻してあげるはずの襲田さんが未だに魔者のごとくに蠢いているというのに、どうして。

 

「すてっきー……」

 

 その時、私の手を引き、心が下から私を見上げた。優しい声に、心配そうに歪んだ面。ああ、彼女に心配をかけてはいけない。私が心に支えて貰うのは、違うだろう。間抜けな彼女の手を引いてあげるのが、普通だったのに。

 そう考えても、私の震えは引かなかった。

 

「襲●さん、お兄さんは、どこ?」

 

 絞り出せたのは、情けない声。現実を、お兄さんが居なくなってしまったのかもしれない今を認めたくなくて、それはか細く揺れた。

 しかし、そんな小声を拾って、襲田さんは笑みながら答える。残酷にも、喜色溢れさせながら。

 

「あはは。さっきの花火がそれだったみたい。もう、散っちゃったけれど』

 

 そんな、あり得てはいけないことを、彼女は口にする。そんな、そんな。しかし、私はその言葉に続きを求めて問う。

 

「お兄さんはどう、なったの?」

「さあ? 私の一部を道連れにして、死んじゃったんじゃないかな?』

「……すてっきー? どうしたの、何話しているの?」

 

 とうとう思いを言葉にさせるほどに心を心配、させてしまった。でも、そっちに意識は向かってくれない。歪みきった襲田さんの言葉が私の頭の中でリフレインを続ける。

 死。そんな。あの人がそんなに容易く。いやでも、あの絶望的な落下に、その際の輝きは。あれは、お兄さんという人の光を極めたものにすらも見えなかったか。

 

「あの人だけは殺せないと思ったのに。人間なんて守ろうとするから。まあ、お兄さんが居なくなってくれて良かった。急に抱きついて来て、気持ち悪かったし』

 

 それはあからさまな、挑発。もっと近寄ってこいという罠。だが、それが分かっていても、お兄さんに対する侮辱は私の胸の奥を引っ掻く。

 襲田さんは、私を見ている。むしろ、私しか見ていない。それは、とても良くないことだ。そうなると、他に残酷になるのなんて、簡単なのだから。このままでは、きっと更に悪いことを起こし続けるだろう。

 

 そんなこと、許せない、許すべきではない。

 

 私の思考は揺らいだ感情に下手な論理に赤く、塗り固められていく。ああ、これは良くないのに。

 それでも、もし本当に、襲田茉莉が、お兄さんを殺したのだとしたら。

 

「すてっきー……あ」

 

 私は、心から、手を離す。私は支えなくして立てるのか。途端、私の視界は悲しみに沈む。しかし、緑の水溜りに僅かに映った星空を見て、私は再び顔を上げる。

 まだ、分からない。そもそも、私が襲田さんに、お兄さんを殺させてしまった、確かな証はどこにもないのだ。だから、間違えてはいけない。独り逸ってでそれに、手をかけてしまっては駄目だというのに。

 

 

「さあて、次は心ちゃんも、殺しちゃおう』

 

 

 それでも、魔者は、そう言った。許せない言葉を続けて、私に見つめられたいがために、他を害そうとする。そして、狙われた対象は心。

 私の大切なモノに、再びコイツは手をかけるというのか。

 

「ごめん」

 

 

 謝罪は誰に対したものか、分からない。視界は怒りに赤く、歪む。そう、私は赫怒した。

「大須さんが謝っても……あ』

「ニブルヘイムのつまさき」

 

 そして、私は独り、世界を自分の中身で染めていくことの不快に痛苦を堪えながら、魔法を使う。足先を、地面にこつん。そうして氷の世界の一欠片を、この世に蹴躓かせる。

 世界よ氷を思い出せ。氷は河となって、今再び世界に現れる。それは、生きとし生ける物を凍てつかせる、地獄のような異界の光景。吐く息の白さすら許さずに、鼓動は止まる。そして、砕けた。

 魔の水など、あまりに温い。魔者が操る体液は、その全てを氷にしてから自壊するように砕いて粒と化させた。当然、それらがへばりついていた肉の大部分は凍って痛んだ。

 

「痛』

 

 身体に走ったヒビ割れ、そして突然の凍傷に、痛みを零す、魔者。

 だが、それがどうした。お兄さんは、喰まれた人たちはもっと痛かったに違いない。だから、私は止まらないのだ。

 

「タランチュラの雲」

「今度はな……ぐぅっ』

 

 醜く、爛れろ。星のように死ぬのではなく、溶けるように堕ちていけ。それだけを思い、私は奇妙に捻れて長い魔の手を伸ばす。

 実際に動かしたのは、指先ひとつ。それだけで、眼前の不快な腑海を腐海に堕とした。彼女を庇う、触手の千手なんて、大したものではない。そんなものなど伽藍の守り。アシッドミストなんて、甘く薄い。

 それは世界に想われる、彼の蜘蛛の空想毒素。

 この世の悪よ、腐り落ちろ。幸せに、毒されてしまえ。そんな世界に対する私の思いは決して叶わないけれども、そんな曇りを映した魔法は魔者には通じた。

 

「痛い、痛い……』

 

 ほら、最早彼女は裸も同然。繋がっていた腑海ともいえる臓器の山は、ただの泥。ぬかるみの中で、魔者はもがく。それは、痛み誤魔化すための身動ぎ。目的持たない、最後の足掻き。

 そんな哀れな彼女に地獄へのレールへ送るなら。私は、握りつぶす為に、手を向ける。

 

「バラ……」

「すてっきー、止めて!」

「心?」

 

 しかし、私の手のひらは、心の叫びに応えて窄まらなかった。そのため、魔者は健在。今も痛みに蠢いている。でも、そんなこんなは彼女の目に留まらない筈だった。

 私は今心と繋がっていないし、そもそもこんな制裁を見て欲しいと願っていなかった。だから、彼女には魔にまつわるものが見えず、ただ私が足と手を動かしたばかりが見えているだけの筈。

 しかし、心は魔者を確り見定めて、言うのだ。

 

「それって、●●ちゃんでしょ? どうして、攻撃するの?」

「……人食いになっちゃったから」

「だからって、●莉ちゃんを、痛めつけても良いとは思わないよ!」

 

 ああ、よく見れば、私が以前に残したひとひらの力が、心の手のひらに乗っかっている。それは、彼女を守るために展開させた糸の切れ端。きっと隠れて大事にしていたのだろう残滓が、今魔との縁を繋いでしまったのだ。

 微かな繋がりを求めて目を凝らし、薄っすらとした記憶を頼りに、心は尚、言う。

 

「いい子、だったもの。そう、いい子だった! 私が、見て見ぬ振りをしていたのに、居場所を奪っていたのに、茉●ちゃんは曲がらず、すてっきーに対して必死だったの!」

「心……」

「私達は友達なんだよ……だから、駄目。これ以上、すてっきーの手だろうとも、傷つけさせない」

 

 心が思い出したのは、後悔。きっと心は何か、襲田さんに悪いことをしていたのだ。その罪悪感が、彼女を見捨てさせない。

 ああ、そうだ。どんなに悪くなろうとも、これは魔者であるだけでなく、襲田さんでもあった。私は、赫怒に任せ、彼女に対して何をしようとしていたのだろう。

 

 お兄さんの無事は、確認するまで分からない。それに憎く思ったところで、襲田さんを、殺して何になるのだ。やっと理解し、私は落ち着いた。

 

「……ありがとう、心。おかげでちょっと、嘘みたいに落ち着けた。それこそ、魔法みたい。流石は、私の魔法少女」

「あはは。なら、良かった! すてっきーこそ私の杖なんだから、勝手しちゃだめだよー」

「うん、そうだったね」

 

 心の言に、私は深く頷く。

 確かに私は、独りであっても、大いに魔法を使える。けれども、今さっきそれを自分勝手に使って、どうなったというのか。

 思わず、指先が震える。そこに、そっと心の手がかけられた。

 

「一緒。だから、大丈夫」

 

 敵対すると血が上る。憎く思えば、どちらが滅びるかしか考えられない。だからきっと、魔法を正しく行使するには、心のような優しい第三者が必要なのだ。

 

「ありがとう」

 

 それに、やっぱり一人より二人のほうが、良い。それは、真理だった。

 

「はい」

「うん」

 

 私は差し出された心の小さな手を、再び握る。

 

 

 

 星光が陰り出し、闇の帳が降りる中。襲田さんの動きは止んだ。いっそ不気味なくらいの静寂が辺りに広がる。まるで死んでしまったかのようなその不動に、心は耐えきれずに、走り出そうとする。

 

「●莉ちゃ……」

「ちょっと待って、心。ほら、変身」

「わっ、あっという間にふりっふりに!」

 

 けれども、私はその無防備を認められない。だから、私は心を思いっきり飾る。並大抵では、貫けないように、何重も。

 そうして出来たのは、フリルで創った多くの花の意匠。フルアーマーなその美しさに場違いにも心は頬を綻ばす。

 

「それじゃあ、行こう……襲●、さん?」

「大須、さん』

 

 果たして、先の魔法の防備に意味はあったのだろうか。そう考えてしまうくらいに、今の襲田さんは、弱々しかった。

 手は毒に爛れて、数多の臓器と繋がっていたその足先は砕けて最早存在しない。それが、自分手によるものだと思い返すに、苦いものが走る。

 端が潰れたこれなら、最早何も出来ようがない。何となく引っかかるものを覚えながらも、私達は襲田さんに、近づいた。

 

「痛そう……すてっきーを止めるの遅くなって、ごめんね」

「心、ちゃん……』

「何、喋れないの、茉●ちゃん?」

 

 歪み、罅すら走って、とても握ることも出来ないだろう右手それが、重くジェスチャーのように動く。やがて、顔の前で鈍くなった。

 心は、眼の前で、それが何を示すものになるのか、出来上がるのを待った。そして、理解したその意味に彼女は目を大きくする。

 

 

「くたばれ』

「え?」

 

 

 それは、首を掻っ切るポーズ。終わった途端、襲田茉莉は、飛散する。

 鋭い部分が表になければ、内側から引きずり出せばいい。痛みなんてもう今更。だから、己のはらわたを切っ先に。そして、憎いアイツを貫くのだ。

 そんな強い想いが、私の思いの丈を貫通して、眼の前で血の花を咲かせた。

 

「痛、い……」

「心!」

「ふふ……悪い人が、生まれた時から悪いと思ってた? いい人が悪い人になるのだって、ありきたりだよ?』

「このっ……」

 

 また大切な人を、コイツは。私は自分のうかつさを呪いながら、再び怒りに任せて魔法に手をかける。そして、ヒトガタの開きにトドメを刺そうとした、その時。

 

「すってきー!」

 

 心に手を強く握られ、私はびくんと、止まった。恐る恐るそちら見た私に、心は笑いかける。

 

「あはは。ちょっと刺さっただけだよ。衣装で殆ど止まってた。こんなにお腹の中身出しちゃって、茉●ちゃん、大丈夫?」

「あはは。やっぱり、殺せなかったかな? 大須さん、大丈夫。もうもうお終い。すっからかんの私はもうなんにも出来ないよ』

 

 ああ、今や片方が嫌いになっても、友達だったのだ。二人は互いを見つめ合い、見たこともないように茶目っ気溢れる笑顔を揃って作る。知らないところで彼女らは繋がっていのだと、私は今更理解出来た。

 

「わわ、色々と溢れちゃって……大変大変!」

「あはは……』

 

 心が私に見せた肌には裂け目が少し。これくらいなら、命にはこれっぽっちも関わらない。

 むしろ、私達の目の前で、中身を披露してしまった襲田さんの方が、大変だ。心は慌てて落ちた内臓を拾い、仰向けになった彼女に詰めようとしているが、それが無駄であるというのは、私の目からはよく分かった。

 諦めた、笑顔。コレは、末期を覚悟した者の顔だから。

 

「●田、さん……」

「そんな悲しそうな顔しないで』

「茉●ちゃん、駄目。どんどん崩れていっちゃう!」

 

 そして、外気に触れた内の端から崩壊は始まる。どうしようもなく、それは進んでいく。触れかねる私の前で、うわごとのように襲田さんは言う。

 

「心ちゃん、ごめんなさい。お兄さんも、ごめんなさい。お父さんもお母さんにも、ごめんなさい。そして何より……私なんかが、生まれてきて、ごめんなさい』

「襲田さん……そんなこと、言わないで!」

「いいんだ。ずっと言いたかった。でも、こんな私が一つ願いを叶えられるなら……言っていい?』

「うん。何、なんでも言って!」

 

 真摯に向き合う私達の他所で、襲田さんのその身を助けようと働く心から、苦悶の声が上がる。襲田さんはどんどんと、加速度的に崩れていっているから。最早、半身が、崩れてきてしまっている。

 存在が欠けて、弱まった。ならば今が好機と世界は魔の否定を始める。常の時は、勝手に死骸が消えてくれて清々としていた自然の法則が、今や邪魔だ。

 もっと、私に彼女と対させて。そう思って見つめる私に、襲田さんは言うのだった。

 

「私は、大嫌いなこの世の法則に殺されたくない。私が、この世で一番大好きな大須さんが、私を殺して?」

 

 そう、私だけを見つめ、笑顔で少女は嘘偽りない本音を、自分の口で喋るのだった。

 

「ああ……」

 

 なんて、いうこと。認められない。何より、そんなことまで少女に口にさせてしまった、残酷な現実が、許せなかった。

 私は、叫ぶ。

 

 

「誰が、貴女を殺してやるもんか!」

 

 

 これは、怒りではない、現実に反旗を翻すための発奮だった。

 私の手の先が、夜空のように光る。魔法。それがいくら悪なる迷わしだろうと関係ない。私は私の全てを持って、少女の消滅に対す。

 でも私一人では、きっと癒やしなんて、分からない。駄目になったら壊して直してしまえばいいなんていうがさつな性根では、きっと助けきれないだろう。想像、仕切れないから。だから、私は繋がった手の、その先に願うのだ。

 

「心、手を貸して!」

「うん!」

 

 そして、私達は、世界の否定を否定する。それが、どういう意味を持つか、まるで分からないまま、真摯にただ魔に願ったのだった。

 

 

 光、差す。ああ、もう直ぐ夜が明ける。

 

 

 



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第十二話 寂寥

 

 別離は、どうしようもないことだ。足掻いて足掻いて、無理なもの。寿命も機会も、全ては時間に必ず喪われる。

だから、終わっている彼女を生き永らえさせたのは、間違いであるのだけれど、それで良かったとも思う。誤って、苦しくても生きたいのが私達の本来だから。襲田さんには生きて、何時か幸せになることを願っている。

 

 そう考え、でも私は悩むのだ。白く真っ直ぐなばかりが取り柄の部屋に、柔らかい温もりを見つけながら、零す。

 

「これで良かったのかな……」

「後悔しているの?』

「そんなことはないけれど……」

 

 フローリングの床に座し、緑毛目立つ頭を柔軟にも後ろ足でぼりぼり。どこか優しげな顔で私に返答したのは、額から拡がる白いハート柄を基調とした、わんちゃん。

 緑色の子犬は、私のベッドに座り込んで、また喋るのだった。

 

「私が犬になっちゃったの、そんなに嫌?』

「襲田さんは……どうなの?」

 

 私は彼女の連続性を信じて、目の前の存在に襲田さんと呼ぶ。すると私の言葉に彼女はくうんと、考えた。そして耳を下ろして喜色を表してから、答える。

 

「私は、人である間、ずっと気持ち悪かった。人のカタチが嫌だったの。だから、こんなけだものな姿の方が心地良い』

「私達、いや私の力が足りていたら……」

「無理だと思うよ。私は魔者に自ずと成ったの。損なって至った訳じゃないから。だから、治せない。ただの名残である人間部分さえ失ってしまった私を生かそうと巻き戻したら、魔物の形になるしかありえないの』

 

 そう。今の襲田さんは、小さな魔物。

 僅か心臓周り以外の全てを失ってしまった襲田さんを、なんとか私達が掴んだ魔法にて逆戻りにさせたところ、小さな魔物の形に再生してしまったのだ。牙も小さく、消化器不足な今の彼女は人間を食べる必要もないそうである。

 無害。故に隣り合える。けれども、彼女はもう人では無い。再生に関係した私と心と、同じ魔物には認識できるが、もう人間の一員とはいかない。

 

 そんなこんなが、私には悲しい。

 

「いいじゃない。悪者は、無害化した。お兄さんも生きていた。ハッピーエンドじゃない』

 

 そして、笑顔の子犬さんの言うとおりに、私のお兄さんは大分欠けながらも生きながらえていたらしい。

 らしい、というのは死にかけのお兄さんを保護したブーン一族のアリスさんが、電話越しに教えてくれたその情報しか知らないから。

 どうにも私の事が嫌いなようである、自称龍夫お兄さんの世界一の妹であるアリスさんは、意図的に面会を遮断しているような気がするけれど、仕方ない。実際にお兄さんは私のために、傷ついたのだから。

 でも、お兄さんは何とか生きていて、一時は葬らんとまで憎んでも、それでも嫌いになれない襲田さんだって曲がりなりにも生きている。だから、ハッピーと手放しには喜べなくとも、これは妥当な落としどころなのかもしれない。

 私は、重く頷いた。

 

「……襲田さんがそう言うなら、そう、なのかな」

「そうなんだよ。私としては、保護者が大須さんに変わっただけでもとってもハッピー!』

 

 襲田さんはそう言い、尻尾をくるくる。ぺろりと出した舌が、どうにも愛らしい。

 このまま襲田さんを自由に喜ばせていたいところ。けれども、私は彼女の言葉を訂正しなければいけなかった。だから、私は口を開く。

 

「違うよ、襲田さん」

「何が?』

「保護者、じゃなくて家族だよ。一人は、寂しいでしょ?」

「……わあい!』

「きゃっ」

 

 動物の身体能力を活かして、襲田さんは、飛びついてきた。そして、受け止めた私の胸に顔を埋めてじゃれつく。なんとも、子供っぽい、いいやわんちゃんっぽい喜びよう。

 私も嬉しくなったが、その直ぐ後に頬に這ったぬくとい感触に、びくりとすることになった。それでも、笑顔は変わらないのだけれど。

 

「わんちゃんの姿はいいね! 大須さんを触り放題だもの。ぺろぺろ』

「舐めないでよー、もう。あ、それと。間違うことはないだろうけれど、ちょっと他人行儀だから、大須さん、は止めようね。私も茉莉ちゃん、って言うから」

「えっと、滴、ちゃん?』

「それでいいよ。茉莉ちゃん」

「こんなの夢みたい! 生きていて良かったー』

「あはは……」

 

 私とのじゃれあいを楽しんでくれたようで、良かった。尻尾をぶんぶん、耳を下ろして存分に喜びを表現している茉莉ちゃんに、私は引き気味になる。

 しかし、あの日心と茉莉ちゃんから何時か聞きたいね、と話していた言葉が、こんなに早く飛び出てくるなんて。どうにも嬉しいやら気が抜けるやら。

 彼女の重さの分だけ沈んだマットを気にしながら私は、はにかみながら言う。

 

「私も、良かったと思うよ」

 

 茉莉ちゃん。再び彼女の名前が世界に乗っかることが出来るようになったこと、そればかりは間違いなく喜ばしい。それにはきっと、私と心との縁が作用している。

 そう、襲田茉莉は、私達の眷属としてこの世に許容されたのだ。誰に見えなくても、触れ得なくても、確かに在るのだと。それは、とても良かった。

 何時か空に消えて誰かの思い出にすら残らないことが定めでも、それでも悪しと無いことにしないでと、私は思うのだ。

 そんな余計なことを考える私の胸中にて、茉莉ちゃんは呟く。

 

「それにしても、マジカルだよねー私達』

「魔法のような、っていうならそうかもね」

 

 頷き、私はそろりと彼女を触る。そんなぎこちない撫で付けを笑って受け容れ、茉莉ちゃんは続けた。

 

「うん。小さな魔法少女な心ちゃんに、煌めくステッキな滴ちゃん。さしずめ私は、愛らしいマスコットキャラクターだね!』

「ふふ。自分で、愛らしいって言っちゃう?」

「もしくは、ワンダフル! 素晴らしきワンワンだね。わんわん!』

「わ、こんな近くで遠吠えしないで」

「あ、そうだね』

 

 魔の音が私の身体に強く響く。小さな牙を披露しながら吠える茉莉ちゃんに、私は注意。そして、私の要請を受けた途端に大人しくなった彼女に、僅か疑念が募る。

 どうにもあの別離になりかかったあの日からこの方、茉莉ちゃんのテンションの上下が酷い。何か、自棄になっているような、吹っ切れてしまっているような。私は糸の切れた凧を思い出す。

 何時かこのまま何処かに居なくなってしまいそうな、そんな気がして、私は彼女を抱きしめた。

 

「滴ちゃん?』

「茉莉ちゃんは、辛かったんだね。それを、私は知ろうとしなかった。そして、失くしそうになってしまった。……もう、そんなの、嫌。何か思うところがあったら、言ってね」

 

 強く感じる、ふかふか柔らかな感触。今や何処にも尖るところのない子犬な茉莉ちゃんは、しかしそれでも人なのだ。きっと、辛いことも面白くないこともあるだろう。それが再び爆発しないように、私は願う。

 そして、ぺろりと、間近な私の手を舐めてから、茉莉ちゃんはにこにことしながら言うのだ。

 

「うん。私は滴ちゃんに、隠し事なんてしないよ』

 

 どうしてか、私にはそれが嘘だというのが分かった。

 

 

 

 お父さんは、私達を優先しないと、そう明言している。あの人にとって、世界の全ては同価値であり、守らなければいけないものは無数に有りすぎた。故に、彼は家族を保護するためにその全能に近い力を揮わない。

 自分の身は自分で守れ、そのための力は既にあるのだから。そう、言っていた。

 

「でも、それって冷たいことよね」

 

 しかし、そんな薄く広すぎる愛を、連れ合いはそう断じる。テーブル越しに認める彼女の瞳は、どこか暗く沈んでいる。

 

「そこが、あの人の足りない部分。だから、冷たくなっても私は貴女に温もりを与えたくなって、ここに来ちゃうのよね」

 

 そう、何時の間にか、母が我が家に帰ってきていたのだ。挨拶もそこそこにいつもの席にこの人は座して、私に対した。そして、少しメランコリックな様子で語るのだ。

 

「お父さんは、優しいと思うけれど。何時だって、私を受け容れてくれる」

「それはね。そうする以外の接し方を知らないから。あの人は、つまらないことに、喧嘩をしない。ふふ。険を持って敵対者から世界を守っているのに、身内には、甘すぎるの。そんなこんなは、お寒いところ」

「……過たないのは、確かにちょっと面白くないかもね」

「ちょっと触れたら消し飛ぶからって、遠慮するのは駄目よねえ」

 

 母の手元でコップの中の氷がからり。彼女が少しずつ飲んでいた烏龍茶が切れたことを知らせる。しかし、それに気を取られる人はあまりない。私は、考える。

 これは、いかにも下らない、家族の話。現状に物足りなさを覚える、どこにでもあるような、人の悩み。しかし、それが死人から発せられるとういうのはかもしたら刺激的なのだろうか。

 他の人はこんな会話をどう思うのだろうと、私はちらと茉莉ちゃんを見つめる。

 

「くぅん……』

 

 しかし彼女は、母に伏せ、と言われたままに平伏していた。

 母は座に戻り、本来の威厳を増している。故に、身内になったとはいえ初対面の茉莉ちゃんでは頭が上がらないのだろう。こんなもの、家では気を抜いている父の威圧と比べれば全然なのだけれど。

 げに美しき原初の女王は、私ばかりを見つめて喋り続ける。

 

「滴。貴女は、何だか元ヒトを犬にして飼っているみたいだけれど……面倒はちゃんと見るのよ?」

「分かってる」

「一時とはいえ死に近づきすぎた、彼女は本来私の管轄。生きてさえいれば、芸の一つでも仕込んであげるのだけれど……」

「お気遣いなく!』

「ま、当人もそう言っていることだし、大須混じりの奇石は磨かないでおくわ」

 

 土下座のように頭を下にしながら、茉莉ちゃんはうめき声のようなものを上げた。それに、母は微笑む。

 何だか気持ちのいいことではないけれど、母が茉莉ちゃんを上から下に見てしまうというのはどうしようもないこと。神ですら、彼女の前では平等。何せ、この人はとんでもなく濃い大須なのだから。彼女と比べたら私なんて、出涸らしもいいとこだ。

 死そのもののように成っているお母さんは、掟破りにも生き返りながら、呟くのだった。

 

「先祖返りの欠片ですら、魔に通じる。感応が強すぎるというのも、大須の家の者の困ったところよね。ただ、その点で言ったら、滴、貴女と龍夫は独自に進化しているかもしれないわ」

「私とお兄さんが?」

「そう。貴女達は、人として出来が良い。かもしたら、ただの人と結ばれる未来もあるかもしれないわね。お母さん、滴がウエディングドレスを着ているところ、見てみたいわー」

「相手も居ないのに、気が早いよお母さん……あ」

 

 至極嬉しそうに頬が弛んで、母は綺麗を咲かせる。私は顔を紅潮させながら、目を瞬かせて、そうして見失う。くぅ、と鳴き声で疑問を呈する茉莉ちゃんを他所に、私は呟いた。

 

「去るのも、早いんだよね」

 

 ぎしりと、私は木の椅子に背中を預けて安堵する。確か、これは父が日曜大工で作ったとか、そんなカバーストーリーがあっただろうか。実際は、どんな経緯を持ってして、ここに置かれているのか分からない。

 ただ、今これに助けられている、そんな事実が重要だ。

 

「ねえ、滴ちゃん、あの怖い人、行ったの?』

「うん。そうだよ。また逝っちゃった」

 

 そして、とことこ近寄って来た茉莉ちゃんの背中を撫で付けながら、私は思うのだ。たとえどんな嘘で世界が出来ていたとしても、今も生存を助けてくれるこの世は大切で、守られるべきだと。

 だから、父の薄情なんか、気にするものか。そして、母の心配を、有り難く受け容れよう。

 

「私は、寂しくなんかない」

「くぅん……』

 

 一人と一匹、それだけになってしまった家にて、私はそう零すのだった。

 

 

 憎むべき魔物混じりの少女を飼って共に暮す。それが、寂寥が望んだ歪んだおままごとであったとしても、それでも私は以前信じていた愛を、捨てたくない。

 

 

 



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番外話四 アリスの白い恋

 

 大須の本家は、化け物の集まり。

 決して悪口ではないそんな事実を知るものは、そう多くはない。瀞谷町でも、その地に深く根付いた家々、中でも縁ある分家で同類の楠川家においてしか、そんな伝承は最早真面目に語られてはいなかった。

 彼らは知っている。自分たちのようなただ人間以上な人でなし達よりも尚、次元が違う存在が大須であると。

 あくまで規格に則って、しかし感応することで遥か彼方に。人間の隙間ポケットの中の究極の歪。それらがどうしてかひとつなぎに繋がり続けるのが、大須一族だった。

 それは楠川――質量を超えた全てを破壊出来る程のスケールと繋がることでいずれその彼方の大いなるものを引っ張り込み、世界を滅ぼすだろう――一族しか理解出来ないほどの深淵。神を陳腐にする、人の頭脳の繋がりすら超えた単なる実体。

 そんな中から、世界最高の人間程度が生まれてくれたのは、酷く易しいことだったと、楠川の長は語った。

 

「楠川は人間に憧憬を持つ人でなしの集まり。そんな奴らでも理解出来ない化け物一族から、龍夫お兄さんのような高いだけの分かり易い人間が生まれてきたら、次は私達一族からも人間が、と思ってしまうものなのかしらね。……一人奇形が生まれたところで、人でなしは人でなしで変わらないというのに」

 

 そんな全てを、瀞谷町人ですらないアリス・ブーンは聞いてよく知っている。ほとんど全てが白の中、ベッドにて数多の命を繋ぐ線に繋がれている、大須龍夫の隣に座しながら、彼女は呟く。

 

「ブーンプロジェクトが目指すところの世界に穴開ける歪みどころでは無い、彼方への感応。パッチワークで生まれた私以上に、おぞましいほど大須の者は人と違っている。それは、人間ではその本性を観測や記録することが出来ないくらいに。……神の設計から外れた、難しい生き物よね。はぁ。それを思うと、単純な龍夫お兄さんは本当に素敵」

 

 嘆息と共に手を伸ばし、しかしアリスは龍夫に触れる前に引っ込めた。それは、近づき聞こえた彼の苦しみの吐息が熱すぎたために。

 きっと、それに触れたら溶けてしまう、蕩けてしまう。そう、勘違いしてしまう程に彼女には彼が愛おしかったから。

 一本一本他が纏められたブロンド、その不揃いなグラデーションを五体から採った指にてしばらく梳いて自分を落ち着かせてから、アリスはまた独りごちる。

 

「よく分からない、そんな怖いものではない人間程度。しかしそのまま私の位置に届く者。そんな龍夫お兄さんだからこそ私は恋できる。……私の唯一の恋愛対象、対なる人間。ああ、そんな人の弱ったところをこんなに近くで眺めることが出来るなんて、なんて稀なことなのかしら!」

 

 アリスは龍夫の端々欠けたが必死に生きようとしているその勇姿を、頬を赤くさせながら認める。荒げた息が、どうにも不審だ。しかしそんな様を、咎める者などこの場にはないのだった。

 火傷に歪んで、それでも自然治癒しつつある肌が色っぽい。処置の無いくらいに優れているからと、ただ薬とガーゼでぐるぐるに巻かれているばかり顔の中心付近の、まつげの一本一本が尊く思える。簡単な生き物を参考に、遅々たるものだが巻き戻しのように肉や骨を再生させつつある、その低等に合わせる無様な最高のザマが面白い。

 全てが全て、アリスの琴線をくすぐる。普段は、自分の手を取ってくれる、優しいお兄さん。けれども今は、彼女の前の半死人。そのちっぽけさがあまりに彼女には滑稽で、抱きしめたかった。

 

「う、う……」

 

 そして、生きるからこそ痛むのだろう、我慢するアリスの前に、龍夫の口から苦悶の音色が響く。この世の重要をジグソーパズルのように掻き集めた後にくっつけた、生来のものは一部もない彼女の心臓が力強く鳴った。

 

「ああ、なんて可哀想なの……」

 

 憐憫。血を分けた肉親なんかのために命を掛ける気持ちを、数多の血の混ざった淀みばかりを容れて生きているアリスには分からない。

 親愛なんていう狂気じみた感情にて、無理をして生粋大須の妹の範囲にまで手を届かせた龍夫は、彼女にとって非常に馬鹿げた存在である。

 とんでもない高みにあるくせして、あくまで人間に囚われている男。ああ、そんな可哀想な生き物、抱いて愛でて容れたくなってしまうではないか。

 私の中で安堵して欲しい。そんな思いが、アリスの恋情の大本であった。

 

「それにしても、滴は、邪魔ね」

 

 だからこそ、アリスは龍夫の心を占有している滴のことが嫌いである。彼を目に入れるために、よく見る将来の妹。継がなかった兄と違って、濃く大須を継いだ彼女のことは、どうにも気にくわなかった。

 見てくればかりはひとたび目が合えば誰もが劣等感に目を伏せてしまうくらいに良くあっても、その中身はあまりに愚鈍。口を開けば己を過小評価した勘違いを語る。

 普段癖のように下を向いているのはどういうことだろう。ろくろく周囲を見ないで顔を上げずに居れば、そんなザマでも世に参画出来ると勘違いしているのだろうか。魔性が世界を傾けずに済むなんて、それこそ夢物語であるというのに。

 

「これがただ馬鹿な子であるならまだ許せた。けれど、今回の迷惑のかけ振りは、流石に許せない」

 

 苛立ちに、アリスは頬を膨らます。比較的似たものの寄せ合わせの皮膚であるために肌色の違いは目立たない。けれども歪めれば多少分かってしまう者も居るのではという恐れからあまり変化させることのない、整えられた顔を今彼女は歪めている。

 それは、とても立腹したということであった。

 

「龍夫お兄さんなんて比較にならないくらいに力がある癖して、怯えて彼の大きな背中に隠れて怪我させた。力持ちの自覚が足りないわよね。手の届く世界を平らにするのは、我々の義務だというのに」

 

 アリスは、生まれながら力持つものには義務が在ると信じている。それは、世界の整地。悪たる凸凹は挫くのが万民のために必要なのだと、足掛ける物体だった彼女はそそのかされている。その、役目のために。

 故に、ざっと辺りを見回してからアリスは言うのだった。

 

「私達には簡単なんだから、悪なんて、軽く挫きなさいよ。――今の、私みたいに」

 

 そう。折りたたみ椅子に座るアリスとベッドに包まれた龍夫以外の辺りは白白、白。それは、病院の中に彼らが居るからではなかったのだった。

 

 お前らなんて消えて、無くなれ。それだけの意が塗りたくられて辺りをただ白く不明にしている。アリスに秘められた凶悪なまでの重要度が、それを可能にした。

 

 

 天の創造主に認められたアリスは、この世界での自由の権限を一部手にしているのだ。

 

 

 才を集めて天への階段を作る。そのためのマジックオブジェクト。唯一の成功例、最高段は微笑みに顔を歪めて、零すのである。

 

「いたずらに兄を危機に追いやる妹とは違う。その身を狙う相手を消し去り守ってあげる。私こそ龍夫お兄さんの、世界一の妹じゃない?」

 

 果たしてアリスに権能を授けたのは、神か悪魔か。兎角そこに至ってしまっては、遍く全てが下に見えるもの。物語の主人公のつもりになって、創り手を喜ばす道化役は自分を誇る。恋する相手を兄と慕うことの捻れすら楽しんで。

 

「あはは。早くお兄さんが、私を踏んづけて、頂いてくれないかなあ」

 

 そして、酷く薄い胸を張って、彼女は嗤うのだった。

 

 

 

 アリス・ブーンは、作品である。マジックオブジェクトが生んだ、神の模型の一つとして彼女は存在していた。

 人を創り上げた天に認められるために、アリスは人に似せているが、生まれたときから彼女は人間とは立ち位置が違う。

 主の力を手にして世界に穴を開けるための装置。人が神に至るために踏みつけるための高い一段。彼女は人と交わること許されない、孤高の存在の筈であった。

 

「お、こんなところに居たのか」

「――タツオ?」

「随分と高いところが好きなんだな。おはよう。アリス」

「オハヨー、タツオ」

 

 しかし、何時しかアリスは龍夫とのみ関わることを許されるようになる。まだ調整不足でツギハギばかりの彼女を、彼だけは人と見た。

 その全体は数多の培養した人間部品から天才と認められたものみを集めた逸品。曰く、神に似せたフランケンシュタイン。人ですら無いと目された醜いアリスに、龍夫は情を持って近づいた。

 二人は、星が流れる様を横に見ながら一時沈黙する。アリスは大きな月を見上げて、龍夫は足元の青を見た。ここは、ブーン財閥が保有する軌道エレベーターの外。呼気すら死を呼ぶ場所にて平然と、高くて当たり前である彼らは存在した。

 

「ナンデ」

「ん?」

「ワタシヲ、ミトメル?」

 

 ほとんど真空の宇宙空間にて、あり得ざる声が二つ響く。薬に機械でも抑えきれない拒絶反応に波打つ皮膚を抑えながら、アリスは龍夫に問った。

 どんな財力に権力を持ってしても繋ぎ止められない、気持ち悪い不明な自分。それをどうして見捨てないのかと。

 当時のアリスの歪みに歪んだ醜い顔を不安と採り、笑顔で龍夫は応える。

 

「俺には、アリスと同い年の妹が居るんだ。だから、見捨てられなくてさ」

「ワカラナイ」

 

 答えを訊いてもアリスには、分からない。どうして、目の前の青年は汚物と肉親を重ねるのか。

 自己を人と思わず、いと高くシンパシーなんてあり得ない場所にある少女には、龍夫は不明な生き物としか思えなかった。けれども、訳知り顔で、彼は続けるのである。

 

「分からなくても、こうして隣に居るんだ。アリスが俺に疑問を持っているのと同じで、俺がアリスを気にしてもおかしくはないだろ」

「ソレハ……」

「後、俺にはアリスが醜くいとも思えないし、モノにも見えやしない。ただ、妹と同い年の女の子だと考えているんだ」

 

 目の前の人間は、単にして成長のみで孤高に届いた予想外。だからか、その言葉の殆どをアリスは理解できなかった。けれども、その中から一つを、どうしてだか傷だらけの彼女の舌が繰り返す。

 

「イモウト、カ」

「ふうん。そこを気にするんだなあ……なあアリス、良かったらさ。君も俺の妹にならないか?」

「ナニヲ……」

 

 よく分からない少年は、更に意味不明な言葉を続ける。妹。まさか自分なんかと軽々とそんな関係を繋げようなんて、どうしてこうも目の前の人間は変わり者なのだろうと、アリスは思う。

 だが、彼女は次の言葉に全てを理解するのだった。

 

「いや……一人は、寂しいから」

 

 判る。それだけは、アリスにも理解出来た。高いばかりなんて、つまらない。才能の集まった身体はしかし、心を強靭にしてはくれなかった。言われた通りに自分を物とでも思わなければ彼女はやっていられなかったのだ。

 しかし、自分と同等にありながらそれでも人としてある目の前の少年は、素直に寂しさを零す。この人間は自分と同じ感を持っていると解して、アリスは龍夫のことがぐんと気になった。

 

「ナル」

「ん?」

「イモウトニ、ナル。ドウセナラ、セカイイチノ、イモウトニナル」

 

 だから、一歩今まで保たれていた距離を詰めて。そうして相手の容貌を詳らかに見つめる。大きく瞳開いた彼は全体格好いいなと、どうしてだかアリスは感じた。

 

「よっし! アリス、俺がお前を守ってやるからな!」

 

 人間には情が、ある。そして、龍夫には熱情があった。彼にあったのはフランケンシュタインをすら守りたいという、そんな思い。

 それが、未だしてやれない本当の妹に対する代替の感傷であることを知りながら、それでも間違っては居ないのだと自分に正直に、過つのだった。

 

「ア……」

 

 歩み寄り、そして向こうも寄れば距離はゼロになる。初めて繋げられたその手は、あまりに熱かった。

 

 

 

 その日から、マジックオブジェクト内部にて異動が頻発するようになる。そうして、転換した方針から、少女の容姿は急速に整えられていった。

 やがて、随分と綺麗になったな、という龍夫が零した本音はアリスの自信となる。それが、はにかんだような笑顔の歪みに向けられたことを知らずに。

 

 その時を思い出して顔を紅くしながら、アリスは言葉を転がす。

 

「それにしても早く交合してこい、だなんて、所長は気が早いわ。私達は、未だ兄妹なのに」

 

 あれと番え。アリスにそう入力したのは果たして誰だっただろうか。もっとも、そんな命令なくとも、彼女が彼を求めるに決まっていたが。

 アリスの白いキャンバスに描かれたのは、龍夫の虹。輝かんばかりの愛情に、解かされた結果、彼女は人になった。そして目指すは世界一の妹。それが叶ったら、次は。

 

 そう考えてにまにまするアリスはただの恋する乙女だった。

 

「さて、そろそろ良いかな? 消し消し、っと」

 

 やがて経った時は幾許か。次第にアリスは龍夫の苦しみに飽く。指先でごしごし。

 そして、物語を白紙に戻す権能によって、彼女は彼を瀕死に追いやった傷の事実を真っ白に消し去った。後はベッドの上にて五体満足の最高が残るばかり。

 

「う……」

 

 そうして。滴の責任なんて綺麗さっぱりにしてやったぞ、ざまあみろと舌を出し、あの日の彼のように微笑んで、アリスは目覚めの龍夫に話しかけるのだった。

 

「おはよう、龍夫お兄さん」

「――おはよう、アリス」

 

 返し、アリスの恋の白色の中で、龍夫も微笑んだ。

 

 まどろみのなかで、青年は口元に触れた柔らかい感触を忘れる。

 

 



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第十三話 歪形

 

 私は、恋を知らない。愛は、多分見知ったものと思うのだけれど。そう、今まで私の好きは、どうしても恋愛に届くことはなかった。

 異性。私は彼らをあまりに知らない。お父さんにお兄さんだってよく分からないというのに、それより離れた他人となると、途端に不明となった。

 朧気な他人。幼くて、性徴が薄ければまだ分かり易くていいのだけれど、男性らしさに引っ張られた彼らの言動は不明だ。

 

 何が楽しいのか。何が楽しくないのだろう。どうして私を見て、停まるのだろうか。そして、伝聞では見目が良いはずの私の顔の何を恐れているのか、彼らは目を合わせてもくれやしない。好きだと、告白してはくるのに。

 その点、私なんてどうでも良い沢井君や、反して私のことが好きなのだろう柾君は、分かり易く私を直視してくれるのだけれど。

 

 そして、あの日までの彼は、もっともっと。

 

「恋って、何なのだろうね?」

「相手を自分の中に容れたくなる、そんな気持ちじゃない?』

「ああ、なら私には無理だ」

 

 外にて彼をゆっくり待ちながら、私は茉莉ちゃんと、そんな女子トーク。

 暗い石畳の上で伸びをする緑の子犬を横に、私はぼんやりと空を見上げる。全ての欲を枯らせる魔の生態活動の悍ましさにすら私は乗り切れずに、ただグロテスクを望んでいた。

 

「私はあの日から、私を他人に絶対理解できない代物としてしまっているから。一々好きなものを容れて、拒絶されたくは、ないよ」

「世界一綺麗な眼を持った美人さんが、そんなことを言うなんて、世の男の子は残念がるだろうねー』

「もう、おだてたって、何も出ないよ?」

 

 視線を下げて、私は裂けた口開く茉莉ちゃんに、笑いかける。汚いものばかりを受信する存在が綺麗なんて、冗談でしかあり得ないだろう。しかし喜ばすために撫でてみても、私の否定に彼女は不満顔だった。

 

「相も変わらず自己評価が低いねー。滴ちゃんって、鏡よ鏡よ鏡さん、ってやったことない?』

「ふふ。幾ら鏡を見たところで、世界一美しい女の子じゃなくて、何時もの私が映っているばかりじゃない」

「それが、世界一美しい女の子だよ!』

「またまた……」

 

 茉莉ちゃんは、冗談ばかり。白雪姫が、私の鏡の中にいるなんて、そんなこと。

 実際に私が覗いた鏡に映るのは、嫌味なパーツの整列に狂気の目。彼方の魔物達を飲み込む瞳は、開かれすぎた落とし穴。私は自分を見つめるたびにその暗黒に、ぶるりとするのが嫌だった。

 

「私は、この世で一番嫌いな顔が映る、鏡が嫌いなんだ」

 

 美しい母にも、厳しい父にも、優れた兄にも似通っていない私。そんなもの、嫌いだ。だって、それを認めてしまったら孤独感が更に増してしまうから。

 

「そっか……滴ちゃんは……』

 

 私を溢れんばかりの大粒の瞳が見上げる。そして、茉莉ちゃんが何か決定的な言葉を呟く、その前。向かい来る足音が響いた。

 少し前から公園ベンチに座って待つ私。そこに来たる待ち人。綺麗な長身が、全体の過剰でない色合いが、好ましい。けれども、私は彼に勝手ながら隔意を持っていた。

 

「……ごめん、遅れた! おはよう、大須さん」

「おはよう、柾君」

 

 私は、それでも顔を上げて笑いかける。私のそんな様を見て、顔を一気に茹で上がらせる彼は、どうにもおかしかった。そう、私達は柾健太君を一人と一匹で待ち望んでいたのだ。

 瞳の周りにどす黒いほどに濃い隈を作りながら、柾君は返すように笑んで言う。

 

「どうして、とは思うのだけれど……ここは素直に、お誘いありがとう、大須さん」

 

 そして、私はこう返すのだ。

 

「ありがたくは、ないかもよ?」

 

 隣できゃんきゃん吠えるわんちゃんを手で抑えながら、私は曖昧に微笑む。

 

 

 

 女の子と男の子が外で共に時を過ごす、そんな今。たとえ間に見えない子犬を挟んだものであっても、男女つかず離れずこんな感じのものを、人はデートと呼ぶのだろう。

 しかし私と彼、共に心は上の空。互いを見るのもそこそこに、思いは内へと沈みがち。三々五々な会話に沈黙が通って、それを茉莉ちゃんが喜ぶ、そんなルーチン。

 一度開いた口は言葉を吐く前に乾いてから閉ざされる。幾度となく繰り返し、そうして私はようやく一つだけ思いを言った。

 

「綺麗だね」

 

 公園内の美しい光景。花菖蒲に、清水の流れ。欄干の子供の笑顔が眩しい。降り注ぐ光が幾ら腐れていようとも、それでもこの地は綺麗で埋まっている。

 百点満点なんていらない。少しの間違いなら容れて、それでも綺麗と笑えたら。私はそんな日々ばかりを望んでいる。

 

「そう、だね」

 

 だから、私は私との違いを一向に認められない、そんな柾君の姿が認められなかったのだ。私なんてどうでも良いじゃないか、と思う。

 けれども柾君は、美しい外から視線を離して、私を見つめて続けるのだ。

 

「でも、どんな綺麗なものも大須さんには敵わない」

 

 その声色に愛が乗っかっていることくらい、分かる。真っ直ぐなそれを、受け止められない私が間違っているのだろう。悲劇はすれ違いから。先に観た映画のそんなセリフを思い出しながら、私は目を瞑った。

 

「……そんなこと、ないんだ。私は汚い」

 

 そして、再び開ければ、その先には真剣な彼。恋愛を無視するなんて、零点の反応。そんなことを、茉莉ちゃんが教えてくれた。あんまりに苦しんでいて可哀想、引導を渡してあげて、と彼女は言っていた。

 手を、強く握りしめる。

 

「滴ちゃん……』

 

 私達を見上げる魔者の視線を、私は汲む。そう、柾君は、取り返せないことを思い出したいがために、とても苦しんでいたらしいのだ。目を伏せてばかりで見ていなかった彼の様子。

 どこで見ていたのか、それには人間嫌いの茉莉ちゃんですら思うところがあったようだ。いたずらに身体を掻き毟るのは、犬だけで良いと、彼女は言っていた。それが自傷であるのなら尚更に、とまで。

 

 知らなかった、想像していなかった、それだけでは済まされない、自分の非道な愚鈍さが悲しくて、私は涙を一筋流してから、続けた。

 

「私は自分の気持ちを押し付けて、その結果柾君に無理難題を科してしまった。良いんだよ。本当に、もう良いんだ。そんなに私を求めてくれなくて、良いの」

「大須さん……」

「あはは。やっぱり、呼び方、変わらないんだね……」

 

 感情は素直に出したくても、この複雑な胸中は表せずに、ただ乾いた笑い声が口から出ていく。ああ、やっぱり認めがたい。好きな人が、こうも変わってしまったことなんて。

 高く持ち上がった背に、低く落ち込んだ声、そして記憶も違ってしまっていては、もう殆ど別人じゃないか。私は喪失感に胸を痛める。

 

「それ、は……」

 

 昨日のことを思い出す。確かに、柾君は、私からの突然の電話に驚いていた。彼は、私が自分の連絡先を知っているとはやはり知らなかったのだ。

 あの日はもうない。菊子さんを挟んで、二人お菓子を食んで笑いあった、あの時間。思わず触れ合った手を、恥ずかしがった過去。そんな、或いはそのまま進んだら恋に成長したかもしれない淡い好意すら、全てを魔物に台無しにされたのだ。

 

「ああっ!」

 

 返す返す、とても、嫌だ。なんて、嫌な現実なのだろう。

 これまで熱によってふつふつと沸き上がった思いは、ついに爆発する。叫ぶような声は、勝手に口から出ていた。

 

「私、悔しいの! もしも、あの日。怯えずに●●さんを助けに行っていれば。そうしたら、もしかしたら……でも、そんなもしもはないの! アレに台無しにされてしまった後で、取り返すことの出来るものなんて、ない……」

 

 私は、空を恨む。果てしない、が魔に埋まってしまっているそんな世界の天上を。あんなものがなければ、私は幸せになれたはずだったのだ。

 恋を感じる、普通の女の子。どきどきと、好きな人と共に過ごす。そう、なりたかった。

 でも、現実は冷たい。吐き出し足りなくて、私は尚言い募る。

 

「好きだった。私、あの日の健太君は好きだった! だから、その気持ちを、私は裏切れないの……あの日の彼以外を、私は好きになれない……」

 

 それは、初恋に至るはずだった果実の喪失。そのトラウマに苛まれた私が、恋を知ることが出来なかったのは、当然だった。

 あの日から、好きだった彼が急に私を知らない人を見るような顔で見始めたのだ。その恐ろしさといったら、ない。生乾きの傷のじくじくとした痛苦は、未だに私を苛んでいる。

 容れようと近づいたから、そうなったのだ。ならもう、恋なんて。そう思い至ってしまうのも、きっと仕方なかった。

 

「嫌い。やっぱり、私を知らない柾君なんて、嫌い……」

 

 だから、報われることのないない目の前の恋よ醒めて。それを私は願って、めそめそと駄々をこねて、泣き言を吐き出すばかり。目の前の彼の顔すら伺えない。

 

「大須さ……っ」

 

 向かってきた手に対してぶるりと震えたので、それが引っ込められる、そんなことを私は落涙させながらもぼうと眺めていた。

 ああ、どうして私はこんなに美しくないのだろう。ややこしくって、苦い。

 

「終わらせてあげて』

 

 そう言い、私の脛に小さな前足でタッチしてきた茉莉ちゃんに、私は頷く。私は、この魔者が真に柾君を思っている訳がなく、むしろ自分のために私を誰にも取られないように唆しているのだとは知っていた。

 けれども、その肉球の柔らかさと同程度に、私は茉莉ちゃんの優しさを信じている。彼女は悪になりきれない、小犬。皆が嫌いだからって、無視することは出来ない。だから、私の代わりに柾君の苦しみを見つけることが出来たのだ。

 あの日、少年が独り空に溶かした筈のうわ言を、悪意満々に脚色しながら報告して来てくれたのは、茉莉ちゃんなりの人間に対する愛の形なのだろう。

 私は、彼女の思い通りに、言う。

 

「辛い思いをさせちゃったね。思い出せたら、じゃないの。もう終わり。諦めて。私はもう絶対に柾君のこと、好きにならないから」

 

 柾君が独りで繰り返していたらしい言葉。思い出せたら、でもなにを。このまま眠りも少なく何度も何度も自問してばかりでは、きっと壊れてしまう。だから、私は彼を明確にフることにした。

 柾君が、私との時間を思い出せたところで、別れたままに過ぎた時間は戻ってこない。それなのに私はどこか思わせぶってしまったのだ。

 それは酷く、醜い私らしいこと。未練を精算しようとする顔も、だからか自嘲に歪むのだった。

 

「そうか……」

 

 魔の舌下に歪んだ彼を見る。柾君は一つ苦しそうに息を吸った。さて、次に来るのはどんな泣き言かはたまた悪口か。思わず私は身構える。

 

 

「やっぱり、俺には資格が足りていないんだ」

 

 

「え?」

「へ?』

 

 しかし、よく判らない返答に、私は自分の肩を抱いた。資格、そんな話を私はしていない。けれども、目を閉じうんうん頷く柾君は、どうにも訳知り顔だった。

 

「楠川の長老から聞いたよ。大須は未知を解する者だけが挙って一族を成しているんだって。普通一般はよそ者なんだって。眉唾かと思っていたけれど……それでも、大須さんが口にした絶対なんて言葉を信じるよりよっぽどそれはあり得る」

「柾、君?」

 

 おかしい。そこでどうして毎度お年玉を奮発してくれる海(かい)お爺さんの名前が出てくるのか。そして、どうして柾君は私達一族をそんな未知だとかよく判らない代物と勘違いしているのだろう。

 

 あれ、柾君は、墨汁の淀みのような、こんな瞳をしていたっけ。

 

「大須さんが俺を好きになることがないなんて、信じない。なら、今が足りていないことこそを信じたい。なら……変わらないと」

「滴ちゃん、コイツ、ヤバイよ!』

「歪みこそが俺を大須さんに相応しくさせるものであるなら、喜んでそうなるよ」

「あ……」

 

 それは、かちゃりと硬質な音を立てながら現れた。リュックのある背面に柾君が手を持っていって、そうして取り出したのが、ソレ。

 主に暗い色で、光を多少反射する一部はメタリック。どこか重さを感じるそれは取っ手の上に筒を容れるための奇妙な形状をしている。威力を秘めたその孔を覗いた時に、私は全身に怖気を立てた。

 ああ、これは死の形の一つだ。私の理解より先に、獣がソレに飛びかかる。

 

「銃だ! あ……』

 

 そう、それは拳銃。幾らグローバル化が進んでいるとはいえ、日本では決して一般的でないそんな武器。それが私に向けられないように、茉莉ちゃんは跳んだ。

 しかし、小犬の牙を躱すかのように自分に引き寄せた柾君は、それを自分の側頭部に持っていく。そうして、引き金に指をかけた。

 

「まともで駄目なら、壊れてしまえ――――滴ちゃんに愛されない俺なんて、死ねばいい」

「健太君!」

 

 彼が、何時の日かの私の呼び名を呟いたのは、どうしてか。その意味は不明だ。けれども、行為はあまりに明確。私はその自殺の遂行を止めようと動き、全身から魔力を溢れさせ。

 

 それでも、遅きに失した。

 

 

 ぱん、と音がなり。大事なものが彼方に飛び散った。

 

 

 

「――ん】

 

 だが、そのまま力なく崩れ落ちるはずだった彼の足は、どうしてか踏ん張った。

 まだ、生きている。あんなに飛んでいったのに、殆ど無くなってしまっただろうに、それでも大丈夫だったのか。ならばと助けようと私は更に近寄り、そうして。

 

「え……」

 

 私は狂った青を、彼の瞳の中に目撃した。ぐるりぐるぐる、世界を確かめたそれは、閉じもせずに瞬いて、そうして健太君の口を勝手に動かした。

 

「…………彼方への感応、その反転。彼方からの感応を求めたか。単のままに感応器官に至れずとも、ただの受信機にはなれるのではないかという発想。この世の重要の隣ならば或いは見つけてもらえる可能性も……なるほどこの子は存外に賢い】

 

 青々青。私をじっくり、見定めるのは、何か。

 

「貴方、誰?」

 

 その日、私は未知と出会った。

 

 



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第十四話 青色

 

 目の前にあるのは、深い青。藍に留まらず、しかし紫とも行かず、水色とはとても呼べない重みのそれ。ぬるりと表面を流れたその色は、瞳の上だけで支配を示した。

 私が見えない天上の、あるいはそれは空の色だったのか。彼方から彼を乗っ取った何者かは、周囲を見渡してから、言う。

 

「昼時、といったところなのか。ずれが僅かにしかないのが、不気味なくらいに成功している。未だ実験段階のつもりだったのだけれどね……】

「ぐぅっ……」

 

 多分の理性に、過分の知性。それは、階段の上の空の青から私を見下げる。一つ、彼の存在の登場により順位を押し下げられた私に、重圧が襲いかかった。

 どうしようもなく、私は膝を屈する。それに際して漏れた吐息は、安心感によるもの。そう、直ぐ様に折れなければ、間違いなく潰れていた。私という存在が、上からぷちゅんと。

 

「はぁ……はぁ……」

「ふむ。重要点といえども、所詮は点、か。高さがまるでないようだ】

 

 どろりとした青が、私を観察する。その中には、恋情も敵意も、何もない。ただ、私を思わずに映すばかり。寒色の中に、理解の色は、まだなかった。

 

「滴ちゃん!』

「何とも可愛らしい、でも混じり物か。騒がしいので、ちょっと黙っていて貰おう】

「あ……』

 

 健太君の中へと落ち込んだ明らかな上位存在は、異次元的な存在な魔者の茉莉ちゃんをも認め、そうしてまた見下す。それだけで、同じ。私と変わらぬように、四肢を支えにしている彼女もへし折れる。

 

 そのはず、だったのに。その方がきっと楽だったというのに、茉莉ちゃんは堪えた。

 

「……ああっ! 滴ちゃんに族したものですらない、お前なんかに……誰がお座りなんて、してやるもんかあっ!』

「茉莉ちゃん!」

 

 よく分からない、理不尽。それに抗うことに、きっと茉莉ちゃんは慣れているのだろう。だから、彼女は気炎を吐く。けれども、そんな意地すら彼は上から見るのである。

 

「ふむ。可愛いものが、幾ら強張ったところで、別段面白くもないものだな】

「ぎゃ』

 

 幾ら強めようとも、言葉なんて、所詮は遊び。意気ですら、地を這うどころか低次元。きっと、幾ら広大な視点を持つとはいえ、そんなものに目をかける程暇ではないのだ。

 必死を無視して、ただ一歩を踏む。それだけでもう、どうしようもなく茉莉ちゃんは折れて砕けてバラバラに。立ち上がった大本の心から、砕けた彼女は地に伏せた。

 そう、痛みのあまりに気絶しただけで済んで、茉莉ちゃんはきっと幸運だったのだろう。けれども、私はそれを認められない。怒り、私は健太君の中の天災を見上げた。

 

「貴方……何、なの?」

「ただの、研究者だよ】

「研究、者?」

「ああ。大いなるものへの感応がアリならば、小さいものへの研究だって、アリじゃないかな?】

 

 そう言い、彼は私を見返す。ドロリと角膜の上を覆う青は、顕微鏡のレンズの如くに私を映していた。それに、驚くでもなく、私は納得する。

 確かに、視線は下から上に向けるものだけでない。上から下へと見つめるのも、それは当然にあり得ること。なるほど、私は完全に想像不足だったのだろう。

 自分が地べたの変わった染みの一つとして上方の何かから研究対象とされることを一度も考えもしなかったのは、きっと異常の一員として疎かで有りすぎた。

 だから、無思慮に対して、しっぺ返しは当たり前にやって来る。彼は何故か茉莉ちゃんを見て微笑んでから、空を見上げてより喜色満面に表情を変えた。そう、それはまるで空覆う魔物の重なりをすら可愛らしいものと見定めているかのように。

 

「本当は、君みたいな……そうだね、この体の彼の知識から言うと、差し詰め猛毒ウイルスの専門ではなくてね。本当は、あの可愛らしい生き物達の観察を専門としているんだ。しかし、その減少の研究に、君を見つめる必要が出てきてしまったのだよ】

「どうしてあんな、魔物、を……」

「魔物、と君は呼称しているのだね。ふむ。この子の頭の中にあるもので例えるならば、エアプランツ? いや、これも水が要るのか。それに可愛さはないと。なら違う】

 

 ぶつぶつと、健太君を上書きした彼は呟き、青色に輝きながら一体全体を検索しつくして、そうして納得したようだった。彼は、続ける。

 

「ふむ。仙人、という存在は霞と呼ばれる無を食むのか。なら、それに近い形態の愛玩動物に、僕らの世界で魔物は当たる、と言えば理解出来るかな?】

「理解出来ない……あんな、バケモノを……」

「ははは。それをひと刺しで殺傷出来る、埒外の劇物な君は、ならば何と呼べば良いのだろうね】

 

 私の毒性をどう解したのだろう、興味深そうに、彼は私を見つめる。

 ついと、あの青と合わせて空を、見上げた。気味悪く色を重ねてうねうねと、それが生の全てなのかのように冒涜的に私達を食むために存在している魔物達が愛らしいものと、私には到底思えない。

 だから、彼にとって、ウイルスたる私はなお言い募るのだった。

 

「……アレ等は、私達を食べているのよ?」

「君たちは僕らにとっては、よっぽど凝らさなければ、見つけることすら出来ないくらいに小さな情報でしかない。そんなもの、無いと変わりないよ】

「私達は、ちゃんと生きている!」

「君達は、ウイルスの社交について、考えることなどろくにないようだね。それは、僕らも一緒のことなんだ。繰り返すようだが、見えなければ影響すら及ぼして貰えなければ、最早無いのと同じさ】

「そんな……」

 

 思いやるに足りないほどに、私達はスケールが違う。それが、理解出来た。青色に感ぜられる、根本的な差異によって。彼は私達を矮小、と見ている。そのザマが見苦しくて、面白いとすら思っているようだった。

 ただ上に立っているだけの彼は、立ち止まって、呟く。

 

「ふむ。存外面白い君への観察は、とても望ましい時間だ。僕にも、彼にも。だが……】

 

 思索は、僅か。顔を上げて、また青の彼は私を見下げた。

 

「滴、と言ったか】

 

 大いなる筈のものに、名を呼ばれる。愛すべき相手の口から、名前を口にされる。本来ならば、喜ぶべきそれに、私が感じたのは悪寒だった。

 まるで、識別番号を読み上げたばかりであるような、その唾棄と変わらぬ口ぶりに、私は相互理解の道を見出せない。

 

「この体は、君のことが好きなようだね。それも、常から外れて僕に至ってしまうまでのものだ。尊敬に値する類の情動だと思うよ。だが、僕以外の僕らにはちょっと君が疎ましい】

 

 格好良く整っていた、借り物の少年の顔は、不快に歪む。それが、青の意思であることを察して、私は身震いする。

 ああ、私はこれの敵なのだと、今更理解をして。その事態のあんまりの途方のなさにく口をあんぐりと開けた。

 それを見、微笑んで、彼は宣告する。

 

「それに今ここで、君を殺してあげたほうが、恐らく全体にとって、優しいんだ】

「っ、カリカチュアの鋏!」

 

 それは魔法によって生み出される、劇画チックな強調。とっさに私が生み出した鋏は、鋭利を見せて、それはどんどんと拡張されていく。

 それは、見るだけで切られると錯覚してしまう程のリアル。紙一枚の絵を侮るな。その端で肌を切られたためしがないとは言わせない。

 

 そう思って向けた切っ先は、しかし当然のように、破綻した。

 

「無駄だよ】

「あ」

 

 やっぱり、私には無理だった。いや、私だけだったから、どうしようもなかったのか。大事な支えがない、ブレブレの魔法は神より上のものを斬り殺すに足りない。

 一歩。それだけで魔法の全ては圧し殺された。

 

「ふむ】

 

 そして、全てはあと一歩で終わる。もう、私と彼に距離はほぼない。最早行動での抵抗は無意味。言葉で心を通わせるには、差異が有りすぎた。だから、私は無残にぺしゃんこになって終わってしまう。それは、どうしようもない末路である筈だった。

 

 だがしかし、その時は一向に訪れない。わけも分からず、ただ見返す私に、指先一つ動かさずに、青は口を動かした。

 

 

「ああ――僕には、ちょっと無理だ。上位命令でも駆動不可能とは、凄まじい。この身体は、余程恋に狂っているのだね】

 

 

 そして、彼はそんな風に、微笑みながら言ったのだった。

 

「そうか。兄としては、それだけ妹が愛されているとは、複雑だな」

 

 そんなこんなを、全て最高の位置から聞いて、彼は声を落とす。私がそれを拾った時には、彼と彼女はもう、目の前に。それに、少し青い彼は驚く。

 

「ふむ。誰だい?】

「その子のお兄ちゃんとお姉ちゃんよ」

 

 そう、困窮した私の前に、庇うように訪れたのは見知った二つの人間。特別な位置にあるだけのただの人達が、真っ直ぐに起きていることに、彼は感心しているようだった。

 しかし、そんなことはどうでもいい。ただ、無傷になったお兄さんにアリスさんがこの場に来てくれたことが、私には不思議だった。思わず、問ってしまう。

 

「お兄さんに……アリスさん。どうしてここに?」

「愚妹を助けるのは、姉の役目でしょう?」

「兄の使命でもある」

 

 とても、ありがたい言葉が二つ。思わず私の胸は熱くなる。どうしようもなく眦が弛んで湿潤してしまう。そんな様を嗤って、微笑って、そうして二人は前の上を向く。

 そうして、負けじと、青色に対して真っ向から目線をぶつけた。

 

「ふむ。僕と同程度のものが、この平坦な世界に存在していたとは。興味深いね】

「――お前が感じているより、世界は広いぞ?」

「主に高さ的な意味でね」

 

 それは、世界最高と最高段。人間の極地。人間の可能性が、届かない場所なんて、果たしてあるのだろうか。それが全く存在しないことを、体現して私のお兄さんお姉さんは、上位存在をすら威圧する。

 そんな、崇高な者の想いをどう捉えたのだろう、つまらなそうにして、青は揺れた。

 

「この世が尖ったものを排泄するために一つどころにさせたのか、或いは世界が上位への進化を求めて異常を集わせたか。……全く、寄せて上げればいいってものではないかと思うのだけれどね】

「むっ、あんたは判っていないわね! 誰だって、比較して残念なんて嫌なの。どうせ脂肪の集まりとか分かってはいるけれど、妹にすら規模で負けているとか、沽券に関わるし……」

「おい、アリス。途中から話がずれているぞ……」

「あ、そうね……こほん。要は足りないから動くのが、私達だから。今より優れたいと思うのは、自然なこと」

「お前がそれだけで足りずに、下位情報を欲しがって研究したのと同じように、な」

 

 どうしてか少しばかり私の胸元に話題が逸れたけれども、アリスさんとお兄さんは、無情な程に青い予想を否定する。それは、赫々と燃える彼らの瞳の奥に故があった。

 成長の、何がおかしいのか。同類が集まって、何が悪いのか。それは、情である。機械仕掛けでは決して無いのだ、と。

 自分たちが族した運命が、間違っているとは言わせない。結局は、そういうことなのだ。けれども研究員の一つでしかない青は、届いた一部ばかりを理解した。

 

「なるほど、同じか。ふむ。なら、志すものである同志達に、一つ忠告してあげよう】

 

 通じるものを感じ、ここで初めて同情が生まれる。だから、憐れんで、彼は述べるのだった。長々と、私達の愚かを糾弾しながら。

 

「自分を害するものが、愛されるべきものと、どうして思わなかった? 天の位相に潜む存在が希少種であると、情報持つ君たちなら把握出来はしなかったか? それを多く殺したことが、種の生態を崩すことに繋がると、何故考えなかった? やがて、君たちが悪性であると捉える者が上位に生まれることは、想像出来なかったか? そして彼らが、悪性は小さくて見つけられなくても、全体を殺すものを使えばそれで殲滅出来るだろうと、経験則から判断するまで、どうして至らなかったかな?】

 

 そう、平穏こそ勘違い。私達は、想像一つせずに、ただ怠けていただけだったのかもしれない。相似性は、上にも下にも、確かにあったのだから。

 

 でも、これは。こんなことが、あっていいのだろうか。

 

 私は終わりを予感し、空を見上げた。

 

 

「駆除が始まる】

 

 

 途端に響くはあまりに大きな異音。それは上からしたら、ぷつん、という微音だっただろうか。それは、あまりの痛みに応じた、セカイの悲鳴。

 

 遠慮なく注射針は挿し込まれ、世界に大きな刺し傷が、開いた。

 

 



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第十五話 楠川

 

 真昼に生じた空の洞からは、それは、高みから落ち込む、薬剤。いいや、青い彼の言い方だと、漢方が近くあるだろうか。

 その色は、空を映さず、青くない。むしろ、聞き及ぶばかりの黄昏の紅にも夜の黒色にもそれは似通っていないようだった。

 正しくそれは、緑錆色。目に優しい、魔物には見受けられない自然のカラー。けれどもそれは、空に浮かぶものではない筈。悪く言えばアメーバのように震える緑は、強引にも空に血脈を発見して、爆発的に拡がり出した。

 そして、魔物に混じり蕩けて、補色して、それらにこの世に応じた意味を持たせる。具象化。禍々しき偶像は、この世に受肉する。

 

「なによ、アレ……気持ち悪い」

「空を、何かが覆って……まさか、アレは……」

 

 地が恐怖に轟く。驚きに、誰もが空を見上げた。私の異常な瞳でなくても見つけられるくらいに陳腐化したそれらは、数多の顎。誰もが脳裏にレッドアラートを点滅させた。

 アイツらはどんどんと肥大化し、繁殖する。あの緑錆の効果は劇的。天上は、はるか空彼方から、彼の物の増殖によって降りてくる。

 

「魔物……が大きく」

「なるほど。こうして小さな視点で観ると良く分かる。何がどう作用して彼らが病気を克己しているのか今ひとつ不明だったけれども、それは滋養によるものだったか。存在太らし、隣の接点に繋がる程の、ね】

 

 青は、さっきまでびゅうびゅうとしていた頭蓋はどうしたのか、当然のように傷一つない完全体で、言う。彼が健太君の爪をかり、と噛んだ音が大きく響いた。

 晴れとは何か。腫れぼったい空しか知らない私でも、ここまでの、今にも届いてきそうな臨界点に至った天を知らない。

 最早誰にも汚くて危険と分かる空を見上げて慄く私の隣で、お兄さんの声が聞こえた。

 

「あれ、アリスなら無かったことに、出来ないか?」

「やってみたけれど無理、ね」

 

 知らない間にアリスさんの手に握られていたのは、曖昧な白。悪には汚せない、純。けれどもこの世の全てを希釈し削り取る、そんな無限大の白点ですら、空の魔物の存在を消せない。

 太り、空を低くするその数多はむしろ元気そうにして、終末と一緒に訪れる。

 私は呆然と埋まり始めた空を見上げて、ぽつりと呟く。

 

「……この世のものでは消せなくて当然だよね。空の魔物達は、この世界に接している部分が僅か、だから」

 

 アリスさんが手にしているのは、天なるものが落としたもの。けれどもそれは、この世界の道理の最高決定権でしかなかった。故に、異世界と境を自由にしている不定形には、通じない。

 

「ああ……」

 

 嘆息。ぶるぶると、ハンドバッグの中で煩い携帯電話に気づきながら、私はそれを無視する。自分の中のもの以外の悲鳴を聞きたくはなくて。それが、心のものであったら尚更に。一杯一杯で、目を空から逸らせないままに、私は二人の声を聴く。

 

「……つまり、空に現出しているアレでも氷山の一角、だと?」

「ふうん。ということは、アレの殆どはこの世という物語の外の要素。消しゴムでは除けないシミのようなもの、ということなのかしらね」

「いいや、シミたるこの世界に落ち込んだ、可愛い形、さ】

「どっちにしろ、手が届かないことは、同じね」

 

 もう手が届きそうなほどに肥大化した空の数多の魔物。しかし、真にあれを受け取れている者は数少ない。分かりやすい表層ばかり触れ得ても、実際的な深淵は私以外の殆ど全てに不明。それでも表層の痛々しいトゲは、容易く我々に突き刺さるというのに。

 それはまるで届かないほどの遠くに心臓部がある、凶器。通常ではとても、壊せない。

 手をぎゅっと閉じる。対して魔物に唯一届き得る私の矛は、小さく頼りない。これでは手を伸ばすまでもなくどうしようもない、と私は錯覚する。

 

 しかし、それは直ぐ様、否定された。

 

「いいや――滴ちゃんなら、何とか出来るのではないかな?」

 

 朗々と、老いたるものが若々しくも。老人が言葉を吐き出す。かつん、という音。持ち主の老いさらばえを支える杖が先を地に当て鳴り響かせた。それは、轟く空の蠕動音よりも、力強く耳に届く。

 その場の誰もが振り向いて、そうして認めたのは、小さな老人。私が小さい頃から親しんでいた、皺だらけの人の形だった。

 

「我々楠川――侵略者――にとっては、世の平和こそ望ましいのだがね」

「海、お爺さん?」

「爺さん……」

 

 それは、楠川のお家の、海お爺さん。禿げた額にコブ一つ。それが少し目立つばかりの老人の登場に、最も驚いたのは青い彼だった。自分が這入った目を最大限まで開いてから、叫ぶ。

 

「なんと。この世には、鬼すら居るのか! 界食動物の先端が、こんな低次にまで歪み届いているとは……】

「ちょいと騒がしいな。下しか見れない小物は少し、黙っていることだね」

「はは、鬼が怖くて不明が見れるかってね! 保守派の大食いの代名詞たる楠がこんなに小さな世界を破らずに在るなんて、どんな奇跡なんだい?】

「それだけで驚くなんて、小さい小さい。何、ここの私は大須の分家でしかないのだよ、隠微生物学者の子よ」

「……楠を、分けた?】

「少しは理解したかい? 手前が今どれほど巨大なものの卵の前にあるか、ということを。大須の彼彼女ら程の次元違いを下に見る愚かを」

 

 私にはよく分からない。そんな言葉が交わされて、そうして青色は私を見つめることになる。じろりと、ゆっくり私を上から下まで眺めてから、彼は健太君の胸元をぎゅっと握った。同期し、少し大きく膨らんだそれは、吐き出された言葉によって縮まる。

 

「……はは。ドキドキするな。なるほど。彼どころか僕までも君が恋しい筈だ。……かなわないものに程、手を伸ばしたくなるものだから】

「貴方、は……」

 

 やはり、言っていることは不明だ。けれども、その青色に何やら情が篭ったことは判る。そんな青色の濁りが、私にはどこか残念に思えてならない。薄曇りは、苦手だ。

 

「今からでも、遅くはない、かな?】

「そうそう容易く穢に触れたがるものではなかろうよ、若造」

 

 求めるように私の元へと伸された彼の手。びくりとした私の前に割って入ったのは、海お爺さんだった。

 

「ぐぅっ】

 

 対し、当たり前のように大きくなった海お爺さんの左手は、撫でるようにするだけで当然のように健太君の青をべりと剥がす。そうして、そのまま全てを剥く前に、老翁は語りかける。

 

「さて、覚悟は出来たかな」

「流石は蛮族、僕に対しても、問答無用かい?】

「天上天下、全て食らうばかりの存在に、何を期待していることやら。まあ……だが最後にひと言くらいは、許そう」

「ひと言、か。なら】

 

 高位を次元違いの物量にて圧倒し、海お爺さんは彼に最後を促す。すると、醜く歪んだ空の上から来たった空色は、やはり私に向かった。

 平たい低次元の重要点に恋を覚えた変わり者の学者は、その表面と僅かに繋がりの残った健太君の面を歪め、そうして、言う。

 

「……滴、またね】

 

 頭を横に二度振る。この思いは、きっと残酷。でも、私は好きでもない彼の情を、やはり怖いと思うしかない。

 

「ふむ……」

 

 そうして海お爺さんは上澄みの青色を、ぷつん、と握り潰した。いやそれは、圧力で高みへと押し戻した形になるのだろうか。青は空に消え、ぐしゃりと、残り者の健太君は崩れ落ちる。そこに、私は走り寄った。

 

「健太君!」

「滴。どうだ、アリス?」

「うわー、びっくり」

「何が、だ?」

「あり得ないくらいに健康体ね。消すべき悪いところがひとつもない。あの青色に引っ張られて悪点全部ふるい落とされちゃったんじゃない?」

「つまり無事、ということか」

 

 近寄る空の鼓動なんて誰も気にせずに、私達は健太君の無事を確認する。続く鼓動に吐息。そして、僅かな瞼の動き。それら全てが、青年の健全を伝えてくれている。そして、アリスさんまで、安心できる言葉を伝えてくれた。

 そんなだから、私は思わず目の端から涙を零して、言う。

 

「良かった……良かったよおっ」

 

 そう、良かった。健太君が私の駄々のせいで生命を絶って、そしてそこに怖い何かが憑依して。それでも亡くならなくって、本当に良かった。感激ここに極まって、私はだくだくと涙を流す。

 

「う、うああぁん!」

 

 そんな最中にも、空は鳴動している擦れ合い、凄まじい雷が起きる音に悲鳴すら漏れる。眼下の僅かな幸運なんて関係ないと厭らしくも全ては動き続けるのだった。

 でも、そんな天に目もくれず、私は喜びに啼く。だって、好きだった。想いが残滓しか残っていなくても、それでも嫌いにはなれないから。だから、好きだった人が生きていてくれたことに、泣くのだ。

 わんわんと、私は視界を濡らし続ける。

 

 そんな私の横で、しかし事態は止まらない。縮尺を用いて当たり前のように老人の手に戻ってから再び地をカツンと杖で叩く、海お爺さん。老翁は私の知らない名前を呼んだ。

 

「……さて、汀(なぎさ)」

「呼んだ?」

 

 呼び声に応じ、そこに巨大な一歩で距離を縮めて現れたのは、女の子だった。角二つ、額から生やした知らない少女は私を少し見て手を振ってから笑んだ。

 それは嫌に気色の悪い、捕食者の笑みだった。引きつる泣き顔を感じながら、私は変遷を見上げ続ける。

 

「滴ちゃんが泣き止むまでの間、あれを抑えていなさい」

「食べちゃだめ?」

「あれは食用ではなく観賞用らしい。どうにも、それは拙いようだ」

「けらけら。不味いなら、止めるー」

 

 けらけらけらけら。曰く汀さんは、角をぐんと上げてから、笑顔で空を見上げる。そして、認め難い魔物の全体を見て取ってから、口をこそりと動かした。それが、美味しそうという風に発さずとも語っていたのに気づいたのは、私だけだったのだろうか。

 

「爺さん、この汀とやらで、アレを抑えられるのか?」

「もちろんだとも」

 

 既知のお爺さんの異常に私以上に目を瞠っていたお兄さん。彼は、当たり前のように動いていく周囲に疑問符を付ける。だが、それに海お爺さんは頷きで応えた。

 よく考えたら、天に己が頂点を伝えるために角かざす鬼どもに、戴天を訊くのは、愚問だったのだろう。

 

「よいしょ」

 

 両手を広げて空にかざす。そうしてから汀さんは、よいしょ、のひと言で天を担ぎ上げた。

 

「ああ、やり過ぎだ。もう少し柔く持ち上げなさい」

「はーい」

 

 汀さん。彼女は誤って、お空の全てを持ち上げてしまう。それは、境も何もかもを退かしてしまう行為に似ていたのかもしれない。べりべりと、小さな世界は破けた。

 そのために、隣り合う世界の階が垣間見えることになる。地獄の蓋に、天国の底。それは、あまりに霊的で幽かであり、故に誰もが目を凝らしてしまうもの。意識は何時か至るべきそこに向かう。

 

「よいしょ、っと」

 

 しかし汀さんはそれをもう一度のよいしょでどすんと閉ざしてしまった。瞬きのような間の昇天堕落の心地に、私は息を呑んだ。反して、天に近いところにあるお兄さんはただ嘆息する。

 

「はぁ……呆れたな。汀っての、最高とか言われていた俺なんかより、よほどの力があるみたいだ」

「なあに龍夫君なら人のまま、じきにこのくらいは出来るようになるさ」

「俺でそれ程に至る可能性がある、と。……なら、滴は?」

 

 お兄さんの言葉につられて、全ての高みの視線が私へと向かう。怯え、健太君をぎゅっと抱きしめる私に、柔らかい声で海お爺さんが評する。

 

「今は私等を涙目で見上げちゃいるが、きっと何時かは大いに須らく、その手に容れることが可能になるだろうね」

 

 確信持って告げられた予言に、私は目をぱちぱち。驚き、喜びに飽いたためか、そうして最後の涙を零したところで、お兄さんは鬼どもに対して言う。

 

「だが今は、守られるべき子供だ」

 

 そんなありがたい言葉に、私はまた嬉しくなってしまう。けれども、赤くなった瞼が再び決壊する前に、海お爺さんは言う。

 

「……分かっているよ。だから、私だって心苦しくはある」

「けらけら。ちょっと重くなってきたー!」

「汀、我慢なさい。……まあ、だから。滴ちゃん、君は選んで構わない」

「ぐす。選ぶっ、って?」

 

 判らない。選ぶも何も、私なんかに出来ることは何もないだろう。そう思うが、違うのだろうか。もし、私に今を何とか出来る力があるとしたら、どうしたらいいのだろう。選ぶというのは、そういうことなのだろうか。

 優しい優しい、私達のお爺さん代わり。とても鬼とは思えない海お爺さんは、何時ものような様子で、語る。

 

「私としては、もうちょっと平穏無事を味わっていたい。故に、滴ちゃんにはひと踏ん張りして欲しくもある。もっとも、君のお父さんは今も守ろうと頑張っているが……どうせ何時かはこの世なんて、私等が圧し潰して消し去ってしまう程度のもの。別に気負って救わなくても構わないのだよ?」

 

 そんな風に、桁違いの鬼は、言う。優しいお爺さんのまま紡がれたその情ある無情に、私はどこか寂しさを覚える。何となく、私は老翁のうちに巣食った厭世観に窮屈さが入り混じったものを知った。

 

「私は……」

 

 だからといって、返せる言葉なんてあるだろうか。言い淀む私。沈黙が僅かに流れた。

 果たして、どう返すべきなのか。鬼々の横でお兄さんとお姉さん代わりがじっと見つめてくれている。救えるものなら、どうするのか。私は果たして何を救いたいのか。じっと考える。

 

 

 そこに、ぱたぱたと、空のせめぎ合いの悲鳴から漏れた足音が聞こえ出す。振り向くと、そこには愛すべき彼女が走り寄る姿が見えた。

 

「すてっきー!」

「心……」

 

 こんな弱い私を強くしてくれる、最愛の魔法使い。心は、当然のように小さな歩幅で現実を踏んで、私に必死で駆けてくる。ちょこまかと回る足をよく見ると、膝小僧に擦り傷があった。

 きっと、ここに来るまでに相当に急いで痛めたのだろう彼女を受け止めるために、私は彼を手放しそっと地に横たえさせる。その行動に、ためらいなど抱くはずなどなかった。

 

 そうして、柔らかな衝撃を私は抱く。

 

「どーん! もう、すてっきー。連絡返ってこなかったから、心配したんだよ?」

「心は、どうして私の居場所が分かったの?」

「分かるよ。分からない、筈がないもの。だって、世界で一番大切なもの、一番おっきなもの、見失うはずなんて、あり得ない」

 

 温かな、そんな言葉を胸に容れて、そうして私は彼女のふわふわ頭を掻き抱く。そんな一つになった私達を、海お爺さんは面白そうに見た。

 

「ふむ。どうにも感覚に作用するほどの深い縁の繋がりが見受けられる。なるほど、彼女が滴ちゃんの杖、か」

「違う、逆なの」

 

 自分の木の杖を撫でながら言うお爺さんに、私はそう返した。そう、決まっている。私は彼女の世界を魔で色付けるもので、それだけでいい。

 恋なんかより、深い愛を手に込めて、私は心と繋がる。

 

 

「私が――私は、彼女の魔嬢(まじかるすてっき)」

 

 

 私が一番に助けたいのは、この手の先のただ一つ。頑張る理由なんて、それだけで良かった。

 

「そういうことで良いよね、心」

「うん!」

 

 笑顔に、笑顔が返る。それがとっても嬉しい。

 

 二対の視線は真っ直ぐ天に向かう。彼女と私の幸せに、魔物は邪魔だ。だから、一緒に戦おう。ただ、それだけを理由にして、私は空に相対す。

 

 

 



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第十六話 日廻

 

 青は空高く、茜は未だ早く、闇は遠すぎた。そんな遙かな空と地の間隙を埋めているのは、多色の流動、魔物の生。

 隆起し、膨らんだその形はいかにも肥満体のグロテスク。主に全体が丸に近くなってしまっては、どんな生き物の似姿も見て取ることは出来ない。棘に牙すらも埋もれて消え去り、後は多動の表面ヤスリと洞穴の如き口が数多開かれているばかり。

 

「でも、あれも生きているんだ」

 

 しかし、そんなに醜い代物であっても、違う目線から見て取れば愛玩に足る物となる。それを、空の彼方から聞き及んだ。

 曰く、希少種。ならば、我々が守るために食まれることこそ、愛に満ちた行為であるのかもしれなかった。きっと、被捕食者として大人しく身を差し出す、その方が優しい。

 

「けれども、私は優しくないから」

 

 それを知りつつ、私は意地汚く己の身と隣り合うものばかりを愛して、捕食者に侮蔑の視線を送る。感動的な広き心など、私にはないのだ。私を食べて、なんて好きな人にだって思えない。

 ぎゅっと、私を引っ張ってくれるその手を握って、私は宣誓のように呟く。

 

「生きるために、滅ぼすね」

 

 それは、きっと悪の所業。いずれ、何者かに糾弾される、人間という存在が拡張した際に目立つ瑕疵となるのかもしれなかった。

 勿論、それは今ではないし、今すぐ対さなければ我々の存在は守れない。だから、仕方なくも戦うのだ。

 

「ごめんね……あはっ」

 

 悼み、そうして、私は笑う。

 だって、心と繋いだ手はこんなにも温とい。そしてこの非道は何時かの怨すら返せる機会でもあったのだ。

 

「はい」

 

 だから、私は悪に則り微笑んで、そうして魔法少女の瞳を片手で覆った。なるだけ柔らかく、気持ち悪いエッジを落とすぼかし効果のレイヤーを眼前に一枚ぴたり。

 そうすれば、きっと心の世界に醜さはそぎ落とされるはず。そう思って触れた魔法籠もった左手を、彼女はそっと退かした。

 

「大丈夫だよ、すてっきー」

「心?」

「そんなに、優しくしてくれないで大丈夫。私だって怖いものなんて、もう平気なお年頃なんだよ? 私はすてっきーと同じ方が、むしろ素敵に感じるなー」

 

 お隣さんから、そんな呑気な丸い声が響く。にこりとした心のその瞳に、光が輝く。それは確かな知恵によるもので、私は知らず彼女の純さを馬鹿にしていたことに気づいた。

 ああ、心は決して馬鹿ではない。そういうことが好きなだけの、年頃の女の子だったのだ

 

「そもそも、私のお母さんって、看護師さんだからね。小さな頃から医学書を眺めて患者さんのお写真を見てきたから、お空がちょっと生々しいくらいじゃ、気にはならないよー」

 

 私が苛まれ続けてきたグロテスクな天蓋を見上げて、心はそう述べた。繋がっている手のひらからは、欠片も怖じなんて感じ取れない。ただ、彼女は恐慌に観察に騒々しい地べたの一角で、私のために微笑むのだった。

 

「でも、これが降ると皆が終わっちゃうのは分かるよ。それに、すてっきーがこの空を嫌がっているっていうのもなんとなく分かった」

 

 そして私もこんな色とりどりのお空、好きじゃないなあと心は続ける。見上げる目線は細められ、本心なんて分からない。けれども彼女は愛らしいままに、勇ましい言葉を口にする

 

「だったら、こんな大っきな魔物、全部一発でやっつけちゃおう!」

 

 そう、心は発奮した。この天災は数多ではなく、連続した魔物のひとつ。そう思えば大分ましだ。もっとも感じ方が幾ら変化したところで、その質量と威力に変わりはないのだけれど。

 患部は空全て。背を伸ばしたところで届かない全てを、逃さず尽く皆殺しにしなければならない。不可能にすら思える、そんなこと。しかし、不安はない。

 だって、一人じゃないのだから。

 

「すてっきーをいじめるやつなんて、全部いなくなっちゃえばいいんだー」

 

 そして心は、ちょっと過激なこと言葉をこっそりと小さく付け足した。ぽやんとした、ふわふわ乙女が、今はとても頼もしい。

 そして私達が一歩踏み出そうとしたその時、手を挙げて宇宙を持ち上げている汀さんが、そのまま首をこちらへと向けた。角を傾げて空を引っ掻いてから、彼女は問いかける。

 

「けらけら。準備おっけー?」

 

 笑う鬼は、続く未来を信じているのだろう。その面には今日これで終わりという気はこれっぽっちも感じられず、むしろ楽観ばかりがその顔に表れていた。

 そして、それは私達を疑っていないということでもある。知らず繋いだ手に、力が篭もった。

 

「心、大丈夫?」

「もっちろん!」

「そう、それならいくよ。――――ワンダリングの坂道】

 

 私は導くための杖となり、空を指で指し示す。飛ぶというのはあまりに戦うのに不安定で危険だ。だから、踏みしめられるガイドをを創る。彷徨い歩かせるために、その坂道は空へまで続く。決して真っ直ぐでないその路の有様が、私の心根を表している。

 それは漠然とした魔で創られた真白い光の坂道。しかし、迷いなく私達はそこに向かって一歩を踏み出した。私と心は、空を歩み出す。

 

「滴の姿が杖に変わった……それに今ふりっふり姿の心ちゃんが空の何かを踏んで歩いているというのは勘で判るが、どうにも見て取れないな。仕方ない。申し訳ないが頼んだぞ、滴。なあに、失敗しても俺がいる」

「そうそう。なんなら奥の手もあることだし、遠慮無く自分の力を試してきなさいな」

「ありがとう、お兄さんにアリスさん」

 

 最高に頼もしい二人に見送られながら、私は誰にも見えない笑顔を作った。仮面を被った方が、自由な表情が出来る。きっと、私の顔はだらしなく緩んでいるだろう。

 そんな私と別種に興奮した心は、声量を落とすことなく私に耳打ちした。

 

「あの人、前にテレビでよく見たすてっきーのお兄さんだったね! なら、お隣はお姉さん?」

【えっと……そうなったら、いいかもしれないね……】

 

 お兄さんの隣に、ずっとアリスさんがいる。その近くに私も置いてくれたら、と思わずにはいられなかった。そう、好きな人が一緒は嬉しいし、その形が家族であったらより、と考えてしまうのだ。

 もっと一緒に、ずっと。私には、そんな未来が望ましい。ならば、皆幸せな将来のためにも頑張らないと。

 

【それじゃあ、発とうか】

「うん、走っていこう!」

 

 私は鬱陶しいくらいに長い髪を棚引かせ、掛け声出した心と共に駆け出す。

 心残りの全ては足元に。私の全てが地平に貼り付くものなら、そのレイヤー一枚を大切にすればいい。そう、人間こそ私の守るべきもの。そして、ついでに愛すべき生命を救えたら。

 危機に高まる、愛。千里に広がった眼下に、私は美しいものを認める。庇い合う、全て。争いだって自愛から来るもので、小さく必死であった。きらきらきらきら、私が見て取れる唯一の星はこの地にあって。

 

【ああ、だからお父さんは――】

 

 自分と交差点の少ない生命をすら愛し、死――お母さん――をも愛せたのか。

 視点ばかりを高くし、それだけで僅かに悟った私は僅か留まって、そのためらいごと心に引かれていった。

 

 

 

 巡り、螺旋となって高まって行く道を駆ける、二つの足は止まらない。目指すは、肥大化した魔物の海。手を伸ばせば届きそうなそれに向かって走った。

 魔天見渡す限りが生のグロ。ガチガチと噛み合う歯の刃に、奇々怪々な襞ばかりの表面がどんどん近くなる。魔天の認めざるを得ない圧倒的な質量に、強ばる口元を感じ、そうして真剣な心の表情を認める。

 

「すっごい、大きさ」

【そう、だね】

 

 二つの呟きは、蠕動音に呑まれていく。空に走った緊張を、感じる。私は、共に矢面に立ってくれた心に感謝しながら、ひと言何をかけてあげればいいかを考えた。

 少しあぐねて広がった時間。上手く踏み出せない足。そこに走る震えを克たせるための言葉は、と私は悩む。騒音ばかりが煩いその時、懸命な鳴き声が響いた。

 

 

「わんわんっ! 滴ちゃんと心ちゃん、頑張ってー!】

 

 

 遠く真下から聞こえるは、そんな茉莉ちゃんの声。そんな、吠えるような励ましに私は、はっとした。

 

【そうだ、頑張るんだ……】

「すてっきー?」

【私には心が居る。だから、頑張れるし頑張りたい。確かに怖いよ……でも、怖いからこそ、前に進まないと!】

 

 そう、前に。震える足での一歩。恐怖こそが獣であるならば、その踏破こそが人間の証。頑張るからこそ、生きていられる。私はこれ以上なく、燃え上がった。

 

【下を見て、頑張れるというのは判る。でも……ずっと下ばかり見ていたのは駄目だった! でも、勇気を出して、私はこれからやっと立ち向かうんだ!】

 

 遅い。優しさの綿の中で、全てが遅きに失している。本当は生まれたその日に、全てを賭して魔物と戦うのを誓うことがきっと、正しい人間らしさだった。

 だって、私は知っていたのだから。ただ一人、魔物の捕食を、それを自然と識っていた。だったら、一人が怖いと怯えていないで、魔物という自然を征服しようとしても良かったのに。

 私が目を伏せている間に、どれだけ多くの死が上からもたらされていたことだろう。それを判って私はこれまで、罪悪感に呑まれていた。けれども、すくんでいるばかりで、どうする。頑張るんだ。今からでも。

 

「すてっきー……輝いてる……」

 

 そんな感情は演出と繋がり、私のアバター杖の一体全体を光で輝かせることとなった。少し、恥ずかしい。けれどもそれがどうしたことだろう。照れは足かせになってはいけない。それは更なる高揚に結実しなければならないだろう。

 そう、どんどんと、高みへ。自棄に開き直りこそ、時に人を強くさせる。

 

「私も負けていられないね……行っくぞー! ……あれ」

【なっ!】

 

 そして私達は天を目指した。そして、数多の漏洩を認める。

 手のひらに何時までも増えゆく水を溜めておくことなど出来ない。だからそれはきっと、汀さんの指の間から零れ落ちたものだったのだ。

 そう、とうとう臨界点を越えて、魔物があまりに巨大になった全体をぽろぽろ落としていく。雨のような全て、その一粒一粒が魔物である。私達はその事態に、慌てる。

 

【降り、始めた】

「急がないと!」

 

 未だ大部分は、空に在る。大元を切り取れば、全てはそのうち末端が壊死していくのは間違いない。だから、急ぐのは当たり前。

 しかし、これから私達が魔天本体を何とかすることが出来たとしても、その間に人々に被害は多分に出てしまうことだろう。このままでは、死が地に蔓延してしまうに違いない。

 それは嫌だ。けれども。

 

【気にせず、行くよ!】

「うん!」

【貝殻オーニング】

 

 今まで足りなかったのは、覚悟。足を止めて悼まずに、ただ真っ直ぐに立ち上がる。その気持ちは今やっと持つことが出来た。

 全てを守ることなど不可能。なら、せめて前に進むための視界ばかりを確保する。一歩のための二枚貝の守護。それによって、私達は降りゆく魔物を無視しながら、天へと近づいていく。

 

「はぁ、はぁ……これくらい近くなら、大丈夫かな……」

【ここ、なら……きっと】

 

 そして、ざあざあ降りの大地を無視しながらしばし。そうしてようやく私達は効果範囲へまで駆けつけられた。そう、魔物の群れの集合体、魔天の目前へと。

 それは、数多の生の集合体。薬効によって醜く肥大化したそれは、最早光を透過することもなく、薄暗くいままにひしめき合っている。色も様もダークに変貌し、かつての多貌多色は見る影もない。

 零れ落ちるものはまだしも、魔天全体は正しくひとつなぎの巨体のようだった。数多の感覚器を秘めた全ては活発な生命活動を気色悪く続けている。

 

「気持ち、悪い」

 

 そう、コレに対する感想はそのひと言で足りた。理解し難い、多種の生命。それは、否定するべきものだった。

 

【(鬨の声)】

「っ!」

 

 勿論、あっちもそれは同じことなのだろう。同じ匂いがしても理解し難い小さな私達を受け止めて、一斉に咆哮を始めた。

 魔法で守られていながらも、全身が震えて痛みすら覚えるのを感じながらも、私達はそれに耐えながら対す。震えは、もうない。これは私と魔物との、存亡を賭けた戦いなのだから、怯えている暇なんて、ありえない。

 

【ラプチャーの網……よし。これで少しは耐えられる】

【(親愛に対する威嚇)】

「うっ、すてっきー。これからどうすればいいの?」

 

 怒号。全ての触腕に組織が攻撃性を持って遍く飛んでくる。拒絶の格子であっても、携挙のネットだとしても、こんな膨大で夥しいものを受け止め続けることなど出来ない。

 とうとう恐れ、持った私の手を支えのようにして強く握る心に、私は努めて優しく言った。

 

【私達の、本気をぶつけよう――心、詠って?】

「詠う?」

 

 至近のあまりの大質量に歪んだ空の中、歪んだふわふわくせっ毛を揺らしながら首をひねる心を、場違いにも可愛いと笑みながら、私は彼女の疑問に答える。

 

【今までは、私の思いを写したものを、魔法にしていたの。でも、それだけではもう足りない。なら、心も本気で想って、それを言葉にして。それを私は形にするから】

「言葉に、する……詠唱?」

【そう。この世が想いの連続で出来ているのなら、無意味は意味によって救われるのなら、だったら私は心の唄で世界を守りたい。それはきっと、愛よりも美しくて何にも負けないものになるだろうから】

 

 魔天を滅ぼすための、魔法を、紡ぐ。それが、一人で出来ないことなら、心の力を借りてでも。私達なら、負ける筈がない。そう、決めた。

 

「分かった!」

 

 心の逡巡は一瞬。桃色の波間に埋もれながら、彼女は蕾のように淡い唇を開いて、私の期待に応える。

 

「――空が愛ばかりなら」

 

 上から下へ、醜いものが流れていく中、その唄は愛らしい声で吟じられた。哀しみを含めて、心の想いは詠われる。

 

「色は一つで、心も同じ。誰もが青を望んでいく」

 

 邪魔するように、魔天からの攻撃は続いた。次第に、守護の網に孔が空いていく。しかし、そんなものはどうでもいいと、私は彼女の言葉に聞き入った。

 

「――空に悪があったなら」

 

 そう。あったのなら。

 

「色は不明で、心は散り散り。不純に涙が零れてしまう」

 

 想像の通りにずっと涙を隠すために、下を向いていた。けれども、今度こそ私は首を上げる。一度もその青を知ることが出来なくても、それでも空を諦めきれなくて。瞳を閉じた心は、更に続ける。

 

「――それでも、見上げ続けて背伸びする。そんな私達はまるで――――」

 

 その時、零れる、から溢れるに変わった。きっと、汀さんでも耐えられない量に至ったのだろう。自由に、魔天は堕ちてくる。

 全てが当たって、網は一様に破られた。後は、丸裸の私達があるばかり。そのまま降り落ちて来れば、私達はどうしようもなく霧散する。

 けれども、遅い。遅過ぎる。最早、魔法は私達の心より形になった。彼らの体当たりよりも、私達が詠う方が尚早い。

 

 光の色が、形になった。それは空を見上げ続ける私達の同類、太陽を目指して伸びる花。

 

 

「【ひまわり】」

 

 

 伸びて、届いて。全ての幸せのために。そして、何もかもが光に包まれた。

 

 

 

 消えた。落ちた。全ては自由。何もかもが、空色の邪魔をしない。

 何一つ掴めない落下の中で、私は眩さに目を細める。

 

「ああ――あれが」

 

 私は初めて、太陽を見た。そして、目を潰されぬように瞑って、しかし全身にてそれを感じた。陽射しの温もり、それはまるで抱擁のようで。

 

 

 ああ――世界は光で満ちている。

 

 

 



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最終話 私は彼女の魔嬢(まじかるすてっき)

 

 

 光降る。そんな見出しの記事が出たそうだ。

 それは私達の創ったひまわりを形容したものであり、唐突に現れた、世界の全てを覆う怪物が消えた後。見えなくなってしまったと思っていた太陽が再び顕れてくれたことへの感動が、そんな言葉を紡がせたようでもあった。

 つまるところ、私と心の仕業は大いに仰がれたものなのである。思わず、先頃に出た新聞紙を摘まんでぶら下げながら、私は呟いた。

 

「世界を晴らした少女、かあ……」

「心ちゃん、凄いね! 一躍有名人だよ!】

「凄くないよー。本当に凄いのはすてっきーなのに……どうして私だけ」

「あの時、私は杖に自分を欺瞞していたからね」

「ずっこい!」

 

 跳ねっ返りのふわふわ茶色い髪の毛も、どこかくたくたに心は憤慨する。緑わんこが隣でにやにやとしていることも、彼女の気を害している理由の一つであるようだ。

 私が事前にかけかけたレイヤーが薄く残っていたがために、上手く情報に顔は載っていないが、どうにも特徴的な矮躯に髪型を見れば分かる人には分かるようである。学校ではあれは心なのではないかと、クラスメイトを大いに集めて人気者となっていた。

 怒りと恥ずかしさで表情をころころ変える、心。そんな百面相を、鬼の子は笑う。

 

「けらけら。人の世は面白いねえ。あんな程度のことで一喜一憂するなんて」

「汀さんには、魔天もあんな程度なんだ……」

「世界の危機そのものさんは、構え方が違うねー】

「ぶう。やっつけるまで、結構大変だったのに!」

「死ぬほどに大変でもなければ、安い安い」

 

 親戚の私ですら知らなかった楠の鬼。秘蔵っ子、というよりも忌子としてずっと隠されていたらしい汀さんは、成長し過ぎているそうであるピンクの角を掻き掻きそう言った。身じろぎだけでその突端に空気が切り裂かれて、きりと啼く。

 楠川の広い家の縁側、陽光散り散り煌めく中で、あくびをしながら茉莉ちゃんは滅びの卵の一つに疑問をぶつけた。

 

「ふぁ。死者行方不明者は全世界で十万単位。これって、大事じゃないの?】

「一体全体滅ぶことさえなければ、下らないよ」

 

 冷たく、至極どうでも良さそうに汀さんは答える。私には彼女の綺麗な顔が、冷たい尖りに思えた。

 そう。魔天は一部が落ちて、地は多く血に汚れたのだ。内臓が消し飛んでも性から食み続けた魔物共は、軍を壊して国に穴を開けて、死ぬまで人間を虐めていった。

 それを知ったのは、私達が一昼夜どころではなかった深い眠りから覚めてから。丁度いい敵手の出現に力ある世界の秘部がいい機会と大いに日の目を見たという情報と共に、アリスさんが教えてくれた。

 私には、自分の手の平から零れてお母さんのところへ向かった沢山の人達の喪失が悲しい。

 しかし、人間から生まれた異種である汀さんは、そう思わなかったようである。けらけらと、しかし面白くなさそうに彼女はそれしかないからと笑む。

 

「鬼さんは情がないねえ】

「けらけら。どうせ食べるものを気にしても、面倒なだけだからね。ま、それなら今こうして話しているのも余分だけれど」

 

 私達を見渡して、鬼はただただ笑い続ける。珍しいものを見た、その楽しみに親しみはまるでない。その無意味を知りながら、私は異見を述べずにいられなかった。青く澄んだ上を見上げて髪を降ろしながら、私は零す。

 

「余分じゃあ、ないよ」

「そうかな?」

「すてっきーの言う通りだよー! 牛さんって可愛いけれど美味しいし……えっと、そんな感じ!」

「よく、分からないなあ」

 

 心のたとえ下手な言葉に、鬼さんは三白眼をきょろりとしてから、首を振った。窮まった事態に至るまでは擬態以外に捕食行為を取らないという汀さん達には食事は行儀でしかない。

 ならば、と茉莉ちゃんは言った。

 

「いただきますも出来なければみっともない、っていうことだよ】

「けらけら。なるほどそれは不作法だったね」

 

 そこで合点がいき、汀さんは自分を嗤う。余計こそが調和を生むのであれば、なるほど倣うにこしたことはない。そんな納得。

 しかし、私はこうも思う。後で食べるときに辛くなるとしても、隣り合っているからには人を想ってはくれないかな、と。酷く、勝手な考えだけれど。

 

「ならばすてっきー。あんたは、魔物にちゃんといただきますをしたんだろうね?」

「していない、かな」

「ならば、どうする?」

 

 同じ楠でしか対抗出来ないと思っていたけれども滴ちゃんがこれほど成長していたのであれば大丈夫だろう、という海お爺さんの言によって自由を得た汀さん。

 楠というセカイを呑み込み膨張し続けて孔を開けて連なる巨大な物の突端。破裂しそうな程に尖りきった鬼の子供。おそらく私が止めなければならない未来の敵。

 そんな彼女の戯れ言を、真剣に捉えて私は目を瞑る。そうして、手を合わせて過去の敵を思った。

 

「……ごちそうさま」

 

 魔物。とても理解できない彼方の存在であったけれども、それでも思うのであれば、それは嫌悪感でも罪悪感であるべきではない。対した、呑んだ。ならば、下した相手に思うのは敬意であって然るべき。そうあって欲しくて、私は思うのだった。

 鬼は、白襦袢をひらひら、大いに笑う。

 

「けらけらけらけら! いいねえ、私もそうするよ! 後ですてっきーを食べてあげた時にはねっ」

 

 身を縮めて終局もたらす爆発堪え続ける無理した人の形達の中の一際歪は、頭上の突起で世界を傷つけながら、私を見た。それに、私はこう返す他にはない。

 

「そうはさせない」

「けらけら。そうなるしかないんだよ」

 

 運命は、決まっている。人は死ぬ。鬼は滅ぼす。ただそれだけの、当たり前。けれど曲がりなりにも空が落ちる定めを覆した私は、そんなことを認めたくはなかった。

 私の隣でむっとする心と茉莉ちゃん。それを手で制して、私は今にも零れそうな彼女に言うのだった。

 

「でもね。私はこれ以上貴女に傷ついて欲しくはないの」

 

 悲しまないで。捨て鉢にならないで欲しい。だって、貴女はこんなにも生きているのだから。傷つけ、そして傷ついて。

 

 ほう、という気の抜けた声。そうして、再び笑顔が綻んだ。それは、柔らかで、どうにも先とは違うもの。はじめて私を認めて、汀さんは目を赫々と開く。

 

「けらけらけら。ああ、その時が楽しみだねえ」

 

 未来を想い、鬼は笑った。

 

 

 花は散る。恋は終わった。しかし、それでも尚と彼は続ける。

 

「それでも滴ちゃんを思うよ。精一杯、想う」

 

 健太君は、言った。彼が持っているのは未練ではなく、違うもの。私を見る真っ直ぐな目が格好いいな、とはじめて私は思う。そこには、愛があった。

 

「一緒になれなくても、好きなんだ。それだけは、失くせない」

 

 青い心と混じって、どうしようもなく恋しくても。それでも健太君は私に迫らない。傷つけるくらいなら、自分を痛めてそれでおしまいにしよう。そんな覚悟が見て取れた。

 

「そう。私も、同じ。好きだよ」

 

 そんな、非凡な男の子。決して、嫌いではない。それでも、私の恋は終わっていた。そして、私達も終わっている。

 

「でも、もうアライメントが違う」

「そっか」

 

 薄青く、もう人の認識に混じることの出来なくなった健太君ははにかむ。並びが異なる。尺度も時間も違った。番うことなどとても出来ない。もしこれで交わることになってしまえば、それこそ私達は大須の奴隷。そんなのは、嫌だった。

 あの日。老婆が失くなった駄菓子屋。そこに並んで私達は、恋を終わらせた。

 

「だから、断ってくれたんだ」

「うん」

 

 自ずと伸ばしあった手が掠め、すり抜ける。一度繋がった高次に引っ張られ続けたことで接点は遠ざかり、もうおぼろになった健太君とは手すら繋げない。これでは、もう。ぽろりと、涙は落ちる。

 

「ああ、だから私は可哀想、だったんだ」

 

 異常に触れて引き寄せられ、おかしくなって、そうしてこうも日常は無様に終わる。お母さんのあの日の言葉はとても正しかった。異常に、正常は壊れて消える。だから、悲しいのだ。

 

「滴ちゃん」

「何?」

 

 嘘のような現実が悼ませる。それでも、前を向くために私は目を開けた。そうして、歪んだ視界の中から青に溶ける彼を見た。

 ああ、こうも希薄になって、それでも健太君は私を認めている。空に消える前。彼は最期に、こう言った。

 

「さようなら。それでも僕は、君の幸せを、ずっと望んでいるよ――――

 

 蕩ける間際の言の葉は幽か。だから殆ど口の形で想像したもの。けれどもそれは、きっと正しい。そう、信じた。

 そして、だから私は健太君の望みのためにも可哀想にはならない。幸せになるんだと、そう決めた。

 

「ありがとう。私の、好きだった人」

 

 だから、私は泣くのを止めて、空を見る。

 蒼穹は、憎たらしいくらいに、澄んでいた。

 

 

「神々が左手ならば、我々は右手だ」

 

 人知れず、いや知ることも出来ない異相にて、飽き飽きするほどに劣化し変化し続ける世界を補填し守って救っている、お父さん。ある日、彼は我が家の食卓にてそんなことを口にした。

 

「どういうこと?」

「似て、同じものではない、ということだ」

 

 お母さんの冷えたご飯を頂きながら、お父さんは厳しい顔を真剣にさせる。そうして、行儀悪くも箸で私を示した。

 

「お前は、全能ではない。本当は救えもしないだろう。だが、利くからには……望むものと触れられる」

「ふうん……でも、それって残酷でもあるよね」

「かもしれないな。……ふぅ。旨かった」

 

 立ち上がり、着衣を正してそうして一度、私を見る。

 人間でありながらも大須の長であるが故に異常。そんなお父さんは、当たり前のように死んだお母さんのご飯を美味しく食べて活力としてから、また出かけようとする。

 もう私と時を同じにしたこの場に用はない。いいやあれども後ろ髪を引きちぎる思いで無視をしているのか。情より優先すべきものがある。それは、私にもよく分かった。

 けれども一つ、質問したいことがある。私はつい、一度気にしてから遠ざからんとするその大きな背中に声をかけた。

 

「お父さん」

「何だ?」

 

 お父さんは、振り返らない。構わず、私は続ける。

 

「どうしてあの日、助けてくれなかったの?」

 

 そう。お父さんならば魔天が落ちる前に全てを片付けられたはず。それなのに、お父さんは他の窮地を優先した。

 兄から訊くに、お父さんは鍵の行方、とかを探していたらしい。しかし、幾らそれが大事だとしても、やっぱりお父さんはお父さんをしていて欲しかったと、そう思う。だから少し、悲しかった。

 けれども、改めて振り返ってから、極めつけに強張った顔を緩めて、お父さんは言うのだ。

 

「それは、信じていたからだ」

 

 柔和から落ちた本音、と判る真剣。それに、私は眉根を寄せる。

 

「それって、私の力を、っていうこと?」

「いいや。お前が。お前たちが負けずに生きて……いつか幸せになることを、だ」

 

 そうしてぎこちなくも私を撫でる。やがてそれも止まったと思うと瞬きする間もなく、お父さんは消えた。その温もりに、私は零すのである。

 

「ああ、こうも想ってもらっている。私は幸せにならないと」

 

 そんな風に、悲壮にも思いを込めて。

 

 

 

 あれから一年、経った。しかし、変われども私の異常は何も変わらず、境遇までも舞い戻ったようであった。硬質にも、私は身を響かせる。

 

【ああ、やっぱりこうなったんだね】

「すてっきー、これってどういうことー!」

 

 ずっとずっと。私は平和に埋没しようと努めて、しかしそれは出来なかった。それを、久方ぶりに戦いの場に戻ってから、実感する。

 

【(機械的な無意味)】

 

 冒涜的な様体から響く、魔的な音。明らかに、下校中の私達の目の前に現れたのは魔物だった。買ったばかりの参考書を踏みにじる姿が、どうにも憎らしい。

 しかし、私にはその全体がわざとらしいことが良く分かる。これは、明らかに意匠が、目的が散見できた。

 

 そう、これは偽物であり、本物に似せたもの。贋作魔物。そんな言葉が頭の中からぽろりと落ちる。

 

【心。魔物を人々は知ったよね?】

「う、うん。きっと皆見上げて知ったよー」

【なら、それは触れたということ。目的となったということ。そして……人間なら何時かそれに届かせられるということ。まさか、こんな早いとは思わなかったけれどね】

「ええ、つまりこれって……わっ」

【(攻撃性の階)】

 

 魔法によって強化された肢体を持ってしても贋作魔物の攻撃を上手く避けきれずに、びょんびょん狐のワンポイントが付いたヘアゴムが弾け飛び、ばさりと心の髪が広がった。視界いっぱいの茶のふわふわ。私にはそれが、羽根の広がりにも思えた。

 

【つまり、これは誰かが魔物を真似して作り上げた贋作っていうこと】

「なんだってー! きゃ」

【(原点への怒り)】

 

 そして、続くはトビウオのような異形の攻撃。そこに感情が込められていることに気づいているのは、きっと私だけだろう。

 場違いな世界に生み出されたこと、それこそ彼の憎しみ。ならば、その怒りを受け止めて、還してあげよう。誰にも言わずにこっそりと私はそう、決めた。

 

【心。魔法、使うよ】

「ようしっ、やっちゃえー」

 

 そんな私の思いを知らず、ただ心は手を握って私に熱を示す。そうして、怖さの中で、笑うのだ。

 ああ、私は実感する。信頼すべき人と隣にある、今こそ幸せ。魔杖であることこそ、私の望みだった。

 

【それじゃあ――】

 

 だから私は、私の幸せのために、魔法を使って人々を守るのだろう。そう、彼女のために。

 

 私は彼女の魔嬢(まじかるすてっき)だから。

 

 

 

 

 私は彼女の魔嬢(まじかるすてっき)、了。

 

 

 



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