思い出の中に眠る少女 (Lyijykyyneleet)
しおりを挟む

魔法少女は人助けに行った

“この永遠の旅路を人はただ歩み去るばかり、

帰って来て謎を明かしてくれる人はない。

気をつけてこの旅籠屋に忘れものをするな、

出て行ったが最後、二度と再び帰っては来れない”

─『ルバイヤート』

 

* * * 

 

「そんでな、一回凛先輩の部屋に遊びに行ったんやけど、そんとき…」

「ふふふ」

 

あるよく晴れた日の夕方のこと。

東京の郊外の静かな街角を、学校帰りの二人の女子高生が歩いていた。

一人はストレートヘアのサイドをヘアピンでまとめており、制服の着こなしも折り目正しく、清楚な雰囲気を漂わせている。

もう一人は制服を少し着崩し、後ろ髪をリボンでポニーテールにまとめて、どこか快活な印象を周囲に与えていた。

家の方向が同じ二人は、楽しげにお喋りをしつつ、のんびりとした歩みで家路を辿っていた。

 

ちょうど、二人の学校では、中間テストが済んだところである。

張り詰めた緊張感がようやく和らぎ、大仕事を1つやり遂げた気分が満ちている。

ぽかぽかした陽気に誘われた黄色い蝶が、花の蜜を求めて、アカツメクサの咲く道端の草むらをヒラヒラと舞っていた。

 

「それじゃあ、試験も終わったことですし、今度の週末に凛先輩も誘って、どこかに遊びに行きましょうか?」

「あ!ええやんええやん! 行こ行こ!」

「じゃあ、せっかくですし、ちょっと遠出しましょうか。そういえば、富士急ハイランドとか、こんど入園料無料になるらしいですよ」

「えーでも、あれってアトラクションが値上がりするんやなかったっけ」

「そうなんですか?」

 

そんな二人の歩いている方向から、こちらに向かってくる、一人の小さな人影が見えた。

水色のワンピースをまとい、ロングの髪をツーサイドアップで可愛らしくまとめてある。背中には、小さなリュックが背負われていた。

年の頃は、10歳くらいだろうか。女の子は、二人の姿を認めると、向こうから軽快な足取りで駆け寄って来た。

 

「美兎おねえちゃん、楓おねえちゃん、こんにちは!」

「おっ、ちーちゃんやん。こんにちは」

「はい。ちーちゃん、こんにちは」

 

ちーちゃんと呼ばれた女の子は、楓と美兎に向かって、元気よく挨拶する。

彼女の名前はちひろ。楓や美兎の家の近所に暮らす、10歳、小学4年生の女の子だ。

 

「ちーちゃん、今学校から帰るとこ? 飴ちゃん食べる?」と、楓はカバンからキャンディを取り出し、ちひろに手渡した。

「楓ちゃん、関西のおばちゃんじゃないんですから…」

「ナハハ、ええやんわたし関西人やし」

「おねえちゃん、ありがと。 んーとね、今日はねぇ、これから人に会わなきゃいけなくて、お出かけしてるの、あむ」

 

楓からもらったキャンディを口に入れて、ちひろはそう話す。

 

「人? お友達?」

「んーん。知らない人。その人からお家に電話があって、“お仕事”を頼みたいって言われたの」

「知らん人から…?」

「“お仕事”?」

「うん」

 

楓と美兎は、顔を合わせた。一体、どういうことなのだろうか?

こんな小さい子に、知らない人が『仕事』を頼む?

話がよく見えなかった。というよりも、怪しい話にしか聞こえてこない。

 

「あの…さ、ちーちゃん。その人って…誰なん? 男の人? 女の人?」

「女の人ー。声しか聞いてないけど、お母さんよりちょっと年上ってかんじ。おばあちゃんじゃないけど」

「これから、どこで会うんです?」

「駅の近くにある、コーヒー屋さんでって言ってた」

「お母さんとかお父さんはいてないの?」

「うん。今ね、お父さんもお母さんもお仕事で北海道にお出かけしてて、一応『すまほ』で連絡したんだけど、つながらなかったの。

とりあえず、おるすばん電話っていうの、しておいたけど」

「…うーん…」

 

このまま一人で行かせていいものだろうか。

とりあえず電話を掛けてきたのは年配の女性らしかったが、安心はできなかった。

このご時世、ひょっとしたらその喫茶店に行くと、その謎の女性の代わりに変な男が出てきて、言葉巧みにちひろをどこかに連れ去るなんてことも有りうる。

それに、保護者が家を空けているとなると、なおさら危険だ。

 

「ねえ、これ着いて行ったほうがいいんじゃないですか、楓ちゃん?」

「…そうやな。ねえちーちゃん、あたし達もついてってええ? なんや心配やし」

「うん、いいよー。いこっ!」

 

と、ちひろは二人の心配もよそに、先頭に立って元気よく歩き出した。

二人は、慌ててその後に付いていく。

 

「ねえ、ちーちゃん」

「ふぇ?」

「その“お仕事”っていうのは…何なんですか?」と、美兎が問いかけた。

「あのねー、さがしてほしい人がいるんだって」

「人探し…ですか?」

「うん。おまわりさんじゃ見つけられないから、ちひろに頼むんだって」

 

またも、楓と美兎は目線をあわせた。

 

「どうしてまた、そんな大変なことを、ちーちゃんに頼むんです? その方は」

「んー…、ちひろが“魔法少女”だからかなあ? あんまり、知らない人には教えてないんだけど」

「魔法少女、ですか…」

 

彼女─ちひろには、ちょっと変わっているところがある。

それは、彼女は自分を魔法少女だと自称していることだった。

もちろん、周りの大人達や、仲の良い彼女の友達なども、誰も信じてはいないらしい。このくらいの年齢だと、日曜日の朝にやっているアニメに憧れて、ヒーローやヒロインと自分を同一視したくなることもあるだろう、と軽く流されているらしかった。

 

ただし、そんなちひろには、確かに1つだけ普通とは違う、特別なものがあった。

彼女の周りにいると、なぜだか分からないが、不思議と幸運に恵まれることがあるのだ。それで、周りの皆はその現象のことを、“魔法少女”だと呼んで納得していた。

もちろん、楓も美兎も、ちひろといた時に、ちょっとした幸運に出くわしたことがあるので、その事は知っていた。アイスの棒の当たりくじを引いたり、失くした物が出てきたりという程度のことではあったが。

つまり、ご地域に一人はいる、ローカルマスコットガール(ラッキーのおまけ付き)というわけである。

 

「でも、ねえ…」

 

だが、それを理由に小学生に人探しなどさせるものだろうか。

やはり、どう考えても怪しい。

 

「よっし、ここは考えてもしゃあないわ。美兎ちゃん、なんしか付いてって、変なんが出てきたら速攻でちーちゃん連れて逃げよ」

「むっ…さすが関西出身、心強いですね」

「へへっ。まーね」

「ちひろも耳の穴から手ぇつっこんで、おくばガタガタいわしたるぞー」

「古っ! 楓ちゃん、あなた小学生に何教えてるんですか…」

「ち、ちーちゃん、それはあんま使わんといて…」

 

そんなわけで、この三人は、駅の方角に向かって歩き始めたのである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

過去からの声が聞こえた

「ここが、その人に指定された喫茶店ですか…」

 

『依頼人』に指定された喫茶店は、駅から歩いて5,6分ほどの、雑居ビル群の裏路地にひっそりと佇んでいた。

調度品や内装は木造りで設えられており、周囲の喧騒から切り離された落ち着いた空気が、まさしく隠れ家的な雰囲気を醸し出していた。

普通なら、ゆったりとリラックスして紅茶やコーヒーを飲めそうなところだが、この店は表通りを通る人々の視線からは隠されている。

これから、ここで得体の知れない相手に遭遇するかもしれないと思うと、否が応でも背筋に緊張感が走るのを、楓と美兎は感じざるを得なかった。

 

「『依頼人』は、まだ来ていないようですね」

「せやな…」

「楓おねえちゃん、美兎おねえちゃん、何か飲もーよ! ちひろね、大人だからコーヒー飲む! かもんますたー!」

「ちーちゃんは呑気やなー」

「とりあえず、わたくし達も何か注文しましょうよ」

 

何があってもちひろを守ってすぐ逃げられるようにと、楓と美兎はちひろの両脇を固めるようにして座る。

ほどなく、寡黙で温厚そうな雰囲気を漂わせた、痩せ型の男性店主がやってきて、三人の注文を取った。

ちひろは宣言通りのアメリカンコーヒー。楓はカフェモカ、そして美兎がストレートのアールグレイ。10分もしないうちに、店主がそれらを三人の前に供した。

 

「それじゃあ、いただきますっ!」

「ちーちゃん、お砂糖とミルクは要らんの?」

「ちひろ、そのまま飲めるし! もう大人だし!」

「ほほー?」

 

自信満々のちひろは、ブラックのコーヒーをそのまま口に運ぶ。

 

「ほな、大人のちひろさん、感想をどーぞ?」

「…………今日は、このへんにしといてやる」

 

と言って、砂糖とミルクをコーヒーに投入するちひろを見て、ナハハハと爆笑する楓。

 

「くくく…いやー、やっぱ子供やなー、ちーちゃん」

「そういう楓ちゃんも、ずいぶん砂糖を入れてるじゃないですか。太りますよ? 淑女たるもの、わたくしのように優雅にストレートティーですよ」

「美兎おねえちゃんもさっきおさとうたくさん入れてなかった?」

「うっ…な、何のことでしょうかね」

「ナハハハハハ」

 

しばしここに来た目的を忘れて談笑する三人の耳に、喫茶店のドアを開ける、カランコロンというドアベルの音が届いた。

 

「いらっしゃいませ」

 

そう告げる店主の視線の先を追うと、そこには一人の女性の姿があった。

 

「こんにちは」

 

* * *

 

女性が店主に頼んだのは、『九曲紅梅』という紅茶だった。

普通の紅茶よりも値段の高いそれは、中国の浙江省というところの山奥で作られている、珍しいお茶なのだそうだ。

そう言われると、よくは分からないが、香りもなんだかフルーティだし、優雅で繊細な気がすると、楓は思った。

 

「あなた達が、“魔法少女”さん、でいいの?」

「はあ…いえ、正確には、この子だけです。私達二人は、ただの付き添いで来ました」

「うん。勇気ちひろです。いちおー、魔法少女やってます」

「私は月ノ美兎といいます。で、こっちは樋口楓」

「…よろしく」

「そう。ちっちゃくて可愛い魔法少女さん達ね…」

 

そう言って女性は、口元におだやかな微笑みを浮かべ、紅茶を一口だけ口に運んだ。

年の頃は、50代くらいのように見える。言い方は悪いかもしれないが、中年女性と言っていい年代だろう。

紺鼠色のトップスに、膝下までの灰色がかったスカート。薄く灰色がかった茶色のピンヒールが、全体の雰囲気を引き締めている。派手過ぎす、それでいてスッキリとまとまった、大人の女性らしい出で立ちだ。

亜麻色がかったセミロングの髪は、ややウェーブがかかっている。顔立ちは上品でいて、すこし睡たげというか、儚げな印象だった。左目の下には、泣きぼくろがひとつ。

一見して、何か悪いことを企てるような女性には見えなかった。どこかの社長夫人か、女性雑誌の編集長とでも言われれば、納得したかもしれない。

 

「早速ですけど、この子…ちーちゃんに、人探しを頼まれたって聞いたんですけど。どういうことか、詳しく聞かせてもらえますか?」

 

本題に入る口火を切ったのは、楓である。

美兎は、楓の喋り方が標準語に切り替わっていることに気づいた。

楓は、気を許した相手には自然と関西弁で話すのだ。まだ、女性のことを警戒しているのだろう。

 

「そうね、どこからどう話したらいいのかな…まずは、この動画を見てもらったほうがいいのかしらね」

 

女性は、持っていたポシェットからスマートフォンを取り出すと、インターネットブラウザを起動して、動画サイトにアクセスした。

そして、ある動画を開くと、スマートフォンの向きを変えて、ちひろ達三人にそれを見せた。

 

その動画は、不思議な内容の動画だった。

雨の降るどこかの街角で、傘を差した女の子が一人、カメラに向かって何かを喋っている。

女の子の年頃は、ちひろと同じくらいだろうか。目の前の女性と同じような、色素の薄い亜麻色の髪に、黒いベレー帽を被っている。

そして、どこかの学校の制服なのだろうか、白いシャツと黒いスカートをまとっていた。

雨の音に紛れてしまって、この子が何を話しているのかは、聞き取れない。

 

「…何ですか、この動画?」

「まだ他にもあるわ」

 

女性はまた別の動画にアクセスする。すると、先ほどと同じ女の子が、どこかの建物のドアの前でまた何かを話しているが、これもまた、車か何かの音に遮られて、聞こえない。

同じような動画が、いくつかあった。今度は熱帯魚店の前で、「この子にしました」と話す女の子。場面は家の中に移り、家の中で何か硬いビー玉のようなものを、何かの容器に大量に移していくらしい、カチャカチャとした音がしていた。

 

「この子を、探してほしいの」

「この子を…? どういうことですか? この子は一体誰なんですか?」

 

女性は、また別の動画を再生した。

 

「“鳩羽つぐ”です。西荻窪に住んでます」

 

何処かの無機質な部屋の中で、その女の子はそう名乗った。

 

「“鳩羽つぐ”…この子の行方が、分からないの」

「! それは…行方不明ってことですか?」

「そう。そういうことに、なるかしらね」

 

女性は、やや伏し目がちになって、俯いた。

その表情には、どこか悲しげな影が差したように見える。

 

「あの、ちょっとおかしくないですか、それ?」と、動画の説明欄を見ていた美兎が口を挟んだ。

「だって、この動画ですけど、一番最後に投稿されたものでも、先月ですよ」

「え? ほんま、美兎ちゃん?」

「ほら、ここ見てくださいよ楓ちゃん」

 

ちひろと楓も、動画の説明欄を覗き込む。動画の説明欄の文章には、これといったことはほとんど書かれていなかったが、動画の投稿日は、確かについ先月になっていた。

 

「この子、行方不明になったんでしたよね? ということは、居なくなったのは、つい最近のはず。だったら、今頃大ニュースになっているはずじゃないですか。でも、そんなニュース、テレビでも新聞でもやってないですよ」

「…確かに」

「ちひろも見てないー」

 

美兎の当然の疑問に、女性は顔を上げて応えた。

 

「それはそうだわ。その子が居なくなったのは、もう40年も前のことだから」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

時間に埋もれた謎ひとつ

「よんじゅ…? ええっ?」

 

意味が分からない、というように、美兎も楓も目を瞬かせた。

そうよねと言って、女性は紅茶を一口飲んだ。

 

「その子は、40年前に自分の住んでいた街から、居なくなったの。それが、今になって、急にそういう動画がインターネットにアップロードされるようになった」

「ええと…じゃあ、これは40年前の動画ってことですか?」

 

女性は首を静かに横に振る。

 

「動画が撮られたのは、最近のようね。スマートフォンで撮ったのか、デジカメかはわからないけれど、画質もとてもいいし…あの当時は、8ミリビデオって言って、こんなに綺麗な映像は撮れなかったのよ。もちろん、詳しい人ならそのビデオテープをデータにして、インターネットにアップロードすることくらい出来るでしょうけれど、こんなに綺麗にはならないんじゃないかしら」

「それは、確かに…」

「せ、せやけど、40年前のお友達の子が、今もこんなちっこい子のわけないやないですか?」と、思わず関西弁に戻った楓が言う。

「ええ。けれど、名前も、姿も、本当によく似てるの。来ているこの服も、あの頃通っていた学校の制服のようだわ。住んでいた街も西荻窪で同じだし、この動画に写っている金魚のお店も、確かあの頃からあったと思う」

 

女性は、40年前、“鳩羽つぐ”と同じ学校に通っていたらしい。

学校では、とても仲が良かったのだそうだ。ところが、ちょうど40年前のある秋の日を境に、こつ然と彼女は姿を消してしまった。その日まで、彼女が蒸発するような前触れはまったく何もなかったらしい。

誰かに誘拐されたのではないか、殺されてしまったのではないか…随分と警察も念入りな捜索をしたのだそうだが、結局のところ、誰も彼女の行方を掴むことはできず、事件は迷宮入りになってしまったのだという。

それから10年後に、裁判所は正式に失踪宣告を出し、彼女は法的に亡くなったことになった。彼女の家族も、いつの間にか住処を引き払い、行方知れずとなってしまった。

 

「…だから、この子が一体何者なのか、どうしてこんな動画を作っているのか、知りたいのね」

「警察には、連絡したんですか? もし、何か犯罪絡みのことなら、わたくし達にはちょっと…」

「警察にも興信所にも相談してはみたけれど、相手にされなかったわ。それはそうよ、40年も経ってから、あの頃と同じ姿の子供が現れたなんて言っても、頭がおかしくなったと思われるだけだもの。動画も見せたけれど、明確に犯罪が行われていない限りは、何も出来ないって言われたわ」

「……」

「それで、どうしようかと思った時に、人づてに、“魔法少女”の女の子が居て、色んな悩み事を解決してくれるらしいっていう噂を聞いたのよ。それで、藁にもすがる思いで連絡先を調べて、連絡してしまったの。もちろん、半信半疑だったけれど…」

「…なるほど」

「どうかしら、ちひろちゃん…あなたに、何とかできるような内容かしら? もし、この子のことを調べて教えてくれたら、必ずお礼はするのだけれど」

 

とても信じられない話ではあるのだが、一応、話の筋は通っているように楓と美兎には思えた。

とはいえ、こんな話をどうやって解決しろというのだろう? ここにいるのは、一介の女子高生二人と、小学四年生の女の子一人に過ぎない。探偵の真似事すら、務まりそうになかった。

二人が、そのように思案を巡らしていると、

 

「うん、わかった。この子を、さがしてみればいいんだよね?」

 

今まで、あまり口を挟んでこなかったちひろが、急にそう言った。

ぽわぽわとしたいつもの“ちーちゃん”とは思えない、やけに力強い声色だと、楓と美兎は感じた。

その、次の瞬間。

 

「!?」

 

楓と美兎の間に座っていたちひろの身体から、何か眩しい光のようなものが発せられたように、二人は感じた。

ほんの一瞬で、その光は止んだ。そして─

 

ちひろの姿が、一瞬にして変わっていた。

 

髪を結わえる蒼のリボンはそのままに。

リボンとフリルをふんだんにあしらった、華やかな瑠璃色のジャケットとスカート。白銀のグローブ。空色のリボンをあしらった、汚れなき純白のソックスと紺碧色のブーツ。

これは、まさしく──!

 

「ま、魔法少女じゃないですかーーーーっ!!」

 

店内中に響き渡る美兎の叫びとともに現れたのは、紛うことなき魔法少女となったちひろだった!

 

「へ、変身しよった…ちーちゃんが…」

「ほ…本当に魔法少女だったのね?」

「ん! ちひろ、魔法少女ですからこれくらいは!」

「マジでか…」

「い、いやいやいや、ちょっと待ってくださいよ!」

 

と、手をバタバタさせて美兎がやたらと何かを叫んでいる。

 

「い、いいんですか魔法少女ってこんな喫茶店でお茶してるときに変身していいんですか!? ああでも、セーラームーンも敵とかなんか色々来たから自分ちで変身して狭いとかなんとか言ってた回があったようななかったような! っていうかホントに魔法少女だったんですねちーちゃん!!」

「ぶー、前から言ってたじゃん、この前も信じるって言ってたのにやっぱり信じてなかったんじゃん!」

「いや、まさかちーちゃんがホンマに変身するとは思わんて…」

「…あなた達ふたりとも、知らないでついてきてたの…?」と、女性は呆れ顔だ。

「これはヤバイですよこれは! いろいろ言いたいですけどなんて反応すればいいんですかマジで!」

「美兎ちゃん、わあったからとりあえずクソザコムーブやめーや」

 

手をダバダバさせていた美兎を落ち着かせると、楓はひとまず話を戻すことにした。

 

「えーっと…正直私もメッチャ驚いてんねんけど…ちーちゃん、ホンマの魔法少女やったら、その子探すことも出来るん?」

「んとねー、人とかものをさがす魔法があるよ。あんまり遠いと、見つけられないこともあるけど…」

「ホンマに!? それやったら、すぐ解決するやん!」

「うん。やってみるね!」

 

そう言うと、ちひろはグローブをはめた両手をテーブルの上に出した。

その両手のひらの上に、ホタルの光のようなものが渦のようになって徐々に集まり、光球のようなものを成した。

そして光球は次第に姿を変えて、淡く光る矢印を空中に形作った。

 

「お、おおお…魔法ですよ、本物の魔法ですよこいつぁ…!」と、美兎は興奮しっぱなしだ。

「これで、さがしものがどっちにあるか教えてくれるんだよ。それじゃあ…この“鳩羽つぐ”ちゃんを、さがしてください」

 

ちひろの願いを聞いた矢印は、空中でクルクルと回転する。

おそらく、捜し物の存在する方向を指してくれるのだろう。楓は、自分のスマートフォンを取り出して、地図アプリを起動した。矢印が、西荻窪の方角を指すのかどうか、知りたかったのだ。

しかし…

 

「あ、あれっ?」

 

驚いたような声をあげたのは、当のちひろだった。矢印が、どこを指すということもなく、真下を向いてしまったのである。

もちろん、ホラー映画でもないかぎり、ここの地下に“鳩羽つぐ”がいるはずもない。

 

「おかしいなあ…どこも指してない…?」

「どしたん、ちーちゃん? 失敗?」

「んーん。魔法はね、ちゃんと使えたよ。でも、さがしてる人が見つからないみたい」

「ってことは…?」

「“さがしてる人がいない”のかなあ? それとも、ずっと遠い所にいるのかも…」

「いない…?」

 

一瞬、背筋が寒くなるような感じを、楓は覚えた。魔法でも見つからないということは、つまり、死んでいるということではないのか?

しかし、現に動画には、“鳩羽つぐ”を名乗る彼女の姿が写っている。──これは、一体誰だ?

 

「ゆ、幽霊…とか? このつぐちゃんって子はもう死んでいて、これは心霊映像ってこと…?」

「えーやだ、ちひろゆーれいはこわいんですけど…」

「魔法少女にそれ言われると、わたしら一般人は為す術もないね…」

「仮にその子が幽霊だとしても、映像を撮っている人がいるのではないかしら。その人の居場所は、ちひろちゃん、分かる?」

 

魔法を見て、はじめ楓達と同じように驚いていた女性だったが、やがて思いついたように、そう言った。

確かに、幽霊が自撮りした心霊動画なんて、聞いたことがない。少なくとも、誰か生きている人が動画を撮らなければ、心霊動画にはならないはずだ。

だが、ちひろは首を横に振った。

 

「うー、ごめんなさい、むりみたい…人をさがすときは、名前と、その人の顔が分からないとだめなの…」

「そう…」

「でも、ちひろなんとかしてみる!」

「えっ?」

「ほかの魔法で何とかなるかもしれないし、ちひろ、こまってる人がいたら助けたいし! なにしろ、魔法少女だから!」

 

ちひろは、そう言って任せろと言わんばかりに胸を張って、笑顔を浮かべた。

 

「ちひろちゃんは、笑顔が素敵な魔法少女ね」

「えへへ…」

 

はにかむちひろを見て、つられたように、女性も笑った。

それから女性は、ポシェットからメモ用紙とボールペンを取り出して、サラサラとメモ帳に数字を書き込んだ。

 

「それじゃあ、一応、お給料のお話もしないとね。もしこの件を解決してくれたら、成功報酬として、お給料をお支払いするわ。もちろん、お給料の他に掛かった経費は、成功に関係なく請求して頂戴。前金も、このあとお支払いするわね」

「こ、こんなにですか!?」

「お、おおお…!」

 

楓と美兎が、その金額が書きつけられた用紙を破る勢いで握りしめている。

ちひろはそれをちらっとのぞき見て、口を挟んだ。

 

「え、べつにこんなにいらないよー? ぼらんてぃあでやるよ?」

「ち、ちーちゃん!? 何言ってるんですか! ここはわたくし達に任せてください! ね、ね!?」

「そ、そうそうそう!! 私らがぜぇーんぶ話付けたるから! ね!」

「わ~わ~わ~わ~」

 

楓と美兎が、慌てた様子でちひろの肩を掴んでガクガク揺さぶった。

けれど、ちひろはちょっと困ったような表情を浮かべて、

 

「んー…でもちひろ、みんなをえがおにする魔法少女だから。お姉さんにも、えがおになってほしいし…」と言ったのだった。

 

「…あー、なんでしょうね。楓ちゃん、わたくし、ちーちゃんが眩しくて見れません」

「気ぃ合うな美兎ちゃん。私も見れんわ。7歳しか違わんのに、人間こうも変わるもんなんやろか…」

「どしたの、おねえちゃんたち。ちひろ、もう変身やめてるんだけど…」

 

もう元の服に戻っているにもかかわらず、後光がキラキラと差しているようなちひろの姿に、目を覆ってしまう女子高生二人組であった。

 

(…最近の女の子は、本当に魔法少女に変身するようになったのか。VRだかARだかいったかな。もう、私も世の中の流れにはついていけなくなってきた。東京を出て、故郷に帰るべきだろうか…)

 

そんな彼女たちの様子を見て、寡黙な店主が人生に思いを馳せていることなど、ちひろ達には知る由もないのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東京の空に疾風が奔った

『楓ちゃん、例の失踪事件の新聞記事、見つかったよ』

「ほんまですか!?」

 

その数日後の夜、楓に電話を掛けてきた凛先輩は、開口一番そのように言った。

静凛は、楓や美兎の通う高校の一個上の先輩で、高校3年生である。ネットやゲームのことにも詳しく、勉強や学校のことでいつも助けてくれる、頼れる先輩だ。

あの女性と駅前の喫茶店で面会した後、楓と美兎はネットで鳩羽つぐ失踪事件の経緯を調べていたのだが、ネットが普及するよりも遥か昔の事件であるためか、これと言った情報が見当たらなかったのだ。

そこで凛先輩に頼み、図書館で当時の新聞記事のマイクロフィルムなどを手分けして調べてもらっていたのである。女性の話を疑うわけではないが、あまりにも突飛な内容だけに、話の裏付けが欲しかったのだ。

それに、当時の記録があれば、もっと何か分かるかもしれないと楓は思ったのだが─

 

「それで、何か新しい情報とか、書いてませんでした? つぐちゃんを探すのに手がかりになりそうな事とか…」

『特には。学校の帰り道に、突然行方がわからなくなったんだって。何の前触れも手がかりもなく居なくなってしまって、それっきりだったみたい。不審者が出たとか、家が荒らされたとか、そういうのもなし。近くの池とか側溝とかも片っ端から浚って調べたみたいだけど、何にも出なかったみたい』

「そうですか…」

『うん。手がかりがなさすぎて、神隠しにあったんじゃないかなんて言う人も居たらしいよ。でも、その後の進展が全くなかったから、そのうち皆の興味が薄れて、忘れられてしまったみたい』

 

どうやら、あの女性が何か嘘をついているわけではなさそうだと、楓は思った。ただ、事件を調べる手がかりが何もない。

古い事件であっても、人々の興味を惹くような手がかりが残された事件は、いつまでも人口に膾炙されるものである。

たとえば、古くはイギリスの切り裂きジャック事件。人里離れた場所で起きたドイツのヒンターカイフェック事件。意味深な『ルバイヤート』の一節が残されたオーストラリアのタマム・シュッド事件に、アメリカのボーイ・イン・ザ・ボックス。

日本でも、鳩羽つぐの失踪とほぼ同時期に、「男に追われている」という謎めいたメモを残して女性が殺された、京都の長岡京殺人事件が起きている。

しかし、こうした多くの闇と謎に彩られた数々の事件と違い、鳩羽つぐの失踪は、あまりにも静かであったらしい。まるで、鳥が水面を濁さずに飛び去るように。

敢えてはっきり言ってしまえば、世間の人々の目には、彼女の失踪はさほど面白くなかったのだ。だから、事件は忘れ去られた─。

 

「凛先輩、ありがとうございます。とりあえず、今度の休みに私らで西荻窪に行ってみます。地元の人なら、何か分かるかもしらんし、フィールドワークしてきますね」

『…ケーキバイキング』

「え?」

『今度一緒に行くって約束してたでしょ。あれ、私の分は楓さんと美兎さんの奢りだからね。ここ毎日、学校帰りに閉館まで図書館で粘るの、結構大変だったんだから。そこ、忘れないように』

「うっ…わ、わかりました」

『ふふ。何か分かったら、また連絡するから』

「ありがとうございます。よろしく!」

『うん。それじゃあね』

 

電話を切って、ふう、と楓は息をついた。凛先輩も引き続き調べてくれれば、また何か隠された手がかりが出てくるかも知れない。

あとは、ちひろの魔法が事件を鮮やかに解決してくれる事を期待しよう。まあ、どんな魔法が使えるのかも、よく知らないのだけれど。

 

「ん…」

 

楓の机の上に、あの女性が渡していった、彼女の連絡先の電話番号を書いたメモが置いてあった。

スマホの連絡先に登録しておくか。スマホを操作しながら、名前欄を入力しようとして、楓ははたと気がついた。

 

(しもた。電話番号だけで、あん人の名前聞いてへんやん。…ま、番号だけ分かればええか…)

 

* * *

 

その週末の土曜日の朝、私服姿のちひろ、楓、美兎の三人は、自宅の近所で集合した。

今日は西荻窪をまず訪ねてみて、そこで何も情報が得られなければ、午後からはちひろの知り合いに魔法やその他の不思議な事に詳しい人がいるというので、その人達に会って、協力を仰ぐということになっている。

 

「ねーねー、ちーちゃん。ちょっと教えてほしいんですけど…」

 

と、先頭に立って駅の方に向かって歩くちひろに、美兎が声をかけた。

 

「んえ?」

「その…魔法少女っていうのは、誰でもなれるんですかね?」

「んー、どうなんだろ。ほかの魔法少女の子って、まだ会ったことないよ。でも、けーやくすればなれるんじゃないかな」

「た、たとえばわたくしとかでもアリですかね…」

「美兎おねえちゃんが? うーん、わかんないけど、たぶん…」

「うわキツ」

 

口元に手をあててニヤニヤしながらそう呟いた楓を、美兎が睨む。

 

「なんですか今の発言は。生意気な口を効くのはそのクチですか。喋れないように縫ってやりましょうかね」と、美兎が楓の両頬を引っ張って横に伸ばす。

「だーってキツいやん。自分何歳やと思てんねん。美兎ちゃんがなってもうたら、魔法少女やなくて魔女やで、魔女。こっわ!」

「楓ちゃんだって同い年じゃないですか! 大体、最近は高校生のプリキュアだっているんですよ! 奇跡も魔法もあるんです!」

「それ、救いはない奴やろ…ん、でも、ちーちゃんって何で魔法少女やってるん?」

「そういえば。魔法少女っていえば、悪の組織ってよくいるじゃないですか。ドツクゾーンとか、ジコチューとか。ちーちゃんも、影でそういうのと戦っているんですか?」

 

アニメの魔法少女と言えば、悪の魔法使いの手から街や人々を守ったり、人に災いをもたらす魔法のアイテムやカードを回収する仕事をするのが定番のパターンだ。

 

「んーん。ふだんはべつに何もしてないよ。たまに、こういうかんじで、こまってる人をたすけるのに、魔法を使ってるだけ。きほん、へいわだよ。ぴんふだよ」

「おや、そうなんですか。あ、ということは、ちーちゃんと一緒にいる時に、たまにアイスの当たりくじ当たったりしてましたけど、あれはちーちゃんが?」

「ん! ちょっとだけ、人にしあわせをよぶ魔法が使えるの! ほんのちょっぴりだけだけど!」

「なーるほど。道理で無くしたものが急に出てきたりしたわけやね」

「じゃあ、最初に魔法少女になった切っ掛けは、何だったんですか?」

「んとねーえ、さいしょは、おはなしのできるぬいぐるみに、出会ったの。こまってる人を、たすけてあげてってゆってたんだけど、ホントはけっこう色んなじじょーがあって…」

 

ちひろの話を要約すると、こうである。

 

魔法王国歴819年。人間界とは異なる魔法世界に存在する聖魔法王国では、先代の暗愚な国王による独裁政治が行われ、国民は度重なる増税と抑圧に苦しみ疲弊しきっていた。

こうした抑圧的な封建主義的支配体制の中で、国家に革命を起こさんとする叛乱の機運が高まったが、革命軍の規模は小さく、革命が成功する見込みはあまりにも小さかった。

そこで、革命軍は聖魔法王国の地下深くに眠る最終魔法兵器を起動し、国王を宮殿ごと粉砕したのち革命を成就させる叛乱計画を立案する。

その最終魔法兵器の起動には、人間界の人間から集めた大量の負の感情エネルギーをキーにする必要があった。

怒りや悲しみといった負の感情を貯めた人間を何らかの手段で救うことにより、その人間から発散された負のエネルギーを代わりに回収し、魔法世界に送り込む。人間界でその役目を担っているのが、魔法少女であった。

そうして、人間界に送り込まれた工作員─これを通称『ぬいぐるみ』という─が、ちひろを始めとする適格者を見つけ出し、彼女たちと契約して魔法少女としたのである。

 

当初の計画では、数十年に亘って魔法少女たちを人間界で活動させ、王制に悟られぬよう、負の感情エネルギーを少しずつ魔法世界に送り込む手はずであった。

しかし、ここで事態は思わぬ進展を見せる。頑健そのものにみえた先王が、突然の病に倒れ急逝したのである。

無論、誰しもが第一王子が王位を継承すると考えたが、これを王権を簒奪する好機と捉えたのが、かねてより王位継承を目論んでいた第二王子であった。

独裁政治の打倒と民主政治の確立を旗印に革命軍と結託した彼は、今や国王となった第一王子の弑逆を決意し、夜間密かに王宮に招き入れた革命軍の暗殺者の手により、第一王子を暗殺したのである。

ところが、早晩第二王子が邪魔者となるであろう自分たちの排除に乗り出すことを予見していた革命軍は、返す刀で第二王子をも暗殺する。

それに合わせて、混乱する王都を革命軍の伏兵が包囲襲撃して軍を降伏させ、最終魔法兵器を起動させるまでもなく、王国を完全に制圧したのであった。

これにより、800年余りにわたって続いた王朝はついに滅亡し、聖魔法人民共和国が成立した。こうして、新たな時代の幕が開いたのである──。

 

「ちひろ、くわしいことはあんまり知らないけど、そんなかんじで、もう魔法少女はいらなくなっちゃったから、そっちは好きなようにしてていいよって、ぬいぐるみが」

「……」

「……」

「でもね、せっかくへいわになったってゆってたから、魔法世界もみてこようと思ってたのに、ぬいぐるみが、おーとーはーのざんとう?に、ねらわれるから、来ちゃだめっていうの。ぶー」

「…魔法があっても、夢の国は実現できないんですね…」

「救いはないんやな…」

「ごめんねソーリー」

 

殺伐としたバックストーリーを、子供らしくからからと笑いながら話すちひろを見て、こいつは将来大物になると予感する楓と美兎であった。

 

「あ、そうだ。でんしゃで行くってはなしだったけど、せっかくだから、空とんでいってみる?」

「え、飛べるんですか? いいんですか!?」

「うん。三人だからちょっとスピードゆっくりだけど、いい?」

「おっ、いよいよ魔法少女らしくなってきたやん! やろやろ!」

「よーし…」

 

人目の付きにくい物置小屋の陰に入って、ちひろは再び魔法少女へと変身した。

 

「美兎おねえちゃんも楓おねえちゃんも、ぜったいちひろから手をはなしちゃだめだからね? おさいふとか、すまほとか、かばんに入れといてね?」

「な…なんか緊張してきましたよわたくし!」

「いくよー!」

「お、おおお…!?」

 

ちひろを中心に、重力がそこだけぽかりと抜け落ちて、身体が空に投げ出されたような感覚だった。

まるで、いつかテレビで見たアポロ計画の、月面でジャンプする宇宙飛行士のように。

けれど、身体を引っ張る大地の束縛はいつまでも戻ってこず、三人はみるみるうちに近くにあった低層のマンションの高さを飛び越した。

先程まで傍にあった物置小屋は、あっという間に眼下の町並みに散らばる、無数の豆粒の1つになった。

ひとしきり、自分たちよりも背の高い建物が周りになくなったところで、上昇が止まる。

今現在の高さは、ビルの30階くらい。およそ、90mから100mといったところだろうか。

 

「なんか思ったよりも、結構高くないですか、コレ! ひえええ…」

「なんや美兎ちゃん、高い所駄目なん? 弱点はっけーん」

「楓おねえちゃん、にしおぎくぼって、どっち?」

「あーえーとな、たしか、あっちの方角やね」と、楓が指出す方向を正面に据えると、

「じゃあ、ちょっとずつスピード出してくね!」とちひろが言うが早いか、三人はゆっくりと横方向に滑るように、目的の方角に向かって進みだした。

 

空は快晴。眼下に広がる東京の町並みを見下ろしながら、特等席での遊覧飛行である。

 

「わあ…!」

「あ、美兎ちゃん見てみて! あれ、都庁やろ!?」

「どれどれ? あっ、そうですそうです!」

「そしたら、あの向こうに霞んで見えるのが、スカイツリーやな!」

「おおー、結構いい感じで見えてるじゃないですか!」

 

仲の良い友達と過ごす休日としては、またとない最高の幕開けだと、二人は思った。

 

「そういえばちーちゃん、わたくし達って誰かに見られたりしないんですかね!? その、結構大っぴらに飛行してますけど!」

「あ、それはへーきだよ。今ね、“にんしきそがい”の魔法っていうので、ほかの人からは見えないようにしてあるから!」

「なーる、さっすがちーちゃん! 抜かりない…って、え?」

 

楓が、異変に気がついた。何やら、風景の流れるスピードが、さっきよりもかなり早い。

 

「ちーちゃん、なんかさっきより早よない?」

「うん! やっぱり空とぶときはね、ぶっとばしていかなきゃだから!」

「は?」

 

眼下の風景が、急流のように後ろに過ぎ去っていく。

 

「ち、ちーちゃん! そ、そんなに早くなくてもいいですよ!? 西荻窪ってそこまで遠くないですから! ちょっと!?」

「いえーい! かっとばすぜー! ふりおとされねーようについてきなー!!」

「ち、ちーちゃん! ちーちゃーん!? ちーちゃーーーんっ!?」

 

美兎と楓の二人は、またとない最高の幕開けという前言を心の中で撤回した。

ちーちゃん。この子はやはり大物になる。

 

「「うわあああぁぁぁぁぁ ぁ ぁ ぁ ぁ  ぁ  …… 」」

 

美兎と楓の絶叫が、空に霞んで消えていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

影を捜して街を這う

「いやー、酷い目に合いましたね、楓ちゃん…」

「う、うん…まさかちーちゃんがあんなスピード狂やとは思わへんかったわ…」

「どっちかっていうとあれは…魔法少女っていうより、サイヤ人の舞空術でしたね…」

「うぷっ…あかん、このまんまやとゲロインになってまう…」

 

西荻窪駅近くの雑居ビルの路地裏からふらふらした足取りの楓と美兎が出てきたのは、それから一時間半ほどしてからである。

ちひろがあれだけ飛ばしたにもかかわらず、それだけの時間が掛かったのは、そもそも楓の指示した方角が微妙に間違っていたために、西荻窪どころか富士山の方角に向かってしまったからだが、それだけではない。

スピードに乗りまくったちひろが、せっかくだから富士山をちょっと間近で見てから西荻窪に向かおうと言い出し、丹沢山の尾根筋をスレスレでかっ飛ばした挙げ句、富士山の中腹で水泳選手のようにタッチターンして東京まで戻るというフライングハイぶりを見せつけたからでもあった。

 

「うー、ごめんなさいおねえちゃん…わたし、ゲームとかでも、けっこう負けずぎらいであつくなっちゃうほうだから…」

「いやーいいですよー…一時間半で東京と富士山を往復するなんて荒業、滅多に体験できないですし…ね…、ヴォエッ!」

「ちーちゃん…私がもし何か出してもうたら、虹色に光らせる魔法かけてな?」

「そんな魔法ないんだけど…」

 

二人とも、腕・胴・腰・膝がそれぞれ90度になった、アスキーアートのように綺麗な四つん這いを披露している。

ちひろはともかく、楓と美兎はしばらく使い物にならないかもしれない。

何をしに来たのかよく分からなくなったが、ちひろは何だか二人の綺麗な四つん這いが面白くなり、とりあえずすまほで写真を撮るのだった。

 

* * *

 

西荻窪という地名は、正式には既に存在しない。

この地名は1970年ごろに廃止となり、現在は西荻北と西荻南という2つの地名に分かれている。

北はおおよそ善福寺川と女子大通り(都道113号線)から東京女子大学の付近までを北限とし、南は国分寺通り(都道7号線)までを南限とする。

現在は凡そ、これらの地域や隣の松庵地区の一部などの駅周辺のエリアをまとめて、西荻窪や西荻という通称で呼び表している。

人気のある西隣の吉祥寺と比べると、地味な住宅街ではあるものの、独特の落ち着いた雰囲気と、味わいのある個人経営の店が軒を連ねており、隠れた穴場の側面を持ち合わせている。

 

「そうですか…。どうも、ありがとうございました」

 

閑話休題。

ようやく落ち着きを取り戻した三人は、早速西荻窪の街で調査を始めていた。

三人が一番始めに訪ねたのは、西荻窪駅前にある、ペット用の熱帯魚店だった。

動画の通りであれば、鳩羽つぐはここで金魚を買ったはずである。つまり、店主はその時に彼女に会っているはずだと、楓や美兎は踏んだのである。

しかし、店を出てきた美兎は、店の前で待っていた楓とちひろに向かって、静かに首を振った。

 

「うーん、駄目ですね。ここの店主さん達は、動画のことも知りませんでしたよ。つぐちゃんらしい人を見たこともないそうです」

「ここで、きんぎょを買ったんじゃなかったの?」

「違うみたいですね。ここでは撮影をしただけで、実際には別のお店で買ったのかも知れませんよ」

「ま、あの動画は夜に撮ったっぽいし、営業時間外やったらそら、見とらんかもなあ…」

「むー、ざんねん…」

「一応、このあたりで他に金魚を売っているお店がどこかも聞きましたから、そのへんも廻ってみましょうか」

「おっ美兎ちゃん、冴えとるやん!」

「ふふふ。何しろわたくし、学級委員長ですしね。そのへんはお任せですよ」

「よーし、じゃあほかもまわろー!」

「「おー!!」」

 

そうして三人は、付近の店を虱潰しに廻ってみることにした。

しかしどの店でも、返ってきたのは「そうした子が最近訪ねてきて、金魚などを買い求めたことはない」という返答だけだった。

その次に彼女たちは、区民集会所と囲碁サロン、ゲートボールコースのある公園などを廻ってみることにした。そうした所であれば中高年の住民が集まるだろうから、地域の古老から事件の話を聞き出せると思ったのだ。

ところが、運の悪いことに、その時は町内会の旅行だとかで大半のお年寄りは出払っており、残っていた人たちも、事件の後に引っ越してきたか、自分が物心もつかない幼い頃の出来事で、詳しいことは分からないらしかった。

 

そうなってくると、頼みの綱はやはりちひろの魔法である。

鳩羽つぐの居所に近いであろう西荻窪であれば、さがしものを見つける魔法も、ひょっとすると効力を発揮するかもしれない。

そのように淡い期待を寄せて、ちひろは動画にあった鳩羽つぐの顔を思い浮かべながら、もう一度魔法を使ってみることにした。

けれど今度もまた、矢印はどこを指すこともなく、光球の形に戻ってしまった。

 

「反応なしかー」

「うー、ごめんなさい…」

「まあ、仕方ありませんよ。今日は、ちょっと魔法の調子が悪いだけかもしれないじゃないですか。気にしないでいきましょうよ」

「んー、それにしても、さすがに腹ペコんなってきた。二人は?」と、背伸びをしながら楓が言うので、美兎がスマホの時計を確かめてみると、もう時間はお昼をとうに過ぎていた。

「もうこんな時間ですね。それじゃあ、どこかでお昼にしません?」

「せやなー、あ、あの店とかええんちゃう?」

 

楓が指差した先に、木彫りの看板が印象的な喫茶店があった。看板には、漢字三文字の、一見なんと読むのか分からない店名が彫られている。

店の軒先には、ヨーロッパ調のロートアイアンの看板が掲げられ、立て看板には大きく「珈琲」の文字があった。

 

「いいんじゃないですか? ちーちゃんもそれでいい?」

「おけまるー」

「これ、名前なんて読むんかな。もの…も…?」

「まあ、とりあえず入りましょうよ」

 

三人の入ったその店は、たくさんのアンティークの雑貨や家具がセンスよく飾られた、居心地のよい雰囲気の喫茶店だった。

壁に幾つも掲げられた、これまたアンティークの壁掛け時計が印象的で、まるで、ここだけ周囲と切り離されて、どこかファンタジーの世界に迷い込んだようでもある。

ファンタジー世界の喫茶店に、本物の魔法少女か。そう思って、楓はくすりと笑ってしまった。

 

「楓おねーちゃん、どうしたの?」

「ふふ、なんでも。それにしてもええね、この店」

「なんか、古いけどかわいーものいっぱいあるよね! ちひろ、ここ好きー♪」

「もうちょっと近かったら、もっと沢山来れるんですけどね」

 

注文した紅茶やコーヒー、軽食のサンドイッチやケーキなども、なんとなく洒脱な味わいの気がする。

散々歩きまわった後だけに、この穏やかで緩やかな空気が、三人には何とも心地よかった。

 

「けど、どうしよ? けっきょく、まだ何にも分かんないままだね?」

「そうやね。いっそ、この辺に張り込んで、動画を撮ってるとこ捕まえよっか?」

「いつ撮るかも分からないのに、そんなこと出来ないですよ」

「まあなあ。ちーちゃん、何かこう、こういう時に使える魔法とかないん? 使い魔みたいな奴出してこのへん見張らせたりとか、匂い嗅がせてつぐちゃん探させたりとか」

「うーん、ちひろね、わるい人がいっぱい来ると思ってたから、こーげきに使える魔法とかはいっぱいおぼえたんだけど、ほかはあんまり…ばくはつさせたり、火でまるやきにしたり、電気でびりびりさせたり、じゅうをたくさん出してばりばりーってうつやつとか、そういうのはけっこうとくいだよ?」

「な…なかなかに攻撃的なラインナップですね」

「ははは、どないして探そっか…」

「あら、あなたたち何か探してるの?」

 

三人が考え込んでいると、隣の席の片付けをしていた店員の女性が話しかけてきた。

 

「あ、そうなんですよ。私達、ちょっと事情があって、この女の子を探してるんです。お姉さん、何か知りません?」

 

楓はそう話しながら、予めプリントアウトしておいた鳩羽つぐの画像を店員に差し出した。

店員の年の頃は四十前くらいだろうか。その店員は、よく見ようと紙を顔に近づけて、画像の少女の顔をじっと見つめた。

 

「うーん…この子、このあたりの子?」

「だと思うんですけど、詳しくは」

「名前は?」

「鳩羽つぐちゃんっていいます」

「私は、見たことはないわねえ」

 

店員の女性は、プリントに顔を近づけたり離したりしている。

 

「じゃあ、40年前にこの辺で、小学生の女の子が居なくなったって話は、聞いたことありますか?」

「さあ、聞いたことないけど…これがその居なくなった子なの?」と、彼女は首を傾げた。

「ええ、そうなんです。ちょっと事情があって、昔のことを調べてます」

「ごめんなさいね。私は全然聞いたことないわ。いつもこの店に来てくれる常連のおじさんは昔からここの人だから知ってるかも知れないけど、ちょっと今日は来てないみたいだし」

「そうですか…いえ、いいんです。ども、ありがとうございます」

 

丁寧に一礼する楓に笑みを返して、店員の女性はプリントした鳩羽つぐの画像と食器を一緒に持ったまま、奥に引っ込んでいった。

 

「そろそろ、出ましょうか。この後は、ちーちゃんのお知り合いの、こういう話に詳しい人に会いに行くんでしたよね?」

「うん! この子がもし、ゆーれいとか魔法使いとか、そーいうのだったら、その人たちが知ってると思う!」

「へえ、心強いやん。よっしゃ、ほな行こ!」

 

* * *

 

三人が店を出てからしばらく経って、一人の男性がこの店を訪ねた。

仕事を定年退職して十年余り、元来の無趣味が祟って特にすることもなく、毎日昼過ぎになるとこの店で珈琲を啜るのが日課であったのだが、今日はぐずって泣き出した初孫の世話をしていたこともあり、いつもより店に寄るのが遅くなったのである。

 

「やあ、こんにちは」

「あら、徳さん。今日も来たんですね」

「いつもの珈琲頼むよ」

「はいはい」

 

店員がコーヒーを入れている間に、男性は誰かの顔が印刷されたプリントが、店内にあるカウンターの脇に置いてあることに気がついた。

 

「おや、この写真は誰なの?」

「ああ、それ? お昼まで居た女の子達がね、その子を探してるんだって」

「へえ」

 

運ばれてきたコーヒーを飲みながら、男性は記憶を辿った。この子が着ている服を、どこかで見た気がしたからだ。

そして、そうだ、と思い当たった。この近所の私立小学校の、随分昔の頃の制服だ。何十年も前にデザインが変わり、これを着て歩く子も今ではもう見掛けることは無くなったが、この制服ができた当初は、東京でも随一のお洒落な制服だと、他の小学校の子供達からも垂涎の眼差しで見られていたものだ。

 

「この服、見覚えがあるね」

「そうなんですか?」

「ほら、そこの私立の昔の制服だよ。随分前に今のに変わったけどね」

「あら本当。私が越してきたのは最近だから、よく分からなくて」

「ところで、その子達、何だってこの子を探してるの?」

「さあ…。確か、40年前に小学生の女の子が居なくなったらしくて、その子なんじゃないかって。なんて言ったかしら、ちょっと変わった名前で…徳さん、その子知ってる?」

「40年前に居なくなった…?」

 

どこかでこの子と会ったことがある、と彼の記憶が告げていた。

沈思黙考して記憶の海底を浚い、あたかも沈没船とともに沈んでいた財宝を見つけた探検家のように、彼は画像の少女の名前に掘り当ててみせた。

 

「…ああ、そうだ、思い出した。鳩羽つぐちゃんだ」

「そうそう! その名前の子よ!」

「懐かしいねえ。道ですれ違うといつも挨拶してくれて、礼儀正しくてとてもいい子だったよ。ある時急に、行方不明になってしまったんだけどね」

「あら、やっぱりそうなの。その子は、どうなったの?」

「結局、見つからなかったらしい。いい子だったのに、何があったのやら…。もし生きていたら、もう五十路にはなるだろうねえ。しかし…」

 

と、彼は視線を印刷された少女の顔に落として、呟いた。

 

「この子は、よく似てるけど、別人だね?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

妖精は森に、少女たちは空に

「それで、次はどこへ行くんですか、ちーちゃん?」

「んーとねえ、東京タワー!」

「東京タワー?」

 

再び空を飛行しながら、ちひろは元気よくそう話した。

 

「うん! 今、そこにいるってゆってた! 東京が好きな人で、あっちこっち歩き回ってるから、さっきすまほで聞いたの!」

 

西荻窪から飛び立つ前に、ちひろは誰かに電話を掛けていたが、それはこれから会う相手の居場所を確認するためだったらしい。

 

「よっしゃー! ぶっとばしていくぜえー! ひゃっはぁー!!」

「ちーちゃん! ちーちゃん!? 東京タワーはそこですから! ほら眼の前ですって! 飛ばさなくてもいいですから! 東京湾に出ちゃいますよ!? ちーちゃ…う、うおわあああああっ!!?」

(アカン…今度こそゲロイン確定や…)

 

もちろん、渋谷の上空を三人組の少女たちがミサイルのごとき速度で突っ切っていることなど、渋谷の交差点を行き交う人々には知る由もないのだった。

 

* * *

 

「よーし、今日は登るぞー!」

 

東京タワー、フットタウン屋上─。

頭上に赤色で彩られた美しくも複雑な構造の鉄筋の塔を見上げながら、彼女はそう宣言した。

胸元に「I ♡ 東京」と大書されたTシャツをまとった彼女の名は、エルフの「える」である。

知らない世界について学び、人間の友達を作ろうと、彼女ははるばる異世界にある故郷のエルフの森から上京してきた、いわばエルフの留学生であった。

東京の街は、穏やかなエルフの森とは違って、煩くて忙しなくて大変なところも多いけれど、彼女はそれも含めてこの街が気に入っていた。

だから、エルフの魔法を使って人間に見えるように姿を変え、この街を観光して回るのが、最近の彼女の週末の楽しみになっていたのだった。

そんな彼女が色々と東京の街を練り歩いているうちに最近知ったのが、この東京タワーは歩いて階段で上に登れるということだった。600段の階段がタワーの外に設置されていて、東京の街を眺めながら、大展望台まで登っていけるらしい。

途中でエレベータに乗り換えるということが出来ないので、足腰に自信のない人にはお勧めできない登り方だが、エルフの森で鍛え上げられた彼女の健脚を以ってすれば、600段程度は朝飯前だ。

 

(そういえば、さっきちーちゃんから電話あったけど、なんだったんだろ?)

 

少し前に、一階のカウンターで入場券を買う列に並んでいたところ、電話で友達のちひろから現在地を聞かれたのだが、それだけで彼女は電話を切ってしまったので、どうしてそんな事を聞かれたのか、よく分からなかった。

 

(…ま、いっか~?)

 

そう思い、「大展望台行き階段」と書かれた階段の入り口に足を向けようとしたその時、えるは自分の名前を呼ぶ、ちひろの声を聞いた。

 

「おーい、えるおねーちゃーん! やっほー!」

「あ、ちーちゃんだ~!?」

 

見ると、ちひろがエレベータから降りてこちらに向かってくるところだった。

 

「なあに、どうしたのちーちゃん? ちーちゃんも東京タワー登りに来たの? 違う? あ、ちーちゃん下のワンピースタワー見た? あれもなかなか面白そうだよ~! あとで見に行こうよ! あっあっ、てかーっ、ちーちゃんお腹空いてない? もうお昼ご飯食べてない? 食べた? そっかー、あのね下にマリオンクレープあるんだけど知ってる? おやつに今から食べに行こっか? 今度ね、えると東京のマリオンクレープ全件制覇しようよってエル美ちゃんと話してたんだよね~。あ、ちょっと聞いて聞いて。こないだエル美ちゃんがね~」

「あはは、えるおねーちゃん、あいかわらずおはなしするの好きだよねー。あ、ところでちょっとおしえてほしいことがあって…」

「なに~?」

 

ちひろは取り留めも途切れもなく続くえるの話題をさらりと受け流すと、本題である“鳩羽つぐ”の話題に入ろうとした。

その時、ちひろの背後のほうから、また別の声が聞こえてきた。

 

「…いやあ、九十九里浜って、案外近いんですね…」

「なんか、数時間前もこんな話せえへんかったっけ…お、ちーちゃんおったよ。おーい」

 

声の主は、東京タワーに入ってすぐに一階の女子トイレに駆け込んでいた美兎と楓である。

ちひろは、二人を手招きで呼び寄せた。

 

「こっちこっちー。えるおねえちゃん、こっちはちひろのお家のちかくにすんでる、美兎おねえちゃんと楓おねえちゃん。二人とも、こっちはちひろのお友達で、エルフのえるおねえちゃんだよ」

「えるだよー。よろしくね~」

(うっわ、すっごい美人さんやな…)

 

「あの、今エルフって仰いました? エルフって、あの…?」と、美兎が手を挙げて尋ねた。

エルフと言えば、ファンタジー世界を舞台にした作品によく登場する、人間によく似た種族である。

長命で魔法を得意とし、森などに暮らしている。顔立ちは端正で美しく、耳が尖っているという特徴を持っている事が多い。

えるの髪は絹糸のように滑らかに輝き、目鼻立ちも整っていて美しかった。しかし、彼女の耳は別に尖っておらず、一見して普通の人間と全く変わらないように見える。

 

「そうだけど…? あ、そっかそっか~。ちょっと、こっちに来てくれる?」

 

えるは、三人を連れて他の観光客が見ていない物陰に移動した。

 

「どうしたんです?」

「私、エルフの姿のまんまだと目立つから、普段は魔法で姿を変えてるんだよ。今、元に戻してみるね。…ドキドキマーギカっ♪」

 

その掛け声を唱えた瞬間に、えるの姿が一瞬光に包まれて、本来のエルフの姿に戻った。

先程まで肩程度までだったロングヘアは、腰ほどまで伸びたサイドポニーに変わっていた。耳はエルフらしい長い耳になり、そして何よりも、翡翠色に輝く半透明の羽根が背中に浮かんでいる。

 

「お、おおお…ほ、本物のエルフですよ…!」

「す、すご…可愛い!」

「えへへ。ありがとね~。ところで、ちーちゃんと一緒に居るってことは、あなた達二人も魔法少女か何か?」

「へ? いえいえ、私らは別に、普通の一般人ですよ」

「わ、わたくしは、なれるものならなってみたいんですけどね…」

「えー、ほんと? なーんか、あなた達二人からも、変わった感じがするんだよね~」

 

そう言いながら、えるは二人の周りをぐるっと一周回って、小首をかしげた。

 

「えるおねえちゃん、楓おねえちゃんと美兎おねえちゃんは、ほんとにふつうの人だよ?」

「んー、ちーちゃんがそう言うなら…でもでも、せっかくだからちょっと確かめさせてよ。そーれ、ドキドキマーギカっ♪」

 

また、えるが呪文を詠唱し、楓と美兎に魔法を掛けた。

自然と共に暮らすエルフ達は、自然の力を借りて治癒を促進させるとか、物事の本質を見抜く魔法に長けているという。

今、二人に掛けた魔法も、対象に掛けられた魔法を解除するディスペルの魔法だ。

けれど、ディスペルを掛けられた二人には、一見、何も変わったところはないように見えた。

 

「ほら、かわってないでしょー? ふたりは、魔法とかは使わないよ」

「……」

「すんません、なんや期待ハズレやったみたいですけど、私ら一般人なもんで…」

「…こ…」

「えるおねえちゃん?」

「こ…これは…」

 

ちひろがえるの震える声を聞いて顔を見上げると、彼女の顔は真っ青だった。

何故だろう。

ディスペルの魔法を掛けたこの二人を見ていると、えるの脳裏に不穏な、しかし明確なヴィジョンが過ぎるのだ。

平和なエルフの森が炎に包まれ、消し炭になっていく姿が。こんな光景が頭の中に浮かんできたことなど、今までにはなかった。

そして、森を包む炎の中から、姿を現したのは──

 

「森が…この人達にエルフの森が焼かれる…! 逃げないと…森に帰ってみんなに知らせなくちゃ…!!」

「え? えるおねーちゃん、タワーのぼるんじゃ…」

「あの、何の話ですか? 森って…?」

「わ、わたしの森をなぁーんで燃やすのーっ…!? 燃やすのーっ… 燃やすのー… すのー……」

 

そう叫んで、美兎と楓から逃げるように、えるは空に飛び立っていった。

彼女の叫びもまた、それを追うかのように、遥か空に溶けるように木霊して消えていった。

 

「…行っちゃった…」

「ちーちゃん、えるさん、森が燃えるって言うとったけど、森ってどこの?」

「わたくし達が森を? 燃やすんですか? なぜ?」

「さ、さあ…」

「ちょっ、ほら! あそこにおる人、スマホでえるさんの写真撮ってない!?」

「あ、ホントだ。こーれはヤバいですね…アイリさんのお天気コーナーとかに、投稿されるんじゃないですか?」

「ああ、あの番組、人気やもんね…騒ぎにならんとええけど…」

 

はたして、翌日のウェザーロイド・アイリの天気予報番組に、東京タワー上空に出現した謎のUFOの写真が投稿されたが、ピントがボケていたのでその正体には誰も気付かなかったのである。

 

* * *

 

えるに意味不明な理由で逃げられてしまった三人は、エレベータで大展望台に登り、東京の街の景色を眺めながら、ソフトクリームを食べていた。

せっかく一階で入場券を購入したので、ついでに見ていこうということになったのである。

朝からあちこちを駆け抜けたため、太陽は西に少しずつ傾いてきているところだった。

 

「さっきの人、逃げられてもーて残念やったね、ちーちゃん」

「うん…えるお姉ちゃん、どうしちゃったんだろ? 電話は出ないし、ラインもへんじしてくれないし…」

「行っちゃったものは仕方ないですよ」

 

東京の街を改めて見下ろすと、地平線の彼方までも街が続いているようにも見えた。

この街のどこかに、今も鳩羽つぐの謎が隠されているのかも知れない。

そう考えると、少しずつ傾く夕日に照らされたビル群のガラスの反射も、どこか陰鬱とした不気味な陰を帯びているように、三人には思われるのだった。

 

「ちーちゃんのお知り合いの人というのは、さっきのえるさんだけですか?」

「んーん。まだ、お話ききたい人がいるよ」

「じゃあ、諦めないでそっちにも行ってみましょうよ。次はどこに行くんですか?」

「ちーちゃんとなら、北海道でも沖縄でもどんとこいやね。どっこでも行けるで!」

 

ナハハハ、と豪快に笑う楓に、ちひろはにんまりとして、

「そっかあ、よかった。次はいせかいだから、おねえちゃん達がいやだったらどうしようっておもってたの」と返してよこした。

 

……。

一瞬の静寂が、まるでそこにブラックホールでも現れたかのように、三人を周囲の喧騒から引きはがした。

 

「い、異世界?」

「異世界ですか!? あの、転生したり召喚されたりする!?」

「うん、そうだよ」

「う、嘘やん。ま、まさか今日すぐそんなとこまで…」

「そのまさかだよ?」

「ホントに異世界行けるんですかわたくし達!?」

「ホントにホントだよ?」

 

相変わらず、ちひろは突拍子もないことを言っているように聞こえるのだが、彼女の場合、それは嘘でも何でもないのだった。

異世界。詠んで字の如く、我々の住む世界とは異なる世界である。つまるところ、ちひろがこれから会いに行く知り合いというのは、異世界の住人だったのだ。

「マジか…」と呆気にとられる楓に対して、美兎は「やったー!」と言って小躍りしている。

 

「…なんや、随分乗り気やな美兎ちゃん?」

「だって東京タワーといえば、召喚されるわけじゃないですか! なんなら女の子もおあつらえ向きに三人いますし、こうなったら異世界でもなんでも救いに行くしかないでしょう!」

 

うさぎのようにピョンピョンはねながら、握りこぶしを作り、目を爛々と輝かせた美兎がそのように力説する。

楓には何のことかよく分からなかったが、美兎のことだから、たぶん好きなアニメか漫画の話なのだろうと楓は推測した。きっと、東京タワーから異世界に召喚されて、その世界を救う話でも読んだことがあるのだろう。

 

「何言うとるかよう分からんけど、目的おかしなってんで…ね、ちーちゃん、そこはちゃーんと帰ってこれる異世界やんな? その、例の聖魔法なんとかいうやばそなトコちゃうよね?」

「そことはちがうからだいじょーぶ。むしろ、すごくいいとこ!」

「なら、ますます良いじゃないですか。それじゃあ、早く見に行きましょう、異世界! 早く早く!」

 

三人は、大展望台の一角の一目に付きにくい物陰に移動し、ちひろは素早く変身すると認識阻害の魔法を唱えて、自分たちの気配を周囲から消した。

 

「じゃあ、いくよ…しっかりつかまっててね…!」

 

お互いに手を握り合って、円陣を組む。

次第に周囲が不自然なまでに明るくなり、周囲の景色がかき消え、光の粒子が満ちた。粒子はやがて滝のような奔流と化して、上から下へと流れ始めた。

周りに居た人の話し声や雑音も次第に聞こえなくなり、身体がふわりとした浮遊感に包まれる。飛行の魔法と違うのは、特定の方向に向かって移動している感覚がないことだ。

空高く上り詰めているようにも感じるし、逆に地底深くに沈み込んでいるようにも感じる。

 

「…キレイ…」

 

楓の口から、思わずそんな言葉が漏れる。まるで、宇宙を旅行しているかのようだ。一方、美兎は楽しげに何かの歌を口ずさんでいた。

 

「とまーらないー♪ 未来をー♪」

「何の歌なん、それ」

「ふふ、後で楓ちゃんにもDVD見せてあげますよ、名作ですから、あれは」

 

数分もしないうちに、キラキラと瞬いていた光の奔流が徐々に緩やかになり、分厚い雨雲を貫いて成層圏に顔を出した飛行機のように、急に視界が開けた。

 

「ついたよ!」と、ちひろが叫ぶ。

彼女が指差した方角を、楓と美兎は見遣った。

 

果たして、そこには──青空に佇む、美しい石造りの空中庭園が聳えていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

百足がくっ付く委員長

「すご…なんですか、ここ…」

 

天空のただなかに聳えるその空中庭園には、あちこちに緑豊かな様々な種類の木々や、色とりどりの可憐な草花が植えられ、虫たちが思い思いに枝葉で羽を休めていた。

ところどころに青々とした澄んだ水を湛えた噴水や池があり、そこでは魚たちが悠遊と泳ぎまわっている。

地面には、白磁と見紛うばかりに美しい石畳が整然と敷き詰められて、抜けるような青空から射し込む陽の光を浴びて、微かに煌めいている。

空には、フラミンゴにも似た美しい色合いの鳥たちが、自分たちの美しさを誇るかのように、飛び交っていた。

空中庭園の遥か彼方には、見たこともない様式の壮麗な宮殿が立ち並んでいる。それはヨーロッパ調のようでもあり、あるいはイスラーム様式のようでもあり、はたまた日本や中国などの東アジアの建築のようでもあった。

いずれにしても、見ているだけで、その美しさに心を奪われてしまいそうだ。

 

「なんや、ちょっとラピュタみたいやな。ほら、あの有名なアニメの…」と楓は言った。

「ええ、そうですね。文明が滅ぶ前のラピュタって、こんな感じだったんですかね」

「なあ、ちーちゃん。ここ、どこなん?」と、石畳の道を歩きながら、前をすすむちひろに楓は尋ねた。

「んーとねえ、てんかいだよ」と、ちひろは振り返りながら、にこりと笑みを浮かべて事も無げに答える。

ちひろが言うのだからそうなのだろう。楓と美兎は少し苦笑しながら思った。もう、驚いても仕方がない。

そうしてしばらく奥の建物の方向に向かって歩いていると、目の前を白い衣装を纏った誰かが、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 

「おっ、ちーちゃん! 第一村人発見ですよ! さっそくコンタクトしてみましょう!」

「村人て、ちょ、美兎ちゃん!」

 

走り出した美兎は、その人物のすぐ傍らに近づくと、驚きの声で叫んだ。

 

「て、天使がおるやんけ!? ほ…本物ですか!? 二人とも、早く早く!」

 

美兎が驚いたのも、無理はない。

男性とも女性ともつかない中性的な顔立ちのその人物は、白いローブを纏い、天使のような翼を背中から生やしていたのだ。

その人物は、少し驚いたような顔をして、三人を見遣った。

 

『なぜ人の子がここに…?』

「こんにちはー。あの、わたし勇気ちひろなんですけど…」

『ああ…君ですか、笑顔の魔法少女よ』

 

ようやく天使は、得心が行ったという表情をした。おそらく、ちひろは何度かここに来ているのだろう。

 

『あまり感心しませんね。生ある者が、軽々しく天界に昇るべきではないというのに。しかも友人を連れるなど…魂がこちら側に引っ張られて、死期が早まりますよ』

「うー、ごめんなさい。でも、今日はモイラおねえちゃんに、どうしてもそうだんしたいことがあるんですけど…」

『ほう、モイラ殿に…? 分かりました。では、そこの椅子にでも掛けてお待ちなさい。今、彼女を呼んできましょう』

「わあ、ありがとうございまーす!」

 

天使の指差す方向を見ると、美しい装飾の施された、白いガーデンテーブルとガーデンチェアのワンセット、そしてティーセット一式がいつの間にか現れている。

三人がそこに座ると、天使は踵を返し、あの壮麗な建物の方角に引き返していった。

 

「はー…」と、去っていく天使の後ろ姿を見ながら、楓と美兎は嘆息した。

「どうしたの? 二人とも」

「いや、やっぱり天界なんやなって。信じられへんわ」

「いるところにはいるもんなんですね、やっぱり」

「てんかいだからねー。あっ、ねーねーおねえちゃんたち、みてみてー」

 

はしゃぐちひろに振り返ってみると、ちひろの頭から、青い猫耳が生えている。しかも、お尻の方からは、尻尾も生えていた。

 

「ね、猫耳にしっぽだと…!?」

「どうどう? かわいいでしょー?」

「ど、どうしたんそれ!?」

「あのねあのね、ここっててんかいだから、今ちひろたちはたましいだけなの。だから、けっこうかんたんにすがたを変えたりできるんだよ!」

「マ、マジですか…」

「まじ卍ー」

「どうやってやるん!? ちーちゃん教えて教えて!」

「んとねーえ、かんたんだよ。目をとじて、すがたをかえたいですーって、ちょっと思うだけ!」

「ホンマに? そんな簡単な…」

 

そう言いながらも、楓は言われた通りに、目を閉じて、姿を変えてみたいと念じてみることにした。

でも、一体何の姿になるんだろう。そう思いながら、しばらく待っていると─。

 

「楓ちゃん楓ちゃん! なんか、頭から角みたいなの生えてきましたよ! ドラゴンみたいな!」

「え、ホンマに?」

 

目を開いて、手を頭の両脇にやってみると、何やら硬い感触がある。

慌てて近くの噴水池に駆け寄って自分の姿を水面に写してみると、確かにそこには、ドラゴンのような、あるいは悪魔のような角が生えていた。

 

「はえーー、ごっついわー…、さすが天界。けど、何でコレなんやろね」

「うーん…たまに、よく分かんないかんじに変わったりするみたい」

「はいはい! わたくしもやりたいですわたくしも!」

 

と、目を爛々と輝かせた美兎がわざわざ挙手する。

 

「美兎おねえちゃんは、なんかおもしろいかんじになりそーだよね?」

「ふふふ…何を言ってるんですか。わたくしなら可愛いウサギ耳が生えるに決まってますよ。何しろ名前に兎も入ってますし、セーラームーンも大好きですからね」

「ほう。ほんじゃ美兎ウサギ選手、さっそくどうぞ」

「ふっふっふ…まあ、見ててくださいよ…?」

 

美兎は椅子から立ち上がって目を閉じ、姿を変えたいと強く念じた。

ウサギ耳。ウサミミ。どうせなら、うさだヒカルやてゐちゃん、うどんげのような、みんな大好きな可愛い感じのやつで…!

そう考えていると、美兎はなぜか、頭ではなく下半身に違和感を感じた。自分の股の下を、誰かがくぐっているような感じがしたのだ。

これは…?

 

「み、美兎ちゃん! 何やのそれ…!?」

「…え??」

 

目を開いてみると、四つん這いになった不気味な白い人型のマネキンのようなものが、自分の股の下をくぐるように出現していた。

ちょうど美兎は、その四つん這いのマネキンの肩車に乗った状態になっている。しかも、自分の口元には、いつの間にかガスマスクまで装着している。

 

「こ…これは…これは一体…?」

 

わなわなと震えながら、ようやく出た言葉がそれだった。しかし、それだけでは終わらなかった。

 

「おねーちゃん! すごいよ! 後ろにどんどん人がくっついてる!」

「は!?」

 

ちひろの歓声に振り返ってみると、自分を乗せたマネキンの股間に、もう一人のマネキンの頭が連結され、そのまた後ろにまた一人のマネキンが…と、ムカデのようにどんどんマネキンが連結され、しかもそれは後ろに向かってどんどん増えて伸びていた!

 

「な…なんじゃこりゃああああああああっ!!!?!?」

 

全盛期の松田優作ばりに絶叫する美兎と、「ぶははははは!! なんやねん美兎ちゃんそれ、わけわからんわ! 面白っ! 面白ーーっ!」とテーブルをバンバン叩いて爆笑する楓。

ガスマスクを装備した状態で、天界でマネキンのようなものに肩車されている女子高生がいるのだから、当然である。むしろ、シュールを通り越して若干ホラーでさえあった。

 

「ちょっとこれ女子高生がやっちゃいけない絵面ですって! なんなんですかこれは! ウサミミはどうしたんですか! ち、ちーちゃん、助け…」

「美兎おねーちゃんおもしろーい! なんか、ド○ゴーラみたーい!」

「ド○ゴーラですか!? ちーちゃんなんでそんなの知ってるんですか!? ちょ、なんか下の人荒ぶってるコレ! ロデオみたいになってますけど!? だるま屋ウィリー事件じゃないんですから! ちょ、あ、うぉ、や、やめ…っ!?」

『あらあら、うふふ。なんだか楽しそうね、こいぬちゃんたち』

 

騒いでいる三人の間を、穏やかで優しげな声が響いた。

三人が振り向くと、そこには純白のドレスに身を包み、天使の翼を持つ、美しい女性が笑みを浮かべていた。

 

「あっ、モイラおねーちゃんだ! おねーちゃん、こんにちは!」と、ちひろは彼女に抱きつく。

『ちーちゃん、久しぶりね。最近はあまり来てくれなくて、寂しかったのだわ』と、モイラと呼ばれた女性は、優しくちひろを抱きしめた。

 

その一挙手一投足の全てが、声に違わずたわやかで、母性そのものを体現したかのように感じられる。

美兎と楓が、我を忘れてほうっとモイラに見入っていると、彼女は椅子に腰掛けながら、二人にも笑顔を投げて、どうぞあなた達も座って頂戴と声をかけた。

何となく、その声に従わずにはいられず、美兎も楓も椅子に座り直そうとする。

ところが、何故か美兎は腰をマネキンから浮かせられなかった。腰がまるで接着剤でくっついてしまっているかのようだ。

 

「あ、あれ? な、なんかこのムカデ人間ども、わたくしの腰にくっついてないですか? あれ? ちょ…ええっ?」

「美兎おねーちゃん、今それ、美兎おねーちゃんのいちぶになってるみたいだよ…?」

「あっああ、なるほど…。コレも含めてわたくしのアバターになっちゃってるってことですか…コレ何とか、消せないですかね…ええと…」

 

そうやって美兎がまた目を閉じて、姿を元に戻そうと念を込めようとしていると、美兎の股をくぐっていた白いマネキンが、何かをブツブツ喋りだした。

 

「み、美兎ちゃん。それ、何や喋ってんで…?」

「え、え? なんですかコイツ…?」と、それを聞き取ろうと美兎が屈む。すると──

 

『デュ…デュフフフ…委員長…椅子に座る必要などないでござるよ…今日からは拙者が委員長の椅子に成り代わるのだから…ああ^~、委員長に肩車するのたまらんでござる…ふとももの匂いもまた…カリカリモフモフ…クンカクンカ…スーハースーハー…あ、移動するときは胸をこう、足の裏で蹴ってくだされ…デュフ…デュフフ…』

「……」

 

……。

 

「ぎゃああああああっ!! キモッ! キモい!! キモオタの変態のマネキンですよこいつはぁぁぁぁっ!! ちーちゃん、ちーちゃん助けてーーっ!! ひいいいいいっーーー!」

「ナハハハハハハ!」

「あはははは、美兎おねーちゃん、自分でけすんだってば! ちひろにはむりだから、あははは!!」

『あらあら、面白いこいぬなのだわ、うふふ』

 

美兎の絶叫と、三者三様の笑いが、天界の青空に向けて木霊するのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

赤い糸に運命をみた

「はあ…はあ…はあ…」

「いやー、さすが美兎ちゃん。おもろいもん見してもろたわ。くくく…」

「ううう…わたくし、汚されたんですね…もうお嫁に行けませんよ…」

「お嫁て、んな大げさな」

 

何とか変態のムカデ人間軍団とガスマスクを消し、ようやく希望のウサギ耳を装備した美兎は、既に疲弊しきってテーブルに突っ伏していた。

漫画であれば、瞳のハイライトが消えているところだろう。

 

「いいえ。これは重要な問題です。わたくしが行き遅れたら楓ちゃんが貰ってくださいよ。責任取ってもらいますからね」

「…な、何言うてんの自分、意味不明すぎやろ…」

 

面を上げて楓の手を握りしめ、顔を赤らめ熱っぽく瞳をうるませながら、訳の分からない事を言う美兎。

そして、そんな風に美兎に迫られ、得体の知れない感情が湧き上がり、思わず目を逸してしまう楓。

 

『尊いのだわ…』

「え、え? 何か言いました?」

『こほん。なんでもないのだわ。そろそろ、女神もお話に加わって良いかしら?』

「あ、ああっ。何か、すんません。こっちばかり喋ってもーて」

 

楓と美兎の二人は、居住まいを正して、モイラに向かい合った。

 

『ちーちゃん以外とは、はじめましてになるのかしら。私はモイラ。この天界で、運命を司る女神のお仕事をしているのだわ』

「運命を…」

「司る、女神…」

 

と、モイラの言葉を反芻しているかに見えた楓と美兎であったが、実際のところ、二人は彼女の別のところに目を奪われていた。

彼女のどこが、と明言するのはいささか憚られる。しかし、あまりにも存在感のある“それ”は、モイラの顔のすぐ下で、絶大な質量をアピールしていた。

自らのそれに、無意識に手が伸びる。ハリ、艶、形…。自信過剰を承知で言えば、自分だって決して人後に落ちるものではないと二人とも自負していた。

しかし。目の前のこれは、もはやそのような次元のものではなかった。

あたかも、大祖国戦争で凍えきったドイツ軍に、津波のごとく襲いかかるソ連軍。いや、これはもはや、テルモピュライの戦いにおいて、数百倍の戦力でもってギリシャ軍に相対したペルシャ軍と言うべきだろうか。

暴力的なまでに圧倒的な物量が、下品と見なされない限界点まで、ほとんど惜しげもなく、怒涛の如き慈愛と寛容を以って披瀝されている。

そして、その一点に差すホクロを見る全ての者は、その美と輝きの持ち主に対して、深く思いを馳せずには居られない。

まさに、美と芸術の至宝──はっきり言って、勝ち目はないに等しかった。

 

(…デカッ…!)

(は…発想のスケールで…ま、負けた…!)

 

せっかく正した居住まいが崩れて、また別の意味で悶えてしまう二人であった。

 

『あ、あの…何か、全然違うところに話が進んでいるような気がするのだけれど…女神の気のせいよね?』

「モイラおねーちゃん、おっぱい大きいもんね。わたしも大きくなったらモイラおねーちゃんみたいになれるかなあ?」

「ああっ! せっかくわたくし達が遠慮してるのにこれだから子供は!」

「ちーちゃんは十分かわええから、そのまんまでもええんやで…」

『あ、あのー…』

 

…仕切り直して。

 

「おほん。わたくしは、ちーちゃんのお友達をさせていただいてる、月ノ美兎と申します」

「同じく、樋口楓です。よろしくお願いします」

『よろしくね。あなた達のことは、たまにちーちゃんから聞いていたのだわ。ちーちゃんといつも仲良くしてくれてありがとう』

「とんでもないです。なんか、私達も知らん間に色々助けてもろてたみたいで…」

「んふふー。もっとちひろをほめてほめて! ドヤァ!」

 

胸を張るちひろを見て、三人の間に自然と笑みが浮かぶ。

 

「あ、ところでその、全然関係ない質問なんですけど…さっきモイラ様は、運命を司ってると仰ってましたよね。運命というのは、普通によく言う、あの運命のことですか?」と、楓が挙手して尋ねた。

『そうね。命を運ぶと書いて、運命。地上に住むこいぬ達…つまり、人間達の運命を、女神は管理しているのだわ』

 

「そう、なんですか…」そう言って、楓は視線をテーブルに落とした。

そうして、もう一度視線をモイラに向ける。

 

「じゃあ、人間の運命って、やっぱりあるんですか?」

『そうね…。女神は、運命という概念そのものが形を成したものと言ってもいいのだわ。だから、あるという答えが正しいわね』

「そんなら、人間ってやっぱり、決まった道を歩いてるだけなんですか…?」と、楓は身を乗り出した。

『ああ…ふふ。なるほど、楓ちゃんは、その事が気になったのね』と、モイラは笑み、そして、手のひらを上にして、三人の前に差し出した。

「?」

 

三人が彼女の手のひらを見つめていると、そこにゆらゆらと揺れ動く数本の赤く太い糸のようなものが現れた。

 

「? これは?」

『これは、こいぬ達の命の流れを表しているものなのだわ。地上では、よく運命の赤い糸というでしょう。まあ、国によっては炎だったり、別のものだったりするのだけれど…』

 

モイラは、その数本の赤い糸をまとめると、もう片方の手で、糸の真ん中あたりをそっと握り込んだ。

ふわふわと空中を漂っていた糸は、モイラの手を中心に束ねられたが、モイラが掴んでいない糸の両端は、まだふわふわとたゆたっている。

 

『運命は、喩えて言うならこういうものなのだわ。時折、こいぬ達の人生の一部に干渉して、ある決まった道を歩ませようとするの。けれど、それが済めばまた、運命はこいぬ達を手放す。そしてまた、別の形で捕まえようとする…。それの繰り返しなのだわ』

「……」

『つまり、運命が束縛するのは、こいぬ達の全てではないの。それに、別に運命に逆らったって構わないのだわ。そうすれば、こいぬ達のために、その先でまた新しい運命が形作られるだけ』

「それって、つまり…運命は絶対やない、と?」

『そう。女神がしているのは、そうやって、ただ運命の選択肢が、正しくこいぬ達に与えられるように管理することだけ。それをどうするかは、こいぬ達次第なのだわ。だから、安心してね』

「そう…なんですね。何や、ちょっとホッとしました」

『良かったわ。“運命を受け入れる者に幸いあれ。運命に逆らう者に栄光あれ”…ってね。解けて、解れて、また結ぼれて…そうでないと、女神も楽しくないのだわ』

 

モイラは、そのように言うと、おもむろに楓と美兎の片手をそれぞれ掴み、テーブルの上に置いた。そして、二人の手からそれぞれ赤い糸を出現させると、それをおもむろに結びつけた。

 

『こーんな感じにね♪』

「え…」

 

それを見て、楓の顔が面白いように赤く染まった。

 

「ちょ、いやいやいやいや、これっていわゆる赤い糸なんですよね!? 私と美兎ウサギは別にそんな関係やないんですけど!?」

「え!? 楓ちゃん、それって、わたくしのことは何とも思ってないということですか!? わたくし楓ちゃんにとってその程度の存在だったんですかね!?」

「いや、別にそういう意味やなくて…って何言うとんねんこの美兎ウサギは!?」

『いいじゃない、美兎ちゃんが行き遅れなければの話なんだから、それは』

「や、だからと言うて、私は別にそないなことは…」

「ぶー! お話むずかしくてよく分かんないー! ちひろおいてけぼりなんですけどー!?」

「あーほら! ちーちゃんがむくれとるから! ハイこの話やめよ! やめやめやめ! 本題入ろ! ね!?」

『えー、女神はそのへんもう少し聞きたいんだけどなー』

 

一度花の咲いたガールズトークは、しばらく終わりそうになかった。

 

* * *

 

「おほん。では、本題に戻らさせていただきます…」

「何度仕切り直してるんですか、楓ちゃん」

「そ、それは美兎ウサギが訳わからんこと言い出すからで…」

「訳わからなくないですよ。わたくしの人生に関わる問題ですからね、これは」

「あーまたはじまったー! もういいちひろが話すからー!」

 

ちひろは二人を押し留めると、そのまま話を続けた。

 

「ねえモイラおねえちゃん、この子、だれだか分かんない? もしかして、ゆうれいとか、わるい魔法使いだったりしない?」

 

そう言って、ちひろは鳩羽つぐの顔を印刷したプリントをテーブルの上に置いた。

モイラは、プリントを手に取って、小首をかしげる。もう片方の手は、人差し指を口元に近づけて。

 

『この子は…?』

「実は…」

 

三人は、モイラにこれまでの経緯をありのままに話した。

ある女性に頼まれて、鳩羽つぐを探していること。鳩羽つぐは40年前に行方不明になったはずなのに、今になって同じ姿のままで現れたこと。

インターネットに動画が流されていること。しかし、肝心の西荻窪の住人たちは、彼女の姿を目撃していないこと…。

 

『うーん、なるほどなのだわ…ちょっと、待っててね』

 

プリントの上の鳩羽つぐの写真に手を添えて、モイラが静かに目を閉じる。

彼女の天使の翼が、飛翔する鳥のように大きく開かれたかと思うと、蛍火のような光が、その翼から溢れて零れ始めた。

それは、世界の因果律を統べる女神が、過去未来に亘る無数の因果律という名の宇宙から、鳩羽つぐという名の原子を拾い上げるための天文学的な演算を行っている姿だった。

不必要な情報は処理されて光の粒となり、零れた光は、地面に落ちると雪のように解けて消えていく。

もっとも、そんなことを知る由もない楓や美兎のような一般人には、それは単なる美しい光の芸術のようにしか見えはしなかったが。

しばらく待って光が収まると、モイラは静かに深呼吸をしてから言葉を継いだ。

 

『…ふう…。この子は、女神のこいぬなのだわ。つまり、普通の人間ね』

「モイラおねえちゃん、ほんと?」

『ええ。この子の赤い糸は、女神の手のひらの上にあるのだわ。もし人の理から外れるような存在なら、女神には赤い糸が見えないもの』

 

その言葉どおり、女神の手のひらの上に、赤い糸が現れた。どうやら、これが“鳩羽つぐ”の運命の流れを示す赤い糸であるらしい。

 

『それと、この子は魔法使いのような特別な能力を持つ子でもないみたい。もしそうなら、この糸がもっと違った色や形を示したりするの。たとえば、ちーちゃんはこうね』

 

モイラがちひろの手のひらに触れると、彼女の手の小指に結ばれた、青色の細長いリボンが姿を表した。

色は青だが、ちひろにとっては、これが運命の赤い糸ということになるらしい。

 

「んん…? 普通の人間…? ということは、40年前の鳩羽つぐちゃんは…?」

「モイラおねえちゃん、この子が今どこに住んでるのかはわかる?」

『住んでいるところ? うーん…』

 

モイラの手の上に、手のひらサイズの半透明の地球儀が現れる。モイラは、その地球儀の東京のあたりを指さした。

 

『大体、この辺かな。ちーちゃんやあなたたち二人のご近所なのだわ』

「そう言われても…東京てめっちゃ広いですよ。もう少し詳しく分かりません?」

『うーん、何しろ女神、地上のこいぬ達の運命を全部一人で管理してるから、一人ひとりの細かい情報まではチェックしてないの。こいぬ達、最近は70億人以上に増えちゃって大変なのよ。これからまだまだ増えるみたいだし』

 

モイラはまさしくお手上げ、という風に両手を上げた。

 

「何か手はないですか? あっちの宮殿の方とかで調べられません?」

『そうね…、アーカシャの記録係に問い合わせれば、それくらい調べられると思うけど、色々理由を付けて書類も作らなきゃいけないし、正直面倒なのよね。申請しても、軽く何ヶ月も待たされたりするし』

「えー、そんなにまてないよー?」

 

その時、四人の耳に誰かがモイラを呼ぶ声が聞こえた。

 

『モイラよ… モイラよ…』

 

威厳に満ち満ちた、老齢の男性の声が、天上から降り注ぐかのように、天空から聞こえてくる。

 

『あちゃあ、じいさんなのだわ…』

「じいさん? だあれー?」

『うん。女神の上司って言えばいいのかな。天界の一番偉い人っていうか…』

『モイラよ… そんな所で何をしておる… 今月の天国行きの者を決める会議があると言っておったであろう…』

『あーはいはいはい! 分かってるのだわ! 今行くからちょっと待って頂戴!』

『早く戻るのだ… 今月の人間の死者480万人のうち、未決裁の者がまだ240万人分あるのだぞ… 早くせよ… 早くせよ… せよ… よ…』

 

威厳のあるような、むしろ安っぽいようなエコーを響かせながら、“じいさん”の声はフェードアウトする。

やれやれしょうがない、ホントにごめんなさいねと言って、モイラは席を立った。

 

「ちょ、お仕事がお忙しいのはよう分かりましたけど、こっちの件はどうすれば…?」と、楓も引き留めようと席を立つ。

『ええと、そうね…。じゃあ、ちーちゃん。手を出して?』

「?」

 

ちひろの手のひらに、モイラはそっと自分の手を乗せる。

彼女が静かにその手を退けると、ちひろの手のひらに、15センチほどの長さの赤い糸が載っていた。

 

「モイラおねーちゃん、これって…」

『それはね、“鳩羽つぐ”ちゃんの赤い糸を実体化させたものよ。その子そのものとでも言うのかしら。だから、それを使って探せるのだわ』

「え、でもどうやって? わたし、そんな魔法しらないよ?」

『ふふ。ちーちゃんはお友達がいっぱいいるでしょう? だから、使えなくても大丈夫よ。それじゃあ、またそのうち遊びに来てね。約束なのだわ!』

「あ、ちょっ…」

 

それだけ言うと、モイラはふわりと飛び立って、遥か遠くの宮殿の方向へとあっという間に飛び去ってしまった。

彼女の飛び去ったあとに、抜け落ちた天使の羽根が一枚二枚、ふわりふわりと地面に落ちて消えた。

 

「…行っちゃいましたね、女神様。どうします、これから?」

「あっちの宮殿の方行って、もっかい掛け合うてみる? こっちにはちーちゃんおるんやし、いけるんやない?」

「うー、あっちのおっきなおしろは、ちひろも入れないの…。ほんとのほんとにてんかいの人しか、ダメだって言われてて…」

 

ちひろは、そう言いながら、自分の手のひらに載せられた“鳩羽つぐ”の赤い糸を見た。

モイラが、容易に失くさないようにしてくれたのだろう。糸は何重にも撚り合わされて、組み紐のように束ねられている。

それを見ている内に、ちひろの脳裏に先程のモイラの謎掛けのような言葉が反響した。

この紐はその子そのもの。ちーちゃんはお友達がいっぱいいるから、使えなくても大丈夫。

 

「…ん?」

 

不意に、ちひろは西荻窪のコーヒーショップで楓が言った言葉を思い出した。

楓は、使い魔を出して見張らせたり、匂いで探させたりする魔法はないのかと言った。

生憎、ちひろはそういう魔法を覚えていない。沢山の悪い魔法使いや怪獣がやってくると思って、攻撃に使える魔法ばかり覚えていたからだ。

でも、それならそれで、何も自分が出来なくてもいいのだ。そういう事を出来る人に頼めばいいだけなのだから。

そして、ちひろはそういう人を何人か、知っている。

 

「おねえちゃんたち、下にかえろ!」

 

ちひろは、“鳩羽つぐ”の糸をミサンガのように自分の手首に結び、椅子から降りた。

 

「え? 女神様に話さんでもええの?」

「うん! ちょっと思いついたことがあるから!」

「う、うーん。念願のウサミミを装備したのにもう帰るのはちょっと勿体ないですね…せっかくですしもうちょっと満喫しません?」

「別にウサミミはアマゾンで買えばええんちゃう?」

「いや、まあ、そうなんですけど、ちょっと違うというか…いえ、なんでもないです」

 

* * *

 

(危ない危ない、まさかじいさんが割り込んでくるとは思わなかったのだわ。もうちょっとちーちゃん達とお話したかったのになー)

 

宮殿へ戻りながら、モイラは心の内で独り言ちた。

実の所、モイラの権限を以ってすれば、少し時間さえ掛ければ、記録係に掛け合わずとも、“鳩羽つぐ”の居場所を探り当てる事はそう難しい問題ではなかった。何しろ彼女は運命を司る女神なのだから。

けれどそれをしなかったのは、自分が何でもかんでも解決してしまっては面白くないからだ。彼女はたまに人間たちの赤い糸を繋いだり解いたりして、彼らの運命を弄って遊んだりはしている。しかしだからといって、“機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)”になるつもりは毛頭なかった。

それに、能力を使って、人間たちにあれこれと便宜を図っているところを“じいさん”に見られでもしたら、また長々と煩いお説教をされるに決まっている。

 

(ふふ。ちーちゃんにはちょっと意地悪なことをしちゃったかもだけれど、頑張ってね。みんながどうするのか、女神はこっちから見せてもらうのだわ)

 

モイラが“鳩羽つぐ”と思われる存在をアーカシャの記録から探し出した時、彼女はそれに該当する赤い糸を2本見つけ出した。

一本は普通の赤い糸。そしてもう一本は、ボロボロにささくれ立って、今にも千切れてしまいそうな、黒ずんだ赤い糸だった。

ちひろに渡したのは、普通の赤い糸の方である。

 

『それにしても! 美兎ちゃんと楓ちゃんはなかなか尊かったのだわ~。ふふふ。せっかくだし、あとであの子達の先輩の凛ちゃんって子の赤い糸も、美兎ちゃんと楓ちゃんに結んじゃおうっと。

ふふふ~…楽しみなのだわ。かえみと、りんみと、かえしず…いやいや、その逆でも一向に構わないのだわ! 最近こいぬ達は増えすぎだし、やっぱり男の子は男の子同士、女の子は女の子同士で恋愛してもらわなくっちゃ♪ 甘酸っぱいのだわ~♪』

 

顔をふにゃふにゃに緩ませながら、独り言をつぶやくモイラ。

彼女の趣味。それは、許されたり許されなかったりする、こいぬ達の恋の行方を愉しむことである。

 

『モイラよ… 聞こえておるぞ…』

『じ、じいさん!?』 

『お主はあれほど注意したのにまだ職権を濫用するつもりか…? 一度堕天させて地上勤務で根性を叩き直しても良いのだぞ…? ブラック企業でトラックの運転手でもするというのはどうじゃ…?』

『そ、それだけは勘弁してほしいのだわ…』

 

その後、モイラが地上でトラックの運転手になったかどうかは、定かではないのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狐が一人、関わった

三人が東京タワーの外に出ると、既に街は美しく宝石のように輝く、夜の表情を表していた。

時刻は午後6時過ぎになっていた。眠らない東京の街にとって、午後6時は夜というには些か早すぎ、むしろこれからが賑わいを見せる頃合いである。

とはいえ、三人のいる東京タワーの真下は、公園や料亭、寺院などがあり緑も多いため、東京の街のシンボルの真下であるにもかかわらず、意外なほどに静かだった。

 

「うん。じゃあ、二十分後にそこでまっててねー? すぐに行くから!」

 

タワーに隣接する公園の一角で、ちひろはすまほで誰かと一頻り話すと、通話を切って、すぐに魔法少女に変身した。

 

「ちーちゃん、今度は誰に会うん?」

「えとね、ちひろのしゃてー!」

「は? しゃ、舎弟?」

「うん。会えば分かるよ。すごくやさしくていい人だから!」

 

そう言いながら、ちひろは二人の腕を掴む。もう飛ぶつもりらしい。

 

「ち、ちーちゃん! 今度はゆっくり、まっすぐ、現地直行でお願いしますよ!? もう夜ですから、危ないですから! ね?」

「だいじょうぶ! 30%くらいゆっくり行くから!」

「30%そのものにしてくださいね!?」

「えー、それだとおそすぎてまわりの人にめーわくじゃないかなあ? 車をうんてんする時は、まわりのスピードにも合わせなさいって、おとーさんゆってたよ?」

「ちーちゃん、これ車ちゃうから! 空には誰も居らんから! 飛ぶんはわたしらだけやから!」

「まかせて! 安全うんてんでぶっとばすから!」

(ア…アカン…もうダメや…)

 

怯える楓と美兎を引きずるようにして、ちひろは赤く輝く東京タワーを背に、空中に飛び出していった。

 

* * *

 

その数十分後、東京のとある街角の公園では─。

 

「うー、ちひろ先輩、ちひろ先輩…!」

 

今、公園に向かって全力疾走している彼は、大学に通う、ごく一般的な男子大学生。

強いて違うところを挙げるとすれば、ちょっと性格が犬っぽいってとこだろうか──名前は、伏見ガク。

そんなわけで、ちひろ先輩に指定されたこの公園にやってきたのだ。

 

「んっ…」

 

ふと見ると、ベンチに一人の年端も行かない少女が座っていた。

 

「あっ、あれはちひろ先輩…!」

 

そう思っていると、突然ちひろ先輩は、ガクの見ている目の前で、魔法少女の変身を解除しはじめたのだ…!

 

「やらないかー!」

 

……。

 

「あの、いきなり何の話でしょうか、ちひろ先輩…! しかも魔法少女のカッコで来ちゃってましたけど! いいんスか!?」

「だいじょーぶだいじょーぶ。あっ、ごめんねガッくん、いきなりこんな夜によんじゃって」

「それは気にしないでくださいっス! ちひろ先輩の頼み事なら何でもござれっスよ!」

 

ガクは胸に拳を当て、眩しいばかりの笑顔でそう言う。

とそこに、公園の女子トイレから出てきた楓と美兎が戻ってきた。

 

「…今回はほぼ出ませんでしたね」

「…既に空っぽやからね」

 

ちひろは手を挙げて、どことなく頬のこけた二人組を呼ぶ。

駆け寄って来た二人に、ガクはピースサインを作って、挨拶した。

 

「こんばんはっス! ちひろ先輩の友人やらしていただいてる、伏見ガクと申しますっス!」

「あ、ども…。同じくちーちゃんの友達の、樋口楓です」

「右に同じく、月ノ美兎です」

「よろしくお願いしますっス!」

 

ガクは、二人に対してビシッとお辞儀をする。

VネックのTシャツと、赤と黒の対比が映えるジャケットとパンツ。胸元には、トライバルな印象の勾玉のネックレス。腰には、仏教の僧侶が用いる払子によく似た、何かの毛で作られたアクセサリーを身に着けている。

顔立ちもとても整っていて、ルックスもイケメンだ。けれど、そんなチャラチャラとした軽い印象の見た目とは違って、彼自身はかなり礼儀正しい性格らしい。

しかし、さっきからちひろの事を先輩先輩と呼んでいるのは何故だろう、と楓は思った。

どう見てもガクは、ちひろはおろか、明らかに自分や美兎より年上に見えるのだが。

 

「あのー。さっきからちーちゃんのこと、ちひろ先輩って呼んでらっしゃいますけど、それは一体…?」

「ああ、それは、何ていうのかな、ちひろ先輩の事、オレはすごく尊敬してるっていうか…」

「がっくんはね、前はちょっとちょーしにのってたから、少し“きあい”を入れたの! 魔力ぜんかいでドガーンって!」

「オッス! あの時のキツい一発、ありがとうございましたっス! オレ、アレで目ェ覚めましたッス!!」

「でも、あのときはごめんね? いくらなんでもフルパワーはやりすぎだったよね? あれ、痛くなかった?」

「ハハハ、あれくらいなんてこと無いっスよ!」

「……」

「……」

 

楓と美兎は、無言で目配せをして、この件にはこれ以上触れないでおこうと合図し合った。

たぶん、このガクという人も一般人ではないのだろうし、ちひろの得意な魔法のラインナップを考えると、二人の間に何があったのか考えただけでも恐ろしい。

 

「それで、ちひろ先輩。オレを呼んだのは…?」

「うん。これのことなんだけど…」

 

ちひろは、腕に巻いておいた“鳩羽つぐ”の運命の赤い糸を解き、ガクに手渡した。

ひと目見ただけで、これが通常の物体ではないことに気づいたらしい。彼は、じっとその糸を食い入るように見つめてから、視線をちひろに戻した。

 

「…ちひろ先輩。こんなもの、どこで見つけてきたんですか?」

「えーとね、いろんなことがあったんだけど…」

「あ、わたくし達が話しますよ。なにしろ、ここまでで結構色々ありましたからね」

 

美兎と楓は、モイラにもしたように、これまでの経緯をガクに語って聞かせた。

“鳩羽つぐ”の正体を知るべく、あちこちを歩き回ったこと。

その赤い糸が、“鳩羽つぐ”を探すために託されたものであること。

ちひろが言うには、ガクであればそれを使って探せるかもしれないということ…。

 

「人間の運命の赤い糸、ですか? それで、オレに?」

「うん。だって、ガッくんなら、はなとか耳とか、すごく利くでしょ? だから、さがしてもらえないかなって」

「まあ、確かにフツーの人よりかは、利きますね。たとえば…」

 

そういいながら、ガクは公園の向こうに見える通りを指差した。四人の位置からは、100m以上は離れているだろうか。

 

「今、そこの通りを酔っぱらいのオッサンが歩いてきます。すげえ酒くせぇ」

 

ガクがそう言った数秒後には、夜7時だというのに、既に泥酔した様子のサラリーマン風の男性が、千鳥足で歩いている姿が現れた。

 

「あと、あっちの方向からは、女の人二人が歩いてきます」

 

そう言ってガクが公園の逆側の通りを指差すと、果たして20代くらいの女性二人が、楽しそうにお喋りをしながら公園の傍を通りかかっていた。

 

「すご! 完全に言い当ててますよ、この方!」

「ヘヘ。ざっとこんなもんですよ」

 

そう言いながら、ガクは更に赤い糸を鼻に近づけて、その匂いを嗅いだ。

 

「この赤い糸…よくは分かりませんけど、人間とソックリな匂いがするんですよ。もし同じ匂いがする子が居たら、間違いなく分かると思います」

「本当ですか!? ひょっとしたら、それで…!」

「ね、すごいでしょー?」

 

自分の事のように胸を張って自慢するちひろに、楓は耳打ちをして聞いた。

 

「…ねえ、ちーちゃん。この人も、やっぱ普通の人やないん?」

「んー? あ、がっくんはねー、キツネさんが人間にへんしんしてるの! こんこーんって♪」

「ち、ちひろ先輩!? ご友人の前で何言ってるんスか急に!?」

「狐? 狐ってあの狐ですか?」

「は、はて? な、何のことやら…」

 

急に取り乱してトボけたようなフリをするガクだったが、美兎と楓は特に驚くでもなく、むしろ平然としていた。

 

「なるほど、ガクさんは狐だったんですね。道理で、耳や鼻が人間離れした方だと思いましたよ」

「あ、私らは気にしませんから大丈夫ですよ。人間の生活もそんな悪くないでしょ?」

「…あ、あの…ちひろ先輩、こちらのご友人方は何者っスか…?」

「さっきまで、みんなで天界に行ってたの。だからもう、がっくんぐらいでいちいちおどろかないよ」

「そ…そうっスか……」

 

キツネは、イヌ科の動物である。それだけに、犬と同様、嗅覚や聴覚は、人間の何百倍、何千倍と優れている。

それだけでなく、微妙な磁場を感じ取って、自分の今いる場所や、雪の下に潜む獲物の位置を正確に見極めるという説もあるのだ。

また、人間に化けたり、人間の社会に溶け込んで暮らす狐の話は、昔話などで枚挙に暇がないが、大阪の隣町の松原というところでは、狐が人間と一緒に暮らしていたという伝承がつい最近まで残っている。

今は昔、昔は今。ガクも、その一人であるのかもしれない。

 

「それはともかく、がっくん。つぐちゃんさがすの、手伝ってくれないかなあ? ちょっと大変かもだけど…でも、今はがっくんしかたよれる人がいないの。環ちゃんは、びょうきしてるし…」

「そりゃ、もちろんですよ! 困った時はお互い様じゃないスか! ちひろ先輩の頼み事なら尚更っス!」

「わあ、がっくん、ありがとう! がっくんだーいすき!」

「ちょっ、ちひろ先輩、ご友人方が見てらっしゃるから、その…」

 

ピースサインでちひろの頼みを快諾するガクに、ちひろは無邪気に抱きついて喜ぶ。

それは、先輩と舎弟というよりかは、どこにでもいる兄と妹のようだ。

ただ、ガクのほうはどちらかというと、少し照れたように笑っている。人前で妹ほどの年の少女に抱きつかれるのは、少々気恥ずかしいのだろう。

 

「あー、おほん。ガクさんと仰いましたっけ? うちのちーちゃんと仲ええのはよう分かりましたけど…」

 

楓はおもむろにちひろをガクから引き離して、これ以上ないという位のジト目でガクを見つめた。

 

「ちーちゃんはまだ10歳ですんで。…くれぐれも、間違いを起こさんといてくださいね?」

「えっ?! い、いや、今のってちひろ先輩からくっついて来ただけなんですが…!」

「そんな、がっくん…あの夜のことはウソだったの…?」

「何の話っスかちひろ先輩ちょっと!?」

「美兎ちゃん、ちょうお巡りさん呼んで?」

「もしもしポリスメン?」

「あ、がっくんのばあい、けいさつよりほけんじょの方がおすすめだよ」

「保、保健所!? 警察じゃなくてっスか!?」

 

女性が三人集まると、男一人では太刀打ちできないものである。

違いますから! 誤解ですから! あああーっ、これはオレのイメージじゃねーっ! ロリの災難は刀也の役だーーーっ……

そんなガクの悲しい叫びが、夜の街に響き渡ったのだった。

 

* * *

 

それから、ガクが西荻窪周辺を捜索する準備を早速始めたいと申し出たので、その場は解散することになった。

最後にまたピースサインを作って、「何か分かったら、皆さんにすぐ連絡しますっス!」と、輝くような笑顔を見せてから、彼は小走りに立ち去っていった。

見た目とは裏腹に、爽やかで今どき見ないような好青年だ。人は見かけによらないとは、彼のような事を言うのかも知れない。

楓と美兎は、彼をついつい弄って遊んでしまったことに、少しだけ心の中で彼に謝っておいた。

 

「ねえ、ちーちゃん。他にも、あんなお友達がいるん?」

「うん。ホントはね、他にも環ちゃんっていうネコさんのお友達もいるんだよ。でも、ちょっとぐあいがわるいってゆってたから、今回はがっくんにおねがいしたの」

「へえ…この世界、知らんとこで、色々面白い事になってたんやな。…あー、あかんあかん、もーだめや。あれこれ驚きすぎて、疲れたわ。ふあ、んんんー…」

「全くですね。頭が追いつかなくてヘトヘトですよ、わたくしも」

 

楓は、心底疲れたというふうに大きく背伸びをして、ひとつ欠伸をした。

この数日だけで、世界さえも超える様々な体験をしたのだ。美兎や楓もまた、少しずつ一般人から離れてきているのかもしれない。

 

「じゃあ、そろそろおうちにかえろっか? あんまりおそくなると、きっとうちのママやパパもしんぱいするし…」

 

楓と美兎は、そう言って魔法少女に変身しようとしたちひろの肩を掴んで、押し留めた。

 

「…帰りは電車にしましょう、ちーちゃん」

「え、何で? 空を飛んだら、すぐだよ?」

「ええの。人間、地ぃに足付けて歩くんが一番やから。ゆっくり帰ろ? ちーちゃんのママには、私らから謝っとくから。ね?」

「んー、そっかぁ…。分かった…」

 

何やら少し残念そうなちひろを見て、心の底から安心する楓と美兎なのだった。

 

それから一週間、二週間と経ったが、特に動きはなく、“鳩羽つぐ”の新しい動画も、ネットには投稿されなかった。

強いて進展を挙げるとすれば、凛先輩が、当時の新聞記事を収めたマイクロフィルムの中から、“鳩羽つぐ”の小さな顔写真の入った記事を見つけた事くらいだろうか。

凛先輩はそれをプリントアウトして学校に持ってきてくれたのだが、残念ながら、これまでに調べたことと殆ど変わりはなく、彼女の失踪の謎がいよいよ深まったに過ぎなかった。

 

ちひろは、数日に一回、学校が終わってから、ガクに合わせて、西荻窪の様子を見に行っているらしかった。

がっくんにばかり探させたらかわいそうだから!とは、ちひろの言葉だ。その言葉を聞いて、将来は面倒見のいい姉御肌の女性になりそうだと、美兎と楓は思った。

とはいえ、彼女も魔法少女である前に一人の小学生であり、当然暗くなったら家に帰らなければならない。それだけに、あまり細かい調査や探索を長時間続けることは出来なかった。

それに加えて“鳩羽つぐ”は、人目を避けるように、夜や雨の日、あるいは人気のない場所でほんの短い時間だけ撮影を行う傾向にあるようだったから、ますます捜索は難しさを増していた。

 

一方の美兎と楓も、ネット上の掲示板やツイッターなどで情報を募集したりしたが、どれもイタズラとひと目で分かるような、しようもない書き込みしか得られない日々が続いた。

えるとは、東京タワーで会って以来、電話もラインも連絡が取れていない。

えるのハウスメイトだという、エル美というエルフの女性の話では、エルフの森が何とかと言って、急に里帰りしてしまい、戻ってきていないのだという。

 

頼みの綱は、頼もしい狐の力と、女神に託された赤い糸だけ──。

そんなもどかしい日々を過ごすちひろ達三人のもとに、ガクからの連絡が届いたのは、それから更に数日が経過してからだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

過去と現在(いま)とが交わった

『さっき、つぐちゃんを西荻で見つけました。後を尾けてます。皆さん、今から来れますか?』

 

予め作っておいたラインのグループトークに、ガクがそう書き込んだのは、“鳩羽つぐ”の捜索を始めてから、二週間と少しが経った日の夜遅くだった。

 

『いくー!!』

 

真っ先にそう書き込んだのはちひろだったが、楓や美兎も、当然その気持ちに変わりはなかった。

待ちに待った連絡だった。ついに、40年の時を越えて現れた“鳩羽つぐ”の謎を、いよいよ解き明かせるかもしれないのだ。

 

『行かいでか!』

 

楓はそのように書き込むと、部屋着を脱ぎ捨てて、外出着に袖を通した。

 

「美兎おねーちゃん、楓おねーちゃん、こっちこっち!」

「はぁ、はぁっ、ごめん、待ちました? ちょうどお風呂入ってまして…!」

「私らも今着いたとこやから、安心しとき。ちーちゃん、今日はなんぼでも飛ばして構わんから、急いで行こ!」

「がってんだーっ!」

 

家の近所ですぐに合流したちひろ・楓・美兎の三人は、すぐに西荻窪に向かって飛び立った。

ガクが指定してきたのは、正確には西荻窪周辺ではなく、松庵地区の南端を流れる神田川を越えた先、京王井の頭線の三鷹台駅にほど近い住宅地だった。

神田川から先は、住所としては既に杉並区からは外れて三鷹市であり、北多摩地区に入っている。

地上から手を振って合図するガクを見つけ、ちひろ達が彼のすぐ側に降り立った。

 

「ちひろ先輩、お疲れ様っス! それに美兎さんと楓さんも!」

「がっくん、つぐちゃんを見つけたって、ほんと!?」

「ええ。さっきまでスーツを着た男と一緒に、西荻の方でスマホで動画の撮影らしいことをやってました。匂いもこの赤い紐と全く同じっスから、間違いないと思います。それから、二人でずっとここまで話しながら歩いてきてましたよ」

「男の人? どなたですか、それは?」

「さあ…けど、仲良さそうだったんで、たぶんあの子の父親かもしれないですね。さっき、二人で入っていきましたよ、あの家に」

 

と、ガクは親指で、目の前にある一件の一戸建ての家を指し示した。

あまり大きくはないが庭付きで、築深のデザインだが小奇麗な建物だ。一階の居間と思われる大きな窓のカーテンの隙間から、淡い光が零れて庭に落ちている。

建物自体は、塀で囲まれていて、玄関に通じる門扉は閉ざされていた。

 

「ほな、ちょう偵察してきてや美兎ちゃん」

「な、なななんでわたくしなんですか!?」

「ほら、こーゆーときはとりあえず切り込み隊長の美兎ちゃんが突っ込むんがセオリーやろ」

「ど、どういうセオリーなんですかそれは…」

「はよ、はよ」

「しょ、しょうがないですね…」

 

三人に背中を押されるようにして、仕方なく美兎は、文字通りの抜き足差し足忍び足で目的の家の前まで近づいていった。

後ろから見ていると、どうみても不審者しか見えないのが、少し面白い。

 

「現実でアレやってる人、初めて見ました、オレ」

「くくく…今やと、サザエさんに出てるアナゴさんと同じ声の泥棒くらいでしか見ませんよね?」

「ていうか、ぎゃくにあやしいんですけど…」

 

三人に物陰から若干失笑されつつも、美兎は玄関先の門の前まで進み、そこで立ち止まった。

門は施錠されていないようだ。門から中に入って、庭先に忍び込んで中の様子を伺うことくらいはできそうだ。

そう考えていると、門扉の脇に、インターフォンが備え付けられているのに気がついた。

それとも、いっそコソコソしないでボタンを押して呼び出してみようか? そう思ったところで、美兎はインターフォンの上にある表札に目を奪われた。

 

(“鳩羽”じゃない…)

 

美兎は、呼び鈴を鳴らす代わりに、物陰にいた三人を手招きして呼び寄せた。三人もまた、抜き足差し足忍び足で門の前に集まる。

 

「どしたん、美兎ちゃん?」

「この家、“鳩羽”じゃないですよ。本当にこの家なんですか?」

 

御影石で出来たその表札には、“雉尾”という姓が沈み彫りで刻印されている。鳩と雉で、鳥繋がりといえば鳥繋がりだが、明らかに違う姓だ。

 

「ええ、間違いないですよ。“鳩羽つぐ”っていうのは、単なるハンドルネームなんじゃないっすかね? 動画投稿するときの」

「むー…はんどるねーむ…?」

「どういうことなんやろ? それが何で40年前の子の名前になるん?」

「うーん…これは、考えても仕方なさそうですね?」

 

そう言うと、おもむろに美兎は、インターフォンを押した。

ピンポーンという呼び鈴の音が、インターフォンのスピーカー越しに聞こえてくる。

 

「ちょ、美兎ちゃん!? そんないきなり…」

「私が切り込むのがセオリーなんでしょう? 考えてもしょうがないなら、強行偵察するまでですよ」

 

いざとなったら、ちーちゃんもガクくんも居るんですから、と付け加えて、美兎はインターフォンの向こう側の反応を待った。

それから数秒の沈黙の後に、「はーい?」という明るい声が聞こえてきた。女の子の声だ。

全員、思わず息を飲む。そして美兎だけが、返事を返す。

 

「すみません。こちらは、“鳩羽つぐ”ちゃんのお宅でしょうか?」

「……」

 

また数秒の沈黙があって、それからマイクから遠く離れたところで、女の子が「パパ」と呼んだのが、微かに聞こえた。

それからまた少しして、「…はい。どちら様ですか? うちは雉尾ですが」という、男性の声が聞こえた。

 

「ええと、何と言ったらいいのか…そうですね、鳩羽つぐちゃんのファンの者と言いますか、つぐちゃんの姿を見かけてつい着いてきてしまったといいますか!」

「……」

「いえあの、決して悪気はなかったんです! いつも動画を楽しみにしていまして、それで…ひと目つぐちゃんに会ってみたいなと思いまして…」

「…ちょっと、お待ちください」

 

ブツッという音とともにインターフォンの通話が途切れて、その代わりに玄関口の暖色のランプが点灯した。

そして、鍵を外すカチャカチャという音がして、ドアがゆっくりと開いた。

 

「……」

 

品の良さそうな、あるいは温厚そうな、四十歳くらいの男性だった。

ドアから外に出たはいいが、明らかに困惑した表情を浮かべており、どうしていいか分からず、ただ突っ立っている感じだった。

女子高生二人に大学生の男一人、おまけに小学生の女の子一人という凸凹した組み合わせの「ファン」が夜中にいっぺんに押し寄せてくるとは、誰も想像しないだろう。

 

「あ…! あなたは!」

 

男性に続いて、小学生くらいの女の子が一人、男性の足に縋るようにして、外に出てきた。

亜麻色の髪の毛の、まだあどけない顔立ちが残る少女は、おずおずとした表情を浮かべて、四人を見つめていた。

それは、この二週間ほどの間、三人がずっと探し回っていた顔だった。彼女を見つけるために、西荻窪を歩き回り、天界まで赴き、ガクの力をも借りたのだった。

 

「今までずっと、つぐさんを探し回っていたんです。とても重要なお話がありまして…、どうしても、お話がしたいんですが!」

 

一歩身を乗り出すようにして、美兎が話を続けた。

真面目なようで、おちゃらけていて、けれどやはり大事な時には、きちんと誠意を相手に伝えようと努力するのが、美兎の話し方だった。

切り込み隊長という言葉は、決して茶化して言っただけではないと、楓は思っている。

 

「…その様子だと、この子は“鳩羽つぐ”じゃないなんて言っても、通じないだろうね?」

 

そんな美兎の姿勢が伝わったのだろうか。

男性は、しばらく思案し、四人の様子を一通り眺めてから、そう言った。

 

「とりあえず、中で話を聞くから、良ければ入りなさい」

 

* * * 

 

「どうぞ。こんなものしかないけど」

「あ、ありがとうございます」

 

リビングルームに通された四人の前に、温かい緑茶が出された。

家の中には、特段に変わったことはなかった。テーブル、椅子、テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、オーブントースター。

ごく普通の家庭の、ごく一般的な生活空間がそこにあるだけで、別に変わったところは一つもなかった。

ただ一点、リビングルームの隣にある和室に仏壇が置かれていて、その中央には若い女性の笑顔の顔写真が、写真立てに収められて置かれていた。

そして、男性と少女の他には、他の家族は誰も住んでいないらしかった。

 

「パパ、わたし、向こうでテレビ見てていい? 見たい番組始まるから!」

「ああ。見てなさい。パパはこの人達とお話するから」

「うん!」

 

動画の中のどこか陰翳を帯びたような表情とは違う、ごく普通の明るい笑顔を浮かべて、彼女はテレビのスイッチを付けて、放送の始まったらしい夜のバラエティ番組に目を輝かせた。

今日のその番組には、最近人気の、鈴鹿詩子という名のアイドル歌手が出演していた。もともと子供向けの教育番組のうたのおねえさん出身らしく、子供にも人気が高いそうだ。

 

「妻は、一年ほど前に病気で亡くなってね。今は、私と娘の二人暮らしなんだ」

「……」

「どうせ親戚が近くにいるわけでもないし、実家の両親からは、田舎に帰ってきたらどうだとも言われてるんだがね…」

「そう、でしたか」

「それで、わざわざうちを見つけて訪ねてきた理由を、聞かせてもらえないかな? まさか、動画を見ただけで娘のサインを貰いに来る人がいるとは思ってないよ」

 

美兎と楓は、頷きあってから、続けた。

 

「…分かりました。40年前に鳩羽つぐちゃんのお友達だったという方が、あなたの動画を見つけたんです」

 

美兎のその一言だけで、男性の表情に驚きが走ったのが見て取れた。

 

「…本当かい、それは?」

「はい。その方は、昔友達だったつぐちゃんが、どうして今になって現れて、動画を投稿しはじめたのか知りたがっているんです」

「ちょう説明が難しいんですけど、それを頼まれたのが私らで、ここ数週間つぐちゃんを探し回ってたって感じですね」

「つぐちゃんさがすの、大変だったよ! ガクくんもずっと手伝ってくれてたし!」

「まー、ハジメ先輩に代返頼みまくって、昼間も西荻歩きまわってましたからね。流石のオレも疲れましたッス!」

 

驚きをゆっくりと噛み砕くように、男性は楓たち四人の顔を交互に見回して、テーブルに視線を落とした。

それから、「…そう、か。色々面倒を掛けたみたいで、済まなかったね」と、呟くように言ってから、顔を上げた。

 

「今度は、わたくしたちの質問にも、答えていただけますか? 40年前の鳩羽つぐちゃんと、今そこにいるつぐちゃんは、どういうご関係なんですか? どうして、動画を作っていたんですか?」

「…ああ、もちろん説明するよ。説明させてくれ」

 

事の発端は、およそ一年前、彼の妻─つまり、この“鳩羽つぐ”の母親が病気で亡くなったことだった。

彼の妻は、もともと身体の強い方ではなかったが、それにしても呆気ない最期だった。

はじめは単なる風邪かと思っていたのだが、急に具合が悪くなり、慌てて入院したが間に合わなかった。急性心筋炎だったらしい。

 

急に家族を失ったことで、彼と娘の暮らしは大きく変わった。

葬儀などの手続きをしている間は、慌ただしさに紛れていて気が付かなかったが、それが済んでみると、心にぽっかりと穴が空いたような自分たちがいた。

今まで当たり前に側に居た人が、急に帰ってこなくなるというのは、こういう事であるらしい。

まるで、自分たちの内側が虚ろな伽藍洞になったようで、何をして、何を見て、何を読んで何を食べても、心がそれをきちんと受け容れないのだ。

それは、彼だけではなかったらしい。以前はあれだけ感情表現が豊かで、何をしても楽しいという感じだった娘が、どこか塞ぎがちになり、学校も時折休むようになってしまった。

 

このままではいけない。何か新しい事でも始めて気を紛らわせないと、このままでは自分も娘もおかしくなってしまいそうだと思った。

そう思いつつ、遺品整理のために、妻の遺したノートパソコンにログインしてみて気がついたのが、動画投稿だった。

彼の妻は料理を作るのが得意で、色々なおいしい料理を二人にもよく作ってくれたものだった。

そういえば、たまに彼女は料理を作る様子を撮影していて、何に使うのかと聞いたところ、動画にして見てもらうのと言っていたことがある。それがこれだったのだ。

動画投稿サイトに遺された幾つもの動画は、再生回数も思った以上に伸びていて、美味しかったですとか、また投稿してくださいだとか、色々な感謝のコメントも付いていた。

 

これだ、と、彼は直感的に感じた。

かつての妻と同じように、自分たちも何か動画を投稿したり、あるいは生放送をしたりしてみるのはどうだろう。

ただ、自分も娘も料理は作れないから、何か他の題材を考えて動画を撮ろう。

動画投稿サイト自体は昔からあるが、最近はユーチューバーなどと言う、動画投稿の収益で暮らしている人が居たりと、特に盛り上がっているらしい。

もちろん、そんなレベルの人気者になる必要は全くないが、自分たちの動画を見た人たちの感想を聞いたりして、コミュニケーションを取るだけでも、気が紛れるかもしれない。

その週末、さっそく彼は娘を連れて、動画を撮りに出かけることにした。

 

初めに撮った動画は、近所にいる半野良猫と、娘が遊んでいるだけの動画だった。

始めてだったので、娘の顔は映さなかったが、この動画は猫と小さな女の子の組み合わせが微笑ましいとコメントが寄せられて、それなりに再生数が稼げた。

娘も楽しそうに動画を撮影していたし、寄せられたコメントを読んで喜んだりと、心なしか以前のような表情を多く見せるようになってきた。

よし、これをもっと続けていこうと思った。動画を見てくれる視聴者のためだけでなく、自分たちのためにも。

 

この猫の動画のシリーズを十何本か投稿して、次第に動画編集にも慣れてきた頃、彼はそろそろ何か新しい題材はないかと探し始めた。

初めは、自分たちの為だけに始めた動画投稿だったが、少しずつ、視聴者がもっと楽しめるようなものも作りたいと思い始めてきたのだった。

そんな風に考えながら、ある日ほとんど使っていなかった倉庫の中を整理していたところ、かなり古い新聞紙に包まれた古い食器やらなにやらが、ゴロゴロと倉庫の奥深くから出てきた。

今まで気づいていなかったが、前の家主が引っ越しの際に片づけ忘れていったものらしい。新聞紙のフォントやレイアウトも随分古く、日付も1970年代を指していた。

どうせ要らないものだし、捨ててしまおう。

そう思いながら、倉庫から古びた家具や食器を運び出していると、皿を包んでいた一枚の新聞紙の記事に、目がいった。

 

それは、この隣町である西荻窪で、小学生の女の子が行方不明になったという事件を報じるものであった。

彼女の名前は「鳩羽つぐ」。鳥繋がりの珍しい苗字に目を惹かれて読んでみると、さらに目を惹かれるものがあった。

それが、鳩羽つぐの写真だった。そして、新聞記事の一角に飾られた彼女は、彼の娘にとてもよく似ていた。

無論、赤の他人である。鳩羽という苗字の親戚もいない。だからこれは全くの偶然だった。それだけに、その記事は彼の心をより強く掴んだ。

 

「ちょ、待ってください。それって、この記事の事ですか!?」

 

目を丸くした楓が話に割り込んで、新聞記事のコピーを差し出した。凛先輩が頑張って探し当ててくれた、鳩羽つぐの顔写真が入った新聞記事だ。

彼も、それを見て驚きを隠さなかった。

 

「これだ、まさにこの記事だよ! マイクロフィルムからコピーしてきたのかい? すごいな…良く見つけたもんだ」

 

さすが凛先輩だった。学校帰りに図書館に通い詰めていたと言っていたが、あの並外れた集中力とスタミナで、あらゆる新聞を細かくチェックしてくれたのだろう。

今回の事件を直接解決する手がかりにはなったわけではないが、必ず、ケーキバイキングを奢ってあげなくちゃと楓は心の中で誓った。

 

「…話を戻そう。それから私は、その記事の事が頭から離れなくなってしまったんだ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幻は彼岸へと消えた

それからしばらくの間は、鳩羽つぐの事がどうしても忘れられなかった。

自分の娘が同じように行方不明になったらと思うと、心が痛んだ。なにしろ、娘ととても良く似ているだけに、他人事とも思えなかったのだ。

変質者に誘拐されたのだろうか? それとも、何か事件や事故に巻き込まれてしまったのだろうか。

今は、どうしているのだろう。どこかで、生きているのか? それとも、今もまだ、誰も知らない何処かの暗い闇の中に閉じ込められているのか──?

図書館に行って、過去の新聞のマイクロフィルムを読み返してみたり、知り合いの年寄りに尋ねてみたりしたが、鳩羽つぐが見つかったという情報はひとつもなかった。

 

その事を娘にも話してやった。

娘も、自分にそっくりな女の子が隣町で行方不明になり、誰からも忘れ去られてしまっていた事に、思うことがあったらしい。

“動画で、この子の事をみんなに思い出してもらおうよ”と言い出したのだ。正直、それはいいアイディアだと思った。

もはや誰も覚えていないかもしれないこの哀れな女の子を、動画を見る人達の記憶の中に取り戻させてやろう。

 

彼は早速、かつて鳩羽つぐが通っていたであろう、西荻窪の小学校の制服に似た衣装を、洋服店に特注で仕立ててもらうことにした。

もちろん、自分の娘に着てもらい、動画の中で“鳩羽つぐ”になりきってもらうためだ。試しに娘に着せてみると、まさに新聞に載っていた鳩羽つぐそっくりになった。

 

そうして、彼は動画を撮り始めた。

はじめは撮影用のスタジオを借りて撮影をしたが、それから西荻窪の街角や、自宅の洗面所なども使って撮影した。

そして、動画を撮るにあたっては、できるだけ怪しげな気配や雰囲気を言外に漂わせるような動画にすることを心掛けた。

基本的に、動画には“鳩羽つぐ”としての娘しか映さなかったが、怪しげな物音を立てたり、無機質な部屋を使ったりと、工夫も凝らしてみた。

この子は何者なのか? どうしてこんな動画を撮影されているのか? 動画を撮影しているのは誰なのか──などを、視聴者に推測させるためだ。

そうすれば、いずれは──動画を見た誰かが、鳩羽つぐの真実に辿り着くのかもしれない。

あるいは、辿り着かなくても──誰かが、鳩羽つぐという少女の事を記憶に留めていたという記録くらいにはなるだろう。

 

「うまく説明出来ないんだが…撮影した理由としては、概ねそんな所だよ」

「じゃあ、別に自分の動画の再生数を上げて、広告収入を稼ごうとか、そういう目的ではなかったんですか?」と、美兎は訝しげに彼を見つめた。

「…いや…否定は、しない。自分の動画が人気になってほしかったという気持ちがなかったとは言わないよ。だから、説明もせずにこんなことを始めてしまったんだし…」

「けど、ほんまの鳩羽つぐちゃんのお父さんとかお母さんだって、見てるかも知れない訳やないですか? それを自分の動画の題材にするっていうのは、どうかと思いますけど…」

「それは…」

「本当のつぐちゃんのお友だちのおねえさんは、どうがのこと知ってたよ」

「それで、オレ達がここまで来た訳ですしね。確かに、どっかにいるご家族が見ててもおかしくないんじゃねえかな」

「……」

 

彼は、目線を落として押し黙った。

父親の雰囲気に気がついたのだろうか。テレビを見ていたはずの彼の娘が、いつの間にかテーブルの脇に立って、不安そうに父親の服の袖を掴んでいた。

 

「…お父さん? どうしたの? 大丈夫?」

「あ…ああ、あかり。心配ないよ。なんでもないから、向こうでテレビを見てなさい」

「でも…お父さんたち、ケンカしてるのかなって思って…」

 

それでも不安そうに、彼女は父親と訪問者達を交互に見回した。

不意に訪れた訪問者達が、父親を一方的に責めているように見えたのかも知れない。

 

「ね。あなた、あかりちゃんって言うん?」と、楓が彼女の頭にそっと手を乗せて撫でた。

「うん」

「そっか。ね、お父さんと一緒に動画撮るのは、楽しい? 辛かったりせえへん?」

「うん。たのしいよ! みんな、いっぱいいろんなコメント書いてくれるし。きっと、天国のお母さんも見ててくれてるって思う」

「…うん」

「私、あんまり難しい事はよく分からないけど…でも、みんながお父さんと私の動画を見て楽しんでくれてたらうれしいし、つぐちゃんの事も、誰かが見つけてくれたらいいなって思うよ。だから…」

 

楓の目を真っ直ぐ見て話す彼女の眼差しはとても澄んでいて、瞳は星屑のようにキラキラと輝いていた。

そこに、濁ったものは何もなかった。ただ、動画を作ることを楽しんでいる、小学生の女の子がいるだけだった。

 

「…そっか。あんね、お姉さん達、別にあかりちゃんのパパとケンカしに来たわけやあらへんの。ただ、今後の動画の方向性を一緒に考えとるだけなの」

「ほーこうせい?」

「そ。せやから、心配しなくても大丈夫。ちーちゃん、私らが話してる間に、あかりちゃんと遊んでもらってええ?」

「よしきた!」

 

ちひろは座っていた椅子からポンと飛び降りると、あかりの両手を掴んで、リビングのソファーに誘導した。

 

「よーし! げーむしよう!」

「げーむ?」

「うん。面白いのあるから!」

 

そう言って、ちひろはすまほを取り出して、何かのゲームのアプリを起動した。

 

「このツボに入ってハンマー持ってるおじさんをそうさして、上にいくの」

「へー。なんか、面白そうだね。やってみる!」

「ちょ、何でいきなりそのゲームなんですかちーちゃん!?」

 

美兎のツッコミもさておいて、ちひろとあかりの二人は、わいのわいの言いながらその過酷なゲームをやり始めた。

 

「いや、意外に楽しそうじゃないスか? 二人とも」

「ま、まあ、二人が楽しんでるならいいんですけど…」

「はは…小学生のツボはよう分からんね…」

 

楽しそうな娘を見て、しばらく押し黙っていた男性が、ぽつりと呟くように言った。

 

「…君たち。私は、これからどうしたらいいと思う? 動画を投稿するのは、もう辞めたほうがいいんだろうか?」

 

美兎と楓は、目を見合わせる。

もちろん、辞めたほうがいいというのは、簡単なことだ。現実にまだどこかにいるかもしれない鳩羽つぐの家族の事を考えると、彼女に成りすまして動画を作り続けるのは、得策ではないだろう。

しかしこの二人にとっては、頑張って動画を作ることに取り組み、出来上がった動画を視聴者に楽しんでもらう事が、半ば生きがいになっているようだった。

 

「なら、こうすればどうですか? 動画を辞めるんじゃなくて、“鳩羽つぐ”を辞めれば良いんですよ」

 

美兎は、ピッと人差し指を立てた。

 

「“鳩羽つぐ”を辞める?」

「ええ。鳩羽つぐちゃんのお友達だった方も動画を見てくれたわけですし、目的は果たせたと思うんです」

「そうっスね。つぐちゃんを誰かに思い出してもらうってのは、達成できてるよな」

「そういうことです。それから、そういう目的があって動画を作っていたってことを、次の動画の中でみんなに説明して分かってもらいましょう。その後は名前を変えて、別の題材で動画を作ればいいじゃないですか、二人で」

「ええやん、それ。もしつぐちゃんの家族に見られても、それで悪気はなかったって分かってもらえますよ」

 

彼は目線を落として、しばらくの間、黙ったままその話を聞いていた。

そうした後、彼はテーブルを囲っている全員の顔を見回してから、そうだな、と呟いた。

 

「…そうだな。分かった。それが良さそうだ。でも、次の題材か…今は、何も思いつかないな。どうするか…」

「ねーねー皆! あかりちゃんすごいよ! みてみてー!」

 

ちひろが叫ぶので、美兎達がちひろのスマホを覗き込んでみると、あかりがハンマーを軽快に操作して、どんどん上に登って行くところだった。

 

「な、なんか見たことないとこまで進んでますけど、これどこですか?」

「最初の岩山ぜんぶのぼった上のとこだよ!」

「うそやん…始めてまだ10分も経ってないのに…」

 

一方のあかりは、「このゲーム、むずかしいけど面白いよ!!」と言いながら、目を輝かせつつ、縦横無尽にハンマーを振るってどんどん上に上がっていた。

 

「…私はゲームの事はよく分からないんだが、そんなにすごいのかい?」

「ゲームのオリンピックに出たら、金メダルでオセロが出来るかも知れませんね…」

「そんなに?」

「そんなに」

「まいったな! ただ単にこのくそげー消す前にきねんにあそんでおこうと思ってただけなのに、とんでもないさいのうをはっくつしちまったぜ!」

(クソゲー…)

(この子クソゲー言うた…)

 

ドヤ顔で胸を張るちひろである。

自分でもやらないゲームを人にやらせておいて、才能を見つけ出す魔法少女、恐るべし。…一同は心の中でそう思ったのだった。

 

「ま、これで次の動画のお題はゲーム実況ってことで、決まりっスね?」

「ゲームか…。そうだな、私はあまり詳しいことは分からないが、娘が楽しんでくれるなら、それも良いかも知れないな。ところで、どんなゲームがおすすめなのかな? パソコンでやる奴がいいのかい?」

「あ、それならわたくし、おすすめのゲームがありますよ。ヨーロッパ企画っていう劇団が作ったゲームがありましてね…」

「子供に何やらそうとしとんねん、この女は」

「じゃあ、じゅうでもうちませんかい? うったりうたれたりやったりやられたするの楽しいよ!」

「…ちーちゃん、さすがの私でもボケが複数居ったら追いつかんから」

 

そこにいる全員が、目をキラキラさせながらゲームに勤しむあかりを見た。

きっと、彼女のプレイするゲーム実況動画が、視聴者を楽しませてくれる日も近いだろう。

そしてそうなれば、彼女自身が本当の主役(プレイヤー)になる。

それでいいのだと、そこにいる誰もが思った。人間は誰も、他人になれはしないのだから。

 

その日、幻は彼岸へと消えた。

 

* * *

 

それから数日後の週末。三人は、事件の始まりになった駅前の喫茶店に、再び集まっていた。

今日は、“鳩羽つぐ”捜索の依頼主のあの女性に、事件の解決を伝えることになっている。彼女が電話でその面会場所として伝えてきたのが、ここだったのだ。

今回も、三人は前回と同じアメリカンコーヒー、カフェモカ、アールグレイを注文して、依頼主が到着するのを待っている。

謎の人物を警戒して、幾らか緊張していた前回とは違って、今回の三人の雰囲気はゆるやかだ。

リラックスした店内のBGM。たっぷりの砂糖とミルクを入れた、それぞれの飲み物。他愛もない話。

 

「あ、そういえば、つぐちゃんの新しい動画、出とったよ」

 

楓はスマホを取り出して、動画を二人に見せた。

動画には、あの夜にあかりの父と話し合った通り、鳩羽つぐがかつて存在した実在の人物であること、実際に行方不明になっていることを知ってほしくて動画を作成したこと、彼女の無事を祈っていること、そして、彼女を騙った事に対する謝罪のコメントが、字幕で掲載されていた。

そして、今後は“鳩羽つぐ”としてではなく、別名義で活動すること、次はゲームの実況動画を投稿することなどが述べられていた。

動画の最後は、“鳩羽つぐ”の衣装を纏ったあかりが、父親と手をつないで、笑顔で歩いていく様子で終わっている。身体を纏っていた、どこか仄暗い水底にいるような気配は、そこにはもうなかった。

 

「こめんとは? みんな何てゆってるの?」

「みんな結構びっくりしとるみたいよ。そらそうやー、あの雰囲気から一転して、今度はゲーム実況やるんやもん。皆何があったんだー言うて驚いてるで」

「まあ、八方丸く収まったって感じで、良かったんじゃないですか? 批難するような感じのコメントもほとんどないみたいですし、頑張ったかいがありましたよ」

「せやねえ。…あ、来はったで」

 

カランコロンという来店のドアベルが鳴る。ドアのほうを見ると、そこには『依頼主』のあの女性が立っていた。

こっちです、こっち、と楓が手を振って彼女を呼ぶと、彼女は楓に静かな笑みを向け、三人の座るテーブルに着座した。

ご注文は何になさいますか、という店主の言葉に、彼女はあの時と同じ、『九曲紅梅』を頼んだ。

 

「お久しぶりね、魔法少女さん達。私を呼んでくれたということは…あの件のことで、いいのよね?」

「はい。ちーちゃんのお陰で、無事に解決しましたので!」

「えへへ…」

「あ、お茶来ましたよ、楓ちゃん。まずは、飲んでいただいてから話しましょうよ」

 

ほどなくして、店主が彼女の前に、透明なガラスポットに注がれた九曲紅梅を供した。

梅のようなフルーティな香りが、相変わらず瑞々しくて心地よい。

女性がそれをティーカップに注いで一口飲むのを見届けてから、楓と美兎は調査の結果を説明した。

 

「てなわけで、動画のつぐちゃんは、お父さんと動画を撮っとるだけの、普通の女の子です。何も心配いりません」

「“鳩羽つぐ”を名乗る事ももう無いと思います。動画で説明もしましたし、きっと、鳩羽つぐちゃんのご家族も分かってくださると思います」

「…そう。そうだったのね」

 

じっと三人の話に聞き入っていた女性は、カップの中の九曲紅梅を飲み干して、ふうっと小さく息を吐いた。

それは、家族を失った二人が、新しい生きがいを作ろうと始めたことだった。

行方不明になり、誰からも忘れ去られた少女を憐れんだ二人が、彼女の記憶を蘇らせるために作り出した幻。

それが、“鳩羽つぐ”の正体だった。そしてその幻も、もういない。

 

「良かったわ。何かの事件に巻き込まれていたとかではなくて。…あの頃の彼女でなかったのは、少し残念だけれど」

「やっぱり、お話されたいですか? つぐちゃんと…」

「…そうね。あの頃の彼女と話したいわ。あの頃の彼女は、何を思っていたのかなってね」

 

彼女は遠くを見つめるような目で、天井を仰いだ。

消えた友人との、かつての日々を思い出しているのだろうと、美兎と楓は思った。

 

「あ、そうそう。見事に事件を解決してくれた魔法少女さん達に、報酬をお支払いしなくっちゃね。こんな物しか渡せないのだけれど、はい、どうぞ」

 

そう言って、彼女はポシェットから封筒を取り出し、美兎に手渡した。

美兎がそれの中身を確認すると、福沢諭吉の肖像画が描かれた紙幣が、何枚も入っている。

 

「枚数が多いって、やっぱすごい…」

「え、ええんですか、本当に?」

「もちろんよ。普通の人には出来ないことをやってくれたのだから、あなた達はそれを受け取る権利があるわ。それに、探偵さんに頼んだりすると、もっと掛かるでしょうし。三人で相談して分けてね」

「そ、そうですか。では遠慮なく…」

「美兎ちゃん、めちゃくちゃ頬弛んどるで?」

「か、楓ちゃんこそ随分にやけてるじゃないですか」

「や、あたし関西人やし? その辺シビアやし?」

「何でそんな時に限ってやたら関西をアピールするんですか、全くもう。…ふふふ、これでネット回線を新調できる…フライパンも…あとガスも…」

「……」

 

美兎と楓の二人が、お札に気を取られている間──ただ一人、ちひろだけが、女性の事をじっと見つめていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

闇を裂いた魔法少女

「あら、もうこんな時間だわ。お店もちょっと混んできたし、そろそろ出ましょうか?」

 

依頼主の女性が、腕時計を見てそう言った。

スマホで時間を確認すると、いつの間にかもう夕方近くになっている。

 

「じゃあわたくし、ちょっとお花を摘みに…」

「あ、私も行くわ」

「お会計はしておくわね。ゆっくりしてきて大丈夫よ」

「あ、すみません。じゃあ、後払いってことで、お願いします」

 

美兎と楓の二人が連れ立って席を立ってから、女性はレジで全員分の支払いを済ませた。

 

「先に、外に出て待ってましょうか? ちひろちゃん」

「うん」

 

会計を済ませると、女性とちひろの二人は、先に店の外に出た。

この店は、雑居ビルの間の裏路地にあるので、駅の近くでも案外静かだ。表通りの喧噪、車の行き交う音が遠く聞こえてくる。

しばらくの間、二人とも何も言わなかった。ただ黙って、遠くから聞こえてくる街の音色に耳をすませていた。

それは、ちひろには奇妙に長い時間のように感じられた。だが、楓も美兎もまだ出てこないのだから、実際には1分か2分しか経っていないはずだ。

それから、意を決して、ちひろは女性のほうを向いて、こう尋ねた。

 

「お姉さんは、どうしてそこまでして、動画のつぐちゃんをさがしてたの?」

「え?」

 

女性は意表を突かれたというような顔をして、ちひろを見た。

 

「だって、ちひろたちに、あんなに沢山お金を払ってたし…」

「ああ、そんな事、ちひろちゃんは気にしなくていいのよ」

「そう、なんだ」

「それがどうかしたの?」

「ううん。別に。ただ…」

 

ちひろは、ほんの少しだけ目を地面に落としてから、もう一度女性の方を向いた。

そして、言った。

 

「…お姉さんが、ホントのつぐちゃんだからかなって、思って」

 

女性は、ただ黙ってちひろを見つめていた。

少し驚いたような、けれど、穏やかな表情を崩さずに。

 

「…少し、歩きましょうか? まだ、楓ちゃんも美兎ちゃんも戻ってきてないけれど」

「うん」

 

二人は、ゆっくりと、駅の方角に向かって、歩き出した。

 

「ねえ、ちひろちゃんは、どうしてそんな風に思ったのかしら?」

「んとね。お姉さん、よく見たら、古い新聞にのってたつぐちゃんに似てるから。目の下の同じところに、ほくろあるでしょ? あかりちゃんは、ほくろはなかったよ」

 

女性は、左手で自分の目の下の小さな泣きぼくろに触れた。

種類や年齢にもよるが、ほくろが自然に消えることはあまりない。

 

「それだけ?」

「んーん。お姉さんは、ちひろが最初に人やものをさがす魔法を使ったの、おぼえてる?」

「ええ。確か、何も見つからなかったのよね」

 

最初にちひろがあの魔法を使った時、探す対象を示す矢印は、真下を指していた。

 

「ううん。ホントは、あの時にもう見つかってたんだと思う」

「え?」

「魔法のやじるしが下をむいてたのは、“さがしてる人がそこにいたから”だったんだよ。あの時は、そんなことぜんぜん気づかなかったんだけど」

「……」

「そのあとで、西おぎくぼでも同じ魔法をつかってみたんだけど、その時はやじるしもできなかったの。それで、何かへんだなーって思った」

 

ちひろはさらに自分で考えたという説明を付け加えた。

彼女の人やモノを探す魔法で人間を探す場合、対象者の名前と顔を知っていなければならない。

ちひろは当初、鳩羽つぐの名前と動画で見た顔を念じながら、魔法を唱えた。

ところが、既に目の前に鳩羽つぐ本人が居て、ちひろが無意識に彼女の顔を知っていたがために、魔法は目の前の人物を優先して探知し、結果として『ここに鳩羽つぐがいる』という結果を示した。

一方、西荻窪で魔法を使った時は、状況が違った。

動画内で“鳩羽つぐ”を演じていた女の子は、鳩羽つぐ本人ではなく、『雉尾あかり』という全くの別人であり、しかもちひろは彼女の名前を全く知らなかった。

それ故に、魔法は今回もまた、本物の鳩羽つぐを探索しようとした。しかしおそらく、女性はその時西荻窪から離れた場所にいて、魔法の探索範囲にはいなかった。

結果として、ちひろの魔法はあの時鳩羽つぐを探知できず、矢印を作れなかった─。

 

「あとは、さっきお金をあんなに沢山くれたから、やっぱりおかしいなって。いくらなかよしだったお友達のことでも、一人でそんなにお金を払ってまでしらべる人、そんなにいないと思うし」

「…」

「まちがってたら、ごめんなさい」

「…」

「でも、ホントのこと、きかせてほしかったから。もし、ちひろ達が何かお手伝いできることがあるなら、手伝わせてほしいから」

 

いつの間にか、二人は駅前まで歩いてきていた。

駅前に面した大通りは、大勢の人がアリのようにせわしなく行きかい、立ち止まっているのはちひろと女性の二人だけだった。

女性はちひろの一通りの説明を聞いても、否定も肯定もしなかった。

ただ、彼女たちの脇を無数にすり抜けていく人々の流れを見つめながら、何かを考えているように見えた。

 

「ちひろちゃんには、適わないわね」

 

女性は、ふうっと小さく息を吐いて、そして微かな声で呟いた。

 

「…でも、そうね…あなたには…」

 

ちひろは、女性の顔を見上げた。嬉しさと悲しさがない交ぜになったような、言い表しようのない表情がそこにあった。

そして、彼女は静かに語り始めた。

 

 

『…───────────、────前───』

 

『誘────────、──────────────────。──、望───────────────────』

 

『────、血──────、─────────────…────────────』

 

『───ト─────────、────────────────。────、───────────…─────沖────────────、──────船──────、─────、──────旅────────』

 

『────、───────。───、───────────、───撃─────────。』

 

『───────証────、─────────────────。─────────────────。───、─────国────、──────伝───────…』

 

『───────────。──、───────────────』

 

『好─────────、───────。───────、───────、優────…』

 

『“────”─死──、───“──”───遺─────』

 

『────────────、─────────亡───────。────、────────────。────────────────、──────────、せ───────。────、悲──────────…』

 

『───…。──────話─────。────、─────────選─────。──道────────。───、───、───捨────────…。────────、──正──────、分────…─────』

 

『ちひろちゃん、─────、──答────────?』

 

ちひろは、その話を黙って聞いていた。決して、その視線を女性から離すことなく。

女性から溢れ出た何かを、その小さな身体で受け止めるかのように。

そして、少し笑みを浮かべて、言った。

 

「…おねえさん、あのね。ちひろ、魔法少女なんて言われてるけど、ホントはそんなにすごくないんだ」

 

「モイラおねえちゃん、えるおねえちゃん、がっくん…ほかにも、すごいことができる人がいっぱい。ちひろ、ただのませがきだし、みんなのようには、何でもかいけつしたりできないし…」

 

「でも、ちひろ、笑顔の魔法少女だから。みんなを笑顔にするのだけは、少しだけとくいなんだよ」

 

ちひろは、魔法少女の姿へと変身した。

 

「だから、うけとって。ちひろの、笑顔の魔法」

 

持てる魔力の全てを込めて、ちひろは「ほんの少しだけ、人を幸せにする魔法」を、目の前の女性に掛けた。

それは、攻撃魔法を大量に覚える前に、一番最初に覚えた初歩のおまじない。アイスの当たりくじを引いたりするくらいにしか使えない、つまらない魔法。

それしか、今のちひろに出来ることは何もなかった。他に、目の前の女性の闇を救う魔法など、ちひろは持ち合わせていなかった。

それゆえに、彼女は心を込めて魔法をぶつけた。

呪文でなく、ありったけの勇気と元気を温めた、笑顔の魔法を。

 

女性が、悲しげな笑顔を浮かべるのを、ちひろは見た。

 

* * *

 

「あれ…? 二人ともおらんやん」

「え? 外じゃないんですか?」

 

楓と美兎の二人がトイレから出ると、ちひろと女性の姿は消えてしまっていた。

きょろきょろと二人を探していると、店主が「あの二人なら、もう駅のほうに歩いて行ったよ」と、彼女たちに告げた。

 

その言葉に、胸騒ぎを覚えたのは、何故なのだろう。

今となっては、ちひろが一人で誰といようと、何の問題もないことは分かり切っているはずだった。

たいていのトラブルは、彼女一人でなんだって解決できるだろう。何と言っても、彼女は魔法少女なのだ。

加えて、一緒にいるのは、あの穏やかで上品な依頼主の女性である。何も起きようはずがない。

 

それなのに、二人はなぜか、言いようのない不安を感じて、慌ててラインでちひろに呼びかけた。今どこにいるの、と。すぐ近くにいるはずなのに。

ちひろからの返事は、ほどなく返ってきた。駅前の広場に一人でいる。

 

「ちーちゃん、ちーちゃん?」

「ちーちゃん!」

 

二人が慌てて駅前の方まで走っていくと、ちひろは、駅の方を向いて、そこに一人で佇んでいた。

もう、あの依頼主の女性はどこにも居なかった。

 

「先に行ったりして、一体どうしたんですか、ちーちゃ…?」

 

二人の声を聞いて、ちひろが振り向く。

二人はちひろの顔を見て、どきりとした。少し赤くした目の端に、涙が浮かんでいたからだ。

泣くまいと、無理に平静さを保とうと頑張っているようだったが、もともと感情表現が豊かな彼女には、それは難しかったらしい。

すうっと一粒の涙が静かに零れて、ちひろの頬に涙の筋を作った。

何かを飲み込むようにきゅっと唇を結ぶと、彼女は服の袖で頬を拭って、それから黙って楓の腰に抱きついた。

 

「ど、どうしたん、ちーちゃん? なんで泣いてるん?」

「もしかして、あの方と何かあったんですか?」

「…んーん。ちがうよ、何でもないよ。けど…」

 

楓から離れると、ちひろは「魔法少女でも、むずかしいことってあるよね」と言って、いつものように屈託なく笑った。

 

「ちーちゃん…?」

「さ、お家かえろー、お姉ちゃんたち! おいしいおゆうはんもまってるし! アニメもやってるし! かざちゃんとゲームしなきゃだし!」

 

ちひろはそう言って笑うと、二人の先頭に立って、家路を歩き始めた。

 

「ちーちゃん…」

 

ちひろとあの女性との間に何かがあったのか。楓と美兎は、それ以上ちひろに問いかけることができなかった。

歩いていくちひろの小さな背中を暫く眺めて、それからようやく思い出したように、その背中を追いかけた。

 

* * *

 

『結局、あの方とは、あれから連絡が付きませんでしたね』

「うん…せやね」

 

数日後の夜、楓と美兎は電話越しに、あの依頼主の女性の事を話した。

二人とも、あの女性の電話番号に何度か電話を掛けてみたが、 『電波の届かない場所にいるか、電源が入っておりません』という無機質なアナウンスが流れるのみで、あの女性が出ることはついになかった。

以降、一切連絡は取れていない。

 

「結局、なんやったんやろね、あの女の人…。悪い人やなかったと思うんやけど…」

『さあ…私達が考えてもしょうがないんじゃないですかね』

「けど、気にならへんの? あんなちーちゃん、初めて見たやん」

『気にはなりますよ。でも、ちーちゃんが何も言わないなら、それでいいんです。わたくし達は、ちーちゃんに何か悩み事を相談されたら、その時一緒に考えてあげればいいんですから』

「そんなもんなんかな」

『そんなもんですよ。わたくし達、そんなにちーちゃんに信用されてないですか?』

「そんなこと、ないと思てるけど…」

『なら、大丈夫ですよ』

 

天使が通ったのか、しばらく会話が途切れた。

美兎はベッドの上に寝転がっているのだろう、時折ゴソゴソという衣擦れに似た音が聞こえてくる。楓も同じように、ベッドの上で右を向いたり左を向いたりしながら、何か他の話題がないかと思案した。

そうしているうちに、ふと、楓の脳裏にあの美しい天界の様子が思い出された。今日も、女神様は人間の運命の行方を見守っているのだろうか。

 

「…ねえ、美兎ちゃん。私たち、これからどうなるんやろね?」

『どうなるって、何がです?』

「ほら、ここ数週間、めっちゃ色々あったやん。魔法少女、エルフ、女神様、狐…それに、消えた女の子。ここまで来とったら、なんやもう普通の生活に戻れなさそうやん?」

『大げさですね、楓ちゃんは』

「私らも、ひょっとしたらもう普通の人間やなくなってるのかも」

 

まさか、と美兎は笑った。それから、諭すような少し優しい声色で、楓に語りかけた。

 

『大丈夫ですよ、楓ちゃん。わたくし達はわたくし達です。ちーちゃんだって、魔法少女になってもああなんですから、何も変わったりしませんよ。ま、仮に何か変わっても、ずっと私は楓ちゃんの友達ですからね! 安心してください』

「……」

『? 楓ちゃん? 何か言いました?』

「んーん。なんでもない。なんでもないよ」

 

ずるい。そう思って、楓はくすりと笑った。

肝心なところで、いつも彼女は自分を勇気付けてくれるのだった。普段は割とおちゃらけているくせに、学級委員長の仕事はしっかり完璧にこなしているし。

 

『そういえば、つぐちゃん…っていうか、あかりちゃんですけど、こないだ生放送もやってましたけど見ました? 方向性の変わりっぷりが凄いのとFPSがメチャメチャ強いのとで、すっごい盛り上がってます。“ところで何があった”とか“誰?”とかのネタコメで埋め尽くされてて面白いですよ』

「見た見た。私ゲームの事はあんまよう分からんけど、チャンネル登録者数もめっちゃ上がってるよね」

『凄いですよねー。あっ、わたくしも何かやろうかな? イケてませんか? どうですか? ね、楓ちゃんも一緒に何かやりましょうよ!』

「…私はともかく、美兎ちゃんならなんでもアリやと思うで」

 

二人の会話は、その後も夜遅くまで弾んだ。

どんな動画を作ろうか。生放送するなら何をやろうか─。

 

* * *

 

『それでは、今日のお天気を見ていきましょう。お天気キャスターのウェザーロイド・アイリさん、お願いします』

『はい。今日は、全国的に晴れるところが多いでしょう。気温が上がり、日差しが強くなりますので、熱中症対策はしっかりと行ってください。それでは、各地のお天気を順番に見ていきましょう…』

 

今日もまた、清々しい朝とともに一日が始まる。

 

「それじゃあ、行ってきまーす!」

「気をつけてね、ちひろ」

「はーい!」

 

また、普通の日常が始まろうとしている。

少しずつ夏が近づいてきた街は、日光の下に照らされて、かつての暗闇など忘れたかのように、底抜けに明るかった。

 

「美兎ちゃん、おはよー」

「あ、楓ちゃん。おはようございます」

「楓おねーちゃん、美兎おねーちゃん、おはよう!」

「おっ、ちーちゃんもおはよう! ちーちゃんは今日も元気やなー」

「うん! なにしろちひろ、笑顔の魔法少女ってやつなので!」

 

家の近くの通学路に集まった三人は、今日もまた、それぞれの学校に向かって歩いていった。

過去に溶けて消えたはずの少女の面影は、今も街の─あるいは、人々の心のどこかに、眠っているのだろう。

日差しに照らされた人々の心の中に、それがやがて目覚めると信じて、三人は今日も前に進んだ。

 

 

女神の手のひらに、赤い糸が乗っている。

かつて千切れそうな暗い色をしていたそれは、今はもう、元の鮮やかな紅葉色に戻っていた。

女神は暖かな微笑みを浮かべ、それを祝福した。女神のこいぬに、祝福あれ、と。

 

 

『…それでは、次のニュースです。40年前に東京の西荻窪で起きた、女児行方不明事件に、新たな展開です。この事件は、40年前の─』

 

 

おわり



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。