紗夜さんの恋人は総てを愛している。 (貫咲賢希)
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Prolog

 とある貸切スタジオにて、五人の少女たちが音楽を奏でていた。

 ここはアマチュアが利用する場所だが、その一室から聴こえてくる響きは遊びでやってるようには思えない本格的なロックサウンド。

 

 空気を震撼させる歌声、艶麗な旋律。聴いた人間を魅了するには十分過ぎる音色。

 

 彼女たちの名は《Roselia(ロゼリア)》。

 

 Roseliaは薔薇の『Rose』と椿の『Camellia』を合わせた造語であり、青い薔薇をイメージしている。

 青い薔薇は古くから生み出すことのできない『不可能』を意味していた。

 しかし、とある会社が十年以上の挑戦と努力を重ねた結果、開発に成功している。

 ゆえに花言葉は『夢がかなう』。まさに、不可能を可能にした花に相応しき言葉。

 

 その青薔薇をイメージしたRoseliaもまた、夢を追いかけていた。

 

 結成者であるボーカルの(みなと)友希那(ゆきな)

 憧れのフェスへの参加が切っ掛けで音楽に挫折した父親の無念を晴らすためにバンド活動を開始した一人の少女。

 彼女の歌声は幾つもの事務所から声がかけるほど素晴らしく、その強い信念のこもった歌声に惹かれて、今のメンバーが集った。

 

 ギャル系ファッションであるベースは友希那の幼馴染である今井(いまい)リサ。

 

 見るからに生真面目そうなギターは、友希那の技術と高い意識に共感した氷川(ひかわ)紗夜(さよ)

 

 小柄でツインテールのドラムは、友希那の魅力に惹かれたメンバー唯一の中学生、宇田川(うだがわ)あこ。

 

 大人しそうなキーボードは結成前からあこの友人であり、彼女を通して友希那たちに興味を持った白金(しろかね)燐子(りんこ)

 

 五人の少女は時に衝突や挫折もありながらも、夢に向かって日々研鑽を重ねている。

 目指すは頂点。違う思いで集いながら同じ夢を目指し、今日も音楽を奏でていた。

 

 彼女たちを詳しく知りたければ、今すぐスマホアプリゲーム『バンドリ!ガールズバンドパーティ!』をインストールすることをお勧めする。

 Roselia他にも四つのバンドが織り成すストーリーはフルボイスでお勧め。既に終ったイベントのストーリーや報酬も後からプレイして見ることや手に入れることも可能だ。

 オリジナル曲からカバー曲をスタミナなしで無限に遊べる、リズムゲーアプリ。

 それが『バンドリ!ガールズバンドパーティ!』なのである。

 

 この後の話はそれからだ。

 未プレイの読者殿は頑張って登場人物を理解してください。

 

 貸切スタジオの終了時刻間際。最後の調整で五人は今度のライブでする曲を通して行い、曲が終るまでミスなくやり通した。

 

「ふぅ──。今回の練習で一番良かったと思うわ」

 

 ボーカルでありリーダーの友希那が総評すると、メンバーたちの顔が綻ぶ。

 Roseliaに馴れ合いは不要だ。

 全員でファミレスへ頻繁に通ったり、カフェにお茶をしたり、一緒に海へお泊りしたり、メンバーの誕生日にはサプライズを企画する彼女たちの間に、生温い気遣いなど存在しない。

 仲良しだけの友達ではなく、信頼し合った仲間たち。

 彼女たちは本気で音楽の頂点を目指しているため、練習はいつも厳しいのは当たり前。

 リーダーである友希那からも素直に褒めることは少ない。

 よって、彼女からの褒め言葉は、メンバーたちにとって心から嬉しいものであった。まるで普段素っ気無い猫が自分から懐いてくれるような気分である。

 

「各自、個人練習を怠らず、本番も先程以上の力を出せるように」

 

「了解っ!」

 

『わかりました』

 

「はい!」

 

「では、今日の練習はこれまでね」

 

「よーし、じゃあ皆で片づけを初めよっか」

 

 友希那が練習を締めると、今度はリサがみんなを仕切り始め、全員が彼女の指示に従う。音楽に関しては友希那が主に仕切るが、細かい段取りなどはリサに任せきりだ。

 貸切スタジオは散らかった状態でも後でスタッフが掃除するのだが、最低限のマナーとして彼女たちは使った後のスタジオはできるだけ元の状態に戻している。

 女子として乱雑だとは他人に思われたくもないし、綺麗にしておけばスタジオ側に良い印象も与え、時に融通も効かしてくれるわけだ。

 

「あっ、そうだ。練習が終わった後、紗夜に聞きたいことがあったんだよね」

 

「? なんですか?」

 

 リサは揃ってコードを巻いている紗夜に話しかける。

 別に重要な話ではない。だからこそ、このタイミングで、そして偶々思い出したから聞いただけ。

 リサは些細な疑問を解消したかっただけだ。

 

「今日さ、スタジオ来る前に日菜(ひな)を見かけたんだ」

 

「日菜を?」

 

 日菜とは紗夜の双子の妹のことである。天才で姉である紗夜とは別の高校、リサと同じ学校にかよっており、アイドルバンドをしている。

 いつも冷静沈着な紗夜とは違い、天真爛漫な日菜。一番の特徴は姉である紗夜のことが大好き。

 そんな彼女を、リサはスタジオに来る前、偶然見かけたわけである。

 

「向こうも気づいてなかったし、私も急いでたから話しかけなかったんだけどね」

 

 日菜は車道を挟んだ反対側にいいてリサには気づいておらず、リサも練習に遅刻しないために声はかけなかったが、そこで彼女はあるものを目撃したのだ。

 

「その日菜がさ、『獣殿』って、男の人に話かけるのを見たんだ。すごいカッコいい人だったんだけど、もしかして日菜の彼氏だったり?」

 

「いいえ。日菜が獣殿と呼んだのなら私がお付き合いしている人です」

 

「へぇ、紗夜が付き合っている人」

 

 

 

『えっ!! 紗夜(氷川)(さん)、付き合っている人がいた(の)(んですか)っ!?』

 

 突然、四人の大声に紗夜は体を震わした。

 

「!? ど、どうしたのですか、皆して大声で。驚くじゃないですか」

 

「いやいやいや、驚いたのはこっちの方だよ!」

 

 メンバーに驚く紗夜だが、驚きは四人の方が上だった。

 氷川紗夜は、禁欲的で厳格な少女。風紀委員をやっているほど、規律には忠実で真面目。

 空いた時間は音楽に打ち込み、無駄なことは一切しない。

 家族やRoseliaなどが誘わなければ、遊びに行くことすらしなさそうだ。

 そのような彼女と異性と付き合っているなど、何かの冗談にしか聞こえない。

 しかし、紗夜の反応からして偽りではないようだ。だからこそ、四人は大層驚いているのである。

 

「え? 紗夜って彼氏がいたわけ! あまりにもナチュラルに返すから一瞬気づかなかった!」

 

「紗夜、今の話は本当かしら? 私やリサの聞き間違いではなくて?」

 

「み、湊さんまで。ちょっと、詰め寄らないで、近いです!」

 

「氷川さん、──男の人と。ひゃぁぁぁ!」

 

「白金さんは何故、顔が真っ赤なのかしら?」

 

「うっひゃああああ! 紗夜さん、恋人がいたんですね! 大人だ!」

 

「宇田川さん、声が大きいわ。無駄口を叩く前に早く片付けなさい」

 

「あこだけキツくないですか!?」

 

「別にそういうわけではありません。他の皆さんも、私の発言で驚いたのは解りましたが、それで手が止まるのは駄目ですよ」

 

 紗夜の言葉通り、片付けの手が止まっていた。

 

「そうだね、紗夜の言うとおりだ。ごめんね。ほら、他の皆を止まった手を動かすよ」

 

 空かさずリサが柔和に謝り、場を仕切る。

 音楽面で指揮を執るのはリーダーである友希那が強いが、それ以外の面ではリサがフォローすることが多い。

 むしろ、彼女がいなければやばい。

 仮に先ほどのリサの声がなければ、場はばつの悪い空気が蹂躙していただろう。

 

「気になるのは解るけどさ、話はしながらでもできるからね」

 

「そうね。ごめんなさい」

 

 紗夜に指摘された後でリサが促し、片づけを再開させるメンバーたち。

 だが、彼女たちは働いてるものの、意識は完全に一人に向いていた。

 

「よし。これで終わりっと。でさ、さっきの続きだけど──」

 

 作業が完全に終ったの見計らって、リサは先ほどの話題を掘り返した。

 

「私が見かけた人ってマジで紗夜が付き合ってる人なわけ?」

 

「まだその話を続けるのですか……」

 

 帰り支度をしていた紗夜は顔を呆れさせる。

 周りを見ると、他のメンバーも自分の荷物を持ちながら注目してるので、彼女は仕方なく答えた。

 

「そうですね。彼以外にも日菜がそう呼んでいない限りは、私が付き合ってる人に違いありません」

 

「本当なんだ。冗談じゃなく?」

 

「本当です。疑われる謂れはないと思うのですが……、これでどうですか?」

 

 紗夜はそう言うと、携帯を操作して、一つの写真をリサに見せる。

 そこのはリサが見かけた男性が映っていた。

 

「あっ、この人だ!」

 

「あこにも見してください! って、超イケメンじゃないですか!?」

 

 あこの反応はけして過剰はではない。

 言葉は出ずとも友希那と燐子も同様の感想であり、実際に見かけたリサは言葉を失って見惚れたくらいである。

 映っていたの端整過ぎて現実離れした顔立ち。

 視線だけで釘付けされる双眸。長い黄金の髪は獅子の鬣の如く美しく、妖艶な微笑みは見ている蕩けてしまいそうだ。

 問答無用の美男。画像だけでもこの破壊力。現物はどれ程の色香を感じるのか計り知れない。

 

「この人が紗夜さんの蜜月を交わした運命の契約者! ていうか、外人さんですか!?」

 

「いえ。彼はクウォーターで歴とした日本人です」

 

「クウォーター!? なんだかカッコいい!」

 

「そうですか。ところで運命の契約者とは?」

 

 興奮のあまり迸ったあこの叫びに紗夜は首を傾げた。

 

「あこちゃんは恋人のことを言っているのだと思います」

 

「あぁ、なるほど」

 

 燐子が説明し、紗夜が納得する。あこの発言を翻訳するのは燐子の役目なのである。

 

「しかし宇田川さん、蜜月という言葉は解って使ってるのかしら?」

 

「きっと、解ってないかと」

 

「でしょうね……」

 

「これが紗夜が付き合っている人。実在してるのね」

 

「湊さん、何気に一番酷いことを言いませんでしたか?」

 

「いや~、しかし驚いた。紗夜付き合ってる人がいたなんて」

 

「そこまで驚くことでしょうか?」

 

 まだ驚きが収まらないメンバーの態度に紗夜は思わず首を傾げた。

 

「もう高校生ですし、付き合っている異性がいても可笑しな話ではないと思いますが」

 

「普通の人、ならね。正直言って貴方以外の全員が紗夜にそういう人がいるなんて想像もしなかったと思うわ」

 

 友希那の言葉に紗夜以外の三人がうんうんと、頷く。

 すると、紗夜は拗ねたように口を窄めた。

 

「私だって、恋くらいします……」

 

 頬を染めて不満を呟く彼女に、見ていた四人のほうが顔を赤くさせる。

 メンバーの意外に表情と其方の耐性が全くない彼女たちに、その顔は効果的だった。

 

「…………」

 

「うひゃあ、なんだかあたし、口の中が甘くなった」

 

「あこもですぅ」

 

「…………(無言で頷く燐子)」

 

 四人が紗夜が見せた女の顔で撃沈していると、気持ちを切り替える様に紗夜がおっほん、咳払いをする。

 

「では、この話はこれで終わりに──」

 

「待って。紗夜が良ければこの話、スタジオ出てからでも続けて構わないかしら?」

 

「えッ!? 友希那ぁ!?」

 

 話題を切ろうとした紗夜に、待ったかける友希那。これに彼女の幼馴染であるリサが心底驚いた。

 友希那は自分からはそういう話はしないが、浮ついた話がないわけではない。

 彼女はRoselia結成前から孤高の歌姫として周辺のライブハウスでは有名であり、容姿も優れてるので、異性から声をかけることは少なくない。

 冗談半分本気半分に告白されることも数ある。

 ただ、友希那は音楽に集中したく、彼女自身そういった感情に疎いのもあって、今まで人からの好意は避けていた。

 その友希那が紗夜から恋話(こいばな)を聞き出そうとしている。

 それはリサにとって、紗夜の恋人いる宣言よりも衝撃が上だった。

 

「まさか、友希那が恋愛に興味を? もしかして、気になってる人が? いや、もしかして、紗夜と一緒で既に友希那にも……」

 

「リサ。さっきからブツブツと何を言っているかしらないけど、紗夜から話を聞くのはバンドのためよ」

 

『え? バンドのため(ですか)?』

 

 思わぬ発言に友希那以外のメンバーが頭に疑問符を浮かべる。

 しかし、先程から反応するタイミングが揃っている。流石、同じバンドで演奏する者たちだ。

 

「私は恋愛に対する理解がないわ。紗夜以外のメンバーも先程の反応から見て似たようなものね。

 それでは、真に迫るラブソングを奏でることはできないと思う」

 

「あっ、そういえばラブソングらしいラブソングって、Roseliaにないような、あったような?」

 

 あこが頭を捻っていたが、話が脱線しそうなので友希那は構わずに話を続ける。

 

「それでこれを機に、紗夜の話を聞き、少しでも恋愛を理解したいと思ったのよ。音楽をする上で、愛や恋の曲を奏でることができないのは致命的よ」

 

「確かに、この世に恋愛を奏でる音楽は数多く存在しますね。それを譜面通りにするだけではなく、曲に篭められた思いも理解し演奏するのとしないとでは、明確な差が出ます」

 

「そうよ。今まで私はラブソングを歌う機会はあったけど、恋を理解するために映画を見ても全くピンとこなかった。けど、一緒に演奏する紗夜からの話ならばフィクションよりも心に残ると思ったの」

 

「なるほど……」

 

「勿論、紗夜の身の上話になるのだから、貴女が嫌なら無理強いはしないわ」

 

 友希那にそう言われて、紗夜は少し考えてから、口を開きました。

 

「解りました。バンドのためとなるならばお話しましょう」

 

「え!? 紗夜、本当にいいの?」

 

「今井さん、今日の貴女は驚いてばかりですね……」

 

「あ、そうだね。私が一番驚きぱなしだね」

 

 あはは、と乾いた笑みを浮かべるリサだが、彼女の反応は普通だろう。

 声こそ出さなかったが、あこや燐子も、紗夜が自分の話をするというのに驚きを隠せなかった。

 悪い言い方になってしまうが、紗夜は素直な性格ではない。

 自分のことはあまり晒さず、悩むも抱えるタイプ。好きな物すら、素直に好きだとは言わないのだ。

 だからこそ、彼女が自分の恋人の話をすることは意外である。

 しかも、最初から紗夜は自分の恋人のことを誤魔化す素振りは見せていないので、こと恋愛に関しては素直なだけかもしれない。

 それにリサは自分が恋愛話を振られるのは苦手なほうだが、他人の話なら好きである。

 何より、あまり身の上話をしない仲間の一面を知れるなら、聞く価値は十分あると考えた。

 

「よし! じゃあ、まだ昼過ぎだし、いつものファミレスで紗夜の恋愛話を皆で聞いちゃおうかね。今更、恥かしくなったからやっぱりなしとか駄目だよ?」

 

「一度、了承したものを簡単に撤回はしません。けど、あまり期待はしないでくださいね。バンド活動のためにお話しますが、期待に沿える自信はありませんよ」

 

 そう言いながら紗夜の困った顔を浮かべる。

 彼女の言葉も尤もだろう。他人の恋愛話に興味はない人はいるし、恋愛が全て漫画やドラマのように物語的であるとは限らないのだ。むしろ、劇的であるほうが稀だ。

 だが、それでもいい。

 例えどんな些細な話でも、仲間のことを知れるだけでリサには十分である。

 それは、頬を緩めている他の三人も同様だった。

 提案した友希那は当然として、発言こそなかったあこや燐子も、内容はどうあれ紗夜の話に興味を抱いた。

 

「いいよ。紗夜がそういう話をしてくれるだけで私は満足だから」

 

「はい! あこ、紗夜さんの話を聞きたいです!」

 

「私も、聞いてみたいです……」

 

「改めて私からもお願いするわ。紗夜、貴女の話を聞かせて貰えるかしら?」

 

 四人の視線を受け、少し不安そうにしていた紗夜の顔が和らいだ。

 

「……わかりました。私の話で良ければお教えしましょう」

 

 こうしてRoseliaはスタジオを後にし、行きつけのファミレスに向かった。

 そこで語られることになるのは、一つの、恋物語。

 後日、そのことをリサから聞いた紗夜の双子の妹、日菜は首を傾げた。

 

 

 なんでリサちーたちは、自分から砂糖の山に飛び込むような真似をしたの?

 

 




 超久しぶりの投稿。溜まってから投稿しようと思ってたけどDiesアニメ終ったので。


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Kapitel Ⅰー獣との邂逅ー
Episode ─Ⅰ【黄金の獣】


 人の記憶というものは曖昧なものだ。

 一番古い記憶は何かと尋ねられ、母から生れ落ちた瞬間と答える者はどれほどいるだろうか。

 胎児の頃から記憶がある。そんな人間も探せばいるやもしれない。

 だが、多くの人間は主に強い記憶を残し、それ以外の記憶は色褪て、忘失する。

 例えば、生涯忘れないほどの初恋ならば、死んでも覚えているだろう。

 ある男は、初めて人を殺したときが忘れれず、猟奇殺人を繰り返している。

 

 小笠原(おがさはら)純心(あつみ)にとって、現世での一番古い記憶とは矢が的に当たった瞬間だった。

 

 彼の家は小笠原流日輪派指南所という道場を営んでいる。

 原型は室町時代中期、小笠原氏家伝の故実。小笠原流と呼称される流派は歴史上いくつか存在し、彼の家のもその一つ。

 教えるものは一つではなく、茶道、礼儀作法、合気道、琴、弓道の五つ。主にやんごとなき家柄のお嬢様が学ぶ習い事が詰め合わさった場所であり、彼が弓と出会うのは至極当然であった。

 

 ──ずっと、忘れることができない。焼きつかれた景色。

 

 雲ひとつない晴天の下、誰かが射った一本の矢が的中した。

 場所が何処だったのかは、純心には解らない。

 実家にある道場なのか、あるいは別の道場だったのか。

 赤子の頃、親は純心を家に一人させぬよう、出かける際には可能な限り連れて回ったそうだ。

 よって、彼が記憶している射がいつの頃だった、それは彼自身にも解らぬこと。

 ただ、無音に一つ。叩くように矢が刺さった音が、頭から離れない。

 これが切っ掛けで弓に魅入られたのか。彼は物心ついた頃に既に弓の稽古をしていた。

 家芸を習わさせる運命であったが、聞くとことによると彼は稽古を嫌がったことはなかったそうだ。

 

「なんにせよ、あの日の一射が、私に大きな影響を与えたことには違いあるまい」

 

 でなければ、これほどまでに記憶に焼きつくわけがないのだから。

 あの一射を思い返す度に、彼はそのように呟いている。

 未だ、十七の身であれど、あの一射は果てるまで忘れぬだろう。

 ならば、未来永劫自分の中に刻まれた軌跡なのだろうと、彼は思う。

 

 そう、あの時と同様に……。

 

 

 

 

 始まりは、教育者の間では小学3年生は『魔の学生』と呼ばれている年頃だ。 

 この頃になると学ぶ勉強が急激に増加し、自然と子供たちの間で『競争心』が芽生える。

 学内という閉鎖空間にて明確な差が出来上がるのだ。

 テストの点数。運動の成績。

 自分はあの者よりも上等であり、あれは己よりも劣等。

 このような区別思想は人間関係に大きな軋轢を生むことに繋がる。

 無論、競争心を煽ることは成長を促すこともあろう。だが、まだ一桁の歳しか経てない子供全員に反骨心を持てというのは酷な話だ。

 よって、その頃になると学校側は様々な対策を取ることが多い。

 場所により様々だが、競争心を極力生徒に促さなくなる場所。あるいは仲の良い人間を集めて、けして孤立させないよう配慮している所も存在する。

 その学校は(クラス)を、同等の力量のものとで区別した。

 これによりクラス間の争いで、容易には覆されない優劣がつく。

 テストの総合成績。運動の成績。一番はいつも同じクラスである。

 常に勝者は決まっており、定められた敗者はその枠組みから逃れられない。多少の研鑽を積んだところで、その差は埋まらぬのだ。兎がどれ程爪を研ごうが、獅子を殺すには至らないように。

 差別による軋轢を避けた思索が、圧倒的な格差を生み出したわけだ。

 当然、妬みは生まれる。蔑みは生まれる。何故自分たちだけと。

 しかし、そのような不満は些細なことである。

 一部の合同参加を除けば、普段から同じ場所で過ごす人間関係を良好にするのが重要だ。

 正気であれば兎の檻に獅子を混ぜたりはしない。すれば惨劇が目に見えている。

 実際、同レベルが集まった閉鎖空間、教室で争いは少ない。仮に問題が起きれば教師が即座に対処するのだ。

 別のクラスへ劣等感を抱く者たちが多いが、更に遅かれ早かれ競争社会に踏み込まなければならない。早期の段階で意識させるのも教育の内である。

 

 しかし、想定外は常にあるものだ。

 仕組みを作りだした者たちにとってソレは想定外であった。

 

 そのクラスは出来のいい子(・・・・・・)ばかりで揃えている。

 即ち、勝ち組。常勝を約束された栄光の集団。

 二年の歳月で振るいにかけられた将来を期待される子供たちだ。

 いずれは宝石になるやもしれない原石、あるいは既に宝石になっている者もいる。

 だが、幾ら磨かれた宝石とて、己で輝きを放つ光の前では総じて存在を見失う。

 

 新たな学生が始まる日、最初にその少年が立った。

 

 理由は出席番号の一番と単純な理由。

 それでも、彼こそがこの場の首魁であるように忘失したような瞳で皆が凝視している。

 

 空いた窓から流る風で漂った鬣の如き黄金の髪。豪気を秘めた王者の瞳も黄金。

 妖艶であり苛烈であり、尊厳で華美あり、この世で誰よりも眩い黄金の輝き。

 生まれる世界が違ったような、屈服せざるえない光の童子。

 

「私の名は小笠原純心」

 

 このクラスに、あるいは世界の総てを慈しみながら己の名を告げた。

 日本男児の名前だがその容姿は明らかに異国の風貌。祖父がドイツ人のクォーターであるがこの地に住まう地を一切感じさせない。所謂隔世遺伝というものだ。

 

「──(けい)()

 

 慰撫するように少年は呼びかける。

 まるで麻薬のような声だ。未成熟な子供声であるが万人を酩酊させる響きである。

 強いカリスマ性を持つものが要する魅力。この少年はまだ十にも届かない歳でこの魔性を所持していた。このまま成長すれば其処に存在するだけで主導者となる逸材だ。

 

「臆するな。この身は卿らと変わらぬそこいらの童子に過ぎぬ。多少、見た目や口調が変わっているがそれは生まれや育ちによるもの。その様に畏縮することはない」

 

 冗談なのだろうかと誰かが引き攣った笑みを浮かべた。

 彼の実家は異国の血を混じ合わせたが古い名家。仰々しい言葉遣いはそれ故、らしい。

 だが、そんな事情を聞こうが本人から臆するなと言われようが、無理な相談である。

 始まりはその容貌で。次にその所業で。彼は入学して瞬く間に存在を知らしめた。

 

 黄金の獣。

 光の天才。

 絢爛の君。

 

 彼を飾る言葉はどれも眩しいものばかりだった。

 態度が変わらぬ周囲に少年は落胆、することはなくそれも良しと思う。

 

「では、これから良しなに頼む」

 

 その言葉を最後に席に座った。

 周りの視線など今更だった。無理に変えようと思わないし、己自身が周囲に合わせることもしない。

 ありのままの自分で今生を謳歌する。それが小笠原純心の姿勢だ。

 彼の自己紹介が終ったものの彼から視線を外すものはいなかった。凍りついたように止まった教室を動かしたのは苦笑を浮かべた担任教師である。

 彼は純心の存在に圧倒されていたが、それでも周囲ほど影響は受けていない。彼の言葉よって次の者が自己紹介を恐る恐るし始めた。

 それでも、他の者が語る言葉など良くて片耳で聞く程度。多くの者は未だ純心に注視している。

 

 『彼女』がいなければ、純心は一年間周りの視線を独り占めにしただろう。

 

 

氷川(ひかわ)紗夜(さよ)です。これからよろしくお願いします」

 

 味気ない自己紹介を一人の少女がした後。

 

「氷川日菜(ひな)だよ! さっき自己紹介したのは私のおねーちゃん! これからよろしくね!」

 

 先程の少女と同じ顔をした少女が快活に声を上げた。

 説明するまでもなく、先に自己紹介した者との関係は明白。

 双子。中身は違うが、顔は瓜二つ。好奇心旺盛の年頃には物珍しさの塊。容姿も愛らしいければ目にも留まりやすい。

 そして氷川日菜という少女は純心と同様に噂になっていた。

 

 天才少女。

 理解不能女子。

 波乱の姫。

 

 最初の呼び名以外で彼女が周りからどの様に見られているか理解できるだろう。

 純心は存在事態が異常だが、その行動は常道。

 逆に氷川日菜という少女は行動が異常なのだ。 

 成績は天才と呼ばれるだけあって優秀。テストの成績は満点であり、噂では偏差値80超え高校の入試問題を試しで解いてみたら全問正解した。

 だが、彼女の目立つのは何よりその行動。時には周りから引かれてしまうような言動をするのだ。

 授業中教師のケアレスミスを指摘するのは当たり前。それで怒らせるどころか泣かせたこともある。

 ゆえに理解不能女子。彼女と意思疎通ができるのは双子の姉だけだと囁かれている。

 

 もっとも、小笠原純心に置いては氷川日菜も周りと同じだ。

 

 純心にはとって天才とは星のようなもの。見ようと思えば簡単に目に付く存在。

 所詮その程度。輝いてる存在にしか過ぎない。

 見ようと思えばテレビや雑誌なので幾らでも見られる。特別興味を抱くほどでもない。

 そもそもな話、彼も天才といえば同類。実家の習い事も最初から覚えてたかのようにすぐこなし、テストも当然満点。

 ゆえに彼はその天才やその姉も他の同輩と同じようにしか見てなかった。

 

 

「ねぇねぇ! 君の家って道場してるの?」

 

 しかし、自分が特別興味なくても、向こうが興味が話は別だ。

 開口一番、氷川日菜が小笠原純心に放った言葉は好奇心で一杯だった。

 三年生初めの授業が終わった途端、日菜は純心の元へやってきたのである。

 日菜にとって大抵のことは何でもやれるため、常道とは掛け離れたものには敏感だ。

 ゆえに日菜が純心に近づくのも必然。自己紹介で彼は実家が道場を営んでいることは語っていないが彼の素性は有名であり、それは日菜の耳にも入ってきている。

 そして、彼らの会合は周囲の人間からも注目されていた。

 

「あぁ。合気道、礼、茶、琴、そして弓を教えている」

 

 突然やって来た日菜に対し、純心は一切驚かずさらりと答える。

 話したこともない相手にいきなり話しかければ大抵の人間が警戒や驚くだろう。

 だが、純心は一切動揺したことはない。

 初対面の人間に気後れする可愛らしい側面など生まれる前からないのだ。

 尋ねたきた日菜はというと解っていなさそうに首を傾げている。

 

「ユミ?」

 

「弓道と言えば解るかな?」

 

「あっ! もしかして、プリセラのレンカちゃんがしてたの? ビュンとしてバシっとしたの」

 

 日菜が例えたのは日曜日の朝に放送されているアニメのキャラクターである。

 レイカというキャラクターは弓道部に所属しているが、純心はそのアニメは知らなかった。

 しかし、日菜が言いたいことは理解し彼は首肯する。

 

「レイカなるものは知らぬが、間違いないだろう。卿の表現は、私が知る弓の趣と合致している」

 

「うわぁ! すごいね! 君もバビュンってできるの?」

 

 バビュンと擬音と言われたが、射芸のことだと純心は察した。

 期待に満ちた表情の前に、純心は首を横に振るう。

 

「いや。私は弓を引いたことはない」

 

「え?」

 

「体が出来ていない内は親が握らせてくれなくてな。作法や他の稽古を今は励んでいる」

 

 幼い体の内は、骨が形成されている途中であり、そこに強い力が加わると歪曲する危険がある。

 そのため、弓道を始める時期は体が出来上がってきてからだ。

 中には小さい頃から大きな体で弓道を始めている人間もいるが、まだまだ成長すると見越されている純心は親から弓を引くのを禁止されていた。

 

「ふーん、そうなんだ」

 

「無理をして体を壊してしまった方が大事だからな。楽しみは後でとっておくよ」

 

「あれ? 君は弓が引けないのに、弓道が好きなの?」

 

 日菜の疑問はある意味当然だろう。

 やったこともないことを好きだと言うのは、聊か性急過ぎるのではないかと。

 しかし、純心ははっきりと答える。

 

「好きだな。でなければ、こうも弓を引ける日を一日千秋の思いで待ってはおらん」

 

 今はまだゴム弓で型しかできない。稽古が終われば他人の射を眺めるばかりの日々。

 だが、二、三年後には必ず自分で的を射抜く。その日を彼は心待ちにしているのだ。

 

「へー! できないことなのに好きなんて、君って可笑しいね!」

 

 周囲の空気が凍った。

 言葉だけ聞くと相手を馬鹿にしたようにも捕らえられる。偶然、耳にしていた周りのクラスメートたちは彼女の発言に大層驚いていた。

 羨望を蔑ろにした、あまりにも無神経な言葉と受け取られても不思議ではない。

 しかし、当の純心は気にした様子もなく微笑んだままだ。

 彼は日菜に悪意はないと感じ取ってる。仮に悪意があっても変わらず今のように笑っている。

 

「私が変わり者なのは自覚している。だが、それが私だ。変えるつもりもないし、変わる気もない」

 

「ふーん、やっぱり君は変わってるね。他の子とは違うな」

 

 またもや無遠慮な発言。やはり気にした様子もない純心。

 むしろ、純心は日菜の反応が好ましかった。

 多くの人間が未だ経験のない弓を好ましいと言う純心に対して、取り繕うような反応をする。

 正面から棘のある言葉を突き刺さないのは、良心的な態度の一つだ。

 しかし、日菜にはそれがない。

 在りのまま感じたことを、隠さずに表現している。

 裏表がないのはいい事だが、これでは余計なトラブルを生むに違いない。

 純心も理解してる。しかし、それを諭すつもりはない。

 逆に、日菜のあり方は一つの魅力だと、寛容に受け止めた。

 ならば、触れずに慈しむこそが、唯一許される行為だろう。

 

「それは光栄だ。家はともかく、私自身はこれとて詰らない人間だからな。卿のような女性にそう言われるのは男冥利に尽きるだろう」

 

 口角を更に緩め、微笑みながらそう紡ぐ、純心。

 

 改めて、純心の容姿について説明しよう。

 彼は生まれも育ちも日本であるが、顔の造形は西洋人。

 慎ましやかな色香が漂っており、整った美顔。十代未満の童が持つ、特有の純粋さの中に秘めた大人びた風貌。

 このまま成長すれば、多くの貴婦人を魅了する美丈夫になる。

 安易だと弁えて言うならば、眉目秀麗。

 彼に軽く微笑まれれば、大抵の女子は頬を赤くして狼狽するものだ。

 

「あはは、君は全然子供ぽくないね。学校で習ってない言葉を沢山使うし、やっぱり可笑しい!」

 

 だが、日菜はその辺りの女子たちとは感性が違った。

 愉快に笑う日菜と同様、純心も心なしか楽しそうであった。

 

「それは卿もだろう? 癖ゆえ自然と出てしまうが、私の言葉は同輩には難解のようだ。それを理解している時点で、卿も同類だ」

 

「かもしれないね」

 

 互いに以心伝心したところで小休憩の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 

「おっと、授業だ。じゃあね!」

 

 やってくる時も急ならば、去るときも急。

 授業が始まるので慌しく自分の席に戻るのは当然ならが、日菜は純心の反応を見ずに去った。

 純心は授業の準備を整えながら、自然と先程まで会話した日菜がいる場所を目で追う。

 日菜は自分の席に戻った途端、純心と話しているときとは比べ物にもならないほど楽しそうに、隣席の双子の姉、紗夜に話している。

 そんな妹に姉は授業の準備をしなさい。静かにしなさいと注意しながらも妹の話を聞いていた。

 

 ──優しい姉だな。

 

 会話もしていない相手を純心はそう評価する。

 先程も純心が日菜と会話している最中、ずっと紗夜は妹を気にかけていた。

 見るからに自由奔放な妹ならば姉も気苦労するだろうが、嫌っているようには見えない。

 事実、日菜の問題発言に周りが驚く中、彼女だけは日菜を心配そうに見つめていた。

 日菜の性格ならば、当人にその気がなくても反感を買ってしまうのはよくあるはずだ。

 妹に助力するのが姉なの役目か紗夜は終始、純心と日菜の会話を見守っていた。

 そんな彼女の視線を感じ取っていた純心は、先のように紗夜を計り、美しき姉妹愛と尊んだ。

 だが、抱いた感想はそこまで。

 彼はそれ以上に彼女たちを興味を向けなかった。

 教師が教室に入ってきたことで始まった授業に意識を傾ける。

 

 これ以降──純心が彼女達を触れ合う機会は必要最小限のものだった。

 

 偶に日菜の方から純心に話しかけることはあっても、基本的に彼女は姉から離れようとしない。

 純心に到って、必要でなければ自分から話かけることはなかった。

 姉の紗夜に関しては、挨拶しかしていない。

 ただのクラスメート。その程度の関係。

 そのような味気ない人間模様に色を生じたのは、しばらく経ってからだ。



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Episode ─Ⅱ【総てを愛する者】

 すぐにお気に入りついた。
 表現できているか不安だけど、獣殿すごいな。
 まぁ、ぽいだけで獣殿ではないんだけどね。


 この日、小笠原純心が図書室に訪れたのは借りた本を返却にしに来たといった平凡な事情である。

 本人曰く読書家でもないが、見覚えないものには何でも興味を惹かれる性質。知らない内容の書物ならば、どのようなジャンルであれ手を伸ばす雑食なのだ。

 今回、純心が借りた本の内容は世界のシンボル集というこれまた一風変わった本。

 中でも、かの国で悪名高き国家社会主義労働者党の象徴には妙な愛着を感じた。

 その国では提示するだけでも犯罪なので、背徳行為に刺激されたのかもしれない。

 

 あるいは──、と其処まで到ってから詮ないことだと思考を打ち止めし、その本を受付にいる図書委員に返却する。

 そのまま退室するのではなく、別の本を探しに適当に歩いていると生物に関する本棚に足を止めた。

 何度も通っているため、純心はどんな本を蔵書しているかは全て把握している。

 ゆえに新書があればすぐに気づくのだ。

 純心の視線に留まったのは、『犬の大全集』というタイトル。

 犬という身近な動物はどれ程の種類がいるのか。

 幾つかの種類と大まかな性質は既に知っているが、一般知識として知られない知識に好奇心を抱く。あれほど分厚い本であれば、自分が知りも知らなかった新しい発見があるかもしれない。

 彼は手に取って軽くページを捲った後、このまま借りようかと受付に向かおうとした。

 

「あ──」

 

 すると、耳に気の抜けた声が届く。

 純心が振り向くと、其処にはクラスメイトの氷川日菜の双子の姉。

 同じクラスメイトの氷川紗夜がこちらを見ている。

 視線が自分が持っている本に向いていると察すると、純心は彼女に近づいた。

 

「これに興味があるのかね?」

 

 純心は手に持っていた本を紗夜に見せる。

 話しかけられるとは思わなかったのだろう。

 紗夜は明らかに動揺した後、さっと視線を逸らす。

 

「い、いえ、私は別に……」

「ふむ。私の勘違いだったようだな。話しかけてすまない」

 

 純心はそう言うと手に持っていた本を元の場所に戻す。

 すると別の棚から適当に本を取ると何も言わず立ち去る。

 あまりにも自然な動き。

 一連の行動を紗夜が理解できたのは、純心が図書室から消えていたからだ。

 女には真摯に。強情な女には絡め手で。

 これは彼の実家による教育であり、彼に根付いた自然な行動だった。

 

 

 純心が図書館へと訪れた翌日───。

 

「おはようございます、小笠原さん」

 

 朝のホームルーム前。

 少し騒がしい教室にて純心は自分の席に座ると、氷川紗夜が挨拶しにやってきた。

 それに気づいた他のクラスメイトたちは、彼女の行動に少し驚いている。

 紗夜は双子の妹である日菜以外に、自ら事務的会話以外をすることは滅多にないからだ。

 更には相手が純心であることも注目された理由である。

 彼に絆された女子は数え切れぬほどいるが、紗夜も彼女たちと同類なったのかと、特に女子たちが気にしていた。

 

「昨日はお気遣い頂き、ありがとうございます」

 

 周りの視線を感じつつも意識しないように努め、紗夜は彼に昨日の礼を言う。

 彼に話かける時点で注目されるのは解っていたこと。

 周囲に晒されるのは好まないが、それで礼儀を避けるのは彼女の矜持に反するのだ。

 紗夜の声に純心は振り向き、優雅に微笑む。

 

「おはよう、氷川。そして、気遣いとは私が持っていた犬の本のことかね?」

 

「──ええ、そうです。貴方が戻した後、私か借りました」

 

 純心の言葉に紗夜は少々戸惑いの色を見せつつ、首肯した。

 

「そう仕向けるように動いたのだから、そうでなくては困る。いや、予想が外れてそれは愉快だな」

 

「……驚きました。てっきり、初めは惚けるのだと思っていたので」

 

 昨日、純心が取った行動は本を紗夜に譲るためだと少し考えれば誰でも解る。

 しかし、臆面もなく白状するとは彼女も想像外であった。

 予想では気取った仕草ではぐらかされるのだと思っていたので、紗夜は唖然とする。

 

「私はあの本を卿に譲るように行動したのは事実だ。素知らぬ顔をして何の意味がある?」

 

 何も捻りもない自白に紗夜は目を見開くも、少しだけ納得した。

 

「……そうですか。では、何故あのように回りくどいやり方で私に譲ったのですか?」

 

「あれほど視線を向けたものを興味ないと言ったのだ。こちらが単に渡したところで、拒絶されるのは目に見えている」

 

「それは──ええ、貴方の言うとおりですね」

 

 否定しかけた言葉を飲み込み、紗夜は素直に肯定した。

 目の前の相手に、下手な言い訳は無駄だと察したからだ。

 

「すみません、私が素直でないばかりに、余計な気を使わせました」

 

「謙虚なだけであろう。我が物顔であの本を奪い取る気概を見せていれば、それは愉快だった」

 

 口端を緩める純心に殊勝な態度だった紗夜は冷ややかな目を向ける。

 

「そのような非常識なことはしません。もしかして貴方は私をからかって楽しんでいるのですか?」

 

「不快にさせたのなら詫びよう」

 

 高慢な言葉だが、不思議と誠意は感じた。

 紗夜はまだ何か言いたげだったが、これ以上に言及しても心労が溜まると悟り小さく息を吐く。

 

「……とにかく、お礼は言いましたので。読み終えましたら、貴方に渡します」

 

「私に気にせずゆっくりと読むといい。あの本は気まぐれで手に取ったもの。借りようとしたのは事実だが、急ぐものでもない」

 

「解りました。では、遠慮はせずじっくりと拝読させてもらいます」

 

 そもそも、本は学校の備品。貸し出し期間内にならば、どれだけ読んでいても文句は言われない。

 だが、紗夜は譲ってくれた手前、できるだけ早く純心に渡そうと律儀に考えている。

 もっとも、気まぐれに手を取ったと聞けば、急く気持ちは小さくなっている。

 けれど純心が最初に借りようとしたのは事実だ。読み終わったら再度貸し出し手配をし、彼に渡すつもりでいる。

 

「──小笠原さんは、犬が好きなんですか?」

「ああ、好きだとも」

 

 こんな質問が紗夜の口から出てくるのは自然な流れだろう。

 彼女の問いに対し、純心は答えも自然だろう。

 質問に対し、自然な回答。何も変哲もない言葉。

 

 だが、ここから純心の素性に触れる会話に繋がるとは、紗夜は思いもしなかった。

 

「犬というのは人が生れ落ち、最も付き添った他の生き物だ。愛着を湧かないわけがない」

 

「な、なるほど。そこまでお好きなのですね」

 

 意外な壮大な言葉に紗夜は少々戸惑いを抱く。

 しかし、気持ちは解った。

 彼女自身も犬はかなり好きだからだ。

 本人に尋ねれば照れ隠しするが、好きでなければ犬の図鑑を借りたりしない。

 壮大だったが純心の言葉も紗夜は理解できる。歴史においても、人と犬が密接に関わったことは何度もあるからだ。

 だが、僅かに芽生えた同属意識は、次の言葉で砕けた。

 

「犬だけではない。猫だろうが、人であろうが、獣でもなかろうが、無機物でも構わない」

「?」

「私は総てを愛している」

 

 あまりにも当然のように口にした言葉に、紗夜は目を丸くする。

 

「つまり、博愛主義というものですが」

「然り。どんなものであれ私は等しく同様に愛している」

 

 彼から出た言葉は本物だった。

 まだ一桁の歳しか重ねてなくとも、勤勉で聡い紗夜は理解する。

 総てを愛している。非常に美しい思想だと、多くの者が思うだろう。

 

「同様ですか……」

 

 しかし、紗夜はその言葉を聞いた途端、酷く違和感を感じ取った。

 

 身近に天才と呼ばれる双子の妹がいるからだろうか。

 彼女の妹、日菜はよく独立した感性で物事を話す。

 理解不能な言動で他人を混乱させることは日常茶飯事。

 けれども、同じ時に生まれ、長い間寄り添っている紗夜にはある程度、日菜の考えを把握できる。

 そんな彼女だからこそ、目の前の少年にある異端を直感した。

 

「その言葉が本当なら、自分の家族と他人との間にも一切差がないと受け取れますね」

 

 それは無意識に出た言葉。

 

「ああ、その通りだ。私は他人も両親と同様、愛しているとも」

 

 肯定され、紗夜は理解した。

 

 ──そういう価値観なのか。

 

 血肉を分け与えられた親すら、他人と平等に扱っている。

 万物平等で逆に傲慢不遜。

 同じ人間とはとても思えなかった。少なくとも、紗夜には。

 同じ価値観を持てる人間は世界中、どれだけいるのだろうか。

 これを魅力と思う者たちもいる。

 事実、聞き耳と立てていた者たちは、特に騒ぎ立てる者はいない。

 むしろ、中には熱を感じさせる眼差しを純心に向けていた。

 まるで、崇めているような視線。

 既に彼らや彼女たちは今日までまともに言葉を交わしたことない紗夜と違い、純心のことをそのような存在であると認知し、その上で羨望の抱いているのだ。

 確かに、優れた容姿と能力に常人とは違う思想に対して、憧れを持つなと制するほうが厳しい。

 

 まるで黄金の如く輝きを放つ彼を、神のように敬畏する者もいる。

 

 そんな男に、紗夜は言った。

 

「……そうですか。その考えは、私には無理ですね」

 

 少なくとも、自分の妹と両親、家族と他人を同列に扱うことはできない。

 産み落としてくれた者たち。共に生まれ落ちた者。

 この世に命を芽吹かせてから傍にいた者と、一瞬すれ違った人間を一緒に扱うことは無理だ。

 

 仮に。もし、できたらとした。

 

 …………彼女は、楽になれるかもしれない。

 

 紗夜は妹の日菜と常に比べられてきた。

 天性の天才が日菜なら、紗夜は努力の秀才。

 紗夜自身の実力はとても優秀だ。

 テストの点は高得点であり、運動神経も良い。真面目を絵に描いた優等生。

 だが、日菜に比べると見劣ってしまう。

 学力も。運動も。芸術も。発想も。何においても常に妹より下。

 紗夜が模範通りの行動で納得させるならば、日菜は常識外の行動で仰天させる。

 何事においても妹のほうが勝っていた。

 それが悔しくて、紗夜は努力を重ねている。苦しくても研鑽し続けている。

 

 もしも、彼女が妹を、他人と平等に接することできたなら。

 

 この苦しみ、開放されるかもしれない。

 純心のように万人と愛し、共に日菜を愛したら。妹に劣等感を抱かず平穏に過ごせることだろう。

 

 ──そんなことはできない。

 

 どんなに妹のことで辛くても、紗夜に彼女はとって『特別』。

 だから 純心の考えは受け入れられない。

 価値観は理解しても、自分の価値観と組み込むことはできないのだ。

 

「私は永遠にはなれない。限られた時間で知らない誰かに眼を向ける余裕なんてないわ」

 

 未だ、只一人の妹すら折り合いをつけれていない。

 そんな人間が、全ての人間を見る時間はどれほど人生を繰り返せばいいのか。

 それこそ、永遠にならなければ到底不可能であろう。

 永遠など幻想だ。只の人間が幻想に到ることはない。もしもあれば、それは人間でない。

 

「なるほど、卿の言うとおりだ」

 

 彼女の言葉を聞いた純心は、雰囲気が変わる。

 妙に納得したような、神妙な顔であった。

 彼は豪然であるが、意固地ではない。

 思うことがあれば、それを認める度量は持ち合わせている。

 

「永遠にはなれない。確かにそうだ。我々は所詮、只の人間に過ぎない」

 

 噛み締めるように頷きながら、皮肉下に言葉を吐く。

 

「その限られた刹那で全てを愛していると口にするのは、傲慢であると理解しているとも」

 

「かもしれません」

 

 総てを愛しているなど、本気ならば傲慢だ。

 彼自身、傲慢だと自覚している。

 己で苦言を零しても、考えを改める全く気はない。

 彼との価値観は相容れぬものだと感じ、彼女は言った。

 

「ですが──その気持ちは悪いものではないしょう」

 

 頑固ではあるが、それは純粋であるとも同じであり、誠実なのだから。

 誰かに諭されただけで変質する気持ちなど不純。

 惰弱な精神ではどのような渇望でも永遠に実現することはできない。

 太陽より輝かしい黄金の精神。

 万人平等に光を与えへ、熱さで焦がし、果て無き眩しさに畏怖を感じさせる。

 同じ高みには至れない。

 近づけば焼かれ、目を閉じも意識せずいられない災害でもある。

 

 ──嗚呼、けれども。

 

 黄金が美しいことには変わらない。

 

「愛することそのものは、素敵なことですから」

 

 紗夜が、静かに微笑んだ。 

 

 総てを愛することは、波乱を招く種になり得る。

 けれども誠の愛とは尊いものだ。

 歪であれ、危険であっても。愛することは事態に間違いはない。

 紗夜は純心が浮世離れしており、己と相容れぬと解っている。

 承知し、歪と認めた上で、その愛を賞賛した。

 

「────」

 

 時間にして、正しく一瞬。

 純心は彫刻のように微動せず、紗夜を見つめる。

 永遠に思えた静止の世界が解けた瞬間、純心はゆっくりと口を開く。

 

「我が愛を知ったものは盲目的に認めるか、絶対的な否定する。そのどちらかであったが──」

 

 例えるならば前者はこの学校にいる生徒や教師。後者は彼の両親だった。

 零れるような声で彼は言った。

 

「卿のように両方とは、初めてだったよ」

 

 対極の感想を同時に言われたのは、彼女だけだった。

 

「大げさですね」

 

 紗夜が可笑しそうに微笑んだ。

 

「随分とおませさんですが、貴方もまだ小学校三年生。まだまだ経験が足りない子供であり、初めてのことなど幾らでもあるでしょう」

 

 諭しながらも、労わる。

 優しく嗜めるのは、随分と慣れた様子だ。

 何かと問題が多い妹と関わってきた彼女だからこその振る舞いなのか。

 普段澄ました様子では想像できない、氷が溶けるような、温かい柔らかさ。

 

「ふっ、卿の言葉どおりだ」 

 

 これはあの妹も姉に懐くと納得し、純心は綻ばさせる。

 いつも余裕を表すように口端を緩めているが、今回のそれは本当に可笑しかったのか、微笑みを表現に足る穏やかなものだった。

 

「所詮は二桁も重ねてもいない若輩者。未知な出来事な幾らでもあると理解していたのだがね。今回は衝撃が大きかった」

「日菜──私の妹もそうですが、貴方たちは見聞が広いのに変なところで気にするのね。天才同士、似ているのかしら」

「私が天才なのは別にしても、卿の妹君、氷川日菜と私が似ているか」

 

 純心はじっと紗夜を見つめると、納得したように頷く。

 

「等しいものと等しいものは共にいることを好むというが、これはまだ別だな」

「? なんのことですか?」

 

 深々と考える様子の純心に紗夜は首を傾げる。

 

「気にするな、単なる独り言だ。さぁ、そろそろ自分の席に戻るといい」

 

 それだけ言って純心は、紗夜に自分の席へと戻るようにと促す。

 

「チャイムが鳴って慌しく戻るのは性に合わないだろ?」

「そうですね。わかりました。では」

「ああ、またの機会に(・・・・・)

 

 自分の席に戻る紗夜であったが、その前にクラス女子多数に取り囲まれた。

 小笠原様と何を話したのかと、その質問ばかり。

 彼女たちの殆どが純心の信望者であり、情欲を持っている者もまた多い。

 中には単なる興味本意で尋ねる者もいる。

 彼女たちが知る限り、クラスの中、あるいは学校全てを含めても先程の紗夜ほど純心と会話らしい会話をしたものはいないのだ。

 思春期初期段階の彼女たちにとって、とても見過ごせない出来事である。

 例外は日菜だが、彼女は姉が一番と解っているのでカウントしない。その日菜は女子に混じって、「お姉ちゃん、おがさーとなに話したの?」と誰よりもぐいぐいと質問していた。

 質問攻めにあって狼狽する紗夜を純心は遠巻きで眺める。

 やって来た教師が騒動を注意し授業が始まるまで、その視線は外れることはなかった。

 

 



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Episode ─Ⅲ【黄昏にて】

 

 

 一学期が終わり、夏も過ぎ去ったのは随分前になる。

 

 その頃になると空気、雰囲気、関係性、様々なものが固定化さていく。

 第一に二人の天才がいる三年A組に他の組は敵わないこと。

 学級委員となった小笠原純心はクラス全体の成績水準を底上げし、氷川日菜が此処彼処で行動を起こしては周囲を驚かせた。

 

 純心自身の実力も然ることながら、その統率力が圧巻である。

 元々素質が高い児童の集まりではあったが、彼が先導することで学力も更に高めた。

 定期的に行うテストでは満点でない生徒のほうが少ないほどである。

 別に純心が勉強会を開いている訳ではない。

 彼は請われれば開くこともあるが、自ら率先して行うことはなかった。

 それでも、純心によってクラス全体の実力が伸びたのは確かなことである。

 理由は単純明快。クラスの殆どが純心を心酔しているからだ。

 優れた容姿。飛び抜けた能力。彼が放つ言葉は説得力がある。

 指示も的確。それが自分たちの纏め役であれば気分も高揚は当然だ。

 集団行動を主に行う人間とって、指導者とは上等であればあるほど良い。

 指導者が上等であれば追随者も上等であろうと自然と働き、結果として集団全体の錬度を高めるのだ。

 

 逆にもう一人の天才は混迷に満ちていた。

 氷川日菜という少女は天才だ。だが、同時に天災でもある。

 彼女はある時期、学校総ての部活に参加したことがあり、同時に総ての部活を辞めている。

 総ての参加した部活に付いていけなかったわけでない。

彼女は天才。例え初めてやったことでも、次の瞬間には誰よりも上手くなっているのだ。

 そして、彼女は自分が知らないものを知った後、こんなものかとすぐに棄ててしまうのである。

 部活を真面目に打ち込んでいる者達にからすれば堪らない。

 悪気はない。無邪気に日菜は努力した者の先を行く。

 最初の頃は反感を買っていたが、最早そういう災害であると諦観されて行った。

 

二つの綺羅星は瞬く間に注目されていた。

そうなると傍にある星に目が届くのも自然である。

 

 日菜の双子の姉である氷川紗夜。

しかし、日菜を知れば自然と姉である紗夜も知ることは解るが、それとは別に純心のことを知ると紗夜のことも知るのは話を聞いただけでは解せないだろう。

 

 まず目に付く理由は紗夜が純心と同じ学級委員だからになる。

 同じクラスの学級委員ならば自然と目に付くのは当然かと思うが、片や黄金の輝きを放つ傑物。普通の人間ならば霞んでしまう。

 しかし、彼は普通の人間と言うには優秀だった。

 氷川日菜が目立ち理由の一つが愛らしい容姿もあり、双子の姉である彼女の見栄えも良い。

 能力も優秀だ。彼女のクラスは純心の強いカリスマ性で技量が並外れだが、紗夜はその中でも飛び抜けている。

 はっきりとした位置づけで語るならば純心、日菜に次ぐ実力者だ。

 

 極めつけは二人の天才に臆することなく接していることである。

 

 妹である日菜には当然かもしれないが、大人ですら畏縮する純心にも彼女は平然と接していた。周りは天才の身内がいるから耐性があるのだと思い、その考えは遠くない。

 

 ──紗夜が純心と学級委員となったのは、あの本の貸し借りの件からすぐ後の頃。

 

 最初は実力で男子代表を純心。女子代表を日菜にしないかと話があった。

 だが、日菜に協調性や統率力を求めることができず、また本人にやる気の欠片もなかった。

 そこで日菜の口から姉が去年も学級委員の経験があると話が出てきて、それを聞いた純心がならば共にやらぬかと誘ったのだ。

 その一瞬に紗夜は周囲の女子からの嫉妬を浴びる。

 気が重くなって辞退しようと紗夜は考えたが、彼女に嫉妬を向けた女子たちは誰も純心と共に仕事をする勇気がなく、結局学級委員をすることになった。

 

 紗夜は良くやっていた。

 

 他の者ならば潰れかねない純心との共同作業を彼女は何とかついていっている。

 最初の一ヶ月は純心のペースに四苦八苦していたが、次の月には要領よくこなしていた。

 寧ろ、純心の実力が高いことを良いことに上級生学級委員の一部が無理難題を押し付けてくるのを紗夜が抑制しているのだ。

 自由奔放な妹と違い、姉の紗夜は規律と正義を重んじる。

 相手が先輩や教師であってもそれは変わらない。理不尽な要求には正論を持って打破し、革新的な純心の行動や計画も誰より先んじて全うしている。

 

 よって、紗夜の評価も高くなる。

 傍から見たら紗夜は純心の秘書、あるいは懐刀のように見られていた。

 一部では純心と紗夜は付き合っているのではないかという噂されている。

 

 ──無論だが、実際のところ事実は異なる。

 

 紗夜自身、純心と共に学級委員をやっているというよりは、周りに言われている通り彼の秘書でもやっている感覚ではあった。

 自らそう望んでいた訳ではなく、如何に効率よく純心と働けるのかと模索した結果、今の状態に落ち着いたわけだ。

 そのように見られることに不満がないわけではないが、担った以上、責務を全うしようするのが氷川紗夜という少女なのである。

 八歳にして責任感が強い。でなければ、学級委員になった最初の数日で泣き逃げている。

 

 そして、一部の噂されている純心との関係だが、紗夜の耳に入ってきては下らない妄想の範疇だと彼女は一蹴していた。

 

 他の人間と比べれば確かに話したりするが、半分以上が学級委員の仕事話で残る僅かなものは単なる日常会話。期待するような色彩豊かな思い出などない。

 

 そもそもな話、小笠原純心という少年は総てを平等に愛している。

 聖人悪人の区別はなく、また友人他人血族の区別もない。特別な例外は存在しないのだ。

 

「ですから、私から言うことは何もありません」

 

 昼休みの中頃。

 紗夜は花を摘み終えた矢先、見覚えのない同級生に呼び止められた。

 先の言葉は話を聞いてから出た、紗夜のものである。

 

「そう。なら氷川さんは本当に付き合ってないのね?」

 

「他の方々にも同じ確認をされていますが、その通りです」

 

 うんざりしながら百回以上繰り返したのではいかと思う台詞を吐き捨てる。

 学校で紗夜自身に見覚えのない話しとなれば大抵が妹の苦情か純心とのことだ。

 日菜の苦情に関しては、不満が大いにあるが姉なので解る。

 純心のことに関しても学級委員に関することなら許容範囲だ。

 しかし、純心に告白するのに自分との関係を毎度確認されないといけないかが解らない。

 この質問が始まった頃はあまりにも同じ事を聞かれたので憤りを感じた。だが、返ってことを荒げることになると気づけば、坦々と対処するよう変わる。

 今の相手も平然としている紗夜を見て、納得したように彼女の前から立ち去った。

 

 これから、あるいは放課後でも彼女は純心に思いを告げるのだろう。

 

 結果は目に見ている。

 彼は万人を愛している。請われれば付き合うだろう。

 だが、その先は破滅だ。誰彼構わずその愛を受け入れ、与える彼は只一人を見ない。

 満足する者もいれば、満足しない者もいる。どちらも最後には碌な目に合わない。

 それを解っていながら告白する女子が後を立たないのは、彼の魔性染みた魅力のせいだろう。

 在校生で上級生から告白されたことは勿論のこと、噂では他校の中高生、教師まで彼に堕ちたという話だ。そして、その誰もが彼の愛を知り、受けきれず、自壊していった。

 

 そのこと紗夜は純心を女の敵、とは考えない。

 八方美人とは違うが、そのような男に自分達から近づいた女達の自己責任なのだ。

 彼は性質が悪いが、誠実なのだ。それを勝手に期待し、勝手に壊れる者達の方が愚かだと思う。

 

 さて、今回はどうなるのかと紗夜はついさっき会った相手に冥福を祈った。

 

 

 

 二学期になると季節は日が沈むのが早い。冷えた空気が漂い始めた寒露である。

 

 夕焼け色に染まった教室で、純心と紗夜は向かい合わせで作業をしている。

 これは学級委員の仕事。近々、始まる体育祭での段取りだ。

 段取りといってもクラスですることは参加種目決めと、割り振られた係を決める。後は競技対策ぐらいだ。

 単に各自やりたい種目をやりたい人間にやらせるだけなら簡単だが、誰もが体育祭に積極的ではない。

 予め此処の体育での成績や所属運動部での成果を調べ上げ、適材適所を振り分け置いてから会議で纏める。その方が時間の効率もよく、成果も上がりやすい。

 人がいない教室での作業は外野からの視線を避けるため。

 誰からがいれば余計な口出しが入るかもしれないと純心が危惧したことなのだが、紗夜からすれば彼に意見を言えるクラスメイトなど自分の妹しかいないと内心で考えていた。 

 

「あとは、これで終わりです」

 

「そうだな。では、櫻井教諭に報告して今日は帰宅しよう」

 

 前もって調べていたので、体育祭の内容を纏め上げるのは簡単だった。

 あとはこれを帰る前に担任に報告し、明日のHRで話すだけである。

 そのまま二人は共に教室から出ると、紗夜は昼に見かけた顔を見つけた。

 少女は二人、正確には純心の顔を見ると、頬を染めながら話があると切り出した。

 

「それなら私が櫻井先生に報告してきます。では」

 

 解っていたことなので紗夜は純心の反応を待たず、そのまま早歩きで去る。

 他人の告白に聞き耳を立てる趣味はない。

 そのまま紗夜は職員室で担任に報告し、あとは帰るだけだと下駄箱に向かった。

 

 

 ──すると、下駄箱の前に先程別れたはずの純心が一人で立っていた。

 

 

 まるで待ち構えたように彼は紗夜を見つけると、いつも通り絵になる笑みを浮かべる。

 

「先程は気を使わせて悪いことをした。謝罪しよう」

 

「いえ、かまいません。ところで彼女は?」

 

「帰ったよ。期待させて悪いことをしたが彼女の申し出は断わった」

 

 聞いて、紗夜は僅かに驚く。

 その言葉だけなら理解できないが話を理解している彼女が聞けば純心は告白を断わったようだ。

 今まで何度も告白を受けては破局していた彼だが、考えを改めたのか。

 

「──何より今日、告げると決めていたのでな」

 

 沈んだ日によって茜色に染まっている昇降口には彼と彼女しかいない。

 窓の向こうから部活に励む賑やかな声。

 すぐ傍の喧騒であるはずなのに、遠い景色の響きのように耳に届く。

 少し窓が開いていたのだろう。

 黄昏時、ふわりと風が吹くと、紗夜は揺れた髪をそっと抑えた。

 

「紗夜」

 

 純心に呼びかけられる。

 そういえば。

 こうやって名前で呼ばれたのは初めてではないかと。

 紗夜が薄っすら疑問を抱くと、純心の唇が動く。

 

 

 

「卿に恋をしている」

 

 ──彼女が何を言われたのか、理解するのに時間が掛かった。

 徐々に頬を赤らめる少女に彼は優しく微笑む。

 

「マイン・ゲッティン。どうか壊れず、この思いを受け取ってくれ」

 

 笑いたければ笑えばいい。それはまるで、誰かが幾度も繰り返した言葉を真似ような台詞。

 だが、彼に後悔はなく、偽りない本音だ。

 

 総てを愛している男は、たった一人の女に恋をしたのだ。

 




 小三です。


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Zwischenspiel ─Ⅰ

『小学三年生で告白された(の)んですか!?』

 

 行きつけのファミレスにて、紗夜から恋人の出会いを聞いていた四人が叫んだ。 

 

「宇田川さん、声が大きいわ。お店や周りに迷惑でしょう」

 

「すみません。って、何であこだけ怒られてるんですか!?」

 

「一番声が大きく、机も叩いてたからです」

 

「す、すみません」

 

「それに宇田川さんだけではないです。皆様、驚き過ぎではありませんか?」

 

「いやだって、紗夜の恋人が小学校で告白したってことは、そこらから付き合ってたことでしょう? かなり年季が入ってるやら、かなり進んでるとか、色々驚いちゃうよ。

 あと、彼氏さんが私達と同じ歳だったのも驚き。写真だと年上に見えた」

 

 リサの言葉に残りの三人が同意するように頷く。

 彼女の言葉通り、写真からの姿、リサは実物を目撃したが自分と同じ歳、高校生には見えないほど大人染みていた。若くても大学生までと想像していたのだ。

 動揺しているメンバーとは違い、珍しく自分からプライベートのことを語る紗夜は冷静である。

 

「彼は自分の顔が少し老けてるのを気にしているので、本人に会っても言わないでくださいね」

 

「……気にしてるんだ。話を聞く限り意外ね」

 

「それと告白に関してですが、今時は幼稚園でもしますよ。大体は遊びの範疇ですがね。私も日菜とまったく理解せずに婚姻届を書いたことがあります」

 

「ああ、してそうだね。私も昔、友希那としたことあるよ」

 

「ちょっと、リサ!? なんでそのことを言うの!?」

 

「え? 単なる楽しい思い出話じゃん。なんでそんなに怒るの?」

 

「だ、だって、恥かしいじゃない」 

 

「湊さん、大丈夫です。お二人が結婚の約束をしていても、私たちは自然と受け流せます」

 

「紗夜、それはフォローしているつもりかしら?」

 

「そのつもりですが何か?」

 

 不思議そうに首を傾げる紗夜を見て、何やら面倒になった友希那は毒気を引かせる。

 

「…………、もういいわ。完全に逸れる前に話の続きをして頂戴」

 

「わかりました。では、話の続きですが彼に告白されましたが、其処からお付き合いをした訳じゃないです」

 

「お断りしたんですか?」

 

「…………そういうことになりますかね」

 

 燐子の確認に紗夜は頷いた。

 するとあこが「えー」と声を上げる。先程の注意されたので控えめだったが、視線を向けるには十分である。

 

「だって聞く話、めちゃくちゃカッコいい人じゃないですかその人。顔も良くて、頭も良い。特に喋り方が凄く素敵です! なんだが、ゲームとかのラスボスっぽい感じがイケてます」

 

「確かに、あこちゃんが好きそうな喋り方だね(小学三年生から素でそんな口調と聞くと、色々と考えさせるけど)。告白の言葉も、マイン・ゲッティン。確かドイツ語で私の女神、ですか」

 

「その通りです、白金さん。良くわかりましたね」

 

「ゲームとかでドイツ語を聞く機会ありますし、Roseliaの曲もドイツ語に因んだのもありますから」

 

「なるほど。彼の場合、祖父がドイツ人で。稀にアチラの言葉が自然と出るそうです。尤もそれを知ったのは後からですし、告白されたときも私には理解できませんでしたが」

 

 そう言って紗夜は燐子に向けていた視線をあこに戻す。

 

「それで話をもう一度戻す前に宇田川さんに聞きますが、逆に宇田川さんならそういった相手に、突然告白されてお受けしますか?」

 

「え? あこが紗夜さんの恋人みたいな人にですか?」

 

「そうです。頭脳明晰、容姿端麗。ついでに貴女好みの口調の男性です」

 

 真剣な眼差しを向けられたため、すぐ答えは出さず、あこは自分に置き換えて脳内シミュレーションしてみる。

 顔は紗夜に見せて貰ったものをイメージし、声は知らないので自分が知っているラスボスキャラクターのものにして、紗夜が語った状況を自分に当てはめてみた。

 想像してもロマンチックなものだと思ったが、それで相手の告白を受け入れるかと思うと違和感を抱く。

 

「う、うーん。考えてみると、突然告白されても驚いてOKは出さないですかね」

 

 紗夜の話を聞く限り、一緒に遊んだこともないので友人と呼ぶのも憚れる。

 精々、顔見知りのクラスメイト。つまり、まだ良く知らないのだ。

 それでも選ぶ者はいるだろうが、スペックだけ判断し交際を決めることをあこはしたくない。

 

「それを聞いて安心しました。承諾すると言ったなら巴さんにもお話して宇田川さんの再教育をするところでしたよ」

 

「あこ、結構危ない選択肢を迫られてたんですか!?」

 

「私も告白されたときは驚きが大きく、戸惑うことしかできませんでした。少なくとも、あの頃の自分にとって恋愛など縁遠い、ドラマや小説だけのモノでしたから実感がありませんでしたね」

 

「なるほど、それで断ったわけですね」

 

「……改めて聞かれると、先程白金さんに聞かれて肯定しましたが、事実は少し違いますかね」

 

 おや? と話の流れが変わり、四人は紗夜の言葉に耳を傾ける。

 彼女の恋人との馴れ初めは、まだ始まったばかりだった。



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Episode ─Ⅳ【会戦の号砲】

 お気に入り一杯と誤字報告一杯。
 感謝と申し訳なさ一杯です。


 ──卿に恋をしている。

 ──マイン・ゲッティン。どうか壊れず、この思いを受け取ってくれ。

 

 黄昏時、金色と灼色が混じった輝く廊下にて、突如たる告白。

 氷川紗夜にとって、思いを告げられるのは、初めての経験だった。

 しかも、相手は学校全体で絶対的な存在感を放つ少年、小笠原純心。

 聞くだけで酔うような声で熱も帯びるのも致し方もなく、 彼女の火照った体を冷たい風が撫でた。

 

「あ────」

 

 光を灯った瞳を向けられ、ようやく反応できたのがこれだけ。

 放心状態の紗夜に、純心は吐息混じりの笑みを零す。

 

「そう固まらないでくれ。元より此方の思いを一方的に伝えただけ。求めることは何もない」

「と、言われましても……」

 

 紗夜はどうしたら善いか解らない。

 彼女にとって、彼の告白は戸惑いしか生まなかった。

 そんな乙女の内心を見透かしながら、純心は慈しむ目を逸らしはしなかった。

 

「困らせたのは詫びよう。だが、先程の言葉は虚言ではない。それだけは理解してくれ」

「……わかり、ました」

「感謝する」

 

 搾り出した紗夜の返答に純心は満足する。

 その姿に改めて彼に告白されたのだと自覚した紗夜は、体の熱を上げた。

 

「卿を困らせたこと、重ねて詫びよう。だが、伝えらずにはいられなかった」

 

 すると純心は左腕を上げて、紗夜の顔に手を伸ばす。

 触れられると思い、紗夜は瞼を閉じて身構える。

 だが、一向に伝わらない感触。

 視界を開くと、純心の手の平は自分の頬に触れる寸前で静止していた。

 まるで、触れれば壊してしまいそうだと気づき、直前で止めたような手。

 いつも自信に満ちた瞳は憂いた色を写しており、先程とは違った胸の鼓動を紗夜は感じた。

 儚げな姿を見せながら、力強い声で純心は言葉を出す。

 

「これは意思表明であり開戦の狼煙だ。宣戦布告、卿の心を私は必ず振り向かせてみせよう」

 

 純心は宣言した後、紗夜の毛先にも触れず伸ばした手を引っ込めた。

 

「ではな、氷川。また明日」

 

 そう言い残し、純心は何もなかったかのようにその場を立ち去る。

 残された紗夜が我に帰って動き出したのはしばらく経ってからだった。

 

 

 それから紗夜は自分がどうやって家に帰ったのか覚えていない。

 気づけば自分のベットの上で薄暗い天井を見上げていた。

 帰ってきたら日菜に話しかけられたりしたが、疲れているからしばらく一人にしてと言って、姉妹共用の部屋で明かりもつけず閉じ篭もっている。

 時計の音だけが響く薄暗い中で眠ることなく、覚醒された瞳で薄暗い闇を見つめていた。

 ふと、紗夜は黄昏で起きた出来ことを思い返し、再び熱と戸惑いを生じさせた。

 

 純心という男に『愛』を囁かれたのならば平然といれただろう。

 何故なら彼は総てを愛している。

 彼の愛に喜ぶ乙女たちは夥しい程いるが、彼の愛は遥か地平線の彼方まで等価値。

 それゆえに彼の愛は価値があり、それゆえ彼の愛は無価値なのだ。

 其の他有象無象と同列にされても感受する人間は、純心という魔性に堕ちた信者に他ならない。

 

 しかし、そんな純心が紗夜に『恋』をしていると告げた。

 

 恋とは好意以外何物でもない。

 愛もまた好意ではあるが彼が普段から歌う広大な愛とは違い、深く切実な熱を感じた。

 もしかしたら、彼が言った恋と愛に違いはないかも知れない。

 それでも確実に解ることは、小笠原純心という少年は氷川紗夜という少女を好いているということ。

 

 紗夜はその好意をどう受け止めて良いか解らない。

 

 喜びは持てそうにないが、迷惑と切り捨てることもできない。

 紗夜にとって純心という少年は特殊な価値観を持った妹以上の傑物。

 豪胆であるが実直である。無頼が多い周りの男子と比べて責任感が強く、大人顔負けの強固な意思を持った少年。

 そんな彼に自分が隣にいることなど紗夜には想像もできない。

 彼の好意を受け入れるということは当然恋人になることだろう。

 考えただけでの自分では釣り合いが取れていないと断言する。

 第一に、恋愛感情のない相手とそういう関係になるこは考えられない。

 相手を知らなくとも、その姿だけで喜んで彼の求愛を受け入れる少女淑女は数え切れないだろうが、生真面目な紗夜には無理な話だった。

 これが妹の日菜ならば天才同士、変わり者同士お似合いだと紗夜は思う。

 彼女が知る限り、二人は頻繁に話すことはないが、意気投合していた。少なくとも紗夜にはそのように見えていた。

 仮に告白されたのが日菜ならば恋愛的感情がなくても、好奇心で付き合っていたのだろうか。

 

「おねーちゃん、そろそろご飯だよ」

 

 日菜のことを考えていれば、丁度本人が遠慮がちに扉を開きながら呼びかけてきた。

 自分の部屋でもあるのに気を使って入ってこない妹に罪悪感を抱きながら、紗夜は身を起こす

 

「わかった。リビングに行くわ」

 

「大丈夫? 疲れているならご飯ができるまで、まだ休んでていいよ」

 

 普段は他人のことなどお構いなしに行動する日菜が紗夜に気を使って殊勝である。

 胸がちくりと痛む。

 紗夜は日菜のことが苦手だが、妹にそんな顔をさせたいわけでない。

 

「平気よ。すぐ行くわ」

 

 心配させたくないのか。それとも姉として弱いところをあまり見られたくないのか。

 どちらか解らない感情で、紗夜は強気な態度を見せながらベットから起きた。

 だが、日菜はそんな紗夜の顔をじっと見つめる。

 生まれてから傍にいる存在なのだ。片方が虚勢を示しても看破して当然である。

 

「無理しないで。学級委員の仕事で疲れているならリビングに行ってもお母さんの手伝いはしなくていいからね。お母さんには私から言っておくから」

 

「そんなことしたら後で私が文句を言われるわよ。妹にばかり働かせて自分はサボるなとかね」

 

 実際、彼女たちの母親は紗夜が日菜よりも遅く帰ってきた理由を知っている為そんなことは言わないのだが、普段から妹と比べられている紗夜からは悲観的な想像しかできなかった。

 

「うーん、でも……」

 

 それでも引き下がろうとしない日菜を見て、紗夜は考えた。

 自分の顔が酷いことは自覚している。

 仕事で疲れているのは嘘ではないが、ここで無理をしていないと言っても信じてはくれないだろう。

 

「日菜、あなた告白されたことある?」

 

 ならばと、紗夜は一層のこと白状することにした。

 聡い日菜ならば何れ解るはず。その時に騒がれたほうが迷惑だ。

 それに自分自身誰かに話してみれば考えを整理できると思ったからである。

 突然そんなことを尋ねられた日菜は案の定、狐につままれたような顔をした。

 

「え? ないよ。どうしたの突然」

 

「私、今日されたの」

 

「えぇえええっ!?」

 

 すると日菜は暗雲な顔を晴れさて瞳を輝かさせる。

 期待を(まなこ)にして好奇心一杯の顔を近づけた。

 

「誰? だれ? ダレ? 誰に告白されたの!?」

 

「小笠原さん」

 

「おがさーと!?」

 

 ぼそりと相手の名前を告げると日菜はより一層驚いた。

 なお、日菜は小笠原純心を『おがさー』という愛称で勝手に呼んでいる。

 純心は数々の敬称や渾名がある、馴れ馴れしい愛称で呼ぶのは日菜くらいだろう。

 予想以上の反応に母親から五月蝿いと言われないか心配した紗夜だが、注意する声は聞こえてこないので一先ず安心する。

 

「あまり騒がないで。お母さんに怒られるわよ」

 

 それでも、次の瞬間にはそうなることを恐れて紗夜は日菜を嗜める。

 日菜も母親に怒られるのは嫌なので、大きく開いた口を両手で抑えてコクコクと頷いた。

 しかし、日菜が抑えたのは声量だけでテンションは鰻上りである。

 

「けどけど、おがさーに告られるなんて流石私のおねーちゃん! あれだよね?

 おねーちゃんが態々告白されたと言うからにはおがさーがよく言っている『私は総てを愛している。ゆえに卿も愛しているとも』とかじゃないよね! なんて言われたの?」

 

「えっと、『卿に恋をしている』『マイン・ゲッティン。どうか壊れず、この思いを受け取ってくれ』だったかしら」

 

 思い出しながら答えると日菜は「おお」と感心した。

 日菜は暇つぶしで色んなことに手を出しており、その中には辞書の多読もある。

 外国語の辞書も手を出しており、既に三か国語ほどの簡単な会話や単語を知る日菜は純心が言った言葉の意味が解った。

 

「やっぱりおがさー、キザイねぇ。 マイン・ゲッティンってドイツ語で私の女神でしょう? 他と違って面白いなー!」

 

 なお、3ヶ月後に日菜も平凡な男子生徒から告白されるのだが、あまりにも普通の人間からの普通な告白であり、紗夜と比べて落胆し、その男子生徒は一生立ち直れない傷を負うの余談が待ち構えてたりする。

 

「ドイツ語。小笠原さんはドイツ人とのクォーターだったからその影響かしら。けど、女神なんて」

 

 言葉の意味を知って更に恥かしいなった紗夜。

 顔を赤らめた姉に気分を高揚させた日菜は興味津々で彼女に尋ねた。

 

「で、どうしたの?」

 

「? どうって?」

 

「告白されたんでしょう? OKしたの? それとも断わったの?」

 

「…………。どういう扱いになるのかしら。少なくとも彼と付き合うことはないわ」

 

「なら、断わったってこと?」

 

「いえ。はっきりと彼の気持ちを断わったわけでないわ。彼はそもそも私に、そ、その好意を言っただけで、交際を申し込んだわけではないの」

 

「好きって言っただけ?」

 

「そうなるのかしら。あとは私の心を振り向かせると言い残して帰ったわ」

 

「なるほどなるほど」

 

 言葉に表すならば告白の件は保留になるのだろうか。

 日菜は両腕を組みながら純心の行動を考える。

 

「契約申し込み前の交渉段階ってとこだね。そこらへんの男の子たちなら大して好感度上げてないのに突撃玉砕なのにおがさーはちゃんと企んでるね。おねーちゃんはこれから大変だよ」

 

「どういう意味かしら?」

 

「だって、おがさーはこれからおねーちゃんに好きになって貰うためにドンドンアプローチするってことだよ! あのおがさーだから子供染みたことはしないと思うな」

 

「うっ!」

 

 日菜に指摘されて紗夜もその考えに至った。

 相手は小笠原純心。

 物の考えと行動は普通の小学生ではない。むしろその辺の大人たちより型破りだ。

 明日、自分の机の上に薔薇の花束が飾られていても不思議ではない。登校、あるいは下校する紗夜をリムジンで待ち構えてお出迎え。豪華な貴金属を貢ぎ、夜景が見えるレストランを貸切にし招待する。そのような行動に出ても純心なら不思議でない。

 言っておくが、純心の家は名家であるが金銭を湯水のように使える大富豪でない。

 他の一般家庭よりは資産がある家柄ではあろうが、その子供が自由に使える金額など高がしれているだろう。

 しかし、純心ならば在りえる。

 無論、金で物を云わせた行動だけでない。事あるごとに紗夜に接触して過剰な行為を実践することもあるだろう。

 紗夜は昔に日菜と見たことがあるアニメを思い出した。

 学校を牛耳る金持ち四人組の一人がヒロインの少女した行動の数々。他の男と旅行するヒロインを追いかけて豪華客船を貸しきったり、自分の家のメイドにしたり、ヒロインの仲を認めてくれない母親に反発して実家から出たり破天荒の数々。

 その男は横暴な人間のため最初は好きになれなかった紗夜だったが、最後までくると純粋で嫌いになれないと評価に落ち着いた。

 しかし、彼女は自分がヒロインがされた行動をされるかもしれないと考え、頭が痛める。

 

「日菜、明日学校休もうかしら……」

 

「ずる休みは駄目だよ、おねーちゃん」

 

 普段注意する妹から尤ものなことを注意された姉であった。

 

 

 

 翌日、紗夜は危惧して日菜が期待したようなことは起こらなかった。

 

「ごきげんよう。氷川紗夜に氷川日菜。今朝も良い日差しだ」

 

「おっはよー!」

 

「……えぇ、おはようございます。寒くなってきましたから天気がいいと助かりますね」

 

 告白された昇降口で偶然、氷川姉妹は純心と遭遇しそのまま普通に挨拶をする。

 

「今日はHRで体育祭の話をするが、念のために確認するかね?」

 

「そうですね。もう一度軽く準備しても損はありません」

 

 そのまま歩きながら事務的な会話を始める純心と紗夜。

 何かを期待していた日菜は味気ない仕事の内容に加えて会話に交じれないことに拗ねる。

 紗夜と言えば、一先ず過大なアプローチはないと安心した。

 だが、油断大敵。如何なるときに純心からの求愛が来るか解らないのでせめて覚悟だけは怠らなかった。

 しかし、紗夜の不安は他所に、純心は前々からと変わらない態度で彼女と接していた。

 二、三日過ぎると紗夜も緊張の糸は解け、疑念は完全に拭えないものの純心との会話は普通にでき普段の日常生活に支障はきたさなかった。

 日菜といえばそんな二人を不思議そうに見つめる日々。純心が以前と同じ対応を紗夜にしているため、周囲の人間も特別騒ぐことはなかった。

 そして、純心の告白からしばらく経ち、その日は訪れた。

 

 

 

 風が強い日である。

 まるで嵐でも近づいているのではないかと疑うような猛風。木々は最後の枯れた木の葉を散せ、地面からは土埃が舞っていた。

 寒気に晒されながら、総勢824人。軍隊で例えるならば大隊に相当する人数だ。氷川姉妹と小笠原純心が通う小学校に在学している半数の生徒が一人の男の前に整列していた。

 

「卿ら──」

 

 彼らの前に凛然と経つのは光の君、小笠原純心。

 風に黄金の髪を靡かせながら、彼らの代表として告げた。

 

「人は平等ではない。生まれ。育ち。持った資質。予め決まっており、それを乗り越えるこそが努力、研鑽だ。だが、同じ時、同じ血を流しても、持ったものには届かない。

 この戦い、我々は敗北者として定められている。卿らも解っているだろう。総力で我々は相手に劣っている。何故なら持った力量が違うからだ。

 中には彼らに勝るものもいるだろう。だが、全体に置いて局地での勝利は意味がない。

 戦とは大局を覆してこそ勝利なのだ。今現在、我々は敗北者と定められた法則(ゲットー)

 それが口惜しいと──思うか否か。覆したいと──思うか否か」

 

 傲然で轟く純心の声はその場の全てに届いていた。

 お前たちの努力は無駄だ。この戦いは始まる前から決まっている。

 それは圧倒的な切言は耳にする者の脳を侵食していった。

 魔性のカリスマを持つ男の声だ。半数は彼より歳上であっても自然と屈服する。

 彼こそが心理であると傅く。

 純心が命ずる。

 

「思うならば、抗え」

 

 不遇の戦いに身を投じたくなければ、己の魂を焦がせ。

 

「根性論。気合。心行きだけで総ては変わらん。だが、始まりは常に其処からだ。

 誰かに勝りたい渇望。誰かよりも先に行きたい渇望。勝利に飢えた渇望。運命などという枠組みから脱却したければ、在りえぬことを在りえると思え。

 卿ら───何を欲する?」

 

 答えは尋ねられるまでもない。

 それを求めるためにこの場にいるのだから!

 

勝利を(ジークハイル)! 勝利を(ジークハイル)! 勝利を我らに与えてくれ(ジークハイル・ヴィクトーリア)!』

 

「承諾した」

 

 万雷如き怒号を受けて、不気味なほど整った美顔が妖艶に微笑む。

 

「卿らに勝利の道を指し導こう。ない道なら壊して作るまで。共に行かん、栄冠の頂へと」

 

了解であります(ヤヴォール)! 我らが君よ万歳(ハイル・マイン・ヘル)!』

 

 そうして、運動会が始まったのである。



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Episode ─Ⅴ【例外】

 この小学校での組み分けは成績順に行われている。

 ゆえにテストでの総合成績で下のクラスが上のクラスに上回ることは滅多にないが、それはあくまで学力だけでの話だ。

 他の分野、即ち体力や芸術面ではその限りでない。

 文武両道の1組を除けば下位の組ほど学力以外で秀でている者が多いのだ。

 運動会などの学校全体行事での組み分けでは下位で運動能力が高い組を僅かに多く集め、学力の高い組と競わせる。

 文武両道の1組はその力量の差を可能な限り拮抗させる為に分散させるが、ほぼ毎年、学力が下位組、すなわち運動能力が高い組が多くいる側が優勝する。

 これは普段からテストで優劣をつけられている者たちへの学校からの配慮だった。一年に数度は美味しい蜜を味あわせる。

 そんな魂胆は生徒たちの間でも重々承知であり、どのみち多少努力しようと優等生に学力では凡人では敵わないのでこの暗黙の了解に感謝する念は少なくない。

 

 此度の運動会では小笠原純心を筆頭にする黒組(・・)が劣勢側だった。

 

 この学校では定番の赤と白ではく、黒と白で組み分けをしている。

 今回の運動会は近年の中でも最たる戦力差だった。

 上級生でも相手にならない小笠原純心と氷川日菜と初めとし実力者も黒組側にいるが、数人が快勝しても他が負ければ全体的勝利は望めない。

 ゆえに始まる前からこの運動会の結果は決まっていた。

 少なくとも黒組の相対する白組陣営は確信していた。

 我々が勝つのだと。

 あの天才たちに勝てるのだと。

 小笠原純心や氷川日菜に全体的勝利とはいえ敗北を味合わさせることができると、白組の一部にはそのような者もいた。

 

 だが、実際は────。

 

「な、なんでだよ! なんで突き放せない!?」

 

「おらおら、どうした! 抜いちまうぞコラ! 尻向けて誘ってんのかホモ野郎!」

 

 ※前述はリレーでの会話である。

 

「なによ、こいつ!? あの人以外にもこんな奴がいたなんて聞いてないわよ!?」

 

「黒組、5年3組、中院冷泉。おまえも名乗れ。それが作法だ」

 

 ※前述は学年別借り物競争での会話である。

 

「糞がぁ! 偶然あの方と同じ側にいた劣等共が揃いも揃って調子に乗りおって!」

 

「悲嘆しろ、優等生。貴様らに英雄はいない」

 

 ※前述は玉投げでの会話である。

 

「有り得ん! 小笠原や氷川ならまだしも相手は只の4年生だぞ!? 6年の俺が負けるなど!」

 

「言っとくが怖い後輩に何か言われたからじゃないぜ。慢心だ先輩。アンタは自分に負けたんだ」

 

 ※前述は学年混同障害物リレー(SAS○KE風味)での会話である。

 

 現状、黒組の勢いは白組を迫っていた。

 開始直前に黒組代表で選ばれた純心の鼓舞も原因の一つだが、純心は組み分けが決まった直後に同じ陣営の生徒たちへ接触していたのだ。

 純心に心酔する間者からの情報を横流しにして有力者同士の削り合いを避け、勝てる競技は確実に勝てるように企み、更には自分が考案した育成プログラムも譲渡した。

 実力不足の者たちには純心が相談援助で意識改革を行い、幾つかのジャイアントキリングに成功している。

 本来の戦力差があるので蹂躙とは言い難いが、純心率いる黒組は白組を追い詰めていた。

 黒組の黒とは黒星の黒に在らず。総てを飲み込む漆黒の闇なり。

 勝利する側だと甘受した白を絶望の黒に一切合財染め上げる。

 純心の先導により、黒組の殆どは敵から勝利を捥ぎ取る戦奴となった。

 

 総ては純心という男の策略。徹底した所業はまるで悪魔のようだ。

 

 何ゆえ、彼はそこまでしたのか。

 元々、勝ち負けに拘る資質なのか。それも皆無ではないが何よりもの理由は請われたからだ。

 純心はカリスマを見込まれて低学年ながら組の代表に任命された。

 彼は与えられた職務を全うしただけに過ぎない。

 戦えと願われた。勝利を求められた。ならば応じよう、愛している者たちよ。

 敵対者も愛そう。我が愛に極地はなく、敵味方区別なく触れるのみ。

 味方であれば勝利こそ与えるものであり、敵こそは敗北こそが与えるもの。

 その逆など不義理侮辱最低の貶めであろう。愛している者たちにそのようなことはできない。

 尤も、相手側が呆気なく倒れたら興醒めする為、多少手心は加えている。彼が本気で相手を潰す気でいるならば運動会そのものが成立しないからだ。

 それでは単なる一方的な蹂躙は闘争ではなく、殲滅だ。切磋琢磨削り合う場には相応しくない。 

 

 ──さぁ、競うが良い愛する者たちよ。

 ──どちらが真の勝利者であるか証明してみせろ。

 

 始まる前から純心は競技者としてではなく、盤上の支配者としてこの運動会を愉しんでいた。

 

「ほっ、ほっ、ほっ。今年の運動会は皆元気があっていいですね」

 

「元気があるというか殺伐としてますね。怪我がないのが幸いです」

 

 簡易テントの下で肥満体質満50歳男性の校長が蓄えた髭を揺らしながら微笑み、その横に座る櫻井(さくらい)教諭は困り顔を浮かべていた。

 櫻井(かい)。年齢は丁度30。3年1組の担任教師。物腰の軟らかい風貌。実齢よりも10歳若くは見られ端整で甘い顔立ち。保護者奥様方の中で一番の人気を誇っている教師だ。

 また能力も高く、人柄も人当たりが良いので問題なし。

 尤も、そうでなければ問題児の小笠原純心と氷川日菜の担任は任せられないだろう。

 ──否。押し付けられたというのが正確だ。

 氷川日菜の担任を務めるのは今年からだが小笠原純心は去年から担任を請け負っている。

 小笠原純心を担任した人間は畏怖するか従僕するかのどちらかだった。

 ある男教師は自分には手が終えないと学校を辞め、ある女教師は一年生の彼に雌の顔を曝け出した。自分の四分の一にも満たない歳の純心に服従した教師も少なくない。

 多くの教師が扱いに困った中、唯一櫻井教諭だけが彼に対応できた。

 櫻井戒を安易に例えるならばかなり優秀な人物だ。若い頃には介護の道を進んでいたが、ある時期に教育者として転向している。

 剣道五段の腕前を持っており、学生時代は中高共に個人戦優勝。剣道界を背負うに足る人物として期待されていたが、彼が剣の道に進まないと知れ渡ると無念の声が多かったそうだ。

 来歴からして傑物だと理解できるが普段の振る舞いは常識人。いるだけで波乱を呼び起こす天災たちとは違う。

 そんな常識人であり優秀な人物ならば、小笠原純心と氷川日菜を抑えられるだろうと期待されたのだ。

 だが、彼が二人に対応できたのは今まで培ってきた経歴はあまり関係しない。

 

 櫻井教諭は小笠原純心と氷川日菜に畏縮しない。

 

 同じ天才同士だから共通認識を得ているのではないかと囁かれているが、事の重要点は能力云々よりも内面である。

 小笠原純心と氷川日菜の問題点は実力よりも逸脱した精神。まともに関われることが稀だ。

 櫻井教諭は彼らの行動に圧倒されたり悩ませることはあっても、己を見失うことはなく一人の教師として二人に接している。

 ある時、同僚が尋ねた。あの二人と接して大丈夫なのかと。

 問われた戒は困った顔でこう答えたそうだ。

 

 ──僕自身でも解らないんですけど、あの子達のような子と向き合うのは慣れているんです。

 ──二人みたいな子に出会ったのはこの学校に来てからなんですけど、不思議ですね。

 

 そんな櫻井教諭であるが純心や日菜に対応できるだけで制御をしているわけではない。

 実際、氷川日菜の部活荒らしの時は前もって止めてられなかったし、今回は純心が考案した運動会での作戦も程々にとしか言えなかった。

 子供成りに頑張って考えた計画だと言えば聞こえは良いが、櫻井教諭が純心に見せられた運動会での作戦案は戦争でも始める気なのかと本気で疑った。

 だが、度は過ぎでも妨害行為や危険なものはなかったので止めはしなかった。相手陣営の間者に関しも、精度の差はあれ情報戦はどの学校でもやっている。

 万が一、純心の行動が脅威と成り得るならば。櫻井教諭は教師として体を張ってでも止めるつもりだった。誰もが敬遠した運動会管理職員に立候補したのはこれが原因だ。

 しかし、実際始まってみれば彼の考えは杞憂であり、まるで戦場のような苛烈極まりない運動会が繰り広げられているが誰も怪我はないので彼は少し安心していた。

 櫻井教諭は本物の戦場を見たことがないので、そう例えるのも可笑しいと自覚はしている。

 むしろ彼が危険視しているのは純心よりも外的要因だった。

 

「校長。風が更に強くなってきましたよ」

 

 普段の温和な態度が嘘のように、毅然で冷静になる櫻井教諭。

 話し相手がいないので取り留めのない言葉を出し続けていた校長は、雰囲気が変わった櫻井教諭の言葉で無駄話を止めた。

 

「うむ。確かに今朝よりも風が強くなってきましたな」

 

 朝から強風が吹いていたが、激動の運動会に感化されたのか強風も猛風の域に変化している。

 遠くに聳え立つ木々は傾きを見せており、簡易テントは常に鳥群の羽音を鳴らしながら波打っていた。

 

「再度天気予報を確認しましたが台風の接近はありません。しかし、このまま強風が続けば生徒たちが怪我する恐れがあります」

 

「盛り上がっているところで水を差すようなことはしたくありませんが、仕方ありません。アナウンスで一旦休止を呼びかけてください。生徒たちの安全が最優先です」

 

「わかりました。すぐに」

 

 

 

 櫻井教諭が校長に休止を促した数分前。

 競技を終えた紗夜は手作りの入場ゲートを潜り、自分の組が待機する場所へとすぐ向かわずその場に留まる。

 紗夜が先程行ったのは女子学年別600メートル走。

 結果は一位着だったが、あと僅かで二位に抜かされかけない辛勝であった。

 妹の日菜は少し前の学年別女子借り物競争に参加しており、結果は一位着。更に紗夜とは違って他の競争相手を何十メートル離してからの堂々の一位だった。競技が終った直前も汗一つかかず、待機場で座っていた紗夜に笑顔で手を振っていた。

 そんな妹に比べて競技が終わった後でも紗夜は息を乱したまま。妹が鮮やかに勝ったのにも関わらず、姉はこの体たらく。

 比べられるのは今に始まったことではないが、せめて戻ってから見苦しい姿は見せないようにと入場ゲートの近くで息を整えていたのだ。

 

「おねーちゃん、お疲れさま!」

 

 そうやって紗夜が休んでいると日菜がやってきた。

 迎えに来てくれたのだろうが、紗夜は無様な姿を見られたと思い疲労を増加させる。

 

「一位おめでとう! かっこよかったよ!」

 

 キラキラした顔で言われて、嫌味つもりかと吐き棄てかけた。

 その笑顔は必死になって勝ちを拾った自分を嘲笑っているのかと罵りたくなる。

 被害妄想であるのは自覚している。妹は純粋に自分を賞賛しているのだ。

 だが、今日は周りから普段よりも日菜と比べられており、紗夜はいつも以上に自虐的な考えに没頭していた。

 何故、自分は妹と違うのか。あの無垢な笑顔を見ると余計に胸がざわつく。

 腹立たしい。悔しい。肉体的疲労もあって負の感情の蓄積は加速される。

  ──いっそうのこと■なんて。

 

 濁った瞳で紗夜は目の前の妹を見つめて、叫ぶ。

 

「!?  ──日菜、危ないッ!」

 

 

 その日、最大風速の風が校庭を襲った。

 一瞬、嵐が着たのではないかと錯覚する程の突風。

 周囲の人間がざわめくより早く、櫻井教諭は気づく。

 刹那、入場ゲートが傾いた。

 アーチ型の入場ゲートは風に煽られて重心移動を開始する。その先には見覚えのある生徒が二人。氷川姉妹を櫻井教諭は目撃した。

 ゲートの外装は手作りのダンボールだが、安定のため内部はステンレス製のパイプを連結させている。下敷きになれば最悪どうなるか語るまでもない。

 櫻井教諭は地面を蹴った。

 だが、幾ら倒れる前よりも早く気づいたところで櫻井戒は超人ではない。

 万人より優れているとは言っても彼は所詮只の人間。現在の位置から数百メートル離れた場所に移動するのにどれ程早くても数秒は掛かる。

 遅い。間に合わない。

 紗夜が倒れる入場ゲートに気づき、日菜をかばうように押し倒す。

 櫻井戒と氷川姉妹との距離、残り100メートル。

 僅かの時間でここまで近づけたのは驚愕的数値だが、それでも届かない!

 

 風で煽られて倒れた入場ゲートは、轟音と共に半回転(・・・・・・・・)し、誰もいない場所に倒れた。

 

 世界が静止したように静寂になる。

 あれほど吹いていた猛風は一瞬の内で()んだ。

 誰も入場ゲートが倒れたことも騒がない。横からトラックでもぶつかったかのように拉げていたゲートには誰も目もくれず、ただ一点を見つめていた。

 異様に静寂な空気に違和感を感じた紗夜が身を起こし、押し倒した日菜を見下ろす。

 

「日菜、怪我はない? いきなり押し倒してごめんなさい」

 

「だ、大丈夫。おねーちゃんは?」

 

「私は──、痛ッ!?」

 

「おねーちゃん!?」

 

 立ち上がろうとした紗夜だったが、右足に激痛が走り失敗する。

 日菜は座り込んだ姉と共に屈み、今にも泣きそうな目で彼女を見つめた。

 

「どうやら庇った時に足を捻ったようだな」

 

 そこで姉妹は自分たちの近くにすぐ誰かが立っていることに気づく。

 黄金の髪。輝きが燈ったような黄金の瞳。

 見間違うことない黄金の美少年小笠原純心が二人を見下ろしている。

 普段の悠然な態度と違い、陰々滅々とした冷徹な顔に紗夜は怯えた。

 

「お、小笠原さん?」

 

「足以外に何処か痛むことはないか? 気分は?」

 

 恐怖している紗夜の傍に跪き、純心は彼女の様子を確認する。

 心配してるのかと考えた紗夜は彼に抱いた恐怖心を薄れさせ、状態を説明する。

 

「日菜は大丈夫のようです。私は足が痛む程度で他には別に」

 

「そうか」

 

 特に問題がないように紗夜は告げたつもりだが、純心の様子は変わらなかった。

 冷徹な様は変わらず、純心は自分の目でも紗夜の様態を眺めた。

 

「みんな怪我はないかい!?」

 

 そこで彼らの担任である櫻井教諭が駆けつけて来た。

 純心は紗夜の傍に近づいたまま彼を一瞥した。

 

「氷川日菜には目立った怪我はありません。氷川紗夜が妹を庇ったとき足を捻ったようです」

 

 相手が目上で担任であるため、丁寧な言葉遣いで純心は櫻井教諭に説明する。

 話を聞いた櫻井教諭は訝しむ目で彼をまっすぐ見た。

 

「君はどうなんだい? 彼女たちを庇うため入場ゲートを払い退けただろう」

 

『!?』

 

 櫻井教諭が話した事実に氷川姉妹は驚愕する。

 入場ゲートは実に三メートルは超えていた。

 それを只一人の人間がどうかできたなど、にわかには信じがたいが、当の純心は涼しい顔だった。

 

「ええ。大部分がダンボール製で助かりました。お陰で薙いだだけでも位置をずらせましたよ」

 

「だが中身はパイプ製だ。あれほど強く殴ったのなら腕を痛めてるんじゃないか?」

 

「少し痺れが残っているようですが、ご覧の通り目立った怪我はありません」

 

 外傷がない二の腕を純心は見せながら、精悍の顔立ちを続ける。

 

「それよりも復旧作業を。此度の管理職員は貴方だ。他に被害がないか確認し早急に先導して再開しなければ、折角の催しに雑味が増える」

 

 そこまで言われて櫻井教諭は苦笑を浮かべて、緊張の糸を解いた。

 

「君の言うとおりだね。早速自分の仕事をするよ。でも、君は紗夜くんと一緒に行くんだよ。目立った怪我はないかもしれないけど保健室で先生に診てもらうように」

 

「承知した」

 

「私もついてくよ!」

 

 頷く純心の横で日菜が叫ぶ。

 最愛の姉が自分を庇って怪我をしたのだ。大事には到らなかったとはいえ、傍にいなければ気が気ではないだろう。

 しかし、そんな彼女に純心は首を横に振るう。

 

「いや、卿は駄目だ。最悪の場合、私の紗夜はこの後の競技を棄権する可能性がある。それで卿まで不参加となれば我々の陣営が負ける可能性は大きくなる。それでは姉も気が病むだろう」

 

「うぅ、でも…………」

 

「日菜。私のことは良いから後はお願い」

 

「おねーちゃん……。わかった! 私が黒組を優勝させるよ!」

 

 最後まで心配していた日菜であったが紗夜に託されたことにより、やる気を増大させた。

 この様子ならば自分が参加する競技以外でも関与して、是が非でも黒組を優勝させるだろうな。

 一瞬だけそう考えた純心は意識を紗夜に戻す。

 

「では、我々は保健室に向かうとしよう」

 

「そぅ、え?きゃあっ!?」

 

 徐に純心へ接近された紗夜は可愛い悲鳴を上げた。

 動けない彼女は純心に横へ抱き上げられたのである。

 簡単に説明するならばお姫様抱っこ状態だ。

 近くにいた日菜は感心し、周囲で様子を見ていた生徒たちは唖然するよりも様になる行動に納得し、半数以上の女子は羨望を向けていた。

 櫻井教諭とはいうと苦笑しながら、純心に問いかける。

 

「君。一応怪我してるかもしれないんだから無理はしないように。彼女を運ぶなら僕が手伝うよ」

 

「無理などしてませんよ」

 

 それまで冷徹な顔を崩し、純心はにやりと笑った。

 

「それに彼女は惚れた女だ。別の男に任せることはできない」

 

『────』

 

『──────!?』

 

 刹那、その場は狂乱に包まれた。

 ある者は絶句し、ある者は疑い、ある者は絶望し、ある者は興奮し、様々な感情がそこかしこで膨れ上がる。

 全校生徒教師陣の前で宣言した純心は彼の発言で真っ赤にし硬直する紗夜を抱き上げたまま 、威風堂々と立ち去る。

 彼らがいなくなっても混沌はしばらく続いてたそうな。

 

 

「なんであのようなことを言ったのですか!?」

 

 保健室にいた保険医に足を診て貰った後、紗夜はしばらくベットの上で安静することになった。

 ちなみに彼女の傍には結局怪我をしてなかった純心が座っており、保険医は何か気を利かしてこの場にはいない。

 

「あのようなこととは、私が卿に惚れているとうことかね?」

 

「ほっ!? そ、そうです! 恥かしくないのですか!?」

 

「事実を言ったことに何を恥ずかしがることがある」

 

「私は恥ずかしかったんです!」

 

「そうか。それはすまなかった。今度何か埋め合わせをしよう」

 

「そんな涼しい顔で言われても、誠意を感じません!」

 

 紗夜は丸めた膝の上にまだ赤い顔を乗せた。

 シーツをずらした包帯が巻かれている右足を見て、純心は問いかけた。

 

「痛むか?」

 

「……湿布を張ってるから今はマシです」

 

「それは良かった」

 

「……貴方こそ怪我もしてないなら校庭に戻ったらどうです?」

 

「つれないな。そんなに私と一緒にいるのが嫌かね?」

 

「……嫌というか、どう接していいか解らないです」

 

 純心と紗夜がこのように面と向き合って話すのは告白の一件以来である。

 挨拶や学級委員の仕事で最低限の会話や相談をすることはあったが、それ以外は紗夜は意識的に避けていたのだ。

 

「正直、まだ信じられません。貴方が私を好きだなんて」

 

 運動会で忙しいからという理由で避けていた事を紗夜は吐露する。

 

「貴方は総てを平等に愛しているんでしょう? それなのに私だけ特別なのが解らないです」

 

 何度も重ねてきた疑念。何故、自分なのか。総てを愛する気持ちはどうなったのか。

 総てを愛する気持ちが本物ならば、あの告白は戯れだったのか。

 何日も経って自分では見定めることができなかったものを紗夜は本人を目の前に打ち明ける。

 

「それとも貴方の恋とは愛と同じなのでしょうか?」

 

「私は総てを愛している。それは今も変わらない」

 

 当然のように純心は臆することなく答える。

 総てを愛するという気持ちに揺らぎはしない。

 一人の女に惚れて変化するほど軟弱な意思ではない。ゆえに彼の愛は本物だと称えられている。

 純心は自分が思う愛について語る。

 

「愛とは限りがないものだ。私のように万象総てではなくても、母親は二人の子を成して両方愛する。それは自然のことであろう?」

 

「……そうかもしれません」

 

 紗夜は言われて自分の母親を考える。

 父と共に双子の日菜と比べられたり、姉なのだからと叱ることはあっても自分が泣けば慰め、傷つけば泣いてくれる人だ。

 思うことはあっても、愛されてないとは感じない。

 

「だが、恋することは愛することと違いたった一人にしかできぬ。私にとってそれが卿だった」

 

 頬を赤らめる紗夜を純心は黄金の瞳で見つめる。

 何度も見たこともある照れた顔。既知を疎む彼にとって、何度も繰り返して見たいと思える光景。

 そう思う度に彼は自覚しているのだ。

 自分は彼女に恋をしているのだと。

 

「……貴方の恋愛観は解りました。でも、私を選んだ理由がまだ解りません」

 

 彼の思いに鼓動を高鳴らせながらも、紗夜は複雑な顔を彼に見せた。

 

「だって、私はつまらない人間です。言われたことしかできない、それだけの人間です」

 

 紗夜は優秀な部類ではあるが、彼女自身は言われたことしかできない人物だと卑下している。

 純心のように期待以上の成果は出せないし、妹のように想像外の発想は思いつかない。

 身近な人間が自分よりも優秀だから、彼女は常に劣等感が圧し掛かっている。

 

「貴方や……日菜とは違う。総てを愛している貴方がそんなつまらない人間を選ぶ理由が私には解りません」

 

「……解ってはいたが卿は自分を過小評価しているな」

 

 否定せず同調して貶めることもしない。ただ、純心は紗夜の言葉を聞いた。

 その上で、自分の中で見出した只一人の例外者に告げる。

 

「私は紗夜がいい。お前《・・》でなければ駄目だ」

 

 熱が篭った言葉を送られるが、紗夜の憂鬱は消えない。

 顔色が優れない彼女に純心は少し考えた後、妙案を思いついたように声色を変えた。

 

「ならば、一つ提案をしよう」

 

「?」

 

「今度の日曜日、共に出かけるぞ。所謂、デートの誘いだ」




 紗夜さんの水着ゲットしたぜ! 友希那さんは持ってないハッピーが来た。
 嬉しいけど違うのだ。


【本編よりずっと後の今井リサ誕生日おまけ】

 Roseliaにサプライズバースデイパーティーが終わり帰宅したリサ。
 家で彼女を待ち構えていたのは大きな花束と新品の調理セットだった。

「え!? もしかしてお母さんが用意してくれたの!?」

「違うわよ。今日、貴方宛に届いたのよ。女の子たちばっかり仲良くしてるけどリサもやるわね」

「???」

 リサは差出人を確認した。
 
 ──我が女神に慈愛を与える光へ。生誕を祝う。 小笠原純心。

「紗夜。いったい私のことなんて話してるんだろう」


 後日、リサから話を聞いた紗夜は純心をポカポカした。


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Episode ─Ⅵ【逢引】

 平成最後の八月が終わり、平成最後の九月が始まる。


 

 彼は己が何者であるか解らなかった。

 物心つく頃には既に成熟した精神。

 同じ年頃の子供と果てしない隔たりがあることを理解し、それを苦痛とも感じることもなく、周りを蔑視することもなかった。

 

 ──総てを愛している。

 

 この身は只の人間。指先で撫でたくらいでは壊すことなどできない。壊さず、愛せる。

 何故、何ゆえこのような渇望抱いているのか彼は未だに疑問に思う。

 前世というものがあるとするならば、その渇望は以前の自分が餓えていたものだと理解できるが生憎とそれらしい記憶はない。

 しかし、感覚はあった。

 ああ、これは以前にも見たことがあると。経験したことがあると。

 既知感。彼は大抵のことは以前にも経験があると認識し、目新しさを感じない。

 多くは勉学であり、武芸であり、人心掌握であり、天才逸材と祭り上げるものの殆どが彼自身にとって既に持ち合わせていた機能であった。

 できて当然。既に知っているものだ。ゆえに達成感もない。

 常人より高い評価を出したところで、彼自身は大した男でもないと誇りも驕りもしなかった。

 生まれる以前から持ち合わせている知識、経験。更には並外れた肉体。

 それでも所詮は只人だと彼は思う。石ころ一つなら潰せても星は砕けぬ。どれ程持て囃されて、心酔されて、畏縮されようとも、彼は己を只の人だと位置づけた。

 常人ではないことは理解している。奇妙な既知感に苛まれることもある。己が何者であるか、何一つ理解できない。

 それでも、己は只の人間なのだ。

 己が何であるか、理解してなくても何も問題ではない。達成感に憂いておればいい。満足できないからこそ、生涯をひたすら疾走するのだ。

 無理に自制しているのでなく、穏やかに克己復礼する。

 

 だからこそ──最初は共感だったのだ。

 永遠になれない。かつて、同じような言葉を誰かから聞いた。

 それが誰だったか彼には見当もつかないが、真理であると受け入れた。

 

 次に感じたのは──未知である。

 我が愛は異常であることを理解しており、それを尊ぶ者もいれば忌避する者もいた。

 清濁合わせて受け容れられたのは彼女が最初である。

 別に特別な価値観ではない。

 例えば人間とは罪を犯し自然を破壊する星の病魔だが、世界を開拓し他の生物を救済する善の側面も持つ。人間とはどんなものかと聞かれれば、如何様にも例えられる混沌とした存在だろう。

 しかし、齢八年ではあるが、彼女の言葉は彼にとって何億年砂漠を彷徨って偶然拾い上げた宝石のようだった。

 果てない旅路で輝きを目にした。

 言葉を重ねた御託を省くならば単純なこと。

 彼はそのとき見せた彼女の微笑みに見惚れたのだ。

 幼少ながら数々の女を求められれば応じ、欲しければ摘んでいた。拘りなどなく、今更少女の微笑に絆されるような初心など持ち合わせていないと思っていたが、それは彼の勘違いだったようだ。

 

 それからは──気づくと目で追っていた。

 視野を広げると、彼女のことをより多く知った。

 真面目で勤勉。妹のことを戒めながらも、妹を愛さずにはいられない。

 氷のように冷めた目で俯瞰していると思いきや、水のように感受し色を変え揺れ動く。

 ほんの一瞬魅せる、穏やかな顔。

 有り触れた人間でありながら、唯一無二のものだと思い馳せた。

 苦しみ足掻き、涙を抑えながら踠く姿に形容し難い思いを募らせる。

 自分だけの物にしたいと、そう考えだしたのに時間は掛からなかった。

 独占したい。蹂躙したい。砕けるほど抱きしめたい。だが、何よりも大事にしたい。

 壊れないでほしい。他の者たちとは違った芽生えた感情。何も求めないと誓ったはずの独占欲。

 認めてしまえば簡単なこと。

 

 彼は彼女に恋をしたのだ。

 

 

 肌寒い日々が続く近頃に比べると、とても過ごしやすい温かさだった。

 雲一つない空から陽気が照らし、程よく快適な居場所を作ってる。

 出掛けるのであれば最良の状態(コンディション)。日曜日に外出を計画していた者たちにとってありがたい日和であった。

 休日だけあって街路は人は多く、やはり駅周辺の往来は雑多に溢れていた。

 待ち合わせでこの付近を指定する者は多いが、合流する相手をすぐに見つけられる者は多くはないだろう。その中で氷川紗夜の場合は指定された場所に近づいただけですぐに相手を見つけられていた。

 

「ねぇねぇ、君どこの子? 外人さん? 良かったら一緒に遊ばない?」

 

「折角の誘いであるが人を待ち合わせている最中だ。その機会は次に出会ったときにとっておこう」

 

 大学生くらいの女性にナンパされていた。

 

「貴方、日本語解る? 実は私こういう者なんだけど」

 

「生憎と芸能界には興味がない。今は人と会う約束をしているので勧誘は改めてもらおう」

 

 次は頬を赤らめるスーツ姿の女性から勧誘された。

 

「あぁ、なんと。貴方こそ光だ! 世界に変革を齎す覇者だ! どうか我らに救いを!」

 

「私はそれほど大した男ではない。救いを求めたければ教会にでも赴くが良い。聖職者は何人も拒まんからな」

 

 更には四十代ほどの男性に崇められた。

 数十メートル歩み寄る間に三者三様の光景を目の当たりにした紗夜だったが、今更なので特に気にしない。あのようなことは純心にとって日常茶飯事だ。誰かが彼に近づいては歩みを止めて、次は自分の番かと声をかけた。

 

「おはようございます、小笠原さん」

 

「おはよう、氷川。ご足労感謝する」

 

 太陽よりも眩しい黄金の髪を照らしながら、小笠原純心は微笑んだ。

 本日は純心の提案で紗夜は彼と逢引(デート)することになっている。

 紗夜が誘いに乗った訳は半分は運動会で自分と妹を助けてくれた引け目からであり、もう半分は彼の勢いに飲まれたからだ。

 このことは誰にも言っていない。家に出るときも反対側のベッドで寝ている日菜に気づかれないようにこっそりと出掛け、母親には友人に会うと伝えている。

 別に嘘ではない。純心はクラスメイト。すなわち学友。ならば友人と言ってもいいはず。

 こじ付けなのは重々承知しているが、だからといってクラスの男子とデートしに行くなど口が裂けても言えない。言ってしまえばどんな反応するか解ったものではないからだ。

 母親は娘たちが男子と接触することを別に拒んではいないが、無関心を決め込むとは想像できない。下手に騒がれて妹に気づかれるのを避けたかった。

 ちなみに紗夜は異性と二人きりで出掛けるのはこれが初めてである。父親ですら傍らには妹がいた。

 話がまた変わるが、紗夜は初めて何かする場合には雨が降ることが多い。此度は幸いなことなのか晴天に見舞われ、ほんの少しだけ晴れたことに感謝する。尤も、楽しみにしていたと聞かれれば首を傾げてしまうが。

 相手は自分に惚れている男。しかも、女性経験は小学三年にしては豊富すぎる。

 噂だけでも彼は夕焼けが見えるレストランや貸切の空中庭園に女性と出掛けたそうだ。贈り物は何処から金銭を工面したのか高価な貴金属。贈り、贈られ、時には朝帰りしたこともあるらしい。

 全てが真実ではないかもしれないが、そんな相手と出掛けると思うと穢れを知らない純粋無垢な少女が気負うのも自然だ。

 身なりを最低限整えた紗夜だったが、別に普段学校に行くような格好とそう変わらない。

 行き先を知らない彼女はこの服装で大丈夫なのかと不安だった。

 純心は到着してからのお楽しみだと言って、彼女に教えていないのである。

 もしかしたら目的地の前に衣服店に寄り着せ替えを求められるかもしれない。大人でもそのようなデートは一握りの人間がすることだが、小学3年生とはいえ普通じゃない純心ならやりかねない。

 

「緊張しているのかね? 安心するがいい。別にとって食うつもりはない」

 

 紗夜の内面を黄金の瞳で見透かした純心は彼女と違っていつも通りだ。

 誘ったのは彼の方なのだが一切緊張の色を見せず、余裕の様で紗夜をエスコートする。

 

「では、約束の刻限には早いが折角なので移動をしよう。そこに車を待たせてある」

 

「く、車ですか?」

 

「ああ。目的地は徒歩には距離が遠く、また電車などは周りが億劫だ。移動するなら車がいい」

 

 言葉で説明されれば理に適っているが、小学生がデート使うのに車を使うのは漫画の世界でしか聞いたことがない。

 

「まさか、貴方が運転されるのですか?」

 

「可笑しなことを言う。普通自動車の免許は十八歳からだ。一日貸切のタクシーを手配している。それで移動するのだ」

 

「なるほど。解りました」

 

 それで納得した紗夜。家が裕福ならばお抱えの運転手と自家用リムジンで移動するかもしれないが、小笠原純心の家は名家であっても富豪でない。貸切タクシーが自然なのだと、気負う気持ちを少し減らした。

 彼女は騙されている。デートで貸切タクシーを準備するのも大概であるし、純心は自家用車で送り迎えをやろうと思えばできる。彼は運転ができないしお抱えの運転手はいないが、家には何人か小間使いがいるのでそれらに頼めばいいだけだ。これは紗夜ができるだけ畏まらないための演出なのである。

 そうとは知らない紗夜は少しだけ緊張を解し、純心に案内されるまま停車しているタクシーに向かった。

 純心が開いた扉から最初に紗夜が車内に入り、純心がその隣に座る。

 一瞬、肩が触れ合ったのに紗夜はドキッとするが、純心は平然とした顔で運転手に車を出すよう指示を出す。

 後部座席の二人が安全のためシートベルトをつけるた頃には車が動き出していた。

 束の間の静寂。

 ここまま目的地に着くまで静かなままなのかと紗夜が思った矢先、純心が口を開いた。

 

「ところで今日は随分と早く来てくれたのだな。思いの他、卿も今日は楽しみにしていたのかね?」

 

「そ、それはっ! ……お待たせするのは悪いと思ったので少し早く家を出ただけです」

 

「なるほど。律儀な卿らしい行動だ」

 

「貴方こそ随分と早いお着きなのでは? 私が着いたのは待ち合わせの三十分前ですけど、いつからあそこに?」

 

「何、精々卿が来る一時間前かそこらだ」

 

「一時間、って。退屈ではなかったのですか?」

 

 一時間も待たせたのかと思った紗夜は少し罪悪感と共に、それまで何をしていたのかと疑問に思った。

 もしかしたらさっき見かけたように多くの人間から声をかけ続けられたのではないかと心配したが、純心からは疲労の色は見えない。

 

「別に退屈ではないさ。惚れた女を待つことは初めての経験だったが、悪くはなかったな」

 

「ほ、惚れたって……また貴方はそうやって私をからかうんですね」

 

「何度も言うが惚れたのは事実だ。だからこそ、私は卿を今日誘ったのだ。卿がいずれ呆れかえって聞き流すようになっても、変わらず私は卿に恋心を示そう」

 

「本当に貴方って人は……豪胆というか自分に正直な人なんですね」

 

 そうやって一瞬、紗夜の顔が和らいだが。

 

「そういう卿は素直ではない」

 

 純心の言葉にむっと顔を顰めた。

 彼の言葉は真実であるので否定はしないが、自覚してる短所を他人に面と言われれば腹が立っても不思議ではない。

 

「どうせ私は素直ではありません」

 

「いや、卿を貶める気はなかった。気に障ったのなら謝ろう」

 

「でも、貴方が素直でないと言ったのは事実ですよ。私自身そう思いますが」

 

「ああ、その通りだ。だが、私はそれを美徳と思える。うむ、言い方の問題であったな。素直ではないということは恥じらいがある。即ち奥ゆかしいということだと私は思うがね」

 

「無理に良いように言ってませんか?」

 

「どうであれ、私はそんなところを卿の魅力だと思い、可愛いと思っているのだよ」

 

「…………」

 

 可愛いと言われた途端、顔を赤らめる紗夜。

 それを見た純心は苦笑を浮かべる。

 

「このような言葉で赤面とは少しは口説き慣れておきたまえ。いや、これは単なる私の我侭ではあるのだがな。他の男共にも嗾れてそんな顔されてると思うと嫉妬してしまう」

 

「……言っときますが、男性に煽てられる度に狼狽えている訳ではありませんよ」

 

 紗夜は告白こそ純心が初めてではあるが、綺麗や可愛いと家族以外から褒められたことがない訳ではない。双子の日菜と同様、容姿は綺麗に整っており同性からも評価されている。大半は戯れであるが日菜共々男子からも褒められることはあった。

 思春期の男子は気になる女子を照れ隠しで貶める輩もいるが、それが悪い効果しか生まないと解っている男子たちは早い段階で女子に優しくする。紗夜も純心が隣に現れる前は男子からの人気が高かった。今は純心の女だと囁かれているので、そういった声は少なくなっているが。

 

「それが真実ならば、卿の心を揺れ動かせる男は今のところ私だけということになるな」

 

「!」

 

 純心は自信に満ち溢れた笑みを浮かべた。

 実際、紗夜でなくても純心が甘い言葉を出せば、同じ台詞でも他の男子とは雲泥の差で成果を上げられる。

 その辺りの男子が『愛している』と女子に囁いても馬鹿にされるのが関の山だが、純心が『愛している』と囁けば真意を理解している者でも色んな意味で少女淑女たちは崩れ落ちてしまう。

 だが、今、純心に重要なのは恋しい女が自分の言葉をどのように感じ取っているかだ。

 

「ならば卿が他の男共に目移りする前に心を奪ってみせよう」

 

 不意に純心の体が紗夜に近づく。

 急に距離を詰め寄られてた紗夜は混乱した。先程までも少し動けば触れ合う距離間だったが、今は数ミリしか相手の体と間がない。

 何をされるのかと焦った瞬間、カチリとシートベルトのロックが外れる音がした。

 気づけば、二人を乗せたタクシーは停車していた。

 

「到着したようだ。降りよう」

 

 そう耳元で囁いた純心は紗夜から離れ、自分もシートベルトを外すと先に外へ出る。

 自分側の扉が純心の手によって開かれる合間に紗夜は大きく息を吐いた。

 私の心臓、今日一日大丈夫かしら?

 

 

 紗夜は覚悟を決めて、車から降りた。

 純心との会話で走行中の風景に気づいてないが、少なくとも空港や港の類には来ていない。ならばここからクルージングや貸切遊覧飛行の線は薄いだろう。

 では、デートの定番で遊園地か。時間には早いが高級レストランという線も考えられる。

 いずれにせよ、これ以上醜態を晒すのが嫌だった紗夜はどんな光景が来ても毅然であろうとう心に誓った。

 降りる前に瞼を閉じ、意識を強く持つ。

 純心の掌で良いように踊っている感覚は好かない。散々、からかわれ続けているが、紗夜とて好きでからかわれているのではないのだ。

 たとえ、お城のような場所を見せられて「この城は卿に贈る。早速だが舞踏会だ」と言われても動じない覚悟を持った。物件を贈られようものなら即座にお断りする。

 そうして意思を固めた紗夜は僅かの間に閉じた瞼を開き、広がる光景を視線で射抜く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『おいでよ! ∪・ω・∪弦巻わんわんパーク( U ・ᴥ・) ☆世界のわんちゃんたち大集合☆』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前にあったのは動物園のような施設。

 だが、アーチに刻まれた解りやすい名前や遠くに聞こえる人の賑わいと混じった鳴き声でここがどんな場所か想像つくだろう。

 

 

「色々と考えたがやはり卿を楽しませるためにこの場所を選んだが、正解だったようだな」

 

 キラキラとした星のように輝く紗夜の瞳を見て、純心は満足そうに笑ったのだ。

 

 

 

 弦巻わんわんパークは名前通り、犬専門のテーマパークである。

 遊園地のような遊具が皆無ではないが、一番の特徴が在園している犬の種類だろう。

 その種類約200。世界には非公認犬種を含めて約800の犬種がいるとされるが、ここには国際畜犬連盟により公認された約300犬種の内、約200犬種がいる。

 大型犬や室内犬など大まかな犬種ごとにエリア分けされており、広大な敷地内では自分の飼い犬も連れて園内の犬と遊べる場所が数多く存在する。

 これほど広大な敷地に多くの犬種を集めることができるのは、ここの経営を世界有数の大企業が行っているからだろう。園内にある施設はトップクラスから一般人の敷居まで幅広く、どの客層にも対応したテーマパークだ。

 

「──あの黒い毛玉の子はブービエ・デ・フランダース!? 入り口手前にはソフトコーデッド・ウィートン・テリア!! あちらは定番のゴールデン・レトリバーたち! いけない、どの子たちから行けば良いのか私には解らない!」

 

 

 入場口で貰ったマップと敷地内の光景に目を向けならが紗夜は興奮している。

 紗夜は前々からこの場所を知っていたが、遠方にあり、妹の日菜は犬がそこまで好きでないため、家族に連れて来て貰ったことがなかった。

 大きくなったら自分一人でも来ようと密かに秘めていた夢が叶ったので、喜びを隠せずにはいられない。

 だが、彼女は悩んでいた。楽しみ過ぎて冷静ではいられなかった。

 珍しい犬のところにも行きたいが、見たことある犬に興味がないわけでもない。ここは触れ合って遊ぶこともできるので、何処に行けば良いか選択を拱いていた。

 

「迷うのは構わないが足は動かしたほうがいい。時間は有限。立ち止まっていては何もできない」

 

 何時になく気持ちが高ぶっている紗夜を黙って眺めていても純心的には構わなかったが、立ち往生して時間を無為に潰し、後悔はさせたくなかったので行動を促す。

 

「!? そ、そうですね! しかし、どの子から」

 

「では、あそこにいる犬から一周していこう」

 

「わかりました! では、早速!」

 

 園内の犬は豊富のため、急いで眺め回らなければ全種を見ることは難しい。

 そして紗夜は犬たちと触れ合うつもりでいるため、彼女が犬種全てに出会うことは時間的に不可能だ。そこも純心の狙いであり、まだ遊び足りない紗夜をここに再度誘える口実作りになる。

 尤も、紗夜に不満足な思いをさせるつもりはない。

 純心は出来る限り誘導して、彼女を楽しませるつもりだ。姑息な思惑などついでに過ぎない。

 

 手始めに二人がやってきたのはアイリッシュウルフハウンドと呼ばれる犬種がいるエリアだ。

 

 灰色の毛並を持つ巨体の犬たちが人と戯れている。アイリッシュウルフハウンドは犬の中でも一番高い体高を誇り、個体によっては100cmを超え、後足で立ち上がれば小柄な女性などよりずっと大きいものもいる。体毛は粗く硬質でここにいる灰色の毛色の他にも赤色の毛色が存在する。

 けして飼育し易い犬でないのだが、多くの人に慣れている様子を見れば此処の飼育員が如何に優れているか理解できるだろう。

 紗夜が柵の中に入ると、彼女がどうやって近づこうか悩むより先に向こうの方から一匹走ってきた。その犬は紗夜に近づくと、構ってほしいと言わんばかり彼女に擦り寄る。

 先程説明したようにアイリッシュウルフハウンドは巨大な犬。立っている紗夜の胸下には頭部が届いている大きさだ。

 犬に慣れていてもこの大きさがいきなり近づけば泣き出す子供も多いだろう。

 しかし、紗夜の場合は嬉しそうにやって来たアイリッシュウルフハウンドの頭を撫でる。

 

「利口で人に懐いている。とても良い子ね」

 

 警戒心を全く感じさせない、綻んだ笑み。

 そんな紗夜の姿を純心は少し離れた場所で眺めていた。

 視線に気づいた彼女は振り向いて、純心に呼びかける。

 

「貴方は遊ばないのですか?」

 

「いや、私は遠慮しておこう」

 

 怪訝の念を抱いた。犬に臆してるわけでないないだろう。

 純心の愛は別に人間だけが対象ではない。それこそ虫ですら彼は愛をみせる。 

 以前、学校の教室に季節外れのクマバチが彷徨ってきてパニックになったことがあった。櫻井教諭が生徒たちを廊下に避難させている最中、純心はわざわざ指先で蜂を掴んで外に逃がしたのだ。

 遠足で行った動物園では偶然逃げ出した獅子ですらその場で手懐けた。

 そんな彼が大きいだけの犬に気おくれするとは思えない。

 紗夜が不思議に思っていると、彼女の疑問に答えるよう純心は口を開いた。

 

「私が近づけば卿らも楽しめないだろう」

 

「どういう意味ですか?」

 

「周りを見ているといい」

 

 言われた通り、紗夜は周りを見渡してみると先程まで他の人間と遊んでいたアイリッシュウルフハウンドは何処か静かであり、他の者もその様子に首を傾げていた。

 紗夜は手元を見下ろしてみると、自分の傍に入るアイリッシュウルフハウンドも先程まで見せた活発が嘘のように大人しくなっており、ある一点、純心を見ていた。

 まるで怯えているような視線に純心は苦笑する。

 

「かつては狼や鹿を狩り、戦争まで借り出されたことがあるアイリッシュウルフハウンド。そんな史実を持ちながら警戒心が薄く、余所者に対して敵対心をほぼ持たないと云われているが、そんな彼等でも私は苦手なようだ。昔からね。そういった無垢な生き物には懐かれないのだよ」

 

 動物園で逃げ出した獅子を手懐けたこともあったが、あれは純心という強者に獅子が本能で屈服しただけに過ぎにない。好かれたわけではないのだ。

 それは是非もないと、純心は思う。怯えるのもまた良し。無理に触れることはしない。壊してしまったら二度と愛せないのだから、眺めて愛でるもの一興なのだと納得させている。

 

「…………」

 

「だから、触れはせん。もう少し遠くで眺めてるので、卿は思う存分遊ぶがいい」

 

「いえ、そうはいきません」

 

 今度は純心は怪訝な顔をする番だった。

 紗夜は屈み、傍にいるアイリッシュウルフハウンドの目線に合わせて首を撫でた。

 

「大丈夫ですよ。変な人ですが、貴方を虐めたりしません。一緒に行きましょう」

 

 すると彼女と共にあれほど怯えていたアイリッシュウルフハウンドが純心に近づいてきた。

 まだ、恐怖の色は残っているが、その黒い瞳はじっと黄金の瞳を見つめている。

 

「ほら、小笠原さん。手を出してください」

 

 言われたとおり、純心は黙って手をさし出してみる。

 すると、恐る恐る近づいたアイリッシュウルフハウンドが彼の手を舐めた。

 くすぐったい感触と予想外の行動に目を見開いた純心を見て、紗夜が誇らしげに胸を張る。

 

「どうですか! 犬は賢いのです! 言えば理解してくれます! 貴方が遠慮して触れられないのなら、彼等に諭して触れてもらうまでです!」

 

 まるで我が子を自慢するように豪語する紗夜。

 すると純心は肩の力でも緩めたように、穏やかな顔を見せる。

 

「ああ、凄いな」

 

「ええ、凄いですよ。この子達は」

 

「うむ、凄い。────本当にな」

 

 

 

 その後、二人は沢山の犬と遊んだ。

 最初の一匹が警戒を解くと、他のアイリッシュウルフハウンドも純心を警戒しなくなった。

 他の犬が入る場所に移動すれば、今度は純心から犬の方へ歩み寄った。怯えて逃げる犬に対しては紗夜が間を取り持ち、逆に紗夜に懐かなかった犬は純心が平伏させて彼女に歩み寄らせた。

 貸し出しのフリスビーが純心の手によって柵を切り裂き、借りたボールが地面を抉って周りをドン引きさせたが、二人とも歳相応に楽しんだ。

 流石に動き疲れたのか、純心がちゃっかり予約していたレストランで昼食を取る頃には紗夜の体はクタクタだった。

 午後は小型犬を中心にゆっくり見て周り、気づけば夕暮れ時になる。

 閉園まで時間があり全てを見て回れたわけでないのだが、門限がある紗夜のため二人はその場を後にした。

 

「来たいのならば、また誘おう」

 

「いいのですか!?」

 

 車内で後ろ髪を引かれていた紗夜に純心は提案する。

 しかし、一瞬、嬉しそうな顔をした彼女だったがすぐに難しい顔になる。

 

「いえ、そう何度もご好意に甘えるわけにはいきません」

 

「遠慮することはない。卿と共にいられるならば、幾らでも尽力しよう」

 

「貴方はそれでいいのですか?」

 

「惚れた相手と共にいられるのだ。苦労など惜しまんさ」

 

「貴方はまたそうやって……」

 

 流石に日に何度も言われたら慣れてしまい、溜息一つだけに反応が止まる。

 

「けど、あそこに連れていって貰えるのは予想外でした。犬が好きなのは話しましたが、てっきり遊園地貸切や格式高いレストランにでも連れて行かれるのではとばかり」

 

「卿がその方がいいなら次はそのような場所に赴こう」

 

「いえ! 場違い過ぎて遠慮したいです!」

 

「ならば、次も今日行った場所にするかね?」

 

「それも、遠慮します。何度も行くようでは有り難味がなくなりそうですから」

 

「なるほど。では、次のデートの誘いは日を改めて行うとしよう」

 

「そうしてくだい」

 

 残念そうに肩を竦める純心が何処か可笑しくて、紗夜はくすりと笑った。

 車内に赤金色の光が差し込む。

 あの告白と同じ、黄昏時がもうすぐやって来る。

 会話が止まったが、純心は紗夜を見つめたまま視線を外さない。

 黄金の瞳に見つめられ、以前の彼女ならば目を逸らすか体を強張らせたが、肩の力の抜きながら紗夜も見つめ返す。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

「恋している相手に尽くすのは男冥利。報酬は既に貰っているが、卿にそう言って貰えると今回の逢引は成功したと言って良いだろう」

 

「本当に、小笠原さんは私が好きなんですね……」

 

 相手の変わらない好意に、少し呆れ、少し感心する紗夜。

 彼女も流石に言われ慣れたのか、些細なことでは照れなくなったようだ。

 そんな彼女に気負うことなく、純心は語る。

 

「無論だ。だから、卿も。一人の男が尽くすほどには魅力があるのだと、少し自惚れても咎められることはあるまい」

 

 それは自己評価が低い紗夜に対する、純心からのいたわりだった。

 一瞬、呆然とした紗夜は困ったような苦笑を浮かべる。

 

「難しいですね。私は自分が好きではありませんので」

 

「ならば、私が卿が自分を好きではない分まで卿を好きでいよう。いつか、卿が自分自身を好きでいられる、その時まで」

 

「その時が来れば、貴方は私を好きではなくなるのですか?」

 

 彼女にしては珍しく、悪戯気味に尋ねると、純心も苦笑を浮かべる。

 

「その時が来れば、それまで以上に卿を好いているさ」

 

「本当に、貴方は…………」

 

 胸の奥が擽られながら、じっくりと滲んでくる気分だった。

 何処となく、瞳の奥が熱くなりながら、紗夜は理解した。

 親に貰った愛でもなく、妹に懐かれるとも違い、況してや隣人からの友誼でもない。

 これが、人に好いて貰うことなのか。

 

「ああ、そう言えば、一つ訂正せねばならんな」

 

「?」

 

 紗夜が感傷に浸っていると、ふと純心は思い出したように口にした。

 

「今回の逢瀬は成功したと言ったが、一つだけ誤算があった」

 

「誤算ですか?」

 

 終始純心の思惑通りだったと紗夜は首を傾げるが、彼は自嘲するように口を濁す。

 

「ああ。今回少しでも卿に好いてもらうつもりだったが、私の方が卿に惚れ直したよ」

 

「………………………。ぷっ」

 

 彼の言葉にたっぷりと沈黙してから、紗夜ははしたないと自覚しながら噴出してしまう。

 くすくすと笑いながら、目尻から溢れた涙を拭った。

 

「まったく、本当に仕方のない人ですね。貴方は」

 

 

 

 少なくとも。

 前よりは好きになりましたよ?

 これが恋になるかは分かりませんけどね。




【本編で語る予定がないと思う設定】

 既に気づいており、感想欄のコメントにて察しているかもしれませんが小笠原純心は【Dies irae】のラスボス、ラインハルト・ハイドリヒ卿の転生体です。
 純心という名前も【Dies irae】の主人公とあるキャラと同じように、ラインハルトの名に因んで付けたものです。
 ハイドリヒ卿は全てを愛し、それを破壊でした表現できない困ったさんですが、それは真のラスボスであるニートに歪められたものであり、本当は触れたいだけです。破壊でしか表せないのは、彼の力が強すぎるから。
 この作品では弱体化されているので破壊という形ではなく、何かしらの接触する形で彼は愛を示します。
 【Dies irae】を知っている人ならご存知、その在り方は全てを慈しみ抱きめたい、黄昏の女神に似ています。
 だかこそ、全てを抱きしめたい女神ですがたった一人だけ特別な相手がいたので、彼にも特別な相手ができても不思議ではないと解釈しています。
 彼は獣殿ではありますが獣殿ではありません。
 だから獣殿ぽい転生したオリキャラなので、転生とオリ主のタグがついております。
 まぁ、ややこしいので獣殿と言いますが。
 他の設定に関しては、また気が向けば書くかもしれません。

 とりあえず、私は次を書かなければ。誤字指摘が多いけど。


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Episode ─Ⅶ【怒りの日】

様々な災害で被害にあった方々に祝福が訪れますように。


 【音楽雑誌ラメンドから──とある天才少年ピアニスト・インタビューより抜粋】

 

 ピアノをしていて良かったことですか?

 

 うん。僕にとってピアノとは人生そのものですからね。

 ピアノしていて良かったことと聴かれても、ピアノをできて良かったとしか答えられません。

 

 得をしたことを無理に言うなら、こういう雑誌のインタビューで仕事を貰えることでしょうか。

 僕は幾つがCDを出したり番組を出させて貰ってますので、同じ年頃の子達と比べると収入がありますが、安定しているわけではありません。

 将来のことを考えて、貯蓄はできるだけしたいですね。いきなり海外ツアーしたくなるかもしれませんし(笑)現実的にいえば、海外留学とかですか。

 

 ああ、そういえば。

 ありましたよ、ありました。ピアノをしていて良かったこと。

 

 僕が小学校頃にある凄い同級生がいたんですよ。

 

 言ってはなんですが、僕、結構良い学校通ってたんです。

 その中でも一番優秀な子達が集められるクラスにいたんですよ。

 向こうは覚えてないと思いますが、その中に今売り出し中のアイドルバンドの子もいましてね。

 ああ、ちなみに凄い同級生っていうのはその子じゃないです。その子も他と比べて飛び抜けていましたが。

 

 なんというか、その人は色々と規格外でして、同じ年頃の子とは一度も思えませんでした。

 クラスや学年どころか学校全体のリーダー、みたいな。先生でもあの人に意見を言えたのは担任の先生だけでしたよ。

 

 学校に通っていた殆どの子があの人に何かしらの感情を持っていたでしょうね。

 僕の場合は尊敬ですが、中には心酔したり自ら従僕したりする子もいました。

 あまりにも凄すぎて怖がっていた子もいましたよ。

 

 この話をすると大抵の人が話半分にしか信じてくれないし、実際、彼に会わなければその凄まじさを本当に理解できるはずもない。

 

 だから、あの時期は怖かった──。

 

 

 学校の定番行事といえばまず最初に文化祭。次に運動会だろう。

 尤も文化祭を行うのは大半が高校であり中学校でしないとこもある。小学校に関してはやるところが珍しいほうだろう。

 他にも行事が幾つかある。文化祭をやらない小学校ではお祭りや学芸会などが行われ、体育会とは別に球技大会や町内マラソン。春には新入生歓迎会。冬にはクリスマス会をする場所もある。セレブ学校では近隣学校との親睦パーティーや新入生歓迎会とは別に懇親会など学校によって様々だ。

 

 運動会を終えたとある小学校も次の行事に向けて準備を行っていた。

 定番の行事が一つ、音楽会。

 先の運動会では宛ら合戦の如き熾烈極まる闘争を繰り広げていた生徒たちであるが、次の音楽会に向けては滾った血潮を和らげ、穏やかに練習に励む日々を費やしていた。

 

 とある学年を例外に除けばであるが。

 

 今日の講堂は音楽会の練習で三年生が貸し切っており、今まさに演奏の最中(さなか)である。

 

 だが、小学生の演奏にしては重々しく、厳格な音楽だった。

 

 荘厳で冷徹な調べ。聴くものは圧倒される音圧。

 嘆くように慟哭する合唱(クワイア)

 風より駆け抜けて疾走する弦五部《シュトライヘル》。

 終末を告げる角笛が如き管楽器の奏者(ブラースインストルメント.)

 杲々たる音色は一切不要。深遠からの鎮魂曲(レクイエム)が本懐だった。

 響き説くは終末の予兆。

 皆、平伏し、知るがいい。ダビデとシビラの預言の通り、世界が灰燼に帰す。

 どれほど逃れようが審判者は訪れ、等しく総てが厳しく裁かれる。

 我らが楽団より響き渡れ、死の号砲よ。恐怖に怯えし者共よ、慈悲深き眠りと復活を。

 量りしてぬ恐ろしさを讃えよ。

 ──しかあれかし。

 

()めよ。譜面を間違えた者がいた」

 

 威容な演奏は一人の少年の言葉によって中断される。

 安心した吐息が隅から聞こえた。生徒たちの演奏に気を飲まれていた担任教師たちだ。

 逆に演奏を中断された生徒たちは緊張した様子。何人か生唾を飲み、全員の視線が一人の少年に向けらていた。

 演奏を指揮していた小笠原(おがさはら)純心(あつみ)は壇上の生徒たちを睥睨する。

 

「私は卿らを賞賛している」

 

 言葉とは裏腹に彼の声は冷たかった。

 氷を抱きしめたほうが平気だと思わす冷ややかさ。重圧。息苦しさで眩暈を起こしている者さえいた。だが、逃げられない。堕ち掛ける意識は目の前にある存在感で無理矢理引き上げられる。

 陰々滅々とした声で純心は言葉を続けた。

 

「演奏を始めてから数ヶ月。初めて楽器を手にする者もいる中、よくぞ此処まで出来るようになった。これらは総て、卿らの努力の賜物に他ならない」

 

 音楽会は各学年と音楽系部活に分かれて演奏し、一学年(ひとがくねん)が演奏する曲は学校側から指定する曲と生徒たちが選ぶ自由曲の二つである。

 音楽に精通している生徒が全くいなければもう一つの曲も学校側が決めるが、学年に数人くらいは音楽に関係しているので実例は少ない。

 この学年の生徒たちも音楽に精通しているものは多く、特に先程までピアノを弾いていた少年はコンクールで入賞を何度も経験している。

 だが、今回の中心になっているのは運動会でも組代表を務め、指揮者を担当する黄金の獣のこと小笠原純心であった。

 

 理由は彼が指揮者をした方が一番見栄えするという多数決である。

 次に彼は何故かクラシック曲に精通しており、他に音楽へ携わる生徒たちと話し合って自由曲が決められた。

 曲はオーストリアの音楽家、三大巨匠の一人であるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの有名なものを合奏。

 バイオリンを始めとした弦五部やティンパニなど初めて楽器に触る者が多かったが、半数以上は声楽を担当して器楽はできる者、あるいはできるようになった者がすることになった。

 小学生の楽器といえばリコーダーや鍵盤ハーモニカをイメージするだろうが、その二つ以外で演奏すること自体も珍しくはない。オーケストラ宛らの演奏も既に一つ、二つ上の学年が去年の音楽会でやっているので異例でもなかった。

 

 異例であるのは三年生たちが代表に選んでしまった小笠原純心である。

 

 総てを愛しているという思想から勘違いされやすいが、純心は総てを赦す平和主義者ではない。

 人並みの善悪の区別はあり、過ちや悪行は咎め、その上で愛しているのだ。

 そして、何故だか彼は音楽に強い関心があり、音楽に精通するものすら舌を巻くほど理解して、愛してもいる。

 

 何が言いたいのかと言えば、小笠原純心という少年は音楽に対して滅茶苦茶厳しかった。

 

「だが──失敗が赦されるわけではない」

 

 この言葉で震え上がらなった人間の方が少ないだろう。

 泣きそうな子供もいる中、嗚咽で彼の言葉を妨げることはできない。

 皆、厳粛に諫言を聴き受けている。

 

「失敗は赦されるなど唾棄すべきだ。失敗からの成功は勿論ある。しかし、それは時と場合だ。

 戦場で味方を誤って撃ち殺しても良いのか。単なる戯れで人を殺しても良いのか。人生を決める勝負で敗北しても良いのか。

 良いわけがあるまい。たった一度の失敗だけで総てが終わりになることなど幾らでも存在する。

 此度の音楽会もその一つだ。本番で失敗しても罰されることはないだろう。

 罰されないということは赦されない。汚名返上の機会があるかもしれんが、そんなものは偶然舞い降りた奇跡に過ぎない。奇跡に縋るな」

 

 反論する声は上がらない。

 たがか音楽会でと、彼の前で言えるものは誰もいなかった。幾ら鼠が叫んだところで、獅子の咆哮には敵わないからである。

 一時期は純心が唯一特別視している氷川紗夜に助け舟を求めようとしたこともあったが、生真面目な彼女は厳しい姿勢に異を唱えることはない。

 むしろ賛同しており、共感している。好感度の増しだ。純心の恋愛は順調のようである。

 

 誰も助けるものはいない。しかし、逃げ出す者もまたいなかった。

 

 彼らが純心に抱いているのは恐怖ではなく、畏敬の念が強い。

 畏れているが同時に敬っているのだ。

 そして彼は自分たちを期待している。そうでなければ褒め言葉一つも出てこず、練習している曲も難易度が低いものへとすぐ切り替えているはずだ。

 何より彼を担ぎ上げたのは自分たち。ならば彼の期待に応えるのが責務である。

 至高の黄金を讃えるならば、それ相応の覚悟と力が必要なのだ。

 

「百奏でれば、百やり遂げよ。では再開だ。卿らの音で怒りの日を奏でるがいい」

 

了解であります(ヤヴォール)! 我らが指揮殿(マイン・ディリゲント)!』

 

「失敗すれば自分は朽ちた楽器になり果てるのだと、そのような気概を持って挑め」

 

 え、なにそれ怖い。

 しかし、結局はこの学年の殆どは純心を敬っているので、既に手遅れなのである。

 恐怖を抱えながら今日も三年生たちは音楽を奏でるのであった。

 

 

「やっと練習が終わったよ~」

 

 講堂を出ながら氷川日菜が疲れた顔で背筋を伸ばす。

 

「何度も同じ曲ばっかり演奏してつまらないなぁ」

 

「仕方ないでしょう。皆、貴方とは違うんだから本番で失敗しないように練習は当然よ」

 

 妹の愚痴に対して、苦言を零す紗夜。

 練習が始まってすぐ、日菜は課題曲を一日で出来るようになった。その日に初めてバイオリンを触ったにも関わらずだ。

 対する紗夜もバイオリンを担当しており、最初の日菜と同じように出来るまで二ヶ月かかった。他の子と比べても上達は目を見張るものがあるが、まだ失敗することがある。

 練習中でミスを犯さなかったのは日菜とピアノ担当の少年だけだ。

 それ以外の者達は一度は指揮者の純心に注意されている。それは紗夜も例外ではない。むしろ特別扱いをして不問にすれば周りから顰蹙を買うし、そんなことしたら彼女の好感度も下がる。

 純心はプライベートと仕事は分ける男なのだ。毎度の事ながら小学生には思えない。

 けれども、注意される機会は全体的に少なくなっている。本番前にはトラブルでもない限り演奏で失敗することはなくなるだろうと紗夜は見立てだ。

 だが、気の緩みは失敗に繋がるだろうと戒める紗夜は、この後個人練習をするつもりである。

 練習中で使っているバイオリンは学校のものであり、持ち出すことはできない。仮に持ち出せても防音設備が整っていない屋内でバイオリンは練習できないだろう。

 音楽室や講堂は音楽関係の部活か事前に予約した他の学年が音楽会に向けての練習で使用している。しかし、学内であれば今の時期、空き教室で借りた楽器を使い練習して良い許可が下りていた。

 今日は宿題が出てないので放課後になるまで、紗夜は空き教室で一人練習しようと考える。

 紗夜が一人でいると決まって日菜か純心がやって来るが、今回は断固として自分一人で練習する所存だ。

 妹には負けたくないし、あの少年にみっとも無い姿を見られるのは何となく嫌になる。

 

「ねぇねぇ、おねーちゃん! ずっと同じ曲ばっかりで飽きちゃったし、音楽屋さんに行こうよ」

 

「…………。何をしに?」

 

内心意気込んでいた紗夜に妹から水が刺された。

 

「そりゃあ、違う曲も耳に入れないと頭が可笑しくなるからだよ。実際、同じ音楽を永遠に聴かせるのは拷問になるんだよ」

 

「そう、初耳ね。なら、家に帰って一人で行きなさい。私は学校で練習するから」

 

「ええ!? 一緒に行こうよぉ!」

 

 駄々を捏ねる日菜。この妹は練習もさせてくれないらしい。

 

「一人で行けばいいじゃない」

 

「やだ! おねーちゃんと行く!」

 

 人目を気にせず日菜は我侭を叫ぶ。二人の周りには同じ学年の生徒がおり、僅かに視線も集まってきた。

 このまま突っ撥ね続ければ自分が悪者になってしまう。

 疎ましく思いながらも、涙目になっている妹を見て観念した。

 

「──わかったわ。でも、家に帰ってからね」

 

「やった! おねーちゃんとお出かけだ!」

 

 先程までの泣き顔は嘘だったように笑顔になる日菜。

 あまりにも嬉しそうにはしゃぐ妹を見て、紗夜は知らず知らず頬を緩める。

 苦手意識を抱いていても──この頃はまだ(・・・・・・)──仲の良い姉妹であった。

 

 

 紗夜の言葉通り、一度家に帰ってから改めて出掛ける二人。

 

「それで音楽屋さんと言ったけど具体的に何処に行きたいの? あまり遠い場所は駄目よ」

 

 保護者抜きで出掛けることは度々あるが、子供だけでの遠出は親から禁止されていた。

 好奇心旺盛の日菜はよくそれを破ることがあるが、姉である紗夜は言いつけを守っていた。以前、純心の手で遠方のテーマパークに連れて行かれたが、本人の意思は無関係なので無罪だと主張する。

 

「駅近くにある大きなビルのとこの! 前々からどんな場所か気になってたんだ」

 

「態々専門店に行くの?」

 

 てっきり近所のミュージックストアに行くかと思った紗夜だが、日菜が言ったのはCDやMVのDVDだけではなく楽器や音響機材も販売している専門店だ。

 そこまで音楽に関心がないので行ったことはないが見覚えのある場所であり、距離もそこまでないので向かうことに問題はない。

 

「近くのお店だと在り来たりだし、折角だから行ったことがない場所に行きたいなって」

 

「……まぁ、いいわ」

 

 少し考えた紗夜は日菜の提案に乗った。

 無理に目的地を近所に変えたところで今更楽器の練習はできないし、そのような場所なら技術書でも置いてるだろう。買うお金はないが、バイオリンの練習本でも覗ければ紗夜の得になる。

 

「よーし、じゃあ出発進行~!」

 

 日菜の掛け声と共に二人は目的の場所に向かった。

 平日の夕方前だが、既に駅近くには学校帰りの中高生たちや帰社する労働者で人は多かった。

 道中、逸れないよう手を繋ぎながら話し手は日菜で紗夜は聞き手に回りながら歩き、特にトラブルもなく目的地と辿りつく。

 

「大きいわね……」

 

「大きいね!」

 

 二人とも同じ意味だが篭った念は違った。

 通りかかって目にすることはあったが、実際入り口前まで来ると建物の大きさをより実感できる。五階建てのビルはその辺りのデパートより巨大な建造物だ。大人でも広くて高いと思うものは子供ならその倍は感じる。

 日菜は見知らぬ大きな場所へ足を踏み入れることへ興奮し、紗夜は逆に圧倒され気後れしていた。

 

「日菜、離れて迷子になったらダメよ」

 

「うん、わかった!」

 

 繋いだ手をぎゅっと強く握り締め、二人は同時に自動扉を潜った。

 子供だけで来店してきたことへ少し驚く受付嬢を脇目に二人は案内板を眺める。

 

「ところで日菜は何処に行きたいの」

 

「う~んと最初はCDとか置いてる場所がいいかな」

 

「それなら近所のお店でも良かったじゃない」

 

「そんなことないよ。こんな大きなお店なら普段気にしないような曲や知らない曲が流してたり、紹介されているかもしれないでしょう。日菜ちゃんはそれを求めているのです」

 

「まぁ、いいわ。その後は書籍コーナーに寄ってもいいかしら?」

 

「うん、いいよ。もしかしてバイオリンの練習本でも見たいの? おねーちゃんはもう弾けてるんだから必要ないと思うんだけどなぁ」

 

「まだミスすることがあるわ。音楽の先生はバイオリンが解らないし、前々からバイオリンを習っている子も自分の練習があるから上達したいなら独力しないと」

 

「おがさーに教えて貰えばいいじゃない。おがさーなら喜んで教えると思うのにな。ていうか既に何回か教えてもらってない?」

 

 以前にも説明したが、『おがさー』とは日菜が勝手に呼んでいる純心の渾名だ。

 指揮者として選ばれた後に知れ渡ったことだが、小笠原純心の家芸には琴があるが彼自身は何故か純和風文化とは異なるクラッシクに精通していた。

 殆どの楽器も扱え、特にバイオリンは名手と呼んでも良いほどの腕前である。

 妹がその名を口にすると紗夜は微妙な顔を浮かべた。

 

「彼に教えてもらうと、その……偶に後ろから手を取ったりするから恥ずかしいわ」

 

「おお、まさに手取り足取りだね。イケメンじゃなかったらセクハラだよ」

 

「顔が良くてもセクハラよ」

 

「でも怒らないあたりおねーちゃんも満更じゃないじゃないわけだ?」

 

「教えてもらっている身だから我慢しているだけよ。彼自身も教えるときに邪な気持ちは出してないわ。そもそも彼がその気なら──」

 

 そこまで言って面白そうにニヤニヤする妹の顔に気づき、彼女は口を閉ざす。

 

「──行くわよ」

 

「あぁ、引っ張らないでよ~!」

 

 抗議する声を無視してエスカレーターに向かう紗夜。

 そこで置いてけぼりにしないあたり、彼女もまだまだ優しい姉なのだ。

 

 

 二人が辿りついたフロアは定番のCDが置いてある場所だ。

 メジャーからマイナーまで。ジャンルも様々。CDは勿論、レコードもある。

 BGMの他にも数多くの音楽がそこかしこから響いており、人も歩いているので店内で一際騒がしい場所だった。

 

「着いたけど、どうするの?」

 

「目的は音楽の探索だがらぐるっと回る。るんとしたものがあるといいな~」

 

 るんとは日菜が良く使う独特の感情表現である。他にも色々あるが姉である紗夜も全て把握してはいない。

 

「好きにしなさい」

 

 すっかり探検気分の日菜を自由に歩かせた。

 まるで犬の散歩である。繋いだ手はリードというところか。日菜は犬よりも猫だが。自由気侭に生活するのが類似している。

 日菜が道化師のようなバンドの店頭MVを足を止めて眺めてると、特に興味を持てなかった紗夜は何となく周囲を見渡した。

 きらり。

 人や商品で入り組んだ店内で輝いたものを彼女は見つけた。

 先程噂をした故か、なんという偶然か。

 少し離れた場所に見慣れた黄金の髪を目に映す。

 

「何を見ているの?」

 

 姉がどこかに注視していることに気づいた日菜に声をかけられ、紗夜は我に返る。

 

「え? 別に。あそこに小笠原さんいたからちょっと驚いただけよ」

 

「おがさー? あっ、本当だ。やっほーおがさー!」

 

「ちょ、ちょっと日菜!?」

 

 日菜に引っ張られ、紗夜は純心の傍に近づく。

 呼び掛けの声で気づき、彼も二人の存在を知った。

 

「おや。斯様な場所で奇遇だな」

 

「そうですね……」

 

 純心は二人と、特に紗夜に強い視線を送ると、嬉しそうに微笑む。

 大人子供関係なく大抵の女性の心を射止める破顔。最近では慣れたが、日菜が原因とはいえ此方から急に呼びかけた事もあり、紗夜は恥ずかしそうに顔を背ける。

 

「私はおねーちゃんとお出かけしてるんだけど、おがさーは何しているの?」

 

 黙ってしまった姉の代わりではないが、思わぬ場所で思わぬ相手と遭遇した日菜が興味深そうに尋ねる。

 姉のこともあるが、個人としても日菜は小笠原純心に関心があった。

 在り来たりなものを好まない彼女は規格外の純心は好感のもてる対象なのである。他の女子とは違って尊敬も恋愛感情もないが、興味を引かれるものといえば格別の存在だった。

 

「私は予約CDを取りに来ただけだ」

 

「なんだ、ふつーな理由だね」

 

 白地(あからさま)に落胆する日菜が純心は顔を見せず、悠然とした態度のまま苦笑した。

 

「何を期待していたのか解らぬが、私も平凡な男だ。在り来たりな理由で店に来ることもある」

 

「う~ん。──なら、平凡な男の人におねーちゃんはあげれないね」

 

「ひ、日菜貴女はいきなりなに言ってるの!?」

 

 悪戯を思いついたような顔でそんなことを言った日菜に人目憚らず紗夜は怒鳴る。

 しかし、純心の態度は変わらず即座に切り返しの言葉が返ってきた。

 

「紗夜を娶るのに卿の許可は必要なかろう」

 

「め、めと!? 貴方も何を──」

 

「だが、卿の言葉も尤もだ。これからも精進をして、紗夜に相応しい男になろう」

 

「頑張ってね。私は努力したことがないから、どう頑張るのか解らないけど。おがさーならきっと、おねーちゃんのハートをトゥンクできるよ」

 

「貴方たちはさっきから何を意味の解らないことを言ってるの!?」

 

 そもそも、既に人間の極地にいるような人間が何を努力するのか。自分が努力が足りない凡人と思っている紗夜には理解できなかった。

 二人の傑物はそんな大好きな相手の反応を十分に楽しみつつも、これ以上すれば不機嫌になると悟っていたため別の会話を始める。

 

「ところでおがさーはどんなCD買ったの?」

 

「日本ではあまり知られてないが、海外のロックバンドだ」

 

「貴方たち、さっきから私を無視して──て、ロックですか?」

 

 怒りがこみ上げていた紗夜だったが、純心の意外な言葉で冷静になった。

 特別驚く内容でもないのだが、相手のことを知ってる紗夜はその異質さを不思議に思う。

 

「お家は琴。学校ではクラッシク。そして今回はロックと随分と幅が広いのですね」

 

「音楽のジャンルに差別はしない」

 

 総てを愛しているゆえか、彼には特定のものに拘ることはなかった。

 恋をした紗夜だけが例外なのである。

 

「邦楽やクラシックと比べるとロックサウンドは聴き慣れていないので新鮮さを感じるがね」

 

「貴方も日菜とは違った意味で手当たり次第ですね」

 

「卿らはロックに興味はないのかな?」

 

「私はあまり聴かないなぁ~。普段聴くのはアイドルの歌とかだよ」

 

「私は音楽自体学校で習うまで然程意識してませんでした。今は練習もしていることもあり、クラシックに少し興味を持ちましたが」

 

「ならば其処に今日、私が買ったものを試聴できる場所がある。最近は練習で同じ曲ばかり聴いて少し飽きてるのではないか? 偶には普段聴かない曲でも聴いて気張らしにするといい」

 

「おお! まさにそれが目的で今日ここに来たんだよ。おねーちゃん、一緒に聴こう!」

 

「私は────」

 

 普段の紗夜ならばロックなど騒がしいだけだと断じて拒否していただろう。

 しかし、目の前の純心に勧められたものを無下にすることは、彼女の中で拒否反応が出た。

 彼の言葉通り、日菜ほどではないが最近は同じ曲ばかり耳にしていたので、偶には聴いたことない曲を耳にするのも良いではないかとも考える。

 

「そうね、なら少しだけ」

 

「では、こちらだ」

 

 紗夜も提案を受け入れたので純心は二人に試聴方法を説明した。

 日菜と共に差し出されたヘッドホンを頭につけて、紗夜は耳をすませる。

 

 ──始まりは雷撃の如き突然だった。 

 

 想像以上の激しい音に紗夜は驚くが、不快な顔はしなかった。

 学校で練習している曲も豪快だが、耳から響き渡るサウンドは異なる熾烈を感じる。

 粗雑だと思わせるが、楽器を練習したことで紗夜は流れる演奏が如何に精巧であるか理解した。

 魂の叫けびで異国の言葉を紡ぐボーカルの歌声。深く支えるドラムとベースの律動。特に掻き毟るようで繊細なギターに惹かれた。

 聴いたことがあるはずなのに、聴いたことがない。知らない世界に没頭した。

 だが、それは唐突に終わる。

 

「──あれ?」

 

「うーん、偶にはこういう曲もぎゅいいんて来て良いね」

 

 満足そうにヘッドホンを外す日菜の横で、紗夜はヘッドホンをつけたまま呆然とした。

 

「日菜は満足そうでなによりだが、紗夜はどうかしたか?」

 

 様子が可笑しいことに気づいた純心が訝しんで尋ねる。日菜も不思議そうに姉を眺めいた。

 紗夜は困ったような声を出す。

 

「曲、途中で終わってしまいました」

 

「あくまで店頭の試聴だからな。そういうものだ」

 

「そうですか。そういうもの、なんですね」

 

 残念そうにヘッドホンを外し、元にあった場所に戻す紗夜。

 そんな彼女に対し純心が探りなど入れず、すぐ核心を突く。

 

「この曲がそれほど気に入ったか」

 

「え? 私は別に──」

 

「奥ゆかしいのも魅力だと思うが、時には誤魔化することがそれの冒涜にもなることを知るがいい」

 

「!?」

 

「気に入ったのなら、気に入ったと認めればいい」

 

 純心にそう言われた紗夜は少し押し黙った。

 しばらくすると、彼女は名残惜しそうに先程までつけていたヘッドホンに触れる。

 別にロックサウンドを聴くのは初めてではないのに、先程の曲を耳にした途端衝撃を受けた。

 音楽会の練習で音楽に対しての意識が変わったのが発端か、激しいロックミュージックは紗夜の琴線に触れたのである。

 少し前までロックなど粗野な雑音だと何所か軽んじていたので、自分でも偏屈だと思っている彼女は簡単に認められない。

 しかし、純心に諭されると、不思議と本音が零れ落ちた。

 

「そうですね。気に入りました。まだまだ聴いていたかったですね」

 

「ならば、これを貸し与えよう」

 

 その言葉を待ってたかのように、純心は手に持っていた袋と懐から取り出した円形の機械を紗夜の目の前に差し出す。

 

「それは?」

 

「卿が聴いてた曲のCDだ。私が買ったものを勧めたのだから手元にあるのは当然であろう。しばらくの間、このCDプレイヤーで聴くといい」

 

「──いえ、お気遣いしてもらわなくて結構です。貴方はそれを買いに来たのでしょう」

 

 CDプレイヤーを持っていることを考えれば、彼は家に帰るのを待たずして曲を聴こうとしていたのだと解る。

 それほど楽しみしていたことを、いきなり自分が奪うことは気が引けた。

 聴いた曲が自分に衝撃を与えるくらい気に入ったことは事実だが、口惜しいが我慢する。

 だが、紗夜の遠慮など純心には関係ない。

 

「惚れた女が欲しているのだ。ならば一秒でも早く満足させてやるのが男の役目だろ」

 

「小笠原さん……」

 

「借りるのが嫌であればこのCDは卿にそのまま贈ろう。プレゼントだ。CDプレイヤーは此処で新品のものを買い渡すことにして、私の分のCDは改めて買い直せばいい」

 

「何でもないのにプレゼントなんて貰えません」

 

 観念した紗夜は困ったように頬を緩める。

 

「……私の負けです。素直に借りますね」

 

 そう言いながら紗夜が差し出されたものを受け取ると、純心は満足そうに頷いた。

 

「うむ、素直でない卿も好きだが素直な卿も好きだぞ」

 

「まったく、貴方はすぐそういうことを言うんですから……」

 

 人目もあるのに平気で求愛、いや恋する言葉を口に出す純心に紗夜は苦笑をする。

 

「じ────」

 

「?」

 

「じ──────」

 

 傍らに視線を感じた紗夜が振り向くと、真顔で見つめてくる日菜に気づく。

 紗夜は何処か居心地の悪さを感じた。

 

「日菜、なに?」

 

「別になんでもないよ。おがさー、頑張らなくても大丈夫そうだね」

 

「慢心はせぬさ」

 

「貴方たちは何を言っているの?」

 

 二人の会話を意味を理解できなかった紗夜は首を傾げるのであった。

 

 

 それから紗夜はロックに嵌った。テレビではよく音楽番組を気にするようになった。

 妹と違って殆ど無趣味だった紗夜に彼女の両親は少し驚きつつも、静かに音楽番組を見ている彼女を微笑ましく見守る。

 純心から最初に借りたCDは既に何十回も繰り返し聴いており、新たに借りたCDも何回も聴いた。

 貸されたCDは海外バンドが多かったが、暇潰しで外国語を学んだ日菜に負けじと彼女も勉強していたので敬遠することなく聴き入る。

 音楽会が終わってすぐ二学期が終わる頃にはすっかり紗夜はロックの虜になっていた。

 

 ──その日は二学期の終業式で学校が帰ってきた紗夜はすぐに家から出た。

 

 理由は学校が一旦お休みになったので、長く借りたCDとプレイヤーを純心に返す為である。

 真面目な彼女は一部の生徒が違反している娯楽品を学校に持ってくることはせず、律儀に学校外で渡すことにしたのだ。

 空はまだ昼過ぎだというのに白い雲に覆われて薄暗く、呼吸をすれば白い吐息を簡単に見られる。

 あと数日で年が変わる寒空の下、待ち合わせの公園に紗夜は辿りつくと相手は既に其処にいた。

 彼以外に誰もいないので、黄金の髪は余計に目立っている。

 

「お待たせしました」

 

「いや、それほど待っておらんよ」

 

 紗夜と同様、一旦家に帰ってからこの場所に来た純心は待ち人を迎える。

 

「早速ですがこれを。長い間、お貸しして頂きありがとうございました」

 

「私としてはそのまま与えても良かったのだがな」

 

 貸したものが入った紙袋を受け取りながら言った純心の言葉に、紗夜は呆れた。

 

「以前も言った覚えがありますが、何でもないのにプレゼントなんて貰えませんよ」

 

「ああ、その言葉は覚えているとも。理由がない限り、卿は贈り物を受け取ってくれぬようだ」

 

 そう言いながら純心は受け取った紙袋を引っ込めると、反対の手で小さな包装箱を取り出した。

 

「ならば、理由があれば問題あるまい。クリスマスプレゼントだ。聖夜ぐらい哀れな男からの捧げものを受取ってくれないかね、 マイン・ゲッティン」

 

 そう、今日はクリスマス。二学期の終業式をこの日にする学校は珍しくもない。

 思わぬプレゼントに目を丸くした紗夜は冷えた頬を赤く染めて、困ったような笑みを浮かべる。

 

「……ここで受取らないほうが失礼ですよね。わかりました。ありがたく受取ります」

 

「ああ、感謝するよ」

 

「何を言うんですか。お礼を言うのは私の方なのに。開けても良いですか?」

 

「勿論。それは既に卿のものだ」

 

 紗夜は丁寧に包装を解くと、中には小型の機械があった。

 何の機械かは紗夜は見た瞬間理解する。

 

「これは……」

 

「装飾品でも良かったのだがね。卿が今、一番欲している物は何なのかと考えればそれに至った」

 

 それはモバイルCDプレイヤー。外装色は紗夜好みの孔雀石(マラカイト)。先刻まで紗夜に純心が貸していたものの最新機種である。

 音楽を聴く際に、昨今はデータ圧縮でパソコンや手軽に携帯で聴くのが主流であるが、音質に拘るならばCDから直接聴いた方が良いのだ。

 データ圧縮は如何しても音質が劣化してしまう。不便だが本来の曲の持ち味を楽しむならCDプレイヤーを選ぶ音楽好きは多い。

 純心もその一人であり、紗夜も彼にモバイルCDプレイヤーを返した後は一人で聴くためお年玉で自分のものを買うつもりだったのだが、まさかプレゼントされるとは思ってもいなかった。

 下手に高価な装飾品を渡すよりも、この方が今の紗夜には好ましい。彼女は驚きつつも、今回は喜びが勝った。

 

「ありがとうございます。とても嬉しいです」

 

「それは良かった。このままデートでも誘いたいところだが、家で日菜が待っているのではないか?」

 

「そうですね。この後は家族でクリスマスパーティーをする予定です」

 

「何所の家庭も同じだな。私の家でもそうだ。名残惜しいがこれ以上は妹君に恨まれるので帰るとしよう。では、良い聖夜を」

 

「ああ、その前に一ついいですか……」

 

 帰ろうとした純心だったが、紗夜の呼びかけに足を止める。

 まさか呼び止められるとは思ってもいなかったので何事かと不思議に思い、その緩んだ僅かな隙を狙って、紗夜は彼の手にポケットから取り出していた小さな小包を握らせる。

 

「クリスマスプレゼントです」

 

「─────」

 

「ああ、勘違いしないでくださいね。これはCDを貸してくれたお礼や日頃の感謝の気持ちなので深い意味はありません。貴方に貰ったものに比べると本当に些細な物ですが」

 

 言葉にしたのが紗夜の正直な気持ちであるが、いきなり自分からプレゼントをしたら彼はどんな顔をするか。喜んでくれるのか。

 後はこの一年は振り回されたのだから、少しぐらい驚かしてもいいはずだと意気込んだ。

 けれど純心からもプレゼントを貰ったので、今更自分方からプレゼントしても期待した成果は得られないと彼女は思っていた。

 

「─────」

 

 しかし、本当に珍しく。もしかすれば初めて見たかもしれない純心の意表を突かれた顔。

 紗夜は双子の妹がするような、悪戯に成功したような笑みを浮かべた。

 彼女は最近学び、きっと彼も知っている異国の言葉を贈る。

 

「フローエ・ヴァイナハテン。良い聖夜を」

 

 

 妙に目が怖いライオンのキーホルダー。

 

 似ているから選んだと言われたその贈り物を、彼は何年経った後でも大事にしている。




 怒りの日はただの音楽会で発表する曲です。流出なんてしませんとも。

 お気に入り1000いきました。褒められているのに最近飢えてたので嬉しいですね。
 皆様の感想や評価は創作の励みになります。
 誤字脱字の指摘が多く、今回も多そうですが更新優先で頑張ります。


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Episode ─Ⅷ【正鵠を穿つ】

 あけしゃん、今までありがとう。
 しばらく四人のRoseliaだけど、応援してます。


 年が変わって既に四月。文字通り四月のある日。

 ほとんどの学生たちは新年学期が始まっておらず、春休みを満喫している。夏休み、冬休みと比べて短い期間だが、長期休暇というものはありがたいと思われるものだ。

 氷川と表札に刻まれた家の中でも双子の姉妹は春休みである。

 彼女たちは母親が作った温かい昼食を、同じくらい温かい春の陽気が差し込むダイニングにて食べていた。

 休みであるが、堅実な姉は規則正しい生活を続けている。姉と一緒に過ごすのが大好きな妹も同じように続けており、偶に夜更かしをしようとして怒られることもあるが、それは今に始まったことでもない。

 ここ毎日同じ時間、昼食ならば十二時に開始し、後片付けは娘たちも手伝うのがここ最近の日常(ルーチン)だ。

 しかし、今回は少し違った。

 

「貴女達、お稽古しないかしら?」

 

 双子が丁度昼食が終った頃に母親が提案する。

 

「お稽古?」

 

「お稽古? どんなどんな!?」

 

 始まりの言葉こそ同じだが、双子なのに態度が全く異なっていた。

 紗夜は突然何を言い出すのかと怪訝そうにしており、日菜はどんな稽古なのか興味を抱く。

 同じ日に生まれ、顔も双子らしく似ているのに趣味も性格のバラバラな愛娘たちの反応は母親も想定内だった。

 

「どんなと聞かれたら色々ね」

 

「そんな沢山の習い事をさせるつもりなの?」

 

 今まで塾なども通わせる素振りを見せなかった母親による突然の教育方針に、紗夜は戸惑う。

 別に習い事が嫌なわけではないが、その時間を割いたことで学校の勉強に遅れないか、日菜やとある少年との差が広がらないかと不安なのだ。

 しかし、彼女の困惑は母親の言葉で別のモノに変化する。

 

「沢山の習い事をさせたいのは事実だけど、通わせる場所は一つだけよ。小笠原指南所というところなんだけどね」

 

「────」

 

 紗夜の顔が固まった。

 習い事に興味を惹かれていた日菜もこれには少し驚き、姉を尻目で見る。

 小笠原指南所とは紗夜に恋しているクラスメイト、黄金の獣と呼ばれる小笠原純心の実家だ。

 

「色々と教えている場所だから、何かお稽古するならそこがいいかなって。そこの息子さんは紗夜が好きみたいだし、きっと懇意にしてくれるわ」

 

 そこの息子が自分の娘に御執心なのは既に母親は知っている。

 半年近く前にあった小学校の運動会。

 小笠原純心が全校生徒の前で大胆に行った紗夜への発露は、子供たちを応援しにやって来ていた保護者たちにも目撃されている。無論、紗夜と日菜の両親もその場にいた。

 彼女たちの母親が指定した習い事の場所に自分の娘へ色目を向けている子供がいるのを知ると、父親は反対的だった。だが、母親は面白そうだからという理由を伏せて夫を説得した。

 二人の娘はどちらも学力が高いので勉学系の塾は不要。

 体験させるのであれば現在の学校では習えない技術を学ばせるべきだ。

 そう意味で小笠原指南所は良い場所である。

 茶道、礼儀作法、合気道、琴、弓道と異なる教育を複数学ばせる習い所は少ない。

 特に礼儀作法は大人になってからも役立つことで保護者には人気があり、他の技術もやっていて損はないだろう。

 そもそも習い事をさせる必要はあるのかと尋ねた夫の言葉に対して、妻はないと断言した。加えて習い事をさせるメリットも説明する。

 幼い日に見つけた技能は腐ることもあれば開花することもある。させて損はない。

 

 更に夫が気にしている指南所の子供についてだが、母親は気にしていない。

 いや、興味があると言ったほうが正しいだろう。

 

 そもそも、紗夜がその少年に迷惑しているなら、母親は純心の親へ既に抗議している。

 しかし、紗夜は純心と何度か二人だけで出掛けており、互いの誕生日にプレゼントを渡す程の関係は築いている。

 よもや、小学生が誕生日プレゼントで純金の髪飾りを贈るとは思いもしなかったが、自分には似合わないと困りつつも、部屋で一人の時にひっそりと大事そうに眺めている紗夜を母はこっそり眺めていた。

 尤も、件の少年がいる指南所に通わせる理由は子供の恋路を応援するためではない。

 単なる小学生の間に色んな経験を積ませたいという母心が大半だ。

 新しいことに目がない妹への配慮や、堅物の姉が思われている男の下へ習い事しにいけばどんな顔をするだろうという妙な考えは四割しか持ち合せていない。

 このような愉快な部分が日菜に受け継がれたのだろうと、紗夜はもう少し大きくなった後で理解する。

 とはいえ、習い事を強要することはしない。

 

「貴女たちが興味なければ無理強いはしないわ。お母さんは今のうちに色々と経験した方がいいんじゃないかと思って、貴女たちにお稽古を勧めているだけよ」

 

 偽りなき本音。

 子供たちの恋路も、あと数日で学校が再開する。手出ししなくとも、進展はそのときであるならあるだろう。

 指南所に通わせることができれば、学校とは違い送り迎えと称して様子を覗き見できるので面白いだろうな、と思っているだけだ。

 だが、強引に通わせる気もないが、愛娘たちに色んな経験をさせたいという親心も偽りではない。

 

「二人はまだ小学生だけど、中学生、高校生と上がって度に将来の選択肢は迫られて選べる道も限られてくるからね。

 お稽古に通うとしても紗夜に夢中な子がいる場所じゃなくてもいいわ。私は其処がこの辺りで色々と学べる場所だから勧めているだけ。二人が好きなようにしなさい」

 

「日菜はどうしたい?」

 

「おねーちゃんがするならする! しないならしない!」

 

 迷っている紗夜が隣の日菜へ尋ねると、予想していた通りの返事がやって来た。

 

「日菜は紗夜が大好きね」

 

「うん! おねーちゃん大好き!」

 

 曇りなく宣言する日菜を微笑ましく母が見つめる。

 いつも紗夜の後をついて行くので日菜の反応は予想通りだ。

 あとは。むしろ最初からであるが紗夜次第だと母親は彼女の答えを待つ。

 紗夜はしばらく悩んでから、小さな口を開いた。

 

「じゃあ、お稽古してみる。場所は、お母さんが言っていたとこでいいわ。べ、別に彼がいるからとか、そういうのじゃないんだから!」

 

 解りやすい反応だな、娘よ。

 そんな紗夜を微笑ましく見つめる母親であった。

 

 

 小笠原指南所がある場所は古い家々が建ち並ぶ旧住宅街にあった。

 近マンションやアパート、モダン住宅が増え続ける近年ではあるが、この場所のように百年単位で昔の景観を維持している場所は貴重である。

 静かで寂れた所だと揶揄するものもいるが、旧き日本住宅が健在しているこの場所を好む者も多い。目立った名所はないが、稀に海外の観光客が眺めに来ることもある場所だ。

 見事な桜並木を横切り、最初は母親と同伴して指南所にやって来た氷川姉妹は目の前に建つ屋敷に圧倒される。

 大きな瓦屋根に長屋門。傍には『小笠原指南所』と大きな看板がかけられており、その両端から白地の壁が何処までも続いてる。角に辿りつくまではしばらく歩きそうなほど広大な敷地だと見て解る。

 時代劇で見かけるような純日本の屋敷だ。

 彼女たちを連れてきた母親も初めて来たのか予想以上の外観に圧倒されている。

 しかし、このまま立ち止まっていても何も始まらないので、母親は門には不釣合いなインターホンを見つけると、意を決してボタンを押す。

 

『はい。小笠原指南所でございます。どちら様ですか?』

 

 周りを意識しているためか無粋なチャイム音は響かず、インターホンから大人の声が聞こえた。

 察するに声の持ち主は年輩の男性である。

 

「ご免ください。私、今日からお世話になります氷川という者ですが──」

 

『あぁ。新しい生徒の。はい、存じております。お迎えに参りますので少々お待ちください』

 

「わかりました」

 

 静かに三人が待っていると大門の脇にある潜扉が開かれた。

 

 最初に目に映ったのは長い黄金の髪。宝石の如き円らな青眼(オクシデンタル)。雪の様に白い肌が身に包むのは上等な着物。言葉を失うほど美しい妙齢の女性が其処にはいた。

 顔は完全に異国のものであるのに着物を着こなしており、凛とした佇まいで優雅に微笑む。

 

「お待ちしておりました氷川様。私、指南所の指導員を務めさせていただいております、小笠原莉那(りな)と申します。以後、お見知りおきを」

 

 思いがけない麗人の登場で息を呑む双子の母親だったが、子供たちに気後れはなかった。

 

「ねぇねぇ、おばさんっておがさーのお母さん?」

 

「ちょっと日菜!?」

 

 こちらも挨拶する前に日菜が遠慮なしの言葉を投げ、氷川姉妹の母親は焦った。

 

「申し訳ありません! 娘がご迷惑を!」

 

 謝罪する母親を不思議そうにする日菜に対し、紗夜もばつの悪い顔を浮かべる。

 おばさんとは言うつもりはなかったものの、日菜が言わなければ自分が挨拶する前に尋ねるとこだったと反省した。

 何故なら目の前にいる麗人の金髪は、純心によく似ていたからだ。

 金髪の麗人──小笠原莉那は日菜の不躾な質問は特に気にした様子もなく、謝ってきた母親に対して自分の方が申し訳なさそうな態度を見せた。

 

「構いませんですよ、かしこまらないでください」

 

「そう言ってくれると助かります。遅れましたが私、お電話させて頂いた氷川です」

 

「お伺いしております。では、貴女は──」

 

「氷川日菜です!」

 

 莉那が日菜に視線を向けると、悟った彼女が遅れながら挨拶した。

 元気一杯の声に莉那は綻んだように微笑む。

 

「日菜さん、ですね。おがさーとはうちの息子、純心のことでしょうか?」

 

「うん。そうだよ! 『おがさはら』だから『おがさー』!」

 

「あらあら、これは可愛い渾名ですね。そうですよ。私が彼の母親です」

 

 予想はしていたが、彼女はあの小笠原純心の母親のようだ。

 雰囲気は子供が豪胆なのに対して、母親の空気は何処までも優雅。瞳の色も異なるが、整った造形が似ていていた。

 彼女はそのまま母親を挟んで、日菜の反対側にいる紗夜へと目を向ける。

 

「となると、そちらのお嬢さんが紗夜さんでお間違いないかしら?」

 

「!? 氷川紗夜です。今日からお世話になります」

 

 呼びかけられた紗夜は慌てて挨拶した。

 そんな彼女を莉那は興味深く眺める。

 自分の息子が恋している相手だ。関心を持つのは当然だろう。

 

「遠目から見かけたことがあるけど、可愛らしいお嬢さんね。いつも息子が迷惑をかけてるようでかける言葉がありません」

 

「いえ、ご迷惑なんてとんでもありません。こちらこそお世話になってます」

 

「ご丁寧にどうも。そう言って貰えると此方もありがたいです」

 

 粛々とした言葉に莉那は頭を軽く下げた。

 子供でも礼節を忘れない仕草に双子の母親は流石だと感心する。今のところ評判と違わないようで子供を預けるのに安心した。

 

「では、息子のことは置いといて、今日は見学でよろしいでしょうか?」

 

「はい、その通りです」

 

 莉那の確認に姉妹の母親が頷く。

 指南所に通わせることは決めているが、教授している総てを習わせる必要もない。

 今回は見学だけに留めておき、実際に習うのは見学で興味を持ったものを後日改めて行う予定である。総ての教えを請うことも可能だが、娘たちの母親としては最低でも礼儀作法は習わせたいと思っていた。

 

「では、順にご案内させてもらいますので、ご一緒にお越しください」

 

「ありがとうございます。ほら、行くわよ」

 

 ここからは二人の手を離し、娘たちの後を追う形で母親はついて行くつもりだ。

 何回か送り迎えをするつもりだが、実際に通うのは娘たちなので建物内も自分たちの足だけでしっかりと覚えてほしいからである。

 母親に促されて、日菜は好奇心に溢れ、紗夜は緊張気味で莉那の案内について行った。

 

 潜扉を抜けると外観からでは解らない宏闊な空間が広がっていた。

 建物と建物の間は丸砂利の中に石畳の道が続いており、建物も門と同じように瓦屋根に汚れが見当たらない白壁。道の外れには綺麗な池もあり、日本庭園と呼ぶに相応しい眺めである。

 古き良き、日本伝統の屋敷。

 外来の文化を取り入れることへ抵抗のない昨今では珍しくなった、静謐な空間であった。

 

「入り口手前にある居舎の殆どが指南所であり、それぞれ異なるものを教えております。奥に行けば私たちが生活で住まう区域であり、立ち入り禁止なので注意してください」

 

「はーい」

 

「わかりました」

 

「良い返事です。指南する指導役は外部からの雇人もおりますが、殆どが小笠原の家の者たちが指導しております」

 

「ん? んんんん?」

 

「? どうしたの、日菜」

 

 いきなり日菜の様子が可笑しくなったことに気づいた紗夜は彼女を訝しむ。

 先程の説明で解りにくい場所などなかったと思うのだが、妹のことだから自分には気づかないことが気になっているかもしれないと勘繰る。

 

「大変だよ、おねーちゃん。つまりここはおがさーの家族の人だらけなんだよ」

 

「…………それはそうでしょう。彼の家なんだから」

 

 これだけ大きな家であれば直系以外にも血縁が多いのは不思議でもない。

 どうでもいいこと気にしたのだと解り、紗夜は呆れる。

そんな姉を余所に日菜は困った顔を浮かべた。

 

「これじゃあ、おがさーがって言っても誰のことは解らないよ! 既に似たような渾名があるかもしれない」

 

「気にする必要はないと思うわ。そもそも先生を渾名で呼ぶなんて失礼なのだし」

 

「私が気にするよー。よーし、今度からおがさーは獣殿と呼ぼう」

 

「獣殿って、また変な呼び名を勝手につけて」

 

「なんとなく、ぎにょるん、ときたんだよ」

 

「なによ、 ぎにょるんって。今まで一番解らないわ」

 

「獣殿ですか……」

 

 そう反芻したのは話していた紗夜ではなく、彼女たちを案内した莉那だった。

 

「す、すみません。ご案内してくれているのに無駄話を」

 

「いえ、構いませんよ」

 

 謝る紗夜をやんわりと流し、彼女は神妙な顔で頷く。

 

「獣殿……。黄金の獣と敬われ、畏れられている所以でしょうか。不思議と嵌る呼び名ですね。まるで誰かがずっと前にも既に呼んでいたような響きです」

 

 立ち止まり、遠い目をする。

 その仕草で彼女が己の息子をどの様に見ているのか、僅かだが感じ取れた。

 産み落とした人間であっても、彼の存在を普通に扱えないようである。

 同じ天才でも、日菜は両親に何処にでもいる娘のように接せられている。

 良いことは褒め、悪いことは叱る。天才だと呼ぶこともある。変わった子だと言われるときもある。

 だが第一に娘として扱っている。紗夜の妹として扱っているのだ。

 妹が問題を起こせば姉の責任だと怒られる時もあるので、紗夜はそれが苦痛に感じている。

 だが、遠い景色でも見ている青い瞳を見ると、天才だと妹を特別(異端)扱いしない両親に言葉に出来ない思いを抱くと同時に、別の金色の髪が瞼に過って、寂しくなった。

 

「失礼を承知の上でお尋ねしますが、宜しいですか?」

 

「おや? なんですか?」

 

 神妙な顔を向ける紗夜に何事かと莉那は首を傾げる。

 

「息子さんのこと──愛してますよね」

 

 懇願の問い掛けたっだ。

 どう思っているかの疑問ではなく、苦手なのかと悪意を曝け出す言葉でもない。

 只、彼女がそうであって欲しいと願う言葉を求めた。

 紗夜の言葉に僅かに驚いた莉那は、慈しみに満ちた、母親の顔を浮かべる。

 

「ええ、愛してますよ。総てを愛しているあの子が、私たち両親のことも他のものと平等に扱っていようとも、私にとっては特別な存在。私はあの子の母で。あの子は私の子供ですから」

 

「そうですか……」

 

 それを聞いて安心したような顔を浮かべた紗夜に今度は莉那が問いかける。

 

「では、今度はこちらから質問しても良いですか?」

 

「え? なんでしょうか?」

 

「あの子の──純心の駄目なところを十個ほど言えますか?」

 

「え? 何故いきなりそんな質問を?」

 

 戸惑う紗夜を莉那は面白そうに笑う。

 

「突然、ごめんなさい。聞かなかったことに──」

 

「一応言いますが。八方美人。加減知らず。負けず嫌い。頑固。陰険な部分もあります。自分のことを大した男じゃないと過小評価しています。なのに偉そうです。独善的。誰とでもスキンシップが多い。

 なにより、何でも求められたら応えようとする困ったところ、でしょうか。

 あっ! こうは言いましたが、私は彼を別に嫌っているわけでは──」

 

「いえ、十分です。ありがとうございます」

 

 請われたとはいえ言い過ぎたと焦る紗夜に、莉那は口元を袖で隠してくすくすと笑う。

 

「貴女はあの子を畏敬でも妄信でもない目で見てくれているのですね」

 

「言っている意味がよく解りません」

 

「あらあら、そこは年齢相応の感性なのですね。そこも安心しました」

 

「?」

 

 言葉に引っかかりを感じる紗夜。

 その様子を傍から見ていた日菜も莉那の態度が解せなかった。

 

「ねぇねぇ、お母さん。何で、獣殿のお母さんは獣殿の悪口をおねーちゃんに言わせて嬉しそうにしているの?」

 

「日菜も大人になったら解るわよ」

 

 感慨にふける母に益々首を傾げる日菜。

 天才と呼ばれる彼女であるが、他人の感情は難解のようである。

 

 

 あの後、莉那の案内が再開して紗夜たちは主な施設を見て回る。

 広い敷地内だけあって、見る場所は数箇所でも移動距離がそれなりにあった。

 そろそろ双子たちが歩き疲れた頃、一際大きい建物の場所に案内される。

 

「では、ここが最後にご紹介する弓道場になります」

 

「弓道場ですか?」

 

 ほんの少し疲労を見せていた紗夜の顔色が変わる。

 弓道といえば、あの少年が羨望しているものだ。

 

「丁度この時間は射芸が始まるので静かにお願いします」

 

「あっ! つまり、弓を引くのを見れるってことだよね。楽しみ!」

 

 時折、純心から弓道の話を聞いていた日菜も興味が引かれていた。

 はしゃぐ妹の姿を見て、紗夜は呆れる。

 

「日菜、静かにと言われたばかりよ。中に入ったら、しー、だからね」

 

「うん。しー、だね」

 

 何やらスパイにでも潜入するような仕草に大丈夫なのか不安になる紗夜だが、破茶滅茶な妹ではあるが公の場くらいTPOをわきまわえる常識は持っているはず、と信じたい姉だった。

 

「騒がしくされるのは困りますが、射手が皆中──持っている矢が二本または四本全てが的に中ることですね。その場合は、誰であっても 必ず拍手をしてください。

 理由は単純に皆中することが困難であることであり、即ちできたら素晴らしいことだからです」

 

「わかりました」

 

「わかりましたー」

 

 揃った返事に確認すると莉那は満足そうにした。

 

「ええ。そうしてくれるとあの子も喜びます。あの子のことですから、初めてでもやってしまうでしょう。あぁ、これはお恥ずかしいながら、親馬鹿になるのでしょうね」

 

「あの子?」

 

 首を傾げた紗夜が心当たりを頭に浮かべる前に、莉那が答えを告げる。

 

「はい。今日はあの子、純心が初めて弓を引く日なのです」

 

 

 この日に氷川姉妹が訪問するのは偶然だった。

 純心が弓を引く日は前々から決まっており、氷川家の都合が良い日が偶然重なっただけだ。

 しかし、その偶然を運命と認識するのは人それぞれの自由である。

 莉那に先導されて妹と共にゆっくりと道場の中へ足を踏み入れた紗夜の目に映ったのは、束ねた黄金の髪だった。

 風に吹かれて、光の束のように結った長い髪を揺らめかせるのは眉目秀麗の美丈夫。

 胸当てを付けた白の胴衣に黒の袴。染めたものではなく自然の様で只一人輝く男。長い伝道を築いた道場の後継者にして、今日初めて弓を引くとは思えない誰よりも堂々した者。

 名を小笠原純心であるが、少し前の彼の姿を知るものならばその変わりように驚くだろう。

 紗夜と日菜も春休みに二、三度、会う機会がなければ仰天していただろうし、運動会の記憶しかなかった彼女たちの母親は目を疑った。

 男子 三日会わざれば刮目して見よ、という言葉があるが彼は異国の血が混じっているせいか急成長をしたのだ。

 ほんの一年前は尋常でない雰囲気はありつつも、身丈は他の小学三年生と変わらなかった。

 しかし、今の彼は中学生ほど。もしかしたら高校生に間違われても可笑しくないほど身長が伸びており、前よりも精悍な顔立ちになっている。

 ここは習い事の種類が女性受けするものばかりなので女性利用者が多く、前々から純心の美貌に見惚れているものは多かったが、成長した彼の姿に骨抜きにされた者たちは以前と比べ物にもならないほど増大した。

 丁度、弓を引く寸前だった為、誰しもが彼に注目する最中、やって来た紗夜の存在に純心が気づいた。

 視線を動かし、声は出さず紗夜に向かって微笑む。

 彼の微笑を目撃した女性数名が失神し、弓道場の外に運ばれた。頻繁に起きることなので、大騒ぎにはならず、純心は平然と弓を構えた。

 遠くで純心の横顔を眺めている紗夜は姿形は成長しても変わらないと思いつつ、やはり目を見張るほど変わった容姿に瞠目する。

 少し前までは目線も同じであったのに、今は近くにいると見上げなければ顔を見れそうにもない。その顔もあどけなさを一切感じない大人なもの。

 同い年とは思えず、その彼が自分だけを特別視しているとは、告白されて一年経とうとする今でも彼女は信じられなかった。

 

 だが──。

 

 一年近い時間は、彼女に心境の変化を一切齎さなかったわけではなかった。

 何度か二人で出掛けた。言葉を交わしたのは数え切れない。関係を紡ぐには十分だった。

 どういった気持ちになったかは、素直でない彼女は素直に表せない。

 しかし、久しぶりに見た彼の姿に、見惚れた(・・・・)紗夜は以前に彼から聞いた言葉を思い出した。

 誤魔化すことが、それの冒涜にもなる。

 

「そうよね……」

 

 誰しもが純心の弓に注目する中、紗夜は自分しか聞こえない小さな声を出す。

 

 それは、まるで何かを認めるような、微かな響き。

 

 異なるのならば、何故、あの聖夜に彼へ贈り物したのか。

 異なるのならば、何故、幾度も彼の誘いに乗ったのだろうか。

 異なるのならば、何故、ふとしたとき彼を思い出すのだろうか。

 異なるのならば、何故、習い事で彼がいるこの場所を選んだのだろうか。

 異なるのならば、何故、彼の母に問われたとき。すぐに駄目なところ言えたのか。

 

 ドイツの詩人、ゲーテ曰く。

 愛する人の欠点を愛することのできない者は、真に愛しているとは言えない。

 愛していないと、言うのは簡単だ。けれども、今日は特別だから。

 待ち望んだ彼が初めて自分の好きなことをできる、祝い日だと言い訳をして。

 紗夜は矢を引く純心を遠くから眺めた。

 

 彼の姿があまりにも美しくて、時が止まった。

 

 その時が再び動きだしたのは、心の中で一つの感情が零れ落ちたから。

 

 貴方に恋をしている。

 

 そう、純心の矢が的を射抜いた瞬間、紗夜は心の中で呟いた。

 

 




余談①
 紗夜さんのお父さんは紗夜さんと同じで犬が好きなので、お母さんを日菜ちゃん似にしました。
 獣殿の母親が美人で驚いてるけど、二人の母親も美人です。紗夜さんと日菜ちゃんの母親だから美人じゃないほうが間違っている。

余談②
 獣殿が放った矢は的を粉砕した。

余談③
「純心、今日から新学期ですか……」

「そうですが、母上。何か問題がありますかね?」

「ランドセルが全く持って似合ってません」






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Zwischenspiel ─Ⅱ

 2か月近く投稿してなくて申し訳ありません。
 短い幕間ですが、本編は一時間後に投稿します。

 


「つまり、彼が初めて弓を引いた日。自分の思いを自覚したわけです」

 

『やっと!?』

 

 それまで散々紗夜から惚気話を聞かされていた四人は絶叫した。

 

「嘘でしょう。紗夜、貴女バレンタインでチョコを渡したと言っていたじゃない」

 

「その時は義理のつもりで渡しました」

 

 平然と答えた紗夜には友希那は呆れる。

 他のメンバーも同じような反応で曖昧な空気になった。

 気持ちが乗った熱愛話だったため、すでに自覚しているものだと思って聞いていたのである。

 

「私はクリスマスの頃には自覚していると思っていたよ」

 

「今井さんの言うとおり、そんな思いはあったのかもしれませんが自覚はありませんでしたね」

 

「あこは音楽会をやる前には付き合っていると思ってました」

 

「あこちゃん、それはさすがに早いんじゃないかな?(自覚をするのは遅いと思うけど……)」

 

「ま、まぁ、ともかく晴れて両想いになって二人は付き合ったわけだね」

 

 リサは戸惑いを残しつつも、話を区切るように紗夜へ確認する。

 これで紗夜の惚気話から解放──もとい、ラブソングを演奏するための恋愛体験談が幕を閉じるだろう。そう思い、四人は一安心する。

 軽い気持ちで聞いたのが間違いだった。

 名目はラブソングを演ずる為と言って、その実、普段自分のことを語らない紗夜の赤裸々な身の上話で花を咲かせようとした結果、予想以上の甘い話に恋愛経験皆無の少女四人はそろそろ限界である。

 リサと燐子は何度顔を赤くしたことか。苦いのが苦手な友希那は珍しくブラックでコーヒーを飲んだ。まだ続けばBLACKSHOUTである。最年少のあこが一番平然といられたが、それでも饒舌に語る紗夜に圧倒されていた。

 

「いえ、まだその頃には付き合っておりません」

 

 お開きかと身構えていた四人に対し、紗夜が爆弾を投下した。

 

「なんでよ、付き合いなさいよっ! 両想いなんでしょう!?」

 

 叫んだのは友希那だった。

 驚く四人に構わず、友希那はバンバンと机を叩く。まさにBLACKSHOUTである。

 

「さっきから聞いてたらじれったいわよ! 向こうが心変わりしたらどうするのよ! すぐ付き合いなさい!」

 

「今は付き合っていますよ?」

 

「私は! 過去の紗夜に言っているのよ!」

 

「友希那、落ち着いて! 言ってること無茶苦茶だよ。ほら、お店の中だし」

 

 リサに諭されて、ここがファミレスだと思い出した友希那は我に返り静々と深呼吸した。

 

「ん。ごめんなさい。少し取り乱したわ」

 

 いつもの調子でクールを装うが時既に遅い。他の席から白い眼が集まる。

 だが、メンバーたちからは咎める視線はなかった。

 出会った頃のRoseliaなら彼女の癇癪に慄いただろうが、付き合いも長くなったので大抵のことなら受け流せるようになっている。

 友希那がちょっと荒ぶっても、よしよし、落ち着こうねと宥めるくらいには成長しているのだ。

 

「確かに、友希那さんの言う通りです。あの頃の私がその言葉を聞いていれば、もう少し早く彼と結ばれていたかもしれません」

 

 そこで紗夜の顔が変わる。恥じらいながら何処か遠くを眺めるような潤んだ瞳。

 四人が今日何度も見て解るようになった、雌の顔だ。

 普段の四人なら胸がときめいたり、驚いたりするところだが、まだ続くの? とげんなりしている。

 

「けど、あの頃の私は──」

 

 そうやって紗夜は四人にお構いなく語りだした。

 四人は観念する。ここまで来たら最後まで聞いてあげよう。

 ファミレスに入ってから二時間が経過した。まだ紗夜のノロケフェイズは終了しそうない。

 




 本編に関係ない後書き。
 遅いですがRoselia新メンバー、志崎樺音さん介入おめでとうございます。これからも応援してます。
 また、明坂聡美さん。今までありがとうございました。これからも声優活動頑張ってください。


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Episode ─Ⅸ【停滞】

 本編です。
 毎度ながら誤字はあとで直す。
 また、物語を進める上で役者不足だったため、何処かの作品にいるようなキャラがチラホラいますが、気にしないでください。
 他人の空似。物語を動かすための歯車。その場限りの脇役なのでタグもつけません。
 まぁ、そろそろチートタグは必要かなと思いますが。


 四月後半。春の陽気で暖かくなったとはいえ、冬の名残で肌寒い日は少なくない。

 空調管理されていない学校の体育館も、入った瞬間は冷えた空気が肌を撫でる。

 しかし、中で数十人の人間がしばらく運動していれば、流石に室内温度はいやでも上がる。

 激しい運動ならば汗も流すだろう。

 殊更に雌雄を決する試合とあれば、熱気も高まるというものだ。

 ダン! ダン! と、バスケットボールが跳ねる。

 篭球(バスケ)の試合であることは、見れば誰もが分かる。

 しかし、これが小学校四年生の授業と言われれば耳を疑うだろう。

 ただ一人、異質な存在。黄金の長い髪を靡かせ、自分より頭一個分低い同級生を四人抜きするとレイアップでゴール。反対コートで見学していた女子たちは彼のプレイを見て歓声を上げた。

 日本人の血が混じっているとは思えない金髪金眼の少年、小笠原(おがさはら)純心(あつみ)は涼しい顔でゴールネットから落ちてきたボールを拾う。

 去年まで周りと比べて平均的身長だった彼だが、外見に色濃く出ている四分の一の異国の血の影響で身長は168センチ。中学生どころか高校生レベルの体格をしている。

 成長期途中で体が大きい場合、その体格に未発達な体の機能がついていけず、ほとんどの人間が鈍重だ。

 だが、純心はそのような醜態は見せない。

 男女の試合を分けるため、ハーフコートにしているが、コート内を縦横無尽に駆け回るその姿は獲物を狩る獅子の如く俊敏である。

 誰も彼についていけず、誰も彼を止められない。

 試合開始から52対0。どちらが彼のチームの得点なのかは言うまでもないだろう。

 ここまで力量差があるならば相手プレイヤーやチームメイトも試合を投げ出すところだ。

 

 しかし、それは純心が許してくれなかった。

 

 別に純心は周りに叱咤激励を飛ばしてはいない。

 ただ、彼の目の前で手を抜くことが恐ろしいことだと植え付けられているのだ。

 ゆえに敵わないと理解していても、不要ものだと分かっていても皆が全力を尽くしていた。

 お陰で試合に出たものは純心以外疲労困憊。次々に動けなくなった者から選手を交代の繰り返しである。

 誰よりも動いている純心が汗一つかいていないのに対し、試合に出た者たちは息を切らしながら体中から大量の汗を出していた。

 

「えっと、次の交代は──」

 

 担任教師、櫻井は困った顔で死屍累々の男子たちを見た。

 女子の試合は体育委員の生徒と純心と同じく学級委員の氷川(ひかわ)紗夜(さよ)に任せて、男子の試合を管理していた。どうしたものかと悩む。

 純心が参加すればこのような光景は目に見えていたのだが、可能な限り彼を特別扱いにしない方針をした結果がこれである。

 毎回このようにしているのではく、クラス内の試合では純心を半分の頻度で審判にしていた。

 それが特別扱いしない限度。今日はその半分の状況だ。

 純心以外の生徒たちが使い潰されれば、教師の櫻井が彼の相手をするのが通例である。

 だが、まだ生徒は残っていた。

 

「先生、あと動けるのは僕たちだけです」

 

 と、小学生には似つかわしくない野太い声と逞しい体が三つ立ち上がった。

 

「じゃあ、頼むよ。万代(ばんだい)不動(ふどう)越知(おちつき)

 

 櫻井の身長は187センチなのだが、立ち上がった三人は彼に迫る身長である。

 即ち、高校生並みの純心よりも大きいのだ。

 顔立ちも小学生と思えぬほど濃い。もはや成人していても不思議ではなかった。最高身長の越知は若さを感じる端正な風貌であるが、それでも一見では高校生と間違われる。

 櫻井は彼らや純心を見ている最近の小学生の発育は凄いなとしみじみと思った。

 限界近い選手と入れ替わり三人を純心が出迎えた。

 

「残ったのは卿ら。今回は随分と早い登場だな」

 

 自分よりも身長が高い三人を見て純心が不敵に笑う。

 彼らの能を学級委員である純心は当然知っていた。皆、体格に見合う身体能力がある。それでも余裕の姿勢が崩れないのは自信の表れだ。

 三人の中で一番身長が高い越知が困った顔を浮かべる。

 

「小笠原委員長が凄いのです。彼らも他のクラス相手ならば蹂躙と呼べる試合を行えたでしょう」

 

 越知の言葉に嘘はない。このクラスは文武両道エリートの集まりであり、その中で純心だけが次元違いで卓越しているのだ。

 また、純心に対してクラスメイトたちは敬語で話す。

 文字通り、彼の存在に敬意を示しているのだ。純心に敬語抜きで話すクラスメイトは氷川日菜だけであり、同学年、他学年を含めてもそれは変わらない。

 その強烈な存在とカリスマゆえに、純心を閣下と敬う人間は多かった。

 だが、大した役職でもないのにそう呼ぶのは可笑しいと純心自身が拒んだため、彼の呼び名は『小笠原委員長』が通例である。『黄金の獣』、『破壊侯』といった異名と比べて平凡極まりない。

 

「それは卿らもだろ。越知はテニス。不動は格闘技。二人とも四月始まりにあった大会で優勝したではないか」

 

「ご存知でしたか」

 

「クラスメイトのことだ。当然であろう?」

 

「恐縮にございます」

 

「万代は相変らず作物にご執心かね?」

 

「ええ。何かと勧誘されますが、私には土いじりが性に合っています」

 

「その優れた体に勿体ないと思うが、卿の人生だ。好きに生きるといい」

 

「ありがたい言葉、頂戴しました」

 

 九歳児の会話とは思えないが周囲の人間にとっては見慣れた風景だった。小学生らしくない言葉に誰も違和感を抱かない。

 だが、今は授業中。しかも、試合中だ。

 

「ほらほら、おしゃべりは後だよ。早く試合をしなさい」

 

「失礼。すぐに位置につく」

 

 櫻井教師に促されて、四人は他の選手と共に定位置に向かう。

 ジャンプボールは純心と越知。

 一瞬、空気が静まり返る中、櫻井教師が手に持ったバスケットボールを放り投げる。

 純心と越知が跳躍した。

 これまでの試合、純心が毎回ボールを制している。

 しかし、今回は彼よりも身長がある越知が相手のため、今回は分が悪いと誰かが思った。

 

 そう思った者は純心を侮っている。

 

 ボムッ! ボールを手で最初に触れたのは純心だった。

 越知がまったく飛べなかったのではない。彼も巨体に見合わず、俊敏な動作と驚異の脚力で高く飛び上がっていた。

 単純に、それら全てを純心が上回ったのである、

 しかし、純心が味方選手に目掛けて弾いたボールは、そのまま味方を吹き飛ばした。純心が越知に勝つ為に先程よりも力を増したので、そのパワーに相手が耐えられなかったのだ。

 人をコートから壁まで吹き飛ばしたボールは不動が拾う。

 不動は越知よりも身長は低いが、体つきは最高三人組の中で一番良い。

 筋肉隆々の肉体が動けば、まるで山が走っているかのように迫力がある。

 

「いかせんよ」

 

「ぬお!」

 

 だが、いつの間にか彼の傍に来ていた純心が彼のボールを奪った。

 響く歓声。そのままゴール目掛けて疾走する純心の前に万代が立ちはだかる。彼は万代、不動と比べて運動能力が劣るも、それでも身体能力は並みではない。

 

 それでも、純心の前では他と変わらない。

 

 万代が反応できない速度ですぐ横切ろうとした彼だったが、進行方向に越知がいた。

 逆サイドには戻ってきた不動が身構えている。

 

「ほう」

 

 面白そうに純心の口端が歪んだ。その反応を見て、してやったと万代がほそく笑む。

 

「幾ら貴方様でもこの壁は通り抜けませんよ」

 

 先にも述べたように、越知、不動、万代の三人組は学年最高。すなわち体格も最大級。三人とも横幅が広く、隙間がほとんどない。

 これがオールコートならば余裕を持ったスペースで彼らを抜けただろうが、ハーフコートのため純心が駆け抜ける空間がなかった。

 

「ちょっと卑怯じゃない! 一人に三人がかりで!」

 

 試合を眺めていた女子の一人が野次を飛ばす。それに呼応して他の女子たちもブーイングをだしてきた。

 自分たちは自分たちの試合を見ろと言いたくなるが、女子の試合は天才少女こと氷川日菜がいるチームが勝つのは目に見えている。

 よって彼女たちは男子の試合、正確には純心にご執心なのだ。

 弾幕のように響く女子たちの暴言を越知、不動、万代の三人組は苦虫を噛んだような顔で無視する。

 何が卑怯か。自分たちは何とかして純心(脅威)に立ち向かっているのだ。お前たちも天災(日菜)をどうにかする努力をしろ。

 

「女子共が騒いでおりますが、貴方様の進軍もこれで終わりです」

 

 52対0の圧倒的点数差。仮に純心からボールを奪えたところですぐ奪われる。

 また、純心には遠く及ばないとはいえ他のメンバーもいるのだ。残りの味方二人が頑張って抑えてくれるが、攻めて来たら彼らも黙っていないだろう。

 更に攻めに転じれば、動きによって隙間が生じ、純心が掻い潜って点を取る危険性がある。

 ここは勝てなくとも、これ以上点を取らせぬように奮闘する姿勢を三人は選んだ。

 

「なるほど。それが卿らの判断か。悪くないと言いたいが──」

 

『!?』

 

 刹那、純心が縦横無尽を動き回ると越知、不動、万代の三人がその場で崩れ落ちた。

 

「三人同時にアンクルブレイクだって!?」

 

 その光景を真っ先に理解した櫻井が驚愕した。

 アンクルブレイクとはオフェンスでドリブルやテクニックなどを使い、相手デフェンスの体勢を崩して転ばせる高等技術だ。

 プロ並みの技術だが、それを三人同時でするなど櫻井は聞いたことがない。

 理解を追いついてない多くの者は摩訶不思議な出来事が起きたように見えただろう。

 あるいはいきなり三人が転げた滑稽な光景か。

 どちらにせよ、純心の前に障害はなくなった。

 

「一つ教授してやろう。壊せぬ壁は存在せぬ」

 

 三人が呆然している間に純心がダンクを決めると、女子たちが今日一番の歓声を上げた。

 

「さて、卿らの番だがどうする?」

 

 純心がまだ床に尻餅をついている越知にボールを放り投げた。

 まだ、何が起こったのか理解できない三人だが、視線を交し合って頷くと共に立ち上がる。

 

「ご教授承りました。ならば僕たちも足掻かして貰います」

 

「よくぞ吠えた。ならば私に一矢報いてみせろ」

 

 

 

 

 その光景を紗夜は女子の試合を管理しながら横目で眺めていた。

 自分たちの試合そっちのけで男子の試合を観戦している女子たちとは違い、彼女は自分の仕事を行っているが、やはり気になるというもの。

 

 少し前まで自覚できず、胸に芽生えた思いに気づいたのはつい最近のこと。

 

 意識しているから自然と純心を追い、恥ずかしくて止めてはまた眺めてしまう。その繰り返し。

 彼女は自分の気持ちに気づいてから、特別行動はしなかった。

 相手は自分に思いを寄せているのだから両思い。早急に心の丈を告げればいい。

 これは勝ち戦だと他人なら思うかもしれない。

 だが、半年近く彼の思いを受け入れず、今更になって好きになったから構ってほしいなど厚かましいのではないかと、紗夜はそう悩んでいるのだ。

 純心はまだ紗夜に恋をしていると口にしているが、もしも、仮に自分から好きになったと言ってしまったら。結局、卿も簡単に靡く女か。そう言われ幻滅される。そんな妄想すらしてしまうのだ。

 そもそも、自分はどうしたいのか。何がしたいのか。彼に何ができるのか。

 あれはこれはと考えては次々に悩みが増えるばかり。

 難しく考え過ぎだと一蹴するのは簡単だ。

 しかし、それで紗夜の悩みを解決することにはならない。

 そもそも、紗夜はこの思いを誰にも相談してない。

 勉強と最近はお稽古。委員会の仕事に家では妹に構う。それが彼女の時間。

 即ち、こういったことを相談できる相手はいないのだ。

 もしもクラスメイトに口を割れば、只でさえ純心に思いを向けられることに反感を持つ女性は少なくないのに、煮え切らない言葉など火に油を注ぐ行為だろう。

 家族だと妹の日菜は恋愛経験ゼロなので当てにできない。そもそも感性が一般とズレている。母親は最終手段。父親は論外。

 結局、紗夜にできることは初恋に戸惑いながら、想い人を眺めて一喜一憂することだけだった。

 

 

 

 

 純心への声援が響く中、一人の少女だけ曇った顔した。

 

 クラスメイトとバスケの試合をしている日菜である。

 

 男子の試合が気になって動きが散漫になっているチームメイトは別にいい。

 最初から当てなどしてないし、一人でボールを持って行ってゴールを決めている。

 日菜のワンマンプレーが目立つが、純心が周りも利用してゴールしているのに対し、彼女は自分だけでボールを回していた。

 対戦相手もチームメイト同様純心の試合が気になりつつ、日菜が対戦相手なのでどうせ勝てないとやる気が感じられない。

 これもいつものことなので気にしない。

 クラスの女子で日菜とまともに組めるのも、相対できるのも姉の紗夜だけだ。

 どちらになっても日菜の気分は高揚していただろうが、大好きな姉は審判。

 更には他の女子よりと比べるまでもなく真面目に取り組んでいるが、紗夜もチラチラと純心を意識している。

 目立つプレイをして姉に褒めてもらおうとした日菜の思惑は、純心の活躍によって阻まれた。

 五人抜きしても、自分陣地のゴール下から相手ゴールにシュートを決めても、丁度姉は純心のプレイを見ていて自分を気にしてはくれない。

 

 苛立ちが募った日菜は閃いた。

 

 ならば、嫌でも目立つ行動をしよう。

 

 相手プレイヤーにボールが渡る。

 日菜はそれを奪うことは簡単だが敢えて見逃して、ゴール前に駆け込んだ。

 いくら敵わないと思っても、点を取られないことは嫌だったのだろう。久しぶりのゴール前に相手プレイヤーはシュートを構えた。

 

 ここだ!

 

 日菜がジャンプする。

 しかし、まだ相手プレイヤーはシュートを撃っていない。

 焦ったなと、それを見た誰もが思った。

 日菜が床へ着地した瞬間を狙って、今度こそシュートを撃とうとした。

 だが、また日菜がジャンプをする。連続ジャンプ。

 

「!?」

 

 咄嗟に止まったが、日菜は連続ジャンプを繰り返す。

 

「るんるんるんるんるんるんるんるんるんるんるんるんるんるん!」

 

 まるで壁のように縦、横と連続で跳ねる日菜。

 跳躍の間隔が全くない。これではシュートが撃てない!

 あまりの奇怪な行動に紗夜と他の女子以外にも、反対側で試合していた男子生徒も含めて彼女のプレイを誰もが目を見張った。

 

「…………」

 

「あっ!」

 

 パシ──パシュッ!

 シュートを撃てないので日菜の相手をしていたプレイヤーは近くの味方にパスを出し、ボールを貰った女子は日菜の死角からシュートを決めた。

 

「くぅ~、せっかくお姉ちゃんに褒めてもらおうと思ったのに!」

 

 大声で嘆く日菜を見て、紗夜は頭を抱えた。

 

「何をしているの、あの子は…………」

 

 四年生になっても、日菜ちゃんは日菜ちゃんのままだった。

 

 

 

 

 引いた弦から指先で放し、弓から矢を放つ。

 矢は的に当たったものの、狙った中央から大きく外れていた。

 結果に内心濁しながらも、紗夜は最後まで射法八節(弓道の基本動作)の最後、残心を行う。

 弓道において的中させることは絶対ではない。

 正鵠を穿つことは素晴らしいことだが、実際の試合では的に当たったか当たらないかで勝敗を判断。ただし、当てた数が同数の場合、遠近勝負、すなわち真ん中に近いほうが勝者という規則もあり、段級審査では的中率も計られる。

 

 だが、弓道において的を狙うという行為は卑しいものだと戒められているのだ。

 

 弓とは無心で引くもの。ただ的を射抜くのではなく、的を射抜くための『行動』が重要なのだ。

 心構えは流派によって多少異なるが、概ねそのように考えられている。

 その在り方が気に入った紗夜は熱心に弓を引いた。

 ある種の精神統一。静穏を好む彼女には打ってつけの競技である。

 逆に妹の日菜は性に合わなかった。

 すぐに弓を引いて、的に的中させることができた彼女であるが、自己完結する弓の世界は彼女には閉鎖的で心に響くものではなったのだ。

 また、小笠原指南所にある習い事の殆どが日菜の琴線に触れなかった。

 合気道は最初こそ乗り気だったが、姉と試合するとなった途端、習うこと自体を放棄。彼女は姉と競うことは好きだが、痛めつけることは嫌悪している。

 他の習い事を悉く合わないと言ってしなくなった日菜に呆れていた紗夜だったが、合気道のときは内心安心した。彼女も練習とはいえ日菜に痛い思いをさせたくはなかったからだ。実際、日菜がまだ続けていてれば痛い目に遭うのは紗夜だった可能性が高いことは余分な話だろう。

 結局、日菜は小笠原指南所で礼儀作法だけを習っている。元々、これだけはと母親は二人の娘に習わせるつもりだったものであり、日菜も覚えことが多いため喜んで通っていた。

 紗夜はというと日菜同様一通り習った後、礼儀作法と合気道、弓道の三つを習っている。

 日菜と違い他の習い事にも興味がなかったわけではないが、全てやると全て中途半端になりそうだと考えたため、妹と同じものと、自衛のための合気道。そして一番肌に合った弓道を選んだ。

 

 弓を選んだ理由の一つで、『彼』の存在がいなかったかと聞かれれば、紗夜は嘘をつくことになるのだが。

 

 自分の番を終えた紗夜は先生に指導を貰って待機場所に戻ると、ある場所に視線を向ける。

 

 静寂が相応しい弓道場で爆音。

 この場でそれを響かせるのは指南所の次期当主である小笠原純心のみ。弓を下ろす姿に見惚れている者は紗夜を含めて多かった。

 大人の指導者たちは苦笑いを浮かべるが、誰も純心に何も言わない。最初の頃は静かに弓を放てないかと声をかけられていたが、己を高める弓道で全力を尽くさないのは誠意がないと論破されたため諦観されている。

 お陰で純心は自由に弓を引けているかといえば、そうでもなかった。

 

「紗夜。調子はどうだ?」

 

 練習が終われば純心は寄ってくる女性たちを避けて、当たり前のように紗夜の傍へやって来る。

 彼に慕っている女性たちから嫉妬の視線が集まるが、紗夜は平気な顔をして応対した。こういったことは学校で経験済みである。

 

「やっと的へ当たるようになってきました。小笠原さんの方は相変らずですね」

 

 紗夜が純心の手元に視線を下ろすと、そこには亀裂が走った弓があった。

 

「加減をしない心情は理解しますが、その調子ではまた壊れますよ」

 

 純心が弓を引いてからまだ一月も経っていないのだが、その間に彼が壊した弓の数は片手では足らない。

 弦が切れることは少なくないが、弓本体が折れることなど滅多にないだろう。

 しかし、純心が持つ桁違いの腕力に弓が耐えられず頻繁に折れているのだ。

 最初は不良品かと思われたが、次々に純心が持った弓が破壊される光景に周りは驚いた。

 五本くらいで慣れたが。

 

「丁寧に扱っているつもりなのだが、昔から加減が苦手だ。これではまた母上に叱られてしまう」

 

「貴方でも叱られるのですね」

 

 彼が叱られる光景を想像して、紗夜は思わず微笑みを浮かべる。

 すると純心は無表情になった。何を考えているのか読み取れない顔だが、一年近く彼と向き合ってきた紗夜にはその内心を読み取る。

 

 これは拗ねていますね。

 

 また顔が緩みかけたが、これ以上は彼に申し訳ないので紗夜は堪える。

 

「笑い事ではない。何度も続けば暫く新調しないと言われた」

 

「それは困りましたね」

 

 純心が弓道に入れ込んでいることを前々から知っている紗夜はどうしたものかと考える。

 それを見た純心はふっと笑った。

 

「卿が悩む必要はあるまいに。壊れたら壊れたで新調したら良いだけだ。誰かが得られなければ自分で得るしかないがな」

 

「相変らず壊れぬように加減して、大切にすることは考えないのですね」

 

「大切にしているからこそ壊れるのだ。替えが利くものなら尚更、遠慮はいるまい」

 

「それで永遠に壊し続けるのですか?」

 

「無論だとも」

 

「本当に仕方のない人ですね、貴方は」

 

 純心が物をよく壊すのは今に始まったことではない。物からすれば堪ったものではないだろうが、それが純心の大切にすること──愛することなのだ。

 

「なら、替えが利かないものはどうするのですか?」

 

「変わらんよ。触れて。愛し。その結果が壊れるなら、砕けた破片を愛そう」

 

 生涯不変。物だろが命だろうが、総てを愛している純心の価値観は変わらない。

 

「そうなると……。貴方に好かれている私もいつか壊されてしまいそうですね」

 

「怖いかね?」

 

 彼は尋ねる。壊すなら壊す。そこに隔てりもない。

 彼を妄信する者は壊してほしいと願う。彼を恐れる者は壊さないでほしいと願う。

 ならば、彼が『恋』する相手はどう答えるのか。

 

「壊されるのは嫌です。ですから、私は壊されてあげません」

 

 少し前の紗夜ならば、壊れる前に逃げるとあしらっただろう

 でも、今は彼に恋をして、触れてほしいと願っている。仮に彼の愛で総てを壊そうとするならば、壊れぬようにあろうとするだけだ。

 実際、純心がその気ならば、紗夜を無理やり愛する(壊す)ことは簡単なはずだ。物理的にも精神的にも力尽くで屈服させ、彼なしには生きられないようにすることは容易い。

 しかし、それはできない。あるいはしないのは単純に惚れた弱みか。壊させないと口にした彼女だから好いたのか。それは純心しか分からないことだ。

 どの道、そうさせない時点で、彼に紗夜を壊すことはできない。

 

「それこそマイン・ゲッティン。再び私は卿に惚れたよ」

 

 何度も聞いたが、久しぶりの言葉に紗夜は顔を赤くする。

 もしもここで自分の本心を告げたらどうなるか。

 それができるなら、とっくに告白しているだろう。だから彼女は照れ隠しをする、

 

「ま、まったく、神聖な道場で何を言っているのですか……」

 

「神聖な道場だからこそ、本音を包み隠さないものだろ」

 

「ほ、本当に、仕方のない人ですねっ。そろそろ帰ります。お疲れさまでした」

 

「ああ、お疲れさま」

 

 恥ずかしくなった紗夜はこれ以上この場に留まれなくなり、逃げるように道場から立ち去る。

 周りに他の人間がいなくなっても純心が見送っていると、背後から彼に近づく人間がいた。

 

「まったく。何時になったらお付き合いをするのですか」

 

 着物を纏った金髪の女性、純心の母親、小笠原莉那(りな)である。

 

「母上。息子の恋路を覗きとは暇なのでしょうか?」

 

「覗かれたくないなら道場の真ん中で陸み合わないでください。私が人を除けなければ大勢に見られたままですよ」

 

「私は気にしない」

 

 平然とする息子に母親はため息をこぼす。

 

「私は気になります。……しかし、貴方も本命には奥手なのですね。無理矢理押し倒さないのは褒めてあげます」

 

「母上。息子の恋路に茶々を入れるほど暇なのでしょうか?」

 

「暇ではありません。ですが、貴方が紗夜さんとお付き合いするのを待ってはいます」

 

「母上は随分と紗夜が気に入ったようですね」

 

「それもありますが貴方が紗夜さんと結ばれないと、知らないところで孫が沢山増えそうで怖い」

 

「母上、私がそのような後先考えずの行動はしてないさ」

 

「小学校入学してから既に火遊びした子とは思えません」

 

 純心の女性問題は当然なら母親も知っていた。

 表立った事件はなく毎度自然崩壊していたが、最初に知ったときは血の気が引いたものだ。

 まさか小学校になったばかりの息子が女性と密接な関係を持つとは思わないだろう。

 

「私は求められたゆえに応じただけですよ」

 

 しかも、本人がこの態度だ。

 来るもの拒まず。彼の総てを愛することを悩みだしたのはこの頃からである。

 

「火遊びしたことには変わりません。紗夜さんに恋をしてからは止めたそうですが、失恋したらまた再開しそうで心配です」

 

「心配せずとも私は紗夜を手に入れる」

 

「凄い自信ですね」

 

 二人の様子に莉奈は脈がないとは思わなかったが、堂々と宣言する息子には呆れる。

 莉奈としても、紗夜は気に入ったので息子の恋が成就することは願っていることだ。

 しかし、彼女が心配していることは、息子が意中の相手と結ばれるかどうかだけではない。

 息子が気づいてないとは思えないが、どうするつもりなのか。

 恐らく、尋ねてもはぐらかされるだけだろうが。

 

 

 

 

 紗夜は弓道着から更衣室に向かうと、自分の服がなかった。

 

 一瞬戸惑ったが、すぐに理解する。

 

 少し離れた場所でにやけた顔した数人の女子がいたからだ。

 見た目の年齢は自分と近いが、ほとんどが年上。中学生もいるかもしれない。

 大方、純心に言い寄られている自分への嫌がらせだろうと、紗夜は嫌悪を抱いた。

 学校では純心の傍に相応しいと思われるだけの実力を紗夜が周囲に見せていたので、嫉妬はされても酷遇なことはされなかった。

 だが、この指南所では紗夜は新参者であり、学校と変わらず羨望の的である純心から特別扱いされている彼女は彼を慕う女性たちにとって面白くない存在だ。

 他人を妬む気持ちが悪いと紗夜には言えない。彼女もそういった気持ちがあるからだ。

 

 しかし、腹いせに陰湿な行為をしても、許される理由にはならない。

 

 体の熱が高まる。けれども、紗夜は憤りを腹の奥深くに抑えた。

 彼女たちに文句を言うのは簡単だ。だが、証拠もないのに食って掛かるのは愚行。

 例えば彼女たちを問い詰めている最中に何処かから自分の服を取り出されれば、向こうの良いように難癖をつけられるだろう。

 ならば、このまま黙って帰るか?

 否。妹や母に心配はさせぬし、人を貶めた者供から逃げるつもりもない。

 ここには自分と彼女たちしかいない。紗夜は敢えてこのまま動かず、痺れを切らした向こうから接触があるまで待つか考える。

 会話の中で言質を取り、相手の口から犯行を供述させてから実力行使してからも遅くはない。

 紗夜は悪戯好きの日菜を注意するため尋問する技術は昔から養われている。

 口ならば妹よりも姉の方が上。幾ら年齢を重ねようとも単に日々を生きた人間では紗夜を論破できない。

 逆上して暴力を振るってきたら、絶対に相手(・・)を怪我させないようにする。

 騒ぎになって誰かが駆け付けた時、どんな状況であれ怪我をしている人間が被害者だ。

 次に、口の数が多いのが正論になる。怪我をしているのが紗夜と相手側の両方ならば、数が多い向こうの言い分が通る可能性が高い。

 だが、相手側が一切怪我もせず、紗夜が一方的に嬲られているような状態ならば形勢は圧倒的に有利だ。

 最悪の状況は暴力沙汰になった時、騒がれないように紗夜が鎮圧される。そうならないように、できる限り冷静であろうと集中した。

 そうやって一向に動きを見せない紗夜に、服を隠したと思われる女子たちが訝しみ、痺れを切らして自分たちから近づこうとした時だった。

 

「よかった! まだ、ここにいたんだ!」

 

 

 更衣室に第三者が現れた。紗夜に近づこうとした女子たちは立ち止まり、一人が舌打ちをする。

 紗夜はやってきた人物を目で確認した。

 見た目は自分よりも年上。身長は高く、紗夜にはない何より豊満な胸があった。服装はゴシックタイプの私服であるが、弓道場で何度か見かけたことのある顔だ。

 彼女は安心したように紗夜まで近づくと、手に抱えていたものを見せた。

 

「ねぇ、これって貴女の服じゃない?」

 

「あっ!」

 

 声を上げたのは紗夜ではなく、固まっていた女性たちだ。

 口が滑ったと気づき、素知らぬ態度を見せても遅い。紗夜は疑心を確信に変えて、彼女たちを警戒しながら目の前の女性に応じる。

 彼女が持ってきたものは無くなっていた紗夜の服で間違いなかった。

 

「はい。そうです。無くなっていて困っていました」

 

「そうか、よかった~」

 

「お尋ねしますが、何処にありました?」

 

「そこにいる連中がごみ箱に捨ててたよ」

 

『はぁ!?』

 

 声を荒上げたのは紗夜ではなく、指で示された女性たちだった。

 

「何を証拠に言ってのよっ!?」

 

「私がその現場を見てたからよ。あっ、一応目立った汚れはないか確認したからね。一回ゴミ箱に入ったから安心はできないかもだけど」

 

 少女は一度紗夜に振り返って説明してから、ジト目で女子たちを睨んだ。

 

「ちなみに証拠は携帯で写真を撮ったから」

 

 その少女の言葉で顰め面だった女子たちの顔色が一気に悪くなる。

 

「消されたら堪ったものじゃないから見せないけど」

 

「うぅ…………」

 

「大方、純心くんと仲良くしてたのが気に入らないからしたんでしょうけど、小学生相手にやることが陰湿なのよ。そこのアンタ、中学生でしょう?」

 

 苦渋の表情を浮かべるしか反応しない女子たちに彼女は鼻で笑った。

 

「大体、こんなことしたらスグにバレるわよ。もしも純心くんが知ったらどうなるだろね。彼、紳士だけど、甘くないわよ」

 

『!?』

 

 瞬間、顔色を悪くする。

 純心が総てを愛していることは指南所でも周知されているが、彼が彼女たちの所業を知れば、愛されながら(・・・・・・)処断されるだろう。

 かつて指南所に通う生徒相手に不逞を働いた不審者がいた。

 偶然、その場にいた純心はその不審者を笑いながら叩き潰したのだ。

 そこに一切の嫌悪もなく、感情は愛しかない。

 純心にとっては悪戯をした我が子を諭すような感覚で、再起不能にしている。

 暴力以外でも、この指南所で問題を起こした者に対し、社会復帰不可能のレベルまで追い詰めた噂もあるのだ。

 その異様な存在だからこそ、彼女たちは年下ながら純心に惹かれ、同時に恐れている。

 

「う、あ………」

 

 今更ながら、自分たちの浅はかな行動に気づいた少女たちは恐慌状態になった。

 青ざめた顔で涙目を浮かべる彼女たちに、紗夜はどちらが被害者だったのか分からなくなる。

 

「もういいです。今回は見逃してあげます」

 

 紗夜は溜息の後、そう言った。

 その言葉に周囲の人間が驚き、紗夜の服を見つけてくれた少女も首を傾げる。

 

「いいの?」

 

「貴女のおかげで服は戻ってきましたし、再犯がなければ事を荒げる必要もありません」

 

 許したわけでないが、みっともない彼女たちに同情した。

 また、好いている男の子が彼女たちに制裁を与えるかもしれないと考えると、気分が悪くなる。彼の性分は理解しているが、できればそんなことはしてほしくない。

 

「ですが、次はありませんから──」

 

「!?」

 

 紗夜が鋭く睨むと、犯行に及んだ少女たちは凍えたように固まる。

 自分たちよりも年下であり、彼に慕われているだけの生意気な小娘と侮っていたが、氷のような瞳に見つめられて、その考えを改めた。

 普通なら泣き寝入りか怒鳴り散らすところを、少女は冷ややかに自分たちを見つめている。

 双子の妹が普通でないことを知っていたが、彼女も普通ではない!

 

「……もう、いいですから何処かに行ってください」

 

「っ────」

 

 その言葉で紗夜の視線から解放された少女たちは、逃げる様にその場から去った。

 残されたのは紗夜と服と見つけてくれた少女のみである。

 

「いや、すごいね。貴女」

 

「? 何がですか?」

 

 いきなりの称賛に紗夜は戸惑っていたが、少女は先程見せた彼女の態度に感心しているのだ。

 

「だって、服が隠されたのにああやって冷静に許しちゃうなんて私にはできないよ。ねぇねぇ、本当に小学生?」

 

「疑われるのは心外ですが、正真正銘の小学生です」

 

「ふえぇ~。純心くんといい、最近の小学生は大人だね」

 

「彼と同類なのも心外ですね」

 

 とは言った紗夜であるが、外見は純心と違い年相応であるものの、精神年齢は同等に近い。

 これは元からトラブルメーカーである双子の妹の付き合いでしっかりしていた所に加えて、去年は更に精神構造が複雑な純心とも絡んでいたゆえの成長だった。

 

「それはそうと、服を見つけてくれてありがとうございます。また、貴女が間に入ってくれたお陰で事を荒げることもなくなりました。私だけでは一騒動になっていたでしょうね」

 

「気にしないで。悪いことを見過ごすのはできない性分なのよ」

 

「それはとても素晴らしい心構えです」

 

 他人の悪事を見て、見ぬ振りをする人間は多い。

 それは自分の保身ゆえだ。下手に関われば、自分にも危害が及ぶかもしれない故の防衛本能。少なくとも紗夜はそう思っているので、もしも彼女が紗夜を見捨てていても恨みはしなかった。

 だからこそ、彼女の行動に敬意を感じる。

 

「そういえば自己紹介がまだだったね。私の名前は沖田(おきた)紗羽(さわ)。貴女と同じここの弓道教室に通っている中学三年生だよ」

 

 自己紹介されて、改めて紗夜は少女、沖田紗羽の姿を確認した。

 顔は整っており、年齢にしては高い身長。とはいえ純心などを比べると常識の範囲内だ。胸の方は小学生の紗夜と比べても仕方ないが、随分と豊満に育っている。

 綺麗な女性だと思った。

 虐めを見過ごせないところから気性が強いと分かり、紗夜にとって好ましい人物である。

 

「沖田さん、ですか。私のことは先程の口振りでご存知かと思いますが氷川紗夜と申します」

 

「うん、知っているよ。純心くんと仲が良いから──、顔は覚えちゃうよ」

 

 少し奥歯に物が挟むような言い方をしてから、紗羽は微笑んだ。

 目立つことは分かっていたつもりだが、改めて人に言われてしまうと紗夜は恥ずかしくなる。

 でも、好いている相手と仲が良いと思われるのは、少し嬉しい。

 

「ま、まぁ、同じ学校に通って、クラスメイトですから」

 

「だけじゃないでしょう? 純心くんから熱烈なアプローチをされてるじゃない。彼って、さっきの子たちのように年が離れた相手からも好かれているんだよ。そんな漫画の王子さまのような子から思われてるなんて、羨ましいなぁ」

 

「そう言われましても、どう答えていいのか困ります」

 

 純心は紗夜への好意を隠してないので、そこも周知されているのは察していた。

 好意に関しては、以前は兎も角、自分も心の奥では彼のことを想っているので正直嬉しい。

 しかし、他人から改めてそれを言われると、仲が良いと言われる以上に羞恥心が込み上げてくる。仮に曝け出す度胸があれば、とっくに純心へ告白でもしているだろう。

 そうやって、紗夜が顔赤くして困っていると、それを見た紗羽はにんまりと笑った。

 

「その様子だと満更じゃないかな?」

 

「いえ、それは、なんと言いますか」

 

 助けてもらった相手だが、今日あったばかりの人間に秘めた思いを白状できる紗夜はではない。

 しかし、このような話は不得手なため、大人相手でも交渉できる紗夜はしどろもどろになった。

 そんな紗夜の様子を見た紗羽は名案を思い付いたように、目を輝かせる。

 

「ならさ、今からオヤツ食べに行かない? カフェとかで。勿論、奢るよ。お姉さんだからね」

 

「え?」

 

 まさか、この話の続きを逃げる場所をなくしてするのか。

 訝しんだ紗夜だが、そんな彼女の様子に気づいた紗羽は警戒を解くように微笑みかけた。

 

「安心して。貴女が嫌なら興味あるのは嘘じゃないけど、これ以上は聞かないよ。むしろ、貴女のことを話したいな」

 

「私のこと、ですか?」

 

「うん、そう。私、貴女のことに興味が湧いたの。だから、お話。嫌なことがあったわけし、甘いもの食べてガールズトークしよう」

 

「ええと……」

 

「ああ、無理ならいいよ。強引過ぎると悪いしね」

 

「……いえ、門限までであればお誘いを受けます」

 

 申し訳なさそうにした紗羽を見て、紗夜は彼女の提案に乗ることを決めた。

 単に今日あったばかりの人間なら断っていただろうが、相手は窮地を助けてもらった者でもあり、それを邪険に扱うのは躊躇いを感じる。

 必要以上踏み込まないのであれば少し話をするくらいならいいだろう。

 紗夜としても年齢が離れた女性と会話するのに興味がないわけではない。

 別にオヤツに惹かれた訳ではないのだ。

 紗夜が照れ臭そうに頷くと、紗羽の顔が花咲いた。

 

「! よし。決まり! じゃあ、早く着替えて行こう! 私も門限があるからね」

 

「わかりまし──、って、なに服を脱がそうとしているんですか!?」

 

「いや、着替えるのを手伝うと思って。お姉さんだから」

 

「そこまで子供じゃありません!」

 

 




 書いた分が長かったため分割しました。
 物語の進展は明日で。


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Episode ─Ⅹ【伝心】

 前回の分割分なため、短め。


 指南所の紗夜の服が隠された一件以降、それ以上の危害は彼女の身に及ばなかった。

 相変らず嫉妬の目があるが、報復を恐れてか誰も彼女に手は出さない。

 これは、あの一件以降結んだ沖田紗羽との親交も影響している。紗羽は男勝りな性格なため、些細な悪口も見逃さなかった。

 お陰で紗夜は問題なく指南所に通っている。

 そして、紗夜と沖田紗羽とは随分と仲良くなった。

 互いの名前に同じ字を見つけて親近感を抱き、日菜も交じって、数度遊んでいる。

 今日も練習帰りに、近くのコンビニでお菓子を買ってから公園でお喋りをしていた。

 

「すごいね、二人とも。毎回テストの点数が満点だなんて」

 

「別にそれくらい普通だよ」

 

 紗夜からこの前あった学校のテストの話を聞いた紗羽の称賛に対し、日菜は素っ気なく返した。

 三人一緒にいるが、別に日菜は紗羽に懐いたのではない。

 大好きな姉が別の人と遊んでいるのに拗ねて、半ば無理やり交じっているだけだ。

 

「はぉ、さすが天才少女。言うこと違うね」

 

 妹の態度に一言文句を言いたかったが紗夜だが、紗羽は軽く笑っているので押し黙る。

 日菜の態度を紗夜は気にしたが、紗羽は別に気にしなかった。

 曰く、懐いてない猫を靡かせるのも楽しいとのこと。

 そういう大らかさは紗夜が持っていないところなので、素直に尊敬した。

 

「あっ、そろそろ帰る時間かな。そろそろ私は行くね」

 

 時計に気づいた紗羽が帰り支度を始める。

 夕方になる前だが彼女の家は遠いため、帰宅時間が早いのだ。

 

「……大変だね、遠くから」

 

「いつもご苦労さまです」

 

 紗夜が労い、懐いてない日菜もこれには同情している。

 紗羽の家は県を跨いだ随分と遠方にある。態々、遠方の小笠原指南所まで通っているのは親同士の付き合いだからだそうだ。

 一度、遠くまで通うのは苦ではないかと紗夜が尋ねたことがあったが、自分が住んでいるのは田舎なので都会に近い場所に行けるのは嬉しいとのこと。

 

「よし。では、また今度ね!」

 

「うん、ばいばい」

 

 ちゃんと挨拶をするあたり、日菜も徐々に気を許しているようで紗夜は安心する。

 

「お疲れ様でした」

 

 紗夜も挨拶をして見送り、自分の変化を貴ぶ。

 まさか、年上の女性とここまで親しくなれるとは思わなかった。

 これも沖田紗羽の社交性が高いからであり、人付き合いが苦手な紗夜だけでは無理なことだ。

 あの時、逆の立場であったら。紗夜は悪戯を見過ごさなかっただろうが、そこから被害者と交流を深めようとは思わなかっただろう。

 紗夜は姉という立場であるが、もしも姉がいたらこんな感じなのかと想像するくらいには、彼女は紗羽に心を許していた。仮に日菜と立場が逆転しても、ああいう性格なので同じにはならないだろう。

 

 変化といえば、変わらず純心との関係は進展なし。

 

 会話もするし、嫉妬をされるくらいには仲がいいと思う。

 しかし、紗夜は勇気が出せず、切欠も作れない。

 かつては純心の悪癖を知りながらも、告白していった女性たちを愚かだと思った。

 そんな過去の自分に、紗夜は恥ずかしくなる。

 彼女たちは皆、後先のことは考えなくとも、告白する勇気はあったのだ。好意を受けながら応えられない臆病な自分よりも尊敬できる。

 だが、分かっていても紗夜は動けない。

 もう少ししたら紗羽に相談でもしようかと、燻ぶったまま月日は流れる。

 紗夜に更なる変化が訪れたのは、純心が十本目の弓を使い潰した時だった。

 

 

 

 

「しばらく弓道禁止、ですか……」

 

「ああ、自分で買っても道場は使わせてくれぬようだ」

 

 小学校の昼休み。昼食を終えた教室にて、自分たちの席に座ってやった取り留めのない会話でのことだ。

 なお、誰かの作為的なものか、純心と紗夜の席は隣同士である。

 純心が何本も弓を破壊した反省として、彼の母親から弓道禁止を言い渡された。幾ら自分の力に弓が耐えられなくても、そろそろ加減を覚えなさいと叱られたそうだ。

 

「別に家のじゃなくでも、違う場所で引けばいいじゃない」

 

 紗夜を間に挟み、座って話を聞いていた日菜が気軽にそう言うと、純心は苦笑した。

 

「近所の場所でやっても、母上にすぐ知られる。そもそも、隠れてやる気などないさ」

 

「えぇ……、獣殿。あれだけ弓道楽しみにしてたじゃん。我慢できるの?」

 

 日菜の言葉は紗夜も同感である。

 純心が前々から弓道を好んでいたことを知っている姉妹たちは、加減知らず、我慢知らずの彼が平気なのかと訝しんだ。

 

「思うがままに行った結末だ。悔いはない。ゆえに後ろ暗く日陰で引くつもりはない」

 

 憂いた表情を見せない純心を不思議そうにする日菜。彼女は我慢弱いので、彼の考えが理解できないのだろう。

 逆に紗夜は仕方ないと思いつつも、純心らしいと納得した。

 好意を自覚してから、彼に対して肯定的意見を持つことが多くなったが、絆された為に正当な判断ができていない訳ではない。

 より深く惹かれたからこそ、彼の思想を理解しているのだろう。

 

「けど、お咎めがなくなった後でまた壊せば同じことの繰り返しではないですか?」

 

「だろうな。そうならぬ為に今度は手間をかけて頑丈な弓でも作らさせるさ」

 

「……一番、最初の弓が貴方に合わせて丈夫に作られたオーダーメイドだったと記憶していますが?」

 

「そうだ。あれが一番長持ちしたゆえ、それ以上を作れないかと考えている。それまでは廃棄処分行きの弓を道具屋で探し、使い潰すつもりだ」

 

「あははっ、それって毎回弓が壊れそうだね!」

 

「そんなことをしたらまたすぐに禁止されますよ」

 

 常に悠然なる純心にからからと笑う日菜。二人に挟まれて呆れる紗夜。

 昼休みのこの教室で定番の風景である。

 

 

 

 

 そのまま放課後。

 下校時刻になれば帰る場所が一緒の日菜は当然紗夜と一緒に帰ろうとし、純心が紗夜に一緒に帰らないかと誘うのが常だ。

 それで途中まで三人で帰るときが多いが、偶に日菜が純心の同行を拒否するときがある。

 純心がいると紗夜が日菜を構う時間が減るので、おねーちゃん分が不足(日菜談)している際は二人きりで帰ろうとするのだ。

 すると純心は大人しく引き下がる。内心両想いとはいえ、互いの関係は友人止まり。姉妹睦まじい時間を壊してまで、無理矢理同行するほど彼は不作法ではない。

 つまり、紗夜の下校は用事がなければ、二人に為されるがままだ。

 そして、今回は用事がある。

 本日は姉妹だけで帰宅するが、その前に紗夜は担任の櫻井に聞きたいことがあると言って日菜を職員室前に待たせ、丁寧に挨拶して入室する。

 

「失礼します。櫻井先生、少しお時間頂いてもよろしいですか?」

 

「うん? 大丈夫だよ。なんだい、氷川?」

 

 突然の来訪に少し驚きつつも、紗夜の担任である櫻井は嫌な顔を一切見せず、優しく微笑んで出迎えた。

 櫻井は基本的苗字で生徒を呼ぶが、兄弟、姉妹が同時にいる場合は名前で呼ぶ。今回は紗夜だけなので氷川と呼んだ。

 

「以前、先生の実家が鍛冶師だった話をされましたが、お間違いないですか?」

 

「そうだね。祖父の代で終わったけど」

 

 それは偶然、櫻井がクラスメイトの男子と会話しているときの話だ。

 盗み聞きするつもりもなかったのだが、男子生徒たちが五月蠅かったので紗夜が注意すると、いつの間にか会話に彼女も交じっていたのだ。

 曰く、彼の祖父はとても腕の良い鍛冶師であり、実家の倉庫には彼が鍛えた刀剣類。資料で集めた武具が数多く存在するらしい。

 祖父が他界した後、武具の幾つかは博物館へ寄付したそうだが、まだ倉庫には武具が残っており、それを聞いた男子生徒たちが見たい欲しいなど騒いだのだ。

 櫻井は危ないから見るのも却下したが、それを踏まえた上で紗夜は話を持ちかける。

 

「まだ実家の倉庫には幾つか処分待ちの道具が残っているそうですが、その中に要らない弓はありますか?」

 

「弓かい?」

 

 紗夜の言葉に少し驚いた櫻井だったが、すぐ納得したように頷く。

 

「いくつかあるね。殆どが試しで作った粗悪品と資料価値もない骨董品だけど。

 氷川は小笠原の道場で弓道を習ってるね。そのためにお古が欲しいのかい?」

 

「いえ、私ではなく、彼、小笠原さんの分で……」

 

「小笠原の分? 弓道もしている実家なんだから、自分の弓は新品を既に持っていると思うけど」

 

「彼、弓を壊してしまって。今度はより丈夫なものを準備するそうですが、その間に使う、壊れても平気な古い弓を探しているそうです」

 

 弓が壊れるなど乱暴に扱わなければないことだが、体育での純心を見れば彼がどう壊したのか櫻井は容易に想像できた。

 

「……話は分かったよ。つまり、要らない弓を小笠原に譲ってもらえないかと、そういうことだね?」

 

「図々しいとは承知ですが」

 

「別にそこは構わないけど。なんで小笠原じゃなくて氷川が頼むんだい? 彼が使う分だろ?」

 

「彼にこのことを話す前に、実際譲れるか確認するほうが先だと思ったからです」

 

「期待して落ち込むような人じゃないと思うけど。なるほど、氷川の言いたいことは分かった。

 つまり君は、小笠原のためにお願いしてるんだね」

 

 改めてそう櫻井に言われた紗夜は戸惑う。

 確かに彼女の行動は純心のためであるが、はっきり言われてしまうと反応に困った。

 

「……そうですね。あの人には普段、何かと良くしてもらっているので。少しは助けになりたいと……余計かもしれませんが」

 

 紗夜は一つ一つ言葉を出す度に苦しくなった。

 自然にやったことだが、今は打算で行動しているように感じ、自分で恥ずかしくなる。

 そもそも、紗夜が動かなくても純心は一人で勝手に解決するだろう。

 尤もらしい理由をつけて世話を焼くのは烏滸がましいのではないか。

 

「余計なことでも、悪いことじゃない」

 

 彼女の苦悩を見透かしたのか、櫻井は強く言う。

 

「余計でもいい。打算でもいい。大事なのは相手を大切に思っているかだと僕は思う」

 

「先生……」

 

「難しく考えるのは氷川の悪い癖で、良いところだ。だから今回は彼の助けになりたい、それだけを考えればいいと思うよ」

 

 櫻井は優しく微笑んだ後、机にあるカレンダーを一瞥して予定を確認した。

 

「予定だと今週末には寄れるな。うん、弓なら来週にでも持って来れるよ」

 

「え? いいのですか?」

 

「お願いしたのは君だろ。どうせ処分に困っていたものだし、捨てるくらいなら壊れても使ってもらったほうがいいさ。僕も整理できるし、小笠原も助けになるし、一石三鳥だね」

 

「そこは一石二鳥の間違いじゃないですか?」

 

「君も得するだろ? これでもっと小笠原と仲良くなるかもしれない」

 

 下世話と承知の上で櫻井が言った途端、紗夜は顔を真っ赤にして俯いてしまう。

 青春だな。そう思う自分が歳なのだからだろうと櫻井は自虐した。

 このまま独り身でいるかと彼は妹に心配されているが、最早手遅れだろう自答する。

 剣の道。介護の道。どれも惹かれたのは間違いないのに、今は教職でいる自分はきっと優柔不断なのだ。これでは誰も寄り添ってはくれないと思い、しかし、無念ではない。

 自分で選んだのだ。こうやって子供を導くことは彼の中で本望だった。

 妹には文句を言われるだろうが、生涯仕事一筋なのも悪くない。

 

 そんな教師、櫻井戒だが数年後、異国から来た女子高生に言い寄られることになるのだが、今は関係ない話である。

 

 

 

 

 数日後。櫻井は約束通り、弓を持ってきた。

 布に包まれた弓は何でも昔、神の使いを射殺したという曰く付きだそうだが、価値を高めるだけの与太話だろうと、持ってきた櫻井も笑っていた。

 しかし、虚偽とはいえ、大層な曰くを与えられるくらいには見てくれは立派な弓である。少しだけ布を剥がすと、中から白銀のような輝きが見えた。

 とても廃棄に困った品とは思えないが、博物館に引き渡しては何故か出戻りを繰り返しているので、貰ってくれたら助かるとのこと。

 放課後に紗夜は櫻井から弓を受け取ると、早速、純心に届けることにした。

 純心は家で少し用事があるため既に帰っており、いつも紗夜についてくる日菜は何とか一人で帰らした。妹の前で渡すのは恥ずかしいからである。

 両手で布に巻かれた弓を持った紗夜はゆっくりと純心の家に向かう。

 

 ……やっぱり、重いですね。

 

 移動が遅いのは手に持った弓の重量ゆえだ。成長しても紗夜には片手で扱えるものとは思えない代物である。

 受け取ったとき、紗夜が苦しそうにしたので櫻井が届けるのを手伝おうとしたが、彼女はせめて自分の手で渡したいと言い張った。

 何度か休憩してから、ようやく紗夜は純心の家である小笠原指南所に辿り着く。

 入口に向かうと、丁度外出するところだった純心の母、莉奈と遭遇した。

 彼女に小笠原さんはいますかと尋ねると、今は稽古の休憩中なので声をかけたらいいと、快く屋敷に招いた。

 一か月以上通えば紗夜一人でも迷いなく歩ける。踏み入れていない場所も多いが、純心がいる場所は何度か足を踏み入れた茶道場なので問題ない。

 擦れ違った人間に挨拶しながら少し歩くと、目的の場所近くまで辿り着く。

 

 あっ……。

 

 心の中で紗夜は少し驚いた。

 丁度よく外で休憩中だったのか、袴姿の純心を見つけたのだ。

 建物と景観のため植えられた木々かの隙間からだが、あの金色の髪は遠くからでも目立つ。

 向こうは気づいてない様子なので、声をかけようと更に足を進めると、純心の傍で別の人間がいるのを見かけた。

 

 沖田さん?

 

 何やら沖田紗羽が純心と話をしている。

 紗羽が弓道をしており、これまで二人が会話しているのを何度か見たことあるので珍しい組み合わせではない。

 ただ、彼女は遠方に住んでいるので、稽古する日以外で道場にいるところは初めて見た。

 会話の邪魔をしたら悪いかと悩んで、紗夜は一旦立ち止まった。

 すると、徐に紗羽が純心に近づき、そのまま彼の体にしがみついた。

 

「え───」

  紗夜は声を出して、立ち尽くす。

  現状に思考が追い付かず混乱する彼女を他所に、紗羽は純心に口づけをした。

 



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Episode ─ⅩⅠ【天之麻迦古弓】

 誰かが口づけをする光景を見たことはある。

 ドラマや映画でのワンシーン、いわゆる作り物の風景であるが。

 知人、ましてや好きな異性が自分ではない人間とするところなど、想像すらしなかった。

 我知らず、紗夜は物陰に隠れる。

 幸い、建物が犇めく場所だったので隠れるのには困らない。

 別に自分は悪いことをしてないのに、見てはならぬものを見たようで、酷く動揺した。

 だが、この心臓が暴れている理由はそれではない。

 動悸を抑え、紗夜は身を隠しながら目撃した二人の様子を確認する。

 揺さ振られている胸に、一刺しの痛みが突き刺さった。

 見間違いではない。小笠原純心が沖田紗羽に口づけをされている。

 片や、自分が好いている男の子。片や、最近親しくなった女性。

 

 裏切られたような気分だった。

 

 相手は自分を好いているのに。それを知っていて何故彼女はそんなことをするのかと。

 そこまで思って、紗夜はその怒りは理不尽なものだと気づく。

 別に、純心が紗夜を好いており、紗夜が彼を好いているとしても、公の関係は只の友人だ。

 紗夜は彼に思いを伝えてないし、その思いを紗羽に話してはいない。

 仮に紗羽が紗夜の想いに気づいていても、応援するといった約束をしてなければ裏切りでもないのだ。

 そこまで理屈を理解した紗夜だが、感情は理不尽であると叫び、嘆きは抑えられない。

 

 彼女も純心を好いていたのか?

 では、何故、紗夜に優しくしたのか?

 

 純心を好いているならば、紗夜は目障りな存在なはずだ。

 少し前、紗夜の服を隠した少女たちと同様の行動をしなくても、見捨てることはできた。

 それをしなかったのは彼女の性根か。

 紗夜の見誤ってなければ、沖田紗羽という人間は純潔である。だから、心も許していた。

 見知らぬ相手ではなく、彼女だからこそ、ここまで動揺しているのかもしれない。

 

「突き放さないんだね……」

 

 唇をゆっくりと放すと、両手で持たれながら紗羽は切ない瞳で純心を見上げた。

 紗羽の方が五つも年上だが、純心が長身のため二人の背丈は近い。

 見た目の年齢も互いに近いため、傍から見れば似合いの二人にも見える。

 

「私は総てを愛している。誰にも無下にはせぬさ」

 

 突然口づけをされた純心は動揺せず、悠然としたままだ。

 聞きなれた言葉で見慣れた態度。女を虜にさせる魔性の微笑み。間近で眺めた紗羽は顔を火照らせ、遠くで見ていた紗夜を不安にさせた。

 

「紗夜ちゃんが好きなのに?」

 

 自分の名前を言われ、紗夜の鼓動が一瞬で跳ね上がる。

 次に純心の返した言葉は彼女の予想通りのもの。

 最初は戸惑い、次に呆れ、次第と慣れ、今は苦しさが募る答え。

 

「無論だ。私の愛は変わらない」

 

「──そう。相変らず、八方美人なんだから……」

 

 尖った言葉とは裏腹に、紗羽は嬉しそうに微笑む。

 

「なら、前みたいに愛してくれる?」

 

 紗羽は持たれ掛った両手を放し、そのまま純心の腰に腕を回す。

 

「やっぱり、忘れないの。特別な誰かができても、君の愛が変わらないなら触れてほしい」

 

 最早、限界だった。

 紗夜は立ち上がると駆け出してその場から去った。

 

 

 

 

 気がつくと紗夜は公園のベンチに座っていた。

 手元には担任から譲り受け、純心に渡すはずだった弓がない。

 あの場所に放置したままだろうが、取りに戻る気力もなければ、このまま帰る気力もなかった。

 考えるのは彼女が逃げ去って見ることを拒んだ、あの光景の続き。

 きっと、彼は彼女の愛を受け入れるのだろう。

 純心が総てを愛していることは分かっていた。分かっていたつもりだった。

 しかし、直接的な行為を目の当たりにして、それが浅はかな理解だと知る。

 

 嫉妬した。嫌だと思った。

 

 自分が卑しくて、醜くて堪らなかった。

 これでは彼を好いている女性から憎まれても仕方ない。

 あの下種な行為が許されることではないが、される云われはあると許容できる。

 彼の好意に甘んじていた自分は見ていて気持ち悪いものだったはずだ。

 あの人が総てを愛しているのはいい。そういう彼だから紗夜は好きになったのだ。

 だが、自分以外の誰かに触れてほしくなかった。

 理解者気取りでその実、度量の狭い小娘だったというわけだ。

 こんな自分では、彼の隣に並び立つことなど相応しくない。

 それは嘗て、純心に想いを告げられたとき考えたことだ。

 ならば、自分ではないとは誰なのか。

 あの、彼の愛を寛容しながらも愛する、沖田紗羽であれば見合うかもしれない。

 

「いやぁ……っ!」

 

 瞳から零れたのは、大粒の涙だった。

 総てを愛しているからこそ惹かれたのに、誰かを愛しているのを耐えられない自分はあの人の隣にいるべきではないかもしれない。

 でも、零れる涙は諦念の表れでなく、悔しさと飢えの輝きだった。

 自分には彼の愛を認めても、彼が誰かに触れることを我慢できるほど鷹揚ではない。

 だが、彼を渇望している気持ちは増すばかりだ。

 ここで簡単に敗北を受けられる少女ならば、天才の妹に追いつこうともがくこともしなかった。

 意固地で、不器用で、負けず嫌い。

 純心や日菜のように生まれた時から太陽や黄金のような存在ではないけれど、暗闇の中でも輝きを見出そうする様は夜空の星々のようだ。

 眩さはなくとも、美しい光である。

 ごし、と乱暴に袖で涙を拭う。

 俯いた顔を上げて、紗夜は空を見上げた。

 あの人──沖田紗羽や他の誰かが純心を愛しても関係ない。

 純心が誰を愛してもかまわない。

 紗夜は立ち上がるとここまで来た道のりを戻る。

 これから純心に会う。走った。まだ、あの女の人がいるかもしれない。かまわない。立ち寄れる空気ならばどうする。それならば壊すまで。

 彼が特別だからと言ってくれたからではなく、自分こそが彼の唯一であるために。

 もうすぐ、純心の家にたどり着く。

 すると、向こうの方から見慣れた人影が見えた。

 

「紗夜ちゃん?」

 

「──沖田さん」

 

 沖田紗羽に呼び止められ、紗夜は臆せず立ち止まる。

 数分前の紗夜ならば、彼女を見た途端怯えたように逃げ出しただろう。

 逆に紗羽は必死の表情である紗夜に只ならぬ空気を感じ取り、動揺している。

 

「どうしたの? あ、もしかして急いでいるところ呼び止めちゃった?」

 

「いえ、かまいません」

 

 紗羽が申し訳なさそうに顔を曇らせると、紗夜は首を横に振った。

 その反応に少し安堵した紗羽は、彼女に問いかけた。

 

「なら良かったけど。これからどこに行くの?」

 

「小笠原さんに会いに」

 

 短く答えると紗羽は微かに驚きつつも、納得したように頷く。

 

「そうなんだ。私も知ってさっき彼に会ってきたところなんだ」

 

「知っています。見たので」

 

「!?」

 

 今度こそ、紗羽は狼狽した。真逆に、あくまで紗夜は冷静を装う。

 

「お邪魔のようだったので少しだけその場を離れましたが、止めました。私は彼に会いたかったので」

 

 紗夜の言葉に絶句した紗羽は沈黙する。

 微動だにしない相手を置いてくことはせず、ひたすら紗夜が反応を待つ。すると紗羽は曖昧な苦笑を浮かべた。

 

「何だか色々と驚いたな」

 

「そうですね。普段の私ならこんなことしないかもしれません。でも、私も貴女の行動には驚いたのでお互い様です」

 

 その言葉で紗夜がどこまで見ていたこと察した紗羽は苦笑いを深めた。

 

「そっか。じゃあ驚かせたついでに言うけど、私と純心くんって昔付き合ってたんだよね」

 

「そうですか」

 

「あれ? 驚いてくれないの?」

 

「予想していたことです。あの人が今まで色んな方々とお付き合いしていたことは重々承知済みです。私が何をしてもそれは変わらない」

 

 あくまで冷静に装う紗夜。

 しかし、口から出る言葉は冷めたものではなく、熱を秘めた決意である。

 

「なら、過去は他の人に全部あげます。未来は全部私が貰いますから」

 

 苦笑を浮かべていた紗羽はその言葉に唖然とし、次第に何処となく吹っ切れたように破顔した。

 

「前々から思ってたけど、紗夜ちゃんは年下と思えないくらい大人ぽいね」

 

「いえ、まだまだ私は子供です」

 

 自分より優れた妹に引け目を感じ、自分を好いてくれる思い人にすら素直になれない。

 そんな自分が嫌だから、せめて見栄を張るのだ。

 

「でも、私からすれば随分と大人だよ。ねぇ、純心くんに会いに行くところ悪いけど、もう少しだけ時間を貰っていい?」

 

「かまいません」

 

「私ね、自分の住んでる場所が嫌だったの。ここに比べたら何もない田舎だし」

 

 彼女の地元は海が綺麗な場所であるが、それ以外何の取柄もない辺鄙な場所だった。

 田んぼだらけの田舎という訳でもないが、若い人間が好む遊ぶ場所もなく、そのような簡素な町で過ごす日々が嫌だった。

 

「だから、お父さんの知り合いというだけで遠い場所にお稽古することになって嬉しかったんだ。そんな時、見つけたのが純心くんなの」

 

 紗羽が純心と初めて会ったのは彼がまだ小学生になった頃である。

 今こそ大人びている小笠原純心だが、その頃の風貌は年相応だった。

 しかし、既に周りからは煌びやかに映り、魔性の彼に惹かれる存在は多く、四歳以上年上の紗羽もその一人だった。

 純心は請われれば誰とでも付き合ったので、紗羽から交際を申し込んだ時もすぐに了承している。

 当時はまだ紗羽も小学生であり、同じ小学生の純心と交際することに抵抗はなく、都会にいる年下の彼氏という存在は、地元に嫌気が差していた紗羽にとって光明であった、

 次第に、純心の存在に溺れた。

 しかし、純心が自分しか見てくれないことに耐え切れず、色々とあってから自分から別れている。

 だが、純心により深く惹かれたのはその後からだった。

 紗羽と別れてもすぐに別の誰かと交際した時は一瞬呆れたが、すぐに納得する。そんな男だからこそ、自分から別れたのだ。

 それから時間が経っても彼の在り方は変わらず、むしろ時間を重ねる度に純心という存在の強さが増した。

 より眩しく、より妖艶に。自然と見惚れる回数は増えるばかり。

 誰にも侵されず、誰にも輝きを奪わせない黄金の君。

 彼が今までの女付き合いを止めて、同じ歳の少女に執心だと知った時も、彼の総てへの愛は変わらなかった。

 

「私にとって彼は平凡な日常を壊してくれる光だったんだ」

 

 愛してはならぬだろうに愛してしまう至極危難な獣。

 有象無象と扱われても、厭きた平凡を破壊する愛が欲しいと再び乞うたのだ。

 

「でもね、さっきこう言われちゃった」

 

 ──私は総てを愛している。

 ──だが、総てを愛してやることはできない。

 ──それは我が『恋』の裏切りになる。

 

 冷静だった紗夜の表情が崩れた。

 それを確認した紗羽はくすりと笑った。

 

「あーあ! 愛人覚悟で告白したのに振られちゃったよ。でも、これでスッキリした! これで受験に専念できるね」

 

「受験ですか……」

 

 絞り出すように出した紗夜の相槌に、紗羽は頷いた。

 彼女は中学三年生。高校受験の話をしてもなんら不思議ではない。

 

「うん。純心くんの愛が貰えたら説得してここら辺の高校を受けるつもりだったけど、当初の予定通り地元の高校に行くことになるね。となると予定通り、この指南所も今月一杯だ」

 

「!?」

 

 ここで初めて紗夜が驚くような様を見せると、紗羽は嬉しそうに言った。

 

「元々遠方通いだし仕方ないよね。弓道の方は地元高校で部活があるし、そこでも続けるよ」

 

「そうです、か……」

 

「もしかして、悲しんでくれてる? 彼にキスをした私を」

 

「それとこれとは話が別です」

 

 拗ねたような顔をする紗夜を見て、紗羽はまた笑う。

 

「ははは、すごいね。私だったら紗夜ちゃんの立場なら清々しちゃうかも!」

 

「それじゃあ、私はそろそろ行かなきゃ。今日、親に内緒でここに来てるし。日菜ちゃんによろしくね」

 

「はい。お元気で。──お世話になりました」

 

 それだけが去り際の挨拶。

 長い時間を過ごしたわけではないが、離別には少なすぎる時間。

 しかし、これ以上彼女を呼び止めることはできない。

 今にも零れそうな潤んだ瞳に向き合い続けるのは、紗夜にも酷だ。

 背中を向けあった少女たちは、それぞれの道を進んだ。

 

 

 

 

 紗夜が小笠原指南所に向かうと、見知った人間に招き入れられた。

 一度帰った人間が戻ってきたことに怪訝していたが、忘れ物があると言うと疑問の種は即座に失せたらしい。

 ついでのように純心がいる場所を尋ねると、今は弓道場にいると教えられた。

 紗夜はそのまま一人で向かうと、弓道場には純心が弓を引いていた。

 日は沈み黄昏の時。黄金の髪を靡かせ、広い弓道場に純心が一人だけで佇む。

 何故か彼が手にしている弓は担任の櫻井から譲り受け、紗夜が置き忘れて去った、白銀(はくぎん)の大弓。

 紗夜は声をかけずに、純心の射を見守る。

 引き延ばした弦を放すと、一条の光が空気を音と共に切り裂き、狙った的を穿った。

 純心は硝煙が漂う的を眺めながら構えを解くと、存在に気づいていた紗夜に目を向ける。

 

「卿からの贈り物。とても良い弓だ。これならば私が手折ることもあるまい」

 

「何故それが私からの贈り物だと?」

 

「見知らぬ弓を見かけたので家の者に尋ねると、卿が私に贈るものがあると訪ねて帰ったと言った。それがこれだろ?」

 

「その通りです。正確には櫻井先生に貴方が弓で不便していることをお話して、それでご用意してくださったものです」

 

「成程。確か櫻井教諭の家は代々鍛冶師だと言ったがその伝手か。後日、礼はすることにして、私のために教諭へ交渉をしてくれたことを感謝するよ」

 

「大したことはしていませんが、貴方が満足してくれたら何よりです」

 

 そう。それだけの為にあの弓を持ってきたはずだが、思わぬ事態になったと紗夜は心の中で嘆息した。

 自分の気持ちに区切りをつける切欠になったとはいえ、好き好んであんな光景は見たくないものである。

 

「して、紗夜が再びここへ戻ってきたのは喜ばしいことだが、最初に卿が私に直接この弓を渡さずに帰ったことが不可解だ。大方、沖田嬢とのやり取りでも見たのだろう?」

 

「…………ええ、そうですよ」

 

 まさか、彼の方からその話題をするとは思わなかった紗夜は呆気に取られながら溜息を吐く。

 彼の恋心が真ならば、別の女性に口付けされたところを思い人に目撃されたというのに、純心は一切臆せず、堂々と笑っている。

 純心からすれば自分から相手に迫ったわけではない。よって、疚しさがないのかもしれないが、少しくらいは動揺してもいいと紗夜は不満だった。

 そんな彼女の内情を察してか、純心は苦笑をする。

 

「立ち去るほど私が誰かと口づけを交わすのが嫌だったのかね」

 

「嫌でしたよ」

 

 紗夜のその一言に、純心は「ほう」と少し驚きのようなものを見せた。

 

「何やら、今日の卿は随分と素直のようだ」

 

「貴方こそ、私のことが好きならば言い訳の一つもないのですか?」

 

「ないな。あの場で私にできたことなどさしてあるまい。それとも紗夜は自分に寄り添ってくる乙女を無下に振り払う男が所望かね?」

 

「そこは、上手くかわしてください」

 

「知っての通り加減が出来ぬ性分だが、紗夜が願うならば善処をしよう。具体的な案を提示していない注文ではあるが、惚れた女の願いを叶えるのは男の務めだ」

 

 傲岸不遜で尊大な態度はいつも通り。

 いつもなら仕方のない人だと呆れるだけだが、紗夜のとある言葉に興味も持った。

 

「それは、本当ですか?」

 

 離れていた場所から一歩一歩、紗夜は純心に近づく。

 

「惚れた女の願いを叶えるのは男の務め。貴方が私を好きだと言ってくれるなら、私の願いは何でも叶えてくれるのでしょうか?」

 

「無論だとも」

 

 白銀の大弓を足元に置いて純心も彼女に近づいた。

 

「男に二言はない」

 

「いっぱい、いっぱい、我がまま言ったり、困らせたりするかもしれませんよ?」

 

「望むところだ。むしろ卿は我慢が多い。少しくらい私で発散しても罰は当たるまいさ」

 

「なら──」

 

 彼の思いに甘えて。

 いつの間にか熱を帯びた体の奥を必死に動かし。

 決意の言葉を告げる。

 

「貴方が好きです。私を貴方の恋人にしてください」

 

 刹那。永遠に時が凍り付いた。

 紗夜がそう錯覚したのは悠然とした純心の動きが止まったからだろう。

 だが、時は動くものだ。そのような幻想はこの世界には存在しない。

 

「なるほど──」

 

 穏やかに彼は納得した。

 

「想いが届くというのは、想像以上に甘美なものだったのだな」

 

 少年は少女に手を伸ばし、華奢な体に触れる。

 撫でただけで容易く壊れてしまいそうな小さな体を彼は片手で持ち上げた。

 

「きゃっ!」

 

 突然のことに紗夜は小さく悲鳴を上げた。

 純心は彼女の両太腿を右腕で抱え、そのまま転び落ちないように左腕で背を支える。

 横抱き──いつかの日に大衆の面前で行った所謂お姫様抱っこをしたことにより、二人の目線は同じ高さになった。

 目と鼻の先で黄金の瞳に見つめられた紗夜は、一気に顔を朱に染め上げる。

 

「承諾させてもらおう。この時より私は卿のものであり、卿は私のものだ」

 

「あ、うあ、わ!」

 

「どうした? 我儘を言うのでないのかね? 私としてはこのまま卿を眺めたままでも構わないがな」

 

 耳元で囁くように問いかけながら、純心は紗夜の反応を楽しむ。

 このままでは何処までも箍が外れそうだと思いながら、それも一興だと考え始めた。

 堪え性ではない純心が随分と耐えて、ついに触れた温もりが其処にある。

 

「では、その…………」

 

 まだ恥じらいつつも、紗夜は声を出した。

 仮にこの一声が少しでも遅ければ、純心は抑えれなかったかもしれない。

 

「もう、他の人とキスとかしないで。相手から来ても、穏便に避けて」

 

「先程と同じ願いだな。無論、そのつもりだとも」

 

「貴方が総てを愛しても構わないの。でも、こうやって触れるのは私だけにして」

 

「枷を嵌めるか。許す。卿にはその資格がある」

 

「約束よ」

 

 男女の付き合いの上で、当たり前の約束かもしれないが、彼女はそれが嬉しかった。

 ゆっくりと自らも両手を伸ばし、少年の頬を挟むように触れる。

 身勝手で我が道を行く、仕方ない愛しい君に、諭すように微笑んだ。

 

「浮気。絶対、いけないんだから」

 

 

 

 

 ある弓の話をしよう。

 下界に降りた天の使者が使命を蔑ろにして、人を愛した。

 神の使いが使者を咎めに舞い降りたが、使者はそれを弓で射殺した。

 神は怒り、使いに刺さった矢を使者に投げ返し、使者は死んだ。

 残った弓は神のものを殺した遺物。

 天の者を殺し、神気を纏った弓は愛を呪った。

 だが、その呪いは黄金に握り潰され、周囲に被害を与えなくなる。

 尤も、平和な世では無関係な、只の戯言。

 黄金は覇道を行かず、一人の少女に恋をする。

 




 やったね! 獣殿!
 彼女とバトルもないのに聖遺物GETだぜ!
 
 とりあえず年内に紗夜と獣殿が付き合いました。
 これで小学生です。
 なぜ小学生からこんな恋愛するのかって、そりゃあ中学生でさよひなが拗らせるからに決まってるじゃないですか。
 高校生はRoseliaに集中するから是非もないね。
 なお、どの作品のキャラなのか明言してないけど、勝手に当て馬にされたはやみんボイスのあの子に気づいた方々、好きだったらごめんなさいね。
 明日も短いお話を投稿します。

『おまけ』

「紗夜さんから貰った弓は随分と調子が良さそうですね」

「えぇ。これで弓を壊すこともありますまい」

「今度は矢が燃え尽きてるのですがね。いつなったら加減ができるのやら」


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Zwischenspiel ─Ⅲ

「それで私たちは付き合うようになったのです」

 

『おお!』

 

 紗夜と彼氏との馴れ初め話を聞き終えたRoseliaメンバーは感動の声を上げた。

 途中からまだ付き合ってない二人にじれったさを感じていた面々だったが、紗夜の彼氏が別の女性とキスをしたのを聞いた途端、悲嘆の叫びを上げた。

 ツラツラと続き話す彼女を心配したものだが、ちゃんと結ばれて安堵する。

 考えてみれば、現在進行形で二人は付き合っているので心配する必要などないが、感受性が高い青春真っ盛りな乙女たちは聞き終えるまで気が緩まなかったのだ。

 

「ふぅ、途中に惚気話が無駄に長かったけれど、紗夜の話が聞けて良かったよ。まるで少女漫画みたいな恋愛を小学校から続けれるなんて凄いね! 私の周りなんか付き合っては別れてが早い早い」

 

「私も色々と聞けて良かったわ。紗夜の男の趣味があれなのは参考にできないけど、もどかしさや熱意は伝わったわ。これは音楽に活かせる。やはり、身近な人間から学んだほうが映画よりも身になるわね」

 

「あこはこれを音楽に活かせるかまだ分かんないですけど、今日は紗夜さんのことをもっと知れて嬉しかったです! 聞いた感じ、紗夜さんの彼氏さんにも会ってみたいですね。ラスボスキャラみたいでカッコよさそうです! 異性としてはNGですが」

 

「私も……。漫画やゲームで耳にする話を身近な人間聞くのは生々しく、それ以上に流暢に話す紗夜さんが普段よりテンション高いので困りましたけど。でも、聞き終えればそれも微笑ましくて。とても素敵なお話、ありがとうございます」

 

「参考になれば話した甲斐があります……待ってください、皆さん其々変なこと言っていませんでしたか?」

 

「さてと、もう時間も遅いし解散にしましょう。私は紗夜の話を参考に帰って作詞をしてみたいわ」

 

 紗夜が何か言いたげだったが、外を見れば暗い時間なので友希那の言葉通り解散するには丁度いい時間だった。

 言われた通り、メンバーたちも帰り支度整えて帰路に向かう。

 

「そういえば、紗夜さん。Roseliaの活動や学校の委員会仕事や部活動。家でも勉強やギターの練習していますし、やること多いですよね?」

 

 帰り道、沈黙が少し続いたのが我慢できなかったのか、あこが紗夜に微かな疑問を投げかけた。

 

「そうかしら? もう慣れたから分からないわ」

 

「あこも色々してるから分かるんですけど、時間がいくらあっても足らないと思うんですよ。その中で、いつ彼氏さんと会ってるんですか?」

 

(あ──)

 

 二人の話を耳にしていた残りの三人はあこの失態を嘆く。

 

「学校がある日は待ち合わせして途中まで一緒に行っているわね。最近は日菜も一緒の時が偶にあるけど」

 

「へぇ、そうなんですか」

 

「でも、それくらいかしら。お互いにやることがあるから会う時間は減っているわ」

 

「それは寂しいですね」

 

「仕方ないわよ。直接会えない時間は朝昼晩、休み時間、食事前、食事後、就寝前、起床後などに携帯で連絡を取っています」

 

「は、はい。細かいですね」

 

「会える時間はできるだけ会っていますが、デート以外では二人とも何かの作業をしながら、触れ合うことしかできないわね」

 

「ソーデスカ、オアツイデスネ」

 

 雲行きが怪しいと漸く悟ったあこは助けを求めるように周りを見る。

 

「じゃあ、友希那と私はここまでだから!」

 

「それじゃあ、三人とも気を付けて帰りなさい!」

 

 まだ分かれ道は先だというのに、幼馴染二人組は脱兎の如く逃げだした。

 なんと薄情なリーダーとお母さん的存在なのか、あこは絶望した。

 

「り、りんりん……」

 

 最後の希望へ縋るように、あこは残った燐子に目を向ける。

 燐子は何処までも慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 

「あこちゃん。私は、何処までもあこちゃんと一緒だよ」

 

「りんりん!」

 

「その分、デートをする時は解消するように、聞いていますか宇田川さん? 白金さんも聞いてください」

 

 その後。Roseliaの間で紗夜に彼氏の話題は極力聞かないことが暗黙の了解になったとか、ならなかったとか。

 




これにて今年の投稿終了。
次回から中学生編。
来年はRoseliaに更なる栄光あれ!

ではでは、皆さま良いお年を。

追伸、20時にゾンビランドサガの短編小説を予約投稿しているので興味があれば読んでください。
ゾンビランドサガ知らなければ、正月見て。


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KapitelⅡー日は迫りくるものー
Zwischenspiel ─Ⅳ


 ここは羽丘女子学園。既に授業が終わり放課後。

 何処のクラスも暇つぶし以外に教室で残っている生徒しかおらず、2年A組在籍する今井リサ、氷川日菜は少し話をしてから、共に教室をあとにする。

 普段のリサなら別クラスにいる幼馴染の湊友希那を誘うところだが、今日は友希那が日直のため、前もって先に帰るようにと伝えられていた。

 日菜も今日はPastel*Palettesの仕事があるため早々の下校である。仕事や用事がなければ、部員が彼女一人だけの天文部で活動するか、未知を求めて学内を徘徊するのが天才少女のルーチンだ。

 

「そういえばこの前、紗夜に彼氏がいること教えてもらったんだけど」

 

「獣殿のこと? もしかして、まだ知らなかったんだ」

 

「そうだよ。知ったのはついこの前。

 あと、紗夜から教えてもらってたけど、日菜はその人のことそう呼んでるんだね」

 

 独特の感性は今に始まったことではないので、リサはすぐ本題に入る。

 

「私が日菜と紗夜の彼氏が一緒にいるとこを偶然見かけてさ。バンド練習の時に紗夜に誰かって尋ねたら、自分の恋人って言うからみんな、驚いたよ」

 

「うーん? なんで?」

 

 何故驚いたのか解らなそうにする日菜を見て、リサは声を高くした。

 

「いや、驚くよ! 紗夜だよ? 真面目だし、そういう浮ついていることは嫌いです、とか言っても不思議じゃないじゃん!」

 

「そうなの? 私は昔からおねーちゃんたち付き合ってるの知ってるから、別に変とは思わないかな~」

 

「まぁ、日菜からすればそうなるか……」

 

 言われてみれば紗夜は小学生の頃から交際しているので、家族である日菜からすれば驚くに値しない普通なことなのだろう。

 共感を得られなかったリサは曖昧な顔で話を続ける。

 

「でさ、本題はここからで。友希那がラブソングの参考になるからって、練習の後、紗夜に彼氏さんとのことを聞いてみたんだよね」

 

「? なんでリサちたちは、自分たちから砂糖の山に飛び込むような真似をしたの?」

 

「その反応を聞くと、紗夜は彼氏さんの話をすると誰とでもああなんだね」

 

 不思議そうにする日菜にリサは苦笑いを浮かべた。

 

「うん。おねーちゃん、獣殿のこと聞くと嬉しそうにずっとお話してくれるから好き!」

 

 嬉々として目を光らせる日菜だが、次の瞬間には顔を曇らせる。

 

「でも、途中からもう充分でしょって話してくれなくなって、最後は怒られちゃうんだよね」

 

「……あはは、私たちは怒られるとこまでは行ってないかな」

 

 しょんぼりする日菜を見て、リサは顔を引きつらせた。

 紗夜の淡々としながら止まることない惚気話でバンドメンバーたちは参ったのだが、日菜の場合は砂糖の山を姉の話なら喜ばしいようだ。

 むしろ、日菜は聞き過ぎて叱られるようである。

 

「しかし、あんなに紗夜がのめり込むなんて。彼氏さんはかなり凄いんだね」

 

「あれ? リサちは生で獣殿を見たんじゃないの?」

 

「日菜といるところを偶然見かけただけだよ? その人となりは紗夜から教えてもらっただけだし。ねぇ、その彼って本気で総てを愛しているとか言っちゃってる人なの?」

 

 紗夜の言葉を疑ってないが、時間が経つにつれてその異常性を再認識する。

 博愛など生易しいほどの、万物平等に扱う。唯一例外が恋人の紗夜だけだそうだ。

 

「そだよー。面白よね」

 

 理解し難い価値観でも、日菜にとっては好機の対象らしい。

 そこは紗夜から前もって説明させていたので、違和感なく受け入れられた。

 

「んーじゃあ、日菜も愛してるってこと」

 

「そうだね」

 

 あっさりと答える。

 事情を知らない人間が聞けば、姉の恋人である男性が自分を愛しているなど問題発言でしかないだろう。

 

「えーと、会ったこともない、私も同じように?」

 

「獣殿のほうはリサちRoseliaのこと知っているけど、絶対そうだね」

 

 リサが恐る恐る尋ねると、日菜は断言した。

 少しだけ話したこともない男性が一方的に自分たちのことを知っていると聞いて驚くも、考えてみれば恋人とバンドメンバーを知っていても不思議ではないことに気づく。

 愛してるに関してはノーコメントだ。

 

「なーに? リサち、獣殿のことが気になるの? 止めた方がいいよ。獣殿はモテモテで総てを愛してけど、恋をしてるのはおねーちゃんだけだからね」

 

「紗夜と修羅場を起こす気はないから安心して」

 

 遠目と写真だけだが、紗夜の恋人が目も眩むような美丈夫なのはリサでも解る。

 しかし、幾ら美丈夫でも大事なバンドメンバーの恋人を奪う気もない。そもそも、話を聞くだけで畏縮しているのだ。

 そんな話をしながら、リサと日菜は下駄箱で靴を履き替え、玄関から外に出た。

 

 

 

 ドンッ!! 校庭で無数の女子生徒たちが倒れていた。

 

 

 

「?」

「!?」

 

 皆が皆、顔を紅潮させて地面に伏している。百は近く、下校していた生徒たちの殆どが倒れている。

 首を傾げる日菜。何事かと仰天するリサは、咄嗟に近くにいた女生徒を抱き起した。

 

「なにがあったの!?」

 

「瀬田先輩──♡」

 

「瀬田先輩? 薫?」

 

 恍惚した顔で呟く名にリサは眉を潜めた。

 瀬田先輩とはリサたちと同じクラスである瀬田薫ことであろう。彼女はこの学園の演劇部であり、舞台俳優としても人気である王子様のような女性だ。

 瀬田薫が微笑みだけで何人の女性を失神させた光景をリサ自身も目撃したことがある。

 しかし、このような大規模な無差別テロが起きたかのように、三桁に迫るほどの女性を行動不能に貶めたのは初めてだ。

 ましてや、この学園の女生徒たちは普段から目立つ瀬田薫を日常茶飯事で見ている。その為、瀬田薫が持つ魅力にある程度耐性を持っているため、多少のファンサービスをしても声援を上げるだけに留まるはずだ。

 怪訝するリサだったが、彼女が抱えた女生徒の唇が再び動く。

 

「それに見知らぬ黄金の君。眩しすぎで見えない、ガク」

 

「え!? ちょっと、しっかりして!」

 

 意識を失った女子生徒にリサが混乱すると、遠くの方から優雅な声が聞こえてきた。

 

「やれやれ。私たちの魅力で子猫ちゃんたちが倒れてしまったようだ。あぁ、儚い!」

 

「ふむ、噂以上の人気のようだな」

 

 芝居掛ったセリフを高らかに叫ぶのは瀬田薫だろう。

 しかし、もう一人の声をリサは聞き覚えがない。

 耳にするだけで酩酊してしまいそうな甘く、妖艶な声。

 

「私だけではここまで子猫ちゃんたちを骨抜きにできないさ。此方こそ、噂以上の人物だと言わせてもらうよ」

 

「私は別に卿のように役者ではないのだが、さてどうしたものか」

 

 リサが声の先に目を向けると、見知った瀬田薫の隣に、黄金の髪を漂わせた男がいた。

 

「あぁ。薫くんが獣殿と一緒にいる─!」

 

 日菜の驚いた声で、それが見間違いや人違いではないとリサは悟る。

 天を仰いで憂う薫の傍で、黄金の獣──小笠原純心は悠然に微笑んでいた。

 

 




 今回から幕間はまた違った流れになります。
 本編はすぐ投稿します。


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Episode ─XⅡ【闇夜に新月が訪れる前に】

「……。お待たせしました」

 

「然程待ってはおらんよ。その不機嫌そうな顔は今回も私が先に待ち合わせ場所にいたのが不満なのだな」

 

「わざわざ、口に出さなくても結構です」

 

 嘲笑するような純心に紗夜は不貞腐れて頬を膨らませる。

 日曜日は、殆どの人間にとって休暇の日という認識。少し曇り空だが、天気予報では雨が降るには至らない。近くなった日差しを隠すので晴天よりは外出しやすい。

 週に一度の休暇を満喫するため、家族サービスや一人で街に繰り出す者たちは数多。

 無論、恋人たちも何組かはいる。彼ら彼女らは普段よりも恋仲と共に過ごす時間を増やすため、様々な策を弄していた。

 それは若き、小学生カップルでも同じこと。尤も、片方は小学生と呼ぶには見た目も中身も常軌を逸しているが。

 

 氷川紗夜と小笠原純心が交際して、既に一年以上が経過した。

 

 周囲の人間は祝福したり、仰天したり、様々。

 純心に思いを寄せていた女性たちの多くは絶望したが、彼女も壊されてすぐ別れると薄黒い期待を持った。

 しかし、純心が一年以上長く一人の女性と交際しているのは初めてであり、彼女たちの惨めな念願は徐々に灰となっている。

 純心の両親はやっと身持ちを固めたと安心した。小学生でそう言われてしまうのはどうかと思うだろうが、過去の所業で弁明もできない。

 紗夜の家族は早々恋人ができたことを母親は喜び、父親は複雑な心象。

 

 紗夜の双子の妹である日菜とはいうと、現在はご立腹である。

 

 別に日菜は純心のことを嫌ってはおらず、二人が付き合ったときは誰よりも祝福した。

 だが、それで姉との時間が減るのを我慢できる彼女ではない。

 除け者にされる回数が増えれば増えるほど、彼女の不満は溜まった。

 下校するときは純心を別にして紗夜と二人だけで帰ろうとするし、紗夜が純心と出かけようとすると自分も一緒にと駄々を捏ねるのだ。今日も紗夜が出かけるときいじけていた。

 しまいには、紗夜との時間を賭けて純心と勝負する事態になっている。

 回数は日を重ねることに増えており、肉体的な勝負は男女の差があるためしてないが、互いに尋常ならざる才能の持ち主なので勝敗は拮抗していた。

 勝負内容は多岐にわたり、どちらが多くの異性を魅了できるかという勝負では互いに100人までいったところで、勝負を知った紗夜に等しく罰せられている。

 このように学校や自分の家では日菜の目があるため、落ち着いて純心と一緒に過ごすことができるのは外出するときだけだった。

 

「時間はまだあるが、先に会場へ行くかね?」

 

「そうですね。時間丁度になるとあまり良い場所を確保できませんから……」

 

 二人が向かうのはインディーズバンドが演奏を行うライブハウスである。

 チケットは既に購入済みだが、立ち見の自由席であり、早めに並んでおかなければ端の方に追いやられてしまうのだ。

 純心は音楽に強い関心があり、バンド演奏も自ら足を運んで聞きに行くことがある。その彼の影響を受けて、紗夜も以前からバンド演奏に興味を持っていた。

 二人のデートといえば、七割がライブ鑑賞であり、一割が別系統の音楽鑑賞、残りの二割は音楽に関係ない場所へ出かけたりするが、大半紗夜のために犬がいる施設なのはご愛敬。

 

 その中で、インディーズバンドのライブ鑑賞に向かう回数は少ない。

 

 純心の音楽に対する品定めは厳しいので、プロのでも技術がトップクラスでなければ足を向けない。

 純心の意識だけが高い訳ではないことは、彼が指揮した学年演奏が県主催コンクールに学校代表に選ばれ続け、最優秀賞を授与し続けていると言えば解るだろう。

 

 見た目が高校生でも純心は小学生であることには変わりないので、時間制限や保護者同伴が必要な場合もあるが、向かう先のライブ、コンサート、イベントはどれも実力あるアーティストばかりである。

 純心と紗夜が体験した中で一番大規模な音楽祭は、去年の夏フェスの一つ。

 尤も、遠方で泊りがけだったため、純心側の親族が保護者として同伴し、話を聞いた日菜も我儘を言ってついてきた。

 誘われたとき、紗夜は純心だけと一泊すると思いパニックになったが、終わってみればデートというよりも小旅行だったので、複雑な気持ちになった。ライブは楽しかったが。

 このようにプロの生演奏を聴きなれている二人だが、今日のようにインディーズの音楽に触れる機会もあった。

 音楽をするものは何も大手だけでない。むしろ、個人で楽しむ者たちの方が多いだろう。

 人が多い街であればあるほど、路上ライブなど彼方此方に溢れている。運が良ければプロを引退したアーティストがゲリラライブをするが、紗夜はお目にかかったことがない。

 二人が向かうライブも路上ライブで宣伝していたところを見かけたのだ。紗夜たちが仲睦まじく歩いていたところ演奏が耳に留まり、そのまま今日のライブを知って、参加することにした訳だ。

 道順は前もって互いに確認し、二人は並びながら迷いなく目的地に向かう。

 

 ちらりと、紗夜は隣の純心を見上げた。

 

 一年掛けて紗夜の身長も伸びたが、純心も同じくらい伸びたので差は縮まらない。

 そして、変わらないのは身長差だけではなかった。

 二人で出かけ慣れているのだが、これは付き合う前から同じである。

 そう考えると、前々から距離が近かったのだと解って恥ずかしくなるが、恋人になった後でしたデートは当初こそ緊張したものの、あれ? これは普段と変わらないわね、とすぐに落ち着いたときは微妙な気分になった。

 晴れて恋人なり、周りに遠慮なく堂々と一緒にいることができるが、それ以外はこの一年間殆ど進展がない。

 元々親密であったからであろうが、紗夜的(・・・)に特に変化がしないことが少し寂しかった。

 よって、自ら何度か動いたが、未だ彼女にとって満足した成果を上げていない。

 手始めとして手を繋いでみようと思ったが、純心と紗夜の身長は30センチ以上もあり、手を繋ぐと隣で歩き辛いのだ。更に純心の手が紗夜よりもかなり大きいので、恋人繋ぎは彼女が全開に手を広げる必要があり苦痛が伴う。

 他にも色々試したが上手くいかないことが続き、一年以上経過している。

 今でも恵まれているのだろうが、恋人になって抑える必要がないと思うと、どんどん我儘になってしまう紗夜だった。

 

「紗夜──」

 

 不意に名前を呼ばれると同時に、紗夜は左肩を掴まれて、純心の体へ凭れ掛かるように抱き寄せられる。

 どうやら、通行人との接触を防いだようだ。

 

「すみません、余所見をしてしまって」

 

 紗夜が不注意を詫びるも、純心は特に叱ることなく微笑む。

 

「私を見ていたようだが、何か用かな?」

 

「いえ。ただ、貴方と身長の差が変わらないので。周りからは大人と子供が並んで歩いているように見えているのかな、と」

 

 嘘ではない。余所見をしていた最中に考えていたものとは違うが、紗夜が心配していることの一つではあった。

 その不安を純心は一笑する。

 

「他者がどう思うが卿と私が恋仲である事実だろう。それに、周りの視線を気にするくらいなら、私だけを見ておけば良い。道は私が導こう」

 

「──、もう、貴方は平気ですぐそんなことを言うのですね」

 

「不満かね?」

 

「いいえ。満足です」

 

 大きな体に凭れながら紗夜は照れ臭そうに微笑む。

 進展がなくても恋仲にならなければこうやって甘えられないなと思いつつ、黄金のように眩しい恋人と共に歩く紗夜であった。

 

 

 

 

 問題なくライブハウスにたどり着いた紗夜たちは、既にライブ鑑賞をして帰路についている。

 目的のバンドは期待通り、中々聴き応えのある演奏であり紗夜は満足していた。

 音だけ聞けばプロと遜色のない演奏でもアマチュアからは抜け出せないのだと、音楽の厳しさも改めて感じている。

 純心は目をつけていたバンドがプロになる様は喜ばしいことだと語っていたが、それが容易でないことを音楽に触れる度に痛感していた。

 だからこそ、己が鍛え、洗練された技術で認められることは尊いものなのだろう。

 

 そういう会話をしている内に、空は赤く染まっていく。

 

 まだ時間があれば、喫茶店や公園で門限まで過ごすのだが、まだ小学生である二人は互いに夕方の内に帰らないといけない門限があるのだ。

 

「中学生になれば、門限が少し延びるといいのですけど……」

 

 純心の腕にしがみつきながらライブの感想を話していた紗夜だったが、分かれ道が近づくにつれて興奮が収まり、寂しさが滲み出す。

 毎度のことだが、デートの終わりというものは切なくなる。

 

「中学生になればなったで、会う時間も減るだろう。互いに違う学校なのだから」

 

「それは、そうですけど……」

 

 進路の話をされて、紗夜は更に気を落とした。

 二人とも来年は小学六年生であり、共にその先の進学も決まっている身だ。

 紗夜は妹の日菜と共に、進学校である羽丘女子学園の中等部の入学を希望している。即ち、純心とは別の学校の進学する予定なのだ。

 

「まぁ、万が一もある。互いに受験を失敗したら近所の中学へ共に通うこともあろう」

 

「私は兎も角、貴方は万が一もないでしょう」

 

 純心が通う予定の学校も進学校であり、二人とも入学には受験が必要だ。

 尤も、純心の学力を考えれば万が一も失敗はあり得ない。

 逆に紗夜は万が一の為に、入試のための勉強が必要だ。彼女の成績は優秀でほぼ確実に入学できると言われているが、万全の準備をするのに損はない。

 何より、年々と日菜に対抗する意識が高まってきている紗夜は、単に入学するだけではなく、妹よりも良い成績で入学することを目論んでいた。

 双子の妹は勉強をしなくてもずば抜けた成績で入試を終えると確信している紗夜は、既に受験勉強に取り組んでいた。

 来年は更に本腰を入れるため、純心とこうやって共に過ごす機会は更に減るだろう。

 

「ならば、今の内に思い出を増やしておこう。卿が飽き足りて受験に身が入るようにな」

 

「…………、小笠原さんは一杯思い出を増やしたら満足なんですか?」

 

 少し考えた後、様子を窺うように紗夜が尋ねると、純心は一笑する。

 

「まさか。私は貪欲でな。食らえば食らうほど、もっと欲しくなる」

 

 それを聞いた紗夜は少し目を見開いた後、満足そうな微笑みを浮かべた。

 聞きたかった言葉であり、信じていた言葉。

 何より彼らしい言葉に、紗夜の胸は温かくなる。

 

「私もですよ。いっぱい思い出を作っても、きっと貴方に会いたくなるわ」

 

「ならば会いにくればいい。私も会いたければ会いに行くさ」

 

 当然のように言ってのけた純心の言葉に、紗夜はくすりと笑った

 

「それだったら、それこそ勉強を疎かにしそうですよ」

 

「なに、卿は真面目だ。愛欲に溺れて総てを台無しにする女に私は惚れていない。加減はできるだろう」

 

「そうですね。少なくとも貴方よりはできるかと自負しています」

 

「心外だな。これでも前よりは自制ができているほうだが」

 

「ほんとうですか?」

 

 加減知らずも代名詞な恋人に疑いの目を向けたところで、分かれ道、といっても紗夜の家のすぐ傍、に到着した。

 名残惜しいが紗夜は絡めた腕をほどいて、純心の正面に立つ。

 

「ここまで、ですね」

 

「あぁ。では、明日、学校でな」

 

「……私も携帯を持っておけば、帰ってからも連絡できるのですが」

 

「中学になってから貰うのであろう。それまで我慢するしかあるまい」

 

 携帯を互いに持つ恋人たちならば、デート終わりでも連絡を続けて寂しさを紛らわせるのだろうが、既に持っている純心とは違って、紗夜は中学に入るまで所持できない。

 一度、純心が買い与えようとしたが、親の許可もいるので断ったものを、今更惜しく思う。

 夕暮時に見つめ合っている二人。

 見上げた黄金の瞳は、茜色の輝きが溶け合って美しく、いつまでも眺めていたいが、ここでそれをしたら近所の目もあるので、紗夜は数秒だけで我慢した。

 

「では──」

 

 後ろ髪を掴まれる思いで、背を向けようとした紗夜だったが、少し思い出したことあり、衝動的に呟いた。

 

「また明日。純心──くん」

 

 限界だった。

 顔を真っ赤にした紗夜は逃げように家まで走った。

 ずっと名前を呼びたくて、でも呼び捨ても恥ずかしくて、けれど「さん」、とつけるのは躊躇って、ああ呼んでしまった。

 次にあった時、同じように呼ばないといけないのか、そんな悩みはしばらく経ってから。

 まだまだ初心な少女は、自分の気持ちで一杯だった。

 そんな可愛らしい恋人の背中を見送った純心は、大きく息を吐く。

 

「やれやれ、やっと名を呼んでくれたか。先は長そうだな」

 

 恋仲になってから自制することが増えた獣は、その渇きも良しと楽しんだ。

 

 そして二つの年月の後、彼女ら、彼らは中学生となる。

 

 無垢だけで許される時代は終わったのだ。




『どっちが一緒に紗夜と帰るかヴァンガードで勝負中』

「私は恋をしている。ゆえに果てろ、勝つのは私だ! 我が女神に捧ぐ花と散れ!」

「言うね、でも勝つのは私! 私とおねーちゃんの踏み台になってよ!」

「二人とも学校でカードゲームはしたら駄目じゃないっ!」




 とういう訳で、新章突入で時系列は中学生編になりますが、一応短い予定。
 しかし、小学生編も初期想定よりも話数が多いので、これも長くなるかも。


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Zwischenspiel ─Ⅴ

短いよ。しかも、また本編じゃないよ。


 獅子の鬣如き黄金の髪。妖しく輝く瞳も黄金。

 人体の黄金比と呼ぶに相応しい精巧な肉体。

 なるほど、黄金の獣と異名されるに相応しい存在だ。

 最初は遠目だったが、間近でその姿を直視した今井リサは目が眩むような気分だ。

 

「獣殿、なんで薫君といるの?」

「日菜か」

 

 精神が朦朧しているリサの横を日菜が通り、小笠原純心に話しかける。

 昔から面識があるゆえか、あるいは近い同種ゆえか。彼女は純心の威光を物ともしていない。

 

「今度、私の高校が羽丘女子学園と合同演劇会するのでな。会場はこの学園の講堂で、今回はその寄合に来たのだ」

「へぇぇ、そんなのやるんだ。でも、獣殿って演劇部じゃないよね。私が知らない間に入部したの?」

「しておらぬさ。兄弟校との交流ゆえな。生徒会長である私も寄合の席に座る必要がある」

「そうなんだ。態々、違う高校に来るなんて大変だね」

「話している最中にすまない。日菜は彼、我が羽丘女子学園の兄弟校である風代(かぜしろ)学園の生徒会長と知り合いなのかい?」

 

 二人の会話を割って瀬田薫が日菜に尋ねる。

 風代学園はリサも聞いたことがあった。

 薫の言葉通り、羽丘女子学園の兄弟校であり中高一貫の進学校は同じだが、女子高である羽丘とは違って男子高である。

 しかし、その生徒会長が紗夜の恋人である小笠原純心だったとは。リサが内心驚いてると、日菜が何やら愉快そうな笑みを浮かべていた。

 

「獣殿はねぇ、私とって将来のおにーちゃんになる人かな」

「? それはどういう─」

 

「待った待った! 話の続きはこの状況をどうにかしてからだよ!」

 

 正気に戻ったリサが二人の間に割って入る。

 この状況とは恍惚とした顔で校庭中倒れている女生徒たちのことだ。

 

「原因は多分薫と、えっと小笠原さんだから。二人は一旦、人目が付かない場所に──」

 

「うぉわぁ!? なぁんだぁこれぇええ!?」

 

 リサが事態の収拾をどうにかしようとしていた所、聞き覚えのある声が聞こえた。

 

「!? ひ、人が一杯倒れて──っ!?」

「ひょええええ!? 何が起こったのぉ!? 事件!? 戦争!?」

「な!? 何!? 何事!?」

「おぉ、無差別テロでもあったのかな──」

 

 続いても聞き覚えのある声の叫び。

 声の主たちは幼馴染でバンドを組むAfterglowの少女五人。

 反応した順は、宇田川巴、羽沢つぐみ、上原ひまり、美竹蘭、青葉モカであり、他の仰天する四人と違ってモカだけはいつも通りマイペースだ。

 

「あぁ、丁度良かった。ちょっと助けて」

「えっ、リサさん? それに日菜先輩と瀬田先輩。あと、そこの人は──」

 

 巴を先頭にしてリサたちに駆け寄った五人は、見知った顔の中に見知らぬ男の姿を見つける。

 視線を向けられたので、名乗るが礼儀だと思ったのだろう。

 純心は黄金の瞳で彼女たちに魔性の微笑みを浮かべた。

 

「初めまして、お嬢さんたち(フロイラインス)。私は羽丘女子学園の兄弟校である風代学園、その生徒会長を務める小笠原純心だ」

「ゴールデンハンサ────────────────ムッ!!」

 

 刹那、絶叫と共にひまりがその場で倒れる。更につぐみと蘭は赤面で硬直し、巴は存在の眩しさに「ぐお!?」と呻いて怯む。

 モカだけは平常通り、「おお」と少しだけ驚いた声を出すだけに終わった。

 

「あぁ、ひまりも被害に! 私はこの人と薫を別の場所に移すからモカたちはここにいる人たちの介抱をお願い! じゃあ!」

 

「あ、リサさん」

 

 唯一、平常を保っていたモカにこの場を任せ、リサは純心たちを別の場所に誘導したのであった。

 

 

 

 

「ふむ、紗夜の話通りだな。我々をここまで誘導する手際、見事だ」

「あはは、それはどうも……」

 

 純心の労いに対し、リサは乾いた笑みしか浮かべられない。

 彼女がいる場所は演劇部部室であり、舞台準備の関係上、体育館と講堂近くに部室があるため誘導しやすかった。

 これが屋内であれば、被害者が増える可能性もあり、また小笠原純心の目的が演劇部との会合ならば一番適した場所であろう。

 

「あと、もう既に想像はついてるんですけど、なんであのような事態に?」

 

「それは私から説明しよう」

 

 そう言ったのはキリっと微笑む薫だった。一々格好をつけるのは毎度なので突っ込まない。

 

「私が生徒会長と出迎えに校門で待っていたら、彼らの到着と共に周りの子猫ちゃんたちが騒がしくなったからね。

 ここは他校に負けじとアピールしたら、あぁなった訳さ。あぁ、儚い!」

「儚いね。儚いね。あぁ、成程、発端は薫なわけだ」

 

 適当に相槌しながらリサが嘆くと、純心が彼女に話しかけようと一歩近づく。

 

「彼女だけの罪ではないさ。私も声援に応え、事態の悪化を招いた。裁くなら同じものを受けよう」

「いや、裁くとかそんなつもりはないですよ。あれ? そういえば、生徒会長も薫と小笠原さんを出迎えに来てたと言ったけど何処にいるの?」

 

 リサが誘導したのは純心と彼と同行していたのだろう、同じ風代学園の学生と思わしき一人に瀬田薫。

 日菜は面白そうだからと言ってついて来ようとしたが、彼女にはPastel*Palettesの仕事があるため、途中で別れた。

 

「彼女は純心くんが自己紹介した途端、ひまりちゃんと同様、その場で倒れてしまったよ」

「気づかなかった……」

 

 頭を抱えた。態々互いに出向くのであれば、今回の会合は両校の生徒会長同士が必要であったことは説明しなくても解る。

「別にいいんじゃないかな、本来は僕らの演劇部とここの演劇部だけで済む話だし」

 

 すると、今まで黙っていた風代学園の学生が発言する。

 言葉から察するに彼が風代学園の代表なのだろう。大人顔負けの風格を持つ純心と違って、子供らしい無邪気な少年だ。

 中性的な容姿で天使のように美しい風貌。彼が舞台に立てば映えるに違いない

 

「他校との交流だから会長たちが同席する予定だったけど、いないものは仕方ないし、後で決まったことを伝達しておけば問題ないでしょ」

「確かに卿の言う通りだな。彼女が復活しているとも限らんし、交流の面合わせは後日にするとしよう」

「よーし。会長の言葉もあったし、決定。早速やろ! 僕、早く終わったらここの学園の見学をさせて欲しいんだ!」

「ふふ。お目当ては妹のアンナちゃんかな?」

 

 意気込んでいる少年に向かって薫がそう言うと、彼は不思議そうな顔を浮かべる。

 

「あれ? 瀬田さん知ってるの?」

「学園の子猫ちゃんたちは全員知っているし、風代学園の演劇部が来ると話を聞いた彼女から君のことを教えてもらったのさ。見た通り、双子のお兄さんだそうだね」

 

 どうやら、彼の双子の妹が羽丘に通っているようだ。

 風代学園演劇部員は無邪気な笑顔で手を上げる。

 

「そうだよ! アンナは僕と同じで綺麗で昔は一緒に舞台をしてたんだ! でも、人前で上手くセリフを言えないからって、吹奏楽でフルートを始めたんだ。

 一緒に舞台へ上がることができないのは残念だけど、アンナのフルート綺麗だし、今日はこっそり練習してるところを見たくてね」

 

「なら、急いで話し合いをしよう。その後の案内は私がするよ」

 

「ほんと!? ありがと、瀬田さん!」

 

 人懐っこい笑みを浮かべて少年は礼を言う。普段は交わらない他校との交流だが、意気投合している二人を見れば、今のところは問題ないと見ていいだろう。

 

「さて、私も寄合に参加するから卿とはここまでだ。世話をかけたな今井嬢」

「あ、いえ、どういたしまして」

 

 いきなり呼ばれたことない呼び名で呼ばれたリサは、純心にぎこちない笑みを向けた。

 

「いずれ、卿。いや、卿らRoseliaとは話がしたい。先日、紗夜から私の話をしたと聞いたのでな。最早、遠慮は不要だろう」

 

「えっと、はい。機会があれば」

 

 思わず、リサはそう答えて、彼らと別れる。

 純心の言葉を聞いて何を話したいのかと一瞬思ったが、彼にとってリサたちは恋人のバンドメンバーだ。多少の興味があっても不思議ではない。

 リサも少しは純心の存在に慣れたので、機会があれば話をしてもいいと考えた。彼から見た紗夜の話も、糖分過多でなければ聞いてみたい。

 

 といっても、それは当分先の話だろう。

 

 今回はあくまでイレギュラーの訪問であり、今後は彼の所属する演劇部が何度か顔合わせで羽丘に訪れるくらいだ。

 小笠原純心が風代学園の生徒会長なのは驚いたが、彼が羽丘に訪れる機会もそうないはずである。

 リサは彼の連絡先も知らないので、改めて約束を取り付けることもなく、紗夜に聞くのは少し抵抗あったので、その機会はもう少し時間が経ってからにしようと考えていた。

 

 ──のだが。

 

「聞いたリサちー! 獣殿が今度の合同演劇会に出演するんだって!」

 

 数日後、日菜からそんな話を聞いたリサは、自身が演劇部でなくともすぐに再会しそうだと予感する。

 何故、生徒会長の彼がそのような事態になったかは知らないが、今度は以前のような事態にはしないで欲しいと、深々と願うリサであった。

 




 最早本編との絡みが殆どない幕間。
 一評価が増えたが、是非もなし。
 こんなもの獣殿じゃないって、感じなんだろうね。

 オリジナル学園の風代学園は、Diesが月之澤学園を『月』。バンドリの花咲川を『花』。羽丘は羽ということで『鳥』とみて、花鳥風月に合わせて風代学園と名付けました。


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Episode ─ⅩⅢ【獣の本能】

「お、おおおおおい、そこのののの、お前!」

 

 挙動不審な言葉で呼び止められた小笠原純心は何事かと立ち止まった。

 

「な、なんだね。その金色の髪に目も、それに髪が長い! ふ、ふざけているのか!」

「ふむ」

 

 風代学園中等部入学式。校門前で新入生を出迎えていた一人の男性教師が彼を呼び止めた。

 他の教師たちは純心の尋常ならないオーラに触れて怯えているが、この教師だけは怖気ながらも扶郎に声をかけた。

 純心のこの黄金の髪を染めたものと勘違いし、声をかけたのだろう。彼の外見は一見異国の人間にしか見えないのだが、純心の異常性で正常な考えができないようである。

 純心は憤慨することもなく、職務に励む教師を優しく労った。

 彼も愛する総ての一人、無下にはしない。

 

「お疲れ様です、先生。さて、この髪や瞳は生来のもの。私の記憶が正しければ。協調性を保つため、髪、目の色を黒に強制する校風や規則はなかったはずですが、如何かな?」

 

 たとえ生来の髪色でも、黒に染めることを強要し、問題視される学校は存在する。

 しかし、純心の言葉通り、風代学園はそのような規則は一切なかった。

 仮に規則が存在するならば純心は謝罪して染めてくるが、そんな規則があったら彼はこの学校には通おうとは思わなかっただろう。

 

「き、規則はないが、皆、同じ立場なのだから、君だけそんな髪色をしていれば、我が学園の校風が勘違いされてしまう……」

「そんなことはないでしょう。近隣の花咲川女子学園では海外留学生も多い。毛色が異なるものが交じっているのは今更だ。

 私は生粋の日本生まれだが、外国の血が流れているのでこの様な姿をしている。そんな学生が一人いようが、風紀、外聞もさして変わらない」

 

 彼が花咲川女子学園のことを知っているかというと、最終的に妹とこの学園の兄弟校である羽丘女子学園に通った恋人である氷川紗夜の進路だったものの一つゆえだ。

 小学三年の間にその学園に通っていた生徒と何人か男女関係を持っていたと話しても、今の彼ではきっと信じるものは少ない。

 

 何故なら純心は一人の女だけに、熱心な恋をしているからだ。

 

「んんん、なら、色は良いとして、髪の長さはどう説明するのですか?」

「これは私の家が主に女性へ様々な作法を教授する道場ゆえにです。長い髪を持つ女性の苦労を知るため、男であろうと髪の長さは一定を保たらなければいけない。家訓なのだ」

 

 そう、別に彼の髪の長さは趣味ではない。彼の父親や祖父も背中まで長い髪をしている。

 まったく彼の趣味ではないと言えば、それはそれで嘘になるのだが。

 

「そうですか。事情を知らず、呼び止めて、すみません」

 

 いつの間にか敬語になった男教師は深々と純心に(こうべ)を垂れた。

 

「気にせずとも良い。卿は職務を全うしただけだろう。これからも励むがいい」

「はは! ありがたき言葉、頂戴しました!」

 

 最早、上下立場が異常なまでに逆転した。

 新入生代表として出席をする小笠原純心は、初日早々堅物な教師を屈服させたと知れ渡る。

 だが、それは単なる序幕に起きた些細なことだ。これから高等部を含めた6年間、黄金の獣は数多くの伝説を作ることになる。

 

 

『──そんな感じで新入生代表の挨拶を日菜は滅茶苦茶にしたから、姉である私は恥ずかしかったわ』

「想像できる光景だな」

 

 入学式が終わり、夕方になる頃。式が終わった純心は家族と共に食事をしたあと家に戻り、恋人との電話を楽しんでいた。

 彼の恋人である紗夜も本日が入学式であり、双子の妹である氷川日菜が新入生代表の挨拶で一騒動を起こし、酷い目にあったようだ。

 彼女も純心と同様、入学式を終えたら家族と食事して家に帰った。だが、入学祝いで買った携帯電話で通話する場所は家ではなく、自宅の外。

 態々、そんな場所で電話するのは、同じ部屋の妹に会話を邪魔されたくなく、親にも恋人

との会話は聞かれて恥ずかしいからだ。

 

『純心くんのほうは、無事新入生の挨拶ができたかしら?』

「無論だとも。私は日菜のように遊び心は疎いでな。ありきたりな言葉で終わったよ」

『貴方は日菜と別の意味で心配だわ。問題があってもあの子と一緒で自覚してそうにないから不安よ。まぁ、貴方ならその問題も自分で何とかするでしょうけど』

 

 電話越しで、くすくすと笑い声が聞こえる。

 付き合った当初は堅い口調だった彼女だったが、長年付き合うと家族と話すような自然体で純心と喋るようになった。

 そして、紗夜的に些細な拘りだが、彼女が異性で『くん』付けをするのは恋人の純心だけ。

 最初は言い間違いで出た呼び方だが、継続してみれば彼女にとって大切な呼称となった。

 

『──それで、今度の日曜日だけど、待ち合わせは駅前でよかったかしら?』

 

 これはデートの相談だ。何度も確認した必要事項とは言わない。紗夜自身も解った上で話している。

 単なる話の前振り。今度、久々に長い時間を共有する、その待ち遠しい時間も共有したいから振った話題だ。

 中学に上がる際、紗夜は彼の家で経営している道場に通うのを止めている。

 彼女と日菜が通う羽丘学園は進学校であり、学業を優先するため習い事はしなくなったのだ。

 純心の両親からは、いつでも好きに来て弓を引いていいと言われており、実際何度か訪れたことはあるが、頻繁には通ってない。

 次期当主の恋人であっても、我が者顔で門下生と交じって弓を引くのはあまり良い目では見られない。本人は真面目に弓道を勤しむつもりでも、単なる恋人と会う口実だろうと邪推されるからだ。

 別々の学校に通うことになり、二人が共に過ごす時間は減った。

 共学の同じ高校に通うか、進路の一つであった花咲川女子学園に通えば途中まで登下校を共に過ごすことができた。

 尤も、二人ともそれだけで進路を決めるほど、色ぼけてはいない。

 

「あぁ。最後は以前から行きたかった夕方からのライブだな」

『中学生に上がってから、遅くまで外にいることが許させるのは良かったわね』

「流石にフェスなど宿泊が必要なものは、保護者同伴がまだ必要だがな。二人だけで夜を過ごせる機会は、高校になるまでお預けだ」

『…………、なんだか、その。何度も言うけど、そんな言葉を口にするのは、どうかと思うわ。二人ともまだ子供なんだし、いけないわよ』

 

 恥ずかしそうに言い淀む紗夜。きっと、電話の向こう側では顔を赤くしているだろう。

 一緒に歩くときは純心の腕に絡みつく紗夜だが、まだまだ初心だ。

 

 付き合った時間や距離感のわりに、二人はキスもしていない。

 純心としてはもっと深く触れたいが、今は恥ずかしがる紗夜の様子を楽しんでいるだけに止めている。

 尤も、彼が本気になれば、その瞬間に実行しているだろう。彼は加減ができない。理性で本能を抑えているのではなく、気分の問題だった。

 その気分も、最近は日を重ねることに艶麗な傾向へ変わっている。

 

「紗夜は可愛らしいな。今すぐ会って、卿の総てを奪ってしまいたいよ」

『っ! もう、そんなことを言うなら切るわ! ───またね』

「あぁ、ではな」

 

 恥ずかしさで激情に駆られながらも、別れの挨拶はきっちりするのは仲睦ましい。

 

 

 約束の日、珍しく紗夜は遅刻した。

 

「ごめんなさい! 遅れてしまって!」

「いや、かまわん。何かあったのか?」

 

 やって来た紗夜の様子はかなり落ち込んでいる。真面目な彼女が遅刻したことを気に病んでいるのは解るが、顔色が悪いのはそれだけではないような気がした。

 

「…………う、ううん。なんでも、ないわ。行きましょう」

 

 微笑んで、純心の腕に己の体を預ける。

 一瞬、口篭もったので、なんでもないことが嘘なのは誰が見ても解る。

 だが、純心は何も聞かなかった。

 女性が秘密にしたいのならば、無理に暴くことはあるまい。

 そう達観したゆえ、彼は見落とした。

 

 もしも、この時。無理にでも純心が話を聞きだしていればどうなっていたか。

 それはもう、詮無き事だ。

 

 月日は流れた。

 純心の中学生活は一年生で生徒会長になり、進学校だと馬鹿にしてきた不良学校連軍を一人で叩き潰したあと傘下につけ、虐めを黙認した教師を退職に追い込み、体育の授業で器物破損を繰り返していたが、小学校の頃と変わらないので本人的に語る価値がないとのこと。

 そんな学業の傍ら、紗夜とのデートため、様々な資金繰りをしていた純心。

 だが、その苦労は今のところ、成果を上げてなかった。

 資金繰りは上手くいっている。だが、肝心の消費ができてない状態だった。

 

『ごめんなさい。今度、小テストがあって、その日も難しいわ』

「わかった、気にするな。思う存分、勉学に励むといい」

 

 中学に入ってから、純心の想定以上に紗夜と会う機会が減った。

 彼女曰く、進学校の授業が大変で勉強が忙しいということ。

 何度かテストのため一緒に図書館で勉強をしたことがあるが、純心の目から見ても、紗夜が授業に遅れている様子は感じられなかった。

 紗夜は優秀だ。一度だけテストの結果を聞いたことがあるが、全て満点に近い(・・・)結果を出している。本人曰くその成績を維持するのが大変だそうだ。

 

『でも! 必ず、来週の日曜日は絶対に行くから!』

「──紗夜」

 

 付き合いが悪くなっているのを自覚している紗夜は、必死を感じさせる声を上げる。

 耳に響く音だが、純心は咎めることせず、見えない恋人に向かって微笑んだ。

 

「別に私は、最後に卿が傍にいてくれるなら十分だ。己を高めたいのであろう? 満足するまで自分を磨くといい。私には会えるときに会ってくれればいい。

 私には卿が嵌めた枷がある。不安にならずとも、つれないからと言って浮気などせぬさ。この鎖を壊しはしない。紗夜との絆だからな」

『純心くん……』

 

 電話の向こうで、すすり声が聞こえる。

 

『なんで、純心くんはそんなに私に優しいの?』

「無論、卿に恋をしているからだ。よもや、忘れてしまったのかね」

『いいえ。ありがとう。私も貴方に恋をしているわ。大好きよ』

 

 ──そうして、紗夜からの電話が途絶えた。

 

 メールやSNSの個人会話でのやり取りは毎日している。

 そういっても、軽い挨拶ばかりで、お互いの近況などは語らなかった。

 夏が来て、紗夜と共に行くはずだったフェスのチケットは無駄になり、知人に譲った。

 季節が変わる前では毎日のように聞いていた声も聞こえない。

 そして、もう秋が訪れた。

 

「貴方、紗夜さんに捨てられてしまったの?」

「母上。いきなり、失礼な言葉ですな」

 

 一人、道場で弓を射っていた純心に彼の母親が口にした言葉。

 それでも憤慨することはなく、悠然とした態度は崩さない。

 

「捨てられていませんよ」

「でも、随分も会ってないのでしょう?」

「連絡はしております」

「メールだけね。しかも、簡単な会話だけ」

「覗いたのですか。親子でも踏み込んではならぬ場所があるでしょうに」

 

 パスワードを変更しようと思っただけで、覗き見に怒りは覚えない。

 母親なりに彼を心配しているからだと解っているからだ。他には、もしも紗夜と別れれば、再び手当たり次第の人間と付き合うのを恐れているかもしれない。

 

「まったく、余裕と恰好ばかり持って」

 

 そんな態度の息子を母親は呆れて、溜息をついた。

 

「寂しいなら、会いに行けばいいじゃない」

「紗夜には会いに来たければ来たら良いと言っております」

「何を言っているの? 私は貴方のことを言っているのよ」

「────」

 

 思わぬ言葉だと、純心の顔が無表情になる。

 変化がないように見えるが、彼を良く知る者にとって、それが彼の心が揺れた証拠だった。

 母親が言った言葉を否定することはできない。自覚はなかった。

 だから、納得ができた。渇いた感情に慣れて、気づかなかった。

 

「──なるほど。私は寂しかったのか」

「そうですよ。変なところで、疎いですから。貴方は」

「ご教授感謝する、母上」

 

 そう言い残して、彼は道場から去ろうとした。

 

「何処へ行くの?」

「私はどうやら寂しいようだ。なら、渇きを癒すのは一つしかありません」

 

 そのまま着替えた純心は外出した。

 時刻は夕方過ぎ。茜色に染まる道を純心が歩いていると、予想通り、目的の人物と出くわした。

 

「純心くん?」

 

 まるで夢でも見ているかのような目で、紗夜は突然現れた純心に出会う。

 紗夜の服装は羽丘中等部の制服。今まで学校へ勉強していたのだろう。連絡の頻度は少ないが、帰宅する報告は互いにしていた。

 だから、彼女の門限を考慮して何れ遭遇するだと予想はついていた。

 

「久しぶりだな、紗夜」

「っ────」

「待て、何故逃げる」

 

 背を向けた駆けだしそうな紗夜の手を純心は一瞬で掴む。

 捕まった紗夜は、純心に向かって顔は向けず、俯いたままだ。

 

「だって、ずっと貴方を避けてた。貴方もわかってたでしょう? 合わせる顔は、ない」

「何故だね。他に男でもできたか?」

「なっ!? 貴方以外となんて誰とも──」

 

 心外だと怒鳴りかけたが、そのように疑われても仕方ない行動をしてたことに気づく。

 

「ごめんなさい。貴方は疑っても、仕方ないわ」

「そんなつもりはなかったのだが、気分を害したのは謝ろう」

「謝るって、貴方が? 私の方こそ、ここ最近会ってなかったのに。謝らないと」

「会ってなかったな。だが、会わないと言って会わないなら、それは仕方ない。会うことを約束して、それを破ったわけではないのだから、謝る必要はなかろう」

「……純心くんらしい言葉ね。あぁ、本当に私は貴方に会っているのね」

「おや、夢だと思っていたのか?」

 

 純心は紗夜の腰に手をやって、無理やり自分の方へ振り向かせた。

 

「夢ではない。約束はしておらぬが、私が会いたくなってやって来た。許せ」

「っ!」

 

 久しぶりに見た黄金の瞳、そして甘い言葉に耐えられなかった紗夜は彼の胸に飛び込む。

 そのまま、大きな体で誰にも見られないように隠しながら、静かに泣いた。

 

 

「中学に入ってから、日菜と差が大きくなったの」

「そうか…………」

 

 予想していた一つだったので、純心は特に驚かない。以前から天才の妹と比べて、悩んでることは知っていたのだ。

 あの後、少し落ち着きを取り戻した紗夜を連れて、彼は近くの公園にやって来た。

 ベンチに座りながら、静かに紗夜の話しに耳を傾ける。

 

「前から、差はあった。あの子の方が、なんでも上。だから少しでも追いつこうと何でもしたわ。勉強だってあの子が寝た後もして、運動も毎日トレーニングした。

 他にもね、絵を描いてみたりしたのよ。小学校で習ったバイオリンを活かして大会にも出てみたの」

 

 そう言って、紗夜は毒薬でも飲んだかのように、顔を歪める。

 

「そしたら、あの子。お姉ちゃんがするなら私もするって、一緒にして。真似して。私よりも上の成績を取ったのよ。細やかでもいい。あの子にはない、私だけの認められた物が欲しかったのに、悉くあの子が奪った! 勿論、勉強も運動も一緒!」

 

 吐き捨てるように叫ぶ。

 己自身がみっともないと思いながらも、紗夜は一度開いた慟哭を止められなかった。

 

「周りは全部、あの子の称賛ばかり! いえ、それだけならまだマシだわ! でも、お母さんとお父さんは、それと合わせてお姉ちゃんなのにもう少し頑張れないの、と言うのよ! 挙句の果てに、私があの子に追いつけないのは純心くんと会ってるからだって! ずっと、ずっと会いたいの我慢してて、最近では会ってなかったのに、それを説明しても言い訳するなって言われて! あの子はあの子で、ずっと私の背ばかり追い越して笑うのよ! お姉ちゃんは凄いねって! 私の努力を全部踏み潰しておきながら!」

 

 一気に捲し立てるように叫んだ紗夜は息切れをした。

 暫く呼吸が落ち着くと共に、興奮も収まっていく。同時に彼女は暗い顔で意気消沈した。

 

「情けないでしょう? 親に言われたからだけじゃないの。こんな惨めで汚い私が貴方の傍にいてもいいかと思ったから、会うのを避けてたのよ。

 純心くんに嫌われても、しかたない」

「嫌うことはない。どれだけ汚れようが、紗夜は紗夜だ。ありのままの卿が一番美しい」

 

 醜態を見せても変わらぬ世事に、紗夜は苦笑した。

 

「…………まったく、自分でも酷い有様だって分かっているのに。純心くんはそんなことを言ってくれるのね」

「正直に言っているまでだ。よく一人で耐えた。えらいぞ」

「うん。ありがとう……」

 

 紗夜は純心の肩に頭を預ける。

 沈黙が続き、気づけば日が暮れた。

 

「もう、帰らないと」

「わかった。送ろうか?」

「いいわ。もしも貴方を見られたら、また何か言われるもの」

 

 そう言いながら、紗夜は立ち上がり、純心を見た。

 

「また、相談に乗ってくれる」

「無論だ。いつでも、紗夜のために時間を作ろう」

「ありがとう。じゃあ、今夜、電話できたらするわ。できなくても、明日は必ず」

「気にする必要はない。したいときにすればいい」

「もぅ……。私が言うのもなんだけど、したいからするのよ」

 

 すこし顔を膨らませた彼女は次の瞬間には笑い、手を振って先に帰る。

 その背中を見送った後、純心は自身の携帯に手を伸ばした。

 

「────母上。話がある」

 

 

「遅いぞ。今まで何をしていた?」

「学校で勉強をして、帰りが遅くなりました」

 

 帰宅一番、紗夜を出迎えたのは困った顔した両親だ。

 奥の方で日菜が心配した顔で見つめているが、あえて無視する。

 少しでも純心と会った余韻に浸りたかった紗夜は、彼と別れてからほんの数分物思いに耽って、心を落ち着かせ、家に帰ってきた。

 それは正解だったと、謝りながら思う。

 すぐに帰ってきたら、気分の落差で気が狂いそうだった。

 

「そうやって、純心くんと会ってたのじゃないの?」

 

 母親が呆れてそんなことを言った。

 少し前なら違うと心の中で叫んだが、今回はその通りなので言い逃れはできない。

 嘘をつくかは、迷ったが。どうせ結果は同じだからと、紗夜は正直に話した。

 

「はい。帰りの途中で偶然会って少し。ほんの数分ですけど」

「まったく、仲が良いのは結構だけど、学生なんだからあんまり遅くなっては駄目よ。そんなことをしているから、勉強が身に入ってないんじゃないかしら?」

「はい、申し訳ありません」

 

 盲目的に、頭を下げる。

 彼女の両親は天才の日菜が基準だ。少し前まで紗夜も全てのテストで満点を取っていたことが原因だろう。

 最近、紗夜が日菜と比べて成績に差が出ているのを気にしているのだ。

 単なる心配か、落胆なのかは、紗夜にとってはどちらも同じなので考えない。口答えすると怒られることは分かっているので、彼女は静かに従うだけだった。

 

 あぁ、純心くんの声が聞きたい。ずっと、音楽も聴いてないわ。

 

「紗夜、聞いてる?」

「はい。聞いてます」

 

 ピンポーン。どんどん、紗夜の心が沈んだ矢先、チャイムの音が響いた。

 誰だ、この時間に? と疑問に思ったのは全員だった。

 

「私が出るわ」

 

 そう言って、紗夜の母親が玄関の様子を見る。

 その前に、ボガン! と鍵がかかった扉が無理やり開かれた。

 

「失礼。門前払いを貰う前に上がらせて貰った。ああ、壊れた鍵は外にいる修理屋が直すのでご心配なく」

 

「あ、純心くん?」

「えええぇ、獣殿どうしたの?」

 

 驚く紗夜に隠れていた日菜もこれには仰天だ。彼女たちの両親は、突然の来襲に言葉をうしなっている。

 狼狽する氷川家面々の様子など気にせず、純心は玄関から丁寧に靴を抜いで、紗夜の傍までやってきた。

 

「紗夜。卿に結婚を申し込みにきた」

 

 

 




 本当はもう少し長くここまで繋げようと思いましたが、展開ないと呆れられるみたいで、一気にストーリーを進めました。




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Episode ─ⅩⅣ【爪弾くに至るまで】

すまねぇ。また誤字脱字があればすまねぇ。
何で自分で確認した時は見つからないのか。
まぁ、できたらツールでチェックしてから即投稿してるからなんだけど。


 突如襲撃するように氷川家にやって来た黄金の獣こと、小笠原純心。

 彼は己の恋人である氷川紗夜に求婚をした。

 氷川家の面々は愕然とし、告げられた紗夜も事態が飲み込めず混乱している。

 

「あの、小笠原くん? いきなり来たことも驚きだけど、それは何かの冗談なのかい?」

 

 一番先に我を取り戻したのは、一家の大黒柱である紗夜の父。

 彼は自分より背の高い()()()に、おずおずと声をかける。

 黄金の瞳が自分に向けられる。瞬間、凍り付いたように慄いた。

 

「私は冗談でこの様なことは言わんよ」

「ぁぅ────」

 

 父親の心が折れる。面識は僅かにあったが軽い挨拶程度で、娘の恋人である彼と面と向かって話したのはこれが初めてだった。

 思えば、長年付き合っている娘の恋人と真面に話さなかったのは、無意識に畏怖して遠ざけていたのかもしれない

 自分の娘は優秀な姉と天才の妹。我が子ながら其々大人顔負けの逸材だ。だが、同い年である彼は規格外の存在だ。傍にいるだけで自然と心で傅く。

 見下すような冷めた黄金の瞳は、興味をなくしたように父親から離れ、己の傍にいる唯一無二の女を見つめた。

 

「紗夜、返事を聞かせてくれないか?」

 

 酔ってしまいそうな甘い声に紗夜はビクと震わせる。そこでようやく事態を飲み込め、たちまち顔を火照らせた。

 紗夜も夢見る年頃だ。更には彼女には明確な相手がいたのでいずれはと、恥ずかしがりながら妄想をしたこともある。

 だが、まさかこの瞬間になるとは、夢にも思わなかった。

 

「えっと、気持ちは嬉しいし、いずれはと思っているけど、私たちはまだ子供で、お父さんとお母さんにも確認もしないと」

 

 混乱している彼女はオロオロと視線を漂わせる。

 そんな彼女の頬を、自分からの視線を逃させないために、純心が触れるように掴んだ。

 

「ん」

「紗夜の言葉どおり、私たちはまだ結婚をできぬ年だ。だからとて、約束を交わしてはいけぬ訳でもあるまい。

 それにな、私は卿の両親に結婚を申し込んでいるのではなく、卿に結婚を申し込んでいるのだ。誰であれ、確認など必要なかろう」

「純心くん……」

「紗夜、私と結婚をしろ」

 

 最早、命令だった。

 何処までも自分勝手で、傲慢で、断われるとは微塵も思っていない不遜な言葉。

 強引に力で捻じ伏せるような求婚に逃げ場など存在しなかった。

 

「──はい、お願いします」

 

 静々とした返事に、家族で盛り上がったのは双子の妹である日菜だけだ。

 両親も目の前で娘がプロポーズされるとは思ったことがなく、愕然としている。

 紗夜の言葉に満足した純心は微笑みながら彼女を抱きかかえた。

 

「では、これから私の家に行こう」

「─────!? ちょっと、待って!」

 

 流石にそこは見過ごせないと、今度は紗夜の母親が我に返って叫ぶ。

 

「何かな、氷川嬢」

 

 純心は紗夜を抱きかかえたまま、かつては恋した女に向かってした呼び名を、彼女の母に向かってする。

 抱きかかえられている紗夜は既に為されるがままで、のぼせたような顔を彼の胸に傾けている。

 今の娘に何を言っても無駄だと判断した母親は、完全に純心だけへ矛先を向けた。

 

「貴方たちの結婚は一旦置いといて、だからってなんで紗夜を連れて行こうとするの!?」

「将来を誓い合った仲だ。共に暮らすのにさして問題はあるまい」

「問題だらけだわ! だいたい、結婚なんて。貴方はご実家を継ぐかもしれないけど、まだそれは先の話でしょう? 家の脛をかじって紗夜を養うつもり?」

「まさか──」

 

 悠然と微笑みながら、純心は紗夜を抱えたまま懐から何枚か折りたたまれた紙を取り出し、紗夜の母親の元へ投げ飛ばす。

 

「こ、これはいったい?」

「家は関係なく、私個人の収入に関する資料だ」

「!?」

 

 開いた紙に書かれた数字は頭が眩むほどだった。

 純心が大株主である会社。純心が代表で経営している店の数々。資本金を記すものや、通帳の写しもある。

 でっち上げにしては出来が良すぎ、疑うほうが難しいほどの完璧な書類だ。

 

「随分と紗夜と会ってなかったからな。家業と学業の合間、僅かだが将来の為に資金繰りをしていた」

 

 これで僅かだと彼は言った。

 少なくとも自分の夫が稼ぐ金額の遥か上にいく収入に言葉を失う。

 黄金に彩られた見た目といい、纏う空気もあって、目の前の男が中学生だというのが信じ難かった。

 

「これだけあれば、紗夜が大学を卒業するまでに掛る費用や生活資金は足りよう。我が恋人に豪遊癖はないからな」

「そうかもしれないけど……。ねぇ、純心くん。だからって紗夜を連れてく必要はないんじゃないかしら?」

 

 目の張る金額を見せられて、逆に落ち着きを取り戻した紗夜の母親は、静かな声で再度尋ねた。

 

「貴方が紗夜のためにしてくれたのは分かったわ。でも、紗夜はまだ未成年なんだし、大学を卒業するまで家族と一緒に生活するのが常識だと思うわよ」

「いや、それでは駄目だ。今がいい」

「そんな我儘が──」

「卿等、一つ問おう」

 

 呆れる紗夜の母親に純心が鋭く質問する。

 

「最後に紗夜の笑顔を見たのはいつだ?」

「? そんなの──」

 

 当たり前のように言葉を返そうとして、喉に詰まった。

 紗夜の笑顔と聞いて思い出すのは、まだ彼女が今の半分しか背がない幼い頃。

 

 だが、最近はどうだろうか? 

 小学生、4、5年生はまだ笑っていたはずだ。

 6年生は、朧気な記憶。そうだったかもしれない断片しか見つけられない。

 

 中学生になってから紗夜は、いつもどんな顔をしていた? 

 

 そこでようやく悟った。

 話を聞いていた紗夜の父親も妻と同じことに気づき、先程とは別の意味で衝撃を受けていた。

 

「さ、紗夜…………」

 

 泣きそうな声で呼びかけるが、娘は俯いてこちらを見ようとしない。

 哀れみが漂う中、終始唯一己の姿勢を崩さなかった純心が笑う。

 

「そういうことだ。笑うこともできない場所に、紗夜は置いておけない」

 

 そのまま純心は紗夜を抱えて、出て行こうとした。

 

「おねーちゃん……」

 

 純心が背を向けた瞬間、今まで成り行きを黙ってみていた日菜が姉に呼びかける。

 だが、紗夜は返事をしなかった。

 彼女は純心に抱えられたまま、その声に応えず、家を出て行った。

 

 

 

 

 空が紺碧に染まった夜道で、純心は紗夜を抱えたまま帰路につく。

 

「純心くん……、もう下ろしてくれないかしら?」

「せっかくだ。このまま家に向かおう」

「もう、強引なんだから………」

 

 微かに笑う。普段の彼女なら、人目に付く場所で長時間こんなことされたら腹を立てたものだろう。

 だがここ最近、純心に触れていなかったので下ろしてと自分で言ったが、実際はこのままの方が居心地良かった。

 

「私のために、連れ去ってくれてありがとうね」

 

 紗夜は彼の行動が何のためであるか分かっている。一緒にいることが辛い家族から引き離してくれたのだ。

 あの環境から誰か連れ去ってほしいと思ったことは何度もある。その相手が、今自分を抱える人であったらとも考えた。

 まさか結婚まで申し込まれるとは、都合が良過ぎて思いもしなかったが。

 幸せを感じる反面、それと同じだけ申し訳なさを感じている。

 

「ごめんなさい。貴方に迷惑をかけたわ」

「何を卿は勘違いしている?」

 

 心底、本気でそう思っているようで不思議そうな声音を純心は出した。

 

「私が自分のために連れ去ったのだ。紗夜が気に病むことなど、一切あるまい」

「…………そう。本当に、貴方は私に優しいのね」

「恋した女に何処までも甘いのが男というものだよ」

「そうなのね。本当に、貴方に恋されて、私は幸せものね。なら、もう一つ、甘えていいかしら?」

 

 随分と温もりを得られてなかったから、今の彼女は甘えたがりで、少し貪欲になっていた。

 もっと、この人が欲しい。そう願った相手は自分に優しく微笑みかける。

 

「いいとも。なにかね」

「キス、して?」

 

 潤んだ目で見上げる女に男は刹那を止めたが、凍り付いた時は徐に氷解する。

 

 

 ───彼が腕を少し上げると、二つの唇が重なった。

 

 

 小笠原家に到着すると、純心の母親が嬉しそうに紗夜を出迎える。

 道中、既に彼の両親には話を通してあり、力になってくれると教えられている。

 だが、彼の母親とあまり面識のない彼の父親は紗夜をあくまで客人のようにもてなし、事情は聴かなかった。

 紗夜を加えて囲まれた食卓は自分と家と違って厳かだったが、久しく感じられなかった家庭の温もりに彼女は食事中涙する。

 純心の母親が慰めると、紗夜は更に泣いてしまい、落ち着くまで暫く掛った。

 

「…………すみません」

「もう、何度も謝らなくていいですよ」

 

 何とか食事を終えてから風呂に案内され、そこで落ちつき用意された寝間着を纏った紗夜は寝室を準備している純心の母親に謝罪する。

 

「いえ、さっきのこともですけど。色々とご迷惑を」

「……うん。気にするのは分かるけど、今日はゆっくり寝るといいわ」

 

 話は明日と、その一言もなく「おやすみ」と言い残して退室しようとしたが、思い出したように彼女が振り向いた。

 

「そうそう。純心が夜這い来ても何とか追い払ってくださいね」

「よ!?」

 

 顔を真っ赤にする紗夜を残し、今度こそ彼女は出て行く。

 紗夜がいるのは畳が敷かれた和室。床には布団が敷かれており、あとは寝るだけなのだが先程の発言で興奮してしまった彼女は寝付きそうもなかった。

 

 本当に来たら、どうしよう。

 

 ここまでの道中、紗夜から気を許したので、向こうが更にその気なっているかもしれない。

 それがなくても、自分の恋人は大胆だ。彼女の両親の前で求婚を平気でやるような人物だ。

 彼の母親が追い払うように言ったが、本当に来たら拒める自信がない。

 

「紗夜」

「ひゃあ! あ、純心くん?」

 

 噂をすれば何とやら。振り向くと襖越しに純心の影があった。

 まさか、本当に来るとは。

 

「あ、ちゅみくん、すこし心の準備が──」

「音楽を一緒に聞こうかと誘いに来たが、都合が悪かったかね?」

「ふェ、音楽?」

 

 舌足らずで戸惑う紗夜に純心は襖越しで頷く。

 

「まだ寝るには早いしな。紗夜に聴かせたいものが随分とある。勿論、卿がもう眠るというのならば後日に誘うよ」

「あ、いえ。私もまだ寝付けないし、随分と音楽を聴いてないから聴きたいわ」

「分かった。では、私の部屋で」

 

 そこで漸く襖を開けた純心が手を差し伸べると、彼女はそれを掴みとった。

 純心の案内で久しぶりに彼の部屋に訪れる紗夜。

 前に来た時と雰囲気は変わらず、片隅には紗夜が小学校の担任からの伝手で純心に送った弓や、純心曰く朝目覚めたら庭に突き刺さっていた槍が布で巻かれていた。

 

「では、最初は、これなどはどうだろうか?」

 

 肩に触れながら隣に座り、少し離れた場所にあるスピーカーからCD音源の音が流れる。

 夜なので音量は控えめだが、黙って聞けば十分聴き応えのあるロックサウンドだった。

 

「いい曲ね」

「気に入ってもらって何よりだ」

 

 随分音楽に触れてなかった。

 一度バイオリンの演奏でコンクールを目指し、日菜よりも評価が下だったのが悔しくて、あらゆる音楽を遠ざけていた。

 

 だが、それはとても申し訳ないことをしたと紗夜は考える。

 

 音楽に罪はない。

 

 そして、改めて聴いてみると自分にはクラシックよりもロックサウンドの方が肌に合うようだ。

 気持ちが揺さぶられる。精巧な技術で演奏をするのは純心の解説によると女性のようだ。

 結果は欲しいものを得られなかったが、音楽を奏でることは楽しかった。その分、演奏というものが如何に困難であるかを彼女は知っている。

 このギターの音もどれだけ研鑽を重ねたのか。

 

 家族や学校で疲弊した心は純心によって保たれ、枯れていた情熱が音楽によって潤う。

 そうだったからこそ、彼女は無意識にこう呟いやいた。

 

「私も、ギターを弾いてみたい」

 

 




 なお、帰り道じゃなくて家でキスを強請ってたら、紗夜さんそのまま食べられたでしょうね。


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Lllustration─【バレンタイン】

本編のEpisodeや幕間のZwischenspielでもない。
本来はあとがきでも書くような落ちもないいちゃつくだけの小話です。

時系列は紗夜さんがRoseliaに恋人がいることを打ち明けてからのバレンタイン。



 2月14日、バレンタイン。

 起源はローマ帝国の時代、士気に関わるため婚姻を禁止した兵士のために一人の司祭が国の意思を背いて結婚式を行い、それが罰せられ殉教したのが始まりだ。

 処刑された日が祭日だったため、その前日が選ばれる。

 一般的には恋人たちの日であり、国々によって風趣が異なる。

 小笠原純心は母親がドイツとの混血(ハーフ)なため、歴史は30年ほど浅いがドイツバレンタイン文化を彼の家では行っていた。

 ドイツのバレンタインは愛の告白はせず、夫婦やパートナーであり、男性が女性に花束を贈るのが主流である。

 ゆえに、純心の父親は純日本人でありながら、妻のために毎年花束を贈っていた。

 息子である純心も自分のパートナー、将来を誓った相手に花束を贈っている。

 彼の相手である氷川紗夜は初めて贈られたときは異文化に驚いたが、長年付き合っていると喜びはしても、戸惑うことはなくなった。

 

 よって、紗夜が落ち着かないのは先程花束を貰ったのが原因とは考えにくい。

 現在純心の部屋にて、部屋の主人の膝上に座る彼女はとても緊張している。

 

 そもそも、緊張しているのは今日純心と会ったときに既になっていた。

 バレンタインを純心と過ごすのは初めてではないのだが、紗夜はずっとそわそわとして、顔も赤みが増している。

 

「じゃあ、次は私ね」

 

 そうやって、紗夜は鞄からラッピングされているチョコを取り出す。

 ドイツ流のバレンタインをする二人だが、日本流のバレンタインをしないわけでもない。

 紗夜からチョコレートを贈るのも、付き合う前からしていたことだ。今更、渡すだけでそこまで緊張することはないはずだった。

 だが、紗夜が緊張している原因はそのチョコレートにあるらしい。

 

「手作りか」

「……、そうよ」

 

 一目で見抜かれて紗夜は一瞬驚くも、コクンと頷く。

 恋人なのだから手作りのチョコレートは不思議でもない。

 けれども、純心が紗夜から手作りのチョコレートを貰うのはこれが初めてだ。

 普段の紗夜はお年玉を使って、高級チョコレートを純心に贈っていた。素人がレシピ通り作るよりも、専門店の味の方が勝るからである。

 紗夜は自己満足よりも堅実な結果を求めたのだが、今回は違うようだ。

 

「いつもはお店で買ってたけど、今回は作ってみたの」

「羽沢珈琲店の料理教室以降、菓子作りに励んでいたからな。その結果が実を結んだのか」

 

 少し前に紗夜は羽沢珈琲店で開かれた料理教室でクッキーを作って以降、何度か自主的に菓子作りをしていた。

 無論、純心もご馳走になっている。だから、恋人の手作り菓子自体は喜ばしいが特別驚くことでもない。

 しかし、様子を見る限り紗夜は違うようだ。

 

「それもあるけど、今井さんと一緒にお菓子作りしてから職人でなくても研鑽を積めば店に勝るとも劣らないと分かったわ。だから挑戦してみたの」

「今井嬢は料理上手だそうだな。とすると、今回の手作りは彼女の指南の下、自信作を作ったわけだな」

「えぇ。私なりにできる限りのことはしたわ」

 

 気合の一品というわけだ。ならば、彼女が緊張しても仕方ない。

 

「ならば、卿が作り出した珠玉の一品、とくと味わわせて貰おう」

 

 そうやってラッピングを解くと、円形の箱には一口サイズの金箔で彩られたチョコレートトリュフが数粒あった。

 紗夜は今年のバレンタイン、家族やバンドメンバー、学校の友人と数多くのチョコレートを作ったが、本命は一味も二味も違う。

 黄金の輝きを放つが造形自体は普通。着飾ることは滅多にしない、紗夜らしい食べやすさと味で勝負といったところか。

 純心は黄金の瞳でじっと、それを眺める。

 

「………………」

「………………」

「………………」

「………いつ食べてくれるのかしら?」

「………待て、まだしばらく眺めていたい」

「もぅ…………」

 

 紗夜は呆れた。最初にクッキーを贈ったときも、純心は眺めてばかりだった。

 このまま見過ごせば、羽沢珈琲店で作ったクッキーを渡した日菜同様防腐処理して永久保存されかねないと悟った紗夜は、指先で一粒拾い上げる。

 

「はい、あーん」

「────」

 

 口元まで運ばれたチョコに目を向けて、純心はやっと口を開いた。

 口の中にチョコが入れられ、離れた指先を唇で感じながら、最初は転がすように舐め上げ、少し噛砕き、味わう。

 どうやら、幾つから層のようになっているらしく、歯応えとコクのある蕩けた甘さが口の中に広がった。

 

「美味いな」

「!」

 

 素直に呟いた純心の言葉に、不安そうにしていた紗夜が破顔する。

 純心の評価は何においても手厳しく、今まで手作りの贈り物を喜びはしても『美味い』とは一言も言わなかった。

 そのため下手な手料理はするまいと避け、最近は何度か挑戦したが、結果は惨敗。

 だが、今日聞きたかった言葉を漸く聞けた。

 

「そう、よかったわ」

「もう一つくれ」

「えぇ!」

 

 手にした勝利に酔っていた紗夜は純心の要求にも素直に応える。

 先程は業を煮やして思わず自分から食べさせたが、普段はこんなことはしない。しても羞恥心一杯で渋々するのだが、今は強請る純心が嬉しくて言われたとおり、自分の手で食べさせる。

 純心はゆっくりと味わいながら、更に甘さを求めた。彼がここまで夢中になるのも珍しい。紗夜が作ったチョコレートは相当美味である証拠だ

 

「紗夜、次だ」

「……ごめんなさい。今ので最後だわ」

 

 紗夜も食べさせるのが夢中で数を途中数えなかった。

 ここまで喜んでくれるならもっと作ればいいと後悔しながら、紗夜は苦笑する。

 

「また来年も作るから我慢して」

「ふむ。ないのなら仕方ないな、別のものを味わうか」

 

 もっと欲しかったがないのならば違うもので熱を抑えるまで。平然としたまま純心は紗夜の服の中に手を入れた。

 

「…………純心くん?」

「次は紗夜を味わいたい」

 

 照れもなく悠然と微笑む純心を紗夜は見つめた。

 チョコレートには媚薬作用があると昔では言われたが、恋愛化学物質であるフェネチアミンは消化の際に分解されるので否定されている。

 つまり、この情欲は彼の常駐している性質であり、それに悩まされることも多いが、今回は紗夜もチョコレートのような雰囲気に随分と絆された。

 いつもなら、仕方ないと、言い訳もするが言わない。彼女もそんな気分だったから。

 

 返事は言葉ではなく、行動で。

 

 腕を頭に回してから重ねた唇の味は、とても甘かった。



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Episode ─XⅤ【刹那の音は遥かに】

また、久しぶりの投稿。
毎度、誤字は察して。
そして、だんだんとDies色が強くなっていく。不思議。


 私も、ギターを弾いてみたい。

 久しぶりに恋人である小笠原純心と音楽を聴いている最中に、自然と出た氷川紗夜の言葉。

 紗夜自身も唐突な己の発言に戸惑い、気まずそうな顔を浮かべた。

 

「ごめんなさい。つい、言ってしまったけど、なんでもないわ」

「弾きたいと思ったなら弾くべきだ」

 

 誤魔化そうとした紗夜だったが、彼女の隣にいる黄金の君は少女の吐露を見逃さない。

 女の内なる想いを隠す壁を破壊するのが、この男の役目だ。

 

「我を忘れて零れ落ちた己の渇望。それを満たす行為が今の卿には必要だ」

「純心くん……」

 

 潤んだ瞳で紗夜は黄金の双眸を眺めた後、ぎこちない笑みで完膚なきまで崩された心の城壁の跡地から、芽生えた渇望を流出される。

 

「たった一つでいいの。自分が認められた証明がほしい」

 

「それでギターか?」

 

「えぇ。認められた音楽は刹那(一瞬)が永遠になれる。私自身が永遠にはなれなくても、私が奏でた音は永遠になれるかもしれない」

 

 優れた音楽は奏者が亡くなった何百年経った後でも、認められるもの。

 無論、そんなものは限られたものだけだ。

 愛されている音楽は夜空の星々程あるが、誰にも見向きもされない音楽は星と星の間にある闇の如く、無限に広がり増え続けている。

 だがもしも、永遠に眩く刹那になることができれば、今を天に輝く存在(双子の妹)に勝てるかもしれない。

 

「私だけの証を手に入れることができれば、何もかもあの子に劣る不出来な存在とは言わせない」

 

「なるほど。飢えは理解した」

 

 根源は、かつてと変わらず妹への劣等感から抱く抗い。

 それを醜いとも思わず、美しいと思っている純心だが、それでは今迄と変わらない。

 だが、今回選んだ道は今まで紗夜が挑戦したどれよりも茨の道だ。

 単純に分かりやすくプロになるだけでは、彼女が目指すべき場所には届かない。

 永遠の刹那になることは、それ即ち至高の存在に等しい。

 単に双子の妹と別に評価を受けたいならば、別の道は幾つもある。

 それこそ、日菜が紗夜を追っても、すぐ止めてしまうようなこと。あるいは日菜が拒絶や興味を持たないものを着手すれば済む話だ。

 

「それならばギターでなくても良いだろ。そこまで高みを目指す理由は何処にある?」

 

 当然の問いかけに、紗夜は不敵な笑みを浮かべた。

 

「その方が、やりがいもあるわよ」

 

 あぁ、なんとも彼好みの答えだ。

 流石は恋した我が女神だと、口づけ一つでもしたい衝動を一応空気を読んで自制し、純心は満足した大らかな顔だけに止める。

 

「ならば、存分に励むがいい。ギターを弾けるようになったら、是非聞かせてくれ」

 

「えぇ、お願いするわ」

 

 純心の耳が良いことは知っている。彼に聞いて貰えば上達するのも早いだろう。

 紗夜の朗らかな微笑みで気持ちが緩んだと純心は感じ取った。

 恋人が少しでも前向きになったことは実に喜ばしいことなのだが、何故か彼は僅かに落胆の色を滲ませる。

 

「では、弓道は止めるわけだな」

 

「あら、まだ続けるわよ」

 

「おや、意外だな。不必要なものはやらぬ主義であろう?」

 

 てっきり、純心はギターに集中するため他のものは可能な限り排除すると考えていた。

 紗夜のギターに対する覚悟は生半端ではないことは重々把握しているため、その行動方針は純心にとって予想外である。

 

「私にとって弓道は不必要にできるものじゃなくなったの。精神集中で気持ちが引き締まるし、ギターをしても続けるわ」

 

「なるほど。それは喜ばしい」

 

「あなたこそ意外ね。私が弓道を止めても気にしなさそうなのに」

 

 純心にとって弓道は重要な存在だが、それはあくまで彼にとってであり、紗夜が共有しようとも、我関せずと考えていた。

 だが、実際は彼女が止めるのを心配していたようで、言葉にした通り意外である。

 照れ臭いものを感じつつ、愛くるしいと思った矢先、次の瞬間勘違いだと打ちのめされた。

 

「なに、紗夜の弓道着姿をまだ見れそうで良かったよ」

 

「な!? あ、あなたは! ぶ、武道に無粋な考えを持ち込むなんて──」

 

「好いた女の姿はどれも恋しい。他に何がある?」

 

 当然とばかり豪語する恋人に紗夜は頭を痛めた。

 整った顔と妖艶な声で誤魔化してるが、言ってる内容は単なるデレだ。

 

「私の弓道着姿なんて、何度も見たでしょうに。貴方は──、既に知っているものはそこまで好ましく思っていないでしょう?」

 

 一瞬、言い淀んだのは、それが恋人と双子の妹の共通点。

 同じ天才故の価値観なのか二人は少しでも既知だと感じたものは、冷めたように捉える傾向がある。

 

「そうだ。私は既知を疎む。既に知っていた結果ほど、空しいものはない。

 だが、例外は何ですら存在する。

 私にとってそれが紗夜だ。恋しい女の姿は何であれ、何度繰り返しても飽きることはありえんよ」

 

「…………」

 

 恥じることのない好意に紗夜は顔を赤らめる。

 紗夜にとって、純心の好意はそれこそ既に知っていることだが、何年付き合っても胸から熱を上げることは抑えきれない。

 度合に違いはあるが、彼女も純心と同じ感性なのかもしれない。人によれば似た者夫婦と揶揄されることだろう。

 

「弓も例外の一つだな。私には矢で的を射抜くことは当たり前のこと。ゆえに的中も、特に感慨することはない」

 

 それは紗夜も随分前から知っていることだ。

 純心の弓は百発百中。彼が矢を外したことなど見たこともなければ、聞いたこともない。

 射る力が有り余って、未だ的を破壊していることは目にして、聞いたりしているが。

 

「そもそも、的中して喜ぶのを許されるのは最初だけ。弓道とは『至誠』と『礼節』。求める道、求道なのだ。結果よりも過程を重んじる。ゆえに技量は二の次だ」

 

 久しぶり彼が己の弓道観を語っているので、紗夜が真剣に聞き入ろうと身構える。

 その緊張を崩すように、純心は意地の悪そうな笑みを浮かべた。

 

「と、在り来りを言ってみたがね。所詮、私は若輩の身。先人たちの言葉は理解しているが、性根は己の本位に矢を放っているのに過ぎない。私にとって、弓とは楽器のようなものだ」

「弓が楽器?」

 

 初めて聞く価値観、紗夜は緊張を解きつつ、彼の言葉を忘れまいと集中する。

 

「静寂の空間に響く、弦の音。空気を穿つ矢の音。そして、一滴の水が大地に零れるように響く、的中音」

 

 彼が語ったことは紗夜も覚えがある光景だ。

 無音の中、太鼓を一度だけ叩く、一瞬。

 純心はそれを好ましく思っており、語られて紗夜も好ましいと気付いた世界だ。

 

「何度も繰り返し、何度も同じものを感じ、既知として根付いているが、飽きぬ。

 名曲とは時間が経っても色褪せぬ。私にとって弓とはそれと同じなのだ。

 余人に理解されぬとも良い。つまらないと言われれば、それは其奴がつまらぬのだ」

 

「なら、私は、貴方につまらない女と思われないようね」

 

 別の弓道家が聞けば、何たることかと文句一つ零しただろうが、紗夜は偽りなく思った。

 そもそも、弓道とは純心が語ったように、己だけが行う己だけの世界。弓道の試合や作法はあるが、それは己が世界を強固であると証明する場であり、道のりなのである。

 彼の弓は、彼だけのものだ。

 

「でも、弓が音楽だなんて。純心くんの方が先に始めているなんて、思いも知らなかったわ。これは負けてられないわね」

 

「そこは畑違いなので気に病む必要などあるまい。そもそも、卿が勝りたいのは日菜であって私ではなかろう?」

 

「あら、そんなことはないわよ。あの子のような気持ちはないけれど、私は貴方にも勝ってみたいわ」

 

 臆することなく、紗夜は言ってのけた。

 出会った当初では想像もしなかった気概。

 相手は妹と同等かそれ以上の存在だ。男女の違いや、恋人の愛柄で何を勝負するかと思うかもしれないが、上下関係が明確に分かれていることだけは嫌なのだ。

 生涯共にする相手ならば、隣に並び立ちたいと思うのも当然である。

 その力ゆえに挑まれることが多くなかった純心、けれど日菜のように僅かに彼に挑んでくるものがいるので珍しくもない。

 だが、自分の女に自分に勝ちたいと言われることは想像しなかった。

 亭主関白と掲げる気はない。されど、女の下につくなど論外。言葉にするのは純心自身も難しいが、確かなことは、紗夜にまた惚れ直したことだ。

 何処かしら邪悪な笑みを口に刻みながら、純心は問う。

 

「では、何をもって私に勝つ?」

 

「そうね、例えば私がギターで貴方を感動させるのはどうかしら?」

 

 戦線布告にしては、あまりにも児戯であるが、二人は真剣だ。

 なるほど、それは確かに勝利と言えるかもしれないと、純心は認める。

 

「ならば、己のギターのみで見事私に勝利してみるがいい。手心は期待せぬことだ。そう簡単に勝たせてはやらぬぞ」

 

「えぇ、望むところよ」

 

 勇ましく微笑む。

 頂点を目指す上で、目指すべき目標の一つができた。

 これから、いくつも目標や試練が待ち構えているだろうが、必ず乗り越えてみせる。

 

 そして、あの子に──。

 

 そんな暗い影に今は目を向けず、彼女の挑戦がこの瞬間から始まったのだ。

 

「では、見事私を感動させ、卿が勝利したなら何か褒美をやろう」

 

「褒美…………」

 

 意気揚々の純心だったが、褒美と言われて紗夜は何とも言えない顔になる。

 

「何でもいいぞ。紗夜が望むなら、総て叶えよう」

 

「…………でも、純心くん。自分で言うのも何だと思うけど、今も私がお願いしたら何でも叶えてくれるわよね?」

 

「無論だ。惚れた女が欲するなら叶えてやるのが男の甲斐性だ。ふむ、取り急ぎ何か欲しいものがあるのかね? いや、ギターを始めるからには、まずは道具を手にするべきだな。明日にでも楽器屋に向かうぞ。必要なものを買い揃えよう。金のことは気にするな。二言はない。私が全て払う」

 

 紗夜と会っていない間、彼女の両親に見せた個人資産がある純心にとって、楽器の道具を買い揃えることなど造作でもなかった。

 

「……私が言うのもなんだけど、純心くんは甘すぎるわ」

 

 甘受ばかりでは駄目だと、必要なものは自分の貯めていたお金を使おうと紗夜は考えた。

 勉強ばかりでここ何年かは無駄遣いする暇はなかった、毎年のお年玉が随分と貯まっているので、安いものならば最低限揃えられるだろう。

 そう心に決めた紗夜だったが、後日あれやこれやと言い包められて、彼女に合った最高品質の一式を支払いを純心が済ませたのであった。




楽器屋

「紗夜のものは私のもの。私のものは紗夜のもの。夫婦で財産は共有するものだ」

「いや、まだ結婚してないわよ!」

「だが、結婚はするだろう」

「っっ! それは、し、したいと思ってるけど」

「ならば、今からでも問題はない。支払いはこのカード(真っ黒)で」

「うぅ、また買って。私がまるで男ばかりに貢がせてる悪い女みたいじゃない」

「悪女の紗夜も素敵だな」

「少し黙って!」


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Episode ─XⅥ【未だ答えは見つからないまま】

 書いて書いて書き続ける。
 上達(誤字を失くす)にはそれしかない。
 


 

 鹿威しの音が閑静な和室に響く。

 場所は老舗料亭の個室。(とち)の座卓を挟み、対面するのは氷川紗夜とその両親。紗夜(さよ)の双子の妹、日菜はいない。

 彼女がいれば、静かではなかっただろうが、今回はいないほうが正解である。

 今は只、張り詰めた空気だけが支配していた。

 

 時は、紗夜が小笠原(おがさはら)純心(あつみ)と共に家を出てから一週間後。

 

 その間、紗夜は純心の実家から学校に通っており、学材は彼女がやって来た次の日に何処からか一式準備されていた。

 

 手配したのは、紗夜の恋人である純心。

 

 紗夜の通う羽丘女子学園と彼が通っている風代学園は兄弟校であるため、教材も同じなのだ。

 即ち準備するのは容易いと言ったのが純心の言葉だが、昨日の今日で準備できているのはやはり異常である。

 しかし、そのお陰で紗夜は普段通り学校に通うことができた。

 学校では、気まずそうにしながらも日菜が接触しようとしたが、紗夜は悉く避けた。

 二人の関係が悪化した時点で紗夜は日菜との接触を極力避けていたので、傍から見れば普段の通り、仲の良くない双子と認識されている。

 そんな日々が続く中、紗夜は純心から自分の両親が彼女に話したいと伝えられた。直接、紗夜から連絡が来なかったのは、彼女が実家からの連絡を無視していたからだ。

 以前では考えられなかった反抗的な彼女に氷川夫妻は困惑し、小笠原の家に何度か連絡した末での本日(ほんにち)

 

 この場を設けた純心は紗夜をこの場に送り届けた後、別室で待機している。

 話し合いは、紗夜とその両親のみ。

 あの日、娘を連れ去った男も同席するだろうと思っていた氷川夫妻は、正直内心安堵している。

 夫妻は自分たちの年齢を半分にしても届かない少年に畏怖の感情を持っていた。

 規格外の存在は己たちの娘で慣れていたと思っていたのは、二人の勘違い。

 自分たちの想像など遥かに凌駕した存在に、自分たちの娘は見初められたようだと今更嘆いている。

 

「……小笠原の家には随分と良くしてもらっているようね」

 

「……えぇ」

 

 紗夜の後で両親がこの部屋にやって来て、久しぶりの挨拶を交わしてから数分後。母親からの質問に対し、紗夜は簡素に答える。

 言葉だけでなら嫌味にも聞こえなくもないが、母親が浮かべる感情は安心と寂しさが入り混じったものだ。

 

「私たちは寂しかったわ。日菜は特にね」

 

「…………」

 

 妹の名前を出した途端、紗夜の瞳が冷気を纏うのを母親は感じ取る。

 胸に走る痛みに、表情が崩れそうなのを何とか抑えた。代償に言葉が続かなかったが、代わりに父親が口を開く。

 

「家に帰ってはくれないか……」

 

「────」

 

 娘の無機質な目が向けられた。

 訪れた反抗期。むしろ周りからすれば遅かったかもしれない。

 しかし、来るべくして来たのではなく、自分たちが招いた事態と両親は考えた。

 

「お母さんと二人で話し合ったよ。私たちは随分と紗夜に負担をかけてしまった」

 

 母親と父親は今までのことを省みて、紗夜を蔑ろにしていたのではと気づく。

 

 愛してなかったわけでない。

 

 ただ、双子という立場だから、日菜と同列に扱い過ぎた。

 同じ子供だからと、分け隔てなく接したのがそもそもの間違い。

 同じ娘で、同じ日に生まれた双子であるが同じ存在ではない。

 

 

 日菜は日菜で、紗夜は紗夜なのだ。

 

 

 紗夜が周りから見ても優秀だったので、天才の域の日菜と同じ場所まで行けることが当たり前だと思っていた。実際、小学生の頃は今ほど差がなかった。

 しかし、中学に上がり、何かと双子の差が目につく機会が増え、その度に不甲斐ない姉と諫めた。

 

 結果しか目もくれず、紗夜の努力に見向きもしなかった。

 

 後に知る、紗夜が結果を出せなければ努力は総て無駄だと思うようになったのは、間違いなく自分たちの責任である。

 母親は紗夜が家を出た後、整理の為、彼女が残した勉強ノートを見た。

 怨嗟と感じるほど、端から端まで書き綴ったノート。それを見て何も思わないはずがない。

 少し考えれば、分かったはずだ。

 もしも、紗夜が憤りを発露していれば、今回のような事態にはならなかったかもしれない。

 だが、そんなことはなかった。紗夜は誰にも打ち明けられず、耐え忍ぶ日々を繰り返していた。

 あの日、純心が垣根を破壊してやって来なければ、家族間は修復できない状態まで壊れただろう。

 

「すまなかった。だから、家に戻って来てくれ」

 

 そうやって、父親は頭を下げる。

 紗夜の無機質だった目が、驚きと狼狽に変わった。

 親が子に頭を下げるなど、親の自尊心で簡単にできるものでない。

 

「頭を上げて、お父さん」

 

 紗夜もこれ以上見たくなかったので、おもてを上げるよう乞う。

 あれだけ苛立ちを募らせた相手の謝罪を見ても、いい気味だと思わず、ただ、悲しい。

 両親が傲慢な態度をすれば、一生家に戻らない覚悟もしていた。

 けれども、二人が自分にしたことは一生忘れそうにもないが、恨み続ける程は両親を憎み切れていないようだ。

 

「分かった。家に帰るわ」

 

 ほっと、緩みかける両親を見て「でも──」と、紗夜は言葉を続けた。

 

「日菜とは前のように仲良くできない。学校も別にしたいし、部屋だって分けてほしい」

 

 父親は顔を曇らせたが、少しの間を置いて頷く。

 

「分かった。すぐには無理だろうが、そうしよう。双子だからと言って、一緒にし過ぎたのが今回の過ちだからな。日菜からは私から説明しておこう」

 

 どれだけ邪険にされても、昔から変わらず姉を好いている日菜を説き伏せるのは苦労しそうだ。

 しかし、今の状態で本人同士話し合わせるのは更なる軋轢を生みかねない。

 今度は日菜から恨まれそうだが、親の責任として受けることにした。

 

「…………。えぇ、お願い」

 

 求めていた回答であるはずなのに、紗夜の顔は緩むことはない。

 それが一縷の希望に見えた父親は、微笑みを苦渋で塗りつぶし、徐に立ち上がる。

 

「では、父さんは純心くんと少し話したいことがあるから、席を外すよ」

 

「純心くんと?」

 

「男同士、必要な話し合いがあるのだ。では、行ってくるよ」

 

 疑問を持つ紗夜に恰好をつけてはみたが、実際、純心と一対一で会話するのは気が引ける。

 しかし、これは父親としての責任であり、家長としての役割。逃げるわけにはいかないと、震える足を動かす。

 心配そうにする妻に見送られて、父親は純心が待機している別室に向かった。

 

「失礼するよ」

 

 予め言われた場所の襖をゆっくりと開くと、縁側で酒でも飲んでいるかのようにお茶を啜る純心がいた。

 金色の髪を靡かせて和室に君臨する様は、異国からの侵略者にしか見えない。日本人でまだ中学生など、実は嘘だったと言われたほうが信じられる。

 紗夜の父親の来訪に、黄金の瞳が動く。

 まるで、獅子の檻にでも踏み入った気分だ。

 純心といえば、相手は恋人の父親だというのに尊大な態度を崩しはしない。

 

「紗夜は、家に戻ることになったよ」

 

 カラカラになる声で、何を言おうか迷った彼は、一番言わねばならぬことを口から出すことに成功した。

 

「そうですか。では、荷物はこちらが後で届けましょう。紗夜が望むなら、今日はそのまま三人で家に帰れば良いでしょう」

 

 言葉だけなら丁寧だが、妖艶な声は押し潰してくるようで重い。

 しかし、重圧を受けながらも、安々とした態度に紗夜の父親は怪訝する。

 

「あっさりしているね。半ば強引に娘を連れ去った男の言葉とは思えないよ」

 

「紗夜が貴方がたと共に過ごすと決めたなら、そうするべきでしょう。いずれ娶ることは決まっている。最後に私の隣にいればそれでいい」

 

 最早、結婚することは何人も覆すことができない決定事項のようだ。

 思わず、紗夜の父親は苦笑いを浮かべる。

 まさか、こんなに早く娘の一人を取られるとは思わなかった。

 

「本当に君は中学生なのかい? それと、私たちが紗夜を無理矢理連れて帰ろうとしているとは思わないのかな?」

 

「その時はまた連れ去らうのみ」

 

 当然のように宣言する純心に、紗夜の父親は全身から冷や汗をかく。

 

「……………紗夜はとんでもない相手に好かれたものだ。二人が長年付き合っているのは知っていたのに、交際相手を正しく理解できなかった。

 いや、私如きが君を推し量れるのは烏滸がましいか……。

 自分の娘たちですら、ちゃんと分かってやれなかったのに」

 

「だが、光明はありましょう。気に病んで改善できるなら、間違いを正せる力が卿にはある証拠ですよ」

 

 純心の言葉はまるで遥かからの先人からのようで、紗夜の父親は思わず耳を疑う。

 

「何度も疑ってしまうが、君は本当に紗夜たちと同い年なのかい? まるで、何倍も年上を相手にしているようだ」

 

「老骨だと自覚はありますよ」

 

「ひ─────、申し訳ありません!」

 

 ぎらり邪悪な笑みにビビる紗夜の父親。

 

「何故ここにきて畏まるのですかね? 娘の婿だ。我が子のように接しても構いませんよ」

 

「それ自分から言う?」

 

 無理な話だ。自分の子は母親に似て天使のように可愛い双子の娘だけ。

 変な空気が流れたことで、少し我を取り戻した紗夜の父親は純心に尋ねることを思い出した。

 

「…………あと、君に尋ねたいのだけど」

 

「何ですかな? 結婚は大学卒業してからだと考えています。私としては年齢が達したらすぐにと考えておりましたが、紗夜の希望がそうなので」

 

「え、そうなのかい? それでも随分早いけど、君は既に稼げるし収入面は問題ないのかな。ではなく───君は、紗夜を苦しめた私たちや、日菜を悪く思ってないのかい?」

 

「いいえ、全く」

 

 それこそ、純心からすれば当たり前の返答。

 

 純心は総てを愛している。

 

 家族の問題で恋人が苦しんでいると解っても、彼がその周囲に苛立ちを募らせることは微塵もなかった。

 紗夜は唯一無二、恋しい女。それを傷つけるものは断じて許さないのか?

 

 否。

 

 そんなことはあり得ない。彼の愛はその程度では一切揺るがない。

 仮に、恋人が殺されても、怒りはなく、ただ愛そ(破壊しよ)う。

 

「私は卿等が以前のように紗夜を扱おうとも構わない。それが卿等の在り方であり、私はそれを愛そう。紗夜がそれで傷つくならば、傷ついた紗夜を愛でるまで。

 日菜が紗夜を追い求め、苦しめても構わない。それが、氷川日菜という在り方であり、それを愛している。紗夜がそれで藻掻き苦しむのであれば、私の口付けで息を吹き返そう。

 それが我が愛であり、恋だ」

 

 愛する総てが恋する女を苦しめるならば、総てを愛した上で恋した女を情欲で染める。

 あぁ、傲慢で、業に塗れた愛なのだろうか。

 

「─────」

 

 戦慄が迸る。

 やはり、目の前の存在は自分如きが推し量れる存在ではなかったっ!

 娘はこの男の本質を知っているのだろうか。

 いや、昔、自分が付き合っている男性のことを紗夜が話してくれたことを彼は思い出す。

 

 私の恋人は総てを愛している。

 

 その時、単なる博愛主義だと思っていた自分が愚かだった。

 これはそんな生易しいものではない。歪で壊滅的な輝きだけで焼かれる何かだ。

 正直な感想を語るならば、こんな存在は関わるべきでない。

 しかし、この存在と自分の娘の繋がりを見れば一目瞭然で二人が自らの意志で離れることはないだろう。

 娘との繋がりを断てば、金輪際関わることもないだろうが、それができるほど、彼は薄情でもなかった。

 

 あぁ、どうか世界が優しくありますように。

 そう、まるで女神にでも抱擁されているかの如く。

 

 そうであれば、この黄金の獣も大人しいままであろう。

 凡人な男できることは、そう祈ることだけだ。

 

「では、戻るとしますか。店に頼んだ軽食があります。それを口にしながら、今後のことや紗夜の昔話でもしましょう」

 

「……………、あぁ、君に従うよ」

 

 ぎりぎり正気を保った瞳で頷き、彼は純心と共に娘と妻が待っている一室に戻る。

 廊下を歩く僅かな時間、まるで黄泉道を彷徨っているようだったが、目的の場所に近づくと娘と嫁の話し声が聞こえきた。

 地獄からの光明。僅かな時間で廊下に声が聞こえる程、蟠りを解消できたのかと綻ぶ。

 

「──あら、この前キスしたのが初めてだったの? つまり紗夜はまだ抱いて貰ってないわけ? あれだけ熱愛で同じ屋根の下寝泊まりしたのに、意外と進んでないのね」

 

「何を言っているの、お母さん!」

 

「若いうちに慣れとかないと、計画的にするときに大変よ。あとは、紗夜は彼女なんだから解消させてあげなきゃ可哀そうよ。あれだけ貴女を好きなら、絶対溜まってるわ。

 勿論、避妊は絶対だけどね☆」

 

 おいいいいいいぃい!

 なんつう会話をしとるんだ、嫁よ!

 卑猥な話をする嫁に娘の悲鳴が聞こえてくる。外に聞こえてるなんて、恥ずかしい。

 ちらりと横をみると、黄金の男は何やら神妙な顔つきになっていた。

 

「ところで義父上よ。孫はいつ頃ご所望かな?」

 

「せめて、結婚してからでお願いします!」

 

 

 

 

 その後、紗夜は家に戻り、学校は花咲川女子学園に通うことになった。

 羽丘女子学園から花咲川女子学園に通うことは珍しくもない。逆もしかりである。

 両校の距離がそこまで離れていないこともあり、より勉強に力を入れたい者は進学校の羽丘女子学園。多くの可能性を見出したいものは、海外のコネクションもある花咲川女子学園に高等部から転学する生徒は少なくなかった。

 なお、共学に変えたければ付近唯一の共学校、月乃澤学園が選ばれ、その月乃澤学園からは男子は風代学園、女子は羽丘女子学園か花咲川女子学園と高等部から転学する生徒もいる。

 学校を変える生徒は殆どの場合、高等部からなのだが、早く環境を変えたかった紗夜は受験の手間を省くという理由を立てて、転入試験を行い、来年から中等部二年生として花咲川女子学園に通うことになる。

 羽丘で紗夜はあまり他者と交流しなかったので、彼女の転校は特別騒ぎ立てることもなかった。

 

 唯一、日菜だけは、やはり反感の意を示したが。

 

「なんで────!? どうして、別々にするの!! 一緒がいいよ!」

 

 姉と同じ学校に通えなくなり、更には高校からは別々の部屋にすると知った日菜は家で騒ぎ立てたが──。

 

「貴女と一緒にいたくないの」

 

 紗夜のその一言でピシャリと黙り、その日は姉と共用している部屋でなく、客室で泣きながら眠った。

 

 そんな夜の苦い顔で過ごした紗夜は花咲川女子学園に通いなら、ギターを始める。

 

 やはり、物覚えは良いようで、紗夜はすぐに弾けるようになり、本格的に始めて一週間後には人前で弾いていた。

 高校から別々の方が区切りの良いという理由で、ギターの練習は家ではなく小笠原の家で行い、その都度成果を純心に確認してもらった。

 本人はギターを弾いたことなどないはずなのに純心の指摘は的確で、紗夜の上達速度を加速させた。

 紗夜は家でも練習したかったが、まだ個室を貰っていなく、日菜にギターをしているところを見せたくなかったので、高校に上がるまで家でギターを弾くことはなかった。

 

 日菜には遅かれ早かれ、いずれ知られる。

 いつも通りの展開になる(、、、、、、、、、、、)

 そんな予感は隠し、ただ弾いて弾いて、弾き続け、時が経ち紗夜と日菜は高校生になった。

 

 その間までに双子の関係性を自分たちの手だけで改善するという両親の願いは空しく叶わず、到頭部屋も別々になった。

 

 日菜への劣等感を抱きながらも、何とか環境を変えて負担を減らし、恋人の純心に支えられた氷川紗夜は花咲川女子学園で────。

 

「へぇ、氷川さんの趣味ってギターなんだ。なんかカッコよね。ねぇねぇ、聞かせてよ」

 

「私はギターを趣味でやっていないわ。カッコいいとか、面白いとかそんな理由でやっていると思われるのは心外よ。個人練習がしたいの、さよなら」

 

 ───原作通りの狂犬になっていた。

 




 何故こうなった。
 次回か次回、その原因が明らかに!


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Episode ─XⅦ【氷と雷と炎】

 今回、紗夜さんもあまり登場しませんし、獣殿も出ません。
 またキャラの扱いが不当だと思う方がおられるかもしれませんが、作者的には王道。
 予め、ご了承ください。


 バンッ! カンッ!

 

 花咲川女子学園高等部体育館にて激しい音が響く。

 防具を纏った紺碧の袴を翻し、二本の竹刀が衝突。

 張り詰めた空気の中、日本に伝わる剣道の試合が繰り広げられていた。

 

 尤も、日本伝統文化であるが試合している片方は日本人ではない。

 面で隠れている髪は黄金。その瞳は碧眼。

 

 名をベアトリス・ブリュンヒルト・フォン・キルヒアイゼン。

 

 中等部から花咲川女子学園に通うドイツからの留学生。現在は高等部一年生である。

 自分が産まれる前に亡くなった同名同性の親戚が日本で生涯を終えた話を聞いたことが切っ掛けで日本に興味を持ち、遥々海外からやって来た自称金髪美少女だ。

 花咲川女子学園は様々な異国とのコネクションを持ち、毎年海外から留学生を招いている。

 逆にそのコネクションを使い花咲川卒業後、海外進学する者は珍しくもない。

 日本に訪れたベアトリスは中学から剣道を始めた。

 物心ついた頃からフェイシングを習っていたこともあり、短期間で上達をする。本人の努力もあり中等部最後の年では個人優勝を果たした強者だ。

 

 また、現在行われている試合は部活動ですらなく、単なる体育の授業での練習試合。

 二本先取の試合で、ベアトリスは一本取っており、それだけ聞けば彼女の勝利は当たり前だろうと感じるだろう。

 

 だが、ベアトリスは公式戦以上の苦戦を強いられていた。

 

 一本を取っているのは、相手側も同様なのである。

 更に相手は剣道部にも所属していない。経歴を見れば何も功績を挙げていない素人なのだ。

 

「くっ─────!」

 

 しかし、この闘いを見て、誰が彼女が素人かと信じられるのだろうか。

 ベアトリスが床を蹴り上げると、轟音と共に彼女は移動する。

 試合を見守る生徒たちはベアトリスが瞬間移動でもしたかのように見えただろう。

 雷速の戦乙女、それが剣道界で囁かれるベアトリスの異名だ。

 落雷したような踏み出しと共に移動し、相手を瞬時に倒す。試合で彼女に10秒以上持った者は殆どいない。

 だが、試合経過時間は既に10分以上経過している。

 

 バン! ガン! タンッ!

 

 竹刀が激しく打ち合う攻防。戦いの熱量は周囲にも伝播し、観戦者は皆、汗を流す。

 経験、剣術はベアトリスが上。戦いが膠着状態になれば、より優位に立つのは手札が多い者。ベアトリスは連撃の最中、相手の隙を見逃さなかった。

 雷速の剣撃。振るったベアトリスが直撃を確信した最高の一閃。

 

 ガンッ!

 

 それを、相手が受け止める!

 ベアトリスの一閃を過剰表現したわけではないのだ。

 仮に目が追いつくものが見れば、ベアトリスの竹刀が相手の籠手に当たる直前、その相手は微動もしてないのを目にしただろう。

 だが、直撃するに見えた刹那。当たったと思われた竹刀が受け止められていた。

 まるで、既にそう動いていたと思わせるような超反応ッ!

 総合的速度はベアトリスの方が上だが、超瞬間的速度は相手側が上なのである!

 そして、それが攻撃に利用できればどうなるか───。

 返し刃。今度は隙を突かれたのはベアトリスだ。

 無論、彼女は防ぐ。

 

 スパアァァンッ!

 

 だが、動いたという痕跡すら見せず、竹刀がベアトリスの頭上に振り落とされた。

 ベアトリスは、その超瞬間的な攻撃に反応すらできなかったのである。

 数秒経ってから決着がついたことに周りが気付く。審判係の笛で体育の授業が終わった。

 

 

 

 

「うぁああん! 負けました! ついに一本のみならず試合でも負けてしまいました!」

 

 体育の授業後。ベアトリスが更衣室にて防具を解いた後、金髪の髪を揺らしわんわんと喚いている。

 彼女を負かした相手、氷川紗夜は着替えながらベアトリスに冷たい目を向けた。

 

「しつこいですよ。一度の練習試合で負けたからって嘆かないで下さい。私は今まで何度貴女に負けたと思っているの?」

 

「94回です」

 

「っ、やはり、覚えていたのね」

 

 泣き面は何処にいったのが自慢気な笑みを浮かべるベアトリスを紗夜は睥睨する。

 

「あと少しで100回なのに厳しいですね。最近紗夜は剣道部に顔を出してくれませんし」

 

「それだけ勝っているなら十分でしょう」

 

 先の試合、ベアトリスを負かして、それだけ彼女に負かされた相手は益々冷ややかな声を浴びせた。

 だが、ベアトリスは吠える。まさに負け犬の遠吠えである。

 

「数の問題じゃないんですよ! 本格的に剣道をしてない子に負けちゃったんです! これじゃあ、先輩に馬鹿にされますよ~!」

 

「ふっ───」

 

「おっと、今鼻で笑いましたね!? 見てなさい、次の授業で私が勝ちますから!」

 

「剣道の授業なんて、そう何度もあるもではないでしょう」

 

「なければ、前みたいに放課後部活に引っ張るまでです」

 

「貴女の自尊心のために私の時間を勝手に潰さないで頂戴。迷惑だわ」

 

 ベアトリスに試合形式でも勝てるようになって満足した。それ以上剣道に時間を費やすつもりはない。

 紗夜には目的がある。彼女は己にとって余計なことをする気はなかった。

 

「つれないこと言わないで下さいよ~。というか私に勝ったんですから本格的に剣道も始めませんか?」

 

 期待が籠った瞳に見つめられても、紗夜の態度は冷たいままだった。

 

「興味ありません。あなたに負け続けなければ十分です」

 

「勿体ないですねー。それだけの実力があるのに」

 

 二人が知り合って間もない頃、紗夜の高い身体能力を面白がったベアトリスは彼女を自身が所属する剣道部に遊び半分で招いた。

 そして、ボコった。

 けして己が尊敬する先輩が、自分より小学生の頃面識があった転校生の方が親しそうに見えたからではない、というのがドイツ少女の証言。

 勿論、素人である紗夜が剣の腕前が達者なベアトリスに当然敵うはずもなかったが、ここで紗夜の負けず嫌いが発揮される。

 その後、紗夜は時間を空けては剣道部に自ら訪れ、一年後にはベアトリスから一本取れるようになり、今日はとうとう試合形式でも勝利したわけだ(剣道の試合は三本勝負の二本先取で勝利)。

 

「紗夜って、めちゃくちゃ集中すると一瞬動きが感じ取れないくらい速くなるんですよね。

 カメラでも追えないなんて、やばいです。実は時間でも止めているんですか?」

 

「そんな非科学的なことなどできるはずないでしょう、くだらない」

 

 紗夜は自分の集中力が極限に高まった時、一瞬世界が止まったように感じる。

 そういった時は、普段目で追えないものも追え、早く動けるのだ。

 しかし、そんなものは一種のトランス状態。ベアトリスが言ったように、時間を止めることなど、只の人間である自分にできるはずない。

 黄金の獣と恐れられている常識外れの恋人ですら、そんなことは不可能である。

 

 そんなやり取りをしている間に、紗夜は胴着から制服に着替えを終えていた。

 

 周りを見ても、残っているのは紗夜とベアトリスのみ。

 当然だ。先程の体育が本日最後の授業だったのだ。

 終わればすぐ帰れるはずの授業が紗夜とベアトリスの長期戦より長引たため、皆急いで各々の予定のため身支度を整えたのである。

 紗夜もこの後は委員会の仕事があった。

 そして、目の前でお喋りに夢中で着替え始めてもいないベアトリスも同じ委員会の仕事がある。

 

「では、私は先に行きますので」

 

 委員会で待っているだろう彼女たちの先輩は怖い(、、)

 遅刻して怒られたくない紗夜はベアトリスを置いて、更衣室を出ていく。

 

「あ、ちょっと待って、って、もうこんな時間!? 紗夜紗夜本当に待って待って──これじゃあ遅刻する! 先輩に怒られる!」

 

 ようやく時間に気付いたベアトリスが泣声で助けを求めるが紗夜は無視をする。

 余裕があるならば待ってあげなくもないが、今はない。

 更衣室から悲鳴と騒音のハミングが聞こえてくるが、我関せずと紗夜は速足で遠ざかっていた。

 

 

 

 

「あ────!! 頭割れる! 割れる!」

 

 時間が少し進むと、自称美少女で実際美少女が出してはならない汚い悲鳴を上げている。

 場所は花咲川女子学園の風紀委員会室。

 机で黙々と仕事をする紗夜の傍で、制服に着替えたベアトリスが苦悶の声を上げている。

 ベアトリスは今、折檻されている最中だ。

 

「キルヒアイゼン。何故、私が貴様に怒っているか理解しているか?」

 

 長身で端正な顔。見るからに厳格な風貌の女生徒。制服を着てなけば教師に間違われる女傑はこの学園の風紀委員長である。

 風紀委員長は片手(、、)でベアトリスの頭を掴み、そのまま彼女の体を持ち上げていた。

 

「分かりません! 自分は遅刻しませんでした! 走ってきましたけど、外を走って来たので風紀を乱してないはずです!」

 

 藻掻きながらも実は余裕があるのかすらすらと答えるベアトリス。

 そんなドイツ少女を風紀委員長が細めた眼で見上げる。

 

「あぁ、貴様は確かに外を走って来たな。そのまま校舎に入らず、壁を伝って3階のこの部屋の窓から入ってきたわけだ」

 

「はい。その方が速かった──ああぁああ! 痛い! 本当に痛い!」

 

 万力に締め上げられたように苦しみ出すベアトリス。

 

「馬鹿か貴様は。外聞を考えろ。それとも日本では全員忍者のように壁を伝うと教えられたのか? 私は貴様の祖国であるドイツを後学のため学んでいるが、そんな偏見は流布されていないと記憶しているが、どうだ?」

 

「しゅみまぜん! 私が悪かっだです! 先輩と紗夜を驚かせるため調子に乗りました! 今度からちゃんと扉から入ってきます! だから、はなじでぐだざい!」

 

「ふん」

 

 汚い涙声の謝罪を聞き、ようやく風紀委員長はベアトリスを解放した。

 ギャフン、と漫画のような悲鳴を上げ尻餅をつくベアトリスを風紀委員長は呆れた顔で見下ろす。

 

「まったく、落ちたら怪我ではすまんぞ」

 

「え──、先輩。もしかして私を心配して」

 

「ふむ、仕置きが足らないと見える。なんなら今から久しぶりに剣道の稽古をつけてやろうか?」

 

「!? いえいえ、そんな今は委員会の時間ですし、お気遣いなく!」

 

 この風紀委員長は進学準備の為、今は辞めたが以前はベアトリスが在籍している剣道部に在籍していた。

 実力は規格外。個人の圧倒的な腕前と軍属染みた統率力で個人と団体戦共に全中三年連続優勝を果たし、高校に上がっても全国優勝を成し遂げている。

 去年、ベアトリスが中等部三年の頃、更に全国優勝をしているので花咲川剣道部は通算全中4連勝中である。今年は高等部優勝も期待されていた。

 現役を退いた今でも、この風紀委員長に剣で勝てる学生は恐らく日本にはいない。

 

「ベアトリス・ブリュンヒルト・フォン・キルヒアイゼン、只今より業務に入ります! 紗夜~、私の分の書類はどれですか?」

 

「いつもの場所ですよ。確認してから聞いてください」

 

 敬礼をした後、ベアトリスは紗夜に辛口を貰いながら逃げるように自分の定位置に向かった。

 時が時ならば、引退した風紀委員長の稽古を喜んで受けたベアトリスだが、今はまずい。

 体育の授業で紗夜に負けたことを知られたら、鍛練が足りんと地獄が待っている。

 女子とは話好き噂好き伝達好きの三拍子。

 今頃、己の庭である剣道部では自身の敗北が知れ渡っている頃だ。

 紗夜の剣道の腕前は風紀委員長も知っているのだが、それはそれ。本職が負けてどうすると叱責を食らう羽目になる。

 そうなれば、ベアトリスの体力ゲージは0どころかマイナス。

 体力がマイナスでも本日の分の委員会の仕事は当然こなさなければならない。

 彼女は一人暮らしなので帰ったら家事や見たいドラマや、隣人にちょっかいをかけるのに忙しいのだ。敬愛する先輩との個人レッスンはまたの機会である。

 風紀委員長は調子良く仕事に取り掛かるベアトリスに鼻を鳴らした後、自分も仕事にとりかかろうと定位置に座った。

 

 先程の騒がしさが嘘のように、ペンやキーボードを叩く音だけが聞こえる。

 

 この風紀委員室には風紀委員長と紗夜、ベアトリスしかいない。

 勿論、他にも風紀委員は存在しており、今は校内の見回りをしている。

 主な仕事分担はこの部屋にいる三名がデスクワークで、他の委員が見回りなどをする実働部隊。

 他の委員が書類作業をすることや部屋にいる三名が見回りや持ち物点検を行うことはあるが、基本は先の配分が一番効率がいいのだ。 

 風紀委員長と紗夜、ベアトリスは他の委員たちよりもスペックが高い。

 花咲川女子学園生徒全員を見ても、彼女たちに近いスペックは来年生徒会長候補と言われている生徒一人くらいだ。

 風紀委員長はその生徒会長候補と二年生の学年首位を争っており、紗夜とベアトリスは互に一年の学年首位を争っている。

 面倒な仕事も学内で五本指に入る優秀な生徒三人が一挙に引き受ければ、大抵のものは平均の何倍ものスピードで処理ができる。

 

「先輩。違反物取扱いリストの更新が終わりました」

 

「ご苦労。確認はこちらでしよう。これで氷川が担当する今日の仕事は終わりだな。他の雑務は見回りしている者共にでもやらせるので、上がっていいぞ」

 

「わかりました。では、お言葉に甘えて、帰らせて頂きます」

 

 紗夜は荷物をまとめると、壁端に置いてあったギターケースを背負う。

 全体の仕事が早く終わると、委員たち全員に余裕が生まれる。各々、委員会の仕事が終われば部活動や放課後を自由に過ごしていた。

 紗夜の場合は所属している弓道部に顔を出すこともあるが、弓道部は腕を買われて在籍しているだけだ。朝練は出ているが、放課後は毎日参加しているわけではない。

 

 紗夜の学校が終わった放課後の主な過ごし方は、音楽活動だ。

 

 己が高みに至るため中学二年から始めたギター。

 

 花咲川女子学園にも軽音部はあるが在籍しておらず、今は校外で知り合った人間とバンドを組んでいた。

 

「紗夜。もうバンドに行くのですか?」

 

 帰り支度をしている紗夜にベアトリスが声をかける。

 二人の付き合いは中学二年からなので、紗夜がバンド活動をしているのは前々からベアトリスも知っていた。

 

「えぇ。早くスタジオに入って、個人練習をします」

 

「少しは休憩したらどう? ちっとも休んでないじゃない」

 

「問題ありません。自分の体力ぐらい把握できているわ」

 

 本気で心配するベアトリスだったが、紗夜は冷淡な態度をする。

 

「今度演奏するライブハウスはスタジオ練習で使っていても、ステージに立つのは初めて。──無様な姿は晒せない。練習を重ね、より完璧にしなければならないの。

 では、お先に失礼します」

 

 そう言い残し、紗夜は目もくれず風紀委員室を退室していった。

 紗夜の姿がなくなると、ベアトリスは重い溜息をする。

 その顔は先程紗夜に見せていたものよりも、心配する感情が表に出ていた。

 

「最近の紗夜は危うさが増していますね。あれではいつか倒れちゃいます」

 

「ふん。他人の心配をしている場合か?」

 

 ベアトリスが零した愚痴に風紀委員長は作業をしながら反応する。

 

「貴様。授業で氷川に剣道で負けたそうだな」

 

「な!? なんで、それを! 紗夜から聞いた訳じゃないでしょう?」

 

「そうだな。あれは貴様と違って戦果をひけらかす趣味はないからな」

 

「彼女、しゃいなんですよ~」

 

 ヘラヘラと顔を緩めるベアトリスを風紀委員長は鼻で笑った。

 

「逆に貴様は目立ちだかりだな。私が何処で情報を得たかなど問題ではない。実際の実力がどうであれ、貴様は剣に身を置いてない人間に負けたのだ。陰口は覚悟しておけ」

 

「言いたい人は言わせておけばいいんです。私は剣で黙らせるだけですから」

 

「分かっているならば問題ない。ならば、今度つけてやる稽古は程々にしてやろう」

 

「あぁ、やっぱり稽古つけられるんですね、私」

 

「当然だ。貴様が私の後を継ぐと公言したなら、誰にも負けぬという気概を持て」

 

「勿論、分かっています。先輩が進学に専念できるよう、剣道部は任せてください」

 

 早めの進学準備の為、風紀委員長は去年の全国高等を優勝してから剣道部を辞めた。

 無論、彼女の多大な功績を知る者たちはそれを止めようとする。

 周りの声など知るかと、風紀委員長は剣道部から去ったが、その後でも彼女の復帰を望む声は治まらなかった。

 一向に止まない復帰の声を黙らせたのが、彼女の復帰を誰よりも望んでいたベアトリスである。

 自分が先輩の後を継ぐ。

 先輩が出した結果を私も出すので、先輩のことはそっとして欲しい。

 公言通り、風紀委員長が為した個人優勝と団体戦優勝をベアトリスは見事成し遂げ、高等部に上がってからも、花咲川女子剣道部を導いている。

 

「公式戦で私に勝てる人なんていません。

 先輩は引退していますし、紗夜は別のことで忙しいですから。二人以外に私が負けるはずがないです」

 

 そうやってベアトリスが力強く言った言葉に、風紀委員長は呆れた。 

 

「貴様、誰にも負けぬ気概を持ってと言った傍から、己が負ける相手を言うだと。私は兎も角、一度の負けで随分と紗夜を買っているな」

 

「負けたからじゃありません。ずっと前から、私は紗夜のことを認めています」

 

 更に呆れている風紀委員長に対して、ベアトリスは誇らしげな顔を浮かべていた。

 

「それは負けたのは悔しかったですし、次は負けないぞって思ってますよ?

 でも、今はそれ以上にやはり私に勝てた(、、、、、、、、)紗夜が誇らしいです」

 

 故郷のドイツにいた頃、ベアトリスの隣に並び立つ者はいなかった。

 彼女は優秀だ。文武両道をこなしているのは、剣道の腕や母国語以外を巧みに不自由なく使っているのでも分かる。

 幼い頃から、巫山戯ることはあっても己を磨くことを怠ったことはない。彼女の成長の速さはす凄まじく、同年代で共に歩める者はドイツにいなかった。

 そんな自分の歩みに付いてこれない周りを、彼女は馬鹿にしたことはない。

 目の前の風紀委員長や年上で尊敬できる人間は故郷でも恵まれ、自分の後ろに付いてくる者は導いてあげようと思っている。

 

 ただ、丁度自分の同い年で肩を並べる存在はいなかっただけ。

 

 この日本で、紗夜に出会うまでは…………。

 

 真面目で、何処か危うく、常に己を高めようとする少女。

 ベアトリスのように巫山戯ることはないが、その向上意欲に共感を抱いた。

 出会ってから何かと競い合い、それを何処かで楽しんでる自分に気づく。

 彼女は随分前からそんな畏友(ライバル)を欲していたことを知った。

 

「私は紗夜が好きですからね。それは先輩もでしょう?」

 

「知らんな」

 

「まぁ、ここで素直に好きと言われたら、私は嫉妬でメラメラしてしまいそうですけどねぇ。もうそれこそ、先輩を賭けた私と紗夜の聖戦勃発です!」

 

「くだらん。貴様らは揃って庭に放し飼いしている犬程度だ。勝手に犬同士でじゃれ合っとくがいい」

 

「わんっ、じゃれ合います! だから、心配もします」

 

 ここで話は紗夜が出ていた直後に戻る。

 

「紗夜は高い目標があってバンド活動をしているのは知っています」

 

 詳しくは聞いたことはないし、話したくなさそうだからベアトリスも聞かなかった。

 けど、あの直向さを見れば、どれだけ必死なのかは伝わる。

 しかし、あのように周りを拒絶し続ければ、彼女が傷つくだけだ。

 

「私は何があっても紗夜を一人にさせる気はありませんが、何かあってからでは遅い。

 あれでは、自分が壊れるまで周りを壊し続けるだけだ。

 紗夜はこれまで何度もバンドを組みましたが、周りが彼女に付いて行けずどれも長続きしていません」

 

 今のバンドはプロを目指して集まっているそうだが、話を聞く限り紗夜がそのバンドと袂を分かつのは時間の問題。

 こんなことを繰り返せば、幾ら実力があっても紗夜とバンドを組もうと思う人はいなくなるだろう。

 ベアトリスはそれを心配している。

 

「分からんな。それに何か問題があるのか?」

 

 しかし、その話を聞いていた風紀委員長は一蹴する。

 

「付いて来られなければ、それで結構ではないか。あれは馴れ合いがしたくてバンドをしているのではない。ならば甘えなどいらんだろ?

 本気ならば壊せ。劣等を排斥しろ。

 それで氷川とバンドを組むものがいなくなるというならば、奴の周りにはその程度の劣等共しか現れなかった、運がなかったというだけの話だ」

 

 それに紗夜が耐えられるかなど、風紀委員長は気にも留めていない。

 ただ、冷徹に、事実のみを口にする。

 

「ギターを続けたければ一人でもできる。なんなら、今から一人でやってもいいくらいだ。何故か奴はバンドに固執しているがな」

 

 問答無用、容赦ない言葉にベアトリスは言い返せない。

 厳しすぎる。苛烈過ぎる。非情だ。だが、間違っていない。

 仮に風紀委員長が紗夜の立場ならば、そのように動いたのだろう。

 鉄のように固く、炎のように熱い意志に、ベアトリスは畏敬の念を抱く。

 

 きっと、彼女は一人になっても平気なのだろう。

 

 その強さにベアトリスは憧れている。もしかしたら、紗夜も同じ気持ちなのかもしれない。

 

 ──でも、それは寂しい。

 

 好きな人たちがそうなるのは悲しいから、きっとベアトリスは共に地獄へ堕ちたとしても、手を差し伸べ続けるだろう。

 

「相変らず先輩は手厳しいですね。だから友達がいないんですよ」

 

 胸の内を正直に打ち明けると彼女は突き放すだろうから、ベアトリスは茶化した言葉を口から出した。

 それでも、やはり彼女が突き放すのは変わらないだろうが。

 

「余計なお世話だ」

 

 ああ、やっぱりと。

 でも、そんな彼女や紗夜にも、懲りずに余計なお世話を焼いてしまうのが、ベアトリスという娘なのだ。

 

 と、センチメンタルに浸っているベアトリスに不意打ちの爆撃が投下された。

 

「──というかな。貴様は氷川を一人にさせないと言ったが、あれには将来を誓い合ったお方がいるのだぞ。貴様の出番なんぞ、ありはしない。

 貴様は人の心配より自分の心配をしたらどうだ? 相変らず、全く進展がないのだろ?」

 

「ぐほぉ!」

 

 痛いところ突かれて、ベアトリスは吐血した。

 周りを拒絶している態度を見れば信じられないが、紗夜には小学生から付き合って、既に婚約も済ましている相手がいる。

 余計な時間は取りたくないと言っている紗夜にとって、恋人の時間は余計でなく必要なもの。

 ベアトリスが紗夜に惚気話を聞かされたのも少なくない。

 誠に仲がよろしい。大変ご馳走様です。

 対するベアトリスは随分前から気になる相手がおり、ガンガンアプローチをしている。

 尤も、成果は今のところ得ていない。

 なお、ベアトリスの意中の相手は四十近い独身男性であり、仮にベアトリスが彼をゲットしても、周囲に極秘にしなければその男がお縄である。

 

「い、いいんですよ! それはそれ! これはこれ! 友達の心配をして何が悪いんですか────!」

 

 開き直ったベアトリスがやいやいと喚き散らす。

 

「だいたいですね、さっきの言葉ではっきりしましたが、紗夜があんだけツンケンしているのは絶対先輩の影響じゃないですか!

 紗夜は純粋なんですから、もっとデリケートに扱ってください!」

 

「確かに貴様のように図太くはないな」

 

「酷い! こんなに繊細なのに!」

 

「繊細な奴はそんなこと言わん。しかし、さっきから飽きずに氷川のことばかり。貴様は奴の母親か?」

 

「え? とういうことは父親が先輩ですかね? えぇ~、困ります~! 私には心に決めた人がいまして~」

 

「気色悪い台詞は男一人落としてから言え」

 

「いや、自分を慕ってる後輩の恋人を好きな先輩に言われたく────」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガラ。

 

「失礼します。南校舎の見回りから帰りました」

 

「ご苦労」

 

「って、キルヒアイゼンさんまた頭からゴミ箱に突っ込んでるじゃないですか。

 今度はどんなことで委員長を怒らせたんです?」

 

「ゴミのことなど気にするな。それよりお前たちが最後の班だ。戸締りするから荷物をまとめろ」

 

「わかりました」

 

 ガラガラガラ、ガチャン。

 

 日が落ちてから意識を取り戻したベアトリスは、後日紗夜に泣きつく。

 流石に置いてけぼりは可哀そうだと思ったのか、その時の紗夜は少し優しかった。




余談①【花咲川女子学園風紀委員会】

 風紀委員長は周囲から《鉄火の風紀委員長》と恐れられ、ベアトリスは罰則者は逃さない《雷光の風紀委員》、紗夜は冷たいご注意で周囲を凍らせる《氷結の風紀委員》と其々渾名を持っている。
 風紀委員長がベアトリスと紗夜を侍らせている妄想は花咲川女子定番百合ネタの一つ。


余談②【ベアトリスの意中の相手】
 隣に住む小学校教師。紗夜たちの担任もしていた櫻井教諭その人。
 櫻井は教師をする前はベアトリスの親戚を介護しており、その縁で二人は出会った。
 ベアトリス曰く、「出会う前から惚れていた。運命を感じられずにはいられない」。
 紗夜はベアトリスの恋路を声に出さず応援しているが、恩師が犯罪者にならないか心配している。
 その正体は想像通り。


余談③【風紀委員長】
 多くは語らないが、紗夜のことは認めている。
 噂では秘密結社に在籍しているらしい。
 


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Episode ─XⅧ【冬が終わるころ】

 時間が、早く過ぎればいいと思っていた。

 

 色彩豊かな光を照らし出すスポットライトの下、ステージの上で少女たちが旋律を奏でる。

 軽快なロックサウンド。ボーカルは観客に手を振りながら歌い、ベースは時折気取ったポーズを決めていた。ドラムは意気揚々とリズムを刻み、ベースと共にコーラスを交わす。

 

 お世辞に言っても、素晴らしい音楽ではない。

 

 下手でないが、それだけだ。ステージに立てるだけで、総ての人間を魅了するには程遠い。

 それを一番分かっているのは演者たちで、足りない部分は気持ちとパフォーマンスで補い、ライブを盛り上げようとする。

 

 そんな中、ギターを弾く氷川紗夜だけは淡々と演奏をしていた。

 

 機械のように精密で、楽譜に従順な音色。

 盛り上がりで誤魔化している他のメンバーと違い、彼女だけは己の技術のみでステージに君臨していた。

 洗練されたギターサウンド。

 正確無比な弦音は泥中の蓮如く、他の演奏の中で一際目立つ。

 故にステージ上の主役は間違いなく紗夜であり、ギターソロは演奏中で一番の熱気になる。

 そうやってステージ上の誰よりも注目を集めている紗夜は、誰よりも冷めていた。

 

 幕引きを望んでいた──こんな時間、早く過ぎればいいのに。

 

 逆に愛しい時間で止まれば、どれだけ幸せだろうか。

 例えば、自分なら。愛しの恋人と結ばれたばかりの頃。

 まだ妹とも仲良く過ごせていた、幼い頃に戻れたなら。きっと、そのまま時が止まっていいさえ思える。

 そんなことは幻想だ。出来ぬからこそ、(まばゆ)く見えるのだ。

 

 流星の煌めきは、刹那だからこそ愛しい。

 

 なら、今の時間はどうだろうか?

 一瞬だけ、紗夜は観客たちに目を向けた。

 自分たちの演奏を楽しんでいる観客はいる。

 だが、興味の色を示していない観客も見かけた。

 

 歯痒さはあるが、落胆はない。分かり切った結果だ。

 

 最低限、人に聴かせられる音。そして楽しませる演出はできている。

 所詮その程度。紗夜が求める域には到底及ばない。

 紗夜だけが上手くても満足はしない。他が不出来なら、それを露程も思わせない圧倒的な力が必要だ。

 

(足りない。こんなものでは足りない! ちっとも目指す場所に近づけていない!)

 

 こんな演奏をするために、自分はギターをやっているのではない。

 きっと、自分の恋人が聴けば、最初の曲が始まった時点で「待った」と一声かけられ幕が下りる。

 

 いや、彼がここにいたなら、その魅力で自分たちのバンドなど見向きもされないだろう。

 

 ステージのスポットライトよりも輝く黄金の髪、黄金の双眸。人体の黄金比と呼べる肉体に、魔性の貌。黄金の獣の魅了は高校に上がって更に磨きかかった。

 プロが生演奏をしていても、そっちのけで彼に魅了される者もいる。アマチュア演奏など、取るに足らない。

 

 そもそも、前科がある。

 

 紗夜は恋人、小笠原純心は一度、彼女の演奏するライブハウスに訪れて、滅茶苦茶にした。

 

 彼は何もしていない。ただ、そこにいただけだ。

 

 だが、周りの観客たちは演奏するバンドよりも、異国の風貌を晒す美丈夫に夢中になった。

 演者であるバンドですら男女問わず、純心に意識を奪われ、演奏が疎かになった。

 唯一正気だったのは、彼の恋人である紗夜のみ。

 その後、何度も謝りながら、今後は来るのを控えてほしいと頼んだ。その時いたバンドは、既に辞めている。

 紗夜とて、本当は恋人に自分のステージを披露したい。

 しかし、そもそも演奏する以前の問題だ。

 よって、自分のギターだけを練習も兼ねて彼が一人だけのときに聴いて貰っている。

 尤も、その時間は恋人同士の甘い一時とは程遠いが。

 

「その程度か。これでは卿の渇望が満たすことはない。最初からやり直しだ」

 

 などと、容赦ない辛辣な言葉ばかり。

 一瞬のミスも許さない。上達した傍から次なる課題を言い渡される。

 それを延々と繰り返す。傍から見ても無間地獄だが、紗夜にとっては大切な時間だ。

 彼の言葉は呪詛であり、聖痕であり、糧。

 熱と槌で剣を鍛えるように、技術を研ぎ澄ましてきた。そんな練習を紗夜はギターを始めてから、ずっと続けてきた。

 少なくとも、この本番と比べることすら苛立たしい。

 

 あぁ、彼にこの時を破壊してもおうかしら。

 

 その黒い感情を見染み出た瞬間、紗夜は我に返る。

 

(──コードチェンジが遅れた!?)

 

 僅か一瞬。すぐに行い周りのメンバーは気づきもしないがミスはミス。

 他人の不出来を呪った罰だと、紗夜は己を恥じる。

 現状に嘆いても仕方ない。今は只、自分の演奏のみ集中する。

 機械のように正確に。何度も繰り返した練習のように。

 練習は本番のように。本番は練習のように。紗夜の信条の一つだ。

 集中すれば、周りなど気にしない。つまらない時も、いつかは終わる。

 

「……、ありがとうごさいました」

 

 演奏が終わり、他のメンバーが声援に応える中、紗夜も社交辞令で言葉を出した。

 感謝の気持ちがないわけでない。どんな出来であれ、演奏を聴いてもらったのは事実。心にゆとりがないのは、己が未熟だからだと反省する。

 そのまま渇いた心でステージから我先にと立ち去ろうとした。

 

「紗夜、最高!」

 

 だが、聞き覚えのある声に、紗夜の視線が動く。

 観客側へ目を向けるとそこには、見慣れた金髪。

 クラスメイトのベアトリス・ブリュンヒルト・フォン・キルヒアイゼン。

 今日も部活があるので、休憩時間に抜け出し、わざわざ見に来てくれたのだろう。証拠に羽織っている上着の隙間から剣道着が見える。

 

 驚きともに、思わず苦笑した。

 

 紗夜の知り合いで自分の演奏を、言わずとも聴きに来る人間は彼女くらいである。

 紗夜にとってベアトリスは学校での競い相手で、同じクラスの学友で、風紀委員会の同僚。偶にふざけた行動は止めてほしいが、基本清純潔白でその能力も認めている。

 自分の国ではない異国へ留学する意思や、毎日剣道の練習を欠かしていない向上心も尊敬していた。

 あまり人付き合いが得意でない自分を気にかけ、今日だけではなく何度もバンドの演奏は聴きに来てくれている。

 代わりに、紗夜も時間があればベアトリスの試合には顔を出していた。

 と、そんな間柄なのだが、単に仲の良い友人と認めないのが、紗夜の素直でないところ。

 そんなベアトリスの笑顔を見て、紗夜の心は少し軽くなる。

 

 ──あれだけ楽しそうにしてくれたのなら、あの演奏にも価値はあったのだろうか。

 

 ベアトリスに向かって、軽く手を振り、紗夜はステージから去った。

 

 支えてくれている人がいる。応援してくれている人がいる。

 何より、負けたくない妹(・・・・・・・)がいる。

 更に先に進むため、紗夜はステージ裏でお互いを讃え合うバンドメンバーたちを冷たい目で見据えた。

 

 

 

 

「──でさ、あの時の反応が最高だったよね!」

 

 帰り際、紗夜のバンドメンバーたちの興奮は店から出る直前でも治まらなかった。

 飽きもせず、同じ話題を繰り返し。何も反省もせず、発展もない生温い応酬。

 

「あの程度のライブで良くもそこまで盛り上がれるものね」

 

 いい加減耐え切れないと、出入り口間際で紗夜は不満を吐き出した。

 それまで意気揚々だったバンドメンバーたちは、その一言で凍り付いたように押し黙る。

 

「……、紗夜。貴方の理想が高いのは知っているけど、その言い方はないんじゃない?」

 

 一気に場の空気が重苦しくなる中、リーダーの少女が紗夜を窘めようとした。

 だが、紗夜は止まらない。

 

「そうかしら? 実際、幾つもミスがあったのに反省一つもせず、今日もこのまま解散。

 何一つ成長を感じられない演奏で満足し続けるなんて、先が思いやられるわ」

 

「──何よ、さっきから言いたい放題っ!」

 

 険悪な空気は最頂点まで達し、最早我慢できないと他のバンドメンバーたちは憤りを露わにした。

 

「前々から思ってたのよ、少しギターが上手いからって調子に乗らないで!」

 

「もう無理! あなたとはやっていけない!!」

 

 罵声を浴びても紗夜は顔色を一切変えない。

 彼女はあくまで自分の意見を述べる。

 

「……私は事実を言っているだけよ。今の練習では先がないの。

 バンド全体の意識を変えないと……。いくらパフォーマンスで誤魔化しても、基礎のレベルを上げなければ後から出てきたバンドに追い抜かれるだけだわ」

 

「でも……いくらそうでも!」

 

 紗夜の言葉は否定できなかった。

 自分たちの足りない実力をパフォーマンスで誤魔化している自覚はある。

 しかし、憤り抑えきれない彼女たちは紗夜に向かって更なる不満をぶちまけた。

 

「あなたが入ってから、私達まだ高校生なのに、みんな課題と練習で寝る時間もないのよ……!」

 

 その言葉を聞いて、紗夜は心底呆れた。

 寝る時間を惜しむことなど、ある程度努力している人間ならば誰でもやっていることだ。

 高校生ならば猶更。将来の為の大事な時期である。

 部活動やバイト。受験勉強。余程恵まれた環境と才能がなければ誰しもが苦労している。

 確かに、紗夜がバンドで介入してから練習量は増えた。

 だが、紗夜はそれ以上の練習を熟した上で、委員会や部活動も行っている。学校の勉強も、テストで首位争いするほどだ。

 傍から見れば、紗夜は恵まれた環境であるし、他よりも才能はある。しかし、彼女はそれに胡坐をかいて努力を怠ってはいない。

 その上で、紗夜は自分と同じことを望んだことはなかった。人には人のペースがあることも重々承知している。

 私生活に影響しない程度の練習量を提案してきた。

 個人練習の合間に計画を経て、どこを修正すればバンド全体の能力が向上するか考えた。

 しかし、バンドメンバーたちはそれを苦行だと罵り、被害者面で紗夜を責め立てる。

 

「……ねぇ紗夜。あなたの理想はわかる。でもあなたには、バンドの技術以外に大切なものはないの?」

 

「ないわ。そうでなければ、わざわざ時間と労力をかけて集まって、バンドなんてやらない」

 

「……っ! ひどいよ! 私達は確かに、いつかプロを………って、目指して集まった。

 でもみんな、仲間なんだよ!」

 

「仲間?」

 

 今度は仲間と言った。

 

 ふざけるな、何が仲間だ。

 

 先程まで冷めていた紗夜の心が、その言葉で一気に燃え上がる。

 紗夜は『仲間』という言葉が嫌いだ。

 単に同じことをする集団、それだけで仲間という括りにされるからである。

 深い信頼で繋がった関係が存在するのは理解している。

 平穏を保つ為、気遣い合い、いがみ合わないのも勿論構わない。

 だが、目的があるならそれだけでは駄目だ。

 互いに切磋琢磨で高め、叱咤激励を飛ばし合いながら、認め合う。

 少なくとも、紗夜が知るベアトリスと今は引退した先輩はそうやって剣道部を導き、高みを目指した。

 たとえ自分が嫌われても、去る者がいたとしても。誰しもが同じ目標を目指していたから、辛さや涙を抱えたまま青春を捧げて、頂に至ったのだ。

 それを、仲間という言葉を免罪符で甘えを許すなど、それこそ考えが甘過ぎる。

 

「馴れ合いがしたいだけなら、楽器もスタジオも要らない。高校生らしく、カラオケかファミレスにでも集まって、騒いでいたら十分でしょう」

 

「……最低………もういい! こんなバンド、解散よ!」

 

「落ち着きなって。私達がバラバラになることないよ」

 

 唯一、その場で落ち着いていたバンドリーダーが叫んだメンバーを窘める。

 彼女は申し訳なさそうな目で、紗夜に視線を向けた。

 

「この中で、考えが違うのは一人だけ。……紗夜、そうだよね?」

 

「……そうね」

 

 紗夜がこのバンドに介入したのは、プロを目指していると言ったこのリーダーに誘われたからだ。

 しかし、その彼女も不要だと思うならば、いる意味も最早ない。

 

「私が抜けるから、あなた達はバンドを続けて。その方がお互いの為になると思う。今までありがとう」

 

 まったく心にもないことを口にして、紗夜はその場を立ち去り、バンドメンバー───元バンドメンバーたちも紗夜に目もくれずライブハウスから出て行く。

 彼女たちは紗夜がここの練習スタジオを利用していることは知っているので、二度と会うことはないだろう。

 

「はぁ……」

 

 一人になってから、紗夜は重い溜息を吐いた。

 バンドを抜けるのはこれで何回目だろうか?

 ベアトリスにも心配されていることだが、こんなことを繰り返せば自分とバンドを組む人間は存在しなくなるだろう。

 一度、思い切って事務所のオーディションに受けようかと考えたこともあったが、それは純心に止められた。

 

 曰く、プロになるだけならば、今の紗夜でもなれる。

 

 理由は紗夜の恵まれた容姿に基準以上の技術が備わっているため。

 純心は彼女の恋人であるが、物事の評価に関して贔屓は一切しない。紗夜自身だけでは考えられないが、彼がなれると言うならば、必ずなれるのだろうと信じていた。

 だが、事務所に入ったら最後、望まぬ仕事をさせられる可能性が高い。ルックスだけでモデルやアイドルのような仕事をさせられる可能性がある。

 あれやこれやと理由をつけて、最初に提示された仕事と別の事をさせられることなど珍しくはない。

 紗夜はプロや単なる有名人になりたいわけでないのだ。

 通過点の一つとして見据えてはいるが、目指す場所は誰からも認められる唯一の存在。

 事務所に束縛され、ある程度の地位だけで満足する。彼女からすれば、そんな中途半端はいらない。

 その先には、今までと同じ結末が待っているだけだ。

 

 そんなものは認められない。

 

 天才の妹にすら追いつけない、永遠の刹那を手に入れる。

 危うい道は選ばない。難しくても堅実に。紗夜は弾き続ける。

 だが、弾けなければ、それ以前の問題なのは事実だった。

 

(さて、これからどうしようかしら……。自分で方針を決めてからでないと、純心くんに相談するのは避けたいわね。また、バンドを辞めたことを話すのは気が滅入るし)

 

 紗夜が望むなら、純心は彼女のために、彼女の言葉に従う奴隷のようなバンドメンバーを集めることは容易い。

 しかし、恋人によって得たもの地位など、紗夜はいらない。

 目指す場所は、自分だけで勝ち取りたいのだ。そんなことをするくらいなら、素直に花嫁修業に専念するほうが有意義である(花嫁修業自体は既にしている)。

 ソロでギターをするのは更に難しい。

 できないことはないが、結局は誰かのバンドに交じるだけ。

 本格的にソロで活動したいなら歌唱力も必要になってくるが、歌はギターよりも天性の才能が必要である。今から始めるには、より困難。

 思い浮かべることは、総て容易くはない道のり。

 そうやって、悩みだしたところで、紗夜は自分を見る目に気づいた。

 

「……っ! ごめんなさい。他の人がいたのに気づきませんでした」

 

 紗夜が元バンドメンバーと別れたのは一瞬前のこと。

 ならば、揉め事も見られたに違いない。

 自分の醜態を晒したことに恥じていた紗夜だったが、彼女を見ていた人間が気にした様子はなかった。

 

「さっき、あなたがステージで演奏しているのを見たわ」

 

 相手は紗夜よりも身長が低い少女。

 長い髪に人形のように整った顔立ち。何処か儚さを感じる風貌は身に纏うゴシック調の服がとても似合っていた。紗夜は平均よりも少し高く、対する少女は小柄。体格から考えるならば、年齢は紗夜の同年代か年下かもしれない。

 現れた少女が先程の演奏を見たと聞いた為、紗夜はステージでの失態を思い出す。

 

「……そうですか。ラストの曲、アウトロで油断して、コードチェンジが遅れてしまいました。拙いものを聴かせてしまって、申し訳ありません」

 

 紗夜なりに失敗を謝罪したつもりだったが、その少女は何か驚いたように目を見開く。

 そして、何か覚悟を決めたように、真剣な目を紗夜に向けた。

 

「紗夜っていったわね。あなたに提案があるの。……私とバンドを組んで欲しい」

 

「──え?」

 

 まだ、凍り付いた心が溶けるのが先になるが。

 思い返せば、彼女はこの出会いに何度も感謝する。

 紗夜はその時、運命に出会えた。




 花咲川の剣道部の実力は背景で常に垂れ幕が掛っているので、別に可笑しいことはありません。
 そして、この話から原作に突入しますが、原作から乖離することは殆どない予定です。
 この話を作るに当たって、やりたかったことの一つが辻褄合わせです。

 紗夜さんがあんな性格で学校生活大丈夫だったのか。
 前から紗夜さんがギターしているのに、何故日菜ちゃんがすぐ自分もギターを始めなかったのか。あんなに紗夜さんは優秀なのに、テストの点数は2位とか。そんな諸々ですね。勿論、原作と違うとこはありますが。

 最近は他の人の視点から話を進めることが多かったですが、今後は基本原作の裏での獣殿視点で話を進めます。他の人視点がなくなるわけでもないですが。
 正直、そんなに長くないです。
 やりたいことは、殆どできているので、あとはゴールに目指すだけ。
 といって、何やらエピソードが追加されるのですけど。

 Diesぽいキャラエピソードだったり。

 次回は幕間です。そして、一つの区切りでもあります。よろしく、お願いします。


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Zwischenspiel ─Ⅵ

この小説は皆様の応援、感想、評価、誤字脱字報告によって支えられています。いつも感謝。


「おねーちゃん! やっぱり、見に来てよう合同舞台! せっかく獣殿が演劇をやるんだからさ」

 

「しつこいわよ、日菜。他校の生徒が他の学校の行事に参加できるわけがないでしょう」

 

 平日の夕暮前。ライブハウスCiRCLEにて、練習前のRoseliaの中に紗夜の双子の妹、日菜が交じっている。

 話題は、兄妹校である羽丘女子学園と風代学園との合同演劇公演。

 風代学園の生徒会長であり、紗夜の恋人である小笠原純心は羽丘女子学園に訪問した際、その圧倒的な魔性の魅力を振りまいた。

 その為、羽丘側から純心に演劇の出演依頼が出され、それを純心は承諾したのだ。

 恋人が劇をするならば、きっと姉は喜ぶだろうと日菜は声をかけているのだが、彼女の思惑とは裏腹に、紗夜は見る気は全くなかった。

 

「そこは家族枠とか。なんなら秘密に見ちゃうとかも」

 

「今回は生徒のみの参加と純心くんから聞いているわよ。不正をしてまで参加したくもないわ」

 

「獣殿の舞台、興味ないの?」

 

「それは興味あるけど、駄目なものは駄目」

 

「えぇ、せっかくあたしが脚本も書いたのにー」

 

 その日菜の言葉に紗夜は眉間に皺を寄せる。

 

「要望があった純心くんは分かるけど、なんであなたか脚本することになっているのよ。演劇部でもないでしょう?」

 

「そこは面白そうだから、薫くんにお願いしてね」

 

「まったく、あなたはまた人様に迷惑をかけて」

 

「筋書きはありきたりだけど、役者は良いから良い作品だよ! きっと面白いよ!たがら、ぜーたい、おねーちゃんに見てほしいの!」

 

「そんなに心配しなくても、後で映像からでも見るわよ」

 

「生で見てほしいんだよ──」

 

「我儘言わず、いい加減諦めて頂戴。家では飽き足らず、ここにでまで言いに来るなんて。そもそも、あなたは今日パスパレの仕事でしょう?」

 

「うん! でもでも、集合までかなり時間あるし、それまでおねーちゃんとお話しようとりさちーたちについてきたんだ」

 

「はぁ……、今井さん。湊さんに宇田川さんも妹がご迷惑をかけます」

 

「あはは、全然気にしなくていいよ」

 

 騒がしくも仲の良い光景にリサは微笑む。

 少し前なら想像しなかった二人の関係に自然と頬が綻んでいた。

 

「私も構わないわ。スタジオの予約時間までまだあるし」

 

 友希那も気にしてない素振りを見せる。

 変わったのは、二人だけではない。Roseliaが結成したての頃の友希那ならば、たとえメンバーの身内でも練習前に邪魔だと排斥しただろう。

 

「あーあー、おねーちゃんが羽丘に通ったままだったら、悩まなくて済んだのにな──あ」

 

 不満を表していた日菜だったが、何やら失言してしまったとばつの悪い顔をする。

 日菜が言葉にした初耳の内容に紗夜以外のRoseliaは首を傾げた。

 

「紗夜さん、羽丘に通ってたんですか?」

 

「中学の一年だけですね。環境が合わなくて、花咲川に転校しましたが」

 

 あこの確認に対し、紗夜は平然とした顔で答える。

 彼女が何故、中学一年の頃に羽丘から花咲川に転校したか、Roseliaのメンバーで何となく察している人間がいた。

 しかし、表には出さない。何故なら、それはきっともう終わった問題だ。態々、掘り返す必要もないだろう。

 

「おねーちゃん」

 

「わざとじゃないのだから気にしてないわ」

 

「うん、ありがとー」

 

「紗夜さんも羽丘だったなんて、そのまま通っていればRoseliaが四人羽丘に集合しますね。あとはりんりんも転校してきたら、全員集合。実に惜しいです」

 

「そう簡単に転校はできないし、するつもりはありません。私や白金さんも花咲川に友人がいますし」

 

 残念そうにするあこに紗夜は少し呆れる。

 その傍で、何やら燐子が気まずそうな顔を浮かべていた。

 

「(…………言えない。Roseliaに入るまで学校に友達と呼べる人がいなかったなんて言えない)氷川さん、それってキルヒアイゼンさんのことですか?」

 

 自分の過去を露見させない為、燐子は紗夜の友人の名前を出した。

 初めて聞く名に、リサが興味を持つ。

 

「キルヒアイゼンさん? 初めて聞く名前だけどそれって、イヴと同じで海外からの留学生?」

 

「そうです。ドイツからの留学生でベアトリス・ブリュンヒルト・フォン・キルヒアイゼンさんっていうです」

 

「なんか、超カッコいい名前だね! りんりん!」

 

「そうだね、あこちゃん。氷川さんと同じ風紀委員で、すぐに違反者を取り締まるなら雷光の風紀委員って呼ばれているんだよ」

 

「おぉ、本当にかっこいい!」

 

「本人もそれを気に入っていますね。私には理解できませんが」

 

 興奮するあことは違い、恥ずかしい渾名を喜ぶ友人を理解できない紗夜。そんな彼女を見て、燐子は苦笑する。

 

「(氷川さんも自分が氷結の風紀委員と呼ばれているのを知らないのかな?)二人とも一緒にいることが多くて、仲良しで有名ですよ」

 

「べ、別に一緒にいるのは同じクラスや同じ委員会なだけで、仲は普通です」

 

 いつもの素直ではない紗夜の様子にRoseliaと妹は頬を緩める。

 最早、彼女のこの反応は愛嬌だ。

 

「でも、何度か剣道の試合を応援しに来てくれているって、キルヒアイゼンさんが嬉しそうに話していましたよ?」

 

「あの人はまた余計なことを──、誘われたから仕方なしにです」

 

「へぇ〜、紗夜にそんな仲の良い友達がいたんだ〜。ちょっと会ってみたいかも」

 

「Roseliaのライブを何度か見に来てくれていますし、今度のライブも見に来るって言っていましたよ。氷川さん、その時に紹介してあげますか?」

 

「嫌です。あの人のことですから、きっと『私の紗夜がお世話になっています』とか恥ずかしいことを言うに違いありません」

 

「あはは〜、本当に仲良しなんだね」

 

「個人的に紗夜が羽丘にいたことがあったのは惜しいけど、良い出会いがあったなら花咲川に行ったことは貴女にとってプラスだったわね」

 

「そうですね。それに、あの頃の私が羽丘にいても、湊さんには誘われなかったかもしれません」

 

 あのまま羽丘にいれば紗夜はギターも始めず、今もまだ日菜との関係に藻掻き苦しむ毎日が続いてかかもしれない。

 逃げた負け犬と言われたこともあったが、この今を思えば、自分の選択は間違いではなかったと思えた。

 

「花咲川に行って、ギターを始めたからこそ、あの日、この場所で湊さんと出会えたとだと思います。ありがとうございます、湊さん。私をバンドに誘ってくれて」

 

 改まって感謝する紗夜に友希那は少し驚いたが、すぐに優しい微笑みを浮かべた。

 

「私の方こそ、私とバンドを組んでくれてありがとう、紗夜」

 

 

 

 

 

「ほう。それ程の場所ならば、私も手に入れた甲斐があったな」

 

 

 

 

 

「純心くん?」

「獣殿だー」

『!?』

 

 妖艶で重圧がある声。少女たちが振り向くと、そこには金髪の髪を靡かせた異国の風貌の美丈夫がいた。

 

「やぁ、恋しい私の女神(マイン・ゲッティン)。そして、見つけたぞ日菜」

 

 黄金の獣は最初に双子へ挨拶した後、残ったRoseliaのメンバーに黄金の瞳を向ける。

 

「後の者はこうやって相見えるのは殆ど初めてだな。

 最近紗夜から聞かさせられたであろう、私が彼女の恋人、小笠原純心だ」

 

 突然の登場に驚くRoseliaに純心はにやりと笑う。

 

「Roseliaに対して名乗るなら、このライブハウス、黒円卓(こくえんたく)CiRCLEのオーナーと紹介したほうがよいかな?」

 

「貴方が紗夜の恋人?」

 

 彼が羽丘に訪問した際にも遭遇したことがなかった友希那は、その圧倒的な存在感に体を震わした。

 燐子やあこに関しては強烈なオーラに硬直している。

 唯一、一度会ったことがあったリサは純心が言った最後の発言を気にした。

 

「って、え? CiRCLEのオーナーで言った? あとコクエンタク、て? なになに、紗夜どうゆうこと?」

 

「純心くんがCiRCLEのオーナーなのは嘘ではありません」

 

 混乱するリサに紗夜が説明する。

 

「彼は学業、家業の傍ら、幾つかの個人事業にも手を出していまして、このライブハウス経営もその一つです。疑うなら、まりなさんにでも尋ねてください」

 

「いや、紗夜が言っているなら信じるよ。じゃあ、黒円卓って?」

 

「CiRCLEの正式名称ですね。厳密には純心くんの経営グループの名前が黒円卓といいます。

 CiRCLEの名前は黒円卓の円卓からとったもの。表の看板にも、黒円卓の名前は端にありますよ?」

 

「!? あこ、ちょっと見てきます─うわぁ、本当だ! 全然気づかなかった!」

 

 己の琴線に触れるネーミングだったので、正気を取り戻したあこはさっと外で確認しにき、大きな声で叫ぶ。

 

「元々は別の名前のライブハウスだったが、紗夜がギターを始めるにあたって、あれば便利だろうと買い取ったのだ。

 湊嬢に誘われる日まで紗夜は練習スタジオしか使わなかったがな」

 

 あこが戻って来たから続きの経緯を純心自ら話すと、友希那は頭痛がしたように顔を顰めた。

 

「いきなり過ぎて、頭がついていけないわ」

 

「湊さん、私もです」

 

 ここで燐子も正気に立ち直る。

 話では何度も強烈な存在であると聞いていたが、実際会ってみると想像を遥かに超えて圧倒された。

 そんな男と付き合っている紗夜は、何食わぬ顔で彼に近づく。

 

「ところで純心くん、放課後は用事があると言ったけど、それってCiRCLEの経営だったのかしら?」

 

「いや、放課後は羽丘との合同演劇の練習だ。即ち、ここにはそれを忘れ、携帯にも出ない脚本を回収しに来たわけだ」

 

「日菜、あなた……」

 

「あれ? あぁ、携帯の充電切れちゃったから予定確認してなかったよ。ごめ─ん!」

 

 紗夜に睨まれ、日菜は困ったように謝罪した。

 

「大方、紗夜にどうにか劇を見てもらうか夢中で忘れたのだろうさ。

 まだ、パスパレの仕事まで時間があるだろう? 車を待たせてある。行くぞ」

 

「はーい。じぁ、待たね、おねーちゃん」

 

「純心くんに迷惑かけないで頂戴。他の人にもね。

 けど、純心くん。日菜がここに居ると分かっているなら、私に電話をしたら行かせたのに。私が今日ここで練習することは知っていたでしょう?」

 

 不思議そうにする紗夜を純心は黄金の瞳で見つめ、優雅に微笑む。

 

「何、迎えに行くと格好をつけて、卿の顔を一目見たかっただけだ。許せ」

 

「そ、そう」

 

 頬を染めながら俯く紗夜。恥かしそうにしながらも、嬉しさは隠しきれない表情だ。

 そんな見たことないギターの乙女な顔にRoseliaのメンバーは激震する。

 

「甘い。甘いわ! リサのクッキーより甘く、それでいてリサのクッキーと違い、しつこく口の中で残る甘さよ!」

 

「なんで態々、今井さんのクッキーを引け合いにだしたかは分かりませんが、気持ちは分かります!」

 

 なにならキャラ崩壊しているRoseliaを純心は愉快そうに眺めた。

 

「卿等と語りたいことはあるが、今は急ぐので後日改めて(まみ)えよう。湊嬢、それまでの挨拶代わりだ」

 

 と、純心は懐から何やらカードを四枚取り出すと、それを友希那に手渡す。

 

「これは?」

 

「CiRCLEの年間フリーパスだ。スタジオ無料貸出の他、温泉も無料で利用できる」

 

 ざわっと騒ぐRoselia。

 いきなりの譲渡品に友希那は戸惑った。

 

「こんなもの、いきなり貰っても困るわ」

 

「湊嬢よ。バンド活動するなら、受けて困らない恩恵はなんであれ受けておくがいい」

 

 返却しようとする友希那に純心は諭す。

 

「ここを利用するバンドでも、自前の練習場を持つ者もいる。自分たち以外から費用を出している者もいる。

 そうやって、活動費用を別の場所に回し、より良いバンド活動を行なっているのだ。

 孤高は美徳だが、利用できるものは利用したほうがいいぞ。

 どのみち、紗夜にはこれを既に渡している。卿等も同じように利用してもなんなら不都合はあるまい」

 

「……わかった。今回は紗夜の顔に免じて素直に受け取るわ」

 

「そうしてくれ」

 

 ここまで言われて返すのは彼や紗夜にも失礼になると思い、友希那は引き下がった。

 そんな彼女の反応に満足すると、純心は最後にもう一度だけ紗夜に目を向ける。

 

「紗夜、存分に励むといい」

 

「えぇ。色々とありがとう、純心くん」

 

「店前のカフェに漸く『ポメス』が入荷した。練習前か終わりでも、好きに食べるといい」

 

「────」

 

『ポメス?』

 

 突然、電撃でも受けたように硬直する紗夜。その傍で、聴きなれない名前に反応するRoselia。

 純心は何やら冷や汗を浮かべる紗夜を愉快そうな顔で眺めた後で、友希那の問いに答える。

 

「紗夜の好物だ。では、さらばだ。Roseliaの諸君」

 

「ばーいばーい」

 

 そうやって純心は日菜と共にCiRCLEから去った。

 二人が去ってから、友希那は紗夜に顔を向ける。

 

「凄かったわね、紗夜の恋人」

 

「……自慢の恋人です」

 

「それはそうでしょうけど、まさかCiRCLEのオーナーだったなんて」

 

「申し訳ありません。今まで黙っていて」

 

「別に責めてはいないわ」

 

 紗夜が自分の恋人がライブハウスのオーナーであることを話さないのは、彼女の自由だ。話したら余計なトラブルを招くこともあるだろう。

 友希那としても、できる限り自分たちの力で活動していきたい。好意は受けるが、頼ることはしないようにと戒めた。

 

「それじゃあ、練習の前に紗夜の好物という『ポメス』というのを食べてみましょうか」

 

「!?」

 

 ぎょっと驚く紗夜。

 そんな中、他のRoseliaのメンバーは乗り気だった。

 

「あこも聞いたことない食べ物なんで気になります! てっきり、紗夜はポテトが一番の好物だと思ってたので、興味あります」

「そうだよ。ポテトじゃない紗夜の好物。気になって練習どころじゃないわ」

 

「わ、私の好物なんてどうでもいいじゃないですか。あと、ポテトは好物でも何でもありまん」

 

「まぁまぁ、そう言わずに。ポテトじゃない紗夜の好きな食べ物、あたしも超気になるし。どんなものか分かれば、今度作れるしね」

 

「それはありがたいですが、あれは少々カロリーが高くて」

 

「なら、練習前に丁度いいですね。これから練習が終わるまで何も食べないのは少し辛いですから」

 

「白金さんまで」

 

「なら、決定ね。ほら、紗夜も行くわよ。貴女の恋人が貴女のために用意したものだから、食べないと悪いでしょう」

 

「そうですけど、日を改めても」

 

「観念しなさい」

 

 そうやって、無理やり紗夜を連れて行くRoselia。

 

『ポメスください』

 

 カフェテラス到着後、揃って注文し待っていると、片手で持てる小袋に入った揚げ物が届いた。

 全体的にケチャップやマヨネーズがかけられたそれは、どう見てもフライドポテトである。

 そう、ポメスの正体とはドイツ流のフライドポテトなのだ。

 

『…………』

 

「ポメスというのはドイツで愛される名物で、大人から子供まで好む人が多いんですよ」

 

 しどろもどろ説明する紗夜を前に、Roseliaは高らかに叫ぶ。

 

『結局、ポテトじゃない(ですか)!!』




ずっとこのネタをしたかった。
あと、RAISE A SUILENの神戸ライブ現地参加します。


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Lllustration─【海】

海の日なので。
バレンタインと同じでいちゃつくだけのお話。



「紗夜、海にいくぞ」

 

 ある日突然、恋人との小笠原純心にそう告げられた。

 いつも通り、純心の部屋で紗夜がギターを聴いてもらい、あれこれ指導を受け後の小休憩。

 腰を下ろしている純心の両腿の間に座り、その胸板に背中を預けて紗夜がリラックスしていた矢先の発言である。

 

「あ、純心くん、いきなりどうしたの?」

 

 唐突の発言に戸惑う紗夜。

 自分の髪を弄んでいる恋人を見上げると、いつも通りの黄金の双眸と目が合った。

 

「卿はこの前、Roseliaのメンバーたちと共にプールへ行ったと話したな」

 

「えぇ。バンド内の団結力を高める為のコミュニケーションでね」

 

 最初は乗り気ではなかった紗夜だが、当日はRoseliaのメンバーたちと夜まで楽しんだ。

 バンドメンバーだけで一日中遊んだのは、あの日が初めてである。

 そう頻繁にするつもりはないが、また同じような機会があっても偶には良いのではないかと、少し前の彼女では考えられない心持ちであった。

 

「以前、泊りがけの合宿でも海で遊んだな」

 

「あの時は、成り行きで」

 

 遊ぶつもりななかったのだが、偶然ポピパと遭遇し、成り行きでビーチバレー勝負をした。

 向きになって水着に着替えてまで挑んだことを思い出すと、少々恥ずかしい気持ちになる紗夜である。

 

「他にも風紀委員会の面々と学校のプールで戯れたようではないか」

 

「あれは事件よ」

 

 持ち回り当番で風紀委員全員によるプール掃除でのこと。

 そろそろ終わりかけの時にベアトリスが巫山戯て紗夜に水をぶっかけ、仕返しに彼女も水をぶっかけ、いつの間にか周りを巻き込んだ水かけ抗争になった。

 その後、少しその場を離れていた風紀委員長にプールサイドで全員正座させられたのは嫌な思い出である。

 

「何にせよ、楽しんで何より。

 だが、思えば卿と私はそのような戯れをしたことがないと思ってな」

 

「……言われてみればそうね」

 

 二人の出かけるといえば、ライブやコンサート、オペラなどの音楽鑑賞か犬に触れ合う場所が大部分を占めていた。

 他にも幾つか趣向が違う場所も赴いたことはあるが、水がある場所には一度も行ったことがなかった。

 

「他の者がよくて、私は駄目なことはなかろう。

 海端で開放的な恋人を眺めさしてはくれないか?」

 

「え? えぇぇ……」

 

 イケメンフェイスのイケメンボイスだが、言っていることは単純に「お前の水着が見たいから海に行こう」という色欲全開発言である。

 これが有象無象の盛りついた劣等ならば衛生的に消毒するところだが、相手は身も心も許してる恋人。

 紗夜は顔を赤くし、恥ずかしそうに身を捩らせながら、考える。

 潔癖症な紗夜だが破廉恥だと罵ることもできない彼女は既にこの男に絆され過ぎた。

 むしろ、求められたら喜ぶのが女の性か。男が女に甘いように、女も男に甘い。

 ギターを練習する時間が無くなるが最近バンドばかりで一緒に出掛ける機会が減ってることや、若い男女がそんなことでも自分たちは婚約してるから大丈夫ではと、問題に言い訳を被せ続けた思考をぐるぐると繰り返す。

 悩む姿を純心が肴にしているのも気づかず、悶々と考えた末に紗夜はか細い声を出した。

 

「うぅ……。今度の祝日なら空いてる、から、そこならいいわよ?」

 

 恥ずかしそうにしながらも承諾した紗夜に、純心は満足そうに嗤った。

 

 

 青い空、青い海、白い砂浜とはよく言ったものだ。

 塵一つない浜辺に紗夜は少し見惚れる。

 場所は無人島。といっても、整備されてた砂浜にレンタルコテージがある。

 ここは貸し出し制の無人島で、周りの者を気にせず自分たちだけで楽しみたい人間が利用する施設だ。

 紗夜を屈服させた純心が、人が混雑しているのを好まない彼女の為に準備した場所である。

 島を貸し切ると聞けば、かなりの贅沢に聞こえるが別に飛び抜けた散財ではない。

 少なくとも事あるごとに島を買う大富豪よりは庶民的な利用だ。

 それでも、純心がここを準備できたのが、陰ながら財を築いてるゆえである。

 自分だけに島を貸し切ったと聞いた時は紗夜も驚いだが、純心の大それた行動はいつも通りなので、多少のリアクションだけに収まった。

 貸切飛行機で島に到着後、着替えのために二人は一旦コテージで別れる。

 紗夜は水着に着替えた後、入念に日焼け止めを塗り、先に行った純心が待つ浜辺に向かう。

 

 紗夜が纏う水着は白いビキニに青い花柄のパレオを腰に巻いたもの。

 日除けで麦藁帽子を被るその姿は、避暑に赴いたご令嬢と思わせるほど、清廉な美しさだ。

 

 身に纏うものは、この日の為に態々購入したもの。

 というのも、それまで持っていた水着が最近成長している胸部によって、サイズが合わなくなった。

 無理矢理着れなくもないが、そんなことをすれば純心にすぐ暴露る。余計な気を使わせない為、新調したわけだ。

 紗夜にしては露出が多い理由は、彼女なりの気合の表れ。Roseliaで行ったプールや海と違い、人気がないので、少しだけ頑張ったのである。純心に肌を見せるのには、今更なので抵抗はない。

 

「美しいよ、紗夜」

 

 浜辺に辿り着いた瞬間、紗夜は魂を奪われた。

 潮風に漂う黄金の髪は、溶けた黄金そのものが流動ようで、同じく黄金の瞳は太陽よりも輝き、妖艶な光を放つ。

 肉体は叡智を結集されて生み出された彫刻のようだ。普段は服で隠れた筋肉はくっきりと盛り上がっており、分厚い胸筋、山を織り成す腹筋、引き締まった二の腕、腰、両足。肉体の何処を部分的に眺めても性別問わず吐息を誘う。

 日焼けを物ともしない白い肌は傷一つもなく、永久不滅の白亜の城塞のように君臨。肩に白いシャツを羽織り、黒のサーフパンツを穿いているが、色香を放つ表皮ばかりに目がいく。

 芸術と呼ぶことすら憚かる至高の御姿。

 直接触れたことがある紗夜ですら、日差しよりも輝く魔性に魅了されたのだ。

 人が多い海岸であれば、殆どの女は全て理性を奪われた雌に堕ちるだろう。

 

「貴方に言われると、嫌味に聞こえるわ」

 

 直視できない恋人の姿に、紗夜は麦藁帽子を深く被って視線を逸らした。その頬が赤いのは、外の熱気にやられたわけでないのは明白。

 尤も、純心はその場しのぎの賛美はしない。褒められるのは純粋に嬉しかった。

 そんな彼女の様子を見た純心は、愉快そうに邪悪な笑みを浮かべる。

 

「包み隠さない本音を言ったのだがね。どうやら卿の方は私に見惚れているようだ。

 特別何かをしている訳でもないが、悪い気はしない」

 

「堂々とそんな言葉を言えるのは流石ね」

 

 いつもの調子のやり取りで、紗夜もいつもの調子に戻してゆく。

 

「このまま互い見つめ合うのも一興だが、それでは普段とあまり変わりない。折角の海だ。存分に楽しもう」

 

「いえ!その前に準備体操が大事よ!」

 

 こんなところに来ても糞真面目な紗夜の気質にくつくつと純心は笑う。

 

「卿の言う通りだ。では、早速」

 

 と、自分でラジオ体操を口遊みなが始める純心。

 強要した紗夜が思うのもどうかと思うが、その光景はなんとも面妖である。

 

 

 

 準備体操終えた二人は30km程の水泳。ウォーターダイビング。浜辺を散歩。純心がモーゼが如く海をかち割ると海を満喫した。

 

 流石にそこまですると紗夜の体力も底をつき、今はパラソルの下で休んでいる。

 

「ごめんなさい、疲れしまって」

 

 タオルで髪を拭きながら、そう謝る紗夜。

 普通なら最初の遠泳で体力など尽きるはずだが、まだしっかりと喋れるあたり、彼女も割と余裕が残っているようだ。

 

「気にするな。こうやって共に夕刻まで海を眺めるのも一興だろう」

 

 水を滴らせながら、悠然と微笑む純心。

 濡れて色気が増した彼に、紗夜は堪らず寄り添う。 

 そのまま、抱き締められながら日が沈むのを共に待った。

 

 ──黄昏時。

 

 全てが黄金に染まった眩しい世界を紗夜は瞳に映す。

 純心に告白された時はこの時だったか。

 それ故に、考え深くなったのか彼女は黄昏の浜辺をしめやかに眺めた。

 

「あれ?」

 

 すっかり乾いた頬に、雫が溢れる。

 ふと、落涙した自分に紗夜は戸惑う。

 悲しいことなど、何もなかったはずなのに……。

 黄昏の浜辺を眺めていたら、訳もわからず胸が締め付けられた。

 理由も知れない哀愁に紗夜が混乱してると、頬に触れる感触。後ろで彼女を抱き締めていた純心が、彼女濡れた頬を指先で拭ったのだ。

 

「按ずるな、紗夜。私がここにいる」

 

 紗夜が振り向くと、慈愛に満ちた微笑みが瞳に飛び込む。

 何故、純心がそんなことを言ったのか分からない。

 涙を流す紗夜を見て、彼女が寂しさを感じたように見えたからだろうか。

 

「純心くん──」

 

 でもそれは、紗夜が自分でも解らずに求めていた言葉であったようだ。

 気持ちが抑えきれない彼女は膝を立てて彼の唇に触れる。

 

「ん……ちゅ……ぅん……くちゅ……れちゃ……ん……はむ……」

 

 艶やかな水音を鳴らしながら、深い接吻を交わす。

 息継ぎで少し離れた紗夜を逃すまいと、その頬に純心が触れた。

 

「ここまでされては、私も退けぬな。外だが、良いな?」

 

「……かまわないわ。ここには貴方しかいないもの」

 

 潤んだ瞳の紗夜は婀娜っぽく微笑んだ後、先程よりも濃厚な口付けを始める。

 二人は空が星空に変わっても、互いを感じあった。



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KapitelⅢ ー乙女楽団祭ー
Episode ─XⅨ【獣と氷茨の眠り姫】


 今回も予約投稿して、その間に誤字脱字チェック。
 いつかゼロにしたい。
 
 あと、ずっと悩んでたバンドリの時系列に関しては、一部サザエさん時空にすることにしました。

 だって、2年の夏でどれだけ海にいったり、プールに行って遊んでんのRoselia。しかも、日菜ちゃんと和解してない梅雨前やし。


永遠に時が経たない、そんな物語をご存知だろうか?

 

 いつ、何処かも分からない、光景。

 滲み出た染みのように現れた記憶。

 老若の区別が付かない影法師。

 認識すらできない曖昧な存在。

 ──であるが、その声を聞く者は相手を男だと思った。

 

 こんなことを話す者など、■■かおるまい。

 

 しかし、その反応は表に出すことは叶わなかった。

 それを嘲嗤うように、影は己だけで話を続ける。

 

創作物の類なら特段、珍しくもない。

 作者の都合で螺子曲げられ、幾つもの季節を過ごしながら同じ時を繰り返す

 その物語の住人は、その事実を、気付きはしない

 

 まるで牢獄だな、と聞く者は思った。

 

矛盾していることに、そういった物語は時が進まないものの、歴史は蓄積される。

 例えば、そう。春に知り合った人間同士が次に訪れた同じ春でも知人同士、という具合にね。

 故に。僅かな既知感はあるが、違和感は殆どない

 

 それでも、牢獄には違いあるまい。

 閉ざされた楽土。時が重ねることによって得る未来を得られず、先に進むことがない世界。

 今を永遠に味わたいものなら楽園だろうが、そうでないものなら無間地獄だ。

 

では、貴方がその物語の住人だったとして、事実に気づいた時、どのようにするか?

 

 此方が答えられないことなど承知済みで、影は問いかけの言葉を向ける。

 

あぁ、そんな妄想は考えるだけ無駄だと切り捨てくれるなよ?

 

 ──待て。

 

 激流の雑音が疾走する。

 

この問いは、貴方の運命を左右する、重大なものだ

 

 私は、あの男とこんな会話などしたことはない。

 更なる激流の雑音が疾走する。

 雑音は騒めきを強め、急速に意識が薄れていく。

 

やっぱり、そんな世界は破壊してしまうのかな?

 

 途切れる瞬間に耳にした声は、とても聞き覚えのあるものだった。

 

──楽天劇(キャンディード)は終わり。

 これからは明朗劇(ファルスタッフ)の幕開けだよ

 

 

 地上の光が届かぬ場所。壁は石造りで、何十メートルも上にある人口照明で照らされた広大な地下空間。

 そこに、小笠原純心は玉座のような背もたれが長い椅子に腰を下ろし、頬杖を突いていた。

 その正面には一人でギターを弾く、彼の恋人、氷川紗夜。

 まるで秘密結社の根城が如き場所は、小笠原家の地下に存在した。

 元々は小さな物置程度の場所だったが、純心が紗夜の為に防音設備を備えた空間に改築したのだ。

 瓦屋根が似合う武家屋敷の地下に、まさかこのような場所があるなど誰も想像しないだろう。

 純心の両親も、地下の物置を使いたい、と言った息子の好きにさせた結果、足元にこのような地下空間が出来上がるとは思いもしなかった。

 現在、紗夜は純心の前で新たに覚えた曲を繰り返し弾いていた。

 最初にミスなく弾ければ、そのままもう一度同じ曲を奏でる。

 この重複演奏は紗夜が新曲を覚える度に毎回している練習だった。

 純心は一度楽譜を見ただけで曲を覚えてしまう。耳も長年様々な多色の音楽を聴いてきた故に肥えており、一瞬のミスも聞き逃さない。

 紗夜の正確無比な演奏は、純心とのこの特訓が下地になっているのだ。

 

 楽譜通りの機械的な演奏の最中、純心が指先をパチンと鳴らす。

 

 ギン! ──紗夜が使っているギターの弦が一本切れた!

 

 純心は指を鳴らした衝撃だけで、紗夜の手やギター本体を傷つけず、一本の弦のみを断ち切ったのだ。

 しかし、紗夜は一瞬反応しただけで、すぐに失った弦なしで演奏を続けた。

 演奏途中でギターの弦が切れるトラブルはあり得る。

 ましてや、それがライブ中ならば演奏を中断するわけにいかない。

 それを即時対応できる訓練として、純心は練習している紗夜のギター弦を時折こうやって切っているのだ。

 最初の頃は不意打ちで戸惑うことしかできなかった紗夜だったが、今は対応できるようになっている。

 

「よし、そこまでだ」

 

 曲が終わったところで、純心が声をかけた。

 一切顔色が変わってなかった紗夜は一息吐き、ストラップを肩から外す。

 

「弦の張替えは後程で私がやろう。卿は暫しの間、休むといい」

 

「わかったわ」

 

 紗夜は純心に歩み寄り、彼が腰を下ろしている椅子の脇にギターを立て掛ける。

 

「ん──」

 

 そのまま紗夜は両膝を床につけ、躊躇なく上体を純心へ預けるように抱きついた。

 学校やライブハウスでの仏頂面な彼女を知る者がその様子を見たら、己の目を疑うだろう。

 家や学校でも気を常に張っているためか、近頃の紗夜は自分から純心へ抱きつくことが多い。

 それまでは、純心から抱締めることはあっても、紗夜から抱締めることはなかった。

 だが、純心から婚約の言葉を貰ってからというもの、彼女から彼へ触れる機会が生れた。

 誰に似たのかは分からないが、元来紗夜は触れたがりらしい。

 

「今回は随分と熱心であったな。余程、新しくバンドを組む相手が気に入ってるようだ」

 

 純心は自分に抱きつく恋人を労うようにその髪を撫でる。

 紗夜は音楽活動をしていたが、同じバンドにいる期間はそれ程長くない。

 紗夜の性格と意識の高さ故の摩擦であり、以前組んでいたバンドを辞めたと聞いても、やはりと純心は思った。

 しかし、今回はその後ですぐ紗夜は別の人間から誘われたのである。

 

 湊友希那。

 

 孤高の歌姫と称された歌声に紗夜は惹かれた。自分と同じ高い意識にも共感し、彼女とバンドを組む決意をする。バンドを抜けたばかりの紗夜にとって、湊友希那はまさしく僥倖であった。

 暫くした後で、以前から湊友希那のファンであった中学生の少女、宇田川あこをドラムに加える。

 更にその宇田川あこの実力を確かめるため、偶々居合わせた湊友希那の幼馴染の少女、今井リサもベースに加え、バンドとしての形を成した。

 

「湊さんは兎も角、宇田川さんは意識が。今井さんは実力が足りないわ。もっと練習をしないと」

 

 苦言を零す紗夜に、純心は思わず微笑む。

 言葉とは裏腹に、その声音には侮蔑や苛立ちを感じさせない。以前ならば更に悪態をついて、純心が慰めるところだ。

 もっと練習をしないとという言葉も、純心の耳にはもっと音を合わせたいと聞き取れる。

 宇田川あこは、尊敬する姉を追いかけるためドラムを始めたようだ。

 紗夜からすれば、一番悍ましい(、、、、、、)理由である。宇田川あこの目標が、世界で二番目のドラムと言ったのも、頂点を目指している彼女には気に食わなかった。

 今井リサもベースを楽譜通り弾ける程度。紗夜が求める技術には程遠い。

 しかし、そんな二人と湊友希那で行ったセッションが、非常にかみ合ったのだ。

 

 その刹那、言葉では言い表せない交響を、紗夜はそれまで経験したことがない。

 

 元々、宇田川あこの実力を確かめたのは、友希那に付きまとう彼女を突き放すためだった。

 今井リサも宇田川あこの技術を確かめる場で、ベースを弾けるゆえに演奏したに過ぎない。

 しかし、あこの実力を見るための演奏で、四人は互にこれまで感じたことない調和性を生み出したのだ。

 

 音楽性を嚙合わせるのは、合わせようと思って合わせることができない奇跡の産物。

 ゆえに、紗夜と友希那はあこを認め、その場にいたリサも幼馴染の力になれるならとバンドを組むことになった。

 これまで介入しては辞めてを繰り返してきた紗夜が、漸く納得できたバンドに巡り合えたことに純心も一安心する。

 尤も、そんなことを口にすれば不機嫌になるのは目に見えているので口にはしない。

 代わりに、自分の膝で寛いでいる紗夜を撫でたまま、彼は別の問題を口にした。

 

「足りないというなら卿等の演奏は所謂、ゴシックロック。前奏は紗夜が担当しているが本来はキーボードで音の幅を広げるべきではないのかね?」

 

「純心くんの言う通りよ。でも、今の調和を崩してまで下手に誰かを入れる気はないわ。これはボーカルの湊さんも同じ意見だわ」

 

「成程、卿等の意見は理解した。されど、足りぬものを補うことを忘れてはならぬぞ。

 有象無象を充てがう必要はないが、砂漠で一粒の宝石を見つける行為に等しくとも妥協してしまえば、それまでだ」

 

「……そうね、肝に銘じるわ。──、そろそろ時間だから行くわ」

 

 名残惜しそうに紗夜は起き上がると、離れ際に純心の頬を唇で軽く触れた。

 

「唇ではないのかね?」

 

 柔らかな感触を残す頬に触れながら、純心は悠然に微笑む。

 そんな彼の前で、拗ねるように紗夜は口を尖らせながら、頬を赤くする。

 自分から抱きつく彼女だが、こういった行為を自ら行うのはまだまだ照れがあるようだ。

 

「それじゃあ、離れたくなくなるでしょう? また後でね」

 

 そう言い残し、小さな足音を立てながら紗夜は地下空間から去った。

 今から紗夜は純心の母親と共に夕飯の準備をするのである。

 中学の頃に純心と正式に婚約した紗夜は、最低でも月に一度。多くて週に一度の頻度で小笠原家に訪れては家事と家業の手伝いしていた。泊まりがけですることもあり、今日はその日。

 正真正銘の花嫁修業である。

 将来の夢はお嫁さんどころか、お嫁さんになるのは当然なのだから準備はしないとというのが紗夜の姿勢だ。

 妙々たる熱愛ぶりに「最早夫婦だろ」と言った者たちには一様に「何れは成るがまだ夫婦ではない」と言ってのける恋人たちであった。

 

 

 小笠原家の屋敷は外装通りの和風屋敷だが、地下空間は除いても、一部の内装は洋式である。

 身内が集まる食卓も洋装であり、これは純心の父親である現当主がドイツ人とのハーフである妻のために改築した為だ。

 似てない親子だと言われているが、女のために出し惜しみをしていないのは同類である。

 洋式の長テーブルに並ぶのは、純和食。

 洋食のときもあるが、和食の味は歴代当主の妻たちに代々受け継がれたもの。

 小笠原家の顧客はやんごとなき令嬢たちが多いため、指南はせずとも催しで振る舞う時に馬鹿にされぬよう老舗料亭に匹敵する腕前が求められる。

 大半は業者に頼んでいるが、指揮ものが熟知していなければ示しがつかぬ。その厳格は歴史ある良家らしい。

 広いテーブルの前には四人の人間のみが座り、隣同士で座る紗夜と純心の対面では、夫妻。

 如何にも厳格な夫へ嬉しそうに酌をする金髪の美人妻。

 数年経てば自分もお酒を注いであげるのかと、まったくもって未成年に見えない恋人で婚約者の様子を覗きながら紗夜は思う。

 金髪金眼で如何にも異国風情な男は、正真正銘の日本男子ゆえに綺麗に日本の箸を使って、食事をしていた。

 彼の箸が煮物の一つに伸びた瞬間、ぴくりと紗夜が反応する。

 そんな様子を脇目で確認した純心は、彼女の真意を察すると彼は芋を端で摘んで口に運ぶ。

 

「ふむ。これは紗夜が一人で作ったものだな?」

 

「……そうよ」

 

 純心がそう言うと、見るからに落ち込んだ。

 それを知って気にかけることなく、彼は事実のみ告げる。

 

「一段と腕を上げたな。これからも励むといい」

「えぇ、ありがとう」

 

 上から目線はいつもの事。それを踏まえても褒め言葉に聞こえるが、紗夜の顔色は浮かなかった。

 上達と言えば聞こえはいいが、純心が満足する域には届いていない。

 彼女だけで作った食事で「美味い」という言葉は一度も聞いたことがないのだ。

 最低限、彼の母親の味と遜色のない出来に仕上げたいが、一人で作るとまだまだ及ばない。

 ギターも技術の向上は認めてくれているが、素晴らしいと未だに褒められたことはなかった。

 どれだけ登れば辿り着くか分からない道のり。

 手厳しい彼を満足させるには何もかもが足りない。恋人すら満足させられないようでは頂点も程遠いと、紗夜は食事と共に噛みしめるのであった。

 

「純心、お休み前に悪いですが少しお時間頂けますか?」

 

 食事が済んで夜深くなった頃、純心の母親である小笠原莉奈(りな)は自室に向かう彼を呼び止める。

 年々成長する子供と違って、何年も外見の変化がない金髪の麗人は寝間着姿で息子を見つめていた。

 

「何用ですかな、母上」

 

「分かっているでしょう? 紗夜さんのことです。貴方の性分は理解していますし、紗夜さんがそれを好ましく思っているのも理解していますが、もう少し優しくしてあげたらどうですか?」

 

 莉奈は紗夜を実の娘のように可愛がっている。

 紗夜がいなければ純心の女性関係は悪化していただろうし、真面目な気質も好ましかった。

 将来、名家の小笠原家に嫁ぐと決めておきながら、音楽活動に精を出していることに関して、二人の婚約を知る知人親戚で快く思っていない輩は存在するが、莉奈は応援している。

 此方の家業と家事の仕事を驚くばかりの速さで飲み込む傍ら、学業も良い成績を収めているのだ。やるべきことはやっているので、文句などありはしない。

 だからこそ、何事も熱心に取り組んでいるのに、報われる姿を見られないのは心苦しかった。

 

「貴方の前で、紗夜さんはいつ笑いました?」

 

「10日前、新しい人間とバンドを組むと報告したときですな」

 

「私はここ暫く見ておりません。貴方の前ですらそんなに笑わないのは、辛いですね」

 

 数年前から紗夜は何事も打ち込む度に自分を追い詰め、その分表情を凍り付かせたように固くした。

 学友や尊敬する先輩がいる学校でも殆ど笑わず、家では妹と極力接触をしないため自分の部屋に閉じこもる。音楽活動中は鬼気迫るほど気を張っているため、ファンや元バンドメンバーたちは彼女がちゃんと笑った姿など見たとこはない。

 

「せめて、貴方の前で笑えているなら少しだけ安心しましたが、そんな貴方だからこそ、もっと優しくしてあげてもいいのではないですか?

 今日の料理も上達は認めていましたが、美味しいとは言ってあげていない。

 聴いてあげているギターもそうなのでしょう? 一番の味方である貴方が、一番厳しくしてどうするのですか」

 

 何処までも慈愛と少女の安寧を願った言葉。

 娘のように可愛がっている少女を労り、息子を諭す母親の声。

 それを純心は嘲笑する。我が母親は甘い。それでは駄目なのだ。

 

「私の女はその程度で壊れるほど軟ではないですよ」

 

 炎のような罵声も、呪詛のような執着も、総てを破壊してしまう愛ですら、女は傷つきながらも挫けず、正気を保って上を目指している。そうでなければ、とうの昔に紗夜は気が狂っているところだ。

 それが何よりも恋しく、それでいて滑稽である。

 彼女が傷ついている一番の理由は自分自身だと言うのに。

 

「真に壊れるとしたら、それは自壊(、、)。誰かに破壊されるのではなく、自ら壊れる」

 

 最初から分かっていた女の傷跡。

 傷をつけたのか誰なのか、それを己自身で気づかぬ限り、彼女に先はない。

 

「私はね、それを待っているのですよ。その時こそ、眠り姫が自らの生み出した茨の城から解き放たれる時だ」

 

 もしも、茨に眠ったままでも、目を覚まして二度と立ち上がることができぬとも、やることは変わらない。

 恋した女を今まで通り、愛するまで。

 邪悪に笑う息子が天使か悪魔に見えた莉奈は、深い溜息を吐いた。

 

「やはり、厳し過ぎます。他の子ならとっくに駄目になってるとこですよ」

 

「二言はしない。それに私の女はそこを惚れてくれているようだ」




 明日明後日ライブビューイングに行きます。
 そして、10月に生Roseliaに会える。やった──!





●指パッチン①

 知る者からは頂上の存在として畏怖されている、黄金の獣こと小笠原純心だが、彼でも失態を犯すことはある。

(ギターを弾けるようになったが紗夜のことだ。予期せぬ事態に陥れば混乱するのは明白。予め練習した方がいいだろう。
 差し詰め、演奏中にギターの弦が切れる状況だな。
 問題はどうやって、その状況を作り出すかだが、予め細工するのは不意打ちにならない)

「一層のこと、指でも鳴らして切れると楽ではあるのだがね」

 そう零しながら、遊び半分でパチンと指を鳴らす。

 ズダァァアアン!!

 刹那、自宅の庭に大きな爪痕ような亀裂が生まれ、そのまま塀の一部が嵐でも通り過ぎたかのように切り崩された。

「ふむ。やってみるものだな。幾分、加減の練習は必要であるが」

「まぁ!? 大きな音がしと思えば純心、また物を壊したの? ちゃんと、貴方が稼いだお金で修繕してくださいよ。まったく、大きくなっても、良く物を壊す子ね」

 と、一見大惨事に驚愕しつつも、普通に怒り、普通に呆れる彼の母親。
 純心の破壊行為は日常茶飯事である。

●指パッチン②

 ♪〜

 純心の前でギターの練習をした成果を披露する紗夜。

(さて、あれから練習はしたので問題はなかろう。
 紗夜には前もって何があっても弾き続けるようにと言ってあるが、果たして我が女神は突然の事態に怯まずいれるかな?)

 指パッチンする黄金の獣。
 刹那、紗夜のギターの弦が切れた!
 更に彼女の服が切れて、上半身の下着が露わになった!
 ピタリと、ギターの演奏が止まる。

「…………」

「…………」

 空気が静止した世界で、獣はあれもない恋人の姿を熟視する。
 地味なスポブラを着けてると思ったが、意外にも花柄をあしらったターコイズブルーの色気あるものを身につけていたようだ。

「一応尋ねるけど、貴方の仕業かしら?」

 総てを凍りつかせるような極寒の視線。
 恋人からそんな目で見られたことなかったので、純心は新鮮な気分だった。

「そうだ。今度服を買いに行くか。好きなだけ気に入ったものを買うといい」

「言いたいことはそれだけ?」

「手違いだ。許せ」

「駄目」

 しばらくの間、口を聞いて貰えなかった。


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Episode ─XX【獣と青薔薇①】

 久しぶりです。
 神戸ANIMAX MUSIX2019参加しました。
 生Roseliaの演奏は最高だったし、みんなお綺麗だったし、愉快な方々だ。




 ライブハウス、CiRCLE。

 小笠原純心がギターを始める紗夜の為に手に入れた場所。選んだ理由は近場なので手頃だったからだ。裏で得た財力を以て、彼はそのライブハウスを手中に収めた。

 手中に収めたと言っても、無理やり奪い取ったわけでない。

 経営難で前オーナーが手放そうとした話を聞きつけて、彼にしては平和的に交渉した。名目上、名前だけ変わり、働いているスタッフはそのままである。

 純心が経営に関して口出すことは少ない。彼は学業と家業の傍ら、他の事業にも手を出しているので、一つの店に割ける時間はほんの僅かだ。

 それでも、純心がオーナーなってから赤字続きだった店は右肩上がりになり、新しく人を雇える余裕も生まれるようになった。

 まだ知名度は低いので繁盛しているとは言い難いが、明日明後日で潰れる心配はない。利益が重なれば老朽化している建物を全面改築する予定である。

 

「あ、オーナー! おはようございます! この時期に来るなんて珍しいですね!」

 

 純心がCiRCLEを訪れると、雇われ店長の月島まりなが出迎えた。

 ショートカットの成人女性。若かりし頃からこの店に思い入れがあり、そのまま長年勤め、オーナーが純心に変わってからも店長を任されている女性である。

 出会った当初は異国の風貌の美丈夫に色んな意味で緊張した。もっと、はっきり言えば一目惚れした。

 彼女も良い年齢。付き合っている男性がいない時に黄金の美男子と出会えば夢も見るだろう。

 故に、彼が未成年で婚約者兼彼女持ちだと知った時はかなり動揺した。早い段階で事実を知った故、傷が浅いうちで塞がっており、現在は普通に接している。

 

「私用だ。知り合いが演奏するのでな。ステージ脇から様子を見させてもらうよ。仕事の邪魔はしない」

 

「気にしないでください。なんなら観客席で見ますか? 余裕はありますよ。って、それは店長としては恥ずかしい言葉ですね。申し訳ありません」

 

 ばつが悪そうにするまりなだが、純心は悠然とした態度を崩さず微笑む。失恋したとはいえ、純心の魅力が損なわれる訳ではない。妖艶な魔性にまりなの心臓が思わず高鳴る。

 

「気に病むことをない。卿等はよく励んでいる。これからも精進するといい」

 

「ありがとうございます」

 

 年下だとは思えない偉そうな言葉だが、実際まりなからすれば上司である。

 無礼な口を言われても言い返すことはできないが、そもそも年下なのが嘘でないかと思えるので全く気にしない。むしろ、労いの言葉に安堵したほどだ。

 純心の手腕でCiRCLEの景気は日々改善されているが、満員御礼の日はまだ少ない。雇われた側としては申し訳なかった。

 そんな気苦労を気づくとも、言葉にすれば余計に気にすると分かっていた純心は己の目的を遂行する。

 

「先程の申し入れだが私は舞台袖から覗かせてもらう。私が客席にいるだけで、音楽に集中できない演者や観客が多いのでな」

 

「あはは。そうでしたね」

 

 渇いた笑みを浮かべながら、まりなは純心の言葉に同意した。

 純心は一目で視線を引き付ける風貌な為、客席にいると演奏ではなく彼を気にする観客は多い。酷い時は演奏するバンドですら彼に注目するほどだ。

 純心の経営指示により、CiRCLEは女性割を多く導入したことで必然と店に来る客層は若い女性が大半である。

 彼女兼婚約者持ちだと知っているまりなですら、この黄金の貴公子に見惚れることは多い。そこにいるだけで思春期真っ盛りな乙女たちを射止めることなど、彼にとっては日常茶飯事だ。

 大きな会場ならば、純心の周りにいる数十人程度が夢中になっても、残りの観客が演者に集中すれば全体的な問題にはならないだろうが、小さな会場ではそうにはいかない。

 尤も、自分が聴きたいバンドがいれば小さな会場でも観客席で堂々と音楽を観賞する。気を使うのは自分の経営する店だけだ。

 それでも、気を使うのは「多少」だけだ。それに今日は一つ、観客側から見たいバンドがいる。

 

「だが、ある一つのバンドだけは客席から堪能させてもらう」

 

「あれ? 今日はどこか有名どころいましたっけ?」

 

 純心曰く、自分程度を超えられなければ先はない。

 幾ら、数多の人間を魅了する者がいても、それを眼中にさせない演奏ができなければ高みへは辿り着けないのだ。

 例えるならば、人気芸能人の司会者に観客の目線を奪われるプロの演奏家など話にならない。

 よって、純心はプロを目指す気概を本気で感じた者たちがいれば、試すように観客席へと立つ。彼としても、それを成せる演奏ならば陰からではなく、正面から音を楽しみたいわけだ。

 問題は、純心が見込んだバンドで観客席に君臨する彼を音で圧倒したものたちはほんの一握りである。

 

「バンドとしては今日初めてステージに立つ無銘だ。知り合いがいてな。私なりの激励だ」

 

 弁えて、恋人がいるバンドといは言わなかった純心だったが、その顔を見たまりなが冷や汗をかくほど邪悪に微笑んでいた。

 己の女に相応しいか見定めるためなのかは定かでない。

 子を谷底へ落とす獅子の心境でないことは、確かである。

 

 

 純心の恋人である氷川紗夜が《孤高の歌姫》湊友希那に誘われて結成したバンド。

 今日はその初ライブに彼は堂々と足を踏み入れた。

 

「!?」

「誰あの人!?」

「やばい、外人さん? すごくかっこいい!」

 

 観客席に現れた黄金の偉丈夫の登場に、つい先程まで演奏していたバンドに夢中だった観客たちは一瞬で釘付けにされた。

 純心はそんな周りの視線など一切気にせず、隅の壁に背中をつける。

 ライブハウスにいる少女たちは彼にどうにかお近づきになれないかとざわついており、とてもでないが次のバンドが演奏する空気ではない。

 だが、この程度のことで演奏できないようであれば、高が知れている。

 以前までは、紗夜自身が落胆していた為、純心は赴く必要を感じなかったが、今回結成しているバンドは声高らかに期待していた。

 ならば、一人の男程度から容易に興味を奪い去って貰えなければ困る。

 

 己の女が手にしたものが、妥協の代物か否か。是非とも証明してもらおうか。

 

 何処までも高みからの思惑。されど、それを実行できる眩しすぎる存在。

 そんな怪物が居座っていることなどいざ知らず、彼女たちはステージに現れた。

 ボーカル、湊友希那。ベース、今井リサ。ドラム、宇田川あこ。そして、つい最近新たに介入した白金燐子がステージに姿を見せる。

 最後にギターの紗夜がステージに現れると、彼女はすぐに隅にいる自分の恋人を見つけ、驚く。彼の来訪は彼女には知らされてなかったのだ。

 動揺は刹那。その魂胆を理解したのは瞬きの間。少しだけ拗ねた顔はすぐ研ぎ澄まされる。

 惚気抜きでも、自分の恋人は強烈だ。すぐ自分たちの演奏が始まるというのに、オーディエンスは誰もステージには目を向けていない。

 しかし、そんなものは当たり前なのだ。

 今日、初めて演奏する無銘バンド。気にしてくれと思うほど、お気楽な心は持っていない。

 純心の存在を知らぬ友希那もオーディエンスが自分たちを気にしてないことなど、当然のように受け入れている。他のメンバーは初めての緊張で、今から始まる演奏に集中していた。

 

 無関心、結構。

 だが──、それもこの瞬間までだ。

 我が恋人よ。我らを知らぬ者共よ。この日、この名を知れ。

 

 彼女の声は気高く貴く。

 どれほどの雑音も。どれほどの束縛も。どれほどの汚泥を以てしても。汚すことは叶わない。

 美しく咲き誇り、触れれば棘で傷つくのみ。只、黙して平伏すが唯一の許諾。 

 我ら奏者は黙して、彼女の声に共演し、彼女の歌を讃える。

 何者かを。この世は知る。無知が許されるのはこの刹那まで。

 刮目しろ。拝聴しろ。

 我らが名は青薔薇。

 

 ──演奏。

 

【魂のルフラン】

 

 ギターとキーボードの二重奏と共に歌姫の声が響き渡る。

 多くの者が知るイントロ。ゆえに聞き覚えがあるからこそ、耳を傾けた者がいた。

 だが、その音を引き込まれた故は彼女の歌声に他ならない。

 儚くも強い。気品すら感じさせる尊き美声で心を穿つ旋律。

 先程まで色情を滾らせた女たちも、彼女の歌声に耳を傾ける。

 

「上手い……。あれは誰?」

 

 透き通るも力強い歌声に魅入られた者が、無粋ながら呟いた。

 

「知らないのっ!?」

 

 気をきかせた隣人が反応し、その名を教える。

 

「彼女こそは多くのスカウトを断り続けながら、ライブハウスで君臨する《孤高の歌姫》湊友希那さまよ!」

 

 ステージに立つ少女の名前を知る者は多かった。アマチュアの中ではあるが名前が知れ渡るほどの実力者。歌が上手いのは大前提。他者の心を奪う魅力もある。

 しかし、この惹かれるのは彼女だけの歌だけでない。周りに奏でる楽器メンバーの演奏が友希那の声を更なる高みへと昇華していた。

 今、初めて演奏したバンドとは思えない盛り上がりが波紋する。

 

(見事だ)

 

 誰よりも遠くで聴いている純心が声には出さずとも誰よりも称賛した。

 紗夜が豪語し、二つ名持ちだけあって湊友希那の歌声は尊敬に値する。

 紗夜のギターと共に節を彩る白金燐子のキーボードは覇気に欠けるものの、それを補う高い技術がある。コンクールで優勝という経歴は伊達ではないようだ。

 律動するドラムとベースの技術は発展途上であるが、よく音を支えている。宇田川あこが叩くドラムは白金燐子とは逆で未熟を気概で払拭していた。

 未熟な点で言えば、技術が一番劣っているのはベースの今井リサであるが彼女無しでは、この旋律は奏でることはできないだろう。

 結成して日が浅いメンバーの音が纏まっているのは、今井リサが一番周囲を気にして合わせているからだ。彼女はとても気遣い上手な人間であると、純心は耳にした音楽だけで理解する。

 そして、誰よりも耳にした、機械のように正確な紗夜のギター。練習通り歪みなき演奏であるが、普段より惹き立っているのは周りの音と合わせているからだろう。

 五人の乙女が合わせた旋律は、並のバンドでは足元にすら及ばない演奏で周りを魅了する。

 しかし、誰よりも称賛していた純心だからこそ、問題点も把握していた。

 

(必死だな。まるで薄氷の舞台で演奏しているかのようだ。その必死さも今は魅力ではあるが)

 

 ステージに立つ彼女たちは皆、鬼気迫るように演奏していた。

 恋人である紗夜がそうなっている理由は察しているが、他のメンバーも同類なのは妙な因果である。各々、理由が違うかもしれないが恐れを抱いて音を奏でていた。

 それがパフォーマンスの向上に拍車をかけているが、これでは長続きはしまい。

 今日は無事だろうが、一か月後。あるいは更に先になるだろうが、同じ演奏は持つまいと純心は踏んでいた。

 

 だが、今はこれでいい。

 

 彼女たちはまだ芽吹いたばかり。大輪になるか、手折れるかは彼女たちの努力次第であって、純心が何かするものでもない。

 今はただ、目の前の光景(、、)を楽しむ。

 きっと、彼女は自分では気づいていないだろう。

 

「楽しそうだな、紗夜。少し妬けるぞ」

 

 我知らず、音を合わして心躍らし微笑んでいる恋人(紗夜)に純心は満足していた。

 

 恋人よ、この時を謳歌しろ。

 

 遠くない未来、彼女の心が酷く乱れることを純心は解っていた。

 純心は紗夜がコンプレックスを抱き、距離を置いている双子の妹、氷川日菜と交流をしている。

 後ろ暗いことなどない。相手が自分の唯一例外を悩ませる人間だとしても、純心は総てを愛している為、昔と変わらず接しているに過ぎない。

 紗夜もそれは知っている為、自分が知らないところで二人が会っていても気にはしていなかった。

 ゆえに紗夜は知らず、純心は既に知っている。

 姉の背を追った日菜が事務所に入って、アイドルバンドのギターになることを。

 

 

 




 実に後方彼氏面。
 


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Episode ─XXⅠ【獣と青薔薇②】

「っ─────」

「………………」

 

 ほくそ笑む金髪の男の隣でむっすりとした少女がいた。

 公道を走るリムジンの後部座席にて、二人の男女が重苦しい空気で鎮座する、ほくそ笑んだ金髪の男とむっすりとした少女。

 男は黄金の獣という異名を持つ、この車の主である小笠原純心。所持者は彼ではあるが、大人びた外見とは違い未成年であるため雇った運転手に走行を任せていた。

 仮に彼が免許を持っていたところで、このような高級車両には今のように専属の者へ運転を任せて、所持者が寛ぐのが通例であろう。あえて驚くに値すべき点を探すならば、これが名家である小笠原家所有ではなく、学生身分である純心が個人所有している点であろう。

 純心は家業と学業の傍ら個人事業も勤しむ多忙な身。学生でありながら運転手付きの車を持つくらいには事業を成功させていた。

 今回も仕事の為、己が所有する会社の一つに向かっていたのだが、その途中で自分の恋人である氷川紗夜が帰宅していたのを見つけたので、送り届けるため拾ったわけである。

 こういうことは別に珍しくもなく、このようなことが起こるたびに紗夜は申し訳ない顔を浮かべながらも、内心では恋人との僅かな一時に喜んでいた。

 だが、今の紗夜は不機嫌である。

 普段から剣呑な態度が目立つ紗夜だが、恋人である純心の前であれば多少は和らぐ。そんな世界で唯一自分を曝け出すことができる相手を前にしても、愚痴一つ零さないのは相当重症だった。

 

 しかし、そんな恋人に対して一切狼狽えないのが、小笠原純心という男。

 

 むしろこの黄金の獣は、機嫌が悪い恋人の顔を愛でられる程の極太神経をお持ちだ。不機嫌な理由も察してるので余裕である。

 今日はバンド練習だと言っていたにも関わらず、この時間に帰宅していたのは、またRoseliaの中でトラブルがあったからに違いない。

 つい数日前も、Roselia内でトラブルが発生していた。

 Roseliaのドラムである宇田川あこがバンド練習中に自分の姉を褒めていたのが紗夜の癪に障った為、一悶着起こったのだ。

 

 ついぞ、姉の背を追うために、紗夜の双子の妹がギターを始めたのだ。

 日菜が紗夜の真似をするのは毎度のことなので、覚悟はしてたつもりだが、まさかアイドルバンドでメジャーデビューするのは彼女も予想していなかった。

 

 紗夜はプロという肩書に拘っていなかったが、アマチュアである自身とデビューするプロならば世間的にどちらが上か比べるまでもない。

 そのことで気が立っていたこともあり、姉のことを話すあこが、コンプレックスである自分の妹と重なり生じ、暴発した。

 どう考えても、紗夜の非。周りのバンドメンバーは戸惑いを隠せなく、被害者であるあこは完全に怯えていた。

 これでは練習にならないとボーカルの湊友希那に叱責され、その日、彼女は帰らされる。純心が経営しているライブハウス、CiRCLEで起こった出来事だった為、そのトラブルはすぐ純心の耳に入り、今のように回収したわけだ。

 後日、バンドメンバー、特にあこには誠意を込めて謝罪をしたそうだが、紗夜にとっては人生の汚点として刻まれただろう。

 

 そして、此度。純心は紗夜の口から何かあったことを言い出すのを待っていたが、しばらくすれば嫌でも氷川家に到着する。

 

 余裕があれば、純心もゆっくりと気遣ってやることも惜しまないが、生憎と彼は仕事に向かう途中であり、紗夜に付き合う時間は本日残り僅かだ。

 もしも紗夜が動けぬほど精神が病んでいたら、その他の些事は後日調整して気に掛けていたが、今回はそこまで必要ないと考えた。

 下手にそんなことをすれば、紗夜が後日、純心に対して申し訳ないと心労を増やすだけである。

 今日も自分が経営するCiRCLEでの練習だったはずなので、調べればある程度何かあったのかすぐに分かるだろう。しかし、直接本人に聞く方が良いだろうと考え、純心にしては常識の範囲に収まった思考で口を開いた。

 

「では、そろそろ何かあったか話してくれないか?」

「Roseliaを抜けるわ」

 

 純心が優しく尋ねると、紗夜は即座に言い放った。

 彼女がバンドを抜けることは珍しくもない。しかし、今回ばかりは純心でも解せなかった。

 

「あれほど入れ込んでいたわりには随分と早いではないか」

 

 今までのようにバンドの実力や意識の足りなさで抜けるのとは訳が違う。でなければ、紗夜はRoseliaというバンドにあれほど意気込んではいない。

 紗夜の態度を考えると、以前と同じ過ちを犯してしまい、これでは駄目だと脱退させられたわけでもなさそうだ。それならば、彼女は今にも泣きそうな顔をしているはずである。

 

「あの人──湊さんが音楽事務所に単独でスカウトされたそうよ。それを偶然、宇田川さんと白金さんが見かけたわ」

「なるほど。それで?」

 

 純心は湊友希那が音楽事務所にスカウトされる話を聞いても驚きはしない。

 彼女が何度か音楽事務所にスカウトされたことがあるのを以前から知っていたからだ(、、、、、、、、、、、、)

 整った容姿にあれ程の技量を持っていれば、自然と業界人に興味を持たれていても不思議ではない。

 しかし、湊友希那はその誘いを今迄断わり続けていた。その理由も、純心は察している(、、、、、、、、)

 だが、紗夜の態度を見て考えるに、今回はそうでなかったらしい。

 

「スカウトを受ければ、事務所が揃えたメンバーでFUTURE WORLD FES.のメインステージに立てる。私たちとバンドを組んでコンテストを受けるよりも確実にフェスに出場できるわ。

 そして、あの人は、何も答えなかった。ただ、黙っていた! そんなの肯定しているのと一緒じゃない!」

 

「ほぅ────」

 

 烈火の如き怒号に純心は興味深く相槌を打った。

 

「私は本当に彼女の信念を尊敬していたのよ。なのに、お互いに高め合うと言って人を集めておきながら、自分だけのし上がればいい。そんな人に、私たちは利用された!

 ……失望とは、まさにこのことよ」

 

 口を開いたことで紗夜は溜めていた鬱憤を吐き出し、最後は苦虫を嚙み潰したような顔で俯く。

 純心に見っともない姿を見せてしまったと、紗夜は自己嫌悪した。

 最近の自分は感情を制御できていない。ついこの前も、妹の日菜のことで無関係な宇田川あこに辛く当たってしまった。

 苦難が己を蝕んだことで、周りに苛立ちを巻き散らすのは赤子と同類だ。

 

 こんな自分を恋人はどう見ているのか。

 

 飽きられてはいないだろう。今回でそうなるならば、紗夜は疾うの昔に捨てられている。それには感謝しているし、だからこそ甘えてしまう。

 自分に同調し湊友希那を非難することは万が一にもありえない。

 この黄金の獣が持つ総てを愛しているという価値観は鍍金ではないのだ。

 仮に自分が惨い殺され方をしても、その相手に報復はするだろうが、恨みを一切抱きはしないはずである。

 自分の恋人は、ここで残念だったと優しく抱き締める男でない。

 挫けた人間に何かするなら、手を伸ばすのではなく、煽って鼓舞するか再起不能に追い込むかのどちらかだ。それはそれで是非もなしと、受け流すのもこの男らしい。 

 

「くく」

 

 そう思っていたからこそ、首を上げて目撃したものに紗夜は戸惑った。

 

「くくく…………ふははは!! あははははははははははははははははははっ!!!」

 

 純心は高笑いしていた。

 最初は抑えるような笑い声はすぐに狂喜を孕んだ叫びへと変貌する。空気が振動する爆音。車体は地震があったかのように揺れて、窓ガラスが震えた。

 

「ははは! あぁ、すまない! だがこれは、ふふっ──!」

 

 紗夜の視線に気づいた純心は堪えようにも抑えきれないようだ。

 

「何を笑っているの?」

 

 本当に不思議そうに紗夜は純心に尋ねた。

 傍から見れば嘲笑されたと思われる光景であり、顔見知りの人間でもこの態度をすれば激怒するだろう。彼に歯向かう度胸があればだが。

 紗夜はそんな男に畏縮せず立ち向かえる数少ない人間。

 ゆえに、腹を立てれば文句は幾らでも言えるのだが、そう思い至れないまで珍しいものに彼女は狼狽えた。

 

「ふふふ、失礼。突然、笑ったことは幾らでも詫びよう。どれ程の責苦も甘んじて受けるぞ」

 

 しばらくして、漸く純心は落ち着いたが、その笑みが消えてはいない。

 

「それは後でいい。先に何で笑ったのか教えてもらえる?」

 

「ふむ、そうだな。一言で言い表せないことをまず許せよ。

 順を追って説示するが、まずは紗夜。卿は利用されたと言っていたが、それはお互い様だろ?」

 

「え?」

 

 その言葉に紗夜の思考が一瞬止まる。

 

「卿の渇望はなんだ? 忘れてはいまい。日菜より己を誇示したい、その為にギターを始めたではないか。バンドもその為だけに組んでいるに過ぎない。

 そもそも、卿等は友誼や信頼ではなく、互いの能力を見て手を組んでいたのではないか?

 後から介入した今井リサ、宇田川あこ、白金燐子の三名は別にしても、紗夜と湊友希那はそのように手を結んだ。

 卿は信念と言っていたが、そんなものは長く、語らう時間があってこそ初めて理解し合えるもの。実際、Roseliaはバンド以外でお互いに干渉しない約定であった。そうだな」

 

「…………え、ええ。そうよ」

 

「ゆえに。少なくとも紗夜は湊友希那の歌にしか興味がなかった。己の渇きを潤す為、彼女の声を欲した。だから、利用していたのはお互い様なのだ。

 互いに己の渇望を満たす為、他者を利用し合った。そのような薄情な間柄、いつ瓦解しても不思議ではあるまい」

 

「っ…………」

 

 紗夜は言い返すことができなかった。

 そうだ。自分は湊さんの歌声を聞いたから彼女と組むと決めた。自分だけでは至れない高みの為に、あの人を利用していた。

 Roseliaに馴れ合いは不要。私情を持ち込まず、切磋琢磨して互いを高め合うと言えば聞こえがいい。

 しかし、裏を返せばそれは、互いの能力しか興味がなく、利用し合う関係だとも言えるだろう。

 少なくとも、紗夜はそれを望んでいた。

 私情で音楽をしていた私は、湊さんだけを責めるのは、お角違いかもしれない。

 

「ああ、勘違いするなよ。利用し合う関係といえど、裏切られれば怒りもしよう。卿の憤りは責められない正当なものだ」

 

 押し黙る紗夜に純心は微笑む。

 

「しかし、卿はそれで終わらなかった。以前ならば、怒りや落胆はすれども、次にすぐ切り替えたはずだ。諦観し、割り切った後、迅速に冷静に沈着に処理した。

 だが──紗夜。お前は失望した。それ以外にも感情を抱いた。

 それが私には嬉しくて、同じくらい妬けたのだ」

 

「純心くん?」

 

 先程、狂ったような笑いとは違い、心の奥に響く落ち着いた声音。

 紗夜は純心を見ると、そこには苦笑する男の顔があった。

 またも珍しい光景。そして、先程とは違い、そんな時ではないだろうに、紗夜は思わずときめいた。

 

「話を聞く限り、その気持ちは無駄になるかどうかは卿等次第だろうがな」

 

「? 言っている意味がわからないわ」

 

「悪いがこれ以上は無粋というもの。

 これは卿等の問題。女の世界に男の出る幕などない」

 

 それを聞いた途端、紗夜は難色を浮かべる。

 純心の言ったことが全て理解できたわけでないが、結局のところ好き勝手に言葉を重ねたにも挙句、後は自分で解決しろと言っているのだろう。

 だが、それは至極当然。相談には乗ってくれるだろうが、最終的に行動を決定するのは己のみ。でなけば、単なる操り人形に成り下がるのだ。

 

「案ずるな。卿は少し鈍いが愚かな女でない」

 

「…………」

 

 甘味の欠片ほどない言葉だが、何処までも優しい声音。そう囁かれ、赤らめている女はいないだろう。

 そんな状況ではないと解っているのに、紗夜は熱くなった顔を逸らすと、丁度車が見覚えのある景色で停車した。

 

「さて、そうこうしている内に家の前に着いたぞ」

 

「……送ってくれて、ありがとう」

 

 そう言って、紗夜は扉を開き、外に出る。

 本当はまだ話したいことがあったが、純心が多忙なのを知っている為、紗夜はこれ以上車内に居座ることはしない。

 彼が話した言葉の意図は掴めないが、感じ入るものは確かにあった。それを原動力に、あとは自分で行動するしかあるまい。

 

「では、励めよ」

 

 純心が手元の端末で運転席に指示すると紗夜が出て行った後部座席の扉が閉まり、車が発進する。

 見送る紗夜の視線を感じながら、純心は手元を操作して音楽を流す。

 それは、前々から聞いてみたいと思った曲だったが、既に解散したバンドであり、更に純心が欲したのはインディーズ時代のものだったので入手が最近になったものだ。

 そのバンドの音楽はインディーズ時代では絶賛されていたが、プロになってからの評価はされず、そのまま消えてしまった音色。もう二度と、新しい音楽を聴くことはできない。

 Roseliaの音楽が同じ末路になるかは、純心が言ったように彼女たち次第である。

 

 

「…………っ」

 

 氷川家にて、苦痛を滲ませながら紗夜は自室でギターを弾く。

 Roseliaがバラバラになったあの日から数日が経過した。

 あの日、純心に家に送り届けて貰ってから翌日に友希那からメールが届いた。

 

『来週の練習予定、取り消す』

 

 簡素で簡潔な文面を見て、紗夜は純心によって多少は和らいだ心が再び乱れた。

 腹が立つ。やはり自分たちは、あなたにとって道具でしかなかったのか。

 その苛立ちをかき消すように、紗夜はギターに没頭した。

 なのに、満足する演奏ができない。一人で我武者羅に弦を響かせても、不満が溜まるだけだった。

 

 ダメ……。こんなレベルじゃ………。……弾いても、弾いても苦しい……。

 でも、私にはこれしない……!

 たとえRoseliaがなくなっても……。

 

 そう思った瞬間、胸の奥に一気に感情が込み上げ、ギターの音が止まった。

 

「あれ? 止めちゃうの?」

 

 すると双子の妹、日菜が自分を見ていたことに気づいた。

 

「……日菜っ。勝手に入って来ないでって言ってるでしょ」

 

「入ってないよ。ほら。ドア開いてたから……」

 

 日菜の言葉に偽りはなく、彼女は廊下にいて開いていた扉の隙間からこちらを見ていた。

 扉を開けていたらその音で紗夜は気づいていたはずだ。普段、紗夜は戸締りをしっかりとする人間なのだが、それすらままならないほど、彼女は切羽が詰まっているのである。

 

「ん~~~? あれ? ……なんだろう?」

 

「なんだろって、なに? ちゃんと喋りなさいっていつも……」

 

「ん~……なんかおねーちゃんのギターの音、おねーちゃんぽくなった気がする」

 

「? あなたの説明はいつもわかりにくいの」

 

 理解不能な言葉に紗夜は首を傾げた。

 恋人の純心といい、双子の日菜といい、天才というものは何故自分の感性のみで話すのだと紗夜は心の中で溜息をつく。

 

「あ!! 教科書! 前は教科書だった! だけど今はおねーちゃん! って聴こえる」

 

「なによ……それ。早く出て行って。……忙しいんだから」

 

 やはり理解不能だった。

 紗夜は内心呆れながら、静かに日菜に出てくよう促す。

 

「ん? ……うん」

 

 何処か不思議そうにして日菜が出て行く。

 その入れ替わりに、机に置いてあった携帯が光った。

 

「? ……宇田川さんから動画メール……?

 ────!!」

 

 それはいつの日だったが、練習中の光景を撮影したものだった。

 最初は撮られるのは恥ずかしいと、燐子が拒絶したが友希那が後で自分たちの演奏を客観的に見れば上達すると言って結局収めたものである。

 思えば確認してなかったその練習風景を見て、紗夜は息を飲んだ。

 紗夜は自分を不愛想な女だと思っている。

 しかし、画面の中、Roseliaの中でギターを爪弾く自分はとても楽しそうに笑っていた。

 

 練習中……。…………私。いつからこんなに笑って…………。

 

「Roseliaがなくなったら…………、私は…………」

 

 ようやく、数日前に純心に言われた言葉を理解した。

 彼は知っていたのだろう。

 何度かRoseliaのライブに来てくれたことがあったので、紗夜がどんな顔をしていたか。

 そして、あの日、友希那に利用されたと思って、怒りよりも悲哀が勝っていたことも。

 しばらくして、紗夜はギターをかき鳴らす。今の彼女にはそれしかできなかった。

 相変らず満足ができない演奏。だが、今度は苛立ちではなく、哀愁が雪のように積もっていく。

 

 冷えた心で、それでもギターを彼女は弾き続ける。

 

 その後、少し時間が経ってから、友希那からRoseliaの全員に集まってほしいというメールが届いた。

 

 




獣殿専用運転手

(また会社に行く前に恋人と会ってるよ、この御方。流石起業した理由が女に貢ぐためと平然と言ったお人は違うぜ)

(って! いきなり笑い出した! ていうか後部座席は防音なんだけど! 車の後方はカメラで確認するから、運転席からじゃあ後ろの様子分かんないんだけど! どれだけ爆音で笑ってるんだ!? あ、防弾使用のガラスに亀裂が)

(うわぁ……。あんだけおっかない笑い声を間近で聴いてただろうに、家まで送ってあげた恋人様、めっちゃ乙女な顔で見送ってるやんけ。普通ドン引きだろう。どっちも一般人には推し量れへんな)



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Episode ─XXⅡ【獣と青薔薇③】

 

「という訳でRoseliaは活動を再開して、改めてFUTURE WORLD FES.を目指すことにしたわ」

「そうか」

 

 氷川紗夜のあっさりした報告に恋人である小笠原純心はこれもまたあっさりとした反応を見せる。

 

 古風な日本屋敷の一室。時刻は夜。密室に男女が二人きり。

 恋人とはいえ、既に婚約をし、花嫁修業と称して泊まりに行く関係でなければ目に余る光景だ。

 それでいいのか風紀委員。

 その話を聞いた委員長にはもの凄く渋い顔をされ、同僚には冷やかされたが、学校の風紀は乱してないし、双方の両親合意の下であると紗夜が言い返すと「日本人ぱねぇ」と戸惑う海外留学生。

 

 余談はさておき本題に戻すと数日前、紗夜が所属するガールズバンド、Roseliaで問題が発生した。

 ボーカルである湊友希那が単独事務所勧誘され、それが発端で揉め事になり活動不能状態になったのである。

 その友希那が昨日の夜、メンバー全員に明日集まって欲しいと呼び出しがあった。

 集まったメンバーに対し、友希那は真っ先に誠実な行動ではなかったと謝罪をする。

 その後の流れで友希那の幼馴染の今井リサを除くメンバーは、彼女の事情や音楽をする動機を知り、最後に今の想いを聞いた。

 

“でも私は……こんなに自分勝手で、理想も信念も元を正せばただの『私情』だけど……っ”

“この五人で音楽がしたい……!”

“この五人じゃなきゃだめなの!”

 

 友希那の慟哭は四人の心を穿つ。

 紗夜自身も妹を見返すための『私情』で音楽をしていた。

 見っともなく、歪んだ渇望。

 紗夜こそ音楽を利用している点で真摯とは言えないかもしれない。

 しかし、捨てきれず、藻掻きならがも歩み続けていた。

 

 その深淵の中で見つけた彼女たち。

 

 やはり、自分と湊さんは何処か似ていると紗夜は自照する。

 

 ──この五人で音楽をしたい。

 

 友希那が叫んだ思いは他の者たちも同じだった。でなければ、最初から彼女の呼び出しに応じていない。

 音楽をする理由は各々バラバラな少女たちだが、その想いだけは一つだった。

 

 こうして、一度散りかけた青薔薇は、今もまだ咲き続けている。

 

 そのあらましを紗夜は簡単に純心に語ったのだが、彼の態度は、相変わらず泰然自若。

 予想はしていたが、目の当たりにすると紗夜は溜息を吐いた。

 

「やっぱり、心配をしていたという顔には見えないわね」

「無論だ。元より卿等の道。女の世界に男の出る幕などない。成り行きを黙して見届け、喜劇には喝采を。悲劇に哀れみを。観客にできる反応など、それだけだ」

「あなたらしいわね」

 

 紗夜はくすりと笑った。

 純心の態度が無関心に見えるようならば、それは彼の性質を少しも理解できぬ人間。

 在りのまま全てを愛する男の反応としてはこんなものだろう。あと少しだけだが、自分を信用していてくれてたと自惚れよう。

 そんな恋人を見ながら、紗夜は一つ、思い出したことがあった。

 

「──そういえば、純心くん。あなた湊さんのお父様のことを知っていたわね?」

 

 少し昔、純心は音楽雑誌を見せながら一つのバンドを紗夜に語ったことがあった。

 曰く、そのバンドはインディーズでありながら独自の世界観を持つ音楽で多くの人々を魅了していたが、メジャーデビューしてからは流行に近い曲ばかりを出してファンに飽きられてしまい、いつの間にか解散したそうだ

 友希那の父親が活動していたバンドを聞いた紗夜は、すぐにその話を思い出した。

 惜しいバンドを失ったと、純心が珍しく嘆いていたのが印象的で覚えていたのだ。

 ならば、抜け目ないこの男が知っていてもなんら不思議ではない。友希那が音楽をしている動機も、最初から分かっていた可能性もある。

 

「そうだ。何か不服でもあるのかね」

「いいえ、只の確認よ」

 

 簡単に認める純心に紗夜は首を横に振るだけだ。

 言葉通り、これは単なる確認だ。知っていたところで、今更なんだと言うのだ。

 仮に友希那と組んですぐに告げられたら、紗夜も思うことはあったかもしれないが、そもそも自分の恋人は他人の過去を勝手に告げ口するような真似はしない。

 

「お父様と同じように望まない音楽をしたくないから。だから、今まで他のスカウトは断ってきたし、今回のスカウトは目的である舞台だから悩んだ」

「しかし、湊友希那は卿等を選んだ」

「ええ。だから、その想いに報いなければならない。

 このままRoseliaを続ければ事務所に所属することは難しくてもね。

 確かに、下手に所属すれば湊さんのお父様の二の舞か、日菜のように人気取りをさせられる可能性だってある」

 

 自分を含めてRoseliaのメンバー全員のルックスがいい。

 友希那は人形のように整っており、あこは愛らしく、リサは華やか。スタイルがよく見るからに大人しい燐子は男受けが良さそうだ。

 この先、五人揃って何処かの事務所にスカウトされても、それは見た目だけで選ばれた可能性が大いにある。

 

「それは私も望んでない道よ。私達は私達の音楽で高みに行く」

「流石だな、紗夜。実に私好みの気概だ」

「……あなたのことだから、私が内心、プロデビューする日菜と比べているのは察しているでしょうね」

「そうだな。その上でRoseliaを続けるのだろう?」

「えぇ……。私は私なりにやってあの子に負けないようにするだけだわ。

 だがらこそ、FUTURE WORLD FES.には必ず出る。今日はその意思表示を改めてあなたに見せたかった。

 心配はさせていなかったとはいえ、見っともない姿を見せたのは事実ですもの」

「ならば私も改めて、卿の──卿等Roseliaの行く末を見届けることにしよう」

「ありがとう」

 

 そうやって力強く意気込んだ姿勢を見せる紗夜。

 心が一つになったRoselia、FUTURE WORLD FES.を目指す。

 

 

 FUTURE WORLD FES.予選。

 その予選が終了したにその日の夜も純心と紗夜は会っていた。

 

「むぅ~」

「────」

 

 それは珍しい光景である。

 小笠原家の一室、純心は自室で恋人である紗夜と抱き合っていた。

 抱き合う程度、数年親密に交際している二人には特に目新しくもない。

 紗夜の機嫌が悪いのも、本人が聞けば不名誉であるがよくあることだ。

 妹のことや学業、音楽活動。そこで伸し掛かった苛立ちや不満を恋人である純心が慰めることは彼にとって慣れたもので、恋人と接する大切な機会の一つである。

 だが、そんな彼でも恋人が幼子のように唸りながら拗ねる様はとても希少であった。

 それこそ、小学生の頃なら何度か見たこともあったが、成長してからは初めてである。

 拗ねる紗夜を他所に、純心はその姿を口を緩ませながら愛でていた。

 

 紗夜たちRoseliaは入念な準備を重ねFUTURE WORLD FES.の予選に挑んだ。

 

 雨降って地固まる如く、和解してから重ねた練習で連携や技術は飛躍的に伸び、書類審査は心配することなく受かった。

 予選本番でも参加したバンドの中で抜きんでたパフォーマンスを魅せ、観客や本人たちも通過する確信があった。

 

 ──だが、結果は落選。

 

 コンテストの後、審査員からの講評は本大会でトップに近い素晴らしい演奏と評価した。

 その上で、結成して日の浅い彼女たちにまだ伸びしろがあると感じた審査員は『入選』という形ではなく、『優勝』してメインステージで立つ為、来年に挑んでほしいと彼女たちに言った。

 言葉では実力を認められたが、落選は落選。特に友希那と紗夜は納得できなかった。

 コンテストの後でしたやけ食い最中も不満が次々と零れた。

 だが、彼女たちは予選で演奏した音楽は今までで一番心地よかった。それは友希那と紗夜も同じである。夢中になって充実した時間を得た。

 

 それこそ、時が止まってほしいと思えるほどに。

 

 だからこそ、なまじ評価された分、苛立ちや落胆ではなく、拗ねた態度になる。

 予選からの反省会。その後ですぐに悔しさを原動力に来年また挑戦すると意気込んだRoseliaでの練習が終わった後、紗夜が報告のため純心の家に訪れ、その時のことを話している内に、鬱憤を思い出したのが今の状態なのだ。

 

「うむぅ~」

 

 ぐりぐりと純心のすり寄って気を紛らせようとする様子は、小動物の類に近い。

 むしろ機嫌が悪い時の日菜にも似ていた。本人に言えば拗ねるどころの話ではなくなるので、口には出さないがやはり双子である。

  

 仕事があった為、予選を観に行けなかった純心であるが、紗夜から聞いた審査員の言葉には納得していた。

 

 Roseliaはまだ芽吹いたばかりの花だ。これから先、更なる大輪の花を咲かせるかもしれない。

 雨風に負けて手折れる可能性もあるだろう。もしかしたら誰にも気にされず枯れる末路もありえる。彷徨し、散り散りになるやもしれない。

 

 ゆえに良い。

 

 分かりきった栄光(既知)など不要。見知った敗北(既知)などつまらぬ。

 未来は分らぬからこそ価値があるのだ。

 

 これからも黄金の獣は黙して、己の恋人や彼女たちの人道を見届ける。

 己は神などではない。世界を変える必要もない。

 この手で触れるものを愛することができれば、渇くことはないのだから。

 

「ところで紗夜」

「?」

 

 純心は彼女の腰を撫でていたが、相手が純心であればその程度の接触を紗夜は今更気に留めるない。

 なにかと見つめてくる紗夜に純心はふと思い立ったことを言った。

 

「随分とやけ食いしたようだ。最近は練習終わりには毎度ファミレスでポテトを食べてるのも原因だろう。少し膨れて──」

 

 最後まで言う前に紗夜は首が傾くほど純心の頭を(はた)いた。身も心も許している相手でも言っていいことと悪いことがある。

 紗夜はしばらく食事制限をすることを誓った。ポテト禁制で機嫌が悪くなる一週間が始まる。




お久しぶりです。遅くなってすみません。
昨今、世間は辛いことばかりですが、皆様ご自愛ください。
執筆速度にムラがあり過ぎる私ですが、今後ともよろしくお願いします。

次回、獣殿、パスパレの初ライブに行く。


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Episode ─XXⅢ【獣と色彩①】

日菜ちゃんが出るので少しだけ。
いつも誤字脱字報告してくれる方。読者の皆様に感謝を。


 アイドルバンド、『Pastel*Palettes (パステルパレット)』。

 文字通りバンド演奏とアイドルの融合した新人音楽グループ。

 ボーカルはアイドル研修生であった丸山(まるやま)(あや)

 ギターはオーディションで選ばれた氷川日菜。

 ベースは元天才子役の白鷺(しらさぎ)千聖(ちさと)

 ドラムはスタジオミュージシャンであった大和(やまと)麻弥(まや)

 キーボードは日本とフィンランドのハーフで帰国子女のモデル、若宮(わかみや)イブ。

 メンバー全員が現役女子高生の若き才能が今、ガールズバンド時代に新たな色彩を描く。

 

 そういった触れ込みをここ最近宣伝しているデビュー前のバンドだ。

 アイドルという肩書を付加されていること以外は昨今、女性バンドが多く輩出されているので、それ自体は珍しくもない。

 

 黄金の獣である小笠原純心も長年の付き合いで後に義妹になる氷川日菜が所属していなければ、そこまで気にしなかっただろう。

 

 大々的に宣伝されているが、メンバー全員が音楽業界では新人である。

 

 オーディションで選ばれた日菜は当然であり、以前まで研修生だったボーカルの丸山彩も無論新顔。モデルである若宮イブは畑違い。

 この中で最も知名度があろうベースの白鷺千聖は数年前までは様々なドラマにも出演していたが、最近では目立った成果を出していない。

 ドラムの大和麻弥だけが唯一音楽の経歴を持っているものの、裏方であった為知名度は皆無に等しい。

 純心が日菜から聞いた話ではどうやら彼女はベース担当が中々見つからなかったので、急遽起用されたそうだ。なんとも準備不足のお粗末である。

 

 下地もない状態からのデビューであるが、宣伝の数だけは多い。広告を増やせばそれだけ人の目に留まるというもの。

 大手事務所ほどではないが、多くのプロモーションは功をなし、知名度はデビュー前にしては多く稼いだ。

 

 後は近日公開されるお披露目ライブが成功すれば華々しいデビューを飾るだろう。

 

「執拗に問うが。やはり卿は日菜のライブには行かぬか? その日はRoseliaの練習日ではあるまい」

「行かないわ。練習も家で自主練するわよ」

 

 純心が恋人のために自宅の地下に作った演奏室にて、先ほどまでギターの練習をし、今は小休憩している紗夜がむっすりと応える。

 純心は日菜のバンドが出演するライブのことを知ると、すぐ自分と紗夜の分のチケットを手配した。

 だが、紗夜は行く気はないと断っている。

 

「やれやれ。最近はRoseliaの練習ばかりで久しぶりに紗夜とデートをしたいと思っていたのだが──冗談だ。そんな申し訳なさそうな顔をするな。こうやって会う時間を作ってくれているだけで、慰めになっている」

「慰めということは満足してないということでしょう?」

「無論だ。私は常に紗夜に飢えている。

 だが、その渇きを楽しむのも交際の醍醐味というもの。Roselia全体として見ても、個人的にファンになっている。その音楽を邪魔する真似はしないさ」

「そう。ありがとう……」

「話を戻すが、やはり行かぬか」

「本当にくどいわね……」

 

 一瞬、和んだ顔を紗夜は不機嫌にさせて溜息をつく。

 

「日菜のことゆえ、てっきり観に来て欲しいと卿を誘っていると思ってな。

 自分のライブには来るなと言ってる手前、逆に自分が行くのが格好にならんのであれば、私とのデートのついでという体裁を立てれば行きやすかろう?」

 

 もっとも、紗夜からRoseliaのライブには来るなと言われている日菜であるが、あの手この手で何度も彼女のライブに行っていたりする。

 

「そもそも、日菜には誘われてないわ」

「おや、そうなのか」

 

 やや俯きながら言った紗夜の言葉を聞いて、純心は意外そうに眉を上げる。

 

「あの子も私と一緒で身内には見られたくないのでしょう」

「あれがそんな殊勝な性分だとは思えんが」

「…………そうね」

 

 純心の言う通り、紗夜に構ってほしい日菜が自分の演奏を見られて嫌がるとは到底思えなく、彼女もそれを認めた。

 日菜のライブが決まったこと自体急なことだった為、誘うようにも日菜の方でチケットを確保できなかったかもしれない。

 

「けど、どの道誘われてないのは事実。そもそもバンドをすることだって黙っていたのよ。だから行く必要もないわ」

「成程。つまり卿は拗ねているわけか」

「なっ!」

 

 目を見開く紗夜に純心はにやりを笑った。

 

「此度ばかりはあれも遠慮しているやも知れぬが、気になるなら勝手に行けば良かろう。日菜も同じように卿のライブに行ってるのならば問題はあるまい」

「べ、別に日菜のことなんて気になってないわよ!」

 

 と、叫ぶ紗夜。それが激怒ではなく照れ隠しなのは赤くした顔で明らかである。

 これが純心以外の人間ならば癇癪を起していたが、心許している男の前だからこそ、この態度なのだ。

 

「そんなに気になるならあなただけで行けばいいじゃない!」

「そうだな。素直に来れぬ卿の分まで私が見届けることにするよ」

「す、好き勝手なことを──! はい、休憩はお終い! 今から弾くから黙って聞いてなさい!」

「くく、了解した」

 

 懲りずに煽ってくる純心に埒が明かないと悟った紗夜は練習を再開させる。

 そんな紗夜の様子を一通り楽しんだ純心は、彼女の要望通り静かに耳を傾けるのであった。

 

 

 Pastel*Palettesのお披露目ライブは複数のバンドが共演する合同ライブの枠を一つもらって行われる。

 収容人数一万人の会場での大規模なイベントなため、新人のデビューとしては破格の条件だった。

 そのステージが一望できる上階に、あるスーツ姿の女性が歩いていた。

 彼女こそはPastel*Palettesのプロデューサーであり、会場で異常がないか見回りしていた矢先、信じられない存在を目撃した。

 周りに人が少ないVIP席に腰をかける黄金の髪を垂らす美丈夫。

 人体の黄金比で作られたような体に、見惚れるほどの妖艶な魔性。その存在に気付いた他の来場者は目的であるライブを忘れたかのようにその男を呆然と眺めていた。

 

 女は思った──何たる僥倖。

 

 芸能事務所に勤めて数年。最初はモデルだったのにいつの間にか一人のスタッフとして働いて、嫌な上司や先輩の叱責を浴びつつ、周りは結婚して子供を作って自分だけ独り身。唯一の肉親である兄は隣に引っ越してきたドイツ留学生といい感じで事案かと心配と寂しさ、なんと運がないと嘆いた矢先、漸く一つのプロジェクトを任される立場になった。

 今日はそのプロジェクトであるアイドルバンドのお披露目ライブ。そんな日にこのような傑物に巡り合えるとは何たる吉日であろう。

 彼をスカウトできれば、自分の業績が上がることは間違いなし。どんな手を使ってでも事務所に引き入れるのだと、懐から名刺を取り出した。

 金髪の美丈夫に近づく女に舌打ちや怨念が飛んでくるが、それらを無視して彼女は誰よりも輝く男に話しかける。

 

「すみません。ちょっと、よろしいですか?

 私は櫻井(さくらい)(けい)と言いまして、今日デビューするアイドルバンドのプロデューサーをしている者です。

 単刀直入に用件を言いますと、アイドルに興味ありませんか? 冗談抜きで貴方ならスターになると──」

「興味がない」

 

 (おぞ)ましく冷酷な声音に周囲の温度が急激に低下した。

 その上で酩酊させるような蠱惑な響きに女たちは一瞬意識を飛ばす。それを間近で聞き受けた女は立ちふらめくも、何とか踏みとどまった。

 しかし、黄金の双眸に射抜かれると、小さく悲鳴を上げて涙を浮かべる。

 

「プロデューサーであるならば、私のような男にかまけている時間など無駄だろう。即座に自分が担当するアイドルの面倒でも見たらどうかね」

「で、ですが」

「くどい。去れと言っているのが理解できないのか?」

「ひ! 失礼しました」

 

 黄金の美丈夫、小笠原純心は逃げるように去る女の姿に嘆息する。

 自分に近づく度胸は買うが、然程優秀には見えない。

 そもそも、VIP席に座る人間を勧誘するなど場違いにも程があろう。不幸中の幸い、隣で座るはずだった紗夜がいなくて良かったと安堵した。

 日菜も苦労しそうだと一瞬思ったが、あれは苦労すら愉しむ性質であったと思い直した。

 ライブが始まり、幾つかのバンドが演奏をした後、純心が見下ろしていたステージに五人の少女たちが現れる。

 満員一万の観客を前に可愛らしい衣装に身を包んで登場した少女たち。その一人に純心は自分がよく知る日菜を見つけた。

 

 数百メートルは離れていたが、アイドル衣装を着た日菜を見た瞬間、純心は紗夜に着せたいと素直に思った。

 

「みなさ─んっ! はじめまして─っ! 私達、『Pastel*Palettes』です!」

 

 ボーカルの丸山彩が軽く自己紹介こなし、早速演奏を始める。

 

「─ますは一曲聞いてくださいっ! 『しゅわりん☆どり~みん』!」

 

 曲が流れて、正確に整った歌声(・・・・・・・)が会場に響く。

 愛らしい容姿に聞き心地の良い演奏。観客の反応は上々だった。

 会場の空気は和気藹々と高揚している。

 ただし、眼下の演奏を睥睨する黄金の男は別だった。

 

(口パク……。楽器の演奏ですら全てしているフリとは、茶番だな)

 

 純心は始まってすぐ、Pastel*Palettesの演奏が彼女たちによるものではなく、音声のみで行われることに気付く。

 特にベースとキーボードが酷い。流れている音とコードが全く異なっている。間近で見れば純心でなくても気づけるほどだ。ベースは女優だというが、演技すらできないとは役者の名が聞いて呆れる。

 ボーカルは声を出していないものの、口の動きは合っていた。ドラムとギターは寸止めだが正確な動きをしている。むしろ普通に演奏した方が楽なくらいだろう。

 誰の意向かは知らぬが、虚構の音楽を彼女たちに演じさせていた。

 

(なるほど。日菜が紗夜を招待しなかったわけだな)

 

 ステージの日菜は笑っている。

 けれどそれは、暇つぶしでもしているような軽い笑みだ。

 純心は氷川姉妹をずっと見てきた。

 紗夜の後を追う日菜。紗夜にとっては追い越される恐怖でしかなかったが、日菜にとっては姉と同じ輝きを得るための大事な儀式である。

 しかし、これでは同じ輝きにはなれない。偽りの音では本物にはなれないのだ。

 ライブに招待する以前に、日菜は自分からバンドデビューするとも言わなかったそうだ。偶然、紗夜が此度のライブ広告を見つけて本人に確認するまで何も言わなかった。

 

 見せたくなかったのだろう。

 

 今はかつてよりも真摯に音楽へ没頭する姉に、偽物の音楽など。

 純心はこれを仕組んだものに別に激怒もせず、何かしらの意向があるのだろうと理解した。日菜も本当にやりたくなければこの瞬間にも放り出すだろう。

 

 

 だが、それがどうした?

 

 

 よく謀った。

 事情など知らん。

 見苦しい言い訳など愚劣。

 万死とは言わぬ。

 されど──文句の一つくらいは当然だ。

 

「興醒めだ」

 

 呟きは地獄から這い出るような振動。圧力は音より伝播した。

 

 刹那──、演奏が途絶える。

 

 突然訪れた静寂に演者や観客、裏手のスタッフは突然の事態に混乱していた。

 だが、これは好機と邪悪な笑みを純心は浮かべている。

 自分の圧力で虚構の音楽を奏でていた音響機器に障害を与えたなどと全く思わず、彼はこの状況を愉しんでいた。

 

なぜかは知らないが(・・・・・・・・・)音響トラブルが起こった。ならば、自力で演ずるしかあるまい)

 

 混乱の最中、ボーカルの丸山彩は歌おうとしていた。それに気づいた日菜とドラムも彼女に合わせようと準備している。

 過半数音が合わせれば、窮地の事態を乗り越えるやもしれない。むしろトラブルの中、演奏を続けようとしたことで評価されるだろう。

 だが、一向に始まらない演奏が仇となり周囲の観客たちも気づく。

 

 歌わ、ない?

 もしかして今までのって口パク?

 ていうか、演奏もしてなくない?

 演奏はどうした─?

 

「あ……あ………!」

 

 声を出そうとした彩だったが、異常事態と周囲からの視線。

 何より当人たちには気づいていない黄金の双眸(・・・・・)からのプレッシャーにより極度の緊張状態になって混乱していった。

 ここで真っ先に動いたのは芸歴が長かったベースの白鷺千聖である。

 彼女の行動があと少し遅れてたら、丸山彩は圧力に耐えきれず発狂して更なる混乱を招いてただろう。

 

 

「みなさん、ごめんなさい。機材のトラブルで、残念ですが演奏ができなくなってしまいました。

 私たちは、今後ともライブを行っていく予定なので、もしよろしければ遊びに来てくださいね。それでは、『Pastel*Palettes』でした!」

 

 そうやって、彼女たちはステージから去り、会場は観客たちの(どよ)めきで埋め尽くされる。

 

「呆気ない幕引きだな」

 

 もうここには用はないと、純心は立ち上がる。

 こうして、合同ライブは音響トラブルと1フロアで多数失神者が発見されたことにより中止になり、Pastel*Palettesは嘘吐きバンドとして世に晒された。

 ついで担当プロデューサーは泡を吹いて倒れた。

 




アニメの描写ではパスパレの初ライブは何処かのショッピングモールでしてましたが、今回はゲームに合わせて一万人のキャパでライブをしてもらいました。

アニメ3期中盤、チュチュが叩かれてましたが執筆の為、バンドストーリーを見返したらそれ以上の問題児が多い。
そんな子たちはチュチュも含めて、みんな愛されるようになりましたがね。


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Episode ─XXⅣ【獣と色彩②】

「やほー、獣殿」

 

「おや、卿が先着とは珍しいこともあるな」

 

「まぁ、偶にはね。家におねーちゃんいないし、お昼は暇だしね──」

 

 土曜日の昼前。とある料亭の個室にて純心と日菜は会合していた。

 傍から見れば男女のデート。彼らを少しでも知るものがいれば、密会、浮気という単語が浮かんでくるかもしれない。

 勿論、事実は異なる。否、密会という例えは間違いではないが、断じて恋人の妹にまで手を出した、姉の婚約者を掠め取る案件でない。

 紗夜も二人が自分がいないところで会っても、大して気にしなかった。

 尤も、彼女がこれが何を意味する会合なのかを知れば、良くて二度とするなと咎めるだろう。

 

「じゃあ、獣殿。いつもの早く頂戴っ!」

 

 キラキラとした目で見つめてくる日菜に純心は呆れた吐息を漏らす。

 

「そういう卿こそ、今回は持ってきたのだろう。それを出すのが先だ。普段は私ばかり提供して公平でもない。ゆえに多少の主導権くらいは掌握させてもらう」

 

「むぅ~。分かったよ~。はい、久しぶりの家で撮ったおねーちゃんの写真だよ!」

 

「確かに。では此方もライブで衣装を纏った紗夜の写真だ」

 

 二人は互いに紗夜の写真を交換すると、受け取った

 

「わぁああ! 本当におねーちゃんライブ衣装を着てる! 夜会のゴシックドレスちっくでるんっだよ☆」

 

「ふふ、相変わらずの顰め面だな。嫌々撮られた光景が目に浮かぶ」

 

 恍惚顔で受け取った写真を貪り見る日菜。純心も満足顔で眺めている。写真に写っている人物が見れば怒鳴り散らしてる光景だった。

 

 この始まりは純心が紗夜と付き合ってしばらくした頃。

 

 今より少し背が低かった純心が氷川家に訪問し、姉妹の両親が彼女らの当時より古い写真を見せたのが切っ掛けだった。

 食い入るように見てた純心に恥ずかしくなった紗夜がすぐに広げたアルバムを片付けたものの、後日、気を利かした日菜が幼い姉の写真を内緒で純心の下へ持ってきたのだ。

 曰く、「ずっとおねーちゃんを大事にするなら、全部知らないと駄目だよ」だそうだ。

 それから時折日菜は昔の写真や純心の目の届かない場所で撮影した写真を贈るようになり、代わりに純心も自分の方で撮影した紗夜の写真を日菜へ渡していた。

 最近は紗夜と日菜の関係がぎこちなかったこともあり、純心が一方的に送ることが殆どだが、日菜も何かと理由つけて強引に撮影した写真を御裾分けしている。

 なお、これらの写真に盗撮はないと一応説明しておくが、本人の承諾無しに肖像取引をしてる点においては黙することしかできない。

 どうみても変質的行為。

 妹だから恋人だから、顔がいいからと言って許されることではない。

 そんなことなどお構いなしに、二人は和気藹々と談笑をする。

 

「生で見たいなー。でも、行ったら怒られるし今度は変装しようかなー。ねぇ、獣殿て今のあたしが着れるような昔の服とかまだ持ってたりする?」

 

「母上に聞けばもしかすれば保存しているやもしれんが、その変装に使うのか?」

 

「うん。家にあるものだと如何しても一緒に住んでるから分かるし、新しく買っても見つかったら意味ないし、ライブ行く前に獣殿の家で着替えて行こうかなーてね」

 

「別に私は構わん」

 

「よし、決まり。どうせなら(かつら)でも被ろう」

 

 そうやって、内密にRoseliaのライブに行く算段をする日菜。

 結果は原作ゲーム、とある一コマ漫画参照だ。

 

「好きにすればいい。しかし、特別な日でもないのによく紗夜が写真を撮らせてくれたな。早く終わってほしいという顔が実に面白い」

 

「最近のおねーちゃんは優しいからね。これもRoseliaに入った影響かな」

 

「であろうな。巡り合わせに恵まれ、更に良い女になったよ」

 

「演奏も教科書ぽかったのがおねーちゃんぽくなってあたしは好きだな。前のぎぎぎって感じも嫌いじゃなかったけど。ほら、前のバンドのときはさ──」

 

 片や姉談義。片や恋人談義に花を咲かせる二人。

 人間、好きなものを語る時間は幸福である。それは常識外れのこの獣と天才にも当てはまることだった。

 写真の交換よりも、主な目的は紗夜の話をすることである。互いに暇があれば、 

 約三時間ほど紗夜の話題だけで二人が盛り上がっていると、純心の携帯が鳴る。

 着信ではなく、時間を忘れない為のアラームだ。

 

「時間だ。私はこれで失礼するよ」

 

「お仕事か。忙しそうだね」

 

 学業、経営業、家業の三つを行う純心は自由な時間は限られている。

 最近は紗夜が以前よりも増して音楽活動を熱心にしているので、空いている時間は個人経営に回していた。

 本業は学生。将来的には家業に専念する身分であるが、彼の手腕が優れているため、個人経営の業績は上がり続けていた。ここまで膨れ上がれば、正式に小笠原家の家業として組み込むことを考えても良いだろう。

 無論、伝統ある家柄なので風潮には拘るが、何も考えず金の生る木を刈り取ることは見過ごすことはしない。

 

「忙しいのは卿もであろう。戯れは続けているようではないか」

 

「うん。そうだね」

 

 純心が言った戯れと言うのは日菜が所属するアイドルバンド、Pastel*Palettesのことだ。

 他の人が聞けば一言あろう無礼な物言いだったが、日菜は特に気にした様子はない。そもそも、彼女自身、少しまでそのように軽視していた節がある。

 

「ちょっと前までは別にギターも弾けないし辞めても良かったんだけどね。でも、今はPastel*Palettesの子たちに興味が湧いたから、面白いんだ」

 

「ほぅ。卿が他人に興味が湧くなど珍しいな」

 

 天上天下唯我独尊。

 家族や例外的な純心を除けば、何処か周りを俯瞰しているようにも感じた彼女にしては珍しい反応だった。

 

「初めて見たからね。無駄かもしれないのに必死になる子。大抵は無駄だったり、自分には合わないと思ったらすぐ止めるのに、頑張るんだ」

 

「愚直だな」

 

「でも、るんと来るよね。獣殿的に言うなら愛しいかな」

 

「あぁ、愛しいとも。それは以前から変わってはいない」

 

「あはは! ライブの時は彩ちゃんを怖がらせたのによく言うね」

 

「別に彼女を怯えさせたつもりはない。結果、そうなっただけだ」

 

 初ライブで純心が彩に過剰な圧力をかけたことに日菜は気づていた。

 しかし、それで日菜は彼を責めることは一切しない。獅子へ周囲に気を遣えというほうが無駄な話だ。

 仮に純心がいなくても、あの状況では彩は歌えなかっただろう。

 

「だが──、そうだな。愛していることとは別に、評価は変えよう。

 丸山彩は立ち上がり続ける度胸があり、白鷺千聖も随分と泥臭いことをする。それは私好みではあるな」

 

 初ライブで評判が落ちたPastel*Palettesだったが、彼女がたちが参加するライブのチケットを雨の日に手売りし続ける姿で見られる目が変わった。

 単なるイメージを変える為のパフォーマンスだと揶揄する人間は少なくなかったが、激しい雨の中、必死な少女たちの姿に心を打たれた者もまた少なくなかった。

 

 純心にとって意外だったのが、白鷺千聖もその中にいたことだ。

 

 Pastel*Palettesが手売りでチケットを売ってる中、彼女は最初参加していなかった。

 そんなことは事務所勤めではないインディーズや地下アイドルやることだ。ゆえに自分たちでやる意味を持てなかったのだろう。

 ましてや彼女はパスパレの初ライブで自分の芸歴に泥が塗られたので、パスパレを脱退する算段をつけていたのは、日菜から聞いた話で想像できる。

 合理的な判断だ。

 落ち目のグループにいても時間の無駄だろう。精神論だけで何かを変えられるならば、世界はとっくに混沌を極めている。

 

 そんな女が突き動かされた。

 

 話を聞くに、原因は日菜と同じで彩の存在だろう。

 凡才の彼女だが、人を変え、惹きつけるカリスマ。前に進もうとする意志は持っているようだ。それは大衆を魅了するアイドルにおいて有効な武器になる。

 

「獣殿が愛してるの一言以外で済ませないなんて、そっちも珍しいね。それこそおねーちゃんが嫉妬しちゃいそう」

 

「嫉妬する紗夜は見たいが、ワザと言ったところでアレは伊達に私の女を何年もやっていない。こちらの意図を見透かされるのがおちだな」

 

 

 そうして、Pastel*Palettesの参加ライブは終わった。

 結果は及第点。

 本番は前回と違い生演奏で、彩は何度もミスを犯した。演奏技術も褒められたものでない。

 しかし、前回の不祥事での前評判。加えて脇で前回と同じく純心が圧力をかけた中、最後まで彼女はやり切った。

 栄光に満ちた再戦とは言い難いが、それでも明日へ進めるだけの成果は上げたのだった。

 

「──という訳で、無事Pastel*Palettesのライブは終わったぞ。日菜もこのままギターを続けるだろうな」

 

「そう──」

 

 純心の部屋で彼の話に素っ気無く返したのは、紗夜だった。

 自主練の成果をRoseliaと合同練習日前に純心へ確認してもらいに来た彼女は、ギターのチューニング中に純心からPastel*Palettesの話を聞いていた。

 実の妹が関わる話にも関わらず、紗夜の冷たい反応に純心はにやりと笑う。

 

「予想通りの反応だな。Pastel*Palettesの初ライブを聞いたときは慌て、雨日に手売りをしていたと聞いたときは日菜の風邪を予防させるためどうしたらいいか悩んでいた姉の顔とは思えんな」

 

「べ、別に日菜のことなんて心配してないわ!」

 

「その反応が見たかった私の女神(マイン・ゲッティン)

 

「くっ!」

 

 日菜に卑下を感じている紗夜だが、妹のことを心配する姉気質は昔から変わっていない。

 実際、Pastel*Palettesの話題は紗夜から純心へ今まで聞いてきたことだ。

 日菜に直接聞けばいいものの、素直ではない彼女は、妹と交流がある純心を通して、詳しい近況を聞き、その度に一人考えていた。

 こうやって妹のことを強く意識しているからこそ、彼女は妹より見劣りする自分を責め立てているのだ。

 だが、それも、最近は少しばかり軟化している。

 これもRoseliaでの活動が影響しているのだろう。

 

「あの子がギターを続けるなら、今度こそ同じもので勝とうと思ってただけよ。

 あの子がギターを止めても、私は私でやるのだから別に私には関係ない話だったけれど」

 

「なんであれ、心配ごとが一つ減ったことはいいことだ。沈着冷静な淑女だと周りから囁かれている卿だが、その実感情に振り回されやすい女だからな」

 

「む。悪かったわね、振り回されやすい女で」

 

「悪くはないとも。我々は機械でない。感情をむき出しで行動するほうがより人間らしいとも言える。そんな卿だからこそ、私は恋をしているのだ」

 

「それはどうも」

 

「そこは、私もあなたに恋をしている、と付け加えるところでは?」

 

「いやよ。勿体ない」

 

「減るものなのかそれは?」

 

「ふふ。ええ、減るものよ」

 

「そうか。では、別のものを要求しよう」

 

「?」

 

 予想外の言葉に首を傾げる紗夜。

 いきなり何を要求されるのだと不思議に思っていると、純心は彼らしく傲慢に、さも決定事項であるように告げる。

 

「今度開催される花咲川の文化祭に客人として参る。招待状の手配を任せたぞ」

 

 

 

 

 

●おまけ

 

【紗夜が衣装(衣装選択欄で『ステージ』のやつ)を着たRoseliaのライブを生で見た獣殿の反応】

 

(紗夜が着飾っているだと?)

 

 内心、小さな声だが体は正直で周辺に震度5の地震を発生させた。

 ライブハウスは耐震構造なので、演奏はそのまま続行。

 

(素晴らしい。誰が作ったかは知らぬが、見事紗夜を仕立てている)

 

 獣殿は満足した。

 ステージの上から遠目で彼の反応に気付いた紗夜もご満悦。

 

 後日、Roseliaに匿名で衣装の材料の為の大量の布や装飾品が届けられ、戸惑うメンバーを側に紗夜は頭を抱えた。

 



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Episode ─XXⅤ【獣と文化祭①】

 熱い。息苦しい。

 視界に広がるのは紅蓮の炎。耳に届くのは肉が焼ける音と断末魔。

 

「安心しろ。死にはしない」

 

 阿鼻叫喚。燃え盛る烈火の中、悠然に佇む人間はたった一人の女だった。

 

「慣れているのでな。どの程度焼けば人が死ぬのか把握している」

 

 誰も彼も苦悶に叫ぶ中、鉄のように冷たい声が響く。

 それは、炎と共に魂へ刻まれた呪詛だった。

 

「汚物は完全消毒したいとこだが、人一人処分するのも面倒なんでな。

 ゆえにこれは慈悲だと思え、劣等共。永遠に火傷で藻掻くがいい」

 

 鉄火の魔女。

 興味半分で近づくべき相手ではなかった。

 彼女の領域に立ち入るべきではなかった。

 彼女に仇なした者は一人も残らず燃やされた。殆どが再起不能になり、ライターの火を見ただけで恐慌するほどのトラウマを植え付けられた。

 警察にかけあっても、奇怪なことに何も話が通じない。

 一つの理由としては、人間一人が何も道具を使わず、死なない程度で毎回大勢に火傷を負わせることなど、漫画の話にしかないからだ。

 事実はどうであれ、これだけは覚えておくといい。

 

 花咲川女子学園には手を出すな。

 

 もしも、手を出した人間がいるとすれば、無知蒙昧の阿呆か立ち上がり際を誤った愚か者だろう。

 

 

「受付はこちらでよいか?」

「!? は、はい! チケットの確認を!」

 

 突然現れた黄金の髪の美丈夫に受付の花咲川学生は分りやすく興奮した。

 今日は花咲川女子学園の文化祭。

 二日に渡って開催され、初日は学内のみ。次の日は学内の人間も招き、本日はその二日目だ。

 外部からの来客者は予め生徒が家族や知り合いに配ったチケット、もしくは校門一歩手前で教師が厳選な審査の下譲渡しているチケットが必要である。

 前もって恋人である氷川紗夜から参加チケットを貰っていた小笠原(おがさはら)純心(あつみ)は連絡先を交換しようしてきた女子生徒たちの誘いをやんわりと断って、受付を済ませる。

 彼女の文化祭に彼氏が来る理由などあってないようなものだが、中学の頃は紗夜に余裕もなかったので純心は遠慮をしていた。

 今回は近頃紗夜の精神は比較的に安定していたので、あまり来てほしそうではなかったが、純心の強い要望でしぶしぶチケットを彼に渡したのである。

 早速、純心は出し物をしている紗夜のクラスへ向かおうとした。

 

「あの!?  そこのお兄さん、日本語分かります? よかったらタコ焼き食べません? ただでいいですよ! その後、私と遊びに─」

「はい邪魔ー。かっこいいお兄さんねぇねぇ、一緒に回らない?」

「Would you like to have sex where nobody is there?」

「今からイベントするんで是非見てください!」

 

 だが彼は興奮した女性たちに取り囲まれていた!

 花咲川学生や他校の生徒。明らかに学生の親である一般参加者。中には女教師と選り取り見取りである。

 彼女たちは皆飢えていた。イケメンに。花咲川学生の生徒たちは同性ばかりの学校生活を望んだとしても、それとは別に出会いも求めていた。

 そこに突如現れた金髪金眼長身、眉目秀麗で妖艶な伊達男。女性ホルモンという刃を抜かねば不作法であろう。

 こういうことは慣れている純心は上手く躱していくが、まるで無尽蔵のように次から別の女性が彼の下へ続々と訪れる始末。

 普通の男ならば困ったものだと狼狽するところだが、歩みを止めず純心は進み続けた。

 ゆえに、人の集まりはより悪化し、巨大なうねりが生まれたのである。

 

「ちょっと!? なに、こんなに大勢で固まってるんですか!? 散りなさい! いうことを聞かないと退去してもらいますよ!」

 

 そこで事態に気付いてやってきた『風紀』の二文字が刻まれた赤い腕章の生徒、風紀委員たちが人を散開させようとする。

 彼女たちは複数人でことにあたり、余程訓練されているのか迅速な対応ですぐに人だかりは消失した。

 すると金髪碧眼の風紀委員が渦中の中心たる純心を見つけると、今にも反吐を吐きそうな嫌な顔を浮かべた。

 

「何やっているんですか、あなた?」

「キルヒアイゼン嬢か。お勤めご苦労」

「え? そのかっこいい人、キルヒアイゼンの知り合い?」

 

 顔見知りのような純心とドイツからの留学生で風紀委員のベアトリス・ブリュンヒルト・フォン・キルヒアイゼンのやり取りに、他の風紀委員たちが反応する。

 

「もしかして、ご家族?」

「私の血族にこのような人いません」

「なら、恋人!?」

「こんな派手な人趣味じゃないです。イケメンでも素朴なほうが好みなんですよ。

 紗夜の。紗夜の恋人ですよ、この人は」

「え!? 氷川さんの!? 実在したんだ……」

「紹介に上がった、卿等の同僚である氷川紗夜と交際している小笠原純心だ。私の紗夜が世話になっている」

「やだ、マジイケメン」

「敬愛する委員長閣下で耐性がなければ、私たちも有象無象に加わってたわ」

「はい、おしゃべりはここまで」

 

 和気藹々としてきた風紀委員たちを止めるため、ベアトリスが大きく手を叩いた。

 

「私はこの人を人目を避けながら紗夜のところまで誘導しますので、あなた達は予定のルートで見回りしてください。後で合流します」

「わかった。そのままサボらないでよ」

「サボりませんよ」

 

 そんなやり取りをして風紀委員はベアトリスを残して、その場を離れた。

 

「ついてきてください。一応確認ですが、紗夜のクラスへ行く途中だったのでしょう?」

「無論だ。だが、案内されなくとも道は知っている」

「何言ってるんですか。あなた一人残したらまた人だかりが増えるでしょう。今日は男に飢えた女たちが多いのですし、あの状態でクラスに行ったら紗夜に迷惑かけますよ」

「ふむ、一理あるな。では、案内してもらおうか」

「はいはい、行きますよ。途中で先輩に見つからないといいんですけどねー」

 

 最後の言葉は小さくつぶやくように、ベアトリスは純心をまず人目がない場所へ誘導した。

 純心とベアトリスは知り合い程度の間柄だ。紗夜に会いに来た純心が来たところ、偶然ベアトリスも居合わせていたのが始まりである。

 こうやって二人っきりになることも今回が初めてだ。

 だが、ベアトリスは純心のことを、本人でも分からないが魂の底から『いけ好かない男』と思っているので、少し態度が雑だった。

 それでも、友人の恋人であり、他にも面倒な事情があるので、最低限の交流は仕方なしにする所存である。

 ベアトリスの案内で比較的に人通りが少ない場所を通り、二人は目的の場所へ向かった。

 誰かが純心を見ても、ベアトリスとしては不本意ではあるが、男女二人でいれば勝手にそういう関係だと思ってくれるので、先ほどのように声がかかることはなくなった。

 そうして、少し遠回りながらも、ベアトリスは紗夜のクラス、そして自分のクラスまで何事もなく純心を案内した。

 ちなみに彼女たちの出し物は『大正喫茶』。

 隣同士二つクラス合同の出し物で、片方の教室を着替えや調理のスタッフルーム。もう片方を接客する店内として利用している。

 

「あれ? キルヒアイゼンさん、委員会の仕事じゃなかったけ?」

 

 大正時代の袴を着て受付をしていた大人しそうな女生徒がベアトリスに呼び掛けた。

 

「ちょっと、野暮用で。松原さん紗夜──氷川さんは厨房ですか?」

「うん。そうだよ」

「まったく、せっかく見てくれ良いのに引きこもって。悪いですけど私は彼女を呼んでくるので、この人を店に案内してください」

「? うん、いいよ。えっと、一名様ご案内です」

 

 少し不思議そうにしていたが、松原と呼ばれた女性とは承諾し、特別純心に過剰反応することはなく、彼を店内に招いた。

 内装はいかにも和風テイストであり、団子や抹茶を提供しているようだ。

 純心が店内に入ると、他の客や接客していた生徒たちはどよめき、それに松原が多少驚きつつも彼女は空いていた席に彼を案内する。

 

「では、ここでお待ちください。ご注文は今なさいますか?」

「勿論だとも。表で宣伝していた茶と団子のセットを頼む」

「はい、わかりました」

 

 松原は丁寧にお辞儀した後、別の人間に注文を伝え、本来の持ち場である受付へ戻っていた。かなり手慣れた接客だったので、彼女はきっと接客業のバイト経験があるのだと純心は感心する。

 純心が少し待っていると、受付とは反対の入り口から、袴を穿いた紗夜が、ややベアトリスに背中を押され気味で、純心が注文した品をお盆に載せてやって来た。

 

「美しいぞ、紗夜」

「開口一番にそれ?」

 

 見慣れぬ袴姿に純心が褒め称えると、紗夜は真っ赤にして不満そうな声を出すが、まんざらでもなさそうである。

 

「甘っ! はい、ごちそうさま~。私はこれで失礼しますので、後はよろしくやっちゃって下さい」

 

 無事、二人を引き合わせたのを見届けたベアトリスは自分の持ち場へ戻ることにした。

 

「ご苦労。後日、謝礼を渡そう」

「キルヒアイゼンさん、ありがとうございます」

 

 掌を振って去るベアトリスを見送ると、純心は紗夜に微笑みかける。

 

「さて、どれほどこの店に貢献すれば紗夜を一日中指名できるのだ?」

「この店はそんな店じゃないわ。そもそも、統率の為(とキルヒアイゼンさんに言いくるめられて)みんな袴を穿いているけど、私は裏方よ」

「そうか。それなら他の男が紗夜の雅な姿を眺めていると嫉妬する心配もないな」

「あなたは嫉妬よりも自慢してるじゃない。……、そろそろ戻るわ」

「おや、つれないな」

「皆さんのご好意であなたと話しているけど、私はそもそも仕事中なのよ?

 だいたい、来るのが早いわ。クラスの出し物の後は委員会の仕事で一緒に回れるのは夕方頃だって伝えたはずよ」

「無論、覚えてるとも。だが、紗夜の働きぶりも見たくてな」

「もう、仕方ない人」

 

 団子より甘い空間に微笑ましそうな顔や、甘ったるそうな顔。美男美女に片方を嫉妬する顔。紗夜の知らない一面を知った彼女クラスメイトたちは意外そうな顔と様々だった。

 そんな空気が次の瞬間、一変する。

 

「ふえぇ! こ、困ります!」

 

 受付で悲鳴が聞こえた。

 見ると純心を店内に案内していた松原が二人の異性に絡まれていた。

 

「いいじゃん、仕事終わってからでいいからさ」

「終わったら友達と回る約束してるんです! だから無理です!」

「おっと、意外と強気。でも、その友達も一緒でいいからさ!」

「あなた達、いい加減にしなさい! 人を呼ぶわよ!」

 

 まだ、引き下がらない男に対し別の女生徒から叱責が飛んできた。

 しかし、その人物はナンパ男たちを更に興奮させる。

 

「お前は、白鷺千聖じゃん!?」

「ワンフォウ! 有名人じゃん!」

「だから、なんだと言うの? 早く花音から離れなさい」

「ええ、俺ちゃんファンなのにそんな態度していいのかな? SNSで炎上しちゃうよ? 最近入ったのアイドルバンドのようにさ」

「されたくなかったら、千聖ちゃんも~お茶しよう」

「っ、最低ね」

「──」

 

 最早、見過ごせぬと紗夜が動く。

 あういう輩が入ってこれないように注意をしていたが、学生の保護者でも不貞の輩はいるし、検問を掻い潜って虫は侵入するものだ。

 心地よかった心は一瞬で冷め切り、目障りな●●共を駆逐する為、紗夜は入口に向かう。

 

「待て」

 

 だが、その紗夜を純心が止める。

 

「! なぜ止め──」

「てめぇら、なに人のだちにつば付けてんだ、ぶち殺すぞ!」

 

 彼女の言葉は猛烈な怒声にかき消された。

 そこには松原たちに絡んでいた不良よりヤバそうな男たちがいた。

 

「ケイくん! ルイくん!」

 

 だが、松原の安心しきった声を聴くと、どうやら知り合いのようである。

 

「お前たち。我が姉とその友人に良からぬことをしてみろ。深淵の闇に落とすぞ」

「なに小難しいこと言ってんだよ。ぶち殺せばいいんだよ。ぶち殺せば」

 

 何故か首を痛めてるのか横顔スタイルで気怠そうな男に最初に叫んだ白髪のチンピラ。

 二人はかなり威圧的であり、暴力的存在感。松原たちを絡んでいた男たちはすっかり畏縮していた。

 一触即発の殺伐とした空気。今にも白髪の男が男たちに殴り掛かりそうだったので、彼らの登場に一瞬動きが止まった紗夜が再起動しようする。

 だが、その前にまたも別の人物が現れた。

 

「もう駄目ですよ、刑士郎。類も。喧嘩をしたら花音姉さんや周りに迷惑ですよ」

 

 その少女はどこまでも眩しかった。

 剣呑な二人の男が闇ならば、彼女は光である。どこまでも清浄で慈悲深い笑みを浮かべながら二人の男を宥める。

 彼女の言葉に毒気を抜かれたのか、威圧的な空気が薄れていった。

 

「お前はこんな時でもなに、寝ぼけたこと抜かしているんだ」

「ふん。お前にはクラウディアの大らかさが相変わらず理解できんようだな」

「あん? なんだよ、類? お前なめてんのか?」

「浅はかな男だ。勉学はできても素行の悪さは相変わらずだな」

「殺す」

「待って! ケイくんとルイくんが喧嘩したら駄目だよ!」

 

 睨み出す二人に割って出る松原。

 そこに、何やら気まずそうな白鷺千聖が声をかけてきた。

 

「……その、お取込み中悪いけど、さっきの二人逃げたわよ」

『!?』

「どうやら、争う必要はなかったようです。アーメン」

 

 愕然とする男二人に、クラウディアと呼ばれた少女は祈るように手を重ねる。

 

「と、とにかく、何もなくて良かったね。ケイくん、ルイくん、ありがとう」

 

 微妙な空気が漂う中、しどろもどろであるも松原が二人に礼を言った。

 すると、白髪の男がつまらなそうな顔を浮かべ、大男は誇らしげに微笑む。

 

「別に何もしてねぇよ」

「礼はいらない、姉さんを助けるのは当然だ」

「えへへ。あっ、千聖ちゃん、紹介するね。白い髪の男の子が一つ下の幼馴染の真河月(まがつき)刑士郎(けいしろう)くん。大きい男の子が私の弟のルイくんだよ」

「どうも…………」

「松原(るい)です。いつも姉がお世話になってます(また奴の方が先に紹介されている)」

「そう……弟に幼馴染」

「こっちのクラウディアちゃんも一つ下の幼馴染だよ」

「クラウディア・イェルザレムです。どうぞ、お見知りおきを」

「ええ、よろしく」

 

 クラウディアの微笑みに対し、千聖も微笑みで返す。

 

「あと、もう一人──あれ? 咲耶(さくや)ちゃんは?」

「ここです、花音姉さま」

 

 と、松原の脇からひょこりと小柄で可憐な少女が現れた。

 少女の登場に刑士郎と紹介された男は機嫌が悪そうに顔を歪める。

 

「おい、咲耶。どこに行っていた、一人だとあぶねぇだろうが」

「花摘み。野暮ですよ、兄さま」

「お、おう」

 

 咲耶と呼ばれた少女はしたたかに躱し、千聖に笑いかけた。

 

「ご紹介にあずかりました真河月咲耶です。花音姉さまより二つ下の幼馴染で、そちらにいる真河月刑士郎の『義理の』妹です」

「ご丁寧にどうも。よろしくね」

「あと少しで私たちの時間も終わるから、一緒に回ろう」

 

 そこまで一部始終を見ていた紗夜はほっと安心したように息をついた。

 

「途中から呆気にとられたけど、もう大丈夫そうね」

「ご苦労だな」

 

 彼女を労う純心に紗夜は不思議そうに首を傾げた。

 

「何もしてないわよ?」

「発端の輩が逃亡した途端、携帯で連絡を取っていたではないか。相手は大方、キルヒアイゼン嬢辺りか」

「目ざといわね。まぁ、そうよ。あの二人はキルヒアイゼンさんが捕獲したわ。

 妙なことがあったけど、問題ないようだし今度こそ私は戻るわね。純心くんはどうするの?」

「頼んだ品を堪能したら適当に時間を潰す。ここに居座っても迷惑だろう。安心しろ、目立った行動はしない」

 

 あと少し時間が過ぎたら、紗夜は紀委員の仕事に入る。

 そこで先刻のようにその気がなくとも人を集めれば、彼女に迷惑がかかるのは自明の理だ。

 彼の行動で他人に迷惑が掛かっても、『我が道ゆえに是非もなし。運が悪かったな』と切り捨てるが、恋人に迷惑が掛かるならば流石の彼も自重するのだった。

 

 Roseliaのキーボード、白金燐子もこのクラスに在籍してるのを聞いていたので、純心も挨拶くらいはするつもりだったが、見かけないなら次の機会に持ち越しである。

 

「そうしてくれると助かるわ。終わったら、一緒に回りましょうね」

 




実はKKK、ソフト買ったのにすぐVita壊れたから、調べた情報しか知らんのだ。
Switchで出ないかなー。


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