【完結】輝けケアキュア 〜紫陽花の季節〜 (主(ぬし))
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いつか彼が紫陽花になるまで 1話

タイトルなどを考えてくださった詩雨さん、オファニムさん、アライズさん。ツイッターにて、この小説のアイデアを褒めて、続きを期待してくれたファムさん。その他、応援してくださった方々に、感謝。やっぱりTSっていいね!


 半年前。

 平和だった日常は、突如として現れた化け物たちによって破壊された。人々の夢や希望のエネルギーを食らう化け物、『フザケンナー』。そして、それらを束ねる邪悪な魔王。

 

『夢とは、原動力。すなわち“あらゆるコトの実現へ至る力”だ』

 

 影しか現さぬ魔王が星々を見上げるように恍惚として呟いた。人間という特異な種族は、歴史上に築いてきた何もかもを、まず夢を描くことから始めた。“空を飛びたい”という夢を描いて、空を飛んだ。“他の星を見てみたい”と夢を描いて、宇宙に飛び出した。たった数百年の間に実現させた驚くべき偉業の全ては、夢のチカラが源だった。夢とは、生きるチカラであり、何かを成し遂げる力だった。では、幾星霜もの人間からその力を吸収し尽くせば───何が出来るだろうか? きっと、何でも出来るに違いない。魔王はそう考えたのだ。

 夢を抜き取られた犠牲者は無気力に苛まれ、立ち直ることは奇跡でも起きない限り不可能だった。彼らの猛威に対し、対抗手段のない人々は為す術なく脅威に晒され、社会には不安が蔓延しようとしていた。

 

 

 

『ケアキュア、プリティチェンジ!』

 

 

 

 そんな中、無辜の人々を護るために颯爽と立ち上がった少女たちがいた。

 伝説の女神の力をその身に宿した、年端も行かぬ少女たち。

 その名を『ケアキュア』。

 

 輝くドレスに身を包む、ケア・アストレア、ケア・イシュタル、ケア・エオス、ケア・バウト。最初はケア・アストレアとケア・イシュタルの二人だけだったケアキュアは、戦いを経ながら新たな仲間を見つけ、3人となり、4人となった。4人はそれぞれ性格でも攻撃スタイルでも違った特色を持ち、多種多様な形態と戦術を持つフザケンナーに対して勇敢に奮戦した。一歩一歩、苦戦しながらも勝利を掴んでいくその姿は、人々に少しずつ希望を与えた。

 しかし、中盤になって登場した魔王の右腕たる幹部『ゲキヤック』には手も足も出なかった。ワイヤーのように細い肉体と、キツネのような細面の男は、ケアキュアたちの果敢な攻撃にも眉一つ動じることがなかった。ケア・アストレアの苦し紛れの一撃が不意を打たなければ、間違いなく彼女たちはその戦いで敗れていただろう。なぜなら、有効打を受けたゲキヤックはなおも高笑いを途切らせず、実験動物を見るような目を彼女たちに向けていたのだから。

 初めての敗戦に臍を噛むケアキュアたちを前に、彼女たちをサポートする小動物の姿をした妖精が悔しげに言う。

 

『伝説では、ケアキュアは5人揃って初めて“奇跡の魔法”が使えるんだぱる~……』

 

 伝説によると、ケアキュアは5人が集結しなければ完成ではないという。現状ではあと一人足りないのだ。まだ見ぬ運命の仲間が、どこかで誘われるのを待っているはず。彼女さえ仲間になってくれれば、勝機はある。

 だが、妖精がいくら飛び回っても、ケアキュアたちが探し回っても、適正がある少女はどこにも見つからない。彼女たちは、魔王を倒すため、仲間を求めながら、フザケンナーの脅威と戦っていた。全ては、人々の夢と希望を護るために。

 

 

 

 3ヶ月前。

 事態は急変した。人々の夢を貪っていたフザケンナーにとどめを刺そうと振り下ろしたケア・アストレアの拳を、どこからともなく現れた華奢な掌がいとも簡単に受け止め、フザケンナーを助けたのだ。渾身のパンチを呆気なく封じられたケア・アストレアは、謎の手の持ち主を確かめようと柳のような腕に視線を走らせ、さらに驚愕した。それは少女で、その姿は自分たちケアキュアにそっくりだったからだ。

 物陰に潜む紫陽花のような紫のドレスが、中断された必殺技の風圧にはためく。同じ暗紫色のツインテールと大きな瞳はまるで刃のように鋭く、ギリギリと引き絞られた瞳孔は攻撃的な内面を隠すことなく表面化している。触れたら指先に血が滲みそうな切れ長の瞳と艷やかな唇が冷たく嘲笑う。

 

『夢?希望? キャハハハ! そんなもの、くっだらな~い!』

 

 ケアキュアたちと根底で通ずる姿と力を持ったその少女は、しかし、ケアキュアたちの信じるもの、護りたいもの、それら全てを否定する正反対の存在だった。そして悔しいことに、否定しきれるだけの強大な実力を伴っていた。暗紫色の少女は、自らをルキナと名乗った。

 

『どんなに頑張ったって、報われることなんかない』

 

 ルキナは夢や希望を燃やす人々をせせら笑い、心を絶望に傾けては、落ち込む様子を眺めて楽しんでいた。ルキナの企みを防ごうとケアキュアたちは幾度となく挑むも、彼女には勝てなかった。ケアキュアの力は、そのまま想いの力と比例している。何かを信じる。誰かを想う。そんな気持ちが強ければ強いほど、その力は強くなる。その方程式に則れば、ルキナの“全てを否定する想い”は想像を超えて強かった。ケアキュア4人が束になってかかっても、ルキナと互角。追い返すだけで手一杯だった。

 

『キャハハハハ! 邪魔してやる! 夢なんか、希望なんか、ぜんぶぶっ壊してやるんだから! キャハハハハ……』

 

 優越感に口角を釣り上げ、甲高い嘲笑を辺りに響かせながら、ルキナはまたもや高空へ飛び退っていく。ケアキュアたちは地に伏しながら、何度めかわからない引き分けの悔しさに涙した。

 

 

 

 一週間前。

 それでも、彼女たちの闘志と戦意は押し潰されはしなかった。苦しい時、膝を屈しそうになった時、人々の応援する声が耳に届き、背骨を通って頭の芯を熱し、限界以上のパワーを与えてくれた。そうして、彼女たちはこれまで以上に輝きを増していった。

 “己に何が出来るのか”

 “何を護りたいのか”。

 ケアキュアとなることを選んだ自らの意思を見つめ直し、己の有り様を定義し、大事な人たちとの交流を深め、仲間たちとの絆をより密接に高めていった。ケアキュアとなってから身につけた女神の力に頼りがちだった戦法を見直し、自分が今まで蓄積してきた武芸と融合させ、より自身に相応しい地に足の着いた戦い方へと昇華させた。そうして強くなっていく仲間の姿に触発され、一人ひとりが競うように洗練されていった。自分たちの弱点について忌憚のない意見を交わし、それを無理に消そうとするのではなく、弱みを強みへと変え、どうしても生まれる隙は互いに補えるように練習した。

 

 

 半日前。

 そうして努力を重ね、少しずつだが確実に強くなっていく直向きな姿は、街頭テレビに大きく映し出されるようになり、道行く人々の応援に結びついていった。『ケアキュア、再びフザケンナーと戦闘』の速報が流れた途端、慌ただしかった人々の歩みが一斉に止まり、応援の波がメイン交差点を揺らした。頑張れ、ケアキュア、と。

 

 ───そんな中、とある痩せた少年が、ぼんやりとそれを見上げた。ビルディングの外壁に備え付けられた巨大な液晶画面では、今も人々の希望を守ろうと歯を食い縛って戦うケアキュアたちのキラキラした姿が踊る。熱に侵されたように周囲が興奮まじりのエールを送る中、一人冷淡な様子の少年はボソリと呟く。

 

『……くだらない。どんなに頑張ったって、報われることなんか絶対にないのに』

 

 存在感の希薄そうな少年は、周囲に気づかれることなく後退しながらビルとビルの隙間に姿を溶け込ませる。次の瞬間、質量を感じるほどの濃厚な紫光が迸り、ビルの合間を縫って空中へ矢のように跳躍すると、そこからさらに加速。大空を切り裂きながら高々と飛翔した。『キャハハハハ!』と全てを嘲る笑い声を曳きながら。

 それがルキナの本当の姿だった。家庭に恵まれず、友も得られず、本人の努力では到底変えられない不幸な環境に身を置き、夢も希望も持てぬまま生きてきた薄幸の少年。彼こそ、フザケンナーの幹部ゲキヤックによって生み出された、ケアキュアの対となる戦士、ルキナの正体だった。ケアキュアを障害と見なしたゲキヤックは、夢と希望を憎む少年に目をつけ、彼にケアキュアに匹敵する能力と姿を与えたのだった。

 ゲキヤックは、ルキナの戦いを高みから見物していた。ルキナも、自らが実験動物でしかないことを自覚していた。それどころか、きっとルキナとなることには何らかのリスクがあると踏んでいた。それでもよかった。他者の夢と希望を踏み躙ること。自分を見捨て、そ知らぬ顔で前に進んでいく社会を躓かせてやること。周囲の何もかもへの復讐がルキナの力の源だった。だからこそ、ケアキュアたちのキラキラした姿は、まさに火に油を注ぐように彼を苛立たせた。ケアキュアが正の光を煌めかせるほど、ルキナの悪の影は濃ゆさをましていった。

 そしてこの日も、新種のフザケンナーを討滅したばかりのケアキュアたちの眼前にクレーターを穿ち、満を持して登場したルキナは今回も甲高く嘲笑う。

 

『相変わらず4人しかいないのね。そんなんじゃあ、何時までたっても魔王さまには至れないわ。アンタたちのやってること、ぜ~んぶ無駄なのよ! くっだらな~い! キャハハハハ!』

 

 だが、ルキナはすぐに異変に気づいた。ケアキュアたちの様子が以前とまるで違っていたのだ。今までなら、彼女たちはルキナの軽薄な言い草に腹を立て、感情に振り回されて年齢そのままにこどもっぽく言い返してきたはずだった。それがどうだ。ルキナを見る彼女たちは、もはや悔しさも滲ませず、困惑の表情も見せず、ルキナに堂々と対峙してみせた。光を発する恒星のような双眸が眩しい。覚悟を決めたと言わんばかりの表情に思わず気圧されそうになる。奇妙なまでに静謐を湛えた雰囲気は、歴戦の戦士そのものだ。

 

“置いていかれた”。

 

 確証のない直感が、ルキナとなった少年の内なる劣等感を刺激した。ケアキュアたちは前に進み、成長したのだ。この素っ気ない社会と同じように、少年などには目もくれずに。そう思った途端、ルキナはこめかみに青筋を浮かべ、悪鬼のように唇からはみ出す八重歯をガリッと噛み締めた。ルキナとなれたこと、他者の生殺与奪の権利を握っていたこと、それらに覆い隠されていたコンプレックスが一気に全身に広がり、引け目や恥ずかしさが背筋をゾワゾワと支配した。

 

(そんなこと、認めてたまるか。オレのほうが強いんだ。強くなくてはならないんだ。夢も希望も、現実の厳しさの前には絶対に報われないんだ! そうでなくては、オレが不幸であることの理由がつかないじゃないか!!)

 

 ルキナの背中から憤怒のエネルギーが放出される。瞬間、亜音速に匹敵する踏み込みからの一撃がケアキュアたちに襲いかかる。けれども、彼女たちは一歩も怯まなかった。驚異的な動体視力は完璧にルキナの動作を看破していた。そのうえで回避を選ばないほどの余裕があった。

 突如として、ケアキュアたちのドレスが神々しい純白の煌めきを放つ。ルキナは後先考えずにその圧倒的な光量の中に踏み込んでいった。焦燥と怒りに我を忘れて、ルキナは眼前のケア・アストレアのシルエットに襲いかかった。今まで常に優位に立っていた彼女は、それが覆ることを想定していなかった。

 必殺技を纏った暗紫色の拳が、華奢な手のひらに受け止められるまで。

 

 

 

 

 

 

 そして、現在。

 

 夜、人気のない小さな公園。降りしきる大粒の雨に全身を打ち据えられながら、暗紫色の髪の少女は一人呆然と立ち尽くしていた。どこのメーカー製とも知れない男もののパーカーとジーンズはところどころが焼けてボロボロになり、破れた箇所から雪色の肌が覗いている。濡れた生地がぴったりとへばりつき、未熟だが女らしい少女の肉体の起伏を艶っぽく強調していた。変身はとうの昔に解除された。だから、装束はドレスではなく、普段着の安服に戻った。それなのに、肉体だけが、元の少年の姿に戻っていなかった。腹の底に冷えたものを感じながらゲキヤックを呼び出し、問い質した。ゲキヤックは底無しの邪悪な笑みで告げて、早々に踵を返した。

 

「無闇やたらに変身しすぎて、肉体が元の姿を忘れたのだろう。もともと、お前なんぞに扱える力ではなかったのだ。次に変身したら、この世から跡形もなく消えてしまうだろうよ。もっとも、もうお前に変身する力が残っているとは思えんがな。ははははは……」

 

 用済みと言わんばかりに早々に立ち去ったゲキヤックの残滓をしばし目で探した後、皮膚をひりつかせる敗北の痛みと絶望に、ルキナの姿のままの少年は微かな薄ら笑いを滲ませる。

 

「……くっだらな~い」

 

 それは、他ならない自分に向けた嘲笑だった。ルキナとなるリスクは承知していたはずだった。だけど、いざ直面してみると、こうしてにっちもさっちもいかなくなって右往左往している。この姿では家には帰られない。門前払いされてしまうだけだ。家では、人間らしい扱いを受けていなかった。実の両親のはずなのに、どこで狂ってしまったのか、息子には無頓着となってしまった。注いでくれていた愛情は何時の頃に尽きてしまったのだろう。ろくに食べるものも着るものも与えられず、理不尽に殴られる日々だった。しかし、そんな生き地獄でも、自立の出来ない少年にとっては帰る場所に違いなかった。それが失われるというのは、想像を超えて心に冷たく響いた。足元が崩れてしまった不安感に、ルキナは我知らず震えだしていた。

 

 

『ねえ、ルキナ。貴女にも、夢があるはず。そうでしょう?』

 

 

 不意に、つい先ほどケア・アストレアから降り注がれた優しげな声音が鼓膜に蘇った。

 ケアキュアたちは、土壇場になって新しい力を獲得した。『誰かの夢を護りたい』という崇高な願いが、彼女たちに女神と同等の力を与えたのだ。それぞれのカラーリングと意匠を保ったまま、個々のドレスはまるで花嫁のように優雅で絢爛なものへと進化し、女神の力は何倍にも、何十倍にも増していた。

 そんなケアキュアたちの新必殺技『ケアキュアフォース』の前に、さしものルキナも抗しきれず、白光の奔流に吹き飛ばされて地を転がった。いくら大地に爪を立てても、膝に力を入れようとしても、痛みに麻痺してしまった身体は言うことを聞いてくれない。ふー、ふー、と口端に泡を吹きながらなおも立ち上がろうとするルキナの目の前に、そっと手のひらが差し出された。そして、ルキナを打ち破った張本人たるケア・アストレアは先の言葉を投げかけたのだった。

 その瞬間、ルキナたる少年を奮い立たせたのは、感化されたヒトの情ではなく、悔しさのみだった。何不自由なく生きて、愛情をめいっぱい享受して、純粋に育てられたであろうケアキュアからの情けは、ノライヌにとってはたまらなく不愉快だった。ガバリと勢いよく起き上がったルキナはケア・アストレアの手を全身全霊をもって弾き、敵意を剥き出しにして叫んだ。

 

 

『お前なんかに───お前らなんかに、オレ(・・)の何がわかるんだ!!』

 

 

 驚きと失望に揺れるケアキュアたちの瞳を前に、理由のない居たたまれなさが這い上がってきて、ルキナは勢いのままに飛翔してその場を去った。だが、数キロを飛んだところで初秋の雨に襲われ、変身を維持する体力が失われ、かろうじて人気のない公園に着地したのだった。強制的に解除された変身は、もう二度と出来るものではないことが感覚でわかった。変身するためのエネルギーが、復讐心が、ポッキリと折られてしまっていた。

 必殺技の衝撃か、体調が悪化しているのか、激しい頭痛と耳鳴りがする。腕や足が凍結したように重く感じる。筋肉は異常に発熱しているのに、内臓は不快に冷たく、下腹部は石を飲み込んだように気怠い。ダメージを継承した衣服はところどころは擦り切れ、穴が空いている始末だ。浮浪者のように見すぼらしい。薄汚いノライヌそのものだ。

 

「……夢なんか、ない」

 

 くだらなかった。周囲ではなく、自分だけに向けた嘲りだった。自分に関する何もかもがそう思えた。今までやってきたことも、それどころか生きてきたことすらも、果てしなく滑稽なことに思えた。こんなに空っぽな自分など、存在しようがしていまいが、この世は何も変わることはない。誰も求めず、誰にも求められず、誰も愛さず、誰にも愛されず、誰も満たさず、誰にも満たされない。無為で、無意味で、無駄な人生だった。

 ただでさえ虚ろだった暗紫色の瞳から、なけなしの光が消え落ちていく。度重なる変身と、ケアキュアフォースの直撃のダメージによるものだろう。ゲキヤックによる闇の加護を失ったルキナの肉体は機能不全を起こし、立つことも儘ならぬほどに消耗し尽くしていた。暗い雨に打たれて、紫陽花が枯れ果てていく。もう、どうなったって構わない。ついに生命力すら手放し、最後のため息となって喉から吐き出される、その刹那、

 

 

「君、大丈夫かい?」

 

 

 優しげな男の声が、それをかろうじて堰き止めた。

 力なく目線だけで背後を見やれば、いかにも人の良さそうな、20歳そこそこの青年が気遣う表情を向けていた。まだ少年らしさが抜けきれていない爽やかな面立ちに、紅葉色のニットと紺色のジーンズというシンプルな装いの男だった。彼は、ルキナの様子が尋常でないことを見て取ると、荷物などお構いなしだというように、それまで大事そうに抱いていた四角い箱を捨てて駆け寄ってきた。自分が濡れることに躊躇うことなく傘を差し出して彼女を雨から覆う。そうしてルキナの青ざめた横顔を心配そうに間近から覗き込み、何事かに驚いた様子でハッとして動きを止めた。お互いの体臭まで嗅ぎ取れるような距離で、その頬がカッと赤くなった気がしたが、ルキナには視認することができなかった。初めて触れた他者からの無償の優しさに心を緩ませてしまったため、張り詰めていた神経が寸断され、気絶してしまったのだ。青年の慌てふためく声がしたかと思いきや、たくましい腕に抱きとめられる温かな感触が肩と背中を包み込み、やがて遠ざかっていった。




もうちょっとだけ続くんじゃ


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いつか彼が紫陽花になるまで 2話

狂犬のようだったTS娘が、だんだん心の澱が溶けて、恋する美少女になっていくのって、よくない?


 気がついたら、ルキナは青年の小さなアパートのベッドで眠っていた。きちんと整理されて清潔感はあるが、それを差し引いても狭くて古い部屋だった。薄い壁板の向こうからは、まだ激しく降りしきる雨音が聞こえてくる。半身を起こそうとしたが、肉体は鉛のように無反応だった。にぶい感覚を頼って自身の様子を調べてみると、ぼろぼろの服は脱がされ、代わりに青年のシャツを着せられているようだった。洗濯したばかりの洗剤の匂いが清々しい。気を失っている間に、温かいお湯に浸したタオルで身体を隅々まで拭かれたのだろう。全身が火照っていて、なのに風呂に入った後のようなさっぱりした清々しさも感じる。肘や膝の擦り傷は包帯や絆創膏で丁寧に処置されていた。血が巡り始めた頭でボンヤリと部屋を見回すと、青年はこちらを直視せず、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてそっぽを向いていた。直視できない理由があるようだった。なにか、見てはいけないものを仕方なく見てしまったかのような。その理由に、中身が少年であるルキナはすぐに思い至った。

 

「……ロリコン」

「ち、ちがっ!? だ、だって、濡れた服を脱がさなきゃ風邪ひいただろうし、だ、だいぶ汚れてたし、怪我もしてたしっ!? どうしても目で見なきゃ出来ないことだし、自分でやってもらおうにも君は目を覚ましてくれないし! ていうか、そもそも年の差がありすぎるし───ていうか、君、気がついたのかい!?」

 

 飛び上がってバタバタと否定し始めた青年の様子に、ルキナは口角に力を込めて意地の悪い笑みを形作ってみせた。それでも、青年のこちらを窺う目が気の毒そうに沈むのを見て、自分がどんな無様な様をしているのかは想像できた。きっと、同情と哀れみを誘うような悲壮な相貌をしているに違いなかった。そう考えると、自嘲の笑みだけはちゃんと浮かべることが出来た。青年の目はますます沈んだ。なぜ、そんなに悲しそうな顔をするのか。まるで自分のことのように。ルキナには到底理解が及ばなかったが、やがて訪れた疲労による冷たい眠気に疑問は押し流された。

 

 次に目が覚めても、ルキナは放り出されてはいなかった。彼女は相変わらず青年のベッドを占領して寝かされていた。てっきり愛想を尽かされて元の公園に捨てられると思っていたのに。半目を開けて青年の姿を探すと、彼はちょうどルキナの膝の包帯を取り替えようとしていた。彼女の白く肉付きのいい太ももの付け根、何も穿いていないむき出しのそこ(・・)を見ないように目線を天井で泳がせながら、わたわたと不器用な手付きで。

 

「……ロリコン」

「だあっ!? だ、だから違うって! 子どものくせに、な、なんてことを言うんだ! ていうか、起きたなら起きたって言ってくれよ!」

 

 青年の慌てふためく様子が滑稽だった。ルキナはくつくつと低く笑った。またやってやろうと思いながら、ルキナは再び眠気の波に身を晒した。今度の眠気は、不思議とそれほど冷たいとは思わなかった。

 青年は、なぜかルキナの面倒を見始めた。立ち上がることすら補助を必要とするルキナに付きっきりとなり、甲斐甲斐しく世話をし、介抱をした。ルキナは抵抗しなかった。「ノライヌを拾ったのなら、拾い主の好きにすればいい」。そんな捨て鉢の心境で、ルキナは無気力に青年の親切を受け入れた。それに、青年が作るお粥は、味は薄いが、また食ってもいいと思えるほどには美味かった。誰かの手料理は久しぶりだった。

 

 3日ほどして、ルキナがしばらく目を覚ましていられるほどに体力が回復すると、青年はルキナの素性を問い質すことはせず、逆にルキナの気を紛らわせるかのように自身の身の上を話し始めた。ルキナは、青年もまた、親の愛情を受けて不自由なく育てられた者だろうと勝手に思い込んでいた。だから、こうして他人に親切に出来るのだろうと。だが、青年は孤児だった。捨て子で両親を知らず、孤児院で育ち、里親を転々とし、自立してからは画家になる夢を追いかけて独学で絵を学びながら大成を目指しているという。

 青年は自分の生い立ちを、さも悔いなどないというように、楽しそうに言い聞かせた。意外な事実に、ルキナは目を見張ってあらためて部屋を見回した。整頓されているのは、質素にしなければ生きていけないからだった。青年が必死に働いてなんとか現在の生計を立てているに違いないことは、まだ子どものルキナにも察することが出来た。そこに、満足に動くことも出来ないノライヌを背負い込む余裕なんて、ないはずだ。

 だというのに、青年はそんな負担はおくびにも出さず、ルキナを楽しませようと自分の絵画を見せた。自信作から失敗作まで、包み隠さず、作品ごとのエピソードも添えて。特に花をモチーフにして描くことを青年は得意としているようだ。ルキナは芸術の醜美について目が肥えていないのでそれがどんなレベルなのか判断がつかなかったが、思わず「本物みたい」と声を漏らすほどに、青年の腕は巧かった。青年は、その一言だけでとても喜んだ。まるで、好きな女の子から容姿を褒めてもらえた少年のように、ウキウキして舞い上がっていた。ルキナはそんな青年の反応に首を傾げながら、油絵の具で丹念に描かれた紫陽花の絵をじっと見ていた。ろくに手入れされていない花壇の物陰で今にも消え入りそうなのに、ぐっと踏ん張って色鮮やかな花を咲かせる、健気な紫陽花。絵画全体がひどく濡れてしまっていて台無しになっているが、それでも描いた人間の優しさまで透かし見えるような、不思議と目が離せない魅力があった。青年は、そんなルキナの横顔を眺めて、満足そうに頷いた。

 

「それは、君を拾った日に完成したんだ」

 

 記憶を辿り、初めて会った時に青年がなにか四角い荷物を持っていたことを思い出す。ルキナを傘で覆う際に、水たまりに放り出していた。だから、こんなふうに台無しになったのだ。とてもキレイな絵なのに、自分のせいで。嫌味の一つでも言われるのかと予想し、なぜか「青年から嫌われるのはイヤだ」と我知らずぎゅっと唇を結んで身構えたルキナに対し、青年は正反対のことを告げた。

 

「きっと、運命だな。もっと素敵で美人な紫陽花に出会うための布石だったんだ。うん、そうに違いない。うん」

 

 青年は、やはり満足そうに頷いていたが、自分が口にしたことが存外こそばゆく、片手では足りないほど年齢の離れた少女に対して使うセリフではなかったことにハッと気がついて、とても照れくさそうにはにかんだ。ルキナといえば、学が足りず、そもそも中身が少年なので、青年の歯が浮くような遠回しの台詞についてはちっとも心に響かなかった。むしろ、青年に怒られなかったことへの安堵感で胸中はいっぱいになっていた。ルキナが青年の言葉の真意に察しがついていない様子に、青年は残念そうな、ホッとしたような、形容しがたい表情を滲ませた。

 

 さらに数日後、ふとルキナは夜中に覚醒し、重いまぶたを持ち上げてみた。ぼんやりと曖昧な視界に、硬い床で何度も寝返りを打ちながらも苦労して眠る青年が映り込んだ。自分のベッドを他人に明け渡したせいで、青年は腰の後ろをトントンと叩かなければいけなくなっていた。どうして、そこまで他人に尽くせるのか? 青年と自分は境遇的には似通っているはずなのに、生き様にこうも違いが生じてしまっているのは何故なのか? ルキナには理解できなかった。

 

 拾われて一週間もした頃、青年はルキナを自室の風呂に入れた。安アパートらしく極めて狭いが、よく掃除されてカビ臭さも無い。その代わり、そこらじゅうにアクリル絵の具と油絵の具のカケラが飛び散ってこびりついた、奇妙な色彩の風呂場だった。「ビー玉を敷いた金魚鉢みたい」。心に浮かんだままにそう比喩したルキナに、青年はポンと感心の手を叩いて「君はセンスがいいね」と褒めた。称賛に慣れていないルキナは、己の頬が思わず熱を帯びたことに驚き、それを青年に見られないようにそっぽを向いた。

 

「……ねえ、身体、洗ってよ」

「へ?……へぇえっ!?」

 

 幼い少年が照れ隠しをするような尖った口調で、ルキナはシャツを気怠げに脱いで一糸まとわぬ背中を青年に見せつける。色素の薄い肌は消えてしまいそうなほどに純白で、艷やかな髪が背中をはらりと撫でる様子は年齢を超えた人外の色気を匂い立たせていた。我知らず、青年はグビリと喉を上下させる。

 

「腕にまだ力が入らないの。洗ってよ。ロリコンじゃないんだから、平気でしょ」

「も、も、もちろん、違う。でで、でも、だからって年頃の女の子がそんな、だ、大体、今ちゃんと腕を動かせてたし、」

 

 背後でワタワタと慌てふためく青年を無視してプラスチックの風呂椅子に座ると、ルキナは無言のまま、正面の鏡越しに青年の真っ赤な顔をじろりと睨め上げた。教師を目指す青年はそれでも誘惑に負けず鉄の意志を示し、モゴモゴと口元をうごめかせて果敢に抵抗した。が、「ねえ、寒いんだけど」という小さくも鋭い抗議に諦観し、肉体が萎むような大きな溜め息を吐き出すと上下の裾を捲った。青年に肌を晒すことを、ルキナは恥ずかしいとは思わなかった。もともと、ケアキュアと戦う時以外、少女の姿で生活をしていたことがなかった彼女は、女としての性を自覚してはいなかったし、青年のことを年上の同性としか意識していなかった。

 

「誰かを洗うのなんか初めてなんだ。痛くしても怒らないでくれよ」

 

 肌を密着させるほど狭い風呂場に、大人びた低めの男の声が反響する。青年の声は角がなく優しい響きで、耳心地がよかった。青年は、成長途中の少女の繊細な肌を傷つけないように、とてもとても丁寧にルキナの身体を洗った。誰かに身体を洗ってもらうなんて、赤ん坊の頃以来に違いない。物心がついてからはきっと初めてだった。それに、さすが芸術家志望というべきか、青年の手付きは非常に器用だった。頭皮から髪先までシャンプーを馴染ませた指で丹念に梳かされ、背中や首筋、細い腕、手の指一本一本から指の股まで、ボディソープのたっぷりと染み込んだタオルでゆっくり優しく擦られる。ゾクゾクするくらいくすぐったいが、安心感を得られるほど温かくて、なにより想像していたより何倍も何十倍も気持ちがよかった。包み込まれるような快適さに、ルキナはやがてうつらうつらと頭を揺らし、ついに青年の胸に後ろ頭を預けて眠りに落ちた。青年はぎょっと驚いたが、ルキナの恍惚とした幸せそうな寝顔を見て、起こすことをやめた。「警戒心のなくなった拾われ犬みたいだな」。そう胸中に呟くと、自身の服がぐっしょりと濡れることも厭わず、洗うことを再開した。

 

「……なあ、起きてくれ。前は自分で洗ってくれないか」

 

 だが、背中を洗い終えていざ身体の前面を洗う時になると、頭を抱えて悩んだ。肩を揺らしても、未だ体力が回復していないルキナが目を覚ます気配は一向に表れなかったからだ。しばし常識と倫理感と戦った末、タオルで目隠しをして、特に気をつけ(・・・・・・)ねばならない(・・・・・・)箇所(・・)は極めて極めて慎重に洗うという苦渋の結論に落ち着き、震える手で洗い続けた。

 

「僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない……」

「───ん、ぁ、ぁっ……」

「……! 僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない……!!」

 

 寝息に交じる、敏感な部分を刺激されて滲む喘ぎ声。子どもから大人の女になろうとしている未成熟な少女特有の危うい魅力が、青年の理性をサンドバッグのように殴り倒そうとしていた。激しい誘惑の殴打に理性をダウンされないように、青年はお経を唱えるようにブツブツと己に暗示をかけ続けなければならなかった。紅色に上気した頬が青年の肩に擦り付けられ、青年の手の動きに合わせて薄く開いた唇から甘い吐息が漏れる。タオルがひときわ敏感な先端部を掠るにつれて、長いまつ毛がピクピクと震え、湯雫を弾く。時折、青年の指先が固くなった敏感な突起部を誤ってカリッと引っ掻いてしまうと、細木のように華奢な腰がくねくねとよじれ、形の良い細顎がくんっと跳ねて扇情的な首筋と鎖骨が濡れ光る。目隠しの隙間から覗くそれらから意識を切り離すため、青年は数十回もの悟りの境地を垣間見ることになった。

 目を覚ましたルキナは、自らが眠らされたベッドにもたれ掛かってゲッソリと疲弊している青年を見つけた。座禅など組んでみれば、そのまま即身仏にでもなってしまいそうだ。昇天寸前の様子に不思議そうに小首をかしげ、胸の片隅にほんのちょっぴり、罪悪感を覚えた。そして、他人に対して罪悪感を覚えた自分自身に驚いた。

 

「……ねえ、気持ちよかったから、明日もやって」

「ええっ!?」

 

 飛び上がって頭を抱える青年の様子に、ルキナは「キヒヒ」と白い歯を晒してほくそ笑んだ。罪の意識はほんのちょっぴり覚えたが、風呂の心地よさの方が勝った。それに、青年をからかうのは純粋に楽しかった。誰かをおちょくって笑うのは、本当に本当に久しぶりだった。親しい誰かと触れ合うことがほとんどなかったルキナにとって、青年とのやり取りは、冷えていた心を温めてくれるものだった。




 ケアキュアたちの名前、ケア・アストレアなどなどですが、実は僕の別のオリジナル作品との繋がりを示していたりします。『女神が人類を護るためにオーク軍勢の前に立ちはだかるも、実は全員、前世が歴戦の仮面ライダーだったので、「変身!」の掛け声とともに元の姿に戻ってオークをずたずたに蹴散らすお話。』という作品に登場する、元仮面ライダーの女神たちです。本作のケアキュアたちが活躍する世界は、実はこの別作品の世界の数千年後、という脳内設定があったりします。ニチアサヒーロータイム繋がりですね。だから、女神アストレアの必殺技がライダーパンチであったため、その女神の力を受け継いだケア・アストレアの必殺技もパンチだったりするのです。こういう設定をうまく伏線として取り入れられればもっと面白く出来たのかも。ううむ、精進が必要ですね。


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いつか彼が紫陽花になるまで 3話

 いつだっただろう。アパートに帰ってきた青年が、「ただいま」と声を投げかけてきた。いつもの底抜けな明るさとは一変して、まるでイタズラを働いた幼子が親の顔色を窺うような、おずおずとして小さな声だった。ルキナは、下目遣いになっていく青年の様子に訝しさを覚えながら、かと言って特に何も考えることもせず、「……おかえり」とぶっきらぼうに返した。
 たったそれだけなのに、青年は、それがこの上ない幸せなことのように微笑んだ。どうしてそんなに大袈裟な反応をするのか、その時のルキナにはわからなかった。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
 後になって、誰かと「ただいま」「おかえり」の会話を交わしたのがとてもとても久しぶりだったことに気がついた。そして、青年にとってはきっと初めての出来事だったのだろうと、察しがついた。
 そしてその日から、小さな「ただいま」とぶっきらぼうな「おかえり」は繰り返された。
ルキナがいなくなる、その日まで。


 また数日も経つと、ルキナの容態は安定して、手助けがなくとも一通りのことを一人で出来るようになった。すると青年は、早朝と夕方と深夜に出かけるようになった。中古のオンボロ自転車に乗って急いでどこかへ行って、しばらくしたらまた帰ってくる。新聞配達や、その他のバイトを掛け持ちしているらしかった。それでも仕事の合間を縫ってはルキナの様子を気にかけて一時的に帰ってくるし、夜に帰宅すれば炊事洗濯をしながらルキナの世話をして、絵のスケッチをいくつか描いたりしていた。一体いつ寝ているのか、ルキナは内心で首を傾げた。そして、どんな時でも、青年はニコニコと満面の笑みを携えていた。

 寝る前に、青年は古本屋で買ってきたらしい使い古しの参考書に何ごとか書き込んでいた。何をしているのか尋ねたルキナに、青年は「教師になるための勉強をしてるんだ」と説明した。

 

「美術教師をしながら、子どもたちに絵を描くことの楽しさを教えたい。自分の絵も描いて、コンクールに出展して、賞も獲りたい。そうして、僕自身が楽しんで絵を描く姿を見せて、子どもたちにまた絵を描くことの素晴らしさを伝えたい。美術教師、いいだろう? 僕にとってはこの上ない天職だと思うんだ」

 

 たしかに天職だと思った。だが、そこへ至るまでの道のりは険しい。今、青年がやっていることは控えめに言っても並大抵の努力ではない。おそろしく大変に違いないのに、はにかみながら夢を語る青年は、そんなことなど苦にも思っていないかのようだった。実際、青年にとっては本当に苦ではないのだろう。どんな時も、青年は心から楽しそうだった。誇らしげに、嬉しげに、「絶対に実現するんだ」と意気込む青年の顔を、ルキナは直視できなかった。夢を語る青年を疎ましく思ったからではない。そんな青年を疎ましいと(・・・・・)思わなくなった(・・・・・・・)自分自身を認めたくなかったからだった。

 少し前の自分なら、きっとどんな汚いことをしてでも青年の夢を挫けさせようと、性根の曲がった嫌がらせの一つや二つを実行していただろう。悔しがる青年を足蹴にして嘲笑っていただろう。しかし今は、とてもそんな気にはなれなかった。青年の悲しそうな顔を想像すると、それだけで胸が罪の意識で締め付けられた。誰に対してだって───自分に対してだって、どうなろうと罪の意識なんか芽生えなかったはずなのに。何故、己の心理がそんな反応をするのか、ルキナは理解できなかった。少年の性意識(ほんのう)が、自分の今の性(・・・)を自覚することにまだ抵抗を示していた。

 

 そんな自身の内面の変化から目を背けるように、ある日ついに、ルキナは青年に強い口調で問うた。

 

「どうして、私を匿う(・・)の?」

 

 青年が弾くように眼を見開いた。青年はあまりテレビを見ない。だけど、このご時世だ。ルキナは、自分の映像が街頭テレビで流されるのを何度も観た。ほとんど、ケアキュアたちを足蹴にして甲高く高笑いする映像だった。それを見上げる大衆の反応は、すべてルキナへの悪態だった。少年として街を歩いていた時、人々が唾棄するような口調でルキナの噂をしているのを何度も聴いた。人々を護る正義のケアキュアたちに対して、散々な嫌がらせや妨害をしてきたルキナの悪名は広く知れ渡っている。青年だって、彼女の容姿は知っているはずだ。だからこそ、青年は倒れたルキナを病院に連れて行かなかった。常識的にはそうすべきはずなのに、警察などに突き出したりもせず、それどころか常に薄手のカーテンを閉めて外からルキナの姿を見咎められないようにしていたのだ。ルキナに対し、当然尋ねるはずの名前を今まで問い質さなかったのは、彼女が“ルキナ”であることを知っていたからに違いない。そもそも、今までまったくテレビを見ようとしなかったのも、ルキナが映ることをわかっていたからかもしれない。明らかに、青年はルキナの正体に見当がついていて、世間から匿おうとしていた。ルキナも、当初からその疑問を脳裏に過ぎらせていた。「本当にロリコン野郎で、欲望を満たす目的のために誘拐されたのかもしれない」とも考えたが、自暴自棄になっていた彼女は「どうにでもなれ」とやさぐれていた。だが、青年の人柄に触れ、予想していた青年の目的が不明瞭になっていくに連れて、ルキナの混乱は増すばかりだった。汚れた欲望のままにメチャクチャにされていた方が、まだ納得ができていた。

 

「なんで、そんなに優しくするの? 私が誰なのか、ケアキュア(アイツら)に何をしてきたのか、アンタだってわかってるくせに」

 

 言ってしまって、知らず、汗ばんだ両の手がシーツをぎりと握り締めていた。剥き出しにしていた八重歯がキュッと閉じられた唇に覆われる。顔の皮一枚で冷静を装っても、ルキナの心中は今まで経験したことのない感情の渦でムチャクチャに波立っていた。親からの否定の言葉なんて聞き飽きた。殴られる痛みも平気になった。社会からの否定も慣れっこだ。“帰れ”だの、“消えてしまえ”だのはもう耳に染み付いた。否定したければすればいい。嫌いたければ嫌うがいい、と。───だが、目の前の青年からは否定されたくなかった。その矛盾がルキナの胸の内を冷たい竜巻となって荒らしていた。

 青年は、なんと言えばいいかと言葉を選ぶように逡巡していた。その間にも、ルキナの脳内では青年が何度も彼女を罵り、部屋から追い出す最悪の想像が再生されていた。見る間に顔色が蒼褪めていく。意識せず、ルキナは下唇を強く噛み締める。青年から否定される想像を浮かべる度に、背中は汗ばみ、腹底は冷え、今まで感じたこともない恐怖感が足先から這い上がってくる。地面が崩れていくような絶望感が体温を奪う。そんなことになれば、もうきっと立ち直れない。何故かはわからない。でも、本当にもう、彼からも見捨てられたら、これ以上生きたいとは思わないに違いない。正体のわからない恐怖感に、ルキナは初めて“怯え”を感じた。

 

「ええと、自分でも笑っちゃうような理由なんだけどね」

 

 そう前置きして、意を決した青年は何故か照れくさそうに頬を指先で掻く。やがてその口がゆっくりと開かれる。優しい彼は決して自分を追い出すことはしないと青年を信じる一方で、今までの自分の悪行が脳裏に蘇り、『都合のいいことを言うな』ともう一方の摩れた自分がせせら笑う。次に発せられる台詞を座して待つことに堪えきれず、ルキナは思わず腰を上げて青年の前から逃げ出しそうになり、

 

 

「君の絵を、描いてみたくなったんだ」

 

 

「……は、あ?」

 

 不意打ちとも言い難い、予想外に過ぎる回答に、ルキナは脱力してペタンとその場に座り込んだ。安心してポカンとしたルキナの表情を呆れだと早とちりした青年は「どう取り繕っても仕方ない」と苦笑しつつ後ろ頭を掻く。

 

「僕は教師を目指しているが、そもそも画家志望だ。芸術家の端くれさ。まだ若い君が知ってるかわからないけど、芸術家ってのは、まあ、言ってみれば“変人”だ。変わり者なんだ。こういう人種には世間のことはよくわからないし、あんまり興味もない。君の正体や、君の行いも、君が皆からどう思われているかも、僕は気にならない。ただ僕は、初めて君を目にした時、こう思ったんだ」

 

 言って、青年はルキナの長い前髪を指先でそっと搔き上げる。そこに顕わになった少女の美貌を、本当に美しいものを見つめる陶酔の表情で見つめる。

 

「“ああ、紫陽花のようなこの娘を描いてみたい”って」

「───っ」

 

 青年の瞳が放つ熱っぽい輝きが、急にその光度を増したように見えた。いや、実際は、その瞳に映り込むルキナ自身の顔の色合いが変わったのだ。真っ青から、真っ赤に。それを見てしまって、喉奥が勝手に「クッ」と変な音を立てて引き攣った。致命的な何かが自分の中にポッと点火(・・)された、そんな直感が働いた。ケアキュアたちとの戦いでは有利に働いてくれた直感が、今はたまらなく鬱陶しかった。訳も分からずにそわそわとした気恥ずかしさを感じて、ルキナはさっと逃げるように目を逸らす。

 

どうして、たった今、自分は目を逸らしたのだろう。

どうして、青年から求められることをこんなにも嬉しく思うのだろう。

どうして、「出て行け」と言われなかったことにこんなにも安心を覚えているんだろう。

自分が青年にとって必要だとわかったことで、どうしてこんなに満ち足りたような気持ちが膨らむのだろう。

どうして?どうして?どうして?

こんな気持ちは、こんな反応は、まるで───。

 

 

わけもわからず勝手に高鳴り始めた心臓の動悸を抑え込むように胸の前で腕を組み、尖らせた唇でなんとか答えを紡ぐ。

 

「……べつに、いいけど」

 

 ルキナのぶっきらぼうな答えに、青年は心の底からの笑みを浮かべて喜びを示した。「ああ、よかった。嫌われたらどうしようかと思ってた」。

 「それはこっちのセリフ」という声が胸の内から喉のすぐ下まで湧き上がってきて、それを抑え込むためにルキナは全身全霊の力を使わなければならなかった。腹の中でたくさんの蝶々が飛び回っているようなそわそわとした落ち着かなさから逃げるように、ルキナはガバリとその場に立ち上がると長髪を閃かせて風呂場へ歩みだした。

 

「お風呂、入ってくる、から」

「あ、ああ。わかった。変なこと言ってごめん」

 

 前髪を触る青年の指先から逃げるように風呂場へと踵を返す。青年は、そんなルキナの行動を誤解して謝罪する。変にたどたどしくなってしまった自分の台詞に、なにより、“気付かれなかった”とホッと安心した自分に、さらに恥ずかしさを覚える。これ以上青年に見つめられていたら、自分が自分でなくなってしまうという焦燥感があった。目には見えないけど確かにそこに横たわっている一線をもう少しで超えてしまいそうな予感がした。その線を踏み越えてしまったら、その線が何なのかを認識してしまったら、きっと自分はもう元に戻れなくなる。

 心のどこかでは、その線の正体も、その線を超える意味もすでに理解して、自己の性別(・・・・・)を自覚し始めている自分がいる。そんな自分自身を、この奇妙な下っ腹の火照りとともに洗い流さなくてはいけない。早急に、絶対に。

 ふと、青年が背後から付いてくる気配を察し、足を止めて背中越しにジロリと睨んだ。

 

「なに」

「なにって、いつも君がせがむように洗ってあげようかと……」

 

 青年に下心はなかった。あったとしても、欲望の獣は鋼の知性でなんとか封じ込めていた。ルキナの求めに応じて目隠しをして身体を洗っていただけで、悪気もなく、罪もない。むしろ被害者の側だ。だが、今のルキナは、なぜか青年と風呂に入るのを嫌だと思った。当然のように一緒に入ろうとしている青年に対し、今まで訪れなかった正体不明の苛立ちが眉根を機嫌悪そうにギュッと寄せさせた。青年に裸を見られたくないという羞恥心が、少女としての経験が欠如した思考回路を通って不快感へと変換され、そのまま青年へとぶつけられた。

 

「ロリコン。変態教師」

「ええっ!? そんな、理不尽な、それにまだ僕は教師になってもない───」

 

 ショックを受けて立ち止まった青年を脱衣所からぐいと押し退け、ルキナは扉をピシャリと締めた。まるで思春期の娘が父親と風呂に入ることを拒否するような一幕だった。ルキナの“裸を見られたくない”という意識の変化は、まさしく青年を異性として認識しているが故の年頃の少女として(・・・・・・・・)当たり前の反応だった。ルキナは、この日を境にして青年と風呂に入らなくなった。自分と青年が“異性”なのだと無意識の内に認識しての決定だった。

 

 

 ところで、その日の風呂は、ルキナにとって恍惚の癒やしの空間ではなく苦難の場となった。シャンプーの適切な量がわからず、闇雲にベチャベチャと塗りつけて乱暴に擦ったため、風呂場も髪も恐ろしく悲惨なことになった。自分自身で髪を洗うことがこんなに大変だとは思ってもいなかった。ガシガシと雑な扱いを受けた髪は、キューティクルの艷やかな輝きを失い、見るも無残なスチールウールと化してしまった。それを見た青年は、ルキナよりも深く残念がった。「なんてもったいないことを」と嘆くと、いつもより強気になってルキナの肩を掴み、髪は今後も自分に洗わせて欲しいと詰め寄った。不意に近づいてきた青年に赤らんだ頬を悟られないように顔を傾け、ルキナは渋々了承した。こんなに簡単に他人に弱みを見せてしまう自分自身の変化に、ルキナは内心で呆気にとられていた。気味が悪いともチラと思ったが、それでもやはり、本能は不快を感じていなかった。それどころか、この感覚は、この感情は、きっと───

 

 髪を洗ってもらうルキナの口元が八重歯を見せるほどに幸せそうに微笑んでいることは、青年も、ルキナ自身も、気づいていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───夢と、希望の力を、感じるぞ」

 

 虚ろで、情熱的な声音が、街の何処かで木霊した。屍衣(しい)の如き不気味な装束を風に垂らし、ゲキヤックは狂気の深みから沸き立つような凄絶な笑みを浮かべた……。




フランス語には「avoir des papillons dans le ventre」という表現がある。直訳すると「お腹の中に蝶々がいる」。その意味は、「恋が芽生える」である。


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いつか彼が紫陽花になるまで 4話

キュンキュンするようなTS小説が書きたい。


 さらに数日後。ルキナは、内面の不本意な著しい変化を除き、肉体はほとんど回復していた。以前は少年だったルキナからしてみれば、少女そのものの肉体はふにふにと柔らかくて手首など折れそうなほどに細く、いかにも頼りないものに感じられたが、それでも数日前の野垂れ死ぬ寸前に比べれば格段にマシになった。血色の良くなった頬はほのかにピンクに染まり、白肌はマシュマロのようにしっとりとして張りのある質感を湛えて、体力の復調を主張している。その様子を見て、青年は嬉しそうに頷いた。ルキナを(えが)く準備が整ったのだ。

 

 青年は穏やかな秋晴れの日を選んだ。窓辺から余計な物をすべて取り除き、丁寧にノリを効かせた真っ白なカーテンのみを背景に、ルキナを小さな椅子に腰掛けさせた。そうすると今度は、腹筋に力を込め、だらしのない猫背気味の背筋をピンと凛々しく伸ばすように指示をした。まるでマネキンをポージングするように、ピタリと足先までくっつけた脚を柳のようにさらりと斜めに流して長い脚を強調させると、青年の絵画雑誌で見た“モナリザ”のように身体の中心線を正面から少し斜めにさせ、最後に臍の下でそっと手を重ねさせた。青年のテキパキした注文に従ってポーズをとってみると、見た目の少女の姿によく似合うものとなっていた。ルキナはその姿勢に言いようのない恥ずかしさを覚えた。「このポーズのままだと本当に女になってしまったみたいだ」とムズムズした不安まで覚え始めて、焦ったルキナは体勢を変えようと身じろぎした。

 

「動いちゃダメ。じっとしているんだ」

 

 しかし、青年のいつにない鋭い声に制止され、思わず動きを止めた。ムッとして抗議の視線を送ろうと青年に目を向けた途端、キャンバス越しにこちらを見つめる真剣な目にギョッと気圧され、鋭い八重歯が唇の内側に引っ込んだ。

 青年は、まるで憤怒しているように目を据わらせ、時おり目尻と鼻にギュッと皺を寄せながら、ルキナの髪の毛一本のそよぎ(・・・)さえ見逃さまいとギラギラした眼差しをぶつけてきた。肉体の表面だけでなく、重く厚い花弁をこじ開けて内面までも如実に描き出そうとするかのようだ。鬼気迫るその様子に、「これが芸術家なのか」とルキナは驚いた。対象の美を、表面上だけではなく本質に至るまで吟味し、キャンパスに描き出そうとしている。その無遠慮ですらある目つきは普段の柔らかな雰囲気とは別人のように違って、どこか“男らしさ”すら感じさせた。

 

「……はい」

 

 渋々、というより条件反射のような返事をして、ルキナは再び佇まいを正した。ややもすれば「わかりました」と続けてしまいそうなほど、軽々しく抵抗できない迫力があった。一瞬で終わるはずの記念撮影のポーズを延々とさせられているような感覚に、ルキナは早くも疲れ果てそうになった。

 

 ……だが、しばらくすると、同じ姿勢を続けることにも慣れてきた。より正確に言えば───好きになっていた(・・・・・・・)

 涼し気な風になびく真っ白なカーテンが背をさわりとなぞる。羽根布団に包み込まれるような秋晴れの陽が暖かい。描画に没入した青年は一言も声を発さず、どちらがモデルかわからないほどに座ったまま、首と手だけを別の生き物であるかのように俊敏に踊らせている。

 

(なに、この感覚)

 

 しゅっと鉛筆がキャンバスをなぞるたび、胸の内側に指をねじ込まれるような言いようのないゾクッとした感覚が背筋を走った。甘美な痺れが耳と頬を紅潮させ、そして下半身の熱溜まりにストンと落ちていく。下っ腹の深いところがぐつぐつと熱かった。まるで、スプーンで底をかき混ぜられるカップココアになったみたいだった。身体の奥の奥までカツカツと音を立てて引っ掻き回されるような甘い快楽にクラクラとした目眩すら覚える。意識がぼんやりと遠のき、火照った肉体がとろかされてしまいそうな錯覚に朦朧とする。「もうやめて」と泣き出したいのに、「もっとして欲しい」と懇願する自分がそれを留める。いつの間にか、すでに抵抗など考えられないほどまでルキナは追い詰められていた。

 

(なにこれ。なにこれ。どうにか、なりそう)

 

 ルキナは描かれる(・・・・)という行為に溺れてしまいそうだった。気付くのが遅かった。描かれる(・・・・)とは支配される(・・・・・)と同義なのだ、と今になってわかった。その瞬間、自分という肉体も精神も、彼だけのモノにされてしまう。モデルになるということは、つまり、身体も心も他人に差し出し、自由にさせてしまうということなのだ。青年の絵画雑誌で見てきた肖像画のモデルたちも、みんな同じような感覚に溺れていたのだろうか。

 青年の視線と自分の視線が結び合い、(うしお)に流されるように惹き込まれていく。激しい奔流に呑まれ、あっぷあっぷと喘いでいるのに、ルキナはこの状況に熱中していた。青年という濁流が渦を巻いてルキナの華奢な心と体を翻弄する。遠慮もなく内側まで侵入され、覗きこまれ、指先で削るように引っかかれる。節くれだった力強い男の指が何かを探すような手付きでグリグリと内側をまさぐり、探し当てた部分を円を描くような仕草で刺激する。そのたびに、鐘を打つように頭の内側が痺れ、燃える血は逆流し、ジンジンとした昂ぶりが全身の末端まで広がる。それが不快なのかそうでないのか、判断する理性はとっくに押し流されてしまった。

 心と心が絡み、繋がり合い、まぐわっている感覚に押し包まれる。1秒1秒が永遠のようで、その無窮の感覚を青年と共有している気がした。呼吸までも同調しているような一体感が二人の間に流れている。寂しい者同士、お互いの孤独を慰め合っているのでは無い。断じて違う。お互いに求め合っている、お互いに高め合っている(・・・・・・・)という確信すら心の晴れ間に垣間見せられた。その果てに見える答えをルキナは無意識に激しく求めた。青年が自分をどう思っているのか知りたかった。青年にとって、自分の存在とは何なのか、溶け合い結合していく心を通じて、知りたくて仕方がなかった。こんな気持ちを抱くなんて、まるで、まるで、オレは、いや、私は(・・)───。

 

 

 

 

 

「───君は、モデルの才能もあるんだね」

「……へぁ……?」

 

 その一言を掛けられて、ルキナは背後で日が暮れかけていることにようやく気がついた。夢中になっていたのは青年でなかった。むしろ我を忘れて快楽にどっぷり浸かっていたのは自分の方だった。そのことに気づいて、ルキナは途端に顔を真っ赤に染めた。訳もわからず手足を振り乱してベッドに飛び込み、「疲れた」と言い放つとそのままシーツを頭からすっぽりと被って青年から隠れた。耳たぶが霜焼けでもしたようにカッカと熱い。顔が赤いのは夕日の反射だと都合よく勘違いしてもらえただろうか。先ほどまで、青年に描かれることにうっとりと陶酔していた自分を思い出し、さらに熱が増す。とてもではないが、今は顔を合わせられない。

 

「ご、ゴメン、疲れさせちゃったよね。つい描くことに没頭してしまった。普段は花や景色を描いているから、人物画の加減がわからなかったんだ。大丈夫かい?」

 

 ルキナのベッドダイブを誤解した青年が申し訳なさそうに頬を掻く。こちらの様子を心配そうに伺う視線をシーツ越しに感じる。その雰囲気はさっきまでの芸術家然としたものとは打って変わって優しげで険がない。本当に別人のようだ。どちらが青年の本性なのだろう。両方なのだろうか。

 

「……だいじょうぶ」

 

 呂律が回らない舌を懸命に動かす。全身の筋肉が茹で上がって弛緩してしまったようだ。こんな醜態を晒す自分が情けなくなり、チラチラと沸き起こった怒りが青年にも向けられていく。「もう二度とモデルなんてしてやるもんか」。そう言い放ってやるためにルキナはぐっと膝に力を入れて、

 

「でも、ほら。これを見てくれないか」

「……?」

 

 誇らしげな青年の声に、シーツから顔を覗かせた。

 

「こんなに、素敵な女の子を描けたよ」

 

 それが、たった今描かれたばかりなどということは、何かの冗談だとしか思えなかった。まだ鉛筆を使っただけの下書きのくせに、まるでフェルメールの“真珠の耳飾りの少女”とか、ルノワールの“少女イレーヌ”とか、そういう名作に通じるような目と心を釘付けにして離さない強烈な存在感を放っていた。愛おしそうにそっと微笑み、頬をほんのりと紅色に染めたその絵画は、一目見て、心のうちに“恋する少女”というタイトルを連想させた。それが自分をモデルにして描かれたものだと理解するのに、ルキナはたっぷり数分を要した。




更新がいつも遅くてごめんね。それもこれも、『起きたらマ・クベだったんだがジオンはもうダメかもしれない』が面白いのがイカンのや。面白すぎるでしょアレは。


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いつか彼が紫陽花になるまで 5話

TS娘は触れたら消えるほどに儚い存在であるべき(ぐるぐる目)


「……最近、姿を表さないね、ルキナ」

 

 雑多な人ごみの中、商業ビルの壁面に設置された街頭テレビを見上げて、りこがどこか寂しげにポツリと漏らした。春木りこ───ケアキュアとして戦う際はケア・イシュタルとなる───に(いざな)われ、私たち3人も指揮棒を振られたように同じ方を見やる。お昼のワイドショー番組で、大人たちが取り留めのない雑談をしていた。テロップには、『ルキナ死す!?』の大きな文字。中年の司会者が「小生意気な敵が消えてくれて、ケアキュアたちもそりゃあ喜んでることでしょう。ねえ?」と訳知り顔で視聴者に笑いかけ、コメンテーターやタレントたちが半笑いで頷いて同意している。でも、私たちはちっとも喜んでなんかいない。何も知らないくせに勝手なことを言わないでほしい。

 

「……本当に死んでしまったのでしょうか」

「んなわけないじゃん!あんなにずる賢くてしつこくて諦めの悪い奴が、まさか、死んじゃうなんて……」

 

 川藤 みのり───ケア・エオス───の囁くような言葉を、獅子髪さおり───ケア・バウト───が弾かれるように否定した。その口調は、憎々しげで、けれど寂しげな、複雑な感情が混ざっていた。ケアキュアのなかでもひときわ勝ち気でボーイッシュなさおりは、ルキナに対して強い感情を抱いていた。ルキナを強敵と認め、勝利するために誰よりも頑張っていただけに、ルキナが死んだことを認められないに違いなかった。

 

「……貴女はどう思いますか、はるのさん。最後に会話をした貴女は、本当にルキナが死んでしまったと思います?」

 

 みのりの問いかけに、私───春河はるの、ケア・アストレア───は目を伏せて言葉を失った。秋の冷たい風が首筋を撫でさり、風冷えに総身がブルリと震える。もうすっかり、秋の宵となったことを肌で実感する。ルキナと最後に戦ってから、一ヶ月以上が経とうとしていた。

 ルキナ。突然、自分たちケアキュアの前に出現し、事あるごとに苦しめられた、ケアキュアとそっくりな姿をした紫陽花(あじさい)色の少女。自他ともに認めるケアキュアの宿敵であり、新しいケアキュアフォーム『ウェディングモード』を手に入れるキッカケとなったライバル。夏いっぱいを、私たちはルキナとの戦いに費やした。ルキナは手強く、私たちは何度も膝を屈しそうになった。けれど、それでも何度となく立ち上がり、彼女を超えるために力を合わせ、努力を重ねた。そして───

 

 

『お前なんかに───お前らなんかに、オレの何がわかるんだ!!』

 

 

 希望を持つことも、夢見ることも出来なかった、悲しい子どもの叫びがその時そのままに鼓膜に蘇った。周囲の愛情を享受し、恵まれた環境で育ち、陽のあたる場所で生きてきた自分たちとは正反対の、言わば“影”のような同年代の少女。それがルキナの正体だったと知ったのは、今にも泣き出しそうな悲痛な表情を眼前で目の当たりにした、あの時だった。差し伸べた瞬間、激しい拒絶の言葉を伴って弾かれた自分の右手を見つめ、ポツリと心の内を正直に呟く。

 

「私は、ルキナに元気でいてほしいと思う。また会いたい、って思う」

「ちょ、ちょっと、はるの!それじゃあ、アイツがまた邪魔しにきてもいいって言うの!?」

「そ、そうですよ!ルキナのせいで悲しい目にあった人たちが何人いることか…!」

「あの娘が今までしてきたひどいこと、忘れちゃったの!?」

 

 友人たちが口々に声を荒げる。卑怯を常の手としたルキナに何度も苦い思いをさせられてきたからこそ、ルキナへの嫌悪感を簡単に払拭することはできない。普段は温厚で冷静なみのりまで詰め寄ってきて、はるのは思わずたじろいだ。そして、少し俯いて感情を整理すると、いつもの溌剌さとは無縁の口調でとつとつと応える。その目には、拒絶された痛みがいまだ残る右手が映り込んでいる。

 

「もちろん、忘れてなんかいないよ。ルキナのやったこと、ルキナからされたこと。それは全部消えることなんてない。でも、でもね?」

 

 胸中に渦巻く熱い感情に突き動かされ、さっと顔を上げる。銅色(あかがねいろ)の髪が陽光に煌めき、後光のような輝きを放つ。その慈愛に満ちた“女神”の双眸に、3人はハッとして息を呑んだ。

 

「でも、ルキナにだって、夢や希望を持ってほしいの。そのチャンスは、選択肢は、ルキナにだってある。誰かを想って、誰かの笑顔を望んで、誰かの夢を自分の夢のように願って。そうして、その人たちからの輝く力を受け取って、強くなって、前に進んでいく。ルキナにも、そうなってほしい。世界は、こんなにキレイなんだって、護る価値があるものなんだってことに気づいてほしい」

 

 その台詞に、りこ、さおり、みのりは心に響くものを感じて歩みをゆっくりと止めた。この温もりと勇気に溢れた言葉に手を引かれ、背中を押され、自分たちはケアキュアになることを選んだのだ。

 かつての自分たちだって、自身がそんな大それたことなどできるはずないと思っていた。先にケアキュアになった同年代の少女の背中を遠巻きに見ながら、「自分にはあんな大層な力なんてない」と脇役に逃げていた。でも、今は違う。最初にケアキュアとして戦っていたはるのに誘われ、“護られる者”から“護る者”へ変わることを決めた時を思い出し、自然と胸が熱くなった。大切な誰かのために。大切な人々の笑顔のために。大切な人の尊い夢を守るために。そう強く願うだけで、そして一歩踏み出すだけで、奇跡はその手の中にある。知らず、全員が等しく、新しく手に入れた『ウェディングモード』へと進化する指輪型のデバイスに指を触れていた。はるのが言っていることは、理想主義かもしれない。けれども、そんな理想を護るのも、体現するのも、きっとケアキュアの使命なのだ。

 

「それに、ルキナはたびたびゲキヤックと行動を共にしていたぱる。アイツにそそのかされたのかもしれないぱる」

 

 胸ポケットの内側からくぐもった声が助言する。ケアキュアのサポートをしてくれる妖精は、普段は姿を小さくしてそれぞれのポケットや鞄に待機していた。普段はニコニコと微笑んで可愛らしい口調なのに、ゲキヤックの話をするときは刺々しく突き放すようなものになる。それも仕方がないと納得するほど、ゲキヤックの言動は卑劣極まりないものだった。意地の悪い笑みと、冷たい霧のような声を思い出し、ブルリと背筋を怖気が走る。

 

「魔法の変身ブローチもないのに、普通の人間があんなに強い力を持てるはずがないぱる。きっと、ルキナは大事ななにか(・・・・・・)を削って無理やり変身してるぱる。本人が気付いているのかいないのかはわからないけど、どちらにしろ無事で済むわけがないぱる。そんな酷いことも、ゲキヤックなら平気でやりかねないぱる」

「それなら……ルキナも被害者ってことなのかな」

「そう、ですね」

「うん。それなら、助けてあげないと」

 

 少女たちがルキナへの感情を変化させつつ思い思いの考えを頭のなかで巡らせるなか、はるのは街頭テレビにもう一度目を転じた。ワイドショーの司会者は番組の時間制限を気にしているのか、ルキナの話題を早々に切り上げて次に進めようとしていた。『ルキナ死す』のテロップがあっさりとスライドし、次のテロップへ取って代わられる。世間の冷ややかさを見せつけられた気がして、はるのは不快げに顔を曇らせた。もしかしたら、ルキナは、こんな世の中こそを恨んでいたのかもしれない。世間の負の面に触れすぎて、打ちのめされて、絶望に染まってしまったのかも知れない。そこをゲキヤックに付け込まれたのかもしれない。それならば、知ってほしいと強く思う。この世界がどれほど温かくて、優しくて、希望に満ちて、夢を追いかけることが、追いかける人を応援することがどんなに素敵なことか、知ってほしいと思う。世界の悪い面を直視して、「それでも!」と立ち上がる輝きを己の中に見出してほしいと思う。そうすれば、ルキナも、きっと───

 

 ハッとして、はるのは物思いをピタリと止めた。そして思い出した。ケアキュアの伝説、『5人の戦士』を。魔王を倒すためにはケアキュアが5人集まらなければならない。だけど、どんなに探しても、4人までしか見つからなかった。そこに現れた、ケアキュア(・・・・)によく似た(・・・・・)ルキナ。

 

「……もしかして、5人目のケアキュアって……」

 

 はるのの小さな呟きは、人ごみの喧騒に吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。

 

 

 

 

それは、ルキナが消える(・・・・・・・)、一日前の出来事。




『起きたらマ・クベだったんだがジオンはもうダメかもしれない』が死ぬほど面白い。続きをくれ!!続きをくれえ!!マ改造大佐くっそカッコいい!!


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いつか彼が紫陽花になるまで 6話

文中に登場する植物の花言葉一覧
アイビー:永遠の愛
アカツメクサ:豊かなる愛
アサガオ:儚い恋
紫陽花(あじさい):冷酷・変化・耐え忍ぶ愛


「ご愁傷さま、まだ生きてるわよ」

 

 『ルキナ死す!?』のテロップが流れ去り、次の話題のテロップが画面下部にぴたりと固定されたところでルキナはテレビの電源を切った。こっちの気も知らないで、好き勝手言ってくれるものだ。リモコンを乱暴にベッドに放り投げ、その後を追うように自身の身体を投げ出す。くたびれたスプリングがギギッと踏ん張り、同年代の平均よりずっと軽い肢体を優しく受け止めた。

 ふぅ、と気だるげなため息をつき、ルキナは自らの右手を差し上げてじっと見つめる。

 

 

『ねえ、ルキナ。貴女にも、夢があるはず。そうでしょう?』

 

 

 その手には、ケア・アストレアが差し伸ばしてきた手を払い除けた痛みがいまだに生々しく残っていた。ショックを受けたアストレアの沈む表情を思い出し、チクリとしたトゲのような痛みがルキナの心に刺さった。ケアキュアたちと戦っていたのはほんの一か月ほど前のはずなのに、なんだか遠い昔のことのように感じる。不思議なことに、ルキナはその頃を懐かしいと思っていた。

 

「……夢なんて……」

 

 そんなもの、自分には無い。それは変わらない。虐げられ、軽んじられ、空虚(みじめ)な人生しか送ってこなかった自分は未来への希望を思い描く下地すら持たない。それに……他人の夢をさんざん踏みにじってきたのに、今さら自分が夢を持つなんて、そんな資格があるはずない。そんな都合のいいことが許されるはずがない。今まで、さんざん面白がって他人の夢を妨害してきた。ゲキヤックにケアキュアモドキ(・・・)として利用されたとはいえ、利用されることを望んだのは間違いなく自分の意志だ。自分もまた見当違いの復讐心でゲキヤックを利用したのだ。やさぐれて、己の不幸の八つ当たりを他人に押し付けたのは、他ならぬ自分だ。

 ルキナが足蹴にした彼彼女たちのなかには、きっと自分を匿ってくれた青年のような、純粋に夢を追い求める人たちが大勢いたはずだ。そう思うと、過去の自分の行いがとても腹立たしく思えた。見も知らぬ他人のことなんてどうでもいいと思っていたはずなのに、青年の姿と重ねると津波のような罪悪感が心に押し寄せてきて、恐ろしくて震えが止まらなくなる。青年が悲しむことは、自分が傷つくことのように───自分が傷つくこと以上に、たまらなく不愉快だった。許してはならないことだった。

 

「オレには夢なんてない」

 

 ベッドに横たわったまま、目線だけで部屋の隅に目をやる。壁の日陰に大事そうに立て掛けられた油彩画の数々に目を流し、その一つ一つを愛おしげに見つめる。アイビー、アカツメクサ、アサガオ、そして紫陽花(アジサイ)。青年の情熱の結晶たちが本物の花々のように咲き誇っている。描いているところを見たことがない作品も、じっと見ていると、真剣な表情でキャンバスに向き合う青年の姿をそこに幻視できた。額から汗が流れ落ちることも頬を油絵の具で汚すこともいとわず、ただ一心に筆先を動かしている。そのひたむきな青年の横顔に、胸がとくんと熱く切なく疼く。

 

「でも、叶ってほしい夢(・・・・・・・)なら、ある」

 

 叶えたい夢は持たない。けれど、実現して欲しい夢ならある。夢を叶えてほしい人がいる。幸せになってほしい、大切な人がいる。

 熱っぽく潤んだ瞳に、ベッドのすぐ目の前、まだイーゼルに置かれたままのキャンバスが写る。今朝方、3層目の色塗りを終えたばかりの人物画。青年が「綺麗だ」と言ってくれた絵。「本物より劣るけどね」と付け加えられた一言がとても誇らしくて、そのうっとりとするような柔らかい声がずっと鼓膜に残っていた。まるで丹念に化粧を施すような繊細な手付きが視界に蘇る。青年のそばにいると心が安らぐのに、絵を描く青年を見ていると心がざわめき、惹き込まれる。どうしてそうなるのか、ルキナにはもうほとんど察しがついていた。認めることをわずかに拒んでいるだけだった。それも、あと一歩だった。

 幻の青年がキャンバス越しに自分を見つめている。焦げてしまいそうなほどの強い視線が胸を熱くする。それほどの魅力を自分に見出してくれているのだと思うと喜びがチカチカと視野に溢れた。想像上の青年に触れようとそっと手を伸ばし、我知らずルキナの唇が震える。

 

「オレには───わたし(・・・)には───」

 

 と、次の瞬間。アパートの前で自転車が派手にひっくり返る音がしたかと思うが早いか、バーンと大きな音を立てて部屋の扉が開け放たれた。幻の青年の背後から本物の青年が勢いよく顔を出す。

 

「た、た、大変だ!」

「んひゃっ!?」

 

 絶妙なタイミングの悪さだった。仰天したルキナが猫のようにベッドの上で跳ね上がる。心臓が口から飛び出そうなほどの驚愕に思わず女の子のような悲鳴をあげてしまった。自分がなにを口走ろうとしていたのか理解したのだ。同時に、生まれつき回転が早く地頭のいい彼女は、先ほどまでの自分を客観的に捉えたら、まさに“恋する乙女”そのものだということにも一瞬で気が付いた。それらの羞恥が相まって、ルキナの頭は真っ白に塗りつぶされ、泣き笑いのような青年の表情を見てもまったく思考が働かなかった。

 

「聞いてくれ、聞いてくれよ!大変なんだ!」

「ちょ、ちょっと……!?」

 

 動転して何が何やらわからず目を白黒させるルキナに向かって、当の青年がドタドタと手足を振り乱しながら駆け寄る。そして勢いよくルキナの両肩を掴むと、出し抜けにぐっと顔を近づける。パーソナルエリアの“パ”の字もない無遠慮な近さに、ルキナの頬がイチゴのように紅潮する。

 

「さ、さっき高校の恩師から電話があって、有名美大の教授で公募展の審査員もしている方が、僕の作品に興味を持ってくれたって言うんだよ!『紫陽花』を気に入ってくれたんだって!すごく著名な方なんだけど、“出来るなら今すぐ作品を見てみたい”って言ってくれているんだそうだ!それで───」

 

 青年の慌てふためきようの理由は、彼に思いがけないチャンスが訪れたからだった。画家が大成するには様々な道筋があれど、オーソドックスなルートは有名美大を卒業することだ。そうでなければ美術公募展(コンクール)で良い評価を得るくらいだが、美大出身ではない無名の画家が日の目を見るには相当な才能がなければならない。公募展は数え切れないほど多くの作品が全国どころか海外からも出展されるからだ。当然、ハードルは恐ろしく高い。しかし、そこで事前に審査員の目に留まっていれば話は異なる。出展前からすでに審査員の目を引くとなれば、周囲からの評価も当然違ってくる。マイナーな画家にとっては夢のような話が舞い込んできたといえる。

 これらのことは、青年から現代画家の事情を世間話として聞かされていた普段のルキナになら理解できる話だった。彼女は物覚えがいいほうだった。だが、青年の胸板を押し返すことに必死になっている今の彼女はそれどころではなく、話の半分も耳に入らなかった。あと数センチで唇と唇が触れてしまうことにルキナは気付いているが、青年は気付いていないのだ。熱弁を振るう青年がぐんぐんと迫り、ルキナの背中が弓のように仰け反る。そのままベッドに押し倒すような形になるが、子どものように喜ぶ青年はやはりそれに気づかない。ルキナの背中がマットレスに深く食い込む。二人分の重みを背負ったスプリングがギシギシッとひときわ激しい音を立て、それがまるでセックスの最中の軋みを連想させて、ルキナの羞恥は限界まで高まる。元は思春期真っ只中の男子だったルキナの想像力は容易に暴走し、青年と自分がこのベッドでまぐわう(・・・・)様子を脳裏に浮かばせてしまった。

 

「ぁ、ぅ、」

 

 このまま行けば、どうなってしまうのだろう。自分はどんなこと(・・・・・)をされるのだろう。心臓がバックバックと胸郭内で狂ったように暴れまわる。下腹部の奥底がキューッと絞られるように疼く。慌てるルキナが白い手の甲に血管が浮かぶほど力を込めても、大きな胸板は戻るどころか押しつぶす勢いでのしかかって来る。アルバイトの途中だったのだろう。シャツは汗でわずかに湿り、肌は火照って、男らしい体臭がほのかに匂う。バイト中に恩師から連絡を受けて、嬉しくてたまらず、真っ先にルキナに報告しようとアパートに飛んで帰ってきたに違いない。いの一番に吉報を知らせたいと思ったのが、喜びを共有したいと願ったのが、友人たちではなく自分だったことに、ルキナは恥ずかしくて決して口には出せない嬉しさで胸がいっぱいになった。視界にキラキラと星が舞うようだった。

 

「ルキナ、君のおかげだ。君は運命を連れてきてくれた」

「な、なにを言って、」

 

 告白の台詞のようであることに青年の自覚はない。ルキナの視界いっぱいに青年の顔が迫る。感動で湖面のように潤んだ双眸に自分の顔が映り込んでいる。興奮して熱くなった吐息が鼻先に吹きかかる。青年の発するすべてに覆われて、世界が青年で覆われる。もう青年しか見えなくなる。世界(じぶん)が青年で塗りつぶされる。理性の自分が恐怖を覚えて拒絶を訴えるのに、下腹部(ほんのう)の自分は手放しで歓喜している。それは女性となったばかりのルキナにとって初めての経験だった。自分の肉体なのに自分の制御を離れていくことにルキナは激しく混乱した。股関節の中心部にもう一つ心臓ができたかのような鼓動を感じる。太ももの付け根に血流が集中し、充血していくのを感じる。それでいいの(・・・・・・)それがいいの(・・・・・・)と喘ぐような女の声が頭の中から囁いてくる。その声は自分そっくりだった。

 

(……えっ、これって、まさか、)

 

 意志とは関係なく、まだ毛も生え揃わないそこ(・・)が湿り気を帯びた。自分の身に起きたことを悟ったルキナの背筋がピクッとさざ波のように震え、全身に鳥肌が総毛立つ。理性の手綱を振りほどかんと蠢く女の肉体(からだ)が、未成熟なくせに一丁前に青年を受け入れる(・・・・・)準備を始めようとしているのだ。ルキナの意思など無視して、勝手に青年に身を任せようとしているのだ。ルキナはそれを察して、

 

「───だめ!離れて、離れてってば!今すぐ!!」

 

 腕だけでなく脚も総動員し、ルキナは渾身の力を振り絞って青年を自分から引き剥がした。そうしなければ越えてはいけない一線を飛び越えてしまうと恐れたからだった。バタバタと子どものように暴れたルキナに胸をしたたかに蹴られた青年がハッとして我に返る。

 

「ご、ごめん。あんまりにも嬉しくて、つい我を忘れてしまった」

「忘れすぎ!いきなり押し倒すな!ロリコン!」

「悪かった、悪かったよ」

 

 恥ずかしそうに後ろ頭をかいて青年が陳謝するも、頬は相変わらず緩んだままだ。その幸せが溢れるヒマワリのような表情を見ていると、今の自分が全力で抵抗しても青年にとっては痛くも痒くもないという事実への腹立たしさも薄らいだ。弱体化しているとは予想していたが、年頃の少女より筋力が低くなってしまっている。これでは、もしも(・・・)のときに抵抗できない。

 

(なんで、ここ(・・)がこんなことに)

 

 荒い息で上下する己の両肩を両手で抱きしめ、気を落ち着ける。湿ってしまった太ももの付け根をタオルで拭きたかった。モジモジと太ももの内側同士を擦り付けそうになるも、そんなことをすると青年に気付かれてしまうと悟って動きを留めた。

 

「脚、どうかした?痛むのかい?」

 

 のんびりと鈍感そうな顔をしているくせにやけに察しがいいのは観察眼が必須の芸術家故なのか。明るかった笑顔がすぐに心配そうなそれへと反転する。「違う」と口を開きかけ、気遣いで差し伸ばされた無骨な手のひらが太ももに向かって無遠慮かつ無造作に伸びてきて、思わず身構えて硬直してしまう。無垢な白地の素肌に、熱い体温でしっとりと汗ばんだ手のひらが吸い付く。瞬間、ゾワゾワッとした得も言われぬ未知の感覚が少女の幅広の骨盤を震わせて背骨から脳髄へと伝わり、ルキナの首の付根に経験したことのないほど激しい緊張が走った。怖気と歓喜、恐怖と快感。相反する本能的反応がへその奥で爆発し、体内を通った爆風がルキナの顔面から放出された。一瞬で赤面したルキナの顔からはボンッと音が聞こえそうなほどだった。

 

「なんでもない、なんでもないからっ!触っちゃだめ!」

 

 シャツの裾を破れんばかりに伸ばして太ももを隠す。最盛期のルキナであればこんな使い古して薄くなったシャツなんて力任せに扱えば軽く千切れたのに、今はなんとか引っ張るだけで精一杯だった。

 

「デリカシーがなかったね。ごめん」

 

 そんなルキナの赤ら顔に、色恋沙汰に鈍感な青年は気付かなかった。肉体の過剰な反応に気付かれなかったことにルキナは安堵し、そしてなぜかそのことに気づかなかった青年に腹がたった。気付いてほしくなかったけど、気付いてほしかった。矛盾する己の感情にルキナは振り回されていた。

 

「でも、君には本当に感謝しているんだよ。君は間違いなく運命を連れてきてくれた。いや、君が運命そのものだったんだ」

 

 自分の複雑な乙女心を持て余して混乱するルキナの前で、青年が迷うことなく一枚の絵画の前に歩む。そうして、もう完成まであと一歩というそこにある唯一の人物画(・・・)を丁寧にイーゼルから持ち上げると、キャンバスの規格と合致したダンボールに収納してさらに厚手の風呂敷で包み始めた。躊躇なくそれを選んだ青年にルキナはギョッとする。お偉い先生とやらに見せに行く作品は、てっきり他の花の絵のどれかだとばかり思っていたからだ。

 

「ね、ねえ!なんでそれ(・・)なの?もっと良い絵がそんなにたくさんあるのに」

 

 肉体の過剰反応のことも忘れて思わず飛び上がるほどルキナは驚いた。青年が得意とするのは自然画───特に花の絵だと聞かされていた。孤児だった経験からなのか、人物画はあまり描かないのだと苦笑混じりに言っていたことを思いだす。事実、青年の作品は、ルキナが知る限りすべて色とりどりの花々だった。それらはどこに出しても恥ずかしくない出来栄えだとルキナも胸を張って言えた。もしも貶す奴がいたら誰だろうと捻り潰してやると、いもしない“敵”を想像して勝手に熱り立つほどに。けれど、青年が自分の代表作にその人物画(・・・・・)を選ぶのはまったくの予想外だった。

 ルキナが身振りで指し示した壁際の絵画たちに、しかし青年は一瞥もくれなかった。陽だまりのような満ち足りた温もりを讃えた瞳でルキナを穏やかに見つめている。選んでくれるのは素直に嬉しいと思う。でも、相応しくない。青年のことを知りもしない誰かが彼の実力を推し量るのは腹立たしいが、そのことを抜きにしても、その絵(・・・)は青年の人生を左右するものとしては絶対に相応しくない。そんな価値は、ない。

 

「いいんだ。これが僕の自信作なんだ」

「だとしても、嫌われ者(・・・・)の絵なんか持っていってどうするの?そんなの見せても世間からは良い評価なんて貰えるわけない」

 

 言葉が尻すぼみになっていく。苛立ちではなく後悔が胸の内をじわじわと蝕む。ルキナは、今まで自分を置いてきぼりにする世の中への行き場のない怒りを持て余してばかりだった。だったのに、感じたことのない不快な感情が渦巻いて、全身から血の気が引いていく。青ざめた顔が俯いていく。自分の悪行が青年の足を引っ張ることがとても不愉快だった。誰に迷惑をかけようと関係ないと冷笑していた過去の自分が今になって滑稽極まりなく思えた。自分のせいで、叶ってほしい夢が叶わなくなってしまうなんて、想像もしていなかった。自分の幼稚さを突きつけてくる残酷な現実が大嫌いだった。それ以上に自分自身に嫌気が差した。

 

「私が……私がこんな力なんて望まなかったら、アンタは私に出会うことなかった。そうしたらあの紫陽花の絵はちゃんと完成してたのに。そっちの方がよっぽど評価されるのに。私のせいだ。私なんかが、ルキナなんかが生まれなかったら、アンタはちゃんと───」

「芸術家はね、嘘つきなんだ」

「……は?」

「芸術家は観賞者を騙すために様々な技法を凝らす。滲ませたり、重ね塗りしたり。見る者の目を誤魔化し、逸らし、誘導して、自分が魅せたい(・・・・)ものを見せる。それでも、ただ一点において、芸術家は絶対に嘘をつかない。どんな芸術家も、それだけは偽れない。誰に何を言われようと、それだけは全身全霊をかけて決して譲れない」

 

 予想だにしない返事に、悲哀に沈みかけていた思考が優しく掬い上げられる。キョトンとして顔を上げると、風呂敷で包み終わった一枚の絵画を大事そうに抱えた青年が慈父のように穏やかな微笑みを浮かべていた。

 

「自分が美しいと感じたものは、絶対に美しい」

 

 青年がルキナの頬をそっと指でなぞる。震える肌を伝って流れ落ちた一筋の雫を拭い、ルキナの葡萄色の瞳をまっすぐに見つめる。

 

「ルキナ、君は美しい」

 

 「だからこの絵でいいんだ」。そう締めくくって、青年はさらに微笑んだ。ルキナは、それ以上何も言うことができなかった。もう悲しくはなくなったからだった。この世の他の誰でもない青年が「美しい」と言ってくれたからだった。それだけで、もう充分だった。

 

「それじゃあ、行ってきます、ルキナ」

「うん、行ってらっしゃい」

 

 青年を送り出すルキナの表情は、これまでにないほど朗らかだった。気恥ずかしそうにささやかに手をふる仕草は、まさに年相応の少女そのものだった。送り出される青年もまた、今にもこぼれ溢れそうな満面の笑みに綻んでいた。

 晴れ渡る秋空の下、古い自転車がカシャカシャと音を立てて去っていく。小さくなっていくその背中を、ルキナは窓から身を乗り出して見つめていた。のぼせたように熱っぽく潤んだ瞳で、角を曲がって見えなくなるまでずっと追いかけていた。秋特有の冷たく乾いた風が頬を撫でる。音も、風も、匂いも、すべてが輝いて感じられた。

 

「ねえ、アストレア。私にも、夢が出来たよ」

 

 まるで夢うつつであるように、囁くように独りごちる。ルキナの心は、人生で味わったことがないほどの歓喜に満ちていた。心がふわふわとした浮遊感。胸が内側から押し広げられるような充溢感。踊りだしたくなるような心地よい満足感。これが“幸福ということ”なのだと直感で悟った。青年が視界にいてくれるだけで世界が明るく見える理由も、青年のことを思うだけでまるで何かが胸につっかえたように無性に息苦しくなる理由も、ようやく直視できた。自分の心と向き合う勇気が無限に湧いた。

 

「私は、あの人と、ずっと一緒にいたい」

 

 それが、ルキナが生まれて始めて抱いた、たった一つの願いだった。

 

 

 

 

 

 

「貴様からは素晴らしい夢と希望の力を感じるぞ。貴様を使えば、ケアキュアどもを一掃できよう。このゲキヤックの糧となることを光栄に思うがいい」

「だめだ、やめてくれ!僕はあの娘と、ルキナと───」

 

 

 

 

 

 

 叶うことのない、願いだった。




なんのために生まれて

なにをして生きるのか

答えられないなんて

そんなのはイヤだ。


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いつか彼女が紫陽花になるまで 7話

次回で最終回の予定です。TS主人公は落として上げてまた落とすのがいいよね(邪悪な微笑み)


「きゃああっ!」

「! エオス、大丈夫!?」

「ダメよ、バウト!」

「え───きゃああっ!?」

「イシュタル!うあっ!?」

 

 4人のケアキュアたちが地を揺らす衝撃に吹き飛ばされ、もんどり打って地面を転がった。イシュタルに引き倒されたアストレアの目と鼻の先を、鞭のようにしなった触手が間一髪のタイミングで過ぎ去って、その先にあった電信柱を真っ二つに叩き砕いた。引きちぎられた電線から紫電が走り、火花が転じた瓦礫の山で火の手が上がる。まるで戦争映画で観るような惨状だった。今の攻撃が直撃したらどうなっていたかと想像し、アストレアは戦慄にゴクリと息を呑んだ。

 

「ははははは!惨めだな、ケアキュアたちよ!」

 

 肌の至るところに血の滲む痛々しい姿の少女たちを、ワイヤーのようなシルエットの肢体に、白髪の細面を乗せた男が声高らかに嘲笑う。冷酷無比な幹部、ゲキヤックだ。

 

「素晴らしい、素晴らしいぞ、このフザケンナーは!このフザケンナーを使って、今日こそ私が貴様らに引導を渡してやる!私の勇姿をとくとご覧あれ、魔王さま!」

 

 あたかもミュージカル俳優を気取るかのように両腕を振り乱して悦に入る。口元に皮肉げな薄笑いを貼り付けていた常の冷静な態度が、今回ばかりは興奮に一変している。彼の余裕たっぷりな態度にはたしかな現実の裏打ちがあった。

 

「こ、こんなことって……!」

「信じられない、ウェディングフォームでも歯が立たないなんて!」

 

 ケアキュアたちはすでに強化必殺(ウェディング)フォームを展開していた。強敵のゲキヤックですら、このフォームを使えば倒すことは出来なくとも傷を負わせて退散させることが出来るほどだった。しかしこの時、状況は一変していた。ゲキヤックが配下とした強力な怪物(・・)のために。

 

「アストレア!あのフザケンナー、強すぎる!気を引き締めないと危ないわ!」

「う、うん。今までとは全然違う。一撃一撃がすごく速くて重い……!」

 

 イシュタルに肩を貸され、アストレアがよろめきながらも立ち上がる。純白のドレスは端々が無残に裂かれ、見事だったフレアスカートもサメに噛まれたようにごっそりと破り取られていた。アストレアを叱咤するイシュタルだったが、その片腕はブラリと力なく体側にぶら下がっている。二人とも、すでに足が震えるほどの疲労が蓄積されつつあった。

 歯を食いしばる彼女たちがキッと強い視線を向ける先では、植物の蔓を体表に隙間なく巻き付かせた巨大なモンスター、フザケンナーが地を揺らす呻き声を咆哮していた。ことごとく破壊された家屋を見下ろす巨体のところどころからは、寂しげに枯れた花弁が鮮血のように吹いている。ケアキュアの攻撃を受けたダメージの傷跡だったが、どう見ても致命傷には程遠かった。むしろ痛みによる激怒によって動きはより苛烈になり、地面に叩きつけた触手の余波だけでコンクリート壁が崩れ落ちる。周囲の人々が避難していなければ、被害は甚大なものになっていただろう。

 

「でもでも、ケアキュアフォースが効かないんじゃ、倒しようがないよぉ!」

「諦めちゃダメ!なにか方法を探さなくちゃ!」

 

 バウトの弱気な台詞をイシュタルがピシャリと嗜めるも、それは誰もが抱いていた真実だった。彼女たちの最強の切り札であるケアキュアフォースはすでに防がれてしまっていたのだ。苦戦し続けてきたあのルキナですら一撃のもとに打ち破った自慢の必殺技が効かない。こんなフザケンナーは初めてだった。これまで彼女たちが戦ってきた相手とは一線を画す耐久力と攻撃力。ゲキヤックの自信の根拠は、この史上最強のモンスターだった。ちょっとしたビルほどの大きさはありそうなフザケンナーを猛獣使いのように従えるゲキヤックの威容は、新たな力を得て自信をつけていたケアキュアたちを精神的に圧倒した。

 

「きっと、フザケンナーの核にされてしまったあの人(・・・)の夢の力が凄まじく強いんだぱる〜」

 

 ケアキュアの腰のポシェットから小動物のようなサポートマスコットが顔を出して声を震わせる。その台詞に導かれ、ケアキュアたちの視線が一斉にフザケンナーの一点を射す。

 

「あの男の人、とっても苦しんでるよ」

「なんてひどいことを……!」

 

 バウトとエオスが憐れみと義憤に可憐な表情を曇らせる。口を抑えて悲鳴を呑み込んだ彼女たちの見上げる先、フザケンナーの胸部に、見も知らぬ青年の頭部だけが浮き彫りのカメオブローチのように浮かんでいた。その顔はいかにも苦悶に歪み、充血した白目を剥き晒しにしている。魂から“夢の力”を吸い取られる苦痛に苛まれているのだ。人間を希望に向かって動かす原動力となる“夢”は人それぞれで強さが異なる。彼は稀に見るほどの大きな夢を抱き、不幸にもゲキヤックに見つかって利用されてしまったのだ。

 彼の目から一筋の涙が落ちる様を見て、アストレアが奥歯を噛みしめる。意識を消され、フザケンナーの核とされても、“夢の力”が削られていく喪失感に苦しんでいるのだ。このままでは彼は夢を失って無気力な廃人となってしまう。彼を助けてやれない悔しさにケアキュアたちの心が激しく痛み、怒気へと変換され、拳がギリギリと音を立てて握り締められる。

 

「ゲキヤック!許さない!」

 

 あの青年はどんな素晴らしい夢を思い描いていたのだろう。きっと、ゲキヤックに利用される直前まで、輝くような希望に満ち満ちていたに違いない。この優しげな顔を満面の笑顔で煌めかせ、前に前にと踊るような足取りで歩んでいたに違いない。それが、邪な存在の一方的な悪意によってどす黒く塗り潰されようとしている。そんなことは、大切な人々の夢と希望を護るケアキュアとして断じて許すわけにはいかない。

 正義の怒りに駆られて激昂するアストレアを、己の勝利を確信したままのゲキヤックがなじるように嘲笑う。

 

「はははは!許さないだと?だからどうするというのだ、小娘ども!無力な貴様らにいったい何が───」

 

 

 

 

「───ご、め……キ………ナ───………」

 

 

 

「むう?」

「みんな!今、あの人……」

「う、うん。たしかに、なにか喋ったわよね」

「誰かの、名前?」

 

 ギリシア彫像のように硬直していた青年の唇が震え、たどたどしくも確かな声を発したのだ。それは今までの経験では信じられないことだった。これまでフザケンナーにされた人々は、全員が自我を完全に塗り潰されてしまっていた。ケアキュアが倒して浄化しない限り、言葉を話すことも解すことも出来ないはずだった。

 

「す、すごいことだぱる。よほど意思が強靭か、強い未練がある人間なんだと思うぱる」

 

 マスコットも思わずポシェトから身を乗り出す。この青年には魂を削られても気にかける相手がいたのだろう。身近な人の呼びかけにも応えられなくなったフザケンナーしか見たことのないケアキュアたちは衝撃を覚えた。それは意外にもゲキヤックも同じであった。驚愕に目を丸くすると、「ほお、これはなんとも珍しい」といかにも芝居がかった口調で背後のフザケンナーを振り仰ぐ。様々な世界でフザケンナーを作り出してきたゲキヤックにしても、この青年と、彼の未練の先にいる者との絆は非常に強いものであった。

 だが、心底から彼らを驚かせたのは、次に青年が口にした少女の名前だった。

 

 

「───ごめん、ルキナ(・・・)───」

 

 

 それは、ケアキュアたちと因縁深い少女の名だった。彼女は、人々の夢と希望を守護するケアキュアと正反対の、他者の夢と希望を踏みにじることを至上の喜びとしていた。夢と希望に溢れていたはずの青年とはまったく相容れない、およそ青年とは対局に位置するような少女だった。数週間前にケアキュアたちに打倒されてから姿を見せなくなり、死んだものかとさえ思われていた。

 

「あの出来損ないのことか?なぜ?」

 

 とっくにどこかでのたれ死んだものだと思いこんでいたゲキヤックにも寝耳に水だった。青年の口から思わぬ名前が溢れたことにその場の全員が仰天して動きを止める。

 

「どうして、この人がルキナのことを」

 

 理解不能の事態にアストレアは思わず呆然として立ち尽くす。心優しき彼女は、ルキナを越えるべき壁(ライバル)であり、手を差し伸べて救うべき対象でもあると捉えていた。そして同時に……まだ誰にも明かしていない考えだったが、伝説の“5人目のケアキュア”は、もしかすると───。

 真実へと結実しかけた思考に集中していたアストレアの視界の片隅で紫陽花色の(・・・・・)ツインテール(・・・・・・)が靡いたのは、まさにその瞬間だった。

 

 

「なんでアンタが謝んのよ、ロリコン教師」

 

 

 久しぶりに耳にするいかにも高飛車な声音は、しかし、長距離を走破したかのような息苦しさに荒く掠んでいた。せわしなく上下する細肩からは、ぜいぜいと激しく収縮する肺が透けて見えるようだ。靴どころか靴下も履いていない裸足は、ガラス片を踏んだのか多量の血が滲んでいる。羽織った男物のシャツは汗と土にまみれ、シミ一つなかった白い頬は幾つもの擦り傷を帯びている。ここまで彼女が何度も転倒し、それでも立ち上がって必死の思いで駆けてきたことを如実に示していた。

 かつて自分たちを散々に苦しめた相手と同じとは思えないその弱体化した姿に───まるで恋人の危機に駆けつけてきた少女のような痛々しく健気な姿に───ケアキュアたちは茫然自失の状態に陥った。

 

「ルキナ、あなた……」

 

 唖然として二の句を告げないアストレアに、ルキナがチラと横目の一瞥を向けて応える。悲壮に張り詰め、うっすらと涙が滲んだ葡萄色の瞳。一瞬だけ視線が交差し、その一瞬だけで、ルキナの内面で渦巻く悶え苦しむほどの怒りと悲しみが手にとるようにわかった。そして、意識がないはずの青年がルキナの名を呼んだ理由も、青年とルキナの関係(きずな)も、わかった気がした。

 

「アンタ、運が悪すぎ。私を拾って、次はゲキヤックに見つかって。呪われてるんじゃないの?」

 

 強いて軽口を叩きながら、鋭い石つぶてやガラス片が散乱していることなどお構いなしに一歩また一歩と歩み出る。地面にルキナの鮮血が足跡となってはっきりと残り、彼女が痛みを忘れるほど追い詰められていることを伝えた。フザケンナーの前に仁王立ち、青年の変わり果てた姿を複数の感情がないまぜになった双眸で見つめる。

 

「ちょっとだけ待ってて。すぐにそこから出してあげる」

 

 誰も聴いたことのない、愛情に満ちた柔らかな声音だった。ケアキュアたちが驚いたのもつかの間、想い人を慈しむ女の瞳が一転し、厳しい戦士の眼力を放射する。ざっと両の脚で大地を強く踏みしめ、左手で右手首を握り、右腕をぐっと天に向かって突き上げる。それはケアキュアの変身の構えと瓜二つだった。彼女は、全盛期の力など残っていないだろうに、戦いを挑む気(・・・・・・)なのだ。到底無謀な戦いに違いないのに、彼女の背中からは臆した様子は微塵も見られない。

 

「なんだ、出来損ない。まだ生き恥を晒していたのか。恩知らずの小僧め」

 

 ゲキヤックが意地悪く鼻を鳴らして「やれやれ」とせせら笑う。すでに興味は失せたと言わんばかりの冷笑だった。“出来損ない”がルキナを指し示していることを文脈で理解し、ケアキュアたちの認識が改まる。ルキナはやはりゲキヤックに利用されていたのだ。

 

「私はお前に教えてやったな。“次に変身したらお前は跡形もなく消える”と。今でさえ、もう倒れそうなほど衰弱しているのだろう?それでも戦おうというのか?わずかに残った生命(いのち)を他人のために投げ出そうというのか?」

 

 ケアキュアたちが一斉に息を呑んだ。女神と契約したわけでもないルキナが“なにか”を削って力を得ていることは予想していたが、そこまで切羽詰まっているとまでは考えてもいなかった。敵視していた相手が───同年代の少女が取り返しのつかないリスクを背負っていたという重い事実に胸を塞がれて身じろぎすら出来なかった。

 ゲキヤックから変えようのない運命を突きつけられても、ルキナの表情に変化は皆無だった。むしろ(・・・)

 

「───キャハハハハハハ!!くっだらな~い!!」

 

 甲高い嘲笑が荒廃した周囲に響き渡る。それはケアキュアたちが嫌というほど耳にしたルキナの笑い声だった。まるで空き缶のなかで石が転がるような鼓膜を突く笑い声に、真隣にいたアストレアは思わず身を竦める。気が触れたのかと穿ち見て、それが無粋な勘ぐりだったことをすぐに悟る。

 ルキナの声も、顔も、たしかに歪んで笑っている。けれど、

 

 

 

「この人の夢に比べれば、私の命なんて、くっだらな~い!!」

 

 

 

 けれど、その葡萄色の眼差しは、壮絶な覚悟に燃えていた。

 

暗黒変身(ダークチェンジ)!!!」

 

 雄叫びとともに暗紫色の眩い閃光がルキナの総身を包み、かつての戦闘フォームを身に纏う。ぐいと涙を拭い払い、命の未練を振り払い、八重歯を剥いて腹底から咆哮する。

 

「絶対に助ける!命に変えても!絶対に!!」

 

 

 

 

 ルキナが消えるまで、あとわずか。




時は早く過ぎる

光る星は消える

だから君は行くんだ

微笑んで


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いつか彼が紫陽花になるまで 最終章8話

長くなってしまったので、最終回を半分に分けます。


 焼け落ちた家々から黒煙の柱が幾つも立ち昇っている。酸鼻を極める惨状を見下ろす厚い雲は昏い銀色を帯びて、周囲の全景から色彩を奪う。さながら、白黒映画のなかに迷い込んでしまったかのようだ。

 火の粉が散る瓦礫のなかに、フレームが捻じ曲がった自転車が転がっている。無残な姿と化したそれは、青年が中古ショップで買って以来、大切に使ってきた安物の自転車だった。

 唐突に、飴細工のように変形したその自転車のカゴから、風呂敷に包まれたA1サイズほどの紙箱が転がり落ちた。その拍子に風呂敷が解け、紙箱がその中身をほんの少しだけ晒す。小さく開いた隙間から、可憐な少女の姿が覗いた。頬をほんのりと桜色に染め、うっとりと瞳を潤ませる、恋する少女の絵画。

 

 その少女が、今、恋のために文字通り己の命を燃やしている。

 

 

 

最終回

そして紫陽花となった彼女

 

 

 

 

 

 

 道の傍らに乗り捨ててあったスポーツカーのボンネットに、突如として暗紫色のシルエットが深々と突っ込んだ。分厚いスチールが轟音とともに無残に凹む。衝撃を受け止めきれなかった前輪のタイヤが瞬く間にバーストして派手な花火のような音を弾かせた。

 

「ぐ、ぅうう……!」

 

 痛々しい呻き声を呑み込んで、暗紫色の少女が奥歯をギリリと噛みしめる。変形して飛び出したラジエータに爪を立て、エンジンブロックにめり込んだ身体を渾身の力で引き剥がすと、ルキナは何度目かもわからない跳躍に残された体力の全てを注ぐ。焼け焦げた戦闘服(コスチューム)を振り乱して一目散に目指すはフザケンナーの胸部、顕わになった青年の頭部だ。

 

「出来損ないが!無駄だと言っている!」

「ぅああっ!?」

 

 横合いから鋭い一撃が襲来し、ルキナを空中から叩き落とした。ゲキヤックが放った強力なエネルギー弾をまともに喰らった矮躯が毬のように跳ねて地面に叩きつけられる。アスファルトに這いつくばるルキナのコスチュームに紫電が走る。ダメージを吸収・相殺するはずのダーク・コスチュームが張り裂け、その部位が紫電を発しながら消滅しようとしていた。それはゲキヤックの恐るべき攻撃力を示すと同時に、弱体化したルキナの現状を示していた。

 

「言っただろう、ルキナ。貴様にはもう戦う力など残っていない。そもそも貴様に力を分け与えてやったのはこの私なのだ。創造物であるお前が造物主である私に盾突こうなど、片腹痛い」

 

 ゲキヤックの言葉を否定することは出来なかった。彼女にはもう満足に戦う力はなく、それどころか立っているだけで精いっぱいだった。それは彼女自身が誰よりもよくわかっていた。

 

「……それでも……」

 

 砕かんばかりに奥歯を噛み締める。ルキナの脳裏は青年との記憶で溢れていた。今までの人生での思い出をすべて合算しても足りないような濃厚な日々が走馬灯のようにフラッシュバックしては後頭部に流れていく。ボロアパートで青年と過ごした二人きりの時間は、楽しいとか、嬉しいとか、そんな単純なものではなかった。満ち足りている(・・・・・・・)と心の底から夢中になれた日々だった。魂の置き場を見つけたような、しっくりとした安息感だった。瞼を開けても閉じても、そこに重なるのは青年の笑顔だけだ。護ると誓った笑顔だけだ。

 

「それでも……!」

 

 なけなしの精神力を猛らせてコスチュームを再構成すると、切れた唇の端から血を滲ませたルキナが膝を震わせながら大地を踏みしめて立ち上がる。すでに満身創痍で、全身のあらゆる箇所がもう限界だと弱音を吐いている。血の気が引いて冷たくなる肌は蒼白さを増し、彼女の生命力の(かげ)りを現している。

 

「それでも、私は、あの人を……!」

 

 しかし、その輝く瞳から決意が消えることはない。自分のためではなく他者を想って燃える正義の闘志が肉体を奮い立たせ、前に前にと衝き動かしているのだ。

 

「……なんなのだ、これは」

 

 到底戦える状態にはないはずなのに、一向に戦意を失わないルキナの姿を前に、ゲキヤックのうなじの毛が我知らず逆立つ。以前のルキナはこんな人間ではなかった。もっと軽薄で短絡的な、悪の属性(こちらがわ)だったはずだ。未来など持たず、夢を持つ他人を妬み、自分を忘れようとする世間を憎み、他者の足を引っ張ることを至上の喜びとする、人として下の下に位置するくだらない小僧だったはずだ。

 それが、今やどうしたことか。すでに残り少ないとわかっているはずの自らの命を猛然と削ることも厭わず、勝てないとわかっているはずのゲキヤック(じぶん)に果敢に挑んでくるではないか。

 想い人の夢のために決して諦めず立ち向かおうとする気高い少女の姿は、まるで───。

 

 

 

 

“ケアキュアが5人揃えば、魔王をも倒せる”

 

 

 

 

「あり得ない!!」

「うああっ!」

 

 不愉快な伝説の一句が頭をよぎり、途端に顔面を醜く歪ませたゲキヤックが力任せに逆拳を振るい、ルキナを激しく打擲した。最強幹部の一角による本気の一撃を真正面から喰らったルキナの身体が空中で二つ折りになり、隕石のような勢いで路面のアスファルトに衝突した。

 ゲキヤックの両肩から滲む熱気が空気中の水分を沸騰させて湯気を立ち昇らせる。これは八つ当たりだった。“もしかしたら自分はそうと知らずに伝説の手助けをしたのかもしれない”という馬鹿げた考えを一瞬でも巡らせた自分への怒りをルキナにぶつけたのだ。彼が途方もなく敬愛する魔王を、よりによって彼自身が害することになるかもしれないと考えると、久しく感じたことのなかった強烈な怖気が断崖絶壁に押し寄せる波のように彼の精神を叩いた。

 

「ぅ、ぅぅ……」

「出来損ないめが。意地汚い実験動物の分際でこの私の手を煩わせるなど、身の程を知るがいい」

 

 脇腹を抑えて弱々しく呻くルキナを見下ろし、ゲキヤックが大きく息を吸って前髪を掻き上げ、苦笑いを刻む。血色が悪化の一途を辿るルキナの唇からポタポタと吐血が滴り落ちる。黒みがかった鮮血は、内臓が傷ついた証左だ。瞳はどんよりと霧がかったように澱み、視点が定まらない。呼吸も浅く、不規則だ。彼女の気力もとうに限界を超え、尽きかけようとしていた。苦痛と悔しさに涙を浮かべるルキナを睥睨し、彼女の華奢な肋骨をたしかに砕いた感触を思い出しても、怒りは幾らか発散できたものの、胸中に渦巻くとてつもない不快感は拭えなかった。

 世界を憎む名も知れぬ少年にルキナの力を与えたのは、ケアキュアへの嫌がらせであり、彼が心血を注ぐ彼女のための実験(・・・・・・・・)に過ぎなかった。ルキナという存在は、自分の手のひらの上で踊る様子を見て愉悦を楽しむための玩具(どうぐ)であり、蹉跌をきたしながらも着実に目的に近づきつつある悲願のための実験動物(サンプル)でしかなかった。それが、皮肉にも自分たちに仇なす伝説の一助になるとするのなら、それは、ゲキヤックもまた運命の手のひらのうえで踊る一個の駒に過ぎないということになる。

 

「……あり得ない。あっていいはずがない。そんなこと、認めるなるものか!」

 

 トンネルの向こうから響いてくるような昏い声は、ゲキヤックが初めて素の情念を覗かせたものだった。彼らしくない狂わんばかりの狂乱を垣間見せたかと思いきや、指揮棒のように腕を振るうとフザケンナーと化した青年に向かって叫ぶ。

 

「我が最強のフザケンナーよ!ルキナを殺すのだ!貴様の未練を貴様自身の手で断ち切るがいい!」

 

 非情にも、ゲキヤックは青年の手でルキナの息の根を止めようとしていた。フザケンナーとなった青年が数秒、身震いして無意識の抵抗を示したものの、ゲキヤックの強制力には抗えない。ひときわ極太の触手を蛇体めいて振りかぶると、ブォンと風を切って紫の少女を目掛けて振り下ろす。

 ルキナはいまだ動けず、ぐったりと四肢を大地につくばかりだ。全身が苦痛で赤熱している。唸りを上げて刻一刻と己に接近する触手を見上げ、ルキナの頬を悲嘆の涙が伝う。嗤笑するゲキヤックの肩越しに、フザケンナーに埋め込まれた青年と目が合う。彫像のように硬直した青年の目から血涙が吹き出るさまを目にして、ルキナは不甲斐ない自分自身を呪った。

 

「……なさい」

 

 救うと誓ったのに、手も足も出なかった。胸が張り裂けそうな後悔の念が去来する。代われるものなら代わりたかった。自分の命でよければいくらでも差し出すのに、自分の命ではなんの役にも立たない。それが悔しかった。

 

「……ごめん、なさい」

 

 自分にもっと力があれば。そもそも、自分と出会わなければ。自分がルキナの力を望まなければ。自分なんかがこの世に生まれなければ。自分が存在しなければ、きっと全てが上手くいっていた。青年は自力で立派な画家になって、努力が実って教師になれていたはずだ。自分のせいだ。自分のせいだ。自分のせいだ。

 途方も無い罪悪感に絶望し、唇を震わせ、ルキナは小さく呟く。

 

「助けてあげられなくて、ごめんなさい」

 

 青年が大口を開けて声にならない声で絶叫する。触手がルキナを押し潰さんと巨大な鞭と化して空気を切り裂く。表面の鱗の一枚一枚が判別できるほど眼前に迫った。




そうだ 嬉しいんだ 生きる喜び
たとえ どんな敵が 相手でも


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いつか彼が紫陽花になるまで 最終章9話

書きたいものが多すぎてどんどん文量が増えていく。ルキナの最期の輝きです。


「ルキナ!諦めちゃだめだよ!」

 

 ライトイエローの煌めきが視界に閃いたと視認すると同時に、巨大な手と手を打ち合わせたような轟音が耳朶を打ち、触手がルキナの寸前で空中に縫い留められた。稚さの残る背中が触手を真剣白刃取りの形で受け止めたのだ。

 

「そうよ!貴女、そんな殊勝な性格じゃないでしょう!」

 

 大気をどよもす余韻を突いて、ミントグリーンのドレスを纏った少女が助太刀に入る。ミシミシとスティレットヒールの踵が音を立ててアスファルトの路面に食い込み、関節が軋みを上げるも、少女たちに怯む気配はない。自分たちの胴体ほどもある触手の鞭をまるで丸太を担ぐように肩口で受け止めると、血管が浮かぶほど腕に力を込めて締め込み、動きを封じ込める。食いしばった歯の間から声を絞り出すのは、ケア・バウトとケア・エオスだった。

 

「チッ!ケアキュアども、余計な真似を───うおおっ!?」

「余計な真似はそっちよ、ゲキヤック!」

 

 舌打ちして駆け出そうとしたゲキヤックの足元に、オパールブルーの鋭い輝きが流星のように滑り込んだ。ケア・イシュタルがサッカーのシザーズキックの要領で彼に足払いを仕掛けたのだ。変幻自在の戦いを得意とするイシュタルに虚を突かれて引き倒されそうになるも、あわやというところでバランスを取り戻し、さすが幹部は伊達ではないゲキヤックは鮮やかにバック転してイシュタルの間合いから逃れる。

 

「小娘どもが、小賢しい───」

 

 冷や汗を誤魔化してゲキヤックが冷笑する。しかし、この時はケアキュアたちが一枚上手だった。

 

「「だぁあああああああッッ!!」」

 

 雄叫びを上げたバウトとエオスが渾身の力で触手を引っ張ったかと思いきや、まるでクレーンのような馬力でフザケンナーの巨体を引きずり倒した。バウトの得意とする電撃攻撃が触手を伝わってまたたく間に本体のフザケンナーに到達し、バリバリと音を立てて動きを麻痺させる。さらにエオスの風を操る能力とイシュタルの水流を司る能力が合体炸裂し、たたらを踏むフザケンナーの胴体上部のど真ん中に飛沫を上げて命中。巨体を一挙に押し倒した。傷ついた牛のような呻き声を轟かせたフザケンナーがグラリと傾ぎ、濃い影が生じる。

 

「なにぃいいいいっ!?」

 

 バック転を終えたゲキヤックが着地した先は、まさにその影の中心だった。泡を食ったゲキヤックの叫びをまるまると飲み込み、トレーラートラックに匹敵する大きさと重さのフザケンナーが地響きを立ててゲキヤックの長身痩躯をアスファルトとの間にサンドイッチのように挟み込んだ。ズズンと大質量が激突する振動が大地を揺らす。「やったか」などと不穏な台詞は軽々しく口にしない。これで倒せるなら苦労はしていない。だが、時間は稼げるはずだった。

 新たな仲間を(・・・・・・)目覚めさせる(・・・・・・)、大事な時間を。

 

「頼んだわよ、アストレア」

 

 ゲキヤックの復活を警戒して半身に構えるイシュタルが万の信頼を込めて呟く。バウトとエオスも続いて希望の眼差しを向ける。それに強い頷きで応え、ケア・アストレアがウェディングフォームのヒールを音高く鳴らして堂々と歩む。彼女が歩を向け、立ち止まり、見下ろす先にいるのは、満身創痍で地面に膝をつくルキナだった。

 

「な、なんで、アンタたちが」

「当然よ。私たちはケアキュアだもの」

 

 突然の加勢に呆然とするルキナに対し、アストレアは鉄の壁をも貫くような鋭い眼光で彼女を射抜くばかりだ。心身ともに弱りきったルキナには、威風堂々たる彼女の語気と威容は厳しく、眩しすぎた。青白い光のオーラがアストレアの全身を覆っているようにみえた。アストレアとまじまじと向き合ったのは初めてだった。これがケアキュアなのか、とルキナは息を呑んで尻込みした。どんな困難にも決して屈せず、たくましく乗り越えていく正義の少女たち。勇気に溢れる気高い彼女たちには不可能なことなど何も無さそうだった。自分なんかより遥かに(マトモ)で、人の役に立ち、世の中への存在意義に満ち満ちていた。それに比べて、自分はなんて矮小なんだろうか。彼女たちが羨ましかった。

 多大な劣等感に苛まれ、ルキナはあてどなく視線を外すと力なく俯く。

 

「……お願い、助けて」

 

 消え入りそうな声だった。ポツポツと大地に涙の粒が落ちる。今までさんざん虐げてきたケアキュアたちに頭を下げて助けを求める自分自身が情けなかった。惨めだった。それでも、青年を助けられないよりは何億倍もマシだと思った。

 

「助けて。あの人を助けて。私はどうなってもいい。私なんて消えて当然。アンタたちも知ってる通り、私はどうしようもないバカよ。他人の足を引っ張ることしかできない役立たずよ。でもあの人は違う。救う価値がある人なの。お願い、ケアキュア、助けて───」

甘ったれるなァ(・・・・・・・)!!!!!!」

 

 憤激の衝撃波が全方位に轟いた。吼え猛る獅子の如き怒声があらゆる物質を原子レベルでビリビリと叩き揺らす。嵐のような(はげ)しい風が轟と吹き抜け、周辺の炎を塵と化して消し飛ばした。天地を張り裂く稲妻のような咆哮が目の前のアストレアから発せられたのだと理解するのに、ルキナにはきっかり1秒も要した。

 

「ひぅ」

 

 ルキナが目を丸くして息を呑む。目の前の少女は、とても同年代とは思えない圧倒的な“凄み”を瞳に宿し、轟々と全身で燃えていた。仲間たちも、それどころかフザケンナーとそれに下敷きにされたゲキヤックさえも思わず縮み上がって動きをビタリと止めるほど仁王めいた迫力だった。胸元のマスコットのような妖精は耳を抑えて真っ青に震えている。

 はるのの実家は代々、空手道の極地に至らんとDNAに研鑽を刻み、それを誇りとしてきた由緒正しき武術の家系である。数ある実践格闘空手(フルコンタクトバトル)の流派のうち、もっとも雄々しいとされる剛柔流の若き覇者として全国大会を連覇してきたはるのが本気(マジ)になれば、たとえサバンナでライオンと真正面から睨み合ってもすごすごと退散するのはライオンの方に決まっている。

 悪に傾きかけた際に横っ面を思い切り殴られて引きずり戻された経験を持つイシュタルは、その時の痛みを奥歯に蘇らせて苦笑を浮かべた。ケアキュアの奇跡の力がなければ今ごろ総入れ歯になっていた。だからこそ、イシュタルは信じていた。アストレアの本当の力(・・・・)を。

 

「甘えてないでしっかりしなさい。彼は貴方が救うのよ」

 

 突き放すようなアストレアの台詞にルキナは失望を隠せなかった。しかし、自業自得であることはわかっていた。

 

「……なによ。あてつけのつもり?そんなの、無理よ。無理に決まってる。だって、私にはもう、なんの力も……」

 

 見た途端に力負けしそうな眼光にルキナは再び目を逸ら……そうとして、ガシッと両肩を鷹のように掴まれる。驚いて再び顔を上げたすぐ眼の前にアストレアの顔があった。

 

あるわ(・・・)!だって貴女は、ケア(・・)キュ()()だもの!」

 

 視界いっぱいに広がる彼女の瞳は月の慈しみと太陽の覇気を等分に秘めて爛々と輝いている。その眼差しは確かなエネルギーの乱流となってルキナの瞳に流れ込んでくるようだった。ドクンと勝手に跳ね上がる心臓に驚きながら、ルキナが目を瞠る。心臓が活気を取り戻し、全身に新鮮な血流を送る。エネルギーの粒子が血流にのって肉体の末端まで行き渡り、身体が火照り出す。

 

「私が、ケアキュア?違う、私は出来損ないよ。ケアキュアの粗悪なコピー」

「いいえ!ケアキュアとは、誰かの夢のために戦う者のこと!大切な人を毒牙から護るために命をかける戦士のこと!人々の夢と希望の盾こそ、ケアキュア!それならば、貴女はケアキュアよ!だから───」

 

 必死に身をよじってフザケンナーの下敷きからの脱出を完遂したゲキヤックが、アストレアの背中を見て、彼女がやろうとしていることを想起して顔面を蒼白にする。

 

「やめろ!」

「させないわ!」

 

 死にものぐるいの威嚇とともに放たれたエネルギー弾をエオスの風のバリアが受け流した。瞠目するゲキヤックが睨む視界で、アストレアの頭上の暗雲がゆっくりと押しのけられ、渦状銀河の如き神秘の煌めきが展開するのを見た。金色の後光がアストレアの全身の輪郭を縁取り、天上におわす女神の如き気高い姿を世界に対して際立たせる。否、これこそがアストレアの本当の力(・・・・)なのだ。

 彼が狂おしいほどに欲し、同じくらい拒絶していた奇跡が、彼が望まない状況で顕現する。

 

「さあ、目覚めなさい!新たなるケアキュア───ケア(・・)ルキナ(・・・)!!」




熱い物語は好きかい?


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いつか彼女が紫陽花になるまで 最終章10話

数話前にも書きましたが、この物語は拙作の『女神が人類を護るためにオーク軍勢の前に立ちはだかるも、実は全員、前世が歴戦の仮面ライダーだったので、「変身!」の掛け声とともに元の姿に戻ってオークをずたずたに蹴散らすお話。』と同じ世界線にあるという設定です。内容はタイトル通りなので、読まなくても「女神の正体ってこれなんだな」と理解してもらえていれば大丈夫です。


「さあ、目覚めなさい!新たなるケアキュア───ケア・ルキナ!!」

 

 瞬間、網膜を焦がすほど眩い光条が曇天にド派手な風穴をぶち開けた。暗黒の雲を貫いた流星群は空中に尾を引く勢いそのままにアストレアとルキナに衝突し、彼女たちを烈しく包み込む。光の玉は燃え盛る炎のように加速度的に膨れ上がり、イシュタル、バウト、エオスの姿も瞬く間に清らかな白光に溶かし込まれた。悪の闇を拒絶する光のパウダーが一帯に雪のように舞い、世界が母の人肌のような温もりで満ちていく。モノクロだった世界が鮮やかな色を着実に取り戻していく。

 

「そんな、馬鹿な」

 

 ゲキヤックの皮膚が我知らず鳥肌を立ててざわめく。ヘドロのように重く淀んでいた馴染みのある空気が、あっという間に朝の清冽な森のように澄んでいく。自分にとって有利だった空気が唐突にアウェーに切り替わってしまったような場違い感が背筋を冷たくする。大気が帯電したかのようにパリパリと音を立てるのは、“奇跡”が顕現する前触れに他ならない。彼が望まぬ、彼が愛した女(・・・・・・)による奇跡が。

 

「どうして、君が(・・)

 

 魂がひりつく神々しい光景を前に、ゲキヤックは石のように棒立ちするしかなかった。彼の心臓は今、文字通り止まっていた。本来、決して交わるはずのない至上の天界と現世とのラインが目の前で繋がったのだ。干渉不可能な次元の断層が根性の力でこじ開けられたのだ。彼が気が遠くなるような時間と労力と犠牲を注いでも出来なかったことを、ケアキュアたちは超人的な精神力だけで見事にやってのけたのだ。

 怯える幼児のように慄然として全身を強張らせるゲキヤックの眼前で、光の柱が様々な色彩を宿す。燃え立つ炎のような赤色、雄大な海のような青色、烈しい雷のような黄色、吹きすさぶ一陣の風のような緑色、そして───健気な紫陽花のような紫色(・・・・・・・・・・・・)

 

「どうして君が───ルーキーナ(・・・・・)!」

 

 彼の意味深な独白を塗り潰し、5色の輝きが音高く爆発した。宇宙の始原(ビックバン)の如き熱量と光量が迸り、網膜を焼き付かせる。眼底までくらます怒涛の逆光を背景に、少女のシルエットが一人また一人と進み出る。心身ともに充溢を取り戻したケアキュアたちだ。彼女たちが身に纏うスイートハートネックのAラインウェディングドレスが万物を平伏させる至上の白美に燃えている。威風堂々と歩む彼女たちの強化フォームも傷一つない状態へと復活を遂げ、むしろ神秘的な光沢を何倍にも増していた。

 最高にキュートで最強にパワフルな美少女たちがザッと地を踏みしめる音を立てて轡を並べる。彼女たちの力ある眼差しに圧倒され、ゲキヤックは思わず一歩大きく後ずさった。彼女たちの背後に、彼女たちに超常の力を与える女神たちの偉大な姿を明確に幻視したからだ。この世の全てを超越する最高最強の女神たち。かつて2つの世界を救済した不惜身命の戦士たち(・・・・)。スカーフを風に靡かせて愛機に跨がる仮面の騎馬兵(ライダー)たち。

 ズドン!とヒールがアスファルトを踏み砕く轟音が鳴り響く。アストレアを筆頭に、各々のイメージカラーの閃光を背にして堂に入った口上を腹底から張り上げる。

 

「邪悪を燃やすはこの赤き拳!ケア・アストレア!」

 

 遥か尊き次元の彼方から女神アストレアの権能を示す赤い極光の柱が唸りを上げて突き立き、ケア・アストレアを雄々しく包む。

 

「我が技は変幻自在の激流の如し!ケア・イシュタル!」

 

 蒼い極光の柱が唸りを上げて突き立き、イシュタルを雄々しく包む。

 

「大地貫く極大雷撃ここにあり!ケア・バウト!」

 

 黄色い極光の柱が唸りを上げて突き立き、バウトを雄々しく包む。

 

「天空より来たるは我が風刃!ケア・エオス!」

 

 緑色の極光の柱が唸りを上げて突き立き、エオスを雄々しく包む。

 

 

 

「───キャハハハハ!私がケアキュアだなんて、くっだらな〜い!」

 

 

 

 そして、5人目のケア(・・・・・・)キュ()()が、アメジストパープルのミニスカートを颯爽となびかせて高飛車な笑い声を上げる。生気に満ちたキューティクルは流水のような艶めきを放つ。先ほどまでの疲労が嘘のように取り払われ、折られた肋骨も身体中の痛々しい裂傷も跡形もなく癒えている。満身創痍だった肉体とコスチュームは、天授の光の粒子を浴して瑞々しい生命力を内包する非の打ち所のない姿へと戻っていた。消えかけのロウソクのようだった彼女もまた、ケアキュアたちと同じく女神の奇跡によって完全回復を遂げたのだ。

 

「───でも(・・)、」

 

 紫陽花色をした切れ長の瞳に真摯な感情が宿る。ケアキュアたち一人ひとりにゆっくりと転じて、最後にアストレアの視線と真っ直ぐに交差する。

 

「悪くないわ。アンタたちと背中を合わせるってのも」

 

 ルキナの不敵な微笑みに、アストレアもまた力強い笑みと深い首肯で応えた。どちらからともなく突き出した拳と拳がガッチリと密着する。かつてライバルとして対立していた二人が仲間として心を通じ合わせた瞬間だった。敵対関係を乗り越え、お互いの信念を認めあった彼女たちの間には、たしかな一帯感(きずな)が芽生えていた。

 気力を充溢させて晴れ晴れとした笑みを浮かべたルキナが、瞬間的に頭に浮かんだ自らの口上を天に向かって宣言す(ほえ)る。

 

「闇より転じて悪を打つ!!」

 

 その呼び掛けに、5人目の女神(・・・・・・)(しか)と応えた。

 天空の彼方で、最後の紫陽花色の閃光が閃いた。強烈な尾を刻む極光は彗星の如き勢いで曇天を貫いて雲を残らず吹き散らすと、大地へと真っ直ぐに突き立ち、ルキナの姿を膨大な光に呑み込む。烈風伴う竜巻の如き光が轟々と渦を巻き、やがて中心点のルキナへと収束していく。竜巻の内側でルキナのシルエットが陽炎のように揺らめきながら変化していく。望まれぬ少年として無為に産まれ、愛を知らぬまま育ち、呪われた戦士となり、己を拾ってくれた青年によって恋を知り、その果てに身を賭して愛に殉じようとする少女の生命(いのち)の輝きが、最強の形(・・・・)となって少女に希望を纏わせる。

 

「私は───ケア・ルキナだ!!!」

 

 咆哮一閃、赫灼の竜巻が爆発した。巨大な不可視のシンバルが叩かれたかのような衝撃波が地平線まで突き抜け、一面に横たわっていた暗澹とした空気を消し飛ばす。世界が清浄な大気と完全なる色彩を取り戻す。

 艶めくアメジストパープルのツインテールが風に波打ち、瑠璃色に(かがよ)う無数の粒子が春爛漫の桜吹雪のようにキラキラと舞い散る。その中心でひときわ美しい煌めきを放つ少女は、見目麗しいオフショルダーのウェディングドレスを纏っていた。ビロードのように滑らかな生地は溶けかけた新雪のようで、光の当たり加減によって色とりどりの宝石を散らしたようにキラキラと光を放つ。白い炎のようにふわりと広がる引き裾(ロングトレーン)スカートの表面では神代文字で刻まれた刺繍が紫陽花色のエナジーを帯びて爛々と発光する。ゆったりとしたネックラインの下で揺れるドレープの光沢は最高級の真珠のようで、顕になった繊細な鎖骨と柔らかな曲線の肩の白さを引き立てている。

 まさに馥郁たる美の極致。究極的に可憐(キュート)華麗(エレガント)過激(セクシー)な、愛に全てを捧げる女の最終形態だった。生まれ変わったルキナが───ケア・ルキナが自力で手に入れた、ケアキュアたちと同格の強化フォームだった。伝説通りの5人のケアキュアが揃った瞬間だった。魔王にとって不倶戴天の敵が誕生した瞬間だった。

 絶望感に打ちのめされて生気を失うゲキヤックの前で、勇気をその身に纏う最強の少女たち5人が地を踏みしめてズラリと居並ぶ。

 

「「「「「私たち、パーフェクト・ケアキュア!!私たちを前にして、悪の栄えた試し無し!!!」」」」」




“ちょうどいい文量”を模索する日々です。次こそ最終回。ところで、ウェディングドレスを着たTSっ娘、いいと思いませんか?


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いつか彼女が紫陽花になるまで 最終章11話

忘れないで夢を
零さないで涙
だから君は飛ぶんだ
どこまでも


「「「「「私たち、パーフェクト・ケアキュア!!私たちを前にして、悪の栄えた試し無し!!!」」」」」

 

 黎明の如き輝きが炸裂した。ケアキュアたち一人ひとりが自ずから光を放つ光源と化し、爆発的な輝気を際立たせている。少女たちを源として空間そのものが母なる大海の如くダイナミックに躍動する。世界全体が新生ケアキュアの爆誕に大喝采(ハーモニー)を浴びせているようだった。

 圧を伴う烈風が轟と吹き荒れ、ゲキヤックの肉体を見えざる手で乱暴に後方へと押し出す。先ほどまで指先で触れられるほど近付いていた勝利の気配はもはや微塵も感じられなくなっていた。15歳にも満たない矮躯の少女たちの迫力に気圧されている己を自覚して愕然と震える。ケアキュアたちの強さの(・・・)次元が変わった(・・・・・・・)気配を否が応でも突き付けられ、総身に悪寒が走る。彼女たちの無敵の勇姿は敵であるゲキヤックですら胸の高まりを覚えるほどで、彼は舞台の主役の座から自身が蹴落とされたことを直感で悟った。そして、これから己が辿るであろう末路も。

 

「……フザケンナー!我が最強のフザケンナーよ!ケアキュアどもを踏み潰せ、私を守るのだ!急げ!」

 

 もはや自らでは今の完全となったケアキュアたちに対抗できないと判断したゲキヤックが、背後のフザケンナーを焚き付ける。生け贄となった青年の多大な“夢の力”を利用して作り出されたフザケンナーは間違いなく史上最強だ。ケアキュアを倒せなくとも時間稼ぎくらいは十分出来る。その間隙をついて撤退する算段を企てたのだ。彼が百戦錬磨の幹部の座に居座り続ける理由はその計算高さ故だ。

 だが。

 

「な、何をしている、フザケンナー!?なぜ動かん!?私の命令が聞こえないのか!?」

 

 フザケンナーは、しかしゲキヤックの命令を拒絶してピクリとも動かなかった。フザケンナーの胸部に浮かぶ青年の耳にはもうゲキヤックの声は届かなかった。彼が釘付けになる先には、同年代の少女たちと並んで燦然と輝くルキナの姿があった。宝石のようなケアキュアたちと並んでもなんら遜色のない紫陽花色の美少女が、年ごろの少女らしい溌剌とした躍動を魅せている。ルキナが眩いばかりの笑顔で青年に微笑みを送る。「私を見て」と唄いかけてくるかのような、見る者の胸を強制的にときめかせる魅惑の微笑みだった。青年は、この瞬間を余さず記憶するようにうっとりと目を蕩かせ、ルキナの全てに心を奪われていた。造物主(ゲキヤック)の命令は青年にとってなんら意味のあるものではなくなっていた。

 

「こんな、こんなことが……」

 

 愕然とするゲキヤックの意識のてっぺんに危機感が急浮上する。自らが致命的な蹉跌をきたしたことを悟ったのだ。彼にとって残念だったのは、悟るのが遅すぎたことだ。

 

「みなぎる勇気!」

「あふれる希望!!」

「光り輝く絆と共に!!!」

「ケアキュアの美しき魂が!!!!」

「邪悪な心を打ち砕く!!!!!」

 

 吠え猛るケアキュアたちの台詞が大地の果てまで木霊する。彼女たちが天に向かって突き上げる両手(もろて)の上で太陽も青ざめるほどの熱量を内包した巨大な赤い光球が渦を巻いて出現した。稲光のような激しい光線がギラギラと拡散し、網膜に突き刺さる。雷雲から発せられるような重低音が腹底にとどろき、竜巻のような風圧が断崖に押し寄せる波のようにゲキヤックの全身を殴打する。欠けていた最後の一人と合流したことで完全となったケアキュアが、宿敵を打倒せんとありったけのエネルギーをこの一撃に込めているのだ。怒涛の如き光球は気球ほどの大きさまで膨張すると今度は内側に爆縮。圧縮されるごとにその輝きを白く増していく。

 

「な、なんと……」

 

 今までのケアキュアの必殺技とは比べ物にならない超絶威力の前兆(プレッシャー)に、ゲキヤックの精神が恐怖で飽和する。いかな古参幹部といえど直撃すれば絶対に堪えられない。明確な“死”が待っている。魔王ですら直撃すれば致命傷は免れまい。背後のフザケンナーは浄化されるだけで済むだろう。しかし完全に闇に堕ちた自分は到底生存を許されまい。霧散して塵芥と消えるに違いない。

 それはわかっているのに、足が石のように固まって言うことを聞かなかった。理性より先に肉体が抵抗を諦めていた。もう一人の自分が“もう潮時だろう”と肩に手を置いていた。

 

「「「「「ケアキュア・パーフェクト・エクストリーム・スト───────────ム!!!!」」」」」

 

 光球がぐんと高度を上げた。一瞬で宙空まで浮かび上がると、光球は慣性に猛然と逆らって宙に直角を描いてゲキヤックと背後のフザケンナーに向かって猛然と直進する。悪を許さぬ正義の波動が周囲の木々をなぎ倒し、極大の地鳴りを伴って迫る。巨大な光球が見る間に急接近し、視界すべてが白熱化する。清浄な高熱が全身を舐める。衣服が、皮膚が、肉が、瞬く間に蒸発していく。

 絶体絶命の瞬間───長い“瞬間”のなか───細めた目でエクストリーム・ストームの万華鏡のような煌めきを眩しそうに見上げて、ゲキヤックはふっと淡い微笑みを浮かべた。彼の脳裏には、愛する女との慎ましやかで愛に満ちた日々が走馬灯となって過ぎっていた。

 

「ルーキーナ」

 

 切なげな呟きとともに、彼の姿は光に呑み込まれて、消えた。

 

 

 

 そして、静寂(しじま)が訪れた。

 勝利を見届けた太陽が己の役割は終えたと言うように地平線への帰路についていく。熱の供給を断たれた大気がひっそりと冷えていく。燃えさしの日を浴びる大地で、サッカーコートほどの面積の地面が抉れ、焼け焦げていた。エクストリーム・ストームの着弾点だ。超高温によってガラス化した砂礫が一帯を舞い踊り、夕焼けを浴びてキラキラと世界を装飾する。

 その真ん中に、フザケンナーの呪縛から解放された青年が力なく座り込んでいた。一見すると怪我をした様子はない。ケアキュアたちが彼のもとに急いで駆け寄る。青年とルキナの感動の再会を信じていた彼女たちは、しかし、彼の変わり果てた姿を見て悲しみに硬直して足を止めた。

 

「そんな、うそ」

「間に合わなかったなんて……!」

「こんなのって、ないよ!」

 

 少女たちの顔が真っ青に染まる。青年の顔面からは、画家と教師になるという夢を志していた際の覇気がガラリと抜け落ちてしまっていた。感情は抜け落ち、空虚となった瞳の焦点は合っていない。どんよりとした2つのガラス玉は何も映さず、真正面にルキナが近づいても目をあげようともしなかった。

 一度フザケンナーとされてしまった人間は、夢と希望のエネルギーを根こそぎ吸い上げられてしまい、それまで燃やしていた意欲をすっかり失ってしまう。ケアキュアによる救出が早ければ間に合うし、今までも辛うじて間に合ってきた。だが、今回は遅きに失っしてしまったのだ。人々に不幸を振り撒く宿敵ゲキヤックを倒したことで晴れやかになりかけていたケアキュアたちの気持ちもやるせない陰鬱さに沈んでいく。

 

「ルキナ……」

 

 張り詰めた声で、アストレアが隣に立つルキナを気遣う。青年の命は救えたが、夢は救えなかった。命より大切な夢を奪われてしまった。無論、ケアキュアが悪いわけではない。彼女たちは最善を尽くした。それでも、ルキナが命をかけて取り返そうとした青年の夢を護れなかったことに、実直な性格のアストレアは申し訳無さで拳を握りしめた。力及ばなかった自身の未熟を恥じた。ルキナのこれから(・・・・・・・・)を識る者として、己の首を締めたくなるほどの自責の念を覚えた。ルキナの内心に思いを巡らせたイシュタル、バウト、エオスも胸が張り裂けそうな痛みを覚えた。

 

「キャハハハハ、な~んて顔してんのよ、アンタたち」

 

 悲しみに暮れているに違いないと思われていたルキナは、けれど、予想に反して軽薄な笑いで全員の視線に応えた。無理をして気丈に振る舞っているのかと心苦しさを覚えて疑ったが、そうではなさそうだとすぐにわかった。微笑みを絶やさない幸せそうな横顔はほんのりと朱色に染まったままで、ルキナの青年に対する信頼と真摯な恋心が少しも衰えていないことを如実に表していた。彼女は、青年が夢の力を失ったとはまるで考えていないようだった。

 

「貴女、それ……?」

 

 不思議に思ったアストレアが、ふとルキナの胸元に視線を下げて、そこに一枚の絵画が抱かれていることに気付いた。まるで赤子のようにギュッと愛おしげに抱かれたその油絵は、まさにルキナ本人を描いたものだった。秋空の窓辺を背景に、気恥ずかしげな微笑を咲かせる少女が一途な恋心を真っ直ぐに向けてくる。何事にも斜に構えて世の中すべてに好戦的だった悪の戦士の面影はどこにもない。ただ想い人に夢中になっている可憐な少女が溢れる恋心に胸を焦がしている瞬間を見事に切り取って、情熱的に表現されている。それは、この絵を描いた画家こそが少女(ルキナ)の恋慕を一身に受ける青年であることを雄弁に物語っていた。

 

「この人なら、大丈夫」

 

 ルキナの穏やかで確信に満ちた言葉にケアキュアたちはハッとする。二人が相愛であり、そこに固い絆が育まれていることを悟ったのだ。少女たちが押し黙って見守るなか、ルキナがウェディングドレスが汚れるのも厭わずにそっと青年の前に膝をつく。物言わぬ青年の手元に自らの肖像画を優しく差し出し、絵の中の自分と青年の視線を交差させる。

 

「ねえ、これで完成?」

 

 まるで軽口を叩くような何気ない口調で確かめる。青年の肩がピクリと反応するのをアストレアはしかと見た。挑発するように、励ますように、ルキナは柔らかな声音で、言葉が青年に染み込んでいくのを確かめるように繰り返し囁く。

 

「ねえ、これで完成ってことで、本当にいいの?私の全部を描ききれたの?これでアンタは満足?今の私を見たら、とてもそうは言えないと思うんだけど」

 

 唐突に、青年の顔が電気が流れたように持ち上がり、ケアキュアたちはギョッとして驚いた。夢と希望が枯れ果てて脱力していた人間の動きとは思えなかったからだ。

 青年が目を見開き、眼前のルキナを凝視する。想い人のために全てを捧げる覚悟を決めた故に、息を呑むほど美しくなった花嫁。滑らかな頬の肌質(きじ)が黄昏を浴びて黄金色に染まっている。他ならぬ自分のためにここまで美しくなってくれた非の打ち所のない美少女を、青年は瞬きすら忘れて見つめる。

 途端、黒いガラス玉のようだった瞳に変化が生じ、ケアキュアたちが息を呑んだ。清冽な光が瞳の奥から朝日が昇るようによみがえる。

 

「いいや、まだだ」

 

 風を受け止めた帆が力強く張るように青年が応える。

 

「これは未完成になった。君がもっと美人になってしまったから」

「当たり前よ。それで、どうするの?」

「描きなおす。今の君を描くために」

 

 そう宣言した青年の表情には、失ったはずの夢と希望が、失われる前より強く宿っていた。なんとルキナは女神の権能も使わずに消えかけていた青年の情熱の火を燃え上がらせて見せたのだ。「当然よ」と笑みを咲かせて、ルキナと青年が魂を絡ませるようにお互いの瞳を覗き合う。「これが本物の“愛”の為せる力なのか」とまだ中学生のケアキュアたちは頬を火照らせ、手足をいそいそとさせた。ルキナの横顔が、自分たちより先に階段を駆け上がった“大人の女”に見えたからだ。青年を慈しみ、愛おしむ眼差しからは、男を無条件に包み込む非処女の母性すら感じる。

 

「───みんな、本当にありがとう」

「……ルキナ……?」

 

 燃え立つような夕映えが終わりかけ、不意にルキナがポツリと呟いた。やけに殊勝な口調はこれからくる宵闇のように涼やかで、どこか吹っ切れたような印象があった。薄明に浮かぶほっそりとした儚気な背中には不思議と覇気が感じられなかった。普段のクールな様子と異なり、何かを諦めたように達観している。理由がわからず、けれど何故だか無性に不安に駆られる思いがして、心臓が早鐘を打ち出す。ようやく伝説通りに5人が揃って「さあこれからだ」と勢いづくかと思われていた雰囲気に冷や水を浴びせられ、ケアキュアたちは眉をひそめる。

 ただ一人、アストレアを除いて。

 

「私も、感謝してる。貴女のおかげで私は強くなれた。私たちは強くなれた」

「なによ、皮肉?」

「違うわ。事実よ。貴女と出会えてよかった。また会えることを心から願ってる」

「そう言ってもらえると嬉しいわ。なんだか、生まれて初めて友だちが出来たみたい」

「いいえ、ただの友だちじゃない。私たちはもう、親友よ」

「……ありがとう」

 

 しんみりとした二人のやり取りは、まるで今生の別れに交わされる言葉の応酬のようだった。アストレアを見れば、後ろめたさに必死に堪えて拳を固く握りしめていた。まるで墓石を前に死者を追悼するような厳かさすら醸し出している。その強張った表情に、ケアキュアたちは氷柱(つらら)から背中にポタリとしたたり落ちてきたかのような悪寒を覚えた。

 果たして、周囲が抱いたその直感は的中してしまった。冷えていく薄闇の世界に、唐突に夜空の銀河のような光の粒子が飛び舞った。その端緒は───まさに光と化して消え逝かんとするルキナだった。指の先から、髪の先から、ルキナの肉体が砂のように崩れていく。彼女を構成していた紫陽花色の微粒(びりゅう)がロウソクの最後の灯火のようにわずかに明滅し、闇に溶けていく。

 

「ルキナ!?」

「ルキナが消えちゃうよ!どうして!?」

「アストレア!これはどういうこと!?ルキナは女神の力で復活したはずでしょう!」

 

 冷静沈着を心情とするイシュタルすら動揺してアストレアの肩を勢いよく掴む。掴んで、悲泣の念に血が滲むほど臍を噛むアストレアの嘆き顔を目にして、愕然とした。そして理解した。ルキナの命は、ただ繋ぎ止められていた(・・・・・・・・・)だけに過ぎなかったことを。青年を救うためだけに、ルキナは女神から与えられたすべての力を使い果たしたのだ。アストレアも、ルキナも、直感でそれをわかっていたのだ。

 

「いいのよ。これでいいの、イシュタル」

 

 ルキナは青年を見つめたまま、義憤に震えるイシュタルに応える。その声音は異様なほどに落ち着いて、夜月の下の花畑のように穏やかだ。

 

「私には幸せになる権利はない。それだけのことをしてしまった。過去は消せない」

「いいわけない!過去は消せないけど、未来はいくらでもやり直せる!幸せになる権利は誰にだってある!貴女にも───その人にも!!」

 

 水を向けられた青年は唇を震えさせ、けれども瞼をぐっと開いてルキナから目を逸らさない。

 

「消えるのか、ルキナ?」

「うん、消える」

「行ってしまうのか、ルキナ?」

「うん、行く」

「もう会えないのか、ルキナ?」

「うん、もう会えない」

「……それでいいのか、ルキナ?」

「……ううん、よくない」

 

 声に湿り気が混じる。ポツポツと地面に雫が落ちる。

 

「消えたくない。行きたくない。会えなくなるなんてイヤだ。ちっともよくなんてない」

 

 それでも、ルキナも青年から視線を外すことは決してしない。一刻一刻と近づいてくる消滅の気配から逃れるように。すでに肉体の半分が消えてしまった自分の存在を少しでも強く青年の魂に焼き付けるように。ルキナは決して目を逸らさない。決して微笑みを絶やさない。最期の姿を美しいまま覚えておいてもらうために。

 

「私、アンタが好き。ずっと一緒にいたい。アンタの絵をもっと見ていたい。アンタに私の絵をもっと描いてほしい。死ぬまでずっと一緒にいたい。でも、そんな都合のいいことにはならない。そんなに好都合な世界なら、私という存在はそもそも生まれることなんてなかったもの」

 

 青年の顎を悲哀の涙が伝い落ちる。それを拭うように差し出されたルキナの手は彼に触れることはなく、霞となって薄れ消えた。

 

「私と出会ってくれてありがとう。私を救ってくれてありがとう。私に愛を教えてくれてありがとう。人を愛することを教えてくれてありがとう。アンタを愛させてくれて、ありがとう」

 

 青年がルキナの両頬を包み込むように手を伸ばす。手応えのある質量も、温かい体温も、なめらかな肌触りも、すでにない。まるで空虚なホログラム映像のようだった。それでも、たしかにそこにあるように、たしかにそこにいるように、青年はルキナの顔を震える手でそっと持ち上げる。すっと目を瞑ったルキナの唇に自分の唇を近づける。

 

「僕もだ、ルキナ。君を愛してる」

 

 唇と唇が重なった。実態のない唇にはなんの感触も感じられなかった。それでも、ルキナには十分だった。

 

「嬉しい。大好き」

 

 最期の思い出として、十分だった。

 

 

 

 

 そして、ルキナは消えた。少女たちが悲しみにすすり泣く。肌寒い秋の夜のことだった。




真のハッピーエンドを見たくはないかい?

 イエス or ノー


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そして紫陽花となった彼女

イエスと言ってくれた貴方に感謝


「みんな、おはよう。さっそくだが、彼は今日からこの学校で初任者研修を受けることになった。専攻は美術だ。彼のことは『ゲキヤック事件』のニュースで知っているだろう。有名人だ。辛い経験を自力で乗り越えた先輩から多くのことを学び取りなさい。さあ、挨拶を」

「みんな、始めまして。大それたご紹介を頂きましたが、僕は実のところ何も大したことはしていません。ゲキヤックによってフザケンナーとされてしまったところを、勇敢なケアキュアたちと、とても美しく気高い女の子の犠牲によって助けられたに過ぎません。それに、まだまだ教師としても美術家としても見習いです。この一年間、どうぞよろしく」

 

 ケアキュアたちが普段通っている公立あけぼの中学校。そこに、かつてルキナと心を通じあわせた青年が初任者研修生として教壇に立っていた。彼が教壇からチラと視線を振れば、4人の少女たちがそれとなく破顔して頷く。春河はるの(アストレア)春木りこ(イシュタル)川藤 みのり(エオス)獅子髪さおり(バウト)だ。青年は彼女たちの正体を知らされていたし、連絡も取り合っていた。

 『ゲキヤック事件』───画家と教師を志す清貧の青年が悪辣なゲキヤックによって利用されて街を破壊した事件は、世間の嫌われ者だったルキナの自己犠牲による事態解決という悲劇的な展開によって世間を好意的に騒がせることとなった。ケアキュアの一員となるも、自分を助けた青年を救うために力を使い果たして消滅したルキナの評価は、今までの悪行の反動もあってうなぎ登りとなった。世間ではルキナを再評価する声もちらほらと聞こえるし、ワイドショーでの扱いはこれまでの散々なものと打って変わって悲劇のヒロインのようだ。

 それに引っ張られるように、ルキナに救いの手を差し伸べることで間接的にゲキヤック討伐の助力に功を奏することとなった青年にも世間は高評価を与えた。己の不幸を物ともせず夢と希望を失わない慈悲深い青年は自治体から大いに表彰され、フザケンナー被害を問題視する国からも表彰され、青年の描いた絵画にも自然と注目が集まった。そんな流れで、もともとの本人の資質と努力も相まって、あれよあれよという間に美術教師の卵としての階段の入り口に招かれることとなったのだ。

 

「ふふ、今日から私たちの先生なんだね」

「なんだか、変な感じ!」

「ははは。僕もだよ。こんなに調子よく夢へのチャンスが巡ってくるなんて思ってもいなかった。あの娘のおかげだ」

 

 ホームルームを終えて、はるのたちは廊下の窓辺で青年と穏やかに会話を交わす。純白のシーツのようなカーテンが肌寒さに柔らかな湿り気を含んだ春風に膨らんで頬を撫でる。揺れるカーテンを背景にする少女たちを見て、青年の目が遠くを見るように切なげに細められる。きっと、彼が愛した紫陽花色の少女を思い出したのだろう。

 

「……先生、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよ。君たちこそ、心配ないのかい?」

 

 それはケアキュアとしての彼女たちに向けた問いかけだった。『ケアキュアが5人揃えば魔王をも倒せる』という伝説は、ルキナによって真実だと立証されたが、そのルキナの消滅はケアキュアたちに前途多難な未来を突きつけることとなった。伝説が絶対に実現できないとわかった上で魔王に挑まなければならないのだ。

 

「うん……まあ、なんとかなるよ!」

「そうだよ!きっと大丈夫!」

 

 強がってはみたものの、不安は拭えない。幹部であるゲキヤックにすら、強化フォームの4人でも手も足も出なかった。ルキナがいてくれたから倒せたのだ。幹部はまだ他にもいる気配があるうえに、その頂点である魔王は想像を超えて遥かに強敵に違いない。「どうやって魔王を倒すのか」はケアキュアたちの目下の悩みであった。

 

「不思議。あんなに嫌いだったのに、今はとってもルキナに会いたいの」

「ええ、私もです。できるなら、一緒にこの学校に通って、一緒に勉強して、一緒に遊んで、一緒に笑って、普通の友だちとして仲良くしたいです」

 

 さおり(バウト)みのり(エオス)がポツリと漏らす。全員に共通する本心だった。ルキナと青年が過ごした短くも慎ましやかな日々のことは彼から聞かされていた。聞き終えた時には胸が切なさで締め付けられていた。そうして育まれた愛のために自ら散ることを選んだ誇り高い少女のことを、全員が心から認めていた。自らが死ぬとわかっていてもなお果敢にゲキヤックに立ち向かったルキナの覚悟はどれほど辛いものだったのだろう。自分が跡形もなく消えることになっても構わないと未練を断ち切った彼女の愛はどれほど強かったのだろう。

 自分たちが完全となるためのただの戦力としてではなく、尊敬できる同年代の少女として、彼女たちはルキナとの再会を欲していた。

 

「うん、会いたいよ。僕も、あの娘に会いたい。もう一度会えるのならなんでもする。今度こそ幸せにしてあげる。会えるのなら……」

 

 決して叶わない夢だとわかっていながら、願わざるを得なかった。誰も何も言うことなく、全員が唇を引き結んでぐっと俯く。中学校独特の底抜けに明るい喧騒が遠ざかり、肩に重い空気がのしかかる。

 

「……ねえ、何かしら、あれ」

 

 りこ(イシュタル)の怪訝そうな声に弾かれて青年とケアキュアたちが顔を上げる。このなかで2番目に視力の高いりこの人差し指が窓の外、校庭に向けてまっすぐに伸びていた。その指先から伸びる見えない(ライン)を辿れば、校庭の正門に行き着いた。見れば、なにやら人だかりが出来ている。白痴めいた楽しそうな話し声がかすかにここまで聞こえてきて、事件や事故ではなくなにかを遠巻きに眺めているだけなのだとわかった。

 このなかで一番背の低いさおりが、モデルのように背の高いみのりの袖を悔しそうにつんとんと引っ張る。

 

「みのり~、正門になにがあるのか見える?有名人でも来てるの?」

「うーん、見えませんわ。りこさんは?」

「私もそこまでは見えない。すごい人だかりだもの。先生ならどう?」

「うーん、どうも大きな黒い車が停まってるのは見えるんだけど、僕はそんなに目が良いわけじゃないからなぁ。誰かの送迎かな?」

「───幸せにされる(・・・)方かもしれませんよ、先生」

 

 はるのが漏らした唐突な呟きに全員の目が集まる。野生動物顔負けに飛び抜けて視力と勘が優秀なはるのが、彼女にしかわからない何かを感知したのだ。不思議そうに自分を見つめる彼彼女らに、はるのは太陽のように破顔一笑して応える。

 

「さあ、迎えに行きましょう!5人目の仲間を!」

 

 

 

‡ ‡ ‡ ‡ ‡ ‡ ‡

 

 

 

 あけぼの中学校の裏駐車場に、ジャーマンシルバーに輝くメルセデス・ベンツのセダンが滑り込んだ。優美な曲線を描くボンネットで春朝の生硬い日差しを華麗に反射しながら、タイヤを軋らせて個々人に指定された駐車スペースに向かう。メルセデス独自開発のブレーキディスクが高張力鋼板特有の甲高い音を立ててスピードを瞬殺し、セダンは枠線ピッタリの位置で停まった。外国車特有の分厚いドアをあけて、運転席から一人の男が朝日の下に躍り出る。陶磁器のような額が爽やかな陽光をキラリと反射する。格子のようなバーコードヘアスタイルの隙間から頭皮が覗く、中肉中背の中年男───ズバリ、この中学校の教頭である。

 

「うむ、やはり新車はいい!」

 

 わざとらしい大声でわかる通り、これは嘘である。メルセデス・ベンツのEクラスセダンは新車であれば1000万円だが、当然、彼にそんな貯蓄はなかった。教頭は半年ほど前にだいぶ背伸びをして国産スポーツカーを購入したばかりだった。それは去年の秋にケアキュアたちとゲキヤックとの激戦のさなかにボンネットをエンジンごと叩き潰されて廃車となった。その保険金を元手に次の車を探したわけだが、欲しかった新車のベンツには到底手が届かなかった。というわけで、インターネットオークションで中古のセダンを値切りに値切って300万円以下で購入し、周囲には「新車を買った」と勢いで嘯いたわけである。彼は生来の見栄っ張りだった。事あるごとに過去の栄光や物品を自慢するので教師たちからは苦手とされているのだが、本人は気がついていない。

 

「……やけに正門が騒がしいな」

 

 出勤時間の重なった教師たちに自慢気に見せびらかすのが朝の楽しみなのだが、今日は校舎裏にまったく人気(ひとけ)がない。ボロボロの自転車に乗ってくる見習い美術教師には特に「男は高級セダンに乗るべき」という心得を教えてやりたかったのだが。シンとする校舎裏とは裏腹に、いつもなら青春の活況を呈する校庭から火事目当ての野次馬でも集まっているかのようなザワザワとしたざわめきが聞こえてきた。注目を浴びれなかったことにむすっと不満を覚えつつ、眉をひそめてそちらに向かう。

 

「おや、教頭先生。おはようございます」

「ああ、お、おはようございます、校長先生。この騒ぎはなんですかな?」

 

 生徒たちの人だかりは正門に集中しているようだった。そこに、彼らを諌めるべき教師たちも混じっていることに反射的に声を荒げようとして、横合いから歩いてきた校長の挨拶に我に返る。後ろ手に手を組んだ初老の校長は、見るからに気の優しい、サンタクロースに転職でもしたほうがいいのではないかといった風貌だ。見た目通り、気性は非常に穏やかで誰にでも分け隔てなく接し、生徒や教師に真摯に寄り添う姿勢はまさに教育者の鑑だ。また、ここぞという時には冴えた決断力を見せることから、学校どころか地域でも人気が高く、保護者からの信頼も厚い。若手から疎んじられる教頭とはまったくの正反対である。10歳は年が離れているが、自分が同じ年齢になっても同レベルの徳を積むことは出来ないだろう。そんな自分と相容れないはずの教頭のこともおおらかに受け止められる懐の大きさに劣等感を覚えるので、教頭は校長にいつも気後れしていた。

 

「今日、転校生が来ることはご存知でしょう?」

「ええ、知っています。どこぞのお嬢様だとかいう噂も仄聞していますよ」

 

 嘲るように鼻を鳴らす。平々凡々な教頭からしてみれば金持ちというだけで鼻持ちならないのに、新学期という繁忙期に仕事が増えるというのも気に食わなかった。別に新学期だからといって転校生の手続きで特に彼の仕事が忙しくなるわけではないのだが、気分の問題なのだ。彼は卑屈家だった。それ故に、転校生が家が裕福であることを鼻にかけるようなことをしたら厳しく叱りつけてやると息巻いていた。

 

「どうせ、その辺の中小企業の社長令嬢風情でしょう。お嬢様なんて話は尾ひれのついた大げさなものに過ぎませんよ。この騒ぎも、ひょっとしてその転校生の仕業でしょうか?まったく度し難いですな。苦労も知らない生意気な娘っ子なら容赦はしません。指導はこの私に任せてください」

「ああ……うん、そうだねえ」

 

 この校長にしてはやけに歯切れの悪い返事に、教頭は片眉をピンと上げた。教頭の疑念を察した校長が頬に少し笑みを浮かべる。なるべく彼を傷つけないようにという気遣いの気配がして、教頭は嫌な予感がした。

 

「たしか、教頭先生は車に詳しかったですよね?」

「は?まあ、はい。齧った程度ですが」

「それはよかった。私は車にはさっぱり門外漢でしてね」

 

 唐突な話の流れに混乱する教頭の目線を誘導するように、校長がすっと正門前を指差す。

 

「それでは……あの車って、やっぱりお高いんですよね?」

 

促された方向に目線を飛ばす。人間の生け垣の向こう側、丸石敷きの正門前に一台の車が停まっていた。転校生のお嬢様とやらが乗っている送迎用の車なのだろうと教頭は推察した。

 

「で、デカいですな」

 

 見るからに高級車という感じで、やけに巨大で角ばっている。間違いなく国産車ではない。デザインはとても古く、イギリス製クラシックカー特有の古き良き質実剛健な雰囲気がある。興味をそそられた教頭は懐から取り出したメガネをかけ、目を凝らしてその全体像を視認する。全長は6メートル近く、横幅は2メートルを超えて、ほぼ4トントラックと同じサイズだ。視線が重厚なブラックと上品なシルバーの2トーンカラーのボディを眺め、鏡のように磨き上げられたクロームメッキ加工のドアフレームへと流れて「まさか」と胸中に呟き、優雅な丸目4灯の横並びヘッドライトを眺めて「冗談だろう」と全身から汗を吹き出し、そして中世ヨーロッパの盾を思わせるグリルの頂点に燦然と輝く羽ばたく女神像の紋章(エンブレム)を目にして───教頭は脳天に一撃を食らったかのように目眩を覚えるほど仰天し、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

 

「ファ、ファッ、ファントム(ファイブ)ぅ!!!???」

 

 『ロールス・ロイス・ファントムⅤ』。運転手付き高級車(ショーファードリブン)メーカーの代名詞とも言える世界に名だたる高級車メーカー『ロールス・ロイス』が生み出してきた歴代の名車にあって、それはひと際特別な傑作車である。強力なV型8気筒エンジンを心臓とするこのモンスターは、1959年にわずか516台のみ製造された超希少なモデルであるからだ。すべての部品が余さず一流の職人によって手がけられたそれは、もはや博物館の目玉展示物となるべき技術・芸術的な遺産のレベルである。ボンネットに耳を近づけてもエンジン音が聞こえないという驚異の静粛性と1950年代の車とは到底思えない強力無比な馬力を両立させたこの名車中の名車は、現存数を考えてもその価格はもはや値のつけようもなく、間違いなく億の単位であろう。会社員は生涯で3億円を稼ぐというが、一生タダ働きをしてもまず手が届くまい。メルセデス・ベンツもいい車だが、相手が悪い。なにせ“格“が違う。一生の内、一瞬でも生で見られるだけで超幸運というべき並外れて価値のある車なのだ。

 これほどの超々高級車を送迎用として与えられる“中小企業の社長令嬢”など存在するはずがないことは自明の理だ。世界的な億万長者(ビリオネア)、もしくは国家元首どころか王族が所有していてもおかしくない。実際にファントムⅤはエリザベス女王専用車にされたこともあるのだ。

 

「ははあ。教頭先生の反応から察するに、そんなに高いんですか。高そうな車だなとは思いましたが」

「た、た、た、高いなんてものじゃ……!」

 

 度肝を抜かれた教頭が口から泡を吹くなか、ガコッと頑健な音を立てて運転席のドアが開いた。赤煉瓦色の執事服を粋に着こなす青年である。年齢は20代後半だろうが、堀の深い眼窩は規律を叩きこまれて鋭く、引き締まった目元口元は内面の老成を示している。日本人離れした長い四肢と首は適度に太く、彫刻家が石塊から掘り出したような肉体は黄金比を描く。テレビに映るアイドルが裸足で逃げ出すような美青年だった。高級外国車からどんな人間が出てくるのかと期待していた女子生徒と女性教師が、予想の遥かに上をいく結果を見せつけられて思わず黄色い声をあげる。お抱え運転手らしい青年はそちらに構う様子もなく、優雅な身のこなしで後部座席の主人のもとに歩む。

 

「どうぞ、お嬢様」

 

 白手袋をつけた手で宙に軌跡を描き、後部座席のドアを壊れ物に触れるように丁寧に音もなく開け放つ。

 金粉のような春の光を浴びて、紫陽花色の(・・・・・)ツインテール(・・・・・・)が靡いた。朗らかなそよ風を受けて乱れる髪にそっと指を走らせて、少女が柔和に微笑む。人々のざわめきがピタリと止んだ。ひと目見て、全員がストンと見事に恋に落ちていた。非の打ち所のない完璧な美少女だった。年相応の稚気で活発そうな容姿にどこか気品のある大人びた印象が重なる。敷き詰められた玉石をじゃりっと踏みしめて、少女が軽やかな足取りで総革張りのシートから降り立つ。

 

「それじゃあ、行ってくるわ。劇夜(げきや)

「行ってらっしゃいませ、お嬢様。新たな人生の門出を心からお祝い致します。どうかお幸せになられますよう」

 

 執事がこれ以上ないほど恭しく(こうべ)を垂れる。彼に笑みの一瞥を賜ると、糊が隅々までキチッと効いた新品の制服を颯爽と風に揺らし、美少女は期待に目を輝かせて校舎に向かって歩みだす。ライトパープルの瞳で歓喜の光がキラキラと踊り、想い人との再会を目前にして火照った頬が淡い笑みを浮かべている。光源が人の形をしているような眩い存在感に気圧され、人垣がモーゼの大海のように割れて彼女のために道を開けた。校長も教頭も圧倒されて口を開けることもできない。

 ふと、少女が視線を感じて校舎を見上げる。少女は視線を彷徨わせること無く、窓から身を乗り出してこちらを凝視している4人の少女と若い男性新任教師を見つけた。ポカンと口を開けて硬直する3人と誇らしげに笑う一人にウインクを投げかける。そして、新任教師に情熱的な眼差しを流す。半年経って、社会に出て、前より少し大人の男らしくなった青年と視線が交わる。距離が離れていても青年の鼓動と自分の鼓動が重なるのを知覚する。熱く波打つ胸の高鳴りを感じながら、紫陽花色の少女は幸せそうに微笑んだ。

 

本当に幸せそうに、微笑んだ。

 

 

 

 

END




これが本当のウルトラハッピー!!


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あとがき&設定など

読まなくても大丈夫なやつです。


 無事に完結できました。読んでいただき、感謝です。書き出した当初に思い描いていたような終わり方に持って行けて満足です。完結できたことにホッとしています。よかった。

 

 この小説は、かの有名な『ガンスリンガーガール』の二次小説である神作『ブリジットという名の少女』を僕なりに咀嚼してアウトプットしたものです(未読の人、人生損してますよ)。命の終わりに向かっていくことを自覚しているTSっ娘が、友情を知って、恋を知って、消える寸前のロウソクのように最期の輝きを魅せて華々しく散る様を描きたくて、このような小説を書く運びになりました。咲いて散るからこそ華は美しいのです。

 

 しかしながら、僕には主人公が死んで物悲しく終わるエンディングはどうしても書けませんでした。鬱エンドってどうしても苦手でして……。たまに読んだり描いたりしたくなるんですけどね。でも、最後にはやっぱり、みんなでハッピーエンドを迎えさせたいのです。そういうわけで、最終回のトゥルーエンディングは当初から決めておりました。

 

 読んでいて面白かったかは読んで下さった方々に判断して頂くとして、僕は書いていて楽しい作品でした。特に主人公ルキナと青年のイチャイチャした絡みはグフグフと気持ちの悪い笑みを浮かべながら書いてました。グフッグフッ(灬´ิω´ิ灬)

 

 ちなみに、この小説が途中でデータが吹っ飛んで消えたことによるショックが別作品の『白銀の討ち手』の復活に繋がっていたりします。そういう意味でも、僕にいろんな影響を与えてくれた小説です。ありがとう、ルキナ。さようなら、ルキナ。お幸せに!!

 

 

 

【設定】

 

『ケアキュア』

名前の通り、まんまプリキュアのパクリ。天界の女神から与えられた力によって少女たちが美少女戦士へと変身する。なお、前書き後書きでも描いたとおり、今作での女神とは歴戦の猛者である仮面ライダーがTSしたものであるため、そのバトルスタイルや名乗り台詞などが仮面ライダー風になっている。

 

『ルキナ』

ローマ神話における“誕生”を司る女神“ルーキーナ”から来ている。メスガキ要素を取り入れたTSっ娘を描いてみたいということで生まれた主人公。後半になるとTS要素はなくなってただの乙女になってしまった。だがそれがいい。

 

『ゲキヤック』

勇者王ガオガイガーに登場する“機界四天王ピッツァ”がモデル。彼と女神ルーキーナにはなにか繋がりがあるようだが、作者本人もそこまで考えていない。作者個人の裏設定としては、ゲキヤックはかつて、違う世界の違う歴史で、画家を志す清貧の青年として生きていた過去があるということになっている。「彼女と会うためならなんでもする(・・・・・・)」という言葉通りに行動してしまえば、誰でもゲキヤックのように歪んでしまうのかもしれない。




これで本当に終わり!


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