恋姫†無双 七天の御使い (にゃあたいぷ。)
しおりを挟む

雌伏編
盧植塾の三羽烏    -劉備組


 墨を擦る音が重なる、墨香る部屋の中で門下生が水を張った硯に墨を擦り付けている。

 三人が座れる長机。右隣には如何にも冴えない風貌の女が真面目な顔付きで背筋を伸ばしており、左隣ではまだ講義も始まっていないにも関わらず眠そうな顔をしていた。そんな二人に挟まれる私はと云えば、特筆すべき点もない平凡な女であると自覚する。

 二十人近い門下生が詰める中、そんな三人娘が陣取るのは部屋の後ろ側でその時が来るのを今か今かと待ち続ける。

 

「皆さん、お揃いのようですね」

 

 ふんわりとした雰囲気を持つ熟年の女性。

 この塾の講師でありながら運営を携わる彼女の名は慮植、字は子幹。そして真名を風鈴と云う。そして私の両隣を固めるのは公孫瓚こと白蓮、劉備こと桃香であった。

 部屋の後ろを陣取っているのは桃香が講義を聴いていると眠たくなってしまうためだ。

 講義の円滑な進行のために後方へと追いやられ、それに付き合う形で私と白蓮も後ろに下がっている。

 

 本日、漢王朝の法律に関する講義のようだ。

 私としては既に知っている内容ばかりで、確かに桃香が眠たくなるという気持ちも分からなくは――いや、勉強家ではない桃香が法律を理解しているはずがない。武人肌の白蓮も勉強家という訳ではないが、真面目な顔つきで盧植先生の講義を聞き入っている。彼女は何かと要領が良く、講義を聞いているだけでも大まかな内容を掴むことができた。その上で彼女は実家でも武芸の鍛錬に励んでおり、中でも馬術の腕前は頭一つ抜きん出ているということである。基本的になんでもできるのが白蓮という人間であった。事実、盧植塾で最も見込みのある門下生は白蓮のことだと私は思っている。

 そして私は平凡の枠を超えることができない凡人だと自覚している。

 

桜花(おうか)、桃香は起こさなくても良いのか?」

 

 白蓮に脇腹を肘で突かれて問いかけられるも私は頭を横に振る。

 

「どうせ起こしたところで頭に入らないから構わないよ。あとで私が面倒を見るからね」

 

 この桃香という人間は勉強が苦手だった。

 要領を掴むのが得意な白蓮は集団で行う勉学でも後れを取ることはないが、どうにも桃香は延々と話を聞き続けるだけの講義は合わないようである。話を聞くのが苦手ではなくて、今すぐに必要と思えない話を聞くのが苦手と言うべきか――後々に必要なことだとは理解しているようだが、どうにも内容が頭に入って来ないようだった。

 そんな彼女に講義内容を覚えさせるには少しばかりのコツが必要になる。

「桜花も大変だな」と白蓮は呆れた笑みを浮かべながら他人事のように告げる。

 

「こいつの成績が未だに上位三番目に入っているのは間違いなく桜花のおかげだよ」

 

 講義が始まって間もなく、既に舟を漕ぎ始めた桃香は二人で見やった。

 

 

 放課後、誰もいなくなった部屋で桃香と今日、講義でやった範囲の復習をしている。

 白蓮は講義を終えるとすぐ武芸の鍛錬のために実家に帰ってしまうので基本的に居残り組は桃香と私の二人だけ、こうして机を挟んで顔を合わせるのも見慣れたものだった。「うー、難しいなあ」と頭を抱える桃香に眠気に苛まれる様子はない、先程まで半ば寝ていたこともあるのだろうがこうやって一対一の場を用意してやれば桃香が居眠りすることはなかった。

 

「極端な話、世の中に法がなかったら暴力だけがものをいう修羅の世界ができあがるっていうわけだね」

「その例えは逆にわかりにくいかな――でも民が法によって守られているのはわかったよ。それで法を作って守らせるのが国で、国が法を守らせることで民を守っているんだよね?」

「正確には権利と財産だね。国が定める法っていうのは基本的に民の権利を保証するためっていうのが基本なんだよ」

 

 ふむう、と桃香は腕を組んで考え込んだ。

 彼女は決して頭は悪くない、しっかりと説明をしてやれば理解できるだけの頭はあるのだ。

 少々お気楽な気質を持っているが、それはそれだ。

 

「でもねでもね、法を定めるのが国でも必ずしも民のための法にはならないんじゃない?」

 

 桃香は決して頭が悪いわけではない。他者から与えられるだけではなくて、自分で物事を判断できるだけの頭はある。彼女に足りないのは知識と情報、それに経験の三つだった。

 

「近頃ではまた税収が増えたって聞くし……」

 

 考え込むように続ける桃香に「そうだね」と私は頷き返す。

 

「権力を使って私腹を肥やしたり、好き放題する奴もいる。そういうのはやっちゃいけないことだ」

「そうだよね!」

 

 私が同意すると嬉しそうに身を乗り出したのを見て、でも、私は笑みを浮かべたまま話を続ける。

 

「近頃は異民族の襲撃を激しくなったという話もあるし、不作続きで民の中から反乱も相次いでいる――そんな彼らから民を守るための兵力が足りなくなったから、その不足分を補うために税収を増やしたと考えることもできる」

「うーん……でも横領してるって話はどこでも聞くよ?」

「そういう者もいるし、それは決してやってはいけないことだ」

 

 でもね、と付け加える。

 

「官僚の全てが悪いとは限らないよ、中にはきちんと仕事をしている者だっているはずだ。物事を一と零だけで考えると碌なことにならない」

 

 そう言うと彼女はまた、うーん、と唸りながら考え込んでしまった

 繰り返しになるが彼女に足りないのは知識と情報、経験の三つだ。

 

「基本的に人間というのは都合の良い事実から目を背けることはできない。どれだけ考えたとしても都合の良い考えから逃れることはできないんだ」

 

 桃香の視野は広い、些細なことでも見落とさない。地平の先まで見渡すことができるんじゃないかって思う時がある。

 

「だから私達は様々な可能性を考えることをやめるわけにはいかないんだ」

 

 それでいて路傍の石ころを拾い上げられるのが彼女の利点だった。

 目に入っても見えない、もしくは見て見ぬふりをしているか。彼女はそういったものを見つけることができることを私は知っている。

 何故なら私が今、ここにいるのが答えになる。

 

「……それに官僚の中には悪いことをせざる得ない者も居るかもしれない。世の中を変えるためには相応の権力が必要で、それを手に入れるためには何処かで手を汚す必要が出てくる」

「綺麗事が悪いことのように聞こえる、よ?」

 

 少し躊躇した様子で問いかける桃香に私は首を横に振る。

 

「綺麗事は善か悪かでいえば間違いなく善かな。理想や綺麗事っていうのは意外と大事でね、なにかを為そうとするには必ず必要になるものなんだ。信念だけでは駄目だ、理想だけでも駄目だ。もちろん綺麗事だけでも駄目だ。善だけでは成し遂げられないこともあることを忘れてはいけない」

 

 ふと真剣な顔付きで私のことを見つめてくる桃香の姿に気付き、さりげなく横に顔を背けた。そうも真正面から見つめられるのは少し気恥ずかしい。

 

「えーっと、その……だ。善を為す時は、それで守れるものと得られないものを比べるのが良い。悪を為す時は、それで失うものと得られるものを比べると良い、と私は思っているよ」

 

 なにかを為すためには善も悪も必要だと私は考えている。それでも、と彼女は口を開いた。

 

「悪いとわかっていながら悪いことをするなんてできないよ」

 

 そう告げる彼女に、それでも、と私も合わせて口にする。

 

「悪行も必要になる時もある」

 

 睨みつけるように私を見る彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「善を守り続けるのが君の意思なのか、善で何を守りたいのか。よく考えると良いと思うね」

「……桜花、貴方は悪行を認めるの?」

「世の中には善意から始まる悪行がある、悪意から始まる善行がある。例えば、そうだね。子供がお腹を空かせていたからと食べ物を盗むことは善意からの悪行だ、周りから良い目で見られたいがために自分よりも見た目が劣った者を傍において可愛がるのは悪意から始まる善行と呼べるかもしれない」

 

 桃香はじっと私のことを見つめている。強い意思の込められた瞳、思わず見惚れてしまいそうになったのを私は笑みを浮かべて誤魔化した。

 

「どちらが良いのか悪いのかの判断なんて、所詮は個人の物差しでしかない」

 

 ふと桃香の視線が落ちる、ここで考え込むことができるのは彼女の利点だった。

 悪いことを悪いと言えればどれだけ楽だろうか、善なる心から出た行為であれば正義と言えればどれだけ楽か。悪でもあり、善でもある。善悪二つの性質が内包された問題に直面した時、彼女は安易に答えを出そうとはしなかった。それは優柔不断とも取ることができるが、ここで思い悩むことができる彼女のことを私はとても好ましく思っている。

 それでも、人間として生まれた以上は決断しなくてはならない時がある。悪とわかっていても目的のために悪事に手を染めなくてはならない時があり、それでも善の道を歩もうと足掻き続ける者もいる。それでも、やっぱり大切ななにかを守るために悪事に手を染めてしまう者がいる。

 それでも、なのだ。私達は何時だって、それでも、と叫んで生きている。

 

「答えは、ないのかな?」

 

 縋るような声に「完全無欠の答えなんてどこにもないよ」と私は首を横に振る。

 

「時流や状況、思想によって答えは如何様にも変わっていくんだよ。あるのはその場限りの最善の答えだけだ」

 

 だから、と付け加える。

 

「私達は考え続けなければいけない。苦しくても、それでも、と叫び続けるんだ」

 

 桃香に足りないのは知識と情報、それに経験の三つである。この三つを満たした時の彼女は――完璧とまでは云えずとも大きく踏み外すことはない。

 

「生きるって辛いことなんだね」

 

 何処か疲れたように口を開いた桃香に「それでも私達は生きている」と告げる。

 私は桃香という人間が好きだ、愛していると言っても良い。慮植先生は大業を為すだけの器があると言い、白蓮は人を惹きつけるだけの何かを持っていると言う。でも私は思うのだ、彼女が本当に素晴らしいのはそこではない。

 一生懸命に思い悩むことができるのが彼女の魅力だと私は思っている。

 

「……それでも、私は悪いことは悪いと言える私でありたい」

 

 これから先、彼女が何を見て、何を思い、何を為すのか。

 傍らで見ていたいと、そう思うのだ。

 

 

 桃香と白蓮と共に私は、地元の幽州涿郡で有名な桃園に足を運んでいた。

 盧植塾の卒業が決まった三人は一度、それぞれの実家に戻ることになっている。これを永遠の別れにするつもりもないが、今の御時世では何時、命を落とすことになるかもわからない。さようなら、という言葉だけでは素っ気ないと思った私は二人を桃園に誘って、酒を振る舞うことにしたのだ。

 とはいえ、盧植塾で何年も肩を並べて勉学に励んだ仲だ。別れるとなると、どうしても湿っぽくなった。

 

「私達には血の繋がりなんてないけど……心は何時でも同じ場所にあるよ」

 

 酒の注がれた盃を片手に、まず口を開いたのは桃香だった。

 

「ああ、そうだな。私達は別の道を歩むことはあっても心は共にある」

 

 白蓮が盃を片手に掲げると、それに合わせて桃香も盃を天に向ける。まるで義兄弟の契りでも交わすかのようだ、と私は呆れ混じりに苦笑する。

 

「同じ志なんて必要ない、義兄弟の契りも必要ない。道を違えることだってある」

 

 満更でもない、と二人の盃に添えるように私は自らの盃を空高くに掲げる。

 

「よく私達は喧嘩をするよね」

「意見が合わない時の方が多い気がするよ」

「呆れることもあるかな」

 

 それでも、と三人揃って口にする。

 

「私の名は劉備玄徳、真名は桃香」

「我が名は公孫瓚伯圭、真名は白蓮」

「私は簡雍憲和、真名は桜花」

 

 名乗ったことに意味はない。

 三人で互いを見つめ合って、なんだか可笑しくなって、つい三人で笑いあった。

 名乗ったのは、それが自然の流れのように思えただけだった。

 だから続く言葉も意味あっての言葉ではない。

 

「私達は家族だ」

 

 チン、と控えめな音が鳴る。

 音が重なることもなく、ただ一音だけが綺麗に鳴り響いた。




初投稿です。革命をプレイしたので勢いのまま、赴くままに。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

水鏡女学院の問題児  -徐庶元直

 水鏡女学院には問題児がいる。

 その者は留年に次ぐ留年、そしてまた留年を重ねており、そして今年もまた留年をしようとしていた。そして今しがた水鏡先生と呼ばれる院長にお叱りを受けた直後であり、きっとうんざりとした顔で院長室から出てきたに違いない。

 最後の表現が少し曖昧なのは、私がその当事者である徐庶元直、その人であるためだ。

 

 同門に万年留年生と陰口を叩かれる私は、ああ疲れた、とささやかな愚痴を零して欠伸する。

 耳にタコができる程、何度も聞かされてきた水鏡先生の叱咤激励――今日に至るまでの経験から私を相手にするだけ無駄だと理解できているはずなのに、今日も今日とて水鏡先生は懲りず飽きずに私を院長室に呼び出しては怒鳴り声を張り上げるのだった。水鏡先生ともあろう御方が無駄な時間の使い方をするものである。

 もういっそ私の改心なんて諦めてしまうのがお互いのためではないだろうか?

 

「元直先輩、良い加減に講義に出たら良いのでは?」

 

 そんな私の後ろをひょこひょこと付いて歩くのは見た目幼き少女、彼女はじとっとした目で私のことを見上げてくる。

 

「そうは言うけどね、孔明。朝起きるのは辛い、世の中にある最大の苦行は早起きであり、最大の幸福は二度寝であると私は断言できるよ」

 

 そのように私が断言すると少女はあからさまに溜息を零してのける。

 

「先輩は素晴らしい頭脳を持っているのに、どうしてこうも残念なんでしょうか。天は才を与える相手を間違えました、世の中にはもっと実直で素晴らしい方が幾らでもいると思います」

 

 孔明が先輩に対する尊敬の念が欠片も感じられないことを口にしながら空を仰いでみせる。

 私が留年を続けている理由は成績に関することではない。むしろ、この四年間で水鏡女学院の主席が空席になっている原因は私にあるし、成績が低い者は退学という手続きを取るのが当学院だ。私の留年が許されているのは、それだけ私が有能であるということの証左であるとも云える。

 可愛い後輩の悪態を笑って聞き流していると孔明は呆れたようにまた溜息を零した。

 

「やっぱり毎朝、私が先輩を起こしに行くべきなのかな……」

 

 顎に手を添えながら眉間に皺を寄せる思案顔。そんな先輩想いな後輩の名は諸葛亮、字は孔明と云う。

 彼女は水鏡女学院きっての俊才との評判を持つ少女で、卒業までに六年間通う必要があるとされる水鏡女学院を僅か二年で卒業しようとしている程の頭脳の持ち主でる。また彼女は四年間も空席であった主席に手が届くのではないかと注目を浴びており、恩師、水鏡先生からは「天にすらも手が届く二人の内一人」と評価される程に期待を受けている。

 四年前までは女学院創設以来の英才と呼ばれた徐庶元直が「ねえ私は? ねえねえ私は?」と水鏡先生に直接問うてみたところ「お前はまともに働かないだろ」と言われた、解せない。

 

「私と孔明ちゃんが知恵を絞っても先輩の性根を直す術が思いつきません……世の中には解決しようがない無理難題があるという不条理を嫌でも思い知らされます……」

 

 ふらりと孔明の後ろから姿を現したのは龐統士元、よく孔明と一緒に行動しているのを見かける。

 パッと見た感じでは臆病そうな彼女は、恩師が言っていた「天にすらも手が届く二人の内一人」の片割れで、その気弱な見た目とは裏腹に鋭く切れる頭脳を持っている。この森羅万象を司ると自称する我が頭脳を持ってしても、彼女の切れ味には一歩遅れを取ると言わざる得ない。

 事実、彼女には、女学院で開催された将棋大会では私と孔明を二人抜きして優勝を飾ったという実績があった。

 

「だ、駄目だよ、士元ちゃん。先輩のためにもしっかりと考えなきゃ……諦めたら、それでおしまいなんだよ?」

「先輩なら退学になっても苦にしない、と思う……何処にでも仕官できちゃいそうだし……」

「そ、それはそうだけど……やっぱり卒業して欲しいし、先輩と一緒に卒業したいし……」

 

 駄目な先輩の将来を気遣ってくれる健気に後輩二人の姿はまさに感涙ものである。

 この感動が少しでも私の性根に染み渡ってくれれば良いと思うのだが……残念ながら私の性根は砂漠のように吸水性が良いようで、二人から得られた潤いでは乾ききった私の心を満たすことができないようだ。まるで笊のようにすり抜ける。

 私は私の糞っぷりに悲観せずにはいられない。なけなしの良心が健気な後輩二人を哀れんでいる。

 

「この先輩を改心させることよりも、世の中を正す方が簡単だと思う……」

「それは分かってるよ、士元ちゃん。例えこの青空が黄色で染まることがあっても先輩の性根は直らないよ」

 

 天下を代表する二人の頭脳から見放された私は、演技がかった仕草で大袈裟に泣き真似をしてみせた。

 

 

 可愛い後輩二人のために三日も休まずに出席した私は一週間の休養を取っている。

 そしてまた院長室まで呼び出されることになり、生真面目な私は恩師の面子を立てるためにも仕方なく院長室まで足を運ぶことになった。

 私のような人間に慈悲を与えるとは――水鏡先生も酔狂な方である、水鏡だけに。

 

「あなたを今年で卒業させます、というよりも良い加減に女学院から出て行きやがれ」

 

 部屋に入り込むや否や、我が恩師は吐き捨てるように言い放った。

 

「ま、待ってください、恩師。水鏡女学院では一年間で約三分の二以上の出席、日数にすると二百四十日以上の出席――もしくは教科一つに対しては約四分の三、即ち六十六日分の出席が認められない限りは留年をすると定められているではありませんか! そのような特例を認めるべきではありません、女学院の規範が乱れる要因になりかねません!」

「そういう規則が分かっているのに守らないところが本当に気にくわないわね、ふてぶてしいとは貴方のためにある言葉よ」

 

 恩師との付き合いも今年で六年目、院長室で何度も語り合った仲である彼女に好好先生と呼ばれた面影はない。最早、体裁を取り繕うことをやめてしまっている、嘆かわしいことに。

 

「この五年間、正確には一週間前の時点で貴方は卒業に必要な出席日数を満たしたわよ。おめでとう、わーぱちぱち」

 

 抑揚ない声色で手を叩く恩師の目には欠片一つ分も笑っていなかった、むしろ殺意すら感じるほどに冷ややかだ。そんな恩師の様子に私は狼狽えずにはいられない。

 

「そ、そんな……働かずとも手に入る清潔な衣服、美味しい御飯、快適な宿舎という極楽浄土を手放さなくてはならないなんて……くっ、この徐元直ともあろう者が相手を見誤るなんて耄碌したものですね!」

「誰かを殺めることは悪徳なのかもしれないけど、貴方を殺めることだけは善徳になるような気がして仕方ないわ」

 

 働きたくないでござる、と駄々こねる私に恩師は呆れた様子で大きく息を吐き捨てる。

 

「女学院にタダ飯を食わせる余裕なんてないわよ。むしろ留年なんていう制度が施行されたのは貴方が始めてなんだから、どうして五年前の私は貴方に真名を預けてしまったのかしら。ねえ、珠里(じゅり)?」

 

 水鏡女学院では主席者には院長から直々に真名を預けられるという名誉が与えられる。貴方なら主席卒業は間違いないからと恩師から真名を預けられたのが今から五年前、それから四年間、主席が空席だったこともあって恩師から真名を預けられた者は出ていない。

 

「そんなことを言わないでください、みか……」

「殺すわよ?」

 

 にっこりと笑顔を浮かべる恩師に、私は満面の笑顔で返した。

 ぜんぜん真名を許してくれてないじゃないですか、恩師よ。

 しばらく見つめ合った後、恩師は大きく溜息を零して口を開いた。

 

「貴方は現時点を持って卒業資格を満たしたことを認めます」

「……つまり?」

「さっさと女学院から出て行け、穀潰し」

 

 こういうやりとりがあって、電撃的に私は女学院を追い出されることになったのである。

 

 

 あれから一ヶ月後、私の荷物が全て燃やされてしまった。

 卒業したのだから出席する必要がないと部屋に引きこもっていたのがいけなかったのだろうか、それとも恩師からの追及をのらりくらりと聞き流し続けていたのがいけなかったのだろうか。可愛い後輩に誘われて昼食を摂り、そのついでに将棋を打っていた間に、部屋に置いていた荷物は全て庭に持ち出されて家具ごと燃やされていた。兵は拙速を尊ぶというが――なるほど、これは確かに手の打ちようがない。対策を取る暇もない迅速な行動は兵法のお手本のようだ。

 指示を出したのは我が恩師、主導したのは愛しの後輩。孔明は呆然としている私と燃え盛る火を見比べて、光悦に頰を赤らめていた。その姿に、こいつはきっと後世千年以上に渡って語り継がれる天下の放火魔になるに違いないと私は確信する。

 ビビッと来ましたよ、ビビッと。

 

「あわわ、孔明ちゃんがいけない扉を開いちゃいました」

 

 ふるふると震えて狼狽えるのは、つい先程まで私と将棋を打っていた可愛い後輩の士元だ。

 まるで心を許した親友が犯罪に手を染めたことを知った時のようにかおを青ざめさせてしまっている。

 これには私も同情せざる得ない。

 

「あ、そういえば先輩とは真名を交換していませんでしたね」

 

 燃せ盛る私の私物を後ろに、とてとてと満面の笑顔で孔明が駆け寄ってくる。

 

「これでお別れになるのも寂しいです。真名を交換しましょう、そうしましょう」

 

 私の私物を燃やす主導をした愛しい後輩は、まだ赤らめた頰で息を上気させながら提案する。

 

「ああ、それもそうだな。私は珠里だよ」

「はい、私は朱里です」

 

 むしろ今まで交換していなかったことが不思議なほどだ。そう思って真名を交換すると私の隣に控えていた士元は信じられないものを見るような目で私と孔明を何度も見直すのであった。そんな可愛らしい仕草を見せる後輩とも、ついでなので真名を交換しておいた。

 

「さて真名を交換した仲ということで部屋に泊めてもらおうか」

 

 はわわあわわと狼狽える二人を押し切って部屋に泊めてもらった翌日、激おこぷんぷん丸な恩師に簀巻きにされた私は牛車に乗せられて隣町まで運ばれた。ドナドナと、好好(よしよし)と、その時の恩師がこの五年間で見せたことがない清々しい顔をしていたのを私は忘れない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

荀家の図書目録    -荀諶友若

 頭が痛い。

 全身を打ち付けてしまったのだろうか、鈍い痛みが全身を苛んで身動きが取れない。

 このまま横になってやり過ごそうとも考えたが、周りが騒がしくて、それが頭に響いてそれどころではなかった。

 目を開けると、そこには知らない顔があった。女性か? 随分と悲痛な顔をしているが――どうやら私は彼女に抱きかかえられているようである。

 そのまま彼女の顔を見ていると、ふと目が合って、少女はきょとんとした顔を見せる。 

 

香花(きょうか)姉様!? 良かったわ、姉様が目を覚ましたわ!」

 

 少女は歓喜で笑顔を浮かべたが、その甲高い声が頭に酷く響いた。

 ぐわんぐわんと揺れる脳に顔を顰めると「何処か痛むの!?」と彼女は私の体を乱暴に揺すり始める。

 やめてくれ、本当に死にそうだ。驚くほどに力が入らない体では姿勢を維持することもできず、ぐでっと少女に身を委ねる。

 心なしか懐かしい感じのする匂い、なんとなしに安心する感覚に私は再び目を閉じた。

 此処は何処だとか、自分が誰だとか、今はどうでもいい。

 とにかく寝かせて欲しい。

 

「香花姉様、死んじゃ駄目よ! 姉様、姉様!」

 

 前後に体を揺するのは本当にやめてくれ、死にそうだ。

 

 

 どうやら私の名前は荀諶と云うようだ。

 字は友若、真名は香花。名門荀家に連なる子の一人、今は屋敷の隔離された部屋で療養している。

 目覚めてから自分の様態について詳しく話を聞き出したところ――全身打撲に両足骨折、片腕の骨には罅が入っており、折れた肋骨が内蔵を痛めている可能性もあると散々の状態であった。よくもまあ生きているものだと思わざる得ない。何が起きたのか気にはなったが、詳しく教えて貰ったことはない。ただ私が助けられていたのが野盗の拠点にしていた場所であること、周囲の私を哀れむような視線、記憶を失う前は違ったという妹の極端な異性嫌いからなんとなく察することはできている。そして私の記憶喪失は精神的苦痛から逃れるための自己防衛ではないかと医師からの判断が下った。

 そういうわけで私は怪我がそれなりに治っても療養という名目で外部から隔離された生活を続けており、二ヶ月が過ぎた今も私の部屋に訪れるのは身内と医師だけだった。

 

「香花姉様、これで荀家にある書籍は全部よ」

 

 書籍を両手に抱えて部屋に入るのは私の可愛い妹の荀彧、真名は桂花《けいふぁ》。

 私は手に持った書籍を読みながら「ありがとう」と告げると、桂花は床に書籍を置くと呆れた様子で部屋を見渡した。書籍で四方八方を埋め尽くされた部屋の中、今や私室には荀家にあった全ての書籍が集められている。また気付いたことや思いついたことは紙や木簡、竹簡、障子や襖に書きなぐっていることもあって散らかり放題である。

 まだ足が不自由なままなこともあって、部屋の整理なんてできるはずもなかった。

 

「ずっと部屋の中にいて退屈なのはわかるけど、もうちょっとなんとかならないわけ?」

 

 猫耳フードの可愛い妹も記憶を失った直後こそ辛気臭い顔をしていたが、今では妙な気遣いもなく自然と話せるまでには回復していた。

 

「……桂花、整理整頓は何のために行うものだと思う?」

 

 そんな彼女を試すように問いかけると、可愛い妹は訝しげに私を見返す。

 

「何故って……そりゃ綺麗にするだめでしょ?」

「違うわよ、何処にものがあるのか把握するためよ」

 

 そういうと妹は湿っぽい目で私を見つめながら「孫子」と呟いたので、私は山積みになった書籍を指で差した。

 

「上から十二番目から十四番目くらいにはあると思うわ」

「げっ、本当にあるわ……もしかして、全部覚えてるわけ?」

「まさか、覚えている分だけよ。ある程度、九割方?」

 

 ペラペラと書籍を捲りながら返事をすると可愛い妹は溜息交じりに「これは捨てても良いのよね」と散乱した紙を手に取る。そして、その中身を見たせいなのか桂花は動きを止めてしまった。

 

「これって、昨日の棋譜よね?」

「そうよ、勝敗は桂花の方が上だったわね。私の十一勝十六敗、流石は荀文若、私の妹ってところね」

「本を片手に打ってた癖に……悔しいなら真面目に相手をしなさいよ。手を抜かれたと思って屈辱だったんだけど?」

 

 別に手を抜いていたわけではない。

 桂花は手を差すのが遅いので、待っている側は暇なのだ。彼女が考えている間に次の手を決めているから片手間に書籍を読み漁ることができているだけである。

 しかし可愛い妹は私の言い分に耳を貸そうとはせずに床に散らばった紙をパラパラっと目に通す。

 

「二十七局分、全部、覚えているわけ?」

「完璧に憶えているわけじゃないわ、流れを憶えていただけよ。一手から諳んじることはできても一場面を切り取ることは難しいわね、だから書き起こして確認してみたってわけ」

「書き起こしてみただけって……」

 

 別に可笑しなことではないだろう、まじまじと棋譜を見つめる妹に私は首を傾げる。

 

「もしかして、この部屋にある書籍も全部、憶えてたりする?」

 

 おずおずと問うてくるいもうとに対して「全部じゃないわ、九割方」と返した。

 流石に一字一句までは自信がない。

 

 

 可愛い妹の桂花は、荀家の中でもとびきりに優秀で王佐の才と称される程だった。

 そのせいか彼女を求めて数多くの書簡が送られてきており、仕官先は選り取り見取りの引く手数多であった。対して私は部屋で書籍を読み漁るばかりで誰からも声をかけられていない――でもまあ、それで良いのだと私は思っている。私は漢王朝のために働きたいとは思っていないし、世の情勢に関わりたいとも考えていない。ついでに云えば、出世だってどうでもよかった。

 とはいえ外に興味がないという訳ではない。世捨て人ではないのだ、人並み程度には世の中に興味を持っている。

 

「香花姉様、やっぱりまだ無理だったんじゃない?」

 

 妹の肩に手を乗せながら息絶え絶えで足を引き摺る。

 一年以上も部屋で書籍だけを読み漁っていた身の上だ。屋敷の外に出てみたいと頼み込んでみたは良いが、想像以上に私の肉体は力を失っていた。妹が云うには街中を走り回る程度には体力があったと聞いているが――いやはや、まさか五分もしない内に息が切れるとは考えていなかった。

 このまま屋敷に戻るのも難しかったので、一度、近くの茶店で休憩することになった。

 店内に入った私は空いた椅子を見つけると、どかっと座ってウンと手足を伸ばした。はしたない、と妹の苦言が聞こえた気がけども無視する。水を持ってきてくれた女給に杏仁豆腐を一つ注文、「姉様ってお金を持ってたっけ?」と問いかける妹に私は口笛を鳴らして誤魔化した。桂花は溜息を吐くと羊羹を注文する。

 注文を受けた女給が厨房の奥へと姿を消し、私は冷たい水を口に流し込んだ。汗だくになった体に染み渡る。

 

「外に出ることに拒否感とかはないのね」

 

 ふと呟かれた妹の言葉に私は首を傾げる。そして、そういえば、と自らの記憶喪失の原因を思い出した。

 

「憶えていないことを恐れるのは難しいわね」

 

 肩を竦めてみせると「そう」と妹は小さな声で返事する。

 妹は横目で流し見るように店内を見渡しており、そんな妹の様子を私は無言で見つめる。なんとなしに気不味い雰囲気、沈黙は杏仁豆腐と羊羹が届けられるまで続き、さっそく杏仁豆腐に手を付けようとする私とは裏腹に、妹は羊羹をじっと見つめたまま動かなかった。「美味しいわよ」と声を掛けても小さく頷くだけだった。

 なにかを考え始めた妹の姿に、今は触れない方が良いのかなと思いながら杏仁豆腐を頬張る。

 

「私は……まだ、少し怖いわ」

 

 ふと呟かれた言葉、私は甘味で舌を満たしながら黙って耳を傾ける。

 

「姉様は覚えていないかもしれないけど、姉様は私を守ろうとして連れていかれたのよ」

「そう、昔の私は大したものね。よくやった、と言ってやりたいわ」

 

 何食わぬ顔で杏仁豆腐を口に運びつつ「こんな可愛い妹を見捨てたりしたなら私は私を縊り殺さなくてはならないところだったわ」と笑顔を浮かべてみせる。まだ釈然としない様子で羊羹を見つめる妹の姿に私は小さく息を零す。

 

「桂花、貴方が私に負い目を感じる必要はないわ。きっと私は私が思うままに行動した結果なのよ」

 

 杏仁豆腐を匙で掬った私は、妹の口元に差し出した。

 

「貴方と一緒に過ごした一年間、私は貴方から好意を感じていたのよ。それは気のせいだったのかしら? 贖罪だけのために私の傍に居てくれたの?」

 

 妹の目の前で杏仁豆腐の乗った匙を左右に振りながら問い掛けると「その聞き方は卑怯よ」と可愛い妹は困ったように笑みを浮かべた。

 

「私も姉様と一緒にいるのが好きだったからよ」

「そうね、信じてあげるわ。九割方」

「九割方って、信じてくれてないじゃない」

 

 不服そうに眉間に皺を寄せる妹に、私は杏仁豆腐の乗った匙を再び彼女の口元に寄せる。

 

「これを食べてくれれば信じてあげる」

 

 桂花は可愛らしい不満顔を見せてから目を閉じて控えめに口を開いた。

 薄く開いた唇の中に杏仁豆腐を滑り込ませやる。妹が噛みしめるように咀嚼する姿に思わず私は口元を緩ませるのだった。

 

 

 翌週、妹の仕官先が決まった。

 相手は名門袁家であり、名声だけならば妹の仕官先としては申し分ない。

 

「何時までも殻の中にこもっているわけにはいかないわよ」

 

 そう告げる妹の顔は清々しくて、未だ穀潰し生活を続けている私には少し胸が痛い言葉だった。

 あれから少し考えてみたが――やはり私は打ち手にはなれない。観測者気取りで世界の外側から情勢を見守ってるのが性に合っている。これから世の中がどうなっていくのか、誰が動くのか、どのような打ち筋を示してくれるのか、そのようなことに想いを馳せるのが楽しかった。でも、これから訪れるかもしれない動乱の中に身を投じたいとは思えない。元より部屋に引きこもっていた私に仕官の申し出なんて来るはずもなかったりする。

 妹の仕官祝いに何か考えないといけないな、とどこか他人事のように考えていると妹が私に向けて手を差し出してきた。

 

「香花姉様も来てくれると心強いわね」

 

 じっと私のことを見つめてくる可愛い妹、私は笑みを浮かべて問い返した。

 

「自信がないのかしら?」

「私を誰だと思って? 自信ならあるわよ、九割方」

 

 そう告げる妹は本当に自信たっぷりで、私を見つめる目がとても優しく感じられた。

 

「姉様が来てくれると十割になるわ」

 

 まるで断ることを考慮していない妹の姿に「可愛い妹の頼みなら仕方ないわね」と私は苦笑を浮かべながら彼女の手を取った。

 まだ私は打ち手になりたいとは思わない。でも妹と一緒なら内側から世界を眺めるのも良いと思うのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

神算の吐血娘     -戯志才

 豫州穎川郡には神算鬼謀と称される二人組が存在している。

 片や名を郭嘉、字を奉考と云った。倫理や道徳に縛られない悪鬼羅刹とも呼べる思考回路で、状況に応じた最効率の方策を瞬時に叩き出すことから鬼謀と称される。

 そして、もう一人は戯志才という名の少女である、字はない。

 彼女はとにかく勘が鋭かった。僅かな情報から的確に状況を読み取り、確実に急所を討ち抜く精度の高さから神算と呼ばれて恐れられる。

 二人揃えば敵なしで、また二人を理解し合える者も神算鬼謀と称された二人しかいなかった。

 少なくとも、この時はまだ――

 

 だから私達が常に行動を共にしていたのは必然だったと思っている。

 

 私、戯志才は稟のことを半身だと思っている。

 物心がついた時から行動を共にする仲で、お互いの部屋で寝泊まりするのは当たり前、布団だって同じだった。常識を知った今だからそれが世間一般的に可笑しいことだってわかるけど、そのことが私達にとっての当たり前だっていう認識は今でも変わっていない。

 稟のことなら自分のこと以上になんでもわかる、そして彼女も私に対して同じ想いを抱いていることを知っている。

 二人で積み重ねた疑問は如何程か、二人で差し重ねた棋譜の数は如何程か。語り重ねた言葉の数は万を超えて、億にも達するに違いない。まるで写し身、その肉体、その精神、その魂魄、全てが真逆であるにも関わらず、私達は陰陽のように混じり合っている。逆さまの鏡に向かって、貴方は稟、貴方は(らん)、と語り重ねる。

 私達にとって会話とは確認作業のようなもので、意思疎通に口を開くことの方が少なかった。しかし私達の間で交わされる言葉は、声を使っていた以前よりも遥かに増えていった。

 決定的に違うのは肉体、その精神。そして魂魄である。

 

「こふっ……」

 

 将棋を指している時、対面に座る稟に悟られないように私は口元を手で抑えた。

 心配そうな顔をする我が半身、私の手には真っ赤な徒花が咲き誇っている。彼女相手に隠し事はできないな、と私は満面の笑顔で血に染まった手を彼女に向ける。

 さあ続きを打ちましょう、そう目で語りかけると彼女は今にも泣き出しそうな顔で歯を食い縛る。

 

 私の体は病魔に侵されている。

 稟の健康的な体とは違って、私の体は極端に幼く、呆れ果てるほどに虚弱だった。風邪で寝込むのは当たり前で、喘息のおかげで横になれない日の方が多かった。食が細いこともあってか胸はない、代わりに肋骨が浮いてしまっている。

 死ぬ時はあっさりだと思っていた、稟よりも早く死ぬだろうことはわかっていた。

 

 医者の見立てでは私の命は持ってあと一年だと言われている。

 昔と比べると吐血する頻度が増えてきた、一度に吐く量も日に日に増えている。血を失う度に体から力が失われているのがわかる。自分が吐く血を見て、綺麗な色をしていると思った。昔はもっと淀んでいた気がする。血が鮮やかな色をしているのは生命力が宿っているからで、それがそのまま口から吐き出されるから体が気怠いのだと今は理解している。

 吐血の度に思うのは、あとどれだけ生きられるのだろうか、という想いだった。もう少し生きてみたいと思っている、それが叶わないことだと察しているから、それまでは少しでも長く我が半身と共に居たいと願うようになった。

 それこそ、一秒でも長く。

 

 だが、それも叶わない。

 

 近々、私は穎川郡を離れることになっている。

 都から離れた場所にある綺麗で落ち着いた屋敷で療養することが決められていた。そして、そのことを望んだのは他ならぬ我が半身の稟である。少しでも長く共に居たいと願うのは私、少しでも長く生きていてほしいと願うのは稟、お互いを半身と呼び合えるほどに分かり合った仲なのに精神が違っている。だから望んでいることに齟齬が生じてしまうのは当然といえば当然の話であった。

 意思の弱い私が意思の強い彼女に流されるのもまた必然で、半身である貴方がそう望むのであれば、と私は私の想いを押し殺して彼女の側を離れることを決める。私と彼女の価値観は悲しいほどに乖離している。

 駄々こねることもできた、きっと我が半身であれば私のわがままを受け入れてくれるに違いない。稟は鬼謀と称されるほどに恐れられているが、その本質はけっこう優しいのだ。少なくとも私に対しては優しい。だから私が強く望めば彼女は私のためだけに穎川郡から出ることはせず、むしろ辺境まで一緒に来るとまで言い出すに違いない。

 それは私の望むことではない、命短き私のために彼女の将来を縛ることはしたくなかった。

 

 だから私は一人で辺境に向かうのだ。

 その真意、私の本音は、きっと半身である彼女に伝わってしまっている。

 その顔を見るだけで、その瞳を見るだけで、手を握り合うだけで、私の気持ちが彼女に伝わってしまっていることが胸が締め付けられるほどによくわかった。

 お互いに言葉を交わすことはない。口元の血を拭い取り、衣服を汚したまま碁を打ち続ける。

 今一時。その僅かな時間が愛しくて手放したくなかった。

 

 

 穎川郡を離れてから一週間が過ぎた。

 療養のために用意された屋敷には向かわず、風吹くままに私は最期の旅を楽しんでいる。

 護衛を撒いた私は適当に歩いていた。食料も大して持たず、体力が続くまで、血反吐を撒き散らしながらの旅路を楽しんだ。

 私はこのまま何処まで歩いていけるのだろうか。何処までも歩けそうな気がするし、もうすぐ死んでしまうような気もする。目の前の山を超えることはできるだろうか、あの丘の向こう側を見ることはできるだろうか。せめて次の街までたどり着くことはできるだろうか。それとも道半ばで野盗に襲われてるか、野犬に食い殺されることだってあるかもしれない。

 それで良いと思った、そんなもんだと思った。

 

 今、私は初めて当てもない旅をしている。

 何もわからない未知を歩いており、その未知に思いを馳せて心を躍らせている。

 解放されていた。肉体も、精神も、魂魄も、その全てが何処までも解き放たれていた。あと少し、もう少しだけ、ほんの少しでも長く、この自由を堪能していたい。我儘だと思う、無理を言っていると思う。でも今暫く自由の中で生きていたかった。

 死ぬことはわかっていた、でも死を受け入れたことは一度もない。死を覚悟できたことは一度だってなかった。私の中にあったのは達観ではなくて諦観だった。私は生き続けることはできないと認めている。でも、あと一歩だけ、そして、もう一歩だけ、そうして歩みを止めずに歩いて、どこまでも歩いて、歩けるところまで歩き続けて、そして最期にはきっと何処ぞで野垂れ死ぬんだろうな、と思いながら今もなお歩き続ける。

 私は今、生きている。血反吐と共に朽ちる体、それでも私はまだ生きている。叫びたかった。私は生きているんだって誰かに伝えたかった。

 私はどうしようもなく生きたいのだ。

 

「貴方、こんなところで何をしているかしら? 女の一人旅とは感心しないわね」

 

 そんな時だと、ふと背後から少女に声をかけられる。

 振り返ると金髪ツインドリルの少女、その凛々しい顔付きを見るだけで私は理解する。彼女の名前まではわからない、でも彼女が何者かは簡単に理解できた。これもまた天の導きか、それとも運命の悪戯か。まあ私の旅の行く末に、このような贈り物をしてくれた運命に感謝しようと思った。

 私は少女に向き直ると両手を重ねて、深々と頭を下げる。

 

「私の名は戯志才、真名は闌。此処で会ったのもなにかの縁、私が死ぬまでの間、少し話に付き合ってくれませんか?

 

 少女には護衛が二人いた。

 二人が共に血塗れの私を見て驚いたが、ツインドリルの少女だけは私が真名を名乗ったことに驚いていた。護衛の二人は少女の前に歩み出ようとしたが、少女は片手を上げただけで二人を制止する。その姿から三人は互いに互いを信頼し合っているんだなってことがわかり、また護衛二人が私に対する警戒を解いていないことから少女のことを心から想っているんだと察する。

 その三人の姿を見て、ほんの少しだけ温かい気持ちになれた。

 

「……私が貴方と語り合う理由がないわ、こう見えても忙しい身で時間が惜しいのよ」

 

 そう冷たく告げたのは真ん中の少女、しかし私には彼女が私に対して少なからずの興味を持ったことを理解している。

 

「その時間に見合うだけの価値があると思いますよ。私が語るということは、それだけで価値があることなのです」

 

 自信たっぷりの笑顔を浮かべながら飄々と告げてやると、彼女はじっと私のことを見つめ返した。

 

「……いいわ、付き合ってあげる。時間を費やすだけの価値があるなら貴方の話に耳を傾けてあげる、でも価値がないと私が判断した時は短い命を更に短くする嵌めになるわよ?」

 

「華琳様、この者は感染症を患っている可能性があります」と戒める護衛を華琳と呼ばれた少女が制止する。

 彼女がこういう性分を持っていることは一目見た時からわかっていた。彼女は人を求めている。そして彼女が見ているのは家柄だけではなく、家柄も含めた才覚を見抜こうとしていた。

 だから、こういった提案をすれば、きっと彼女は話に乗ってくると思っていた。

 

「それで構いません。とりあえずは次の街まで、そして気に入って頂ければ、また次の街まで……私の命が持つまでお付き合いください」

「ええ、存分に語り聞かせてみなさい」

 

 他者を威圧する存在感を保ったまま、少女はとても優しい声で話を促した。

 

 どれだけ私は話を続けていたのだろうか。

 昼が過ぎて、夜になって、翌日、翌々日と過ぎ去り、そして今日もまた彼女と語り合う日々を送っている。清潔な部屋を与えられた私は十人以上の医者に体を弄られて、そして苦い薬を飲まされながら今日も今日とて生き長らえる。

 私一人の命のためにどれだけの金銭が動いているのだろうか、想像することもできない。

 

「貴方が死ぬまで貴方の話に耳を傾けると言ったわ、それに貴方は承諾した。だから貴方は私の傍に居続けて語り続けなさい」

 

 あと持って一年と言われた命は、今や三年に長引いていた。

 私の命の果ては何処になるのか――でもまあ生きられるに越したことはない。

 何故なら、まだ私は生きていたいのだ。

 

「ではそうですね、今日は何を話しましょうか……」

 

 生きる。そのためならば、この肉体、精神、魂魄までも捧げることになろうとも躊躇しない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

名門袁家の懐刀・上  -袁術軍

 生まれで権威や財産が手に入るのであれば、生まれには然るべき責務が発生する。

 民草には身一つで立身出世を目指さなくてはならない代わりに世間に対する責務はない。逆に領土の統治などを任される者達には世間から税を搾取する代わりに民を守り、領土を繁栄させる責務があると私は思うのだ。それが世襲制であれば尚更の話、与えられた椅子に胡座をかいて自分勝手に振る舞うことは許されることではない。

 それは幼いからといっても例外ではなくて――

 

「七乃ーっ! 蜂蜜水が持ってくるのじゃー!」

「はいはーい」

 

 つまり我が主君である袁術こと美羽の振る舞いは、とてもじゃないが許されるべきものではない。

 別に贅沢をしてはいけないと思っているわけではないのだ。むしろ我が領土の代表者とも呼べる人物に貧相な生活をさせる訳にはいかないし、世間体だってある。政務で人生の大半を縛られることを考えれば、人並み以上の贅沢くらいは認めるべきだと思っている。

 しかし、それは責務を果たしている時に限る。名家の当主としての最低限の責務を果たせていない彼女に贅沢をする資格はない。

 

 だが、とはいえだ。

 それもこれも七乃が甘やかしているせいであり、目一杯に可愛がられて育てられた美羽は驚くほど我儘に育ってしまった。私がただ苦言を口にしたところでは耳を貸すことはない、そして七乃が居る時は声をかけることもできなかった。

 しかし七乃は今、蜂蜜水を取りに部屋を離れている。この瞬間こそが好機だと私は美羽に歩み寄る。

 

「美羽様、美羽様。今日は如何お過ごしでしょうか?」

「おおっ、楊タイショーではないか! 苦しゅうないぞっ!」

「いや、うん、はい……私の真名は四ツ葉(よつば)と言いますので、できれば、そのそちらで……」

「ところでタイショー、今日は何を持ってきたのじゃ!?」

「あ、はい、そうですね。はい……」

 

 話を聞いてくれない主君に、私はがっくしと項垂れる。

 私の名は楊弘、字を大将。真名は四ツ葉と云う。字が大将であるために主君からタイショーと揶揄われていた。いや、そのことに関しては構わない、別に不敬という訳ではないのだ。 むしろ目上の者が相手のことを字で呼ぶのは丁寧であると云える。

 哀しみを笑顔で塗り潰して、私は秘密兵器を懐から取り出した。

 

「今日は蜂蜜を固めて作った蜂蜜飴になります」

 

 黄金色に輝く飴を見せつけると「おおーっ!」と美羽は歓喜の声を上げて目を輝かせる。

 

「それで今日は妾を何処へ連れ出すつもりなのじゃ?」

「とりあえず外へ出ましょうか。七乃が戻ってくる前に、ええ、ええ、彼女に見つかる前に出て行かないと面倒になります」

「そうじゃな、七乃はちょーっと妾に対して過保護すぎる。よし、早速、外出の準備をしようではないか」

「お忍びなので適当な衣服で済ませましょう、ええ、お忍びですからね」

 

 お忍びの部分を強調すると「お忍びじゃからの」と美羽は自慢げに鼻を鳴らした。

 これは少しでも世のことを知ってもらうための社会見学。勝手な行動に七乃から苦言を零されることも多いが、肝心の美羽がお忍びという言葉の響きを気に入っており、また彼女が満足げな笑顔を見せるので見逃してもらえていることだった。

 それから美羽を馬に乗せて、ふと護衛の一人に肩を叩かれる。

 

「四ツ葉、本当にいいのだな? やるんだな?」

 

 問われて私は頷き返した。

 高貴な血には責任が宿る。生まれた時から課せられる責務に対して、それを不幸だと思う者もいるかもしれないが――彼女達は不自由を享受して、余りあるだけの贅沢を受けてみた身だ。ならば、それに見合うだけの責任を背負って貰わなくては、七乃は認めても他の者達は認めない。

 私は美羽を前に抱きかかえるように馬に跨り、「荒療治になるのも仕方ないよ」と告げる。

 

六花(りっか)、最優先は美羽様の安全だ。その上で私達は愚行に出る、七乃……いや、これは張勲との全面戦争だ」

 

 六花と呼んだ武人然とした女性、袁術配下一の武将である紀霊は「御意」と短く呟いて頭を下げる。

 そんなやり取りをみて、美羽は「苦しくない」と何処か抜けたようなことを言った。

 

 

 主君、美羽の評判は決して良いとは呼べない。

 彼女の姉である袁紹は優秀とは呼べない人物であるが、それを補って余りある人材に恵まれている。そのため袁紹が治める領土は、繁栄とまでは呼べずとも安定はしており、治安も悪くない。顔良文醜の両将軍による異民族討伐の戦功もあってか袁紹の評判は益々上がっていくばかりだ、つい先日も「王佐の才」として名高い荀彧が袁紹麾下に加わったとの風聞を耳にした。

 羨ましい限りだ。我が主君の美羽の方が血の正統性はあるのだが、それを考慮しても我が主君よりも袁紹の方が魅力的に見えてしまうのだろう。

 

 このままではいけない、と思うようになったのは何時からか。

 さっさと袁紹に鞍替えできれば良いのだと思うが、腕の中に収まる小さな主君を放り捨てることができるほど、私は器用に生きることができなかった。別に恩はない、義理もない。しかし美羽を見捨てることは人間として、してはいけないことだと思った。

 高貴な血には生まれた時から責任が生じる、そのことを不幸に思う者も居るかもしれないが私は違うと思っている。

 本当に彼女が不幸なのは、そのことを教えてくれる者が居なかったことだ。無知は罪ではないかもしれないが、無知によって生じた結果には責任が生じる。つまり一挙動で大衆を左右できてしまう権力を持つ人間の無知は結果的に罪となる。

 だから私は美羽を連れ出した。

 

「んー、怖い目をしてますねー?」

 

 決意を固めた時、気の抜けた声がすぐ横から聞こえてきた。振り返れば、何時の間に近付いていたのか――棒付きの大きな飴を舐めた幼い女が歩いている。何よりも奇妙なのは頭の上に乗せられた珍妙な人形だった。

 

「おい、じっと見てるんじゃねぇぞ。見物料取るぞ、コラァッ」

「こらこら宝譿、そんな喧嘩腰ではいけないのです。私達は……んー? お姉さんに道を尋ねに来たのですよ」

 

 腹話術なのだろうか、一人芝居を始める少女を見つめて――どうやって護衛の隙間を抜けてきたのか、六花を見つめると彼女も今しがた少女の存在に気づいたようで驚いている。ここはさっさと追い払うべきか、と思った時、「おい、そこのお前!」と懐に収まる美羽が少女に声をかけた。

 

「その手に持っておるものはなんじゃ! 美味しそうではないか、どこで買った!?」

「おお、お目が高いですねー。これは崑崙に伝わる長寿の仙薬で、舐めると永遠の若さが手に入るかもしれないんですよ?」

「なんと! お、おい、四ツ葉! 早く財布を出すのじゃ、お前、そいつを妾にくれぬか!?」

 

 じたばたと身を乗り出す主君を「あ、危ないですって美羽様ッ!」と叫びながら必死で抑え込んだ。

 その姿を目の前の少女は飴で口元を隠して、くすくすと楽しげに肩を揺らす。

 

「では、これをお近づきの印にどうぞ。お姉さんにも、公正にですねー」

 

 そういうと何処からか新しく取り出した飴を美羽に、そして少女が先程まで舐めていた飴を私に差し出した。

 

「舐めかけを渡さないで」

「あれー、お姉さんってそういう趣味じゃありませんか? こんな幼い子を連れ回すような悪い大人なんでしょう」

「そうじゃ、妾達はお忍び中なのじゃ。……悪じゃろう?」

 

 ふっふーん、と鼻を鳴らして飴を舐める主君の姿に私は思わず頭を抱える。会話に入り損ねた六花が視界の端で気の毒そうに私を見つめていた。

 

「こ、これは……普通の飴ではないか!」

「そうですよ、普通の飴です。縁日とかでよく使われる売り文句なのです、私もいっぱい食わされましたー」

 

 よよよ、と泣き真似をする少女に「そうか、お前も大変だったんじゃな」と飴を舐めながら同情の視線を送る。

 

「それでどこの道が聞きたいんだ?」

 

 彼女の茶番に付き合ってられないと、さっさと追い返すつもりで話を戻すと「おおっ!」と少女は今しがた思い出したように目を見開いた。

 

「実は道を尋ねるのは口実でしてー、本当はお姉さんに話しかけるのが目的だったのです」

「もう飴の代金を支払うからどっか行ってよ」

「せっかちは女に嫌われるぜぇ?」

 

 頭の人形が私のことをジロリと見つめる。声は腹話術だとわかるが、どうやって手を使わずに動いているのだろうか。

 

「おいおい、俺は男だぜ? 惚れるなら俺じゃなくて、もっと他にいるだろう?」

「もうやだですねぇ、宝譿。そんな素敵な美少女だなんて……口が上手くなりましたね?」

 

 頬に手を添えながら身を捩る少女の姿を前に、なんというか酷い茶番を見せられた気がした。

 

「ふむ、珍妙な生き物もいたものじゃな。なあ四ツ葉、妾もあれが欲しいぞ」

「たぶん人形だけでは意味がないと思いますよ?」

 

 懐に収まる主君がぐいっと私の服を引っ張る横で――

 

「それで話なのですがー」

 

 と彼女は彼女で話を切り出した。さっきから随分と自由だな、おい。

 

「むー、せっかちな女は嫌いですかねー?」

 

 ふくれっ面を見せる少女、さりげなく口元を飴で隠した彼女の頭上で「相手の呼吸に合わせてやるのが、できる男の器っていうもんだぜ?」と妙に良い声で付け加えられる。もう相手にするのが疲れてきた。

 

「それで話なのですがー」

「次は話の腰を折るんじゃないぜ?」

「そうじゃぞ、四ツ葉」

 

 ……私のことを気の毒そうに見つめてくる六花が癒しだった。

 

「そこのお姫様と逃避行でもするつもりなのでしょうかー?」

 

 いえ、と彼女は自らの言葉に首を横に振る。

 

「彼女を連れ去って反乱でも起こすつもりですか?」

 

 にんまりと笑ってみせる少女に、私と六花は同時に唾を飲み込む。

 

「でも理解できないことがあります。反乱と呼ぶには兵力が少なすぎるのではないでしょうかねー?」

「……何が目的?」

 

 面白そうだったので、と少女は目を細めて笑みを深めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

名門袁家の懐刀・下  -袁術軍

 こと情報戦において、張勲こと七乃の才覚はとびきりに優秀だった。

 そして優秀な人間というのは畑違いの分野であっても、それなりに仕事を熟してしまうものである。凡人の枠に収まる楊弘こと四ツ葉、秀才の枠を超えられない紀霊こと六花では七乃を相手にすることは分が悪いと言わざる得ない。政治だけ、軍事だけ、という話であれば、それぞれの得意分野である四ツ葉、六花の方が有利であるといえるが、七乃は政治や軍事といった分野を情報という面から掌握してしまうのである。

 そもそも彼女がなによりも優秀だったのが相手の本質を見抜く能力であり、その者が持つ能力と性格、気質を把握して、その者に合わせた言動で自分の思い通りに動かすことを彼女は得意としていた。

 国一つ程度であれば、簡単に掌握することができるほどの能力を持つ彼女には欠けていたものが幾つかあり、その内の一つが向上心、追加で野心。張勲として産まれなければ、きっと彼女は自由気ままに中華を荒らしてまわる大悪党として名を馳せていたに違いなく、良くとも中華有数の商家として物流を掌握して、面白可笑しく天下の情勢を左右する立ち位置を確保していたのではないかと思われる。

 幸か不幸か七乃は政治屋の娘として産まれて、そして袁術こと美羽との出会いを果たす。

 

 当時、七乃は生きることに飽きていた。

 彼女にとって袁家という箱庭は、遊ぶには狭過ぎたのだ。田豊や沮授という遊び相手はいたが、二人は七乃を満足させるには真面目すぎる。唯一、郭図は七乃の気質に近いといえたが七乃の相手を勤めるには役者不足、それに郭図は七乃のことを好意的に感じているようで遊び相手になってくれなかった。全てが自分の予想した通りに事が運び、人心を逆手にとって自分の望むままに動かすことができる。

 だから面白くなかったのだ、生きることが退屈だった。

 名門袁家、中華随一の頭脳が集う勢力でこれなのだから、此処を飛び出したところで遊び相手には期待できない。敗北を知りたいと言っている訳ではない、ただ張り合いがないのだ。全てが分かる、全てが掌握できる。勝利も敗北も最初から分かりきっていた。次の一手、そしてまた次の一手、全ての道筋を私の思うがままに導いてやれば、田豊や沮授ですらも私が用意した道筋を踏み誤ることはない。

 敗北したければ江東の虎でも相手にすれば良い、張り合いのない分かりきった敗北が待ち受けているだけだ。

 負けると分かって足掻き、蹂躙される。そこに情熱はない、悔しさもない。

 

 そんな彼女にとって唯一、予測できないのが現主君である袁術こと美羽だった。

 七乃が用意した道筋の悉くを踏み外し、必ず勝てるという戦いを負けるかもしれない窮地に貶める。彼女の発想、言動の全てが七乃の予想を下回る。どれだけ下方に修正しても、更にその下を潜り抜けるのだ。どうすれば、そのような発想が生まれるのか、そのような言動が生まれるのか、まるで理解ができない、予想が立てられない。とてもじゃないが手に負えない!

 気付いた時には美羽から目が離せなくなっていた。その可愛らしい口から次はどんな言葉が飛び出すのか、その可憐な姿から如何な破天荒な言動が飛び出すのか、気づいた時には夢中になっていた。七乃にとって美羽の存在とは乾いた人生に潤いを与えてくれる存在だった、闇夜の中をただ彷徨うだけの人生に太陽の温もりと光を与えてくれる存在だった。

 いつしか美羽の存在が七乃の生きる理由そのものになっていた。

 

 今や美羽の存在なくして七乃は成り立たない。

 だからこそ彼女は美羽を甘やかして可愛がる。何時しか沸いた情愛の気持ち、それよりも更に奥深くに根付くのは依存、美羽が持つ本質を誰にも変えられないように揺り籠の中で優しく育てられる。蜂蜜のように甘い毒を一滴、また一滴と口の中に滑り込ませるように大切に甘やかした。

 七乃は本気を出したことはない、無意識で手加減をして生きている。

 それは興味がないことには本気を出せないというよりも、手元にある玩具を壊さないようにするためのものだ。七乃は最初から結果が分かっているから、本気を出せば相手が壊れるという結果も見えてしまっている。彼女は悪党には違いないのかもしれないが、決して異常者ではなかった。

 意味もなく誰かを傷付けることに抵抗を感じる程度には彼女は少女だった。

 

「いやー、これは少し舐めてましたでしょうか? 四ツ葉さん、私達を見捨てることはあっても尽くすことはないと思っていたのだけど……普段から冷めてる人ですからねえ、もしかして小児愛好家(ロリコン)にでも目覚めちゃいました? 人並み程度の忠義を持っていたなんて――いえ、あの方の場合は倫理観でしょうか、道徳心? 正義感? 四ツ葉さんって意外と子供好きですからね、見誤ってしまったかなあ。正直なところあまく見てました」

 

 それでもだ、だからこそだ。

 彼女は人並みに愛を理解できているからこそ、彼女は愛する者が傷付けられるのを見逃すことはできない。それは人が人として生きている以上、当たり前の基本原理である。

 愛する者を守るため、愛する者を穢されないため、そのためなら七乃は無意識の制限を取り払うことができる。

 

「ぶち殺してやりましょう。それはもう徹底的に、蟇盆? 炮烙? ファラロスの雄牛?」

 

 誰もいない部屋、蜂蜜水を片手に立ち尽くした七乃は据わった目で呟き続ける。

 何時ものお忍びならば問題ない、違和感に気付いたのは七乃の息がかかった者が一人も護衛に含まれていないことだ。そして七乃の監視網から逃れていることが四ツ葉の裏切りを確信させる。

 何故ならば、袁術軍において自分相手に曲りなりとも情報戦を仕掛けることができる相手は四ツ葉以外にいないのだ。

 

「精神、肉体、魂魄、余すとこなくぶち殺してあげます」

 

 美羽は連れ去られた、その目的は簡単に予測を立てられる。

 

 

 ぶるりと、唐突に感じた怖気に身が震える。

 それは六花も同じようであり、二人で顔を見合わせた。おそらく気のせいではない、七乃が動き出した。

 気を引きしめなければ、と思い改める。

 

 七乃は天才に属する人間ではあるが万能というわけではない。

 軍事だけであれば紀霊に劣る、政務だけであれば私、四ツ葉に劣ると思っている。真に彼女が恐ろしいのは人心操作術、自分が望む結果へと導くことができるその手腕だ。それでも圧倒的な武力や智謀があれば、力押しで七乃を蹂躙することも可能だろうが――それはないもの強請りというものである。反乱を起こしたとて、最初こそ善戦できるかもしれないが私と六花では七乃相手に勝つことはできないことはわかっている。

 最初から敗北は覚悟していた。稼いだ時間で少しでも美羽に世の中のことを知って貰えれば――知らないことで幸福になれることもあるかもしれない。世の中には知らなくても良いことがたしかに存在している。

 それでも私は思うのだ、彼女の無知は不幸でしかないと。

 

 臣下が主君の幸せを望むことはいけないことなのだろうか。

 いや、一人の人間として、一人の少女の幸せを望むことが間違っているはずがない。懐に収まる美羽が棒付きの飴を美味しく舐めている姿を見やり、彼女が子供だということを嫌でも思い知らされる。自由気ままで天真爛漫、善悪を超越し得る純真なる心の持ち主。彼女は純白の絹布のような存在で、周囲の存在で何色にも染まることができる。誰の思想にも染まらず、誰の影響も受けず、ここまで穢れなく真っ白に育った彼女は異常だった。

 このままではきっと美羽は不幸になる、それが分かっていて見逃すことを私にはできなかった。

 

「道に迷ってしまったのは本当なんですよ? 星ちゃんと、稟ちゃんと、逸れてしまった後で出会ったのがお姉さんなんです」

 

 とても迷子とは思えない緩い雰囲気を持つ少女が、未だ馬に乗る私達の隣を歩いて付いてくる。護衛の足に合わせているとはいえ、見た目の幼い彼女が歩き疲れる様子はない。

 

「ところで私の名前は程立《ていりつ》と言うんですよ、字は仲徳。以後、お見知りおきをー」

 

 あくまでも自分の呼吸を崩さず、少女は聞いてもいないのに自らの名前を述べる。

 七乃が動き出したかもしれない現状、余計なことに手を焼いている時間はない。程立と名乗る彼女をさっさとこの場から追い払ってやりたいと思うのだが、彼女に私達から離れようという意思は感じられず――

 

「うむ、苦しゅうないぞ! 妾は袁術、字は公路、宜しく頼むのじゃ!」

 

 そして我が主君は彼女のことを気に入ってしまっているようだった。

 馬上から胸を張って名乗り上げる美羽に「おー」と程立はわざとらしく声を上げる。

 

「そうですかー、貴方が名門袁家の跡取りですか。いやはや、これは驚きましたねー」

 

 とても驚いているようには思えない、いまいち掴みどころを見い出せない少女に溜息が零れる。

 

「むう、お前の胸に掴めるところなんてないぜ、みたいな顔をしないで欲しいですねー」

「掴みどころがないのは胸じゃなくて性格だよ」

「つまり胸は掴めると? いやですお姉さん、ちょっと大胆過ぎますねー。そこは掴むのではなくて摘むところですよ?」

 

 酷い切り返しを聞いた気がする。なによりも我が主君である美羽が服の上から胸を掴もうとしているのが酷すぎる。むー、と頬を膨らませた不満顔で私を見つめてくる主君の姿が酷さを加速させる。色即是空と名乗る少女は主君の教育に悪すぎる。

 

「なあ四ツ葉、何処なら摘めるのじゃ?」

 

 そして私に話を振らないで欲しい。

 助けを求めるように六花を見れば、そっとを目を逸らされる。元凶である程立といえば「あらー」と楽しそうに目を細めてみせるのだった

 もうどうしたものかと、どうすることもできないと、私は目を閉じて、無我の境地への探求を始める。

 オン・マリシ・エイ・ソワカ……

 

「おー、お姉さんって仏教徒だったのでしょうかー?」

「……気分だけだから」

 

 簡単に雑念の入る私には色即是空を理解するのは難しそうだ。

 

「ところで、お姉さん」

 

 よっこいしょっと程立は許可も取らずに馬に跨ると私を背中から抱き締める。

 

「この辺りは街でも治安の悪いところですよねー?」

 

 そして耳元で囁くように、主君には聞こえない声量でひそひそと告げられる。

 

「袁術の統治は決して評判が良くありません。それは袁術に仕える者の政治手腕――というよりも袁術自身に政治への関心が薄いためと思われます。聞いたところ、そして見たところ、張勲も現状を是と唱えているわけではありませんが否と考えているわけでもない。蔓延る横領、おイタが過ぎると張勲自身が処刑しているようですが――袁術軍の財政が傾かない程度であれば目を瞑る。大人しくしているのであれば多少の飴はくれてやると言ったところでしょうか?」

 

 ゆったりとした声色、真綿に水を澄み込ませるように言葉が心に重くのしかかった。

 馬の手綱を握る手に汗が滲む、背中に感じられる程立の温もりが酷く冷たく感じられる。この感覚を知っている、この恐怖を知っている。何度か感じたことがある、深淵の奥底を覗き込んだような――底知れない何か。

 時折、七乃が私を牽制する時にみせる気配と同じものを感じてしまった。

 

「どうしたのじゃ、四ツ葉?」

 

 心配そうな顔で見上げてくる主君、私は笑顔を作って彼女の頭を撫でる。

 

「繰り返し名乗ります。私の名は程立、字は仲徳。真名は風《ふう》と言います」

 

 背中から囁き声で、唐突に真名を預けられたことの驚きで後ろを振り返った。そこには先程から変わらぬ掴みどころのない風のような少女が私の体を抱き締めている。

 

「お姉さん、風は貴方に興味を持ちました。ずっと一緒にいる訳でもないと思いますが、今少し貴方に行く末を見てみたいと思いましたー。真名を預けるのはその礼儀、損はさせませんよー?」

 

 理解はできなかった、今もまだ戸惑っている。

 ただ彼女には私では理解できない何かを持っているということは直感的に分かり、だからといって出会ったばかりの少女を頼る気にもなれない。これから為すことを考えれば、程立は私達の側から離れさせるのが得策だ。

 無関係な者を危険に巻き込むのは、人として間違っている。

 

「やはり、お姉さんは優しいのですねー。誰かのためならば自分が危険な目に晒されることも甘受する精神性、なによりも素晴らしいのは危険だと正しく理解しているにも関わらず窮地に足を踏み入れる勇敢さ」

「……私はそんな殊勝な性格をしてないよ」

「いえいえー、お姉さんはきっと素晴らしい人格者ですよ。窮地に踏み込む時に躊躇する素朴さを私は評価したいですねー」

 

 くすくす、と背中越しに程立が笑っている。

 

「そうじゃ、四ツ葉は素晴らしいのじゃ! なんたって妾の臣下なのじゃからな!」

 

 そう言って胸を張るのは我が主君の美羽で、ですねー、と程立が緩い声で同意してみせる。

 

「名乗れ、四ツ葉! 真名を預けられて、真名を返さないのは礼儀に反するのじゃ!」

「いや、しかし……流石に先程出会ったばかりの者と真名を交換するのは……」

「其方は何時も言っているではないか、人として間違えている、と。真名まで預ける相手に礼儀を尽くさないのは誠意が足りていないのではないか?」

 

 正直なことを云えば、こんな面倒そうな子を傍に置きたくなかった。

 常日頃から精神が削られるような気がして仕方ない。

 だが主君にこう言われては逃れることはできず、観念して私は自らの真名を名乗る。

 

「私の名は楊弘、字を大将。真名は四ツ葉。私を呼ぶ時は――」

「よっ! タイショー! なのじゃ!」

 

 割り込まれた、名乗れと言われたのに割り込まれた。

 

「主君に太鼓持ちをさせるなんて可愛い顔して度胸ありますねー、流石に私もびっくりなのですよ」

 

 背中越しで聞こえる声に、絶対に後で揶揄われるやつだ、と無念に歯を食い縛って空を見上げる。

 

「お姉さん、そろそろのようですねー」

 

 視線を落とす、周囲が騒がしくなっている。

 懐に収まる我が主君は相変わらず、何も分かっていない様子であった。此処が何処なのかも理解できていないに違いない、それほどまでに周囲への関心のない御方なのだ。

 呆れるほどに、可哀想なほどに、我が主君は何も知らない。彼女には世の中を少し理解して貰う必要がある。

 

 此処は街の中心部から外れた貧民街、

 袁術の統治で仕事を失った者達の成れの果て、明日の食事も摂れるかどうか分からない――つまり袁術に恨みを持つ者達が集まる場所である。

 ヒュッと風を切る音がして――それを防ぐことはできたにも関わらず、私は美羽を庇うように抱き締める。強い衝撃を頭に受ける、投げられた石は私の額を割って、ドロリと血が流れた。拭うことはしない、ポタリと落ちる血が主君の綺麗な金髪を汚した。

 美羽は信じられないものを見るように呆然としている。

 

「袁術! お前のせいで俺たち家族は路頭に迷った! 離れ離れになった!」

 

 その声に狼狽え、そして美羽が感情のままに叫ぼうとするのを邪魔するために抱き寄せる。

 ギュッと彼女の顔を自らの胸に押し付けて「ここは危険です」と馬を走らせた。石が投げられる、主君には傷一つ付けさせない、そして私の背中を抱き締める少女も傷付けさせるわけにはいかない。想定していたよりも速く馬を駆けさせる、本当であればもうちょっと美羽を悪意の中に放り込むつもりであったが、程立を危険のただ中に置いておくわけにはいかなかった。一人なら守れる、二人は守れない。だから想定よりもずっと早くに馬を駆けさせる、罵声を浴びせられるが。

「やはりお姉さんは優しいですね」と背中越しに聞こえる笑い交じりの言葉は皮肉と受け取った。

 

 馬を駆けさせている時の美羽は思っていたよりも大人しかった。

 もっと喚き散らすと思っていたのだが、何処か呆然とした様子で俯いている。七乃の庇護下にいた彼女に人の悪意は刺激が強すぎたのかもしれない。

 ここまで彼女が落ち込んでくれるのであれば、もっと他にもやりようがあった気がする。

 

 そして比較的治安が安定している大通りまで馬を走らせると――

 

「あらー、探しましたよー。四ツ葉さん?」

 

 満面の笑顔を作る七乃が待ち構えていた。

 

 

 ポタリと赤い液体が落ちてきた。

 見上げると四ツ葉が額から血を流しており、それが妾の髪に落ちる。

 最初に込み上がったのは怒りだ。よくも妾の四ツ葉に酷いことをしてのけたな、という怒りであった。全員を皆殺しにしろ、と号令を出す前に四ツ葉の胸に抱き寄せられて、そのまま馬を走りだした。上下に揺れる体、背中に感じる風、耳に入る罵声、そして血の臭いがする。

 責められている、妾が民に責められている。それよりも心を抉ったのは四ツ葉が傷付いたということだった、もしかすると妾のせいで四ツ葉が傷付いたのだろうか。

 そう考えると、やはり怒りが込み上がってきて、でも拳を振り下ろす場所が見つからなくて、そのことにまた怒りが込み上がってくる。暴れたい、怒鳴り散らしたい、そんな想いは四ツ葉の血の臭いで冷める。そして、やっぱり四ツ葉が傷付けられたことが許せないと思って、耳に入る罵声が妾に原因があるのではないかという思いにさせる。だがやはり四ツ葉を傷付けることは許せない、だから殺せと命じたいのだが血の臭いがその思いを邪魔する。四ツ葉を傷付けたくない、傷付いて欲しくない。命令すれば四ツ葉が切り込んでくれる、だが四ツ葉は弱い。鍛錬では何時も六花に負けている、七乃も弱いと言っていた。頼りがいのない奴だと言っていた。

 だから、でも、違っていて、そうでもなくて、妾が悪い? いや、悪いのは、でも、だけど、それでも、いや、だから、悪いのは、妾ではなくて――――ッ!

 

「あらー、探しましたよー。四ツ葉さん?」

 

 頭の中がごちゃごちゃになっていると聞き慣れた声がした。

 その声に安心する。七乃ならどうにかしてくれる、七乃になら任せられる。どんな我儘だって七乃なら叶えてくれる。

 しかし、七乃の顔を見た時、ゾッと背筋に怖気が走った。

 

「分かっていますね?」

 

 その問いに四ツ葉は大人しく馬を降りようとする。

 駄目だ、あの七乃の顔は駄目だ。あの笑顔でざっくりと、あっさりと反逆者の首を刎ねる命令を出してきたのを妾は知っている。

 ギュッと四ツ葉の服を握り締めて、「駄目じゃ!」と声を張り上げた。

 

「四ツ葉は何も悪くないぞ!? 妾のことを守ってくれたのじゃ! 四ツ葉は悪いことをしておらぬのじゃ!」

「いやだなー、お嬢さま。私は何も企んでいませんよ。ちょっとさっくり、四ツ葉さんの大事なところを斬り落とそうかなって思っているだけですってば」

「ま、待て! やめるのじゃ! 腕か!? 足か!? これ以上、四ツ葉を傷付けるのはやめるのじゃ!」

 

 七乃は望んだことをなんでもしてくれる、そして言ったことは必ずやってのける。

 

「いやー、これは思っていた以上に拗らせてますねー?」

 

 そんな呑気な声を口にするのは先程、知り合った程立だった。

 

「そうじゃ、程立! お主も何か言ってたも! ほら、お主も四ツ葉が大事であろう!?」

「んー、たぶん大丈夫だと思いますよー?」

 

 相変わらずの気が抜けた声で根拠のないことを云う、しかし七乃は急に白けた様子で息を吐いた。

 

「んーもう、仕方ないですねー」そう告げる時は何時もの笑顔で「次はないと思ってくださいよ、四ツ葉さん」と忠告する。

 

 どうやら助かったのだろうか。四ツ葉は青褪めた顔で七乃の横を通り過ぎようとして、その時、すれ違いざまに七乃が「六花さんのお仕置きは四ツ葉さんにお任せしますね」と囁いた。それを聞いた時、四ツ葉が息を飲み込んだのがわかった。

 

「お仕置きとは穏やかではないですねー?」

 

 そう呟いたのは程立で「おやおや、どなたでしょうか? お嬢さまの悪い虫ですかねー?」と七乃が笑みを浮かべたまま告げる。

 

「私は程立、字は仲徳。お嬢さまではなくって御主人様に身も心も捧げちゃいましたー、なので御主人様の嫌がることはあまりして欲しくないのですがー?」

 

 のんびりとした声で懇願する程立に「いえいえ、ご安心ください」と晴れやかに七乃は指を立てる。

 

「むしろ安全で気持ちいいお仕置きなんですよ。四ツ葉さんは勿論、六花さんも喜んでくれること間違いなし! それに彼女、可愛いもの好きですし?」

「喜んで? んー?」

 

 未だ青褪めた顔をしている四ツ葉、それを見た程立が訝しげに眉を顰める。

 そんな彼女に七乃は何かを耳打ちすると「おー」と感心するように、何処か楽しげに声を上げた。

 

「それでしたらー、後学のために私も同行してもよろしいでしょうかー? きちんとお仕置きするのか心配なのでー、それにお姉さんの可愛い顔に付いているブツも気になりますしー?」

「ええ、まさしく名門袁家の懐刀。名刀ではありませんが? 粗末なものでよろしければ、ぜひぜひー」

 

 つい先ほどまで四ツ葉を庇っていたはずの程立が耳打ちされてから心変わりしてしまった。

 分かり合ったように笑い合う二人、

 

「程立さん、お仲間と逸れたのではありませんでしたか?」

 

 妙に口調が丁寧な四ツ葉に「あの二人なら問題ありませんよー、あとで私の方から連絡を入れておきますー」と何処か楽しげに言葉を返した。

 これからなにが起きるのか七乃に問うても教えてもらえなかった。

 

 後日、妾は程立と一緒に部屋で御茶を飲んでいる。

 常日頃から業務に追われている四ツ葉と六花と遊べる時間は少なく、七乃も仕事のために妾の側から離れることは少なくない。なので誰もいない暇な時間を程立と一緒に過ごすことが増えた。程立と一緒に居るのは嫌いではない。七乃のように我儘を云える相手ではないが、話をしていても不快にはならないのだ。

 誰も居なくて暇なときは程立を呼ぶことが多くなった、少し前までに比べると心を許すようになったと思う。

 

「……妾は悪いのかの?」

 

 ふと零してしまった脈絡のない言葉。

 今でも想起される血の臭い、四ツ葉とお忍びをした時のことが頭から離れなかった。

「今更ですかー?」と呆れたように程立は口を開いた。

 

「それでも自覚できたなら四ツ葉さんも絞られた甲斐があったというものでしょうかー?」

「絞られた? そういえば、あのあとのお仕置きで何があったのじゃ?」

「いえいえ、それは四ツ葉さんの尊厳に関わることなのでー、四ツ葉さんから話を聞いてください」

 

 程立は茶を啜り、そして妾を見据える。

 もう結構な日が経つが、彼女は妾に真名を許していない。

 何故かその理由を聞くのは躊躇われる。

 

「私は貴方の教育係ではないのでー、あまり口出ししたくはないのですがー。あの人に目を付けられちゃいますしー」

 

 そう言いながらも程立は妾をじっと見つめて、そして何処ぞを眺めて、大きく息を吐いた。

 

「そうですねー、強いて助言をするのでしたらー、こんなところで茶を飲む暇があったら、もっと城を歩き回るのは如何でしょうかー? 街中はあの人が居るから自由に行き来するのは難しいですけどー、城内であれば自由に歩き回れると思いますよー?」

 

 程立は退屈そうに溜息を吐いて、「これからの貴方次第ですかねー」と呟いた。

 その言葉の意味が妾にはよくわからなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

魔窟の清廉悪鬼    -徐晃隊

 近頃、汚職がひどくなってきたのを感じる。

 官僚が露骨に賄賂を要求するようになり、ともすれば肉体関係を求めてくる輩も少なくない。

 特に出世をしたいとも思えなかった私はそういった要求を退けていると遂には実力行使に出られてしまったので持ち前の大斧で全員を叩き伏せた。それが原因となったかどうか分からないが、私は都の中心地から外されて、壁外での賊退治が主な任務となった。洛陽を覆い尽くす陰気を払うように大斧を振り回して、討ち取った首級は仲間内で分配する。

 壁内では相変わらず汚職が横行しており、権謀術数が渦巻いている。

 毎日、何かしらの形で人が死んでいる。見せしめのように裸にひん剥かれた女が大通りに晒されていたこともある、川の底には石が詰められた死体が積み重なっていると聞いたことがある。何時、何処で人が死ぬのかわからない。何時、何処で人が死んでも可笑しくない。

 ここは洛陽、天下の権威と人間の醜悪が集束する魔窟である。

 

 昨日よりも強大になる賊、今日よりも明日は更に強大になっていくに違いない。

 与えられる兵力は最初の頃から変わらず、連戦連勝、勝利を積み重ねる度、更に過酷な戦場へと投げ出される。これが洛陽の平穏を守るために必要なことだと分かっているが、本当に正さなくてはならないのは洛陽そのものではないか、と壁外から都を眺めて思う時がある。

 私も官僚の身であるので、あまりこういうことを言いたくはないが――売官制度のせいで官僚の質は地の底まで落ちている。理解できない命令を下されることも少なくない、むしろ理解できる方が少なかった。ただ単に死地に赴けと命令される時は楽な方で、功を求めた上官があれやこれやと注文を付ける時が苦労する。それでもまあ俸禄を貰っている身なので命令には従っている。この給与が民の税から支払われていると考えれば、その民を守るために働いていると実感できる今の仕事は宮中にいた時よりもやりがいはある。

 淡々と賊を狩り続ける日々、こんなことで世の中が良くなるとは思えない。

 

 何時しか、民草の間では天の御使いの噂が流れるようになっていた。

 世が乱れる時に、世を正すために、天から御使いが遣わされる――という胡散臭い話である。しかし、それに縋りたくなる気持ちも分からなくはない。世の中は更なる混沌の様相を見せ始めている。

 過ぎ去る日々、ただ惰性的に賊を狩り続ける。未来が見えない、体は疲れていないのに溜息が増えた。

 嫌気が差す、とはこういうことを言うのだろうか。

 

 ふと屋敷の窓から空を見上げた時、鳥が飛んでいた。

 何処までも広がる青空を小鳥達が自由に羽ばたいている、それがとても羨ましく感じられた。

 私が洛陽を離れようと思った理由をあげるとすれば、そんなものだ。

 ただきっかけがなかっただけだと思っている。

 私は基本的に無気力で面倒臭がりだから、きっかけができるまで動けなかっただけである。

 

 だから、ふらりと外に出ようとして――コツッと爪先になにかを蹴った感触があった。

 空ばかり見ていたから足元を疎かにしてしまったのかもしれない、それでゆっくりと視線を下げると薄汚れた衣服を着た女性が倒れているのが目に入った。

 

「んー? んー……?」

 

 どうしようかな、と少し考え込んでから彼女の体を抱えて屋敷に持ち込んだ。

 助けたことに意味なんてない、ただ今日は日が悪いと思った。洛陽を離れることに強い意志もなかった私は軽い気持ちでそれを取り止める。

 勝手気まま風吹くままに――私の名前は徐晃、字は公明。真名は香風(しゃんふー)

 今は騎都尉で賊退治に勤しんでいる。

 

 

「助けて頂いてありがとうございます」

「うん」

 

 彼女が起きたのは昼過ぎだった。

 屋敷の寝室で看病がてらに溜まりに溜まった書類処理に精を出す私の右手には筆が握られている。

 宮中からの嫌われ者である私にまともな副官を付けられるはずもなく、かといって兵の中に書類仕事ができるほどの教養を持った者もいなかったので、私の部隊で処理しなくてはならない書類の作成から決済までの全てを私一人で担っている。週に二、三回は賊退治に駆り出されているので処理しなくてはならない書類は膨大な量になっている、最近はまともに寝ていない気がする。

 頭の中がぼんやりとしているのもそのせいだろうか、今は意識がはっきりしている方が珍しくて眠たいのが普通になっている。

 だから口調がふんわりとしてしまうのも仕方ないことだった、とりあえず眠気覚ましにと茶を淹れる。

 そのついでに彼女の分も淹れといた。

 

「ありがとうございます……んっ、苦っ! えっ、なにこれ!?」

 

 彼女の茶を一口啜った時の反応を見て――ああしまった、と私は茶を口に含みながら思った。

 味なんて考慮せずに、ただ眠気覚ましだけに特化した香風特製。えげつないほどに濃い緑色をしているのが特徴で、あまりの苦さに舌がバカになる一品である。要約すると、滅茶苦茶に濃い茶だ。

 ごめん、と彼女の湯飲みに白湯を足した。それでも普通の茶と比べると何倍も濃いが、もう縁の限界ぎりぎりだ。彼女は改めて茶を啜ってみるも、やはり苦かったのか目尻に涙を溜めている。まあ眠気覚ましには丁度良かったのかもしれない、と私も自らの茶を啜る。苦い、確かに苦かったけども飲めない苦さではなかった。

 悍ましい何かを見るような目で私を見つめてくる彼女に、やっぱり私の舌はバカになってしまったのかなと思いながら一息に茶を飲み干した。

 

「名前は?」

 

 差し出された茶に悪戦苦闘する彼女に問うと「李儒文優と申します」という言葉が返ってきた。

 なんとなしに綺麗な声だなと思った。彼女の名前には聞き覚えがなく、親の名前も聞いて見たが、やはり私の記憶にはなかった。ただ彼女の立ち振る舞いや言葉遣いを見聞きする限り、彼女がただの民草にも思えない。それで何処か良家の出身ではないかと当たりを付けて問うてみたところ、彼女の実家が豪農だったことが分かった。

 今は賊に襲われて、村も跡形もなくなってしまったようだ。チラリと散乱した書類の一つを見れば、丁度、今日になって賊の目撃情報が上がった場所であった。

 

「……行く宛がないなら此処に居ても良いよ」

 

 端的に伝えた私は三日後の出兵の方針を考え直した。

 今の御時世、賊に困ることはない。近年の災害で野盗化した民衆は数知れず、何処ぞ彼処で賊が暴れまわっているのだ。だから少しくらい予定が前後したところで問題はない、軍勢を抱える皇甫嵩や朱儁とは違って使い勝手の良い規模の部隊が私である。だから私のところには賊退治の仕事がよく舞い込んでくる。

 巡回する進路を変更して、それに合わせて日程を組み直し、装備や兵糧の数も調整する。とりあえず頭の中で弾き出した数を、今は近場にある木片に書き留めておいた。そうしていると李儒と名乗った彼女が横から木片を覗き込んできた。

 軍事機密だけど、まあ賄賂で簡単に漏洩する機密だ。見られたからといって痛くはない。

 それよりも気になるのは――

 

「文字、読めるの?」

 

 問いかけると「少しなら」と彼女は控えめに頷き返した。

 

 翌日、私が部隊の調練から戻ると山積みになった書類の半分以上が失われていた。

 乱雑に置かれていた書類は全て区別分けされており、どの分野の書類か一目で分かるようになっていた。また掃除する暇もなかった部屋は綺麗に片付けられており、数ヶ月以上も放置されていた布団が外に干されている。なによりも私の感性を刺激したのは美味しそうな料理の香りだった、その匂いに誘われるように台所へと赴けば、李儒が鼻歌交じりで料理に勤しんでるところだった。

 

「すみません、お世話になっているだけってのも申し訳なかったので家事を少し……」

 

 言いながら李儒が頰を赤らめる。

 少しって感じでもないのだが――まるで自分の家が自分のものではなくなってしまったような違和感を覚えながらも、久方ぶりに綺麗なった部屋に気持ちよさを感じている。そして李儒に促されるまま私が居間の椅子に座ると次から次へと運ばれてくる料理の数々に、ついキュウッとお腹が鳴ってしまった。

 あらあら、と微笑む李儒の横顔を見て、私は軽い気持ちで思いつきを口にする。

 

「明日から私の副官に任命するから、そのつもりで居てね。あと私の真名は香風、だよ」

 

 え、と呆気に取られた顔をする李儒を無視して、私は用意された料理に手をつける。

 見た目は勿論、味も最高だった。久しぶりに美味しいと感じられる料理に次々に手が進み、お腹いっぱいになるまで食べると酷い眠気が身を襲った。私が真名を預けた後で、博美(ひろみ)と名乗ったことだけはしっかりと覚えている。

 だから安心、大丈夫。お日様の匂いのする布団でぐっすりと眠ることができた。

 

 更に三日後、出兵時、

 真昼間の晴天を翔け抜ける流れ星が見た。

 それを見上げて、私は致命的な何かを手から零れ落としたような、そんな気になったのだ。

 たぶん、気のせいなんだと、今はそう思うことにする。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

孫家の臆病者     -孫堅軍

 近頃、中原がきな臭くなったように感じられる。

 なんでも黄色の頭巾を被った賊が、略奪、陵辱、と思いのままに大陸全土にある街を襲っているようだ。それも元を正せば度重なる災害で食うに食っていけなくなった民草が泣く泣く土地を手放して賊徒へと成り下がったしまった者ばかり――だからといって、賊徒に成り果て他者を襲う者達に同情するつもりもないが、災害が発生した時に領主達がもっと迅速に対応ができていればとも思いもする。

 事実、曹操は迅速な対応で被害を最小限に抑えており、逆に袁術は初動が遅れたせいで多くの難民を生み出してしまった。話を聞く限り、災害時の袁術軍は指揮系統が混乱しており、現地の有志が各自で対応に当たっていたんだとか――他はまあ及第点といった対応であったが、決して少ないとはいえない数の難民を生み出している。

 その時から不穏な気配が少しずつ大陸全土を覆い隠すようになって、そして気づいた時には「世の中が荒れている」と肌身に感じるようになっていた。

 黄巾族は日増しに勢力を大きくしており、遂に漢王朝では討伐隊の発足が決定される。

 

 此処は中原から遠く離れた揚州丹陽郡にある建業、

 中原と比べると災害の被害は小さかったが、中原で起きる混乱とは無関係ではいられなかった。

 その建業を纏めているのは孫堅、漢王朝の官僚である彼女は黄巾族討伐のための派兵が義務付けられており、そのために五千の兵を率いて中原に入ることが決定されている。揚州は異民族と接する土地、中原の混乱を聞きつけた異民族が活発な動きを見せ始めているため多くの兵を動員することはできなかった。

 さて派遣軍を率いるのは孫堅、そこに程普、黄蓋、韓当の三老将が補佐に就くことは決定されている。そして建業の守護には孫堅の娘である孫策と周瑜、張昭の三名が孫堅の代行として選ばれている。派遣軍の方には更に数名の武将が付けられるそうだが詳細はまだ知らない、でも少なくとも私が選ばれることはないと思っている。

 

 私の名前は孫匡、字は季佐。真名は火蓮(ほぉれん)。母、孫堅こと炎蓮(いぇんれん)の娘。

 母の名を受け継いでおきながら、その武勇を受け継ぐことができなかった臆病者である。姉である孫策こと雪蓮(しぇれん)、孫権こと蓮華(れんふぁ)は三老将から真名を預けられているというのに私はまだ預けてもらっていない、つまりは――そういうことだ。この揚州の土地に住む者は勇猛果敢な者を好む傾向にあり、軍師であっても周瑜や陸遜のように人並み以上の武芸を嗜んでいる。張昭とて、母炎蓮が相手でも決して臆さない強固な意志で周りから認められているのだ。

 それに比べると私は、やっぱり軟弱者だ。

 私は剣を磨くよりも花を愛でる方が好きだ。勇猛で痛快な曲よりも繊細で穏やかな曲の方が好みで、夜は肉料理を肴に酒を飲むよりも満月を肴に杯を傾ける方が楽しかった。号令を出すよりも詩を口遊み、虎よりも猫を好む、そんな感性を持つ私は周りから理解されても同意を得られることは少ない。唯一、蓮華だけは少なからず私の感性に触れることができたが、それでもやはり賑やかで楽しい宴の方が好みだということが分かる。

 私は一人だった。孫堅の娘であったから孤独ではなかったが、私は一人だった。

 

 晴天、外は青空が広がっている。

 世の中では「中黄太乙」と声高に叫ばれていると、この澄みきった青空が黄色に染まることはありえないと思うのだ。

 気持ちいい風が吹き抜ける、ふと城壁まで来たことに大した意味はない。ただ風が気持ちよさそうだったから、そして実際に来てみると気分が良かった。澄み切った風が私の心に渦巻く邪念を吹き飛ばすように私の体をすり抜ける。

 今、大陸は動乱の予兆を見せているというのに、地平の先まで見える自然はどうしてこうも美しいのだろうか。

 何処までも、遠く果てまで、呆れ返るほどに穏やかだ。

 

「火蓮、こんなところで護衛も付けずに何をしている?」

 

 ふと振り返ると私の姉である孫権、蓮華が心配するように私を見つめていた。

 

「うん、ごめんね」

 

 私が謝ると蓮華は溜息を零して「性格はまるで違うのに、勝手に歩き回るところは姉様にそっくりね」と零した。悪態だと分かっているのに雪華と似ていると言われたことが嬉しくて、はにかむと「褒めてないわよ」と蓮華は不満そうに眉を顰める。

 

「姉様とは違って貴方は強くないのだから一人で歩き回らないで、何処に刺客が潜んでいるのかわからないわ」

「これでも人並み程度には戦えるよ?」

「兵卒一人倒せるかどうかの腕前じゃない、その程度で威張らないで」

 

 ごもっとも、と私は肩を竦める。

 孫家基準でいえば、一人で兵卒十人程度を相手にできてやっと一人前だ。武勇に優れていないとされる蓮華であっても、それぐらいのことは簡単にやってのける。そして末娘の孫尚香こと小蓮(しゃおれん)も同じことができる。

 ……姉の蓮華はともかく妹の小蓮が三老将から真名を預けられるのは少し屈辱だった。

 

「そういえば中原への派遣軍、随伴するのは私か貴方かっていう話だったわね」

 

 その話は覚えている、そして将来を期待されている蓮華が選ばれることは分かりきっていた。

 私は戦場で役に立たない。蓮華は軍事から政治にまで通じており、あと足りないのは経験だけと言われている。

 ならば、此度の中原への派兵は蓮華に経験を積ませる絶好の機会であり、私の随伴はありえなかった。

 

「あれね。火蓮、貴方に決まったわよ」

 

 思わず、顔を上げた。信じられずに蓮華の顔を見つめる。

 

「……私は此処で政治のお勉強、冥琳(めいりん)(のん)からこってりと絞られる予定よ。次に孫家を引き継ぐのは仕事嫌いの姉様だから私にお鉢が回ってしまったのかもしれないわね」

 

 そういうと彼女はまた小さく息を吐いて、そして私に向けて笑みを浮かべてみせる。

 

「母様が貴方を連れて行くことにはきっと意味があるわ。もしかすると軍師の才能でも見抜かれちゃったのかしら?」

「……そんなのはないと思うけどね」

「とにかく選ばれたのは貴方なのよ。私の代わりに行くのだから、しっかりなさい」

 

 そう言われて、蓮華に背中を強く叩かれる。思わず噎せてしまうと蓮華が呆れたように苦笑する。

 

「あと貴方にも側近が付けられることになったわよ」

「側近って、蓮華姉様の周泰みたいな?」

「ええ、そうよ。近いうちに顔合わせに来ると聞いているわ」

 

 それじゃ、と要件を伝えるだけ伝えた蓮華は何処かへと去っていった。

 空は相変わらずの青空で、今も心地よい風は吹いている。取り残された私は暫く穏やかに時間が過ぎるのを城壁で堪能する。

 世の中は動いている。私がどうしようが関係なしに、時は無情で理不尽に刻み続けている。

 どうやら世界は私に立ち止まることを許してくれないようだ。

 

 その翌日、

 母炎蓮の手引きで側近との顔合わせをすることになった。

 こういうことは早い方が良い、という母様の方針で急遽決まったことで心の準備をしていなかった私は少なからず動揺している。

 今まで側近というものに縁がなく、どのように扱えば良いのかわからない。自分なんかが主人で大丈夫だろうか、やっぱりがっかりしているだろうか。不安が胸に込み上がる中、母様に連れられた見知らぬ顔の女性が私の前に姿を表した。

 その者は鋭い目付きをした女性であり、如何にも武人然とした雰囲気を出していた。

 

「名は呂蒙、字は子明! 真名は亞莎(あーしゃ)! 粉身砕骨の如し努力する所存です!」

 

 側近というよりも護衛だろうか、武人肌の彼女を前に苦笑する。

 ふと空を見上げると真昼間だというのに流れ星が翔け抜けた、天を割るように飛んでいった流れ星に母様は「お前達の出会いを祝福しているのかもしれないな」と豪快に笑ってみせる。

 その一方で私は彼女と上手くやっていける気がしないな、とそんなことを思うのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

天の御使い      -北郷組

 ここは幽州啄郡五台山、

 彼の有名な霊山の麓近くを私達は走っていた。

 

「ほらっ、愛紗(あいしゃ)! 早く行くのだ!」

 

 大きく手を振って私のことを急かすのは背丈の小さな少女、身の丈以上の蛇矛を片手に持ってまた軽快に走り出した。

 よくもまあ、それだけ元気が出せるものだと私も追いかける。彼女は見た目こそ幼いが、その体に秘めた武勇は一騎当千に値する。放っておいても問題はないが、しかし彼女の性格だ。見失うと厄介なことになるのは間違いなかった。何故、彼女がこんなにも元気よく走っているかというと、この真昼間の青空にも関わらず「流れ星を見つけたのだ!」と言って私の制止も聞かずに駆け出してしまったためである。

 妖の類でなければ良いのだが……と躊躇する思いはあるが、彼女一人を放っておくわけにもいかないと溜息交じりに追いかけた。

 

 私は関羽雲長、真名は愛紗(あいしゃ)

 黄巾を頭に巻いた賊徒が世に蔓延る中で、私は一介の侠者として弱き民草を賊徒の魔の手から守ることで生きてきた。その道中で出会ったのが私の目の前を走る少女であり、今は二人で世直しの旅を続けている。世直しといっても近場に現れたという賊徒を倒して回っているだけであり、手応えらしい手応えを感じているわけではなかった。むしろ賊徒から街を守ってくれる傭兵という扱いをされることが多く、日銭を稼ぐために賊徒を狩り続けるような日々であり、このまま賊徒の討伐を続けているだけで本当に世の中が良くなるのか分からなくなってきた。

 志は間違っていないはずだ、悪い奴を退治し続けるのは大切なことだと思っている。

 だがしかし、こうして賊徒を退治する旅を続けているだけでは世の中は何も変わらないのではないか、とも思うのだ。世の中をもっと良くしたい、もっと平和な世の中にしたい。それなのにどうして、この想いが形になる気がしないのだろうか。どうしようもない無力感、まるで雲を掴むように手応えがない。その原因は分かっている、私にはどのような世界にしたいのか、という明確な指標がないのだ。良いことはわかる、悪いことはわかる。倫理、道徳、善悪は分かっているが、世界をどのようにしたいのか、というのが分かっていなかった。ただ良くしたい、と漠然に願っているだけだった。

 だから、きっと私は理想が欲しかったのだと思っている。

 明確な理想の形、それを体現したような人物に従うことができれば最高だ。目を閉じれば、邪気を祓う桃のように可憐な笑顔を見せる少女が瞼に浮かんだ。何時しか毎晩のように夢に見るようになって、彼女は強い意思で、何処までも強く、果てしない遺志で私のことを引っ張ってくれて――駄目だな、と首を横に振る。ただ私はそういう人物を欲していて、もしかしたら夢に見る。あの少女と出会えるかもしれないと思って、天の御使いという与太話に耳を傾けてしまった――いけないな、心が弱くなっている証拠だ。

 あの占い師の名前は確か管輅と言ったか。天の御使いが現れるという方角に足を運んで、その道中で嘘だったら斬り捨ててやると何度も思って、何日か過ぎた今日、空を流れ星が駆け抜けた。

 それが近場に落ちた、と相方が言うのだ。

 妖の類でなければ良いのだが――というのは言い訳だ。仮に天の御使いが居るとして、少し怖いと思う自分がいる。それは警戒ではなくて、純粋な怖れだ。

 何故だろうか、まるで合わせる顔がないような、そんな感じがする。

 

「愛紗、こっちに来るのだ!」

 

 相方の威勢の良い声に顔を上げる、何時の間にか俯いてしまっていたようだ。

 彼女に導かれるままに駆け寄れば二人の男女が居た、女は人を食ったような笑みを浮かべながら私達二人を見比べて、そして彼女の足元には妙な恰好をした男が倒れている。どちらも私が期待した相手とは違っている、どちらかが天の御使いなのだろうか、それともどちらも天の御使いなのだろうか。

 相方が武装を解いているのを見て、とりあえず相手に戦意はないことを知る。

 

「賢明だな、関雲長。そして張翼徳」

「私の名を知っているのか?」

「その偃月刀と蛇矛は目立ちすぎるんでね、なぁに幽州の英傑の名前くらいは抑えてるさ」

 

 女はケッケッケッと肩を揺らしてみせる。

 その口振りから天の御使いではなさそうだ、となると倒れている男の方が天の御使いか。

 見れば、身なりが私達とはまるで違っている。

 

「先ずは名乗って頂こうか」

 

 その態度が癪に障り、黙らせるつもりで偃月刀の切っ先を向けると「気が早いなあ、関雲長。その名が泣くぞ」と全く怯んだ様子も見せずに睨み返してきた。

 

「脅すだけなら止めておくこった、その勇名を地に落とすことになりかねない。しかしまあ確かに名乗らないのは私の礼儀がなっていなかったね、その点は謝るよ」

 

 云うと女は偃月刀を突き付けられながら服の汚れを払って、じっくりと髪まで整えてから私達の方を向き直る。

 

「我が名は単福(たんふく)、字はない。世の森羅万象の全てを解読できる頭脳を持つ天才様だ、斬れば天下の損失になるよ。さあ名乗ったぞ、刃を下ろせ。無防備の相手の血で偃月刀を汚すのが関雲長の武なのかね?」

 

 語る言葉、取る仕草、その全てに苛立ちを感じずにはいられない。だから刃を下ろすかわりに言葉を投げつけてやる。

 

「単福? 聞いたことがない名前だな、神羅万象を理解するだけの頭脳があるならば少しは有名になっていても可笑しくないはずだが……」

「当然だよ、なんせ偽名だからね」

 

 女はあっけらかんと答えてみせた。

 やっぱりこいつは此処で殺しておこうか、偃月刀を握り締めると「待つのだ! 気に入らないと斬り捨ててたら鈴々(りんりん)達も悪者と変わらなくなるのだ!」と相方が私の後ろから少女らしかぬ力で抱き締める。

 大丈夫、本当に殺すつもりはない。手元が狂わなければ。

 

「いやあ、猪突猛進なのは張飛だけだと聞いていたのだけどねえ! これじゃあどっちがどっちだか分かりゃしない! えっと、関……ん、んん……? ん~……? いや、張飛さん?」

「その煽りは流石に鈴々も怒るのだ」

「それはそれはまじ勘弁! ご勘弁を! 流石に英傑二人を相手にできるほど腕っ節に自信がない、というよりも私の剣は護身用でね。その偃月刀と蛇矛を軽々と振り回せる馬鹿力を相手になんかできやしない! なんでって? だって私はか弱い女の子だもんッ!!」

「鈴々、私は右から行く」

「分かったのだ、鈴々は左からぶちかますのだ」

 

 このふざけた女に天誅を下すべく、相方と二人で武器を握り締めて、じりじりと左右から詰め寄ってやる。

 しかし、女は余裕の笑みを浮かべたまま、私達を制止するように片手を前に突き出した。

 

「警告をしてあげよう、君達は今すぐに武器を下ろすべきだよ」

「大丈夫だ、殺しはしない。少しお灸を据えてやるだけだ」

「そうなのだ! 反省させてやるのだ!」

「自己紹介がもう一度必要かね? ならば、もう一度、言ってあげよう」

 

 未だ、臆する様子のない女は私達二人に武器を突き付けられながら堂々とした態度で告げる。

 

「私は世の森羅万象の全てを解読できる頭脳を持つ天才様だ。つまり、分かるかな?」

 

 女は彼女の足元で寝転がる男の頭を私達に見せつけるように踏みつけると、

 

「どんな難題でも簡単に解けちまうんだよね」

 

 その側頭部を蹴飛ばした。

 

 

 あいたっ!

 側頭部を小突かれたような強い衝撃に目が醒める。

 何が起きているのかよく分からないまま、頭を撫でながら覚醒したばかりの体をゆったりと起こす。

 すると目の前には美少女と呼べる女性と少女が立っており、そして、その手には薙刀と槍のようなものの切っ先を俺に突き付けられている。これは何かの冗談だろうか、呆然とした顔を浮かべる二人組、よく見ればコスプレなのだろうか? 珍妙な格好をしていた。ならば今、目の前で突き付けられている武器も偽物だろうか――しかし、その顔が映る程に磨き上げられた冷たい重厚感は博物館などで見てきたものとよく似ている。そうだ、刀とか槍の穂先とかにあるのと同じ物だ。

 だから、その材質が鉄であることは直ぐに理解できたし、その刃は潰れておらず、家に置いてある包丁なんかよりも余程切れ味が良さそうなのも理解できた。

 極め付けは俺の背中に回り、肩に手をかける少女。

 

「ああ、助けてくだしいましっ!」

 

 と如何にも悲痛な声を上げて俺に縋ってくる。よく分からないが、目の前の乱暴そうな二人組に追われているのか?

 

「な、何を馬鹿なことを言っている! 早く、その男から離れろ!」

「愛紗、駄目なのだ。今は大人しく武器を下ろした方が良いと思うのだ。どうやっても鈴々達の方が悪者に見えちゃうのだ」

「ぐぬぬ……くそッ!」

 

 少女に嗜められて、背と髪の長い女が歯を食い縛って薙刀を下ろした。

 まあ良かった、とりあえず穏便にことが済みそうか――と思ったところで俺に縋りついていた女が立ち上がり、そして勝利を確信したような悪どい笑みを浮かべて口を開いた。

 

「ったく、これだから頭まで筋肉でできてしまっている輩は嫌いなんだよ。口で言い負かされたのであれば口で言い返すべき、腕っ節に自信のある奴はすぐ暴力に頼ろうとするから駄目だね。もっと頭を使いたまえ、知的向上心のない奴は馬鹿にしかなれんよ。考えることを止めるのは楽だが、考えることをやめた奴は人間とも呼べない猿以下の存在だということだ」

「貴様……ッ!」

「貴様の次を言ってみろ、怒気をぶつけて脅すだけが関雲長のやり口かね。そもそも関羽殿は貴様という言葉の由来を知っているのか? 漢字が示す通り、貴き相手を様付けで呼ぶ時に使う言葉だ。つまり、其方は私を敬ってくれているのかな? ありがとう、お礼にこういう時に相手を罵倒せしめる最適な言葉を教えてあげよう。この関雲長め、だ。猪突な脳筋馬鹿の低俗野郎という言葉をたった六文字で表現し得る最高の言葉だとは思わないかね?」

 

 顔を真っ赤にして今にも爆発しそうな挑発の女性、「今、暴力を振るえばまさしく今言った通りになるねぇ」と未だ俺の背中に隠れる女が相手を挑発しながら諌めるという綱渡りのようなことをやっている。いや、今、そんなことよりも関雲長とか口にしていなかったか?

 

「あいつは相手にするだけ無駄なのだ。一を言えば十以上の言葉で返してくるから疲れるだけなのだ」

「張飛、私は聡い奴は嫌いじゃないよ。やはり猪の文字は張飛ではなくて関羽にこそ与えられる称号だね」

「どーもなのだ、でも愛紗が暴れても助けてやらないのだ」

 

 あっはっはっ、と背後の女が楽しそうに高笑いをあげる。

 張飛と関羽、やはり三国志で聞いたことのある名前だ。ということは三国志に関連のある漫画かゲームのコスプレをしているのだろうか、いや、しかし彼女達の持っている武器はコスプレという領域を超えているような――銃刀法違反で捕まるだろ、常識的に考えて。というよりも此処は何処なのだろうか、周囲を見渡してみると遠くに山が見えて……山!? なんで山が見えるんだ、辺り一面に広がる荒地はなんだ。此処は街のど真ん中、所狭しと家屋が建ち並ぶ場所ではなかったのか。こんな地平の先まで荒地が続く場所は、日本では北海道くらいしかあり得ない。

 そうなると此処は本当に日本ではないのだろうか……だが、そうなると此処は一体……

 俺の背後にいる知的な顔をしている女性、彼女も三国志に関連しているとするならば恐らく――、

 

「なあ君は、禰衡(でいこう)で良いのかな?」

「禰衡? 知らない子ですね……いやしかし、私を見てそう思ったということはきっと名高い智慧者に違いない。天の世界では有名な知識人かな? 是非ともあとで教えて欲しいねぇ、根掘り葉掘りじっくりこってりと……」

「あ、いや、違うなら良いんだ……あはは」

 

 息するように悪態を吐き捨てるから禰衡がモチーフになっていると思ったが違うのか。いや、だが、コスプレする程の三国志好きならば禰衡の名前くらいは知っていても可笑しくないんじゃないだろうか?

 

「ちなみに私の名前は単福。今後ともよろしく、天の御使いよ」

 

 単福? はて、何処かで聞いた覚えがあるような……

 

「お前、それは偽名だと言っていただろう!」

「関羽殿、お前という言葉の由来を――」

「それはもう良いのだ、話を混ぜっ返さないで欲しいのだ」

 

 ああ、そうだ。思い出した。

 確か、その名前は、劉備が初めて手に入れた軍師が名乗っていた偽名だ。

 その軍師の名は――

 

「徐庶元直」

 

 シン、と場が静まり返った。

 背中にいた女は無言のまま、俺の前まで回り込むと面白い玩具を見つけたような笑顔で俺を見つめる。

 その豹変に関羽と張飛は身動きが取れず、女は歓喜に満ちた声で告げた。

 

「天は、私を知っているのか!」

 

 爛々と輝かせた瞳は、まるで子供のように無邪気だった。

 その嘘偽りを感じられない反応を見て、俺は此処が日本ではない何処かであることを悟る。

 拝啓、母上様。どうやら北郷一刀は異世界に飛ばされたようです。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

登場人物の所属と動向一覧(雌伏編時点)

雌伏編終了時点での登場人物の所属と動向一覧(作者整理用)

▽原作 ▼オリジナル

 

注釈:本作の外史では各地で官位の自称が多発している。売官制度で本来は任官されるべき者が任官されず、政治のことがまるで分かっていない者達が台頭し始めたことによる政治的混乱が発生し、それを収束させるために実質支配している者が官位を自称することで急場を凌ぎ、事後承諾で官位を買い取るという方針が取られている。本来はやってはいけないことだが、漢王朝の方も「自称のつもりだったかもしれないけど、うちは最初から任官してるつもりだったからセーフ」とかいう雑な方針であったために見逃される。これによって正史よりも早く、地方の軍閥化を助長する要因となり、各地での蜂起を誘発する結果となった。という理由で整合性が取れてるということで許してくだぁさい。

 

■漢王朝

▽霊帝-劉宏:空丹(くぅたん)

 現皇帝、何進派閥と十常侍に勢力争いの板挟みになっているのだが本人はそのことに気付いていない。

▼少帝弁-劉弁:冷湯(らんたん)

 霊帝の妹、次子。劉協と比べて愚鈍という評判。何姉妹と血の繋がりを持っており、何姉妹と反宦官勢力によって擁立をされようとしている。

▽献帝-劉協:白湯(ぱいたん)

 霊帝の妹、三子。聡明な頭脳の持ち主であるがまだ幼い。霊帝の寵愛を受けており、次期皇帝として期待されていたが劉弁と劉協で派閥ができており、そのことで不安を抱いている。

 

・何進派閥

▽何進遂高:(けい)

 大将軍、漢王朝における軍事の最高責任者。名門と称される家柄から成り上がりと侮られているため、宦官勢力と連携して宮中を掌握している。

▽何太后:瑞姫(れいちぇん)

 何進の娘、霊帝の嫁……嫁? 政治関連は何進に一任しており、霊帝に取り入った上で贅沢三昧の生活を送っている。

▼逢紀元図:(ちゃん)

 何進の懐刀。

 

・宦官

▽趙忠:(ふぁん)

 十常侍の統括者、宦官の代表者。実質的に政治を掌握しており、何姉妹との連携することで宮中を掌握しようとしている。

▼蹇碩:(づぅ)

 宦官、霊帝の近衛隊の隊長。宮中が不穏な空気を漂わせているが本人、政治にはまるで興味がない。

 

・官僚

▽皇甫嵩義真:楼杏(ろうあん)

 地位は左中将郎、黄巾賊の討伐軍を編成中。政治闘争に深く関わろうとせず、軍人として漢の忠臣であろうとしている。近頃、名を馳せている曹操を召集している。

▽盧植子幹:風鈴(ふうりん)

 地位は北中将郎、黄巾賊の討伐軍を編成中。宮中内の政治腐敗を憂いており、暗愚な劉宏よりも聡明な劉協に未来の希望を抱いている。私塾の門下生である公孫賛を頼り、召集をかけている。

▼朱儁公偉:宿松(しゅくしょう)

 地位は右中将郎、黄巾賊の討伐軍を編成中。義理人情が強い人柄で、軍人というよりも武人という言葉が似合う人物。以前より目をかけていた孫堅に召集をかけている。

▽張遼文遠:(しあ)

 地位は執金吾、正史では丁原が担っていたが本作ではいないので、その代わりを勤める。外に出られないので不満たっぷり、外敵からは守るけど内側は知らんと言い張っている。

▽徐晃公明:香風(しゃんふー)

 地位は騎都尉、使い勝手の良い独立部隊として運用される。洛陽周辺の防衛を担当している実質的な都の守護者、何進、趙忠の両者から派閥に取り込もうと思われているが、彼女自身、政治闘争に興味がなく命じられるまま任務に従事している。優秀な補佐が入ったことで睡眠時間が増えて、その至福の時間を噛みしめている。

▼李儒文優:博美(ひろみ)

 徐晃の補佐として働いている。仕事を覚えるだけで手一杯。

▽華雄:(しぅあん)

 黄巾族討伐に応じた募兵に参加した農民。性格に難有りとされて、徐晃麾下に回される。まだ認知されていない。

▽呂布奉先:(れん)

 地位は騎都尉、三将軍では手に回らない辺境を東奔西走して賊徒を狩りまくっている御方。その天下無双と神出鬼没っぷりに敵からは恐怖、味方からは畏怖の対象として見られている。徐晃の無敗伝説は、この御方の戦功で霞んでる。

▽陳宮公台:音々音(ねねね)

 呂布の補佐として働いている。呂布が各地に動き回れるのは陳宮の繊細な兵站管理のおかげであるが、その分、書類処理に忙殺されている。

▼淳于瓊仲簡:未定

 宮中と名士内では有名なのだけども、呂布、徐晃と比べると地味で名が知られていない。

 

■涼州派閥(涼州天水郡)

▽董卓仲穎:(ゆえ)

 自称涼州牧、異民族討伐で戦果をあげた英傑。近頃、朝廷に呼び出されることが多くなり、涼州の掌握を馬騰に任せることが増えている。

▽賈駆文和:(えい)

 董卓の懐刀。人の良い董卓に代わって、謀略を担当している。

▼馬騰寿成:(つぅい)

 現状、董卓に協力する形で涼州を支配しており、主に涼州北部の統治を担当している。既に軍権は馬超に委任しており、自身は政治関連に力を入れている。

▽馬超孟起:(すい)

 馬家の次代後継者。武芸は突出しているが書類仕事が苦手で悪戦苦闘している。

▽馬岱:蒲公英(たんぽぽ)

 馬家一門の知恵袋、と呼べるほどではないが他のできる者がいないので消去法で馬騰に政治を叩き込まれている。「悪知恵と謀略は違うって何度言えばわかるかな?」

▽馬休:(るぉ)

 馬超麾下として一翼を担う。

▽馬鉄:(そう)

 馬超麾下として一翼を担う。

▼鳳徳令明:向日葵(ひまわり)

 馬岱の幼馴染み、よく泣かされていた。

▼韓遂文約:(やん)

 反乱を起こしたいなーとか思ってる。

 

■袁紹軍(冀州勃海郡)

▽袁紹本初:麗羽(れいは)

 公式勃海太守。何進と懇意にしており、何進に宦官排除させようとしている。

▼許攸子遠:(みやび)

 田豊、沮授と深い繋がりを持っており、袁紹個人とも「奔走の友」の誓いを交わした仲。

▼郭図公則:(さくら)

 荀諶と同時期に袁紹の仕官した存在。智謀に優れている。

▼荀諶友若:香花(きょうか)

 袁紹軍所属、荀彧の実姉。やる気のない妹とは違って、それなりに働いてる。

▽荀彧文若:桂花(けいふぁ)

 袁紹軍所属、袁紹は好ましい主君じゃないのでそろそろ姉を連れて出て行きたいと思っている。

▽文醜:猪々子(いいしぇ)

 袁紹配下、二大将軍の猪武者な方。黄巾賊の討伐にあちこち好き勝手に駆け回っている。

▽顔良:斗詩(とし)

 袁紹配下、二大将軍の苦労人な方。黄巾賊の討伐にあちこち好き勝手に駆け回っている文醜の後処理に追われている。

 

■韓馥軍(冀州業郡)

▼韓馥文節:未定

 公式冀州牧。田豊と審配が怖い。

▼沮授:(じゅん)

 田豊と同期であり、韓馥を二人で支えている。

▽田豊元皓:真直(まぁち)

 韓馥に仕えるも疎まれる。黄巾の乱に続く、将来の動乱を予見して憂いている。

▼審配正南:未定

 韓馥に仕えるも疎まれる。謀略と云うよりも武人に近い。

▼張郊儁乂:麗良(レイラ)

 韓馥配下の武官。

▼高覧:有栖(アリス)

 韓馥配下の武官、あまり認知されていない。

 

■劉表軍(荊州襄陽郡)

▼劉表景升:栗花落(つゆり)

 公式荊州牧、何進と強い繋がりを持っている。黄巾賊の討伐では慣れない軍務であたふたしてしまっている。

▼蔡瑁徳珪:船妙(ふなみ)

 劉表軍における軍務の最高責任者。これからの時代は水軍ですよ、劉表様!

▼文聘仲業:帆景(ほかげ)

 劉表配下、文武両道を貫く武人。

▽黄忠漢升:紫苑(しおん)

 劉表配下、今はまだ一介の武将。あまり認知されていない。

璃々(りり)

 黄忠の娘、教育に悪い親の割に真っ直ぐに育ってる。璃々って名前、真名じゃねーの?

▽魏延文長:焔耶(えんや)

 今はまだ一介の兵卒、認知されていない。

 

▽黄祖:千秋(せんしゅう)

 劉表配下、公式江夏太守。今はまだ大人しい。

▼蘇飛:深雪(みゆき)

 黄祖配下、甘寧との繋がりもある。

 

■曹操軍(豫州陳留郡)

▽曹操孟徳:華琳(かりん)

 自称豫州牧、皇甫嵩の召集に従って軍勢を集めている。袁紹の宦官を全て排除するという考えには否定的。医学関連の人材と資料を片っ端から集めている。

▼戯志才:(らん)

 曹操軍の軍師。現状、曹操が唯一、謀略で相談できる相手なので寵愛を受けている。吐血のおかげで閨には誘われていない。

▽夏侯惇元譲:春蘭(しゅんらん)

 曹操軍の軍事担当、政治が理解できない。この夏侯惇は曹丕時代に大将軍にはなれない。

▽夏侯淵妙才:秋蘭(しゅうらん)

 曹操軍の軍事担当、政治は理解できるが政治ができるとは言っていない。秋蘭なら、それでも秋蘭なら、なんとかしてくれる。

▽曹仁子孝:華侖(かろん)

 曹操軍の軍事担当、守りに定評がある曹仁。

▽曹純子和:柳琳(るーりん)

 曹操軍の軍事担当、虎豹騎はまだ存在していない。

▽曹洪子廉:栄華(えいか)

 曹操軍の財布係。戯志才が謀略担当なら、栄華は政務担当。荀彧の登場が待たれる。

 

■陳珪軍(豫州沛郡)

▽陳珪漢瑜:(とう)

 公式沛郡太守……なのだが、曹操と袁術に挟まれて頭を抱えている。

▽陳登元龍:喜雨(すぅ)

 陳珪の娘、土弄ってる。

 

■袁術軍(荊州南陽郡)

▽袁術公路:美羽(みう)

 公式南陽郡太守、政治のことは全て張勲に丸投げしているが、近頃少しだけ自分の立場について考えるようになった。

▼袁姫:結美(ゆみ)

 袁術の妹。

▼閻象:五色(ごしき)

 袁術配下、給仕姿。袁術の親の代から付き従っている。

▽張勲:七乃(ななの)

 袁術軍の実質的な指導者。袁術に余計な知恵を付けさせないように注意を払っている。

▼雷薄:二実(つぐみ)

 袁術配下、張勲に付き従っている。

▼雷緒:影実(えみ)

 雷薄とは双子の関係。姿形は瓜二つで、時に袁術の影武者もする。書類には名が残されていない。

▼楊宏大将:四ツ葉(よつば)

 袁術配下、張勲に次ぐ政務官。大筋は張勲が決めるので、ほとんど雑務をやっているだけである。

▼紀霊:六花(りっか)

 袁術配下、張勲に次ぐ軍務官。政治は張勲と楊宏に丸投げしているが、政治を理解できる頭は持っている。張勲よりも楊宏の方が好ましいと思っている。

▼李豊:三日月(みかづき)

 袁術配下、軍政両方に通じる便利屋として楊宏と紀霊から扱われている。

▽程立仲徳:(ふう)

 楊宏の食客。押しかけ食客という形なので仕事は与えられておらず、暇潰しに袁術のお誘いに乗ってたりして時間を潰している。

▽魯粛子敬:(ぱお)

 袁術配下。文官の仕事をしながら、なんで自分は此処にいるのだろうか。と人生に疑問を持ち始める。

 

■陶謙軍(徐州)

▼陶謙恭祖:憐花(りーふぁ)

 公式徐州牧、黄巾賊討伐に精を出しているが武官不足で自ら出張る嵌めになっている。

▽孫乾公祐:美花(みーふぁ)

 陶謙の側近、秘書という言葉がよく似合う。

▽麋竺子仲:雷々(らいらい)

 陶謙配下、商家出身でそれなりに政務ができるので重宝されている。

▽麋芳子方:電々(でんでん)

 陶謙配下、陶謙の武官で唯一使える子。ただこの子だけに任せるのは怖いので、陶謙の補佐という形になっている。

 

■劉虞軍(幽州薊郡)

▼劉虞伯安:宇津保(うつほ)

 公式幽州牧、仁の人として広く名が知られている。

▼魏攸:輪祢(りんね)

 劉虞配下、軍師としての役割を担っている。

 

■公孫賛軍(幽州啄郡)

▽公孫賛伯珪:白蓮(ぱいれん)

 自称啄郡太守、盧植に召集されるが異民族に対する防衛もあるため、正規兵の代わりに義勇軍の編成を急いでいる。

▼公孫越:紅蓮(ほんれん)

 公孫賛の妹、公孫賛が出陣してる時のお留守番役。仕事は公孫賛に教え込まれた、どっちかっていうと武官。

▼公孫範:黄蓮(ふぁんれん)

 公孫賛の妹、公孫賛が出陣してる時のお留守番役。仕事は公孫賛に教え込まれた、どっちかっていうと文官。

▼関靖:未定

 公孫賛配下、今はまだ大人しい。

 

■孫堅軍(揚州建業郡)

▽孫堅文台:炎蓮(いぇんれん)

 州牧を自称していないが揚州南部を実質支配しており、朱儁の召集に従って軍勢を集めている。

▽程普徳謀:粋怜(すいれい)

 孫家三老将の一人、此度の派遣軍に参加予定。

▽黄蓋公覆:(さい)

 孫家三老将の一人、此度の派遣軍に参加予定。

▼韓当義公:未定

 孫家三老将の一人、此度の派遣軍に参加予定。

▼朱治君理:久遠(くおん)

 孫家に仕える老臣の一人。

▽張昭子布:雷火(らいか)

 孫家の御意見番。実質、孫家は彼女で持っている。

▼張紘子綱:風火(ふうか)

 張昭の弟。

 

▽孫策伯符:雪蓮(しぇれん)

 孫堅の次代後継者。此度の遠征に参加できず不機嫌。

▽周瑜公瑾:冥琳(めいりん)

 孫策の側近。孫策の機嫌を直すために手一杯。

▼凌操:玻璃(はり)

 孫策に仕える、孫家の中では新参者。

▼凌統公績:瑠璃(るり)

 凌操の子。

 

▽孫権仲謀:蓮華(れんふぁ)

 孫堅の次子。孫策に政務が期待できない分のしわ寄せで勉強を頑張っている。

▽陸遜伯言:(のん)

 孫堅の教育係。教育係なのに教育に悪いお姉さん。

▽周泰幼平:明命(みんめい)

 孫堅の側近。今はまだ城壁に登らず、孫策の側で護衛をしている。

 

▼孫静幼台:火蓮(ほぉれん)

 孫堅の三女、本来の三子の霊圧は消えた。派遣軍への参加が決まってあたふたしてる。

▽呂蒙子明:亞莎(あーしぇ)

 孫静の側近。護衛として配属されているので智謀は期待されていない。

▼朱然義封:永久(とわ)

 朱治の養子。孫静の側近予定。

 

▽孫尚香:小蓮(しゃおれん)

 孫堅の末娘、とにかく遊んで欲しい。革命で三女と断言してたので三子の霊圧が完全に消えた。

▽周々

 白い虎。

▽善々

 白黒の熊。

 

■ 劉耀軍(揚州寿春郡)

▼劉耀正礼:中秋(ちゅうしゅう)

 公式揚州牧、しかし実態はほとんど孫堅が治めている。

▼劉基敬輿:(ひびき)

 劉耀嫡子、太史慈が怖い。

▽太史慈子義:梨晏(りあん)

 劉耀配下。

 

■王朗軍(揚州会稽)

▼王朗景興:東雲(しののめ)

 公式会稽太守。儒学思想の持主で陶謙との繋がりが強く、名士として名高い。

▼虞翻:卯良(うら)

 癖が悪く酒が入ると嗜虐的になるが、酒が入らないと人格者。面倒見が良いが、部下からの評価は両極端であり、酒が入れないようにするのは部下の共通認識。酒が入った時は急いで王朗を呼ぶのが定番。

▼厳白虎:真純(ますみ)

 乱世に生きる大徳の持ち主、その徳の大きさは正に徳王。その徳の深さ、故に徳王。

 研ぎ澄ました牙と爪は悪たる孫家を切り裂き、その瞳に満ちたるは慈悲の優しさ、ホワイトタイガー江東に地に再び見参致す!

 再起を目指していたが、虞翻の手によって今はもう大人しい。

▼許貢:信楽(しがらき)

 厳白虎と共に孫堅に蹴散らされた身の上、彼女と一緒に名士と名高い王朗に助けを請うて幕下に加わる。

 再起を目指していたが、虞翻の手によって今はもう大人しい。

 

■劉璋軍(益州)

▼劉璋季玉:詩織(しおり)

 公式益州牧、朝廷と黄巾賊から半ば忘れられている。馬鹿殿との評判。

▽厳顔:桔梗(ききょう)

 劉璋軍の実質的指導者、政治的素質は皆無に近い。それを本人も自覚しているので瓦解しないように纏めているだけ。

▼張任:水仙(すいせん)

 劉璋配下、主に厳顔の補佐をしているが政治的素養は皆無に近いため、二人して唸り声をあげている。

▼法正孝直:(いー)

 劉璋配下、生意気なので劉璋からはよく思われていないとの評判。

 

■五斗米道(漢中)

▼張魯:薬袋(みない)

 そっとしておいて欲しい。

▼王平子均:舞姫(うーちぇん)

 (動乱に対して、)>そっとしておこう。

 

■黄巾党

▽張角:天和(てんほう)

 なんか変な巻物拾ったよ!

▽張宝:地和(ちーほう)

 やったあ、ファンからの差し入れだね!

▽張梁:人和(れんほう)

 えっ、ちょっとこれ、やばいんじゃないの?

▼波才:立直(りーち)

 ファンクラブ会員一号。

▼程遠志:(ちー)

 ファンクラブ会員二号。

▼張曼成:平和(ぴんふ)

 ファンクラブ会員三号。

▼裴元紹:海底(はいてい)

 ファンクラブ会員四号。

▼馬元義:起家(ちーちゃ)

 いや、お前らなにやってんの?

 

■在野

・北郷一派

▽北郷一刀

 幽州啄郡、天の御使いとして降臨する。真名を使わない場合は御使いと呼ばれるか、北郷と呼ばれる。

▽関羽雲長:愛紗(あいしゃ)

 天の御使いとの出逢いを果たす。

▽張飛翼徳:鈴々(りんりん)

 天の御使いとの出逢いを果たす。

 

・劉備一派

▽劉備玄徳:桃香(とうか)

 これからどうしよっか、桜花ちゃん?

▼簡雍憲和:桜花(おうか)

 これからどうしたいの、桃香ちゃん?

 

・水鏡門下生

▼徐庶元直:珠里(じゅり)

 Q(急に)N(流れ星が)K(来たので)

▽諸葛亮孔明:朱里(しゅり)

 水鏡女学院を卒業しました! 珠里先輩、元気にしてるかなぁ?

▽鳳統士元:雛里(ひなり)

 水鏡女学院を卒業しました。 珠里先輩、やらかしてないかなぁ?

▼周不疑文直:懐里(かいり)

 在学中、上記三人に続く飛び級勢。諸葛亮鳳統が臥竜鳳雛と呼ばれるのに合わせて、伏虎と呼ばれたりする。

▼馬良季常:小鳥遊(たかなし)

 在学中、諸葛亮のことを尊姉と呼んで慕っている。

▼馬謖幼常:月見里(やまなし)

 在学中、成績優秀者ではあるが時折、論理の飛躍があるので危なかっしい。そのためか諸葛亮によく面倒を見て貰っていた。徐庶からは「要職に就くと絶対に大失敗する、誰かの補佐になれても先導する器にはなれないね!」と虐められたことを根に持ってる。

▼司馬徽:水鏡(みかがみ)

 ぃいやっふぅーい! 珠里屑が居なくなって、女学院が平和だぜぇーっ! よーしよしよしよしッ!

 

▽郭嘉奉孝:(りん)

 戯志才を名乗る。程立が袁術軍に留まるらしい、私達は北にでも行こうかなって思ってる。

▽趙雲子龍:(せい)

 とりあえず郭嘉に付いていこうと思ってる、護衛賃代わりに飯と酒とメンマを奢ってもらえるので。

 

▽許緒仲康:季衣(きい)

 黄巾賊に村が滅ぼされて、典韋と逸れたので路頭に迷ってる。

▽典韋:流流(るる)

 黄巾賊に村が滅ぼされて、許緒と逸れたので路頭に迷ってる。

 

▽楽進文謙:(なぎ)

 路銀を稼ぐために籠を鋭利製作中。

▽李典曼成:真桜(まおう)

 路銀を稼ぐために籠を製作する機械を製作中。

▽于禁文則:沙和(さわ)

 路銀を稼ぐために籠のデザインを考え中。

 

▼諸葛瑾子瑜:朱音(あかね)

 そろそろ動乱が怖いから南に移動しようかなって思ってる。

▼歩隲子山:(みお)

 同上。

▼厳俊曼才:(なぎさ)

 同上。

 

▼司馬懿仲達:(りん)

 ひっそりと宮中から出仕願いを出されているが、仮病を使って拒んでいる。

▼郭昭伯道:思郷(しきょう)

 世の動乱を憂いている。

▼高順:(しぃえん)

 武芸の鍛錬に勤しむ毎日、まだ認知されていない。

▼田豫国譲:(えい)

 此処は何処、私は誰?

▽甘寧興覇:思春(ししゅん)

 錦帆賊としてヤンチャしてる。

▼姜維伯約:真里(マリー)

 豪族の出身であるが親が亡くなってから、母と共にひっそりと暮らしている。

▼許劭子将:水卜(みうら)

 人物批評家。

 

▽華佗

 げ・ん・き・に・なぁれえええええええ!!




※物語の都合上、歴史の認識不足などの理由により、不定期に変更される可能性があります。
※大体、取り扱うネタが増えるとオリキャラが増えます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

脈動編
霊帝の守護者     -漢王朝


 私の名前は蹇碩(けんせき)、真名は(づぅ)と云う。

 宦官の一人で、皇帝に仕える近衛兵を統括する立場――ということになっているらしい。

 此処、洛陽の宮中では賄賂を送らなければ出世できないと云う話は聞いていたので、資金繰りのできない私は最初から出世を期待していなかった。歳を取っても働き続けられるように健康的な日常生活を心掛けて、肉体の鍛錬を日課とする。そして知識を貪欲に取り込むことで己を高める。ぶっちゃけた話、宦官になったのは人並み以上の贅沢を求めてのことで、漢王朝に対する忠誠心も出世も人並み程度にしか興味はなかったりする。

 そうしていると何時の間にか宮中勤めの宦官の中では頭一つ抜きん出た膂力を持つようになっており、厄介払いをするように近衛隊への編入が決まる。その近衛隊では歓迎会が開かれて、百人組手という催しが行われた。流石に達成するのは難しいと思ったのが、先輩方は手加減してくれたのか、あっさりと百人抜きを決めてしまった。また近衛隊では厳しい鍛錬が行われると聞いていたが、私が日課にしている鍛練と同じ程度しか行われず、私の教育係を務めていた者が汗だくになった顔で詫びを入れてきた。よく分からない。そして教育係が二人、三人と増えていくのは贔屓を受けているようで申し訳なくて、「他の者も見てやって欲しい」と告げると彼らは笑顔で「流石のお前もこれだけの人数がいると恐れるのか」と挑発して私のやる気を誘発させてくれるのだ。

 これだけの期待を受けたならば、私も張り切らなければならないと五人の教育係を相手に鍛錬を始めた――何故か全員が泣いて詫びてきた。そうしている内に上官が次から次へと辞めていき、そして今、気付いた時には何故か私が近衛隊を纏めるようになっていた。私はあまり賢くもなかったので、とりあえず私と同じ量の鍛錬をさせている。

 ある日、新しく執金吾に任じられたという張遼が私達の様子を見にきた。

 

「なんや、こいつら。下手な精鋭部隊よりも余程、屈強やで……本当に宦官か? 徐晃の部隊も強そうやったけど、それ以上やな。腐っても漢王朝っちゅーわけかいな」

 

 そのようなことを張遼は言うが特別なことをしているつもりはなかった。

 

「凄いなあ、蹇碩殿。どうやったんや?」

「いえ、普通のことをやったまでです」

 

 冗談と受け取ったのか張遼は大声で笑ってみせる。

 後日、なぜか張遼が私との手合わせを願って近衛隊の屯所まで来ることが増えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

太平道の巫女     -太平道

 中黄太乙、それは太平道蜂起の合言葉だ。

 太平道というのは道教の一種であり、世に蔓延る不幸な人々に手を差し伸べようという小さな団体に過ぎなかった。

 それが何時の間にか世の中全ての人類に救いを与えたいという話になり、政治腐敗を起こした漢王朝を打倒すべしという考えに発展した。政治腐敗の根本的な原因は儒教思想による身内贔屓にあると見た我々は、大将軍何進の台頭を契機に決起の準備を始めたのである。

 腐りきった世の中を育んだ儒教を排して、今こそ道教が成り代わる時――つまり蒼天已死、黄天當立と繋がるのだ!

 

 私達、太平道は医術を駆使しながら地道に布教活動に勤しむようになった。

 そして私達はあまりにも無慈悲で無情な現実を前に打ちひしがれる。太平道の秘術によって、元気になれ、と病魔に倒れた民草を助けることはできる。しかし度重なる天災と重い徴税、先の見えない未来、なによりも飢餓に苦しむ民草を私達は助けることができなかった。

 骨と皮だけになった子供にかけてやれる言葉はない、ただ手を握り返すことしかできなかった。痩せこけた子供が安心して逝けるように抱き締めてやる。涙を堪えて、震える手を抑えて、笑顔を張り付かせて、大丈夫だよと声をかける。血の味がする、口の中を何度噛み切ったのか分からない。そして無事に送り届けた後で私はそっと子供の目を閉じてやり、そして目に溜まった涙を拭い取る。

 私達には助けられる者がいる、だから立ち止まる訳にはいかなかった。

 

 日に日に体が重たく感じようになった。

 宣教の旅に言葉は必要なかった、かけられる言葉なんてほとんどなかった。今の世の中はあまりにも救いがない。毎日のように人が死んだ、毎日のように子供が死んだ。食事がないからと老人が間引かれて山に捨てられる、養えないからと泣きながら子供を売り、酷いところでは子供の首を締める親がいる。いや、最も救いがなかったのは自害した母親の肉を食らって生き伸びた子供と出会った時だったか。

 どうして人は生きるだけで、ここまで苦しまねばならないのか。

 あまりにも救いがない世の中に宣教師足る私達も心が蝕まれて、壊されて自分達の行いを責める者が増えた。生きているだけでも罪深いと自分を責める者も中に入る。唐突に自らの頭を柱にぶつける者もいて、世の中に絶望した仲間に服を破られて、押し倒されそうになったこともある。

 そうして宣教の旅に仲間が一人、そしてまた一人と消えていって、三十人居た宣教団はたった十四人にまで数を減らしてしまっていた。

 

 私自身、心が壊れていなかったとは思えない。だが私には私にしかできないことがあった。

 太平道の秘術、私の両手は病魔を討ち滅ぼすことができる。元気になれ、と気を送り込み存命させる。それは私にしかできない、だから私は旅を続けている。最早、誰かを治すことに宣教なんてどうでも良かった。しかし、その旅にも疑問を持つようになった。こんなにも辛い世の中で生きることに何の意味があるのか。仲間の中には首を吊って死んだ者がいる、仲間の中には手首を切って死んだ者がいる。精神を病んでいない者はいない、私もきっと病んでしまっている。信じられるのは私が両手で病魔を討ち滅ぼすことだけで、何の理念も信念もないまま、ただそれが自分の役割だと必死に思い込むことで生きてきた。しかし地獄のような世の中で、あえて生き長らえさせる行為に意味などあるのだろうか。

 もう死にたい、と思った。しかし、まだ死ねなかった。

 

 宣教の旅に出て、初めて病魔を打ち倒した時、お礼に甘い味がする枝を貰ったことがある。

 それは私達からすれば、ただの枝だったが記念として残してある。それを見るとあと少しだけ頑張ってみようと思った、もう一歩、進んでみようと思うことができた。だから私は前に進んだ。それが正しいかどうかは分かっていない。もう何も分からない、何も分かっていない。何も分からなくても進むしかない、進まなくてはならない。なぜなら私にしかできないことがある、それで救われたかもしれない人がいる。

 なら前に進むしかないではないか。

 

 仲間は更に減って、今では私を含めて四人だけになってしまった。

「帰ってもいい」と言った、「私の帰る場所は此処ですよ」と彼女は言った。もうこの旅の目的は失われている、ただ旅をしている。この旅が何処へ続くのかわからない。もう心身共に尽き果てていた私には彼女達を巻き込むだけの気力はない、だから彼女達を置いて、一人で何処かに行きたかった。そして道半ばで倒れるのだ。倒れた場所がきっと私の目的地、終着点、それでしか私は止まることができないと思っていた。

 しかし私の歩みを止めたのは仲間だった、此処まで残ってくれた仲間が死出の旅に向かう私の足を止めた。

 

「次の町に辿り着いたら終わりにしよう」

 

 どうにかしたいと願っても、どうにもならないことがある。

 次の町に辿り着いた時、一人にして欲しいと通りに出た。心配をされたが、何処にもいかない、と約束したら渋々許してくれた。そして人通りの少ない場所で空を見上げる。真っ青な空、蒼天を見上げても何も感じなくなっていた。ここで終わりなのか、と思うだけで大した感慨もなかった。少しだけ胸に穴が空いたような、空虚な気分になるだけだ。

 道半ばだった、きっと私達には世直しは荷が重すぎたのだと思う。

 ふと懐に手を入れて、懐かしい枝を取り出した。何度か捨てようかと思ったが、今もこうして大事に取ってある甘い枝、なんとなしに齧ってみると確かにそれは甘かった。ほんの少しだけ、噛むと甘味が染み出した。噛めば噛むほどに甘い味が染み出してくる。何故だろうか目が熱い、涙がポロポロと溢れてくる。悔しいとは思わない、悲しいとも思わない。でも涙が止まらなかった。

 私は何もできなかった、何も変えられなかった。あれだけ頑張って、あれだけ努力しても何にもならなかった。最初は見返りなんていらなかった。もっと世の中を良くしたかった、それだけがあの時の私を満たしていた。しかし今はもう宣教なんてどうでも良い。でも嬉しかったのだ、病魔を討ち滅ぼして、それで喜ばれて嬉しかったのだ。嬉しかったから続けることができた、感謝されることは気持ちよかった。だから続けてこれたのだ。見返りなんて必要ないだって、金銭なんて必要ない、信仰なんて必要ない、私はただ私のためにこの力を使っていた! 嬉しかったんだ! あの笑顔が、ありがとうという一言が! それだけで私は進める、それだけで私は歩くことができる。何処までも、何処までも、何処までだって歩いていける気がした! でも駄目だ、もう駄目だ。私は歩くことができない、これ以上、歩けない。褒めて欲しい、よく頑張ったねって労って欲しい。この旅で私は何も変えることはできなかったけど、それでも助けて欲しい。どうにかして欲しい、頑張った、とっても私は頑張ったんだよ! 苦しくても、しんどくても、辛くても、それでも私は歩き続けた。分かっている、この旅に意味なんてなかったことは分かっている。私は世の中を変えることはできなかった、私は頑張れなかった、頑張りきれなかった。

 醜い、とても醜い。今の私は私のことしか考えられないことが醜くて殺してやりたい。

 両拳を握り締めて地面を殴りつける、何度も殴りつけた。皮膚が破けて、血が出ても止めなかった。この手が、この手があっても私は、こんな手があったから! こんなにも私は苦しくて、辛くて、しんどくてッ! こんな手がなかったなら私はこんな想いをすることはなかった! 知らずに済んだッ!! 太平道の一員として世を憂いて、だけど満ち足りた日々を送っていたに違いない。

 でも私は旅に出た、色んな人に出会った。色んな場所に行った。この両手には沢山の人の温もりがある、冷たい感触もした。でも温もりを感じたのだ。この両手には数えきれないほどの人と握手を交わした感触がある。

 悔しいとは思わない、悲しいなんて以ての外だ。後悔なんてするはずがない。

 

「畜、生……くそぅ…………」

 

 私は此処で旅を終えることになった自分の弱さを恨んだ。

 きっと私は旅を続けたかったのだ。もっと多くの人に触れて、病魔を退治して、感謝されて嬉しくなって、それだけで良かったことに今更気付かされた。それだけが私に残されたものだった、それだけで私の心は満ちていた。

 でも、もう手放してしまった。ここで旅が終わる、これから先どうやって生きれば良いのか分からない。

 

「女の子がね、そんな風に手を傷付けたら駄目だよ」

 

 そんな私に優しく声をかけてくれた女がいた。

 彼女は泥だらけの私を抱きしめると、よしよし、と頭を撫でてくれた。辛かったね、頑張ったね、と声をかけてくれる彼女に私は涙を堪えきれなかった。彼女は私のことなんて何も知らないはずで、何も分かっていないはずで、そんな簡単に言わないでよと怒りがあって、でも私は泣くことをやめられなかった。

 旅に出てから初めて、きちんと泣けた気がする。

 

「貴方の名前はなんて云うの?」

 

 そう問われた私は彼女の胸に顔を埋めたまま、声を振り絞って小さく答えた。

 

「波才……です」

「そうなんだ。私は張角、よろしくね」

 

 

 旅の終着点で出会った女性は旅芸人をしていると言った。

 世界が不安で満ちているのなら歌で吹き飛ばしてやりたいと言った、愛が足りていないなら皆に愛を届けたいと言った。言葉が届かないのであれば気持ちを届けたい、気持ちを歌に乗せればきっと相手の心に届くから、と彼女――張角は呑気な笑顔で言うのだ。皆に私達の歌を聴いてほしい。歌の力は無限大で、世界だって救うことができる。歌で皆の心を合わせれば、時代だって変えることができる。

 歌は全てを超越できる――そう告げる彼女の目に疑念はない、その在り方は信仰に似ている。

 

 私は彼女の歌を聴くのが好きだった。

 澄み切った歌声が渇いた心に染み込むようで、荒んだ心が洗われていくようだった。出会った翌日から毎日のように彼女達の下へ足を運ぶようになっていた。

 張角には二人の妹がいる。張梁と張宝、三人で数え役満☆姉妹と名乗っているらしい。衣装は手作り、衣服が解れている箇所がある。観客は何時も私一人だけだ。今は見栄えも良くするために振り付けも頑張っているとのことだったが、そんなこともする必要がないほどに彼女達の歌は素晴らしいと思っている。可笑しいところはなかった? と問われても私には分からない。ただ良かった、と伝えることができるだけだ。

 そんな彼女達の歌を聴いてくれるのは私の他に誰もいない。

 なんでだろう、どうしてだろう、と悩む彼女達を見て思うのは――世の中は彼女達の歌声に耳を傾ける程の余裕がないということだ。

 世の中を見てきた私だから分かる。彼らの耳に私達の言葉は届かない、明日の予定どころか今を生きるだけで精一杯の者達ばかりなのだ。そんな彼らに誰かの言葉に耳を傾ける余裕がない。ほんの少し耳を傾けるだけで分かる、こんなに素晴らしいのに勿体ない、と私は思うのだ。どれだけ綺麗事を言っても、どれだけ理想を口にしても、それは覆しようのない事実だった。

 だが、それでもだ。

 聴いて欲しい、彼女達の歌を届けたい。私の声は届かなかった、私の言葉は救いにならなかった。でも彼女達の歌には力がある、彼女達の歌は救いになる。生きる活力になる。

 もっと世の中が優しかったならば、もっと世の中に余裕があったなら……そう思わずにはいられなかった。

 

 そんなある日のことだ。

 張角がファンの方から貰ったという書籍を持ってきた。彼女達のファンは私だけだろうと思いながら、書籍を見せてもらうと表紙には「太平要術之書」と書かれているのがわかった。確か道教に伝わる妖書の一つで、願えば如何なるも叶えてくれるという伝承があったはずだ。その代わりに太平要術之書を扱った者は人生を歪められて、必ず身を破綻させることになるという曰く付き、「危険なものだから」と私は三人から書を回収すると「波才ちゃんってそういうのに興味あるの、意外だねー」と少し顔を赤らめた張宝に揶揄うように言われたけど、まあ無事に回収できるのであれば艶本に興味があると勘違いされようが構わない。

 この書は封印しなくてはならない、これは世を混沌に落としめる類のものだ。せくせくと封印の準備を整える、その際に書が私のことを誘惑するように訴えてきた気がしたが、それらは全て必要ないと切り捨てた。世の中を良くしたいと願っている。しかし、そのために妖書に手を出すつもりはない、神にすらもなれると囁かれたがそんなものをなりたいと思ったことは一度もない。

 封印する手筈を整えて、あとは呪文を唱えるだけの段階になった時――――、

 

『あの三姉妹を人気者にできる』

 

 ――と言われて体が固まってしまった。

 いや、違う、間違っていると首を振る。そんなことで人気者になったとしても彼女達は幸せにはなれない。こんな妖書の力を借りるのは卑怯だ、言ってしまえば外道と呼ばれる手段である。そんな手段で人気者になれば、彼女達はきっと彼女達ではいられなくなる。あの澄んだ歌声を穢してしまうことは絶対に許されない。

 でも、思うのだ。

 彼女達の歌が本物だったならば、それなのに周りが彼女達の歌に耳を傾けてくれないのであれば、間違っているのは彼女達ではなくて世の中の方だ。なら、少しだけ、ほんちょっとだけ、背中を押すくらいのことをしても許されるかな、って思ってしまった。

 というよりも彼女達が打ちひしがれる姿を見たくなかった。

 彼女達には妥協して欲しくなかった、こんなことで終わって欲しくなかった。彼女達は毎日のように歌の稽古に振り付けに、曲を作って歌詞を作って、一日だって休まずに努力を重ねている。その努力が報われて欲しいと思うのは傲慢だろうか、頑張ったら頑張った分だけ報われて欲しいと願うのは駄目なことだろうか。彼女達には実力がある。ただ時期が悪かった、時勢が悪かった。そんなことで彼女達には終わって欲しくないのだ。

 もっと彼女達の歌を聴いて欲しい、皆に彼女達の歌を届けてあげたい。

 

 私が彼女達に抱いている想いは同情だろうか――いいや、そんなことはないと思っている。彼女達には実力がある、そのことを私は信じている。そして、そのことを証明して欲しい。

 だから私は願ったのだ、一度だけ、たった一度きりの願いを唱える。

 

「ほんの少しだけ、少しだけで良いので、皆が張三姉妹の歌を聴いてくれますように」

 

 それ以上は願わなかった。

 数ヶ月後、張三姉妹の名は爆発的に知れ渡ることになる。

 

 

 中黄太乙、それは太平道蜂起の合言葉だったはずだ

 太平道とは道教の一種であり、世に蔓延る不幸な人々に救いの手を差し伸べる団体で、そのために政治腐敗を起こした漢王朝を打倒すべしと立ち上がった。政治腐敗の根本的な原因は儒教思想による身内贔屓であると断言し、大将軍何進の台頭を契機に始めた決起の準備はすでに終えている。

 腐りきった世の中を育んだ儒教を排して、今こそ私達太平道が天下を取るべきなのだ!

 つまり蒼天已死、黄天當立である!

 

 なのに、どうしてこうなった。

 

 私、馬元義の目の前には今、変わり果てた姿で旅から戻ってきた波才が立っている。

 太平道創設時からの同志である波才は生真面目であり、勉強熱心な教徒として知られている。まだ幼い身でありながら道教の秘術である治療術を身に付けており、相手の体内に気を送り込むことで病魔を討ち滅ぼすことができた。この能力を駆使することで太平道は多くの教徒を得ることになり、太平道の教えを大きく広めることができたのだ。

 謂わば、波才とは太平道の屋台骨である。幼い見た目に巫女衣装を着た彼女を慕って、太平道に力を貸している者も少なくない。そんな彼女を宣教の旅に出すことには不安があった。しかし彼女の今までの功績と性格を信じて送り出したのだ。

 それがなんて様なのだ! 信じて送り出した娘が、こんな……こんな…………

 

 自慢げに“数え役満☆姉妹”と書かれた鉢巻を頭に巻いて、両手には自作の団扇を持つような子になってるだなんて!

 

「同志、起家(ちーちゃ)! 数え役満(かぞえやくまん)☆姉妹(しすたーず)は……いいぞ!」

 

 うるせえ、ロリがヤクマンおじさんになってんじゃねえ!

 今のあんたに真名で呼ばれたくねぇよ!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

傾国の歌姫      -太平道

▼馬元義:起家(ちーちゃ)
太平道創設メンバーの一人、実質的に太平道を纏めている人物。
一見すると細身であるが全身を筋肉を纏っている、所謂、細マッチョと呼ばれる肉体をしている。
身長も高めで、立直とは一回りくらい歳上。


 太平道とは世の政治腐敗を憂いて立ち上がった道教系組織である。

 その創設時の面子は私こと馬元義の他に波才、程遠志、張曼成、裴元紹、管亥の六名であり、太平道の意思決定は六名による円卓会議にて定められる。とはいえ六名全員が揃うのは稀なことで、太平道の主要面子の中でも一際に幼い波才は強い影響力を持っていても、その発言が重要視されることは少ない。

 というよりも彼女の場合は太平道の象徴であるために円卓会議の面子に加わっていることに意味があった。

 

 旅に出る前は波才――立直(りーち)の露出は極力避けていた。

 そうすることで波才を民衆にも分かりやすい形で神聖化させることができ、太平道の求心力を高めるという目的もあったが、実際には波才を守るためというのが強かった。毎日、十数人もの人間を相手にすることはまだ子供の彼女には負担は大きいと考えている。そのため事細かなやりとりは私達の方で済ませてしまって、彼女には治療術だけをお願いしてきたのだ。

 だが旅から戻ってきた立直は、自分の方から積極的に太平道の面子に声をかけるようになった。そして自分の方から近場の村へと訪問して、挨拶を交わしながら気楽に治療術を施すのだ。肌が爛れていようとも、欠損があろうとも、彼女は嫌な顔一人見せずに相手の手を両手で優しく包み込んで微笑みかける。

 この彼女の行いには太平道の内部でも批判があったが、結果的に太平道の名は大陸全土に大きく広まった。

 

 ――太平道には神の手を持つ巫女がいる、民草に分け隔てなく慈悲を与える聖女がいる。

 

 巫女の名が広まるにつれて、立直には大賢良師と名乗るように言いつけた。

 その理由はもちろん彼女を守るためのものだ。彼女の存在は大陸全土にまで広まっており、彼女を誘拐しようと襲撃されたことがあった。襲撃された直後、彼女は身を震わせて怯えていたが、それでも彼女は毎日の目標を達成するために村に通い続けた。

 休んでもいい、と告げると立直はこう返すのだ。

 

「これは私にしかできないことなので」

 

 そう笑い返す彼女を私は止めることができなかった。

 毎日、立直は決められた時間に決められた場所に足を運んだ。その予定は来月に至るまでぎっしりと詰め込まれており、彼女の幼い体では予定通りに熟すのは難しいと思っていたが、彼女は文句の一つも溢さずに淡々と毎日の予定を消化していった。

 無理をしていないのか、と問いかけると、好きでしていることなので、と彼女はやはり笑って答えた。

 

 そんな聖人君子のような立直であるが、人間誰しもが欠点を持つように彼女にも欠点がある。

 

 その一つが立直には浪費癖があることだ。

 太平道の象徴と言うこともあって、彼女には結構なお小遣いを与えている。それは大人であっても使いきれない程の大金であるが、彼女は綺麗さっぱりと使い切ってしまうのである。もしやお小遣いを誰か他人のために使っているのではないな、と怪しんだこともあったが――結論から云えば、その心配は杞憂に終わった。護衛を兼ねた監視のためにつけた信徒は言い澱みながら、自分のために使っていると報告する。そして、気になるのであれば御自分で確認されるのが一番だ、と信徒は付け加える。

 今までは特に気にしていなかったことであるが、週に一度、彼女は自分で休日を設けている。

 そして休日の時に何をしているのか、私は知らなかった。

 意図的に報告をされていなかった、と言うべきか。

 

 立直は民衆からはまるで聖女のように崇められている。

 しかし彼女の護衛に就いた者はみんな決まって残念そうに彼女のことを見つめるのだ。別に立直が嫌われているという訳ではない、むしろ護衛と親しそうに話している姿を見かけることもある。立直の護衛に就く前は、光栄です、と頰を上気させて告げる信徒達が一週間もすれば、とてもとても残念なものを見るような目で立直を見つめるのである。

 そういう訳で私、馬元義は立直が休日に何をしているのか追跡することにした。

 そして今、後悔している。

 

「キャーッ! 張角さーん! キャーッ! キャーッ! 張梁さーん、張宝さーん! きゃあーんッ! むっはぁーんっ!!」

 

 とても後悔している。

 今、私が居るのは見世物小屋であり、入り口には“数え役満(かぞえやくまん)☆姉妹(しすたーず)”と書かれた立て札があった。

 中に入ってみれば、舞台には三人の娘が踊りながら歌っており、見世物小屋に詰め込まれた民衆が合いの手を入れるように歓声をあげている。そして、その最前列で立直……のようにも見える女の子がピョンピョンと飛び跳ねながらお手製の団扇を振り回していた。

 あれは誰なのかなー、私の知っている人じゃなければいいなー。

 遠い目をしながら、しかし確認をしない訳にもいかなかったので、その日の公演が終わるまで待つことになった。二刻(四時間)以上、その間、立直によく似た人物はずっとはしゃいでいた。彼女の両脇にいる私が付けた護衛に似た姿の者達はとても残念なものを見るような目で生暖かく見守っている。もう見てられなくて、いたたまれなくて、私は見世物小屋から出た。なんというか見てはいけないものを見てしまったような気分だ。

 公演が終わると他の客に交じって、とても満ち足りた顔で見世物小屋が出てくる立直と瓜二つの少女、私の姿を見つけると小走りで駆け寄ってきた。

 

起家(ちーちゃ)、貴方も数え役満☆姉妹の公演を見に来ていたのですか!?」

 

 そう満面の笑顔で告げる立直は今まで見たことがない程に素敵な笑顔だった。

 できることならば両手に持ったお手製の団扇と“数え役満☆姉妹”と書かれた鉢巻をしていない姿で見たかった。

 遠くを見つめる私に「あれ、違ったのかな?」と可愛らしく首を傾げる少女は、ぐっと両手を握り締めて告げる。

 

「起家、数え役満☆姉妹……いいぞ!」

 

 うるせえ、その姿で何度も私の真名を呼ぶんじゃない。力説するんじゃない。

 同類に見られるだろうが――責めるように立直の隣に控える護衛二人を見つめると、そっと目を逸らされた。

 

「いや、数え役満☆姉妹は悪くないんですよ。むしろ良師様の影響で最近少しハマってきたんですけども……ええ、まあ、うん」

 

 護衛の一人が言い澱みながら立直のことを残念そうに見つめる。

 今や民衆から絶大的な人気を得て、聖女とも呼ばれている人物がこんなことで良いのだろうか。

 私含めた三人から視線を向けられた立直は、不思議そうに三人を見返した。

 

 

 立直に与えられている屋敷。その私室を覗いた時、私は軽く目眩を起こした。

 部屋の壁一面に数え役満☆姉妹の姿絵が貼られており、机には様々な姿勢を取った数え役満☆姉妹の人形が並べられている。そして部屋の隅にある箱を立直が開けると中には当日の演目表が綺麗な状態で保管されており、おそらく今日の分の演目表を新しく中に入れる。

 仕事に支障が出ないなら、他人の趣味をどうこう言うつもりはない。むしろ適度に息抜きができた方が仕事が捗るし、精神的な負担を発散できる機会があれば、塞ぎ込むような危険性も小さくなる。

 しかし、それでも――少しのめり込み過ぎではないか、と思ったりする。

 

 彼女の資金の使い道を確認できただけでも良しとしようか――そう思って適当に彼女と話を合わせようと考えると、ふと机の上に資料らしき紙束が置いてあるのが目に入った。なんとなく手に取ってみると、“数え役満☆姉妹公認後援会”とあり、真ん中には大きな文字で“黄巾党”と書かれていた。次の頁を見てみれば、様々な商品の案が並べられており、その次は張三姉妹が公演できそうな候補場所の一覧、そこには太平道が何時も講演会に使っている場所も含まれている。後ろの方には黄巾党に所属予定の者達の名簿なのか、名前がズラリと並んでいる。その規模は太平道よりも多いような――いや、明らかに――そっと私は次の項目に移る。そして、そこには支援者と支援金の一覧が書いてあり、その一番最初に波才の名前が――うん、まあ、この部屋にある品物の数々だけじゃ使い切れない程度には金額を渡していたが――よし、深く考えるのを止めよう。その合計金額は太平道が支援を得ている金額よりも流石に少なかったが、今まで支援金から使い込んできた金額が全て表に纏められている。

 

「黄巾党の活動資金として募った支援金を私物化するわけにはいきませんからね! こういうのは透明化が必要なんです、私達は漢王朝と一緒じゃありませんからね!」

 

 ふんす、と鼻息を荒くする立直を見て、私は無言で彼女の頭を撫でる。

 ちゃんと太平道の立場を覚えていたんだなという思いつつ、その私達に(起家)が含まれていない気がして少し寂しくなった。というよりも立直、貴方はそういう仕事もできたんだね。

 お姉さんの知らない内にとても遠い存在になったような気がするよ。

 

(ちー)平和(ぴんふ)にも手伝って貰いました!」

 

 立直が天使のような満面の笑顔で告げる。

 余談になるが吃は程遠志の真名で、平和は張曼成の真名だ。とりあえず後で二人には問い詰めることにしよう、そうしよう。

 つい深めてしまう笑みに、立直も負けじとより一層に素敵な笑顔をしてみせた。

 

 

 (程遠志)平和(張曼成)を吊るし上げてから数ヶ月が過ぎる。

 数え役満☆姉妹公認後援会として黄巾党が結成されており、今では太平道に所属するほぼ全員が黄巾党に所属する事態に陥っている。その人気は太平道の巫女に匹敵する程であり、その巫女が積極的に支援しているのだから今の状況も当たり前と云えば当たり前なのかもしれない。というよりも黄巾党の会長が巫女ですし、おすし。

 今日も今日とて、これ以上ない笑顔で数え役満☆姉妹の公演に足を運ぶ立直(波才)、遂に法被(はっぴ)を自作するまでに至っており、背中に大きく天と書かれた法被を自慢げに羽織っている。これから最前列で黄色い歓声を上げてるのだろうな、と何処か遠くを眺めながら思った。ちなみに彼女の推しは張角であるようで、彼女が持つ応援道具には何処かしらに張角を示す天の文字を付けている。

 情報収集のつもりで立直に話しかけると普段の落ち着いた聖女のような印象が消え去り、鼻息を荒くしながら早口で聞いてもいないことを語り続けてくれるので、この業界についても少々詳しくなってしまった。ちなみに黄巾党の数え役満☆姉妹の関連商品の売り上げは太平道に集まる支援金に匹敵する。純利益で考えると、まだまだと言ったところではあるが、未だに売り上げを伸ばしているのだから末恐ろしい。

 利益は黄巾党を支える有志達への人件費と宣伝費、そして新商品の開発に費やされたり、党員特典の配布に使われている。

 

「数え役満☆姉妹を応援するために集めた資金なのですから、余剰分はきちんと支援者に還元しないといけません!」

 

 イイコダナー、大賢良師の名に相応しいくらいに良い子です。

 なのにどうして、こうも残念なのだろうか。

 

 近頃では黄巾党、つまり数え役満☆姉妹を愛する有志として黄巾を頭に付ける者が増えてきた。

 先述したが太平道の大半は黄巾党に所属している、そのために太平道でも黄巾を付けている者ばかりになっている。例えば、吃とかと平和とか、そこら辺だ。太平道での経験を活かして、黄巾党の運営に役立てているようであり、黄巾党の今後について語り合う者が増えてきた。

 もう太平道が何をする組織なのか分からなくなってきた。

 

 そもそも、どうして数え役満☆姉妹はここまで爆発的な人気になったのだろうか。

 彼女達の歌は古来から続いている伝統的な歌ではなく、芸術的というよりも世俗的な印象を受ける。それ故に彼女達の歌が庶民にウケるのは分かるが、果たしてこうも急に人気が沸騰するものなのだろうか。まあ太平道は名家や儒家と敵対する立場にあるから、その構成員は庶民であることが多く、必然的に数え役満☆姉妹の客層的にも被るのは分かる。

 しかし、でも、という想いが拭いきれない。

 何よりも黄巾党の規模は、今や太平道を遥かに上回っており、どちらかといえば黄巾党に所属している者の中に太平道にも所属している者が居る、となっている現状がまずい気がする。このままでは黄巾党に太平道を乗っ取られる可能性もあるのではないだろうか。

 漠然とした不安、しかし、そうなる確証もない。

 

「随分と悩んでいるじゃないか、起家(ちーちゃ)

 

 そんな私に話しかけてくる者がいた。

 

海底(はいてい)か、何の用だ?」

 

 海底とは裴元紹の真名だ。義侠上がりの彼女は太平道で道教を学んでも、大柄な態度を直すことはなかった。

 

「憂いているんだろう? 太平道の在り方について――いや、なに、俺も近頃の太平道はない、と思っていてな。ここらできちんと太平道が何する者か、しっかりと見つめ直す必要があるんじゃねぇか?」

 

 言いながら不敵な笑みを浮かべてみせる。

 海底もまた世を憂う一人、義侠として活動するだけでは世の中を変えられないと太平道に合流した女だ。

 そして、そのように気高き意志を持った彼女の頭には、黄巾が輝かしく巻かれている。

 

「お前もかよ!」

「……数え役満☆姉妹は、いいぞ」

「うるせぇよ! それなんだよ、黄巾党の合言葉かよッ!」

 

 もう駄目だ、おしまいだァッ! 太平道の主要幹部の内、四人が黄巾党で確定じゃないですかー! 多数決じゃ負けてるじゃないか!

 

「いや、ちゃんと公私は分けてるから、太平道と黄巾党は別だから……」

「もうやだ、もうなにも考えたくない! 信じて送り出した立直もなんだか変な宗教に嵌ったみたいになっちゃってるしさあっ! あんなに可愛かったのにさあ、今も可愛いけどさあ! なんか違うじゃん! なんか違うじゃん! やったね、起家ちゃん! 信徒が増えるよ! おい、やめろ! やめて! その信徒は、うちのとこじゃないからッ! うちは太平道だから、黄巾党じゃないからッ! ああもう、世直しなんて最初から必要なかったんや! 皆、数え役満☆姉妹さえあれば良かったんやッ!!」

「うるせぇっ! 黙って話を聞きやがれッ!」

 

 ゴツン、と海底に頭を殴られた。

 おれは…もう…しょうきにもどった! かぞえやくまんしすたーず いず くりすたる!

 もう一度、殴られた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

動乱の先駆者     -太平道

▼馬元義:起家(ちーちゃ)
太平道創設メンバーの一人、実質的に太平道を纏めている人物。
一見すると細身であるが全身を筋肉を纏っている、所謂、細マッチョと呼ばれる肉体をしている。身長も高めで男性に引けを取らない。300kgの荷物を抱えたまま、ランニングを行えるとかなんとか。
波才とは一回りくらい歳上。

▼ 裴元紹:海底(はいてい)
太平道黎明期に加入した人物、義侠の出身で裏世界に通じる。
太平道の主要メンバーで最も体格が良く、力比べであれば馬元義に引けを取らない。ある程度、道教の修行を終えた面子は何かしらで超人的な能力を得ている。
寝癖が酷くて稀に馬元義に捕まって整えられたりする、年齢は馬元義と波才の真ん中辺り。


 私、起家(馬元義)は裴元紹こと海底(はいてい)に誘われて今、出会い茶屋の一室にいる。

 海底が言うには密談をするにはもってこいの場所ということだ。まあ出会い茶屋という程だから布団が一つ敷いてある訳で……目の前には妙に場慣れした女性が一人、いや別に私にはそっちのケはないつもりだ。どちらかと云えば、枯れている方で誰かに恋愛感情を抱いたことがない。

 それでも見慣れぬ場所、嗅ぎ慣れぬ空気に心が落ち着かなかった。

 

起家(ちーちゃ)、意外と初心だったんだな。道教の修行には房中術もあったはずだろ、その時はどうしていたんだよ」

「……あれは修行なので、それに相手の気に交じり合わせる修行なので、肌を触れ合わせるだけで体を重ねる必要はないですし」

「だから秘術を会得できないんだろうが、まあ私も上手くできてないんだけどな。相手の体に気を送り込もうとすると、どうしても抵抗されてしまって上手くいかない……というよりも性欲の制御とか、どうやってするんだよ」

 

 言いながら――ふと思いついたように海底は口を開いた。

 

「ならどうして立直(波才)は道教の秘術を扱うことができるんだ?」

「ああ、それは……えっと…………私が、その……修行の相手を務めているからですね。修行の、一環……? として……」

「お前……」

 

 彼女の私を見る目に侮蔑の意思が込められるのを感じた。

 いや、違うんですよ。他の誰かに可愛い立直(りーち)の相手とか任せられないじゃないですか、あんなに可愛い立直とか、どれだけ清廉実直な人物であったとしても、ふとした拍子に襲っちゃいますよ。事実、私だって両手両足を拘束をして貰うことで毎度、漸く修行のお相手を務めることが――――

 

「いや、もう良い。あまり聞きたくない。そして、お前には道教の秘術を会得できないことはわかった」

「くっ、やはり修行不足……ッ!」

「修行の前に改心が必要なんじゃないか? いっそ死んで生まれ変わるか? いや、馬鹿は死んでも治らないというしな。手遅れか」

 

 眉間に皺を寄せながら深刻そうに考え込む海底の姿に、私は萎縮するばかりで身を縮こませる。

 

「まあ今回は、お前の趣味嗜好を暴きに来た訳ではない」

 

 海底は胡座を組んだまま背筋を伸ばして佇まいを直した。

 義侠の世界から太平道に入った彼は性格や言葉遣いは粗暴であれども、その本質は実に真面目で意外と世の中のことを真剣に考えている。

 そんな彼が導き出す答えは、生粋の道教出身では思いつかない異端であるものが多い。

 

「近頃のお前は太平道が黄巾党に侵食されつつあることを憂いているようだが――起家、お前は頭が固すぎるんだよ」

 

 主要面子の半数以上が黄巾党に所属してしまっている現状、それを絶望的と呼ばなくてなんというのか。最早、太平道の舵取りは黄巾党の意思に委ねられているも同然だ。

 

「太平道は黄巾党に侵食されている? 逆だ、黄巾党は利用できる。そもそも黄巾党の代表者は誰だ?」

「張角三し……」

 

 言いかけて、止める。そして、再び口にする。

 

「……立直、か」

「そう、立直だ。ついでに言えば、彼女の両脇を固めるのは(程遠志)平和(張曼成)の二人だ」

 

 その見方であれば、黄巾党を太平道が掌握していると解釈することもできるのか。

 だが、そうだとしても問題はある。

 

「黄巾党の理念は張角三姉妹の支援だ、私達が提唱する世直しとは程遠いのでは?」

数え役満(かぞえやくまん)☆姉妹(しすたーず)の信者は民衆だ。そもそもだ、彼女達がどうして爆発的に名が売れることになったのか考えたことはないのか?」

「……ふむ? それは彼女達が民草にとって魅力的だからではないのか?」

 

 彼女達は容姿も良ければ、歌も上手だ。大衆向けの娯楽としては最高峰のものだと思っているが……

 

「ああそうか、お前は根っこの部分が豪族だから分からないんだな。お前が数え役満☆姉妹にハマらない原因がそれだ。納得はできなくてもいい、だが為政者の立場に立つつもりならば民衆の心理を理解はしておくべきだ」

 

 海底にじっと見つめられる。

 私は太平道に入る前は豪族の出身だった。それから太平清領書を手に入れて、その教えに感化された私は修行を始めるようになる。その過程で戦災孤児になっていた立直を拾い上げて、共に修行に励むようになり、口減らしで村から追放された(ちー)平和(ぴんふ)も加わるようになる。

 当たり前のように子供が捨てられ、路頭に迷う世の中に憂いていた私が太平道を立ち上げる契機になったのは、立直が道教の秘術を身に付けたことだ。この力で有志を集うことができると考えた私は、太平清領書の教えを根幹にした世直しを始めるようになる。

 それが太平道だ、それが私の理念になる。

 

「民衆は基本的に()()()()()()()んだ。中には自分の意志を貫こうとする強い者もいるが、そういうのは稀だ。自分の意志を貫ける人間ってのは、剛胆、もしくは豪傑と呼ぶべき存在なんだよ。他人にまで影響を与えられるような奴は英傑と称されて然るべきだ、そして英傑にすら影響を与えることができる奴のことを人は英雄と呼ぶのだろうな」

 

 つまり、と海底は指を立てる。

 

「豪族に生まれたお前は民衆にとって生まれながらの豪傑、その立場を先ず理解しろ。そして民衆は()()()()()()()からこそ、()()()()()()()()に惹かれるんだ。私が太平道に救いを求めたように、常に自分の抱えた思いの丈を代弁してくれる者を求めている。そして、そういう者の力になりたいと考えるんだ」

 

 だが、と海底は語調を強めて口を開いた。

 

「なにもできない絶望した人間が代弁者すらも見つけられない時、せめて、なにかに縋れるものがないかと救いを求める。今回の場合は数え役満☆姉妹だな。彼女達の歌は確かに素晴らしい娯楽性に満ちているが、平時であれば、ここまで爆発的に知れ渡ることはなかったはずだ。つまり民衆は今の世の中に絶望しているんだよ。数え役満☆姉妹は絶望した民衆にとっての救いだ、彼女の歌を聞いている時だけは世の中のことを忘れられる、絶望した世の中から目を逸らすことができる。そして生まれながらの強者が有識者気取りで言うんだよ」

 

 ――こんな歌が流行るなんて世も末だ、ってね。

 

 海底の肩を竦めながら苦笑交じりに告げる言葉に、ブルリと鳥肌が立った。

 

「でもまあ数え役満☆姉妹は遅かれ早かれ名が売れていただろうけどな。今回の場合は売れ方を間違えた、なにかがまかり間違って不自然な売れ方をしてしまったんだ」

 

 もう彼女の話をまともに聞いていなかった。

 考える、思考する。ついさっき引っかかりを覚えた、その感覚を逃さないように手繰り寄せる。考えろ、考えろ、それは今の瞬間でしか手に入れることはできない。

 普段の私であれば、絶対に思いつかない類のものだ。

 

「それに太平道の教えは分かり難くて大衆向けではない。太平道を理解するには一定以上の教養が必要であるし、その上で数年の修行をしなくては基礎すらも身に付けられない。しっかりと身につけようと思えば、最低でも十年だ。その実用性が分かる知識人が大陸にどれだけいる? もっとそうだな、分かりやすくするべきなんじゃないのか?」

 

 分かりやすく……思えば、太平道の“蒼天已死、黄天當立”の標語を考えたのも海底だった。

 

「例えば、そうだな。数え役満☆姉妹の“あいはだってだって最強”とか最高に分かりやすいじゃないか。歌だから耳にも残るしな。太平道はもっと大衆向けに開かれるべきなんだよ。世直しに宇宙の真理だとか、房中術だとか、気の操作とか必要か? 道教の深い部分は私達のような者達が探求すればいい、そして救いを求める奴らには施しを与えるんだ」

 

 民衆には道教は必要ない、私達だけが道教を探求する――そこで、ずいっと海底の顔が迫る。プツンと思考が途切れた。

 

「本質を間違えるな、起家。私達の理念は世直しであって、道教の布教ではない。道教の思想が、これからの世の中に必要だと思ったから道教を選んだだけに過ぎないんだ」

「……ああ、そうだな。そうなんだな、そうなんだよな……そうだよ!」

 

 そして思考が途切れたことで凝り固まった固定概念による迷宮から解き放たれて、全ての要素が頭の中で噛み合った。

 

「民衆の掌握は太平道の役割ではない。数え役満☆姉妹が民衆の救いであるならば、私達は粛々と改革を進めれば良い!」

 

 海底は困惑した様子で「お前は、なにを言っているんだ?」と私を見つめ返す。

 

「黄巾党の大半が単なる民草で救いを求めているというのであれば、この腐りきった世の中に不満を抱いていることは確実だ! そのために私達の教えが難解だと言うのであれば、理解をしやすい歌を以て民衆を統べれば良い! 歌は世界を救う、良いじゃないか! 大半の民衆にとって(まつりごと)は身近なものでないというのであれば、そういうのは私達太平道が代行してやれば良いのだ! 世界を変える、世直しをする。そうだ、その通りだ! 私達が黄巾党の舵取りをする、私達が民衆を正しく導いてやるのだ!」

 

「ちょっと待て、待て! 待つんだ! そのようなやり方が上手く行くとは思えない! できるのか!? お前に、幾万人を超える民衆の制御なんてできるのか!?」

 

「違うぞ海底、私達しか居ないんだ! 民衆に政ができないから私達がするんだ! 民衆が求める政とまでは言わない、だが今より民衆が豊かになるための政ならできるさ! 少なくとも今の漢王朝よりもましなはずだ! これ以上、孤児を増やさせるものか、口減らしに家族を見捨てることなんてさせるものか! 私はな……そのために立ち上がったのだ! その理念と信念さえあれば、一歩だ! 一歩前に進むことができる! 今の腐敗した漢王朝に未来はない! ぶち壊して私達の力を以て漢王朝を新生させてやるッ! 何故ならば、民衆は今の漢王朝を求めていないのだからな!!」

 

 大まかな方針が決まれば、次にすべきことも自ずと見えてくる。

 今の漢王朝を打倒するために必要なことはなんだ。太平道の教えを民衆に浸透させるという前提が覆った今、やるべき行動も変わる。取れる行動は大きく広がった。

 唖然としている海底には目もくれず、計画を次の段階に移行させる。

 

「腐りきった漢王朝を打開することは現政権を打倒することと同義だ。つまり何進と現皇帝の抹殺が私達の改革の最優先課題となる」

 

 凝り固まった考えから解き放たれたように案が次から次へと出てくる、湯水の如く湧いてくる。

 

「暗殺でもするつもりか? 流石の漢王朝だって洛陽には軍がいるだろ、腐っても漢王朝だ。荒唐無稽な計画なら私は抜けるからな」

「乱を起こすのであれば内と外だ。先ずは大陸全土で乱を起こして、漢王朝が抱える主力を洛陽から引き離す」

「それでも洛陽周辺には徐晃って奴が守っている、優秀らしいぞ、宮中でも優秀な奴が控えているはずだ」

「それも内と外だ。私達が乱を起こす時に洛陽を攻める別働隊があれば徐晃とかいう奴の問題は消える。ついでに言えば、洛陽でも乱をおこしてやるんだ。そうして洛陽市中に宮中の戦力が割かれて手薄になったところを攻め込んで何進と現皇帝を仕留めてやる」

「そんなやり方で誰が付いてくる……兵はどうするんだよ」

「兵力は大陸全土にいる民衆だ、足りないということはない。でもまあ洛陽で乱を起こすのは少数精鋭、つまり太平道の面子で固める必要があるだろうな」

「国家転覆は武力があってこそだ。各地に散った主力軍が直ぐ様に踵を返して、俺達を逆賊として討伐にしくるぞ。民衆と漢軍じゃ練度が違いすぎる」

 

 私は首を横に振る、これは武力がどうこうという話ではない。

 逆賊になるのは何故か、誰が逆賊と決めるのか。そもそも漢王朝とは何を以て漢王朝と言うのか。

 それは皇帝だ、皇帝こそが漢王朝なのだ。

 

「現皇帝には二人の妹がいる、そいつを手中に収めるんだ。そうすれば……奴らの方が逆賊になる。それにこちらの主力は民衆だぞ? 戦を続けられるはずがないさ、なんせ奴らの兵も大半が民衆だ。正規兵だって何人いる? 三万もあれば多い方だ。逆賊と認定されて、更に民衆を相手に戦うなんてことができるか? できるはずがない。仮にできたとしても、それはもう民衆の敵だ。民衆の敵対者として世間に強く意識付けられる」

 

 海底は腕を組んで考え込み始めた。

 まだ煮詰める必要はある、しかし大まかな方針はこれで良いはずだ。やるべきことは多い。だが停滞していた今までよりも大幅な前進だ。明確な到着点が見えた、ならば後はきちんとした道筋を立てるだけだ。そうなれば突っ走るだけで良い。

 できる、そうだ。できるのだ。私達は今の腐った世の中を変えることができる。

 

「……立直(波才)はどうする?」

 

 ポツリと零した一言に、私は熱した心が少し冷めるのを感じた。しかし、それもまた考えている。

 

立直(りーち)には、これまでと同じように黄巾党を纏めて貰えば良い。(程遠志)平和(張曼成)には立直の補佐を。謀略は私とお前と……そして、宝牌(ぱおぱい)の三人で行うべきだ」

 

 宝牌とは管亥のことだ。太平道の主要面子、最後の一人。彼は元が商家であり、太平道の活動資金の調達などで大きな功績を残している。

 

「革命を、始めよう。中黄太乙だ」

 

 海底は相変わらず渋い顔をしている。しかし小さく零すように、中黄太乙、と呟いた。

 

「勝てない戦はしない。やる時は勝つべき状況を整えてからだ、そう孫子にも書いてある」

 

 慎重な海底に私は苦笑する。

 そんな彼女だからこそ頼りになるのだ。

 

 

 出会い茶屋の一室に独り残される。

 目の前にあるのは酒の入った瓶に盃、私、海底(裴元紹)は独りで考え事を続けている。

 起家(馬元義)が始めようとしていることは明確な漢王朝への反逆だ。とはいえ太平道に入った時から何時か、こうなることは分かっていた。分かっていたからこそ太平道に参加したのだ。しかし、はたして起家(ちーちゃ)の案で本当に上手く行くのだろうか? 穴はまだ多い、その大半はこれから埋めていけば良いだけのものだ。

 だが根本から間違ってはいないか?

 起家の提案は(まつりごと)を考えられるだけの教養を持つ者に道教を浸透させて、教養の足りない民衆には分かりやすい歌で倫理や道徳、心掛けを植え付けさせるという手法である。

 それでは今の儒教と変わらないのではないか? 儒教が道教に成り代わるだけで終わるのではないか?

 いや、儒教による外戚贔屓が政治腐敗の根幹にあり、売官制度で官僚の質は大きく下がっている。そこを改善できるのであれば、少なくとも現状よりも良くなるのだろうか。宦官はどうする、私利私欲の塊のような連中が蔓延っている魔窟だ。いや、奴らは武力で抑えつけることが可能だ、それに宦官には世襲がない。つまり儒教による親類の統治とは正反対の位置にあると云える。

 むしろ宦官を味方に引き込む道もあるのだろうか。

 行けるか? 行けそうな……気はする。

 

 だが、なんだろうか。

 この漠然とした不安は、決起による不安を感じているのだろうか。

 それは、当たり前の感情だと思われる。現政権に反逆するという大事、不安を抱かない方がおかしい。

 しかし本当に何か見落としをしていないだろうか。

 思考を止めるな、考えろ、今の御時世、思考を止めた者から死んでいくのだ。

 

 そういえば何故、立直(波才)を謀略から外すのだろうか。

 二人も補佐を付けるのは過保護すぎないか、それだけ立直(りーち)にのめり込んでいると見るべきか。彼女は性格的にも謀略に向いているとは思えないが、立直の影響力を考えると積極的に活用していくべきだとは思う。

 立直を甘やかす理由が過保護であるだけなら良いのだが――立直の名前を出した時の起家(ちーちゃ)の反応が気になる。

 

「起家……お前は黄巾党を動かす時、立直をどうするつもりなんだ? なんて言うつもりなんだ?」

 

 分からない、結論は出ない。そうである以上は彼女に従うのが最善か。

 この不安が杞憂で済めば良いのだが――そう思いながら出会い茶屋の店主を呼びに立ち上がる。

 私は慎重だと起家はいうが、私は単に臆病なだけだ。臆病だから余計なことに頭が回る。漠然とした不安を拭うために男娼を買う。可愛らしい子を仕入れることができた、と此処に来た時に店主が言っていた。

 こういう時は誰かを抱くに限る、こんな時は人肌の温もりを感じないと眠れなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

脈動         -大平道

▼張角:天和(てんほう)
 数え役満☆姉妹の一人として、全国各地を講演の旅に出ている。
 言わずと知れた張角三姉妹の長女、太平道とは関係がない。治術も使えない。
 言ってしまえば、ただいま売れっ子の歌い手である。

▼馬元義:起家(ちーちゃ)
 太平道創設メンバーの一人、実質的に太平道を纏めている人物。
 一見すると細身であるが全身を筋肉を纏っている、所謂、細マッチョと呼ばれる肉体をしている。身長も高めで男性に引けを取らない。
 波才とは一回りくらい歳上。

▼裴元紹:海底(はいてい)
 太平道黎明期に加入した人物、義侠の出身で裏世界に通じる。
 太平道の主要メンバーで最も体格が良く、力比べであれば馬元義に引けを取らない。
 寝癖が酷くて稀に馬元義に捕まって整えられたりする、年齢は馬元義と波才の真ん中辺り。

▼波才:立直(りーち)
 太平道創設メンバーの一人。太平道の巫女、黄巾党会長、大賢良師と様々な肩書きを持つ。
 道教の秘術を扱える存在で、元気になれ、と病魔を退治することができる。
 数え役満☆姉妹の熱烈なファン、巫女装束の少女。


 大草原、幾人もの人物が踏み均してできた道を私、天和(張角)は進んでいる。

 肌に感じるのは涼やかな風、耳に聞こえるのは草木が擦れる音、耳を澄ませば自然の音楽が奏でられる。

 つい口遊むのは自前の曲であったり、幼い頃に聞いた童謡であったり、日によって姿を変える移り気の自然のように、気分が赴くままに歌いたいものを口にする。時には空を飛ぶ鳥を空想して、時には水を泳ぐ魚を思い起こして、その瞳に映る光景を瞼の裏に投影する。

 自分の目に映るものだけが世界ではない、この世に生きる全ての生物が見る光景こそが世界なのだと私は思っている。同じ景色でも見るものによって姿を変える。例えば今、私が見ている光景は私だけのものであり、私が心に想い描く色模様もきっと私だけが持てるものだ。

 形式や格式で凝り固まったものは退屈だ。それでも表現者はありきたりな表現の中にも想いを詰め込んでいる。

 例えば、絵であれば一本の線の強弱に印象を描いて、文章であれば句読点の間の取り方に想いを詰め込み、歌であれば息継ぎにすらも感情を注ぎ込んでみせる。芸術性の話をしているつもりはない。それが表現というものなのだ。誰かが誰かと同じ歌を歌ったとしても、そこに詰め込まれる心が違っている限り、それは決して同じものにはならない。声質の話をしているわけではない、もっと根本的で、もっと根源的な話をしている。

 私が歌って躍るのは、そうすると、きっときっと楽しいからだ。そこに複雑な過程はあっても、複雑な思想はない。何時だって私達は根源的な単純で簡潔な想いを心に抱いて行動している。

 きっと楽しいと想う心が大切なんだって、私はそう思っている。

 

「なんだか忙しくなったよねー」

 

 そうぼやくのは隣にいる妹の地和(張宝)だ、馬に跨りながら大きく体を伸ばしてみせる。

 

「そうね、ここまで人気が伸びるのは予想外。四六時中、馬に揺られるのは流石に疲れるわ」

 

 憂鬱げに呟くのは末女の人和(張梁)だ。歌を歌っている時以外は無表情であることの多い彼女も疲れが溜まっているせいか、心なしか気落ちしてしまっている。

 

「まあ確かに最近は忙しくなったねー」

 

 馬に揺られながら私も妹達に同調するように口を開いた。

 もう馬に乗っての移動も慣れたものだ。それ程までに東奔西走と公演続きの日々を送っており、公演の度に喉を枯らす程に全力で歌を歌った。それができるのも私達の護衛に就いている黄巾を頭に巻いた者達のおかげだった。確か黄巾党と言っていたか、やってることは後援会と同じようなもので、食事の用意から旅路の護衛、宿屋の手配に舞台の準備。正に致せり尽せりといった待遇を受けている。

 そのおかげで私達は歌を歌うことだけに専念できる、歌を歌った後には喉に良いからと蜂蜜飴も用意してくれる。

 

「でもまあ、あの時は誰も私達の歌を聴いてくれなかったけどさ。こんなに私達の調子が良いのって天和姉さんがあの子を拾ってきてからじゃないの? 本当に大陸狙えちゃうかもね」

 

 地和(ちーほう)が笑いかけてくる。

 なんだかんだで歌うのが好きで、歌を聴いてもらうのが好きな私達だから忙しい今に不安はない。

 強いてあげるとすれば、嬉しい悲鳴というものだ。

 

「あの子って、立直(波才)ちゃんのこと?」

 

 立直とは豫州の町で見つけた少女のことだ。

 あの日、あの時、見つけた少女は飢えている様子もなく、衣服も小綺麗だったのに目が死んでいた。比喩ではなく、いや比喩ではあるが、あの時の彼女の目は本当に死んでいるように思えたし、子供と考えるには歪なやつれ方をしていた。今にも消えてしまいそうで、死に場所を探すように、まるで幽鬼のように、ふらりふらりと街中を一人で歩いていたから気になったのだ。

 もしかしたら死ぬつもりじゃないかって、そう思うと見過ごすのはあまりにも後味が悪過ぎた。それで人通りが少なくなった場所で泣き崩れた時はどこか安心をしたし、そしてそこまで見届けてしまったからには放っておくこともできなかった。

 握り締めた拳を痛みつけるように、自らを傷つけるように地面を殴り始めたのは飛び出すきっかけに過ぎない。

 

「そう、私達のファン第一号ッ!」

「今じゃ確か黄巾党の会長だったっけ? 私達が歌に集中できるのも彼女のおかげ、本当に姉さんは良い拾い物をしたわね」

 

 確かにそうかもねー、と間延びした声を答える。

 生気のない彼女に私達の歌を聴かせたのは、こういう人にこそ歌を聴かせてあげたいと思ったからだ。

 私達にはご飯もお金もないけども、歌を歌うことができる。元気付けてあげたいと思って、目の前にいる独りの少女すらも助けられなくて、どうして歌で生きているのかと有りっ丈の気持ちを乗せて歌った。彼女一人のために、私の想い、私の全てを歌に乗せる。言葉じゃ伝わらないことを歌に乗せて、私という人格を表現した。

 凄い、と呟いたのは誰だったか、気付けば妹二人は歌うのをやめて私だけが歌っていた。

 

「というか天和姉さん! あの子に真名を預けて貰ってるわけ!? うっそー、私まだ真名を交換してないよ!?」

「私もまだよ。私達の間に抜け駆けはなかったはずだけど?」

「抜け駆けってそんな、恋人の奪い合いじゃないんだし……」

 

 二人に左右から言い寄られて、私は苦笑いで誤魔化す他にない。

 真名だって交換したというよりも強引に預けられたものだ、というよりも「握手をしてください、サインをください。此処に真名で立直さんへって付けてください。ああもういっそ私のことを立直って呼んでください!」と言われてしまった時、はたして私がどのように対応をするのが最善だったのか誰か教えて欲しい。誰よりも熱心な私達のファンに押し切られて、つい私は真名を交換してしまったに過ぎなかった。

 それ以後も立直は私のことを張角と呼んでいる。理由を聞けば、畏れ多いとのことだ。真名を預けてしまったのも気の迷いのようなものだった、と必死で弁解してきたのを今でも鮮明に思い出せる。なら私の方も普通に呼んだ方が良いかって問うと、ちゃんと真名で呼んでくれた方が嬉しいと気恥ずかしそうにしながら訴えるのだ。ファンというのは、なんとも面妖な性質を持った存在らしい。

 つまるところ二人に真名を預けていないのも、畏れ多い、というのが理由ではないだろうか。

 

「公演を支援してくれるし、私達の宣伝もしてくれるし――良妻賢母とはこのことね」

「良妻って……ちょっと言い過ぎじゃないかなぁ」

 

 流石に見た目、年下の少女に母性を感じたいとは思わない。

 というよりも彼女のことをよく知っている私からすれば、彼女は暴走しがちな女の子であり、側にいると目を離せないのだ。

 つい世話を焼いてしまうのもそのためで、手間のかかる妹が一人増えたような気分だった。

 

「いいや、天使だよ! 私達の女神と言ってもいいかもね! 天和姉さんも最近、なんかしっかりしてるしッ!」

「えー、そうかなー?」

 

 昔からそこまで酷かった記憶はない。

 ちょっと人よりも頭の回りが遅いだけで、考えることは考えてきたし、妹二人には苦労をかけないようにと思って生きてきた。

 私達三人が食べて生きられるだけの稼ぎと考えれば、とても真っ当な生き方をできるとは思えない。だから治安の良いと聞いていた豫州を目指していたし、そこでも駄目そうならば洛陽に向かう予定もあった。

 その計画が白紙に消えたのも、立直との出会いが全てだった。

 

「あの子は私達にとって必要よ。絶対に手放しちゃ駄目よ」

 

 人和(れんほう)の言葉にも、私は微妙な笑みを浮かべて誤魔化した。

 今でこそ彼女は私達の後援会の会長を務めているが、そういうことを彼女に求めていた訳ではないのだ。元気付けたい、歌を聴いて欲しい、それで少しでも救われてくれると嬉しい、そう思って歌を贈っただけに過ぎない。だから私達のファンになってくれるのは素直に嬉しかったけども、流石にここまで支援を受ける立場になると後ろめたさが出てくる。ましてや妹二人よりも年下の少女だ、騙している気がして仕方ない。しかし彼女の支援がなくては私達が公演を続けられないのも事実であり、立直の好意に甘える他に取れる手段なんてなかった。

 そんな彼女を報いるには、彼女の信じてくれた歌を全力で歌い続ける他にない。

 

「でも本当に最近の私達は凄いよ、もしかしたら天下も獲れちゃうかもね。ここまで来たなら私達の歌で大陸を満たそうよ!」

 

 地和の言葉に「そうね、私達ならいけるわ」と人和も乗り気のようだ。

 調子が良い二人を見て、私は逆に上手く行き過ぎている、と根拠のない不安を抱えていた。まるで急流の川を滑り落ちるように、私達の意思とは無関係に、何処とも知れない場所へと向かっている。それは未知の絶景へと導いてくれるかもしれない、大海原まで向かっているのかもしれない。それとも滝壺へと叩き落されるかもしれない。

 運命の歯車は回り続ける、私達を乗せた方舟は止まらない。

 活発な妹に知的な妹、そして脳裏に思い浮かべる三人目の妹。三人と比べると頭の回転が遅い自分ではあるが、姉として妹を守り助けるのは当然だと思っている。

 いざとなれば身を呈してでも、この身を捧げることになっても守ってみせる。

 

「天和姉さん、行くよ」

 

 差し伸べられる地和の手に従って、馬を前へと向かわせる。

 まるで生き急いでるような錯覚、だからといって立ち止まることはできない。

 その段階は疾うの昔に超えてしまった。

 

 

 ――蒼天已死...

 

 

 出会い茶屋で決意表明 をした起家(馬元義)は今までの停滞が嘘のように八面六臂の活躍を見せた。

 それとなしに黄巾党のまとめ役である立直(波才)に助言をして、張角三姉妹の中原を横断する公演旅行(ライブツアー)企画を打ち上げることで黄巾党の勢力を広めては、各地に黄巾党支部を立ち上げて太平道の教徒に運営をさせる。それと同時進行で太平道の教徒を選りすぐり、洛陽の市中で騒動を起こす部隊と宮中に奇襲をかける部隊の訓練を施した。

 なによりも起家(ちーちゃ)が才覚を発揮させたのは外交力だ。

 決して子宝を得られない体になった宦官と血縁を大切にする外戚贔屓の儒教は相性が悪い。そのため儒教に不快感を示している者は多く、道教に興味を向ける者は一定数存在していた。洛陽の内側に味方を作り、革命の手引きをさせる。今や宮中の地図を手に入れて、一日の動きを事細かに把握するまでに至っている。

 着実に革命の準備は進められている、太平道とは別に各地で革命の同調者も増えている。

 

 あまりにも事が進み過ぎている、早過ぎる。

 世の中には気運と呼ばれるものが確かに存在しているが、それは言ってしまえば大勢の人間による意思の大流である。この大波は乗って制御するものであり、決して飲み込まれてはならない。あまりに大き過ぎる意思の本流は、一手でも打ち間違えれば船から転げ落ちて溺死する可能性がある。

 私、海底(裴元紹)は時勢を的確に読み取らなくてはならない。そして黄巾党の勢いは増すばかりで、その膨れ上がり方は異常と呼ぶ他になかった。

 時には急ぐことも必要だ、しかし地盤を固めないことには全てが水泡に帰することになりかねない。

 

「今しかない」

 

 しかし起家は足を止めようとはしてくれなかった。何処までも突き進む、止まったら死ぬとでも言わんばかりに前のめりだった。

 

「兵は拙速を尊ぶ、ここまで来たらもう短期決戦しかない」

 

 あまりにも異常すぎる黄巾党の拡大は、漢王朝から目を付けられる危険性を孕んでいた。

 その大半は張角三姉妹の追っかけであるが、太平道の工作員、もしくは今の漢王朝に業を煮やした義侠の者達が黄巾党に紛れ込んでおり、中黄太乙を合言葉に暗躍をしている。今はまだ水面下での活動だが、私達の活動が表面化するのも時間の問題だ。

 そうなれば黄巾党の解散は勿論、太平道も窮地に陥ることになりかねない。

 

「……それでも今は足場を固めるべきだ」

 

 だが私達はまだ黄巾党を掌握しきれていなかった。

 黄巾党に所属する大半は何の事情も知らない民衆だ、革命の気運を高めるにも時間がいる。いざという時に同調してくれなければ意味がないのだ。だからこそ私は黄巾党に太平道の考え方を浸透させて、まるっと太平道に帰化させてやろうと企てたのである。

 しかし彼女、起家は何処までも突っ走ろうとする。

 

「大丈夫、私にいい考えがある」

 

 なんとなしに不安感を煽る言葉を口にして「近々、私は此処を離れることになる」と付け足した。

 

「次は何処に行くつもりなんだ?」

「洛陽だ」

 

 私を見つめていながら、私のことを見ていない。そんな目で彼女は答える。

 

「黒山軍の頭目である張牛角と渡りの船を付けることができた。留守はお前と宝牌《管亥》に任せる。もしかすると予定が早まる可能性もあるかもしれない、その時は各地の指揮を二人に任せたい」

 

 決定事項とでも言わんばかりの言い草に、私は分かりやすく溜息を零すも彼女には見えていないようだった。

 革命の時は刻一刻と迫っている。嫌な予感がする、今はまだ、その時ではない気がして仕方ない。あまりにも事が性急すぎる、本当に見落としはないか。考えても、考えても、答えには辿り着けない。何か致命的なものを見落としている気がして仕方ないのだ。

 何故、こうも彼女はこうも生き急ぐのか。考えるにも時間が足りない、集められる情報にも限りがある。

 この心配が杞憂であれば良いのに、と願わずにはいられなかった。

 

 

 ――蒼天已死、黄天當立...

 

 

 儘ならぬ人生、官僚に搾取される日々、何のために生きているかも分からない。

 そんな迷える子羊の一人である俺達に張角三姉妹の歌声が心の奥底にまで染み渡り、魂が震え上がった。言葉にはできない尊い感情、どうしても言葉にしなくてはならないとするならば、感動、ただ一言の想いが荒んだ世の中で乾ききった心を潤すのだ。

 彼女たちの歌声を初めて耳にし、俺は涙を流していた。どうして泣いているのか分からなくて、困惑し、しかし彼女達の美しく透き通る歌声を聞いている内に理由なんていらないことに気付いた。そうだ、俺は感動しているのだ。彼女達の歌声に感動して涙が溢れて止まらない。

 気付いた時には声を張り上げていた、張角ちゃん! と、張宝ちゃん! と、張梁ちゃん! と、彼女達の名前を呼んだ。

 この胸に宿した想いを伝えたくて、しかし言葉にもできなくて、少しでも感動したっていうことを伝えたくて声を張り上げる。そして出た言葉は、ありがとう、その一言だった。もう心の内側は感謝で埋め尽くされていて、もっと言いたいことはいっぱいあったはずなのに、口から出るのは感謝の言葉ばかりだった。

 生まれてきて良かったと、彼女達の歌声に救われたと、涙が溢れて止まらなくて、嬉しくて、幸せで心がいっぱいで、それが逆に辛くて、もう死んでも良いんじゃないかなって、必死に手を振って声を張り上げる。ありがとう、ありがとう、と何度も繰り返していると、ふと、その時、張角が俺の方を向いて微笑んでくれたんだ。

 もう死んだ、と思った。絶対に死んだ、と思った。死んでも良い、と思った。

 それは気のせいだったのかもしれない、でも気のせいでも構わない。その時に俺は確かに死んでしまって、そして肉体はそのままに魂が浄化されて生まれ変わった。そこには天国があった、彼女の笑顔に天国を見た。彼女達の姿を見ると胸が高鳴る、彼女達の歌を聴いていると心がときめく、嗚呼、なんと素晴らしき歌唱力、まさに聖歌の如く、俺にとっての国歌、彼女達の歌に俺の心が帰属する。

 決して絶やさぬ笑顔は太陽の如し、この真っ青な空すらも太陽の輝きで黄金色に染めてしまえるに違いなかった。

 蒼天は既に彼女を前にして死んでいる、正に黄金色の笑顔で天下を塗りつぶす時が来たのだ。

 彼女達が笑う時、俺達も笑顔になれる。どんなに苦しくても、辛くても、悲しくても、彼女達の歌に励まされて、奮い立ち、再びわたし達は立ち上がることができるのだ。

 正に張角三姉妹は動乱の世の中に舞い降りた女神と云える、その在り方は生きながらの神話であった。

 だから、俺は思ったのだ。いや、決めたのだ。

 

 何処までも彼女達に付いていこうと黄巾を頭に巻いた。

 彼女達の歌と共に俺達は在る。

 

 

 ――蒼天已死、黄天當立。歳在甲子...

 

 

 私、立直(波才)は最近、嬉しいことでいっぱいだった。

 

 その中でも嬉しいのが皆が数え役満☆姉妹を認めてくれるようになったことだ。

 黄巾党の会長しての業務も増えたけども、それだけ張角三姉妹が認知されるようになったということだと思えば苦痛なんかなかった。今では中原を中心に黄巾党の支部まで建つようになり、その勢いは止まることを知らない! 凄い! 太平道としての業務も兼任している身の上、民衆の病魔を退治することも考えれば、数え役満☆姉妹の公演に足を運ぶことが随分と減ったことが近頃の悩みである。

 とはいえ、秘術を扱えるのは太平道では私だけだ。

 今も病魔で苦しんでいる人がいると考えれば、とてもじゃないが休むことができない。

 

 本当は彼女達が公演旅行に付いて行きたかった。

 洛陽に向かったという起家(馬元義)のことが羨ましく思ったりもしたが――それは仕事の一環だと聞いているし、彼女は西へ東へと大陸中を走り回って仕事に忙殺されている。

 公演を見に行く暇もないはずだ。

 

 だから羨ましいとか思わず、ここで彼女達のことを応援している。

 太陽の方角に向かって、朝昼晩とお祈りも捧げている。暇があれば彼女達の歌を口遊んでいる。私は大丈夫だ、少し寂しいけども彼女達が帰ってくるのを待ち続ける。張角にも良い子にしてたら頭を撫でて貰える約束をした、だから頑張るのだ!

 約束をしたから待っていられる、また彼女の歌を聴ける信じているから寂しくても耐えられる。何故ならば“あいはだってだって最強”だからっ! 愛を感じることができれば、多少の苦難は耐えられる、乗り越えられる。約束が私と張角を繋いでいる、遠く離れていても繋がっている。

 そして出会った時は頭をたっぷりと撫でて貰うのだ。そのことを想うだけで幸せだ、幸せ者だ。こうやって待ち続けている時間も愛を育むためのもので――次に会った時、ちょっと抱き着いても構わないだろうか。迷惑だろうか、畏れ多くて尻込みしそうだ。でも、それを想像するだけで私は幸せ兎の妄想警報、幸福絶頂中で身悶えする。

 何を考えていても、何をしていても今の私は幸せになれる気がする。

 正に無敵、正に最強!

 

 それもこれも太平要術の書のおかげだ。

 私が願ったのはたった一つの小さな願い、少し背中を押しただけに過ぎない。

 だから、ここまで数え役満☆姉妹が有名になったのは紛れもなく彼女達の力であり、その勢いは大陸全土を飲み込むほどだ。世界は歌で繋がれば良い、もっともーっと歌で皆が繋がれば、きっとそれは素敵なことに違いないのだ。

 ああもう楽しい、本当に毎日が楽しくて、嬉しくて、思わずくるくるっと回っちゃう! 幸せいっぱいで夢いっぱいだ!

 心がときめいている、世界はキラキラと輝いている!

 

 窓からバンッ! と身を乗り出して、おはようございますって意味もなく叫びたい気分だ。

 叫ぶのは流石に恥ずかしくってできなかったけど、勢いのまま窓を開けた時に偶然、木の枝に停まっていた小鳥に「おはよう」って控えめに手を振った。その時、なんとなしに外を眺めてみると――なにやら慌ただしい様子、そして見知った顔が私がいる屋敷に駆け込むところだった。

 どたばた、と部屋に上がり込んでくる彼女、(程遠志)が酷く青褪めた顔で告げる。

 

「張角捕縛の勅が出された! 黄巾党が逆賊として討伐対象になったぞッ!!」

 

 パサリと両手から太平要術の書が床に落ちる。

 (ちー)が何を言っているのか分からず、分かろうともせずに私はコテンと首を傾げた。

 その時、私はどんな表情を浮かべていたのだろうか。

 

 程なくして、黄巾を頭に巻いていない太平道の面子が次々と屋敷に乗り込んできた。

 

 

 ――蒼天已死、黄天當立。歳在甲子、天下大吉。

 

 

 太平道の一拠点、

 漢王朝が張角捕縛の勅を出したという報告を聞いた時、(裴元紹)は手に持っていた酒瓶を握り潰した。酔いなんで全て吹き飛んで、急いで各地にいる太平道に指示を飛ばす。

 それから頭をバリボリ掻き毟りながら目一杯の悪態を吐き捨てた。

 

「あの野郎、()()()()()()()()()()!」




蒼天已死(蒼天已に死す)黄天當立(黄天當に立つべし)歳在甲子(歳は甲子に在りて)天下大吉(天下大吉ならん)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

動乱の前日      -漢王朝(+徐晃隊)

※9/27 21:35 前話の最後、少しだけシーンを追加してあります。

▼徐晃公明:香風(しゃんふー)
 騎都尉、洛陽周辺の賊を退治し続けている。
▼李儒文優:博美(ひろみ)
 徐晃の補佐役。
▼張遼文遠:(しあ)
 執金吾、外敵から洛陽を守る役割。
▼蹇碩:(づぅ)
 霊帝の近衛隊隊長。


 少し時間を遡る。

 時系列に直すと馬元義が洛陽に入って、幾日か過ぎた頃合い。

 黄巾党が逆賊として手配される十数日前だ。

 

 

 空を見るのは好きだった、何時か空を飛んでみたいと思っている。

 そんなことは不可能だと分かっていながら、その夢を諦めることを私にはできなかった。空を飛ぶ鳥を追いかけるように地面を駆ける、時間が余った時は緑で埋め尽くされた草原を空に見立てて遠乗りするのは昔の習慣だった。

 その草原の向かう先にいるのは黄巾を被る賊徒だ。もう既に動き出しており、どうやら真正面から攻め入ってくるつもりのようだ。

 少し気が緩み過ぎている、と私は意識を集中させると部隊を左右に散開するように指揮を出した。部隊は鶴が翼を広げるように前にせり出しながら左右へと広がった。いわゆる鶴翼陣と呼ばれるものであり、私が最も好きな陣形であった。中心部の先頭には私が立ち、敵の突出した一人を持ち前の大斧で目一杯に吹き飛ばした。気を充実させていない脆い肉体は、見るも無残な肉片となり、胴体が完全に吹き飛んだ。雨のようにバラバラと肉塊が大草原に降り注ぎ、遅れて千切れた手足、あと頭部がボトリと地面に落ちる。これだけで敵の勢いが削がれる。臆した兵達による突撃は最早、私達にとって脅威ではない。騎馬隊が左右から上がっていくのが見えた。

 中央で私が相手を抑えている間に、左右の部隊が相手を優しく包み込んで、

 

 ――大勢が決する。

 

 此度、賊徒が六百人に対して、私達は千人だった。

 そして結果は六百人の全員捕縛、ないし損害を与えたことに対して、私達の被害は僅か五十二名。その内の全員が戦線に復帰可能という戦果を上げる。戦後処理の最中、部隊長が私のことを褒め称えるが、こんなことは何時ものことでいまいち気分が上がらない。民衆から漢王朝の無敗将軍と呼ばれることもあるが、私は精々、数千の指揮官なので将軍と呼ぶのは間違えている。

 それよりも私は今、予定よりも早く屋敷に帰れそうなことの方が嬉しかった。

 

「徐公明様、ここから先は私達がやっておきます。今日ぐらいは先に休まれては如何ですかな?」

 

 そんな言葉に「そう?」と頰が緩むのを隠せなかった。

 私は配下の配慮に甘えて一足先に陣中を抜け出すことにする。予定よりも早い帰宅に同居人は喜ぶだろうか、ご飯の準備ができていないと困った顔をするだろうか――そんなことを思いながら帰る道のりは思いの外、もどかしくて気分が良かった。

 自然と足が早くなるのを感じながら同居人の待つ屋敷に戻る。

 

 私の名は徐晃、真名は香風(しゃんふー)。洛陽で騎都尉を務めるものだ。

 

 屋敷に足を踏み入れる時、驚かせてやろうと息を潜めてゆっくりと扉を開けて忍び込んだ。

 それはちょっとした悪戯心、不思議なほどに静まり返った屋敷内、私の同居人は昼寝をしているのだろうかと想いを馳せる。それならそれで寝顔を拝見してやろうと台所と居間にいないことを確認して、彼女の私室に潜り込んだ。しかし、そこにも彼女は居なかった。

 一体、何処へ行ったのだろうか。

 買い出しにでも行っているのだろうか。そう考えて少し残念に思いながらも、念のためと屋敷の中を全て探していると――食材などを貯蔵する地下室の前で、バタリと同居人と出くわした。

 その時、嬉しさよりも困惑の方が強かった。

 

 驚きの表情を浮かべる同居人、その博美(李儒)の手が汚れていた。

 部屋の奥から漂う血生臭さに思わず顔を顰めると、彼女は困ったようにはにかんでみせる。

 その少し開かれた部屋の中から覗き見れるのは、手足の爪を剥がされた血塗れの女性。知らない、何も知らない、と啜り泣く声が――バタンと不意に扉を閉じられると、にっこりと笑顔を張り付かせた博美(ひろみ)が私のことを見下ろしてきた。その目をじっと見つめ返す。

 私から彼女に語ることは何もない、彼女から語って欲しいと耳を傾ける。

 

「……歴史は私達を破滅に向かわせる。だけど貴方が此処に居るから、私も少しだけ足掻いてみようと思うんです」

 

 私が期待した言葉とは別の言葉だった。

 まるで話をはぐらかすような言い方であったが、その言葉からは嘘を感じられなかったから私は大人しく身を引くことにした。

 私と彼女との間には壁がある、でも少しずつ距離は縮まりつつある。

 

「遅れました。おかえりなさい、香風」

 

 その言葉で今は納得することにした。

 

 私は騎都尉として、漢王朝に仕え続けている。

 あの流れ星を見てから随分と月日が経っているが、あれから一度も漢王朝から離れようとは思わなかった。家に帰ると博美が私のことを出迎えてくれる。温かいご飯にふかふかのお布団、気付いた時には「おかえりなさい」と言ってくれる彼女がいる家が私の帰るべき場所になっていた。

 洛陽での扱いは相変わらず、決して良いものとは言えないが、端から出世を期待しているわけでもない。博美に手を出そうとした不届き者を再起不能になるまで打ちのめした事もあるが、執金吾の張遼に獄へと突っ込まれたが三日で釈放、どのような事が裏で行われたのか分からないが、以後私達に手出しをしようとする者はいなくなった。

 翌月から給金が増えてたりもして――そうなってくるともう洛陽から出て行く理由が見つからなくなっていた。

 

 ――香風は洛陽から出て行くつもりはないのでしょうか?

 

 何時しか聞いた博美の問いに、その時の私は「面倒だから」と思ったことをそのまま答えた。

 その言葉を聞いた博美はなにか決心したような目をしたが、当時、私は気に留めようとは思わなかった。

 今だから気になる。

 

「博美は洛陽から出て行きたい?」

 

 あの時の質問を井戸で血で汚れた手を洗っている彼女に問いかけると

 

「此処が私の帰るべき場所ですから」

 

 と彼女は気恥ずかしそうに答える。

 なんとなしに私は空を見上げる、ぼんやりと小鳥が空を羽ばたいているのを見た。私は鳥になりたいと思ったことがある、それならばきっと博美は私にとっての止まり木だ。

 私の心が唯一休まる場所、それを奪われる訳にはいかない、と密かに決意を固める。

 

 その日、肉料理は出て来なかった。

 

 

 私、(張遼)は頭でモノを考えることは苦手だった。

 常に前のめりで馬鹿をやってる方が楽しくて性に合っていたが、それだけを考えることができないのも私という人間であった。

 中途半端に性根が良いのか、変なところで頭が回るのか、余計なことにまで気を回る癖が付いている。放っておけばいいと思いながらも気付いてしまったからには夢見が悪く、結局、首を突っ込んでしまうことになるのが多い。

 徐晃が獄に放り込まれた時もそうだ。私には直接的な実害もなかったが、何進達に徐晃の有能さを説いて回り、関係者を全員ひっ捕らえてやった。その手間暇にかけた時間は私の想定以上に膨大で、安請負をしてしまったと悪態を吐かずにはいられない。そうして助けた徐晃からは特に見返りも求めなかったのだからお人好しにも程がある。そもそも、どうして私なんかが執金吾なんていう大役を担っているのか……可笑しいとは誰も思わなかったのか。

 まあ今更言ったところで仕方ない、与えられた職務の中で給金分の働きをするだけの話だ。

 

「彼女の名前は唐周、商人として化けて洛陽に入るところを捕縛しました」

 

 李儒に屋敷まで呼び出された私は、奥の部屋で檻の中から女性が引っ張り出されて地面に叩きつけられるのを見た。

 手足を折り畳むようなような形で拘束されており、衣服は纏っておらず、全身の肌には鞭で幾度と叩かれた痕が見える。目隠しをされているので表情はわからない。太股から滴り落ちる血は鞭によるものか、それともなにか、爪は全て剥ぎ取られている。知らない、知らされていない、と悲痛な声で何度も繰り返しており、見ているだけでも精神的にきつい。

 私が顔を顰めると少女は虫も殺せぬような綺麗な顔で「彼女はただの運び屋のようでして残念ながら詳しいことは知らされていないようです」と残念そうに笑みを浮かべてみせる。

 

「穴という穴の全ても探してみたのですけどね。彼女、両方とも初めてだったようで隠せる場所はありませんでした。慣れぬことを頑張ってみたのですけども、分かったのは何処に運び入れるのかということだけでして――本当に末端だったようで残念です」

 

 まあ末端でもなければビビってチクったりしませんか、と李儒は茶目っ気たっぷりに舌先を出してみせる。

 

「それで話なのですが執金吾の張文遠様に商家を一つ、ガサ入れをして欲しいのですよ。勿論、秘密裏に」

「……なんで、うちがそんなことをせなあかんのや?」

 

 彼女の印象は正直にいえば最悪だ。それ故、本能的に彼女から命令を受けることに拒絶する。

 

「無論、洛陽の平和を守るためですよ?」

 

 一人の女性の尊厳を地の底まで貶めた少女の口から出たのは殊勝な言葉だった。

 

「私は私の居場所を守るために洛陽を燃やさせる訳には行かないんですよ。歴史は変わっている――ならば私は全身全霊で漢王朝と洛陽を守ります、万全を尽くします。そのために手段を選んでいる余裕が私にはありません」

 

 その言葉は意外な程に真摯に私の心に響いた。仮に李儒の精神に何かしらの疾患があったのだとしても、嘘ではないと感じ入る。

 

「……その女はどうするんや?」

 

 問うと彼女はやはり困ったように顔を顰めると、

 

「せっかくなので生かしておきます、暫くは人間的な扱いはさせてあげられませんけどね。そして、この有様を口の固い商家の旦那に見せつけてやりましょう。きっと口を割ってくれると思います……まあ口が軽ければ、その必要もないんですけどね」

 

 あっさりとそんなことを言ってのける彼女を見て、やはり自分には謀略の類はできないと再認識する。

 こういうことを平然と思いつくような人間が世の中を裏で動かしているのだと実感せざるを得ず、できることならば触れずにいたいと願わずにはいられない。

 張文遠様は知っていますでしょうか? と問いかける少女に聞きたくないと思いながら耳を傾ける。

 

「人間ってお尻からでも食事を摂ることができるんですよ」

 

 彼女の敵にはなりたくない。

 

 後日、とある商家の旦那を捕縛する。

 信仰心が強いのか彼は尋問を受けても口を割らず、李儒の手に委ねられることになった。そして李儒が彼を屋敷の中へと連れて行くと、ものの数分で彼は拍子抜けするほどにあっさりと口を割ったのである。その時の私は屋敷の外で待機をしていたが、後に安全のためと同行した兵が庭で胃液を吐いているのを見かけている。

 犠牲になった兵には申し訳ないが、同行しなくて良かった、と心から思った。

 

 

 私、(蹇碩)は近頃、不穏な気配は感じていた。

 洛陽の外では黄巾を頭に巻いた者が膨れ上がり、賊が多発するようになってしまった。

 そのせいか物流が滞ることが多くなり、嗜好品は勿論、近衛隊の備品を修繕するのに時間を取られることが増えた。他の隊では目上の者が部下に装備の修繕をさせることもあるようだが、私が率いる近衛隊では私自身が自分の装備を手入れしているので、自分の装備を自ら修繕することに誰も文句を言ったりしない。むしろ鍛錬を休みたくて部下の方から修繕に時間をかけようと言ってくる程だ。

 外が叛乱の花で咲き乱れてようとも、内が権謀術数で雪合戦が行われようとも、近衛隊は特に何かをする訳でもなく、粛々と職務を全うしている。そもそも近衛隊とは霊帝を守る矛と盾であって、それ以上でも以下でもないのだ。それに宮中において権謀術数は標準語のようなものであり、ただ戯れあっているだけに過ぎない。猛獣同士の戯れあいに触れて、一般人が生き残れるかという疑問が残るが――その場合は猛獣が潜む密林に裸で飛び込む方が悪いという理屈が成り立つ。

 そういった謀略を取り締まるのは執金吾の役割だが、その執金吾である(張遼)は半ば職務を放棄してしまっていた。

 

 理由を問うてみれば、「裁判所が被告人だけになるけどええんか?」とのことである。

 なるほど、これには職務放棄も納得せざるを得ない。

 権謀術数の支給品の押し付けや、赤字覚悟の権謀術数の大放出特価、今なら更に権謀術数をもう一個となる宮中に果たして明日はあるのだろうか。閉店前に行われる売り尽くし特価の雰囲気まである。

 

 今日も今日とて元気よく権謀術数が飛び交う中で、我関せずと日常を謳歌している時のことだ。

 比較的、穏やかな門前の警備に当たっていると(しあ)が歩み寄ってくる。私が門番をしている時を狙ってくることの多い彼女、何時ものように鬱憤晴らしの手合わせを願いに来たのかと思えば、どうにも雰囲気が違っている。僅かに顔色が悪いように見え、苛立っているようにも感じられた。

 なにか起きたのかと思えば、やはり彼女は手合わせを願いたいと言い、しかし何時もと違うことを付け加える。

 

「今日は本気を出したいから稽古場を二人にして欲しいんや」

 

 なるほど、これは厄介事の予感がする。

 

 人払いを済ませた稽古場、

 霞と私の二人で本番さながらの意気込みで鍛錬用の木槍をバチバチと打ち鳴らした。

 腕前は霞の方が上だ、実戦仕込みの体捌きは予測困難、縦横無尽に振り回される木槍に翻弄されるばかりで付いていくので精一杯だった。霞が言うには私の武は素直過ぎるとのこと、稽古相手を見つけられずに型稽古ばかりをしていれば、そう言われるのも致し方ない。基本的に私の方が手も足も出せず、一方的に打ち負かされることが多い。

 かといって、やるからには負けるつもりは毛頭なく、実践形式の手合わせで五本に一本取れるかどうかの戦績になっている。

 

「相変わらず、頑丈なやっちゃなあ」

 

 尤も気を充実させた私の肉体は木槍よりも硬いので怪我をする前に木槍の方が悲鳴をあげる。

 そのこともあって、霞は容赦なく私に木槍を打ち付けられるということだ。特に今日の霞は何時もよりも槍捌きが荒々しくて、攻撃を仕掛ける余裕もないほどの猛襲に受けるので精一杯だった。

 形式だけの手合わせとはいえ、本番以上の鬼気迫る猛攻に霞は軽く息を切らした。

 

「本当に丈夫やなぁ、宦官にしとくのが勿体ないで」

 

 軽く流した汗を拭き取る私に、肩で息をする霞が少し気が晴れた様子で口にした。

 基本的に攻め続ける彼女と受け止める側になる私との差が出ているだけではないだろうか。まあ、そんなことよりも、まだ用件を聞いていない。

 人払いをして、偽装までして、それで伝えたい用事となにか。

 

「近頃、黄巾党と呼ばれてる奴らが増えて来とるのを知っとるか?」

「それなりには」

 

 時折、宮中でも噂を耳にすることがある。

 大賢良師と呼ばれる者が中心で纏まっている組織だとか、とある歌い手を心酔する集団だとか、黄巾を被った賊が徒党を組んでいるとか、その内容は様々で宮中でも実態を知るまでには至っていない。

 もう一度、霞は周囲を見やると小声で口を開いた。

 

「徐晃の配下なんやけどな……李儒っちゅう奴が、黄巾党を取っ捕まえよったんよ」

 

 ピクリと体が揺れた、できるだけ平静を装って続く言葉に耳を傾ける。

 

「んで、どうにも洛陽で反乱を起こそうとしとるんじゃないかっちゅー話になってなぁ。その後で商家の査察を行ったんやけど――キナ臭い情報が出るわ出るわ、屋根裏に大量の武器が隠されてたのも発見したわ。なんでも洛陽各地に火を点けて騒動を起こし、その隙に宮中に攻めるっつーことやったらしいで?」

 

 霞の言葉に自然と木槍を握る手に力が篭るのを感じた。

 

「標的は霊帝と何進、妹二人も誘拐対象に入ってたみたいでな……まあそれは事前に食い止める形になったんや、そこは安心してもええで」

 

 あえて余裕を演出しているのか、張り詰めた空気を緩めようとしたのか、彼女は小さく微笑んだ。

 

「うちはこれから洛陽市中を見張る、何進にはもう伝えた。んで秘密裏に一網打尽にしてやる計画も立てとる――でもまあ事が事やから紫にだけは伝えておこうと思ったんよ」

 

 私は静かに深呼吸をし、頭の中の情報を整理する。

 とりあえず大それたことを行おうとしている輩が居ることはわかった。

 それなら警備の数は増やすべきか。

 しかし秘密裏に動くとなれば、派手に動くのは避けた方が無難か。

 結局のところ、心構えしかできないのだろう、と結論付ける。

 

「なるべく出番がないようにするけど、もしもの時は頼んだで?」

 

 言いながら霞に肩を叩かれる。

 

「職務を全うします」

 

 彼女の期待に私は短く返した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

洛陽動乱・上     -漢王朝・太平道

▼馬元義:起家(ちーちゃ)
 太平道創設メンバーの一人、実質的に太平道を纏めている人物。
▼張遼文遠:(しあ)
 執金吾、洛陽を外敵から守り、治安の維持する役割。
▼李儒文優:博美(ひろみ)
 徐晃の補佐役。


 私、(しあ)は今、気分が最悪だった。

 黄巾党の企てを事前に防ぐことができた達成感も、目の前の少女と同じ空気を吸っているというだけで霧散する。

 彼女の名前は李儒文優。無敵将軍と持て囃される徐晃の副官であり、此度の騒動を発覚から解決に至るまでを手引きした人物でもある。今は用意した茶を物静かに啜っており、ほっと一息、熱のこもった吐息を口から零している。

「結構な点前で」と私を見て微笑みかけてくる姿は、育ちの良い町娘にしか見えない。背中を隠すほどに長い黒髪は確かに美しかったが、その容姿は特別に美しいという程ではない。大通りの人混みに紛れれば、そのまま埋もれてしまいそうだった。なにかしらの才覚に恵まれた者は何処にいても一際目立つ輝きのようなものを持っているのだが、それが彼女にはない。

 徹底して彼女は普通だった。茶を啜る仕草は繊細で丁寧なものであったが、あまりにも隙だらけで拍子抜けするほどだ。毒でも仕込まれていたらどうするつもりなのか、事細かに観察する私の視線にすら気付いていない様子である。世間知らずのお嬢様、と例えるのが妥当な気もするが、それもまた違うような気がする。少なくとも洛陽では長生きできない類の人間であると私の本能が察していた。

 だが私は知っている、彼女は悍ましいなにかを心の内に宿している。

 彼女が行う拷問は発想が常人のものではなかった。通常、素人が行う拷問というのは肉体的な痛みを与えるか、何かしらの弱みを握って脅しをかけるというものだ。それを人間としての尊厳を剥ぎ取り、直接、心を狙い撃つような責め苦なんてのは常人では想像すらできない。

 虫も殺せないような顔で、顔色一つ変えずに人間一人を壊せる彼女は同じ人間だとは思いたくなかった。

 

 そんな彼女が私に用事があるとは何事か。

 顔を見るだけでも嫌なのに、こうして対面に座って話をするなんて御免被りたかった。それができないのは私が洛陽を守る執金吾であり、彼女が私を誘う時に「まだ事件は終わっていません」と告げたのが全てだった。洛陽を守った功労者に、そんな話をされては無視する訳にもいかない。嫌々ながらに私は李儒を屋敷へと上がらせると、最低限のもてなしとして茶を一杯ご馳走してやった。

 彼女は音を立てずに茶を机に置くと、真っ直ぐな瞳で私を見つめてくる。

 

「張文遠様、今夜が勝負です」

 

 穢れを知らないような純粋な瞳で殊勝なことを口にする彼女ことが正直、気持ちが悪い。

 自己保身と私利私欲に走った人間を私は嫌という程に知っている、それこそ吐き気が催すほどにだ。どす黒く染まった性根は目に現れる、無意識下で取られた細かな仕草に現れる。

 しかし彼女は何処からどう見ても、清廉実直な人間にしか見えないのだ。

 悪鬼と罵られても仕方ない所業をしておきながら、彼女には負い目がない。なぜ、どうして、そこまで自分の生き方に自信が持てるのか分からない。

 彼女は底なしに歪すぎた。

 

「黄巾党……いえ、黄巾賊の他に黒山賊も関わっていることが分かりました。恐らく彼らは近い内に洛陽から撤収すると思いますが、そのために何処かで一度、全体意思を統一するための会合が開かれるはずなんです」

 

 とはいえ彼女が有能であることを私は知っている。

 彼女が漢王朝、もしくは洛陽に弓を引くような人物であれば、この場で捕らえていたが――残念ながら彼女の言動は今時、珍しい程に漢王朝の忠臣として働いている。それがまた彼女の胡散臭さを醸し出しているのだが、彼女が漢王朝の忠臣である以上、私は執金吾として話を聞かない訳にはいかない。

 個人的な私情を排して、これも仕事だと割り切って耳を傾ける。

 

「あの商家の主人は――結構、重要な立場にあったようでして会合場所の絞り込みを終えています」

 

 世間話でもするかのように涼しい顔で淡々と告げる。

 

「これから昼間の内に主要な場所を襲撃します。これはまあ相手も予測していると思いますので目ぼしい成果は得られないでしょう。そもそも、この前に手に入れた機密書類にも書かれている場所ですしね。本命は黒山賊、黄巾党との関わりが遠いとされる施設――あるみたいですよ、幾つか。あっさりと吐いてくれました」

 

 黒山賊、洛陽北部に潜んでいる賊徒であり、その数は数万にも及ぶと言われている。

 ただ彼らの性質は単なる賊徒であって、漢王朝に直接、弓を引くような存在という訳ではなかった。村や町に攻め込んで、思う存分に略奪をする生粋の賊集団なのだ。

 何がどうやって、黄巾党と手を組む流れになったのかまでは分からない。

 

「太平道――黄巾党の前身組織であるみたいです。以前より深く根付いていたようでして、探すのに苦労しました……というよりも私の力では見つけられなかったですね、あの旦那様には感謝してもし足りないくらいです」

 

 そう言って少女は微笑んでみせた。

 

 

 昨日、洛陽の拠点が一つ、襲撃を受けた。

 そこは元々黒山軍が密売するのに使っていた商家であり、今回は黄巾党と黒山軍が連携するために用意された情報交換の場でもあった。此度の私達が実行しようとしていた“大火大乱の計”に関する書類も隠してあったはずで、洛陽で乱を起こす時に使う予定だった装備も纏めて置いてある。襲撃を受けた時に火の手があったという話も聞かないので、おそらく機密書類は処分しきれないまま漢王朝の手に渡ってしまったはずである。

 事実、今日、昼間の内に黄巾党と黒山軍と繋がりの強い施設が片っ端から襲撃を受けた。

 まだ太平道と関わり深い施設の襲撃がないことから、恐らく商家の主人はまだ口を割っていない――いや、しかし、それも時間の問題だろうか。明日にはもう洛陽から出なくてはならない、できることならば今夜中にもだ。既に太平道は洛陽から撤収する準備を始めており、準備ができ次第、各自で洛陽から出るように指示を出してある。

 私が此処に残っているのは、黒山軍との繋がりを保つためだ。

 

「馬元義、やってくれたな?」

 

 待ち人が来た、隔たれた扉を屈んで潜り抜けるほどの大男。

 黒山軍頭領、張牛角。本来、今回の会合は“大火大乱の計”を決行する日時を合わせるためのもので、黒山軍が冀州にある廮陶を攻め込んでいる隙を狙って、黄巾党が洛陽で火を放つという計画があった。お互いがお互いを囮にする提案は張牛角に受け入れられて、昨日まで滞りなく話が進んで、あとは実行するだけの段階まで来ていた。

 次に風が強く吹いた日、それを待つだけだったのに――昨日のことで全ての計略が水泡に帰した。

 

「やってくれたのは、そちらも同じだ。洛陽にある黄巾党の拠点が全部潰れたぞ、此処も同じで長くは持たない」

 

 黄巾党、黒山軍の繋がりからは辿り着けない場所ではあるが、それを告げる必要はない。

 それに太平道は完全に洛陽から撤収するつもりなので、長くないのは嘘ではない。まだ最も血が流れない革命案が使えなくなっただけだ。黒山軍との連携を取ることができれば、喉元に刀の切っ先を突きつけている状況を続けることができる。黒山軍に漢王朝の主力を抑えてもらっている間に各地を民衆の手で腐敗した政治から解放することができれば――洛陽を孤立させることが可能だ。

 そのためにも黒山軍には恩を売っておく必要がある、ここで頭領の張牛角を見捨てる訳にはいかなかった。

 

「大火大乱の計、準備だけは済ませてある。これから半刻後に火を放つように指示を出してある、その騒動に紛れて洛陽を離れる腹積もりだよ。まあ火を放つ為に用意していた道具の大半は奪われてしまったし、計画書も奪われたからいまいち効果も落ちるが、まあ人目を引く程度のことはできるだろう――どうだ、私と共に逃げるか? 道案内くらいはしてやるよ」

 

 本来であれば、洛陽にある重要拠点や象徴的な建造物を燃やす予定だった。

 それが望めない今、燃え広がりそうな場所を選んでいる。

 幾らか民衆にも被害が及ぶだろうが――この際だ、仕方ない。目を瞑る他になかった。

 

「チッ、いけすかねぇな。貸しとは思わねぇぜ」

「恩を着せるつもりはない、これでお互いの禍根はないものとしてくれれば十分だ」

 

 よし、これで良い。後は火の手が上がるのを――

 

「執金吾、張文遠ッ! 御用改めるでぇッ!!」

 

 階下から聞こえてくる威勢の良い声、次いで悲鳴に上がり、刃を交える甲高い金属音が鳴り響いた。

 張牛角が凄まじい形相で私のことを睨みつけていたが、今はそんなことを気にしてはいられなかった。

 なぜ、どうして、漢軍が此処に来るのだ。

 

 床が抜けて、奈落の底にまで落ちていくような感覚に襲われた。

 

 いや、まだだ、まだ底は抜けていない。

 此処はまだ奈落の底にしか辿り着いていないではないか、まだ希望の光は残されている。空を見上げれば星が見える、私自身が助からずとも希望はあった。常に最悪を想定してきた、そして最悪を回避する手段は講じてある。何のために私は行動を早めたのだ、こういう時のためではないか。

 革命は成し遂げる、立直(波才)達を守りきる。両方成し遂げるための準備が私にはある。

 

 

 李儒が当たりを付けたのは三箇所だ。

 枡屋と池田屋、そして四国屋。確率が高いと見られていたのは枡屋であったが、この三択を聞いた時に彼女は「あー、洛陽動乱。そう来ます?」と呆れたように呟いて、私には池田屋へと向かうように言い付ける。

 理由を問えば、「験担ぎ、ですかね?」と彼女は自信なさげに答えるのだった。

 

 本来であれば捨て置くべき戯言、しかし頼りない彼女の表情とは裏腹に何かしらの根拠が感じ取れた。

 それは彼女自身、信頼しきれないものだったに違いない。だが今までの彼女の功績を考慮すると、無下にしても良いとは思えなかった。今夜、用意できた警邏は五十名だけだ。逃走する時に火を放つかもしれない、という李儒の助言に従って洛陽各地に警邏を配置してあるので、会合を襲撃するのに使える人員は極端に少ない。それでも三拠点を制圧するには充分か、精鋭を揃えたが万全とは言い難い。

 そもそも今回、会合が開かれるという話も謂わば、李儒の勘によるものであって根拠らしい根拠はなかった。

 

 ――いや、だからこそ李儒に全てを委ねてみるのも悪くないんや。

 

 此度の動乱、発覚してから解決に至るまで、その全てを指揮したのは李儒だ。

 それで此処まで上手くいっている。最後の三択まで絞り込んだのも李儒であり、それならば最後の選択、後始末まで李儒に任せてしまうのが道理ではないか。最後の最後で私が選択を決めてしまうのは、今まで上手くいっていた流れを歪めてしまうような気がした。それに事件の全容が掴めていない私よりも李儒の方が適切な判断を下せる気がする。

 こうなってくるともう理屈なんかなかった。

 

「二部隊二十名で枡屋と四国屋に行きい、残りはうちと池田屋にカチ込みやーッ!」

 

 私が声を上げると総勢五十名が気勢を上げた。

 拠点一つを包囲制圧するのに二十名も居れば充分、そして私がいれば残り半分でも充分に事足りる。

 これから先の選択は李儒に委ねよう、その上で私が補佐をすれば良い。

 

「李儒、おまんはうちと一緒に()いや」

「えっいや、私はその……戦えませんよ?」

「守ったるから気にせんでええ」

 

 うちの背中は洛陽で最も安全な場所なんやで、と私が胸を張ってみせると李儒がクスリと楽しそうに笑ってみせた。

 

「それは間違いです。だって最も安全なのは春風(徐晃)の背中ですから」

 

 そう告げる李儒の顔は優しくて、その声色はとても柔らかい。

 冗談じみた口調でありながら、その眼は信じて疑わないといった様子で私のことを見つめてくる。

 どうしてだろうか。その時、徐晃のことが少し、本当に少しだけ羨ましく感じてしまった。

 

「……しゃーないな、ここは無敗将軍の顔を立てておこうやないか」

 

 後頭部を掻きながら笑って誤魔化した。

 李儒が素朴な少女に感じたのは気のせいだったのか、その時だけ綺麗に見えてしまったのはどうしてか。彼女の薄皮一枚に隠された本性を思えば、気の迷いにしか思えない。ただなんとなしにやる気が漲ってきた。今この時に限り、彼女の力になりたいと思うのは悪いことではない。

 今は彼女が言う、黄巾党の会合を潰すのが目的だ。

 

「それじゃあ急いで行くでぇ! 振り落とされんなや!!」

「あっ、ちょっと……あわわっ! ひゃあっ!」

「よっしゃあ、うちに続きやーッ!!」

 

 李儒の手を引いて、背中に担ぎ上げる。

 想像以上に軽い体に弱すぎる力、小さくない胸が背中に密着するのを確認してから私は駆け出した。キャッと可愛い悲鳴が上がり、ギュッと体を抱き締められる。

 その感触に私は更に速度を上げた。

 

「張文遠様!? ちょ、張ぶ、ぶん……文遠さんッ! 文遠様ってば! 速い、速いッ! 後ろ追いついてませんってばーっ!!」

 

 今は張り切りたくて仕方ない。

 徐晃よりも、という思いがなかったとは言い切れなかった。

 

 凡そ四半刻(三十分)後、私の部隊は池田屋の付近に集合する。

 その中でも比較的速やかに移動した私達は十分も経たない内に辿り着いており、私の背中に担がれていた李儒の顔色は悪い。つい先程まで適当な家屋の裏で吐いていたところで、今も足取りが覚束ない様子であった。そんな彼女は服の袖で口元を拭いながら「春風の方が絶対に安全でした」と私のことを上目遣いで睨みつけながら吐き捨てる。

 いやまあ少しは反省している、それ以上に弱った彼女を見るのが楽しかった。

 

 頰が緩むのを隠しきれずにいると、ふんだ、と李儒は頰を膨らませて拗ねてしまった。

 なんだか頭がおかしなことになっている。目の前の悪鬼が可愛い生命体のように感じるだなんて、気の迷いとしか思えない。そして虐めるのが楽しいだなんてイかれているとしか思えない。なんとなしに膨らんだ頰を突いてやると特に彼女は抵抗せずに恨めしげに私のことを見つめ返すだけだ。この可愛い生命体はなんだ、誰だ。徐晃の屋敷で見た時とは、まるで別人ではないか。

 妙に柔らかくて弾力のある頰の感触が癖になって、ツンツンと何度も指先で突いてやった。

 

「張文遠様のことが嫌いになりました」

 

 歯を食い縛りながら負け惜しみのように告げる李儒が、なんとも愛くるしくて仕方ない。

 最後に頭をくしゃくしゃっと掻き乱して、池田屋の方に意識を向ける。ここが当たりか外れか、まだ分からない。どうやって攻め入るべきか考えあぐねていると、「裏を固めてから正面突破で構いません」と李儒が不機嫌そうに髪を整えながら告げる。

 

「どうせ黄巾党の前身組織です。他と同様に潰すんですから遠慮なんていりません、張文遠様の武を期待していますよ」

 

 それもそうか、と私は部下の半分に裏手を固めるように指示を出した。

 そして愛用の偃月刀を片手に握り締めて、池田屋の玄関戸を思いっきり蹴飛ばしてやる。木板の砕ける音、少し遅れて中から悲鳴が上がった。

 こんな時に一度で良いから、言ってみたかった台詞がある。

 

「執金吾、張文遠ッ! 御用改めるでぇッ!!」

 

 格好良く決めた私はドヤ顔で後ろを振り返ると「遼来来! 遼来来!」と跳んではしゃぐ李儒の姿が目に入って「よっしゃあ!」と気合を入れ直した。

 今この瞬間は李儒の本性がどうだったかなんて考えない、今一時だけは屋敷で見た出来事を忘れてやる。

 こんな可愛い声援を受けて、応えない方が嘘というものだ。

 

 

 張遼、執金吾として漢王朝に仕える武術の達人だ。

 その腕前は無敗将軍と謳われる徐晃にも負けず劣らず、洛陽を守る二枚看板の内一人。真正面から相手にするのは分が悪い、逃げるか。逃げないとしても策を弄する必要がある。そもそも相手は何人で来ている、二十人は見積もっておくべきか。

 今この場に居るのは彼の部下、四人を合わせて計六人。逃げるにも戦力が足りていない。

 

「しゃらくせぇッ! 行くぞ、馬元義ィッ!」

 

 黒山軍の頭領、張牛角が大剣を片手に立ち上がる。おい、まさか真正面から抜けるつもりじゃあるまいな。

 

「馬鹿言うんじゃねえ! 此処が見つかったってことは数十人の規模で包囲されているはずだ、俺とお前で包囲を突破するんだよッ!」

 

 彼の言う通り、それが最も勝算の高い道であった。

 無論、互いが互いに裏切らないという前提の話、お互いを囮に使った方が遥かに勝算がある。

 逡巡する、裏切るべきか否か。

 ここまで進退窮まっては形振り構わずに生き残るのが最善というものではないのか。

 思考する、その数秒が致命的な遅れとなった。

 

「うらあっ!!」

 

 豪快な衝撃音と共に部屋の扉が消し飛んだ。

 否、粉々に砕け散った。

 蹴破るというのであれば、まだ理解できる。

 しかし、どれだけの力で蹴れば、扉が砕けるというのか。

 

 飛散する木片の奥には、外套を羽織り、胸に晒しを巻いただけという肌の露出の高い変態女が立っていた。

 鋭い眼光、余裕のある笑み。自らの武に絶対の自負を持った佇まい。その片手に持った偃月刀が血に濡れているのを見て、目の前の露出狂の女が張遼であると理解した――同時にこいつはやばい、と直感する。体内に充実させた彼女の気が、まるで質量を帯びたかのように私の体を圧してくる。気の密度が桁違いだ、ここまでの化け物だとは聞いていない。

 咄嗟に私は片手剣を抜いて身構える。

 

 思考しろ、思考を止めるな。

 身体能力の違いが勝敗の決定的な要因ではないように、気の総量がそのまま勝敗に繋がるわけではない。

 恐れるのは良い、だが臆するな。

 

「舐めるなぁッ!!」

 

 横にいた張牛角が気勢を高める。

 彼とて英傑の一人、幾万人を抱える黒山軍を己が武によって纏め上げた逸材だ。

 高めた気の総量は張遼に勝るとも劣らず、これならばいけるか?

 

「消し飛――――!」

 

 瞬間、剣筋が閃いた。

 叫びながら一歩、踏み込んだ彼の頭だけが吹き飛んだ。

 気付くべきだった、張遼の体があまりにも綺麗すぎることに疑問を抱くべきだった。偃月刀が血で濡れているにも関わらず、彼女が返り血一つ浴びていない事実に気付くべきだった。

 首から上が失われた彼の胴体から血が吹き出して、そのまま前のめりに彼の体が床に倒れ落ちる。

 その洗練された武技を見切ることは敵わない。

 

「次はあんたやで?」

 

 そんな彼の姿に一瞥すらせずに、張遼は真っ赤に染め上げた刃の切っ先を私に向ける。

 戦慄した、ぶるりと体が震えた。全身の肌が粟立った。

 世の中には不可能と言われたことを不可能なまま、可能にする嘘のような人間が存在している。

 

「偃月刀の錆になりぃや」

 

 正しく彼女は、そういった類の人間だった。

 

「……やってやるよ」

 

 だからといって、ここで諦めるわけにはいかないのだ。

 必敗の予感がある、勝てる相手じゃないと全身が訴える。経験が奴に勝つことを諦めている。

 外は包囲されているはずだ、万に一つの勝機もない。

 ならば億が一つの勝機を見出すまでだ。

 

「大賢良師……」

 

 この絶体絶命の窮地において、私の心を支えるのは革命に対する強い意志ではない。

 私の脳裏に思い浮かんだのは立直(波才)の笑顔、次いで家事手伝いをしてくれる(程遠志)平和(張曼成)の可愛らしい姿だった。

 こんなことをしておいて身勝手だと分かっているが、それでも三人を守りたい。

 その成長を今後も見守り続けたいと思っていた。

 

 何時からだ、何時から私は変わってしまったのだろうか。

 いや、何も変わっていない。私は立直(りーち)(ちー)平和(ぴんふ)が幸せに暮らせる未来を願うようになっただけだ。そのために私は命を燃やし尽くすと決めたのだ。革命を願う気持ちに変化はない、あの三人のような子供が生まれない世の中を作ると決めたのだ!

 思い浮かべるのは三人と過ごした日常――――

 

「……大賢良師、張角様! 万歳ッ!!」

 

 ――口から出したのは身代わりの名前だ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

洛陽動乱・下     -漢王朝・太平道

▼張曼成:平和(ぴんふ)
 太平道創設メンバーの一人、黄巾党幹部。
▼馬元義:起家(ちーちゃ)
 太平道創設メンバーの一人、実質的に太平道を纏めている人物。
▼張遼文遠:(しあ)
 執金吾、洛陽を外敵から守り、治安の維持する役割。
▼李儒文優:博美(ひろみ)
 徐晃の補佐役。


 私は幼い頃、ずっとお腹が空いていた記憶だけがある。

 もう顔も思い出せない産みの親、食べさせてやるものがないと家から追い出された。

 道を宛てなく歩き続ける。その足取りは思っていたよりも軽い、たぶん当時はまだ実感がなかったんだと思っている。歩き続けている内に体が重たくなっていって、でもお腹が空いていたから食べ物が欲しくて彷徨い歩いた。次第に太陽が落ちて、眠り、また昇り、そしてもう一度、太陽が落ちる頃合いで私は力尽きてしまった。

 このまま眠ってしまえば、もう二度と目を開けられない気がした。でも、眠っている時はお腹が空かないから、お腹が空くのはとても辛いことだから、もう眠ってしまっても良いかなって、ゆっくりと瞼を閉じた。

 あとは眠るだけだったのに、つんつん、と誰かが私の頰を指でつついて邪魔をする。

 

「……てる? おーい、おねえちゃん。おきてるの?」

 

 薄っすらと目を開けると、そこには巫女装束を着た幼子が私の顔を覗き込んできていた。

 

「おー、おきてた! ちーちゃ、おきてたよ!」

 

 嬉しそうな声を上げながら、幼子はトタトタと何処かへ走って行った。

 騒がしいのが離れて、静かになって、もう一度、眠ろうとしたら、あの騒がしい幼子が誰かの手を引いて戻ってくる。

 親子だろうか、いや、なんとなしに血が繋がっていないように思えた。

 

「……この子を助けると、立直(りーち)の食べるご飯が減るが構わないのか?」

 

 幼子が連れてきた大人の女が、私のことを見下ろしながら幼子に問いかける。

 お腹が減るのはとても辛いことだ。だから仕方ない。私はもう空腹は嫌だったから、このまま眠らせて欲しかった。

 幼子は腕を組んで、うーん、と渋い顔で悩むと「わっかんない!」と笑顔で答えた。

 

「ごはんは一人だとおいしくないけど、二人だとおいしかった! それが三人だったら、きっともっとおいしいよ!」

 

 向日葵のように明るく咲き誇った笑顔に、大人の女はクスっと失笑する。

 首を傾げる幼子に、分かった、負けたよ、と女は私を担ぎ上げた。

 

 生きている、と私が実感をするようになったのはそれからだったと思っている。

 正直なところ太平道の考えなんて、ほとんど理解していない。起家(ちーちゃ)は私のことを覚えが悪い生徒だと思っているようだが、そうではない。道教とは究極的に宇宙の真理を追求する思想であると理解しているが、そんなところで手に入れられる真理に私は興味はなかったんだ。

 私はもう既に真理を得ている。必要なのは温かい御飯、それを仲良く分けて食べられる家族。それが全て、それこそが私の得た真理だ。起家(馬元義)立直(波才)(程遠志)――そして私、平和(張曼成)の四人家族。私達に血の繋がりはないけども、私達は紛れもない家族であり、四人で食卓を囲むとそれだけで幸せになれる。

 革命に興味もない、ただ私は家族を守れれば良かった。

 

 高望みはしない、今でも充分に幸せだ。

 人間一人、できることなんて高が知れている。特に私のような凡愚には世直しなんて過ぎた話だ。私の幸せは一握りで良い、一握りの幸せを守るために私は全身全霊を投じる。それでも手が届かずに失われるかも知れない、少なくとも個人の幸せというのは凡人にとっては守りきるだけでも大変なことだ。

 だからこそ人一人を守ることは偉大なことだ。いや、偉大でなくてはならないと思っている。

 

 私は弱い、氣の扱いも苦手だった。

 取り柄らしい取り柄もなく、英雄、英傑と呼ばれる人種と比べれば全てにおいて劣っている。

 きっと両手で届く距離が私が守れるかもしれない範囲だ。

 

 だから私は守るべき相手を決めている。

 

 それ以上はもう祈るだけだ、無事を願って天に祈りを捧げる。

 そんなことに意味がないと分かっているが、それでも無事を願わずにはいられない。

 幸せを包み込むように両手を合わせて、願いを込める。

 

「どうか、無事でありますように……」

 

 私達を置いて勝手に洛陽に向かった馬鹿親に向けて――こんなことだから私は何時まで経っても太平道の教えを理解することができない。

 流れ星が落ちる、ふと天の御使いの噂を思い出した。

 神は願いを叶えてくれない、たとえ願いを聞いてくれたとしても神は見守るだけだ。神頼みは幼い頃から腐る程やっていて、神は何もしてくれないことを嫌という程に思い知られている。それでも懲りず、祈ることをやめることはできなかった。

 しかし、もしかすると天の御使いであれば、願いを聞き届けてくれることもあるだろうか。

 

 意味がないと分かっていながら、今日も今日とて祈りを捧げる。

 また再び四人で出会えることを願って――――

 

 

 池田屋の二階にある一室、ここは既に死地だと認識する。

 

「……大賢良師、張角様! 万歳ッ!!」

 

 その上で私、起家(ちーちゃ)は姿勢を低くして駆け出した。

 相手は張遼、一目見るだけでも分かる格上に臆する気持ちを飲み込んで特攻を仕掛ける。勝機を見出すには攻めるしかない、守って勝てるのは格下が相手の時だけだ。片手剣を両手に握り締める――ゆっくりと偃月刀を振り上げる張遼の姿を見て、咄嗟に片手剣を盾にしながら真横に飛んだ。

 刃と刃がかち合って火花が散る。

 軌道を逸らすことには成功し、何処でも良いから当たってくれと片手剣を突き出した――ガッと切っ先が弾かれる。偃月刀の柄に小さな窪み、振り抜いた偃月刀の刀身を戻さず、そのまま柄の角度を変えることで防がれたようだ。

 化け物め、と胸中で悪態を吐き捨てながら、片手剣の取り回しの良さを活かした連撃を繰り出した。四方八方から襲いかかる斬撃にも張遼は偃月刀を小刻みに動かしながら、その全てを叩き落とす。器用なことをしてくれるものだ――ならば、と張遼との間合いを詰めた。

 偃月刀という大物使いが相手であれば、接近した方が分があると見込んでの行動だった。

 

「しゃらくさいわッ!」

 

 柄の先、石突で額を小突かれる。

 突撃の勢いを削がれて、浮いた上半身に偃月刀の刃が襲い掛かった。一歩、後ろに退いたことで前髪だけが――ドロッと赤い液体が右目を覆い尽くした。痛みは薄い、が、しかし致命的な傷を負ってしまった。薄皮一枚分、避けきれずに額を斬られてしまったようである。

 二歩、三歩と距離を取る。服の袖で血を拭い取るも右目は暫く使い物になりそうにない、これでは接近戦も難しそうだ。

 

「行くで、行くでぇッ!!」

 

 考える時間も与えてくれない。

 踏み込みながら放たれる偃月刀の連撃を、片手剣を盾代わりに勘と経験で軌道を読んで防いだ。しかし重い、一撃が体の芯にまで響いてくる。三度、防いだ頃には握力が残っておらず、四度目は左腕に片手剣を添えて受け止めた。そのせいで左腕が一時的に使い物にならなくなって、五度目を防ぐ時に右腕一本で防ごうとして、片手剣が弾かれて手元から離れる。

 六度目は胴を狙った横薙ぎ、痺れた両腕をだらりと下げた姿勢から――偃月刀の刃の根元を目掛けて蹴りを入れる。

 足先からジンと骨まで伝わる衝撃、合わせられるかどうかは賭けだった。しかし受け止めることができた。ほうっ、と張遼が感心するように吐息を零したのを見て、痺れる足で無理矢理に偃月刀の刀身を踏み躙るように床へと叩きつけた。刃が床に食い込む、そのまま偃月刀を踏み締めながら、もう片方の足で張遼の横っ面を目掛けて蹴りを入れる。

 改心の一撃、手応えはあった――が、畜生ッ! 間に合わなかった!

 

「やるやないか!」

 

 顔の横に添えるように置かれた片腕、蹴りを受け止められてしまっている。

 張遼は封じられた偃月刀を手放すと一歩、踏み込んで、鼻先に拳で殴られる衝撃が入った。鮮血が飛ぶ、顔が浮いた。足先が当たりそうになる程の至近距離まで張遼が更に踏み込み、同時に振り被った右拳が私の顔に陥没する。体が飛んだ、意識が真っ白になった。気付いたら倒れていた、全身が痛い。頭は残っているのか、まだ痺れの抜けない右手で顔に触れると、確かに頭は胴体に付いていた。

 鼻は完全に砕けている。呼吸がしづらい、口内に血が逆流してくる。

 

 ――生きている、まだ私は生きているッ!

 

 動け、動くんだ。動かなくちゃ死ぬ、殺される。

 勝てるのか、立ってどうする。立ったところで何もできない。そんなのはどうでも良い、今、立たなかったら死ぬのだ。動け、動くんだ。死ぬ、駄目だ。死んでしまう、諦めてどうする!? あの場所に帰るんだろッ!! 立て、立てッ! 立て、立つんだ! 立つんだ、起家(馬元義)ッ! 立つしかないんだッ!!

 立直(波才)! (程遠志)! 平和(張曼成)ッ!! 私は、帰るぞ。三人の元に帰るんだッ!!

 

「……根性あるやん」

 

 立った、どうやら立てたようだ。

 だが、これからどうする。もう意識が朦朧としている、全身に軋むような痛みが走る。頭がズキズキと痛んでいる。

 もう思うように力が入らない。こんな時、どうすれば良い。

 

「一思いにやったる」

 

 張遼が床に刺さった偃月刀を抜き取る。

 その間、私は一歩も動けなかった。

 立っているだけで精一杯、立っているだけでも体が揺れている。

 気を抜くと、また倒れてしまいそうだった。

 こんな時、何をすれば良い。

 

「安心し、うちに痛めつける趣味はない」

 

 相手は格上で、私は格下だから。

 ああ、そうか。

 攻めるしかないのか。

 

 張遼が偃月刀を頭上に振り被った時、私は一歩、前に倒れ込むように大きく踏み込んだ。

 眼前には張遼の顔がある。額を擦り付けるギリギリの距離、ここからどうすれば良い? なにかしようと張遼の顔に向けて、手を翳すと彼女はビクリと身を強張らせて、肩で私の体を押しのけてきた。踏ん張りの利かない体では耐えられず、後ろに数歩下がってから横に体が逸れた――瞬間、私の顔のすぐ横を鋭い一撃が振り落とされる。

 右腕を何かが擦り抜ける感覚、そのまま床に叩きつけられた偃月刀の一撃は――私諸共、階下まで床をぶち破った。落ちる体、瓦礫と一緒に地面に叩きつけられる。

 もう起きられるだけの力がない、体から力が抜けている。意識が朦朧としているせいか、右腕の肘から先の感覚が失われている。

 

「……ッ! ――ぅっぷ!」

 

 そして見知らぬ黒髪の少女が両手で口元を抑えるのを最期の光景として、意識が途絶える。

 

 

 力加減を誤った。

 動けないと決めつけていた、限界だと勝手に思い込んでしまった。

 もう立っているだけでも精一杯だったはずだ。そんな相手に不意を突かれた挙句、鼻先まで触れ合う距離まで詰め寄られて、視界を覆い隠すように翳された手に怯えた。そのせいで力加減を誤り、全力で振り落とした偃月刀の一撃は二階の床ごとぶち抜いてしまった。

 そのまま瓦礫と一緒に落ちた私はまともに受け身も取れずに背中から落っこちる。

 

「いたたた……格好付かへんなぁ」

 

 敵意や殺意を感じられないので敵は倒し切ったはずだ、久々の実戦に小さく息を零す。

 結局のところ池田屋にいた連中は私の敵ではなかった。最後の一人だけは根性を持っていたが、それ以上に特別な何かを持っていた印象はない。これならば宦官の(蹇碩)の方がずっと強い、というよりも彼女の場合は柔軟な動きができないだけで腕前自体は私や徐晃の足元程度には匹敵する。

 崩れ落ちる中でも決して手放さなかった偃月刀を杖代わりに立ち上がり、そして先程まで戦っていた女が倒れる横で少女が蹲っているのが目に入った。

 

「李儒ッ!?」

 

 池田屋に突入した後、流石に危ないからと外で待機して貰っていたはずの李儒が池田屋の中にいた。そして崩れた瓦礫で怪我を負ったとか、先ほど倒した敵の側にいるのは危険だとか、諸々の不安や心配を吹っ飛ばして、李儒の様子が異様だったことに意識が向かった。

 

「……吐いとるんか?」

 

 彼女が吐いているのは池田屋に突入する前にも見ていた。

 しかし死体を前に胃液を吐く彼女の姿はあまりにも異様過ぎる。いやだって考えてみろ、屋敷であれだけの拷問をする女が高々死体を見ただけで吐くとか、どう理解しろというのだ。いや彼女の前で倒れている敵はまだ息絶えていないようだ。まだ生きている奴を見て、李儒は吐いているのか。

 いや、そうじゃない。李儒は戦えない、まだ生きている敵の側に置くのは危険だ。

 

「危ないで、李儒」

「ああ、これはこれは張文遠様ではありませんか。お目苦しいところを見せしました、もう大丈夫です」

 

 そう言うと彼女はまだ青褪めた顔で口元を拭い、無理をしていると分かる笑顔で平静を装った。

 

「……どき、嫌なものを見ることになるで」

「ええ、大丈夫です。この程度のことは慣れなくてはいけません」

 

 李儒はとりあえず女の側から離れると、近くにあった肉片を見つけて身を強張らせる。

 

「ひぅっ! い、いえ、違います。私は、慣れなくては……うっ、ぷ、ぅぅっ……ぅぇぇ…………」

 

 そしてまた吐いた。もう胃液も出し尽くしてしまったのか半分程度が唾液になっている。

 本当ならば直ぐにでも、この場から離れさせるべきなのだろうが、どうしても気になることがあった。

 

「……死体、初めて見たんか?」

「猫なら一応、車……馬車に轢かれているのを、あとは葬式。村が壊滅した時も、確認しに行って逃げ出して……殺された死体を、直視するのは初めてで……昔から苦手なんです、死体を見るのは……恥ずかしながら…………」

 

 今時、死体の一つや二つ、その辺りに転がっているご時世だ。

 それを今まで見たことがないとか、どれだけ箱入り娘として育てられてきたのだろうか。

 彼女から感じられる異物感、今まで感じていた違和感の正体がこれか。

 

「なんで、そこまで無理をするんや」

 

 問いかけると彼女は力なく笑って答える。

 

「私は守りたいんです。私の居場所と私の愛する人を……その為ならば私は手段を選びません、何もしないでいると奪われる。ここはあまりにも残酷な世界ですから……」

 

 今にも消えてしまいそうな儚い笑顔、その姿は悍ましい程に美しかった。

 そして、その想いを向けられる相手が徐晃であることに、嫉妬してしまっている私がいる。絶世の美女と呼ばれる存在は知っている、それは霊帝の寵愛を受ける何太后のことだ。振る舞う仕草一つが絵になり、息を吸うだけで魅惑的で挑発的、周囲の視線を釘付けにする。

 しかし傾国の美女というのであれば、きっと彼女のような存在なのだろうと思った。

 

「……(しあ)や」

 

 気付けば、口にしていた。

 

「今、なんと?」

「霞と言ったんや。うちの真名を預けたる」

 

 一方的に真名を押しつける。

 それは李儒のことを信頼したというよりも、もっと李儒のことを知りたいという気持ちの方が強い。

 驚きに染まった顔が、にへらと締まりのない笑顔に変わった瞬間、胸の鼓動が高鳴った。

 

 徐晃は何処まで李儒のことを知っているのだろうか。

 私が知らない李儒を知る彼女のことが、今は途方もなく羨ましく感じる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間幕・かぜかおるひび -徐晃公明

 私の名前は香風(しゃんふー)、数ヶ月前から屋敷に同居人ができた。

 お金は有り余る程にあるので生活費とかの心配は必要ない。というよりも、お金の使い道がいまいち分からない。休日もまともに与えられなかったから賊退治に練兵と使う機会もなかった。そんな訳で貯金だけが積み重なり、今では一財産を築く程度にはなってしまっている。

 そんな私が財布を持っていても無用の長物になるのは火を見るよりも明らかで、そうなるくらいならと同居人である博美(李儒)に財布を握らせた。最初の頃は当面の生活費だけであったが、今ではもう屋敷の家計は全て博美(ひろみ)に任せてしまっている。

 盗まれたら盗まれたらで構わない、その時は漢王朝に居座る理由がなくなるだけの話だ。

 

 そう考えていたのだが、実のところ博美を迎え入れてから私の生活水準は随分と向上していた。

 何時も御飯は出来合いのものを購入して、屋敷で一人、少し冷たくなった食事を摂りながら書類の処理と整理に没入する。それが今では朝晩と温かい料理を用意してくれる、書類仕事も手伝ってくれているし、掃除に洗濯もしてくれるから屋敷での生活が随分と快適になった。

 なによりも独りで暮らしていた時よりも、今の方が楽しい。

 最近では調練や賊退治を終えて屋敷に戻るのが楽しみになっている。早く切り上げたくて、つい張り切ってしまうこともしばしばある程だ。遠征の時には念入りに計画を組むことも増えている、無論、手っ取り早く賊を対峙してしまうために。

 次の休日が楽しみで仕方なかった。

 

 博美(ひろみ)は意外と行動的だ。

 遊び下手な私の代わりに休日の予定を組み立ててくれる、この前なんて服屋に行って色んな衣服を買って帰ることもあった。

 その時に着せ替え人形のように扱われたりもしたが、帰りに美味しい甘味が食べられる処にも足を運んだ。演劇や歌謡に興じることだってある。今まで洛陽に住んでいたにも関わらず、洛陽にも良いところがあったんだなって今更になって思い知らされることが多い。博美と出会ってから毎日のように新しい発見がある、というよりも今では博美の方が洛陽のことが詳しいのだろう。

 新しいものを見つける度に、あちこちへと走り回る彼女の姿は見ているだけでも微笑ましくて見ていて飽きない。

 何よりも彼女と一緒にいるのは楽しかった。

 

 幸せってなにか分からない毎日を歩んできたけども、こういうのが幸せなのかなって最近になって思うようになった。

 

 そんなこんなで今日も今日とて部隊の調練に励み、ちょっと良い汗を流した程度で屋敷に戻る。

 調練場にいる兵達は皆、その場にだらしなく座り込んでしまったけども、それは私の気にするところではなかった。

 

 何時もよりも早くに調練を切り上げた私は屋敷の前で、自分の衣服の臭いを嗅いだ。

 汗臭くなってたりしないだろうか、今日はお風呂に入る日じゃないから臭かったら嫌だな、とかそんなことを考える。独り身の時は意識をしていなかったことだけど、同居人ができてから妙に気になるようになってしまった。博美はいつも良い匂いがしている。前に理由を聞いてみたこともあるが、石鹸の香りじゃないでしょうか? と軽くあしらわれた。お風呂の時に同じ石鹸を使っているのを見たことがあるので、それだけが原因じゃないことは知っている。

 確か、石鹸は御手製だったはずだ。博美の石鹸は香りも良いし、肌触りも良かったのでお気に入り。事のついでに体も博美に洗って貰って、湯船に浸かったら背中から抱き締めて貰いながら、うつらうつらと眠るまでが一連の流れになる。程よい大きさの胸が頭を置くのに丁度良かった。胸には大きい小さいに拘る人も多いけど、適度な大きさと柔らかさが大事だとシャンは考える。

 そういえば博美は何かしら作っていることが多い。石鹸であったり、料理であったり、それが彼女の良い匂いへと繋がっているのかもしれない。

 

 まあ何時までも臭いのことを気にしていてもしかたない。

 あとで濡れた手拭いで体を拭けば良いだけのこと、そう思い直して屋敷に上がり込んだ。

 

「ただいま」

 

 何時ものように控えめな声を上げてみるが、何時も屋敷の奥から早足で出迎えてくれる同居人の姿が見当たらない。

 なにか作業でもしているのだろうか、しかし料理を作っているにしては匂いもしなかった。今日は何処かに出かける予定もないと聞いている。

 不思議に思って、片っ端から部屋を確認していくと寝室で同居人の姿を見つけた。

 

「んー……すぅ……」

 

 とても気持ちよさそうに眠っている。

 床に敷かれた布団に包まって、規則正しい寝息と共に胸が僅かに上下させる。そのあまりの無防備な姿に微笑ましさよりも不安を感じた。

 今の洛陽はお世辞にも治安が良いとは言い難い。流石に私の家に侵入(はい)り込んでくる不届き者はいないと思うが、それでも絶対という訳ではない。此処に立っているのが私だから良いが、もしも無礼な輩であったならばどうするつもりだったのか。私なら力で追い払えても、氣を使えない彼女は町娘と大差ない力しか持っていない。

 まあ、それはあとで言い聞かせるとして、そんなことも許せないことがあった。

 

 博美が今使っている布団は私が知らないものだ。

 つまり新しい布団を勝手に購入したことになる――シャンに相談もなく、勝手に。屋敷にある寝台は一つ、いつも一緒に寝ていたのに不満があったのだろうか。

 これはもうお仕置きも含めて、本人に懲りて貰うためにも悪戯するしかない。

 

 息を凝らして忍び寄り、もぞりもぞりと彼女の眠る布団の中に潜り込んだ。

 まだ新しいはずなのに中はもう博美の匂いでいっぱいだった。そのまま彼女のことを起こさないように気を付けながら博美の体を抱き締める。布擦れの音に怯えながら少しずつ体を密着させて彼女の温もりを肌で感じる。彼女の体に鼻を押し付けながら目を閉じると、不思議と心が落ち着いて、そのまま少しずつ意識が遠のいていくのを感じ取る。

 悪戯心はすっかりと鳴りを潜めてしまって、少し高鳴る胸の鼓動の中、心地良い安心感に包まれながら私は眠りに落ちる。

 

 

 夢の中でも博美(ひろみ)と出会った。

 いつもと同じ柔らかな笑顔、なぜかこの時の博美は裸だった。

 一糸纏わぬ姿は見慣れたものであるはずで、しかし白い靄がかかったような視界の中、半ば朦朧とする頭では思うように思考が働いてくれなかった。

 博美が両手を拡げて私を誘ったので、私も彼女の胸に迎え入れられるように飛び込んだ。彼女の温もりを感じていたくて、もっと彼女のことを感じていたいと彼女の華奢な腕を手に取って肌と肌を強く擦り付ける。少し力を籠めると簡単に折れてしまいそうな細い腰を手に回して抱き寄せる。

 決して大きくない胸は肌を合わせるのに最適で、今一時だけ、お互いの胸が大きくないことに感謝する。それでも感じる適度な膨らみに顔を埋めて、大きく深呼吸をすると肺の中から彼女のことを強く感じることができた。

 んっ、思わず抱き締める腕に力が籠った。

 苦しそうに身動ぎする博美の脚をシャンの脚で絡め取り、私を押しのけようとした悪い腕は手首を掴んで抑え込んだ。何時の間にか押し倒す姿勢、私の体の下にあるのは幼い体の私よりもずっと大きな体、私よりもずっと成熟しているはずの博美が真っ赤な顔で歯を食い縛る姿に思わず生唾を飲み込んだ。まるで捕食をしているような気分だと思った。

 私は唾液の溜まった口を大きく開いて、ゆっくりと彼女の胸に唇を落として――――

 

 

「ああ、もうこんな時間! 香風が帰る前に食事を……って、香風ッ!?」

 

 博美の声に目が醒める。

 なんだかとても気持ちがいい夢を見ていた気がする。

 思い出そうとして、思い浮かべるのは目の前にいる博美の顔で――それで、それから、ぼふんと途端に顔が熱くなった。

 とてもいけない夢を見てしまっていた、恥ずかしくなって彼女の体を抱く寄せて顔を隠した。どうしてあんな夢を見てしまったのか分からない。屋敷に帰ってくる前よりも体は汗だくで、前髪は寝汗で額にくっついて気持ち悪い。胸の鼓動が早くなっている、強く高鳴ってうるさいくらいだ。心配そうに私を見つめる博美の気配を感じるけども、顔を上げられそうにない。顔を埋めている胸元は乱れてしまっており、少し頑張ればいけないところまで見えてしまいそうだった。

 大丈夫? と問いかけてくる彼女に、大丈夫、と私は私にとって珍しく即答する。

 ただ、今体を離されると、きっと耳まで赤くなった顔を見られてしまうので、ギュッと彼女の服を掴んで離すことができない。あんな夢を見てしまったせいか意識してしまっている。寝汗で薄っすらと濡れた肌は勿論、その熱を帯びた空気を口や鼻に感じるだけでも胸が疼いた。頭がくらくらする、体が熱い、心が熱い。頭がのぼせている。もう衣服なんて脱いでしまいたい。そして脱がせてみたい、あの後の続きが気になって、衝動的に押し倒したくなる気持ちをぐっと堪える。

 このままだと酔う、博美に酔ってしまって、酔い潰れる。彼女の匂いを嗅いでいるだけでも、頭の中が可笑しくなる。ぐじゅる、ぐじゅると脳が侵食されている。

 駄目だ、こんなんのはおかしい、必死に自分を律する。

 くしゃりと頭を撫でられた。

 

「凄い汗、うわっ折角買った布団も汗の匂いが染み込んじゃってる」

 

 私に抱き締められながら掛け布団を両手に持って、スンスンと臭いを嗅いでみせる。

 私の臭いを嗅がれている――そう思うと、理性が揺さぶられる程に体が熱くなった。

 

「……襲われる、から、昼寝はやめて」

 

 くらりとする頭で訴える。

 誤魔化すつもりの言葉、誤魔化そうと思ったのは彼女か、私か、よく分からない。

 でも口にして思ったけど、もし彼女に手を出そうという輩が居たらきっと手加減をできない。

 博美はもう私のものだ、誰にも渡すつもりはない。

 おかしいな、おかしい気がする。

 

「そうですね。つい試し寝をしている内にうつらうつらと……」

 

 いまいち危機感を感じられない様子で博美が笑ってみせる。

 やっぱり襲ってしまおうか、襲わないと彼女は分かってくれないかもしれない。

 そう思ってしまうことが、やっぱりおかしくて、ぶんぶんと強く顔を横に振った。

 

「……この布団、どうしたの?」

 

 話題を逸らす意味合いも込めて問いかける。

 いつも一緒に寝ているのに、一緒に寝ると心地よくて深く眠れるのに、私の安眠が約束されるのに、どうして急に布団なんかを仕入れたのか。

 理由は分からないでもないが、それを私に相談もせずに布団を手に入れたことが許せなかった。

 

「今までずっと同じベッド……寝台で寝ていたじゃないですか。なので迷惑かなと思って、買っちゃいました。これで窮屈な思いをする必要もなくなりますよ」

 

 それは分かっている。どうしてここまで苛立ちを感じてしまっているのか自分でも分からない。

 

「必要ない」

 

 と私は博美の体から離れて、寝台に置いてあった布団を持ち上げて、窓からポイしてやった。

 

「これで良い」

 

 ちょっとした満足感、「ああ、汚れます!」と狼狽える博美を無視して、新しい布団を寝台に敷いた。

 それから寝台の上で横になって、ポンポンと布団を叩いて彼女を誘ってみる。

 

「……一緒に、寝よ?」

「その前に体を拭きましょう、その体だと風邪をひいちゃいますよ。ちゃんと布団も片付けます、ああもう汚れが残らなきゃ良いのですけども……一緒に寝たいのであれば言ってくれるだけで良かったのに……」

 

 ぶつくさと不満を口にしながら桶に水を汲んできますと部屋を出て行った。

 部屋に取り残される。独り残されて、急に気分が冷める。そして胸が疼いて、とても寂しく感じた。

 やっぱり、おかしい。恋とか、愛とか、そういうものではなくて……でも落ち着かない、頭がおかしくなっている。

 まだ彼女の匂いが残る布団を両手に抱えて、顔を埋めて思いっきり息を吸い込んだ。

 そうすると少しだけ気分が落ち着いて、胸が満たされて、頭の中が蕩けてしまいそうで、でももっと匂いが欲しくて仕方なくなる。

 当たり前のことだが彼女自身の方が匂いが強くて、この程度では満足しきれない。

 博美からは良い匂いがする。

 

 これは……うん、手遅れ。

 絶対に誰にも博美を渡すことはできない。

 他の人のためにも、私のためにも。

 

 お腹の下が疼き、太腿をこすり合せると、にちゃりと粘着質な水音がした。

 なんだろうと思って、股下に手を伸ばすとズボン越しでも分かるほどに濡れてしまった股間部にサアッと血の気が引いた。

 その直後に水を張った桶を持った博美が部屋に入ってくる。

 

「さあ、脱いでください」

 

 それは死刑宣告に近い、公開処刑の宣言とも取れる。死神はこんなに良い顔で笑って人を殺すのかと思った。

 

「あ、いや……ちょっと……」

「何時もお風呂で見せ合ってるじゃないですか、今更恥ずかしがることなんてありませんよ!」

 

 急かされるまま何も動けずにいると、仕方ないといった様子で彼女の方から衣服を脱がしてくる。

 いつも風呂に入る時に面倒臭いからと、そして彼女に洗ってもらうのは心地よかったからと、体を洗わせてきたツケが今になって回ってきた。何時もさせていることもあって手際よく衣服を脱がされる。

 そして、ころんと布団の上に転がされた後、下半身に手を伸ばされた。

 

「あらー……これは、まあ……えっと、年頃ですし?」

 

 気の毒そうな、少し楽しそうな声が聞こえる。

 死にたい――人はきっと羞恥で死ねるのだと、この時は本気で信じることができた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾の乱       -漢王朝

▼蹇碩:(づぅ)
 霊帝の近衛隊隊長。
▼張遼文遠:(しあ)
 執金吾、洛陽を外敵から守り、治安の維持する役割。
▼李儒文優:博美(ひろみ)
 徐晃の補佐役。


 馬元義の思惑が張遼と李儒の手によって打ち破られた頃合い、

 朝廷では黄巾を頭に巻いた賊徒が、中黄太乙を合言葉に押し寄せていた。

 その数は五十名。洛陽に入った太平道は五百名ということを鑑みれば、その数は激減しているが彼らも本気で朝廷に攻め入る訳ではない。むしろ今後の布石のためだった。目的の一つは馬元義と同胞が無事に洛陽から逃げ出すための囮としての役割、そして、その散り際には「大賢良師、張角様! 万歳!」と叫ぶことにある。

 彼らは高々五十の兵に過ぎないが、心身共に太平道に捧げている。そして忠誠を誓う相手は馬元義と――太平道の巫女、波才。命を投げ打つことも厭わないのは、医師に不治との宣告を受ける重い病を患っていた時、未来なき暗闇の中で絶望していた時に救いの手を差し伸べてくれたのが波才であったためだ。その両手は正に神の所業、御身は神の化身。既に失った命、今まで預けられていた命を波才に返すだけに過ぎない。いや生き長らえた時間で得られた幸福や楽しい日々を思い返せば、感謝以外の言葉が出てこない。波才の力になれるのであれば仮初の命を捧げることに躊躇はない。

 むしろ馬元義は、万言を以てしても表現しきれない恩義を返すための(機会)を与えてくれたのだ。

 

 つまるところ此度の動乱の首謀者を張角三姉妹に仕立て上げる。そして黄巾党を丸ごと乱に放り込んで、その舵取りを太平道が行う。

 以上が何進、霊帝の暗殺に失敗した時のために馬元義が用意した策である。

 

 あくまでも太平道、強いては波才を表に出さない理由は革命が失敗した時のことを考えてのことだった。

 黄巾党と太平道が潰えたとしても波才だけは生き残ることができる。太平道の過半数以上は波才に命を救われた者達だ。黄巾党が張角三姉妹の信者で構成されているというのであれば、太平道の過半数は波才に対する忠誠心で成り立っている。無論、革命のために太平道に所属している者も中には居るが、彼らも波才に対して好意的な感情を持っているのだ。

 太平道という組織は良くも悪くも波才が中心で回っている。であればこそ彼女は太平道の巫女と呼ばれ慕われている。

 あくまでも馬元義は纏め役に過ぎなかった。

 

 革命が失敗した時のための策に全力を費やしている時点で馬元義の革命は失敗していたとも云えるのだが――さておき、大火大乱の計が失敗した以上は次善の策に出なくてはならない。

 精鋭五十の犠牲を以て、黄巾党五十万の民兵が手に入ると思えば実行しない手はない。是即(これすなわ)ち黄巾大乱の計と名付ける。

 それに何度も繰り返すが、我が身の犠牲を以て波才の命を助けることができるのであれば、彼らにとってこれ以上の誉れはない。

 

 故に彼らは唱える、中黄太乙。

 その名を呼ぶことが許されないのであれば、

 せめてものと思い込めて彼らは、中黄太乙、と何度も繰り返した。

 中黄太乙、中黄太乙、中黄太乙……祈りを唱えるように、規則正しい足取りで朝廷に攻め入る。

 今から向かうは死地などという生温い場所ではない、死に場所だ。

 今となっては何進も霊帝も討つ意味がなかった。

 

 ただ守るための戦い、守るためだけに彼らは勝ち目の消えた戦場に赴くのだ。

 

 

 私は蹇碩(けんせき)、真名は(づぅ)

 今は近衛兵の一人として、漢王朝の現皇帝である霊帝の近衛隊を務める者だ。

 

 (張遼)の忠告を受けてからできる限り、私自身が霊帝の警護を勤めるようにしている。

 十常侍の趙忠はさておき、霊帝の寵愛を受ける何太后はなにか勘付いている様子ではあったが今のところは見逃されている。そんなこんなで今は霊帝の散歩に付き合うために中庭へと足を運んでおり、霊帝と趙忠を背中に八名の間者と対峙しているところである。

 警備体制はしっかりと敷いていたつもりではあったのだが、いやはや、相手は手練れではあったようで中庭までまんまと侵入されてしまった。

 これは後で頸が飛ぶかな、と思いながら支給品の槍を手に持ち直す。

 

 体内の氣を充実させて、襲いかかってくる敵の攻撃を霊帝と趙忠の方に向かないように気を付けながら対処する。

 まあ宮中の警備は近衛隊である私の役割ではない、むしろ宮中の警備は執金吾である(しあ)の領分。後で叱責を受けることになるのは違いない。政治闘争に興味はないが――私の数少ない友人、あまりにも酷い処罰を受けるようであれば、助けてやりたいと思うのが人情だ。

 二人同時に攻めてくる敵の膝を斬り、そのまま喉元と眉間に槍を突き立てる。振り回す槍、穂先に付いた鮮血が飛んだ。

 そもそも霞は宮中で大人しくしているような人柄ではない。野を駆けるのが彼女の領分であるが故に、むしろ執金吾から校尉辺りに降格処分を受ける方が彼女は喜ぶかもしれない。ただそうなると私の手合わせをしてくれる相手が居なくなる、というよりも霞と会う機会が減るのは単純に寂しかった。

 頸を飛ばして、胸元を突いた。隙を突いて霊帝に襲いかかる者も居たが、背中から突き殺すことで事なきを得る。

 

「大賢良師、張角様! 万歳!」

 

 捨て身で斬りかかってくる敵も気合だけは充分にあったが、私を倒すには鍛錬が足りていない。

 そもそも気合と根性だけで相手を倒せるならば苦労はない。

 防御に徹する相手の剣を力でこじ開けて、そのまま胸元、心臓を貫いてやった。

 

 残った相手も苦労することなく、あっさりと八名の死体を築き上げる。

 錆にならないように槍の穂先に付着した血を懐紙で拭い取る――この程度であれば霞一人を相手にする方が遥かに手強い。少し物足りないと感じながら、はて何かを忘れているようなと辺りを見渡した。

 怯えた様子で霊帝に立つ趙忠、霊帝自身は呆然としている。

 

「……其奴らは朕の命を狙っていたの?」

 

 問われて、「おそらく」と端的に答える。

 

「それで其奴らは何者なの?」

「大賢良師と呼んでいたので、黄巾党に所属する者ではないかと思われます」

「コウキントウ? 美味しそうな名前ね」

 

 そう告げる帝は驚くほどに落ち着いていた。

 いや驚いてはいるのだろうが、このような事態にあっても帝は穏やかだった。浮いている、俗世から隔絶した雰囲気すら感じさせる。これが天子の風格と呼ばれるものなのだろうか。なぜ、帝が天子と呼ばれるのか理解できた気がする。確かにこれは天上の存在、天の国から降りてきたと言われても不思議ではなかった。

 私は自然と膝を突いて、臣下の礼を取る。帝を前にして、そうあるのが自然だと思えた。

 

「其方は強いのね。名前はなんというの?」

「蹇碩、真名は(づぅ)と申します」

「そう、紫ね。これからも期待しているわ」

 

 御意、と端的に告げる。

 

「ねえ、(趙忠)。これから朕はどうすれば良いのかしら?」

「賊徒をここまで侵入させた者……警備の担当者に責任を取ってもらわないといけません」

「そうね、次はこんなことがなければいいのだけど……」

 

 やっぱりこうなるのか、と内心で溜息を零しながら口を開いた。

 

「恐れながら申し上げますが、今、執金吾の任に就いている張遼という者は間諜には向かぬ者……とはいえ武芸と部隊指揮の腕前は洛陽でも随一、彼女を執金吾に封じたまま誰かしらの補佐を付けるのが宜しいかと思います。此度の失態に対しては、彼女は今、洛陽で起きる大乱を未然に防ぐために動いているところです。今暫く待てば、必ずや彼女は功績を携えて朝廷に戻ってきます。その功績を以て此度の咎を許すのが宜しいかと」

 

 張遼を外に出したくないのは私個人の我儘だ、気心の知れた相手がいなくなるのは避けたかった。

 

「……長い、(ふぁん)?」

 

 霊帝はまだ顔色の悪い趙忠を見つめる。

 

「……張遼については此度の咎を許すにしても、補佐を付けるにしても、何かしらの手を打たないとなりませんね。黄巾党には勅を出して、朝敵として討伐するのが宜しいかと。これは何進に任せましょう。大将軍なのですから、それぐらいの役には立って頂かないと」

「勅の内容は黄に任せるわ、後で玉璽の用意もしといてね」

 

 全て黄と傾に任せる、と告げる帝の声はあまりにも穏やかだった。

 

 

 謁見の間にて、近衛兵として霊帝の隣に控える。

 何時もは何進が立つ位置であったが「紫、今日はここにいなさい」と帝の方が言い付けたのだ。

 歯噛みする何進を無視して、私は私の務めを果たすために直立する。

 

「それで、どうすればいいと思うの?」

 

 霊帝の言葉に何進は腕を組み、趙忠は頰に人差し指を当てて渋い顔を見せる。

 今日まで霊帝が政治に興味を持つことはほとんどなかった。そのほとんどが何進と趙忠から話を聞いて、その意見に従うばかりで自分から意見を問うこともして来なかった。それが今日、実際に襲われたせいか、霊帝の方から周りに意見を求めている。

 何時もは下々のことは下々の者に任せればいい、と諌める何太后も実際に被害が出ているのだから口を開けずにいた。

 

 今、謁見の間にいるのは、何進と趙忠、何太后、

 

「勅まで出すなら黄巾族を討伐するための軍を編成して、地方の刺史に協力を仰ぐしかないだろう」

 

 皇甫嵩と近衛兵が数名、そして――――、

 

「………………」

 

 (張遼)と李儒がこの場に居て、黙っている。

 

「必要なのは軍を率いる将になるが……何進、当てはあるのか?」

 

 霊帝と同じく政治に興味のない私はこの場にいる者を改めて見直してみる。

 

「……先ずはお前だ、皇甫嵩。他は朱儁……あと盧植も呼び戻しておけ。これで三軍を編成できる、賊相手には充分だろう」

 

 霊帝、趙忠、何進、何太后、皇甫嵩、この五人の内の全員の胸が大きかった。

 溜息を零したり、何かを発する度にプルンプルンと乳房が揺れる。思わず自分の控えめな胸を見つめた、いや人並み程度にはあるのだが彼女達を見ていると人並みが貧乳のように思えて仕方ない。(しあ)も胸が大きいが、しかし、この巨乳達の前では見劣りする。唯一の癒し要素は李儒であり、彼女は人並みよりも少し小さいくらいであった。

 霊帝と霞を除き、漢巨乳四天王とでも名付けておこうか。帝は天子だ、天の胸の持ち主であるために他と比べてはならない。

 天を試してはならず、その胸もまた然り。

 

「それで洛陽を誰が守る……涼州の董卓を呼び出した方が良い。遠征軍が三つ、そして洛陽の守備隊兼予備隊として一人、控えさせれば良い」

「ふむ、それで予備戦力は用意してた方が、いざという時に対処できるか……よし、そのようにしよう。空丹(くぅたん)様もそれで構いませんでしょうか?」

 

 空丹というのは霊帝の真名だ。彼女は少し退屈そうにしながら、任せる、と端的に告げた。

 

「では、そのように。おい、そこの……えっと」

「李儒です」

「李儒。朱儁と盧植、それに董卓に招集の報せを出しておけ」

「……何進様の名前を使っても構いませんか?」

「ん? 構わん」

 

 御意、と李儒が恭しく頭を下げる。

 

「黒山賊への対処には……出せるのは呂布か徐晃だが、より遊撃に慣れているのは各地で転戦している呂布だな」

 

 皇甫嵩の言葉に「そうだな」と何進が頷き返す。

 

「呂布を向かわせる予定だ。人中の呂布と謳われるほどの武芸を思う存分に振るってもらおうじゃないか」

 

 人中の呂布――官職は騎都尉。洛陽周辺を守る徐晃とは違い、洛陽の外に打って出る武官だ。

 その戦績は未だ負け知らず、その常に勝利し続ける姿から巷で常勝将軍と呼ばれることもあるらしい。洛陽での知名度は徐晃よりも低いが、洛陽から離れれば離れるほどに呂布の知名度が徐晃を上回ると聞いている。

 個人の武芸だけを鑑みれば、呂布の腕前は徐晃、霞を遥かに超えるという噂もある。

 

「それと李儒、張遼、黄巾賊の思惑を未然に防いだことと首謀者を討ち取った功績は大きい。しかし張遼は宮中に賊を侵入された罪は重い、此度の功績を以て相殺とする。もっと励め」

 

 御意、とかすみが頭を下げたのを確認した何進は李儒の方を向いた。

 

「そして李儒、お前には張遼の補佐に付いてもらう」

 

 李儒の体がピクリと動く、そして僅かに口元が緩んだのを見つける。

 その後、無表情を装った彼女は再び、御意、と短く告げた。それ以後、会議はめぼしい話もしないまま恙なく進み、解散する。

 廊下で声を霞に声をかけようとしたが、李儒と楽しそうに話している姿を見て、今日は控えることにした。

 

 

 生きている、体は縄で全身拘束されていた。

 此処は何処だろうか――周囲を見渡すも闇の中、誰か他にも居るようだが呻くような声を発するだけで会話にならなかった。

 どうしようもない、このまま暫く待ち続ける他に手はない。

 

 幾ら過ぎたか、途中で寝てしまっていたかもしれない。

 心が削られるような環境の中、ギィっと何かが軋む音と共に誰かが部屋にはいってきた。

 手に持っているのは燭台か、小さな明かりも眩しくて半目になる。

 

「……よかった、目が醒めていたのですね」

 

 部屋に入ってきたのは女性か、まだ眩しくて輪郭しかわからない。

 

「貴方が此度の首謀者……で違いありませんでしょうか? ……いえ、待ってください。貴方の名前を当ててみせましょう」

 

 そう言うと彼女は人差し指を顎に口元に当てて、考え込む素振りをみせる。

 

「馬元義……さん、で合ってますか?」

 

 驚きに目を見開き、いや、しかしと考え直した。私の名前は波才と違って隠してきたわけではない。

 漸く目が慣れてきた。燭台の光に照らされた女は一見すると町娘のように思える。まだ闇に染まりきっていない素朴さ、それが此処にいるという歪さが気持ち悪かった。そして彼女は私に近寄る訳でもなく、先程から呻いている誰か……四肢を畳むように縛られている。膝と肘には布が巻かれており、中には綿が詰められているかんじではあるが、他に衣服は着せられておらず、頭には犬耳、お尻からは尻尾が生えていた。首には首輪が付けられている。女が彼女の頭を撫でると「きゅうん、きゅうん」と媚びるような声を出して、その手に頰を擦り寄せる。

 それを女がうっとりとした顔で見つめていた。

 

「ちょっとやり過ぎてしまいまして……彼女を人間に戻すことができなくなったのですよ。それで可愛がっていたら、こんな有様に……お尻の尻尾は、緩くなってしまったので垂れ流さないように栓をしてるだけです。他意はありません……いえ、まあ尻尾と犬耳は趣味ですけど、似合っているでしょう?」

 

 ハッハッハッと舌を出して涎を垂らす少女に「はしたないでしょ」と女が可愛らしく叱りつける。

 その光景は、異常だった。

 全身から嫌な汗が滲んだ、そして今気付いたことだが私の衣服は脱がされている。

 

「馬元義さん、貴方には一度、死んで貰います。そして来世は奴隷と家畜、どちらが良いでしょうか?」

 

 女は少女を連れて歩くと、その少女の顔を私の股間に近付けさせる。彼女の荒い息が肌に触れる。

 

「彼女にはまともな食事の与え方をしていなかったので、口から食事を摂る喜びに目覚めちゃったんですよ。しょっぱいのとか好きで自分の汗をよく舐めたりとかしてるんですよ?」

 

 なんだ、その……なんだか、とても悍ましい言葉が清純そうな女の口から発せられた気がする。

 少女の鼻が私の股間部に触れる、待て、と女が告げると少女は、くぅん、と切なそうな声を出して落ち込んだ。

 

「黄巾党の悲願――とまでは言いませんが、私であれば今の漢王朝を潰すことに協力できます。少なくとも腐敗した漢王朝の内部を一掃することはできると予言しましょう。その後で構わないので貴方には私に協力して欲しいのですよ、今の私には裏の事情に詳しい人が欠けています」

 

 彼女が何を言っているのか理解できない、いや理解はできるが――彼女が何者なのか、何故そのようなことを言うのか理解ができない。今の状況が非現実的すぎて思考もまともに定まらなかった。

 

「……強情ですね、まあ良いです。じっくりと調教もするつもりでしたので」

 

 思考が纏まらずに答えあぐねていると女は残念そうに溜息を吐いた。

 

「本業の方からすれば生温いかもしれませんが、そこはご容赦して頂けると嬉しいです」

 

 言いながら女は少女の頭を撫でると「ぽんちゃん、良し」と送り出すように背中を軽く叩き、その言葉にピチャリと太腿に冷たいものが這った。

 

「私は家主のために料理の仕込みを始めなくてはいけませんので申し訳ありませんが……貴方の相手は彼女と云うことで。彼女、甘えん坊さんだから仲良くしてあげてください」

 

 女はなんとなしに嬉しそうな顔で背中を向けると「ああ、そうそう」と世間話をするような軽さで歩きながら語り出した。

 

「これから全土を捲き込むことになる黄巾の乱、つまり貴方達の反乱は一年も経たずに終息しますよ。漢王朝も無能ではありませんし各地の英傑もいます。動乱の先駆けにはなりますが世の中を変えるまでには至りませんね、貴方達のしたことは地方軍閥の助長を促しただけだったんですよ」

 

 ギィッと軋む音と共に扉が開かれて、半歩、部屋から出たところで私を見やり、彼女はにんまりとした笑みを浮かべる。

 

「所謂、咬ませ犬という奴です。まるで今の貴方のようにですね」

 

 彼女は甘えん坊なんですよ、と最後に繰り返して、パタンと部屋の扉が閉じられる。

 何一つ見えない暗闇の中、私の股下に顔を寄せる女性の息が荒く、肌に涎が垂らされる

 

 延々と粘着質な水音が立てられる。

 時折、甘く咬まれる刺激に出したくもない嬌声が部屋に響き渡る。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間幕・三顧の礼    -徐晃公明

香風(徐晃)、私は近々(しあ)さん……いえ、張遼さんのところで働くことになりました」

 

 唐突な同居人の言葉に私は最初、理解ができなくて言葉に詰まった。

 明日からの段取りを嬉々として話し始める博美(李儒)。そんな彼女を見ていると、そうじゃないと分かっていても頭に過ぎる疑念がある。彼女が笑顔で語る内容なんて頭の中に入らなくて、目頭が熱くなって手が震えてくる。「香風(しゃんふー)?」と私の異変に気付いてくれたのか、同居人に気遣うような声に少し安心する。

 それでも確認せずにはいられなかった。

 

「……シャンのこと、嫌いになった?」

「ええ!? なんでそうなるんですか!?」

 

 否定の言葉、ほっと息を吐くと目に溜め込んでいた涙がポロリと溢れた。

 

「あっ、えっ? うえっ!? しゃ、香風、私は貴方の側から離れません!」

 

 博美(ひろみ)が私の体をギュッと抱き締める。

 力いっぱいに抱き締めているつもりなのだろうけども、非力な彼女が全力を出したところで痛くもない。頑丈な体には何時も世話になっているが、一度、苦しく感じるくらいに力いっぱい抱き締められたいって思ったりする。

 でも博美(ひろみ)の体は華奢でか弱いから、割れ物を扱うように優しく抱き締め返した。

 

「うーっ、ひろみぃー―――っ!」

「きゃあん! しゃんふぅー―――っ!」

 

 叫びながら二人でガシリと抱き締め合って、ウリウリと互いを頬擦りをし合っていると、不意にガチャリと部屋の扉が開かれた。

 

「あんたら、何してんねん……部屋の外まで聞こえてるでー」

 

 呆れ顔の張遼が土産を片手に顔を出した。

 仮にも他人の屋敷なのだから勝手に入らないで欲しい、当てつけるように博美をギュッと抱き寄せると張遼が僅かに顔を顰めた。

 ……この反応、敵かな?

 

 それから張遼は居間に居座り続けており、

 呼んでもいない客人に対しても茶を用意する博美の人の良さに感心しながら、警戒心を隠すつもりもなく睨みつけて威嚇する。おおきに、と張遼は私のことに気付かないはずもないのに笑顔で博美に接している。

 この気に入らない感覚は、なんだろう。

 私と張遼が対面に座る状況、何気なく博美が私の隣に座ってくれたので私が「ふふん」とドヤ顔を決めてみせると、張遼は博美に気付かれないように小さく舌打ちする。

 こいつは敵だと確信した。

 

「それで(しあ)さん、わざわざ屋敷まで来られてどうなされたのでしょうか?」

 

 用件なんて聞かずにお茶漬けを投げつけて、追い出せばいいのにと思いながら茶を啜る。この味は普段は使わない客用の高級茶葉――じっと博美のことを見つめると、彼女は可愛らしく首を傾げるだけだった。

 

「ああ、そうやった。これからウチの補佐官になるやろ? それやったらウチの屋敷に来ればええと思ってな、その方が時間も有効活用できるやん」

 

 こいつは敵だと確定した。

 部屋の隅に立て掛けていた大斧を取りに腰を上げたところで「折角の申し出ですがお断りします」と博美は晴れやかな笑顔で告げる。心の中でグッと拳を握りしめながら、張遼の方を見ると悔しそうに私を見つめ返してきた。きっと今の私は渾身のドヤ顔をしているに違いない。

 そうして張遼と見つめ合っていると、中腰になっていた体を博美に腕を引っ張られて彼女の膝の上に座らせられる。

 

「香風がいる此処が私の帰るべき場所なんですよ。もう結構な付き合いですし……彼女と離れるくらいでしたら引っ越したくありません」

 

 同居人が照れ隠しをするように私の髪を弄りながら言った。

 髪留めを取られて、三つ編みにされたり、編み込まれたり、多彩な腕前に少し驚きつつ正面の張遼を見やってから背中越しに博美に身を擦り付ける。ふふん、どうだ羨ましいだろう。

 

「……それなら公明もウチの屋敷に来ればええ」

 

 張遼が笑顔を張り付かせて、振り絞るように告げる。

 

「それも困るんですよね……その、此処に住んでるのは私達だけではありませんので……」

 

 あはは、と乾いた笑い声に「あー……」と張遼は天井を仰ぎ見る。

 そういえば地下室の居候が二人に増えていたな、と私も若干の諦観を交えながら思った。あれって誰なんだろうか。この前、見に行くと獣耳に尻尾を付けたりしていたのが少し気になっている。ああいうのが好きなのだろうか。今度、探してみようかな。

 ともあれ間女の魔の手から無事に逃れることができた。さっさと指を咥えながら私と博美の巣から出て行け、張遼。

 

「そやったらウチが此処に引越したる」

 

 そう言うと張遼は席を立ち、「空き部屋の一つや二つくらいはあるやろ」と言いながらズカズカと屋敷の中へと上がっていった。

 ちょっと待って、不法侵入はいけない。追いかけないといけないのに……先程から私の頭や顎下を撫でてくる博美のせいで追いかけることができない。この心地良さから逃れることなんてできるはずがない。博美は呆然としながら私を弄る手を止めようとはせず、思う存分に私の体を堪能する。

 くそう、幸せすぎる。幸せに囚われた私は極楽浄土を満喫する他になかった。

 

「なあ?」

 

 程なくして居間に戻ってきた張遼が引きつった顔で問いかける。

 

「私室として使っている部屋、一つしかなかったんやけど?」

「ええ、まあ、一つしかないですね」

「寝台も屋敷に一つしかなかった気がするんはウチの見落としか?」

「ええ、まあ、一つしかないですね」

「……寝る時はどうしてるんや」

 

 張遼の追求から逃れるように顔を逸らす博美、次いで張遼が私のことを見つめてきたので素知らぬふりで口笛を吹いた。

 

「明日から此処に住むで、執金吾としての命令や」

「……職権の乱用は、ダメ」

 

 両腕で×の字を作ってみるも「地下のことを告げ口するで?」と張遼に言われて、「それは勘弁してください」と博美の方が折れてしまった。無視したところで張遼が博美のことを困らせるような真似をしないとは思うが、博美が落ちた時点で張遼を屋敷から追い出すことは不可能に近い。何故ならば、博美が縋るように私のことを見つめてくる姿を見てしまった時点で、私が彼女の願いを断りきれるはずもない。

 できることといえば、また居候が増えることに対して、不愉快そうに溜息を零すくらいなものである。

 

「今日は一緒にお風呂入りましょうねー、ご飯も腕に磨きをかけて作ります」

「ん、期待する」

 

 あからさまに機嫌を取ってくる博美に優越感を覚えながら、仕方なしといった演技で頷いてみせる。

 どうせ結果が変わらないのであれば、これくらいの役得は望んでも許されるはずだ。しかし張遼にとってはそうでなかったようで、心底羨むように私を睨みつけている。

 ざまあみさらせ。

 

「なんなら公明がウチの屋敷に住んでもええで、代わりにウチが此処に住んだるわ」

「……んー?」

 

 私は分かりやすく首を傾げながら、屋敷の隅に立て掛けてある大斧に手が伸ばした。

 しかし背中から博美に抱き締められているので届かない。

 今一時、この小さな体が恨めしい。

 

 

 居候が更に一人増えてから三日が過ぎた頃、

 引き抜かれてしまった博美(李儒)の代わりを探すために洛陽を散策している。

 とはいえ当てがなく歩き回っている訳ではなく、昨晩、博美(ひろみ)に大した期待もせず相談してみたのだ。

 すると、

 

『私の代わりですか? 心当たりがない訳ではありませんが……』

 

 と、そんな感じの返事が返ってきたので詳しく話を聞いてみた。

 其の者は幅広い知見と優れた知恵を兼ね備えているが性格に難がある。というのも宮中務めが嫌なようで、息を潜めるように暮らしているという話だ。それならば洛陽から出れば良いとおもうのだが「今の御時世、最も安全なのは洛陽市中。最も危険なのは洛陽の宮中」と言い張っているのだとか、あながち間違いでもないのがなんとも言えない。

 さておき博美が(したた)めた紹介状を片手に、彼女の教えて貰った場所に足を運んだ。

 

「……質素、かな?」

 

 名家の出身だと聞いていたが屋敷は驚く程に小さい。

 騎都尉になった時、洛陽郊外に支給された屋敷に住んでいる私よりも小さな屋敷、辺境具合では良い勝負だろうか。庭は雑草で埋め尽くされており、辛うじて玄関戸に続く道だけは生きているといった有様であった。

 本当に人が住んでいるのだろうか。そんな疑問が浮かび上がるくらいの廃れ具体、ここで立ち尽くしていても仕方ないので庭に足を踏み入れると、足首に何かが引っかかった感触と共にカランコロンという音が鳴り響いた――罠、とはいえ今直ぐなにかに襲われるといった気配はない。ただの悪戯だろうか、注意を払いながら玄関戸に近づいた。

 途中、落とし穴を一つ見つける。

 

 もしも誰かが住んでいるとすれば、余程の変わり者に違いない。

 そんなことを思いながらトントンと玄関戸を叩けば、「はいはーい」と中から声がした。ガラリと開けられた扉の先には、自分と背丈の変わらない短髪でパッと見、少年に見える顔が姿を見せる。私は博美が認めてくれた紹介状を見せると、彼は宛先人を確認するとその場で中身を読んだ。

「ははん、あいつめ……」と彼は小言を呟き、紹介状を振袖にしまって、まこと残念そうに首を横に振ってみせる。

 

「残念ながら我が主人様は病床に臥せっているためお会いできません、またのお越しをお待ちしております〜♪ またがあればのお話ですが……」

 

 そう言って、ピシャリと扉を閉じられる。

 

「……あっ」

 

 玄関前に取り残される私、もう一度、扉を叩いても返事はない。

 扉を開こうとすれば、がっしりと固定されてしまっている。中から閂が立て掛けられているように頑丈だ。

 こうなってしまっては仕方ない、また次の休日の時に出直すしかなさそうだ。

 

 更に数日後、

 無理に時間を作り、半日しかない休暇を使って、再び寂れた屋敷に訪れた。

 そこに待ち構えられていたのは、先日に訪れた時よりも巧妙な罠の数々、連携して発動する罠も多く、予想以上の大仰な仕掛けもあって、身構えなく突入してしまった私は最終的に落とし穴に引っかかってしまって泥だらけになってしまった。しかし、此処は落とし穴と呼ぶには深過ぎる。私の身長二つ分くらい、壁が脆くて昇ろうにも昇れなかった。

 それから一刻くらい文字通りに立ち往生していると、シュルリと上から縄が投げ込まれた。上を見上げると先日見た少年が穴に落ちた私を覗き込んでいる。

 

「あらら……まさか、とっておきに引っかかるとは運が悪い御人です。本来であれば一日程度は放っておくのですが……()()の御友人であられるようなので初回だけは特別です。次回は期待しないでください、懲りて貰うためのものですからね――ああ、ちなみに主人様は今日も病床に臥せっているためお会いできません。またのお越しをお待ちしております〜♪」

 

 言い切ると彼はひらひらと手を振って去ろうとした。

 待って、と呼び止める。すると彼は楽しそうな笑みを浮かべて足を止めた。

 

「初回特典、質問は三つまで受け付けますよ。ああ、それと縄には触れないように……その瞬間に逃げさせて貰います」

 

 縄から手を引いて、思い付いたことを問いかける。

 

「貴方は誰?」

「私は主人様に仕えている使用人という設定です。そうですね、名は春華(はるか)とでも名乗っておきましょうか」

 

 あからさまな偽名、どうやらまじめに答えるつもりはないようだ。

 

「……どうやったら主人に会えるの?」

「うちの主人様は上がり症でして……誰かが来る気配を察すると急に布団の中へと潜り込んじゃうんですよ。だからまあ気付かれずに屋敷まで足を運んだら会ってくれるかもしれませんねー」

 

 これも嘘……でも今、大事なのは嘘を暴くことじゃない。

 

「どうすればシャンのこと、認めてくれる?」

「……さあ、それは難しい話ですね。でもまあ私の予想を超えてくれれば、話くらいは聞いてくれると思います。まあ貴方のことです、庭を無事に切り抜ける程度のことは()()()()()()()

 

 そう言うと彼は「次はもうちょっと難易度を上げておきますね」と言い残して去っていった。

 穴から出るとそこには誰もおらず、空は赤みが差している。

 

 それから自分の屋敷に戻った時、

 泥だらけになった私の姿を見た博美は「あらあら、まあまあ」と頰に手を置いて、少し困ったような素振りを見せてからお湯を作り始めた。それから私室まで連れ込まれた私は彼女の手によって簡単に衣服を脱がされて、寝台に座らせられると「んっ」と少し熱めの手拭いを肌に当てられて声が漏れる。

 しかし博美は慣れたもので「少し我慢してくださいね」と優しく肌を撫でられる。

 

「ねえ、博美はあいつにどうやって認められたの?」

 

 彼が博美のことを真名を呼んでいたことが気になって問いかけると「よくわかりません」と博美は笑って答えた。

 

「出会いも茶屋ですよ? 私が店先で戯作を読んでたら急に(りん)が話しかけてきて、それで意気投合した感じですかねぇ……」

「……戯作?」

「いわゆる俗っぽい文章のことです。知識の糧にはなることは少ないですが、頭を空っぽにして読めば面白いですよ。私は好きですねー」

 

 話には聞くが、あまり読んだことはない。

 私にとって書籍とは知識と情報が詰め込まれたものであり、文字とは過去の知見と経験を未来に紡ぐためのものだ。というよりも分かってはいたが、博美も真名を預かっているようである。

 ……ちょっと気に入らない、いや別に博美の勝手なんだけど。

 

()()、自分の知らないことに強い興味を持っているんですよ。まるで好奇心の猫のように未知に対して引き寄せられる、戯作に興味を持ったのも零にとっては初めて見る書物だったようでして――私よりも戯作を読み込んでしまって、今ではもう別のものに興味を持ってしまったようですね。まあそれとは別に他にも色々と話し込んでいると……なんだか気に入られちゃってました」

 

 てへっと舌先を小さく出してみせる。

 なんだか色んなところで縁を紡いでいる話を聞くと、博美が私の手から離れていくような錯覚を感じる。それはきっと気のせいで、むしろ喜ばしいことなんだと理解はしている。

 ただ心が付いていくかと聞かれれば、また別の話になってくる。

 

「あんたら、本当に何もないんやんなー?」

 

 何時から覗いていたのか、それとも今来たばかりなのか張遼が部屋の扉から顔だけを出した。私は近くにあった掛け布団で肌を隠す。

 

「何もないですよ?」

 

 そう答えるのは博美で「いやいや、肌を晒すのが当たり前なわけないやろ。ほら、公明もちゃーんと肌を隠しとるで」と張遼も追及を止めようとはしない。

 

「そりゃそうですよ。香風はお年頃なんですから、まだ会って日も浅い相手だと恥ずかしいに決まってます。私だって霞相手だと恥ずかしいんですから」

「ふぅ〜ん、せやったらなんで香風ならええんや?」

「香風は家族のようなものですし、手間のかかる妹のようなものですよ」

「あっ、そうなんや。妹ね、妹……ふぅん? 良かったやないか、こんな素敵なお姉ちゃんを貰って、ちょーうらやましいわー」

 

 隠しきれないにやけ顔を見せつける張遼が酷く面白くなかったので、手元にあった枕を憎たらしい顔を目掛けて投げつけてやった。

 そのまま勝ち誇った笑みで逃げ去る張遼、この敗北感はなんだろうか。

 妹、手間がかかる、庇護対象……もうちょっとしっかりしようか、家事とか、掃除とか。

 なんだかとてもやるせない気持ちになってる。

 

 更に次の休日、

 あからさまに難易度の高くなった罠を潜り抜け、更に屋敷の中にまで侵入を果たした。

 荒れ果てた外観とは裏腹に内部は整然としており、部屋一つを古今東西の書籍で埋め尽くされている。少し前まで戯作に興味を持っていたというのも嘘ではなかったようで、軽く百冊以上が本棚にしまわれている。何処にこれだけの書物を買う資金があるのか、そして整然と片付けられた部屋とは裏腹に屋敷の主人様は書籍に埋もれながら昼寝を嗜んでいた。

 顔は何度も見たことがある。少年っぽいとは思っていたが、今、こうして女物の着物を着ている姿を見ると女性にしか見えない。少しはだけた胸元から膨らみを確認できたから女性で間違いない。博美も“彼女”と言っていたのを記憶している。

 気持ち良さそうに熟睡をする彼女、背丈は自分と同じほどか。しかし、屋敷の中とはいえ、こんな無防備な姿を晒して大丈夫なのだろうか――と思ったところで、前に似たようなことを思ったなと苦笑する。それに彼女の場合は外に罠を仕掛けているのだから用心をしていない訳ではない。

 さて、どうしようか。起こすのも悪いと思って暫く待ち続けることにした。

 幸いこの部屋には暇を潰せる書籍が山のようにある。

 

 数刻後、目を覚ました彼女は書籍に読み耽る私の姿を確認すると「まさか三回目で突破されるなんて、しかも屋敷内の罠まで看破されてるし」と驚きも数瞬、的確に状況を読み取った彼女は、参りました、と両手を挙げる。

 外聞を気にしない不貞腐れる姿からは少年っぽさを感じさせ、しかし姿勢を正して私を見据える姿は美少女と呼ぶに相応しかった。

 

「徐騎都尉、三度に渡って貴方を試すような真似をして申し訳ありませんでした」

 

 彼女は深々と頭を下げると重々しく口を開いた。

 

「姓は司馬、名は懿。字は仲達。度重なる無礼を払拭する機会を与えていただきたい」

 

 ふと予想を上回ることをすれば話を聞いてくれるという約束はしていたのを思い出す。

 そして司馬懿と名乗った彼女はきっと自分の中の筋を通すために私の願いを聞いてくれるだけで、臣従してくれる訳ではないということも読み取れる。

 きっと義理を果たせば、簡単に私の手から離れてしまう。だから私は手を差し伸べる。

 

「シャンの屋敷で、一緒に暮らそ?」

「はい?」

 

 コテンと首を傾ける彼女に、私は小さく笑みを浮かべてみせる。

 今は彼女との縁を紡いでおきたい。何故なら、この子が集めていた戯作は面白くて、集めていた書籍の趣味も良い。私の手元に積み重なった書籍に気付いたのか、「良い書籍をいっぱい教えてあげるよ」と彼女は良い笑顔を浮かべてみせる。

 今更、居候が一人や二人増えたところで同じことだろう。

 

「えっ、司馬懿? 張春華じゃなくって?」

春華(はるか)は私が男装してる時に使ってる偽名ですよ」

「司馬八達の? えっ、嘘。本当に? めっちゃ可愛いですよ?」

「博美、巷の私はどのように思われているのですか?」

「ちょっと落ち着きたいから抱き締めさせて?」

 

 司馬懿を連れて帰った時、彼女の自己紹介を聞いた博美が何度も問い返していたのが印象的だった。

 あと博美の膝上で髪をわしゃわしゃされるのはシャンのものです。

 どいて、張遼。そいつ、追い出せない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

動乱編
北郷義勇隊・上    -北郷組


 拝啓、母上様。

 聖フランチェスカ学園に通学していはずの北郷(ほくごう)一刀(かずと)は今、古き中華の地にある飯屋で食事を摂っているところでございます。

 そして目の前には幾つもの皿を平らげる二人の女性、いっぱい食べる君が好き、という言葉がありますが目の前で皿を積み重ねられる姿を見るのはなかなかに凄まじいものです。というよりも今食べた食事が、その体の何処に蓄えられているのが切に気になるところ、そんな二人は話を聞く限りでは三国志の大英傑である関羽と張飛だと云うのだから驚きです。今もまだ半信半疑、張飛の字が益徳ではなくて翼徳なので史実の三国志とは別の世界ということかもしれません。

 それとも三国志の英雄が女性に変わっている世界では、日本の常識は通用しないということでしょうか。何処かの巫女さんも言っていました、常識は投げ捨てるもの、と。

 細かいことは全て、諸説有り、と投げ捨てるのが正解かもしれませんね。

 

 現実逃避は此処までにしておき、いい加減に現状把握に努めるべきだろうか。

 やけ食いをするように料理を次から次に口へと運んでいるのは関羽、背が高くて艶のある美しい黒髪のポニーテールが特徴的な女性である。その隣では気持ち良い食いっぷりで幸せそうに料理を平らげる少女の名は張飛、子供のように背が小さくて見た目通りの快活な性格、そして見た目の幼さとは裏腹にパワプルな力の持ち主でもある。

 最後に私の隣で不機嫌そうに茶を啜っているのは徐庶、俺が知る彼女の経歴を聞いてからというもの彼女はずっと機嫌を損ねたままだった。

 

「朱里と雛里は確かに一郡を治める程度の器はあると認めているが、よりにもよってこの私が一郡を治めるどころか……いや、面倒だったのは分かっている。しかし、それでもだ。私ほどの天才であれば、一国の筆頭軍師ぐらいの立場は手に入れて然るべきではないかな。なんせ私の智謀は控えめに言っても張良、呂尚と同等くらいはあるのだよ? 軍を率いてみせれば白起と同等以上の活躍をしてみせるに違いないさ! ……いや、これは私を扱えるだけの器を持った主君に出会えなかったと受け取るべきかな、もしくは私が知略を尽くしたいと思える相手に出会えなかったのか。ということは、今の世の中には私が認めるだけの主君が居なかったということになるじゃないか! まったく天下は人材不足も良いところだね、世も荒れて然るべきだよ!」

 

 そんな感じで嘯き続けている。

 徐庶(認めたくないが)を見ていて思うのは、史実で関羽が初めて諸葛亮と出会った時に彼をみとめようとしなかったのは新参者がどうこうというよりも、軍師という存在そのものに嫌気が差していたせいではないだろうか。実際、俺の目の前で憮然とした態度を取り続ける関羽を見ていると、今の説に信憑性のある気がして仕方ない。どうにも関羽と徐庶は相性が悪い、まだ張飛の方が徐庶との相性が良い気がする。それにしても曹操も史実でよくこいつを重用しようとしたものだ。いや、重用しようとしてできなかったから徐庶の経歴は閑職で終わってるのか――曹操ですらも持て余す存在なのか、こいつ。

 それはさておき彼女達の話を聞いていて、気になっていることがある。

 

「ところで、その先程から関羽が張飛のことを鈴々(りんりん)と言ったりしているのは――」

 

 ダンと机が机を叩く音がしたかと思えば、身を乗り出した関羽が手に持っていた焼き鳥の串を俺の喉仏に突き立てた。

 

「訂正しろ、今すぐに!」

 

 殺意をむき出しにして睨みつけてくる関羽に、俺はどうしたら良いのかわからずに両手を上げる。

 

「関羽、彼の反応から見るにおそらく天の国には真名という風習がなさそうだよ。そして一刀、分からないなら訂正するんだ。郷に入っては郷に従え、という言葉があるだろう? 天の国に同じ諺があるのかは分からないけど、此処は関羽の言う通りに訂正しておくのが最も穏便に事が済む。真名とは各個人が持つ絶対不可侵の聖域だと認識しろ、真名とはそういうものだ。許しもないのに真名を呼ぶのは不可侵の聖域を土足で踏み躙るようなものだよ」

 

 諱に似ているのかもしれない――相変わらず言葉は多いが、素面がふざけている徐庶が真面目な顔で言っているのだから事の重大さを理解できる。

 

「わ、わかった。訂正する、どうか許して欲しい」

「私に謝ってどうする、鈴々に謝れ」

「ああ、うん、わかった」

 

 呆然としている張飛に向き直り、俺は深く頭を下げた。

 

「張飛、ごめん。悪かった」

「……あ、うん、構わないのだ。ちょっと驚いただけなのだ」

 

 まだ少し惚けた感じで張飛が云うと「どうせ、これからは一緒に旅をする仲間なのだ。だからもう真名を預けちゃうのだ」と軽い調子で付け加えた。

 

「一緒に旅を?」

 

 関羽が思わずといった様子で問い返すと屈託ない笑顔で関羽を見返す。

 

「お兄ちゃんが天の御使いならそうなるのだ、どうせ鈴々と愛紗(あいしゃ)では世直しも手詰まりだったのだ」

「いや、しかしまだ……一刀が天の御使いだと認めたわけでは……」

 

 俺の知らないところで勝手に話を進められている横で、徐庶もまた考え込んでいるようだった。

 

「あーうん、ついでだから私も一刀君に真名を預けておくよ、でないと後世の恥になりかねない」

 

 悩みに悩んだ末に徐庶は顔を上げると「私は珠里(じゅり)だよ、よろしく」と握手を求めてきた。

 

「なっ、お前までどうしたというんだ!?」

「いやいや関雲長殿、よく考えてみるべきだと忠告するよ。脳とは考えるものであって筋肉を付ける場所ではない。彼には真名の風習がないんだよ――つまり彼が何食わぬ顔で名乗った名前が如何なるものであるのか。そして君が先程から口にしている彼の名前はなんであるのか、しっかりと考えてみるべきだね」

 

 俺が徐庶――珠里と握手を交わす傍らで、あっ、と口を開いた関羽の顔色がサッと青褪めた。

 

「真名とは各個人が持つ絶対不可侵の聖域だ、許しもなくその名を呼ぶことは不可侵の聖域を土足で踏み躙るのと同じだよ。それこそ喉仏に串を突きつけられても文句を言えない。つい先程、関雲長殿がやってみせたようにね。それをずっと彼は笑って許してくれていたんだよ?」

 

 珠里は勝ち誇った笑みを浮かべて、言葉を続ける。

 

「土下座して詫びたまえ、関雲長殿」

「いやいやいやいや! しなくても良い、良いって! されたら逆に困るからさ!」

「首を差し出すように……んー? その長髪が邪魔だなあ、切っちゃう? きっと良い値で売れるよ?」

「やめて、徐庶さん! やめてください、お願いします!」

「雲長さんのちょっと良いとこ見てみたいっ! へいっ! へいっ!」

 

 顔を真っ赤にしながら目に涙を溜めて、ぷるぷると震える関羽。食い縛った口は今にも唇を噛み切ってしまいそうで、握りしめた拳は爪が皮膚に食い込み、そのまま破ってしまいそうだった。この時代の人間はこうやって憤死するのかと納得できそうな形相である。

 

「そのあたりで勘弁して欲しいのだ、愛紗は繊細だからあんまり虐めないで欲しいのだ」

 

 呆れた様子の張飛が溜息混じりに口を挟んだ。

 

「愛紗もお兄ちゃんに真名を預けるのだ、そうすれば徐庶に意地悪されることもなくなるのだ」

「おっ、そうだな?」

「徐庶、ややこしいから黙るのだ」

 

 張飛が睨み付けると、珠里がやれやれといった様子で肩を竦めてみせる。

 

「……そうだな、私も真名を預けよう。私の真名は愛紗(あいしゃ)だ」

「鈴々は鈴々なのだ。これから仲良くして欲しいのだ」

 

 観念した様子で真名を預ける関羽――愛紗と、満面の笑顔で手を差し出してくる鈴々。

 

「やっぱ関羽と張飛の風評、逆じゃない?」

 

 と呟いたのは珠里、頼むから思っても口に出さないで欲しいと思いながら鈴々と握手を交わした。

 

 

 それから真名の交換というのを終えた俺達は今後についての話し合うことになった。

 先ず愛紗と鈴々の二人は今、世直しの旅をしているとのことだ。しかしやっていることは賊退治であることが多く、名を売れば自分達についてくる者も増えるだろうと単純に考えていたようであるが、結果はまあ今の二人を見ての通りだ。賊から奪った装備や金目の物を売ることで生計を立てる日々を送っているとのことである。そうして黄巾賊が世に蔓延るようになった今も史実のように義勇軍の発足すらできずに手を拱いているのが現状となっている。

 珠里曰く、馬鹿じゃねーの。それから一悶着があって、今度は珠里が自らの境遇を語る。

 彼女は水鏡女学院から追い出されたことを良いことに好き勝手に旅を続けていたのだが、手持ちの金銭が心許なくなってきたので何処かで腰を落ち着けて金稼ぎをしなくてはならないと考えていたところだったと云う――試しに彼女を旅の仲間として誘ってみると彼女は鼻で笑って、こんな答えを返した。

 馬鹿じゃねーの、更に一悶着があった。

 

「ああ、やだやだ、関雲長殿は気に入らないとすぐ暴力に頼るから嫌いだよ」

 

 彼女が乱れた襟元を直しており、その向かい側では「こいつは相手にすればするほど調子に乗るだけなのだ」と鈴々が息を荒くした愛紗を宥めている光景が目に入る。愛紗がポニーテールであることを含めて、気性の荒い馬を少女が抑えている風にも見えるとか言ってはいけない、思ってもいけない。

 

「要するに君達は戦力が集まらずに困っているんだろう? 黄巾賊と戦いたいだけならば貸して貰えば良いじゃないか、一騎当千と名高い関羽と張飛の武名があれば、ぞんざいに扱われることもそうないさ。それとも自分が認めた主君でなければ、戦うこともできないのかい?」

「そ、そんなことは……」

「なんならば、そこにいる一刀君を主君に仰ぐという手もある。何処ぞ誰かに使えるのが嫌ならば、彼の陪臣として仕えるのも悪くはないだろうさ」

 

 珠里は面倒臭そうに鞄から地図を取り出すと「紙は持ってるのかい?」と愛紗と鈴々を見やるが、二人が互いを見つめ合ったのを確認して彼女は深い溜息を零す。

 

「これは貸しにしておくよ、親しき仲にも礼儀ありだ。紙だって安くないし、地図は結構高値で売れるからね」

 

 彼女はまっさらな紙を新たに取り出し、俺に筆と墨の入った小壺を手渡してきた。

 

「はい、さっさと模写してね。これは街道を書き記した地図だよ、細かい地形までは書き写さないでね。これだって立派な商売道具、ある意味では企業秘密を晒しているようなものなんだよ? ほら、早くする」

 

 珠里に急かされるまま、俺は街道と目印になる地形や村を書き込んでいった。

「ふぅん、なかなか絵心はあるようだね」と横から覗き込んできた珠里が感心するように頷き、大方、書き写せたところで彼女は筆を奪い取ると、新しい紙にサラサラっと達筆な文字で何かを書いて、最後にポンと判子を押すと筒に入れて手渡してきた。

 筒には紹介状と書かれているのが辛うじて読めた。

 

「さて、一刀。君と私は真名を交換した仲だ。そのことを祝して、この天才である私が特別に策を授けてやる。特別だよ、特別」

 

 恩着せがましく彼女は俺が書き記した地図を広げると、とある場所を指で差して俺と鈴々を交互に見つめる。

 

「今、陶謙軍では義勇兵の募集が行われている。まずはそこに足を運んでみると良い」

 

 公孫瓚ではなく陶謙か。

 どうした、と珠里に問われて、なんでもない、と首を横に振る。

 この変化は俺に公孫賛との繋がりがないせいかもしれない。

 

「……義勇兵が一人も集まっていない現状では募兵に応じても一兵卒として使い潰されるのではないか?」

「関雲長殿、その脳は筋肉を鍛える場所じゃないよ」

 

 呆れるように珠里は溜息を零した。

 

「今、陶謙軍では武官が致命的に不足している。陶謙本人以外では糜姉妹くらいしか名前を聞かないからね、素質がありそうな奴は武官で試したいと思うはずだよ。特に一騎当千の将を二人も抱える人材なら尚更のことだね」

 

 まあ、と付け加えて「君達が一刀の下に着いても良いならだけどね」と彼女は肩を竦めてみせた。

 

「愛……関羽と張飛なら武官として取り立てて貰えるんじゃないのか?」

「関雲長殿、そう睨み付けるな。仮にも真名を預けた相手を邪険に扱うものじゃないよ」

 

 愛紗は不貞腐れるように店員へ新たに料理を注文する。俺、お金を持ってないんだけども誰かちゃんと持っているんだよな?

 

「まあ関羽と張飛なら武官として取り立ててくれるだろうが、その場合は完全に陶謙の勢力下に入るってことになると思うけど良いのかね?」

 

 珠里の確認に「どうしてそうなるんだ?」と愛紗が問い返す。

 

「二人が一刀君の陪臣という形を取れば、陶謙は暫く三人を引き離すことはしないと思うよ。そうでないなら三人は分けて用いられるだろうね。そうなったら、きっと君達はなし崩し的に――というよりも関羽、まだどうしたいのか決めていないのだろう? あくまで義勇軍、陶謙を主君に仰ぐつもりがないのであれば、時間を稼ぐ意味も込めて一刀君に形だけでも仕えるのが良いと思うけどね」

 

 そう告げる珠里は比較的、揶揄う様子を見せなかった。考え込む愛紗に新たに届いた料理に手をつける鈴々、そんな対照的な二人を見て珠里に問いかける。

 

「二人を俺の陪臣にする、それが徐元直が俺に授けてくれる策かな?」

「……三人仲良くという形を取るなら、これが最善だよ。二人だけなら関羽を主君に仰ぐ形で構わないけどね」

 

 言いながら珠里は困ったように笑みを浮かべてみせる。

 

「あくまでも対等の関係が良いのであれば、義兄妹の契りを結ぶという手もあるけど?」

「それは流石に……」

 

 義兄妹という単語に言葉を詰まらせるのは愛紗、それは俺も快諾されても困る。

 

「鈴々は愛紗とお兄ちゃんのどっちが主人でも構わないのだ。でも今まで二人でやってもダメだったから、お兄ちゃんも一緒の方が嬉しいのだ」

 

 口の周りを汚しながら軽い調子で答える鈴々、その口元を持っていたハンカチで拭ってやる。

 愛紗は悩む素振りを見せながら「とりあえず一刀が主君で構わない。駄目だったら、その時にまた考える」と重苦しい感じで口を開いた。

 

「二人が良いと言っているんだ、存分にやりたまえ」

 

 と珠里は俺の肩を叩くと「それでは厄介者は早々に退散するよ」と言いながら席から立った。呼び止めても彼女は足を止めず、「俺達の軍師になって欲しい」と伝えたところで彼女は足を止めて振り返った。くつくつと肩を揺らして、心の底から人を馬鹿にしたような笑みを浮かべて俺を見下すのだ。

 

「私だって理想を持って生きているんだよ。その理想を実現するためには君のところでは絶対に不可能だと断言できるね」

「その理想っていうのはなんだ?」

 

 問い返したのは愛紗だ。珠里は少し意外そうな顔に目を見開いて、そして余裕たっぷりの笑顔を浮かべる。

 

「私が実務に手をつけるのは御免被る。私は天才だからね、知恵を出すのに苦労はしないが実務は面倒だからしたくない、つまり働きたくないってことなのさ。無論、事務仕事なんて以ての外だよ! これを関雲長殿が許してくれるとはどうしても思えないのでねぇ」

「当然だ!」

 

 愛紗の怒鳴り声に「ほらね」と珠里はペロリと舌先を出してみせる。

 

「まあ軍師が欲しいなら紹介だけはしてあげるさ、面白い奴が居るってね。留めておけるかは君達次第だよ」

 

 と言い残して、今度こそ珠里は飯屋から足早に立ち去った。

 

「あんな奴、居ない方が清々するな!」

「……でも少し勿体ない気もするのだ」

「そんなことはない! あんな奴が居てみろ、規律が乱れるぞ!」

「んー……まあ、いっか」

 

 どうにも愛紗と珠里の相性は悪い、引き止めたところで結局は仲違いをするだけだったのかもしれない。

 それにしても――と目の前にいる二人を見つめる。関羽と張飛、三国志を代表する英傑二人を俺が率いる立場になるのか。彼女達が女性ということもあって、いまいちピンと来なかった。それにしても、この世界の劉備は何をしているのだろうか、それともこの世界には劉備が居ないのだろうか。

 色々と考えていると、ポンポンと不意に背後から肩を叩かれる。

 振り返ると店主が作った笑顔で立っており、その手に持っているのは算盤だった。俺はゆっくりと目の前に座る二人を見れば、彼女達は気まずそうに目を逸らした。

 畜生、あいつめ。逃げやがったな。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北郷義勇隊・中    -北郷組

 天の御使い。

 それを私が欲したのは私が弱かったからに他ならない。

 ただ武勇だけを誇るならば、如何なる相手でも引けを取らないと自負しているが――それはただの力自慢にしか過ぎない。賊退治を続けることで民衆に讃えられることがあろうとも私に付いてきてくれたのは鈴々(りんりん)だけで、他には誰もいなかった。

 その鈴々でさえも私の志に共感をしてくれた訳ではなかったりする。

 彼女が家族を失った悲しみで無差別に暴れていたところを叩き伏せたのが、鈴々との出会いになる。それでなんとなく放っておけなかったから旅の道連れとして連れて歩き、気づいた時にはお互いに心を許せる間柄まで親しくなっていた。戦いの最中、背中を任せられる相手がいるというのは戦力以上に心強かった。

 今ではもう鈴々は手放せない仲間だ、手放したくない。

 

 もっと世の中を良くしたい、と鈴々に話したことがある。

 首を傾げる彼女に良い世界とはどういうものか、倫理や道徳、善悪を含めて語り聞かせたが「お腹いっぱいに食べられて、みんなが笑って暮らせれば、それで良いのだ」と陽気に笑ってみせるのだった。

 そのことが間違っていると言うつもりはない、むしろ民草のひとりとして考えればこれ以上とない幸福に違いない。ただ私が言いたいのはそういうことではなくて、民草が賊徒に成り下がる環境や宮中で起きる汚職の数々、世の中に蔓延する不穏な気配を誰もが肌で感じているはずなのだ。どうにかしたいと思っている者は世の中にはたくさんいるはずだ。

 それも伝えると鈴々は少し困ったようにはにかんで「愛紗(あいしゃ)は考えすぎなのだ。好きな人と一緒にいられて、お腹いっぱいに食べて寝られたら、皆も不満なんて言わなくなるのだ」と答えてみせる。それはあまりにも単純すぎるのではないか、と言えば「単純なのだ。単純なことを皆、難しく考えすぎなのだ」と彼女は言い返すので深く語り合うことはできなかった

 鈴々の言っていることは間違いではない、むしろ正解に近いのだと思う。それでも、今のままでは駄目だと思ってしまうのだ。

 世の中をもっと良くしたかった、どうにかしなければいけないと思っている。胸に渦巻く不安は世の中を憂いてか、それとも私自身が焦っているだけなのか。漠然とした不安は、きちんとした形になってくれなかった。

 どうすれば良いのかなんてわからない。

 

 夢に出る桃色の髪をした少女のことが頭から離れない、あの姿こそが理想だと感じている私がいる。

 その想いは言語化不可能で、そもそも自分自身がきちんと理解できているわけではなかった。偶像信仰しているつもりはないのだが、しかし、どうして理想が人の形をしているのだろうか。

 分からない、自分で分からないものを他人に理解してもらおうと云うのが間違えている。

 

 そんな時だった。

 天の御使いの噂を聞いたのは、そして空を流れ星が駆け抜けたのも。

 鈴々に引き摺られるように辿り着いた場所には男が倒れていた。名は北郷一刀、おそらく天の御使いと思われる彼に、その自覚はない。どことなく浮世離れしている印象があるが、見た目だけを言えば、危機感の薄い抜けてそうな少年といった感じだ。

 成り行きで彼と旅を共にすることになり、今は徐州陶謙の領地に向けて歩みを進めている。

 天の御使い、つまり一刀は遠慮しているのか私に話しかけることは少なく、代わりに鈴々とよく遊んでいる姿を見かける。武芸の心得があるのか木刀――鈴々と一緒に木を削って作った物――を振っている姿を見ることもあるが、その腕前は人並み程度といったところだ。鈴々を相手に打ち負かされているところを見ることも少なくない。また彼は木刀を刀としてではなくて、鈍器として扱っているように思える。まあ木刀に刃は付いていないので鈍器として扱うことは間違いではないのだが――しかし木刀を扱うことを前提にした武術なんて聞いたことがない。天の国では木刀が主流武器だったりするのだろうか、想像できない。

 彼から聞く、天の国は私では想像できないような平和で安全な場所とのことだ。そのせいなのか危機感のない彼の生き方は危なっかしくて目が離せない。妙に人懐っこい性格をしており、他人の悪意には鈍感、放っておけば翌日までに身包みを剥がされてあっさりと死んでしまいそうだ。

 そんなことはない、と彼は云うが果たしてどうだろうか。

 試すわけにもいかないので、私と――主に鈴々が彼の側に付いている。

 

 さて、そんな彼も今では私の主君ということになっている。

 ほとんど建前のようなものだが、それでも彼を主君に立てることを認めたのは――彼が悪党には見えなかったというのが一つ、そして、きっと私は疲れてしまったのだと思っている。世を憂うことに、正義を貫くことに、きっと疲れていたのだ。鈴々を連れて歩く手前、弱音を吐くことができなかったが、先の見えない現状で足掻き続けることに私は疲れてしまっていた。

 私は誰かを求めていたのかもしれない、ただ信じるだけで良い。信じることができる何かのために力を振るう、そうして私は私の存在を確かめたかった、認めたかった。それが私の求めていたことだったのかもしれない。

 だが、天の御使いとして現れた彼は、私が武を預けるには危なっかし過ぎた。

 天の御使いというものに期待し過ぎただろうか――いや、私は逃げたかっただけかもしれない。そこに正義や信念はない、ただ誰かに責任を押しつけたかった、そしてもう考えることを止めてしまいたかった。

 しかし一刀では駄目だ、彼はあまりにも世の中のことを知らなさすぎる。

 今暫く、苦悩する日々を甘受しなくてはいけないか。

 

「おーい、愛紗! 目的地が見えてきたぞ!」

 

 先を進む一刀、彼の隣に立つ鈴々、二人を追いかけるために歩みを早める。

 不誠実なことに、その足取りは確実に軽くなっていた。

 

 

 拝啓、母上様。

 本郷一刀は今、異世界の中国にいます。

 幽州から陶謙が支配する徐州まで移動すること幾数日、道中で賊徒に襲われることもありましたが――ひょんなことから旅路を共にすることになった関羽と張飛という二人の英傑に守って貰うことで無事に下邳まで辿り着くことができました。男として守られるだけの立場はあまりにも情けなかったので、道中の料理を担当したり、ほつれた衣服の修繕をすることで釣り合いを取っている所存でございます。一刀は建前上、彼女達の主君という立場となっていますが、このままでは主夫一直線でございますね。

 閑話休題、

 旅の道中でも確認したことですが、徐庶こと珠里(じゅり)の言っていた通りに陶謙軍では義勇兵の募集が行われている最中で、その門戸を叩かせていただきました。出てきた門番には珠里が書き留めてくれた紹介状を手渡し、少し待った後で客室に案内されることになりました。

 それから更に待つこと数十分、遂に私達は陶謙との謁見を許されます。

 えっ、本人が直接ですか?

 

 陶謙恭祖、

 正史においては徐州刺史を務める男であり、客将の劉備に実権を譲り渡したことで知られている。

 元は幽州刺史であり、黄巾の乱の直後に涼州で起きた韓遂の反乱の討伐に参加。その後、徐州で蜂起した黄巾党残党の討伐と治安維持のために徐州刺史に任命されることになった意外と武闘派な御方である。

 まだ黄巾の乱に一先ずの決着が付いていない現状、陶謙が徐州にいることはありえないはずなのだが、この世界の陶謙は既に徐州刺史としての立場を得ている。

 現時点で孫堅が揚州を治めていたり、袁術が豫州を治めていたりとかするのだろうか。

 

「待たせたな」

 

 謁見の間にて、その彼が……いや、彼女が今、俺の目の前に立っている。

 先述したように文官というよりも武官としての活躍が目立つ彼女は、武闘派と呼ぶに相応しい恵まれた体格をしており、そして胸の破壊力には凄まじいものがあった――違うんです、よく男性は胸ばかりを見ると言われるが、別に胸を見たくて見ているつもりはなくて、顔のすぐ下に丸くてでかいものがあったら嫌でも気になってしまうものなのだ。むしろ女性同士なら気にならないというのか、いや、見るだろ絶対、見慣れたものでなければ絶対に胸へと目が行ってしまうはずなのだ。

 だからといって女体に興味がないわけでもないが――女だって格好いい男の裸体に興味があるものではないか、違うといっても男同士の薄い本が世に蔓延っている時点で説得力がないと言わざる得ない。つまり人並み程度には興味があるという程度で、決して俺が特別にそういうものに興味があるとかではないのだ。だから隣で「へえ、お兄ちゃんは胸が大きい方が好きなのか」とか楽しそうに小声で言わないでほしい、愛紗から睨まれるのは胃に悪いのだ。こうグッと心臓を掴まれたような感じで呼吸がし辛くなる。

 そんな私達の様子を見てのことか、陶謙は勝気な顔で妖艶な笑みを浮かべてみせた。

 

「関雲長、張翼徳……そして天の御使いだったか? 諸君らの名はよく耳にしているよ」

 

 天の御使い、その名を当の本人が詳しく知らないことに関しては今、この場で口にする必要はない。

 黙って聞き役に徹すると陶謙は愛紗、鈴々と見つめて――そして俺を見たところで首を傾げた。それから幾らかの質問に答えると「其方達には義勇兵千人を預ける」とあっさり採用されてしまった。なんとなしに肩透かしを受けた気分だ。まるでアルバイトの面接に行った時に、散髪をして、スーツを着込んで、気合いを入れて望んだのに五分で採用が決まった時のような心持ちである。

 軽い調子で「明日から来られるの? そう、なら明日からお願いね」という類の話の早さを感じる。

 

「徐庶の奴が渡してくれた書簡には、自分の代わりに武官としてこき使ってやって欲しい、と書いてあったからな。水鏡女学院で鬼才と呼ばれた女からの推薦だ、期待しているぞ」

 

 そう言われて陶謙に肩を叩かれたが――その時、彼女の貼り付けた笑顔の裏側に怒りのようなものを感じ取った。

 奴は何を書いたのだろうか。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間幕・流浪の問題児  -徐庶元直

 こちら単福、こちら単福。

 他人の金で食う飯は美味いと幽州啄郡を目指して北上中、悠々自適な旅路を鼻唄混じりで謳歌中。

 あまりにも気分が良いので声を大にして訴えたい。

 

 陶謙のところになんて絶対に行ってやるものか!

 あそこは武官不足という情報は掴んである、そして私に求めている能力も武官としてだ。

 つまり、この私に現場に出ろと、あっはっはっ……面白い奴だな、仕官するのは最後にしてやる。代わりに武官候補を送っておいたので義理は果たした、ということにしておいた。紹介状には「陶謙殿に仕えるのは私には役不足なのでお断りします」と書き記しておいてやった。役不足を正しい意味で使える数少ない機会、一度くらいは使っておきたかった。これだけで私にとって陶謙に価値はあったね、それ以上の価値は感じられないけど。

 北郷一刀の人柄は悪くないが、あんな根無し草の義勇軍未満の集団について行ってたまるものか。踏み台にすらなりゃしない!

 袁紹は人材が豊富で出世するには下働きをしないといけないので却下、袁術は張勲の独裁になっているので却下、孫堅は軍師も戦場を駆け回らなくてはならないので却下、曹操は容赦なく仕事を押し付けてきそうだから却下――私が仕えてやっても構わないと思えるのは公孫瓚と馬騰くらいなものだ、あの二人ならばきっと私も楽させて貰えると思っている。個人的に仕官したいのは馬騰の方だ。なんせ彼女の娘である馬超は自分で指揮すると聞いているし、馬騰と馬岱が補佐に回ると聞いている。つまり私は頭を働かせれば良いだけだ、この森羅万象を司る頭脳を以てすれば、考えることは苦にならない。勝利の方程式は、この頭の中にある。助言するだけで充分な金銭が貰える就職先こそが私の望むところである。

 そして存分に功績を立ててからであれば、他勢力に移る時も好待遇を用意してくれるに違いない。

 例えば八門金鎖の陣という弩級難易度の初見殺しを打ち破れば、曹操からだって思いのままの待遇を引き出すことができるだろうッ! 何故だろうな、絶対に曹操のところには行きたくないな!

 そんな訳で義勇兵募集と並行して、軍師を募集している公孫賛が治める幽州へと足を運んでいる。

 理由は単純に近かったからで、公孫賛に見込みがなさそうであれば馬騰のところに赴くつもりである。董卓は賈駆という軍師がいるので仕えたくない、その理由は噂で聞く限り賈駆は頑張り屋でサボりを許してもらえそうにないためだ。

 あと余談になるが恩師が卒業祝いに書いてくれた袁紹と劉表への紹介状は、受け取った翌日に破り捨ててある。

 

「とはいえ女の一人旅、蒼天を黄天が食らう世の中だね。流石の私の智謀とて数の暴力には敵わぬというもの、智謀とは活かすための環境と設備がなければ宝の持ち腐れ。何処ぞに都合よく私を公孫賛のところまで連れて行ってくれるお人好しはいないものかなあ?」

 

 この時代には義侠という生き様が民草の間で流行りつつある。

 簡潔に言ってしまえば「既存の儒教や社会、権力に囚われない強きを挫いて弱きを助ける」という正義感に酔った人達のことである。権力者から見れば厄介極まりない性質を持つ者達であるが、その性質を正しく読み解けば案外利用しやすい奴らなのだ。言ってしまえば、理想の体現という一面においては几帳面な輩なのだから。

 かといって不逞な輩もいるのだから油断ならない。ある意味、無法を我が物顔で歩く輩であるから、その為人もピンからキリまでだ。

 

「とりあえず私の優れた後輩に手紙を書くとしようかな。北郷一刀……というよりも関羽と張飛、あの二人は徐元直の手札に揃えておいても不足はない。あの世間知らずが相手であれば、その手綱を握るのも難しくない。そこに関張に臥龍鳳雛が加われば、太守程度はあっさりとなれるだろうしね」

 

 なんとなしに手綱を握るどころか逆に手篭めにされる未来が見えた気がしたのは何故だろうか。

 いやいや、きっと気のせいだろう。仮に手篭めにされたとしても、それはそれで利用価値があるというものだ。ただ今更になって思うのは、奴に私の可愛い後輩を二人も預ける必要があるのだろうか、ということである。関羽と張飛は後輩一人を生贄に捧げるだけの価値はあるが、流石に二人も送り込むのは勿体ない。二人で一緒に同じ主君に仕えたいとか言っていた気がするけども私には関係ない。

 となれば送り込むのは片方だけで良い、彼らの現状を鑑みるに送り込むべきは――――

 

 云々と唸り続けること数分、手頃な大きさの紙を広げたところで「よう姉ちゃん!」と顔を真っ赤にした酒臭い男が絡んできた。

 ここは酒場、旅路での苦労や不便による精神的な疲労を酒で胃に流し込む場所である。この相手が格好良い男であれば、私の心も癒されるので多少は相手をしてやるのも吝かではないが、いやはや、この男の顔は落第点というものだ。なによりも黄巾を頭に巻いているのが最悪だ。精神的苦痛を負ってまで、相手にする価値はないと判断する。

 私は手紙を書くために取り出していた筆を小壺に入れた墨に浸して、その男の顔に大きくバッテンを書き刻んでやった。

 

「顔が悪い。今すぐ崖から飛び降りて、美少年に生まれ変わってから出直して来い、馬鹿者。ちなみに私は歳上よりも歳下の方が好きだから、今から死ねばまだ間に合うかもしれんぞ?」

 

 クスクスと周囲から笑い声が漏れる。より一層に顔を真っ赤に、目まで赤く充血させて私を睨みつけてきた。

 

「……なんだと、てめぇ! この黄巾が目に入らないのかぁ!?」

「見える、見えるとも、黄巾を振りかざさなければ何もできぬ不細工な顔がよく見えるねぇ」

 

 果物を切る時に使っている小刀を袖口から取り出して、サクリと頰の皮に突き刺した。

 

「見るに堪えないね、皮を削ぎ落としてやろうかい? そうすれば今よりも見れる顔になるだろうねえ?」

 

 絶句する男を見やり、小刀を少し動かしたところで「ま、待ってください!」という威勢の良い声と共に二人の少女が酒場に飛び込んできた。片や剣を両手に持っており、もう一人は剣を持った少女の後ろに隠れている。

 

「ま、待って、桃香(とうか)……あの人やばいって、絶対にやばいって……勝手に自分で助かったんだから、もう良いじゃない……」

「でも桜花(おうか)ちゃん、あの人はいくらなんでもやりすぎだよ」

「悪いのは男の方だから、ちょっと強めのお灸を据えられたって思えば良いんだよ。きっと本気で顔を削ぐなんてしないって……たぶん、うん、えっと……やばい、あの人から罪悪感を全く感じないよ……」

「助けなきゃっ!」

 

 どうやら待ち望んでいた義侠の精神の持ち主が来たようだ。

 些か青臭さを感じるが――なに、その方が利用しやすいというものである。

 私は自称黄巾族に小刀を突き入れたまま、剣を持った少女に問う。

 

「君、剣を誰に習ったのかな?」

「私? えっと、慮植先生に護身用として……」

「ほう、あの慮植か! 私塾を開いたという噂は聞いていたよ!」

 

 今は漢王朝に召集を受けて、黄巾族討伐の将軍に抜擢されたのを覚えている。

 腐敗した漢王朝の中でも評価の高い御方である。その彼女が剣を教えたというからには人並み以上の腕前は持っていると考えても良い。少なくとも護衛程度、最悪でも囮には使えると考えても大丈夫だろう。

 それに公孫賛は盧植が開いていた私塾の塾生だったはずだ。

 

「この男を助けたければ、私の話を聞いて貰おうか」

 

 言いながら、ザクリと男の頰を深く切り込んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

北郷義勇隊・下    -北郷隊(←北郷組)

 陶謙との謁見を済ませた翌日、

 此度の募兵で集まった義勇隊千名を相手に私、愛紗(あいしゃ)は調練をつけているところだ。

 とはいえ武芸を教え込んでいる訳ではない。まずは全体で行動できるようにするための訓練であり、行軍時に陣形を崩さずに前進、方向転換といった基礎的なことを何度も繰り返して叩き込んでいる。とはいえ、これを丁寧に教え込むのは難しいもので、怠けている者を一人や二人、見せしめに痛めつけることで気を引き締めるのがコツと言われている。調練が上手いということは、どれだけ効率的に人を殺せるかということでもあった。

 その調練の様子を見たことはあるが施す側に回るのは初めてだった。体罰がコツと言われるが、わかりました、と素直に言えるほど私は虐め慣れていない。そのため代わりに大声を張り上げているのだが軍勢を思った通りに動かすことができなかった。やはり見せしめに痛めつける必要があるのか、そう考え始めた頃合いで「まるで小学校の体育祭だな」と天の御使いである一刀(かずと)が呑気な顔で呟くと「愛紗、一度に千人を鍛えるのは無理じゃないか? 先ずは少人数で感覚を掴ませた方が早いんじゃないかな」と彼が提案をしてきた。

 私達は三人いるのだから三等分にしようって言っているのだろうか。

 

「お兄ちゃん、もうちょっと丁寧に教えてくれないと分からないのだ」

 

 鈴々(りんりん)が言うと「ああ、そうだね」と一刀は自らの考えを語り出すのだった。

 

「こんな大人数を相手に一人で号令を行き届かせるのは無理だ。この時代にも部隊の最小単位に伍っていうのがあるんだろ? 先ずは五人できっちりと動けるところから始めるんだ、五人組で上手く動けるようになれば次は二十五人組くらいで組ませてみるのが良いかな。その次は百人組でやらせて、最後には千人同時に行軍をさせられるようになれたら良い。最初は時間がかかると思うけども要領を掴む奴が増えれば、自然と兵同士でフォロー……助け合ってくれると思うよ、急がば回れってね。そうだ、どうせ班で分けるなら班長が必要になるよな……従軍経験者が居るか? 流石に二百人は難しいか?」

 

 彼は考え込むように、ぶつくさと呟き始めた。

 

「ふあぁ……とりあえず経験者を集めれば良いのか?」

 

 考えが纏まるまで退屈だったのか、大きく欠伸をした鈴々が提案する。

 

「でも、どうやって経験者かどうか見分けるんだ? 見れば大体わかるが、この数となると骨が折れる」

「そこは自己申告で構わない。俺達を前に嘘を吐く度胸があるなら五人組程度は纏められるはずだよ、もし駄目でも頭を挿げ替えればいい」

「それじゃあ鈴々が集めてくるから考えを纏めておいて欲しいのだ」

 

 鈴々は呑気な様子で並べた義勇兵の中に潜り込んでいった。ああ見えて要領の良いところがあるので任せても大丈夫だろう、それにしても経験者を集めて兵を纏めさせるのか。まだ考え込んでいる一刀に話しかけても良いものか様子を窺いながら疑問を口にする。

 

「一刀は将でも鍛えるつもりなのか?」

 

 伍を個人に管理させるというのであれば、その次は二十五人を管理できる者を置き、その更に次は百人を管理できる者を用意するということに他ならない。

 

「そうなれば理想的だね」と彼は屈託ない笑顔で答えて「この動乱期に義勇兵として志願してくるような奴らだ。彼らの中には野心に満ちた奴だって必ずいる。教養のない者は出世するのも限界があるだろうけども――最終的に百人を指揮できる奴が十人現れてくれたら嬉しいかな。そう上手くいくとは思ってないけどさ」

 

 まだまだ机上の空論だよ、と彼は苦笑を浮かべてみせた。

 

「それだと鈴々は教養がないから将になれないのだ!」

 

 随分と早く戻ってきた鈴々が悲痛の声を上げると「後で俺と一緒に勉強しような」と一刀が鈴々の頭を撫でる。

 

「言葉が通じるのに文字は読めないって不思議な感覚だなぁ」

「喋れるのに書けない、言葉って不思議なのだ」

 

 二人が分かりあうように頷きあってみせる。

 下邳までの旅路で、すっかりと二人は打ち解けてしまった。そのことは喜びこそしても妬むべきものではないのだが――なんだろうか、この懐いた猫が他人に取られてしまったような感覚は。そんな二人を眺めていると、ぞろぞろと従軍経験者と思しき連中が私達の前に集まってきた。

 集めて、それからどうするのだろうか。様子を窺っていると一刀が彼らの前に一歩、歩み出る。

 

「……鈴々、丁度、五分の一程度か?」

「二百人……よりもちょっと少ない気がするかな、でも百五十人を超えてるのは間違いないのだ」

「まあ充分に許容できる範囲かな」

 

 一刀は頷き、そして彼らを見据えて――口を開いた。

 

「おめでとう、これから君達は隊伍の将だ。後で目印になるものを用意するよ」

 

 言いながら一刀がパチパチと手を叩いてみせる。

 

「将になったからには君達は兵に鍛える義務がある。権力じゃない義務だ、あくまでも君達は俺の配下で割り振られる兵も俺の配下だ。配下は君達のものじゃない、ということを最初に言っておくよ」

 

 兵達の中で首を傾げている者がちらほらと出ているのを見て、少し難しかったかな、と彼は困ったようにはにかんだ。

 

「とりあえず、そうだな――配下の面倒をきちんと見る、理由なく暴力を振るわない。自分勝手な命令を配下に出さない。先ずは、この三つを厳守して貰おうか」

 

 この言葉には頷くものが半数以上、うん、と彼は頷くと言葉を続ける。

 

「俺達が出す課題をこなしてくれれば、君達を隊什(十人組)の将に昇進させる。だからしっかりと聞いて欲しい」

 

 一刀の言葉を聞いた者達の中で察しの良い者が騒めき出した、まだ要領の掴めていない者もいる。

 騒々しくなったのを見て、一刀が黙り込んだ。怒声を張り上げた方が良いのではないか、と一刀に目配せすると彼は黙って首を横に振る。そして数分待って落ち着き始めた頃合い、コホンと一刀が咳払いをするとシンと辺りが静まり返る。

 にっこりとした笑みを浮かべて、再び語り始める。

 

「もう察しが付いている者もいると思うけど次は五十人の将だ、そして百人の将まで選別するつもりでいるよ。そこから先は陶謙軍に武官として推薦するつもりでいる、つまり――」

 

 彼は鈴々と私を見て、再び前を向き直る。

 

「――此処に立てるということだよ」

 

 その言葉の意味を理解したのか、再び騒めき出そうとした兵達を一刀は頭上高くに拳を突き上げることで制する。

 

「君達には厳守してもらうことがある。一つ、配下の面倒をきちんと見る。一つ、理由なく暴力を振るわない。一つ、自分勝手な命令を配下に出さない。一つ、他者の足を引っ張らない。この四つを犯した者は降格処分にするし、此処に立つことを諦めて貰うことになる」

 

 少し前に言ったことを刷り込ませるように繰り返しながら、さりげなく軍規を一つ増やしている。

 

「君達には此処に立てる好機にある」

 

 繰り返す、何度でも。

 

「厳守すべきは四つだ。一つ、配下の面倒をきちんと見る。一つ、理由なく暴力を振るわない。一つ、自分勝手な命令を配下に出さない。一つ、他者の足を引っ張らない。犯したものは厳罰に処分する」

 

 彼は何度でも、繰り返した。

 

「鈴々、何か言ってやれることはあるか?」

 

 不意に振られた言葉に鈴々は黙したまま一歩、二歩と前に出ると、不意に持っていた蛇矛を大きく振り被った。

 小さな体を目一杯に使って、地面に叩きつける勢いで振り落とし、ブワッと地面に触れる寸前で止める。砂煙が舞った、規格外の力、嫌でも意識させられる小さな巨人、その両手に握られる蛇矛。磨き上げられた矛の切っ先が向けられるのは兵達に向けられており、不敵な笑みを浮かべる鈴々のまっすぐな視線は兵達を捉えている。

 誰もが息を飲んだ。前に出ていた経験者達はもちろん、その背後にいる新兵も彼女の存在感に魅せられている。

 

「戦場で一緒に戦えるのを楽しみにしてるのだ」

 

 その言葉は誰に向けられた言葉だったのだろうか。

 従軍経験者も、新兵も、共に身を震わせた。鈴々が有する圧倒的な武威、それは敵対する者の魂に恐怖を刻み込むが、味方にすると彼女ほど頼りになる存在はいない。悪意を持たない無邪気な武に明確な殺意は込められていない、鈴々の武勇は何処までも奔放に広がっている。敵は勿論、味方までもを強大な存在感で覆い尽くすのだ。隣に立つ一刀まで、鈴々の武威に当てられて、頰を赤く高揚させていた。

 ただ一人、その場に立つだけで一騎当千、彼女の武威は味方を奮い立たせる。彼女と共に戦う者は魂を揺さぶられる、その本質は武者震い。太陽のように熱く、熱く、何処までも熱く、膨大な熱量が心に注がれる。溶岩のように煮え滾るような想いが胸に刻まれる。

 名は張飛、字は翼徳。真名は鈴々。その武威だけで彼女の存在が証明される。

 

「……これは応えなきゃ、男じゃないな」

 

 一刀のポツリと呟かれた言葉、

 兵達には届いていないはずの声にドッと歓声が沸いた。

 

 

 気を付け、右向け右、左向け左、まわれ右、全体進め、全体止まれ、休め。

 最初に一刀が教えた号令の一覧だ。見本のために一刀の号令で私と鈴々が動いた。練習もなしにぶっつけ本番は流石に緊張したが、その甲斐はあったようで、ぎこちないながらも半分以上が号令と動きを覚えてくれたようだ。

 覚えの悪い者は途中から鈴々が指導を始めて、もう覚えた者達に一刀が課題を与える。

 

「君達には今から隊伍を編成して貰う。後ろにいる新兵の中から五人組を作り、さっき教えた号令の動きを教えるんだ。二時間……えっと一刻後に試験をするからしっかりと鍛えて欲しい。勿論、先ほど言った四ヶ条を破ったらいけないよ」

 

 そう言いつけるも、鈴々とは違って見た目が優しい一刀に向けられる目には侮りがある。それを彼も感じていたようで私に視線を投げる。

 

「監視役は彼女だ。愛紗、自己紹介をしてやってくれ」

 

 兵士の手前、彼は命令口調で指示を出す彼の目には、申し訳ないという気持ちが込められていた。

 私だって状況は読めているつもりだ、このくらいのことで機嫌を悪くはしない――が今、笑顔で応えるのも私のやり方ではない。憮然とした態度を取りながら青龍刀を空高くに掲げて、

 

 ――ズンッと柄の底、石突で地面を叩きつけた。

 

 鈍く腹の底にまで響く音にビクリと目の前の兵達が身を強張らせる。

 どうにも私の武は敵味方問わず、相手を萎縮させてしまうが――今この場においては都合が良かった。一刀と鈴々で緩んだ空気は私が引き締めるとしよう、嫌われ役で結構だ。それでより部隊が精強になるのであれば望むところである。しかし一刀、お前まで萎縮してしまっては兵に示しが付かないではないか。

 溜息は胸の内だけに収めて、私の前に並んだ全員を見据える。

 

「私の名は関羽、字は雲長だ。精々、私の手元が狂わないように精進して欲しい」

 

 憮然とした態度を心掛けて、不機嫌に彼らから背を向ける。

 

「こんなもんで良いのか?」

 

 隣に立つ一刀に耳打ちすると「やりすぎなくらいかな」と引きつった笑みを浮かべた。

 加減とは難しいものだ。

 

 

 陶謙に義勇兵の調練を任せられてから、暫しの時が過ぎる。

 

 北郷一刀、天の御使い。

 英傑と呼ぶには程遠く、知恵者と呼ぶには抜けている。

 そんな彼が思いつく調練の内容は、私の考えの外にあるものばかりだった。

 

 調練を始める時に、先ず最初に行うのは準備体操と呼ばれるものだ。

「初めは適当でも構わないよ、これをしておけば怪我を抑えることができるんだ」と説明をした上で、全員の前に立った将の動きに合わせて全員が同じ動きをするというものだった。最初こそ動きはバラバラであったが、一週間も過ぎれば要領を掴めてきたようで纏まりが生まれてくる。三週間が過ぎた頃には、ほぼ全員が一刀と同じ動きができるようになった。

 この準備体操によって最も効果があったのは、兵達には号令に合わせて体を動かすという意識が根付いたことだ。また見様見真似でも誰かの真似をすることを覚えた彼らは、私が号令と共に槍を振るだけで私の動きを真似しながら槍を振ってくれるので武芸の調練が随分と楽になった。

 これも狙ってのことかと一刀に問いかけると、

 

「そこまでは考えていなかったよ」と彼は気恥ずかしそうに頰を掻いて「そりゃGHQも禁止にするわけだね」と私の知らない単語を口にした。

 

 全体の準備体操が一定の効果を見せると、二人一組で行う柔軟体操と呼ばれるものが導入された。

 これによって準備体操に費やされる時間が更に増えることになり、流石に調練の時間を削ってまですることかと思って一刀に問うと「これで仲間意識が少しでも強くなってくれるかなって思ったんだ」と軽い調子で答えるだけだ。こんな調子で本当に戦えるのかと思ったが――私も調練の経験があるわけでもない、上手くいっている間は彼に従おうと思った。

 また個人差はあるようだが体操を始めてから体が軽くなったという話が兵達の間で評判となり、訓練以外の場でも早朝に体操をする者がちらほらと現れてきている。

 かくいう私も近頃は体の調子が良いように感じている。

 

 元から体の柔らかかった鈴々は両足を真横に広げたまま地面に座ったり、大きく足を開いた状態からペタンと上半身を地面につけられる程になっていて、少し気味が悪い。

 

 兎にも角にも、彼の調練は今のところは上手くいっている、と評価しても良い。

 彼が定めた昇進制度は程良い競争状態を生み出しており、調練が遅れている者には部隊長が面倒を見てくれている。また部隊長の指示に従うということを擦り込まれた彼らは私達の指示にも驚くほど忠実に従い、部隊単位で細かく指示を出すことも可能となっていた。

 近頃、最初に定めた四ヶ条を守らず、配下となった兵を小間使いのように扱っている者がちらほらと出始めている。見かけ次第、私が叩き伏せて降格処分にしているが根本的な解決には至らない。まだ大きな問題にはなっていないが、軍規を改めるべきか、もしくはどう対処するのか、というのが今後の課題として取り組んでいく必要があるだろう。

 

 そうして更に一週間、調練を始めてから一ヶ月が過ぎた。

 

 号令を出せば、全部隊での行軍が行えるようになった頃合いで、また一刀が奇妙なことを始めている。

 そんな私達の様子を見に来た陶謙が苦笑いを浮かべて問いかけた。

 

「誰がここまで仕上げろといった?」

 

 私達の目の前には修羅の如し形相で怒声を張り上げて、正に死に物狂いといった形相で模擬戦に挑む義勇兵の姿があった。

 これは一刀が新たに考案した「棒倒し」という訓練であり、「一週間に一度の頻度で組対抗試合を行う」という宣言がなされている。これだけならば、きっとここまで白熱しなかっただろう。

 その後に一刀が付け加えた余計な一言が彼らを修羅へと駆り立てたのだ。

 

「優勝した組は翌日、愛紗と鈴々と一緒に柔軟体操ができるというのでどうだ?」

 

 この宣言を聞いた時には馬鹿なことをと思ったが――その直後、徐州全域に響き渡るほどに歓声が沸き上がった。

 あまりの熱狂に私が困惑する横で「鈴々も愛紗も人気者なのだ」と照れ臭そうに笑ってみせる。

 そして現在、私達を巡って争っている彼らを前に、私は受け入れがたい現実から逃れるように考えることをやめている。

 

「ナンデデショウネ?」

 

 隣で呆然とする陶謙に、そう告げるだけで精一杯だった。

 

「本当はサッカーとかやりたかったんだけどな……」

 

 そう呟く彼の顔を見る気にはなれず、何処か遠くを眺める。

 本日は快晴なり、熱中症に注意しましょう(一刀談)。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

花芽吹く季節・起   -劉備組

・簡雍憲和:桜花(おうか)
 盧植塾の卒業生。


 私、桜花(簡雍)は盧植塾を卒業してからすぐ行商の旅に出た。

 目的は情報収集、主に物流と情勢の把握に勤めている。このまま実家を継ぐにしても、何か行動を起こすことになったとしても、必要になると思ってのことだ。

 とはいえ最近は行商を続けるのも難しくなってきた。

 近頃、世の中を騒がせている黄巾賊が活発化し始めてきており、各地で行商人が襲撃される事件が増えてきている。彼らは漢王朝を打ち倒すことで世の中を良くするつもりでいるようだが、そのために民衆に被害を出して何がしたいのだろうか。そもそも黄巾賊が商隊を襲うせいで物流が滞り、より一層に民衆が貧困に喘ぐ結果になっているのが分かっていないのか。

 善意からの行動であれば、何をしても構わないと? ははっ、ありえない。

 

 そんなこんなで私は黄巾賊というのが大嫌いだった。

 どうせ襲うのであれば、商売をする度に法外な税金や賄賂を要求してくる官僚に狙いを定めて欲しいものである。

 ……駄目だ、行商に出てから私も心が荒んできている。こういう時、無性に桃香(劉備)に会いたくなる。彼女と一緒に居る時は、自己嫌悪に浸るような思考に陥らずに済んだ。酒場で飲んだくれながら、会いたいな、会いたいなぁ、と飲んだくれていると「酒は自棄になって飲むものではない」と誰かが私の隣に腰を下ろした。

 見上げると短髪の女性が御猪口に注いだ酒をとても美味しそうに煽ってみせるところだった。

 

「想い人に恋焦がれるのは良い、辛い気持ちを酒で紛らわせるのも良いだろう。しかし味も分からぬ、自分を潰すように酒を飲むのは推奨しない。特に今の御時世ではな……」

 

 彼女が酒を口にしながら顎で隣の机を示すと、その先にいた屈強な見た目の男がチッと舌打ちを零した。

 

「貴殿は自分の姿を見たことはないのかな? 常に狙われていることを意識することだ」

「そういうお姉さんも美人じゃない?」

「私の場合は狙われてたところで返り討ちにしてやれるからな」

 

 そう言う彼女は横に立て掛けていた槍を軽く持ち上げる。

 パッと見ただけでも使い込んでいるのがわかる。手入れも行き届いているようで、彼女が一角の武人であることも察する。

 しかし残念ながら武芸に疎い私では、それだけで腕前までは分からない。

 

「見たところ貴殿は行商を生業としているようだが?」

 

 言いながら彼女は私の体になった杯に透明の液体を注いだ。

 

「私も今は独り身でな、つい先日に旅の仲間と別れたところなんだよ。こう見えても腕には自信がある、どうだ? 私を雇う気はないかな?」

「先ずは名乗ったらどう?」

 

 注がれた液体を口に含む……これ、ただの水だ。女を睨んでやると彼女は楽しそうに笑ってみせた。

 

「申し遅れた。姓は趙、名は雲。字は子龍。仕事はきちんと熟すことには定評のあるつもりだ」

「……常山の趙子龍」

 

 おや、と趙雲と名乗った女が口を開いた。

 その名に聞き覚えがある、武名だけならば巷を騒がす関羽と張飛に引けを取らない。

 趙子龍の槍捌きは袁家の顔文にも劣らないと言われている程だ。

 

「その腕に見合う報酬は出せないけど?」

「簡憲和殿と行く先が一緒なんだ。美味しい酒と食事、そしてメンマがあれば構わんよ」

 

 教えてもいない名を――つまり彼女は最初から私のことを知って、接触してきたようだ。再び水を口に含んで思考する。

 

「……目的は白蓮(ぱいれん)、公孫賛かな?」

「ふむ、酔っていても頭の回転が早いな。そうだな――真名を許されるほどの関係であれば報酬に一つ追加を頼みたい」

「白蓮に紹介して欲しいんだよね、大丈夫。むしろ常山の趙子龍なら願ったり叶ったりだよ」

 

 でも、と付け加える。

 

「どうして白蓮なの? 貴方ほどの腕前を持っていれば袁家でも曹操でも選り取り見取りだと思うけど?」

「曹操のところはな……なんというか、空気が合わなかった。袁紹と陶謙とも会ったがいまいちピンと来なくてな、それで次は北に進んでみたというだけのことよ」

 

 既に他は回った後ということか。白蓮が後回しにされるのは――まあ彼女は他と比べると地味だから仕方ないといえば仕方ない。

 

「ところで貴殿から見た公孫賛殿は如何なる人物かな?」

 

 その質問に「堅実なのが取り柄かな、突出した能力はないけども人が良いのは間違いない」と私は答えておいた。

 ふぅむ、と趙雲が微妙な顔をしてみせる。

 彼女が如何なる人物を求めているのか知ったことではないが、しかし一つだけ否定しておかなくてはならない。

 

「あと私は誰かに振られてしまった訳ではない」

 

 そう言うと趙雲は楽しそうな笑顔を浮かべて「なんだ酔っているではないか」と肩を揺らしてみせる。

 いや本当に想い人とかいないです。桃香は友達として好きであって、恋愛とは別なんです。

 

 

 道中で見せた趙子龍の槍は凄まじいの一言だった。

 数十人の黄巾賊に囲まれた時も彼女は食前の運動といった気楽さで一蹴し、それから汗一つ流さない爽やかな笑顔で夕食に何が食べたい等と注文を付けるような人物であった。正に万夫不当の豪傑、このような存在が世に天下無双として呼び讃えられることになるのだろうと思った。

 また扱いも楽なもので、上等な酒と美味しいメンマを与えておけば機嫌を取ることができる。難点を上げるとすれば、彼女は舌が肥えているようで、少しでも味の質を落とせば看破されてしまうことか。その時は酒を仕入れた時に私自身が見抜けなかったこともあって許して貰えたが、彼女に対しては絶対に安物の酒を差し出すような真似はしないと心に誓った。元より彼女の腕前を考えれば、今でさえも破格の給金で働かせているのだ。

 彼女一人で護衛何人分の戦力になるのかを考えると酒の一つや二つ、ケチる気もなくなる。

 

 そんなこんなで私は無事に故郷の啄郡まで帰ってくることができた。

 

「趙子龍殿に会えて良かったよ、私は運が良い」

「私とて貴殿と会えたのは僥倖よ。良い酒に良い料理、存分に振る舞って頂いた」

 

 そう言いながら彼女はメンマを齧る。

 

「公孫賛殿には近日、紹介をしてくれるということで宜しいな?」

「白蓮の都合次第かな。今はまだ賊退治に出ているみたいだからね、城に戻ってきたら直ぐにでも紹介させて貰うよ」

 

 それはそれとして、と私は趙雲に向けて手を差し出した。

 まだ別れる訳ではないが感謝を込めて――趙雲は私の意を汲んでくれたのか手を握り返してくれた。

 こうやって手を重ねると明確な力の差を感じる。

 私は武芸に秀でている訳ではないが、格の違いというものを思い知らされる。

 

「あーっ! 桜花ちゃん!」

 

 不意に想い焦がれた人物の声が耳に入った。

 振り返ると桃色の髪をした少女が駆け寄ってくるところで、彼女は飛びつく様に私を抱き締めてきた。

 やめて、嬉しいけどやめて、帰ってきたばかりでまだ体も洗っていない。汗まみれで垢まみれ、臭うと思うから顔を近付けないで欲しい。しかし暫く会わない内に鍛えたのか、強い力で抱き締められて逃れることができなかった。そういえば盧植塾で鍛錬と勉学に励むと言っていたか――やばい、今の私だと抵抗できない。押し倒されると為すがままだ。

「ふむ、なるほど。彼女が貴殿の想い人ということだな」と趙雲に蔑むような目で見つめられる。

 

「想い人?」と首を傾げる桃香に「気にしないで」と語気を強めて趙雲を睨み返した。

 

 そこで漸く桃香は趙雲の存在に気付いてくれたのか、私のことを解放すると誤魔化すように笑ってみせる。

 

「ごめんなさい。久しぶりの再会で浮かれちゃいました」

「いやいや構わんよ。仲睦まじいことは良いことだ――度が過ぎなければ、という前置きが必要になるがね」

「度が過ぎる?」

 

 そのままの君で居て欲しい。

 

「彼女は趙雲子龍、私の旅路の護衛を勤めてくれたんだよ」

 

 このまま趙雲を放っておくと好き放題に言われそうだと思って、多少強引に彼女を紹介する。

 

「そうやって必死になるところがまた怪しい、まるで浮気の現場を見られた夫のようだな」

 

 趙雲が胡乱な目で私のことを見つめる。

 どうしてこうも急に信用を失ってしまったのだろうか。

 

「まあ二人でにゃんにゃんする分には何も言わんよ」

 

 どうしてこうも急に信用を失ってしまったのだろうか、大切なことなので二度言った。

 桃香は引き攣った笑みを浮かべながら「個性的な人だね」と私に小声で耳打ちする。

 それから趙雲に向き直ると、劉備は礼儀正しい所作で頭を下げた。

 

「私は劉備、字は玄徳。桜花ちゃんを守ってくれてありがとうございます」

 

 その姿をじっと見つめて、趙雲は私を見て一言告げる。

 

「貴殿はこういう清楚なのが好きなのか」

 

 どうしてこうも急に信用を失ってしまったのだろうか。

 私は今、彼女を白蓮に紹介すべきか迷っている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間幕・常山の趙子龍  -趙雲子龍

 主君探しの旅、その道中で様々な人物に出会い、そして別れた。

 中でも印象に残るのは名のある権力者ではなくて、旅の道連れに同行した二人の少女、内一人は程立と名乗る幼い見た目の少女だ。彼女が持つ真名と同じく風のように掴み所のない人物ではあったが、話してみると実に面白くて頭が鋭く切れる印象がある。中でも人心掌握に長けているところがあり、相手の知らぬ内、気付かぬ内に自分の望む結果へと相手の思考を誘導するのが得意な人物であった。もう一人は戯志才を名乗る眼鏡をかけた女であり、彼女は頭の回転がとにかく早い。予知能力染みた読みの深さで相手の行動を常に先回りして、備えることに特化している。そのせいか頭を働かせ過ぎて、鼻血を噴き出すのが難点か。

 二人とも型の違う思考回路の持ち主であったが、共に軍師志望であり、私自身も軍師に向いていると思っている。そして一言で軍師と云っても様々な型があり、そのどれもが正解であるということを教えてもらった。

 最善の型というのは、時期と状況によっても変わるが、それを操る人によっても変わる。

 私が槍を扱った鋭い一撃を得意とするように、顔良や文醜のように持ち前の膂力と活かした力任せの一撃が得意とする者もいる。

 

 故に私は私の道を歩む、その道を歩むことに躊躇をしない。

 あの二人の才覚は群を抜いており、恐らく彼女達以上の知恵者と出会うことは今後ないと思えるほどだった。それ故に二人も自分こそが正しいと信じて、自分だけの道を歩み続けるに違いない。自分にしかできないことがある、自分にしか歩めない道がある。旅は道連れとよく云うが、故に別れもまた唐突に起きる。二人は二人の道を歩むため、そして私は私の道を歩むため、己の道を歩むために道を違えることは当たり前に起きることだ。

 その道の先で出会った者がきっと、私が仕えるべき相手だと思っている。

 

 そうして辿り着いたのは幽州啄郡、

 先ずは洛陽に赴き、曹操、王朗、孫堅、袁術、袁紹、陶謙と渡り歩いて、地元に最も近い領主の場所に辿り着くとは思わなかった。

 どうせ、こうなるのであれば、最初に公孫賛の下に赴くのが良かったか。しかし世の中を知るとなれば、先ずは洛陽を目標に歩くのは当然と呼べるのではないだろうか。それで途中、旅の路銀が底を尽きて駆け足気味の旅路、こうして地元の幽州まで戻ってくることになったのもまた運命だろうか。

 その幽州を実質的に治める啄郡太守、公孫賛。金稼ぎも兼ねて、旅の最後の道連れである簡雍に頼んで紹介して貰ったのだが――私は今、五百の軍勢を率いている。

 何故、どうして私は軍勢を率いているのだろうか。

 

 思い出すのは昨日のことだ。

 簡雍の紹介で公孫賛との御目通りが叶った、謁見の間で出会った彼女は如何にも地味で華がない。

 そのことを口には出さず恭しく頭を下げると彼女は困ったように笑って「頭を上げてくれ」と私に願い出た。噂を聞くに百の賊徒を槍で突き殺す武芸の達人、正に万夫を超える豪傑なり、彼女の口から次から次に出る称賛の嵐、その類の言葉は聞き飽きたものだが、良い待遇を得る為に上げた名であると私は適当に笑顔で聞き流す。

 

「聞けば秘伝のメンマの作り方を知っているとか? あとはそうだな。酒については五月蝿いようではないか、幽州の酒が舌に合えば良いが……まあ常山とはさほど離れていないから心配はいらないか?」

 

 称賛に次ぐ称賛、その最後に冗談を交えながら楽しげに笑ってみせる。その表情が権力者がするような余裕や威厳に満ちているものではなくて、心を許した友達にするような気さくなものであったので暫し呆気に取られた。

 

白蓮(ぱいれん)姉さんっ! 明日には出陣の準備ができそうだよっ!!」

 

 謁見中にも関わらず、礼儀もなにもなしにバンと登場するのは公孫賛によくには地味な顔付き娘だった。物語の登場人物と考えれば如何にも脇役っぽい容姿をしている。

 

「ああもう、黄蓮(ふぁんれん)! お姉さんは今日、大事な客人と会うから邪魔するなって言い付けていただろッ!」

「えー? 謁見の間でふんぞり返って威厳を見せつけても直ぐにバレちゃうじゃない。どうせ私達が田舎者だってことは直ぐにバレちゃうって、それなら後でがっかりされるよりも先にがっかりして貰おう!」

「自分から田舎者という馬鹿がいるかッ!」

 

 怒鳴りつける公孫賛に、妹と思わしき少女がつい先程に見せた姉と同じように楽しげな笑みを浮かべてみせる。

 

「そこの誰彼も曹操や袁紹のような素質や素養を白蓮姉さんに求めちゃ駄目だよ。あとでがっかりすることになるからね」

「黄蓮! 余計なことを言うな!」

「いやだって、教育する片っ端から辞められる私の身にもなってよ。理由は決まって地味だからだよ!? 白蓮姉さんに異民族討伐の武功はあっても上に立つ者としての威厳とか丸っきりないんだもん! まあ、そういう訳だから仕官するにしても数週間で辞めるとか本当に止めてよ?」

 

 それじゃあね、と妹君は手を振って場を後にした。残された公孫賛は頭を抱えて、大きく溜息を零してみせる。

 

「まあ妹の言っていることも間違いではない……曹操や袁紹のような真似は私にはできないからな。望むのなら客将という立場でも良いぞ?」

「では、そのようにお願い致しましょう。じっくりと公孫伯珪殿の為人を見極めさせて頂く」

「容赦ないな……まあいいさ、逃げられるのには慣れている」

 

 彼女は苦笑し、そして気を取り直して口を開いた。

 

「先ずは趙子龍の力を見せて欲しい。丁度、明日には賊退治のための出陣を控えているから丁度良い、詳しい話もまた明日にする」

 

 何処でもそうだが先ずは力試しをしたいというのは何処でも変わらない。どれだけ武名を上げたとしても初対面の相手の実力を疑ってかかるのは権力者として当然の資質というものだ。

 

「必要ならば部屋を用意するが、どうする?」

「では、公孫伯珪殿の御厚意に甘えるとしますかな」

 

 何処でもこれだけは変わらないな、と思いながら、その日の会談は終える。

 

 翌日、

 趙子龍の槍を思う存分に御披露目してみせよう、と早朝、部屋で槍を磨いていると侍女に呼び出されて鍛錬場まで足を運ぶ流れとなった。そこには完全武装した軍勢が並べられており、その数は優に百を超えている。五百にも届いているのかもしれない。これから出陣するのだろうか、だとすれば自分は何処に配置されるのだろうか。

 そんなことを考えていると「よく来てくれたよ」と公孫賛が権力者とは思えぬ気さくさで話しかけてくる。

 

「これは公孫伯珪殿、今日は風が気持ちいいですな」

「伯珪で良い、長いし呼びにくいだろ?」

 

 まるで友人に語りかけるような声色は今まで見てきた権力者とは違っている。

 

「では私のことは子龍とお呼びくだされ、伯珪殿」

「ああ、分かった。よろしく頼む、子龍殿」

 

 そう笑い返す姿は庶民的なもので、私が認める主君像とは程遠い。だが彼女のような権力者も世の中にはいるものだと見識が広がるのを感じた。

 

「そして、趙子龍殿には五百の軍勢を率いて貰うつもりだ」

「……ほう、私には軍勢を率いた経験はないのだが?」

「槍の腕前は桜花からの話で充分に伝わっている、ならば次に見たいのは指揮能力だ。無論、補佐は付けるし……最悪、戦時の指揮では鼓舞をしてくれるだけでも構わない」

 

 それでまあ押し切られるように私は五百の軍隊を率いる長となり、

 そして今現在、黄巾を額に巻きつけた賊徒と対峙している。

 

「ふむ、どうしたものか……」

 

 優秀な副官を付けられていたこともあり、また兵達が遠征慣れをしているおかげか道中で苦労することはなかった。

 とはいえ戦場では部隊長に忠実であることを叩き込まれた精鋭達、今か今かと私の指示を待ちわびており、私のことを困らせていた。兵法は聞き齧った程度にしか分からない。こんなことになるのであれば、(程立)(郭嘉)の談義をもう少し真面目に聞いておけば良かっただろうか、いやしかし、あの二人の話は私には難しすぎて理解できないことが大半だったので真面目に話を聞いていても同じことか。まあそれでも兵法の基本くらいは学んでおくべきだったと思うし、今からでも兵法書を読み漁りたい気持ちにいっぱいだ。無論、そんな時間はない。過去を悔やむくらいであれば、先ずは現状、どうすれば状況を良くできるのか考える方が得策か。

 とりあえず今、私が置かれている状況を整理する。

 公孫賛が事前に話していた内容では、味方は公孫賛が率いる歩兵千名、あとは公孫越――謁見の間で会った妹は公孫範で別人――が率いる騎兵が五百。そして私が率いる歩兵が五百で合計二千の兵力だ。対する敵は事前情報では千という話を聞いている。見た感じも千……程度だろうか、これから先、将を続けるつもりであれば、遠目でも敵兵が幾らなのか正確に分かるようにしなくてはならないか。

 それにしても賊徒というには随分と数が多い。尤も陣形はないに等しい状態であり、兵を纏める将の無能さが窺い知れる。

 まあ将の無能さであれば、私も似たようなものであるが。

 

「さて、どのように攻めるのが正解かな?」

 

 与えられた役目は先鋒で、相手を食い止めるだけで良いと言われている。

 しかし、と思考を巡らせてみて、考えてみて、途中で思考することをやめる。兵法の分からない私にできることなんて限られている、そして初めて指揮官として戦場に出る私が柔軟に部隊を動かすなんて不可能に近かった。機を窺いながら相手の攻撃を受け止めるなんていう洒落た真似なんてできるはずもない。

 ならば進もう、前に。先頭に立って槍を突き出し、悠然と敵陣を目指して部隊を動かした。

 公孫賛は印象こそ地味だが、異民族を相手に戦功を立て続ける戦功者として名が知られている。ならば戦局に合わせて――なんかこう、上手い感じに合わせてくれるはずだ! 出会って翌日の未経験者に部隊を率いさせるという無茶振りをされているのだ。ならば、この程度の意趣返しは許されて然るべきである。

 大丈夫、死にはしない。私は常山の趙子龍、その槍は天をも穿つと言われている。

 

「趙子龍の槍の錆になりたい者から、かかってくると良いッ!」

 

 

 我が陣営の人材不足は深刻だった。

 私、白蓮(公孫賛)は幽州における有力豪族の家に生まれたが、母方の身分が低かったので厚遇されなかった。それだけが原因とは云わないが、名家との繋がりを持てなかった私に他所から人材を引っ張ってこれるだけの繋がりを作れず、身内を誘って、地元の有力者の力を借りることしかできなかった。

 まあ読み書き算盤さえできれば、何かしらの仕事を当てることはできるし、腕自慢は幾ら居ても足りないことはない。

 その辺りの人材であれば何処かしらから引っ張ってこれる。致命的に足りていないのは軍隊を率いることができる将、謀略に頭を働かせることができる軍師、そして各所との調整をして管理することができる政務官であった。現状、その全てを私が担っている。私の専門は軍事なのだが、この際、私の代わりができるのであれば選り好みするつもりはない。多少、人格に問題があっても気にしない、積極的に法を犯す人物でなければ誰でも良かった。

 そんな時に現れたのが親友の桜花(簡雍)が連れてきた趙雲である。

 

 仮にも戦場で幾度と死線を越えてきた身、武芸の程は立ち振る舞いを見るだけで大体が分かる。

 その上で桜花(おうか)が彼女の腕を保証するというのであれば、今更試すような真似をする必要はない。確かめたいのは彼女の将としての素質であり、それを見極めるために今回、彼女には五百の部隊を率いてもらうことにした。とりあえず相手の賊徒を受け止めることができれば及第点、そのまま陣形を維持し続けることができれば満点だ。最初から陣形を崩されることは前提に考えている、そのために倍近くの兵を用意してきたのだし、直ぐに趙雲隊の助けに入れるように騎馬隊も控えさせていた。

 彼女に将としての素質がなければ、近衛兵にするか、武芸の師範として扱えばいいとも考えている。

 さあ、常山の趙子龍はどう動く?

 

「んっ? おいおい、まさか、おいっ……」

 

 最初は相手の出方を窺うものと思っていたが、趙雲隊が前進を始める。

 先陣を切るのは馬に跨る趙子龍、槍の穂先を敵に向けたまま悠然を歩を進めている。その趙雲に引き摺られるように五百の部隊が追従する、そりゃそうだろう、将が前に進めば兵達は付いていくしかない。先頭を歩いている彼女が笑っている気がした。恐怖を一切感じさせない自信に満ち溢れた態度、遠目から見てもわかる風格は近場で見れば如何程か。

 趙雲はただ前に進み続ける。策もなく、愚直にただ敵に向けて、歩みを進める。千の敵を前にしても臆さず、ひたすらに前を目指して進んでいる。

 

「あのまま突っ込むつもりかッ!」

 

 騎兵五百を率いる妹の公孫越――紅蓮(ほんれん)へ部隊を動かすように指示を飛ばした。

 敵の意識を先鋒から逸らすように相手の後ろへと回り込ませる、その間にも趙雲隊は前進を続けている。部隊は伸びて、自然と錐行の陣のようになっている。いや、あれは陣形が崩れているだけだろう――大丈夫なんだろうな、本当に大丈夫なんだろうな? 未だ先頭で槍を構える趙雲は微動だにしない。相手が最初に狙ったのは、無論、先陣を切る趙雲であった。ただ敵の動きが鈍いのは、敵に将器を持った者が居ないためか。公孫越の騎兵隊に陣形を崩しながら前進する黄巾賊、無論、趙雲も足を止めずに前に進んでいる。

 そして黄巾賊が凡そ千と趙雲隊の五百が衝突する直前まで接近した。

 戦力比が倍だというのに御構いなしだ。

 互いに長く伸びた隊列、その先端同士が触れ合った瞬間――黄巾の賊徒が数名、弾け飛んだ。

 

 

 兵法というものは知らないが、共に真正面からぶつかるだけならば単なる力比べだ。

 ならば前に進むだけで良い。足を止めずに一歩一歩、じっくりと前に進んでいけば、いずれ押し勝つこともできるだろう。槍を突いては一人が絶命し、横に払えば二人の首が飛んだ。先陣切って、敵陣に斬り込むことは今までもやってきたことだ。その敵の規模が今までに比べて一桁増えただけで、私のやることには変わりがない。

 削ぐように、薙ぎ払うように、薄皮一枚を取り払うように、敵陣を切り刻み続けること数十分程度、あれだけ押し寄せてきた人波が急に開けた。

 

「まさか突き抜けてきたの?」

 

 馬に乗った将らしき娘が驚きに目を見開いている。

 はて、と後ろを振り返ってみると綺麗に左右へと分断されてしまった敵陣の姿が見える。

 その敵陣の先からは後詰として押し寄せてくるのは公孫賛の本隊、どうやら敵陣を押し返すつもりで前に進んでいたつもりが敵陣を貫いてしまったようだ。

 そして今、私に話しかけてきている将らしき娘は公孫越のようであり、敵陣の後ろを掻き乱してくれていたようだった。

 慌てて馬首を切り返そうとした彼女に「待たれよ」と呼び止める

 

「貴殿は、私はこれからどうすれば良いと思うかな?」

「はあっ!? 本当に前に突き進んでいただけってわけ!? えっと、ああもう! 私は右、あんたは左よ!」

「任された」

 

 真っ二つに分かれた敵陣の右側に向けて槍を構えると「ああ、待って待って、今度は貫かないでよ!」と公孫越が声を荒げた。

 

「今度こそ受け止めるだけで良いから! どっしりと構えて受け止めるのよ……そうね、想像するのは槌と鉄床! あんたの役割は鉄床ね、わかった!? 敵が逃げられないように押さえつけるのが役割、そうしたら白蓮姉様が大型の槌で敵を打ち付けてくれるわ!」

「鉄床だな、任されよ」

 

 要は、前に進まずに受け皿になれば良いという話だ。敵陣に接触したところで私が足を止めれば、自然と部隊も横に広がるだろうと楽観的に馬を進めた。

 

「私は挟撃を邪魔されないように掻き乱さないと……ああもう騎兵は忙しいなぁッ! 考えるのは苦手なのに!」

 

 悲鳴のような声を上げながら戦場を駆ける友軍を見送り、私はさらに戦果を上げるために黄巾賊の背後を攻める。

 確か私が左で鉄床だ。前に出過ぎず、退かず、受け止める。言葉にすれば退屈な役割だ、それでも与えられた任務を遂行するために、敵陣を受け止める立ち位置で進軍をやめる。先頭は私、自然と兵達は横に広がって陣形を組んだ。

 そして公孫賛の本隊に押し出されるように寄ってきた敵陣は、あまりにも手応えがなかった。

 

 大勢が決まったところで残りは割愛し、此度の討伐戦における戦果をわかる範囲で報告する。

 黄巾賊は総戦力が千程度、凡そ五百の死傷者を出して、三百弱が捕虜として捕らえられる。対して公孫賛軍の被害は百未満だ、先陣を切って切り込んだ私の部隊は死傷者が四十三名という結果に終わった。これがどれだけの成果なのかわからないが「よくやってくれた!」と公孫賛が興奮気味に私の肩を抱いてきたので良かったのだろう、まあ与えられた兵も良かった。

「将としての初陣はどうだった?」と問われて「初めて指揮というのを経験したが悪いものではない」と率直な感想を伝える。

 

「次は騎馬隊を指揮してみたいものだな」

 

 それとなしに催促すると彼女は上機嫌で「なんだ動き回る方が好きなのか? 良いだろう、良いだろう、次は騎馬隊を任せてやる!」と私の背中をバンバンと叩いた。

 思っていたよりも太っ腹な主君だ。

 理想とは程遠いが案外、こういう主君の下の方が居心地がいいのかもしれない、と少し思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

花芽吹く季節・承   -劉備組

・劉備玄徳:桃香(とうか)
 盧植塾の卒業生。実家が豪農

・簡雍憲和:桜花(おうか)
 盧植塾の卒業生。実家が商家。


 前々から漠然とした不安は感じていた。

 何かしなくてはならない、という焦燥感に駆られていたように思える。

 

 盧植塾の三羽烏と呼ばれていた私達は今、それぞれの道を歩むために離れ離れになっている。

 親友の白蓮(公孫賛)は公孫家を継ぐと異民族討伐に乗り出して多大な戦果を挙げたと聞いており、その功績を以て幽州啄郡を実質支配するまでに影響力を広げている。今では幽州刺史である劉虞に啄郡太守として正式に認められる程だ。幽州の治安を守るために東奔西走と軍を率いて駆け回っている。

 もう一人の親友である桜花(簡雍)は実家が商家なので、その手伝いをしている。何時か独立することも視野に入れているようで見聞を広めるためにと行商の旅に出ることが多く、顔を合わせることが少なくなった。

 二人とも啄郡を離れることが多くなった中、私だけが未だに此処から離れられずにいる。

 

 私、桃香(劉備)の実家は豪農だ。

 土地に根付く家柄であるために地元から離れる機会が少なく、実家の手伝いも収穫物や納税の計算といったものが多い。

 そのため商家の簡家とは農作物の取引で付き合いがあり、啄郡太守の一族である公孫家とは地元有力者としての付き合いで意外と深い関係にあったりする。例えば三羽烏の話は実家でも知られたもので、簡家とは良心的な価格で取引をしてもらったり、公孫家には納税や徴兵の時に融通をして貰うことがあると話に聞いたことがある。

 迷惑がかかっていないかと不安に思ったこともあるけども、桜花(おうか)が言うには「利益は出ている」とのことであり、白蓮が言うには「きちんと税を納めてくれるだけ上等」ということだ。

 二人がそう言うのであれば、きっと正しいのだと思うことにしている。

 

 それでも二人は一人前に頑張っているにも関わらず、私だけが何もできずにいるのはもどかしかった。

 桜花に倣って私も自分でお金を稼ごうと筵を織ってみたことがあり、啄郡に帰ってきていた桜花に丁寧に編み込んだ筵に見せびらかしたことがある。「私だってやればできるんだよ」と筵を織った経緯を話してみれば、「馬鹿なの?」と彼女に真顔で言われてしまった。桜花が言うには「ああいうのは労働力以外に売り込めるものがない人間がすることで、仮にも盧植塾で学んできた人間がすることじゃない」とのことだ。

 ちなみに筵は二束三文で桜花が引き取った、これでも良心価格だとか。実家の手伝いをしている方が遥かに小遣い稼ぎになることを知った私は筵織りでお金を稼ぐ計画を断念することになる。

 あと私が織った筵は桜花が旅先で使っているらしい。

 

 それでやることがなくなった私は手持ち無沙汰でいるのも耐えきれなくて、卒業後も盧植塾に通い続けることになった。

 前に通った時は勉学だけだったけども今は武芸にも励んでいる。そうやって時間を潰している内に関羽と張飛という幽州でも有名な義侠が二人、地元の市場を訪れたという話を耳にしたが顔を合わせることはなかった。

 なんとなしに大切な出会いを逃してしまった気がするのはどうしてだろう。

 

 それから、

 歳月が過ぎ去ると共に私達三人の距離が徐々に離れていくのを感じた頃合いだ。

 黄巾党を名乗る集団が布告を出して、各地で暴れ回るようになった。

 

 ――蒼天已死、黄天當立。歳在甲子、天下大吉。

 

 ずっと感じていた漠然とした不安、私にとっては焦燥として表出していた想い。

 誰しもが抱いていたはずで胸の内に溜め込んでいた感情、それは不安や恐怖、もしくは怒気が許容量を超えて溢れ出した。

 感情の奔流は大過となって、大陸全土を飲み込み、各地で大規模な暴動が発生する。

 

 盧植先生が漢王朝から召集を受けて、盧植塾が閉鎖された。

 暴動の熱は収まることを知らず、今まで日常だと思っていたものが呆気なく崩れて、あっという間に世界は動乱の世へと変わり果てる。幸いにも地元が襲われることはなかったが、隣村で黄巾党の襲撃を受けたという連絡が入ったので援軍に向かった。その時は相手も小規模で被害も少なく追い払うこともできたが、驚きだったのは見知った顔が黄巾党に所属していたことだ、昨日まで農民として生計を立てていた者までが動乱の熱に当てられている。

 農民が農民を襲っている、それを良しとする世界に身震いする。

 

 こうしてはいられない、と思った。

 しかし突発的な感情のままに動こうとする足を止めたのは、それでも、という考えが心に根付いていたためだ。力こそが正義だと理不尽な暴力が許される時代。そんなのは間違っている、こんな世の中は狂っている。だから私は動きたいと思った、この世の中を正さなくてはならないと思った。でも、それと同じぐらいに私には大切に思っていることがある。

 何時でも、どんな時でも――私は悪いことを悪いと云える私でありたい。

 その想いはきっと自分勝手なものだと思っている、思い上がりと言われても仕方ない。それでも私が私であり続けるために大切なことだと思っている。何をしたいのか、を明確にすることは何かを成すために大切なことだ。事が大きくなればなるだけ大切になってくる。

 世直しをする、それは良い。では何のために世直しをするのか考えるべきだ、そもそも私は何を直すつもりなのか。悪いのは何か。無論、悪いのは黄巾党だ。だけど本当に黄巾党の全てが悪いのか、どうして黄巾党は暴動を起こしてしまったのだろうか。それ以前に黄巾党とは何なのか、まずそこから分かっていない。

 考えろ、考えろ、考えるには情報が足りていない。私だけで答えが出せないのであれば、頼れる仲間に頼るのが正解だ。幸いにも私には頼れる仲間が二人もいる。それはきっと幸せなことに違いない。そして行商に出ていた桜花がつい先日、啄郡に帰ってきていたのは幸運と呼ぶ他にない。

 そこまで考えた時、私は桜花の下まで一目散に駆け出そうとして――数秒考えた後、何か行動を起こすには兎にも角にもお金が必要だと思い至り、実家にある蔵に駆け出した。埃被ったガラクタ達、十年以上も前から手を付けていないことを私は知っている。どうせこのまま埋もれさせるくらいならば私が有効に活用してやるのだ。

 それら骨董品を台車にまとめて載っけた私は改めて、桜花の下まで駆け出した。

 

 

 趙雲を無事に白蓮(公孫賛)に押し付けた私、桜花(簡雍)は今、実家で悠々自適な生活を送っている。

 つい先日まで家に置いていた趙雲から事ある度に揶揄われて嫌気が差すことも多く、その度に白蓮(ぱいれん)に紹介しようかどうか悩んだものである。紹介をしなければしないだけ、趙雲に付き纏われる時間が増えるだけだと察した私は、白蓮が帰ってきたという報告を受けると同時に趙雲を白蓮に押し付けてやった。

 それからというもの私の身の回りは平和そのものだ。

 行商の予定は暫くない。積み上げた書籍に目を通しながら、ふと久し振りに桃香(劉備)と街中を出歩くのも良いかもしれないと思い立った。

 そうと決まれば話は早い。予定を組み立てようと竹簡を取り出し、

 

桜花(おうか)ちゃーんッ!!」

 

 と元気良い声が心に染み入るように耳に入った。

 どうにも私の親友は行動が早い、私が思いついた時にはもう行動が始まっていることも少なくない。これが以心伝心というものだろうか、私と桃香(とうか)は距離が離れていても分かってしまうほどに心が通じ合っているのかもしれない。

 仕方ないなあ、と口元が緩むのを堪えながら澄まし顔で彼女を出迎えるべく玄関戸を開けば、

 

「これを全部、売るの手伝って!」

 

 と、ありったけの骨董品を載せた台車を玄関前に置いた桃香が埃まみれの満点笑顔で立っていた。

 うーん、これはどう解釈すべきだろうか。私もまだ彼女と心で通じ合えているわけではなかったようだ。それはさておき、彼女がなにかを行動を起こす時は良くも悪くも予想の範疇から外れるものだが――今回に限っていえば、あまり良い予感はしない。

 とりあえず話を聞いてみるべきか、少し怖いな。

 

「またどうしたの?」

「最近、世の中が荒れてて白蓮ちゃんも忙しいでしょ? だから私達で少しでも助けてあげられないかなって!」

 

 要約すると、世の中が荒れているのに何もできないのはもどかしい、と言ったところか。

 こういった彼女の押し付けがましい善意は嫌いではないが、しかし――キラキラと目を輝かせる彼女を見て、無下にすることもできずに「とりあえず検品してあげるから庭まで運んでよ」と問題を先送りにした。桃香が張り切ってる時は行動が一つか二つ飛んでいるんだよね、と思いながら庭に運び込まれた骨董品の物色を始める。

 劉姓を持つ豪農と言うこともあってか、桃香の実家の歴史は古い。そのため彼女の台車に詰め込まれた骨董品は過半数以上がガラクタであったが、意外にも売れそうなものが紛れ込んでいる。正直なところ二束三文の足しになれば良い方だと思っていたが、これならば兵を五十人程度は集めることはできるだろうか? 維持はできないだろうが兵糧は白蓮に頼めばいい、縁というのはこういう時に使うものだ。

 算盤を叩いて見積もりを出していると「ああ、あとこれも!」と桃香は土地の権利書を差し出してきた。

 

「……これは、盧植塾の権利書じゃない。権利者が桃香の名前になってるけど?」

風鈴(盧植)先生に必要ないって貰っちゃった、免許皆伝の代わりだって」

 

 免許皆伝を売ってしまっても良いのだろうか、まあ細かいことは後で纏めて言うとしようか。

 ざっくりと計算していると、ふと台車の端に一風変わった装飾の施された刀剣を見つける。なんだろうと思って手に取ってみるも刀身が錆びてしまっているのか鞘から剣を引き抜くことができなかった。貸してみて、と言う桃香に刀剣を手渡すとスルリと鞘から剣が引き抜かれる。

 あれ? と彼女は不思議そうに首を傾げる。

 そんな愛おしい桃香の表情を目の端に捉えながら、引き抜かれた刀身が太陽の光を吸い込むような美しい輝きを放った。その刃は水を濡らしたように綺麗で、刃こぼれ一つ、翳り一つすら見えない。素人目で見てもわかる業物、その美しさに思わず唾を飲み込んだ。

 桃香は静かに剣を鞘に収めると、それを私に差し出して告げる。

 

「これなら高く売れるよね」

「売っちゃうの!?」

 

 ちょっと待って、それって値段とか付けられないやつだから。

 おそらく買い取ってくれる相手を探すだけでも苦労する感じのお宝だよ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

花芽吹く季節・転   -劉備組・徐庶元直

・劉備玄徳:桃香(とうか)
 盧植塾の卒業生。実家が豪農

・簡雍憲和:桜花(おうか)
 盧植塾の卒業生。実家が商家。


 私、桜花(簡雍)は、桃香(劉備)と一緒に彼女が持ち込んだ骨董品を売り払うために啄州を離れて、南に進んだ。

 言っちゃ悪いが幽州はお世辞にも豊かとは云えず、桃香が持ってきたような実用的ではない骨董品は好まれない。それならば韓馥、袁紹が治める冀州の方がまだ豊かで買い手も見つけやすいというものだ。

 実家から馬を一頭、持ち出して荷馬車を引かせる。

 その道中で野盗に襲われることもあったが、十にも満たない程度の賊であれば桃香が簡単に追い払ってくれた。

 

 流石に趙雲とまではいかないが桃香も随分、武芸が上達したものである。

 少なからず氣の扱いまで身につけてしまっているようであり、いよいよもって私は桃香を相手に手も足も出なくなってしまったようだ。これはもう身を委ねるしかありません、ついでに云えば心も委ねてしまいましょうか。私の身の安全は桃香の手に委ねられているも同然、正に今の私は御嬢様、なれば桃香は私の騎士様と言えるかもしれない。

 道中、朝昼晩と二人きり、夜になると暖を取るために身を寄せ合うこともある。

 

 駆け落ちしたい気分に浸りながらも、伝手を使って名士を渡り歩いて当初の目的である桃香が持ち込んだ骨董品を売り捌く。

 ついでに少し行商にも手を付けている内に台車の荷物はみるみる内に減っていった。後でじっくりと鑑定したが、あの時の業物はやはり宝剣で間違いない。売るにはあまりにも勿体なかったので、宝剣は売ったと偽り、私が今回の旅先で稼いだ行商の利益全てを桃香に手渡した。

 そんな訳で今は私が持っているのだが、正直、この手の業物は私には荷が重すぎる。宝の持ち腐れとは正にこのこと、当の桃香はといえば適当な鍛冶屋に作ってもらったという雌雄一対の剣を腰に差している。ちなみに二振りの剣を同時に扱っているところを見たことがないので、大人しく宝剣を持ってりゃ良いのにと思わなくもない。尤も彼女に渡したら資金難に陥る度に売ってしまいそうだったので今は私が預かることにする、少なくとも今はまだ売っても良い時ではない。

 そして台車に載せた骨董品のほとんどを売り終えたところで旅を切り上げて、とうとう幽州まで引き返すことになった。

 

 まだ二人きりの旅を続けていたかったが仕方ない。

 それでも折り返しなのだ、すぐに旅が終わる訳ではない。今日取る予定の宿では風呂があり、適度な広さもあると噂で聞いている。

 桃香は力仕事担当、私は頭仕事担当。つまり宿の手配とかは私の役割なのだ。

 世の中には善意による悪行があるように、悪意による善行がある。そして良い宿を取り、力仕事で疲れている桃香を労うことは紛れもない善行なのだ。その意図が悪意に満ちたものであったとしても、結果的に彼女のためになるのであれば善行に換算される。さりげなく二人用の大きい寝台がある宿を選んでいたとしても、尤もらしい理由と正当性があれば問題にはならない。犯罪とは犯した時点で罪になるが、やましい事を頭で考えるだけでは罪にはならないのだ。

 故に私は何一つ間違ったことはしていない、証明完了。

 

 そんな訳で私は少しでも早くに彼女の温もりを身近に感じるために手を引いて宿に向かうのだ。

「ちょっと待ってよ〜」と困ったように告げる桃香もお構いなし、事は一刻を争うのである。何故ならば彼女との旅路で分かったことなのだが――ガシャンと皿が割れる音、急に立ち止まった桃香に私は転びそうになる。その表情は真剣そのもので――ああ、またか。と私は心の内側だけで頭を抱えてみせる。

 このお人好しは面倒事や厄介事を放っておくことができないのだ。

 

「あっちから音がしたよ、怒鳴り声を聞こえる……行こう、桜花(おうか)ちゃん!」

 

 これだから早く宿まで行きたかった。

 まあ今では慣れたことだし、そこがまた好きなところでもあるので咎めはしないが、しかし少なからず気落ちしてしまうのは許して欲しい。私を置いて音する方へと突っ走る彼女の背中を今度は私の方が「待ってよ〜!」と言いながら追いかけることになる。

 桜花が向かった先は酒場であり、その騒動の中心にいるのは墨で顔に大きく×と書かれた黄巾の男と筆を片手に悪どい笑みを浮かべて睨み返す女性。

 くつくつと女は相手を小馬鹿にするように肩を揺らしながら口を開いた。

 

「顔が悪い。今すぐ崖から飛び降りて、美少年に生まれ変わってから出直して来い、馬鹿者。ちなみに私は歳上よりも歳下の方が好きだから、今から死ねばまだ間に合うかもしれんぞ?」

 

 これはどっちが悪いのだろうか、クスクスと周囲から笑い声が漏れる。

 桃香が困惑した様子で私を見つめてくるが、いや、そんな顔で見つめられても困ります。

 お世辞にも格好いいとは言えない黄巾の男は、激情に顔を歪めて女を睨み返した。

 

「……なんだと、てめぇ! この黄巾が目に入らないのかぁ!?」

「見える、見えるとも、黄巾を振りかざさなければ何もできぬ不細工な顔がよく見えるねぇ」

 

 その言葉を聞いた男が怒鳴り声を上げようとした瞬間、女は袖口から何かを取り出してサクリと刃物を彼の頰に突き刺した。

 

「見るに堪えないね、皮を削ぎ落としてやろうかい? そうすれば今よりも見れる顔になるだろうねえ?」

 

 周囲がしんと静まり返る。

 黄巾の男は絶句したまま身動き取れず、「おやおや」と女は笑みを浮かべたまま眉を顰めてみせる。

 こいつはアレだ、関わってはいけない類の人間だ。桃香の服の袖を引っ張り、逃げるように促してみたが――「ま、待ってください!」という威勢の良い声と共に桃香は酒場に飛び込んでしまった。まあ、ここで止まるようなら私の知っている桃香ではない。彼女だけ置いていくという選択はなく、おずおずと私も彼女の背中に隠れながら酒場に足を踏み入れる。桃香は剣を抜いているのだが――果たして、その切っ先を向けているのは女か男か、どっちなのか。

 いや、どちらにしても絶対にあいつはやばい。関わるべきじゃないのは確かだ。

 

「ま、待って、桃香……あの人やばいって、絶対にやばいって……」

 

 チラリと二人を見る。

 頭に巻いた黄巾で脅そうとしていたから先に絡んだのは男の方のはずだ。それとも女が我慢できないほどに素行が悪かったのか、女の癪に障るようなことを男がしてしまったのか。

 何にせよ、女は無事で男は返り討ちにあっている。

 

「勝手に自分で助かったんだから、もう良いじゃない……」

「でも桜花ちゃん、あの人はいくらなんでもやりすぎだよ」

 

 それは分かっている、躊躇なく人の顔に刃物を突き立てるという彼女の異常さは理解できている。

 だから早く、この場から離れよう。

 

「悪いのは男の方だから、ちょっと強めのお灸を据えられたって思えば良いんだよ。きっと本気で顔を削ぐなんてしないって……たぶん……」

 

 再び女の顔を見る。彼女は私達のことを興味深そうに観察しており、男を刺していることなんて意にも介していない。

 

「やばい、あの人から罪悪感を全く感じないよ……」

「助けなきゃっ!」

 

 ああ、しまった。間違えた、つい本音を零してしまった。

 どうしよう、と頭を悩ませていると――女が男の頰を刺したまま口を開いた。

 

「君、剣を誰に習ったのかな?」

「私? えっと、慮植先生に護身用として……」

 

 女の問いに桃香は几帳面にも答えてのける。できるだけ関わりたくないのに身元がわかるようなことを言わないで。

 

「ほう、あの慮植か! 私塾を開いたという噂は聞いていたよ!」

 

 ほら食いついたじゃないか。

 ああ、もう、と両手で頭を抱えていると、にんまりと女は笑みを深めてみせた。

 

「この男を助けたければ、私の話を聞いて貰おうか」

 

 言いながら、男の頰を深く抉る女の姿に身震いする。

 こいつ、絶対に頭がイカれてる。

 

 

「くっくっくっ、貴様らの黄巾を漢王朝の火徳の色で染めてやろうではないか」

 

 激痛のためか、恐怖故か、

 気絶してしまった男が床に倒れており、その横で女が奪い取った黄巾で血を拭っている。

 その正面に座っているのは私と桃香(劉備)の二人だ。

 

桜花(簡雍)ちゃん、私が絶対に守ってあげるからね」

 

 桃香(とうか)は真っ直ぐな瞳で私のことを見つめながら、机の下で私の手を取り握り締める。

 あらやだ逞しい、惚れちゃいそうだ。

 

「こんな奴なんて放っておいて良いと思うのだけどね。度が過ぎたお人好しと言えないこともないが――まあ大人しくて何よりだよ」

 

 先程までよりも、いくらか柔らかい声色で女は呆れるような笑みを浮かべた。

 

「まずは自己紹介から始めよう。私の姓は徐、名は庶。字は元直だ」

 

 名乗られて私が戸惑っていると「私は劉備玄徳。姓が劉、名が備。字が玄徳です」と横に座る桃香が名乗り返す。

 まあそうだよね、名乗られたら名乗り返すよね。こんな奴と縁を紡ぎたくなかったが桃香だけに名乗らせる訳にもいかず、渋々と私も名前だけを端的に伝えた。盧植塾の三羽烏。地元では知られた名ではあるが、流石に他州にまでは知れ渡っていない。

 とはいえ私達が盧植塾の関係者だと知られたのは、少し前に桃香が口を滑らせてしまった通りである。

 

「盧植塾といえば公孫賛。お前達、公孫賛との伝手を持っていないか?」

 

 そう問われて、なるほど。彼女のまた公孫賛に仕官を望む者だったのかと見当を付ける。

 

「伯圭に何の用なの?」

 

 流石の桃香も徐庶と名乗る女に警戒はしているようだったが――その質問の仕方は悪い。

 

「ほう! 字で呼ぶとは随分と仲が良いようだねぇ」

 

 くつくつと喉を鳴らす徐庶、その彼女の指摘で気づいたのか「あっ」と桃香は小さく声を上げた。

 目の前に座る性悪な女は厄介なことに頭が切れるようだ。交渉の経験も少ない桃香では分が悪いと思い、ギュッと彼女の手を握り締めて、桃香の緑色の瞳を見つめる。二人で小さく頷き合って、桃香は小さく息を吐いて口を綴んだ。

 さて、ここからは私の役目だ。彼女とは関わり合いになりたくなかったが、事ここに至っては仕方ない。

 

「それで白蓮(公孫賛)に何の用事なのかな? 用件を聞かずに会わせる訳にはいかないよ」

「なるほど、そこまでの仲か」

 

 これは好都合、と徐庶はより一層に笑みを深めてみせる。

 

「そうだな、真名を預けるほどの仲となれば仕方ない。少し長くなるが……私も今の世の中を憂いていてね……少しでも世の為、人の為になろうと思って、今や時の人となりつつある公孫賛殿の元に……」

「絶対に嘘だ」

「ああ、嘘だとも、よく分かったね」

 

 言っちゃ悪いが公孫賛にそこまでの声望はない。

 今の御時世で一躍時の人と言えば、袁紹か曹操、もしくは孫堅のことを云う。そして名声頼りであれば、わざわざ辺境の公孫賛まで足を運ばないのが道理だ。行商での情報収集は真面目に行なっていたのだ、このくらいのことは分かっている。

 そんな公孫賛に仕官するのは地元の者か、何かしらの事情の持ち主、もしくは相当な物好きであると相場が決まっている

 

「まあ言うなれば人材不足なところが気に入っている。実績のない私でも簡単に軍師として取り立てて貰えそうだからね」

「素性の知れない、能力も未知数なのに軍師として紹介しろと? それは少し無茶じゃないかな」

「これでも水鏡女学院の卒業生なのだがね」

 

 そう言いながら徐庶は宝石を取り出したが、それが何を意味するのか私には分からない。水鏡女学院も名前だけは聞いたことはあるが、有名な私塾だということ以上は何も知らなかった。

 名士の間ではそれなりに知られた名ではあるのだけどな、と彼女は溜息交じりに呟いてみせる。

 

「まあいい、先ずは君達に私の実力を見せつけてやろうではないか。どうせ幽州までの道すがらの暇潰しだよ」

 

 そう言うと徐庶は桃香の方を向き直り、そして悪魔のように優しく微笑みかける。

 

「劉備と言ったね? 君は一軍の長になるつもりはないかな?」

 

 急に問いかけられて、きょとんとした顔をする桃香。

 うん、可愛い――ではなくて、こいつは一体何を言っているんだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

花芽吹く季節・結   -劉備組・徐庶元直

・劉備玄徳:桃香(とうか)
 盧植塾の卒業生。実家が豪農

・簡雍憲和:桜花(おうか)
 盧植塾の卒業生。実家が商家。

・徐庶元直:珠里(じゅり)
 水鏡女学院の問題児。


「君は一軍の長になるつもりはないかな?」

 

 そう話を切り出された時、私の中で漠然としていた目的が急に具体性を帯びた気がした。

 こんな世の中は間違っていると考えて、とりあえず行動を起こしてみたが、どのように間違いを正すのかは考えていない。ましてや今回の動乱、黄巾党の蜂起に関しては何も情報を得られていなかった。意外と桜花(簡雍)は悪いことは悪いと断じるところがあり、黄巾党に対しても賊徒と吐き捨てるだけだ。

 軍を持つ、という意味はまだ分かっていない。よく考え直すと蜃気楼のように朧げだ。

 

「馬鹿らしい。行こう、桃香(劉備)

 

 桜花(おうか)が呆れるように溜息を零し、私の手を引いた。しかし私は椅子から立ち上がることができない。

 

「ん、興味はないのか? 今の御時世、腕に覚えがある者であれば、大志の一つや二つ抱いてもおかしくあるまい」

 

 そんな私のことを見越してか、徐庶と名乗る女性が挑発的に問いかける。

 もう少しだけ彼女の話を聞いてみたいと思った。彼女は私達の知らないことを知っている、それは直感に近い。

 

「ごめん、桜花ちゃん。もうちょっとだけ話を聞いても良いかな?」

 

 こんな奴の話なんて聞かなくてもいいのに、そう言いたいのがありありと分かる顔をする幼馴染に苦笑する。

 

「さあ何を話そうか。軍勢を集める方法、成り上がるための手順、なんならいっそ旗揚げでもしてみるかな?」

 

 そのあまりにも自信たっぷりな姿にまた苦笑いを零す。

 先に出会った趙雲もそうであるが、こういう自分の実力を信じて疑わない笑顔を見るのは嫌いじゃない。

 その自信が実力に裏打ちされたものかどうかは、よく観察しているとなんとなしに分かる。

 

「私が聞きたいのは、本当に悪いのは誰なのかってことです」

 

 その問いに徐庶は呆れたように溜息を零して、口を開いた。

 

「そんなものは立場によって幾らでも変わる。人間というのは基本的に何を守りたいのか、で立ち振る舞いと戦う相手が変わってくる。何も守るものがなくなった時に人間は畜生へと成り下がるのだよ」

 

 例えば、こいつみたいにな。と徐庶は地面に倒れる黄巾の男の頭を蹴ってみせる。

「そういう君は何を守ってるの?」と桜花が突っかかるように問いかけると「私は私の価値を守っている」と徐庶は自信満々に答えた。曰く、私の才が埋もれてしまうのは世界の損失である、それこそが世界最大の悪である、と。

 じろりと睨みつける桜花を宥めつつ、再度、徐庶に問いかけてみる。

 

「質問を変えるよ、今回の動乱では何が起きているの?」

 

 きっと彼女なら私達では気付けなかったことを教えてくれると思うのだ。

 

「憶測の範疇を超えなくてね、まだ不確定なことを教えることはできない」

 

 それ見たことか、と鼻で笑う桜花を抑えながら徐庶に言葉に耳を傾ける。

 

「……ただはっきりと言えることはあるよ、黄巾党と黄巾賊は別物だ」

「黄巾党と黄巾賊が別物だって? どちらも同じ賊で間違いない」

 

 遂に我慢しきれなくなったのか桜花が喧嘩腰で突っかかると、徐庶は相手を馬鹿にするように一笑する。

 

「いやいや明確な違いはある。黄巾党には漢王朝に対する明確な敵意を持っているが、黄巾賊は今回の動乱に乗じて略奪や横暴を働いているだけに過ぎない」

 

 こいつのようにね、と彼女はまた黄巾の男の頭を蹴飛ばした。

 

「今の漢王朝は御世辞にも国の繁栄と安寧を守っているとは言い難いからね、民衆が怒りに任せて暴れるのも分かる。とはいえ名士にとっては漢王朝があってこそ国が成り立つと考える者も多くてねえ。漢王朝に矛先を向ける全ての民衆を逆賊と見做す者がいて、そういった者達が黄巾を付けた者達を一括して敵と見なしているんだよ」

「……結局、党も賊も同じ敵じゃない」

 

 桜花の言葉に、チッチッチッと徐庶は舌を打ち鳴らしながら指を振る。

 

「これらは違う敵だよ、君の言っていることは異民族全てを五胡と一括りにしてしまう程に愚かなことだね」

「つまり何が言いたいのよ」

「黄巾党には少なからず信念を持っている、漢王朝憎しっていうね。それが何なのか、扇動しているのは誰なのか、誰が今の絵を描いて、誰が書き直したのか。そして黄巾党は単一の組織なのか。それはまだ調べている途中だが……少なくとも言えることは、この動乱に便乗して動きを見せる者が多く居るということだよ」

 

 そして、と徐庶は私を見据える。

 

「劉玄徳、この動乱で漢王朝の築いてきた秩序は失われつつある。戦乱時は何時の時代も荒れているものだが――今や黄巾党に乗じた賊徒が大手を振って暴れることができる世の中だ。漢王朝の秩序が回復するか、次の秩序が生まれるか、それまで民衆の生活は常に脅かされ続けることになる。そのことを仕方ない、と君は片付けることができるのかな?」

 

 問われて、私は首を横に振る。

 今でも漢王朝の汚職は酷いと思っているし、官僚の横領も許せないと思っている。だからといって動乱で民衆の生活が脅かされて良いとも思わない。それは今の世の中を直すために必要なことかもしれない、次の世代のために今、しなくてはならないことかもしれない。

 しかし、今生きる者達を私は見捨てて良いとは思えないのだ。

 

「どうすれば良いの?」

 

 問うと徐庶はにんまりと笑みを浮かべて「先ずは力を付けることだ」と告げる。

 

「何かを守るためには力が必要になる、そして力を得るための知恵を私は持っている」

 

 どうする? と徐庶が確信を持った笑みを浮かべて問いかける。

 私の隣に座る桜花は何かを諦めたように溜息を零すのだった。

 

 

 今の御時世、骨董品を売り払って回る理由なんてのは限られている。

 良くも悪くも徐庶元直の名は名士の間では知られており、その変わり者の顔を一目見ようと家に招待されることは少なくない。そして冀州に入ってからは簡雍という名の商人が名士を渡り歩いて骨董品を売って回っている話も耳にしていた。中でも驚いたのは靖王に纏わる品を幾つか扱っていたことだ。

 しかし偶然とはいえ実際に出会った簡雍という娘は意外に若く、彼女の商人としての格と商品の格が釣り合っていない印象が見て取れる。

 それもまあ彼女が仕える少女の名を聞いて得心がいった。

 

 劉備、現皇帝に連なる姓の持ち主である。

 おそらく靖王劉勝の末裔である可能性が高いが、あの系図は途中で途切れているので確証を得ることは難しいはずだ。まあ、だからといって、どうこう言うつもりはない。今の御時世、下手に皇帝の末裔だと言い張れば、僭称だのなんだのとケチを付けられて討伐されるのが関の山、それに私にとって劉備が誰彼の末裔だという話は興味が唆られる程度でどうでも良かった。

 私、珠里(徐庶)にとって大切なのは、二人は公孫賛の親友であるという一手に尽きる。

 そして簡雍からは旗を上げるだけの気概や器量は見受けられず、あるとすれば劉備の方だと当たりをつけて、鎌をかけるつもりで問いかけたのだ。案の定、劉備は私の話に乗っかってきた。隣にいる簡雍は劉備の手綱を握っているつもりなのだろうが実際には反対で、劉備が簡雍の首輪を握っている。だから落とすのは劉備だけ良い、簡雍は後から転がってくる。

 実際、劉備が決定すれば、簡雍は何も言えなくなってしまった。

 

「先ずは君達が金を稼いだ後にどうするつもりだったのか教えて貰えないかな?」

 

 問いかけると劉備は誤魔化すように笑ってみせて、簡雍が金で兵を雇う以上のことは考えていないと告げる。

 

「馬鹿かね、君は?」

 

 思わず溢れた言葉に簡雍の眉間に皺が寄るが、まあまあと隣に座る劉備が宥めてみせる。

 その二人の姿を見て、まるで飼い犬だな、と心の中で零した。それもよく吠える小型犬のようなものだ。

 劉備も飼い主としての素質はまだまだのようで上手く躾ができていない様子である。

 

「何をするにしても金が必要になるのは確かだね。でも、その金の使い道を致命的に間違えているよ。君は本当に世の中は金だと声高らかに謳う商人の末席に居座る者かね?」

 

 あまりの馬鹿さ加減につい親切心から指摘してやると、簡雍はぷるぷると身を震わせて顔を真っ赤にする。隣で宥める劉備が咎めるように私のことを見つめてきたので、大人しく身を引いて話を進めることにした。

 

「……まあ仮に兵を金で雇ったとして、その後にどうやって兵を維持し続けるつもりだったのかな? 一時の賃金で生涯を尽くしてくれる人間がどれだけいる、奴隷でも買うつもりか? 奴隷は高いし、即戦力と云うには程遠い。それならば聞こえの良い言葉で兵を募って、衣食住の保障をしてやるだけに留めるのが上等だ。尤も君達にそれができるだけの勇名があればの話だけどね」

 

 では、どうするべきか。二人を見やり、暫く間を置いてから床に這いつくばっている男の首根っこを掴んで持ち上げる。

 

「こいつらを仲間に加えようじゃないか、こいつ自身を加えるかはさておきね」

 

 劉備と簡雍、二人が理解できないといった様子で私のことを見つめてくる。

 

「少し前に賊に落ちるような奴は守るべきものがない奴と言ったが……逆に言えば、守るものを失って生きるためだけに賊へと成り果てるしかなかった奴らが大陸には五万といるわけだ。天災続きの近頃、飢饉と横領で土地を捨てざるをえなかった者が数多くいる。そういった者達に衣食住を与えて改心させてやるのもまた世直しの一環だとは思わないかな?」

 

 物は言いよう、と簡雍が不機嫌そうに零した。

 しかし劉備は難しい顔で思い悩んでおり、なにやら葛藤しているのが窺える。

 どうにも彼女は損得だけで物事を判断できないような人間のようだ。

 それで良い、その方が良い。

 利益だけを求める人間は善悪の判断が付かなくなる、損得とは判断基準の一つに過ぎない。

 私の言葉に利があると認めながら悩める彼女は、存外に好ましかった。

 

「劉玄徳、世の中には完全に潔癖な者など存在しないよ。罪を犯した者を裁くしかないのであれば、大陸の半数以上が首を刎ねられなくてはならない。それでは世の中は回らない、だからこう考えるといい――罪を贖わせてやるのだと」

「……詭弁じゃないの?」

 

 口を挟んできた簡雍に、詭弁だよ、と答えてやる。

 

「詭弁で結構じゃないか、それで前に進めるのであれば安いものだね。悪行を悦楽とする自制心のない者に与える慈悲はないが、仕方なく悪行に手を染めた者達の首まで刎ねている余裕が世の中にはない。かといって赦しを与えてやる義理もない、であれば精々善行を稼いで貰って今まで積み重ねてきた悪行を償わせてやるのがせめてもの慈悲というものじゃないかな?」

 

 そう言うと簡雍が悔しそうに押し黙った。

 彼女とて私の言っていることを理解できないような間抜けではない、私と比べるから知性で劣っているように見えるだけなのだ。

 劉備は一人頷くと、穢れを知らないような綺麗な緑色の瞳で私を見つめる。

 なるほど、簡雍が守りたいのは、この目か。

 

「力を蓄えるだけなら、それで良いかもしれない。でも、その案を今すぐに受け入れることはできないかな……少なくとも賊を組み込むやり方は()()()()()()()()()()かな」

 

 強い意志を私に向ける。

 なるほど、ここで集めた兵を公孫賛に押し付けるつもりはないようだ。可愛い顔しておっかない。何処まで考えているのか知らないが、彼女もまた強い野心を持つ一人の人間のようだ。

 決して悪行を許容する訳ではない。自分の心の中にある天秤で善悪を推し量り、その上で目先の利益だけでなく、将来の損得すらも見定める。穢れを嫌っているのではない。世の中には必要となる謀略を彼女は認めているはずだ。

 だから考える、何が良くて何が悪いのか。真っ直ぐに生きようとする意思は、ただ真っ直ぐに生きることよりも尊くて難しい。穢れは恐れるものではない、かといって仕方ないと妥協して被るものではない。毒を食らわば皿まで、という言葉があるように明確な意志と覚悟を持って飲み干すべきものである。

 故に悪行とは損得だけで行うべきものではない。

 

「確かに……ではそうだね、少し手間がかかるが力の有り余っている暇な若者達を集めるくらいか。人間、悪行を重ねるよりも善行を積んでいる方が気分が良いものだ。衣食住の保障をしてやり、義侠のためと聞こえの良い言葉をかけてやれば――今の御時世だ、コロッと転ぶ者が大勢いるよ」

 

 ある一つの価値観に沿って生きるのは、最も楽な生き方なのだ。

 世の中は常に変化している、それに合わせて人間一人の立場も変化する。そして状況に合わせた立ち振る舞いというものが人間に要求されるものだ。変化とは即ち進化するという意味であり、進化の反対は衰退ではなく停滞になる。進化をするということは常に思考することと同義だ、進化を止めた時、人間は生き物としての価値を失いかねない。ただ一つの理念に殉じるのであれば、それ相応のやり方がある。

 少なくとも熟成させずに腐らせるなんてことは馬鹿のする行いだと思わないのか、そうなる者が世の中には意外と多い。

 過去に縋って今時の若い者、と口にする大半がそうである。

 

「その言葉が嘘にならないように頑張らないとね」

 

 私の考えはさておき、彼女のご立派な理念がどこまで持つのか見ものだった。

 そして彼女が折れなかった時、この動乱の世の中に如何なる花を咲かせるのか興味がある。

 今はまだ蒼天と黄天の入り混じる土地に植えられていた種が、芽吹いたに過ぎない。




目標、三日以内。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間幕・蒼焔      -高順

 世の中が荒れている。

 天災が重なったことで土地が痩せ、飢饉に陥ったかと思えば、賊徒が大陸中を荒らし回っていた。

 蒼天已死、黄天當立。と彼らは言うが、蒼天を黄色の虫が蟻のように群がり貪っているようにしか思えない。事実、黄巾賊が台頭し始めてから私達の暮らしは、より一層に貧しくなった。最早、食べる物にすら困っていると言うのに、賊徒は骨まで貪るように更なる苦難を私達に強いるのだ。

 許せなかった。暴力で不条理がまかり通ると思っている賊徒の腐った考えが許せなかったし、村の存続のために食料と女を差し出す皆も許せなかった。私が守る、と言い張っても、手を出すな、と彼らは怒鳴り返すのだ。村を守りたいと言うのであれば体を差し出す程度のことはして来い、と彼らは真顔で叫ぶのだ。

 理解ができない。自分だけが助かれば良いという考えも、それで村が助かるならばと真っ青な顔で村を離れた女も理解ができなかった。挙げ句の果てには私の寝込みを襲って、縛り上げてから賊徒に差し出そうとした者もいる程だ。

 村に住んでいる全員が狂っているとしか思えなかった。

 

 もし仮に彼らの暴力に屈して理不尽を許し続ければ、以後ずっと搾取され続けるということがどうしてわからない。

 そもそもだ。誰かが助けてくれると願ったところで戦いもせず、自ら進んで屈した者を誰が助けると言うのか。この御時世で生き残るためには戦うしかないのだ。

 私には我慢できない、理不尽な暴力に屈することなんてできない。

 

 村に標的を定めている賊徒は五十人も居れば多い方だ。

 その程度であれば私でも上手くいけば倒し切れる。せめて背中を守ってくれる誰かがいれば、正面からでも押し切れる自信はあるが――残念ながら私と一緒に賊徒と戦おうとする意思を持つ者はいなかった。ならばまあ独りでもやれるだけやってみるだけだと賊徒の通り道に身を伏せて待ち続ける。

 此処は週に一度、三十人程度を引き連れた賊徒が何処ぞの村へと食料を略奪しに行くのに使う道だ。

 草叢に身を隠して、息を潜めて、その時を待ち続ける。

 

「ぐぬぬ、まさか一人も釣れないとは……この徐庶元直の見通しに不備があったとでも言うのか……っ!」

「そりゃまあ、あれだけ上から目線で相手を小馬鹿にした態度を取り続けたらね。こんな有様でよくもまあ自分なら絶対だって大見得を張れたものだね?」

「真摯に話せばきっと分かってくれると思っていた時期が私にもありました……」

桃花(劉備)桃花(とうか)で自分のことばかりを語りすぎだよ、もっと相手に歩み寄らないと。理想でお腹は膨れないからね?」

「簡雍、さっきから文句ばっかりだな! そんなに言うならば次は君がやってみると良い、文句を言うだけならば誰でもできるからね。交渉の難しさを肌で感じると良いのだよ!」

 

 えー、と心底嫌そうな声が聞こえてくる。

 顔を上げてみると三人組の旅人らしき女性が何かを言い争いながら村へと歩いてくるところだった。これから何処に向かうつもりなのだろうか、この近くには賊徒が居るから危ない、と忠告して上げたほうが良いかもしれない。

 そう思ったところで彼女達の内一人がじっと私の方を見つめていることに気付いた。

 

「そこに丁度いい奴がいるな。行け、簡憲和殿」

「……何処に居るのよ。癪に障ったからって適当なことを言わないで欲しいんだけど? ただでさえ性格が捻じ曲がってるのに、頭まで可笑しくなったら誰が君の相手をするのよ」

「言ったな、簡雍。そこに誰かが居たら君には土下座をして貰うことに決めたよ」

 

 簡雍と呼ばれた女は黙り込むと暫し私の居る方を注意深く見つめる。視線はあっていないので私のことに気付いたわけではなさそうだ。

 

「……いや、訂正するよ。君がそう言う時は大抵、何かの根拠があってのことだからね」

「そうだろう、私程の人格者の性格が捻じ曲がっているはずがない」

「そこを訂正したつもりはないんだけど?」

 

 徐庶と簡雍の間に挟まれる少女。

 左右二人の剣呑な言い争いを困ったような、少し楽しんでいるようにも見える笑みで耳を傾けている。

 確か桃花と呼ばれていたか、ふと彼女は私の方を見つめると柔らかく目を細めて口を開いた。

 

「怖くないよ、出てきてくれないかな?」

 

 それはまるで小動物に向けるような声色だった。

 他の誰かであれば癪に障る物言いも今一時、不思議と苛立ったりすることはなかった。居場所が割れているのであれば、このまま隠れていても仕方ないと思って、ゆっくりと草叢から腰を上げる。「あ、本当に居たんだね」と零したのは簡雍、「私が言っているのだから当然だろう」とドヤ顔で告げるのは徐庶。そして桃香と呼ばれていた女性は「可愛い子だねぇ」と呑気なことを呟いている。

 実際、彼女達三人の身長は私よりも遥かに高かった。まだ膨らみかけの胸を持つ私を見て、彼女達が侮るのも仕方ないのかもしれない。

 

「可愛い? いやいや、冗談だろう?」

 

 徐庶が苦笑する、そんな彼女のことを訝しげに見つめるのは簡雍。桃香はじっと私のことを見つめながら笑みを崩さない。

 

「私達よりもよっぽど強いよ、こいつ」

 

 さりげなく徐庶が剣に手を添える。隣に立つ桃香が徐庶の手に自らの手を添えて、首を横に振った。

 

「怖がらせちゃ駄目だよ」

 

 観念したように徐庶は小さく息を吐いて、剣から手を離す。

 そんな不服そうな彼女に桃香は嬉しそうに微笑むと一歩、私の方に歩み寄る。

 おそらく彼女達三人の中では桃香が最も強い。徐庶は武芸の心得を持っているようだが私の相手ではない、簡雍は素人で警戒するに値しない。そんな二人の前に立つ桃香は、二人を庇っているようにも思えるが、その姿は無防備だった。事すれば片手に握りしめている槍で彼女の首を簡単に刎ねることができそうな程だ。

 そうであるにも関わらず、彼女相手に斬りかかれる気がしない。

 それは桃香が実力を隠しているというよりも、あまりにも隙だらけで、彼女から敵意を欠片も感じ取れなかったためだ。殺意を向けられてでもいれば、咄嗟に人殺しの決意を固めることができる。しかし、こうも無警戒に接せられては敵意が削がれるというものだ。そして彼女の今立っている位置は、私の間合いから一歩遠かったりする。

 桃香のことを推し量っていると、不意に彼女は両手を広げて懐を晒した。

 

「私の名は劉備、字は玄徳。真名は桃香」

 

 簡雍が驚きに身を強張らせて桃香のことを見つめて、徐庶は感心するように溜息を零した。そんな後ろの二人のことなんて、どこ吹く風よと彼女は私だけを見つめている。

 

「安心して私は貴方の敵じゃないよ」

 

 優しく微笑みかけられて、私は握り締めていた槍の穂先を地面に向ける。ここまでされてしまっては、もう私に打てる術がない。

 

「高順、字はない。真名は(しぃえん)、ほむほむって呼んでも良いよ」

「ほう! では、ほむほ……」

 

 間合いを一瞬で詰めて、ヒュッと彼女の頰の皮一枚を掠めるように槍を突き出す。

 その瞬間、桃香は視線だけで私のことを捉えており、徐庶は私が威嚇の攻撃を仕掛けた瞬間、身動き一つ取れずに視線だけが遅れて動いた。簡雍は影すらも追いきれなかったようであり、風が吹き抜ける数秒後に「ひゃん!」と小さな悲鳴をあげた。

 徐庶は引き攣った笑みを浮かべたまま、へたりと地面に腰を落とす。

 

「貴方に真名を許した覚えはないよ?」

「わ、わかった! ああ、わかったとも、訂正しよう! 愛称だったら良いじゃないかと思ったんだよ、だって真名の読みと似ても似つかないじゃないか!」

「ん、私も不備を認める。ごめんね?」

 

 ヒュンと槍を回しながら持ち直して、桃香の方を見つめると彼女は苦笑しながら「あんまり怖がらせてあげないでね」と少し前に誰かに向けられていたものと同じことを口にした。

 

「なるほどなるほど、徐元直殿。貴殿にも苦手な相手はいるようだね?」

「……私も人間だからね。神は人間を不完全に作った、何故ならば人間に成長の機会を与えるためだ。神は人間に寿命を与えた、何故ならば人間に勉学や鍛錬に励むよう促すためだ。神は完全であるがために怠惰で嫉妬深く、高慢で傲慢だ。それ故に色欲が強く、なんでも自分の物のように思い込んでいる。完璧であるが故に完璧以外の結果を認められずに神は簡単に癇癪を起こして怒り狂うのだよ。そんな身内に呆れ果てたからこそ、神は不完全でも完璧以外の結果を受け入れることで成長できる人間をお作りになられたのだ」

「その癪に障る物言いも今は愉快で仕方ないよ」

 

 簡雍が楽しそうな笑みを浮かべながら手を差し伸べたが、その手を徐庶は受け取らずに地面に座り込んだままだった。それでも強気の笑みを崩さずに彼女は言い放った。

 

「腰が抜けて立てない」

「……愉快で痛快すぎると笑うよりも呆れが先に来るものなんだって今知ったよ」

 

 くつくつと楽しそうに肩を揺らしながら、どうして欲しいの? と簡雍は勝ち誇った顔で問いかける。

 

「私を背負って欲しい」

「図々しいな、私に背負えると思ってるの? 肩を貸してあげるから自分でも立ちなさい」

 

 よっこいしょ、と簡雍が徐庶の体を持ち上げる。その様子を桃香はどこか嬉しそうに見つめており、そして徐庶は不服そうな顔で簡雍に支えられながら私を見据える。

 

「高順……で良いんだね? 良さそうだね、よし」

 

 何を恐れているのだろうか、彼女は自らに言い聞かせるように何度も頷いてから言葉を続ける。

 

「君は何を待ち伏せていたのかな?」

 

 その問いに私は、賊、と短く答える。

 桃香が目線だけで簡雍を見やり、簡雍は呆れたように肩を竦める。その彼女に肩を借りている徐庶は浮かべた笑みを手で隠して、いかにも相手を気遣っているように私のことを見つめた。

 そして徐庶は合図を送るように桃香に目配せし、桃香は応えるように小さく頷き返す。

 

「良かったら私達に話してくれないかな? もしかしたら力になれるかもしれない」

 

 言いながら手を差し出す桃香の目を見て、なんとなしに彼女が嘘を言っているわけではないと思った。

 だからといって簡単に手を取るほど、私は純粋でもない。彼女が差し伸べてくれた手を無視して、「さっさと離れた方が良い」と端的に告げる。信じることはできないが、決して悪とも呼べない彼女達を戦いに巻き込みたいとも思わない。まあ尤も離れるというよりも逃げた方が良いのだが。

 徐庶が一人、ふと思いついたように顔を上げて問いかける。

 

「……高順、答えて欲しい。待ち伏せていたということは、()()()()()()()()()()()()()()だったということだな?」

 

 首肯する。

 

「ならば、()() ()()()()()()()()()()()()?」

 

 その追求には首を横に振る。

 

「……っ、劉備、簡雍、もう手遅れのようだね。軍師が十全に力を発揮するためには充分な情報が必要であると嫌でも思い知らされるなあ……やっぱり情報だよ、情報を制するものは天下を制する。如何に私が優れた頭脳を持っていたとしても、与えられるべきものを与えられなければ宝の持ち腐れというものだよ」

 

 やれやれと徐庶は溜息を零した。

 強がっているが、まだ腰は抜けたままのようだ――震える足に活を入れながら腰に差していた剣を鞘から引き抜いた。

 戦うつもりなのだろうか。つい先程、彼女を威嚇した時は私の動きを目で追いかけることはできても体の方が追いついていなかった。鍛錬不足なのは明白、戦力として数えるには心許ない。精々、自分の身を守るので精一杯だろう。

 それから数秒遅れた桃香が二振りの剣の内、一方だけを鞘から抜き取った。彼女の方は幾らか武芸の心得を感じられる、氣の気配も感じられる。少しは戦力になりそうか。

 最後の一人、簡雍は急に臨戦態勢に入った二人を見ても身動きが取れずに狼狽えており、「桜花ちゃん、後ろに下がってて」という言葉で漸く状況が読めたようで、「そこの草叢にでも隠れていると良い」という徐庶に言われて慌てて、先程まで私が隠れていた場所に身を隠した。彼女は足手纏いだが身の程を弁えているようだ、もうずっとそこで隠れていて欲しい。

 私が先頭、桃香と徐庶が左右に控える陣形を取る。この時に桃香が左を陣取ったのは、私の利き腕が見越してのことなのだと思う。

 

「……お人好しだね」

 

 あはは、と劉備がだらしなく笑ってみせると「それが生き甲斐みたいなものですので」と返してから表情を引き締めた。徐庶は漸く足腰に力が戻ってきたのか片手に剣を持ったまま、腕を組んで不敵に笑みで前を見据えている。

 

「して高順、敵の手勢は如何程かね? 遠目から見るに五十は超えないと思うが――目の前の賊だけが全てではないだろう?」

「正確には分からない。村の皆は何万人って言うけども、私が確認したのは多くて三十人前後。……生贄にされた子は何十人だって言ってた。皆、頭に黄巾を付けてるよ」

「成程、同じ黄巾でも賊の方だな。本拠には多くとも五十人程度であることを願っているよ」

 

 神頼みとは我ながら極まってるな、と徐庶が舌打ちする。

 

「ああもう間諜の一人や二人、欲しいなあ! こうね、パンパンと手を叩いたら何処からともなく現れる感じのやつをさ! ところで簡憲和殿、ちょっと敵本拠まで斥候を頼めないかね?」

 

 ふざけんな! という怒声が草叢から発せられた。

 

「そもそも敵本拠って何処よ! 天才軍師なら、なんかこう地形とかから割り出すことはできないの!?」

「できるさ、私を誰だと思っている。徐元直様だよ!? 候補地を絞ることなんざ朝飯前、しかしどの候補地に潜んでいるかまでは分からんね。それを探るためにも、“行け、簡憲和殿!”という訳だ、分かったかね?」

「分からないね! 森羅万象を読み解く智謀の持ち主と自負するならば候補地を一つまで絞りやがれってもんよ!」

「私の頭にあるのは問題を解決するための公式だよ。公式で答えを求めるには変数に数字を代入しなくてはならない、代入するための数字――即ち情報がなければ答えを導くことなんて不可能だということがどうして分からない。こんな様で君は劉備の知恵袋の気取っているのかい? それとも今の説明で理解できたかね? これでも私は君のことを少し頭の回転が遅いだけで馬鹿ではないと認めているつもりなんだよ。理解できたなら、“行け、簡憲和殿”だ! 骨は拾ってやる、身元が分かるものを身につけておきたまえ」

「ちょっと元直ちゃん、桜花ちゃんを使い捨てにしないで欲しいな」

 

 むうっと頰を膨らませる桃花を前にした徐庶が流し目で草叢を見つめて「庇われて悔しくないのかね」と挑発的に告げる。

 

「むしろ幸せですがなにか!?」

 

 開き直ったような叫び声に徐庶が心底呆れたように深く溜息を零した。

 いよいよもって混沌としてきた様相に、大丈夫、と私は指先を使って槍を軽く振り回してみせる。

 

「私一人だと難しい……でも二人が背中を守ってくれるなら百人は殺せる。本拠にいるのが百を超えないなら大丈夫」

「頼もしい限りだよ、いや、まったくその通り、いよっ高順殿! それでも万が一を考えるのが軍師の性でね。幾つもの可能性に備えて、それらにそなえた策を幾つも用意しておくことが常道ではあるけども……正直、可能性を並べたところで立てられる策がない。いやはや資源管理も軍師の腕の見せ所ではあるのだけどね。たった一つの策も実行できない状態では敏腕を振るうことも叶わないなあ、あっはっはっ!」

「元直ちゃん、なんだか自棄になってない?」

 

 桃香が心配そうに徐庶を見つめる。

 

「いや、冷静さは欠いていないよ。心配御無用、ただ最善策が脳筋万歳でしかないことに世の無情を噛み締めていただけだよ」

 

 言いながら徐庶が正眼に剣を構えた、その基本に忠実な素直な構えに少しの驚きを覚える。

 

「武も一種の理の追求みたいなものだろう?」

 

 そう言いながら彼女は長く細い呼吸を取る。

 視線は鋭く、全神経を敵に向ける。その集中力は周囲の空間を丸ごと巻き込み、適度な緊張感を私達に齎した。

 唾を飲み込む、そして私自身も意識を集中させる。

 

「……大丈夫、私が倒す」

 

 もう敵はすぐそこまで近づいていた。

 遠くに見える黄巾を被った賊徒、悠々と近づいてくる彼らを視界に捉えて、自然と槍を握る手に力が篭る。

 心が殺意に満たされる。抑えきれない衝動、高まる鼓動、絶対に許せないと魂が叫んでいる。脳裏に過ぎる、彼らが行ってきた悪行を。部屋の中で天井に吊るされていた縄の意味を思い返す、思考が真っ黒に染まるのを感じる。

 しかし、その衝動に決して身を委ねようとは思わなかった。

 

「私もいるよ」

 

 桃香の囁くような声に一瞬、少しだけ気持ちが緩んで、その直後に強く心が引き締め直された。

 深呼吸をする――目を閉じて、大きく息を吸い込んで、ぐつぐつと煮え滾り、今にも吹き出しそうな想いと共に息を吐き出した。高揚している、緊張もしているのだと思われる。どうしようだとか、憎いとか、そういった想いは今は汲み取らない。ただ殺す、ひたすら殺す。殺意とは言葉ではなく、行動だ。

 吐き出したくなる気持ちを押し殺して、意識を鋭利に研ぎ澄ました。周囲から雑音が消え失せる、なのに風や枝葉の掠れる自然音が耳に入る。ギュッと時間を濃縮する、触れる全てを感じ取ることができる気がする。もう一度、大きく息を吸い込んで、酸素で肺を満たした。空間一つを丸ごと取り込むように――もう何も恐れることはない、と目を開いた。

 すぐ近くまで迫っていた黄巾の賊徒、そのにやけ面を認めた瞬間、伸ばされていた手を切断する。

 相手の理解が追いつく前に首を刎ね飛ばした。

 

 ただ殺す、

 意識を深く深く深淵の奥底まで深く沈みこませる。

 ひたすら殺す、

 殺意の海に全身を満たして、魂までもを殺意の純一色に染め上げる。

 宙を飛んだ血潮の一滴に至るまでを掌握し、その先に漸く意識が追いついた者の額、その黄巾ごと穂先で突いた。瞳がグルンと上を向き、ヌルリと抜き取った穂先をそのまま横に薙ぎ、また別の誰かの頸動脈を綺麗に斬り裂いた。ピュッと血を噴き出しながら横に崩れる男――その動きが遅すぎたから槍の逆側を使って、その脇腹を横に打ちつけてどかした。前に出る、一歩、二歩、漸く敵が動きを見せ始めた。いち早く腰に下げた剣に手を添えた男の手首を切り落とし、後ろに退いた女を追いかけるように腕を伸ばして、その豊満な胸の間に穂先を食い込ませる。穂先を引き抜いた動きに逆らわず、すぐ横でなくなった手首を抱えながら蹲る男の額を穂先で切り裂いてやった。

 この時点で何人殺したか、人数なんて関係ない。全員殺す、ただ殺す。何の感慨もなく、気概すら必要とせず、ひたすら殺す。

 漸く切りかかっていた男、思いっきり振り被られた剣を無視して、がら空きの腹を横一線に斬り裂いた。それでも男は止まらずに私の体に抱きつこうとしてきたが、その横っ面に思いっきり蹴りを入れて吹っ飛ばした。隙ができた、目を動かして周囲を見やる。横へ横へと流れるような視界の中で目に映った全ての動きと、その一秒後の予測を頭に入れる。怯えて竦んでいる者は放っておいても良い、倒すべきは今の隙を逃さずに切りかかってきた者達だ。横に草を薙ぐように地面を削った。舞い上がった砂煙と砂利で数人の視界を削ぎ、その目潰しから逃れた男が横から私に切りかかる。

 その胸を突いた。男は血を吐きながら私の槍を掴んで更に一歩、前に踏み込んだところで絶命する。

 瞬間、してやられた、という思いが脳裏に過ぎる――視界の端で砂煙を意にも介さずに突っ込んできた者を捉えたが、肉に深く食い込んだ槍を咄嗟に引き抜くことができなかった。素手で対応すべきか、いや、この人数を相手に槍なしで対処することはできない。どうすればいい、と迷った時には手遅れでもう避けるのも――――

 

「たあぁっ!!」

 

 ――桃色の髪が翻る、桃香が横から男の脇腹に剣を突き刺した。

 しかし彼女も咄嗟の行動だったのか周囲の警戒を怠っており、僅か数歩であるが突出してしまった。標的が変わる、数人から同時に狙われる桃香から敵を振り払うために、穂先に敵を突き刺したまま槍を思いっきり縦に振り被る。

 

「はぁぁっ!」

 

 気合いを吐き出した。

 ただ敵を振り払うための一撃は誰にも当たらず、地面に叩きつけられた。穂先に引っかかる肉体は、その衝撃に耐えきれず、ひしゃげて潰れた。ぐしゃり、とも、びちゃり、とも呼べる惨状、血肉は弾けて、骨すらも砕けて、原型すらも残らない。叩きつけた地面を中心に真っ赤な華が咲き誇る。飛んだ肉片は黄巾を汚し、血は雨のように降り注いで私の体を汚した。鉄の臭いが充満する、その湿気を帯びた空気は質量を帯びているようにすら感じられる。

 間が空いた、私は小さく呼吸を整えなおして構えを取る。

 敵は臆している――よし殺そう、なら殺す。一歩、思い切り踏み込んで、先頭にあった黄巾の額を目掛けて、穂先で貫いた。首は千切れる、頭蓋が砕けた感触を得る。そのまま敵衆に乗り込み、首級を上げられるだけ上げ連ねる。臆して竦んだ者は後回しで殺す、逃げる者から優先的に殺す、切りかかる者は事のついでに殺す。殺して、殺して、殺し尽くして、何時の間にか視界には黄巾を付けた者が居なくなって……いや、一人残っていた。

 徐庶が捕らえていた男を目掛けて突っ走る。

 

「待てッ!」

 

 と大声で叫ばれて、寸前、彼の額から矛先を逸らした。

 側頭部を斬り裂いたが、まあ骨までは至っていない。男は大粒の涙を流しており、股間部に大きな染みができてしまっている。

 鼻先を掠める尿臭に顔を顰めながら、徐庶に問いかける。

 

「どうして止めたの?」

「一人くらい残しておかんと敵の本拠地が分からないだろうが、馬鹿め。頭は筋肉の鍛える場所ではない、頭は使うためにあることをよく覚えておけ」

 

 そう言うと彼女は男と何かを話し始める。

 息を吐いた、まだ熱が残っている。まだ終わっていない、まだ殺す。

 意識はまだ敵対時のものを維持し続ける。

 

「大丈夫?」

 

 不安げに問いかけられる、振り返ると桃香がいた。

 何処か切られてもしたのだろうか、試しに体を見回すも切り傷一つ見当たらない。

 だから「大丈夫、返り血だから」と告げると彼女は複雑そうに眉を顰めた。

 

「よし敵の本拠地がわかった、もう敵は十人と居ないようだね。この機に殲滅するよ」

 

 徐元直が告げると私は頷き返した。

 不安そうに私のことを見つめてくる桃香に「大丈夫」ともう一度、告げる。

 草叢に隠れていた簡雍は腰を抜かしていた。

 

 そのままの勢いで本拠地を潰し終えた。案外、あっさりと。特筆すべきことが見当たらない程にあっけない。徐庶が賊徒の溜め込んでいた財宝を見つけて、「ご苦労、ご苦労、こいつは私達が有効に使わせてもらうよ」と悪どい笑みを浮かべていたのが印象的だった。

 

 それでまあ賊退治を手伝ってくれた彼女達のために村まで案内をすることになった。

 せめて一泊だけでも休んでもらおうと思ってのことだが――村はずれで私達の姿を見た村人の一人が慌てた様子で村へと走り、そして村に足を踏みいれようとした頃には村人全員が私達を待ち受けていた。どうにも歓待ではなくて迫害の方であった。

 村に入れてなるものか、と村人全員が総出で私達の前に立ち塞がり、石を投げつけられた。

 

「よくも手を出してくれたな、この疫病神めっ!」

 

 投げつけられた石の一つが頭に当たって、血が流れる。

 褒めてくれるとは思っていなかったが――やはり彼らの考えは理解ができない。

 

「これはまあ随分と嫌われているようだね」

 

 徐庶が小馬鹿にするように笑みを浮かべてみせる。

 

「こんな奴らのために命を張るとは君の物好きにも……」

「徐庶、今は黙るべきだよ。君の気遣いは気遣いになっていない」

 

 簡雍が口を挟んだ。徐庶は何も言わずに肩を竦めると、引き下がって桃香の肩をポンと叩いた。

 桃香は悲しそうに顔を俯けた後、私に向けて笑顔を作ってみせる。

 

「行こう?」

 

 差し出された手に、血塗れの手を重ねる。

 これから先のことを考えられない、手を取った理由もよくわからない。

 今となっては彼らを助けた理由もわからない。

 でも放っておくこともできなかった。

 

 今はもう心残りはない。

 心残りがなくなったから彼女の手をあっさりと取れたのかもしれない。

 いや、でも、ただ一つだけ心残りがあった。

 

「最後に、墓参りを」

 

 心を壊して自殺した友人を埋めた場所が村はずれにある。

 誰の手も借りたくなくて私一人で土に埋めた、墓標はない。でも場所は覚えている。

 最後に祈りたい。それでもう、さようならだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間幕・風は吹いている -程立仲徳

 風が吹き込んできた。

 墨の匂いが篭る部屋の中、開けた窓から冷たい空気が肌に触れる。

 心地良い眠気を誘うような微睡んだ空気が追い出されて、眠気が覚めるような新鮮な空気が私の周囲を包み込んだ。息を吸い込むと肺に溜まった淀んだ気持ちを包み込んで、吐息と共に口から吐き出される。胸の内側が少し綺麗になった気分になる。瞼の裏、目の奥に巣食うような鈍く重い感覚に頭を二度、三度と軽く叩いて、気を持ち直す。体を揺するようにお尻の位置を整える、肘を持ち上げて大きく肩を回した。すると心持ち体が軽くなり、少し頭も冴えてきたところで机の上に開かれた書籍の頁を指先で摘み、墨で引っ付いた紙と紙の隙間をぺりぺりと丁寧に剥がす。外から枝葉の擦れる音が耳に入り、私の前髪を揺らした。

 此処は揚州、襄陽郡。袁術が拠点に据える街の一角、袁術軍の重臣である楊宏の屋敷。

 世の中は黄巾党の起こした動乱で騒がしくなっているというのに、此処は――いや、この空間は長閑だった。今頃、城では賊徒を討伐するための作戦が考えられている頃合いであり、訓練場では賊徒を討伐するための軍勢の編成が行われているはずである。兵糧を集める為に重役達が街を駆けずり回り、これは商機だと商人達が目を輝かせており、鍛冶屋は丹精込めて練り上げた鉄を蓄えながら賊退治から戻ってくる兵達を待ち侘びる。

 戦時中というのは良くも悪くも街を賑やかにさせる。

 実際に武器を手に戦ったり、賊に襲撃を受けたりしなければ、所詮は他人事、大半の人間が目先の利に群がり、利に聡い人間がより大きな機に備えて力を蓄える。

 それすらも我関せずと屋敷に引き篭もる私は椅子から立ち上がり、パタンと窓を閉じた。

 

 私、程立仲徳は俗世から隔絶した空間で書籍を読み耽ることのみを良しとする。

 

 この世界には私の知っている人間が存在している。

 実施に会ったことはない、話したこともない。それは相手のことを歴史上の人物として知っているという意味でもなければ、風聞を耳にすることで間接的に知っている話でもない。

 でも確かに私は誰かのをことを知っている。

 頭の奥底に大事にしまわれた宝石箱、今はまだ思い出すことのできない記憶が封じられている。開けたくとも箱には鍵が掛けられているようで、またその鍵は錆びついてもいるようで穴に合う鍵を見つけても完全に開けることは叶わない。その箱が開くのは私の知る誰かの顔を実際にこの目で見た時であり、強い既視感と共に白い靄のかかった朧げな記憶が甦る。僅かに開いた箱の隙間から覗き込むように、隙間から溢れる記憶の残り香を嗅ぎとるように。私の知らない記憶の映像、触れ合った感覚が脳裏に浮かんだ。最初はなんとなくといった程度のものであったが、何度か繰り返される内に意識するようになり、今では嘗て確かにあった記憶であると確信を得ている。

 それは夢の世界の出来事かもしれない、もしくは前世での出来事かもしれない。私は誰かのことを知っている。

 しかし、それはこの世界での出来事ではなかった。

 

 物心が付いた時から私は頭の中に記憶の宝石箱があることに勘付いていた。

 そのことを確信をしたのは旅先で(郭嘉)と出会った時のことだ。戯志才と名乗る彼女が偽名を使っていることは直ぐに見破ったが、彼女の本名が郭嘉であると知っていたことに関しては異常と呼ぶ他にない。彼女が頭の回転の早さゆえに知恵熱を出して、鼻血を吹き出す姿には懐かしさを覚える程だった。

 二人を旅を始めて数日した時、初めて会った気がしない、と彼女は零したのは今も強く印象に残っている。

 真名を教えて貰った時、初めて彼女と顔を合わせた時に思い浮かんだ名と同じ真名だった時にはズキリと心が痛んだ。騙しているつもりはないのに騙しているような気になった。それは気のせいに違いない、と開き直ることはできても、彼女とは同じ世界に生きていないという錯覚に陥る。同じ場所に立っていながら、同じ時間を生きていない。手を伸ばせば届く距離に在りながら、お互いの心は決定的に擦れ違っている。そんなどうしようもない距離感を私は埋めることができず、勝手に孤独感に苛まれて、自己嫌悪にじゅくりと心を蝕まれる。

 正直なことを云えば、この世界に対して苛立ちすら感じていた。

 

 また少し経って、(趙雲)が旅の仲間に加わる。

 彼女との出逢いでまた私の宝石箱は僅かに開き、彼女が近い将来に私達と別れて、いずれ強大な敵として立ち塞がることを予見する。

 しかし、この時はまだ私達は仲間だった。

 星は変な性格をしているが面白い。また普段は飄々とした態度を取ることが多いが、その本質は人懐っこくて可愛らしいところもがあった。例えるならば、まるで高貴な白猫のような人物。猫と同じく実際に言葉にすることはないが、私の方から近寄ると、貴方如きが私に釣り合うと思って? と適当にあしらわれてしまうのだ。逆に適度に距離を置いていると彼女の方からそっと距離を詰めて、仕方ないから貴方に私の相手をさせてあげるわ、と身を寄せてくる。寂しかったり辛い時には、彼女は勝手に隣に座って独り酒を呑み耽る。月が綺麗だから、とか、風が気持ちいい、とか、雑な理由で偶然を装うのだ。酔いを求めれば、彼女は優しく微笑んで懐から新たな杯を取り出してくれる。独りで呑むには必要のない杯、こんなこともあろうかと、彼女は予備の杯を何時も持ち歩いている。

 彼女との距離感を摑むことは難しいが、一度、摑んでしまえば彼女ほど可愛らしくて甲斐甲斐しい人物もそう居ない。

 

 そう思うと気づけば、彼女の服の裾を引っ張っていた。

 (せい)が振り返る。彼女は笑みを浮かべたまま、相手の思考を読み取ろうと私のことを見つめ返した。

 ん、どうしたのかな。(程立)殿? ――そう真っ直ぐな瞳を向けられて、喉まででかかっていた言葉を飲み込んでしまった。あのー、そうですねー、と間延びした声で目を背ける。心が萎縮していた、胸の動悸が強くなっている。真っ直ぐに彼女の目を見ることができず、改めて彼女と向き直った時には笑ったふりをして目を細めた。

 それから動揺を隠すように誤魔化すように明るい声を心がけて、

 

 やっぱりなんでもありません、と返す。

 

 これが私の限界だった。

 それからも何度か彼女を呼び止めようと試みたが結局、口にするところまで届かない。

 今を全力で生きる彼女があまりにも魅力的で眩しく思えたから自分勝手な理由で呼び止めて良いとは思えなかった。それが曖昧な記憶、未来を知っているというだけで彼女の将来を歪めてしまうことは間違っているように思えて仕方ない。(りん)に対してもそうであり、二人のことを触れ難い宝石のように感じている。

 彼女達と同じ時間を生きていない、そのことが私にとって酷い劣等感を抱かせる。

 

 丸一日、机に向かって書籍を読み耽る日々、

 目に疲れを感じると部屋に備え付けの寝台に身を放り投げる。気怠さが全身にのしかかり、ずぶずぶと体が布団に沈み込んだ。

 この世界が退屈だと感じるようになったのは何時からだったか。何をしていても楽しくない、世の中の全てが面白くない。この世に生まれ落ちてから今に至るまで競争というものに興味を持てない性根で、無気力に生を謳歌してくることが多かった御身分ではあったけども――それでも未来を知っているということは、私には酷く興が削がれることだった。何処の誰とも知らない人物の記憶に振り回されるのは嫌だったが、かといって未来が分かっているのに手を打たないというのも馬鹿らしくて仕方ない。

 枕に顔を埋めたまま鬱憤した気持ちを大きく吐き出した。

 つまるところ私は何をしたところで楽しくない。

 

 この世界で私は独りで立つこともできずにいる。

 

 主君探しの旅に出ている時、ピンと来たのは曹操だった。

 稟は別れる間際まで曹操のことを称賛していたので、旅がいち段落すれば曹操の下に向かうのだと思っている。自然な流れで言えば、きっと私も曹操の下へと馳せ参じ、彼女の躍進を手助けする一人になっていたに違いない。しかし、今となってはそうすることはあり得ない。何故ならば私は曹操の真名を知っていた、遠目に彼女の顔を確認した時に記憶の宝石箱から彼女の真名が零れ落ちた。

 だから私が曹操の下に馳せ参じることはあり得ない。

 

 実は稟と出会ってから、ずっと考えていたことがある。

 この旅を終えたら何処かに身を隠して、俗世から離れた隠居暮らしを考えていた。

 晴れた日には田畑を耕して、雨が降れば書籍を読み漁る。必要以上に誰かと関わることをせず、誰とも関わろうともせず、土と語り合いながら田畑に実る小さな恵みに感謝する。そんな日々の幸せを噛みしめるような生活こそが私には必要なんじゃないかなって、そう思った。稟が聞けば卒倒してしまいそうな話だが――いや、彼女は意外と相手のことを尊重してくれるから、案外あっさりと受け入れてくれるかもしれない。それとも貴方のような体格で農業なんてできませんよ、と率直に言ってくれたりするだろうか。

 そんなことを考えていると、くすりと含み笑いが耳に入る。此処には自分の他に誰もいない、ということは笑ったのは――そういうことなのだろう。想像するしかない未来を考えることは少し楽しい。

 そんな未来に手を伸ばそうとすれば、人生も少しは楽しくなったりするだろうか?

 

 袁術軍に身を寄せたのは見知った顔が誰もいなかったからだった。

 曹操軍は勿論、袁紹軍と孫堅軍にも既視感を覚える者がいた。それでまあ言伝を聞いて回って、私と縁がなさそうな勢力を並べた中で最初に縁を得たのが袁術軍という話である。極端なことを言ってしまえば、仕える相手が劉耀や陶謙であっても構わなかった。もちろん楊宏という人物に興味を抱いたというのも嘘ではないが、それだけが決定打という訳ではない。

 そして、そんな心持ちでいるから仕事に対する意欲なんて出るはずもなくて、楊宏の食客という身分に甘んじていたりする。

 

 名門袁家の重鎮というだけあり、彼女は実に金払いが良かった。

 初対面の者を相手に、使用人を五人は雇える金額を生活費込みの小遣い代わりにポンと手渡してくれるのだ。

 その金額の多さに最初こそ驚いたが、後々、冷静になって考えてみると、楊宏は最初から路銀として握らせただけで持ち逃げされることまで想定していたのではないだろうかという結論に達した。

 きっと親切心からの贈り物であったのだろう。

 しかし、この事実に辿り着いた時、私の矜持が傷ついたことにはたして彼女は気付いているのだろうか。

 

 手渡された金銭は、即日全て書籍に変えてしまった。

 この棚の此処から此処までを全て、と一度は言ってみたかったことを本屋の店主に言い付けて、帰りは人夫を雇って運ばせる。居候の豪快な散財っぷりに政務から帰ってきた楊宏も引き攣った笑みを浮かべていたが、そこはまあ腕によりをかけて作った夕餉で誤魔化した。余談になるが私は料理の腕には自信がない。美味しくもないが食べられない程でもない。美味しいか不味いかで問われれば、不味いといった程度の腕前である。そんな程度の味しか出せないので、私自身はしっかりと外で食事を摂っていたりする。

 楊宏は外で食事を摂ることは少ない。酒を飲んで帰ることはあっても、あまり食事を摂らず、しっかりとした足取りで屋敷に帰ってくる。宴会などの日取りは早いうちに教えてくれるし、その日であっても彼女が酔い潰れることはない。泥酔した姿が見てみたくて、酌をさせて貰ったこともあるが――彼女は極端に酒の進みが遅くて、私の様子を伺いながらチビチビと酒を舐めるように呑むのだ。それでも少し顔を赤くしてしまう辺り、酒に強いということはなさそうだった。

 今では書籍を読んでいるふりをしながら、眉間に皺を寄せて私の作った夕餉を口に運ぶ彼女を盗み見るのがちょっとした楽しみになっている。

 

 高質な布団に体を埋めながら、もぞりと体を動かした。

 日中は書籍を読むか、布団で寝転がるか、簡単な家事もするが適当で良い加減なものだ。

 日頃、部屋で読んだら寝るという日々を過ごしている。もう布団には私の匂いが染み付いている、部屋には紙と墨の匂いが染み付いている。この部屋に居ると安心する、もうこの部屋は私の空間だと体が認めている。

 少し眠ってしまっていたか――少し軽くなった体を起こして、枕元に置き捨ててあった書籍を手に取り寝台の縁に腰掛ける。

 書籍は膝上に置いて、綴られた一字一句を指でなぞりながら読み耽った。情報を頭に詰め込むだけならば、十数分もあれば書籍を一冊、読み切ることができる。じっくりと読み込んだとしても半刻(一時間)も必要としない。

 ただ今は情報を欲している訳ではない、書籍を読む行為そのものに意味があった。頭の中を空っぽにして、放っておいても働いてしまう脳を休ませるように文字の世界へと誘われる。本棚から丸ごと買い取った書籍には私が今まで触れてこなかったさまざまな書籍があり、最近では詩集なんかに嵌っていたりする。

 甘酸っぱい恋心、書き綴られるは想いの丈、繊細な言葉使いで記されている。目を閉じれば、瞼の裏に情景が浮かび上がる。呼吸をすれば空気を感じ取れる。橋の上に立つ二人の男女、その恋の行方は何処に向かうのか。残念ながら、その結末は書かれておらず、ただ筆者の想いの残り香が心を満たす。

 心地よいに読後感に満たされながら、細く長い息を零した。

 屋敷に受け入れられてから優雅で和やかな毎日を過ごさせて貰っている。こんな調子で良いのかと不安を感じてしまうほどに袁術軍での暮らしは平和そのものだった。

 満たされている、満たされているはずだ。世間一般的な感性で言えば、幸福と呼べる毎日を送っている。

 溜息が漏れる、重苦しい吐息。ふとした瞬間、今の暮らしに空虚さを感じることがある。

 幸せというのは単純なようで難しい。

 

 ごぉんと鐘が鳴る。

 暮六つ時を告げる音、時間も良い頃合いになってきた。

 さて、と気を取り直した私は帰ってくる家主のために夕餉の仕込みだけでも済ませようと布団から身を起こす。ゆったりとした足取りで本棚に向かって、鼻歌交じりで書籍を漁り、五胡の珍味と書かれた書籍を手に取った。この前の時は東の島国の調理法が記された書籍を読んで納豆の仕込みを終わらせた。今はじっくりと熟成させている、なんでも腐りかけが最も美味しいらしい。

 無論、毒味役をして貰うのは私の御主人様(暫定)、今から彼女の反応を見るのが楽しみだった。

 こういう時は心が満たされている。

 

 人間という生き物は、かくも強欲な生き物だったのかと悲嘆せずにはいられない。

 いや、それとも――(ふう)が強欲なだけでしょうか?




遅れて申し訳ない。
これから暫く袁術勢力になります、目標一週間以内。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

包の三日天下・壱   -袁術軍

・魯粛子敬:(ぱお)
 袁術配下。執務室勤務の軍師志望。


 どうやら魯粛子敬は天才のようです。

 幼い時から控えめに云って、人並み外れた記憶力を持っていた私は齢十歳にして屋敷中の書籍を読み尽くし、軍人将棋に至っては十二歳で相手になる者がいなくなってしまった。大の大人が私に教えを請う有様であり、そんなことも分からないんですか? と得意顔で定石とやらをご教授してやる。

 年配の方から先生と呼ばれるのは気分が良いものであり、苦しゅうない、と扇子を開いてパタパタと自らを扇いだ。

 

 人生に虚しさを感じるようになったのは十五歳を過ぎた頃合いだ。

 これは類稀なる才覚を持つ者の宿命と呼ぶべきものかもしれないが、私には私を理解できる友達と呼べる存在がおらず、そして私の相手に足り得る好敵手と呼ぶべき存在がいなかった。周囲には私と同じ次元でモノを語れる者がおらず、幼少期から退屈な思いをさせられる羽目となった。

 部屋に押しかけてくる大人達の相手を続ける日々、うちの息子をどうだ、と言われても苦笑を浮かべながら丁重にお断りをする。私から軍人将棋で一度でも勝つことができることが最低条件と言えば、村の大人達の全員が私から目を逸らして、翌日から縁談の話が忽然となくなってしまった。書籍を抱いて寝る女、と村の男達に罵られたこともあったが、誰彼構わず男を抱いて寝る女よりも健全なのではと思わざるを得ない。せめて私の話す内容の一欠片でも理解できる頭を持ってから出直して来いと切に思う。なにより私は腕自慢の逞しい男よりも知的で頼り甲斐のある男の方が好みだった。

 満たされぬ日々を送る、部屋の窓から夜空に浮かぶ満月を見つめながら溜息を零す。

 これが天才として産まれてしまった代償なのかもしれない、きっと世に伝わる歴史上の偉人達も私と同じように誰からも理解されない孤独を味わったのだろうと部屋で独り納得するように頷いた。それから先も良縁には恵まれることなく、自慰に耽るように歴史書を読み漁って、過去の偉人達の偉業に触れることで孤独感を紛らわせる――他の誰もが気付かなくても、(魯粛)だけは貴方の事を分かっていますよ。

 数多の偉人を胸に抱きながら、祈りを捧げるように眠る日々を送る。

 

 更に数年が過ぎて、

 黄巾を頭に巻いた賊徒が大陸全土に出没するようになった。

 人生というものに退屈をしていた私は、戦乱の世の前触れに恐怖するよりも先に心が踊った。何時も読み込んでいた歴史書に書かれるような時代が訪れたのだ。数多の英雄が鎬を削って争う時代の幕が開ける、こういった時代には必ずと言っても良いほどに天才と呼ばれる人間が輩出される。それは王佐の才と呼ばれた張良であったり、太公が望んだ者と称される呂公、軍事の才においては他に追従を許さない白起も忘れてはならない。そんな時代だからこそ、もしかすると私に匹敵する才覚を持つ者と出会えるかもしれない、という期待を胸に抱かずにはいられなかった。そういった者達と鎬を削り合ってみたい、それこそが孤高の天才である私の願いである。

 そんな私が村を出ることを決意したのは必然だったと思っている。

 あの時、胸に抱いた高揚感を今も忘れていない。

 空虚な退屈さで埋め尽くされた灰色の記憶、何処までも突き抜ける青空に吹き飛ばされた。風は吹いている。何処までも、私の旅路を祝福するように、これから私が進む道を吹き抜ける。それは私が何処までも歩けることを示しているかのようにも感じて、ならば歩こうと思った。何処までも、行けるとこまで歩いてみようと思った。

 旅立ちの時、村の若者達からは後ろ指を差される。上には上が居る、井の中の蛙、書籍狂いの気違い、男ではなく書籍と結婚した女。そんな罵声の数々を耳にして、言いたい奴には言わせておけば良い、と私は鼻で笑い飛ばす。

 ああでも、と最後に村の方を振り返って告げる。

 

「だって包は天才ですから」

 

 貴方達とは違うんですよ、と僻む彼らに同情心からの言葉を送る。

 私が天才である以上、世界が私という存在を欲しているのだ。そんな世界に愛された私が皆から嫉妬を浴びるのは、天才が天才である所以、謂わば宿命と呼ばれるものに違いない。まだ見ぬ誰か、私と同等以上の才覚を持つ相手を求めて私は旅に出る。

 後ろから怒声が響き渡ったが、もう雑音なんて耳に入らない。鼻歌交じりで小躍りするように歩を進める。そういえば彼らの内で誰一人も名前を覚えることはなかった、と今更ながらに気付いた。

 そのことも三日が過ぎた頃にはもう綺麗さっぱりと忘れてしまった。

 

 

 数ヶ月後、

 私は独りだけの執務室で頭を抱えている。

 机に並べられるは書類の束、床に積み重なる木簡と竹簡の山、部屋の隅に固められるのは不祥事の箱、

 頭に詰め込まれるのは数字に数字、また数字、食事を摂る時も頭の中で常に数字が蠢いている有様で、夜中になれば数字に溺れる夢を見る。その数字も全てが黒色であれば良いのだが、血に染まったような赤色ばかりで手が付けられない。

 仕事を続けるのも億劫になった私は、深い溜息と共に背凭れに体重を乗せた。良い椅子を使っているようで優しく私の体を受け止めてくれる、目を閉じるとそのまま眠ってしまいそうだった。これを作ったのは誰なのか、何処かに銘が彫られてあれば良いのだが――そんなことを考える。天井を見上げる、ぼんやりと染みの数を数える。頭が休息を欲している、心が気落ちしてしまっている。それもそのはずで、机の上にある書類のほとんどが問題だらけで手に取るのも億劫な程だった。

 不自然に足りていない税収、水増しされる請求書、定型文のような報告書、どうせ誰も真面目に確認をしていないと高を括ったような舐め腐った書類ばかりが執務室に届けられるのだ。もういっそ書類を読まずに全部、送り返してやっても問題ない気がしないでもないが、こんな惨状であっても百に一つ程度は真面目な報告書を見つけてしまうのがまた面倒だった。そうであっても確認をしない訳にはいかないので――とりあえず報告書未満の紙屑の裏に名前を書き連ねて、次の書類に目を通す。斜め読みすること十秒未満、どうせ横領や着服をするならもっと上手くやりやがれ、と及第点以下の代物に赤筆で大きくバッテンを付けた。これはもう私のことを舐めていると云うよりも、この書類がまかり通っていた前執務長と各部署、各県令の癒着が酷かったのだろうと考え直す。

 私が赴任するまでの間、よくもまあ勢力としての体裁を保ててきたものである。

 

 此処は荊州南陽郡にある袁術軍の居城、

 こんなどうしようもない勢力になんで仕官をしてしまったのか――包は今、激しく後悔をしています。

 

 私が袁術軍を選んだのは、私にとって手頃な勢力であったためだ。

 袁術軍には目立った軍師がおらず、口煩そうな老臣がいない。功績を持つ武将も少なかった。そうであるにも関わらず、大陸全土で見れば有数の力を持った勢力であったので、身一つで成り上がるにはお手頃な勢力だと思ったのだ。しかし袁術軍に軍師希望で仕官した私が配属したのは執務室であり、待ち受けていたのは書類、書類、また書類、そして書類に次ぐ書類の束、書類の山、その書類のほぼ全てが問題を抱えている有様だった。

 当時、私の上官であった執務長の下には毎日のように不自然に重たい菓子折りが届けられる。箱に添え付けられた手紙と書類、手紙だけを確認して、書類は読まずに承認の判子が押される。こういった業界には多少の不祥事があることを知っているが――流石にそれは拙いのでは、と私が問いかければ、お得意様だからね、と彼はにこやかな笑みを浮かべて答えてみせた。そして口五月蝿い部下を黙らせるように書類の束を手渡される。その場で書類を流し読みしてみるだけで分かる拙い不祥事の数々、そのことを私が指摘しようとすると彼は、判子を押すだけの簡単な仕事だよ、と私の言葉を遮って告げる。不満はあったが、もう彼には私の相手をする意思はないようで菓子折りの中身を確認する。チラリと見える黄金色の菓子を目の端に捉えて、私は不満を飲み込んで自分の席へと戻った。

 こんな有様では軍師云々の話ではない。

 私は自分が使う判子などを懐に納めて、資料を求めて独り書庫へと赴いた。

 

 翌日、纏めた資料を届けに執務室に足を運んだ。

 遅いぞ、何処に行っていた。という彼の言葉を無視して、不祥事の在り処と合わせた資料をドサリと机の上に置いてやる。無言で見返してくる執務長、それを渾身のドヤ顏で迎え討つ。そのまま黙して睨みつけあった後、彼は大きく溜息を零すと資料を見ずに横にどかしてのける。

 そして、ポンと自らが持っていた承認の判子を押した。

 

「魯粛君、仕事の邪魔だよ。どかしたまえ」

 

 なるほど、そう来ますか。

 冷めた心で笑みを浮かべる私は資料を引き取ろうと手を伸ばすも、これは貰っておくよ、と不祥事を纏めた紙だけを抜き取られてしまった。余計なことをしてくれる、と彼は私の目の前で紙を細かく千切って墨に浸す。私は黙したまま目を伏せた、そして小さく深呼吸をしてから改めて笑みを作って頭を下げる。

 後で絶対に後悔させてやる、と心に誓って。

 

 彼を失脚させることは赤子の手を捻るよりも簡単だ。

 何故なら私は幼い時から控えめに云って、人並み外れた記憶力を持っている。

 不祥事を纏めた控えは、私の頭の中に残っている。

 

 ――以上が今から一ヶ月前の出来事になる。




目標、一週間以内


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

包の三日天下・弐   -袁術軍

・張勲:七乃(ななの)
 袁術の片腕、袁術軍を実質的に掌握してる人物。
・雷薄:二実(つぐみ)
 袁術配下、張勲派閥。主に武官として活躍している。
・雷緒:影実(えみ)
 雷薄とは双子の妹、袁術軍に名が記されていない人物。

・楊宏大将:四ツ葉(よつば)
 袁術の懐刀、張勲に次ぐ側近。
・程立仲徳:(ふう)
 楊宏の居候。
・李豊:三日月(みかづき)
 袁術配下。特に名言していないけども楊宏派閥。

・袁姫:結美(ゆみ)
 袁術の妹、表舞台には姿を現さない。
・閻象:五色(ごしき)
 袁術配下、侍女として代々名門袁家に仕えている。


 美羽(袁術)様に近寄ってくる者の全てが敵だった。

 まだ私、七乃(張勲)が美羽様の片腕として認識される前、今以上に幼かった美羽(みう)様を丸め込んで自らの傀儡にしようと企てた袁家の者達がこぞって集まったのが今の袁術軍の前身になる。血筋の正当性を根拠に袁術側に付く物好きも多かれ少なかれ存在していたが、美羽様を好んで袁術側に付いた者は私以外に誰一人として存在しなかったに違いない。少なくとも四ツ葉(楊弘)は血筋の正当性を理由に袁術側に付いた口であり、六花(紀霊)は皆が袁紹側に付いてしまったら可哀想だからという物好きに分類された。

 仮にも主君である美羽様を、甘言を用いて我が手足の如く扱おうとする側近の厚かましさに嫌気が差した者達のほとんどが袁紹軍へと流れていき、また能力よりも賄賂の方が重視されてしまう組織体に自らの実力に自信を持つ者達が袁紹側に付いた。

 そんな有様であるから袁術軍と袁紹軍では実力に差がある。

 結果的にではあるが名門袁家に根付いていた癌は全て、袁術軍が引き取る形になり、残った者達で新たに勢力を立ち上げたのが今の袁紹軍だった。粛清を行うこともなく、見事に患部のみを切除した形での独立を果たした形になる。

 つまりまあ名門袁家の悪い部分のみを残した袁術軍は、どうしようもない、というのが私の本音だった。

 

 今より三週間前、

 私と四ツ葉(よつば)の元に告白書が届いた。

 告発者は魯粛、知らない名前だった。何枚にも重ねられた紙にはぎっしりと文字が綴られており、その全てが名門袁家にまつわる数々の汚職と、その汚職に関する証拠の在り処であった。すぐに私は手の者を用いて告発書の内容を確認させると、その告白書に書かれた情報が全て正しいという結論に落ち着いた。

 

 そして一週間後(今より二週間前)、私と四ツ葉は決断に迫られる。

 私の屋敷、完全に防諜を整えた環境で机の上に置かれた告白書を二人で睨みつけながら唸り声を上げていた。

 この告発書に対して、私と四ツ葉の意見は完全に食い違っていた。この機を逃したら次の機会はない、という私の粛清論に対して四ツ葉は、此処に書かれている者全員を処分すれば袁術軍が回らなくなる、という意見を返す。事実、四ツ葉の意見は正しくて、魯粛の告発書に書かれた人物は袁術が抱える官吏の半数を超えている。中には汚職の元締めの名前まである始末だ。故に四ツ葉は袁術軍の体裁を保つためにも、段階的に粛清をすべき、という提案をする。少なくとも元締めを一人、処分してやるだけで汚職を抑制することができる、というなんとも能天気な意見であった。

 私の考えは彼とは違っている、あいつらは汚職の専門家であり保身の権化だ。時間を与えるとあの手この手を使って抜け道を見つけ出すと絶対的な防壁を築き上げるに違いない。故に今しかない、まだ防衛線を築いていない今、粛清の炎を用いて一気呵成に奴らを根絶やしにするべきだ。

 別に全員を粛清する必要はない、と四ツ葉はあくまでも穏健的な姿勢を崩さない。無法地帯になっているのは犯罪を取り締まる者がいないからだ、きちんと犯罪を取り締まる者がいれば自ずと犯罪も減る。と彼はお優しい言葉を口にするのだ。

 いずれにしても粛清には準備が必要であり、その根回しのために私達は分かれて動くことになる。

 結論は粛清の準備が出来てから改めて意見を交わしてから出すことになった。

 

 四ツ葉には城外、私は城内。

 護衛として六花(紀霊)を連れた四ツ葉が城を出て行ったのを見送った私は、二人の人間を屋敷に呼び出した。

 一人は雷薄、真名は二実(つぐみ)。袁術軍では武官として名が知られる少女、袁術軍の中では兵を纏めるのが上手いと言われている。もう一人は雷緒、真名は影実(えみ)。雷薄とは双子の妹であり、彼女は袁術軍の人物表には名を記されていない人物だ。

 二人共に私個人に忠誠を誓ってくれる人物であり、私個人の意見を聞き入れてくれる数少ない味方だった。

 

「ねえねえ七乃様、私達を呼び出すってことはまた悪いこと企んでるんだよね? 次はどんなことをしでかしちゃうの?」

 

 目を輝かせながら身を乗り出す妹に、こら、影実! と二実が声を上げる。

 

「ちゃんと敬語を使いなさい、それにはしたないわよ。七乃様、いつも妹が無礼で申し訳ありません」

 

 深々と頭を下げる二実に、ふーんだ、と影実が不貞腐れた顔で乱暴に椅子へと座り直す。

 

「二実ったら固すぎるのよ。それに、ちょーっと私よりも生まれるのが早かったからってお姉さんぶらないで欲しいんだけど?」

「たった数十分でも私の方が生まれるのが早かったんだから私がお姉さま、妹を立派な淑女になるように世話を見るのが姉としての務めよ」

 

 それに呼び捨てはやめなさいって何時も言ってるじゃない、と付け加える姉に影実は目を逸らしたままだんまりを決め込んだ。

 こんな二人ではあるが無能ではないのだ。孫家の将とは比べものにならないどころか、袁紹軍の両翼である顔良と文醜の足元にも及ばないが――それでも袁術軍においては貴重な使いようのある人間だった。

 私は手を叩いて、二人の注意を引いてから用件を言い渡す。

 

「これから袁術軍の塵を一掃したいと思います。犯罪者は獄を抱かせ、悪党は労役を課し、塵屑は処刑台にて吊るしましょう」

 

 楊弘を城から追い出したのは邪魔をされないためだ。

 あのお人好しは倫理と道徳を優先し過ぎる癖がある、故に合理的な思考を損なわせることが多々あった。

 粛清は躊躇してはいけない、粛清をする時は徹底しなくてはならない。後に禍根を残してはならない、仮に禍根を残したとしても自然淘汰される程度には徹底して力を削がなくてはならないのだ。それに下手に余力を残させてしまった結果、死に物狂いで反抗された時が最も厄介であり、そうなってしまった時の損失は膨大なものになる。そして今でさえ瀬戸際にある袁術軍には、その内部抗争に耐えきるだけの体力がなかった。

 そんな合理的な結論とは別に、私は純粋に塵屑達のことが気に入らなかった。楊弘も気に入らないが彼はまだましだ。彼は美羽様に忠誠を誓わずとも、美羽様のことを想っての行動であることは分かっている。

 だが塵屑めは、あろうことか美羽様を手篭めにすることに躊躇しなかった。まだ子供もできない年齢から既成事実を作ってしまおうと考えた人間以下の屑がいて、子供の内から快楽漬けにして何も考えられない傀儡にしようとした塵がいた。

 故に私は確信を持って天へと問いかける。

 

 塵屑を殺すのに理由が必要あるのでしょうか、と。

 

 名門袁家の癌を身を切るように摘出する、一切合切の全てを悉く殺して殺し尽くせ。

 これから始めるのは南陽郡を血で濡らす大粛清の始まりだ。但し、美羽様の玉座は汚させない。何故なら彼女には豪華絢爛、我儘放題、ド派手で頭が悪そうな黄金色こそがよく似合うのだ。

 与えられた期間は一ヶ月間、兵法の極意である拙速を尊ぶの真髄を見せて差し上げます。

 

 進む道を血で舗装する誘いに「喜んで!」と快諾する雷姉妹。

 粛清を終えた時、袁術軍は一時的な機能不全に陥るだろうが生き残れば問題ない。

 どんな無茶無謀も生きてさえいれば、どうとでもなる。

 

 

 首が飛んだ、幾つもの首が地面に転がる。

 ただ死刑を通告するだけの裁判を経て、翌日、また首が飛ばされる。

 城壁の外に文字通りの首塚が築き上げられて、少し離れた山の麓に胴体が糞尿と共に埋められた。疫病が蔓延しないために木屑と共に燃やされたが、果たして何処まで意味があるのか分からない。

 張勲の粛清は怒涛の勢いと呼ぶに相応しく、たったの二週間で処刑の段取りから執行に至るまでを終えてしまった。彼女の抑止力である四ツ葉が居ないにしても、ここまでの速度を誰が予想したか。誰が予測できたのか、全ての咎は張勲に集束する、何故なら袁術は彼女の傀儡なのだから。全ての罪は張勲に集められる。後はもう計画書にある通り、淡々と、粛々と、獄に閉じ込められた反逆者を粛清していくだけだった。

 その凄まじさに私、李豊は、三日月(みかづき)は震えずにはいられない。その悍ましさは私の許容範囲を遥かに超えている。死臭がする、血の臭いが収まらない。その様相は正に地獄と呼ぶに相応わしい有様であった。

 最早、まともではないと感じた私は筆を取った。

 次は私かも知れない、助けて欲しい、と震える手で手紙を書き綴る。

 

「やめておいた方が良いですよ?」

 

 ひゃんっ! と誰かの声に悲鳴を上げながら振り返ると、扉の前には頭に人形を乗せた少女が飴を舐めながら立っていた。

 

「李豊さん、もしも何かが起きた時、貴方を頼れと楊弘さんから聞いています」

 

 不躾にも無断で私の屋敷へと上がり込んだ少女は、なに食わぬ顔で部屋を見渡しながら歩み寄って来た。

 一応、知らない仲ではない。とはいえ彼女のことを詳しく知っているわけでもない。言葉を交わしたのは数えきれる程度、彼女は四ツ葉様の屋敷に住む使用人だったと記憶している。正式に、そのように聞いた覚えはないけども――初めて会った時は四ツ葉様から居候と紹介を受けていた気がする。

 名は確か、程立と言っていたか。あまり自信はない。

 

「貴方は監視されているのですよ、楊弘派の一人として。手紙なんか出しちゃったら獄送りか、良くても騒動が終わるまで取り取調室に行くことになりますかねー? 貴方は何もしていないと聞いていますので処分はされないとは思いますけども、やっぱり殺されるかもしれないと怯えながら拘束されるのは嫌ですよねー。いやはや風達……いえ、私達は今回の件については完全に部外者となってしまったようです。見たところ貴方は氣の扱いもまだ充分に体得できていないご様子で……」

 

 今はまだ鍛錬を重ねている身ではあるが、氣を練る程度のことはできる。

 そう言い返そうとすると彼女は、何故なら、と天井を指で差してみせる。

 

「ここに刺客が一人、隠れていますよ」

 

 その瞬間、カタッと天井裏で小さな音が鳴った。

 

「いけませんねー、こんな調子では私の護衛役は務まりませんよ?」

 

 程立は私のことを挑発的に流し目で見ると、寝台の上にちょこんと腰を下ろした。

 

「私達に粛清を止める手立てはありませんよ、何故なら私達には止めるだけの力がないからです。武力、権力、財力、その全てが足りていませんからねー。だから私達は粛清が終わるまでの間、部屋の隅で震えて待つしかないんですよ」

 

 程立は胸元で両手をギュッと握り、がたがたぶるぶる、と楽しそうに小声で口にする。

 こうして見ると可愛らしい子供のはずなのだが、どうにも胡散臭さが拭い切れない。

 それに今の状況も掴めているわけではない。現状の把握に思考を費やそうとすれば、そうそう、と程立はまるで今思い出したかのように言葉を紡いだ。

 

「私は楊弘さんから、このようにも言われているのですよー。本当にどうしようもなくなった時は貴方を守って欲しい、と」

 

 この子は私が見張っておきますよー、と程立は何処かに潜む誰かに伝えるように声を大きくした。

 カタッと小動物が動いたような音が天井裏より聞こえる。何処かに去ったのだろうか。注意深く気配を探ってみるが分からない、おそらく誰もいないと思うが――視線を落とすと程立が悪戯っぽい笑みを浮かべながら私のことを見つめていた。

 そして寝台に腰を下ろしたまま私に手を差し伸べてくる。

 

「以上が私の御主人様のお話ですが……ですが私、ちょっとお姉さんに良いところを見せときたいのですよねー」

 

 協力してくれませんか、という程立の誘いに私は何も答えられなかった。

 どういう意図の発言なのか分からず、ただただ困惑するばかりで一向に状況が掴めなかった。

 少し性急過ぎましたでしょうかー、と間延びした声で仕切り直すと、少女は添えるように口元を飴で隠した。

 

「よお、嬢ちゃん。あんた楊弘ってヤローにゾッコンなんだろう? ここらでちょっと良いところを見せてやろうぜ?」

 

 そんな言葉と共に急に彼女の頭の上にある人形が喋った。

 腹話術だろうか。いや、ちょっと待って欲しい。今、この人形は、いや、少女が? どっちだって構わない。この人形は今、何を喋った。四ツ葉様のことをヤロー? ――いや、私が四ツ葉様にゾッコンと?

 彼女が言った言葉の意味を正しく理解した時、ぽふんと頭の中で何かが弾けた。

 顔が耳まで熱くなる。

 

「なななななにを言っているのででですかぁーっ!!」

「あ、こら。宝譿、初心な乙女に愛だとか恋だとか直球に聞いてあげるのは御法度なのですよ」

 

 メッと可愛らしく頭の人形を叱る少女

 愛だとか、恋だとか。何を言ってくれちゃっているのか。私は女で、四ツ葉様も女だ。女同士で好き合うとかありえない、はしたない! いやでもギュッと抱き締めたい、守りたい。しかし、それは純粋に四ツ葉様のことを慕っているだけであって、襲いたいだとか、無理矢理に唇を奪いたいとか考えている訳ではないのだ。あわわ、はわわ、と真っ赤になる顔を抑え切れず、何故か頭の中の巡る妄想を止めることができない。そんな白馬に乗った私が彼女の危機に駆け付けて、そんなはしたないですわ、と逃れようとする四ツ葉様の手を掴んで強引に接吻を迫るなんてひゃわわわわっ!

 

「女同士でとかありえませんっ!」

「……女同士? あれま、知らなかったのですか?」

 

 そう言うと程立は私に歩み寄ると、ここだけの話ですよ、と私にそっと耳打ちする。

 ごにょごにょと知らされた衝撃の事実に、ぼふんと私の頭は爆発した。そのまま全身の力が抜け落ちて、足から崩れ落ちるように前のめりに倒れ伏せる。

 その時、打ってもいない鼻から赤い液体が垂れるのを感じ取った。

 

「初心な乙女には少しばかり刺激が強すぎましたかー。いやはや女心とは複雑怪奇なものですねー」

 

 意識を失う寸前、そんな間延びした声が聞こえた気がする

 

 

「……そう李豊が動いたのですね、それって大丈夫なの?」

 

 寝台に寝転がったままの少女が問いかける。おそらく、と私が返す。

 此処は美羽様の後宮になるが、彼女自身は美羽様ではなく、美羽様が寵愛する誰かでもない。ただ彼女の顔付きも美羽様とよく似ていた。名門袁家を象徴する金色を身に纏っており、その衣服や装飾の質は美羽様が着ているものと比べても遜色ない。

 それもそのはずで彼女は美羽様の血縁者であり、名を袁姫と云う。真名は結美(ゆみ)

 

「彼女には程立と呼ばれる者が付いていますので、最低限の期待には応えてくれると思いますよ」

 

 私が答えると、程立? と結美様が可愛らしく首を傾げた。

 

「楊弘の居候だか、侍女だか、よく分からない者です。ただ頭は切れるみたいですよ」

「ああ、思い出したわ。確か御姉様が最近、よく会っているっていうあの。珍しいわよね、御姉様は張勲と楊弘、あと貴方くらいにしか心を開かないというのに」

「妹様にも心を開いておいでですよ」

 

 どうかしらね、と結美様は肩を竦めながら自嘲する。

 彼女は美羽様の妹ではあるが、その存在は秘匿されがちだ。袁家の後継者争いの発端とならないようにと先代の当主様が匿い、嫡子である美羽様が名門袁家を継ぐように工作を為された。そして後継者ではなくなった結美様は争いの火種とならないように誰も使っていない後宮で匿われるようになり、美羽様の身に不幸があった時の予備として生かされ続けている。尤も結美様の生活は不幸と呼ぶ程でもないし、きちんと両親からの愛情も注がれていた。むしろ政争の道具にされないように丁重に扱われていたとも言える。

 まあそれでも袁紹とかいう糞のおかげで名門袁家が真っ二つに割れてしまっているのだから笑えない。

 結美様自身も自分の存在が袁術軍にとっての爆弾であることは自覚しているようであり、その身を公に晒すことは少ない。おかげで美羽様に妹が居ることは知られていても、その姿を知る者は少なかった。外に出してあげたいとも思っているが、私腹を肥やすことを趣味とする保身の塊が跋扈する今の袁術軍では難しい。

 それも今回の粛清で制限を緩めることもできるはずだ。

 

「分かってると思うけども貴方には李豊と程立の補佐を任せるわよ。こんな性急な粛清には冤罪がつきものだし、情状酌量を認めなければ袁術軍に残る人材は一割にも満たないのでしょう?」

「その通りです、できる限りの事はさせて貰います。張勲は少しばかり感情で動き過ぎますよ、逆に楊弘は優しすぎて謀略には不向きですね」

 

 まあ、と私は付け加える。

 

「幸いにも程立は私の存在に勘付いているようですので最悪は免れそうです」

 

 あら凄いのね、と少女が笑ってみせる。

 

「名門袁家に代々仕える情報屋の存在を嗅ぎ取るだなんて、その子はとっても優秀なのねぇ」

「諜報部の名折れですけどねぇ……お互いに上手く連携して、できるだけ救ってみせますよ」

 

 問題があるとすれば、と私が口にすると結美様が声を重ねて二人で口を揃える。

 

「李豊」

 

 そして、お互いに大きく溜息を零すのだ。

 李豊は軍人としての素質は人並み以上に持っているが、明らかに謀略向けの人物ではない。

 上手いこと程立が誘導してくれることを祈るばかりだ。

 

「まあ任せたわよ、五色(ごしき)

 

 その言葉に私は深々と頭を下げて、御意、と短く答える。

 

 

 この時、ほとんどの人物が魯粛の存在を意識の外に置いていた。

 ついでに言えば、袁術が何をしようとしていたのか配慮に入れていた人物はほとんどいなかった。




慣れない話を書いているので手探り状態、目標一週間以内。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間幕:風の心変わり  -程立仲徳

 此処は荊州南陽郡、

 私、(程立)は居候している屋敷で将棋を嗜んでいる。

 対面で将棋盤を睨みつけるのは家主の楊宏。身長は私よりも頭二つ分ほども高くて、黒色の髪は背中を覆い隠すほどに長い。普段は温厚そうな顔付きをしている彼女も今だけは眉間に皺を寄せて唸り声を上げている。そんな彼女が睨みつける盤上に、私も視線を落とす。状況は私の優勢、どうにか現状を覆してやろうとする楊宏は盤に穴が開きそうな程に盤上を見つめたまま微動だにしない、きっと今日まで積み重ねてきた黒星の数が彼女に安易な考えを許さないのだろう。

 もう暫くかかりそうでしょうかー、と私は予測される次の手を一通り読みきった上で膝上に置いていた書籍に目を通した。

 

 充実した毎日を過ごしていると思っている、退屈した毎日を送っていると思っている。

 誰かと長閑な時間を過ごすというのは私が思っていた以上に心地良いもので、誰かの為に尽くすというのは私が思っていた以上に充実したものだった。しかし無為に時間を浪費している、という感覚も少なからず持っている。分不相応な生活、役不足、あえて傲慢なことを口にするならば、私は一介の平民として生を終えるには能力が高すぎた。国を支えるだけの能力を持っていると自負しておきながら何の責任も持たずに悠々自適な生活を送るのは、才能を無駄にしているのと同じことではないだろうか。そういう想いも抱いているが、一個人の人生が才能の有る無しによって定められるのは話が違っているような気がするし、私だけで国一つの命運が変わってしまうような勢力であれば遅かれ早かれ滅亡してしまうに違いない。

 あれこれと言い訳がましく思い悩んでいるが、結局、私に足りないのは何かを成そうとする気概なのだろう。

 そして今の私には何かを成し遂げたいという強い気持ちがなかった。

 

 物足りなさはあるが、私は今の生活に少なからず満足している。

 このまま歴史の片隅で静かに人生を過ごすのも悪くない、と思える程度には楊宏との暮らしに満足していた。

 だが何時までも今の暮らしを続けられないことも分かっている。今の御時世、何もしなければ奪われるだけ、今の日常を守る為には自ら動かなければならない時が確実に来るだろう。大陸全土に出没する賊徒は漢王朝の求心力が低下しつつある証拠、その賊徒相手を討伐し切れないのは漢王朝が抱える軍事力の低下を示しており、そして各地方でまだ大きな被害が出ていないのは軍閥が力を付けている証になる。

 つまり近い将来に大きな事件が起きる、その結末次第で大陸全土を巻き込む動乱の流れまでを予測する。最後に私の見知らぬ記憶が私の予測が正しいことを裏付けしてくれた。

 急に頭が冷める感覚に溜息が溢れる――この記憶は、やはり面白くない。

 これから先、打つ手の全てが未来視とも呼べる予見で裏付けされることを思えば酷く不快だった。

 

 パチン、と打たれた一手。

 これでどうだ、と言わんばかりの笑みを浮かべる楊宏の姿に、私は数秒だけ盤上を見つめる。そして予測した数ある中の一手であることを確認した私は涼しい顔で仕返しの一手を差した。一転して苦渋に顔を歪ませる楊宏、その姿に私は少なからずの充実感を得る。

 やはり未来とは見えていない方が楽しいものだ。

 どうにも私は見えている山の頂上からの景色よりも、まだ見ぬ地平の彼方にある景色の方が心が惹かれる性分にあるらしい。それがとある屋敷の裏側であったとしても、死角にある場所の光景に私は胸を踊らせる。今見えるものよりも今は見えないもの、その先にある風景を想像するだけでも胸が高鳴った。山は何処まで行っても山の頂上よりも上には登れない、そこから見る景色は絶景に違いないだろうが今見ているものを上から見るか、今立っている場所から見るかという違いしかない。そんな場所を目指すくらいならば空を飛んでみたいと思った。

 地平の彼方は想像するしかない場所だ。あの山の裏側に何があるのか、此処から見ることは敵わない。あの地平の先にある景色を私は伝聞を耳にする程度、その伝聞の成否も実際に見てみないことには分からない。そこにある光景は望むことならば私の想像を超えてくれることを願っている。いつか路地裏で見た猫集会のように、私は私の想像を上回るものを常に期待している。

 ああ、そうか、だから私は旅に出たのだ。まだ見知らぬ知見を求めて、旅に出て、そして旅の行く末を知っていたから足を止めてしまった。

 

 パチン、と小気味良い音が響いた。

 

 思考の沼に落ちかけていた頭が将棋盤に引き戻される、そしてチラリと見る楊宏は下唇を噛み締めていた。

 再び視線を盤上に落とす。口元を飴で隠して、ついにやけてしまう頰を隠した。彼女の差した一手は私の予測の範疇から外れていた。無作為に打たれたものではない、自棄になったわけでもない。此処まで二人で積み上げてきた棋譜が崩れる限界ギリギリ、しかしまだ辛うじて勝ち筋は残すという崖っぷちだ。それは私の予測の穴を突いた見事な一手、私の為だけに差し出された一手であることがよく分かる。彼女は勝ち筋を求めた結果、合理を捨て、私だけを討ち取る一手を導き出した。

 その一手から広がる光景は未知のものばかり、盤上に花が咲き乱れるのを錯覚する。

 

「……これは、下手な告白よりも強烈で、痛烈な一手ですねー。求愛と取られても仕方ありませんよ?」

 

 誰かを愛するというのは、言葉で愛していると伝えることではない。

 無論、体を重ねる事でもない。それらはあくまでも行為の一つに過ぎないのだ。

 恋をするというのは誰かに自分のことを知って貰いたいという欲であり、誰かを愛するということは相手のことを知ろうとする意思である。そして、私は貴方を愛しています、と伝える為に相手の事を知り、好意を持って貰う為に人事を尽くすのが恋愛と呼ばれるものだ。

 とはいえ合理から外れたギリギリの一手であることには違いない。この手が苦しいことは楊宏も理解しているようであり、額から汗を流しながら私のことを見つめている。油断はない、私の玉将を射止めようと限界まで踏み込んできた捨て身とも呼べる一手である。私のことを理解しようとして、ただ体を交えるよりも濃密に、愛を囁き合うよりも濃厚に、私のことだけを考えて考えて考え抜いた想いの丈が込められている。

 そんな手を前にして嬉しくないはずがない、むしろ楽しくて仕方なかった。此処まで強烈な想いを受けて、心を揺さぶられない指し手はいない。今に限り、彼女は私一人だけを見つめてくれている。その健気さに胸の高鳴りを感じる。彼女の将棋の腕は弱くはないが、強いという程でもない。彼女が私相手に善戦できているのは、互いに手を知った仲であるためだ。ただ私を射止める為に昇華された彼女の将棋、その一手で将棋の盤面を私の知らない世界へと誘ってみせた。

 それは未知との遭遇、未知を知ることは衝撃であり、好意的な衝撃は感動と呼ぶ。

 

「でも(ふう)はそこまで安くありませんのでー」

 

 貴方の想いは受け取りました、と想いを込めた次の一手は彼女に更なる難題を突きつけるものだ。

 そんな私の考えを何処まで汲み取っているのか、楊宏はまた難題を解く為に将棋盤を睨んでいる。こうして私のことだけを想ってくれる彼女を満足げに眺めながら膝上に置き直していた書籍に目を落とす。

 今の日常で満足している私がいる。そのことに物足りなさを感じていながら、この日常に埋もれることを良しとする私がいる。

 だが先述したように今のままでは私が得た日常を維持することはできない。その原因は大陸全土を巻き込む動乱もそうだが、私の生活を保障してくれる家主の楊宏が袁術軍の重臣であるという点が大きい。楊宏は勿論、袁術と張勲を前にしても私の中にある記憶の宝石箱が開くことはなかった。それは即ち、前世で私との面識がなかったということであり、袁術軍は曹操軍の敵になる前に脱落したということに他ならない。

 つまり今の日常を望むということは袁術軍を存続させるということに直結する、それは即ち私が表舞台に立つことと同義だった。

 平穏な日常を望むだけであれば、袁術軍なんて放っておけば良い。それができない理由が生まれてしまった。

 

 私は――風はきっと自分で想っている以上に今の生活が気に入っているようです、難儀なことに。

 

 いっそのこと、

 前世の歴史が当てにできなくなる程に掻き乱してやるのも良いかもしれない。

 そういう考えが出てくる程度には今の生活を手放すのは名残惜しかった。

 

 何時頃からか、私は楊宏が抱える政務に関心を持つようになった。

 彼女が抱える仕事は多岐に渡るが、目新しく思うことは特にない。雑に云ってしまえば彼女のやっていることは典型的な中間管理職であり、各部署の進捗や意見、要望を纏めて、その都度、調整を施しながら管理するといったものである。時に各部署へ根回しや連携を促すことも多い為、袁術軍では最も顔の広い人物ではあるが新しい事業や政策に携わる立場ではなかった。むしろ政策を実行するための補佐や環境作りに腐心していると云える。

 とはいえ傍目から見ても問題だらけの袁術軍である。

 好き放題に要望を出して、好き勝手な行動ばかりを取る連中にはほとほと手を焼かされているようであり、楊宏一人では手が回らないというのが現状であるようだ。そして何よりも楊宏は謀略に理解を持っていても、その本質は善良、誠実さを美点とする彼女に謀略は荷が重すぎた。

 あえて云うが楊宏は有能である。少なくとも張勲が側において、扱き使う程度には彼女は有能なのだ。まともな組織であれば楊宏の能力は十二分に発揮されるに違いないが、今の袁術軍では彼女の美点を殺してしまっている。

 分かっている、彼女に必要なのは私だった。

 

「賭けをしよう」

 

 今日、将棋盤を挟む前に楊宏の方から提案してきたことだった。

 どうして急に、という想いもあったが相手の思惑を探る前に「構いませんよ」と私は二つ返事で受けていた。何故、私は賭けの内容も聞かずに受けてしまったのだろうか――それは生真面目な彼女に対する信頼感からきたものだと後付けしている。ただの戯れで賭け事を提案してこないことは分かっている。そして将棋盤を挟んで向き合った時、楊宏の隠す気もない真剣な眼差しを見て、私から何かを奪おうとしている事が分かった。

 それは私が心の奥底で望んでいたことかもしれない。何故なら楊宏は度が過ぎた御人好しであるから、理由もなく誰かから何かを奪うことをしようとしない。彼女がこういった行動に出る時、それ相応の理由が必ずある。その点に関しては私は彼女に全幅の信頼を寄せている、それこそ真名を預けても良いほどに。

 無論、やるからには負けてやるつもりはない。明確な思惑があれば尚更だ。

 

 きっと彼女は私に勝つ為に勉強をしてきたのだろう。

 絡め手、急襲と様々な奇手を用いて挑む彼女を打ちのめして四連勝、そして今、彼女が頭脳の限りを搾り尽くした死角の一手も私の玉将には今一歩及ばず、私の智謀を前に平伏して勝ち星を五つに増やす。

 賭けと云うからには罰を与えなければならず、とりあえず今回は彼女の頭に犬耳の髪飾りを付けてみた。大した意味はない、ただ彼女には犬がよく似合うと思っただけだ。事実、恥辱と屈辱に塗れて、ぷるぷると震える彼女に犬耳はよく似合った。

 さて、六戦目ともなると罰を考えるのも難しくなってくる。

 どうせ犬耳を付けたのだから、このまま好き勝手に彼女を着飾ってみるのも良いかもしれない。数を増やせば、それだけで彼女にとって更なる恥辱と屈辱を味わわせることができる。それはそのまま彼女の覚悟と意志を推し量ることにも繋がる。そうと決まれば少し厳しく罰を与えてみようと思って、私は首輪を取り出してみせる。

 それを見た楊宏は引き攣った笑みを浮かべていた。

 

「……構いません」

 

 楊宏は目を伏せて深呼吸をすると、決意を固めた顔で私のことを見据えてきた。

 不退転の覚悟と云うべきか、背水の陣と云うべきか、覚悟を決めた彼女の双眸に見つめられて少し胸が高鳴った。そんな顔で求められても困りますよ、と私は上機嫌に将棋を指して、難なく六勝目を勝ち取って彼女の首に首輪を付けてやった。それから七、八、九と勝ち進んで、付けられる物もなくなったので、今度は脱がせる方向に進んで十九戦目に突入する。私の対面に座る楊宏は薄絹一枚、頭には犬耳の髪飾り、四肢には犬を模した手袋と中靴を履いており、隠すものがないお尻からは尻尾を生やしていた。その表情は羞恥と屈辱で歪んでいる、顔を真っ赤にしながらポロポロと涙を零している。まるで小動物のように体を小刻みに震わせる姿を見ながら、やり過ぎたと思う気持ちが半分、賭け内容を反故することなく実行する彼女の律儀さに感心する気持ちが半分、そして、こんな目に遭わされても私にさせたい事は何なのかという疑問に頭を悩ませる。

 それはそれとして、盤上では彼女のことを容赦なく攻め立てる。

 耳まで顔を真っ赤に染めながら、ふぅ、ふぅ、と小刻みに息を吐きながら彼女は必死に頭を働かせている。お尻が気になるのか、何度も腰を浮かせて身を揺する彼女の姿を見ていると何かに目覚めそうになる。

 勝負の前に彼女の覚悟を試すつもりで、どうします? と要求を釣り上げてきたが彼女は逡巡しながらも全てに承諾し、そして負けた時は約束を全て実行してきた結果、出来上がったのが今のワンワンである。正直なことを言えば、嫌がる彼女に罰を与えるのが少し楽しくなってきた。ついでに言えば楊宏の吐息に熱っぽいものが混じっており、これ以上となるとお互いに引き返せない領域になる。

 なので十九戦目が終わった後、薄絹を脱がせて全裸になった彼女に次で最後だと前置きしてから条件を出した。

 

「次、負けた時はお姉さんの真名を奪いますね」

 

 その言葉で楊宏が唾を飲み込むのが分かった。

 真名を奪う――無論、真名を奪うと言うからには、私の真名を彼女に預けるつもりはない。

 古来より奴隷には名が与えられなかった、故に飼い主が奴隷のことを呼ぶ時は真名で呼ぶことが通例となっている。このことを真名を奪うと呼ばれており、古くから続いている奴隷契約の一種として見做されている。

 だから真名を奪うと言うのは、貴方という存在の全てが私のものであると言っているも同じだ。

 これは一方的な略奪である。

 

 そのことを彼女は承諾し、そして私に勝負を挑んだ。

 

 きっと彼女にとって私から奪いたいものは自らの存在を賭けるに値することだったのだと思っている。

 そして今、楊宏がまんま犬と同じ有様で私の足を舐めているのは必然のようなものだった。生真面目な彼女は理性を捨て切ることができず、今の状況を楽しむこともできず、自分の胸元ほどの身長の少女を前に跪くのは一体どれだけの屈辱だろうか。そのことを想像するだけでも胸が締め付けられて、ゾクゾクと光悦に身が震えた。決して欲望に身を委ねきれず、忠実でありながらも反抗的な彼女には加虐趣味を増長させる素質があることは間違いない。律儀な性格をしているせいだろうか、何も言わずとも指の間まで丁寧に舐めとる姿は彼女自身も被虐趣味があるのではないかと思わずにはいられない。本人は決して認めないだろうが、認めないからこそ興奮してしまうのだ。

 鼻から熱いものが垂れそうになって、ああこれが(郭嘉)が抱えていた病の正体か、と今更ながら納得する。

 

四ツ葉(楊宏)?」

 

 まだ預けられていない真名を彼女の尊厳を踏み躙るように呼ぶと、四ツ葉はビクリと身を強張らせた。

 何かを堪えるように身を震わせた後、「わ、わん」と振り絞るように犬語を口にする。その哀れな姿にお腹の奥の方がキュンとなった。流石に彼女を実質的に奴隷にしてしまったことが公になっては袁術軍が瓦解し兼ねないので、首輪を付けている時だけ主従を逆転させると条件付けた上で、彼女には私の許可なしで人の振る舞いをすることを禁じている。

 少し調子に乗り過ぎた、と思わないこともない。しかし彼女があまりにも従順で愛おしかったから、彼女の忠誠心を試すつもりで色々と命令を出していたら、より一層に取り返しの付かないことになった。

 怯えた顔で次の命令を待ち構える彼女の頭を優しく撫でてやると、少し安心したのか彼女は気持ち良さそうに目を細める。

 もっと虐めたくなる想いを、ぐっと抑えていい加減に彼女から話を聞き出さなくてはならない。

 

「お姉さん……いえ、流石に今の姿では無理がありますでしょうかー。かといってお兄さんと呼ぶのも慣れないですしー、どうしましょうかねー?」

 

 じとっと半目で私を見つめてくる彼女、もしくは彼の目からは諦めに似たものを感じる。

 

「ではまあ折角なので首輪が付いている時は四ツ葉(よつば)で統一しましょうか」

 

 そう言うと彼女は身悶えした後に首を縦に振る。

 いちいち反応が可愛いと思ってしまうのは、彼女に毒されてきている証拠だと思って自制する。深呼吸、今回のことはあくまでも私にとっては戯れの延長線上のことに過ぎないのだ。首輪を制限に加えたのもそれが理由、常日頃から彼女のことを奴隷として扱うつもりはない。彼女の弱みを握って彼女を揶揄うのは面白そうだったからとか、その程度の軽い気持ちに過ぎなかった。

 それがちょっと行き過ぎただけである。

 

「それで今回の件、風に何をして欲しかったのでしょうかー?」

 

 椅子に座りながら足の爪先で四ツ葉の顎を持ち上げる。悔しそうにする彼女の顔を見下すのは思いの外、気分が良い。

 

「……三日月(みかづき)、李豊の手助けをして欲しい」

 

 彼女の口から他の女の名前が出た時、高揚していた気分が一気に冷めきった。

 

「近い内に私は城を離れるから……たぶん張勲による粛清が行われると思う、それで――」

「あーもう良いですよー。大体、事情は察しましたのでー」

「程立の生き方を曲げることになるから……だから、えっと……」

「もう喋らないでくださいね。喋るなら、わん、でお願いしますねー」

「わ、わふん……」

 

 身を小さく縮こませて震える彼女の姿に今は何の感慨も抱かない。

 成る程、成る程、あれだけ私のことを想ってくれていたと感じたのは錯覚で、頭の中では常に他の女のことを考えていたということらしい。なんだか記憶の宝石箱から何処ぞの種馬とも呼べる男の顔が脳裏によぎった。前世では好意を寄せていた相手なのだろう、今はその横っ面をぶん殴ってやりたくて仕方ない。

 何処ぞの馬の骨はさておき、今は目の前の奴隷に躾けてやらなくてはならない。

 やる時は徹底的に、謀略の基本である。

 

「効果的な拷問についての研究に付き合ってくれないでしょうかー?」

 

 にっこりと満面の笑顔を心がける。

 身の危険を察したのか四ツ葉は懸命に首を横に振って、わんわん、と鳴いてみせたが、それを私は泣く程に嬉しいのだと解釈した。きっと律儀で健気な彼女はご主人様の力になれて嬉しいに違いないのだ。完璧で幸福な奴隷を手に入れることができて私も幸せだ。

 翌朝、布団の上から身動きの取れない彼女の姿(亡骸)を前に、私の心は満たされており気分は晴れやかだった。

 

「まあ四ツ葉の存在を貰い受けた以上、貴方の抱える問題も私のものということですね」

 

 起きているのかいないのか、俯せに倒れたままの四ツ葉の横にちょこんと座る。

 今の生活を手放したくないと心から思っている、そのために私が動くのは吝かではない。ただ前世が云々と塞ぎ込んでいた手前、今更政治に関わるのも後ろめたい思いが残っている。理由が必要だった。私に足りないのは何かを成そうとする意思と覚悟、重い腰を上げるには相応の理由が必要だった。

 それを昨晩、彼女は与えてくれた。少しばかり体を張り過ぎた、それも実に回りくどい方法で――仕方ありませんね、と私は独り言を零す。彼女の支払った代償に見合うかどうかは分からないが、これから先の未来について少しだけ頭を働かせてみる。

 まだ引き摺る思いもあるが、今回は彼女の顔を立てようと思った。




目標、一週間以内。
ただいま恋姫二次を読み漁りの旅に出ています。
愛雛恋華伝、クッソ面白い。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。