兄より優れた妹しかいねえ! (フクブチョー)
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First shot 遠い世界へ

久々に筆を取ったので、リハビリ兼ねて新しいのを書きました。よろしくお願いします!


全国高校総体、通称インターハイ決勝。高校生チャンピオンを決める試合がセンターコートで行われている。

今この時、会場は一人の選手が生まれ変わるのを見ていた。

 

シューズが床を踏み、フェース音が響く。屋内に響く破裂音。相手選手がシャトルを上に挙げた。スマッシュの態勢をとる。

 

「なっ!?」

 

それは誰の声だったのだろう?試合中のプレイヤーか。それとも観戦している人達の誰かか。わからないが、思わず声が出るほど意外なショットを彼は繰り出していた。

ドロップショット。相手の意表をつき、前に落とす高等技術。まして今のシーンは、彼は完全にスマッシュモーションに入っていた。スマッシュを警戒して、威力が落ちる後ろで構えるのは当然。だからこそ前に落とす。理屈としては単純だ。

異常なのは彼のフェイクの完成度。打つ直前まで誰もが強打だと思わされた。今のがフェイクとするならあまりに極まっている。

 

「くっ」

 

硬い何かが床を撃つ。相手選手、立花健太郎が拾ったシャトルをネット前で強烈に叩き落としていた。

 

「11-03!インターバル!」

 

審判がスコアをコールする。ワンセット半分が終わった。圧倒的大差で取ったのは益子推。高校一年生にしてレギュラーを勝ち取ったスーパールーキー。身長は170前半。決して華奢ではないが、選手として恵まれているとは言えない体格。顔立ちは整っており、線は細め。美少年という呼称が似合う男だった。

対する立花選手は明らかに180を越えている。高一と高三という年齢の差もあるのだろうが、身体の出来で言えば益子の方がかなり劣っているのは明らかだ。

 

しかし、彼はそんな物が言い訳にならないことを誰よりも良く知っている。あの敗北を喫した時から。

 

監督の元へ行き、アドバイスを受けると同時にドリンクを飲む。汗を拭いた際、短く切り揃えた金髪が靡く。応援に来ている女バド部員から黄色い声が上がった。

破竹の快進撃を続けていたスーパールーキーの活躍は彼の美貌も相まって多くの女性ファンを作っていた。

普通これぐらいの歳の少年が女子に応援されれば舞い上がるか、笑顔の一つくらいは見せるものだが、彼は無表情を貫いている。その様子からは冷たささえ覚えるほどだった。大差で勝っているというのに余裕が全くない。

 

「おい、どうなってんだよ。苦戦してるぜ?あのインハイ覇者、立花健太郎が」

「立花先輩、調子悪いの?」

 

───違う、単純に推さんが強い

 

観戦に来ていた少女が周りの意見に異を唱える。女子にしては短い黒髪に小柄な体格の彼女は中学生で全国常連の優秀選手。名前は志波姫唯華。大きな大会で何度か顔を合わせた事があり、推とは比較的親しい関係にある。試合が早く終わった彼女は推が決勝に進出したと聞き、慌てて見に来ていた。

 

そして生まれ変わる彼の姿を見て、戦慄が走っていた。

 

───今まで見て来たあの人と違う。去年とはまるで別人……実力も、プレイスタイルも

 

元々隙のない人だった。テクニックタイプでミスが少なく、コントロールがいい。基本はディフェンシブで持ち前のバドIQの高さとコントロールを武器に敵をミスへと追い込むスタイル。

フィジカルが恵まれているとは言えない自分が手本としたスタイルだった。

 

しかし、今は驚くほど変化している。巧みなラケットワークは更に磨きがかかり、筋肉の盛り上がりは服の上からでもわかる。一流のパワーショットも身につけ、フットワークも軽い。運動神経は元々高かったが、反応速度も敏捷性も異常にアップしている。

 

───テクニック型から万能型にスタイルチェンジしたって事?

 

結果から見るにそうとしか考えられなかったが、唯華の頭をよぎったのは『何故?』だった。

 

何かしらスポーツをやっている者ならばわかるだろう。プレイスタイルを変えるというのはそれなりに賭けだ。

プレイスタイルとは個人によって合う合わないがある。誰もが目指す王道という物はあるが、絶対はない。目指したスタイルがその人にとってベストとは限らないのだ。まして長く馴染んだスタイルであれば、その危険はより高くなる。

推はずっとコントロール・カウンタータイプでやってきた。そしてそのスタイルでそれなりに成績も残してきた。少なくとも名門栄枝高校の特待候補に選ばれる程度には。

テストで例えるなら合格点は今まで取ってきたのに、100点か0点かのギャンブルを目指すに等しい。堅実に結果を求めるなら、賢いとは言い難い選択だ。それなのに、コレはまるで……

 

「益子みたい……」

 

隣に立つ全国常連にして、色々な意味でライバル、津幡路から出た言葉に、唯華は否を唱えることは出来なかった。長年倒すべき強敵として見据え続けてきた彼女のスタイルを間違えるはずがない。

 

益子泪。今戦っているファイナリストの妹にして、唯華にとって最大の強敵。彼女のスタイルに瓜二つだった。

 

───1年前の件については、聞いてはいたけど……

 

大差で勝っているというのに、まるで余裕のない、むしろ追い詰められ続けているかのような張り詰めた彼の表情を見て、唯華も路も不安と恐怖を覚えた。

 

「…………お兄ちゃん」

 

観戦に来ていたもう一人の全国常連、ファイナリストの妹、益子泪は小さく零す。

 

今のアンタは勝っても楽しめているのか、と。

 

 

 

 

 

 

 

コート上に立っている男、益子推は今までにない感覚に心を躍らせていた。ラリーの先取権を取ってからは自分が常に優位にいる実感があった。

ネット前に落としたドロップ。アレから立花先輩が一気に追い込まれた。

体格に恵まれたパワーショットを軟打で返すというのは、非常に難しい。相手を追い込むカウンターのレシーブはコースが厳しい分、ミスの率が高い。パワーで劣っている選手がコースを求めて、自滅してしまうパターンもザラ。

しかし、今自分は相手のパワーショットを完璧にコントロール出来ている。どこにシャトルが来て、どのように返すか、イメージが全て現実において再現出来ている。

 

───体が軽い。自分のコートは狭いのに、相手のコートが酷く広く見える。自分の調子がいいと自覚できる。

 

相手の思考も手に取るようにわかった。立花さんが理論派というのもあるのだろうが。ややサイドよりで構えている俺に対し、立花さんはストレートを警戒している。だからクロスで前に落とせば、態勢が崩れる。

その状態ではたとえ返せても上げるしかできない。上がったところを叩き落とせば

 

ほら、反応できない。

 

「Et geni(天才)」

 

シャトルがフロアに落ちる。思い描いた通りにポイントできてる。バドミントンが酷く簡単に感じた。イメージ通りに相手が動いてくれるなら打つタイミングをいくらでも早く出来る。そうなると、相手は強気に打てない。勝負事において、自信ほど大切なものはない。自分を信じる強気なショットと力任せのショットは全く別物だ。それでも自信がないまま無理やり打とうとパワーに頼れば……

 

「ネット」

 

───こうなる。

 

ワッと歓声が上がる。推にとってはイメージ通りの攻防だったが、傍目から見たら凄まじくハイレベルの攻防だった。

 

ようやく周りも気づき始める。立花の調子が悪いのではない。単純に、この一年生が……

 

「強いんだ」

 

ガットを直しつつ、一呼吸入れる。はやる鼓動を抑えるためだ。一発打つごとに上手くなっているのが自分でわかる。このままなら今日中にどこまで行ってしまうかわからない。急速な進化は体に異常な負担を招く。この一年、滅茶苦茶に鍛えたとはいえ、やはり怪我は怖い。今の俺の状態ならテンションのままアクセルを踏めば、その分ハイパワーを出せるだろうが、絶対に身体がついてこなくなる。一度落ち着く必要があった。

 

インターバルが終わり、自分のサーブが来る。バドの第一投は厳粛かつ静かな雰囲気の中で放たれる。試合開始、若しくは再開後のラリーは探り合い。相手の力量、戦い方、何を考えているか、どうやって勝とうとしているか、それを図り、刺し合う。

 

このラリーの中で、推は察する。

 

───持久戦か

 

力に頼るのは自滅を招くと悟ったのか、短期決戦ではなく、立花さんはトコトンやり合う気だと。

 

難しいコントロールショットを迷わず打てるのは強い証拠。この一年を相手に勝てると立花は考えていない。粘って戦い、隙を作ってパワーに持ち込む。それが立花が考えた勝利の方程式だった。

 

───ならば、方程式が解に辿り着く前に終わらせればいいだけのこと

 

元々長いラリーはこちらの得意分野。確かに突破できれば立花さんの見返りは大きい。

しかし当然、ハイリターンにはハイリスクが付き纏う。

 

「俺の土俵で、二度と負けるか」

 

後ろで粘り強く戦い続ける推に対し、ネット前に落とすヘアピンショットを放つ。しかし、それを待っていた金髪の少年はプッシュではたき落とす。立花さんのテクニックがマズイとは言わないが、やはりアイツと比べたら易い。

 

「21ー05!」

 

大差でセットを取る。わあっと体育館中が湧き上がった。セット間のインターバルに入る。監督からアドバイスを受け、水分を補給した。

 

───脳内のイメージと現実にほぼ差がない。だから余裕があるんだ。

 

自分の調子がいい理由がワンセットかけてようやくわかる。シャトルが遅く、相手コートは広い。フェイントを入れるのも、逆を突くのも自在。

 

───泪。お前の感覚が少しわかった気がする。

 

あの時も、こんな感じで試合をしていたのか?

 

イメージ通りにシャトルが来るなら、多少身体能力に差があっても先回りするのは容易に出来る。逆にイメージができていなければ、反応も出来ず、対応もできない。

 

バドミントン選手とは基本的にどんな角度からシャトルが来ても返せるようにトレーニングを積む。だから360度全てを警戒し、待ち構える。

ならば理論上、全ての球に対応できるはずだが、それでも咄嗟に硬直してしまうコースがある。

 

それが死角。

 

視界の死角、反応の死角、そして思考の死角。人間は認知していないことには絶対に対応出来ない。

 

あ、前に来る。

 

軽くロブを放つ。立花さんは飛ぶが、届かない。そういう位置に打った。コーンと軽い音が鳴る。

 

「19ー3」

 

嘆息する。我ながら怖いくらい進化している。あの時、泪にボロ負けしてから積み重ねて来た全て。上に行くため必死に増やした新しい技術、パワー、戦術、これらのピースが一つ一つ繋がり、完成していく。

 

───楽しい

 

久々に感じることが出来た、この感覚。泪に負けてから、自分を評価しなかった高校のスカウト連中を見返すためだけにやってきたバドミントンが、今やっと楽しく感じる。

 

───そうだ、楽しいから始めたんだ。バドミントン

 

飛び上がる。ドロップに対して浮いたシャトルをスマッシュで弾き落とす。

 

 

バツン

 

 

───え?

 

破裂音が鳴る。極限まで張り詰めたゴムが切れたかのような音。続いてシャトルがフロアを打つ音が響く。推が着地した時、立花は膝を抱えて倒れ込んでいた。

 

「…………は?」

 

立ち尽くす推を置き去りに、立花さんの元に様々な人が駆け寄る。『膝の靭帯が切れてる』という監督の声がどこか上の空に聞こえた。

 

「救急車を呼んでくれ」

「何?怪我?」

「十字靭帯切ったって」

「マジで?こわ〜」

 

周りの声が酷く遠く聞こえる。脳内に入っていたのは倒れこむ立花さんだけだった。

 

「立花さん……」

「───ああ、益子。悪いな、最後までやってやれなくて」

 

起き上がった立花は推に笑顔を見せた。

 

「痛かったんですか?ずっと……いつから?」

「負けた言い訳にはしないさ。アドレナリンが出てたんだろうな。試合中はホントに何も感じてなかったんだ。それに、膝を差し引いても君の実力は圧倒的だった。悔しいけど、俺の完敗だ」

「…………」

「行けよ、世界。キミなら行ける」

 

…………違います。俺があそこまでできたのは、相手が貴方だったから

 

身体能力で言えば、自分を圧倒的に上回る相手だったからこそ、潜在能力が引き出された。その自覚はあった。

 

しかし、その言葉を口にする前に立花は救急車で病院へと運ばれていった。

そこから先はあまり記憶にない。コートを出たのも、表彰式も、優勝旗すらいつ貰ったのか分からない。気がついたら体育館の廊下で一人座り込んでいた。

 

「先程ノ試合、非常ニ惜シカッタデスネ」

 

慣れてるような慣れていないような、微妙な日本語が空から降ってくる。頭から被せていたタオルを取ると、頭上には初老の男がいた。

 

───誰だ、このジーさん。外国人?

 

「途中マデハ凄ク良カッタノニ、ツマラナイ感情ガ、貴方ヲ邪魔シタ」

「…………」

「ナゼ、楽シイナドト思ッタノデスカ?」

 

何も言えなかった。それどころではないというのもあったが、明確な答えを返せなかったというのが最も大きな理由だった。楽しいと感じるのに理由がいるのだろうか?少なくとも、あの時そう感じたのはほぼ直感的なものだった。理由などない。

 

「余計ナ感情ハ、凡人ガ抱エルモノデス。プレー中ニ誰ガ怪我ヲシヨウト、天才(キミ)ニハ関係ナイ」

「…………何が言いたいんだ、アンタは」

 

頭に被せていたタオルを取り、立ち上がる。さっきからカンに触ることばかり言うジーさんだった。

 

「キミノ目標ハ何デスカ?何ヲ目指シテバドミントンヲシテイルノデスカ?」

「…………」

 

何を、か。

 

難しい質問だった。今日の決勝の前なら簡単だった。妹を越えるため。高校で俺を評価しなかった奴らを見返すため。死にものぐるいのトレーニングを積んできた。

 

しかし、今は……

 

「…………世界に行くため」

 

立花さんから言われたエールだけが、今の俺のラケットを握る理由だった。

 

「フム、世界……随分ト遠イ目標デスネ。君ハ世界トハ何カワカッテイマスカ?」

「…………オリンピック」

「イエス」

 

推の答えに、老人は笑顔で応えた。

 

「世界ニキタイナラ、ワタシト共ニ来テクダサイ。我々BWFハ、興行スポーツ、バドミントンニオケル最高ノ商品ヲ作リウル才能ヲ、全力デサポートシマス」

 

そして俺はこの老人、ヴィゴ・キアケゴーの手を取り、女王の弟子となった。

 

 

全ては兄より優れた妹を越えるため。

 

 

それは世界を制することと同義だと兄は本気で思っている。

 

 

 

 

 

 

 

数年後、成田空港。二人の男女が遙か遠い国から飛んで来た鉄の鳥から出てくる。

 

「お兄ちゃん」

「…………何だ。コニー」

 

プラチナブロンドのロングヘアの少女が、サングラスを外す。背は高く、スタイルも良い。何も知らない人が見ればモデルに見えるほどの美少女が隣を歩く青年を呼ぶ。お兄ちゃんと呼ばれた端正な顔立ちにスラリと長い手足が特徴的な美青年は少し不服げに返事を返した。

 

「varmt(暑い)」

「そういう国だ」

 

コニー・クリステンセンと益子推。後に世界のバドミントン界に旋風を巻き起こす二人が日本に降り立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ふと思いつきとリハビリを兼ねて書いてみました。連載続けるかどうかは反響次第で判断したいと思います。他の小説も少しずつ更新するつもりです。それでは次があるかどうかわかりませんが、感想、評価よろしくお願いします。面白かったの一言でも頂ければ幸いです。


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2nd shot 三強+1

( ゚д゚) ・・・
 
(つд⊂)ゴシゴシ
 
(;゚д゚) ・・・
 
(つд⊂)ゴシゴシゴシ
  _, ._
(;゚ Д゚)評価が赤い …だと…


 

 

 

 

 

 

 

 

 

全国小学生バドミントン選手権。女子の部が執り行われているそれなりに大きな体育館。その2日目の正午。出場している選手達は思い思いに時を過ごしていた。

休憩時間の使い方は選手によって様々だ。体力回復に余念がない者。しっかりと補給をしている者。体を温め続けている者。気分転換している者。人によってすべて異なる。

予選を勝ち抜き、トーナメントに生き残っている強豪の一人、志波姫唯華は最後者だった。軽食を取り、ストレッチを終えた後、体育館裏をブラブラと歩いている。この日は屋内でスポーツをするには勿体ないほどの快晴で、原っぱを歩くだけで心地いい。

 

───ほんとなら寝転がりたいくらいだけど…

 

ウェアを草で汚したくはないし、下手に止まってほぐした体を固めたくない。折衷案として、小柄な可愛らしい少女は木漏れ日が漏れる中を散歩することにしていた。

 

───ん?

 

破裂音。耳慣れたラケットがシャトルを打つ音が聞こえてくる。

 

───先客がいたか、場所変えようかな

 

踵を返そうかとも思ったが、誰が打っているのかが気にかかったため、やめた。壁の向こうを覗き込む。

 

そこにいたのは二人の男女。といっても幼い。一人はまだ確実に小学生で、向かい合っている男の子も恐らくそう年の離れた少年ではない。でもやはり彼は年上なのだろう。一緒にバドミントンをしている女の子より背は高く、上手だった。唯華から見れば、お兄さんと思えるくらいの少年だった。プレイのレベルは高い。特に男の子の方は上手いと思わせるショットを打っている。

 

シャトルが地面に落ちる。ポイントを取られたのは女の子だった。点を取られたというのに、少女は笑ってシャトルを拾う。その様子を見て、唯華は驚いた。

黒髪の少女は二人のうちの一人を知っていた。それも当然。強豪ひしめく全国大会の中で、2日目まで生き残っている強者。それも次の自分の対戦相手なのだから。

彼女の試合はいくつか見た。この歳で自分でもわかるほど完成されたバドをする少女で、プレイ中もあまり笑わない。早熟な、心無い言葉を使うなら、子供らしくない、完成し切ったバドミントン。それが唯華が抱いた益子泪の印象だった。

 

けれど、目の前の少女はそんな印象とはかけ離れていた。目に見えないネットを挟んで、男の子とバドミントンをする泪はいつも笑顔で、とても楽しそうにプレイしていた。

 

───あの子のライバルは、お兄さんだったんだ。

 

「はっ」

 

少年のショットが泪目掛けて飛んでいく。ボディへのショット。身体の真正面目掛けて打たれるそのショットは返すのが非常に難しい。しかしそれと同時に打つのも同じくらい難しい。バドミントンのシャトルは空気抵抗の影響を受けやすい。少しでも狂えばボディショットは相手のチャンスボールに早変わりする。非常に高い精度が求められるコントロールショットなのだ。

 

しかし、少年の打ったシャトルはは寸分狂わぬ完璧な軌道を描いた。

 

「ほっ、と」

 

苦し紛れに返したことで、浮いてしまったシャトルをプッシュする。ほぼ一直線に地面に落ちた。

 

「ゲーム、21ー6。マッチワンバイ、お兄ちゃん選手」

 

少年がラケットを肩に担ぐ。尻餅をついた泪は少し恨みがましい目を兄へと向けた。

 

「普通、試合前の妹負かす?悪いイメージついて負けちゃったらどうすんのさ」

「手加減したらもっと怒るくせに。面倒だな、泪は」

「もう一回!もうワンセット!」

「ばっか、試合前だぞ。ここで体力使ってどうする。今日はここまで」

「勝ち逃げ!ずるい!」

「その元気は大会にとっておきな。もうおしまい」

 

ずるいずるいと喚く少女を無視するように、シャトルとラケットをケースへとしまう。少年が唯華と目が合ったのは、彼がケースからウォークマンを取り出したその時だった。

 

「おや?君は……」

「もういっかい!せめてもういっきゅ……お兄ちゃん、誰?その子。知り合い?」

「なんで泪が知らないんだよ。お前の次の対戦相手じゃないか。確か名前は……」

「し、志波姫唯華です!覗き見してゴメンなさい!」

「はは、綺麗なおじぎだね。謝らなくても良いよ、志波姫ちゃん。こんな人目につくところでプレイしてる方が悪いのさ」

 

手を差し出す。柔らかく広げたマメだらけの手は握手を求めていた。

 

「益子推。この子の兄です。妹をよろしく」

 

津幡路と志波姫唯華、そして益子泪。のちに高校バドミントン界で、三強と称される強豪が始めて一堂に会した大会で、二人は出会った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガシャコン

 

自販機からミネラルウォーターが落ちてくる。

 

「ん〜!日本のシンカンセンって快適〜。全然揺れないし早いしダイヤズレないし」

「コニー、何飲む?」

「あ、じゃあアクエリアス」

「ん」

 

電子音と共に出てきたスポーツ飲料を、サングラスをかけたブロンドヘアの少女、コニー・クリステンセンに放る。片手で受け取った。

 

「日本の自販機って便利ね」

 

キャップを外しつつ、コニーが感嘆する。言わんとすることはよくわかる。海外の自販機は手順が複雑で面倒なのだ。小銭を入れるだけ入れて、機械に飲み込まれることもしばしば。何も考えず、一気に硬貨を入れることなどまずありえない。必ず一枚ずつ入れ、金が落ちた音を確認しなければいけないのが、ヨーロッパの自販機の常識だ。

 

「数も多いし、使い勝手もいい。たしかにこれは便利ね」

「コレが当たり前だと俺も思ってたからなぁ」

 

街を歩けばどこででも喉を潤せる。几帳面で用心深いのがこの国の風潮だ。

 

「あ、お兄ちゃん、お金…」

「いーよ、コニーまだユーロしか持ってないだろ。奢りだ。先日のデンマークOP出場祝いだと思ってくれればいいさ」

「でもお兄ちゃんも出たのに」

「二回戦で負けたがな……というか、そんな事よりそのお兄ちゃんてのやめてくれないか」

 

ヨーロッパでは滅多に日本語が分かる者などいなかったから放置していたが、この国でその呼称を、しかもブロンド美少女に使われては何か変なプレイを強要しているように見られる。

 

「でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ?私達、ママの子供なんだから」

 

───教え子ってだけで、子供じゃないんだが…

 

自分もキャップを外し、中のミネラルウォーターを飲む。湿気のある暑さが少し和らいだ気がした。

 

───それでも確かに、あの人のおかげでプロの試合に勝てるようになってきたのも事実か

 

ヨーロッパに渡ってから、最も長く共に時間を過ごしたのがコニーだった。お互いヴィゴにスカウトされたからか、練習もしょっちゅう一緒だったし、試合なんて数え切れないほどやった。確かに疎遠になってしまった本当の妹より兄妹らしい関係かもしれない。

 

「好きにしろ」

「うん」

 

仙台駅のエントランスから出る。その時、コニーはカバンからキャンディを取りだしていた。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

「なに?」

「……私達、こっちでお姉ちゃんに会えるかな?」

「…………綾乃ちゃんか?彼女、神奈川にいるんだっけ?」

 

頷く。コニーの留学先は宮城だ。気軽に会いに行ける距離ではない。

 

「…………ま、バドやってれば会えるんじゃないか?」

「そうだよね!絶対会って、ママの娘は私一人だって証明しなきゃ…」

「…………前々から思ってたんだが、お前なんで俺には敵愾心見せないくせに綾乃ちゃんにはメラメラなの?」

 

手を握り開きし、戦意を剥き出しにしているコニーに、以前から聞きたかったことを尋ねる。するとブロンドの妹分はキョトンとした表情でこちらを見上げた。

 

「だって、スイはママの息子で、バドミントン家族でしょ」

 

何を当たり前のことを言ってるの、といった感じで応えたコニーの言葉に思わず詰まる。家族か、と小さく呟いた。当たり前でいて、とても重い存在だ。

 

「息子はいいのか」

「お兄ちゃんがいいの」

 

ミネラルウォーターを呷る。気恥ずかしさを誤魔化すためだった。

 

「コニーさぁん!益子コーチ!」

 

名前を呼ばれ、二人とも視線が同じ方向へと向く。『ようこそ、コニー・クリステンセンちゃん!』と書かれた横断幕を持った少女が走ってくる。日焼けが健康的な、可愛らしいという形容が似合う少女だった。

 

「私が皆を代表して迎えに来ました!コニーさん、益子コーチ!多賀城ヒナです!早速案内します!こっちです!」

「あ、ちょっと!」

 

コニーの腕をとって走り出す。見た目の印象通り、活発な女の子だ。少しみっちゃんに似てるな、と思いつつ、イヤホンを耳にかけ、ウォークマンのスイッチを入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『フレゼリア女子』と銘を打たれた校門のすぐ横で、一人の少女がふぅー、と一つ大きく息を吐く。胸に手を当て、大きく上下させた。それでもどこか浮ついた感覚は彼女から消えなかった。

 

「唯華?」

 

自分が滅多に見せない緊張した様子からか、副主将の美里に怪訝な顔をしている。何でもないよ、と笑顔で手を振った。

 

───私、緊張してる

 

胸に触れた手から心臓の鼓動が聞こえてくる。いつもより、早く大きく鳴っている。こんなにドキドキするのはいつ以来だろう。全国ベスト8を決めた試合でも、ここまでソワソワはしなかった。

 

───でも、それもしょうがないか

 

なにせあの総体決勝以来の再会だ。しかもあの時、彼が優勝した後、声を掛けに行ったけど、どこか上の空で、しっかり話せた気はまるでしない。周りに人も多くいたし、あの試合の後だ。推さんも話どころじゃなかったんだろう。

こんなに近くで、しっかりと会えるなんて本当に何年振りかわからなかった。大丈夫と言い聞かせても不安は募る。ちゃんと立派な主将に見えるだろうか?成長したと言ってもらえるだろうか?そもそも、彼は私を憶えているだろうか?不安に思い始めたらキリがない。

 

「……ねえ、さき。私、変なところないかな?」

 

毛先を弄りながら尋ねる。今日この日のためにしっかりと準備はして来たし、朝にはしっかりシャワーも浴びてきた。汗臭いという事は絶対ないはずだ。下着も黒でバッチリ勝負に出てきている。しかし、自分の目ではわからない何かがあるかもしれない。

 

「さっきから様子は変だと思ってるけど」

「そうじゃなくて、不恰好なところはないかってこと」

「唯華はいつも可愛いよ」

「髪型とか崩れてない?クマとかシミとかないよね?大丈夫だよね?」

「う、うん。少なくとも今日は」

 

バドミントンに青春を捧げているスポーツ女子なのだから、髪型が崩れることなど、ザラにある。だから美里は『今日は』という表現を使った。そして唯華にとってはその一言が最も重要だった。

今日、最低でもこの瞬間だけは綺麗でいたい。人間第一印象で八割が決まる。数年振りに再会して、だらしない女だなどと、絶対に彼に思われたくない。

 

「おー、来た来た」

 

色黒スポーツ少女、多賀城ヒナがブロンド髪の女の子の腕をとって元気よく歩いていた。その少し後ろから、二人分のバドミントンバッグを背負って眼鏡をかけた美青年がいた。

 

───ホントに、いる!

 

まだ顔がはっきりと見えるほどの距離ではないが、わかる。服の上からでもわかるすらっとした長い手足。身長は自分の記憶より少し高い。しかし、陽の光に煌めく黄金色の髪に知性を感じさせるあの瞳と眼鏡は変わっていない。歩きながら周囲を見渡している。

 

「コニー・クリステンセンさん!無事に連れて来ましたー!!」

「ご苦労様。あらあら、早速仲良くなって」

「別に、仲良くなんか…」

 

馴れ馴れしく近寄っていた多賀城をコニーが引き剥がす。その間に金髪の青年が二人に追いついた。

 

「日本語、喋れるのね。私はキャプテンの志波姫唯華」

「副キャプテンの美里さきです」

 

コニーへの挨拶を終えると、唯華は一歩前に出る。顔は努めて平静を装っているが、心臓は早鐘を打っていた。

唯華と推の目が合う。眼鏡を掛けたくすんだ金髪の青年は耳からイヤホンを外し、ウォークマンと共にポケットにしまうと、懐かしさを滲ませた笑みを見せた。

唯華の胸にズクッと痛みが走る。大袈裟な表現かも知れないが、少なくとも唯華にとっては、久しぶりに見る大人になった推の笑顔はそれほど強力で魅力的だった。

一度軽く咳払いし、目を瞑る。顔を上げた時、唯華はいつもの堂々とした笑顔で推に応えた。

 

「お久しぶりです、推さん」

「覚えていてくれたか、唯華ちゃん。わざわざ出迎えに来てくれてありがとう」

 

手が差し出される。柔らかく広げたられた手は記憶しているものとはまるで違う。節くれだったスラリと長い指は否が応でも異性を感じさせる。

しかし、変わっていないものもある。こちらを見つめる優しい目と手にできたマメの位置は、初めて握手を交わしたあの頃と全く同じだった。

 

「君は初めましてだね。君たちの臨時コーチを務めることになった、益子推です。こちらこそよろしく」

 

微笑を浮かべ、美里にも握手を求める推に、初対面の副主将は思わず見惚れた。若い男のコーチが来るとは聞いていたが、こんな貴公子然とした王子系美男子が来るとは思っていなかったのだろう。最近のテレビで量産されてるなんちゃって雰囲気イケメンとは格が違う。彼に見惚れる気持ちはわかる。

わかるが、看過できるかはまた別の話だ。肘で軽くさきを小突く。すると我に返ってようやく握手に応じた。

 

「しかし本当に久しぶりだな、唯華ちゃん。しばらく見ない間に、随分綺麗になった」

「ありがとうございます。推さんもかっこよくなってますよ」

「……お兄ちゃん」

 

少し暗い声がブロンドの少女から上がる。『ああ、ごめんごめん』と推は慌てて謝った。

 

「彼女が今日から君たちのチームメイトになるコニー・クリステンセン」

「お兄ちゃん、わざわざ紹介とかしなくていーよ。私は部活動頑張るために来たわけじゃ──イタッ」

 

余計なことを言おうとしたコニーを小突く。無駄に火種を撒こうとするなと注意した。

 

「いったいな。お兄ちゃんだってそうでしょ?私達プロなんだから」

「お前はともかく、俺は違う。というか、日本にバドのプロはないから」

 

会話を聞いたフレ女バド部員は憧れの視線を彼らに向ける。二人のやりとりはどうみても大人のやりとりだ。青春真っ盛りの彼女らは大人に憧れる。クールとか、カッコいいとかは非常に魅力的だ。

増して相手はスタイル抜群のブロンド美少女、コニー・クリステンセンと知的王子系イケメン、益子推。高身長のコニーが少し見上げるこの構図は非常に画になる。二人ともクールでカッコいい。少なくとも、見た目は。

 

「ま、いっか。今日はもう長旅で疲れちゃったし。お兄ちゃん、部屋どこか知ってる?」

「知るわけないだろう。来たばっかだぞ」

「それもそうね。ならえっと…誰だっけ、そこのアナタ」

 

迎えに来ていた副主将に案内を求めようとする。それ自体は構わないが、流石に数秒前に聞いた名前すら忘れているその態度に問題があると感じた推は注意しようと一歩踏み出す。

 

「───?」

 

胸に優しく触れられ、軽く押される。推の行動を唯華が止めていた。シーっと、人差し指を立てると一度ウィンクし、イタズラな笑みを浮かべた。

 

「ほー。案外可愛いの履いてるんだなー」

 

唯華は堂々とスカートの中を覗き込んでいた。慌てて推は視線を伏せる。コニーは羞恥で真っ赤になり、声にならない叫び声を上げていた。

いくら同性とはいえ、こんな屋外で堂々とスカートをめくられては堪ったものではない。もし男がやったなら……いや、女でも充分セクハラだが、男なら即逮捕だろう。訴えられたらほぼ間違いなく負ける。

 

「ちなみに私…今日は黒。特別な人と会う予定だったからね」

 

流石にこれはコニーにしか聞こえない程度の小声で言う。万が一でも、推に聞かれてはいけない内容だ。

 

「一応もう一度言っとくけど、私、主将だから。よく覚えておいてね、お嬢ちゃん」

「なっ、馴れ馴れしくしないで!私は大人で!一人で生きていってるんだからねー!!」

 

唯華がコニーの首根っこを引っ掴んで連れていく。人間関係の構築において、唯華は完全にあのコニーからマウントを取っていた。

 

───心理戦が得意な子だとは知ってたけど…

 

「何というか…強かになったなぁ、唯華ちゃん」

「名門フレ女のキャプテンですから。地元じゃ負け無しだった鼻っ柱の強い一年生とかもいますからね。益子コーチはこちらへ。体育館に案内します。お住まいに関しては先生から伺ってください」

「えっ、お兄ちゃんもこっちに住むんじゃないの?」

「そんなわけないだろう。女子校だぞここ。俺はアパート借りるんだよ」

「じゃあ私もそっちに…」

「はいはい、貴方はこっち。ちなみに私と同室」

「ノン!嘘でしょ!こんなヘンタイとなんてイヤ!お兄ちゃん助けて!」

「諦めろ、規則だ」

「なにコニー、寂しいの?大丈夫よ、ベッドに来てくれれば、いつでも私が抱きしめてあげるから」

「行かない!」

 

コニーと唯華のやり取りを横目で見る。案外良いコンビになるかも、と思いつつ、推は体育館へと向かった。

 

 

 

 




あとがきです。リハビリで書いた小説だったので、酷評も覚悟していたのですが、評価が赤くなっててびっくりでした。まだ一話目だと言うのにお気に入り登録件数も100件を超えていて、驚きと感謝ばかりです。というわけで連載していく事にしました。これから感想、評価よろしくお願いします。面白かったの一言でもいただければ幸いです。時間がかかっても、頂いたコメントには必ず返信します。


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3rd shot 始まりはいつも

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母親から再婚話は聞いていた。物心ついた時からずっと母と2人で生活していたため、多少戸惑いはあったが、「母さんが良いならそれで良いよ」と答えていた。

 

「貴方は本当に昔から私を困らせない子ね。流石は私の推!自慢の息子……と言いたいところだけど、良い子すぎてたまに不安になるわ。時にはワガママ言ってもいいのよ?」

 

気を使っているとでも思われたのだろうか?しかしそんなこと言われても困る。こんな物、いくら反対しても子供に権利などない。過程は変わるかもしれないが、結局は決定事項。なら無駄に抵抗するのは疲れるだけだと推は本気で思っていた。

およそ子供らしくない思考回路で、人によっては可愛くないと思うかもしれない。しかし、幼い頃からバドミントンをやってきた推は、広い視野で物事を考える癖がついてしまっていた。

 

でも、そんな彼でも文句を言いたくなることはある。

 

もし、貴方が何かトラブルを抱え、誰かに相談することがあるならば、一つ、アドバイスをしておこう。

 

「今日から一緒に暮らす私の娘、泪だ。推くんより歳下だから、妹になるかな。仲良くしてやってくれ」

 

 

大事な情報は小出しにせず、まとめて告げてこい

 

 

父親の足に隠れる少女と初めて顔を合わせた時、喉元まで出かけた言葉だった。実際、彼女と共同生活を始めた時、推はほとほと困った。幼い頃から美少年と呼ぶに相応しい容姿だったため、女子との交流は少なからずある。どんなことが好きで、どんなことが嫌いか、ある程度は知っている。けれど、それはあくまで同年代の、それも友達としての距離感での話。歳下の少女との交流経験はほぼゼロに等しい。家族というパーソナルスペースの最も内側に入り込んだ少女に、何を話していいのか、どんな事から始めればいいのか、全くわからなかった。心の準備もまるで出来ていなかったから、尚更だ。

まして、義理の父の連れ子、益子泪は同年代の女子と比べても、自己表現が上手いとはとても言えない子だった。

時折何か言いたそうにこちらを見てくるも、視線を向けるとサッと逸らす。話したくないのか、と思って離れようとしてみれば、後ろをついてくる。まるで知らない家に預けられた猫でも相手にしているかのような気分だった。

 

───付き合ってられるか

 

「推?走るの?」

 

ウエアに着替え、シューズを履いている最中、母が背中から声をかける。日課のランニングもあったが、ストレスを発散する方法として、推はいつも汗を流すことにしていた。

 

「ああ、神社まで。素振りしてから帰る」

「そう。車に気をつけるのよ」

「うん」

 

耳にイヤホンをかけ、ウォークマンのスイッチを入れる。その直前、『貴方はダメよ』と母が誰かを注意しているのが僅かに聞こえた。

 

推のいつものランニングコースは自宅から5、6キロある神社。一定ペースで走り、境内へと続く階段を駆け上がる頃には軽く息が弾む。今の自分には最適な距離と負荷で、毎日の日課としている。

 

母が提案したランニングコースだった。

 

階段を駆け上がって少し息をついた後、境内のところで練習する。4点フットワーク、素振り、自分ショット打ち、一通り熟し、一度水分補給し、走って帰る。これがいつもの推のトレーニングなのだが、今日は少し違った。

 

「君は……」

 

義理の妹が息を切らし、黒いケースを抱えてこちらを見ているのに気づいたのはフットワークの練習が終わった時だった。

 

「泪ちゃん、ついてきてたのか!ダメだって母さん言ってたろう!この辺、人通りも少なくて危ないのに」

「ご、ごめんなさい、でも……」

「でも?」

「…………一緒にいたかったから」

「──っ、」

 

目を伏せ、声を震わせる少女を見て、ようやく気がつく。親の都合で見知らぬ土地に引っ越し、新たな居場所のはずの家も、父親以外、出会って間もない家族しかいない。父親は仕事で日中いないし、実質彼女は全く知らない家に1人っきりだった。まさに見知らぬ家に預けられた猫の状態だったんだ。

まして彼女はまだ年端もいかない少女、不安になって当たり前。こんな達観した考えで生活している自分が少しおかしいのだ。そんな彼女がより歳が近い自分を頼るのは当然だろう。

 

「泪ちゃん」

「?」

 

中腰になり、目線を彼女に合わせる。こうやってちゃんと顔を見て話をしたのは初めてかもしれない。もっと早くこうしておけばよかった。そしたらきっと、もっと早くこの瞳の奥にあった不安に気づけたろうに。

 

「泪ちゃんが持ってるの、ラケットだよね?君もバドミントンをやるのか?」

「うん、お父さんに教えてもらってて」

「そっか。俺も母さんに習ってたんだ」

 

ラケットを取り出す。シャトルを軽く打つ。小さな羽根は少女の手の中へと収まった。

 

「バドミントンしようぜ、泪」

 

血の繋がらない2人の兄妹を始めて繋いだのは1人じゃ飛べない小さな羽根で、

 

断ち切ったのも2人で飛ばす羽根だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、準備できたら体育館においでね」

 

戸が閉まる。唯華の案内のもと、部屋へと案内されたコニーは足音が遠ざかるのを確認した後、これから生活を送る自分の部屋を見渡した。

 

───狭い部屋ね

 

ベッドと机以外にはほぼ通り道しかない。本当に寝て休むためだけの、必要最低限の生活空間。しかしコニーに不満はなかった。幼少期ははもっと酷い環境で生活をしていたこともある。アレに比べれば、雨露を凌げるだけでも有難い。

しかし、そんなタフな彼女にも辛く感じる点はあった。静寂の音が耳に痛い。否が応でも、一人を自覚させられる。

でも……

 

電子音が携帯から鳴る。ディスプレイに出てきた送り主の名前を見て、顔が綻ぶ。

 

『下で待ってる』

 

我ながら、単純だとは思う。たった一言。たった一文でこんなにも精神が変わる。その事実が少し悔しいと同時に嬉しい。

 

「私、寂しくないよ、ママ」

 

ベッドから立ち上がる。すぐさま着替えとラケットが入ったバッグを背負い、兄が待つ寮のエントランスへと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮城と聞けば、地方なイメージをしてしまうかもしれないが、都心はそんな事は全くない。人口もそれなりに多いし、仙台など、文句なく百万都市だ。そして、普通学校とは人が多く住む場所の近くに建てられる。その証拠に、仙台近郊には中高問わず、様々な学校がある。

しかしそんな常識に真っ向から逆らうかのような場所にフレゼリシア女子短期大学附属高等学校は居を構えていた。宮城県の山間部を切り開き、創立された私立高校で、人が住むには少し不便。それがフレゼリシア女子短期大学附属高等学校、通称フレ女の特徴だった。

なぜ、そんなところに学校があるか。その理由は単純。広い敷地面積が必要だったからだ。

フレ女はバドミントンのみでなく、数々のスポーツで優秀な実績を残しているスポーツエリート校。この学校の運動部に所属し、辞めずに卒業したと言うだけでもステータスとなる。故に運動部の部員数はハンパではない。入部希望者は県内に留まらず、県外からも多く殺到する。さらに優秀な成績を残した選手を国内どころか、海外からまでスカウトし、特待生としてまで入学させるのだから、その力の入れ方は並の運動部とは比べ物にならない。

高水準に整えられた施設を思う存分利用し、優秀な指導者の下、効率的に、そして最大限トレーニングを積み、卒業後は実業団やスポンサーと契約し、プロを目指す。そんな者たちにとって最高の環境を作るために、広大な敷地面積が必要だったから、こんな山間を切り開かなければならなかった。

 

そんな山の中に作られた最高の環境で、今日もプロの世界で活躍できる選手になるため、生徒達は血の滲むようなトレーニングを積んでいる。女子バドミントン部のためだけに作られたこの巨大な体育館もその例外ではない。バドシューがフロアを踏みしめる音。跳躍のために地面を蹴る地揺れ。ギリギリまでシャトルを追いかけ、倒れこむ音。そしてラケットがシャトルを捉える音。バドミントンで起こりうる全ての音が体育館の中に一斉に木霊している。

 

「ファイトー!!」

「ナイスー!!」

「声聞こえないよ!もっと出しなさい!声!」

 

それをさらに上回る選手達の気迫。目の前の一球に全てをかけている彼女らの姿を見たくすんだ金髪を短く切りそろえた青年、益子推は、感嘆の息を吐いた。

 

───俺は、そこそこレベルの高校に一年しか行かなかったし、その後はずっと海外でほぼ単独で活動していたから、強豪校の練習風景というものを見た事なかった。俺が入ることができなかった栄枝高校クラスの名門、フレゼリシア女子。侮っていたつもりはなかったが……

 

「どうかね?ウチの子達は?」

 

いつのまにか隣に来ていた初老の男性が話しかけてくる。女子バドミントン部の監督、亘理壮一郎。半分引退している監督で、今は練習には殆ど参加していない。推がコーチとして招かれたのはコニーの指導以外に、この辺りの不足を埋める為もあった。

 

「どんな競技であろうと、最後にものを言うのはメンタルと身体。わかっている事でしたが……なるほど、コレは強いでしょうね」

「ほっほっ。君の若さでもうそういうことがわかっているとは。流石はインハイ優勝者にして、ヨーロッパで数々のタイトルを総ナメにした、あの娘の兄、益子推君だね」

「からかわないでください」

 

キュッとフェースを踏みしめる音が隣から響く。女子更衣室で着替え、アップを終えたコニーが体育館に入って来ていた。彼女も自分と同じく、練習風景をみて、少し目を見開いていた。彼女もずっと1人で練習して来たクチだ。気持ちはわかる。

 

「来たか」

「ねえ、お兄ちゃん。なんであのヘンタイ、あんなエラそうにしてるの?」

「言ってたろ。唯華ちゃん、主将なんだよ」

「シュショーってなに?」

「キャプテンの事。部員で一番偉いヤツ」

「…………へぇ」

「おお、揃ったね。志波姫くん」

「っ。はい、集合!!」

 

唯華の号令で練習をしていた部員達が一斉に手を止め、こちらへと走ってくる。統率されたその動きはまるで訓練を受けた軍隊のようだ。

 

「こちらが今日から我がフレ女バドミントン部のチームの一員となる、益子推さんとコニー・クリステンセンさんです」

『よろしくお願いしますっ!』

 

部員達が頭を下げる。推も応えるように礼を返した。

 

「…………私は別によろしくしなくていーから」

 

全員に指をさして宣言するコニーの頭をグシャリと撫でる。不必要に輪を乱すなとの警告だった。乱れたブロンドを手櫛で直してやると一瞬心地よい顔をしたのを唯華は見逃さなかった。

 

「ちょっと!人前ではやめてよお兄ちゃん!」

「お兄ちゃん呼ぶな。此処ではコーチと呼べコーチと」

 

2人のやりとりを見て、女子部員からざわめきが起こる。

 

「なんで男の人が来たのかと思ったけど、やっぱりコーチだったんだ」

「イケメンだよねぇ、王子系っていうの?ああ、汗塗れバド一色だった私達の青春に遂に爽やかな清涼剤が……」

「頑張って、とか耳元で囁かれるだけで疲れとか吹っ飛んじゃいそうよね〜。手取り足取り、ゆっくりコーチして貰いたいなぁ」

「でもコニーさんにお兄ちゃんって呼ばれてたけど……どうみても血縁じゃないよね。そういうプレイなのかな?」

「うわっ、ナマい!」

 

概ね好意的だったが、所々で風評被害がある。説明するのも面倒なので、まあ言わせておくかと思ったのだが、コニーに推と同じ行動は取れなかった。

 

「言っとくけどねぇ!お兄ちゃんは、わ・た・し・の!コーチとしてついて来てくれたんだからね!あんた達はついでよ!ついで!」

「お前のお守り(コーチ)もついでだバカ。俺は今年の全日本に出場るために帰国したんだから」

 

今度はさっきと違う意味で空気が変わる。こほんと一度咳払いすると、主将はコーチに関しての説明を始めた。

 

「益子さんは次の東京オリンピック代表候補の一人として今年行われる全日本選手権に出場されます。主に技術指導を担当してもらいますが、コーチ自身も調整を兼ねて練習に参加して頂きます。皆さん、失礼のないように」

「今日から君たちの臨時コーチをつとめさせてもらう。益子推です。なにぶん、若輩なもので、至らない点も多くあるかと思うが、お手柔らかによろしく」

 

全日本、と誰かが呟く。そう。推が帰国した本当の理由はバドミントン全日本選手権で優勝するため。ヨーロッパで数々の大会に参加していたのはいわゆる武者修行の一環。多くのタイトルを取ってきた推は、日本バドミントン界において、注目の新星である。そんな彼が日本バドミントン連盟からオリンピック代表候補選手として選ばれるのは必然であり、その代表選考会の一つである全日本選手権に招待されるのも必然だった。そんな時に舞い込んだのが臨時コーチとして招きたいというフレ女からのスカウト。本来、コニーの交換留学の為の視察だったそうだが、女子優勝候補筆頭選手の上位互換とも呼べる推のプレーを見て、今回の話に至ったそうだ。日本の滞在費も、練習環境も全てフレ女が用意してくれるという条件のもと、推はこの仕事を受けた。

 

「それでは2人には早速、練習に参加してもらいます。まずはストレッチ。その後2分ランニング!!」

『はい!!』

 

今までのは練習前のノック。本格的な部活動の練習メニューはこれから始まる。

バドミントンの練習とは大きく分けて三つ。一つは体力向上。もう一つはウエイト。そしてラケットワーク。バドミントンは基本的に走りっぱなしのスポーツ。跳んだり跳ねたりを最長3セットずっと続けなければならない。その上バドミントン選手は常に尋常でない集中を持続する必要もある。初速に限れば、世界最速であるバドミントンのシャトル。スマッシュなど平均時速350kmある。一瞬でも油断すれば一歩も動けずポイントされる。無酸素運動と有酸素運動をほぼ同時に行い続けなければならない。

身体も、頭も、心も、全てフルに動かし続けるハードなスポーツ。勿論強いメンタルも必要。言うなればゴールがわからないマラソンを全力疾走しながら、筋トレをするようなもの。体力と筋力がなければ話にならない。故に強豪校であればあるほど、練習内容は体力向上とウエイトが多くの比重を占める。

フレ女も勿論、その例に漏れない。ストレッチの後、二分間走。ダッシュ、腿上げ、バービー、小刻みステップ、ラインタッチ、フットワークにカエル跳びetc.

体力アップメニューだけで、女子は勿論、男子すら常人なら倒れかねないハードワーク。新入りの一年生はここで血反吐を吐くのがフレ女の毎年恒例行事だ。しかし、今年は、というか今日はその光景が少し違う。

 

「…………流石ね」

 

グロッキーになっている一年生達をよそに、軽く息を弾ませる程度で、ドリンクを口にするコニーと推を見て、唯華は感嘆の息を漏らす。推はともかく、コニーが初日からここまで余裕でついて来られるとは思わなかった。

 

「ここまでちゃんと走り込むの久しぶりだ。流石に暑いな」

 

休憩時間に入り、体育館の扉を開くと、推が頭から水を被る。雫が飛び散り、光に反射した。

 

「なんでこんな締め切って練習してんのー。開ければいいのに」

「コニー、練習中に勝手に開けるなよ。シャトルを打つ音って意外とうるさいからな。ましてこの人数だ。開けてたら迷惑だ。扉開くのは休憩時間だけってのが部活の普通」

「日本人って周囲に気を使いすぎじゃない?こんな山の中なんだから多少煩くてもいいじゃない」

 

休憩時間、ふつうにお喋りする2人。明らかにまだまだ余裕がある。初日は喋るどころか、体育館裏でリバースも珍しくないというのに。

 

───ヨーロッパの大会を総ナメにしたのは伊達じゃないね、基礎体力の出来が違う

 

「唯華ちゃん」

 

推が呼ぶ。もう定刻の休憩時間を過ぎていた。いけないいけないと軽く両頬を手で叩き、大きく息を吸う。

 

「休憩終わり!各ショットの素振りとノックやった後、歓迎の伝統行事を行います!みんな、気合い入れて練習するように!」

『はい!!』

 

上級生達は勝手知ったるもので、淀みなく練習に参加していく。一年生は先輩の指示に従って行動し、コートでラケットを振った。推はここで一度コート外に出る。コーチとして適切な指導を行うために、一人一人のラケット捌きを見る必要があるからだ。ノック出しもコーチの仕事だ。

 

───やはりレベルが高い。スイングスピードは早いし、フォームは基本に忠実。

 

素振りとノックを見た推は部員全員の力量を概ね理解していた。

ラケットがシャトルを打つ音を聞けば、センスと実力は大体わかる。練習に参加しているもの全員が実力者の部類に入っていた。なるほど、これほどのプレッシャーの中で毎日練習していれば強くならないはずがない。

 

───それでも、泪ほどではない、か。

 

今の泪の実力はとあるツテのお陰で知っている。ザッと見渡す限り、確実に泪以上と言える選手はこの中にいない。勿論、勝負など時の運。アイツが負ける事もあるだろう。しかし、確率で言えば低いのは揺るぎない事実だ。

 

───なんとか対抗出来そうなのは、コニーを除けば……

 

「遅い!ジャッジ早く!全国のシャトルはもっともっと早いよ!」

「はい!!」

「次!!」

 

この中で誰よりも声を張り上げている黒髪の少女の姿に青年の視線が向く。実力者揃いのフレ女バドミントン部の中でも、彼女はちょっと刮目するレベルだ。主将を務めるに相応しい強さを誇っていた。

推が知る限り、彼女は頭の良いプレイヤーでもっとクールなタイプだった。それがたった数年見ない間に、フィジカルは勿論、なによりメンタルが別人のように強くなっている。

 

「それでは、今日の練習はここまで。これから新入生歓迎イベント、伝統の新入生対上級生の対抗戦を始めます」

「対抗戦?」

「歓迎試合のようなものですよ。ワンセットマッチを行うんです。それでは呼ばれた人はコートに入ってください」

 

新入生達が名前を呼ばれ、上級生とゲームを始める。当然と言うべきか、勝つのは上級生。15〜18歳と言えば、身体も出来上がり始め、選手として最も伸びる時期。一年生が卒業する頃には別人のように化けるのもザラ。この年代の2年間には凄まじい差がある。

 

その中で唯一の例外は……

 

「ゲーム!21ー6!マッチワンバイ、コニー!」

 

多賀城ヒナとコニーのゲーム、大差で勝利を収めたコニー。やはり彼女のセンスは群を抜いている。

 

───ま、センスだけじゃないが

 

プロを含め、さまざまな選手と試合してきたコニーのキャリアは一介の高校生などとは比べ物にならない。まして、初めて出会ってからほぼ毎日この俺と打ってきたのだ。いくら名門でも、そう簡単には負けない。

 

「ぼ、ぼろ負け……」

「多賀城、気を落とすな。ちょっと差はついたが、スコアほど実力に差はないよ」

「お兄ちゃん、どっちの味方なの」

「どっちもだよ、コーチなんだから」

「もぉ!」

 

ドンっと胸板を叩かれる。やめろ、と手を取った。こいつのパワーでグリップ越しに殴られたら、結構痛い。

 

「…………ねえ、推さん」

「?どうした唯華ちゃん」

「その、ですね……」

 

ラケットのグリップを握り開きしながら、ガットを弄る。何か言いたそうにこちらを見てくるも、視線を向けるとサッと逸らす。

この所作には覚えがあった。初めて出会った頃の泪やコニーそっくりの目。何だかんだ唯華とは付き合いも長い。歳下の友人というより、推にとって唯華は

 

───まったく、女……というか、妹みたいなヤツは大体同じだな

 

「唯華」

「は、はい!」

 

急に呼び捨てにされた黒髪の少女は跳ねるように背筋を伸ばす。燻んだ金髪の兄貴分は微笑を浮かべ、頭を撫でる。持っていたラケットを軽く持ち上げてみせた。

 

「バドミントン、しようぜ」

 

 

 

 

 




後書きです。いやー、難産だった。運動部の経験はありますが、名門校の部活動に関してまったく知らないのでイメージが全然できなかったです。今もあまり納得いってない。それにしても推、妹増やしすぎだろ!タイトルがタイトルだからしょうがないけど!次回、唯華VS推。武者修行を終えた推の実力がついにベールを脱ぎます。それでは、感想、評価よろしくお願いします。面白かったの一言でも頂ければ幸いです。


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4th shot 憧れから足を前に

 

 

 

 

 

 

全日本ジュニアバドミントン大会。中学生から高校生までという広範囲にわたり、日本全国から将来有望な選手達が集う大会。言ってみれば、この大会で好成績を収めたものが後のバドミントン界を背負って立つといっても過言ではない、若獅子達の登竜門。

 

いずれ自分が出場するであろう大会を志波姫唯華は観戦している。幸いにも全国小学生バドミントン大会が同時期に近くで行われていた為、将来有望な選手である唯華が滞在の延長を頼んだ時、許可は意外とあっさり降りた。

自分が出場していた全国大会とは比べ物にならないほど大きな体育館で、その試合は執り行われていた。男子と女子が同じ会場で行われている事に不思議はない。小学生の大会でもいつもそうだったからだ。

 

彼女を驚かせたのはもっと別のこと。全国大会のトーナメントに一際小柄な少年が生き残っていたことだった。

先ほども述べたように、この大会は中学生から高校生まで、つまりは13歳から18歳までの、学生大会で優秀な成績を収めた者のみが参加を許される。

といっても、実際に最年少が出場することは非常に稀だ。これは全てのスポーツに言えることだが、体格と経験という有利は多少の技術や才能を吹き飛ばす威力を持っている。まして中学から高校までの6年間は選手が最も飛躍する時。13歳と18歳では大人と子供ほどに、フィジカル、テクニック、経験において差が出てしまう。故に勝ち残るのは年長者になるのは、水が高きから低きに流れるが如く、自然の成り行きだ。

実際、この大会でもそうだ。この全国の舞台に立っているのは高校生ばかり。例年通りといえるだろう。

異常なのはたった一人。170後半の選手ばかりの中で、一際小さな子供が、大人ほど体格の差がある選手を相手取り、必死に羽根を追いかけている。

この少年が対角線上に立った時、相手の選手はなんのまぐれでこんなガキが勝ち残っているのかと思っていた。しかし、試合が進むにつれ、その偏見は正されていく。自分がどんなパワーショットを打っても、体格の有利を活かしても、この少年は巧みに返球してくる。勿論ただ返すだけではない。右へ、左へ、時に早く、時に遅く、緩急を使い分け、ポイントを取りに行っている。

 

───どんなショットを打っても返される……まるで壁でも相手にしてるかのような安定感に加え、あのコントロール

 

体格の不利を制球で覆している。足下やボディ、絶妙に手の届かないコースへと打っている。時折パワー任せに強引に打ち込むが……

 

「17-6!」

 

カウンターの餌食。嫌という程コントロールされたショットに加え、あの反応の速さ。相手の強みをコントロール一つで封じ込めている。

 

「凄い……」

 

唯華の口からその言葉が漏れ出たのはほとんど無意識だった。自分も体格に恵まれていない部類だから、よくわかる。小柄な者が、強靭な肉体を持つ選手のパワーとスピードに対抗するためには、テクニックとコントロールしかない。しかし、テクはともかく、コントロールはセンスだけではどうしようもない。何千何万と積み重ねた修練が最も強くモノを言う。

あの領域に至るまで、あの少年は一体どれほどのトレーニングをあの小さな身体に積んだのか。唯華にも想像がつかなかった。

 

「ゲーム!21-15!21-12!マッチワンバイ、益子!」

 

圧巻のゲームメイク。少年は高く拳を突き上げ、観客席へと手を振った。彼が見上げた先には彼と同様に喜ぶ者たちがいる。きっと少年の友人達だろう。拍手と歓声で出迎えられ、笑顔が弾けていた。

 

───私もいつか、あんな風に……

 

周囲に慕われ、笑顔を作る彼に強く憧れを抱いたのは、恐らくこの時だっただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軽く身体を伸ばす。特に足と肩周りは意識してストレッチを行い、タオルで汗を拭いた。

 

「コニー、眼鏡持ってて」

 

いつも掛けてる黒縁の眼鏡を外した。スポーツメガネなので掛けたままでもバドは出来るが、試合をする時は常に外す事にしている。おまじないというか、推なりのスイッチというか、試合に入る前に集中力を高めるためのルーティンのようなものだった。

 

「…………なんでお兄ちゃんがやるの?私がやるつもりだったんだけど」

 

明らかに機嫌を損ねてるコニーだったが、眼鏡は受け取る。彼にとって大切なモノを預けてもらえるというのは、妹分にとって譲れない役目の一つだった。

 

「コニーが俺をお兄ちゃんって呼ぶのは、なんで?」

「は?そんなの、お兄ちゃんだからに決まって──」

「言い直そう。俺をお兄ちゃんと認めてくれるのは、なんで?」

「…………色々あるけど、一番はバドミントンが強いから」

 

コニーの答えに微笑返す。聞きたかった答えだった。

 

「女子ばっかの空間に、いきなり異分子が紛れ込んだら、コーチとして認めてもらうにはそれなりに理由がいる。ここはバドミントン部。一番手っ取り早いのがコレだ」

 

軽くラケットを持ち上げる。青と黒でカラーリングされた細いカーボンはいつもクールな推によく似合っていた。

 

「それに、打たないとわからないこともある」

「え?」

 

軽くジャンプしながら唯華が待つコートへと入る。ヘアゴムで髪を後ろに縛った。

 

───推さんと打つなんて一体いつ以来だろう!

 

勝てるとは思っていないが、それでも心踊る。アップも兼ねて軽くジャンプしているが、飛び上がりたくなる衝動を誤魔化す意味もあった。

 

「フィッチ」

「ああ、いいよトスはなしで。俺がサーブだ」

 

テニスと違い、バドミントンはどちらかというとサーブが不利だ。一撃で決められるという事はまずないし、打てる場所も限られている。甘く入って一撃ではたき落とされることもよくある。故にトスに勝った場合、レシーブを選ぶのがセオリーだ。しかし……

 

「推さん、ハンデのつもりですか?」

「まさか。俺はバドミントンで手を抜いた事はないよ」

 

シャトルを摘み、構える。力の抜けた、リラックスしたフォーム。それでいてネットの裏からでも伝わる集中力。スイングを見ただけで相手の力量は概ねわかるが……

 

「唯華こそ、俺が油断していると油断するなよ。壊すぞ」

 

───コレは、気を抜いたら虐殺されるかも

 

身体の芯がビリビリ震える。全国でもコレほどの圧を感じた事はなかった。唯華の警戒レベルは勝手に最大限に上がっている。いや、上げさせられたというのが正しいだろう。

 

「「よろしくお願いします」」

 

握手をする。それは今日初めて会った時に交わしたモノとはまるで違う、堅く、熱い、戦う意志がこもった握手だった。

 

「オンマイライト益子コーチ。オンマイレフト唯華、益子コーチトゥサーブ、ラブオールプレー」

 

バドミントンの第1投。それは戦いの火蓋を切るというには、あまりに不似合いなほど静かに始まる。

 

アッパースイング気味にシャトルを打ち上げる。ロングサーブだ。レシーブショットに唯華はクロスカットを選択した。ファースト・コンタクトが始まる。

 

バドミントンのポイントとは概ねラリーの打ち合いの末に決まる。その傾向は試合が序盤であるほど顕著だ。だから開始直後いきなりどちらが一方的に有利になるという展開はまずない。最初のラリーは探り合いだ。相手の調子、力量、スタイル、それらをラリーで会話する。

 

「はっ!」

 

インパクト直前でスナップが鋭く動く。前に落とされるかと思われた唯華のショットは高く打ち上げられた。

 

「…………速い」

 

落下地点へ、2ステップでたどり着き、構える推を見て、誰かが言った。今のはフットワークの速さのみを形容した言葉ではない。落下地点の見極め、そして相手のショットへの判断。それら全てを称しての言葉だった。

 

───手前に来る

 

読んでいた唯華は危なげなく推の対角線へとリターンする。あっさりと拾われたが、それくらいは想定内。右へ、左へ、自由自在に唯華はシャトルを振る。

その全てをほぼ同じ威力で推はリターンする。

 

「…………私の時と一緒か。鬼だね、お兄ちゃん」

 

そのスタイルを見て、直に戦っている唯華と、長く共に時間を過ごしたコニーは気づく。今日の推のスタイルはディフェンス。いつもの彼と違う、と。

 

───決まらないまでも、攻めるチャンスはいくつかあった。それなのに……

 

高校からの推のスタイルはオフェンス重視の万能型。テクニックを軸としつつ、パワーもスピードも使うスタイル。それをあえて封じて戦っている。

 

───攻めてこないなら、前に落とす

 

ネット際のショットは難しい。僅かな狂いでネットになるし、高く浮けば絶好球になってしまう。しかし、攻めてこないと分かっていれば、ネットにさえ注意してれば問題ない。前に落とされた場合、リターンが甘くなる可能性もある。

 

そんな認識が招いたのか、唯華が打ったドロップは理想の軌道より少し高いモノだった。

 

「っ!?」

 

プッシュで強打される。一直線にフロアに叩きつけられたシャトルに、唯華はまるで反応できなかった。

 

「ワ、1ー0」

 

ほぉっと部員達から息が漏れる。名門校の部員達が息を呑むほど緊迫感のあるラリーだった。

 

「ナイスフェイク。悪くないドロップだった。こりゃ気が抜けないなぁ」

 

言葉の上では唯華を褒める。しかし、戦っている張本人とコニーは弄ばれてる気分にしかならなかった。

 

───攻めてきた?ディフェンシブで来るんじゃなかったの?

 

男子と女子のスペック差を考え、できるだけフェアに戦うため、推はオフェンススタイルを捨てたのだと思っていた。しかし、今のは明らかに攻めに出ていた。

 

───守るところは守り、攻めるとなれば一気に噛み付く。コントロール重視のディフェンス・カウンタータイプで来るってことか。

 

ミスが少ない代わりに破壊力がない。しかしコントロールがあれば追い詰めることはできる。

それは唯華本来のプレイスタイルとあまりに酷似していた。

 

「でも……うん、大体わかった。さあ、続けようか」

 

推の瞳が少し暗くなった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポイントが進んでいく。しかし試合展開は遅い。ワンセットの平均時間は約12分程度だというのに。

 

「イ、11ー3。益子コーチ。インターバル」

 

10分以上かかってようやく半分が終わった。お互い異常にミスが少なく、長いラリーを撃ち合った結果だ。

 

「わかってた事だけど、強いね。益子コーチ」

「うん、流石益子さんのお兄さん」

「コレがかつて一年にしてインハイを制した、オリンピック代表クラスの実力」

「でも……」

 

当初の目論見通り、推をコーチとしてリスペクトする者も増えてきたが、一体いつまで掛かるのか、と心配する者も出てくる。それも無理ない事だろう。長い試合は体力と精神力を削り取る。このままでは女子の唯華が明らかに不利。最悪、終盤は嬲り殺しのような展開になりかねない。

しかし、多くの部員が考えるような展開にはならなかった。インターバルが終わった後、唯華はミスを連発し、今までが嘘のように試合は早く進んだ。

 

「16ー3、益子コーチ」

 

ラリーを制した推が、シャトルを拾い上げる。この時、ついに唯華が膝をついた。

 

「キャ、キャプテン!」

「大丈夫ですか!?」

「入るな!」

 

コートに駆け寄ろうとした部員達を制する。ずっと穏やかだった推からは考えられないほど強い口調だった。

 

「たかがワンセットマッチだ。身体の異常じゃない」

「そんなの、わからないじゃ──」

「唯華」

 

部員の言葉を遮り、ネット越しに唯華へと歩み寄る。もういつもの穏やかな彼に戻っていた。

 

「ゲームが半分もくれば、相手が自分より強いかどうかくらい、お前ならわかるだろ」

 

俯いたまま、唯華は何も答えない。しかし、肯定している事は誰もが分かった。

 

「唯華、君は強いよ。攻撃一つ一つに意味がある。相手の思考を読む洞察力がある。何が得意で、何が苦手か。相手のクセは?ショットの個性は?それら全てを読み取って攻撃へと繋げる。完成度という点においては恐らく、コニー以上だ」

「そんな事ないし!私の方が完成されてるし!」

 

聞こえていたのか。兄の言葉にブロンドヘアの少女が噛みつく。自分が一番でなければ気が済まないコニーらしい反応に思わず苦笑が漏れる。

といっても、これは勿論コニーが唯華に劣るという意味ではない。あれ程の完成度でまだ未完成という事実の方が凄い事なのだが、まあ言ったら調子に乗るので言わない。

 

「でも、そんな強い自分より強いと自覚できる相手が、待球してくると辛いよな。俺もそうだったから、わかる」

 

自分より上の相手に、ディフェンシブに戦われれば、いつ決められるかわからないという恐怖がつきまとう。手のひらで弄ばれているだけじゃないのか、このラリーはいつまで続くのか、ネガティブな思考に取り憑かれる。

 

それが心を折るバドミントン。

 

あの時、身を以て体験した、泪の全盛期のバドミントン。

 

「唯華がそんなバドに出会うかはわからない。でも、君を全てにおいて上回るという選手にはいつか必ず出会う」

 

そんな選手に勝つためには技術や身体能力などより、メンタルが遥かに重要になってくる。

 

「たとえ何で負けていても、得意分野では負けないという自信。自分は強いと信じ込む力が必要になる。今まで積み重ねてきた練習が。強い相手と戦って、勝ってきたという経験が、君を支える」

 

俺は信じることができなかった。今まで積み重ねてきた全てを否定された気がした。だから今までのバドを捨てて、もっと強いバドミントンを求めてトレーニングを積んだ。

強くなればなるほど、脳裏に強く刻み込まれた、アイツのスタイルに似通っていった。

 

「それでも、バドミントンにおいて、最も重要なファクターはコントロール。全てのショットに追いつき、コントロール出来れば負けない。俺のこの哲学だけは今も変わらない」

「…………推、さん」

 

ようやく推と目が合う。呼吸を切らしながらも、肩で息はしていない。流石だ。よく鍛えられている。

 

「パワーはトレーニング以外の、先天的なモノがどうしても根幹になる。だが、コントロールは違う。コントロールとラケットワークは訓練がモノをいう」

 

良質な筋肉と体格があれば、素人でもパワーショットは打てる。だが、コントロールショットは絶対に訓練しなければ打てない。

 

「バドミントンにおいて、優秀な選手とは、ミスをしない選手。その意味では唯華、君は完璧エリートを地でいく、誰より優秀な選手だ。だけど、優秀なだけでは勝てない時は絶対に来る」

「優秀なだけでは……勝てない」

「そう。エリートの弊害だな。完璧で優秀な君だから、周りが求める自分でいる事に慣れすぎている」

 

───かつて俺が、そうだったように

 

勿論唯華のメンタルが弱いとは言わない。むしろ名門校キャプテンに相応しいメンタリティを持ってると断言できる。だが、それ故に。頼れるキャプテンであるが故に、それが彼女のバドミントンを狭めているのも事実だった。ミスを連発させたのはきっと、下手に足掻いて、無様な姿を部員達に見せない為。もしかしたら俺を悪者にしない為もあったのかもしれない。仲間のことも、コーチのことも考えられる。

 

「それはキャプテンとして、とても立派なことだ。君は俺なんかよりよほど優れた人間だよ」

 

だが、人として優れていることが、時に勝負事においては枷になりかねないこともある。

 

「君はキャプテンである前に、フレゼリシア女子バドミントン部の一人なんだ。もっと自分のバドミントンに没頭していい。たとえ不恰好でも、部員が不安になってしまうとしても、現状から一歩踏み出さなければ、勝てない時は必ず来る」

「…………今みたいに、ですか?」

「俺に勝つにはあと十三歩は進まないとなぁ」

 

座り込む少女が軽く吹き出す。推の本音が多少混じった冗談に笑ってしまったのもあったが、それと同時に今までの自分がおかしくなった。あれ程楽しみにしていた、自分が望んだ試合だったというのに、一体何を気にしていたのだろうか。そうだ、コレは公式戦でもなければ、真剣勝負でもない。新しいメンバーを歓迎するためのレクリエーション。なら周囲にどう見られてもいい。たとえスコンクで負けたって構わない。なら、普段出来ないようなチャレンジをもっとしなければ、勿体ない。

 

唯華が立ち上がり、構える。そして纏う空気が変わった。先ほどまでの、勝てないまでも善戦しなきゃ、と躍起になっていた目が、目の前の試合を楽しむ者の目に。

かつての泪やコニーと同じ目になっている。

 

「そうだ、それでいい。足を前に出していけ。バドミントンしようぜ、唯華。フレゼリシア女バドキャプテンじゃない、志波姫唯華のバドミントンを」

「はい!」

 

サーブを構える。ようやく二人は正しく向き合って、バドミントンを始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 




後書きです。三話にして、お気に入り900件超えていた事に驚きを隠せません。ありがとうございます!これからも頑張りますので、感想、評価よろしくお願いします!感想には時間がかかっても絶対返信します!


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5th shot 新妹、古妹を知る

 

 

 

 

 

 

 

コツンと固い何かがフロアにぶつかる音が響く。白帯の内側にシャトルが落ちた瞬間、羽を追いかけていた少女、志波姫唯華は大の字になって倒れた。

 

「ぷっはぁあ……」

「はは、頑張ったな」

 

バドミントン界期待の新鋭であり、先程まで唯華と試合をしていた青年、益子推は微笑する。彼女の気持ちはよくわかった。あれだけの無呼吸運動を連続で繰り返したのだ。緊張の糸が解け、ようやく大きく呼吸できる感覚は大いに共感できる。

ゲームが終わり、駆け寄ってきたコニーからタオルとドリンクを受け取る。激しい無呼吸運動を繰り返したのは推も同じだ。流石に肩で息はしていないが、身体からは湯気が上がっている。

 

「随分手こずったね。手加減し過ぎだったんじゃない?」

「してないさ。ちゃんと本気で戦った。お前の時と同じでね」

 

勝負モードではなく、教育モードでだが。

 

「唯華、大丈夫?」

 

副キャプテン及び数名の部員達は唯華に駆け寄っていた。彼女の表情はここからではわからなかったが、オッケーと指の輪を作ってみせていたのだけは見えた。

 

「…………まあまあやるわね、あのヘンタイ」

 

少し不服そうに、けれど確かにコニーは唯華を強敵と認める。テクニックやセンスだけではない。圧倒的な強者相手であろうと最後まで諦めなかったメンタルをこそ、コニーは評価していた。言葉にすれば簡単だが、諦めないというのはとても難しい。ましてや相手はあの益子推。負けて当たり前と思えるほどの相手に食らいつくのは本当に至難だ。コニーも、推も身をもって理解している。

 

「春大会の優勝者なんだ。並じゃないさ。事実上、高校女子バドミントン日本一に近いと言ってしまっても言い過ぎじゃないだろ」

 

いくら巧かろうと、身体が強かろうと、根性がなくてはその頂には辿り着けない。華麗さと泥臭さを唯華は既に兼ね備えている。それはコニーには少し足りない部分だった。

ネットをくぐり、唯華の元へと歩く。コニーから渡されたドリンクを大の字で横たわる唯華の顔の横へと置いた。

 

「唯華ちゃん」

 

ちゃん付けが戻る。相手を呼び捨てにする時は、一人のバド選手として戦っている証だとコニーだけは知っていた。

 

「疲れてるだろうけど、俺は今コーチだから、アドバイスだけはしておく。君は最初、ドロップをプッシュで叩き落とした俺を見て、俺を格上と判断……いや、多分再認識した。だからこそその後は受けに回り、俺の分析に徹した。それは勿論間違ってはいない。真っ向勝負で勝てないなら勝てる部分を探る。正攻法だ」

 

(すい)(ゆいか)では馬力が違う。言うなれば、時速300kmのバイクと150kmのバイクでレースをするようなもの。まともにやって勝てるわけがない。

だから勝てる部分を分析で探り、そこで勝負する。戦術としてはとても真っ当だ。事実、推も海外の大会ではほぼ戦術と感性で勝ってきたと言っていい。体格に恵まれているとは言えない部類である推は、ヨーロッパの選手達とくらべ、フィジカルでは圧倒的に不利なケースばかりだった。その差を埋めるためにテクニックを磨き、ディフェンスを磨き、フットワークを磨き、速攻を磨いた。相手が時速300キロに到達するのをひたすら邪魔し、それでいてこちらはマックスの馬力を出せる土俵に引きずり込んで戦った。

 

「だがこれは長丁場戦う時とか、力押しだけのパワータイプ相手なら有効なんだけど、今回みたいなたったワンセット、もしくは相手の引き出しが多過ぎてフルセット使っても分析しきれない相手の場合、最後まで後手に回ってしまい、ジリ貧のまま負けてしまう」

 

言ってて悲しくなってくる。泪相手にボロ負けした時、俺はまさにこのケースでジリ貧どころか、いいとこ一つもなしで終わってしまった。

 

「唯華ちゃん。最善手を出し続ければ勝てるというほど、バドミントンは単純じゃない。まあだからこそ面白いわけだが……悪手と分かっていても打たなければいけないショットはある。そして確実にポイントを取られてしまうようなベストショットを敵に打たせなければいけない局面も必ずある」

 

ベストショットを終盤まで封じ込めるというのは言い換えて仕舞えば得意ショットを終盤まで温存されるということになる。その場合、最後の土俵際で寄り切られるという状況を作りかねない。

 

「たまには不合理に身を委ねてみるといい。そこで120点が取れれば、きっと君にとってバドミントンはもっと面白くなる」

 

手を差し出す。柔らかく広げられた、マメだらけの手を唯華は躊躇なく掴んだ。

 

「…………私にそんなプレー、できますかね?」

「できる、というか、出来てたさ。最後の方は実に楽しかった」

「実は必死過ぎてあまり覚えてないんですけど」

「ははっ、あるある。俺の場合、気がついた時にはホールの廊下でタオル被ってた」

 

唯華の言葉を聞き、快活に笑う。極限の緊張と疲労の中で頭が真っ白になるというのはよくあることだった。

 

「監督」

「そうですね。今日の練習はここまで。皆、クールダウンして休むように」

『はい!』

 

部員達が最後のランニングを始める。ネットが取り外され、体育館が掃除され、バドミントンの形跡が無くなったのを確認すると、推は今夜の宿へと案内された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フレ女女子寮。部員達の殆どが生活を送る宿泊施設。そこは寝泊まりするだけではなく、食事や入浴も行う場所でもある。寮の一階に大浴場とシャワールームがあり、栄養士が献立を管理する大きな食堂もある。部員達は練習後、ここで汗を流し、食事を摂るのが一連の流れだ。

その中のシャワールームの一室をいつもより早く使っている少女がいた。常ならば仲間達と談笑しながら行動を共にし、皆と一緒に入っているが、今日はそんな余裕はなかった。叶うならばシャワーを浴びずに寝たい程だったが、それは流石に乙女として許されない。

水音が派手に鳴り、床を濡らす中、壁に寄りかかり、座り込む。温水が志波姫唯華の全身を打ちつける。びしょ濡れになりながらも心地よい倦怠感に身を任せ、黒髪の美少女は四肢を投げ出していた。

 

「疲れた……凄く疲れた」

 

唯華が小さく呟く。たったワンセットのゲームなのに、精根尽き果てた。身体中が重い。倦怠感が全身を包み、うまく力が入らない。久しぶりのことだった。大会中など日に数試合、フルセットで行う事も珍しくない。そんなハードスケジュールを唯華は今までこなしてきた。その時でさえ、ここまで空っぽになった事などなかった。

 

でも……

 

───久々に楽しかった、かも

 

いや、絶対に楽しかった。普段の練習試合でも、手を抜いたということは一度もないと断言はできる。だがキャプテンという立場上、何もかもを曝け出すということは多分できなかった。少なくともこんなに限界ギリギリの戦いはさせてもらえなかった。仲間には使わない、いやらしいショットもふんだんに使った。そのすべてに、彼は応えてくれた。

 

───まだまだ、遠いなぁ……

 

空に向かって手を伸ばす。一年から名門校の副主将に抜擢され、そして今は主将を務めている。少なからず成長した自覚はあった。しかし、憧れた背中は近づくどころか、遠くなっていた。

 

ガラリと浴場のドアが開いた音が鳴る。恐らく、部員達がコニーを連れてシャワーを浴びに来たのだ。今から行われるのはフレ女伝統、お背中流しっこ。新入生は全員やるお約束。上級生と試合をして勝ったら洗ってもらえる。自分も一年生の頃、三年に勝って洗ってもらった。

慌てて起き上がり、背筋を伸ばす。この古き良き伝統に、主将たる唯華は積極的に参加しなければならないのだ。

 

「そ〜〜れゴシゴシゴシ〜〜〜!!」

「あばばばば!!」

 

仲間達に連れられてきたコニーを泡まみれにした時、唯華はいつもの主将の顔に戻っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋のソファに荷物を投げ捨てる。自分の家具ではなく、ホテルの家具だ。今日1日だけ、推はフレ女から少し離れた場所を宿に決めていた。

学校側が用意してくれた職員寮でもよかったのだが、少し個人的な事情がある。

当たり前だが、職員寮には家具類など一切届いていないし、まだ人が住める環境ではない。それでも寝泊まりするだけならできなくもなかったが、まだ現地で調達しなければいけない物も結構ある。幸い、部活も明日はオフの為、自主トレ以外は特にすることもない。コーチ業とトレーニングに専念するためにも、一日も早く生活環境を整えなければならないため、日用品などの店が豊富にある仙台駅近くの宿の方が何かと都合が良い。

シャワーを浴び、ホテル備え付けの寝間着に着替える。ストレッチを済ませるとベッドに横たわった。

 

───ふぅ……

 

ようやく一つ息を吐く。思い返していたのはフレゼリシア女子バドミントン部について。目を閉じれば鮮明に浮かぶ。仲間たちと切磋琢磨し、時に支えあい、目標に向かってひたむきに努力する姿は眩しいと同時に少し羨ましかった。

 

───俺の時は、そんなことまるでしていなかったからな

 

あの頃は周りなどまるで省みてはいなかった。ただ自分が強くなる為だけに必死で身体をいじめ抜いていた。今考えれば、とんでもない新入生だったな、と思う。後悔はしていないが、間違っていたなとも感じている。

 

「…………正直、この仕事は調整くらいにしか思っていなかったが」

 

得るものは意外にあるのかもしれない。インハイ決勝を機に、段飛ばしで階段を駆け上がってきた。それは勿論悪いことではないが、早すぎる成長は選手にアンバランスをもたらしてしまうこともある。急速に成長してしまったが故に取りこぼしてしまった何かがここにはある気がしてならない。

 

「泪。お前のライバル達は、ちゃんと強いぞ」

 

いつか出会うだろう妹に想いを馳せる。おそらく彼女達は全国の舞台で戦うだろう。相手は唯華か、コニーか、綾乃か、それともまだ見ぬ強豪かはわからない。が、わかっていることもある。トーナメントとは最後の一人以外は全員敗れ、その誰もが経験する敗北は、たった一度だけだということ。

 

───その時、俺は誰を応援するのかなぁ……

 

それもその時になって見なければわからないだろう。けれど勝っても負けても、一度必ずアイツに会いに行こうと決め、推は目を瞑った。眠りに落ちるまで、意外とかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フレゼリシア女子バドミントン部コーチ、益子推の朝は早い。

というか、アスリートの朝は大抵早い。早朝5時には目を覚まし、動きやすい服装に着替える。バナナを食べ、軽くストレッチした後、5〜6km走るのは幼い頃からの日課だ。

 

「あ、お兄ちゃーん」

「推さん」

 

学園の運動場、まだ薄暗い中を二人の妹分が待っているようになったのは、ここ最近の新たな日常だ。走ったまま、おはようと声を掛けると、二人とも彼に続いた。

 

「お兄ちゃん、手加減しなくていいからね」

「アップのジョギングに本気は出さん。そんな事より、お前ちゃんと学校生活送れてるのか?」

「大丈夫ですよ、部員みんなでフォローしてますから」

「手がかかるだろう。俺も苦労した」

「いえいえ、末っ子は手のかかる方が可愛いですので」

「誰が末っ子よ!私は大人よ、オ・ト・ナ!!」

 

近況報告を兼ねた雑談を交えながら、ランニングを終わらせる。シャワーを浴び、汗を流した後、早朝学習に移る。半ば強制的に海外で武者修行を始めた彼は、高校を卒業していない。今後、自由に活動するためにも高認試験を受けるべく、準備を進めている。適度に空腹で、軽く身体を動かした後は頭も良く回る。効率的に学習ができている自覚があった。

食堂で生徒達と朝食を取る。わざわざ食堂でなくてもいいのだが、部活以外でコミュニケーションが取れる貴重な場だ。可能な限り、ここで部員達と時間を共有することにしている。その甲斐あって、推とフレゼリシア女子バドミントン部員は良好な人間関係を築いている。

 

朝食後、朝練に参加する。基本的に早朝練習にコーチは参加しないのだが、現役選手である推は例外だった。

 

練習を終えた後、部員達は学生の本分へと戻る。推もこの時間は勉強に充てていた。

 

「益子君は呑み込み早いですね。この分なら今年中には試験を受けられますよ」

 

バドミントンの腕に比べ、勉強の方は特別目を見張るほどではないが、元々の地頭は悪くない推は、持ち前の勤勉さと根性を用いて順調にカリキュラムを進めていた。

 

放課後は再び部活へと参加する。ここではウエイトや体力強化メニューは共にこなすが、その後は主に球出しやノックなど、コーチとしての役割を果たす。自分のことより部員達の実力の向上へと力を尽くしていた。

 

「じゃあ今日の練習はここまで!クールダウンした後、ストレッチするのを忘れないように!推さん、お疲れ様でした」

『お疲れ様でした!!』

 

キャプテンである唯華の号令の下、体育館を掃除し、部員達が解散する。推の本格的なトレーニングはこの後から始まる。破壊と再生を繰り返すことで、筋繊維をより強くする。

 

「お兄ちゃん、打とう」

「推さん、お願いします」

 

自主練をある程度こなした後、コートに入る。対角線上にはコニーと唯華の二人がいる。彼女らをワンセットごとに交代させてゲームをするのが、推の実戦練習だった。

 

「───よし、今日はこの辺りにしておこう」

「ありがとう、ございましたっ」

「お疲れー」

「ちゃんとクールダウンしとけよ」

 

練習を終え、シャワーを浴び、ノートをつけ、高認試験の復習を行い、ストレッチした後、早めに就寝する。

コレがフレ女バド部コーチ兼現役選手としての新たな日常だった。

 

生活の場が変化することはこの2年で数え切れないほどあった為、新生活に慣れるのにそこまで時間はかからなかった。それでも飽きるということはまるでない。今が選手として伸び盛りである彼女達はたった1日、たった一つのアドバイスで別人のように変わる。日1日と成長が見て取れるこの日常は懐かしくも新鮮だ。コーチと選手と学生の兼業は想像以上にハードだったが、それすらも推は楽しんでいた。

 

そんな刺激的な日常を過ごして暫くがたったある日。

 

「神奈川遠征?」

「はい、再来週の土曜日です。推君にも勿論来てもらいますので、必要書類、用意しておいてくださいね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くぁーっ!運動後のスポドリのうまさったらないねぇ!」

「唯華、お父さんみたいよー」

「このため池に来てるなぁ、みたいな?」

「このために生きてるなぁ、でしょ?冗談までおじさんくさい」

 

合間の休憩時間に女子高生達の笑い声が響く。女三人寄れば姦しいと言うだけあり、これだけの人数が集まっていれば、それはもう賑やかな状態になっていた。会話は途切れることなどなく、放っておけば際限なく喋れるだろう。女性に、特に女子高生において、話題というものが尽きる事はまずない。

そしてその話題の中心に新顔であるコニーや推がなる事は必然と言える流れだった。

 

「にしても推さんがコーチしてくれるようになってから、私達絶対強くなったわよね」

「あ、それわかる!ちょっとフォーム改善してもらっただけで全然変わったもん!」

「推さん頭いいからね」

 

勉強が出来る人と賢い人は無関係とは言わないが、少し違う。難しいことをわかりやすく他者に伝えられる人こそが、頭のいい優秀な人だと唯華は考えている。

 

「推さんって一応感覚派だけど、昔から相手のことを考えてプレーするタイプの人だから、理論派のこともよくわかってる。だから私達一人一人に合わせて指導ができるのよ」

 

バドミントンプレイヤーは大きく分けて2パターン。その場でパパッと判断して行動する感覚派とデータや計画性を重視する理論派。

もちろん完全に二分することは中々出来ない。やや感覚派とかどちらかと言われると理論派など両方の素養を持つ者が殆どだ。推も例外ではない。インハイ決勝以来、今でこそ典型的な感覚派となってしまっているが、学生時代は理論派の傾向が強かった。泪に負けてから徹底的にバドミントンを変えたが、その時も理論や計算を基に鍛え直した。だから推はどちらの気持ちもよくわかる。故に経験と共感に基づき、リアルな指導ができるのだ。

 

「でも本当にうまいよね。ここ数日ほとんど二対一の状況でゲームやってもらってるけど……」

 

コニーの強打をも絶妙に殺すテクニック。特にリバースカットは絶妙。そして唯華のコントロールショットにはスピードとパワーで圧倒する。選手として恵まれているとは言えない体格でも、アレほど鋭いジャンピングスマッシュを繰り出してくる。体格やプレイスタイル諸々、唯華とよく似ている推は、ショットどころか、動き全てが参考になる。

 

「私にはテクニック。ユイカにはパワー。足りないってレベルじゃないけど、得意ではない部分を敢えて多く見せることで勉強させてるんでしょうね」

「私達みたいに直接教えて貰えないんだ」

「お兄ちゃんはいつもそうよ。手取り足取り教える事はしないの。才能のある選手には特にね」

 

唯華がその中に入っているのはちょっと気に入らないけど、と呟く。自分で見て、体感して、肌に染み込ませ、吸収する。その結果が自信となり、自分を支える背骨になる。それでなければ、本当の強さとは言えないことを推は誰よりよく知っている。

 

「ほんっと、敵わないなぁ」

「へへん♫」

「なんでコニーが嬉しそうなの」

「私の自慢のお兄ちゃんだからね」

 

豊かな胸をさらに大きく張り、心から嬉しそうに笑っている。唯華は呆れたような、共感するような、複雑な笑みを浮かべた。

 

「前から気になってたんだけど、コニーちゃんってなんで益子コーチのこと、お兄ちゃんって呼ぶの?」

「私達、義理のママにバドミントンを教わったの。だから血は繋がってないけど、バドで繋がってる兄妹なのよ」

「…………そっか」

 

血の繋がりだけを家族と呼ぶことが、間違っているとまでは思わないが、完全に正しいとも思わない。人の絆とは血ではなく、縁で結ばれる物だと唯華は信じている。だからこそ彼女は今の仲間が大切だ。

 

「他には家族いないの?」

「いるよ、そのママの本当の娘が今神奈川に。私にとってはお姉ちゃん。私はお姉ちゃんに会うために日本に来たの」

「お姉ちゃんに会うため?」

「そう、会って、戦って、ママの娘は、お兄ちゃんの妹は私一人だって証明するために」

 

『マザコンとブラコンを拗らせてる……』

 

手をワキワキさせながら、殺気を漏らすコニーを見て、フレ女バド部全員の心の声が一致する。

 

「な、仲良く出来るといいね」

 

これだけ言うのが精一杯だった。

 

「…………あれ?でも確か──」

 

小麦色の肌の少女が何かを思い出すように空を見上げる。彼女から紡がれた事実はコニーを一瞬で沸騰させた。

 

 

 

 

 

 

──ぁぁん

 

「ん?」

 

体育館にある顧問たちが使用する部屋で、推は今後のスケジュールについてまとめていた。近く行われる遠征の計画。バスや交通手段の確保。その他諸々、コーチの仕事は思ったより多い。

移動にかかる時間を考慮しつつ、練習時間やコンディションを崩さないための計画を組んでいる最中、外から何やら呼ばれたような気がして、ペンが止まったその時だった。

 

「お兄ちゃん!!」

「うわ、なんだコニーか。ノックくらいしろ。とゆーか部活中にお兄ちゃん呼ぶな。益子コーチと───」

「そんな事はどーでもいいんだよ!どーでもい・い・ん・だ・よ!!そんな事より!お兄ちゃん!」

「?」

 

「トチギに妹がいるってホントなの!?」

 

「あー。それ知っちゃったか」

「ホントなのね!アヤノといいユイカといい、お兄ちゃんは一体何人妹作れば気が済むのよ!」

 

『元々俺に妹はいなかったんだよ』という僅かな呟きは、コニーの怒号と推の胸ぐらをがしりと掴み、縦揺れさせる持ち前のパワーでかき消された。

 

 

 

 

 

 

 

 




時間がかかってすみません。多分年内最後の投稿です。いつのまにかお気に入り登録件数1000件超えていて驚きしかありません。ありがとうございます!さて、物語ですが、ついに隠し妹の存在が末っ子にバレました。どうする兄。それでは励みになりますので、感想、評価よろしくお願いします!


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6th shot 繰り返される兄妹の歴史

 

 

 

 

 

 

 

視界が滲む。周りがよく見えない。もう自分がどこにいるのかもわからない。いや、たとえ世界が涙で埋め尽くされていなくても、もうここがどこかなんてわからないだろう。それはそうだ。地図も、目的地さえよくわからず、兄が向かった道を覚えている限りで適当に辿っただけなのだから。

 

「あっ」

 

何かにつまづき、すっ転ぶ。膝が焼けるように熱くなったが、あまり気にはならなかった。すぐに立ち上がり、涙を拭うと、走り始める。ラケットケースを握りしめて。道もわからず、ここがどこかさえわからないが、今の自分には走るしかできないから。

でも、涙は止まらない。不安で、寂しくてたまらない。だってあの家に、あの人がいないあの家に、私の味方は一人もいない。

 

───1人は嫌だよ

 

「おい、家出娘」

 

よく知った音が、大好きな人の声が聞こえた。慌てて振り返る。一瞬幻かと本気で思った。

 

「お兄……ちゃん。どうして……」

「ここがわかったって?バカ、わかってねえよ。母さんからお前の行方不明を聞いて駅までの道しらみつぶしに探したんだよ。お前携帯持ってないし、手がかり殆ど無かったからな。もっと遠くにいたら大事だったぞ」

「そんな事聞いてるんじゃない!お兄ちゃん、今日試合でしょ!全国に繋がる大切な大会だったんでしょ!なんで……」

「んなもんとっくにデフォ負けしたに決まってるだろ。そんなことよりお前、コケたな?あーあ、膝すりむいちまって。まあそんな程度で済んで良かったけど。走りながらもっと悪いパターン山ほど想像してたからな──ああ、母さん?泪確保。派手な怪我はしてないけど転んだみたいでちょっと擦りむいてる。うん、大丈夫。歩いて帰れる」

 

会話しながら携帯で義母に連絡を取る兄を見て、現状をようやく理解する。本来出場する筈だった大会をすっぽかして、探しに来てくれたのだ。息を弾ませ、汗だくになって、走り回ってくれたのだ。

 

「………」

「ああ、じゃあ宜しく。泪、歩けるか?近くの駅まで───」

「ごめんなさい」

「わっ、ビックリした。泣くなよ泪。俺がいじめたみたいに見られるだろうが」

「ごめんなさいお兄ちゃん。私一人は不安で、お兄ちゃんと一緒にいたくて……ごめんなざいぃいいい……」

「あー、はいはい。お兄ちゃんべつに怒ってないから。デカい大会なんてこれから嫌というほどあるし。やる事ちゃんとやってりゃ、幾らでも取り返しはつくからさ。泪が無事な方がずっと大事だよ」

「ごめんなざいぃいいい、うわぁああああ!」

「だから泣かないでくれよー泪ぃ。俺が泣かせたみたいじゃねえか」

 

間違いなく推が泣かせているのだが、本人に自覚はない。泪も兄の腕の中で何度も何度も首を横に振った。

 

「ほら、おんぶしてやるから。もう泣くな」

「ゔん」

 

背中に背負われ、肩に顔を埋め、しばらく泣きじゃくる。兄の肩を涙でぐしょぐしょにして、ようやく落ち着きを見せ始めた。

 

「………お兄ちゃん」

「んー?」

「ごめんね」

「さっき聞いた」

「そうじゃなくて……お兄ちゃんの前でばっかり私、泣いたり、不安がったりして……面倒ばっかりかけちゃってるから」

 

そう、泪は母親の前では勿論、義父の前ですら泣いたことなど推が知る限りなかった。多少感情表現は乏しいが、年齢以上に我慢が得意な子だった。

 

「…………めんどくさい子ほど可愛い、か」

「?」

「いや俺だってまだガキだからよくわかんないけどさ。そうやって積み重ねていくのが当たり前なんじゃねーの?」

「当たり前って、なんの?」

「家族の」

 

一瞬呼吸が止まる。単純だが、泪にとって、他の誰に言われるより重く、刺さる言葉だった。

 

「血の繋がりとかも大事だけど、それでも俺は、家族って生まれてすぐなれるものじゃないと思う。時間をかけて少しずつ成って行くもんなんだよ、きっと」

 

一緒に暮らして、今まで知らなかったその人の側面を知って、気づいて、それを積み重ねる。弱さも脆さも全て受け止め、支えてくれる存在。それが家族だと推は思う。

 

「間違った時はごめんなさいって言って、感謝する時はありがとうと言う。怖い時は助けてって言えるのが、家族のいいところなんじゃね?」

「お兄ちゃんも、怖い時とかあるの?」

「当たり前だ。今はカッコつけてるけど、俺だって泪に情けない姿を見せることがあるかもしれない」

「お、お兄ちゃんはどんな時もカッコいいよ!」

「ありがとう。でももし俺がそうなった時は、今度は泪が俺を支えてくれよな」

 

コレは遠い昔の記憶。10年以上前の、兄妹になり始めていた頃の話。この約束を、数年後の兄が憶えていたなら、彼らの未来も少し変わったかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───とまあ、そういう訳で泪は俺の義理の父親の連れ子なんだよ」

 

顧問などの指導者が使用する一室に踏み込んできた青い瞳の妹分に、家族構成を大まかに説明する。流石に話を聞いている間は大人しくしていたコニーだったが、終わった途端、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。

 

「そいつ、強いの?」

「強いよ。センスの塊という言葉があいつほど似合う選手を、俺はほかに知らん」

「それって私より!?」

「表現の違いだがな。才能には種類がある。お前はセンスの塊というよりは、王道プレイヤーって呼び方の方が合う」

 

一口にセンスといっても色々ある。日本では一瞬のひらめきや感性を才能と呼称することが多いが、体格だって天性だ。コニー最大の武器はまさに後者。高身長から繰り出されるテクニックに裏打ちされたパワーショット。スペックで圧倒するタイプの選手。まさに王道プレイヤー。無論センスもズバ抜けてるが、調子に乗るので言わない。

 

「私より強いの!?」

「全てが劣ってるとは思わないが……まあ実際やるとなれば苦戦はするだろうな」

「お兄ちゃんはどっちが好き?」

「は?……まあ、どっちかというならお前の方が好きかな」

 

泪もコニーも万能型だが、プレイスタイルは少し違う。それも当然だ。一口に万能といっても得意不得意は多かれ少なかれある。どちらかといえば俺や泪はテクニックよりのオールラウンダーで、コニーはパワーより。高身長+センスの塊である泪のバドスタイルはコニーと少しタイプが違う。

鍛えれば鍛えるほど、強くなればなるほど脳裏に深く刻み込まれたアイツのスタイルに似通っていってしまった今の自分が俺はあまり好きではない。世界を回って色んなスタイルを見てきたが、未だ憧れを捨てきれないのはインハイ決勝で戦ったあの人の戦い方だった。高身長+パワーのコニーは立花さんとよく似た万能型。俺や泪の万能型とどちらが強いかと言われれば答えは簡単に出ないが、好き嫌いかで言えば確実にコニーだ。

 

「…………よしっ」

 

試合でもみせないようなガッツポーズをとるコニー。そんなに嬉しいことだろうか?まあなんでも一番がいいコイツらしいといえばらしいが。

 

「ま、お兄ちゃんに何人妹がいても関係ないもんねー!そいつもお兄ちゃんとは血とか繋がってないんだし!ぶっ飛ばすヤツリストに名前が一つ増えただけよ!」

 

血はお前も繋がってねえだろ、という余計なツッコミはやめておく。おそらく話が10倍めんどくさくなる。機嫌が直ったんだからこのままがベストだ。

 

「でもなんでそいつトチギなんかに行ったの?」

「それは俺も知らん。宇都宮も一応強豪校だけどな」

 

それでもフレ女や栄枝高などと比べれば格付けは劣る。アイツならどんなとこだろうと選り取りだったろうに。強豪の体育会系が嫌で一般の高校に行く天才もいなくはないが、それにしては中途半端だ。泪の高校も全国区なのだから。

 

───遠慮?それとも両親と俺への当てつけ?理由としては後者の方が可能性高そうだが、それなら栄枝行った方がより効果的だったはず……いやまあ今更アイツがどこ高行こうとノーダメージだが。少なくとも俺は

 

「お兄ちゃん?」

「ああ、ごめん。何でもないよ」

 

これ以上考えても詮無いか、と頭を切り替える。

 

「話が終わったんなら出てけ。書類まとめなきゃならないんだから」

「書類?お兄ちゃんにバドのコーチ以外の仕事なんてあるの?」

「残念なことにあるんだなコレが。俺もそろそろラケットを持っているだけでいい身分ではなくなってきてる」

 

それも当然か。ついこの間まで自分の事しか考えていなかったとんでもないガキが今や人にモノを教えている立場になってるんだから。

 

「ほら、気が済んだなら練習戻りな。お前はまだ、ラケット持ってりゃいいんだから」

「うん、邪魔してごめんね。お兄ちゃん」

「…………いいって」

 

こういう所はコニーのいい所だと思う。「ありがとう」と「ごめんね」と「助けて」を素直に言える人は強い人だ。少なくとも俺と泪には無理だった。

 

「この子はどうなんだろうな」

 

コニーが出て行った後、手元の書類にある名前を2、3回ペンで叩く。そこには1年前、偶然見に行った全日本ジュニアで、再会した少女、羽咲綾乃の名前があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………今日は随分と気合入ってたな」

 

日もとっくに暮れ、体育館のライトが煌々と照らされる中、肩で息をして両手を膝に着くコニーに歩み寄る。通常練習後に行われる推の自主練。昨日までも、もちろん気が入っていなかったとは言わない。寧ろ部活の練習よりもノってやっていたくらいだ。だが今日のは俺との打ち合いを楽しんでいるというだけではない。何かに追い込まれているかのような、そんな感じがした。

 

「日本に来た目的の一つが果たせそうだからね。気合も入るよ」

「日本に来た理由?」

「来週、神奈川遠征があるって教えちゃって……」

「…………あぁ」

 

唯華の説明で得心がいく。事情の概ねは呑み込めた。

 

「それにしてもちょっと飛ばしすぎじゃない?」

「大丈夫、身体は今までにないほど充実してるから。お兄ちゃん、もうワンセット」

「いや、今日はもう終わり」

「なんで?調子は良いよ。この感覚が残ってるうちに」

「ハイになってる時の自覚症状はアテにならん。今日はもう休め。唯華ちゃん、監視よろしく」

「ラジャーです」

「待ってよ、お兄ちゃん!」

 

まだ何か言っていたが、全て無視。ラケットを片付け、シューズを脱ぐ。

 

「大体、遠征合宿って言っても、北小町が来るとは限らないんだぞ?神奈川行ったからって綾乃ちゃんとやれるかはまた別でだな」

「その時は合宿抜け出して会いに行く!」

「バカ、街中で何かあったらどうする。団体行動できない奴は連れて行かないぞ」

「大丈夫よ、何が起きても責任は私が取るから」

「コニー」

 

声音が変わる。口調自体は変わっていない。いつもの穏やかな彼のままだ。だが明らかに声に重さが増した。

 

「あまり図に乗るな。お前が自分をプロだと言うのも、一人で生きてると勘違いするのも勝手だがな、それでもお前はまだ15〜6のガキなんだよ。お前程度のかぶれる責任なんざ、たかが知れてる」

 

まあ俺もそれを知ったのは旅に出てからだったが。

 

「誰がなんと言おうと、お前がなんと思おうと、今のお前はフレゼリシア女子バドミントン部の一員だ。お前が起こす問題はそのまま部員全員への迷惑になる。お前の振る舞いがフレ女バド部の振る舞いになるんだ。自分が団体に所属していることを自覚しろ。どれだけの人に支えられてバドが出来てるのか、少しは考えろ」

 

イヤホンを耳にかけ、ラケットバッグを背負う。これ以上話すことはもうなかった。

 

「…………推さんって、怒るんだねぇ」

 

出て行った先を唯華はしばらく見つめていた。決して怒鳴られたりしたわけではないが、明らかに怒っていた。叱られたと思わされた。キャプテンを務めるようになった唯華は言葉の重みというものについて勉強したつもりだったが、まだまだだと痛感させられる。

 

───諭すような口調だったのに、あのコニーを問答無用で黙らせる威力があった。私ではまだまだああはいかない。ああいう『格』みたいなのは経験積まないと身につかないだろうな

 

「ユイカ」

「なに?」

「ゲーム、付き合って」

「は?まだやるの?推さん休めって言ってたよね」

「いいのよ、お兄ちゃんも昔ママの言いつけ守らず、ハードワークしまくってたから」

「…………」

 

コーチの言いつけを無視してオーバーワーク。あの人にもそんな時期があったんだなぁ、と変な感心をしてしまう。いつも冷静で聡明な彼しか知らなかったから、尚更だ。

 

「──うん、だからって貴方が真似して良い理由にはならないの。人のふり見て我がふり直せって言葉がこの国にはあってね。悪いことは真似しちゃダメ。フラれて悲しいのはわかるけどね」

「…………」

「それにもしバレたら私まで推さんに怒られちゃうじゃない。私それイヤ」

「私だってお兄ちゃんに怒られるのはイヤよ」

「じゃあ大人しく上がりなさい。心配しなくても、合宿は逃げないよ」

 

ラケットバッグを背負い、自分も体育館を後にする。一人になっても、しばらく電気は消えなかった。

 

 

 

 

 

「で、結局このザマか」

 

合宿前日。倒れたという報告を唯華から聞いた推はコニーの元へと訪れていた。目の前には真っ赤な顔をして眠っているバカな妹分がいる。うなされる彼女を見て、推は大きく溜息を吐いた。

 

「推さん、ごめんなさい。ちゃんと見ておけって言われてたのに」

「唯華ちゃんが謝る必要はないよ。言ってわかるバカならこんな事になってない。体調管理も仕事だと口を酸っぱくして言ってんのに。まったくプロが聞いて呆れる」

 

正論だが、辛辣だ。オーバーワークは黒髪の少女にも覚えがある。それが元で去年自分も怪我をしたし、少し耳が痛かった。

 

───ったく。変なところばかり泪に似てるんだから

 

昔を思い出す。子供の頃、俺が出る大会に一緒に出場すると張り切っていた泪が、大会前日に熱を出した事があった。その後、目を覚ました泪の行動により、少し警察沙汰にまで発展したのだが、そこまでは思い出さなかった。

 

「無理するなって言っただろ、バカ妹が」

 

熱冷ましの上に手を添える。表現とは裏腹に言葉の中に愛情を感じる。なんの夢を見てるのか、エヘヘと呑気に笑った金髪の少女が唯華は少し羨ましかった。

 

「行くのは無理そうですか」

「無理に決まってるだろ」

「でもあんなに楽しみにしてたのに」

「俺の言うことを聞かなかった罰だ。少しはクスリになるだろう。ほら、みんなは支度して。ここにいると感染るぞ」

 

部屋の外で様子を見ていた部員たちに向けて手を叩く。全員この小生意気な可愛くない後輩を心から心配し、可哀想に思っていた。

 

───良い子たちだな。俺などより余程人間というものができている。

 

実力のある生意気な後輩に怒らず、心から心配するというのは簡単に見えて難しい。少なくとも俺には無理だった。生意気な天才(いもうと)には腹も立てまくったし、心配してくれる人にまで当り散らした。才能にも体格にも、恐らくは運にさえコニーは恵まれている。惜しむらくはそれに本人が気づいていないことか。俺も人のことは言えないが。

 

「推さんは明日遅れてくるんですよね」

「ああ、お前たちを見送った後、雑誌の取材を受ける予定になってる。でも必ず合流するから」

「その時、コニー元気だったら……」

「連れて行かない。罰だ」

「ですよねー」

 

部屋を後にし、二人でしばらく廊下を歩く。その姿はバカな末っ子に苦労する兄と姉そのものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、夢だとわかる。

 

夢というのは基本的に眠りから覚めて初めてわかる物だ。それが例えどんなに現実的でなくても、眠っている時に夢だと気づくことはほとんどない。

しかし、その中にも例外はある。自分が繰り返し同じ内容の夢を見ている時だ。

 

私が今夢だと眠りながらわかってしまうコレもその一つ。

まだあどけなさが残る未成熟な暗闇の中で一人座っている。そのあまりに儚い姿を見て、私は思わず声をかけてしまう。

 

返事はない。代わりに向けられるゾッとするほど冷たい目。あれだけ穏やかで優しく、頭の良い少年だった彼が、自身の昏い感情をぶつけてきたのは、後にも先にもあの時だけだ。

 

何も言えない自分に、彼は呆れたような視線を向け、立ち上がる。未発達な背中が闇の中へと消えていく。

 

その背中は、とても寂しそうで、せつなくて、辛そうで、悲しくて……

 

どうしようもなく愛しかった。

 

「推っ!!」

 

意識が覚醒する。視界に広がるのは見慣れた天井。そして思い出す本日の予定。もう一度目を瞑り、大きく息を吐いた。

 

「…………会いたくないなぁ」

 

自分の息子ほども年齢差のある相手に萎縮している。情けないとまでは思わないが、恥ずかしい。

けれど私はバドミントン雑誌のライター。仕事はしなければならない。

 

「よし、頑張ろう」

 

起き上がり、身支度を整える。今日を示す松川明美のカレンダーには益子推選手単独取材と書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

フレゼリシア女子短大付属高等学校の一室。あらゆるスポーツの名門校であるこの学校には、時折校外の人間が訪れることがある。

今日はそんなたまにある日常が訪れていた。バドミントン雑誌のライターが取材のためにこの学校を訪ねている。いつもと少し違うのは、取材対象が生徒ではなく、コーチを務めている人間だったことくらいだろう。

 

そして、その記者と取材対象は旧知の仲だった。

 

自分が元選手だった、もしくは経験者だったということはスポーツ記者にはよくあること。自身の経験に基づいて書かれた記事の方がリアリティがあるし、読者の共感も得やすいからだ。バドミントンラッシュ記者、松川明美もその一人。一時はナショナルチームに所属していたほどの実力をもつ選手で、かつて推が通っていたバドミントン教室の先生でもあった。

才能があり、努力し続ける推とは教室をやめても常にコンタクトを取っており、明美は推の事を年の離れた弟のように可愛がっていた。そして推も家族に相談できないような悩みを彼女にだけは話したりしていたこともあった。

しかし、そんな二人の交流が一切なくなってしまった時期があった。高校進学前、泪にボロ負けした直後。あまりに早熟なバドをする故、懐疑的だった泪の才能をバドミントン界がようやく認め始めた時、泪への取材が急増し、推の周りからは誰もいなくなったあの頃だ。

明美も仕事の為、泪への取材はしていた。その事を推も知っており、推が知っている事を明美は知っていた。だから彼女は推に会いにくくなり、推も明美が悩みを打ち明けられる相手ではなくなった。

 

あれから数年。緊張と不安で張り裂けそうになりながら、扉の前に立つ亜麻色の髪をサイドに纏めている妙齢の美女はこの日、代表選考会のため、帰国している期待の新鋭、益子推の取材に訪れていた。

扉の前で大きく息を吐く。顔を上げ、閉じていた目をしっかりと開いた。

 

「───?」

 

意を決して行ったノックには返事がない。もう一度ドアを叩くが、変わらず無反応。時間を間違えたか、と時計を見たが、ジャスト10分前だ。予定は間違えていない。

 

「ああ!すみません!雑誌記者の方ですか!?」

「は、はい。バドミントンラッシュ記者の松川と申します」

 

どうしよう、入ってしまおうかと途方に暮れていたところに一人の女性が走ってくる。恐らく用務員のおばさんだろう。自己紹介し、頭を下げた。

 

「すみません、実は益子さん、今日来られなくなりまして」

「えっ……」

 

背筋が凍る。取材記者が自分だと知って断ったのだろうか、という不安が胸の中を満たした。

しかし、その心配は杞憂に終わる。

 

「実はコニー……バドミントン部の子が脱走しちゃいまして!彼血相変えて探しに行っちゃったんです!」

「…………ぇえ」

 

一世一代の決心で臨んだ再会は思わぬ肩透かしを食らわされ、明美は膝から崩れ落ちそうになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




後書きです。原作最新話はインハイセミファイナル佳境ですね。あの辺りも是非書きたいです。因みに松川明美と推が出会ったのは引っ越す前の一人っ子だった時。まだ泪とさえ兄妹になっていなかった頃です。その教室で、推は有千夏や綾乃と出会っています。それでは励みになりますので、感想、評価よろしくお願いします!


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7th shot 同じ国の空の下、家族揃わず

 

 

 

 

 

 

 

 

ヨーロッパの空の下、小高い丘の上で、益子推は風に吹かれていた。燻んだ金髪が靡き、イヤホンのコードが舞っている。取材が終わり、待ち時間で立ち上げたウォークマンだったが、聞くのを諦める。風でイヤホンが飛ばされるためだ。

 

「お兄ちゃーん」

 

イヤホンを耳から外すとほぼ同時に声がかかった。一年近く前から兄妹弟子となった少女の声だ。名前はコニー。黄金を溶かしたかのような煌びやかなプラチナブロンドに青い瞳の美少女。推と全く同じトロフィーを持っている。

 

「撮影始めるってー!トロフィー持ってこっち来てー!」

「わかったから大声出すなコニー。疲れてるんだ」

「推、嫌ならやらなくていいんだよ。慣れない取材で大変だったでしょ?」

「一度引き受けた以上、ちゃんと最後までやるさ。有千夏こそあまり無理するなよ。最近顔色良くないぞ」

「撮影くらい大丈夫よ。貴方って昔から意外と心配性よね」

「皆さん、準備はよろしいですか?」

「ママ、お兄ちゃん、早く」

「はいはい」

「では撮りますよ。ポーズは好きなようにしていただいて結構です。それでは……3・2・1」

 

 

『遠い異国の地、彗星の如く現れた天才少女とIHを制したスーパールーキー、全日本10連覇女王の元で、栄冠』

 

 

それが大々的に書かれた記事のタイトルだった。取材内容はヨーロッパで同じタイトルを男女で取ったコニー・クリステンセンと益子推が取り上げられている。権威ある大会の最年少タイトルホルダーと言うのも注目の理由だったが、何より目を引くのは二人の容姿だろう。二人とも容貌は凄まじく整っている。そして二人の師も。

推とコニーの肩を笑顔で抱き寄せる有千夏に、彼女の頬に口づけするコニー。不機嫌そうに顔を背けながらトロフィーを抱える推。雑誌の見開きに大写しにされた美しい三人の師弟は非常に画になっている。

 

「…お母さん………推兄ちゃん」

 

切り抜かれた雑誌記事が握り締められ、しわくちゃになっていても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唐突に意識が浮上する。バッチリと目が覚め、見えたのは見覚えのある天井。少しクラクラする頭を抱え、黄金を溶かしたかのようなブロンドヘアに指を通す。

 

───あ

 

そして脳裏に蘇る今までの出来事。熱が下がり、風邪も治った自分が一人きりの部屋で理解したのは取り残されたという事だった。フレ女のみんなは遠征へと赴き、兄も取材を受けた後で合流すると言っていた。もう向かったのかはわからないが、大会中を除いて、二年間殆ど一緒だった推が側にいないという不安は、病み上がりのコニーにとって置いていかれたと思い込ませるに充分だった。

地図を頼りに寮から飛び出し、闇雲に走っていたところを唯華に見つけて貰った。正直振り返った時、後ろにいたのが兄でなかった事に心中で落胆したものだが、彼女に優しく迎えてもらい、兄もママもいなくなってしまったと誤解した不安は消えた。日本に来てよかったと心から思った。

その後、車で迎えに来た推を確認した後、緊張の糸が切れたのか、意識が遠くなった。

 

「モルゲン、コニー」

「お兄っ……ちゃぁ、ん」

 

一瞬花が咲いたような笑顔を見せ、飛び起きたが、脱力するように背中を壁につける。満面の笑みを浮かべ、頬杖をつき、足を組んで座る兄に恐怖を感じた。知っている。彼がこの顔をしている時、それは超絶怒っている時だ。以前嘘をついて日本の大会に出場する彼に着いて行こうとした時も同じ顔をしていた。

 

「よく眠っていたな。身体はもう大丈夫か?」

「は、はい。もうすっかり……」

「顔色は悪くないし、さっき熱計った時も問題なかったから心配してないが、無理はするなよ」

「……はい」

 

表情をまったく変えることなく、穏やかに言葉を紡ぐ。それが逆に恐ろしい。針のむしろに立たされているかのような緊張感に耐えきれず、とうとうコニーは聞いてしまった。

 

「あの、お兄ちゃん……怒って、ないの?」

「お前が部屋から居なくなったと聞いた時は肝が冷えた。無事で良かった。安心したよ」

「お兄ちゃん……」

「───とでも言うと思ったか?」

 

本当に怒ってないのでは、と感極まって彼の手を取った瞬間、ワンオクターブ声のトーンが下がる。ヤバ、とコニーが感じた時、推は大きく息を吸い込んだ。

 

「こんの大バカやろぉおおおお!!!何がプロだ甘ガキがぁあああ!!!」

 

推の怒声は部屋の外で心配して様子を見ていた唯華をはじめとする、フレ女バドミントン部員たちの耳をも痺れさせた。

 

 

 

 

 

 

 

「…………ごめんなさいでした」

 

一通りの説教が終わった後、ベソをかきながら蜂蜜色の髪の少女はその一言を絞り出した。

一応謝罪したからか、一旦は推も怒りを収め、憤然と座り込む。滅多に怒らない彼は怒るという事に慣れてない。一度爆発して仕舞えば、長く引きずらないのが、彼の長所だった。

 

「…………まぁ、俺も甘かった。お前の思いをナメていた。少し考えればこうなる可能性には思い至ったはずなのに」

「…………そういえば、今日取材あったんでしょ?どうしたの?」

「明日に延ばしてもらったよ。普通許されないが、今回の記者が俺の馴染みでな。特別に許してもらったよ」

「そうなんだ。よかったね」

 

気楽に言ってのけるコニーの様子からため息が出る。特例だってことを理解しているのだろうか、この娘は。取材のすっぽかしなと、本来であれば決して許されないことだ。横の繋がりの強いこの世界で、選手がマスコミをぞんざいに扱ったなど、広まってしまえば国内での活動が非常に難しくなる。

 

───あの人は上手くやっておくと言ってくれたらしいが

 

一抹の不安は残る。まして彼女には昔、少し心ないことを言ってしまっていた。後ろめたさは有る。

 

「お兄ちゃん?」

「…………明日の取材後に俺も神奈川へ向かう。唯華ちゃん達も出発は明日の朝一になった」

「…………お兄ちゃん、私も、その」

「お前は俺の取材の後だ」

 

ハッと顔が上がる。今の一言は……

 

「せっかく治りかけていたのに雨に降られたんだ。ぶり返す可能性はある。明日の午前中まで様子を見てやる。それで大丈夫なら俺と一緒に神奈川へ行こう」

「お兄ちゃん……!」

「言っとくがこれが最大限の譲歩だ。コレすら守れないなら俺はお前の前から姿を消す。わかったな」

「もちろん!大好きっ、お兄ちゃん!!」

「まったく、調子いいんだから」

 

飛びつくように首に抱きつく彼女の頭を撫でながら、推はもう一度深くため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「推さん」

 

部屋の外で待っていた唯華が真っ先に推に走り寄る。続いて部員達も彼の元へと集まった。

 

「思ったよりは元気そうだった。熱も下がってたし、まあ大丈夫だろう」

「そうですか、よかった」

 

ほっと胸をなでおろす。推も不服げに鼻を鳴らしながらも、言葉の端々に安堵の色があった。

 

「そっちの予定はどうなってる?」

「うん、問題なさそう。宿もキャンセルしたわけじゃないし、1日延ばすくらいの融通は利かせてくれた。対戦する予定だった人達には悪いけど、遠征合宿の参加校はウチ以外にもいるわけだしね」

 

後者に関してはあまり心配してなかった。参加校は大学のバドミントン部。フレ女をナメてる訳ではないだろうが、それでも高校生との試合が有意義だとはなかなか思わないだろう。

 

「それよりいいんですか?コニー連れていくなんて言っちゃって。罰だったのでは?」

「仕方ないだろう。俺の監視下から外れたら、アイツ何やるかわからん。業腹だが、俺の根負けだ」

 

肩を竦める推を見てクスリと笑みが漏れてしまった。子供の頃より遥かに精悍になった凛々しい横顔のはずなのに、片目を瞑り、息を吐くその姿はあまりに昔の推を彷彿とさせる。

なんでも出来る人のはずなのに、変なところで不器用なのが少しおかしかった。

 

「唯華ちゃんも悪かったな。あのバカが世話を掛けた」

「いえいえ。私もちょっとイジメちゃいましたから」

「…………何したの?」

「いやちょっとオバケが出るとかそういう感じのことを。怯えた顔可愛かったですよ」

「……………」

 

───何というか、Sになったなぁ、唯華ちゃん。まあバド選手ってどっちかというとS多いけど。

 

バドに限らず、勝負する以上攻めの意識は欠かせない。無論逆境に耐えることも必要だが、それ以上に勝利の意思が肝心になる。

 

「それに、私部員のダメなところとか恥ずかしいところを見て面倒だと思うなんて絶対しないですよ。そういうのを見せ合えるのが、家族なんですから」

「…………家族」

「はい。私にとってフレ女バドミントン部の皆は家族と一緒ですから」

「…………そっか」

 

屈託の無い笑顔で言ってのける彼女を凄いと思う。俺にはできなかった事だ。彼女の言うことを偽善だとか、馴れ合いだとか考える人間もいるかもしれない。しかしそれでもいいと推は思う。その一言を言葉にしてくれるだけで、救われる者は絶対にいる筈だ。

 

「もちろん、推さんもですよ」

「へ?」

「お兄ちゃんなんでしょ?なら私達にとってもお兄ちゃんじゃないですか」

「…………光栄だね。なら唯華ちゃんはお姉ちゃんかな」

「気分はそんな感じですね。まあ私よりしっかりしてる子もいますけど」

 

コニーや綾乃。そして俺は自分のために戦うタイプ。そして唯華は誰かの為に全力以上の力が出せるタイプ。このタイプは厄介だ。コニーや綾乃は天才肌なだけにちょっとしたことで意外と崩れる。しかし唯華のようなタイプはそう簡単には崩れない。強い芯が自分と、周りにあるからだ。たとえ自分が折れたとしても、仲間が支えてくれる。そして仲間が折れたなら自分が支えられる。恐らく、団体戦でフレ女に叶う高校はほぼないだろう。問題は個人戦だ。これだけは個々のメンタルがモノを言う。

 

───でも、キミなら或いは……

 

倒せるかもしれない。そしてたおせなくても、救えるかもしれない。作られた天才であるアイツらを。俺ではきっと無理だ。倒すだけなら多分もう出来るが、それだけではアイツらは救えない。

 

「推さん?」

 

黙り込むこちらを覗き見てくる。なんでも無いよ、と笑いかけ、彼女の頭を撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………もう来てるんですよね」

「はい、今日は間違いなくいらしてますよ。昨日は申し訳ありませんでした」

 

事務のおばさんが引き続き明美に謝罪の言葉を述べていたが、あまり頭に入っては来なかった。昨日はたしかに思わぬ肩透かしを食らわされ、しばらく立てなかった程脱力感に苛まれたが、同時に安心もあった。もし扉を開けた先で、またあの冷たい目で睨まれたら。その恐怖はずっと頭から消えていない。

そして今回。再会はもう避けられない所に来ている。しかしいつまでも躊躇はしてられない。大きく一度深呼吸した。

 

「───どうぞ」

「……失礼します」

 

ノックをすると、昨日とは違い、返事が来る。松川明美が扉を開く。陽の光が金髪に反射し、一瞬目が眩んだ。

 

───ああ……

 

目が正しい機能を取り戻す。待ち人がそこにいた。彼女の記憶にある彼とは随分違う。かつては自分よりずっと小さな少年だったのに、今は完全に見上げるほどの背丈になっている。容貌もグッと精悍になった。少年らしい線の細さはまるでなく、筋肉の出来は服の上からでもわかるほどだ。

しかし、目だけは変わっていない。深い知性と理性を備えた翡翠色の瞳。暖かく、けれど少し怜悧な、初めて出会った時の彼の目だ。

 

───やっと会えた……会いたかった

 

彼が帰ってきた。中学の時に見た、凍った目をした彼ではない。全てを乗り越えてきた。その事実がとても嬉しい。万感の思いを込めて、明美は頭を下げた。

 

「この度はお忙しいところ、こちらの無理を聞いていただき、ありがとうございました。編集長の笠松も、益子さんにはくれぐれもよろしくと言付かっております」

「───アキ……さん」

 

彼の口から、思わずポロリと出る。バドミントン教室に通っていた時、使っていた……というか、使わせていた呼び方。ひどく懐かしく響いた。

 

「私のことをそんな風に呼ぶのはもう貴方くらいよ」

 

自分でも驚くほど自然に砕けた口調を使っていた。推も変に敬語は使わず、子供の時と同じように振る舞っている。

 

「久しぶりね、推」

「そうですね。直接顔を合わせるのは中学以来ですか。昨日は申し訳ありませんでした」

「お気になさらず。事情は伺ってますから」

 

握手を交わす。明美の決して小さくない手を完全に覆い隠す。本当に大きくなった。

 

「ごめんなさいね」

「なんでアキさんが謝る。貴方に謝られる覚えはないよ」

「…………そうよ、私は何もできなかったから」

「それに関して、アキさんを責める気はないよ。俺もガキだった……あー、今でもガキだが、もっとどうしようもない子供だった」

「それは……仕方ないことで」

「それにこの世界は結果が全て。弱い俺が悪かった。それだけのことだ。当時こそ色んなものを恨んだし憎んだが、今はなんとも思っていない。無論、泪も含めて」

 

少し嘘だ。なんとも思っていなくはない。憎しみはないが、後悔はある。恨みはないが、後ろめたさはある。だからせっかく帰国したというのに会いにいかないのだ。

 

「俺の方こそすまなかった。高校の時は色々心ない事を言ってしまった」

「そんな……」

「って事で昔話は終わり!お互い仕事に戻りましょう、松川記者」

 

一度手を叩く。昔からの呼び方ではなく、口調も変えた。このままでは話がループし続ける。しこりを残さず円滑な人間関係を築くにおいて、とことん話すことも大事だが、時には無理矢理にでも会話を切ることも必要になる。

 

───本当に成長したのね

 

子供の頃から信じられないほど聡明な少年だったが、世界を一人で回り、途中からコニーという妹弟子を連れて旅するようになった。そして今ではコーチを務めている。バドミントン選手として信じられないほどの進化を遂げていたが、人に物を教える立場になり、人間というものも段違いに向上している。

 

「それでは、取材を始めましょう。益子選手」

「よろしくお願いします」

「あ。取材後、写真撮影もありますので、そちらもよろしく」

「…………俺目つき悪いのでその辺うまくごまかしてくださいよ」

 

あまり得意でない部類の仕事だし、写真付きの記事はヨーロッパで初めてタイトルを取った時以来だが、受けると決めた以上、キャンセルはプロとして許されない。1日待ってもらった弱みもある。『快く』同意を示すと、明美さんはICレコーダーのスイッチを入れた。

 

 

 

 

 

 

 

「お兄ちゃーん!」

 

取材が終わり、撮影のために外へと出た時、能天気な声が二人に届く。すっかり遠征の準備を終えたコニーが今か今かと待ち構えていた。

 

「…………はぁ、すまないな。アキさん」

「彼女が、コニー・クリステンセン?」

「ええ。デンマークの不沈艦、なんてのは言い過ぎだと思いますがね」

「でも強いんでしょう?」

「強さだけは名前負けしてないかと」

 

談笑する二人の様子を見てムッとした表情を浮かべる。あんなに気安い表情を推は滅多に見せない。良くも悪くも隙を作らない人だ。それなのに、あの記者に対しては態度が違う。自分より長い時間を積み重ねているのではと思わされた。

 

「お兄ちゃん、この女誰?知り合い?」

「有千夏の友人だぞ」

「私はコニー・クリステンセン。よろしく」

 

敵意が一瞬で翻る。性格上、敬語などは使わないし使えないが、明らかに態度が変わった。

 

「初めまして、コニーさん。松川明美です。いずれ貴方ともゆっくり話がしたいわ。よろしくね」

「よろしくしなくていーから。お兄ちゃん。取材終わったんなら早く行こうよ」

「もう少し待ってろ、撮影が残ってるんだ」

「えー」

「あっ、そうだ。コニーさんも一緒にどう?兄妹弟子の来日ってことで」

「えっ、いいの?」

「いいんですか?」

「勿論推のみの写真も撮るけどね。でも、次代を担う選手二人の写真なんて今のうちに撮ってたら貴重じゃない?ね?」

「コニーが良いなら俺は良いが」

「私もお兄ちゃんと一緒なら構わないけど……」

 

手を組み、何やら躊躇している様子を見せる。彼女にしては珍しい態度だ。一瞬俺を見た。

 

「い、色々準備してくる!」

「あ、おい!」

 

走って寮の中へと戻っていく。その背中を見て推は憤然と息を吐いた。

 

「ったく、普段ノーメイクのくせに」

「まあまあ。いいじゃない。好きにさせてあげなさいよ…………少しバドから受ける印象とは違うわね、彼女」

「見た目だけだよ。精神年齢は10歳児並だ」

「貴方と真逆ね」

「色々な意味でな」

 

我ながら子供らしくないガキだったと思う。体格は年相応だったというのに、中途半端に理解が良くて、中途半端に視野が広くて、中途半端に色々なことを考えていた。コニーはまさに真逆。恵まれた体格。生まれつき備わっていた天才性。そして幼すぎる精神。急速な身体の成長ゆえに精神が置いていかれるタイプの典型。

 

「ことバドにおいて、あいつは逆境というものをあまり経験していない。メンタルが成熟されれば一気に化けるとは思うが、あの天然さが強さを生み出している面もある。あちらを立てればこちらが立たず。痛し痒しだな」

 

こればかりは一朝一夕ではどうにもならない。いや、どうにかする方法もなくはない。一度試合で地獄を経験するのが一番手っ取り早い。実際に体験済みだ。効果は保証できる。しかしコレはあまり勧めたくない。一度で大化けする劇薬ゆえに扱いも非常に難しい。壊れてしまう可能性も大いにある。あの才能をそんな形で潰すのはどう考えても惜しすぎる。

 

思考が深く沈みかけた傍らでクスクスと笑い声が聞こえてくる。アキさんが俺を見て笑いを零していた。

 

「なに?」

「ああ、ごめんなさい。貴方の今の姿が少し新鮮で。私も歳をとるハズよね。人を育てる事で推が悩んでるんだから」

「………もう俺も、ただラケット握ってればいい身分じゃないからな」

 

歳を食えば食うほどしがらみというのは増える。大人達の思惑が混ざり、自身が商品化され、商品自体も魅せ方を迫られていく。バドが強ければいいというわけではなくなる。そして商品価値が劣化すれば引き下げられる。こればかりは避けられない。

俺もいずれ、プレーから精彩がなくなり、現役で戦えなくなる日が来る。今はまだ考えられないが、誰かと結婚し、子供を作り、その子にバドを教えたり、引退し、後進の育成に力を注ぐ日が来るのだろう。有千夏のように。その日は1日ごとに近づいてくる。

 

「お待たせー!」

「…………ハッ」

 

そんな事はまるで考えていないであろう妹分が呑気に腕に抱きついてくるのを見て、自嘲が漏れる。ただバドミントンが楽しかったあの頃、俺も同じ顔をしていたのだろうか?ちょっと想像できなくて笑ってしまった。

 

「…………俺も少しは、見習うかな」

 

「では撮りますよー」とカメラマンの声がかかり、意識的に口角を釣り上げる。シャッター音が鳴る直前、背伸びをしたコニーの唇が頬に触れた。

 

 

 

 

 

 




後書きです。ちなみに推は中学くらいから様々な相談をしていた明美にはさん付けですが、色んな意味で尊敬してない有千夏にはタメ口です。次回からようやく合宿編突入。様々な再会が待っています。それでは励みになりますので感想、評価よろしくお願いします


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8th shot 出会いが運命なら、再会もきっと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一つのことにのめり込む事は愚かである。

そんなことを学生に諭す大人もいる。勿論それも一理あるだろう。若者には無限の選択肢があり、将来がある。学生生活とはその数多ある将来の中から己の可能性を探る時間なのだ。義務教育で九年間。そして高校、大学で七年間。焦らず多くのチャレンジをするべきだという意見は至極正しい。

しかし、それは飽くまで先を見据えて話ができる者の意見。当事者は少し違う。勿論将来も大事だが、それ以上に今が求められる。青春を生きる若者たちにとっては、この一瞬が全てなのだ。

それは益子推とて例外ではない。彼ほど聡明な頭脳を持っていても。広い視野を持ち、沈着冷静な判断ができる者でも、一度地獄に叩き落とされれば、もう前しか見えない。ただ貫き通すことしか考えられない。

眠りの森高校。ごく一般的な公立校だ。バドミントン部も強豪などではなく、地元でそこそこ程度。そんな分不相応な高校で益子推は今日もただラケットを握っていた。

 

「───っ、ハァっ」

 

日もとっくに暮れ、誰もいなくなった体育館で、金色の長髪を後ろに束ねた少年は汗だくになっていた。

 

「…………美也子先生?」

 

いつのまにか人が立っていたことにようやく気づいた。手にはスポーツドリンクとタオルが握られている。黙って様子を伺っていたクラス担任は黙って彼の元へと歩き、その二つを渡した。

 

「益子君。インターハイ優勝おめでとう」

「…………ありがとうございます」

 

ここ数ヶ月でうんざりするほど聞かされた賞賛の言葉に苛立ちが募る。悪意はないのだろうが、その言葉を聞かされるたびにあの後味の悪すぎた決勝戦が嫌でも脳裏に蘇る。『バカにしているのか』と怒鳴りたくなる。衝動を押さえつけるのに少し演技が必要だった。

 

「…………あのね、益子くん。君、本当に学校辞めちゃうの?」

「…………はい」

 

さらに苛立ちが大きくなる。ここ最近、教師達からは同じことしか言われない。

 

「留学の話ってまだ余裕あるんでしょ?ならご両親ともっと話し合ってからでも──」

 

頰が引き攣る。目の色が変わってしまったことが自分でわかる。一度頭を振ってタオルで顔を拭いたが、もう遅い。顔を上げた時、怯えの色が強く混ざった表情を浮かべる美也子先生がいた。

 

「…………すみません。大丈夫です。親にはちゃんと話して許可ももらってますから」

 

これは本当だった。俺は直接喋ってないが、連絡自体はヴィゴがやってくれたらしいし、実際サインと判子もある。もう俺が何をしようとあの人達は興味ないのだろう。こちらも同じだから特に不満はない。好意の反対は無関心だという言葉の意味が少しわかった。

 

「でっ、でもさ!やっぱり直接会おうよ。私バドミントンは素人だけど、益子君が一生懸命頑張ってたのは知ってるよ。ご両親だって会えば、きっと……」

「───栄枝に行ってない俺なんて、あの人達は必要としてないよ」

 

あまりに無機質な声で紡がれた冷たい言葉に美也子は絶句する。これが自身のクラス担任と最後に交わした会話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──なんでこんなトコに来ちゃったかなぁ、俺

 

今自分が彼女の前に立っていることを若干後悔する。元々年齢以上に幼く見える少女だが、俺を見てキョトンとした表情を浮かべている綾乃はさらに幼く見えた。

 

ヴィゴに誘われて、というか半分誘拐され、約一年。有千夏と再会し、世界各地を旅した。今日もその一部。日本で行われたトーナメントに出場するため、一年ぶりに推はこの国に帰っていた。

予選を通過した選手は数日の休養が与えられる。少し前の彼なら友人と旧交を温めたり、家族に会いに行ったりしただろうが、今の推にそんな事をする気は全く起こらない。休みと言ってもバド以外何をしていいかわからなかった彼は自主トレの後、適当にホールを歩いていた。

 

そんな時に偶然執り行われていた全日本女子ジュニアバドミントン大会。音に誘われるがままに入ってしまったのが運の尽き。知り合いが二人出場していた。

 

───綾乃ちゃん

 

羽咲綾乃。子供の頃通っていたバドミントンスクールにいた少女。足捌きやラケットワークに非凡なものを持ち、何より羽根に愛されている音を持っていた女の子。無邪気で華奢で母親が好きで、少し残酷。それが覚えている限りの綾乃ちゃんの印象だった。

そんな彼女は今、中学生になり、あの時よりは随分と大きくなってこの大会に出場していた。苗字は神藤になっていたけど、顔はそこまで大きく変わっていない。一目であの子だとわかった。足捌きで。スタイルで。なにより、羽根の音で。

スクールの頃より大きくなったとはいえ、同年代の女子の中で比べても充分華奢な部類。そんな彼女が自分より圧倒的に体格で勝る相手にスコンクでワンセット取っている。スタイルはディフェンシブ。相手に希望すら見せずに殺す絶対防御型。スカウト評で表すなら特Aクラスのコントロールとスピード、そして反応を武器に敵の全てを封じ込める。巧みなラケットワークと繊細なテクニック、そしてセンスを必要とするそのスタイルはあまりに脳裏に刻まれた全盛期のアイツに似ていた。

 

───上背がない分、攻撃力で若干劣るが、そこはコントロールでカバーしてる。綾乃ちゃん……上手くなった

 

けど強くはなってない。バドを見るまでもなく、表情を見ればわかる。プレーに熱が、血が全く通っていない。恐らく彼女は今、自分が誰と戦ってるかわかってないだろう。たとえ負けたとしても、対戦相手のことは殆ど覚えていないはずだ。わかる。自分がそうだったから。俺もインハイ決勝の立花さん以外、誰と戦ったかなんて記憶にない。

 

試合が終わる。結局スコンク。全日本ジュニア準決勝の結果としてはあり得ないと言ってしまいたいくらいの大差。

試合後に大きくため息を吐く彼女を見て、多分決勝はやらないだろうと確信した。実を言うと決勝観たくて来たんだが、もうそれどころではなくなってしまった。

 

───有千夏……思ったより重症だぞ、コレは

 

綾乃ちゃんの事については有千夏からある程度聞いている。アイツが間違ってるとも正しいとも思わないが、少なくとも今の綾乃には母親が必要だと思った。

 

───親がなくても子は育つ……けど、育てる人間は要るんだよな

 

この一年、コニー相手にコーチの真似事をしたからか。自分でも昔より丸くなった自覚はある。そして昔の自分が正しくはなかったとも思い始めている。歪んでいたとも。だからだろうか、俺と同じ、有千夏に作られた天才に少しお節介をする気になってしまったのは。結局後悔しているのだから、世話はないが。

 

「久しぶりだな、綾乃ちゃん。俺がわかるか?」

「…………推兄ちゃん?」

 

表情のない顔で俺を見て小首を傾げる。あどけない所作は子供の頃と変わらない。さて、何を話そうかと思いつつラケットを握った。

 

「バドミントン、しようぜ」

 

殆ど脳を経由せず出た言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

進学とは己の将来の選択の一つである。

若く、多様な少年少女たちはこれから努力次第で何にでもなれる。彼らの前には無限の選択肢が広がっている。その数多ある選択の中で、自分の能力にあったモノ。自分の夢を掴むために必要なモノ。そういった諸々を熟考した上で、多くの人は進学という道を選んでいく。

しかしそれも中学、高校までは割と自由だ。明らかに身の丈に合わない学校へと進む者も多くいる。能力だけで言えば、もっと上を目指せても、友達と学校生活を過ごしたいからと地元の中学高校に進学することもしばしばだ。勿論それも間違いではない。未来の選択において、失敗など人生の最後になってみるまでわからないのだから。

 

しかし、この選択肢の意味が一気に重くなる時がある。

大学。この進学は友達がいるからとか、そんな理由では片付けられない。学生でいられる最後の4年間。社会人となる前の最後の時間をどこでどのように過ごすかで人生は大きく変わる。故に大学受験とは高校受験などとは比較にならないほど重圧と責任が襲いかかるのだ。人生で初めての関門と言っても過言ではないだろう。

だがそれ故にその門を潜り抜けた後のリターンは大きい。

中学高校とはまるで桁が違う規模の大きな校舎。広い敷地に、充実した設備や研究施設。そして集う多様な人々。大学では同年代だけでなく、三十代四十代の人が同級生になることもある。もっと言えば宗教や人種すら違う人もいるくらいだ。

充実した施設。多様な人々との出会い。それら全てが社会に出る未来の自分を形作る場所。それが大学だ。

勿論この神奈川体育大学も例外ではない。選手を志す者。また選手をサポートする道を模索している人。この学校で学ぶことに、スポーツに関わりがないものは無い。

 

───まさか高校中退した俺が、大学の門をくぐる日が来るとは

 

もし何かが違えば、俺もこういった学校の門を叩いていたかもしれない。そう思うと少し妙な気分になった。

 

「推さん!」

 

地図に従い、体育館へと歩いていると、少女が駆け足でこちらに来る。短く切り揃えた黒髪に鍛え抜かれた細身の肢体。見る者が見ればその走り方だけでかなりのアスリートだと気付くだろう。それもそのはず。彼女は日本屈指の名門フレ女バドミントン部主将、志波姫唯華なのだから。

 

「出迎えありがとう、唯華ちゃん。遅くなってごめん」

「お待ちしてました。でも大丈夫ですよ。まだ皆ウォームアップ中ですので。こちらへ………ちなみにコニーは?」

「北小町がまだ来てないってわかったから別行動。練習開始までには戻ってくるって言ってた」

「…………大丈夫なんですか?」

「あいつのワガママに一々付き合ってられるか。あれだけ望んでた神奈川遠征なんだ。バドやりたくなったらそのうち来るだろ」

「そんなお腹が空いたら出てくるだろみたいな……」

「概ねそのレベルだ」

 

体格は卓越しているが、精神年齢は本当に10歳児。10歳の戯言に一々取り合っていられない。

 

「推さん」

「ああゴメン。案内頼むよ、キャプテン」

「君は練習に戻ってくれ。彼の案内は俺がするよ」

 

いつのまにか唯華ちゃんの後ろに人が来ていた。体格のある男性だ。袖口から見える筋肉は明らかに戦うため作られたものだとわかる。それも当然だろう。日本から長く離れていた推でも知っている、世界ランキング8位の選手なのだから。

 

「お久しぶりです。赤羽さん」

「今度はちゃんと覚えてたか。益子」

 

赤羽玲二。北小町高校バドミントン部OBにして、世界ランキング8位。推は現在全日本U19の日本代表だが、赤羽玲二はA代表。推らオリンピック代表候補達の中でも頭一つ抜けた存在。

 

───神奈川体育大学に来るんだから会う確率はあるかな、と予想はしてたが……ホントに会うとは

 

「推さん、お知り合いだったんですか?」

「ああ、何度か海外の大会で会った。戦績は確か…2勝1敗だったと」

「違うな。お前の3勝1敗だ」

「……そうでしたね」

 

指摘を受けた推はバツの悪そうに顔を逸らす。彼にしては珍しい表情だ。そこそこ長い付き合いの唯華すら初めて見た。

 

(何かあったんですか?)

(…………大した事じゃないよ。赤羽さんとはインハイの準々決勝でやったんだが、俺がそれを忘れてるってだけで)

 

耳打ちしてくる唯華に小声で返す。そう、この二人の初対決はインターハイの準々決勝。ベスト4を賭けた試合だったのだが、この時の推は目の前の選手など踏み台程度にしか考えていなかった。インターハイに出たのは高校1年生時の一度だけだが、そこで戦った相手について、推は立花さんしか記憶にない。

 

───それでも『アンタ誰』はダメだった…

 

初めて再会した公式戦で推は馴れ馴れしく話しかけてきた赤羽にこの台詞を言ってしまっていた。

 

(推さんが悪いです)

(わかっとります)

 

正直なところを言えば、唯華にも覚えはないわけではない。他校の選手で相手はこっちを知っててもこちらは知らないというケースは何度かあった。しかしそれも無理ないことだろう。練習試合を含めれば唯華の戦績は高校から数えても軽く百を超える。その中で印象に残る選手と残らない選手というのは確かに存在する。唯華とて今までの対戦相手全て覚えているかと言われれば微妙だ。

しかしインターハイベスト8以上となってくると話は大きく変わってくる。全国常連のメンツは嫌でも頭に入っているし、例え忘れていたとしても、相手が自分のことを知っている様子だったならば、こちらも相応に振る舞っただろう。少なくとも『アンタ誰』は言わない。年上なら特に。

 

「ウォッホン。悪い益子。別に責めるつもりはなかったんだ。ほら、中に入ってくれ。もう皆アップ終わる頃だから」

「ありがとうございます。というかなんで赤羽さんが此処に?男子選手のコートは別でしょう?」

「実はもう一人俺の知人が来るはずなんだがよ、まだ来てねえんだ。そいつを案内してやんなきゃいけねえの」

「そうですか」

「その後でよければワンゲームやっていくか?俺と」

「遠慮しておきますよ。決着は全日本でつけましょう」

 

前哨戦という意味ではこれ以上なく最適な相手だが、こんな直近に試合が迫っているというのにわざわざ手の内を明かす気にはならない。

 

「なあ、益子。一つだけ聞いていいか?」

「答えないかもしれませんが、どうぞ」

「…………お前はなんでフレ女でコーチなんかやってんだ」

「調整ですよ。全日本に出るための」

「お前ならNTC使えるだろ。なんでわざわざ…」

「秘密です」

 

指を一本立て、片目を瞑る。ウィンクは海外では日常的な所作の一つ。コニーも推の影響を大きく受けているが、推も彼女にうつされた仕草はいくつかあった。コレもその一つだ。

 

「…………わかった。じゃあ全日本でな」

「ええ、決勝で会いしましょう」

 

遠ざかる背中を少しだけ見送る。なぜか少し赤くなってる唯華を連れて体育館へと入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「今日は皆さん、よく集まってくれました」

 

体育館を貸している大学バド部監督が全体に挨拶をする。ウォームアップを済ませた選手達はまずゲームをしようということで、監督及びコーチ達によって組まれたドローに従い、試合をすることになった。その対戦表はホワイトボードに大きく貼り付けられている。組み方は基本的にランダム。高校生vs高校生は勿論、大学生との対戦も満遍なく振り分けられている。

 

「すみませーん!遅れましたー!」

 

大きな声と共に締め切られていた体育館の扉が勢いよく開く。女教師らしき人を先頭に、バド部員が数名体育館へと入ってきた。

 

皆来ると予定していた北小町高校の部員達がやっと来たか、と認識し、特に驚きはしなかった。そしてその推察は当たっている。

しかし推は驚愕する。思いがけない人物が三人も居たからだ。

 

「あ!?ウソ、益子くん!?」

「益子!?」

「…………推兄ちゃん?」

 

選手達の前に立つ監督、コーチ陣の中でも一際若く、存在感のある推は特に目立つ。三人の知人はあっという間に燻んだ金髪の美青年が誰かを見抜き、そして青年もまたその三人が誰かわかった。

 

「───美也子先生、立花先輩………綾乃ちゃん」

「え?この子が……アヤノ」

 

遅刻してきたくせに、何も悪びれないコニーの声が体育館に響いた。

 

 

 

 




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9th shot ほころびはじめる蕾たち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

覚醒

 

誰もが一度は聞いた事があるだろう。しかし覚醒とは何か、と説明しろと言われれば、実は意外と難しい。

普通の人は物語や漫画などでよく描かれる凡人がいきなり超人になったりするアレや怒りパワーで髪の毛が金色になるソレをイメージするだろう。

それも間違いとは言わない。そういったシーンで覚醒という単語が使われることはある。

しかしそれはあくまで夢物語の中で起こること。超常現象や有り得もしない超能力を手に入れることなど現実で出来はしない。

 

覚醒とは現実の中で起こりうる事なのだから。

 

───覚醒とは、パズルだ

 

思考と経験を積んで、積んで、積み続ける。日々のトレーニングやデータでピースを作り、失敗と成功を繰り返し、試行錯誤を重ねる事でピースを組み合わせていく。人の成長とは、階段だ。なだらかな斜面のように少しずつ上がっていくわけではない。どれほど才能のある人間だろうと壁にぶつかり、停滞し、上昇できない時は必ず存在する。

 

───ましてバドミントンは陸上や体操みたいな採点競技や記録が出るものじゃない。上昇の実感が得られない中でも、苦しいトレーニングを続ける事は難しい。

 

その事は立花健太郎もよく知っている。体格に恵まれていた彼は効率よく強くなっていった。その成果として、二年生にして高校生最高の大会といっていいインターハイを制したのだ。自分は強いという立花の自負は当然のものだろう。

 

───だが、俺は覚醒なんてしていなかった

 

数年前、最後のインターハイ決勝の舞台で一人の選手が生まれ変わる様を誰よりも間近で見ていた立花健太郎は断言する。

覚醒とはパズル。思考と経験の蓄積、日々のトレーニングで作ったピースが何かのきっかけでハマった時に訪れる、限界の壁をぶち壊すブレイクスルーこそが、『覚醒』の瞬間なのだ、と。

 

この怪物を目覚めさせてしまったのは自分の一本。渾身の力で打ち込んだスマッシュに、くすみのある金髪の一年生は完全に着いていけていなかった。

しかし2本目。今思えばワザとだったのだろう。フワリと浮いたシャトルを打ち下ろした時、超人的反応速度で弾き返してきた。3本目には絶妙のリバースカットで自分のスマッシュは完璧に殺された。

 

───体格で圧倒的に勝る俺に対して、真っ向勝負の殴り合いを挑んできやがった!

 

「…………なるほど、このタイミングか」

 

身体を鞭のようにしならせ、繰り出された益子推のスマッシュは既に自分のソレを超えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺が覚醒とはなんなのかを知ったのは、多分あの時だろう。

 

立花健太郎。益子推がインターハイで戦った選手たちの中で唯一記憶に残っていた選手。身体能力、経験、体格、全てが自分を上回る強敵。

 

だからこそ俺は覚醒した。相手の強さに引っ張られ、自分の中で蓄積されたパズルのピースが引き出され、かみ合い、結集した。

 

その結果が、あの惨状。

 

今でもはっきりと思い出せる。バツンと何かが切れた音。自分の目線より常に上にあった巨躯が崩れ落ち、倒れこみ、見下ろしてしまった瞬間。激痛に耐え切れず漏れ出たくぐもった声。

 

───俺が壊した……

 

インターハイからしばらくが経ち、環境にも慣れ始め、外の情報を仕入れ始めた時、有千夏から日本の状況を聞いた。立花さんはあの怪我以来、結果を出せなくなり、ついに第一線から退いたと知った。

 

泪に負けたあの時、俺はしばらく立ち上がれなかった。茫然自失し、膝をつき、凍りついた。あの時、益子推という選手は一度壊れた。

 

───泪と、同じだ……俺も

 

そこでようやく気がついた。己の憎悪と復讐心で今まで何人もの選手を足蹴にしてしまったことを。いや、選手だけじゃない。自分を心配してくれた教師。一年の俺がいきなりレギュラーになっても快く受け入れてくれた先輩。その全てを俺は無視してしまった。俺が今までどれだけの人に支えられてバドが出来ていたかを、ようやく知った。

 

『やっと半人前になったわね、推』

 

有千夏の呆れたような一言が耳朶を打つ。後ろには見知らぬ少女を連れていたのに気づいたのはこの時だった。

 

『この子はコニー・クリステンセン。貴方を一人前にしてくれる子よ。今日からは貴方がこの子を半人前にしてあげなさい』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神奈川体育大学。大学高校合同の合宿が行われているその体育館は多くの選手と数名のコーチ陣が集っていた。参加校がその中で三名だけ、時間が停止していた。二人は驚愕で。そして一人は恐怖で。

 

「立花さん…美也子先生」

 

脳裏に蘇る、惨劇の光景。膝を抱え倒れこむ立花さん。心配してドリンクとタオルを持ってきてくれた先生にぶつけてしまった心ない言葉。日本に帰国してから一度も推は自身の過去に触れようとしなかった。どのツラ下げて何を言えばいいか、全くわからなかったからだ。

それは勿論、今も同じ。

 

───こんな同時に負い目トップスリーのうちの二人が来なくても……

 

「益子!!」

 

何を言えばいいか、固まっている最中、立花が大声を出す。ハッとした時にはもうその高身長が目の前にあった。

 

「………立花さ──」

「なんで益子がフレ女でコーチなんてやってるんだ!?海外で怪我でもしたのか!?大丈夫なのか?それとも選手生命絶たれるほど重いのか!?」

 

両肩を強く握られる。至近距離にあるその瞳には俺への非難も恨みもカケラもない。単純に俺を心配し、未来を憂いている目そのものだった。

 

───ホント、凄いなぁ。貴方は

 

「凄い?俺が?何で?」

 

思った事が口に出てた。少し動揺しすぎだ。一度頭を振り、目を瞑る。呼吸とともにそのまっすぐな瞳を迎えた。

 

「大丈夫ですよ。怪我も病気もありません。ちょっとした野暮用でコーチを引き受けただけです。今のところ、現役です」

「そうか、よかった」

「俺が言うのは心苦しいですが、立花さんこそ、膝大丈夫なんですか?今は北小町でコーチを?」

「ああ、オリンピックを目指す選手を母校で応援しようと思ってな。膝ももうほとんど問題ない。ちょっとならプレイだって出来るぜ」

「そうですか、よかった」

「推さん」

 

肩に手を置かれる。フレ女バド部キャプテン、志波姫唯華は安心したように笑っていた。恐らく三人を見た俺の様子がおかしいことに気づいていたんだろう。聡く、優しい。大丈夫だよと頷いた。

 

「旧交を温めているところ申し訳ありませんが、そろそろ試合開始です。号令をお願いします」

「ああ、それでは只今よりフレゼリシア女子短大付属高校と北小町高校の練習試合を始めます。試合は前に張り出した紙の通り進めてください。それでは、試合開始!」

 

『よろしくお願いします!!』

 

全員が一斉に頭を下げる。そしてすぐさまコートに散らばっていった。対戦相手と握手し、礼をした後、それぞれに試合を始めていく。

 

「お兄ちゃん」

「?コニー、何してる。お前も早くコートに入れ。まずダブルスからだ。ヒナちゃんと組んで」

「わかってる。その前にこれあげるね。あとコレどっかに置いといて」

 

紫色の大輪はマネージャーに預け、白い花を俺に押しつけてくる。大きく美しく咲き誇る素晴らしい芳香を放つその花はカサブランカ。

 

「花言葉は『威厳』『高貴』『洗練された美』。お兄ちゃんにピッタリでしょ?」

「…………嵩張るわ、邪魔だろ」

「あーひどーい!」

「いいから早く行ってこい。他校に迷惑かけるな」

「ちぇ、はーい。あっ、お兄ちゃん。ちゃんと見ててよね。ぶっ飛ばしてくるから」

「はいはい」

 

こちらに手を振るコニーを見送った後、コート全体に目を配る。当たり前だが推は今フレゼリシア女子バドミントン部のコーチ。コニーだけでなく部員全員を見る必要がある。無論コニーも見るが、特別扱いをするつもりはない。部員たちには公平感を持っていて貰わなければ良い指導はできない。

 

「まさかこんな所で元教え子に会えるなんて。縁って不思議ね」

「…………俺も驚きましたよ。美也子先生」

 

俺が一人になるタイミングを狙っていたのだろうか?かつての恩師はなんとも皮肉げな表情を浮かべて俺の隣に来ていた。

 

「…………俺のこと、怒ってますか?」

「ぜーんぜん。寧ろ申し訳なかったと思ってるよ。君の事情に関して、羽咲さんから少し聞いたから」

「…………綾乃ちゃんから?」

「いえ、有千夏さんから」

 

目を見開く。あいつがアフターケアの類の事を出来るとは思わなかった。バド以外なにもかもポンコツのあいつが。

 

「まあ私がMr.スピリッツから無理矢理連絡先聞き出したんだけどね」

「…………なるほど、得心がいきました」

 

しかしそれにしてもヴィゴが俺の情報を部外者に漏らすとは。恐らく相当頑強に迫ったのだろう。流石は俺のようなクソ問題児の相手を最後までしていただけのことはある。良い師とは多少図々しいモノだと改め知った。

 

「…………ごめんなさいね」

「……謝るのは俺の方でしょう」

「いいえ。貴方は子供だった──ごめんなさい、コレも侮辱ね」

「いえ。仰る通りです」

 

あの時、俺がどれだけ子供だったか、たった数年しか経っていないが世界を回って思い知ったつもりだ。無論かつてはそんなこと思いもしなかったが、妹分のお守りを二年間もしていれば嫌でも分かる。

 

「───貴方は学生だったのだから自分のことで精一杯で当たり前よ。それなのに私は自分勝手な理論を押し付けてしまった。教師は生徒に寄り添うことが仕事なのに。本当に、ごめんなさい」

「やめてください先生。俺は本当に申し訳なかったと思っているんです。貴方には懇切丁寧な説明が必要だったと今でも後悔しています。今まで謝罪の一つもしなかった男の言葉など、信じられないとは思いますが」

「いいえ。生徒の言葉は無条件に信じるのが教師よ。貴方は私の元教え子。そして今は対等の友人。なら信じない方が人でなしだわ。ありがとう。貴方の言葉のおかげで私はようやく胸のつかえが取れたわ」

「先生……ありがとうございます」

 

心の底から感謝を述べる。胸のつかえを取ってもらったのは俺の方だった。日本に残してきた心残りの3分の2は今日解決してしまった。解決させてもらった。

 

───ん?

 

異様な空気がコートの一つから上がる。思わず目を引かれた。急に黙った推を隣の先生は不思議そうに見ている。この辺りの感覚は現場を経験しなければ身につかないだろう。右から二番目ですよ、と耳打ちした。

 

「…………はぁ。あいつ、また」

 

やはりというべきか、問題を起こしているのはコニーと綾乃ちゃんが試合をしているコートだった。

 

「ちょっと見てきます。話はまた後でゆっくりと」

「ええ、頑張ってね。コーチ」

 

他の試合の邪魔をしないように注意しつつ歩き出す。その横顔は教え子を心配する立派な教師の顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異様な雰囲気に包まれるコートへ向かう道すがら、体育館全体を見る。流石はフレゼリシア女子バドミントン部。中には大学生を相手にしている部員たちもいるというのに互角、或いはそれ以上に渡り合っている。中でも唯華ちゃんは流石だ。相手は格上の大学生だというのに自身に縛りを作ってプレーしている。執拗に繰り返されるボディショットは俺が昔体格で勝る相手によく実践していた戦術と似ている。

 

──おっ

 

北小町の生徒の試合も目に入る。三年を相手にシングルスで勝利している娘がいた。短く切りそろえた黒髪のショートヘアに、高身長。スタイルも良い美少女。名前は荒垣なぎさというらしい。

 

───色々荒削りだけど、面白い素材だ。この子は指導者と環境次第で化けるかもしれない

 

どことなく立花さんと似ている。推の好むタイプの選手だった。

 

───しっかし、なにやってるんだこのバカは

 

呆れた視線をコートに向ける。多賀城ヒナとペアを組んでいるコニーは信じられない事をしていた。サーブレシーブ以外、全てのプレーをコニーが一人でやっている。本来なら叱りつけるところなのだが、そうもしづらい。なにせ2対1の状況で圧倒してしまっているのだから。

 

───それに、ほぼ毎日コニーと唯華ちゃん相手に自主練で同じ事をしている俺がやめろと言っても説得力皆無だし…

 

だがまあ仕事は仕事だ。最低限注意はしておかなければ職務放棄になってしまう。

 

「多賀城くんがサボっているのだとしたらこれは問題だねぇ、益子コーチ」

 

いつのまにか亘理監督もこのコートに目を向けていたらしい。穏やかな口調だったが、名門バドミントン部顧問らしい咎めと怒りが篭った声だった。

 

「監督!コーチ!私はサボってないでーす!クリステンセンさんが私をのけ者にしましたー!」

「ヒナちゃん。そのバカのワガママ、いちいち真に受けなくていいよ」

「ワガママじゃないよお兄ちゃん。コレは前衛の練習なの。練習試合だからこそできる実戦練習ってあるでしょ?」

「じゃあ後衛にいったらお前打たないんだな」

「それはケースバイケース。私とヒナはとっても仲良し。心配無用よ!」

 

諦めと呆れ、両方の意味で息を吐く。コレで試合にならないほど圧倒的に負けていたらやめさせるが、残念なことに勝っている。どのスポーツでも言えることだが、結果を出しているなら文句は言いづらい。

 

───なら勝たせてやるか

 

「綾乃ちゃん。理子ちゃん」

 

ワンゲームを落とし、休憩に入る二人を手招きする。本来敵チームのコーチである推が彼女らにアドバイスをするなどあり得ない。しかしコレは練習試合。極論を言って仕舞えば合宿とは情報交換の場。未来ある選手たちのために多少アドバイスをしても許されるだろう。

 

「今のゲームは忘れてオッケー」

「え?」

「推兄ちゃん?」

「あ。あの、理由を聞いてもいいですか?」

「勿論。理子ちゃんは理論派。相手を分析して戦術を組み立てるタイプ。コニーのストロークをワンゲームかけて見た分、次はもっとタイミングを取れると思っているかもしれないけど、アイツはそんな簡単にクセを見せたりしない。長い手足と身体能力を活かしたパワープレイ。ボディ周りもケアできる巧みなラケットワーク。コレらは全部俺が鍛え上げた。そう簡単に崩せない」

「あう…」

「だから下手に分析するんじゃなく、攻撃的にセオリー通りに攻めていこう。コレはダブルス。追い込まれれば連携がド下手なアイツは必ず隙を見せる。前衛に綾乃ちゃん、後衛に理子ちゃんを置いてトップアンドバックを維持するんだ。攻め込まれても並ばなくていい」

「は、はい」

「…………」

 

不思議そうな目で推を見上げる綾乃。その瞳が何を考えているのか、俺にはよくわからない。昔も今もこの子が何を考えているのかはよくわからなかった。でも今綾乃ちゃんはバドをやっている。俺としてはそれだけで充分だった。

 

「綾乃ちゃん。ダブルスは二人で作るゲームだ。理子ちゃんももっと声を出して。辛い時や不安な時は仲間を頼って。君がどんな存在だろうと、同じコートにいて、ペアを組んでいる以上、二人は対等だ。遠慮なくぶつかり合って頼りあって。オッケー?」

「は、はい!」

「…………推兄ちゃん」

「ん?」

「推兄ちゃんは私がコニーちゃんに勝ったら嬉しい?」

「…………」

 

さて、難しい質問だ。俺としてはどっちが勝ってもいいし、どちらも応援したいというのが本音。しかしそんな甘い事は勝負の世界では許されない。

 

「少なくとも、今は綾乃ちゃんが勝ったら嬉しいと思っている」

「…………へへっ」

 

ぱぁあっと音がするかのような明るい笑顔を見せる。一度頭を撫でると綾乃の視線をコニーへ向けた。

 

「よしっ、あのバカを二人でぶっ飛ばしてこい!」

「はい!」

「分かった」

 

インターバルが明け、ゲームが再開される。どっちの味方だと非難するように睨むコニーの視線を受け流し、壁に背を預けた。

 

───提案しといてなんだが、リスクのある戦術だ。ハッキリ言って綾乃ちゃんの防御力にかなり依存する形になる。

 

このトップアンドバック、コニー達の攻撃を凌ぎきることが最低条件だからだ。

しかし、推はそこまで心配していなかった。

 

あの時、全日本ジュニア準決勝で見せた実力。そしてその後俺とやった時のあのバリアのようなディフェンス力が今もなお健在なら。

 

「さあ行くよ!ファイトー!!」

 

理子の声が体育館に響く。綾乃ちゃんもさっきより表情が明るくなっていた。どうやら理子ちゃんがうまく綾乃ちゃんのテンションを上げたらしい。

 

声を張り上げる理子をバカにしたようにコニーが笑う。声を出したところで強くなるワケないと思っているのだろう。この辺をアイツは分かっていない。腹から声を出して己を鼓舞するというのはパフォーマンスにバカにできない影響を与えるのだ。

 

「その辺もお前がこの留学で学ぶべきことの一つだ、コニー」

 

コニーからサーブが出る。フワリと浮いたリターンが綾乃から上がった。

 

そして俺は初めて己の目で見る事となる。人が覚醒していく瞬間を。

 

 

 

 




後書きです。原作は来月最終回ですね。この小説もなんとか完結させるまで頑張りたいと思っています。それでは励みになりますので、感想、評価よろしくお願いします!


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10th shot まだまだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バドミントンで大きな大会が行われる時、試合会場は複数のホールを借りる場合が多い。試合数が多いため、複数の試合を同時進行で進めるためだ。故にトーナメントが進むにつれ、空いているコートやホールは自然に増える。ましてや準決勝ともなると試合は全てセンターコートで行われる。大会が確保しているホールで使われていないコートは幾らでもある。

 

そのうちの一つで1組の男女がバドミントンを行なっていた。といっても試合ではない。審判はいないセルフジャッジ。観戦してる者もゼロ。およそ試合とは言い難い。だが二人ともその様相は真剣そのものだった。

浮き上がったシャトルをはたき落とすのはくすんだ金髪の美男子。歳は青年と少年の間といったところだろう。

鋭く打ち下ろされるスマッシュを拾い損ねる。汗塗れになって舌打ちする少女の名は羽咲綾乃。小柄で華奢な美少女で、全日本ジュニアベスト4まで進出した実力者だ。

 

───固い

 

ポイントを奪った青年は少女の実力に戦慄していた。今のポイント、本来ならもっと早い段階で取れていた。それをここまで粘られた。最初こそ少し手加減していたが、今はもう完全に虐殺するつもりで打っていた。もしこの場に観客がいたのなら、『女の子相手にそこまでしなくても』くらいは思われたかもしれない。

だが、益子推は手を緩めることなど出来なかった。オートマチックに反応するラケットさばきはまるでセンサー。バリアと戦っているのではないかと錯覚するほどの防御力。ディフェンスとコントロールだけならおそらく俺以上。これほどのセンス。これほどのラケットワーク。女子で見たのは二人目で、過去のトラウマとこの少女のスタイルはあまりに似ていたから。特に…

 

───左のカットスマッシュ。妙な軌道を描きやがる。手元で不規則に動くこのクロスファイア。今はまだ僅かな変化だから俺の反射神経とラケットワークで対処できるが……

 

身体が育ち、筋力がつき、パワーがついたら。さらにテクニックを身につけ、このクロスファイアに一工夫加えられるようになったら

 

「───ハハっ」

 

正直、女子でアイツに勝てる奴がいるとはとても思えなかった。少なくとも国内には。

 

───有千夏。お前の娘はちゃんと持ってるじゃないか

 

「行くよ、推兄ちゃん」

 

シャトルが上がり、しばらくラリーが繰り広げられる。ネット前へと張り付く綾乃に対し、推も前で勝負する。

 

「フッ!」

 

ドリブンクリア。早く、鋭いクリアだ。普通なら高く遠く上げるので精一杯。

 

───だが…

 

「ちょっと低いな、綾乃ちゃん」

 

ラケットを左に持ちかえ、プッシュする。コートの逆サイドへとシャトルが叩きつけられた。

 

───よし、わかってきた

 

綾乃ちゃんはネット前で俺が隙を見せたら、絶対引かない。お互いネット前にいたら思考時間は短くなる。脳も身体も瞬発力で勝負するタイプ。それでいて超負けず嫌い。残酷で、少し臆病。余裕がなくなれば動きは結構単純。

 

「くっ!?」

 

───おっ、

 

間に合わないタイミングだったというのに飛び込んで拾おうとした。ここまでの必死さは先程までなかった。先程から思考せず感性で動いているのはわかっていたが…

 

───必死にならなければ勝てない相手だとセンスが気づいたか。つくづく野性だな

 

「…………ねえ。推兄ちゃん」

 

ゆらりと立ち上がる。ようやく目に光が戻ってきていた。戦っている相手が益子推だとやっと認識し始めていた。

 

「さっき、なんで笑ったの?」

「っ!?」

 

素直すぎる単純な質問に絶句する。さっき俺がバドミントンしようぜって言った時には黙って俺についてきただけだったのに。

 

───相手が俺だと認識して、俺への興味が出てきたか。

 

純粋すぎる。昔と全く変わっていない。思わず笑いが漏れた。

 

「…………そうだな、綾乃ちゃん風に言うと」

 

ラケットを高く放り投げる。空中で高速回転し、旋回するカーボンをノールックでキャッチした。

 

「ノってきたから」

「!」

 

笑顔が綾乃ちゃんに戻る。瞳の奥にあった闇が少し淡くなった。対戦相手に興味を持ち出した。

 

───もう、いいか

 

暗闇相手にやっていた綾乃ちゃんのバドミントンを少し変えた。俺の役目はここまでだろう。これ以上は出過ぎたマネになる。シャトルを拾い、ラケットを下ろした。

 

「推兄ちゃん」

「ん?まだやりたいか?」

「なんで推兄ちゃんは私の前からいなくなったの?」

 

思わず息を呑む。そういえば引っ越してから綾乃ちゃんと連絡を取ったことはなかった。そして有千夏から聞く限り、俺が引っ越した時期と綾乃ちゃんの前から母親が消えた時期はさほど離れてはいなかった。

ネットを挟んだ綾乃の表情が不安で揺れる。今の綾乃ちゃんには俺と有千夏が重なって見えているのかもしれない。

 

「違うよ」

 

推はゆっくりと首を振り、答えた。

 

「俺が君の前からいなくなったのは、親の都合に逆らえなかったから」

 

今でも思う。俺があの時、一度でも『栄枝なんて興味ない』と吐露していれば、あんな事にはならなかったのではないかと。

 

「有千夏が君の前からいなくなった理由は、俺の口から言える事じゃないけど、少なくとも君への愛があったからという事だけは保証するよ」

 

不器用すぎて、バドミントンしかできないバカだから、伝え方がわからなかっただけで、アイツはアイツなりに愛娘を想って行動していた。

 

「バドミントン、続けろよ綾乃ちゃん。綾乃ちゃんが負けたからいなくなったんじゃない。君に何かをしたかったから、有千夏は君の前から消えた。それが何かを知る方法は多分バド以外ない」

 

結局俺もバド以外なかった。

 

あの絶望を経験した時、何度もラケットを捨てようとした。シューズを脱ごうとした。それでもできなかった。最初は復讐心からだった。周りも、親も、妹も、纏めて叩き潰す。その為にただラケットを握った。

なぜわざわざスカウトの前で泪は俺をボコしたのか。whyばかりが気になって戦っていた。

今もソレは正直気になるし、知りたい。だがそれよりもアイツは何を考えて俺と戦ったのか。今はそっちの方が気になっていた。

 

「上がってこい、綾乃ちゃん。有千夏の目に嫌でも止まるステージまで」

 

その後どうするかはわからない。素人玄人に関わらず、スポーツに携わった者は必ずこの選択をする時が迫られる。

 

競技者として生きるか、趣味とするか

 

「どっちを選んだとしてもどのみち俺たちはバドでしか答えは出せないから」

 

だから、俺はもう少しラケットを握る。俺もこの選択を終えたというわけではない。まだ俺はただラケットを握っているだけでいい身だ。そして綾乃ちゃんはその時間が少なくとも俺よりは長い。まだ今は何も考えず、バドを続けてさえくれればいい。

 

イヤホンを耳にかけ、ホールを出る。ここに来るまで色々と後悔していたが、日本に来て良かったと少しだけ思った。

 

後日行われたユースの大会はどこか晴れやかな様子で出場した推が優勝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一人の人間が別人のように変貌していく。選手として伸び盛りである高校生には時折見られる現象だ。事実、この短期間で推も似たようなモノを見てきた。フレ女子バドミントン部の部員達に指導をしていく中で、たった一つのアドバイスで異様な成長を見せてきた。

しかしそれでも進歩にはある程度時間がかかった。アドバイスを受けて、感じて、発見し、理解する。理解を実行し、反復し、ようやく自分のものにできる。それが成長だ。ある程度の段階を踏む必要がある。普通なら。

 

しかし、稀に常識の枠からはみ出る選手がいる。一見して意味のないもの。むしろ成長の妨げになるようにさえ見えるものがキッカケで、大化けする。意味のない理由を意味のあるものに変える。

それがセンス。感性。感じるものが変われば見える景色が変わり、脳の回路が一変する。

 

───あの時から集中力の深度は尋常じゃなかったが…

 

本気で入ったらここまで変わるか。

 

反射とも読みとも呼び難い根拠の元で繰り出される素早いステップ。前衛一人で二人分の攻撃を捌ききるラケットワーク。相手に希望すら見せず殺す、絶対防御型。

 

───想像以上、とは言わない。はっきり言って今の綾乃ちゃんより俺が帰国した時にやった綾乃ちゃんの方が実力自体は上だ。

 

だが急速に取り戻していっている。全盛期の彼女を。そしてそれ以上の領域へと向かおうとしている。

 

だから推にとってこの現状は驚くに値しない。感嘆はしても驚愕はしない。もっと強い綾乃を知っているから。今の綾乃は別人へと成長しているのではなく、同一人物へと戻ろうとしているとわかっているから。覚醒とはちょっと違う。覚醒とは努力で作り出したピースを使ってパズルを完成させること。綾乃の場合、少しズレたピースを正しく戻している最中といった方が正しいだろう。

しかし、知らない者はそう思えない。試合中に急速に進化していっているようにしか見えない。

そしてバドミントンプレイヤーにとって今戦っている相手が急に強くなるほど厄介な事はない。

遅いボールを見た後に速いボールを見れば実際の速度以上に早く感じるように、事実と体感は大きく変わるからだ。

 

───試合中にそれをやられたら、俺でも多分対処しきれないだろう。

 

事実、急速にプレースピードが上がっていく綾乃ちゃんに周りが釣られていく。早くなる展開に対応しようとして。だが明らかにうまくいっていない。速い展開は完全に綾乃の土俵だ。

 

───それでも恐らくコニーなら付いていける。

 

だが、コレはダブルス。一人がついていけてももう一人がついていけないなら意味はない。

 

誰もが汗塗れになり、呼吸が激しくなる中、二人は肩で息を切らしている。コニーは身体には見せていない。その辺りは流石一流。スタミナも根性も俺が鍛え上げたのだ。そう簡単に崩れてもらっては困る。

 

───だが俺の目で見ても……

 

綾乃ちゃんが体力を消耗しているようには見えない。肩で息を切らすどころか、汗すら見えない。極度の集中で疲労を忘れるという事は無くはないし、一流のスポーツ選手は肩で呼吸をしない訓練を積んでいる。無論コニーもそこは徹底的に鍛え上げさせた。

 

「困った時は取り敢えず笑っとけってのは心理的にも身体的にも結構有効な手段だ。笑顔を作るってのは身体に余裕を作り、心を落ち着かせる───が」

 

あの汗すら見えない余裕の表情、吸い込まれるようなあの瞳と対するのは、不安どころか、恐怖さえも生み出す。

かつて、推が泪に対して恐れを感じたように。

 

「冗談じゃないわよ、お兄ちゃんの前で!」

 

───あ、いかん。ムキになり始めた

 

展開が早くなり、コニーの速度も上がる。速さは魔性だ。魅力的な武器であると同時に、行きすぎると呼吸を浅くし、焦りを生み、視野が狭くなる。

 

「はい。そこまで」

「きゃっ!?」

「グエッ!!」

 

コニーとヒナの間に割り込み、シャトルをはたき落とす。激突する前になんとか停止したコニーの手を取り、足を滑らせたヒナの腰を抱きかかえた。

 

「試合中にムキになるな。何度言えば学習するんだお前は」

「お、お兄ちゃん…」

「益子コーチ」

「ヒナちゃん、大丈夫?ごめんね、このバカが」

「ひゃい!だいじょぶです!!」

 

優しく微笑む推に対し、湯気が立ち上る。ゆっくりと地面に下ろした。

 

「立花さん、申し訳ありませんが、この試合棄権させてもらってもよろしいですか?」

「は!?」

「棄権…」

「ちょっと待ってよお兄ちゃん!まだ私負けて──」

「お前の勝ち負けはどうでもいい。練習試合なんだ。負けたって全然構わない。だが怪我はダメだ。わかるな」

「…………はい」

 

彼女にしては割と素直に引き下がる。といっても驚くほどではない。不平不満は言うが、基本推の命令にコニーは従う。自分を思いやっての事だと知っているから。

 

「お騒がせしました。皆さんは試合を続けてください。ヒナちゃん。念のため医務室に行くよ。マネージャー、連れて行ってあげて」

「はい!」

 

控えていたマネージャーが多賀城を体育館から連れて行ったのを見届け、ようやく一息つく。まだ少し騒ぎはあったが、概ねは自分のプレーへと戻っていった。

 

「推兄ちゃん」

 

いつのまに隣に来ていたのか、おチビな妹分が袖を引いていた。

 

「もっと、遊びたい。遊んで推兄ちゃん。あの時みたいに」

「…………変わってないな、綾乃ちゃん」

 

バドミントンでしか遊べない子供。こんな子がバドを辞めるなんてできるわけがなかった。笑みを浮かべながらその小さな頭に手を置く。

 

「俺なんかが相手しなくても、もう綾乃ちゃんにはいっぱい遊び相手がいるだろ?」

 

視線を横へと向ける。それとほぼ同時、ペアを組んでいたメガネの少女が綾乃に抱きついた。

 

「凄いよ綾乃ちゃん!フレ女に勝ったー!のかな!?」

「もちろん。君達二人の完勝だよ。俺が保証しよう」

「やったー!!凄い綾乃ちゃん!」

 

褒められて嬉しそうな綾乃を見ながら少し下がる。やれやれと頭を振り、監督たちの元へと戻った。

 

「お見事でした」

「なにがだ?唯華ちゃん」

「あのステップインですよ。初速がほぼマックス。クロスレンジなら消えたように見えたんじゃないですか、アレ」

 

コニーとヒナの間に割り込んだステップ。あの足捌きはスポーツというより武道に近い。筋肉を脱力から極度に緊張させ、瞬発力を極限まで高める事で初速を急激に高める技術だ。

 

「あんなの教えてもらってないですよ」

「ガキの頃に母から叩き込まれたモノだ。一朝一夕じゃ身につかない。それに試合中に脱力するなんて超難しいから。はっきり言っちゃうと実戦向きの技術じゃない。今教えても変なクセがつくだけだよ」

 

事実アレを試合中に使うことは殆どない。呼吸法とか瞑想とかの方がまだ使える。

 

「…………なんで棄権させたんですか?」

「唯華ちゃんならわかるだろ」

「…たしかに色んな意味で大怪我しそうな感じでしたけど」

 

あの全てを吸い込むような不気味な瞳。何を考えているかわからない無垢な表情。どれだけ強打してもアッサリと無効化され、二人がかりで打ち掛かっても逆にカウンターを喰らわされたあの防御力。心をへし折るバドミントンだ。アイツと同じ。

 

「心の怪我は治りにくいし、すぐ開く。あのままやらせるのは怖かった。歳下に圧倒されるってのは結構キツい」

「そこまでのレベル、ですか。あのおチビの中に眠っているのは」

 

二人の脳裏には恐らく同じ人物が浮かんでいる。高校女子バドミントンNo.1の女が。

 

「私はそういうの引きずり出したくなるんですけどね」

「若いなぁ唯華ちゃん。気持ちはわかるけど」

 

俺も立花さんとやった時、そんな気分だった。今思えばあの試合、急激に進化していたのは俺だけではなかった。ラリーに引き摺られ、立花さんのプレイレベルも確実に上昇していた。試合のステージが上がった事を俺は楽しんでいた。より強いショットを打ち出す立花さんの限界以上を引きずり出したくなった。

勿論相手を倒すべく全力を注いでいた。だが、同時に…

 

 

まだ死ぬな。まだついてこい

 

 

そんな事を考えていた。その結果があの事故だ。限界以上を無理やり引き出してしまった故に、あの人の身体は悲鳴を上げた。

 

「推さん?」

「…………ああ、ごめん。何でもないよ。唯華ちゃん、練習試合ならともかく、公式戦は淡々と勝ちなよ。後味悪い試合ってのは結構引きずるからさ」

 

ヒラっと手を振る。もう観たいものはだいたい見た。大丈夫だとは思うが、一応医務室へ向かうことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フレゼリシア女子バドミントン部が合宿のために借りた宿。その屋上で一人、ステップを踏んでいる男がいた。時折舞う汗の雫は月明かりを反射し、淡く煌めいている。

 

「こんな所でフィジカルトレーニング?」

 

忙しく動いていた足が止まったタイミングで声がかかる。振り向いた瞬間、スポーツドリンクの缶が飛んできた。

 

「コニー、何してる。飯食ったなら早く寝ろ」

「負けた日はすぐ眠れないの。お兄ちゃんなら知ってるでしょ」

 

練習後、フレ女北小町合同で執り行われた親睦会を一足先に抜け出した推は、今日の分の自主トレを行っていた。日中は移動とコーチに時間を使ってしまったため、現役選手としてのノルマがまるでこなせていなかったのだ。

「絡まれてて大変だったね」

「あの人が泣き上戸だとは知らなかったよ」

 

まだギリギリ未成年の推の飲み物はソフトドリンクだったのだが、他のコーチ陣はビールだった。勿論立花さんも。酒が入った立花さんは涙ながらにコーチについてから何人も部員が辞めてしまった事を俺に語っていた。

 

「…………何か私に言うことないの?」

「なに?言っていいの?久々にボロ負けしたな」

 

汗を拭い、手摺に背中を預ける。手に持った缶のプルタブを開けた。

 

「ま、良かったんじゃないの?早いうちにお高い鼻がポッキリ折れて」

 

人にアレだけ迷惑かけて、熱でぶっ倒れて心配かけさせて、結局合宿までついて来させてやったのだ。少しは痛い目にあった方が薬になるだろうと本気で思っていた。いくら才能があろうが、世の中そう簡単に思い通りにはならないのだ。それをコイツはもう少し知るべきだ。

 

「皮肉?」

「まさか。本心だよ。ザマァと思う部分がないと言ったら嘘だがな」

「…………ヘコんでる妹にちょっとくらい優しくしてよ。心配してよ」

「バカ言え。俺はいつもお前にはメチャ優しいだろうが。これ以上はお前をダメにする」

「…………」

 

自覚はあるのだろう。強く反発はして来ない。缶の中身を少し飲んだ。

 

「勿論心配もしてる。お前に泣かれたら俺も結構辛いから」

「───泣かないよ、もう子供じゃないんだから」

「そっか。そりゃ良かった」

「…………ごめんね。私、調子乗ってた」

 

ここ最近、派手に負けたことはなく、プロの試合でも安定して結果を出していた。だからこその慢心と過信。それにようやく気付いた。

 

「お兄ちゃんとは違う。私も小さな花だったよ」

「…………ハァ」

 

深く大きく溜息をつく。呆れられたと思ったのだろうか?いや事実呆れたのだが。ようやくコニーは視線を上げ、推の顔を見た。その青い瞳は不安で揺れている。

 

「俺もそうだったから、気持ちはわかるけどな」

「?」

「焦るなって言われてもわかんねえよなぁ」

 

明日のことさえ思う余裕はないのに、将来などとても考えられない。彼女らにとっては今この瞬間が全て。今より一本でも多く。一歩でも前へ。焦らずにはいられなかった。

 

「それでもな、コニー敢えて言うぞ。お前はまだまだ……まだまだまだまだま〜〜だっ」

 

スゥと息を吸い込む。

 

「未完成だ」

 

身体も成長しきってない。テクニックだって磨く余地は幾らでも残っている。そして精神年齢は10歳児。

 

「俺すら花は咲ききったとは言い難いのに、お前ごとき蕾も蕾がなに限界悟った顔してやがる。バカめ」

「…………お兄ちゃん」

「まだまだこれからなんだよ。お前も、勿論綾乃ちゃんも。唯華ちゃんやフレ女の皆もな。みんなこれからだ。今よりもっと強くなる。お前たちは今が一番伸びる時なんだから」

 

高校三年間は魔法の時間だ。実際に過ごしているときは酷く長いのに、過ぎ去ってみれば異様に短い。それは時間の密度が濃いからに他ならない。身体ができ始め、パズルのピースがようやく揃い始める時期。組み立てがうまくいけばその選手は見違えるように伸びる。

 

「バド選手は負けなきゃ強くなれない、なんて事を言う人もいる。ソレも間違ってるとまでは言わないけど、真実じゃない。負けた後に勝った奴が本当に強くなれるんだ」

 

競技に打ち込む以上、敗北を経験しないことなどあり得ない。しかし、当たり前だが負けるだけで強くなれはしない。負けから立ち上がり、学び、改善し、勝利した者だけが真の実力を得る。勝てば勝つほど戦いのステージは上がり、相手も強くなる。勝利の価値が上がっていく。才能を華に例えるなら敗北は養分。勝利は水と光。敗北を肥やしにし、勝利という光と甘露を得た蕾だけが才能という華を開かせる事ができるのだ。

 

「こっからの試合、全部勝つぞ」

「当たり前。私達だけが、天才なんだから」

 

空になった空き缶を握りつぶす。ラケットバッグを背負い、手摺から離れた。

 

 

 

 

 

 




励みになりますので感想、評価よろしくお願いします。面白かったの一言でも頂ければ幸いです


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11th shot 師弟か親子か友人か

 

 

 

 

 

 

5月中旬。ゴールデンウィークが終わり、あらゆる種目で高校総体、通称インターハイへと繋がる予選大会が始まる時期。バドミントンも勿論例外ではない。横浜文化体育館でも今日、神奈川県予選大会が実施されている。選手や監督、家族や友人、その他諸々の関係者達がひしめいている。予選1日目に女子二回戦までが実施され、翌日に男子二回戦までが執り行われる。翌週土曜日は予備日でオフ。男女共に決勝は日曜に行い、インターハイ出場者が決まる。

 

人数の多い予選は各コートで一斉に行われ、選手によっては休みなしで動きっぱなしになる過密スケジュールだ。

 

各所でゲームが始まり、体育館内は一気に騒がしくなる。地元では有名な強豪が気合いの声を張り上げ、応援団がさらに大きな声を出す。選手の名前を呼ぶ人。ナイスとプレーを褒める人、様々だ。

 

しかしその一方で、優勝候補の一角、芹ヶ谷薫子のコートが異様な盛り上がりを見せる中、羽に愛された少女が静かにその異才を研ぎ澄ます。

 

その様子をホール二階、大きな柱の影から見つめている一人の美女がいた。女性にしてはかなりの長身。スタイルもいい。キャミソールと呼ぶにはあまりに飾り気のない薄着のせいで、優美な曲線がハッキリと浮き出ている。背中まで伸びた艶やかな黒髪を大きなリボンで纏めていた。

 

普通に考えれば観戦者の一人。しかしその美人は一般人と呼ぶにはあまりに風格のある女性で、近寄りがたいオーラを放っている。事実、他の一般客は彼女を避けるように距離をとっていた。

 

しかしそんな中、周囲の空気を読まず、悠然と歩く男がいた。若い。歳は二十歳を迎えるかどうかというぐらいだろう。くすんだ金髪に翡翠色の瞳を宿した美青年。切れ長の目は知性の輝きを秘め、ソリッドなスポーツグラスが彼の怜悧さを引き立てている。纏う雰囲気は鋭い。大柄な女性が放つオーラを切り裂くかのような鋭利さだ。彼も只者ではないという事は歩く姿からでもわかる。

 

普通じゃない美女Aと只者ではない青年Aの距離がほぼゼロになる。示し合わせたかのように二人の男女は同じ姿勢で試合会場に視線を向けた。

 

「なんだ。来てたのか。久しぶりだな、有千夏」

「…………やっぱりあんたも呼ばれてたか。背、少し伸びたんじゃない?推」

 

師弟と呼ぶにはあまりに気安く、親子と呼ぶにはあまりに似ていない。そんな二人が、再会した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土日を利用した短期合宿。部員同士はそれぞれのやり方で関係を深め、そして別れの時を迎えている。

 

それは部員以外も例外では無い。大柄な青年コーチが差し出した大きな手を、益子推も取っていた。

 

「全日本、頑張れよ」

「ご存知でしたか」

「松川さんに聞いた」

「ああ、なるほど」

 

酒の席で話にでも上がったのだろう。部外者のあの人がなぜあの席にいたのかはよくわからないが、その辺のコミュ力の高さは流石アキさんだ。伊達にあの有千夏の友達をやっていない。

 

「…………北小町にも面白い素材いるじゃないですか」

「ああ、才能あるとは思ってたけど、まさか羽咲があれほどとは思わなかった」

「俺が言ったのはそっちじゃないんですけどね」

 

チラッと目を向ける。視線の先にはバスの窓から顔を出している唯華ちゃんと話しているスタイルの良い少女の姿があった。

 

「…………荒垣?」

「立花さん」

 

握った手に力を込める。

 

「才能ってのは台風に似ています。本人はただバドミントンをプレイしているだけ。中心は穏やかなのに、周囲を巻き込み、さらい、吹き飛ばす」

 

その風に負けまいと踏ん張るもの。風の強さに誘われて興味を惹かれてしまうもの。潰されるもの。様々な被害を巻き起こす。

 

自分は吹き飛ばされた。木っ端微塵にされた。以来あいつ以外の何も見えなくなってしまった。

 

「お前が言うなって思われるかもしれませんけど…」

 

バツが悪そうに頭をかき、視線を伏せる。一度目を瞑ると今度はしっかりと立花と向き合った。

 

「立花さん。競技である以上、勝利を目指すものですし、そのために行動するのは当然です。ですが、綾乃ちゃんを勝利のためだけの道具にはしないであげてください。彼女に、競技へのリスペクト、そして選手へのリスペクトを教えてあげてください。俺のような選手にはしないであげてください。強くなるだけでは、勝利を求めるだけではきっといつか後悔する日が来ます。俺が貴方と戦った時のように」

 

自分が勝つ事以外何も考えていなかった。多くの選手を蔑ろにし、世話になった人の恩を仇で返し、未来ある若い才能を幾つも潰した。俺も吹き飛ばした。

 

「高校生は激動の時代。まだ眠っている種や停滞している才能もその中にいるかもしれない。その子たちを育ててください。綾乃ちゃんにバドミントンって面白いんだってもう一度教えてあげてください。俺のように、バドミントンを復讐の道具にさせないであげてください。お願いします」

 

手を握ったまま、深く頭を下げる。実際に会って、話をしてみて、よくわかった。悪い意味で綾乃ちゃんは中学の頃から何も変わっていない。幼すぎる精神性、母親へのコンプレックス。他者への依存癖。年齢を重ねるごとに薄くなっていくはずのモノが何一つ変わらず残っている。それらは良く言えば純真無垢だが、無垢故に悪い方向へ舵を取れば引き返せなくなる。全日本ジュニアの綾乃ちゃんは凄まじかった。インターハイを取り、海外で転戦し、経験を積んだ俺に本気を出させた。あの時の彼女の目には何も映っていなかった。

 

インハイの俺とほぼ同じ目だった。唯一の違いは復讐心が俺より薄いという事くらいだろう。

 

未だ彼女にある有千夏に捨てられたという誤解。コレが復讐心に変わる可能性はある。事実俺はそうなった。無論、誤解させても仕方のない行動をとった有千夏が一番悪いし、そこまで部活動のコーチにすぎない立花さんに求めるのは酷かもしれない。しかし今綾乃ちゃんの周囲にいる人間であの子を任せられる人は立花さん以外いなかった。

 

「益子…」

「俺の連絡先です。綾乃ちゃんに関して相談があるならいつでもどんなことでも連絡してきてください。簡潔にですけど、有千夏──綾乃の母親がやった事も、何を考えて行動したかも書いてあります。参考にしてください」

「…………ああ」

「本当に、色々すみません。よろしくお願いします」

「あ、頭を上げてくれ。別に生意気とか思ってない。心からあの子達を心配しているってのはわかってるから」

「…………すみません」

 

様々な意味がこもった謝罪の言葉だったのだが、恐らくこの人には半分も届いていないだろう。優しくて、懐が深くて、思いやりのある人だから。

 

「お兄ちゃん」

 

背中を軽く引っ張られる。黄金を溶かしたかのような煌くプラチナブロンドのロングヘアの美少女が不機嫌そうに眉を顰めていた。

 

「バス出るって。帰ろ」

「…………ああ、わかった。では立花さん。よろしくお願いします」

「…………ああ、任せろ」

「アキさんも色々お世話になりました。またどこかで」

「ええ、全日本の予選が終わったらまた取材させていただきます。その時はよろしく」

「はい、勝ち抜けたら」

「そこは心配してないわ」

 

握手を交わし、バスへと向かう。蜂蜜色の髪の美少女も後ろに続く。立花さんと話すアキさんの声が少しだけ聞こえた。

 

「コニー、綾乃ちゃんとは話せたか?」

「まあ、話したい事は大体ね。残りはインターハイで。バドで語るわ」

 

目の奥が光る。いつもは精神年齢10歳児だが、バドが関わると一気に一流の目に変貌する。『デンマークの不沈艦』の異名が伊達でなくなる。鋭くありながら純粋かつ希望を見据えている、コニーのこの目が推は好きだった。

 

───有千夏はどうなんだろうな

 

「お兄ちゃん、コレあげる」

「苦手な味を食べてもらう、の間違いだろ」

 

席に座り、隣に腰掛けてきたコニーからお菓子を受け取る。押しつけられたハッカ味の飴の匂いがわずかに鼻から抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合宿が終わり、フレゼリシア女子バドミントン部には日常が戻っていた。朝練をこなし、学業に勤しみ、放課後に本格的な練習に励む。学生として、そして選手として自身を磨いていく。

 

振り返ってみれば、恐らくこの時間が最も楽しい時だろう。大会に向けて取り組む準備の中で、仲間と笑い、仲間と苦しみ、少しずつ強くなっていく。輝かしい未来を信じ、ただラケットを握っていられるのは、今だけに許される彼女達の特権だ。祭りの本番より準備のほうが楽しいとはよく言ったものだ。

 

ずっとこの時間が続けばいいのに。

 

短い間だが、懸命に今を生きる彼女達を見てきた推は心の底からそう思う。信じ、信じられ、支え合い、切磋琢磨する姿は怨嗟の中で青春時代を過ごした彼にとって眩しく、少し羨ましかった。

 

───だが、そんな夢物語はあり得ない。永遠に続く時間などない。何にでも終わりがある。

 

「ラストォっ!!」

 

そして終わりとはいつも唐突にやってくる。バドミントンの試合の平均時間はワンセット約12分。つまり最短で約24分。最長でも36分程度で試合は終わる。たった36分の為に彼女らは3年間を注ぎ込んでいる。

3年もの時間が36分で泡と消えるかもしれない。あまりに儚い。だからこそ美しい。

 

「みんな集合!」

 

そしてそれは俺も例外ではない。別れもまたいつも唐突だ。

 

「えー、以前から報されていたように、明日から推さんが出張で練習に参加しなくなります」

「あ、そうだった!」

「えー!?もうそんな時期?」

 

いきなり長期いなくなって部員を混乱させない為、報告はしていた。丁度神奈川遠征が終わり、帰ってきた頃だ。しかしそれも一ヶ月以上前の話。密度の濃い今を生きる彼女らにとって、5日前すら朧げだというのに、一ヶ月前など遥か昔。憶えていられなくても不思議はない。

 

「…………お兄ちゃん、どこに何しに行くんだっけ」

 

コニーも同様らしい。コイツは特にうるさいから一週間前にもう一度言ったんだが。まあそれだけ充実した毎日を送っている証拠だろう。

 

「また神奈川に。BWF、世界バドミントン連盟のイベントに召集された」

 

若手の有望株が中心に呼び出されている。日本のみでなく、海外からもBWF所属の選手が呼ばれているらしい。

 

「BWF?まさか呼んだのはヴィゴ?!」

「直接じゃないが……突き詰めればまあそうだろうな」

「やっぱり!あんな見た目サギのジーさんの言うことなんて聞く必要ないじゃん!てゆーか聞かないほうがいいって!」

「そうもいかないのが今の俺の立場なんだよ。俺の所属は一応BWFだし」

 

BWF強化選手として登録されているからこそ、推は世界の大会に参加でき、練習場所も問題なく確保できている。世界大会を回る上で通常、最も困るのが資金面。しかしBWFの支援を受けている推は高校を卒業して以来、その手の苦労をした事はなかった。

強くなればなるほど、戦うステージが上がれば上がるほど、バドミントンは自分だけのものではなくなる。これは学生のうちでは経験しない試練だろう。ただラケットを握っていればいい身分じゃなくなるとはそういうことだ。多少体調が悪くとも、気が進まなくともラケットを握り、シューズを履かなければならない。

 

いずれ俺の胸ぐら掴んで縦揺れさせるこの天才少女も、それを知る日が来る。そう遠くない未来、デンマークという一国のバドミントンの全てがその肩にのし掛かり、ファンが増え、国中から期待され、誰もが納得するプレーを求められる。

 

───だから俺はコニーに期待もしてるが、同じくらい心配もしている。

 

いや、コニーだけじゃない。綾乃ちゃんや唯華、そして──泪。

 

孤独と重圧が常にのし掛かる。何をしていてもバドミントンが頭から離れなくなる。競技者として生きるというのはそういうことだ。葛藤、不安、プレッシャー。それらは全て懐に収め、目線は前を向け続ける。競技者として生きている限り、この拘束からは逃れられない。これはもうほとんど『呪い』だ。煉獄の炎にじわじわと焼かれ続けていく感覚に近い。炎から逃れる方法は勝ち続け、頂点に昇る──いや、避難するだけだ。

 

才能がある、ということが幸福とは限らない。未来ある若者を一つの道に縛りつけてしまうのもまた才能。

 

───才能を天からの祝福(ギフト)という人もいるが……仮に祝福か呪いか答えろと言われれば、俺は後者。

 

だからコニーや唯華ちゃんをこの道に進ませてしまう事に、俺はいつも少し抵抗がある。みるみる強くなる彼女達を見て、嬉しいと思うと同時に少し辛い。強くなればなるほど俺たちにかけられる呪いもまた強くなる。

 

───だから俺が先に行って地獄の様子を見てきてやらなければいけない。それがこいつらを強くしてしまった、俺の最後の責任。

 

「お前がいずれ俺と同じ道を歩くかはわからない。だがその場合、先に道を作ってやってたらお前も幾分歩きやすいだろ?」

「…………私のために行ってくれるの?」

「みんなの為に、行ってくるよ」

「ぶー!」

「推さん、お気をつけて」

「ありがとう。唯華ちゃん」

 

コニーの手を解き、唯華の頭を一度撫でると、一歩前に出る。

 

「まずは謝らせてくれ。もうすぐインターハイ。三年生は最後の大会だ。恐らく君たちの予選を直接応援する事は出来ない。短い間とはいえ、コーチを務めた人間があまりに無責任だと自覚している。今までよくしてもらった恩を仇で返した。本当に、すまない」

 

深く頭を下げる。その行為に部員全員が動揺した。推を無責任だなどと思う人間は誰一人いなかった。今までずっと的確な指導をしてもらった。基本優しく、時に厳しく、親身になって練習に付き合ってくれた。短期間だがこの人のおかげで強くしてもらったのだ。恩の貸し借りでいえばこちらがはるかに大きい。

しかし推は知っている。どれだけ練習を重ねようと、どれだけ合宿でいいプレーをしようと、実力全てを大会で発揮することがいかに難しいかを。

 

練習で出来たことが試合でできないなんてザラもザラ。練習は本番のように、本番は練習のように。コレはどの競技でも言える鉄則。試合で練習の半分のパフォーマンスを見せてくれる選手なら、監督やコーチにとってその選手を充分に信頼に値する。現実は3分の1も実力を見せられるかどうかだ。

 

その手助けをする存在こそが指導者。緊張で視野が狭くなる。後がない不安で硬くなってしまっている。そういった不確定要素を取り払い、実力の120%を引き出す為に選手をノせる事が本番におけるコーチの最大の仕事。

バドミントンにタイムアウトはない。ルール上、インターバルとセット間しか監督やコーチはアドバイスできない。作戦や攻略法を教えるにはあまりに少ない機会。指導者が選手にしてやれることなど僅かだろう。だがそれでも0と1の差は凄まじい。トーナメントは一回負ければ全て終わる。コーチがその場にいられないという事は選手にとって大きな損失だ。

 

「君達なら勝てる、なんて事は言わない。試合とは何が起こるかわからない。予選で当たる相手がいずれ世界に名を轟かせる大器な可能性だって充分ある。大会中、敗北の足音が君達から消える事は恐らくないだろう」

 

ゴクッと数名が息を飲む。分かってはいた事だが、彼が述べた可能性がリアルなイメージとなって彼女達を襲った。

 

「それでも、一つだけ確実に言える事がある。君達は、ちゃんと強いって事だ」

 

コレはお世辞でも何でもない。日本の高校女子バドミントンは推の目から見ても本当にレベルが高い。その中でも彼女らは間違いなく上位10%内に入っている。

 

「みんな最初はただシャトルを追いかけて打つだけで楽しかったと思う。俺もそうだ。バドミントンが楽しいから今まで続けてきた。でも、ずっと続けていると楽しさの種類が変わる。人と競うのが楽しくなったり、圧倒して勝つのが楽しくなったり、ギリギリの勝負が楽しくなったり、それは人によって様々だ。だが共通している事が一つだけある」

 

そういった勝負を楽しく思えるようになる為には、強さが要るということ。

 

「君達はその強さをもう既に持っている。やるべき事を見失わず、ちゃんと自分のプレーが出来れば、コートの中には楽しさがある。君達が試合を楽しく思えているなら、それはちゃんと練習通りの実力を発揮できている証だ」

 

自分の状態が良いのか悪いのか。判断するには相当の経験が要る。試合中は視野も狭くなり、余裕もなくなる。余裕がなければ楽しさなど感じる事は不可能だ。

 

「せっかくのトーナメントだ。辛くきつい山登りだと思ってたら損だろう?この夏をかけていく、各々の楽しさを探す旅だと思って欲しい。俺からは以上だ」

 

頭を下げる。ほぼ同時に拍手が起こった。

 

「唯華ちゃん、後を頼むよ。特にコニー」

「お任せください。全国大会には来られるんですよね」

「日程上は。全日本の予選と本戦は少し空く。でもBWFのエキシビジョンとかに出なきゃいけなくなる可能性もあるから、絶対とは言えないけどね」

「わかりました。勝ち進んで待ってますから。心置きなく頑張ってきてください」

「ありがとう。君の心配はあまりしてないけど、怪我にだけは気をつけてね」

「了解です」

「あと、知らない物々しいおっさんとかにもついてっちゃダメだよ」

「──?何ですかそれ」

「俺の取り越し苦労ならそれが一番なんだけどね」

 

困ったように眉を顰めて笑う。いつもの凛々しい彼と違うその苦笑は唯華の背筋にゾクリと寒気を走らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、今はコニーといるわけね」

「アンタの代わりにな」

 

時間は戻り、神奈川体育館。試合を観戦しながら、かつての師弟はお互いの近況報告を行なっていた。

 

「だいぶ一人前に近づいてきたじゃない。ま、貴方は元々セルフコントロール上手かったからそこまで心配してなかったけど」

「…………いい反面教師に恵まれたからな」

「皮肉?耳に痛いわね」

「そりゃあいい。もっと言ってやろうか」

 

といっても、この皮肉は自分も傷つける諸刃の剣なのでこれ以上は言わない。あまり苛めると反撃を喰らう。

 

「全日本、どうなの?」

「どうと言われてもな。まだ始まってもいないし。まあコンディションは良いよ。かつてないほどにな」

「大丈夫。貴方は国内レベルで敵はいないから。少なくとも予選は保証するわ……そういえば貴方なんで予選から出なきゃいけないの?実績でいえば……」

「俺の日本での実績はインハイ優勝くらいしかない。それも全日本に出場する選手達はほとんどが俺よりキャリアは上だ。全日本ジュニアで優勝してれば違ったんだが、俺あれ最高でベスト16だったし」

「…………そういえばあれ、世界ランキングには加算されなかったわね。日本ランクはグッと上がるけど」

 

だから推の日本での知名度は低い。バドミントン界のみで言えばそこそこだが、一般大衆からはほぼゼロだろう。それに推はまだユースの代表。今年からようやく日本代表に昇格できる身だ。実績では予算を免除されるクラスの選手には到底敵わない。なら実力で覆すしかない。それには全日本で現日本代表達を倒すのが最も手っ取り早い。

 

「だから俺の心配はしなくていい。そっちこそどうなんだ?綾乃ちゃん、調子良い?」

「…………あんま見てない」

「───そっか」

 

気持ちは分かるからこれ以上は何も言わない。俺も泪の試合を直視して冷静に観戦できるかと言われれば分からない。母と兄とでは感情は違うのだろうし、安易に分かるとも言わないが、後ろめたさという点では近しいものはあるだろう。

だから代わりに俺が見てやる。そして相変わらずだ。鉄壁のディフェンスを誇っており、じりじりと相手を圧倒していた。あまり派手さは無い。しかし試合の中で急速に成長している。氷の氷柱ほどの小さな隙や死角を的確に突いていた。アレが試合中に見える人間が日本に一体何人いるか。綾乃はそのレベルにまで自身を同一人物へと戻していた。

 

「───でも気になる選手はチラホラいるね。あの同じユニフォームを着た短髪の子とか」

「…………ああ、渚ちゃんか」

 

有千夏の視線を追えば、誰のことを言っているのかは分かった。170を超える高身長に打ち出される力強いスマッシュ。合宿の時にあった迷いというか躊躇というか、なんとなく堅い印象も消えている。この辺は指導者の賜物だろう。流石は立花さん。名選手が名コーチとは限らない。が、理論派の選手ならその傾向は少なくなる。

立花さんは理論派だ。それに立花さんは渚ちゃんと同系統。高身長パワー型だ。悩みも共有しやすかったのだろう。しかしそれでも選手の悩みとは千差万別だ。渚ちゃんのスランプも立花さんとは似て非なるものだったはず。それをこの短期間で解消し、能力を伸ばした。立花さんは選手としてだけでなくコーチとしても優秀な人だ。自分も指導をする立場となり、改めて彼に尊敬を覚えた。

 

「知ってたの?彼女」

「フレ女の合宿で見た。有千夏の好きなタイプだな」

「貴方もでしょ」

「まあね」

 

一回戦が全て終わる。総じて順当。実力がある方が勝利するとは限らないのが試合、緒戦は特にソレが顕著だが、少なくともこの一回戦はそれは起こらなかった。

 

「…………時間だ。そろそろ行くか」

「ええ。推、エスコートをお願いできる?」

「それでは僭越ながら」

 

肘を軽く曲げる。躊躇いなくその肘に有千夏は手を掛けた。思ったより重く体重を預けられた。

 

 

 




原作完結!師走が始まり、現実がクソ忙しいですが、何とか最後まで書き切りたいです。それまでにヒロイン決めなきゃなぁ。令和元年ももうすぐ終り、皆さんも忙しくなると思いますが、拙作を息抜きにしていただければ光栄です。それでは感想、評価よろしくお願いします。面白かったの一言でもいただければ幸いです。


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