文乃ちゃんは料理ができない (柴猫侍)
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1. カレーライス

 文乃は激怒した。

 必ず、かの凄惨なキッチンの光景を二度と生まぬと決意した。

 文乃には料理がわからぬ。

 文乃は、一ノ瀬学園高校三年生である。筆をとり、父と一緒に暮らしてきた。けれども自炊経験がまったくなかった。

 

「―――という訳なのっ! お料理を教えてください!」

「……はあ」

 

 

 

 文乃ちゃんは料理ができない。

 

 

 

 ***

 

 

 

 一ノ瀬学園の現役女子高生たる古橋(ふるはし)文乃(ふみの)

 彼女は、その類稀なる現代文・古文・漢文の学力を有していることから、通称は『文学の森の眠り姫』と謳われていた。

 容姿端麗。明るく、それでいてお淑やか。

 本人もコンプレックスに思っているまな板だけがネックであるものの、ほとんど絵にかいたような美少女―――それが文乃だ。

 

 だがしかし、彼女の志望校は理系。

 文系を得意とする彼女は、高校三年生になったばかりの数か月前まで、数式を目にするだけで途轍もない睡魔に襲われるほど、理系科目を苦手としていた。

 

 そこへ学園長が彼女の新たな教育係として任命したのは、同学年の秀才・唯我(ゆいが)成幸(なりゆき)

 『できない奴の気持ちをわかってやれる男になれ。できない奴の気持ちがわかるのは、できなかった奴だけだから』という、亡き父の教えを受けた彼の熱心な教えにより、同じく彼に教えを受けている『機械仕掛けの親指姫』こと緒方(おがた)理珠(りず)、そして『白銀の漆黒人魚姫』こと武元(たけもと)うるかと共に勉強を続け、着実に成績を伸ばしていった。

 

 そして一学期を終え、二学期へ突入。

 ある者は部活を終え、多くの三年生が本格的に勉学に勤しむことだろう時期に差し掛かった文乃であるが、彼女には一つだけ懸念することがあった。

 

「うっ……うっ……!」

 

 文乃は自宅のキッチンで涙を流していた。

 不甲斐ない自分へ。そして無駄になってしまった食材を哀れみ。

 

『和洋中なんでもござれだよ!!』

 

 脳裏を過るのは、強がってしまった時の自分の言葉。

 

 しかし目の前に広がるのは、目にするのも憚られる惨劇の地。

 爆心地の如き様相を為すキッチンを生み出したのは他でもない。

 

「なんでっ、なんで私はあの時見栄を張っちゃったのおぉぉ!!」

 

 うわああんと泣く文乃。

 普通であればご近所迷惑になりかねない慟哭であるが、幸いにも文乃の自宅は立派な豪邸。この程度の叫びは家中に響きわたるだけで済む。

 唯一の肉親である父親も滅多に家に帰ってこないため、基本的には一人で過ごしていることが多いのであるだが、食事はいつも即席のものか弁当を買っていたため、自炊経験がほとんどないに等しい。

 

 それがどういった巡り合わせか、教育係である成幸に頼まれ、一度料理を教える運びになってしまった。

 その時は理珠に助けを求め、どういった経緯か初代教育係であり一ノ瀬学園の教師である桐須真冬にレシピを教えられ、事なきを得た。

 

 だがしかし……だがしかしだ。

 もう一度突発的にトライした時、それはもうキッチンは酷い有様になってしまった。

 その時も、何の巡り合わせか掃除の救援にと家事代行を頼んだところ、成幸と先輩OBである小美浪あさみがやって来て、自身の料理スキルのなさがバレてしまう危険の淵に立たされたのである。

 

(あの時もなんとかバレずに済んだけど、今度の今度は絶対バレそうな気がするよぉ……三度目の正直って言うし)

 

 一度強がってしまったが故に起きた悲劇。

 引くに引けなくなってしまった文乃は悩んだ。悩み、悩み、悩んでいる内に間食が増えたことにより若干体重も増えた。

 

 そんな悩みを払拭するべく文乃が考え出した案は、単純なものであった。

 

「私、料理を作ってあげたい相手が居て……っという訳なの! お料理を教えてください!」

「……はあ」

 

 ってな感じで冒頭に戻る。

 

「な、なんか古橋さんに料理教えてって言われるの不思議だなぁ~」

 

 顎に手を当て、笑顔を浮かべるのは一ノ瀬学園三年生料理部研究部元部長・佐藤(さとう)良太(りょうた)

 通称『厨房の白雪姫』だ。男だが。

 男子にも拘わらず、インドアでの活動のせいで日焼けしていない肌は粉砂糖のように白く、華奢な体躯、艶のある黒髪を一つ結びにする等、一見女子にしか見えない彼は文乃とは中学校からの知り合い。

 

「その、女子の情報網の速さって油断ならないし……その点佐藤くんは男の子だけど、女の子っぽいから安心して頼めるかなって」

「ぐふっ」

 

 可愛い顔して悪意なく辛辣な言葉を吐くのも文乃の特徴だ。

 好きで男の娘でない良太には心に来る言葉であったが、本心から料理を教えてくれるよう頼まれている手前、断り辛いこともある。

 

(料理作ってあげたい相手って誰かな? でも、古橋さんのことだから、料理上手なんだろうなぁ~)

(料理が壊滅的に下手だからだなんて、こんな公衆の面前では言えない……! 女子としての沽券に係わるもん!)

 

 二人の考えの間に若干の齟齬があるものの、見事元料理部部長の教えを受けられるに至った文乃。

 はたして今後、どうなるのやら。

 

 

 

 ***

 

 

 

 それはとある日の古橋宅。

 

「―――じゃあ、古橋さん。カレーを作りたいんだったよね?」

「うん、佐藤くん!」

 

 快活な返事をするのは、可愛らしいエプロンを身に纏った文乃だ。

 隣にはこれまた板についたエプロン姿の良太が立っている。

 

 そして目の前のキッチンに所せましと並んでいる材料の数々。それらは全てカレーの材料。

 

「ううん……だけど」

「はい!?」

「カレーと一口に言ってもたくさんあるね。普通のカレー、インド風カレー、グリーンカレー、イエローカレー、レッドカレー……古橋さん。どれを教えてほしいの? 一応色々持ってきたけど」

「あの、えっと……普通のを」

「そっか!」

 

 まごまごとし、尚且つ視線を泳がせる文乃。

 彼女の様子は如実に語っている。

 

―――具体的にどの程度自分が料理をできるかを伝えていなかった、と。

 

 しかし、その詳細を知らぬ良太は笑みを浮かべつつ、炊飯器に目をつける。

 

「よし、古橋さん。具材の下ごしらえの前にライスの準備にいこう! 本当ならカレーを作る前に済ませて水に浸けておきたかったけど、まあ今から炊く準備をしても大丈夫だよ」

「は、はい!」

「……流石にライスは炊け―――」

「炊けます!」

 

 背筋をピン! と伸ばす文乃は、目を白黒させつつ研ぐ前の生米が入っている器を手に取る。

 

(言えない! 白米すら炊いたことがないことを!)

 

 以前、成幸が来た時はなんとなしに彼に炊飯を頼んだ。

 あの時はなんとなしに流すことができたものの、今は違う。

 

(え、えーっと! でも、なんとなくでわかるよね、私!)

 

 生米をじゃらじゃらとかき回してなんとか研ぎ終えた文乃は炊飯器の前に立つ。

 

「あ、っと……」

「むむっ?」

「この線まで入れればいいんだよね!?」

「うんうん」

「お米を!」

「それは入れる水の線だね」

「……」

「……」

「ずびばぜーん゛!!」

「古橋さぁーん!?」

 

 ~少々お待ちを~

 

「ふむ、なるほど。わかった。つまり、基本の“き”から教えてほしいってことだったのね」

「はい……」

「大丈夫大丈夫。最初から料理ができる人っていないから、ほら。寧ろ、これから伸びしろがあっていいね! みたいな……」

 

 優しさが傷口に塩水のように染みわたっていく。

 要するに泣きっ面に蜂だ。

 

「あはは……でも、今の様を見られたら『おいおい炊飯器を使ってライスを炊こうとしているなんて、とても賢いチンパンジーが居るもんだ!』っていう外国人の皮肉たっぷりのジョークが聞こえてきそうだよぉ……」

「へりくだりすぎだよ、古橋さん。手取り足取り教えるから、これから頑張っていこう」

「……師匠!」

 

(師匠!?)

 

 などの流れを経て、二人は料理へ戻る。

 

「じゃあ、これからカレーの作り方を教えるよ」

 

 材料は豚肉、カレー粉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、にんにく、しょうが、ローリエ、カレールウ、そしてサラダ油だ。

 

「ろーりえ?」

「うん。香辛料だね。生薬として月桂葉って言うよ。入れると、すがすがしく明瞭な芳香が出るんだ」

「へー!」

「ここで、古橋さん」

「は、はい!?」

「料理に際し、大切なことはなんだと思う?」

 

 笑顔の圧力とはこのことだろう。

 笑顔のまま詰め寄る良太を前に、文乃はたじたじだ。

 

「あ、愛情!」

「うん、大事だね」

「えへへ……」

「だけど、僕が今聞きたかった答えは“手順”だったよ」

「はうっ!」

 

 メシマズを作る者にはある程度特徴がある。

 一つ、分量を護らない。

 一つ、独創的を謳いレシピ通り作らず、変に付け足す。

 一つ、味覚が偏っているがために味付けが極端になる等……。

 

「と、いう訳で一通りの手順は僕が監修するから、古橋さんは僕の指示通り動くように。レシピ通り作れば、まず不味くなることはないと思う」

「ホント!? 今、言質取ったからね!」

「うん! ……どんなトラブルがあっても不味い料理は作らせないから」

「ひぃぃ!?」

 

 最早強迫に近い言動だ。

 ここに来て初めて文乃は良太の料理部としての片鱗を垣間見たのであった。勿論、良太自身は威圧感たっぷりであることは意識していない。

 

 そんな中、クッキングスタートである。

 

 まずはボウルに入れた市販の豚肉(カレー用)を入れ、小さじ一杯のカレー粉をまぶし、よくなじませるように混ぜる。

 

「? なんでカレールウがあるのに、カレー粉をまぶすの?」

「所謂下味だね。こうすると味に深みが出るんだ」

「なるほど!」

 

 下味―――調理前に食材に様々な味付けをする行為を指す。

 特に蒸し料理では途中で味付けができないため、専ら下味をつけてから調理することになる。

 今回のカレー粉を豚肉にまぶすことも、そんな下味をつける一環だ。

 

 そして下味をつけ終えた後は、野菜の下準備に移る。

 玉ねぎはざく切りに、にんじんは乱切りに、じゃがいもは一口大に。勿論、好みによって切った際の大きさを変えることは多いに構わない。

 

「まあ、失敗した時は形がわからなくなるほどドロドロに煮込めばいいだけだから」

「へ、へぇ~」

「よし、古橋さん」

「はい!?」

「手が止まってるけど、どうしたの?」

「そ、それは……」

 

 じゃがいもと包丁を携える文乃は、さぁーと顔から血の気を引いてしまっている。

 

「私が切るとじゃがいもが消失しちゃうから……」

「包丁で切ると」

「うん」

「じゃあ、ピーラーを使おう」

「文明の利器!!」

 

 一度、じゃがいもの皮を包丁で切った際は指がズタズタになった挙句、じゃがいもが消失するという事態に陥った文乃。

 しかし、今回は一味違う。

 ピーラーを使えばあら不思議。文明開化の音がする。

 

「いもが! なくならない!」

「何を言ってるの、古橋さん」

 

 感激に打ち震えている文乃は、なくならないじゃがいもを前に涙を流す。

 あれほど皮むきが苦手であった自分が、いもを消失させずに皮をむき切ったのだ!

 

 それはさておき、自分の指を具材にしかねない包丁さばきを披露しようとした文乃の切り方を是正しつつ、次の工程へ。

 

 一かけのにんにくとしょうが。それらを薄切りにしたものとざく切りにした玉ねぎを、サラダ油をいれて中火にかけたなべに入れる。

 そうして全体がアツアツになった頃を見計らい、豚肉、にんじんの順に加えて炒めていく。

 

「うう、目がぁ!」

 

 しかし、にんにく・しょうが・玉ねぎを炒めているなべから立ち上る湯気は目に辛い。

 

「そんな時はラップをゴーグルのように目に……」

「痛くなーい!」

 

 適当な長さに切ったラップをパックの如く目の辺りに貼る。

 こうすれば湯気が目に入ることを防げる……という、どうでもよい知識だ。

 

 そうこうしている内に全体に油が回ったら、分量通りの水、ローリエを加える。

 そして沸々と沸騰し始めた頃に蓋をし、弱火で30分間煮込む。

 

「あ゛あっ!? じゃがいもは!?」

「安心して。30分煮込んだ後に加えて、もう10分ほど煮込む予定だから」

「あ、なぁ~んだ。安心したぁ」

 

 じゃがいもは崩れやすいため、後々投入という訳である。

 

「それにしても……古橋さんが料理できないなんて、意外だったよ」

「うっ! ご、後生の頼みだからみんなには言いふらさないでぇ……」

「う、うん」

 

 泣いて縋る文乃。

 どうしてこうなったと思うのはお互い様である。

 

 そんな他愛のない会話をしつつ30分経ち、さらにじゃがいもを投入して10分煮る。

 

「そこで一旦火を止める」

「え、なんで?」

「火をかけたままだと、カレールウを入れてもとけにくいし、焦げやすくもなっちゃうから洗うのが大変になっちゃんだ」

 

 そうして火を止めたなべにルウを入れて3~5分。

 ルウが溶けてきたら再び弱火をかけ、焦げないように時折かき混ぜながら10分煮る。

 

「そしたらもうほとんど完成だね」

「うわぁ~! カレーだぁ……!」

「うん、カレーだからね」

 

 感涙しつつ、カレーをスプーンで掬って口に運ぶ文乃。

 割と普通の出来であるのだが、これだけで感涙するとは一体彼女の手料理はどれだけ凄惨なものとなるのであろうか。

 傍らで見守る料理の師となった良太は、今後に一抹の不安を覚えざるを得ない。

 

 そうこうしている間にホカホカのご飯も炊きあがった。

 早速器によそい、カレーをかければカレーライスの出来上がりである。

 

「今回は水だけで煮込んだけども、量を減らして代わりに市販のトマト缶を入れてもおいしくなるよ」

「うんうん!」

「あと、この熱々のカレーライスにとけるタイプのチーズを乗せたり……」

「うんうん!」

「その上に市販の粉パセリをふりかけても、彩りと香りもよくなるよ」

「うんうん!」

 

 普通のカレーがチーズと粉パセリで彩りよく、ちょっとおしゃれなカレーに変身である。

 とろけるチーズでなくとも、粉チーズでも見栄えはよくなり風味もよくなるであろう。

 

「っていう感じだね。どうかな?」

「ありがとうございます、師匠!」

「うん、古橋さんに喜んでもらえてなによりだよ」

 

 一通り料理を監修した結果、文乃はレシピさえあればある程度はできる。食材の下ごしらえなどの点についてはまだまだ不安要素は残っているものの、いつの間にか料理がダークマターにならない分、将来性を十分に感じさせてくれるというものだ。

 

「とりあえず今日のまとめとしては、ちゃんとレシピ通りに作る! 分量は勝手に変えない! この二点だね」

「うん!」

「料理っていうのは、国語であり数学であり社会であり理科であり英語さ」

「え? 数学……」

「どうしたの?」

「う、ううん! なんでもない」

「そっか。じゃあ話を戻して……つまり、料理は勉強と同じってこと。何度も復習することで次はよりおいしい料理を作れるようになっていく! いや、作る! 根気よく続けていくのが上達のコツだからね」

「わかりました、師匠!」

 

 こうしてカレーの作り方を伝授してもらった文乃。

 

(うん、なんだか自信がついた!)

 

 『あれ? 私、意外と料理できる!?』と自信がついた彼女は、これで友人たちに料理ができないことを隠さずに済むと安堵する。

 和洋折衷なんでもござれとは言えないが、一先ずまったく料理が出来ないレベルからは脱却できた……と信じたい文乃なのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「フンフンフ~♪」

 

 夕飯に向けて卵をといている良太は、初めて女性の家に上がったことに対して内心ドキドキとしていた。

 しかもその相手が同学年でもトップクラスの美少女。

 二人きりの密室で料理を教えていたともなれば、緊張しない方がおかしいと言っても過言ではない。

 

(成り行きとはいえ古橋さんの家に上がっちゃったなぁ……でも、作ってあげたい相手って誰だろう?)

 

 油を引いて温めたフライパンに卵を投入。

 完全に固まってしまう前に手早くかき混ぜ、程よく火を通し、フライパンを器用に動かせば、ふわふわのオムレツの出来上がりである。

 それを皿に盛り付け、ケチャップをジグザグにかければ、店に出てきそうな見栄えに早変わり。

 

「ん?」

 

 いざ実食……と思ったその時、携帯電話が振動する。

 何事かと思えば、メッセージを送ってきたのは他でもない文乃だ。

 綴られていたメッセージはこうである。

 

『師匠お助けを』

 

 と、ダークマターの写真付きで。

 最早なにを作ろうとしていたのかさえ分からぬほど、原型がない。

 

「えぇぇ……」

 

 まだまだ文乃ちゃんは料理ができない。

 



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2. クリームシチュー

 

「カレーが作れたからシチューが作れると思って……」

「うんうん」

「レシピ通りならいけると思い、ルーから作れると思って……」

「うんうん」

「それでルーから作ってたら、色々やってる内にルーが白を超えてブラウンも超え、あまつさえブラックに……」

「色々と飛躍しちゃったね。僕の予想の範疇を超えてアドベンチャーしちゃったね」

「ごべんばざい、じじょお!」

 

 涙を流し、頭を下げる文乃。

 彼女はどうやらカレーライスを作れたことに自信をもってシチューも作ってみたようであったのだが、案の定失敗して、メッセージに添付した画像のような惨劇を生み出してしまったようである。

 

 しかし、ルーから作ろうとするなど彼女も大胆だ。

 シチューには大まかに二種類ある。

 一つは、赤ワインやトマトをベースにしたブラウンルーを用いるビーフシチュー。

 もう一つは、バターと小麦粉をベースとしたホワイトルーを用いるクリームシチュー。因みに後者は、名称自体は日本発祥の日本の料理とされている。

 

 文乃の発言から、クリームシチューを作ろうとしていた意図は伝わってくるものの、ルー自体が市販で売られているこのご時世で、自らルーから作ろうというのは中々にチャレンジャーである。

 クリームシチューに用いるホワイトルーは、上述の通り小麦粉を使うのであるが、しっかり注意して作らなければ小麦粉が玉になってしまったり、スープが粉っぽくなってしまったりするのだ。

 

 そのような訳で、素人が市販の固形ルーを用いずシチューを作るのは難しいのである。

 

「ま、まあ、古橋さんが料理に前向きになったのは良い傾向だよ」

「ぐすん……そう?」

「うん。じゃあ次はクリームシチュー、行ってみよう!」

「はい、師匠!」

 

 

 

 ***

 

 

 

 用意する食材は、玉ねぎ、にんじん、ブロッコリー、じゃがいも、マッシュルーム、鶏もも肉。調味料は塩、胡椒。そしてサラダ油である。

 そしてクリームシチューを作る上で最も重要であるホワイトソースを作る為の、バターと小麦粉、牛乳だ。

 

「ちなみに牛乳自体をシチューに使う国はいっぱいあるけれど、それに小麦粉でとろみをつけたりする国は日本ぐらいだけだったから、今日本で知られてるクリームシチューは日本の料理って認識になってるんだ」

「なるほどー!」

 

 そんな訳でホワイトソース作り開始である。

 

 熱したフライパンにバターを投入し溶かしたら、早速小麦粉を投入。

 ここからはノンストップで掻きまわし続けなければ、小麦粉が玉になって、後々クリームシチューが粉っぽくなってしまう原因になりかねなくなる。

 火力は弱火から中火。

 あまり火を強め過ぎると、ホワイトソースの色が茶色っぽくなってしまい、クリームシチューのイメージである白色から見た目がかけ離れていってしまう。

 

「最初はもちろん粉っぽいけど、5分くらい経ったら大体混ざった感じになるよ」

「そうだね」

「で、一旦手を止めてみて」

「ん?」

 

 文乃が言われた通りに手を止めれば、良い感じに混ざってきたホワイトソースがブツブツと泡が立ってくる。

 

「このくらいになったら、熱い牛乳を入れる!」

「なんで熱い牛乳なの?」

「冷えたのを入れちゃったら、折角温まってたホワイトソースが固まっちゃって、これまた玉ができちゃう原因になるんだ」

「へー、そっかぁー!」

 

 言われるがまま電子レンジで予め温めていた牛乳を投入した文乃。

 その時、良太が刮目する。

 

「そこ! 古橋さん、ホイッパーでかき混ぜて!」

「ほ、ホイッパー!? 乗ってぴょんぴょん飛び跳ねる楽しい感じのアレ!?」

「それはホッピングだね」

「その道具!」

「は、ポゴスティックだね」

「え? え? じゃあ、どどど、どれ!?」

「落ち着いて古橋さん! あのしゃかしゃかかき混ぜる……泡立て器って言えば伝わるかな?」

「あ、なんとなくそれなら!」

 

 鉄製の茶筅のような見た目の調理器具。

 『あの泡立てるヤツ』という感じで伝わってしまう道具の正式名称は『泡立て器』もしくは『ホイッパー』だ。

 

 それを手に取り、牛乳を加えたフライパンの中身をかき混ぜる文乃。

 

「ここでしっかり混ぜないと玉になっちゃうから気を付けてね」

「なるほど~」

「そしてある程度混ざってきたら、今度は木べらに持ち替えて混ぜる!」

「はい!」

「そして沸騰してきたらホワイトソースの完成さ!」

「やうやう白くなりゆく……」

「それは枕草子だね」

 

 と、軽快にホワイトソースを作り終えれば、本格的にクリームシチュー作りの開始である。

 

「玉ねぎはくし切りにしてから、さらに横半分に切る。じゃがいもは一口大に切ってから水に晒す。にんじんは乱切りだね」

「……マッシュルームは?」

「マッシュルームは濡らしたキッチンペーパーで軽く拭いてから、十字に切って」

「しっかり洗わなくて大丈夫なの?」

「うん」

 

 大抵、スーパー等に並んでいるきのこは栽培されたものであり、清潔な状態で栽培されていることが多い。

 そしてきのこは吸水力が高い為、水で洗ってしまうと水を多く吸ってしまうのみならず、風味や香りも落ちてしまうのである。

 

 一方で、原木栽培されたきのこ―――特にしいたけは塩水で洗う方がいいという意見もあり、そうした方が身が引き締まって美味しくなるのだ。

 

「どうしても気になっちゃうんだったら、ボウルに溜めた水の中で軽く振るか、流水でさっと洗うくらいにしておくのがおすすめだよ」

「へー! 皮むきしない分私向けの食材かも!」

「うん、そうかもしれな……あっ」

 

 何気ない一言が文乃の心を傷つけた。

 

「……ううん、気にしないで。今のは私が……うん」

「ごめんね、古橋さぁーん!!」

 

 目が死んでいる文乃がマッシュルームを十字に切る様はひどく哀愁が漂っており、その陰気は食材に影響しそうなほどだ。

 

 閑話休題(それはさておき)

 

「ブロッコリーは小房に切ってから、1分くらい塩ゆでにするよ」

「うわぁ~! このままマヨネーズつけて食べてもおいしそうだね!」

「お弁当に入れると一気に中身の彩りが華やぐから、お母さんのお供と言えなくもないかも。しかも、ブロッコリーはビタミンCやβカロテンも豊富。栄養もたっぷりだよ!」

「う~ん……でも、この茎捨てちゃうのもったいないよね」

 

 そう言って文乃が掲げるのは、小房に切った後に残ったブロッコリーの太い茎である。

 

「あ、折角だからそれも塩ゆでしよっか」

「え? これって食べられるの?」

「うん。皮をピーラーで向いて、スティックみたいに切ってみよう」

 

 極太の茎。食べるともなれば結構なボリュームになりそうなものであるが、これはクリームシチューには使わない。

 もう一つのサイドメニューに用いるのである。

 

 そうしてブロッコリーの塩ゆでを終えた後、小房に切った蕾と茎をしっかり分け、蕾の方は冷水につけて冷やす。

 

「じゃあ、次は鶏もも肉だね」

「ああ、今から私はお肉を……!」

「そんな仰々しくしなくて大丈夫だから」

 

 震えた手で包丁を握る文乃に、一口大に切るよう指示する良太。

 その間彼はトレーを用意しているが、

 

「……それってなにに使うの?」

「うん? ああ、鶏もも肉の―――」

「あ! 下味をつけるのに使うんだね」

「まあ、そんな感じかな。あ、古橋さん。今度はフライパンも使うからね」

「フライパン?」

 

 なぜクリームシチューを作るのにフライパンを使うのだろうか。

 そう言わんばかり首をこてんと傾げる文乃は、ホワイトソースを作り終えて洗ったフライパンを今一度コンロの上に置く。

 

「じゃあ鶏もも肉の下味をつける為に……古橋さん。このトレーの中に、塩とこしょうを適量入れて」

「ええっ!? 適量って言うのが一番困るよぉ~!」

「大丈夫大丈夫! そうだなぁ……トレーにまんべんなく調味料が広がる感じにだね。一つまみずつやっていけば、まず失敗はしないだろうからやってみよう」

「ホント!? 今、言質とったからね!」

 

 失敗しない―――その甘美なる誘いのままに、文乃は塩が入ったケースに手を入れ一つまみ。

 そして親指と人差し指に挟まれて姿を現したのは、その塩の海に身を隠していた氷山の如き、塩の塊であった。どこから出てきたのだろうか、ピンポン玉くらいのサイズがある。

 

「一つまみ……っと」

「ストォップ!!」

「ええっ!? 言質とったのにぃ……」

「古橋さん、それは断じて一つまみじゃないよ! それを一つまみとして通すのは、ひとくちチョコに『一口頂戴』って言うくらいの横暴に等しいよ!」

 

 などと、文乃の横暴を阻止し、無事トレーに塩とこしょうをまんべんなく振り撒かせる。

 そこへ一口大に切った鶏もも肉を並ばせ、さらに上からもまんべんなく塩とこしょうをまぶす。

 

「そして、ここで薄く薄力粉をまぶす」

「はい、師匠!」

「なんだい、古橋さん」

「なぜ薄力粉をまぶすんですか!?」

「いい質問だね。説明しよう!」

 

 薄力粉、もしくは小麦粉を肉や魚にまぶす理由は、基本的に肉汁を逃がさずジューシーに焼き上げるためだ。

 豚の生姜焼き然り、鮭のムニエル然り、焼く前に一度粉をまぶすのにはそういった理由がある。

 

「え? ということは……焼くの?」

「うん、そうだよ」

「そうだったんだ!?」

「焼くことで香ばしさも出るからね。単純に煮るだけより、一度焼いてからにした方がおいしくなるんだよ」

 

 料理は手間暇をかけるほどにおいしくなるという訳である。

 ほー! と感心する古橋は、人生で初めて使用する粉ふるいで薄力粉を鶏もも肉にまぶした後、熱したフライパンにサラダ油を引いて……。

 

「あ、テレビで見たことあるかも! 確か、こういう時って皮から焼くんだよね!?」

「うん、その通りだよ古橋さん! 皮の方が焼くのに時間がかかっちゃうから、中に火が通る時間も考慮して皮から焼くのが、皮つきの鶏肉を焼く時の鉄則だね。皮は脂っぽいから取り除く人も居るけど、しっかりパリパリに焼いたらそれはもう―――」

「もう焼けてるかなあ♪」

「まだダメェ―――!!」

「ひゃうん!?」

 

 一分と経たずしてフライパンに並べた鶏もも肉をひっくり返そうとした文乃の暴挙を止める良太。

 

 どの程度焼けているか、いちいちひっくり返して確認する者も居るであろうが、それは軽率な行動と言わざるを得ない。

 しっかりおいしいパリパリの鶏皮を焼き上げる為には、一定時間ひっくり返さず根気よく待つ必要がある。

 

 そんなこんなで鶏もも肉の両面がきつね色に焼き上がったのであれば、一足早くなべに入れておく。まだ火はつけない。

 

 そしてここからは野菜を焼いていく番だ。

 油を引き、まずは玉ねぎを炒める。玉ねぎが少し透き通ってきた頃を見計らい、水きりしたじゃがいもを投入。さらににんじんも投入だ。

 少し炒めて全体に油が回ってきた頃に、マッシュルームを入れて炒める。

 

「焼けてきたらなべに入れて、ローリエと水を入れる!」

「カレーに引き続き!」

「香りがよくなるからね」

 

 カレーにも用いたローリエを水と具材の入ったなべに入れた後、次に入れるのは市販のブイヨンの素である。

 

「コンソメでも代用できるよ」

「う~ん。でも、ブイヨンとコンソメの違いってなんだろう?」

「まあ、さしたる違いはないんだけどね」

「ないの!?」

 

 日本ではブイヨンとコンソメが混同されていたりするため、そこまで気にかける必要はなかったりもする。

 

 ちなみに違いをまとめるとこうだ。

 ブイヨンは牛肉、鶏肉、魚からとった出汁。コンソメは、それらに脂肪の少ない肉や香味野菜を煮立たせたスープ。

 ブイヨンは濁っている。コンソメは澄んだ琥珀色をしている。

 ブイヨンはシンプルな味。コンソメは香りが強く、深い旨みがある……等々。

 

 以上のような違いはあるものの、上述した通り日本では両方が混同されているため、市販の固形や顆粒タイプのものを用いる場合はどちらでも構わない。

 

「で、弱火で煮立たせていく内にアクをとる」

「ん~……」

「……どうしたの、古橋さん? そんな険しい顔して」

「私がアクをとろうとしたら、スープが全部なくなりそうな気がして……」

「そんな時は一旦くしゃくしゃに丸めたアルミホイルを広げて、スープの上に敷けば……」

「師匠ぉー!」

 

 アルミホイルの裏にアクが付いている光景に文乃は感涙する。

 

「キッチンペーパーとか網目の細かいお玉、専用のアク取りブラシを使うのもありだよ」

 

 折角野菜や肉のうまみが出てきたスープを無駄にせず、邪魔なアクだけをとる手段。

 それは何十年……否、何百年も昔から主婦が悩んできた問題である。

 だが現代、アクをとる手段は見事に確立されたと言っても過言ではない。ネットの海を探せば、アク取りの手段などいくらでも出てこよう。

 

「そして蓋をして15分煮込む」

「うん!」

「で、その間にシチューには使わないブロッコリーの茎を使った料理を作っていこう」

 

 塩ゆでして柔らかくなったブロッコリーの茎を用いた料理は至って簡単。

 スティック状の茎には豚バラを巻き、塩とこしょうし、そして薄く油を引いたフライパンでこんがり焼く。

 

「豚バラまきの完成!」

「わあ~! 豚バラはこんがりジューシーで、中のブロッコリーはほどよくしゃきしゃきしてておいしい~!」

 

 細長い野菜に豚バラを巻いて焼く。それは最早料理の必勝パターンだ。

 にんじん、だいこん、アスパラ、ピーマン……肉を巻いて焼けばおいしい野菜など数多く存在する。

 そしてその調理の手軽さも魅力的だ。

 

 こうしてサイドメニューも無事作り終えるなどして15分経過。

 

「ここでようやくホワイトソースの出番! ソースを加えて5~6分くらいかき混ぜる」

 

ホワイトソースを加えれば、あっという間になべの中身が白く染まっていく。

かき混ぜていく内にとろみ出て、まさしくクリームシチューらしい見た目にもなる。

 

「もし水分が多いようだったら、ソースだけを別なべで温めて濃度を詰めるといいよ」

 

 クリームシチューの真髄はそのとろみ。

 クリームシチューのクリームシチューたる由縁がダメになりそうであったら、一旦具材を引き上げて煮詰め、水分を飛ばすという工程も必要となる。

 しかし今回は良太の監修もあり、無事にとろみのあるおいしいクリームシチューになりそうだ。

 

「よし、ここらへんでブロッコリーを入れてっと……あとは塩こしょうで味を調えるだけだね!」

「下ごしらえの長い料理を終えるとクリームシチューであつた……」

 

 『雪国』っぽいフレーズで感動の弁を述べている文乃。

 そうして出来上がったクリームシチューを食べれば、彼女の端正な顔立ちに笑顔が咲き誇る。

 

「んっふ~!」

 

 鼻息荒く、文乃はシチューの味に興奮していた。

 野菜の素朴な甘みの中に、出汁として入れたブイヨンの味が染み込んでいる。

 煮る前に焼いた鶏もも肉はと言えば、あらかじめパリッと焼いていた香ばしい皮がクリーミーな味わいのシチューの中に一つアクセントをつけてくれていた。

 ローリエを入れていたのも効いたのか、仄かにすがすがしい香りがシチューの温気と共に鼻を通り抜けていく。

 

「シチューはパンにつけて食べてもおいしいよね」

「うんうん!」

「あと、具材を紫にんじんだったり紫キャベツにすると、一気に色が毒々しくなってハロウィンにぴったりの料理に変わるよ」

「うんうん!」

 

 ぱくぱくとシチューを食べ進めつつ首肯する文乃。話を聞いているのかどうかわからぬ彼女に対して苦笑を浮かべつつ、良太もまた彼女と共同作業で作ったシチューを食べ、一言。

 

「おいしい~♪」

「おいしいね~♪」

 

 大満足の一品。

 

 しかし、大満足であるが故に食が進み、一つの悲劇を巻き起こすになることを二人はまだ知らない。

 



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3. 夜食①

 それは一ノ瀬学園の昼休みにて。

 

「文乃っち、おっすおっすー! おかし食べる?」

「わぁ~、食べる~♪」

 

 文乃が教室に入るや否やポテチの袋を差し出してくる褐色美少女は、文乃と共に成幸に教育係としてついてもらっている水泳少女であるうるかだ。

 今日もこんがりと焼けた小麦色の肌が眩しい。

 

 そのような彼女に差し出されるポテチを食べ、若者であればだれでも一度は食べたことがあるであろう味に舌鼓を打つ。

 

 すると、遅れて教室にやってくる小さな影が一つ……。

 

「あ、リズりんだ。リズりんもおかし食べる?」

「うるかさん、文乃。早いですね」

 

 眼鏡が似合う理系少女こと理珠だ。

 

 そんな彼女が手に携えているのは、おおよそ学校の教室に似つかわしくない()()()

 

「今日もうどんの差し入れがあります」

「リズりんちのうどんイェーイ!」

「文乃もどうぞ」

「やったー! 二人ともいつもありがとー♡ おかしもおうどんも大好きーっ!!」

 

 差し入れのおかしとうどんを次々に口に運ぶ文乃。

 実に幸せそうな表情で食べている。彼女の知らぬところで『眠り姫を守る会』―――通称『いばらの会』と呼ばれる文乃のファンクラブのようなものが存在しているだけあるというものだ。

 

 そしてそんな彼女たちを教育する者も到着する。

 

「お、三人集まってたのか」

「な、成幸!?」

「成幸さん、こんにちは。うどんありますよ」

「唯我くん? どうしたの、そんな大きな袋持って……」

「実はだな……」

 

 これまた眼鏡と頭頂部のアホ毛が特徴的な男子の成幸が、男子高校生が持つには似つかわしくない可愛らしい袋を携えて三人の下に近づいてくる。

 

「水希がクッキー作り過ぎたって言って持たせたんだけど、折角だから食べるかなって……」

「水希ちゃんが?」

「お、クッキー!? 食う食うーっ! アイウォントトゥイートクッキー♪」

「では、私も折角ですので」

 

 料理上手な成幸の妹・水希(ブラコン)

 彼女の作り過ぎたおかしは、時折こうして成幸を通して三人の下にやってくる。

 

 あっという間に食事会のような様相を生み出す教室。

 おかしにうどん、そしておかし。見事なまでの炭水化物のラインナップだ。

 

(あれ? なんだかデジャブ……)

 

 途中まで特に何も思わず机にならぶ食べものの数々を口に運んでいた文乃であったが、彼女が色々気づくのは家に帰った後―――具体的には風呂上り、体重計に乗った後のことだ。

 

 

 

 その日、古橋宅で文乃の悲鳴は響きわたった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「体重が増えたからヘルシーな料理を伝授してほしい……?」

「わぁー! 口に出して言わないでー!」

 

 呆気に取られている良太の前で、文乃は顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりと忙しい。

 体重……それは女子高校生には死活問題である事項。ただでさえストレスの多い受験生だ。多食や暴食で体重が増えてしまうことはよくあることである。

 

「でも、話を聞く限りじゃあ単純に古橋さんが食べすぎてるだけだと……」

「うぅ、わかってる……『おいおい越冬に向けて励んで結構じゃないか』って言われそうだってことくらい」

「そこまでへりくだる必要はないと思うけど……」

 

 一見細い見た目の文乃であるが、そのような彼女でさえ体重の増減には敏感だ。

 以前の時は『夜は勉強に集中して頭に糖分を使うから夜食してもプラマイゼロ』という超理論を用い、夜中に菓子パンやインスタントラーメンを食べていたために起こった。

それを成幸に指摘され、夜食は春雨だけを許されて体重は無事に戻ったのだが、最近は以前であれば大丈夫であった食生活でも太ってきているのである。

 

「これはいわば由々しき問題! だよ!」

「まあ、女の子だもんね」

「でも、夜食なしで夜中に勉強できると思えないし……」

「となると、夜中に食べても太らない料理……というか、レシピを教えるね!」

「ホント!? 今の言質とっておくからね!?」

 

 どこからともなく取り出したメモ帳に言質をとる文乃に対し苦笑を浮かべる良太。

 

(でも、それだけ食べても……)

 

 チラリと視線を落とす先―――そこは絶壁。

 

「佐藤くん……?」

「はい!?」

「今、なんか失礼なこと考えてなかった?」

「う、ううん!? 決してそのようなことは……!」

「ふ~ん、ならいいんだけど」

 

 殺気を孕んだ瞳を浮かべる文乃は、何の気なしに己の胸に手を当てる。

 腹が膨れるのは容易いこと。

 しかし、胸が膨らんでくれることは一向にない。

 

(世の中は不条理……だよ!)

 

 食べても全く太らないうるかや、栄養が全て胸にいく理珠のことを心底羨ましく思う文乃は血涙を流すのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「本当は夜中に食べること自体、あんまりしない方がいいんだけどね」

「うぅ……でも、お腹空いちゃうんだもん」

 

(古橋さんカワイイ……『だもん』って)

 

 お腹が引っ込むようにと先程から腹部を揉んでいる文乃。

 

 それは兎も角、夜食はあまり勧められたものではないということはすでに周知の事実と言っていいだろう。

 夜中は昼間よりもエネルギーの消費が少ない。故に、摂取したエネルギーの余剰は体にため込まれ、結果的に脂肪へと変わってしまうのだ。

 それだけにとどまらず、胃に入った食物を消化するべき胃腸が活発に動いてしまうため、眠りも浅くなってしまう。これは受験生にとって由々しき問題。夜中まで一生懸命勉強したにも拘わらず、その所為で昼間は睡魔に襲われて授業が身に入らなくなってしまうという本末転倒な事態に陥ってしまうのだ。

 

「だから、食べるとしても油分や塩分が少ないもの! それでいて消化しやすいお腹にやさしいものがいいんだ。だから菓子パンとかインスタントとかはもってのほかだね」

「うっ!」

 

 心当たりがありまくりの文乃は吐血する。

 しかし、あの背徳感こそが夜食を一層美味に感じさせるアクセントともなっていることを彼女は否定できない。

 

 でも夜食はやめられない。だって女の子だもん。

 

「で、まず最初に古橋さんにお勧めなのがホットヨーグルト」

「うん!」

「言っちゃえば、市販のヨーグルトを電子レンジで温めるだけなんだけどね」

 

 器によそったヨーグルトを電子レンジで加熱。

 量にもよるが、大体は500ワットで1分ほどだ。

 

「あんまり過熱しちゃうと、ヨーグルトが汁と分離しちゃうから気をつけてね」

「おぉ~、簡単!」

「酸っぱいのが苦手な人は、オリゴ糖をかけるか、カットしたフルーツと混ぜて食べていいかも」

 

 オリゴ糖は腸内環境を正常化する役割を持つ善玉菌―――それらのエサとなる。

 結果的に、善玉菌が増えれば女子の悩みである便秘、肌荒れの改善につながるだろう。

 さらにオリゴ糖自体はエネルギーとして吸収されにくく、砂糖よりも低カロリーで済むという利点がある。これもまたダイエット中にはうれしいメリットの一つだ。

 

 一方でりんごやキウイフルーツを切って混ぜてもおいしくなる。

 上記のフルーツは食物繊維が豊富。これもまた腸内環境の改善につながり、ダイエットにうれしい効果を発揮してくれる。

 

「でも、普通にヨーグルトに切ったフルーツ盛り合わせるだけじゃだめなの?」

「まあ、ダメとまでは言わないけれど、冷たいまま食べると体が冷えちゃうからね。夜食を食べるんだったら基本的に温かいものの方がいいかも」

「へ~」

 

 渡されたりんごと睨み合う文乃。

 

「う~ん、私にフルーツの皮を切るのは難易度が……」

「りんごぐらいだったら、洗えば皮ごと食べちゃっても大丈夫だよ。皮と実の間に栄養がたっぷりだからね」

「え、そうなの?」

「うん」

 

 フルーツにもよるが、皮ごと食べられるものに関しては皮ごと食した方が、皮と実にある豊富な栄養ごと摂取できる。

 ちなみにフルーツの多く含まれている食物酵素には、消化を助ける働きがあり、朝に食べると非常に効果的だ。いつぞや流行った『朝バナナダイエット』なども、恐らくはこの食物酵素に着目してのダイエットだったのだろう。ただしバナナの皮には少量だが毒があるため、食べてはいけない。

 

「次に古橋さんに伝授するのは寒天ゼリーだよ」

「ゼリー!」

 

 ぷるぷる甘いあんちきしょう。

 その名を耳にした文乃の瞳は輝く。

 

「でもゼリーってデザートってイメージだし、太っちゃわないかなぁ?」

「大丈夫。寒天はほとんど食物繊維だから、寒天自体はカロリーが少ないんだ。それでいて少量で満腹感も得られる、ダイエット中にはぴったりのデザートって言えるよ」

「おお!」

「そういう訳で夜食にもぴったりだねって感じ」

 

 用意するものは市販の粉寒天とジュース、もしくはフルーツである。

 寒天というのだから、何も味付けしなければ“甘くもなんともない塊のところてん”のようなものになってしまう。

これでは何とも口が寂しい。そこで甘みをつけるために、市販の果物ジュースか野菜ジュースを入れ、ゼリー自体に味をつける。もしくは溶かした寒天を容器に注いだ際、カットしたフルーツを入れても味が付いておいしくなるだろう。

 

「で、大事なのが冷やす時」

「うんうん」

「すぐに冷やさないとボロボロした食感になっちゃうんだ。だから、容器に注いだ後は流水で冷まして、ある程度固まったら冷蔵庫に入れよう」

 

今回作るのは、オレンジジュースを入れた寒天ゼリーと、カットしたりんごを入れた寒天ゼリーである。

市販のゼリーよりは甘みに乏しいかもしれないものの、だからといって砂糖を足してしまっては本末転倒だ。ここは素材本来の味を楽しむとするべきだろう。

 

「じゃあ、固まるまで大体一時間だけど……なにしよっか?」

「あ、そうだ! いつも料理教えてもらってるお礼に、おかし用意してたんだった!」

「そうなの?」

「うん、ちょっと待ってね」

 

 てとてととキッチンから走り去っていく文乃を見遣る良太は、ほっこりとした笑みを浮かべて椅子に座る。

 

(よくよく考えたら女の子の家……それも古橋さんの家にあがって二人っきりで料理なんて、ドキドキするなぁ~)

 

 今、自身が置かれている役得な立ち位置に動悸が激しくなる。

 受験勉強の息抜きとは言え、女子に料理を教えにわざわざ家に上がりこむのも中々にない経験と言えるだろう。

 

(でも、料理を作ってあげたい相手って誰なんだろう? そこは気になるなぁ~)

 

 などと考えていた時であった。

 

 扉の先の廊下から、おおよそ室内では鳴ってはいけない轟音にも等しい足音が響き渡ってくる。

 あまりの振動に、座っている良太さえ全身が震えるような感覚を覚えたほどだ。

 そして次の瞬間扉の先に文乃の姿を窺えたかと思えば、なにも手に持っていない彼女が座っている良太目掛けてダイブしてきた。

 

「ふ、古橋さん!?」

「で、出たの……」

「出たって……なにが?」

「名前を言っちゃいけないあの虫が……!」

「そんなヴォル○モートみたいに……ゴキ」

「言っちゃダメェ―――!!!」

「ムゴッ」

 

 ゴキっとしてブリっとした生き物の名を口に出させぬため、文乃は良太の口を押える。

 そんなやりとりをしている内に、噂をすればなんとやらと言わんばかりに、床を這うようにキッチンに入ってくる黒い影。

 

「あぁ―――っ!!!」

「古橋さん、とりあえず離れてくれないとどうしようもないから……っ!?」

 

 抱き着いて離れようとしない文乃を宥め、なんとかゴキブリ退治に向かおうとする良太であったが、途端に表情を凍らせる。

 次の瞬間、キッチンを蹂躙しようとしたゴキブリに一つの影が跳びかかった。

 長い八本の脚。ハンターの如く俊敏な動きでゴキブリを捕らえた影は、そのまま捕らえた餌をむしゃむしゃと食べ始めるではないか。

 

「く、く、く、クモはダメぇ―――!!」

「うわあああん!!」

 

 そう、みんなの軍曹ことアシダカグモだ。

 見事文乃を脅かすゴキブリを捕らえてくれたアシダカグモであるが、ところがどっこい。ゴキブリが大丈夫な反面、良太はクモが大の苦手であった。

 片や貪られているゴキブリに怯え、片や貪っているクモに怯え、二人は悍ましい捕食現場を前に抱き合って震えることしかできない。

 

 ちょうどアシダカグモが獲物を食い終え、古橋宅から音もなく去っていったのは、ゼリーがちょうど固まった一時間が経過した頃であった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「この寒天ゼリー、とってもおいしいね……」

「うん……他にもスポーツドリンクとかでもおいしくできあがるよ……」

 

 憔悴し切った二人は、テーブルに置かれている寒天ゼリーを向かい合って食べていた。

 市販のフルーツゼリーよりはやや甘みに欠けるものの、ダイエット食品として食べるのであればそれなりの出来。

 顔色に反してゼリーを掬うスプーンは動く。

 

「とまあ、今回はデザートみたいな甘味を教えたけど、次はしょっぱい感じの夜食のレシピを教えるからね……」

「い、いぇーい……」

「……食べよっか」

「うん……」

 

 流石に捕食現場を見た後では中々気分が盛り上がり辛い二人。

 その後、淡々と実食は終え、良太は古橋宅から静かに帰路につくのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「古橋さん、おかし持って帰っていってって渡してくれたけど、なにが入ってるんだろう?」

 

 良太が自室の机の上に置くのは、今日文乃に礼と言って渡された紙袋。

 彼女の言い分であればおかしが入っているに違いないが、スナック系統かそれともスイーツ系統か。想像はふわふわと綿菓子のように膨らんでいく。

 

「えいっ」

 

 中から箱を取り出した良太。

 彼が目にしたものは―――。

 

「……薬?」

 

色々と戦慄する。

単純に文乃が間違えただけか、はたまた彼女が薬をおかしとして認識しているだけであるのか……後者の場合、とてつもなく危ない香りが漂ってくるだろう。なにかの隠語という可能性も無きにしも非ずである。

 

「古橋さん……これを一体僕にどうしろと……!?」

 

 一歩その頃、古橋宅では『間違えちゃったー!』という悲鳴が聞こえたとな。

 胃薬は文乃のお供である。

 



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4. 夜食②

 食べたい。

 だが、今食べれば確実に太るという確信がある。

 それにも拘わらず夜食は、夜中の食すという背徳感をエッセンスにさらなる甘美な味わいをもたらすものだ。

 

 インスタント麺、スナック菓子、菓子パン……。

 

 美味しいものはカロリーが高いとは言ったものだ。

 事実、健康にいいものとは違い、美味しいものばかり食べようとするとどうしても高カロリーなものになってしまうことだろう。

 

「でも、夜食に高カロリーは避けた方がいいよね」

「はい!」

 

 涙ぐんで頷く文乃。彼女と共に本日も良太の教室は始まるのであった。

 ゴキブリ用のトラップ、専用の殺虫スプレーなどを兼ね備えて万全を期したキッチンでは、淡々と料理の準備が進んでいる。

 

「まあ、でも夜中だしあんまり手の込んだものは作りたくはないよね?」

「うん……あ、別に料理したくないとかそういう訳じゃなくて……!」

「ううん、大丈夫だよ。受験生だし、作れるならパパっと手軽なものがいいよねって話さ!」

 

 そう、彼らは受験生。

 なんやかんや緩い日常が流れている光景ばかりを目にし、そういった身分であることを忘れてしまいがちであるが、彼らは受験生であるのだ! (二度目)

 

「と、いう訳で。今回はこの前の甘いものとは違って、しょっぱいものを作っていく訳だけど、出来る限りお手軽なレシピを紹介していくよ」

「おおっ!」

 

 ぱちぱちと拍手が鳴り響く中、良太が取り出したもの……それは。

 

「まず使うのはこれ。お豆腐だよっ」

「うん、ヘルシーそうだねっ!」 「お肉と比べるとね。でも、一丁食べるとなるとそれなりのカロリーになるから気を付けて」

「えっ!?」

「まあ、使うのは一丁じゃないから大丈夫だよ」

「ほっ、よかった」

 

 一見ヘルシーそうなイメージがもたれる豆腐。

 しかし、その実カロリーは野菜よりはある。勿論、肉よりはカロリーは低いものの、量を食べればそれなりのカロリーとなり、結果的に太る結果につながりかねない。

 

 豆腐を食べる際の注意点が食べすぎであるとすれば、豆腐だけを食べた際の満足感が足りない食事を如何にするべきか……その解決法として挙げられるのが。

 

「熱々のを食べよう」

「……お腹に優しいから?」

「うん。でも、もう一つ理由があるんだ」

 

 熱いものを食べようとすれば、自然と一口の量が少なくなる。

 それでは満足感の食事を摂れるのか? と問われれば、それについて心配は無用。

 

 一口が小さければ、自然と口に運ぶ回数が多くなり、それが結果的に咀嚼回数が増えることとなる。

 一度は聞いたことがあるかもしれないが、咀嚼回数が多い程、人は満腹中枢と呼ばれる部分が刺激され、比較的少ない食事量でも満足することができるのだ。

 

「噛む回数を増やしていこうってことで」

「科学的路線で攻める! だね!」

 

 さらに言えば、たんぱく質が多く含まれている食材には必須アミノ酸の一種・トリプトファンが含まれていることが多い。

 これもまた脳がリラックスする成分のセロトニンの分泌を促し、そのセロトニンの作用により満腹中枢が敏感となり、結果として少ない量の食事で満足することができるようになる。

 

「まず用意するのはこちら」

「……お茶漬けの素?」

「うん。これでお茶漬けにしよう」

 

 日本人であれば一度は食べたことのあるであろう食べ物―――茶漬け。

 文字通り、本来は米に茶をかけて食べる食べ物であるが、最近ではこうしたお茶漬けの素に湯をかけるのが一般的になっているだろう。

 豆腐に茶をかけるのは如何なものか……と、思う者も居るかもしれないが、最近のお茶漬けの素は専ら塩っ気のあるものがほとんど。

 

 豆腐のあっさりとした味わいと塩っ気が、夜食にはほどよい一品となり得るだろう。

 

「簡単だね~」

 

 お茶漬けの素を振りかけ、湯を注いだ器からレンゲで豆腐を掬って食べる文乃は、はふはふと息を吹きかけながらたった今作った豆腐茶漬けを食す。

 

「折角だし今回はお豆腐メインにしていこうか」

「うん!」

「じゃあ次は……お味噌汁、行ってみようか」

「お味噌汁……!」

 

 文乃の豆腐茶漬けを食す手が止まる。

 

「……どうしたの?」

「わ、私出汁とか取った事ほとんどないんだけど大丈夫かな? こう、かつお節とかにぼしとか昆布とか、そういったものを色々……!」

「大丈夫、そこまで本格的にやらないから」

 

 どこぞの料亭の如く、素材を煮だしたり水出ししたりする工程に慄いていた文乃であったが、さらりと良太はその懸念が杞憂であることを伝える。

 

「お味噌汁は、基本的にだしの素と味噌があれば作れるしね」

 

 そう、最悪お湯に味噌を溶かせばそれでもう味噌汁であるのだ。

 今回はそこまで淡白にはいかないが、夜食とだけあって出来る限り塩分は控えたもので作っていく予定である。

 

「市販のだしの素も、一食分ずつ袋に分かれてるものもあるし、料理する時便利だね」

「そうだね」

「と、まあなべに水とだしの素を入れて煮て、あと味噌を入れればもうお味噌汁の出来上がりなんだけれども……」

「ここにお豆腐を入れればいいんだよねっ!?」

「うん、古橋さん。入れたくてウズウズしているのは分かるけど、せめてサイの目に切ろう?」

 

 掌の上に豆腐を乗せ、今や今やと待ちかねている文乃であるが、その豆腐は切られておらず、彼女の挙動に合わせてプルプル震えるのみだ。いい絹ごしだ。きっと歯ざわりもよいことだろう。

 

 閑話休題。

 

「で、今回は入れる具材がお豆腐だけだからここまで言わなかったんだけど、お豆腐と味噌は火を止めた後のなべに入れるといいよ」

「どうしてかな?」

「お豆腐は崩れやすいし、味噌も熱々のだし汁の中に入れたら、折角の味噌の風味とかが逃げちゃうんだ」

 

 よく熱が通りにくいものから火を通せとはいうが、豆腐もその例に漏れず、火を通す順番として比較的最後の方である。

 言い返せば、豆腐は火を止めた後の余熱だけでも十分温まるという訳だ。

 

 味噌については、少し違った理由である。

 味噌を入れた状態で長時間加熱すれば、折角の味噌の香りが抜けてしまう。なおかつ、味噌の中の旨みの成分が出にくくなってしまうのだ。

 たかが夜食でも、英気を養う為に美味しいものの方が食べたい。それは切実な願いだろう。

 

「という訳で、これで簡単にお豆腐の味噌汁の完成だね」

「お味噌汁作るの、家庭科の授業以来だよ!」

「お豆腐だけで足りないなら、こんにゃくとか野菜を入れても大丈夫だよ」

 

 食物繊維の多いものは夜食に適している。

 最近はゼリーなどの商品の名に冠されていることもあるこんにゃくもまた、食物繊維が豊富な食材の代名詞だ。

 ただしこんにゃくに関しては、あく抜きなどのひと手間が必要になってくるため、具材が豆腐だけである方が作るのが早いのは言うまでもないだろう。

 

「それじゃあ次のレシピに移ろう!」

「おー!」

「用意するのはこれ!」

 

 ドドン! とテーブルに並べたのは、メインの豆腐に加え、納豆とスライスチーズ。

 これまた品が少ない。

 

「わかった! お豆腐に納豆とチーズを乗せるんだね!?」

「半分正解」

「あ、そうしてから温める!? だね」

「うん! 電子レンジで一分くらいかな」

 

 豆腐に、しょうゆをかけて混ぜた納豆を乗せた後、スライスチーズを乗せ、電子レンジで一分。

 すると、チーズはトロトロにとろけ、納豆もほんのり焦げて一層香ばしい香りを漂わせる一品が出来上がる。

 

 納豆もチーズも、前述のトリプトファンを多く含む食材。豆腐も合わせれば、小さいながらも満足感の得られる一品となり得る。

 

「あっ、そうだ。言い忘れてたけど、夜食は就寝の3時間前までだよ」

「え? ……睡眠が浅くなっちゃうから?」

「そうだね」

 

 再三述べることだが、食事を食べた後は胃腸の動きが活発化してしまうため、食事後間を置かずに眠りについてしまうと、眠りが浅くなってしまう原因になりかねない。

 朝・昼・晩と6時間おきに食事をとる人間であるが、もし夜食をとるようであれば、夕飯の食事量を減らすことも一つの手だろう。

 

「じゃあ、最後に受験に向けて……寒い夜中を温かく過ごすための料理を作ろう!」

 

 大学受験にて重要とされるセンター試験―――それはおおよそ1月の中旬に執り行われる。

 冬だ。こたつから出たくなくなる季節。

 部屋全体を温めれば、あっという間に微睡が襲い掛かってくる。だからといって、下半身だけを温めようとブランケットや毛布をかけたら、それはそれで指が冷え、言うことを聞かなくなったように動かなくなるだろう。

 

 そのような時こそ、体の芯から温まる夜食を食べて、試験に向けて奮闘するべきではなかろうか。

 

「作るのは、豆腐と長ねぎのしょうがスープ。しょうがで体がポカポカ温まること間違いなし! 風邪の時に食べても良しだね」

「わぁ! うるかちゃんが作ってくれたみたいなスープ作れるかなあ!?」

「うるかちゃん?」

「あ、ううん! こっちの話!」

 

 今年知り合った友人である武元うるか。彼女には、定期試験前に風邪を引いてしまった際に面倒を看てもらったという恩がある。

 その時に作ってもらったしょうがとねぎのとろみスープが非常に美味であり、結果的一日で風邪は治り、無事定期試験も苦手科目である数学で平均点を超える点数を叩きだした。

 

 といった経緯から、しょうがとねぎにはちょっとした思い入れがある文乃は、この一品へ駆ける熱も十分だ。

 

「用意するのはこちらの品」

 

 豆腐、しょうが、長ねぎ、ごま油、鶏がらスープの素、水。

 

「長ねぎの白いところは小口切りに。青いとこは薄切りに。青い部分は仕上げに乗せるから、分けておいてね」

「シャキシャキして美味しいもんね!」

「その通り」

 

 ねぎの青い部分を捨てるなどとんでもない。

 白い部分よりも香り高く、肉の臭み消しに使うといった用途にも使えるが、細かく切っておいて保存し、後で汁物や炒め物などに入れても美味しい。

 無論、今回のスープに関しても白い部分と一緒に茹でても十分なのであるが、折角新鮮な長ねぎを買ってきたのだから新鮮な野菜でしかできない食べ方をしよう。

 

 そして肝心の調理法だ。

 なべにごま油を投入し、しょうがを入れる。因みにしょうがはみじん切りか、市販のチューブ型のすでにおろされているしょうがのどちらでもいい。

 ごま油の香ばしい香りが立つまで中火で痛めた後は、小口切りにしていた長ねぎの白い部分も居れ、軽く炒める。

 

 ここで豆腐の出番だ。

 水を入れた後に豆腐を握り潰しながら入れ、よく混ぜる。

 

 それから煮立ってきたら鶏がらスープの素を入れ、味をみよう。

 この時、味が薄いと感じるようであれば塩コショウで味を調える。

 

 そうすればほとんど完成だ。

 熱々のスープを器に移し、今や今やと待ちかねていた薄切りにした長ねぎの青い部分を散らし、完成である。

 

 しょうがの辛み、ごま油の香ばしい香り。その中で際立つのは、火が通ったことにより溢れてくるねぎの甘みだ。

 ここまでねぎは甘くなるのかと感心するのも束の間、最後に散らした青い部分がねぎ特有の香りと辛みで、また違ったアクセントをもたらしてくれる。

 

「はぁ~♪ 食べてるだけで体がポカポカしてくるねっ」

「しょうがに含まれてる成分は血流を活性化させてくれるからね」

 

 このしょうがの体を温める元となっている成分の名は『ショウガオール』。

 体温が高くなること、それ即ち脂肪や糖の代謝を促進してくれることに繋がるため、ダイエット中の文乃にはぴったりの食材と言えよう。

 

 そして、もう一つしょうがの代表的な成分は『ジンゲロール』という。

 これは免疫細胞である白血球を増やし、体の免疫力を高めてくれることから、風邪の予防には効果的であると言える。

 

「女の子なんかは冷え性に悩んだりすると思うけれど、しょうがを食べたら大体3、4時間くらい保温効果は続くから、冬の寒い日でも勉強が捗るようになるよ! きっと」

「う~ん……」

「ん? どうしたの、古橋さん」

「私、実はここ最近胃の調子が優れなくて……しょうがみたいに刺激のある食べ物食べたら、胃の調子がもっと悪くなっちゃうんじゃないかって……」

 

 辛みのあるしょうがが胃に悪影響をもたらさないか―――それが文乃の懸念点であった。

 彼女は、一人の教育係と彼に恋心を抱く二人の友人の合計三人に、女心についてアドバイスをしたり良好な関係を築いてあげられるようにと、なにかと心労の絶えない生活を送っている。

 そのため、ここ最近は胃薬が手放せない身となったのだ。先日、贈るはずだった菓子と胃薬を入れ間違えたのも、それに起因する。

 

「胃の調子が? それなら大丈夫だよ。むしろ、胃が弱いならしょうがはピッタリなんだ」

「え、そうなの?」

「うん。しょうがを食べると胃腸の血行も良くなって、食べ物の消化と吸収を高めてくれる働きがあるんだよ!」

「へー!」

 

 また、『ジンジベイン』というたんぱく質分解酵素もしょうがは有しており、銀杏の負担を軽減してくれる働きも期待できる。

 他にも胃の潰瘍を押さえたり、ピロリ菌を殺菌したりなど、しょうがはまさしく万能の食材と言えるだろう!

 

 夜食にもピッタリ。

 体もポカポカでダイエットにも良い。

 さらには胃腸の調子の改善も期待できる。

 

 文乃にとっては一石三鳥だ。

 

「今回の料理はどうだったかな?」

「うん、簡単だしおいしいし大満足! です!」

「喜んでもらえてなによりだよ」

 

 いつもにましてテンションの高い文乃の様子に、満足気に頷く良太。

 

 本日もまた文乃は多くを終え、料理を終える。

 しかし、次の日―――学校が休みの日に、とある出来事が起きた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ん~! ご飯もお味噌汁もおいし~!」

 

 朝、自分で炊いた白米と豆腐だけの味噌汁を食べる文乃。朝食にしては少々味気がないようにも思えるが、自分で作ったというエッセンスが加わるだけで、味わいもひとしおなのである。

 

―――デキる女、文乃誕生! だよ!

 

 むっふー! とドヤ顔で朝食を済ませ、洗い物に取り掛かった文乃であったが、そんな彼女の下に一つの知らせが届く。

 ピロリンと鳴る電子音。

 何者からの連絡かと、濡れた手をタオルで拭きながら操作すれば、画面に簡潔なメッセージが映る。

 

 それは友人である理珠からのメッセージ。

 内容は、

 

 

 

『タス』

『ケテ』

 

 

 

 わざわざ区切る意味が分からないが、只ならぬ嫌な予感とデジャブを覚え、文乃の表情は咄嗟に強張った。

 

「りっちゃぁ―――んっ!!?」

 

 さっさと洗い物を済ませて着替えた文乃は、すぐさま理珠の家へ向かう。

 

 そう、これは文乃の課外授業の始まりであったのだ。

 



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5. うどん雑炊

「風邪引いちゃったの?」

「はい゛」

 

 鼻づまりがひどい鼻声で返答するには、文乃と同じく成幸に教育係についてもらっている理珠だ。

 普段は基本的に感情を面に出さない彼女であるが、今日ばかりはあからさまに具合が悪そうである。

 

 寝間着に身を包んで敷布団に横たわる理珠を、いち早く緒方家である『緒方うどん』と看板を掲げている家と店舗を兼用している建物に到着した文乃は看病していた。

 

「今日は父と母も町内会で朝まで帰れないと言っていて、私は平気だと思い一人家でゆっくり休もうと思っていたのですが―――」

 

 

 

『げほっ、げほっ!』

 

 グキッ!!

 

『あ゛―――ッ!!?』

 

 

 

「思いのほか激しい咳に腰をやってしまい、身動きがとれません……」

「それは……災難だったね、りっちゃん」

「申し訳ないです、文乃。わざわざ家に来てもらって」

「ううん、そんなことないよっ!」

 

 言葉通り申し訳なさそうに眉尻を下げる理珠。

 そのような友人に笑顔を取り繕う文乃ではあったが、

 

(流石に、鍵が開いままで出向かえもないしおかしいと思ってりっちゃんの部屋に入ったら倒れてて……事件性を感じずにはいられなかったよ)

 

 殺人現場の如き光景に、文乃は心臓が縮むような思いをした。

 もし仮に立場が逆であったならば、ホラーが苦手な理珠は失神していたかもしれない。それが唯一の幸いだろう。

 

 冷却シートを額に張り、マスクを着け、あまつさえ首にネギを巻いている理珠を眺めていた文乃は、一旦腕時計を見る。

 

「ん~……りっちゃん。夕ご飯はどうするの?」

「夕飯ですか? それなら……げほっ、父がうどんを作り置いてくれました」

「ちょっと早い時間かもしれないけど、今日は早く寝た方がいいし、寝付き良くするために早く食べておく?」

「そうですか? で、あれば店の厨房ではなく家のキッチンに……」

「ああ、私がとってくるから大丈夫だよ、りっちゃん! ここで寝ておいて」

「……そうですね、お言葉に甘えます」

「ちょっと待っててね」

 

 ぎっくり腰であるにもかかわらず立ち上がろうとする理珠を慮り、自分がと立ち上がり、駆け足でうどんがあるであろう冷蔵庫の下へ行く。

 理珠の父親が作るうどんは絶品だ。

 そして理珠の好物もまたうどん。うどんは消化吸収の良い、胃腸に優しい食べ物である。

 好物を食べ、薬を飲み、早く寝る―――そうすれば風邪が長引くこともないであろう。

 

 一人の友人として彼女の快復を願う文乃は、早速冷蔵庫の中のうどんをおぼんごと取り出す。丁寧にもラップがかけられたつゆ入りの器も付属しており、貼られているメモ書きには理珠の父のものだと人目で分かる内容のメッセージが綴られていた。

 メモ書きは余り見なずに居ようと自分に言い聞かせる文乃は、適当にペットボトル入りの飲み物も携え、理珠の私室に舞い戻る。

 

「はい、りっちゃん! うどん持ってきたよ」

「ありがとうございます、文乃……では早速」

 

 鼻水を啜った理珠は、『頂きます』と手を合わせた運ばれてきたうどんに手を付ける。

 冷えても尚コシの残るうどんに、かつお出汁の利いためんつゆ。風邪に効きそうな薬味であるネギもつゆに入れた理珠は、一息にうどんを啜った。

 

「んごっほ!!?」

 

 次の瞬間、理珠の鼻から鼻水ではない何かが出た。

 うどんだ。紛うことなきうどんだった。

 啜ったのと同時に咳をしてしまった故に起こった悲劇は、ただでさえ疲れ衰えている理珠の体力を掻っ攫っていく。

 

「んげっほっ! ほえ゛っ!! ん゛あっ、あ゛ああっ!!?」

「りっちゃぁ―――んっ!!?」

 

 

 

 ※少々お待ちを※

 

 

 

 ***

 

 

 

『それでもうどんが食べたいの?』

「それでもうどんが食べたいの! だよ」

 

 理珠の咳き込みが終わってから数分後、文乃は緒方家のキッチンに立っていた。

 そして携帯電話のテレビ通話で話す相手は良太だ。

 

(うるかちゃんは国体に向けての練習……唯我くんは水希ちゃんが風邪引いちゃったらしいから、その看病と家事で家から出られないらしいし……紗和子ちゃんは……来れるんだったらもう来てるだろうし、今頼れるのが良太くんしかいない!)

 

 須らく、理珠の知り合いが来られない事態に若干の危機感を覚えている文乃。

 その理由は、今現在布団で横になっている理珠が呪詛のように『うどん……』と呟いていることに起因していた。

 頑なにうどんを食べたがっている理珠であるが、そのまま食すのは如何せん喉に悪い。

 せめて温かいうどんを出してあげたいと思う文乃であったが、勉強した範囲外であるうどんの料理に手をつけようものならば、心身ともに衰弱している理珠にトドメを刺しかねない一品が爆誕してしまうかもしれない。

 

「だからお願い! 私一人じゃ、小麦粉を煮込んだ謎の液体みたいな料理が出来上がっちゃうよぅ! 風邪を引いてる人に良いうどん料理、教えて!」

『う~ん、うどんで風邪の人に良い料理かぁ……じゃあ、うどん雑炊にしよう!』

「うどん雑炊?」

 

 うどんなのに雑炊。それ如何に?

 そう言わんばかりのトーンで応える文乃に対し、ビデオ通話画面の良太は『ある食材を教えて』と聞いてくる。

 

 事前に理珠から食材を使う許諾をとった文乃は、冷蔵庫の中身を物色し、めぼしいものの名前を口にしていく。

 

「卵とかネギとかはあるけど……」

『梅干しとかは?』

「梅干し? あっ、あるよ!」

『うんうん。じゃあ、雑炊だからご飯もないとだけど……』

「ご飯ご飯……っと、あった!」

『そのくらいでいいかな。じゃあ、早速作ってみよう!』

 

 用意するものは、うどん、炊いたご飯が少し、卵、ネギ、梅干し。調味料としては基本の味付けとなる出汁……なのだが、これはめんつゆで代用する。そして最後に、味を調える為の塩だ。

 

 まずはなべに水とめんつゆを入れてひと煮立ちさせる。

 温まり、めんつゆの中のかつお節の甘露で芳醇な香りが湯気と共に立ち上る程度に温まってきた頃、お椀に対し半分程度のご飯を投入。

 

『本当なら、うどんはもう少し後に入れるつもりだったんだけれど、もううどんも入れて煮ちゃおう』

「え、どうして?」

『うどんは確かに消化しやすい食べ物なんだけれど、コシの強いものだったりすると、逆に消化し辛いんだ。だから、風邪を引いて弱ってる胃腸でも消化しやすいように、柔らかく煮てあげなくちゃ』

「へー、なるほど!」

 

 麺類はあまり消化がよくないとされている一方で、原材料が小麦、塩、水のうどんは消化がいいと言われているが例外もある。

 それは上述の通り、コシの強いうどん―――延いてはしっかり煮込まなかったものだ。

 緒方うどんで提供されるうどんは、歯ざわりのよい噛み応え抜群のシコシコな麺が特徴的である。

 普段からそのうどんを食べ、己が身の糧としている理珠であるが、風邪を引いているこの時ばかりは話が違う。その弾力が抜群の麺が、寧ろ弱った胃腸には天敵と化す訳だ。

 

 そこで、消化しやすいようにしっかりと煮る。

 それから暫くし、水とめんつゆを吸って膨らみ、柔らかく煮られていくご飯とうどん。彩られる茶色は出汁を十分に吸っている証。

 これだけでもイケることはイケる。

 しかし、手間こそ美味への道のり。

 弱っている理珠を元気づけるため、美味しい料理を作ってやらねばと文乃は奮い立つ。

 

「10分経ったよ、佐藤くん!」

『じゃあ、そこに溶いた卵を入れよう』

「かきたまだね!」

 

 事前にボウルに入れ、ホイッパーで溶いていた卵をなべに流し込む。

 そして手早く菜箸で掻きまわしていけば、溶き卵が熱で次第に固まっていき、風に靡く羽衣のようにうどんとご飯の間を掻い潜り、出汁の中を舞うように泳いでいく。

 茶と白しかなかったなべの中身が、一気に黄色に彩られる。

 それと同時に、立ち上る湯気からは卵の優しい香りを感じるようになった。

 

『味はどうかな?』

「んっ……はふっ、はふっ。うん、おいしい!」

 

 味見する文乃は、思いもよらぬほどの味わいに目を輝かせる。

 流石はうどん屋。相当工夫を凝らしためんつゆを使っていたのだろう。塩っ気が足りないのではと危惧していた文乃であったが、複雑な芳醇な香りと、絶妙な甘みと塩っ気のハーモニーに舌を唸らせる。

 これだけでも美味しい……のだが、さらにここからワンステップ上を行こう。

 

「この出来上がった雑炊を器に盛りつけて……」

『細かく刻んだネギの青い部分と、梅干しを乗せて完成だよっ!』

 

 さらに彩られる器の中身。

 緑と赤が差したことで、一気に料理の色が華やいだ。

 

 ネギは風邪によく効くというが、それはネギに含まれている成分である硫化アリルが変化した物質『アリシン』による、疲労回復、殺菌効果、血行促進作用、免疫力の向上といった効果によるものである。

 ただしこのアリシン、熱に弱い。故に、最後にトッピングとして盛り付ける形を今回はとった。

 

 そして次に梅干しだ。

 梅干しに含まれているクエン酸は、疲労回復に効果がある。これは疲労の下になる乳酸を、クエン酸が分解してくれるからだ。

 さらにクエン酸は、食欲増進効果に加えて整腸作用、抵抗力・免疫力向上の効果もある。

 

 これは二品のトッピングは、比較的甘い味わいに仕上がっているうどん雑炊の味を引き締めてくれることだろう。

 

 そして、いざ実食の時間だ。

 

「ふーっ、ふーっ」

 

 レンゲに掬ったうどん雑炊を吐息で冷ます理珠は、文乃が固唾を飲んで見守る中、ハムっと一口食す。

 

「んっ……」

「ど、どう? りっちゃん……」

「……おいしいです、文乃」

「! よかったぁ~!」

「流石です、文乃……料理も上手だったんですね」

「え!? い、いや、まあね~!!」

「?」

 

 文乃が必死に笑顔を取り繕う一方、風邪でうまく思考が回らない理珠は彼女の普段と 違った様子にも気が付かず、次々にうどん雑炊を口に運ぶ。

 甘露な味わいに芳醇な香り。これは紛うことなき緒方うどんに伝わる出汁だ。

 それらは柔らかく煮られたうどんや米の一粒一粒に染みわたっており、噛み締めれば噛み締めるほどに旨みがあふれ出してくる。

 

 しかし、時折刻みネギや梅干しと共に食べれば、味わいが一味も二味も変わった。

 ネギの辛み、梅干しの酸味。その刺激は、風邪によって体力を奪われていた理珠の体に活力をもたらす。

 

「……ごちそうさまでした」

「完食……っ!」

「おいしかったです、文乃。この度はなんとお礼を言えばいいものか……」

「気にしないで、りっちゃん! 困った時はお互い様でしょ?」

「文乃……」

 

 理珠が文乃の言葉にしみじみとしている、その時だった。

 

「緒方理珠!!」

 

 扉が凄まじい勢いで開く。

 

「この前のもそうだけど、なんだか不穏なメッセージが届いたからかけつけたわよ!!」

 

 現れたのは、科学部部長の関城紗和子だ。

 理珠の親友を自称する彼女は、鬼気迫った表情で現れた―――そう突然に。

 

 故に理珠は反射的に弾かれたように体を揺らす。

 その際、咳で痛めた腰に―――、

 

「はうっ」

 

 再び痛みが走った。

 

「あっ、あっ、あぁ~~……!!!」

「りっちゃぁ―――ん!!?」

「え、ちょ、どうしたのよ緒方理珠……」

「腰が……関城さん、急に驚かすなんて……嫌いですっ」

「いやぁ―――!!?」

 

 理珠の私室は、一転して騒がしい様相を呈する。

 

 腰の痛みに悶絶する理珠。

 理珠に『嫌い』と告げられ、嘆き悲しむ紗和子。

 そんな二人に挟まれ、どうすればよいのかわからず困惑する文乃。

 

 理珠の風邪が治るには、もう少しの時間がかかりそうだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 机に置くのは、先程まで文乃とテレビ通話していた携帯電話だ。

 文乃と通話していた間とは違い、静寂が室内を包み込む。

 高鳴る鼓動を確かに感じつつ、文乃との会話の余韻に浸るようにため息を吐いた良太は、今一度電源の落ちている携帯電話の画面に視線を落とした。

 

 そこに移り込むのは他ならぬ自分の顔のみ。

 

(古橋さんは僕が親切心で教えてると思ってるだろうけど……)

 

 むず痒いような感覚を覚え、頬を指で掻く。

 

『女の子っぽいから安心して頼めるかなって』

 

 料理の指南を頼まれた時の言葉が脳裏を過る。

 

「……僕だって男なんだから、まったく気がない女の子の家に通って料理を教えることなんてできないよ」

 

 抱くは仄かな恋心。

 男として見られないことに悩む、一人の男子高校生の独白であった。

 



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6. パンプキンケーキ

 

「ハロウィンパーティー?」

 

 文乃が素っ頓狂な声をうるかに返したのは、とある日の昼休憩の時間だった。

 

「そー! もうすぐハロウィンじゃん? んでっ、日曜日は成幸ん家で勉強会……これはもうお菓子持ってくっきゃないっしょ!?」

 

 一人盛り上がるうるか。

 勉強よりも水泳と成幸が好きな彼女は、折角のハロウィンに好意を抱く相手の家で過ごし、あわよくば……とでも考えているのだろう。

 それで勉強会がふいにされかねないものの、これでもうるかは当初よりは真面目に勉強している方だ。

 

(まあ、息抜きにはいい機会かな?)

 

 くすりと柔らかい笑みを浮かべる文乃は、隣でうどんを啜っている理珠に顔を向ける。

 

「だ、そうだけど、りっちゃんはどうする?」

「ずずっ……ハロウィンとはお菓子を持っていくものなのですか?」

「ええっ!? リズりんってハロウィン知らない感じ!?」

「すみません。そういうイベントに疎くて……」

 

 『なるほど』と首肯する理珠以外の二人。

 確かに理珠ならばありえなくはない。

 ならば、これは逆にいい機会だろう。

 

「リズりん。ハロウィンは、お化けとかモンスターが家に来てェ……」

 

 説明役を担ううるかだが、何故かおどろおどろしい雰囲気で語る。

 

「お化け!? モンスター!?」

 

 そして案の定、ホラーが苦手な理珠がビビり始めた。

 次に瞬間、うるかはガバっと両腕を上げ、そんな理珠に覆いかぶさるように前のめりに立ち上がる。

 

「トリックオアトリート!」

「ぎゃあああ!」

「……って、言ってきた相手にお菓子をあげないとイタズラされちゃうイベント!」

「だ、大至急お菓子を用意しなければ……」

 

 いくらなんでも怯え過ぎではないかと苦笑を浮かべる文乃は、震える箸でうどんを摘まんで食べ進めている理珠を眺める。

 すると、理珠がハッと何かに気が付いたように文乃を見つめ上げた。

 

「……お菓子とは、市販のものでしょうか? それとも手作り?」

「ええっと、それは……」

「あー、どうしよっかなぁ」

 

 おどおどする文乃の一方で、数秒逡巡していたうるかは頭頂部のアホ毛がピンと立ち上がる。

 

―――想い人に手料理を食べさせてあげられる絶好の機会。

 

「あ、あたしは手作りするよ!」

「そうなのですか? う~ん、文乃は料理が上手ですから手作りでしょうし……」

「え?」

 

 ちょっと待って、とはすぐに言えなかった。

 

「お二人が手作りとなれば、私も頑張って手作りにすることにします」

「お、リズりんも!? じゃあ、あたしも張り切って作んなきゃ!」

 

(こ、この流れは……―――!)

 

 悪寒が背筋を奔る。

 

「じゃあ、日曜日は皆手作りお菓子持って成幸ん家に集合ォー!」

「はい!」

「お、おー……!」

 

 二人に釣られて腕を掲げる文乃だが、悲しいかな。心の中で文乃は吐血する。

 

(流れに逆らえない日本人の性! だよ!)

 

 まだハロウィンに会いそうな菓子の作り方は未履修だ。

 

 

 

 ***

 

 

 

「という訳で、お菓子の作り方を教えてください師匠ォ!」

「まさかスライディング土下座で迎えられるとは思ってなかったよ、古橋さん」

 

 いつも通り古橋宅へ文乃の料理勉強のため赴いた良太が目の前にしたのは、綺麗に磨かれた床を土下座の姿勢のまま滑ってやって来た文乃であった。

 彼女は意外と運動ができる女子高生なのだ! ということはさておき。

 

「じゃあ、パンプキンケーキを作ろう」

「パンプキンケーキ!」

 

 ハロウィンの代名詞と言えばカボチャ。

 そのカボチャを用いた優しい甘みと風味が特徴のパンプキンケーキが今回の料理だ。

 

 そしてケーキという甘美な響きに、文乃は目を輝かせ、あまつさえ口の端から涎を垂らしている。

 

「でも、ケーキって作るの難しそう……」

「大丈夫。今回はホットケーキミックスと炊飯器を使うから」

「あっ、聞いたことあるかも!」

 

 料理がまだ得意であるとは言えない文乃でも簡単にケーキを作ることができる手段。

 それはホットケーキミックスと炊飯器だ。

 本来、米を炊くのに使うのが炊飯器であるが、この家電でホットケーキを炊けるというのは割とポピュラーな情報かもしれない。

 具材を混ぜたものを炊飯器の中に入れ、後は炊飯ボタンを押すのみ。

 オーブンや電子レンジでタイマーを設定する訳でもないのだから、文乃にはぴったりと料理方法と言えるだろう。

 

「という訳で、今回用意した具材はコレ!」

 

 まず、メインのカボチャとホットケーキミックス。あとは卵、牛乳もしくは豆乳、マーガリン、ハチミツである。

 

「アーモンドとかドライフルーツを入れてもおいしいけれど、今回はシンプルにこれだけで作ることにするね」

「うん!」

「じゃあ、まず初めにカボチャをレンジで柔らかくするとこから」

「了解! です!」

 

 種を取り除くなど下処理をしたカボチャをレンジに入れ加熱。

 皮については、食感にアクセントが欲しいのであればつけたままで、身の柔らかい食感を楽しみたいのであれば取り除くとよい。

 そうして加熱し、柔らかくなったカボチャを今度は一口大に切っておく。

 

「で、そのカボチャを入れるホットケーキの種なんだけど……」

「ばっちりだよ!」

 

 ホットケーキミックス、卵、牛乳を入れたボウルの中身をコネコネと混ぜている文乃はサムズアップで応答する。

 

「じゃあ、カボチャとマーガリン、ハチミツも入れてっと……」

「混ざったら炊飯器に入れてボタンを押す! だね!?」

「その通り!」

 

 あとは放っておけば完成する。

 炊飯が終わり、生焼けであれば再度炊飯していけばいずれは出来るだろう。

 

 だが、一度で炊けるにせよそうでないにせよ、時間がかかることには間違いない。

 今回は、合間の時間に別の料理を作るという訳でもなく、二人はコーヒーを淹れてブレイクタイムと洒落込むことになった。

 

「甘いものを食べると血糖値が上がるからね。まずはコーヒーとかを飲むと、血糖値の上昇が緩やかになっていいよ」

「へー、そうなんだー!」

 

 甘い食べ物にはコーヒーがよく合うが、なにも味覚だけでなく健康にもいいという訳だ。

 

 そして、香ばしい香りを漂わせるコーヒーを片手に、文乃と良太は談笑を始める。

 

「みんなでハロウィンパーティーかぁー。楽しそうだね」

「ホントは勉強会なんだけど、折角のハロウィンだしってことになってね……」

「女子だけで集まるの?」

「ううん。唯我くんに勉強教えてもらいに皆で行くから、女子だけってことじゃないかな」

「そうなんだ……」

 

 両手でコーヒーの入っているカップを持ち上げている良太。彼の口元はカップに隠されて見えないものの、気になっている文乃が男子生徒の家に赴くと聞き、若干唇を尖らせている。

 

 ズズッとコーヒーを啜り、逡巡。

 

「おいしく作れるといいね」

 

 ガチャッ。

 

「……古橋さん、どうしたの?」

「ううん、なんでもない!」

 

 僅かに文乃の手元がビクつき、ソーサーからカップを持ち上げようとしていたために、陶器である食器同士がぶつかり、甲高い音がキッチン内に響く。

 今はもう平然としているが、その一瞬だけ文乃が動揺しているように良太には見えた。

 

(なるほど)

 

 カップをソーサーに置く良太は、揺れる黒色の液体を眺める。

 

(もしや、古橋さんはその唯我くんという人に気があるのではっ!?)

 

 それは半分正解なような、そうでないような……。

 

 なにはともあれ、良太は文乃が成幸に気があるのではと当たりをつけた。

 その瞬間、彼の脳裏に過るのは嫉妬でも悲嘆でもなく、

 

「古橋さん!」

「ひゃ、急にどうしたの!?」

「今になって聞くのもあれだけど、ホントにホットケーキミックスで作ったパンプキンケーキなんかでよかった!?」

「え、ど、どーいう意味!?」

「もっとこう、女子力が高そうで男の人が……じゃなくて、男の人も喜びそうなお菓子じゃなくてよかった!?」

「ええー!?」

 

 突然グイグイ来る良太に、文乃はタジタジだ。

 彼女は威圧的な男性が得意ではない。

 目の前の男子が善意で今のような質問を投げかけていることはほどなくして理解できたが、それでも矢継ぎ早に質問を投げかけてくる良太には、受け身にならざるを得なかった。

 

「クッキーとか、マカロンとか! そういうのじゃなくて大丈夫だった!?」

「わ、私には作れないよーっ!」

 

 もしかしたら文乃が好意を抱く相手。

 ならば、美味なれどお手軽な料理ではなく、それなりに手の込んだ料理を教えるべきではなかったか。

 そう自分を省みる良太は、100%善意での行動であったものの、この時若干文乃に一線を引かれることになってしまった。悲しいね。

 

 

 

 ***

 

 

 

「……なんか、熱くなっちゃってゴメンね」

「う、ううん。佐藤くんの熱意が十二分に感じ取れたからっ。私も気合いいれなきゃ! だよ」

 

 そう言って笑顔を取り繕う文乃だが、やや憔悴した様子は隠せない。

 

 だが、二人がわちゃわちゃしている間にもパンプキンケーキは炊きあがった。

 どっしりと、それでいてしっとりとしたケーキ。包丁を入れれば、これまたしっとりと熱の通ったホクホクなカボチャを窺うことができる。

 

「わぁ~! おいしそぅ」

「このままでも甘くておいしいけど、ホイップクリームをかけたり、チョコペンでジャック・オー・ランタンみたいになるようお絵かきしてもいいかもね。描く?」

「うん、描いてみたい!」

 

 湯煎して中身のチョコが溶けたチョコペンを文乃に手渡せば、彼女は実に楽しそうにジャック・オー・ランタン風の似顔絵を描いていく。

 これだけでもかなりのハロウィン感が出る。

 

 おいしい、楽しい、簡単の三拍子が揃っているのがこのパンプキンケーキ。

 

「生地がふわふわでしっとり……カボチャもホクホクで、素朴な甘みがたまらないよ!」

「なんだったら、バター塗ったり、メイプルシロップとか粉砂糖とか振りかけて食べてもおいしいよ」

「はぅ!」

「でも、流石にそれだとカロリーが高くなっちゃうからね……」

「おいしい食べ物はカロリーが高い……この世は不条理! だよ……」

 

 何かを得る為には何かを捨てねばならない。

 美味を求めるのであれば、カロリーを己の身に贅肉がつく可能性を甘んじなければならないということだ。

 なにはともあれ、パンプキンケーキ自体の味は良好。

 こうして文乃は、無事ハロウィンパーティー……もとい、勉強会に持っていくお菓子の作り方を伝授されたのであった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 そして勉強会当日のこと。

 

「うわー! 文乃っちめちゃめちゃ気合い入ってんね!」

「ケーキ一つとは……御見それしました、文乃」

「古橋凄ぇな……やっぱり料理上手なんだな!」

「ま、まあね!」

 

 フフンと無い胸を張ってみせる文乃であるが、内心成幸たちの自分への勘違いが加速している点については内心涙目ものであったことを追記しておくことにしよう。

 



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7. ハンバーグ

 

 古橋家のキッチンでは、現在進行形で肉汁が躍る音が鳴り響いている。

 コンロの上に置かれているフライパン。そこには蓋がされているものの、中で半ば蒸し焼きにされている肉の塊からあふれ出す脂が、万雷の拍手の如き音を立て、文乃の鼓膜と心を躍らせる。

 

「フンフンフ~ン♪」

 

 思わず鼻歌を歌ってしまう文乃は、炊き立ての白米を器によそう。

 炊きたての白米からは日本人の心を安らがせる香りが迸っている。このまま食べても良し。塩を振りかけてもよし。他、様々なおかずと組み合わせてもよしと、日本人の食卓にはなくてはならない主食だ。

 料理を習う以前はロクに炊飯もしなかった文乃にとって、炊き立ては母親が死んで以来久しい存在であったが、最近は炊き立ての美味しさに目覚め―――加えて、自分が炊いたという達成感による相乗効果によるものもある―――こうして手間を惜しまず炊飯をしていた。

 

 そうしててんこもりに白米をよそうと同時に、テーブルの上に置いていたタイマーが鳴る。

 

「おおっ! 完成したかな~っ♪」

 

 当初とは違い、時間・分量を守ることに注意を払い始めた文乃は、あらかじめタイマーを設定していた。

 彼女が作っていたのはハンバーグだ。子どもから大人まで大好きな肉料理。こんがりと焼かれた表面を割れば、ふっくらとした中身から肉汁がこれでもかと言わんばかりに旨みたっぷりの肉汁溢れるアレだ。

 

 王道にデミグラスソースをかけてもよし。

 ご飯に乗せ、それこそロコモコのようにして食べるのもよし。

 和風ドレッシングをかけてみるのもよし。

 

 とにかく、ご飯との親和性は抜群であるとは言えよう。

 良太に教えられなくとも、こうして意欲的に料理を始めるようになった彼女は、今回ばかりは焼いたハンバーグの肉汁が如き自信を持っていた。

 

(事前に料理の手順も調べた! ……まあ、ちょっとパン粉とかなかったから、お肉100%だけど、きっと大丈夫!)

 

 ……若干、適当な部分は見受けられるものの、こうしてある程度レシピ通り作ろうと試みているだけ成長はしているだろう。

 

「よーし……オープンっ!」

 

 目を爛々と輝かせる文乃は、中の蒸気で真っ白に曇る蓋を開ける。

 次の瞬間、湯気と共に立ち上る香ばしい香りが、文乃の顔をほころばせた。

 

 この匂いだけでご飯一杯はイケる! そう確信する文乃であったが、本題は中に佇む肉塊だ。

 表面はこんがり。中はふっくら。収まりきらず溢れた肉汁で照っている肉の本尊。愛情をこめてしっかり捏ねた肉の塊がそこに在るはず。

 

 期待に(無い)胸を躍らせ、文乃は湯気が消え失せたフライパンの中身を凝視する。

 

「……あれ?」

 

 しかし、そこにはあるハズだったものがない。

 いや、あるにはあるのだがいやに小ぢんまりとしている。もっと具体的に言えば、あるべき姿から瓦解し、無数の肉片に散らばっていた。

 ボロボロと崩れ落ちた肉の欠片たちは、フライパンの表面に溜まっている油と脂が混じった液体によりカリカリに揚がっているではないか。これはこれで美味しそうではあるが、文乃が求めていた結果ではなかった。

 

 想像していたのは、子供が夢見るようなビッグなハンバーグ。

 

 だが、今目の前にあるのはなんだろう?

 荒廃した城の如く瓦解している肉の欠片たち。それはもはやハンバーグと呼べる代物ではない。そぼろだ。紛うことなきそぼろだ。因みに、そぼろは茹ででほぐしたものを指すから、厳密に言えば文乃のハンバーグになり損ねたこの肉片はそぼろではないのだが、見た目は十二分にそぼろと呼べる代物であった。

 

 しばし放心する文乃。

 

 しかし、茫然自失となる中で空腹を訴える体は素直に動いていた。

 フライパンの中にそぼろもどきに塩、こしょう、しょうゆをかけ、軽く絡めるように炒める。

 そうして味がついてから、文乃は味付けしたそぼろもどきをホカホカの白米の上に振りかけた。みるみるうちに、真っ白な白米は肉汁としょうゆが混じった液体にまみれ、黄金色に輝く。

 

 だが、これだけでは終わらない。あらかじめ文乃がスーパーマーケットで買っていた既製品の温泉卵を彼女が、そのそぼろ丼の上に落としたのだ。

 ゆで卵ほど固くなく、生卵ほど柔らかくもない。

 白く輝く表面は、続けざまに振りかけられる刻み海苔を受け、ぷるぷると震える。

 最後に文乃は、そんな温泉卵を、中の半熟の黄身が丼全体に広がるよう箸で割ってみせたのだ。

 

 完成。

 いざ、実食。

 

「―――おいしー♪」

 

 そぼろが白米に合わないことがあろうか? いや、ない。

 塩とこしょうで味を調えたそぼろは白米との相性は抜群。しっとりモチモチの白米に、カリカリで噛み応えのあるそぼろのハーモニーは、文乃に咀嚼をこれでもかと促していく。

 味もまた良い。若干の大味な感じは否めないものの、それでも肉本来の味に加えられた塩味が、温泉卵によって包み込まれ、マイルドな味わいと昇華している。

 最後に加えた海苔もまたいい風味を醸し出していた。

 

 文乃の箸は進む進む。

 そして、からっぽのどんぶりと共にテーブルの上に置いた。

 

「……でもなんか違う!!」

 

 くわっ!! と文乃の目は開かれる。

 

「思てたんと違う! 私、ハンバーグ食べたかってん!」

 

 ハンバーグが巡り巡ってそぼろ丼へ。

 変な関西弁にて一人で騒ぐ文乃は、そのことに対して嘆くのであった。

 

 夢想していたのは、大きい大きいハンバーグ。

 真ん中を割れば、ドバっと滂沱の如く肉汁溢れる分厚い肉の塊。凡そレストランでしか試したことのないような、あの心躍るアクションをしたかったのだ。

 

 腹は満たされた。しかし、期待で一杯だった胸は空いたままだ。

 この飢えはハンバーグを喰らうことでしか満たされはしない……。

 

「ハンバ―――グ!!」

 

 その日、師匠の慟哭が古橋宅にて響きわたるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「じゃあ、今日はハンバーグを食べたい古橋さんのために、僕はハンバーグ師匠になるよ」

「お願いします、ハンバーグ師匠!」

 

 日を改め、文乃は良太と共にハンバーグに再挑戦するに至った。

 市販のハンバーグでは駄目なのだ。自分で作ったビッグサイズのハンバーグが食べたいのである。

 その為には、文乃にとっての料理の師匠こと良太に、ハンバーグ師匠になってもらうより他ない。

 

 先日、突然教室に赴いてきて『ハンバーグ食べたいの!』と言いに来た彼女を付け合わせのミックスベジタブルを見るような目で見た良太。

 だが、彼女のハンバーグに対する情熱が分からないでもない彼は、自前のエプロンの下にデカデカと『肉』の文字が刻まれたネタTシャツを見に纏い、こうして厨房に立っている。

 

「さて……じゃあ、早速ハンバーグ作りに取り掛かろう」

「おー!」

「その前に。古橋さんの話を聞く限りで、なんでハンバーグがぼろぼろになっちゃったのかを反省してみようか」

 

 何事も反省は大事。失敗は成功の母というものの、なぜ失敗したのかと振り返らなければ、成功が生まれることはないだろう。

 反省による分析こそが、料理にとって肝要であると言えよう。

 

「とりあえず、ハンバーグがぼろぼろになっちゃう原因の一つとしては、ハンバーグの中の空気がしっかり抜けてないのがポピュラーだね」

「へー。それはどうしてなのかなぁ?」

「熱を通した時、中の空気が膨張しちゃうんだ。それで折角焼き上がったお肉にヒビが入って、そのまま崩れちゃうんだよ。だからほら、よくテレビとかでお肉を手にたたきつけて空気を抜く作業とか目にしない?」

「う~ん……見たことあるような、ないような……」

「ともかく、空気を抜かなきゃハンバーグがぼろぼろになっちゃう! これは覚えておいてね」

 

 『次に!』と良太は続ける。

 

「古橋さんはつなぎ無しで調理したみたいだけど……」

「あ、うん。そうだよ。その日、牛ひき肉が安かったの!」

「なるほど……でも、折角だから今日覚えてね。ハンバーグの黄金比を!」

「黄金比があるの!?」

「黄金比っていうのは、1:1+√5/2の割合で……」

「凄い数学ぅ~~~!!」

 

 余りにも数学している内容に、文乃は涙目を浮かべながら頭を抱えてその場にうずくまる。

 

「まあ、今のは冗談だけど」

「冗談なの!?」

「うん。ハンバーグの黄金比っていうのは、牛肉と豚肉の割合のこと。牛肉7割で豚肉3割の割合にするとジューシーに出来上がるんだ」

 

 脂肪分の少ない豚肉を3割に抑えることで、ほどよく肉汁溢れるハンバーグに仕上がるという訳だ。

 

「へぇ~、知らなかった! 牛肉100%のハンバーグとかたまに聞くから、てっきりイケるものかと……」

「まあ、できなくはないし足りない脂肪分は牛脂とかでまかなえばできるしねっ。でも、その分塩で捏ねたり、つなぎを使う工程を大事にしなくちゃ」

 

 つなぎを制す者はハンバーグを制す。

 ただ単に肉に貪りつきたいという欲望に駆られ、肉オンリーのハンバーグを作ろうとしても失敗し、あるいは予想を裏切る形に仕上がり、落ち込むのが関の山だ。

 

 『そっか~』と塩を投入した肉を捏ねる文乃は、しっかり粘り気が出るまで、延々とその華奢な指をせわしなく動かす。

 粘りが出るまで捏ねるのがミソであるのだが、先につなぎの具材を投入してしまうと、肉汁を閉じ込めやすくする役割を果たす粘りが出るまで捏ねるのが大変になるため、今はこうして肉だけで捏ねている。

 

「よしっ、そのくらいだね。じゃあ次は、用意したつなぎの具材だけど、どれがどんな役割なのか知っておこう!」

 

 今回用意したつなぎの具材は三種類。

 玉ねぎ、卵、パン粉の三つである。

 

「まず玉ねぎ。入れる場合はあめ色になるまで炒めなきゃだけど、甘さがグッと増す玉ねぎを混ぜると塩味も際立って美味しさも倍増だよ」

「うん!」

「次に卵。ハンバーグの生地に卵を混ぜるのは、実は日本特有の方法らしいんだ。混ぜると、ふんわりとした弾力のあるハンバーグに仕上がるね」

「うんうん!」

「最後にパン粉。生地に少し練り込むと肉汁を吸ってくれて、ふっくら仕上げてくれて、なおかつ口当たりのいいハンバーグにしてくれるのが特徴さ。でも、入れすぎると肉汁を吸い過ぎてぱさぱさになっちゃうから注意してね」

「うんうんうん!」

 

 完成したハンバーグを想像する口の端からは、思わず涎が垂れる。

 応じて腹もキュ~っと鳴った。

 しかし、腹が鳴る羞恥心よりも、今はこれから作るハンバーグをどのようにして作るかの思いが勝っている。

 そんな文乃の熱意を考えてか、良太はスッと事前に用意していたつなぎの具材を差し出す。

 

「じゃあ、今回は玉ねぎと卵にしよっか」

「オッケー!」

「で、十分混ざったらいざ空気を抜く作業だ!」

 

 具材が混ざった生地を丸め、手に携える二人。

 ハンバーグの空気を抜く作業と言えばあれだ。キャッチボールの要領で、持っている一方とは違う方の掌へ投げるようにたたきつけるのである。

 

「わっとっと……なんだか、こういうのって食材を扱ってるから、思いのほか勢いが出ないっていうか……」

「わかる。でも、美味しいハンバーグを作るなら、思い切っていこう!」

「……そうだね! よーし、じゃあ……―――あ」

「ファ―――!!?」

「はわわっ、ナイスキャッチ!」

 

 途中、文乃の大暴投でハンバーグ一個分の生地が駄目になりかけたこともあったが、無事生地の形成は終了した。

 

「じゃあ次はようやく焼く工程に入るよ」

「うん!」

「ハンバーグを焼く時のコツだけど……古橋さんは知ってるかな?」

「知ってるよ! 真ん中を指で押してくぼみを作る……だよっ!」

「その通り!」

 

 ハンバーグを均一に焼くコツとしては、生地の真ん中を凹ませることが有名だろう。

 これは、生地の中心ということもあってか、真ん中には熱が通りにくいことが理由として挙げられる。もし仮にくぼみを作らず焼き、中心まで熱を通そうとすれば、その頃には周りの肉が焦げてしまうだろう。

 表面がこんがりと焼き上がるのは良い。しかし、焦げて苦いだけの炭は料理の風味を損なうだけだ。

 

「もし焦げそうになった時は、水か酒を入れて蒸し焼きにするといいね」

 

 そんな良太のアドバイスも受けつつ、ハンバーグは淡々と焼き上がっていく。

 ジュ~! と子どもの時ならば誰もが期待で心を躍らせるような音がキッチン中に響きわたれば、合間に二人の腹の音が聞こえてくるようだ。

 

「あれ? でも、ソースはどうするの?」

「それはだね、古橋さん。ハンバーグを焼いた後に作るんだよ」

 

 表面も十分焼き上がり、既にハンバーグといって差し支えない肉の塊を皿に移した文乃に対し、良太はハンバーグから溢れた肉汁に満ちるフライパンを指さす。

 

「ここに調味料を入れて、ソースを作るんだ!」

「絶対美味しいよソレ!」

 

 肉汁一滴さえ無駄にしないという訳だ。旨みたっぷりの脂なのだから当然である。

 

 用意する調味料は、水、酒、トマトケチャップ、ウスターソース、しょうゆ、バターだ。これらを肉汁に満ちるフライパンに投入して混ぜ、中火かける。沸々と煮立って、全体がとろみを帯びてきたらもう完成だ。

 

 白い皿。その中心に鎮座する肉の塊。そこへ流される赤みを帯びたソースが、みるみるうちに肉の塊を覆いつくしていく。

 湯気がふわりと立ち上れば、香ばしい肉の香りと複雑に絡み合った調味料たちの香りが混じり合い、二人の食欲を存分にそそる。

 

「はぁ~……!」

 

 まず鼻で香りを味わった文乃。数秒後には、蕩けた顔を浮かべて口から感動するように息を漏らした。

 

「よしっ、佐藤くん! 食べよう!」

「ご飯はもうよそったよ!」

「やったー!」

 

 ホカホカな白米は既に用意されてある。

 あとはもはや喰らうのみ。

 

 ゴクリと生唾を呑み込み、いざ(箸で)ハンバーグに入刀。

 

 割かれるハンバーグからは、内包されていた旨みたっぷりの肉汁があふれ出し、皿に満ちていたソースに混ざり合っていく。

 もう我慢できない。

 そう言わんばかりに文乃は一口大に分けた肉に、肉汁が混ざり合ったソースに絡め、そのまま口へ投入する。それから数度咀嚼してからは、左手に携えていた器から白米を口の中へ掻きこみ、また咀嚼を始めて口の中に満ち満ちる幸福という名の味わいに舌鼓を打つ。

 

「ハンバァ~グゥ~♪」

「そこまで喜んでもらえたなら、教えた甲斐があったと思えるよ」

 

 咲き誇る文乃の笑顔もエッセンスに、良太は自分が教え、文乃が作ったハンバーグに手を付ける。

 

「おいし~♪」

「冷めないうちに食べなきゃ! だよ!」

「そうだねっ!」

 

 そうして自分たちのハンバーグに舌鼓を打ち、存分に味わった二人。

 

 その後、文乃が美味しさのあまりご飯を食べ過ぎていたことにより、体重が増えていたことに嘆きの声を上げたのは、また別の話である。

 



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8. サバの味噌煮

 

「私、頭が良くなりたいの」

 

 それは余りにも唐突な願い出であった。

 

「……えっと、青ペンで書くと記憶しやすいって言うよね」

「ああっ、ごめん! 勉強方法についてじゃなくて」

 

 遠くを見つめる瞳を浮かべる良太に対し、言葉が足りなかったことを即座に理解した文乃は慌てふためいて訂正する。

 彼女が懐から取り出したスマホ。その画面には、魚の画像がデカデカと映し出されている。

 

 それが意味するものとは―――。

 

「お魚食べると頭が良くなるんだよっ!」

「あ……うん」

「そんな可哀そうな目で見るのはやめて! 私もわかってるの! どこかのキャンペーンソングに触発されてお魚を食べたところでポンポン点数が上がる訳じゃないってことは!」

 

 デリケートになってしまう受験生。志望校に合格するためには、どんな手を使ってでも良い点数を取れるようにと努力を重ねることだろう。

 勉強は勿論のこと、生活習慣も然りである。規則正しい生活。寝る前に復習して勉強したことが頭に定着するようにしつつ、夜更かしをしないように就寝。そして朝早く起きて一日の活力を得るために食事を摂る。

 

 食事は体の基本。仮に『これを食べれば体に良い!』という食品があれば、人は進んで食べようとするものであろう。

文乃もついついダイエット食品に手を出してしまいがちであるが、結果は期待するほど出なかったことは言わずもがな。

 

 だが、だからといって軽視してよいものでもない。単純な話、必要な栄養素を摂らなければ勉強のパフォーマンスも落ちてしまう……そのことを文乃は伝えたかったのである。

 

「お魚にはDHA(ドコサヘキサエン酸)って言うのが含まれてて、脳神経の発達とか機能の維持に役立つんだって」

 

 青魚に含まれている栄養素『DHA』。

 現代ではサプリメントとして売られてもいるが、料理として美味しく頂けるのであれば、お腹だけではなく心も満たされて勉強への英気を養えるだろう。

 

「う~ん、となると……」

 

 青魚で作る代表的な料理の一つ、それは。

 

「よしっ、今回はサバの味噌煮にしよっか」

「わかりました、師匠!」

 

 

 

 ***

 

 

 

 サバの味噌煮。それは魚料理の中でも定番と言える料理だろう。

 まろやかな味噌だれに包まれたサバの身が口の中でホロホロとほどけていく瞬間は、まさに至福の時と言える……かもしれない。

 何はともあれ、日本人として作れて損はしない一品である。

 

 今日も古橋宅のキッチンに集合した二人は、いざ料理に取り掛かろうとしていた。

 しかし、エプロン姿の文乃がやけに張り切っているのを見て、良太が違和感を覚える。

 

「なんかすごい気合い入ってるね、古橋さん」

「えっ!? そ、そうかな?」

 

 良太に指摘されて取り繕った笑顔を浮かべる文乃であったが、その表情に滲み出る不安と興奮までは隠せない。

 しばしジッと見つめれば、根負けした文乃がふぅと息を吐き、額に滲み出た汗を腕で拭いとる。

 

「だって、お魚を使うから、とうとう私も三枚おろしにチャレンジするんだと思うと……」

「え? しないよ」

「しないの!?」

「しないよ!?」

 

 魚の捌き方の一つである三枚おろし。それをしないと聞くや否や、楽しさ半分不安半分であった文乃の顔が驚愕一色に染まる。そんな文乃に対して、良太もまた彼女に対して驚く。

 

「私、てっきり三枚おろしするものかと……サバを丸々一匹捌くものかと……」

「流石にそれはハードルが高すぎるかな」

「動画でしっかり予習してたのに……」

「予習してたのっ!?」

 

 かなり落胆した様子を見せる文乃。彼女は、一人の女として料理ができることへの憧れは人並みに持ち合わせている。それで実際に料理が上手くなったのかと問われれば疑問が浮上するところであるが、現在までの料理へのモチベーションの高さを見れば、興味があること自体は間違いないと言えよう。

 

 その中でも文乃にとっての憧れの一つとして、魚を捌くことがあった。

 野菜や肉の塊とは違い、一匹の生物の姿としてまな板の上に置かれることが多い魚。生物丸々一匹を処理することは相応の知識を持っていなければならないことは当然のこと、ある程度手慣れていなければ、折角の身を無駄にしてしまうことにつながりかねない。

 鱗、骨、内臓―――それらを淡々と処理し、捌いていくテレビの中の料理人の手際は、子どもであった文乃に憧憬を抱かせるには十分であった。

 

 魚を捌ける=デキる女。

 

 そんな方程式が、文乃の中に勝手に築き上げられていたという訳である。

 しかし、良太が用意してきたものは切り身……おろす必要も内臓の処理の必要もない状態での登場であった。無念である。

 

「師匠……私に、私にまだ三枚おろしは早いということでしょうか!?」

「モチベーションが高いのは良い事なんだけれど、最初から高いハードルに挑んで挫折するのも、ね?」

「あうぅ」

 

 三枚おろしをしてみたかった文乃を、良太は必死に宥める。

 

「手間暇も大事だけれど、ほら、料理って大変だから……手間暇で躓いてつまらなくなったら本末転倒だしね。ほら、よく料理本でも紹介されてる手抜き料理! あれもすごく美味しいんだし、無理に手間暇かける必要はないよ!」

「それもそうだね! 佐藤くん、良いこと言う!」

 

 結果、なんとか言い包める(?)ことができた。

 人間、怠けられる部分は怠けたくなる生き物なのだ。

 どのようにしてひと手間加えて美味しくさせることを考える一方で、どれだけ手を抜けるかも考える。美味しい手抜き料理の本がある程度売れていることからもわかることだろう。

 

 だが、なんでもかんでも省いていいというものではない。

 今回はそれを踏まえたうえで料理を進めていくことになる。

 

「用意するものは、まずサバの切り身」

「……あれ? これ、中骨付きなの?」

「うん、そうだよ」

「骨はとらなくていいの?」

「骨をとらなくていい理由があるんだ。だから、ひとまずそのピンセットを置こうか」

 

 学校の生徒を骨抜きにしている文乃が骨を抜く気まんまんでピンセットを掲げている姿を前に、良太は凶器を握る犯人を目の前にした刑事の気分だ。

 確かにサバの切り身には骨付きとそうでないものの二種類がある。

 魚の骨とは、小さい子どもが魚を嫌いになる理由の一つ。食べ辛いこともさることながら、時には呑み込んでしまった小骨が喉に刺さり、病院沙汰になってしまった者も居ることであろう。

 

 しかし、今回あえて骨付きのものを買って来た理由には、骨があるからこそのメリットが挙げられる。

 

「骨付きの身を使うと骨から出汁が染み出たサバの味噌煮が作れるんだ」

「鯛のあら煮みたいに?」

「そうだね」

 

 骨とは料理に際して邪魔になる部分ではない。

 時には料理に一層の深みを出してくれるアクセントにもなってくれるという訳である。

 

 『まあ、あくまで食べやすさでの好みもあるけど』と付け加えた所で、良太は大きなボウルをドンと用意してみせた。

 

「それじゃあ、今から霜降りについて教えるね」

「霜……降り……?」

 

 魚なのに霜降り?

そう一瞬フリーズする文乃であったが、文系方面に頭脳が発達している彼女の脳内では、国語辞典が凄まじい速度で捲られ、『霜降り』という単語の意味についての検索が行われていた。

 

「脂肪が網の目みたいに筋肉の間に入ってる牛肉……」

「それは霜降り牛肉だね」

「霜が降りたみたいに白い斑点のある布……」

「それは霜降り小倉だね」

「80年代に流行ったダメージジーンズの一種……」

「それは霜降りジーンズだね」

「五葉松の近縁種……」

「それは霜降り松だね」

「11月……」

「それは……霜降り月だね、じゃなくて!」

 

 そろそろ霜降りがゲシュタルト崩壊してきた良太は、とめどない語彙で追いやってくる文乃を遮り、本当の意味を教授しに入る。

 

「僕がこれから古橋さんに教えたいのは『霜降り造り』のことだよ」

「霜降り造り?」

「料理番組とかで、魚の切り身とか鶏肉に熱湯をかけるのとか見た事ない?」

「あっ、あるかも!」

「それが霜降り造りさっ! 湯引きって言った方が聞き慣れてるかな」

 

 魚や肉には臭みがある。焼いたり揚げたりする調理法では、その過程で脂が焼け落ちたり、高温で熱せられることによって食指が進まなくなってしまう嫌~な風味が落ちてくれるのであるが、煮る料理ではそうはいかない。

 食材を水や出汁の中に入れる煮る料理では、その臭みなどが煮汁に移ってしまうのである。

 そこで行う下処理こそが霜降り造りだ。

 

 手順としては、霜降りしたい食材をボウルに入れた後、90℃程度の熱湯を注ぐ。熱湯を加えた後は菜箸を使うなりして全体を軽く混ぜ、食材の表面が全体的に白く染まった頃合いに水を差して冷ます。

 手が入れられるほどの熱さになったら、食材についているよごれや血、鱗を丁寧に取り除く。

 

 そうして綺麗に洗い流せれば霜降りは完了である。

 

「なるほど……こういうところには手間暇をかけなきゃ! だね」

「最低限行っておきたい作業が下処理みたいなものだしね。最初の内は大変だけど、こういうのも慣れていかなきゃおいしい料理は作れない……全国の料理を作るお父さんお母さんにはほとほと頭が下がる思いだよね」

「……うん、そうだね」

 

 ふと、霜降りを行う文乃の手がピタリと止まる。

 どこか寂しげな、それでいて懐かしむような色を瞳に滲ませた彼女であったが、隣で指南してくれている良太に気取られないようにと頭を振るい、すぐさま作業へと意識を戻そうとした。

 

 だが、脳裏に過る亡き母の思い出を振り払うことはできない。

 

(お母さんも毎日大変だったんだろうなぁ―――)

 

 

 

『文乃~!』

『なぁーに、おかあさん?』

『夕飯のことなんだけど、カレー作ろうとしたら失敗しちゃって黒焦げになっちゃったから、レトルトでもいい?』

『うんーっ!』

 

 

 

(……おや?)

 

 いや、もっと違う思い出があると振り返る。

 

 

 

『文乃~!』

『はぁーい! なにー?』

『うどん作ろうとしたらドロドロに液状化しちゃったの~! カップ麺でいいかしら?』

『うんーっ!』

 

 

 

(……おやおや?)

 

 違う、そうじゃない。今一度文乃は母との思い出を思い返そうとする。

 

 

 

『文乃~!』

『んー?』

『パイ焼いてたんだけど、円周率のこと考えてたらうっかり真っ黒こげになるまで焼いちゃっちゃった! これじゃ食べられないから、近くのスイーツ屋さんへ買いに出かけましょっ!』

『はぁーい!』

 

 

 

「―――大変のベクトルが違かってん!!」

「急な関西弁どうしたの!?」

「下処理も大変だけど、後片付けも大変だよねって話!」

「え? あ、うん! そ、そうだね!」

 

 くわっと険しい表情を浮かべた文乃。彼女が自身の料理下手が母譲りのものであったことを悟った瞬間だった。

 

 閑話休題。

 

 そうこうしている間にもサバの切り身の霜降りが終わり、次なる準備に移る。

 

「下煮用の煮汁を作ろう!」

「うん!」

「用意するのはみりん、しょうゆ、酒、水。これを混ぜたものを鍋に入れて中火にかけて、フツフツしてきたら……」

「サバ投入! だね!」

「その通りっ!」

 

 ここまで来たら文乃も慣れたものだ。手際よく下煮用の煮汁を作り、沸騰してきた頃合いを見計らってサバの切り身を投入する。

 注意点は、皮の方を下にすると皮がなべ底に張り付いてしまい、盛り付けの際サバの切り身が不格好な見た目になりかねないという点だ。味にそこまで違いが出るという訳でもないが、見栄えがいい方が視覚的にも楽しめる。料理とは舌だけではなく、目や鼻でも楽しむものであるため、ほんのちょっとした心がけで楽しめるポイントが増えるのであれば、その程度の労力は惜しまずとも良いだろう。

 

 そして、煮汁が少なくなってサバの切り身全体に火が通るまで、サバの味噌煮に必要なアレを作る作業へ移る。

 サバの味噌煮を作る上で不可欠であるのは―――そう、味噌だ。味噌なくサバを煮れば、それはただの水煮でしかない。『出汁で煮たらどうなるのか?』という質問はご法度である。

 

「味噌にも色々あるけれど、今回は無難に米味噌オンリーで味噌だれを作ろっか」

「合わせ味噌とかでも大丈夫なのかな?」

「うん。自分の好みで白味噌と赤味噌を混ぜてみると、コクが出ていいかもしれないね」

 

 そう言って良太が取り出す味噌だれに必要な材料は、味噌の他に、砂糖、みりん、水である。

 てっとり早く全てを合わせるようにかき混ぜれば、味噌の芳醇な香りが鍋で煮立つ煮汁の湯気と共に鼻腔を擽ってきた。

 

「はぁ、良い香り……!」

「ちょうどサバにも火が通ってきた頃だね……」

「それじゃあ!」

「ドーンと回してかけちゃって!」

 

 言われるがまま、文乃は味噌だれの入った器を手に取り、サバの切り身が煮込まれている鍋の目の前に立つ。

 すでに下煮用の煮汁で良い香りが漂う鍋の中であるが、ここへ味噌だれを投入することで、古橋宅のキッチンはより彩りに満ちた香りに包まれることになるだろう。

 口の端から涎が零れ落ちそうになることを我慢し、ごくりと生唾を呑み込む文乃。

 呼吸を整え、その度に鼻を突き抜ける香りに蕩けているような顔を浮かべそうになるが、なんとか気を保ち、いざ投入の儀へ取り掛かる。

 

「セイッ!」

 

 ややとろみの付いた茶色の液体が鍋の中へ回し入れられる。

 折角の銀色に輝くサバの皮が隠れてしまうが、何故だろうか。この味噌だれに覆われている身の方が、何もかけられていない状態よりも一層輝いているように文乃の目には見えた。

 

 ここからは最早流れるがままだ。

 火力を強火へと上げ、残った煮汁と味噌だれが混ざった汁をサバにかけながら煮る。そして、再び煮汁が煮立った時こそが完成の瞬間だ。

 換気扇で逃しきれない味噌だれの香りがキッチンに充満し、それを嗅ぎ取った文乃の腹の虫が暴れまわっている。

 

「はぁ~~~……♪」

「これを皿に盛りつけてっと。今回は白髪ねぎを細かく刻んだものを添えるよ。青ねぎでも香りにアクセントが付いて美味しくなると思うから、色々試してみてね」

「うん!」

 

 皿に移されたサバの味噌煮。その上で湯気に揺れるほど細やかに刻まれた白髪ねぎの存在感は抜群である。

 この間にも炊き立ての白飯は用意されている。

 出来立てのサバの味噌煮と炊き立ての白飯。合わないことがあろうか? いや、ない。

 箸を突き立てれば程よく一口大にほぐれる身を頬張り、即座に白く艶立つご飯を口に頬張る。

 サバの脂の甘み、そしてその脂が滲み出たことで完成している味噌だれとの親和性はこの上ないほどマッチングしていると言えるだろう。脂の甘みと、味噌の塩っ気、そして両方が合わさることによって生まれる芳醇なコクが、口の中で米粒に絡み合い―――。

 

「っ……QED……!」

「なにかを証明終了しちゃった!?」

「サバの味噌煮がご飯に合わないことなんてないんだってしみじみ思ったよぅ……」

 

 そう言い、パクパクとサバの味噌煮とご飯を交互に口を運ぶ文乃は、せわしなく口を動かすこと数分、あっという間に完食してしまう。

 美味しく頂ける青魚料理の一つ、サバの味噌煮。今回もまた一つ、文乃は賢くなったのであった。

 

 

 

 

 

「あ、でもサバの味噌煮って割とカロリーが高いから、食べ過ぎには注意だよ」

「うっ!?」

 



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9. 七夕ゼリー

 

「星……綺麗」

 

 深窓―――とまではいかないが、それに似た様相を醸し出す文乃は窓から夜空を見上げていた。

 天気もよく燦然と輝いている星がよく見える。

 

 文乃が理系の大学に通いたい理由だ。

 いつか母と約束した星を見つけるために天文学を学ぶ。だが、それも最初から誰にでも認められた道ではない。

 父の反対もあり、ろくに進路のことも話し合えない日々がどれほど続いたであろうか。

 

 しかし、その日々ももう終わりだ。

 

「……よしっ」

 

 彼女に一つの契機が訪れた。

 一人の男子が親身になってくれたおかげでようやく叶った父との和解。10年もかかってしまったが、その分見上げる星は今まで以上に澄んだ光を放っているように、文乃の目には見えた。

 

 一つの決意を胸に抱いた文乃が考えるのはサプライズ。

 

 それは―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

「たまにはお父さんに料理を作ってみたいっていう要望だったね」

「うんっ!」

 

 大分事情を端折られはしたものの、とりあえず父に料理を作りたいという申し出をしてきた文乃の頼みを受けた良太は、『父親想いだなぁ~』と感心しつつエプロンの緒を締める。

 

「それじゃあ、今日は『なんか星っぽいのをあしらった料理』っていう古橋さんのアバウトなリクエストを受けて……」

「ありがとう!」

「七夕ゼリーを作りたいと思います!」

「いよっ、待ってました!」

 

 ※ちなみに今の季節は秋である。

 

 だがしかし、七夕でなくとも『星ゼリー』と押し通せる一品でもあるため、細かいことは気にしたら負けだ。

 

「それじゃあ、用意するものはこれ! まずゼリーに欠かせないのはゼラチンパウダー!」

「う~ん、前のは寒天ゼリーだったけど、寒天粉じゃあダメなの?」

「そう言うと思って……用意してあります」

「わぁ!」

「基本的に料理する上で留意したい寒天とゼラチンの違いは固まる温度だね。だから、冷たい料理では代用できるよ。あと、食感も違うよ。寒天はしっかりした口当たりが特徴なんだけれど、ゼラチンはとろんとした食感がするんだ」

「へーっ!」

 

 植物由来の寒天と動物由来のゼラチンでは、やはり違いは出てくるものだ。

 カロリーにそこまで差異がある訳ではないが、含まれている成分こそが寒天とゼラチンを使いわける境目となろう。

 

「寒天には食物繊維が豊富だからダイエット向き。ゼラチンの元はコラーゲンだから、食べるとお肌がぷるぷるになるかもね」

「うん、いいねいいねっ!」

 

 どちらも女子には捨てがたい効能を発揮する栄養素を有している。

 ダイエットに適した寒天、そしてお肌がぷるぷるになるゼラチン。両方が兼ね備えられたデザートとは、まさに至高の一品になるのではないかという期待で、文乃はドキドキしている。

 

「その他の材料はヨーグルト、牛乳、砂糖、かき氷シロップのブルーハワイ、ドライマンゴー、アラザンだよっ」

 

 アラザン―――それは砂糖とデンプンを混ぜ合わせた後に粒子状に加工し、食用銀粉もしくは銀箔で覆った製菓材料のことである。

 分かりやすく言えば、チョコレートなどのデザートなどの上にトッピングされている銀色の粒粒だ。そこまで仕上がりの味にかかわる存在ではないものの、見た目の星っぽさを出すためにはちょうどよいであろう。

 

「それじゃあ始めよっか!」

「はぁーい!」

「まずはヨーグルトを滑らかになるまで混ぜよう!」

 

 ヨーグルトは何の具も入っていないプレーンのものを使うのがベストだ。

 

 おおよそ滑らかになってきたのであれば、次なる工程に移る。

 

「80℃くらいに温めた牛乳に砂糖とゼラチンパウダーを振り入れて、それからさっきのヨーグルトにこれをこしながら容器に入れるっ!」

「できたよ、佐藤くん!」

「じゃあ、冷蔵庫に入れて固まるまで冷やそう」

「了解!」

 

 分量さえ量って用意していれば、作業自体はとても簡単なものである。

 ここまで数度の料理を経てきた文乃にとってはお茶の子さいさい―――ではなく、うっかり牛乳を凄まじいほどまでに沸騰させかけてしまったが、良太のフォローも入ることで鍋が悲惨なことになることだけは避けられた。

 

 だが、ここまで来れば後はもう簡単な工程と言っても過言ではない。

 

 耐熱容器にかき氷シロップ(ブルーハワイ味)と水を投入し、沸騰するまで電子レンジで温める。

 その温めたシロップに寒天ゼリーを投入し、これまたよくかき混ぜた後は、先ほどのヨーグルトと牛乳の土台部分同様冷蔵庫に入れて固まるまで待つ。

 

「あとは……待とっか!」

「たまにはゆっくり待つのもいいね~!」

「それじゃあ……」

 

 ヌッと背負ってきた鞄から取り出した物体。それは参考書やノートなどといった受験生には必須の勉強道具である。

 同様に文乃もそれを見計らい、近くの部屋に用意していた勉強道具一式を抱えて来た。

 

「待ち時間は受験生らしく勉強しよう」

「……だねっ!」

 

 間をおいて頷く文乃。

 薄々彼らは気付いていた。そろそろ……否、既に本格的な受験シーズンに入っているのだから、本来であるならば悠長に料理を教え、教えられているべきではないと!

 だが、勉強三昧では精神衛生的に悪い。こうした時々の心にとってもお腹にとっても安らぐひと時が、肩の力を抜くいい機会になっていた。

 

 しかし、潮時は近づいてきているだろう。

 

 一抹の寂しさを覚えつつ、特に良太は志望校の赤本の問題を解き進める―――が、文乃が解いている問題集に違和感を覚え、つい口に出してしまった。

 

「あれ? 古橋さん、理系の大学志望してるの?」

「え? あ、うん! そうだよ」

「古橋さんって文系の科目得意って聞くから、てっきり文系の大学に進学すると勝手に思ってたんだけど……」

「そう見えちゃうかな?」

 

 たははっ、と苦笑する文乃は『確かに客観的に見たら……』と自分の成績や今まで指導してくれてきた教師の言葉を思い出す。

 どうひっくり返しても。それこそ天地がひっくり返ってもとても理系の大学には進めぬほどの壊滅的な数学科目の成績しか取れていなかった文乃であった。

 

「でも、私が行きたいって決めたから」

 

 しかし、それも徐々に変わってきている。

 数か月前に教育係についてくれた成行。彼が本気で自分の志望について考え、向き合って勉強を教えてくれるようになってから変わり始めたのだ。

 

「それを応援してくれる人もできたから、今も頑張れてるんだ」

「……」

「……はっ! なんか変なこと言っちゃったね、ごめん!」

 

 やや上気した頬に気が付いた文乃が、何とも言えぬ空気に気が付き、わちゃわちゃと腕を振って空気を変えようとする。

 しかし、一瞬でも女の顔を見せた文乃に男の存在を感じ取った良太は、一体どういう反応をすればいいのかわからず“無”を選んだ。

 

 張り付いてしまった悲しい笑顔を浮かべたまま、取り繕うとする文乃を見つめる。

 そのような居た堪れない空気を打開せんと、文乃はハッと妙案を思い浮かべたかのように面を上げた。

 

「そうだ! 私の数学力を試すために、なにか数学の問題出してみて!」

「え? いや、急に言われても……あっ、一つあるかも」

「ようし! ドーンと来ちゃって! すらすらと解いてみせるから!」

「じゃあ、僕が特に印象に残ってる問題なんだけど―――」

 

 (無い)胸を張る文乃を前に、良太は屈託のない笑みを浮かべて言い放つ。

 

「π>3.05を証明しろっていう問題なんだけど……」

 

 

 

(んんん~ふっふっふ~……っ!?)

 

 

 

―――東○大学入試問題が一つ。

 

 

 

 この後、ゼリーが固まるまでの時間をフル活用し、文乃がなんとか解いたというのはまた別の話だ。

 

 

 

 ***

 

 

 

「トーブン……トーブン……アタマ、パンク」

「ノートが真っ黒になるくらい書きなぐって頑張ってたもんね」

 

 良太が提示した(促したのは文乃であるが)問題で急速にエネルギーを消費した文乃は、現在進行形で早急なる糖分補給を求めていた。

 しかし、おあつらえ向きに今回の料理は甘いデザートである。

 そして、それはすでに完成直前。

 

「うん、いい感じに青く固まってるね」

「わぁ~、きれい!」

「青色にしたかったからブルーハワイにしたけど、他の色にしたかったらかき氷シロップのいちごとかメロンとかも使っていいかも!」

 

 周知の事実かもしれないが、かき氷シロップは香料が違うだけであり、味自体に違いはない。つまり、ブルーハワイ味をいちご味やメロン味に変えたところで、味的に失敗する可能性は低いと言える。

 色とりどりなゼリーを作りたいのであれば、シロップの味を変え、色を変えるのもよいだろう。

 

 それは兎も角、夜空をイメージしてのセレクトされた青色に染まる寒天ゼリーに対し、良太が文乃に手渡したのは一本のスプーン。

 

「それじゃあ古橋さん。いい感じにグチャってやって!」

「ここに来て急にアバウト!?」

 

 これまで懇切丁寧に教えてくれていた良太による突然な雑な説明に困惑する文乃であったが、言われるがままスプーンで寒天ゼリーを混ぜるように崩していく。

 折角のゼリーを崩すのは気が引ける作業である。

 しかし、程よく崩れて光を反射する寒天ゼリーと仄かに漂ってくる甘い香りは、文乃の腹の虫を刺激するに十分であった。

 

「あぁ、このままでも……」

「そこはグッと堪えてもらって……そのゼリーを、こっちの容器に盛り付けよう」

 

 並べられる容器。

 その中には固まったヨーグルトと牛乳が混ざったゼリーがある。砂糖も入っているため、ヨーグルトの酸味を牛乳が中和し、ちょうどよい甘みが出るであろうゼリーの上に、文乃は青い崩れたゼリーを盛り付けていく。

 

「おぉ……なんか様になってきたね」

「じゃあ、後は星型にくり抜いたドライマンゴーとアラザンをトッピングしよう!」

 

 最後の工程、それは七夕ゼリー(もしくは星ゼリー)の見た目で最も重要であり星型のドライマンゴーのトッピングだ。

 あからさまなドライマンゴーは勿論のこと、その周りでチカチカと慎ましやかに光を反射するアラザンがこれまた星空を連想させる。

 

「今回はドライマンゴーを使ったけれど、この辺りは好みだからりんごとかキウイフルーツとかでも全然オッケーだよ」

「うんっ!」

 

 百円ショップに行けば大抵売っているであろう星型にくり抜く調理器具。あれさえあれば、面倒な手間をかけずとも色々なフルーツを星型にくり抜くことができる。

 

 何はともあれ、これで大方完成だ。

 

 夏ならば涼しさも感じさせてくれる青と白のコントラスト。

 そうでなくとも、勉強で消費したエネルギーを補給できつつ火照りを冷ませる甘く美味しい一品である。

 

(これを……)

 

 少し多めに作った七夕ゼリーを前に達成感を覚える文乃。

 既に脳は限界を迎え、早急な糖分補給を訴えているが、文乃は頭を振ってとめどなく湧き上がってくる食欲を抑える。

 

 

 

 そう、これは―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

「……」

 

 静かに玄関の扉が開かれた。

 現れたのは一人の男性。落ち着いた雰囲気を漂わせる男性、彼こそが文乃の父である古橋零侍だ。大学に教授として勤めており、家に帰るのは時々といった具合である。

 その所為もあってか、娘である文乃との交流も少なく、和解にも時間がかかってしまった―――否、意識的に家を避けていたからこそ妥当な結果であった。

 

 しかし、最近になってようやく娘との和解が叶い、なんとか時間を作っては帰宅して家族の時間をとるよう心掛けている。

 それでも10年以上ろくなスキンシップをとっていなかったツケは大きく、現にただいまさえも口に出せなかった。夜中に帰って来たこともあり、もし文乃が寝ていたのであれば起こしてしまうかもしれない。そんな懸念があったから―――という言い訳を自分に言い聞かせ、一つため息を吐いてから靴を脱ぐ。

 

「お父さん、おかえり」

「っ!」

 

 だが、そんな零侍の前に文乃が二つのカップを持って現れたではないか。

 

「あ、あぁ……ただいま」

「お疲れ様。仕事大変だったでしょ? だから、ね」

 

 ぎこちないながらも笑顔を浮かべてみせた文乃は、リビングを視線で指し示して続ける。

 

「友達と一緒に作ったゼリーがあるんだけど、一緒に食べない?」

 

 娘に誘われるがままリビングへと向かい、目の前のテーブルにゼリーを差し出される零侍。これまで干渉することがほとんどなかった為、娘の料理の腕がどれほどのものかまでは把握していないものの、見た目だけであればよい出来であると一人感嘆していた。

 

「これをお前が……」

「うん、友達とね」

「そう……か」

「ほら! 冷める……ことはないけど、ご賞味あれ!」

 

 これまでの時間を取り戻さんと明るく振舞う文乃に促され、零侍はスプーンでゼリーを掬い、口に運んだ。

 最初に感じたのはヨーグルトの酸味と香り。だが、そこまで酸味はきつい訳ではない。白いゼリーの部分の甘さと、青いゼリーの部分のブルーハワイの香りが漂う涼やかな甘みが合わさり、なおかつ上に乗っていた星型のドライマンゴーが疲れた体に染みわたる甘さを溢れさせていく。

 

「どう、かな?」

 

 不安そうに自分を見つけてくる文乃。

 そんな娘に対し、零侍の口から出た言葉は―――。

 

「……うまい」

「!」

「だが、少々私には甘すぎるな」

「え」

「コーヒーと合わせなければ、な……」

「えぇ~~~!? 一生懸命作ったのにそのリアクション!?」

 

 悲しい中年の味覚は、娘の淡い期待を砕き散らした。

 隣でプンプン怒る娘の様子に、ようやく『しまった』と感じた零侍であったが、時既に遅し。

 

 またヘマをやらかしてしまったと反省する零侍であったが、

 

「だったら、次はもっとおいしいの作るからっ! もうっ!」

「―――ああ、楽しみにしてるよ」

 

 ふくれっ面で再戦を決意する娘に、父は甘すぎる甘味に口元をぎこちなく歪ませるのであった。

 



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10. カツ丼

 センター試験。それは日本の大学における共通入学試験のことであり、一般的に1月の半ばに行われる。

 故に、12月ともなれば受験生は自身の勉強に追い込みをかけることとなり、親も勉強に励む我が子をなんとかサポートしようとするものだろう。

 

 受験に成功―――勝つように。

 

「と言う訳で、今回はカツ丼作っちゃおう!」

「カツ丼……!」

 

 カツ丼を作ろうと口に出す良太に、文乃は戦々恐々していた。

 カツ丼は、とんカツを出汁で煮て卵で閉じた後、ほかほかのご飯に乗せた丼物である。サクサク衣に染み込んだ出汁とジューシーな肉、そして白飯のコンビネーションが絶妙な食べ物であり、受験シーズンには願掛けに食べられることが多い。

 

「これから料理教えるのは時間的に厳しいしね。僕から教えられる料理は多分これで最後だよ……」

「し、師匠……」

「というか、最初の時点では揚げ物を教えるのがものすごく怖かったよね」

「師匠……!」

 

 ごもっともだ。

 

 カレーを作ろうとして謎の黒い液体を作る人間に揚げ物などやらせようものならば、火事になること必至である。

 しかし、機は熟した。ある程度料理のノウハウを覚えた今の文乃であれば、揚げ物を習得するに足りると良太は考えた。

 

 そんな良太の考えを理解してか否か、文乃は唇を噛んで目尻に涙を溜める。彼女自身、揚げ物をしようものならボヤ騒ぎになることを自覚していたのだろう。

 

「よし……カツろう!」

「カツろう?」

 

 新単語を口に出す文乃はさておき、レッツ・クッキング。

 

 

 

 ***

 

 

 

「まずとんカツを作るのに必要な材料がこちら!」

 

 ドン! とテーブルの上に置かれるのは、15分ほど前に冷蔵庫から出して常温に戻した厚切り豚ロース肉である。

 

「常温に戻すのは、揚げた時に中まで火が通るように……だねっ!?」

「そうだね。でないと、中まで火が通るまで揚げようとした時、衣が焦げるまで揚げることになっちゃうからね!」

 

 そのような厚切り豚ロース肉をとんカツへと昇華させるに必要な材料は、塩こしょう、卵、薄力粉、パン粉の以上だ。

 

「の、前に……肉と脂の間の筋に切りこみを入れて」

「うんうん」

「そして、肉を叩いて厚みをそろえよう」

「待ってました!」

 

 肉を叩くと聞くや否や、文乃は台所を漁って肉たたき棒を取り出した。

 恐らく人生で一度も使ったことがない道具であろうが、だからこその好奇心が文乃の心を躍らせる。

 

「どのくらい強く叩けばいいっ!?」

「強すぎずリズミカルにがベストかな」

「……そっか」

 

 肉たたき棒を構えていた文乃が若干落ち込んだ。

 その様子に『どれだけ強く叩くつもりだったんだろう……』と良太は慄いた。何故ならば、文乃の背中から肉への並々ならぬ怨念を感じ取ったからだ。

 

 『全ての肉など平らになってしまえ』―――そんな怨念を。

 

 シンクに映る彼女の瞳に光は灯っていなかった……。

 

 閑話休題。

 

 注意された以上、バチボコに肉を叩く訳にもいかなくなった文乃は言われた通り、強すぎずリズミカルに肉を叩いて伸ばしていく。

 そうして平らになってきた頃合いに、塩こしょうで下味をつける。

 

 下味をつけた後は、薄力粉を薄くまぶしてから溶き卵に潜らせ、最後にパン粉を全体にまぶす。

 

「これで揚げる前の準備は整った訳だけど……」

「どうしたの、古橋さん?」

 

 顎に手を当ててう~んと悩んだ様子を見せる文乃は、良太にこう答える。

 

「油の温度って……」

「とんカツを揚げるなら低温……160℃ぐらいだよ?」

「でも、油の温度ってどうやって計るの?」

「なるほど」

 

 鍋によっては油の温度を計ってくれる代物も存在するが、恐らく一般家庭にはないだろう。

 

「まさか温度計で測るんじゃないよね……?」

「流石に温度計を揚げるのはちょっと……」

 

 ちゃっかりと温度計を用意していたらしい文乃が手に掲げるが、良太がそれをやんわりと制止する。

 そんな文乃へ代わりに持たせたのは菜箸だ。

 

「油の温度なら菜箸から出る泡の具合でわかるよ」

「へぇ、そうなんだぁ!」

 

 油の温度の計り方には、菜箸の泡の具合で計る他に衣やパン粉で計る方法があるが、衣とパン粉の方法よりも菜箸で覚えた方が揚げ物料理全般で使える方法であるため、ここでは菜箸での計り方を用いよう。

 

 今回の料理であるとんカツは低温で揚げるが、揚げ物に使う油の温度は150~160℃が低温、170~180℃が中温、180~190が高温と分けられる。

 その温度の違いをどのようにして菜箸で計るかと言えば、事は至って単純。菜箸を油の中に突っ込むだけだ。

 

「低温だと箸先から細かな泡が静かに出てきて、中温だと箸全体から出てくる。高温だと、箸全体から勢いよく泡が出てくるんだ」

「へぇ~! 菜箸って便利」

「現代までにお母さんが培ってきた技術の結晶とも言えるね」

 

 実際にこの方法をお母さんたちが培ったのかはさておき、油を低温まで加熱したらパン粉をまぶした豚ロース肉を投入する。

 返すタイミングは衣が少し色づいてきた頃だ。

 そして仕上げに、揚げ油の温度を高温まで上昇させ、一気にカラっと揚げる。こんがりとキツネ色に上がってきたら取り出し……、

 

「これでとんカツは完成!」

「……っ」

「食べたい気持ちはわかるけども、抑えて」

「うん、わかってるよ。わかってるんだけども」

 

 揚げたてのとんカツを前にごくりと喉を鳴らす文乃であったが、これまた良太に制止されて食欲を抑え込まれる結果となる。

 

 そんなとんカツができれば、ようやくカツ丼を作る作業だ。

 用意するものはとんカツを始めに、玉ねぎ、卵、三つ葉、だし汁、みりん、砂糖、しょうゆである。

 

「まずはとんカツを幅2センチくらいに切っていこう」

「うんっ!」

 

 言われるがまま、とんカツに包丁の刃を入れる文乃。

 揚げたてなこともあり、直接触ることが憚られる熱さだが、だからこそ食指が動きそうになる。

 サク、サク、と衣が切られていく小気味よい音がキッチンに響く。

 こんがりきつね色の衣……このままソースでもかけて食べたら、どれだけ美味しいのだろうという考えが二人の脳裏に過る。

 

 そんなことを思った時、腹の虫が『食べたい!』と喚き始めるではないか。

 

 グゥ~とキッチンに響きわたる二人の腹の音。一瞬の静寂の後、二人は気まずそうに対面した後、耐え切れなくなったように笑ってしまう。

 

「佐藤くん……」

「……一つ、食べちゃおっか」

「賛成!」

 

 賛成派多数でとんカツを実食である。

 

 とんカツの一かけらを二等分にし、冷蔵庫に入っていたウスターソースをかけ、そのままひょいと口に放り投げるように食べる二人。

 まず歯触りの良い衣を感じたかと思えば、続けざまに豚ロース肉の肉汁がじゅわりと舌の上に広がる。豚の脂の甘みがウスターソースの塩気と合わさり、口の中はまたたく間に芳醇な香りに包まれていく。

 

「すごい、とんカツだぁ~!」

「まあ、とんカツだからね。このとんカツを使ってカツ丼を作っていくんだよっ!」

「絶対おいしい!」

 

 と、英気を養えた二人はいざカツ丼作りの作業へと移る。

 とんカツの他に切るものは玉ねぎと三つ葉だ。玉ねぎは6ミリ程度の幅に切り、三つ葉は3センチほどの幅に切っていく。

 

 そうして切るべき材料を切り終えれば、だし汁をフライパンへと入れ、強火にかけて煮立たせる。

 

「煮立ったら玉ねぎから入れるよ」

 

 火加減を中火にし、蓋をする。

 そうして玉ねぎを煮ること3分。玉ねぎがしんなりとする頃合いを見計らい、用意していた調味料でありみりん、砂糖、しょうゆを加えて混ぜる。

 

「ここでとんカツの出番だよっ!」

「あぁ~、おいしそう! これって衣が出汁をいい感じに吸ってサクサク感を残しつつ味が染み込んでいくんだよね!?」

 

 目を爛々と輝かせている文乃は、一方の端だけなくなったとんカツをフライパンの上に並べていく。

 これだけでも十分美味しそうな見た目をしているものの、ここからさらに煮立たせてからが本番だ。

 

「用意した溶き卵! これを中心から外側へ向かって流しいれる!」

「はいっ!」

 

 事前に溶いていた卵が、グルグルと回すようにフライパンに流し込まれていく。

 渦を描く卵は沸騰していた出汁の熱でみるみるうちに鮮やかな白と黄色のコントラストを生み出していく。

 一気に見た目が華やいだ。

 このまま卵にも出汁の味が染み込むまで煮込むのも一興であるが、今回は卵は半熟、とんカツの衣はサクサクのままで完成させるため、卵が半熟になったら火を止める。

 

「ここまで来たら完成は目前だねっ! どんぶりにご飯をよそって、その上に具を煮汁ごと乗せよう!」

「んっ……!」

 

 緊張の一瞬。

 もしかすると手が滑ってとんカツごとフライパンをひっくり返さないかと心配する文乃であったが、特にそのようなハプニングもなく、白飯の上に王冠の如きとんカツが乗せられた。

 煮汁でふやけることもなかった衣の上面は、依然として鮮やかなキツネ色のままだ。

 一方で、とんカツを乗せられた白飯は一緒に乗せられると共に注がれた煮汁によって、じんわりと出汁の色に染まっていく。

 

「ほわぁ~……!」

「じゃあ、最後に三つ葉を乗せて……」

 

 爽やかな香りが立つ三つ葉を卵に閉じられたとんカツの上に添えれば、カツ丼の完成である。

 本格的な揚げ物料理。さらにそこから派生した丼物の完成に、文乃は良太以上の感動を覚えているようであり、顔から笑顔が離れない。

 

「はぁ~……その者黄身の衣まといて白色の米に降り立つべし! だよっ!」

「ジ○リ?」

 

 ランララランランラン♪ と音楽が聞こえてきそうなセリフを文乃は口にする。

 そんな彼女の冗談を聞きつつ、テーブルの上に鎮座するカツ丼は、良太が監修していることもあってか初心者の文乃が作ったにしては色鮮やかで食指を動かせる見事な出来だった。

 

 そんなカツ丼を食べる為、良太の分はどんぶりから半分ほどよそう。

 

「それじゃあ……」

「うんっ!」

 

 椅子に座り、端的な応答で意思疎通する二人は箸を手に持ち、

 

「「いただきますっ!」」

 

 本当の実食。

 

 とんカツを一つ摘まみ上げ、一口分噛み切ってからご飯を頬張る。

 とんカツのジューシーさもさることながら、半熟の卵とそれに混ざった出汁が程よい塩気を出し、これがご飯によく合う。

 サクサクの衣も歯触りが良いが、一方でたくさん出汁を吸い込んでふやけた衣もご飯との相性が良く箸がどんどん進む。

 

「うん、うん。作り立てはやっぱり美味しいねっ!」

「七味をかけても美味しいよ」

「そうなの? かけるゥ!」

 

 薬味をかけることを勧められた文乃は、持ち前の運動神経も相まってかすさまじい速度で七味唐辛子が入っている瓶を持ってきて、パッパッとカツ丼にかけてまた一口頬張った。

 

「うん、辛みがいい刺激になってる! あぁ~、もう! ピリ辛ってどうしてお箸が進んじゃうの!?」

 

 揚げ物なだけあってカロリーが高いことも承知だが、文乃の箸が止まる気配は一向にない。

 寧ろ、七味による味や香りの変化もあってか、どんどん箸は進んでいき完食直前まで食べ進めるではないか。

 

 しかし、ジッと見つめてくる良太の視線に気が付いたのか、最後の一口を頬張る直前でピタリと止まる。

 卑しい姿を見せてしまったとでも思っているのか、恐る恐る良太に対し上目遣いの状態で視線を送る文乃は、羞恥から上気した頬に一筋の汗を流す。

 

 そのような文乃の視線を受け、見とれてしまっていた良太はハッと我に返り、あたふたとせわしなく手を動かす。

 それから『ハハッ』と取り繕うような笑みを見せた良太は、頬をポリポリと指で掻き、文乃の食事を促すようこう告げた。

 

「僕はいっぱい食べる古橋さんが好きだよ」

「げほっ!?」

「だから、どうぞ召し上がって」

「だ、だよねっ! 安心して! こんなに美味しいもの残したりしないから! ―――あむっ!」

 

 良太の言葉に咳き込んだ文乃であったが、平然としている彼の姿を見て、一瞬脳裏を過った言葉の意味が邪推であると結論付け、最後の一口を頬張った。

 

「ごちそうさま!」

 

 空になったどんぶりの前で文乃は合掌した。

 

(ビックリした……告白されちゃったのかと思ったよ)

 

 表面上はカツ丼を完食して満足そうな顔を取り繕っているが、内心は告白染みた良太の言葉にドキドキとしていた。

 一方、良太はと言うと、

 

(古橋さんは好きな人が居そうだし……料理を教えてあげられただけでもいい思い出だし、これを機にすっぱり諦めよう!)

 

 割と前向きな心持ちで文乃のことを諦めていた。

 結ばれなくても、十回も料理を教えられたのであれば思い出としては十分だと考えたのだ。

 のほほんと笑みを浮かべつつ、良太もカツ丼を完食。

 

 それからは二人仲良く食器を洗った後、良太を古橋宅から見送った所で、文乃の料理勉強は一先ず終止符が打たれるのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「よし、一人でもお料理できるもん! だよっ!」

 

 良太にカツ丼を教えてもらった日、文乃は一人料理に勤しもうとしていた。

 鍋の前に立ち、しっかりとレシピ通り具材を鍋に投入し、火加減も調節しつつ鍋の中身をかき混ぜる。

 

(それにしてもビックリしたなぁ~……急にあんなこと言うんだもん)

 

 混ぜる、混ぜる。

 

(『好き』……かぁ)

 

 混ぜて、さらに混ぜる。

 

(……はっ! いや、成幸くんはそういうんじゃなくて! あぁ~~~!!)

 

 そして焦げた臭いが漂ってきた。

 

「あれ? ……きゃ~~~!」

 

 いつの間にか長考していたようであり、鍋の中身が一部焦げ始めていることに気が付いた文乃であったが、もう遅かった。

 シチューを作っているハズであったのにも拘らず、できたのはシチューとは似ても似つかない真っ黒な液体。時折浮かんでいる焦げた具材が文乃の悲壮感を煽る。

 

「……あ゛ぁ! 料理してると、こう……色々頭に浮かんでくる!! だよっ!」

 

 なまじ時間がかかる料理であればあるほど、文乃のここ最近の(恋の)悩みが脳内に浮上し、結果目の前で作っている料理から意識が外れる。

 結果、失敗してしまう……。

 

 

 

「こんなんじゃ、私……料理できないよぉ~~~!」

 

 

 

 文乃ちゃんは料理ができない。

 

 

 

~Fin~

 




*完結*

こんにちは、柴猫侍です。
この度は本作を読んで頂き誠にありがとうございます。料理を作らない作者がレシピ本を買ったりネットを漁った知識で書いた意欲作でありましたが、読者の皆様は楽しんで頂けたでしょうか?
少しでも楽しんで頂けたのであれば、自分としては幸いです。

本当に拙い作品であったとは思いますが、何度も言うようでありますが、読んで頂き誠にありがとうございました。
気が向きましたら、自分の他の作品にも目を通し、お眼鏡に適うものがあって読んで頂けるのであれば自分としても嬉しい限りです。

今後も投稿活動はゆるりと続けていくつもりです。
今後とも柴猫侍をどうぞ宜しくお願い致します。
それでは、また別の作品でお会いしましょう。さようなら。


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