空海なら、現代日本で何をする? (宝蔵院 胤舜)
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プロローグ

空海なら、現代日本で何をする?

 

 

プロローグ

 

 

承和二年(835)、高野山に於いて、一人の偉大な高僧の命が尽きようとしていた。彼は、弟子達を前に、静かに語った。

「この世界から救うべき衆生が全て涅槃に入り、涅槃もその役目を終え、この宇宙の寿命が尽きれば、私の願いも満たされるだろう。それまでは、再び生まれ変わって弥勒菩薩のお手伝いをさせて頂こう」

彼はそう言い残して、目を閉じて永遠の瞑想に入った。

彼の名は、空海という。

 

 

時は、平成三十年春。

「ええ日和やなあ。桜も満開で、散歩にはもってこいや」

空海は盛大に煙を吐き出した。キャビンのとんがったにおいだ。

「空海、ええんか、こんな所で油売ってて」

俺は何となく後ろめたい気持ちで彼に尋ねた。

「お前が、神戸に生まれ育ったのに須〇寺に来た事が無いて言うさかい、連れて来たんやないか。気にせえへんで堂々とお参りしたらええねん」

空海はそう言って笑った。今、空海と俺は須〇寺に来ている。須〇寺は神戸市須〇区にあり、八八六年創建の、真言宗須〇寺派大本山だ、とパンフレットに書いてある。空海はここで、事あるごとにバイトしては収入を得ている。

寺務所受付は、花見を兼ねたお参りの人々でけっこう忙しそうである。が、

「今日は、仕事やないからな」

空海は至って淡々としている

客殿というお堂の前に小さな土蔵があり、その横が喫煙スペースになっている。そこから、右にも左にも桜の花が良く見える。

空海は、ビニール袋からサンドイッチを取り出して食べ始めた。山陽電車の「須〇寺駅」から寺へ来るまでの「須〇寺商店街」にあるパン屋で買ったものだ。俺はカツサンドを買った。空海が「美味いから食うてみろ」と言うので、試しに買ってみた。

かぶり付いてみると、確かに美味い。カツの衣がサクサクで、ソースの相性も良い。

空海は缶コーヒーも開けた。これは、この寺の仁王門前の自販機で買った。

「あれから、もう五年も経つんやな」

コーヒーを飲みながら、空海はしみじみと言った。

そうか、こいつが俺の部屋に転がり込んでから、もう五年も経つんか。

俺、立花(たちばな)弘史(ひろし)は目の前の男、アシックスの赤いジャージを着た空海と名乗る坊さんをまじまじと見返した。

「何や?俺の顔に何か付いてるか?」

空海が笑って問い掛けて来た。

「目ェと鼻と口と付いとおわ」

俺も笑って答えた。

「そらそうや。おんなじ人間やで」

空海はそう言うと、缶コーヒーを飲み干した。

 

 

20180330



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スマホ

空海なら、現代日本で何をする?

 

 

スマホ

 

 

平成二十五年のある日。

俺のスマホが、ちゃぶ台の上でブルブル震えた。震動が台の上で増幅され、いつもよりうるさい。

枕元の時計を見ると朝の八時である。今日はバイトは休みなので、朝寝を決め込んでいたのだが、叩き起こされた格好だ。

しばらく放置していたら震動が止んだ。しかしまたすぐに鳴り出した。これも放置していたら止んだ。で、また鳴り出した。

隣の布団の上であぐらをかいている(毎回、結跏趺坐だと訂正される)空海が、スマホを覗き込む。

「弘史、『小林』て出てるで」

それを聞いて、俺はしぶしぶ出る決意をした。小林さんは、新〇田の東〇プラザB1の「SE〇YU」のバイト係だ。

「どうしたんすか、小林さん。俺今日は休みっすよ」

「悪いな、判ってんねんけどな」小林さんはちっとも悪いとは思ってなさそうである。「レジのアキちゃん、今日あかんねんて。立花くん出られへんか?」

「まあ、今日は予定ないですし、いいっすよ」

「ありがとー、助かるわ」

「でも、何で俺やったんです?」

「立花くん、ヒマやろ?ほなね」

小林さんは失礼な一言を残して電話を切った。まあヒマやけど。

「小林さん、何やて?」

「ああ。『バイトに穴空いたから、来て』やて」

「行くんか?」

「まあ、ヒマやし」

俺はそう言って布団から這い出すと、洗面所に行って顔を洗い、歯を磨いた。部屋に戻ると、空海が俺のスマホをしげしげと見つめていた。

「どしたん?」

「これって、『でんわ』やったよなあ」

「うん」

「『ねっと』とかも出来るんやったよなあ」

「うん」

「欲しいなあ」

「無理」

「何で?」

「俺、バイトしか収入ないねんで。スマホ二台持ちなんてありえへんわ」

俺の言葉に、空海はしゅんとなった。

「今からバイト行くから。何か方法ないか、考えてみるわ」

何だか可哀想になって来て、俺は思わずそう言っていた。

 

結果だけ言うと、丁度期限だった俺のスマホを機種変更して、その時に『実質0円』のタブレットを手に入れた。俺はパソコンを持っていないので、代用品として使えるだろう、と自己正当化をしたのだ。

『でんわ』ではないが、Sk〇peやLI〇Eで通話も出来なくはないので、空海にはそれでお茶を濁しておこうという目論見もあった。

空海は喜んでくれたが、お陰で、月中ばくらいには速度がガタ落ちになるようになってしまった。

 

20180403

 

 

※ちなみにこの部分は、1000文字に足りない為に書き込んでいる、調整用文章です。このお話が案外短い事に、自分でも驚いています(笑)。



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永遠(とわ)の別れ

空海なら、現代日本で何をする?

 

 

永遠(とわ)の別れ

 

 

俺がバイトしている新〇田の東〇プラザB1にある「SE〇YU」で同じくバイトしているアキちゃんは、東〇ブラザが「ジョ〇プラザ」と呼ばれ、大〇が入っていた頃からのレジマスターである。俺がまだマ〇ドやシ〇ゴピザで配達をしていた時に、セーラー服姿でレジに立つ彼女を見た事がある。今は立派な〇戸女子大生で、レジバイトを事実上統括している。

そんな彼女が、バイトを三日休んだ。久し振りに見たアキちゃんは、目の周りを赤く腫らして、ずい分と憔悴して見えた。

「アキちゃん、大丈夫?もう少し休んだ方がええんとちゃう?」

「ありがとうヒロシくん。でも、落ち込んでてもアカン思て」

アキちゃんは気丈に笑った。彼女と仲が良かった叔父さんが、交通事故で亡くなったらしい。

「ヒロシくん、ごめんな。この間、バイト替わりに入ってくれて」

「そらしゃーないわ。気にしんでな」

俺は勢一杯のいたわりの気持ちを込めて言った。なので、いつもの事ながらの、「彼女の方がひと回り以上歳下だけどタメ口」なのは今日はあえて解禁で。

レジに立って昼前ぐらいになった時、空海がやって来た。スキンヘッドにタオルを巻いて、ジャージに雪駄という出で立ちなのに、チンピラ風に見えないのはやはり人徳か。

丁度レジがすいていたので、俺は空海に声を掛けた。

「おーい、空海、どしたん?何か買い物か?」

「おお、弘史。お疲れ。お仕事ご苦労さん」空海は笑って言った。「いや、弘史がどんな風に仕事してるんかな思て」

「まあレジ打ちやけどな」

「人の買い物の金額を計算すんのやろ?責任重大な立派な仕事やで」

空海は真顔で言った。隣のレジにいたアキちゃんが、何か感心したように目を見開いていた。

そこへ、どっと客がなだれ込んで来た。

「邪魔したな」

空海はすっと身を退くと、買い物カゴを持って店内を歩き出した。

人の流れが少なくなった所で交代のパートさん達が来てくれたので、アキちゃんと俺は控え室へ戻った。昼はまかない弁当なので、アキちゃんと二人で弁当を取ると、そこへ空海が入って来た。

「良くここが判ったなあ」

尾行(つけ)て来た。一緒にお昼しよう思て」

空海はしれっと言うと、レジ袋からここで買った弁当を取り出した。

「ねえヒロシくん、このイケメンさん、誰?」

アキちゃんが、空海をまじまじと見ながら尋ねた。

「失礼。申し遅れました」空海が自ら口を開いた。「私は高野山の僧侶で、空海と申します。今は訳あって、弘史の部屋に居候させて貰ってます」

「えっ?居候?」

アキちゃんは目を丸くした。

「ヒロシくんもしかして」アキちゃんは声を潜めた。「BL的な感じ?」

「いや全然ちゃうし」

俺は強く首を振った。

「衆道に関しては、私はあまり詳しくはありませんが」空海は艶然と微笑んだ。「人が人を好きになる、というのは美しい事だと思いますよ」

「ビミョーに誤解を招く表現やなそれ」

俺は肩をすくめた。

談笑しながら弁当を食べ終えて、お茶を飲んでいると、アキちゃんが空海に向いて姿勢を正した。

「ねえ、空海さん。空海さんは、お坊さんやんね?」

「一応そうですよ」

「じゃあ、教えて。何で人は死んでまうの?ずっと一緒にいて欲しいと思てる人でも、何で簡単にいなくなってまうの?」

アキちゃんは涙目で尋ねた。やはり叔父さんの死が堪えているのだろう。

「そうですね」空海は、優しい口調で言った。「いて欲しい人ほど、目の前から消えてしまうものですね」

「空海さんも、そんな事があったん?」

「ええ。智泉という年若い甥っ子だったんですが、稀に見る天才で、私の後継者は、彼しかいないと思っていました。でも、彼は病気で亡くなってしまった」

そう言う空海の顔は、見た事の無い寂し気な表情だった。

「私はね、僧侶として人に『死を受け入れよ』と説いて来ました。人は生まれた以上、必ず死ぬのです。それは、釈尊ですら避けられなかった明確な事実です。でも、智泉の死で、受け入れる事の難しさを実感しました。でも、新たに判った事もありました」

「なあに?」

「大事な人、私の場合は智泉ですし、アキちゃんなら叔父さんは、自分の中で生きているって事です」

「生きている?」

アキちゃんは首をかしげた。

「ええ。確かに姿を見たり、声を聞いたりは出来なくなりましたが、一緒に過ごした記憶、話した言葉、教わった事など、その人の色んな事が自分の中に残っていて、何か判断が必要な時に、その声が聞こえて来るんです。同じ世界には居ないけど、見守ってくれているって感じられるんです」

「私もそう思えるやろか?」

アキちゃんが、そっと涙をぬぐいながら言った。

「大丈夫。その為にこそ四十九日の中陰の期間があるのだと思いますよ。亡くなった人と共に、残された私達も一緒に修行するのですよ。でもね、アキちゃん」

「はい」

「寂しかったら、泣いても良いんです。皆で泣いて、少しずつ受け入れて行けば良いんですよ。憶えていてあげる事が、一番の供養なんですから」

「…ありがとう空海さん」アキちゃんは泣き笑いの表情で頷いた。「すぐには出来ないかも知れへんけど、ちょっと楽になった」

アキちゃんは立ち上がって空海にちょこんと頭を下げると、バイトに戻って行った。その足取りは、心なしかさっきより軽くなったように見えた。

「さて、俺も戻らんと」

俺も、お茶の最後のひと口を飲み干して、立ち上がった。

「なら、俺帰るわ」

空海も立ち上がった。

「あのさ、空海」俺は笑いながら言った。「さっき、空海が『お坊さん』に見えたで」

「しばくでホンマ」

空海も笑って答えた。

 

20181020



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バイト

空海なら、現代日本で何をする?

 

 

バイト

 

 

「なあ、弘史、俺バイトするわ」

空海が突然そんな事を言い出したので、俺は驚いた。

「どしたん、バイトて」

バイト発言もさる事ながら、"空海"がアルバイトをする、という異常事態に驚いていた。

「いやな、今、俺無収入やろ。弘史に悪いな思て」

真面目な顔で言う。最近タブレットで何やら求人情報みたいのを調べていたと思ったら、そういう事だったのか。

「バイト言うたかて、何か出来る事あるんか?」

「どうやろ?大概の事は出来ると思うけど」

「でもなあ、最近はバイトでも資格や免許いる事多いで」

「資格かあ。朝廷の定額僧ぐらいかなあ」

「それはそれで凄い思うけど、バイトには役立たへんやろな」

「内職であらへんかな、代筆みたいなん。俺、字はそこそこ書けるで」

「あんたより字ィ上手い人の方がおらんやろ」

俺は思わず笑ってしまった。俺が高校時代、三ヶ月だけお世話になった書道の先生は、『風信帳』を手本にしていた。

「でもなあ、ネットで調べてみても、今時は筆よりワープロ使う方が多いらしいしなあ」

空海は溜め息をついた。

「バイトなあ…」

そう呟いた俺だが、ふと気付いた事があった。

「そう言えば、空海って、お坊さんやんな?」

「一応、本職やで」

「なら、お寺でバイトしたら?」

「寺でバイトなんてあんの?」

空海は目を丸くした。

「知らんけど」俺は肩をすくめた。「ダメ元で聞いてみたらどうやろ?」

空海と俺は、近所の光〇院という寺に行ってみた。俺の記憶が正しければ、ここは真言宗の寺のはずである。

いきなり訪問した二人に、住職は快く対応してくれた。ざっくばらんな感じで、俺はちょっと安心した。

「悪いけど、ウチは手ェ足りてんねん。でもな、いつも人手が欲しい言うとおトコあるから、そこを紹介したるわ」

住職はそう言うと、その場でスマホを取り出し、何やら話し出した。

「明日、副住職が午前中は空いてるそうやから、行ってみ。須〇区にある、須〇寺ってトコや」

光〇院を出て、アパートへ帰る道すがら、俺は空海に言った。

「ごめん、俺、明日どうしても抜けられへんねん」

「バイトやろ。判ってるて」空海は笑った。「ここまでツナギ付けてくれただけでも十分や。後は自分だけで大丈夫やで」

「電車とか大丈夫か?」

「何とかなるて。アカンかったら歩いたらええねん」

「須〇まで?」

「グーグ〇マップで見たら、九里半(約六キロメートル)くらいやろ。近いもんやん」

屈託無く、空海は笑った。

 

翌日、俺がバイトから帰ると空海は既に帰っており、肉を焼いてグリーン〇ベルで一杯やっていた。『肉のマ〇ヨネ』の袋があったので、少なくとも帰りは歩いて来たらしかった。

「どうやった、須〇寺の面接は」

「ええ人やったで、副住職」空海は上機嫌だった。「去年から寺に入ったらしいけど、まじめで熱心やな。ほとんど正体不明の俺の事、(やと)てくれはるて」

「ホンマか。そら良かったな」

俺もグリ〇ベを開けながらテーブルに着くと、肉を頂いた。ハラミだった。

「和牛のハラミやて。中々入らんらしいわ」

空海はそう言ってビール(発泡酒)を呑み干した。すぐ次を開ける。三本目だった。

「いつから仕事行くん?」

俺も何だか機嫌が良くなって来た。

「とりあえず、今度の二十日、二十一日が縁日で忙しいらしい。まずはそこからや」

「もう来週やないか」そう言ってから、俺は笑ってしまった。「その日、確か『お大師さんの縁日』やったと思うで」

「誰やお大師さんて」

「あんたやで」

「俺、大師号もろてへんで」

「俺もよう知らんけど。とにかく、おめでとう」

「ありがとう」

俺は、空海とグリ〇ベでカンパイした。

 

20180412



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小説

空海なら、現代日本で何をする?

 

 

小説

 

 

平成二十五年の、秋も深まって来たある日。

俺がバイトから帰ると、空海は壁にもたれて、本を読んでいた。床にも本が積んである。ハードカバーだ。

「おお、お帰り弘史。あれ、早速使()こたで」

空海がにこやかに言った。「あれ」とは、昨日寝る前に話していた「図書館利用者カード」の事だ。

とにかく情報が欲しい、という空海に、俺は大〇山にある市立中央図書館のカードを渡したのだ。ここしばらく使っていなかったが、多分まだいけるハズだった。

「良かった。ちゃんと使えたんやな」

「一応住所と電話番号の確認はされたで。前は北区に住んどってんな?」

「そうや。震災の時に区画整理されて引っ越したんや。元々は浜中町やったんやで」

「ホンマか。すぐそこやんか」

「ところで、空海」俺は、ふと彼の手にある本に目がいった。「本、何読んでんの?」

「ああ、これか?」

空海は笑いながら本を持ち上げて表紙をこちらに見せた。

表紙には、『沙門空海 唐の国にて鬼と宴す』著・夢枕獏とあった。

「これ、ホンマに面白いなあ」

それを聞いて、俺は思わず笑ってしまった。

「それ、自分が主役やろ?」

「ええやん、カッコええやん空海。惚れてまうわ」

「俺もそれ読んだけど、確かに面白かったなぁ」

「ただ、この空海、ちょっとお澄ましし過ぎちゃうか?俺こんなんちゃう思うけどなぁ」

そこで、俺はふと気になった。

「ところで空海」

「なんや?」

「その本に書いてあるような事、ホンマにあったんか?」

「何て?」

「いや、例えば玄宗皇帝と楊貴妃の話とか」

「さあ。昔の話やからなあ」

空海は笑って言うと、また本に目を戻した。

「何なん、自分の事やろ?」

「舞台裏の詮索は反則ちゃうんか?」

「でもなあ、当事者が目の前におったら、やっぱり気になるやろそこは」

俺の言葉に、空海は本から目を上げずに、

「まあこういうのは、言わぬが花、という事や」

なんて事を言う。

俺は釈然としないまま、グリ〇ベを開けた。つまみはサッポ〇ポテト・バーべキュー味。

「作家って、凄いなぁ」

空海が、溜め息まじりに言った。

「どしたん?」

「この小説の中の、橘逸勢な、本人そっくりやねん」

「そうなん?」

「自信過剰なのに心配性、傲慢なのに卑屈、嫌な奴に見えて実は良い(おとこ)な所なんか、完璧に再現されていると言って良い。何だか懐かしささえ感じるわ」

「へえー、やっぱり凄いんや獏」

俺は素直に感心した。

「お前も良い漢だな、弘史」

空海は本を置いて、俺を見て言った。

「何や急に」

「だって、今のこの会話、俺が『本物の空海』って事が前提やで」

「そうやなあ」

「疑わへんのか?」

「特に疑う理由もないしな。まあ、あれや」

「何や?」

「教科書で見る絵より男前やと思うぐらいか」

俺は本気で言ったのだが、空海に笑っていなされた。

「何も出えへんで」

「まだ出すのはこっちからや」

俺は言いつつ、グリ〇ベを空海に差し出した。空海は受け取ると、片手でタブを開けた。

一気に半分ほど呑んで、大きく息をついた。

「美味いなあ。長安にも『ビール』は無かったで」

「やっぱり胡酒(ワイン)ばっかりやったん?」

「流行っとったな」

「坊さんが酒呑んでええんか?」

「ま、呑むも呑まんも方便や」

「そんな適当でええんか?」

「酒は薬やで」

「そんなもんか」

俺はなんとなく納得してしまった。

「やっぱり、お前は良い漢や」

空海は満面の笑顔で言った。

「誉められた思てええんか?」

俺も笑って答えた。

 

20180423



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衆生済度と精進

空海なら、現代日本で何をする?

 

 

衆生済度と精進

 

 

今日は、俺もアキちゃんもバイトは昼までで上がりだったので、近くのマ〇ドで昼ごはんでも、という事になった。

東〇プラザのすぐ隣の、ホテルサーブ〇戸ア〇タビル内にある、マ〇ド新〇田駅前店に入ると、レジ前に立ち尽くしている空海の姿があった。

「あれ、空海何やっとお?」

俺が声を掛けると、空海はビクッと肩を震わせた。

「良い所で来てくれたわ」空海は情けない表情で振り返った。「一ペン試してみようと入ったはエエんやけど、何が何やらサッパリで」

「全然判らんと入ったんかいな?中々チャレンジャーやな」

「ねえ空海さん、マクド初めてなん?」

アキちゃんが小首をかしげた。

空海は小さく頷いた。

「ホンマ?なら一緒に注文しよ。私のオススメでエエよね。どうせヒロシくんの奢りやし」

いつの間にそうなった?

 

ハンバーガーを頬張りながら、アキちゃんが尋ねた。

「ねえ空海さん。お坊さんって、お肉食べてもええの?」

俺は、目からウロコだった。酒について尋ねた事はあったが、肉に関しては当たり前のように受け入れていた。

「ほら、ちゃんと食べてますよ」

空海は笑って言った。

「いや、ほら、昔テレビで『西遊記』やってたやん。堺マチャアキの」

「アキちゃん古いなあ」

「もお、ヒロシくん黙っといて。でな、三蔵法師の夏目雅子が托鉢に出て、『なまぐさ物は頂けません』みたいな事言ってたやん。なまぐさ物ってお肉とかお魚やんな?どうなんかな思て」

「良い質問ですよ」空海は笑って答えた。「確かに仏教には、『不殺生戒』があります。それに基づいて、肉食を戒めています。ただ、『三種の浄肉』という律もあるのです」

「サンシュノジョーニク?」

「そう。三種類の清浄な肉。ひとつ、殺されるところを見ていないもの。ひとつ、自分に供される為に殺したと聞いていないもの、ひとつ、自分に供される為に殺した事の疑いのないもの。見聞疑と略されてます」

「どういう事?」

アキちゃんは首をかしげた。俺も首をかしげた。

「まあ簡単に言うと、このハンバーガーがそうですね。不殺生戒は、自分で殺してもあかんし、自分の希望で誰かに殺させてもあかん。でも、この肉は、私が食べる為にこの牛を殺して肉にしたところを見た訳ではない。不特定多数の消費者の為に食肉としているので、当然私の為に殺したと聞かされる事もない。そんな条件だから、私の為に殺した訳ではない事は間違い無い。そんな肉は、食べても良い、と『四分律』というお経に説かれているんです」

「そうなんや。お肉オッケーなんや」

「昔の、インドのお坊さんは、托鉢でしかご飯を食べたら駄目やったんです。で、托鉢しに行くと、色んな人が功徳を積む為に食ベ物をくれる、つまり『布施』をしてくれる訳ですけど、中には肉とか魚しか布施出来ひん人もおる訳ですね。それを断るのは、その人の功徳を積む機会を奪ってしまうという事で、残り物の肉を頂くのは良い、という事になってるんです」

「なら、マ〇ドもバッチリやな」

俺が頷くと、空海も頷いた。

「見聞疑の上に弘志が奢ってくれた。つまり『布施』ちゅう事やから、完璧や」

空海が話している間、ハンバーガーをモグモグしていたアキちゃんだったが、コーラでそれを流し込むと、再び口を開いた。

「この間な、テレビで『ぶっちゃ〇寺』ての見たんやけど、仏教は『シュジョーキューサイ』が一番の目標って言うてたけど、『人を救う』ってどういう事?」

アキちゃんは率直なギモンで尋ねたようだったが、空海は真剣な顔になった。

「そうやなぁ。では、逆に質問なんですが、アキちゃんは『救われる』てどんな事やと思います?」

「そやな、ゴキブリ出たらやっつけてくれたり、強盗に入られても追い返してくれたり?」

「そう考えるのが自然ですよね」空海は微笑んだ。「それは、『観音経』というお経にも説かれています。アキちゃんが言った通りの事が書いてありますよ」

「ホンマに?」

「ええ。例えば『悪人に崖から突き落とされても、観音様を念ずれば宙に浮かんで救かるよ』とか、『刃物を持った悪人に取り囲まれても、観音様を念ずれば奴らの刃物は砕け散ってしまう』とか」

「スゴい!観音様スーパーマンやん」

「ただ、これには大きな罠があって」空海は悪い顔をして見せた。「救けて貰うには、ひとつ重要な要素があるんです」

「何やろ?」アキちゃんは首をかしげた。「笛を吹いて呼ぶとか?」

「マ〇マ大使かい」

俺は思わず突っ込んだ。

「重要な要素と言うのは」空海には俺の突っ込みは判らなかったらしい。「救けて貰えるのは『念彼観音力』つまり彼の観音力を念ずる時だ、と言うのですよ」

「どーゆー事?」

「観音菩薩は、全ての困っている人を救おう、という誓いを立てて、それを実行しようと日夜努力を続けているのですよ。『念彼観音力』とは、その観音と同じ気持ちになりなさい、という意味なのです」

「それってつまり、自分も努力しなあかんって事?」

「ご名答」アキちゃんの答えに、空海は満足そうに頷いた。「仏教は、基本的に自力(じりき)、つまり『自分で自分を救う』という考えです。念彼観音力、要は自らの不断の精進によって、何か起こった時に冷静に対処出来たり、的確な助力を貰えたりする、と解釈するのが正しいと思いますね」

「そうなんやね。けっこう冷たいねんね、仏教て」

アキちゃんは肩をすくめた。

「そうかも知れません」空海も肩をすくめる。「その代わり、気の済むまで話を聞いたり、一緒になって悩んだりもしますよ」

「……ああ、そうやね」

この間の事を思い出して、アキちゃんは小さく頷いた。

「まあそんな訳で、弘志の奢りで頂いた食べ物を残さず食べるのも、大事な精進の一環なんですわ」

空海は涼しい顔でそう言うと、胸の前で手を合わせた。

 

20181027

20190329改

 

註 : マ〇ド 『マ〇ドナ〇ド』の関西的呼称。



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検索

空海なら、現代日本で何をする?

 

 

検索

 

 

平成二十五年十月二十一日。

今日は、空海のバイトデビューである二十日・二十一日の「須〇のお大師さん」の縁日二日目であった。

「あった」というのは、もう今は午後六時を回っているからだ。彼の話では、もう仕事は終わっているハズである。

俺自身のバイトは昼のシフトだったので、彼より遅く出て、早く帰って来ていた。

俺は、空海のデビューを祝う為、〇番しぼりを奮発した。あと刺身の盛り合わせ。ご飯も炊いて、味噌汁も作った。

ややあって、空海が帰って来た。手にはビニールの手下げ袋を持っている。

「おお、お帰り」

「帰ったで。これ、お土産」

「なんやこれ」

「晩ご飯やて。須〇寺の役僧さんは『ヘビ』ゆうてたわ」

袋の中を見てみると、プラスチックパックの中に、うなぎの蒲焼きと白ご飯が入っていた。

「なるほど。ヘビな」

俺は笑ってしまった。

「でも、おもろかったでバイト」

空海は笑いながら言った。

「ほうか、良かったなあ」

「何と言うか、千年経ったらこんななるんやな思て」

「空海にしか言えん感想やな」

「でもな、先祖とか、死んだ親とかに、あいさつするみたいに供養するの、良いかもな、とも思たわ」

空海は言いつつ、テーブルに着いた。先ず〇番しぼりを開ける。

「カンパーイ」

二人して缶を当てると、のどにビールを流し込む。

「プハーッ!」

二人で大きく溜め息をついた。

「やっぱりビール美味いな」

空海がニンマリとして言った。

「発泡酒とはちゃうな」

俺も首を振りながら言う。

「で、どないやったんバイト?」

俺はワサビを醤油に溶かしながら尋ねた。

「二日とも経木供養やったんやけど」

「キョーギクヨー?」

「板塔婆の形したうっすい板があんねん。それに戒名とか、何々家先祖代々とか書いて、お経上げて供養すんねんけど、これが結構いっぱい来んねん。ずっーとお経上げっ放しや。ノド渇れるか思たわ」

「ヘー、結構忙しかってんな」

「でな、これが法礼、つまりはバイト料やな」

空海が、オレンジ色の封筒をヒラヒラとさせながら言った。

「なんや、給料袋やないんや。てゆうか、なんやその封筒?」

「『〇戸市仏教会の花まつり』って書いたあるな。廃物利用って事かな」

「結構いい加減やな、須〇寺」

「ところで、この絵、お釈迦さんやんな?」

「多分な。知らんけど」

「お釈迦様の誕生日って、灌仏会の事やんな?何で花まつりなんや?」

「俺に聞くなや。ググッたらええやん」

「ホンマや。ググッたらええんや」

空海はタブレットを取り出した。

「えーっと、『花まつり 明治時代のグレゴリオ暦導入後、4月8日は関東地方以西で桜が満開する時期である事から浄土真宗の僧侶安藤嶺丸が「花まつり」の呼称を提唱して以来、宗派を問わず灌仏会の代名詞として用いられている。』Wiki〇ediaより、か。成程な」

「『サタデー・〇イト・フィーバー』やな」

「何やそれ?」

「トラボルタやん」

「ますます判らん」

「ググッたらええやん」

「ホンマや」

空海はタブレットで検索を掛けた。

「花まつり。おしゃかクン=J,トラボルタ説 - いか@ 武相境斜面寓 『看猫録』ってのがヒットしたで。あ、この下の写真がトラボルタか」

空海はぶつぶつ言いながら、今度はトラボルタを調べている。次は『サタデー・〇イト・フィーバー』。そこからYou〇ubeで動画へ。次から次へと検索が広がって行き、空海はその作業に没頭して行った。

「おーい、汁、冷めんで」

俺は一応声を掛けたが、空海はすっかり検索のチェーンリアクションにはまっている。

最後には、全然関係の無い『コーラにミントを入れてみた』みたいな動画を見て、大笑いしていた。

 

20180522



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蕎麦

空海なら、現代日本で何をする?

 

 

蕎麦

 

 

今日は、俺はバイトが休みだった。なので、朝から二度寝としゃれ込んだ。

「ダメ人間に、俺はなる!」

俺はどこかの海賊のように宣言すると、布団に寝転んだ。その横では、相変わらず空海があぐら(結跏趺坐)で座っている。

次に目を醒ました時には、時計は十一時近くを指していた。

俺は思わず腹をさすった。腹が空っている。

「なあ空海、メシ食いに行かヘんか?」

「ええけど、何食べるん?」

「そうやな、そばでも行こか?」

「そば?」

「だいぶ前に小林さんから教えてもろて。あの人、外食に人生捧げてはるからな。それ以来、けっこう通ってんで」

「そばって、そばむぎの事か?美味い食ベ方ってあるんか?」

「まあとりあえず、行ってみよや」

俺は、首をひねっている空海を連れ出すと、兵〇区下〇通にある「一〇庵」にやって来た。やたらガタガタとうるさい自動ドアが開くと、中のおばちゃんに声を掛けられた。

「あらヒロシくん、いらっしゃい。久し振りちゃう?」

「バイト先、ジョ〇プラから変わったやろ。切り替えで結構手間取ったんや」

「ホンマ?大変やったんやね」

「まあ、大変やったのは小林さんやけどね」

俺は笑いながら言うと、空海を促して"いつもの席"に着いた。

席に着いた空海は、周りをキョロキョロと見回している。

「どしたん、空海」

俺が尋ねると、空海は薄く笑って答えた。

「何かな、いつも行くような食べ物屋とちゃうなあ思て」

「そうやな。古くさい感じか?」

「俺にとっては十分目新しいで。まあ何や、ギラギラしてへん、落ち着いた感じやな」

「なるほどな」

「ヒロシくん、今日はどないする?」

おばちゃんが、伝票を片手に注文を取りに来た。

「俺はいつもの。こっちには天ざる」

「あいよ。天ぷらそばと、天ざる、十割で」

おばちゃんはそう言いつつ厨房に消えて行った。

「『天ざる』て何や?」

空海は首をひねった。

「天ぷら付きのざるそばや」

「『天ぷら』?『ざるそば』?」

「判らんかったら、待ってたらええねん」

俺は笑いながら言った。

やがて、そばが出て来た。

「はい、こっちが『いつもの』。で、こっちが『天ざる』ね」

おばちゃんがテーブルに置いたものを見て、空海は大きく頷いた。

「ああ、『天ぷら』て、揚げ物の事か。それに、ざるにそばが乗ったある。でも細いな」

「今は、そば言うたらこれや」

俺は、いつもの『天ぷらそば』である。

「長安で(メン)は良く食べたけどな。あれは小麦粉やった」

「要は『うどん』やろ?」俺はそばに七味をかけながら言った。「讃岐では、うどんは空海が持って帰って来た事になってんで」

「まあ、似たようなモンや」

空海は意味深な返事をすると、そばを箸で取り上げた。つゆに浸けて、すいとすする。

「お、美味い」空海は笑顔になった。「そばて、モソモソした渋い食い物やと思とったけど、これは美味いわ。出汁もええなあ。食欲をそそるわ」

「気に入って貰えて良かったわ」

俺も自分のそばに取り掛かった。十割そばの、野趣のある香ばしさがのどを通る。

空海は、大ぶりのエビ天にかぶりついて、熱い熱いと目を白黒させている。

そばを食ベ終えて、勘定を済ませて表へ出ると、空海は店に目を向けながら言った。

「弘史、ありがとな。美味かったわ、そば」

「そら良かった」

「それにしても」空海は少し口調を改めた。「凄いな、この時代。何でもあるんやな」

「空海の時代よりは、色々あるかもな」

俺は笑って答えた。

「こんなんやって判ってたら、死ぬ事も恐(こ)わないやろな」

周りを見回しながら、空海は呟いた。

「多分これって、空海が特別やと思うで」

俺は肩をすくめた。

「そやろか」

「知らんけど」

「つれないな」

「俺まだ死んだ事ないし」

「そらそやな」

俺達はそんな事を話しながら、小春日和の中を歩き出した。

 

 

20181225

 

 

註 : 平安時代には、『天ぷら』の名称はまだありませんでした。そばは、『そばがき』のようなものは一応あったそうです(主に飢饉用非常食)。『そばきり』――所謂普通のお蕎麦は、江戸時代になって庶民に普及しました。



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黒猫

空海は、現代日本で何をする?

 

 

黒猫

 

 

平成二十五年の晩秋の頃。

このところ、空海は毎夜ウォーキングをしている。最初の三日ほどはまちまちの時間に帰って来たが、ルートが確定したのか、最近は午後十時に部屋を出て、ぴったり四十分で帰って来るようになっていた。

ところが、今日に限っては少し帰りが遅い。午後十一時を回っても戻らない。

どうしたのかな、と思っていたら、結構雑な足音が近付いて来た。ガチャンと音がして鍵が開く。

「どしたん、珍しく遅かったなあ」

俺がそう言うと、ナーと返事が返って来た。

「ナー?」

「弘史、大変や!子猫拾ってもおた!」

空海の切羽詰まった口調が、緊急事態を物語っていた。

「子猫?」

拾い物としては、かなりのレアケースである。

「いつも通り、ウォーキングしてたんや。でな、金〇町公園を通り抜けようとしたらな、どっかからニーニー声が聞こえんねん。近付いてみたらな、この子が、ヨタヨタと歩いて来たんや」

空海は言いつつ、子猫を持ち上げた。ちっちゃな黒猫である。二ヶ月くらいか。目をまんまるく見開いて、ナーと鳴いた。

「それで?」

「でな、この子が俺の足元まで来て、俺の足に体をすり寄せて、『ナー』とか言いはんねん」

「ほう」

「それを放っとけると思うか?」

「思わんな」

「そやろ?で、これやねん」

空海は改めて子猫を持ち上げた。子猫はまたナーと鳴いた。

「空海、その子…」

「何や、弘史」

「めっちゃ可愛いな」

「そやろ」空海は明るい表情になった。「この子、可愛いやろ?とても放っとけヘんやろ?」

「いや、その気持ちはよーく判るんやけどな」

「何か問題があるんか?」

「ここのマンションな、ぺット禁止やねん」

「…そうか。集合住宅やもんな。そんな決まりもあるわな」

空海はガックリと肩を落とした。

「しかし、また外に放すゆうのもなあ」俺は腕を組んだ。「せめて、里親が見つかるまで、ウチに置いとかして貰おう」

俺はそう言うと、時間は遅かったが、空海と子猫を連れて管理人の糸谷(いとたに)の部屋へ行き、直談判をした。いけ好かないおばはんなのだが、古くからの知り合いで、一応融通は利かせてくれる。おばはんは少し抵抗したが、子猫のつぶらな瞳に負け、しばらくの同居を許可してくれた。

近所のコンビニで買って来たモン〇チをもりもりと食べる子猫を、空海は優しい表情で見つめていた。

「俺な、空海て犬好きやと思っとった」

俺の言葉に、空海は猫を見たままで答えた。

「別に動物は何でも好きやで」

「でもほら、高野山登る時、白と黒の犬に案内してもらったって話し、あるやん」

「狩場明神な。でもあれ、俺の犬ちゃうで。狩人のおっちゃんのや」

「ああ、そうか」

「でもな」

空海はふと悪ガキのような表情をした。

「何や?」

「犬言うてる二匹、実はな」

「何や?」

「いや、やっぱりやめとこ」

「何でやねん」

「聞いたら、誰かに言いたなるやろ?」

「大丈夫、それは我慢出来るで」

俺は受け合った。口は堅い方である。

「じゃあ教えたるわ。実はな…」

空海は、俺の耳元で小さな声で言った。

空海の言葉に、俺は目を丸くした。

「うそやん!そうなん?」

「ホンマやて」

「えー、それは知らへんかったわ」

「あんまり言うたらあかんで」

「判った。言わんとくわ」

俺は、驚きを鎮める為に、グリ〇ベを開けた。

ふと見ると、モン〇チを食べ尽くした子猫は、空になったお皿に顔を突っ伏して眠っていた。

 

 

20181229



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黒猫(後日談)

空海は、現代日本で何をする?

 

 

黒猫(後日談)

 

 

平成二十五年、晩秋のある日。

俺の所に転がり込んできた黒猫は、空海によって「リュウ」と名付けられた。理由は特に無いらしい。

リュウは賢い猫で、部屋にもすぐ馴染み、トイレもすぐ覚えた。空海には良くなついて、さして広くはない部屋の中で、空海が動くたびに跳ねるように走って後を追い掛けた。

食べて、寝て、暴れてを操り返して元気一杯だったが、夜になると急に寂しくなるらしく、空海を見失うとニーニー鳴いた。それを空海がつまみ上げて抱きかかえてやると、ゴロゴロとのどを鳴らしながら丸まって眠ってしまう。

「なあ、弘史」

「なんや、空海」

「可愛いな、リュウ」

「うん。可愛いな」

俺は笑いながら言った。

「このまま手元に置いときたいな」

空海はポツリと呟いた。

「さすがにそれはなぁ…」俺は肩をすくめた。「気持ちは判るけどな」

一週間が過ぎたが、里親探しは難行していた。「猫は可愛いけど、飼うのはちょっと…」という反応がほとんどである。

「まあ確かに、生き物を飼うと、行動が制限されるもんなあ」

空海は、リュウを撫でながら言った。

「家を空けられへんしなあ。誰かずっと家におったら別やけど」

俺も横からリュウの背中を撫でる。ゴロゴロ鳴らすのどの音が、震動として掌に伝わって来る。ふわふわで温かい。

「なんか、おもちゃみたいやな」

俺は思わず呟いた。

「こんな可愛いのに、捨てたりする奴がおんねんな?」空海は首をかしげた。「せっかく一緒におって仲良うなったのに、放り出してしまうて、訳判らんわ」

「『大きくなったから飼われへん』とか言うらしいわ」

「何やそれ?生きとるんやから、大きなって当たり前やんか」

「俺に怒られてもどないしようも無いけどな」

俺は肩をすくめた。リュウの首筋をつまんで頭を持ち上げ、手を放す。脱力し切った頭がコロンと落ちる。完全に熟睡している。

「無防備やなあ」

空海が笑って呟いた時、ドアがせわしなく叩かれた。

「誰やろ、こんな時間に」

俺は壁の掛時計を見ながら言った。午後十時を回っている。

ドアを開けると、アキちゃんが転がり込んで来た。

「もー、ヒロシくんL〇NE見てへんの?」

アキちゃんは一方的に言って、部屋をキョロキョロと見回している。

「こんな男やもめ二人の部屋に、妙齢のお嬢さんがこんな時間に大丈夫ですか?」

空海は優しい声で尋ねた。

「大丈夫やて。人畜無害のヒロシくんなら、誰も心配しいひんし」アキちゃんは失礼な事をサラッと言う。「まあ、空海さんなら、ちょっとアレやけど…」

アキちゃんは少し頬を赤らめた。ますます失礼である。

「もう、そんな事より、『モフモフ』は?」

「『モフモフ』?」

「ヒロシくん、L〇NEで言うてたやん、里親探し」

「ああ、子猫の事ね」

俺はようやく合点がいった。中々里親が見つからないので、アキちゃんにも尋ねていたのだ。

「どこ?とりあえず見して」

もの凄い勢いのアキちゃんに押され、俺は空海を掌で指し示した。空海は、自分のあぐら(結跏趺坐)の間で丸くなっているリュウを見せる。

「ホンマや!ちっちゃい子猫!」

アキちゃんは歓声を上げると、両手をついてリュウを覗き込んだ。美少女のアキちゃんが、空海の股関に四つん這いで顔を突っ込んでいる様子は、見ようによってはかなりエロい。

「ヒロシくん、今へンな事想像したやろ?」

そう言うアキちゃんに、空海はつまみ上げたリュウを差し出した。リュウはまだ熟睡しており、首筋をつままれて、ブラーンと脱力している。アキちゃんは、それを両手で大事そうに受け取った。

「いやや、ホンマにモフモフや。それに凄い熱っついな」

「子猫は体温が高いですからね」

空海は微笑んだ。

「なんかゴリゴリ言うてはる」

「お母さんに甘えてる夢でも見てるんでしょうかね」

「かわいいなぁ。うちでお世話したいなぁ」

リュウの背中に鼻をうずめて、アキちゃんが呟いた。

「アキちゃんとこもマンションやもんな」

俺の言葉に、アキちゃんはリュウを吸いながら頷いた。

「でもな、心当たりはあんねんや。私の幼馴染みで、泰子ちゃんゆうて、〇田の子で実家が八百屋なんやけど、めっちゃ猫好きやねん」

「ほうか。貰ってくれるやろか?」

「そこ、既に猫ふたつおるからなあ。ちょっと訊いてみるわ」

アキちゃんはそう言うと、リュウを片手に持ち替えて、スマホを取り出した。猛スピードでメッセージを打ち込む。途中で、リュウをパチリと撮影する。

「とりあえずL〇NEで写メ送っといた。あの子、寝るの早いから、返事は明日やと思う」

アキちゃんはそう言うと、リュウを空海に返した。結局、リュウは一度も目を覚まさなかった。

「じゃあ、子猫堪能したし、帰るわ」

アキちゃんは満足そうな顔で立ち上がった。

「何のお構いもせず」

俺の言葉に、アキちゃんは笑って答えた。

「ホンマや。お茶の一杯も無かったな」

アキちゃんは、掌をヒラヒラ振りながら出て行った。

「凄い勢いやったな」

空海は笑って言った。俺も笑って、呑みかけだったグ〇ラベに口をつけた。もうすっかりぬるくなっていた。

 

翌日、バイトに行くと、アキちゃんが、

「泰子ちゃん、もろてくれるて!」

と、嬉しそうに報告してくれた。

 

 

20190109

 

 



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喧嘩

空海は、現代日本で何をする?

 

 

喧嘩

 

 

平成二十五年秋、十一月の終わり頃。

俺と空海、二人ともにバイト代が入った。お財布に少しだけ余裕が出来たので、子猫のお礼を兼ねて、アキちゃんと泰子ちゃんを誘って〇宮へ繰り出した。元〇の〇R高架の道向かいに、「〇政」という串揚げ屋がある。ここは「二度漬け禁止」とあるような安価な串カツの店とは違い、結構なセレブもやって来る高級店である。

店内に入ると、カウンター席に通された。俺がマス夕ーと顔見知りなので、マスターともお喋り出来る方が良いと思って、事前に席を押さえてもらっていたのだ。

「すごーい!串揚げって聞いたから、こ汚いお店想像してたのに、メッチャお洒落やん」

アキちゃんが露骨にキョロキョロ見回しながら言った。

「まあここも、最初は小林さんに連れて来られたんやけどね」

俺は笑って答えた。

「小林くん、二三日前に来てはったよ」

マスターが笑いながら教えてくれた。

俺は、店の奥にあるサイン色紙を見ながら言った。

「俺、まだ長〇川穂積さんに逢った事無いんですけど」

「穂積くんなら昨日来とったで」

「ホンマですか?残念やなあ」

「ねえヒロシくん、ハ〇ガワホズミって誰?」

アキちゃんが首をかしげながら尋ねた。

「知らへんか。三階級制覇した、すっごいボクサーやで。マスターの友達やねん」

「階級って何や?」

空海がごく基本的な質問をして来た。

「スポーツ格闘技は、やはり体格の大きい方が有利ですからね」マスターが説明してくれた。「競技人口の多いボクシングは、なるべく体格差が無いよう細かく体重別で分けてるんですわ」

「"小良く大を制す"やないんですか?」

「それが理想ですけど」空海の言葉に、マスターは肩をすくめた。「中々そう上手くは行かんのですよ」

「まあとりあえず、今日は"リュウを貰ってくれてありがとう会"という事で」俺は、出て来たビールジョッキを差し挙げた。「リュウちゃんの健やかな成長を祈念して、カンパイ!」

「カンパーイ!」

皆も続いてジョッキを差し挙げた。

串揚げとはいえ、秋鮭から始まり、かしわやレンコン、アスパラに牛肉、貝柱にきのこなど、手の込んだ一品料理のように次々と供される。それぞれソースやポン酢などで頂くバラエティに富んだメニューで、ワイワイと喋りながら呑み食いしているうちに、コースが終わる頃にはお腹一杯になっていた。

「ヒロシくん、今日は大丈夫やで」アキちゃんがいたずらっぽく笑った。「今日は奢ってとか言わへんし」

気嫌良く店を出ると、外の空気はだいぶ冷たくなっていた。

こんな日は猫カイロが一番だ、などと他愛ない話をしていると、正面から四人の男達が歩いて来るのが見えた。こちらと同じようにお酒で良い調子で、大声で喋りながら歩道一杯に広がっている。

メンド臭いのは嫌いなので、何とかやり過ごせないか、と考えていたのだが、空海とアキちゃんはどんどん前へ進んで行く。

やがて、四人組に通せんぼをされる形になった。

「通してくれへんか」

空海は穏やかに言ったが、四人組はそれをシカトした。

「ねぇ、おねえさん達、こんなにいさん達放っといて、俺達と遊びに行かへん?」

ニット帽を被ったジャニーズ系が、ニヤニヤしながら言った。もう一人もアイドルの失敗作みたいだが、後ろの二人は明らかにマッチョなコワモテである。

「お・こ・と・わ・り・です」

アキちゃんは、はっきりと言い放った。

「そんな事言わないでさあ、一緒に行こうや」

矢敗作が、馴れ馴れしくアキちゃんの腕を掴んだ。

「離して!」

アキちゃんは言いながら、掴まれた腕を少し上げ、合気で相手の体を固めておいて、空いた手で固まった肘を取り、クルンと巻き上げた。掴まれた腕を切り落とすと、きれいに仰向けになった失敗作は、頭から地面に落ちた。

言うのを忘れていたが、アキちゃんは小学生の頃から合気道を修行している。今は確か初段だったか。

「おーおー、やってくれるやん、お嬢さん」

細マッチョが前に出て来た。左まぶたの上に大きな切り傷がある。明らかにボクサーだ。

パンッと大きな音がした。手を打ち合わせた音だ。

男は歩く動作のまま、左ジャブを出した。それを空海が左掌で受けたのだ。アキちゃんの数センチ手前である。俺には、どちらの動きも全く見えなかった。アキちゃんも同じだったのだろう。少し遅れて大きく退いた。

「何やにいさん、やるやないか」

女人(にょにん)に手を挙げるのは如何かと」

「うるせえよ」

「どうしたヤス、何手こずってんねん」

もう一人の太マッチョがあざ笑う。首元の十字架がキラめいている。

「おめえもうるせえ、タカジ」

ヤスはタカジを睨み付ける。空海は、そのまま涼しい顔をして立っている。

「ヤスさん、まだやりますか?」

空海の言葉は、明らかに上から目線だった。

「悪りぃな。まだ何もやってねえよ」

ヤスは構えた。意外にピーカブーである。

「ヘー、アウトボクシングかと思ったのに」

泰子ちゃんが言う。意外とボクシングに詳しいらしい。

ヤスが踏み込み、ジャブを連打した。空海はそれを全てへッドスリップでかわすと、左足で踏み込み、パンチを右手で払って右足でヤスの左(前)足を刈り上げつつ、左手でヤスの顎を押し込んだ。ヤスは真後ろに引っくり返った。

「少林七星拳の鶏行歩の用法や」

空海は澄ました顔で言った。

ヤスは顔を真っ赤にさせて立ち上がった。さっきからの大立ち回りで、段々とギャラリーが集まって来ていた。

ヤスはピーカブーで構えたまま、頭を振り始めた。それを見つつも、空海は力まずに立ったままでいた。

一気に間合いを詰めたヤスは、空海の懐に飛び込み、左の肘を開いた。デンプシーロールの初弾は顔面狙いと見えた。

ヤスは顔面狙いのフェイントをかけると、肝臓(レバー)目掛けて左拳を放った。

空海は明らかにそれを読んでいた。

空海は右手を下に伸ばしつつ身を低くして右足を踏み込み(震脚)、その勢いでヤスの左拳を弾き飛ばすと、膝を伸ばしながら両掌でヤスの胸を打った。ヤスはもの凄い勢いで飛び、タカジの足元に倒れた。

「今のは斬手穿喉下劈掌で受けて、托塔双推山で返した。羅漢十八手の技や」

空海はやはり淡々と言った。ギャラリーから拍手が起こった。ヤスは立ち上がれない。

「勁が通ったんで、多分一人では立てないやろ」

そう言う空海に、タカジが殺気を膨らませた。

空海はそんなタカジに微笑みを向けると、不意に八歩分くらいあった間を一気に詰めた。空海は掌でタカジの十字架を押さえた。

「いてっ」

肌に十字架がめり込んだ痛みに顔をしかめたタカジに、空海は静かに尋ねた。

「どうします?まだやりますか?」

タカジは静かに首を振った。

「ありがとう。ヤスさんは、三日も経てば元に戻りますから、ご心配無く」

すっかり戦意を喪失したタカジは、仲間をつれて去って行った。そんな空海に対し、ギャラリーからまた拍手が起こった。

そんなギャラリーに小さく手を振っている空海に、俺は尋ねた。

「なあ空海、今の技、どこで覚えたん?」

「長安にいたとき、近所にいた少林僧に教えてもろた」

俺の問いに、空海は笑って答えた。

 

 

20190126



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言葉

空海は、現代日本で何をする?

 

 

言葉

 

 

平成二十五年の夏の終わり頃。

まだ全然暑さは治まる気配が無い。

俺は空海と一緒に、兵〇区水〇通にあるホームセンターダ〇キに向かっていた。俺の住んでいる金〇町からは、第三セクターであるJR和〇岬線でJR兵〇駅まで出ると、歩いて五六分ほどである。ただ、和〇岬線は、朝と夕方の通称「〇菱ラッシュ」時以外は一時間に一本しか無いので、便利か不便か何とも言い難い。

駅から出ると、焼けたアスファルトの熱気が全身に襲い掛かって来て、つかの間の電車内のクーラーの冷気があっけなく吹っ飛ぶ。

一気に吹き出した汗をタオルで拭いながら空海を見ると、涼しい顔をしている。

「暑くないんか?空海」

「暑いで。目眩しそうや」

「全然そうは見えへんで」

「実は耐えとるんや」

「ガマンで何とかなるモンちゃうやろ」

「そう言えば弘史」

「何や?」

「『我慢』って元々仏教の言葉やで」

「そうなん?」

「慢っていうのは、他人と比較して自分が勝れていると思い上がる心で、まあ煩悩の一つや。それを七つに分類して、"七慢"言うんやけど、その中の『俺が俺がと執着して驕り高ぶる』ってのが我慢言うんや」

「我慢って、エエ意味ちゃうんや。むしろ上から目線の、イヤな感じやな。て言うか、この暑いのに理屈っぽいのシンドイわ」

 

ダ〇キに入ると、エアコンは弱冷だったが、外が暑すぎるので十分涼しさを感じた。しかし、体の中まで熱がこもっているので、扇風機の前でしばらく風を浴びた。

今日はトイレットペーパーと、この暑さで減り方が半端ないシャンプー及びボディソープ、液体洗剤と洗い替えのTシャツを買いに来たのだ。空海は初ホームセンターである。

「でっかい市場やな」

空海は周りを見渡しながら言った。

「市場…。まあそんなようなもんか」

俺はガラガラ(カート)を押しながら答えた。

俺がいつも使っているのは、ペ〇ギンコアレスという芯無しのトイレットペーパーなのだが、今日は棚が空っぽだった。係の人に尋ねてみたが、在庫も無いらしい。

「まあそういう事もあるわいや」俺は言いつつ、別のペーパーを取った。「諸行無常や。しゃーないわ」

「諸行無常は、一切の現象は常に移り変わる事を言い表した仏教の言葉やけど、そんな使い方すんねんな」

「また仏教用語か。色々あるんやな」

「間違った使われ方してる言葉もあるけどな」

そう言った空海のすぐ横で、チンピラ風の兄ちゃんが喚き出した。

「こないだまであったやん、バーべキュー用のおっきなコンロ。あれが欲しいねんけど」

「申し訳ありませんが、商品の入れ換えで、もうなくなってしまったんです」

従業員が頭を下げるが、兄ちゃんは聞き入れない。

「前からあれに目ェ付けてたんやって。出してくれえや」

「ですから、もう無いんです」

「無いんやったら、どっかから仕入れてこんかいや?」

兄ちゃんは無茶振りまで始めた。店の「上の人」らしき人が出て来たが、兄ちゃんは食い下がって引く様子が無い。最後には別の商品を安くしろ、とか言い出した。

面倒やなあ、と思っていた俺の横から、空海が兄ちゃんに近付いた。

「すいません。無いものは無いんですから、あまりお店の人に無理を言ってはいけませんよ」

「何じゃワレ?」

兄ちゃんは凄い目付きで振り返った。

「見るに見かねまして。他のお客さんも驚いてますから」

「うっさいんじゃコラ。おんどれには関係ないやろが。何インネンつけてきよおねん」

「因縁というのは、全ての事象には起こる為の原因がある、という仏教の言葉ですが、その意味で言うなら、原因を作ったのはあなたの方ですよ」

「何ワケ判らん事言っとんねん」

「欲しい物が無いのなら、代用出来る物を入手するか、きっぱりと諦めるか、どちらかにしなさい。周りに迷惑をかけるような事ではない」

「ええ加減にせえよこのガキ」

兄ちゃんは空海の襟元を左手で掴むと、右の拳を固めた。

空海は、そのままで兄ちゃんの目を覗き込んだ。

「お前は本当にこれで良いと思っているのか?自分が他人に迷惑を掛けている事に対して、申し訳ないと思わないのか?」

兄ちゃんは、空海から目を離せなくなった。

「お前も、自分の仲間達と楽しくやる為に行動しているのだろう?ならば、その楽しさを他人に分けてやるくらいの度量を持ったらどうだ?」

空海の言葉を聞くうちに、兄ちゃんの表情から険しさが抜けていった。

「ホンマやな。お前さんが正しいわ。ありがとな。申し訳ない」

兄ちゃんは空海に、次いで店の従業員に頭を下げた。そして、別のバーベキューコンロを買って帰って行った。

「空海、良くあの兄ちゃんを説得出来たなぁ」

そう言った俺に、空海はあっさりと答えた。

「あの兄ちゃんかて悪い奴やないねん。ただちょっといきがってただけや。私が本当の事を言ったから、落ち着いたんや」

「そういうもんか」

「そうや。言葉には力がある。それを聞く相手に機根があれば、ちゃんと通じるもんや」

「目力(めぢから)も凄かったけどな」

「やっぱり相手の目を見て話しせなな」

俺達はしきりに頭を下げる従業員達を振り切り、ようやく自分の買い物を済ませると、再び暑い通りへと出て来た。

「あの兄ちゃん、ガキ言うてたけどな」

「何や?」

「餓鬼いうのも仏教の言葉やな。薜茘多(へいれいた)いうて、餓鬼道に堕ちた亡者を指すんや」

「また仏教用語やな」

「私利私欲に走って、貪りの人生を送ると、餓鬼道に輪廻する、と言われてる」

「『言われてる』か。空海でも、断言出来る訳やないんや」

「そらそうや。生まれる前も死んだ後も、何処から来て何処へ行くのかなんて、人間には解りようも無いわ。『生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し』や」

「それもお経の文句か?」

「俺の書いた『秘蔵宝鑰』って本からや」

「自分発信かいな」

「そうや。生死(しょうじ)不可得(ふかとく)なるが故に、今を大事に生きなあかんねん」

「何か難しい事言うたな。じゃあ、とりあえずサ店でかき氷でも食うかい?こう暑いと往生するわ」

「ええな、かき氷」空海は笑った。「氷が真夏に手に入るなんて、素晴らしいな。ところで『往生』て…」

「仏教用語はもおエエで」

俺は思わず突っ込みを入れた。

 

 

20190206

 

 

註 : 今回のお話は、ある方から頂いた感想からインスパイアされたものです。



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咖喱(カリー)

空海は、現代日本で何をする?

 

 

咖喱(カリー)

 

 

平成二十五年、十一月末頃。

俺がバイトから帰ると、ドアを開けた瞬間、強烈なにおいが鼻をついた。人の心を鷲掴みにする、魅惑の香りだ。

「空海、カレーか?」

「寒くなって来たやろ?ビシッと辛いの、行ってみよか思て」

空海は笑いながら言った。最近では、空海のエプロン姿も見慣れて来た。

「カレーて、インドの料理やんな?」

「これは、長安の西明寺におった時に、梵語を教えてくれた般若三蔵に教わったんや。あの先生、天竺の人やからな」

「天竺?ああ、インド人な」

「先生のところで学んでいる間は、昼ご飯は毎回カリーやマサラやったで」

「そうか。そら期待出来るな」

「それにしても、便利やな今は」

「何がいな?」

「長安の頃は、マサラは全部自分で揃えて調合したもんやが、ここでは『カレー粉』なんてのが売ってんねんな。エ〇ビーとかいい感じやわ」

「においがちゃうな。インド料理屋のにおいがするわ」

「まず最初にクミンの香りを油に移すからや。他で何度かカリー食べたけど、ちょっとちゃうな思てな。今日たまたま入った店で、香辛料がたくさんあったんで、買うて来てしもたんや」

「で、作ってみたと」

「そうや。ただ、先生のは精進やったから、肉系の具は入ってなかったな。多分、俺のカリーの方が美味いと思うで」

空海は笑って言った。俺は、コンロの上の鍋に顔を近付けた。

「ええにおいや。具は何や?」

「玉葱、大根、人参、茄子、いんげん、それに鶏肉や」

「美味そうやな」

「ご飯も炊いたで。あ、あと冷蔵庫にチャパティ用のタネがあるで」

「チャパティ?」

「パンみたいなもんや」

「色々知ったあるなあ」

「長安には何でもあったで」

空海はそう言いながら、鍋に蓋をした。

「あと二十分もすれば完成や。弘史、皿とスプーン用意してくれるか。俺はチャパティ焼くわ」

 

結局俺はご飯をおかわりして、チャパティも二枚食べた。食べ過ぎだ。かなり辛口で、だいぶ汗をかいた。

「美味かったわ~。普段のカレーとちゃうから、ついつい食べ過ぎたわ」

「気に入ってもろて良かったわ」

「長安てホンマに何でもあったんやな」

「ああ。あの頃の世界の全てが集まってた感じや。何か、夢のような場所やった。密厳(みつごん)浄土に一番近いところちゃうか」

「そこまで言うか」

「俺のアナザースカイや」

「この間〇テレでやってたな」

俺は思わず笑ってしまった。空海は、新しいものを次々と取り込んで、自分のものにしてしまう。

「弘史はアナザースカイ、あるか?」

空海にそう尋ねられて、俺は首をひねった。

「俺、海外も行った事無いしなあ。引っ越しとか長期の旅行とかも無いし。あんまおもんない人生やなあ」

俺はそこまで言ってから、ハタと気付いた。

「そう言えば、アナザースカイは無いけど、今が一番おもろい時かも」

「今か」

「ああ。こうやって空海と一緒に過ごしてるのが、刺激的で楽しいわ」

「ほうか」

空海は、優しい表情を見せた。

「実は、BLは守備範囲外やで」

「だから、ちゃうて」

 

 

20190209



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獅子吼(ししく)

空海は、現代日本で何をする?

 

 

獅子吼(ししく)

 

 

平成二十五年、師走。冷たい風が身にしみる。

俺がバイトから帰ると、空海はこたつでぬくぬくと読書をしていた。しかもみかんを食べながら。

「何やねんその冬の定版スタイルは?」

「そうなんか?」

「コタツでみかんで読書て、三種の神器やで」

「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫か?」

「それは昭和家電の神器やろ?どこで覚えたん?」

俺の言葉には取り合わず、空海は読書を再開した。

と、外からけたたましい叫び声と、甲高い笑い声が聞こえて来た。マンションのすぐ裏にある、金〇公園からである。阪神淡路大震災の教訓から、火除けと避難場所の確保として、まちづくりの中に「多目的公園」の整備が取り入れられた。

住宅街の中にある公園は子供達の格好の遊び場となったが、それによる副作用も出て来た。子供達の遊ぶ声の騒音、いわゆる「ご近所トラブル」である。

ドンドンと、ドアがせわしなくノックされた。開けると、二つ隣のワタルくんがふくれっ面で入って来た。ワタルくんは、来年高校受験を控えた受験生である。この所、よく俺達の所へやって来る。

「なあ、もうカンベンしてくれや」

ワタルくんはズカズカと入って来ると、コタツに入り、みかんをむき始めた。

「あれか」俺は窓の方に目をやった。「ちょっと気になるな」

「ちょっとちゃうて」ワタルくんは俺を睨みつけた。「四時くらいからワーワーキャーキャー、フルパワーで叫びながら遊びやがって。うるさくて勉強どころちゃうて」

「子供が外で遊ぶのは仕方ないけどな」

「空海さん、おかんと同じ事言わんといて。そら確かに仕方ないかも知れんけど、ジョーシキってもんがあるやろ?もう六時やで。外まっ暗やで。何で外で遊んどんねん」

空海の言葉に、ワタルくんは食って掛かった。

「だいたい、周り家ばっかりの所で、学校のグランドと同じように遊んだら、うるさいに決まってるやん。なのに、親も知らんぷりで」

「親もおるんか」

「そやで、ヒロシ。おかんが何人か横におるけど、そいつらもおかん同士でペちゃくちゃ喋って、子供の事なんか放ったらかしや」

なぜかワタルくんも、俺の事は呼び捨てである。

「親が近くにおるのに、子供の管理をせんのは、ちょっとアカンな」空海は右の眉を上げた。「子供は無明やから、大人が然るべき道を示してやらんと、どこへ行くか判らんまま成長してまうで」

「ムミョーって何や?」

知らない言葉が出て来たので、俺は空海に訊いた。

「道理が判ってへん事の喩えや。暗闇で明かりの無い状態やな」

「それは道に迷うな」

「子供は、叱ってでも叩いてでも正しい道に導かなあかんねん」

「今なら虐待とか、何とかハラスメントとか言われそうやな」

「あかん事はあかん、と教えてあげな。明王がそれに当たる仏尊や」

「なるほど。だからお不動さんてあんな恐い顔しとんのやな」

「まあそんな所や。さて、ちょっと注意してこよか」

空海はそう言うと立ち上がった。ジャージにドテラを羽織った突っ掛け姿には、それほど追力は無い。

空海と俺は、金〇公園に出て来た。子供達はまだ奇声を発しながら遊び回っている。確かに親が近くにいるが、子供達の様子を見ている風では無い。

「直接だと、かなりうるさいな」

俺は思わず呟いた。学校の校庭と比べて、狭い分だけ声がよく響く。外の周りの家はよく我慢しているものだ。

空海は、少しの間その様子を見ていたが、やがて一歩進み出ると、大きく息を吸い込んだ。

「コラッ!何時だと思ってるんや!早く家に帰らんか!」

もの凄い音量の声に、俺は思わず耳を塞いだ。公園にいる子供達とその母親達は一勢にこちらを見た。しかし、これ程の声にも関わらず、周りの家からの反応は全く無い。

空海の声は、耳を塞いだ手を通り抜けて頭に響いた。

「周りの家は、夕餉(ゆうげ)の団欒を楽しむ時だ。その時間の邪魔をしてはいけない、そうは思わんか?公園とは、当に『公共の場所』だ。そこを使うのには、それなりの約束事があるはずだ。それを守れないのなら、この場を利用する資格は無い!」

その言葉に、意外にも子供達の方が先に反応した。お互いに「帰ろう、帰ろう」と言い出し、親が近くにいない子供達は、一勢に散り散りばらばらになった。

それを見た親達が、「みんなー、帰るでー」などと声を掛け始め、子供達を集めると逃げるように公園から出て行った。

「何や、自分達も後ろめたい所があるんやな」俺は肩をすくめた。「まあ、こんな真っ暗な中で子供を遊ばせてるんは、非常識やからな」

「京の都といえど、街路に灯りなど無かった。夜の闇は悪事の温床やった。それは今も変わらんはずや」

「子供にとっても、晩飯が遅くなれば寝る時間も遅くなる。睡眠不足は成長にも良うない思うけどな」

「まあこれで、暫くは大人しいやろ」

空海はそう言って、きびすを返した。

「それにしても、凄い声やったなあ」

俺は空海に言った。空海は、それに笑って答えた。

「大きな声は出してヘんで」

「そうなん?」

「関係者にしか聞こえてへんはずや」空海は澄ましたものだ。「仏尊の声は、獅子の声が他の動物の声を圧倒して響くように、全ての雑音を押さえて聞かせたい相手に届くんや。だから、確信犯的に遊んでいた連中には、殊更大きく聞こえたはずや」

「俺に聞こえたのは?」

「とばっちりやな」

空海はしれっと答えた。

俺達が部屋に戻ると、ワタルくんはテレビを見て爆笑していた。

「お前さんも早く家に戻って勉強しいや」

俺は苦笑しながら言った。

 

 

20190215



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少女

空海は、現代日本で何をする?

 

 

少女

 

 

平成二十五年、秋の彼岸明け。

まだ夏日の続く、そんな気候の中、俺と空海は地下鉄海〇線に乗って、ハー〇ーランドへやって来た。JR神〇駅の地下街、デュオ神〇にある「北〇ラーメン」へ行く為だ。ここは以前から良く通っていた店で、最近はなかなか行けてなかったので、今日は久々に食べに行く事にしたのだ。

海〇線を降りると、デュオドームという天井がガラスドームになっている地下の広場を右手に見る通路に出る。よくここでイベントをやっているのだが、今日は特に何も無く、ガランとしている。

「北〇ラーメン」へ行くにはその広場は通らないので、そのまま左手通路へ行きかけた俺だったが、空海が広場の方へ行く途中で立ち止まり、ある柱を見つめていたので、俺もそこへ引き返した。

「どしたん、空海」

俺は尋ねたが、空海は答えずにその柱に歩み寄った。その柱の前には、少さな女の子が立っていた。まだまだ真夏のような暑さの日としては少々厚手のワンピースを着て、困り顔で立っている。服も髪形も、少々古くさい感じがする。

近付いて来た俺達を見て、少女は怯えたように背中を柱に押し付ける。

「お嬢さん、何かお困りですか?」

空海が優しく尋ねた。その穏やかな声と表情に、少しだけ少女の緊張が緩む。

「私は空海といいます。こちらは弘史。あなたのお名前は?」

「…サチコ…」

「サチコさん。何か困っている事があったら、お手伝いしますよ」

あくまで優しい空海の態度に、サチコは遠慮がちに口を開いた。

「楠公さん行きたいの」

「ナンコウさん?」

「ああ、楠公さんね」俺は横から声を掛けた。「それなら、ここからもうすぐやで」

「軟膏散って何や?」

空海は小声で俺に尋ねた。

「薬ちゃうで。楠公さんは、楠木(くすのき)正成(まさしげ)が祀られてる神社や。このすぐ北にあるわ」

俺も小声で答えた。

「お母ちゃんがな、はぐれたら楠公さんで待てってゆうたから」

サチコが消え入りそうな声で言う。

「判った。楠公さん行ったら、お母さんがおんねんな?じゃあ、一緒に行こか。もうすぐそこやし」

俺はそう言って手を差し出した。サチコはおずおずとその手を握った。サチコの手はこの暑い気候の中で、氷のように冷たかった。

地下街を通って、バスターミナルの北側の階段で地上に出ると、猛烈な暑さが全身を包んだ。普段は平然と暑さをやり過ごしている空海も、思わず顔をしかめる。

俺は、足元の覚束ないサチコの手を引いたまま、大〇通の信号まで来た。もう楠公さんは目の前である。

信号の向こうに、すぐにでも母親が迎えに来るかのような錯覚があったが、楠公さんこと湊〇神社には、それらしい人はいなかった。ただ、空海は目を細め、しきりに頷いていた。

「あっ」

何かを見つけたのか、サチコが小さく声を上げた。俺の手の中の小さな掌に少し力がこもった。

「お母ちゃん、いた」

サチコはそう言うと、俺の手を離した。鳥居へ向かってヨロヨロと駆け出す。ただ、俺には誰の姿も見えない。

「空海、誰かおるのか?」

俺は、思わず空海を振り返った。

空海は黙ったまま頷いた。

サチコは、鳥居をくぐる直前にこちらに振り向くと、小さく手を振った。そして、そのまま透けるように消えてしまった。その時、鳥居の方からもの凄い熱さの風が吹きつけて来た。

その状況を俺が理解するのには、少々時間が必要だった。

「何やったんや、今の?」

俺は空海に尋ねた。

「お前、サチコしか見えてへんかったんやな。良かったわ」

「どういう事や?」

「焼夷弾って何や?」

逆に空海が尋ねて来た。

「油が入った爆弾や。太平洋戦争中、神戸も大空襲を受けたんや」

「地下から出た時、俺達の周り、火の海やったで」

「それであんなに熱かったんや」

「サチコは、避難途中で母親とはぐれたらしいな。そのまま空襲で死んでしまったようや」

「それで、お母ちゃんを探しとったんか」

「でもどうやら、お母ちゃんには会えたようや」

「そうか」

「骨まで焼けた人影が、鳥居の向こうで待っとった」

「そうやったんか」

「鳥居は異界の入り口やからな。ここまで出迎えに来とったんやろ」

「それでも、会えて良かったな」俺は本気でそう思った。「空海があの子を見つけてへんかったら、まだお母ちゃんと会えなかったかも知れへんもんな。さすがは空海、彼岸明けに良い供養してくれたな」

そんな俺を見て、空海は真面目な顔で言った。

「お前は良い漢やな」

「空海には負けるわ」

俺は肩をすくめた。

 

 

20190217



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映画

空海は、現代日本で何をする?

 

 

映画

 

 

「カウチポテトに、俺はなる!」

空海が、朝いちで突然宣言した。

「どこで覚えたん、そんな言葉」

俺は笑ってしまった。平成二十五年の十二月の入りである。

「とにかく、映画を見たいねん」

空海はそう言いつつ、俺のDVDコレクションを引っ張り出して来た。大概は中古か廉価版のDVDだが、俺が本当に欲しい物は、新品のブルーレイを買っている。

「これが気になるな」

空海がチョイスしたのは、『タ〇タニック』だった。

「ええんちゃう?面白い思うで」俺は笑って言った。「俺はバイト行くさかい、ゆっくり観とってな」

俺はそう言い残して、部屋を出た。

 

バイトが終わると、外はもう真っ暗である。冬は日が暮れるのが早い。俺がマンションに帰って来ると、室内は電気も着けず、真っ暗な中にテレビモニターの青っぽい光だけが見えた。

「おーい、空海、どないしたん?」

俺はそう言いながらドアを開けた。

暗い室内では、空海がテレビの前でタオルを握りしめて涙を流していた。

「く・う・か・い!」

少し強めに呼び掛けると、空海は肩をビクリとさせて反応した。

「あ、ああ、弘史、お帰り」

空海は腫れぼったい目で俺を見上げた。

「大丈夫か?」

「あかんわ」空海はタオルで顔を拭いた。「何や途中から涙が止まらへん。特に、楽団長のウォレス=ハートリーが避難せずに演奏を再開する所なんか、何回見ても泣けるで」

「意外と涙もろいねんな」

「皆の混乱を少しでも抑えようとするその心意気、もう涙無しには見られへん」

「まあ気持ちは判る」

「俺も入唐の時には難破しかけたさかい、船の恐さはよう判んねん」

「そうか。そう言えば船で中国に行ったんやったっけな」

「あの時は、ホンマあかんと思わんでも無かったな」

「隨分微妙な言い方やな」

「まあ、俺は絶対に唐に渡れると思っとったからな。弱音は吐かれへんかったんや」

「自分に言い聞かせとったんか」

「信じてはおったで」

空海は頷いた。

「それにしても、空海がこんなに映画好きだとは知らへんかったわ」

「俺、劇は好きやで。俺が初めて書いた本は、劇曲風に構成したし」

「そうなんや」

「物語って、面白いやん。人を引き込む力があるし。しかも、それが実話って、凄い事やと思わへんか?」

「事実は小説よりも奇なり、言うしな」

「それにしても、こんな悲劇的な恋愛模様も、本当にあったんやろか?」

「どやろな。『タ〇タニック』のジャックとローズの話しは、『ロミオとジュリエット』を下敷きにしてるらしいけどな」

「『ロミオとジュリエット』?」

「シェークスピアの歌劇」

「知らんな」

「古典やで」

一瞬の間があった。

「何や、十六世紀の人やんか。俺の時代にはまだ生まれてへん人やな」どうやらタブレットでググったらしい。「でもまあ、良い物には古いも新しいも無いな。時を忘れるわ」

「もう外は真っ暗やで」

「一回が長いからなあ。さすがに三回観るとこんな時間になるか」

「三回も観たんか」俺は肩をすくめた。「肩凝ったんちゃうか?」

「全然。もう一回観たいくらいや」

「だいぶ気に入ったんやな」

「そう言えば、晩ご飯の用意してないな」

空海が今更ながら気付いて言った。

「虫の知らせやな」俺は笑って手に持っている袋を差し上げた。「お惣菜の残り、もろて来たから大丈夫や」

「ええんか、もう一回観ても」

少々遠慮がちに空海が尋ねた。

「ええで。俺は今日一回目やからな」

俺は笑って答えた。

 

 

20190225



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地域(まち)猫

空海は、現代日本で何をする?

 

 

地域(まち)猫

 

 

平成二十五年十二月中ば頃。

うちの近所の「笠〇商店街」には、一匹の猫がいる。しましま、所謂サビ虎で、名前は「イチロー」という。あのイチローにあやかったのかは不明である。元々は商店街の魚屋の猫「タマ」なのだが、色々な家で色々な名前を付けられており、いつの頃からか、「イチロー」の通り名で呼ばれるようになった。今では商店街の番人として、日夜パトロールに勤しんでいる。

俺がバイトからの帰りに笠〇商店街のスーパー「セ〇ゴク」に行くと、丁度そこに空海が買物に来ていた。

「おお弘史、お帰り。お疲れさん」

空海は左腕に買物カゴを掛けている。何だかすっかり主婦の趣きである。

「何かええモンあったか?」

俺は言いつつ、空海のカゴにカップの「エース〇ックのワンタンメン」を二つ入れた。

「弘史、これ好きやな」空海は笑った。「ところでさっき、そこでイチローさんに会(お)おたで」

「イチローさんか。元気してはったか?」

「相変わらず、のっしのっしと歩いてはったで」

「そら何よりや」

「まあここいらの親分やからな」

空海はそう言って笑った。

「今日は何を買いに来たん?」

俺はカゴを覗き込んだ。中には何やら野菜が入っている。

「とりあえず置き野菜やな。玉ねぎや白菜、じゃがいも人参なんか、あれば何かに使えるやろ。ここら辺では一番安いし」

何かフツーに主婦みたいな事を言っている。

「肉食べたいな」

「野菜多めの方が体にええで」

俺の肉リクエストは、一撃で却下された。

「グ〇ラベはパ〇クで買うさかい、帰りによろしくな」

空海はそう言いつつ、レジに並んだ。

結局マイバック一つでは納まらず、ビニール袋を一つ貰った。

二人で店の外に出ると、表は既に暗くなっていた。笠〇商店街の照明は早くもクリスマス仕様で、赤や緑の電球が賑やかにチカチカまたたいている。

「これ、何でチカチカしてるん?」

空海が俺に尋ねて来た。

「クリスマスのイルミネーションや」

「クリスマス?」

「キリストの誕生日やったかな」

「景教か」

「景教?」

今度は俺が尋ねてしまった。

「ネストリウス派のキリスト教やな」

二人でそんな話をしながら歩いていると、スナックのおばちゃんにおやつを貰ってご機嫌なイチローを見かけた。おいしい口をしながら道端に座り込むと、毛づくろいを始めた。

「堂々たるもんやな」

そんなイチローを見ていた俺達のすぐ横を、近くのパチンコ店「デ〇ジャン」から出て来たおっさんが通り過ぎた。食わえていた火の付いたままのタバコを路上に吐き捨てる。

「ちょっと待ちなさい」

空海がすかさず声を掛けた。チャリンコに乗ろうとしていたおっさんは、めんどくさげに振り向いた。近所のバネ工場で見た事のある、やからのおっさんである。

「何やねん。わし今イライラしとんねん。散々負けとおしな」

おっさんは超不気嫌な様子で答えた。それに対して空海は済ましたものだ。

「タバコのポイ捨てはやめなさい。見た目も悪いし、煙も毒や」

「うるさいわ。気に入らんならお前が拾えや」

「何であんたの尻拭いせなあかんねん。自分の始末は自分でせえや」

「何やとコラ」

おっさんと空海は、一触即発の状態になってしまった。

と、少し離れた所で毛づくろいをしていたイチローが立ち上がり、こちらへ向かって歩いて来た。イチローは、睨み合うおっさんと空海の間に割って入り、まずおっさんの顔を見上げて、ダミ声で「ナーッ」と啼いた。次いで空海の顔を見上げて、再び「ナーッ」と啼いた。

「何やイチロー、お前、仲裁に来てくれたんか」

おっさんは、イチローを見下ろして言った。

「イチローの方が、私達より大人なようですね」

空海も笑って言った。

「悪かったなニイちゃん。ちょっと虫の居所が悪うてな。カンニンやで」

おっさんは素直に謝ると、タバコを拾って自分の携帯用灰皿に入れた。

「私も乱暴な物言いで、失礼しました」

空海も頭を下げた。

それを見届けると、イチローはまた悠々と歩いて元の位置に戻り、ドサリと横になった。何事も無かったように目を閉じる。

「さすが、笠〇商店街のボスやな」

俺は溜め息混じりで言った。

「俺も、イチローさんに人の道を教わったわ。まだまだ修行が足らんな」

空海はそう言って笑顔を見せた。

 

 

20190302



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メガネ

空海は、現代日本で何をする?

 

 

メガネ

 

 

平成二十五年十二月も中頃である。

テレビではクリスマス商戦の真っ只中であり、俺がバイトに行っている「SE〇YU」も売り場はクリスマス一色である。

今日は眼科検診の為に、〇田区東〇池の国道沿いにある「奥〇眼科」に来ていた。この所、目がかすむ感じがして、年末に心配を残さない為に診てもらおうと思ったのだ。

眼科に入ると、待ち合い室にアキちゃんが座っていた。

「あ、ヒロシくんどないしたん?目ぇの調子悪いん?」

「アキちゃんこそどないしたん?」

「私な、コンタクトやから、定期的に検査せなあかんねん」

「アキちゃんコンタクトやったん?」

「知らんかった?」

「アキちゃんは謎だらけや」

俺はそう言って笑った。

「根岸のおばちゃんやろ?ここ教えてくれたん」

アキちゃんは笑いながら言った。

「そやで。何で判ったん?」

「私もそやったから」

「あ、ホンマ」

根岸のおばちゃんというのは、同じ「SE〇YU」のパートさんで、「ジョ〇プラザ」時代からいる世話好きの物知りおばちゃんである。

「で、どないしたん?」

「何か目がかすむもんやから、ちょっと診とってもらお思てな。何かビョーキやったらイヤやろ?」

「そうやね。『備えあればうれしい』言うしな」

「ビミョーに違う気がする」

アキちゃんの屈託の無い笑顔を見ながら、俺は首をかしげた。

 

アキちゃんは瞳孔を開く為の目薬を打たれて、目をつぶっている。俺は名前を呼ばれたので、アキちゃんの肩をポンポンと叩いて、中待合に入った。そこで待つ間に視力検査を受けてから、診察室に入った。カーテンで周りを囲ったそこは、何だか薄暗く、暗室のようなイメージである。

「どうしました?」

先生は穏やかな声で尋ねた。

「目がかすむんです」

「お仕事は?」

「パートでレジ打ちと在庫管理を」

俺の答えを聞いて、先生は俺の下瞼を親指で下へ引っ張った。

「伝票の整理とかしてはるの?」

「そうですね」

俺の答えを聞いて、先生はにこやかに言った。

「疲れ目やな」

「そうですか。別に変な病気とかじゃないですか?」

「特に異常は無さそうやで」先生は受け合った。「寝る前にスマホ見てへんか?」

「ゲームとかしてます」

「寝る一時間前には、控えた方がええよ」

俺はあっさりと解放された。

俺が診察室から出て来ると、丁度アキちゃんが中待合に入って来た所だった。目は閉じたままである。

「ほな、アキちゃんお先やで」

「あ、ヒロシくんどやった?」

「疲れ目やって」

「何も無くて良かったな」

「ありがとう」

「空海さんによろしくな」

「あの人な、今シンナー中毒やねん」

俺はそう言って笑った。

「写メ見たわ。めっちゃ誤解を招く表現やね」

アキちゃんも笑って言った。

 

今、空海はプラモデル作りにハマッている。この間、笠〇商店街に行った帰りに、電池を買いに立ち寄った「ヤ〇ダ電機」のおもちゃ売り場で見かけた「遣唐使船」のプラモを衝動買いして、一気に作り上げた。その写メをアキちゃんに送ったのだ。

そのすぐ後に「海王丸」を買って来て製作に取り掛かっていたが、細かな部品に四苦八苦していた。

俺が眼科から帰ると、やはり部屋の中は、ボンドのシンナー臭で満ちていた。

「ただいまー」

言いながら扉を開けた俺は、一瞬凍り付いた。プラモを作っている空海の顔に、何か掛かっている。

「やあ、弘史、お帰り」

「何や空海、それ、顔の」

「メガネや」

「メガネ?」

「メガネ凄いな。手元めっちゃよう見えるな。これ凄い発明やで。これで細かい作業もはかどるわ」

空海は大喜びである。しかも、作りかけの「海王丸」の横には、新品の「戦艦大和」も置いてある。

俺は、そんな空海を微笑ましく思いながらも、一応突っ込んでおいた。

「空海、それ、メガネやのおて、『ハ〇キルーペ』やで」

 

 

 

20190314



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風呂

空海は、現代日本で何をする?

 

 

風呂

 

 

平成二十五年五月の始め。

ゴールデンウィークも終わり、世の中「五月病」などと言いながらアンニュイに過ごすこの時期。

「なあ、空海、お風呂屋さんに行かへんか?」

俺は、布団の上であぐら(結跏趺坐)をかいている空海に声を掛けた。

「お風呂屋さん?」

空海は首をかしげた。

「そや。お風呂屋さん」

「お風呂なら、ここにも立派な風呂があるやないか、弘史」空海は不審げに言った。「自分の家に風呂があるだけでも贅沢やのに、わざわざどこかへ行くんか?」

空海が俺の部屋に転がり込んでから、一ヶ月と少しが経った。もの凄い勢いで現代に順応しているが、まだまだ知らない事も多い。

「俺の時代、自宅で湯に浸かるなんて考えられへんで。なのに、どこかへ行くて。湯治場か?」

「山奥とか行かへんで。地下鉄ですぐやで」

「地下鉄て、あの地面の下のゴーッて走るやつやな」

「そうそう」

「この部屋の風呂にある、桶やら石けんやら持って行くんか?」

「貸してくれるから、手ぶらで大丈夫や」

 

地下鉄〇岸線の駒〇林駅で降りると、目の前に「アグ〇ガーデン」、そして同じ敷地内に「あ〇ろの湯」がある。目標はその「あ〇ろの湯」である。

中に入ると、まずロッカータイプの下足箱があり、靴を入れてプレート型のカギを抜く。

「凄いな、履き物一個づつ入れるんや。上手い事出来たあるわ。間違い無くてええなあ」

空海はそんな所から感心している。

フロントで、タオルとバスタオル貸し出し込みで1,100円を支払い、ロッカーキーを受け取って中へ入った。

「へえ、明るいし、広いんやな」空海は周りを見回しながら言った。「めっちゃキレイな湯治場やな」

「多分、湯治場より気安くて楽チンやと思うで」

「そうかな?」

「別に病気な訳でもなし。純粋にお湯に浸るのを楽しむだけやからな」

「なるほど」

二人して脱衣所に入り、キーのナンバーと同じロッカーに服を放り込むと、湯船のスペースへと突入した。

「おおー、こりゃ凄い」空海は感嘆の声を上げた。「なんやこれ。湯船、石で出来てるやん。それに、いくつもあるし。体洗う場所まであるんか」

もう大騒ぎである。

「自分、何ヶ所も温泉当ててるやん」

俺は笑いながら言った。

「あれは、涌いてる湯が熱すぎるのを、上手く冷ます方法を考えたのがほとんどやで。それに、半分以上は弟子の仕事や」

「そうなんか?」

「さすがに一人であそこまで行き切れんわ。今みたいに地下鉄とか無いしな」

「そらそやな」俺は納得した。「言ってみれば『チーム空海』やな」

「チームって何や?」

「同じ目的で集まった集団ってとこか」

「僧伽(そうぎゃ)の事か?」

「ごめん、それ判らへん」

そんな事を話している間に、空海がそのまま湯船に入ろうとしたので、俺は慌てて止めた。

「待った待った、空海」

「何や?弘史」

「掛け湯せんと」

「掛け湯?」

「みんなで入る湯船や。まずはお湯を掛けて、汚れを落とさな。それに、掛け湯する事でヒートショックの予防にもなるんやて」

「ヒートショックが判らんけど、汚れを落とすいうのは納得や」

空海と俺は、掛け湯をしてから、広い湯船に肩まで浸った。

「ぷわー、気持ちいいなあ」

思わず声が出る。

「これは確かに気持ちいいわ」空海も手足を伸ばして溜め息をついた。「普段は蒸し風呂やからなあ。温泉地にでも行かんと、こんなまとまった湯は無いで」

「あっち行ったら、露天風呂あるで」

俺は大きなガラス窓の向こうを指差した。こちらと別棟に囲まれた箱庭で、数種類の露天風呂がある。

「面白そうやな、行ってみよか」

空海は、目を輝かせながら露天風呂に移動して行った。空海は、壺型の一人用風呂が気に入ったようで、随分長い事壺に浸っていた。

ちょっとのぼせて来た俺は、壺にハマっている空海の耳元でボソッと呟いた。

「あっちにサウナあるで」

「何やサウナて?」

「蒸し風呂や」

「蒸し風呂かあ」

「めっちゃ熱いで」

「何やそれ?」

空海はまた目を輝かせた。

 

 

 

20190319

 

 

※ 僧伽 仏教修行者の集団を指す言葉



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クリスマス・イブ

空海は、現代日本で何をする?

 

 

クリスマス・イブ

 

 

平成二十五年十二月二十四日。前日より少し暖かい。しかも良い天気。巷は山下達郎の『クリスマス・イブ』で溢れている。

クリスマス・イブ商戦の仕込み部隊として早番だった今日のバイトは、昼上がりであった。

奇跡的に二十四日午後からと二十五日が、シフトの加減でバイトが空いてしまった。かと言って何かする事がある訳でもない。

「なあ弘史、今日はクリスマス・イブやろ?何か予定は無いんか?」

空海が俺に声を掛けて来た。

「何や予定て」

「彼女と酒呑み行ったりするんちゃうん?」

「彼女がおらへんわ」

「何でおらへんのや?」

「何でて。二年前に別れたんや」

「袖にされたんか?」

「そうや。甲斐性無しって言われてな」

「やっぱり女人は高給取りが好きなんやな」

「定職があるのがええねん」

「バイトはあかんのか?」

「言ってしまえば日雇いやん。何かあったら最初に首切られるのは俺らや」

「世知辛いねんな」

「ホンマやな」

俺は思わず溜め息をついた。

「今日、俺らでどっか行くか?」

空海がそう言う。

「お坊さんやのに、クリスマスしてええん?」

無問題(メイウェンティ)や。密教は細かい事気にせえへんねん。長安にいた時、大秦寺(だいしんじ)に般若三蔵さんと一緒に行ったで」

「クリスマスしに?」

「今のとちょっとちゃうけどな。日も十二月六日やし。でも、長い靴下にお菓子入れてはったで」

「今とあんまり変わらへんねんな」

「ミラの聖ニコラウスが贈り物をくれる言うてはった」

「サンタクロースちゃうんや」

「よう知らんけど」

「でも、昔からあんねんな」

俺は感心して言った。

「人のやる事や。そうそう変わらへんて」

空海はそう言って笑った。

 

タ方の〇宮に出ると、人でごった返していた。大勢の男女が行き交っているが、大抵は空海の美貌に振り返る。

「多分、いや絶対俺ら誤解されてるで」

俺は思わず呟いた。

「何がや?」

「クリスマスに男二人で連れ立って。しかも空海は超イケメンやし。絶対モーホーや思われてるわ」

「それはあかん事なんか?」

「別にあかん事ないけど、俺は女の子の方が好きやで」

そう言った時、前から歩いて来たスーツの男とぶつかりそうになった。

「あ、ごめん」

二人は同時に言って、同時に気付いた。

「あ、憲吾(けんご)!」

「あ、弘史!」

「憲吾お前こんなトコで何やっとぉねん?」

「仕事や仕事。明日までに終わらさなあかん仕事があんねん」

「ヨメさんと子供は?」

「じいじの所でメリークリスマスや。ところでこの人は?」

憲吾は空海に目を移した。

「ああ。俺の同居人の、空海や。空海、こいつは俺の中学高校の同級生で、大道憲吾」

「大道さん、よろしく。弘史の部屋で居候している空海と申します」

空海はそう言って軽く頭を下げた。

「同居?居候?」

憲吾は目を白黒させた。

「よう判らんやろ?」

「えーっと」憲吾は掌をポンと打った。「GLBTってやつか」

「全然ちゃうし」俺はうなだれた。「言う思たわ」

「折角やし、少し呑まへんか?」

憲吾が切り出した。

「仕事わいや?」

「ちょっち煮詰まっとぉねん。気分転換に付き合おてくれるか?」

「私達で良ければお付き合いさせて貰いますよ」

空海が笑って言った。

 

三人で、国〇会館前にある『ニュー・ミ〇ンヘン』に入ると、丁度空いていた窓際の席に案内された。とりあえず生を注文する。

「おい弘史、お前まだニートなんか?」

「人聞き悪いな憲吾。フリーターやで。自分建築デザイナーやからって、余裕やな」

「空海って、歴史の教科書に出て来そうな名前やな。やっぱり坊さんなん?」

「当たりです。須〇寺でバイトしてます」

「バイトて、お坊さんのバイトてあんの?」

「ありますよ。お経上げてます」

「ヘえー、そーなんや」憲吾は目を丸くした。「で、やっぱり坊さんて、クリスマス何もせえへんの?」

「須〇寺の住職家族は、七面鳥とワインでパーティーする言うてはりましたよ」

「マジで?何でもありやな」

「真言密教はありのままの世界を肯定しますから。なので、こうやってお酒頂いてます」

「なるほど」

何となく納得した感じの憲吾を見て、思わず笑ってしまった俺は、スマホにL〇NEの着信があるのに気付いた。五分ほど前だ。

開いてみると、アキちゃんからのメッセージだった。

「泰子ちゃんとクリスマスパーチー」

というメッセージを開くと、写真が添付されていた。

アキちゃんと泰子ちゃん、黒猫のリュウがサンタの帽子を被って写っていた。

空海に見せると、「リュウちゃん大きなってきたなぁ」と目尻を下げた。

「何や、写真か?」

そう聞いてくる憲吾にも写真を見せてやると、憲吾は目を輝かせた。

「おい、誰だよこの可愛いコちゃん!お前の彼女か?」

「ンな訳あるかい。彼女やったら、今頃お前と一緒におらんて。妹みたいなもんや」

「向こうは女子会か。こっちは何やむさ苦しいなあ」

憲吾はそう言って溜め息をついた。

「たまには、男同士腹を割って話しをするのも、悪くないんやないですか?」

空海は笑って言った。

「そうやな。女っ気が無いのも、これはこれでおもろいかもな」

俺もそう言うと、グラスワインを三つ頼んだ。赤だ。

「キリストの血で乾杯やな?」

空海は右の眉を吊り上げた。

「ま、こんなんもアリって事で」

憲吾がグラスを差し上げた。

「メリークリスマス」

空海の発声に合わせて、三人でワインを空けた。

 

 

 

20190329



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インフルエンザ

空海は、現代日本で何をする?

 

 

インフルエンザ

 

 

平成二十五年十二月。年の瀬。

二十八日の夜、近所のレストランで常連客のみの忘年会があって、それに参加した。その時、何か体調に不穏なものを感じていた。

翌日、昼からのシフトで『SE〇YU』にバイトに行ったのだが、どうにも体がダルい。

「ヒロシくん、顔赤いけど、大丈夫?」

アキちゃんにそう言われて熱を計ってみたら、なんと三十九度を越えていた。

「お前、とっとと帰って病院行きやがれ!」

小林さんに職場を追い出され、フラフラと〇菱病院へ行った。そこで、鼻の穴に綿棒を突っ込まれて検査をされた。

「インフルエンザやね。赤いの出てるでしょ。B型ね」

お医者からきっちりと宣告され、謎の粉薬を吸引させられた。

マスクを着けさせられ、一週間は家を出るな、と言われた。

部屋に帰ると、すぐに布団を引っ張り出して、中に潜り込んだ。帰って来た時はそうでもなかったが、だんだんと寒気がして来て、布団にくるまっても収まらないほど体が震え出した。

生まれて初めてのインフルエンザだが、こんなにしんどいとは思っていなかった。体中の節々が痛い。頭は熱くてフラフラする。なのに体は寒くて歯の根も合わない。食欲もない。

俺、死んじゃうんやないやろか。

本気でそう思った。

そこへ、須〇寺バイトを終えた空海が帰って来た。

「どうした弘史、具合でも悪いんか?」

そう尋ねる空海に、俺はやっとの思いで答えた。

「…インフルエンザや…」

「インフルエンザ?よう判らんが、要は流感やな」空海は言いつつ、タオルを絞って俺の額に乗せた。「医者に薬はもろたんやろ?なら、眠るんが一番や」

俺は、その声を聞きながら眼りに落ちていった。

色んな夢を見た。イヤな夢ばかりだった。そんな中で、たまに替わる額の冷たいタオルだけが、心地良い感覚だった。

 

目を覚ますたびに窓の明るさが変わっていたが、今見る窓は真っ黒だった。

枕元をまさぐってスマホを見つけると、まだグルグル回る視界の中で「12月31日」の日付が確認出来た。

「お、起きたか?」

台所で何か作業をしていた空海が振り向いて声を掛けてきた。見慣れたエプロン姿の空海の存在に、もの凄い安心感を覚える。

「どうした?ボーッとして。まだしんどいか?」

そう尋ねてくれる空海の言葉に、何だか胸が熱くなった。

「ヤバい。グッと来た。惚れてまいそうや」

「まだ何もしてへんで」

「おってくれるだけで何や嬉しいわ」

「まだ宵の口や。もうひと寝入りしたら、お腹空いてくるんちゃうか?」

空海にそう言われて、俺は素直に布団に潜り込んだ。あっという間に眠りに落ちた。

次に目が覚めた時には、かなり体は楽になっていた。まだ節々の痛みが残ってはいたが、熱が引いていたので自力で布団の上で上体を起こす手が出来た。空海は、『ダ〇ンタ〇ンのガキの〇いやあらへんで!! 大晦日年越しSP 絶対に〇ってはいけない地球防衛軍24時』を見て笑っていたが、俺が起き上がる気配に気付いて、振り返った。

「どうや、調子は?」

「頭フラフラするけど、ちょっとマシかな」

「お腹は?」

「何となく」

「おかいさん(お粥)食べるか?」

「少し食べてみよかな」

「よし。ちょっと待ちや」

空海は立ち上がると、コンロの火を着けた。もう作ってあったらしい。

空海は台所からそのまま近付いてくると、俺の肩にドテラを掛けてくれた。

「あれ?うちにこんなんあったっけ?」

「ちょっと前に、アキちゃんが持って来てくれてん。『お大事に』言うてたで」

「あとでL〇NEしとくわ」

俺は言いつつ、テレビに目を向けた。ココ〇コ田中がタイキックされている様子に、思わず笑ってしまう。

「笑えるゆう事は、復調しつつあるてゆう事やな」

空海はそう言って、俺に木の椀を差し出した。お粥に木の匙が

刺してある。

「この匙、百均で買って、どこいったか判らんくなってた奴や」

「俺は判ってたで」空海は自分の分のお粥を椀に入れた。「いつ使おうか思てたんや。今日が初の実戦投入や」

俺はひと口食べてみた。何とか食べれそうだ。

「あったかいな」

「まあ無理しんで、ゆっくり食べや」

「ありがとうな」

「白米のおかいさんなんて贅沢やで」

「そうか?」

「雑穀が混ざってるのが普通やからな」

「白米だけで良かったわ」

俺は何とか椀に半分のお粥を食べ切った。お腹がぬくもって、ちょっと力がついたような気がする。

テレビの中では、N〇K紅白が終ろうとしていた。画面が切り替わり、後ろにライトアップされた東京タワーを望む、芝増〇寺が映った。『ゆく年くる年』だ。

「何だか、今年は激動の一年やったなあ」

俺は溜め息混じりに呟いた。

「最後は病気で締めやもんなぁ」

空海が笑って言う。

「…何か、ありがとうな、空海」

「こっちこそ、色々ありがとうな、弘史」

俺と空海が言ってすぐ、鐘の音と共に日付が変わった。

「今年もよろしく」

お互いに頭を下げた。

 

 

 

20190401



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新元号発表

空海は、現代日本で何をする? 号外

 

 

新元号発表

 

 

平成三十一年四月一日。

俺は、空海と共にNHKを見ている。午前十一時半発表、とあるが、十一時半現在、まだ官房長官は出て来ていない。画面は、ヘリから車を追っている。内閣の臨時閣議を終え、政令に今上天皇の御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)を頂く為に、政府職員が御所に向かっているのだ。

「天皇陛下にサインとハンコ貰わんと、正式に発表出来ないって事か」

俺は、空っぽの記者発表席の映像を見ながら言った。

「そらそうや。陛下がご在位であらせられるのやから、先ずは陛下にご報告せなな」

空海は正座してテレビを見ながら言った。

「前の元号は、昭和天皇が崩御されてからの発表やったから、何だか重たい雰囲気やったけどなあ」

「この度は譲位やから、むしろ喜ばしい改元やな。俺の時は、嵯峨天皇が弟の淳和天皇に譲位し、更に淳和天皇が嵯峨天皇実子の仁明天皇に譲位したんやが、その時の三十年くらいは平和な時代が続いたで」

「そうか。なら、この元号でも平和な時代になるとええな」

「そうやな」

「あ、官房長官が出て来たで」

テレビの発表席に、官房長官がやって来た。

「いよいよ発表や」

俺も思わず居ずまいを正した。

官房長官の横に額が出て来た。

「新しい元号は『令和(れいわ)』です」

案外あっさりと発表された。

「令和かあ…」

「この字は、万葉集からの引用で、梅花の歌三十二首の序文の『初春の令月にして気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、(らん)(はい)後の香を薫らす』から…」

テレビでは説明が続いている。

「ほう、国書から取ったんやな」

空海が吐息を漏らした。

「今までと何かちゃうんか?」

「大体は、中国の文献などから引用する事が多いんやけどな」

「まあ、漢字言うたら中国やもんな」

「俺もそうやったけど、やはり唐の方が文化が進んでたさかい、唐に学び、唐に倣うのは当然なんやけどな。今の日本は、中国や朝鮮と比べても遜色無い、いやむしろ上を行ってる思うで。せやから、日本独自の文化『万葉集』から引用したいうのは、日本の独立独歩の意志を内外に示す意味で、ええ事やと思うわ」

「そんなもんかな?」

「昔も今も、日本は世界に負けてへんで。日本人はそこに気付いてないだけや」

「そう言うてもらえるとうれしいな」

「日本人は謙虚過ぎるからな」

「まあでも、キレイにまとまったんちゃう?」

「そうやな。なかなかええ元号やと思う。覚悟が決まった感じがするわ」

「覚悟?」

「日本は自立するって覚悟や」

「元号で判るもんなんか?」

「言葉とは言霊(ことだま)や。言霊とは形を与える事や。令も和も、勿論中国の文献にもある言葉や。でも、それを日本の書物から取った、と説明した事で、この言葉が借り物では無い、日本独自のものであるという形を与えたんや」

テレビでは、今は首相自らが談話を発表して、

「春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、決定した」

と言っている。

「何となく、歴史の転換期におるって感じやな」

俺は感慨深く呟いた。

「判ってる思うけど、新元号になるのは来月やで」

「あ、そやった」

俺は、目から鱗の気分だった。

 

 

 

20190402

 



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即身

空海は、現代日本で何をする?

 

 

即身

 

 

俺は、空海。いつもは弘史の一人称やけど、今回は諸般の事情で俺の一人称で。

ふと気が付くと、俺は真っ暗な部屋の中にいた。部屋と言っても、俺が座っている場所は、前方にある木造の建物から少し下った所にあり、周りは岩壁で湿っぽい。しかもかなり寒い。この寒さには身に覚えがある。

「高野山やな…」

俺は呟いた。口がカラカラに乾いていて、声も出しづらい。首もコチコチに固く凝っていて、周りを見回す事さえツラい。

「手が動かへん」

自分の手が、法界定印のまま固まっている。指を動かす事もできひん。

「何やこれ?」

そう思いながらも、今の状況には心当たりがあった。恐らく、俺は結跏趺坐して定印を結んでいる。禅定の姿勢や。

これ、俺が入寂した時の姿勢やんか。

入寂、平たく言うと"死んだ"言う事。俺は、承和二年(835)三月二十一日に自分の寿命を全うした。何日も前から穀物を断ち、水も取らず、身を綺麗にして臨終を迎えた。

姿勢はその時と変わってへんのに、着ている衣は前より良くなっている。俺は元々質素な方が好きやから、麻の褊衫(へんざん)を着ていたが、今はどうやら絹のものを着ているらしい。

どれほど時間が経ってるか判らんが、体の強張り具合から見て、一年二年ではないようや。

体が動かないと判ったので、俺は耳を澄ましてみた。自分でも驚くほど聴覚が鋭くなっている。

そんな俺の耳に、足音が聞こえて来た。二人は草履、一人は下駄。しばらく石畳を歩いていたが、やがて石の階段を登って、そこからは玉砂利の上を歩く音になった。俺のいる建物の近くまでやって来た。

維那(ゆいな)、ここに上人がいらっしゃるんやな」

老いた声が、囁くように言った。

「はい。我らは『奥の院』と呼んでおります」

維那と呼ばれた男が答えた。維那とは、僧伽(そうぎゃ)の庶務を取り纏める役職である。

「上人は荼毘に付されたと聞き及んでおりますが」

若い男の声が尋ねた。

「はい、確かに」維那が答えた。「私の師匠がそれを見届けたそうなのですが、三度荼毘に付して、三度とも睫毛一本焦がす事すら出来ひんかったそうです。それ以来、上人をこちらへお運びして、庵を築いてお祀り申し上げているのです」

「そうか。それでは、私が直にご報告申し上げるので、扉を開けて下され」

ややあって、ガチャリと錠前の開く音がして、扉が開く音がした。しかし、明かりは入って来なかった。俺はそこで初めて、この建物が更に大きな建物に覆われてる事に気付いた。

外の扉が閉じて、何やらごそごそやっている気配があった後、再び錠前がガチャリと開けられた。弱い光が上方から差し込んで来た。ほぼ完全な闇に近かったので、俺には十分な明るさやったが、入って来た二人には何も見えてへんのやろう。手を前に伸ばして、手探り状態で奥へ進んで来る。

「まるで霧がかかっているようや。お姿が見えへん」

老僧が言う。

「私も同じです。何も見えません」

若い僧も口を合わせる。

二人は、小さな結界の前で立ち止まった。俺のすぐ前。ゆっくりと座る。

「上人様、私は東寺にて長者を勤めております、観賢(かんげん)と申します。本日は、我が弟子 淳祐(じゅんゆう)と共に御上(おかみ)(醍醐天皇)よりの(みことのり)をお伝えに参りました。御上は上人様の業蹟をお認め下さり、諡号(しごう)を賜りましたので、ここにご報告申し上げます」

観賢はそう言うと、懐から一通の書状を取り出した。ゆっくりと広げると厳かに読み上げた。

大僧都(だいそうず)空海和尚(わじょう) 諡号 弘法大師」

観賢は書状をしまうと、経を誦え始めた。『理趣経(りしゅきょう)』である。淳祐も続く。

『理趣経』を誦え終え、光明真言(こうみょうしんごん)を誦え終わった観賢と俺の目が合った。

「あ、お姿が…」

観賢は、ようやく俺の姿が見えたようである。

「髪も髭も伸びておられますな。衣体もボロボロで…。御上から檜皮(ひわだ)色の衣を賜っております。しばらくお待ち下さい」

観賢はそう言うと、俺の伸び放題の髪と髭を剃刀で剃り、衣を着換えさせてくれた。

「師匠、私にはまだ上人のお姿が見えません」

淳祐は涙ながらに訴えた。観賢は、そんな淳祐の右手を取り、俺の膝に触れさせた。

「ああ、確かにおわします。温かさを感じます」

淳祐はさらに涙を流しつつ俺の膝を撫で回した。ちょっとイヤな気がした。

しばらく滞在した二人も、外が暗くなる前に、と立ち上がった。二重の扉が閉じられ、俺はまた闇に残された。

立ち去って行く足音を聞きながら、俺は外の様子を見たくなり、強張った体を無理矢理起こした。思ったより簡単に立ち上がれたと思ったら、結跏趺坐した俺の姿が後ろに残っていた。魂だけが抜け出したような感じやった。そのまま歩いて壁を突き抜けた。外に出ると、茅葺きの庵の前に玉砂利が敷き詰めてあり、石段を降りて石畳が続いている。三人の僧達がそこを歩いていた。俺は文字通り飛ぶように追いかけ、玉川の橋で追い付いた。それに気付いた観賢が振り向いた。淳祐はやはり見えていないようや。

観賢は、俺に向かって合掌して頭を下げた。俺も合掌した。

彼らが去って行く後ろ姿を見送っていた俺の足元に、真っ黒な穴が開いた。俺はその穴に吸い込まれた。

 

 

「おい、空海、大丈夫かい?」

俺は笑いながら声をかけた。地下鉄海岸線のシートで居眠りをした空海が、足をガクッとさせて目を覚ましたからだ。

「びっくりした!何や弘史か」

空海は目を白黒させている。

「何やて何や?」俺は肩をすくめた。「珍しいやん、居眠りするて」

「何か、ヘンな夢を見たわ」

「ほんの一瞬だけやったけどな」

そう言った俺を、空海はジト目で見詰めた。

「どしたん?」

そう尋ねた俺に、空海は溜め息混じりに答えた。

「めっちゃネタバレやったわ、大師号」

 

 

 

20190407

20190412改



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震災の記憶

空海は、現代日本で何をする?

 

 

震災の記憶

 

 

平成二十六年(2014)一月十七日の金曜日。

〇戸では、朝から慰霊の行事が行われていた。

平成七(1995)年一月十七日の火曜日、午前五時四十六分。中二だった俺は、この頃兵〇区浜〇町に住んでいたのだが、剣道部の朝練に行く為に家を出た直後に激しい揺れに襲われた。M7.3。震度七。後に言う「阪神淡路大震災」である。慌てて飛び出して来た母親のすぐ後ろで、二階建ての家の一階部分が潰れた。父親は前日から関東に出張していたので地震には巻き込まれなかったが、交通網の麻痺でしばらく〇戸に帰って来る事が出来なかった。

しばらくは近所の寺の会館で避難生活を送っていたが、三月末頃に運良く公団住宅の空き部屋の抽選に当たり、〇区〇栄台に引っ越した。

そこで高校を卒業したのだが、その年、平成十一年(1999)は所謂「就職氷河期」で、求人倍率0.48倍という絶望的な就職難であり、俺は当世流行りの「フリーター」になった。

親から借金をする形で運転免許を取り、色々なバイトを渡り歩いた。マ〇ドナ〇ドやケン〇ッキーや〇カゴピザ、〇ーソンやセ〇ンイレ〇ンなどを経て、平成二十一年にジ〇イプラザの大〇にレジ係兼集配係としてバイトに入った。

 

 

 

「なかなか紆余曲折な経歴やな、弘史」

空海はそう言うとグリラベをあおった。今日一月十七日は、俺も空海もバイトに出ていて、夜七時に部屋で合流した。俺が買って来た手羽中を塩焼きにしたものと、昨日空海が作った肉じゃがの残りとを肴にして部屋呑みと相なったのである。

「やろ?結構大変やったんやで、これでも」

俺もグリラベをあおった。

「何か商売でもやったら良かったんちゃうか?」

「平成十一年から十二年までが一番景気の冷え込んだ時やったんやで」俺は首を振った。「才能もない素人が手ェ出して、何とかなるもんちゃうで」

空海は黙って肩をすくめた。

「アキちゃんのお父さんも、震災で亡くなったらしいわ」俺は沈痛な面持ちで言った。「今日はお父さんの命日やし、叔父さんの百ヶ日にも当たるらしいわ」

「寂しい話やな。アキちゃんのお父さんとこは、兄弟二人とも亡くならはったんやな」

「ホンマやな。その分、アキちゃんには元気で楽しく暮らして欲しいな」

「そやな」

二人で無言でグリラベを差し上げて、献杯の替わりとした。

「そう言えば」空海は何かを思い出すような遠い目をした。「俺も若い頃に地震に()おたなあ」

「ホンマか」

「駿河の国(静岡県)あたりで、富士山が噴火しよってん」

「マジで?」

「確か延暦十九年六月くらいやったかな」

「えんりゃくじゅうきゅうねんって何時の話や?」

「グレゴリオ暦なら800年かな」

「めっちゃ昔やな」

「俺、隣の浅間山の麓におって、火砕流に巻き込まれかけて、死ぬか思たで」

「よお助かったなあ」

「お陰さんでな」空海は笑った。「大地は生きてるて実感したわ」

「そん時、周りはどないやったん?」

「そらむっちゃ被害出たわ。地震よりも、むしろ火山灰が無茶苦茶降りよってな。東海一体の田畑は全滅やった」

「今も昔も、災害が起こったら大変やなあ」

俺は溜め息をついた。

「この辺も被害あったんやろ?」

空海は言いつつ二本目のグリラベを開けた。

「ああ。軒並み倒壊しとったな。古い木造が多かったしな。でも火が出なかったのは助かったわ」

「火ぃ出たら恐いな」

「火ぃ出たところもあったからな」

「えらい被害出たやろな」

「まあ、今ではだいぶ復興したけどな」俺は肩をすくめた。「災害なんて、無いに越した事ないわいや」

「そらそうや」

「ところで空海、須〇寺でも震災の法要したんやろ?」

「俺は経木供養やったけどな。職員さん達は朝五時半と十時からの二回してはったで」

「ちゃんと続けてはるんやな」

「塔頭(たっちゅう)の蓮〇院の住職は亡くなりはったんやて」

「そうなんか」

それは初耳だった。

「須〇寺って、本坊と三つの塔頭で出来てるんやけど、正〇院は無事やったけど、蓮〇院と桜〇院は本堂が倒壊したんやて」

「えげつないな」

「今はどっちも再建されたけどな」

「それは良かったな」

「桜〇院の副住職が言うてはったけどな」空海は笑いながら言った。「桜〇院の本堂が倒壊した時、自家用車のベ〇ツも瓦礫に埋まってしもたんやて。とりあえず掘り出したんやけど、それ以来副住職はそのベ〇ツを『曰く付きの掘り出し物』て呼んでたらしいで」

俺は返事をするのに少し間を取った。

「それ、笑い所なんか?」

「そうらしいで」

空海はニンマリと笑って言った。

 

 

20190415



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単車

空海は、現代日本で何をする?

 

 

単車

 

 

一月十七日の家呑みはまだまだ続いている。

「そういえば、今日の昼過ぎぐらいやったんやけどな」

俺は新しいグリラベを開けながら切り出した。

「今日、何か事件があったんか?」

空海も新しいグリラベを開けた。

「今日は俺、奥で在庫確認やっとったんやけどな、三日にいっぺん必ず来るお婆ちゃんがおんねん。『ハルちゃん』いうんやけどな。そのハルちゃんが、忘れ物したいうてレジ係がわあわあ言うとってな」

「ほう」

「ハルちゃん、元々は新〇田あたりに住んどったらしいんやけど、震災で〇水区〇屋町辺りに引っ越しとおねん。で、忘れ物いうのが保険証とか診察券とかポイントカードをまとめた奴やったんや」

「そりゃあたちまち困るやろな」

「やろ?家までは敬老パス使(つこ)て帰ったから忘れ物に気付かへんかったみたいやけど、三日間カード類なかったら不便やし、病院にも行かれへんやん」

「そやな」

「そんで、ハルちゃんに電話して、届けたげよいう事になったんや。なにせハルちゃん九十二才やし、取りに来てとも言い難いしな」

「凄いご長寿やな」空海は目を丸くした。「俺の周りはほとんどが四十代から五十代までやったで」

「それで、俺がハルちゃんの家の場所を知っとったから、お届け役を買って出たんや」

「何で知っとったん?」

「前に買った野菜が重たいゆうて、運んだった事あんねん」

「なるほど」

「で、職場の単車借りて、〇水まで行ったんやけど、二号線走ったらすぐやと思とったんやけど、俺原付しか乗れへんし、それやと結構時間が掛かるんやな。なるべく急いで行こう思て、飛ばしてたんやけど、そしたらほら、おったんや、白と黒の車が」

「何やったっけ?」

「パトカーや」

「あ、検非違使(けびいし)の乗り物か」

空海は膝を打った。

「須〇浦の辺りでウーッて鳴らされてな、セルフのガススタの前、信号のすぐ横で停められたんや」

「えっ、捕まらはったん?」

「そやねん。パトカーから若い警官が出て来て、俺に近付いてくんねん。年かさの先輩警官はパトカーの横で見てはんねん」

「嫌な状況やなそれ」

「でな、若い警官が『よお出てましたねぇ、スピード。急いではったん?』とか聞いてくんねん。俺は一応『おばあちゃんに大事な忘れ物を届けに行くんや』て説明はしたんや。でも『急いではんのは判るけど、原付は時速30㎞ですよ』とか言いながら、違反キップを出そうとしたんや」

「それを書かれたらアカンのやな」

「そや。万事休すや。でもな、その時に丁度信号で停まってた軽にセダンが突っ込んだんや」

「事故か」

「凄い音したで。ドカーンて。軽、停止線の向こうまで吹っ飛ばされとったもん」

「えらいこっちゃやな」

「で、事故車が一車線ふさいでしもたから、先輩警官が飛んでって交通整理を始めたんや。機敏な反応やったで」

「先輩、有能やったんや」

「現場は大騒ぎになってな。若い警官もキップ切ろうか先輩手伝おうか迷って、先輩の方見たら、先輩が『行かせてやれ』て」

「まあ、キップどころやないわな」

「若い警官が『これから気ィ付けて下さいね』言うて、放免してくれてん。俺思わず『ありがとう』言うてもた」

「結局違反にはならへんかった訳やな。良かったやん」

「ホンマ、助かったで」

俺は大きく溜め息をつきながら言った。

「もしキップ切られてたら、どうなっとったん?」

「二点取られて罰金一万円」

「えぐいな」

「で、とりあえずハルちゃんとこ行って、忘れ物届けて、お茶淹れてもおて雑談して、帰る時に同じとこ通ったら、パトカー三台消防車一台救急車二台来てて、一車線規制して大変な事になっとったわ」

「結構大変な事故やったんやな」

空海は、そう言いながらニヤニヤ笑っている。

「何(わろ)てるん?」

俺は首をかしげた。

「俺な、そん時ガソリンスタンドにおってんで」

「マジで?何で?」

「須〇寺の職員さんの用事に付き合って出て来とって、ガソリン入れてたとこやったんや。弘史ヘルメット被ってたやろ。せやからすぐには判らへんかったけどな。話聞いてたら、あぁあれやったんや思て」

「話の内容判ってて黙って聞いてたんかいな。人悪いわ」

「でも、詳しい事情は知らへんかったしな」

俺は肩をすくめた。

「まああれや、弘史」

「何や?」

「弘史がええ事しよったから、今回は神仏が見逃してくれたんやで」

「ホンマかいな?」

「知らんけど」

「知らんのかい」

「でもそう考えた方が、ちょっと心が豊かになるんちゃうか?」

空海はそう言って笑った。

 

 

 

20190423

 

 

註:

検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(非法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。

 

平安時代の弘仁7年(816年)が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、桓武天皇による軍団の廃止以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果として、治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務していた。官位相当は無い。五位から昇殿が許され殿上人となるため、武士の出世の目安となっていた。by Wikipedia



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平成最後の日

空海は、現代日本で何をする?

 

 

平成最後の日

 

 

平成三十一年(2019)四月三十日(火曜日)。

世の中は、何となく落ち着かない雰囲気が漂っている。明日には、元号が「平成」から「令和」に変わるのだ。

俺は、今日はバイトが早番だったので、昼過ぎには部屋に帰って来て、洗濯を済ませた。どんよりとした雲と時にぱらつく霧雨のせいで、部屋干しをせざるを得ない。

テレビをつけると、天皇の退位のニュースで持ち切りだった。昭和天皇が崩御した時は、俺は小学校三年生の冬休み中だった。色々と「自粛」していた事を覚えている。だが今回は生前での退位なので、結構お祭り騒ぎになっている。

マスコミでは、「平成の大晦日」などと言って特番を組んだり、タイマーを表示してカウントダウンをしてみたり、ある意味「旧正月」的な盛り上がりである。

とりあえず買って来ためざしをあぶって、アスパラをバター炒めにしようと根元の皮を削いでいる所で、須〇寺のバイトから空海が帰って来た。

「ただいま」

空海は少々疲れた声で言うと、テーブルの前に座り込んだ。

「何や疲れてんな」

「今日な、多分ご朱印が多いやろて受付に入れられたんや」

「空海、字ぃ上手いもんな」

「最近、『ご朱印ブーム』とかあるらしいな」

「さっきテレビで、東京の浅草(あさくさ)神社が紹介されてたけど、昨日(二十九日)は千三百人、今日(三十日)は千五百人がご朱印貰いに来てたらしいで」

「そうやと思うわ」

「須〇寺でも多かったんか?」

そう尋ねた俺に、空海は力なく笑った。

「多いなんてもんやなかったで」

「そんなかいな」

「やっぱり多かったな。平成最後の日付が欲しいゆう人がほとんどやな」

「まあ判る気ぃするけどな」

「それに、明日(五月一日)も来て、平成最後と令和初めと両方欲しい、という強者もおったで」

「そんなもんかなぁ」

「お寺に来てくれるだけでもありがたい事やで」

「ひとつの時代が終わって新しい時代が始まる、そんな節目に神仏にお参りするて、やっぱ日本人的やと思うな」

俺は言いながら、フライパンを熱してバターを溶かすと、そこにアスパラを放り込んだ。しんなりして来たところで醤油を回しかけ、香りをつける。それを小皿にバサッと盛りつけ、俺もテーブルに着く。

グ〇ラベを開けると、缶を当てて"カンパイ"の態を取ってグイッと空ける。

テレビでは、平成の三十年を振り返る映像が流れている。

「それにしても」俺は早くも二本目のグ〇ラベを開けた。「天皇陛下て凄いな。ホンマに国民の事ばっかり考えてくれてはるんやな」

「そらそうや。国民あっての天皇やし、天皇あっての国民や」

「日本国の象徴やな」

「"象徴"て表現してるいう時点で、要するに"お上(かみ)"は日本そのものやゆう事は変わってへんて事やな」

空海はそんな事を言う。

「へっ?」

「元来"すめらみこと"は神々の血統を受け継ぐ大和の国の法と秩序そのものなんや。何やら諸外国の外圧で天皇の政治的な力が奪われてしもたようやが、文章の上で何やらこねくり回したところで、本質的なものは何も変わらんて」

「どーゆー事?」

「臣民たる日本国民の総意が形を成したものが天皇やし、その天皇から生まれ付き従うのが臣民である国民や。つまり、天皇と国民と国体(日本)は三身一体なんや。これは、日本という国を形作る天地(あめつち)の掟や。たかだか人の定めた法則などで左右される訳がないわ」

「そんなもんか」

「そうやで。(みかど)は凄いねんで」

「結論はそこやな」

「そうや」

空海は笑いながらグ〇ラベを呑み干し、次の缶を開けた。

「令和が、おだやかで良い年になったらええな」

俺はしみじみと言った。

「きっとええ年になるて」

空海は朗らかに言った。

いつの間にか、テレビのカウントダウンも残り十秒となり、午前零時の時報と共に、平成が終わり、令和がやって来た。

「新しい時代に」

俺はグ〇ラベを差し上げた。

「新しい帝の世に」

空海もグ〇ラベを差し上げた。

『カンパイ』

新しい時代が到来した。

 

 

 

翌日、空海に聞いてみたところ、須〇寺でも昨日以上に朱印を受けに来る人が列をなし、てんてこ舞いだったらしい。

 

 

 

20190501



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買い物

空海は、現代日本で何をする?

 

 

買い物

 

 

平成二十六年(2014)一月の最後の火曜日。

俺がバイトから帰ると、部屋では空海が何だか難しい顔をしてテーブルの前に座っている。

「おお、ええにおいや。炊き込みごはんやな」

俺がうれしげに言っても、空海は反応しない。

「どしたん、空海。えらい難しい顔しよおな」

俺が思わず心配してしまうほどのコワい表情をしていたが、声を掛けるとその表情はスッと消えた。

「お帰り弘史」空海は淡々と応えた。「いや。別に何でもないで」

「『別に』ちゃうで。何か悩み事でもあるんか?」

「悩みってほどやないんやけどな」

「ふん」

「買い物ってムツカしいなぁ」

「はあ?」

「今日、火曜日やろ?」

「そやな」

「大抵のスーパーは割引の日なんや」

「そやったかな」

「で、先ずマルハチへ行ったんや。そこでバナメイエビが百グラム九十五円やったんや。で、十尾で大体百五十グラムで三百三十三円税別やな。玉子Lサイズ十個一パックで百二十八円。ソースもイカリのウスターソースとお好み焼きソースで各八十八円一人二本までやったんで、二本買うたった。で、豚肉は百グラム九十五円やったんやけど、メキシコ産やったから、やめといたんや」

「なるほど」

「で、次にマルアイに行ったら、国内産豚肉が三百四十グラム五百円やったんや。国内産のが欲しかったからそれはええんやけど、こっちでは五百円以上買ったら、玉子一人一パック限定で百円やったんや。何か損した気分やろ?」

「確かに何か凄い損した気分やな」

「しかも、イカリソースとハインツのケチャップ各九十五円一人二本までやったんや。それやったらソース二本も買わんでも良かったなて」

「中々ムツカしいな」

「結局ハインツ一本九十五円で買うてもたわ」

「空海て、結構細かいんやな?」

「どうせなら、安く済んだ方がうれしいやろ」

「そやけどな」俺は笑いながら言った。「一ヶ所で買い物済んだら、それでええかなぁ思うけどな」

「そうなんや」

「あくまで俺の場合やけどな。俺は、手間や時間を金で買うタイプやねん」

「どういう事や?」

「俺な、例えばマルハチに入ってグリラベ買って、ハーゲンダッツも欲しなったら、マルアイの方が安くてもマルハチで買い物済ましてまうねん」

「ほう」

「次の店に移動する手間賃を(はろ)たと考えるんや。まあ、それも気分や体調とかで変わるけどな」

「なるほどな」空海は笑った。「そやから弘史はお金が貯まらへんのやな」

「放っといて」

「別に、買い物に正解不正解なんてあらへんのやろうけどな」

「そらそうや」

「でもな、上手にお金使えば、より多く色んなモン買えるで」

「そうなんやけどな~」俺は肩をすくめた。「メンド臭いが先に立ってまうねんな~」

「あと、弘史、新商品とか期間限定とか好きやんか」

空海は笑いながら台所横の段ボール箱を指差した。それは、俺が見付けるたびに買って来るカップめんやスナック菓子で一杯である。

「そういうのに弱いねんなー」俺は笑うしかなかった。「特に"期間限定"ってのはあかんな。つい買うてまうんや」

「気持ちは判るけどな。でも言うほど食ベへんから、なかなか減らへんよなあ」

「むしろ増えてく気ぃするな」

「せっかく買うても、早う食べんと味変わってまうで」

「ホンマやな。なるべく気ぃ付けるわ」

俺はちょっとだけしゅんとした。

「まあ、人間が生きて行く上で、好奇心って大事やけどな」

「何や、フォローしてくれはるんか?」

「好奇心って言い換えれば向上心やしな。新しい知識を手に入れて、自分を成長させたいってのは、誰でも持ってる欲求やもんな」

「そうやろ。空海やってそうやんな?」

「ああ。俺も人一倍好奇心旺盛やで。あれも見たいこれも知りたい。この世界は謎と不思議で一杯や」

「そうやろ?やっぱり新しい物とか珍しい物って気になるやんな?それが目の前にあったら、買うてまうよなあ」

「好奇心は大事やな」空海は笑って言った。「でもな弘史、"好奇心猫を殺す"とも言うで」

「何や、上げたり下げたり忙しいな」

俺は大袈裟に舌打ちをした。空海は笑いながら立ち上がった。

「とりあえず、晩ご飯食べようや」

 

翌日、俺が買って来たコンビニの袋を見て、空海は薄く笑った。

「何や、やっぱり改めてへんのやな」

「でもな空海、このカップめん見てみ、こんな味の奴、今まで見た事ないで」

俺は、自分のスタイルを貫く事にした。

 

 

 

20190513



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救済

空海は、現代日本で何をする?

 

 

救済

 

 

平成二十六年(2014)二月三日。世の中は節分である。

「SE〇YU」バイトが昼番だった俺は、午後七時半を回った所でレジの集計を正従業員であるナカさん(76才女性)に頼むと、仕事終わりを見据えてサッカー台の掃除を始めた。

買った物を袋に詰めるだけの台だが、やはりどうしても汚れが付いたり、ゴミが落ちたりするもので、キッチリ拭き上げようとすると、結構時間も掛かるし力も入る。

一心不乱に台を拭いていると、すぐ横に買い物カゴが置かれた。

「あ、すいません。すぐ済みますので」

そう言って移動しようとした俺に、買い物客が声を掛けて来た。

「大丈夫やで気にしんでも。お仕事続けてや弘史」

「何や空海か」

その客は空海だった。いつものジャージに雪駄、頭に白タオルの出立ちだ。

「あれ、今日は須〇寺バイトやったんちゃうん?えらい遅いやん」

「ちょっと後住さんと話し込んでもおてな」

「53て何や?」

「ゴジュウサン。副住職の事や。あの人、かなりの野心家やな。色んな事を語ってたで」

「お坊さんで野心家て。世界征服でも狙っとぉのか?」

「仏教が世界征服したら平和になりそうやけどな」空海は静かに笑った。「ちょっとちゃうな。でも前向きな考えやと思たで」

「ヘー、確か若いお坊さんやんな。色々考えてはんねんな」

俺はビニール袋のロールを取り換えながら答えた。

「何や、最近は『葬式仏教』いうて、仏教は死んだ人しか相手にせえへん、なんて言われてるらしいな」

「そうやな。結婚式や七五三なんかは神社で、葬式や法事はお寺で、ていうのが今頃の常識やもんな」

「後住さんは、それではアカン、て言うてた。『元々仏教は生きている人々の指針とか目標になる教えなのに、今は小難しい言葉を並べて死者の弔いばかりでお茶を濁している。それではダメだ』て」

「何で標準語なん?」

「後住さん、関東の人やて」

「なるほど」

「ほんで、お寺本来の役割を取り戻したい、ていう事で、手始めに『法話』から始めたんやて」

「ほう」

「ひと月に一度、仏教の言葉を選んで、なるべく平易な言葉で説明するようにした文章を印刷して、皆に配ってるんやって」

「努力してはるんや」

「確かに、仏の教えは表現が複雑になって、解り難くなってるのは事実やからな。一般庶民に判り易く説き聞かせるのは、仏教本来の姿やと思う」

「凄いやん後住さん」

「でも、やはりまだ若い、という事もあって、批判される事もあったらしいわ」

「どこにでも文句言う奴はおるんやな」

俺は溜め息混じりに言った。

「若造が綺麗事を言うな、みたいな事言う輩が必ずおんねんな、いつの時代も」空海は肩をすくめた。「ただ、歴史は若い衆が紡いで行くもんや。それに、大事やねんで綺麗事」

「そうなんか?」

「そりゃあこの世は辛くて厳しくてしんどくて世知辛い、暗くて汚くて恐ろしい所や。だからと言って常に現実的で逃げ道の閉ざされた身も蓋も無い話ばっかり聞かされたって、気が滅入るばかりやろ?」

「確かに救いが無いなぁ」

「考えてみいな。汚れた水でどんだけ洗(あろ)ても、服は綺麗にはならヘんやろ?人の心も同じやねん。綺麗な言葉で清めなんだら、いつまで経っても綺麗にならへんねん」

「なるほどな」

「綺麗事でも絵空事でもええねん。良い事、美しい事、正しい事を真顔で説き続けられるのが宗教のええトコやねん。皆、実践したくてもでけへんけど、普段は真逆の事してるけど、心の中で正しい事を考えてるって事は間違いや無い、と言って欲しいんや」

「ああ、そうかもなぁ」

「そう言うのも、『救い』の一つなんやで」

空海はそう言うと、笑顔を見せた。何となく安心出来る笑顔だ。そして空海はその笑顔で言った。

「もうタイムカードを押さないといけないんちゃうか?」

 

数分遅れでタイムカードを押した俺がスタッフルームから出て来ると、足元の覚束ないじいさんとすれ違った。結構な酒の臭いがした。

そのじいさんは、レジ操作を終えたばかりのナカさんに絡み出した。どうやら節分の豆を探しているらしいが、商品はほとんどが売り切れていて、子供用の鬼の面が一緒になった豆菓子くらいしか残っていなかった。

「わしの孫に買ってってやろう思とったのに、無いてどーゆー事やねん」

「すいませんねぇ。でももう残ってないんです」

ナカさんは何とか取りなそうとしているが、酔っ払いじじいは聞き入れようとしない。

そのうちじじいは激昂して来て、ナカさんに掴み掛からんまでの勢いになって来た。

「こりゃあかんな」

止めに入ろうとした俺を、空海が押さえた。

「あんな乱暴な言葉でも力はあるんや。勿論良い言葉にも力はある。"言霊"は存在するんやで」

空海はそう言うと、大声で喚き続けているじじいに近付いた。

「もしもしおじいさん」

空海は優しく声を掛けた。

「何やお前、何か用か?」

じじいは凄い剣幕で空海を睨みつけた。

「おばちゃんが困ってるやないですか」

空海は動じない。

「うるさいわボケ!わしは孫に豆を買って帰りたいんや」

「あんまり人に迷惑を掛けるのは良くないですよ。人に悪意をぶつけると、それは自分に返って来ますからね」

空海はそう言った後、じじいに近付いて何かを囁いた。俺にはその声は聞こえなかったが、じじいは一発で黙り込んだ。

「せっかく孫の為にしようとしてるのに、そんなんイヤやろ?今日はもう大人しく帰りなさい」

空海にそう言われて、じじいは何か言い返そうと口を開きかけたが結局は何も言わず、鬼の面が一緒になった豆菓子を買って帰って行った。

そんなじじいの背中を見つつ、俺は口を開いた。

「なあ空海、今じじいに何ゆうた?」

「『買ったその豆であんたが外に追い払われるで』って言うてあげた」

「あ、それツラいな」

あの酔っ払いじじいが救われたかどうか、俺には判らない。

 

 

 

20190607



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誕生日

あえて、夢枕獏先生は「敬称略」にさせて頂きました。


空海は、現代日本で何をする?

 

 

誕生日

 

 

令和元年(2019)六月中頃。

俺は空海と〇宮へ出て来た。地下鉄海〇線の〇宮〇時計前駅で降りると、『ジュン〇堂書店』がある『〇宮セン〇ープラザ』というアーケード街へは、『さ〇ちか』という地下街が連絡している。地上に出なくてもアーケード街まで行けるので、一度地下鉄に乗ってしまえば、一切雨風に打たれる心配は無い。

改札を出て、『さ〇ちか』への連絡通路へ行くと、『〇戸〇際会館』の地下入口の前を通る事になる。そこには、〇際会館でのコンサー卜等の告知のポスターが掲示されていて、これまでにも浜田省吾や久保田利伸、B'zなど、名だたるアーティストのライブが行われている。

いつも通り何気なくポスターを見た俺は、思わず立ち止まってしまった。

「なあ空海、『いろはまつり』やて」

ポスターには『いろはまつり 弘法大師 御誕生祭』とある。

「ああ。毎年やっとるらしいで。〇戸市内の真言宗のお寺が集まって、宗祖の誕生をお祝いする法要込みのイベントらしいわ。須〇寺でも宣伝してたで」

空海はさらっと言ったが、そこは俺が食い付いた。

「これって、空海の誕生パーティーって事やんな?」

「そうらしいな」

空海はしれっと答える。

「お、夢枕獏の講演もあるんや。『幻想神 空海』てタイトルやて」

「そう言えば、夢枕獏て『沙門空海 唐の国にて鬼と宴す』を書いた人やんな?」

「そうやで。おととし映画にもなっとったな。獏ええなあ。『キマイラ』とか『ミスター仙人』とか『陰陽師』とか、良う読んどったなあ」

「会いに来よか?」

空海に言われて、俺は目を丸くした。

「会えんの?それならサイン欲しいな」

「多分何とかなるで」

空海はニヤリと笑った。

 

六月十五日の土曜日。。

雨風の強い中、午後一時前に俺と空海は〇時計前で降りると、すぐ横の『そ〇う』の地下で買った『アン〇・シャルパ〇ティエ』を手土産に、エスカレーターで地上に出た。〇戸〇際会館のホール入口は、地上三階くらいの高さまで長いエスカレーターで昇った所にある。

エスカレーターに乗ろうとした俺は、乗り場のすぐ横で電話をしている人の顔を見て、慌てて空海を止めた。

「待て待て空海!」

「どしたん弘史」

「その人、獏ちゃうか?」

俺は声を潜めて言った。

「ああ、ホンマやな」

空海はそう言って、彼が電話を切るのを待って、声を掛けた。

「失礼ですが、夢枕獏先生ですか?」

「はい、そうです」

「私、〇戸真言宗連合会の者です。本日はおいで頂き、ありがとうございます。受付にご案内致しますので、どうぞこちらへ」

空海はあらかじめ決まっていたかのように、獏をエスコートしてホール入口の受付係の所まで案内した。獏はそのまま係のお坊さんに連れられて関係者用エレベーターの方へ行ってしまったので、俺達は一般入口のエスカレーターに乗り込んだ。

七階まで一気に昇る間、何人かお坊さんとすれ違ったが、空海は気さくに挨拶を交わしていた。

エスカレーターを昇り切ると、そこは大ホールの入口で、四国八十八ヶ所霊場のお砂踏みが出来るようにしつらえてあり、その最後には大師像が祀られていた。仏壇仏具の『〇屋』がブースを出していたり、黒い衣を着たお坊さん達が高野槙を売っていたり、と一般的なコンサートとはちょっと違う感が満載である。

空海は出会うお坊さん各々と挨拶を交わしながら楽屋の場所を聞き出し、躊躇なくバックヤードに入っていった。

長い廊下の両側に部屋が並んでいて、「本部」とか「職衆楽屋」とか張り紙がしてあった。その廊下の突き当たり、ステージ入口のすぐ横に「夢枕獏先生」の張り紙があり、丁度お坊さん二人が挨拶をしている所だった。

その二人が出て来た所を空海が捕まえた。

「〇原寺さん、〇珠寺さんこんにちは」

「おー、空海やないか。どしたん今日は?」

〇原寺さんが気さくに返して来た。

「今日は夢枕獏先生に会いに来ました。出来ればサインでも頂ければと」

「どうやろ?」〇原寺さんは少し困った顔をした。「講演前は時間を取りたい言うてはったけど。あ、でもそれ、手土産やな」

「そうなんです」

「折角用意したんやもんなあ。ちょっと待ってな」

〇原寺さんはそう言うと、獏の控え室前にいた〇際会館の職員に声を掛けてくれた。職員さんが室内に声を掛けると、

「どうぞどうぞ、良いですよ」

と、中から声が聞こえて来た。

部屋の中に入ると、獏先生は立ち上がって出迎えてくれた。

「ああ、先程案内してくれた方ですね」

先生は気さくに言った。大ファンの俺は、頭の中が真っ白になってしまった。

「講演前のお忙しい時に、お時間を頂けてありがとうございます。お会い出来て良かったです。私、空海。こちらは立花弘史といいます」

空海は挨拶をしながら『ア〇リ・シャルパ〇ティエ』を手渡した。

「空海さんはお坊さんですね。また立派なお名前で」

先生は笑った。

「名前負けしないよう、精進しております」

空海もしれっと答えた。

「彼も私も、先生の大ファンで。『沙門空海 唐の国にて鬼と宴す』や『陰陽師』他にも色々と読ませて頂きました」

「『黄金宮』が大好きでした」

俺は何とか言葉を絞り出した。

「だいぶ前の作品ですね」

先生は笑って答えてくれた。

「それで、ぶしつけながら、こちらにサインを頂ければ、と思いまして」

空海は言いつつ、背負っていたザックから『沙門空海 唐の国にて鬼と宴す』第一巻と、『陰陽師』第一作目を取り出した。

「これはまた古い本ですね」

先生は嬉しそうに言いながら、二冊の本にサインをしてくれた。「立花」と名前まで入れてくれた。

俺は感激しながらそれを受け取った。

「ありがとうございます」空海は丁寧に礼をした。「宝物にします。では、講演も聞かせて頂きます。がんばって下さい」

「ありがとう」

「貴重なお時間をありがとうございました」

俺も深々と頭を下げた。

 

その後の講演『幻想神 空海』は、『三教指帰』をメインにした「獏のイメージの中の空海」を中心にした話で、それで一本小説を書いて貰いたいような内容だった。

その後の「劇団あ〇のこ」という市内の若手真言宗僧侶出演による劇『弘法大師物語・前篇「仏法遥かにあらず」』を観た。須〇寺の後住さんが若き空海役をやっていた。

獏に会えた事に大いに満足した俺は、ニヤニヤしながら『陰陽師』の本を開けた。そこには獏の字で、

「おい晴明」

「なんだ博雅」

と書かれていた。

 

 

 

20190616



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恋人の日

空海は、現代日本で何をする?

 

 

恋人の日

 

 

平成二十六年(2014)二月中頃。巷はバレンタイン一色である。我が『SE〇YU』もバレンタイン商戦の真っ只中だ。女子達が手作りチョコの材料を買い漁るのも、恒例行事である。

外は雪まじりの雨で結構冷え込んでいるのだが、祝日の午前中から店内は女子達の熱気が渦巻いている。

そんな中に、アキちゃんと泰子ちゃんも参戦していた。レジのすぐ横がイベント用ディスプレイなので、手作りバレンタインチョコのコーナーで"キャピキャピ"している二人が自然と目に入る。かく言う俺も、毎年アキちゃんの手作り"義理チョコ"にはお世話になっている。

そんな華やかな集団の中で、その様子を物珍しげに見ている男がいた。『〇ーナン』で揃えた作業着の上下とジャンパー。編み上げの安全靴に頭には白いタオル。どこから見ても立派な工場(こうば)の兄ちゃんである。俺はその不審な男に声を掛けた。

「空海、どしたんこんなトコまで」

空海は俺に声を掛けられる事を予期していたのだろう、ゆっくりと振り向いて片手を上げた。

「凄いなこれ。バレンタインって、聖ウァレンティヌスの事やろ?」

「空海、バレンタインデー知っとぉんか?」

「一応な。唐の景教寺院で、『ウァレンティヌスから』言うて、何かもろたけど、別にチョコレートや無かったで」

「そうなんや」

「男女の仲を取り持つ守護聖人や言うてたけどな。そもそも俺のいた頃には、チョコレート自体無かったで」

「へえ、実は古いねんなバレンタインデー」

「そもそもはローマ帝国まで逆上る話やからな」

「マジで?」

「まあ、俺はバレンタインはどうでもエエんやけどな」空海は笑って言った。「『SE〇YU』が野菜一番安いねん、今日。今日び葉物は結構高いやろ?安いモン探してここまで来たんや」

「そうか。ご苦労さんやな」

空海と喋っていた俺の前に、買い物カゴがデンと置かれた。

「店員さん。お喋りばっかしてへんで、お仕事してや」

アキちゃんが、泰子ちゃんと一緒に結構な量のチョコレートをカゴに入れて来た。

「今年も"義理チョコ"あげるさかい、待っとってな」

アキちゃんは可愛い顔をほころばせて言った。

「"本命"は誰にあげるんや?変な奴やったら、お父さん許さへんで」

俺も笑って言った。

「誰がお父さんやねん」

アキちゃんは突っ込みながらマイバッグを用意して、次々とレジを通した商品を自分の分と泰子ちゃんの分とで分別しながら袋詰めして行く。

「アキちゃん、二人分やとしても、結構な値段やで」

俺は目を丸くして会計を伝えた。

「義理と人情の渡世やからなあ」

アキちゃんは唇をゆがめてニヒルな笑みを浮かべると、ア〇ックス付きのセ〇ンカードを取り出した。

「ほんじゃ、一回払いな」

俺はカードを通して、アキちゃんに返した。

「ほなお先にえ。お仕事かんばってなヒロシくん。空海さん、またね」

大きな荷物を手に、アキちゃんと泰子ちゃんは店を出て行った。

「ところで弘史。何で『バレンタインデーにチョコレートをプレゼント』なんや?他の贈り物やなくて」

空海が素朴な疑問を口にした。

「何でも、ここ〇戸の『モ〇ゾフ』が最初に『チョコレートをプレゼント』ってキャッチフレーズを考えたらしいわ」

「『モ〇ゾフ』?」

「〇戸の洋菓子屋さんや。チョコレート専門店やったらしい」

「恋人同士の贈り物のはずやけど、用意すんのは女だけやな?」

「今の日本では、二月十四月は『バレンタインデー』で女の子からの贈り物、で三月十四日が『ホワイトデー』いうて、男から女の子に贈り物をする日、言われてんねん」

「わざわざ分かれたあるんや」

「二回商品売れるもんな」

「上手い事しはるなあ」

空海は大きく頷いた。

「まあ今時の日本人は、何かの口実が無いと中々贈り物って出来ヘんし、丁度良いきっかけなんやろな」

話している間にレジが込み合い出したので、話はそれきりとなった。

 

二月十四日は、〇戸のみならず各地で雪の降る大乱れの天気となった。

午後四時で仕事が終わった俺は空海と為に、アキちゃんと泰子ちゃんの二人に誘われ、笠〇商店街にある『BU〇Z』というショットバーにやって来た。俺は一応意識してカジュアルなジャケット姿だったが、空海はいつも通りの工場の兄ちゃん風である。

店に入ると、アキちゃんと泰子ちゃんは既に来ており、カウンターに席を取っていた。マスターに促されて座ると、空海が女の子二人に挟まれて座る形になった。両手に花だ。

「あれ、父さんは仲間外れかいや」

俺がそう言うと、アキちゃんははにかんだ。

「何言うてんの。そんなんちゃうし」

そう言うアキちゃんは、いつもより気合いの入ったお洒落をしている感じだ。

とりあえずオープニングカクテルで乾杯すると、女子二人が俺の前に立った。

「ヒロシくん、はい。いつもの"義理チョコ"な」

「ありがとうございます」

俺は綺麗にラッピングされたチョコレートを恭しく頂いた。

「マスターも、いつもありがとう」

マスターにも、俺と同じラッピングのチョコが渡された。

「それから、これ、空海さんに」

アキちゃんは、一際立派なラッピングをしたチョコレートを空海に差し出した。

「ありがとうございます。有り難く頂戴します」空海は微笑みながらそれを受け取った。「今ここで頂いても良いですか?」

アキちゃんが頷くのを見て、空海は綺麗にラッピングを剥がすと、中の化粧箱の蓋を開けた。ネコの顔の形をしたチョコだった。

空海は微笑みながらネコの耳を折り、口に運んだ。

「ああ。あまり甘くないから、洋酒のおつまみにもいけますね。美味しいですよ」

「ホンマ?良かった」

「これで毒味も終わったので、今から本命さんとデートですか?」

空海のその言葉に、アキちゃんは小さく息をのんだ。

「こんなに手間隙掛けたチョコレートです。きっと想いは伝わりますよ」

「大丈夫やろか?」

「心配要りません。もしそれが判らないような男なら、アキちゃんから振っておしまいなさい」

「ありがと」

アキちゃんはフフッと艶っぽく笑うと、俺達三人を置いて店を出て行った。

「相手の子な、幼馴染みのええ人なんや。上手い事行って欲しいな」

泰子ちゃんが静かに言った。

「では、アキちゃんの恋の成就を祈念して、もう一度乾杯といきましょう」

空海が優しい表情で言った。

雪のバレンタインデーはこうして過ぎて行った。

 

 

 

20190627



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恐いビデオ

空海は、現代日本で何をする?

 

 

恐いビデオ

 

 

平成二十六年(2014)二月末頃。

俺の住んでいるマンションはJ:C〇Mが入っていて、家賃に視聴料が含まれているので、地上波、BS以外でも六チャンネルぐらいケーブルテレビの番組を見る事が出来る。

そのチャンネルの中に『ファミリー劇場』というのがあり、古いドラマや古いバラエティ、ドリフなどを流している。

普段はあまりそういうのを観ない俺だが、今日はたまたまボタンに指が当たってしまい、ケーブルテレビの画面に切り変わってしまった。と、それが丁度『ファミリー劇場』で、今から始まる『"ほん(のろ)"シリーズ一気見スペシャル』のコマーシャルであった。

「何や"ほん(のろ)"て」

新しいグリラベを開けながら空海が言う。

「『ほんとうにあった〇いのビテオ』やて」俺も笑った。「何か、ヘンなものが映っちゃったみたいな奴やろ?」

「ヘンなものて何や?」

「ユーレイみたいな奴や」

「サチコみたいな?」

「第十五話(『少女』)参照な」

「誰に言うてんねん弘史」

「まあとにかく、昔は写真やったけど、最近ではスマホとかですぐ動画が撮れるさかい、心霊写真改め心霊動画てとこかな」

俺はそう言って、チャンネルをそのままにした。

「どんなんか、見てみたらどや?」

「そうやな。何やおどろおどろしい始まりやな」

空海は"ほん(のろ)"が始まったテレビに向き合うと、定番の柿の種とめざしを手元に引き寄せた。完全なる"視聴モード"である。俺も湯がいていたブロッコリーを上げて、皿に盛ってマヨネーズをたっぷりかけると、テーブルに置いて座椅子に座った。

"ほん(のろ)"は投稿された所謂"心霊動画"を集めた作品、という事なのだが、俺は思わず首をひねってしまった。何かこう、不自然というか、作り物っぽいというか、何ともしっくりこない感じなのである。

空海は、ニヤニヤ笑いながら何も言わずにテレビを見ている。

"ほん(のろ)"は一本が六十分と短いので、引き続き次の"ほん(のろ)"が始まった。空海は相変わらずニヤニヤしている。

「なあ空海」俺は半笑いで言った。「何か、ウソ臭いな、これ。投稿動画言うてるけど、結構作ってるっぽいし。フェイクドキュメントって奴かな」

「まあフェイクなんとかかどうかはよう判らんが」空海は肩をすくめた。「実際の投稿動画と、この作品用に作った動画を混ぜてるみたいやな」

「判るんか?」

「まあ、判るな」

「どう違うんや?」

「何と言うか、雰囲気やな」

「雰囲気かいな」

「霊的な波動て、写真とか動画とか関係ないんや。どんな形でも残るもんなんや」

「そんなもんか」

「そうや。例えば」空海は言いながら、画面を指差した。「今流れてる映像は、作ったもんや」

映像は、最後に白い着物を着た長い髪の女が映り込んで終わった。続いて夜の廃墟に入った映像が始まった。

「あ、これ本物や」空海は笑いながら言った。「もう少ししたら、あの奥の扉のトコから白い人影が出て来るで」

見ていると、確かに廊下の奥の扉の所から白い人影が出て来て、映像は終わった。

「あれ、本物のユーレイか?」

「何らかの事情であそこにおる霊体やな。別に変な奴やないけどな」

空海はそう言うと、動画を少し巻き戻した。

「あとな、本当は何物かが映ってるのに、気付かず編集してる奴もあるな」

「そんなんもあるんか」

「これなんかそうやな」

空海が再生を始めた動画は、男女二人が同棲しているマンションで、何か妙な事が起こるので動画を撮りながら調べる、というもので、リビングからキッチンに入り、炊飯器の蓋を開けたり、バスルームの扉を開けたりして、「何もいないな」と帰って来たリビングのカーテンの奥に女の姿が…という内容だった。その女は明らかに人間が演じているのが丸わかりである。

「これも少々残念な奴やな」

俺が言うと、空海は首を振った。

「この動画、恐いのはこの女ちゃうねん」

「どう言う事?」

俺の言葉に、空海はもう一度動画を巻き戻した。キッチンに入る所から再生する。

「ここ。この炊飯器の蓋開ける所。恐いのはここやねん。この場所に強くて禍々しいモノを感じるんや」

「と言う事は?」

「この動画は、最後に変なユーレイ入れなくても、ちゃんと"映っちゃった"奴やねん」

「見た目判らんけどな」

「それにしても」空海は動画を通常再生に戻した。「人間は恐いもん好きやな。わざわざこんな動画を作ったり集めたりして」

「自分の事やなければ、恐いのも楽しいもんやで」

俺は笑いながら言った。

「対岸の火事やな」

「"他人の不幸は蜜の味"言うもんな」

「人はどうしても、他人と比べて自分の境遇の優劣を考えてまうからな」

「まあ、他人が不幸なら"自分はまだましや"て思えるからな」

「自分の幸福は自分で決められるんやけどなあ」

空海は肩をすくめた。

「恐いものを求めるいう事は、それだけ普段は恵まれてるいう事やんな」

そう言った俺に、空海は頷きながら答えた。

「何事もフツーが一番や」

 

 

 

20190710



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空海は、現代日本で何をする?

 

 

 

 

平成二十六年(2014)二月末頃。

外は冷たい雨が降っている。俺は雨が苦手だ。俺の天パの髪の毛は、雨の湿気で一発でクリクリになる。基本的に短くしているのだが、雨が降ると、バケツにダイナマイトを入れて被ったような頭になってしまう。それさえ無ければ、雨も決して嫌いではないのだが。

今日はバイトは休みだったので、俺は一日部屋に閉じ籠っていた。もう夕方で、雨のせいもありすっかり暗くなっている。

「ただいま」

空海が帰って来た。手に下げた買い物袋に水滴がついている。

「空海、まだ降っとぉか?」

俺はタオルを渡しつつ、買い物袋を受け取った。

「まだしとしと降っとるで」

空海は体の水滴を拭いながら答えた。

「雨は苦手やなあ」

俺は言いながら袋の水滴を拭った。袋はけっこう重たい。

「雨に良いも悪いも無いけどな」

「そらそうやけど」俺は言いつつ、袋を覗き込んだ。「重たいな。何()うて来たん?」

袋の中には、小麦粉(強力粉)が1kgひと袋と合挽肉、そしてもやしが入っていた。

「小麦粉?なんで?」

「餃子作ろうか思てな」

空海の答えに、俺は目を丸くした。

「ギョーザて、もしかして皮から作るつもりか?」

「そやで。長安ではよう食べたで」

空海は言いながら、靴を脱いでそのままエプロンを着ける。俺の手から袋を受け取ると、ボウルを出して目分量で小麦粉を入れた。こし網でだまを取ると、塩とサラダ油を少々加えてから水を入れつつ混ぜて、粉がまとまって来た所でこね始めた。

十分ほどこねた所で、大きな固まりを二つに分けて、ひとつずつラップでくるんだ。

「パン生地みたいやな」

俺がそう言うと、空海は笑って言った。

「似たようなもんや。これを三十分ほど寝かすから、その間に種作りや。弘史、フードチョッパー出して」

俺がフードチョッパーを取り出している間に、空海は冷蔵庫からキャベツとニンジン、玉ねぎ、ニラ、しょうが、ニンニクを取り出した。

俺がフードチョッパーを渡すと、空海はキャベツ、ニンジン、玉ねぎを手際良くみじん切りにして行く。それを見ながら、俺は袋の中から合挽肉のパックを取り出した。と、そのパックの表面に何か小さな袋がセロテープで貼り付けられていた。

「何やこれ?」

「八角や」

「ハッカク?」

「長安ではお馴染みの香り付けやで」

空海は挽肉を受け取ると、別のボウルにあけ、八角を少量のお湯に入れ、挽肉のボウルにぎざんだキャベツとニンジンと玉ねぎ、いつの間にか刻んだニンニクとしょうがを入れ、上からハサミで切りながらニラを入れると、塩こしょうを振りながら全体を混ぜ合わせて行く。途中で八角の汁とごま油を混ぜ込み、出来たものにラップを掛けた。

「今度はこっちを寝かす間に、皮作りや」

空海はまな板に打ち粉を撒いて、寝かしていた生地を取り出すと、二本とも棒状に伸ばしてから均等に切り分けた。それを麺棒で丸く伸ばす。

「弘史、鍋にお湯沸かして」

空海は種を取り出しつつ言うと、伸ばし終わった皮に包み始めた。バットは二つ出してあり、それぞれ十六個ずつ並べた。

沸いたお湯に塩を入れ、そこにバット一個分の餃子を放り込む。そのすぐ横にフライパンを置いて熱し始めた。

鍋の中の餃子が膨らんで来たのを、アク取りで湯切りしながらどんぶりに取り上げた。小鉢二つに黒酢とからしを入れる。

その間に熱くなったフライパンにごま油を引き、餃子を丸く並べて水を入れて蓋をした。ジュワーッと豪快な音がする。

別の小鉢二つに醤油、お酢、ラー油を入れ、タレを作ると、餃子が焼き上がる直前にもやしを湯通しする。

焼けた餃子を皿の上にフライパンを返して丸ごと置くと、ドーナツ型の真ん中の穴にもやしを盛った。

「餃子尽くし、完成や」

空海はグ〇ラベをテーブルに置いて席に着いた。

「案外早よう出来たな」

「唐では焼き餃子は無かったけどな」

「そうなん?」

「大概茹でるか蒸すかやからな」

「この焼き方って、浜〇やんな?」

「この間テレビでやっててん」空海は笑って言った。「さて、熱いうちに食べよや」

空海はそう言うとグ〇ラベを開けた。俺もグ〇ラベを開けると、手を合わせた。

「いただきます」

「どうぞ」

先ず、茹で餃子を黒酢につけて、口に運んだ。

「わ、皮モチモチや。中の種、独特な香りやな」

「八角は西域の定番や」

次いで、焼き餃子を食べる。

「何か、全然ちゃう料理やな。美味い。ビールが進むわ」

俺はグ〇ラベを呑んで、大きく溜め息をついた。

「どっちも美味いやろ」

「美味いな」

「でも、見てて判ったやろうけど、どっちも同じもんや」

「そやな」

「雨も、ええも悪いも無い、天の現象のひとつや。『それ(きょう)(しん)に随って変ず。心(けが)るるときはすなわち境濁る。心()境を()って移る。境(しず)かなるときはすなわち心(ほがらか)なり。心境冥会(みょうえ)して道徳|玄》はるか》に存す』やで」

「何か難しい事言うたけど、今日の餃子と関係あるか?」

「多分、あんまり無い思う」

「そやろな」俺は笑って餃子を食べた。「どっちみち、餃子は美味いで」

 

 

 

20190716

 

 

註:『それ境は心に随って変ず。心垢るるときはすなわち境濁る。心は境を逐って移る。境閑かなるときはすなわち心朗なり。心境冥会して道徳玄に存す』

『性霊集』巻二・十一

「沙門勝道山水(さんすい)()玄珠(げんしゅ)(みが)()」より

 

「そもそも、環境はこころにしたがって変わるものである。こころが汚れていれば環境は濁るし、その環境によってまた、こころも移り行くことになる。静かな環境に入り、そこに身を置けばこころも清らかである。そして、こころと環境が合致し、互いが無心にひびき合うことができれば、万物の根源となる"自然の道理"とそのはたらきである"知"が自ずと発揮される。そこに悟りがある」と説く。

北尾克三郎 訳

 

北尾克三郎

1943年京都に生まれる。浪速短期大学(現大阪芸術大学短期大学部)デザイン美術科。大阪文学学校詩型科に学ぶ。1967年にアメリカ大陸横断旅行。その後、設計、環境デザイン、まちづくり、教育に従事。仏教哲学をライフワークとする。

 



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本屋

空海は、現代日本で何をする?

 

 

本屋

 

 

平成二十六年(2014)三月に入った。

空海が突然「本屋に行きたい」と言い出したので、俺は空海を連れて地下鉄に乗って、〇宮へ出て来た。

昼前だったので、とりあえず〇Rの高架下にある『珉〇 〇宮本店』に行って、打滷麺(ダールーメン)(あんかけそば)を食べて腹ごしらえをした。

「こないだの餃子で、ここを思い出したんや」

俺は瓶ビールを空海のコップに注ぎながら言った。

「昼間やのに、みんな酒呑んだあるな」

空海はコップに注がれるビールを見ながら笑って言った。改装されて以前来た時よりも広くなった店内だが、席は満杯である。俺達も相席で、同席しているのは若いカップルで、餃子三人前とやはりビール。

「餃子の売れ行き凄いな」

空海はそれとなく周りを見ながら言う。

「ここは餃子で有名やからな」

俺は言いながら、打滷麺にコショウを大量にかける。

「そんなにかけたら、味変わってまうで」

「これが旨いねん」

そう言う俺を見て、隣のカップルがクスクスと笑っている。

「是奇怪的人(ヘンな人だろ)?」

空海がそう言うと、二人は更に笑った。

「中国の人か。この店中国人のお客さん多いからな」

俺は言いつつも打滷麺に集中する。あんかけの片栗粉は唾液に反応してトロみが無くなってしまうので、美味しく頂くのは当に時間との闘いなのだ。

と、空海が店のおばちゃんに声を掛けた。

「請給我一个餃子(ギョーザひとつ下さい)」

「是。鍋貼餃子一个(はいよ。焼餃子一丁)!」

「また餃子かいな」

「どんなんか食べてみたいやん」

「ええけど別に。でも中国語で店に馴染むのやめてくれる?」

「何でや?」

「何言ってるか全然判らへん」

 

食事を終えた俺達は、セ〇ター街の『ジ〇ンク堂書店』へやって来た。

「『淳〇堂』て書いたあるけど、これ本屋か?」

エスカレーターの前に立って、空海が言った。

「そうや。このビルの二階から五階まで、全部売り場やで」

「そんな広いんか。凄いな」

「ほれ行くで」

俺はエスカレーターに乗った。空海も後からついて来る。

二階へ上がると、全面の本棚に空海は目を丸くした。

「これ全部、本なんか」

「ジ〇ンク堂に来た時には、ルートが決まってんねん」

俺は空海を促して、更に上階へ登る。

五階は専門書、四階はマンガや児童書、三階は趣味・スポーツ関係、二階は文庫や雑誌など、とフロア分けされているので、俺は大概四階から下に降りて行くコースなのだが、今日は空海に見せてやる為に五階まで上がった。

空海は、エスカレーターを降りてすぐ前にある「国際状勢」という棚の前に立って、色々と本を手に取っては、しきりに溜め息をついている。

「どしたん空海」

「いや、凄いな思て」

「何がや?」

「俺の時代では、本を一冊印刷するだけでも、活字の選定や紙の確保、製本に至るまで大変な労力や資金が必要やったんや。だから大抵は写本やったな」

「写本て、手書きって事やな」

「そうや。それが、こんな小さな本で、しかも情報量も多い。字もきれいで読み易い」

「何か当たり前のような気ぃするけど、実は大したモンなんやな」

「そうやで。しかも、日本に居ながら世界各国の情報も入手出来るんや。俺なんか、国際状勢の本で言うたら、唐より西の情報源は『大唐西域記』くらいやったで」

「それって…」

「玄奘三蔵の外国視察記録やな」

「あー、『西遊記』のネタ本か」

「堺〇章と夏〇雅子の、面白かったで」

「ドラマからかい」

「俺の時代には、まだ『西遊記』は書かれてへんで」

「そうなんや」

「俺が『西遊記』読んだんは、図書館にあった福〇館書店の奴が初めてや」

「あれは子供の頃に必ず通る、ある種の通過儀礼やな」

「そこや」

「どこや?」

「子供でも本を読める。本が手に入る。何て幸せな事なんや」

空海は瞳を輝かせながら言った。

「そんな幸せな事なんかなあ?」

エスカレーターで下りながら、俺は首をひねった。

「そらそうや。本とか教育とか、一部の特権階級にしか手に入れられない特別な事やったんやで」

「そんな事、林先生もテレビで言うてたな」

「俺は、誰にでも教育を受ける権利がある、と考えて、貴族とか豪族、つまりは金持ちじゃなくても入れる学校『綜藝(しゅげい)種智院(しゅちいん)』を作ったんや」

「凄いな」

「まあ実際には、資金難で維持すんのも厳しかったけどな」

空海は小さく肩をすくめた。

「理想と現実のギャップって奴か」

「それが今では教育も受けられて、本も簡単に手に入って、情報もネットで見放題、良い世の中になったもんや」

空海は言いつつ、買い物カゴに大量の本を入れて、レジヘ持って行った。

「何やそれ?」

俺はカゴの中を覗き込み、目を丸くした。

「マンガか?」

「『拳児』や。この前マン喫で読んで、気に入ってしもたんや」

空海が本屋でマンガを大人買いする姿に、俺は思わず笑ってしまった。

「本屋に来たかった理由はそれかいな」

 

 

 

20190811

 

 

註 :

 

※『拳児』(けんじ) 原作:松田隆智、作画:藤原芳秀による日本の漫画作品。週刊少年漫画雑誌『週刊少年サンデー』(小学館)に、1988年2・3号から1992年5号まで連載された。

中国武術をテーマとした作品であり格闘シーンも頻繁に登場するが、戦闘そのものがメインテーマとなっている一般の格闘漫画とは異なり、主人公・拳児の成長を軸に中国武術の技術論や思想・哲学などを描いた物語となっている。

(Wikipediaより抜)



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ラーメン屋

空海は、現代日本で何をする?

 

 

ラーメン屋

 

 

平成二十六年(2014)三月中ば頃。

マスコミは「ホワイトデー」などと言ってお祭り気分を盛り上げようと血道を上げているが、世の男どもはそれほどマメではない。かく言う俺も、アキちゃんへのホワイトデーの事は、何も考えていない。

今日はバイトも休みだったので、何とはなしにテレビをつけた。朝十時を回っていたので、どのチャンネルでも芸能ニュース的な番組ばかりで、『アナと〇の女王』で松〇か子の吹き替えの歌の完成度が高く、世界的に注目を集めている、みたいなある意味どうでもいいようなニュースが何度も流されている。

そんなテレビをぼんやりと見るともなく見ていると、

「今日の北海道の朝はマイナス6度でした」

というアナウンスと共に、池から水烝気が立ち昇る映像が流されていた。いかにも寒そうな映像である。

それを見て、俺はふと思いついた。

「なあ空海、ラーメン食べに行かへんか?」

俺は、部屋の隅であぐら(結跏趺坐)で座っている空海に声を掛けた。

「何や弘史、どしたん急に」

「今な、テレビで北海道の話しが出ててな、それ見てたら何やめっちゃ行きたくなったんや」

「あ、もしかして…」

「そや。『北〇ラーメン』や。去年の秋頃に行った時、何かゴタゴタして、何や全然食べた気がせえへんかってん」

「第十五話(『少女』)参照って奴やな」

「何かそんなんが続いてるな」

 

俺達は地下鉄海〇線に乗って、ハー〇ーランドへやって来た。「おしゃれな街 神〇」の発信地のひとつであり、三月中ばともなると、ひと足早い春休みを謳歌する大学生を中心とする観光客が多くなる。駅の改札を出ると、結構な人出で混雑している「デュオ神〇」という地下街を、所謂複合商業施設である『ハー〇ーランド』へ行く「浜の手」ではなく、高速神〇駅のある「山の手」へ向かう。

デュオ神〇の高速神〇駅近くに、お目当ての「北〇ラーメン〇龍」がある。昼飯時を外して来たのだが、店内はほぼ満席である。ただ、丁度一組の客が食べ終わった所で、入れ換わりで席に着く事が出来た。

「俺、こないだ何食べたかよく覚えてへんねん。多分醤油やと思うんやけど」

「醤油ラーメンのやきめしセットやったで」

「やっぱり。俺、大体は醤油頼むんや」俺はメニューを見ながら言った。「でもな、たまに味噌バターが食べたなんねん」

「何でも好きな物食べたらええやん」

空海が笑いながら言う。

「そう言えば、空海って注文する時、あまり迷わへんな」

「料理も一期一会や。これと思たら迷う事無いな」

「俺結構迷うなあ。色んなもん食べてみたいしなぁ」

「で結局最後は定番の奴を頼んでまうタイプや」

「いや実際良くあるパターンや」

そこへ店員さんが注文を取りに来てくれたので、空海は海鮮ちゃんぽんセット、俺は宣言通り味噌バターセットを頼んだ。カウンター越しの厨房では、中華鍋から勢大に炎が上がっている。『鍋振りラーメン』という奴だ。

「それにしても、不思議な食べ物やなラーメンて」

空海が感慨深げに言った。

「何がや?」

「ラーメンて、カテゴリー的には『中華料理』やろ?でも、実際の中国の料理とはかなり違うやん。でもやっぱり存在としては『中華料理』なんやな」

「日本人てそんなん多いよな。オリジナルから離れないようにしつつも、日本独特の物にしてしもて、結局はオリジナルを越えてまうみたいな」

「まあ、美味しければ何でもええんやけどな」

そうこう言っているうちに、ラーメンが出て来た。

「さてと、頂こうか」

そう言いながら上着を脱いだ空海を見て、俺は笑ってしまった。

「そのTシャツ着て来たんかいな」

それは、俺が数年前に須〇海岸の海の家で買った『焼き肉た〇ら』のスタッフTシャツだった。

そこへ、この店の女性店長が俺に声を掛けて来た。

「こんにちは、お久し振りのご来店ですね」

「本当にお久し振りです。以前はかなりの頻度で来てましたもんね」

「しばらくお顔見えヘんから、何か心配してしもて」

「すいません。またちょくちょく来させて貰います」

「あっ、別に気にしいひんで下さいね」店長は笑った。「何時でも好きな時に来て下さいね」

「去年の秋頃、久し振りで来たんですけど、あの時は何かバタバタしてて、ゆっくり出来ひんかったんです」

「はいはい。あの時もお二人でしたね?」

その店長の言葉には、空海が答えた。

「はい、そうです」

「あの、それで、ちょっと失礼な事お聞きしますけど…」

店長が言いにくそうに空海に尋ねて来た。

「何でもどうぞ」

「あなたは、飲食業界の方ですか?」

「へっ?」

これは、俺の口から出た間抜けな声だ。

「いいえ、違いますよ」空海は冷静に答えた。「良く間違われるんですが、私は僧侶です」

空海は言いつつ、頭のタオルを外してスキンヘッドを見せた。

空海の答えを聞いて、店の従業員全体に驚きと納得の空気が流れた。

「そうだったんですね」店長が笑顔で言った。「以前来られた時に、店の中でもの凄い話題になってて。板前さんかなあとか。で、今日『焼き肉た〇ら』のシャツ着てはるから、やっぱりお店してはる方かなあて。すいません」

「何も謝る事ではないですよ」

空海も笑って言った。

「空海、この際何かお店持ったらどうや?」

俺がそう言うと、空海は小さく首を振った。

「料理は、こういう美味しい店に食べに来るのが一番や」

 

 

 

20190825



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八〇代村怪談(や〇よむらくゎいだん)

空海は、現代日本で何をする?

 

 

八〇代村怪談(や〇よむらくゎいだん)

 

 

平成二十六年(2014)三月十六日。

俺と空海は、アキちゃんと泰子ちゃんを食事に誘った。まあバレンタインデーのお礼なのだが、ホワイトデーは本命の彼氏と忙しいだろうから、と少し日にちをずらしたのだ。

アキちゃんは肉を食べたい、と言うので、近所の行きつけの焼肉屋「唐〇亭」へ招待した。この焼肉屋は少々変わったシステムで、焼き肉の後、必ず「唐〇鍋」というホルモン鍋がセットで出て来るのである。しかもスープが辛い。播州鍋というカテゴリーらしい。

俺と空海は、試行錯誤の末「八番」の辛さで定着した。ちなみに普通の客は「三番」で音を上げるらしい。

泰子ちゃんは少々辛さに手こずっているようだが、アキちゃんは平気な顔で辛い鍋を頬張っている。

「そう言えば、播州で思い出したわ」俺は熱々の豆腐を飲み込んでから口を開いた。「ちょっと恐い話やけど…。季節外れかな?」

「全然問題ナシやで」アキちゃんが笑って答えた。「恐い話はオトメのたしなみやもん」

横で、泰子ちゃんも笑って頷いている。

「俺もちょっと興味あるわ、その話」

空海は何だか真面目な顔で言った。

俺は、ビールで唇を湿らせてから口を開いた。

「これな、俺が幼馴染みの子と、車で出掛けた時の話なんやけどな…」

 

平成二十三年(2011)秋頃やったか。

俺の小学校からの腐れ縁(幼馴染み)の伊藤雅志が、「車を買い替えたからトライブに行こう」と誘って来た。俺は丁度『ピザ〇ット』のバイトを辞めたばかりで時間はあったので、二つ返事で承諾した。何でも平成十四年(2002)製の『〇菱〇ジェロ』を五十万円(経費込)で購入したらしい。

奴が以前持っていた『ホ〇ダシ〇ック』でもやっていた事なのだが、目的を決めずに出発して、大きな交差点で、

「右か?左か?」

と適当に決めながら、ひたすら地道を走る、という超無計画なドライブである。

国道〇号線から国道一〇五号(通称イナゴ)に乗り、〇東の地名を見て、何となく左折し、西〇・〇西と西方向へ向かって適当に走り続けた。

黒〇庄を過ぎて多〇町のあたりで、伊藤が「〇屋」という地名を見付けた。

「そう言えば、〇屋ダムって聞いた事あるか?」

急に伊藤が話を振って来た。

「知らん」

「何でも、近畿では有名な『心霊スポット』らしいで」

伊藤は人より少々霊感が強いらしく、たまに妙なモノを見てしまったり、という事があるらしい。本人は別にそういう話が好きという訳でもないのだが、奴がオカルト体質なのは同級生内では有名なので、皆が奴の元にそういった類の話を持って来るらしい。

「そうか。別に興味無いけど」

俺はサラッと流した。正直、俺はオカルト系は好きじゃない。

「折角近くまで来たし、様子見てみよか?」

伊藤が妙な事を言い出した。

「何でわざわざそんなトコ行かなあかんねん」

俺はメンド臭そうに返したが、奴は俺がこの手の話が苦手なのは良く知っている。それに、車のハンドルは奴の手の中にある。

十分後には、俺達は翠〇湖という〇屋ダムのダム湖の上に掛かる橋の上に居た。両側が山に挟まれた土地に堰を作っているので、周辺の田畑や民家より高い所に水がある。両側はうっそうと森が茂り、何だか陰気な雰囲気である。

「うわー、めっちゃ気持ち悪いな、ここ」

車から降りて、伊藤がしみじみ言う。

「判ってて来たんやろが」

俺はビクビクとしながら周りを見回した。森の重たい感じと、水の黒さが気味の悪さを増幅させる。

「もう行こうや」

俺はさっさと車に乗り込んだ。

「行こか。ここ、ホンマにヤバいわ」

伊藤も素直に乗り込んだ。

ダム湖を回って表の道ヘ出た。左に曲がって森の中を走る整備された農道を走ると、十字路に当たった。そこから道が急に細くなり、左は田んぼ沿いの道、正面は集落の中を通る道、右は森の中を登る林道のような道だった。

「こっちかな?」

伊藤は呟きながら、右にハンドルを切った。

森の中の薄暗い道を、峠を越えてしばらく下ると谷あいの集落に出た。両側を山に狭まれて、細く扇状に開拓されており、下の方まで田んぼが続いている。

その扇の要に近い所にある廃屋に目が行って、俺達はそこで車を停めた。

「お、廃屋や」

伊藤が楽しそうに言った。立派な建物で、瓦吹きの家屋と、茅吹き形をした銅瓦屋根の家屋の二棟があり、周りはすっかり森に覆われているような状態で、すぐ横に屋根の二倍くらいの高さの木がそびえている。

「何か、趣きのある廃屋やな」

何故か、俺はそう思った。

「ホンマやな」

伊藤もそう思ったらしい。

車を停めている道路から側道がついていて、少し下ると用水路に掛かった小さな橋があり、そこだけキレイに周りに生い茂る草が無く、轍がはっきりとした道がその廃屋まで続いている。

「結構道キレイやな」

「行ってみるか?」

何故かそんな話しになり、伊藤は停めていた所から少しバックして、その側道へ車を乗り入れようとした。

その時二人の耳に、パリンと薄いガラスが割れるような音が聞こえた。

次の瞬間、車がガクンと傾いた。俺と伊藤が前を見ると、なだらかに見えた側道は車の腹を道路の縁に擦りそうなほどの急角度で、橋もコンクリの打ちっ放し、更に廃屋へ向かう道は両側から覆い被さるような雑草と轍を埋める下草でほぼ埋まっていた。とても通れるような状態ではない。

「えっ?ついさっきまでキレイに見えてたのに…」

俺はそう呟きながら、背筋に寒い物が走った。

「ヤバイ!俺達誰かに騙されたんや」

伊藤が慌ててギアをバックに入れた。

「誰かって誰や?」

「知らんけど、アカン奴や!」

伊藤は勢い良くバックで道路に戻ると、一目散にその場を離れた。

「何やったんや今の?」

俺は上ずった声で尋ねた。

「判らんけど、あそこ何かおるわ。俺ら誘われたんや」

伊藤は鋭い声で答えた。

俺はミラーで後ろを見た。ミラーに廃屋が映っており、銅瓦屋根の上から、巨大な老いさらばえた老婆のような手が、手招きをするように掌をこまねいるのが見えた。

伊藤は直接振り向いて後ろを見ていた。

「あいつか」

伊藤が呟いた。

「バアさんの手がこまねいてんで」

俺は後ろを見られずミラーを凝視しながら言った。

「白髪の長髪のバアさん見えへんか?」

伊藤がすぐに視線を前に戻しながら早口で言った。

「俺は手だけや」

「良かったな。アレはヤバい。見えへんで正解や」

伊藤は言いつつ、細い道をかなりのスピードで逃げ出した。

 

「とまあ、こんな話があったんや」

俺は話し終えると、ビールを一口呑んだ。

「いややー、何それー」

「めっちゃ恐いやーん」

女子達には好評だ。

「多分そいつ、今はかなり弱ってる思うで」

空海がそんな事を言う。

「何で判るん?」

アキちゃんがつぶらな瞳で尋ねた。俺はイヤな予感がした。

「俺が弘史の部屋に世話になった最初の頃、台所の隅に、白髪で長髪のお婆さんが座っとってな。俺、弘史のお婆さんやと思て、挨拶してしもたもん。ただ、ずーっと(うずくま)ったままやったから、おかしい思て何回か(はろ)たんや」

「もしかして…?」

「そう。台所の隅が汚れてた事、何回かあったやろ?ただ、今年の一月末くらいから、完全に姿が見えへんようになったんや。多分…」

「力が弱まったんや」

アキちゃんは興味深々である。

「もしかしたら、廃屋で何かあったんかもな。屋根が落ちたとか」

女子達と空海は、そこからその廃屋の話で盛り上がっていたが、俺は何だか後味の悪い気分を味わっていた。

あいつ、最近まで近くにおったんかい!

 

 

 

20190910



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彼岸

空海は、現代日本で何をする?

 

 

彼岸

 

 

平成二十六年(2014)三月二十一日。

バイトが終わって部屋へ帰ると、空海は既に帰って来ていた。空海も昨日今日と須〇寺でバイトだったのだ。

空海は、ちゃぶ台の前で足を飛げ出して座っている。

「お、お疲れさんやな」

俺は笑いながら言うと、ちゃぶ台の上にもらって来た惣菜を置いた。

「おお、弘史、お疲れ」空海の声はかすれていた。「昨日もそやったけど、今日もお参り多かったで、須〇寺。声枯れたわ」

「天気も良かったしな」

「絶好のお参り日和やったな」

「『SE〇YU』も忙しかったわ。ぼた餅めっちゃ売れとったで」

「最近は、あんまり家で作らへんねんな」

「まあ買った方が安いしな」

「流石は彼岸の中日や。須〇寺あなどれんわ」

空海は大きくひとつ息を吐いた。

「お腹空いたな。ご飯食べよか」

俺がそう言うと、空海がよっこいしょと立ち上がった。

「空海おっさんやん」

「俺見た目よりおっさんやで」

空海はそう言いつつ台所へ行くと、ラップをかけたアルミのボウルを持って来た。

「何やこれ?」

俺はラップの上から覗き込んだ。

「須〇寺で貰った『ヘビ』で作ったひつまぶしや」

空海が茶椀と汁椀をちゃぶ台に置きながら答えた。

「ヘビ?ああ、うなぎな」

「汁はア〇ノフーズでええな」

「問題なしや」

俺と空海は、少々遅めの晩ご飯を食べ始めた。

「ところで空海」俺はふと箸を止めた。「もの凄く基本的な事、聞いてもええか?」

「何や?」

「そもそも、『お彼岸』って何なんや?」

「ホンマに基本的な質問やな」

「すまんな」

「知らへん事認めて、学ぼうとするのは尊い事やで」

空海は笑顔で言うと、お茶をひと口飲んだ。

「そもそも『彼岸』いうのは、俺達のいるこの世界、即ち『此岸』と対になる言葉で、仏の世界を指すんや」

「あの世って事か?」

「そうとも言えるし、ちゃうとも言える」

「どゆこと?」

「彼岸いうのは『涅槃(ねはん)』を意味するんやが、涅槃を死後の世界と考えると、彼岸はあの世やな」

「ほかの意味もあるんか?」

「むしろこっちが正解なんやけどな、涅槃いうのは『心の動揺の無い、静かな境地』つまり悟りを表わす言葉なんや」

「へえ」

「まあ確かに死んだら何の動揺もなくなるし、涅槃と言えなくは無いけどな」

「で、『お彼岸』はどないなったん?」

「そこやがな」空海は人差指を立てた。「悟りの境地、つまりは仏道の修行をするのが、『お彼岸』なんや」

「そうなん?」

「在家(ざいけ)、つまり一般の人は、勉強や仕事や家事で、仏教の勉強や実践はなかなか出来んやろ?ほんなら、せめてこの一週間だけでも、仏の教えに触れる機会を持とうやないか、という事や」

「でも、何でこの日なんや?」

俺は首をかしげた。

「彼岸て、年に二回あるやろ?」

「そやな」

「何でや思う?」

「一回やと忘れてまうからかな?」

「おもろい見解やけど、ちゃうな」

空海は笑った。

「なら何でなん?」

「カレンダー見てみ。一週間ある彼岸の真ん中、今年は三月二十一日やけど、何て書いたある?」

「彼岸の中日って…」

それを読んですぐ、俺は空海の意図が判った。

「あ、春分の日や」

「そうや。春分と秋分は、昼と夜の長さが同じになる訳や。これを仏教の説く所の『中道』、両極端に(かたよ)らないという教えになぞらえて、仏教に触れ合う日にしよう、とした訳や」

「けっこう日本人的発想やな」

「そやで。日本発祥の風習や。他の仏教国ではやってへんで」

「へえ、そうなんや」

「あと、春分秋分は太陽が真東から昇って真西に沈むやろ?西には何がある?」

天竺(てんじく)か?」

俺のボケに、空海は素で返して来た。

「惜しい。かすったけどハズレや。西は、阿弥陀如来の西方極楽浄土があるんや。阿弥陀信仰な、唐の時代に流行っとったんや」

「と言う事は、今度は死んだ人の事やな」

「そう言う事になるな。つまりは、彼岸は悟り(自分磨き)と、供養(他人への思いやり)、自利(じり)利他(りた)の実践をするのに相応しい日や、という訳や」

「へえー。何の気なしに過ごしとったけど、お彼岸って奥が深いねんな」

俺は大いに感心して言った。

「そうやで。仏教の教えや修行には、色んな意味が込められとるんやで」

空海は微笑みながら言うと、俺が貰って来たポテトサラダを口にした。

「ほんなら、何で『ぼた餅』と『おはぎ』て、呼び方が(ちゃ)うん?どっちも同じやと思うんやけど」

俺はもう一つ疑問に思っていた事を尋ねてみた。

「そうやな。どっちも餡ころ餅やもんな。まあ、春が『ぼた餅』、秋が『おはぎ』ってのが定番やな」

「何で?」

「春には牡丹が咲いて、秋には萩が咲くから、それぞれの季節の花に例えた、ていうのが定説やな」

「ヘえー」

空海の明解な答えに、俺はさっきから「ヘえー」しか言っていない気がする。

 

 

 

20190924

 

※ 諸説あります。



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空海は、現代日本で何をする?

 

 

 

 

平成二十六年(2014)三月末。

俺が昼までのバイトを終えて部屋に帰って来ると、何やら室内が静かである。

今日は空海はバイトも無いので、部屋にいるはずである。起きている時は、空海は五感をフルに使う。タブレットでネットサーフをする時でもテレビやラジオをつけて、そちらからも情報を入れようとする。

寝ている(瞑想)のかな?

そう思ってドアを開けると、空海は起きていた。テレビはついており、彼はでっかいへッドホンをつけていた。俺が帰って来た気配に気付いたのか、サッと右手を挙げた。

テレビの画面を見て、俺は合点がいった。

「そうか。ついに見つけてしまったか俺の宝物を」

俺は溜め息混じりに呟いた。

その時、空海がヘッドホンを外して俺に振り向いた。

「弘史、お前こんな凄いもんを今まで隠しとったんやな」

空海は瞳をキラキラと輝かせている。

空海が今見ているのは、浜田省吾の初映像作品である『ON THE ROAD "FILMS"』のDVD版だ。もともとは1989年に発売されたビデオ版がメディア化されたものだ。これ以後、浜省の映像作品は続々と出ているが、完成度は最初のものが一番だ、と俺は思っている。

「浜田省吾って、カッコええな」

空海が言う。

「そやろ。メッチャカッコええねん」

俺は満面の笑顔で答えた。

「いやな、何か映画観たろ思て、DVDを漁ってたら、全然ちゃう場所から見つかったんや、これが」

「これは特別やねん」

「判るわ。言葉の持つ力をこれ程まで有効に使ってはる人、初めて見たわ」

「そうやな」俺は大きく頷いた。「浜省って、メッセージ色の強い歌が多いんやけど、押し着けがましくないのんがええんや」

「そうやな」空海も頷いた。「歌詩がきちんと物語になっている所もええんやろな」

「ところで空海、それ、どないしたん?」

俺は、空海の頭に掛かっているへッドホンを指差した。

「ああ、これな」空海は笑った。「このDVDを見つけて、一ぺん通して観たんや。そしたらこれやろ?もう一ぺん、今度は大きな音量で観てやろう思たんやけど、あんまり大きくすると、隣近所に迷惑やろうからな。で、そこのヤマダ電機に行って買(こ)うて来たんや」

「行動早いな相変わらず」

「『善は急げ』言うやろ」

「その通りや」

「浜省の琵琶みたいなの、それともセタールか、あれもええな」

そう言う空海の言葉を俺が理解するのに、少々時間が必要だった。

「あ、ギターの事な」

「ギター言うんか、あの弦楽器。見た目は琵琶みたいやけど、(ばち)は使わへんねんな」

「フツーは指で弾くけどな、ロックのギター奏者は大体ピックっていう小さいプラスチックの板みたいなの使てるで」

「そうやろな。あんだけ弦を掻き鳴らしてたら、指ケガするもんな。それに、あの長髪の男が吹いてる角笛みたいなのも、ええ音出すな」

「長髪…ああ、古村か。サックスやな」

「色んな楽器があって、それを合わせて複雑な音楽に仕上げるんやな。素晴らしい音や」

そう言って空海は大きく頷いた。

「『疾走するロッカー』の音のセンスは伊達やないで」

「拍子も早い。胡人(ソグド人)の胡旋舞みたいやな」

「エイトビートや」

「都の音楽はゆっくりやったからなあ。俺は早いリズムの方が性に()おとるわ」

「ラジオで他の人の歌も聞いた事あるやろ?」

「ある。でもな、あまり言葉に力を感じる事は無かったな」

「やっぱり言葉なんや」

俺は腕を組んだ。確かに、浜省の歌はテキトーに聞き流すには重たい感じはする。

「物事を形作るのは、言葉やからな。『何だかよく判らない曖昧模糊としたもの』を理解するには、言葉は不可欠や。"名前"が一番端的なものやな」

「なるほど。名前がない物は、結局何だかよお判らんもんな」

「名前という呪は、モノを形作る最も強い言葉やからな。俺達は、名前によってこの世界を区別し認識出来るんや」

「大事やねんな名前って」

「名前、そしてそれを表現する言葉、言葉を上手く扱えれば、悟りを得る事も可能や」

「悟れるか」

「言葉で意識を誘導する事で、悟りへの階梯をより早く見つけられるって事や」

「そう言うもんか」

「まあ簡単ではないけどな」空海はそう言って笑った。「そもそも浜省の歌詩聴いてると、しっかりと情景が浮かぶやん。それこそ一編の物語を観ているようや」

「浜省で悟りまで語れるんや」

「ええもんは、やっぱりええねん」

空海はそう言うと、へッドホンを耳に戻してテレビに向き直った。

「あ、晩飯どうする?」

俺は空海に声を掛けたが、反応は無かった。既に浜省ワールドに浸りきっている。

レンチンの炒飯でもするか。

俺は冷蔵庫の前に立って、ふと考えた。

この扉が、実は『どこでもドア』だったら、どうなるかな?

冷凍庫の扉を開けた。

やっぱり冷凍庫だった。

「そらそうや」

思わず呟いた俺は、ある事実に気付いた。

「あ、炒飯この間食べたっけ」

冷凍庫はほぼ空っぽだった。

 

 

 

20191008




浜田省吾へのリスペクトの為、伏せ字無しにしております。

敬称略


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三月二十一日(前編)

空海は、現代日本で何をする?

 

 

三月二十一日(前編)

 

 

平成二十六年(2014)四月中ば頃。桜も大かた終わりかけて、日向(ひなた)は陽差しが強いが、陽陰や屋形(やかた)の中はちょっと肌寒い、そんな気候である。

俺がバイトから帰って来ると、空海は既に台所に立って何やら料理をしていた。

「ただいま」

「おお、お帰り弘史。お疲れさんやったな」

空海はそう言ったが、何やらいつもの元気さが無い気がする。

「どうした空海、どっか調子でも悪いんか?」

俺は何げなく尋ねたのだが、空海の反応は少々変だった。

「いや全然何ともないで。めっちゃ元気やで」

「その返し方は、明らかに調子悪いって事やな」

俺は言いつつ、空海の額に手を当てた。普段はむしろ冷たいくらいに感じる彼の額は、少し温かかった。

「何や、熱があるんか」

「大した事ないわ」

「普段元気な人に限って、体調をこじらせるまでガンバってまうねんで。ほれ、綿入れでも着て座っとき」

俺は空海を台所から追い出すと、コタツに座らせた。

コンロの上では、お湯の中で野菜がグツグツと煮立っている。既にブイヨンが投入され、流しの横にハ〇スのシチューの箱が置いてあった。

「シチューか。今日はちょっと冷えたもんなあ。完成させたるから待っとってな」

俺は言いつつ、シチューのルウの箱を開けた。二人分だから、半分あれば十分だ。少しアクを掬ってから火を止め、ルウを割り入れ、溶けるまで少し時間を置く。

「そう言えば、今日な、『SE〇YU』でな…」

振り返って空海に声を掛けようとしたが、空海はコタツにうずまって舟をこいでいた。

珍しい事もあるもんやなあ。

俺は台所を離れると、押し入れから肌掛けを引っ張り出して、空海の肩に掛けてやった。

何か疲れてるんやろうな。とりあえず、シチューが出来上がるまでは寝かしといてやろか。

俺はそう考えながら、冷凍庫からジップ〇ックのタッパーを二つ取り出すと、電子レンジに入れた。冷凍しておいたご飯だ。

空海は、シチューが出来上がるまで目を覚まさなかった。

 

次の日、俺はバイトが無かったので、目覚ましもかけず、自然に起きた。スマホを引き寄せて時間を確認すると、午前九時を回っていた。その割には暗いな、と思って部屋を見回すと、窓のカーテンが閉じたままだった。いつもは大体は空海が早く起きていて、カーテン類は開けてくれているのだが。

今日は暗いうちにどこか出掛けたのかな、などと思いつつ体を起こすと、隣の布団に人の気配があった。

ギョッとなって覗き込むと、空海が横になっていた。それも、何だか苦しそうだ。

額を触ってみると、かなり熱い。

「空海、大丈夫か?けっこう熱あるで」

俺の問い掛けに、空海は薄目を開けた。

「大丈夫や。もう起きるわ」

空海は弱々しい声で言った。

「全然大丈夫ちゃうやん。ええから、そのまま寝とき」

俺は台所に行くと、薬箱をあさって病院で貰った抗生物質の残りを取り出し、冷蔵庫の中の「蒟〇畑」とコップの水を持って、空海の所へ戻った。

「まず蒟蒻食べて、次に薬呑み。呑んだらまた横になるんやで」

俺は言いつつ、空海が上半身を起こすのを助けてやった。ここまで弱った空海を見るのは、彼と出会ってから初めての事だった。

空海は蒟〇畑を何とか食べ、薬を水で流し込んで、大人しくもう一度横になった。

「済まんな。何か体がだるいねん」

空海はか細い声で言った。

「そりゃあ、調子悪い時もあるわいや。ゆっくりしとき」

「ありがとな」

空海はそう答えると、そのまま眠ってしまった。

俺は水を絞ったタオルを空海の額に乗せると、コタツに潜り込んだ。

考えてみりゃあ、けっこう大変な事だぞこりゃあ。

俺は顎をコタツの上に置き、溜め息をついた。この一年、何だか当たり前のように空海と過ごして来たが、これまで彼は体調を崩した事も無かったし、そんな事は無いものだと勝手に思い込んでいた。

すっかり忘れていたが、空海は今だ正体不明なのである。

免許も保険証もマイナンバーもパスポートも持っていない。医者に行く事も出来ないのである。

寝てたら治るような病気ならまだ良いのだが。

明日バイト、しかも早番が入っているが、空海一人で大丈夫だろうか?

そんな事を考えていると、布団のから空海が何とか聞き取れるくらいの声で言った。

「一人で大丈夫や。心配せんでバイト行ってや」

「何で考える事判ったん?」

「お前は良い漢やからな。そんな事気にしてくれてる思ただけや」

「ホンマに行けるか?何やったら休み取るで」

「仕事場も大変やろ。そっちこそ無理したらあかんで」

空海に逆に心配されてしまった。

「人の心配なんかせんと、しっかり寝とき」俺は苦笑しながら言った。「一応この間のシチューをお椀に入れとくさかい、お腹空いたらチンして食べるんやで。あかんくても、蒟蒻枕元に置いとくし、それ食べて、薬は呑んどきよ」

俺は立ち上がると、空海の額のタオルを交換した。タオルはすっかりぬるくなっていた。

薬効いたらええけどな。

俺はしんどそうな空海の顔を見下ろしつつ、小さく息をついた。

 

 

つづく

 

 

 

20191130



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三月二十一日(中編)

空海は、現代日本で何をする?

 

 

三月二十一日(中編)

 

 

一晩経って、熱は少し下がったものの、やはり空海はしんどそうに眠っていた。俺は心配ながらも、今日のバイトは人数的に手薄だったので休む訳にも行かず、後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。

今日はシフト的に厳しい日で、それをカバーする為にバイトもパートも職員もベテラン揃いだった。

「今日はみなさん、よろしく頼んますよ」

小林さんが珍しく真面目な表情で言った。

こんな時に、俺は気もそぞろな状態だった。

「ヒロシくんどしたん?」

アキちゃんが、俺に囁きかけた。

「何が?」

「超集中力無いカンジ」

「鋭いなあ。その通りやねん」

「どしたん?」

「空海が寝込んでんねん」

「ホンマに?空海さんいつもメッチャ元気やのに」

「あんな空海見た事ないし、結構心配してんねん」

「大変やね。でもとりあえず、仕事乗り切ららな」

アキちゃんは、そう言って笑顔を見せた。

「ホンマやな。ゴメンな余計な心配掛けて」

「んーん。心配なのは良う判るで」

アキちゃんと俺はそこでこの話題を終わらせた。今は、仕事に集中しないと。

 

仕事が終わると、俺は飯に行こうという小林さんの誘いを振り切って、急いで部屋に帰った。空海は、熱は落ち着いたようだが、かなり衰弱して見えた。

レンジの中のシチューもそのままで、どうやら一度も起き上がらなかったようだが、蒟蒻畑だけは食べたようだ。

「どうや空海、具合は」

「何か、体中から力が抜けてもたようや」

空海は蚊の鳴くような声で答えた。

「何かの病気なんかな?」

そう言う俺に、空海は弱々しい笑顔を向けて言った。

「俺な、この体調には覚えがあんねん」

「前にもこんな事あったんかいな」

その時、マンションの廊下を勢い良く走る足音がして、うちのドアが引かれた。チェーンが引っ掛かってガチャーンと大きな音がする。

「何でチェーン掛けてんの、ヒロシくん、早よ開けてよ」

ドアの向こうで、キレ気味のアキちゃんの声がした。

俺が慌ててチェーンを外すと、手に手に買い物袋を持ったアキちゃん、泰子ちゃん、そして見知らぬ女性が一人、ドカドカと上がり込んで来ると、台所を占拠して荷物を広げ始めた。

俺は女性達の勢いに押されて、空海が寝ている布団の横まで追いやられた。

アキちゃんと泰子ちゃんが台所でワイワイやっている間に、初見の女性が空海の枕元で正座をしている俺の所までやって来た。

「ヒロシさんですね。初めまして、私、アキちゃんの同級生で、野澤美穂と申します。現在看護学校に通ってますので、少しはお手伝い出来ると思います」

美穂さんはそう言って頭を下げた。俺も思わず頭を下げる。

「空海の事、よろしくお願いします」

「空海さん、聞こえますか?」

美穂さんの呼び掛けに、空海は微かに頷いた。

「お熱計りますね」

彼女は言いつつカバンから体温計を取り出し、それを空海の耳の穴に当てた。十秒も経たずにピッと音がする。

「35度3分。ちょっと低いですね。失礼します」

美穂さんは流れるような仕草で空海の首筋に指を当てる。腕時計に目を走らせ、しばらく脈を取る。

「少し弱いですね。数も少ないですよ。寒くないですか?」

「少し寒いです」

美穂さんの問いに、空海は微かな声で答えた。

「ヒロシさん、毛布をもう一枚出して貰えますか?」

美穂さんに言われて、俺は押し入れから毛布を取り出した。

「ヒロシくん、何よシチューて。しんどい時にこんな重たいの食べれへんやん。もうちょっと考えてよ」

レンジの中を見たアキちゃんから強烈なダメ出しが来た。

「いやそれ作ったの空海やし」

俺は抵抗を試みた。

「体調悪い空海さんに料理させたん?ヒロシくん、鬼やな」

逆に返り打ちにあってしまった。

アキちゃんが、お椀にお粥を入れてやって来た。

「あんまり食べてへんのやろ?重湯多めに入れたから、少しずつでもお腹に入れて、元気出してな」

美穂さんがゆっくりと空海を助け起こし、お粥を口に運んだ。空海は少し食べたが、すぐに「もう十分です」と囁くように言って、また横になった。

「寝かしといてあげよか」

美穂さんがそう言うと、アキちゃんと泰子ちゃんは頷いてコタツに陣取った。美穂さんも追ってコタツに入る。

俺は空海の枕元で正座したままだったが、アキちゃんに手招きをされたので、コタツのすぐ横、丁度アキちゃんの真正面に正座した。

アキちゃんは、両肘をコタツの天板につき、指を伸ばしたままで組んだ。顔の前で指と掌で三角形が出来上がる。まるで洋ドラの刑事のようだ。

「で、これはどういう事なん?ヒロシくん」

アキちゃんは眼光鋭く質問して来た。

「空海の具合が悪い事かい?」俺は首をかしげた。「俺にも良く判らへんねん」

「何でやの?ひとつ屋根の下で暮らしとって、BL的なシチュやのに、パートナーの体調の変化が判らへんなんて、あり得へんやん」

「そやから、BLちゃうし。大体、二日ほど前から急に寝込んでしもたんや。それまではいつも通り元気やったんやで」

「どうして病院へ行かへんのですか?」

美穂さんが当然の質問をして来た。

「空海、保険証とか持ってへんし」

俺は肩をすくめた。

「何でです?紛失なら再発行出来ますよ?」

「ああ、ミポリン、そこはちょっとデリケートな部分なんや」アキちゃんが、そこは助け舟を出してくれた。「空海さんな、ちょっと特殊な感じやねん。そやからミポリンに来てもろたんや」

「まあ、とりあえず今は空海さんも眠ってはるし、私達も一ぺん落ち置こう」

泰子ちゃんはそう言って立ち上がると、台所から両手鍋を持って来た。中身は筑前煮だった。アキちゃんと美穂さんも立ち上がると、ご飯と味噌汁を用意し始めた。

「私達も、『腹が減っては何とやら』やし、ご飯食べて力付けよか。ああ、ヒロシくんの分もちゃんとあるから大丈夫やで」

アキちゃんはそう言ってニカッと笑った。

 

 

 

 

20191205



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三月二十一日(後編)

空海は、現代日本で何をする?

 

 

三月二十一日(後編)

 

 

アキちゃん達が来てくれた日から、空海の体調は低い所で落ち着いたかに見えた。しかし、水以外はほとんど食物を口にしなくなってしまい、見るからに痩せて来た。

俺はバイトをなるべくショートのシフトにして貰い、少しでも長く空海のそばにいられるようにした。

「弘史、俺の事は放っといて、仕事行きや」

空海は弱々しい声でそう言った。

「何かな、空海の事が気になって仕事に手ェ付けへんねん」

「それは申し訳ない」

「ところで空海、この間"この体調に覚えがある"言うてたやろ?どういう事なんや?」

「ああ」

空海は返事をしたまま黙り込んだ。少し間が空く。そして小さく笑った。

「どしたん?」

「いやな、今の状態、『天人五衰』って感じかな思て」

「何や『テンニンゴスイ』って?」

「説明メンドーやからググってくれ」

空海にそう言われてググってみると、ウィキで『天人五衰(てんにんのごすい)とは、仏教用語で、六道最高位の天界にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆しのこと。』と出て来た。

「そうか、ここは天上界なんや…て、おいおい、縁起でもない事言うなや」

「そんなに不思議な事でもないねんで」しんどそうにしながらも、空海は話しを続けた。「俺、承和二年三月二十一日に死んでるんや。西暦で言うなら八三五年四月二十二日や」

「そんな事冷静に言うなや」

「その時の五穀断ちした時の体調と似てるわ」

「めっちゃ死に近いやん」

「弥勒菩薩が下生するまでガンバる言うたけど、今回はちょっとお迎え早すぎちゃうか」

空海の言葉は、段々と独言のようになって来た。

「空海、もおええで。喋りすぎて疲れたやろ。ゆっくり寝てくれ」

俺が言うまでもなく、空海は何か口を動かしながら眠ってしまった。

「死ぬなんて言わんでくれ空海」

俺は小声で呟いた。いつの間にやら同居して、たった一年で居るのが当たり前のようになってしまっていたが、冷静に考えてみれば、これはかなり異様な話なのである。空海は、元々平安時代に生きた人間である。今ここで俺と一緒にいる事自体が本来あり得ない事なのだ。

「でもな空海、俺はまだまだお前と一緒に色々な事を見てみたい思うで」

俺はそう言って空海の顔を見下ろした。空海は眠り込んだようだ。その顔を見ながら、俺はさっきの空海の言葉を思い出していた。承和二年三月二十一日。西暦八三五年四月二十二日。

何かが引っ掛かるのだが、その何かが解らない。

突然電話が鳴って、俺は飛び上がった。固定電話なんて滅多に鳴らないからだ。

「はいもしもし」

俺は電話に出た。自分からは名乗らないのがマイルールである。

「こんにちは、こちらは須〇寺副住職の〇池と申します。いつもお世話になっております」

電話の主は、空海のバイト先の副住職だった。

「ああどうも。こちらこそ空海がお世話になってます。私は同居人の立花です。本人は生憎不調で伏せっておりまして」

「ああ、ルームシェアしてる方ですね。はい、体調の事は聞いております。今度の二十日と二十一日、お手伝いは難しいですよね」

「お大師さんの縁日ですね。恐らく無理やと思います」

「ですよね。判りました。ごゆっくりお休み下さい、とお伝え下さい。では失礼します」

副住職はそう言って電話を切った。

そうか、縁日のバイトか。

そこで、俺はハタと気付いた。慌ててカレンダーを見る。今日は四月の十五日。横に旧暦三月十六日と書いてある。俺が空海と初めて出会ったのが、一年前の四月三十日。今年のカレンダーの下に掛けたままになっていた去年のカレンダーを見ると、四月三十日は旧暦三月二十一日だった。

もしかして、旧暦三月二十一日に近付くほど衰弱して行くのか?

「じゃあ、四月二十日にはどないなんねん?」

俺はしばし呆然と空海のやつれた寝顔を見つめた。

 

ネットで調べてみたら、歴史上の空海は承和二年三月二十一日の寅の刻(午前四時頃)に死んだ、となっている。もっとも、真言宗では"死亡"ではなく"入定(にゅうじょう)"と言うらしい。

俺は、二十日と二十一日はバイトを完全に休みにした。不測の事態に備えるためだ。アキちゃん達にもL〇NEを送っておいたので、二十日の午後からは、アキちゃん、泰子ちゃん、美穂さんが空海の枕元に揃った。

空海は、不安げな俺達の顔を見上げて、薄く笑って見せた。

「そんな悲しそうな顔して、どうしたん?」

「空海さんが元気になってくれへんかったら、私らずっとこんな顔のまんまやで」

アキちゃんが涙目で言った。

「ありがとう。人は人に想(おも)われるんが一番の幸せです」

「いやや。そんなお別れみたいな言葉聞きたない」

アキちゃんは泣き声で言うと、空海の掌を取った。

「弘史、おるか?」

空海は弱々しいがはっきりとした声で、俺を呼んだ。

「何や。枕元におるで」

「俺な、高〇山で弟子に囲まれて、最後の時間を迎えたんや。でも、今の方が何だか心が休まるな」

「弟子達に怒られんで」

「ただ」空海は少し苦しげに息をついた。「今の方が寂しくもあるな」

「気弱な事言うなや」

「この世界はおもろいな」空海は微笑んだ。「死後の世界がこんなにおもろいて知ってたら、皆死を恐れる事なく、生に向き合えるんやろな」

「あかんでまだ死んだら」

「それが御仏(みほとけ)御意志(ごいし)なら」

「こんな時だけ仏頼みかいな。空海は生きたいんやろ?もっともっと色々見聞きしたいんやろ?やったら早よ元気にならなあかんやろ」

俺は空海を見下ろしながら、努めて淡々と言った。

「そうやな…。もっと生きたいな…」

空海がそう呟いた時、時計が午前四時を指した。

「弘史、俺、まだ道の途中や…」

空海はそう言うと、ゆっくりと眼を閉じた。細く長く息を吐いた。胸が膨らまない。

「えっ?ちょっと!空海さん!あかんで!起きて!」

アキちゃんが握った掌をさすりながら声を上げた。

泰子ちゃんや美穂さんも空海の名前を呼びながら腕や足をさすった。

俺は、沸き上がる感情をぐっと押さえて、空海の顔を覗き込んだ。

「お前、やり残した事があるくせに、女の子を泣かすような真似はするんかい?」

俺は勢一杯の嫌味を込めて言ってやった。

完全に表情を失っていた空海の眉間に、一本の縦皺が寄った。次の瞬間、深い水の底から上がって来たかのように息を大きく吸って、空海はむせながら蘇生した。

空海は、夢から醒めたような顔で、喜びで泣き笑いのアキちゃん達を見た。

「おい、大丈夫か空海」

俺は恐る恐る尋ねた。端から見て、モロに臨死体験した人そのものだったからである。

「俺、彼岸に行ったで」

空海は言った。その顔は笑っていた。

「川渡ったんか」

「おう、渡った。渡ったら、光り輝く存在がおってん」

「仏様か?」

「お前やった」

「えっ?」

「輝いてたの、弘史やった。アキちゃんも泰子ちゃんも美穂さんもおった。みんな輝いてた」

空海は嬉しそうな声で言った。声に少し力が戻って来ていた。

「どうゆう事?」

俺には良く判らなかったが、空海はそのまま続けた。

「輝く弘史がな、『やり残した事を続けろ』って言うてくれたんや。そして光が強なって、目を開けたら皆がおってん」

「もお、ホンマに心配したんやから」

目を腫らしたアキちゃんが泣き顔で笑った。

「俺、皆の顔を見て、再び確信出来たんや」

空海は、今にも飛び起きそうな勢いで言った。

「何を確信したんや?」

俺の問いに空海は腹から声を絞り出した。

「この世が浄土なんや。人の世こそ密厳国土なんやって事や」

その言葉には、さっき一ペン死んだとは思えない程、力が満ちていた。

「まあ、とにかくお帰り、空海」

俺は笑って空海の額をポンポンと叩いた。

 

 

 

 

20191212



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湯治

空海は、現代日本で何をする?

 

 

湯治

 

 

平成二十六年(2014)四月末頃。世の中は、既に大型連休に突入している。

空海が生還してから一週間ほどが過ぎた。十日ほど絶食の期間があったので、まだ完全復活とまでは行かないようだが、普通に起き上がり、食事もほぼ元通りになった。

「何か心配掛けたな」

あったかいお茶を飲みながら、空海が頭を下げた。

「別に。無事にそこにおったらそれでええねん」

「アキちゃん達にも迷惑掛けたしな」

「色々してくれたで。体調が完全に戻ったら、何かお礼せなな」

「そうやな」

「ところで、一体何やったんや、あの不調の原因」

「よう判らへんけど、"リセット"やったんかなあって」

「リセットて。するってえと何かい、毎年、旧暦三月二十一日にはあんな事になる言うんか?」

思わず変な言葉使いになってしまった。

「まあ状況としてはそうやろな」空海は平然として言う。「ただ、今回は初めての事でこっちも準備が出来てへんかったから、完全に倒れてしもて皆に迷惑掛けたけど、次からは大丈夫や」

「どう大丈夫なん?」

「判っていれば、断食と一緒や、あっさりとやり過ごせるわ、多分」

「多分かいな」

俺にもようやく笑って返せるだけの余裕が出て来た。

「何だか、ちょっと前より感覚が鋭くなったような気ィするで」

空海も笑って言った。

「スー〇ーサ〇ヤ人みたいに、死にかけたら前より強くなるんか?」

俺はそう言ってみたが、空海に素で返された。

「ご免ちょっとそれ良く判らへん」

 

昼過ぎ頃に、俺のスマホが鳴った。着信音は岡本〇夜の『TOM〇RROW』だ。

「何や、アキちゃんや」

俺は呟きつつスマホを取った。

「もしもし。どしたんアキちゃん、今日仕事ちゃうん?」

『そおやで、ヒロシくん休みやから、その分倍は働いとおで』アキちゃんは笑い声で言った。『今お昼してたんやけどな、泰子ちゃんが来てんねん』

「泰子ちゃんが?どないしたん?」

『あのな、泰子ちゃんがな、空海さんとヒロシくんと一緒に有〇温泉行かヘんかって』

「有〇かあ」俺は空海に顔を向けた。「アキちゃん達がな、有〇温泉行かヘんかて」

「ええなあ。本格的な湯治やなあ」

空海は笑顔で頷いた。

「空海も乗り気やで」俺はアキちゃんに返した。「でも、どおやって有〇行くん?」

『泰子ちゃんのお父さんの車、借りれるんやて』

「それ助かるわ。バスとか北〇線とかやと、乗り継ぎとか結構面倒やもんな」

『私も最近知ったんやけど、有〇に「太閤の湯」ってスーパー銭湯みたいのがあるんやて。駐車場もあるって泰子ちゃんが言うてた』

「ヘえ。何か楽しそうやね」

『五月一日、ヒロシくんも休みやんね?お風呂は十時開館やから、一日の朝九時頃にお迎え行くね』

「はい、待ってます」

『じゃあね』

通話は軽快に切れた。

「有〇か。久し振りやな」

「空海、有〇行った事あるんか?」

「まだ若い頃にな。摩〇山に登った時に、足を伸ばして有〇まで行ったんや」

「摩〇山てどこ?」

「今は再〇山(ふた〇びさん)言うらしいな」

「ああ、大〇寺な」

「俺が唐に行く前と、行った後に登ったんで、その名前になったらしいわ」

「空海発信やないんや」

「何でも俺発信ちゃうで」

俺の問いに、空海は肩をすくめた。

 

五月一日の朝、九時には出発の用意を済ませてマンション下の歩道に立っていた空海と俺との前に、一台の自動車が停まった。黒いス〇キ・タ〇トだ。

助手席のパワーウィンドが開いて、アキちゃんが顔を出した。

「お二人さん、おはよう!いい天気で良かったね」

「ホンマやな。絶好の行楽日和や」俺は車の中を覗き込んだ。「泰子ちゃん、今日はよろしく」

「任せて。さ、二人とも乗って」

泰子ちゃんが言うと、スライドドアが自動で開いた。

「凄いな。VIPみたいや」

俺は言いつつ空海を促して奥に座らせた。

「空海さんとお付きの人、乗りましたか?」

アキちゃんがそんな事を言う。

「乗りました。よろしくお願いします」

穏やかな声で空海が答えた。

「じゃ、出発進行ーっ!」

アキちゃんがテンション高く宣言して、タ〇トが動き出した。

タ〇トはマンション前を通る高〇線を走り、東〇池八丁目、マッ〇スバリュ〇田南横を右折すると、北上して国道〇号線を横切り、J〇高架を潜って、〇田神社前を左折して県道二〇一号を走る。すぐに右側の側道から地下に降りて〇神高速三〇一号・神〇山手線に乗る。しばらく地下トンネルを通り、妙〇寺あたりで地上に出ると、右車線で〇神高速七号北神〇線、三〇・宝〇方面へ分岐した。後は有〇口ICまで一本道である。高速は山の中を通り、途中のトンネルを考慮しても、中々の開放感である。

「泰子ちゃん、これCD入ってんの?かけるで」

アキちゃんが言いながらボタンに手を伸ばした。

「あ、やめといた方が…」

泰子ちゃんの言葉が終わる前に、アキちゃんがステレオをONにした。

 

♪ 男の俺が選んだ道だ

たとえ茨の道だとて

 

車内に、大音量で歌声が響いた。

「…いいよって言おう思たのに」

泰子ちゃんは肩をすくめた。

「『暴れん坊〇軍』のエンディングやん」

音量に目を丸くしてアキちゃんが笑った。

「『炎の男』 北〇三郎やね」

俺も笑って言った。

「うちのお父ちゃんがサブちゃん好きやねん」

泰子ちゃんが済まなそうに言った。

「私は演歌好きですよ」

空海は真面目な顔で言った。

タ〇トは有〇口で高速を降り、出口で左折して県道五〇一号を走り、有〇温泉街に入った。太閣橋を右折したら、もうすぐである。

「どんなんかな?『太閤の湯』」

アキちゃんが瞳を輝かせた。

「楽しみやね」

泰子ちゃんも笑顔である。

やがて、タ〇トは『太閤の湯』の駐車場に入った。

「とうちゃくー!」

アキちゃんが上気嫌でバンザイをした。

 

結果から言うと、ゴールデンウィーク中で家族連れが大量に訪れており、芋洗い状態でとてもゆっくり温泉に浸かる、という雰囲気では無かった。ただ、空海の周りだけはなぜか少し空間が空き、彼自身はゆっくりと有〇の金泉銀泉を堪能出来たようだ。

 

 

 

20191222




太閤の湯は、阪急阪神グループの「有馬ビューホテルうらら」に併設された、大きな温泉施設です。2018年5月7日~2019年3月31日まで大規模改修工事の為休館し、2019年4月1日に大改装グランドオープン。ホテルも「有馬きらり」になりました。



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月下の騒動

空海は、現代日本で何をする?

 

 

月下の騒動

 

 

平成二十六年(2014)の五月に入った。

体調もほぼ元通りになった空海は、また夜のウォーキングを始めた。ところが、以前は一時間ほどで帰って来ていたのが、再開してからは二時間を越すようになった。しかも、結構汗だくで戻って来る。二日に一度はそんな感じである。

一体何をやっているのか?

気にはなるが、まあいい大人である。俺がそこまで心配する程の事でもない。

そんな呑気な俺だったが、とうとう毎日汗だくになって帰って来る空海が気になって、黙っていられなくなった。

十三日は、空海が晩ご飯を作る、という事でウォーキングを休んだので、俺は思い切って空海に尋ねてみた。

「なあ空海。最近、ウォーキングでやたら汗だくになってへんか?」

「ああ、そやな」

「大丈夫なんか?何か無理してへんか?」

「そんな心配されるような事はしてへんで」

「そんならええんやけどな。病み上がりやし、やっぱり心配やで」

「悪いな、気ぃ使わせて」空海は薄く笑った。「変な事はしてへんから、大丈夫や。さて、ご飯出来たで。食べよか」

空海は話題を変えるように晩ご飯の用意を始めたので、結局ウォーキングの話はうやむやで終わってしまった。

 

次の日、俺がバイトに行っている「SE〇YU」で事件が起こった。ナカさん(76歳女性)が、数名の半グレに絡まれたのだ。

連中は一度弁当を買って売り場から出て行ったのだが、すぐに戻って来て、弁当のラップが外れていて、汁がこぼれて服が汚れたなどと言い出した。六人ほどの半グレどもは、服のクリーニング代を寄こせ、と大声を出した。

「なあおばちゃん、この店、商品管理がなってないんちゃうか?」

リーダー格らしい男が、ナカさんに凄んで見せた。ただナカさんも〇田のおばちゃんである。負けてない。

「でも、お客さんの買った弁当、汁が垂れるようなおかず、ありませんけどねぇ」

「じゃあこの汚れは何やねん?」

「何か別のモンこぼしたんとちゃいます?」

「ふざけんなよババア!」

ナカさんののらりくらりとした態度に、男は大声で怒鳴った。別の場所にいた小林さんが走って来て、何とかなだめようとしたが、半グレどもは返ってエキサイトして来た。

小林さんが切れそうになった時、店内の野次馬の中から一人の男が出て来た。背はそれほど高くないが、全身の筋肉が太い。顔はLU〇A SEAの河〇隆一に似てなくもないか。

「おいチンピラ、俺は早く買い物を済ませたいんや。ええ加減に終わらせえや」

その男は買い物カゴを床に置いて言った。中味はプリンとカフェオレ。意外と甘ったるい内容だ。

「うるさいわ。大事な話しとんねん。どっか()んどけや」

リーダーは取り合わない。

「他の客も迷惑しとんねん。インネンつけんなら奥でやれや。俺は早くプリンが食いたいねん」

男はリーダーに近付いた。横から別の半グレが男を止めようと、肩に手を掛けた。

次の瞬間、半グレは悲鳴を上げて床に膝を着いた。掛けた手の手首を押さえて呻いている。

「何やテメエは?」

また別の半グレが後ろから肩を掴んで来た。男はその手を逆の手で自分の肩に押さえ付け、相手の腕を肩を支点に巻き込んだ。

半グレは肩と肘を同時に極められ、爪先立ちになった。

「イテッ!イテテテッ!」

その悲鳴が痛さを物語っていた。

「もう十分や。お前らの遠吠えにも飽きたわ。とっとと帰れや」

男は言いつつ、腕をほどきながら押さえていた手で相手の顔を押さえた。体が反り返っていた半グレは、そのまま後ろに崩折れて、床に後頭部を打ち付けた。

「何やお前、本気かいや?」

リーダーはナカさんから男に向き直った。その振り向く動きとほぼ同時に左の裏拳を放つ。男はそれを左肘で受けた。次の瞬間にはリーダーは胸を押さえて(うずくま)っていた。男は、受けと同時に突きを放っていたらしい。

「もうええやろ。それとももっとやったろか?」

男はリーダーを見下ろして言った。リーダーは無言で首を振った。

男が無言のまま親指で出口を示すと、半グレ達はスゴスゴと店を出て行ったが、リーダーは出口付近で中指を立てた。しかし男が拳を挙げて見せると、黙って店を出て行った。

「助かりました。ありがとね」ナカさんが男に頭を下げた。「それにしても、あんたスゴいねえ。六人も相手にひるみもせんと」

「おばちゃんも大したモンやで」

「おばちゃん惚れてまいそうやわ。お名前は?」

「いやいや、名乗るほどの者やないですから」

ナカさんの想いはやんわりと拒否された。

 

俺のシフトは遅番だったので、普段なら午後九時四十五分の営業終了後に売り場周りの掃除と片付けをして、職員さんに託して店を出るのが大体午後十時半くらいになる。

だが今日は職員さんと昼間の活劇の件でウダウダ喋りながらの作業だったので、帰途についたのは午後十一時を回ったくらいだった。折しも満月が街並みを照らし、いつもの風景が何だか神秘的に見えた。地下鉄海〇線の〇崎公園駅で降りて階段を上がると、目の前の高〇線をパトカーがサイレンを鳴らしながら走り抜けて行った。走り去った方向を見ると、ノ〇ビアスタジアム(旧ウ〇ングスタジアム)辺りに何台分もの回転灯が見えた。パトカーだけではなく、救急車も来ているようだ。

「何やろ騒々しい。テロでもあったんかいな」

俺は呟きながらマンションの自分の部屋へ帰った。空海は案の上まだウォーキングから帰っていないらしかった。

あの騒ぎに巻き込まれてなければええけどな。

俺は一応スマホをチェックしてみた。Twi〇terやFaceb〇okなどではぽつぽつ現場の写真を挙げて、「テロか?」とか「山〇組の抗争か?」とか適当な憶測を書き込んでいるが、事実は良く判らない。

ただ誰かの書き込みの、

「半グレ集団が返り討ちに合い半殺しにされた」

という文章が少し気になった。

と、誰かが廊下を走って来て、俺の部屋に飛び込んで来た。

「何や何や!?」

飛び上がった俺の目の前には、汗だくで息を切らせた空海がいた。

「おお、お帰り弘史。お疲れさんやったな」

空海は笑いながら言った。

「汗だくで息切らせて飛び込んで来て、一発目の言葉がそれかい。何があったん?まさかあのパトカーと関係あるんか?」

「どうやろ?関係なくはないかもな」

「マジで?大丈夫なんか?シメーテハイとかされてへんやろな」

「大丈夫や。悪い奴らを懲らしめてやっただけやし」

「…もしかして、六人くらいのガラの悪い集団か?」

「何で判ったん?十人おったけど」

「やっぱりか。そいつら、もしかしたら今日『SE〇YU』で揉め事起こした奴らかも」

「先生に『昼間は世話になった』みたいな事言うてたな」

「誰や先生て?」

「今、拳法教わってんねん。ガッチリした、ちょっと男前の」

「あー。多分それ、昼間の人やわ」

「昼間、迷惑掛けてた奴らがおった言うてはったから、間違いないな」

「あんまり派出な事やったらあかんで」

俺は肩をすくめて言った。

「今日のは、相手が武器を持ってたから、正当防衛やで」

空海は、あくまで爽やかな笑顔で言った。

「十人で武器て、けっこうな修羅場やないか」

空海の話を聞いていたら、昼間の騒動など取るに足らない物に思えて来た。

 

 

 

20200122




このお話は、「月下の拳士」もご参照下さい。


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参照 「月下の拳士」

このお話は、設定をあいまいにして、「エブリスタ」に投稿したものです。

実は、「空海は―」の内容だったのです。


月下の拳士

 

 

 

俺はこの所、二、三日に一度は夜の散歩に出ている。位置情報を活用したスマホゲームで、モンスターを集めているのだ。

満月の明るい午後十一時頃、いつものサッカー場の前まで来ると、昨日までは居なかった人影があった。何やら踊っているようにも見える。

近付いてみると、どうやら踊りではなく、拳法の練習っぽかった。よく知らないが、太極拳みたいな型をやっている。俺は、モンスター集めの事など忘れて、その型に見入ってしまった。

月明かりの下、強い踏み込みや鋭い突きを操り返す姿は、何やら神々しさすら感じた。

彼が練習を終え、立ち去って行く後ろ姿を見送って、そこで初めて自分が彼を見続けていた事に気付いた。

翌日の夜も、俺はサッカー場へやって来た。月光に照らされた彼の姿が瞼から離れなかったのだ。

彼は今日も練習をしていた。今日はスキンヘッドの男と一緒だった。スキンヘッドの男は弟子なのか、何やら技を教えているらしかった。しかし、そこへ周りから半グレっぽい男どもが十人ほど駆け寄って来て、彼らを取り囲んだ。手に手に金属バットや鉄パイプを持っている。

何かヤバい所に出くわしてしまった。

関わり合いになりたくない、という思いより、彼がどうするか、という興味の方が勝った。

俺は、その一部始終を見る事になった。

「おい、お前、昼間は随分と世話になったなぁ」

半グレの一人が大声で言った。

「お前らが街の中で他の人達に迷惑をかけてただけやろ」

「うるせえ!お前のせいで、俺達は面目丸潰れなんや」

「それはお前らの問題やろ?俺の知ったこっちゃない」

「ぶっ殺す!」

半グレはそれぞれの武器を振りかざしたが、彼は涼しい顔だ。

「先生、この場合、どうしたらエエやろか?」

スキンヘッドが彼に尋ねた。

「助さん、懲らしめてやりなさい」

彼は笑いながら言った。

「ふざけんな!」

半グレが雄叫びを上げ、バットを振り上げた。

その後の事は、まるで現実感のない、夢の中の出来事のようだった。

彼とスキンヘッドは、それこそ踊るような動きで次々と半グレ連中を打ち倒して行く。結構殺伐とした光景なのにも関わらず、青白い月の光の下では何かしら美しい映画のワンシーンのように見えた。

十人の半グレはあっと言う間に全員が打ち倒され、地面でのたうち回っていた。呆然と見ていた俺の横を、警官が通り抜けて行った。サッカー場入口にある交番の警官だろう。

彼とスキンヘッドの二人は、お互い頷き合うと、正反対の方向に走り出した。

その後、パトカーや救急車がやって来て、現場は騒然となったが、半グレが昼間にも騒ぎを起こしていた事、そして自分達を外傷させた相手を訴えない、とした事で、今回の件は半グレ同士の人騒がせなケンカ騒動という事で決着がついた。

それ以来、あの拳士の姿は見ていない。

 

 

 

20190905




ちなみに「俺」は、弘史ではありません。念の為。


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老いと仕事

空海は、現代日本で何をする?

 

 

老いと仕事

 

 

平成二十六年(2014)の五月も中ば。

〇甲の山々も緑が朋えて、木々の若葉が瑞々しい。

気温は二十度超えの日が続き、今年の夏も思いやられる今日この頃である。

ある日の夜中、俺は消防車のサイレンで目を覚ました。時計を見ると、午前二時を過ぎた頃だった。丁度眠りの浅い時だったのだろう。遠く運河の向こうから聞こえていたそのサイレンはどんどん近付いて来ると、金〇町の交差点を曲がって、俺達のマンションの前で止まった。

「近くで火事のようやな」

既に起き上がっていた空海が、ジャージに腕を通しながら言った。表通り側は公共の通路なので、室内から出ないと外の様子は判らないが、消防車が何台もやって来て、窓の外は赤い回転灯の光が幾つもチカチカとまたたいていた。

部屋から出て通路の窓から下を見ると、消防車やパトカーがたくさん詰め掛けているのが見えた。

その中心は、どうやら『お好み焼き まっちゃん』らしかった。良く耳を澄ましてみると、何かのアラーム音も聞こえる。

階下に降りて道を渡ると、防護服を着た消防隊員達が、はしご車で二階の窓から中を伺っている隊員の様子を見上げている。

「火の気は確認出来ず。アラーム音鳴ってる」

「少しにおいするな」

「開けて入ろか?」

などと話しているのが聞こえて来る。

俺は店のすぐ下あたりにいる知り合いを見つけた。俺の二階上で同棲している柏木くんと織田さんだ。二人は『まっちゃん』の常連でもある。

「柏木くん、今晩は。どおしたんこれ?何か知ってる?」

俺は彼らに近付いて声を掛けた。

「ああ、立花さん、空海さん、今晩は」柏木くんはペコリと頭を下げた。「いや、 俺達ついさっき帰って来たとこやったんですけど、何か『まっちゃん』からアラーム聞こえてて。こいつがガス漏れちゃうか、て」

こいつと言われた織田さんが、小さく頷いた。

「で、119番したんです。火ィ出てもアレやし」

柏木くんはそう言って店を見上げた。

「おばあちゃんは?」

空海が尋ねた。

「私がさっき電話しました。もう来る思います」

織田さんがそれに答えた。

現場では、消防隊員が階段を上がって、店の入口前に立っていた。

「結構においするし、開けるで」

隊員はそう言うと、難無く鍵を開けて、店内に入って行った。後に三人ほど他の隊員達が続いた。

しばらく中で懐中電灯の明かりが動いているのが窓から見えていたが、やがてその窓が開き、隊員の一人が頭を出した。

「鉄板の所のガス栓が少し開いてた。もう閉めたんで大丈夫や。しばらく換気するんで電気類は触らんで」

それを聞いて、他の消防隊員達がほっと一息ついた。

そこへ、起き抜け顔のおばあちゃんが髪を振り乱してやって来た。寝起きでとりあえずかき集めたらしく、服も上下バラバラである。

「何やこれ、えらいこっちゃな!」

おばあちゃんは、周りの消防車やパトカーを見回しながら言った。ちょっと他人事な感じである。

「ホンマやで。お店結構ガスくさいで。大丈夫か?」

柏木くんがおばあちゃんに近寄って心配げに声を掛けた。

「ああ、カズちゃん、電話ありがとな。今日は普通に営業してたし、いつも通り片付けしたさかい、ちゃんと栓閉めた思たんやけどなぁ」

おばあちゃんはしきりに首をひねった。

「しっかり閉まってなかったみたいやで。まあ大事(おおごと)にならんで良かったわ」

空海が落ち着かなげなおばあちゃんの背中に軽く触れながら言った。

俺は周りを見渡した。大勢の消防隊員や警察官が実況検分をしている。結構大事(おおごと)やと思うけどな、とは言わずにおいた。

「ゴメンやで迷惑掛けて。ありがとな」

おばあちゃんはオロオロしながらも俺達にそう言った。

そこへ、点検を終えた消防隊員の一人がやって来た。

「ああ、おばあちゃん、お店の人?ちょっとお話聞いてもええかな?」

おばあちゃんは隊員の質問にしどろもどろに答え始めた。柏木くん達がおばあちゃんについてくれたので、空海と俺は現場から少し離れた。

「火が出んで良かったな」

店を見上げながら、空海が言った。

「上も下も塾で、夜の間は火の気が無いからな。助かったわ」

俺も店を見上げて言った。

「火事は恐いからな」

「火ィ出てもおたら、周りにも被害出るしな」

「燃えてもうたら、全部無うなってまうからな。やっぱりあれがツライわ」

「燃えてもおた事あるんか?」

「高野山でな」

「なるほど」

「夜や冬は寒いから火を使う。住坊はあばら家同然やから火を断やされへん。で周りには経典や墨書などの紙類が多い。これがよお燃えんねん」

「そんな感じするわ」

「あと雷もよお落ちたしな」

「結構恐いトコやねんな高野山」

「自然と一体になれる、ええトコなんやけどな」

二人でそんな事を話していると、とても疲れた顔をしたおばあちゃんが、柏木くん達と一緒に歩いて来た。

「おばあちゃん、大変やったなあ」

俺がそう言うと、おばあちゃんは力無く笑った。

「もう潮時なんやろな」

「どしたんおばあちゃん」

「うちな、お店閉めよ思て」

「え、お好み焼き屋辞めはんの?」

「前から考えてたんやけど」おばあちゃんはしみじみと言った。「お父ちゃんが死んでから、常連さんの居場所を無くしたらあかん思て、お店続けて来たんやけど、やっぱりもおあかんなあ。体もエライし」

「そりゃあ、無理してもアカンしなあ」

「震災からこっちまあまあ頑張って来たし、もうゆっくりさせて貰おかな」

そう言うと、おばあちゃんは大きくひとつ息をついた。

 

 

おばあちゃんは、五月一杯でお店を畳んだ。

その後、散歩しているおばあちゃんに逢ったのだが、彼女は、

「仕事辞めたらな、朝早起きせんでも良うなって、メッチャ楽になったわ」

と、元気そうに笑っていた。

 

 

 

20200217



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聖と俗

今回は、少々汚い内容を含みます(笑)。


空海は、現代日本で何をする?

 

 

聖と俗

 

 

平成二十六年(2014)の五月二十三日。

昨日の夜、中学からの同級生で建築デザイナーの大道憲吾から呼び出しLINEを貰った。何でも、同じく同級生の伊藤雅志がツアーから帰って来たので、一緒に呑もう、という事らしい。伊藤雅志はJ〇Bにツアコンとして就職しており、今回初めてインドに行ったらしい。

インド帰りで日本食に飢えている、という事で、まずは〇急〇ノ宮駅山側の海鮮居酒屋『〇前』で集合した。憲吾がどうしても、というので、空海にも来て貰った。

インド帰りの雅志は、かなり日に焼けていた。

「おお、雅やん久し振り」

俺は片手を上げて挨拶をした。

「おお、弘史、ホンマ久し振りやな。会うの何時(いつ)ぐらいからや?」

「お前さんが〇穂(あ〇う)の海岸で、海に向かって指輪を投げてからやから、一年振りくらいか?」

「マジで?結局あの()とは別れたんかいな」

知らなかったらしく、憲吾が目を丸くした。

「それここで言うか?」

雅志が困り顔で言った。

「まあまあ。青春のいちページって事で」

俺は笑って言った。

「アラサーで青春も無いやろ」憲吾は半笑いである。「で、雅やん、こちらは弘史のルームメイトの空海や」

「初めまして。居候の空海です。よろしく」

空海は小さく頭を下げた。

「居候?」今度は雅志が目を丸くした。「それって、同棲って事か?あれ、弘史ってそっちの趣味やったっけ?」

「その言い方、俺よりも空海に失礼ちゃうか?」

俺は溜め息混じりに言った。

「空海は坊さんや。友人としては、珍しいカテゴリーやろ?」

憲吾はそんな事を言う。

「お前ら、空海の基本的人権無視してへんか?」

俺は首をかしげたが、空海は笑って言った。

「座が盛り上がるならええんちゃうか」

そんな事を言い合っている間に「とりあえず生」が出て来た。

「まあとりあえず、雅やんが初インドから無事生還した事を祝って、カンパイ!」

憲吾の仕切りで、宴会が始まった。

「インドはどういうツアーで行ったんやったっけ?」

憲吾が早速雅志に話を振った。

「〇庫大仏あるやろ、清〇塚の近くの。能〇寺いうんやけどな、そこの住職さんと檀家さんの団体で、インドの仏教遺跡を参拝するって奴やったんや」

「初めてにしては結構ハードなミッションやな」

「まあ、住職さんがインド何回も行ってはるから、勉強させて貰えいうてな、俺に大役が回って来たって訳や」

「で、どうやったインド?」

俺は興味津々で聞いた。

雅志は一気に生中を呑み干すと、次を注文してから口を開いた。

「あそこはヤベえ」

「ヤベえって何や?」

その場の全員が突っ込んだ。

「いやあ、インドって、このところ『二桁の掛け算が出来る』とか、『IT関係の人材を輩出している』とか良く聞くやろ?そこからの俺の勝手な思い込みで、もの凄く近代化が進んで、整備されたきれいな街やと思てたんや」

雅志はそう言って、もうひと口ビールを呑んだ。

「そう言うて事は、雅やんのイメージとは(ちご)てたんやな」

憲吾がつき出しの枝豆を食べながら相槌を打った。

「ああ。全然違たな」雅志は大きな吐息をついた。「むしろ先輩の教えてもろた通りやったよ。空港の通関を出た途端、昔テレビで観たインドそのままの雑多な世界に飛げ込まれたわ」

「人混みでゴチャッとした感じか?」

と俺。既に刺身の盛合わせに手を付けている。

「さながらN〇Kの『シルク〇ード』で観たオアシスの市場みたいやったわ」

「例えとしては微妙やな」

「とにかく、衛生観念が全く(ちゃ)うんや」

「どう違うねん」

「ちょっとアレな話やけど、トイレがな…」

「手で水つけて洗うて聞いた事あるで」

憲吾が左手で尻を拭く仕種をした。

「それもあるけどな。インド人、基本野グソやねん」

「はぁっ?」

「空港からバスでデリー市内を移動したんやけど、街中(まちなか)の大きい交差点は大概ロータリーなんやけどな、そのロータリーの真ん中で、女の人がサリーめくってウンコしてんねん」

「何やそれ?」

「現地のコーディネーターに聞いてみたら、『これが普通や』って」

「マジで?でも、それこそどうやってケツ拭くねん?」

「水入れた小さな壺持ってんねん」

「うわー。俺アカンわ」

結構神経質な憲吾は眉をしかめた。

「先輩から『トイレットペーパーはロールで持っていった方が良い』とは聞いとったけど、その通りやったわ。五つ星ホテルでも、トイレに小さい蛇口しか無いトコあんねん」

「それってやっぱり?」

「その水でケツ洗うって事や」

「ヘー、凄いなインド」

俺はそう言わざるを得なかった。

「天竺は、昔から変わらへんねんな」空海が笑いながら言った。「俺の梵語の先生やった般若三蔵も、そんな事言ってはったわ。長安は紙が使えるから便利やって」

「いつの話やねん」

憲吾が笑いながら突っ込んだ。知らぬが仏である。

「それに、インドはどこ行ってもストリート・チルドレンが多いんや」

「ストリート・チルドレン?」

雅志の言葉に、空海が首をかしげた。

「要は子供の乞食(こ〇き)やな。俺のツアー客の一人は、走り寄って来た子供に、タオルで靴をなでられて『靴磨いたから金払え』と言われて、素直に十ルピー払ってしもてたで」

「押し売りもええトコやな」

憲吾が苦笑しつつ言った。

「しかも、スニーカーやで」

「靴磨きにすらなってへんやん」

「しかもな、お金渡してしもたから、他の子供も金くれ金くれって寄ってくんねん」

「かなりヤバイんちゃうん?」

「そんな所へ、年かさの少年が来てな、その子供達を蹴散らして助けてくれたんや」

「ええ奴もおるんや」

「そしたら今度はその少年が『助けてやったんやから、お礼代わりにハシシ買わんか?』とこう来る訳や」

「あかんやん」

「それを断るとな、『ハシシがあかんかったら、もっとええのが向こうにあるで』とか言いながら、近くの店の奥を指差すんや」

「何やもっとええもんって?」

「これやて」

雅志は注射をするゼスチャーをした。

「もっとアカン奴やん」

憲吾が天井を見上げた。

「おっかない所やなインドて」

俺も溜め息混じりに言った。

「まあその子達も、生き抜く為に必死なんやろな」

空海が静かな口調で言った。

「そうやな」雅志はひと呼吸置いた。「今回行った何か所かの仏教遺跡でも、ストリート・チルドレン的なのは一杯居たけどな、参拝団が読経してる時には、一緒に合掌してんねん。あいつらがそん時に何を考えてたかは良う判らんけど、何や一生懸命拝んでるように見えたんや」

「天竺の人々にとっては、聖なる物も俗なる物も、大した違いはないんやと思うで」

空海はそう言いながら、鯛の刺身を口に入れた。

「そういうもんか?」

俺は思わず尋ねていた。

「人は、一日一日生きて行く事を考えている時には、聖も俗も関係無い、『生きる』事が大事や。しかし、いつか聖と俗とを意識し区別する、『より良く生きる』事を考えるようになる。そして最後には、やっぱり聖も俗も同じ事なんや、と気付く。言ってみれば曼茶羅の世界やな。天竺の人々は多分経験的にそれを知ってるんやと思う」

空海は澄ました顔でそんな事を言う。

「何かムツカシイ事言うてはるなあ」憲吾が笑いながら言った。「お坊さんみたいやで」

「天竺の輪廻の思想は、人々がこの世界と共に生きて行く事を概念化したものやと、俺は考えてるんや。で、生きる為に競ったり奪ったりする、生存の連鎖から抜け出す事、これが解脱、涅槃という境地なんや、と」

空海は、憲吾の下らない突っ込みを豪快にスルーした。

「でもそうかもなー」

雅志は何やら納得した様子である。

「何か判ったんか?」

俺が尋ねると、雅志は大きく頷いて言った。

「インド人て、俺達日本人から見ると厳しい生活してるみたいやけど、みんな明るいねん。何て言うか、あっけらかんとしてるんや」

「何かしら悟ってるんやろか?」

憲吾がそう言うと、空海は笑って答えた。

「そうかも知れへんな。梵語でサティアという言葉は、唐で『(たい)』と訳されたんやが、日本語では『諦める』という否定的な意味で使われる事が多いけど、本来は『物事を明らかに見定める』という意味なんや。天竺の人々は、肯定的に『諦め』てるんやと思うで」

「つまりはどういう意味なんや?」

「『この世界をあるがままに受け入れる』いう事やと思うで」

「あるがままか」雅志は大きく息をついた。「せやからと言って、インド人のあのやり方を許せるもんでもないで」

「そんなあかんか、インド人」

俺は笑ってしまった。

「ちょっとな。そらまあ、全てのインド人があかん訳やないけどな。ホンマ許されん事も多いで」

酒で勢いがついたのか、雅志のインドへの文句は止まらない。

「聖と俗とが一体となる事が全て良い事に繋がるとは言い切れへん、て事か」

俺は、空海を見ながら言った。

「何や。俺の顔に何か付いとるか?」

空海はとぼけて言うと、ニヤリと笑った。

 

 

 

20200317



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続 聖と俗

空海は、現代日本で何をする?

 

 

続 聖と俗

 

 

平成二十六年(2014)の五月二十三日。

インド帰りの伊藤雅志の体験記は止まる所を知らず、俺達は場所を変えて続きを聞く事にした。

『〇前』から一本北の北〇狭通に出て、〇門街のすぐ前の生〇新道ビル一階にある、エイヴ〇リーズアイリッシュパブへやって来た。憲吾は仕事の相手と良く来るらしい。

「ヘー、アイリッシュパブって初めて来た」

俺は露骨にキョロキョロと店内を見回した。

「洒落た感じやろ?外国人の客も多いし、ちょっと雰囲気(ちご)て楽しいで」

憲吾は言いつつ、樽をそのままテーブル替わりにしている席についた。

バーテンに声を掛け、憲吾と俺はギ〇スビール、雅志はオールドスペク〇ドヘンという琥珀色のビール、空海はインディア ペールエールのフ〇ーズというビールを頼んだ。つまみはフィッシュ&チップスとチリビーンズナチョス。注文毎に料金を渡すキャッシュオンデリバリー式も新鮮で楽しい。

「じゃあ改めて、カンパイ」

俺の音頭で、宴会が再開された。

「ホンマに、インド人てテキトーやで」

スタートから雅志はフルスロットルである。

「何がいね」

「インド着いた翌日に、ベナレスに移動したんや。そこで、お釈迦さんが悟りを開いてから最初に説法した所に行ったんや」

鹿野苑(ろくやおん)、サールナートやな」

空海かポツリと言った。

「そうそれ、サールナート。バスを少し離れた所にある駐車場に停めて、そこからリキシャで移動て事になったんやが」

「リキシャって何や?人力車か?」

俺は良く知らなかったので、ボケのつもりで訊いてみた。

「人力車をチャリンコで曳くやつや」

憲吾にフツーに返された。

「で、その現地のリキシャの車夫が、道を間違えやがってな。一台が間違えたら、その後ろ二台が付いて行きよって、別の場所に行ってしもたんや。結局、一時間くらい遅れてようやく集合出来たけどな、一時はコーディネーターと警察呼ぶか相談したで。そもそも、駐車場から現場に行くまでに地元の奴が道間違えるとか、あり得ヘんで」

雅志はそう言って大きく息をついた。

「インドで迷い子になったら恐いやろな」

憲吾は二杯目の、スコッチのハイボールを呑みながら言った。

「恐いで。何しろ英語が通じへんからな」雅志は肩をすくめた。「場所によっては、ヒンディー語ですら通じヘん事あるからな」

「何でやねん」と俺。

「インドはな、地域によって言語がちゃうらしいんや。そやから、お札にも、二十五の言語が書かれてるんやて」

雅志はそう言うと、財布の中からしわくちゃの札を取り出した。インドの十ルピー札だ。

「うわー、ホンマや。字が一杯や」

「これで主要な言語らしいで。今回でも、コーディネーターと原地人との間に通訳が入った事もあったしな」

「恐るべしインド」

「それにな」

「まだあるんかい」

「バスの移動中に、運転手の休憩で寄ったドライブインでな」

「そんなもんがあるんか」

「バスとかトラックの運ちゃんご用達なんやろうな。だだっ広い空き地に小屋が二つほど建ってるだけなんやけど、ひとつは一応キッチンで、もうひとつは売店で、お菓子やカセットテープが山積みやったわ」

「"一応キッチン"の意味は?」

一応、俺は確認しておいた。

「キッチンって言っても、プロパンガスのコンロがひとつと薪のかまどがふたつあるだけなんやけどな。そこでカレーとチャパティを食べたんやけど、俺が今まで食べた中で一番旨いカレーやったわ。かなり辛かったけどな」

雅志は遠い目付きで言った。

「ええなあ。旨いカレー食いたいな」

憲吾が物欲しそうな顔で言う。

「ただな、そこで使ってる皿やスプーンを、すぐ横で子供が(あろ)てるんやけど、その洗てる水が、牛の水用の桶やねん」

「何で判ったんそれ?」

「何でて、牛が水飲んでる所にスプーンや皿を入れてるんや」

「あ、俺聞いただけで無理」

憲吾が両手を挙げて首を振った。

「牛って、インドでは神聖な動物やなかったっけ?」

俺は意地悪く言ってみた。

「お前、あの状況を見てヘんからそんな事言えるんや」

「どんなんや?」

「牛が口突っ込んでガポガポ水飲んでるその桶の水で洗ったスプーンを、子供が笑いながら差し出すんやで。『ほらキレイやで』とか言いながら」

「ある意味ホラーやな」

「まあ、『聖なる物』がきれいな物とも限らへんからな」

空海が微笑みながら言った。

「そうなん?何で?」

俺は首をひねった。

「『聖なる物』て、言い換えれば『純粋な物』なんや。純粋な物は、キレイとかキタナイとかの概念を超越してるんや」

「そう言うもんか」

「透明な水を湛えた池も、苔みどろの泥沼も、そこには生き物がいて、大きな生命の循環を支えるひとつの世界なんや。それをキレイとかキタナイとかの判断をするのは、外から見てる俺達の決め付けでしかないんや」

「そうは言ってもなあ」憲吾は肩をすくめた。「やっぱりキレイに越した事ないやろ」

「そらそうや」

空海は笑って頷いた。

「ところで」

憲吾が突然声を潜めたので、雅志と俺は身を乗り出した。

「何や、急に声低くして」

そう言う雅志に、憲吾は控え目な動きで自分の背中側を指し示した。そちらはカウンター席で、何人かが座って酒を呑んでいる。

「一番こっち側の女、めっちゃカワイイんやけどな、その()が何かこっちを意識しとんねん」

雅志がそれとなく彼女の方を窺ってから、小さく首を振った。

「んな訳あるかいや。あんなイイ女が俺らみたいなオッサン相手にせえへんわ。話題が『聖と俗』やったからって、無理矢理俗っぽい話を持ってこんでもええで」

「いやちゃうて。ホンマにこっち見たりしてるんやて」

大の大人が二人してそんな事を小声で言い合っているので、俺も何とはなしにその女性に目をやった。俺達の席からは右後方から彼女を見る事になる。

カウンターのシートに腰掛けた腰つきや、タイトなミニで強調されるボディライン、形の良い胸に持ち上げられたブラウスの裾から見え隠れする引き締まったウェスト、肩の下まで流れる茶色い髪、細いアゴのライン、しなやかな指先、どれを取っても艶やかな良いオンナである。

だが、やたらと盛り上がる雅志と憲吾に対して、俺はどんどんテンションが下がって行った。

そんな彼女が、シートの上で体を半分こちらに向けて、はっきりと俺達の方を見た。首を傾けて艶然と微笑む。そんな彼女と俺の目が合った。

あ、やっぱりそうや。

俺のHPとMPは1になった。完全にステータス異常である。

彼女は、シートから立ち上がると、グラスを片手に俺達の席に向かって来た。生足にヒールの高いミュール、パッションピンクのネイルが扇情的である。案の上、野郎二人はテンションが上がりっ放しである。

彼女は、俺達の席のすぐ横までやって来た。

「えーっと、俺に何かご用かな、お嬢さん」

雅志が席を立ちながら尋ねた。身振りで席を勧める。彼女は微笑んでシートに座った。濃い色のルージュを舌の先で湿らせる。

「何やってんのヒロシ。こんなトコで男子会?むさ苦しいわね」

その唇から出た言葉は、失礼で辛辣なものだった。雅志と憲吾の表情が凍りつく。

「お前こそ、こんな所で何やってんねん百合。もう大学始まってるんちゃうんか?」

俺は溜め息混じりに返した。雅志と憲吾は百合と俺を交互に見るだけで、声も出ない。

「私はLJDなの。もう週に二回くらいし講議ないし」

「何やLJDて」

「知らないの?Last Joshi Daisei。JDブランドも今年が最後なんだから」

「何やそれ。ブランドを安売りしてもええ事ないで」

「お生憎様。見ての通り、私は目一杯高額商品なの」

百合は鼻で笑った。

「ち、ちょっと待った!」凍りついていた雅志がようやく口を開いた。「おい弘史、お前、この()とどういう関係やねん?何で名前で呼び()おとんねん?」

「ホンマや。お前どこでこんな美人と知り合いになっとんねん」

憲吾も噛みついて来る。妻子持ちのくせに。

「目鼻立ちが似ていますね。従妹さんですか?」

今まで黙っていた空海が静かに言った。

「あん、良く判ったわね。今まで似てるなんて言われた事なかったのに」百合がくすくすと笑う。「あ、もしかして、あなたがヒロシのカレシ?」

「空海と言います。弘史の部屋で居候中ですが、恋愛対象とは少し違う関係ですね」

「『少し』て何やねん?」

俺は思わず突っ込んだ。

「どんな人かなーって思ってたけど、スッゴいイケメンなのね。で、もしかして、お坊さん?」

「良く判りましたね」

「私、駒〇大学仏教学科なの。何となく判っちゃうんだ。でも本物のお坊さんなら、お経唱えてみてよ」

「別にいいですけど、周りが引いてしまいますよ」

空海はやんわりと受け流した。

「ところで空海さん」百合が樽の上に身を乗り出して、空海に顔を近付けた。「お坊さんって、精力絶倫ってホントなの?」

「めっちゃガツガツしてんな」

「超肉食系やな」

雅志と憲吾が目を白黒させながら呟いた。まあ気持ちは判る。

「お坊さんは禁欲生活が長いですから、性愛に溺れてしまったら歯止めが効かなくなるかも知れませんが、絶倫とは限りませんよ。良くも悪くも同じ人間です」

「ふーん」百合は悪戯っぽい表情になった。「じゃあ、空海さんは?」

「私はどうでしょうね?」

空海は笑って肩をすくめた。

「あ、はぐらかした。もしかしてドーテー?」

「ご想像にお任せします」

「なーんだ、面白くないの。やっぱり不邪婬戒があるから?」

「よくご存知で。まあ男は、女性の誘惑に弱いので、修行の道場は女人禁制の所が多いんですよ」

「そうなんだ」百合は樽についた両肘をすぼめた。胸の谷間が強調される。「空海さんも、ユーワクに弱いの?」

「そうですね。ただ、性愛の感情は本能に根ざしたとても強いものなので、簡単には消す事が出来ない。ならばこれを菩薩行を行う源動力に変換しよう、というのが密教の考え方です。これを煩悩即菩提と表現します」

「あれ、もしかして、私遠回しに振られた?」

「私が我慢しているだけです」

「私、そんなに魅力無かった?」

「いいえ、十分魅力的ですよ。特にそのクレオパトララインの眼で見つめられたら、男なんてイチコロですよ」

空海は微笑みながら言った。

「キャットアイね。クレオパトララインは猫ちゃんの模様の事だから」

百合も微笑んで答えた。

「えーと、お二人さん。駆け引きはもう終わったかな?」

俺は二人の間に割って入った。

「ああ、無魔終了や」

空海はそう言って、スコッチをロックで頼んだ。

「やん、ヒロシ、まだ邪魔しないで」

百合が体をくねらせながら俺を見た。

「お前なあ、雅志や憲吾もいるんやぞ」

「私別におっさんチェリーズに興味ないもん」

「ヒドイ!」

おっさん二人はいたく傷付いたようだ。

「こんなキレイな顔してんのに、口めっちゃ悪いな」

憲吾が首を振りながら言った。

「キレイやからって聖女な訳や無いってよお判ったやろ?」

俺はそう言って、ギネスを呑み干した。

 

 

 

20200324



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家呑み

空海は、現代日本で何をする?

 

 

家呑み

 

 

平成二十六年(2014)の五月二十五日。日曜日。

朝八時。俺の部屋に、何故か百合がいる。

「何や百合、こんな朝っぱらから。〇京に帰らんでええんか?」

俺は、バイトに行く準備をしながら尋ねた。百合は、ノースリーブのニットにミニのラップスカートと、かなり気合いを入れた出で立ちである。

「今日は空海さんとデートなの」

百合が明るい声で言った。

「そうなんか、空海」

「ああ。靴買いに行こう思てたんやけど、百合さんが一緒に行ってくれるて」

「いやあん、『百合さん』なんて他人行儀。百合って呼んで」

「お前、どこ目指してんねん」

百合の様子に、俺は溜め息をついた。

「いいじゃん別に。ヒロシには関係ないし」

百合は一人で浮かれている。こいつは誰かを気に入るといつもこうなのだ。まあ、まだ健全な方か。

「じゃあ、百合の事頼んだで、空海」

俺はワンショルダーバッグを肩に掛けながら言った。

「大丈夫や。色々と案内して貰うわ」

空海は穏やかな顔で言った。

 

「SE〇YU」バイトを終え、俺が帰って来た所へ、丁度二人も帰って来た。手に大量の荷物を持っている。

「おお、お帰り、お二人さん」俺は鍵を開けながら声を掛けた。「買い物は首尾良く行ったんか?」

「うん。めっちゃ楽しかった!」

百合は相変わらずテンションが高い。

「お陰でええ靴も買えたで」

空海も笑顔で言った。

「で、その荷物は何なんや?」

「あのね、どっか呑みに行こうかって話ししてたら、空海さんがおつまみ作ってくれるって」

「家呑みなら安く済むし、何より気ィ抜いてゆっくり出来るやろ」

空海は荷物を台所でさばきながら言った。

「ああ、あのピザみたいのやな」

その材料を見ながら、俺は言った。

「何ヒロシ、空海さんの手料理食べた事あるの?」

「そりゃまあ、自炊が基本やからな。俺三空海七くらいか」

「何よ、ほとんど空海さんにして貰ってんじゃん」

「俺の方がバイト多いんやからしょうがないやろ」

「ヒロシ受けなんでしょ?ちゃんとお嫁さんしないと」

「ちょっと待て。どこをどう理解したらそうなんねん?」

「ところでヒロシ」百合はばっさりと話題を変えた。「何か着替え貸して。このカッコじゃあ、空海さんのお手伝いが出来ないし」

「ああ。俺のスウェットかジャージ、テキトーに使(つこ)たらええわ」

「ん、判った」

百合は和室の方へ行くと、押し入れの衣装ケースを物色して、スウェットの上着とジャージのハーフパンツに着替えた。華奢な百合にはぶかぶかである。

「空海さん、何か手伝う事ある?」

百合はいそいそと台所の空海に近寄って声を掛けた。

「ありがとう百合。丁度手が欲しかったんですよ」

空海は優しく言いつつ、百合に細々と指示をして、何やら料理を作って行く。

「なあ空海、グ〇ラベ足りるか?」

手持ち無沙汰な俺は聞いてみた。

「ワインとスパークリングあるから、大丈夫やと思うで」

空海の返事で、俺はすぐに仕事を失った。

 

ローストビーフが出来るまでの待ち時間で百合がシャワーを浴びている間に、空海と俺とで「家呑み」の用意をした。まあ俺は食器を出すくらいしかしていないが。

百合がすっぴんになって出て来た所で用意が整ったので、とりあえずグ〇ラベで家呑みがスタートした。

「そう言えば空海さん」二杯目からはスパークリングになった百合が尋ねた。「バイトって言ってたけど、空海さんは何のバイトしてるの?」

「私はお寺にお手伝いに行っているんですよ。須〇寺という所です」

「須〇寺って、真言宗の十八本山のひとつよね?」

「そうですね」

「あるんだバイトって」

「一応『助法』と表現するんですけどね」

「ジョホー?」

「法務、或いは法要を助けるって意味ですかね」

「そう言えば、駒大でも七月頃には、在家のお坊さんが棚経の手伝いに行くって話してる」

「まあそんなようなものです」

「私、ふと思ったんだけど」頬を紅く染めた百合が、空海に向かって身を乗り出した。「お坊さんって、本来『無所有』、つまり自分の財産は持たないんだよね?バイトしてお金貰ってもいいの?」

「確かに、僧侶は所有する事によって生まれる欲、つまり執着(しゅうじゃく)を無くす為に、なるべく個人の財産は持たないように、と戒律で定められています」

「三衣一鉢(さんねいっぱち)って言うんだっけ?」

「はい。僧侶の持つ最小の道具です。安陀会(あんだえ)鬱多羅僧(うったらそう)僧伽梨(そうぎゃり)の下上大三衣と托鉢ですね」

「よお知っとんなそんな事」

何も知らない俺は、素直に感心した。

「そりゃそうよ、あたし仏教学科なんだから、馬鹿にしないでよ」百合は酔いが回って来たのか、口調がぞんざいである。「本当は、畑仕事とか、そういうお仕事もしないんだよね?ご飯も作らないから托鉢で貰って来るみたいな」

「ええ。出家はひたすら覚りを得る為の修行に専念する、という事ですね。ただ、今は背に腹は替えられないですから、自分の食い扶持ぐらいは稼がないと」

「でもさーあ、それってどおなの?お坊さんがそこまでしないと覚れないんだったら、あたし達パンピーなんて一生掛かっても覚れる訳ないんじゃない?」

「確かに、覚りを得る、所謂『成仏』は難しい、と言われてますね。『三劫成仏』という言葉もあるくらいです」

「サンゴージョーブツ?」

俺には判らない。

「確か、凄い長い時間を掛けないと成仏出来ないって事だよね?」

百合が、俺を横目で見ながら言った。ちょっとドヤ顔だ。

「そうですね。大乗仏典である『二万五千頌般若経』を解説した、龍樹の『大智度論』という注釈書に書かれているんですが、一辺四百里の岩を百年に一度布で撫で、岩がすり減って完全になくなっても劫に満たない、そういう長い時間が一刧とされています。磐石(ばんじゃく)劫などと言いますね」

「それを三回クリアしいひんかったら成仏出来へんって事か」

俺の呟きに、空海は頷いて言った。

「まあそれほどまでに、成仏は難しい。だから修行は大変だ、と言う訳なんですが、それでは確かに百合の言う通り、いつまで経っても覚りを開く、成仏する事なんて出来ないですね」

「だよね」

「だからこそ、修行者は在家の人々の分も修行に打ち込み、その智恵や功徳を在家の人々に分け与えようとするんですよ。例えば修行者の食事に関しては、あまり重視されていませんでした。命を繋げれば良い、くらいで。煩悩の一つという扱いだったのです」

「でも、だからって托鉢で食べ物を手に入れるって、在家の人が食べ物をくれる事が前提だよね。修行者だからって在家のお世話が当たり前なんて考え方、何だかズルい気がする」

「托鉢がズルいって、結構大胆な発言やな」

俺は思わず笑ってしまった。

「唐の人達も、同じような事を感じたんやと思いますよ」

空海も笑って言った。

「インドなら『乞食(こつじき)』は修行だけど、日本じゃあ『乞食(こじき)』って言うとちょっと意味が違うもんね」

百合の大胆発言は続く。

「ええ。天竺では修行者、あるいは聖者は特別な存在ですが、唐でも日本でも『働かざる者食うべからず』という考え方の方が一般的ですからね。そこで唐の僧侶達は、『食事も修行の一環』と考えて、作物を栽培したり、自ら料理をするようになったのでしょう。特に唐に入って来たのは大乗仏教ですから、慈悲の思想と合わさって、『不殺生即ち肉食の否定』となっていったようです」

「それで精進料理って訳ね」

「でも、自給自足にも限界はあります。しかし僧侶が働いてお金を嫁ぐとなると、やはりそこは戒律に引っ掛かる訳で、在家の人々と同じような仕事は出来ない。そこで、我々僧侶が出来る事は…」

「社会事業」

百合が人差指を立てた。

「ご名察」空海は頷いた。「特に日本の例を挙げると、僧侶になるには国に認められなくてはいけない。国に認められるという事は、それなりにお金もいる。僧侶になれるのは、ある意味特権階級の者だけだったんですよ。つまりは知識人だった訳で、その知識を生かした仕事が、社会事業、即ち衆生救済活動なんです。そこで寄進や布施を戴く。それなら、大乗仏教の教えにも叶うでしょう」

「そうかー」百合が赤ら顔で言った。目がトロンとして来ている。「だからー、満濃池とかー、温泉とかーなんだー」

「そうです。それが仏教の教えの実践なんです。その為には縦横無尽に動き回らなければいけない。だから丈夫な靴が必要なんです」

「それで靴買ったって言うのー?何かー出来過ぎな感じー」

百合はかなり眠たそうだ。見ると、いつの間にかスパークリングは空になり、ワインも半分ほどなくなっている。どうやら一人でグイグイいったらしい。

「お前、呑み過ぎちゃうか?」

俺が半笑いで言うと、百合は俺をジト目で睨んだ。目の焦点が合っていない。

「そんらころらいもん。ねーくーかいしゃん。もっろのもーよー」

既に呂律が回っていない。空海に体を寄せようとして、バランスを崩した。

「おっと」

空海が素早く百合の手からグラスを取り上げた。百合はそのまま空海の膝に倒れ込み、瞬時に寝息を立て始めた。

「悪いな空海。ちょっと気ィ抜き過ぎやな、こいつ」

俺は笑いながら言った。

「大丈夫や。でも、後で布団に入れてやらなな」

空海も笑いながら言った。

「寝顔見たら、まだ子供なんやけどなぁ」

「今日はだいぶはしゃいでたからなぁ」

「それにしても」俺は百合の寝顔を見ながら言った。「成仏には、そんなにも遠いんか」

「いいや、"仏法遙かにあらず 心中にして即ち近し"や。本当はすぐにでも解るところにあるのが、見えてへんだけなんや」

「"近すぎて見えへん"か。そういうもんかもな」

俺は、気持ち良さそうに眠っている百合の顔を見た。普段は結構とんがって大人ぶってはいるが、こうやって見ると、普通のハタチ過ぎの女の子である。何の夢を見ているのか、楽しそうな寝顔だ。

「この子の中にも仏がおるんやな」

俺が呟くと、空海は笑って言った。

「お前の中にもおるんやで、弘史」

 

 

 

20200412



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三密

空海は、現代日本で何をする?

 

 

三密

 

 

※2019年12月、中華人民共和国湖北省武漢市で「原因不明のウイルス性肺炎」として最初の症例が確認されて以降、武漢市内から中国大陸に感染が拡がり、中国以外の国家と地域に拡大していった。2020年1月31日に世界保健機関(WHO)は「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態 (PHEIC)」を宣言し、2月28日にはこの疾患が世界規模で流行する危険性について最高レベルの「非常に高い」と評価し、3月11日、テドロス・アダノムWHO事務局長はパンデミック相当との認識を表明した。

(Wikipediaより抜粋)

 

 

 

令和二年(2020)の四月中ば頃。

新型コロナウイルス感染の猛威は全世界を席巻して、日本でも四月七日に〇玉県、千〇県、〇京都、神〇川県、〇阪府、福〇県、そして俺達の住む兵〇県にも緊急事態宣言が発令された。

人との接触を八割減らす、いわゆる『密閉、密集、密接の3つの密を防ぐ』事が必要だ、として、色々な行事・イベントが中止され、『SE〇YU』バイトも時間差出勤や出勤日数を減らす等の対策が取られた。

「それにしても、自宅待機いうのも大変やな」

俺は、鍋を振りながら言った。コロナのせいでバイトが極端に減った上に、極力外出を控えるよう言われているので、この所食っちゃ寝生活が続いている。

今日の昼は、『菊〇』の生麺を使ってラーメンを作っている。スープは『〇覇(ウ〇イパー)』を使った正油ベースの鍋振りラーメンだ。

「何言うてんねん」空海は笑った。「テレビやDVD、本やネット、デリバリー、何でも手元に揃ってるんや。暇する暇も無いやないか」

「まあそうなんやけどな」俺は肩をすくめた。「何かこう、拘束されると窮屈やろ?何か不自由に感じてまうねんな」

「普段は"休みたい"言うてても、いざ休みが多いと"不安や"てなるんやな」

「仕事は収入と直結しとるからなぁ。心配になるのも判るで」

「弘史は平気そうやな?」

「俺は生まれつき呑気やからな」

「イライラせえへんのはええ事や」

空海は笑って言った。

麺を湯切りしてどんぶりに入れると、野菜をてんこ盛りにしたスープを注ぎ、上に温玉を乗せて、荒挽きコショウをガリガリかけて、野菜ラーメンの完成である。

ラーメンを食べながらテレビをつけると、どのチャンネルでも連日のようにコロナウイルスの感染者の数を伝え、危機感を煽るような報道が操り返されている。

「密閉、密集、密接の三密があかん、て言われると、やっぱり外出しにくいな」

俺がそう言うと、空海は片方の眉を上げて言った。

「"三密があかん"て言い回しがちょっと気になるな」

「何がや?」

「真言宗では『三密』を大事にしてるんや」

「どういう事や?」

「その昔、お釈迦さんは『生きる事は苦しみや』と喝破したんや」

「そっから始まるんや」

「その苦しみはどこから来るのか?それは煩悩からで、その煩悩を引き出すのが(とん)(じん)()の三毒。この三毒は俺達の行動や言葉、想いで導かれ、増殖して行く。この行動、言葉、想いを(しん)()()三業(さんごう)と表現した訳や」

「三業か。業って、『業が深い』とか言うあの『業』か?」

「そうや。業というのは行いと、その行いに対する結果を指すんや。因果応報て言うやろ。その因果というのが『業』という事や」

「ええ事したらええ報いが、悪い事したら悪い報いがあるって奴やな」

「そうや。元々『業』という言葉に善悪の意味は含まれてはいないんや。ただ、人間はどうしても三毒に影響を受けてしまう。やから、三業というのは悪因悪果の代名詞みたいになってしまったんや」

「そうやなあ。自分の欲望を満たそう思たら、ええ事ばかりやってられへんもんなあ」

「三業で罪を作るから、人間はなかなか成仏出来ひん、というのが顕教(けんぎょう)、まあ一般的な仏教の解釈やな」

「いつぞや『三却成仏』とか言うてたな」

「そうや」空海は満足そうに笑った。「何度も輪廻転生して修行を積まなあかん、という訳や。しかし」

「しかし?」

「密教、我が真言宗は違う。この身このまま仏になれる、即身成仏という考え方なんや」

「即身成仏てあれか、東北の方の、ミイラになる奴」

「出〇三山のは即身仏や。あれは別モンや。即身成仏は、生きてる間に仏になる事やからな」

「生きてる間に仏になれるんか?」

「なれる。その為の修行が、身口意を清浄に保つ事なんや。身口意を清浄に保つとは、自分が仏である事を意識する事や」

「俺ら、仏にはほど遠いで」

「遠いと思い込んでるだけなんや。俺らの中には『仏性』があって、本来は仏と同じ存在なんや。で、自分が仏である事を意識しながら身口意を働かせれば、"三業"は"三密"になる訳や」

「でも、身口意って、普段の生活でフツーにしてたら、そんな仏教的な事なんか考えてられへんで」

「そらそうや。そんな事してたら窮屈で仕事にならへんしな」

「どしたらええん?」

「常に三密を意識するのは難しいやろうけどな、例えば一日五分だけとかやったらどうや?」

「それなら出来るかもな」

「朝起きた時とか、夜寝る前とか、そんな一時で出来る三密修行があるで」

「どんなんや?」

「『阿息観』や」

「あそくかん?」

「まず座る。半跏座でも、正座でも椅子でも良い。背筋を伸ばして、合掌、礼拝」

「合掌、礼拝もせなあかんか?」

「日常から区別をつける為に、やっといた方がええな。意識の切り替えや。で、次にへその前で法界定印を結ぶ」

「ほーかいじょーいん?」

「大日如来を表す印契やな。左掌の上に右掌を乗せて、親指と掌で軽く円形を作る感じやな」

「ほう。それで?」

「で、こっから『阿息観』や。まず深呼吸。口から息を吐き切る。腹を凹まして、もうあかんって所まで吐く」

「深呼吸って吸う所から始まるんちゃうんや」

「とりあえず体内の汚れや淀みを出す事から始めるんや。吐き切ったら、鼻から吸う。吐き切ってるから、自然に空気が入ってくる筈や」

「なるほど」

「これを三回やって、息を吸ったら、そこから『阿息観』を始める。息を吐く時に、微音で『ア』と発しながら吐くねん」

「アー、て声を出すにも、何か意味があるんか?」

「阿字は、大日如来を表す梵字や。自分が、大日如来のように心静かに居られるように念ずるんやけど、判り難かったら、何も考えんでもええで」

「無念無想とかいう奴か?」

「そんな難しく考えんでもええで。フツーにしてたらええわ」

「そんなんで大丈夫なんか?」

「大丈夫や。最初はめっちゃ雑念が湧くけど、だんだんと勝手に落ち着いて来よるわ」

「そんなもんか」

「息が続くまで吐く。自然に吸う。これを十回操り返して、終わったら、合掌して三回深呼吸して、礼拝して終了。五分では終わらんかもやけど」

「そんな簡単に出来るもんか?」

「ああ。やる事はそんなに多くないしな。そしてこの、手に印契、口に阿字、心に平安、これこそが身口意の三密の体現なんや。で、これを続ける事によって、普段から無意識に三密を働かせられるようになる、という訳や」

空海がそう言った時、突然部屋の扉が開いた。

「こんばんはー、お邪魔するでー」

入って来たのは、二つ隣のワタルくんだった。今年で大学四回生なのだが、コロナ禍で大学の新学期が始まらないので、今だ自宅待機中である。

「ワタルくん、ノックが先ちゃうか?」

俺は笑いながら言った。

「『ノックは無用』て昔の人も言ってるやん」

ワタルくんも笑いながら言う。

「横山ノックかいな」

そう突っ込んだ俺をスルーして、ワタルくんは空海の前までやって来た。

「ちょっと写経させてくれる?」

ワタルくんの口から出たのは、意外な言葉だった。

「勿論ええけど、どしたん急に」

空海が穏やかな表情で尋ねた。

「いやね、この所家におるしかなくて、する事なかったんで、You〇ube観てたんや。そしたら、須〇寺の副住職さんの動画があったんや」

「ああ、小〇さんな」

俺は頷いて言った。小〇副住職が、You〇ubeで法話を配信している、というのは、空海から聞いていた。

「その動画の中で、『自宅写経のすすめ』いうのがあってな。『コロナ自粛で家に居らなあかんのなら、家で出来る事をしたらええ。折角の機会やから、般若心経を写経して心落ち着けて、コロナ終息のお祈りしてくれ』て。須〇寺のHPから手本をダウンロードして、写経したらいいて言うてたから、一ペンやってみよかなぁて」

見ると、手にはコピー用紙二枚と筆ペンを持っていた。コピー用紙には般若心経が薄字で印刷されている。

「ええやないか。でも、何でウチに来たんや?自分トコでやった方が落ち着くんちゃうか?」

空海がそう言うと、ワタルくんは大きくかぶりを振った。

「俺が写経するって言ったら、ウチのオカン、何て言ったと思う?『熱あるんちゃうか?』やて。姉ちゃんも『ようやく今までの悪行を悔い改める気持ちになったか』とか言うねん。とてもやないけど落ち着いてなんていられへんて」

「踏んだり蹴ったりやな」

俺は思わず笑ってしまった。ワタルくん家の女連中は舌鋒鋭い事で有名である。

「写経も、三密の修行にもって来いやで」

空海は俺を見ながら言った。

「で、動画で言うてたんやけど」ワタルくんは言葉を続けた。「お大師さんが書いた『般若心経秘鍵』ていう本があって、その本に、ある年に疫病が流行った時に、お大師さんが嵯峨天皇に疫病終息祈願の写経を勧めたんやて。で、天皇が一巻写経したら、すぐに疫病が治まったんやって。こんな折やし、俺もちょっとでも何か出来たらな思て」

「そうか。ええ心掛けやないか。ここ使(つこ)てええから、がんばりや」

空海はそう言いつつ立ち上がると、俺に近付いた。ワタルくんは、テーブルを占拠して写経を始めた。

「なあ弘史、実はな」

空海は小声で話しかけて来た。

「何や?」

「俺な、この間須〇寺の副住職から、さっきのワタルくんの言ってた写経の話、聞いたんやけど」

「ああ」

「俺、確かに『般若心経秘鍵』は書いたけど、疫病云々のくだりは書いてないんやけどな」

空海はそう言って、小さく肩をすくめた。

 

 

 

20200518



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女性(にょしょう) 前編

空海は、現代日本で何をする?

 

 

女性(にょしょう) 前編

 

 

平成二十六年(2014)五月の終わり。

巷は既に真夏のような暑さにうんざりの態だ。今年の夏も猛暑かと思うと、今から先が思いやられる。

五月最後の金曜日、明日は『SE〇YU』の棚卸しという事で、バイト係の小林さんがバイト達を集めて食事に行こう、と言い出した。この棚卸しが結構大変な作業なので、皆で頑張って乗り切ろうという、小林さんの言葉を借りれば『決起集会』である。

アキちゃんや俺を含めて十名くらいの大所帯の中に、何故か空海も入っていた。小林さんが、どうしても会いたい、と言って呼び出したのだ。

力を付けよう、との小林さんの提案で、兵〇区東〇池にある焼肉『〇車』に押し掛けた。ただ単に小林さんが肉を食べたいだけだと思うのだが。

店主のおばちゃんがやたらと焼き方に口を突っ込んで来て少々面倒臭いのだが、肉は間違いなく旨い。

しっかり飲み食いして、若い子達は満足して家路についた。

「ほななー」

帰って行くバイト達を見送って振り向いた小林さんの前には、アキちゃんと空海と俺が残っていた。特に示し合わせた訳ではないのだが、このメンバーが残った。

「なんや、やっぱり自分らも呑み足りへんのやろ?」

そう言って笑う小林さんに、俺達は大きく頷いた。

「やろな?それに空海くん、今日折角来てくれたのに、あんまり話してへんもんな」

小林さんは笑いながら空海の背中を軽く叩いた。

「そうですね。もっとお近付きになれれば、と思います」

空海も笑って答えた。

小林さんは国道に出ると、タクシーを捕まえて〇宮へ向かった。

タクシーを〇野坂の入口あたり、バッ〇スビル前に停めると、山〇幹線を南に渡って露地に入り込んだ。〇宮有数の"夜の繁華街"である「〇門街」のメインストリートから一本東で、マンションや商業ビルの谷間だが、やはり数多くの呑み屋や食事処がある。

小林さんはその薄暗い露地を迷いなく歩き、更に細い露地に入った。五階建てのマンションビルの一階に、ライトアップが無ければ見過ごしてしまいそうな扉があり、小林さんはその前で立ち止まった。

「ここや」

小林さんは何だかドヤ顔である。

「どこです?」

「ここが俺の最近のお気に入りのワインバー『カ〇ン・セギュ〇ル』や」

「ワインバーですか?」

「何やその意外そうな口振りは?」

「いや、表からやと全然判らヘんやないですか」

俺は笑いながら言った。屋号らしい小さな看板以外、ここがワインバーだと示す物はない。

「小林さん、別に『小林さんがワインバーなんて、柄やないなあ』なんて思てる訳ちゃうよ」

アキちゃんも笑って言った。

「何でもええわ。入るで」

小林さんは堂々とした態度で、扉を引き開けた。カランとドアベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」

バーテンダーの落ち着いた声に迎えられた。ワインバーだからソムリエと言った方が良いのか?

「こんばんは、マスター。また来たで」

小林さんは気さくに声を掛けつつ、さっさとカウンターに着いた。

マスターに促されて、俺達も席に着いた。小林さんが一番奥で、空海、アキちゃん、俺が並んだ。カウンター奥の二席が空いている。

一人づつに丁寧におしぼりを手渡しながら、マスターが言った。

「"カウンターの君"は、まだですよ」

「ほうか」

小林さんは気のない振りをした。

「えっ?なになに?"カウンターの君"って?小林さんのマドンナ?」

アキちゃんが身を乗り出して小林さんの顔を覗き込んだ。

「マドンナって、アキちゃん古い言い回し知ったあるなあ」

俺は思わず笑ってしまったが、アキちゃんのみならず小林さんにまで睨まれたので、笑いを引っ込めた。

「マスター、余計な事言わんでええねん。それより、俺の職場の後輩達に、何かええワイン選んだって」

小林さんがそう言うと、マスターは彼の背後にあるガラス扉を開けた。カウンター背面はワインセラーになっていたが、扉のある部分は明らかに他より高級そうな物が入れてあるようだ。

マスターはどこからともなく取り出したソムリエナイフで鮮やかにコルクを抜くと、小林さんの前に置いた。小林さんはそのコルクを取り上げ、匂いを嗅いだ。

「ん、ええ感じや」

「判るんですか?」

「雰囲気やないかい」

俺の無垢な質問に、小林さんは眉をしかめながら答えた。

「こちらは本日のお薦め、ボルドー、メドック格付け第3級のシャトー・カロン・セギュールです。ニコラ=アレクサンドル・ド・セギュール侯爵が『われラフィットをつくりしが、わが心カロンにあり』と言われた事で有名な逸品です。『サン・テステフにおけるシャトー・マルゴー』と称される、 しなやかで優美な中に芯の強さを秘めたワインで、うちの店の名前の由来でもあります」

マスターの立て板に水の説明を聞きながら、ワインボトルを見る。ハートがあしらわれたラベルである。

「ラベル、何かカワイイ」

アキちゃんが微笑みながら言った。

四人でワイングラスをチンと当てて、注がれた紅色の液体を呑んだ。良く判らないが、何だが美味しい気がする。

「結構熟成されてんねんな。重みがあって美味いわ」

空海が溜め息をつきながら言った。

その時、ドアベルがカランと鳴った。

ふと小林さんを見ると、グラスを掲げたまま凍りついている。

そんな小林さんの二つ隣り、カウンターの一番奥の席に、一人の女性が座った。

ふんわりした襟と袖のついたオープンショルダーの黒いブラウスで、同じく黒いレースの短いスカートはキャバ嬢っぽい出て立ちなのだが、そう見えないのは彼女の美しい顔立ちとその落ち着いた雰囲気からか。何よりもそのプラチナ色の髪の美しさが黒一色のファッションに映えていた。

マスターの目配せを見るまでもなく、"カウンターの君"である事はひと目で判った。小林さんは誰にでもフランクに付き合う事が出来るのだが、気がある女性には意識してしまい、挙動不審になってしまうからだ。

そんな小林さんに、彼女は微笑みかけた。

「今晩は、小林さん。今日もお会い出来て嬉しいわ」

二十歳(はたち)ぐらいの見た目より、ずっと大人びた声の調子で彼女は言った。

「ど、どうも、アヤさん。き、今日はいい夜ですね」

小林さんはしどろもどろで何とか言葉を吐き出した。名前はアヤさんというらしい。

「今日はお連れがいらっしゃるのね」

「し、しょ、職場のバイトの子達でね」

小林さんにそう言われて、アキちゃんがちょこんと頭を下げた。俺も軽く頭を下げた。ところが空海に動きがない。良く見ると、今度は空海が固まっていた。後ろから覗き込んでみると、驚きの表情で止まっている。空海が感情を露にするのは珍しい。

アヤさんは、そんな空海の様子を首を傾げて見ていたが、やがて静かに口を開いた。

「もしかして、無空(むくう)さん?」

そのアヤさんの言葉に、空海は肩をビクリと震わせた。

「ま、まさか…」

空海がかすれた声で言った。アキちゃんと俺は思わず顔を見合わせた。空海がこんなにも動揺する所など、見た事がなかったからだ。

「空海、アヤさんと知り合いなんか?」

俺の問いに、空海は小さく頷いた。

「えー、空海さん、いつの間にこんな美人さんと?」

アキちゃんが空海の背中を指で突つきながら言うのヘ、空海は唾をゴクリと飲み込んで答えた。

「随分昔の事や」

"昔"というのは、若い頃という事なのか?しかし、空海の若い頃というのは…。

「そうや。今は『空海さん』やったね」アヤさんはそう言って艶然と微笑んだ。「あの頃は、十八歳やったかしら?」

「十九歳です。あの時はお世話になりました」

空海は照れたように笑って頭を下げた。ようやく落ち着いて来たようである。

「こんな所で再会出来るやなんて、不思議な廻り合わせやね」

「また会えるなんて、思てもみなかったですよ、綾さん」

アヤさんと空海に狭まれた小林さんは、しばらく黙ったまま二人のやり取りを聞いていたが、意を決して口を開いた。

「ごめんな空海くん、自分はアヤさんとはどないな知り合いなんや?」

「そうですね」空海は目を伏せて言葉を探した。「俺に、女性とは何なのかを教えてくれた恩人ってところですか」

「恩人だなんて大袈裟やね」アヤさんはくすくすと笑った。「一ヶ月半くらい?一緒に暮らしただけやない」

「一緒にって、同棲って事?」

小林さんの声が裏返っている。

「うーん、同棲ってのともちょっと違う感じなんやけど」

アヤさんは小首をかしげた。

「でも俺、身も心も女性を愛したのって、あの時が最初で最後やと思います」

空海はそんな事を真顔で言う。

「まあ、光栄やね」

「み、身も心もって」

小林さんの狼狽振りは、端で見ていて気の毒な程だ。

「空海さん、んーん、あの頃は私度僧になったばかりで、無空さんて名乗ってはったんやけど、何か凄い思い詰めた感じやったから、家に泊めてあげて、お話を聞いてあげただけなんやけどね」

アヤさんは懐かしむような口調で言った。

「俺は仏教を志して都を出た」空海も追憶の表情だ。「ただ、俺は経典を読んだ知識しかなかったし、仏の教えが何を説こうとしているのか、さっぱり判らんまま旅に出たもんやから、毎日考えても考えても、結局判らんままやったんや。特に煩悩には手を焼いてな」

「煩悩言うたらやっぱり異性の事か?」

俺の問いは、アキちゃんやアヤさんに忖度(そんたく)した歯切れの悪い言葉になった。

「そうや。俺は仏教という『清らかなモノ』に憧れつつ、性欲いう『汚れたモノ』の横溢に困り尽てていたんや」

空海はズバリと言った。

「そうよね、十九歳いうたらお盛んなお年頃やもんね」

アキちゃんの言葉に、俺は目が覚める思いがした。皆大人なんだよなあ。

「俺は平城の都を出て、山岳修行者達と共に吉野から紀伊の山々を歩きながら、仏教の何たるかを思索したんや。しかし、釈迦のように魔羅(マーラー)、つまり煩悩を押さえる事は出来へんかった。そして、悶々とそんな事を考えながら大坂から淡路を経て、阿波に入ったんや」

空海はそこまで言うと、ワインを呑み干した。そのグラスにマスターがすかさずワインを注いだ。空海はそれも半分ほど呑んだ。

「住之江に来たとき、無空さん凄い恐かったんやから」アヤさんは笑いながら言った。「何日も眠らずに歩いて、食事もろくに取らずに、薄汚れて、頬がこけて、髭生やして、眼だけギラギラしてて。一緒に居た雲童(うなこ)達、みんな逃げ出したもん」

「うなこって何?」

アキちゃんが尋ねた。

「今風に言えば、海女(あま)かな?素潜りで貝とか海藻を獲ってたの」

アヤさんは律儀に答えてから、話を続けた。

「でもね、この人砂浜でバッタリ倒れて、動かんようになってん。近付いて確認してみたら、まだ息があったから、放っとけへんかって、家まで連れて帰ったんや」

「あの時は、かなり自棄(やけ)になってましたからね」

空海は肩をすくめた。

「ところで皆さん、私のこんな昔話聞いてて、お時間大丈夫?」

「全っ然大丈夫」

すかさずアキちゃんが答えた。

「アヤさんが良ければ、是非続きを聞かせて下さい」

俺も笑顔で答えた。ちらっと小林さんを見ると、空海が中心の話なので面白くなさそうな、でもアヤさんの身の上話が聞けるので満更でもなさそうな様子である。

すみません小林さん。最早"カウンターの君"なんかどうでも良い感じです。

俺は、空海の知られざる青春のひとコマに興味津々であった。

 

 

つづく

 

 

20200701



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女性(にょしょう) 後編

空海は、現代日本で何をする?

 

 

女性(にょしょう) 後編

 

 

平成二十六年(2014)五月終わりの金曜日。

夜はまだまだ終わらない。

小林さんの"カウンターの君"改め空海の昔の同棲相手のアヤさんは、ワインで唇を潤すと話を続けた。

「彼を家まで連れて帰って、とりあえずご飯をあげたの。朝に焚いておいた二合のご飯をあっという間に食べちゃったから、私隣に貰いに行ったんよ」

「煩悩の炎を消すには、断食しかない思たんやけどな、むしろ逆効果やった」

空海はそう言って肩をすくめて見せた。

「逆てどういう事?」

アキちゃんが前のめりで尋ねた。

「空腹のお陰で感覚がとんがって、余計に妄想が湧いてくんねん」空海は真顔で言った。「先ず空腹を満たす妄想が出て来んのやけど、妄想内で満足してしもて、次の段階の妄想になりよんねん」

「次の段階て?」

「食欲の次は性欲やな。更にその上は独占欲、あるいは独善欲とでも言うか、自分が世界の中心であるかのような錯覚に陥ってまうんや」

「そうなるとどんな感じなん?」

アキちゃんの問いに、空海は明解に答えた。

「自分が悟ったような気分になってまうんや。実際には真逆の状態なんやけどな」

「無空さんは、その状態が嫌や言うてはりましたな」

アヤさんは微笑みながら言った。

「綾さんに助けられて、腹が満たされて、俺は何か目覚めたような気分になったんや。ただ、それが傲慢な思い込みや、という事も判ってたんや。そして、その感情がどこから来るのかを考えたら、それは『愛欲』からや、と思い至ったんや」

空海はそう言って、グラスを干した。またすぐにワインが注がれる。

「愛欲?性欲やなくて?」

アキちゃんは更に踏み込んで尋ねた。

「ああ。性欲は切っ掛けやな。欲情を起こし、そういう目で異性を見て、矢のように感情を走らせて、異性に触れ、抱(いだ)き、交わり、その異性を愛して離れ難いと思い、独占したいと願い、その情念に縛られて心が乱れる、この一連の心の働きが愛欲や、と俺は考えたんや。そして、これが金銭や権力や支配、そういった欲望に変化し、肥大して行く」

「だんだんスケールが大きなって来たな」

俺は思わず口走ってしまったが、空海はその言葉に頷いた。

「そうなんや。そうやって際限なく大きなって行くのが煩悩なんや。それなら、いっその事、この煩悩即ち性欲と正面から向かい合ってみよう、そう思ったんや」

「その時はびっくりしたで」アヤさんはあくまで穏やかに微笑みながら言う。「無空さん、ご飯食べて一息ついた思たら、凄い真面目な顔で『俺、自分の煩悩と向き合いたいから、抱かせてくれ』て頭下げるんやもん」

「どストレートやな」

俺は半笑いで突っ込んだ。

「俺も童貞やったから、必死でな。ここが勝負どころやと感じたんや」

「私も、その頃は村の男達の夜伽(よとぎ)もしてたし、まあ別にええよって」

アヤさんはあくまで淡々と話を続けている。なので、話の腰を折るような質問はしないでおこう。

「で、結局一ヶ月半ほど世話になった。その間は何だか無我夢中やった」

空海は照れ臭そうに笑った。

「無空さん若かったんやね。毎晩セックスしたもんね」

アヤさんの明け透けな物言いに、俺達はワインを噴き出しそうになった。

「それに無空さんめっちゃ強いんや。一晩で何回もした事もあったし。だって全然萎えへんのやもん。せやから私も、男性が悦ぶあらゆる方法で愛してあげたの」

何だか、男やもめには刺激が強すぎる話だ。

「俺は綾さんから、女性の全てを教えて貰った。そして、ある日忽然と気付いたんや。人は、性の情動に目を背けて成仏する事など出来へんと」

空海はそう言って、アヤさんを見つめた。

「ある夜、一際激しく抱かれて、朝目ぇ覚ました時には、もう無空さん居らへんかったんや。荷物もぜーんぶ無くなっとって。私、めっちゃ寂しかったんやから」

アヤさんはそう言ってツンと横を向いた。ただ、表情は笑っている。

「それは、本当に申し訳ないと思ってます。あの時は、あのまま綾さんと一緒にいたら、そのまま溺れてしまう思て、言ってしまえば逃げ出したんです、綾さんから。今更やけど、ごめん」

空海は頭を下げた。

「別に」

アヤさんはつれない素振りで言った。

「その後、唐から帰ってから、一度住之江に行ったんですよ。ただ、その時にはもう綾さんはそこに居なかった」

「ええ。無空さんがいなくなってから数々月後に"事件"があって、私は住之江を離れたから。それから、色んな所を点々として今まで過ごして来たの」

「ところでアヤさん、アヤさんっておいくつなの?」

ナイス、アキちゃん。俺もそれ知りたかった。

「あら、女性に年齢を訊くなんて、悪い子」アヤさんは驚いて見せた。「まあ、別にそんな事を気にする年でもないんやけどね。普段は教えないんやけど、今日は無空さん、んーん、もう空海さんって呼んだ方がええよね」

アヤさんはそこで一度間を開けた。

「空海さんがおるし、正直に言うわ。私、宝亀三年生まれやから…」

「1242歳か」

空海がポツリと言った。

『はいっ?』

俺、アキちゃん、小林さん、そしてマスターまでが声を上げた。

千二百四十二歳って、デー〇ン閣下か?

「宝亀三年は、西暦だと772年や。計算としては簡単やろ」

「いや空海、それは論点がちゃう思うで」

取り乱す俺を尻目に、アキちゃんがアヤさんに尋ねた。

「ねえアヤさん、アヤさんは奈良時代の末から生きてるって事でええんですよね?」

「そうよ」

「どうしてそないにキレイでおれはるの?」

アキちゃんのその問いに、アヤさんは目を丸くした。

「信じてくれはるの?」

「だって、空海さんやってここにおるし。で、空海さんてちょっとテンプレ気味やん。でも、アヤさんは違う感じやし。どうしてそんなキレイでご長寿なんやろなって」

「この流れから更にこんな話して、信じて貰えるか判らへんけど」アヤさんは言葉を選びながら言った。「実は私、『人魚の肉』を食ベてしもたんや」

「『人魚の肉』!?」

今度は空海も驚きの声を上げた。

「人魚って、上半身が美女で下半身が魚のあれか?」

俺は言わずもがなの事を言ってしまった。我ながら呆れるほど珍腐なステレオタイプだ。

「それはアンデルセンやろ」

まさかの小林さんから突っ込みが入った。

「『人魚の森』みたいな?」

アキちゃんも強気で攻める。

「高橋留美子の?そうね、そっちの方が近いかも」

アヤさんが穏やかに返した。読んでるのか?高橋留美子。

「どうしてそないな事になったのか、聞いてええですか」

控えめながらも興味津々といった態でアキちゃんが尋ねた。

「勿論よ。そんな大層な話やないし」アヤさんは笑顔で快諾した。「さっき言ってた"事件"の事なんやけど、空海さんが出て行ってから数ヶ月くらい後に、若狭の漁師が住之江を訪ねて来たの。私がマレビトのお接待、要するに夜伽を仰せつかったんやけど、そのマレビト漁師さんがな、旅の途中で修験者から貰った『人魚の肉』を持ってはってん。何でも『若返りの薬』やゆうて、特に男女の媾(まぐわ)いの時にひとかけら食すると、極上の快感を得られるとか」

既に突っ込み所満載なのだが。

「で、それをくれた修験者は、『爪の先くらいのほんのひとかけら、それ以上はあかんで』て言うてたらしいんやけど、マレビトはんが『多めに食べた方が凄く良くなるんちゃうか』って、私と一緒に一口分くらい食べてもうたんや。そしたらすぐに体中が熱なって、もうガマン出来へんくらい全身痛なって。マレビトはんも苦しんではったけど、急に喚き出したかと思たら体がいびつに膨れ上がって、何とも形容し難いオバケみたいに変わってしもたんや。結局そのマレビトはんは自分のお腹を爪で引き裂いて死にはった。私はめっちゃ苦しかってんけど、何とか耐えられたんや。姿も変わらんかった。でも、こんな風に髪の毛は真っ白になってもおたんや」

いやめっちゃ大層な話ですけど。

「まあ、そんな血みどろの状況やし、村におられんようになって、住之江を出て堺に行ってお給待したりして何とか暮らしてたんや。そこで、お勤めしてたお店(たな)の主人に見染められて、妾(そばめ)になったんやけど、主人が歳老いて、正妻が亡くなって、子供達が独立しても、私は少しも変わらず、二十歳くらいのままやったんよ。主人の葬儀の時に、家の者から『気味悪い』言われて、私は人魚の肉がホンマに不老長寿の薬やったと確信したんや。姿形が変わらないさかい、同じ所に長居出来ヘん思て、私はお店(たな)を出て、平安の都へ行ったんや。都はまだまだ造立途中やって、私は宮大工の職人と恋に落ちて一緒になったんやけど、その彼も貞観十二年(870)に七十歳で死んでしもた。私はやっぱり年を取れヘんで、何か哀しなって」

「好きな人と死に別れるって、哀しいですよね」

アキちゃんが寂しげな声で相槌を打つ。

「そうなんや。私はこのまま年を取らなんだら、ずっと好きな人の死を見取らなあかんのやと思たら、凄く空しゅうなって。当てもなく西国を放浪してたんやけど、寛弘一年(1004)に、たまたま立ち寄った書寫山圓教寺で、性空上人様にお話を聞いて頂いて、感銘を受けてそのまま弟子入りして、天台宗で得度したんや」

「波乱万丈やったんですね」

空海が感慨深く言った。

「そうやね、色々あったわ。一時、八百比丘尼に弟子入りした事もあったんよ」

その名前は、俺も聞いた事がある。

「彼女を若狭で見送ったんは、私やし」

また凄い事実が出て来た。

「私な、比丘尼を見送った時に決心したんや。この際、この命が続く限りこの世の中を見続けて行こうて」

「で、今に至るという事ですか」空海は大きく頷いて言った。「あなたから見て、この世の中はどうですか?」

「んー、そうやね。ええトコも悪いトコもあって、そういうのも気付かずに、人々の営みが変わりなく続けられている場所って感じかな」

アヤさんは穏やかな表情で言った。少し寂しげではある。

「『哀れなる哉、哀れなる哉、長眠(じょうめん)の子。苦しいかな、痛いかな、狂酔の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る』って所ですか」

空海はそう言って肩をすくめた。

「あら、空海さんともあろうお方が、随分と否定的やのね」アヤさんはふふと笑った。「『医王の目には途に触れて皆薬なり。解宝の人は礦石を宝と見る。知ると知らざると何誰が罪過ぞ』なんでしょ?」

「良くご存知で」

「『般若心経秘鍵』私、大好きなの。あなたの著作は、全部読ませて貰(もろ)たわ。何しろ時間だけはたっぷりあったし」

「お恥ずかしい限りです」

「何か難しい話で良く判らへんのですけど?」

アキちゃんが突っ込んだ。今夜は、アキちゃんのハートの強さに助けられっ放しである。

「要は、『みんな本当の自分の事が判ってない。でも、判ってる人もいる。やっぱ判ってたら得やで』って事やね」

アヤさんが軽く言った。

「軽すぎへん?」

アキちゃんは首をかしげた。

そこへ、ドアベルをガチャーンと鳴らしながら、一人の男が入って来た。ねずみ色のスーツの上下に蛇革のとんがった靴、白いマフラーで角刈りちょび髭と、見るからに昭和なヤクザの出で立ちである。

男は俺達を完全にシカトして、アヤさんの横の空いた席にドッカリと座った。

「ヒメ、こんなトコにおったんかいな。方々捜したで」

男は猫なで声でアヤさんに顔を寄せた。

「どしたんカズマ、今日はミドリさんとこ行っとったんちゃうの?」

アヤさんは少し拗ねたように言う。

「あいつ、今日は別の客の同伴やゆうて、とっとと居(お)れへんくなりよってん」

「まあ、寂しい事。じゃあ、私が寂しいカズマを慰めてア・ゲ・ル」

アヤさんはカズマの肩を指でツンツンしながら甘い声で囁いた。カズマはやに下がって勢い良く席を立った。

「ほなら行こか?エエとこ知っとおで」

「ホンマ?よろしゅうね」

アヤさんはカズマを追うように立ち上がったが、「ちょっと待って」とカズマに声を掛けると、小林さんに微笑みかけた。

「小林さん、今日は中座してご免やで。うちはココにいるし、また顔見せに来てな」

アヤさんはそう言いつつ、バッグから名刺を出して小林さんに手渡した。次いで空海に視線を移す。

「空海さん、会えて良かったわ。またどこかでお会いしましょ?」

「私も会えて良かったです。お体に気を付けて」

空海は笑顔で答えた。

「あと、女の子さん?」

「アキです」

「アキちゃん、『女』って私達の一番の武器なんやからね。のびのびと生きなさい」

「はい。ガンバります!」

アキちゃんの屈託ない返事に、アヤさんは微笑んだ。

最後にアヤさんは俺にウィンクをして、カズマと一緒に店を出て行った。

小林さんの手の中にある名刺には『会員制クラブ 人魚の園 チィママ 住之江 ヒメ』 とあった。

「何やろ?俺達、煙(けむ)に巻かれたんやろか?」

名刺を両手で持ったまま、小林さんが呟くように言った。

「嘘を言ってるようには見えへんかったよ」

アキちゃんが笑いながら言った。

「俺、何か全然相手にされてなかった気がすんねんけど」

俺は苦笑混じりに言った。

「いや、むしろ逆やと思うで」

空海がワインを呑み干しながら言った。

「どういう事や?」

「お前が一番ニュートラルに彼女の話を聞いていたんや。俺はともかく、小林さんみたく驚きでもなく、アキちゃんみたく前のめりでもなく、淡々とこんな突飛な話を聞けるて、貴重な存在やった思うで」

「それ、誉められてるんかけなされてるんか判らんな」

「当然誉めてんねん。お前はやっぱり良い漢やで」

空海はそう言って笑った。

「ところで小林さん。さっきの身の上話を聞いて、"カウンターの君"に対する想いは変わらずですか?」

俺は今だ呆然とした態の小林さんに尋ねてみた。

「当たり前や。何やむしろファイトが涌いて来たわ」

小林さんからは、力強い答えが返って来た。

「女は魔物やね。アヤさん美魔女やし」

何やら楽しげに、アキちゃんが言った。

 

 

 

 

20200720



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武道

空海は、現代日本で何をする?

 

 

武道

 

 

平成二十六年(2014)六月に入った。

爽やかな日が続いているが、これもいつまで保つか判らない。

空海は相変わらず毎夜ウォーキングに出て、二時間ほど掛けて、汗だくで帰って来る。まあ別に健康そうだし、本人が好きでやっているのだから、俺が何か言う事もないのだが。

ある日、俺はバイトが休みで、朝から部屋でゴロゴロしていた。貧乏暇なし、とは良く言ったもので、滅多にない暇な時間は貴重な休息期間である。

座布団を枕に床に寝転がって万〇目学の『鴨〇ホルモー』を読んでいた俺に、いつものように静かにあぐら(結跏趺坐)で座っていた空海が声を掛けて来た。

「なあ弘史、今日この後、買い物に付き合おてくれるか?」

「別にええけど。どこ行くん?」

「靴買いに行こう思て」

「靴て、ついこないだ買おたばっかちゃうん?」

「ああ、確かに百合と一緒に買いに行ったけどなぁ」

「家呑みした日やろ?あれ五月二十五日やで。まだ半月も経ってへんやん」

「せやかてなあ」空海は肩をすくめた。「もお壊れそうなんやから、しゃーないやろ」

「まあ、しゃーないわな」

そう言う事になった。

 

俺がバイトをしている「SE〇YU」が入っている、新〇田の東〇プラザには、他にも色々な専門店がある。

「お、『A〇C-MA〇T』。こんなんあったんやなあ」

空海は目を丸くして言った。

「いつも直接地下に降りて『SE〇YU』行ってるから、専門店来た事なかったやろ」

「そうやな。でも、化粧品や女性服が多いな」

「こういうトコの一階部分は、大概女性・主婦向きの店が中心やな」

「何でなん?」

「百貨店系のお店は、女性、しかも主婦がメインになるから、華やかでしかも消耗品の化粧品は、目につきやすい一階にするんやって、ネットで読んだコトあるわ」

俺はあやふやなにわか知識を披露した。

「なるほどな。家を守っている女性が買い物に来る機会が多いから、自然と女性に便利な配置になって行くんやな」

空海は何やら感心しながら頷いた。

「二階には文房具店とか本屋もあるで」

「ほんまか、全然知らんかったわ。世界は広いなあ」

「東〇プラザ一件の事で大袈裟やなあ」

俺は笑って言った。

空海はゴム底の平らな靴を何足か買った。ダン〇ップ製だ。

「なるほど、タイヤメーカーさんやな」

俺は大いに納得した。

意気揚々と店を出た空海と俺は、アキちゃんとばったり出くわした。手には小さな紙の手下げ袋を持っている。

「あ、空海さん、ヒロシくん、こんにちは。また靴買いに来たん?」

明るくそう言うアキちゃんの唇が、艶々のピンク色である。

「アキちゃんは口紅を購入ですか」空海が笑顔で言った。「その色、とても似合ってますけど、彼氏さんの好みですか?」

「ベ、別にそんな訳でもないんやけど、普段あまり化粧しいひんし、たまにはこんなんあってもええかなって」アキちゃんは首まで赤くなった。「いやや空海さん、そんな事聞かんといて。メッチャ恥ずいやん」

「恋する乙女はキレイになるんやなあ」

俺の心境としては、年頃の娘を持った父親である。

「やめてヒロシくん、オッサンのセクハラ発言」

アキちゃんは頬を染めたままツンと横を向いて、早足でアーケード側の出口へ向かった。

空海と俺の扱いの違いどうよ?

 

東〇プラザビル西側の若〇公園は、阪〇〇路大震災後に地域復興のシンボルとして整備された。『鉄〇広場』と呼ばれ、新〇田にゆかりのある横〇光輝の『鉄〇28号』の当身大(18m)のモニュメントが立っている。そこからアーケード街「大〇筋商店街」が南へ伸びている。

一足先に出たアキちゃんを追う形で広場に出た俺達の目に、彼女の背後から一人の男が歩み寄る姿が見えた。

その筋肉ダルマには見覚えがあった。空海はそれを見るなり俺に靴を押しつけて、足を早めてアキちゃんに近付いた。

男がアキちゃんのすぐ後ろまで来て、声を掛けた。

「おい、ねえちゃん、久し振りやな。ちょっと付き合ってくれや」

「あなたとはお付き合いしない、と前にも言ったでしょうタカジさん」

全く気付いていなかったアキちゃんが飛び上がるのと、空海が答えたのはほぼ同時だった。アキちゃんは慌てて空海の背中に隠れた。

空海の言葉で、俺はようやく思い出した。昨年11月の終わり頃に絡んで来た奴らの親分だ。第11話『喧嘩』を参照の事。

「何なんやお前、何でお前がおんねん。お前、この女のオトコか?」

勢い込んで噛み付いて来るタカジに対して、空海は嫌味な程に冷静だ。

「いいえ、友人ですよ」

「何でもええわ。お前には借りがあるからな、返させてもらうで」

そう言い放ってタカジは構えた。自信満々な表情である。生々しい拳ダコがその自信を裏付けているようである。

物騒な様子に気付いて、広場にいた通行人達が遠巻きに俺達を取り囲んだ。

空海は、構えもせずに立っているだけだ。

タカジは踏み込んで、左右の直突きを出した。空海は少し退く。タカジは一歩踏み出して右追い突きで空海の顔面を突いた。空海はその突きを身を低くして避けつつ踏み込み、前腕をタカジの腹に叩きつけた。

空海は、その衝激に思わず腰を折って俯いたタカジの右足を払いながら返す腕で背中を叩いた。タカジは両手をついて地面に叩きつけられるのを防がなければならなかった。

「鳳凰展翔から二郎坦山。呉氏開門八極拳の技や」

空海がちょっと得意気な感じで言った。

「いつ覚えたんやそんな技」

「最近、夜のサッカー場で練習してた人に教わったんや」

「五月の騒動の時の先生やな?」

「第四十二話の『月下の騒動』を参照してや」

「どこ見とんねん?」

空海と俺は、地面に這いつくばったタカジの頭の上で、他愛のない話をした。タカジは相当傷ついたのだろう、膝をついたままもの凄い形相で空海の足を掴みに来たが、空海はあっさりとかわした。タカジはその間にに立ち上がり、体勢を整えた。

「お前だけには負けられねえ!」

タカジは吠えながら左で空海の顔面を突いた。空海は頭を傾けてかわした。タカジは突いた手を引かず、空海のシャツを掴んだ。右でも掴んで首相撲からの膝を狙う。

次の瞬間、空海はタカジに掴まれたまま弾けるように動き、その直後にはタカジは悶絶しながらその場に踞ってしまった。息が出来ないようで、喉がヒューヒュー音を立てている。

空海は肘打ちをしたポーズのままで止まっていた。

「八極拳の両儀肘を寸勁で使ってみたんやけど、思ったより効いたみたいや」

「やり過ぎたらあかんで」

俺らが頭の上で喋っていても、タカジは今度は立ち上がれないようだった。

「タカジさん、彼女があなたの好みなのは判りましたが、彼女にも相手を選ぶ権利がありますよ」

空海がそう言うと、アキちゃんは俺の背中に隠れたままで大きく頷いた。

「残念ですが、今のあなたには一分の目もありません。何が駄目なのか、よく考えて下さい」

空海はそう言うと、タカジを残して歩き出した。俺とアキちゃんも続く。

「ねえ空海さん、あの人、また来たりしいひんよね?」

少し不安げな表情で、アキちゃんが尋ねた。

「まあ彼も、前回私に負けた事で、かなり空手の修行を積んだようですね。以前よりも眼が澄んでました。このまま武道の修行を続けていけば、今よりもっと心が洗われて行くでしょう。今度会う時には、爽やかな好青年になってるかも知れへんですよ」

空海はそんな事を平然と笑いながら言った。

「タイプやないし、もういらんねんけど」

アキちゃんはバッサリと斬り捨てた。

「そうか。この所、ずっと八極拳を習てはったんやな。それでいっつも汗だくやったんや」

俺はようやく合点がいった。

「八極拳は震脚や歩法が強くてな、すぐ靴が傷んでまうねん」

そう言った空海の表情がやけに明るい。

「どしたの空海さん、何かゴキゲンやね」

アキちゃんが首をかしげた。

「いや、この間のサッカー場の時は、思うように八極拳の技が使えへんかったんで、ちょっとこうモヤモヤしたものがあったんですよ。今日はちゃんと出来ましたから」

空海はあくまで爽やかな笑顔である。

「その発言、聞きようによってはかなり剣呑やで」

俺は半笑いで言った。

「まあこんな技、本来なら使わないに越した事はないんやけどな。イザという時に使えるように、常に磨いておかな、大事なモンを守れへんしな」

空海はそう言って、少し肉厚の掌を握り込んだ。

 

 

 

20201207




この話の「タカジ目線」のものを、エブリスタに投稿しています。


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鬼滅

この話は、投稿五十話越え記念として、最新の時事ネタを用いました(笑)。


空海は、現代日本で何をする?

 

五十話越えました記念

 

鬼滅

 

 

令和二年(2020)十二月四日(金)。

週間少年ジャンプに連載されていた『鬼滅の刃』の第二十三巻が発売された。これが最終巻である。

書店には大勢の人々が行列を作り、関連グッズの売れ行きもコロナ禍の最中にあって大きな経済効果を生んでいる。

平成二十八年(2016)二月から連載が始まって、その頃から人気はあったようだが、天邪鬼の俺は「時流に乗ったら負けだ」と勝手に思っていて、あえて手を付けずにいたのである。

ところが、最近行くようになった歯医者の歯科衛生士の女の子から、

「絶対に面白いから読んでみて」

と勧誘(キメハラ?)され、いざ読んでみようと思ったものの、今度は店頭販売売り切れ続出で、中々読む機会に恵まれなかった。

単行本十九巻『蝶の羽ばたき』が出版された令和二年二月には、ようやく本屋にも並び出した。そこでとりあえず一巻から五巻まで買って読んでみた上で、面白ければ続きを買おう、と考えたのだが、翌日には残り十九巻まで全部買い集めてしまった。

こうなるとアニメの方も気になるので、動画サイトを利用して観ようとしたが、著作権の加減で一部削除されたものしか観る事が出来ず、むしろ消化不良の状態が続いていた。

原作の連載はこの五月で完結したが、俺は単行本で読むと決めていたので、ジャンプでは読まずにいた。

その頃には、十月に原作七~八巻『無限列車編』の劇場版アニメの情報が流れて来ていた。

劇場版公開が間近となり、それを観に行くかどうかを考えている時、フジテレビの土曜プレミアムで二週に渡ってテレビアニメ版の総集編を放送する、いうので、とりあえずそれを観てから劇場版をどうするか考えよう、という事にした。

十月十日「兄妹の絆」、十月十七日「那田蜘蛛山編」を観て、その日のうちにバイトが休みの十月二十三日(金)のチケットを購入した。

空海と二人で劇場に行ったのだが、いい年のおっさん二人が号泣してしまった。

結局、十一月二十七日(金)にもう一度観に行き、一回目より号泣するハメに陥った。

そんなこんなで十二月四日である。

俺の手には『鬼滅の刃』二十三巻通常版がある。特別付録付というのもあったらしいが、あっという間に完売した、と書店のおねえさんが済まなさそうに教えてくれた。

「凄い反響やな。コロナ禍の中でもこの行列やもんな」

俺は手の中の単行本を見ながら言った。

「最終巻の発行部数を合わせると、累計で一億部を越えたてネットに書いたあったで」

空海はまだ続いている行列を見て言う。会計を終えて横を通り過ぎる人達は、ほとんどが『鬼滅の刃』を手にしている。

「劇場版もまだまだ好調みたいやし、このままなら『千と千尋の神隠し』を越えて、歴代映画興行収入一位になるかも知れんで」

俺は溜め息混じりに言った。『センチヒ』も好きな俺にとっては、それは良くもあり残念でもある。

「まあ、古い物を新しい物が凌駕してこそ、より良く進化して行くって事や」

「まあ、そうなんやけどな」俺は肩をすくめた。「それにしても、何で『鬼滅の刃』はこんなにブレイクしたんやろな?」

「何でて何で?」

「いや、噂では『鬼滅』がオモロイとは聞いとったけど、本屋にあった『おためし本』で出だしの部分を読んだ時にはな、まだ画も荒削りやし、ストーリーも今まである色んな作品でみた事ある感じで、俺は最初はあまり良さを感じられへんかったんや」

「そう言うてたなあ」

「それが蓋を開けてみたら、ものの見事にハマッてもて」

「弘史はどこに魅了されたと思てるんや?」

「そうやなあ」俺は腕を組んだ。「とにかくメッセージ性がどストレートで判りやすいし、なんか登場人物のセリフが、今の世の中で足りてない物、そうあって欲しい物、変わらずに守りたい物、そういう物で一杯なんや。そやから読んでいて心に刺さるんやな」

「そうやな。今の日本の人々に是非振り返って、再確認して欲しい事で満ちてるな。特に家族や友や組織の絆の大切さ、世の為人の為に考え動く『公』の意識の重要さが明確に謳われているのがええトコやと思うわ。その辺が『ワ〇ピース』と違(ちゃ)うトコやろな」

「空海、『ワ〇ピース』あんまり好きちゃうもんな」

「読めるのは『アラバスタ編』までやな。それ以降は登場人物達のスタンドプレーが目に余って読んでられへん」

「その辺は個人の好みやからな」

「それはそうと」空海は話を戻した。「『鬼滅』は、世界中でヒットしてるらしいな」

「ネットでそんな事書いてたわ。ジャパニメーションの一人勝ちっちゅう事か」

俺のしたり顔の言葉に、空海は笑って応えた。

「確かに弘史の言う通り、『鬼滅』は日本のアニメの一つの到達点やと思うけど、俺には別の意味もある思うんや」

「別の意味?」

「追儺って判るか?」

「ツイナ?」

「鬼やらいは?」

「よく判らん」

「要は節分の豆まきや」

「ああ、あれな。『鬼は外、福は内』とか言うて豆をまいたり、最近では恵方巻きも食べるで」

「それや」

「どれや?」

「『鬼は外、福は内』って奴や。その鬼ってのが、疫病を表してるんや」

「そうなんか?」

俺は目を丸くした。

「元々は年の瀬に疫鬼を追い払う宮中行事やったんや。その昔は、姿は見えず、大量に人を殺す疫病は、鬼の仕業と考えられていた。その鬼を払うて、平隠な一年を迎えるいうのが、追儺という行事やったんや」

「そう考えると、『鬼滅』て、もろにそんな内容やなあ」

「皆で力を合わせて、鬼を滅する為に命掛けで闘う、これは今現在のコロナウイルスに対抗して闘う俺達そのものの投影に見えるんや。きっと皆もそう感じているからこそ、この作品にハマってまうんやろな」

「何としても、勝ちたいな」

「全集中や」

俺と空海はそう言いつつ、マスクを着け直した。

ジ〇ンク堂から出て来た所で、空海が大きく息をついた。

「何や、溜め息なんかついて」

俺の言葉に、空海はもう一つ溜め息をついて言った。

「ワクチン射つって、鬼〇辻〇惨の血を飲んで鬼になるみたいな感じやなと思てな」

「成程。鬼の血を体内に入れて、鬼の力を手に入れるっちゅう事やな」

「鬼にならんと、鬼には勝てんのか?」

「だから〇治郎や〇豆子みたいに、心を持ったまま鬼の力を利用したらええんちゃうか?」

俺の何げない言葉に、空海は目を丸くした。

「そうか。そう言う事やな。仏性は変わらヘんしな」

空海は何やら一人で頷いている。

「何や空海、その反応は?」

「いや、やっぱり弘史はええ漢や」

空海はそう言って笑った。

 

 

 

 

20201213



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邂逅

久し振りの投稿です。

日付の間違いを訂正しました(令和3年7月1日)。


空海は、現代日本で何をする?

 

 

 

邂逅

 

 

今日は平成二十六年(2014)六月十四日(土)である。

俺はシフトの加減で土日が休みというキセキの展開である。では何か予定があるかというと、そういう訳でもない。

朝はゆっくりと起きて、コーヒーを一杯飲んだ。空海は相変わらず静かにあぐら(結跏趺坐)で座っている。空海も今日はバイトはないらしい。

ぼんやりとスマホを見ていた俺は、ふと思いついて立ち上がると、押し入れの上の戸袋を開けて、そこから「引越しのサ〇イ」の段ボール箱を引っ張り出した。

「なあ空海」

俺は箱を降ろしながら、座っている空海の背中に声を掛けた。空海は返事をしなかったが、こちらに意識を向けたのは判ったので、そのまま話を続けた。

「明日、空海の誕生日やな。六月十五日」

「ああ、そうか」空海が小声で言った。「太陰暦では今日は五月十七日やから、意識してへんかったわ」

「でな、カレンダー見てたら、ふと思い出したんや、空海と初めて逢うた時の事な」

「ああ、あん時なあ」空海は小さく頷いた。「あん時は往生したで。全然意味が判れへんかったしな」

「そらそうやろな」

俺は大きく頷いた。自分が同じ立場だったら、尚更意味不明だっただろう。

俺が引っ張り出した段ボール箱には、ボロボロになった墨染の衣が入っていた。

 

※ ※ ※

 

平成二十五年(2013) 4月30日(火)、俺はひ〇どり墓園から66系統の市バスで〇宮センター前のバス停に帰って来た。『〇宮そ〇う』の前である。今日は知人の七回忌の命日だったので、墓参りに行って来たのだ。

昼過ぎで、部屋に帰っても何も食べる物がなかったので、いつもならバス停から道路を渡って南西寄りの、地下鉄海岸線『花〇計前駅』へ直行する所を、今日は北へ向かって歩き出した。

地下道を通ってJR〇宮駅に出て、道路を西へ渡ると通称『パイ山公園』がある。正式名は『さん〇たアモーレ広場』というらしいが、お碗形の小山が三つあるその風景から、誰からともなく『パイ山』と呼ばれ、今に至っている。〇急〇宮駅の北側、北〇坂入り口というロケーションから、待ち合わせ場所として広く認知されている。路上ライブのミュージシャンも多い。

普段は『〇宮センター街』へ行く事が多いので、『パイ山公園』へ来るのは本当に久し振りである。

若者がたむろするその公園の石造りのベンチに、一人の坊さんが座っていた。真っ黒な衣はボロボロで、髪の毛も伸びてネギ坊主のようになっている。結構濃い目の髭の下には、やつれてはいるが綺麗な顔があった。

ベンチの上で目を閉じて、あぐらをかいて座っている乞食のような僧侶の姿に、若者達は横目に見ながら、遠巻きに通り過ぎて行く。迂闊に近寄って、何かに巻き込まれたら大変だ、とでも考えているのだろう。

いつもの俺なら、皆と同じように見ない振りをして通り過ぎていただろう。しかし、何故か俺はその坊さんから目が離せなくなっていた。

俺が思わずその坊さんに近付こうと足先を向けた時、彼が動いた。左手で腹を押さえて、小首をかしげた。その時には、俺は既に彼に向かって歩を進めていた。

首をかしげながらゆっくりと目を開いた坊さんと、俺の目が合った。坊さんは、何かを言いたげに口を開いたが、何も言わずにまた閉じて、大きく息を吐いた。

「どうも、こんにちは」俺は坊さんに声を掛けた。「大丈夫か?何か俺に出来る事あるか?」

自然とそんな言葉が出た。何か困ってる風だったからか。

坊さんはちょっと目を丸く見開いたが、すぐに笑顔になった。良く見ると、かなり衰弱しているようだが、その弱々しい笑顔には、何か人を安心させる不思議な雰囲気があった。

「ありがとう。実は、腹が減ってるんやけど、持ち合わせがないねん」

坊さんはそう言って、もう一度笑って見せた。

 

 

 

とりあえず、近くのコンビニでサンドイッチとおにぎりとカフェオレを買って来た。エビカツサンドと牛カルビおにぎりしかなかったので、とりあえず買っては来たものの、坊さんに生臭ものばかりで良かったんだろうか?と少々心配してしまった。まあ何の躊躇もなく食ベ始めたので、その点は安心したのだが、むしろコンビニサンドやコンビニおにぎりの開け方、更にはド〇ールのカフェオレの、ストローの挿し方すら知らなかった事にかなりの衝撃を受けた。

もの凄い勢いでサンドイッチとおにぎりを食べ終えて、坊さんは大きく息をついた。

「ありがとう。めっちゃ美味かった」

そう笑顔で言ってから、坊さんは少し顔をしかめて脇腹を押さえた。

「どしたん?どっか調子悪いんか?」

俺の問いに、坊さんは苦笑いの表情で答えた。

「いや、久し振りに食ベ物を口にしたさかい、胃が追っ着かんくて。しかも肉系やし」

「いつから食べてヘんかったん?」

「承和元年になってからは五殻断ちしとったし、七日前から完全に断食やった」

承和元年というのが良く判らなかったが、まあ長い事ちゃんと食べてない事は伝わった。

「そんなんやったら、ゼリーとかスムージーみたいな方が良かったかな?」

「大丈夫や。何でも食べれば血肉になる。ありがとう助かったわ。えーっと…」

「立花(たちばな)弘史(ひろし)や」

「弘史か。俺は空海」

「空海て、あの空海か?」

「"あの"って何や?」

「ほら、あの、教科書に載ってる、高野山を開いた…」

「そうか、教科書に載ってるんか俺」

空海はそう言うとニンマリと笑った。

「まあそんなハズないわな」

俺は即攻で否定した。

「何でやねん?」

空海は不服そうである。

「そらそうや。目の前でコンビニおにぎり食うてる人が、いきなり『俺平安時代から来た空海や』とか言うても、流石にスッと信用出来ひんわ」

「まあ、それもそうやなあ」空海はあっさりと引いた。「確かに、そんな途方もない事言うても、納得出来る訳ないな」

「その通りや」

「俺も、高野山におって、弟子に遺言伝えて、目え瞑って開いたら、ここに座っとったんや。状況が全く理解出来んでな、往生したで。せやから、弘史の不信感も判る」

大きく頷きながらそう言う空海の言葉には、何故か嘘が感じられなかった。少なくとも、こんなトンデモな話しを本気で超真面目にしているのは分かる。

「有難う、弘史。ホンマに助かった」空海はそう言って立ち上がった。「腹が落ち着いたら、ようやく気持ちも落ち着いて来たし、まあまだ様子が良く分からヘんけど、とりあえず行ってみる事にするわ」

「『とりあえず』って、どこ行くねん?」

「そうやな、あてがあるとすれば、やはり高野山やな」

「どうやって行く気や?」

「勿論歩いてや」

「どんだけかかる思てんねん?」

「ゆっくりでも四日目には着けると思う」

空海はしれっと言うと、ニヤリと笑った。

「ちょい待ちや」俺も思わず立ち上がった。「こんな慣れへんところで歩いて高野山行くて、無茶やで。しかも無一文やろ、途中の食べ物や泊まりにも困るやんか。それに、高野山行ったところで、門前払いされるかも知れんのやで」

「そうやなあ。いきなりこんな乞食坊主が来ても、受け入れてもらわれへんかもなあ」

「呑気やなあ。ますます心配なるわ」

俺の頭の中に、疲れ果てて片田舎の道路脇の草むらに倒れ込んで動かなくなった空海と名乗る坊さんの姿がまざまざと浮かんだ。

「まあ、何でもやってみれば何とかなるかも知れへんし、行ってみるわ高野山」

空海は軽く言うと、すっと背筋を伸ばした。

うわ、この人ホンマに歩いて高野山行く気や。

俺がそう思った時には、俺の体は既に動いていた。

俺は空海の肩に手を掛けた。痩せて骨張った、だが強くてしなやかな筋肉の肩だった。

「うち、来いひんか?」

俺の口は、俺が考えをまとめる前に声を発していた。

「弘史の家にか?」

空海は目を丸くして俺を振り返った。

「そうや。もし高野山に行くにしても、体調を整えて、今の状況に慣れてからでもええんやないか?別に歩いて行かんでも、車も電車もあるんやから」

「でも俺、お金持ってへんで」

「それも俺が何とか都合付けたるさかい、まずは俺ん家に来て、シャワーでも浴びて、すっきりしいな」

「シャワー?」

「風呂入れって事や」

「風呂か、ええなあ」空海は笑って言った。「蒸し風呂やなくて、湯に浸かる方がええねんけど」

「ユニットバスやから、湯溜めたら浸かれるで」

「ほうか、そらええなあ。なら、お言葉に甘えて少しお世話になろか」

空海はようやくそう言った。

「ほなら、早速行こか。ここは〇急の駅やから、地下鉄はもう少し海側やねん」

俺は言いながら、空海を促して歩き出した。空海は、辺りを興味深げに見回しながら、後を付いて来る。

何でこんな事になってしまったんかな?

今更ながら、俺は首をかしげた。

墓参りの帰り道で、坊さんを拾って帰る。意味不明のシチュエーションである。

「弘史、ありがとな」

後ろから、空海が声を掛けて来た。

「何や今更」

「こんな正体不明の乞食坊主に手を差し伸べてくれて」

「ホンマやなあ」俺は遠くを見ながら言った。「まあ、これも何かの縁なんやろな」

 

※ ※ ※

 

そんなこんなで、今も空海は俺の部屋にいる。

「その黒衣な、俺が都を出た時に着てたやつやねん」

空海が静かな声で言った。

「そうか。何か他の服とはちゃうんか?」

「それな、普通の褊衫より袖が少し短いんや」

「何で?」

「動きづらかったから、綾さんに詰めて貰ったんや」

「アヤさんて、阿波でしばらく同棲してた彼女やな」

「その辺の経緯は第四十九、五十『女性(にょしょう)前後編』を参照してくれ」

「誰に言うてんねん空海」

「とにかく、その黒衣は、俺が新しい世界に踏み出す時の、戦闘服みたいなモンやな」

それを聞いて、俺はふと言葉を漏らした。

「もうこれを着る機会が無ければええな」

「ありがとな、弘史。やっぱりお前はいい漢や」空海は微笑みながら言った。「でもな、男たるもの、やはり前を見て進まなあかん時もあるで」

俺は、空海の言葉に何か感じる所があった。

「人生、諸行無常や。過去はどんどん押し流されて遠くなる。しかし、前途は今から新たに書き加えて行けばええんや」

空海の言葉を、俺は返事も忘れて聞いていた。

「想い出は美しいもんや。それを糧に、新しい道を見つけようやないか」

空海はそう言って明るい笑顔を見せた。

 

 

 

20210624

20210701訂正

 

 

※承和元年 西歴834年



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免許

空海は、現代日本で何をする?

 

 

 

免許

 

 

平成二十六年(2014)六月の後半戦。

「おい、弘史、これ、捨てちゃあかん奴やろ?」

ある朝、資源ゴミとして新聞を整理してくれていた空海が、俺に声を掛けて来た。

見ると、兵〇県公安委員会からの運転免許証更新のお知らせハガキだった。

「お、それ探しとってん。どこにあったん?」

「新聞の間に挟まったあったで」

「間違えて捨ててまうとこやったな。あぶなかった」

俺は空海の手からそのハガキを受け取った。

「それは何や?」

空海が首を捻った。

「これは、自動車免許の更新の案内や。俺はこんたびからようやく一般運転者講習対象者になるんや」

「何がどう違うんや?」

「一般運転者講習対象者ってのは、過去五年以内に三点までの違反が一回だけやと、次の更新は五年先になるんや」

「普通やと何年なんや」

「三年やな」

「五年になると、何かええ事あるんか?」

「更新手続きが楽になるな」

「そんだけか?」

「いや。あと更に五年、無事故無違反で過ごしたら、ゴールド免許になんねん」

「ゴールド?」

空海は首をかしげた。

「ああ、いきなり色の話になったな、悪い」

俺は言いながら、サイフから免許証を取り出した。

「これ青い帯があるやろ。フツーはこの色やねん。ちなみに、初心者は三年間緑色なんや」

「ああ、あの"若葉マーク"て奴やな」

「そうそう。で青色は普通やねんけど、五年間違反一回、もう五年間無事故無違反やったら、ここの帯が金色になんねん」

「ほう。ゴージャスやな」

「やろ?で、ゴールド免許やったら、色々とお得やねん」

「何がそんなにお得なんや?」

「先ず、更新が五年後になる」

「それなら青の五年と同じやないか?」

空海はまた首をかしげた。

「それがな、ゴールド免許は『優良運転者』て事で、手続きが楽になんねん」

「どんだけ楽になるんや?」

「〇石の免許更新センターに行かんでも、〇宮で出来んねん。メンドくさいんや〇石行くの。電車で行ってバスに乗り換えなあかんし。〇宮なら、地下鉄の駅降りてすぐやし」

「交通の便がええのは助かるな」

「あと、普通やと二時間講習を受けなあかんねん。五年でも青やと一時間受けるんやけど、ゴールドなら三十分でええねん」

「成る程、優良やから、もういちいち講習受けんでも大丈夫て訳か」

「まあそう言う事やろな」

「十年掛けて『優良運転者』になるんやもんな。そら信用ある言う事やな」

「そのお陰で、自動車保険も、ゴールドなら割引があんねん」

「保険て、起こるかも知れない事故に対して掛ける担保の事やな」

「そうや。ゴールドなら事故も起こり難いやろうし、保険を使う可能性も低いから、保険会社としても良い客て事なんやろな」

「まあ、十年間何事も無いて大変な事やろうからな」

空海はしたり顔で言った。

「結構大変やねんで、十年て」俺はあえて真面目くさった表情で言った。「兵〇県内では、年間二万件以上の交通事故が起こって、百人以上の人が死んでんねんからな」

「人の命を預かってるんやから、ホンマ大事なもんやな運転免許って」

空海は大きく頷きながら言った。それを聞いて、俺も改めて自分の責任の大きさを感じた。

「俺もな、幾つか免許を持ってるんやけど、一番責任が大きいんは、唐で恵果和尚(けいかかしょう)から貰った、密教第八世の印信(いんじん)やな」

空海は吐息混じりに言った。

「何や印信て?」

「簡単に言えば、『密教の全てを引き継いだ証』や。印信を渡す言う事は、自分の知識や経験を全て伝えた、という証明やから、渡す方も責任重大やねん」

「そうやな」俺は大きく頷いた。「その弟子がアホやったら、何やってんねん先生ってなるわな」

「そやから、そんな免許を持ってる弘史は凄いんや、と改めて尊敬するわ」

そう言って微笑む空海から、俺は顔を背けた。何だか気恥ずかしくなったのだ。

「そんな大したモンちゃうて」

俺は肩をすくめて言った。

「免許持ってる事が、凄い事なんやて」

空海はそう言って大きく頷いた。

 

 

 

20210905



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後部座席の女

この話は、私の後輩から聞いた「実話」が素になっております。


空海は、現代日本で何をする?

 

 

 

後部座席の女

 

 

平成二十六年(2014)の七月に入った。

今日は空海も俺もバイトがあり、二人とも部屋に帰って来たのは午後七時を過ぎた頃だった。晩ごはんを作る気力は無かったので、シャワーを浴びてから、『SE〇YU』で期限切れ間近でもらって来たポテトサラダと鶏の唐揚げを肴にグ〇ラベを開けた。

明日はバイトは無いので、J.C〇MオンデマンドのB級映画を観ながらスナック菓子を食べ、虎の子のサントリー角瓶でハイボールを作り、まったりと時間を過ごしている間に、いつしか時計は午前二時を回っていた。テレビ画面には、いつもの『ほ〇呪』が流れている。特に何も観る物がなく、さりとて画面に何も映っていないと何だか寂しい、という時には、この『ほ〇呪』は重宝する。観ても観なくても気にならないからだ。ただ、この中に出ている川〇尚美は好きなので、そのパートは観るようにしている。横では、空海が苦笑したり首をひねったりしながら件の『心霊動画』を観ている。

と、テーブルの上のスマホが鳴った。といってもマナーモードなので、ブーンと震えているだけだが。

画面を見ると、「伊藤雅志」の名が出ていた。雅志とは小学生の頃からの腐れ縁である。

「何やあいつ、今日はデートやったんちゃうんか」

俺は小さく呟いた。雅志からは数日前にL〇NEがあり、中古車を安値で手に入れたから、新しい彼女を連れてドライブに行く、とドヤ顔メッセージが来ていたのだ。

「別にイチャラブ報告はいらんねんけどなぁ」

俺はそう言いつつ、受信のボタンをタップした。

「どないしたん雅やん…」

言いかけた俺の耳に、雅志の焦った声が飛び込んで来た。

『ああようやく出たわ。何やってんねん遅いやないか』

雅志のイラついた声に、俺は目を丸くして空海を見た。空海は、俺が電話を取った時から険しい表情をしている。俺は受信をスピーカーに切り替えた。

「どないしたん、今日は楽しいドライブデートやったんちゃうんかい?」

「どうしたもこうしたも無いで」

雅志は声を荒げたが、すぐに小声になった。

「すまん、お前が悪い訳ちゃうんやけどな」

「お前今どこおんねん?何か後ろでヘンな女の笑い声しよるけど」

「やっぱ聞こえるんや」

雅志は絶望的な声で呟いた。

俺は何か嫌な予感がした。

「その笑い声、彼女さんのやないよな?」

「後ろの席に、何や女がおってな、ずーっと笑いよんねん」

雅志の声に被さって「イヤやこっち見てる」と女の子の声がした。こちらが彼女さんだろう。

「ごめん。そちらの状況が掴めへんのやけど、どないなっとお?」

「今日夕方からイタ飯屋で飯食うてな」

「そこからかい?」

「で、車走らせてポーアイ行って、神〇空港で飛行機見てたんや。〇宮の夜景も見えるし。で、1000万ドルの夜景見よ、て事になって、六〇山に来たんやけど、有料道路入ってしばらくしたら、後ろの席に何か人の気配がすんねん。最初は俺も彼女も気のせいやと思いよったんやけど、だんだん甲高い笑い声まで聞こえて来てん」

俺は思わず空海の顔を見た。空海はさっきより渋い表情になっている。

「しばらくは笑い声と気配だけやったんやけど、さっきルームミラー見たら、フツーに座ってる姿まで見えるようになってん。で、もう耐えられんくて車停めたんや」

雅志が話している間も、その女の笑い声は聞こえている。くぐもった「クククク…」という気味の悪い含み笑いが続いていて、明らかに常軌を逸している。

「なあ、弘史、空海そこにおるんやろ?何とかならヘんか聞いてくれるか?」

雅志の言葉に、空海は遠くの声を聞き取るような仕草をしながら俺のスマホに顔を近付けた。

「雅志、聞こえるか?少し状況を整理するで。その、後部座席の女性は、六〇山に登り始めてから出て来たんか?」

「そやねん、ポーアイでは気付かんかってん」

雅志が早口に答える。

「その、黒っぽい花柄のワンピースの女性は、彼女さん寄りに座ってるやろ。何かされた、とかはあったか?」

「別に。ずーっと気味悪く笑ってるだけや。…てか、何でワンピースって分かんねん?」

「何もされてへんのなら、まだ間に合うで」雅志の問いを無視する形で、空海は言葉を続けた。「エンジンを切って、今すぐ車を降りなさい。荷物も持って」

「降りて大丈夫なんか?」

「大丈夫や。彼女は降りて来いへんて」

空海のその言葉に、雅志と彼女さんが慌てて車を降りた。

「こっち見てるで空海」

「イヤやー」

スピーカーの向こうから、雅志達の震える声が聞こえて来る。気持ち悪い笑い声もマイクが拾っている。

「ところで雅志」空海はあくまで落ち着いた声で言った。「その車、私には真っ黒に見えてるんやけど、それ買うた時、どこかにお札が貼ってへんかったか?」

「トランクとボンネットの裏にあった。気味悪かったから剥がしてもうたんやけど。車は赤色やで」

「実際の色の話ちゃうねん。はっきりとは分からへんけど、相当訳有りの車らしいで。そのお札は、絶対に剥がしたらあかん奴やったんやわ」

「俺はどないしたらええんや?」

「安値で手に入れたとはいえ、車は高い買い物やし言い難いけど、もうその車は手放した方がエエで」

「えーっ、そんなぁ」

雅志は悲しげな声を上げた。

「もう乗ってもダメや。タクシー呼ぶなり何なりして、車は捨てて帰んなさい」

「マジで?買ったばっかやで?」

「おい雅やん、命あっての物種やぞ」俺は思わず横から言った。「空海がそこまで言うんや、多分尋常やない事になってるんやと思うで」

しばし沈黙があったが、すぐに雅志の返事が返って来た。

「分かった。言う通りするわ」

その後ろで、彼女さんがタクシーを呼んでいる声が聞こえた。

「しゃーないで。でもそんな車、もう乗りたないやろ。捨てたったらええねん」

俺は敢えて軽く言った。

「けど、あの女、車の中からメッチャこっち見てるんやけど、ホンマに大丈夫やろか?」

雅志が弱々しい声で尋ねて来た。

「今の段階ならまだ大丈夫や。そういう存在は、こちらが気にするほど近付こうとして来るし。知らんぷりして放っておくのが一番やで」

「でもなかなか無視出来ヘんで」

「向こうは構って欲しいんやて。こちらが構ってくれヘんと分かったら、無闇に寄っては来いひんやろ」

「ならええけど」

「一応、家に帰ったら、まず風呂に水を溜めて、粗塩を一掴み入れて、その水に浸かんなさい。彼女さんにもしてもらってな。一応、用心の為に」

空海は最後にそう付け足した。

 

 

数時間後、雅志からL〇NEメッセージと写メが届いた。

「なんやこれ」というタイトルに、雅志の体を写した写真が添付されていた。

水風呂に入ったらしい濡れた体中に、無数のひっかき傷のような跡が浮かび上がっていた。

「良かった。ギリギリ間に合ったみたいやな」

その写真を見て、空海は安心の表情を見せた。

 

 

 

20211005



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呉氏開門八極拳

先生の名前は実名なので、イニシャルにしておきます(笑)。


空海は、現代日本で何をする?

 

 

 

呉氏開門八極拳

 

 

 

平成二十六年(2014)の七月十三日の日曜日。

小雨のパラつく夕方に、空海が「一緒に歩きに行こう」と言い出した。空海はほぼ毎日、夕食後にウォーキングに出掛けているのだ。いつもは俺がものぐさなので、滅多に誘って来る事はないのだが。

「でも空海、最近はいつも途中で八極拳の練習してるんやろ?俺がおったら邪魔なんちゃうか?」

「いや、今日は人を紹介しよ思てな」

「何や紹介て」

「ほら、前に八極拳習った先生や」

「ああ、空海と一緒に半グレをボコッた人な。『月下の騒動』を参照したら、どんな状況やったか判るな」

「その先生がな、仕事で一週間この近くに来る事になってな、この度『集中講義』を受けるようになったんや」

「ほんで、俺にも紹介してくれると」

「せっかくやしな」空海は笑って言った。「弘史も多少は世話になったんやし、挨拶しといてもええんちゃうか?」

 

傘を差してノ〇ビアスタジアム(旧ウ〇ングスタジアム)へ行くと、同じく傘を差した男性が立っていた。

「W先生、お疲れの所、ありがとうございます」

空海は丁寧に頭を下げた。件のW先生は、俺の記憶にある通りの、背はそれほど高くなく、全身の筋肉が太く、顔はL〇NA SEAの河〇隆一に似てなくもない感じだった。

「やあ空海さん、こないだの乱闘の時以来やね。元気やった?」

この前より高めの声で、W先生は言った。この間はやはりドスを効かせていたのか。

「お陰様で。で、こっちが以前に話した同居人の立花弘史です」

そう紹介されて、俺は頭を下げた。

「どうも、初めまして。呉氏開門八極拳八世伝人の、H・Wです」

先生はそう名乗って頭を下げた。隨分と腰の低い先生である。

「実は先生、俺はお会いするの、初めてやないんですよ」俺は笑いながら言った。「『SE〇YU』で半グレを懲らしめてくれた時、俺はレジに立ってました」

「ああ、そやったんや」先生は大きく破顔した。「こりゃあ、お恥ずかい所を見せてしもたね」

「いえいえ、お陰で助かりました。あの時のおばちゃん、ナカさん言うんですけど、今でも先生の事待ってますし」

「そりゃあ、うかつにあの店行けへんなぁ」

先生はそう言ってまた笑った。

小雨の中なので動き回る訳にも行かず、傘を差したまま色々と話をさせてもらった。

W先生は学生の頃は器械体操をやっていた事(それもあってマッチョな体格なのである)、その後〇宮で少林寺拳法を習って四段を取った事、今は理学療法師助手として近所の病院で働いている事、そのつてで今回は〇菱神〇病院でリハビリの勉強をさせて貰える事に なって、この度こちらに来た事を聞いた。

そうこうしている間に、雨はほぼ止んで来た。

と、どちらともなく傘を捨てて、W先生と空海は八極拳の練習を始めた。

俺は勝手な妄想で、中国武術の練習というのは型を操り返しやるものだ、と思っていたが、二人は柔軟体操をひとしきりすると、その場で足を肩幅より広めに広げて立った。掌を広げて両腕を前に伸ばす。

「あ、站椿功って奴か。『拳児』で読んだ」

俺は思わず口に出して言ってしまった。オタク丸出しだ。でもそれも仕方ないだろう。何せ中国武術の練習を直に見るのは初めてなのだ。

「そうそう。これは『馬歩站椿(まほたんとう)』。八極拳の代表的で核心的な歩形やね」

W先生が笑いながら言った。

前に伸ばしていた腕を横に開き、しばらくすると肘を曲げた形になった。

「これは、『裡門頂肘』!」

自分でイタい行動だとは判ってはいるのだが、つい声に出して言ってしまう。

「呉氏開門では『両儀(リャンイー)』と言う」

ズブの素人の良くある反応なのだろう、先生は動じない。

そこから『弓歩(きゅうほ)』『四六歩(しろくほ)』『独立歩(どくりつほ)』『仆歩(ほくほ)』『盤歩(ばんほ)』と歩形が変化して行く。

「これは、八極拳に必要な歩形の修得と同時に、筋力の強化や体幹を安定させる狙いもある練習なんや。ホンマなら、これだけで一時間くらいかけてやんねんで」

先生は何気なく言った。

一時間!?俺はちょっとだけ馬歩を真似てみて、すぐにやめた。一時間どころか、五分間でも無理だ。

二人は、今度は並んで立つと、スッと構えを取った。さっきやってた『四六歩』の形だ。そこから半歩進んで、大きく一歩踏み込んだ。馬歩になると同時に掌を打ち出す。

「こ、これは、『猛虎硬爬山』やないか!?」

俺は思わず身を乗り出した。『バーチャファイター』のアキラの技だ。

「予想通りのリアクションをありがとう。『上歩撑掌(じょうほしょうしょう)』言うんや」

思い切り先生に笑われてしまった。

適当な距離を往復すると、次の技に変わる。ただ、何をやっているのか判らないので、変な動きだなあ、と思える物もある。

「何か訊きたそうな顔やな」

先生にそう言ってもらったので、俺は質問してみた。

「今の、上から腕を振り下ろして、また振り上げるヤツ、そして肘から先をクルクル回しながら踵をチョンとするヤツが、何をしてるかイメージが涌かないんですけど」

「ああ、『斜胯(シェイコァ)』と『盤提(バンティエ)』ね。皆そう言うな」

先生はそう言いながら、空海に手招きをした。空海は左腕を前に構えを取る。先生は、空海の左腕を右腕で上から払い下ろし、右足を空海の背後に踏み込みつつ右腕を振り上げ、空海の胸を打った。空海はバランスを崩して後ろに吹っ飛んだ。

「これが『斜胯』。『胯』は所謂投げ技に使われる発力なんやけど、柔道みたいに掴んでかつぎ上げるような投げではないんや」

今度は同じ構えの空海の左腕を、左腕で払い落としつつ右足を軸にして体を回し、左踵で空海の左脛を蹴り上げつつ右拳で背中を叩いた。空海はその場に両手を付いた。

「これが『盤提』。蹴りながら投げる感じやね」

「何か、上と下を同時に攻めるて、うまい事出来てますね」

俺は何か凄く感動(?)していた。初めてちゃんと見た中国武術が、これほどまでに合理的だった事に驚いていた。

「面白いやろ、八極拳」

空海がニンマリとして言った。

「一週間しかないし、今日は『単打』までの復習やけど、明日からどんどん行くで」

先生も笑顔で言った。随分と楽しそうである。

「よろしくお願いします」

空海は抱拳礼をして言った。

 

 

 

20211118



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