クーデレフェチと孤高の女王 (ずぼらな無機物)
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1話:冷たい距離感
白痴美、という言葉を知っているだろうか。一見すると人を罵る言葉に見えなくもないが、れっきとした誉め言葉であり、「表情に乏しい女の、一種の美しさ」という意味を持つ(広辞苑より引用させていただいた)。
俺はこの白痴美を持つ女性に魅力を感じる。
一種の美しさ。そう書き記されているのは、その色のない表情から感受できる美しさが多種多様であり、それらをあまり認識できていないからなのではないだろうかと、俺は勝手な想像をする。人と(俺の場合は、多くは艦船なのだが)関わり、その把握できる人物像というのは大きく限られている。それが更に無表情によって隠される。言わば神秘のベールであり、ブラックボックスである。美しくも虚ろな面影に隠された内面を見たいと思うのは、至極当たり前のことだろう。
さて、改めて。俺は白痴美を持つ女性が好きだ。その憂いを含んだ、影の差した表情が好きだ。時折表面に雪解けが起き、様々な色が見えるのが好きだ。
そして、傍らには、その言葉がよく似合う秘書艦が座って俺の執務を手伝っている。
「指揮官、この書類の確認はしておいた」
女性にしては低めで、凛とした透明感のある声の持ち主が俺を呼び掛けた。
白く艶のある、ショートカットの髪。切れ長でやや釣り目気味の、サファイアをはめ込んだような美しい瞳。小さく整った鼻に、真一文字に結ばれた唇。純白の軍帽から差す影は彼女の憂いを含んだ表情をより強調し、深みを与えているよう。手のひらに当たると溶けてなくなってしまいそうな儚さも、その表情から感受できる。
「ああ、ありがとう、ティルピッツ」
俺は、彼女が好きだ。
建造してひと月とたっていないが、俺は彼女にすっかりと心を奪われてしまった。
「ああ」
相変わらず、平常運転な彼女のよそよそしい冷たい態度。色を見せるは愚か、雪解けすらこなさそうなまである。先ほどの文を訂正しよう、様々な彼女の色を見ることが俺のささやかな夢だ。
業務的なやり取りが会話のほとんどを占めるような距離感。彼女の距離を置いた態度は、それはそれで居心地がいいものなのだが、やはり男の性には逆らえない。彼女のことをもっと知りたいし、親密になりたい。あわよくば恋仲になりたいものだ。そのためにあれこれと手を尽くして、こうして秘書官の任についてもらっている。最高に不純な動機だが、恋心には勝てなかった。
「あとやることは何かあったか?」
「特にはない」
……その恋心は負けてしまいそうだが……いや俺は諦めない。彼女は出会ったときから少し冷たかったのだ、これから少しずつ、距離を縮めていけばいいだろう。
「じゃあ少し会話でもしないか?」
「仕事以外の貴方との会話は、あまり弾まないのでな」
……千里の道も一歩から、という諺があるように諦めずにこつこつとやっていけばいい話だ。が、少しだけ足を速めてみよう。こんなチタン合金より堅物な彼女でも、酒が入れば少しは態度も軟化するだろう。さて、年末最後の運試しと行こう。吉と出るか、凶と出るか。
「なら、酒でも呑みながら話をすれば、少しは弾むかもな。丁度友人からビールを貰ってさ、そいつを」
「これから鉄血のほうで定例会議がある。すまないが、他をあたってくれ」
結果は凶だったようだ。年が明けたら厄払いにでも行くことにする。ふむ、鉄血は定例会議を行っているのか……殊勝なことだ。決して、決して彼女が今咄嗟に考えた俺から逃げるための言い訳ではないはずだ。実際に定例会議とやらは行われていて、そこではしっかりと話し合いが行われているはずだ……そう思いたい。
「……さいですかい」
ばたん、と執務室のドアが閉じられる。
いや、結果は何となく想像できてはいたのだが、どうしても衝動には勝てなかった。普段はリスクヘッジを心がけて指揮をしているのだが、彼女の前だとどうしてもその思考判断力が落ちてしまうようで。
「寒いなあ……」
寂しさが募ったのか、ふとそう独り言ちていた。
だが実際今の季節は冬であり、気温も一桁になることが多々ある。そんな中で寒いというのは至極当たり前のことだ、俺のこの淋しさは周囲の気温によってもみ消されて、誰にも気づかれずに済むだろう。最も、彼女には気付いてほしいのだが。
「……帰るか」
今日も一人酒をする羽目になりそうだ。外の桜は、まだまだ寒々しい姿をしていた。
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2話:年明けの距離感
「なあ、ティルピッツ、昨日の誘いなんだけどよ」
「すまない、今日も用事がある」
本日は晴天なり。冬空は今日も高く、澄んだ景色を窓越しに提供してくれる。正し、俺の心は晴れやかで澄み渡っているとは言っていない。寧ろその対極の天気にあると言っても過言ではないだろう。
「……まだ何も言っていないだろう」
「せめてその書類の山を片付けてからおしゃべりをしたらどうだ?」
彼女もまた、晴れとは対極の天気らしい。例えるならば大雪が降る冬のシベリア。そんなシベリアに丸裸で放り出されたような寒さと冷たさが、俺の皮膚から心に浸透して確実にダメージを与えてゆく。彼女の冷たさは某ポケットのモンスターのぜったいれいどが成功するレベルなまである……そんな冷たさがまたいいのだが。そして酒の件は地味にはぐらかされた。そんなに俺と酒を呑むのが嫌なのか、それとも単に酒が苦手なのか。願わくば後者であってほしい。切に願う。
「なら、仕事が終わったら少しは雑談に付き合う程度はしてくれるか?」
「……少しは、な」
酒がだめならせめてもと、ダメ元で彼女を雑談に誘ったが運よく成功したようだ。もしかしたら先日の厄除けが功をなしたのかもしれない。新年早々運がいいのだか、悪いのだか。
目標があるならば、俄然やる気というものは内から湧き出てくる。それも、恋慕の情を抱いている彼女との雑談が目標であり、報酬だ。やる気が出ないほうがおかしいであろう。
「じゃ、仕事を再開するとしますかねえ」
それから執務室にかりかり、という万年筆が書面にインクをつける小気味良い音だけが暫くなっていた。時折ちらりと彼女を見やると、いつも通りすましたような、だがどこか陰りのある表情で椅子に座って俺の仕事が終わるのを待っていた。……相変わらず綺麗な顔立ちをしている。その横顔を見ているだけで俺の気持ちが[[rb:昂 > たかぶ]]るのが
「指揮官、私の顔を見ていないで書面を見ろ」
「あ、わ、悪いな」
気づくと俺は彼女の顔を見つめていたようだ。綺麗なバラには棘がある、とはよく言ったものだ。いや、この場合は用法がまるで違うのだが。大体言いたいことは伝わるだろう。……もう少しだけ、見ていたかった。
それから数十分後、あっという間に書類の山は彼女の机に移され、またその移された書類は彼女によってその全てがファイリングされていた。執務はいつもの2割増しくらい早いペースで終わった。これも報酬ありきのことなのだろう。
「よし、終わったなぁ」
「ああ」
声色こそ冷たいものの、そこから微かに感じ取れる労いの念。それを受け取るだけで気持ちが何か温かいもので満たされていく。
「おう、ありがとうな。じゃ、約束通り雑談をしよう、そうしよう」
「だが私のような女と話して、何か面白いことでもあるのか?」
「いるだけで楽しいんだ、話していても楽しいに決まっているさ」
「……好事家だな」
彼女が少しだけ目をそらした。照れているのだろうか、とても可愛い。彼女がデレた(かもしれない)から、今日という日はティルピッツ記念日。国民の休日にしても遜色ないまであるほど重要な日だ、カレンダーにマルでも付けておこうか。
それから本当に少しだけ、彼女と雑談をした。相変わらず彼女は不愛想で笑顔を見せることはなったが、それでも会話のキャッチボールはしっかりとしてくれた。日々のたわいない出来事を会話するだけでも不思議と気分が弾む。彼女もそうなってくれるといいのだが……そうなる日はいつになるかはわからない、というよりそうなること自体が怪しい。
「またな、ティルピッツ」
「ああ」
ばたん、と執務室のドアが閉じられる。
「相変わらずだなぁ」
あの冷たさが、また惚れた理由の一端なのだが。ずうっと冷たくされるのが好きだというわけでは決してない……わけでもないが、やはりちょっとはデレて欲しいというのが本音である。勿論そのデレは普段の冷たい態度ありきのデレがいい。そのデレは俺が独占したい。照れながらデレて欲しい。
「……帰るか」
今日もまだ、外の桜には蕾は一つもついていない。くしゃみを一つしてから執務室を出た。
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3話:あだ名の距離感
「軍事委託が完了したようだが……次は私にも行かせてくれないか?少し……好奇心がわくんだ」
「あいわかった、手配しておくよ。そうしたら……油田開発でも頼もうかな」
「恩に着る」
そういえばもうそんな時間だったか。時計を確認すると分針、秒針がともに丁度12時の辺りを指していた。彼女たちの帰還を確認したら俺も飯を食べることにしよう。答えはおおよそ想像できるが、一応彼女を誘ってみることにする。
「なぁ、委託の奴らが帰ってきたら一緒に飯でもどうだ?」
「あまり腹は空いていないな」
「……さいですか」
賭けは失敗。低いオッズに賭けた俺の心が少しだけ擦り減った。だがこの程度でへこたれてたらティルピッツは落とせないだろう。諦めないことが重要だ。……何となく、ギャンブルに依存する人間の心情が分かったような気がする。
また新たな知識を増やして一つ賢くなった(ような気がした)ところで、執務室にノックの音が鳴り響いた。
「委託が完了しました、がいちっ……ご主人様」
「あぁ、うん、お疲れさん、シェフィ」
「その呼び方で呼ぶのは虫唾が走るのでやめて頂けますか、がいちゅ……ゴミムシ様」
「言い方は違えど言い切ってるぞおい……別にいいだろ、ベルだってあだ名で呼んでるんだしよお」
俺のことは害虫呼ばわりするのに、いざ自分が別の呼び方をされると嫌がる我儘なメイドだ。……害虫、か。ああ気にしない、気にしてはいないとも。着任当時から呼び方は変わってないからな、うむ。
「人によって感受の仕方は変わってくるものだと、初等教育の辺りでしっかりと習われたはずですが……ご主人様にとっては理解をすることが難しい内容だったのでしょうね」
こうして相も変わらず、俺の新たな扉を開こうと日々奮励努力してくれているのはタウン級軽巡洋艦のシェフィールド。彼女もまた白痴美を持つ艦船だが、ティルピッツとはまた違ったものを持っている。
口数が少なく表情の変化に乏しいのは前提として。片方がブロンドの髪で隠された眠たげな瞳、まだ年端もゆかぬような見た目から飛び出すウィットに富んだ口撃。そして何より、
(メイドさんだ)
メイドさんだ。
素晴らしい。大事なことなので回数は問わず反芻する。もう正直これだけで平伏ものである。だがメイドらしさで言ったらベルファストのほうが上だ。以前ティルピッツが出撃をしていたときに替わりに秘書を頼んだが、いやはや素晴らしかった。あの凛とした声でご主人様、と呼ばれることがえもいわれぬ快感で、事ある彼女に話しかけていた。今思い返せば怪しい様だっただろう。
……ティルピッツがメイド服を着たらベストなのだが。
閑話休題。
それら一つ一つをとると一つの個性として成り立ち、何ら違和感はないのだが(毒舌なのは個々によって感想は変わるだろうが、俺は好きだ。いや決して、決してマゾヒストだというわけではない……と思う)、それらすべての要素を統合して完成された存在はアンバランスで、歪。それが彼女の持つ美しさ、もとい白痴美なのだろう。所謂ギャップ萌えというやつに当てはまるのだろうか。
「なんでしょうか、私は害虫に見つめられて喜ぶ趣味はございませんが……それともハムマン様のなさるように、通報をご所望でしょうか。でしたら見つめずとも速やかに……」
「ああ、いやすまんはいすみませんでしたよ……考え事をしてただけだっての」
余談だが、実際俺はハムマンには本気で通報されかけたことがある。ただ頭についているもふもふとした耳を眺めていただけなのにである。だが、羞恥心に震えるハムマンは可愛かったから良しとしている……本当は耳を触りたかったのだが。因みに俺の名誉のために言っておくが決して、
「それでは、失礼します。がいちっ……ご主人様」
シェフィールドが出て行って数分後、何となく、シェフィをあだ名で呼んだように、彼女もあだ名で呼んでみることにする。
「なぁ、ティル」
……どうだ。
……
…………
………………賭けは失敗、負け続きだ。
「あー、何でもない。忘れてくれ」
「あ……いや、少し驚いただけだ。その、嫌というわけではないんだ」
「あ、ああ。そりゃ急にあだ名で呼ばれたらな、驚くよな、悪い」
「それもあるのだけれど、あだ名で呼ばれれることにはあまり慣れていないから、どう反応したらいいのかわからなかったんだ」
「なら、これからはそう呼んでいいか?」
「構わないわ」
「そうか……!なら改めてよろしくな、ティル」
「!……ああ、よろしく。ではまた明日」
気のせいだろうか、頬に朱が差していたような……気のせいだろう。
ばたん、と執務室のドアが閉じられる。
「……結局一緒に飯食えなかったな」
しかし一歩進展、彼女をあだ名で呼ぶことができた。これはシェフィールドに感謝をしなければ。感謝の気持ちを表すために、彼女もまたあだ名で呼ぶことにしよう。ひかぬ媚びぬ顧みぬ。通報なんて怖くはない。……一応憲兵に対する言い訳を用意しておくことにする。
「……今日はカレーにすっかな」
外の桜は少しづつ、春に向けて準備をしているようだ。相も変わらず冷え込んでいるが。日に日に暖かくなっていることは事実だろう。
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4話:病人との距離感
……今日もホットコーヒーが美味しい。外が寒いからな。それにしても、今日もティルは可愛い。
「指揮官、ペンが止まっている」
あぁ、なんだか体が熱いな。とうとう彼女に対する思いが体外に熱という形で放出されたというのだろうか。愛の放射線、ティル可愛い。
「指揮官」
「!ああ、すまない、ティル」
執務を再開するが、頭に靄がかかってうまく書類を処理できない。脈絡のない思考が頭をよぎっては消え、よぎっては消えてを繰り返している。同じことばかり考えているでもない。
……ティルは毎日可愛いなあ、本当に。一家に一台ティルピッツ、税込み俺の愛万円。絶対に買えないであろう強気な価格設定である。これには殿様商売をしている某半導体メーカーもビックリだ。
「指揮官、少し」
「ティル……?」
……そういった彼女は手袋を外して、掌を俺の額に当てた。ひんやりしていて気持ちがいい。掌が冷たい人は優しく、温かい人だという俗説ですらない迷信があるが、それを信じたくなってしまう。
「ん、気持ちいいな、ティルの手。もっとこうしていてくれないか?」
「指揮官、凄く熱が出ている。今日のところは執務を終えよう。あとは私がやっておくわ」
「いや……ティルに無理をさせられんよ」
「だからといって指揮官が無理をしていい理由にはならないだろう。貴方が倒れると艦隊の士気に関わるわ」
「なるさ、無理をするに値する理由に、なるさ」
……彼女たちは、命を懸けて戦場で戦っているのに。定めとはいえ、血で血を洗うことを強いられているのに。対する俺は俺は執務程度で音を上げているなんて、情けないったりゃ、ありはしない。
「ティルは分かるだろう、何もできないことの恐怖が。ただ、見ていることしかできない自己への嫌悪が」
結局のところ、俺のエゴな訳だが。
「……」
「そういうこった。頼む……少しくらい、無理をさせてくれ」
「……分かった」
それから、普段よりも遥かに時間をかけて、ゆっくりと書類を片付けた。その間ティルは何も言わずに、ただ俺の隣に座ってくれていた。傍にいてくれた。それがただただ、嬉しかった。理解をしてもらえたような感覚が、安心感があった。
「あぁ……終わったよ。今日は、書類が少なくて、助かったな――」
「ああ。今日は早めに休むと……指揮官!」
ティルの、温かさが、いい匂いがする。彼女が、抱き留めてくれたのか……あたたかい。彼女は、自身を冷たい女と、評していたが、そんなことは、ぜんぜんなく
――――――――――――
――――――――――
――――――――
――――――夢か。夢だろうな。向こうとは違ってどこか白みがかっていて、ふわふわしている。なによりティルが俺の隣で寄り添っていて、薄っすらとだが笑みを浮かべていて。そして極めつけに左手の薬指に指輪が嵌まっている。向こうだと指輪は愚か、笑顔を見せたことはないはずだ。
彼女は満ち足りているようで、幸せそうで。畜生可愛いなあ。現実でも笑った顔、見てみたいのだがな……
――――
――
「あー……やっぱ夢、だよなぁ」
軽く辺りを見回す。ここは執務室に隣接された仮眠室だった。大方ティルが俺のことを抱えて運んだのだろう。
(もっと、ああして抱きしめて欲しかった)
人の夢と書いて儚いと読む。
暫くぼうっとしていたら、聞きなれたノックの音がした。
「おう、起きてるぞ」
そう短く返事をすると、見慣れた美貌が見えた。
「指揮官、もう大丈夫か?」
「……まだ頭がガンガンなる。どんくらい経ったんだ?」
「2時間くらいだ」
「……そうか」
彼女には、迷惑をかけてしまった、情けない。
「ベルファストが貴方のために食事を作ってくれたようだ、食べるといい」
彼女の手には錠剤が入った瓶とソーセージが入ったシチュー、少なめのパン、そしてスープが乗ったトレーがあった。
「ん、わざわざありがとうな」
「気にするな」
それからティルが持ってきた料理をゆっくりと食べた。
「ふー、美味かった。風邪引いたときのオニオンスープは美味いな」
「……そうか。トレーは私が片付けておこう。今度こそ、ゆっくりと――」
「あ、待ってくれ」
気が付くと、彼女の手を握って引き留めている自分がいた。この状況をどう弁解しようか、その前にとりあえず手を離そう。
「……あー、いや……これはそのだなぁ、そう!風邪の時ってどうしても寂しくなっちまうだろう?だからよ……少しだけ」
全く弁解になっていないどころか、本音をさらけ出してしまっていた。本格的に熱にやられているらしい。
「……分かった。暫くはこうしていよう」
そう彼女が呟くと、手袋を外して俺の手を握って、ベッドに腰かけた。……ん?
(ティルが、俺の手を……)
熱のせいで俺はとうとう幻覚を見るようになってしまったのだろうか。だが彼女の手の感触は確かに感じられる。柔らかくて少し冷やっこい、女性らしい手から、握っているうちにじんわりとした熱が伝わってくるのが分かる。
「ティル……」
ただ、たまらなく嬉しかった。出会って今まで確実な距離感を感じていたが、それが少しは埋まったような気がして。
彼女の事が少しだけ、分かったような気がして。
「……」
彼女は顔こそ背けてはいるが、何も言わずにただ手を握ってくれている。
安心する。
本当に、ずっとこうしていたいけど、いずれ終わりがくるんだろう。せめて、終わるまで、このあたたかさを、かのじょを…………。
「お休みなさい、指揮官」
X X X
翌朝、俺はすっかり回復していた。窓の外を見ると綺麗な朝焼けが少し霧のかかった朝の母港を照らしていた。
シャワーを浴び、歯を磨いてから軍服に着替えて仕事の準備をする。
(そういえば、ベルファストに礼をしないとな)
あの料理は美味かった。俺自身あまり舌が肥えているほうではないが手間、そして愛情(これは希望的観測だが)がかかっているのは何となく分かった。朝食をとるついでにベルファストを捕まえて礼を言うことにしよう。
暫くして、俺は食堂についた。幸いベルファストは入り口に近い位置でロイヤルの面子と食事をとっていたため、すぐにその姿を確認することができた。
「おはよう、ベル」
「お早うございます、ご主人様」
「昨日はありがとうな、美味かったぞ」
「?何のことでしょうか」
……ふむ?昨日確かティルはベルファストが作ってたって言った筈だ……ああ、間違いはないだろう。ぼんやりとだが、しっかりと俺の海馬にはその情報がある。まだ20と少しで、その上指揮官をやっている。痴呆症になってたまるものか。もしなりでもしたらシェフィールドに本格的に害虫扱いをされてしまうかもしれない。今でも害虫扱いをされていることからは目を背けることにする。
「あー……なんでもない、忘れてくれ。それじゃ、今日もよろしく頼むぜ」
「かしこまりました。不肖ベルファスト、本日も努めさせていただきます」
嗚呼、やはりメイドは至高である。このベルファストの少し固い、主人と従者という距離をしっかりと守ったような距離感はメイドの手本といったところか。……うむ、メイド萌えは正義だ。今日もその事実は揺るぎない。Q.E.D
それからつつがなく朝食を取り終えてから、執務室に向かって仕事を始めた。
窓の外の木々は少しずつ、活気づいているように見えた。どこからともなく、春の足音が聞こえる。
X X X
万年筆を握る手をいったん休めて、休憩がてら今朝から気になっていたことをティルに問いかける。
「なぁティル、昨日の飯って誰が作ったものなんだ?」
「ベルファストが作ったと言った筈だが」
「いやさ、気になってさっきベルに確認したら違うって言われてよ?だから気になってさ」
「……指揮官、早く仕事を終わらせよう」
「釣れないなぁ」
……まさか、な?
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5話:ビターな距離感
「すまない、失礼する」
「おう、後は任せとけ」
日が少し傾いたあたりの時刻にティルが執務室を去る。毎度毎度女々しいとは思うが寂しくなってしまう。
「何かあったのかねぇ」
普段から生真面目な彼女にしては珍しい早退の要望。その理由を何となく考えていたが、これといったしっくりくる答えは思い浮かばなかった。どうしても気になって彼女に直接訊いてみたが、彼女曰く「野暮用だ」との事。野暮用……更に不可解である。
暫く休憩がてらうんうんと唸っていたら、執務室に来客が。
「指揮官様、少々お時間をよろしいでしょうか」
「ああ、何か用か?」
規則正しいノックを鳴らした彼女はベルファスト。俺の性……いや、好みであるメイドの姿及び振る舞いをする艦船だ。容姿は無論のこと、メイドとしての腕も一級品だ。些細な仕草から身の回りの世話に至るまでを完璧にこなせる彼女に
「失礼します、
と凛とした声で呼ばれるのが、ティルとの毎日を過ごすことに次ぐ俺のささやかな楽しみであった。彼女がご主人様と呼ぶたびに顔が弛緩するのを自制しなければならないほど、それは心地よいものなのだ。ご主人様……いい、ね。彼女が来てからというもの、某電気街のメイド喫茶に足を運ばなくてもよくなった。
「んで、どうした?」
「ご主人様に明日贈るチョコレートを作るため、お好みの味を教えて頂こうと……迷惑でなければ、ですが」
「いやいや嬉しいよ!!……そうだなぁ」
彼女からの魅力的な提案に思わず声が上ずる。
そういえば、明日はバレンタインデーだったか……すっかり頭から抜け落ちていた。何せ、今まで女気なんてものはなかったもので、2月14日で意味するチョコレートとは縁がなかったのだ(一度士官学校にいたときに男に貰ったが受け取りを丁重にお断りしたので、これはカウントしないこととした「縁がない」という言葉である)。
そんな俺にも、ついにチョコレートを貰う機会が与えられたらしい。その上、ベルファストが、メイドさんが、チョコレートを俺の好みに合わせて作ってくれるというのだ、これを受け取らずしてなんというのか。
「そうだなあ、苦めのが好きかな」
「かしこまりました。それでは、失礼します」
「楽しみにしてるぞっ!」
「はい。ご期待に添えられるよう、尽力を尽くさせて頂きます」
メイドからチョコレートを貰う、俺の死ぬまでにやりたいことリストの一つが埋まった。
……それにしても、俺の好みを聞くためにわざわざ執務室まで来たのか。なんというか、尽くされているようで男冥利に尽きる、というか。彼女にはしっかりとお返しをしなければならない。
「それにしても……はぁ」
貰えたりしないだろうかと、淡い期待とそれに対する打消しの推量を込めたため息を一つ小さくつく。ベルファストから貰えるという確約があるのにも関わらず、ティルから貰うことを望む、というのは些か欲を張りすぎな気もするが、純情を守り続けている男としては好きな人からチョコレートを貰いたい、という思いはやはり拭いきれないのだ。
「……書類を片付けるとしますかね」
仕事を熱心にこなしたらご褒美としてティルから貰えるかもしれない、という希望的観測と呼ぶにも足らないくだらない妄想を糧にして、執務を終えて帰宅した。……明日が楽しみだ。早く帰ってベッドに横たわり、明日を早く迎えるとしよう。いや早く迎えたところで、実際の始業時刻は普段通りであるから結局何も変わらないのだが……そこは気分、というやつである。
X X X
「指揮官、そわそわしていないで仕事に集中してくれ」
「そわそわなんて……してないぞ?」
バレンタインデー当日。俺は貰えることが分かっているものと、望んでいるものに期待をはせていた。昨年までは今日という日を
「ならペンを動かしてくれ」
「了解了解っと」
仕事をすること数時間が経ち、昼時。ついに待ち望んでいたものがやってくる。俺にとっての、遅刻したサンタクロースがやってきたのだ。
「失礼します、ご主人様。チョコレートを……いえ、ここはそうですね……ハッピーバレンタイン、ご主人様」
普段は少し固い彼女が、くすりと茶目っ気を含んで微笑みながら手を差し出す。この時点でもうすでに俺の感情のボルテージは高ぶっているのだが、その上ピンク色の包装があることにより、
「ありがとう!ベルッ!!」
ゲージは壊れて感情があふれ出して声を張り上げる、という形によって放出されることとなった。仕方ないだろう、女性から、それも美女からチョコレートを貰うことがこうも嬉しいことだとは知らなかったのだから……感激である。
「ご期待に添えられたようで光栄です。それでは……あ、それと無礼を承知で。私から一つお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「おう!何でも言ってくれ!!」
「もう一つだけ、受け取ってほしいものがあるのですが……申し訳ございません。忘れてきてしまったようです……また後程お持ちいたしますので、待っていていただけますか?」
なんだと……チョコレートはさることながら、その上さらに俺にプレゼントを……俺は明日死ぬんではなかろうか。死亡要因が他殺になることは想像に難くない。
「そ、そうか……!ああ、待ってるよ!待ってるとも!!」
「ありがとうございます。では、失礼します」
一瞬ティルのことをちらりと見やり、彼女は執務室を後にした。
「人生初めてだ……うへへ」
今俺の顔を見たら9割9分9厘顔がニヤついてて、気持ち悪いことになっているだろう。自制したところですぐに顔が緩んでしまうため、もう諦めることにした。人生、初の、チョコレート……その事実と、ベルの茶目っ気ある渡し方を反芻して心を豊かにしていた。その甲斐あってか、今日の仕事は凄く早く終わった。因みに彼女のチョコレートは俺の要望通り、というか俺が望んだ味がそのまま体現されており、非常に美味しかった。美味しくて、嬉しかったのだが……
(結局、もらえずじまいかなぁ)
一番貰いたい相手からは未だに貰えずにいた。
X X X
そうして仕事が終わってもずるずると引きずって、執務室にいること数時間。遂にティルが執務室を去る時刻が来てしまった。
「も、もう帰る時間だな、ティル?」
淡い期待なんて抱くもんじゃないとは分かっていても悲しいかな、畢竟俺は人であり、それをやめることはできない。……今日は自棄酒をするとしよう。幸い明日の仕事は少ない、酒を浴びるように飲んで今日のことを水ならぬ酒に流して忘れることにしよう。二日酔いの頭痛は恐らく忘却を助長させてくれるだろう。
「ああ……そうだ、指揮官。忘れものだ」
やはり、期待というのは裏切られることが多いようだ。
「えっ……あ、えっ、これ……」
「また明日」
暫しの思考停止。そして再起動。情報を整理。
ダークブラウンの包装がされた四角い箱。
ピンク色のリボン。
少し漂う甘い匂い。
速足でここを出る彼女。
これらを統合して判断するに。
ティルが、チョコレートをくれた。俺が一番貰いたいと思っていた相手から、愛している彼女から、チョコレートを貰えた。そしておそらく、ベルが渡したいと言っていたものは……恐らく……!!
「ィィィィィィィィィィィィイヤッホォォォォォォォオオオオオオアアアアア!!!!!」
この俺の魂を全力で込めたシャウトは鎮守府に木霊し、小さな女王陛下がたいそう驚いたそうだ。その日の夜は結局、ティルのチョコレートを肴に酒を浴びるように飲んで、翌日は二日酔いの頭で出勤することになった。だが気分はそれはそれは良いものだった。……頭痛さえなければ。
「あ゛ー……頭痛ぇ……」
「酒は飲んでも飲まれるな、という言葉があるだろう」
「そうはいってもよ、嬉しくてつい、な……へへ、ありがとうな、美味かったよ、凄く」
「……私に礼を言う暇があったらペンを動かせ」
あぁ、酔っていてもわかる。顔を背けるのは彼女が照れたときにする癖だ。少しずつだが、距離が縮まっているようで非常に嬉しい。やはり、俺は彼女に心底溺れているようだ。以前よりも彼女という底なし沼にどっぷりとつかっているらしい。このまだ酔いが残っている状況に任せて
(愛している)
なんて言えれば更にいいのだが。
「うーい」
出てきたのは酔っぱらいの間の抜けた返事だった。外の桜はそろそろ咲きそうな気がしないでも、ない。
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5話:番外編
2月12日。鉄血陣営のティルピッツは悩んでいた。艦船としてではなく一人の女として悩むことは時折あったが、近ごろは日に日にその悩み事の数が増えている。その悩みの種は言わずもがな、執務室で日々共に仕事をこなしている一人の男のせいである。彼女はつい最近、その悩みの種を特定することができたようだ。日々膨れ上がるその
互いに共通の悩みであるはずなのに。彼は彼女の悩みを知らず、彼女もまた彼の悩みを知らず。互いが無いと否定している線が答えであるのに、今日も恋の議論は平行線。未解決のまま放置されていた。
閑話休題。
彼女は今、そんな恋焦がれる彼のために2月14日のバレンタインデーにチョコレートを渡そうとしていたが
(どうしようか……私は菓子作りは愚か、料理なんてしたことがないわ)
大きな壁に直面していた。指揮官が風邪を引いたときに出した料理は、ベルファストに手伝ってもらってやっとのことで完成したものであった。
(ここは諦めてしまおうか……いや、それは……そうだ、再び彼女に頼ることにしよう。情けないが、今の私には何もできない)
そう決意した彼女は速やかに、ロイヤルのパーフェクトメイドの元へと赴いた。
「失礼する、ベルファストに用があって来た」
「あら、ティルピッツ。何か用かしら」
「その、だな……」
指揮官の前では見せない砕けた態度をとるベルファストの前で、ティルピッツは硬直する。今この場で「指揮官にチョコレートを作りたい」なんて口にすれば、彼女が指揮官に好意を寄せていることがベルファストに露呈してしまうからであった。
だが、時すでに遅し。噂というのはあっという間に広がるものである。
「ふふ、指揮官にチョコレートを作りたいのだが……、違うかしら?」
本日もロイヤルのメイドは完璧であった。「気配りは給仕において最も重要なことでございます」というのが、彼女の信条であり、この察しの良さはその延長線上にあるものだった。
「……そうだ」
「あら、鉄血の誰かさんは指揮官様を慕っている、という噂は本当だったようね」
茶目っ気のあるベルファストの微笑みとからかいに、ティルピッツは頬を赤くする。
「……うるさい」
「ふふ、貴女も随分と女らしくなったじゃない。指揮官様にそんなところを見せれば、すぐに落とせるでしょうに……といっても、もう指揮官様は貴女にぞっこんなのでしょうが」
「それで、協力してくれるのか否か、どちらなんだ」
照れと敗北感から、彼女はぶっきらぼうに逸れた話題を戻す。
「そうね……指揮官様を私にくれるというのなら……冗談よ。分かったわ、協力しましょう」
「協力してくれる手前に注文を付けてしまって悪いのだが……その、自分で作りたいんだが、頼めるか」
「ええ、分かったわ。そうしたら、明日の秘書官の任務は早めに終えなさい。作る時間はできるだけ多いほうがいいわ」
「……恩に着る」
「さ、早く愛しい指揮官様のところにいってらっしゃい。待ってるわよ?」
「言われなくともそうす……!邪魔をした」
これでは私が愛しい彼のために執務室に行くという体で言葉が成り立ってしまうではないか、という念から彼女は出かけた言葉を引っ込めた。
「ふふ、あのようなお方は揶揄うと面白いですね……はぁ、私の恋は叶わずじまいね。本当は、それが正しい主従関係なんでしょうけど」
ベルファストはそう静かに、叶わぬ恋に今日もため息をつく。だが、叶わないとは知っていても諦めることはできずにいた。
「私も、チョコレートを作りましょうか」
ささやかな対抗心によって、彼に対するチョコレートがもうひとつ追加されることになったのは、誰も知る由はない。
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6話:触れ合う距離感
「ふー、今日の仕事は終わりっと」
書類と数時間にらめっこした末、日が暮れる前に仕事を終えることができた。
「ああ、お疲れ様」
思えば、彼女の態度も出会ってから今日までで、随分と柔らかくなったものだ。出会ったときは短く「ああ」と4バイトの文字を発声するだけだったのが、今ではこうして執務を終えるたびに労いの言葉を掛けてくれるようになっていた。
「そういえばもう暖房をつけない日も増えたな、指揮官」
「あぁ、寒がりな俺としては暖かくなってくれてありがたいな」
「暖かくなるにつれて、ペンの動きが鈍ることも減るといいのだが」
「……善処するよ」
今のように彼女から話しかけたり、冗談を言ってくるようになったりもするようになった。自惚れかもしれないがその、彼女との距離が縮まっているのが実感できて嬉しく思う。
「コーヒーでも淹れるかな……あ、ティルも飲むか?」
「頂こう。砂糖とミルクを少し入れてくれ」
「かしこまり」
彼女は何となく、コーヒーはブラックで飲むようなイメージがあったため、その発言が可愛らしく思えてしまい、つい顔が緩んでしまった。
「……どうした?」
「なんでもないよ」
「……そうか」
恐らく俺が笑っている理由は彼女に悟られているのだろう。そのせいで少しむくれている彼女がまた可愛くて、コーヒーを淹れている間は微笑みが顔につきっぱなしだった。微笑んでいたというより、ニヤけていたと形容したほうが正しいだろうか。いずれにせよ彼女は今日も可愛いし、俺は今日も彼女が好きだという事実は変わりないものだ。
「ほい、おまちどうさん」
「ありがとう」
彼女と隣り合わせでソファに腰かけ、無言でコーヒーを啜る。彼女がコーヒーを飲むたびに聞こえる色っぽいため息が聞こえて、変な気分になりそうだということを除けば執務室には穏やかな時間がゆっくりと流れていた。
だが、そんな時間はノックの音によって遮られた。
「おう、入っていいぞー」
「明石にゃ。この前指揮官に頼まれていた装備ができたから、その報告にきたにゃ」
そういえば昨日、明石に設計図を丸投げしていたのだった。守銭奴で少々阿漕な商売をしていることを除けば、こんな風に1日で装備の作成を終えたりと優秀でいい奴なんだが。……俺の財布を干ばつさせたりしなければ、いい奴なんだが。
「おう、ありがとうな」
「あ、明石はペットじゃないにゃ!」
「うるせぇ、撫で心地のいい髪の毛が撫でやすい位置にあるのが悪いんだよ。うりうり」
「やめるにゃ~……明石のミミがぺたんこにされそうだにゃ……」
仕返しをせんとばかりに撫でまわす。ついでにこいつは撫で心地もいい。ふわっふわだ。ずっと撫でていられそうだにゃ~。
口先だけでは抵抗しつつも、まんざらでもないような彼女を一通り撫で終えてから、彼女が持ってきた書類に目を通して印を押す。
「あ、指揮官、他にも用事があるから後で明石のところまでこいにゃ」
「ん?ああ、分かった」
彼女に呼び出されるようなことは何かあっただろうか……考えてもわからなさそうだし行けばすぐにわかることだろうから、一旦このことは頭の片隅にでもおいやっておくことにする。
忘れるにゃ~、と言いながら去る明石を見届けてからティルの隣に座りなおす。それにしても、先程明石の髪の毛を撫でていたせいか彼女の髪の毛についつい目が行ってしまう……うむ、相変わらず艶のある綺麗な髪だ。
「指揮官、私の顔に何かついていたか?」
「ああ、いやその……」
そういえば、以前にも彼女の顔をこうして見つめてしまったことがあったなあと思い返す。本当にカドが取れたというか、物腰が柔らかくなったというか……待てよ、今誰も見ていないこの状況、そして彼女の軟化した態度を総合的に判断した俺の無駄にキレる勘と頭が俺に囁く。今なら彼女を撫でることができるのではないだろうか、
「その、だなぁ……」
今この場で髪を撫でたい、なんて言い出したら怪訝な目線を向けられてしまうかもしれない。ここは極力リスクを避けながら、慎重に
「……彼女にしていたように、私の髪を撫でたいのか?」
オーマイゴッド。俺は今まで無神論者だったが、たった今神を信じることにした。ありがとうございますキリストよ、神の祝福を与えてくださったことに感謝の念を。……これ以上やると本当の信者に怒られてしまいそうな気がするのでやめておくことにする。
「その、そういうこった」
「指揮官がしたいと言うなら、好きにするといい」
以前ならこんなことをさせてくれなかっただろうな、と感慨深くなりながら、帽子を取り頭をこちらに向けてきたティルの頭に手をのせる。
「ん……」
「じゃあ、いくぞ」
想像通り、彼女の髪の毛はさらさらとしていて撫で心地が良かった。普段からしっかりと手入れをしているのが分かる。そんな彼女の女性らしい一面を垣間見れて。彼女が頬を染めながら目をそらして、それでもまんざらでもなさそうな顔をしているのを見れて、俺は今年最大に満たされている。いや、今年はまだ始まったばかりなのだが。
それから暫く彼女の頭を撫でていた。
「……もういいか、指揮官」
「あ、ああ、ありがとうな」
手を離したとき、若干名残惜しそうだったのは気のせいではなかったと思いたい。だが俺は確実に名残惜しいという念を抱えていた。誠に遺憾である。某蛇の言葉を改変して用いることにしよう。もっと撫でさせろ。この言葉が俺の心情を最も的確に表しているだろう。
「指揮官がこうしたくなったのなら、その、これからもしてもらって構わないわ」
……先ほど怒られそうだからやめようと誓ったが、どうやら俺には本気で神がついているらしい。ありがとうございます、神よ。ありがとう、ティル。
「あ、ああ。そんときはその、頼む」
それからカップを片付けた。ティルとは暫くの間お別れである。明日が待ち遠しいと感じるようになったのは、間違いなく彼女のお陰だろう。
「またな、指揮官」
「ああ、また明日」
ゆっくりと執務室のドアが閉じられる。
「髪の毛、さらさらだったなぁ……にしても、照れたティルはやっぱ可愛いかったな」
その上これからは毎日彼女のそんな姿を見れる確約を手に入れたのだ、今の俺の心は貴族を名乗れるほど潤っていた。
「さて、帰……っと、明石に呼ばれてたんだったな」
若干億劫になりつつも、数分間かけて明石のもとへと足を運んだ。
「指揮官、遅いにゃ」
「悪い悪い、詫びと言っちゃなんだが今度何か買ってくよ」
ティルの頭を撫でていたら遅れただけなので、この遅刻は正当な理由がある。異論反論は一切認めるつもりはない……遅れたことは紛れもない罪なわけだが。というかこいつの前でさらっと購入宣言をしてしまった。まずいことになった……俺の財布が干物になってしまう。後でどうごまかしをいれようか。
「楽しみにしてるにゃ。で、用事っていうのは……これ、日頃の感謝の気持ちを込めてあげるにゃ」
「……これは」
珍しい、というか初めての彼女からの贈り物。
「大事に使うにゃ~」
「……ああ、大事にしすぎてしまいっぱなしにならないように、精々気を付けるさ」
「頑張るにゃ~。明石は応援してるにゃ~」
明石から貰ったそれをポケットに入れてから、今度こそ帰ることにする。学園の桜は、そろそろ花を咲かせる頃だろうか。
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7話:あたたかい距離感(前編)
「あら指揮官、これからお昼かしら?」
「ああ。一緒に食うか?」
「指揮官からのお誘いなんて珍しいわね」
「嫌だったか?」
「いいえ?ま、いいわよ。一緒に食べましょう」
執務の休憩がてら昼食を取ろうとして食堂に赴き、最初にエンカウントしたのはオイゲンだった。白銀の髪の毛にある赤い一房の髪に、唇に当てた人差し指がトレードマークと言えるだろう。彼女もまたティル同様に笑顔を見せることは滅多にない、というかない。だが共通点と言ったらそれくらいで、それ以外は全く別の美しさが彼女を成り立たせている。
まず、ティルとの相違点で最も強い印象を与えるのはその色香だろう。言葉から仕草に至るまでの全てが無意識のうちに男を誘惑し、魅了している。だが人差し指を唇に当てる癖だとか、上手く俺をからかえたときに見せる笑顔といい、少し幼い面も持ち合わせており
「指揮官?突っ立ってないで食事を取りに行かない?」
「はっ……ああ、悪い悪い」
「また仕事のことを考えていたの?働きすぎは良くないわ。死・ぬ・わ・よ?」
「気を付ける」
実際は色欲に駆られて目の前の彼女の事を考えていただけなのだが。上手く勘違いしてくれた様で助かった。実際は考え事だけでなく、右の胸から見えるほくろに視線を向けていたりしたが、彼女が仕事のことを考えていると言っていたのでそれもなかったことになる……はずだ。
それから適当に空いているテーブル席を見繕って、対面で座って昼食を取り始めた。
「ところであんた、ティルとは何か進展はないの?」
どうやら最近母港の艦船たち、特に鉄血の間で俺がティルにアプローチをかけていることが少し話題になっているようだ。何故だろう、彼女たちの前でティルにはあまり話しかけたりしていないのだが。因みに余談だが、俺がティルのことをそう呼ぶようになってからは、鉄血の連中に限らず母港の殆どの艦船たちにそう呼ばれているようだ。同じ場所で戦う仲間同士、距離が縮まるのは喜ばしい限りだ。……俺との距離もそうして縮まっているといいのだが。
「どうして俺がティルにアプローチをかけているって分かるんだよ、本当に」
「女の勘ってやつよ。指揮官の様子とかから、何となくわかるわ」
「……なんつーか、座学には少し自信はあるが、女心のことは死んでもわかりそうにないな」
「そんなんじゃティルは落とせないわよ?で、どうなの?」
女心の筆記テストをしたら赤点どころか〇点をとりそうなまである俺でも一つだけ、分かることがある。
(なんでこんなに色恋沙汰に関する話が好きなんだろうなぁ)
分かっていてもその原因、真相は闇の中にあるのだが。
「……まぁ、ぼちぼちだな。前よりかは確実に仲良くなってると思うんだが……酒の誘いは全て断られちまってる」
そういえば、初めて誘ってからもう4ヶ月くらいになる……が、依然として結果は全敗であった。もう木々は色づき始めているのに、俺の青い春はまだまだこなさそうだ。
「あら、ティルはお酒飲めないわよ?」
……嘘だろう?
「……もう少し早く知っておけばよかった」
だから彼女は今の今まで俺の誘いを断っていたのか。俺と酒を飲みたくないのだろうと半ば確信めいた念を抱いていたがよかった、まだ希望はありそうだ。
「ん?だけど酒が苦手なだけで断ったりしないよな……やっぱ俺ってあんま好かれてないのか……」
そう考えると段々と気分がブルーになっていった。深く考えすぎだとは自分でも思うが、彼女のこととなると気が気でいられなくなってしまう。男の俺には似つかわしくない言葉だとは思うが、恋の病とはよく言ったものである。
「仕事をしているときの指揮官は様になっているのに、色恋沙汰となるとてんでダメなのね」
「うるせぇ」
士官学校という色とは一切縁のない(一部はそんな中でも薔薇色を探していた人間はいたが)場所で青春時代を過ごしたのだ、色恋沙汰において優秀だったら逆におかしいだろう。
「あら、そう気を悪くしないで。お詫びにもう一つティルのお酒事情を教えてあげるわ。あいつ、酒癖が悪いのよ。それをあんたに見られたくないから誘いを全て断ってるんじゃない?」
「そうなのか……その、ティルが酔ったらどんなふうになるんだ?」
「それはヒ・ミ・ツ。ティルの名誉のために黙っておくわ」
そう言われると俄然気になってしまう。それも好きな人のことだから猶更だ。因みに、この禁止されるとかえってそのことをしたくなる現象をカリギュラ効果と言うらしい。明日使えるかどうかも怪しい豆知識だ。
それにしても、ティルが酔った姿か。素面があれだから想像が膨らむ。……ティルといえば、今日は彼女が演習に出る日だったような……
「ってやべっ、もう少しで演習が始まっちまう……急いで食わねぇと」
「誰かさんがいるから絶対に見逃せないものね」
「うるふぁいな、ふぃるらけがもくてきやなくて、せんじゅつろかれーたにかんふるあれこれふぉかがあうあらみのあせらいんらよ(うるさいな、ティルだけが目的じゃなくて、戦術とかデータに関するあれこれがあるから見逃せないんだよ)」
「あら、ティルを見るってとこは否定しないのね。それと食べるのか喋るのかはっきりしなさい」
彼女の勧めに従い、黙々と飯を食べ終えて演習場に向かった。
X X X
「うん、今日も問題なくやれてそうだな」
今日の演習はいつものような俺の母港の内の面子同士の演習ではなく、最寄りの母港の艦隊との合同演習という形で執り行われていた。
「相変わらず強いねぇ、あんたんとこの艦隊は」
対戦相手の母港の特筆すべき点として挙げられるのは、やはり隣でともに演習の様子を傍観している彼女の存在だろう。どうやら女性で指揮官になるということは異例らしく、着任したときは同期の間でその話題で持ちきりになった。
(ま、そりゃ話題にもなるよな)
彼女はこの血生臭い戦場に似つかわしいほどの美人で、その上あっさりとした性格をしているため色々な人間、艦船とコミュニケーションを円滑にこなすことができる。指揮官の間ではちょっとしたファンクラブができているほどには人気のようだ。そんな雲の上の存在が隣にいる……この優越感は言葉にしがたい。そして何より
(おぅ、目線がついつい行ってしまう……)
胸が、大変ボリューミーだ。彼女の艦隊にいる高雄と同等くらいだろうか……軍服にギリギリ収まっている、このはちきれんばかりのボリューム感は男を惹きつける魔性を宿しているのだろう。現に俺はその魔性にギリギリのところで惹きつけられてしまった。そこは自分を律するところだろうが、どうしてもオスの本能には逆らえなかった。男性諸君はきっと、俺の気持ちを理解してくれることだろうと信じている。そうだろう?
誰が答えるわけでもない虚しい問いかけをしていたら、彼女から声が掛かった。
「そういえばあんたってさ、今付き合ってる子とかっているの?」
プリンツといい、女性は本当にこの手の話題が好きなんだろうな。性というやつだろうか。
「いやまぁ、今はいないんだがな……」
「お?その反応はもしや……好きなコはいるんだろ~?」
そして今日はもう一つ身をもって体験したことがある。女の勘は鋭い。巷でよく聞く話だが粗方間違ってはいないのだろう。
「まぁ、いなくはないが……あー、この話はもういいだろう?」
「んもう照れ屋だなぁ、ほれどうなのよ、ゲロっちゃいなさいよ、ウリウリ」
「おい、ちょっと……」
やめて頂きたい。貴女のたわわに実った二つの巨峰が俺の体を刺激してやまないのだ。なのにそれに俺から触れることは許されないジレンマが俺の健全な男子の心を蝕んでいる。これは忌むべきことである。だがそれ以上にまずいこととして挙げられることが一つある。健全な男性諸君ならよくわかるあの現象が……つまりこのままでは演習中の彼女たちの対空砲のように俺の砲の射角が最大になってしまう。……砲なんて呼べるような立派なものでもない気がするが。
「なんだ、それともいないの?だったら私がもらっちゃおっかな~」
「そういう態度に俺は騙されたことがあるからやめてくれ」
実際に俺は士官学校に入る前、中学生の時に騙されている。告白して玉砕したあの日以来、俺は女性のこうした態度に少し懐疑的になってしまった。今でもたまに思い出して頭を抱えたくなる時があるくらいにはトラウマだ。
「あはは、ごめんごめん」
「分かってくれたようでなによりだ」
こうして彼女と会話をしながら、演習の様子を一部始終眺めていた。結果は……俺の艦隊の勝ちだった。今日はティルの動きが良かったな。
「あちゃ~……惜しくも負けちゃったなぁ」
「だけど、前やった時よりかは確実に強くなっているんじゃないか?」
「勿論!毎日の訓練は大事だからね……っと、早く迎えに行こうよ」
「そうしよう」
X X X
「うっし、お疲れさん」
「今日も勝っちゃいました!指揮官、ジャベリンは凄いでしょう?」
「おう、よく頑張ったなぁ、よしよし」
「子ども扱いしないでくださいよぅ」
わしゃわしゃと彼女の頭を撫でると少しの抗議の声は聞こえたが、甘んじて受け入れられたようだ。
「ティル、その、MVPおめで――」
「ああ」
とう、と言い切る前に途中でぶった切られてそのまま向こうまで歩いて行ってしまった……すごく、傷ついた。何故だろう、何が彼女を不機嫌にさせてしまったのだろうか。MVPをとる活躍をしているのに不機嫌な理由はなんだろうか……俺なのだろうか?
「うわっ、指揮官が目に見えて落ち込んでる……」
どうやら隠しきれないほど俺は落ち込んでいるらしい。そりゃあ無理もないだろう、惚れた女性にああも無下に扱われて傷つかない男はそういないと思う。
「なあジャベリン……なんであいつ、あんな怒ってんの?」
彼女と4ヶ月もいると、たとえ無表情だとしても何となく感情を読み取ることはできる。だからこそ言えることなのだが、今日のティルは結構、いやかなり不機嫌かもしれない。少なくとも執務室であれほど不機嫌になったところを俺は今までで一度も見たことがない。
「それは……うーん、怒っているのはジャベリンも何となくわかりますけど、理由までは……」
「そっか……はぁ、俺がなんかしたのかねぇ」
「あんた、本当に自覚ないの?」
と、オイゲンから声がかかる。どうやら彼女は何かしらの心当たりがあるようだ。
「え……ああ。今考えてみては、いるんだがなぁ」
やはり女心というのは難しいもので。どう考えても、何度考えてもそれらしい解は見つけられずにいた。
「はぁ……仕方ないわね、今回は特別にヒントを教えてあげるわ。ただその代わりに答えはあんたがちゃんと見つけて、しっかりとティルの機嫌をとってらっしゃい……ティルが不機嫌になると少し面倒くさいのよ」
「本当か、恩に着るぞ!」
最後にぼそりとその不純な動機が垣間見えたが、ここは素知らぬふりをしておこう。
「あんたって本当に一途ね……まぁいいわ。ティルが怒ってる原因はまず間違いなくあんたにある、これは確実よ」
同じ女だからなのか、分かっていらっしゃる。
「そっか……それで、その肝心の原因ってのは?」
「あんた、ティルがMVPをとる活躍をしていた時にあの女と仲良さそうに話していたでしょう?それとジャベリンに対してした行動ね」
「え……まぁ仲良くってのはともかくとして確かに話はしていたが……それだけだとよくわからないな」
どうして俺が彼女と話をしていたら怒るのだろうか。というかそもそも、戦闘に集中していたら俺のほうを見ることはないと思うのだが。考えれば考えるほど、俺が思考の沼に嵌まっていくのが分かる。
「あんたって本当に……いえ、何でもないわ。ヒントはこれでおしまいよ、あとはあんたが考えてあんたがどうにかしなさい」
「……分かった、ありがとうな」
本当のところはもう少しだけヒントが欲しいところだが、これ以上欲張るのもよくはないだろう。彼女の言う通り、あとは俺自身の力で何とかしてみよう。幸いなことに明日の日付は3月14日、本来であればお礼に渡すものに謝罪の意を含ませても問題はないだろう。
「……明石のとこに寄って行くか」
X X X
「この書類、確認しといてくれ」
「……」
……。
「なぁ、今日は天気が――」
「仕事をしてくれ」
「……はい」
すがすがしい外とはうってかわって、ここの空気はどんよりと重かった。
昨日の一件がまだ尾を引いているようで、彼女は非常にそっけない、というか刺々しい態度をとっていた。
「なぁ、昨日は……いや、なんでもない」
彼女に冷めた目で睨まれた。そんなに怒るようなことだったのだろうか……。
あれからというもの、オイゲンにヒントを貰い最終的な彼女の機嫌を取る方法は考えたが、肝心の彼女が不機嫌である原因が究明できていないため、機嫌を取ることができずにいた。
……とりあえず今は仕事を最優先でやるべきだ。それが現段階で俺にできる最善の選択だろう。
今日は一段と静かで、集中するには持ってこいなはずのここでする仕事は捗らなかった。
X X X
「今日は何を食おうかねぇ」
仕事の休憩も兼ねて、俺は食堂に赴いたが……胃の調子が悪いせいか食欲はあまりなかった。……実のところ休憩というのは建前で、あの空気に耐え切れずに逃げ出してきたというのが本音な訳だが。
憂鬱な気分のままトレーを運んでいたらオイゲンを見かけた。……あとは自分でどうにかするといった手前情けないが、もう一度彼女を頼ることにしよう。
「オイゲン、相談事がある」
「……まぁ、こうなることは何となく分かってたけどね」
「助かる」
「私はまだ何も言っていないわよ?……まぁいいけど。とりあえず食事を済ませましょう?」
「分かった」
それから20分ほどだろうか、お互いに食事を済ませたのを確認して俺は口を開いた。
「率直に聞くけどさ……俺、どうしたらいいんだ?」
「はぁ……どうしてこんなに単純なことに気づかないのかしらね」
「む……俺だって昨日から真剣に考えたさ。それでもよ……どうしたらいいか分かんねぇんだよ」
真剣に考えた結果が今日の戦果だ。彼女と仲直りをすることは愚か、話しかけることさえもできてはいなかった。もう正直手詰まりだ、これ以上打開策が思い浮かばない。肝心のホワイトデーに渡すものもこのままでは渡せずじまいになるだろう。
「いい?あんたはティルが好きなのよね?」
「いきなり……ああ、好きだ」
突拍子もない質問に対してその意図を聞きたくなる衝動をぐっとこらえて、ここは一つ素直に彼女の質問に答えていくことにした。頼っているのは俺のほうなのだから、文句を言えた立場ではない。それに、今の状況で彼女が意味のない冗談を言うとも思えなかった。
「なら、もう答えは見えているじゃない」
「えぇ……?」
と意気込んだ矢先、彼女の質問は終わったようだ。一体先ほどの問答にはなんの意味があったのだろうか。
「あんたって本っっ当に朴念仁ね……。いい?昨日ティルはあんたがお・ん・なと、仲良く話していたことに対して腹を立てているのよ?殆ど感情の波を立てないティルが怒っているのよ?ここまで言えばいくら鈍いあんたでも気づくでしょう?」
「……それって、つまり」
「今度こそ自分の力で何とかしてみなさい」
「……分かった」
彼女には、今度個人的に礼をすることにしよう。お陰で
……それともう一つだけ、渡すものが増えたな。
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7話:あたたかい距離感(後編)
「なあティル……どうしてそんなに怒ってるんだよ」
仕事が終わってから意を決して、俺は彼女にそう問いかけた。歯に衣着せぬ物言いであることは自覚しているが、これ以外にいい言葉のかけ方が思い浮かばなかった。
「私は怒ってなどいない」
予想通り、彼女はつっけんどんな態度とともに否定してきたが、俺はもう引き下がらない。この仲違いに決着をつけるため、俺の想いに決着をつけるため、最後まで行ってやる。結果がどうであれ受け止める覚悟も決めてある。
「じゃあなんで今日はちっとも口を聞いてくれないのさ」
「……それは」
「女々しいかもしれないけどよ、寂しいんだよ。お前とこのまま喧嘩したままだってのは嫌だ。やっぱお前とは仲良くしてたいし、その……あぁ!ええい!つまりだなぁ!」
一度区切って、俺が最も彼女に告げたかった
「色々と言いたいことはあったが忘れちまったから全部端折るけどよ、お前のことが!ずぅっと!好きなんだ!だから喧嘩してるのは嫌なんだよっ!!」
「……!今この場でジョークを「ジョークなんかじゃねぇよ!大真面目だよ俺はよ!」……っ」
一度爆発し、決壊した俺の感情はとどまることを知らずに、彼女に今まで告げたくても告げられなかった想いを次々と吐露していく。
「あぁそうだとも!惚れてるんだよお前によ!出会ったときから俺はお前に溺れているんだよ一目惚れしちまったんだよ!白くて艶がある髪が好きだ、サファイアをはめ込んだような綺麗な眼が好きだ、小さく整った鼻も真一文字に結ばれた唇も!最近豊かになって来たその表情も!全部が、全部!好きなんだよ大好きなんだよもう無茶苦茶に愛してるんだよ!!」
「しき……かん」
もうどうにでもなれ。俺が言いたいことは全て言い尽くした。このまま引かれても嫌われても構わない。
「……私も、貴方のことが……好きだ。今まで恥ずかしくて、この想いを伝えられずにいたんだ。私が昨日から貴方に怒っていたのは、惨めな嫉妬心からだった。演習をしているとき、私が活躍しているときに見てくれなかったことが、隣であの女と話していたことが、たまらなく嫌で、寂しかったんだ」
「……ティル……!」
「……こんな冷たい女で、いいのか?」
「……ああ、月並みな台詞だが、お前以外いないっての」
「私は不愛想で、全然笑わないぞ?」
「それ含めて惚れてんだって」
「もう、この想いを、愛しているという想いを、隠さなくてもいいんだな?」
彼女の目尻には、小さな雫があった。
「当たり前だっての。俺だって隠したくはないし、もっとお前に伝えたい」
「なら私がジョークではなく、貴方の言葉を真実だととらえているうちに、しっかりと想いを伝えて……くれるか?」
「……ああ。その代わり、どんな伝え方でも後悔するなよ?」
「ああ、約束しよう」
俺はポケットの中から小箱を取り出して、跪き、箱のふたを開けて彼女に差し出す。さて、これが最初で、最後の想いを伝えるための言葉だ。
「
「
「……はは、我ながらストレートで気障ったらしかったな」
「いや……嬉しいよ、指揮官……」
「そりゃ、よかった。……手を出してくれ」
「……ああ」
彼女の左手の薬指に、そっと指輪をはめる。
「これからもよろしくな、ティル」
「ああっ……!」
斜陽は、執務室に2つの重なり合った影を作り出していた。
X X X
「あ、それと、さ」
「ふふ……なんだ、指揮官」
指輪を渡してから十と数分、俺とティルは暫く抱き合っていた。そして今ティルが笑った。すごく可愛い。あぁもう大好きだ。俺のカスみたいな語彙力じゃ言い表せっこないほど可愛い。……あの時のためにドイツ語を少しだけ齧ってたことは、墓場まで持っていくことにしよう。
閑話休題。本来彼女に渡す予定だったものを今このタイミングで渡すのはいかがなものかと思ったが、このまま抱き合っていたらよからぬことが起きてしまうことは確実であろう。それを防止することも含めた上で今のタイミングに渡すことにする。
「お前から貰ったチョコレートのお返し、まだだったろ?だから今渡したいんだ」
「……まだ、指揮官とこうしていたい」
あぁ畜生俺だってそうしていたいけれども……そろそろ、俺の下半身が危ないのだ。
「受け取ってくれたらまた後でしっかりと埋め合わせをするよ」
「……分かった」
そう言って彼女は渋々と俺の体から離れていく。クソ、名残惜しいってもんじゃないが……もう彼女と俺はその、つまり仮初のものとはいえ夫婦なのだ、今後もこうする機会がある訳で……今のところは俺も我慢することにする。
机の引き出しから暫く眠っていたチョコレートを、彼女に差し出す。
「まぁ、つまらんもんだけど受け取ってくれ」
「ありがとう、指揮官」
「っ……おう、俺もお前から貰ったしな」
あぁもう笑った顔がすごく可愛いなぁ本当に……。花が咲いたように笑うという文学的表現があるが、彼女の笑みはその表現が良く似合うほど美しく、可愛らしいものであった。
……そうだ、チョコレートがあるなら丁度いい。今のこの雰囲気もあることだ、酒の席に誘ってみよう。
「なぁ、丁度そいつがあることだしよ、一緒に呑まないか?」
「……その、私は酒癖がどうやら悪いらしくてな。自分でも酔っていた時のことがあまり思い出せないんだ」
「いいっていいって、俺は気にしないし。その、お前のどんなとこでも愛せるから、さ」
「……そんな陳腐な口説き文句で……いや、それで喜んでしまっている私も大概だな。その、私も貴方と酒を飲み交わしたかったからな、今日は貴方に乗せられることにしよう」
「ティルッ!」
「ひゃっ!」
つい、感極まって彼女を抱きしめてしまった。ずうっと誘い続けてはや4ヶ月、念願の夢がついにかなったのだ、それも2つも同時に。彼女を抱きしめてしまうのは仕方がないだろう。……と、適当な理由をこじつけて彼女との抱擁を交わしたいだけなのだが。
それから数分間抱き合ってから、俺は……いや、俺たちは帰ることにした。
外の桜には、1輪の花が咲いていた。
X X X
母港に隣接された自宅にて。俺とティルは現在リビングのソファでぴたりとくっついて、隣り合わせで座っていた。
……なんというか、告白の時の比ではないが、緊張する。好きな人を部屋に招くことは愚か、母親を除き女性を部屋に入れたことがないから当然と言えば当然なのだが……酒が絡むこともあって、意識をしてしまうものはあるというか。
「やっとこいつを開ける時が来たなぁ」
そんな煩悩を振り払うべく、彼女に話題を振ることにした。
「もしかしてその酒、貴方が私を初めて誘ったときに言っていた……」
「ご名答」
あの時から、この酒は目の前の女性と呑みたいと思っていてとっておいた。数か月の間、リビングの冷蔵庫の肥やしになっていたがようやく開ける日が来た。俺自身酒には明るくないが、友人曰く「滅多に飲めない」とのことだったので、少なくとも市販のものよりかはいい銘柄なのだろう。
「んじゃ、その……結婚祝いっつーことで、乾杯」
「乾杯」
カン、と黄金色の液体が入ったジョッキが鈍くも澄んだ心地よい音を鳴らした。その音色は少しだけ気の早い祝福の鐘のように思えた。
ビールの苦みを舌先で普段よりもゆっくりと味わって喉に流し込む。上品な苦みとアルコールが体を焦がす心地よさ、確かな喉越し……成程、確かにこれは美酒と呼ぶに相応しいものだ。普段飲んでいる缶ビールとは比べ物にならない美味さだ。
「っふぅ……美味いな」
「ああ……私もこんなに美味い酒を飲んだのは初めてかもしれない」
「とっておいた甲斐があったな」
少なくとも、彼女の微笑みと温もりは4ヶ月分以上の価値はあるだろう。
それからはチョコレートを肴にビールっぽくはない、ちまちまとした呑み方をしていた。……が、十と数分後、ティルに異変が起き始める。
「ん……指揮官……ふふ」
「っティル?もう酔ったのか?」
彼女の微かに上気した頬やとろんとした目元を見るに、恐らく酔っているのだろう。こうしてくっついてしなだれかかってきたのが何よりの証拠だろう。
「私は、酒があまり得意ではないんだ……」
そう言った矢先、彼女が俺の肩に頬ずりをし始めた。精神的に喜ばしいことだが、精神衛生上大変よろしくない。先ほど口の中に放り込んだチョコレートのように、俺の理性がゆっくりと溶かされていっているのが分かる。
「っああ、それは聞いたけどさ……」
「ん……あたたかいな……」
「こ、この頃はそうだな、春だもんな、うん」
彼女が出す声と態度の色香に当てられて思わず声が上擦ってしまった。
「あなたも、あたたかいか?」
「あ、ああ、あったかいよ」
あったまりすぎて少し汗をかいてきてしまった。
「そうか……うれしいな。でも、もっとあたたまりたい……指揮官、肩を抱いてくれないか?」
「あー、その……だな」
「……だめか?」
「オーケー、何の問題もないよ」
あぁくそう、ただでさえ理性の限界が近いというのになんてことをしてくれるんだ。これ以上接触をしたら本格的にまずいことになる。我慢するのは楽じゃないというのに、彼女はその
「ふふ……ぎゅー、だ」
待て、待て食いしばれ俺よ。ああ確かに今すぐに押し倒してしまっても彼女は受け入れてくれる可能性はあるがまだもう少し段階というものをふんでもいいのではないだろうかいや確かにこの普段は絶対に見せない甘えた姿やその言動態度は正当な理由になりうるかもしれないが一寸待て俺よあぁダメだ待て待てくっつくな笑うな胸を押し付けるなティルやめろもうもちそうにないからほんとうにやめてくださいちょっとまずいまずいまずい
「もっと、あったかくなろう?」
溶けてなくなった。
俺は彼女のあごに手をやり、強引に接吻をし、舌を絡める。彼女の鼻息、響く淫猥な水音。もう俺を引き留めるものは何一つ残っていないどころか、その行為を助長するものばかりであった。
「ティル……!」
「しき、かん」
彼女をソファに押し倒す。乱れた髪、上気した頬、垂れた目尻、開いた口。ベッドに運ぶ余裕と思考判断力は、俺の中にはもう残ってはいなかった。
「……もう、後悔しても遅いぞ」
「うん……あなただもの、後悔なんてしないわ」
花弁は赤かった、とだけ言っておこう。
今までこんな駄文に付き合って下さり、本当にありがとうございました。もしよろしければ感想、評価を頂けると幸いです。
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