戦車道素人集団を優勝へ導く138の方法 (ススキト)
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1章 
プロローグ


初投稿です。ヴァリアント歩兵戦車を見るような目でみてやってください。


轟音が鼓膜を貫通していき、脳髄に叩き込まれる感覚が彼を襲った。長年、この戦場に身を置いてきた彼にとって、それは痛みではなく一種の心地よさすら感じさせるものだった。

 

一射、二射、三射。激震が絶え間なく狭い車内を駆け回り、その度に火薬の匂いが鼻腔を擽っていく。油と鉄の香りに混ざって、独特の匂いを漂わせるが、それはこの戦場にいる者すべてを酔わせる媚薬のようなものかもしれなかった。

 

魂を燃やすような熱と、心が焦げるような高揚感。それに身を浸しながら、戦のタクトを揮う。味方は整然と流れるように隊列を組み、相手は一両、また一両と沈黙していく。そして演奏が終わった時、この戦場に残るのは心地よい静寂。それが彼の心を静め、確かな快感が全身を包んでいく。

 

それが、彼の当たり前であり、必然だった。

 

今日、この日までは。

 

 

「ぐぅっ!!じょ、状況を報告しろ!」

 

振動に耐えるように体を支えながら、怒鳴りつけるように彼は通信手へと指示を飛ばす。

その間にも敵の砲弾は戦車付近の土壌を抉っていく。暴力的なまでに飛来する砲弾は、幸いにもまだ彼の戦車に一度たりとも傷をつけてはいなかった。

 

「第三小隊、依然敵と混戦状態!!完全にこちらの指揮下から離れました!!偵察隊、通信途絶!ぜ、全滅の可能性アリ!!」

「ぐ、ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」

 

通信手から告げられた不愉快な、そしておそらくは間違いのない事実に彼は腹の底から唸るようにし、歯を食いしばった。

 

「ふざけるな……さきほどまでは此方が圧倒的に優勢だった…!戦力差も歴然、隊員の練度は此方が遥かに上回っている!なのに……なぜだ!!」

 

怒りをそのまま拳へと伝達し、彼は衝動的に鉄板を殴りつけた、鈍い音が響き、そしてそれに呼応するように敵の砲弾が、彼の戦車の装甲を捉えた。

至近弾とは比べ物にならない振動が彼と乗員を襲い、僅かな悲鳴が操縦手から漏れる。

「車体上部に被弾!!損害は軽微!!しかしこのままでは……」

「うるさいそんなことは分かっている!!」

 

いずれ何発もの弾丸が彼の戦車を貫き、そして間もなく沈黙する。頭に過るビジョンを振り払うようにして、彼は指示を飛ばす。

 

「第二小隊に救援を要請しろ!!敵の背後を脅かすようにして、陣形を乱せ!!その隙に我が隊は離脱する!」

「こちら隊長車、第二小隊応答願います!救援要請、敵主力部隊の背後を急襲せよ!繰り返す――」

 

彼は視察口から外部の様子を伺った。広がる視野の大半を支配したのは、威風堂々と横一列に並び、火砲を此方へと向ける黒鉄の車。全員が一つの意志のもとに統率されているかのように、一種の美しさすら感じさせる横陣形だった。鋼鉄の群れ、その名はVK3001(P)、通称「動く棺桶」と大学選抜内で蔑まれていた駄馬―――のはずだった。『彼が彼女たちに与えた』のは、スペックで大きく劣る欠陥品だったはずなのに。

 

「なぜ、こちらが押し込まれる……っ!!火力では此方が上のはずだ!!」

 

現状、不愉快の極みであるが、優位なのは相手だった。彼の部隊は、全体の三分の一が機能不全に、戦場の目となるはずの偵察隊はあっけなく潰され、主力が集まったこの場所もジワジワと削られつつある。悉くが彼の予想の真逆をゆき、このまま何もなく時間が過ぎていけば、屈辱的な二文字をその身に受けるのは、彼の方であった。

敗北か、勝利か。それは別の場所で戦っている第二小隊にかかっていた。

 

そして―――

嫌な汗が頬を伝い、滴となって床を三度濡らした時、その報はやってきた。

 

「だ、第二小隊……敵に包囲されました……!身動きがとれません……救援は、不可能です…」

 

通信手が人智を超えた怪物を見たかのように、瞠目して声を震わせた。やがて彼を除く乗員全員が、感情と表情を同じくしたとき、彼は骨が軋むほどに拳を握った。瞑目し、全身を震わせるその姿は、マグマを蓄えた火口そのものであり、そして数秒の後、必然だったかのように怒りの激情を吐きだした。

 

「――――ふざけるなぁ!!」

 

あまりの怒気に乗員たちが身を竦めたが、彼は迸る感情を抑える術を失っていた。

 

「第二小隊は数の上では敵部隊より勝っていたはずだ!!何をどうすればそれが、敵に包囲されるなどという愚鈍な結果になるというのだ!!第二小隊の隊長は、昼寝でもしていたか!!」

 

第二小隊の構成は、戦車道で使用可能な戦車の中で、新しい部類に属しており、性能も一入である。また乗員も彼直轄ほどではないが、準精鋭といっても差し支えない練度を持っている。相手の戦車の数、スペック、その他を考慮したところで、圧倒的優位は覆らないはずだった。

それが包囲されるとは、彼にとって青天の霹靂であった。またほんの少し前、『我、優勢』という通信が第二小隊から送られてきていたため、勝っているとばかり思いこんでいたら、この始末である。もはや事態は、彼の思考の外にある。

 

「なんとしてでも突破させろ!!数で劣っている敵の包囲網だ、抜けんとは言わせんぞ!!」

「第二小隊隊長から通信!『敵の包囲は極めて巧妙。地の利を活かした用兵の防御は堅く、突破は困難。指示を乞う』……との、ことです…」

 

通信手の顔色はもはや、外の抉れた土と同じ色だった。

対照的に、我慢の限度を超えた彼の顔色は紅蓮に染まっている。

 

「―――どいつもこいつも私の足を引っ張りおって!!なぜ敵を倒し、私に勝利を持ってこない!!なんのために甘い汁を吸わせてやったと思っているのだ!!どいつもこいつも使えん役立たずどもが!」

「お、お言葉ですが監督!私たちは普段と同じ実力を発揮しています!特別私たちが相手より劣っているとは思えません!!」

 

開いた瞳孔が、ゴルゴーンさながらの眼光を放ち、反論した乗員の身体を竦ませた。そしてかの怪物に立ち向かった数多の勇者たちと同じ末路を乗員に辿らせる。

 

「貴様、それがどういう意味か分かったうえでの発言か……?」

 

戦車内の空間がもう少し広ければ、彼は乗員に掴みかかっていただろう。さきほどと同じ、いやそれ以上の怒りが、目に見える形となって彼の全身から立ち上るようだった。

やがて硬直から解けた乗員が、絞り出すように言葉を述べる。

 

「わ、私たちは模擬戦で彼女たちに負けたことは、ありません……今日も、普段通りなら勝てるはずです。ですが、今日は普段と異なる点が二つあります……」

 

彼が歯を食いしばる音が、絶え間ない轟音が響く車内でも良く聞こえた。それほど認めがたい事実が、彼女の口から語られようとしている。だが彼にそれを止めることはかなわなかった。そして純然たる事実が明らかにされる。

 

「貴方がここにいること。そして、『あの人』が相手にいるということです……」

 

既に彼の怒りは限界だった。だがしかし、一定の値を超えた液体が気化し、空気中へと霧散していくように、彼の怒りもまた行き場を失い、やがて消えようとしていた。

 

彼は立ち上がり、砲弾が飛んでくるのを構わずに戦車から身を乗り出し、上半身を外へと露出させた。

綺麗に並ぶ戦車と、青い空、そしてどこまでも続く大地が彼の眼前に広がっている。しかし彼の焦点は、その遥か先にあった。

 

「――――あの男…!!!」

 

目視することはできない。それほどまでに、遠い遠いところにその男はいた。だがしかし、彼はその姿をはっきりと両眼に写すことができていた。その男こそが、彼を敗北へと誘った死神の遣い。

 

天上から全てを見通す双眸。悠然とした立ち振る舞い。そして軍神からの寵愛を独占したかのように湧き出る軍才と、芸術的なまでの作戦指揮。

掲げられるは、赤地に刻まれた『大翼をもって遥かなる高みを征く有翼獅子』の旗。

 

「絶対に許さんぞ………!!」

 

彼から全てを奪っていった男は、凪いだ眼で虚空を見つめている。

三下。何も知らない小僧。彼がそう呼び蔑んだ男。

 

「神栖渡里ぃ!!!!!!」

 

 

表情一つ変えない冷酷さで、神栖渡里はそこに立っていた。

 

 

 

その日、一つの噂が生まれた。しかしそれは世に広められることなく、一年半という時間をただ一人歩きしていくことになる。

 

やがて誰もがそれを忘れた頃、それはとある港町へと辿りつき、そして新たな伝説を創っていくこととなる。

 



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第1話 「着任しましょう」

こんなオリ主いなくたって、大洗女子は自分たちで強くなっていくのにね。


学園艦とは、「大きく世界に羽ばたく人材の育成と、生徒の自主独立心を養う」ことを目的に建造された、簡単に言うと超大型の船であり、海上に浮かぶ学園都市である。形状は一般的に空母のようで、甲板が平たくなっている。しかし空母と似ているのは本当に形だけであり、特筆すべきはその大きさである。小さいものでも全長は七キロメートルあり、これは日本が誇る霊峰『富士山』2つ分の高さである。横幅は一キロメートルほどだが、第二次世界大戦で実際に海を渡った船の幅が200メートルほどであったことと比較すると、その巨大さが想像しやすくなるだろう。一キロメートルを短く感じる者もいるだろうが、一万円札が横に約6000万枚並ぶ長さと言えば、完全に理解できなくとも「すげぇ!」となるのではないだろうか。

 

この学園艦、歴史はかなり長い。ローマで最も有名な皇帝の一人が、自らの著書の中でその存在に言及していたことから、単純計算でも数千年の時を重ねている。海洋国家であったイギリスやヴェネツィアでは既に保有していたという説もあり、「このような巨大な船をどうやって建造したのか」「近代に入って巨大化しただけであり、古くはもっと小さな形だった」など、歴史研究家たちの興味の的となって日々熱い議論が繰り広げられている他、当時の文化を知るための貴重な手掛かりとして、専門的に研究する者もいるほどである。

 

学園艦とは海上に浮かぶ都市である。都市と言うからには、当然人がいる。人がいれば社会が出来て、社会が出来れば設備が生まれる。設備が生まれれば、それらを運用する人がいる。ということで船の上には数万人から数十万人という莫大な数の人々が生活していることになっている。学園艦、という名前の通り、艦上にある学校の生徒が円グラフの多くを占めるが、当然教師から生徒の家族、ホームセンターやコンビニエンスストアの従業員などがおり、学園艦という一つの都市を全員で運用している。住宅は建ち、植林活動が行われ、インフラ整備も実施された。上から見れば本当に、海の上に在るとは思えないほどしっかりとした一つの都市だろう。建造の目的を十分に叶えることができる、自由で開放的な、素敵な場所である。

 

時に都市とは、誰がその形を維持しているのだろうか。電気、水道、ガス、インフラ、物流。

必要最低限かつ絶対的に必要なこれらを、常に健全に運用できるようにしているの誰なのか。陸上の都市では、ガスはガス会社であるし、水道は水道局である。がしかし、お金という観点で線を遡っていくと、ガス代やら水道代といった、馴染の深い言葉に行き着くだろう。つまり税金である。施設を運用し、都市を健常にしているのはそこで働く従業員だが、施設自体を維持しているのは税金だ。これはお金を収める代わりに、生活を支えてもらうという非常に道理に沿った商売であり、公明正大で単純明快な論理である。

 

一方で学園艦はどうなのだろうか。海上で生活する以上、ライフラインの設備は普通の都市よりも洗練かつ先鋭である。複数の浄水・発電施設は勿論、ごみ焼却場もあるし、恒常的に生活するために農場や水産養殖場すらもある。数万人を健康的に養っていけるだけの設備が、一つの船の上にあると考えると、学園艦がいかに壮大な代物であるかを再認識してしまう。ではこれらを運用しているのは誰か。学園艦では、これら全てを生徒が行っている。工業高校や農業高校が実際にそれらの業務に取り組むのと同じようなレベルで、学園艦のライフラインは生徒が全て支えている。一種の教育カリキュラム、それも実践的なものの極致ともいえるかもしれない。

通常社会人が負担すべきところを、生徒が務めることによって金銭的な負担は減る。学生には給料が支払われないため出ていく金はなく、寧ろ学費という形で入ってくるようになっているため、懐は潤う一方である。加えて学園艦住む生徒以外の住人からも税金という形で多少お金が入ってくるし、更に学園艦を管理する国からも、県立であれば支援金が多く、私立であれば少なく出ているため、財政は金の泉如くである。それらのお金を使い、設備を拡充する。すると生徒が増える。生徒が増えると知名度は上がり、収入も増える。収入が増えればまた設備の拡充ができて、増える入学希望者を受け入れることができる。この健全な正のループが、学園艦を維持するシステムの根幹である、というのが有識者の意見である。

 

しかし連鎖と言うものは、一つの綻びであっけなく崩壊してしまうものである。どこかしらが機能不全を起こせば、当然繋がっている部分まで悪影響を及ぼす。そして正のループはその性質を反転させ、豊かな富を生み出していた連鎖は自らを滅ぼす負の因子となる。

 

こういった学園艦は少なくない。国としては利益がある内は協力的でいられるし、プラスマイナス0でも寛容でいられる。だが完全にマイナスを産み続けるだけとなってしまっては、見逃す理由はない。『学園艦統廃合計画』は、そうして始まったものであり、既に何校かが名前を失う、あるいは名前が合体し長くなるといったことを強制されていた。

 

県立大洗女子学園。茨城県の飛び地という形で海洋に浮かぶこの学園都市もまた、『学園艦統廃合計画』によってその歴史に終止符を打つことになっていた…。

 

 

 

「来ていただき誠に光栄です、神栖渡里さん」

「いや、そんなに畏まれては恐縮してしまいますよ。どうか頭を上げてください、角谷さん」

 

海上に浮かぶ学園艦の、甲板の上にある一つの高校の、その中にある一室に二人の男女がいた。女子の方は赤銅色の髪を二房に結っており、非常に小柄な体格である。平均身長よりも大きく低いことが目測でもわかるが、対面すれば外見よりも大きく見えるような不思議な雰囲気を纏っており、上げた顔立ちは実に利発である。名前を角谷杏といい、役職は県立大洗女子学園の権力ヒエラルキーの頂点である生徒会長であった。

 

長机を挟んで向かいに座るのは、これまた男性の平均身長から大きくズレている男だった。深い濃紺の色をした髪を短く揃えていて、落ち着いた雰囲気から見るに完全な社会人男性であった。名前を神栖渡里といい、役職は社会的ヒエラルキーの最下層に位置する無職であった。

 

高身長と低身長、赤色と青色、男性と女性、子供と大人。色々な意味で対照的な二人が、こうして顔を合わせているのは角谷が発端であった。世間話をすることもなく、神妙な表情で招待主である角谷が口火を切った。

 

「早速ですが本題に入らせて頂きます」

 

視線で合図を送り、角谷の横に控えていた柔和な顔つきの女子が、三枚にまとめられた書類を渡里に差し出した。高校生にしては一々所作が丁寧だよなぁ、と渡里は感心する思いになる。翻って自分はこの頃どうだっただろうか、と場にそぐわないことを考えていた。

 

「今日お呼びした理由は一つです。今度我が校で復活する『戦車道』の、講師を務めて頂けませんか?」

 

ずず、と茶を一杯啜り、品の良い味に満足して、渡里は書類に目を通す。

 

『大洗女子戦車道復興計画』。大きく書かれた題目と、その下につらつらと書かれている詳細な概要。なんとも馬鹿にも分かりやすい書き方で、高校生にあるまじき書類作成能力である。こういった能力は社会人、早くても大学の上級生になってから身に着くものだと考えていたが、これが学園艦という特殊な環境の成果なのだろう。ちなみに渡里の最終学歴は『高校中退』である。

 

一通り目を通して、渡里は角谷へと視線を移した。最初に言うべき言葉は既に決まっていた。

 

講師は講師でも、戦車道の講師(・・・・・・・・・・・・・・・)となれば、私は不適任だと思います」

 

戦車道とは、『礼節のある、淑やかで慎ましく、凛々しい婦女子を育成する』ことを目的とした伝統的な武道である。全盛期と比べるとその勢いと活力は失われているものの、未だに根強い人気とそこそこの競技人口を誇っている。有体に言ってしまえば、特殊な素材で安全性を限界まで高めた戦車に婦女子が乗り込み、砲弾を撃ちあうという鉄火の競技であるが、渡里の言わんとしていることは、これが『女性』の競技ということである。今更言うまでもないが、渡里の性別は100人が100人『男性』と答えるものである。

 

「戦車道とは古くから女子の競技であり、女性が中心となって続いてきたものです。整備士やショップの経営、物流など様々な形で戦車道に関わっている男性も、確かにいます。しかし結局、それらは中心から外れたものばかり」

 

これとおんなじですよ、と渡里は茶菓子の包装を指さして笑った。

 

「講師というのであれば、他にも候補はいらっしゃったでしょう。私より、資格も実績もあるような方がね」

 

茶菓子を口に含んで、渡里はその味に舌鼓を打った。その表情は明るい。

対し角谷杏は最初の神妙な顔を未だに維持していた。

 

『なぜ私を選んだのか』。直接告げられはしなかった渡里の問いに、角谷はどう返答すべきか一瞬考慮し、渡里が茶菓子を飲み込んだ時を狙って切り出した。

 

「男性か女性か、というのは些細な問題です。確かに戦車に乗り、競技を行うのは女性だけです。しかしだからといって男性の存在が軽く見られる理由にはなりません。実際、今の戦車道協会の会長は男性が務めています」

「角谷さんは聡明ですね。やはり学園艦の長ともなると、並みの人間では務まらないということですかね」

 

渡里は感心したような声色だった。角谷はその言葉に、曖昧な笑みを浮かべて返した。

 

「それに、神栖さんに実績がないなんて嘘ですよね。大学選抜との一件を知って、私は是非貴方に講師を、と思ったのですから」

「いやぁ、お恥ずかしい。恐縮です。まさかあのことをご存知だとは。戦車道をしている人間ですら、知っている者は少ないというのに」

 

一体どこでお聞きになられたのですか?と言って渡里は茶を啜った。余程味が気に入ったのだろうか、と角谷は思い当たり、一応横に控えている副会長に目配せを送っておく。気の利くこの右腕はそんなことをするまでもなく、自分で気づいていたかもしれないが。

 

「正直に申し上げますと」

 

質問の答えを待たずに、途端に渡里は口を開いた。

 

「光栄なお話です。いや、光栄すぎると言ってもいい。男性である私を講師として招いて頂けるだけでなく、『戦車道の活動において全権を委任する』とまで言って頂けるとは、思いもよりませんでした」

 

書類の一部を指で示して、渡里はまっすぐに角谷を見つめている

全権を委任する。この言葉に込められた魅力は、禁断の果実にも劣らない。好きにしていい、こちらは関与しません。責任だけ取ります。この言葉を重要さは、大人になればなるほど理解できるようになる。

 

「好条件だ。今すぐに飛びつきたくほどにね」

特に私は無職ですし、という副音声つきで。

 

「しかし大人というのは臆病なものでして、ふと考えてしまうんです。ここまでして私を招いて、貴方がたになんのメリットがあるのだろう、とね」

 

角谷はすぐに答えなかった。答えるべきタイミングではないと考えていたし、渡里もまた言葉をつづけるつもりであった。

 

「私に実績は、確かにあるのでしょう。私自身はそう思いませんが。しかし実績に対して当然の報酬と言うのであれば、少しばかり秤が傾いています。明らかに過剰だ、誰にでもわかるほどに。それを正当だと仰るその所以を、ここで明らかにしていただけませんか?」

 

ここが最大の分岐点であることを角谷は悟った。これは単なる理屈と警戒心から来る問ではない。これから共に働いていくパートナーとして、信用するに値するのか否か。それを角谷の答えから推し量ろうとしているのだ。

 

返答はすぐに出なかった。窮しているのではなく、言葉を選んでいるのだろうと渡里は推理した。勢い任せに捲し立てられるよりも余程いい。その慎重さだけでも、自分の上司になるための及第点は超えている。だが、合格点ではない。渡里が求めているラインに到達するかどうかは、角谷の返事にかかっていた。

 

返答は、ゆっくりと20秒過ぎたときだった。角谷はその何倍もある時間を体感していたが。

 

「大洗女子学園は、来年には存在しません」

 

その一言に、渡里は目を細めた。

 

「いま全国の学園艦数の見直しが行われているそうです。維持費運営費ととにかくお金がかかるから、必要なものとそうでないものを分けよう、と。それでこの学校は、後者になってしまいました」

 

渡里は角谷の言葉を待った。苦い顔で、角谷は続ける。

 

「役人方には、『大洗女子には目立った実績がないから』と言われました。大変腹立しいことですが、事実であるだけに言い返せなくて。……それで、」

「戦車道で結果を残す、と啖呵を切ったというところですか」

 

バツが悪そうに角谷は笑った、渡里は茶を啜り、大して驚いた様子を見せることはなかった。しかしそれは、次の角谷の言葉によって一気に破られた。

 

「全国大会で優勝します!と言ってしまいました」

「ブフッ」

 

渡里は重いきっりせき込んだ。喉を通りかかっていた茶が逆流したのだ。二度、三度、四度とせき込み、秒針が半周するくらいの時間の後、渡里は失敬と頭を下げた。

 

「それはまた、思い切ったことをしましたね。……それくらいのことをしないと、廃校とは覆らないものですか?」

「相手に無理難題と思わせることが出来なければ、こちらの主張が通りませんからね。正直賭けでしたが、なんとか認めてもらいました」

 

渡里は感心したように息を吐いた。角谷の交渉術は、高校生が使うものではなかった。学園艦を束ねる生徒会の長は、並大抵では務まらない。

 

「御見事、というべきなんでしょうが、難しいでしょう。いや、ほぼ不可能ですね」

「………やはり、貴方もそう思いますか」

 

『ほぼ』、という言葉も渡里としてはお世辞のつもりである。実際の見込みを言うのなら、10%もないということは両者の中で共通した考えであった。

 

「今の高校戦車道は、四強状態でしてね。過去十年くらい上位入賞校は同じなんです」

 

渡里はツラツラと高校の名前を述べた。それは角谷も良く知るところであった。

 

「参加校が少ないということもあるんですが、もっと根本的なところで、その四校とそれ以外では圧倒的な差があります。どこも最初は追いつき追い越せ、で頑張っていたんですが、今はもう諦めムードが漂っていまして……差は縮まるどころか開く一方なんです。もし優勝できたら、世の中はひっくり返りますねきっと」

 

だが何十年振りに復活する実質的な戦車道新設校が、そこに割って入ることができるか、いやできない。高校戦車道の頂は、そんなに低いところにはない。言外に告げられた事実に、角谷は顔を伏すしかなかった。神栖渡里は、角谷達にとって最後の希望だった。戦車道の世界のおいて、あらゆる意味で異質な彼以外に、最早縋るところはなかったのだ。

 

「全て承知の上で、お願いします。力を貸して頂けませんか……?」

 

だから彼を招待した。過剰とも言える権限を対価にしてでも、角谷は学園を護りたかった。護らなければならなかった。その想いを示すかのように、角谷は祈るように背を折る。

渡里の返答はほんの僅かな間を置いてからだったが、角谷にとっては秒針が三周するくらいに等しかった。

 

「戦車道新設校を全国制覇へ導く。そんなことは誰にもできないし、余程のバカ以外誰もやろうとしないでしょう――――――――」

 

角谷は拳を握った。ほとんど無意識の行為だった。そして渡里は決定的な言葉を告げる。

 

「――――――そんなバカになるのも、悪くないですね」

 

弾かれたようにして、角谷は面をあげた。視線の先には、茶目っ気を滲ませた表情の渡里がいた。不器用に片眼を瞑り、真っ直ぐに背を伸ばして、彼は言う。

 

「私の腕を買ってくれている。私の事を信用してくれている。講師を務める理由は、その二点で十分すぎるくらいです」

 

渡里は深く頭を下げた。成人男性が年下の高校生にするものとしては、その行為はあまりにも謙虚すぎた。

 

「講師のお話、喜んで引き受けさせて頂きます。私の力がどこまで及ぶか分かりませんが、その限りにおいては全霊を尽くすとお約束いたしましょう」

 

顔を上げた彼は、明るい表情だった。角谷は一瞬呆然として、しかしすぐに事態を飲み込んで、渡里に負けないくらいの深いお辞儀をした。

 

 

 

こうして大洗女子学園は、輝く頂への切符、その一つを手にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

「ところで、肝心の戦車道のほうは人が集まっているのでしょうか?」

 

流れるような手際の良さを発揮し、さっさと必要書類へのサインを済ませてしまった渡里は、茶菓子と茶を再び堪能していた。角谷からは、「よく食べますね」と半ば呆れられたような視線を投げられたが、どちらかと言えば茶の方をよく飲んでいるため、そんなに食べてはいない、というのが渡里の言い分である。副会長である小山柚という女子が快くおかわりを持ってきてくれるため、渡里も遠慮はしなかった。流石に常識の範囲内ではあるが。

 

ともあれ先ほどの緊迫した雰囲気から一変し、場の雰囲気は和やかなものになった。

海が良く見えますね、と渡里が景色を誉めれば、どうせなら甲板のほうが見たかったですけどね、と角谷は苦笑した。

 

取り留めない話を、何の意味もなくだらだらとする。渡里としても肩肘張らずに済むほうがよっぽど楽だったし、そういう会話をしている方が、角谷杏がどういう人間かよくわかるのではないか、と考えていた。

 

やはりというか、角谷杏はなんとも人を喰ったような性格をしている。根っこはいい子だと分かってはいる。しかし悪戯好き、とはまた違うベクトルだが、真面目な部分をあんまり見せたがらない、という気質だった。さっきまでの態度は相当無理してたんだろうな、というのがよくわかるほどに、今の角谷はリラックスしているように見えた。

 

「えーと、小山。今んとこ何人集まってるんだっけ?」

「十五人、ですね。まだ未提出者もいますので、これから増えるかもしれませんけど」

「だそうです、渡里さん」

「随分少ないですね」

 

いつの間にか下の名前で呼ばれていることに気づいたのは、書類にサインをしているときだった。随分と馴れ馴れしいが、不思議と不快感はなく、まぁいいだろうと思ってしまうのは、彼女の持つカリスマというか、魅力の効果なのだろうか。

 

しかし十五人とは、頼りない数字である。一つの戦車に乗れる人員は戦車ごとに決まっているが、大体五人乗りである。これは戦車の運用に必要な役職が基本的に五つであることからだが、となると三両ほどしか運用できないことになる。役職を兼任して一両あたりの搭乗員を減らしたとしても、四両が限度だろう。

 

「まぁ私たちも参加しますから、十八人ですね。後は増えることを祈るだけ、という感じでしょうか…」

 

干し芋を美味しそうに食べる角谷と、陰鬱にため息を吐く小山。実に対照的な姿である。たんなる勘だが、この会長の下で働くというのは結構な苦労を伴っている気がする。小山は見かけによらず、苦労してきたのだろうか。

 

「というか、参加なされるんですね」

「意外でしたか?」

 

まぁ、と渡里は頷いた。変に隠す部分でもない気がしたからである。

 

「できることは何でもしようと思ってるんです。私たちは三年でもうすぐ卒業ですし、それに言い出しっぺでもありますから」

 

小山の笑みは健気だった。こんなことを言われてしまったら、渡里としても手を抜くわけにはいかなくなる。

 

「ということは、私の指導を受ける側になるということですね」

「そういうことになりますね~」

「じゃあもう、遠慮はいりませんね?」

 

はえ、と角谷は間の抜けた声を出した。横にいた小山も、目を丸くして固まっている。

 

「まずは保有戦車と戦車道受講者のデータを最優先にもらおうかな」

「は、はい?」

「その次は練習のスケジュールと、弾やパーツといった備品の見積もりと発注」

「あ、あのぉ」

「練習場所はとにかく広く大きいところがいいな。ツテがあるので、そこに連絡して練習場を整備してもらおう。今日明日中に話を通しておくから、打ち合わせしておいてくれ」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

小山が大変慌てた様子でペンを走らせた。構うことなく、渡里はあれやこれやと矢継ぎ早に捲し立てていく。

ぽかん、としていた角谷は、次の瞬間には愉快そうに笑っていた。てんやわんやになる小山を横目に、渡里もまた愉快そうに笑った。

 

 

 

かくして県立大洗女子学園戦車道チームの、後に伝説として語られる快進撃、その序章は幕を開けた。しかし本題に入るには未だ、一人の少女の出現を暫し待つ必要があった。渡里と共に大洗女子の中心としてチームを導いていくことになる『彼女』との出会いは、しかし目前に迫っている。

 



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第2話 「参加動機は各人の自由に任せましょう」

「ではまた後日、お伺いします。頼んでおいた件がまとまり次第、連絡をください」

 

莞爾と微笑み、丁寧にお辞儀をして、渡里は生徒会室を後にした。帰り際、角谷と小山が見送ってくれたが、なんだか言語化しづらい表情をしていた。恐らくは渡里の猫かぶりに若干引いていたのだろうけど、大人になるとはこういうことである。

 

要件が終わった以上、あんまり長居することもないだろう。そう考えて渡里は、そそくさと校内から出ようとした。入校許可証を貰っているとはいえ、ここは女子高。男女比率は言わずもがな。制服姿の女子高生という貴重な存在を近くで見れるとはいえ、成人男性にとって居心地の良い場所ではない。入校するときに『風紀』と書かれた腕章を身に着けたおかっぱ頭の少女に厳しく問い質された出来事が、渡里を消極的にさせていた。女子高校生に叱られる大人の男性、という図を脳内で描き、渡里は身が凍える思いである。

 

(学園艦に乗るのも、随分久しぶりだな……)

 

なるべく人に遭わないルートを選びながら、渡里は過去に想いを馳せた。小学校、中学校は陸の公立校に通っていた。学園艦という存在を知ってはいたものの、実際に自分がそれに乗ることになったのは高校生になってからである。その高校生活も途中で離脱してしまったから、実質学園艦に乗っていたのは二年半もない。

 

決して小さくはない校庭が、窓から見える。そこには体操着に身を包んだ少女たちが元気に準備運動をしている。ああいうことができるのも、学生の内だけなんだと実感したのは、20を迎えて少しした時だっただろうか。大人にしかできないことがあるのなら、当然その逆もある。よせばいいのにいらぬことを考えて、少し寂しくなってしまった22歳の成人男性は一つため息を吐いた。ふと視界に、全身真っ黒な装束を着た少女たちが目にも止まらぬ速さで駆けていく姿が映った。すわ、幻覚か。もう一度視線を向けたときには、既にそこには誰もいなかった。

 

どうやら慣れない船の上で、少し疲れているらしい。さっさと角谷が用意してくれた民宿に帰ろう。

米神を抑えて頭を振って、歩き出そうとしたその時だった。

 

「――――」

 

後から寝床に入って思い返してみたが、不思議な感覚だった。神様が本当にいて、何か見えざる力を下界の人間に振舞う時、それを受けた人間とはこういうものなのだろうか、と。柄にないことを考えてしまうくらいに、それは運命的だった。決して好きな言葉ではないが、この時の感覚を言い表すには、この表現以外にないような気がした。

 

眼を瞑って、畳の匂いと柔らかい布団の感触に浸りながら、瞼の裏にあの時の光景を鮮明に映し出す。

明るい栗色の髪。キレイな弧を描く目。端正な顔立ち。どれも渡里の過去に、見覚えのあるもの。およそ六年の時を経ていても、摩耗することのない記憶に光が当たる。『世の中は狭い』という言葉は、正に至言だと思う。本当にその通りだ。70億人が生きるこの地球の、一億人が暮らす日本という国の、その中の四十七の都道府県のうちの一つの、いくつもある地域の中の、学園艦の中。出会いの確率は、数学者なら一瞬で計算してしまうほどだろうが、渡里には分らない。ただ漠然と、奇跡のようなものなのだろうという気持ちがある。

 

「………みほ」

 

その名前は、世間的にありふれたものだとしても、渡里にとっては特別な意味を持っていた。

久しぶりに口にした名詞だが、口に馴染むような得も言われぬ謎の心地よさが広がったので、渡里は思わず笑ってしまった。

 

「そうか、よりによってここだったか」

 

人の縁とは、不思議なものである。どうやら色々と考えなければならないことが増えてしまったようだ、と苦笑して、渡里はひとまず眠ることにした。角谷と小山(あと一人生徒会のメンバーがいた気がするが)は優秀だが、どうしたって授業選択の期限が来るまでは戦車道の履修生を確定できない。考える時間とやるべきことに費やす時間は、たっぷりとあるのだ。

 

「何と言うべきなのか、何を言えばいいのか」

 

――――きっと意味があるんだろうな、と奇跡の出会いに想いを馳せて、渡里は眠りの神に対する抵抗を止めた。枕が変わった程度で眠れなくなるような繊細さを、渡里は持ち合わせていなかった。

 

 

 

 

 

「あんまり芳しくありませんね、会長……」

「んー…そうだねぇー…」

 

神栖渡里を戦車道の講師として招くことに成功した大洗女子学園生徒会一同だったが、依然として問題は山積みである。戦車道をやるとして、まず必要なのは授業で使う戦車。これがないと戦車道とは名ばかりの『え?何やるのこの空き時間』授業となってしまう。これに関して、一応目途(というには希望的観測すぎるが)はついており、どうにもならないこともない。ただそれと同じくらい、ある意味それ以上に問題なのは肝心の履修生である。環境を整えてやっても、やる人間がいないのでは意味がない。神栖渡里を招いた意味がない。あれだけ真摯にお願いしといて今更「すいません人が集まらなかったのでこの話はなかったことに」なんて言えるわけがない。ハラキリものの失態である。

 

現在戦車道の履修届が提出されているのは、十八名。多いとも言えないが、戦車道ができない程少ないわけでもない。しかしあの男は、帰り際にさらっと言ったのである。

 

『最低でも二十人、できれば二十五人。そうでなければ戦車道をやる意味はありませんね』

 

と。にこやかに厳しいことを言う人だと思う。恐らくにこやかな部分が外面で、厳しいことが素なのだろうが。

 

 

ともあれ現状人が足りていない。日々履修届は提出され続け、既に提出率は八割を超えている中、このまま『果報は寝て待て』とも言っていられないだろう。選択授業紹介で盛大にPRしたつもりだったが、まさかここまで人気がないとは思わなかったというのが本音である。

 

「やっぱ特典に干し芋をつけるべきだったかなぁ…」

「それはぁ…」

 

どうでしょう、とは言わなかったものの、小山は苦笑いである。角谷も冗談の一つでも言わないとやってられない気分だったのだ。それはともかくとして、断じて干し芋に履修生を釣ってくるだけの魅力がないわけではない。そこだけは譲れない部分であった。

 

「――――小山ぁ」

「はい、会長」

「西住ちゃんをさ、呼んできてくれない?」

 

小山は返答に窮した。その反応は角谷の予想の範疇だった。心優しいこの少女は、角谷が立てたある作戦に対して真っ先に否定の色を示した人間だった。

 

「……いいんですか、会長」

「よくはない、んだろうねー…。でも、なりふり構ってもいられなくなっちゃったしね」

 

今から自分がやることは、きっと非道だ。角谷はそう確信している。自分がそれを見ている立場なら、あらん限りの大声で非難するだろう。そんな道理がまかり通るかと、ひたすらに抵抗してやる。しかし角谷は、ただの女子高生ではない。この学園艦に住む数万人の生活を支え、保障する義務を負った生徒会長なのである。

 

だからこそ、『とある少女を脅してでも戦車道を履修させる』なんて馬鹿な真似をすることができる。

 

大多数の人間を護るために、一人の少女を犠牲にする。それで何人もの人間が救われるのなら、それは善いことだ。大多数の側に属することができた人間はそう言うだろう。だが犠牲にされた側にとってはどうか。どんな美辞麗句を並べようとそれは偽善でしかない。強制された自己犠牲に『貴方のお蔭で助かりました』という言葉は、果たしてどんな意味を持つのか。

角谷はそれを知っている。しかし譲れない思いもあるのだ。

 

生徒会長としての義務という建前で、自分の行為を正当化しようとしている。

そのことに気づきながらも、そのお蔭で良心への負担を軽減することができている自分への嫌悪感を押し殺すように角谷は大きく息を吐いた。

 

「渡里さんは怒るかなー…」

「どうでしょうね……戦車道に対しては、すごく真剣な人だと思いますけど」

 

神栖渡里という人間は、非常に特異な人間である。諸々理由はあるが、その最たるは男性でありながら戦車道に深く関わっていることだろう。現在の戦車道の規則では、戦車に搭乗し試合に出場することができるのは女性のみ、とされている。性別という越えられない壁は高く聳え立っており、一部では戦車道衰退の一因ではないかという声もある。しかし関係者が女性ばかりかというと、そうでもない。戦車、あるいはそのパーツを製造する業者は男性が未だ主であるし、戦車の整備をする者も男性の割合いが増えつつある。何より、戦車道の協会の長は男性である。競技に参加できなくとも、何かしらの形で関わっていたいという人間も多いということである。そういう人達の情熱というのは凄く、一般的に男性整備士が『仕事が丁寧』という理由で重用されている根源の一つでもあるかもしれない。

 

神栖渡里という人間も、またそういう類の人種である。しかしその熱量は、女性よりも多いと言われる男性の、更にその数倍であった。

 

「イギリスに留学して、戦車道教導資格を取るくらいだもんね。好き、くらいの軽い気持ちじゃ絶対にできないねぇー。だからこそ招いたんだけど」

 

英国は学園艦文化の先進者であり、同時に戦車道のプロリーグが設置されている程など、日本と比べて遥かに先を行く国である。日本が現在直面している「戦車道衰退」という問題もとっくに通過しており、当時は革命とまで言われる規則の大幅な改正を行うことで更なる隆盛を極めていた。

詳細は省くが、その過程と結果で男性は『競技に半分参加できる』資格を手に入れるに至った。神栖渡里が渡英した理由は、そこにあるとされている。

 

ともかく、戦車道において一定の信用と優秀さを示す証明書を所持している。角谷が神栖渡里に目を付けた訳の一つは正にそこにある。彼の経歴を洗えば色々なことが分かるが、ひとまず角谷と小山が下した評価は、『戦車道にすごく熱心で真面目な男性』というものであり、それは非常に正鵠を射ていた。

 

「んーまぁ、とりあえず行動してみないと分からないかー。理想としては西住ちゃんが自主的に参加してくれることだけど、正直望み薄だし、無理強いして渡里さんの不興を買っても意味ない。だからといって辛抱強く説得してる時間もない」

「ないない尽くしですね……大丈夫でしょうか」

「渡里さんが気づいてくれないことを祈るしかないね」

 

長年の相棒である豪華なチェアーから立ち上がり、角谷は窓の外へ目を向けた。

ここから見える海は本当に広くて、綺麗だった。

あと何回、この景色を見ることができるのか。それは角谷達の華奢な両肩にかかっていた。

 

 

 

 

 

 

 

生徒会広報、河嶋桃に連れてこられた少女は、角谷の予想の三倍いた。別に分身したわけではなく、角谷が呼び出した少女に連れ合いがいただけのことである。

 

一番右の女子。艶のある黒髪を背中まで伸ばし、慈愛と気品に溢れたお嬢様のような雰囲気をしている。名前は五十鈴華。

一番左の女子。明るい茶髪は本人の気質を表しているのか、快活で正に今時の女子高生という感じをしている。名前は武部沙織。

 

名前を知っているのは、事前に河嶋に彼女の周囲を洗わせたからである。まさかついてくるとは思わなかったが、角谷が本当に用があるのは真ん中にいる少女だった。

 

「西住ちゃん、これはどういうことかな?」

 

西住みほ。戦車道を多少なりとも知っている人間なら、彼女の姓に聞き覚えがあるだろう。日本戦車道最大流派の片割れで、主に西日本でその勢力を伸ばし続ける名門。圧倒的火力と防御力で突き進み、立ち塞がる敵を粉砕する鉄心の群。

『西住流』。西住みほは、その直系の次女であった。

 

栗色の髪をボブカットにした、綺麗な弧を描く瞳。あの西住流とは思えないな、と角谷が思うくらいに引っ込み思案で、大人しそうな雰囲気の少女だった。

大きな目は、感情の機微がよく見える。大洗港の波のように揺れているのは、きっと自分のせいだろう。

ヒラヒラと角谷の右手で弄ばれる一枚の紙。それは選択科目の履修届であり、そこには彼女の名前と、『香道』という二文字を囲う黒丸があった。

 

「戦車道を選択しろ、って言わなかったっけー?」

「っ!そ、それは……」

 

戦車道。その言葉に西住みほは、手を上げられる寸前の子どものように身を竦めた。

やはり、と角谷はその反応に自分の仮説が証明されたことを感じた。同時に沸きあがる罪の意識を、無理にでも抑えつける。

 

「なんで戦車道を選ばないかなぁー…」

 

我ながら大した演技力だと角谷は思う。その理由を既に知っているくせに、白々しいとは正にこのことか。

 

「これは生徒会命令だ。断るとどうなるか、分かっているのか?」

 

河嶋桃の声はドライアイスの剣となって三人を切り裂いた。吊り目に片メガネ、髪型と制服をしっかりと整えた河嶋の外見は、小山とは正反対に、相手に緊張感を与える。中身を知っている角谷は全く怖くないが、目の前の三人にとっては心理的圧迫感をもたらす存在に見えるのだろう。

 

西住は俯く。五十鈴は毅然としていて、武部は一瞬怯んだように見えた。しかし優し気な顔立ちに精いっぱいの怒気を込めて、武部と五十鈴は反撃の矢を放つ。

 

「生徒会だからってそんなことが許されるんですか!?いくらなんでも横暴でしょ!!」

「誰にだって自分の道を自分で選ぶ権利があります。それを捻じ曲げることは誰にもできません!」

 

あぁ、と内心で角谷は嘆息した。友達に恵まれたのか、この子は。転校して間もないはずなのに、自分の窮地に一緒に立ち向かってくれる、手を繋いで共に進んでくれる。そんな素晴らしい友達に出逢えたのか。

 

「言うことを聞いておいたほうがいいよ?後からどんな目に遭うか分からないよ?」

「大体なんだお前らは!?関係のない人間が口を挟むな!」

「関係あるに決まってるでしょ!!私たちはみほの友達、友達の問題は私たちの問題!!」

「みほさんが困ってるのに、それを見て見ぬ振りはできません。私たちは、みほさんと一緒に戦います!!」

 

小山を含めた四人の口論は加速度的に熱を増していく。その中にあって西住みほは、未だに下を向いたまま微動だにしない。

 

角谷はもはや口を出すべきではないと判断し、静観することにした。どんな手を使ってでも、西住みほには戦車道をやってもらう。そこに関してどんな感情があろうと、絶対に諦めるつもりはない。

ただ、ここから先は、彼女自身に答えを出してもらわなければならない。するのか、しないのか、友達に代弁してもらうのではなく、自分の言葉で伝えてほしい。ファーストコンタクトは、有無を言わさぬ態度を取った。だが今度は、違う。断っても助けてくれる友達が傍にいる中で、どんな答えを出すのか。

(そうじゃなきゃ、場が収まらないよ。西住ちゃん?)

 

栗色の髪は、ずっと下を向いている。

 

 

 

西住みほにとって戦車道とは、複雑な存在である。過去はそうではなかったが、現在は直視できないものになってしまっている。

 

戦車道の名門『西住流』の次期家元、その次女として生を受けた西住みほは、一年先に生まれた姉と同じように、当然のように戦車道と共に過ごしてきた。身の回りにあったのは戦車に関わるものばかりで、同世代の子どもが絵本を絵物語に聞いているとき、みほは戦車の歴史を聞かされた。初めて乗った乗り物は自転車でも三輪車でもなく、ドイツ戦車だった。もちろん一から十まで戦車道漬けの日々ではなく、玩具や人形、ぬいぐるみも不自由なく与えられていたが、やはり一般人と比べるとその度合いは頭一つどころか膝下くらいまで抜けていた。

 

毎日戦車のスペックを覚える。散歩の足に戦車に乗る。そんな戦車が身近にある環境で育ってきたみほだったが、一度もそれを疎んだことはなかった。厳格な母と、それを補うように優しい父。いつもみほと共にある、かっこいい姉。そして――――何からも守ってくれた、兄。戦車があろうとなかろうと、みほは家族に恵まれていたと思っていた。そして何よりも、あらゆる理屈を抜きにして、みほは戦車が好きだった。キューポラから顔を出すと感じられた、風の流れ。鉄の匂いが充満した狭い車内。雄々しくで武骨な姿。それらがとても好きだった。戦車に触れると、みほは心が温かくなった。

 

そのことを伝えると、父は『しほさんの遺伝子だね』と優しい笑みを浮かべてみほの頭を撫でた。母は常に固い表情をしていたが、その時ばかりは他人から見ると分からない程度に笑ったらしい。姉は一緒に頑張ろう、と言ってみほの手を強く握った。兄は、普段と変わらない様子で笑っていた。

 

戦車で繋がる家族。戦車と共に在る人生。西住の家は、自他ともにその評価を下していた。家の庭にある二号戦車を乗り回し、あちらこちらへと遊びに出かけていくみほは、その評価に何の不満も抱かなかったし、これからもそうであるのだと信じて疑わなかった。

 

転機は突然訪れる。

みほが11歳のとき、高校三年を迎えようとしていた兄は突然イギリスに留学した。幼いみほには難しい話は理解できなかったが、戦車道の勉強をしに行くらしかった。みほは幼心に兄の留学を称えたが、母と兄はその件でいたく揉めた。ただ一回の話し合いを終え、そのまま母と一言も話すことなく、兄は西住の家を出て―――二度と戻ってくることはなかった。

みほは初めて、家族と離れる痛みを知った。なぜ母と兄は揉めたのか、その理由を知らされぬまま。やんちゃな気質はこの時から徐々に失われ、代わりに引っ込み思案という正反対の気質が表出するようになり、みほは中学生になった。

 

戦車道の強豪と言われる中学で、一足先に戦車道をしていた姉の下でみほもまた戦車道をした。子供のころから憧れていた戦車道の世界はとても華やかで、みほは直ぐにその魅力の虜となった。毎日の厳しい訓練で身体はボロボロになり、ベッドに入ると気絶したように眠るような生活でも、そこには充実感があった。

名門たる実家で戦車の英才教育を受けていたみほは、すぐに頭角を現した。上級生よりも優れた戦術眼、統率力を発揮し、瞬く間にチームの主力となり、試合にも出るようになった。姉と共に『西住流』の力を知らしめた、と言ってもよかった。

 

姉が中学を卒業し、母の母校である『黒森峰女学園』に入学することが決定した。みほは姉の後釜として隊長になり、姉と同じ結果を母に報告した。

 

母は一言、『当然ね』とだけ言った。それ以外に何も言わなかった。

 

みほが戦車道に対して、初めて疑念を抱いたのはこの時である。それは今まで自分が歩いてきた道を、振り返ってみる行為だった。当たり前のように戦車を知り、当たり前のように戦車に乗り、当たり前のように戦車道をはじめた。すべてが、まるでそうなるべくしてなったように。姉はいつだって自分だけの道を、切り開いていくようなのに。対してみほは、自分の後ろにある無数の足跡を、人工物のように思えてしまっていた。戦車に触れる右手からは、金属特有の冷たさが感じられつつあった。

 

自分にとって戦車とは何か、戦車道とは何か。

いつしかそんな陰鬱な思いが胸の片隅に溜まるようになりながら、姉と同じ黒森峰女学園に入学し、戦車道をする。中学時代に仲の良かった友人と共に、日々戦車道に身をやつしながら。

そして、生涯忘れることのできない出来事が起きる。

 

結論から言うと、西住みほは戦車道から離れた。それは純粋な逃避の結果だった。

寝つけぬ夜が続き、目を瞑ればトラウマがフラッシュバックする。あれほど好きだった戦車道は、一瞬で自分を苦しめるものに変貌した。

家出のような形で西住を捨て、大洗女子学園へと転入した。新しく通うことになる学校は、戦車道がない学校だった。戦車道漬けの日々から、戦車道が断絶された世界へ。

今までの自分は、戦車道しか知らなかった。それが自分の道を、狭めていたのではないか、とみほは新しい環境で新しい道を探そうとした―――矢先だった。

 

運命の鎖はみほを簡単に解放しようとしない。

大洗女子学園でも戦車道が発足した。何十年ぶりかの復興だった。

そこからは転がるように事態が進んだ。新天地でできた初めての友達は、戦車道に乗り気になり、生徒会を名乗る先輩は脅しめいた口調で戦車道に勧誘してきた。

 

みほが感じたのは、途轍もない絶望だった。戦車道が嫌で、戦車道しか知らない自分を変えようとして、別の道を探すために実家を捨て、転校までして。結局行き着く先は変わらないのか。どこまで行っても、どこまで逃げても、『西住』という血脈からは解放されないという事実を突きつけられたようで、みほの目は虚ろになった。

 

そんな中、手を差し伸べてくれる人がいた。一緒に戦車道ができない、と伝えると、構わないと笑ってくれた人。貴方の行く道が、私たちの行きたい道なんだと、冷たくなった手を握ってくれた人。

その人たちは今、みほの隣に立っている。みほを傷つけようとするものから、必死になって守ろうとしてくれている。

 

(武部さん……五十鈴さん……)

 

一人ではきっと、みほは何も言えなかっただろう。生徒会からの呼び出しに震えていたような自分だ、有無を言わさぬ態度に呑まれて、自分の気持ちを伝えることなく、また誰かの作った道を歩かされていただろう。

 

「――――あ、あのっ!!」

 

喧騒に負けないように、みほは自分にできる最大限の声を出した。一転場が静まり、十個の眼がみほに向けられる。

 

「わ、私……」

 

知らず、みほは武部と五十鈴の手を強く握っていた。そこから目に見えない力と、勇気が流れ込んでくる気がしていた。

言う。言うんだ。今までの自分とは違う。自分の気持ちを言葉にして、自分が歩く道を、自分で作るんだ。たとえそれがどんなに辛く、険しい道であっても。

昔とは違う。一緒にいると、言ってくれた友達がいてくれる限り、歩き続けることができる。そう思えるようになったから。

 

だから言うんだ。『戦車道は、できません』と。

 

「私は、私は――――戦車道を、」

 

―――――じゃあ約束だ。

 

「――――」

 

喉元まで出かかっていた言葉が、音になる前に霧散した。

ふと頭に響いたのは、幼き頃に交わした、忘れることのできない誓約。それはみほの中に流れる血脈が垂れた、慈悲か、あるいは悪意か。それを決めるのは、きっと未来の自分。

 

 

『俺は戦車道を絶対に諦めない。だからいつかその時が来るまで――お前も諦めるな。戦車道を続けてれば、いつかまた、絶対に逢えるから』

 

 

「――――戦車道、やります!!」

 

この時みほは生まれて初めて、自分の意志で道を選んだ。誰が何を言おうと、たとえきっかけが誰かの思惑であろうと、今までと同じ道だろうと……自分で選んだのだ。自分で歩くと決めたのだ。

 

「……え、えええ!?」

「みほさん!?」

 

二人が目を剥いて驚いているのを見て、みほは自分が冷静になっていることを自覚した。視界の隅に映る生徒会の人たちも、目を丸くしている。

 

「いいの、みほ!?戦車道、嫌じゃなかったの?私たちに気遣ってない?」

「生徒会の人達が言う事なんて気にしなくていいんですよ?私たちは、みほさんの味方ですから…」

あぁ、ほんとうに、自分は友達に恵まれたのだと、みほは心の底からこの出会いに感謝した。

 

「うん、ごめんね、二人とも。言ってる事とやってる事、全部バラバラでめちゃくちゃだけど、これでいいの」

 

気づかわし気な二人に、みほは苦笑した。

 

「二人がいてくれるから、だから大丈夫だよ」

 

きっと今の自分はうまく笑えているはずだ。あのときよりはるかに、良い笑顔を浮かべている。だってこんなにも、心が温かい。

 

「――――わかった。華!」

「ええ」

 

二人は視線を合わせて、ポケットから一枚の紙を取り出した。それは彼女たちの、履修届だった。何も言わず、生徒会室に置かれている長机の上のペンを掴み取る。片眼鏡の女子が慌てた様子で制しようとしたが、二人は流れる動作でペンを動かし、書き終わるとそのまま生徒会長の前に歩み寄った。

そして印籠を突き出すかのようにして、

 

「普通一科A組、武部沙織」

「同じく普通一科A組、五十鈴華」

 

「「戦車道を受講します!!」

 

堂々と宣言した。

 

「―――確かに。受け取ったよー」

 

不敵な笑みを崩さないまま、角谷は三枚の履修届を収めた。これでもう、後戻りはできなくなった。みほはこれから、自身のトラウマと向き合っていかなければならない。それは辛く、険しい道のりであることだろう。

 

「行こ、みほ!」

「みんなで戦車道ができるの、楽しみですね!」

「――――うん」

 

それでも、とみほは思う。この手を握ってくれる友達がいるのだから、大丈夫だと。

 

冷えた心を包む、このぬくもりがある限り、どこまでも行けるような気がしたのだから。

 

 

 

 

 

「二一人、とはギリギリですね。まぁ前言を撤回するつもりはありませんが」

「それでは、本格的に指導をして頂くということで、よろしいですか」

 

ええ。と神栖渡里はにっこりと頷いた。雇い主と雇われという立場で話すとき、この人は綺麗な言葉使いと態度をする。年齢的に上の人間に畏まられるのもむず痒い気がする角谷だが、いざ戦車道が始まれば立場も逆転するだろう。

 

「やはり、というか経験者はほとんどいませんか…」

 

簡単なプロフィールをまとめた履修者リストを眺めながら、渡里は渋面を作った。指導者の立場からすれば、これほど厳しい現実もないと角谷も思うし、渡里の感情も仕方がないものだった。

 

「難しいですが、なんとかお願いしますね、渡里さん」

「うーん、そうですね。まぁ、寧ろ初心者ばかりで良かったのかもしれません」

 

渡里の不可解な言葉を聞き返す前に、彼はさっさと二の句を継いだ。

 

「それに、まるっきり初心者ばかりでもありませんしね。―――彼女がいるのも驚きですが、戦車道をやるというのはもっと驚きました。一体どんな魔法を使ったんですか?」

 

渡里が一体誰を指しているのか、角谷にはすぐわかった。

西住みほ。戦車道の名門、『西住流』本家の次女。戦車道の世界において、これほどの逸材もないが、彼女はある理由で戦車道のないこの大洗女子学園に来ていた。

 

「戦車道をするなら、必ず必要な人材ですから。辛抱強く説得しました」

「説得、ですか」

 

渡里は含みのある言い方をした。彼の瞳はときどき、全てを見透かすように鋭くなる時があることを角谷は知っていた。油断すれば、こちらの心の内を読まれてしまうだろう。しかし脅迫まがいのやり口で勧誘した、とも言えない。こういう時角谷は顔の筋肉を総動員して、かわそうとするのだった。

 

「ま、いいでしょう。それでは、使用する戦車のリストを頂けますか」

 

ぎくり、と角谷は心臓を掴まれた。それは角谷が渡里をここに呼ぶ前に、「自分のペースで進めよう」と決めていた事柄だった。しかし虚しくも先手を打たれてしまった。

 

「あー、と。その件なんですけど……あるにはあるんですが、ここにはないというか」

 

歯切れの悪い角谷の態度に、渡里は当然不信感を抱いたようだった。

ええい、南無三。取り繕っても仕方がない。神栖渡里はこれから大洗女子学園戦車道の全権を握る立場になるのだ、隠すよりも正直に話したほうがいい。

 

「書類上、この学園艦には何両かの戦車があることになっているんですが……」

「その場所が知れない、ということですか。どうにも行き当たりばったりな気がしますが、まさか考えなしに戦車道をはじめようとしたわけではないですよね?」

 

この男、鋭い。

 

「戦車道開始初日は、戦車の捜索から始めようと思います。大体の位置は絞り込めているので、手分けして探せばすぐ見つかるはずです」

 

「まともな保管をされず、その辺に放棄されていた戦車がすぐに動くとは思えませんね。一日二日は、整備することになるでしょうが、戦車の整備士にアテは?」

 

「自動車部が協力を申し出てくれています。四人しかいませんが、陸地の整備工場に手伝いを乞われるくらいです。おそらく問題ないかと」

 

自動車部かぁ、と渡里は微妙な表情をした。気持ちは分かるが、無名の大洗女子に人脈は皆無。あるものでどうにかするしかない。戦車道が始められるかどうかは、ある意味自動車部にかかっていた。

 

「期待しておきましょう。一応、私のほうでも何人か声をかけておきます。場合によっては部品の発注もしておかなければいけませんし」

 

後に大洗女子学園戦車道を支える、ウルトラハイスペック・メカニックチームの存在を角谷も渡里も知らない。

 



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第3話 「基礎と初対面は大事にしましょう」

なんて偉そうな奴なんだこのオリ主は。


「これはなんとも、味があるというか年季を感じるというか……」

「ボロボロ、だね…」

 

大洗女子学園戦車道二一名の前にあるのは、お世辞にも整備されているとは言えない、錆とカビを友人にしている戦車たちだった。

 

その凄絶な有様を秋山優花里は遠回しに、武部沙織はストレートに表現した。西住みほもまた二人に同意見だった。「学園艦のどこかに戦車があるから、探してきてー」と生徒会長角谷杏に言われた時点で嫌な予感はしていたが、古巣では考えられない雑な扱いである。罰としてグラウンド50周を言いつけられても反論できないだろう。

 

「四号D型、三号突撃砲、M3リー、38tにあれは……八九式でしょうか」

 

そんな見た目の戦車たちでも、秋山優花里はそれらの名称をキッチリと言い当てた。みほも思わず拍手する知識量だった。

 

戦車捜索の時に縁を結び、みほの新たな友人となった秋山優花里は、大洗においては珍しい戦車大好き少女だった。なんでも子供のころから憧れていたらしく、暇さえあれば戦車関連の本を読んでいたとのことである。本当は戦車道をしたかったが、実家が学園艦にあるために大洗女子学園へ進学し、誰とも戦車の話をすることなく燻っていた時に戦車道復活の報を受け、すぐさま飛びついたらしい。

 

端的に言うなら、少し癖のある焦げ茶の髪をしている以外普通の女子だが、中身はゴリゴリの、みほの古巣でもやっていける戦車マニアである。あんな錆だらけでも元の形が分かるくらいだから、それはそれは大したものだろう。

 

「どう?西住ちゃん。動きそう?」

「ふぇっ!え~と…」

 

訊かれてみほは、右手で四号戦車の装甲を撫でてみた。見た目通りのザラザラとした感触だが、中身まで傷んでいるわけではない。足回りも見てみるが、目立った破損もない。中身はともかく、外装は錆を落とせば十分現役復帰できるだろう、というのがみほの見立てであった。他の戦車も見てみるが、四号と同様の診断結果であった。

ただ、

 

「この八九式……」

 

ひとつだけ違和感を覚えたのは、八九式戦車であった。きちんと整備をして、元の姿にしてもらわければ断定はできないが、みほの記憶にあるソレと、今目の前にあるコレは、微妙に異なっている気がした。何を、と言われてもみほには言語化できない。ただ漠然と、何かが違うという拭い難い感覚があるだけだった。

 

「大丈夫そう?」

 

傍に来ていた角谷が、再び尋ねた。ハッと我に返って、みほは自分の見立てを告げた。

 

「ちゃんと整備すれば大丈夫だと思います…けど」

「けど?」

 

みほは一瞬躊躇った。戦車道経験が未知の角谷に、話したとして伝わるのだろうか。

しかし言いかけてしまったものを引っ込めることはできなかった。

 

「この戦車だけ、何か変なんです。具体的に何がとは言えないんですけど……」

「ん?これ?まぁ確かに他の戦車とは違うよね」

 

マジでね!?みほは角谷の顔を凝視した。

 

「これだけ貰いものなんだよねぇ。もし戦車が足りなかったら、使ってくれーってさ」

「そ、そういうことですか…」

「そ。あんまり甘えたくなかったんだけど、結局使うことになっちゃったねー…」

 

拍子抜けした思いのみほだった。

 

「かーしまー!後よろしくー!」

「わかりました。それでは、今から戦車の洗浄を行う!外と中、両方とも綺麗に磨け!」

 

すたすたと格納庫から去っていく角谷に一礼し、生徒会広報の河嶋が場を仕切り始める。片眼鏡と吊り上がった目が周囲に与える怜悧そうな印象と、ハキハキとしてよく通る声は仕切り役に適任だった。

 

「えーー掃除するのー!?」

 

武部が驚きの声をあげる。声には出さないものの、他のメンバーも武部と同じ気持ちだっただろう。

 

「自動車部が『錆を落としておいてくれば、明日までに動くようにする』と言っているんだ。一番難しい部分の整備を引き受けてくれるのだから、つべこべ言わず綺麗にしろ!」

 

上級生にこんな剣幕で迫られたら、下級生は静々と従うのみである。基本的な道具は一通り揃えているようだし、人手も十分足りている。時間さえかければできない作業ではないだろうが……

 

「戦車に乗れると思ったのに~…」

「我慢ですよ、沙織さん」

 

武部と同じような気持ちの人間もたくさんいるわけである。みほはその様子を見て、苦笑するしかない。

 

「でも武部殿、これからずっと私たちが乗る戦車なんですから。自分たちでキレイにしたほうが愛着が湧きますよ、きっと」

 

「優花里さんの言う通りです。これからお世話になるのですから、そのお礼として頑張りましょう」

 

「うー…そうだね。これもモテ道のため…!よし、みんな頑張ろう!」

 

そういうと武部は意気込んで更衣室へと足を進めていった。明るくて前向きな彼女の性格が、素直に羨ましいみほであった。

自分たちの戦車を自分たちでキレイにする。それはみほの古巣でも常識として行われていたことだった。戦車道は『人車一体』であり、どちらかを失くしては何もできない、ということを忘れないためでもあるし、また日常的に戦車に触れることで、戦車のコントロールが上手くなるとも言われていた。それに何より、秋山の言う通り愛着が湧けば、自然と大事に扱おうという気持ちが生まれてくる。

 

そういう意味ではみほも賛成である。しかし、あれだけボロボロの戦車だ。元通りになるまでにどれだけの時間と労力が必要なのか。

 

よせばいいのにいらぬ予想を立てて、少し気持ちが滅入ったみほは、そんなマイナスな感情を振り払うように武部たちの後に続いていった。

 

 

 

「おー、涼しそうだなぁ」

 

窓から見える景色を見下ろしていたのは、大洗女子学園戦車道教導官に着任した神栖渡里である。彼の視線の先では、横一列に並べられた五両の戦車と、体操着に着替えてモップやらホースやらを持って戦車を磨く少女たち(一人水着がいるけど)だった。水に濡れた髪や体操着のズボンから覗く脚線美など、非常に眼福な光景だが、まさかじっと見続けるわけにはいかないので、渡里はさっさと視線を自分の正面に座る少女へと移した。

 

「お前はしないのか、角谷」

「私は他にやることがありますのでぇ」

 

今この場にいるのは、雇い主と雇われではなく、教導官とその指導を受ける者であった。

 

「それにしんどそうですし。業者を雇ったほうが楽だし速かったんじゃないですか?」

「それじゃあ意味がない。自分が使うものくらい、自分でキレイにしてやらないと。それに、ちゃんと理由はあるんだぞ?」

 

業者を雇わず、自力でやらせるように指示したのは渡里である。これは単に「お金もったいない」という貧乏根性が働いたわけではない。

 

「どの学校も、自分のが乗る戦車は自分で面倒を見る。それは単に愛着があるからだけじゃあない」

「まさか掃除を通して『立派な淑女』になるため、でもないですよね?」

 

からかうような表情と口調で角谷は言う。それもあるかもな、と渡里は前置きをして、

 

「自分の手で戦車を触ってると、不思議なもんでその戦車のことがよくわかってくる。見た目の違和感はもちろん、走らせてると『エンジンの調子が悪い』とか『履帯に問題がある』とか、ちょっとした挙動の違いから気づくようになるのさ。一流のスポーツ選手はこういう異常を察知する感覚が高いらしい」

「テニス選手がラケットを何本も持ってきて、試合中に取り換えたりするのと同じですか」

「似たようなもんだな。じゃあ、なんで『これは良くない』って気づけると思う?」

 

すると角谷はほんの数秒だけ思案顔になった。普段は無邪気ないたずらっ子のように表情豊かな彼女だが、真面目な顔をすると一転、河嶋よりも利発そうに見える。実際、成績もいいのだろうけど。秒針が半周もしないうちに、角谷はまた普段通りの表情に戻った。

 

「普段と違うから、でしょ」

「正解。もっと厳密にいうと、『最高の状態』を知っていて、常にそれと比較しているからだ。かの有名なF1レーサーは、自身の命日となった日に『乗りたくない』と言ったそうだが、きっとマシンの異常を直感的に見抜いてたんだろうな。そのレベルになれ、とは言わないけど」

「物差し、くらいは持ってほしい。そのための清掃作業、というわけですか」

 

渡里は笑顔で頷いた。

やはりこの少女は聡明だ、と渡里は改めて感心した。軽薄そうな表情の裏には、豊かな知性が眠っている。

 

「でもまぁ、右も左も分からない初心者集団だからな。ちゃんとした物差しができるまでは時間がかかるだろ。しっかりと習慣化させて、戦車を身近に感じれるくらいにならないとな。それに、本当の目的は、実は別にある」

 

言って渡里は茶を一杯啜った。初心者ということは、戦車に触れるのも初めてということ。おそらく彼女たちは、自分たちに与えられた戦車の名前すら知らなかっただろう。経験という土台がない彼女たちに、良い状態悪い状態を見分けるも何もない。圧倒的に不足しているのは経験値である。

 

「自分たちが磨いた戦車だ。少なからず、興味が湧くはず。興味が湧いたら、どんな戦車なんだろうって調べるやつもきっといるさ」

 

今や知りたい情報がすぐに手に入る時代だ。戦車の名前を検索すれば、歴史からスペック、運用方法まで何でもわかる。

 

「自分たちの戦車がどんなものなのか、知ってほしいわけですか」

「あぁ。そうして得た知識が、経験値の少なさを埋めてくれるんだ。……まぁ、即効性はないけどな」

 

プラモデルを作る時は説明書を読むし、積木は土台から作っていく。基本はしっかりとやるべきという渡里の指導は、角谷の思いとは裏腹に、今は常識的な範囲かつゆっくりとしたものであった。

 

「要件っても、紹介してもらった例の人に電話するだけですけどねー」

「ん?ああ、あの人か。三日くらい候補上げると三日間来るような人だからなぁ…本業の方はどうなってんだろ。暇ってわけじゃないはずなんだが…」

 

渡里の頭に浮かぶ姿は、陸上自衛隊の制服に身を包んだとある女性だった。ある縁で知り合うことになった、戦車に関しては優秀な人物なのだが、独特のテンションと雰囲気を持っていて渡里はどちらかというと苦手である。戦車に関しては優秀なんだけど、本当に。

 

「最初から渡里さんが指導する方が良かったんじゃないですか?渡里さんがいるのに外部から教導官を呼ぶっていうのは……」

「色々事情があってな。最初の一回目はどうしても外から見たかったし……この業界、男性ってのは気を遣うもんなんだよ」

 

それっきり渡里は何も言わなかったので、角谷も問い質すようなことはしなかった。どうにも不毛な気がしたのだろう。彼女は話を次に進めた。

 

「自動車部の見立てだと、明日の昼には動くようにできるそうで。戦車道の授業も午後からですし、さっさく明日お願いするつもりです。ちょうどよかったですね~」

「ず、随分早いな…明後日までかかると思ってたんだが。まぁ、早く終わるに越したことはないか」

 

戦車五両。あの調子では綺麗にするのに夕方までかかるはず。そこから駆動系等の整備を始めるとしても、明日の正午だとタイムリミット約18時間。それを五で割ると、一両あたりにかけられる時間は四時間弱。しかも一休みも一睡もしないという条件付き。自動車部が20人もいるなら話は別だが、四人しかいないと聞く。誰がどう考えても常識的な速度ではないんだが…。

 

なんだか怖くなってきたので渡里は考えを別の方向に切り替えた。

 

「ということは、顔合わせも明日になるのか」

 

ため息一つと共にそんな言葉を吐けば、角谷は嬉々として渡里に訊いてくるのだ。

 

「もしかして緊張してます?」

「女子高校生と話す機会なんて片手の指で足りる程しかないし、扱いに困ってるのは事実さ。大事な初対面だし、なんとか良く終わらせたいもんだが」

 

渡里からすれば、女子高校生とは宇宙人と並ぶレベルの未知の存在である。言葉一つとっても、気を遣わないといけなくなるだろう。デリカシー的に。髪もセットしなければならないし、体臭も消す必要がある。何とも面倒な話ではあるが、だからといって欠かすこともできない。

 

「いよいよ()()神栖渡里の指導が始まるわけですねぇ。今から楽しみです」

「だというなら、もう少し畏まるべきだな。」

 

干し芋を手で遊ばせながらヘラヘラ言う台詞ではない。

 

「戦車道素人集団を、旧式戦車に乗せて、全国大会で優勝させる……口にするだけなら簡単なもんだ」

 

深い色をした髪を掻きまわしながら、渡里は嘆息した。自分がどれほど大それたことをやろうとしているのか、言葉にして改めて思い知らされたのだ。弱小チームがその競技の最高峰を目指す、というのはフィクションにはよくあることだが、実際に自分がその立場に、それも率いる立場となると、決して楽観的ではいられない。

 

「無茶と無謀は若者の特権、っていう言葉がありますよね」

「それを止めるのが、大人の役割なんだけどな」

 

一緒になって突っ走る自分は、なんだろうか。「いい年こいて…」と、風聞という名の理性が働く。

しかしこの難題を前にして、渡里の胸の奥に熱く滾るものがあるのも事実だった。

 

「―――――一割を切るな」

 

その声色は角谷が初めて聞くものだったに違いない。空気がその温度を下げたのを、敏感に感じ取ったのか角谷の表情が少し硬くなる。それはそうだ、と渡里は思った。公人としての神栖渡里でも、教育者としての神栖渡里でもない。『戦車道の神栖渡里』を真に見せたのは、これが初めてだった。

 

「現時点での大洗の戦力からすると、優勝できる確率はそれくらいだ。最も、希望的観測を含めてだけど」

 

これは決して、的外れな見立てではない。最精鋭戦車を駆るのが当たり前の戦車道強豪校からすれば、旧式戦車しか持っていない今の大洗女子学園など歯牙にもかけない。運やまぐれで勝ち抜けるほど、甘い世界ではないことを渡里は知っていた。

そして薄々、角谷も気づいていたはずだ。視線を向ければ、暗澹としたものを瞳の奥に潜ませる少女がそこにいた。

 

「……困難な道であることは承知です。しかし、不可能と言われても諦めるわけにはいかないんです」

「不可能なんて言っていないさ」

 

雉が撃たれたような顔とは、このことか。渡里はまた茶を一杯啜った。鏡の向こうの自分に、『ずいぶん偉そうに大口を叩くやつだ』と悪態をつくような感覚はある。当然だ、一体自分は何様の心算なのか。しかし力の及ぶ限りは全力を尽くす、と約束した以上、クライアントを安心させることもまた必要なことだった。

 

「勝負の世界に絶対はないし……なによりお前達を勝たせるのが俺の仕事だ。一割の勝率を五割にすることはできないが、その一割を無理やり掴み取れるようにはしてやれる。そのために―――」

 

渡里は一拍間を置いた。これは話術でもなんでもなく、ただこれから言うセリフを選んだだけだった。

 

「――――138個くらい、方法がある」

 

そう言って渡里は、不敵な笑みを浮かべた。この少女に対しては、曙光のような笑顔よりも、こちらのほうが効果的だということを渡里は知っていた。

 

 

 

大洗女子学園の、そして西住みほの新天地での、初戦車道はあっという間に終わった。

戦車を元の位置に戻し、一息ついたみほは過去を振り返ってみた。

 

腕が軽く筋肉痛になるほど磨きに磨いた戦車たちは、翌日には魔法にかけられたように現役復帰を果たしていた。三号突撃砲、通称三突は歴史好きが集まった歴女チーム。M3リーは未だ幼さが残る一年生六人チームに。38tには戦車道復活の主導者である生徒会チーム。最も古い八九式戦車には、バレー部復活のために戦車道に参加したバレー部チーム。

 

そしてみほを中心とした四人チームには、四号戦車が与えられた。

 

ドイツ製の戦車でトータルバランスに優れた四号は、古巣で同じドイツ製の戦車に乗っていたみほにとって馴染み深く、その乗りやすさは初心者ばかりのメンバーにとっても有難いものだった。

 

そして全員がこれから始まる戦車道に胸を躍らせ、搭乗を今か今かと待ち望んでいた時、それは起こった。

 

ふと陸に影を落とす金属の巨鳥。そこから舞い降りた、鋼の天使(10式戦車)。降臨の代償と言わんばかりにフェラーリF40(推定価格一億円越え)を轟音と共に押し潰し、中から現れたのは自衛隊の制服に身を包んだ凛々しい女性。

 

名を蝶野亜美といい、肩書として陸上自衛隊富士学校富士教導団戦車教導隊一等陸尉を持っていた。分かりやすく言うと、戦車操縦の教導官であり、スペシャリストであった。

しかしあまりにもインパクトの強い登場に、一同は唖然。有体に言うとドン引きしていた。

 

一連の超絶怒涛の展開に頭がついていかない大洗女子を尻目に、自己紹介を済ませ、生徒会から教導を頼まれて来たという経緯も説明されたが、正直この辺りの記憶は曖昧である。

スクラップ同然のゴミになった元・高級車があまりにも衝撃的すぎたからだが、武部沙織だけは教導官が女性であることに肩を落とすなど通常運転であった。

 

しかし息つく暇もなく、誰もが「教導とは?」と問い詰めたくなる、アルティメットゴリ押し教導が始まった。

 

事前説明なしの開幕戦車搭乗スタートの、「考えるな感じろ」精神で模擬戦突入。

クラッチのクの字も知らない操縦手。転換方向の指示でドロップキックをかます車長。妙なテンションに突入して砲撃を開始する砲手。連携不足から油の差していない機械みたいにギコチナイ動きをする戦車。

初心者とは思えない練度で迫る八九式と三突。砲弾が直撃し、その衝撃で意識を持ってかれた五十鈴。立ち往生する四号戦車と、追撃する敵車両。

そしてそこに、救世主のごとく現れた武部の幼馴染―――

 

「ちょっと麻子ぉ!自分で立ってよー!」

 

不意に鼓膜を打った声で、みほは現在へと意識を戻した。

目線の先に、武部に全体重をかけるようにしてもたれかかる小柄な少女がいる。

深い青色が混じった長い黒髪と、白いカチューシャ。常に眠たげな目が特徴である彼女の名前は冷泉麻子といった。危機的状況に陥った四号戦車を、マニュアルを一読しただけで見事に操縦してのけ、模擬戦の勝者へと導いてくれたMVPである。

みほからすれば考えらない事を成し遂げた驚くべきその少女は、しかし今はスイッチが切れたオモチャのように動かなくなっていた。

 

「だめだ。慣れないことをして疲れた」

「さっき昼寝してたじゃん!しかも授業ぬけだして!」

 

口ではとやかく言いながら支えることをやめない武部からは、「何年もそうしてきたんだろうぁ」という貫禄が感じられる。優しく明るい性格が冷泉を甘えさせているのか、そもそも冷泉がそういう気質なのか。なんとなく両方じゃないかと思うみほである。

 

「五十鈴殿、大丈夫ですか?」

「なんとか……気分もよくなってきました。肩が少し痛いですけど」

 

こっちでは気絶から復帰したものの、まだ頭に濡れタオルが載っている五十鈴華とそのお世話をする秋山がいる。肩はお大事に。

 

他にも戦車の移動を終えたチームがぞろぞろと倉庫の前に集まり始めた。みんな口々に初戦車道の感想を言い合っているが、概ね否定的な意見は聞こえてこない。ところどころ鉄臭い油臭い重たい暑い、など聞こえてくるが軽い愚痴の範疇である。

 

我知らず、みほは息を吐いた。そこには安堵の気持ちが込められている。

 

「しゅーごー!せいれーつ!」

 

突然として角谷の飄々とした声が辺りに響いた。見ると生徒会の三人と、その横に蝶野教導官が立っている。締めに入るのだろう、と誰もが思い、素早く列をなした。

 

「みんなお疲れ様!初めてとは思えない程上手だったわ。私の指導なんて必要なかったくらいね!」

「あの人、実質何もしてないような……」

 

誰かのつぶやきはスルーされた。

 

「この調子ならすぐうまくなるわ!これからも頑張っていってね!グッドラック!」

「一同、礼!」

『ありがとうございましたー!』

 

これで、大洗女子学園の初めての戦車道は終了となる。色々とあったが、誰もが楽しんで戦車に乗っていて、それを見ることができた。怒涛の勢いと展開に呑まれ、驚いたり慌てたり、精神的に疲れることはたくさんあったが、それでも不思議な充足感がみほの身体を包んでいる。

後ろに並ぶ武部や五十鈴と言葉を交わしながら、今日はよく寝れそうだとみほは笑みをこぼした。

 

「で、最後に一つ報告がありまーす!」

 

しかしまだ終わりではなかった。最後の最後に、生徒会はとんでもない爆弾を隠していたのだ。

 

「明日から大洗女子学園戦車道の教導官を務めてくれる人を、紹介しまーす」

 

どよめきが起こる。蝶野亜美が今日一日だけの教導官というのは聞いていたが、まさか永続的に指導してくれる人がいるのか、という驚きが生まれる。

 

「どぞー!」

 

角谷の声に招かれて現れた姿は、一同のどよめきを更に大きくした。

それだけ驚くべき箇所が、たくさんあったのだ。

 

濃紺色を基調とした飾り気のないタンクジャケット。背丈の高い身体は一目で鍛えられていることがよくわかるし、深い色をした髪はキチンと整えられている。瞳は静謐を湛えているが、その奥には覇気のようなものを秘めている。

健康的で精力に満ちた雰囲気、そして相対する者の身を引き締めるような圧を持った―――男性だった。

 

「はじめまして」

 

落ち着き払った、『大人』を感じさせる声は、ざわつく空気を切り裂き、静寂を招く。

 

「神栖渡里です。君たちを全国大会で優勝させるために、ここに来ました―――初心者ばかりでも手加減しませんので、どうぞよろしく」

 

綺麗なお辞儀を披露して、その男性は薄く笑った。

 

「……え」

 

誰かがそういった。濁流をせき止めるダムがいかに堅牢だとしても、穴が一つあけばそこから一気に決壊していく。今の状況は、まさにそんな感じだった。

 

「ええええええええええ!!!!!」

「お、男の人――――!」

「あれはイギリス海軍の軍服!?」

「長身!エーススパイカーの予感!!勧誘だ―!」

「キャプテン!あれは男の人です!」

 

歓声とも悲鳴とも言える甲高い音が、ざっと10秒ほど続いた。その喧騒の間みほは、後ろに立つ武部から「男の人!スタイルいい!服もいい!ちょっと怖いけど見た目もいい!」というよくわからない絶叫とともに通算21回ほど肩を強打された。

 

しかしみほに、その声が届いていたのか。いや、今のみほには、おそらく全ての音がその耳に届くことはない。

聴力を失ったかのような静寂の中、みほはその顔に瞠目し、磁石の両極のように視線を外せないでいた。

 

「―――――おにい、ちゃん?」

 

その日彼女は、運命的な再会をした。

視線の先の男の人は、苦笑いを一つ零している。

 

 



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第4話 「再会しましょう」

『お帰りーおにいちゃーん!』

 

ズドム、と小さな頭が渡里の鳩尾にクリティカルヒットした。ぐふぅ、と肺の中の酸素が強制的に全て吐き出され、一拍ほど無呼吸状態になる。学校から帰宅してドアを開けた瞬間の、不意打ち気味の人間砲弾である。よほど助走してきたのだろう、その威力に思わず身体が後ずさる。

しかしこの程度で倒れる西住渡里ではない。両足でふんばって、なんとかして小柄な体を受け止める。ずずず、と20センチほど後退して、砲弾はようやく停止した。

腹部の痛みに耐えながら、渡里は突撃してきた少女の頭を撫でた。

 

『危ないだろ、みほ』

『えへへ』

 

恨みがましい視線を送ってやっても、この少女はどこ吹く風。寧ろ屈託のない顔で笑うのである。長女にも母にも似ず、やんちゃな少女になったものだと思う。

 

『ずっと待ってたんだよ!今日はいっしょにザリガニ釣りに行くんだから、はやくはやく!』

『待った待った……せめて着替えくらいさせてくれ』

 

ぐいぐいと肩が抜けそうなくらいの力で引っ張られるのをやんわりといなしながら、渡里は自室へと向かった。どこにあんな力があるのかと疑問に思うが、この家の血筋なら不思議ではないような気がしてくる。

 

はやくー!という声を背中に受けながら、木の匂いが香る廊下を歩いていく。

途中、物静かな長女と厳めしい表情をしたははと出くわしたが、二人ともお疲れさまとでも言うような表情をして渡里を見送った。代わってやってもいいんだぞ、おい。

 

『えーと、ジャージはどこへやったっけか…』

 

渡里の自室は戦車道関連の本が七割と、戦車の模型が一割、そして服の収納スペースとベッドと机が一割、と半分以上が戦車道で埋まっている。ははがうるさいので細目に片づけはしているものの、それ以上に散らかすスピードが速いため、いつ見ても乱雑な様相を呈している。お蔭でジャージ一つ探すのにも手間がかかる。

 

『遅いよお兄ちゃん!!』

『いや着替えが見つかんなくてな。そこらへんに埋まってないか』

『んー、はい!これ!』

『おー、相変わらず見つけるの上手いなぁ』

『匂いでわかる!』

『え゛っ!』

 

待ちきれなかったのか、おかんむりの少女。ぷりぷりしながらも、素早く渡里の着替えを引っ張り出してくる。こうやって渡里が探し物を見つけられないとき、助けになるのはいつもこの少女である。何か聞き捨てならないセリフが聞こえた気がするが。

ともかくなんとか着替えを終え、カバンをベッドに放っぽって、再び腕をグイグイ引っ張られながら、渡里は外へ連れ出された。バケツを一つ、小さな竿を二つ持って、日差しが強い田園地帯を二人で歩いていく。

 

『どーん!』

『ぐえ』

 

突然背後から飛びかかってきた次女が、背中に張り付いたかと思うと、そのまま軽やかな身のこなしで渡里の肩に跨り、首元に座った。ザ・肩車の態勢である。

 

『えっへっへー高いなー』

『いてて、首がむち打ちになりかけただろ』

 

成長期を迎えた身体は小学生の体重くらい難なく支えることができるが、それにしたって勢いが強すぎる。溢れんばかりのエネルギーが全変換されたアグレッシブな動きを受ける身にもなってほしい。

 

『前にお姉ちゃんと来た時はにごーに乗ってたんだよ。風がすっごく気持ちよかった』

『おーそうか。いいよなぁ…俺もできるなら戦車乗りたい…』

 

右手にバケツ、左手に竿、上に次女を装備した渡里はとぼとぼ歩く。一般家庭ではありえないことだが、この家では自転車代わりに戦車を乗り回しているのである。しかし操縦できるのは女性だけで、男性は操縦桿を握ることは許されていない。それが渡里には羨ましくて仕方ない。

 

『あ、でもお兄ちゃんのほうが乗り心地いいよ!柔らかくていい匂いがする!』

『ははは、愛いやつめー』

 

その場でクルクルと二回ほど回転してやった。プチメリーゴーラウンドにみほは歓声を上げ、楽し気に笑う。

戦車と比べたら大体のものは柔らかいし、いい匂いするけどな、とは思いながらも口に出さない渡里だった。

 

『明日から休みなんだよね?』

『おー、まぁな』

『じゃあ一杯遊べるね!明日は山に遊びにいこ!明後日はボコのぬいぐるみを買いに行って、それから戦車ゲーム!』

『ええー朝くらいゆっくり寝かせてくれよ…』

『だめー!お兄ちゃんはすぐ怠けるって、お母さんが言ってたもん!だから私が見張っててあげるの!』

『サボってねーよ。ちゃんと戦車道の勉強してんだよ。合間合間で昼寝してるけど』

『ほらー!』

 

あーだこーだと話ながら、二人は緑豊かで薫風の匂い漂う道を歩いていく。

仲の良い兄妹、そのものの様子で。

 

これは過去の話。彼女がまだ何も知らず、彼が何も話していなかった、とある都市のとある日のこと。両者の胸の奥に、眩い思い出として刻まれた、かつての景色である。

 

 

 

 

「はい!彼女はいますか!?」

「残念ながら戦車道をやってる男子はモテなくてな」

 

「バレーは好きですか!?」

「人並みにはできるが、好きってわけじゃないな」

 

「好きな軍人、戦術、歴史はあるだろうか!?」

「コンスタンティノープルかなぁ。色々と考えさせられるものがある」

 

「好きな食べ物はなんですかー!?」

「みかんと桜餅」

 

以上、自己紹介から僅か十秒後に起きた質疑応答、その一部の抜粋である。怒涛の勢いで迫りくる現役女子高生の質問攻めをなんとかかんとか捌きつつ、解散と相成ったのは夕焼けが山の奥に隠れていく直前だった。

倉庫の中に格納された戦車たちを一つ一つ点検しながら、明日から始まる教導の準備を進める渡里は既に満身創痍である。エネルギー量の違いというかなんというか、大人と若者の差を見せつけられたようで、半分グロッキー状態になってしまったのだ。

 

『んふふ~人気者ですね~』

 

飄々とした様子でそう言ってのけた角谷を、渡里は恨んだ。はよ止めてくれ、と目線で救援要請したのに、彼女は悉く無視したのである。なお横のいた蝶野亜美は何の役にも立たず、さっさと帰っていった。

 

『男性だけど、戦車道に関しては頼りになる人よ』

 

そう言い残して行ったが、果たしてどれだけの人の耳に届いたのか。

本当に何しに来たんだろう、あの人。昔はもっと頼りがいがある人だったはずだが、年々残念な美人になっていってる気がする渡里であった。

 

残念と言えば、チームの中にコスプレ軍団がいたことを渡里は思い出した。軍帽を被った少女、紅いマフラーを靡かせる少女、六文銭の鉢巻きをまいた少女に、羽織をかけた少女と、随分個性豊かなメンツだったが、あれはなんなんだろうか。やけに歴史関連の質問ばかりしてきたが、そういう集いなのか。周りが普通の恰好をしているだけに、浮きっぷりが凄かったので特に印象に残っている。

 

「……印象に残る、か」

 

しかし、そんな濃い少女たちがいても、渡里の記憶に最も鮮明に焼き付けられたのは、栗色の髪をした普通の見た目の少女なのである。クリっとした大きな瞳を目いっぱい見開いて、唖然とした様子をしていたその少女は……

 

「何か用か、西住」

 

倉庫の陰から、小動物みたくこちらの様子を伺っていた。

 

声で指されたその少女は、ビクーっと身体を一度震わせ、観念したように渡里の目の前に姿を現した。

 

「……あ、あの」

 

おずおず、と言った様子で西住みほは此方と地面を交互に見ること四回である。その様子は、渡里の昔の記憶と全く一致しなくて、あまりのギャップに渡里は苦笑してしまいそうである。何があったら、あのお転婆がこんなに大人しくなるのやら。

 

次の言葉を待つ渡里に、みほはようやく意を決したかのように面を上げて、

 

「お、お兄ちゃんでしゅかッ!」

 

盛大に噛んだ。沈黙の天使が倉庫の中を縦横無尽に駆け巡っていく。

 

渡里はとりあえず、黙ってみた。すると目の前の少女は、瞬間で沸騰していき、りんごみたいな顔になった。

 

まぁ、と渡里は心の中で苦笑した。気持ちは分かる。なのでここは、大人の男性らしく、華麗にスマートに、女の子に恥をかかせない完璧なフォローを披露してやるべきだろう。

一つ息を吸って、渡里は満面の笑みで言った。

 

「―――そうでしゅ」

「ふわああああああああああああああああああ」

 

悲鳴なのか、歓喜なのか。二つを足して割ったような塩梅の声をみほは出した。思わず渡里も笑みがこぼれる。随分と、からかい甲斐のある性格になったものである。

 

「ち、違うんです!?これはその、ちょちょちょっとびっくりしたっていうかッ、感極まってしまったというかっ!?そ、そうゆうつもりじゃなかったんですけどそうゆうつもりだったっていうか――!!??」

 

西住みほ は こんらん している!

 

「落ち着け落ち着け。ほら深呼吸―――吸ってーー」

「は、はいっ。スゥ――」

「吐いてーー」

「はぁ――――」

「吸ってーー」

「スゥ―――」

「お兄ちゃんでしゅ!」

「フェグッ!?」

 

形容しがたい声をみほは出した。声にならない笑い声をあげて渡里は肩を震わした。本当に弄りがいのある性格になってしまったものだ。

 

「ごほっ、ごふっ――!ちょ、ちょっとお兄ちゃん!からかわないでよぉ!」

 

瞳を潤わせてみほは抗議するかのように上目遣いでこちらを見てくる。そのことに渡里は笑みを浮かべた。この位置関係も昔と変わらない。みほと渡里はずっと、こんな風に上から見下ろし、下から見上げる関係だった。

 

「お前が他人行儀な言い方をするからだ。まったく、ちょっと久しぶりに会ったからってよそよそしくなっちまって…あーあ、お兄ちゃんは悲しいなー」

「だ、だって本当にお兄ちゃんなのか分からなかったんだもん…それにちょっとじゃないよ、六年は…」

「そうか?まぁ、あんときのみほはまだランドセル背負ってたもんな。オキサイドレッドみたいな色したやつ。それがいまや高校生か――」

 

渡里はじっとみほは見てみる。髪型はほとんど変わっていないが、背丈はぐんと伸びている。スカートから伸びる脚は、昔は絆創膏が目立ったが、今は傷一つなく真っ白だ。そして今昔で明確に異なる、制服を下から押し上げるような、確かな膨らみ。随分と――

 

「―――大きくなったな」

「セクハラだよ」

 

あれ、と渡里は首を傾げた。おかしい、本当はもっと感動的な再会をするつもりで、色々セリフも考えていたのだ。それこそみほは涙して抱き着いてくるような。それがなぜこんな冷たい目で見られる羽目になっているのだろうか。っていうか今のは純粋にみほの成長を喜んだ言葉なのだが、酷い誤解を受けている気がする。

 

「どこ見ていってるの。いまの、場所が場所なら即逮捕だよ」

「バカ違うわ。全体見て言ったの俺は。胸しか見てないなんてことはねぇ」

 

ジー――という効果音が付きそうなくらい、渡里は半眼で見られた。いかん、好感度が急降下している。ヴァリアントの開発者でさえ、こんな目で見られなかっただろうに。

 

「――――ほんとうに」

 

どうして弁解したものか、と知恵を絞りだそうとする渡里は、切々とした声に思考を止められた。

 

「ほんとうに、お兄ちゃんなんだね…」

「―――まあ、な」

 

その言葉には、数え切れないほど多くの、そして複雑に絡み合った感情が込められていた気がした。昔は感情がすぐ顔に出るようなタイプだったが、成長と共に顔の皮も厚くなってしまったようで、渡里にはみほがどんな気持ちなのか察することができない。ただ漠然と、仄暗い思いが大半を占めているような気がしてしまう。

 

「―――そうゆうお前は、本当にみほか?」

 

あえて遠回しな聞き方をしてみる。からかうようで、核心を突くような、曖昧な声色と表情で、渡里は言った。

 

するとみほは、上から抑えつけられたように、下を向いてしまった。渡里は難しい表情になる。やはり、というべきか、安易に触れてはいけない部分をかすめてしまったらしい。

 

「わ、私……」

「いいよ、みほ。顔をあげろ」

 

恐る恐る、といった様子でみほは、揺れる瞳で渡里の目を覗いた。本当に、変わってしまった。自発的に変わったのか、それとも他人に変えられたのか、渡里にはわからない。しかしこの子は、太陽のように笑う姿がよく似合う少女だった。それを、失くしてしまっていることが渡里の心に重い事実として沈殿してゆく。

 

「ぐだぐだになっちまったな……うん、でもまぁ、そんなのが俺らしいかもな?」

 

揶揄うように言って、渡里はみほの下を向きがちな栗色の頭に、手を置いた。この感触は、あの頃と何一つ変わっていない。この少女に伝えるべき言葉は、最初から決まっていたはずなのに。随分と回り道してしまった。

 

 

「―――ただいま。約束を守れて、良かったよ」

 

言いたいことが、たくさんあるんだろう。それは分かる。

後ろめたいことも、一つくらいあるのかもしれない。構うものか。

ただこの言葉が、少しでもお前の心を軽くしてくれるのなら。それで良い。

 

「――――っ」

 

みほは一瞬動きを止め、そして渡里の胸に飛び込んできた。女子とは思えない力で締め付けられるが、それはきっと思いの強さに比例しているのだろう。なんかミシミシいってるけど。

押し付けられたみほの顔は、渡里からは見えない。

ただ震える肩と、僅かな湿り気から渡里は察した。言葉はいらなく、ただ小さな背中を一つ、あやすように叩いてやった。

 

この感触も懐かしい。はしゃぎすぎて母親に叱られて、半べそをかいている妹を慰めるのはいつも渡里の役目だった。その度に服がべちゃべちゃになって、仕返しとばかりに母親の部屋に投げ込んでやって、今度は二人一緒に怒られて。もう一人の妹が困ったような顔で仲裁しにくるのがいつものパターンだった。

 

「お前が戦車道を、本当に嫌いになってなくて良かった。それはちょっと、悲しいからな」

「……うん、うんっ。私も、良かった。またお兄ちゃんに会えて、あの時勇気を出してよかったっ」

「そっか、そっか―――だったら俺も、諦めなくて良かったよ」

 

身体を抱きしめる腕に一層、力が籠った。決して離さないように、再会の喜びをそのまま伝えるかのように。

 

 

六年前に別れた兄妹の、感動の再会が、そこにある。

 

文句なしに、渡里はそう思った。予定とは違ったが、これはこれで良いだろう。みほは泣いてるし、俺もちょっと泣きそう。観客がスタンディングオベーションする程の劇的な一幕だ。だれか写真に収めてくれ。一枚3000円で買う。

 

「―――なにしてるんですか?」

 

しかしこの時渡里は気づいていなかった。当事者から見れば号泣ものの場面も、第三者からみればまた違った風に見えるということに。

 

何事か、と振り返った渡里の視線の先には、四人の少女がいた。長い黒髪の女子、白いカチューシャをつけた小柄な女子、おさまりの悪い髪型をした女子、そして明るい髪色をした女子。色々とりどりで見た目も千差万別な少女たちだが、ある共通点があった。

 

――――なんか、すごい冷たい目で見られてる。

 

「どうゆうことですか、神栖さん。なんで、みほが泣いてるんですかぁ…!?」

「なんでって……」

 

渡里は冷静に、今の状況を振り返ってみた。

 

いい年した成人男性。

その胸に抱き着いて泣いている女子高校生。

男性は女子の背中に手を回していて、女子の腕には凄い力が込められている。

 

渡里は脳内で、豆電球が点灯した。

 

「みほに……」

「あぁいや、ちょっと待ってくれ…これには深い事情があってだな…決して変なことをしてたわけじゃあ」

 

渡里は感心した。事実を言っているだけなのに、なんかすごいやましいことの言い訳をしているみたいになった。事実を言っているだけなのに。不思議ぃ。

 

「みほに、何したんですかーーーーーーーー!!」

 

怒号が10ポンド砲みたいな威力で渡里の身体に叩きつけられた。追撃するように、計八つの目から放たれたレーザービームが渡里の身体を射貫き、さらに冷風となって肉を裂いていく。

 

事案発生。この四文字が風穴だらけ傷だらけの身体に、シールみたく張り付けられたのを渡里は感じていた。

 

 

「えらいめにあった」

 

みほの隣を歩く渡里は、死んだ目で虚ろに呟いた。足取りは重く、まるでゾンビみたいな様である。高い背丈は猫みたいに曲がって、背中は煤けている。

そのあんまりな様にみほは苦笑した。自分が原因の一部であるため、励ますのもなんだか気が引けてしまったのだ。

 

あれから武部沙織の怒号で我に返ったみほは、あわてて事情を説明した。

神栖渡里は自分が幼い頃いっしょに住んでいた兄だったこと。

自分が小学生の時にイギリスに留学していって、それっきり連絡がつかなかったこと。

予期せぬ再会に感極まり、思わず抱き着いてしまったこと。

 

白い目だった四号戦車の乗員たちも、みほが嘘をついておらず、全てが事実だと理解したところで、「今度から紛らわしいことはしないように!」という注意だけをして帰っていった。

その頃にはすっかり日が落ちていて、辺りは真っ暗である。今歩いている道も、街灯が無ければ何も見えなくなってしまうだろう。

 

本当に危ない所だったと思う。あともう少し遅ければ、秋山優花里の右手に握られていた携帯電話が魔法の呪文を発信し、その威力を余すところなく発揮していただろう。

兄が明日の一面を飾ることになるのは(それも性犯罪)みほもごめんだった。

 

「はぁ……いきなり好感度がマイナスからスタートかぁ…やりにくくなったなぁ」

「だ、大丈夫だよ!もうみんな分かってるから!それに良い人ばかりだし、お兄ちゃんの好感度は限りなくニュートラルだよ!」

「それはそれでどうなの」

 

あう、とみほは唸った。どうにも人をフォローするのは苦手である。それこそ武部ならば花丸をつけられるくらいの言葉を掛けられるのだろうけど。

 

「せっかく身なりも整えたのに、何の意味もありゃしない。こんな窮屈な恰好するんじゃなかったな。箪笥の奥から引っ張り出して埃まで落としてやったのに」

「いつからそんなことできるようになったのお兄ちゃん」

 

みほの記憶の奥の方にある渡里の姿は、本と衣服が乱雑に置かれた部屋の真ん中で、妹達のプレゼントを枕とアイマスク代わりにして寝るような、デリカシーとか気遣いとかとは無縁のところにあった。それが社会人的なマナーを使いこなすようになるとは、これが留学の成果なのか。

 

「雑誌にも『女子高生はクールな男性に憧れを抱くもの!大人っぽさを強調するとグッド』って書いてあったから挨拶も短めにしたのに…本当は原稿用紙六枚分くらい話すつもりだったのになー」

「お兄ちゃんその雑誌すぐ捨てたほうがいいよ。でたらめだよ、それ」

「うそ」

 

留学しても中身の残念さがあんまり変わってない、と思うみほであった。というか2400字も話すつもりだったのか。模擬戦で疲れてるところにそんな長文の挨拶を聞かされては、それこそ好感度ダダ下がりだ。短めにしておいて、正解だったかもしれない。主に兄の残念っぷりが露呈する的な意味で。

この時点で、角谷と話している時の渡里の姿をみほは知らない。

 

「なるべき印象はよくしときたかったが、意味なしかぁ…うーん、女子高生は難しいな」

「そういうのが好きな人もいるかもだけど、誰だって愛想がいい人がいいに決まってるよ」

「そうか、じゃあ明日からはその路線で行こう。赤い蝶ネクタイと小粋なジョークをいくつか用意しておく」

「お兄ちゃん、愛想ってなにかな?」

 

エセ外国人みたいなキャラで来られたらどうしよう。みほは遠い目になった。著しく不安だ。愛想とひょうきんを勘違いしてないだろうか。 

 

「女子高生なら目の前にいるんだから、私を参考にしたらいいんだよ」

「感性が一般人から200ヤードくらい離れてる人はちょっと」

 

カバンが渡里の腹を直撃し、くぐもった声がした。

 

「ごめんお兄ちゃん。手が滑っちゃった」

「……いやー、ドジっ子属性の妹は古き良き文化だけども。流石にリアルでやられるとちょっと引く――――」

「お兄ちゃん、それ以上言うとまた私の手が滑るかも」

「素直で正直な妹を持って幸せだなーお兄ちゃんは」

 

白々しい声だった。

兄妹。みほと渡里の関係を示す言葉は、それ以外にない。チラ、とみほは横目で兄の姿を伺った。

身長は目測でも180センチを超えており、みほの記憶の中にあるそれより明確に大きくなっている。声色も少し低くなっていて、大人を感じさせる。

見た目の変化は、寧ろそれくらいだった。そして中身は、誠に残念ながらあんまり変わっていない。

少し残念で、からかい癖があって、デリカシーがちょっと足りてない、そんな性格。

今のようなやり取りも、懐かしいが珍しいものではなかった。渡里が留学する直前の、精神がちょっと成熟してきた小学校六年生くらいからはあった気がする。流石に今ほどではなかったが。ちなみに今は遠慮のなさがランクアップしている。

 

「一応聞くけど学校でもそんな感じなのかお前。兄として忠告しとくけど、そういうキャラは諸刃の剣だぞ」

「そんなわけないでしょ。身内だから遠慮しないだけだよ」

「おかしい。さっき倉庫で六年振りの再会に涙してた可愛い妹どこいった?」

「そ、それはお兄ちゃんの気のせいじゃないかなぁ…?」

「目ぇ泳いでるぞ」

 

頬に熱が籠るのを感じて、みほは渡里から顔を隠すようにした。西住みほ、不覚。泣くつもりは決してなかったはずなのに。寧ろ今まで連絡一つも寄越さず何してたんだ、と怒ってやるつもりだったのに。でもダメだった。渡里の顔を見て、声を聞いて、香りを匂って、温もりを感じたら自然と泪が流れてしまったのだ。

 

「お兄ちゃんのせいだね……」

「あん?何か言ったか?」

 

自分が胸の奥に隠していたものを、周りに気づかせないように秘めていたものをあっさり見抜いてしまうから。

でもそれが、不思議と――――

 

 

「――――無理、してないよな」

 

 

会話が止まった僅かな間隙を突くように、渡里はそう切り出した。弾かれるように顔を上げ、みほは渡里の顔を見た。彼は此方を見ずに、ただ真っ直ぐに前を見ていた。

 

無理。渡里が何を言っているのか、その意味をみほは直ぐに理解した。

ほら、と思わず苦笑した。この兄はいつもそうだ。普段はそんな素振りを一切見せないくせに、人の心に敏感で、良く識っていて、みほや姉が少しでも弱ると、いつでも傍にいてくれた。忙しい父や母の代わりというわけではなかったが、みほが泣いているときに横にいるのは、決まって渡里が最初だった。

頭をなでて慰め、背中を押して励まし、一緒に笑う。たったそれだけのことで、みほは元気づけられていた。

 

「なんで大洗にいるかは知ってる。そのことに関して、俺は何も言わない。……言いたくなったら、聞いてやるけど」

 

あの時の光景が、鮮明にフラッシュバックした。青く染まった顔を、見られないように伏した。

 

「ただお前が今から歩こうとする道が、お前自身が選んだのか。それだけが心配だった。生徒会長の角谷は、『説得』したって言ってたけど、実際はどうか分からないし、昔はともかく今のお前じゃ、断るに断れなかったんじゃないかって、な」

 

昔のお前はマジで聞き分けが悪かった。苦笑しながら渡里はそう言った。

 

 

「でも模擬戦で戦車道をしているお前を見たらさ、大丈夫だな、とも思った。さっきの話を蒸し返すわけじゃないけど、友達に恵まれてるよ、お前。一人のために四人も集まって、大人相手に怒鳴ってくれるなんて、良い子ばかりだ。お前がまた戦車道をやろうって気になったのも、あいつらのお蔭かなってさ。どうだ?」

 

渡里の顔が、こちらを向く。

 

「……うん、そうだよ。武部さんと五十鈴さんが、手を握ってくれて、私の味方だって言ってくれたの。秋山さんと冷泉さんは、戦車道を通して出来た新しい友達なんだ」

 

一人一人の顔がみほの頭の中に浮かぶ。すると暗澹とした気持ちが、薄らいでいく。だからみほは、渡里の瞳をまっすぐにみて、言った。

 

「―――大丈夫。まだちょっと怖いけど、それでも私は自分で、自分の道を決めたから」

 

その笑みを見て、渡里は瞠目した。そしてすぐに、柔らかな笑みを浮かべた。

 

「そっか。なら良かった」

 

くしゃくしゃ、とみほの頭をなでる渡里の手を、みほは払いのけなかった。きっと今、自分はだらしない顔をしているだろう。高校生にもなってと思うが、しかしたまには甘えてもバチは当たるまい。なんたって、六年振りの温もりなのだから。文句があるやつは出てこい。私が相手になる。

自分を想い、護ってくれる人。それがどれだけ嬉しく、安らぎを与えてくれる存在なのか。みほはいるかもわからない神様に感謝した。

 

「そのふにゃふにゃした笑顔は変わらねぇな…」

「ふふーん、お兄ちゃんこそ妹に甘いのは変わらないね?」

「妹が甘えん坊だからなーー肩車でもしてやろうか?」

「そうゆうお兄ちゃんは、妹の膝枕いらないの?」

「昔と違って、今はお前の太ももより柔らかい枕があるんでな」

「私も身長が伸びたから、肩車はいらないかな」

「まだまだ小さいわ。しっかり飯食べてるか?」

「この前ハンバーグ作ったよ。そのままフリスビーに使えそうなやつ」

「何グラム買ったんだよ……」

 

街灯が僅かに道を照らす中、二人は横に並んで歩いていく。辺りはすっかり真っ暗だが、二人の表情は明るい。波の音が遠くで響き、潮の香が鼻腔を擽る。遥か彼方の陸地で別れた二人は、海の上で再会した。そのことがどれだけ確率の低いことであったか。しかし二人はこう思う、これは必然だったのだと。

 

神栖渡里と西住みほ。後に大洗女子学園を引っ張っていくことになる二人は、今はお互い笑いながら一緒の道を歩いていく。

共に戦車道をする。そのことに、何よりの喜びを感じながら。

 

 

 

 

 

 



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第5話 「鬼ごっこから学びましょう➀」

ここからは独自設定&ガバガバ知識&通っているようで通っていない理論のオンパレードになります。また本作は惑星ガルパンの物理法則と常識に則った描写をしています。
「まぁそうゆう考え方もあるよね」という心で一つ、お願いします。



よく勘違いされることだが、大洗女子学園において戦車道は部活動ではなく授業の一環として扱われる。大洗女子学園が古来の武道・文道、たとえば茶道や忍道などを選択必修科目としており、今年度から復活した戦車道ももれなくそこに含まれているためである。

よって数学や国語のように、教育カリキュラムの一部として毎日、とは言わずとも頻繁に行われる。それぞれ専門の講師がいる科目もあれば、生徒たちだけで取り仕切る科目もあり、大洗女子学園は日々活気に溢れた授業風景を生み出している。

 

戦車道と神栖渡里も今日からその風景の一部となる。戦車道の教導官、正式名称は『大洗女子学園戦車道講師』である。本人曰く「先生、もしくは教官でも可」とのことであるが、呼称はおそらく生徒たちに一任されるであろう。

 

それはともかくとして、いよいよ大洗女子学園戦車道の、記念すべき第一歩目である。門出を祝うような快晴の下、みほは知らず、両の拳を強く握った。兄と、神栖渡里と一緒に戦車道をする。そのことに無意識ながら高揚していたのかもしれない。周囲を見渡すと、他のメンバーもみなどこか浮ついた様子である。なお先日行われた模擬戦については、既に一同の中でなかったことになっている。フィールドバタフライ亜美、哀れ。

 

集合場所は、戦車が格納されている倉庫前。全員動きやすい服装で、というお達しが渡里からあったため、先日の模擬戦では制服のまま戦車に乗りこんだが、みほも他のメンバーも今日は体操服を着用している。しかしバレー部の面々は普段通りの恰好だし、歴史好きチームの面々もそれぞれのトレードマークを死守しているが、みほは見なかったことにした。

 

本来戦車道の際にはタンクジャケット(もしくはパンツァージャケット)を着用するのが常だが、そこは出来立てほやほやの大洗女子学園戦車道。いまだ彼女たちのタンクジャケットは、形すらできていない。これから各自採寸を行い、ジャケットのデザインと一緒にデータを業者へ送らなければならないため、向こう一か月は制服、あるいは体操服で戦車道をすることになるだろう。油やら何やらが飛び散る戦車の中では、できるだけ体操服でいたいと思うみほであった。

 

そうして体操服姿(一部例外)の女子が集合し、わいわい話していると、授業開始のベルが鳴る。そしてその五分後、先日の服装とは一転、紺色のジャージを着た神栖渡里が簡易ホワイトボードと段ボール箱を装備し、生徒会のメンバーを従えてみほ達の前に姿を現した。

一瞬にしてみほ達はチームごとに整列し、真剣な面持ちになって渡里の言葉を待つ。その心中では、「え、ジャージ?」とか「その後ろの段ボール箱はなに?」とか「この前より芋い…」とか様々な言葉が泡沫のように浮かんでは消えていったが、誰一人として言葉にはしなかった。

体操服姿の女子の前に、ジャージ姿の男性が立つ。その光景は誰がどう見ても、体育の授業そのものであった。ということにみほ達も薄々そのことに気づき始めたが、そんなことはどこ吹く風と言わんばかりに、渡里は口を開いた。

 

「待たせたな。それじゃ、さっそく戦車道を始めよう」

 

礼!という河嶋の言葉に続き、みほ達と渡里は頭を下げた。戦車道とは立派な淑女を育てる武道であり、礼儀作法には一層厳しいのだ。この辺りはルーキーでもベテランでも変わらない。

 

「まずは改めて、今日からお前たちの講師となった神栖渡里だ。男性ということで疑問に思う者もいるかもしれないが、誠心誠意頑張るつもりなので、どうぞよろしく」

 

普通の切り出しだ、とみほは胸を撫で下ろした。前日の「イギリス仕込みのジョーク見せたるでぇ!」発言で、何か変なことを言い出さないかと危惧していたのだ。渡里がみほの兄、というのは四号戦車チームの人間しか知らないが、それはそれとして身内がドンスべりする姿は見たくなかった。そうなったらみほは穴を掘って埋まる。そして春まで待つ。

 

「聞いたところによると、ほとんどが戦車道未経験者らしいな。当然、右も左も分からない人ばかりだと思う。特に先日の模擬戦が、あんないい加減じゃあな」

 

みほ含め全員の頭に過ったのは、一〇式戦車から出てきた女性のことである。みんな薄々「普通じゃないよね、あれ」と勘づきつつも口に出さなかったことだが、この兄は火の玉ストレートを投げ込んできた。

 

「あれがスタンダードとは思わないでくれ、あれはあの人だから許されてるみたいなとこあるから。俺は基本に忠実に、一からコツコツとやってくつもりだ。まずはじっくりと、戦車道のことを知っていってほしい」

 

みほはどこからか息が漏れたのを感じた。気持ちは分かる。恐らく、ちゃんとした人そうな渡里の雰囲気に安堵を覚えたのだろう。それだけ蝶野亜美はやばかった。

 

「―――とは思っているんだが、一応俺も雇われの身。『大洗女子学園を勝たせる』という雇い主の意向は無視できない。なんである程度厳しい練習になる事は覚悟してほしい。そもそも、戦車道に楽な練習はないが、お前たちの想像の倍は辛い」

 

最もだ、と思ったのはみほだけだっただろう。戦車道の練習とは、渡里の言う通り過酷そのもの。重たいものを運ぶのは当たり前、擦り傷や打撲だって珍しくはない。履帯一枚足に落とそうものなら、骨折だってあり得る。安全性は完璧とは言っても、とにかく激しい世界なのだ。そんな辛く険しい道だからこそ、立派な乙女が育成されるのだろう。

 

「えーと、ちょっと怖がらせたかな。そんな身構えなくても大丈夫だ。ちゃんと練習メニューは、身の丈にあったものにする。俺としては、戦車道を楽しんでくれたらそれでいいんだ。どんな世界なのか、何があるのか、何を経験できるのか。戦車道の世界を、しっかりと知ってほしいと思ってる」

 

はじめはそれくらいでちょうどいい、と渡里は片目を瞑った。

 

「今は戦車の名前も知らないかもだが、お前たちには心の底から戦車道が好きだって思えるようになってほしい、かな?」

 

にっこり、と強張った空気を解きほぐすような、柔らかい笑みを渡里は浮かべた。子どもの頃に良く見た、みほの大好きだった笑顔だった。「愛想が大事」というみほの言葉をしっかり覚えていたようである。みほの予言は的中した。恐らく、一同の心証は一気に良くなっただろう。

 

「じゃ、話は終わり!さっそく本題に入ろうか」

「はい、神栖殿!それで今日はどのような練習をするんですか?」

 

みほの2つ後ろに立つ秋山が、待ってましたと言わんばかりに挙手をして発言した。模擬戦の際、最もテンションが高かったのがこの秋山である。その高揚ぶりをパンツァーハイ、とみほは呼び、豹変ぶりに目を丸くしたものだった。そんな彼女からすれば、お預けを喰らっていた気分なのだろう、目が爛々と輝いている。

秋山の積極的な姿勢に、渡里も笑顔である。教える立場としても、生徒が乗り気なら嬉しいものなのだろうか。自分もそうしたほうがいいのか、と少しソワソワするみほである。

 

「当面は基礎体力を養わないといけない。でもま、今日は第一回目の練習だし、いきなり張り切り過ぎてもな。レクリエーション的な簡単なメニューをしようと思う」

「というと、戦車の隊列訓練ですか!?それとも走行、砲撃、行進間射撃とか!?」

 

それは簡単なメニューなんだろうか。経験者であるみほは秋山の言葉に首を捻った。他の面々はみほとは別の意味で疑問符を浮かべている。

渡里は満面の笑みで首を横に振り、一言告げた。

 

「――――鬼ごっこ」

 

 

 

そして一同が連れてこられたのは、以前模擬戦の時に見たことがある森林地帯である。背の高い木々が所狭しと乱立し、その範囲はかなり大きい。樹木から生える大きな葉っぱは日の光を遮り、唯一の明りを失った内部は昼間だというのにかなり薄暗い。

戦車はおろか、自転車での走行すら難しいレベルの、複雑な地形と視界の悪さを誇っており、戦車道の練習ではおよそ使うことはない場所である。

 

「こ、こんなところで何をするんでしょうか……?」

「鬼ごっこじゃないでしょうか」

「いや華の言う通りだけど……」

 

三人の会話を横で聞きながら、みほは苦笑した。彼女たちの疑問は最もだったし、みほも内心は同じ気持ちである。とにかく暗い、見づらい、動きづらいの三拍子揃った場所で、女子的にはできれば入りたくない。子どもの頃であれば喜び勇んで吶喊したんだろうが、今は花も恥じらう乙女なのである。虫とかほんとに無理なんです。

 

「こんな場所で戦車道の練習って……しかも鬼ごっこって…」

「―――意味わからない、か?」

 

びくぅ、と全員の全身が震えあがった。音もなく背後に、渡里が忍び寄ってきていたからだ。

慌てて振り返ると、抱えた段ボール箱の上から渡里の首が生えている。中身の詰まった段ボール二箱分を抱えても顔色一つ変えない体力は、流石男性というべきか。

 

「ま、今から説明してやるけど……『分からない』で終わらせるようなことだけはするなよ」

 

真剣な表情でそう告げた後、渡里は集合の掛け声とともにスタコラと歩いていった。

残していった言葉の意味が分からず一同は首を捻ったが、考える時間はなかった。みほ達が突っ立っている間に全員が渡里の下へと集まっていったのである。みほ達も慌てて駆け寄り、そしてあっという間に列ができあがる。

 

「えー、さっきも言った通り、今日は鬼ごっこをしてもらう。といっても、当然ただの鬼ごっこじゃなくて、『戦車道』らしくする」

 

そう言って渡里は、簡易ホワイトボードを取り出して、サラサラと何かを書いていく。

そして一同に示されたホワイトボードには、箇条書きで何かが書かれていた。

 

「ルール説明その一、今回の鬼ごっこはチーム毎に分かれて行う。つまり団体戦だ」

「鬼ごっこでチーム戦……?」

「その二、チーム内で鬼役を一人設定、他のメンバーは見張り役とする」

「見張り役……?」

「その三、見張り役は最初に決めた位置から動くことを禁止する」

「えぇ…?」

 

疑問符が乱立した。この説明だけで全てを理解できる者がいるとすれば、それは人間として片足立ちしている、とみほは思った。渡里も当然、この説明では不足だと分かっていたようで、苦笑しつつ説明を続けた。

 

「鬼ごっこと言っても実際に追いかけ合うのは、チームの鬼役。つまり五人だけだ。流石に二十人強が駆け回るスペースはないからな」

 

衝突して怪我でもされたら大変だ、と渡里は言う。確かにこの地形では、事故が起こる可能性は高いだろう。みほはほんの少し青ざめた。

 

「ところが五人だけとなると、逆に広すぎてしまう。視界も悪いし、鬼同士出会わずに時間だけが過ぎていくことになりかねない」

 

そこで、と渡里は人差し指をピンと立てた。

 

「見張り役を作る。この見張り役は鬼といっしょに森に入り、辺りの状況を鬼に伝えるのが役目だ。一人の目じゃ見つけれない鬼も、複数人で見れば必ずどこかで捕捉できる。その位置を味方に教えてやれば、他の鬼は動き続けなければならなくなる。そしたらまた別の見張り役に見つかりやすくなって、また動く、というわけさ。これならちゃんと鬼ごっこになるだろ」

 

ということは、とみほは自分のチームで考えてみた。みほ、武部、五十鈴、秋山、冷泉の誰か、例えば武部が鬼になったとして、みほ達は他のチームの鬼がどこにいて、どこに向かっているかを逐一伝えてやる。

整理して考えれば、そう難しいものではない。寧ろかなりシンプルなルールだ。レクリエーション、と言うにふさわしい。

 

「あれ?でもどうやって鬼役の人に伝えるんだろ?」

「大声で言うんじゃない?そっちいったよーーー!!!って!」

「えーでも聞こえるかなぁ…」

「桂里奈ちゃん声大きいから大丈夫だよぉ」

 

一年生チームの方から、そんな声が上がった。そんなまさか、とみほは苦笑した。そんなことすれば、この森の中はいろんな人の声が反響しあって何が何やら分からなくなる。第三者から見れば『叫び声をあげる森』となり、ホラー映画への出演待ったなしである。

 

「ということで、これを配る」

 

渡里が段ボール箱から取り出したのは、黒い輪っかが付いたヘッドフォンだった。その独特のフォルムに、みほはピンと来るものがあった。

 

「咽喉マイクとヘッドフォンだ。第二次世界大戦時、ドイツ陸軍が使ってたとかなんとか。これでチーム内での通信を行ってもらう」

 

「え、でもそれだけじゃ通信できないですよね……無線みたいな送受信するデバイスがないと。しかも戦車道で使う無線機はかなり大きいサイズだったはず…」

 

圧倒的知識量を誇る秋山ならではの指摘だが、渡里はその上をいった。別の段ボール箱から小型の無線機を取り出したのだ。

 

「この無線機を改造してヘッドセットと接続できるようにした。代償として無線範囲が狭くなったが、この森の中で使う分には十分だ。全員分あるから各自持っていってくれ」

 

ふぉぉ、と感嘆の声を秋山は上げた。みほの記憶では、そんな器用なことができる技術は持ってなかったはずだが、留学時代に身につけたのだろうか。見たところワイヤレスで、携帯性が高い。森の中を走り回っても大丈夫な造りになっている。

 

「使い方は分からない奴が大半だろ。西住、秋山、教えてやれ」

「ふぇっ!?」

「わかりました!用途から歴史まで完璧に教えてみせます!」

「……そこまでは興味ない」

 

突然の指名に狼狽えるみほとは対照的に、秋山は敬礼をするくらいに張り切っている。その横で冷泉がげんなりした様子で呟いた。

 

「使い慣れてるだろ?ちゃんと教えてやれよ」

「そ、それはそうだけど……」

 

人にものを教えるなんて、とみほは慌てた。上手くできるんだろうか、とか私なんかの説明で大丈夫かな、とかそもそも咽喉マイクの使い方ってこれであってたっけとか無線機のほうは正直曖昧だしとか他にも色々な不安やら気恥ずかしさやらがぐちゃぐちゃに混ざり合って、みほの心の中は目の前の森のように入り乱れた。

 

この状態になるのは、生徒会からの勧誘(脅迫)があった時以来である。

 

「よし、じゃあみほ!お願いね!」

「みほさん、私もお願いします」

「西住さんなら分かりやすく教えてくれそうだ。私も頼む」

「う、うぅん……ガンバリマス…」

 

他にもバレー部チームやら三突チームやらも押しかけてきて、みほは更に目を回すことになったが、渡里は遠く離れたところで笑って見ているだけだった。なお秋山優花里のもとには一年生チームだけが集まっていた。ぺらぺらと捲し立てている様子の秋山とポカンとしている一年生達を横目に、あぁはすまいと決心したみほである。

 

「十五分後に始めるぞ。それまでに鬼役と見張り役、最初のポジションを決めて、ヘッドセットの使い方もマスターしておいてくれ」

 

 

 

 

「み、見張り役の皆さん。こちら西住です、聞こえますか?」

『こちら秋山!通信良好です、どうぞ!』

『五十鈴です、聞こえてます』

『冷泉、問題ない』

『武部、だいじょう―――ひえっ!虫!?』

 

ヘッドフォンから聞こえてくる声に、みほは息を吐いた。どうやらちゃんと無線が使えているようである。いったいなんて説明したのか、色々と必死だったせいで記憶が曖昧だが、とりあえず一安心である。ヘッドフォンの奥から「いやああああああああ」という悲鳴が聞こえているが、全員有意義にスルーした。

 

あれからキッカリ十五分後、大洗女子学園戦車道一同は森の中へと足を踏み入れた。その際、チーム毎にアルファベット記号が与えられており、みほ達はA、バレー部チームはB、歴史好きチームはC、一年生チームはD、生徒会チームはEとなった。あまりに味気ないネームに、不満そうな人(特に生徒会)もいたが、渡里曰く「仮の名前であり、いずれは正式なチーム名を決める」とのことで全員大人しく引き下がった。

 

かぶとむしチームとかイイネ、という渡里の呟きをみほは聞いたが、きっと気のせいだろうと自己完結した。虫の名前だけは勘弁してください。

 

「どうせならボコチームとか……」

 

ボコとは西住みほがこの世で好きなものランキング上位に入るとあるキャラクターである。

見た目は包帯ぐるぐる巻きの重症患者みたいな恰好のクマで、あんまり人気はない(みほは認めない)。昔からみほはこのキャラクターがとにかく好きで、渡里にも何度かグッズを買ってもらったり勧めたりしたが、渡里の反応は芳しくなかった。身に着けろ、と強請った時、学生カバンの裏地にキーホルダーをつけていた時は流石に憤慨したものだった。

 

「あんなに可愛いのになんで隠したんだろ、お兄ちゃん……」

 

そうボヤキながら、みほは辺りを見回した。渡里がその場にいたなら「お前の感性はちょっとズレてる」と半目で言っただろう。

 

外から見た通り、森の中は相当視界が悪い。午後の日差しが強いお蔭で明るさ自体は最低限あるが、それ以上に問題なのは見通しである。多くの樹木が立ち並ぶせいで一々視界が遮られ、行く道の先がとにかく見づらい。おまけに幹が太い種類のため、木の陰にすっぽりと人間一人隠れてしまえる。

見つけづらい、見つかりづらい、走りづらいと見事な悪条件で、鬼ごっこにふさわしい舞台といえた。同時にこの場所を見つけ、練習場所にした渡里の底意地の悪さも明らかになったが。

 

とにかく怪我はしないように、と慎重に歩を進めるみほ。その三歩目を踏み出した瞬間、突如として無線から声が飛来した。

 

『あっ!!みほ!!Dチームの鬼がいる!』

「どこですか!?」

 

みほはジャージのポケットに手を突っ込み、素早く一枚の紙を取り出した。それは森に入る前、渡里が全員に配った森の地図だった。細かく区画分けされ、縦軸には数字が、横軸にはアルファベットが書き込まれており、この2つを使うと場所の特定が容易にできる。例えば武部が今いる地点は、P12であり、地図全体で見ると右側の真ん中下よりになる。そして今みほがいる場所は、J12。つまり武部と同緯度かつ少し左側にいる。電子デバイスの精確な位置情報には敵わないが、コンパス(渡里からの支給品)と地図があれば大体の位置関係は分かる。幼少のころから戦車道を嗜んできたみほにとって、それくらいは朝飯前だった。

 

しかしここで、みほに誤算が生まれる。戦車道の家に生まれ、戦車道の学校で育ってきたみほにとって、戦車道ができない人間というのはある意味未知の生物である。ゆえに、「敵の位置情報を伝える」という、戦車道の人間なら持っていて当然のスキルを、武部たちも当然できるだろうと錯覚していたのである。しかし勿論、みほを除く大洗女子の全員が、戦車道初心者である。

必然、武部からの返答はみほの想像の斜め上を突っ切っていった。

 

『えーとね……右から左に走っていった!!』

「右ですね!……ん!?右!?た、武部さんそれって地図のどこですか!?」

『どこって…えーっと、私が今ここで、鬼があっちから来たから……あーるの9?』

 

みほは地図とコンパスを照らし合わせた。武部がいるのはみほの東、そしてR9地点は武部より北東の方角になる。ということはみほからすれば、Cチームの鬼は北北東方面へ走っていったということになる。

 

「武部さん、鬼はまだ見えますか?」

『うぇ、えーとうーんと、もう見えなくなっちゃった……』

「わかりました。また鬼を見かけたら教えてください」

 

無線を切り、みほは深呼吸を一つした。今、みほの前には二つの選択肢がある。一つはこのまま動かず、様子を伺うという消極策。これは動けば動くほど見張り役に見つかりやすいこのルールにおいて、安全策でもある。もう一つはDチームの鬼を追いかけること。これは他のチームに見つかる可能性があるが、今はDチームの背後を突くことができるためリターンが大きい。

 

どちらを選ぶべきか、とみほは考える。Cチームを追いかけるタイミングは今しかない。これ以上時間が経ってしまうと、追いつけなくなる。しかしやはり一歩踏み出せないのは、他の鬼に捕まるリスクである。だが同時にみほの頭の片隅を掠めていくものがある。それはこのままここに踏みとどまっていても、ずっと安全というわけではないということである。

そもそも今は他の見張り役に見つかっていないのかすら曖昧なまま。時の神がみほに微笑んでくれるとは限らない。

 

みほの思考はぐるぐると同じところを回り始めた。もしみほが今、戦車に乗っていたのなら迅速な決断を行い素早く行動に移すことができただろう。

 

そして、背後から迫っていた足音に直前まで気づかないなどというミスは、決してしなかったはずだ。

 

「西住さん、見つけたーーーー!!」

 

振り返るより早く、その声はみほの背中に届いた。

その瞬間、条件反射に近い動きで、みほは真横へと跳ねた。背後から迫った魔の手は、ギリギリでみほの体操服を掴み損ねる。そしてすばやく体勢を立て直したみほは、鬼の姿を正面で捉えた。そこにいたのは、Bチームの車長、バレー部のキャプテンの磯部典子であった。小柄な体躯を好戦的な雰囲気で覆い、猫のような目には気迫が充溢している。逃がす気はない、と身体全体が雄弁に語っていた。

 

「西住さん、覚悟――!」

 

流石体育会、というべきか。磯部は素早い動きで、再びみほへと吶喊してきた。それに対しみほは、身体を翻し逃走を図った。こちらも鬼、あちらも鬼というこの鬼ごっこでは、『先に手が接触したほうが勝ち』というルールは、渡里の「それだと格闘技になるから」という言葉によって適用されていない。代わりに作られたのは、『先に追いかけたほうが優先』というルール。そしてこれにより後手に回ったみほは、磯部にタッチしても無意味になり、逃げることを余儀なくされているのだ。

 

「こちら西住です!J12地点にてBチームの鬼と遭遇、今から北東へと逃走を開始します!冷泉さん、武部さん、他のチームの鬼は確認できますか!?」

 

『冷泉、確認できないぞ』

『こっちにもいないけど、みほの方は大丈夫なの!?』

 

「大丈夫!冷泉さんはDチームの鬼が確認できたら教えてください!」

 

無線を切り、みほは頭の中で地図を開いた。みほが今向かっている北東方面は、Dチームの鬼と出会う可能性が高いエリアである。常識的に考えれば、このルートはB、Cチームで挟み撃ちに合う危険があるため、避けるべきではある。そこを敢えて選んだ理由は、咄嗟のことではなく、寧ろ攻撃的な思考の結果だった。

 

みほが今やろうとしていることは至って単純。進行方向先にいるDチームの鬼に、後ろから追いかけてくるBチームの鬼をぶつけ、状況が混乱した一瞬の隙に鬼を振り切る、という撤退戦ではよく使われる作戦だった。敵の選択肢を増やすことで、思考と行動の鈍化を狙うわけだが、おそらく成功率は高いとみほは考えている。

 

幸いなことにみほと磯部の走る速度に大きな差はない。相手はバリバリの運動部だが、みほだって実はジョギングを日課としているのだ。スタミナだけは負けない自信があるし、そも戦車乗りとして川や泥道などを渡ってきたみほは、こういった悪路に慣れている。身体能力の差で負けていても、総合的に見れば引き離せないまでも追いつかれることはない。

 

(多分冷泉さんのいるM4地点周辺が、最もDチームと遭遇しやすいはず。R列はエリア全域の一番右側だし、選択肢としては西か南……)

 

R9から北上していけばすぐにルール上の行き止まり。自然と冷泉のいる西へ進むか、武部のいる南へと戻るかのどちらかである。両者の真ん中を抜けてくる可能性もあるが、その場合は自分の真正面になるから、作戦通りすれば問題ない。

 

磯部と遭遇し、逃走を開始する一瞬の合間に、合理的な思考の下、完成度の高い作戦を立案できる。チームの隊長として、仲間を率いる将の器。その片鱗は、確かに現れていた。

 

事実として、みほの作戦が実行された場合、全てみほの思惑通りに行くことは間違いなかった。BチームとDチームの鬼は、思いも寄らぬ遭遇で混乱し、即座に動けなくなる。その隙にみほは離脱して、両者を振り切ることができた。

 

ただ唯一の誤算は、先ほどと同じく、みほの周りにいるのはありとあらゆる意味で『素人』だということだった。

 

「西住先輩、捕まえたーー!!」

「ふぇっ――――!!???」

 

思わぬ横槍にみほは全身を硬直させた。そして瞬き一つ分の後、柔らかな感触がみほの肩に触れる。ベクトルがゼロになり、みほと横槍の主はその場で立ち尽くした。みほは、自身が予期していなかったタイミングで鬼に捕まったのだ。

 

「やったー!待ち伏せ大成功!」

 

呆然とするみほを捕まえたのは、みほがまだ出くわさないと確信していた、Dチームの鬼、澤梓だった。思考がパラライズしたみほを横に、嬉しそうな笑顔である。

 

「あぁー!先に取られたー!」

 

遅れてみほの後方から迫っていた磯部が、「くっそー!」と悔しそうな表情を浮かべて踵を返していく。澤が喜びの舞を披露している今、捕獲のチャンスだろうに。そこらはスポーツを嗜むものとして、正々堂々としたがる気質なのだろうか、とみほは無関係なことを考えた。

 

『Aチーム、アウトー。全員森から出て、最初の集合場所まで帰還せよー』

 

ブツ、と糸が切れるような音がして、みほの無線からは音がしなくなった。

後に残されたのは、疑問符を大量に浮かべるみほだけだった。

 

 

 

カァ、カァと黒い鳥が茜色の空を優雅に飛んでいる。夕暮れの情景を詠った詩人は数多いが、なんとなく渡里には彼らの気持ちが分かる気がした。見ていると決して心が晴れやかになるわけではないが、それでも不思議と心に感じるものがある。

昔は、夕焼けは楽しい時間の終わりを告げるものだった。だから好きではなかった。

今は、勤務時間の終わりを告げるものだ。だから好きです。

 

「えーまずはお疲れ様。誰一人ケガすることなく、無事に第一回目の練習を終えることができてなによりだ。おめでとう」

 

パチパチパチ、と乾いた音が渡里の両手から生まれる。純度百パーセントの賞賛の表れなのだが、渡里の予想に反して一同の反応は芳しくなかった。

はて、何かしてしまったかな、と渡里は首を傾げた。

すると武部が憤慨した様子で両手を胸元で握った。

 

「レクリエーションって言ったじゃないですかー!なんですか、森の中を一時間半走り回るレクリエーションって!暗いし狭いし虫は出るし、そんなの聞いたことないです!おまけに最初に捕まったチームはペナルティで森の外を一周って!私たちは陸上部ですか!?戦車はどこに行ったんですかー!」

 

やだもー!とでも言わんばかりの勢いで武部は捲し立てた。あらら、と渡里は困ったように笑うしかない。ちゃんとした理由がある練習なのだが、流石になんの説明もなしにやらせたのは不味かっただろうか。90分間やったことが鬼ごっこだけ、となると陸上部呼ばわりされても仕方ないかもしれない。

 

とはいえ、このままでは渡里の信用もガタ落ちである。心なしか、全員の視線が胡散臭い物を見る目になっている気がする。バレー部の面々だけそんなことないけど。

核心以外は話しても大丈夫だろうと踏んで、渡里は宥めるように言葉を紡いだ。

 

「ちゃんと戦車道に必要な要素が込められた練習なんだ。無線、使い方はもうばっちりだろ?」

「そりゃ、ずっと使ってましたから……」

「戦車道ではすべての意思疎通は無線を通して行われる。戦車乗りに無線技術は必須でな。手っ取り速く使い方を覚えるには、あれこれ知識を詰めこむより体で覚えたほうがいいんだ」

 

うぅむ、と武部は唸った。渡里の言っていることに一応の論理があることを認めたのだろう。

 

「加えてこの鬼ごっこは、無線を使えないチームが真っ先に捕まるようになってるんだ。実際、一回目では西住が最初の脱落者だっただろ?」

「は、はい…」

 

その後にペナルティを食らったのも、みほがいるAチームの面々である。

 

「で、でも!みほ達は無線使えるし、だったら私たちが一番に捕まるのはおかしいんじゃ……」

 

Aチームには経験者の西住みほ、そして素で無線を使える秋山優花里の二名がいる。無線の熟練度でいえば、他チームをその分だけ上回る。武部の言う通り、渡里の理屈が正しいのであればAチームが一番に捕まるのは確かにおかしい。

 

「受信側は大した問題じゃなくてな……西住、お前は自分がなんで捕まったか分かってないだろ?」

 

突然名指しされたみほは、身体をびくりと跳ねさせて返事をした。図星、と彼女は顔全体で語っている。

 

「答えは単純。お前は澤の進行方向を誤認したんだ」

「えっ!?だって武部さんは……あ」

 

何かに気づいたような様子のみほに、渡里はにっこりと笑って答え合わせをしてやった。

 

「あの時武部が見ていたのは、確かに『右から左へ走っていく澤』だった。そこは間違いじゃない。間違っていたのは、自分が見ている方角さ。あのとき武部は東じゃなくて、北を見てたんだよ。だから西住は澤の位置を捉え損ねたのさ」

 

渡里は地図を取り出して、見せつけるようにして澤の軌道を指でなぞるようにして示した。

みほの見立てでは『南から北上していく』澤。

渡里が示したのは『東から西へ進んでいく』澤。

当然、後者が実際の進路である。これほどズレた予測の元に動けば、それは待ち伏せを食らうというものである。

 

「う、うそぉ!!」

「沙織……お前方位磁石の使い方も分からないのか」

「沙織さん……地図を横向きにしてませんでした?」

 

残念なものを見る目が計四つ、レーザーとなって武部の身体を貫いた。ぐふ、と声を上げて武部は膝をつく。一番の被害者である西住は困ったように笑うだけである。

 

「まぁ、そうゆうことだ。見張り役から送られてくる情報が間違っていれば、鬼役のほうが被害を受けるんだよ、お前たちみたいにな。これだって『無線を使えない』と同義さ」

 

とはいえ現時点で練度に大した差ははない。凡ミスをするかしないか、が第一。その次に運動能力の差が明暗を分けるところだろう。

慣れてくれば、根本的に別の所で決定的な差が出てくることになるが、ひとまずは先の話だろう。

 

「『正しい情報を正しく伝える』。そのために何が必要なのか、どうすればいいのか。そういったことを考えながら練習するように」

 

それこそが、この鬼ごっこの目的の一つである。

 

この言葉を締めとして、神栖渡里と大洗女子の初めての戦車道は終了となった。

 

渡里が目指す先は未だ遠く、その道のりは果てしなかったが、それでも確かな一歩を彼女たちは今日踏み出したのだった。

 

 

「あ、明日も同じ練習するから」

「えええええええ!!」

 

 

 

 

 

 

 




作者的にはオリ主が絡まない方が書きやすいです。
コイツの言うことはよくわかりません(無責任)。


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第6話 「鬼ごっこから学びましょう②」

本作には独自設定&ガバガバ知識、そして他作品のオマージュ要素があります。
暖かい目で見てやってください。

蝶野さんは普通に好きなキャラです。


土を踏みしめ、弾く音が生まれ、連なっていく。運動靴が翔けるたびに砂利が飛び、健康的な脚に当たってどこかへ散ってゆく。

規則正しい吐息と不規則な吐息が、折り重なるようにして空気中へと溶けて、協奏曲を作りだす。

サラサラの髪を風で揺らし、端正な横顔には玉のような汗が、浮かんでは滴となり、落ちて衣服を濡らす。

 

 

そんなことを西住みほ含めたAチームは、既に何十回も繰り返していた。

 

「もー!もーもーもー!」

「沙織、うるさい」

「落ち着いて、ください、沙織さん……叫んでは、余計に、疲れます…」

「五十鈴殿も、無理して喋らないほうが、いいですよ」

 

武部は空を仰ぎ見ながら叫び、冷泉は普段より一層気だるそうに走り、五十鈴は息も絶え絶えといった様子で前を見据え、秋山は五十鈴を気遣うように背中を支える。

 

地獄だ、とみほは思った。率直に言って、青息吐息の有様である。特に五十鈴あたりは突けば倒れそうなほどに疲労困憊で、大声が出る武部のほうがまだ余裕がありそうである。

冷泉と秋山はそこまで疲れている様子ではないが、冷泉は猫背のカーブが大きくなっているし、秋山も戦車道時特有の高いテンションが見受けられない。

 

結論、みんな、しんどい。

 

先頭を走るみほは、心の中でそう思った。自分だって日課のジョギングと、古巣での激烈に厳しい訓練を経験していなければやばかったかもしれない。そう考えると、この練習の、ひいては神栖渡里のヤバさが見え隠れしている気がするみほであった。

 

チラリ、と後ろをもう一度振り返ってみる。Aチームの更に後ろ、体操着姿の女子たちがひぃひぃしながら追いかけてきている。平然としている者、倒れそうな者、そして『鉄の板』を持った者。多様な人物の姿がそこにはあった。

 

大洗女子学園戦車道受講者は、端的に言って走っていた。ひたすら、本当にひたすら、ぐるぐると走り回っていた。

勿論その背景には、神栖渡里という教導官の姿がある。

 

 

 

「随分面白い練習をしてるじゃない?」

 

一度聞いたら忘れられないような独特の声が、渡里の背後から響いた。当然渡里はその声の主を知っていたので、あえて振り向くことはせず、返事もしなかった。

声の主はそんな渡里の態度にかまわず、真横へと歩みを進めてくる。一目でわかる陸自の制服と、帽子に収められた黒髪。

 

「どちら様ですか?ここは関係者以外立ち入り禁止です」

「あら、私は以前ここに教導官として招かれたことがあるの。無関係ではないわね?」

 

からかうような声色の女の名前は、蝶野亜美といった。渡里は横目で姿を視認したが、自分の予想が間違っていなかったことに落胆した。

 

「そんなに嫌な顔されるとは、心外ね。昔はあれだけお世話してあげたのに」

「ナチュラルに心を読まないでください」

 

顔に出てるのよ、と蝶野は笑った。それほど愉快な気分ではなかったので、渡里は笑わなかった。

知り合い以上友達未満。軽く年の開きがある彼女との関係を、渡里はそう定めていた。お互いに連絡先は知っているが、渡里は積極的に連絡を取ろうとしないし、蝶野は蝶野で飲みにしか誘わない。蝶野が西住流の道場に通っていた頃から計算すると、渡里と知り合ってからの時間はそう少なくないものの、それに比例するだけの深い関係を築いてはいなかった。

 

理由は単純、渡里が深く関わろうとしないからである。その原因は渡里だけが知っている。

 

「今日は何の用ですか、蝶野さん」

「なんだか他人行儀ね?昔みたいに亜美さん、と呼んでもいいのよ」

「勝手に過去を改ざんしないでください。………で?要件は?」

「もちろん、貴方に会いに来たのよ」

「はい嘘」

 

呆れたように渡里はため息を一つ吐いた。渡里は積極的に関わろうとしないが、逆に蝶野は渡里に積極的なのである。一時期は暇さえあれば酒飲みに付き合わされそうになって、どエライ目に遭ったこともある。会いに来た、だなんて。そんな健気な性格をしている女ではないということを、渡里は知っていた。

 

「ひどいわね、半分は本当よ?」

 

半分もあんのかよ、とは口に出さない渡里だった。

 

「もう半分はあの子たちを見に来たの。久しぶりに見たわ、あんな面白い子たち。素直で上達が早くて、それに不思議な雰囲気を持ってるわ。気になるのは当然じゃない?」

(暇なのかな、この人)

 

そう言う蝶野の視線の先には、いくつものケーブルが繋げられたモニターがあった。画面は細かく分割されていて、小さな四角形たちの中には見覚えのある少女たちが駆け回っている。

これは渡里が設置した監視カメラの映像である。彼女たちが後々復習できるように、渡里は練習の風景を映像として残すようにしていた。後から無線の音声を編集で重ねてやれば、ちゃんとした教材が完成する。強豪校では選手がやっているような細かな雑用も、人手不足のここでは渡里がやるしかない。別に嫌な作業ではないから構わないけれども。

 

「大会には出場するんでしょ?」

「そりゃまぁ」

「だったら大洗女子学園は、台風の目になるかもしれないわね」

 

楽し気な蝶野の声色に、渡里は嘆息した。

 

「保有戦車は僅か五両、おまけに旧式。選手は一人を除いて未経験者ばかり。この学校を見てそんなことを言うのは、貴方くらいでしょうね」

「あら?そうでもないと思うけど?」

 

渡里は蝶野へと視線を向けた。

 

「ここには貴方がいるじゃない。あの当時西住流の道場にいた人間なら、私と同じことを言うはずよ」

「ッハ」

 

可笑しなことを言う、と渡里は嗤った。

 

「そこは『西住みほ』がいるから、の間違いでしょ」

「いいえ、『西()()()()』がいるから、で合ってるわ」

 

その時渡里は、笑っていなかった。

黒い瞳はブラックホールにも似た重力を放ち、静かに隣の人間を圧する。並みの人間なら竦むようなそれを、しかし年季の差か、蝶野は動じず、言葉を続けた。

 

「西住流の伝統修練にして最難関、『百戦練磨の業』を無敗で終えた史上三人目の門下生。全国から集まる戦車道の猛者の中に在って、頂点に君臨し続けた天才。後に戦車道先進国である英国に留学し、最先端の戦車道と教育を学んだ者。それが西住渡里であり―――今この大洗女子学園の講師をしている人間でもある……そうよね?」

 

人を喰ったような普段の雰囲気とは異なる、茶目っ気の中に尋常ならざる鋭さを秘めたような蝶野の視線だった。

黒曜石の如き瞳同士のぶつかり合いは、数秒に及んだ。やがて重ねた月日が若かった方が硬度で劣り、敗北した。

 

渡里は緊迫した空気を入れ替えるように、息を一つついた。

 

「……そんな人間は、西住流の記録(・・・・・・)には存在しない。そして、そんな名前の人間も西住家の戸籍には載ってない。大洗女子に招かれた講師は()()()()だ。貴女の言うことは一つ除いて大外れだよ、亜美さん」

「………そ。貴方がそう言うのなら、きっとそうなんでしょうね」

 

彼女には似つかわしくない、やるせないような表情だった。渡里は自分がどんな顔をしていたか分からないが、彼女の表情を鏡にすることで、ある程度は察することができた。

二人の間を、季節外れの冷たい風が駆け抜けていく。それが二回繰り返された後、蝶野は打って変わって明るい声色で切り出した。

 

「ところで、この練習はいつまでやるつもりなの?基礎体力も無線の使い方も、確かに大事だけど……彼女たちならもう次のステップに進んでもいいと思うわ」

「………そうですね。本当は、もう一週間ほどやるつもりでしたけど」

 

渡里は監視カメラの映像に視線を移した。そこには変わらず、機敏に森の中を駆け回る少女たちの姿が映し出されている。汗を流しながらも走るその姿は、渡里が「少なくとも二週間はかかるだろう」と予想していたものだった。

 

「模擬戦の時から思っていましたが、飲み込みが異常に早い。初めて試す練習だから見積もりができないとしても、ここまで早いペースで進んでいくのは流石に想定外でしたよ……初心者と侮ってたんですかね?」

「初心者だからこそ、なのかもしれないわね。余計な前知識がないから、スポンジみたいに吸収していく。固定観念の欠如がプラスに働いてるのねきっと。……まぁ、そうでなければ貴方の言う事に素直に従ったりしないでしょう」

「なるほど。たしかに俺もそれで苦労したもんですよ」

 

男の戦車道指導者。それが日本において示す意味を、一人は知識として、もう一人は実体験として知っていた。

神栖渡里が戦車道チームの全指揮を執ることができるというのは、普通の事では決してない。

 

「だからこそ、信用を失うような真似はしないことね。貴方の場合、疑念を抱かせることも危ういわ。今は良くとも、溜まった不満は決して消えず、いつか必ず噴出する」

 

その言葉に込められた色は、姉が弟に言い聞かすものと同じであった。

 

「この練習の意味は、表も裏も分かるわ。確かに必要なことだし、貴方らしいユニークなやり方で、効率もいい。でもね、『やらなければならないこと』と『やりたいこと』はいつだって乖離するものよ。――――私たち指導者はね、あの子たちの成長の、ほんの数パーセントにしか関わることができないということを、忘れないようにしなさいな」

 

蝶野の教えは、深く渡里の心に沈殿していった。その時渡里を襲った感情の名前は、感銘だった。

英国に留学し、教導を学んだとはいえ、渡里の指導者としてのキャリアは不足と言わざるをえない。これは決して渡里の不勉強、努力不足だけが原因ではないが、陸上自衛隊で教官を務める蝶野と比較してしまうと、どうしたって見劣りする。蝶野亜美はその一点に関して、明確に渡里より上なのだ。

だからこそ、渡里は感銘してしまった。頭ではなく、本能がその言葉に響いてしまった。

 

「………流石に長生きしてるだけあって、言う事が違いますね」

 

しかしそんなことはおくびにも出さない渡里であった。寧ろなんだか悔しかったので、少し悪態をついてやった。

すると蝶野は何でもないように、

 

「それがどうしたの?二十二歳の若造にはわからないでしょうけどね」

 

渡里は相手が一枚上手であることを悟った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しん   どい!!!!」

 

すぐ横で武部が突然叫んだものだから、みほは思わず飛び上がってしまうところだった。

そうならなかった理由はひとえに、飛び上がるだけの体力がなかったからである。

 

十キロメートル。それは大洗女子学園の学園の縦の長さを超えている距離。そしてみほ達が走った距離である。勿論実際の数字ではなく、体感の話だが。

 

レクリエーション、と渡里が言った鬼ごっこは、あれから三日間続いている。渡里曰く「別の練習」だが、みほを筆頭にほぼ全員の中で「いや同じでしょ」というツッコミが入った。しかし渡里の言葉が真だったことに気づくまで、そう時間は変わらなかった。

 

最初に、鬼ごっこが終わった後のランニングにペナルティが追加された。ぐるっと森の周りを一周なのだが、最後まで残ったチームがこのランニングを免れることができる。しかし最初に捕まったチームは、ペナルティとして『履帯を一枚』持ったまま走らされる。ちなみにこの履帯、めっちゃ重い。華も恥じらう女子高生が担いでいいものじゃない。持ち上げたときに腰に電撃が走る。

 

次に鬼ごっこの終了から開始までの間、十五分のインターバルが設けられた。これは休憩時間という意味合いもあるが、それ以上に意見交換の場とされた。チーム毎に集まって、何が良くて何が悪かったのか、といったことを話し合っていく。「できるだけ活発に」という渡里の指示により、全員が一回以上感想なり意見なりを出さなければならない。みほのチームで言うと、武部と秋山がよく喋り、五十鈴が応え、みほは聞かれなければあまり喋らず、冷泉は半分寝てる。

 

以上が主な変更点、追加点である。履帯が追加されたことによって体力の消耗が倍になり、練習が終わるころにはみんなヘトヘトになっている。余力を残せているのはバレー部とみほくらいで、後は全員ゾンビのような姿勢で帰っていく。その姿に、武部に肩を貸していたみほは少し古巣のことを思い出した。

 

武部の絶叫も、みほには分からないでもないことでもない。

 

「戦車道なのに戦車一回も触ってないよ!どーゆうこと!?こんなんで本当に男子にモテモテになるの?!」

「延々と走らされ続けて、流石に疲れた」

「……………………………お腹、すきました」

「あ、はは……」

 

色とりどりの愚痴にみほは苦笑するしかなかった。これと似たようなことが、周りでもチラホラと聞こえ始めている。

それもそうだろう、とみほは思った。訓練のしんどさもさることながら、まだ一度も戦車に乗っていないのが大洗女子の不満の種であり、自分たちはいったい何をやらされているのか、という疑問が種を育てる水である。

 

みほとしては、兄が何の意味もないことをさせるとは思わない。きっと何かしらの理由があり、戦車道にとって何か重要なことを養う練習なのだろうと思う。しかし未だこれといった答えは出ていない。

既に不満の芽は出始めている。このまま答えが出ないのでは、花を咲かせることになるだろう。

 

「みなさん、私おやつを持ってます!これを食べて元気出してください!」

 

一人にこやかで明るいのが、秋山である。どこから取り出したのか、その手には缶詰が握られている。

見た目非常食っていうか、乾パンに見えるのだが、それおやつと言っていいのだろうか。

構わず五十鈴は秒で掴み取った。

 

分からないと言えば、秋山のテンションもみほには謎だった。

 

「優花里は元気だね……いいの?あんなに戦車好きだったのに、まだ乗れてないんだよ?」

 

そう、秋山とは戦車に乗った瞬間人が変わる、パンツァー・ハイの素質持ちである。ミリタリー系の知識は豊富で、戦車は特に大好き。初見で戦車の名前を当て、歴史まで言えるという筋金入り。

そんな彼女が、目の前に戦車があるのに乗せてもらえていないというこの状況で、不満げな様子を一切見せないのがみほには不思議だった。

 

すると、秋山は満面の笑みを浮かべて言った。

 

「私はみなさんと一緒に何かしてるだけで楽しいですから!」

 

良い子や…。誰かの声が流れた。

 

「それに、まるっきり戦車道に関係ない練習ではないと思うんです」

「え~だって鬼ごっこだよ?」

「でも、ただの鬼ごっこじゃないじゃないですか」

 

思うんですけど、と秋山はつづけた。

 

「あの見張り役って、名前を変えてるだけで、実際は前線観測員なんです」

「なにそれ?」

 

素人の武部は首を傾げたが、みほには馴染み深い言葉であった。捕捉するように、みほは言葉を紡ぐ。

 

「前線観測員は、戦車から降りて敵を観測、位置情報を伝える偵察役みたいなものなの」

 

本来の意味は間接射撃という、目に見えない場所を砲撃する際、部隊の目となって砲撃地点を指定する役のことだが、戦車道ではみほの言う通りである。

 

「徒歩偵察は戦車兵の基本なんです!敵の位置をいち早く観測し、味方に正確に伝えることができるかどうかで、勝敗も分かれてきますから。この鬼ごっこはそういった基礎を鍛える練習なのかと思いまして…だから私は全然楽しいです!」

 

特に装填手は観測員をすることも多いですから、と秋山は笑った。

理屈の通った、説得力のある説である。ちゃんと戦車道に関係ある練習なのですよ、と言われたような気がしてくる。武部も感化されたのか、うぅむと説き伏せられたようだった。

 

「あ、あの武部さん。お兄ちゃんは普段は面倒くさがりでぐーたらで、いい加減な人だけど…戦車道に関してはすごく真面目なの。だから、もう少しだけ信じてあげてくれないかな…?」

 

みほは援護射撃を行った。友達も兄も、両方大事なみほにとって、できれば両者は良い関係を築いてほしかった。

武部は一瞬目を丸くして、そしてゆっくり頷いた。

 

「そっか。二人が言うんならそうなんだよねきっと。じゃあもう少し頑張ってみよう!」

「単純だな……」

 

冷泉の冷ややかな一撃が武部へと刺さる。 「お兄ちゃんがすることだから」というある種盲目的な根拠しか持たないみほにも言えたことだった。

しかし武部は冷泉の一刺しも何のその。屈託のない笑顔を浮かべて言うのだ。

 

「友達が言ってるんだから大丈夫だって!それ以外に信じる理由はないでしょ?」

「武部さん……」

 

みほが武部と友達に良かったと、心の底から思うのはいつだってこういう時だった。その優しさが、心の在り方が、何よりも眩しく、尊いもののように思えるのだ。人と人とを繋ぐ稀な気質は、通信手として得難い素質でもあった。みほは武部を通信手に推挙したことが間違いではなかったと確信した。

 

「でもさー、少し気にはなるよね。この前の蝶野さんみたいに、ちゃんとした肩書とかあるわけじゃないし……」

 

肩書、資格。それは時として何よりの説得力を持つもの。神栖渡里はその一点において、明確に蝶野に劣る。だってあの人、『みほの兄』しか持ってない。

武部の言うことも否定したいが否定できないみほである。

 

「みほは何か知らないの?妹なんだよね?」

「ええと、お兄ちゃんは私が小学生の時にイギリスに留学して、それっきりだったから……小さい頃は一緒に戦車道の勉強とかしてたけど……」

 

『子どもの渡里』は知っていても、『大人の渡里』はほとんど何も知らない、と同義である。

 

「そっか……優花里は?戦車道に詳しいんでしょ?あの人のこととか、何か知ってる?」

「う、まぁ一応……といいますか、なんといいますか…」

 

歯切れの悪い言葉だった。一同の視線を受けて、観念したように秋山は述べる。

 

「私も気になって、色々と調べてみたんです。過去の記事、ネット、テレビとか、メディアを漁り尽したんですが……」

「ですが?」

 

ええっと、と秋山は言い淀み、衝撃の事実を明かした。

 

「『神栖渡里』という名前はどこにもありませんでした……完全に無名の人です」

「―――――え」

 

うそやん、とみほは目を剥いた。

 

「む、無名って……」

「記録がどこにもないんです……どこかの学校で教導官をやっていたとか、そういうのが一切……」

「それは、変ですね…?蝶野さんは『戦車道に関しては信用できる』と言ってましたし、それなりの実績がある人とお見受けしてましたけど……」

「あ、華。乾パン食べ終わったんだ……」

「はい、美味しかったです」

 

にっこり、と五十鈴は笑った。乾パンって美味しいものだったっけ?

 

「それに神栖さんを招いたのは、生徒会の人達と伺っています」

「……なら、ちゃんとした人のはずだが」

「うーーーーん??」

「あ、あの……」

 

秋山がおずおずと手を上げた。八つの視線が一気に集中する。

 

「実は、一つだけあるんです。神栖殿の名前があった記事が……」

「……なら、最初から言ってくれ」

 

猫背気味の背を直さず、冷泉はそう言った。気持ちとしてはみほも同感である。あやうく兄が無職だったのかと勘違いするところだった。

 

「大学選抜のコーチをしていた、というのがネットの掲示板にあったんです」

「大学選抜!?すごいじゃん、それって普通じゃないよね!?」

 

武部の言葉にみほは頷いた。大学選抜は、文字通り選び抜かれたエリートたちが集まる場所。チームでエースを張れるような実力者たちが『普通』とされる世界だ。そしてそんな選手たちを教えるには、更に優秀な人間が求められる。東の戦車道最大流派の家元が、今の大学選抜のトップとして君臨しているように、並大抵の能力の持ち主ではコーチは務まらない

 

神栖渡里は、そんな役職に就いていたという。本人の優秀さを表すに十分な実績であった。

 

「掲示板によると、約一年半コーチをしていた、らしいんですけど……」

「けど?」

 

秋山は含みのある言い方をした。それは次の言葉の破壊力を高めるだけであった。

 

「公式の記録にはないんです。神栖渡里が大学選抜でコーチをしていた、という記録が。それにネットの掲示板も、神栖殿がコーチを止めたとされる時期のものがほとんど削除されてました……」

「他には何か書いてなかったんですか?」

「残念ながら何も……」

 

その言葉を最後に、みほ達はそれ以上の追求をやめた。

ここで話しても分からないというが一番の理由だったが、それ以上に踏み込んではいけない領域に片足を入れようとしているかのような気持ちがあったのだ。

 

夕暮れの空を見上げながら、みほは思う。

兄は、イギリスに留学してからどんな道を辿ってきたのだろう。私が知らない間、あの人は何をやっていたのだろうか。

 

「お兄ちゃん……」

 

 

 

 

 

遠く遠く離れた海に、それは浮かんでいた。

県立大洗女子の学園艦より二回り以上大きく、後ろ側が大きく張り出した特徴的なフォルム。『王室の方舟』の名を冠した空母とよく似ているこの学園艦の名は、聖グロリア―ナ女学園という。

 

広大な森に覆われた艦首部、その一等地に建てられた、上品で瀟洒なコロニアル様式の館。『紅茶の園』と呼ばれ、選ばれた者しか足を踏み入れることの許されないその場所に、三人の女学生がいた。

 

色合いの異なる金髪が二人、彩度の高いオレンジ色の髪が一人。

彼女たちはそれぞれの本名を伏し、紅茶の名前で呼ばれていた。それはここ聖グロリア―ナ女学園戦車道で、一種の称号であり、名誉でもある。

 

ティーカップを上品に持ち上げ、静かに紅茶の香りと味を楽しむその姿は、英国淑女そのもの。大洗女子学園では考えられないが、英国色の強いこの学校では、このような風景は寧ろ日常的であった。

 

絵画的ですらある光景は、世の写真家が見れば思わず一枚収めてしまうほどであったが、突如として無粋とまで言える音が鳴った。電話、である。

 

「――――はい」

 

優美さを極めたような声が、静かに奏でられる。金髪をギブソンタックと呼ばれる複雑な編み方にしている彼女は、電話の声に短く応える姿すら美しかったが、ただ一つ。ある会話を皮切りに、その表情を傍目からは分からない程に変えた。

 

「―――ええ、それでは。当日、楽しみにしていますわ」

 

そう会話を締めくくり、凝ったデザインの電話を置く。やがて宝石のように青い眼が、もう一人の金髪の持ち主に向けられた。

 

「アッサム、練習試合が決まったわ」

 

淡い金髪を黒いリボンで結った女学生は、音一つ立てずにティーカップを置いた。

鋭くも華麗な瞳が、ゆっくりと向けられる。

 

「急ですね。どこの学校ですか?」

「大洗女子学園、というところよ」

「大洗女子……?」

 

どこから取り出したのか、アッサムと呼ばれた少女はノートパソコンを開いた。武骨な機械が加わっても優雅さが失われないあたり、彼女たちの所作がいかに洗練されているかが分かる。

まるで鍵盤を弾くようにタイピングし、やがてアッサムは口を開いた。

 

「今年から戦車道を始めたようですね。データがほとんどありませんが、諜報部隊によると戦車の数は少なく、選手の数も同様です」

 

その小さなデバイスの中に、一体どれだけの情報が詰まっているのか。それは誰にも分からない。

 

「ええ、五両対五両の殲滅戦を申し込まれたわ」

「それは……凄い勇気のある人達ですね…」

 

オレンジ色の髪をした小柄な少女は、ティーカップを持ったまま感嘆の声を上げた。

 

「こちらからはマチルダ四両、それにチャーチルを出すわ。アッサム、オレンジペコ、準備をしっかりしておいて」

「チャーチルを、ですか?ということはダージリン様がお出になるのですか?」

「あら、ダメかしら?」

 

恐縮したように、オレンジペコと呼ばれた少女は否定の意を示した。アッサムがオレンジペコの代弁をするように、言葉を紡ぐ。

 

「戦車道新設校相手にわざわざチャーチルを出す必要はないのでは?大会も近いことですし、下級生に経験を積ませるのも一つの手だと思いますが」

「そんなの、優雅じゃないわ」

 

紅茶を一口飲み、たっぷりと間を取ってから、『紅茶のシャンパン』と称される名を持つ美少女は静かに言う。

 

「聖グロリア―ナは、いついかなる時、いかなる相手からの挑戦も受ける。そして、常に全力でそれに応えるわ」

 

それはノブレス・オブリージュの体現であった。やれやれ、と言わんばかりにアッサムは瞳を閉じ、オレンジペコは微かに笑った。

 

「それに……今回は絶対に私が出るわ」

「それはまた、なぜですか?」

 

ダージリンという女性は、常に余裕のある態度が特徴的である。しかしこの時ばかりは、不思議と語気に力が込められていた。それはオレンジペコ、そして付き合いの長いアッサムから見ても珍しいことだった。

 

オレンジペコの問いと、アッサムからの視線に、ダージリンは応える。

 

「――――『不敗の指揮官』からの、挑戦状だからよ」

 

その言葉の意味は、金髪の持ち主だけが知っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




原作では、西住流にそんな修練は存在してません


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第7話 「目隠しして学びましょう」

本作には作者の「理論的なようで理論的ではない理論」がふんだんに盛り込まれています。
カスピ海のように広い心で読んでやってください。



 

「今日は別の練習をしようか」

 

渡里のその言葉に、周囲から歓声が上がった。戦車道の練習開始5日目にして、大洗女子はついに新たなステップへと昇った。

長かった……陸上部かといわんばかりに走らされ、薄暗く虫も出る森の中を駆け回ったあの日々。ちゃんと意味はあるのだから、と自分に言い聞かせながら履帯を担いだこともあったが、ようやく解放の日を迎えたのだ。

 

「流石に同じ練習ばかりじゃ飽きてくると思ってな……『戦車道を楽しむ!』がスローガンなわけだし、ここらで新しい風を入れようじゃないか」

「おぉ……!ということは、ついに戦車に乗れるんですね!!」

 

またもや歓声が上がる。やはり戦車道とは、戦車に乗ってこそ。先日は「みんながいれば戦車に乗れなくてもいいです!」と言っていた秋山だが、やはり戦車に乗るとなると、目の色が変わるようだった。

みほの後ろの立つ武部も、高揚を隠せていない。模擬戦のときは散々狭いだの暑いだのと言っていたが、戦車に乗れると分かったらこの様子である。最も彼女の場合、ランニング地獄から解放される喜びのほうが勝っている気がしないでもないみほであった。

 

「――――それじゃあ早速、二人組作ろうか。同じチーム同士で組んで、人数が奇数のチームは余りモン同士で組んでくれ」

「じゃあ私は麻子と組もうかな。目離すと寝そうだし」

「………流石に起きてる」

 

猫背気味の背中と眠たげな目を隠そうともしない冷泉の横に、武部が立つ。

そして問題が発生する。

みほがいるAチームは五人組なので、二人組を作ろうとすると当然、

 

「どうします?じゃんけんで決めましょうか?」

 

一人余る。誰か一人が、三人組の生徒会チームの余りものと組まなければならないわけだが、みほ、五十鈴の二人は生徒会に対してぶっちゃけあまりいい印象がない。のでできれば避けたいが、そうなると秋山をハブった感じがして変な後味の悪さが残る。誰もそんなこと気にしないかもしれないが、みほは気にしてしまうのである。そんなところが美点であり、欠点でもあった。

五十鈴の言う通り、じゃんけんで公平に決めたほうがいいだろう。結果的に生徒会の誰かと組むことになるかもしれないが、それは運に任せるしかない。みほは決意した。

 

秋山は既に同意している。みほも頷き、拳を差し出した―――

 

「――西住!お前は私と組め!」

 

―――ところで、右腕を掴まれてみほは連行された。生徒会広報、河嶋である。

 

「えぇ!?」

「Aチームは五人だから誰か余るだろう!」

 

ぐいぐい、と有無を言わさぬ力で引っ張られる。突然の事態にみほは対処できず、無抵抗をさらしてしまった。

いや、確かにこれはこれで後腐れないやり方だけども!

しかし悲しいかな、みほは先輩に真っ向から立ち向かう程の勇気を持ち合わせていなかった。あれよあれよ、というままに、河嶋の隣に立たされてしまい、事態は進んでいく。

 

「組めたかな?そんじゃあ、はい」

 

そう言って渡里は長い布のようなものを各ペアに一枚ずつ渡した。

 

「ほら、西住」

「え、は、はい…」

 

渡されるまま受け取る。それはハチマキであった。八九式に乗るバレー部の近藤妙子が巻いているようなものではなく、やや幅広で長さは近藤のものより短い。

これ、なに?全員の頭に疑問符が浮かぶ。

 

あ、とみほは直感した。それはデジャヴに近い感覚であった。以前、というかめっちゃ最近に同じようなことがあったような……。

こほん、と渡里は咳ばらいを一つして、にっこりと告げた。

 

「今日はサッカーしようぜ!」

 

この兄そのうち殴られるんじゃないだろうか。みほは危惧した。

大洗女子が今一つ血の気の多い女子達であったら、みほの予想は的中していただろう。

 

 

 

そして連れてこられたのは、森…ではなく体育館であった。普段はバスケ部やらバドミントン部が使っているかもしれない場所だが、今日は無人である。活気に溢れた喧騒もなく、豊かな色彩のラインが床一面に張り巡らされている。

 

そんな体育館をこれから使おうとする女子達は、今回は体操着ではなく制服である。いまだに大洗女子学園のパンツァー・ジャケットは届いていない。「今回は激しい練習じゃないし、制服でも大丈夫だろ」とは渡里の言である。ただしバレー部と三突チームだけはいつも通りの練習着を貫いている。動きやすい恰好、という指定がなければコートも羽織もマフラーも外さない頑固さは寧ろ尊敬に値するのではなかろうか。

 

「そんじゃ早速始めようか」

 

はーい、という言葉に覇気はなかった。消沈した空気に渡里は首を傾げた。

 

「なんだなんだ、元気がないな。もっとやる気出してこーぜ」

 

無理もない、とみほは思った。戦車に乗れると思った瞬間の、これである。一度上げといて落とすことはないだろう。

 

「そういえば一言も『うん』とは言ってませんでした……」

「確かに」

「なんか騙された気分……」

「騙したなんてひどいなぁ。ちょっと事実を明らかにせず返事を曖昧にしただけだっての」

 

大人のやり口、汚い。全員の考えが一致した。

 

「鬼ごっこの次はサッカー……」

「私たち何の授業してたんだっけ…」

「せんせー…、これどういう練習なんですかー…?」

「意味あるんですかー?」

「うん?」

 

一年生チームは周りと比べて、精神的にほんの少しだけ幼い。ゆえに他のみんなが思っていたとしても「流石に……ね?」と遠慮して心に秘めていたことも、口に出してしまう。

しかし一年生チームの火の玉ストレートもなんのその。渡里は表情一つ変えずに、首を傾げた。

それそうだろう、とみほは思う。既にあの兄は、一年生チームの質問に対する絶対的な答えを持っているのだから。

 

「練習の意味を教えたら意味ないだろ?自分で考えてみることさ」

 

あれはレクリエーションの次の日に行われた練習の時だった。恐らく一年生チームとは違う、純粋な疑問から発露したバレー部チームの同じ質問に、渡里は今と同じ答えを返した。

これはその時や今に限った話ではなく、渡里は常にこういった趣旨の事を言う。

 

なんで上手くいかないのか、自分で考える。

どうすればできるか、自分で考える。

なんのためにやっているのか、自分で考える。

 

『考えること』。渡里はまるで口癖のように、その言葉を繰り返す。それは経験者であるみほですら、新鮮で奇妙なことと感じる時があるほどである。

 

ゆえに渡里の返答に、驚いた者はいなかった。みんな「やっぱりね」と言わんばかりに肩を竦めたり、息を吐いたりする。決して落胆しているわけではなく、渡里の言の正当性を一部認めているからこその、一種の諦めであった。

 

「うぅ、……そこをなんとか!せめてポイントだけでも!」

「うーん、…………………………………じゃあちょっとだけ」

 

食い下がる一年生チームに、今日だけは、渡里はいつもと違う反応を見せた。相当間があったが。全員が瞠目し、視線が一気に集中する。

それはみほも例外ではない。鬼ごっこの最中、基本的に一言も喋らず練習開始と終わりの挨拶だけやる様だった兄が、一体何を言うのだろうか。

 

「あの練習は、なにも無線の使い方とスタミナを養っていただけじゃなく、もっと別の事を鍛えるものだったんだ。あくまで前者の二つは、ただのおまけにしか過ぎない」

「え、そうだったんですか?」

「そうだよ。そうじゃなきゃ、お前達も納得しないし、怒るだろ?」

 

いや怒りはしないだろうけど、とみほは心の中で応えた。不満は徐々に溜まっていたけど。

 

「じゃあ何を鍛えてたでしょうか?」

 

沈黙。ここで素直に答えを教えてくれないのが、神栖渡里という人間である。

ぽくぽくぽくぽく、と木魚を叩く音がどこからともなく聞こえてくる気がするみほであった。一向に鈴が鳴る気配がないまま、秒針が一回転した時、秋山がおそるおそる手を挙げた。

 

「あの、前線観測員としての能力、でしょうか……」

「ん?………あぁ」

 

その時の渡里の表情は、意外な一手を差された棋士のようだった。その顔が何よりも雄弁に、秋山の不正解を語っていた。あれ?!と困惑する秋山。渡里はまるで学者みたいな口調で答えた。

 

「そっかそっか、そういう考え方もあるよな。うん、確かに」

「ち、違うんですか?」

「うん?いや、そんなことはないよ。寧ろ七割正解さ。ただもう少しだけ手前の話というか……そうだな、前線観測員は何ができないといけないか、ってことなんだよ。戦車乗りにも言えることだけど」

 

ぐるぐる、と頭の中の無限軌道が回転する。状況はまるで、難問を出された数学の授業のようになった。

誰も何も答えず、うんうんと唸る光景に渡里は意地悪気に見つめている。なんとなく、性格の悪さが滲み出ている気がするみほであった。

しかしこのままでは埒が明かない。自信はないが、みほには一つ思い当たる節があったのでそれを口に出そうとした、その瞬間だった。渡里の視線が矢となってみほを射止めたのだ。

――――まだ言うな、ということなのか。笑みを隠そうともせず、渡里はみほから視線を外した。

 

「一年生チーム。順番に『これが上手くなった』って思う事、言ってみ」

「ええ!?」

 

声を上げたのは一年生チームの眼鏡兼副砲手、大野あやである。突然の指名に狼狽える彼女たちだったが、渡里の視線がずーーっと固定されていることから状況を察し、最早逃れられぬと分かると我先にと答えていった。

 

「無線です!」

「正解」

「地図の読み方!」

「あい正解」

「鬼から逃げることー!」

「もちろん正解ー」

「え、ええっと…あ!鬼を見つけること!」

「正解正解」

「………………」

「ほう?そこに気づくとは、やるじゃないか」

 

あっという間に答え合わせが進み、残るは車長、澤梓のみとなった。次々に答えを取られた彼女は、しどろもどろになって目がぐるぐる巻きになっている。……というか、副砲装填手の丸山は何も言ってなかった気がするのだが。え、なにあの兄、何が伝わったの。

 

「後は…えと、えーと、うーん……」

「なんでもいいぞ。間違いがあるわけじゃないからな」

 

とはいうものの、難しい問題だとみほは思った。答えやすい所は既に全部取られていて、後何があるかと言えば、返答に困る。

 

「なんでも………あ!えっと、話すのが上手くなった、とか……です、か」

 

右下がりの声量だった。そして渡里の眉は、ピンと跳ねあがった。

 

「―――――澤、」

 

名指しで射止められ、M3リーの車長、澤梓は身を硬直させた。1年生チームの中でも比較的精神が熟しており、チームのまとめ役をしている彼女は、この時ばかりはしどろもどろになる。渡里の声色が1段階低くなったことに恐縮したのかもしれない。渡里もそれを察知したのか緊張を解きほぐすように語調を柔らかくした。

 

「ゆっくりでいい。できるだけ、分かりやすい言葉にしてみてくれないか?」

「え、えと……見張り役をする時、鬼がどこにいるか、とかどっちに逃げたらいいとか、そーゆーのを伝えないといけないんですけど、みんなに上手く伝わらないことがあって……」

 

それは確かに、とみほも心の中で同意した。戦車道を嗜んでいたみほは、既に地図を暗記して自分の位置を常に把握することができている。ゆえに見張り役から送られてくる情報を、すぐにフィードバックできるし、足りない部分は自力で補足できる。西住流の英才教育、その恩恵である。ただ全員がそれをできているかというと、否である。「分かるだろう」という曖昧で自分勝手な考えの指示は、この鬼ごっこでは何の意味もなさない。通信が理解できない、といったケースは既に何回もあった。

 

「だから、できるだけ丁寧にっていうか……相手に分かるような言葉にしないと、って思ってやってる内に、なんだか喋るのが上手くなって、スムーズにできるようになったかなぁ……っていう感じなんですけど……」

 

澤の言葉は尻すぼみに小さくなっていった。腕を組み瞑目していた渡里は、一つ頷いて、

 

 

「――――百点満点だ、澤。花丸をあげよう」

 

 

百点満点の笑顔で、渡里はそう言った。みほには見覚えのある顔だった。姉や自分が渡里の質問に答えたとき、渡里は今みたいな満足げな顔を浮かべたのだ。

 

「澤が言ったことと同じような感覚が、自分にもあったなぁ、って思う奴は手あげて」

 

約半分、いやそれよりちょっと少ない数の手が挙げられる。みほは少数派に属した。

それでも渡里の満足げな様子は変わらない。

 

「いま澤が言ったこと、それが今までの練習で一番大切な事だ」

「????」

 

疑問符を乱立させた一同。

ちょっと説明しようか、と渡里は小さなホワイトボードを取り出した。

 

「大前提として、戦車は一人で動かせない。そのために役職が分かれていて、何人も乗ってるわけだからな」

 

つまりこうゆうことだな。と渡里はホワイトボードを返した。

そこにあったのは、非常に下手くそだが人型っぽい絵だった。右手右足、左手左足、そして頭にあたると思われる部分からそれぞれ線が引かれている、ようである、多分。

圧倒的画力の無さを一切気にせず、渡里は話を続ける。

 

「今のお前たちは、頭と手足が繋がってる状態で、一つの身体を一人で動かしている。その場合、自分の思考がダイレクトに身体に反映される。まぁ、人間としては普通のことだな」

 

渡里はホワイトボードを指で叩いた。

 

「だが戦車の場合は違う。一つの身体を複数人で動かすと想像してみてくれ。右手には右手の人が、左足には左足の人がいて、それぞれ思い思いに動けるし、逆に自分の担当の箇所以外は一切干渉できない」

 

―――さて、どっちの方がスムーズに動けると思う?

 

渡里のその問いに、全員が沈黙した。それはネガティブな態度の結果ではなく、全員が等しく渡里の言ったことを想像していたからだった。

みほが誰よりも早く答えを出したのは、経験の差だった。戦車乗りとして生きてきた十年以上の月日の中で、みほは当たり前のように渡里の言ったことの真意を知っていたのだ。

―――当然、

 

「当然、一人が一つの身体を動かす方がスムーズだ。これは比較的じゃなくて、絶対的な話」

 

渡里はホワイトボードを持っていない手の方を、剣を振るみたく挙げて降ろした。

 

「こんな簡単な動作一つとっても、『どの高さから』『どれくらいの速さで』『何回するのか』って具合に、無意識でできていることを一々人に伝えなければならない。動きが複雑化すればそれだけ、伝え方の難易度も比例していく―――戦車を動かすっていうのは、これと同じだ。乗員が一丸となって、いや一体になって初めて戦車は綺麗に動くんだ」

 

そしてそれは、素人にいきなりやれと言ってできるものではない。みほはそう思った。みほもまた、一朝一夕でできるようになったわけではなかったから。

 

「その時、乗員同士を繋ぐものとなるのが『言葉』だ。言っとくけど、これは『できればいい』ものじゃなくて、『できて当然』のものなんだ。戦車道が強いところは、みんなこれを当たり前のようにできてるし、逆にできない内は戦車に乗せても意味がない。本当は長い時間をかけてできるようにするんだが、お前達には時間がないからな。少し無茶な方法でやってるんだ」

 

一つ一つ重点的に鍛えるのではなく、いくつかのパラメータをまとめて鍛えるようなやり方。それは効率という点においては優れているが、負担も大きい。

 

だが全ては。

全ては、戦車を動かすため。

渡里の言葉は、それまで大洗女子にあった不信と疑惑の霧を払い、欠けていたピースを埋める効果があった。

 

「鬼ごっこも、これからやる練習も目的は一つ。『言葉で繋がる』のが戦車の操縦だ。今は完全に理解できなくとも、そう遠くない将来にできるように。今言ったことを胸に刻んで練習してくれ」

『――――はい!』

 

目的がはっきりしたためか、はたまた今までの練習に意味があると改めて教えられたからか、一同の返事に淀みはなかった。

渡里も満足げに一つ頷いた。

 

そして一拍置いて、苦笑した。

 

「ただまぁ、おまえ達がもうちょっとだけ優秀じゃなかったらなぁ。今頃戦車に乗ってたんだろうけど」

「―――ど、どういうことですか!?」

 

秋山の驚愕にも、渡里はどこ吹く風で応えた。

 

「蝶野さんも言ってただろ、『初めてとは思えないほど優秀だ』って。俺も同意見でな。お前たちがろくに戦車を動かせない……まぁ、言葉とか一心同体とかそれ以前のレベルだったら、最低限の動かし方は教えることになってただろうな」

 

しかしみほ達は『操縦できてしまった』し、なんなら『砲撃もできてしまった』わけで。上手くはないが目も当てられない程下手くそでもなかった結果、渡里が予定していた練習内容が繰り上がってしまったのである。

そのことを知った一同は、微妙な表情をするしかなかった。

嬉しいやら、悲しいやら、である。

 

 

 

「麻子そっちじゃないって!右、もうちょい右!」

「右ってどっちだ。右に回転すればいいのか、右に動けばいいのか」

「わー!紗季ちゃん違うよ!?そっちいっちゃダメだって!!」

「そこだ河西!回転レシーブからのBクイック!!」

「キャプテン!!意味がわかりません!!」

 

この光景はなんだろう、とみほは自問した。体育館の半面ほどのスペースで、十一人の女子が右往左往している。その様はさながらB級映画のゾンビのようである。

その場をくるくると回る者、一歩踏み出しては一歩戻る者、じっと立ち尽くす者、コートの外に出ていきそうになる者。

色とりどりの動きを披露する彼女たちに共通しているのは、一枚の鉢巻きによって目を覆っていることだった。

 

「西住!ボールはどこだ!?」

 

視覚を完全に遮断された状態で彼女たちが追いかけているのは、一つのサッカーボール。そこらの百均で売ってそうなチープで女子にとっては縁遠いものを、彼女たちは暗闇の中でがむしゃらに追いかけている。

 

『目隠しサッカー』。バスケットゴールの下に置かれた小さなサッカー用ゴールの横に、この練習を作った張本人はいた。

 

「さっき言ったことを思い出せ!ポイントは『言葉』だ!」

 

渡里が激を飛ばすものの、コートの内にいる十一人の動きは未だ精彩を欠いている。それはそうだ、とみほは思った。渡里の言葉が向けられたのは、コートの内にいる十一人ではなく、コートの外にいる十一人だったからだ。

 

「っ!河嶋先輩、一度止まってください!ボールの方向は河嶋先輩が向いている方の真反対です!身体をゆっくりと回転させてください!」

「真反対だと!?……こうか!!」

 

みほの指示で河嶋は身体を翻した。しかしその角度は真反対ではなく、僅かに手前になっていた。回転が足りなかったのだ。

みほは歯噛みした。これでもまだ足りないのか。簡単そうに見えて、これが中々悪辣な練習だ。否、それもそのはず。なぜなら考案者は神栖渡里、あの兄が一筋縄でいく練習をやらせるわけがないのだ。

 

練習が始まる前、渡里はみほ達にペアを組ませ、一組ずつに鉢巻きを渡した。

そしてコートの中に全員を入れ、ペアのどちらかが目隠しするように言い、そうでないほうはコートの外に出した。これで『受信役』十一人と『送信役』十一人の二グループができる。

そしてサッカーボールをコートの中に蹴り入れ、一言である。

 

『そのボールをゴールに入れたらクリアだ』

 

それはあまりにも、簡単すぎる練習と思われた。

首を傾げた一同は、しかし次の瞬間にこの練習の難しさを体感する。

 

目が見えないコート内の十一人は、当然ボールがどこにあるか分からない。ゆえに彼女たちの目とならなければならないのが、コート外の十一人である。

ボールの方角、距離、他の人間の位置、ゴールの方向。コート外いる者にとっては一瞬で分かる事象も、コート内の者にとっては全てが暗中のこと。

遭難する船を導く灯台のごとく、言葉という光で導いてやらなければならない。

 

口で言うには簡単だが、行動に移した時これは困難を極めた。

受信役となったみほは最初、鬼ごっこの時の要領で河嶋にボールの方角と距離を伝えた。

それは可能な限り明瞭な指示だったが、河嶋はみほのイメージ通りの動きをすることはなかった。

全く同じ人間というのが存在しないように、みほと一ミリも違わず同じ感覚を持っている者はいない。みほの10センチと河嶋の10センチは、距離としては同じでも感覚としては異なっている。それは体格的な違い、性格的な違いが生み出す誤差である。

もし河嶋が目隠しをしていなかったら、みほの言う通りに動いていただろう。視覚情報でみほの指示を補い、その誤差を埋めるようにするからだ。

だが河嶋は目隠しをしている。視覚という人間最大の感覚器官を封じられたこの状況下において、みほの指示は親指と人差し指で10センチを正確に図れと言うに等しかったのだ。

 

渡里は言った。『戦車の操縦とは一つの身体を複数人で動かすようなものだ』と。

この練習は、身体に指示を出す『頭』の部分を別の人間が担うような練習だった。

みほは身体を動かす権利を持たず、河嶋は自分の判断で身体を動かす権利を持たない。

もちろん全くそういうわけではない。河嶋もボールの転がる音や周囲の会話からある程度の位置関係は予想できる。しかしそれは、根本的な解決にはならなかった。

 

「鬼ごっこはレクリエーション」という渡里の言葉は、嘘ではなかったということをみほは悟った。あれはまだ、自分の身体を自由に動かせた。見張り役の指示もある程度は自分の中で補うことができた。だがこの練習は違う。『主観』に依った指示は、本当に何の役にも立たなかったのだ。

 

 

「ボールは河嶋先輩から見て東45度、河嶋さんの歩幅六歩分です!間に人はいないので、怖がらず進んでください!」

「45度……六歩分…」

 

みほの指示を受けた河嶋の動きは、慎重そのものだった。怖がらず、とみほは言ったが、視界が塞がれている以上仕方ないことでもあった。

みほの予想より長い時間をかけて、河嶋はボールの下へとたどり着く。その間ボールに触れる者がいなかったのは、幸運以外の何ものでもなかった。

 

「河嶋先輩!ボールはもう足元です!蹴らないようにゆっくりとボールの位置を確かめてください!」

 

ようやくスタート地点にたどり着いたみほだったが、この時なにより恐れていたのは河嶋が誤ってボールを蹴ることだった。流石にボールの正確な位置まで言葉にすることはできなかったので、とにかく慎重に動くよう指示するしかみほにはできない。

 

河嶋は熱湯風呂に入る寸前のような足の動きで一度、二度と空を掻き、三度目にボールが大きく動かない程度に小突き、そして四度目でようやくボールを足元に収めることに成功した。

 

「よし、やったぞ西住!後はゴールに入れるだけだ!!」

「はい!えーと……」

 

足でしっかりとボールを踏みつけ、逃がさないようにしている河嶋は目隠しをしていても口角が上がっているのがわかる。終わりが見えたことで、気分が高揚したのだろう。みほは半分くらいは同じ気持ちだった。

 

みほはまずは河嶋の位置を確認し、そしてゴールのある方へと目を向ける。位置関係を把握すれば、後は『河嶋の視点』になって指示を出せばいい。

神栖渡里がこの練習で想定した『真髄』を無意識下で行いながら、みほは頭の中で情報を再構成し、その結果が喉から出ようとした、まさにその時だった。

 

「河西!河嶋先輩の声がした方にボールがある!根性で突っ込めーー!」

「桂里奈ちゃんもいっちゃえー!」

「よーし小山ぁ!お前も続けー!」

「――――ほえ?」

 

吊り目に片眼鏡という、凛々しい見た目の河嶋から漏れた悲鳴は、あまりにも間の抜けたものだった。

あ、河嶋先輩そんな声出るんですね。みほは一瞬場違いな事を考えた。そしてその一瞬の間に、悲劇は起こった。

重ねて言うが、コート内の十一人は目隠しをされていて、視界が塞がれている。

そんな真っ直ぐ歩くことすらあやふやな状態で、勢いに任せた行動をすればどうなるか。

人は、人とぶつかりそうになると反射的に避けるものだが、それは目で見ているからであって、目が見えないとどうなるのか。

 

その答えが目の前にあった。

 

「おい、なん―――――――ふぎゃ」

 

それは端的に言うと、事故だった。それも頭に酷い、という二文字が付くくらいの。

最初に、比較的慎重(?)だった生徒会チーム小山が河嶋に接触。この時点でボールはまだ河嶋の足元。

次にキャプテンの指示通り(しかも正確に)突っ込んでいったバレー部河西が、二人と衝突。三人は軽く揺れたものの、そこまで激しい接触ではなかった。ちなみにボールは河嶋の足から解放された。

そして一年生チーム阪口桂里奈が止めとなった。溢れる元気をそのまま力に変換し、目隠ししているとは思えない速度で吶喊し、そして大クラッシュ。後に続いた者もそのまま巻き添えである。

 

みほは思わず目を瞑った。河嶋の変な悲鳴が聞こえた後、恐る恐る目を開けてみれば、そこには「ぐちゃあ」という表現がピッタリくるような絵があった。ボールは何処かに飛んで行ってた。

 

「だ、大丈夫ですか…」

 

うーん、という悲鳴が聞こえた。河嶋のものだったかもしれないし、そうじゃないかもしれなかった。それほど複雑に、というか悲惨な感じで彼女たちは積み重なっていた。

 

「…………あー、一旦休憩しよか」

 

ため息混じりの渡里の声が、「うわぁ……」という雰囲気の中を走り、虚しく空中に溶けていく。

練習はそこで、仕切り直しとなった。

 

その後メンバーを入れ替え幾度か同じ練習が行われたが、全員よちよち歩きに毛が生えたような動きだったこと、そしてゴールネットを揺れた回数は片手の指で足りるほどだったことをここに記しておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




相変わらず使いづらいオリ主に悪戦苦闘しながら書いています。


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第8話 「練習試合をしましょう➀」

本作にはガバガバ知識&独自設定の要素がたくさんあります。でも許してください。

今までで一番書いてて楽しかった回。ガルパンオリ主の立ち位置はこれくらいがベストな気がします。

そして試される知識量。参考資料:「萌○よ!戦車道学校」


玄関のドアを閉め、寮を後にした西住みほは、大きく深呼吸をして空を見た。

雲一つない晴天、というわけではないが、雨の到来を微塵も感じさせない透き通った空である。早朝五時、まだお日様は頂への道を登り始めたというところで、辺りはほんの少しだけ暗いところがある。しかし湿度は低く、風に運ばれた心地よい温もりが頬を撫でていくような気持ちのいい朝であった。

 

「やっぱり潮の香りはするんだぁ…」

 

故郷では緑豊かな土地が天然のマイナスイオンを生み出していたが、ここは海の上。優劣をつけるわけではないが、香りという一点においては故郷のほうに軍配が上がる。県立大洗女子学園の学園艦は古巣の学園艦の何倍も小さく、その分だけ海との距離が近いため磯の香がより感じられるのだろう。

今は少し違和感を覚えてしまうが、きっとすぐにこの匂いにも馴染んでしまうのだろう、とみほは思った。

 

武部は髪がべたつくのだけが不満、と言っていたがみほはまだその心境に至ったことはない。ストレートのボブは生まれたときからの艶を未だ維持し続けており、戦車道で汚れることはあってもその滑らかさだけは失うことはなかった。小学生の時分などは寧ろ泥や土が髪飾りになっていたほどだったが、今思えばよく痛まなかったものである。

ちなみに汚れた髪を洗うのは両親ではなく兄で、そのやり方もみほに目を瞑らせて洗顔もいっしょにやるような勢いのものだった。トリートメントや化粧水の存在を知った今のみほからすればとんでもない所業である。

 

――――いやまぁ、小学生のころなんてそんなものだけど。

 

あの時は花より団子で、汚れさえ落としてくれればそれでよかった。それが無邪気と言うか無頓着と言うか、みほには分からないが。

しかしそれを差し引いても、渡里のやり方は雑だった。

 

雑。みほは兄である渡里を、よくそう言う。

例えば片づけ。読んだ本は本棚に返さないし、机の上はペンやイヤホンやらが百花繚乱。

例えば掃除。目に見えるところだけ綺麗にして、サッシの溝は埃の楽園。

例えば会話。面倒くさいときは「そだな」しか言わないしそもそも聞いてない。

 

みほと渡里は9年ほどしか同じ場所で時を刻まなかったが、それでもみほは渡里のことならいくらでも思い出せるし語れる。楽しかった思い出も、そうじゃない思い出も鮮明に覚えているが、記憶の円グラフを三割くらい占めているのはいった私生活での駄目さ加減だった。母から怒られ、妹に説教され、とあの手この手で矯正が行われたが、こうか は いまひとつ だった。結局みほや姉が甲斐甲斐しく世話を焼いてやったのだった。

子どもの頃は持ち前のやんちゃさで周りを振り回していた、と言われるみほだが、今考えるとみほだって渡里に振り回されていたような気がする。

 

「いぢわる、だったからなぁ……」

 

父は「みほはいつも渡里に揶揄われてるね」と言ったが、正にその通りだった。「クーゲルパンツァーは火星人が地球に忘れていったオーパーツなんだ」というバカな嘘をみほは小学校を卒業するまでずっと信じてたし、そのせいで大変恥ずかしい目に遭った。そういったことが何回もあったのだから、みほと渡里はお互いに振り回し、振り回される関係だったのだろう。

 

そして今、あの頃と性格的に何も変わっていない兄に、性格が大人しくなったみほは振り回されっぱなしで。そして大人として成長した兄は、みほだけでなくもっとたくさんの人を振り回すようになった。

 

みほは歩を進めた。目指すは、学園艦下船所。今日はじめて、みほは学園艦から降りて、大洗女子学園艦の寄港地である大洗町の土を踏むことになる。

 

――――戦車道の、選手として。

 

某月某日、天気は快晴。

本日の予定、聖グロリア―ナ女学院との練習試合。

 

そのことが神栖渡里から告げられたのは、つい一昨日のことであった。

 

 

 

「……うん、早いけど終わりにしようか」

「―――一同、礼!」

 

ありがとうございましたー!という合唱が礼とともに奏でられる。それは練習終了の合図であった。やがて顔を上げた22名の女子達の顔は、僅かに疲弊の色を滲ませてはいるものの、重苦しいものではなかった。それは戦車道の練習が始まった当初と対照的であった。

 

「お疲れ様。ゆっくり着替えて気をつけて帰るように」

 

神栖渡里、というみほの兄が大洗女子学園の戦車道教導官として赴任してから既に二回目の木曜日を終え、そして今まさに二回目の金曜日が終わろうとしていた。この頃になると一同も渡里の変わった練習への適応を見せており、寧ろ高い意欲を以て取り組んでいた。その理由は言わずもがな、先日の渡里の「今やってる練習は戦車を動かすためのもの」という発言である。これができるまでは戦車に乗せない、と渡里は言うが、逆説的に考えると、できるようになれば戦車に乗れるとみほ達は思い至ったのだ。

そこからはもう、ロケットに火が付いた勢いである。目隠しで行うサッカーも、終わったと思ったら帰ってきた鬼ごっこも、みほ達は真剣に取り組んだのだった。

 

日を追うごとに渡里からの要求も難しくなっていったが、それはゴールが近いことの裏返しなのだろう、というポジティブさを全員が発揮していた。

事実として、みほ達は渡里が想定していたペースの倍近い速さで成長していたが、本人たちの知るところではなかった。

 

「―――と、解散するところなんだが。今日はちょっと言うことがある」

 

踵を返そうとした寸前のことだった。何事か、という多くの視線を一身に受けながら、渡里は言った。

 

「明日の練習はお休みだ。最近は熱心に練習していたし、授業もないからここいらで一度ゆっくりしといた方がいいだろ。あんまり根を詰めても効率よくないしな」

 

おぉ、と歓声が俄かにあがった。先週の土曜日は当たり前のように練習があって、半休のようなものだった。てっきり明日もそうだろう、と思っていたところにサプライズ休暇。テンションが上がるのも道理だった。

しかしそんな中、みほだけが周りと真逆の反応をしていた。この時、みほは嫌な予感が全身を駆け抜けていくのを感じていたのだ。それは神栖渡里という人間をこの中で誰よりも知ってるが故の、経験則だった。

 

(お兄ちゃんが無料でそんな美味しい話をくれるわけないよね……)

 

その考えは当たっていた。休みの予定を立て始めてすらいた者達の喧騒を断ち切って、なんでもないように渡里は言った。

 

「明後日の日曜日は、練習試合があるから。あんまり遊ぶのはいいけどケガだけはしないでくれ」

「――――え?」

「あぁ、だよね……」

 

遠い目になるみほと、目が点になるみほ以外の全員。カァーカァーと烏の鳴く声が良く聞こえる。

 

「れ、練習試合ですか?」

「いえす、練習試合」

 

えぇーーー!という絶叫が赤みを帯び始めた空を突き抜けていった。

一同の驚愕を他所に、渡里は淡々と言葉を続けていく。

 

「そろそろ戦車に乗りたいんじゃないかなー、と思ってな。どうせなら試合したほうが色々得だし」

「い、いや。それは確かに嬉しいですけど…!」

 

だからって練習試合って、と秋山は困惑した様子だった。うん、気持ちは分かる。でもこういう人間なのだ、兄は。

 

「急な話なのは分かってるけど、向こうの都合もあるからな。明後日しかなかったんだよ」

「そ、それは仕方ない…です、ね?」

「うん、まぁ10日前には決まってたことだけど」

 

言えよ。という言葉が喉まで出かかっていたが、みほは押しとどめた。全然急な話じゃないよそれ、お兄ちゃんが私たちに言わなかったから急な話になっただけだよ!むしろ結構余裕のあるスケジュール組んでくれてるよ!

 

「ちなみに私も知らなかったんですけど、相手はどこなんです?」

 

角谷はいつもの調子を崩さず、渡里へ問うた。生徒会長である角谷にも話が通っていないとなると、うっかりミスではなく確信犯的な匂いがするみほであった。あの兄、わざと言わなかったんじゃないだろうか。

しかし対戦相手がどこなのかは、みほも気になるところであった。なんせ出来立てほやほやの戦車道新設校。おまけに戦車に乗った回数はほぼ一回(渡里の指示)で練度は未知数。加えて保有戦車はたった五両でしかも低スペック。

自分で言うのもなんだが、こんな学校の相手をしてくれる善良な学校があるなんて―――

 

「相手は聖グロリア―ナ女学院。試合会場は大洗町、ホームグラウンドだな」

「あぁ!?西住殿が白目に!!?」

 

 

場所は変わって生徒会長室。一人が使うには大きすぎる面積を持つこの部屋は、今は広さに適した人数を飲み込んでいた。

長い机に供えられた七つの椅子に座っているのは、各チームの車長、計五名と生徒会長、そして神栖渡里である。

あれから渡里は、作戦会議ということでチームのリーダーポジションである車長だけを集め、他の者は解散させた。

「練習試合とはいえ、それ相応の準備はしっかりするべき」というスケ管ダダ甘マンが振りかざしてはいけない正論を振りかざし、この会議は開催された。

 

「聖グロリア―ナかぁ……」

 

みほは憂鬱な気持ちをため息とともに吐き出した。その名前が戦車道の世界でどういう意味を持つか、みほは知っていた。

 

「あの、西住さん。聖グロリアーナって強いんですか?」

 

バレー部キャプテン磯部の言葉に、みほは力なく応えた。

 

「過去十年くらい、全国大会ベスト4を独占している四校の内の一つなんです……準優勝も何回かしてる、全国屈指の強豪校です…」

「な、なんでそんなところと……」

 

澤の言葉は、みほの心中を的確に表したものだった。ほんとうに、なんでそんなところと練習試合を組んだのか。説明責任があると思うみほであった。

ぎょろり、と全員の視線が渡里へと向かう。

当の本人は呑気に茶を啜っていた。一杯飲み終わり、やがて口を開く。

 

「練習試合なんだし、どこの学校と戦っても勝敗は関係ない。だったら弱いところとやるより、強いところと戦ったほうがいいだろ?高い実力の持ち主がわんさかいるんだ、一つ二つ参考になる部分もあるだろうし」

「そ、それはそうですけど……」

「気後れすることなんか何にもない。何もかもが初めてなんだ。戦車道の楽しさってやつを存分に堪能してくればいいのさ」

 

練習試合ほど気楽にできる試合もないだろ?と渡里は笑った。

 

「さしあたり、お前達がやらなきゃならないのは戦車道の名門、聖グロとどういう風に戦うかを考えることさ」

「そこは是非、渡里さんにアドバイスを貰いたいところですけどねー?」

 

からかうような角谷の口調だった。しかし渡里の対応は素っ気ないものだった。口角を僅かに上げて、渡里は目の前の茶菓子に視線を注ぎながら言う。

 

「練習試合なんかで一々口は挟まないさ。俺のアドバイスはさっきも言った通り、『楽しむこと』だけだ。それさえ守ってくれたら、後はお前たちが自由にやればいいさ」

 

そう言って彼は、茶菓子を食べてお茶を飲むという作業に没頭し始めた。本気でみほ達の作戦会議に余計な口を挟む気はないらしい。

角谷の視線が、つぅーとみほに向けられた。

 

「西住ちゃん、まずはどうすればいい?」

「え!?えーと、まずは基本となる方針を立てることでしょうか…?」

 

自分に真っ先に聞いてきたのは、自分が唯一の経験者だったからだろうか。

確かにみほは、過去幾度となくこういった作戦会議をしてきた。その時の経験上、絶対に最初に決めてきたことはある。

 

「というと?」

「えと、大雑把な目標みたいなものなんですけど。簡単に言うと、相手の装甲が硬いなら側面や背後に回り込み、機動力が高いなら一か所に誘引して叩く、といった感じです。とにかく全員が統一された動きをできるようにしないといけなくて」

 

基本的にどういう風に戦うのか。これは戦車道において、真っ先に決めなければならないことである。全員がバラバラに動いては、決して勝てない。何かしら一つの意志の下、彼女たちは行動しなければならず、その範囲内での自由のみ行使できるのだ。

 

「何か具体的な作戦案があれば、それに従事するでもいいんですけど…」

「――――私が考えてきた」

 

素人ばかりの大洗女子では、まともな作戦案は出ないだろう。みほのそういう、当然とすら言えた予想を覆したのは、片眼鏡が特徴的な生徒会広報、河嶋だった。

 

「か、考えたって作戦をですか?」

「それ以外に何がある」

「河嶋先輩も戦車道未経験のはずだが……練習試合のことを聞かされてここに来るまでの僅かな間に考えた、というのか?」

 

赤いマフラーが特徴の三突チーム、カエサルの疑問は最もであり、もしそれが正しいというなら驚異的なことですらあった。作戦立案能力に関してはみほと同等と言えるかもしれない。

 

「ふっ、当然だ。私とて――――」

「かーしま、さてはお前盗み聞きしたな?」

 

ぎく、と河嶋の動きが静止した。角谷の全てを見透かしたような瞳が、鋭い矢となって河嶋を射貫いたのだ。

 

「お前にそんなことできるわけないだろー?大方、渡里さんが電話してるところに偶々出くわしただけだろ。それでこっそり作戦とか考えて、今日まで温めてた――」

「会長!」

 

頬に朱が差した河嶋の咎めるような声にも、角谷はどこ吹く風だった。この一幕から、二人の力関係がどのようなものか、推測することは容易だった。

 

「ゴホン!えーでは、早速作戦を説明する」

 

仕切り直し、とばかりに席を一つして、河嶋はホワイトボードに黒いマーカーペンで簡易的な地図を作った。そこに手際よく記号やら何やらを書き込んでいく。

 

「私が調べたところによると、聖グロリア―ナの主力はマチルダⅡ。強固な装甲が特徴だ。我々の戦車では100メートル以内でなければ通じない」

「100メートルですか?意外と遠くな気がするんですけど…」

「戦車は基本的に500メートルから1000メートル以上で撃ち合うんだ。100メートル以内じゃないと通じないっていうのは、装甲が厚すぎるか主砲が弱すぎるかのどちらか。今回はその両方だが、まぁなんにしても普通のことじゃないな。戦車道では度々超近距離での攻防が行われるけど、やりたくてやってる奴はほぼいないし」

 

口出しはしないが、補足的な説明はしてくれる渡里であった。

へぇー、と磯辺は感心したように頷いた。

 

「そんなにマチルダっていうのは硬いんですか?」

「硬い。最大装甲厚78㎜は、戦車道で使用できる戦車の中でも硬い部類に入るし、同じ時期に開発された戦車の中ではトップクラスだ。まともに装甲を抜ける主砲を載せた戦車は、こいつが開発された当時なかった。ドイツ軍がマチルダⅡのために高射砲を用意したっていうのは有名な話さ」

 

ちなみに高射砲というのは、地上から航空機を堕とすために使われたもので、地上戦に持ってくるものではない。射程距離はピンキリだが、渡里が言った高射砲は88㎜高射砲で、最大射程は約2000メートル。1500メートルの距離で80㎜の装甲を抜けたことから、マチルダⅡへの対抗策として持ち出されたのも納得というもの。寧ろこんなものを持ち出さないとまともに戦えなかったという、マチルダⅡの装甲がいかに優れたものかが良くわかる。

そんなものを相手にしないといけない、と考えると気が重くなるみほであった。

 

「それでも戦争中期から後期にかけては、マチルダⅡくらいなら余裕でぶち抜く主砲を持った戦車が出てきたが……ま、火力に乏しいウチの戦車じゃ、正面からは戦えないだろうな」

「そこで私が考えたのは、一両を囮にして、敵を此方の有利になる場所に誘引し、一気に叩くことだ!」

「えっ?」

 

バン、とホワイトボードにペンが叩きつけられた。

おぉ~!と感心した声が響く中、みほだけが違う反応をしたことに角谷ともう一人だけが気づいていた。

 

「西住ちゃん?気になることがあるなら言ってみ~?」

「え、いや、でも……」

 

渡里を一瞬でも見てしまったのは、最早本能に近い動きだった。みほの中で渡里とは、やはり特別な存在なのだと自覚してしまう。

渡里は何も言わず、視線で言葉を紡ぐように促した。

一呼吸程の躊躇いを経て、みほは河嶋に視線を向けて言い放った。

 

「装甲の硬いマチルダと真正面から戦わないのはいいと思います…でも、四号の75㎜短砲身でギリギリなのに、それ以下の火力しかない八九式や38tでは例え側面からでも有効かどうか…」

 

現在大洗女子学園で、まともな対戦車能力を持っているのはみほ達の四号戦車、歴女チームの三号突撃砲、そしてギリギリではあるが一年生チームのM3リーの三両のみ。八九式や38tは当時の設計思想が対戦車戦を想定していなかったため、偵察などはできても戦闘面では不安が残る。河嶋の作戦は、少し投機的と言えた。

 

「それに私たちはまだ、まともに砲撃訓練をしていませんし……初の実践でどこまでできるか未知数な以上、河嶋先輩の作戦は―――」

「だ、だったらお前には何か別の作戦があるのか!?」

 

言い切る前に河嶋に口を挟まれ、みほは閉口した。

いくら経験者とはいえ、一時間もしない内に最善の作戦を立案することはできない。どちらかというと入念な準備をし、様々なケースを想定して試合に臨むタイプのみほは、()()()では瞬発力に欠けていた。

 

「まぁまぁ、会議は始まったばかりだ。河嶋の作戦は第一案ということにして、他にもいろいろと考えてみるのもいいんじゃないか?」

 

助け舟を出したのはやはり渡里だった。

 

「折角の機会なんだから、お互い意見を交わしてみるといい。未経験だからこそ生まれる発想もあるだろうし。河嶋も、自分の作戦が周りにはどう思われているのかっていうのを知るのは悪くない事だろ?人の作戦を評価するのは、後々の成長に繋がることでもあるし」

 

大人に冷静な態度で理論的なことを言われてしまったら、未成年の高校生は感情的に反論することはできない。河嶋の火口も一気に冷えたようで、口をへの字にしながらも席に着いた。

そこからはお世辞にも洗練されていたとは言えなかったが、一人一人がしっかりと考えなければいけないような、慎ましくも活発的な会議が行われたのだった。

 

 

 

結局作戦会議の結果、河嶋の第一案が採用されることになった。磯辺、カエサルが初心者とは思えないほど理に適った作戦を立て、みほもいくつか献策したが、やはり実戦でどれくらい動けるのか未知数、というところで引っかかり、河嶋の「100メートル圏内なら下手でも当てられる」という意見により一決したのだ。

 

河嶋の作戦は、無茶で無謀なわけではない。相手が乗ってくれるかどうかは別として、理論的には間違っていない。敵を誘い込み、包囲し、高所から撃つ。戦車道の世界の常道ともいえる。だが懸念は、やはり……

 

「せめてもう少し戦車に乗れてたらなぁ……」

 

みほはため息をついた。それくらい憂鬱な気分だった。

会議の後、渡里は「土曜日の午前中までなら戦車を触ってもいい」とみほ達に告げた。嬉しさ半分、なぜ午前中だけ、という声も当然出たが、聖グロとの練習試合に備え、戦車の整備をもう一度しっかりとやるらしく、昨日の午後から自動車部と渡里は倉庫内に籠っていた。

 

僅かとはいえ、練習前に戦車に乗れる貴重なチャンス。当然みほ達は休日にも拘わらず、学校へと足を運んだ。しかし自主練習、という形になるため全員が参加することはなく、また時間の都合、その他の事情(冷泉麻子、安定の寝坊)もあり、砲撃訓練に絞って練習することになってしまった。

 

何もしないよりはもちろんマシだったが、人間望んでしまえばどんどん高望みしてしまうもの。「せめて砲撃だけでも」と思っていた昨日のみほは、今日は「走行訓練も」と思っていた。

 

「西住殿、どうしたんですか?何か暗い顔してますけど……」

「あ、秋山さん…ううん、大丈夫。ちょっと緊張しちゃってるのかも…」

 

作り笑いを浮かべて、みほは何でもないように装った。

秋山は両こぶしを握って、「私も緊張してます!」と興奮した様子だった。その姿にみほは曖昧に笑った。自分と秋山の緊張は、同一のモノではないような気がしたからだった。

 

すでにみほ達は会場入りしており、後は自分たちの戦車と相手チームの到着を待つばかりとなっている。戦車は渡里がまとめて運んでくることになっており、相手チームは先ほど港に着いたという報告があった。試合会場となる大洗町では着々と試合観戦の準備が進んでおり、住民の退避から観客席の設置など、人が目まぐるしく動いている。

もうまもなく、試合が始まる。そんな雰囲気をみほは肌で感じ取っていた。

 

「でも意外ですね。西住殿は試合慣れしてるから、緊張なんてしないと思ってました!」

「試合慣れなんてそんな……」

「あ、もしかして隊長に任命されたからとかですか?」

「それはちょっとあるかも」

 

そうなのだ。角谷生徒会長と渡里が会議の終わり際、さらっと「経験者が隊長をやるべきだよね」と口を揃えて言ったものだから、みほは反論の余地なくその席に収まってしまったのだ。しかも今日の試合、負けたら「あんこう踊り」なるものを踊るというペナルティがしっかり用意されており、武部や五十鈴の反応を見る限り、恐らくろくでもない踊りである。

 

隊長とはチーム全体を指揮し、引っ張っていく者。勝敗を左右する重要なポジション。

そういう意味では、みほの華奢な肩には軽くはない重圧がかかっていた。

 

「でも西住殿以外に隊長はできないと思いますし、何よりピッタリです!私たちは西住殿にならどこまでもついていけますから!」

 

その通りです、と静かながら凛とした声がみほの横から響いた。

 

「みほさんならきっと大丈夫です。確かに私たちはあまり戦車に乗れませんでしたけど、だからといって何の練習もしてこなかったわけじゃありません。何かしら得ているものもあると思います」

 

傍に来た五十鈴が、柔らかな笑みを浮かべてそう言った。

 

「初めての試合ですし、精いっぱい頑張りましょう!」

「五十鈴さん、秋山さん………」

 

敗けさせたくない。そんな思いがみほの心をよぎっていく。誰だってきっと、敗けるより勝つ方が楽しいのだから。戦車道を楽しんでもらうためには、絶対に勝たなければいけないのだ。それができるかどうかは、みほにかかっていた。

 

表情を強張らせたみほに気づいた様子はなく、五十鈴は首を傾げて言った。

 

「ところで…沙織さんと麻子さんはどちらに?」

「えっ?」

「そういえばまだ来てませんね……あとは二人だけなんですけど……」

 

既に集合時間は過ぎており、大洗女子の面々も武部と冷泉以外集まっている。そろそろ試合も始まろうという時に、この場にいないのはどう考えても可笑しな話なのだが、とみほも首を傾げた。

その時、みほの脳裏にある言葉が閃いた。

 

『人間が朝の六時に起きられるか』

『私はそれよか、麻子がちゃんと起きられるかが不安だよ……』

 

――――あかん。みほは一瞬で事態を察知した。

 

「ま、麻子さんもしかして……」

「というかやっぱり……」

「起きられなかった……?」

 

みほはポケットの携帯電話を素早く取り出した。

すると画面にはメールの受信が約23件。

 

『麻子が起きない』

『どうしよみほ』

『っていうか助けて』

『やばい私もなんか眠くなってきた』

『ふぎぎぎぎぐぐぐ―――――!!!』

『もう疲れたよみほラッシュ……』

 

みほは素早く携帯電話を閉じた。

そして秋山と五十鈴に向き直り、

 

「―――――いい試合だったね」

「ちょ、西住殿!?まだ何も始まってませんけど!?」

 

いやもうだめだよ、とみほは晴れやかな表情を浮かべた。いっそ清々しい気分でさえあった。

携帯電話の画面を突きつけると、二人の時間は静止した。

再起動するのにかかった時間は、秋山が秒針数メモリ分早かった。

 

迎えにいこう。どうやって。間に合わない。そんな会話が横で繰り広げられている。

操縦手不在。戦車道においてこれほど致命的なことはなかった。秋山や武部を悪く言うわけではないが、装填手や通信手ならまだリカバーできたかもしれない。最悪兼任できるからだ。だが操縦手は話が違う。あれは替えが効かない超重要ポジション。操縦手がいなければ試合なんて―――

 

「試合なんてできるわけないだろ。なぁ、みほ」

 

弾かれたようにみほは声のする方へと目を向けた。

そこに、救世主がいた。

 

深い濃紺のジャケット。グレーのパンツ。オフィスカジュアル的な服装に身を包んだ長身の男性。ジャケットと同色の髪を、普段とは違い綺麗に整えて、みほの良く知る人物はそこに立っていた。

 

「お兄ちゃん――――――」

 

背中に、パジャマ姿の女子を背負って。

背中に、パジャマ姿の女子を背負って(二回目)。

 

「――――あの、お兄ちゃん」

「待たせたな。準備はできてるか?すぐに戦車を載せた運搬車が来るから……」

「いや平然と続けようとしないでお兄ちゃん。それ、その背中に背負ってるのなに」

 

渡里は首を傾げた。

 

「見りゃ分かるだろ。戦車を運搬車に詰め込んだ後、学園艦からここまで来る間に白いウサギに導かれ不思議の国に迷い込み、最終的に白の女王によってパジャマ姿の女子を引き取ることを条件に現世へ戻ってきたことくらい」

「エスパーでもわからないよ!何イン・ワンダーランドそれ!?」

 

冗談冗談、と渡里は意地悪気に笑った。寧ろ冗談じゃなかったらどうするつもりだったのだろうか。

 

「あれ?神栖先生が背負ってるのって……」

 

五十鈴が目を瞬かせた。同時にみほもハッとする。

艶のある髪を少し跳ねさせ、白雪姫のように微睡むその姿。トレードマークのカチューシャこそ着けてないものの、小柄な体躯と顔は間違えようもない。

 

「おら、いい加減起きろ冷泉。お眠りも大概な時間だ」

 

四号戦車の操縦手、冷泉麻子がそこにいた。パジャマ姿で。

 

「な、なんでお兄ちゃんが……」

「ま、冷泉が朝弱いのは知ってたからな。通り道がてら、様子を見に行ったんだよ」

 

グッジョブお兄ちゃん。みほは心の中でガッツポーズした。ほんと、戦車道となると頼りになる兄である。私生活はダメダメだけど。

 

「――――ん、」

「ほんと朝弱いんだなぁ。まだ寝ぼけてんのか」

 

小さな手が渡里の襟を握り、綺麗にアイロンされた襟がよれた。

いやそれだけじゃない。渡里のジャケットの肩の部分にも、少し皺が寄っていることにみほは気づいた。その位置に触れられる人物は一人しかいなかった。

 

「こん中に着替えやら何やらが入ってるらしいから、さっさと準備してやってくれ」

 

渡里は冷泉を五十鈴へと引き渡し、次いで秋山に肩に掛けていたバッグを渡した。冷泉に気を取られて気づかなったが、さすが成人男性。人一人とバッグくらい余裕で担げるということか。

 

「え、ええっとでも……どこで着替えさせたら……」

「あん中でしたらいい」

 

渡里が親指で示した先、まるで計ったようなタイミングで現れたのは、巨大な車だった。

車を運ぶ車、キャリアカーと呼ばれるものを少し変形させたような形は、中々見ることない大きさを誇っており、さながら巨大な陸亀のようだった。そしてその背中に、彼女たちの待ち望んだ物が積まれていた。

いつぞやの頃とは違う、新品のような装甲が太陽の光を反射し、威風堂々たる様で鎮座する鉄火の車が、そこにあった。

 

五十鈴と秋山は互いに頷き合って、素早く駆けていった。

戦車の中なら、確かに誰にも見られることはない。

私も手伝わないと。そう思い駆けだそうとした瞬間、みほは右腕を掴まれて強制的に留められた。それが誰の手によるものか、みほは瞬時に理解した。

 

「お兄、ちゃん……?」

 

振り返り、顔を見る。見慣れた渡里の表情は、真剣味を帯びていた。

どうしたの?と尋ねるよりも早く、渡里の両手がみほの頬へと伸ばされ、一息。

むにゅ。

 

「あほ、おひぃひゃん…?」

「表情が硬いんだよ、ばか。まーた変な事考えてたろ」

 

むに、むに、みょーん。みほより一回りも二回りも大きな手が、柔らかなほっぺを捏ねる。

少し硬くて、温かくなく冷たすぎもしない、乾いた手。みほが好きだった手の感触。

 

「いいか。今日の試合負けたとしたら、それは今日まで碌に戦車に乗せなかった俺の責任だ。お前が余計なもんまで背負いこむ必要はない。一昨日言ったこと、もう忘れたのか?」

「あう……」

 

みょーん、みょーん、むいーん。ほんの少しだけ激しさを増した手つきから、叱るような感情が伝わってくる。

 

そのことにみほは、少しタイムスリップした気分になった。怒るのが下手くそな兄は、言葉の代わりにいつもこうやってみほや姉の頬っぺたを引っ張ったのだ。呆れたように、面白がるように、咎めるように。時に厳しく、時に優しく。けれど妹たちはいつだってその罰を受け入れて、なんなら怒られていることも忘れて笑っていた。そこに兄の情があると知っていたから。

 

 

「――『楽しんでこい』。負けたらとか、勝ちたいとか、関係なく。頭真っ白にして純粋に戦車道をしてこいよ。今日はお前と、お前の友達と、お前の仲間の、記念すべき初めの一歩を踏み出す日だろ。そんな暗い顔してどうすんだ」

 

頬から手の温もりが離れ、みほと渡里の間に隙間が生まれる。頭一つ分以上高いところにある渡里の顔を、みほは吸い込まれるように見た。

 

「お前は優しいから、すぐ人の分まで頑張ろうとする。それはお前の良いトコだけど、だからって兄貴の分まで働かなくていんだよ。もっと気楽にやればいいんだ」

 

ぽん、と頭を押すように叩かれ、みほは僅かに後ずさった。

 

「行ってこい、みほ。帰ってきたときにもそんな顔してたら、次はデコピンだからな」

 

そう言って渡里は笑った。あの頃と何一つ変わらない、柔らかな顔で。

 

……この兄はほんとに、ほんとに人の心が良くわかる人だ。ずるい人だ、とみほは思った。

きっとみほの考えていたことなんてお見通しで、だからこそこうやって、みほの心を解きほぐしにきた。薄暗い思考で強張った心を、暖かく溶かしに来たのだろう。

もし無自覚でやってることなら、我が兄ながら相当なタラシである。

 

「―――――うん、行ってきます。私、頑張るよ。お兄ちゃん」

 

踵を返し、みほは駆けだした。心は明るく、身体は軽やかで。

指先まで巡る熱を失くさないように、みほは胸の中で手を握った。

 

 

戦車道を楽しむ。そのことだけを、考えながら。

 

「ところで武部さんは?」

「途中まで一緒だったけど遅くて。どっかに置いてきちゃった」

 

 

 

 

 

「練習試合を受けて頂き感謝する」

「構いませんわ。聖グロリア―ナはいついかなる時、誰からの挑戦も受ける。それが私たちの流儀ですもの」

「……では、よろしく頼む」

「こちらこそ。……あぁ、それと。一つだけよろしくて?」

「なにか?」

「なんでも大洗女子はコーチを招いた、とのことですけれど。その方は今日来ていらっしゃるのかしら?」

「あぁ、さきほど運搬車と共にきて、戦車を降ろしていった。今頃は観覧席に移動しているはずだが……それが?」

「いえ、なんでもありませんわ。ただそう、――――無様な姿は晒せないと、思っただけですわ」

 

 




この話は「西住殿のほっぺをむにむにしたい」「麻子さんをおんぶしたい」という作者のマジで気持ち悪い願望から生まれました。
普段は邪魔者扱いのオリ主ですが、今回ばかりは全力で自己投影しました(クソ)。


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第9話 「練習試合をしましょう②」

本作にはガバガバ&なんちゃって知識が大量にあります。苦手な方は見ない方がいいかもしれません。陣形⇔隊形などの軍用語と日常語で表記ゆれがありますが、わかりやすさ優先で書いています。


そして始まった練習試合。オリ主はいっこも喋りません。


12/2 追記 練習試合の時点でみほは「麻子さん」と呼んでいましたが、本作では「冷泉さん」呼びです。


砂塵を巻き上げながら突き進む五つの鉄塊が、双眼鏡越しにみほの目に映っている。走る姿に乱れはなく、パンツァーカイルと呼ばれる突撃陣形を少し平坦にしたような陣形は一縷の綻びも見当たらない

 

マチルダⅡが四両、そしてチャーチルMk.Ⅶが一両。

どこまでも美しく、綺麗で優雅な隊列に、みほは感嘆の声をあげた。あれが全国ベスト4を独占し続けている神奈川の雄、聖グロリア―ナ女学院。

イギリス戦車を巧みに使いこなし、硬い装甲を前面に押し出して進むという、騎士道精神をそのまま戦車道にしているような戦術が特徴である。

 

「先に発見できたのはラッキーでしたね!」

「うん、分散して偵察している分、見つかったら一たまりもないからね」

 

この試合、大洗女子学園の作戦は河嶋立案の『自軍に有利な地点に敵を誘引し、撃滅する』というシンプルなものになっているが、この作戦に一番に求められることは『相手より先に捕捉すること』である。そのため隊長たるみほは、多少のリスクを承知で自軍を分散し、偵察の網をより広く設けていた。一応、2:2:1という比率でチーム分けしていたが、それは敵に見つかった時のリスクを減らすというよりも、味方の練度不足を補うためのものだった。

 

『予想より遥かにマシ』で『理想には程遠い』。

それが今日、大洗女子が戦車を動かしている姿を見た、みほの率直な感想だった。

模擬戦の時から既にある程度動かせていたから、試合にならない程ということはないと分かってはいたし、実際『走る・止まる・曲がる』といった基本動作は問題なく行えている。その時点で驚きに値することだが、前進と後退の切り替えや、細かな蛇行運転となるとやはり粗が目立ち、聖グロリア―ナと比較すると雲泥の差である。

 

そんな中異彩を放つのは、Ⅳ号戦車の操縦手、冷泉麻子であった。マニュアルを一読しただけで暗記し、操縦をマスターしてしまった冷泉は、約二週間のブランクをものともせず、軽快に戦車を走らせていた。学年トップの成績を誇る頭脳が成せる技か、既に手足のように戦車を操っており、大洗女子の中で飛びぬけているどころか、聖グロリア―ナの中に混じっても問題ないレベルに達していた。

 

これはみほにとって嬉しい誤算であった。河嶋の作戦は誘引の都合、どうしても囮役が必要となり、それは簡単な役目ではない。キルゾーンに到達するまでに撃破されてはならず、敵の集中砲火にも動じない、冷静な動きと精神力が要求される。それは今日が初陣となる大洗女子には荷が重い役目と言わざるを得ない。

なので、河嶋の作戦を聞いた時点で、囮役は自分がやるしかないと極自然に考えていたみほにとって、冷泉の操縦テクニックは僥倖以外何ものでもなかった。

 

「武部さん、全車両に通信をお願いします。敵を発見、これから誘引を開始するので、作戦通り所定の位置で待機してください」

「わかった!」

「冷泉さん、前方の一番高い岩石の横に戦車を止めてください。できるだけ車体を隠しつつ、いつでも逃げれるように」

「ほい」

 

みほはすぐ傍の岩陰に隠していたⅣ号に素早く乗り込み、車内の乗員にテキパキと指示を飛ばす。秋山も装填手の席に着き、滑り止めの手袋を固く嵌めなおした。

 

「みほ!全員五分以内には着くって!」

「わかりました。では誘引を始めます。冷泉さん、お願いします」

 

頷き一つ、冷泉は操縦桿を握り、転輪を回し始める。揺れと音が車内に響き渡る。ここから先、地声でのコミュニケーションは取れず、通信に頼ることになるが、その点に関しては、大洗女子は何の問題もないとみほは断言できる。なぜなら練習の大半はそこに費やしたからだ、あの兄によって。

武部が平気な顔で通信機器を弄り回し、ヘッドフォンに耳を傾けているのもひとえに兄のせいである。ついこの間まで戦車のせの字も知らなかったのに、まるで携帯電話を弄るように通信機器を駆使する様は、なんだかすごい、とみほは苦笑するしかなかった。通信手としては大変結構なことだけども。

 

「着いたぞ」

 

みほ達が現在いるのは、岩肌がそこかしこに露出している荒野地帯である。道は石やら砂利やらで平らな部分がないような荒れ具合となっており、操縦手にとって簡単な場所ではないが、冷泉は何の問題もなくみほの指示した地点に戦車を停めた。障害物が戦車の盾になるような、巧妙なポジションである。この何気ない部分一つとっても、冷泉は並みではない。

 

「五十鈴さん、当たらなくても大丈夫。敵の注意をこっちに引き付けて」

「分かりました」

 

五十鈴は静かに照準器を覗きこんだ。みほもキューポラから顔を出して、相手を目視する。目測でおよそ800メートルの距離、しかも目標物が動いていて、相手は防御に優れたマチルダⅡ。Ⅳ号の砲性能を鑑みても、有効射は難しい。前日にほんの数時間砲撃訓練しただけの五十鈴では尚更だろう。

「当たらなくても」は気休めでもなんでもなく、本当のことであった。寧ろこの時みほが気にしていたのは、弾が相手の履帯に当たり、走行不能になることにあった。一両でも誘引から漏れてしまうと、結果的に不確定要素を生んでしまい、そこから作戦が破綻する可能性もある。可能な限り、まとめて撃ち倒したいというのがみほの考えだった。白旗を挙げてくれるのは、勿論大歓迎だけども。

 

「……いきます」

 

一息、轟音が響く。放たれた弾丸は真っ直ぐな軌道を描き、大気を掻き分けながらひた走る。

着弾は、マチルダⅡの進行方向の、僅か先だった。柔らかな砂の土壌を弾丸が抉り、大きな砂塵を舞い上げた。

瞬間、五匹の肉食獣が此方へと顔を向けた。流れるようにカーブし、美しい列をそのままに聖グロリアーナは方向転換する。

 

「五十鈴さんは砲撃を続行。冷泉さんは、相手との距離を500メートルで維持してください」

「はい」

「おうよ」

 

みほは双眼鏡で、状況の趨勢を見守った。やはり、というべきか聖グロに回避運動を取る気配はない。前面の厚い装甲をそれだけ信用しているのだろう。実際、五十鈴の砲撃が一発当たったが、あえなく弾かれたところをみほは見た。

硬い防御力を活かした浸透強襲戦術が、聖グロリア―ナの主な戦闘ドクトリン。あの守りを崩せず敗れていったチームはどれほどいるのか。

 

みほは気を引き締めなおすように深く深呼吸した。

聖グロリア―ナが放った砲弾が、四号の近くの岩を捉えたのは、それとほぼ同時だった。

着弾の振動で車内が揺れる。武部が短い悲鳴をあげた。

 

「わわっ、すごい近くに当たったよね!?麻子、早く逃げてー!?」

「落ち着け沙織、まだ距離がある。もう少し引きつける」

 

冷泉の冷静さが、心底頼りになるみほであった。

 

「行進間射撃はそうそう当たるものじゃないけど……ここまで近くに当ててくるなんて」

「流石聖グロです!」

 

慌ただしく弾を装填する秋山とは対照的に、五十鈴は静かに応射する。できるだけ高い所に位置取りし、上から装甲の薄い車体上面を狙わせてはいるが、巧く捌かれている。聖グロリア―ナの行進間射撃の精度を考えると、盾を構えているとはいえジッとしているのは危険かもしれない。

 

「冷泉さん、少し早いですけどキルゾーンまで逃げます。できるだけ遮蔽物を使って、後ろにつかれたら細かく蛇行してください」

 

みほの指示を受けて、Ⅳ号戦車は移動を開始した。流れるようなクラッチ操作でギアが上がり、スピードが乗っていけば、Ⅳ号戦車は荒れた路面を軽快に駆け抜けていく。

その間も絶えず砲弾は襲い掛かるが、辺りの岩壁を削っていくだけで、Ⅳ号の装甲には傷一つついていない。

 

風を切る音。砂利を踏み砕く音。履帯が回転する音。

硝煙の匂い。金属特有の匂い。五感がみほを過去に遡らせる。

 

みほは頭に叩き込んだ地図を参照し、事前に定めていたいくつかのルートの内、この状況に最適なものを選択。後方を確認し、聖グロリア―ナとの位置関係を把握。振り切らず、それでいて近づきすぎない距離間を保ちながら、五十鈴に行進間射撃を指示して応射する。

 

一発撃てば五倍になって返ってくるような状況でも、Ⅳ号は一度の被弾も許してはいない。

それはひとえに、操縦手のお蔭であることをみほは知っていた。表情一つ変えず細腕で操縦桿を動かすこの小さな天才に、心の中で拍手を送る。

冷泉がいなければ、きっとみほは囮役を買って出ることはできなかっただろう。本当に、戦車道(取得単位が三倍)を受講してくれて良かった。っていうか遅刻癖アンド留年の危機ありがとう。流石に不謹慎か。

 

「みほ!全員目標地点に到着、いつでもいけるって!」

「分かりました!次の分かれ道を左折してください!」

 

武部の声を受け、みほは引き込みを開始した。現在、彼我の距離は遠からず。聖グロリア―ナレベルの強豪校なら、静止状態では余裕で当ててくるし、行進間射撃でも楽観的ではいられない距離。

 

だがⅣ号が入り込んだ先は、両側に高い岩壁が立っていて、谷のようになっている。いくら聖グロでも見えない相手は撃てない。

 

「停止してください!」

 

緩やかな登り坂の中頃まで進んだのち、みほはⅣ号を停めて五十鈴へと指示を下した。砲塔が機械的な音と共に首を回し、進行方向と真逆を向く。獲物を狩るためにスタートを切る直前のチーターのような雰囲気を漂わせ、Ⅳ号は静かに銃口を突きつける。

 

そして、曲がり角から現れた待ち人に、容赦なく砲撃を浴びせた。

来客への派手な歓迎にも、しかし聖グロリア―ナは動じない。数の有利を活かし、攻撃をいなしながら谷へと侵入してくる。やっぱり、とみほは驚きはしなかった。ならば、とすぐさま次の手を打つ。

 

Ⅳ号は再び坂を登り始めた。

ほぼ一本道で、まともな遮蔽物がない此処では、流石に分が悪い。最も防御が薄い背後を常に晒し続けることになるため、正直一発でもっていかれる可能性があるし、何より道幅の都合で回避運動に限界がある。

 

証拠とばかりに、聖グロリア―ナの砲弾はⅣ号戦車を幾度か掠めていた。今のところ無視できる損害ではあるが、このさきずっとそうとは限らない。いつ直撃してもおかしくはなかった。

 

しかしこの一本道を抜ければ。

その先には大きく開けた円状の場所がある。

そして、其処こそが大洗女子が定めたキルゾーン。上から撃ちおろせる場所に他の戦車たちを伏せてあり、射程内に入った瞬間河嶋の作戦が発動することになっていた。

 

抉れていく岩を脇目に、Ⅳ号はついに囮役を完遂した。すぐさま射線を切り、左右にある急な勾配のうち、右側を登っていく。

 

「聖グロリア―ナ、射程に入るまで五秒前です――――」

 

通信から、各戦車の準備が整っていることが伝えられる。

あと一歩、聖グロリア―ナが踏み込んでくれば、その瞬間に集中砲火が炸裂する―――――はずだった。

 

「そんなお粗末な作戦が、通じるとでも?」

 

そんな声を、みほは聞いた気がした。

 

瞬間、マチルダとチャーチルの主砲が一斉に火を噴いた。放たれた弾丸が向かう先はⅣ号―――ではなく、遥か頭上。砲撃によって抉られたのは、砲撃のチャンスを今かと待ち望んで伏せていた、Ⅳ号以外の四両がいる場所だった。

 

「わ、わ、撃ってきた!?」

「なぜ場所がバレている!?」

「ちょ、やばくない!?」

「ど、どうすれば―――!?」

 

他の戦車の混乱が、挙動から見て取れた。

なおも聖グロリアーナの砲撃は続いており、その度に岩壁に穴を空けていく。

みほはその弾道に、違和感を覚えた。

いくらなんでも、無秩序すぎる。普通ある程度の位置のアタリがついているのなら、そこに砲撃が集中するはず。しかし弾痕は、縦横に広く刻まれていて、有体に言ってしまえばバラバラだった。

 

「相手の精度からして、あそこまで狙いがバラけるのはおかしい……」

 

一体どういうことか。みほの疑問は、しかしすぐに氷解した。

無線を全車へと繋ぎ、喉元のマイクに手を当てて叫ぶように声を張り上げる。

 

「撃ち返しちゃダメです!!相手の狙いは―――」

「バレているのなら仕方がない!!全員見えている戦車は全部撃てーーー!!」

 

しかし僅か一瞬早く、河嶋の絶叫がみほの声を上書きした。そして上書きされた方の指示は霧散し、伏せていた大洗の戦車たちはぞろぞろと聖グロリア―ナの前へと姿を現してしまったのだった。そしてお互い、姿を視認した状態かつ、近距離で砲火を交えることなり、轟音の協奏曲が響き渡っていく。

 

してやられた、とみほは歯噛みした。単純かつ、極めて有効な一手を打たれたのだ。

 

「……これはマズくないか?」

「え?え?どーゆうこと?」

 

冷泉の言葉に、みほは頷いた。

河嶋の作戦は、崩壊した。させられたのではなく、自壊したと言ってもよかった。

 

「向こうの狙いは、伏せている私たちの戦車を炙り出すこと……さっきの砲撃は、『位置がバレている』ってこっちに誤認させるためのものかもしれないの」

「なにそれ!?」

 

待ち伏せの真価とは何か。それは相手の不意を討つことができること。そしてそのまま主導権を握ることができること。この二つにこそ、絶大な威力が秘められている。

しかしそのための前提条件は、『敵に見つかっていない』ということ。ここが崩れることは、積木の土台が崩れることを意味する。

 

「誰だって近くに弾が飛んできたら、自分が撃たれてるんじゃないかと考える。そうなったらさっきの沙織みたいに焦ることもあれば、衝動的に撃ち返したくなることもある」

「そして一度でも撃ち返してしまったら……」

 

河嶋先輩の作戦は効力を失う。みほは小さな声で、秋山の言葉を継いだ。

恐らく誘引自体は見抜かれていた、とみほは考える。みほ達が囮役となって、キルゾーンに誘導しようとしていることを判った上で、ここまで引っ張られて来た理由はこの状況を作るため。こちらの作戦を逆用し、混乱の渦に叩き込むためだったのかもしれない。

 

「じゃ、じゃあさっきの砲撃はヤマカンだったってこと!?」

「完全に勘じゃなくて、半信半疑くらいだったかもだけど……」

 

いれば僥倖。いなくても僥倖。それはある種、安全確認のための砲撃と言ってもいいかもしれない。そしてそれは、残念ながら大成功してしまった。目論見通り、場所がばれていると勘違いした河嶋は砲撃を指示してしまい、不意打ちをするどころか真っ向から撃ち合うことになってしまった。

 

「ま、マズいじゃん!まともに撃ち合っても駄目だから、ってこの作戦になったんじゃなかったの!?」

「だからさっき言った」

「どうしますか西住殿!?」

 

焦ったような声を二つ、平静な声を一つ耳に取り込んで、みほは思案する。

しかしそれはほんの僅かな、呼吸二つ分ほどの時間で終わりを迎えた。もとより、みほの中には答えがあり、寧ろこの時の思案は現状とリンクしたものではなかった。

 

「武部さん、全車に通信を。いますぐ後退します。方向は市街地方面で、私たちが先導します」

「わ、わかった!」

 

通信機を操作し、武部はみほの指示を正確に飛ばす。

すぐさま返事があったのは、河嶋だった。あらかじめ、各車からの通信は武部とみほ、その両方に届くようにしてあり、間に入る人間を減らし、ラグをできるだけ小さくしようというみほの判断である。

 

「ダメだダメだ!相手は目の前にいるんだぞ!後退など絶対に認めん!ここで撃ち倒せば我々の勝ちだ!!撃て撃て撃てーーーーーー!!」

 

半ば狂乱したようなその声は、みほに一瞬「誰これ?」と思わせた。河嶋、といえば冷ややかで淡々とした声色で、声を荒げるときも理性を一定量残してる感じだったが、今は頭のネジが少し緩んでるような気がする。努めて穏やかに、みほは口を開いた。

 

「作戦は失敗してしまいましたし、みんな少し浮足だってます。ここは一度退いて、態勢を立て直したほうがいいと思います」

「敵がすぐそこにいる状況で背を向ける気か!?それこそ全滅の危機だぞ!」

「相手の戦車は全体的に機動力が低いですし、今しかありません!これ以上戦闘を続けると、手遅れになります!」

 

ヘッドフォンの向こう側では、唸るような声がした。

その間にⅣ号戦車は勾配を登り切り、他の戦車たちと同じ場所へと到達する。しかしその歩みは止めず、市街地へと続く道の入口まで前進した。

 

聖グロリア―ナの攻撃は、激しさを増しつつあり、既に何発か至近弾が撃ち込まれていた。待ち伏せを看過し、真っ向からの撃ち合いという得意分野に相手を引きずり込んだ彼女たちは、今この瞬間においては百戦錬磨。砲弾を弾きつつ浸透し、やがてみほ達を飲み込むだろう。そうなれば、本当に終わりである。

 

Ⅳ号に続いたのは、八九式が最初だった。砲性能の貧弱さを身に染みたのか、はたまた隊長の指示には従うという点に忠実なのか、理由は分からない。

次に三号突撃砲が、八九式の横につく。Ⅳ号を除けば、相手に通用する貴重な火力の持ち主。できればここで失いたくなかったみほとしては、素直に後退してくれるのはありがたい。

半数が最前線を離脱したことに気づいたM3リーが、慌てた様子でそこに加わる。指示に従ったというよりは、仲間外れを嫌がった結果のように思える。

……残るは一両。

 

「―――ぐ、ぬぬ!分かった分かった!!退けばいいんだな!!」

 

半狂乱だった頭にも、周りを見るくらいの理性は残っていたらしい。38tは一発だけ撃ち返して、明後日の方向へ飛んで行った砲弾を見送ることなく、ゆっくりと転回した。

 

それを見てみほは、再びⅣ号戦車を加速させる。

 

「移動します!私たちについてきてください!」

「わかりました!」

「心得た!」

「りょ、了解です!」

 

そしてぞろぞろと陣形を組んだ大洗女子学園は、後退を開始した。物理的に射線が切れたことで砲撃の脅威は去ったが、しかし別の問題が発生していた。

 

一つ、忘れていた練度不足。みほは後ろを振り返り、各車の様子を窺った。やはりというべきか、速やかで流れるような走行ではなく、時々ふらついたり減速したりしていて、戦車同士の速度差が顕著である。

まともに走行訓練をしていなかったことが、ここにきて若干の影響を及ぼしていたのだ。冷泉に指示し、できるだけ歩調を合わせるようにしているが、練度のバラつきから来る遅い速いは、いくらみほでも如何ともしがたい。

 

そして二つ、一つ目の問題と関係したものだが、足が遅いチームに歩調を合わせているため、全体の速度が下がってしまっているのだ。これは誰が悪いというわけではなく、仕方ない話ではあるのだが、それによって生じる結果は無視できるものではなかった。

 

「……やっぱり、タダでは逃してくれそうにない。逃げ切れるか、かなり微妙かも」

「ええ!?ど、どうしましょう!もし追いつかれたら絶体絶命です!」

 

秋山の言うことは大正解である。戦車の装甲が前面を厚く、背面を薄くという共通の認識に則っている以上、追いかけっこは圧倒的に逃げる方が不利である。

別に戦車道に限った話ではなく、そもそも退却戦は最も難しい作戦と言われるもの。敵の攻撃をいかにかわし、被害を抑えるかが問われる。大体が劣勢な状況から挽回するために行われるものなのだから、それは難しいというもの。

 

(今頃観客席で観戦してる、どっかのお兄ちゃんは名人級の腕前だけど……)

 

逃げ足は超一級品、というよく分からない賞賛を受けた兄を思い浮かべて、みほは頭を振った。流石に兄と同じことはできないが、それでもその姿を10年間見続け、そして戦車道の名門で生まれ育ったのだ。これくらいの難関は、幾らでも見てきた。

 

車内へと引っ込むと、みほは不安げに見つめる秋山に気づいた。

苦笑を一つ零して、みほは穏やかな口調で言う。

 

「大丈夫、逃げ切るための作戦はあるから」

 

みほは無線を全車へと繋ぎ、試合が始まった瞬間から温めていた作戦を伝えた。

 

後に『苦境でこそ真価を発揮する』と称賛を受ける、みほの才覚。その一部が、ゆっくりと姿を見せようとしていた。

 

 

 

 

「不思議なチームね」

 

悪路で激しく揺れる車内にあって、ダージリンは右手に持つカップに注がれた琥珀色の紅茶を、ただの一滴も零さず優雅に味わっていた。

その横には一年生でありながら隊長車の装填手、そしてダージリンの紅茶注ぎ係を務めるオレンジ色の髪色をしたオレンジペコ、前方には静かに照準器を覗き込むアッサムがいる。

チャーチルには五名の乗員がいるが、この三人はまとめて『ノーブル・シスターズ』という通称がつけられており、聖グロリア―ナ女学院戦車道において羨望の眼差しを独占する存在であった。

 

「突けば容易く崩れる脆さはいかにも初心者の集まり。しかし作戦が失敗したと見るや否や退却していく決断の速さは熟練者のソレ、と思えばその動きはしどろもどろ。初心者なのかそうじゃないのか、判断に迷うところね」

「私としては、貴方の作戦指揮が正しかったのかどうか、判断に迷いますが」

「あら、アッサムからクレームが来るのは珍しいわね」

 

咎めるような声色にも、ダージリンは堪えた様子はなく、寧ろ可笑しげに笑うのみである。

ため息を一つ、アッサムは照準器を除くのをやめ、呆れ顔で振り返った。

 

「予定では此処で二両ほど倒しておくはずでは?それがまんまと逃げられて…」

「アッサムが初心者ばかりと言うから、あれで崩せると思ったのよ。実際そうなったけれどね」

「相手は五両健在ですが?」

「それは相手が初心者とは思えない動きをしたからよ」

 

立て板に水、というのはこのことか。紅茶の味を楽しみながら、ダージリンは軽やかにアッサムの詰問をかわしていく。ダージリンの横にいるオレンジペコは、眉を八の字にして二人を見ている。

 

「冗談はともかく、これからどうするつもりですか?」

「当然、追撃するわ。相手の脚が鈍っている今なら、マチルダでも追い縋れるでしょう。――――全車、全速前進」

 

高貴なる者の号令に、鋼の軍馬は加速した。マチルダは歩兵戦車の名前がつく通り、歩兵の支援を主目的に造られた戦車で、その速度はお世辞にも早いとは言えない。人間の徒歩~ダッシュくらいの速さについていければオーケー、という思想の下で設計されたのだから、それはしょうがない。しかし聖グロリアーナの戦車たちは、カタログスペック以上の速度で勾配を登り切り、大洗女子学園を追いかけ始めた。

強力な支援者を背景に持つ聖グロリアーナ女学院は、潤沢な資金によって戦車にチューンナップを施しており、旧型に分類される戦車たちを一級品に仕立てているのだ。

 

「指揮の腕が鈍っているわけではないようで何よりです」

「無用な心配ね。今日の私はいつになくやる気に満ちているのよ?」

「知ってます。昨夜の喧騒は、隣の部屋にいた私にまで聞こえていましたから」

「盗み聞きとは良い趣味ですわね、アッサムさん?」

「そちらこそ。夜遅くまで大騒ぎなんて、素晴らしい淑女の振る舞いですわ、ダージリン様」

 

オレンジペコは瞑目して呼吸を整えた。

偉大なる先輩たちの名誉のために言うが、決して仲が悪いわけではない。寧ろこの二人の間には、何者も寄せ付けない絶対的な信頼関係がある。ただ、皮肉を機銃のごとく撃ち合う。定期的に。

そしてそれを止めるのは、この小さな装填手の役目であった。

オレンジペコは高純度の尊敬を二人に捧げているが、こういう時ばっかりは僅かに不純物が混じったりしてしまう。

 

「で、でも、それだけ今日が楽しみだったということですよね、ダージリン様」

「でしょうね。でなければ『相手の作戦を逆用して勝つ方が優雅じゃない?』なんて非効率なこと言い出さないでしょう」

 

火消ししようとしている所に酸素ボンベを投げつけるような真似はしないでください。オレンジペコ、心の声。

 

「貴女たちにはわからないでしょうね。今日という日を私と同じ気持ちで迎えているのは、ルクリリだけよまったく」

「お生憎私には、到底想像もつきませんね。――――そんなに変わるものですか、憧れの人が近くにいるというのは」

 

アッサムのその言葉には、ほんの僅かだが揶揄うような感情が滲んでいた。

しかしダージリンは、寧ろ勝ち誇るような表情をしていて、静かに、そしてはっきりと答えた。

 

「『嫉妬はひとを殺すが、羨望は誕生のきっかけになる』」

「アメリカの作家、ニール・ドナルド・ウォルシュですね……」

 

その通り、とオレンジペコの合いの手に、ダージリンは満足げに頷いた。

そして凛として言い放つ。

 

「変わるものですか、ですって?当然よ、当然じゃない。あの人は私の戦車道の、原点となったヒト。あのヒトとの出逢いがあったからこそ、今の私があると言っても過言ではないわ」

 

その言葉を聞いた二人の反応は、対照的であった。

金髪の持ち主は、まるで説法を何百回も聞かされた童のようにうんざりとした表情を浮かべ、オレンジの髪の持ち主は、手にもったティーポットを危うく落としてしまいそうになるほどの驚きに直面していた。

異なる反応の理由は、二人のダージリンと過ごした月日の差であった。

 

「あ、あの、神栖渡里さん、ですよね?私、あまり聞いたことのない名前なのですけど……有名な人なのでしょうか?」

 

顔色を伺うような語調のオレンジペコだった。

 

時にチャーチルの中では、装填手の席は砲手の後方に設置されている。これは大体の戦車で共通のことである。なので当然、装填手の席からは砲手や操縦手の後頭部は見えても、向こうが振り返らない限り表情は伺えない。

つまりオレンジペコからは、基本アッサムの表情は見えない。

なのでこの時、オレンジペコの質問を聞いたアッサムが『あーあ、やっちゃった』的な表情をしていたことに気づかなかったことも、仕方ないことであった。

 

「――――聞きたい?」

「え、まぁ。できれば聞きたいですけど……」

 

そう、と呟いてダージリンは紅茶を一口。そして……

 

「そうねどこから話そうかしら正直多すぎて迷うのだけどやっぱり何と言っても指揮官としての腕を語らないと始まらないわよねイギリス戦車道プロリーグの生ける伝説との試合が取っつきやすいかしらと言ってもたった二試合しかないのだけどそれでも凡百の試合に勝る100カラットのダイヤモンドより貴重な試合なのよ本当に最高レベルの指揮官同士の読み合いと戦車指揮は学ぶところが多くてその中でもあの人の防勢作戦は本当に見どころしかないのまるで戦場を上から見下ろしているかのような視野の広さ的確かつ迅速に相手の攻撃をいなしていく手腕に変幻自在の戦術が加わってもう一度見たら忘れないくらいの衝撃が――――」

 

オレンジペコはアッサムに救援信号を送った。

しかしもう一人の金髪の持ち主は華麗にスルー。哀れオレンジペコは切り捨てられてしまった。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいアッサム様!私を置いていかないでください!」

「貴女が悪いのよオレンジペコ。迂闊に『聞きたい』なんて言うから」

「こんなパンドラの箱があるとは思わないじゃないですか!?」

 

純粋な興味で聞いてみたらこの有様。紅茶で喉が潤っているのか、もうヌルヌルとダージリンの口から言葉が湧き出ている。現在進行形で。句読点無しで語られるそれはもはや呪文の類である。

 

「なんですかアレっ。私入学してまだ日が浅いですけど、あんなに喋るダージリン様初めて見ましたっ」

「元からよく喋るほうでしょ、ダージリンは。まぁ最大瞬間風速で言えば今のが遥かに上だけど」

「壊れたラジオでももうちょっと人間っぽく話すと思うんですけど……」

「それだけ想いが深いということよ。じゃなきゃ、昨夜あんなに騒がないでしょ」

 

そうなんでしょうけども、とオレンジペコは言葉を濁した

憧れの人、今の自分の原点というくらいだからそれは並々ならぬ想いが秘められているのだろうとは思っていた。

しかし今のダージリンはどう見ても暴走しているようにしか見えないのだが。

話も「あの人との出逢いは私が聖グロに入学する前だった~」とかなり過去に遡っていて終わる気配が見えない。正直試合が終わるまで続きそうまである。

 

「ア、アッサム様も知ってるんですよね…?簡潔に教えてくれませんか…?」

「私から聞くより貴女の横の人の話を聞いてるほうが何倍も詳しくなれるけど?」

「代償として精神が何十倍も削り取られそうなので……」

 

げんなりした様子のオレンジペコに、アッサムは「そうね…」と少し悩む仕草を見せた。

 

「とりあえず、有名な人ではないわ。『知る人ぞ知る』なんて言葉もあるけれど、あの人の場合『知る人も知らない』くらいのマイナーさじゃないかしら」

「聞 き 捨 て な ら な い わ ね」

 

ヒエっ。オレンジペコは一瞬呼吸が止まった。

アッサムの言葉に、ダージリンの美しい青の瞳が剣呑な光を灯す。というか声色が違う。

しかしアッサムは一切怯んだ様子もなく。

 

「事実でしょう。貴女が熱心に布教しても、聖グロであの人のファンなのは貴女とルクリリだけ。そのルクリリも別に布教の成果というわけでもないし。みんな一度は貴女の話を聞いたけど、リピーターは一人もいないでしょう」

「それは皆あの試合映像を観てないからよ。本当に人生を損してると思うわ」

「貴女が見せたがらないからでしょ……」

 

ため息交じりにアッサムはそう言った。『人に知ってほしい癖に自分だけ知ってる優越感がなくなるのは嫌なんていう面倒な拗らせ方している』ことを暴露しなかったのは、ひとえにアッサムの優しさである。

 

「今日の試合だって、本当は憧れの人に会いたかっただけ。全く私心が透けて見えるようよ、『聖グロリア―ナは誰からの挑戦も受ける』なんて言っちゃって」

「否定しないけど、別にそれだけじゃないわよ?」

「否定しないんですね…」

 

そう断言されてしまっては、オレンジペコは眉を八の字にするしかない。いっそ清々しいまでの独断専行である。

 

「あの人が指導者をしているのなら、大洗女子は今大会のダークホースになるかもしれないじゃない?」

 

だってあの神栖渡里が指導しているのよ優れた選手が優れた教育者になるとは限らないけれどあの人は間違いなくその道でも一流のはずよ特に根拠はないけどあの魔法のような戦車指揮をする人が―――。

 

またもや滝のように流れてくる言葉を断ち切ったのはアッサムであった。

 

「……それもそうですね。今のうちにデータを集めておくほうがいいかもしれません。」

「え、そうなんですか!?」

 

神栖渡里なる人物について、山のように語られたのに何も解らないという異常事態のオレンジペコは、二人がどういう根拠の元にそう判断したのか分からない。

そんなオレンジペコにアッサムは微笑みながら言う。

 

「ダージリンに例の映像を見せてもらいなさいな。そうすれば、意味が分かるんじゃない?」

「貴女なら百回くらい見せてあげるわよ、オレンジペコ」

 

それは俗に洗脳というのではないだろうか。オレンジペコは未来の自分の身を案じた。

 

「ダージリン、どうやら雲行きが変わりそうよ。そろそろ試合に集中してもらわないと」

「どうやらそうみたいね。まだ序の序の序の口くらいしか語ってないのだけど」

(いや体感的にはもうクライマックスですダージリン様)

 

その言葉を最後に、ダージリンのスイッチは入れ替わった。談笑ムードから一転、獲物を上空から狙う鷹の眼になる。

この切り替えの速さについていけるかどうか。それこそがチャーチルの乗員たるに相応しい資格を持つか否かを分けるものであった。半ば混乱状態だったオレンジペコも、僅かに尾を引きながらすぐさま臨戦態勢へと入る。

 

「お喋りはお終い。県立大洗女子学園は私たちの未来の好敵手たるか、はたまた取るに足らない弱者か―――それを見せてもらいましょう」

 

ダージリンは優雅に、そして不敵な笑みを浮かべる。

状況は転機を迎えようとしていた。

 

「大洗女子、Y字状の道に入りました。視認できません」

「砲撃止め。各車入口まで隊列を維持して前進」

 

そして聖グロリア―ナは、ゆっくりと分岐点に足を踏み入れた。

道幅の広いY字の形をした地形は、入口こそ戦車が五台横並びにすることができる。しかしそこから二手に分かれていく道は、片方は円状の巨大な岩石が真ん中に仁王立ちしているせいで入口が一両しか通れない程狭い。もう片方は長大な岩がさながら川を二手に割る中洲のように、またもや仁王立ちしているせいで、これも戦車が二両ほど、場所によっては一両しか通れない。いくつもの隘路が複合した地形、とでも言うのだろうか。とにかく狭い。

 

「こんな窮屈な所だと、自由が利きませんね……」

「隊を縦隊に組み直しますか?モタモタしていると、大洗女子に逃げられてしまいます」

 

基本的に見通しが悪いところや、道幅が狭いところは、一列縦隊という隊形が使われる。

戦車が真っ直ぐに並ぶこの形は、進行方向に対して側面には高い火力を発揮するが、前後に対しては射線の関係上脆弱となってしまう。元々戦闘を主目的としない隊形のため、戦闘となると使いづらいのだ。当然、追撃(追いかけっこ)をしている今に相応しくはない。しかし地形的には、縦隊を組まざるを得ない。

地形的には最適、状況的には不適。誰が後退の指揮をしているのかは分からないが、その者はよく戦車道を知っている。ダージリンはそう思った。この場所に逃げ込むことを選んだ時点で、そう確信するに足る。

 

「そうね、一列縦隊を組んで一息に駆け抜けましょう。追撃が鈍るのはこの際仕方ない。こうやって私たちを悩ませて時間を稼ぐのも向こうの策でしょう」

 

今は撃破するよりも、とにかくプレッシャーを与え続けることのほうが重要だろう。

ダージリンの決断に要した時間は、僅か数秒であった。

相手は初心者集団。ずっと背後から狙われている・追われているという圧力は、かならず相手が時折見せる初心者特有の脆さを引き出す。そこを突き、一度でも揺らがせば、後は勝手に崩れていく。

 

その判断は正しかった。そして合理的だった。

少なくともオレンジペコやアッサム、他の戦車の乗員たちはそう考えていた。

しかし合理性と不条理は、いつだって紙一重なのだ。

 

轟音が突如として戦場を突き抜けていった。遅れて鳴り響く金属音と共に、聖グロリア―ナは自分たちが攻撃されたことを知る。隊長車たるチャーチルの装甲に、この日初めて傷がつけられた。

 

「砲撃!?どこから―――」

「先頭車前進!最後尾から二両は左に30度転回、応射しなさい!」

 

ダージリンの指示が素早く全車へと伝えられ、チャーチルをマチルダがサンドイッチする形で三両編成、後方にいたマチルダ二両編成の二つに分かれる。速やかにマチルダの砲塔が火を噴き、突然現れた襲撃者への攻撃を開始した。

 

そこにいたのは、Ⅳ号と八九式だった。狭い道を精いっぱい使って、こちらの側面を突いてきたということに、オレンジペコはようやく気付いた。

反応が遅かったわけではない。寧ろ即座に対処したダージリンが尋常ではなかった。

 

「相手は坂の上から撃ち下してきているわ。装甲の薄い車体上面に気をつけなさい。………それと、できるだけ引き付けておいて。相手が退くなら喰らいつき、撃破されそうになったら下がっても構わないわ」

 

それだけ指示を下して、ダージリンは手に持った紅茶を一口楽しむ。その姿と声には、思わず乱れた乗員たちの呼吸を整える効果があった。いついかなる時も優雅、それこそが聖グロリア―ナの戦車道。ダージリンはその忠実な体現者であり、聖グロリア―ナの絶対的支柱であった。彼女が揺らがない限り、聖グロは決して崩れないのだ。

 

「まさか攻撃してくるなんて……市街地方面への道が一つ塞がれてしまいましたね……」

「大した問題ではないわ。どうせ二両ずつしか通れない上に勾配のキツイ道、五両まとめて進んだら三両は遊兵になる」

 

マチルダの主砲の仰角では、射線が味方の戦車と被って砲撃はできず、道の狭さからまともに動くこともできない。自軍の半数を、そんな何の役にも立たない状態にするのは避けるべきことである。

 

「相手はここでまた一戦交えるつもりなのでしょうか?」

「どうかしらね。私が彼女たちなら、交戦場所としてここは選ばない。確かに色々できそうな場所ではあるけど、狭すぎるわ。こちらの側面や背面を突きたい相手側からすれば尚更でしょう」

 

ダージリンは言う。大洗女子の目的は後退、そこは揺らがないと。

このY字状の場所に入った時点で、それは予測ではなく確信となっている。そしてその前提の下、彼女たちの行動を見ていけば、全ては後退のための時間稼ぎだということがわかる。

攻撃してきたのは此方の足並みを乱し、部隊を分散させ、多少でも迂回させるため。

 

「そう思って既に回り込みを開始している辺り、抜け目がないですねダージリン。あの子たちが四号と八九式を引き付けている間に、空いてるもう片方の道から進んでしまえば、サンドイッチの出来上がりですか」

「タダで時間を稼がれては癪じゃない。……それにしても、よくあの短時間で体勢を整えたものね」

 

Ⅳ号の動きが初心者離れしていたことは知っていたが、随伴していた八九式は奇妙な存在だった。あんな転回も信地旋回もできない位置で待ち伏せするには、バックの形で傾斜を登っていくか、二本の道の合流地点から逆走してくるしかない。前者は操縦技術が、後者は高い機動力が求められるが、どちらにせよ初心者が軽くできるものではない。加えて言うなら八九式の足回りなんてお世辞にも良いものではないはずなのだが。

 

「要注意はⅣ号だけと思っていたけど……」

 

視界から消えていくⅣ号と八九式を尻目に見て、ダージリンは脳内で八九式にもチェックマークをつけておいた。

 

五両編成から三両編成へと変わった聖グロリア―ナは、縦隊のままY字の三本の線が交錯する地点へと侵入した。そのままチャーチルを中央にする形で、大洗女子が塞いでいる道の壁一つ挟んだ反対の道を駆け上っていく。機動力が低いチャーチル、マチルダだが、おそらくこのままいけば四号と八九式を袋のネズミにすることは容易だった。

――――このままいけば。

 

「――――――――」

 

その時ダージリンが、ペリスコープで周囲を目視したのは、ただの偶然だった。車長として辺りの状況を把握するという当たり前の習慣によるものだったかもしれないし、戦車乗りとして過ごしてきた長い経験によるものだったかもしれない。

理由はどうあれダージリンはその時、そのブルーの瞳を外へと向けていた。それがほんの僅かに、運命の歯車を狂わせることになる。

 

「――――停車!」

 

一息、無線に装飾を排した言葉が放たれた。直接声が聞こえたチャーチルの操縦手が真っ先に戦車を停め、その後ろにいたマチルダがチャーチルと少し衝突する形で停止。そしてなんの歯止めもなかった先頭車が、無線のタイムラグの分だけ止まるのが遅れてしまった。

 

風切音、衝突、破砕、飛び散る鉄の屑。

 

マチルダは一度大きく傾き、そして脚から悲鳴のように黒煙を上げてその歩みをやめた。

その瞬間、相手の攻撃によって履帯を破壊されたということにアッサムが、一拍遅れてオレンジペコが、そしてその二人よりも遥かに早くダージリンが気づいた。

 

金髪の隊長から迅速に指示が飛ぶ。後続のマチルダは後退し、チャーチルは車体を右側に傾ける、いわゆるお昼ご飯の角度を取った。

そして静かに照準器を覗き込むアッサムの視線の先に、それはいた。

 

ひと際背の低い車体に長い75㎜砲を載せた、大洗女子学園最大火力。一キロ先からでもマチルダの正面装甲を射貫くことができる魔弾の射手。

その名は三号突撃砲。大洗女子学園の中で唯一戦車の名を与えられなかった車両にして、攻撃性能に特化した脅威の存在である。

最早誰がマチルダを貫いたのかは明白だった。

 

「先頭車、状況を」

『履帯を完全にやられました!身動きが取れません!』

「アッサム」

「分かっています。オレンジペコ、装填早めにね」

 

表情一つ変えず、アッサムは機械的にトリガーを引いていく。

一度、二度、三度と放たれた砲弾は地面を、岩を、壁を抉っていくものの、岩陰に隠れた三号突撃砲を射貫くことは叶わなかった。やがてオレンジペコが六度目の装填を終えたとき、マチルダの履帯を破壊した者は沈黙し、影すら見せなくなった。

 

『ダージリン様。Ⅳ号と八九式が後退していきますが、どうされますか?』

 

その通信によってダージリンは、三号突撃砲がこの場から去っていたことと、大洗女子が完全に退却していったことを悟った。

 

「前言撤回するわ、放っておきなさい。相手の姿が見えなくなったら、周囲の偵察をお願い」

『わかりました』

 

肺にため込んだ息を、ダージリンは一息に吐いた。

その様子を横で見ていたオレンジペコの瞳には、気づかいの色が浮かんでいた。

 

「してやられた、というところかしら。ダージリン」

 

アッサムの挑発するような言葉に、ギョッとしたのはやはりオレンジペコだった。

ダージリンがそれに対し、瞑目するだけで何の反応も示さなかったことが余計にオレンジペコの不安を煽る。

してやられた、まさにその通りなのかもしれない。

被害状況を見れば、あちらは無傷。こちらは一両が履帯破損で走行不能。無論致命的な損害ではないし、こんなもので勝ち負けを決めるのはナンセンスな話である。

 

しかし現状、『後退させまいとした聖グロリア―ナ』の追撃をかわし、『大洗女子は目的を達成している』。

それはなぜか。戦車一両通るのがギリギリな道の上を走ってた縦隊の先頭車が走行不能になってしまうと、当然ながら後続車はそれ以上先に進めない。自チームの戦車が、障害物となってしまうからだ。

これにより生まれたタイムロスのお蔭で、もはや大洗女子に追いつくことは叶わなくなってしまった。それはつまり、大洗女子が後退の時間稼ぎに成功したことを意味していた。

 

聖グロリアーナがやらせたくなかったことを、大洗女子はやってみせた。そういう意味で、聖グロリアーナはこの場において、大洗女子に一歩遅れを取ったといえた。あるいは、ダージリンの読みを、大洗女子が半歩分だけ上回っていったと言うべきかもしれない。

 

やがて秒針が一回転するほどの時を経て、ダージリンは滔々と語りだした。

 

「『零れたミルクを嘆いても仕方ない』……今更何を言おうとも結果は変わらないけど、そうね。まんまとやられてしまったわ」

 

時間稼ぎ、という読みは当たっていた。ただポイントを読み違えた。

Ⅳ号と八九式はあくまで陽動、本命はこちらの装甲を簡単に抜ける三号突撃砲。ルートの選択肢を狭め、三突の前にこちらをおびき出すことこそが、彼女たちの作戦だった。

 

「一度待ち伏せを喰らわせておいて、二度ははないだろうと思わせる。後退前の失敗も伏線になっているわね。アレがあったお蔭でこちらの意識に『相手に伏撃はない』という認識を植え付けられてしまった」

 

いわばそれは、ワイヤートラップの奥に更に落とし穴を掘っておくような作戦。一つ目の罠に気づいた時点で、もう罠はないだろうという意識が生まれてしまい、ダージリン達はそこを突かれた。

思い返せば全く防げなかったことではなく、部分部分でどうにかできるポイントはあったが、後から思いついたってどうしようもない。事実は厳然としてそこにある。

 

「これは戦車道素人の発想じゃないわ。かなり高いレベルの戦車乗りが向こうにいると見て間違いない」

 

候補は三つ、こちらに初めて有効打を与えた三号突撃砲。妙に手練れた動きを見せた八九式。そして――――要所要所で必ず姿を見せる、あの四号。

そのどれかに、この作戦を考えた者が乗っている。

 

「それにどこか………」

「どうしました?」

 

ほんの数秒だけ、ダージリンは思いに耽る様子を見せた。

しかし彼女は直ぐに頭を振って、今為すべきことへと視線を向けた。

 

「追撃は中止。先頭車は履帯の修理を急ぎなさい。それが終わるまでは休憩にしましょう」

「いいんですか?」

 

照準器から視線を外して振り返るアッサムに、ダージリンは莞爾として微笑んだ。

 

「おそらく大洗女子が向かったのは市街地。全体的に見通しが悪く入り組んだ地形のあそこは、機動力で勝る向こうが有利。やりようはあるけれど、それには五両全部欲しいわ」

「そうですか。それではティータイムと参りましょうか」

 

名前を呼ばれ、オレンジペコもまたいそいそと紅茶の準備に取り掛かった。聖グロリア―ナはどんな時でも紅茶と一緒なのだ。一試合どころか一日分くらいの紅茶は戦車に常備してある。

 

キューポラを開放し、ダージリンは窮屈な車内から日光が差し込む地上へと出た。

天気は晴れ、太陽は徐々にその高さを増している。

 

大洗女子はやはり、今大会のダークホースになりうる存在だった。予想の的中を喜ぶべきか否か、当然ダージリンは前者だった。好敵手はいくらいてもいい。それだけ自分を成長させてくれるから。だからきっと祝うべきことなのだこれは。

 

「勝負は第二ラウンド。市街地で決着をつけましょうか」

 

できるだけ華麗に、そして優雅に。

あの人により近い所で、勝利の栄光を掴み取る。

 

青い瞳に凄烈な決意を込めて、ダージリンは遥か彼方を見据えていた。

 

 




冷泉麻子、流石の操縦テクニック。
河嶋、痛恨の早とちり。
ダー様、溢れるやる気が空回り。

この話はだいたいこの三要素でできています。


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第10話 「練習試合をしましょう③」

本作には、その道に詳しい人なら我慢できないような描写や知識がかなりあります。
そういう人は見ない方がいいかもしれません。でも見てほしい(ジレンマ)

ようやく投稿できた練習試合後半戦。

萌えと燃えのバランスがガルパンの魅力のはずなのに、本作では萌えが息をしていない現状。




「………追撃の様子はなし。振り切れたみたいだね」

 

戦車から身を出し、後方を目視で確認したみほは、安堵の息を吐いた。

その言葉は四号戦車の車内へと伝播し、そして通信手武部によって更に全車両へと伝えられた。

瞬間、無線越しに歓喜と驚嘆の声が大勢木霊した。ヘッドフォンから響く喧騒にみほは耳がキーンとなってしまったが、それも仕方ないと苦笑しながら四号の車長席に座った。

 

「やったじゃんみほ!聖グロリアーナってすっごい強いとこなんでしょ!?そんなとこの戦車一両やっつけるなんてやっぱすごいって!」

「正確には履帯を破壊しただけで、やっつけてはないがな」

「で、でも作戦は成功しましたし、良かったですよね!」

「みほさんのお蔭ですね」

「そ、そんな……みんなの力があったからだよ」

 

面映ゆくなってみほは少し身をよじらせた。どうにもみほは褒められ慣れてないので、こういう時どんな顔をすればいいか分からなくなってしまう。

ましてやそれが、ほとんど偶然と運に拠った、実力以外のとこから出てきた結果への賞賛となると尚更である。

 

(………ほんとに運が良かった)

 

大洗女子学園は、聖グロリアーナの追撃をかわし、なんなら一杯食わせてやって見事に市街地までの後退を成し遂げたわけだが、それは決してみほ自身の力によるものではない。

七割が運、二割五分が磯辺達やエルヴィン達のお蔭。みほの戦術や作戦指揮が役立ったのは、残りの五分くらいとみほは本気で思っていた。秋山には自信あり気に「大丈夫、作戦はある」なんて言ったが、内心は結構ドキドキしていたのだ。

 

後退の出足が鈍ったことと、エンジンや足回りに特別な改造がなされていることが明らかな聖グロリアーナの戦車から、市街地まで後退する途中で追いつかれることは容易に想像できた。ゆえにどこかしらで時間を稼がなければならなかったわけだが、問題はどうやってその時間を稼ぐかである。

一番はこちらの機動力が上がることだが、そんな極短時間で操縦技術は向上しないし、もし上がったとしてもそれは微量なもの。となると必然的に、聖グロリアーナの脚を止めるしかないわけだが、これが難題であった。

 

聖グロリアーナの得意とする戦術は浸透強襲戦術。硬い装甲を活かしてじわじわと相手を圧していくというスタイルだが、それはつまり生半可なことでは足を止めないということ。多少の攻撃なんてものともせずにガンガン攻めてくる。

そんな戦術に慣れた戦車乗りが集まっている以上、聖グロリアーナは精神的な理由では止まらない。強豪校というプライドと、初心者集団を相手にしているという認識が、彼女たちの脚を一層勇ましいものにしているのだ。

 

じゃあどうするか、と考えた時、みほの答えはシンプルだった。

 

―――精神的に止まらないなら、物理的にその脚を折るしかない。

 

誘い込むのは、複数の隘路が重なり合ったような場所。狭く、視界が悪く、戦闘には適さないような場所だが、みほの作戦を実行するにはピッタリの場所であった。

 

みほ達四号戦車と、チームで一番動きが良かった八九式戦車の二両で、迂回する形で反転し、待ち伏せの体勢を作る。そして聖グロリアーナが踏み込んできたところに間髪を入れず砲撃を浴びせ、『待ち伏せされた』という認識を植え付ける。

上空から見れば五対二の状況だが、実際は違う。道幅と高低差によって、聖グロリアーナは四号と八九式を攻撃しようとすると、三両が遊兵化する。

聖グロリアーナの隊長なら、おそらくそんな愚は犯さない。かならず他の道を使って、みほ達を囲い込もうとしてくる。それがその場において、最も合理的な選択だからだ。

 

狙いは、そこ。縦隊を組まなければ進めないような道を使わせることが、みほの思惑だった。

大洗女子学園の戦車は全体的に砲性能が低く、攻撃力に欠けていたが、実は一両だけ聖グロリアーナ相手にも通用する戦車が存在していたのだ。

 

それが三号突撃砲。歴女チームが乗っている、大洗女子の最大火力であった。

 

聖グロリアーナが迂回するであろう道に三突をあらかじめ伏せておき、目の前に現れたところを一撃で撃ち抜く。狙いは縦隊を組んだ聖グロリアーナの、先頭車。それも撃破判定が出やすい車両側面ではなく、履帯部分。背面以上に脆く、そして損傷すれば撃破判定にはならなくとも、しばらくの間走行不能になって戦闘に参加できなくなるという、戦車における弁慶の泣き所。

 

ここを、先頭車が走行不能になると後続車がそれ以上前進できないポイントで、撃ち抜く。そうすれば、聖グロリアーナの進撃は止められる。

 

そしてそれは幸いなことに成功した。それも自チームの損害がゼロという、奇跡的な結果で。

『そう何度も待ち伏せはしてこないだろう』という心理的な隙を突いた作戦だったが、実際上手くいくかどうかは五分五分で、何か一つ歯車が狂えば結果は正反対になっていただろう。本当に運が良かったとしか言いようがなかった。……武部達は、みほのお蔭と褒めてくれるが。

 

『西住隊長!聖グロを振り切れたのはいいが、これからどうする?』

 

不意に無線から聞こえてきた声に、みほは我に返った。三号突撃砲の車長、エルヴィンからの通信である。

 

『我々は確かに窮地を脱したが、現状は以前不利だ。やはり聖グロは強い。真っ向から勝負を挑んでも勝ち目はないぞ』

『そうだぞ西住!!なぜ履帯を破壊した時に攻撃を続行しなかった!?戦力差がある以上、撃破できる時には撃破しておくべきだろう!?』

 

ついでに河嶋の声も入ってきた。

 

『というかなぜ私たちとDチームは市街地まで先に後退させられたんだ!?』

 

しかもクレーム付きである。みほはヒートアップしている河嶋を、できるだけ刺激しないように言葉を選んだ。

 

「えと、あの場所では五両全部は展開できませんし、そもそも私たちの目的が後退である以上、不必要に攻撃するべきじゃないと思います。あくまで「後退するまでの時間稼ぎ」としての攻撃に留めるべきであって、それが達成できたのなら当初の目的通りに動いたほうがいいんです」

 

作戦とは、『とある目的を達成するため』に行われるものであって。その目的が状況状況でコロコロ変わってしまっては、部隊の統率はできないし、寧ろ余計な被害を受けることもある。進むべき時に退き、退くべき時に進むようでは、戦車道は勝てない。

基本は『ブレない、迷わない、欲かかない』である。

 

ちなみに河嶋達38tと一年生チームのM3リーを先に行かせた理由は、単純に動きが悪かったからである。当然初心者である以上、責められることではないが、決して口には出せないみほであった。

この場合、初陣かつ敵の追撃を受けているというのに、みほの指示を正確に理解して正しく動いたバレー部チームと歴女チームのほうが特殊な例と言えた。彼女たちは今日が模擬戦以来の約二週間ぶり二回目の操縦ということをわかっているのだろうか。

 

『む……まぁ確かに一理あるか。それで、市街地まで後退してどうするんだ?』

「ひとまず履帯が直るまでは、相手は市街地まで進んでこれません。道を変えて、四両で進行してくる可能性もありますが、それでも時間は充分にあります。私たちが市街地についたら、一度全員集まって作戦会議をしましょう」

『作戦会議だと?』

 

みほは短く返事した。

当初はあの荒野地帯で試合を終えるつもりだったため、市街地に戦場を移した場合のことは考えられていなかった。普通は様々なケースを想定して作戦を立てなければならないが、大洗女子にそんな余裕はなかった。よってこれから先のスケジュールは白紙である。

 

(お兄ちゃんも黙ってたしね……)

 

本当は分かってたはずなのに、性格の悪い兄である。『自由にやれ』という指示に忠実なだけかもしれないが。

とにかくもう一度、崩れた方針を組み直して、新しい作戦を立てなければならない。

そのためには無線越しでやるより、昨日のように直接顔を合わせながらやったほうがいいだろう。そうすれば、ついでに浮足立ったチームの雰囲気も払拭できる。

そう判断してみほは、地図上のとある場所を示した。

 

「大洗磯前神社で全車合流、お願いします」

 

 

 

県立大洗女子学園が聖グロリアーナ女学院に勝っている所とは何か。

 

大洗磯前神社に続く長い上り坂の麓、みほの何十倍もある大きな石の鳥居の前にて開催された作戦会議は、そんなみほの第一声から始まった。

 

戦いとは、いかに相手の弱みを突き、こちらの強みを押し付けるか。畢竟、そこに尽きる。

 

聖グロリアーナ相手に、装甲の硬さ比べを挑んでは勝ち目がないし、そもそもあの装甲とまともに戦うこと自体、最早避けるべきことである。

そうなると、聖グロリアーナの弱い所に、大洗女子の強い所をぶつけなければ勝機はないということになるが、それらは一体なんなのか。

攻守にわたって隙がないように思える聖グロリアーナと、攻守にわたって隙しかないように思える大洗女子だが、確かに前者には弱点が、後者には長所が存在している。

 

聖グロリアーナの弱みとは、戦車のスペックから来る機動力の低さである。マチルダⅡは確かに尋常ではない防御力を誇るが、設計され実践投入されたのは1936年。ドイツが造った整地で時速40キロくらい出る三号戦車や四号戦車と大体同級生だが、イギリスの戦車年表だと中期らへんになる。つまり、あんまり戦車設計の技術やら思想やらが洗練されていないときに造られたので、歴代のイギリス戦車の中では結構低スペックに分類される。

その際とくに目立つのが、機動力である。他国の同級生の戦車と比べると、最大速度は時速24キロとダブルスコアで負けている。

 

これはマチルダより後に造られたチャーチルでも解決しておらず、あちらに一両だけいるチャーチルMK.Ⅶもマックスで時速21キロ。洗練された防御力を得た代わりに更に足が遅くなっている。

一応イギリス戦車には、ちょうどマチルダと正反対の性能をした戦車があり、また戦争後期には快速かつ装甲の厚い戦車も造られていたため、イギリス戦車=鈍足というわけではない。

あちらが戦車のエンジンや駆動系に手を加えて、カタログスペック以上のスピードを得ていることは既に知っているが、それにしたって弱点でなくなるほどの強化ではない。

マチルダ&チャーチルという組み合わせなら、どうしたって弱点は機動力。

 

ならば大洗女子の強みとはなにか。

保有戦車は揃って旧式。しかもどれも癖のある戦車で、汎用性があるのは四号戦車くらい。後は運用が限られていて、オールマイティに活躍できるわけではない。

防御面はどれも平均値くらいで、大体が50㎜以下。M3リーのみ最大装甲厚が51㎜だが、側面は頼りない。更に大洗女子の中で最も古い戦車である八九式にいたっては、最大でも17㎜と最早紙。正面からでも余裕で貫かれる。

 

そして攻撃面。言わずもがな、三号突撃砲以外はマチルダの側面、場合によっては背面しか通用しないほどの貧弱な火力。その頼みの綱である三号突撃砲も、砲塔が回転しないというこれまた厄介な仕様のお蔭で伏撃や狙撃には強いが、何も考えずに運用できる戦車ではないため最大火力が常に発揮できるわけではない。

大変残念だが、攻守の両面において、大洗女子は聖グロには逆立ちしても勝てない。

 

「というわけで、私たちはこれから機動力を最大限に使って戦います」

 

みほがそう言うと、四人のチームリーダーたちはポカンとした表情になった。

あれ、とみほは少しだけ狼狽えた。結構分かりやすく説明したはずだけど、こんな表情をされると伝わらなかったような気がして、ちょっぴり不安になる。

何か言葉足らずだったのだろうか、と視線を泳がせたところで、口を開いたのは、赤いマフラーが特徴的な三号突撃砲装填手、カエサルだった。

ちなみに三号突撃砲の車長は軍服コートに軍帽のエルヴィンなのだが、こういった作戦会議には装填手であるカエサルの方が出席している。詳しい事情はみほも知らないが。

 

「西住隊長。ということは、我々が聖グロに勝っている点というのは、機動力というだろうか」

「あ、はい」

 

あまり言いたくないが、本当にそれくらいしかない。しかし四号戦車、38t、M3リー、三号突撃砲が大体時速40キロ前後くらい出ることを考えると、大洗女子は機動力に関しては優れている。聖グロリアーナ相手と比較して、唯一勝っていると断言できる点である。

ただ一両、八九式だけは時速20キロ前後くらいしか出ない……はずなのだが、なぜかはわからないがあの戦車余裕で四号戦車と同じくらい出てる。

長く戦車道をしてきたみほが、思わず「え?はや」と呟いてしまうくらいのスピードである。

まことに不可解だが、そういえば生徒会長が「八九式だけ貰い物」と言っていたし、そのあたりが関係しているのかもしれない。

 

「それで西住、具体的にはどう戦うんだ?」

「基本的な動きとしては火力の低さを補うために、相手の側面や背面に回り込むようにします。そのためには絶えず動き続けて攪乱する必要がありますが……」

 

みほは兄からこっそり拝借してきた、ミニホワイトボードを取り出して、作戦を図示した。

 

「マリンタワーやフェリーターミナルがある海岸沿い、サンビーチ通りは道が広く見通しもいい、戦車が戦いやすい場所ですが、ここでは交戦しないようにしましょう」

 

片側二車線もある道なんて、戦車も余裕で並ぶ。大洗女子がこんなところに躍り出たら、あっという間に撃破されてしまうだろう。

 

「主に戦うのは、住宅街や商店街がある場所。ここは全体的にやや碁盤上の地形をしていて、大きな道、小さな道がたくさんありますが、必ずどこかと連結しています。なので右左折を繰り返せば、相手を振り切ることも回り込むことも容易にできるはずです」

「なるほど。そのためには道を良く知っている必要があるが、ここは我々のホームグラウンド」

「裏道から近道まで何でも知っています!」

 

腑に落ちたようなカエサルと元気の良い磯辺の言葉に、みほも静かに頷いた。

この作戦に必要なのは、土地勘である。どれだけ道を熟知しているかが、成功を左右するといっても過言ではない。いや、戦車道の試合とは須らく、地形への深い理解が求められる。事前に地図を見ないで試合に臨む学校など、全国大会に出場するレベルならありはしない。

 

戦車道の試合では公平を期すために事前に両チームに地図が配布されるが、この練習試合でも同様の措置が取られている。なので聖グロリアーナも当然、大洗町の地形をまったく知らないというわけではない。

だがそれでも有利なのはホームアドバンテージのある大洗女子だとみほは思う。

一分一秒を争う機動力勝負では、地図を見ながらよりも暗記しているほうが絶対に強い。どちらも暗記している状態なら、実際に走った経験のある方が強い。

 

この場所に限って言えば、地の利は大洗女子にある。

 

「だが西住、ここでは先ほどと同じく全員が固まって動くことはできないだろう。動き続けるというのなら尚更だ」

「はい。なので全員分散して動きます」

「え!?ぶ、分散ってことは、一両一両バラバラになるってことですよね…?」

「それは大丈夫なのか?各個撃破の危険が高いと思うのだが。戦史上、兵を徒に割いて勝った例はない」

 

確かに、とみほは頷いた。実力で勝る相手にそんなことをすれば、鎧袖一触。あっけなく撃ち倒されてしまうだろう。

 

「でもこちらが固まってしまうと、相手もむやみには戦力を割くことはしないと思います。聖グロリアーナにまとまって動かれては、それこそ勝ち目がありません。市街地まで引きずり込めれば、相手も同じように分散せざるを得ないはず。賭けですが、やるしかありません」

「で、でも!そうなると相手と戦う時は一対一ですよね…?ちょ、ちょっと自信ないんですけど……相手も強いですし…」

 

おずおず、と口を開いたのは一年生チームの車長、澤梓だった。

精神的に成熟している三年生や、肝が据わっている二年生、運動部出身のバレー部たちと比べると、一年生チームはまだ色々な意味で幼い。味方と一緒に行動するならともかく、単騎で動くとなると不安になっても仕方ない。何度も言うが、責められることではないのだ。

 

みほは莞爾と微笑んで、言葉を紡いだ。

 

「大丈夫だよ。最初から一対一で戦うつもりはなかったから」

 

へ?と間の抜けた声を出した澤。みほはミニホワイトボードを使って作戦を説明した。

 

「やることはそう難しいことではありません。練習でやったことと同じです。全員バラバラに動きながら偵察をして、とりあえず相手を見つけましょう。そうしたら、後は全員でそれを追いかけるんです」

 

ホワイトボードに書いたものは、何かに酷似していた。それを見ていた四人の内、磯部がはっとしたように声を上げた。

 

「―――――あ!これ鬼ごっこですか!?」

 

みほは頷いた。その言葉に他のみんなも得心がいったようだった。

 

「基本は鬼ごっことおんなじです。誰かが鬼を見つけたら、即座に情報を伝達。お互いの位置関係を共有して、相補的に動きます。近すぎず遠すぎず、ちょうどいい距離を保ちながらいつでも連携が取れるようなポジションを取る。そのためには無線でのやり取りをしっかりやらないとですが……」

「我々は神栖先生のお蔭で無線での意思疎通はできる。できなくはない作戦だな」

「発見した車両はできるだけ味方の多い所に相手を誘導するようにして、他の車両で一気に囲い込みます。できるだけ速やかに相手を撃破して、また散開して隠れるを繰り返していきましょう」

 

戦力の慢性的な分散と瞬間的な集中を繰り返すという難しい作戦。初心者集団には手に余るかもしれないが、みほは不可能ではないと考えている。

磯辺が言っている通り、やっていることは練習でやった鬼ごっこと同じ。規模を個人レベルから戦車一両レベルに拡大しただけだから、まるっきり違うことをするわけではない。

 

「なるほど……奇襲と隠密を繰り返して相手を混乱させるゲリラ戦か。ナポレオン戦争のスペインを思わせるな」

「よくわからないけど根性で頑張ります!」

「が、がんばります!!」

「他に作戦もないし、この際仕方ない。それでいくぞ」

 

作戦は決まった。これにより大洗女子は、一貫した行動をとることができる。

みほは立ち上がり、最後に告げるべきことがあるのを思い出した。

 

「お互いの位置を常に把握することは簡単ではありません。できるだけ分かりやすく簡潔な言葉で、正確に伝えるようにしてください」

「その辺はあの目隠ししてやったサッカーとおんなじですね!わかりました!」

 

磯辺は意気揚々と八九式の下へと去っていった。それに続くように、各々も自分の戦車へと戻っていく。まもなくすれば、彼女たちから乗員へとみほの作戦が伝えられるだろう。

最後に残ったみほは、その場に立ち尽くして磯辺の言葉を咀嚼していた。

練習とおんなじ。それは果たして、偶然なのだろうか。あの兄はこれまでの練習を、戦車に乗るための練習と言っていた。みほはそれを、実践とかそれ以前の領域の話だと漠然と思っていたが……

 

「全部狙い通り、なのかなぁ」

 

ここまでのことを全部予見して、あの練習をやらせていたとは思わない。

そこまで自分の兄が人間を止めていたとは思いたくないから。

だがあの人は、時々全てを見透かしているような行動をすることがある。もしかしたら……

 

みほの思考はそこで止まった。これ以上考えても意味はないことだし、今は他に頭を使わなければならないことがある。

 

みほは軽やかに四号戦車の車長席に戻った。すると複数の視線が自分に集まっている気がした。武部や秋山が、こちらをじっと見つめていたのだ。それも同じような感情を込めて。

 

「な、なに?」

「いやぁ、やっぱ戦車道をしてる時のみほってカッコいいなぁって」

「ふぇ、」

 

唐突な褒め言葉に、みほの頬が一瞬で朱に染まる。じんわりとした熱がほっぺたから広がっていって、思考をほんの少しふやかしていく。

 

「普段はあわあわぽわわな感じなのに、あんなにテキパキと指示しちゃって。アレだね、ギャップ萌えってやつ!」

「そ、そうかな……?」

「そうです!凛々しくて凄いカッコよかったです!!」

「あ、ぅぅ……」

 

急に暑くなってきたみほであった。

意識しているわけではないが、周りから見たらそんなに違うのだろうか。確かに戦車道をしているときは、いつもより頭がすっきりしている感じで、言葉もすらすら出てくるけども。

 

(お兄ちゃんの影響かな……)

 

普段はぐうたらでダメ人間を絵に描いて額に入れたような人間だが、戦車道のこととなると兄は輝いて見えた。それもとびっきりである。そういう時みほは「あぁもう全然違う」と思ったものだが、それと同じ感情が秋山達にもあるのだろうか。

自分でも話し方とかは、結構兄の影響を受けている気がするけど。

 

「と、とにかくこれからは市街地で戦います。冷泉さん、かなり操縦が難しくなりますが、よろしくお願いします」

「問題ない。指示があればどんなところにだって連れて行ってやる」

 

………カッコいいと言うなら、冷泉のほうがよっぽどではないかと思うみほであった。

 

「でもみほ、確かに私たちは大洗町のこと詳しいけど、みほは大丈夫なの?今日初めて来るじゃん」

「そういえばそうですね。みほさん、転校してきてからまだ半月ですし……」

「西住殿も条件的には聖グロの人と同じですよね…」

「あぁ、それなら大丈夫」

 

武部たちの心配は最もだったが、みほはにこやかに否定した。

大丈夫、と言い切るだけの根拠がみほにはあったのだ。

 

「昔から地図を読むと、なんとなく立体図が見えるの。こう、二次元が三次元に見えてくるっていうか……大体どんな地形してるかっていうのが直感的にわかるっていう感じ。ここに来る途中もほとんどイメージ通りだったし、問題ないと思う」

「へぇーじゃあ大丈夫だね!」

 

この時武部は、みほの言葉を軽く流していた。それは秋山や五十鈴、冷泉も同様で。

その反応は、彼女たちが戦車道素人だったことが理由だった。もし武部たちがほんの少しでも戦車道を経験していたら、こう感じたはずである。

 

――――それは普通のことではない。異常な才能だ、と。

 

『おい西住、こちらは準備完了だが……一つ言い忘れていたことがある』

「あ、はい。なんでしょうか?」

 

河嶋からの突然の通信に、みほは慌てて答えた。

その前置きは不穏な雰囲気がする前置きである。そこはかとなく嫌な予感がするみほであった。

 

『作戦名はどうする?』

 

ほらね。

 

「………あの、それ必要ですか、河嶋先輩」

『何を言ってる。大事だろう』

 

そうですか、とみほは力なく答えた。作戦名なんて言われても、特に考えていなかったのでどうしたものか。『包囲殲滅陣大作戦』みたいにやけに漢字ばかり並ぶようなものよりは、できるだけ端的かつ一目でわかるような作戦名の方がいいと思うが……

 

「じゃあ―――――『こそこそ作戦』で」

 

審議――――多数決により改名申請。隊長権限により却下。

―――――こそこそ作戦、始動。

 

 




投稿できなかった二週間強の間に、本作を忘れてしまった人もいると思うので、また思い出してもらえるように小まめに投稿していきます。



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第11話 「練習試合をしましょう④」

本作には似非戦術論、ミリタリー知識がかなりあります。苦手な方は見ない方が幸せだと思います。

作者的には「強い聖グロ」「強いダージリン」を表現したかったのですが、どこまでできているのやら。映るだけで面白い人扱いですけど、実際原作でもマジで強いと思います。

オリ主の出番が一切ないので、ここ数話は原作再構成っぽくなっています。
次からはキチンとオリ主タグが仕事します。


『こちら八九式、聖グロリア―ナの戦車五両確認!大洗駅前通りからきらめき通り、ようこそ通りの二手に分かれて進行していると思われます!』

「こちら四号戦車武部、了解!――――みほ!」

 

振り返る武部に、みほは頷きを一つ返した。

作戦開始から十五分程、聖グロリア―ナは市街地へと侵入してきた。予想よりも早い到来となったが、特に問題はない。大洗女子は既に戦車を散開させており、偵察の網を広く設置していた。その網に掛かったのは、一両ではなく五両だったが。

 

大洗駅前通りは文字通り、大洗駅の前に横たわる道である。片側一車線で狭くもなく広くもなく、といった感じだが、駅前通りはいくつかの大通りに連結している。それが大貫勘十堀通り、きらめき通り、ようこそ通りの三つで、これらはそのまま海岸沿いのサンビーチ通りへと続いている。言ってしまえば大洗町の支柱のような道で、おそらく最も交通量が多い。ゆえに道幅は広く、戦車を走らせやすい。

流石にいきなり突っ込んではこないか、とみほは脳内の地図を広げた。

 

二手に分かれた、ということはローラー作戦でこちらの居場所を炙り出すつもりなのだろう。だが大貫勘十堀通りを選択しなかったということは、それより南西側、つまり大洗サンビーチや海浜公園がある方には戦車を配置してないと読まれている。

 

その読みは正解である。みほはそちら側は隠れる所が少なく、道も単調だったため『こそこそ作戦』には向いてないと判断し、北東側に戦車を寄せていた。

 

「八九式の皆さんは相手に見つからないよう、注意しながら偵察を続けてください」

 

聖グロリア―ナは、こちらが機動力勝負に持ち込むことを予測している。やはり強豪校の隊長ともなれば、それくらいは見抜いてくるか、とみほは気を引き締めた。

 

この動き方なら、相手はサンビーチ通りに何両か、みほの見立てでは二両は走らせてくるはず。そして残りの戦車は商店街の中に行かせ、いつでもL字型の陣形を取れるようにする。碁盤のような形をしているこの場所なら、闇雲に動くよりもそういった足並みが揃った連携の方が望ましい。一方が相手と戦闘に入っても、他方が即座に相手の横面を殴れるからだ。

理に適った動きゆえ、隙はないが………

 

「寧ろチャンスかも」

 

みほは無線を繋いだ。通信先は、生徒会チーム38tであった。

 

「すいません、おそらく大洗マリンタワーの前に相手の戦車が出てくると思います。戦闘はしなくていいので、意識だけ誘引してもらえませんか?」

『誘引―?適当にちょっかいをかければいいー?』

 

ガサガサと袋が擦れる音がしているが、気のせいだろうな、とみほは思った。無線越しに聞こえる角谷の声が、何やら口に物を含んでいるような感じだが、それも気のせいだろう、きっと。

 

「それでお願いします。その間に此方は商店街に入ってくる相手を撃破します」

『ほーい、まぁ気をつけてねー』

 

どんな時でも自然体でいられる角谷の太い神経が、心底羨ましいみほであった。一応はじめての対外試合なのだし、少しくらい緊張するなり動揺するなりしてもいいはずなのだが。

伊達に学園艦を仕切る生徒会長ではない、ということなのだろうか。

 

「みほ、バレー部チームから通信!ようこそ通りを走ってたマチルダのうち、一両が加速したって!」

 

ここかな、とみほは早々に攻撃のチャンスが回ってきたことを直感した。

 

「攻撃態勢に入ります。ターゲットはようこそ通りを走行中のマチルダ。先行したほうではなく、後ろの方をやります。三号突撃砲は二両のマチルダの間に入って足止めを。できれば若見屋交差点の辺りで止めてください」

『了解した!』

 

本来ならば待ち伏せとして使いたい三号突撃砲だが、この場合は仕方ない。各戦車の位置から考えると、そこに入れるのは三号突撃砲しかいない。タイミングを間違えると前後で挟まれてしまう危険もあるが、そこは巧く生徒会チームがやってくれることを期待するしかない。もちろん、みほも慎重に時機を図らなければならないが。

 

『先頭のマチルダ、若見屋交差点を通過!後続のマチルダはあと20秒ほどで交差点に差し掛かります!』

『了解した!こちらは砲撃準備に入る!』

「生徒会のみなさん、そろそろ出てきます。準備は大丈夫ですか?」

『大丈夫―当てなくてもいいんだから楽だよねー』

『こ、こちら一年生チーム!髭釜商店街から若見屋交差点の手前に向けて走行中です!』

 

頭で時計をカウントしながら、みほは全車両の位置を把握した。

冷静に、そして静かに無線に耳を傾け、肌に伝わる空気の振動を敏感に捉える。

五感すべてを使って状況を察知する。それは西住みほの癖のようなものであった。

やがて秒針が四分の一回ったとき、一つの通信がみほに届けられた。

 

『こちら生徒会チーム、相手の戦車が出てきたよーそれも二両。砲撃開始するねー』

「―――――今です!!」

 

その合図とともに、一つの轟音が空気中の波となって商店街の中を駆け巡った。そしてそれは当然、みほの耳と肌にも届けられた。

 

四号戦車は一気に加速し、永町商店街を疾走する。

目標はすでに、みほの眼に映っていた。

 

勢いそのままに四号戦車は若見屋交差点に躍り出る。そこには僅かに白煙を吐き出すマチルダⅡ、そして筒先から同じように白煙を登らせる三号突撃砲。

一瞬でみほは事態を理解した。三号突撃砲はみほの指示通り、マチルダⅡの脚を止めることに成功したのだ。

ならば次は、とみほは全車に声を飛ばす。

 

「囲んで一気に落とします!全車、砲撃!」

 

隊長の命令に応じるようにして、四号戦車と交差点を挟んで真向かいからM3リーが、右方からは偵察としてマチルダを追いかけてきていた八九式が駆けつける。これにより交差点の中央にあるマチルダを、四方向から大洗女子が包囲する形になった。みほの思い描いていた形そのものである。

まさかここまでうまくいくなんて、と驚嘆する思いのみほであった。

 

絶好の機会に、各戦車の砲手たちは迷いなくトリガーを引く。装填中の三号突撃砲を除いた、計四つの砲から放たれた弾丸がマチルダを容赦なく襲い、激しい音を立てて硬い皮膚に噛みついてゆく。

 

「――――次弾装填!」

 

しかし大洗女子の牙は、僅かに届かなかった。立ち上る煙の切れ目、そこから垣間見えたマチルダは未だ健在。全身に砲撃を浴びようとも白旗を挙げることなく、威風堂々と佇む様は『陸の女王』の称号に相応しい姿であった。

 

その堅牢さにみほは唸るしかない。正面装甲とはいえ三号突撃砲の砲撃を受け、なおかつ一キロ先から35mmの装甲を抜く四号の主砲と、それ以上の火力を持つM3リーの主砲を近距離で側面に、おまけとばかりに最も装甲が薄い背後から八九式の砲撃も受けたのだ。白旗判定が上がってもおかしくないはず。

それなのに、マチルダは健在。全方向から撃ってもまだ耐えるとは、流石に笑えない防御力である。どれだけ硬い戦車なのか。

 

(もし三突が背後から撃ててたら、結果は変わってたかもだけど……)

 

過ぎたことを気にしていてもしょうがない、とみほは次弾の装填を待った。

いくら頑丈とはいえ、近距離で何発も撃ち込まれる弾を無限に耐えられるわけではない。おそらくあと一度、全方位から攻撃すれば、相手のマチルダは走行不能になる。みほは経験則でそれを悟った。

 

しかしその眼前では、女王に無礼を働いた不届き者を罰しようと、2ポンド砲がゆっくりと回っていた。――――攻撃が来る。

マチルダの砲性能は高いわけではないが、決して低いわけでもない。正面装甲とはいえ、油断すればもっていかれる可能性がある。撃破してもおかしくない攻撃を耐えた戦車があるのだ、撃破されないはずの攻撃で白旗を挙げてしまう戦車だってあるだろう。理論上は耐えれるものでも、現実でもそうなるとは限らない。

 

だが、とみほは動揺することはなかった。

 

『撃てぇーーーーーー!』

 

誰よりも早く砲撃したがゆえに、誰よりも早く装填を終えた三号突撃砲が再び火球を放ったからだ。目と鼻の先で鉄が割れる音がして、みほは舞い上がった黒煙から顔を守るように腕を翳した。

 

順当にいけば、一度撃ち終わったみほ達の次は、相手のマチルダが攻撃する番になるはずだった。戦車の砲撃に装填というプロセスがある以上、お互いが攻撃側と防御側に分かれて交互に撃ち合うといった、ターン制のような形になることは稀にある。

 

(三突の装填が早くて助かった)

 

あと少し遅ければ、回避のタイミングを逸していたみほ達は相手の砲撃を受けるしかなかっただろう。

 

『命中確認!よし、やったか!?』

『やったー!みたみた梓!?今のかなりいい感じだったんだけど!』

『あー!私も撃ったのにー!』

『キャプテン!バックアタック大成功です!』

 

湧きたつ歓声に耳を傾けながら、みほは黒煙が晴れるのを待った。

白旗が上がっているのかそうでないのか、それを視認するまでは決して油断できない。

みんなが喜んでいる分だけ上乗せして、みほは警戒心を高めなければならなかった。

 

「あれだけ撃ったら流石に倒せたでしょ!?倒せたよね!?」

「確かに。いくらマチルダといってもここまで至近距離で撃ち込まれれば……」

 

そしてそれは、功を奏することになる。

 

「―――――冷泉さん!」

 

叫ぶようにして飛ばした指示は、ほんの一瞬遅れて実行された。

四号戦車が僅かに後退し、そして一瞬の後。

 

四号戦車の砲塔部分を、重い一撃が襲った。

 

着弾の振動で車内が揺れ、武部の悲鳴がみほの鼓膜を打つ。

キューポラにしがみつきながら、みほは弾が飛んできた方へ目をやった。

そこに、射手がいた。枯葉と若葉を混ぜ合わせたような深いカラーをした、チャーチルMK.Ⅶ。砲身から漂う煙が、何よりも雄弁に語っていた。

 

「全車散開!!進路は東、曲がり松商店街、消防本部方面へと向かってください!」

 

突然の砲撃にもみほは動じなかった。素早く指示を出し、四号戦車を前進させる。

その間に八九式、三号突撃砲は離脱し、商店街の狭い道を駆けていく。

 

「Dチームのみなさん!援護します、早く離脱してください!」

 

そして最後の一両、M3リーが慌てた様子で履帯を回し始めた。

それもそのはず。なぜならチャーチルは、M()3()()()()()()()()()()()()()

四号は庇うようにしてM3リーとチャーチルの間に割り込んだ。

 

(なんでわざわざこっちを……?)

 

チャーチルの不可解な行動に、みほは眉を顰めた。相手の背後を取る、という絶好の機会をわざわざ見逃し、戦車二両を挟んで向こうにいたみほ達を狙ってきた理由がわからなかったのである。チャーチルの火力なら、おそらく一撃でM3リーは撃破できる。今回のルールが殲滅戦である以上、一両でも減らしておいて損はないはずだ。なのに、角度的に装甲の薄い部分は狙えない四号戦車をわざわざ撃ってきた。一体、何の意味があって?

 

「五十鈴さん、四号の砲性能ではチャーチルの正面装甲は抜けません。できるだけ履帯部分を狙ってください!」

「で、でもみほさん。建物が邪魔で砲塔部分以外が見えなくて……」

 

強豪校らしいテクニックを見せつけてくれる、とみほは口を結んだ。

一度、二度と放たれた弾丸はあっけなく弾かれていく。お礼と言わんばかりに返ってきたチャーチルの砲撃は、直撃せずともみほの肝を冷やすというのに。

撃破は難しくとも、履帯さえ破壊できれば、という気持ちだったが、そう簡単にはさせてくれない。

 

「みほ!Dチームはもういったよ!」

「冷泉さん、相手に側面を晒さないようにバックで左折してください!」

「むぅ……ちょっと難しい」

 

とは言いつつも、冷泉は一切車体を壁に擦ることなく鮮やかな操縦技術を見せつけた。

広い道にさえ出れば転回だって余裕。あっという間に踵を返して四号はチャーチルの前から姿を消した。M3リーが離脱できたなら、あんな不利な撃ち合いに付き合う理由もない。

 

「みほさん、マチルダにトドメを差さなくていいんですか?」

「ごめん五十鈴さん、今は逃げる優先で」

 

お淑やかな見た目から考えられないくらい、さらっと怖いことを言うのが五十鈴という人である。

確かにマチルダの撃破を曖昧にしたままにしておくのはよろしくないことだが、今はそれ以上にリスクマネジメントである。今さっきの連携を見る限り、無理をして攻めることもない。チャンスはまだある。

 

『あーあーこちら生徒会長の角谷ー。西住ちゃん聞こえるー?』

「あ、はい、大丈夫です。どうしました?」

『いやーどうもちょっかいかけすぎたみたいでさー、相手が凄い勢いで突っ込んできてるんだよねー………逃げていーい?』

 

なにしたんだろう、とみほは冷や汗を垂らした。無線の向こう側でドッカンバッタンと何かが壊れるような音が間断なく流れ続けている辺り、相当な猛攻を浴びているような気がするのだが。

 

「ありがとうございます、もう大丈夫です。今は消防本部まで退いてるんですけど――――」

『ふーん、じゃあ町役場らへんで隠れてようかな。撒いたらまた言うねー』

 

プツン、と騒音がなくなって、みほの聴覚は自分の周辺の音しか拾わなくなった。

町役場と言うと消防本部の近くである。連携がある程度取れる位置を即座に選ぶあたり、角谷も中々只者ではない。

 

「西住殿、これからどうしますか?」

「基本方針はこのままで。これからはもっと入り組んだ場所になるから、三突がかなり活きてくると思う。うまく攪乱しつつ三突の前におびき出す形で相手を釣って、そこを狙って囲めれば…」

 

いけるだろうか。機動力では此方に分があるし、こそこそ作戦は一応の成功をみた。戦力や実力で劣ろうとも、まともに戦えない程の差は今のところない。奇跡的かもしれないが、初心者集団の大洗女子はなんとか聖グロリア―ナと戦えているのだ。

 

ならば、この勢いを殺さないまま畳みかけたい。作戦が成功し、チーム全体に「やれるかもしれない」という雰囲気が漂っている今こそが好機。

 

「常に先手を取って、主導権を渡さないこと。後手に回ったら一気にやられる……」

 

知らず呟いたみほの声は、空に溶けて消えていく。大洗女子が細い綱の上にあることを、みほは知っていた。

 

そんな胸中を知ってか知らずか、戦局は大きく動き出す。

 

「マチルダとチャーチルが商店街に入ってきたって!なんかくっついて動いてるらしいけど!」

「追撃か。まぁ逃がす理由もないし、当然だな」

「西住殿!」

「一番やっかいなチャーチルを此方で引き付けます。引き剥がしてマチルダを孤立させるので、素早く集中攻撃してください!」

 

四号戦車は左折を二度行い、道を変えて進路を180度転換した。これにより四号戦車はチャーチルの側面へと回り込むことになる。背後はおそらく相手が最も警戒している場所、迂闊に攻撃しようものなら手痛い反撃をくらう可能性もある。意識を誘引するくらいなら側面からで十分。

 

相手は直ぐに現れた。狭い道をいっぱいに使って悠々と進撃するマチルダとチャーチル。みほ達の狙いは後者。五十鈴に指示し、みほはチャーチルへの砲撃を開始した。

 

「――――その程度、予測済みよ」

 

初弾を受けてもビクともしないチャーチルは、ゆっくりと進路を曲げ、四号戦車の方へと向かってくる。できるだけ戦車が相手に対して斜めを向くようにし、限界まで車体を隠して四号戦車は砲撃を続行する。しかし最大装甲厚152㎜の硬い守りを前に、四号戦車はあまりにも無力であった。襲い掛かる弾丸を二度三度とはじき飛ばし、チャーチルは果敢に攻めてくる。

 

「冷泉さん、一気に突っ切ります。少しだけバックして、助走をつけて前方を走りぬけてください」

「わかった」

 

後進、後に前進。慣性の法則により身体が前後に激しく揺さぶられる。勢いよく走りだした四号戦車は、ほんの数瞬だけチャーチルの前に姿を現し、そして掻き消えていく。

予知能力でもなければ反応できない動きに、当然チャーチルは遅れる。放たれた弾丸は四号の残像を貫き、そのまま家屋の壁へと突き刺さる。

 

そして再び方向転換して四号は停止する。正面と正面を向け合うような形で、攻撃態勢に入った。あの装甲を相手に攻撃を続けるのは、言ってしまえば巨象を木の棒で突き続けるような、無意味な行動だが、みほ達の目的は撃破ではない。他の戦車がマチルダを撃破するだけの僅かな時間、それを稼ぎさえすればいいのだから。このやり方なら油断しなければやられることはない。

 

そして場面は変わり、生徒会チームを除く三つのチームがチャーチルから離れたマチルダへと迫っていた。

三号突撃砲、M3リー、八九式。この中でマチルダに通用する攻撃力を持っているのは言わずもがな。よって彼女たちは速やかに自分たちの役割を悟った。

 

『Bチーム、Dチーム、こちらは家屋の陰に戦車を隠している。なんとか釣りだせないか?』

『こちらBチーム!相手の戦車が見えたので私たちがやります!』

『で、Dチームです!Cチームが撃ったところを追撃します!』

 

すなわち攻撃、陽動、追撃である。比較的小回りの利く八九式がマチルダを誘い出し、三号突撃砲は隠蔽率の高い車体を活かして潜み、その近くでM3リーも待機する。

後はシンプルだった。撃って、撃って、撃つ。それだけである。

おそらく現時点で最も理に適った動きは、初心者特有のぎこちなさを僅かに残しつつ実行された。

 

八九式がマチルダの前を軽快に通っていく。貧弱な装甲の八九式は、いわば絶好のカモ。撃破という欲につられたマチルダは八九式の後を追うようにして走る。

その姿を目視で確認した磯辺は、作戦の成功を予感した。河西にジグザグ走行を指示して相手に狙いをつけさせないようにし、目標地点までひた走る。

 

そして三号突撃砲は、いまかいまかと火球を吐き出すタイミングを伺っていた。

通信によって大体の位置は掴めている。車体の位置を微調整し、砲撃に最適な位置取りを行えば、後は待つことしかできない。砲手の左衛門佐は唸りながらトリガーにかかる指を何度か動かした。

 

M3リーもまた三突に呼応する形でポジショニングを行っていた。

通信によって三突がどのあたりで相手を撃つか、それを聞いた上で自分たちも即座に追撃できるような場所を探す。

 

やがてM3リーの車長、澤が良さげな場所を発見した時、八九式からの通信が二両へと告げられた。

マチルダが目標地点へと迫っていたのだ。

 

三号突撃砲の車長、エルヴィンは一層注意深く前方を見つめた。砲撃のトリガーを引くのは左衛門佐だが、そのタイミングを指示するのは自分。判断を誤れば攻撃は失敗する。ならば、とまばたき一つも躊躇われるものだった。

そしてそれは、同じく攻撃の体勢に入っていたM3リーでも同様であった。

 

通信がカウントダウンを開始する。

五、エルヴィンは深呼吸する。

四、左衛門佐がトリガーに指をかける。

三、装填手カエサルが、次弾を掴み取る。

二、操縦手おりょうが、操縦桿を今一度握りなおす。

一、チーム全員に緊張が走る。

 

―――――ゼロ。

 

「撃てぇぇぇぇぇぇぇぇ―――――!!」

 

瞬間、轟音。鉄が砕けたような嫌な響き数回に渡って鳴り、衝突と擦過の音がシェイクされる。やがて数秒の間をおいて、場違いなほど軽い音がラストを飾る。

それは戦車道の規則により装着が義務つけられた、とある装置の起動音であった。

 

一同は悟った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『大洗女子学園、三号突撃砲撃破!!』

 

「うそぉ!?なんで!?」

「そ、そんな……Cチームがやられてしまいました!」

 

離れて行動してはいたものの、通信によりある程度の状況を察していた四号戦車の乗員を混乱が襲う。みほもまた、声を上げることはしなかったが武部たちと同じ気持ちだった。

 

何が起きたのか、それを知る者は一チームだった。

M3リー、三突と連携できるように動いていた彼女たちだけが、一連の出来事を見ていた。

 

『し、Cチームの後ろからマチルダが……』

「後ろから、だと?」

 

冷泉の平静な声を聞きながら、みほは悟った。背後を取られたのか、と。どのような形で隠れていたのかはわからないが、撃たれたということは、正面からは見えなくても後ろからは丸見えだったのかもしれない。

詳しい状況は分からないが、明確に分かっていることは一つだけあった。

 

大洗女子は、貴重な戦力を一つ失ったのだ。

 

『あ!マチルダが退いていきます!』

『くそー!こうなったら敵討ちだー!』

『桂里奈ちゃん、こっちもいっちゃえー!』

『あいー!』

 

勢い良く走りだした二両により、状況は先ほどとは逆転した。

逃げる聖グロと追う大洗。

チャーチルを釘付けにするために撃ち合っている四号戦車は助けにいけない。ゆえにみほは傍観するしかない。

 

その時、不意に無線が繋がった。

 

『おーいこちら生徒会チームだけど』

『あ、すいません!今Cチームが撃破されてしまって……できればBチーム達の援護に向かってほしいんですけど……』

『あー、それはいいけどさー』

 

含みのある言い方に、みほは首を傾げた。

何かあったのだろうか。通信が来たということは、生徒会チームは無事に逃げ切れたということのはずだが。

 

疑問符を浮かべるみほは、しかし次の瞬間。角谷の一言により顔色を変えることになる。

 

『さっきまでこっちに来てた戦車が、そっちに向かってったけどー』

「―――――――」

 

頭の中で何かが鳴った。それはバラバラになっていた歯車が、しっかりと噛み合う音に似ていた。

 

「っダメ!!追いかけーーーーー」

「一歩、遅かったわね」

 

金髪青眼の隊長は、優雅に笑った。

 

ドン、と遠くの方で重い音がした。身体の芯に響くような、まるで大太鼓を叩いたような音。

そしてそれは、みほもよく知っている音。

すべてが遅かったことを、みほは思い知らされた。

 

『大洗女子学園、M3リー撃破!!』

 

響くアナウンスに、四号戦車の車内は更なる動揺に包まれた。

ここまでピンチこそあれど、まともな被害を出していなかった大洗女子学園。機動力を活かした作戦で試合を優位に進めていたはずの彼女たちは、この短時間で二両もの戦車を失ったのだ。

全員に等しく浮かべられた疑問符。その中でみほだけが、全てを理解していた。

 

「……やられた」

「ど、どうゆうことですか!?」

 

――――作戦を逆用された。

みほ達は相手を罠にかけたと思っていたが、その実罠にかけられていたのは自分たちだったのだ。

 

「私たちがやろうとしてたことを、そっくりそのままやられたみたい…」

 

相手が孤立したところを一気に囲い込み、瞬間的に戦力を集中させて、相手に何もさせないまま撃破するというのがこそこそ作戦。

いわばそれは、一頭の牛を群れて狩る肉食動物のような用兵である。

だが相手からすればそれはどう見えるか。餌を垂らしたところに、魚が一息に群がってくるようなものではないのだろうか。

こまごまとした魚を銛で突くのは困難である。追っても追ってもすばしっこく逃げられてしまう。しかし餌で寄ってきたところを網で掬い取るならば、これほど簡単なことはない。なんせ自分から追いかけなくとも、向こうから近づいてきてくれるし、なにより一回で大量に取れるのだから。

 

最終的な着地点は少し違うが、それはこそこそ作戦と同質の作戦だった。

 

「機動力で勝る相手は、一か所にまとめて撃破するのが定石。私たちは相手を釣ったつもりが、知らない間に釣られてたのかも」

「えぇーー!?」

 

巧妙かつ迅速。誰の頭から出てきた作戦なのかは明確。今目の前にいるチャーチルに乗っている、金髪青眼の隊長だろう。そのこと自体は、彼女の実力的に驚くことではない。注目すべきは、聖グロリアーナの選手たちが隊長の指揮なしで、この作戦を実行したということ。一流の脚本家が書いたシナリオを、忠実に演じることができる役者が聖グロには揃っているのだ。

みほとしては、地力の違いを見せつけられたような気分である。

 

「…………この感じ」

 

しかしこの時、みほにはもっと別の感情が芽生えていた。

 

相手の作戦を読み切り、巧みにそれを利用する戦術の腕。敵味方双方の動きを統率してしまえる大局的な視点。そして何より、相手に上手くいっていると思わせておいて、突如逆転の一手を放ってくる作戦指揮。

金髪青眼の隊長に、みほはとある人物の姿がピッタリと重なって見えた。

 

(お兄ちゃんと同じ………?)

 

 

「―――み殿!西住殿!」

「あ、はい!なに?」

「なに?じゃないよ!」

「相手の戦車が―――」

「こっちに向かってきてるぞ」

 

え?とみほは正面を見やった。するとそこには、意気揚々と猛進してくるチャーチルの姿があった。状況を好機とみて、一気に試合を決めるつもりなのだろう。っていうか冷静に考えている場合じゃなくて。

 

「こ、後進!!」

 

四号戦車は十字路に入り込んで、チャーチルの射線から逃れた。そのまま転回して、一息に走り去っていく。

 

「どうしたの?なんかボーっとしてたけど……」

「ご、ごめんごめん。もう大丈夫だから」

「そう?ならいいけど。っていうかさっきから通信がめちゃくちゃ入ってきてるんだけどっ」

『おい西住!!これからどうするつもりだ!?作戦は失敗してるぞ!!』

 

あぁうん、とみほは曖昧な表情になった。

言われなくても河嶋の声が、鼓膜を痛いくらいに叩いていた。

 

どうするか。その問いに対する答えを、みほは持っていなかった。より正確に言うならば、河嶋の期待に沿うような答えを持っていなかった。

こそこそ作戦が失敗した時点で、みほにはもう出せる手札がない。

この状況を打破するための作戦は、それこそいくらでもあるのだろう。だがそれは机の上に書いた場合である。いま、この現実を条件として篩にかけたとき、そこに残るものは何もない。

 

戦車が二両減った瞬間、みほは戦術的に大きな枷をかけられたのだ。

 

「………こそこそ作戦は中止します。下手に連携しようとすると、また逆用されてしまうかもしれません」

『ならどうするつもりだっ?』

 

うぐっ、とみほはその言葉を口にするのに少しばかりの勇気を必要とした。

頭の中で反芻してみて、あまりにも無責任のような気がしたのだ。しかし言わないわけにもいかない。みほの直感が正しければ、おそらく最も有効な作戦はこれしかない。

やや間があって、みほは一息に、それを音にした。

 

「基本は単騎行動で、まとまらないようにバラバラに動きつつ……自由に戦って、相手を倒してください!」

『――――――なにぃ!?』

 

人、それを行き当たりばったりという。

 

 

 

 

 

そこからは一進一退、とは言えない戦いが繰り広げられた。追い込まれた鼠が、必死に猫を噛もうとしては失敗し、捕食されないように爪を避けてはまた噛もうとする……そんな戦いだった。

 

西住みほの指示によって全車が有機的に連携して動くことがなくなった大洗女子は、単騎での戦闘に従事することになる。その結果は、それはひどいものだった。

大洗女子学園は戦車道を初めて数週間の素人集団であり、まともな走行訓練を行っていない。ゆえにその動きは、拙いと言わざるを得ない。

加えて言うのなら、大洗女子には圧倒的に経験値が足りない。単騎で動くということは、独自に思考し、状況を判断する力が求められる。そのために必要なものを、彼女たちは備えていなかった。

 

結論から言うと、大洗女子は聖グロリア―ナに手酷く追い回された。散々に。

こそこそ作戦を中止してからの数十分、彼女たちに出来たことは「逃げる、逃げる、時々撃つ、そして逃げる」のみ。戦車撃破への道は、果てしなく遠かった。

ある者は作戦の失敗を悟った。

 

西住みほの名誉のために言うが、彼女の決断は、決して思考放棄の結果ではない。寧ろ彼女の中に閃光の如く湧いた、とある考えによるものだった。

彼女はそれを黙して語らず、そして誰も知る由のないことではあったが、それはこの場において実は最善の策であった。

ただ不幸は、僅かな勝機を掴むだけの力を大洗女子が持っていなかったことだろう。

………ただ一両を除いて。

 

 

「――――寄せて!!」

 

車長の指示を受けて、四号戦車は平行して走っていたチャーチルの横腹に体当たりをする形で密着した。四号の車体につっかえて、チャーチルの砲身はあと僅かというところで四号を捉えることができない。

ギリ、ギリ、ギリ、と鉄同士が擦れ合う音が奏でられ、火花が散る。

重量で勝る相手に一歩も退かず、四号は長い直線道路で鍔迫り合いを演じる。

 

 

荒野地帯、そして大洗町と二つの場所を跨いで行われた初心者集団VS戦車道強豪校の戦いは、最初から結果が見えた試合であった。

戦車の性能、選手個人個人の技量、経験値。勝敗を分かつ要因、全てにおいて上をいく聖グロリア―ナの有利は疑いようもない。

確かに、部分部分で履帯を破壊される、戦車一両が瀕死になるなどの被害は出ている。だが、総合的に見て、どちらが相手を上回っていたかと言われれば、やはり聖グロリア―ナなのである。

大洗女子の作戦を巧みに利用し、戦車二両を立て続けに撃破した後、聖グロリア―ナは散り散りになった残りの戦車を連携して追い詰めていく。大洗女子の策、その全てを呑み込んで。

聖グロリア―ナの攻撃に対し、無秩序に逃走し、徐々に逃げ場を失っていく大洗女子の姿に、観客は彼女たちの敗北を疑わなかった。

 

―――それを覆したのが、たった一人の例外……西住みほであった。

 

市街地の特性を上手く利用した機動でマチルダを一両撃破し、連携の一角を崩すと、そのまま一騎討ちを決行。西の最大流派、その直系の実力を示すかのようにマチルダをもう一両撃破した。 

戦車乗りとして類い稀な才覚の片鱗を見せる活躍。それに鼓舞されるようにして、他の選手もまた奮起した。

執拗な追跡を受けていた八九式が、相手の一瞬の隙を突き、最初の一合で集中砲火を浴びて瀕死状態だったマチルダを一両撃破した。動きが鈍っているところを、背後から一突きしたのだ。八九式の攻撃力がいかに貧弱であろうと、吹けば消し飛ぶ程の体力しかないマチルダならば絶対的に倒せない相手ではなかった。

しかし返す刀で砲火を浴びた八九式は一矢報いることなく撃破される。

 

これにより、大洗女子学園と聖グロリア―ナ女学院の数が並ぶ。

最早勝負の行方は誰にもわからず、すべては今鍔迫り合いを演じている二両の戦車に委ねられた。

 

 

「――――減速!」

「加速」

 

身を押し付け合っていた二両は、一方が後ろへとズレ、もう一方が前へと足を進めたことで大きな隙間を生んだ。

背後を取る形となった四号は、間髪を入れずに主砲を発射。しかし前に出たチャーチルがそれを読んでいたかのように右にズレたことで、攻撃は不発。

返礼とばかりに放たれた弾丸を、これまた四号戦車がギリギリで舵を切ったために側面を擦るだけで凌ぐ。

 

「機動力の低いチャーチルでここまで食い下がるなんて……」

「やっぱり、只者じゃないわね。先の作戦を立てたのも貴方かしら?」

 

知らず、二人は思いを同じくしていた。

もはや一撃必倒の至近距離で繰り広げられる幾重もの攻防は、さながら達人同士の剣劇を思わせる。お互いに刀を突きつけ、刹那でも気を緩めれば即座に致命傷を負う。そんな緊迫した空気が両者を包んでいく。

 

そんな中にあって、苦しいのは西住みほの方であった。

一見、緩急をつけた猛攻で間断なくチャーチルを追い立てているようだが、その実みほは焦っていた。

理由は言わずもがな。乗員個人の実力差がモロに影響し始めていたのである。

これは当然の問題であった。元々初めてまともな戦闘を経験する者が大半。緊張感による疲労もピークを迎えており、みほがその高い実力でカバーしているとはいえ、いつまでも誤魔化せるものではない。

冷泉の操縦技術があとほんの少しでも拙ければ、今頃みほ達は白旗を挙げていただろう。

 

苛烈な攻めは、余裕のなさの表れ。

そして逆に言えば、いまだ防御からの反撃に徹しているチャーチルには、相手の攻撃を受けるだけの余裕があるということ。

その分だけ、みほ達は不利であった。

 

「なんとか切り崩さないと……」

 

戦闘に限界を感じ、短期決着を望むみほ。

攻撃的な意志は最高潮に達し、思考ベクトルも一方向に定められたその瞬間。

 

「そろそろかしらね」

 

金髪青眼の隊長、ダージリンもまた、次の一合が勝負所であることを感じ取り、指示を出す。

 

事態は動いた。

今まで四号から離れなかったチャーチルが突如として停止したのだ。これにより彼我の距離が一気に開く。

みほは直感した――――ここしかない。

四号戦車は転回し、長い一本道で両者は対峙した。

 

「冷泉さん、真正面から突撃すると見せかけて左から背後に回り込みます。できますか?」

「問題ない」

「五十鈴さん、砲塔を右30度で固定しておいてください」

「わ、わかりました」

「それと―――――」

 

キューポラから身を乗り出して指揮するみほには、視界の制限はない。青い空も白い雲も、これから挑む緑の戦車もよく見える。

 

みほは大きく深呼吸した。威風堂々たる佇まいのあの戦車相手に、そうそうチャンスは転がってこない。―――――なんとしてもここで仕留める。

 

四号のエンジンが唸りを上げる。長い直線は、加速するには十分な距離がある。あっという間にスピードが乗る四号戦車。この速さで側面に回り込めば、砲塔の旋回は追いつかない。

後はそれまでに、撃破されないこと。

 

「右!」

 

当然のように、そうはさせまいと相手は撃ってくる。

しかし放たれた弾丸を、みほは天性の感覚で回避。すれ違っていった弾は家屋に突き刺さる。

 

一度でも回避してしまえば、装填までの時間は絶対に撃たれない。図らず訪れた好機に四号がすかさず喰いつく。ギアをマックスまで上げ、最高速度でチャーチルへと吶喊していく。

 

―――――いける。

 

みほは確信した。そして同時に、ダージリンもまた。

 

「終わりね」

 

勝利を確信していた。

 

横道から突如として、マチルダが四号の進路上に割って入ったのだ。

その瞬間、みほの時間は停止した。そして思考の歯車が高速で回転する。

 

なるほど、実に有効なカードの切り方である。所在を掴めないマチルダがどうしてるか気がかりだったが、こんなところに伏せていたとは。

こちらが短期決戦を挑むことを読み、それを利用する形で無茶な攻めを誘発させる。この場所でチャーチルを倒そうと思えば、選択肢は自然と限られる。ならば後は、適切な場所にマチルダを配置しておけばいい。

 

このタイミング、この間合い、最早回避はできない。

マチルダの砲火の餌食となるか、マチルダに止められたところをチャーチルに射貫かれるか。不名誉な二択しかない―――――はずだった。

 

「――――!」

 

瞬間、四号戦車は極短の弧を描くようにして、マチルダをかわした。

最短距離を掠めるようにして、最小限の動きで回避不能のはずだった罠を掻い潜り、四号戦車はチャーチルへと肉薄していく。

 

「―――――あのタイミングでかわした?」

 

バカな、とダージリンは目を見張った。いや、ダージリンだけではない。その瞬間を見ていた人すべてが、ダージリンと同様の感情に襲われていた。

唯一、四号戦車の乗員と、とある一人の男性を除いて。

 

簡単な話である。「見てから避ける」で間に合わないのなら、「見る前から避けていればいい」。最初からマチルダが出てくるという心構えでいれば、不可避の罠を回避できる。

とどのつまり西住みほは、

 

「読んでいた、ということかしら」

 

本人は胸を張ってそう言うことはないだろう。なぜなら「そういうこともあるんじゃないかなぁ」くらいの、予測というよりは漠然とした予感だったから。とはいえそれを事前に乗員に伝えていたのは間違いないことであるし、それによりみほはダージリンの罠を食い破った。よってこれは偶然ではない。

 

「ここまで詰めれば………!」

 

チャーチルは撃てない。

ここで撃って外せば、チャーチルは四号に対して打つ手がなくなる。装填にかかる時間で、四号がチャーチルの背後に回りこめるからだ。

この勝負所で、そんなリスクを―――――

 

「アッサム、撃ち抜きなさい」

「Yes」

 

冒すのか、と今度はみほが目を見張った。

なぜ。近距離で、しかも高速で動いている戦車相手。外す確率の方が高い。いやもっと言うなら、回り込んできたところを撃つ方が確実なはず。こちらだってずっと動き続けるわけではない。射撃の際には、必ず静止する。それを狙ったほうが……

 

「安全よ。でもね、私たちは栄光ある聖グロリア―ナ」

「――――ッ!?」

 

チャーチルの砲身が、まるで四号と糸で繋がってるように流麗に動く。一撃で四号を倒す雷の槍は、確かにみほ達を捉えようとしていた。

 

(回避―――――いや、)

 

 

 

 

「相手の思惑に乗ったままなんて、誇り(プライド)が許さない」

 

 

 

 

一息、迷いなく砲弾が発射される寸前にみほは悟った。

 

――――これは、かわせない。

 

みほは長年の経験で、大体砲撃のタイミングが分かる。もちろん条件はあるし、常にそういうわけではないが、少なくともこの状況ではそれができていた。。

ゆえに、一歩早く、みほは結末を知る。すなわち、チャーチルの一撃によって、四号戦車は倒されるという未来を。

敗北という終わりを。

 

「―――――――参上―!!」

 

しかしみほは、未だ勝利の女神から見放されてはいなかった。

この場において手段がないのなら、場外から手段を持ってくればいい。

 

聖グロリア―ナにマチルダという伏兵がいるように。

大洗女子にもまだ、札は一枚残っていた。

生徒会チームが駆る、38tという札が。

 

「撃てーーーーーってなああああ!!??」

 

そして38t()は二秒で破れた。

路地から飛び出し、チャーチルを狙ったつもりだったのだろうが、運悪く射線上に入ってしまい、結果的に四号が受けるはずだった一撃を肩代わりしたのだ。

紛うことなく奇跡である。タイミング的に。

 

「砲塔旋回!!オレンジペコ!装填!!」

「今です!」

 

だがそれが、希望への活路となる。

四号戦車は砲撃の威力を抑えきれず吹っ飛んでいく軽戦車38tの脇を抜ける。

もはや四号の前に、立ち塞がる壁はない。火花を散らし、履帯を削るようなドリフト走行でチャーチルの背後を取る。

 

――――――とった。

 

照準の位置は完璧。後は砲撃の合図を五十鈴に送るだけでいい。いかなチャーチルとてゼロ距離の攻撃を耐えることはできない。白旗を挙げることに、疑いはない。

 

後はマチルダが一両残っているが、既に三両のマチルダを単騎で倒しているみほ達にとっては脅威となる相手ではない。金髪青眼の隊長という絶対的な存在を支柱としたチームゆえに、このチャーチルさえ倒せば勝ちも同然。

 

「撃――――――――――」

 

事実上の勝利を目前に、みほは万感の思いと共に一息で合図を送ろうとした。

 

 

―――――――ところでみほは、とても眼がいい。

 

それは単純な視力の話ではなく、動体視力、周辺視野、間接視野、鳥瞰視点といったような類の話である。高速で動く物を止まってるように見ることができるし、視界は180度まで広がり、時に上空から見下ろすように状況を把握することができる。

みほは、常人の倍ほどの情報量を視覚から得ており、それは戦車道において、そして戦車乗り、隊長として稀有な才能であった。

 

だが「狡兎死して走狗煮らる」というように、優れた力が常に幸福な結果を招くというわけではない。

優れた眼は、時として見たくないものまで見てしまうのだから。

だから、この時起きたことは、きっと悲劇なのだろう。

 

「―――――――――――――――あ」

 

みほはそれを、スローモーションのように見ていた。

広い道、吹き飛ばされた38t。

止まることなくゴロゴロ転がって、行きつく先は何処か。

ここは大洗町、学園艦の寄港地、()に面した町。()()()()()町。

 

 

 

 

 

水に落ちていく戦車。

 

それは西住みほのーーーーーーーーーーー悪夢(トラウマ)

 




最終スコア 
大洗女子学園 三両撃破

聖グロリア―ナ女学院 五両撃破

うん?原作より結果悪くね?
きっと全部オリ主ってやつが悪いんだな。(2話くらいまともに出番ない)


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第12話 「ここから始めましょう」

約三週間ぶりの投稿。小まめに投稿とはいったい。

西住殿のトラウマに向き合う回。きっと色々なSSで色々な解釈がされていると思いますが、本作はこんな感じです。



目の前で、戦車たちが牽引されていく。

煤塗れになり、装甲が剥がれ、砲塔は萎びた花みたいに折れていて。

試合が始まる前の綺麗に磨かれた姿とは一転して、ボロボロになってしまった戦車たち。

奮戦の証といえば誇らしいものに思えるが、それはきっと試合に勝った時にだけ許される言葉なのだろう。

西住みほはそんなことを考えていた。ここまで頑張ってくれたのだから、それに応えたかった。こんなになるまで戦った意味はあったのだと、それを証明したかった。

 

「…………ごめんね」

 

か細いみほの呟きは、誰の耳に入ることもなく空に溶けていく。

謝罪に意味はなかったが、それでもみほは言わずにもいられなかった。

誰に対して、何に対しての謝罪なのか、それすらも分からないまま。

 

「…………負けちゃったね」

「……そうですね」

 

武部と五十鈴は、茫然とした様子でそう言った。

秋山と冷泉も、二人と同じように運ばれていった戦車たちを眺めやっている。

 

負けた。そう、大洗女子学園は負けた。

全霊をかけて試合に臨み、最大限の努力と知恵を絞って、余すことなく全力を発揮して。

そして敗北した。

どう言葉を並べても、繕うことのできない結果がそこにあり、それはみほ達の心に消化できない異物となって沈殿していく。

 

悔しいのか、悲しいのか、疲れたのか。

いろいろな感情がぐちゃぐちゃに混ぜられて、もはやよくわからない。

ただ漠然と、暗澹とした気分がみほ達を包んでいた。

 

「………私が、最後にちゃんと合図できてれば……」

 

みほの口から自然と、そんな言葉が漏れた。

その時全員の頭に浮かび上がったのは、試合終了直前の一合のことであった。

 

仕掛けられた罠を掻い潜り、チャーチルの背後を取るまでに肉薄した四号戦車は、撃てば勝てるという絶好の機会を得ることに成功し、そのままそのチャンスを活かせないまま白旗を挙げることになった。

 

その理由は明白だった。車長のみほの合図で、五十鈴が砲撃をするという手筈になっていたのだが、その肝心のみほの合図が遅れたからだ。

送れたといっても、ほんの僅かなもの。本来なら、ミスにはなり得ないものだったが、相手は全国屈指の強豪、聖グロリア―ナ女学院。彼女たち相手には、些細なミスすら致命傷となる。

結果チャーチルの装填が間に合ってしまい、ほぼ同時での砲撃になった。そしてタイミングを逸した四号の砲撃は、チャーチルの装甲に上手くいなされてしまい、逆にチャーチルの砲撃は四号の装甲を簡単に貫いた。

 

勝利は目前だった。みんな初心者ながら、必死に頑張って、戦って、勝とうと必死にチャンスを切り拓いて。それをみほが―――――

 

「私のせいで、負けちゃってごめん……私はまた、()()()()()()()ーーー」

「そ、そんなことありません!西住殿がいなかったら、それこそ私たちは聖グロにボロ負けだったと思います!それを西住殿がいたから、後一歩のところまで追いつめることができたんです!」

「そうだよ!それに負けたのに誰のせいもないよ!ウチらはチームなんだから!」

 

秋山と武部の声が、みほの鼓膜を激しく打った。

五十鈴と冷泉も、二人と同じ気持ちのようだった。

 

「誰にだってミスはある。気にするな」

「みほさん、これは練習試合ですから、そんなに気負う事はありません。神栖先生も仰っていたじゃないですか、『楽しんでこい』って」

 

五十鈴はみほの手を取って、優しく微笑んだ。一緒に生徒会に立ち向かってくれた時と同じ、暖かみに溢れた手だった。

 

「私は楽しかったです……みほさんと、皆さんと一緒に戦車道ができて。撃って、撃たれて、追いかけて、追いかけられて。一秒一秒に夢中になって。華道とは違う、心が赤熱するような気持ちでした。あっという間でしたけど、ほんとうに、すごく楽しかったです」

 

頬を朱に染めた五十鈴の瞳は、きらきらと輝いていた。

それはいつか、遠い過去にみほがよく見た表情だった。

 

「私は、それだけでいいと思います」

「私も五十鈴殿と同じ気持ちです!」

「うんうん!恋愛もそうだよね!失恋しても最後にいい思い出になるなら、きっとそれでいいんだよ!」

「………恋人ができたこともないくせによく言う」

 

麻子ー!!とツッコミを入れる武部に、冷泉は相変わらずのぼーっとした顔で。

それを見ていた五十鈴と秋山が笑う。

 

(………みんな)

 

その声々はみほの中にゆっくりと浸透していく。

それはさながら曇天の中から差し込みはじめる陽光のようで。

五十鈴も、武部も、秋山も、冷泉も表情を明るくして、みほもそれにつられてほんの僅かに笑った。暗澹とした気持ちが少し、吹き飛んでいった気持ちだった。

 

 

「貴女が、大洗女子の隊長さん?」

 

凛とした声がみほに向かってかけられたのは、そんな時だった。

 

反射的に振り向く。そこには三人の女子がいた。

濃紺のセーターにブルーのスカート。決して堅苦しい意匠ではないが、それでも不思議と気品に満ちた制服に身を包んだ金とオレンジの髪色をした女子たち。

 

「は、はい」

「そう、良かった」

 

同じ声色。みほはさきほどの声の主が、三人の内、真ん中に立つ女子だったことを悟った。

 

試合前にも一度見たが、改めて見る。

なんというか、高貴、と言う言葉がぴったりと当てはまる人だった。日の光を反射して輝く艶のある金色の髪、宝石みたいに綺麗な青い眼を持っていて、職人が技を凝らして作りあげた芸術品のような見た目をしている。

一挙手一投足、立ち振る舞いに至るまで上品さが満ちていて、五十鈴とは別ベクトルの淑やかさがあり、五十鈴が『和の令嬢』なら彼女は『洋の令嬢』といった風体である。

 

みほも今まで色々な人を見てきたが、その中でも指折りの美少女である。

どれくらい顔が整っているかというと、見ているだけで息が漏れ、話しているだけで赤面し、対面しているだけで緊張してしまうくらいである。

 

「まずはお礼を。今日は楽しい試合をありがとう。とてもいい経験になりましたわ」

「い、いえっ。その、こちらこそありがとうございました」

 

美少女は声まで美しいのか、とみほは感嘆した。もはや嫉妬する気にもなれない。

慌てて腰を折ったみほに、軽やかに微笑むところとか同じ高校生とは思えない貫禄がある。

 

「最初は出来て半月のチームと聞いていたのだけど、とてもそうは見えなかったわ。よほど隊長さんの腕がいいのね」

「そ、そんな……私はなにも……」

 

慌てて謙遜するみほを、やはり目の前の人は面白そうに眺めていた。

 

「そうかしら?たしかに三突、八九式あたりは高いパフォーマンスを見せていたけれど、それもほんの僅か。申し訳ないけれど、少し突いただけで呆気なく崩れたわ。でもそんな中にあって、貴女の四号は違った……貴女たちは最後まで私たちの脅威だったわ」

 

それだけでも、貴女の実力を証明するのに余りある、と彼女は笑った。

花が咲くような笑みではなく、自身の論理を証明した数学者のような、そんな笑みだった。

 

みほとしては、頬が赤熱するような気持ちである。嬉しいようで、恥ずかしいようで、照れ臭いようで、そして………

とにかく色々な感情がいっぺんに押し寄せてくるような感覚だった。

 

「私は聖グロリア―ナ女学院戦車道の隊長、ダージリン。そちらは?」

 

ダージリン、とはまた日本人離れした響きである。しかし美麗な西洋人形のような見た目の彼女には、不思議とよく似合う名前であった。しかし流暢な日本語を話しているから日本人だと思っていたが、いよいよ国籍が不明である。

 

―――というか、そうじゃなくて。

 

「に、西住みほです…」

「西住?」

 

ダージリンのリアクションに、みほはたじろいだ。みほの名前ではなく、姓に反応を示す人は大勢いる。そしてそれは、だいたいが同じ理由であった。

 

「もしかして西住流の方かしら」

「う、あの、その……」

 

西住流。その名前は、今のみほにとって気軽に口にできるものではなかった。

否定はできない。だがだからといって肯定もできない。そんな曖昧なとこに立っているみほは、言葉を濁すしかない。

 

「そういえば、どことなく()()()()に似ていますわね。もしかして姉妹かしら。お姉さんはお元気で?」

「………はい」

 

みほは目を伏せて頷いた。またしても、否が応にも過去を思い出させる言葉だった。

 

「私も過去に何度か対戦させて頂きましたの。残念ながら一度も勝ったことはありませんけどね。まほさんはとても優秀な戦車乗りですし、同じ戦車道を嗜む者として尊敬もしています―――」

 

相手に悪気はない。寧ろ当然の世間話だ。

だから変に気分を悪くさせるような反応をしてはいけない。

しかしみほには、曖昧に笑うことしかできなかった。

それが今のみほにできる、最大限繕ったリアクションだった。

 

「けれど、まほさんと戦った数度の戦いよりも、今日の練習試合のほうがずっと楽しかったわ」

「え―――――――――――――?」

 

みほは引き付けられるようにダージリンを見た。

そこには端正な顔を、華麗に綻ばせている金髪青眼がいた

 

「まほさんとは全然違う戦車道。まだまだ粗削りで発展途上だけれど―――惹きつけられる魅力がある。人生で二人目よ、私をこんな気持ちにさせたのは。()()()()()()()()()()()()()()

 

最後の言葉が、みほには聞き取れなかった。

聞き返そうとした瞬間、ダージリンと名乗った少女は、手を差し出した。戦車道の選手とは思えない程傷一つない、白く綺麗な手だった。

みほはそれを、呆然と見つめる。

そしてややあって、差し出された手と金髪青眼の顔を、交互に見やった。

そんな様子のみほを見てもなお、ダージリンは言う。

 

「今日という日に、貴女と逢えて良かった。叶う事なら、次は全国の頂点をかけて戦いましょう――――――今度はお互い、持てる力の全てを賭して」

 

青い瞳を壮烈に輝かせ、ダージリンは笑った。獅子のように獰猛で、女神(アテナ)のように美しい、名門聖グロリア―ナのトップに相応しい、覇気に満ちた笑みだった。

 

―――――持てる力の全てを賭して。

 

その言葉の意味を、みほは正確に理解していた。ダージリンは気づいていたのだろう、最後の一騎打ちで見せたみほの迷いを。

 

申し訳ないという気持ちはあった。

だがそれでも。

 

僅かな葛藤の後、みほは差し出された手を掴む。

柔らかい感触。でもその芯には、燃えるような熱がある。

これが神奈川の雄、聖グロリア―ナ女学院の隊長、ダージリン。

みほは触れ合う右手から、言葉で語られる以上のものを感じ取っていた。

 

みほにはこの手を掴み返す資格は、ないのかもしれない。

けれど『貴女に逢えて良かった』なんて、『戦えて楽しかった』なんて言われたのは、初めてだったから。それが嬉しかったから。

 

だから今だけは、とみほは思った。

自分勝手で中途半端な自分を全部抑えつけて、その言葉に応えたかった。

 

二人の間に繋がる握手(アーチ)

それはきっと、戦車道において最も大切な事。そして人生という道において、掛け替えのない宝物。みほがそれを知るのは、もう少しだけ先の話だった。

 

 

「――――――ところで話は変わるのだけれど」

 

 

はえっ?とみほは間の抜けた声を出してしまった。

え、あの、あれ。さっきまでの楽器みたいな綺麗な声はどこにいったのだろうか。急に二段階くらい低くなったというか、鋭くなったような。顔も笑ってはいるのだけど、目が笑ってないし……とにかく底知れぬ圧を放っている気が……

 

「大洗女子学園は戦車道の講師を招いた、とお聞きしたのですけど」

「え、あ、はい。そうですけど……」

 

どこからそんな情報を仕入れたのだろうか、と考えたところで、みほは聖グロリア―ナに練習試合の申し込みをしたのが兄だったことを思い出した。

 

「その方は今どちらにいらっしゃるのでしょうか?できればご挨拶を……」

「お兄、じゃない神栖先生にですか……?」

 

随分と礼儀正しい人たちである。聖グロリア―ナはお嬢様学校と聞いているし、やはりそのあたりの教育がしっかりと行き届いているのだろうか。

 

みほはくるり、と辺りを見渡した。

しかしその目に兄の姿が映ることはなかった。

試合中は観客席の方にいただろうが、今となってはどこにいるか知れない。

あの兄、普段はお地蔵様みたいに腰が重いが、いざ動くとなるとタンポポの綿毛のようにあっという間に何処かへ行く。動き回られると発見はかなり困難である。

 

「えと、誰か見なかった?」

「私は見てない」

「私も見てないなぁ」

「先ほどそれらしき匂いはしてましたけど……」

「さっき戦車運搬の人達と話しているのを見ました!」

 

……どうしたものか。秋山の言う通りなら、そんなに遠くにはいないはずだが。闇雲に探しに行くよりは、電話した方が早そうである。

 

「武部さん、ちょっと神栖先生に電話を―――」

「その必要はない」

 

びくっ、とみほの両肩が跳ね上がった。というか、おそらく武部たちも同じだっただろう。

それはそうだ。音もなく背後に忍び寄られ、いきなり声をかけられたら誰だってそうなるだろう。

 

みほは眉を八の字にして、件の人物に目をやった。

そこにはイジワル気に笑う兄がいた。みほの視線にもどこ吹く風で、約30センチ高いところからみほ達を見下ろしている。

みほは兄の雰囲気から、驚かすつもりで後ろから声をかけてきたことを悟った。

 

「何か用か?」

 

何でもない風に聞いてくる兄に腹が立つみほであった。

聖グロの人達がいなければ、『みほパンチ』の一つでもお見舞いしてやったのに。

 

「私たちじゃなくて、聖グロリア―ナの隊長さんが挨拶したいって――――――――――」

 

みほは視線をダージリンに移した………はずだったのだが、そこに金髪青眼の姿はなかった。

あれ?と首を傾げて、キョロキョロと辺りを見渡す。しかし見当たらない。

何処に行ったのだろうか、と考えたところで、ふと声がした。

 

「ちょっとダージリン、貴女ここに来てヘタレてどうするの」

「う、うるさいわねっ。ヘタレてなんかいないわよ、これはそう、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ気持ちの準備をしているだけ。別に隠れてるとか直視できないとか、断じてそんなんじゃないわ」

 

もう一人の金髪の持ち主、その背後に誰がどう見ても分かる形で、ダージリンは隠れていた。

ひょっこり顔だけを覗かしてこちらを伺うその姿は、まるで小動物のようで、先ほどまでのカリスマに溢れた姿は木っ端みじんに砕けてどこかに吹き飛んでいった。

 

「どれが隊長?」

「えーと……」

 

みほは返答に詰まった。一番それらしく見えないのが隊長です、とは言えなかった。さっきまでのダージリンを知っているから余計に。

というか最早みほが訊きたいくらいであった。あの人、本当にダージリンなのだろうか。

 

「ヘタレてないなら早く行きなさい。私が聖グロリア―ナの隊長として認知されてもいいの?」

「そんなのダメよ。なんのために今日頑張ったと思っているの」

「なら行きなさいって」

「こんな格言を知ってる?『急いては事を仕損じる』」

 

何を話しているのかは、みほには聞こえない。しかしなんとなく、楽しい会話をしている感じじゃないな、と思った。主に黒いリボンをつけている金髪の人の表情的に。

結局二十秒くらい、こそこそと話している聖グロの人を見ることなったのだが、やがてドンと突き出される形でダージリンがこちらに歩みを進めてきた。

 

はわわ、みたいな表情をしているあたり、自分のタイミングで来た感じではなさそうである。

渡里を上目遣いで伺い、目を伏せ、また伺い、目を伏せるを三回ほど繰りかえす。

そしてコホン、と可愛く息を整えると、

 

「初めまして。聖グロリア―ナ女学院戦車道の隊長をしています、ダージリンと申します」

「はい、知ってますよ」

「ほ、本当ですか!?」

「先日お電話させてもらいましたから」

「そ、そうですよね……」

 

何だろうこの会話、とみほは首を傾げた。

言ってこと自体は普通なのだが、なんとなくおかしな気がする。特に、ダージリンの反応が。

一つ一つの言葉に対してオーバーリアクションというか過敏というか。

 

みほは会話の邪魔をしないように下がり、二人の会話を観察してみた。

 

渡里が何か言う。すると頬を紅潮させたダージリンが慌てた様子で両手をわたわたと忙しなく動かし、言葉を紡ぐ。

渡里は笑ってそれに応じ、ダージリンに右手を差し出した。

握手だろうか、とみほが思った矢先、ダージリンは両手でその右手を握る。握手ではなく、胸に抱え込む形。両者の距離が一気に縮まる。ダージリンの制服を下から押し上げる確かな胸の膨らみが、渡里に当たりそうなくらいにまで。

目を輝かせ、ついに顔全体を真っ赤にするダージリンは、興奮した様子で渡里との距離を更に詰めていく。

あの、それ以上はあのウチの兄が社会的に不名誉な罪で逮捕されてしまうので止めて頂けませんか。

渡里も分かっているのかジリジリと後退するのだが、その分だけ前進されてしまって一向に距離が開かない。

その間にもマシンガンのように言葉を捲し立てるダージリンに、渡里はなんとか笑いながら受け流しているが結構ギリギリそうである。言ってる間にもう抱き着きそうなくらいまで行ってしまいそうなんだけどあああやめてやめてーーー

 

「すいません、ウチのダージリン様が失礼を」

「はっ!い、いえこっちこそウチのお兄ちゃんがご迷惑をおかけしてます!」

 

あわわ、はわわと事態を見守っていたみほに、横から声をかけてきたのは聖グロもう一人の金髪の持ち主だった。

黒いリボンで豊かな金髪を結っていて、切れ長の瞳から怜悧な印象を受ける彼女は、困った様子で言った。

 

「本当にあの人と逢う日を楽しみにしていたみたいで、昨日からずっとあんな調子だったんです。最初は化けの皮を二十枚くらい着こんでたんですけど、どうもあの人を見た瞬間に全部剥げてしまったみたいで」

「そ、そうなんですか……」

 

そうとしか言えないみほであった。威厳に満ちた姿と今の姿、どちらかが演技というわけではないのだろうけど……そうなると気になるのは、

 

「あの、お兄、じゃない神栖先生とはどういう関係なんでしょうか?」

 

渡里にあるという、ダージリンをあんな風にした理由である。

兄の交友関係は知らないが、以前からの知り合いというわけではないらしいし、何をやったらあんな美少女に会いたがられるのか。

黒いリボンの少女は、苦笑混じりに答えた。

 

「一方通行な関係です。一言で言うのなら、ファンですね」

「――――ふぁん?」

 

なにそれ、とみほは目を丸くした。それは聞いたことのある言葉だが、対象者と被対象者を当てはめると、途端にみほの理解を超える単語になった。

ファン。それは、特定の人物や事象に対する支持者や愛好者のこと。

ダージリンが、神栖渡里の?逆じゃなくて?

 

「あ、あのそれってどういうーーーーーむぐっ」

「意味かは、また今度な」

 

信じられない思いで尋ねようとしたその瞬間、大きな手がみほの口を塞いだ。

同時に嗅ぎ慣れた心地よい香りが、みほの身体を包む。

みほは瞬時に手の持ち主を悟った。

兄がいつの間にかこちらに来ていたのだ。

 

「お兄ちゃん……話終わったの?」

「終わってねぇよ……」

「な、なんか疲れてない…?」

 

エネルギーが持っていかれてる感のある表情だった。

しかし兄は何でもない風に手を振って、

 

「聖グロの人にお呼ばれしたから、ちょっと行ってくる」

「お呼ばれ?」

 

え、とみほは反射的に視線を聖グロの面々へと向けた。

するとそこには、

 

「ちょっとアッサム!アッサム!聞いた!?神栖渡里様がウチに来るって!!早く準備しないと!?オレンジペコ、いい茶葉はまだ残ってたかしら!?粗相があってはいけないから最高級の紅茶を用意しなさい!ああルクリリにも早く教えてあげないと!!きゃーどうしましょう!?神栖渡里様と一緒にお茶が飲めるなんてーーー!」

「ダージリン、落ち着きなさい」

「ちょ、ちょっとダージリン様、あんまり肩を叩かないでください…」

 

 

「………お兄ちゃん、ダージリンさんに何したの?」

「今も昔も何もしてないけど……ま、秘密だな」

 

嘘でしょ、と白い目を送るみほ。

そんなことより、と渡里は便箋を一つ取り出した。

 

「みんなに伝言宜しく。今日はもう皆疲れただろうから、今から自由行動だ。戦車はこっちで学校の方に運んどくからゆっくり休むなり遊ぶなりしといてくれ。ただし学園艦の出港時間は厳守、それまでには必ず乗艦すること。んで、これお使いよろしく。ポストに投函しといて」

 

はい、と渡されるままみほは便箋を受け取った。

そして兄は他に何か言うこともなく、すぐに踵を返して歩き去っていく。

 

みほはそのとき、無意識にその背に手を伸ばしかけている自分に気が付いた。

何をしているのだろうか、自分は。いったい呼び止めて何を言うつもりなのか。それとも何かを言って欲しかったのか。それすらも分かってないくせに。

虚しく空を切った手を、みほは隠すように握った。

 

聖グロの人達はみほに会釈して楚々と歩き去っていく。約一名、スキップしていたが。

みほもまた、武部達の方へと歩みを進めた。

 

「な、なんか凄いもの見ちゃったね……!」

「聖グロのダージリンといえば、常に余裕のある態度を崩さない、優雅な人と聞いてたんですけど……なんか意外でした」

「真逆だったぞ」

「そんな人をあんな風にしてしまうなんて……ますます神栖先生が謎になりましたね」

 

確かに、とみほは頷いた。みほが知らないということは、留学してから大洗女子学園に来るまでの間に何かがあったのだろうけど……兄はそのあたりのことを一度も語ったことがない。兄があの頃と何一つ変わっていなかったから、みほもまた気にしたことはなかった。けれど、いつまでも知らないままではいられないのかもしれない。

 

「それで神栖先生はなんて?」

「あ、今日はもう自由だって……皆にも伝えてこないと」

「じゃあ折角ですし、みほさんに大洗町を案内しましょうか」

「おぉ~いいですね!」

「私はおばぁのとこに行く。顔見せないと叱られる」

 

そして武部達はは歩き始めた。みほもまた、その背中を追いかけるように続く。

 

ずきずきと、ほのかに痛む心を抑えつけるようにして。

 

 

 

 

 

神栖渡里は夜を歩いていた。学園艦の住宅街は陸のそれとほとんど変わらないが、人がたくさんいるところとそうでないところがあるので、街灯と、住宅の窓から漏れる光で明るい道もあれば、月明りだけが頼りの薄暗い道もある。

 

渡里は後者の道を歩いていた。時間は午後九時。大半の人は家に帰っているので、すれ違う人はいない。ただ時折、潮風が渡里の頬を撫でていくだけである。

 

渡里に散歩する趣味はない。ましてや夜なんて尚更。普段なら布団の上で練習メニューを作るか、選手のデータを見たりしている。夜の間は基本的に家から出たくないというのが渡里のポリシーである。

しかしそれを曲げてまで出歩くことにしたのには、当然理由があった。

 

(うーん慣れないことしたからか、ちょっと身体が重いなぁ)

 

戦車道のことで渡里が疲労することはない。三日間くらい徹夜したって、渡里は平然と生活できる。……慣れないことというのは、練習試合の後、聖グロリア―ナ女学院の学園艦にお邪魔した時のことだった。

 

流石はお嬢様学校、というのが率直な感想だった。どこを取っても豪華というか、貴族の住まいのような雰囲気で、とにかく格式が高い感じだった。床に敷かれているカーペットや凝った造りの机など、渡里は思わず「いくらくらいすんだろ」と値段を想像して、一々触るのに気を遣った。一から十までそんな調子だから、肩が凝ってしまったのだ。

 

一応、みほの実家たる西住家(上流階級)で生活していたのだから、ある程度そういったものに耐性はあるし、最低限のマナーもばっちり教育されている。ただ、だからといって実家のようにくつろげるわけでもないわけで。

 

それに加えて招待主たるダージリンという少女は、渡里にとって未知の存在だった。いや、聖グロの生徒はみんな校風に違わぬ瀟洒な人ばかりだから、普段みほや大洗女子のような「ザ・一般人」とばかり話している渡里にとっては全員未体験ゾーンの住人だが、ダージリンはその中でも格別だったのだ。

詳細は省くが、今まで出会ったことのないタイプの少女だった。

知的でユーモラスというか、一言では説明できない独特な性格をしていて、正直見ているだけで面白い。

 

微妙な息苦しさを感じていた渡里も、そんなダージリンの調子に感化されて、最終的には「話してて楽しいなぁ」と思うくらいには良い時間を過ごさせてもらった。

 

ただまぁ、申し訳ないけど、彼女との会話はいつも使わない筋肉を使う感じで、精神的に筋肉痛な気分になってしまって、結構疲れた。

 

楽しさ七割、疲れ三割。渡里の聖グロ訪問は、そんな感じであった。

そんなものだから今日は、布団の上でゆっくりと休みたい気分だったが、これがそうもいかない。

渡里は右手に提げたビニール袋の中を、チラリと覗いた。

そこには二人分の飲み物が行儀よく収まっていた。

 

自分が飲むわけではない。渡里は基本お茶か水があればそれでいいので、コンビニでこういうものを買うことはめったにない。……これを振舞う相手は、別にいるのだ。

 

 

黙々と歩くこと数分、渡里は学園艦の端っこ、海が一望できる場所に辿り着いていた。

住宅街とは並木を挟んだ海側に位置し、遊歩道の下には土手があるこの場所は、おそらく住民の休憩所のような役割をしているのだろう。横長のベンチがいくつか、海に向けられる形で置かれている。散歩しているお爺ちゃんお婆ちゃんが、きっとここに座って世間話に花を咲かせたりしているに違いない。

 

しかし渡里は、わざわざこんなところに休みに来たわけではない。

立ち止まり、辺りを見渡す。

 

すると、夜の色を反射する海が渡里の視界の大半を占拠する中、対照的に明るい色が一つあった。

それは小さな点のようで、ふと目を離すと、幻のように消えてしまいそうなほどに儚い。

色は明るい栗色で、それは渡里がよく知っている色だった。

 

やっぱりな、と渡里はため息交じりに呟いた。

外れてほしい予感ほど、的中するものである。

 

渡里は歩みを進めた。

そして、栗色の点に声をかけた。

 

「こんな時間に出歩くなんて、お兄ちゃん感心しないな」

 

 

 

「そんなに海好きだったのか、お前」

 

不意にかけられた声に、しかしみほは一切動揺しなかった。

ただ漫然と、脊髄反射に近い動きでその方向を見やる。

 

そこに、みほのよく知る人物がいた。

野暮ったいジャージに身を包み、ビニール袋を提げた背の高い男性。

名前を、神栖渡里といった。

 

「お兄ちゃん……」

「昔っから山や川で遊んでるから、山派なのかと思ってたけど、中学高校で変わったのか」

 

そう言いながら、渡里は無遠慮にみほに近づき、すぐ横に腰を下ろした。

土手で横並びに座る成人男性と女子高生。どこかの漫画でありそうな構図だな、とみほは場違いなことを考えていた。

 

「ほらよ、コーヒー牛乳と緑茶、好きな方を選べ」

「なにそのチョイス。……じゃあ緑茶で」

 

兄が無造作に取り出したのは150mlのペットボトル。投げるように渡されて、すっぽりとみほの手に収まる。両手で持つと、ほんのりとした温かさが掌に広がった。

 

「………」

 

そして二人は、ぼーっと海を眺め始めた。

何も言わず、何も語らず。ただ肩を寄せ合って、同じ方向を見つめ続ける。

 

何でここに?とは聞かなかった。兄がここにいる理由を、みほは知っていたから。

いつだってそうなのだ。悲しい時、辛い時、真っ先にみほを見つけて、傍にいてくれる。

まるでみほと渡里の間には見えない糸があって、糸電話みたいにして感情が伝わっているかのように。

 

海を眺めながら、みほは漠然と思っていた。こうしていると、兄が来てくれるんじゃないだろうか、いや、来てしまうんじゃないだろうか、と。

そしてそれは、見事に的中した。

それは喜ぶことなのか、みほには分からなかった。

 

 

「………やっぱり、引きずってたか」

 

 

ぽつり、と漏らした渡里の小さな言葉に。

ドクン、と心臓がひと際大きく鼓動した。

 

「すっかり隠すのも巧くなったな。武部達も気づいてないだろ、多分」

「………お兄ちゃんに隠し事はできないね」

 

兄妹だからな、と薄く笑う兄にみほもまた、上っ面だけの笑みを浮かべた。

お互いの気持ちが分かるというのは、良いことでもあるし悪いことでもあった。

ほんの一瞬だけ、誤魔化してしまおうと考えた自分を、みほは改めた。

他の誰でもない、兄の前だ。もう、逃げることはできない。

きっと、兄も気づいている。今日の練習試合、なぜ最後の最後で、みほが躊躇ったのかを。

ならいっそ、自分から告白すべきだろう。兄だって、それを聞くために来たはずなのだから。

 

みほは、逸る鼓動を必死に抑えて口を開いた。

 

「……お兄ちゃんは、きっと知ってたよね。私がしてしまった、取り返しのつかないこと」

「……去年の、全国大会決勝戦のことか」

 

みほは頷いた。過去の記憶が、映像となって頭の中を駆け巡る。

それは、強い雨の降る日のことだった。

 

「黒森峰女学園とプラウダ高校による決勝戦。圧倒的実力を誇り、決勝まで難なく勝ち上がってきた黒森峰に対し、プラウダは元から地力で劣っていた上に、内部分裂の噂があった。これにより大半の人間は黒森峰が優勝し、十連覇の偉業を達成すると信じて疑わなかった」

 

でも、渡里は続ける。

 

「結果はプラウダの優勝。黒森峰の敗因は、本隊から分離させていたフラッグ車が発見され、撃破されてしまったこと。……黒森峰の隊長の作戦が間違ってたわけじゃない。フラッグ車の車長は黒森峰の副隊長。実力的に、たとえ発見されても撃破されることはなかったはずだった」

 

渡里の言うことは当たっている。ただ、一つの言葉が付いていないことを除いて。

その言葉はこういうものだーーーーー何もなければ。

 

「フラッグ車撃破の原因となったのは、車長が指揮を放棄し、川に転落した友軍の救助に向かったから。車長を失い、混乱したフラッグ車は一時的な行動不能に陥り、その隙を突かれた」

 

当時世間は、そのフラッグ車の車長を黒森峰敗北の要因として、痛烈なバッシングを浴びせた。たった一人の選手に、全ての責任が押し付けられたのだ。

全国大会九連覇。黒森峰女学園にかけられた期待は、尋常ではなかった。関係者、OGはもちろん、一般人ですら偉業が成し遂げられる瞬間を心待ちにしていた。

 

その分だけ、落胆も大きかった。そして、批判の声も比例して大きくなる。

そしてそれら全てが集中した選手こそ、

 

「それが、私」

 

西住みほ、という。

 

そこから先は地獄だった。チームメイト、OG、記者、あらゆる人々から非難され、学校の中にいても、外にいても、常にみほには悪意の視線が向けられる。もはや逃げ場はなかった。

 

目を瞑れば、試合のシーンが浮かび、その度に胸が締め付けられるように痛む。

寝付けぬ夜が続き、徐々に精神が摩耗していく。

そんな日々を、みほは過ごしてきた

 

この世の全ての人が敵になったような感覚は、やがて大好きだったはずの戦車すらも、トラウマの対象として映すようになる。心にぽっかりと空いた孔はみほを蝕み、それを埋めてくれるものは見つからないまま、時間だけが過ぎてゆく。

そして心が擦り切れそうになったある日、みほは………黒森峰女学園を退学した。

 

これが、西住みほの過去。武部達には未だ伝えることができず、独りで抱え続けているトラウマ。

 

「あのとき、お兄ちゃんに言ったことは嘘じゃないよ。大洗女子学園に来て、武部さん達と出逢って、また戦車に向き合ってみようと思えたのは本当なの。少しだけ怖かったけど、でも……、お兄ちゃんとの約束もあったから。だからまた戦車に乗ろうと思った」

 

――――『お互い戦車道を続けていよう。そしたらまた逢えるから』。

 

スタートラインまで連れてきてくれたのが武部と五十鈴なら、そこから一歩踏み出させてくれたのは渡里。

皆がいたから、みほはまた歩き始めることができた。きっと独りじゃできなかったはずだ

だから思った。みんなとなら、どこまでも歩いていけると。

 

「武部さんと五十鈴さんと、秋山さんと冷泉さん。みんなと戦車に乗って、やっぱり楽しいなって思って。そしたらいつの間にか胸の痛みが無くなってた。だから大丈夫なんだって思ってた……でも、ダメだったよお兄ちゃん。私は、前なんか見てなかった」

 

きっとみほは、見て見ぬ振りをしてただけなんだ。

今が楽しいから、それでいいんだと、暗い過去から目を背け続けて、全部忘れて吹っ切ったつもりになっていただけ。

ほんとは何も変わってないのに、前に進んだ気になっていた。

 

それを、自覚させられた。今日、ダージリンとの、最後の一騎討ちで。

 

もしあれが公式戦だったら?みほはまた、チームみんなの努力を、夢を台無しにしていた。

そう考えると、みほは堪らなくなるのだ。

 

「わかってるの。悩むのは、迷うのは私が答えを出せてないから」

 

誰もが言う、お前は間違っていると。

知ってるよ、そんなこと。罪を認めて、謝って、「二度とこんなことしない」と言えば、きっと楽になれるんだろう。

でもダメなんだ。他ならぬ自分が、それを許してくれない。あの日からずっと心に残っている想いが、みほの脚を止める。

 

「しんどいのに、辛いのに、心が折れてくれないの」

 

だってそうじゃないか。雨で増水し、氾濫する川に落ちた戦車なんて、どうなるか分かったものじゃない。あのまま放っておいたら、命の危険だってあったかもしれないのに。

 

友達を犠牲にしてまで勝ったって、何の意味もないって、みほは思ってしまった。

母に否定されても、姉に見放されても、その想いだけが消えてくれない。

だからみほは、張り裂けそうな心を必死に抑えつけるんだ。さっさと諦めてしまえば、楽になれるのに。

 

「今日ね、五十鈴さんの家に行ってきたの。五十鈴さん、戦車道をしてたの、お母さんにずっと内緒にしてたみたいで……戦車道を続けるなら、二度と家の敷居を跨ぐなって言われてた」

 

それは武部たちに、大洗町を案内されていた時だった。海沿いのモールを歩き回っていた時、偶然五十鈴の母と出逢い、そしてそのまま、流れるように五十鈴の実家へと招待された。

 

「でもね、五十鈴さんは一歩も退かなかった。自分の道は自分で選ぶって、真っ直ぐにそう言って。……私、それ見て本当に強い人だなって思ったの」

 

五十鈴は気丈だった。母から勘当を言い渡されても毅然としていて、自分の決めたことに胸を張って、「これでいいんです」とみほ達に笑いかけたのだ。きっと母も、いつか解ってくれるはずだ、と。

 

「それに比べて私は、なんでこんなに弱いんだろうね」

 

同じように実家から離れ、独りになったみほと五十鈴の境遇は似ていた。だからみほは、五十鈴と自分とを比較し、その違いに気づいてしまった。即ち、心の強さである。

 

自分の気持ちを伝えることもできず、周りの考えに染まることもできず、中途半端なところで宙ぶらりん。自分の気持ちを消すことができないくせに、その気持ちを信じ切ることもできない。

 

「だからこんなに苦しいの。ねぇ、教えてお兄ちゃん」

 

みほは縋るように兄の腕を掴んだ。

それは、みほにとってとてつもない勇気を必要とする行為だった。

 

だって聞いてしまえば、もう直視するしかなくなる。今まで先延ばしにしてきた答えを。

誰よりも大好きな兄に否定されてしまったら?その可能性が、何よりもみほを恐怖させる。

 

でも、もし兄が認めてくれたなら。

たとえ世界中の人に何を言われたって、兄だけが私の味方でいてくれるなら……。

 

そんな考えが、みほにその質問をさせた。

 

 

「私は、間違ってたの?」

 

 

その時の兄の表情は、形容しがたいものだった。

悲しみ。憐れみ。怒り。憎しみ。慈しみ。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、限りなく無色に近いものになっている気がした。

 

「そっか」

 

そして、不意に渡里の目に一つの色が宿る。

 

 

「うん、辛かっただろうな。今まで、よく頑張ったな」

 

頭に置かれた手が、優しくみほの髪を撫でる。何度も優しく、ゆっくりと。

渡里の口が、緩やかな弧を描く。声色は柔らかく、暖かみに溢れていて、みほの心を穏かにしていく。

あぁ、とみほは安堵した。いつもの兄だ。いつだって優しく、あらゆるものから守ってくれた兄が、今目の前にいる。

 

「ずっと気になってはいたけど、聞けずにいたから。お前の本音が聞けて良かったよ」

 

そしてみほは知る。

兄は誰よりも優しい人であって、甘い人ではないということを。

 

「――――で、俺に何て言ってほしかったんだ、お前」

「―――――――――――」

 

みほは虚を突かれた気持ちになった。

慈愛に溢れていた兄の瞳が、いつの間にか剣呑な光を灯していた。

 

「俺が間違ってるって言ったら、お前それで納得できんのか。俺が正しいって言ったら、それで胸張って誇れるのか」

 

冷たい声色が、みほの心臓を大きく震えさせる。

感じていたはずの温もりが、みほから離れていく。

 

「自分の選択が正しかったのか、間違っていたのか。それを誰かが決めてくれるなら、誰だってそっちの方がいいと思う。だって、楽だろ?」

 

それは悪いことじゃない、と渡里は僅かに悲し気な笑みを浮かべた。

 

「悩んで、迷って、何にも分からなくなってしまって。何が正しくて、何がしたかったのかさえも忘れるくらいなら、誰かに決めてもらいたい。俺だってそう思うさ……だから今のお前の気持ちは、決して間違いじゃない。それは、普通のことだよ」

 

その時兄は、もうみほを見ていなかった。その目は海に向けられていたが、もっとずっと遠くを見つめている気がした。

 

「っだったら!」

「でも、俺はお前の気持ちに答えることができない。……みほ、聞いてくれないか?」

 

再び交差する視線。そこには、切実な想いが浮かんでいた。

 

「これは俺の我儘だ。―――辛いのは解ってる。それでもやっぱりさ、みほに、誰かの言葉一つで自分の答えを簡単に決めてしまうような、そんな人になってほしくない」

「――――っ」

 

例えば渡里じゃなくても、他の誰でもいい。

もしみほの行為に賛同し、認めてくれる人がいたなら、きっとみほはその人のことを心の底から信頼するようになるだろう。その人がくれた言葉を拠り所にして、疑うこともせず、前に進んでいく。

それでいいじゃないか。人は、そうやってお互いに支え合っていくものだろう。

 

でも兄はそれを、ダメだと言う。

だから、是とも否とも言わない。

 

「お前は優しいから、責任を感じてるんだろ?自分が中途半端だから、負けてしまったって。

今日みたいなことをまたいつかやってしまう、この先みんなに迷惑をかけてしまう。だから早く答えを出さないと、って焦ってる」

 

そして兄は、柔らかな笑みを浮かべた。

まるで手のかかる問題児を諭す教師のような口調で、兄は言う。

 

「みんな、真っ直ぐ進み続けることが良いことだと思ってるけどさ。別に立ち止まったって、後ろを向いてたっていいだろ。何か絶対的な答えとか、信念とか、そんなもんがないと進んじゃいけないことはないはずだ」

 

だから、と渡里は右手を伸ばし、みほの頬を抓んだ。

シャボン玉が割れないように触るような、優しい動作だった。

 

「人は迷いながらでも歩いていける。だから、もっとゆっくり考えたらいんだよ」

 

あれが正しいのか、これは間違ってるのか。

ああだこうだと試行錯誤して、一歩一歩迷いながら歩いていく。

どこに繋がってるかも分からない、もしかしたら今より酷い未来が待ってるかもしれない。

そんな何の保証もない道を、自分で切り拓いていく。

 

「そしたらいつか必ず見つかる。何があっても決して迷わないし、揺らがない、自分だけの道ってやつが」

 

そしてそれは、自分自身で見つけないといけないんだろう。

 

「『これが西住みほだ!』って胸張って言える、そんなみほが見たいと思うよ」

「………お兄ちゃんは、厳しいね」

 

みほは初めてそう思った。兄は、みほにとっての光だった。どんな辛い時も、悲しい時も、必ず兄が見つけてくれて、手を引いて導いてくれてた。

だから思った、兄についていけば、それでいいんだと、と。

 

兄の言うことは、その真逆だ。

辛くても、しんどくても、楽をするな。例え心が張り裂けそうなほどに痛もうとも。

迷いながら、苦悩しながら、それでも探し続ける。誰かの言葉によってじゃなく、自分自身の力で見つけるんだ、自分の、自分だけの戦車道を。

例え今より、ずっとしんどい日々を送るとしても。

 

「折れるな、挫けるな、頑張れ。俺が言えることは、そんだけだ」

「………ダメだよ、お兄ちゃん。私は、そんなに強くないよ」

 

自嘲するようにみほは言った。

兄の言うことは正しいのかもしれない。でも、正しいからって何でもできるわけじゃない。

耐えられないから、こうして兄に救いを求めている。

どこでも、なんでもいいからと、逃げ場を探している。

 

西住みほは、誰もが思っているほど、強い人間じゃないんだ。

 

「いいじゃないか、今は弱いままで」

「――――え?」

 

渡里は突然、立ち上がり言った。

釣られてみほも、兄の顔を仰ぎ見た。

その横顔は、夜の空に映えて見えた。

 

「自分で答えを出すことと、誰も頼らないことは違う。これからお前は、辛く険しい道を歩いていくことになるけど、独りじゃないだろ?」

 

兄の指が、みほの後ろへと向けられる。

引っ張れるように、示された方へと顔を向けたみほの、その先。

 

「あーーーー!!!やっと見つけた――――!!」

「みほさん!!良かった……!」

「西住殿―!無事ですかー!?」

「ふぅ、一安心だな」

 

武部沙織、五十鈴華。みほが大洗女子学園で出来た初めての友達。

秋山優花里、冷泉麻子。みほがまた戦車道を始めたことで出来た友達。

同じ四号戦車に乗り、共に戦うかけがえのない仲間たちが、そこにいた。

 

「みんな……なんで……」

「お前を探してたに決まってんだろ」

 

あ、とみほは気づいた。みんな、寝間着のようなカッコをしてるのに、汗をかいてる。普通、そんなことはしたがらないはずなのに。

――――探してくれたのか、自分を。色々なところを、走り回って。

 

「あれ?神栖先生?」

「あら、そうですね。一緒だったみたいです」

「なるほど、だから家にいなかったんですね」

「要らない心配だったな」

 

おーい、と手を振る武部達の姿を、みほは瞠目して見ていた。

声を出すことも、手を振り返すこともできず、ただ茫然とするみほの頭に、兄は軽く押すようにして手を置いた。

 

「あいつらはきっと、弱かろうが強かろうが、ありのままのお前を見てくれる。だから支えてもらえばいい。手を繋いで、一緒に歩いていけばいい。独りじゃ越えられない道も、それなら越えていけるさ」

 

よいしょ、と兄はみほの腕を掴み、引っ張り上げて立たせた。

思わずよろめいてしまったみほを、しっかりと支えて渡里は言う。

 

「自分だけで強くなれないのなら、あいつらと一緒に強くなれ。お前には、そっちの方が合ってるよ」

 

そしてみほは、ポンと背中を押された。

わ、と思わず声が出て、振り返るとそこには、笑顔の兄がいた。

 

「疲れたなら俺のところに来い。でも、お前はまだ疲れちゃダメだ」

 

その言葉の意味を、みほはゆっくりと噛み締めた。

深く、深く、心の奥に沈みこませて、身体の隅々まで行き渡るように。

 

「私、今まで結構頑張ってきたつもりなんだけど」

「じゃあ、もっと頑張れ」

 

兄は笑顔だった。だからみほも、今の自分にできる精いっぱいの笑顔を浮かべた。

ほんとに、なんて兄だ。こんな状態の妹を見て、「甘えるな」と言うんだから。

普通の妹なら、きっと絶交してる。でも、しょうがないからみほは許してやろう、と思った。兄は絶対に、ずっと自分の事を見てくれるはずだから。

 

兄から一歩離れ、武部達に一歩近づく。そして一歩、また一歩と、地面の確かに踏みしめて進んでいく。

みほは振り返らなかった。ただまっすぐに、武部達を見つめていた。

 

「もうっ、何してたの?連絡しても全っ然返事が来ないから心配したよ?」

「家に行っても誰もいなかったですし……神栖先生がいるとはいえ、あんまり夜に出歩くのは危ないですよ、みほさん?」

「……うん、ごめんね。それから、ありがとう」

 

みほは改めて武部達を見つめた。

みんな、心配してくれたんだろう。『友達に恵まれてた』という兄の言葉を、みほは実感していた。そして少しだけ後悔した。今まで、過去をずっと隠してきたことに。

一緒に歩いていくなら、打ち明けるべきだろう。僅かに不安はある。

でも、みほは兄を、そして友達を信頼しようと思った。

 

「あのね……」

 

だからここから始めよう。

あの日のことから目を逸らさずに、答えを出すために。

 

「みんなに聞いてほしいことがあるの」

 

本当の、自分の戦車道を見つけるために。

 

 

 

確かな足取りで歩いていく妹の背中を見送りながら、渡里はため息を吐いた。

まったく、自分は本当に馬鹿で救いようのない人間だ。

あんなに傷つき、苦悩する妹に、慰めの言葉一つかけてやれないのだから。

みほは兄と呼んでくれるが、渡里はそうは思えない。

 

「兄失格だな」

 

妹の、みほの心を救いたいのならば、すべきことは一つだ。

ただ一言、「お前は間違ってない」と言ってやればいい。よく友達を救ったと、そう褒めてやれば、それだけでいい。

そうすればみほは、きっと前を向いて歩いていけた。悩みも、苦しみも、全部振り払って、真っ直ぐに、どこまでも進んでいけた。

 

それが分かってるのに、渡里はそれができなかった。

それは、本当に自分勝手な理由だった。

 

今、みほの心を救い、強くしてやることは簡単だ。

だがそれで成長するのは、みほだけなのだ。

大洗女子学園というチームがこれから強くなってためには、それじゃダメだと渡里は思ってしまった。誰か一人が強くなるじゃなく、誰もが強くならなければならない。

 

そう考えた時、渡里はみほにもっと困難な道を歩ませることにした。

甘えも、逃げも許さない。過去の自分が正しかったのかそうでないのか、誰かに決めてもらうのではなく、自分で決めろ、と。

 

きっとその方が、大洗女子学園というチームは強くなると、そう直感したから。

 

兄として妹を救う道か。

教導官としてチームを強くする道か。

 

その二つを前にして、渡里は後者を取ったのだ。

これを兄失格と言わずして何と言うのだろうか。妹のことより、赤の他人達(チーム)を優先するなんて。

いや、あるいは教育者として失格なんじゃないだろうか。

まったくお笑い種である。――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

自分は一体、どの口でみほにあんな説教をしたのだろうか。

 

「………夜は冷えるなぁ」

 

手元にあるコーヒー牛乳を、渡里は一切口につけていなかった。

これ、お茶と間違えて買っちゃったんだよなぁ、と渡里はペットボトルを眺めるしかできなかった。

 

 




他作品を貶す気持ちは一切ありません。
作者的にもオリ主でも誰でも西住殿を励まして、それで西住殿がニコニコ、誰かとらぶらぶできるSSの方が大好きです。可愛いからね。
でもそうならないのがこのSS。理由は作者が可愛い西住殿を書けないから。


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2章
第13話 「合宿を始めましょう➀~幕開け~」


西住殿が皆をあんこうチームを呼び始めた理由は、幕間として別にやります。
ついでに皆がオリ主のことを名前呼びし始めた理由も一緒に。

ようやく作品名っぽい話が始まりました。






朝六時、カーテンから僅かに漏れる日の光で、西住みほは目を覚ました。

ぱち、ぱちとまばたきを二つすると、靄がかかった視界が徐々にクリアになっていく。

ぼーっと天井を眺めながら、みほは大きく深呼吸を一つした。寝心地の良い布団と枕の感触に包まれながら、ゆっくりと意識を覚醒させていく。

 

「ん……ふぅ」

 

上半身を起こして、背筋を伸ばす。身体から小気味の良い乾いた音がいくつか鳴って、妙な気持ちよさが身体に広がっていく。上に伸ばした手がたっぷりと伸びること10秒、大きく息を吐きながら腕を降ろすころには、みほの意識は完全に覚醒していた。

 

西住流では日常的に早朝鍛錬が行われていたので、みほは寝起きが良い。ぱっと起きてぱっと準備しなければ、母に文字通り叩き起こされて頬をぐいーっと引っ張られながら表に出てくる兄と同じ運命を辿ることになったからだ。

そんな生活を、場所は違えど小中高と続けてきたみほにとって、早起きは最早習慣であった。

しかし苦手ではないけど、だからといって得意でもないわけで、叶う事ならゆっくりと眠っていたいという気持ちもなくはない。……できた試しは、ないけども。

 

「……意外と疲れてないかも」

 

くるくると腕を回してみたり、胴を捻ったりしてみたみほは、自分の身体が思ったより軽く動くことに驚いた。それはなぜかというと、前日にそれはそれは口に出すのも憚れるような恐ろしい戦車道の練習が行われていたからである。いやもうほんとに、何度練習中に走馬燈が駆け巡ったか。練習が終わってからご飯を食べたりお風呂に入ったりしたわけだが、合間合間の記憶が抜け落ちているあたり、多分断続的に気絶している。

それほどとてつもない疲労感だったので、明日は大変かもしれないと思っていたのだが……

 

「身体が慣れてきたのかな?」

「………それはみほだけだよ」

 

ひえっ、とみほは小さく悲鳴を上げてしまった。真横から、ゾンビみたいな声がしたからだ。

ゆっくり首を回すと、そこには見慣れた髪色があった。

 

「沙織さん……起きてたんだ」

「……起きたくなかったけどね」

 

普段の快活さの欠片も見当たらない沙織に、みほは苦笑するしかなかった。

沙織はまるで重しでも背負っているかのような鈍い動きで身体を起こした。その動作からみほは沙織の心中を察した。

 

「ん―――――ふぅ、おはよう、みほ」

「おはよう、沙織さん」

 

みほと同じように背筋を伸ばした沙織は、すっかり目が覚めているようだった。彼女は彼女で、寝起きが良いらしい。

 

「いま何時?」

「6時ちょっと過ぎたくらいだよ」

「うぅ~あと30分かぁ……もうちょっと寝たかったなぁ」

「私もかも。やっぱり疲れた?」

「ほんのちょっとだけね。でも大丈夫」

 

布団の上に座りながら、みほと沙織は小声で会話する。

大丈夫とは言いつつも、沙織の表情には少しだけ翳りが見える。それはそうだ。みほは実家、そして黒森峰でずっと厳しい練習をしてきたからある程度のスタミナも耐性もあるが、沙織は今年の四月から戦車道を始めたばかり。今までは練習メニューが軽いものばかりで、それでいて休みもしっかりあったからなんとかこなせていたが、今はそうではないのだ。

 

「じゃあ私、麻子の方行ってくるね」

「うん、わかった」

 

沙織は静かに立ち、足音をできるだけ抑えてそろそろと歩いていった。

と言っても、麻子は数歩先の近くにいるのだが。

 

とある場所で腰を下ろして、餅のように膨らんだ布団を揺らす沙織を見ながら、みほもまた立ち上がった。

沙織の言う通り、時間はあと少ししかない。今のうちに顔と歯磨きくらいはやっておかないと、おそらく間に合わないだろう。

 

ドアをゆっくりと開けて、みほは()()へと出る。

そして閉まりゆくドアの間から、中の様子を窺った。

そこには綺麗に列を成す布団の群れと、それに包まれる20名の眠り姫の姿があった。姿勢よく眠る者、掛け布団を豪快に蹴り飛ばしている者、芸術点の高い寝相を披露している者など、それはまさに十人十色な光景だった。

彼女たちを起こさないように、みほは細心の注意を払ってドアを完全に閉め、蛍光灯が点いていなくても十分に明るい廊下を歩いていった。

 

本日、五月某日。

大洗女子学園戦車道受講者22名が、学園内のとある一室にて同居生活、あるいは『神栖渡里によるパーフェクト戦車道合宿』を始めて一週間が過ぎようとしていた。

 

後に大多数の人間に賞賛と尊敬と恐怖の目で見られることとなり、主導者の神栖渡里が『頭のネジが吹っ飛んでる』との評価を受けた、約二か月にも及ぶ長期合宿はなぜ敢行されることとなったのか。

 

それを説明するには、大洗女子学園VS聖グロリア―ナ女学院の練習試合が行われた日の三日後にまで時間を巻き戻さなければならない。

 

 

 

「頼まれていた練習メニューが出来たぞ」

 

戦車道の練習が終わり、いつも通り締めの挨拶に入ろうとしてた時、兄は唐突にそんなことを言った。

一瞬、全員の時間が停止し、そして一秒後にわーっという歓声が上がった。

みほは歓声こそ上げなかったが、内心では兄を称えていた。

 

「随分早かったですねー」

「ま、あんな話を聞かされたらな。指導者として応えないわけにはいかないだろ。全身全霊、あらん限りの知恵を絞ったさ」

 

角谷の調子はいつもと何ら変わらないように見えるが、少しだけ驚いた、いや感心したような様子であった。

そうだろうな、とみほは思った。それだけ、兄の仕事の速さは異常だった。

 

聖グロリア―ナとの練習試合を終えた翌日、兄は普段のような練習はせず、戦車道の授業に当てられた時間をすべて使って、練習試合の振り返りを行った。全員一か所に集まって、一人一人感想を言ってゆき、兄はそれを真剣に聞いていた。

 

皆の声はそれぞれだった。面白かった、楽しかった。難しかった、怖かった。思う通りに戦車が動かなかった、相手に攻められて頭が回らなくなった、とにかく必死で目の前のことに夢中になった。興奮した様子で語る人も、笑顔で語る人も、浮かない顔で語る人もいたけれど、最後にはみんな、同じことを言った。

 

―――――楽しかった以上に、悔しかった、と。

 

撃破された時悔しかった。もっとできると思っていたから悔しかった。試合終了のアナウンスを聞いた時悔しかった。………負けて、悔しかった。

 

それは本来、芽生えるはずのない感情だった。もし聖グロにボロ負けしていたら、みほ達は自分たちと相手の実力差に笑うしかなかっただろう。

だがみほ達は、あの聖グロに後一歩という所まで迫った。だから、楽しいを越えて、悔しいと思えてしまった。

 

だから、とみほ達は言ったのだ。今よりもっと、もっと強くなりたいと。こんな思いは、もうしたくない、と。

 

しかしみほ達は、強くなる術を知らなかった。思いを同じくしようとも、具体的にどうすればいいかが分からない。みほは全国屈指の戦車道強豪校、黒森峰女学園で数多くの練習をこなしてきたが、それをそのまま大洗女子学園で行っていいわけではなかった。

それで強くはなれるだろう。だが身の丈に合わない練習を無理に続けた代償は、必ずやってくる。そしてそれは、きっと多大なものになる。

 

大洗女子学園にフィットした練習が必要だった。しかしみほには練習メニューを作るだけの知識が足りず、みほで無理なことは大洗女子学園の誰にも無理だった。

 

そしてみほ達は、神栖渡里を頼んだ。

正しい知識を持ち、確かな理論と着実な結果が伴う練習メニューを作ることができる、唯一の人に、自分たちがもっともっと強くなれるようにしてほしい、と。

 

『そこまでお前達が考えているとは思わなかった。でもお前達の気持ちを知ってしまった以上、見て見ぬ振りはできないな』

 

そう言って兄は、笑みと共にみほ達の頼みを受けた。

そして今日、兄はみほ達の希望通りの練習メニューを作ってきたと言う。

待ち望んでいたものがようやく来たのだから、それは歓声の一つや二つ上がるというものである。

 

しかしこの時、みほ以外の全ての人間は知らなかった。そしてみほは、うっかり忘れていた。

神栖渡里という人間は、戦車道では一切手加減をしないということを。

 

「練習メニューの都合とお前達の身体のことを考えて、合宿という形を取ろうと思う。校内に宿泊所を作って、そこで朝から晩まで共同生活だ」

「それってお泊りってことですかー!?」

「わー!なんか楽しそー!」

 

一年生チームの無邪気で楽しそうな声が、随分遠くに聞こえるみほであった。

一年生チームだけじゃなく、みんなちょっとワクワクそわそわしている感じで、置いてけぼり感があるが、それどころではない。

今までの経験から、みほは合宿という言葉にいい思い出がない。というか楽しいという感情が湧いたことがない。それは、ただただ鬼のように疲れた記憶で埋め尽くされている。

そもそも合宿とは、短期間で普段以上のレベルアップを図るために、普段以上の負荷をかけるものなのだから。

 

みんな、お泊りと聞いて浮かれているのか知らないが、兄がさらっと恐ろしいことを言ったことに気づいてないのだろうか。

()()()()()()()()()()()()()。これが何を意味するのか、ちょっと想像したくないみほであった。

 

「小山、アレあるか?」

「はい、こちらに」

「んじゃ配ってくれ」

 

そうして小山はA4サイズの紙を配り始めた。

どうでもいいが、不思議と人を使う姿が様になる兄である。いや、小山が人に使われ慣れてるのか。生徒会の一員として会長たる角谷にこき使われている……のかは知らないが、なんとなく奉仕する姿がしっくり来ている。

 

「それは合宿のしおりだ。よく読んで、訊きたいことがあるなら何でもどうぞ」

 

遠足か、というツッコミを皆がしなかったのは、やっぱり浮かれてるからなんだろうな。

みほは回ってきたしおりに、目を通した。

 

『合宿概要

いち、学校内に宿泊所を設置し、そこで生活する。朝食、夕食は食堂職員に協力してもらい、学校側で用意する。

に、持ち物は自由。宿泊所の中から出さない限りは、何を持ってきてもよい。

さん、宿泊所は必ずしも使用しなくていい。練習時間に間に合うのであれば、自宅から通ってもよい。

よん、合宿の期間は六月末までとする』

 

「………あの渡里先生」

「せんせー!持ち物は自由ってことはトランプとか持ってきていいんですかー?」

「いいぞ。なんならお菓子もジュースも持ち込んでいい。宿泊所から出さなきゃな」

 

きゃー。やったー。どうするー。

そんな歓声に、みほの声はあっけなく飲み込まれた。

いやいやいや、ちょっと待ってほしい。三番まではいいよ、特に変なこと書いてないし、寧ろ朝食と夕食の手間がなくなって万々歳だし。

問題は、

 

「あの西住殿」

 

声をかけられ、みほは振り向いた。そこには口の端を引き攣らせた秋山がいた。

不思議な顔だ。でも多分、自分も同じ顔をしてるだろう。

 

「く、黒森峰にいた時にも合宿ってありましたよね?」

「……あったよ」

「だ、だいたい一週間とか、長くても二週間以内とかでしたよね?」

「………そうだよ」

「………今って、ぎりぎり五月に入ってないですよね」

「……………ないよ」

 

秋山は絶句した。みほも、叶う事ならこれが夢であってほしかった。

いや、落ち着け。まだ合宿の開始日は言われてない。いくらあの兄でも、明日明後日から急に合宿を始めようとはしないはず。学校側の都合とか、その他諸々考えると相応の準備期間が必要。とすれば普通に考えて六月の頭、どれだけ早くても五月中旬くらいになる。なってくれ。二か月間みっちり、あの兄が本気で作った練習なんてどう考えてもやばい。

 

「合宿は三日後から始める。必要なものを早々に纏めて、明後日までに宿泊所に運んどいてくれ。宿泊所の場所は角谷から全員に知らせるので、よく確認しとくように」

「みほ?みほ!?大丈夫!?」

「渡里先生!みほさんが倒れました!」

「白目剥いてるぞ」

「ほっとけ。んじゃ河嶋」

「では、練習を終了する。解散!」

 

 

 

そうして合宿は幕を開けた。

始まりは、和気藹々としたものだったと思う。用意されていた部屋は全員が一か所に入れるくらい大きく、快適な生活をする上での必需品がしっかり揃えられており、不自由しないようにされていた。

 

それが兄の、「まぁ寝る場所くらいは快適にしといてやろうか」という、憐れみから生まれた気づかいであることをみほが知ったのは、合宿初日の夜のことであった。

 

「よし、揃ってるな。じゃあ早速ウォーミングアップからいこうか。身体叩き起こすつもりでやるように」

 

戦車が格納されているいつもの倉庫の前に、思い思いの服装でみほ達は集合していた。

現在時刻、午前六時三十分。

一週間前ならまだまだベッドの中でぐっすり眠っている時間だが、今はもう違う。今からは、朝練のお時間である。

一応遅刻者はいなかったが、麻子が本気で危なかった。沙織が半ば引きずる形で、ここまで持ってきたのだ。

 

渡里の号令を受けて、一同はまばらに散っていく。その足取りは重い。とくに麻子あたりは、そのまま地面に寝そべっていきそうなくらいである。低血圧だから仕方ない部分もあるけど。

 

しかしこれでも、マシなほうだった。一番大変だったのは、合宿二日目であった。初日は身体がニュートラルな状態でこの朝練に取り組むことができたが、二日目は渡里が作ったメニューをこなした後。詳しくは言えないが、それはもうみほですら未体験ゾーンに片足を突っ込んだレベルのものだったから、有体に言うとみんなしんでた(比喩表現)。

まともに動けていたのは、バレー部キャプテンの磯部と角谷生徒会長、そしてみほくらいで、後はみんな動くのも精々という有様であった。

 

「西住隊長、今日は役職ごとに分かれてやるみたいです」

「あ、うん。わかった」

 

横から声をかけてきた澤梓に並んで、みほは同じ方向へと歩き出した。

見た感じ澤もかなり辛そうであるが、足取りはしっかりとしている。責任感の強い子だし、一年生チームの車長としてみっともない所は見せないようにしているのだろうか。

 

「よーし、西住ちゃんが来たし、早速始めよっか」

 

角谷は普段となんら変わった様子を見せない。いつも通りの、飄々とした雰囲気である。

純粋に凄いと思うみほであった。

磯部も同じく元気いっぱいの様子で、エルヴィンはいつもより帽子を深く被っていて、表情が窺えない。

 

「鬼どーする?」

「あ、じゃあ私がやります」

 

四人の車長が描く輪っかの、中心部分にみほは移動した。

そして深呼吸を一つして、スイッチを切り替える。

視線は、角谷が持っているバレーボール。神経を集中させて、注意深く見る。

 

角谷はそんなみほを軽く笑いながら見やって、一息。

 

「澤ちゃん!」

 

掛け声と共に、ボールを()()()()()へと投げた。

それが朝練開始の合図であった。

 

結構な速さで投げられたボールは、ワンバウンドしてエルヴィンの元へ。それをインターセプトしようとみほは手を伸ばすが、僅かに届かない。

すぐさま体勢を整えて、エルヴィンと澤の間に割り込もうとする。

 

「―――会長!」

 

しかしキャッチから2秒以内に投げられたボールに、みほは追いつくことができない。

伸ばした手は空を切り、ボールは澤の元へ向かう。

距離的に澤と角谷の間に入ることは不可能。ならば、とみほは視点を鳥瞰に切り替え、全員と自分の位置関係を把握した。

 

「――――磯部先輩!!」

 

投げられたボールはワンバウンドで澤へ、そして角谷へと回る。

みほは瞬時に角谷の方へと寄りつつ、全方位へと警戒を強める。

 

「エルヴィンちゃん!」

「澤!」

「会長!」

 

ボールはみほを翻弄するように、ぐるぐると所有者を変え続ける。

しかしみほは冷静にボールを目で追いつつ、最小限の動きで円の中を細かく移動する。

鬼役のみほは、このパス回しをどこかで止めなければならないわけだが、これが一筋縄ではいかない。

 

全力で地を蹴り、左手を伸ばした。

磯部からエルヴィンへと向かうボールは、伸ばしたみほの手を僅かに掠めて、そのままエルヴィンの両手へと収まった。

 

みほは内心で歯噛みした。

――――ギリギリ間に合わなかったか。やはり課題は、思考と動き出しのタイムラグである。ここを限界まで速くしないと、安定してボールを取ることができない。

 

(考えながら動く、か……)

 

兄の言葉を思い出しながら、みほは再び躍動する。あっちこっちに飛び回る、一つのボールを奪うために。

 

 

兄がウォーミングアップとしてみほ達にやらせたのは、とても変わった練習だった。

使うのはボールだけ。五、六人が円になって、その真ん中に鬼役を一人置く。そしたら、後は鬼に取られないように、ボールを回すだけ。

それは一見すると、子どもの頃によくやった遊びのような練習だった。

 

しかし兄が設けた特別なルールによって、この練習は『遊び』から『訓練』へと変わった。

ルールは三つ。ひとつ、ボールを持っている人は、次のボールの受け手を指名しながら、それ以外の人間にボールをパスすること。ふたつ、必ずワンバウンドさせてパスすること。みっつ、二秒以内にパスすること。

 

ふたつめ、みっつめは問題ないが、厄介なのは最初のルール。

パスの受け手を指名するということだが、角谷→エルヴィン→澤という先ほどの流れを例にすると、角谷は『エルヴィン』が『澤』にパスするように指示し、エルヴィンはそれに従わなければならない。そして同時に、エルヴィンもまた澤が誰にパスするかを指示しなければならない。これを延々と繰り返すのだ。

 

言葉にしても難しいが、実際にやるともっと難しい。

何が厄介かというと、パスの受け手を指示するためには、『自分が指示された受け手』から考えて、誰を受け手にすれば鬼に取られないか、を考えなければならない。適当に誰かの名前を言うと、あっけなく鬼に取られてしまうからだ。

 

鬼役はボールが取れるまで動き続けることになるが、寧ろそっちの方が楽。

パスを回す方は先の先を読む思考が求められるが、自分が誰にパスをするのか、とか鬼に取られないように、とかでそれどころではない。じっくり時間をかければできるかもしれないが、ふたつめのルールがそれを許してくれない。

 

最初は六人がパス回し、一人が鬼役という形でやっていたのだが、人数が増えた分楽かと思えば、真逆。選択肢が多くなったことで余計に迷いが生じ、状況判断が遅くなった結果、まともにパスが回らなくなった。

見かねた兄が難易度を限界まで下げ、練習として最低値の効果を得られるところまで簡単にし、それでようやく安定してパスが回るようになったが、当然そんなレベルで満足していいわけがない。

しかしみほ達は、一週間経っても成長の切欠を掴めずにいた。

 

『コツを掴めば一回でできる。だが漠然とやってるだけじゃ、例え百万回繰り返したってできやしねぇ。()()()()()()()()()()()()しないと、永遠に成長しないぞ』

 

そんな兄の言葉が、みほの、そしてもしかすると皆の焦りに繋がっているのかもしれなかった。

――――――考えながら、動く。

 

兄が教えてくれたコツは、それだけだった。

それはわかってる。でも、思考を優先すれば身体が追い付かず、身体を優先すれば思考が間に合わない。

畢竟、課題はそこにあった。

 

 

 

30分間のウォーミングアップを終え、みほ達は用意された水分を補給する。

朝練は75分かけて行われ、合間合間で五分間の休憩がある。

そこでは花も恥じらう女子高生たちが世間話に花を咲かせる……ということは当然ない。

もっぱら会話の内容は戦車道の練習に関することであり、そこには色気も何もなかった。

 

「疲れたぁ~!やっぱ難しいよこの練習~」

 

ジャージ姿の武部は、頬を伝う汗を可愛いデザインのタオルで拭いながら地べたに座り込んだ。同じ場所にはいつもの、四号戦車チームが集まっている。

 

「頭がおっつかないんだよねー、考えてる間にボールが来ちゃうっていうかさ」

「あ、わかります。すると慌てちゃって、誰にパスするのか、と誰にパスさせるべきなのか、がごちゃ混ぜになってしまうんですよね」

「そうですね……何も考えずにやるとうまくボールは回りませんし……」

「……………こんな朝早くから頭が回るわけがない」

 

困り顔で顔を突き合わせ、感想を言い合う。

これは別にみほ達だけでなく、それぞれのチームも自然とやっていた。特に兄が何か指示したわけではないが、不思議なものである。良いことだけど。

 

「みほさんは何か掴めました?」

「う……一応、状況判断を早くしようとしてるんだけど、あんまりうまくいってないんだよね……どうしても限界があるっていうか」

「二秒以内ですからね……神栖殿はすごく簡単そうにやってましたけど」

「あ、最初の説明の時にしてくれたやつ?あれ凄かったよね、ボール貰ったらすぐに投げてたもんね」

「どうすればあんなに早くできるんでしょうか……?」

 

思い出されるのは、合宿初日のことであった。百聞より一見、ということで兄が実演してくれたのだが、一人だけスピードが段違いだった。それでいてパスは最適かつ正確なのだから、いったいどうやっているのやら。

 

うーん、という唸り声で合唱。それからああだこうだ、と言葉を交わしていく内に、休憩時間は終了。朝練は次のメニューへと移行した。

 

 

 

午前七時四五分、朝練は終了した。

詳細は語らないが当然のように変則的な、戦車の走行訓練をバッチリ行った後、丁寧に戦車の掃除。ピカピカに綺麗にしてあげたら、解散。それぞれシャワールームへ駈け込んだり、食堂で用意された朝食を取りに行ったりといった具合に、自由行動である。

 

授業開始のベルが午前八時三〇分なので、それまでに教室に入ってなければならないが、宿泊所が校内にあるためかなり時間の余裕がある。

しかし神栖渡里的には遅刻なんてしようがない時間配分をしているらしく、もし授業に遅れたりなんてした場合とんでもないペナルティが用意されてるとのこと。

なのでみんな、余裕があるにも関わらずかなり行動が迅速である。

 

日中は戦車道の授業以外は平穏そのもの。普通科のみほ達は、一般の高校生と同じようなカリキュラムで授業を受けるわけだが、実はここに意外な罠がある。

 

―――――――とにかく眠いのだ。

 

合宿が始まってからというものの、疲労が溜まっているせいかとにかく授業中の睡魔が尋常じゃない。特に理系科目の時なんかはやばい。公式や元素記号が呪文に聞こえる。うっかり気を抜いたら、即座に夢の世界へゴーしてしまう。

 

授業中の居眠りは当然よくない。成績ダウンに直結するのは勿論だが、それ以上に兄が怖い。いや、別に兄が何か言ったわけじゃないのだが、みほは思うのだ。

授業中寝る→勉強ができない→定期考査の点数が悪くなる→赤点とか取っちゃう→補修受ける→その分戦車道の練習ができない。

 

こうなった時、果たして兄はそれを笑って許してくれるだろうか、いやない。

絶対怒る。もし「戦車道の練習が大変だったから」なんて言おうものなら、それこそ烈火の如く。あの兄がよりにもよって戦車道を、勉強しない言い訳にすることを許すはずがない。

普段はテキトーが服を着て歩いているような人間だが、戦車道に関しては誰よりも真剣。みほ達の成績がどうなろうと知ったことではないだろうが、その点だけは絶対に許してくれないだろう。

 

なので必死に目を見開き、欠伸を噛み殺しながらノートを取るわけだが……

 

「沙織さんっ、沙織さんっ。起きてくださいっ」

 

あんな具合で睡魔に勝てず、机に突っ伏してしまうこともある。

後ろの方で聞こえる華の声を聞きつつ、みほは内心で合掌した。

みんなの話を聞いた感じ、半分くらいは沙織と同じように寝てるようで、戦車道受講者の成績は割と大変なことになるかもしれない。

 

ちなみにこの時間、兄も校内にいる。

生徒会から旧い用務員を貰ったらしく、そこを基本的な住処にしているのだ。もし用務員室にいない場合は、だいたい戦車が格納されている倉庫にいる。

会おうと思えばいつでも会いに行けるし、実際みほも二回ほど、昼休みに兄を訪ねていた。

 

みほ達が勉学に勤しんでいる間、戦車の整備をしたり練習の準備をしたりと、色々やってくれているらしく、決して暇しているわけではないようだった。

みほ的にはそれが居眠りできない理由の一つでもある。

 

―――――せめてノートは取ろう。

 

自分まで脱落したら、華の負担が大変なことになる。

みほはシャープペンを握る手にいつも以上の力を込めて、黒板の内容をノートに写していった。

 

 

 

「よし、それじゃ今日も役職ごとに分かれて練習だ。通信手と装填手は倉庫の中、操縦手と砲手は戦車に乗って外へ。車長はいつも通りに」

 

そして時は放課後、本格的な戦車道の練習の始まりである。

朝練は終わってから授業があることに配慮して、そこまでハードな内容(兄曰く)ではないが、これからの練習にはそんな気遣いはない。たっぷりある時間と、「終わった後は寝るだけだろ?」という考えによって、尋常じゃない濃度の練習が手招きしている。

 

最初は役職ごとにチームを作って、それぞれ別々の練習を行う。

渡里曰く、砲手なら砲手に、通信手なら通信手に特化した能力を養うことが目的らしく、ある種スタンダードな戦車道に触れてきたみほからすれば、かなり異端であった。

 

戦車道は激しいスポーツなため、いつかの華のように競技中に気絶することが結構ある。もしそうなった場合、当然誰かがその人の穴を埋めなければならない。なので戦車道の選手は、基本的に複数の役職を兼任できるし、できなければならない。

みほだって操縦手以外は大体できるし、操縦も苦手というだけでできないわけではない。いきなり砲手をやれと言われても、四回に一回は狙い通りに撃てる。

そういった、その人には及ばないものの、戦闘に問題ないくらいの代わりを務めることができる能力が、戦車乗りには必要とされる。

 

一点特化(スペシャリスト)より、万能選手(ユーティリティ)が重宝されるのが、戦車道の常識である。

 

しかし大洗女子学園は、その常識に見事に逆らっていた。

これは渡里が変な反骨精神の持ち主というわけでなく、ちゃんとした理由があるとみほは考えている。

それは実にシンプルである。大洗女子学園には、複数の役職をこなせるようにする時間が無いのである。万能であれ、とは言うものの、それは器用貧乏になれというわけではない。自分本来の役職を誰よりも上手にこなせるようにした上で、他の役職もできるようにならないといけない。

大洗女子学園は、その()()()()()()()を習熟するのに手一杯で、他のことをやってる余裕がないのだ。恐らく兄も、苦渋の決断だったと思う。

 

だからこそ、せめて一つの道は限界まで鍛えるしかない。どっちつかずよりはいっそ振り切ってしまって、スペシャリストを超えたプロフェッショナルにならないといけないのだ。

 

まぁ、そもそもとしてほぼ初心者の大洗女子学園には絶対必要な練習だし、現時点では特化というにはまだまだ実力不足。これから練習を重ねて尖らせていくのだろうが……

 

「それにしても変わった練習だよね」

「……まぁ、普通ではないな」

 

やらせている本人がそれを言うのか、とみほはジト目になった。

みほは今、渡里の横でとある練習を見ていた。それは通信手たちに課せられたものだった。

 

みほと渡里の視線の先、そこには大きくバッテンの印がつけられたマスクを着用し、忙しなく腕を振ったり手を回したりする通信手たちがいた。

 

傍目から見るとどう考えても遊んでるようにしか見えないが、これも歴とした戦車道の練習らしい。

何をやってるかは分かるが、何の意味があるかはみほにも分からない。

 

「ジェスチャーゲームって、戦車道と何か関係あるの?」

 

ジェスチャーゲーム。それは喋らずに、身振り手振りでお題が何かを伝えるゲーム。

アイスブレイクには使われるだろうが、戦車道には特に関係ない。

ちなみに二日前にも通信手たちの練習を見たが、その時は伝言ゲームをしていた。

 

「あることしかやらせねぇよ。あぁ見えてもちゃんと、通信手に必要な能力が養われてるんだぞ」

 

あれで、か。みほはもう一度視線を通信手たちに戻した。

ちょうど今は沙織がマスクをして、何やらジェスチャーしている。遠目から見たところ、お題は『キリン』と書いているようだが、果たしてどうやって伝えるのだろうか。

 

「――――――っ!!―――っ!―――――っ!!」

 

その動きは、一言で表すと変であった。

なんだろう、みほは見てはいけないものを見ている気がして、視線を外した。

それはたぶん、優しさだった。

 

「ってかお前いつまで横にいるんだよ」

「いいでしょ、見るのが練習なんだから」

 

通信手、砲手、装填手、操縦手はそれぞれ渡里から練習メニューが指示されているが、車長だけは例外であった。

 

『車長連中は、いまの自分に何が必要か自分で考えて練習してくれ。他の奴らの練習を見ているだけでもいいし、それが必要だと思ったんなら、その練習に混じってもいい』

 

これが車長たちに言い渡された指示であった。

人はそれを、丸投げというのではないだろうか。一応みんな、言う通りにしているようだが。

 

「それにお兄ちゃんが皆に変な事させないか見張っておかないと」

「手遅れだぞ。砲手とか見ただろ?」

 

軽く鼻で笑いながら渡里は言った。

みほの脳裏に浮かんだのは、合宿初日の、砲手たちの練習だった。

この兄が何をやらせたか、それは言葉にするとシンプルである。

 

『600発、弾を撃たせる』、それだけである。

 

一人で戦車に乗り、装填を自力で行いながら、黙々と弾を撃ちづける。

簡単そうに聞こえるが、これは尋常なことではなかった。

一回の砲撃にかかる時間は、装填を含めて大体20秒。掛け算すると、600発撃ち切るには単純計算でも三時間とちょっとかかる。練習が始まるのが午後四時として、最短で終わるのは午後七時過ぎ。

誰がどう考えても、大変な練習である。

 

「またやらせたりしないよね?」

「流石に一回きりだな。目的は達成したし、弾も勿体ないし」

 

良かった、とみほは胸を撫で下ろした。

合宿初日の夜、誰もが疲労困憊だったが、輪にかけて疲れていたのは砲手たちだった。みほも華の様子を見ていたが、立っているのがギリギリで目を離したら床に倒れていてもおかしくない有様だった。本人は大丈夫とは言うものの、優花里に肩を貸してもらいながら歩く姿はどう見たって大丈夫ではなかった。

 

あれが何日も続いたら、真っ先に潰れていたのは砲手たちだっただろう。

 

「そういえばチームの名前決まったか?」

「あ、忘れてた」

 

おい、と今度は兄がジト目で見てきた。

仕方ないだろう。話し合うなら日中の休み時間か、夜の練習終わりしかないが、前者は時間が足りず、後者はそもそもそんな気力がない。

 

「自分たちで決めるって言ったから待ってんだぞ、こっちは。期限があるわけじゃないけど、いつまでも決まらないようならこっちで決めるぞ」

「それだけはやめて」

 

今までチーム名は、仮としてアルファベットの名前をつけていた。聖グロとの練習試合までは、ほとんど戦車に乗る機会がなかったから不便しなかったが、合宿が始まるとそうもいかない。毎日戦車に乗るわけだし、いい機会だからちゃんとした名前を付けることになったのだ。

この時兄が真っ先に「バッタさんチーム」とか「ナマズさんチーム」とかヘンテコな名前をつけはじめたので、みほ達は自分たちで考えようと固く心に誓ったわけだが、現状まだ名前は決まっていない。

 

今日の夜になんとか頑張って決めるしかないか、とみほはため息をついた。

正直しんどいが、兄の絶望的なネーミングセンスに任せるよりかは百倍いいだろう。

 

倉庫の扉の向こうでは茜色の空が広がっているが、練習はまだまだ終わらない。

ここから更に、走行訓練と砲撃訓練を行うのだ。

 

―――――体力残ってるかなぁ。

 

西住流、そして黒森峰と厳しい環境を耐え抜き、戦車乗りとしてスタミナには自信があるみほが、こんな心配をしないといけないところに、神栖渡里謹製の合宿の恐ろしさと異質さがあった。

 

 

 

午後八時、練習が終了。

朝練の時と同じく、戦車をピカピカにして、軽いミーティングを行った後に解散。

ここからは自由行動になる。

しかし自由とは言うが、大体みんなの行動パターンは同じである。

まず夕食。とにかく失った分のエネルギーを補給しないと、身体が動かない。正直お風呂に入って汗と泥と油を流したいなのだが、何も食べずに湯船に浸かるとうっかり気を失い、そして溺れる。普通に命の危機だし、そもそもご飯を食べた後でもこの現象が起きることもあるので、一同の間で「お風呂は二人以上で入ること」というルールが出来た。

 

夕食、入浴を済ませた後は、宿泊所でゆっくりする。

宿泊所の中は布団が綺麗に列をなしており、各自どこで寝るかは自由。でも大体チーム毎に固まっていてはいる。

設置されたテレビは点いてはいるものの、流れている番組を誰も見てはいない。あちこちで寝転がりながらの会話が繰り広げられていて、静かではないがガヤガヤと騒がしくもない。至って慎ましい感じである。

 

一応、食堂で世間話や、外に散歩しに行くこともできるのだが、基本みんな宿泊所から出ない。理由は単純に、動くだけの元気がないからである。

 

しかし合宿開始から一週間が経った今は、これでも割とマシなほうである。

初日、二日目あたりは皆宿泊所に帰ってくるなり、布団の上で横になって爆睡した。

四日目あたりからまばらに声が聞こえるようになったが、それまでは無音であった。

 

そして今になってみほは知った。なぜ兄が、トランプやゲームなどの娯楽を宿泊所に持ち込むことを許可したのか。

答えは、持ってきても意味がないからである。だって、練習メニューが殺人的すぎて誰もそれで遊ぶ元気がないんだもの。

やけに寛容だった兄の態度を不審に思っていたが、とんでもない罠である。

 

ちなみに同様の理由で、寮に帰る人もいない。最初に言われた通り、宿泊所の使用は強制ではないのだが、全員帰宅途中で力尽きることが分かっているので、大人しく宿泊所を使っているのだ。というか寮に帰ったら、次の日は学校までかかる時間分早起きしないといけないわけで……それがみんな寮に帰りたがらない理由でもあった

 

「チームの名前ぇ……あーそんなのあったねぇ……」

「そういえばまだ決まってませんでしたねぇ……」

 

みほ達は掛け布団を被り、枕の上に顎を置いた状態で話していた。

内容は勿論、兄にせっつかれたチーム名の件である。とりあえず全員起きていたので、話を振ってみたのだが、沙織たちの様子を見ているとどうにも議論が進みそうにはない。

みんな疲れてるので、喋りが間延びしているし頭も碌に回っていない。そもそも次の瞬間には寝れる体勢で会話している辺り、やる気もない。

 

まぁ気持ちは分かるけど。

 

「みんな……このままだとテレビや雑誌でとんでもない名前で紹介されることになるよ?それでもいいの?」

「うぅ……虫は、虫の名前は嫌です……」

「………………………………………………………眠い」

 

しかし具体的な案は出てこない。みほは内心でため息をついた。

するとみほの横に、ふとシャンプーの香りが漂った。なんだろう、と目を向けると、そこにはお風呂上りなのか少し濡れた赤い髪をタオルで包んでいる角谷の姿があった。

 

角谷はみほの視線に気づいたのか、不思議そうに首を傾げた。

 

「どしたの西住ちゃん?もうお休みの時間?」

「あ、いえ……チーム名について話してたんですけど……」

「あー、渡里さんが言ってたやつ。まだ決めてなかったんだ」

 

まーウチもだけど、と角谷はカラカラと笑った。

みほは慌てて起き上がって、寝そべり体勢から女の子座りに移行する。

 

角谷は熱いのか、寝間着の襟元や裾をパタパタと仰いで風を入れようとしていた。

少し上気した頬とか、しっとりした肌とかその他諸々がキワドイ角度でチラチラ見えてしまって、みほは同性だが思わず視線を外した。

女子だけだから別におかしなことじゃないんだけども、なんとなく直視するのは躊躇われてしまう。

 

「で、どんなにするの?」

「そ、それがまだ全然……候補もなくて」

「そうなの?前の学校で使ってたのは?」

「黒森峰はチーム名がなくて……あっても数字とかでしたし」

 

そう考えると、やっぱり黒森峰は厳格な学校だった。一種の軍隊といっても過言ではない。

 

「お兄ちゃんはバッタとかカブトムシとか変な名前ばかりつけるし……なんとか自分たちで考えないとなんですけど」

「へー、まぁ西住ちゃんも『やっぱり渡里さんの妹だなぁ』って感じのセンスはしてるけどね。コソコソ作戦とか」

 

うそ、みほは愕然とした。

ちなみにみほと渡里が兄妹であることは、既に周知の事実となっている。そのことに驚いた人は、大体半分くらいだったけど。

 

「じゃあ西住ちゃんならどうする?」

 

当たり前といえば当たり前の質問に、みほは顎に指を添えて考えること約十秒。

 

「ウサギさんとかどうでしょうか?戦車って見た目が座ったウサギに似てるし……」

「あーー!!それ可愛いーー!」

 

ふぇっ!?と背後から響いた大声に、みほの両肩が跳ね上がる。

振り返るとそこには、それぞれの寝間着に身を包んだ一年生チームが、目を輝かせて立っていた。

 

「西住隊長!それ私たちにください!」

「え?え!?」

「お願いします!私たちもチーム名どうしようかって考えてたんですけど、いいの思いつかなくて!」

「可愛いのとか付けていいのかなって思ってたんですけど、名付け親が隊長なら問題ないですし!」

「それにほら、私たちの戦車の方が砲塔二本ついてる分ウサギっぽいですから!」

 

ぐいぐい、と布団の上に押し倒される勢いで寄られて、みほは慌てた。

いや、あげる分にはいいのだが、逆にいいのだろうか。所要時間わずか十秒、適当ではないがほぼ直感に任せたネーミングなのだが。

しかし一年生たちは大変熱望しているようで、みほが折れて名前を贈呈すると両手を挙げて喜んだ。

M3リーを駆る一年生チーム、改めウサギさんチーム爆誕の瞬間であった。

 

「動物かぁ~いいねー。じゃあウチも動物の名前にしよっかな。38tは背が低いし、亀っぽいからカメさんチームとか!」

「い、いいんですかそれで……」

 

38tは寧ろ機動力が高く、防御が薄いのだが。

生徒会チーム改め、カメさんチーム誕生。

 

「どうしますキャプテン?私たちのチーム名……」

「動物だとすると……八九式はなんでしょうか?」

「L字っぽい見た目……首が長くて上に伸びてる……」

「アヒルだ!確かアヒルの名前がついたバレーの漫画があったし、アヒルにしよう!」

 

それバスケットじゃなかったっけ?

しかしみほの声は届かず、バレー部チーム改めアヒルさんチーム降誕。

 

「我らはどうする?」

「三突は大洗女子学園最強の火力を持ち、かつ待ち伏せが基本的運用」

「平時は大人しく潜み、いざという時には恐ろしい威力の牙を剥く。そんな動物となると………」

「カバぜよ」

「「「それだ!!」」」

 

それだろうか。いやまぁ、本人たちがいいならそれでいいんだけど。

歴女チーム改め、カバさんチーム出現。

 

あちこちで名前が決まりはじめ、わいわいがやがやと盛り上がりを見せる宿泊所。その中にあって四号戦車チームは、明らかに乗り遅れていた。

いけない、私たちも何か名前をつけないと。沙織たちに視線を向けると、そこにはぐっすりお休みタイムの四人の姿が。寝るの早いよ。

 

その様を見て、角谷はイジワル気に笑った。

 

「あ~あ、やっぱり西住ちゃんのところは渡里さんに付けてもらうしかないんじゃない?」

「うっ」

 

それだけは嫌だ。しかしこのままだと、間違いなくその通りになる。他のチームは名前が決まったのに、みほ達だけが決まってないとなると……

 

何かないか。みほは戦車道の試合をしている時のように、思考を歯車を高速回転させる。

四号戦車の色は灰色系、形は普通の戦車で、そこそこのレベルでまとまったスペックは完全にバランス型。………あ、ダメだ。なんの特徴もない。というか特徴がないのが特徴だし。

 

「大洗女子学園は茨城県代表として試合に出るんだし、茨城か、大洗町に縁のある動物にするのはどう?」

「あ、それいいですね!」

 

奈良県は鹿、みたいな。もはや藁にも縋る思いのみほであった。

しかしそんな有名な動物はいただろうか?いや、角谷がそういうからには、何かいるのだろう。

期待の視線送るみほ。

角谷は満面の笑みで、その名を言った。

 

「大洗町だと有名なのは()()()()だねー」

 

みほは布団に突っ伏した。

兄の『ナマズさんチーム』といい勝負だった。

 

「茨城県の県鳥はヒバリ、県魚はヒラメだったかなー。どれにする?」

「あ、あの……その……」

 

本当にそこから選ばないといけないのか。愕然とするみほを他所に、沙織たちはぐっすりと眠っていた。

 

Aチーム改めあんこうチームが生まれた日の夜のことであった。

 

 

合宿は続く。まだまだ続く。多くの人間に、様々な思い出をつくりながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あんこうチーム?なんだこの変な名前」

「お兄ちゃんに言われたくないんだけど!?」

 




各チームの名前がどんな風についたかは想像です。
というか今回の話は全部想像。

細かい設定は失くした(クズ)


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第14話 「合宿を始めましょう②~五十鈴華~」

可愛い五十鈴殿を書きたかったのに、出来上がったのはド真面目な話。

おそらく原作でも最強レベルのメンタルを持つ五十鈴殿ですが、本作ではこんな感じになりました。





ほのかに吹く風が、頬を撫でていった。黒く長い髪が僅かに揺れて、僅かに香る花の匂いが鼻腔を擽った。

季節は春。それは芽吹きの季節。大洗女子学園の何処かで、今日も花が凛々しく、力強く咲いているのだろう。

 

何時でも、何処でも。

雨の日も、風の日も、雪の日も、どんな日々も耐えて、折れず、乗り越えて。

自分だけの色を美しく、綺麗に咲かせる。

そんな花の生き様を、華は物心つく前からずっと見てきた。

その度に思う、花とはなんと強いものなのか、と。

そんな風に、自分もなれたならどれだけいいだろうか、と。

 

 

 

 

「今日お前達にやってもらうことは一つだけだ」

 

そう言って、神栖渡里は背後にある木箱の山を指差した。

それが何であるのかは、一目で分かった。なぜなら収まりきらない分が、箱から飛び出してその姿を見せていたから。

 

「ひたすら弾を撃ってもらう。正確に数字を言うなら、600発だ」

「………え、それだけですか?」

 

アヒルさんチームであるバレー部チームの砲手、金髪とカチューシャが特徴的な佐々木あけびは拍子抜けしたように目を丸くしていた。

 

本日は合宿初日。文字通り目の回る朝練を終え、授業を一通りこなした後の戦車道の練習。

神栖渡里は、役職ごとにチームを作って、それぞれ別の練習をさせるという。

 

色々なところにチームが散っていく中、五十鈴華がいる砲手チームが連れてこられたのは、外であった。ここは砲撃訓練の際に使用する的が設置されていて、向こう500メートルは余裕がある真っ直ぐに開けた場所である。

なんでも神栖渡里が生徒会と協力して、砲撃訓練用に整備したらしい。そんなことを知ったのは、結構最近だったが。

 

ただ気になるのは、戦車の配置であった。倉庫の中にないから不思議に思っていたが、どうやら事前に持ってきていたらしい。そこはいいのだが、やけに的から離れているのはどうしてなのだろうか。離れすぎて、既に山林地帯に足を踏み入れつつあるのだが。

 

「勿論、ただ漠然と弾を撃ってほしいわけじゃない。一つ、ある課題を出す」

 

ピン、と指が一本立った。

 

「『弾道を掴むこと』、これだけだ」

「弾道、ですか……?」

 

弾道。それは読んで字の如く、弾の道。発射された砲弾が、どのような放物線を描いて目標に着弾するのか、という軌跡を指す。

 

「もっと詳細に言うと、戦車の角度、速度、砲塔の向き、ブレ、相手との距離、風向、風速、そういった諸々の条件下で、自分の撃った弾がどんな風に飛ぶのかを把握してほしいわけだが」

 

疑問符が乱立した。華も同様だった。

しかし渡里も予想済みだったのだろう。

いつぞや見たことのある小さなホワイトボードを片手に、順序立てて説明を始めた。

 

「前にも一回言ったが、戦車道の戦いは基本的に遠距離からの撃ち合いだ。主砲の性能にもよるが、だいたい500メートルが平均的な交戦距離」

 

さらさら、と書かれた図は、なんとも簡素で飾り気がなかった。

余計なものを書いてない分、分かりやすくもあるが。

 

「もちろんこれより近い距離、遠い距離で戦うこともある。聖グロと練習試合した時の大洗女子がまさにそうだな。相手の装甲が硬すぎた、ということもあるが、主砲が弱いから近距離で戦うしかなかった」

 

思い起こされるのは、砲弾の雨をものともせずに突き進む戦車の群れ。

目と鼻の先くらい距離まで近づき、装甲の薄い背面や側面をピンポイントで狙ってようやく攻撃が効く、という桁外れの防御力を見せた聖グロリア―ナだった。

 

「ま、それはともかくとして。どのチームの砲手も500メートルくらいは余裕で当てれるように練習しているし、それが素人と経験者を分ける一つの基準でもある。そして、それはお前達も例外じゃない。攻撃が効かないとかそんなの関係なく、この距離は当てれないとダメだ」

 

ホワイトボードには、『必須科目!!』と強調された。

 

「では今から行う練習は、そのためのものということですか?」

「正確には前段階かな。最終的なゴールはもっと別のところにあるが」

 

片眼鏡を光らせた河嶋に対し、渡里は苦笑交じりに答えた。

 

「当てろ、と言われて簡単にできるほど500メートルは近い距離じゃない。遠距離の砲撃すべてに言えることだが、必要なのは正確な俯仰角の設定だ」

「俯仰角……?」

「戦車の砲身は左右だけじゃなく、上下にも動くだろ。下に向くのを俯角、上に向くのを仰角といって、上下の可動域を俯仰角というんだ。これが砲撃における最重要ポイントなんだが……実際に見た方が早いか」

 

言うや否や、渡里は停車してあった五両の戦車の内、八九式へと乗り込んでいった。

 

「なにするんだろ?」

「さぁー?」

 

M3リーに乗る二人の砲手は、顔を見合わせて首を傾げた。

答え合わせは直ぐに行われた。

 

八九式の砲塔が、機械的な音と共に動き始める。動作を確かめるように左右に砲塔を振ると、砲身が相槌を打つように上下する。

そしてピタリと停止すると、一息。

 

轟音と、硝煙の香りが辺りを包んだ。

空気を裂くような音を響かせ、砲身から撃ち出された弾が向かう先は設置された円形の的。

直線的な軌道を描き、伸びて、伸びて、伸びて。弾は円形の的を貫く――――ことはなく、その手前の地面を抉った。

 

え、と五十鈴は声が漏れそうになった。いや、てっきり的を射貫くのかと思っていたのに、まさかの失敗。よーく見た結果、無情にも的に届かなかった弾が地面に突き刺さる様が鮮明に華の脳裏に焼き付けられた。

 

しかし本命は、すぐにやってきた。

不意を突くように轟音が響いたかと思うと、砲手たちの視線の先。そこには見事に中心点を射貫いた砲弾の姿があった。

遅れて華は悟った。一射目から間髪を入れず、渡里が二の矢を放ったということを。

 

「ま、こんなもんだ」

 

悠然と戦車から降りてきた渡里は、顔色一つ変わっていなかった。

的との距離は決して近くはない。もし同じことをやれ、と言われたら、できなくはないだろうが二射で中るかどうか。

男性とはいえ、指導者である以上これくらいの技術はある、ということなのだろうか。

みほの話を聞く限り、戦車道に関しては只者じゃないらしいが、正しくであった。

 

「一射目は仰角三度、二射目は仰角九度で撃った。傾きとしては大した違いじゃないんだが、見てもらった通り軌道が全然変わってくる」

 

ホワイトボードに二本の線が書き加えられる。

一つは物理の授業で見たことのある、水平投射の図によく似た軌道を描き、一方は山なりの軌道を描いていた。

 

「当たり前だが、弾は永遠に真っ直ぐ飛ぶわけじゃなく、重力に引かれて落ちる。これを低落する、といって、その落ち幅は相手との距離が遠いほど大きい。肝要なのは、この距離と落ち幅の比例の関係で、砲手はこの低落を計算して、適切な俯仰角を決めなければならない。これを間違えると、さっきの一射目みたいになる」

 

的まで届かず、地面に突き刺さるということである。

 

「これは近距離での撃ち合いには不要な技術だ。弾が落ちる前に当たるからな。何も気にせずトリガーを引くだけでいい。だがさっきも言った通り、低落が発生する距離で撃ち合うのが戦車道の基本だ。ここを押さえておかないと、話にならない」

 

そして渡里は、後ろにある大量の弾薬を指差した。

 

「そのための第一段階が、弾道を掴むことだ。とにかく撃って、撃って、撃ちまくって、自分が撃った弾がどんな風に飛ぶのかを身体に叩き込んでもらう。繰り返していれば、その内低落の程度も見えてくる」

「そのために600発撃つということですか」

 

華は途方もない気分になった。弾道を掴む、とは言うものの、要するにそれは600発も撃たないと身に着かないということ。経験不足なのは重々承知だが、そこまでしないと埋めようのない差が他の砲手との間にあるということか。

 

しかし眉を八の字にした華とは対照的に、渡里はあっけらかんとした口調で言った。

 

「別に全部使い切らないといけないわけじゃない。弾道を掴むくらいなら、200発くらいで充分だろ。まるっきり今日初めて撃つわけでもないし」

 

一同は「じゃあなんで600発もあるんですか」という顔をした。

 

「200発で充分、と言ってもそれはあくまで俺の予想だし、実際どれくらいの弾が必要になるかは分からなかったから、保険の意味を込めて600発用意したんだ。流石にそれくらいあれば大丈夫だろうし、逆に言うとそんだけ撃ってダメな奴は何回撃ってもダメだ」

 

さらりと辛辣なことを言う人である。しかしそれは単なる断片にしか過ぎなかったことを、華は直後に思い知る。

 

「この練習は今日一日()()しかしない。明日以降はお前達が()()に弾道を掴んだと想定して、別の練習をやるからな。今日一歩遅れた奴は、明日二歩遅れるし、明後日は三歩遅れだ……置いてかれたくないなら、死ぬ気でやった方がいいぞ」

 

何か冷たいものが、頬を撫でていった。

華は神栖渡里という人に対して、多く知っているわけではない。精々西住みほが知っている内の、十分の一くらいだろう。だがそれでも、一つだけ明確に理解していることがある。

 

この人は、戦車道では絶対に嘘をつかない。

 

それは良くもあるし、悪くもあった。今の言葉は、後者だろう。

何があっても、今日一日しか待たない。それは非情すぎるほどの宣告だった。

春の日差しのような温もりと、冬の寒風のような冷たさ。神栖渡里という人は、その両方を持っている。

 

「あと二時間もすると強い風が吹くようになる。弾道がめちゃくちゃになるから、気を付けろよ」

 

渡里はそう言って笑った。

その笑みの裏に隠されたえげつないくらいの厳しさ砲手たちが知るのは、ほんの少し後だった。

 

 

 

「あの練習凄かったもんねー。私はじめて見たもん、人間がお風呂で溺れそうになってるの」

「う、恥ずかしいです……」

 

昼休み、賑わう食堂のど真ん中に華たちはいた。

合宿中は朝食と夕食が出るが、昼食はその限りではない。いつも通り、お弁当を作るなり購買で買うなりしなくてはならないが、前者は身体が重くて不可能(元々華はお弁当なんて作ったことはないが)、後者は空腹ゲージ的に不可能、ということで最近のあんこうチームは、こうやって食堂で昼食を取るのがお決まりと化していた。

 

日ごとに変わる昼食のメニューと比べて、話題はいつも戦車道のことばかり。最近それしかやっていないと言っても過言ではないから、仕方ないことではあるが。

 

「結局500発くらい撃ったんだっけ?」

「だいたいそのくらいです」

「常識的な数じゃないな」

「しかも自分で装填しながら、ですからね。どう考えても普通じゃないです」

「あ、あはは……」

 

皆の言葉に、みほだけが苦笑いをした。

いま話題になっているのは、合宿初日に砲手たちがやった練習であった。

 

思い返してみれば、とんでもない練習だった。

肉体的にしんどいのは当然だったが、それ以上に痛めつけられたのは精神(メンタル)

華は初めて、心と脳が筋肉痛になるという感覚を味わった。

 

弾道を掴むこと自体は、そう難しいことではなかった。流石に十回やニ十回では話にならなかったが、撃った弾が百を超えた辺りで低落はほとんど把握できたし、俯仰角を調節して狙い通りの位置に弾を飛ばせるようにもなった。

この時点で渡里の課した目標は、八割ほど達成できていたと言える。

 

ならなぜ、そこから最終的に500発も撃つことになったかといえば、それは当然神栖渡里という人が原因であった。

 

『練習は各自で切り上げてくれ。完璧にできた、と自分で思ったらそこで終了だ。後は宿泊所でゆっくりするなり、自由にしてくれていいぞ』

 

なんとも優しい、と華は思ったが、今思えばこれは砲手たちの心を縛る魔法の呪文だった。

自分で判断する。それだけのことが、とてつもなく難しいことだったのだ。

 

250発目に差し掛かろうかというところで、華はそろそろ終わってもいいか、と思い始めていた。弾が勿体ないという気持ちもあったが、それ以上に撃った弾の軌道はほぼ自分のイメージと重なるようになっていたことが大きかった。充分、弾道を掴んだと言ってもいいレベルだと自負していたのだ。

 

しかし渡里の()()()という言葉が、二の足を踏ませた。

完璧。自分は、本当に完璧にできているだろうか。確かに十発撃てば九発は思い通りの軌道を描く。だがそれは、十発に一発は失敗しているという意味でもある。一度も失敗しているのなら、すなわちそれは完璧とは言えないのではないか。

それにこの練習は、今日限りと言った。もし何か穴があれば、明日以降はその穴をずっと引きずることになる。やれることがあるなら、今日中に全部やるべきだろう。

 

そんな風に考えたら、華は戦車から降りることができなかった。

疑念が迷いを生み、迷いから不安が生じ、不安が疑念を芽吹かせる悪循環。

誰もが、その環に囚われていた。

 

結局華も皆も弾を撃ち続け、そして600発撃ち切る前に身体と精神の限界が先に訪れた。

半ばリタイアする形で練習を終え、肩を支えられながら宿泊所まで帰り、夕食を済ませた後お風呂に入っていたらいつの間にか眠っていた。一緒に入っていた沙織たちがいなければ、危なかったかもしれない。

 

「でもやった意味はあったんでしょ?華、自分で調子いいって言ってたもんね」

「はい、あの練習以来、砲撃の感触がすごくいいんです」

「確かに。華さん元々上手だったけど、最近はもっと上手になってるよ」

 

鬼のように厳しい練習だったが、それ相応の対価はあった。

合宿以前はどうしても精度にムラがあり、安定した砲撃ができなかったが、今はしっかりとコントロールできている自信があり、的に当たる確率もどんどん上がってきている。

それは、とてもいいことなのだろう。

 

「……ですが、少し思うことがあるんです」

「え?どしたの?」

 

華の言葉に、沙織は納豆をかき混ぜる手をピタリと止めた。

 

「あの練習は、本当に弾道を掴むためだけの練習だったのでしょうか……?」

「えっと、どういうことですか?」

 

首を傾げた優花里に、華は言葉を続けた。

 

「渡里先生の練習は、どれもよく考えられているじゃないですか」

 

例えば鬼ごっこ。渡里はスタミナをつけるための練習と言っていたが、おそらくそれだけじゃない。無線を使ったコミュニケーション能力、思考の言語化、状況把握能力、暗く狭い視界への適応など、複数の能力をまとめて鍛えている。

これは、当時は気づかなかったが、みほ達と戦車道の話を重ねていく内に見えてきたことでる。

 

「一つの練習に複数の意味があるといいますか……」

「えーどうなんだろ……」

「私は五十鈴さんの言う事に一理ある」

 

眉を八の字にして首を傾げた沙織とは対照的に、静かに断言したのは、デザートのショートケーキをもっきゅもっきゅと食べていた麻子だった。彼女は利発そうな表情のまま、言葉を紡いだ。

 

「私も色々な練習をやらされているが、そのどれにも一切無駄がない。本当に意味があるのかと思ったようなことも、実際に戦車を動かすと実感する。……あの人の練習は、効率がいい」

 

だから一の練習で一の経験値を稼ぐようなことはしない。一石を投じるなら、二鳥ではなく四鳥くらい落としたいと、そんな風に考える人なのだ。

華は、みほの十分の一くらいしか神栖渡里という人を知らないが、それだけは断言できる。

 

「お兄ちゃん、自分でも言ってたしね……効率重視って」

 

妹からの援護射撃が入り、華の説は信憑性を増した。

 

「昔っからそうなの?」

「うーん、どうだろ……ほっとくと呼吸もしなくなるくらいのめんどくさがり屋だし、効率とか気にするならもっと有意義に生きてるんじゃないかな」

 

これは最近知ったことだが、みほは渡里に対して結構遠慮のない物言いをする。

それだけ心の距離が近いということなのだろうが、普段の丁寧な態度のみほと比べると新鮮である。

 

「多分戦車道だけだよ、お兄ちゃんがそんな風に頭使うのなんて」

「神栖先生はほんとに戦車道が好きなんですね……」

 

優花里の言葉からは、改めて感心するような気持ちが感じ取れた。

華も同じ気持ちだった。だから、あの人が作った練習の意味を、全て知りたいのだ。

そうすればきっと、今よりもずっと、ずっと……

 

「戦車道さえあれば他に何にも要らない人だもん。その分、誰よりも戦車道に真剣なの。だからきっと、みんながやってる練習もすごく時間をかけて考えたんだと思うよ」

 

その時のみほの表情は、形容しがたいものだった。

誇らしげではあるものの、どこか悲しそうな、そんな曖昧な笑み。

しかしそれはほんの一瞬だけで、すぐにみほはいつもの明るい表情になっていた。

 

「華さんが何を知りたいのかは分からないけど、何か気になることがあるなら、お兄ちゃんに聞いてみてあげて。戦車道の話なら、何でも付き合ってくれるから」

 

それ以外は何の役にも立たないけど、と辛辣な一言を添えて、みほは笑った。

するとイジワル気な顔をして、沙織が口から矢を放った。

 

「みほも昼休みに結構会いに行ってるもんね?」

「ふぇっ!?い、いやそんなに行ってないよ!?」

「いや行ってるよ。それにいっつも昼休みが終わるギリギリまで帰ってこないし、やっぱりみほってちょっとブラコン入って――――」

「そういう沙織は、昨日夜遅くに渡里先生と何か話してなかったか?」

「あ、私も見ました!食堂で一時間くらいずっと―――――」

「それ以上はダメ―――――!!??」

「沙織さん!?」

 

途端、周囲の喧騒に負けないくらいのどんちゃん騒ぎが、テーブルの上で巻き起こる。

顔を赤くして、平然としていて、慌てたようにして、興味深げに目を光らせて――――そしてみんな、楽しそうに笑っている。

 

そんな様子を見ながら、華は密かに決意した。

 

 

神栖渡里を、訪ねよう。

 

 

 

 

 

神栖渡里が生徒会から貰ったという旧い用務員室は、生徒から忘れ去られたかのように校舎の隅っこにある。

華の教室からは遠くないが、何か余程のことがなければ来ない場所でもあり、実際華は高校二年目にして初めて訪れた。昨日みほに場所を聞いていなかったら、少し迷ったかもしれなかった。

 

少しの緊張を伴って、華は『用務員室』というプレートを提げた部屋の前に立つ。

文字は少し擦れていて、プレートはだいぶ汚れが目立つ。おそらく相当使い古されているのに、買い替えもせずそのまま使いまわしている辺り、神栖渡里という人の性格が分かる気がする。

 

扉の前で大きく深呼吸をし、一息。

トントントン、とノックをすると、中から聞き馴染みのある声が返ってきた。

 

「い、五十鈴華です。渡里先生に用があってきました」

 

あまり緊張する性質ではないと自負していたが、何故かこの時華の声は少し震えていた。

その理由を考える間もなく、言葉が返ってきて、華はドアノブを回し、部屋の中に足を踏み入れた。

 

「散らかってて悪いな。座れるところに適当に座ってくれ」

 

まず華の目に入ってきたのは、紙の束、の山だった。

部屋の中央に置かれた長方形の机の上に、書類のようなものが幾重にも積み重なっていて、空いてるスペースは極小。ノート一冊と筆記用具、それからティーカップを一つだけ置けるだけのスペースが、ギリギリ渡里の手元にある。

もはやそれはゲーム終盤のジェンガのようなものだった。いつ紙束が雪崩を起こしてもおかしくはないだろう。

渡里はそんな中で、まるでこれが普通であるかのように平然と作業をしていた。

 

早速面食らった華は、若干困惑しながら歩を進め、座れる場所を探した。

机を挟む形でソファーが二つ置かれており、両方とも人二人が並んで座れるくらい大きい。

しかし一方は渡里が占拠していて、もう一方は雑に積み重ねられた本が占領していた。

ここにも山があった。

 

「本が邪魔なら避けといてくれ。床に置いてもいいから」

「そ、そんなことはしませんけど……」

 

周りを見渡すと、座れるような場所は二つのソファーしかない。

渡里の横に座るのは流石に無理だから、この本を片づけて座るしかないだろう。

とりあえず華は、本が傷つかないよう丁寧に動かして、自分が座れるだけのスペースを確保した。

 

改めて部屋の中を見てみるが、なんというか凄い荒れ方をしている。足の踏み場がないほど散らかってるわけではないが、逆に言うと足の踏み場だけは確保するような物の置き方をしているので、本当はもっと広いはずの部屋がやけに狭く感じる。

しかし不衛生ではない。換気をしっかりとしているのか、埃っぽくなく部屋の空気は清々しいし、不思議と心地よい匂いがする。さながらそれは、古書店のような妙な清潔感だった。

 

「ここに来た奴は、みんなそんな顔をするよ」

「あ、いえっ。失礼しました」

「まー、この散らかり様だからしょうがないよな」

 

自覚はあるのか、と華は恐縮しながら思った。

 

「それで、何の用?」

 

渡里はボールペンを動かす手を止め、ソファーの背もたれに身体を預けた。

黒い瞳が、静かに華を貫く。単刀直入な物言いといい、迂遠な会話をする気はないようである。

本当は少し、心の準備をしたかった。だが訊かれてしまったら、もう言うしかない。

ずっと考えていた言葉を、華は一気に吐き出した。

 

「――――今よりもっと、強くなりたいんです」

「――――――うん?」

 

華の言葉に、渡里は興味深そうに瞳を輝かせた。

一切の装飾を排し、端的すぎた言葉だったが、ひとまずは肯定的な反応が返ってきたことに華は安堵した。

渡里は視線で続きを促す。

 

「私が砲手として、もっと高みに行くためにはどうすればいいか。それを教えて頂きたいんです」

「………なるほど。向上心があるのは良いことだ」

 

腕組みをして、渡里は一つ頷いた。その表情から、心境を読むことはできなかった。

 

「でもちょっと具体性に欠けるな。強くなりたいって言うんなら、この合宿を最後までやり遂げればいい。そうすれば()()よりずっと強くなれる。……でも雰囲気から察するに、そういうことじゃないんだろ?」

 

じゃなきゃわざわざ俺のところに来ないだろうし、と渡里は華の反応を伺った。

今度は華が頷いた。そんな当たり前のことを訊きたかったわけじゃない。

 

「だったら、なんでそんなことを思ったのか、その理由を教えてほしいな。そうじゃなきゃ、俺が力になれることは何もないよ」

 

そして渡里は優雅な手つきで、お洒落な装飾がなされたティーカップを手に取った。

華の言葉を待つ、ということなのだろう。

それは当然のことだった。華は渡里に本気で応えてもらいたい。

ならば、まずは華が自身の本気を、その根底にある、想いを示さなければならない。

 

「………みほさんは、最初戦車道をやりたくないって言ってたんです。その時は理由を教えてくれませんでしたけど、どうしてもやりたくない、と」

 

思い出されるのは、いつかの教室での一幕。

生徒会によって流された戦車道のPVを見て、乗り気になった華と沙織とは対照的に、みほは香道に丸をされたプリントを差し出して、本当に申し訳なさそうにそう言った。

 

「私は、みほさんと沙織さんと一緒なら何でも良かったんです。だからみほさんが戦車道をやりたくないなら、それでもいいと思ってました」

 

でもそれを許さなかった人達がいた。

行内放送を使ってまでみほを呼び出し、生徒会室に連行して、直接詰問してきたのだ。

華はそれを、許せなかった。だから沙織と一緒に、みほを守ろうとした。

 

「生徒会の人達と言い争って、最終的には、みほさんは戦車道をやると言いました。私と沙織さんがいてくれるなら、大丈夫だと、そう笑って」

 

でもそれは、本当に本心だったのだろうか。

自分たちがいるから頑張れると、そう言ってくれたのはすごく嬉しかった。でもあんなに嫌がっていたものを、そうすんなりと受け入れることができるのだろうか。いや、きっとできない。

 

「だから私は、密かに決意したんです。みほさんが戦車道を怖くなくなるまで、傍にいて力になろうと。何があっても、みほさんを支えようと」

 

流石に恥ずかしくて、誰にも言えなかったけれど。

でも華は本気でそう思っていたのだ。

 

しかし………

 

「聖グロリア―ナとの練習試合、みほさんは自分のせいで負けたと言いました。自分がちゃんと合図できてれば勝てたのに、と」

 

チャーチルとの一騎撃ち。仕掛けられた罠を食い破り、背後へと回り込んだ四号戦車は、最後の一手を打ち損ねた。掌にあった勝利は瞬く間に滑り落ち、四号戦車は白煙と白旗を上げることとなった。

 

それを西住みほは、自分の責任だと言った。

華はそれを、心の底から悲しんだ。そしてそんなことを言わせてしまった、自分を恨んだ。

 

「本当は、私のせいなんです。あの時私が、トリガーを引けていれば勝てていたんです」

 

砲撃は、車長と砲手のコンビネーションである。車長が指示した場所へ、車長が指示したタイミングで、砲手が撃つ。

だからあの時、四号戦車は砲撃が遅れた。司令塔たる車長のみほが、砲撃のタイミングを合図できなかったから。だからみほは、自分を責めたのだ。自分がちゃんとできていれば、と。

 

でも、それは華だって同じだろう。

やることは明確だった。例え車長(みほ)の合図がなくとも、自分でちゃんと考えて、自分の判断でトリガーを引けばよかったのだ。

 

でも華にはそれができなかった。

簡単な話だ。華は、みほに頼り切っていた。ただただ、みほの言う通りに撃っていれば、それでいいと思っていた。

盲目的に、思考放棄して、無神経にみほに依存していたから、あの時華は撃てなかった。

 

「支えたいなんて思いながら、私がやっていたことはその真逆です。自分でどうこうせず、結局みほさんに全てを任せて、全ての責任を背負わせてしまった……」

 

最初からこんなことを考えていたわけじゃなかった。負けてしまったのは悔しいけれど、次また頑張ればいい、とそんな風に考えていた。

でも華は、みほの過去を知った。

仲間を助けようとしただけなのに、全ての人間から恨まれ、詰られ、弾劾されたという過去を。

酷い話だ。車長のみほが戦車から降りたから、フラッグ車は撃破されたというが、そんなの戦車に残っている人たちが自分で考えて戦車を動かせばよかっただろう。みほ一人に責任が集中するのはあんまりだ。

 

だが、華は気づいた。自分がやったことは、その人たちと同じだ。

車長が合図してくれなかったから、撃てなかった?

―――そんな考えが、みほを追い詰めたんじゃないか。

皆で一緒に強くなればいい?

―――そんな考えで、何が変わるというんだ。

 

今のままじゃ、五十鈴華は西住みほの、重荷になるだけだ。

 

「だから強くなりたいんです。今度こそ、みほさん一人に全てを押し付けないように。本当の意味で、みほさんの力になれるように……!」

 

二度とみほが悲しまないで済むように、華は強くなりたかった。

頼るだけじゃなく、頼られるようになりたかった。

 

それが五十鈴華の、嘘偽りのない、心の底から願うことだった。

 

「―――――――――そっか」

 

静かに華の話を、想いを聞いていた渡里は、瞑目してただ一言だけ呟いた。

そして秒針が一回転するほどの時間、部屋の中は静寂に包まれた。

その間華は何も言うことができなかったし、渡里は華の言葉を反芻しているようだった。

 

やがて大きく息を吐くと、渡里の黒い瞳が華を再び貫いた。

聴き心地の良い低い声が、華の鼓膜を打つ。

 

「お前の想いは、よく分かった。みほが、どれだけ友達に恵まれたかもな」

 

神栖渡里という人は、公私をキッチリと分ける。例え妹でも公の場では姓で呼ぶし、言葉遣いもガラリと変わる。今の渡里は、()の状態だった。

 

渡里は、髪を掻きまわしながら呆れたように言った。

 

「とりあえず言いたいのは―――――――抱え込みすぎ病だなぁ、お前もみほも」

「……え?」

 

返ってきた言葉は、華の想像の斜め上をいった。

渡里の言葉は続く。

 

「真面目なのは結構だが、そんなに思いつめられると困る。もっと肩の力抜けよ、パンパンに膨れた風船は割れるしかないんだぞ」

「わ、私は真剣に―――――」

 

予想外に軽々しい渡里の対応に、思わず華の声が大きくなった――その瞬間だった。

渡里の指が、机を一度叩いた。それは決して大きい音ではなかったが、華の言葉を無理やりに止めた。

意識が、黒い瞳に吸い込まれる。

 

()()()()()()()()()……みほもそうだったけど、そんな風に考えるのは間違ってるよ」

 

軽く怒るような口調は、華にとって体験したことのないものだった。

静かに窘めるような母とも、家元の娘だからと過保護な奉公人とも違う、不思議と心の奥にじんわりと染み込むような語りだった。

 

「戦車道は団体競技だ。戦車は一人では動かせないし、チームは戦車一両では機能しない。だから戦車道の世界には、誰か一人のお蔭で勝つことも、誰か一人のせいで負けることもない。勝利も敗北も、皆で分かち合うものなんだ」

「――――――っ」

 

それは非難と擁護、両方の意味が込められていた。

放たれた言葉の矢は、鋭く華に突き刺さる。

 

「一人の力なんて高が知れてる。どんなに凄い戦車乗りでもそれは変わらない。だから、皆の力を合わせることに意味がある……責任感が強いのはいいことだけど、それだけは忘れないでほしいな」

 

お前のそれは、思い上がりだ。暗にそう言われた気がして、華は俯くしかなかった。

すると渡里は、困ったように頭を掻いた。

 

「ただ勝敗に直結しないだけで、ミスってのは存在する。みほが合図できなかったのも、お前が引鉄を引けなかったことも、お前達自身の過失だ。そこを有耶無耶にするのはよくない……自分の失敗を自覚できてるのは、褒められるべきことだと思うよ」

 

それを重く考えないでほしいだけさ、と言って、渡里は初めて笑った。

それは、みほに向けるものと同質であった。

諫められたのか褒められたのか、よく分からなくなった華はぽかんとしてしまった。

 

「とまぁ、誤りを正したところで本題だが……お前の言う強い砲手ってのは、だいたい話を聞いてて分かった。結論から言うと、それに応えることはできる」

「本当ですか!?」

「当然、特別な練習メニューをこなしてもらうことにはなるけどな」

 

なら早速、と勇み足になった華を、渡里は指一本で制した。

 

「ちょっと、俺の考えを聞いてくれないか?」

 

そう言って、渡里は紙の山から一枚の紙を綺麗に抜き取り、華に差し出した。

読め、ということなのだろうか。ひとまず受け取った華は、書面へと視線を移した。

 

「それはお前の能力を簡単なグラフにしたもんだ。上半分は合宿が始まる前のデータ。下半分は合宿が終えた時の推定値だ。見て分かる通り……」

「すごく、グラフが伸びていませんか……?」

 

華の目には、グラフの上限に迫るくらいまで伸びているように見える。

華の言葉に、渡里は頷いた。

 

「本当はあまりこういうことを言うべきじゃないんだろうが、五十鈴。このまま順調に合宿メニューをこなせば、お前は全国で五本の指に入る砲手になれる。これは希望的観測でもお世辞でもない、データに基づいた事実だ」

 

その言葉を平然と受け入れることができるほど、華の処理能力は優れているわけではなかった。

他人が聞けば何を馬鹿な、と嘲笑するようなことを大真面目に言ってのけた目の前の男性を、華は瞠目して見つめた。

 

「言っとくが、俺の練習をこなした奴が全員、お前と同じように強くなれるわけじゃない。単にそれだけのポテンシャルが、お前にはあるってだけだ」

「私が……ですか……?」

 

嬉しい、という感情ではなかった。ただただ、頭の中の歯車が空転しているような感覚だけが華の中にある。

 

「で、どうだ?」

「は、はい?」

 

黒い髪が、静かに揺れた。

 

「具体的な根拠は言わないが、お前はこのままでも全国に何百人といる砲手たちの中で、上から五番以内に入れるんだ。……()()()()()()()()()()()()()()と言えないか?」

「っ!」

 

それは……確かにそうかもしれない。華は何か具体的な指標を持っていたわけではないが、言われてみれば全国ベスト5に名を連ねるレベルの砲手というのは、華の思い描く理想の自分と重なる。

そんな高みに行けるというのなら、是非もなかった。

しかし、

 

「あの、先ほど仰っていた特別な練習というのは…」

 

このまま合宿を続けていれば、華の願いは叶う。ならばそれは渡里の先刻の言葉と、少し矛盾することだった。

 

華の指摘に、渡里はこの日初めて見せる表情を浮かべた。それは明るいものではなかった。

 

「それはな、合宿の練習に組み込まれてるものじゃなく、合宿の練習に上乗せするものなんだ。つまりお前だけ、他の受講者より練習量が増える。問題はそこなんだ」

「えっと……どういうことでしょうか?」

 

それは普通に当然のことだった。

 

「さっきも言った通り、合宿を最後までやり遂げれば、お前は全国で五指に入る砲手に慣れる。だがここに加えて特別な練習メニューをこなせば、それよりもっと上のレベルに行ける……それこそ、日本一の砲手になることだってできる……かもしれない」

「日本一!?」

 

この人は一体何度自分を驚かせるのだろうか。

いよいよ話は現実味を失い始めていたが、語り手が神栖渡里であるという点によって、華はかろうじてリアリティを失わずに済んでいた。

 

「だが当然、簡単な道じゃない。心身共に、相応の負担がかかる。ただでさえ合宿はお前らの限界ギリギリでやってるんだ。練習の追加は、完全にその限界領域の外側になる……はっきり言うが、故障しても何もおかしくない」

 

渡里の言葉は続く。

 

「もし故障すれば、通常の練習にも参加できない。そうなったら、さっき言った全国で五指に入るという話もなくなる。あくまでそれは、合宿をやり遂げたらの話だからな。途中離脱すれば、その時点でお前は砲手として上の下、それ以上になることはない……やるというなら、もう走り抜けるしかないんだ」

 

合宿を完遂することだけを考え、全国トップクラスの実力を手に入れるか。

追加で練習を行って、全国トップの力を手に入れるか。

前者には何のリスクもなく、後者は一度でも足を止めれば暗澹とした未来が待っている。

 

「全国で上から五番目に入る砲手なんてな、一つの学校に一人いれば十分すぎるくらいだ。そんなレベルの砲手が自分の指揮する戦車に乗ってる……車長にとってはこれ以上ない僥倖だろ。だから、わざわざ危険を冒してまでやる必要はないんじゃないかと思う」

「……ですが、それは日本一の砲手になっても同じことですよね?なら――――」

「確定じゃない。やらないよりは、上のレベルに行けるかもしれない、ってだけの話だ」

 

渡里の瞳が、鋭さを増した。深淵の宇宙のような圧力が、華を包み言葉を封じた。

 

「やるというなら、俺は一切手加減できない。お前がついてこれなくなりそうでも、足は止めない。お前が折れたら、そこで全部終わりだ」

 

神栖渡里は、戦車道では絶対に嘘をつかない。

硬直した華に、渡里は存外柔らかな口調で告げた。

 

「一日時間をあげるから、ゆっくり考えろ。そんで明日、同じ時間にここに来て、お前の答えを聞かせてくれ」

 

 

 

 

五十鈴華は暗い廊下を歩いて、食堂へと向かっていた。

いつもならこの時間は、とてつもない疲労感で布団に潜るとすぐに寝てしまうのだが、今日は不思議と目が冴えてしまって、中々寝付けなかったのだ。

 

理由は言わずもがな、昼休みにあった神栖渡里との会話である。

示された二つの道の、どちらを選ぶべきなのか。

華は未だ答えを出せずにいた。

 

何を言われても、何でもやるつもりだった。

渡里が華の求める答えを持っていることに疑いはなかったし、みほのためなら、それがどんな犠牲を払うことでもやってみせる心意気だった。

 

でも華は、迷っている。

これが、一方を選べば一方を捨てるような、そんな分かりやすい選択肢なら良かった。でもどっちを選んでも、華の「みほを支えたい」という願いは叶ってしまう。

叶ってしまうから、華は悩む。

 

渡里の言うことは、おそらく正しい。

華は漠然と強くなりたいと考えていただけで、その強度については考えていなかった。だから、日本一の砲手でも、五指に入る砲手でも、どっちでもいいと思ってしまう。

だって、どちらもみほの力になれるから。なら、どっちがよりみほの力になれるだろうか。

それはきっと、前者だ。なら、そちらを選ぶべきだろう。

 

でもその道は、茨の道。

もし失敗すれば、華は真ん中より少し上なだけの砲手。

一度歩き始めたなら引き返すことはできず、失えば取り戻すこともできない。

 

なら、と華は考えてしまう。

渡里の言う通り、その程度で十分かもしれない。何百、もしかすると千を超える砲手の中で、上から五番以内。それだって、十分凄いことだろう。

このままでもいいなら。変に危険は、冒さなくてもいい。

 

でも、とまた華は考える。同じところを、ずっとぐるぐる。

 

覚悟を決めたつもりだった。でもそれは、あっけなく揺らいだ。

華は、自分の弱さを再認識した。

 

こんなことばかり考えてたら、それは眠れるものも眠れない。

だから水でも飲んで、少し気分を変えようと思って食堂に来たわけだが……

 

(明り……?誰かいるのでしょうか?)

 

夜間はほとんどの照明が消える校舎。食堂もその例外ではないはずだが、今夜は扉越しに煌々とした輝きが漏れていた。

まさか消し忘れでもないし、と覗いてみると、そこには華が良く知る人物がいた。

歩み寄り、その名前を呼ぶ。

 

「みほさん?」

「ふぇっ」

 

声をかけられた方があまりにも大きく肩を震わせたので、声をかけた方も同じくらいびっくりしてしまった。

見慣れた栗毛の少女は、くりっとした目を更に丸くした。

 

「華さん?どうしたの、こんな時間に」

「みほさんこそ……」

 

広い食堂の真ん中にポツリと、一人占めするように西住みほはいた。

椅子に腰かけ、スリッパを履いた足をプラプラとさせ、右手にはシャープペンシルを持っている。

 

みほは照れくさそうに笑った。

 

「私は、ちょっと戦車道の勉強をしてたの」

「勉強、ですか?」

 

机の上には、びっしりと文字が書き込まれたノートと、戦車道関連の本が並べられていた。

一見しただけで分かる、今の華では理解できないほどの上級者向けばかりということが。

 

「みんなと違って、車長の私たちはお兄ちゃんから何も言われてないから。だから今の自分がやるべきことはなんだろって考えたら、少しでも戦車道に詳しくなることかなって」

「そんな……みほさんは十分詳しいじゃないですか」

 

戦車道の名門、その直系の次女。転校以前は、全国屈指の強豪校、黒森峰女学園に在籍。

みほが持つ実力と知識は、その出自と経歴に伴う評価に一切見劣りしない。

 

華の言葉に、みほは首を振った。

 

「知ってても、私はお兄ちゃんみたいに上手く説明できなかったりするし、知らないことは何にも言えない。分からないことがあったらお兄ちゃんに聞けばいいかもしれないけど、試合が始まったらそうもいかないでしょ?」

 

だから、とみほは健気に笑った。

 

「もしそうなった時、みんなを支えられるようになれたらいいなって」

「みほさん……」

 

それこそ十分です、と華は言いたかった。

聖グロとの練習試合で河嶋の作戦が失敗した時、真っ先に状況を打開したのは、みほだった。その後も河嶋に代わり作戦を立て、皆を引っ張ってくれた。聖グロと互角以上に渡り合えたのは、みほがいてくれたからだ。

 

しかし言葉は、華の喉元から出てこようとしなかった。

その理由は、きっと自分の心にあった。

代わりに出てきたのは、ありきたりな言葉だった。

 

「いつからやってるんですか?」

「合宿が始まって、少ししてからかな。最初はしんどくてそれどころじゃなかったし」

 

みほは苦笑した。

 

「最近は身体が慣れて、寝るまでに多少動けるようになったから、少しでも何かしたいなって思って。でも戦車に触ろうと倉庫に行ったら、お兄ちゃんに追いだされちゃって……」

 

帰れ。身体を休めろ。できないなら身体の代わりに頭動かせ。

みほはそう言われたらしい。

 

「だから、こうやって食堂で勉強してるの。宿泊所じゃ明りは使えないしね」

「なら……こんな時間までやらなくたって。まだまだ合宿は続きますし、身体を壊してしまったら……」

「あはは……確かにそうかも」

 

みほはバツが悪そうに頬を掻いた。

時間は23時をとっくに過ぎていた。

 

「でも、私はまだなんにも分からないの。お兄ちゃんから言われた、自分だけの戦車道っていうのが」

 

みほのほろ苦い笑みに、華は胸が締め付けられるようだった。

自分の、自分だけの戦車道。何があろうと決して揺らぐことのない、心の支柱。

みほには、それがない。だから迷うのだと、渡里は言ったという。

厳しい言葉だ。でももしかすると、それは華にも当てはまることかもしれなかった。

心が、翳りを見せる。

 

「――――だから今は、何でもやってみたい。何がきっかけになるかはわからないし、もう弱いままじゃいたくないから」

 

しかしみほの瞳は、光を失っていなかった。

揺らぎながら、震えながら、それでも消えない灯が、弱弱しくもそこにある。

 

「辛くても、しんどくても、頑張れってお兄ちゃんに言われちゃったしね。何があっても行けるところまでは行くって、もう決めてるの。だから私は大丈夫だよ、華さん」

 

ありがとう、という声が、華にはやけに遠くに感じられた。

何があっても行けるところまで行く、その言葉だけが、耳に残る。

そしてそれは、思わぬ行動を起こす契機となった。

 

「………みほさん、一つ聞いてもいいですか?」

「いいよ?」

 

早まった心臓の鼓動が聞こえる。

こみ上げる言葉を音にするのは、少なくない勇気を必要とした。

少しの躊躇いと共に、それを吐き出す。

 

 

「私が強い砲手に、日本で一番強い砲手になれたら、みほさんの力になれますか?みほさんの、支えになれますか?」

 

 

声が少し震えた。

母と話した時は、もっと気丈であれたはずなのに。

 

華の言葉に、みほは少し驚いたような顔をした。

自分も同じ顔をしているかもしれない、と華は思った。本当は、言うつもりはなかった。これだけは、自分一人で答えを出そうと思っていたから。

でももう、引き返せない。

 

みほの答えは、すぐそこまで来ていた。

 

 

「私は―――――――」

 

 

 

 

翌日、華はキッカリ同じ時間に渡里の元を訪ねた。

一日経ったくらいで変わるような部屋ではなかったらしく、またもや積み重ねられた本やら紙やらが縦横無尽に散乱する中、渡里は黙々と作業していた。

 

渡里は来訪者が華であることを知ると、ペンを置き、姿勢を正した。

そして黒い瞳を、静かに向ける。

 

「決まったか?」

 

単刀直入な物言いに、華もまた何の装飾もなく答えた。

 

「はい―――――――――私は、自分が行ける限界まで行こうと思います」

「………そうか」

 

選んだのは、茨の道。

華の言葉に、渡里は大して驚く様子を見せなかった。

しかしこの人は、自分が逆のことを言っても同じ反応をしただろう、と華は思った。

 

「本当にいいんだな?情けも、容赦もない。お前の身体がぶっ壊れようが、心が折れようが俺は絶対に手を緩めない。大会が始まるまでの数か月間、お前の全てを戦車道に捧げてもらうことになる。後悔したって、引き返せないぞ」

「はい、構いません」

 

黒い瞳を真っ直ぐに見返し、華は言った。言ってやった。

もう何を言われたって、華は揺らがない。揺らいでたまるかと、心に決めたのだから。

 

「………わかった。なら、止まるなよ」

 

それっきり、渡里は何も言わなかった。

深く一礼し、華は部屋を後にする。

 

ふと、右手を眺めた。

今まで華道しか知らなかった手。花を活けることしかできなかった手。

これからそこに、戦車道を刻んでいく。

その先に何があるのかは、華には分からないけれど。

 

『強いとか弱いとか、そういうのは気にしないよ』

 

心に留めた言葉がある。

五十鈴華が、覚悟を決めた理由。何があっても絶対に揺れない道標。

 

『私は、私の前の席に華さんがいてくれたら、それだけでいいの。それだけで、私は頑張れるから』

 

本当はわかっていた。西住みほという少女はどこまでも優しいから、きっと華に強くなってほしいなんて言わない。

 

でもそれでいいんだ。そんなみほだから、力になりたい。

少しでもこの人を支えられるなら、どんなことでもやってみせる。

もう二度と、迷わない。

その時華は、心の底からそう思った。

 

「折れません、絶対に」

 

どんな厳しく辛い環境でも、自分だけの色を美しく綺麗に咲かせる花のように。

そんな強い自分になってみせると、華は誓った。

 

 

 

 




実際に俯仰角を変更したくらいでどれだけ軌道が変化するかは知りません。

五十鈴殿の比較
原作→華道のために戦車道やる(華道≧戦車道、あるいは華道≒戦車道)
本作→みほのために戦車道で強くなりたい(華道<戦車道)

砲撃&走行訓練一回~二回(おそらく)で全国屈指の強豪校相手にバンバン弾を当てていく戦車道歴一週間未満の原作五十鈴殿はいったい何者……?


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第15話 「合宿を始めましょう③~秋山優花里~」

今までで一番難しかった回。
秋山殿のキャラが掴めねぇ……でも好き。

戦車道の陰の功労者、それが装填手。
カルパッチョとカエサルの戦いは大好きです


神栖渡里という人は、とても不思議な人である。

優花里の中の印象は、それに尽きる。

 

まず男性でありながら、戦車道の講師をしていること。

いつぞやの蝶野亜美がそうであるように、指導者の存在自体は何も珍しいことではない。ただそこに、『男性の』という言葉がつけられることは滅多にない。

 

戦車道は女性の競技。選手も、審判も、競技に関わる者全員が女性であり、そこに男性の姿はない。あるとすればそれは、精々が運営や整備士くらい。男性指導者なんて、それこそツチノコレベルの希少性だろうし、実際優花里は何年も戦車道の情報を集めてきたが、一度も目にしたことが無かった。

 

そんな空想上の生き物みたいな人を、講師として大洗女子学園に招聘したという生徒会は、一体どこでこの人のことを知ったのだろうか。

優花里も神栖渡里と出会ってから、あれやこれやと手を尽くして調べてみたのだが、出てきた情報はたった一つだけ。しかもその一つも信憑性が低いものとなれば、いよいよ神栖渡里の存在は霧に包まれていく。

その辺りの事も、不思議といえば不思議である。

 

そんな実績も経歴もある意味ゼロな神栖渡里だが、指導者としての腕は確かだと思う。

一見変な練習を優花里たちにやらせているようだが、ちゃんと理に適っているし、いくつもの意味が込められている。無駄なことが、一つもないのだ。

戦車道を教える者として、ちゃんと独自の理論を持っているということなのだろう。

そしておそらく、その理論を獲得するために費やした時間と努力は、並大抵じゃない

 

とくに凄いと思うのは、知識量。何を聞いても、答えがちゃんと返ってくる。戦車のスペック、歴史、戦術など、戦車道に関係あることで知らないことはないようにすら思えてくる。

それがきっと、あの理路整然とした話し方に繋がっているのだろう。知識を披露するだけじゃなく、ちゃんと分かりやすく翻訳されているのがすごい。

 

ただ、そうやって感心するたびに、優花里は思うことがある。

この人は、今までどれほど苦労してきたのだろうか。

 

男性は、戦車道に参加できない。この先いくら神栖渡里が努力を重ねようとも、それを発揮する場所はない。そしてそれは、競技に参加しない指導者でも同じだ。

日本の男子プロサッカーチームに女性の監督はいない。例えどれだけ優れた理論を、豊富な知識を、監督としての手腕を持っていたとしても、()()()()()()()()()()人間の下でプレーすることを、他でもない選手たちのプライドが許さないからだ。

だから戦車道の世界にも、男性指導者はいない。

高校にも、実業団にも、日本のどこを探しても。

 

そんな逆風にも負けず、神栖渡里はこの大洗女子学園まで流れ着いた。

全員素人、たった一人の例外は身内という、夢のような環境で教導に当たるあの人は、いつもどこか楽し気で。

そんな姿を見るたびに、優花里は思ってしまう。

 

きっと、並大抵の道じゃなかったはずだ。辛く、険しい道を、ボロボロになりながら進んできたに違いない、と。

 

神栖渡里は、何にも言わない。自分の過去は、頑なに語ろうとしない。

だから優花里は、訊くことができない。

今まで、大変じゃなかったんですか?と、そんな簡単な質問さえできない。

 

「装填はとにかく速さと正確さだ。速ければ速いほど、正確であればあるほど攻撃回数は増える。これは勝敗を分ける重要な要素でもある」

 

だから優花里は、神栖渡里の一言一句に、真剣に耳を傾ける。

一文も、一文字も聞き逃さないように。

それがきっと、神栖渡里に対するせめてもの、敬意だと思うから。

 

「砲手の腕がどれだけ良くても、撃ちたいと思った時に弾が込められてなかったら意味がない。戦車戦は砲手なくして成り立たないが、砲手は装填手がいないと力を発揮できない。砲手が攻撃の要なら、装填手は攻撃の生命線だ。装填するだけとは言うが、他のどのポジションにも負けないくらい重要なポジションだと思った方がいい」

 

戦車を格納している倉庫の中、装填手たちと神栖渡里が一堂に会していた。

今日は役職ごとに分かれて行う練習の初日。身体が一つしかない神栖渡里が装填手たちの元へ来るまで30分ほどの時間を要したが、いざ始まるとなるとトントン拍子に進んでいくのはひとえに神栖渡里の手際の良さだろうか。

 

優花里は神栖渡里の言葉を、手元にあるメモ帳に書き込んでいく。それは、何か目に見える形で残した方が絶対にいい、というある種の直感が働いた結果だったが、それは正しかった。

装填手に関する知識には優花里も自信がある。だから神栖渡里の言うことがすんなり入ってくるし、感覚としては自分の知識の答え合わせをしているのに近い。

ただそれでも、神栖渡里の言うことには優花里が知らない理論があり、それを知ることができるというだけでメモを取る価値はあった。

 

曰く、装填手の役目とは砲手への献身である。神栖渡里の説明はこれから始まった。

装填手の良し悪しを分けるものは、それがどれだけできるかに尽きる。

弾を装填する。それは当たり前のこと。それが装填手唯一の仕事だから。

なら、どんな風に弾を装填するか。それを考えなければならない。

砲手が望む時に、必ず弾を装填する。

相手に撃たれる前に撃てるよう、速く。

一度も失敗しない機械の如く、正確に。

 

それができれば、装填手として半人前になれると、笑みを浮かべながら彼は言った。

 

「要するに、ちゃんとしないと他の奴らの足を引っ張ることになるわけだ。それは嫌だろ?」

 

一同は頷いた。誰だって、足手まといは嫌だ。

優花里だって、西住みほの、あんこうチームの足を引っ張ることだけは絶対にしたくない。

 

神栖渡里も満足そうに頷いた。

 

「じゃあ早速始めるか。まずは基本となる装填フォームの矯正からだ」

 

すると神栖渡里は、すぐ近くに積んであった四号戦車の徹甲弾を片手で持ち上げた。

その姿に優花里は少なからず驚いた。あれ、一応七キロ弱あるんですけど。

ペン回しみたいにくるくる回せるほど軽いものではないはずなのだが、あの人細そうに見えて結構力持ちなのだろうか。

 

「砲弾ってのは基本的に重い。コイツが6.8キロ、三突とM3リーもほとんど同じくらい。砲性能が弱い八九式でも、弾は2.5キロある……38tのは軽いけどな」

 

スラスラと数字が出てくるのが、神栖渡里の凄いところである。優花里は四号戦車に積まれているエンジンの名前と出力と最高速度くらいは言えるが、弾の重さはちょっと分からない。口径なら言えるが。

 

「装填手ってのはこれを、一試合で何十回と持ち上げないといけない。当然だが、めっちゃ疲れる。五キロの米俵担いでスクワットするようなもんだからな。最初こそいいが、後半になればなるほど腕が悲鳴を上げて、パフォーマンスが落ちてくる」

 

優花里には痛い言葉だった。思い出されるのは、聖グロとの練習試合、その最後の一幕。あの時点で優花里は、腕が僅かに痺れ始めていた。試合展開が短期決戦だったから良かったものの、持久戦・長期戦になっていたら最後まで装填できていたかどうか……

 

「これは仕方ないことでもあるんだ。屈強な男性軍人がやってたことを、女子の細腕で同じようにやれったってできるわけがないからな」

 

遺伝子的に、と神栖渡里は言葉を付け足した。

不意に、優花里の頭に反論の言葉が思い浮かんだ。

一瞬逡巡した優花里は、しかしその矢を放った。

 

「ですが神栖殿、戦車道の選手たちは男性と遜色ない速度で弾を装填していると思います。神栖殿の言う通りなら、女性の方が装填は遅いはず、ですよね……?」

「お、良い所に気が付くな」

 

神栖渡里は嬉しそうな表情になった。

 

「秋山の言う通り、かつての男性軍人装填手と、戦車道の女性装填手の装填速度にはほとんど差がない。腕力の差があるのに、だ。どうしてだと思う?」

 

視線が優花里に刺さる。その問いに対する答えを、優花里は持っていなかった。

 

「その理由が、装填のフォームだ。腕だけじゃなく、身体全体を使って弾を装填する。そうすることで疲労を軽減し、なおかつ装填の速度を上げる。女性戦車乗り達は、足りない腕力を補うために、そういう効率的なフォームを持ってるんだ」

 

装填は腕力だけでやるものじゃない。

神栖渡里はそう言った。

とにかく筋力をつけることが、装填技術の上達に繋がると思っていた優花里にとっては、目から鱗の話だった。装填手がどんな風に装填しているかなんて外からは見えないし、映像として出回ることもない。だからこそ気づかなかった。戦車道の関する知識の深度、その差というべきだろうか。

 

「まずはこれを身に着ける。筋力トレーニングはその後だな」

「後?同時並行ではダメなのでしょうか?」

 

今日もトレードマークである赤いマフラーを身に着けたカエサルが、ある意味当然の質問を投げかけた。とにかく効率的な練習をする神栖渡里には珍しい、単一的な練習である。

 

「フォームさえ身に着けば筋力が足りなくても多少装填はできる。そこから適切な場所に筋力をつけていく方が効率良いと思うんだよな。極論、装填の動作を延々とやってれば、装填に必要な筋肉だけが養われていくわけだし」

 

腕立て伏せをやり続ければ、より多くの回数こなせるように。

マラソンを続ければ、より長い距離を走れるように。

装填を続ければ、より速く装填ができるようになる。

 

神栖渡里の筋トレの考え方は、どこに筋肉がつくかというより、その結果何ができるようになるか、というところに焦点が置かれている。

 

「あんまり無駄なところに筋肉をつけさせるのはなぁ……ムキムキになりたい?やろうと思えば片手で弾ぶん回せるくらいの力自慢にはしてやれるけど。そしたらフォームなんて関係なくなるぞ」

 

それはもう半分くらいゴリラですよね。

よせばいいのに未来の姿を想像して、一同は顔を青くして首を横に振った。

 

「そ。んじゃしっかりとフォームを固めてもらおうかな」

 

そう言って神栖渡里は持っていた弾を降ろすと、よいしょと何やら取り出した。

それが三脚であると一瞬で見抜いたのは、きっと優花里だけだった。

 

「渡里せんせー、それなんですかー?」

「カメラだよ、宇津木。これでお前達のフォームを記録して、客観的に見れるようにするんだ。本当は鏡を使ってやるんだが……まぁそんな大きいのはなかったから」

 

五つの三脚に、五台のカメラが手際よくセットされる。

そして無機質なレンズが、こちらへと向けられた。

 

「よし、それじゃやろうか」

 

神栖渡里は、にっこりと笑った。

その表情からは考えられないくらい、厳しい言葉を付け加えて。

 

「言い忘れてたけど、本来なら二か月かかる練習を半分以下の時間でやるから。油断してると明日以降まともに動けなくなるぞ」

 

それ、最初に言うべきことでは。

 

装填手たちの思いは一致した。

 

 

 

秋山優花里です!

突然ですが、今日から日記をつけてみようと思います。

なぜかというと、昨日の夜に西住殿がやっていたからです!……まぁ、厳密に言うと違うんですけど。

布団の上で何やら書いていたところを気になって聞いてみたのですが、どうやら西住殿がやっていたのは『練習の振り返り』だそうです。

車長は神栖殿から何の指示も受けておらず、また西住殿は兼職もしてないので、役職ごとに分かれてやる練習(こっそり役練なんて略されています)の時はずっと他の人の練習を見ているのですが、その時に感じたことや思ったことを記録しているそうです!

 

「お兄ちゃんが何を考えてるか分かるかもしれないし」と言ってましたが、練習が終わって疲れているところにそんなことまでやっているなんて、やっぱり西住殿はすごいです!

なので私も、いつまで続くか分かりませんが日記という形で合宿を記録してみようかと思います。後々役に立つかもしれませんしね。

 

合宿が始まってから二週間が経過しました。神栖殿の予定で言うと、全日程の約四分の一が過ぎたところでしょうか。

開幕当初は皆息も絶え絶え(私もですけど)という感じだったのですが、二週間もすると身体が慣れてきたのか、結構余裕があるように見えます。実際この日記を書いてる周りでは、結構みなさん騒がしく談笑しています。ちょっと前までは熟睡してたんですけどね。

持ち込んだはいいものの、やる元気がなくて放置されていたトランプなどの遊び道具も、最近は出番が多いです。特にウサギさんチームがよく遊んでます。今日もやってます。

 

トランプではないですが、カバさんチームは四人でボードゲームのようなものをよくしています。何なのか気になって少し覗きに行ったのですが、よく分かりませんでした。あ、でも今度教えてくれるそうなので楽しみです!今日は各自で持ち寄った歴史書を片手に、熱い議論を交わしています。

 

アヒルさんチームの人たちは宿泊所にいなかったりすることがあるので、バレーボールをしているのかと思いましたが、どうやらそういう時は神栖殿のところに行っているようです。流石に体力を使うようなことはしないですよね……と思っていたのですが、やっぱり時々バレーボールをしているそうです。体育会系の体力は凄いですね!負けていられません!

 

カメさんチームの人も宿泊所にいないことが結構ありますが、何をしているかは謎です。ただ今日は、神栖殿が設置したテレビを仲良く三人で見ています。番組は『アンコウ鍋の美味しい作り方』……生徒会長が真剣にメモを取っています。結構料理好きなのでしょうか?

 

とまぁこんな感じで、合宿当初が嘘のように、宿泊所は活気に溢れています。

あ、私たちあんこうチームは何をしているかといいますと、結構バラバラです。

 

武部殿はよく自宅から持ってきた少女漫画やブライダルの雑誌を読んでいます。部屋の端っこの方に結構積んであって、意外とみなさん借りて読んだりしてます。私も少し読ませてもらいました!後は武部殿の恋愛テクニックを知りたいというウサギさんチームに、講義してたりします。私は聞いたことありませんが、凄く好評だそうです。冷泉殿は、何故か呆れていましたが。

 

そんな冷泉殿は、基本的にお布団から出てきません。ずっと横になって、本を読んでいます。武部殿から借りたものじゃなく、私物だそうです。これまでに何冊か見ましたが、全部ジャンルがバラバラでした。曰く、雑食だとか。冷泉殿が学年トップの学力を誇る理由が、少し分かりました。私も戦車道関連の本ばかり読まないで、もっと色々読んだ方がいいのかもしれません!

 

五十鈴殿は練習が終わって夕飯を食べると、姿が見えなくなります。どこで何をしているのかは分かりませんが、ちゃんと帰ってはきます。ただ気になるのは、日に日に五十鈴殿が疲れていってるというか、元気がなくなっていることです。みんなは元気になっていくのに、五十鈴殿だけが真逆です。心配になって聞いてみたのですが、「居残りで練習しているんです」としか教えてくれませんでした……疲労がどんどん溜まっているようなので、少し休んでほしいのですが、五十鈴殿は「大丈夫です」と笑うばかりです。本当に、大丈夫でしょうか?

西住殿も心配してアレコレと話しかけていたのですが、最近は寧ろ「華さんなら大丈夫だよ」と言うようになりました。何やら五十鈴殿について、神栖殿と話したようです。いったいどんなことを話したのかはわかりませんが、今私たちが五十鈴殿にしてあげられることはないようです……信じて待つしかない、と言われましたが、少し悲しいです。

 

ちょっと暗くなってしまいました。気分を変えて今日一日の練習を振り返ろうと思います!

 

まずは朝練ですね!私たちが「ボール回し」と呼んでいる練習ですが、最近レベルが上がりました。合宿当初は五、あるいは六人一チームで、鬼役を一人という形でやっていたのですが、今は七人、あるいは八人一チームで、鬼役を二人にしています。あ、それとボールも二つに増えました。

そこそこ上手くできるようになってきた私たちを見て、神栖殿が「そろそろいけるだろ」と難易度を本来のものに戻したというわけなんですが……正直今までとは比べ物にならないくらい難しいです。今までの形だと結構余裕があったのですが、どうやらそれは慢心だったようです……鬼役が二人に増えたことで、パスをする相手はより慎重に選ばなくてはダメになりましたし、それに加えてボールが二つになったことで全体のスピードが上がりました。パスしてもすぐにもう一つのボールが来てしまうんですよね……考える時間がないからパスがむちゃくちゃになってしまって失敗してしまう、というのが現状です。

ほんとに難しいです……

 

みなさんそんな感じで苦戦しているのですが、今一番上手くできているのは西住殿と、少し意外ですがアヒルさんチームの磯部殿です!

西住殿は分かりますけど、磯部殿も凄いですよね。少し話を聞いてみたのですが、バレーボールのセットアップと感覚が似てると言ってました。バレーボール部時代の動きが、戦車道に活きている、ということでしょうか?

 

神栖殿は「コツさえ掴んだらすぐできる」と言ってましたが、どうやらお二人はそのコツを掴んでいるようです。ただそれを聞いても、お二人とも上手く言葉にできていない感じで……やっぱり感覚的なものなんでしょうか?

西住殿は「お兄ちゃんならちゃんと言葉にできる」と言ってましたが、神栖殿はその辺りのことは一切教えてくれません。「自分で考えること」、ですね。

とにかく今は頑張るしかありません!

 

ボール回しが終わった後は、戦車を動かします。走行訓練と、砲撃訓練を軽く行う感じです。

しかしそこは神栖殿、当然普通にはやりません!

なんと、チームのメンバーをバラバラにして、別々の戦車に乗せるんです!

例えば私たちあんこうチームは、西住殿が八九式に乗り、五十鈴殿は三号突撃砲、武部殿はM3リー、冷泉殿は38tといった具合に分かれます。私はそのまま四号に乗ってたんですけど、日によってどの戦車に乗るかは変わってきます。神栖殿がその日の気分で誰がどれに乗るかを決めているらしいです。

 

ちなみにあんこうチームだけじゃなく、他のチームも同じように分けられています。

なので毎回メンバーが変わり、今日はカバさんチームのおりょう殿、アヒルさんチームの佐々木殿、カメさんチームの会長殿、ウサギさんチームの澤殿と一緒に四号を動かしました!

 

変わった練習ですけど、なんというか、凄く新鮮な気分になりますよね!今まで話したことがない人と接する機会でもありますし、話している内に色々発見することも多いです。

例えば、佐々木殿の砲撃はタイミングこそ遅いものの、その分凄く正確だとか、会長殿はのんびりしてますけど通信で全体の意思疎通を図るのが上手だとか。

あ、戦車道の話ばかりだけじゃなく、プライベートの話もしますよ。おりょう殿は軍鶏がお好きで、澤殿はよくミネラルウォーターを飲んでいることとか。

 

他愛のない話ですけど、なんだか仲良くなれた気がしてとても嬉しいです。もしかして神栖殿は、それが目的だったのでしょうか……?

 

朝練が終わると、戦車を綺麗にします。といっても、いつかの日みたいにホースで水を撒きながらじゃなく、濡れ雑巾で磨いて汚れを落とすだけです。流石に時間がありませんから。あ、でも夜にはブラシなんかを使ってピカピカにしますよ!大事な戦車ですから!

 

それから授業が始まるまでは自由行動です。

みなさん体力に余裕ができてきたのか、当初のように慌てて教室に向かうことはありません。ただ私だけかもしれませんが、それはそれとして授業中はとても眠たいです。今日も思わず数学の授業で寝てしまいました……このままだと次のテストが大変なことになるかもしれません。西住殿が「お兄ちゃん赤点取ったら戦車道させてくれないよ、多分」と言ってましたし、ちゃんと集中して授業を受けないといけませんね!明日からは気を引き締めていきます!

 

授業が終わって放課後になると、また戦車道の練習です。

ちなみに大洗女子学園は戦車道を授業として行っているので、選択科目の授業がある日はずっと戦車道をやっている気分になります!すごく楽しいですね!

 

放課後に行う練習は、大別すると役練、走行訓練、砲撃訓練の三つになります。

日によって細かい内容は違いますけどね。

役練ではまだフォームの矯正を行っています。ただ二週間ひたすらやり続けた甲斐はあったようで、神栖殿によると「結構できてる」らしいです。

 

素直に嬉しいことですが、思えば辛い練習でした。

一連の動作、砲弾を掴み、持ち上げ、装填するといった流れを、とにかく声に出しながら行ったり、同じ姿勢を長時間キープしたり……簡単なことばかりではあるんですが、中身が凝縮されているというか、密度が高いというか。神栖殿は「かかる時間を半分にしてるんだから、そりゃ他の部分が倍になるよ」と言ってましたが……普段は優しそうな感じなのに、戦車道となると途端に厳しくなるんですよね。

 

でも神栖殿の言うことは、いつもなるほど、と思わされてしまいます。

装填手は弾を装填することが唯一にして最大の仕事。これができない内は、何をやってもきっと上手くいきません。

辛くしんどい練習も、自分のため、そしてチームのためです!

精いっぱい頑張ります!

 

役練が終わった後は、チームに分かれて走行訓練と砲撃訓練です。

朝練と違って、ちゃんといつものメンバーですよ。

 

走行訓練と砲撃訓練は、特に変わったことはしていません。本で読んだことがあるような、そんな普通の練習ばかりです。くさび形やV字形、横隊や縦隊といった基本的な陣形を組んで走行したり、『稜線は不用意に超えない』や『砂埃が立たない場所を走る』といったセオリーを踏まえて走行したり、そんな感じです。砲撃訓練も同じです。

 

神栖殿は変わった練習ばかりするので、少し意外ですよね。

というようなことを西住殿に言ったら、困ったように笑っていました。

 

日が暮れて夜になると、練習は終わりです。戦車を綺麗に掃除して、集合して、解散。

そこからは完全に自由行動です。

ちなみにこの間、神栖殿が何をしているのか気になったので聞いてみたところ、「戦車の整備」らしいです。

大洗女子の戦車は自動車部の皆さんが整備してくれているのは知っていましたが、神栖殿もそこに加わっているとは知りませんでした。でも神栖殿の知識量なら、整備くらいできてもおかしくはないですね。

ただそうなると、神栖殿はいったいいつ寝ているのかが気になります。今度聞いてみましょうか……?

 

読み返してみると、結構書いてしまいました。

簡単に一日を振り返るつもりが、なんだか説明口調になってますし……まぁ、日記ですしいいですよね!どうせならもっとそれっぽく書いてみるのもいいかもしれません!『筆録!秋山優花里の合宿体験記!』みたいな感じで!

 

それじゃあ、おやすみなさい!

 

 

 

秋山優花里が布団に潜りこんでから数時間後のことである。

 

優花里は不意に目を覚ました。

僅かな硬直の後、身体を起こして辺りを見渡す。

照明はスイッチを切られていて、カーテンが閉められた部屋は暗く、視界が悪い。

ただ自分の近くにいる人達がどんな状態かは分かる。

 

かけ布団を綺麗に被って、規則正しい呼吸を繰り返す人。

枕を胸に抱いて、何やら頬を緩ませる人。

 

優花里は傍に置いてあった時計を手に取り、今が所謂夜更かしに当たる時間帯であることを悟った。音を立てないように時計を置き、上半身を起こした姿勢をそのままにゆっくりと深呼吸する。

 

変に目が冴えた、というわけではない。トイレに行きたいわけでもない。

ただ、何故かはわからないが起きてしまった。今の優花里の状態は、そんな感じだった。

眠気は多少残っていて、もう一度横になれば十分もしない内に再び眠りにつきそうではある。だが、何もせずそのまま寝るのは、少し良くない気がした。

 

どうしたものか、と少しの思考の後。

とりあえず優花里は、水を一杯頂くことにした。

喉に若干の渇きを覚えていたこともあったし、何よりこの変にモヤっとした気分を変えたかった。極力音を立てないよう、潜入スパイになった気持ちで優花里は立ち上がり、宿泊所を出る。

 

廊下の明りはほとんど消えているが、窓から差す月明りで最低限の視界は確保できる。

目が悪い方ではない優花里にとっては、それだけで十分である。軽快な足取りで、優花里は食堂へと向かった。お化けとかそういう類のものは、優花里の足を止める要因にはならなかった。

 

食堂の明りも、廊下と同じく消えている。だが真っ暗というほどではないので、紙コップを一つ拝借してウォーターサーバーへと足を運ぶ。

こんな時間でもしっかりと役目を果たす働き者から水を一杯、感謝しながら頂く。

適度に冷やされた水が喉を通り、胃に到達すると、不思議とスッキリした気分になれた。

 

今なら快眠できる気がする。優花里は、先ほどのモヤモヤ気分が嘘だったかのように晴ればれとした気持ちで、暖かい布団に戻ることを決めた。

 

「―――――あれ?」

 

食堂を出て、少し歩いた時だった。

優花里は視界の端に、人影が映ったような気がしてそちらの方に目を向けた。

 

「神栖殿?」

 

夜に溶け込むような濃紺の髪、広い肩幅に高い身長。

おおよそ女子高では目にせず、見れば一目で分かるような特徴的な後ろ姿の持ち主がそこにいた。

スタスタと確かな足取りで歩いているから、神栖渡里によく似た幽霊ではない。

そもそも、作業着を着た幽霊なんて聞いたこともないけれど。

 

声をかけるべきだろうか、と優花里は逡巡した。

向こうはこっちに気づいてないから、別にそのまま見て見ぬ振りしたって構わないのだが、それはそれで気分がいいことではない。

 

しかし優花里は、武部などと違ってコミュニケーション能力に優れているわけではなかった。戦車道のことになれば誰よりも雄弁な口は、こういう日常的な場面になると途端に勢いを失ってしまう。

あんこうチームのように、一度仲良くなってしまえばそうでもないが……優花里にとって神栖渡里は、そんなにあんこうチームほど近い距離にいる人ではなかった。

 

だがお世話になっている人だし、尊敬する人の兄でもある。

一言、「おやすみなさい」くらいは言った方が……

 

そんな風にああだこうだと迷っていると、神栖渡里はさっさと歩き去ってしまう。

あっという間に姿は見えなくなり、声をかけるタイミングを完全に逃した優花里は、廊下に一人立ち尽くすしかなかった。

 

「……何をしていたのでしょうか?」

 

自分が言えたことではないが、こんな時間に歩き回っているのは少し妙である。普通の人は、みんな就寝している頃だというのに。

神栖渡里は旧用務員室で寝泊まりしているらしいが、神栖渡里が歩いていった方向は旧用務員室とは真反対。だから優花里のように何かで起きて、部屋に戻ろうとしているのではない。

 

「………」

 

しばしの思考の後、優花里は大胆にも神栖渡里の後を尾行することにした。

明日も朝練があるのだから早く寝ないといけないのは分かっているが、一度気になってしまったら、もう止まらないのが好奇心である。

何より神栖渡里の謎、というほどではないが生活の一部が垣間見える貴重なチャンスでもある。

 

極力音を立てないようにして、優花里はまるでスパイのような立ち振る舞いで神栖渡里の後を追った。

 

時に走り、時に跳び、時に転がり。

神栖渡里に気づかれないよう、あの手この手で行われた追跡は、やがて校舎を飛び出した。

そして幾度かの危機を乗り越え、辿り着いたのは、

 

「戦車の、格納庫……」

 

練習の始まりの場所にして、終わりの場所である戦車を格納している倉庫の前だった。

重厚な金属製のシャッタードアは固く閉ざされているように見えるが、隙間から漏れ出す淡い光が、ドアが施錠されていないことを示している。

 

優花里はそっとドアに近づいた。

すると中からは、金属同士がぶつかり合うような音や何かが軋む音が断続的に聞こえてくる。

 

一体何が行われているのか。

様子を更に伺おうと小さな隙間を覗こうとした、その時だった。

 

「コソコソするくらいなら堂々と入ってこい」

 

隙間がこじ開けられ、ドアが一気に開放された。

その拍子で体勢を崩した優花里は、大変無防備な姿でドアの開放者の前に晒されることになってしまった。

 

「覗きとは良い趣味だな、秋山」

「か、神栖先生……」

 

あわわ、と慌てる優花里の眼前に、その人は呆れたように立っていた

 

「何か用か?廊下からずーっとついてきてたけど」

「ば、バレてたんですか!?」

「バレてないと思ってたのか」

 

驚いたように目を見張る神栖渡里。優花里は頬が熱くなるのが自分で分かった。

気づいてたなら声をかけてくれればいいのに。

 

「そんで何?まさか尾行ごっこがしたくて来たのか?」

「ち、違います!お水を頂いた帰りに、神栖先生を見かけたので……その、何をしているのか気になって……」

「何って、見ての通りだよ」

 

指で示された先。

そこには優花里が毎日お世話になっている四号戦車の姿があった。

ただ普段通りの姿ではなく、部分的に装甲がバラされていて、中身が露出している所もあり、その周りには様々な工具が無造作に広がっている。

 

「戦車の、整備ですか?」

「んーまぁ似たようなもんかな」

 

そう言って神栖渡里は、四号戦車へと歩み寄っていった。

優花里は神栖渡里の右手にスパナが握られていることに、今更気づいた。

 

「こんな時間まで……」

 

自動車部と神栖渡里が大洗女子学園の戦車の整備を一手に引き受けているのは知っていたが、まさかこんな深夜まで行われているとは。

いや、ある意味当然かもしれない。普通戦車の整備なんて、一人でどうこうできるものではない。一つの車両に、一つの整備チームがつくのが普通。そうじゃなきゃ、整備が一日で終わらないし、だから他所の学校では戦車乗りと同じくらい整備士がいる。

 

四人(神栖渡里を含めれば五人だが)で五両の戦車を整備している大洗女子の方がおかしいのだ。それでなんとかできている所を含めて。

 

「自動車部の名誉のために言うが、整備自体は終わってるんだ」

 

クルクルとスパナを回し、神栖渡里は事も無げに言った。

 

「あいつらのスキルは半端じゃないからな。西住流の本家専属になってもやっていけるだろうよ」

「そ、そんなにですか……」

 

優花里は自身の考えが見当違いだったことを悟った。

人数不足から整備にかかる時間が増えていたのかと思ったが、どうやら大洗女子学園の整備士たちは普通に異常だったようである。

 

「じゃ、じゃあ神栖殿はなぜ……」

「戦車のセッティングを試してたんだよ。ちょうど四号(コイツ)で最後だ」

「セッティング!?しかも最後って……もしかして全部やってたんですか!?」

「うん」

 

優花里は目を剥いた。

 

セッティング。

それは所謂、戦車のカスタマイズ。

搭乗者の能力、あるいは戦場に合わせ、その時における最適な形へと戦車を変化させることで、戦闘力の向上を図るものである。

戦車道強豪校では、何百回とトライ&エラーを繰り返し、搭乗者にベストなセッティングを行っているというが、まさか大洗女子学園でもそれが行われているとは。

 

口で言うほど簡単なものではない。戦車の能力を調整するとは言うが、それに必要なのは膨大な知識と、確かな経験値。パラメータの変更によってどのように挙動が変化するか、それを理論と感性の両方で正しく把握していなければならない。

 

戦車道強豪校だって一両の戦車に複数人からなるチームで取り掛かっているのだ。それを一人で、それも五両まとめてやってしまえる神栖渡里に、優花里は驚くしかなかった。

 

「ど、どんな風にしたんですか!?」

 

気分が高揚しているのが、自分でも分かった。

自分の乗っている戦車が、いったいどのようにカスタマイズされたのか。根っからの戦車好きにして戦車道ファンの優花里にとって、それは何よりも自身を興奮させるものだった。

 

神栖渡里は四号戦車の装甲を撫でながら言う。

 

「四号はちょっと砲塔部分を弄った。主に五十鈴の能力に合わせるためだな」

「おお!」

「あいつの成長が速すぎて、だんだん戦車の方が五十鈴についていけなくなってたからな。パーツを交換して、かなり仕様を変えた。結構扱いづらくなったが、今の五十鈴なら寧ろそれくらいの方がやりやすいだろ」

「おおお!」

 

興奮し、目を輝かせる優花里に神栖渡里は怪訝な表情になった。

 

「そんなに食いつく話か、これ」

「はい!」

 

優花里にとって戦車の話は、例えどんな内容だろうとそれだけで大好物である。

満面の笑みで頷く優花里に、神栖渡里は苦笑した。

 

「だったらこれも見てみるか?今後、四号に行う予定の改修、その計画書だ」

「いいんですか!?」

「見られて困るもんじゃないからな」

 

ポイ、とバインダーが投げ渡された。優花里はそれを慌てて受け取り、まるでクリスマスプレゼントを渡された子どものようにしっかりと抱えた。

書類には戦車の図面が描かれていて、パーツの図や数値、詳細な説明文などがその周りを囲んでいる。一目見ただけだが、いかにもな感じがする書面だ。

 

「ふわぁ……私初めてこういうのを見ました!」

 

正直、書いていることの半分も理解できない。だがそれでも、これがどれほどよく練られた計画書かは分かる。

 

「これも神栖殿が書いたんですか?」

「戦車に関しては、パーツの発注から改修計画まで全部俺がやってるよ。あ、でも整備だけは自動車部に任せることが多いな。あいつらの方が上手いし」

 

言いながら神栖渡里は、流れるような手つきで四号戦車を元の姿へと戻し始めた。

時間を巻き戻しているみたいに装着されていく部品たち。

優花里は、神栖渡里の整備の腕が決して平凡ではないことを悟った。比較対象がとんでもないだけで、きっとこの人も腕は良いに違いない。

そうじゃなきゃ一人でセッティングを変更するなんてできるはずがないし、こんな計画書を書くこともできないだろう。

 

「……本当に、戦車道に関しては何でもできるんですね」

「なーんか含みのある言い方だな……『戦車道だけが取り柄』みたいに聞こえるわ。みほ辺りか、吹き込んだのは」

「い、いえそういう意味じゃないです!」

 

眉を逆八の字にした神栖渡里は、しかしすぐに表情を和らげた。

 

「いいけどな、その通りだし。所詮戦車道しか能がない男だよ、俺は」

 

そんな能を持った男性は、世の中そうはいないだろうと優花里は思った。

ふと、目の前の人がなぜそんな能を持つに至ったのか気になった優花里は、思い切って聞いてみた。

 

「やはり、西住殿と同じく幼少の頃から勉強されてたんですか?」

「そりゃな。あの家じゃ戦車道以外やることなかったし……逆に言うと戦車道に関係あるものなら何でもあった。暇さえあれば本を読んだり戦車弄ったり、戦車道やってない時間の方が少ないくらいだったよ」

 

優花里からすれば、それは理想郷であった。何て羨ましい環境なのだろうか。

神栖渡里と西住みほは、好きな時に好きなだけ戦車道ができたのだ。その代償として、ある程度自由を制限されていたのだろうが、それでも優花里は自分がその環境に身を置くことができるなら喜んで自身の自由を売り払うだろう。

 

「ではこういったセッティングや改修の知識、それに練習メニューなどもその時に……」

「整備を本格的に勉強したのは高校生の時だ。指導(コーチング)はイギリスに留学してた時に学んだ。あの家で教えてもらったことなんてほどんどないよ。どっちも我流と独学の合いの子みたいなもんだ」

「そうなんですか」

 

それでここまで来れるなら、それはそれで凄いと思うのだけど。

 

「お前もそうだろ。みほに聞いたぞ、物知りさんだってな。今まで戦車道やったことないのにそんだけ詳しいってことは、お前も独学で勉強してたんだろ」

「わ、私は単に趣味が高じただけで、勉強だなんて……」

「謙遜すんな。みほが言ったかどうかは知らないけど、結構お前に感謝してると思うぞ、あいつ」

 

耳を疑うような発言だった。

しかし神栖渡里は何食わぬ顔で、四号戦車の整備を続けていた。

 

「みほも戦車のスペックとかはほとんど頭に入ってるだろうけど、それを答え合わせできるってのは大きいんだ。間違ってないって、安心できるからな。あいつは隊長っていう絶対的な存在で、みんなを引っ張っていく立場だから、いざという時は自分一人で決断しないといけない。そういう時に、秋山みたいな知識面で支えてくれる奴がいてくれればそれだけで迷いは晴れるもんなんだよ」

「私が、西住殿の支え……」

 

頬が僅かに熱を持った。

今まで優花里は、そんなことこれっぽっちも考えたことなかった。憧れの人についていくのが精いっぱいで、ずっと支えてもらっている側と思っていたから。

だから必死に毎日頑張ってる。少しでも追いつけるように、追いていかれないように。

僅かな焦りを、伴って。

 

でもそうじゃなかった。

秋山優花里は、西住みほの力になることができるのだ。

 

「装填手にとって装填はできて当たり前。大事なのは、それ以外に何ができるかだ。そんな風になれれば……」

「私はもっと西住殿の力になれるでしょうか!?」

 

大きい声が倉庫に響く。優花里は今が深夜であることを思い出して、ハッとした。

しかし神栖渡里はそんなこと気にした様子もなく、イジワル気に笑った。

 

「それはこれからのお前の頑張り次第、だろ?まずはちゃんとした装填手になってもらわないと。結構出来てるとは言ったけど、フォームの矯正はまだまだ及第点いってないぜ」

 

優花里に言葉の矢が刺さった。戦車道となると厳しいのが神栖渡里である。

それに、と彼は続けて言う。

 

「中間テスト、もうすぐだろ。別に何点取ろうが構わないけど、赤点取ったら戦車道の練習には参加させないからな」

「えぇーーーーーーー!!??」

 

やっぱり!?と優花里は目を丸くした。

 

学生のは本分は勉強、と神栖渡里は言った。

彼にしては珍しく、嘘っぽい口調だった。

 




作者的に自動車部のスキルはガルパン七不思議レベル。
あいつらマジ半端ないって。
四人で戦車五両整備するとか普通できひんやん。

何気にやってみた日記形式。
これで面白い物を書いてる人は純粋に凄いと思うし尊敬します。
難しいね、これ。

次回は冷泉殿メイン回です。


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第16話 「合宿を始めましょう④〜冷泉麻子〜」

1番好きなキャラ(迫真)

バケモノ揃いのあんこうチームでも群を抜いてるウルトラハイスペック操縦手
マニュアル読んだだけで戦車の操縦完璧にできるとか麻子さんマジ天才




冷泉麻子は自分で言うのもなんだが、成績優秀である。一度聞いたことはすんなりと頭に入ってくるし、黒板に書いてあることを見ずとも、教科書を読めばほとんど理解できる。普通の人がかかるであろう時間の半分あれば、麻子は普通の人の倍くらい物を覚えることができる。それを裏付けるように、冷泉麻子は遅刻常習犯でありながら前回のテストでは学年一位だった。

これは才能なのだろうか。麻子は自分で断言することはできないが、他の人にそう言われると「そうなのだろう」とは思う。聞く人が聞けば激怒するかもしれないが、特別な努力をするわけでもなく学年首位になれたのだから。

 

しかし麻子は、それを自慢に思うことも、ましてや誇りに思うこともなかった。

頭が良くなりたかったわけでもないし、成績を良くしたいわけでもない。学年首位の地位はあってもなくても構わないし、誰かに追い抜かれてもどうとも思わない。

 

ただ、あって良かったと思うことが二つだけある。

一つは、この世で一番怖いおばあのお叱りを受けずに済むこと。その辺りに大変厳しいおばあに赤点、あるいはダメダメな成績表を見せたらどうなるか、麻子は想像しただけで身震いする。もし麻子がもう少し馬鹿だったら、きっとおばあに叱られないために毎日勉強に励まねばならなかっただろう。それはひとえに睡眠時間の減少であり、麻子にとってほとんど致命傷であった。

 

睡眠。そう、麻子は寝ることが三度の飯より好きだ。叶うことなら一日中ずっと寝ていたいし、この世で嫌いなものは早起きである。暖かい布団に包まれて、心地よい眠気に身を委ねる。何もしなくていいし、何も考えなくていい。麻子にとって睡眠とは、至福の時なのである。

しかしその幸せな時は、最近少なくなっていた。言わずもがな、戦車道の合宿である。かつて聖グロリアーナとの練習試合の際、麻子は朝5時起きと言われて、卒倒しそうになった。人間が朝の5時に起きるなんて、不可能なのである。結局沙織に迎えにきてもらい、起こしてもらう……つもりだったのだがどうやら無理だったようで、戦車道の講師である神栖渡里に試合会場まで運んでもらった、らしい。麻子は寝てたから知らないが。

 

たった1日ですらそんな有様だったのに、合宿はさらにその上を行く。

毎日毎日朝早くに起こされて、そのまま練習をさせられて。正直麻子は自分の体が半分くらい人間でなくなっているような感じである。練習がハードすぎて夜更かしできず、結果的に睡眠時間は合宿が始まる前と同じかそれ以上なのが、まぁ救いといえば救いだが。

 

それはそうとして、麻子的にはもっと寝たい。寝足りない。睡眠時間が足りてない。

でも起きる時間を遅くすることも、寝る時間を早くすることもできない。

ならどうするか、答えは簡単である。

―――――昼寝をすればいいのだ。

 

麻子が自分の頭脳に感謝しているもう一つのことは、それである。

教科書に目を通しさえすれば点が取れるということは、授業なんて受けなくてもいいということ。つまりサボったって、成績は変わらない。受けても受けなくても一緒なら、サボった方がいいに決まっている。

 

ゆえに麻子はこうして誰に憚ることなく、何を気にするわけでもなく、授業中にも関わらず校舎を抜け出して、お気に入りの昼寝スポットへと向かうことができるのだ。

 

歩くこと十分ちょい。

たどり着いたのは、背の低い草が生い茂り、心地よい風が吹く原っぱだった。

麻子が授業を抜け出して昼寝をするときは、大体ここだ。ついでに言うと、麻子が初めて戦車に乗った場所でもあった。

 

気持ちよく昼寝をしていたら、鉄の匂いとやけにうるさい音がやってきて、轢かれそうになったので飛び乗ったらそこには幼馴染がいた。

そのまま流れで戦車を操縦することになり、そこからあれよあれよと何がどうなってそうなったかはわからないが、戦車道を受講することになった。

そしてズルズルと戦車道を続けて、今に至る。

 

思い出深いといえば、思い出深い場所なのかもしれない。

今の麻子の、今までとは変わった生活の始まりの場所なのだから。

 

幼馴染に「もっとシャキッとしなさい」と言われる顔をそのままに、麻子はマイベストポジションへと歩を進めた。ちょっと坂になっていて、絶妙な日差しと風が吹くお昼寝に最適なポジションがあるのだ。そこでの睡眠は、それはもう格別である。

 

「…………あ」

 

そしてその場所が目の前になったとき、麻子は足を止めた。

本来いないはずの、いやいないはずだった先客がいたからだった。

麻子は視線を投射した。

 

深い紺色の髪、麻子より数十センチ高い背。

この場に不釣り合いなオフィスカジュアルの格好をした、男の人。

 

「ん?なんだ冷泉、またサボりか?」

 

大洗女子学園戦車道の責任者にして講師。

西住みほの兄である神栖渡里が、麻子のマイベストボジションに我が物顔で寝転がっていた。

 

 

この場所で渡里と会うのは、実は初めてじゃない。

すでに数度、あるいは二桁かもしれないが、それくらい何度も麻子は渡里と遭遇していた。

 

最初は偶然だと思った。

たまたま麻子が授業を抜け出した時に、たまたま渡里もここに来ていて、たまたま同じ時間に同じ場所にいただけだろうと。

でもそれは違った。次の日、同じように授業をサボタージュしてこの場所にやってきた麻子は、昨日と同じように渡里と出会った。

その次の日も、次の次の日も、次の次の次の日も。麻子がここに来る度に、そこには必ず渡里がいた。まるで同じ日をループしているかのように。

 

そこまでいくと麻子は気づいた。渡里が麻子の行くところにいるのではなく、渡里のいるところに麻子が行っているのだと。自分だけの秘密の場所は、いつしか共有財産となっていたのだ。

 

「――――――お早う」

 

聞き心地のいい低い声が、靄がかった頭に響いた。

春と森の匂いを運んでくる優しい風に揺れされる髪をそのままに、麻子は真っ青な空を仰いでいた。

ぼんやりとした動きで首を傾けると、そこには横に倒れた男の人がいた。

片膝を立てて、その上に腕を置いて、腕の先には分厚そうな本がある。

そこでようやく麻子は、倒れているのは自分だということに気づいた。

 

「………渡里さん」

 

そう呼ぶことに何の違和感も抱かなくなったのは、一体いつからだったろうか。

いや、最初からそうだった気もする。もうよく思い出せないけど。

 

ゆっくりと身を起こすと、視界が正常に戻る。

眼前にはどこまでも広い原っぱがあって、木々のざわめき以外の音がない周囲は、まるでこの世界に二人だけしかいないような感覚に陥る。

 

「……どのくらい寝てた」

「いつも通りだ」

 

なるほど、と麻子は自分の体内時計の正確さを実感した。

いつも通り、と言われて自分の睡眠時間が分かるほどには麻子はこんなことを繰り返していたし、渡里もまた同じだった。

 

「いい夢は見られたか?」

「………覚えてない」

 

そうかい、と渡里は興味なさげに返事した。

夢。見ていたような気もするし、見ていなかった気もする。ぼんやりとした頭じゃ、もうわからないけれど。

 

何をするでもなく、麻子はボーッと虚空を眺めていた。

隣にいる渡里は、ただ静かに本を読んでいる。

 

二人の間に会話はなく、ただ時間だけが過ぎていく。

こういうことは、珍しくなかった。麻子はそもそもここに昼寝をしに来ているので、自分から会話をしようと思うことはないし、渡里は今日のように本を読んでいたり、pcを片手に考え事をしていたりと積極的に話しかけてくることがないから、当然の帰結といえばそうであった。

 

ただ毎回そうというわけでもなかった。渡里が話しかけてきて、それに麻子が答えて。そういう風に話が弾んで喋り通す、という日もある。

 

結局のところ二人がどんな風にこの時間を過ごすかということに、定型はない。

ただ大事なのは、麻子も渡里も、たとえ一言も喋らなくても、逆に喋り続けても、何をしていてもそれを気まずいだとか居心地が悪いとか、そんな風に思うことがないということだった。

 

「今日は何の授業をサボったんだ?」

 

一通り本を読み終えたのか、渡里は手に持っていた本を閉じてそう語りかけてきた。

今日はちょうどいい塩梅の日か、と麻子は内心で思いながら、麻子は静かに答えた。

 

「……数学」

「なんだ。一番難しい授業じゃないか」

「べつに。そんなに難しくない」

 

そうか?と渡里は首を傾げた。

麻子は黙って頷いた。実際、麻子にとって難しい授業なんてものはない。どれもこれも、教科書さえ読めば理解できてしまうから。

 

「まぁ頭いいからな、冷泉は。でも先輩としてひとつ助言するけど、出席日数を計算してサボる、なんて小賢しい真似をしてると、いつかエライ目に遭うぞ」

 

脅すようで茶化すような、そんな配合の声色で渡里は言った。

口角が弧を描いていたから、きっと後者の割合の方が強いんだろう、と麻子は思った。

しかしなんというか、妙にリアリティのある言葉である。

変な説得力があった。

 

些細な疑問は、すぐに氷解した。

なぜか自慢げに、渡里は言った。

 

「俺が実際にそうなったからな」

「やっぱりか……」

 

そんなことだろうと思った。

 

「何があったんだ?」

「単位の前倒しができなくて、最終学歴が高校中退になった」

 

思ったより重傷だった。

この時ばかりは、いつも眠たげな麻子の目も流石に見開かれることになった。

 

「……なんでそんなことに」

「俺がイギリスに留学した、ってのは知ってるだろ。あれ、高校二年の終わりぐらいの時の話でさ。一応留学だし、学校側が色々融通利かせてくれたんだけど、それまでの学業がよろしくなくてな。単位を取り切る頃には進級してるだろうってことになって……まぁ、我慢できなかったんだよな」

 

ケラケラと笑う渡里は、軽い口調で重大なことを言った。

 

「そのまま中退した。まぁよくあることだな」

「あるわけない」

 

まるで「ちょっと雨に降られたわー」くらいの軽さである。

結構な経歴だが、全く気にした様子がないのがすごい。

 

妹である西住みほがこれを聞いたら、どんな顔をするだろうかと麻子は思った。

呆れるだろうか、それとも驚くだろうか。

しかし麻子の頭に浮かんだのは、「それがお兄ちゃんだから」と諦めたように笑うみほの顔だった。

 

「……渡里さんも、西住さんと同じ学校に行ってたのか?」

 

自分のことをあんまり語らない神栖渡里の、過去を聞く貴重なチャンス。

折角なので麻子は、話の流れに乗っかって色々と聞いてみることにした。

 

「黒森峰は女子校だぞ。俺じゃ入れねぇよ」

「……分校とか、中学校の時とか」

「黒森峰は中高一貫。分校は学園艦じゃなくて陸にあった。年齢が離れてるから小学校でも一緒に登校することはなかったよ」

「じゃあ渡里さんは、どこに通ってたんだ」

 

聞いたところで、熊本県の学校なんて聞いたことも見たこともない麻子にはわからないだろうけど。

 

「中学は家から近い普通の公立校に通ってた。高校は……冷泉も知ってるんじゃないか?サンダース大付属っていうとこだけど」

 

しかし返ってきた答えは、麻子の予想に反していた。

 

サンダース大付属。それは確か、長崎あたりを帰港地にしている学園艦の名前、および高校の名前。聖グロリアーナ同様、全国でも有数のお金持ち学校である。聖グロが富裕層の集まりであるのに対し、サンダースは生徒数の多さが資金力に繋がっているタイプで、少数から多額か、大多数から低額という違いがある。

 

また風土も大きく異なり、聖グロがお嬢様学校故の、ある種の堅苦しさがあるのに対し、サンダースはとにかく自由。何をするにしても自分で決めなければならず、学校側もそういった生徒の姿勢を推奨、支援している。

 

両者の共通点といえば、とにかく設備が整っていることぐらいだろうか。

サンダースには千人規模のトイレとか、三階までブチ抜いたプールとか、そういうのがあるという話も嘘か真かはさておき聞いたことがある。

 

「なんだ、結構詳しいな」

「……学費無料の推薦の話が一度きた。その時に調べたんだ。結局大洗女子に入学したが」

 

サンダースに何か不満があるわけじゃない。むしろ条件、設備、環境、全てが高水準だ。

ただ麻子には、どうしてもサンダースに行けない理由があった。

言うならそれは、距離の問題。長崎辺りを本拠地とするサンダースでは、大洗で、ひいては茨城で何かあった時、すぐに駆けつけることができないという話だった。

家庭の事情、と言い換えることもできるか、と麻子は人知れず思った。

 

「俺もそうだよ。サンダースに推薦入学したんだ。まぁ特待生じゃなく、成績優秀者に対する学費の半額免除っていう別の制度だったけどな」

「なのになんで中退することになるんだ」

 

学業が優秀だから入ったのに、学業が悪いから中退になる。

小規模な矛盾が、そこにはあった。

すると渡里は、苦笑しながら答え合わせをした。

 

「サボりすぎたんだよ。どんだけ成績が良くても、出席日数が足りなきゃ意味がないってことさ」

 

だから気をつけた方がいいぞ、と渡里は言ったのか。

麻子は納得した。戦車道受講者は特典として単位が三倍だったり欠席日数を取り消したりと、生徒会が色々と融通を利かせているが、だから大丈夫と高を括っていると困ったことになる、というわけである。

 

いや、少し違うか、と麻子は思った。

 

「渡里さんが留学をもう少し我慢すれば、ちゃんと卒業証書が貰えたんじゃないか?」

「む、やっぱ冷泉は騙されないか。武部とかなら誤魔化せるんだが」

 

困ったような口調に、愉快そうな感情を滲ませて、彼は笑った。

確かに沙織なら、そのまま「なるほど」と納得してしまいそうである。

 

「中退はどうしようもなかったことじゃない。本当は避けれたことなのに、俺はそれをしなかった。わざわざ将来自分が困るような道を、自分で選んだというわけさ」

 

ケラケラと笑う渡里に、麻子は呆れたように息を吐いた。

 

「サンダースが嫌だった訳じゃ無いんだよ。むしろ結構気に入ってたくらいだ」

「それは、戦車道が盛んだったからか?」

 

聖グロとサンダースの共通点を、今更ながら麻子は一つ思い出した。

高校戦車道におけるビッグ4。サンダースと聖グロは、それを為す一員だ。

 

自称・他称ともに「戦車道さえあればいい人」である神栖渡里にとって、それはきっと見逃せない条件だったに違いない。あるいは、青春に不可欠な要素だったに違いない。

 

「いや、サンダースに入ったのは、むしろ逆の理由さ。戦車道以外のものを見つけたかったんだ」

 

しかし麻子の考えとは裏腹に、渡里は首を振った。

驚いたように眼を見張る麻子の視線の先、渡里は今まで見たことのない顔をしていた。

懐かしむような、切なそうな、苦しそうな、そんな顔。麻子は不意に、胸に小さな疼きを覚えた。

 

「あそこは俺の知らない道がいっぱいあって、それを好きな人達がいっぱいいた。だからそういうとこにいたら、戦車道以外に夢中になれるものが見つかるかもしれない…って、まぁそんな風に考えてたんだよ」

 

どうしようもなくバカなものを見た時のような顔を渡里はした。

 

「色々やったよ。スポーツとか、芸術とか、とにかく戦車道以外で何か夢中になれるものを探した………楽しかった。それまで俺は、本当に戦車道しか知らなかったからな。一気に世界が広がった感じだった。そういう意味じゃ、サンダースに入ったのは大正解だったよ」

 

友達に恵まれ、環境に恵まれ、何一つ不自由なく、不幸もなく、ただただ楽しい青春の日々。

 

「でもダメだった。結局戦車道以上に夢中になれるもんなんてなかった」

 

しかしそれは、神栖渡里の望むものじゃなかった。

 

諦めたように自嘲する渡里の横顔に、麻子は胸の疼きが大きくなるのを感じた。

ほかの人が羨むような恵まれた道は、渡里を満足させることができなかった。そうじゃなきゃ、この人はそれらを捨てて留学への道を、より困難な道を選ぶことはなかったはずだ。

 

「『自分にはこれしかない』ってものがある。それは良いことなのか悪いことなのか、どっちなんだろな?」

 

それは麻子に訊いているというよりは、自問に近かったと思う。

 

―――なんで、戦車道から離れようと思ったのか。

 

何を言うべきか、それとも何と言うべきではないのか。

迷う麻子の頭に浮かんできたその問いは、まるで首元に添えられたナイフのように思えた。

 

「なんか暗い話になっちゃったな。話題変えるか。冷泉は本読むの好きだろ?」

「……まぁ」

 

人並み以上には読んでいるとは思う。特に少女漫画とかブライダル雑誌しか読まない幼馴染と比べたら。

渡里は手に持っていた本を、くるりと器用に回して麻子に差し出した。

 

カバーも帯もついてないが、妙な清潔感がある本だった。よほど丁寧に読み込まれたのだろうか。少しアンティークな香りがしていて、最近出版されたという感じではない。

 

視線で渡里に問う。

 

「ほんの50年前くらいの、ドイツの高名な戦車乗りが書いた回顧録さ。まぁこれはそれを翻訳したものだけどな」

「……ティーガー」

 

タイトルは邦題とオリジナルのもの両方が記載されていた。

その一部を、麻子は独語した。

 

「書いた人は凄い戦車乗りだぞ。ドイツで戦車乗りったらミハエル・ヴィットマンがとにかく有名だけど、この人も同等以上の戦車を撃破してる。単騎で圧倒的な力を誇ったヴィットマンとは対照的に、戦車同士の連携を重視してて、地形や敵戦力の把握を欠かさなかった」

 

手渡された本を麻子は数ページめくってみた。

するとすぐに、この本を書いた、正確には翻訳される前のオリジナルを書いたひとの写真が現れ、麻子は高名な戦車乗りとやらと対面した。

 

「ヴィットマンの方がエピソードが派手で印象に残りやすいけど、その本に書かれたその人の理論は実践的で戦車道に役立つことも多い。六等星みたいな人なんだよ」

 

距離が離れすぎてて目立たないけど、一等星に負けないくらいの輝きを持っている、という意味だろうか。渡里の言い回しは時に難解だった。

 

「だから、私も読んで勉強しろということか」

 

しかしそれならば、麻子だけじゃなく皆、いや戦車の指揮に関わる車長や隊長が読むべきではないか。

麻子は操縦手。車長が指示した場所へ、正確かつ迅速に戦車を運ぶだけの人。

連携や地形確認のスキルは、不要ではないが必要不可欠というわけでもない。優先順位的には低いほうだろう。

 

不満げ、というわけではないが納得した様子ではない麻子の表情を、渡里は敏感に感じ取ったのか、声色を固くして言った。

 

「それをお前に渡したのは、ちゃんと理由がある……今のお前に足りないものが、そこには載ってるよ」

「足りないもの……?」

 

反射的に視線をやった先には、宇宙の深淵そのものような黒い瞳が僅かな笑みを浮かべていた。

 

「宿題だ。数学よりはよっぽど簡単だからな、お前ならすぐ解けるよ」

 

そう言って渡里は、不意に立ち上がった。平均以上に高い身長の持ち主である渡里が立てば、平均以下の身長の持ち主である麻子は随分と見上げることになってしまう。

軽く服を叩くと、ついていた小さな草が風に乗って散っていく。

 

「授業サボってるんだからな。それくらいはやってもらわないと」

「渡里さんには関係ないんじゃないか…」

「そういうわけにはいかないんだよ。サボりを見逃してんのバレたら俺が怒られるんだから」

 

げんなりとした麻子に、渡里は陽気に笑った。

相応のリスクを一緒に背負ってやってるんだから、対価を払えということだろう。

仕方ない、と麻子は自分を納得させた。この人もルールを破って、こうやって一緒にいるのだから、宿題の一つや二つくらいはこなすのが礼というものか……いや、そもそも麻子がこうして授業を抜け出して昼寝しようとしている要因は、渡里にあるのだからそれは少し違くないか?

 

「ほら、乗んな。もう授業終わるぞ」

 

真実の扉を開きそうになっている麻子の思考を静止させたのは、そんな渡里の声と甲高いベルの音だった。

振り向いた麻子の視線の先、そこにはザ・普通な自転車を引いた渡里の姿があった。

 

こうして送られるのも何度目になるだろうか。

冷泉麻子と神栖渡里がこうして会う時の帰りは、必ず渡里が持ってきた自転車で帰るのだった。

 

『学校の敷地は広いからな。関係者には敷地を回るための移動手段が用意されてんだよ』

 

いつかの日、麻子がどこから自転車を持ってきたのかと問うと、渡里はそう答えた。

大洗女子学園戦車道講師。その肩書を持つ渡里も、一応は大洗女子学園の関係者。ゆえにそのあたりの恩恵を受けることができるのだろう。

 

身軽な動きで、麻子は自転車の後ろに横向きで乗った。その程度の衝撃では、渡里の乗る自転車は小揺るぎもしなかった。

 

腕を渡里の腹に回して、振り落とされないようにする。

それを確認して、渡里はペダルを回し始めた。すぐに加速して、自転車は安定した。

 

大きな背中は風除けとして優秀だ。その分視界も塞がれるけど、横向きに座る麻子には関係ない。

 

「……大人が自転車の二人乗りなんてしていいのか?」

「バレなきゃいいんだよ、なんでも」

 

間違いない、と麻子は薄く笑った。

 

横に流れていく景色を眺めながら、麻子は腕にこめる力を少し弛めた。

代わりに飛ばされないよう、頭を大きな背中に預ける。

この時間は、楽しく幸せで、悲しく寂しかった。

 

腕と頬に伝わる温かみは、まるで家族のような安心感をくれて。

優しさに包容されながら麻子は、もし自分に兄がいたらこんな感じなのかと夢想した。

西住みほがお兄ちゃんお兄ちゃんと慕う理由が、今は少しわかる。この人には、不思議とそんな魅力があった。

 

しかし同時に、この温もりは、自分が失ったものを再認識させてくる。

自分を置いていってしまった父を、母を、その愛情を。

渡里の温もりに触れるたびに、麻子はいやが応にもその時の感情を思い出してしまう。

 

ずっと続いてほしくて、早く終わってほしい。

そんな麻子の葛藤なぞ露知らず、渡里は鼻歌交じりに自転車を漕ぐ。

 

「やってやるやってやるやーってやるぜ〜♪」

 

変な歌だ、と麻子は嘆息した。調子も外れていて、ちょっと音痴っぽい。

しかしそれが心地よいと思ってしまうあたり、麻子は結構毒されているのかもしれない。

 

不思議な話だ。麻子は、誰とでもすぐ親しくなれるわけじゃない。初対面から親しい友人にランクアップするためには、相応の努力と時間が必要だ。

でもこの人は、まるで十年来の友人のように、あるいは親戚のお兄さんのように、スルリと麻子の心に近寄り、そのまま居座ってる。

 

(……シンパシー、か)

 

その理由を、麻子は薄々気づいていた。

 

生まれも、育ちも、年齢も性別も。

何もかもが違う自分とこの人は、それでもどこか似た存在で。

同類、というやつなのだろう、と麻子は髪色以外の共通点が見つからない運転手を横目で伺った。

 

「いーやなあーいつをぼーこぼこっにー♪」

 

何が似てるかは、まだわからない。

 

 

 

 

「あれ?麻子じゃん。何してんの?」

「沙織か…」

 

日曜日の夕方。学園艦の端っこに作られた、芝生が植えられ長椅子が設置された小さな休憩スペースにいた麻子は、幼馴染と遭遇した。

 

ガーリーな黄色のワンピースに、太めの白いカチューシャ、ピンクの靴。

可愛さを前面に押し出したその恰好は、麻子のよく知る武部沙織のよそ行きの服だった。

 

「もう帰ってたんだ。おばあは?元気だった?」

「元気すぎるくらいだった」

 

麻子は嘆息した。その表情に疲れの色が浮んでいたことを、この幼馴染はきっと察知しているだろうと思った。

 

本日日曜日は、戦車道の練習がない完全オフ。休養日というやつだった。

「遊びたい盛りだし、自由な時間を奪ってまで練習してもな」と、鬼のように厳しい練習を課す神栖渡里にも人の心は残っていたようで、毎週一日と半日、運がいいと二日間の休養が戦車道受講者には与えられていた。

 

それで各々休みを満喫するわけだが、今回はたまたま学園艦の帰港日と休みが重なっており、丸一日陸を楽しめるという日だった。

こんな機会は珍しくはなくとも頻繁にあるものじゃないので、みんな張り切って陸に繰り出す。武部沙織も、そんな人たちの一員だった。

 

確か西住と五十鈴の三人で遊びに行くと言ってたか、と麻子は思い出した。

どうやら手に提げている紙袋たちを見る限り、相当楽しんできたようである。

 

それならばよかった、と麻子は少しだけ思った。誘われてはいたものの、麻子は不参加だった。

 

学園艦が帰港する日は祖母のところに顔を出さなければならないのが決まりなのだ。

学校の生活とか、成績とか、そういうことを報告するのだ。それ自体は別にいいのだが、問題は祖母の性格というか気質である。

 

とにかく頑固というか、素直に人を褒めるようなタイプではないので、まずはお叱りを受けるところから始まる。たとえ学年一位の成績でも、である。

 

「ま、まあ元気ならよかったじゃん」

 

麻子の幼馴染として付き合いの長い沙織も、そんな祖母のことをよく知っている。

若干苦笑いの裏には、元気すぎる祖母の姿があったに違いない。

 

「そうだが毎回毎回説教されるのは勘弁してほしい。私は特に悪いことはしてないんだぞ」

「いやしてるよ。遅刻とサボり、常習犯でしょ」

「あれは不可抗力だ。人間なら仕方ない……それに最近は遅刻してない」

 

合宿期間中は、言ってしまえば学校に住んでるようなものである。理論上、登校時間は最速最短。加えて目付けがいるとなれば遅刻なんてしようがない。

 

「毎日私が起こしてあげてるからでしょ。そろそろ自分で起きなよ……」

 

疲れたように沙織はため息を吐いた。

彼女は合宿が始まってから今日に至るまで、麻子の専属目覚まし時計の役目を果たしていた。

 

「私が自力で早起きできるわけない。もしできたらそれは天変地異の前触れだ」

「なんで自慢げなの……ん?麻子それ……」

 

げんなり顔をした沙織は、ふとした瞬間に何かに気づいたようだった。

視線を辿ると、麻子の手元に行き着いた。

そこにあるのは、

 

「そんな本持ってたっけ?なんか年季入ってるけど」

「渡里さんから貸してもらった……というか、押し付けられた本だ」

「渡里先生の?」

 

尋ねながら、沙織は麻子の横に座った。どうやらすんなり通り過ぎていく気はないようだった。視線で事情を尋ねられ、麻子はやれやれといった様子で口を開いた。

 

「宿題と言われた。私に足りないものが、この本の中にはあるらしい」

「へー麻子に足りないものなんてあるんだ」

 

意外そうに目を丸めて、沙織は麻子の持つ本を手に取った。

 

「タイトルは……なんて読むのこれ」

「ちゃんと邦題も書いてあるだろ」

 

なぜ無理に読めもしないドイツ語を読もうとするのか。

ふーん、と大した興味もなさげに沙織はペラペラとページを捲った。

 

「な、なんか難しい……」

「いろんな地名や人名が次々と出てくる上に、戦争の話だ。簡単なわけがない」

「戦争……麻子は読んでて楽しいの、これ」

「楽しくはない……が、時々出てくる著者の理論や思考は面白い」

 

ぽん、とあえなく返却されてきた本は麻子の膝の上に置かれた。

 

ドイツでも指折りの戦車乗りが書いた(正確には語った)本というだけはあって、出てくる話は筋が通っていて、渡里の言う通り戦車道に応用できるものが大半だ。

読破した感想としては、戦車道を嗜む者として一度くらい読んで損はない、という感じ。

 

「で、わかったの?麻子に足りないもの」

「…………分からん」

 

しかし麻子は、内容を覚え、著者の思考を辿り、理論を理解しても、渡里の言う「自分に足りないもの」の見当がついていなかった。

なるほど、と思わされる部分は数多くある。

だがそれが自分に足りないかと言われると、麻子は納得できかねた。

その理由は、明白だった。

 

「まぁ麻子に足りないものなんて、ほんとにあるのって感じだけどね」

 

その沙織の言葉が、全てを表してた。

 

冷泉麻子とは、天才肌の人間である。

教科書を読むだけで授業は理解できるし、その速度は常人の倍はある。

戦車の操縦だって、今までの人生で一度もしたことがなくたって、マニュアルを一読しただけで完璧にマスターしてみせた。

 

呑み込みの早さ、だけでなくそれをすぐに高いレベルまで持っていけるセンス。

ゆえに麻子は、たとえ足りないものがあったとしてもすぐに克服できる。できてしまう。

 

戦車道を始めたばかりの頃なら、足りないものなんていくらでもあった。

しかしかつてあったそれらは、時を経るごとに消滅していき、今や跡形もなくなった。

言わずもがな、渡里の指導を受けているからである。

 

「渡里先生の練習もほとんどできてるんでしょ?」

「………まぁ」

 

沙織は指折り数えた。

 

「目隠しして進むやつとかー、変なダンボール箱被って動き回るやつとか……他にもやってたよね?」

「変速のタイミング、荷重移動、その他諸々の操縦訓練」

 

麻子の脳裏に、それぞれの練習が映像となって蘇る。

 

目隠しして進むやつ。それは車長の指示を正確に理解し、車長のイメージ通りに戦車を動かすのに必要な受信力、理解力を育む練習。

そのまんま、視界を完全に塞いだ上で障害物競争をするというだけの練習で、いつかやった目隠しサッカーとほとんど同じ。

 

変なダンボール箱被って動き回るやつ。それは完全に視界をゼロにする目隠しとは違い覗視孔、つまり操縦手の視界確保のために戦車に開けられた覗き孔から見える世界をダンボール箱で再現し、その極端に狭い視野に慣れるための訓練。

一人でやるととても危ないので要広い場所アンド付添人。間違っても道路なんかでやっちゃダメ。

 

変速のタイミング。スムーズな加減速ができるようにするための練習。

神栖渡里曰く、変速のタイミングは速度じゃなくて戦車の振動(バイブレーション)と音で判断する、とのこと。身体で理解できるようになるまで隣で延々と指導され続けるハードな練習。最適なタイミングからコンマ一秒でも遅れたらやり直し。

 

その他、操縦手に必要な技術、感覚を養う練習たち。

どれもこれも一筋縄でいく練習ではなく、ありえないレベルの濃度で行われた。

過程としては何人かがぶっ倒れ、結果としては操縦手一同階段を三段飛ばしするくらいの勢いでレベルアップした。

 

正直思い出すのもしんどいスパルタだった。

よく乗り切れたものだ、と麻子は自分を褒めたい。

体力に自信がないわけじゃないが、体力自慢でも根を上げるほどのハードな練習。メニュー製作者のエゲツなさは、麻子たちの限界を完璧に見極めていることにある。つまり限界領域での活動がデフォルトになり、余裕というものが一切与えられない。

 

だがその分、リターンは大きい。

麻子が元々持っていた天性の感覚(センス)に、渡里が理論(システム)を加えたことによって、麻子は操縦手としてほぼ完成形に近い領域にある。感覚任せでもなく、頭でっかちでもないその力量は、車長である西住みほの、ひいては大洗女子学園の支えとして充分すぎるほどである。

 

ゆえに、麻子には渡里の言う「足りないもの」がわからない。

操縦手として欠けていたものを埋めた張本人は、これ以上自分に何を望んでいるのか。

 

「案外嘘だったりして!麻子を慢心させないための!」

「……あの人は戦車道では嘘をつかない」

 

そこだけは大洗女子学園の、絶対に揺らがない共通認識である。

沙織も分かってて言ったのだろう。語調が冗談ぽかった。

 

「でもさ、そんなに悩むことはないんじゃない?」

 

ため息を吐いた麻子に、沙織は殊更明るく言った。

 

「渡里さん、ヒントくれたんでしょ?だったら、麻子ならすぐ見つかるよ。麻子頭いいもん」

 

……こういうところが、沙織の良いところか。

前向きというか、ポジティブというか。決して明るさを失わず、誰かを元気付けられる、そんな気質。

 

「そんなことよりもう暗くなってきたし、家帰るよ!晩御飯まだでしょ?しょうがないから、私が作ってあげる!こういう時は美味しいもの食べたら何か思いつくって!」

 

思えば麻子は、そんな沙織に随分と助けられてきた、のかもしれない。

幼い頃から、ずっとずっと一緒だったこの世話焼き体質な幼馴染に。

 

「……ハンバーグがいいな。デザートにケーキもつけてくれ」

 

感謝すべきなのだろう、隣人に恵まれたことに。

まぁそんなことは、口が裂けても言葉にできないが。

 

軽やかに前を歩く幼馴染を追いかけながら、麻子は沈みゆく太陽を眺めた。

 

「私に足りないもの、か」

 

 

 

 

「麻子さんに足りないもの?」

 

軽快にまな板を叩く音が止み、丸い目が此方を向いた。

余所見したまま包丁を振り降ろすような料理下手じゃなくてよかった、と渡里は制服の上からエプロンを付けたみほを見て、人知れず安堵した。

 

「そんなのあるの?」

 

渡里はマグカップに注がれた麦茶、という風情のカケラもないモノを手に取り、バッチリ冷えた中身を味わった。

容れ物がなんであれ、味は変わらない。

安物のティーパックの味が、渡里にとっては丁度いい塩梅だった。まぁそもそも、物の高い安いが分かるほど上等な舌は持ってないわけだが。

 

「聞いてるの?お兄ちゃん」

「聞いてるよ」

 

ちょっとムッとしたみほを、渡里は宥めるように言った。

即答できなかったのは、別にイジワルしてやろうとかそういうわけじゃない。

相応の理由がちゃんとあって、それはひとえに「みほに伝えるべきか否か」という躊躇いであった。

 

「足りない、っていうのはちょっと正確じゃないかもしれない。現時点で冷泉は、操縦手としてほとんど完成の域にある」

 

みほの後ろでグツグツと煮る鍋の様子を伺いながら、渡里は指折り数えた。

 

「車長の指示を過不足なく理解する受信力、手足のように戦車を操る操縦テクニック。どんな状況でも冷静でいられるタフな精神力……あれで、戦車道を始めて2ヶ月経ってないってんだから、大したもんだよ」

 

もし大洗女子が全員冷泉のようであれば、渡里は多分相当楽だっただろう。

あまり多用するべき言葉ではないが、冷泉は天才というやつだ。何を以ってそう判断するかと問われれば、それはスポンジの如き吸収力である。

一度教えられたことはすぐに覚え、自分のものにする。一を聞いて十を知る、とはまさにあのことだろう。

 

「……いや、遅刻魔が増えるのはよくないか」

「?」

 

あの能力と引き換えなら、まぁプラマイで言うとプラスなのだろうけど。

 

ともあれ、贔屓目なしに冷泉は既に全国トップクラスの操縦手だ。黒森峰、聖グロなどの戦車道強豪校に転入しても十分通用する。

 

「それで。その大した人の麻子さんに足りないものっていうのは?」

 

小さな机の上を、みほは布巾で丁寧に拭いた。邪魔にならないようマグカップを掲げて、机の上をフリーにする。

マメになったものだ、と渡里は感心した。昔は顔に泥を付けてても気にしなかったくせに。

 

「些細なことだよ。自然とできてる奴もいれば、全然できない奴もいる。でもできないからって、責められるようなことでもない」

「……そうじゃなくて」

 

不貞腐れたように頬を膨らませたみほに、渡里は苦笑いしながらキッチンの鍋を指差した。

話はいつでもいくらでもできるが、このまま鍋を放っておくと真っ黒になったご飯を一緒に食べることになる。

別に食にこだわりがあるわけじゃないが、それは御免被りたい。それに今は調理中。本腰を入れて話をするなら、食事中の方がいい。

 

眉を少し釣り上げて、みほは立ち上がりキッチンの方へと向かった。

 

その背中を見ながら、渡里は少し思考の歯車を回した。

足りないものがある、という言い方は、やはり良くなかったかもしれない。それは冷泉麻子に、何らかの不足があるように聞こえてしまう。

 

断じてそんなことはない。先も言った通り、冷泉は操縦手としてほとんど完成の域にある。能力的な欠点はなく、偏りもない。

あれほど短いキャリアで高い技術を持つ選手は、日本全国を探してもいないだろう。

純粋な実力なら、それこそ黒森峰や聖グロリアーナにも見劣りしない。

 

しかしそれでも渡里は、冷泉が今のままでいいとは思わない。

その理由は、一つだけだ。

 

―――このままだと冷泉は、またみほを独りにしてしまう。

 

先日の聖グロリアーナとの練習試合、冷泉はみほにこう言ったらしい。

 

『指示があれば、どこへでも行く』…と。

 

それは冷泉の高い実力を、そのまま表している。手足のように戦車を操る冷泉にとって必要なのは目的地だけ。それさえ示してくれれば、冷泉はそれを忠実に実行する。

車長のイメージを具現化するという難事を、冷泉は簡単にやってのけることができる。

 

それはいい。

しかし、指示がなかったら?

行くべき道を示してくれる車長が、頭脳がいなければ冷泉は、一体どうするのか?

 

答えは簡単―――――『何もできない』だ。

 

言われたことを完璧にこなす冷泉は、言われていないことは全くできない。いや、正確に表現するなら『できない』ではなく『しない』ようにしている。

それを操縦手としての欠陥と言うには、あまりにも酷だ。なぜなら冷泉のようなタイプの操縦手の方が、今の戦車道の風潮に沿っている。正道とも言っていい。

 

でも渡里は、それを是とすることはできない。

そんな風潮が生んだ悲劇が、今目の前にいる。

仲間を守りたかっただけなのに、全てを否定され、全ての責任を押し付けられた独りの女の子。

 

繰り返させるわけにはいかない。

その為に必要なのは、『自分の意思で動くこと』だ。

戦況を、作戦を、車長の思考を読み、自分で考えて自分で動くこと。

現代の戦車道においてタブーとされる、()()()()()()()()()ことこそが、渡里が冷泉に求めることだった。

 

 

「はい。できたよ、お兄ちゃん」

 

 

みほの声と豊かな香りによって、渡里の思考は一時中断した。

 

「おー意外と美味そう」

「一言余計」

 

ちいさな机に、皿が並ぶ。

その上にはあの粗雑だった妹が作ったとは思えないくらいの出来栄えの料理が乗っていた。

これは僥倖だった、と渡里は頬を緩ませた。

 

夕方いきなり「晩御飯作りにきたよ」と吶喊された時は思わず目が点になってしまったが、よくよく考えれば以前振舞ってもらったカレーも美味しかったし、みほは決して絶望的な料理下手というわけではないのだった。

 

「……玉子焼きなんて焦げてぐちゃぐちゃだったのになぁ」

「いつの話してるの」

「お前が俺に泥団子食わせようとしてた頃の話」

「お兄ちゃんが私によくドロップキックされてた頃の話ね」

 

どちらからというわけでもなく、渡里とみほは笑いあった。

思い出話は、その気になれば一日中できるのだ。

 

「これね、今日沙織さんと華さんの三人で出かけた時に見つけたレシピなの」

「ふーん……なら味も大丈夫か」

 

果たして料理のレシピとは、如何にして手に入るものなのか渡里には分からないが、まぁ料理上手の武部と一緒だったなら変なものではあるまい。

 

用意された箸を取り、一口。

 

「―――――――美味しい」

「ふふーん」

 

絵に描いたようなドヤ顔を披露されて、渡里の中に僅かな悔しさが芽生える。

思わず本音が漏れてしまった。これは油断だ。他所から持ってきたレシピというから、そんな感じの味がするんだろうな、と漠然と思っていたから。

 

でもこれは、

 

「めっちゃ俺好みの味だ…」

 

まるで自分に食べられるために存在するようなレシピだ、と馬鹿なことを渡里は考えた。

それくらい、味覚にクリーンヒットする味だった。

 

「でしょ?」

 

誇らしげに、嬉しそうに、みほは笑った。

 

「だってお兄ちゃんが好きな味になるようにしたんだもん。レシピ、少しだけ変えたんだ」

「………あー、なるほど」

 

言ってしまえば独自判断で動くとは、こういうことだ。自分で考えて、そっちの方が良いと思ったらそうする……与えられた指示を無視して。

 

風潮に逆らっている自覚はある。

でも、と渡里は思う。

戦車を操縦しているのは人間だ。言われたことだけしかできない、機械じゃない。

だからこそ人間にしか持ち得ない、心が大きな意味を持つはずなんだ。

誰かを想い遣り、寄り添うという心が。

 

「それで?お兄ちゃんは麻子さんにどうなってほしいの?」

「…………話逸らせなかったか」

 

渡里は苦笑いした。

今更だが、みほにこの話を振ったのは間違いだった。

どうなってほしい?それは言える。

でもその理由は?そう聞かれたら渡里はお終いである。

だからばつが悪そうに笑うしかない。

 

どうして言えるだろうか………それは、全部お前の為だなんて。

 

(恥ずかしすぎて無理だな)

 

言ったら首吊る自信があるわ、と渡里は表情を誤魔化すように箸を進めた。

そして目の前で騒ぐ妹から目を逸らしながら、想いを馳せる。

 

冷泉に同じことを求めるのは、酷だろうか。

今でも満点に近い冷泉に、更にその上を求める。それは蛇足と言えるかもしれない。

でも、冷泉ならもっとできると思う。今で満足しないで、もっともっと高いところに行ってほしい。

 

これは無責任な信頼だな、と渡里は自分を嘲る。

勝手に決めつけて、勝手に信じる。

 

しかし渡里の中に、確かにその感情はあるのだ。

 

 

それでも冷泉なら、と。

 

 

 

 

 

 

 

テクテクトコトコ、と麻子は歩みを進める。

向かう先は、当然マイベストスリーピングポジション。

今日も今日とて麻子は、授業を抜け出し昼寝を決め込むーーーーーーというわけでは、ない。

 

「…………渡里さん」

 

大きな体を草のベッドに投げ出し、そよ風に揺られながら読書を決め込む目の前の男性。

まるで鏡写しの自分のようなこの人に用があって、麻子はここを訪れたのだった。

 

声を掛けられた主は、妙に焦点のズレた目でこちらを見た。

おそらく本を持ってはいるものの、半分くらい寝ていたのだろう、と麻子は推測した。

自分もよくああいう目をしている時があり、それは決まって眠気が頂点に達した時だった。

 

思えば神栖渡里のこういう顔は、貴重かもしれない。

こういう気の緩んだ姿は、普段決して見せない人だから。

見せるとしたら、それはきっと西住みほの前だけだろう。

 

「………冷泉、何?」

 

聴き心地の良い低い声は、少し間延びしていた。

麻子は自分の推測が当たっていたことを悟った。

 

「―――――頼みがある」

 

麻子の単刀直入な物言いに何かを感じ取ったのか、渡里の表情が瞬間で引き締まる。

身を起こし、座ったままの体勢で渡里は麻子を見上げた。

 

渡里のこういうところは、話が早くて助かると麻子は思った。

心の機微に敏感というか、空気を読むのが上手い人なのだ。

 

麻子は静かに深呼吸した。聞く体勢が整ったのなら、話を切り出さなければならない。

 

 

「—————————」

 

 

麻子の言葉に、渡里の目が少し見開かれた。

その反応は、麻子の予想をほんの少しだけ裏切っていた。。

 

渡里が言葉を咀嚼し、真意を理解するまでにかかった時間は僅かなものだった。

だが麻子にとって、自らの選択を振り返るには十分だった。

 

麻子には、自分に足りないものというのがさっぱりわからない。

神栖渡里が自分に何を求めているのかも、同じくわからない。

 

でも、今自分がすべきことは分かる。

 

わからない、だから足を止める………そうじゃない。

わからなくても、やれることを探す。できることを見つける。

そうやって、日々を積み重ねていくこと。

 

その果てに答えがあると、信じて。

 

それは教科書や書物からあらゆる知識を授かってきた麻子にとって、未知の体験だった。

答えはどこにも載ってない。引用することも、参考にすることもできない。

渡里は教えてくれないし、他の誰も同じ。

 

広大な砂漠のどこかに埋まっている宝石を探し当てるような、そんな作業。

 

真面目になったものだ、と麻子は心の中でため息を吐いた。

ほんのちょっと前の自分なら、そんな面倒なことは絶対にしなかった。100点(最高)が取れていなくても、85点(最良)が取れているならそれで良しするタイプだったから。

必要のない努力は、お金を貰ったとしてもしなかっただろう。

 

でも、それが変わったのは。

戦車道を始めてから出逢った友達と。

戦車道を始める前から友達だった、口うるさい誰かのせいなのだろうと、麻子は思った。

 

授業は退屈で、テストは面倒で、毎日はメランコリックに過ぎていく。

でも、わからないものをわからないで済ませるのは、ちょっと嫌だったから。

 

だから少しだけ頑張ってみようと、麻子は決めた。

その結果が友達の為になるなら、それも悪くないと思いながら。

 

 

 

 

 




麻子さんと自転車2人乗り
制服エプロンの西住殿

作者の好みが露骨に出た回でした()

最後に武部殿編、他チーム編、幕間が2つくらいで合宿編は終わります。
そして戦闘描写ばっかの大会編が始まります。


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第17話 「合宿を始めましょう⑤~武部沙織~」

ギリギリ三週間以内に投稿することができませんでした(土下座)

来週はいよいよ最終章第二話ですね。楽しみ過ぎて夜しか眠れないですね。



人は、誰かを好きになるとその人のことが、どうしようもないくらい素敵に見える。

 

そんな一文を見たのは、いつの日だっただろうか。

多分今よりずっと背が低くて、無垢で、幼かった時だと思う。

たまたま家に落ちてたブライダル雑誌を、絵本か漫画かなにかと勘違いして読んでみて、そしたらそこに載っていた女の人がキラキラと輝いて見えて。

 

そして強く想い、憧れた。

自分も、こんな風にキラキラしてみたい、と。

焦がれるくらいに誰かを好きになって、恥ずかしいくらいに誰かに好きになってもらう。

それはきっと、とっても幸せなことで、素敵なことだと思うから。

 

だから沙織は、その日から自分を磨きに磨いた。

髪や肌のお手入れも、お料理や裁縫も、いわゆる女子力と呼ばれる類のスキルは全部やった。

それもこれも、全てはとびっきりに素敵な恋をするために。

どんな時に、どんなカッコいい男の人に逢って声をかけられても、大丈夫なように。

 

そう、武部沙織はいつでも準備ができている。本当に。

例えばすぐ十秒後に背が高くてオシャレで優しい男の人が目の前に現れて、間を置かずに告白されても即座に「はい!」と答えてそのままゴールインすることくらいは余裕でできる。

彼氏の好きな物は全部覚えるし、彼氏の好みに自分を合わせるのだって苦じゃない。

毎日ご飯も作ってあげるし、部屋の掃除もお洗濯も何でもやってあげる。

 

それくらいの覚悟と、スキルは持っているのだ。

 

なのに、なのになぜ、

 

「武部先輩は今まで何人の人と付き合ったんですかー?」

「今の彼氏はどんな人ですかー?」

「―――――――――――――――――(白目)」

 

武部沙織16歳。彼氏いない歴イコール年齢。

曲がり角で男の人とぶつかることも、落とし物を拾ってもらったことも、同じ本を取ろうとして指が触れ合ったこともなく、声をかけられることすら一度もなく。

 

恋愛マスターを名乗り、後輩たちに恋のイロハを教えてはいるものの、男性経験は皆無。

頼りは自身の経験ではなく、定期的に購読しているブライダル雑誌と女性誌。

 

準備と妄想だけが積み重なっていく青い春の日々の中、武部沙織は一人思う。

 

――――――――――恋が、したいです。

 

 

 

「それは無理だ」

「ちょっ」

 

冷泉麻子はあんまり言葉を濁すことはせず、はっきりと物を言う。

それは美点である時もあるし、そうでない時もある。今は後者だった。

 

沙織は麻子との付き合いがだいぶ長いのでもう慣れっこといえばそうなのだが、それでも心にぐっさりと刺さる時はある。

そう例えば、「あんこうチームの皆でお昼ご飯を食べている時に、沙織がふと零した『私どうやったら男の人と付き合えるかな?』という呟きに対して即否定された」、今のような時とか。

 

「なんで!?自分で言うのもなんだけど私結構優良物件だよ!?」

「ほんとに自分で言うのもなんだな」

「沙織さん……」

「あ、あはは……」

 

呆れたような声二つに、苦笑い一つ。前者は長く艶のある黒髪と、白いカチューシャが映える少し青みがかった長髪の持ち主から、後者は栗色の髪の持ち主だった。

周りのあんまりな反応に、沙織のメンタルが10減少。

 

「武部殿は、今まで男の人とお付き合いしたことないんですか?」

「ふぐぅ」

 

優花里の火の玉ストレートが沙織の急所を抉った。メンタルが50減少。

精神的ダメージの蓄積により、沙織は机に突っ伏した……勿論机の上には食器が並んでいるから、比喩表現だけども。

 

最初こそガッチリと張られていた見栄も、特別仲が良いあんこうチームには隠し通せないだろうということで沙織は正直になる事にしていた。だからこんな風にザ・図星みたいな態度も取れるし、気が楽ではある。

……最後の砦として、ウサギさんチームには「恋愛マスター武部」として振舞うことだけは止めないが。

 

「何か意外ですねー武部殿は明るくて優しいですし、誰とでも仲良くなれるので人気があると思ってました」

「うん、それにお料理もとっても上手だし」

「うぅ……ありがと二人とも」

 

付き合いの長い二人と比べて、今年から仲良くなった二人のなんと優しいことか。

沙織は胸中でほろりと泪を流した。

 

「言っておくが、沙織はモテないわけじゃない」

「そうですね、沙織さんは決して人気がないわけじゃありません」

 

すると付き合いの長い二人は、真面目な表情をして口を開いた。

予想だにしていなかったところから飛び出てきたフォローの言葉に、沙織は驚いてしまった。まさかこの二人が、自分を慰めてくれるなんて―――――

 

「若い男の人にモテないだけだ」

「ご高齢の人からはとても好かれてます」

 

バタリ、と沙織は倒れた。今度は比喩表現じゃなかった。

 

「そ、そんなところにモテても嬉しくないもん!」

 

起き上がり、沙織は叫ぶようにして抗議の矢を放った。

 

「確かに男の人だけども!そこには未来という名の発展性というか、ロマンスがないでしょ!」

 

四十五十の男の人とフォーリンラブするのが悪いとは言わないけども。

それは少し沙織の求めるところと違うのである。

これは我儘じゃなく、乙女なら普通のことだと思う。

 

「ここは女子校だ。沙織が期待してるような出逢いはない」

「うっ……」

 

麻子は真理を述べた。

そう、沙織の通う学校は県立大洗()()学園。つまり、女子高である。

これがどういうことかと言うと、共学の学校に比べて圧倒的に男性、特に男子と接触する機会が少ないことを意味している。

少女漫画だろうが何だろうが、恋愛モノの舞台なんて大抵が共学。仮にそうでなくとも、男子がたくさんいるところが普通だ。

 

しかし女子高は右を見ても左を見ても上を見ても女子。加えて学園艦なんて海に浮かぶ島みたいなものだから、街を行く人の入れ替わりなんてほとんどない。同じ人が同じ所にずっといるから、出逢いが無い状態が変化することはない。

 

ぶっちゃけると、割と詰んでるのが沙織の現状である。

 

「それに沙織は声をかけられるのを待つばかりで、自分からは何もしないだろ」

「あ、当たり前じゃん!こっちから行くなんてはしたないでしょ!」

 

羞恥心というか、そういうお淑やかさに欠ける行為は沙織的にNGである。

 

頬を僅かに朱に染めて反論する沙織に対し、麻子は名前の通り冷たく言葉を返した。

 

「だからだ。ただでさえ出逢いがないところに、そんな調子で何か起こるわけがないだろ」

「れ、冷泉殿容赦ないです……」

「でも真実ですね」

「は、華さん……」

 

待つより追え。

幼馴染の言葉は沙織を深く傷つけた。ついでに追撃してきた中学校以来の友人の言葉も。

確かに、確かに麻子の言うことには一理ある。沙織が自分磨きをしているのも、ひとえに男の人に声をかけられるため。自分から攻める時の武器としているわけではない。

消極的と言われれば、否定はできない……かもしれない。

 

「そ、そんなこと言われてもさぁ……」

 

それくらいの行動力があれば、彼氏の一人や二人や三人余裕で拵えているだろう。

なんだかんだと奥手な所があって、それができないからこんなにも苦労しているわけで。

戦車道を始めたらそんなの関係ないくらいモテモテになれると思っていたけど、そういうわけでもなかったし。

 

ふと沙織はいつかの蝶野亜美の言葉を思い出していた。

「撃破率は100%。狙った獲物は逃がさない」。

それはつまり、受動的ではなく能動的な恋愛であることを示している。

やはり、それくらいの積極性は必要なのだろうか。

いやでもやっぱり、自分から行くのはちょっと勇気がでない。

 

「うー……」

「よくそこまで悩めるな。近くにもっと悩ましいものがあるだろ」

「私からしたらこっちの方がよっぽど重要だもん!もうウサギさんチームに『恋ってどういう気持ちなんですか?』って訊かれて絶句するしかなかった惨めな自分は嫌なの!」

 

アレは本当にしんどかった、と心の中で沙織はさめざめと泣いた。

咄嗟に『恋も戦車と同じ。前進あるのみって感じかな』なんて答えたはいいが、一体どの口で言ったのだろうか。沙織の恋は前進するどころか超信地旋回である。

 

「っていうか皆なんでそんな淡白なの?恋愛してみたいとか思わないの!?」

 

さっきからずっと気になっていたが、沙織の話に対して食いつきが悪すぎである。女子高生なんて恋バナとスイーツの話をしてナンボのものというのに、この四人はツーンとしてつれない。花より団子、とでも言わんばかりに目の前のお昼ご飯に箸を伸ばしていて、沙織の話なんてその片手間で付き合ってるような感じである。

 

「私はない」

「それは知ってるけどさ、なんかそういうエピソードは無いの?」

「それもない」

 

興味なさげな態度の麻子は、どこからか取り出した本を読み始めた。

まぁそうだよね、と沙織は内心でため息をついた。

この幼馴染が男女の関係、どころか人間関係すらあんまり頓着しないことは既に重々承知である。長い長い付き合いは、麻子が人見知り体質であることをとっくの昔に暴いているし、もし麻子に()()()()()()があったら沙織は直ぐに気づくだろう。持ち前の恋愛レーダーで。

 

「恋愛、ですか……華道ばかりしていた私には、あまり縁のない言葉かもしれません」

 

片手に山盛りのご飯が乗った御茶碗を持った華は、少しだけ寂しそうに言った。

華道の名門、その一人娘である華は、それはもう蝶よ花よと愛でられ、守られ、大事にされて育ってきたと聞いたことがある。ある意味では普通から最も縁遠い所にいる華だから、きっと気安い恋人関係なんてできっこなかったのだろう。間違いなく、家からの審査が入る。

 

しかし沙織は知っているのである。この少し天然が入った大和撫子の体現みたいな少女は、陸に上がればそれはもう男の人から何度も声をかけられている(ナンパされている)ということを。

真の意味で縁がないわけではないのだ、この子は。ただ本人に興味がないだけで。

 

「恋ですかぁ……うーん、私はちょっと分からないです」

「うん、優花里はそうだと思ったよ……」

 

スイッチがどこにあるか、誰から見ても分かるのが秋山優花里という少女である。

花より団子、ならぬ花より戦車。ミリタリー系、特に戦車道の趣味がある人なら、これ以上ないくらい上手く噛み合いそうな気はするけども。

 

「みほは?」

 

そして沙織は、残る最後の一人に視線を投げかけた。

しかし聞いてはみたものの、沙織は九割くらい返答の予想がついていた。

みほは戦車道の名門に生まれた、華と同じお嬢様パターン。加えて中高は女子校で男の子と接する機会はほとんどなし。更にみほの引っ込み思案な性格を考えれば、男子と付き合うなんて有り得っこない。

 

「私も……あんまりそういうのはなかったかな。男の子が周りにいなかったわけじゃないけど、戦車道で忙しかったし」

「あーやっぱ―――――――え?」

 

うんうん、と頷くこと一回半。

沙織は危うく耳を通り抜けていきそうだった単語を慌てて掴み取った。

何か今、おかしな言葉がなかっただろうか。

 

「みほって中高と黒森峰だよね?」

「そ、そうだけど……」

 

それがどうしたのか、と言わんばかりのみほの表情だった。

沙織の表情に対する困惑の感情が、少しだけ滲んでいたかもしれない。

しかしそんなことを気にした様子もなく、沙織は努めてはっきりとした口調で言った。

 

「黒森峰って、女子校だよね?」

「う、うん」

「なんで男の子いるの?」

「えっ」

 

それはきっと「なんで水族館にライオンがいるの?」みたいなレベルの質問だったに違いない。しかし当然の疑問だった。

女子校。つまり完全に男子の存在を排した領域。ゆえに、男の子なんていないし、いてはいけないはずだ。

でもみほは、さも当たり前であるかのようにその存在を仄めかした。

これは無視できない疑問である。

 

するとみほは、合点がいったような表情になって、謎を解き明かした。

 

「黒森峰じゃ戦車の整備は、分校や外部の工業高校に委託してるの。だから女子校だけど、校内には結構男子生徒がいたりして、話す機会もあったりするよ。まぁ戦車道をしてる人だけなんだけど……」

「なにそれ羨ましい!」

 

ストレートかつシンプルな感情が何の飾り気もなく口から飛び出ていった。

横に座る麻子が、僅かに顔を顰めた。

 

同じ女子校なのにこの違いはなんなのか。

大洗女子と違ってボーイミーツガールもアオハルもフォーリンラブもしたい放題の最高の環境である。

 

「もったいないよ!みほなら彼氏の一人や二人や三人何の苦も無く作れたでしょ!?」

「同時に作ってたら大問題だがな」

 

沙織と麻子の言葉に、みほは苦笑いを一つ浮かべた。

それはよく見る、みほの困った顔だった。

 

「………お兄ちゃんが家から出て行くときに約束したの。『お互いに戦車道を続ける。そしたらまた逢えるから』って……それだけが遠い所に行っちゃったお兄ちゃんと私を結ぶ、たった一つの繋がりだった」

 

表情が色を変える。

それはきっと、痛切という色だった。

 

「だからその頃の私は、そればっかり追いかけてた。彼氏とか恋愛とか、そういうのが目に入らなくなるくらいーーーーーそれくらい、私はお兄ちゃんに逢いたかったから」

「みほ………」

 

沙織の中に、ある感情が去来する。

それは恋愛映画を最後まで見終わった時のような感動であり、難しい数学の問題を解き終わった時のような納得感であった。

幸いにも沙織は、それらの感情をひとまとめにすることができる言葉を知っていた。

深い息とともに、沙織はその言葉を吐き出した。

 

「やっぱりみほって結構なブラコンだよね」

「ぇぅっ!?」

 

みほは今まで聞いたことのないような珍妙な悲鳴を上げた。

しんみりとした空気が、一瞬で霧散していく。

 

「ぜ、全然そんなことないよ!?だだだ、だってあのお兄ちゃんだよ!?普段ぐーたらでいい加減で性格悪くて生活能力皆無で、戦車道しか取り柄が無いような人だよ!?ぶ、ブラコンなんてそんな……!」

 

お目目ぐるぐる、お顔真っ赤、お手手は右往左往。

そんな絵に描いたような慌てっぷりを披露するみほに、沙織は呆れたように息を吐いた。

この有様でそんな言葉が通ると思っているのだろうか、この子は。

要するに渡里を追いかけるのに夢中で、他の男の人に見向きもしなかったということだろう。それ、誰がどう見てもブラコンじゃん。

 

「いやみほ、もう隠せてないから。普通お兄ちゃんだからって家にご飯作りに行ったりしないし」

「はぅっ!ど、どこでそれを……」

「あ、すいません西住殿……私、偶然西住殿が神栖殿の家に買い物袋を持って入ってくのを見てしまって……」

 

壁に耳あり障子に目あり。すっかり縮こまってしまったみほを、沙織は微笑ましく眺めた。

別に隠すようなことでも、ましてや恥ずかしがるようなことでもないだろうに。

沙織にも妹がいるが、こんな風に慕われたら誰かに自慢したくなるくらい嬉しい。きっと渡里も、それは同じだろう。

仲が悪いより、よっぽど素敵なことだ。それに、慕う相手が渡里ならそれはきっと―――――――――

 

「………」

「ん?なに麻子?」

 

不意に視線を感じた沙織は、その方向に目を向けた。

そこにはいつもの眠たげな表情を隠そうともしない、幼馴染の姿があった。

彼女は短く瞑目し、つれなく言う。

 

「なんでもない。それより今の話で思い出した。私は渡里さんに少し用事がある。先に失礼する」

 

麻子は立ち上がり、配膳トレーを手に取った。

瞬間、どこかで短く息が漏れる音がした。

長く艶のある黒髪が、立ち上がった拍子にサラサラと揺れる。

 

「麻子さん、私も渡里さんに聞きたいことがあるんです。一緒に行ってもいいですか?」

「っていうか華、いつの間に食べ終わったの……手品?」

 

胃にブラックホールでも搭載してるんじゃないだろうか、この子。

 

いっそ清々しいくらいの華の食べっぷりに、頬を引き攣らせる沙織の真正面で、勢いよく腕が上がった。

 

「あ、すいません!私も神栖殿にちょっと用があって……すぐ終わりますので私も一緒に行きます!」

「優花里も?み、みんなしてどうしたの今日」

 

渡里からすれば怒涛の訪問ラッシュである。一度に三人も押しかけてくるなんて。

珍しいこともあるものだ、と目を丸くする沙織に、麻子は平然と言った。

 

「私は渡里さんに本を借りてくる。この前家にお邪魔した時に約束した本を、今日持ってきてくれてるはずだからな」

「……え?」

「私は明日の予定について……いつも一緒に使ってる茶道部の部室が、確か明日は使えなかったはずなので」

「………んん?」

「私は昨日の夜お話しした戦車のセッティングの資料を貰ってきます!」

「ちょっと待って!?」

 

連鎖して明かされる三人の用事。その節々に隠された聞き捨てならない言葉を、沙織の耳は聞き逃さなかった。

 

「みんないつの間にそんなに渡里さんと仲良くなったの!?優花里は夜に密会してるし華はなんか密室で二人きりっぽいし麻子に至っては家にまで行ってるじゃん!!」

 

何が「色恋沙汰はない」だ。ガッツリあるやん。

 

「ズルい!」

「なんで私達怒られてるのでしょう?」

「さ、さぁ…」

 

頬を膨らませる沙織に、華と優花里は引き気味だった。

あるいはそれは、沙織の様子に対する困惑と言ってもよかったのかもしれない。

唯一、幼馴染の麻子だけが眉一つ動かさず、そんな沙織に呆れたように言った。

 

「沙織に接点が無さすぎるだけだ………変に意識するから、そういうことになる」

「え?なん―――――――――――」

 

空気に溶けていくように呟かれた言葉は、残念ながら沙織には届かなかった。

聞き返しても麻子は首を横に振るだけで答えることはなく、スタスタと歩き始めた。

対面に座る沙織は、そんな麻子の進路上にいた。必然、一瞬だけすれ違う。

 

その一瞬に、それは聞こえた。

 

「気になるなら、思い切って行動してみろ――――――――周回遅れギリギリだぞ、沙織」

「―――――――――」

 

弧を描く瞳。その奥には幼馴染の姿が映っていた。

心を見透かしたような瞳をした、親友の姿が。

 

 

 

 

街灯に照らされた道は、意外と暗い。

そんな風に見えるのは、沙織の心がこの景色と同じように、決して明るく晴れやかなものではないからだろうか。

学校を抜け出し、潮の香りを運んでくる風を肌で感じながら、沙織は黒い空の下を歩いていた。

確かな足取りとは裏腹に、沙織の頭の中は漠然としていて思考の渦がぐるぐると回り続けている。

理由は言わずもがな、昼に掛けられた麻子の言葉だった。

 

 

気になる人。

意中の人、とも言い換えることができるその人は、確かに沙織の心の中に住んでいる。

しかしそれは、決して誰にも言えないことだった。

恥ずかしいとか、そういう気持ちがあったからじゃない。想いを寄せるその人、いわばベクトルの先にいる思慕の対象者が、問題だったのだ。

だから沙織はその気持ちを、身体の奥深く、深い深い底に沈めた。誰にも気づかれないように、秘めることにした。

 

――――――はずだったのだが。

 

親友はそれを、あっさりと見抜いていた。

予想外と言えば予想外だ。しかしこれは、当たり前のことだったのかもしれない。沙織は、麻子のことならなんだって分かる。ならその反対も、あるに違いないのだ。ともに積み重ねてきた時間は、絶対に等しいのだから。

 

バレているのなら、もう仕方ない。

沙織は心の中で、白状した。

 

沙織の気になる人………それは大洗女子学園戦車道教導官の肩書と、西住みほの兄という称号を持つ男の人。

突如として女子校という閉鎖空間に現れた、一人の男性。

 

 

その名前を、神栖渡里という。

 

 

いや、と沙織は誰に言うでもなく言い訳した。

最初は、本当にそんなつもりじゃなかったのだ。

ファーストコンタクトこそ、そのスタイルとルックスと声に舞い上がってしまったが、その後すぐに起こった「神栖渡里不純異性交遊事件(誤解)」に始まり、地獄のような練習をさせられたことや何やらが積み重なって、沙織の中にあったトキメキはあっという間に霧散した。その時点では、渡里に「友達の兄」以上の感情を抱いてはいなかったはずだ。

 

なら、それがどうして恋慕まで昇華したかと言われると、沙織にはそれが分からないのだ。

何か決定的な出来事があったわけでも、特別な関係を持ったわけでもない。

 

普通に話をした。「先生」と「生徒」、「友達の兄」と「妹の友達」という関係から逸脱することなく、それでいて過剰でも過少でもない回数で。

 

そんな日々が続いていたら、本当に不思議なことに沙織は、渡里の姿を追いかけるようになっていた。戦車道を楽し気に語る横顔を、嬉しそうに戦車を弄る表情を、沙織は気づけば眺めているようになった。

 

そして間もなく、常に渡里のことを考えるようになった。

どこにいるのかな、とか。今何してるのかな、とか。

暇さえあれば、頭の中であの人の顔を思い浮かべるようになって。

 

そして沙織は気づいた。

自分は、渡里のことが好きなのか、と。

 

一度自覚してしまうと、もうダメだった。

まともに目を合わせることができなくなり、話し方はしどろもどろになって、心臓はうるさいくらいに鼓動してしまう。

先生でも、友達の兄でもなく、一人の男の人として、渡里を見るようになってしまったのだ。

 

 

その想いを誰かに打ち明けることは、無理だった。

これが本当に誰も知らない男の人なら、「好きな人ができた」と沙織は自慢げに語ることができただろう。

 

でも渡里は違う。優花里も、華も、麻子も、戦車道を受講している誰もがあの人のことを知っている。

そんなところに沙織の想いを打ち明けたとして、果たして皆今まで通りに接することができるだろうか。変に気遣ったり、遠慮したりしないだろうか。

沙織が危惧していたのは、そこだった。

 

自分のせいで今の関係が壊れてしまうことだけは、絶対に嫌だった。

特にみほ。あの超が二個くらい付くほどのブラコン(本人は一向に認めない)がどんな反応をするか、沙織には予想がつかない。

もしも、万が一、気まずくなったら。疎遠になってしまったら。

沙織は、きっと後悔する。この胸にある暖かな気持ちは大事だ。でもそれと同じくらい、いやそれ以上にみほ達との友情も大事なのだ。

 

だから沙織は、ずっと秘めておくつもりだった。自分一人我慢すれば、何も変わることはない。今の関係を、ずっと続けていくことができる。

 

そんな風に、考えていたのに。

 

沙織は無意識に頬を膨らませた。

身体の奥から沸々と沸き上がる感情の名は、果たして何だろうか。

 

恋愛に興味がない、と言っていた華と優花里は、自分の知らないところで渡里と親密な関係を築いていた。華なんて何やら少女漫画にそのまま使われてもおかしくないようなことをしているっぽいし、優花里は優花里で油断ならない気がする。

 

いやそれ以上に問題なのは、麻子である。

あの人見知りが、出逢って数か月の、それも大人の男の人と親しくなるなんて。

いやそれだけならまだしも、渡里の家に上がったこともあるとは。

衝撃度で言えばいつかの全校集会で見た戦車道のPV並みである。

 

自分は遠慮して過度な接触は避けていたのに、そんなこと知ったことかと言わんばかりにこんなことをされてしまっては、そりゃ沙織の頬っぺただってお餅みたいに膨れる。

ましてや周回遅れ呼ばわりされて、そのまま泣き寝入りなんてした日には女が廃るだろう。

 

「……って、意気込んだはいいけど」

 

沙織は足を止めた。眼前にあるのは、表札も掛けられていなければ門すらない簡素な玄関と、家を囲うように植えられた生垣。趣のある外観をした平屋の一軒家。

それは大洗女子学園が管理する女子寮で、沙織やみほが暮らすアパートタイプの物とは違い、文化住宅タイプと呼ばれるものであった。

 

このタイプの寮は沙織にとって非常に見覚えのあるものである。なぜなら麻子が、これと全く同じ寮に住んでいるから。寝坊助な幼馴染を起こしに行ったり、ご飯を作りに行ったりと足を運ぶ機会が多く、最早もう一つの家と言ってもいいくらいに沙織は慣れていた。

 

しかし、今夜は違う。

見た目は同じだが、この寮の中に住んでいる人が全然違うのだ。

 

「うー……やっぱ勢いに任せすぎたかなぁ」

 

自分だけ渡里と仲良くなれていないことと、昼の麻子の発言を受けて沙織も「負けてなるものか」と対抗心を燃やし、お家を訪問するという大胆な行動に出たのはいい。恋愛は受け身な沙織からすれば、大した進歩である。

 

ただ、それも一瞬のこと。

学校を出る時にはあった燃えるようなテンションも、時間を経れば経るほど右肩下がり。

そしていよいよ家の前に立つとなると、インターホンを押す指がどうしても出ないのが悲しいところである。

 

(っていうかみほから聞いたけど渡里さん久しぶりに早く帰れたんだよねいつもは夜遅くまで学校にいるけどとなると今日はゆっくり家で過ごせる貴重な日じゃんそんな日にいきなりアポ無し吶喊ってどうなのそもそも逢いに来たのはいいけど何か用があるわけじゃないし――――――)

 

あまつさえ、余計なことをぐるぐると考えてしまう始末。

実際、渡里と逢ってしたいことはない。言ってしまえば、渡里と逢う事自体が沙織のしたいことだから。

しかし、と沙織は一旦冷静になった。

 

――――――いきなり家に来られるのって、結構怖くない?

 

夜に、住所を教えてない人が、いきなり家に来る。

沙織はみほからさり気無く「渡里さんってどの辺に住んでるのかな~?」的な話をして渡里の居所を入手したわけだが、渡里からすればそんなの知ったことではない。しかもその来訪者、特に用事はなく逢いに来ただけ。

 

沙織は逆の立場になって考えてみた。

 

……流石に、止めておいた方が良い気がしてきた。

 

よし帰ろう、と沙織は瞬間で踵を返した。

やるべき理由は全然見つからないくせに、やらない方がいい理由はたくさん出てくる。

こういう時は、大人しく退いて体勢を立て直すべきである。勇気と無謀は紙一重、沙織は今その境界線上に立っていて、賢明にも無謀側に行かずに済んだのだから。

 

「武部か?何してんだこんな時間に?」

 

ところで、境界線の向こう側から手を掴まれて引っ張られた時は、どうすればいいのだろうか。

聴き心地のいい低い声に、沙織の肩が大きく跳ね上がる。

油の切れた機械みたいな動きで首が回転し、沙織の瞳はその人を捉えた。

 

「女子が気ままに歩き回っていい時間じゃないぜ。学園艦の中も100パー安全ってわけじゃないんだからな」

 

沙織よりも頭一つ以上大きな背丈。夜に映える濃紺の髪。

白いTシャツにスウェットというザ・部屋着な恰好をした意中の人が、そこにいた。

 

「―――――――――っ」

 

話しかけられた。なら、言葉を返さなくちゃ。

そんな沙織の思考とは裏腹に、沙織の身体は接続が切れたコントローラーみたいに動かなかった。

ただ視覚だけが機能を継続していて、彼の姿をとらえ続けていた。

 

沙織の中での渡里の姿とは、大洗女子学園のパンツァー・ジャケットとよく似たデザインの上着を羽織った恰好と、それ以前まで着ていたオフィスカジュアルな服装の二つだった。

それは没個性的な、いわば沙織たちで言うところの制服のようなもので、少しの堅苦しさがあった。しかし今の渡里に、その類の感じは全くない。

 

同じ人なのに服が変わるだけでここまで印象が変わるのか、と沙織はそんなことを考えていた。なんというか、渡里の素の部分を見れたような気がして、得した気分になる。

この胸の高鳴りは、きっとその辺りから来ているのだろう。具体的に言うと、引き締まった腕とか大胆に開いた胸元とか、沙織的には大変眼福です。

 

――――ってかそうじゃなくて!

 

「ああああのっ、私寮に取りに行くものがあって!だ、だからそのこの辺を通ったのは偶然というか渡里さんの家がここにあるのも知らなかったし――――」

 

あ、ダメだ。自分でも分かるくらいテンパっている。

こういう時に「少し近くまで来たので寄ってみたんですよ」くらいサラッと言えちゃうスキルが欲しいと沙織は切に思った。

 

アワアワする沙織に、渡里は表情を大きく変えることはなかった。

ただ顎に指を当て、少し困ったように口を開いた。

 

「武部の女子寮ってこっからちょっと遠いよな……今から取りに行くのは、オススメしないかも。すぐに雨が降るからずぶ濡れになるぞ」

「え、雨って……今日は天気予報でずっと晴れって言ってましたけど」

 

沙織は携帯で見たニュースを思い出した。今日は学園艦の航行ルート的にも、雨の降っているところには行かないはずだから、雨が降ることなんてないと思うのだが。

 

目を丸くした沙織に、渡里は少し笑って言った。

 

「降るよ……そうだな、あと――――――――――三秒後くらい?」

「へ?」

 

どういうことですか、という言葉は沙織の口から発せられることはなかった。

喉元まで来ていた言葉は、突如として沙織の頬を濡らした水滴によって霧散させられた。

 

ポツ、ポツ、ポツ。

 

テンポ40以下のリズムで地面を打つソレは、徐々に徐々に速度を上げ、あっという間にテンポ200にまで到達した。

 

渡里の言う通り、本当に雨が降り始めたのだと沙織が気づいた瞬間、何かが軋む音がした。

 

「傘、持ってないだろ。悪いけど俺も持ってないんだ……止むまで雨宿りしてけよ」

 

指で示された先には、開放された玄関のドアがあった。

奥の方から漏れ出す室内灯の明りは、暗い夜道を仄かに照らす。

沙織にはそれが、どこか別の世界に繋がっている異次元の扉のように見えた。

 

渡里の声に何と答えたのか、沙織には分からない。

ただ不思議な引力に導かれたように、気づいた時には沙織は神栖渡里の家へと足を踏み入れていた。

 

(わーっ、わぁーーっ!)

 

自分の部屋とも、みほの部屋とも、麻子の部屋とも違う

男の人の部屋。沙織はそれを、まず香りで感じた。

いい香りが漂っているわけじゃない。でも、不快な匂いでも全然ない。寧ろずっと嗅いでいたくなるような、不思議な香りだった。

 

部屋の中は、意外なほどに綺麗だった。

文化住宅タイプの寮は三畳の部屋と六畳の部屋の二つがあり、それが障子で仕切られているのだが、渡里の家はその障子が取っ払われている。

それによって広く見える部屋に対して、物が少なすぎるから部屋が綺麗に見えるのかしれない。

三畳の部屋には布団が一組敷かれていて、六畳の部屋の真ん中には長方形の机が一つと、座椅子が二つ。後は隅っこの方に風の切られた段ボール箱が積まれているが、それ以外に目立ったものはなく、寝るためだけの家という感じが強い。

 

「面白味のない部屋だろ」

 

縁側に続く窓からのっそりと入ってきた渡里は、そう言って笑った。

その脇には洗濯物の籠が抱えられている。

 

「その座椅子使ってくれ。みほがいつも使ってるやつだ」

「は、はい!」

 

シュバッ、という効果音が付きそうなくらい素早く沙織は座椅子を拝借した。スカートじゃなくて良かった、と沙織は人知れず安堵した。

 

洗濯籠を適当に置いた渡里は、そのまま玄関の方へ向かっていった。

壁の向こうに消えたと同時に、声が届く。

 

「麦茶でいいか?それくらいしか置いてないんだけどさ」

「は、はいっ、お構いなく!」

 

束の間、沙織は辺りを観察した。

本当に殺風景な部屋だ。学校の方の部屋はかなり散らかっていて、座る場所もないほどだったが、こっちは逆に散らかす物が無さすぎる。

 

結構極端な人だよね……と沙織が渡里の人柄を再認識した時、ふと机の上に妙なものが置いてあることに気づいた。

 

「……糸電話?」

 

安っぽい紙コップを掴み上げると、底のほうから細い糸が垂れていて、それはもう一つの紙コップと繋がっている。誰がどう見ても、ただの糸電話であった。

なにこれ、と沙織は首を傾げた。小学生の机の上にあるならまだしも、渡里の家に存在するものとしては違和感が強い。

 

「気になる?」

「みっ!?」

 

背後からかけられた突然の声に、沙織から妙な悲鳴が漏れる。

赤面しながら振り向くと、二人分のコップを持った渡里がそこにいた。その表情は悪戯っ子のような無邪気さであふれていた。

トン、と沙織の前に麦茶が置かれて、沙織の正面に渡里は座る。

 

「懐かしいだろ。子どもの頃よく作らなかったか?」

「い、糸電話はそんなに……」

 

そう?と言いながら渡里は麦茶を一口飲んだ。

そんなタイプの子どももいるだろうけど、沙織はそんなに工作が好きな方じゃなかった。

 

「俺はめっちゃ作ったよ。そんでみほとま―――言ってもわかんないか、まぁよく遊んだんだよ」

 

渡里は沙織が持ってない方の紙コップを手に取り、くるくると弄んだ。

 

「いいよな、これ。子どもの頃は分からなかったけどさ、理想のコミュニケーションってこういうものなんだろなって思うよ」

「糸電話がですか?」

「というよりはメカニズムが、かな」

 

すると渡里は口に紙コップを当てて、人差し指で自分の耳を二度叩くジェスチャーをした。

ピンときた沙織は、自分の持っていた紙コップを耳に当てる。

 

『多分雨はあと二時間弱くらい降り続ける。夜も遅くなるし、帰りは送ってやるよ。それまではウチで暇つぶしてけ』

 

そう言って渡里は莞爾と微笑んだ。

 

ドクン、と沙織は胸がひと際大きく鼓動するのが分かった。

つまり沙織は、二時間くらい渡里の家にいることができて、しかも二人っきりで過ごすことができるのだ。

 

なんという僥倖だろう。勇気を出してよかった、と沙織は心の中でガッツポーズした。

普段訊けないようなこととか、ずっと訊きたかったことを色々聞くまたとないチャンスだ。

 

「あ、あの渡里さん!」

「どした?」

 

何から訊くべきだろうか。

やはりここは、王道の『好きな女性のタイプ』だろうか。それとも本丸の『彼女はいるのか』だろうか。いや待て後者は結構リスキーだ。ジャブとしては前者の方が良い気がする、うん。

よし、行くよ。

 

「す、好きな――――――――」

「??」

「――――――――戦車道について、教えてください……」

 

あぁもう私って、ほんとにヘタレ。

沙織はさめざめと心の中で泣いた。

そこまで言ってるなら、もう言い切ってしまえばいいのになんで逃げちゃうかな!?こんなザマで恋愛マスターなんてよく名乗れたものだよ!

 

そんな感じで脳内では、バッテン印の看板を首から提げた沙織が、二、三人の沙織からああだこうだと文句を言われていた。

 

「戦車道?通信手のことを教えてほしいってこと?」

「うぅ、そうです……」

 

全然そうじゃない顔の沙織に渡里は首を傾げていたが、構わず彼は話始めた。

 

「って言われても、武部に教えることはないよ」

「えぇっ!?」

 

そして速攻で終わった。

唖然とする沙織に、渡里は戦車道教導官の顔になって説明した。

 

「通信手は戦車と戦車、人と人とを繋ぐ者っていうのは分かるだろ?戦車道において意思疎通は基本的に通信によって行われる。なら、その管理を一手に引き受けている通信手こそがコミュニケーションの要なんだ」

 

それは合宿初日、通信手組の前で渡里が言った言葉だった。

 

「だから通信手には、高い感受性と送信能力が求められる。平たく言うと、相手の話を理解する力と、相手に理解しやすい話し方をする力。これが所謂、通信手の素質になる」

 

状況は完全に、戦車道の授業と化していた。いやまぁ、話を振った沙織が百パーセント悪いんだけども。

 

「で、その点で行くと武部は、通信手の素質がかなりある。正直、十分すぎるくらいに」

「ほ、ほんとですか!?」

 

色気のない話とはいえ、褒められるのは嬉しいことだった。

しかも渡里は、戦車道では絶対に嘘をつかない。つまりこれは、決してお世辞ではない。

 

「みほから聞いたけど、人と仲良くなるのが得意らしいじゃん。それって誰にでもできることじゃないんだよ。通信手としては、得難い才能だと思う。そんで今は、その素質に相応しい質と量の練習をこなしてる。通信手の能力としては、合宿が終わる頃には黒森峰や聖グロに混じっても大丈夫なレベルにはなってるよ」

 

べ、べた褒めと言うやつなのではないだろうか、これ。

頬が少し熱を持ち始めた。

合宿中は本当にジェスチャーゲームとか伝言ゲームとか、言葉縛りゲームとか色々やらされて「なんじゃこりゃ」と思うこともあったが、今は真面目にやってきてよかったと思う。

 

「ま、感受性と送信能力については通信手だけじゃなく、全員が持っててほしいものなんだけど。特別通信手は優れてないとダメっていう話で……まぁその辺抜きにしても、武部は優秀だよ」

 

だから、と彼は続けて言う。

 

「教えることがないんだよ。もう足りないものって言ったら、経験くらいしかないからさ。それは今すぐどうこうできるものでもないし」

 

今のままでいい、と渡里は暗にそう言った。

沙織は、別にしんどいのが好きというわけじゃない。そこまでストイックな精神は持ち合わせていない。だからしなくていい練習なら、無理にでもしたいとは思わない。

 

でも、と沙織は両の手を握った。

 

沙織は知っている。

華が、日課だった生け花をお休みしてまで、戦車道の練習を頑張っているということを。そしてそれは、本来やらなくてもいい練習だったということも。

 

沙織は知っている。

麻子が、最近熱心に戦車道の本を読んでいるということを。それは麻子が初めて、自分以外の人のために頑張ろうとしているからだと。

 

沙織は知っている。

優花里が、装填手の領分を超えた練習をしていることを。それは今の自分に必要なことなら、なんでもするという向上心の表れということを。

 

沙織は知っている。

みほが、今すごくしんどい思いをしながら頑張っていることを。迷いながら、それでも必死に前に進んでいるということを。

 

誰かに聞いたわけじゃない。でもこれくらいのことは、皆のことを見ていればすぐに分かるのだ。

もし知らなかったら、きっと今のままで済んだのだろう。

でも知っているんだから、見て見ぬ振りはできない。

こんなにも頑張っている人がいるのに、自分だけ良かったらいいなんて思えないのだ。

 

だから、

 

「でも、それでも他にできることはないですか?」

 

沙織は真っ直ぐに渡里の目を見つめて言った。

はじめて、こんなにもこの人のことを見たかもしれない。

 

「なんでもいいです。私にできることがあるなら、なんでも教えてください」

 

宇宙の色をした瞳が、沙織の両眼を覗く。

沈黙は、十秒程だった。

 

「………純粋な通信手の技術で、できることは本当にない。でも、武部沙織としてできることが無いわけじゃない」

 

その時の渡里の表情は、少し呆れたような感じだった。

 

「今の四号の通信システムは、他の戦車から入ってきた情報を武部が受け取って、それをそのまま一ミリの誤差もなくみほにトスしてる形だろ」

 

沙織は頷いた。

10入ってきたものは10のまま、四角い形で入ってきたものも四角い形のままみほに渡す。

それが通信手として沙織が心掛けていることだった。

 

「みほは情報を処理する力がすごいからさ、そうやって武部から入ってきた情報を全部整理して、頭の中にある戦況マップに反映させることができるんだ」

 

聖徳太子は十人の話を一度に聞くことができたというが、感覚としてはみほもそれに近いものを持っている、と渡里は言う。

 

「しかもみほは隊長兼車長だからな。部隊全体の指揮と、戦車単体レベルの指揮の両方をこなしてる。武部、みほがうまく指示できないところ見たことあるか?」

「え、えーと……そういえばないような……」

 

はじめて戦車に乗った時も、聖グロとの練習試合も、普段の練習でもみほはテキパキと指示を飛ばしている。何を言えばいいか分からない、というようなテンパり方は未だ見たことがない。

 

「膨大な情報を処理しながら、大局的な指揮と局所的な指揮の両方を同時にできる。それはそのままみほの高い実力を示してるわけだが……本当はもっと上があるんだ」

「え!?」

 

今でも十分すぎるくらい凄いみほが、もっと凄くなる。

それは既に、沙織の想像を超えているレベルの話だった。

 

「ケーキで考えてみ。三等分と五等分、一個あたりの大きさは前者の方が大きいだろ。それと同じで、みほの負担を減らして、一か所に力を集中させることができれば、その分だけパフォーマンスは上がる」

 

そして渡里の視線が、鋭い矢となって沙織へと投射された。

 

「わかるか、武部。今みほがやってる情報処理の部分を、お前が肩代わりするんだ。情報をそのまま渡すんじゃなく、切り分けを行って可能な限り単純化する。そうすればみほは指揮だけに集中することができる――――お前が、みほを支えるんだ」

「私が、みほを……」

 

支える。それは、言葉にするのは簡単だ。

でもその逆だって有り得るのが、現実。

 

「できるのかな……」

「必要なのは戦術眼だ。あくまで形としてはみほのアシストだからな。戦術を考える時とか、

相手の動きを読む時とか、そういう時にちゃんと使えるように情報を料理しないといけない」

「え!?ど、どうしよ……私戦車道なんて全然詳しくないのに……」

「素人なんだから当たり前だろ」

 

そう言って渡里は苦笑した。

そして立ち上がり、収納の押入れを開ける。

瞬間、激しい雪崩の音が部屋に響き渡った。開けた拍子に、無理やり詰めこまれていた中の物が飛び出してきたということに気づいたのは、渡里が沙織の前に座りなおした時だった。

 

「はい、プレゼント」

「へ、な、なんですかこれ……?」

 

手渡されたのは一冊のノートだった。

表紙には大きく『せんしゃどーノート!!!』という文字とマル秘が書かれていて、全体的にやけに使い古されているというか、年季を感じさせる。

 

渡里は懐かしむように言った。

 

「見ての通り、戦車道のノートだよ。俺とみほと、あともう一人で作ったんだ」

 

視線で促され、沙織は中を拝見した。

一ページ目には、下手くそな絵で描かれた戦車の姿と、ひらがなばっかりの解説文のようなものが上下に分かれて書かれていた。

二ページ、三ページ目は四角形と三角形の記号と矢印が縦横無尽に紙面を駆け回る図式のようなものが書かれていて、こっちはなんのことか沙織には分からない。

 

「西住流で習うようなことのほとんどは、そこに書いてある。つまり戦車道に必要な知識は大体載ってるってことだ」

 

ページをぺらぺらと捲る沙織を他所に、渡里は段ボール箱の中を漁っていた。

 

「む、むずかし……」

 

一通り流し読みした感じ、戦車の解説のようなところは分かる。しかしそれ以外の、専門的な用語やら知識が書かれたところは、正直理解できない。

要するにこれさえ読破できれば、戦車道に詳しくなれるということなのだろうが、中々難関である。

 

「まぁそう簡単に理解されたら西住流の立つ瀬がないよ。分からないトコは聞きに来い。マンツーマンで教えてやるから」

「あ、ありがとうござ―――――――――――――へ」

 

今、なんと仰った?

沙織の耳がおかしくなっていなければ、マンツーマンで教えると言わなかっただろうか。

 

「それくらい厳しくやらないと、多分大会始まるまでに間に合わないからな。武部がその気なら、付きっきりで叩き込んでやるよ」

「ほんとですか!?」

「え、なんでちょっと喜んでんの?」

 

付きっきり、マンツーマン。

それってつまり、合法的に二人っきりになれるチャンスがまだあるということではないだろうか。しかも何度も。

 

緩む頬を、沙織はノートで隠した。もうニヨニヨは、止まらなかった。

その間渡里は、変なものを見る目で沙織のことを見ていたが、それは沙織の知るところではなかった。

 

「そ、それ読むのは勿論だけど、自分でもそういう風なノートを作ってみるといい。戦車のスペックとか形とかは、多分そっちの方が覚えやすいと思う」

「はーい!!」

「……ま、いっか。どうする?まだ時間あるし、ちょっと個人レッスンしようか?」

「いいんですか?」

 

家に上がり込んでいる沙織が言うのもなんだが、家でゆっくりできる折角のチャンスなんじゃないだろうか。正直今日以降も二人っきりになれる機会を手にした沙織としては、今日はもう黙ってノートに目を通してるだけでも全然いい。

 

そんな沙織を、渡里は可笑し気に見つめた。

 

「今更遠慮されてもな……まぁ、気にするって言うんならそうだな……お礼に『恋愛マスター武部』の恋愛テクニックでもご教授頂こうかな?」

「ぶっ!?」

 

麦茶が口から飛び出しかけた。

 

「ど、どこでそれを……」

「ウサギさんチームに聞いた。結構好評らしいな?俺も生まれてこの方モテたことないからさー是非その辺りは聞いてみたいな」

「あぅ……そ、そのぉ……」

 

勘弁してください。

そんな風に白旗を挙げることができたら良かったのに、渡里経由でウサギさんチームの耳に入ってしまうと、もう看板は下ろすしかなくなる。

 

狼狽える沙織に、渡里はくつくつと笑った。

 

「百戦錬磨の腕前、是非拝見したいな。今気になる人とかいないのか?」

「そ、それは……いますけどっ?」

 

胸を張って沙織は言った。虚勢を張った、と言い換えてもよかったかもしれない。

ドラマとか少女漫画なら、「今目の前にいます」なんて台詞を言うのだろうが、そんな芸術的なテクニックは沙織には無理だった。

 

すると渡里は、満足したように笑うのを止めた。

次に出てきた声は、沙織の思っている数倍柔らかなものだった。

 

「その人が、武部の良い所も悪い所も全部分かってくれるような人だといいな」

 

それはきっと、一人の大人として子どもを導くような、そんな言葉だったに違いない。

あぁ、と沙織は感嘆した

この人は、やっぱり大人なんだ。沙織より数年長く生きて、沙織よりもいろんな経験をして成熟した、一人前の人間なんだ。

 

「……そういう、見栄っ張りなところとか特にな」

 

訂正。この人普通に子供っぽいとこある。

悪戯っ子そのもののような顔で笑う渡里に、沙織は紙コップを持つようにジェスチャーで示した。

 

目を丸くして紙コップを耳に当てる渡里を見て、沙織もまた紙コップを口に当てた。

そして一言、

 

『好きです』

「―――――――――へ?」

 

聞こえなかった、とでも言いたげに此方を見つめる渡里に、沙織は今度は()()()()()()()()言ってやった。

 

『あんまりイジワルすると、みほに言いつけますから』

 

恋ってどういう気持ちなんですか?

その問いには、もう答えられそうだ。

 




武部殿可愛いよ武部殿。
割とマジな話、武部殿がモテない世界ってヤバいと思う。


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第18話 「合宿を始めましょう⑥~アヒルとウサギとカバとカメと~」

本当は各チームからオリ主がどう見えているかを書きたかったのですが、何回書き直しても面白くならないし筆は進まないし、ということで西住殿に出張ってもらいました。
どうにも情景描写は得意ではないと痛感する今日この頃です。

独自設定タグが付いている通り、本作には原作にはない設定がいくつかあります。
今回の話にも出てきますので、その辺り許容が難しい人はお気をつけください。



六月中旬。合宿もいよいよ後半戦に差し掛かり、大会までの残り時間が徐々に現実味を帯びてきた今日この頃。

大洗女子学園戦車道受講者が使用する宿泊所に、変化が訪れていた。

それは、最初は「帰宅する途中で力尽きる」ということで満員御礼だった宿泊所が、最近まばらに空席ができるようになっていることだった。

 

これは別にボイコットとかそういうことではない。理由は至って普通。

合宿を開始して一か月半、受講者たちの体力が合宿に耐えうるようになったため、帰宅する者が増えたのだ。

 

と言っても毎日がそうというわけではない。

基本的には月曜から金曜の五日間の内、四日は宿泊所で過ごし、諸々の事情で一日ほど自宅に帰るというのがパターンだった。

 

体力的には既に宿泊所を使わなくとも問題ないレベルにはあるのだが、なんだかんだで全員、このプチ共同生活を楽しんでいたため、「じゃあ止めます」とはならなかった。

それはひとえに、大洗女子学園というチームの仲の良さを表していた。

実に善きことである。

 

「で、お前はなんで毎度毎度ウチに来るんだ?」

 

座椅子に全体重をかけてリラックスしている兄は、不満げに眉を八の字にしてそう言った。

 

「お兄ちゃんが毎度毎度、ちゃんとしたご飯を食べないからだよ」

 

机の上にお手製の料理を並べながら、みほはつれなくそう言った。

まったく不満があるというのならこっちの台詞である。

ふと「ちゃんとご飯を食べてる?」なんて聞いてみたら「……いつ食べたっけ?」と返ってきたときのみほの感情は、ちょっと言葉に言い表せないものだった。

いい年した男の人が栄養失調で倒れるなんて、しかもそれが自分の兄なんて広まった日にはみほはしばらく家から出てこれない。……合宿中は学校に寝泊まりしてるけど。

 

「三食パンとかじゃなくて、たまには学校の食堂使ったら?」

「うーん使いたい気持ちはあるんだけどな。色々やってるとすっかり忘れるんだよな」

 

流石自他ともに認める戦車道の虫。その情熱は、三大欲求を余裕で上回る。だからってご飯や睡眠を疎かにするのは決して褒められたことじゃないけど。

 

エプロンを外し、席に着いて手を合わせ、いただきます。

最低限生活に必要なものしか置いてない質素な部屋の中で、二人は夕食を開始した。

 

大変不本意なことだが、足繁く兄の家を訪ね、ご飯を作ってきたからか料理の腕がぐんぐんと伸びていて、最近は少し凝ったメニューも作れるようになっていた。

 

それを兄のお蔭とは絶対に言わないが、ともかくとして「とりあえずカレー。何でもカレー」という有様から卒業できたことはみほとしても良いことだった。

 

今日の夕食は肉じゃが。流石に沙織ほどの腕前はまだまだ遠いが……

 

「美味っ」

 

とりあえずこの兄を瞠目させるだけの実力はついてきたようなので、みほとしては満足である。

 

「ってかお前も食うのかよ」

「作った人の特権だもん。それに食材余らせたら、余らせた分だけ無駄になるし」

「学校で食えばいいのに……」

「合宿中、宿泊所の利用は強制じゃない、でしょ」

 

閉口した渡里を見て、みほは少し得意げな気分になった。

普段の舌戦では勝ち目がないが、私生活の土俵ではみほの圧勝である。

 

「もうすぐ合宿も終わる。皆と一緒にご飯を食べられるのも、もう残り少ないんだぞ。俺となんていつでも食えるだろ」

「そういうお兄ちゃんこそ学校で食べれば?皆会いたがってたよ」

 

その言葉に渡里は少しばかり驚いたようだった。

みほの言うことは嘘ではない。学校に寝泊まりしているのは戦車道受講者だけで、渡里は基本家に帰っている。

練習が終わり、整備を済ませて、帰宅。

この間に話す機会はあれど、夕食を一緒に取ることは未だかつて一度もなかった。特に渡里の性質を考えれば尚更その機会は少ない。

だからみんな、「折角なら一緒に」と一度ならず思っているのである。

 

「いいよ、年長者がいたんじゃ気も休まないだろ」

「そんなことないよ」

 

兄の逃げ道を、みほは強かに潰した。

 

「最初の頃ならそうかもしれないけど、もう皆お兄ちゃんと仲良しでしょ?」

「………さ、どうかな」

 

撤退戦においては西住流で右に出る者はいない、と言われた兄にしては珍しく拙い逃げ方だった。その奥にある感情に、みほはしっかりと気づいていた。

 

「アヒルさんチームからはコーチって呼ばれてるもんね。それにすごい慕われてるでしょ」

「あー、言っとくけどあいつらが勝手に言いだしたんだぞ」

 

渡里は困ったように頭を掻いた。

コーチ。その呼び方はアヒルさんチームの専売特許。

当時いきなり兄の事をそう呼んだアヒルさんチームに、みんな目を剥いたものだった

 

「一回気晴らしにバレーボールに付き合ったところから、一気に懐かれたな」

「あぁ、そういえばお兄ちゃん中学の時バレー部だったっけ?」

「ほとんどお遊びの部活動だったけどな。校則で仕方なく入っただけだし、週一でしか参加してなかった」

 

しかしそんなのでも、人との縁になるものらしい。

アヒルさんチームはバレー部復活のために戦車道を受講したくらいの、筋金入りのバレー好き。

バレー出来る人に悪い人はいない、と思っている節が割とあるので、速攻で打ち解けるのも納得だった。

金髪にカチューシャが特徴の佐々木あけびは子犬みたいに懐いているし、クールな印象が強い河西忍も兄には少し変わった表情を見せることが多い。

暖色の髪とハチマキが特徴の近藤妙子は何かと兄と話している所をよく見かけるし、キャプテンの磯辺はシンプルな敬意を兄に払っているようだった。

 

しかしあんこうチームと並んで神栖渡里と仲が良いとされるアヒルさんチームは、バレーだけで渡里と仲良くなったわけじゃないことをみほは知っていた。

 

「でもお兄ちゃん、アヒルさんチームみたいな人結構好きでしょ?」

「む、……まぁ、好ましくはあるよな」

 

アヒルさんチームと渡里の関係は、大洗女子の中でも少し変わっている。

本人たちの気質が大きく関係しているのだろうが、清潔感のある体育会系とでも言うのだろうか。ともかく気持ちよく、清々しい、エネルギーに満ちた関係がそこにはある。

みほもうまく口にすることはできないが、スポーツでよくある選手と監督の関係が一番近いと思う。

 

「素直だし、向上心もある。何より誰にも負けないくらいの根性がある。あいつらくらいだよ、俺にもっと厳しく鍛えてくださいなんて志願してきたのは」

 

カラカラと兄は笑った。

みほからすると、この兄にリミッター解除させることは控えめに言って自殺行為だが、その一線を軽々と越えてくるのがアヒルさんチームだった。

元々が体育会だったからか、渡里の言う通りアヒルさんチームは向上心と根性が凄い。

それに体力もあるから、兄謹製の合宿メニューに適応するのも随分と早く、スポンジが水を吸収するかのように成長していく。

 

「鍛え甲斐があるんだよな。どんだけ高いハードル置いても、それを越えようと前に進もうとする。教える側としては嬉しい限りだ」

「それでついついやり過ぎちゃうんでしょ」

 

咎めるような視線にも、渡里は笑うのみだった。

あれはおそらく合宿の中頃だっただろうか。アヒルさんチームが、それはもう魂を抜き取られたんじゃないかってくらいにぐったりしている時があった。

当時は何があったのかと頭を捻ったが、今思うにあれは合宿に慣れてきたゆえの慢心と、兄の本気を見誤った結果なのだろう。

どんなメニューだったかは知らないが、まぁ碌でもないとみほは思う。

 

「あ、そういえば最近アヒルさんチームがすごくやる気なんだけど、お兄ちゃん何か知ってる?」

「うん?やる気あるのはいつものことだろ?」

 

そうなんだけど、とみほは思いを巡らせた。

確かにアヒルさんチームは基本士気が高いのだが、ここ最近はそれとは少し違うと感じる。今までがフランべだとすると、最近はキャンプファイヤーである。

大会が近づいているからかとも思ったが、どうにもそれだけが理由とは思えない。

何か起爆剤となるものがあったんじゃないかと、みほは思うわけで。

 

すると渡里は何かに思い当たったように口を開いた。

 

「関係あるかは知らないが、八九式について少し教えてやったな」

「八九式?」

 

それはアヒルさんチームが乗る戦車の名前だった。

旧式の戦車が多い大洗女子の中でも輪をかけて古い戦車。あんまり言いたいことじゃないが、お世辞にも普通のスペックとも言えない性能で、装甲は「防げないものしかない」、火力は「貫けないものしかない」という具合である。

そんな戦車でもアヒルさんチームは意欲的に練習に取り組んでいるわけだが、果たして兄が教えたこととは何だろうか。まさか歴史でも説明したわけじゃないだろうし。

 

「大洗女子の戦車は元々学園艦の中にあったものだけど、八九式だけは違うんだ。アレ、俺が面倒見てた戦車だったんだよ」

「……へ!?」

 

どゆこと、と目を丸くしたみほに、渡里は茶を一杯啜って答えた。

 

「学園艦の中に戦車があるとは言っても、見つかるとも限らないだろ?だから保険の意味を込めて、八九式を譲ったんだよ。なかったら使ってねーって」

 

瞬間、みほはいつかの角谷の言葉を思い出した。

そういえばあの八九式は貰い物と言っていたが、まさか送り主がこんな身近にいたとは。

 

「まさか本当に使われるとはなぁ……そうと分かってればもう少し綺麗にして渡したんだけど」

 

兄はあまり八九式の出番があることを歓迎している様子ではなかった。

確かに八九式のスペックでは、戦力になるかギリギリのラインだろう。

戦車戦を想定していなかった時に造られた戦車だし、対戦車戦が基本の戦車道では少し活かしづらい。前線を張ることはまず無理だし、かといって後方から相手を貫く火力もない。

精々機動力を活かした偵察役―――――――

 

「あ、お兄ちゃん。ちょっと聞きたいんだけど……」

「何」

「八九式ってなにか弄ってる?」

 

みほはあの八九式を見た日から今日に至るまでの疑問を、兄にぶつけた。

ずっと思っていたのだが、あの八九式は異常に足が速い。

整地で時速25キロがマックスのはずなのだが、あの戦車は余裕で四号戦車と同じかそれ以上の速さを出している。多少のチューンをしているとはいえ、あの速度の出方は普通じゃない。

正直、みほにとってはかなり未知の存在だった。

 

みほの問いに、渡里は黙ったままだった。ただのそりと襖を開け、紙束の雪崩を引き起こしながら一枚の紙を片手に帰還してきた。

 

「これ、八九式のデータ。アレに使ってる部品は、全部そこに書いてる」

「…………な、なにこれ」

 

みほは愕然とした。それを面白そうに渡里は眺めていた。

 

「これ、アヒルさんチームは知ってるの?」

「言っても分かんないだろ。ちょっと特殊な仕様になってるとは言ったけど」

「ちょっとって……」

 

確かにちょっとだけど、全体で見れば全然違うのだが。

何がどうしてこんなことになったのかは知らないが、こんなになってればあの八九式の異常も納得というものだった。

 

「よくこんなのあったね……」

「別に見つけてきたわけじゃないけどな。俺のところに転がってきたはいいけど、使い道がないし、かといって捨てもできないからずっと持ってただけだし」

 

ひょいパクひょいパク、と渡里は肉じゃかを軽快に口の中に放り込んだ。

どういう経緯があったかは分からないが、まぁ不思議なこともあるものである。

八九式の整備を行うのがいつも兄だった理由も、みほはようやく分かった。

 

そしてついでに、アヒルさんチームのやる気が急上昇した理由も。

 

「それはやる気にもなるよ」

「ん?なんで?寧ろ俺からすると、あんな戦車に乗らせることになって、ちょっと申し訳ないくらいだけど」

 

あぁもうこの人は、とみほは内心でため息を吐いた。

戦車道となれば森羅万象を見通す目も、日常生活ではすっかり曇るようだった。

 

「あのね、アヒルさんチームはお兄ちゃんとすごく仲良しでしょ?」

「うん」

「で、自分たちの乗ってる戦車がお兄ちゃんの御下がりだって聞いたんだよね?」

「正確には御下がりじゃないけど、まぁ」

 

ここまで言ってもまだ気づかないか。

方程式はほとんど完成しているというのに。

みほは呆れながら、解を口にした。

 

「じゃあ張り切るよ。野球少年が、憧れのプロ野球選手からグローブを貰うようなものだもん。きっとお兄ちゃんにありがとうって思ってるよ」

「……あー」

 

納得半分、懐疑半分の表情を渡里は浮かべた。

まったくそういうところは本当にダメダメなんだから。

 

「そっかそっか、一方通行じゃなかったのか」

「え?」

「いや、なんでもない。まぁ慕われてるのはいいことだよな。怖がられるよりはよっぽど」

「あぁ、ウサギさんチームのこと?」

 

バレー部が最も渡里と早く打ち解けたチームなら、ウサギさんチームは最も打ち解けるのが遅かったチームである。

その原因は、ひとえに兄にあった。

 

兄の顔立ちは、まぁ妹の贔屓目なしにしても整っている方だと思う。

身なりには気を遣ってるから清潔感があるし、態度もハキハキとしているから全体的な雰囲気としてはシャープな感じが強い。

特に目つき。普段は兄の凛々しさを助長する鋭い目つきが、ふとした瞬間に柔らかくなる瞬間とか、ギャップがあってみほはすごく好きだ。それに声も聞き心地の良い低音で、ザ・大人の男性という感じがする。

 

ただ、長所と短所は紙一重。

みほにとっては良いところでも、他の人からすればそうじゃないことだってあるわけで。

凛々しい目つきは鋭い眼光に。

聞き心地の良い低音は威圧的な声に、といった具合に、ウサギさんチームはどうにも兄のことを怖い風に見てしまうようで、内心ちょっと恐れられていたのだ。

 

これはもう仕方ないことだった。全員が全員、みほと同じ感性というわけにはいかないし、みほと同じくらい渡里のことを理解してるわけでもない。

見え方なんて、人それぞれで変わるもの。どれが正しいなんてことはない。

 

兄もその辺は分かっていたようで、無理に話しかけることもなく、話しかけて来いと言うこともなく、付かず離れずの距離を保っていたのだが……実はこれは、ちょっと前の話である。

 

「でもお兄ちゃんが戦車を見てあげてから、ちょっと変わったよね」

「あれなぁ……いくら俺が話しかけづらいからって、感触の変な戦車に三日も乗りっぱなしなことあるか?普通すぐに言うだろ」

 

ちょっと前に、M3リーの調子が悪くなった時があった。

それ自体はまぁいいとして、渡里がここまで呆れたのはウサギさんチームがそれをずっと黙っていたからだった。理由は言わずもがな。

しかしみほは、ウサギさんチームの気持ちも少しわかるのだ。

 

「もっと分かりやすく故障してたなら言えたかもね」

 

結果を先に言うなら、戦車はちっとも壊れてなんかいなかった。いつもと何一つ変わらない、完璧に整備された状態だった。

しかしこれが、ウサギさんチームの気のせいというわけでもなかったのだ。

 

「普通気づかないよ。自分たちの実力が、戦車のスペックを追い越したなんて」

 

単純な話だ。大洗女子の戦車は揃いも揃って旧式だが、それでも戦車道素人集団にとっては手に余るものだった。

しかし兄によってタケノコみたいにぐんぐん成長していった結果、戦車の性能が彼女たちに追いつかなくなってしまったのだ。

本来であれば成長に合わせて戦車にチューンを施し、均衡を維持するのだが、それが間に合わないレベルの成長速度を大洗女子は見せていた。

 

砲塔の動きや操縦桿の反応が鈍いとウサギさんチームは言ったが、それは戦車がそうなったんじゃなく、彼女たちがそう感じるようになっただけというわけである。

そしてそんなのは、普通分かりっこない。だから彼女たちは、その曖昧さに脚を取られて兄に言い出せなかったのである。きっと気のせいに違いない、と自己完結してしまったのだ。

 

「そうかもしれないけどさ……」

 

兄はどことなく不服そうな顔になった。

そしてまるで先生のような口ぶりで言う。

 

「もし戦車が本当に壊れてたらどうするんだよ。何か重大な事故に繋がることだってあるんだぞ」

 

全く同じことを、全く同じ口調でウサギさんチームにも言ったんだろうな、とみほは苦笑した。

なんだかんだで面倒見が良い兄は、「何で早く言わないんだ」とひとしきり注意した後、倉庫に籠ってウサギさんチームの戦車を一晩でグレードアップしてしまったのだ。

それも乗員一人一人からヒアリングし、それぞれに合ったカスタムを施すというおまけ付きで。

 

お蔭で調子が悪いどころか前よりも快適になったM3。

ウサギさんチームは渡里への印象に上方修正を掛けたようで、以前ほど他人行儀な関係ではなくなった。寧ろ最近は積極的に話しかけている所を見かけるほどである。

 

外見のアレとは裏腹の、根っこにある優しさにウサギさんチームも気づいたのかもしれない。まぁ会話自体は普通にできるくらいの仲はあったし、何かキッカケが一つあれば仲良くはなるだろう。兄は「威厳がなくなった」と感じているらしいが、元々そんなにないから何の問題もないとみほは思う。

それになんだかんだで、まだウサギさんチームは結構兄に怒られたりしている。

勿論怒鳴りつけるような感じじゃなく、やんわりと諭すような叱り方だが、どうにもそこに渡里とウサギさんチームの関係がある気がした。

 

いっそシンプルなくらいの、先生と生徒の関係が。

 

「お前にも言っとくけど、ケガだけはするなよ。ただでさえ人数ギリギリなんだから」

「大丈夫だよ、結構頑丈な方だし」

 

伊達に西住流で鍛えられてはいない。砲弾は見てから余裕で避けれるし、身のこなしに関しては結構自信がある。

平然としたみほに、渡里は微妙な顔をした。

幼少期の頃を思い出しているのかもしれない。あの時は我ながら結構やんちゃだったと思う。

 

「あ、そういえばカバさんチームから伝言を預かってるんだけど」

「うん?なんだなんだ」

 

渡里の家に行くと言って学校を出ようとした時、みほはいつもの恰好をした四人に呼び止められた。

そしてとある言葉を、「くれぐれも伝えておいてくれ」と頼まれたのだが……その言葉の意味がみほにはさっぱり分からない。なのでみほは、彼女たちの言葉をそのまま再生した。

 

「『明日が貴方にとってのザマとなる』……だって」

 

どうにも剣呑な雰囲気が漂う伝言である。実際、その時のカバさんチームからは並々ならぬ気合を感じたのだが、実際は何のことやらである。

 

しかし兄は思い当たる所があったようで、カラカラと楽しそうに笑った。

 

「相当根に持ってるみたいだなぁ、あいつら」

「んん?どういうことお兄ちゃん」

 

首を傾げたみほに、渡里は上機嫌のまま事情を説明し始めた。

 

「ほら、カバさんチームがよくやってるボードゲームがあるだろ」

「あの戦略ゲームみたいなの?」

「そうそう。アレさ、ちょっと面白そうだと思って見てたらカバさんチームに誘われてさー」

 

みほも遠目で見たことしかないが、確か駒を使った割と本格的なボードゲームだった気がする。いつだったか優花里がカバさんに混ぜてもらって、あえなく惨敗を喫してリベンジに燃えていたことがあった。

意外とルールが複雑で奥が深く、初心者にはちょっと難しいゲームだと優花里は言っていたが果たして兄はどうだったのだろうか。

 

「思ったよりちゃんとできてるゲームだからついつい本気になっちゃって」

 

あ、とみほは嫌な予感がした。

本気。兄から出たその言葉は、状況によってまるで違う意味になる。例えばこれが、家の掃除とか料理なら「何言ってるんだか」となるが、ゲームとはいえ戦術の腕を競う場となれば意味が正反対になる。

みほの考えが正しければ、おそらくカバさんは……

 

「メタメタに負かしちゃった」

「やっぱり」

 

みほは大きなため息をついた。

ボロボロじゃなくて()()()()を使ってる辺り、カバさんチームがどんな無残な目に遭ったかがよく分かる。おそらく、本当に近年稀に見るレベルでボコボコにされていると思う。

これがオセロとかトランプとか、そういう遊びだったならまだ兄も手加減するだろうが、その分野において兄は一切容赦しない、というかできない。

 

しかしまぁ、初心者には敷居の高いゲームで経験者を圧倒するとは、流石は兄といったところだろうか。

 

「そっから結構恨みを買ったみたいでな。リベンジを挑まれて、返り討ちにして、また挑まれて、返り討ちにして、というのを繰り返してるのが最近の話だ。その伝言もそういうことだろ」

「なんでちょっと他人事なの……あ、じゃあザマってもしかして」

 

音だけじゃ何のことかさっぱりだったが、事情を聞くとみほにはピンと来るものがあった。

 

「かの大英雄、ハンニバルとスキピオの二人が演じたザマの戦いのことだよ。連戦連勝の俺を今度こそ負かしてやるって意味なんだろうけど……自分達のことをスキピオと喩えるのはちょっと過大評価だよな」

 

古今東西の歴史に造詣の深いカバさんチームならではの挑戦状だった、というわけである。

 

ハンニバルとスキピオの二人にまつわる話は有名だ。

大国ローマをたった一人で恐怖させたカルタゴの指揮官ハンニバルと、その戦いを研究し、数度の大敗を糧に最後には勝利したスキピオ。

共に歴史上最高峰とされる二人の関係は、確かに今の渡里とカバさんチームに似てるかもしれない。兄の言う通り、実力の方は両者とも到底敵わないだろうけど。

 

「っていうかお兄ちゃん、カバさんチームとそんなことしてたんだ」

「ん?まぁな」

 

知らないトコで色んな人と色々ある人である。

しかも話を聞いている感じ、意外と仲良しな雰囲気だし。

いやこの場合、カバさんチームのメンタルのお蔭か。普通そんな大人げない真似されたら暫くは近寄らないと思うのだが。

 

「結構話合うんだよ。ほら、俺も戦史は好きだからさ」

「そういえば昔はよく読んでたね」

 

今もそうかもしれないけど、とみほは押入れから発生した雪崩の跡を見た。

それらしき書物はチラホラとある。アレが神栖渡里の力の源泉であることをみほは知っていた。

 

しかしカバさんチームと神栖渡里の会話か、とみほは思いを巡らせた。

なんというか、学術的な匂いがする組み合わせである。大学のゼミとか研究室とか、そういった類の雰囲気が近そう。兄が教授で、カバさんチームがその生徒。

日々知識を競い合い、研究成果を発表し合ったりして、歴史へと没頭していく。

みほも戦車道を嗜む者としてある程度歴史には詳しいが、それでもついて行けないレベルの会話が繰り広げられていそうだった。

 

「まぁあんまり深いところまではついていけないけど」

「あれ、珍しいね。お兄ちゃんが知識量で負けるなんて」

「戦車が関係してないとこはどうもな」

 

それでも普通の人よりはよっぽど詳しいだろうに、とみほは思った。

まぁ兄にとっては戦車道が全ての中心だし、当然の話かもしれない。

本を読むのだって、読書が好きだからじゃなく、戦車道に役立つモノがいっぱいあるからだし。

そこがカバさんチームとの違いだろうか。

彼女たちは歴史に埋没していく感覚が好きで歴史の勉強をするのだろうが、兄はあくまで戦車道のために歴史を学んでいるだけ。他の所は精々広く浅くといったところだろう。

 

「最近は戦術とか戦略とか、そういった分野の話が多いから助かるよ。ぐだぐだとマイナーな戦国武将とかローマの地名とか、そんなの語られるよりは俺も話しやすいし」

「最近カエサルさんとかエルヴィンさんにそっち系の話振られること多いと思ってたけど、お兄ちゃんのせいだったんだね……」

 

兄は心外そうな顔をした。

 

「お前も好きだろ、そういう話。子どもの頃は楽しそうに聞いてたじゃん」

「それは………そうだけどっ?」

 

みほは少しそっぽを向いた。

兄の言うことは正しいが、正確ではなかった。

たしかにみほは、幼い頃兄の話を聞くのが好きだった。でもそれは、話の内容が好きだったからじゃない。話をしてくれる人が、楽しげに話す兄の姿が好きだったから楽しかったんだ。

 

しかしそれを言うのは、少し気恥ずかしい気がした。危うく喉元まで出かかっていたが、すんでのところで思いとどまってよかった。

 

「それに戦術面の話ができる奴が増えるのはお前にとってもいいことだろ。性格的な作戦の得意不得意だってあるだろうし、それをカバーするためには文字通り頭数を増やすしかない。一人でなんでもやることはないだろうよ」

 

そう言って兄は、肉じゃがの最後の一口を堪能した。

すっかり綺麗に空いた器を見ると嬉しい気持ちになるのも、作り手の特権かもしれない。

 

「三突は大洗の中で、聖グロ相手にも通用するだけの火力がある唯一の戦車だ。ただ固定砲塔ゆえに融通が利かない。最大限活かすなら、相応の戦術眼が必要になってくる。その辺の力を養ってほしい、ということで色々教えてるわけさ」

「ゲームの方も?」

「そっちは負かすのが楽しいだけ」

 

本当にいい性格をしている兄だ、とみほは呆れた。

自分で教えておいた戦術を、自分相手に試させて、残念通用しませんでしたと負かすわけだ。

つまりカバさんチームが兄を出し抜こうとするなら、兄から教えてもらったことをそのまま実践するのではなく、自分達で応用し、発展させなければならない。

そのためには相応の時間と思考の積み重ねがいる。そしてそれは、間違いなくカバさんチームの成長の糧となる。その辺りが兄の狙いだろう。

 

「ご馳走様。着実に成長しているようで何よりです」

「お粗末様」

 

みほはカチャカチャと空の食器を片づけ始めた。兄より量が少ない分、みほの方が僅かに食べ終わるのが早かった。

 

持ち上げ、台所に運ぼうとするみほの背中に声が届く。

 

「洗い物はやっとくよ。あんまり遅くならない内に学校に帰れよ」

「いいよ、洗い物くらいすぐ終わるし。それに食器全部台無しになるよりはいいから」

 

洗い物くらいできるわ、という兄の遠吠えを聞きながらみほは台所に食器を置いた。

ボコが喧嘩で勝つくらい、それはあり得ないことだ。

元いた部屋にエプロンを取りに戻るついでに、一言。

 

「遅くなったら送ってね?おにーいちゃん」

 

ご飯を作ってあげたお駄賃としてはちょうどいいでしょ?

そんなみほに苦笑を一つ零して、兄は瞑目してヒラヒラと手を振った。

それを見てみほは満足げ気に一つ頷き、台所へと向かった。

 

軽快な電子音が鳴ったのは、それと同時だった。

 

 

 

「はいもしもし」

『もしもしー、今大丈夫ですか?』

 

携帯電話の向こうから聞こえてきた声に、渡里は一つ息を吐いた。

飄々としているようで、礼儀を弁えた独特の口調。電話越しだろうと直接話そうと変わらない態度の持ち主は、渡里の記憶の中には一人しかいなかった。

 

「ちょっとだけなら大丈夫だよ、角谷。何の用だ?」

『大会運営の方から色々連絡が来まして、ひとまず渡里さんの耳に入れとこうと思って』

「そ、明日詳しい話を聞かせてくれ」

 

本当に大会が近づいてきているのだと、渡里は実感した。

情緒に鈍感な渡里でも、流石に感じるものがある。

いよいよ始まるのだ――――大洗女子学園の、命運をかけた戦いが。

 

『………あっという間でしたね』

 

その声色に渡里は、角谷もまた自分と類似の感情を抱いていることを悟った。

しかし似てはいても、その大きさが決して同じではないことを渡里は知っていた。自分より数年長くこの学園艦と時間を共にしてきた角谷の方が、絶対的にその程度は大きいはずだ。

 

「そうだな。まだ最後の詰めが残ってるが、みんなよく頑張ったよ」

『私も渡里さんには色々無茶させられましたけどねー』

「それはお前んとこの砲手が悪いよ」

 

角谷は楽し気に笑った。渡里にも自覚はあるが、カメさんチームには実際それくらいの無茶が必要だったのだから仕方ない。それを乗り切るだけのポテンシャルはあると知っていたし。

 

『……どうですか、勝てそうですか。私たちは』

 

唐突に温度が変わったことを、渡里は瞬時に察した。

 

その言葉には、普段の角谷からは想像もできないほどの儚さがあった。

いや、普段はきっと見せないようにしているだけなんだろう。

角谷は本当に、高校生とは思えないくらいしっかりしている。上に立つ人間は、決して弱気な姿を見せてはいけないのだと、彼女は知っているのだ

 

その小さく華奢な両肩にかかっているモノの重さは、渡里の想像を絶するだろう。

叶うならば肩代わりしてやりたい、という気持ちはある。

しかし他でもない角谷が、渡里にそれをすることを許さない。

 

「貴方はただ、私たちを強くすることだけを考えていればいい」と、冷酷と温情が表裏一体となった思いやりが、渡里には向けられていた。

 

「さぁ、勝負は時の運っていうしな。今できることは、勝てるかどうかを心配することじゃなく、勝つために少しでも努力することだろ」

『ごもっともです』

 

笑顔で握手は交わせど、お互いに深く入り込むことはない。

そんなビジネスライクな関係が、渡里と角谷達の中にはあった。

 

本当の意味で渡里と角谷達は仲間とは言えない。それは少し寂しいことかもしれない。

しかし同時に渡里は思う。

もし角谷達がそれを打ち明けたなら。

背負っているモノを共に背負う役目は、きっと自分ではない。他に相応しい者達がいる、と。

 

「……角谷、このままずっと黙ってるつもりか?」

 

その問いは、今まで渡里が余計なお節介になるだろうと、封印していたものだった。

なぜその封印が解けたのかは分からない。自然と渡里の口から、それは零れ落ちていた。

 

携帯電話の向こうにいる赤毛の少女は、しばらく沈黙した。

 

『渡里さんは、話した方がいいと思いますか?』

 

そうして返ってきた声には、複雑な感情が込められていた。

 

「……分からない。言った方がいいかもしれないし、言わない方がいいかもしれない」

 

明確な答えを返してあげたら、角谷の気持ちも楽になったのだろうか。

しかしそれが、渡里の嘘偽りのない本心だった。

 

「今あいつらは戦車道を楽しくやってる。そこに水を差したくない気持ちはある。でも同時に、優勝するために必要な起爆剤になるかもしれない、とも思う……どっちつかずの答えで悪いな」

『……いえ、いつまでも先延ばしにできることでもなかったですから』

 

言葉尻に普段の角谷の口調が戻っていた。

この辺りの切り替えの早さも、角谷らしさかもしれない。

 

余計な重りになるか、背中を押す風になるか。

それはおそらく結果論だ。いくら考えたところで、先に答えが出るわけじゃない。

 

全ては角谷達次第だ。そこに渡里が出る幕なんてのはないだろう。

 

あくまで自分は、優勝することだけ考えていればいい。

そういう形でしか、渡里は角谷達を支えることができないのだから。

 

『ありがとうございます。それじゃあまた明日、おやすみなさい』

「あぁ、おやすみ」

 

ブツ、と糸が切れるような音がして、携帯電話の向こうには誰もいなくなった。

遠くで水が流れる音を聞きながら、渡里は深く息を吐いた。

 

みほのときもそうだったが、つくづく自分は戦車道しかできない人間だ。

もし渡里がもう少しマシな人間だったなら、角谷達ともまた違う関わり方があったのだろう。大人としての義務と責任を果たし、子ども達に寄り添い導くことができたかもしれない。

 

しかし渡里は、戦車道のためならという理由でその全てを放棄してしまえる。

普通なら歯止めがかかるところを、躊躇なく振り切ってしまう。

 

「仲良し、か」

 

みほがそういうのなら、きっとそうなんだろう。それぞれ形は違えど、確かに渡里は彼女たちと良い関係を築いている。

でもそれは、渡里が築いたものじゃない。こんな自分に付き合ってくれる、彼女たちのお蔭でできたものなのだ。

 

「感謝しないとなんだろうなぁ」

 

血も、身体も、心も、知識も、情も。

()()()()()()()()()()にしかならないこんな人でなしに、笑顔でついてきてくれる彼女たち。

その心に、信頼に、渡里は全霊で報いなければならないのだろう。

 

さしあたり、みほを送るついでにコンビニでも寄ろうかと渡里は考えた。

甘いものが嫌いな女子は、きっといないはずだ。

 

 




四者四様の関係性があると伝われば幸いです。



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第19話 「合宿を終わりましょう」

長かった合宿編も最終回となりました。
申し訳ありませんが、文字数と話数の問題で駆け足となっています。

描写されていないところの経緯は、ご想像にお任せします。

あとがきの方に様々な補足を載せておきますので、よろしければご一読ください。




かつて六月という一月は、水無月と呼ばれていたらしい。

水が無い月、と書いて水無月。これを初めて知った時は、何を言ってるのやらと首を傾げたものだった。

 

六月といえばまず何かというと、梅雨である。北と南の気団の衝突により発生した梅雨前線が、五月から六月にかけて地に雨を降ろす。この間降雨量は普段の何倍にも膨れ上がり、人々は傘や合羽を親愛なる隣人にして日々を過ごすことになる。

雨、それは水。つまり六月という一月は、他の十一の月に比べて圧倒的に水が()()月なのだ。

 

なのに昔の人は、水が無いと言う。

この不思議な謎に、みほは中学の古文の授業中に出逢った。

国語が好きなみほは、数学の公式や理科の化学式の発祥を調べようとは一切思わない。

しかしこういった文系的・歴史的なものは、少なからず調べようという気になる。

というわけで、帰って早速調べてみた。

 

するとどうにも、水無月の意味は現代と少し違うようで。

『無』という文字は、『の』を表しており、水無月は訳すと『水の月』になるらしい。

 

なるほど、とみほは納得した。

現在と過去で同じモノは数多く、異なるモノもまた然り。

漢字の意味一つとっても、全く違うものに変化していることなど珍しくもないというわけである。

 

――――という話が、ついさっきのテストで出ました。奇跡的に。

お蔭でバッチリ答えることができました。

 

「それは違う」

 

端的な言い方をしたのは、食後のデザートに舌鼓を打っていた麻子だった。

あまりにもな断言をされ、みほは少し面食らってしまった。

 

大洗女子学園の食堂は常に活気で溢れ、静かで寂れたところなんてそれこそ合宿中で夜にちょくちょくと訪れる機会のある戦車道受講者しか見たことないものだろうが、今日の喧騒はある程度の方向が定められていた。

それは、定期試験の話題である。

 

テスト。それは学生にとって、決して逃れることのできないものであり、避けては通れない道。青春と抱き合わせで必ずやってくる悪夢。

テストがない学校なんて存在しないし、大洗女子学園もその例外ではない。

試験期間中は全ての部活動が停止、選択授業もお休み。学校は午後で完全閉鎖され、生徒は一人残らず帰宅させられる。

 

学校が完全に勉学だけの場所と化す期間。それが定期試験である。

国英数社理の五科目に加えて、なぜかやってくる保体やら音楽やら美術やら。

勉強する範囲と量が増し増しになっててんてこ舞い。シャーペンの芯は消費量が倍率ドンでノートは一気に白紙が埋まる。

一夜漬けなんて当たり前。なんならテストが始まる数分前まで詰めこんでます。

 

そんな日々が今日、ようやく終わりを迎えた。

 

「違うってどういうこと?私もテストにはそんな感じで書いたんだけど」

 

テストが終わった日の学生なんてヨハネスブルクの住人のようなもの。

様々なものから解放された爽快感のまま羽目を外す者が大半だが、一方で控えめな者もいる。

あんこうチームは後者だった。みほ達は喧騒の中、翌日あたりに点数をつけられて返ってくるであろうテストのことを話していた。昼食を取りながら。

 

「水無月が『水の月』というのは正しい。ただ、梅雨の時期で雨がよく降ったから()()()というわけじゃない」

「そうなんですか?」

 

優花里は目を丸くした。優花里はミリタリー系の知識が豊富な一方、麻子のように全方位の知識が豊富というわけではなかった。

そしてそれは、この場にいる者全てに当てはまることだった。

 

「水無月は確かに六月だが、それは旧暦での話だ。今の暦に当てはめるなら、寧ろ梅雨が明けた時期、七月や八月がそれに当てはまる」

「太陰太陽暦と太陽暦の時差ですね。名称と実際の時期が一致してないという」

「たいーんたいよーれき?」

 

麻子の言葉に理解を示したのは華であり、華の言葉に首を傾げたのは沙織だった。

みほと同じく国語、それも古文が好きな華にとってはその辺りの話は得意分野だろうけど、普通の女子高生の沙織にとっては少し縁遠い言葉だったかもしれない。

ちなみにみほはどちらかというと華側の人間である。

 

「麻子さんの仰った旧暦のことです。その中では春夏秋冬が今と少しズレていて、一月から三月が春、四月から六月が夏、という風に三か月ほど前倒しになっているんです」

 

華の言うことは教科書に載っている通りのことだった。

今で考えると一月なんてまだマフラーや手袋が手放せない季節であって、間違っても春ではない。

 

「ん?じゃあ昔の六月は、今で言うと夏ってこと?」

「さっき言ったぞ」

 

麻子は呆れたようにため息を吐いた。

 

「そう考えると、水無月は本当に『水が無い月』になる。昔の人の言い分も分かるだろ」

「えー!?じゃあ私もみほも間違えてるじゃん!?」

 

沙織は悲鳴を上げた。別に一問くらい間違えたって赤点になるわけでもないだろうが、それはそうとして高い点数が取れるならそれに越したことはない、ということだろう。

みほだってそうだし。

 

しかしみほは沙織ほど(沙織もそんなにだろうが)深刻な事と考えていなかった。

それはちゃんと理由があって、その理由をみほが言うよりも早く麻子が口を開いた。

 

「別に間違えてるわけじゃない。その辺りの由来は諸説あって、どれが絶対的に正しいというわけじゃないだけだ。さっき西住さんが言ったことも正しいという人はいる」

 

はむ、と麻子はデザートを一口味わって、

 

「そっちの先生のことは知らないが、問題が問題だ。よっぽど狭量じゃない限り、バツにはしないだろ」

「あの問題、自由記述だったし。多分大丈夫だよ、沙織さん」

 

麻子とみほの言葉に、沙織は一安心したようだった。

しかし一旦落ち着くと別の感情が浮上したようで、すぐに頬を膨らませた。

 

「紛らわしいこと言わないでよ、麻子。びっくりしたでしょ」

「私は『梅雨』説は好きじゃない、だから違うと言っただけだ。要は好みだ」

 

どこ吹く風の麻子に、沙織の炎も一瞬で鎮火したようだった。

この辺りのやり取りは、やはり長年の付き合い故だろうか。少し羨ましくもあるみほだった。

 

「それにしても冷泉殿は物知りですね。それも本で知ったんですか?」

 

優花里の質問に、麻子は表情一つ変えずに答えた。

 

「渡里さんの受け売りだ。ここ最近雨がよく降ったからな、自然とそういう話題になった」

「渡里さんの?」

 

渡里と麻子がしょっちゅう二人きりで過ごしているのは既に周知の事実だった。周知になっても誰も驚かなかったのは、ひとえに二人の気質だろうか。なんというか発展性が感じられないというか、異性という感覚が薄いのだ。二人を並べて見た時に真っ先に浮かぶのは、兄妹とか親子である。……まぁ、そう思っているのはみほ達だけで、実際は違うのかもしれないけれど。

 

「渡里さん、意外とそういうことも知ってらっしゃるんですね」

「一般常識、だそうだ。それくらい知らないでテスト大丈夫か、とも言っていたが」

 

脳内再生が余裕でできてしまうみほだった。

しかし戦車道にしか興味がない兄でも知っていたことだし、確かに知ってて当たり前のことなのかもしれない。

 

「渡里さんは何説推しだったの?」

「『水が無い月』説。基本的に雨が嫌いらしい」

「あぁ、だからここのところ難しい顔をしていらしたんですね……」

「いや理由がよく分からないんですけど……」

 

麻子の言ってることは本当だった。兄は昔から雨が嫌いで、雨が降るとすこぶるテンションが下がるのだ。

理由は分からない。子どもの頃に聞いたことがあったが、『好きな人いんの?』と返されて逃げられてしまった。みほが想像する理由としては、気分が滅入るとか濡れて面倒くさいとか、そういうちっちゃなものしか出てこない。

 

「私も雨は苦手かも。髪の毛は跳ねるし洗濯物は乾かないし、ジメジメしてるし」

「でも沙織さん、この間の雨中訓練は楽しそうにしてませんでした?」

「ああいうのだったらいいけど、普通に生活する分には嫌!」

「私は訓練でも嫌だ。寒い」

 

雨中訓練とは、試験期間に入る前に渡里が実施した特別な訓練である。

特別と言っても、普通に雨の中で戦車道の練習をするだけだが。

 

「戦車道は全天候型競技ですからね。雨が降っても雪が降っても中止になることはないですし」

 

だからこそ、色々な状況下での経験値が必要になる。

そう言って渡里は全員に合羽を着させて、雨が降る中での練習を開始したのだ。

 

みほからすると、晴れと雨とでは戦車道の試合は完全に別の競技になる。

路面状況による操縦性の変化、視界は悪く体調への影響も大きい。泥濘んだ地に足を取られてスタックし、部隊が立ち往生なんて珍しくもないし、通信不良により指揮系統が乱れることだってある。

 

それは一朝一夕で対処できるものじゃない。全ては、どれだけのものを積み上げてきたか、だ。

高校戦車道ではあまり見ないが、人員が豊富な社会人チームでは雨の戦いに特化したチームを作り、試合当日の気象情報によってチームを丸々入れ替えるということもある。所謂、スペシャルチームというやつである。

 

そんなのができるくらい、戦車道は環境との戦いでもある。

折角の梅雨、雨がこんなに降ることなんて滅多にないし、経験値稼ぎのいい機会。

兄の考えはそんなとこだろう。

ちなみにあの人、みほたちが練習している間ずっと外に出ずっぱりで、それはもうビショビショに濡れていた。傘をさすとか合羽を着るとか、どうもそういう文化がないらしい。すっかりヨーロッパの気風に染まったようだ。

 

「ニュースでは梅雨明けしているところもあると言ってましたし、雨も少なくなるかもしれませんね」

「テストも明けたんだ。その調子で梅雨も明ければいい」

「そうだね!やっとテストが終わって自由になったし、これで心おきなく―――」

「戦車道に集中できますね」

 

一同は笑い合った。

テストがある日は当然、戦車道もお休み。こればっかりは、渡里と言えどどうしようもない。

だからみほ達は、ずっと戦車に触ることができなかった。砲弾や引鉄、操縦桿の代わりに鉛筆やボールペンを持ち、シュトリヒ計算ではなく三角関数に取り組んだわけである。好きでもないのに。

 

しかしそんな日々はようやく終わり。

 

みほ達は誰に憚ることもなく戦車に乗る権利を取り戻し、ここ最近全く出番と仕事がないので旧用務員室に引き籠っていた講師と再会することができる。

 

「行こっか」

「おー!」

 

六月下旬。

梅雨が明け、テストも明け、とあらゆるものに一区切りがついた今日。

神栖渡里による戦車道合宿もまた、終わりを迎えようとしていた。

 

全国大会開催まで、残り二週間と少し。

 

 

 

「まずはお疲れ様」

 

久方ぶりの、と言ってもテストがあった数日間だけだが、戦車道の練習は、講師のそんな言葉で始まった。

みほ達が着るパンツァー・ジャケットによく似たデザインのジャケットを着た、濃紺色の髪と吸い込まれそうなほど黒い瞳を持つ男の人。

これといって特に何も変わった様子のない、みほ達の良く知る神栖渡里がそこにいた。

幸い今日は晴れているので兄のテンションはいつも通りである。ちなみに雨が降ると極端に下がるが、別に晴れてるからって機嫌が良くなるわけでもない。

 

「テストなんてとうの昔に卒業したが、まぁ基本的に楽しいものじゃないことは知ってる。ただでさえしんどいところに、戦車道の練習で過剰な負荷を掛けられてる中で勉強するのは大変だった思う。よく乗り切ったな」

 

スパスパと切れ味の鋭い普段とは違い、それは温情に濡れた語調だった。

この時全員に弛緩した空気が流れたのをみほは敏感に察知した。

無理もない。あの兄が労わりの言葉を口にしたのだ。それは誰だってそうなる。

特にテスト勉強でしんどい思いをした者達にとっては、シンプルに心に沁みるだろう

 

甘いなぁ、とみほは嘆息した。

 

果たしてあの兄がそんな素直に優しくするだろうか、いやしない。

渡里の「ところで」という言葉を聞いて、みほはそれを確信した。

彼は穏やかな顔のまま言う。

 

「まさかとは思うが、()()を取りそうだと抜かすような全生徒の反面教師となるべき素晴らしい生徒は、ここにはいないよな?」

 

空気が凍った。いや、空気だけならきっとマシだった。

その鋭い目から放たれた視線はこの場にいる者全てを貫き、後ろめたい気持ちがある人間だけを停止させた。

 

「河嶋」

「ひゃ、は、はい!」

 

あまりにも温度の低い声に、河嶋は調子の外れた返事をした。いっそ悲鳴だったかもしれなかった。

 

「赤点を取った者はどうなる?」

「ほ、補習を受けることになります……」

「いつ?」

「放課後、です……」

「もしそうなったら、戦車道の練習ができなくなるな」

 

ひゅー、と冷たい風が一同の間を通り抜けていった。天が遣わしたのか、目の前の兄から発せられたのかは分からない。分かっているのは、それが身震いするほどの温度だったということだ。

 

「精々祈ってるといい」

「て、テストの結果をでしょうか……?」

「赤点を取った後の自分の無事をだ」

 

怖。

もしみほがあそこに立っていたなら、やはり河嶋と同じく「ふぇぇ…」みたいな表情をしていただろうか。

まぁこれは十分予想できたことではある。「赤点さえ取らなきゃいい」とその方面に関してはテキトーだった兄だが、言い換えれば「赤点だけは取るな」ということに他ならない。

大会まであと僅かとなったこのタイミングで練習時間が減るのは、割と致命的だ。

 

たしかに兄は戦車道の練習でみほ達に負担を掛けている。練習がしんどくて勉強にまで手が回らない、という意見もあるだろう。

でもそれは、兄が強制していることじゃない。みほ達が強くなりたいと願い、それに渡里が応えた結果が今だ。

自分で選んだ道なんだから、兄を責めるのはお門違いというものである。

ともかくとして、文句を言いたい気持ちはあるが。

 

「ま、その辺は後の楽しみにしておくとして、これからの話をしようか」

 

そう言って渡里は現状を話し始めた。

 

「今日を以て合宿は最終週に突入した。つまりラストウィークだ。よってこれまでの練習メニューは全て廃止し、最後の大詰めを行う」

 

大詰め。つまり仕上げに入る、ということ。

分かってはいたことだが、改めて渡里の口から言われると、少しの緊張感が身体を駆け巡る。

それはどうやら、みほ以外の者も同様のようだった。

 

「やることはシンプルだが……その前に少し合宿でやってきたことを振り返ろう」

 

一つ、と渡里の指が立つ。

 

「まずは基礎能力の向上。スタミナは勿論のこと、反射神経、思考速度、その他の身体にまつわることは全部ここに含まれる」

 

森の中での鬼ごっことか、朝練でやっていたボール回しとか、その辺りの練習のことだろう。

戦車道はテニスや野球のような道具を介す競技ではあるが、本人の身体能力もかなり重要である。操縦手や装填手は、重い操縦桿や砲弾を何度も操作したり持ち上げたりするためある程度の筋力は必要だし、砲手にしても持久力が高くないと砲撃の精度がすぐに落ちてしまう。

この辺りは意外と軽視されがちで、だからこそ強豪校はしっかりと取り組む。黒森峰でもそうだったし、西住流でもそうだった。

 

だからこそ渡里も相応の力を入れて練習を行っていた。

お蔭でみほ達は体育会系の女子に勝るとも劣らない身体能力を手にし、速さについていけなかったボール回しだって、今ではただの準備運動にしかならないくらいできるようになった。フィジカルという面に限れば、みほ達は戦車道強豪校とも同等に戦えるだろうが……

 

「二つ目は戦車の技能。操縦、砲撃、装填、通信といった、戦車に乗る際に使われる全ての技術の向上」

 

身体能力ばかり高くとも、それを戦車と連結させることができなければ意味がない。野球選手は身体を鍛えることと同時に、それを使いこなす術を磨く。それと同じように、みほ達は人車一体となるために戦車を意のままにコントロールする技を身に付けなければならなかった。戦車との繋がりを強くする、と言い換えてもいいかもしれない。

 

役職ごとに分かれての練習はここに当てはまるだろう。

操縦手はとにかく操縦技術を、砲手はひたすらに砲撃技術を。

時間がないみほ達は、ある一点に特化し、それ以外の全てを捨てることにより、短期間で大幅に能力を向上することができた。

本来であればある程度分配されるリソースを一か所に集めただけなのだから、ある意味当然ではあるが。

歪な形と言えばそうかもしれない。しかしこの形にしたのは他でもない、あの神栖渡里だ。ならば必ず、そこには意味がある。他とは違う、大洗女子学園だからこその意義が。

……それが何かは、分からないけど。

とにかく習熟度としては、いつかの聖グロリアーナ女学院との練習試合の時より遥かに上がっている。今もう一度彼女達と戦うことができるのなら、全く別の試合ができる自信がみほ達にはあった。攻撃、防御、機動力、その全てにおいて大洗女子学園は一回り以上洗練されている。

 

「三つ、意思疎通の能力。平たく言えばコミュニケーションの力だ。合宿という形で共同生活してもらった理由は全てここにあるが……これは口で説明しても仕方ないな。これだけ覚えておいてくれ」

 

立った三本の指をそのままに、渡里はその言葉を口にした。

 

「目的は一つ、相互理解だ。これが戦車道の試合でどう働くか、どういう意味があるのかは言葉じゃなく、身体で感じろ。必ず、分かる時が来る」

 

みほはその言葉の真意を図りかねていた。

相互理解、という意味の単語は分かる。だがそれが戦車道でどう役立つかと言われると、今一つ曖昧だ。黒森峰でも西住流でも、その単語が出ることはなかったから。

 

だがそのために合宿が必要だったということは分かるし、それによって得たものも分かる。

兄の言った通り、それは意思疎通の力。誰かを知り、己を知り、誰かを知ってもらい、己を知ってもらう。それによって生まれるものが、相互理解。

 

これはみほも漠然とした感覚でしか捉えきれていないが、()()は確かに存在している。

ふとした瞬間に、目と目があった時に、声を聞いた時に、触れ合った時に、その姿を見た時に、みほは、いや大洗女子全員は等しく()()を感じる。

 

思考の言語化は練習により、呼吸をするようにできるようになった。いやレベルで言うのならその一歩先、言葉という人間しか持ち得なかったコミュニケーションツールの極致にすら至っているだろう。

そんなみほ達でもうまく表現できないものが、この合宿が始まった瞬間から養われていた。

兄の言が正しいのなら、それを本当に理解できる日は必ず来るというが……

 

「そして四つ、知識だ。これはまぁ、まだ仕込みが足りてないかもしれないが……それでも十分お前達の血肉となっている。毎日勉強した成果だな」

 

出た、とみほは嘆息した。

これこそが大洗女子学園戦車道受講者一同を苦しめた……というと語弊があるが、今回の定期試験がしんどかった間接的な原因である。

 

『渡里先生のパーフェクト戦車道教室』、という二番煎じな名前(ウサギさんチームにより命名)がつけられたそれは、言ってしまえば座学である。

身体能力が上がり、戦車道の技能を習熟しても、そこに理屈が伴わないのならそれは本能でしかない。磨かれた体技は、術理を内包して初めて完成する。

 

そのために必要なのは瞬間的な思考と、知識だ。

漠然とした感覚が為すのではなく、()()()()()()()で為す。この二つの違いはかなり大きい。

 

勿論渡里はその辺りのことを理解しているので、みほ達に指導する時はかなり論理的に説明しようとしている。丁寧に、分かりやすく、理屈を展開している。

ただ、それだけでは足りない段階にみほ達は到達した。

今までの豆知識ではなく、本格的な知識が必要となったのだ。

 

そうして行われたのが、件の勉強会である。

戦車に乗る時間を少し削り、ノートを開いて鉛筆を片手に毎日一時間ほどお勉強。

戦車の歴史……は割愛されたが、基本的な構造から特性、種類。

より実践的なものになれば隊形から戦術、果ては整備の仕方から履帯の直し方まで。

ありとあらゆる知識が、必要なところを必要な分だけ抽出してみほ達に与えられた。

それはある意味で神栖渡里の本領発揮と言えるかもしれなかった。

 

幸いなことに渡里の授業はウィットに富んでいて、一時間がそれこそテーマパークで過ごすのと同等の速さで過ぎていったが、もう少し教え方が下手だったらただの苦行だっただろう。

お蔭で今までみほ達が「そうすればいい」という外装しか知らなかったことも、知識が伴うことによって「こういう理由があるから、そうすればいい」となった。些細な差かもしれないが、応用の幅が全然違う。後者の方が臨機応変に立ち回ることができるのだ。

 

ただ、とみほは思う。

確かにこの勉強会のお蔭で大小なりとも知識が付き、よりレベルアップすることができた。

でも問題は、これがいつ行われたかという話で。

 

答えを言うと、テスト開催間近までやってました。

 

みほ達は当然、テストに備えて勉強を行う。それは別に渡里がどうこうの話ではなく、そうするのが当然だからである。

国語英語数学社会理科。教科書を開いては、単語やら公式やらを覚えていく。

 

そんなところに戦車道の知識まで放り込まれたらどうなるか。

それはもう、混ざる。

言葉の節々、数字の間隙に戦車道の影がチラホラと出てきてしまって、気づけば渡里の授業を記したノートを取り出し、戦車道の勉強にシフトしてしまう始末。

 

人なんてどうしても楽な方に流れてしまうものだから、同じ勉強でも自分が楽しいと思う方を選ぶのは仕方ないこと。

兄的には「まぁテスト勉強の箸休めになら」くらいの気持ちだっただろうが、実際は見事に立場が逆転していた。

その様はさながら掃除中に漫画や雑誌に熱中して肝心の掃除が進まないアレである。

 

よくもまぁこんな状態でテストを乗り切れたものだ。

回答欄に一つ二つ戦車の名前を書いていてもおかしくないとみほは思う。

これに関しては兄が悪いわけじゃないが、ともかく集中力を維持するのが大変だった。

 

「最後にこの合宿を最後までやり遂げた精神力。心の力。させている俺が言うのもなんだが、よくここまでついてきた。そういう意味でもお疲れ様かな?」

 

薄く笑った渡里に、みほはジト目になった。

この合宿の中で最もしんどかったのは、身体が慣れ始める序盤であったのは間違いないが、だからといって中盤から後半にかけては楽だったというわけではない。

成長した分、ちゃんと負荷を増やしているので気持ち的に楽にはなれど、身体的には基本一定の疲労度である。

 

だからこそ、みほ達にはある種の自信がある。

 

自分たちはあの地獄を乗り越えた。なら、きっとそれに見合うだけの成長をしているはずだ、と。自分の力を信じるメンタリティが備わったのだ。

それは大洗女子にとって、最も足りなかったもの。初心者とそうでないものを分かつ、境界線。それを超えることができた、それこそがこの合宿の最たる成果だろう……と、みほは考えていた。

だが肝心の渡里は、全く違う考えだったのだと、みほはすぐに知ることとなる。

 

「戦車道に耐えうる身体、戦車道で勝つための技術、戦車道で折れないための心、戦車道を理解するための知識。心技体、そして知。この合宿中にできることは全てやった。そしてお前達は俺の予想以上の成長を見せた。」

 

そして、渡里の顔からは笑顔が消えた。

代わりに浮かび上がったのは、獰猛とすら言える銀の眼光だった。

 

「それでもまだ足りない。このままじゃお前達は、全国の猛者たちと対等に渡り合うことはできても勝つことはできないだろう」

 

一同に緊張が走った。みほはそれを肌で感じ取っていた。

神栖渡里は、戦車道では決して嘘をつかない。既にそれは、周知の事実だった。

ゆえに生まれた緊張は、六分の困惑と四分の不安で構成されていた。

 

「が、合宿の時間が足りなかったという事ですか!?それとも私たちが渡里先生の求めるレベルに――――」

「落ち着け、河嶋」

 

弾かれるように出た悲鳴を、渡里は一指を以て制した。

そして紡がれた言葉は、宥めるような柔らかさを持っていた。

 

「心配しなくても合宿自体は成功してる。さっき言った通り、予想を大きく上回る形でな」

「だ、だったら……」

 

なんだと言うのか。一同の疑問は、すぐに氷解した。

 

「足りないものっていうのはな、これまではある理由でどうしようもなかったもの……埋めようにも埋められないものだったんだ。だから、今の時点で足りてないのは当たり前。別に気にすることじゃない」

 

張り詰めたものが緩んでいく感覚があった。

本当に人が悪いんだから、とみほは呆れた。

最初からそう言えばいいだろうに、なぜビックリさせるような言い方をするのか。

そうすればこんなに心臓に悪いこともなかっただろうに。

 

「さて、前置きが長くなったな。本題に入ろうか」

 

その時、金属が擦れるような音をみほは聞いた。

 

「どうしようもないものはどうしようもない。だから、と後回しにしていたが……ようやく準備が整った」

 

気のせいだろうか……いや、違う。

みほの眼前、全員の視線を一身に受けながら立つ兄の右手に、ソレは握られていた。

 

「これから行う合宿最後の大詰めっていうのは、その埋めようがなかったものを埋めること」

 

武骨で、重厚な、金属の塊。

あまりに見慣れていないせいでみほは数秒理解できなかったが、ゆっくりと現実に追いつき始めた思考は、その名前を答えた。

 

 

「お前達に足りてない最後の一ピースを、取りにいくことだ」

 

 

拳銃。

 

え、という誰かの声が漏れたのと、それが火を噴いたのはほぼ同時だった。

風船の破裂音を何倍にもしたかのような音がみほ達の鼓膜を打つ。

普段戦車道で火薬の匂いと轟音には耐性のあるみほ達だが、それでも一瞬硬直してしまうほど、それは唐突だった。

 

「び、びっくりしたぁ……」

「……し、信号拳銃」

 

目を丸くした一同の前に、渡里は何食わぬ顔で筒先から煙の立ち昇る拳銃を降ろした。

優花里の言った通り、渡里の持つそれは信号拳銃と呼ばれるもの。

簡単に言ってしまえば、体育祭で使われるスターター・ピストルと実際の拳銃の間くらいの安全性と機能を持つもので、その銃口から発射されるのは実弾ではなく信号弾である。

 

基本的に遭難した人が救難信号を出すために使うものであって、当然今このタイミングで使われるものではない。

みほ達は怪訝な視線を送った。しかし当の本人は口を真一文字に結び、何かを語る様子はない。

 

「……ん?何この音?」

「地震?」

「こわ~い」

 

代わりに聞こえてきた音は、唸るように響く重低音だった。

ウサギさんチームが首を傾げながら、辺りを見渡す。釣られてみほ達も視線を右に左にとするが、音の正体はどこにもない。

 

しかし、

 

「な、何かだんだん近づいてきてない?」

「これは……森の方か」

 

怯える沙織とは対照的に毅然とする麻子は、名前の通り冷静に音の発信源を特定した。

そう、みほ達が鬼ごっこの練習でよく使った森林の奥。

獣が威嚇するような声はそこからさざめいていた。

 

「この香り……油と鉄……でも私たちの戦車じゃない……?」

「――――――――」

 

五十鈴の独語のすぐ後、みほは直感した。

 

――――――――来る。

 

突如として音は増大した。

草木を掻き分け暗闇の中から飛び出すは、黒に染められた鉄塊。

高らかに轟くエンジン音、猛々しく地を踏み砕くは鉄の帯を履く無数の車輪。

雷の槍を雄々しく掲げ、荒々しく邁進するその姿は紛れもない―――戦車。

 

一両だけじゃない。

先駆けの戦車に呼応するかのように、数多の戦車達が出現する。

黒ではなく、思い思いの色に染められたそれらは、瞬く間に鉄の群れを成し、彩色の波となってみほ達の目前に迫った。

 

「紹介しよう」

 

僅かに掻き消えていなかった渡里の声が、みほ達の鼓膜を打つ。

それと同時、突如として現れた戦車達は進攻を止め、整然とせず停止した。

 

見慣れたはずの戦車。

しかし「自分たちのモノではない」という条件が加わるだけで、こんなにも他を圧する。

 

依然として唸りを上げる戦車の群れ。

渡里は高らかにその名を呼んだ。

 

「今日からお前達の練習試合の相手を務めてくれる――――男性戦車道愛好会の皆さんだ」

 

 

 

戦車道は女性の競技、という認識は最早普遍のものだが、だからといって女性だけのモノということはない。

選手として競技に参加することができないだけで、男性でも戦車道に関わる方法はいくらでもある。

観客として試合を眺める楽しみもあれば、協会員として運営に携わる道もある。

競技ではなく戦車の方に主眼を置けば、整備士として生きる道もパーツ製造に関わる道もある。

競技に参加できないゆえ、男の人は競技以外の道を模索し、女性とは違う生息域を築いたのだ。

 

それは素晴らしいことだと思う。

でも果たして、本当にみんなそれで満足できているのかと、みほは思う。

 

戦車道を好むということは、多かれ少なかれ、女であろうと男であろうと、根底には戦車という乗り物への憧れがあるはずだ。

操縦することへの憧れ、砲撃することへの憧れ、戦車を指揮することへの憧れ。

 

それらを女性は、戦車乗りとして叶えることができる。

戦車道の選手になる事で、合法的にその想いを達成することができるのだ。

 

でも男の人は?

彼らはどれだけ想い、焦がれ、切望しようとも決して戦車道の選手になることはできない。

仕方のないことだ。戦車道のルーツには、戦争行為、あるいはそれに従事する男性への非難も含まれている。そのアンチテーゼがある限り、決して現状が変わることはない。

だから、とそれ以外の道を拓いた。

戦車道に関わることができているのだからと、自分を妥協させた。

 

でも全ての男性が、そんな風に賢く生きれるわけじゃない。

最善(ベター)よりも最高(ベスト)を求め、一切の妥協ができない人もいる。

 

その代表格が、みほ達の傍にはいた。

 

戦車道を愛し、戦車道に人生を捧げ、己の情熱を永久に燃やし進み続ける男の人。

停滞し、閉塞してもなお。

それでもと、何一つ諦めることができなかったお馬鹿さん。

 

みほはそんな不器用な人は、きっとこの世界で兄だけだろうと思っていた。

きっと他の人は、もっと上手く人生を立ち回っているはずだと。

 

「おう渡里ちゃん!!!」

 

しかしその考えは、少し視野が狭かったのかもしれない。

何十億人といるこの世界で、自分が知っている人間なんてほんの少しだけ。

知らない方の人間が圧倒的に多いということは、それだけ未開の領域があるということ。

ならばそこには当然、兄と同類の人間がいる可能性だってあるわけで……

 

端的に言えば。

神栖渡里という人間ほど吹っ切れてしまっている男性はいなくとも、それと同属の男性はいるのだと、みほは知った。

 

戦車道が好きで、戦車道をやってみたいと思ってしまって、でも道はなくて、だからといって諦めることができなかった男性。

自分の情熱を慰めることができなかった不器用な人たちの集まり。

 

それが――――男性戦車道愛好会である。

 

バンバンバン、と間接が外れるんじゃないかと思うくらいに渡里の肩を叩くこの男の人は、どうやらそのトップに立つ人らしい。

 

「タイミングばっちりの完璧な演出だったぜ!!ありがとな!!」

 

黒く焼けた肌。コントラストが映える白い歯。

みほの十倍くらい太くたくましい腕に代表される、精鋭の軍人みたいな体格。

白のタンクトップと作業用のズボン、そしていっそ潔いくらいに磨かれたスキンヘッド。

 

豪快という文字をそのまま人間にしたかのような、渡里とは別ベクトルの男性味に溢れた人がそこにはいた。

 

「最初が肝心だからなぁ!お蔭でバチっと格好良く登場できたぜ!!」

「そりゃ何よりです。わざわざ遠くから来てもらってるんですから、これくらいのサービスはお安い御用ですよ」

「ガハハ!!よくわかってんじゃねぇか!!」

 

ガハハ、という笑い声をリアルでする人をみほは初めて見た。

なんというか、見てるだけで圧倒される人である。

人間サイズの戦車、あるいは戦車の擬人化と言ってもいいかもしれない。本気でタックルしたら家の壁くらいは余裕で壊せそう。

 

「西住、挨拶」

「ふぇっ、は、初めまして!隊長の西住みほです!」

「おう君が隊長かぁ!!なんでもあの西住流の直系なんだってな!どれほどの腕前か、じっくり見させてもらうぜぇ!」

 

近くに立つと一層迫力が増す。なんというか圧が凄い人だとみほは思った。

ガシッ、と握られた手は兄のそれより何倍も大きく、多分本気を出されたらみほの右手はあっけなく砕け散ると思う。

 

「どうします?折角ですし、先に少し交流会でもしますか?」

「おぉ、女子校生とお話できるってんのも悪くねぇな!!」

 

少し談笑でもして打ち解けよう、ということだろうか。

確かに必要だと思う。なぜならみほも、みほ以外の者も、皆等しく気圧され、緊張していたからだ。

なにせ現れた戦車は十五両。一両に五人乗ってるとして、七十五人。

この目の前の人ほどではないにしろ、それだけ男の人が集まれば、それなりの威圧感がある。

しかも全員初対面となれば、それは身体も強張るというもの。

会話すること自体に緊張する・しないはともかくとして、一言二言会話して緊張を解したい気持ちはある。

 

「でもわりぃな」

 

しかしどうも向こうは、そうではなかったらしい。

みほは弧を描いた口を見て、それを悟った。

 

「こっちはもうアドレナリンがドパドパに暴れててよぉ……我慢できねぇんだ。俺も、あいつらもな。初めからお喋りしに来たわけでもねぇし、そっちも時間が惜しいだろ。とっとと始めようや、なぁ渡里ちゃん」

 

獲物を前にした獣のような、獰猛な笑みだった。

みほの背筋を、うすら寒いものが駆け上っていく。

 

「……分かりました。じゃあ予定通り、最初は十両でお願いします。この地図にスタート地点を何か所か記してるんで、その内のどこかで待機しておいてください。こっちの用意が済んだら、無線飛ばします。そしたら試合開始ってことで」

「おおよ、じゃあな、みほちゃん。楽しみにしてるぜぇ」

 

時折兄が浮かべるものと同色の光を眼に灯し、彼は自分の戦車へと帰っていった。

合図一つで反転し、再び森の中へ消えていく戦車たちを見届けると、各所で息が漏れる音がした。そして一転、嵐がやってくる。

 

「わ、渡里先生!なんですかあの人たち!?」

「なんですか、とは随分な言い方だな。お前達の練習相手を引き受けてくれて、遠路はるばる来てくれたのに」

「なんかすっごい怖い人がいたんですけど!?」

「うっかり食べられそうなくらい!!」

「見た目だけだよ。中身はすごい良い人だし」

 

怒涛の勢いで浴びせられる質問に、渡里は一つ一つ答えながらも流石に辟易としたようで、間を取るようにしてため息を一つ吐いた。

 

「詳細は省くが、お前達は今からあの人たちと練習試合をしてもらう。理由はさっきも言った通り、お前達に足りないものを埋めるため―――――それが何なのかは、もう言わなくても分かるな?」

「経験、ですよね」

 

角谷の言葉に、渡里は静かに頷いた。

それはみほも、勘づいていたことであった。

 

例え神栖渡里が世界一の講師だとしても、大洗女子学園だけでは絶対に不可能なことがある。

 

それは、紅白戦である。

 

黒森峰にいた時は、戦車と人の数が十分だったから身内で練習試合が出来たし、ツテが多かったから他校との練習試合も容易に組めた。

つまり試合経験を積む場にほとんど困らなかったわけだが、対して大洗女子にはそのどちらもない。本番の大会を想定した実戦練習が、一切できないのだ。こればっかりはいかな兄と言えど、どうすることもできない。いや、できなかった、と言うべきか。

それを積む場は、今ここにある。

 

「お前達が経験した試合は、聖グロとの一戦のみ。絶対的に経験値が足りてないのが現状だ。だから今日から徹底的にそれを詰める。そのために彼らを招待したんだからな」

 

今のみほ達はとにかく埋没していたダイヤの原石を掘り起こしただけ。

それ自体でも価値はあるかもしれないが、研磨し形を整えることによってより輝きは増すはずだ。

これから行うことは、畢竟そういうことだった。

 

「この合宿中、お前達は様々なことを学び、習得した。それと同時に、試したいこと、やってみたいこと、思いついたことがいくつもあるはずだ。なんでもいい、それら根こそぎ全部試せ」

 

挑戦的な笑みだった。

しかしみほ達もまた、渡里と似たような表情を浮かべていたに違いない。

だって、みほ達はずっと待ち焦がれていた。

練習をする度、自分の成長を実感する度、新しい知識を身に着ける度、ふと過る思い。

今の自分達の力は、どれほどのものなのか。

自分達の力がどこまで通用するのか試したいという、当然の好奇心。

 

「さぁ、戦車に乗り込め。お前達の気が済むまで、実戦を堪能してこい」

「よーっし、行くぞー!」

 

アヒルさんチームを皮切りにして、意気揚々と各チームは自身の戦車への歩を進めた。

みほもまた、準備をしようと四号戦車に向かおうとした、その時だった。

トントン、とみほは肩を指で叩かれ呼び止められた。

誰によるものかは、言うまでもなかった。

 

「みほ、これは練習試合だから勝敗は気にしない。自由に、好きなことを、好きなだけやればいい。そのために用意した場だ」

「ほんとに戦車道となると真面目ですね、渡里先生」

 

よそ行きの皮を被るのをやめた渡里に、感嘆と皮肉を混ぜてみほは言った。

用意した、と簡単には言うものの、その過程まで簡単とは限らない。

特にあれだけの戦車と人を動かそうと思ったら、調整とかその辺りが大変なはずだ。

学園艦が帰港するタイミングとか、戦車を運搬する手段とか、数日滞在させるというならその宿も探さないといけない。

 

面倒くさがりの兄が、そんな手間を自分からかけると言うのだから、それは感心するというものである。

 

「前から知り合いだったの?」

「いや、ツテはここに来てから作った」

「その割には仲良さげだったけど」

 

渡里『ちゃん』なんて、思い返してみたら少し笑ってしまう。

 

「あの人は誰にでもそんなもんだよ。色々選択肢はあったが、あの人たちを選んで良かったと思ってる。本当に、いい人たちの集まりだからな」

 

そして渡里は、複雑な笑みを浮かべた。

それは珍しく、みほにすら完全に読み切ることができない表情だった。

だがそれでも、ほんの一部垣間見えた感情はある。それは、羨望だった。

 

「ま、精々楽しんでこい。お前にしても、聖グロの時とは全然違う戦い方ができるはずだからさ」

 

ポン、とみほは背中を軽く押された。

その時には既に、渡里は普段の渡里に戻っていた。

 

()()()()()()()()()()。完全勝利でもしてもらえると、指導者としては気持ちが楽になるな」

「簡単に言わないでよ、もう……」

 

渡里の言葉に、みほは呆れたように笑うしかなかった。

 

踵を返し、沙織たちが待つ四号戦車へとみほは向かう。

久しぶりの実戦。渡里の言う通り、試したいことなんてたくさんある。

それを全部、持て余すことなく試すことができるという事実が、みほの心を少しだけ昂らせていた。

 

(いや、ちょっと違うかも)

 

皆と戦車道をすることができるから、かな。

そっちの方がしっくりくる気がして、みほは薄く笑った。

 

大洗女子学園戦車道の二か月にも及ぶ長き合宿、その最後はこうして幕を開けた。

 

 

そして――――――――――――

 

 

 

 

 

 

『大洗女子学園、八番!!』

 

 

 

 

 

 

奇跡と謳われた物語が、始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軽快な電子音が盛大に鳴った。

こんな人の賑わう場所でも、十分に存在感をアピールする大音量である。

そういえばマナーモードにしてなかったっけ、と渡里は周りの視線を感じながら、申し訳なさそうに携帯を取り出し、通話ボタンを押した。

 

「もしもし」

『久しぶり、元気にしてた?』

 

瞬間、渡里は着信相手の確認を怠ったことを後悔した。

例え電話越しであろうと間違えようのない、独特の声色。

脳内に浮かぶは、軍服みたいな制服を着た一人の女の人。

 

極力感情を表に出さないように心がけて、渡里はその名前を呼んだ。

 

「お陰様で、蝶野さん」

『あら、随分と冷たいわね。一度とはいえ貴方の教え子の面倒を見たのよ、私は』

「あぁはいその節はどうも」

 

全てわかってるわよ、とでも言いたげな笑い声が電話口の向こうから聞こえた。

どうにも見透かされてる気がして、渡里は少し不機嫌になった。

精神衛生上、あまり長話はしない方がいいだろう。

 

「ご用件はなんです?」

『決まってるでしょ?あの子たちのことを聞きに、よ。今日でしょ、抽選会』

「そうですね」

『で、どうなのかしら?』

 

さて、どうしたものか、と渡里は思考をフル回転させた。

まず間違いなく長期戦は避けられない話題。指先一つでも掴まれたら、おそらくズルズルと付き合わされるに違いない。

このまま通話を切るという選択肢もあるが、それは次会った時が怖いので避けるべき。

なら渡里が取るべき行動は、攻撃的な意思を見せながらの撤退。これしかないだろう。

 

「まぁ上々―――」

『あ、そういえば聞いたわよ。貴方、大会直前に練習試合を組んだんですって?』

 

答えようとしてるんだから聞けよ、と渡里は携帯電話を強く握りしめた。

やはりこの人とは致命的に相性が悪い気がする。変に気遣うだけこっちが損である。

 

早々に切り上げよう、と渡里は決意した。

 

「えぇ、まぁ。向こうから申し出があったんで、断る理由もないですし」

『対戦相手はマジノ女学院、だったわよね』

 

果たしてどこから情報を仕入れたのだろうか。

諜報の網がかなり広く敷かれていることに、渡里は少しの戦慄を覚えた。

極秘裏に行ったわけじゃないが、それでも大会前に余計な情報が漏れないよう気を付けていたはずなのだが。

 

『で、結果は?』

「――――――――――――内緒です」

『どういうことよ、それ』

 

呆れと怒りが半々くらいの声だった。

別に秘密にする意味はない。蝶野亜美は絶対的な中立存在、情報を渡したとしても広まることは決してない。

ゆえにこれは、ただの嫌がらせというものである。

 

『私に隠し事なんていい度胸してるじゃない?』

「あーすいません、もう飛行機の搭乗案内が来たんで切りますねーさよならー」

『飛行機?ちょっと待ちなさい、貴方まさか――――――――――』

 

ブツ、ツー、ツー。

 

最初からこうすればよかった、と渡里は静かになった携帯電話を仕舞った。

別に嘘は言ってない。

本当にナイスタイミングで、先ほどからアナウンスが流れていたのだ。さっさとしないと、渡里の折角購入した搭乗券がただの紙切れになってしまう。

 

ノートパソコンの画面に開かれているファイルを、渡里は雑に閉じていく。

その中の一つに、蝶野亜美が聞いた練習試合の結果があったことは、おそらく渡里以外誰も知る由のないことであった。

 

『対戦相手:マジノ女学院』

『試合形式:フラッグ戦』

『戦力:大洗女子学園、五両。マジノ女学院、十両』

『試合結果:大洗女子学園、残存五両。マジノ女学院、残存九両』

『大洗女子学園の勝利』

 

「さて、行きますか」

 

立ち上がり、鞄を担ぐ。

確かな足取りで、渡里は歩みを進めた。

その頭上では、流暢なアナウンスがずっと流れている。

 

 

『お客様にご案内申し上げます。()()()○○○便の機内へのご案内を開始しております』

 

 




➀水無月の由来とか分かりません。多分正解はない。

➁唐突に現れたオリキャラ。容姿がイメージできない方は『ドウェイン』で画像検索するといいと思います。あくまで外観だけです。

➂男性戦車道愛好会→ググったけど出てこなかったので多分セーフ。保有戦車は全部自前。一から組み立てたり直して使ったり。

➃信号拳銃→某アタックでオンなタイタンに出てくるアレのしょぼい版みたいな感じ。

➄練習もいいけど試合の方が楽しいよね、何事も。

➅マジノ女学院との練習試合:フラッグ車一本釣り。


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3章
第20話 「出逢いましょう」


だんだん更新ができなくなる恐怖。
忙しい合間を縫っても、一週間あれば投稿できたはずなのになぁ……

おそらく大人気のあの母娘が今話から登場します。
なんだかんだで優しい母娘だと思っているのですけど、皆さまはどうでしょうか。

ところでこのフィギュア、なんで指輪が取れるんですかねぇ……?




『ねぇしほさん、何で俺は戦車道ができないのかな?』

 

遠い昔のことを思い出した。

あれはそう、蝉の声が高らかに響き渡り、太陽が照りつける暑い日のこと。

二人で縁側に座り、庭を眺めていた時だ。

 

西住しほは、今でも鮮明に思い出せる。

あの日の風景も、温度も。

あの子の表情も、声色も。

記憶の底に焼き付いているそれは、どれほどの月日を経ても決して劣化しない。

 

だからしほは、あの子にかけた言葉を、全部思い出せる。

ゆえにしほは、あの子にかけられなかった言葉があることも、覚えている。

 

この時しほは、何も言わなかった。

まるで明日の夕食を尋ねるかのように軽く投げかけられた言葉、そこに秘められた並大抵ならぬ重さに、ただただ沈黙するしかなかったのだ。

 

今思えば。

他に正しい選択肢があったのではないか、としほは思う。

黙り込むだけじゃなく、何か一つでもあの子に声をかけてあげられたのなら、あの子の未来も変わっていたのではないか、と。

 

『なんで俺があんな奴らに見下されないといけないんだ』

 

記憶の場面が切り替わる。

あの子が思春期を迎え、身体が一人の男性としての成熟を始めたばかりの頃。

世間一般で言うところの反抗期ほどではないにしろ、この頃のあの子は精神的に不安定だった。いや、同世代と比較すれば、遥かに成熟していたとは思う。不安定というのは、彼の始点と終点までの道程全体を通して、相対的にそうだという話だ。

 

でも、それでも。

あの子の中には、間違いなく二つの顔があった。

自分や娘達の前で見せる穏かな顔と、それとは対極の暗澹とした相。

比率で言えば前者が九を超えるだろうが、それでも時折後者の顔が顕現することがあった。

 

そして、それは決まって、戦車道の話をしている時だった。

 

『俺の方が何倍も努力してる。あいつらが遊びに耽ってる間も、ずっと戦車道のことだけを考えてる。俺の方がずっとずっと戦車道が好きなんだ!!なのになんで……あんなただ女に生まれただけのような奴らに戦車道が出来て、俺には出来ないんだ……っ」

 

縋るように掴まれた腕を、果たしてしほはどうしたのか。

決まってる。何もしなかった、だ。

振り解くことも、受け止めることもせず、ただしほは傍観していた。

それがどれほど残酷なことか、自分は分かっていたのだろうか。

 

あぁ、覚えている。

あの子の泣きそうな顔を、悔しそうな声を。

教えてくれ、という悲鳴を。どうにかしてくれ、という嘆きを。

そしてそれらを、しほが一切合切無視したことも。

 

何も言わずとも、ただ抱きしめてあげればよかったのかもしれない。

そうすればあの子は、とっくに休むことができただろう。

自分の想いに妥協して、別の道を探すことができたはずだ。

その方が、ずっと幸せのはずだ。

そうさせてあげられるのは、しほしかいなかったんだ。

 

『諦めさせてあげたらどうです?』

 

ふと、腐れ縁の言葉を思い出す。

それは残酷なまでに告げられた、親として当然の選択だった。

 

『彼の才能は諸人と隔絶した尋常ならざるもの。彼の努力は諸人を圧倒する異常なるもの。およそ戦車道の実力で言えば、誰にも届かない遥か高みに往くことは疑いない。素晴らしいことですわ』

 

腐れ縁の目は確かだ。西住流とは対極でありながら、同格の力を誇る日本最大流派の片割れ。島田流の次期家元間違いなし、と謳われる彼女の評価に狂いはない。

そしてしほもまた、彼女と同感だった。

十年に一度どころか、百年に一度の天賦の才。およそ人一人の身に収まるものではない程の才気を、彼はその内に秘めている。

 

『彼は獅子。その牙は全てを砕き、その爪は全てを切り裂く。この世で最も強く、勇敢で、気高い獣。彼に敵う者など、地上にはいないでしょうね』

 

それが敬意の表れではないことを、しほは知っていた。

いつだって彼女は、痛烈な皮肉を容赦なく、涼しい顔で浴びせるのだ。

だからしほは、彼女のことが好きになれない。

 

『でも悲しいことに、彼には翼がない。いくら爪牙を磨こうと、天高く飛翔するための翼を持たないのなら、大空を舞う鳥を捉えることは叶わず。ただただ地に伏し、優雅に飛ぶ鳥たちを恨みがましく見上げ、虚しく吼えることしかできない。そんな哀れな獣が彼よ』

 

その時、殴りかからなかった自分をしほは褒めたい。

歯が砕けそうになるくらいに食いしばり、血が噴き出しそうになるくらい拳を握りしめ、激情の火焔を必死に抑えつけた自分の、鋼のような心を。

 

いや、もし彼女の言うことが間違っていたのなら、きっとしほは彼女の胸倉を掴み上げていただろう。

でもそれができなかったのは、彼女の言うことが正鵠を射ていたからだ。

腹立だしいほどの正論であるという事実が、しほの理性が切れるのを防いでいた。

 

『羽の折れた鳥が、籠の中で衰弱していく様を見るような悪辣が貴女の趣味ではないでしょう。飛べぬと分かっているのなら、地上で生きる術を教えてあげるのが優しさではなくて?』

 

うるさい、そんなことは分かっている。

このままだとあの子は、ずっと辛い思いをするだけだ。

無理にでもその心を折り、諦めさせた方が絶対にあの子のためになる。

 

―――――それは解ってるんだ。

 

でもそれは、こちら側の理屈だろう。

空に焦がれる獅子に、翼がなくともお前は誰よりも速く地を駆けることができるのだからと諭すことが、本当に正しいことなのか。

獅子には獅子の、鳥には鳥の生き方があるからと諦めさせることが、本当に優しさなのか。

 

 

だってあの子は、あんなにも空を飛びたがっているのに。

 

 

何が正しいのか、しほには解らない。

ずっと迷っていたから、あの子に何一つ言葉をかけてあげることができなかった。

あの子の言葉を、聞くことしかできなかった。

 

そしてよりにもよって、あの子に唯一かけることができた言葉が、あの子の否定だったことはどうしようもない皮肉だったに違いない。

 

『しほさん、俺英国に行くよ』

 

それはあの子が高校二年生になった時のことだった。

すっかり自分の身長を追い越し、声も一層低くなってしまって、一人の子どもから青年へと成長したあの子は、真っ直ぐな目でそう言ったのだ。

 

英国。日本より数段先を行く、戦車道先進国。

そこを中心としたある噂、その正体をしほは知っていた。

そしてそれが、彼をその地へと駆り立てていることも。

 

『向こうで頑張れば、男でも戦車道ができるかもしれないんだ』

 

否。否否否。

そんなものは嘘だ、としほは断言した。

いや、事実だとしてもそんな旨い話があるわけがない。きっと何か、あの子の想像を超えるような悪意がそこにはあるに違いない。

何もそんな、藁に縋ることもないだろう。そんな微かな、一縷の望みに自分の人生の大半を賭けることはない。

 

いくらなんでも早計だ。見通しが甘すぎる。

しほはそう言って、彼の考えを否定した。

 

何もそんなに慌てなくてもいい。

いつかきっと、日本にも貴方の道が拓かれる日が来るはずだから。

そんな言葉を、飲み込んでしまって。

 

『そっか』

 

そうして彼は、穏やかに笑った。

その表情は限りなく無色で、そのことがかえってしほの心を痛めつけた。

 

その時、心臓がひと際大きく鼓動したことを覚えている。

それは次の瞬間に訪れるであろう言葉を、しほの直感が悟っていたからだった。

 

 

『じゃあ、西()()渡里はもうお終いだね』

 

 

行くな、と言うことができたのなら、どれほど良かっただろう。

彼を縛り付けて、この腕の中に閉じ込めておくことができたなら、どれほど良かっただろう。

 

そんな簡単なことができない自分を。

我儘になれない自分を。

あの子の自由にさせてあげればいいと簡単に諦めた自分を。

しほはずっと悔やんでいる。

 

そしてあの子は西住の家を出た。

育んだ家族との絆も、過ごした月日の積み重ねも、安定した人生も、何もかもを捨て去って、まるで初めからいなかったかのように綺麗に、あの子はいなくなった。

 

旅立つその背中にしほは、やはり何も言わなかった。

頑張れと言うことも、疲れたなら帰ってきなさいと言うことも、何一つ言葉をかけることなく、娘達のように約束を交わすこともなく、ただ一度も振り向かなかったあの子を眺めていた。

 

しほとあの子が交わした会話は、結局あの時の口論が最後になった。

どれだけ言葉を並べても決して折れないあの子に負けて、自分の意思を貫き通すことができなかったこと。優しさと放棄を履き違えたことこそが、しほの最大の心残りだった。

 

 

意識が浮上する感覚が不意に訪れた。

過去への潜行は終わり、しほは現実へと帰還する。

自分を呼ぶ誰かの声が、そのキッカケだった。

 

 

 

「長―――隊長。どうかしましたか?」

 

西住まほの意識は、自分を呼ぶ副隊長の声によって覚醒した。

不思議なことに、まほの意識はどこかへと飛んでっていたようだった。こんな人の多い歩道でボーっとするなど、我ながら気が抜けているとまほは嘆息した。

九州から関東まで、新幹線片道六時間の旅は、どうやら自分が思っているより身体に負担をかけていたらしい。

 

「………いや、なんでもない。なんだ?」

 

静かに大きく息を吸い、酸素を身体に行き渡らせる。そうするとまほの意識は、よりクリアになる。

気遣わし気な副隊長、逸見エリカの視線を受けながら、まほは言葉の続きを促した。

 

「トーナメントの話です。初戦で当たる知波単学園はともかくとして、準決勝の相手は順当にいけば聖グロリア―ナ。ひとまずはそこが山場となりそうですね」

「………あぁ、そうだったな」

 

今が抽選会の帰りであることを、まほは思い出した。

夏の公式戦、全国高校戦車道大会。

まほは黒森峰女学園の隊長として、トーナメントの組み合わせを決める抽選会に、熊本から遥々やって来たのだ。

 

一回戦は知波単学園。

高い機動力を活かし、全車両による突撃を得意とする攻撃的なチーム。

だが突撃に傾倒する余り、防御が疎かになる傾向が強く、また戦術のバリエーションも少ない。攻撃が噛み合えば喉元まで迫られることもあり得るだろうが、油断さえしなければまず間違いなく勝ちは揺るがないと、まほは踏んでいる。

 

二回戦の相手は、継続高校か青師団高校。

まだどちらと戦うかは決まっていないが、両校とも練習試合を行ったことが過去にあり、黒森峰はそのどちらにも勝利している。

劇的な進化でも遂げていない限りは、こちらに分があると言っていいだろう。

問題はやはり、ビッグ4と呼ばれる強豪校たちと当たる準決勝以降だろう。

黒森峰が順当に勝ち進めば、おそらくその先にはビッグ4の一角である聖グロリア―ナ女学院がいる。

 

硬い装甲と統率の取れた動きで相手を圧していく、浸透強襲戦術の使い手。

護りの堅牢さでは自分達と同等以上を誇る、神奈川の雄。

それが聖グロリア―ナ。

 

そしてその中心にいるのが、常に優雅な姿勢を崩さない、金髪青眼の隊長。

おそらく今大会で最も油断ならないであろう、紅茶の名前を持つ戦車乗りである。

 

まほは戦車道の名門、西住流の直系に相応しい才を宿し、それに見合っただけの努力を重ね、戦車乗りとして最高峰の実力を持つに至っている。オリンピックの強化選手に選ばれたことも、その証左と言えるだろう。同学年で並び立つ者などいない、と称されたことすらある。

 

しかしまほは、その評価が正しいと思ったことはなかった。

自分の能力を過少評価しているわけではない。ただ、自分と同等の実力を誇る者が、自分と近しい力を持つ者がいることを、まほは知っていたのだ。

 

戦車単体レベルの強さならばまほに軍配が上がるだろう。

だが部隊全体を指揮する能力、大局的な視点、戦術能力に関すれば、少なくともあの金髪青眼の隊長は自分と完全に同格。

苛烈な攻めによって先手を取り続けるまほと、一縷の隙も無い防御で後手に回りながら相手を制御する彼女。方向性の違いはあれど、その実力は拮抗している。

 

まほは静かに嘆息した。

あらゆる意味で抜け目のない彼女は、心底に厄介な相手である。

優勝候補筆頭と目される黒森峰女学園といえど、まず間違いなく準決勝は苦戦を強いられる。まほはそれを予感していた。

 

「決勝戦はサンダースかプラウダでしょうか……叶うならば、プラウダに勝ち上がってきてほしいところですが」

 

エリカの口調に、強い感情が込められていることをまほは感じ取った。

 

プラウダ高校。その名前は、黒森峰では特別な意味を持っている。

思い起こされるのは、去年の全国大会決勝。

十連覇の偉業がかかった一戦にて、黒森峰は終始優勢に立ち回りながら―――敗北した。

安全圏に避難させていたフラッグ車を、隙を突かれて撃破されたのだ。

 

いや、隙を突かれたというのは語弊がある。

その時隊長として試合を指揮していたまほは、あらゆる状況に備えていた。どんな場面だろうと問題なく対処できる、そんな体制を整えていたのだ。

 

しかしそれは、あっさりと崩壊した。

プラウダ高校によってではなく、内側から。

 

「去年の優勝を笠に着て随分と好き放題言ってくれているようですし、今年は身の程を教えてあげなければなりませんね。去年だって、あんなことがなければ……」

「過ぎたことだ」

 

まほは毅然としてエリカの言を断ち切った。

 

『万全を期していた黒森峰が敗北した理由は、フラッグ車の車長にある』。

 

それが黒森峰の、ひいては世間の認識であることをまほは知っていた。

敵が目の前にいるにも拘わらず、戦車の指揮を放棄して、氾濫した川に転落した味方の救助を優先した車長。

彼女のせいで負けたという声を、まほはもう何度聞いたことだろうか。

 

「っですが隊長!!」

「戦車道は団体競技だ。誰か一人のおかげで勝つことも、誰か一人のせいで負けることもない。あの敗戦は、私たち全員の敗戦だ」

 

昨年の結果に、納得できていない者は数多い。

逸見エリカもまた、そんな者達の一人だった。

平時は隠匿し、秘められている感情も、この時期になると抑えきれない部分が表出し始めるようで、エリカのように語調が荒くなる者も珍しくない。

 

そしてまほが、そんな彼女たちに決まって言う言葉がソレだった。

遠い過去に教えてもらった、大事な言葉。

決して忘れてはならないと心に刻んだ、()()()の教え。

 

「今更何を言ったところで負けたという過去はなくならない。私たちがすべきことは雪辱を晴らすために、一丸となって目の前の相手をただ倒すことだ」

「―――ならなんであの子はあんなところにいるんですか!?」

 

叫び。

逸見エリカという人間は決して感情的になる人間ではない、というわけではない。

激情を理性で覆い包むことができるものの、その膜はどちらかというと脆く薄く、ちょっとした拍子に表に出てくることは珍しくない。

ただそれでも、彼女は普段は理性的であろうとしているし、まほの前では殊更そう振舞おうとしている。少なくとも、こんな人の多い場所で大声を上げるほどモラルがないわけではない。

 

しかしそれでも彼女が声を荒げてしまったのは、やはりそれだけ想いが深かったということなのだろう、とまほは思った。

脳裏に、一人の少女の姿が思い浮かぶ。

 

「一丸と言うのなら、あの子はこっちにいるべきでしょう!?全員で負けたというのなら、全員で勝利を取り戻さないといけないはずでしょう!?それがなんで……あんな……!」

 

それはかつてまほ達と同じ黒森峰女学院の制服に身を包んでいた。

でも今はもう違う。

全国大会の組み合わせを決める抽選会の会場。

そこで彼女は、白を基調とした、まほ達が知らない制服に着替え、再びまほ達の前に現れたのだ。

 

それが意味するところを、まほもエリカも知っていた。

ゆえにまほは、エリカの気持ちが理解できた。

きっと彼女の中では、数多の感情が無理やりに掻き混ぜ合わせられているのだろう。

 

かける言葉はなかった。

まほが何かを言うよりも早く、エリカは自力で内から溢れ出るマグマを冷やしたからだ。

 

「……すみません」

「気にするな、気持ちはわかる。ただ少し場所を選ぶべきだったな」

 

周囲の視線を感じながら、まほは静かに息を吐いた。

 

エリカの感情は正当だ。

まほだって、最初に彼女の姿を見た時に平静でいられたかと言われればそうではない。

西住流そのものと言われる鉄の心に、僅かな揺らぎが生じたことは事実だ。

まほですらそうなのだから、エリカなどは尚更だろう。

 

それほどまでの影響を、彼女は与えていた。

 

何もせず、何も言わず、忽然と姿を消してしまった彼女。

学校を辞めてしまって、西住の家も出てしまって、戦車道から完全に離れたと思われていた彼女。

それが今、別の学校で、前と変わらず戦車道を続けていたと知った時の衝撃は、並みではない。

 

『なぜ黒森峰じゃないのか』

 

何一つ相談してくれなかったことよりも、勝手にいなくなってしまったことよりも。

畢竟、まほとエリカの気持ちはそこにあった。

 

「少し休もう。帰りの飛行機まではまだ時間がある」

「……はい」

 

浮かない顔で副隊長は頷いた。

新幹線で往復するのは流石に辛い、ということでまほ達は復路に空の道を選んでいた。

お金こそ多少かかるものの、時間と体力の余裕が格段に違う。資金が潤沢な黒森峰だからこその贅沢と言えるだろう。

 

まほ達は手ごろなカフェを見つけて、一休みすることにした。

別にお茶さえできれば何処でも良かったが、戦車喫茶というピンポイントな看板がひと際目に付いた店があったので、好奇心に従いまほ達は入店した。

 

 

―――――――――――そして。

 

 

「お姉、ちゃん………?」

「副隊長……っ!」

 

扉を開けた先。

まほ達は彼女に出逢った。

 

決して誰かと見間違えることのない、栗色の髪。

触れれば壊れてしまいそうな、儚く弱弱しい雰囲気。

 

丸い瞳を不安に揺らす彼女は、最後に見た記憶そのままの表情で。

 

様々な想いを滲ませながら、まほはその名を静かに呼んだ。

 

「―――――――」

 

 

 

 

「家元、大丈夫ですか」

「……あぁ」

 

開いた扉の先にいたのは、落ち着いた色合いの着物を纏った一人の女性。

普段は家政婦として西住の家に仕えながら、同時に西住みほの側近を務める彼女の名前は、菊代といった。

 

彼女との付き合いも、もう何年になるだろうか、としほは思いを巡らせた。

 

初めて出逢ったのは、しほが黒森峰女学園の生徒だった時。

一介の戦車乗りだった時は、しほの頼れる仲間として。

そこからしほが黒森峰の隊長となった時は、その副隊長として。

そしてしほが学校を卒業し、西住流次期家元としての道を歩み始めてから今に至るまでは、側近として。

 

共に積み重ねてきた時間で言えば、夫や娘よりも長い。

身内以外で彼女ほどしほのことを理解している者はいないし、同じく身内以外で彼女ほどしほが信頼している者もいない。

彼女は真に、しほの理解者と言えた。

 

ゆえに彼女に隠し事はできない。

鋼で覆ったしほの心の、その奥にある感情にもきっと気づいているのだろう。

菊代の気遣うような声と表情に、しほはそれを悟った。

 

「もうすぐ、ですね」

 

信頼と理解のベクトルは、一方通行ではない。

菊代がしほに対してそうであるように、しほもまた彼女の意図を容易く読むことができた。

 

「何年ぶりになるでしょうか……」

「……六年、というところかしら」

「そんなにですか」

 

愁うような笑みを彼女は浮かべた。

六年。それだけの時間があれば、ランドセルを背負ったばかりの子どもは中学校の制服に身を包むようになり、高校生だった子どもは成人へと至る。

 

長いようで、短い時間。

しかし人一人が大きく変化するのに、六年という時間はきっと十分すぎるのだろう。

 

「………やはり、普段通りとはいきませんか」

「………そうね」

 

嘘をつく意味を見出せなかったので、しほはため息と共にその言葉を吐き出した。

これまで多くの人間と対峙してきたしほは、相応の数の修羅場は潜っている。だがそれでも、これからやって来る人間に対しては、普段以上の精神力を要求されるであろうことは疑いようがない。

腹芸に長けているわけでも、舌鋒が鋭いわけでもない。

ただただその者は、しほのことを()()()()()()()

それだけのことが、こんなにも厄介だとは思わなかった。

 

「菊代、お茶を貰えるかしら」

「かしこまりました」

 

一礼をして、菊代は楚々と部屋を退出した。

その従順さが、今は有難い。

 

まずは気を落ち着けなければ、としほは息を一つ吐いた。

鋼の心に、揺らぎがあってはならない。それこそが、しほのアイデンティティだ。

確かに相手は厄介だ。それは認めよう。

なればこそ、一層心を鎖す。私心を滅し、『西住しほ』という名の一つの鉄塊になる。

そうして涸らせばいい。どれだけ風が吹こうと、水の無い所に波は立たないのだから。

 

そうやって一縷の隙も無くすことで初めて、しほは西住流を背負う者として君臨することができる。

今この時間は、そのためのものだ。今までも、しほはそうやって自分を強くしてきた。

幾度も叩いて硬度を増す鉄のようにではなく、生まれながらにして最高硬度を誇る金剛石のようになるために。

 

 

そして何秒、何分経った時。

ドアが開く音がした。

足が床を叩き、床が軋む音が一つ。

 

 

随分手際がいいことだ、としほは視線をくれずに思った。

しかし早いに越したことはない。時間に余裕がないわけではないが、だからといって余っているわけでもない。

早々に気を静めたいしほにとって、菊代の淹れた茶は大きな手助けになる。

気の利く彼女のことだ、その辺りのことを察して普段より早くしてくれたのかもしれない。

 

「菊―――――――――――――――」

「久しぶり、しほさん」

 

 

時間が、停止した。

 

 

自分の耳が得た情報を、自分の心が否定する感覚をしほは久方ぶりに味わった。

そして、自分が鉄でも金剛石でもない、石になる感覚も。

 

聞こえてきた声は、しほの想像の数段低い音。

錆びた砲塔のような動きで、しほの首が回る。

そして瞠目した瞳の、その先に。

()()()がいた。

 

しほより頭一つ分は大きい背丈に、服の上からでも分かるほど引き締まった男の身体。

鋭い目つきの中には、まるで深淵の宇宙のような黒い瞳。

 

しほの記憶の中にある姿とは違ってしまっているけれど、それでも確かな面影が残っている。そこにいるのは、夢でも幻でも他人でもない――――紛うことなき、彼。

 

渡里、という名前を、しほは微かに呼んだ。

 

「元気そうだね、よかった」

 

そう言って彼は薄く笑った。

しほは笑わなかった。笑えなかった。

 

あまりにも唐突すぎて、しほの思考は空回りしていた。

それは西住の名を背負う者として許されない、一時的な麻痺。

しほが決して発露させないように気をつけていた、隙。

 

間髪入れず、彼はそこを突いてしほの部屋の中に踏み入れた。

 

同時に、しほは自分を取り戻す。

鉄で心を覆い、鋼の仮面を被る。

普段と違い、それはあまりにも急ごしらえだったが、彼が部屋の隅に置いてあった椅子を引っ張り出し、しほの正面に遠慮なく腰を下ろした時には、しほは最低限の防御態勢を整えることができた。

 

「こうやって話すのもいつ振りかな?」

 

彼はまた笑顔だった。

あぁ、としほは内心で顔を顰めた。

 

本当に、一筋縄ではいかない相手だ。

あっさりと此方の心中を読み取った挙句、まるで何時間も前から此処にいるように、いやあるいはもう何年もずっと此処に暮らしているかのように、彼は()()()でいる。

 

長い時の空白なんて、無かったかのように。

 

「突然来たからビックリしたでしょ」

「………そうね」

「昔三人で作った秘密の抜け道、まさかまだあるとは思わなかったよ。防犯的に危ないから早く潰しといたほうがいいよ、後で場所教えるし」

 

やはりそこからか、としほは自分の推論が間違っていなかったことを悟った。

 

娘二人と彼が作った、家の庭と外とを結ぶ逃走用の道。しほが子ども達を叱ろうとする時、子ども達は決まってこの道を使って逃亡を図ったのだ。

設計者が厄介な知恵者だからやけに巧妙に隠されていて、おそらく西住の家にいる者のほとんどは知らないだろう。

 

「知っているわ」

 

だが当然、しほはその存在を知っていた。

ゆえに渡里がこの家を出ていった時、もう用済みだろうとしほはそれを潰そうとした。

しかしそれが今まで残っているのには、ある理由があった。

 

「あの子達が言ったのよ。貴方は、きっとあの道を使って帰ってくるだろうから、それまでは残してほしい、と」

「……あぁ、大正解だね」

 

喜色と郷愁を絶妙に混ぜ合わせた、そんな表情だった。

それを見ても鋼の心が揺らがなかったことに、しほは安堵を覚えた。

 

「約束の時間は、三十分ほど先のはずだけど」

「ん?そうだね、早くしほさんに会いたかったから」

 

主導権を取り返すべく、しほは言葉の矢を放つ。

しかし渡里は、それをいとも容易く受け流した。

一転、鋭い反撃がやってくる。

 

「昔っからそうだったでしょ。しほさんは、西住の人間として誰かと会う時、いつも三十分くらい間を作る。その間に、心を落ち着けるんだよね」

 

渡里の言うことは、一つも間違っていなかった。

それはしほの習慣。西住流を背負う者として、決して弱みを見せないためのルーティンであった。

しほは自身の油断を悟った。その習慣を、彼が知らないわけがない。ならば当然、そこを突いてくることは予測できることだった。

なぜなら彼は―――――――――

 

「でも俺は、どうしても()()のしほさんと話がしたかった。誰にも何も見せない、硬くて分厚い仮面を被ったしほさんじゃなく、ありのままのしほさんと」

 

吸い込まれそうなくらいに黒い瞳から投射された視線が、しほに突き刺さる。

急ごしらえで作った護りは、果たしてどこまで耐えることができるだろうか。

 

「だから俺も、今は()()()()()()()()()()()()じゃない。()()()()()としてここにいる。……あの手紙は、しほさんに会うための口実みたいなもんだよ」

 

それは四月の頃だった。

名前と要件だけが書かれた、簡潔すぎるくらいの手紙がしほの元に届いたことがある。

送り主は当然、目の前の彼。要件は当然、今この状況を作る事。

 

『貴女の大事な娘を預かる身として、一度挨拶に伺いたい』という、白々しい内容が書かれた手紙。

それを見てしほが思ったことは、一つだけだった。

 

「無駄話嫌いだろうから、本題に入るよ。大洗女子学園で()()()を見た時に、絶対にしほさんに聞かないとダメだって思ったことがある。今日ようやく、それを聞ける」

 

彼が戦車道の講師を始めたことを知っても。

学校を辞め、戦車道を辞め、家から出ていった娘が、遠く離れた地で再び戦車道を始めたことを知っても。

そんなことは、些細だ。

それよりも最初にしほが思ったことは、

 

「――――しほさん、何でみほを止めなかったの?」

 

いずれ自分の元にやってくる彼の口から、必ずその言葉が出てくるだろうという、予感。

その時自分は、なんと答えるべきなのかという、迷いだった。

 

表情一つ変えないしほの眼前。

吸い込まれそうなほどに黒い瞳が、こちらをじっと見ている。

 

「戦車道は、本当に勝つことが全て?」

 

 

 

「戦車道、続けていたんだな」

「う、うん……」

 

まっすぐに見つめるまほとは対照的に、彼女の視線はただの一度も此方と交差しなかった。

不安、焦燥、罪悪感。彼女の心の中は、そんなところだろうか。

()()というのは不思議だ。血が繋がっているというだけで、こんなにも他人の心が解るものなのだから。

妹。そう、西住みほは、正真正銘西住まほの妹だ。

 

黒森峰女学園十連覇の夢を潰えさせた、フラッグ車の車長。

全ての責任を負わされ、黒森峰から姿を消した彼女は、まほの妹なのだ。

 

「………」

 

何と言うべきなのか、とまほは迷った。

良かった、という感情はある。戦車道を辞めたとばかり思っていた妹が、別の学校とはいえ戦車道を続けてくれたのだから。

だがそれを言葉にするのは、少し違うと思った。

なぜならそれと同じくらい、黒森峰じゃダメだったのか、という思いもあるから。

 

渦巻く感情は複雑。まほは、それを一言で言い表す言葉はこの世にない気がした。

 

こういう時、人の取れる行動は二通りだ。

まほのように沈黙するか、あるいは……

 

「副隊長……あぁいえ、()でしたね。黒森峰を退学して何処へ行ったのかと思えば、まさかそんな聞いたこともないような学校で戦車道を続けていたとは。呆れて物も言えませんよ」

 

自分の横に立つ少女のように、無理やりにでも感情を言語化するか、だ。

 

「よくもまぁ、そんな無名校で大会に出場できたものですね。精々、恥をかいて西住流の名前を汚さないようにしてください―――――腐っても、貴方は西住流の直系なんですから」

 

それはあまりにも剥き出しにされた感情だった。

敵意と怒りを隠そうともしないその口振りに、まほはエリカが平静を失いつつあることを悟った。

 

「――――――――ちょっと!!」

 

俯いたまま無言の妹を庇うかのように、明るい髪色をした女子が勢いよく立ち上がった。

優しそうな顔に似合わない程の怒気を滲ませて、彼女は声を張り上げる。

 

「いきなりなんですか、失礼でしょ!みほに謝ってください!」

「そっちこそ何?」

 

エリカは退かなかった。ドライアイスの剣のような言葉を幾重にも重ねる。

 

「貴方たちがこの子の何を知ってるっていうのよ。部外者が口を挟まないでくれるかしら」

「部外者じゃありません」

 

静かに、それでいて力強く反論したのは、長く艶のある黒髪を持つ少女だった。

彼女の瞳には、確かな反攻の意思が込められていた。

 

「大洗女子学園戦車道砲手、五十鈴華。みほさんの友達です」

「同じく通信手、武部沙織!みほの友達!」

 

絶対零度に微塵も怯む様子を見せず、二人の少女は真っ向からエリカと対峙した。

視線が火花を散らし、口論が加速する。

 

「みほさんのことを悪く言われて黙ってはいられません。先ほどの言葉は取り消してください」

「そっちこそみほの何を知ってるっていうんですか!」

「はっ、友達ってだけで随分しゃしゃり出るわね。仲良しこよしが貴女達のやり方ってわけ?」

 

嘲笑の後、エリカの視線は栗色の髪の持ち主へと向けられた。

 

「まぁ貴女にはそっちの方がいいかもしれませんね。非情に徹しきれず、勝利のためには何もかもを犠牲にする覚悟もない、甘ちゃんの貴女にはそんな風に友達と慣れ合ってる方がお似合いですよ」

「それは違います!!」

 

否定の言葉は、また別の人間から放たれた。

癖っ毛の強い髪をした女子が、エリカに物怖じしながらもそこに起立していた。

 

「西住殿は、西住殿は誰よりも優しい人なんです!!初めて会った時から、私はずっとそう思ってます!」

 

エリカと同じように剥き出しにされた感情が、真っ直ぐに投射される。

反論と言うには、彼女の表情はあまりにも迫力が欠けていた。

しかしだからこそ、より一層切に心を打つ気がした。

 

「困っている人がいたら、助けを求めている人がいたら、すぐに手を差し伸べることができる。それが西住殿なんです。そんな西住殿を、私はずっと尊敬してます!だからあの時の西住殿の行動は間違ってなんかいません!勝つことよりも友達を優先することができる、そんな優しさが西住殿の強さなんですから!」

 

その声を、まほは黙して聞いていた。

優しさ。まほの、西住流の戦車道にそんな文字は無い。

あるのは勝利のみを希求し、そのためにはあらゆる犠牲を厭わない鉄の心こそが西住流だから。

 

「………」

 

しかし妹は、みほはそうではないのだと、まほは薄々と気づいていた。

母と同じ西住流そのもののような自分とは、どこかが違うということに。

まほはそれが………

 

「私たちはみほさんから全て聞きました。貴女の気持ちも分かります。きっと強い思いを持って試合に臨んでいて、だからみほさんのことが許せないんでしょう。でもそれでも、みほさん一人に責任を押し付けることは違うと思います」

 

続くように黒髪の少女が口を開いた。

これも優しさだ、とまほは思った。

友達を思い遣る心、誰かのために行動することができる心。

黒森峰にはない、暖かな心。

 

みほは、彼女たちと出逢ったからこそ、また戦車道を始めることができたのだろうか。

きっと、そうなのかもしれない。

彼女たちが今目の前でそうしているように、みほに寄り添ってくれたからこそ、みほはこの世界に帰ってくることができたのだろう。

 

それは自分達ではできなかったことだ。

だからまほ達は、彼女たちに礼を言わなければならない。

みほにまた、戦車道を始めさせてくれたことに。

 

しかし彼女たちは、気づいているのだろうか。

みほの何を知っているのだと弾劾する自分たちもまた、まほ達のことを何も知らないまま語っているということに。

得てしてそう言う行為が、人の触れてはいけない部分を容赦なく抉るのだ。

 

「負けることは悪いことじゃありません。勝つことも大事ですが、それ以上に大切なものだってきっとあるはずです。それを――――――」

「――――軽々しく知った口を聞くな!!!」

 

火山が噴火した。

一時は冷えていた激情のマグマが、再び熱を持ち火の粉を散らして外部へと流れ出る。

 

「私たちはね、そんな温い覚悟で戦車道をしてるんじゃないのよ!常勝と謳われる黒森峰女学園で戦車道をするということがどういう意味か、あんた達は何も知らないでしょうが!!」

「知ってる、友達一人守ろうともしないのが黒森峰の戦車道だろ。随分と物騒な学校だ、私なら生き辛くてとっくに辞めてるだろうな」

 

白いカチューシャを着けた小柄な少女が、平然とした表情で毒を吐いた。

いやそれはこの場においては毒ではなく、火焔を更に大きくさせるだけの燃料だった。

 

「―――――――――――っ!!」

「もういい、そこまでだ」

 

更なる火球を放とうとしたエリカを、まほは一言で制した。

潮時だな、とまほは心の中でため息を吐く。

これ以上ヒートアップすれば、もう歯止めが効かなくなる。それにここまで大声で口論してれば店の人にも迷惑だ。

 

「隊長……!」

「ウチの者が失礼した。黒森峰女学園の隊長として謝罪する、すまない」

 

まほは少し頭を下げた。

周囲が動揺し、高まっていたボルテージが急降下していくのをまほは気配で感知した。

 

「エリカ、場所を変えるぞ。こうなってしまっては、私たちはここにはいない方が良い」

「っ……はい」

 

エリカの中にあったあらゆる言葉を、まほは睥睨するだけで封殺した。

頭をすぐに冷やすことのできる理性はあるものの、それでもエリカの気持ちが昂ってしまうのは、やはり彼女の中で西住みほという存在が特別だからなのだろう。良くも、悪くも。

 

「……悪いな、みほ」

「……ううん、大丈夫」

 

みほは儚い笑みを浮かべた。

こんな時でも笑えるようになったのか、とまほは少しだけ驚いた。

自分達がここに来たせいで、したくもない思いをしただろうに。

しかし彼女が黒森峰の制服を脱いだ以上、まほは彼女に言わなければならない言葉があった。

 

「だがみほと言えど、立ちはだかるのなら容赦はしない。私たちは、私たちの道を阻むもの全てを叩き潰し、そして優勝する……次に会う時は、戦場で会おう」

「一回戦でサンダース大付属と当たるアンタたちが、決勝まで来れるとは思わないけどね」

 

エリカの皮肉を黙殺して、まほは歩を進めた。

これ以上語るべきことはない。

今の自分達とみほは、もう敵同士なのだから。

 

だからまほは、もうみほの方を見なかった。見ずにそのまま、立ち去ろうとした。

しかし、

 

()()()()に鍛えてもらったんだもん、私たちが絶対に優勝するんだから!!」

「―――――――――――」

 

不意に現れたその名は、まほの足を止めるのに十分すぎる力を持っていた。

 

突如として静止したまほを、たった一人を除いて誰もが疑問視したようだった。

だがそんなこと、まほには知ったことではなかった。

 

わたり。そんな名前を持つ人を、まほはこれまでの人生で一人しか知らない。

 

ゆっくりと振り返り、まほは彼女を両眼に捉える。

栗色の髪をした、自分の妹を。

 

「……みほ」

「は、はい」

 

その声に、みほは肩と声を震わせた。

彼女にそんな反応をさせたのは自分であることを、まほは理解していた。

しかしまほもまた、震えそうな自分の声を抑えつけるのに精いっぱいだったのだ。

 

 

()()()が、そっちにいるのか……?」

 

 

ほんの少しの間があって、みほは静かに頷いた。

そうか、とまほは誰にも聞こえない程小さいな声で呟く。

 

瞬間、フツとまほの中に沸きあがる感情があった。

それは赤色ではなく、黒色をしていた。

燃焼し、最後には燃え尽きる焔の感情ではなく、ドロドロとして全てを呑み込むような暗澹とした感情。

まほは自分の中にあるそれに、名前をつけることはしなかった。

つければ最後、自分はどこまでもこの感情に支配される気がした。

 

「………そうか、そうなのか」

 

しかし鉄の心を以てしても抑えきれない部分が、僅かに表出した。

その声は自分でも驚くくらいに、冷たい声色をしていた。

 

「―――――みほ。解っているとは思うが、西住流の戦車道は決して逃げない戦車道だ。一度でも逃げたお前は、もうその名前を名乗ることはできない」

 

変貌。ナニカがまほを、『西住みほの姉』から『西住流を背負う者』に塗り替えていく感覚があった。

そしてまほは、かつて母が彼女にかけた言葉と全く同じ言葉を紡ぐ。

それが彼女を、どれほど傷つけたか知った上で。

 

「戦車道は勝つことが全てだ。何を犠牲にしても、勝たなければ意味がない」

 

 

 

「なのにあの子は、勝利よりも仲間を優先した」

「だから、出ていくのを止めなかった?」

 

黒い瞳が凪いでいる。どうやらこの数年で、感情を隠す術を身に着けたようだ、としほは思った。もう彼は、しほの知っている子どもではない。

 

「西住流に相応しくないあの子は、遅かれ早かれ此処には居れなくなった。そうなる前に自分から出ていくというのなら好都合だったわ」

 

純粋な力比べの果てに敗北したというのなら、まだ納得できた。

それはただ力が劣っているというだけのことだから。

 

だが勝利よりも仲間を優先したために負けたというのなら、それは力不足ではなく、西住流としての欠陥を表す。

そんな人間は、この家にいることはできない。

ここは西住流。鉄心の群れ。優しさなど、必要ない。

 

「……でも俺は、みほが間違ってるとは思わないよ」

 

静かに彼はしほの言を否定した。

そして自嘲しながら言う。

 

「みほにそう言ったことはないけどね。俺の都合だけど、みほにはどれだけ辛くても自分の力で答えを出してほしい。だから正しいとも間違ってるとも言わなかったけど……心の中では、俺はみほを褒めてやりたいよ。頭を撫でて『良くやった』って言ってやりたい」

 

だが絶対に言わない。

戦車道が何よりも一番上に来る戦車道至上主義。

どうやら彼は、その点に関してはあの頃と何一つ変わっていないらしかった。

 

「しほさんもそうだと思ってた。だってあのままじゃ、川に落ちた乗員はどうなるか分かったもんじゃなかった。下手をすると、命を落としたかもしれない。それを真っ先に助けにいったことは甘さでも優しさでもなく、勇気なんだと、しほさんは思わなかったの?」

 

その眼は、あまりにも真っ直ぐだった。

胸の内を隠そうとするしほとは対照的に、彼は全てを曝け出していた。

そうされるのが、一番しほは堪えると知った上でそうしているのだ。つくづく、相性が悪い相手である。

だがしほとて、退くわけにはいかないのだ。

 

「思わないわ。なぜなら戦車道は、勝利することが全てだから。勝てば全て正しく、敗ければ全てが間違い。ここはそういう世界。だから勝利することに、何よりも意味がある」

 

毅然としてしほは言った。それは一切の綻びのない、完全なる西住流だった。

しほの言葉に、渡里は表情を変えなかった。

予想していた、ということだろうか。だが寧ろその方がしほは有難かった。

いっそ感情を爆発させられた方が、きっと自分は手を焼いただろうから。彼が理性的であればあるほど、しほもまた理性的でいられる。

 

 

「――――――じゃあ()()()()の死は、正しかったってこと?」

 

 

だからこそ、その言葉が放たれたとき、しほは瞠目し、硬直してしまった。

渡里がここに来ると知った時から、何十回と思い浮かべたその言葉。

その時自分がどう答えるか、何百回とシミュレーションしたというのに、しほは西住流としてあるまじき隙を晒してしまった。

 

そうやってしほの準備をあっけなく台無しにしてしまうくらい、彼はあまりにも唐突に、何気なくそう言った。

 

「戦車道をするために生まれ、戦車道の中でしか生きられず、戦車道のために全てを捧げて――――――そして戦車道の中で死んだあの人の生き方は、誰もが倣うべき素晴らしいものだったってこと?」

 

いっそ清々しいまでの、曇りない表情だったことがしほの心を抉った。

一体いつから、そんな顔で、その名前を口に出来るようになったのか。

その名前は、しほにとっても渡里にとっても、特別だったはずなのに。

 

「……えぇ、そうよ」

 

全神経、全精神力を集中させて、しほは西住流の顔を再構築した。

ここで弱みを見せることだけは、死んでもできなかった。

そして言うのだ、西住しほではなく、西住流を背負う者として。

 

「全ての戦車乗りは、須らく彼女の生き様に倣い、彼女のように生きるべきなのよ」

 

たとえそれが、どんな悲劇を生むことになっても。

たとえそれが、彼をどれほど傷つけることになっても。

それがしほの、答えだった。

 

「……そっか」

 

そして彼は、しほが見たことの無い表情を浮かべた。

諦観と安心、痛切と哀愁を絶妙に混ぜ合わせた、見ているだけで心が締め付けられるような、そんな笑みだった。

 

「良かった。俺の知ってるしほさんだ」

 

だというのに、その言葉には喜色が込められていた。

まるでテストの答え合わせでヤマが当たった学生のような、そんな語調。

その瞬間の彼は、ひどく幼く見えた。

 

「みほの話を聞いて思ったんだ。もしかしてしほさんは、変わってしまったんじゃないかって……でもそれは間違いだった。しほさんはずっと、昔のままだ」

 

そして彼は立ち上がり、庭が見える窓に近づいた。

そこからの景色が彼の目にどう映っているのか、しほには想像できない。

でも彼はこの時、過去に想いを馳せているような気がした。

 

「いっつも仏頂面で、怒ると怖いし鬼みたいに厳しいし、滅多に笑うこともないけれど――――――誰よりも子どもの事を大事に想う、優しいお母さんのまま」

「―――――――――――っ」

 

何を言っている、としほが反射的に反論する前に、渡里は莞爾と微笑んだ。

 

「貴女の厳しさは優しさの裏返しだと、俺は知ってますから」

 

渡里は一瞬で、しほの言葉を封殺した。

たったそれだけの言葉で、表情で、しほはあっけなく反撃の機会を永遠に失った。

 

「みほのことはもう聞かないよ。しほさんにはしほさんの事情があるんだと思うし、俺はもう西住の人間じゃないからね」

 

そして渡里は、気づいた時には部屋の出口へと立っていた。

まるで時間が飛んだみたいに、彼の行動は迅速を極めていた。いや、切り替えが速いと言うべきかもしれなかった。

 

「用件はそれだけ。逢えて良かった………それじゃあ、また」

「ま――――――――――――」

 

パタリ、と扉が閉じ、それ以降再び開くことはなかった。

まるで幻だったかのように、彼は消えた。

此方のことなど知ったことではないとばかりに、知った風な口をきいて、言いたいことを言いたいだけ言って。

 

虚しく空を切った手を、しほは信じられないものを見る目で見た。

いったい自分は、引き留めて何を言うつもりだったのか。

その行為は、きっと六年前にすべきことだったと、知っているはずなのに。

 

「………」

 

深く深く、あらゆるものを体外へと放出するように、しほは一つため息を吐いた。

 

「変わらないのは、お互い様ね」

 

その呟きは、誰にも届くことなく宙に溶けていく。

取り消すように握りしめた手にどのような感情が込められていたのか、それはしほだけが知ることだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西住まほには兄がいた。

世界で一番カッコよくて、強くて、優しい兄が。

 

今となっては随分狭い世界で生きていたものだが、その時のまほは本気で兄以上に凄い人なんていないと思っていた。

いや、同じくらいカッコよくて強い、尊敬できる母もいたのだが、兄は母にはないものを持っていた。面白さというか、ユーモア的なものを。

母は戦車道の分野において飛びぬけていたが、兄はきっと全方向に飛びぬけていたのだと思う。それこそ、良くも悪くも。

 

母はカッコ悪いとこなんて一つもない、完全無欠の人だったが、兄はそうではない。

特にひどかったのは、私生活だ。

炊事洗濯掃除、どれをとってもダメダメ。

戦車道に熱中し過ぎて朝まで起きてるなんてことはザラだし、その反動で夜まで寝てるなんてことも同じくらいあった。

忘れ物はよくするし時間にはルーズだし、悪い所なんて探せばいくらでも出てくる。

 

でも、それでも。

まほは兄が大好きだった。

だっていつだって、困ったように笑いながらまほの言うことを聞いてくれた。

自分の知らない世界をたくさん見せてくれた。

 

そして誰よりも、戦車道で輝く姿を魅せてくれたのだ。

 

本当に、戦車道をしている兄はかっこよかった。

巧みな戦術も、芸術的な戦車指揮も、まほの目にはまるで宝石箱のように煌めいて映った。

だからまほは憧れた。

西住流とはまるで違うけれど、心を惹いて止まない兄の戦車道に。

 

きっと幼い頃の自分は、カルガモのように兄の後をついて回っていたと思う。

戦車道のことは何でも兄に聞きに行ったし、戦車道以外のことも何でも一緒にやった。

兄が見るもの、聞くもの、食べるもの、知るもの、その全てをまほは追いかけた。

とにかくまほは、ずっと兄と一緒にいたかったのだ。

そうすることで、遠く彼方にある兄の背に少しでも近づくことができる気がしたから。いつの日か兄の戦車道の、その全てを理解することができると信じて。

 

でも現実は非情だった。

誰よりも憧れた兄は、大好きな兄は、突然まほの前からいなくなってしまった。

 

泣きじゃくりながら兄の袖を掴んで離さなかった妹。

それを見ながら、まほもまた呆然と立ち尽くすしかなかった。

だって兄は、行かないでと願う声も、涙を滲ませた瞳も、一切合切を無視して、ただの一度も振り返ることなく遠い地へと旅立ってしまったから。

 

そうしてまほは、あまりにもあっけなく標を失った。

 

「………お兄様」

 

まほは実家にあるいくつもの部屋の、とある一室の前にいた。

ここは、もう何年も使われていない部屋だ。なぜなら主人をずっと昔に失ってしまったから。

それでも埃っぽくないのは、とある使用人が丁寧に掃除してくれているからだと、まほは知っていた。そしてその使用人が、まほのためにそうしてくれているということも。

 

一歩、足を踏み入れる。

部屋の中にあるのは、勉強机と椅子、そして敷布団も何もないベッドだけ。

およそそれは、依然人が暮らしていた部屋とは思えない程質素な部屋だった。

でも確かに、ここには兄がいたのだ。

雑多に散らかった部屋の中で本を読みながら、どんな時でも笑ってまほを迎えてくれた兄が。

 

「お兄様……」

 

しかしそれはもう、まほの心の中にしかない風景だった。

兄はこの家を出ていくとき、身の回りのもの全てを持ち出していった。

自分がここにいたという痕跡を消すようにし、最初からいなかったかのように漂白していったのだ。

 

だからもう、ここには何もない。

それでもまほが、実家を訪れるたびにこの部屋へと足を運ぶ理由は一つ。

 

いなくなってしまった兄の面影が、残照がそこにある気がするからだった。

 

「なぜなのですか……」

 

ベットに寝転がり、まほは天井を仰いだ。

昔は、こうする度に兄の匂いがした。父とも母とも違うけど、不思議と安心する匂いがあって、それに包まれる感覚がまほは好きだった。

 

でももう、ここにその温もりはなかった。

長い年月を経て風化したのだろう。でもたったそれだけのことが、こんなにもまほには辛い。まるで兄と過ごした思い出が、少しずつ消えていくようだから。

 

「なぜ、()()みほなのですか……」

 

問いかけの声は、虚しく消えていく。

誰も何も答えてくれないことによって、まほは自分が孤独であることを嫌が応にも思い知らされた。

 

「私だって、こんなにも貴方のことを想っているのに――――――」

 

かつて自分の頭を撫でてくれた手の温もりを、まほは心から渇望した。

 

あの人さえ傍にいてくれれば、まほは他に何もいらないのに。

そんなことすら叶わない自分の身を、まほは恨んだ。

 

瞼の裏には、いつも愛しい人の姿がある。

 




みほとまほは絶対的に仲良しの素晴らしい姉妹だと思っていますが、本作ではオリ主がいるせいで拗れています。マジ余計なことばっかしやがる。

呪われたかのようにシリアスしかできない自分が恨めしい。

イッツミーは原作と二次創作ですごい違うキャラですね。
その分愛されてるということなんでしょうけど。


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第21話 「サンダースと戦いましょう➀ 開幕」

全国大会編開幕
原作のサンダース戦はすごく綺麗に出来ているので二次創作ではちょっと扱いが難しいですね。できるだけ原作にも負けないくらい熱い戦いを書けるように頑張っていく所存です。

以下注意点
サンダースの戦車の色はよく分からなかったので『深緑色』にしてます。
M4云々の話は完全に正しいわけじゃありません。
本来ダー様は格言を挟まないとまともに喋れない子です。




天気は快晴。空は海を写したかのように青く、雲一つない。

気温は上々。決して涼しくはないが、茹だるような暑さでもなく、時折吹く風が実に心地よい。

予報によると、今日一日はこの天気が続くらしい。

 

大きく息を吸い、大きく息を吐く。

調子は悪くない。

気怠さは一切なく、身体は羽が生えたみたいに軽い。

頭の中もすごくスッキリしていて、思考がクリア。周りの景色も、よく見える。

 

コンディションの調整はばっちり。

みほは兄の手腕に舌を巻いた。

戦車道に関わる知識だけでなく、フィジカルトレーナー的なこともできるとは、みほは思いもしなかった。あくまで兄は講師、教導官という枠組みの中の人間で、その分野においては突出した能力を持っていても、他の分野においてはそうではないとばかり思っていたのだ。

 

しかし対戦相手と試合会場が決まってからここに至るまでの約72時間。

兄の言う通りのスケジュールで動いていた結果がコレだ。

つくづく底の見えない兄である、とみほは嘆息した。

 

そして実に明朗かつ清涼な気分で、みほは眼前を眺めやる。

 

一面に広がる緑の大地。

その奥に蜃気楼の如く揺蕩う影が、十。

深緑のカラーリングが施された、鉄の群れ。

 

アレが今日の、みほ達の対戦相手。

全国高校戦車道大会のベスト4を独占する四強の一角。

多数のアメリカ戦車を保有し、その運用に関しては右に出る者はいないとされる、雷鳴の名前を冠した高校。

 

サンダース大付属。

 

潤沢な物資、圧倒的戦力、豊かな人材、積み上げてきた歴史。

おそらくありとあらゆる面で、大洗女子学園は彼女たちに劣っている。

 

弛緩していた身体が、ほんの僅か一瞬だけ緊張した。

無理もない、初戦からいきなり優勝候補と戦うのだ。寧ろ緊張する方が自然だろう。

 

戦車道に限った話ではないが、競技の世界ではよく「呑まれる」という言葉が使われる。

具体的にそれが何を指すのかは、みほには説明できない。ただ理解していることは、呑まれてしまえば最後、みほ達は自分たちの本領を発揮できないまま敗北するということだけ。

 

大洗女子学園は絶対的に公式戦の経験が少ない。もっと言うなら、皆無だ。

実戦経験こそ兄によって改善されてはいるものの、公式戦は練習試合とは全くの別物。

初めての公式戦という状況で、大洗女子学園がどこまで戦えるかは始まってみないと分からない。下手をすれば、あっという間に相手に呑まれてしまうことだってある。

 

みほ達はあくまで未知数のチームなのだ。これが果たしてプラスに働くかマイナスに働くか。

 

「―――――両校、整列!!」

 

審判の号令に従い、赤い髪をツインテールにした小柄な少女と、薄い金髪の女子が中央へと出る。前者が大洗女子の代表、後者がサンダースの代表。

 

隊長であるみほではなく角谷があそこに立っている通り、代表イコール隊長というわけではない。

ただサンダースは、あそこに立っているのは間違いなく隊長だとみほは確信していた。

 

遠目からでは漠然とにこやかな表情をしているくらいしか分からないが、それでもみほは感じ取っていた。

あの金髪の隊長の中に秘められた、壮烈な覇気の存在を。

 

当然ながら一筋縄ではいかない。

相当な激戦がこの先に待ち受けていることを、みほは予感した。

 

「礼!」

 

挨拶と、一礼。

 

折った腰と伏した顔を元に戻せば、そこは既に鉄風雷火の世界。

両者が明確に勝者と敗者とに別けられる、勝負の世界。

 

心地の良い草の香りの中に、硝煙の匂いが混じりつつある。

それをみほは、ひどく懐かしく感じた。

 

遠くの方で、号砲が聞こえる。

それは開戦の合図。各自は戦車に乗りこみ、エンジンに火を入れられた戦車は唸りを上げる。

準備は万端。後は全霊を尽くして、駆けるだけ。

 

通信手の武部の視線を受け取り、咽頭マイクに手を当ててみほは声を上げた。

 

 

「パンツァー・フォー!」

 

 

 

 

 

海原を航海する学園艦の中、およそほとんどの人間が入る機会のない生徒会会長室に、今日は多くの人間が集まっていた。

言わずもがな、大洗女子学園戦車道の面々とその教導を担当している、神栖渡里である。

彼女たちは長い机を囲むように配置された椅子に座り、渡里はホワイトボードの横に突っ立っていた。

 

彼女たちが集まった用件はただ一つ、ついに目前まで迫った全国高校戦車道大会一回戦、その対戦相手の研究と作戦会議を行うため。

先日の抽選会にて決まったトーナメント表のコピーをホワイトボードの隅に貼り付け、彼女たちは大洗女子学園の真横にある名前に彼女たちは視線を注いだ。

 

「サンダース大付属って強いんですか?」

 

磯辺はいつかの聖グロとの練習試合の折に行われた作戦会議の時と全く同じことを言った。

そして渡里は、その時みほが言ったことと全く同じことを言った。

 

「ここ十年くらいベスト4を独占している学校の一つだ。いわゆる優勝候補ってやつだな。強いか強くないかで言えば、まぁめちゃくちゃ強いよ」

 

神栖渡里は戦車道では絶対に嘘を言わない。

そんな大洗女子の共通認識が、あっけらかんと放たれた言葉に確かな緊張感を持たせていた。

渡里が強いといえば、それはもう強いのである。しかも優勝候補なんて言葉も付け足されたとなれば、それは一同の顔も強張るというものである。

 

「い、いきなりそんなところと……」

「あぅ、すみません……」

「あ、ち、違うんです!そういう意味じゃなくて……!」

 

パタパタと澤は慌てたように両手を振った。

くじ引きでサンダースを引き当てたのは他でもないみほである。

正直な気持ちとして、申し訳ないという思いは結構ある。

 

「まぁ確かにくじ運が悪いな。昔っからそうだけど」

「うぅ……」

 

自覚はあります、とみほは項垂れた。

アイスの当たりとか、基本的にハズレばっかりだし。

 

「ただ目指すべき場所は一つ、優勝だけだ。そのためにはサンダース含むビッグ4は絶対に避けては通れない。いずれは越えなきゃならない壁だ、いつ当たるかは重要じゃない」

 

しかしこういう時に毅然として言い放つのが、神栖渡里という人間である。

不遜と言うか大胆不敵と言うか、とにかく弱気な姿は絶対に見せない。

みほが電話で抽選会の結果を伝えた時も、「わかった」と「気を付けて帰ってこい」しか言わなかったし。

 

「相手が誰であれ勝つために全力を尽くす。やることはそんだけだ……はい、じゃあ作戦会議の続き」

 

有無を言わさずみほ達の気を引き締め、渡里はホワイトボードを軽く叩いて視線をめた。

 

「サンダースの保有戦車は数え切れないくらいあるが、カテゴリとしては一つに纏めることができる……それがコレ、アメリカ戦車だ」

 

ホワイトボードに二重丸で強調された文字を、みほ達は眺めた。

……相変わらず、下手くそな字だ。

 

「アメリカ戦車ってもたくさんあるが、サンダースが保有しているのはM4A1、シャーマンと呼ばれるものと、そこから派生した戦車。主にはこの二種類だな。他にもあるにはあるんだろうが、大会に出してきた記録はほとんどない」

「M4……シャーマン……どこかで聞いたような……」

 

澤の呟きに、渡里の眼が光った。

 

「ウサギが乗ってるM3リーの後に出てきた優秀な戦車さ」

 

腕組みをして、渡里はため込んだ知識を諳んじた。

 

「詳しい話は秋山に聞けばわかるが、このM4ってのは当時のアメリカの救世主でな。ドイツ戦車の進化が著しい中、それに対抗するために生み出され、そしてその後のアメリカ戦車の発展の礎となった偉大な戦車なんだよ」

 

ピン、と指が一つ立つ。

 

「戦車の性能自体はウチにもある四号戦車と同じくらいだが、特筆すべきはとにかくアメリカっていう国の特色と噛み合った性質。高い信頼性と量産性、そして発展性だ。分かりやすく言うなら『直しやすく作りやすくて改造しやすい』」

 

みほがM4と聞いて真っ先に浮かぶのも、それだった。

全方向に優れた戦車、と言うべきなのだろうか。走攻守のバランスは高いレベルでまとまっているし、造りが単純だから整備もしやすい。

そして正しい意味での潜在能力を持っており、搭乗者に合わせた改造を施すことのできる容量の大きさがある。

M4という戦車を始点にした系統樹の大きさに関しては、おそらく他の戦車の追随を許さないのではないかと思う。それくらいにバリエーションが多い戦車なのだ。具体的に言うとM4A1○○、M4A2○○というのがA3、A4、A5と続き、もっと詳細に言うなら生産工場レベルで差異がある。

 

遠い昔、兄もM4を見て「アレ弄るの楽しいだろうなぁ」と呟いたものだった。

 

「まぁ兵器としての完成度が高い、というだけで戦車自体の戦闘力が飛びぬけて優れているわけじゃない。戦車道において厄介な点としては、あまりにも簡単に改造できることとバリエーションが多いことからちょっと目を離したら全く別の戦車に成ってることがザラで、こういう作戦会議の時に対策が立てづらいということなんだが……今回に限ってはその心配もない」

 

みほ達の前に置かれていた紙の束。

それは渡里が作成した、サンダース大付属の詳細なデータ。

まぁまぁ分厚い紙束の、ほんの一、二ページ捲ったところに、それはあった。

 

書面には『サンダース参戦車両』という題をつけられ、その下に計十両の戦車の名前が綴られている。

これは一回戦で、サンダースが五十両以上保有している戦車の中から選出してくる十両の戦車、その()()データであった。

確定。そう、予測ではなく確定である。

 

普通に考えれば確定という言葉は、作戦会議では絶対に使われない。

参戦車両なんて、じゃんけんと同じ。漠然と「これは出してくるだろうなぁ」くらいで予測することはできるが、断言はできない。結果的に全部当てたとしても、それはあくまで結果論。今この段階でサンダースが出してくる戦車の種類と数の両方を当てるのは不可能だ。

 

しかし大洗女子学園は、その不可能を可能にしていた。

それは講師である神栖渡里のお蔭………ではない。

いくらあの兄でも、そこまで人間は辞めていないとみほは思う。

 

理屈は単純だ。

 

「スパイ活動が功を奏したお蔭で、参戦戦車を確定させることができた。よってこれから試合当日まで、そこに書かれている戦車を想定した練習を行う」

 

スパイ活動。まぁ平たく言えば、偵察である。

解らないならサンダースに直接聞けばいいじゃない、というわけだ。

向こうだって何も無策で試合を迎えるわけじゃないだろうし、作戦会議くらいは絶対にする。そこに潜り込むことができれば、おそらく最も重要な情報をサッと掠め取ってこれるわけである。

 

そしてそれを単独(単身&独断の意)で成し遂げたのが、あんこうチーム装填手、秋山優花里であった。

正直、無茶だと思う。だがみほには、それを怒ることはできなかった。

優花里がそんなことをしてしまった理由の一端は、うっかり「せめて相手の戦車さえわかれば……」と零してしまったみほにあっただろうから。

 

しかし戦果は大きかった。

ここまで偵察が上手くいくとは、案外優花里には参謀の才能があるのかもしれない。

初潜入でここまでやれる人間も、そういないのではないだろうか。

 

「スパイって……渡里さんいつの間にそんなの放ってたんです?」

「勝手に飛んでったんだよ。まったく無茶をするが、ファインプレイではある。後でオッドボール三等軍曹に礼を言っておくように」

 

 

角谷の言葉に、渡里は呆れながら答えた。

まぁオッドボール三等軍曹と秋山優花里を結び付けられる人はいないだろうな、とみほは思った。

ちなみにその名前はスパイがバレた時に優花里が咄嗟に名乗った偽名である。

 

「………」

 

みほはデータを眺めながら、ある感情を抱いていた。

ここに書かれているのは、優花里がサンダースに潜入して帰ってきてからのデータ。つまり最も新しい情報なわけだが、この紙束に書かれているもの全てがそれと同じ時系列というわけじゃない。寧ろ参戦戦車の情報以外は、優花里が潜入する前から書かれている情報なのだ。

 

なぜなら渡里は、結構前もってこれを作っていたから。

宿題なんかは中々手をつけないくせに、こういう時ばっかり真面目なのがいかにも兄らしいが、注目すべきはこのデータは『参戦戦車の部分だけ修正を加えたもの』ということ。

つまり確定ではないにしろ、優花里が潜入する前から参戦戦車についても、兄が予測して書いていたわけだが……

 

(九割当ててるんだよね……)

 

みほは優花里が持ち帰ってきたデータを兄に渡すために、一度兄を訪れている。その時たまたま、修正を加えられる前のデータを見たことがある。

それはもうみほの頭の中にしかないが、ソレと目の前のコレを比べて見た時、恐ろしいことに相違点は一か所しかないのだ。

 

『サンダースくらいになると試合の記録なんて山ほどあるし、今年のサンダースの情報もかき集めてある。その二つを合わせて見れば、まぁ大体の予測はつくだろ』

 

事も無げにそう言った兄は、人間を辞めてはいないけど、人間の領域から片足くらいは出ているとみほは思う。

結局使われなかったデータだが、そこに至るまでに一体どれだけの情報を収斂させたのか、果たしてみほには想像がつかない。

ただ的中率九割の予測とは、最早予知に近いのではないかという畏敬の念が、みほの中にはあった。

『極論M4 って書いとけば解釈次第では全問正解だし』という呟きは聞かなかったことにして。

 

「戦車のスペックは書いてある通り。大洗女子を基準にすれば、火力は大、守りは硬、速さは……準急くらいか」

「すいません、一つ分かりづらいです」

 

なぜ急に電車になるのか。

 

「もうこれは大洗女子の鉄則だが、相手の弾は当たらないようにすること。こっちの装甲じゃ直撃は即撃破、安定して受け流すこともままならない。基本はかわすか、当たり方を工夫すること」

 

大変悲しいことだが、防御が弱いのが大洗女子の大きな弱点である。

聖グロのような戦術は、逆立ちしたってできないだろう。みほとしては単純な防御性能より、

それによって戦術の幅が少し狭まってしまう方が痛い。

 

「M4の75㎜、76㎜も余裕で装甲を抜いてくるけど、それ以上に要注意なのはシャーマン・ファイアフライだな。当時トップクラスの火力を持った17ポンド砲を搭載してる」

「ポンド……?」

「ファイアフライは英米合同で作った戦車でな、ポンドってのはイギリスの方で使ってる単位さ。他とは口径が違うんだが……そうだな、これだけ覚えてればいいよ。M4相手なら十分な距離を取ってれば何とかなるが、ファイアフライ相手だともう距離は関係ない。当たるイコール撃破だ」

 

ファイアフライ。特別ドイツ戦車と縁が深かったみほにとっては、とても印象的な戦車である。なにせかの有名な戦車、ティーガーを撃破した戦車なのだから。それも、英雄諸共。

特徴としてはとにかく火力が高い。あの戦車の前に、お昼ご飯の角度なんて意味をなさないだろう。対処法としては、本当にもう『当たらなければどうということはない』くらいしかない。

 

「さらに厄介なことに、このファイアフライには全国で三指に入る砲手が乗ってる。油断して姿を晒そうもんなら、すぐに撃ち抜いてくるぞ。絶対に気を緩めるな、細心の注意を払って行動するように」

 

その人のデータもこの紙束のどこかにあるんだろうな、とみほは気が重くなった。

わかってはいたが、優秀な人材の多いことである。

 

「攻撃に関しても真っ向からの撃ち合いは不利だ。側面、背面を突くのは当然として……可能な限り効率的な砲撃をしてもらいたい。ということで、そこにあるデータだ」

 

ぺら、とみほはページを捲った。

すると出てきたのは、それぞれの戦車を正面、左右の側面、背面と三つのアングルから捉えた図。形だけをなぞったような簡単なものだが、それは寒色から暖色までのいくつかの色で塗られていた。

 

みほはそれがなんであるのか、一目で理解した。

 

「相手の戦車の装甲厚を色分けしておいた。青に近いほど装甲が薄く、赤に近いほど厚い。これを見て、自分の戦車はどこの部位になら通用するのか、それを把握すること。そして今日以降の砲撃訓練は、常にこの図をイメージしながら行え。それもできるだけ具体的にだ」

 

黒森峰にいた時もこの手の練習はよくやった。

戦車によって砲性能が違う以上、同じ相手でも一方が通用して一方は弾が弾かれる部分はある。それを簡単に見分けることができるのが、こういう図である。

撃破に繋がらないとこに弾を撃ってもしょうがないし、実に有意義な練習だと思う。

 

「コーチ!八九式だとどこも抜けなさそうなんですけど!」

「探せ。戦車だって全部が全部鉄に覆われてるわけじゃないし、何処かしら弱点はある」

 

八九式は厳しいだろうな、とみほは苦笑した。

狙うとしたら、撃破にはならないが全戦車共通の弱点である履帯、もしくは砲塔と車体の継ぎ目とかだろうか。まぁM4はほとんど継ぎ目ないけど。難易度は高いが薬莢を捨てるところとかもいいかもしれない。

 

「戦車に関してはこれくらいかな。後はよく読んでおくように。次にサンダースの基本戦術と、その対策を練ろう」

「流石に今回は一緒に考えてくれるんですねー?」

「本番だからな」

 

聖グロと練習試合した時も、マジノ女学院と練習試合した時も、渡里は何一つ具体的な指示は与えなかった。それはみほ達に自力で考える力を養うためだったのだろうが、事ここに至ってはその必要もない、ということなのだろう。

 

ホワイトボードが、綺麗に半回転して白紙になる。

 

「サンダースは数を活かした包囲作戦を得意としてる。米国をリスペクトしてるだけあって、そこも当時の米国とそっくりだな」

「包囲か……一度囲まれてしまうと脱出は困難だな」

 

カエサルが神妙な面持ちで呟いた。

包囲作戦は難易度が高いが、反面成功すれば多大な戦果を得ることができるハイリターンな作戦である。使いこなすには相当な練度が必要で、それを得意だというのはひとえにサンダースの能力の高さを証明している。

 

「ただ普通の包囲じゃないんだよな、これ」

「へ?そうなんですか?」

 

磯辺は目を丸くした。

渡里は難しそうな顔をしながら、黒ペンを動かした。

 

「こう、円形の中に相手を閉じ込めるような文字通りの包囲じゃなくてな。囲んでタコ殴りにするような包囲なんだよ。一両相手に五両でかかるみたいな」

「コーチ!違いがわかりません!」

 

ちなみにみほも分からないし、おそらくこの場にいる全員がそうだったに違いない。

みほが知る限りで最も理解しやすい話し方ができる人間の渡里だが、時々頓智みたいなことを言うのが困りものであった。相手に教養を求める、と言い換えてもいいかもしれないが。

 

渡里は困ったような顔になって答えた。

 

「相手の進行ルートを効率的に断って複数箇所から攻める感じなんだけど……うーん…………体感してもらった方が早いか」

「体感??」

 

澤は首を傾げた。

 

「サンダースの戦術を、ですか?」

「そんなことできるんですか?」

「できるよ」

 

カエサルと磯辺が、澤の後に続く。

しかしあっけらかんとして、渡里は答えた。

 

本当にできるのだろうか、という気持ちは確かにみほにもある。

勿論、実際にサンダースと試合をするわけじゃなく、仮想という話だとは思う。

ただ黒森峰にいた時は戦車がたくさんあったから、仮想敵を作ることはできたが、大洗女子には戦車が五両しかない。いくら兄でも、数が足りないものはどうしようもないだろう。

 

「あ、この前の人達に来てもらうんですか?」

「いや、あの人たちも暇じゃないから。普段ちゃんと働いてる人達だし」

 

先日大変お世話になった、男性戦車道愛好会の面々も今回は力を借りることができない。

となるとますます、どうするつもりなのだろうか。

 

みほ達の疑問に、渡里は笑みを以て答えた。

 

「百聞は一見に如かず。戦車に乗って倉庫前に集合しよう。操縦手連中にヘッドセットを着けてくるように言っといてくれ」

 

そしておそらく、この世で神栖渡里ただ一人にしかできないであろうサンダース対策が、この後に行われることになる。

それはあまりにも単純で、だからこそ誰もできなかったこと。

果たしてみほ達は、この先何度同じことを思い知らされるのだろうか。

 

――――――神栖渡里は、戦車道においては誰よりも頼りになる、と。

 

 

 

 

 

「両者とも、スタートは普通ですね」

「ええ、でも数で圧倒的に劣る大洗女子は正攻法じゃ勝てない。その辺りをみほさんがどうしてくるかが見所ね」

 

そう言ってダージリンは、優雅に紅茶を味わった。

美人とは何をやっても絵になるもので、オレンジペコは自分たちがいるのは風が気持ちいいくらいに吹いていく野原ではなく、瀟洒な館の中にいるのではないかと錯覚してしまう。

 

いや、ただ顔立ちが整っているだけではこうはならない。一挙手一投足が洗練されているからこそ、こんなにも気品が溢れるのだ。

聖グロリア―ナの女生徒全ての羨望の的である、金髪青眼の隊長ダージリン。

 

こんな人の横にいられることを、オレンジペコは心から誇りに思わねばならない。

そして同じくらい肝に銘じるべきだろう、横にいる自分のせいで、この人の品格が損なわれることなどあってはならない、と。

 

オレンジペコは気を引き締めて、再び正面を見据えた。

そこには特大のモニターが設置されており、その画面には全体マップと、サンダース大付属と大洗女子学園の両者の現在地と動き、そして健在な戦車が示されている。

 

観戦する者への配慮なのだろうが、随分と丁寧な対応である。

お蔭で試合の趨勢がよく分かるけれど。

 

「優勢火力ドクトリンのサンダース相手に戦力の分散は命取り。みほさんもそれは解ってるだろうから、まず固まって動くでしょうね」

「五両しかない大洗女子は偵察を出すのも一苦労ですね……」

 

モニターに映る群れから、一両が分離していく。

あれは、八九式だろうか。大洗女子はどうやら斥候を放ったようである。

普通であれば二両は出すとこだが、ここは戦力分散を嫌ったということか。

 

「ただ密集している状態では包囲されやすくなる。一度囲まれてしまえば破るのは困難。この難題をどうするのか……」

 

戦力を分散させず、包囲されないようにする。

口で言うには簡単だが、実行に移すとなるとこれほど難しいこともない。

なにせ相手はサンダースだ、こういう戦いでは一日の長がある。

大洗女子が勝つには、まずサンダースの戦術を破ることが大前提となる。

 

オレンジペコならどうするか。

自分がもし西住みほの立場なら、フラッグ車にターゲットを集中する。

どうにかしてフラッグ車を捕捉し、機動力で相手を攪乱して間隙を作り、一気に肉薄して討ち取る。長期戦になればなるほど不利な以上、短期決戦で電撃的に攻めるしかないだろう。

 

ただ漠然と眺めるだけじゃなく、こういったことを考えて初めて観戦と言える。

横にいるダージリンも真剣な眼差しで試合を見ているのだから、自分もそれに倣うべきだろう。

 

「……ところでダージリン様、なぜそんな大きな椅子を持ってきたのですか?」

 

オレンジペコ達は大会運営が設営した観戦席ではなく、それより少し離れた高台のようなところに自前の椅子を持って来て観戦しているわけだが、オレンジペコが一人用の椅子なのに対し、ダージリンは普段とは違う二人掛けの横長な椅子である。

 

別に一人用の椅子が小さいわけじゃない。オレンジペコが小柄であることを差し引いても、人一人ゆったりと座ることができるくらいの大きさはある。

そりゃ二人掛けの方がもっと大きいし、なんなら横になることもできるけれど、わざわざ持ってくるほどのものでもないだろうに。

 

「それはね、オレンジペコ。大切な意味があるからよ」

「はぁ……?」

 

疑問とため息を足して割ったような声をオレンジペコは出した。

オレンジペコのダージリンに対する敬愛は入学当初から今に至るまで最大値をキープしているが、それはそうとしてある日を境に、その尊敬に翳りを見せるようになっていた。

なんというかこの人、所々残念な美人なのである。

 

特にこういう、神妙な口振りをする時が一番怪しい。

思わせぶりなことを言っておいて、実際は大したことなかった、というパターンが結構ある。

 

「二人で観戦しても味気ないと思って、ゲストを一人お呼びしているのよ」

「ゲスト……ですか」

 

その瞬間、オレンジペコの脳内で閃光が走った。

その光は、バラバラに散らばってた点と点を結び、一つの線となる。

 

そういえば。

 

昨日の昼、ダージリンが携帯電話を眺めながらニコニコと頬を緩ませていたことをオレンジペコは思い出した。

 

昨日の夜、ダージリンがスキップをしながらお風呂場へと向かい、鼻歌を歌いながら丹念に髪を乾かしていたことをオレンジペコは思い出した。

 

今日の朝、ダージリンがいつもの倍以上の時間をかけて身だしなみを整え、なんかいつもよりいい匂いがすることをオレンジペコは思い出した。

 

「あの――――――――――――」

「やぁ、久しぶり」

 

突如として襲い掛かった声に、オレンジペコの両肩が跳ね上がる。

それほど静かに、気配もなくその人はオレンジペコ達の背後に立っていた。

 

「いいとこだね、人もいないし静かだし」

 

聞き心地の良い低い声。

丁寧な言葉遣いをした、大人の口調。

 

オレンジペコはその人を見ていないが、その姿を明確に想像することができた。

ゆっくりと振り返る。そしてオレンジペコは、自身の想像が間違っていなかったことを悟った。

 

「お待ちしておりましたわ、渡里さん」

 

オレンジペコより数段高い身長、キチンと整えられた髪、そして鋭い目つき。

柔らかい語調とは裏腹の、刃のような雰囲気を醸し出す見た目は、紛うことなきかの人。

オレンジペコが尊敬するダージリン、が尊敬する人、神栖渡里であった。

こうして会うのは大洗女子学園と練習試合をした時以来の二度目になる。

 

なるほど確かに、この人なら今日間違いなく此処に来るだろう。

そこを狙い撃ちしたというわけか。普段は神奈川と茨城、遠く離れていて滅多に会う機会のない人だし、それはダージリンもここぞとばかりにアタックするというもの。

 

「お招きいただきどうも。お邪魔するよ」

「いえいえ構いませんわ。さぁさぁどうぞこちらにおいでください」

「じゃあお言葉に甘えて」

 

喜色を前面に押し出して、ダージリンは自分の横の席をポンポンと叩いた。

瞬間、オレンジペコはダージリンが二人掛けの椅子を持ってきた理由を知る。

 

本当に頭が回る人である、とオレンジペコは内心でため息を吐いた。

最初からこれが目的だったということか。二人くらいは十分座れると言っても、運搬できるサイズかつ実用より見た目重視の椅子。人並みの背丈のダージリンと人並み以上に大きい身体の渡里が座れば、ゆったりは座れない。

それこそ目の前にように、肩が触れるか触れないかギリギリまで近寄ることになるが……

 

(ふああああああ!やったわ!渡里様がこんなにも近くに!ちょっとオレンジペコ写真撮ってくれないかしら!?)

 

まぁそれが本人の望むところですし、とオレンジペコはそっと視線を逸らした。

敬愛カウンターは一日経てば最大値まで回復するので、どれだけ下降しても問題ない。

 

「渡里さん、紅茶は()()()()()でよろしかったですか?」

「あぁ、構わないよ。()()()だからね」

「っ!???」

 

あぁ本当にイイ性格をしてる人だ。

瞬間で顔を真っ赤にしたダージリンを尻目に、オレンジペコは莞爾と微笑んだ。

振ったのは此方だが、即座に乗ってくる辺り流石。本当にありがとうございます。

 

何を隠そう、あの椅子を運んだのはオレンジペコなのだ。あの時は知らなかったが、まさかあんな即席カップルシートを作るために運ばされたとは思いも寄らなかった。普段装填で鍛えているとはいえ、決して軽かったわけではない。そこそこ疲れたのだ。腹いせではないが、これくらいの事は許されてしかるべきである。

 

「好き……好き……ダージリンが好き……えぇわかってるわ、私じゃなくて紅茶のことよね。大丈夫よダージリン、私はいたって冷静だわ。でもそれはそうとして録音しておくべきだったのではないかしらアッサムに頼めばこういい感じに加工して『大好きだよダージリン』みたいな音声が――――――」

 

きっとろくでもないことを考えてるんだろうな、とオレンジペコは思った。

神栖渡里関係となると、この人はおかしくなってしまうのだ。

だって30分で40件のメールを送り付けるという所業を素面でやってしまえるんだもの。

 

「渡里さんはどう見ますか、この試合」

 

紅茶を差し出しながら、オレンジペコは問うた。

普通の男性ならこんなこと聞いても仕方ないが、渡里は他でもない大洗女子学園の指導者。それに戦車道の知識も潤沢となれば、解説役としてはこれほど相応しい人間もいない。

 

オレンジペコの質問に、渡里は薄く笑って答えた。

 

「一筋縄ではいかないだろうね。なんせサンダースだし」

 

言いながらその瞳には、確かな覇気が籠っている。

困難は承知、それでも負けるつもりは毛頭ないということだろうか。

 

「大洗女子が基本劣勢になることは間違いない。攻めるサンダース相手にどこまで大洗が凌げるか……試合展開としてはそんなところじゃないかな」

「それはまた、随分厳しい戦いになりそうですね」

 

ようやく動揺から立ち直りつつあるダージリンだが、その言葉は少し震えていた。というか紅茶を持つ手が震えていた。

 

「元々地力では負けてるんだ、逆境はあいつらも承知の上さ。ダージリン達と戦った時だってそうだったし、これからもそう。それくらいで敗けが決まるようじゃ、最初っから優勝なんてできやしない」

 

優雅な手つきで紅茶を楽しみながら、その口調はあまりにも鋭いものだった。

以前と変わりない、と思っていたがそれはどうやら違ったようだ。

あの時は柔和な大人の顔の下に隠れていたものが、今日は表出している。

これが『戦車道の顔』か、とオレンジ

ペコはほんの少しだけ身を強張らせた。

……横にいるダージリンは、目をキラキラと輝かせてウットリとしていたが。

 

「それに、そこまで絶望的なわけじゃない。これが聖グロや黒森峰なら流石に覚悟が必要だったけど、サンダース相手ならまだ勝ち目はある。準決勝くらいから本領を発揮し出すチームだからね。エンジンの掛かりきらない一回戦で当たったことは不幸中の幸いだ」

 

きっと参戦戦車数のことを言っているのだろう、とオレンジペコは思った。

この大会は規定により、トーナメントが進むほど参加できる戦車の数が増えるのだ。

 

「後は……そうだな」

 

渡里はそこで一度言葉を区切った。それは次の言葉をより強調させる効果を持っていた。

 

「みほがボロボロに負けるっていうのは、ちょっと想像できないしね」

 

その口調は、まるで宝物を自慢するかのようだった。

全幅の信頼。余人には到底辿り着くことのできないような、深い結びつきがそこにはあった。

 

すると横にいるダージリンが、面白くなさそうな顔をした。

それは本当にほんの少しだけ、刹那に近い時間のことだったが、オレンジペコはそれを見逃さなかった。

 

ヤキモチですか、ダージリン様。

オレンジペコは紅茶と一緒にその言葉を呑み込んだ。

その賢明さが、オレンジペコが一年生でありながらチャーチルに乗っている理由なのかもしれない。

 

 

 

 

 

一方その頃。

自分達の講師が女子高生とイチャイチャしていることなど思いもしない大洗女子学園は、現在森林地帯にいた。

背の高い木々が乱立するここは、葉っぱが陽の光を遮るため昼間にも拘わらず少し暗く、視界があまりよくない。

さらに大地が起伏に富んでいて、平坦な所が少なく、有体に言ってしまえば戦車が走りづらい場所だった。

障害物が多く、視界は悪く、悪路。お世辞にも戦車が戦いやすい場所ではない。

 

しかしみほ達がわざわざこんなところを選んだのには、当然ながら理由があった。

 

一つは、今が交戦状態ではなく、お互いに偵察を出して出方を探っている段階ということ。

障害物が多いということは、それだけ隠れるところがあるということ。

『相手より先に見つからず、相手より先に見つける』がベストなこの状況には、ここはそこそこ使える。

 

そしてもう一つ、サンダースへの対策である。

包囲戦術を得意とするサンダース相手に、開けた場所はちょっと避けたい。

戦闘の流れで戦場がそこになる分には全然構わないが、スタート地点になるのは大変困る。

ここなら例え本格的な戦闘が始まろうとも、多少は抵抗できるし何より逃げやすい。

 

なので大洗女子学園は、偵察に出している八九式から何かしらの連絡がある限りは、ここでひっそりと息を潜ませることにしていた。

消極的と言われればそうだが、相手はサンダース。警戒し過ぎるということもないだろう。

 

水分を摂り、カロリーを摂り、辺りを見渡しては息を吐く。

ある者は操縦桿を何度も握り直し、ある者はトリガーに指をかけては離し、ある者はじっと耐え、ある者は身体を横たえてリラックスする。

 

そんな時間が暫く続いた後、それは突如としてやってきた。

 

『こちらアヒル、M4A1二両と遭遇しました!!現在追われてます!!』

 

みほは即座に咽頭マイクに手を当て、指示を飛ばした。

それと同時に、眠っていた四号戦車のエンジンに火が入る。

 

「了解しました。アヒルさんチームは予定していた合流地点へ向かってください」

「こちら隊長車から各車へ、アヒルさんチームが接敵しました。これより合流します。あんこうが先行するので、一列縦隊でついてきてください」

 

みほの言葉を捕捉する形で、沙織が全車へと指示を飛ばしていく。

視線で合図し、頷き一つ。麻子が操縦桿を前に倒した。

唸りが振動となって、みほの身体を揺らす。

 

「二両……偵察でしょうか?」

「うん、多分……追ってくるのがちょっと気になるけど」

 

深追い、というほどではないが、別に無理をする場面でもない。戦車を見つけたなら、さっさと引き返してもいいところだ。

相手が八九式だから、すぐに落とせると思ったのだろうか。確かに大洗女子学園は、一両でも失えば相当な痛手。多少のリスクは無視して、貪欲に攻めても良くはある。

 

(それとも他に狙いがある……?)

 

どちらにせよ、みほ達は動かないわけにはいかない。

相手がどういうつもりだろうが、みほ達が合流すれば五対二。

偵察が目的なら引き返すだろう。そうしないというなら、こちらが逆に落とすだけ。あのサンダースが、そんなミスをするとは思えないが。

 

キューポラから身体を出し、みほは周囲を見渡した。

そろそろ事前に伝えておいた合流地点、アヒルさんチームの姿が見えてもいい頃だが……

 

「あ、来たよみほ!」

 

沙織の声と同時に、みほもまた三時方向にアヒルさんチームの姿を認めていた。

そしてその後方にいる、星のエンブレムを着けた深緑の戦車の姿も。

 

「三時方向に前進します。アヒルさんチームを収容して、その背後にいるM4A1に砲撃してください!」

 

みほの指示を受けて、一列縦隊が菱形、そして横隊へと展開していく。

履帯が地面を削る音に、炸裂音が加わり、硝煙の匂いが混じる。

行進間射撃は精度が落ちるが、今は撃破するのが目的じゃない。こちらの存在を認識させて、追っ払うだけなら当たらなくても構わない。

 

『撃て撃て撃て撃てー!』

 

ちなみに河嶋は渡里の特訓を経てもなお、奇跡レベルのノーコンは直っていない。

しかし今はあんまり関係ないので全然大丈夫。なんならその気迫がサンダースを少しでも圧してくれれば儲けである。

 

そして河嶋のお蔭かどうかはさておき、サンダースの足が止まる。

その隙に八九式は隊列の後方へ。

横隊の隙間を縫うようにして、微力ながら砲撃に加わる。

 

これで一転、大洗女子が圧倒的に有利な場面。

突っ込んでくれば返り討ち。

動かなければジリ貧。

サンダースとしては退くしかないはず。

 

そしてみほの予想通り、二両の戦車は後退を始める。

しかしその速度は、あまりにも遅かった。のろのろとしたその動きは、まるでいつかの大洗女子学園のようである。

 

『西住隊長、どうする?アレなら押せば圧せるが』

 

みほもエルヴィンと同意見だった。

あのスピードなら、こちらが詰めればあっという間に呑みこんでしまえる。

二両を落とせる千載一遇の好機。サンダース相手にそうチャンスは訪れないだろうし、落とせる時には落としておくべきだろう。

 

しかしその時、不意に何かが風を切る音をみほは捉えた。

弾かれるようにそちらに顔を向けた、その瞬間。

四号戦車の側面を、高速で飛来する弾丸が掠めていく。

コンマ数秒遅れて、磯辺が叫んだ。

 

『敵!六時方向!!』

「全車、全速で九時方向へ!!」

 

頭が状況を理解するよりも早く、みほは反射に近い反応で指示を飛ばしていた。

そして戦車が旋回を始めた同時、ようやく思考が本能に追いつく。

 

背後に、同じく星のエンブレムを着けた戦車が三両。

正面に注意を引きつつ、背後から襲う教科書のような王道の動き。

 

「西住殿、これって……」

「うん、始まったかも……」

 

優花里の言葉に、みほは眉を八の字にした。

サンダースの一連の動きに、みほは覚えがあった。いや、みほだけじゃない。おそらく皆、ピンと来るものがあったはずだ。

なぜなら今のは間違いなく、サンダースの得意とする包囲戦術、その一端。

散々研究したサンダースの動きの前兆がそこにあることを、みほは感じ取っていた。

 

(まさか森の中で交戦することになるなんて)

 

ここはみほ達も戦いづらいが、それ以上にサンダースが戦いづらい場所である。

だから接敵しても本格的な戦闘にはならず、みほ達を森から追い出すなり引きずり出すなりする、あっても様子見程度の戦闘だろうと踏んでいたのだ。

 

だがどうにも、サンダースにその気はないようである。

前方に二両、後方に三両の計五両。様子見にしては数が多い。

 

そしてこれは確信に近い予想だが……

 

「サンダースのことだ、五両で済むはずがない―――――そらきた」

 

それは麻子の声と同時だった。

進行方向先、二両の戦車の姿をその両目に捉えてみほは、深く息を吐く。

 

これで七両。参戦可能な戦車の数が十両であること、そして今が序盤も序盤であることを考えると、おそらく投入可能な戦力全てがこの森に集まっている。

そうだろうな、とみほは思った。

間違いなくサンダースは、地形も時機もお構いなしに、ここで詰みにきている。

 

「……沙織さん、全車に通信を。森を抜けます。最初に接敵した二両の戦車がいる方に火力を集中させて穴を空けた後、機を図って逆方向から行きましょう」

「おっけー!」

 

少しの思考の後、みほは淀みなく指示を飛ばした。

ここでも戦えなくはないが、練習の成果を発揮するにはもっと別の場所がいい。

サンダースと大洗女子、この場所でどちらがより力を出し切れないかを天秤にかけて計れば、ほんの少しだけ後者に傾くのだ。

 

みほの指示は過不足なく全車へと伝わり、五両の戦車は右へとカーブする。

そして計六つの砲身が同じ方向を向いたかと思えば、一息。火球を放つ。

 

大洗女子学園の火力はお世辞にも高くはないが、みほ達はそれをカバーするべく相手の弱点を正確に狙い撃つ練習を重ねてきた。言うまでもなく神栖渡里によるものだが、お蔭である程度は火力を補えるようになった。

 

ちょっとだけ無視できないものになった大洗女子の攻撃に、集中砲火を浴びた二両の戦車は堪らずが列を乱し、後退する。

それは亀裂だ。切り込めばみほ達は、おそらくあっさりとここから抜け出すことができる。

 

「行きます!」

 

――――だからこそ、逆方向に逃げるんだけど。

 

ちょっとだけ昔、どこかの国のどこかの指揮官がやった、包囲の破り方の一つである。

 

一点に火力を集中させ、包囲に穴を空ける。そうすれば相手は、そこから抜け出すと考えて穴を補うようにする。

しかしそれは、数を補充して穴を埋めるのではなく、別の場所にいる戦車を動かして穴を埋めるしかない。すると当然、空いた穴とは別のところが空く。

そこを突くのがこの作戦だ。

 

「沙織さん、一応進行方向に相手が現れた時の事を考えて、別のルートを伝えておいてください」

 

頷き一つ、沙織が無線機器を操作する。

備えあれば憂いなし、である……まぁ役立つことはないと思うけど。

 

しかしそんな考えは、あっけなく砕け散ることとなる。

 

揚々と進む大洗女子の先。

まるで待ち構えていたかのように、みほ達の行く先を()()()()()が立ち塞がった。

四両。そう、四両である。

 

「――――」

 

みほは瞠目した。

四両。それは本来、有り得ない数だった。

七両いたところに四両が加わって十一両になったから、というわけじゃない。

あそこにいる内の二両は、元々この森にいた戦車。背後から攻撃を加えてきた三両と、逃げた先に立ちふさがった二両の内から出てきたもの。つまり本来はみほ達が空けた穴を埋める役だったはずの二両だろう。

 

問題は残りの二両。

ファイアフライとM4A176㎜砲搭載。それはここにいないはずの二両だった。

 

だってそうだろう。つまりここには、九両の戦車がいることになる。

フラッグ車の護衛がいないことは、優花里の撮ってきたビデオの中でも『ディフェンスはナッシング!』と言っていたし、驚くことじゃない。

本当に驚くべきことは、九両の戦車が集まった()()だ。

 

サンダースは此方と接敵したことによって近くにいた小隊が合流し、即座に包囲態勢に入っていたとみほは思っていたが、これは違う。

最初に接敵してから経過した時間を考えると、報告を受けて集まったという感じじゃない。

間違いなくみほ達が此処にいると読んだ上で、フラッグ車を除く全車が一直線にここに来ている。

 

それに加えて、みほ達の逃亡ルートを封じたこと。

空いた穴を放置して此方に戦車を寄せたということは、つまりみほの作戦を見抜いている。そうじゃなきゃあそこに四両もの戦車が並ぶはずがない。

 

「これは―――――」

 

背筋を冷たいものが駆け上がる。

本能に近い動きで、みほは先ほど沙織に指示した第二のルートに目をやった。

そして予感が的中する。どこの戦車が移動してきたのかは分からないが、そこには二両の戦車がみほ達の逃げ道を塞ごうとする姿があった。

 

それが異常な速さであると気づいたのは、おそらく僅か。それ以外の者には、ただただサンダースが淀みの無い美しい動きを見せたようにしか見えなかっただろう。

 

まさか、とみほは思った。

その時の感覚は、幼い頃兄に「倉庫にある使われてないボロ戦車の中には妖怪がいる」と言われた時のものに似ていた。

すなわち、そんなものあるはずがない、という気持ちである。

 

だがみほの理性は、静かにその事実を告げていた。

 

一連のサンダースの迅速を極める行動は、ある一つの言葉で全て説明することができる。

それはすなわち、()()

みほ達がこの森の中にいるということも、みほの作戦を見抜いたのも、全てはその―――――――()()()によるものである。

 

それ自体は、別に大仰なものじゃない。

みほだってさっきは、『サンダースならこう動くだろう』というある程度の予想の元で動いていた。

戦車道を嗜む者としては、これは誰もが身に着けているものである。

 

だがみほの驚愕の理由は、もっと別の所にあった。

それはサンダースが見せた読みの―――――速さと精度。

およそ異常とすら言っていいその読みに、みほは既視感を覚えた。

知らず、その言葉はみほの口から洩れていた。

 

 

「お兄ちゃん並み――――?」

 

 

 

 

 

 




次回予告

「考えたら、お兄ちゃんより凄い人なんているわけないもん」

そんなブラコン的発想でサンダースの読みの正体を見破った西住みほ。
森林地帯から無事に抜け出し、大洗女子学園は反撃に出る。

神栖渡里によるサンダース対策が効果を発揮しだし、試合を有利に進める大洗女子学園。、
しかしそれが、サンダース大学付属高校、ケイの心に火をつける。

強豪校の誇りにかけて繰り出されるサンダースの秘策が、大洗女子学園を更なる窮地へと追い込んでいく。


次回、「サンダースと戦いましょう➁ 雷鳴」


「この戦術……もしかしなくても」




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第22話 「サンダースと戦いましょう➁ 雷鳴」

こちら、次回予告なんて恰好つけたばっかりに二万字以上も書くハメになった挙句次回予告守れてない間抜けとなっております。
長すぎるので適度に休むなり読み飛ばすなりしてください。

以下注意点。
・原作では武部殿はお電話しておりますが、本作では高速のメール打ちを披露してもらいました。
・個人的にはアリサは先輩のことを勝たせたくて仕方なかった、と解釈しております。根っこは良い子だよきっと。
・いやお前が格言言うんかーい





読み。

 

戦車道においてそれは、勝敗を分かつ要因の一つと言ってもいい。

相手の作戦を読むことは即ち、相手の動きを制御することになり、相手の心理を読むことは即ち、相手の動きを支配することになる。

 

畢竟、どれだけ相手の上を行けるかが全てを分かつ世界において、これほど重要なこともない。だからこそ全ての戦車乗りは、少しでも多く、深く、相手の内を読もうとする。

 

読みの優劣は深度と速度、そして精度によって決まる。

 

例えばこれが戦車の一対一なら、目の前の相手の挙動を一つ読むだけでいい。

だが十両の戦車を指揮する隊長ともなれば、一手先を読むだけでは足りない。二手、三手先を読まなければならないだろう。

 

その人がどれだけ先を読めるか、これが深度。

そして最高深度に達するまでの時間、これが速さ。

その読みがどれだけ正しいか、これが精度。

 

一対一の戦車戦なら、深度は浅くても速く正確であればいい。

一手先しか読めなくとも、それを連らせていけばいいからだ。

隊長、多くの戦車を率いる立場なら、深度と精度が高ければいい。

多少遅れても、最後に一歩でも相手を上回ればいいからだ。

 

読みの程度には個人差がある。

時間はかかるが誰よりも深く読める者。

深く、そして速く読めるが、少し精度が落ちる者。

誰よりも速く読めるが、二手先までしか見えない者。

 

千差万別。戦車乗りの数だけ、その種類はある。

その中で西住みほは、精度と速さにおいては飛び抜けていた。

 

咄嗟の判断能力、柔軟な発想と劣勢の中で輝く変幻自在の戦術。

あらゆる状況に一瞬で対応するその敏腕の裏にあるものが、誰よりも速く正確な読み。

極近未来を読み、瞬間的な思考と判断が必要とされる高速度域の戦闘に高い適性を持つのが、西住みほであった。

 

しかしもちろん、みほは浅い読みしかできないわけではない。

割合としては低いというだけで、時間をかければ四手、五手先を読むことができるだけの力はあるし、それは隊長として十分以上の能力である。

たがらこれは欠点というべきではなく、ある程度の偏りというべきものだ。

 

だがもし、全てが最高水準の読みを持つ者がいたらどうなるだろうか。

誰よりも先が読め、誰よりも速く読め、誰よりも正確に読める者。

もしそんな人間がいたとしたら、その読みは先読みを超えて、最早予知だ。

誰も勝てない、真に無敵の戦車乗りとなるだろう。

 

当然、そんな人間としてギリギリ片足立ちしているよう化け物はいない。少なくとも、みほは見たことがない。

 

ただ、それに近いことをする人を、一人だけ知っていた。

言わずもがな、戦車道のことなら何でもできるとあるお兄ちゃんである。

 

あの人は五手先を読めたらいいという世界で、六手先を見通すことができる。

しかもみほがそこに辿り着くまでにかかる時間の、十分の一以下の時間で。

おまけに、百発百中の精度で。

 

だからみほは、戦術の読み合いで兄に勝ったことは一度もない。

もっと言うなら、対等に戦うことすらできた試しはない。

策も、心も、あらゆるものを見通し、看破する兄の眼から逃れることが、どうしてもできなかった。

 

きっとあの人の眼は、もっと別の所に在るのだとみほは思う。

みほ達がいるところよりも遥か遠く、遥か高く。

悠然と空を舞う鳥よりも高い所から、いつも静かに見下ろしているのだ。

 

遥か高みを征く兄の姿を、みほはずっと見てきた。

だから誰よりも、兄の凄さを知っている。

ゆえにこう思うのだ―――――きっとあんな人は、世界に三人といないだろう、と。

 

しかし……

 

『三時方向、火力増大!』

『こちらウサギチーム、後方へのルートが遮断されました!』

「火力を集中させて、包囲の完成を防いでください。撃破されないことを最優先で!」

 

無線から送られてくる情報と、目視による情報。二つを脳内で合わせて、みほは状況を把握した。

どうにも、また包囲されかけているようである。

何とか網を食い破ろうとしているのだが、その度に新しい網を掛けられてしまって身動きが取れない。

幸いなことにまだ本格的な攻撃が始まっていないが、一度包囲が完成してしまえばあっという間にみほ達は射貫かれてしまうだろう。

 

そんな、有体に言ってピンチなのが大洗女子学園の現状だった。

 

「また塞がれた」

「うーん、ちょっと予想外ですね。サンダースはどちらかというと、読んでかわすというよりは真っ向から受けて弾き返すイメージの方が強かったんですけど」

「わ、わ、河嶋先輩落ち着いてくださいっ。まだ全然大丈夫ですからあんまり無線で叫ばないで……」

「困りましたね……どうしましょうか」

 

揺れる四号の中で交わされる会話に耳を傾けながら、みほは思考の歯車を回す。

 

誰が指揮を執っているのかは知らない。

だが間違いなく、この森林地帯での戦いを指揮している者は、兄に近しい領域にいる。

みほはそれを、感覚的に悟っていた。

自分の全てを見透かされているのではないか、という閉塞感。

籠に入れられ、ゆるりゆるりと四肢を縛っていくようなこの感じが、兄と戦っている時のソレとそっくりなのだ。

 

正直、意表を突かれた感覚がある。

優花里の言う通り、サンダースは相手の動きを読んで上を行くというよりは、策なんて正面から食い破ってくるタイプのチームだとみほも思っていた。

だが実際はどうだ。あの兄と同レベルの読みで、こちらの動きを的確に抑えてくる。

 

(一度退いて態勢を立てなさないとダメかも……)

 

現状はだいぶ不利だ。

あの読みの前では、ありとあらゆるものが無効化される。みほ達が今日まで積み重ねてきたサンダース対策も、このままでは意味がない。もはやそれ以前の問題だ。

 

「沙織さん、現在の相手の配置をください」

「ん?えーと、ちょっとまってね………」

 

ヘッドホンを着けて各方へ言葉を飛ばしながら、沙織は小さなホワイトボードの上にペンを走らせていく。

薄いピンク色で背中にデフォルメされた猫のイラストがある、いかにも女の子用みたいなデザインのホワイトボードは、実は兄からプレゼントされたものであることをみほは知っていた。

通信手として必要なものだろう、ということで兄はあげたらしいが、その時の沙織の喜びようったらなかった。今日に至るまでそのホワイトボードが、傷一つない新品のような状態を保っているあたり、その度合いが計れるというもの。

しかしまぁ、ちゃんと沙織の好みを把握してるあたりが、実に兄のズルいところである。

 

「ここから撤退するんですか、西住殿」

 

滞りなく装填を行いながら、優花里は問うた。

 

「うん、このままここで戦っても分が悪いし……それに、みんなちょっと動揺してる。一呼吸入れて、リズムを変えた方が良いと思う」

 

みほとしても気持ちは分かるところだ。

アレを前に何のリアクションもなく平常でいることは難しい。動揺の一つや二つ、した方がむしろ健全だと思う。

しかしそれで、いつまでも練習の成果が十分に発揮できないのでは困る。

このまま修正するのは難しいし、ひとまず流れを断ち切って仕切り直すべきだろう。

 

みほの言葉に、しかし優花里は眉を八の字にした。

 

「できるでしょうか……サンダースの動きは迅速ですし、何より読みが鋭すぎます。ここで勝負を決める気で攻めてきているサンダースの包囲を抜くのはおそらく一筋縄では……」

 

不安を滲ませる優花里。

みほもまた同じ気持ちではある。ここまで散々挑戦しては、失敗しているわけだし。

だが()()みほの中には、その不安を掻き消すだけの感情があった。

 

優しい笑みと共に、みほはその感情を表に出した。

叶うならそれが、優花里の不安をも打ち消してくれれば、と。

 

「大丈夫。さっきまでは私もちょっと混乱してたけど、相手がお兄ちゃん並みの読みをするのは分かった。だったら、こっちもその気で動けばいいの」

 

呼び起こされるのは、二か月にも及んだ合宿の記憶。

 

みほは人知れず安堵していた。

これが、兄と同じタイプの人で良かった、と。

だってみほは、誰よりも知っている。

神栖渡里との戦い方を。

なら、その対策がそっくりそのまま使えるのは、当然の道理だ。

 

「はいみほ、こんな感じ」

「ありがと沙織さん」

 

渡されたホワイトボードを見て、みほは数秒思考した。

綺麗な陣形だ。これだけ取っても、やっぱりサンダースは並みじゃない。

でも、

 

「―――――うん、行けそうかも」

 

みほは頷いた。

ホワイボードに示された相手の配置を脳内の地図に反映させた時、みほには自分達が行くべき道がはっきりと見えていた。

そしてそこに至るまでの、攻防さえも。

 

「麻子さん、ちょっと操縦が大変になるけど大丈夫ですか?」

「問題ない。寧ろそれくらいじゃないと退屈だ」

 

頼もしい返事に、みほは背中を後押しされる気持ちになった。

なら自分は、自分の仕事に集中しよう。

キューポラから顔を出し、周囲をもう一度確認したみほは、咽頭マイクに手を当てた。

 

「―――――――」

 

伝播する作戦内容。

反応は様々だが、大洗女子学園の意思は統一された。

 

一息、合図と共に動き出した五両の戦車。

飛び交う砲弾の雨の中、木々を縫うようにして駆けていく。

問題はここから。でもみほは、もう知っていた。

 

 

あの人の読みに対抗するための、一番簡単な方法。

それは、

 

 

「読んでも意味がないくらい、完璧に詰めばいい」

 

 

 

 

「無粋ですこと」

 

それは常日頃からダージリンの傍に仕えているオレンジペコですら、これまでで片手の指ほどの回数しか聞いたことのない、無機質な声色だった。

ティーカップの中、琥珀色の泉は完全に凪いでいる。

 

紅茶さえ飲んでいればご機嫌なダージリンが、ここまで表情から色を消すことは滅多にない。ましてや今は、横に憧れの人が座ってる状況なのだ。機嫌が良くなることはあっても、その逆なんてありはしないとオレンジペコは思っていた。

 

しかし現実問題、青い瞳の奥には絶対零度。

笑えば花のように周囲を魅了する美少女も、無表情になれば周りを凍てつかせる氷の刃となる。美人ほど怒れば怖いものである、という言葉の意味をオレンジペコは理解した。

 

「そうやって勝ったところで、いったい誰が讃えてくれるのかしら」

 

ダージリンがここまで言うのには、当然理由があった。

オレンジペコは視線を横から正面に移す。その先には、試合の趨勢を写す戦況マップがある。

リアルタイムで更新されていくそれの中には、二色のマーカーが忙しなく動いており、どちらかが大洗女子学園で、もう一方がサンダース大付属となる。

見分け方は簡単だ。外側にあるマーカーがサンダース、内側にあるマーカーが大洗女子学園。もっと大雑把に言うなら、()()()()()()()()のが大洗女子学園だ。

 

籠の中からなんとか抜け出そうとして、でもその度に失敗して息苦しそうにもがく。

ここから見ると、大洗女子はそんな風に見える。そしてそれは、おそらく間違いではないだろう。

 

いわゆる『動きが読まれている』というやつだが、それは大洗女子が未熟だから……ではない。直に見たわけではないが、それでもはっきりとわかるくらいに大洗女子はオレンジペコ達と戦った時より遥かに成長している。

もし再戦するならば、きっといつかとは全く違った戦いになることだろう。

 

だからこれは、サンダースの方が異常と言うべきことだった。

オレンジペコはビデオや資料でしかサンダースを知らないが、印象としては王道。正面からガンガン攻めて、仕掛けられた罠は食い破る、という感じ。

豪快で、シンプルで、ある意味見ていて気持ちがいいのがサンダースの戦車道だった。

 

しかし今のサンダースは、それとは違って見える。

いや、練度自体は変わらない。小隊の連動の仕方などは、見ていて勉強になるほど綺麗だし、選手個々の能力も高い。聖グロ、黒森峰、プラウダに並ぶ高校戦車道の猛者という評判に、嘘はない。

 

ただ拭えない違和感だけがずっとあった。果たしてサンダースは、あんな異常な読みをするチームだっただろうか、という違和感が。

あれでは真正面から殴り勝つというよりは、封殺するという方が相応しい。

個々人ならまだしも、アレはもはやチーム単位の変化。春先からここまでかけて、戦術を作り直したとは考えづらい。

 

そんな風に頭を悩ませている時、答えをくれたのがダージリンだった。

そしてそれこそが、サンダースが彼女の不興を買った理由でもあった。

 

「無線傍受……」

 

オレンジペコの呟きは、空に溶けて消えていった。

 

地獄へのホットライン。空から声を掠め取る盗聴者。

それが、サンダースの読みの正体。

 

確かに無線を傍受すれば、大洗女子の動きなどは全部丸わかりだ。

戦車道での主なコミュニケーションが無線である以上、そこには作戦の内容も、意思統一も、文字通りの全てがある。

だからいつかの大戦時、あらゆる国が諜報と防諜に力を入れた。

だってそれは、相手を掌握し支配することに直結しているのだから。

 

でもこれは戦車道。戦争じゃない。

無線傍受機の使用は、規則で禁止されてはいない。

ただそれは明記されていないというだけで、不文律はちゃんと存在する。

ゆえにサンダースの行為は、ルール違反じゃないルール違反とでもいうべきだろうか。

何にせよ、オレンジペコが敬愛する金髪青眼の隊長は、それを優雅ではないと断じていた。

 

ダージリンという人は、本当に美しい人なのだ。

見た目だけじゃなく、心や魂までもが。

だから戦車道でも、正々堂々と戦うことを望む。

口では「イギリス人は恋と戦争では手段を選ばない」なんて言っているが、本当に手段を選ばなかったことは一度もない。当然策を弄すことはあるが、それはあくまでルールの中で全力を尽くしているだけだ。

 

だからきっと、サンダースの行為が面白くないのだろう。

そんなことをしなくても十分な力があるだろうに、何故自らの手で自分たちの誇りを汚すような真似をするのか、と。

 

「ケイさんがこんなことをするとは思えないし……主犯は別の人ね。唯一前線に参加していないフラッグ車の車長かしら」

 

サンダースの隊長であるケイは、ダージリンと親交があり、その縁でオレンジペコも多少ケイの為人を知っている

太陽のような人、とでも言おうか。とにかく明るく、優しく、周りを元気づける、そんな人。この人の元にいたらきっと楽しいだろうな、と初対面で思わせるような人だった。

 

だからこういう仄暗さとは無縁で、到底今のサンダースと彼女を結び付けることはできない。ダージリンの言う通り、誰かが独断でやっていることなのかもしれない。

 

そこでふと、オレンジペコはあることに気づいた。

ダージリンの横にいる人は、今どんな顔をしているのだろうか。

 

神栖渡里は、今まで大洗女子学園の面倒をずっと見てきた人だ。

共に重ねた時間で言えば長くないだろうが、それでも彼と大洗女子の間にあるモノは決して小さくもないと思う。

だってオレンジペコも、たった数か月一緒にいるだけのダージリンをこんなにも慕っているのだ。同じ事が彼らにも言えるはずだ。

 

そんな神栖渡里は、今何を思っているのだろうか。

自分が育て、導いてきた教え子たちが、正々堂々とは言えない行為の餌食となろうとしているこの状況を、どんな風に見ているのか。

 

あまりにも静かにいる彼の横顔を、オレンジペコは横目で伺った。

そこにあるのはダージリンと同じ感情か、それともそれ以上のモノか。

 

「………よし」

 

しかしオレンジペコの予想とは裏腹に、渡里の表情は穏やかだった。

彼は怒りで眉を顰めるどころか、むしろ笑みすら浮かべている。

 

オレンジペコは意表を突かれて、思わず渡里の顔を凝視してしまった。

すると途端、オレンジペコの視線に気づいた渡里が首を傾げて視線を返す。

 

「どうかしたかい」

「い、いえ、その……渡里さんの表情が少し喜んでいるように見えてしまって……」

「……そうだね、ちょっと喜んでるかも」

 

バツが悪そうな顔を渡里はした。

その言葉がどういう誤解を招くか、きっと知っていたのだろう。

 

「無線傍受、渡里さんはとっくの昔に気づいていらしたのでは?」

「まぁ、サンダースの録画は百回以上見たからね」

 

ダージリンの問いに、渡里は事も無げに答えた。

 

「違和感はあったし、それに動きを読んでいるというならあの動き方はちょっと()()()()。じゃあなんだろう、って消去法で考えていくと、無線を盗聴してるのかなってね」

 

いっそ呑気と言っていいほどの、渡里の口調だった。随分と他人事のように言うものだ。

オレンジペコが予想していた、怒りとか不満とか、そういったマイナスな感情が一つも見えてこない。

これではオレンジペコの方が大洗女子贔屓してるみたいではないか。

 

「よろしいのですか?」

「良いも何も、ルールブックには載ってない行為だ。厳密には反則じゃない。訴えたところで有耶無耶になって終わりだろ……それに、そこまで非難してるわけじゃないし」

 

なぜ、と問う前に渡里は続きを紡いだ。

 

「サンダースが過去に無線傍受を使用したことはない。きっと今回が初めてだ。だからかな、少し動きがぎこちなく見える。慣れない動きをしている証拠だ」

「……なるほど、確かに調和が乱れているように見えますわ」

 

得心が言ったように頷くダージリン。

残念ながらオレンジペコには、ただの違和感としか捉えることができない。

それだけ二人が、高みにいるということか。いやあるいは、()()()を持っているのか。

なんにせよ、少し羨ましく思うオレンジペコだった。どちらを、かは言わないが。

 

「普段通りの動きをされたら厳しかった。でもアレなら付け入ることができる。自分から盤石の体勢を崩して隙を作ってくれたんだ。利があるなら良しとするさ」

 

すると渡里は、視線でモニターを見るように促した。

四つの眼が、そちらへと向く。

 

「こんな格言がある。『危機とは二つの漢字でできている。一つは危険、もう一つは好機』。あいつらなら、危険の中の好機を掴み取ることができるはずさ」

「第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・F・ケネディですわね!!」

 

モニターの中、そこには迅速極まる動きでサンダースの包囲網を食い破ろうとする大洗女子学園の姿があった。

オレンジペコは凝視した。決して目を離してはいけないものが、記憶に刻まなければならないなにかが、始まる予感がしていた。

………断じて、やけに目を輝かせて興奮している様子のダージリンから目を逸らしたいわけではなく。

 

「渡里さんも格言がお好きなんですね!」

「いや別にだけど……あのダージリン、さっきより近くないかい?」

「ふふ、気のせいですわ渡里さんっ」

(十分後くらいには腕くらい組んでそうな勢いですねダージリン様)

 

断じて。

 

 

 

 

 

抜けた。

抜けて()()()()

 

それが、今のみほの率直な気持ちだった。

 

サンダースの厳重極まる包囲網。

脱出困難と思われていた籠を、大洗女子学園はあまりにもあっさりと脱出していた。

いや、それ自体はとてもいいことだ。だってそれが目的だったのだし、普通に喜ぶべきところだろう。

でも、それでもみほの中にある感情は、『やった!』よりも『あれ?』の方が強かった。

 

「……作戦、成功したんだよね?」

「えーと……どうなんでしょうか……?」

 

首を傾げる沙織と優花里。

その反応が、全てを物語っていた。

 

包囲を突破するためにみほが各チームに下した指示は一つ。

『バラバラ作戦で行きます』、これだけである。

 

バラバラ作戦とはかつての男性戦車道愛好会との実践訓練中、みほ達が行った数ある作戦の内の一つ。聖グロリアーナとの練習試合の際に使った『こそこそ作戦』を改修したものであり、チームを散開させてある地点で集結、また散開といった風に密集と離散を交互に繰り返し、そこに火力を加えて相手の陣形を崩し攪乱することに特化した作戦である。

 

こそこそ作戦より複雑かつ、全員の密な意思疎通が不可欠な難易度の高い作戦だが、大洗女子はもういつかの初心者の集まりではない。練習を積み重ね、キチンと使いこなせるようにしていたのだ。

 

バラバラ作戦の利点は二つ。

全員が作戦名の通りバラバラに動くため、相手の狙いを分散させることができるという防御的な効果。

そしてもう一つ、機動力をフルに活用することでこちらの狙いを隠蔽する、あるいは気づいたとしても反応できなくさせる攻撃的な効果がある。

 

前者に関しては今回さほど意味はない。肝要なのは後者だ。

包囲の突破口は一つだけ。一か所穴を空けさえすればそれでいいし、もっと言うなら一か所しか空けることができない。

だから包囲の攻防とは畢竟、その一か所を巡る戦いだ。いや例外もあるかもしれないが、少なくとも今はそういう状況。

だからこそ、複雑に動き回り、ギリギリまで狙いを悟らせないバラバラ作戦をみほは採用した。

 

しかし当然、サンダースの読みを計算に入れていないわけではない。

そう、兄と同じ読みをするサンダース相手に、バラバラ作戦は実はあんまり効果がない。

バラバラとは言っても大洗女子学園はちゃんと一つの秩序を以て行動している。なら、その秩序を解き明かせば、そこから逆算してみほ達の動きを読み切ることはできてしまうからだ。

簡単ではないが、兄はそれを普通にやる。なら、サンダースだって同じのはず。

 

だからみほは、もう一つ策を練っていた。

読み切られることは織り込み済み。ならそれを前提に置いて、バラバラ作戦を撒き餌にした本命とも言うべき伏せ札を用意し、二段構えの作戦を構築する。

それもただの作戦じゃない。読んでも意味がない、解ってても対処できないとっておきの作戦だ。

それを使えばサンダースを打倒することは難しくても、この場において一枚上手を行くことくらいはできる。

 

だからみほは慎重にその機を図っていた。

タイミングを逸すれば、全ては水の泡。

決して逃さないように、感覚を研ぎ澄ませていた―――――のだが。

 

それを起動する前に、みほ達はサンダースの包囲を抜け出し、森から撤退することに成功してしまった。

しかも拍子抜けするほどに簡単に、あまりにもあっさりと、思わずつんのめってしまうくらいに。

 

(サンダースが読み違えた……?)

 

ありえるのだろうか、とみほは思考の歯車を回す。

これまでサンダースが見せていた読みは、みほがこれまで味わってきたものの中でトップレベルの鋭さだった。その切れ味たるや、兄のソレとぴったりと重なる程で、みほですら到達していない領域のもの。

 

そんなチームが読みを外すことがあるのか。

少なくとも、兄は絶対に外さなかった。なら、逃がしたのはワザとか。

いやそんなことをするメリットはないはず。こうして間を置いても追撃がこないということは、サンダースは此方を見失ってる。じゃなきゃこんなにのんびり平野を走ることはできないだろう。

 

「お兄ちゃんとサンダースは何かが違う……?」

 

これまでの状況(シチュエーション)が、みほの頭の中で高速再生される。

兄とサンダースの相違点、これまでの自分達の行動。それらを並べて揃えて眺め見て、浮かび上がるものは何か。

 

―――――――一つだけ、引っかかるものがあった。

 

それは動き。

みほの中にある兄のソレと比べて、サンダースのソレはほんの少しだけ無駄がある。いや、無駄というよりは効率が悪いというべきか。

兄は相手の現在地点(スタート)から最終地点(ゴール)までを読み切るから、逆算で自分の動きを決める。その結果限界まで無駄がなくなり、とにかく部隊が綺麗に動いて見えるようになる。

でもサンダースがそれと同じかと言うと、ちょっと違うとみほは思う。

確かに動きこそ綺麗だが、兄より「知ってました」感がない。読むのではなく、みほ達の動きに瞬間で反応して、その場その場の対応が連なっている感じがする。

 

兄が正真正銘の先読みをしているなら、サンダースは……

 

「後出し―――――」

 

途端、みほの中で閃くものがあった。

 

キューポラから顔を出し、周囲を見渡す。

水平に見るのではなく、仰角を上げて。

 

「……あった」

 

そしてみほは見つけた。

ぷかぷかと空を泳ぐ、盗聴者を。

 

合点がいった。

アレがあれば、それはあんな動きだってできるだろう。兄は相手の心を読み取るが、サンダースは機械の眼でそれをやっていたというわけか。

だからバラバラ作戦を読めなかった。アレは無線で連携を取っていなかったし、みほも作戦名しか無線には流していなかった。

 

「みほ、とりあえずサンダースは撒いたわけだし、一回戦車を停めて作戦会議するんだよね?場所はP315地点でいいよね――――」

「あ、ストップ!」

 

無線を飛ばそうとした沙織を、みほは慌てて止めた。

沙織は「へ?」と機械を弄る指を硬直させた。何事か、というように優花里や華も沙織と表情を同じくしていた。

 

「あのね、多分サンダースはこっちの無線を傍受してる」

「えぇ!?」

「無線傍受ですか!?」

 

優花里は飛び出すように外へ顔を出した。

 

「あ、本当です!無線傍受機が打ち上げてあります!」

「なにそれ!?そんなのアリなの!?」

 

沙織の声に、麻子が平然として答える。

 

「ルールブックでは禁止されてない、が。使用が認められているわけでもない。グレーゾーンだな、どちらかと言うと黒よりの」

「ズルじゃん!?サンダースの隊長、優花里がスパイしたの笑って許してくれたし、すごい良い人そうだったのに!」

「人は見かけによらないということでしょうか……」

 

華は少しだけ悲しそうな声色でそう言った。

みほもほとんど同じ気持ちだった。しかし少しだけ、思うところがある。

 

サンダースの隊長が、本当に指示していることなのか。

みほは彼女のことを全然知らないし、会ったことすら今日が初めてだ。

でも不思議とみほは思う、あの人は自分が負けるとしても、最後まで誇り高くあろうとするんじゃないか、と。

 

まぁ誰がやったかは、今考えるべきことじゃない。

考えるべきは、無線傍受の対処である。

 

「沙織さん、これから通信は携帯電話でやりましょう。無線は極力使わないでください」

「わ、わかった。メールとかでいいかな……」

 

沙織はポケットから携帯電話を取り出した。

まぁ戦車道の試合中に携帯電話はあんまり持ち込まないけど、今回は大いに役立ってもらおう。

 

「でもみほさん、よく気が付きましたね」

 

高速でメール打ちする沙織を見ていると、華がそう言った。

 

「うん、色々気づくポイントはあったけど……一番大きかったのはやっぱりアレかな」

「アレ、ですか?」

 

華は首を傾げた。

みほの中で何よりもヒントになったもの。

サンダースの無線傍受に確信を与えてくれたもの。

それは一つの絶対的なこと。

 

「考えたら、お兄ちゃんよりすごい人なんているわけないもん」

 

出た、ブラコン。

そんな声が、どこからか聞こえた気がした。多分気のせいだろうそうに違いない。

 

「でも無線傍受は厄介ですね……武部殿のメール打ちも限界がありますし、どうしましょうか?」

「盗聴してるなら、それを利用すればいい。向こうはこっちがまだ気づいてないと思ってる。なら無線の内容を疑いはしないはずだ」

「あえて嘘の情報を流す、ということですか……?」

 

確かに有効な手だ。

無線傍受に囮の作戦を掴ませ、本命はメールで送信。そうすればサンダースの動きを此方でコントロールできる。

 

しかしみほは思った。

それをやってしまうと、サンダースは今後無線傍受をしなくなるだろう。

その後は純粋な、戦術の腕と実力の比べ合いだ。そうなった時、大洗女子は少し旗色が悪い。

それで勝敗を決することができるならまだしも、多少有利にできるくらいじゃ少し勿体ない。

どうせなら――――――

 

「とっておこうかな」

 

六つの瞳が此方を向いた。

それにみほは微笑を以て答えた。

第二ラウンド、その舞台は―――――――丘陵。

 

 

 

 

 

「全員集まったかな」

 

場所は戦車を格納してある倉庫の前。

天候は晴れ。時間は十六時。

キチンと整列した大洗女子学園総勢22名の前に立ち、神栖渡里は腕を組みながら言った。

 

「それじゃさっそく対サンダースの特訓を始める……前に、一つおさらいだ」

 

ピンと指が一つ立つ。毎回思うが、癖なのだろうか。いかにも先生っぽい振る舞いだけれども。

 

「サンダースの得意とする戦術は包囲。多数で囲んで多数で撃つ、まぁ数の暴力ってやつだ」

 

ちなみに包囲自体はどのチームもやっていることではある。

ただそれを得意とし、必殺の戦術まで昇華しているのがサンダースの凄さである。全国一の戦車保有数を誇る学校だから、包囲と相性が良いというのもあるけれど。

 

「対処法はいくつかあるが、基本は包囲自体されないこと。囲まれたらすぐに抜け出すこと」

「そ、それができれば苦労しないと思うんですけど……」

 

優花里はボソリと呟いた。

 

「包囲の破り方は単純だ。一回戦では戦車が十両しか出せないから、サンダースがどれだけ戦車を持っていても試合中は十両での包囲になる。となると厚み自体はそんなにない。いいとこ、三両でワンブロックを形成するのが限界だろう」

 

例えば東に二両、北に三両、南に三両、西に二両みたいな分配になる。

その何処かが行き止まりであれば、その分もう少し増えるだろうが、それにしても兄の言う通り三両くらいだろう。

そこが、大洗女子のねらい目である。

 

「対し此方は五両もある。相手が三両で作ってるブロックに五両で固まって突っ込めば、当然二両分こっちが有利になる。簡単な計算だな」

 

ちなみに兄の言うことは、限界まで簡略化されている。

本当はもっと複雑で、そんな引き算みたいに上手くいくことじゃない。

まず突っ込むのはいいが、そこで少しでも足を止められたなら横やら後ろやらから攻撃されて即撃破。加えてサンダースもみほ達がそんな分かりやすい動きをすれば、一時的にその部分だけブロックを厚くして突破されないようにするだろう。

 

あくまで兄の言は、基本的な考え方である。

それより深いところは、みほ達が自分で考えなければいけない。

 

「ただサンダースも黙ってそれを見てるだけじゃなく、当然妨害してくる。つまるところ、そこの攻防を巡る駆け引きが全てだ」

 

となると必要なのは、

 

「ここでの負けはそのまま試合の負けだ。勝つためにはサンダースの動きっていうのを知っておく必要がある。そこで、今からする特訓だ」

 

こういう練習は黒森峰にいた時もやった。

基本的にはチームメイトに仮想サンダースをしてもらったり、試合のビデオを見て研究したりだった。

まぁビデオなり資料なりは兄が作ってるんだろうけれど、果たして仮想サンダースはどうするのだろうか。

 

「あの、渡里先生」

「なんだ秋山」

「ここに集まったということは、これから戦車に乗るんですよね?」

「勿論」

「その、サンダースの動きを知るというのは分かるんですけど、一体どうやって……?」

 

みほ達にサンダースの戦術を体感させようというなら、あと十両はいる。

しかし当然、ここにはそんな数の戦車はない。

兄は魔法みたいな戦術を使えるが、本当に魔法が使えるわけでもないし、まさかいきなり空から戦車が降ってきたりすることもない。

 

まさかイメージトレーニングだろうか。

何もないところに空想のサンダースを描き出し、それで代用するとか。

それはちょっと無理があると思うのだが。

 

そんなみほの予想を、渡里はしっかりと裏切った。

 

「簡単だよ。お前達がサンダースになればいいんだ」

 

へ、という声が聞こえた。

呆気に取られる一同を前に、渡里はどこからかヘッドセットを取り出し、手の中で遊ばせた。

 

「各操縦手は、俺の指示通りに戦車を動かせ。かなり細かく注文をつけるから、そのつもりで。他の者は見てるだけでいい。自分と他の戦車がどんな風に動くのか、頭にしっかりと刻め―――――それが、サンダースの動きそのものだ」

 

まさか、とみほは瞠目した。

この人、本気で言ってるのだろうか。

渡里の指示通りに動いた戦車が、そのままサンダースの動きになる。

それはつまり、

 

「さ、サンダースの戦術をコピーするってことですか……?」

「あぁそうだ。これから俺が、お前達をサンダースに仕立てる」

 

事も無げに渡里は言った。

 

サンダースの戦術は、これまでサンダースが長い時間をかけて練磨してきたものであり、それは決して一朝一夕で真似できるものではない。

みほだって「やれ」と言われてもできないし、時間をかけたって難しいだろう。

それをこの人は、試合の映像を見ただけでやってみせるというのか。

 

「今からお前達は、自分で自分を追い詰めていく。攻めるサンダースを自分に置き換え、防ごうとする自分は虚像として投影しろ。その上でこう考えろ、自分(サンダース)はどう動かれたら嫌か、虚像(自分)にどう動かれたら包囲が破られそうか。それがそのまま、試合本番でお前達がすべき動きになる」

 

視点の交換。

確かに自分がサンダースになれば、突きべきポイントは解るだろう。だって『自分』は『相手』なんだから。

 

簡単な理屈だ。でも、実行には絶対に移せない。

その前提となる、自身を相手へと変貌させる工程が、あまりにも難しすぎるから。

おそらくこんなやり方、兄にしかできっこない。そもそも、誰もやろうとすら思わないんじゃないだろうか。

そこをやってしまえるのが、神栖渡里の力か。

 

「自分がされたら嫌なこと、それを見つけろ。ちょっとだけ、イジワルになってな」

 

悪い顔をした人が、そこにはいた。

 

 

 

 

 

甲高い音が響いた。

同時に、四号戦車の車体が少し前後に揺れる。

どうやら稜線から出していた砲塔部分が相手の弾を受け止めたらしい。

 

みほが視線で華に問うと、返ってきたのは一つの頷き。

どうやら砲撃に問題はないようだ。まぁ砲塔部分、特に防楯と呼ばれるところはそうそう簡単に砲弾を通さないくらい硬いところだし、当たった所で大したことはないと踏んではいたが。しかしこの距離でも当ててくるあたり、やはり個々人の能力は高い。

 

それはさておき、サンダースはちゃんと来てくれたようだ。

みほが望んだ、この広い広い丘陵に。

 

「沙織さん、通信を」

「わかった!」

 

沙織の指が携帯電話の上で踊る。

これでみほの指示は全車へと行き渡る。

まぁもっとも、細かい指示は既に伝達済みなわけだが。

 

「やはり来ましたね」

「うん、よかった」

 

みほは安堵の息を吐いた。

サンダースがここにいるのは、何も驚くことじゃない。

なぜなら他ならぬみほ自身が、()()()()()()()()()()()()()()

無線傍受されていることを分かった上で、この場所に布陣するという情報を無線で伝えることによって。

 

「みほ、正面に三両。九時方面から三両、後はまだ見つかってないけど……」

「うん、多分後ろだと思う」

「ファイアフライはまだ見えてないって」

「わかりました、ありがとう」

 

沙織から各チームの偵察情報を受け取り、みほは思考する。

予想通り、森の中で戦った時と同じように囲みに来ている。おそらく残りの何両かは、他の小隊と三角形を描くような位置取りをしているはず。

となると問題は、ファイアフライの所在。

 

(………後方から来る方に紛れてくれればいいけど)

 

しかし待ってる時間もない。みほは麻子に合図を送った。

すると四号戦車は僅かな傾斜を下り、高低差が生む壁の影に隠れる。

これでサンダースからは完全に姿を隠した形になる。

この辺りは小さな波のように小山が連続しているので、こういう風に射線を切ることも隠れることも簡単にできる。

ハルダウン、と呼ばれる稜線に車体を隠して砲撃する技術があるが、ここはそれに適した場所といえるだろう。

 

ちなみにハルダウンは一般的には車高の高い戦車に向いているとされ、端的に言うとアメリカ戦車の得意分野である。つまりここはサンダースにとってはある種戦いやすい場所となる。

……だからこそ、ここを選んだわけだけど。

 

「カメさんチーム、行動開始してください」

「カメ、さん、行動、開……始っと!」

 

頃合いを見て、みほは追加の指示を出す。

沙織の携帯電話によって飛ばされたソレは、みほ達がいる地点から離れた所へと向かい空を駆ける。

 

無事届いただろうか。

 

その答えは、一つの光景となって現れた。

遠く遠く、みほ達の後方に、砂塵が舞い上がったのだ。

 

みほは目を凝らした。

この距離でみほに見えるということは、サンダースもきっと同じものを見ているだろう。

 

でも見え方は違う。

 

みほ達はあれが、『38tに取り付けた木と丸太が地面を擦ってできた砂塵』と知っている。

でもサンダースは『相手に見つかった大洗女子が慌てて逃げている時にできた砂塵』と思うだろう。

その勘違いを、みほは誘発させたかった。

 

そのために四号に弾が当たってから38tを動かすまでの時間を、それっぽく見えるように調整した。

簡単な偽装(ブラフ)だ。でも、見破れはしない。だってサンダースに大洗女子の姿は見えていないのだから。

 

「アヒルさんからメール!後方にファイアフライ含む三両発見、進路変えて38tの方に向かってるって!」

 

成功。みほは深く息を吐いた。

ついでにファイアフライの位置が分かったのも大きい。これで心置きなく戦える。

 

「ウサギさんチームはこちらに合流するよう伝えてください。それから九時方向の三両の動向も確認してください」

 

みほ達から見て左側に偵察に出していたウサギさんチームだが、もう充分だろう。

九時方向の三両を見つけてくれただけでも御の字である。

 

同じように偵察に出していたアヒルさんチームにも指示を飛ばすと同時、ウサギさんチームが合流した。

 

「西住隊長!九時方向の三両、作戦通りカメさんチームの方に向かっています!」

「うん、ありがとう」

 

みほは脳内で地図を広げる。

正面三両は健在。

九時方向の三両は右折して七時方向へ。

後方にいた三両も同じく七時方向。

此方は三両固まってて、アヒルさんチームとカメさんチームはそれぞれ別行動。

 

――――大方うまくいってる。

 

頷き一つ、みほはキューポラから顔を出し、同じく外に顔を出していたカエサルと澤に合図を送る。

頃合いだ。相手の動きを誘導できているとはいえ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()というリスキーなことをやっているのだ。あんまりのんびりやっていると、普通に撃破されかねない。

 

麻子に指示を飛ばし、四号戦車を動かす。

稜線を乗り越える寸前で一度停止させ、斜めになった状態で一息、

 

「行きます!」

 

四号戦車が勢いよくサンダースの前に踊り出る。

先手はこちら。あらかじめ準備していた華が一時停止後まもなく砲撃。

放たれた砲弾はやや弧を描きながら飛翔し、迂闊にも姿を晒していたシャーマンの砲塔側面を襲う。

金属同士が衝突する独特の音が響いたと同時、四号戦車は再び加速する。

 

(命中したけど、目立った損傷はなし)

 

おそらくカメさんチームの方に向かおうとしていた時だったのだろう。

今ので撃破できていれば最上だったが、まぁ気落ちするほどのものでもない。

 

不意を突かれたとはいえそこはサンダース。

瞬く間に態勢を立て直し、三つの火砲が稜線の上から覗く。

ハルダウン。あれの前では、此方の攻撃は効果が薄い。

 

「入って!」

 

しかしそれは此方も同じ。

稜線の奥に入るだけで簡単に攻撃は防げる。

 

流れるようにして射線を切った四号戦車。

しかしその僅か一瞬前、みほの視界を土砂が覆った。

サンダースの鋭い一撃が地面を抉ったのだ。

まったく油断ならない相手だ。もう少し遅かったら二つくらい弾が当たってただろう。

 

(……でも)

 

これで楔は打った。

完全にいないと思っていた所からの攻撃。サンダースの意識にあんこうチームが植え付けられる。

さぁどう出るか。見かけ上は、みほ達は単騎。

兄ならみほ達をスルーして一直線にカメさんチームの方に行くだろう。

でもサンダースなら、

 

坂を下り、坂を登り、再び視界が開けた時。

みほの目に映ったのは、サンダースの小隊二つ計六両が散開し、二両ずつ三方から囲もうとする光景だった。

 

どうやらカメさんチームを追いかけようとした九時方向の三両はこちらに合流したらしい。

圧倒的数の暴力で、みほ達を撃ち抜くつもりだろう。

しかしそれはみほの予想通りの動きだった。

 

極論、サンダースの戦術は一両相手に十両で攻撃するようなもの。

数の有利を信仰しているからこそ、どんな状況でも多勢でいようとする。

だから今だって、三両でも十分なところを、わざわざ六両も揃えてきた。

 

それは正しい考え方だ。でも、それに固執するのは正しくない。

だって発想を逆転させれば、ちょっとの工夫で()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということに他ならないから。

 

くるっと小山を一周する形で元の場所に戻ってきた四号。

キューポラから顔を出していたみほはカエサルと澤に対してハンドサインを行う。

意味は『相手三部隊、右翼、中央、左翼の三方から。数は二』。

 

頷く二人。

その数秒後、M3リーと三号突撃砲は意気揚々とエンジンを唸らせる。

ほんの少しのアイドリング。そして一息に、二つの戦車は地を駆けた。

 

『shit! 相手は一両じゃありません!三両です!』

 

僅かに間を置いて、四号が続く。

狙いは右翼。激しくアップダウンを繰り返しながら、一直線に二両のM4へと向かう。

 

サンダースが信仰しているのは数の有利だけじゃない。

複数箇所から攻めて囲い込もうとする、その戦術もそうだ。

勿論それだけしかしてこないわけじゃない。でも、サンダースはそれが許される状況なら、それをしようとする傾向がある。

 

そこが狙い目だ。

おそらく各個撃破されるよりも早く合流できるという判断の上での行動なのだろうが、みほ達はそれよりも一瞬速い。その一瞬があればみほ達は間合いを詰め、三対二の状況を作ることができる。

 

「マスターアーム・オン!」

 

先駆けのウサギチームとカバチームが砲撃態勢に入り、三つの砲身がM4へと向けられる。

彼我の距離は僅か。照準の先は、それぞれの砲性能で最大限の効果を発揮できるポイント。

 

操縦手がブレーキを踏み、砲手がトリガーに指をかける。

 

撃て(ファイア)!」

 

そして車長の号令に従い、戦車が一斉に火球を吐く。

轟音、白煙、金属音。放たれた砲弾はまっすぐに装甲へ向かい、そしてあえなく弾かれる。

直前で砲弾の入射角を調整し巧くいなしたのか、はたまた単純な火力不足か。

どちらにせよ、ここで撃破できなくても問題はない。

 

「華さん、砲塔左旋回!」

 

一層加速した四号戦車が、M3と三突の背後から飛びだし、勢いそのままにM4の側面へと回り込む。

正面は装甲が厚く、狙える場所も少ない。しかし側面なら履帯は勿論、約38㎜の装甲も四号の砲性能であれば抜ける。

 

みほの指示よりもほんの少し早く動き始めた砲身は、余裕を以て狙いを定める。

相手の砲身が正面のウサギさんとカメさんに向いている今なら、停止から砲撃までの猶予は充分。

履帯が地面を抉り、慣性の法則で上体が前方へと押される中、車体にしがみつきながらみほは声を上げた。

 

「撃て!」

 

極小のタイムラグで放たれた一撃。炸裂音が振動となって五体を揺らす。

 

華の砲撃能力を考えれば、この距離なら必中。

――――――勿論、相手が避けなければ、の話だが。

 

M4が寸での所で後ろに下がったことにより、弾は側面の端を僅かに捉えるに留まる。

みほは口を真一文字に結んだ。

傾斜の多いこの場所は、みほ達にだけ味方をするわけではない。ちょっとの前後移動でも、大きく的を外させることができるのだ。

 

「前進してください!」

 

みほは間髪入れず指示を飛ばした。

一か所に拘泥している暇はない。みほ達の目的は、もっと別の所にある。

 

M4の砲身が此方を向くよりも早く、四号戦車は加速して大きく左折。

最右翼から中央へと一気に横断する。その先には、また別のM4。

三対二の状況は変化し、右翼二対二、中央一対二へ。

 

『隊長!四号がそちらに向かいました!』

「四号だけじゃないぞー!!」

 

否、中央も二対二だ。

後方から高速で地を駆けてきた八九式が、風を切りながら四号の横に並ぶ。

流石は()()八九式、通常のスペックからかけ離れた常識外れの速さである。

戦場から最も離れていたアヒルさんチームだが、おそらく彼女たちでなければこのタイミングでの合流は不可能だっただろう。

 

「隊長車がいます!よく注意して!」

「ワオ、いいわね。受けて立つわよ!」

 

麻子が流れるようにギアを上げた。

更に右翼から中央にかけては少し下り坂。重力の力も加わって、四号と八九式は一段と加速する。

これによりみほ達は、右翼と中央の距離を大きく開けたまま接敵することができる。

その広大なスペースこそ、みほがこの状況で一番欲しかったものだ。

 

稜線を上手く使いながら、四両の戦車が砲火を交える。

火力はサンダースが上だが、効率では僅かに大洗女子が上回っていることにより、状況は五分。未だ右翼と交戦中のウサギさんとカバさんもどうやら同じ様子。

吹き抜けていく風が、草の香と硝煙の匂いを一緒くたにかき混ぜていき、目と耳と鼻が戦火に染まる。

 

均衡してる、とみほは思った。でもそれは一時的なもの。

こちらは四両で全てだが、向こうはまだ左翼の二両が残っている。

その二両がどう動くかによって、この均衡はあっけなく崩れるだろう。

 

しかし大洗女子学園は知っていた。

読んでいたのではなく、知っていた。

サンダースが描く未来への道筋、その全てを。

 

左翼の二両が即座に連動を開始し、中央へと迫る。

右翼ではなく中央に来たのは、単純な距離と地形の問題。

みほ達が先ほど三対二の状況を作ったように、サンダースは前後から挟んで四対二の状況を作ろうとしているのだろう。

 

「左翼が来ます!」

 

みほの声は、今度は無線に乗って伝播していく。

傍受されても問題ない内容なら、いくらでも流して構わない。

その一言だけでみほ達の動きを知ることはサンダースにはできないが、みほ達にはそれで充分なのだ。

 

迫りくる左翼の二両は、無防備な四号と八九式の側面へと一直線。

数十秒後の未来(撃破)を想像するのはあまりにも容易。

しかしみほに、みほ達に動揺も焦りもなかった。

 

だって、

 

「行くぞ左衛門左!」

「応とも!」

「あゆみ右!あや左!撃って!」

「いっけー!」

「当たれー!」

 

それを止めてくれる仲間がいると、知っていたから。

右翼と交戦していたウサギとカバが、反転し中央へと向かい、移動中の左翼へドンピシャのタイミングで砲撃を浴びせる。

 

不意を突かれた二両の足が止まり、その分の猶予があんこうとアヒルに与えられる。

瞬間、あんこうとアヒルはあまりにも早く転進していた。

 

目指すはサンダースの三部隊が描く三角形の中心点。

先行する八九式を視界に収めながら、みほは指示を飛ばす。

 

「砲撃用意!」

 

照準の先は、ウサギとカバの背後を狙う右翼。

行進間射撃で砲弾の雨を浴びせ、彼女たちがそうしてくれたように、みほ達も右翼の足を止める。

 

思うように進めなくなっている二両のM4を見ながら、みほは嘆息した。

 

これが、あの特訓の成果。

戦局の秤がみほ達の方に傾きつつあるのは、みほ達が常に先手を取り続けているから。数の上では不利ながら、それでも大洗女子が互角以上に戦えている理由はひとえにみほ達が能動でありサンダースが受動であるからだ。

 

それは言葉にするほど簡単なことじゃない。先手後手なんていうのは、ちょっとの拍子であっけなく逆転するもの。有利な状況を維持し続けるのは難しい。

 

でも大洗女子はそれができている。

なぜなら大洗女子は、サンダースの一歩先にいるから。

大洗女子のアクションに対する、サンダースのリアクション。それをみほ達は読んでいる。

 

そう、みほ達にははっきり見えている。

攻めるべきポイント。サンダースの思考。次に自分たちがすべき動き。

その全てが掌の上にあって、自在に角度を変えて見つめられるような感覚が確かにある。

 

(だから――――――――)

 

右翼の足を止めても、あんこうとアヒルの動きは止まらない。

エンジンを最高に唸らせ、ギアはトップギアに。履帯を力の限り回し、戦車は羽が生えたかのように走る。

 

ウサギとカメの後方を通る形で迂回。終着点は、左翼の側面。

流麗な動きにより完成するは、一つの形。

 

大洗女子学園四両による、十字砲火(クロスファイア)

 

隊長の号令の元、五つの砲身が雷を放つ。

吐き出される火球は雨となり、二方向から鋼の装甲を穿つ。

一つ一つは小さな雫だとしても、積み重ねればそれは岩に穴を空けることだってできる。

 

数では不利。それは百も承知。

でも総数で劣っているからといって、全ての状況で同じく劣っているわけじゃない。

こんな風に瞬間的に二対四の状況を作れたように、局地的になら大洗女子学園は数的有利に立つことができる。

 

何時でもできるかと言われたら無理だ。

射線を通しづらく起伏に富んだ地形、部隊間にある大きなスペース、その他諸々の条件が整って初めてできることだから。

 

でも環境が良かったからできたわけじゃない。

発生した好機を掴み取るだけの力が、ちゃんとみほ達には備わっているのだ。

 

知らず、みほの口は僅かに弧を描いていた。

もう大洗女子学園は、初心者の集まりじゃない。

こんなことだって、もうできるのだ。

 

ポン、と独特の音がした。

黒煙を撒く深緑の戦車は、最後の力を振り絞ってそれを吐く。

 

まるで、小さき者達を称えるかのような、降伏の意を示す白い旗を。

 

『サンダース、M4A1、撃破!!』

 

 

 

 

その時ケイの心の中にあったのは、複雑に入り混じった二つの感情だった。

一つは、驚き。

戦車道を始めて数か月しか経ってないと聞いていた初心者集団が、何十年も戦車道の歴史を紡いできた自分達(サンダース)相手に、互角に立ち回っていること。いや、もうそれ以上だろう。なぜなら彼女たちは一両も失っていないのに対し、こちらはもう二両も撃破されてしまっている。

油断していたわけじゃない。気を緩めていたわけでもない。

ケイたちは正真正銘、本気で戦っていた。

それでもなお裏をかかれ、先を行かれた。それは大洗女子学園がそれだけ強いという証明に他ならない。

たった数か月で、いったい何をすればここまで成長することができるというのか。

 

そして一つは、歓喜。

戦車道、いや全てのスポーツにおける醍醐味。それは、強い者と戦うこと。自分と互角か、それ以上か、そのレベルの相手と戦う中で、感覚が研ぎ澄まされ、自分の力が最大限に発揮される快感、高揚感。

それをくれる相手が、今目の前にいる。

その事実が、ケイの心を弾ませている。

 

「アリサ、読みが外れてるわよ。さっきまでの冴えはどこにいっちゃったの?」

『す、すいません!相手がどうも予想外の動きをしていて……しょ、初心者だからか定石というものがないようで……!』

「ふーん」

 

自分の右腕の返答を聞きながら、ケイは時間を巻き戻した。

 

定石がない。

果たして本当にそうだろうか。

大洗女子学園がやったことを箇条書きにするなら、『相手を分散させる』『相手より早く動く』『相手より多くの数を揃える』の三つになる。

形としては変則かもしれないが、彼女たちがやったことは寧ろ王道中の王道。教科書に載ってるくらい当たり前のことを、忠実に行っていると言ってもいい。

 

そのことに気づかない程、自分の右腕は馬鹿じゃない。

なら、どういうことか。簡単だ、アリサは自分に嘘をついている。

より正確に言うなら、何かを隠そうとしている。

 

(本当に……おばかさんなんだから)

 

そしてケイは、全てを仕舞い込んだ。

本当は言うべきことだ。でも今は、そんなことしてる場合じゃない。

無線のマイクを、ケイはしっかりと握った。

 

「アリサ、指揮権を渡しなさい」

『はっ……えっ!?』

「アリサだけじゃない。各小隊長、全員の指揮権を私にちょうだい。これから全車の動きは、私がコントロールする」

 

サンダースが他の学校と比べて明確に違うことを一つ挙げるなら、それは指揮権が分譲されていることにある。

もちろん最終的な決定権は隊長であるケイにある。しかし交戦中、全ての判断をケイが担っているわけではない。

サンダースは部隊を分けて動くことが多いため、小隊、中隊ごとに長を決め、その者がその場の判断で作戦行動を決めることが許されているのだ。その際、わざわざ隊長に許可を求める必要はない。

隊長であるケイが絶対的な存在であることに変わりはないが、少なくとも戦場においてはケイと同位の者がいる。

 

だから部隊は迅速に動くことができるし、指揮する範囲が限定されることによって自分の能力をフルに行き渡らせることも可能となる。

反面、指揮者が違うことから統一された動きができないというリスクもあるが、サンダースはそれを個々人の能力の高さによって克服していた。

 

それを、ケイは止めようとしていた。

理由はいくつかある。ただこの場で言うべきものは、一つだった。

 

「―――――――()()をやるわ」

『――――――!!!!』

 

息を呑む音が聞こえた。

一瞬後、アリサが反論の矢を飛ばす。

 

『む、無茶です隊長!()()はまだ実戦段階で一度も成功したことがありません!それに本来は二十両以上の戦車で行う戦術です!不安要素の多いこの状況では……!』

「ええ、そうね。貴方のいうことは正しいわ」

 

ケイに否定する気はなかった。

だって同じことを、ケイの理性が訴えているから。

 

「でもやるわよ。他でもない、私の本能が()()()と言ってるの」

 

戦車乗りとしての血が、ケイに痛いくらいに訴えかけてくる。

今まではできなかった。でも、今ならできる、と。

 

「不思議だわ。あの子達を見てたら、アイデアがどんどん出てくる。絶対にできるって、そう思えるの」

 

高揚感が気炎となって迸る。ケイの口は、自然と弧を描いていた。

この感覚に、水を差したくはない。漲る衝動のまま、どこまでも突き進みたい。

 

「ナオミ、フラッグ車は放っておいて、こっちに合流してちょうだい」

『イエス、マム』

「アリサ、ここからはフルスロットルよ!死ぬ気でついてきなさい!」

「い、イエス、マム!!」

 

無線を切り、ケイは辺りを見渡した。

青い空、白い雲、緑の大地。

二両撃破されたというのに、ケイの心はこんなにも澄み渡っている。

その瞳には、はっきりと自分達が行くべき道が映っていた。

 

「さぁ、行くわよ!!GO AHEAD!!」

 

 

 

 

大洗女子学園はこれまでは、あまりにも順調すぎた。

序盤こそ無線傍受により苦境に立たされはしたが、タネを見破った後は一転、主導権を握り戦いを有利に進めた。

『サンダースの戦術を完コピすることで、その対策を見つける』という神栖渡里の特訓、そしてそれを元にして練習してきた形が、限りなく理想に近い姿で実行できたといえる。

その成果が、サンダースの戦車を二両撃破。

 

大洗女子の面々が、思わず歓声を上げたのも無理はなかった。

無線傍受されていることもお構いなしに、わいわいがやがやと盛り上がる。

流れは、完全にこちらにある。このまま一挙に、と大洗女子は気炎を上げた。

 

だが彼女たちは知らなかった。

彼女たちの行動が、眠れる獅子を起こしてしまったということに。

 

十数分後、一度は後退したサンダースが、失った二両を三両の戦車で補い、部隊を再編して今一度大洗女子学園の前に姿を現す。

 

初戦突破に燃える大洗女子学園の前に立ち塞がるは、誇りを傷つけられた全国屈指の強豪校。

あらゆる知恵を、技術を、心を賭して行われる最終ラウンド。

鉄が風を切り、雷が火花となって散る激闘の幕開けは、西住みほの()()から始まった。

 

 

「これ…もしかしなくても」

 

眼にうつるサンダースの戦車。

一見先ほどと同じように見える動きを、西住みほは否と断じる。

記憶が映像となって再生され、それを現実へと投射した時、映像と実像は完全に重なっていた。

 

一瞬の疑問は、確信へと変わる。さっきは無線傍受を神栖渡里と同レベルの読みと勘違いしていたが、今回は断言できる。できてしまう。

だって西住みほは、誰よりも神栖渡里を知っているから。

 

 

これは、

 

 

「お兄ちゃんの、戦術」

 

 




次回予告

「確かに必勝の戦術だっただろうな……相手が、大洗女子学園じゃなければ」

神栖渡里の遺産。
不可能と思われた戦術を完全に自分のモノにし、使いこなすサンダースに大洗女子学園は最大の窮地を迎える。

絶体絶命のピンチ。
しかし大洗女子学園には、西住みほがいた。
世界で一番、神栖渡里のことを知る者が。

繰り出す渾身の策。起死回生の一手。
僅かな勝機を見出し、試合はクライマックスへ。

最後の攻防、その鍵を握るのは……


次回、「サンダースと戦いましょう③ 明鏡止水」


「見せてやれ、五十鈴。あの特訓の果てに得た、お前の力を」



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第23話 「サンダースと戦いましょう③ 明鏡止水 上」

次回予告?やつはもういないよ。

というわけで最後まで完成しなかったので、分割して投稿することにしました。それでも14000字はある不思議。
続きは可及的速やかに投稿しますので許してください。
文章整形なる機能を試してみましたところ、面白いくらいにガッタガッタになったので次回からは封印します。

ケイさん隊長勢の中でもそんなに取り上げられてないけど、多分めっちゃ強いと思う。特にメンタルとか。


 神栖渡里による『対サンダース練習』の効果は絶大だった。

 相手の戦術を何度も体験することによって攻略法を見つけるのではなく、相手の戦術を完璧にコピーすることで弱点を見つけるという逆転の発想。

 大前提である戦術の模倣が著しく困難という欠点はあるものの、それが可能な人間がいればこれほど効果的な練習もなかった。

 

 操縦手と、彼女たち全てを統制する渡里によって流麗に動く戦車たち。

 そこから見える景色を、操縦手以外の全ての者は目に焼き付ける。

 

 本当に不思議なもので、渡里の言う通り視点を変えるだけでサンダースの一見洗練された戦術にも、穴はあるのだとみほ達は気づくことができた。

 そして一度気づいてしまえば、それを自分達が実行するのはあまりにも簡単だった。

 

 回数を重ね、イメージを明確にし、それらを身体に刻み込む。

 目を瞑っていても、サンダースの姿が見えるくらいに。

 

 そして渡里の特訓に加え、みほ達はサンダースの試合の録画も見た。

 渡里がそうしてサンダースの戦術を模倣したように、ビデオの中のサンダースを相手に、みほ達は自分たちが作り上げたイメージがどこまで通用するのか、それを何度も試したのだ。

 

 ここの場合は、こう動こう。

 こう来るなら、こっちの動きで行こう。

 

 そんな風にテレビの前にみんな集まって、ああだこうだと意見を交わす。

 そしてそれを渡里の練習で試し、それが終わればまたイメージを再構築し、また試す。

 大洗女子学園のサンダース対策は、こうして完成した。

 

 ゆえにみほ達の中には、初対戦であるにも関わらず、何十、何百とサンダースと戦ったかのような経験値がある。

 動き一つから即座に相手の動きを察知し、先手を取れるのはそのため。

 大洗女子学園にとってサンダース大付属は、もはや未知の相手ではなく、勝手知ったる相手となっていたからこそ、みほ達は先に二両もの戦車を撃破することができたのだ。

 

 ──────しかし。

 

「この戦術は……っ!」

 

 その時みほの体を走っていたのは、優勢ゆえの高揚感ではなく、一つの戦慄だった。

 眼前に広がる光景。

 それはあまりにも衝撃的で、みほの心を凍てつかせるには十分すぎた。

 

 二両撃破されたサンダースが、一度態勢を立て直すために退くことは想定内だった。

 なんせ数の上では同等だ。数的有利を作っておいて二両撃破されたのだから、同数で戦うことは避けるはず。反撃に出るなら、未だ合流してない三両の到着を待ってからの方がいい。

 

 ならみほ達はどうすべきか。

 普通なら同数の内に仕掛ける。わざわざ相手の戦力が増えるのを黙って待つ理由はないから。

 しかしみほ達は待つことにした。サンダースが退いていくのと同時に、みほ達もまた一度後退して態勢を整える。

 そうして一見有利な状況を放棄し、あえて相手の戦力が増えるのを待った理由は一つ。

 

 大洗女子学園は、サンダースに包囲戦術をさせたかったのだ。

 みほ達はサンダースが一番よく使う戦術への対策は積んできたが、逆に言うとそれ以外の対策は試合の録画から見て取れる範囲に留まる。いくら神栖渡里とはいえ、サンダースの戦術一つを模倣することはできても、それ以外のサンダースの動き全てを模倣することはできなかったから。

 

 だからみほ達は、サンダースが最も得意とする包囲戦術への耐性が最も高く、それ以外は並み程度。ゆえに()()()()()()()()という一見リスクの高い作戦が、大洗女子学園にとっては一番低いリスクで戦える作戦なのだ。

 

 これは決して間違った選択ではなかった。

 みほの見立てでは例え相手の数が増えても、互角以上に立ち回れるはずだったし、ダージリンの横で試合を観戦する渡里もまた、五割程度の勝率を見込んでいた。

 

 それ程までに、大洗女子学園が今日という日のために積んできたものは大きかった。

 

 しかしその考えは、露と消えた。

 見通しが甘かった、と言うには酷かもしれない。

()()を予測することは、この会場の中にいる誰にも不可能なことだった。

 みほも、ダージリンも、そして渡里でさえも。

 次に現れたサンダースが見せた戦術に、目を剥いたのだから。

 

『ウサギチーム、行くぞ!』

『了解!』

 

 三号突撃砲が砲火を以て、サンダースの動きを誘導する。

 容易にM4の装甲を貫く火力の前には、流石のサンダースも棒立ちはできない。傾斜を利用して射線を切り、弾を避ける。

 三突から放たれた弾丸は空を切り、彼方へと飛び去っていくが、しかしカバさんチームに失望はなかった。

 なぜならその回避行動こそが、カバさんチームの引き出したかったものだったから。

 

『二人とも、用意!』

 

 M4の進行方向先、そこには既にウサギさんチームの駆るM3リーが立ち塞がっていた。

 いや、立ち塞がるという表現は少し誤りかもしれない。

 時系列で言えば、ウサギさんチームは誰よりも速く行動を起こしていた。だから正確に言うなら、ウサギさんチームが構えている所に、M4が突っ込んでいった、というべきだろう。

 そして当然、その背景にはカバさんチームの砲撃(追い込み)がある。

 

 この流れるような連携こそが、大洗女子学園の対サンダース戦術。

 相手の動きが解っているから、追い込むことも逃がすことも思うがまま。

 この先読みから生まれる戦場の掌握があればこそ、大洗女子学園は数で劣りながらも有利に立ち回れるのだ。

 

 ──────―ほんの、さっきまでは。

 

 ドン、ドン、と太鼓の音を何倍も大きく、重くしたような音が二つ響く。

 そして散る火花。装甲の削れる音。

 発生源は深緑のカラーリングをした戦車────ではなく、二つの砲身を持った、ウサギのマークを印した戦車。

 

「ウサギさんチーム、大丈夫ですか!?」

『な、なんとか……っ!』

 

 無線から聞こえる声は、苦悶に満ちていた。しかし戦闘続行の意志は消えてはいなかった。

 ひとまずは無事であったことに胸を撫で下ろしつつ、しかしみほの中にある焦りは次第に大きくなりつつあった。

 

(やっぱり、間違いない……)

 

 今の、そしてもう何度も繰り返されているこの一連の動きに、みほはひどく覚えがあった。

 それはいつかの日、いつかの場所で、母と姉と一緒に並んで観た、とある戦術。

 一つの無駄もなく洗練されたソレは芸術的で、一度見たら忘れられないくらい綺麗で、まるで魔法みたいにみほの心を躍らせた。

 

 だから間違えっこない。今、サンダースが見せている戦術から立ち昇る仄かな残照を、あの人に憧れ続けたみほだけは絶対に間違えない。

 これは、

 

「お兄ちゃんの、戦術……っ」

 

 みほは歯噛みした。

 戦況の秤は既に、サンダースへと傾きつつある。

 その要因がこの、みほ達の想定を超えるサンダースの戦術行動だった。

 

 彼女たちがやっていることは、読み合いの破棄だ。

 複数ある選択肢の内から相手がどれを選ぶかという、ジャンケンで相手が出してくる手を予想するのと同じ読み合い。戦車道においては当然であり不可避のそれを、彼女たちは一切無視している。

 

 本来であれば発生するはずの読み合い。そこで勝つために必要なのは、相手がどの手をどのくらいの確率で出してくるか、を知る事。最初にチョキを出しやすい傾向があるとか、あいこの後はグーを出してくるとか、そういう類の話だ。

 みほ達がやってきたのは、それを限界まで突き詰めること。サンダースの何から何までを頭に叩き込み、サンダースが次に何の手を出してくるか、それを瞬時に見極められるようにした。

 

 しかしサンダースはそうじゃない。

 彼女たちは次の手を読むのではなく、()()()()()()()()()

 グーかチョキか、ではなく「私はパーを出すからお前はグーを出せ」と言って腕を掴み、自分達に都合のいい手を相手に出させる。

 厄介なのは、そこに拒否権がないことだ。

 巧みに戦車を動かし、状況を構築。そこに相手を追い込んで、相手が気づいた時には「ほらグーを出すしかないでしょ?」とパーを突きつけながらにっこりと微笑んでいる。

 

 解っていても、そうせざるを得ない。

 畢竟、それを作ることで、相手を制御下に置くことこそサンダースの戦術であり、それはまさしく神栖渡里の戦術でもあった。

 

『おい西住!! あれはなんだ!?』

『攻めているはずが、攻められている……まるで狐に化かされたような感覚だ』

 

 無線から焦りを滲ませた声が聞こえる。

 無理もない、とみほは思った。

 みほは知っているからこそ驚かないが、そうでなければ同じくらいビックリしただろう。

 しかし知っているからこその驚きもまたある。

 

(なんでサンダースがお兄ちゃんの戦術を……)

 

 似通っている、というならまだ話は分かる。

 戦術に特許なんてないから、一つの戦術でも使い手は十人も二十人もいて、誰か一人の物になることはない。

 でもこれは違う。明らかに一人の人間の頭から出てきたとしか思えない程、サンダースのソレと兄のソレは同じだった。

 

 その理由は、みほにはわからない。

 どういう因果なのか、おそらくそれを知るのは他ならぬサンダースと兄だけだろう。

 

「……沙織さん、全車にメールを」

 

 みほは武部に合図を送り、戦線を下げることにした。

 サンダースの戦術が機能している間、みほ達が本当の意味で先手を取ることはない。

 みほ達の打つ手はすなわち、サンダースによってコントロールされたもの。その時点で先手後手は成立していない。

 

 サンダースの意表を突く一手。あるいは、サンダースの戦術を撃ち砕く一手。

 それがなければみほ達がいくら攻め続けても、いずれは衰弱して倒れるだろう。

 

 それに、ここにきて俄然存在感を出し始めたものが一つある。

 

「ひぅっ、し、至近弾!?」

「……少し顔を出しただけでコレか。どんな精度だ、まったく」

 

 まるで地震みたいに、車体ごとみほの体が揺れる。

 あまりに強烈な音と振動に、沙織が思わず身を竦めた。

 その横で操縦桿を握る麻子は、普段と変わらない様子だが、言葉には微かに驚嘆の思いが込められていた。

 

 それはみほがこの試合で、ある意味隊長車よりも警戒していたもの。

 あの手この手で、まともに戦うことは避けようとしていたもの。

 

 かつて世界最強を謳われた虎を撃ち抜いた、肉食の蛍(ファイアフライ)

 

 大洗女子学園の戦車のいずれをも、一撃の元に沈めることができる火砲を持った怪物。

 そしてそれを駆る、静かなる敏腕の砲手。

 それが徐々に、牙を剥き始めていたのだ。

 

 未知の戦術。脅威の火力。

 形勢は一気にサンダースへ。

 時間はみほ達の味方をせず、何もしなければ敗北し、無策で動いても結果は同じ。

 大洗女子学園は混乱の中にあり、打開は困難。

 

 もし勝敗を分かつ線というものがあるのなら、きっとみほ達は今その真上に立っている。

 そしておそらく、ほんの少し押されただけで、大洗女子学園は容易くその線を越えるであろうことを、みほは悟っていた。

 

 

 

 

 ○

 

 ケイがそれを見つけたのは、本当にただの偶然だった。

 高校二年の夏のこと。

 チームの新体制が始まるから、ということで行われた大掃除の途中。

 何百何千のロッカーを収める大部屋の、奥の奥の奥にあった、買い替え寸前のオンボロ倉庫。

 その中にひっそりと、まるで封印されるようにして隠されていた、一冊のノート。

 埃被っていて、ページの端も折れていて、いかにも年季が入ってそうなソレを、ケイは偶然見つけた。

 

 こういった誰かの置き忘れだか放置物だかが見つかるのは、サンダースでは珍しくない。

 サンダース大付属戦車道。その歴史は長く、その長さに比例するだけの数の人間が、この場所で三年間を過ごしてきている。

 だからケイも、一年生の頃からこういったものはちょくちょく見ているし、同じような経験をしたという声も何十回と聞いたことがある。

 

 しかし今回は、少し違った。

 ケイが見つけたそのノートには、名前もタイトルも書かれていなかったのだ。

 今までケイが見てきたものには、大抵名前が書かれていたし、そうでなくても何のノートか分かるような文言が表紙に書かれていたが、どうもこのノートはそうではなかった。

 

 ただ一つあったのは、表紙の隅っこの方に書かれていた、包帯を巻いたクマのイラスト、のようなものだった。断言できないのは、そのイラストの線があまりにもぐちゃぐちゃで、イラストというよりは落書きに近かったからである。

 

 はてこれはなんぞや、とケイは首を傾げた。

 そして何の躊躇もなく、次の瞬間には中身を見ていた。

 

 ノリと勢いだけ、と言われるとある高校ほどではないが、どちらかというとケイも思考より行動の人であった。

 

 開かれたページ。

 そこにあったのは、記号と図形と矢印だけで構成された、一枚の絵。

 それが瞳に飛び込んできた瞬間、ケイは雷に打たれたかのような衝撃を受けた。

 

 ノートの中にあったのは、戦車道の戦術……らしきもの。

 表紙のクマと同じく断言できなかったのは、それがケイの理解をあまりにも超えていたからだった。

 いや、書いてあること自体は解る。

 戦車がどういう風に動き、どういう風に相手を追い詰めるか。

 書かれている事の意味は解る。

 ただそれは、あくまで表層部分にしか過ぎない。

 リモコンを見て「ボタンを押せばチャンネルが切り替わる」ことは説明できても、どういう仕組みでそうなるかが説明できないのと同じで、ケイは戦術の形は理解できても、その構造が理解できなかった。

 

 ケイとて戦車道の強豪校であるサンダースでレギュラーを務め、この夏からは隊長としてチームの主軸となるほどの実力と素質を持っている。

 だがそれでも、及ばない。

 それほどまでの深度が、そのノートの中にはあった。

 

 だからこそ、その時ケイの中に芽生えた感情は、焔のように熱いものだった。

 もし、これを完全に理解し、自分の物にすることができたのなら。

 そんな風に想像しただけで、全身の血が沸き立つ。

 

 それは確信があったからだ。

 この戦術を使いこなすことができたなら、きっとどのチームにも敗けない。今よりももっと、遥か高みへと至ることができるに違いない、と。

 

 その日からケイの鞄の中には、常に一冊のノートが居座るようになった。

 授業中、黒板を写す振りをしながらノートを読む。

 休み時間、友達と話しながら、ノートを読む。

 練習中、常に片手にノートを携えて読む。

 自室に帰った後も、日課のトレーニングを行いながら、ノートを読む。

 

 読んで、読んで、読んで。

 ページの端がヨレヨレになるくらいに読みこんで。

 二年の冬を越えて三年の春になろうという頃。

 ケイは…………未だその戦術を理解することができていなかった。

 

 勿論全くの進展がなかったわけじゃない。

 段階で言うなら、既にケイはその戦術を実際にチームで使ってみるという、実践の段階まで進んでいた。

 速度で言うなら、そこまでは順調そのものだったと言えるだろう。葉が紅色に変わる季節になる頃には、ケイはそこに到達していたから。

 

 しかしそこからが、果てしない道程だった。

 何度やっても、何度やっても、その戦術は完成しなかった。

 

 必死に勉強して、努力して、練習を重ねた先。

 そこにあったのは形だけを真似た、劣化模造品。

 不細工で美しさの欠片もない、理想とは遠くかけ離れたものだった。

 

 なぜそうなるのか、という過程。

 それが分からないだけで、こんなにも上手くいかないものなのか、とケイは思った。

 もはや習慣であるかのように、ベッドに転がってノートを見る。

 

「どんな人なんだろ」

 

 こんな複雑で、難解で、そして魅力的な戦術を思いつく人。

 叶うことなら一度会ってみたいと、ケイは思うようになっていた。

 そして気の済むまで話し合って、教えてほしい。一から十まで、懇切丁寧に。

 そしたらこんな風に悩まなくて済むのに。

 

 技量が足りないわけじゃない。

 この戦術を実戦するだけの実力を、サンダースの選手たちは備えている。

 ただ一つ欠けているもの、それは要石だ。

 全てを支えるものであり、それさえ理解できたなら、という核。

 それがあればこの戦術は完成する。しかし逆を言えば、それが無い限りは永遠に完成しないということに他ならない。

 

 先は長い。でも、諦めるという選択肢はない。

 この胸にある情熱が、ケイの歩みを止めさせない。

 いつか必ず実現してみせる。

 そう心に誓い、月日を重ね、春が終わりに差し掛かった頃。

 

 最も大事なものが欠けたその戦術は、その欠損を埋められることなく封印された。

 それはかつて、このノートを最初に受け取ったサンダース大付属の隊長と同じ末路だったことを、ケイは知る由もない。

 

 仕方ないことだったのだ。

 もう全国大会はすぐそこにまで迫っていて、それまでに完成させることができるかと言われれば、それは否だ。

 だったらサンダース本来の戦術を、少しでも磨いた方がいい。その方がずっと、勝率が高くなる。

 

 そしてケイは、高校最後の全国大会を迎えた。

 初めてノートを見た時の衝撃と熱を、心の奥底に沈めて。

 魂が震える程切望したことも無かったことにして。

 ケイは深緑のカラーリングが施された戦車を率いて駆ける。

 あと一年早ければ、という後悔を噛み殺して。

 

 きっともう叶えられないと思った。

 あのノートを書いた『誰か』に追いつくことは、もうできないと。

 だから自分は、託すしかない。

 自分にはできなかったことを、自分の後に続く者が受け継ぎ叶えてくれると信じて。

 そうやってケイは、諦めようとした。

 

 ──────────────でも。

 

「ふふっ」

 

 抑えきれない歓喜が、笑みとなって表出した。

 いけない。今は試合中だ。笑うのはいいが、気を緩めるのは良くない。

 ケイは自分を戒めた。

 

「人生、何があるかわからないものね」

 

 あぁでも。

 これは仕方ないだろう。

 だって、あんなにも焦がれた夢が、諦めるしかないと思っていた夢が、まさかこんなところで叶ってしまったのだから。

 

 感謝しなければならない。今日という日をくれた神様に。

 

「さぁ畳み掛けるわよ!! アルファは左から、ブラボーは右から! 左右から囲い込むようにして、相手を後ろに下がらせなさい!」

『イエス、マム!』

 

 不思議なものだ。

 あんなにも難解だった戦術が、今のケイにはまるで何年も連れ添ってきたかのように理解できる。その意味を、真髄を、中核を、ケイは手に取るように分かる。

 

 それが今目の前にいる相手、大洗女子学園のお陰だということを、ケイは知っていた。

 彼女たちが見せてくれた戦術と、彼女たちが持つ強さ。

 それはケイの中で混ざり合い、足りなかった最後のパーツへと成った。

 

 この戦術は、彼女達が完成させてくれたのだ。

 なぜ彼女達がキッカケとなったかは、分からないけれども。

 

「ガンガン行くよー!!」

 

 しかし疑問は直ぐに溶けて消え、ケイは一層アクセルを踏み込んだ。

 なんにせよケイのやるべきことは決まっている。

 この戦術を完成させてくれた返礼として、強豪サンダース大付属の新たな姿を、その強さを見せてやるのだ。

 

 口元が弧を描く。

 気炎は万丈し、ボルテージは最大限まで高まっていく。

 全身の血が沸騰するようなハイテンションの中、ケイは思った。

 

 ────もし大洗女子学園が、今の自分達にさえついてこられたなら。

 

 その時は、今までの人生で一番白熱した試合をすることができるに違いない。

 全身全霊を懸け、魂が燃え尽きてもいいとさえ思える、そんな最高に楽しい試合が。

 

 そうなったらきっと、自分は何の後悔もない。

 だから折れないで、とケイは正面を見据えた。

 立ち向かってきてほしい。負けじと闘志を燃やしてほしい。

 そうして一緒に行こうじゃないか、この興奮の、更に向こうへと。

 

 その時ケイは、きっとあのノートを書いた人に近づくことができるはずだから。

 

 ○

 

「……まさか、対戦相手を強化してしまうことになるとは」

 

 その声色は、後悔と驚嘆を混ぜたようなものだった。

 珍しい、というほどオレンジペコは神栖渡里のことを知っているわけではないが、それでもこの人にはこういう表情はあまり似合わないな、とオレンジペコは思った。

 

 いつも不敵な面構えというか、自信に満ち溢れた覇気のある表情をしているので、こういったマイナスな表情をされると妙なギャップがある。

 

「ということは、やはり()()は渡里さんが?」

「……あぁ、間違いなく俺が作った戦術だ」

 

 ダージリンの問いに、渡里は片手で顔の半分を覆いながら答えた。

 それはバツの悪そうな顔を隠すためのものだったかもしれない。

 

 オレンジペコは視線をモニターへと移した。

 そこにあるのは、尋常ならざる動きで大洗女子学園を攻め立てるサンダースの姿。

 いや、攻め立てるという表現はもしかしたら違うかもしれない。

 なぜなら一見、攻めているのは大洗女子学園の方だから。でも、現状どちらが有利かと言われれば、それはサンダースの方になる。

 

 だって大洗女子学園は、あくまでサンダースの掌の上にある。

 どれだけ果敢に攻めようとも、それは結局サンダースにコントロールされたもの。

 針を外そうと暴れ、竿を振り回す魚と、それを受け流しながら魚の疲労を待つ釣り人。大洗女子学園とサンダースの構図は、さながらそんなところだろうか。

 あるいは孫悟空と御釈迦様のお話の方が分かりやすいかもしれない、とオレンジペコは思った。

 

 何にせよ、このままでは大洗女子学園はいずれ衰弱する。

 そうなった時、サンダースが怒涛の勢いで反撃に出ることは明白だし、大洗女子学園にそれを防ぐ術がないのもまた同じく明らかであった。

 はっきり言ってピンチである。

 そしてそのピンチに間接的に関わっていたのが、神栖渡里であるらしい。

 

「あの、なぜ渡里さんの戦術をサンダースが……?」

「…………まぁ、隠すほどのことでもないか」

 

 そんなありきたりな前置きをして、渡里は口を開いた。

 

「サンダースは俺の母校なんだ。まぁ中退したから母校と言っていいのかわからないけど、高校一年から二年の冬までは在籍してたんだ」

 

 オレンジペコは喉元から飛び出していきそうな言葉を必死に飲み込んだ。

 神栖渡里という人と話す時は、いちいちリアクションしてはいけない。

 なぜならこの人は、まるでコンビニに行く気軽さでとんでもない事実をポンポン言ってくるから。その度にリアクションしては間が悪くなるし、何より疲れるのである。

 

 この短期間でオレンジペコは、渡里への対処法を身に着けていた。

 そしてそれはダージリンも同様であった。

 

「その時の俺はまだ『西住渡里』だったからね。熊本出身で西住なんて名字じゃ、戦車道やってる奴なら誰でも勘づく。なんとか隠してたけど、あえなく当時のサンダースの隊長にバレて捕まって、一つ頼み事をされたのさ」

「その頼み事が、他でもないあの戦術ということですか」

 

 察しの良いダージリンに、渡里は気を良くしたようだった。

 薄い笑みと共に、彼は言葉を紡ぐ。

 

「その通り。ビッグ4なんて呼ばれてはいるけれど、ここ最近は黒森峰の一強状態。なんとか黒森峰を倒して優勝するために、知恵を貸してくれないかってね」

 

 そこで彼は腕組みをして、呆れたような表情になった。

 

「流石に笑ったよ。よりにもよって西住流の人間に、黒森峰の倒し方を教えろって言うんだからさ。確かに適任ではあるけど、誰がそんなことするんだよって」

 

 黒森峰女学園と西住流の間に深い縁があるのは、高校戦車道の人間なら誰もが知っていることである。まだ高校一年、それも高校生活約数か月のオレンジペコでも知っている。

 両者の関係は師弟が一番近いと個人的に思うオレンジペコだが、渡里の言う通りならそれは師匠が弟子を倒すようなものである。

 

 誰がそんなことするだろうか。

 

「でも渡里さんは、やってしまったんですよね?」

 

 そしてそれをするのが、神栖渡里という人であるらしい。

 やはりこの人に、常識は通用しそうにない。

 

「結果的にはね」

 

 途端、渡里は言葉を濁した。

 ダージリンの青い瞳から、追及の矢が飛ぶ。

 ぐっさりと射貫かれた渡里は、あえなく白旗を振った。

 

「別に黒森峰が勝とうが負けようがどうでもよかったんだ。俺はあくまで西住流の人間であって、特に黒森峰に対して恩情や義理があるわけでもなかったし、今でもそう。頼まれたら多分普通にやる」

 

 そこで渡里は一度言葉を区切り、妙な間が空く。

 その間隙は、彼の心の準備を整える時間だった気がした。

 

「ただその時の俺はちょっと……なんだろうな、うん。荒れててね」

「荒れる?」

「あーこれ黒歴史だからあんま言いふらさないでほしいんだけど、精神的に幼かったというか、頼まれたからって素直に聞くような柄じゃなかったんだ」

 

 ダージリンの横に座る渡里は、ひどく居心地が悪そうに身体をソワソワさせた。

 苦虫を噛み潰した顔、というのをオレンジペコは初めて見た。

 

「クソガキだったなぁ……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()を何食わぬ顔で渡したんだから」

 

 その言葉の意味を、オレンジペコは量りかねた。

 それに気づいた渡里が、間もなく言葉を続ける。

 

「戦車道の戦術っていうのはたくさんあるけど、その全部を完璧に使いこなすことは絶対にできない。これは力量の問題じゃなくて、気質の問題だ。例えば大洗女子学園には、聖グロのような浸透強襲戦術はできない。要となる装甲が薄いのもあるけど、相手の攻撃を受けながら試合を作っていくっていうスタイルがそもそもあいつらには向いてない」

「そして私たちにも、大洗女子のような機動力を活かした変則的な戦い方はできない。戦車の性能以上に、テンポの速い動きへの慣れが足りていないから」

 

 オレンジペコは手元にメモとペンを置いていないことを悔いた。

 しかし代わりに、絶対に忘れないようにと頭に一言一句を刻んでいく。

 

「戦術がチームの性質になるんじゃなく、チームの性質が戦術を決める。だからどうしたって、使える戦術と使えない戦術が出てくる。そしてそれは、サンダースも例外じゃない」

「サンダースは包囲戦術を得意としていますが、その根幹にあるのはもっと別のもの。それが渡里さんのあげた戦術とは致命的に噛み合わなかった、と」

「そう。サンダースの性質は『自由と自立』だ。各選手が自分達で考え、行動する。平時はともかく、試合においては隊長ですら一分隊長として他の選手と同列になるという点が、まさしくそれを表している」

 

 二人の会話は踊るようであった。

 オレンジペコが自分の実力の無さを痛感するのは、こういう時である。

 装填手としての力はあれど、オレンジペコには二人のような戦車道への理解が圧倒的に足りない。かろうじて話の内容が理解できるのは、二人の話し方が理路整然としたものだからだ。

 

「そしてそれが、あの戦術には絶対的にいらない。寧ろ邪魔とすら言っていい」

「つまり、サンダースがサンダースである限り、あの戦術は完成しない。なぜならあの戦術の核にあるのは……」

「個人を徹底的に排すること。各人の自己判断を完全に捨て去り、一人の絶対的存在によって全体がコントロールされて初めて、あの戦術は真価を発揮する」

「なるほど、まさに水と油。サンダースとは対極にある戦術ですわね」

 

 そして渡里は、それを分かった上でサンダースにあの戦術を授けた。

 絶対に使いこなせないことを承知で。

 確かに、性格が悪いと言われても反論できないことである。

 

 しかしオレンジペコには、二つの疑問があった。

 その内の一つを、ダージリンは口にした。

 

「なぜそんなことをなさったんです? 渡里さんなら、もっと他に手はあったと思うのですけど。それこそ、サンダースにしか使いこなせないような戦術だって──―」

「戦車道が嫌いだったから、かな」 

 

 その言葉は、あまりにも静かだった。

 しかし戦車の砲撃音にも負けないくらいの衝撃を伴って、ダージリンとオレンジペコを襲った。

 いっそ大声で言ってくれた方が良かったかもしれない。

 そんな、消えてしまいそうな儚げな笑みを浮かべられるくらいなら。

 

 オレンジペコには立ち入ってはいけない領域へと足を踏み入れた感覚があった。

 おそらくダージリンも同じだろう。

 

「元々サンダースに入ったのも、戦車道以外で夢中になれそうなものを探すためだったしね。戦車道から離れよう離れようとしているところに、そんなことを頼まれて丁寧に対応してやれるほど、俺は大人じゃなかった。だからムカついて嫌がらせをしてしまったわけさ」

 

 本当はダメだけどね、と締めくくって、彼はモニターへと目を移した。

 それだけの動作で、オレンジペコとダージリンは追撃の機会を失った。

 

 これ以上は、きっとごく限られた人にしか許されていない領域だと思った。

 そしてその権利は、ダージリンとオレンジペコにはない。

 それこそ、妹である西住みほのような、そんな深い縁を持つ者でなければ。

 

「……綺麗だなぁ。俺が思い描いた、そのままの動きだ」

 

 感嘆するように、渡里は息を吐いた。

 サンダースの動きは、それほどまでに洗練されている。

 いやあるいは、本来不可能なはずの戦術を可能にしていることに、彼は感動しているのかもしれなかった。

 

「……あの、渡里さん。なぜサンダースは渡里さんの戦術を使えているのでしょうか?」

 

 オレンジペコの二つ目の疑問はそれだった。

 神栖渡里が「できない」ということは、おそらく本当に出来ないはずだ。

 努力すればできるとかそういうレベルじゃなく、最早遺伝子レベルで。

 

 唯一の方法は、サンダースがサンダースでなくなること。

 しかしオレンジペコの目には、とてもそうは見えなかった。

 間違いなく彼女たちは、自分を保っている。そしてその上で、あの戦術を実践している。

 

 この謎が、オレンジペコには分からなかった。

 すると渡里は、当然のようにその答えを持っていた。

 

「キッカケは大洗女子学園だろう。あいつらの中にある微かな俺の残滓を感じ取って、一気に開花した気がする。そうじゃなきゃ、最初から使ってるはずだろうし」

 

 神栖渡里の教えを受けている大洗女子学園だ、当然節々にその影響が見られる。

 それらがケイの中の未完成だった戦術と呼応し、核へと成ったということか。

 

「ただおそらく、本質はそこじゃない。サンダースがサンダースのままあの戦術を使えている理由は────―」

「ケイさん、ですね」

 

 ダージリンの言葉に、渡里は頷いた。

 

「『自分の言う事だけ聞いてろ。それ以外は何もするな』。そう言われて素直に聞くほど、サンダースの生徒は従順じゃない。そういうのとは対極にいる人間が集まってるからね」

 

 自由と自立。自分を認めているからこそ、人を認めることができる。

 そんないい意味で自尊心に溢れた人間が多くいるのが、サンダースだ。

 しかしだからこそ、あの戦術は絶対にできないはずだった。

 

「でも今のサンダースは、それをやってる。自分を組織の歯車とし、ただ与えられた役割を忠実に実行し、それ以外のことは一切しない。そんな自分達の性質とは正反対のことを受け入れて」

 

 その理由は、オレンジペコの疑問の答えだった。

 渡里は方程式を解いた数学者の口調で、その言葉を口にした。

 

「そうさせているものこそ、サンダースの隊長の統率力。ひとえに、カリスマだ」

 

 おそらくケイ以外の者は、ある統一されたモチベーションの中で戦っている。

 すなわち、『あの人(ケイ)の為に』である。

 

 自我を押し殺してでも、尽くしたい。

 この人のためなら、どんなことでもしてみせる。

 例えそれが、どれほどの苦痛と我慢を伴おうとも。

 

 弁舌でも脅迫でもなく、人望と行動によって下の者に、自然とそう思わせるのが、カリスマ。

 

 隊長と呼ばれる者は皆等しくそういう性質を持っているし、オレンジペコの横にいるダージリンもその例外ではない。

 ただケイのそれは、並外れている。もしカリスマにランクを付けることができるのなら、最高位であることに疑いはなかった。

 

 だからこそ、不可能だったはずの戦術を可能にすることができている。

 

「サンダース大付属五百人を率いる隊長が、伊達や酔狂で務まるはずもない。二十両以上の戦車を統率する力に関しては、おそらく全国で一、二を争うだろうね……流石はサンダースの隊長、恐れ入ったよ」

 

 褒め称える言葉とは裏腹に、渡里の表情は苦しいものだった。

 当然だ。それはつまり、大洗女子学園が圧倒的に不利であることに他ならない。ただでさえ戦力差があるところに、自分でその差を広げてしまったとなると尚更である。

 

 それに渡里は言っていた、『使いこなす事さえできれば、黒森峰を倒すことができる』、と。

 過去と現在の黒森峰にどれほどの差があるかは分からないが、おそらくそこまで離れたものではないはず。

 ならあの戦術は、今でもなお全国屈指の強豪校に届きうる牙だ。

 果たして大洗女子学園がどこまで耐えることができるか。

 

「渡里さんの見込みでは五分五分でしたけれど……」

「厳しい。アレの前じゃ、二割を切る」

 

 随分な勝率の下がり方だ。

 それほどまでに、あの戦術が優れているということだろうか。いや、称えるべきはサンダースの方か。神栖渡里でさえ無理と断じたものをやってのけているのだから。

 

「嫌がらせとはいえ本気で作ったんだ。黒森峰だろうが何だろうが、アレは初見なら絶対に破れない。自分でも言うのもなんだが、確かに必勝の策だっただろうな」

「ではこの試合は……」

 

 大洗女子の負け。

 ダージリンがその言葉を口にしようと瞬間だった。

 突如として空気が変化するのを、ダージリンとオレンジペコは感じ取った。

 確かな熱と、鋭さが肌を撫でていく。

 

 その中心にいるのは、不敵な笑みを浮かべた彼。

 覇気が籠った口調で、彼は言う。

 

 

「────相手が大洗女子学園じゃなければね」

 

 

 それはオレンジペコのよく知る、そしてダージリンが憧れた渡里の姿だった。

 

「大洗女子学園にはみほがいる。俺の戦術をサンダースがそのまま実践してるって言うんなら、それが突破口だ」

 

 逆転への道はまだ失われていない。

 彼の瞳に宿る希望の灯は、果たして大洗女子学園の瞳にも宿っているのだろうか。

 不思議とオレンジペコは、そうに違いないと思った。

 

「唯一残った糸みたいに細い勝ち筋。みほならその入口まで持っていける。そこからは、もう一人次第だな」

 

 その視線の先を読み取れたものはいない。

 ゆえに神栖渡里だけが知っていた。

 長い黒髪の砲手が、この試合の鍵となることを。

 

 

 

 

 

 




作者的隊長勢の統率力比較は、

10両までならみほ、まほ、ダージリンのスリートップ
20両になるとまほ、ダージリン、ケイ、カチューシャの四強
30両になるとケイ、カチューシャのツートップ

になってます。
ポテンシャル的にはみほも30両くらいは指揮できるけど、経験値で他の隊長に一歩劣るイメージ。

まぁあくまで統率力なんでトータルの能力で見ればまた違う結果になると思います。
カリスマという一点ならアンチョビもだいぶいい線行くと思う。


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第24話 「サンダースと戦いましょう④ 明鏡止水 中」

あまりにも長すぎたので分割しました。
予定では三話で終わらせるはずだったサンダース戦も、気づけば五話かかってる現実。

個人的にはもっとサンダース側を掘りたかったです。




五十鈴華はある部屋の前に立っていた。

そこはかつて学校の用務員方が使用していて、今は「旧用務員室」という名前と本と紙の山を与えられた、大洗女子学園戦車道講師が使用する部屋……ではない。

華が呼び出されたのは、かの人、神栖渡里が我が物顔で好き放題に散らかすいつもの部屋ではなく、茶道受講者が使用する和室だった。

 

扉は襖。中にはおそらく畳が敷かれているだろう。

そんないかにもな部屋は校内では浮いてしまうが、華道の名門で生まれ育った華にとっては寧ろ馴染み深くすらある。

もし自分が着物を纏っていたら、それこそ実家にいるような気分だっただろう。

 

ふと、華は考えた。

なにゆえ、渡里はこの部屋に華を呼んだのだろうか。

いや、華が呼ばれた理由は知っている。

先日の一件。華が渡里にお願いした、日本一の砲手になるための特別メニュー。

その準備が整ったのだろう。

 

いよいよ始まるわけである、あの神栖渡里が「尋常じゃない過酷さ」と言う練習が。

後悔は一つもない。華は西住みほを支えられるよう、誰よりも強くなると誓った。

そのためなら何でもするし、何だって耐えてみせる。

その覚悟は既にできているから。

 

ただそれとは別に、当然緊張はある。

渡里の練習が厳しいのは既に身を以て理解しているが、それに輪をかけて厳しいという。

頭を過るのは何百発とひたすら砲弾を撃ち続けさせられた初日の練習。思わずお風呂場で気を失いかけたことは記憶に新しい。

あのレベル、より上。それは既に華の想像できないものになっていた。

 

(でも……なぜ和室なのでしょうか)

 

かつては茶道、華道と並ぶ日本伝統文化であった戦車道だが、その二つとの関連はほとんどないように思える。それこそ和室、畳の上で行われるものという点で華道と茶道は共通しているし、それ以外にも結構似通っている点はあるが、戦車道はちょっと思いつかない。

 

もしかして華が知らないだけで、戦車道もまたこういう場所でこそ養われるものがあるのだろうか。少なくともみほや優花里からはそういった話を聞いたことはない。けれど渡里が「そうだよ」と言えば、自分は信じてしまうかもしれない。それだけの説得力を、渡里は戦車道において持っている。

 

なんにせよ、考えても仕方ないこと。

華は深呼吸を一つした。

玄関にはすでに男性のものとしか思えない靴が置かれている。

その持ち主が誰であるかは明白だった。

これ以上待たせるわけにはいかない。

扉は目の前にあるのだから、事ここに至っては行動あるのみである。

 

「失礼します」

 

靴を脱ぎ、膝をつく。

そして慣れた所作で華は襖を開けた。

 

「五分前か、感心だな五十鈴」

 

そしてすぐに、華はその人の姿を認めた。

八畳ほどの和室の、一番奥。

片膝を立て、壁に背中を預ける、この部屋が普段茶道で使われていることを考えると大変無作法な姿勢で、渡里はそこにいた。

 

そして華の時間は停止した。

渡里の姿をその両目に収めた瞬間、華は魔法をかけられたみたいに指一本動かせず、ただ吸い込まれるように渡里を見つめることしかできなかった。

 

人を「柔らかい人」と「鋭い人」に分けるなら、妹の西住みほは圧倒的前者であるのに対し、兄の渡里は圧倒的後者に分類される。

例えば目。釣りがちな大きな目の中には覇気が満ちた瞳。

例えば風貌。180㎝はあろう高身長、全体的に引き締まった身体。

例えば言動。ハキハキとした口調に、遠慮しない物言い。

おおよそテレビの中で見るような爽やかで煌びやかな男性アイドルのようなタイプとは全く異なった人間であることに疑いはない。

 

しかしその内にある優しさを、華たちは知っている。

誰よりも真摯で、誠実で、真っ直ぐで。

人を思い遣る心をしっかりと持っているということを。

だからあんなに慕われる。

例え外見が威圧的でも、中身は妹と同じ。

本質的に、優しい人。

 

華は、そう思っていた。そしておそらく、大洗女子の誰もがそう思っているだろう。

でも()()は違う。

今華の前に座す神栖渡里は、華の知っている姿から大きく逸脱している。

 

身に纏う空気は、氷の刃の如く。

瞳に宿る光は、銀色に輝く。

周囲のもの全てを切り裂いてしまいそうなほど練磨された鋭い覇気が、華の肌を撫でていく。

しかしそれでいて、余りにも静か。

波紋一つ立たない凪いだ水面がそこにはある。

 

外見通りでも、中身通りでもない。

華に初めて見せる顔をした、完全なる別人の神栖渡里。

どこまでも深い深い眼をして、彼は此方を見ていた。

 

「まぁ座れよ。生憎茶は出せないけどな」

「し、失礼します……」

 

その声がなければ、おそらく華は永遠に停止したままだっただろう。

それほどまでに、今の渡里からは並み外れたものを感じる。

それが何かを、言葉にすることはできないけれど。

慌てて、それでいて音がしないように戸を閉め、渡里の正面に置かれた座布団へと華は向かった。

 

(これが……みほさんの言っていた戦車道をしている渡里先生、なのでしょうか)

 

みほが渡里を語る時の常套句は二つ。

『戦車道以外何もできないダメ人間』と『戦車道をしてる時は誰よりもカッコいい』、である。

基本ああだこうだと、渡里のこととなると口数が多くなるみほだが、言っていることの大半はその二つに分類できる。

そしてその二つの顔は、華たちが知らないもの。みほだけが知っているものである。

 

華の中で渡里は、ある種の完璧人間に近い。

何でもできるし、何でも知っている。それでいて高い能力に驕ることはなく、自分より能力の低い者に合わせることに対して何の躊躇いもない。頼まれたことは最大限の努力と誠意を以て応えるし、それに見返りを求めることもない。

 

だから『ダメ人間』なんて言われても、華は全くピンと来ない。華の中で渡里は、寧ろその対極にある。

しかしみほ曰く、「できるとこしか見せてないだけだから。みんな騙されてるよ」とのこと。

つまり悪い部分は巧妙に隠していて、良い部分だけを見えるようにしている、らしい。

確かに、そういった片鱗は見えたりしている。特に用務員室の物の置かれ方とか。

だから、みほがそういうのなら、渡里は完璧人間なんかじゃなく、寧ろ欠点だらけの人なのだろう。華が知らないだけで。

 

そして同じく、みほが言う『戦車道をしている渡里』もまた、華たちは知らない。

普段見ている渡里の、華たちに戦車道を教えてくれる顔を、華たちはそうだと思っていたのだが、みほに言わせれば全然違うらしい。

曰く、あくまでアレは戦車道を教える先生としての顔であって、実際に競技に参加する選手としての顔は別にあるとのこと。

そしてその顔こそ、みほが『誰よりもカッコいい』と評する渡里の姿らしい。

 

それを華たちが見る機会は一度もなかった。

渡里はこの学校にいる間は、「講師」としての顔しか見せない。

だからいつか、一度でいいから見たいと思っていたのだ。

 

 

だって『戦車道をしている渡里』を語る時のみほはすごく嬉しそうで、まるで宝物を自慢する子どものような顔をするから。

 

 

その後に「子どもの時はそう思ってたっていう話だけどねっ!」とバレバレの嘘を慌ててつくまでが、お決まりの流れである。

みほは隠している気らしいが、西住みほが結構なブラコンであることは、あんこうチームでは既に周知の事実なのだ。本人は一向に認めないけど。

 

でも、と華は思わず息が漏れそうになるのを堪えた。

これは、仕方ないと思う。

今目の前にいる渡里が、みほの言う『戦車道をしている顔』だと言うのなら、これはあまりにも心惹かれる。

今まで男の人は数え切れないくらい見てきたけれど、これほどまでに惹きつけられる人は華の人生にいなかった。

みほが憧れるのも当然だ、と華は思った。

 

とくん、とくん、と胸が大きく鼓動する。

これが緊張によるものなのか、はたまたもっと別の理由によるものなのか、華には既に区別がつかなかった。

 

「そう身構えなくてもいい。今日は半分説明会みたいなもんだ」

 

渡里は華の鼓動を、緊張と捉えたようだった。

温和な声色に、しかし華の鼓動が収まる気配はなかった。

依然身を固くする華。すると渡里は浅く息を吐いて瞑目した。

 

途端、世界は一転した。

張り詰めていた空気は跡形もなく霧散し、代わりにやってきたのは木と畳の心地よい香り。

同時に華の肌を撫でていた覇気と、渡里から漂っていた鋭い気配も消え失せた。

 

そして再び渡里が目を開けた時、そこには華の良く知る「講師」としての神栖渡里がいた。

 

「これならいつも通り話せるだろ」

「は、え、あの……」

「大丈夫そうだな、それじゃ始めるか」

 

あっという間に置いてけぼりになる華だった。

どうやら渡里に、先ほどのことを説明する気はないようである。

最早分かることは、これから何かが始まるということと、さっきまでの渡里はもう見れないということだけだった。

 

(なんとなく損した気が……)

「野暮だけど確認だけしとくか。俺はお前を日本一の砲手にする。そしてお前は、そのためにあらゆる努力を厭わず、最後までやり切る―――相違ないな?」

 

華は気持ちを切り替えた。

そうだ、華は渡里を見に来たわけじゃない。

 

背筋を伸ばし、まっすぐに渡里の顔を見て、華は頷いた。

 

「よし。ならまずは、お前が日本一の砲手になれる理屈を教えようか」

 

そこで渡里は壁にもたれるのを止め、身を起こした。

それでもなお、片膝を立てるのは止めなかったが。

 

「現時点で高校最強の砲手は二人いる。別に覚えなくていいが、サンダース大付属のナオミ、それからプラウダ高校のノンナだ。部分的にこの二人に勝るものを持つ砲手もいなくはないが、トータルで見た場合はこの二人がずば抜けている」

 

当然華は、その二人のことを全く知らない。

この時点で華が持っておくべき認識は、日本一の砲手になるためにはその二人を越えていかなければならないということだった。

 

「この二人の実力を数字で言うなら……まぁ分かりやすく90点としよう。これを一点でも上回れば、お前が日本一の砲手になる。単純な算数だな」

「91点……ですか」

 

それがどれほどの数字なのか、華には解らない。

一体自分が今何点の実力を持っているか。そこが明らかになって初めて、その数字の意味は理解できる。

 

「で、お前は今いいとこ50点というところだ」

「……困難な道ですね」

 

分かっていたことではある。

華は戦車道を始めて間もない素人。今の時点で砲手の頂点にいる二人に匹敵するとは思わないし、彼女たちと自分の差が僅かだとも思ってはいない。

だからここから、41点上げればいいのだ。

残された時間を考えると難事かもしれないが、他でもない神栖渡里が「できる」と言ったのだから、華が努力すれば達成できるはずなのだ。

 

「そしてこの合宿を最後までやり切ったところで、お前の実力は85点が精々だ。たった5点の差だが、これはとてつもなく大きい。決定的で、明確な実力差だ……だから」

「勝つために必要な6点を、この特別な練習で補う、ということですね?」

「違う。85点が正真正銘の限界だ。今から全国大会までの時間じゃ、天地がひっくり返ってもその点数を超えることはない」

 

あれ!?と華は目を丸くした。

それでは華は、かの二人には及ばないのだが。

 

華の驚愕を受け、渡里は神妙な顔で言葉を紡いだ。

 

「85点でも、90点に勝てる方法があるのさ。それこそが、これから行う特訓の意味だ」

「85点のままで……?」

 

それは一体、どんな魔法なのだろうか。

ちなみにこの時の華は、大会までの時間で華を85点まで持っていける渡里の手腕がどれほど並外れているのかを理解してはいない。

見る人が見れば、それこそ魔法のようだと言う渡里の育成術を。

 

「俺がイギリスにいた頃に聞いた話だが、戦車道において『練習以上のことは本番では絶対に出来ない』そうだ」

 

曰く、人が自分の力を完全に発揮できるのは練習の時。

なぜならそこには失敗してもいいという心の余裕があり、その余裕がひいては高いパフォーマンスを生むためのリラックスへと繋がるからである。

加えて練習中は、ただ自己を向上させることだけを考えているから余計な雑念もない。

 

適度な弛緩と、程よい集中力。

練習には、この二つが揃っている。

 

「けど本番はそうじゃない。重圧(プレッシャー)や緊張といった様々な要因が邪魔をして、人は自分の力を出し切れない。よくそれらを力に変えるっていう人もいるが、本質的には足を引っ張るものなんだ」

 

だから競技者たちの至上命題は一つ。

いかにして練習と同じパフォーマンスを、本番で発揮するか。

ウォーミングアップ、ルーティン、それらは畢竟『本番を練習のようにする』ための技術に過ぎない。

 

「まぁ俺も全部鵜呑みにしてるわけじゃない。試合の中でこそ発揮されるものっていうのもあるとは思う。でも、練習でできないことは本番でもできないっていうのに異論はない。だってそうじゃなきゃ、練習の意味がないだろ?」

「それは……そうですね」

 

それができるなら、誰だって練習なんかしないはずだ。

華だって毎日のように花を活けるのは、腕を錆び付かせない以上に新しい発見をするためというのが大きい。

 

「どれだけ努力しても、本番で発揮できるのは練習の九割。1()0()0()()はないって言われてる。これは誰もがそうで、さっき言った二人も例外じゃない―――けど、もしそれができたなら?」

「!」

「相手が90点の力を持っていても、本番ではどうやったって81点だ。自分が85点しか持っていなくても、100%の力を発揮できたなら本番では4点分勝てる」

 

筋が通ってるだろ、という渡里の言葉に、華はただただ頷くことしかできなかった。

確かに渡里の言う通りなら、華が85点の力しか持っていなくても問題ない。

練習では負けているとしても、肝心の本番では勝てるのだから。

 

「本来持っている力を『実力値』、実際に試合で発揮できる力を『発揮値』って俺は教わったけど、まぁ小難しい言葉を使うほどの理屈じゃない。そういうもの、と漠然と覚えてるだけでいいよ」

「……ですが、100%は無いって言われてるんですよね?一体どうすれば……」

 

問題はそこだった。

渡里の理屈は確かに納得できるが、それはあくまで理屈の上ではだ。

実際にやるとなった時、不可能と言われているソレをどうやって成すのか。

 

華の問いに対する渡里の答えは、あまりにもあっけらかんとしたものだった。

 

「集中する、それだけだ」

「へ?」

「もちろん、ただの集中じゃないけどな」

 

そう言って渡里は居住まいを正した。

 

「五十鈴、自分が一番集中しているなって感じる時はいつ?」

「えっ。えーと……花を活けている時でしょうか」

「具体的に説明できるか?」

 

その問いに、華は幾秒かの間を置いて、たどたどしく言葉を紡いだ。

 

花を活けている時の意識。

華の感覚としては、まず自分と花以外のものが世界から消えていく。

次に音が消え、残るのは香りと色だけになる。

そうすると華の意識は、花だけに投射される。それもまっすぐに。

そして活けることだけに没頭し、それ以外のことは何も考えられなくなる。

 

納得のいく花を活けることができた時は、決まってそういう時だった。

 

「つまりお前が集中している時、お前の意識は花と自分、あるいは花を活けるという行為にのみ注がれている。じゃあそれ以外は?」

 

それ以外、と言われて華は言葉に詰まった。

 

「無いよな。お前が花を活けてるのがどこか知らないけど、そこにはきっと家具や畳、鳥のさえずりや人の生活音なんかがあるはずなのに、それらはお前の意識から消されてる」

 

それはそうだ。だってそうして必要のないものをそぎ落として、一つの事に没頭することこそが集中するということのはず。

だから華の中にそんなものはない。寧ろより集中するためには、あってはいけないとすら言える。

 

「でも本当は、そんな必要ないんだ。だって人は一つのことに集中するのと同じレベルで、全てのものに意識を注ぐことができるんだから」

「え?」

 

渡里の言葉は華の理解を越えていた。

誰にでも分かりやすく物事を説明できるのが渡里の凄い所だが、それは何時でもそうとは限らなかった。

 

()()()()()()っていうのは、一点に注がれるものじゃなく、全体に溢れ出すものなのさ。ま、ここからは説明する体感した方が早いな」

 

そう言って渡里は一度瞑目した。

そして再びその瞼が上がった時、そこにはまた()()()()()()()()()の渡里がいた。

知らず、華は背筋を伸ばした。

冷たいものが、肌を撫でていく。

 

「まずは目を閉じろ。そして俺の言う通りに動け」

「へ、あ、あの……」

「今から俺が連れて行ってやる。お前はその感覚をしっかりと身体に刻み込むんだ」

 

有無を言わさぬ渡里の態度に、華は慌てて目を閉じた。

視界が遮断され、華が感じられるのは音と匂いだけ。

そんな暗闇に、渡里の声は静かに響いた。

 

 

「不可能なはずの100%を成し遂げる力。総てを捉える究極の集中状態をな」

 

 

 



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第25話 「サンダースと戦いましょう⑤ 明鏡止水 下」

書き終わった感想としては、やっぱり原作は超えられねぇって感じです。
ちょっと原作の展開をそのままパクッてしまった辺り、力量不足を痛感しました。

サンダース戦があの熱さで一回戦という事実に震えているし、その後の二試合がそれを更に超えてくる事実にまた震える。

というわけで再放送している原作の方も是非。
この二次創作を読む前に見てください(手遅れ)


大勢は決していた。

 

サンダースが繰り出す戦術。

それは完全に未知のものであり、初見ではかの黒森峰でさえ防ぐことの叶わない必勝の策。

 

そんなものを、よりにもよって自分たちの講師のせいで味わう羽目になった大洗女子学園は、なんとか立て直しを図るもサンダースの猛攻を前に為す術なく、ジリジリと追い詰められることとなる。

 

そもそも大洗女子学園がサンダースを相手に有利に立ち回れていたのは、対サンダースの練習を普通では考えられないレベルで行ってきたから。

それもサンダースの最も得意とする戦術に対して、徹底的と呼べるほどの研究と対策を積み上げてきた。

 

だがそれは、サンダースが普段とは違う動きをすれば呆気なく効果を失ってしまう。

なぜなら時間的な問題と効率的な問題の二つの理由で、大洗女子学園と神栖渡里は対策を立てる対象を絞らざるを得ず、それ以外に関しては特別力を注ぐことができなかったからだ。

 

だからこそ大洗女子学園は、そのことにサンダースが気づく前に決着をつけなければならなかった。

もしサンダースがタネに気づいてしまえば、一瞬にして彼我の間にある実力差が露呈する。そうなれば後は、どうしたってジリ貧の戦いになってしまうからだ。

 

しかし大洗女子学園が避けたかったその展開が、今目の前に広がっていた。

それもとてつもなく大きなプラスアルファと一緒に。

 

本来使いこなすことのできないはずの戦術。

西住みほをして「勝てない」と言わしめる神栖渡里が本気で作ったソレを、高い統率力で再現してみせたサンダース大付属隊長、ケイ。

 

元々全国BIG4の一角を占めるほどの高い実力に、神栖渡里の戦術が加わるとなれば、それはまさに鬼に金棒。

 

観戦している誰もが―――戦車道に詳しくない素人でさえ―――大洗女子学園とサンダース大付属の攻防を前に、同じ思いを抱いていた。

すなわち、大洗女子学園の敗北を。

 

しかし、たった二人だけ例外がいた。

一人は、自分が蒔いた種で自分の教え子たちを苦しめることになった戦車道講師。

一人は、その戦車道講師の横で試合を観戦している、金髪青眼の美少女。

 

二人は知っていた。

一方は長き月日を共に重ねてきたが故に。

一方は互いに矛を交えた経験から。

 

ジャーマングレーの戦車に乗る栗色の髪をした少女の真価は、逆境でこそ発揮されるということを。

 

 

 

 

 

「――――うん、これしかない」

「へ!?みほ、何か言った!?」

 

ヘッドフォンに手を当て、忙しく無線機を操作する沙織は、振り返りながら叫ぶようにしてそう言った。

戦車の中はエンジン音やら何やらで普段よりは声を張らないと聞こえなかったりするが、別にそこまで叫ばないといけないわけじゃない。

にも拘わらず、みほの声が沙織に届かなかったのは、ひとえにいつもよりうるさかったからである。

 

「……流石にまずいな。避けられなくなってきた」

 

地面が抉れる音と、火薬が炸裂する音。

そして鉄が擦れる音が間断なく四号戦車の中に広がっていた。

みほは浅く息を吐いた。

もうずっと、こんな状況が続いている。

此方が一発撃てば、何倍にもなって返ってくるような怒涛の攻め。

雨のように降り注ぐ砲弾が絶えず、そしてあらゆる方向からみほ達を襲っていた。

 

『いい加減厳しいな……!これ以上は持たないぞ!』

『西住隊長、こっちも限界です!』

『根性―!』

 

無線の向こうにいるチームメイトも状況は同じ。

みほは大洗女子学園がいよいよ崖っぷちに立たされたことを悟った。

 

サンダースの攻撃自体は、実はそんなに問題じゃない。

確かにファイアフライを始めとして、油断できない火力の持ち主であることは間違いない。それを効率よく、そして正確に運用するだけの腕もある。

 

ただ起伏に富んだこの地形と、装甲で受けるよりも躱すことを重視して鍛えられてきた大洗女子の性質により、ギリギリの所で防ぐことはできている。

だからサンダースの攻撃だけで、みほ達がここまで追いつめられることはない。

 

問題は、彼女たちの使う戦術である。

神栖渡里が考案したあの戦術の真髄は、読み合いの破棄ともう一つ。

相手の攻撃を著しく無力化させることにある。

 

みほ達の攻撃が全てサンダースによってコントロールされている以上、どれだけ攻めても意味はない。寧ろ攻めた分だけ、それ以上の反撃を被るだけだし、彼女たちの防御はそのまま攻撃の起点となっている。

つまるところサンダースは攻めながら守っているし、守りながら攻めている。

攻防が完全に一体化し、通常は攻撃と防御に分割されるはずの力が、彼女たちは一つに集約されている。

 

そんな相手にみほ達が攻撃と防御の両方に気を配りながら戦っていては、絶対に勝てない。かといって、攻撃一辺倒になれば僅かな反撃でも致命傷となりチームは壊滅。防御一辺倒になれば攻撃する機会を永遠に失い、敗北。

 

何をしても、そして何もしなくても、このままでは大洗女子学園は敗北する。

未だ一両も撃破されていないことは、奇跡としかいいようがなかった。

 

『おい西住!何か策はないのか!?』

「―――――あります」

 

しかしそんな絶望的な状況でも、光明はある。

みほは沙織の携帯電話に、はっきりと告げた。

 

「これからあんこうチームで相手の陣形を崩します。その隙を突いて、みなさんは平地のほうに向かってください――――そこに、相手のフラッグ車をおびき出します」

『なんだと!?できるのか、そんなことが!?』

「すみませんが説明してる時間がありません。合図は此方で出しますので、指示通りにお願いします!あと無線は使わないままで!」

 

そしてみほはキューポラから顔を出し、辺りを伺った。

相手の配置、地形、全ての情報を頭の中に記憶し、三次元的なイメージを構築する。

 

「みほ、大丈夫なの?」

 

気遣うような沙織の視線だった。

無理もない。勝つというには、状況はあまりにも厳しい。

みほだって絶対の自信があるわけじゃない。

 

でもだからこそ、みほだけは莞爾と笑わなければならない。

自身の不安が、周りに伝染しないように。

みんなを少しでも、勇気づけるために。

 

「うん、あのね―――――――――」

 

みほは自分の中にある策を沙織たちに伝えた。

 

「―――なるほど、それなら行けるかもしれませんね!」

「うぅ……ちょっと怖いけどね」

「えぇ、ですがここまで来たら、やるしかありません」

「ごめんね、麻子さん。一番大変な役割を押し付けちゃうけど……」

「問題ない。大船に乗ったつもりでいろ」

 

反応は様々。

しかし意思は一つとなり、覚悟が決まる。

そうなれば後は、迷うことなく走っていける。

 

深呼吸を一つ。機を慎重に見計らい、一息。

 

「行きます!」

 

四号戦車は躍り出た。

 

『なっ!?』

『西住隊長!?』

 

動揺は、サンダースよりも寧ろ大洗女子学園の方に広がった。

それもそのはず。なぜなら四号戦車が向かう先は、いくつもの射線が重なるキルゾーン。

そこに単騎で突っ込むなど、危険極まりない無謀な行為だった。

 

『左衛門左!援護を―――』

「こっちは大丈夫です!みなさんは撃破されないことを最優先で動いてください!」

 

沙織の声が飛ぶ。

それにより四両の戦車は足を止め、あんこうチームは正真正銘の単騎となって疾走する。

 

「ワオ、随分勇敢ね。でも容赦はしないわよ!!」

 

隊長の指示を受け、シャーマンの群れは秩序を以て行動を開始する。

瞬く間に構築される迎撃態勢。その様を、みほは目に焼き付けた。

 

「よーく狙って――――Fire!!!」

「麻子さん!」

 

幾つもの砲身から放たれる火球。

ほんの少しでも動きを止めれば瞬く間に蜂の巣になるような鉄の雨の中を、しかし四号戦車は疾風の如く駆け抜けていく。

 

回避に最適なルートを淀みなく走る。

それはみほの眼と麻子の操縦技術、双方揃って初めて成せるものだった。

どうしても躱しきれないと判断したものは、華が牽制の一射を放ち、相手の砲撃のタイミングをずらすことによって紙一重で避けていく。

 

その動きは最早素人のそれを越えている。

熟練の戦車乗りそのものな疾走を見せる四号戦車誰もが息を呑み、そしてケイもまたみほ達の力量を正確に測った。

 

「ウチの一軍に混じってもそのまま通用するレベルね。本当に初心者なのかしら?」

 

けれど、とケイは無線で指示を飛ばした。

どれほどの腕を以てしても、この網に掛かった時点で無力。

ケイは部隊を動かし、四号戦車が通る()を作る。

合理的に、そして効率的に作られた不可避の罠。その終着点に、ファイアフライを配置する。それでいて他の四両の動きをも牽制するようにすれば、大洗女子を完全に封殺する陣形が完成する。

 

これがケイの目指した、あのノートに記された戦術の完成形。

全てを覆い包み制御する、手掌の戦術。

破れる者など、どこにもいはしない。

 

そう、ケイは思っていた。

 

「―――そうくると思った」

 

次の瞬間、四号戦車は舵を切った。

起伏に富んだ地形をモノともしない鋭角な曲がり。その進路は、ケイの用意した道を大きく逸れていく。

 

「What’s!?」

 

あのタイミングで、とケイは間を丸くした。

もうすでに陣形は完成していた。あの瞬間、あのタイミングであそこから抜け出すことなどできないはず。

だというのに、なぜ。

 

その答えは、単純明快。

()()()()()()()、ということに他ならない。

 

みほはずっと観察し、思考していた。

今目の前にあるこの戦術のメカニズムを、そして記憶にある兄のソレとの相違点を。

全く同じと言ってもいいほどの完成度でありながら、しかしみほはそこにある「指揮する者の差」による違いを見抜いていた。

 

それは陣形の作り方。

兄は戦況、相手の心理、その他諸々の条件全てを加味した上で、その場における最適な陣形を構築する。その構築に必要な情報が変化すれば、それを反映した陣形をまた作り直すし、掛かる時間もごく短い。

ゆえに多大な労力と高い能力を必要とするものの、それは生半可なことでは崩れない鉄壁にして千変万化の陣形となる。

 

でもサンダースはそうじゃない。

向こうの隊長は、その場において最も合理的な陣形を作っているだけ。ちょっとした拍子で入れ替わる表裏一体の合理・不合理を丸ごと飲み込んでしまう兄のソレとは違い、ハマれば強いが相応の脆さがある。

そして何より、合理性に則るがゆえに、その思考は追跡しやすい。

変に裏を読むのではなく、単純(シンプル)に考えていけば、サンダースの隊長が思い描く絵を、そっくりそのまま描くことがみほにもできる。

 

実際先ほどの動きで、それが可能であることをみほは確認していた。

自分が相手の立場なら、とイメージした時、サンダースの動きはみほのソレとほぼ同じだったから。

 

そして同じ絵を描くことができたなら、

 

「全速前進!!」

 

こうして意図的に用意された道をギリギリのタイミングで抜け出し、相手の隊長へと肉薄することができる。

麻子がシフトレバーをトップギアに叩き込み、四号戦車は唸り上げて風を切るように加速する。

 

「フラッグ車じゃなくてこっちに……!?」

 

瞬時にケイは、誰が指揮をしているのかをみほが見抜いていることに気づく。

この戦術を支えてるのはケイのカリスマであり、ケイがいなくなればこの戦術はあっという間に瓦解する。

それを踏まえた上での狙い。破れかぶれにフラッグ車を狙うのではなく、戦術を打破することを優先したのか。

 

しかしみほの狙いは、ケイの予想とは少し違うところにあった。

 

「右から!」

「来るよー!迎撃用意!」

 

短砲身と長砲身が互いに獲物を捉える。

そして間もなく、火を放つ。

 

静止射撃のケイと、移動しながらの砲撃になるあんこうチーム。

当てやすく避けづらい前者と、当てづらく避けやすい後者の一合は、躱された前者と外した後者という結果に終わる。

 

しかしみほは畳みかけた。

不規則な動きで巧みに射線を避けながら、間断なくケイへと砲撃を浴びせる。

一騎討ちに持ち込んだとはいえ、まだ囲まれている状態。少しでも足を止めれば、その時点でみほ達は白旗を挙げることになる。

 

行進間射撃ゆえに華の腕を以てしても有効射は与えられないが、それでもみほは構わなかった。

なぜならみほの作戦、その第一段階はこの状況を作る事にこそあったから。

 

『む、なんだ……急にサンダースの動きが悪くなったぞ』

 

そしてそれは、すぐさま表出した。

あんこうチーム以外の四両を封じていたサンダースの動きが、突如として鈍り始めたのである。

それは一両一両で見ればごく僅かなものかもしれないが、全車一体となって陣形を構築するサンダースにとっては、積もり積もって大きなものとなる。

 

「やっぱり、お兄ちゃんと一緒」

「……なるほど、そういうことね」

「よしよし、流石みほだ」

 

その理由を知っていたのは四人。

オリジナルの戦術を見たことがある西住みほ。

優れた戦術眼で即座に看破したダージリン。

戦術の考案者である神栖渡里。

そして四人の中で最も遅く気づき、衝撃が大きかったのが、

 

「……Shit!」

 

今まさにそれを体感することになったケイだった。

 

(あれがお兄ちゃんの考えた戦術なら……)

 

そこにはある弱点が存在すると、みほは知っていた。

戦術能力において突出した存在である神栖渡里の、唯一の欠点。

それは戦車単騎同士の戦いが、不得手ということだった。

 

『望遠鏡が顕微鏡の機能を持ってないのは当たり前』。

とある西住流次期家元が彼を称したその言葉通り、神栖渡里は広く戦場を見渡す眼を持つ一方で、それを戦車一両レベルにまで縮小させることができない。彼の眼は常に上にあって、それが地上に降りてくることはないのだ。

 

だから渡里の考案する戦術には、その性質が色濃く反映されている。

つまり渡里の戦術に、戦車単騎での動きは存在しないし、想定もされていない。

戦車道において無敵と思われがち(特に大洗女子学園の面々)な神栖渡里の、明確な弱点と言えるだろう。

 

よって渡里と戦うなら、戦術の比べ合いをしてはいけない。

何が何でも一対一の近接戦(インファイト)に持ち込むこと。これが鉄則になる。

 

そして渡里の戦術をそのまま使っているサンダースにも、それは適用される。

 

「ケイさんは全体を統率する指揮官でありながら、戦車一両を指揮する車長でもある。いくらケイさんでも、どちらか片方ならまだしも両方を同時に行うのは不可能」

 

ダージリンは得心がいった気持ちだった。

どれほど完璧に見える戦術でも、必ず弱点はある。

サンダースに言えば、戦術の習熟度が足りなかったことが欠点だった。

 

使い慣れた戦術なら、おそらくケイは全体指揮と戦車単騎レベルの指揮を両立できた。

しかし今は違う。あの戦術を運用するにあたり、ケイは全神経を集中させている。そこに余力はなく、全体指揮に集中している間は単騎レベルの動きが鈍り、単騎レベルの動きに集中すれば全体指揮が滞る。

 

(お兄ちゃんなら、絶対に一対一に持ち込ませないけどね)

 

しいて言えばそこが兄とサンダースの隊長の違いだろうか、とみほは思った。

兄に関して言えば、一対一を想定してないというよりは、する必要がないと言うべきだろうけど。近寄らせもせず、切って捨てるだけの力が、兄にはある。

 

でもサンダースの隊長は、そうじゃなかった。

どんな戦術も、結局は使い手次第だ。

 

「まさかこんなに早く対処されるなんてね」

 

四号戦車と矛を交えながら、ケイは苦笑した。

完璧だと思っていた戦術の欠点を、まさか相手に突き付けられて初めて知ることになるとは思いもよらなかったのである。

いや、本当は欠点なんかじゃなかったはずだ。ケイじゃなく、あのノートを書いた人が使っていたなら、きっと真に完全無欠の戦術になっていたんだろう。

悔しいが、これはケイの力不足だ。

 

しかし大洗女子学園の対処の速さよ。

初心者の集まりと聞いていたが、この対応力を見る限りとんだ誤情報である。

初見なら絶対に防げないはずのこの戦術を、いとも簡単に抜けてくるなんて。

 

「でも……思い通りにはさせないわよ!!」

 

そしてケイは、各車に向けて指示を飛ばした。

隊長の指揮により、シャーマンの群れは迅速に行動を開始する。

 

一対一の状況は、どっちつかずになるため此方が不利。それは間違いない。

でもそれは、()()()()()()()()()()()()()()、の話だ。

少しレベルを落とせば、全体指揮も単騎レベルの指揮も、拙いながらケイは両方こなせる。

 

周りの戦車に四号を包囲させることくらいなら、それでも十分なのだ。

 

「―――――それを待ってた」

 

シャーマンの群れが籠を作る。

疾走する四号戦車の道を塞ぎ、自由に動けるスペースを狭めていくのと同時に、他の四両への抑えも行う完璧な布陣。

多勢を以て少数を撃つ優勢火力ドクトリン。その中に閉じ込められる形になったあんこうチームも、流石に撃破は避けられない。

 

しかし他ならぬこの状況を、みほは待っていたのだ。

車内に目を向け、沙織と一瞬のアイコンタクト。

みほは()()()()()に手を当てて叫び、沙織は携帯電話の鍵盤を高速で叩いた。

 

「囲まれてしまいました!!フラッグ車だけでも0615地点へ逃がしてください!!」

 

『無線はダミーです!!全車、0615地点に向かう相手フラッグ車の側面を突いてください!!』

 

二つの情報が、同時に発信される。

一方は四人に、もう一方は()()に届いたことを、みほは知っていた。

 

そして大洗女子にとっては魔法のような、サンダースにとっては悪夢のような展開がやって来る。

 

包囲網の一角を形成しながら、それでいて被弾しないよう比較的安全圏にいたサンダースのフラッグ車が、突如として戦線を外れたのである。

おそらく誰もが予期していなかった行動に、サンダースの包囲が緩む。

それに呼応するようにして、大洗女子の四両の戦車が一瞬の隙を突き、サンダースの抑制を振り切って疾走を開始した。

 

サンダースのフラッグ車が向かう先は、現在地とは対照的に起伏に乏しい平野地帯。

そして大洗女子学園の四両も、別ルートでそこへ入っていく。

 

あまりにも無秩序なその行動に、たまらずケイは声をあげた。

 

「アリサ、なにしてるの!?そっちじゃなくて――――」

「麻子さん今です!」

 

間髪入れず、四号戦車が突っ込む。

向かう先は隊長車、そしてその延長線上にある、包囲の欠損部。

 

唸りを上げ、地を駆ける四号戦車。

充分な加速によりスピードが乗れば、後はまっすぐ走り抜けるだけ。

 

「砲塔左20度!―――用意!」

「くっ、装填急いで!―――用意!」

 

撃て、の号令で砲身が火を噴く。

装甲同士を擦りつけ合うような近接戦(インファイト)

激しい音と衝撃。立ち上る白煙。

そこには健在の四号戦車とシャーマン。

至近距離での一合は、またもや互いに決定打を与えることなく終わる。

 

しかしみほは構わなかった。

すれ違いざまに一瞥もくれることなく、みほはただ前だけを見つめていた。

その先には完全に孤立した、サンダースのフラッグ車がある。

 

みほ達はサンダースが無線傍受を仕掛けてきていることに気づいていたが、サンダースはそれがバレていることには気づいていない。なぜならみほ達が無線と携帯電話を使い分けることで、巧妙に隠していたからだ。

 

その札をどこで切るか、それが重要だった。

無線傍受を逆用すれば、一度だけだが相手を思い通りに動かすことができる。ならそれは、必殺の状況でこそ切るべき札。

 

そしてそれは今だと、みほは確信していた。

狙いはフラッグ車のみ。そのためには、相手のフラッグ車を動かす必要がある。

無線傍受を仕掛けてるのがどの戦車かは分からないが、こちらのフラッグ車を相手のフラッグ車の目の前に出させてやれば、きっと食いつく。

だってサンダースからすれば、一対一なら絶対勝てる勝負だから。

 

しかしサンダースの隊長が全体を指揮している間は、フラッグ車は動かない。ほかならぬ彼女が、絶対に独断を許さないから。だからほんの一時だけでもいいから、サンダースの隊長の支配力を落とす必要があった。

 

みほが一騎討ちを挑んだのはそのためだ。意識を戦車単騎レベルに注がざるを得ないようにすれば、その分だけ全体への意識が散漫になる。そうなれば普通なら気づき止めれたはずのフラッグ車の独断も、僅かに反応が遅れて許してしまう。

 

(一か八かだけど……うまくいってよかった)

 

どこか一つでも綻べばその時点で詰むような綱渡りだったが、成功は成功。

しかし運が大きく絡んだ結果ではあった。

特に、みほ達は知る由もないが、無線傍受を仕掛けていたのが他ならぬフラッグ車であったところとか。

 

ともあれ此処まで来てしまえば、後はもうシンプルであった。

みほの中には、もう筋書きは一つしかない。

そしてケイもまた、それは同様だった。

 

「相手のフラッグ車を追いかけてください!先に倒せば此方の勝ちです!」

「―――――アリサ、逃げなさい!!私たちが相手のフラッグ車を倒すまでの時間を稼いで!!」

 

そして最後の攻防が始まる。

それは互いに互いの背後を追いかける鬼ごっこ。

サンダースのフラッグ車を大洗女子学園の五両が追い、それをサンダースが追いかける。

 

両者フラッグ車を射程範囲に収めながらの追跡合戦は、しかし大洗女子学園が不利だった。

行進間射撃の練習をしていないわけではないが、互いの練度を考えるとサンダースが一枚上手。特にファイアフライの存在が大きかった。

 

みほとて望んでこの形にしたわけじゃない。

ただ最も勝率の高いものは、と考えた時、これしかなかったというのが本音だ。

だがもうやるしかない。

 

最早意味のなくなった無線傍受対策を捨てて、みほは咽頭マイクに手を添えた。

 

「相手も苦しいのは同じです!落ち着いて、正確に砲撃してください!」

 

言い終わる直後、激しい振動が四号戦車を襲った。

みほは車体にしがみつき、歯を食いしばって堪えた。

 

戦車の中で最も防御の薄い背面を晒し続ける以上、撃破のリスクは高い。その上攻撃に意識を全振りするため、もはや碌な防御手段はない。

撃破される前に、撃破する。もはや道はそれしかない。

 

でもそれは相手も同じ。

みほは頭の中で必死にその言葉を唱え続けた。

そうしなければ自分達だけが追い込まれていると錯覚してしまうくらい、サンダースの攻撃は苛烈さを増していた。

 

チラとみほは背後を伺った。

何か見えないオーラのようなものが、深緑のカラーリングをした戦車たちから立ち昇っている。

それは全国有数の強豪校が持つプライドの具現か、それとも覇気か。

なんにせよ、一筋縄ではいかないことだけははっきりと分かる。

 

(とはいえこのままじゃ……)

 

厳しい、とみほの身体があまりにも冷静に状況を判断分析した、その時だっていた。

 

 

「みほさん」

 

 

不意に、風が吹いた。

いや風というにはそれは、あまりにも切り切りとしていて、夏とは思えない程の冷気だった。

知らずみほの肌は、僅かに粟立つ。

それがどこから来るものなのか、みほは瞬時に理解した。

 

「お願いがあります」

 

声の主は、みほの前に座る彼女。

長く艶のある髪をした、花のように可憐な砲手。

大和撫子を体現するかのように淑やかな彼女は、似つかわしくない程の鋭い輝きを瞳に浮かべていた。

 

「華……さん?」

 

一瞬みほは、彼女が誰だか分からなかった。

それほどの豹変を、五十鈴華は見せていた。

 

まるで―――――

 

「私に、上から狙わせてくれませんか?」

 

――――神栖渡里のように。

 

華は静かな覇気を放っている。

 

 

 

 

 

「―――違う」

「あうっ」

 

パシっ、と軽い衝撃が華の頭を襲った。

全く痛くはないが、それはそれとして思わず華は首を竦めてしまう。

それは華にとって、未知の経験だったから。

 

「また()()()()してるな。そうじゃないと言っただろう」

 

華は目を開けた。

その視線の先には、孫の手を持った神栖渡里が座っている。

アレで華の頭をペシペシしているのかと思うと、使い方が違うと突っ込みたくなる華だった。

 

「入ろうとして入るんじゃない。限界まで集中力を高めていくその()()で入るもんなんだよ」

「うぅ……わかってはいるんですけど」

 

華は深く息を吐いた。

頭では分かっているのだが、どうにも身体の方がついてこない。

華の現状は、そんな感じだった。

 

神栖渡里との特訓を開始して二週間を迎えようというところ。

華は未だ何の手応えも掴めずにいる。そのことが、僅かに華の心を曇らせていた。

 

渡里が華に課した練習は一つ。

ただひたすらに集中すること、それだけだった。

 

集中。言葉にすれば簡単だが、その練習は困難を極めた。

渡里は言った、「どんな状況でも集中できるようにすることが第一段階」と。

 

華にとって集中しやすい環境とは、静かな場所である。

それも無音に近ければ近いほどいい。

加えて誰もいない場所であると、尚更良い。

例えば六畳くらいの小さな部屋で、静寂の中一人で座っていられるような、そんな環境が一番集中しやすい。

 

それを聞いた渡里は言った。

 

『じゃあ戦車の中はどうだ。エンジン音はうるさいしガタガタ揺れるし、暑いし狭いし鉄臭いし一人じゃない。お前の言う集中しやすい環境とは、真逆だろ?』

 

戦車の中というは決して快適ではない。だから絶対的に、集中力を高めづらい環境だ。

それは華に限った話じゃなく、誰もがそう。

 

『そんな中でも集中しなくちゃならない。自分が一番集中できる環境と同じレベルで、だ』

 

そうして華は、四六時中渡里考案のメンタルトレーニングを行うことになる。

賑わう休み時間の教室、先生の声が絶えず聞こえる授業中など、比喩でもなんでもなく、ちょっとでも空き時間があれば何処でも何時でも。

 

これに加えて、渡里が付きっ切りで行うトレーニングもある。

それが肝心の、究極の集中状態へと至るためのものである。

 

『一回でも自力で入れたら、やり方を身体が覚える。自転車の乗り方と同じだよ』

 

その一回が果てしなく遠いものだと、華は実際にやってみるまで知らなかった。

渡里が言うには、限界まで集中力を高めれば勝手に入るものらしいが、未だ華にはできない。どうにもただ集中すればいいというものでもなく、ちょっとしたコツがあるらしい。

 

「意識を一か所に集めて、それを圧縮していく……それがある一定のラインを越えた瞬間、抑えつけられた反動で一気に拡散する……」

 

念仏のように華は渡里のアドバイスを呟いた。

渡里が言う究極の集中状態は、意識が一か所に集まるのと同レベルで全方向に広がる。

白紙に意識の()()で黒点を一つ打つのが普通の集中なら、意識の()()()で全体を黒く染め上げるのが究極の集中状態だ。

 

ただ最初から拡散させようとしてはいけない。それではただの散漫になる。

まずは一か所に意識を集め、それを限界まで高めて爆発させる。

前段階として凝縮という過程を経なければならないのだ。

 

――――というのはわかっているのだが、実際に出来るかと言われればそうじゃなくて。

 

「難しいですね……」

 

とてつもない精神力が必要となる練習だった。

合宿の練習は体力と思考を著しく消耗するが、こっちは心がどんどん摩耗していく。

 

じわりと滲みだした黒い感情を、華は慌てて自分の中から追い出した。

すると見かねたように、渡里は言った。

 

「まぁ、()()()()()ここまで出来てるみたいな所はある。そう気落ちするな」

「私だから、ですか……?」

 

目を丸くした華に、渡里はコクリと頷いた。

 

「元々専門的なトレーニングさえ受ければ、これは誰でもできるもんなんだよ」

「そうなんですか?」

「あぁ。ただ並の人間なら一年は余裕でかかるし、俺もそんくらいかかった。それを大会までの僅かな時間でとなると、情けないが俺だけじゃどうにもならない。これはお前の素質ありきの練習だ。だからお前以外にはやらせてない」

「素質……」

 

そんなものが、あるのだろうか。

思えば以前も、似たようなことを言われた気がする。

華だからこそ、日本一の砲手になることができる、と。

 

しかし他ならぬ華自身が、それを自覚していなかった。

目を伏せる華。すると渡里は、心を読んだかのように言葉を紡いだ。

 

「砲手にもいろんな奴がいる。理屈で撃つ奴、感覚で撃つ奴、何にも考えずに撃つ奴。百人砲手がいれば、百人通りの在り方がある。そんな中でお前は、一体どういう砲手なんだろうな?」

「私は……みほさんの支えになれるくらい強い砲手になりたいです」

「それはお前の想いだ。砲手としての本質じゃない」

 

いっそ冷徹なくらいの、容赦のない言い方だった。

しかしそんな口調とは裏腹に、その表情は穏やかなものなのだから、この人はズルいのだ。

 

「いろいろ聞いてみればいい。誰かと話すことで初めて気付くものもある。それがチームメイトってものだろーーーーーー」

 

そして不意に渡里は立ち上がった。

キョトンとする華をそのまま素通りし、向かう先は出入り口。

そこにある障子に手をかけ、一息、

 

「な、みほ?」

 

勢いよく開け放たれた障子。

その奥に、その人はいた。

栗色の髪をした、華の良く知る友達。

 

西住みほが、いたずらが見つかった子どものような表情をして、そこにいる。

 

「盗み聞きとはいい趣味だな」

 

咎めるような声色に、みほは視線を泳がせた。

 

「いや、お兄ちゃんが華さんと一緒に入っていくのが見えて……何かやましいことでもしてるんじゃないかって…」

「やまっ!?」

「何想像したんだ、お前……意外と耳年増なんだな。流石思春期だわ」

「そそそ、そんなことより!二人で何してたの?」

 

加虐と憐れみを足して二で割ったような、そんな微妙な表情をする渡里に、みほは居た堪れなくなったのか顔を赤くして、早口で話題転換を図った。

地味に頬が熱を持ってしまった華としても、それはありがたいことだった。

 

「別に。お前には関係ないこった、ほら帰れ帰れ」

「ちょ、ちょっと…押さないでよお兄ちゃん。何かしてるんでしょ、華さん。みんなが華さんのこと気にしてるよ。すごい疲れてるって…」

「それは俺のせいだって言っとけ」

「私は華さんに聞いてるの!」

 

押して押されての攻防を繰り返すみほと渡里を前に、華は肩の力が抜けていく感じがした。

この二人はいつだって、仲の良い兄妹そのものの姿を見せてくれる。

それがどれだけ微笑ましく、人の心を温かくしてくれるのか、きっと二人は知らないだろう。

 

優しい兄と、優しい妹。人を思い遣る心を持った、素敵な兄妹。

 

「大丈夫ですよ、みほさん」

 

華は莞爾と笑った。

 

「信じて下さい。今はそれしか言えませんけど、私は大丈夫ですから」

「華さん……」

 

丸い瞳が、気遣いの色で染まる。

 

「本当に大丈夫?お兄ちゃんに何かされたらすぐに言ってね?大声出したらすぐに誰か来てくれるから」

「お前人のことなんだと思ってんだ」

 

心底心外そうな表情と声だった。

 

「五十鈴もこう言ってるんだ。さっさと出てけ。そもそもお前も、人のこと心配してられる立場か。合宿が終わるまでに一回でも俺に勝つんだろ、今何連敗中だ?」

「む……今日は勝つもん」

 

べっ、とほんの少しだけ舌を出すその仕草は、普段のみほからは想像もつかないほど子どもっぽいものだった。

 

「じゃあね華さん。無理だけはしないでね」

 

そして華に向ける表情は、普段通りだというのだから、不思議なものだった。

友達と家族の差、というものを華は改めて思い知った。

 

「邪魔者もいなくなったし、続きやるか」

 

そしてそれは、渡里もまた同様だった。

これは以前から感じていることだが、みほと華達とでは、渡里の態度はあからさまに違う。みほと話している時はありのままの渡里だが、華達と話している時はどこか他人行儀な感じがする。

勿論皆がいる場所では「西住」と呼んでるから、大人としての分別というか礼儀なのだろうけど、それはそうとして少し寂しく思わないでもない。

 

特に華は……

 

「あの、渡里さん.折り入ってお願いがあるんですけど……」

「なんだ」

 

黒い瞳が此方を向く。

視線に貫かれ、喉元まで出かけていた言葉は、ほんの少し引っ込んでしまった。

しかし華は、勇気を振り絞ってその言葉を口にした。

 

「わ、私の事を名前で呼んでくれませんか……?」

「嫌だけど理由を聞こうか」

「私一人っ子で、ずっと兄弟姉妹に憧れてたんです。沙織さんは妹がいるのですけど――――って嫌!?」

 

あまりにもあっけない玉砕に、思わず華は大声を上げてしまった。

 

「ど、どうしてでしょうか!?」

「逆に聞くけどなんで呼ばれたいんだよ」

 

う、と鋭い反論に華はたじろいだ。

その問いに対する答えは、そっくりそのまま華の憧れの暴露になる。

しかし言わないと、渡里は絶対に納得しないだろう。

 

華は意を決した。

 

「その、みほさんと渡里さんのやり取りが、ですね……なんといいますか、すごく羨ましくて……私もあんな風になれたらなと思いまして……」

「はぁ、じゃあみほを妹にすればいいじゃん」

 

発想が天才のそれだった。

しかしそれは、まぁ心躍ると言えばとても躍るのだが、華の求めているところではなかった。

なぜなら他ならぬそのみほを、華は羨ましく思っていたのだから。

 

しかしそれを口にするのは、流石に華の羞恥心の限界を超えていた。

俯く華に、渡里は呆れたように言った。

 

「……分かった。じゃあ条件を出すよ」

「条件、ですか?」

 

こくり、と渡里は頷いた。

 

()()ができたら、名前で呼んでやるよ」

「本当ですか!?」

「本当本当。そんなんでモチベーションが上がるなら俺も文句ないし」

 

明るい表情になった華を、渡里は理解できないでいるようだった。

しかし華には最早些細なことであった。

 

「約束、ですよ?」

「あぁ、約束だ」

 

そっけなく、小指を立てて揺らす渡里の態度に、華は笑顔を浮かべた。

そういうところが、華には不思議と魅力的に見えるのだった。

 

 

そして合宿が終わり、大会本番を迎え、今日に至るまで。

 

 

渡里は華のことを、五十鈴と呼んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

「実は渡里さんから聞いていたんです。もしかしたらこの試合の最後は、こうなるんじゃないかって」

 

それは昨晩のことだった。

練習が終わり、帰路につこうとした華を呼び止め、渡里はある一つの仮定を語った。

 

『最後はどっちが速くフラッグ車を落とすか、そんな砲手同士の戦いになるかもしれない』

 

そうなった時は、お前が鍵になる。

 

真剣な表情で、渡里はそう言った。

もちろんそうならないような試合作りを想定しているし、その通り進むのが最も勝率が高い。

ただ何が起こるか分からないのが本番。

可能性として、備えておいても損はない。

 

だから華は、華だけはずっと気を緩めなかった。

優勢になろうと劣勢になろうと、華の心が揺らぐことはなかった。

 

「このままだと、私たちはおそらく負ける……そうですよね、みほさん」

「……うん」

 

厳しい表情で、みほは静かに頷いた。

車内に動揺が伝わる。けれど華は、少しも不安にはならなかった。

 

「なら、勝負に出ましょう。幸いここは平地、あそこにある高台に戦車を動かしてくれませんか?」

 

広い大地を一望することができる大きな高台。それが進行方向、右側にある。おそらくフラッグ車の進路はこのまま逸れることはない。ならたった一度だけ、あの場所から狙い撃つチャンスがある。

 

「――――私が、撃ち抜いて見せます」

 

沈黙は、一瞬だった。

 

「――――うん、わかった」

 

誰も異を唱えなかった。

それが信頼であることを、華は知っていた。

 

「麻子さん、進路を右へ。沙織さんは各車に通信をお願いします」

「おうよ」

「わかった!」

 

迅速に行動を始める二人。

すると砲弾を抱えた優花里が、神妙な顔つきで言った。

 

「しかし西住殿、おそらくですが……」

「うん、わかってる。坂を登ってる間、間違いなくファイアフライが撃ってくる」

 

サンダースのことだから、みほ達の狙いは一瞬で見抜いてくる。

それを指を咥えて見てるほど、彼女たちは甘い相手じゃない。

けれどもう、やるしかないのだ。

 

「私が、なんとかしてみせるよ」

 

 

そして試合は、最高潮(クライマックス)を迎える。

 

 

隊列の最後尾にいた四号戦車が、突如として方向転換。

部隊から離れ、一人高台へと向かい、登坂を開始した。

 

それを見ていたケイは、すぐに彼女たちの狙いに気づく。

 

「なるほど、勝負に出るのね」

 

ケイの選択肢は二つ。このままフラッグ車を追いかけるか、その前に全車であの四号戦車を撃破するか。

数のアドバンテージを活かせば、おそらく後者が最もリスクが低い。最低限の数の戦車でフラッグ車を撃たせ、残りであの四号を叩く。

これがベストな選択だろう。

 

けれど、とケイは思った。

ケイは彼女たちに、借りを返さなければならない。

あの戦術を完成させてくれたことと、そしてもう一つ。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

今更かもしれない。けれどやらないよりは、ずっといいはずだ。

それに、どの口が言うんだと思われるかもしれないが、最後は正々堂々と戦いたい。

だってこんなにも楽しい試合は、今までになかったから。

何一つも、心残りはしたくないのだ。

 

「こっちも五両で行こっか。三両は待機してて。それから、ナオミ」

『はい』

「アレ、撃ち抜きなさい」

『イエス、マム』

 

観客はサンダースの取った行動に目を丸くした。それは何のメリットもない行為だった。

 

三両がエンジンを停止させ、ファイアフライも高台の上を狙い撃てるギリギリの距離で停止。大洗女子学園のフラッグ車を追いかけるのは、たった三両になる。

 

もしファイアフライが砲撃を外せば、一転サンダースの窮地。

高台の上から放たれる砲撃に対し、サンダースのフラッグ車はあまりにも無防備だ。

しかしファイアフライが四号を仕留めれば、大洗女子学園の勝機は完全に消える。

 

ファイアフライをかわし、四号戦車がフラッグ車を撃破すれば大洗女子の勝ち。

ファイアフライが四号戦車を撃ち抜けば、サンダースの勝ち。

 

勝敗の行方は、二両の戦車に託された。

 

キューポラから顔を出し、みほは後方を眺める。

そこには停止射撃の態勢に入り、照準を此方へと向けるファイアフライの姿がある。

しかし砲撃の兆候はなく、不気味なくらいじっと構えているだけである。

 

そこから逆算して、みほは相手の発射タイミングを予知した。

此処で撃たないのなら、後は頂上に差し掛かるその直前、そこで撃ってくるに違いない。

 

視線を前方へと向ける。

頂上まではあと約6秒。

大きく深呼吸を一つして、みほは全神経をファイアフライへと集中させた。

 

戦車道において弾を避けるというのは、ほとんど不可能に近い。

高速で飛来する砲弾を見てから反応するのは、人間にはできないからだ。

だから後手に回ってはいけない。必要なのは、見る前に避けること。

 

ゆえにみほのやることはシンプルだ。

相手が撃ってくる、その一瞬手前。

そこでブレーキをかけて車体を急停止させ、弾を外させる。

 

少しでも遅ければ弾は直撃するし、逆に少しでも早ければただの的。

速すぎず、遅すぎない。そんな絶妙なタイミングで合図を出さなければならない。

 

それは練習でどうこうできる問題じゃない。

求められるのは数多の実戦経験と、それによって磨かれたセンス。

 

「――――――」

 

西住流、黒森峰女学園と渡ってきたみほであっても、それは困難。

加えて相手は、兄曰く全国の頂点に立つ二人の砲手の片割れ。

おおよそ、狙ってやるのは不可能に近い。

 

だって背後から痛いほどに感じるのだ。

ファイアフライから漂う、並々ならぬプレッシャーを。

 

でもやるしかない。

だってあんこうチームの皆は、誰一人としてみほのことを疑っていない。

きっとみほなら避けてくれると、そう信じている。

他でもないみほが、そう言ったから。

 

そして繋げるんだ。

フラッグ車を倒してみせると言ってくれた、彼女に。

みほのことを信じて、ひたすら前を向く彼女のために。

 

だから見切れ。

呼吸を、感情を、心理を、本来見えぬものでさえも、その眼で捉えてみせろ。

 

 

あの人のように――――総てを見切れ。

 

 

「―――停車っ!!」

 

研ぎ澄まされたみほの五感が、警鐘を鳴らす。

瞬間、反射的にみほは声を張り上げていた。

ファイアフライの砲身が吼えたのは、まさにそれと同時だった。

 

火薬が炸裂し、弾は一気に加速する。

下から上へ、重力に逆らって放たれる魔弾。

 

それが土を抉りながら横滑りする四号戦車の、残像を貫いていった。

 

轟音。舞い上がる砂塵。

 

激しい横Gと着弾の衝撃に、みほは車体にしがみついて耐える。

そしてその二つが時間と共に消えた時、そこには高らかにエンジンを唸らせる四号戦車の姿があった。

 

(なんとか避けれた……けどっ)

 

喜んでいる暇はなかった。

みほの目には、登坂を開始する魔弾の射手の姿がはっきりと見えていたから。

 

ファイアフライが坂を登り切る、ほんの僅かな時間。

何秒かはわからないが、きっと長くはない。

それまでに、フラッグ車を落とさなければならない。

 

それはもう、みほの領分ではなかった。

だから託す。自分の前に座る、彼女に。

 

 

「―――華さん!!」

 

 

しかし既にその声は、華には届いていなかった。

最早華に、避けるだの避けられないだのに割く思考はなかった。

 

なぜなら華は、みほなら絶対に自分につないでくれると信じていたから。

だから華は、ただ静かに、静かに、感覚を砥いでいく。

 

華が集中する時、決まってあるイメージがあった。

それは自身が、水の中に沈んでいくイメージ。

水深はそのまま集中の度合いで、深く集中すればするほど華の身体はどんどん深く潜っていく。

 

そして今、華の意識は水底にあった。

そういう時、華の感覚はほとんど失われている。

音が消え、色が消え、匂いが消えて、最後に残るのは引鉄に手を掛ける感触と、自分が撃つべき相手の姿のみ。

 

戦車という最も集中しづらい環境にありながら、そこまで集中力を高めることができているのはひとえに神栖渡里との特訓の成果だろう。

 

こと勝負所の集中力でいえば、ナオミと同レベルにあると言える。

しかしそれでは、華はナオミを越えられない。

 

自身の力を最大限に発揮するための鍵である集中力。

それがナオミを上回らなければ、華は彼女に勝てない。

 

しかし現在、華の集中力は文字通り底をついている。

これ以上深く潜ることはできない。

 

たった、一つの方法を除いて。

 

華は悟っていた。

渡里が教えてくれた、究極の集中状態。

勝つためには、そこに入るしかない、と。

 

大きく息を吸い、深く息を吐く。

これまで華が()()に入れたのは、一度だけ。

自力ではなく、ほとんど渡里が連れて行ってくれた、その時限り。

しかもそれも、本当の意味で入ったのではなく、そのギリギリ手前という。

 

華は結局、合宿中一度もそこに入ることはなかったのだ。

けれど、

 

『力自体はある。後は、そこに入るためのキッカケだけだ』

 

渡里はそう言った。

なら、入れるはずだ。

今までは無理だとしても、()無理な理由はない。

そう思ったから、撃ち抜いてみせると言ったのだ。

 

(もっと、もっと深く)

 

ここが限界じゃない。

まだ、まだ、華は集中できる。

自分の力を、最大限に引き出すんだ。

 

 

「させないわよ」

 

 

しかしそれを、相手が待ってくれる理由はなかった。

三両のシャーマンから放たれたいくつもの砲弾が、大洗女子学園のフラッグ車を飛び越え、サンダースのフラッグ車のところまで伸びていく。

 

そして着弾したのは、サンダースのフラッグ車の進行方向の先。

何も捉えることのなかった砲弾は、ただただ地面を抉るという結果に終わる。

 

そこに込められた意図は、すぐに明らかになった。

着弾によって巻き上げられた砂塵が、すっぽりフラッグ車を覆い隠してしまったのである。

 

(見えない……っ!)

 

してやられた、と華は歯噛みした。

照準器の先は埃で埋め尽くされており、フラッグ車の姿は掻き消えてしまった。

これでは、撃てない。

 

更に背後から、突如として重苦しいプレッシャーが沸き上がった。

瞬時に華は悟った、ファイアフライがすぐそこまで来ていることを。

もう間もなく、圧倒的な火力があんこうチームを貫くだろう。

 

残された猶予は何秒か。

最早数えている暇もない。

 

撃つしかない。

しかし華には必中の確信が無い。

そして得てして、そういう時は絶対に当たらないものだ。

 

絶体絶命の窮地にも、華の集中力は乱れない。

けれどトリガーにかけた指は、華の心境を物語るかのように震えている。

 

深く、暗い水底で、華は独り。

助けてくれる者はなく、届く声もない、孤独な世界。

 

「五十鈴殿!」

「華!」

「五十鈴さんっ」

 

声は、聞こえない。

 

 

「―――――お願いっ、華さん!!」

 

 

聞こえない、はずだった。

 

 

歯止めとなっていた何かが、壊れた気がした。

その瞬間、華の世界に音と色と匂いが返ってくる。

華の意識は急速に浮上し、孤独な世界が終わる。

 

そして華は、普通の世界にいた。

エンジンの音、鉄の匂い、集中する過程で失くしていった全てのものが華の中にあって、

水に深く潜っていく感覚は跡形もなく消えている。

 

それは華の集中力が切れた―――――わけではなかった。

 

寧ろその逆。

華は自分の集中力が身体から溢れ出し、外界を染め上げていくのを感じていた。

 

「そうだ、それこそがお前の本質だ、五十鈴」

 

彼方にいる渡里が、ポツリと呟いた。

 

「なんのためにいるのか、なんのために引き金を引くのか。それを自覚して初めて、最後の扉は開かれる」

 

何も聞こえなかったのに、総てが聞こえる。

何も見えなかったのに、総てが見える。

まるで世界が、掌の上にあるかのように。

 

背後から迫るファイアフライの履帯の音も。

自分を信じてくれる仲間の姿も。

 

今の華には、全部分かる。

 

(………あぁ、そうですよね)

 

一体自分は、何をしてたのだろう。

追い込まれて、焦燥して、危うく取り返しのつかないことをするところだった。

 

最初からやるべきことなんて決まっていた。

華が今まで努力してきたのは、何のためだ。

他でもない、みほの力になるためだろう。

 

彼女一人に全てを背負わせないように、彼女の支えになれるように、華は強くなると誓った。

なら今ここで、そのみほに託された想いに、信頼に、応えなくてどうするというんだ。

 

だって華は、これまでも、これから先も、ずっと、ずっと。

仲間のために、トリガーを引くのだから。

 

「華、さん?」

「頼ってくれて、ありがとうございます。みほさん」

 

貴女の声がなければ、きっと華はそこには行けなかった。

結局華は、一人ではダメだったのだ。

でも構わない。誰かと一緒じゃなきゃ駄目なくらいが、華にはちょうどいい。

 

全身に纏う覇気は壮烈にして強大。

氷の刃のように鋭く、それでいてどこまでも静寂で、一つとして揺らぐところがない。

それこそ渡里が示した境地。

曇り無き鏡の如く澄み渡り、凪いだ水面の如く静かな心。

 

 

すなわち、明鏡止水。

 

 

指の震えは、もう止まっていた。

瞳に決意の炎を灯し、華は微笑みすら浮かべて照準器を覗く。

 

砂塵に隠れたフラッグ車。

しかしその姿を、華ははっきりと見透かすことができた。

 

なぜなら森羅万象が華に教えてくれる。

吹き抜けていく風が、大地に伝わる振動が、大気に響く音が、無限に広がり流れ出す華の意識に語りかけてくる。

限界を超えた集中力の極致に立つ華の中に、総てはある。

 

「さぁ、見せてやれ五十鈴。あの特訓に果てに得た、お前の力を」

「――――はい」

 

知らず、二人の言葉は重なっていた。

 

高台の頂上に、ファイアフライが到着する。

すでに装填は終えていて、後はトリガーを引くだけ。

発射のタイミングを、華は見ずとも気配だけで察知した。

 

華と彼女、比べればきっと彼女の方がずっと強く、優れた砲手だろう。

 

けれどこの一瞬、この一射だけは、華が一歩先を行く。

 

「発射」

 

そして華はあまりにも軽く、トリガーを引いた。

かかるプレッシャーをモノともせず、まるで練習しているかのように、あっさりと。

 

そうして放たれた砲弾は、まっすぐに飛翔する。

まっすぐ、まっすぐ、どこまでもまっすぐ。

風を切り裂き、砂塵を突き抜け、その奥にあるフラッグ車へと一直線。

 

華にはその弾道が、はっきりと見えていた。

 

そして観客が、選手が、等しくその軌道を眼に焼き付ける。

あまりにも美しく、淀みなく空を渡っていく、その一射を。

 

『はぁ?どういう感覚?』

 

その時華は、場違いにも渡里との会話を思い出していた。

 

『そんなもん聞くより、自分で確かめろよ』

 

「もしそこに入れたらどういう感覚なのか?」と問うた華に対して、彼は呆れながらそう言った。

そこをなんとか、と食い下がる華に、彼は本当に仕方なさそうに口を開いた。

 

『人によって感じ方は違うから、一概には言えないけど……そうだな』

 

そして彼は笑顔と共に、こう言ったのだ。

 

『結構、いい気分だぜ』

「―――えぇ、確かにこれは」

 

砲弾が、深緑の装甲を貫く。

後部側の側面。華がずっと思い描き訓練に臨んだ、シャーマンの弱点。

爆炎が起こり、黒煙が上がる。

力なく歩みを止めたフラッグ車の姿を見ながら、華は莞爾と微笑んだ。

 

 

「いい気分です」

 

 

白い旗が上がる。

それは歓喜と驚愕を以て迎えられた、大物食い(ジャイアントキリング)の証だった。

 

 

 

 

『大洗女子学園の勝利!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




サンダース側の話は次の話にて。
ケイさん無線傍受気づいてたんかい、とか土壇場で何やってんだよアリサ、とかの理由をまとめて描写できたら、と思っています。




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第26話 「労わりましょう」

ケイとダージリンの関係は『悪友』みたいだったら最の高だな、と思っております。
もしくは『誰にも隙を見せない全生徒の憧れを独占する孤高のお嬢様』と『唯一そんな彼女の心にすんなりと入っていけるフランクなクラスの人気者』。

そろそろハーレムタグとか付けないといけないかもしれない、と思いつつあるこの頃。




「勝った!勝ったぞ!」

「河嶋先輩……さっきからずっとあんなだね……」

「特に何かしたわけじゃないのにね……」

 

狂喜乱舞する片眼鏡の生徒会広報、河嶋桃を視界に収めながら、ウサギさんチームは疲労のこもった息を吐いた。

ただでさえ心身を削りに削った激闘の後だというのに、あんなものを延々と見せられたらそりゃため息の一つでもつきたくなるというものである。

 

「でも、本当に勝てて良かったですね!」

「うん、良かった……」

 

全国大会一回戦、全国でも屈指の強豪校であるサンダース大付属と戦った大洗女子学園は、辛くも勝利を収めた。

 

辛くも。そう、本当に辛くもだ、とみほは思った。

振り返ってみれば、結局みほ達が有利に立ったのは全体の2割ほど。それ以外はずっと攻められっぱなしで、防戦一方。

動きは読まれ、未知の戦術は繰り出され、最後の最後までみほ達は崖っぷちに立たされたまま。どこか一つ、ほんの少しでも歯車が狂っていれば負けていたのはみほ達だったに違いない。

 

それでも、勝った。

その功労者に、みほは視線を注いだ。

 

「華、大丈夫?」

「……はい、なんとか」

 

黒く艶のある長い髪。大和撫子を体現したかのような、たおやかな仕草と雰囲気。

あんこうチームの砲手にして、サンダースのフラッグ車を一撃の元に討ち取ったMVP。

五十鈴華が、そこにいた。

 

しかしその様子は快活なものではなかった。

心配そうに見つめる沙織の横え、彼女は戦車に腰をかけ、濡れタオルを被ってぐったりとしながら返事をする。

勝利した者、それも勝負を決めた者の様子としてそれは、あまりにも弱弱しいものだった。

 

もうずっと、華はこんな調子だ。

試合が終わって、戦車を集めて、みんなが勝利の喜びを分かち合っている時から、ずっと。

 

今でこそ座りながら会話できるようになったが、試合が終わった直後は本当に肝を冷やした。肌は病的に白いし、なのに汗は止まらないし、加えて突然ばったりと倒れかけたものだから、みほとしては勝利の余韻に浸るどころではなかった。

 

幸い時間と共に落ち着いてきているから、大事ではないんだろうけど。

それはそうとして心配なものは心配だった。

 

何故華がこうなってしまったか。

その理由に、みほは思い当たるところがあった。

 

華が試合の最後に見せた、異常な集中力。

見ている此方が思わず息を呑んでしまうほどの、完全なる心身の合一から放たれた一射。

 

みほは思う。アレは並みの業じゃない、と。

あの領域は、砲手として究極の境地だ。総てを受け入れながら、何にも揺るがない凪の心。あの時の華は、間違いなく自分の力全てを最大限に発揮していた。誰にもできない、正真正銘100%の力を。

これはその反動だ。硬く閉ざされている未開の領域に足を踏み入れた、その代償に違いない。

 

そんなところに、華が一人で辿り着けるとは思えない。間違いなく、彼女の背後にはそこへ手引きした人がいる。

そしてみほは、そんな人は一人しか知らなかった。

 

いつか見た、渡里の華の密会。

あれはこのためのものだったのだろう。

 

本当に、戦車道の事となると歯止めの聞かない人だ。

砲手が一試合でここまで消耗するなんて、みほは聞いたことが無い。

いったい華にどれだけの無茶をさせたのだ、あの兄は。

 

しかしその無茶が無ければ、勝てなかったのもまた事実。

そしてそんな無茶をさせてしまったのは、みほの責任でもある。

みほがもっと上手く指揮を取っていれば、華にこんな負担を掛けずに済んだのだから。

 

けれど謝るのは、少し違う気がした。

それで華が喜んでくれるとは思えなかった。

だからきっと、みほがすべきことは一つだった。

 

「……ありがとう、華さん」

 

華の前に腰を下ろし、その手を取って、まっすぐ華を見つめる。

 

「華さんがいてくれて良かった」

 

前に座ってくれてるだけでも心強い、なんて言っておいて結局貴女を頼ってしまった、申し訳なさを少しだけ込めて。

ぎゅっと、ぎゅっと、華の手を両手で握る。

それ以上の感謝が、少しでも伝わるように。

 

「……あぁ、良かった。私は、やっとみほさんを支えられるようになったんですね」

 

みほの行動に、華は一瞬呆気を取られたようだった。

けれどすぐに、彼女は穏やかな笑みを浮かべた。

 

「ずっと、みほさんの力になりたかったんです。みほさんの昔の話を聞いた、あの時からずっと」

 

独りになってしまった貴女を、今度こそ独りにしないように。

何があっても、貴女を守れるように。

無神経に貴女を頼ってしまった、聖グロとの練習試合の二の舞にならないように。

華は強くなりたかった。

 

そのために渡里を訪ねた。

びっくりするくらい辛い練習も、貴女の為だから頑張れた。

すぐに折れてしまいそうな弱い心に芯を入れてくれたのは、他でもない貴女だった。

 

「……お礼を言うなら、きっと私の方です。みほさんの声があったから、私は初めてあそこに行くことができた」

 

だから、と華はみほの手を握った。

両手で、みほの手を優しく包み込むようにして。

 

「私を信じてくれてありがとうございます」

 

花のように、彼女は笑った。

それはどこまでも美しい笑顔だった。

 

みほの心に、温かいものが流れ込んでくる。

こんな人に、自分は巡り合えたのか。

こんなにも誰かを思い遣ることができる、優しくて強い人に、みほは支えてもらうことができるのか。

それはなんて、幸せなことなんだろう。

 

「………なんか、話しかけづらい雰囲気?」

「わっ!?」

「神栖殿!?」

 

そんな中、雰囲気を裂くようにして、一人の男性が現れた。

気配もなく、唐突に、まるでお化けみたいに。

大洗女子学園戦車道講師、神栖渡里がそこにいた。

 

「わ、渡里さん……っ」

「あ、華!急に立ったら……」

 

弾かれたように腰を上げ、立とうとした華を沙織が慌てて止めようとした。

しかし間に合わず、誰もが危惧したように華は、身体をふらつかせ、何かにしがみつく間もなく地に倒れようとしていた。

 

「----まったく、無茶をしたな、五十鈴」

 

けれど華の身体が地面に触れることはなかった。

その前に彼女の身体を、渡里が両腕でしっかりと受け止めていたからだ。

 

「本来なら切れていたはずの集中力。それを気力だけで無理やり繋いだ挙句、最後の扉まで開けたんだ。そりゃ立つのもおぼつかなくなるさ」

「切れていたはず……?最後の扉……?」

 

首を傾げた優花里に、渡里はご丁寧に説明してくれた。

 

「人間の集中力は長くは続かない。今の五十鈴でも、質の高い集中力を持続させるなら十数分が限界だ。なのにこいつは、それを気力だけで繋ぎ止めた。多分、サンダースの包囲を抜けるところくらいからずっとだ」

 

呆れたように言う渡里。

その腕の中で華は、図星を突かれたのか気まずそうに目を逸らしてた。

 

「加えて最後の一合。ただでさえ気を擦り減らしてる所で、()()()に行ったんだ。ほとんどガス欠寸前で、更にそれ以上の集中力が必要とされるあの領域に行けば、心身への負担も並大抵じゃない」

 

渡里の指がすっと伸び、華のおでこを軽く小突く。

軽い衝撃に、華は「あうっ」と小さく悲鳴を上げた。

 

「確かに集中していれば、お前の基本性能は上がる。でもそのために持続時間と質を上げたんじゃないし、あんな無茶をやらせるためにアレを教えたわけでもない。意識が飛ばなかったマシと思えよ」

「何教えたんだ渡里さん……」

 

珍しく立腹している風の渡里に、華は項垂れるしかないようだった。

確かに、あれは本来ここ一番という所で使うものだろうとみほも思う。詳細は分からないが、結果としてここまで消耗するなら普段遣いはしない方が良いはず。

兄も同じ考えだったんだろう。

 

そこに無理を通したのが、ほかならぬ華であり、無理を通させたのがみほ。

それを忘れてはいけない。

 

「暫くは使うな。一度入った以上、お前はもう自由にあそこに出入りできる。けど今日みたいなことを繰り返されたら困る。俺が良いと言うまで、心身を休ませるんだ。いいな」

 

有無を言わさぬ圧の篭った言葉だった。

みほはああいう時の兄には、不思議と逆らえなくなる。

それは華も同じようで、彼女は伏し目がちに、静かに頷いた。

 

「……でもま、そうまでして勝ちたかったんだろうな、お前。いや、勝ちたかったというよりは、力になりたかった、か」

「……え?」

 

やれやれ、と華の身体を支えながら肩を竦めるという器用な真似を披露しつつ、渡里は華の瞳をまっすぐに覗き込んだ。

 

「お前がどういう砲手か、もう分かるな?」

「……はい。みんなの想いを一指に込め、心を以て弾を撃つ」

「そう、誰かの為に撃つ砲手。それがお前の本質だ、忘れるなよ」

 

そして渡里は、薄く笑った。

内から溢れ出る喜びが、滲み出たような笑みだった。

 

「最後の一射。どこまでも真っ直ぐで、綺麗で、美しい。まるでお前そのもののような一射だった」

 

そして渡里の大きな手が、タオルの上から華の頭に置かれる。

そしていつかの日、みほがよくそうしてもらったように、兄の手が華の頭を優しく撫でていった。

 

「よくやったな――――――――()

「――――――っ」

 

あぁ、とみほは嘆息した。

風に靡くタオルの隙間から見える華の顔が、みほの心に焼き付く。

 

本当に、この人はズルい人だ。どうしようもなく、ズルい人だ。

たった一言、あまりにも味気ない労いの言葉と共に、名前を呼ぶ。

 

それだけのことで、こんなにも一人の女の子を喜ばせることができるのだから。

 

「――――はいっ」

 

立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。

桜色に頬を染め、花咲くように可憐に笑う。

嬉しそうに、幸せそうに、心の底から笑顔を浮かべる彼女。

 

華にあんな表情をさせられるのは、きっと兄しかいないんだろう。

 

そのことを、ほんの少しだけ悔しいとみほは思った。

自分には、きっとできない。

けれどいいんだ。そんな華に、みほはこれから支えてもらうことができる。

それだって兄にはできないことなんだから。

 

「……いいな」

 

羨む声が聞こえた。

沙織か、麻子か、優花里か、はたまた自分の心の声か。

 

生憎みほには、分からなかった。

 

 

 

 

「……で、こんなところに呼び出して何の用?アリサ」

 

隊長とは常に気丈でなければならない。

誰に言われるまでもなく、ただ自然と、ケイは心にそう決めていた。

先代の隊長からサンダースというチームを託された、その日から。

 

決して弱みを見せてはいけない。

決して迷ってはいけない。

強く、笑顔で、自信を持って。

自分の後に続く者達が下を向かぬよう、標となって先頭を歩き続ける。

 

それがケイの、隊長としての在り方だ。

それは今までもそうだし、これからも変わることはない。

 

だからケイは、テキパキと周りに指示を出して帰還の準備を整えた。

泣く者もいた。落ち込む者もいた。俯き、座り込む者もいた。

そんな中にあってケイの行動は、よく言えば冷静であり、悪く言えば非情であった。

 

一回戦、敗退。

それはサンダース大付属戦車道の長い歴史において、片手の指で足りる程の回数しか起こったことのない、悲劇とさえ言える出来事かもしれなかった。

 

時間が過ぎるごとに、その事実はケイたちの両肩に重く圧し掛かる。

その重みに耐えうるだけの心は、誰にもなかった。

 

今日という日のために、一年間努力してきた。

全てはあの真紅の優勝旗を手にするために、日本で一番高い頂に立つために、血の滲むような努力を重ね、戦車道のためだけに時を費やした。

 

その結果が、コレ。

たった五両の、それも今年できたばかりのチームに、敗けた。

この事実を容易く受け入れることができる人間は、神経がワイヤーか何かでできているに違いない。

 

でもだからこそ、ケイだけは気丈でいなければならない。

そうして戦車を格納し、選手達に帰りの支度をさせ、屋台も何もかもを撤収して、後は帰路に着くだけという所になった時。

 

ケイはアリサに呼び出された。

 

隊長である自分を支える二本の腕の、片割れ。

参謀役として全幅の信頼を置く、ケイの後輩である。

 

ケイがアリサを呼び出すことは数え切れないほどあったが、その逆は今日が初めての事だった。

 

不思議そうに見つめるケイの前でアリサは、沈痛な面持ちで立っている。

彼女が口を開いたのは、ケイの問いから約10秒経過した時だった。

 

「―――すみませんでした!!」

 

突如としてアリサは、肺の中の空気を全て吐き出す勢いで謝罪した。

腰が折れ、頭が深々と下げられる。

 

「わ、私のせいで隊長たちの最後の大会を終わらせてしまって、本当にすみませんでした……っ!」

 

その声が僅かに震えていることに、ケイは気づいた。

しかしそれよりもケイがまず思ったことは、

 

「なんで?」

「へっ?」

「なんでアリサのせいで私たちが負けたことになるの?」

 

ということだった。

あっけらかんと言い放ったケイに、アリサは面食らったようだった。

 

戦車道の試合に、誰かのせいで負けるということはない。

なぜならこの競技はチームでやるもの。

そしてチームとは一人は皆のために、みんなは一人のために、ただひたすら目標に向かって走るだけの一つの生き物だ。

 

だから誰かの失敗はチームの失敗であり、誰か一人の責任ではない。

ケイもアリサも、みんな等しく大洗女子学園に負けた。

自分がミスをしていなくても、誰かが大活躍しても、チームが負けたのなら自分も負ける。

戦車道で敗北するということは、すなわちそういうことだ。

 

「貴女の言う事は大間違いよ、アリサ。貴女一人のせいで、チームを負かすことなんてできない。一人の人間がどうこうできるほど、チームは軽い存在じゃないわ」

 

しかしまさか、そんなことを言うために呼び出されたとは夢にも思わないケイだった。

確かにミスはあった。皆が皆、完璧な仕事をしたとは言えない。

 

「貴女がフラッグ車を追いかけに行って、逆に大洗女子に追いかけられることになったのもそう。私が包囲を破られたのもそう。ナオミが最後、あの四号戦車を倒せなかったのもそう。私たちは、みんなで負けたの。だから――――」

「違いますっっ!!」

 

気にすることはない、という言葉をケイは飲み込まざるをえなかった。

怒号にも似た叫び。彼女がここまで声を荒げることが、いまだかつてあっただろうか。

 

目を丸くして硬直するケイの瞳が、アリサの瞳と衝突する。

その時ケイは漸く気が付いた。

彼女が、零れそうな涙を必死に堪えていることに。

 

声が、絞り出る。

 

「私がっ、大洗女子のフラッグ車を追いかけたのはっ、フラッグ車が孤立すると思ったからですっ。一対一なら絶対に勝てると思ったからっ、隊長の指示を無視して追いかけに行ったんですっ」

「……ええ、そうね。貴女の言う通り、そうなればこの試合の結果も逆転してたでしょうね」

 

でも、そうはならなかった。

孤立しそうに見えたフラッグ車の動きは、囮。

こちらのフラッグ車を釣りだし、そこを全車で攻め立てるための罠だった。

 

ケイはそれを見抜いていた。

けれど自分の声を、周りに届かせることができなかった。なぜなら自分に噛み付こうとする獣を払うのに気を取られ、支配力を落としてしまったからだ。

その結果、本来なら静止できたはずのアリサの独断を許してしまい、逆転のチャンスをみすみす相手に与えてしまった。

 

「でもそれがどうしたの?ミスをしたくてする選手なんていない。必死に、全力で戦った結果なら誰も文句は――――」

「無線傍受を、しました」

 

それは罪の告白だった。

無線傍受。戦車道の規則で禁止されてはいないものの、確かな不文律によって縛られている行為。

彼女は、それをやったと言う。

 

あぁ、だからか、とケイは思った。

アリサの独白は続く。

 

「無線でフラッグ車だけを逃がすと聞いたから、追いかけたんです。あの時の判断は、私の自身の力じゃないんです……っ!」

 

拳が、震えるほどに強く握られる。

それはそのまま彼女の慚愧の念の強さを表していた。

 

「正々堂々と戦う。いつも隊長にそう言われていたのに、私はそれを破りました。破って、卑怯な手を使って、その結果チームは負けました。私がっ、私が無線傍受なんてしなければ、っ、サンダースは負けなかったんですっ!!」

 

もしアリサが無線傍受なんて使わず、自分の力だけで戦って、その果てに敗北したなら。

彼女はここまで自分を責めることはなかっただろう。

自分の無力を痛感するだけで済んだはずだ。

 

けれどそうはならなかった。

後悔と怒りがぐちゃぐちゃに混ざり合って生まれた何かが、いま彼女の心を締め付けている。

 

「だから私のせいなんです……っ。私が、私がっ……」

「――――知ってたわよ、それくらい」

 

へ、とあまりにも間の抜けた声だった。

状況が状況じゃなければ、きっとケイは爆笑していただろう。

それくらい変な顔を、今のアリサはしている。

 

「だから、知ってたって言ってるの。貴女が無線傍受をしてたのを」

「な、なんで……!?」

「試合の序盤、大洗女子と森の中で戦ってる時、貴女が全体の指揮を取ってたでしょ」

 

ケイは隊長だが、常にチーム全体を統率しているわけじゃない。状況によっては、ケイ以外の者が指揮を取って部隊を動かすことがある。

それはサンダースの特性でもあるが、それ以上にケイが小隊を率いて前線で戦う事を好むということが大きい。

そして今日の試合もそう。前線に出るケイに代わり、アリサが全体の動きをコントロールしていたのだ。

だからこそ、ケイは気づいた。

 

「あの時の貴女の読みは的確すぎた。女の勘、だなんて言ってたけど、あんな読み地球が三角になったって貴女には出来ないわ」

「な、ならなんで……!」

 

他ならぬ貴女が、とでも言いたげな顔だった。

あぁそうだ、ケイは卑怯な手を使って勝つくらいなら、正々堂々と戦って負けることを選ぶ。だってこれは戦争じゃない、戦車道だ。

そんな真似をして勝ったところで、戦車道に顔向けできるだろうか、いやできない。

 

ケイはただ勝利が欲しいんじゃない。

誇りある勝利が欲しいんだ。

 

だからきっと、一年前のケイならアリサの行為を怒鳴って戒めたかもしれない。

けれど今のケイには、どうしてもそれができなかった。

 

「だって、私たちのことを想ってしてくれたんでしょ?」

「―――――」

 

もしアリサが、ただ純粋に勝利だけを欲して、そんな方法に手を染めてしまったのなら、ケイは断じてそれを許さなかっただろう。

襟首をつかみ上げて、反省会を開催して何時間でもこってりとお説教してやったに違いない。

 

でも、そうじゃない。

 

「本当はね、気づいた時点で言わないとダメだったのよ。『今すぐやめなさい』、『正々堂々と戦いなさい』ってね。サンダースの戦車道を背負う者として、ルール違反スレスレの行為なんて、見逃しちゃいけなかった」

 

けれど嬉しかったから。

どんなことをしてでも、ケイ達(先輩)を勝たせたいというアリサ達(後輩)の気持ちが、本当に嬉しかったから。

だから歯止めを掛けてしまった。

言うべき言葉を、飲み込んでしまった。

 

代わりにケイがしたのは、自己満足。

相手が五両だから、此方も五両だけで戦うという、何の意味もない、ただ自分だけが救われる償い。

 

「だから、きっとバチが当たっちゃったのね。」

 

ケイは困ったように笑った。

 

「勝利に拘るわけでもなく、かと言ってフェアプレイを遵守するわけでもない。どっちつかずの中途半端なことをしてしまったから、戦車道の神様が怒ったんだわ―――――だから、ごめんね」

 

本当に謝るべきはケイなのだ。

みんなの大会を、自分の都合で我が儘をしてしまったんだから。

その挙句負けたとなれば、ケイはただ謝るしかない。

 

「ち、違います!!隊長は悪くありません!!」

 

だというのにこの後輩は、一向に認めてくれないから困ったものだ。

ケイの腕にしがみつき、アリサを叫ぶ。

 

「ぜんぶっ、全部私が悪いんです!!真っ向から挑んでいれば、サンダースは負けなかった!絶対に勝てました!!それをっ、それなのに私はっ……下手な小細工をして、それを逆手に取られて……っ!」

 

ぽた、ぽた、とケイの袖を雫が濡らしていく。

こんなにも晴れているというのに、アリサは独り雨の中にいる。

 

「私がサンダースの力を信じられなかったから!だから余計なことを、してしまった!!私がこんな馬鹿なことをしなければっ、()()()()()()()()()()()()!!」

 

ならその雨雲を払ってあげよう。

それも先輩の、務めだから。

大きく息を吸い込み、ケイは叫んだ。

いろいろなものを、まとめて吹っ飛ばすように。

 

「ばっかもーーーーんっ!!!!」

 

それはケイとアリサの日常だった。

アリサが何か良からぬことをするたびに、ケイはこうしてアリサを叱った。

何回も、何回も、何回も。

彼女の過ちを、正すために。

 

でもそれも、今日で最後か、とケイは思った。

懐かしさと、ほんの少しの寂しさを噛み締めながら、ケイは言う。

 

「アリサ、私と貴女は、もう一年半の付き合いよね」

 

ケイが二年生になった時、アリサがサンダースに入学してきた。

そしてそこから今に至るまで、二人はずっと一緒にいる。

 

「貴女は私の初めての後輩だった。ずっとずっと、嬉しいことも、悔しいことも、楽しいことも辛いことも、全部分かち合ってきた」

 

春は桜を見ながら、戦車に乗ってランチをした。

入り立てでまだ少し緊張している風のアリサの肩を、ケイは笑いながら叩いてやった。

 

夏は共に全国大会に挑んだ。

ケイはチームの主力として、アリサはそのサポートとして。初めて二人で参加した大会は、残念ながら負けてしまったけれど、必ず来年こそはと優勝を誓った。

 

秋は皆でパーティをした。

お祭り大好き派手な事を大好きなサンダースにとってそれは、戦車道と並ぶ確かな青春の一ページだった。

 

冬は地獄のような合宿をした。

手が悴んで動かなくなるような寒さと、あまりにハードな練習に堪らず心が折れそうになったけど、一緒に乗り越えた。

 

美味しいものを一緒に食べた。きれいな景色を一緒に見た。

戦車で地を駆けた。夢を語り合った。

 

まるで宝石のように煌めく日々を、一年半共に過ごしてきたんだ。

 

だから、

 

「だから後輩(あなた)がしてくれたことに、()()()()()なんて一つもない。無駄なことなんてこれっぽっちもない。今までの一年半、貴女がしてくれたことは全部全部、私のかけがえのない思い出よ」

 

良いことも、悪いことも。ケイの記憶の中で輝き続ける宝物。

貴女がいたから、こんなにも楽しかった。

貴女がいなければ、こんな風に思うこともなかった。

ケイの青春を彩ってくれたのは、他でもない貴女だから。

 

そんな想いが、少しでも多く伝わるように。

ケイは自分の腕にしがみつくアリサの手を払い、代わりにギュッと抱きしめた。

 

そしてじんわりと、心の底から思うことを言葉にする。

 

「ありがとう、私の可愛い可愛い後輩。貴女がいてくれて、本当に良かった。今までも、これからも、貴女はずぅっとーーーーー私の誇りよ」

「――――――ぅう……っ」

 

袖の次は肩か、とケイは思った。

この分だと胸くらいまではびしょびしょに濡れてしまうかもしれない。

 

「すみません……すみません…っずびばぜんっっ」

「はいはい、まったく困った後輩ね。後輩にそんなに泣かれたら、先輩が泣けないじゃない」

 

トントン、とまるで赤子をあやすように、ケイはアリサの背中を叩いてやった。

手のかかる子ほど愛おしい、という誰かの言葉を、ケイは実感する。

 

しかし彼女が泣き終わる頃には、自分のタンク・ジャケットはしわしわになってしまっているかもしれない。それはちょっと勘弁願いたかったので、ケイはこの時間を終わらせることにした。

 

「それはそうと、この後にしっかり反省会をするから。覚悟しておきなさい」

「ひぃっ!?」

「その前に、ちゃんと大洗女子の子たちに謝ること。さっき私が謝っておいたけど、やっぱりこういうのは自分の口から言わないとね」

 

幸い彼女たちは、「終わったことだから」と許してくれたが、だからといってなぁなぁで済ませていいことでもない。

アリサのやったことは、歴としてアンフェアなことだから。

 

トン、とアリサを突き放し、ケイは有無を言わさぬ笑顔を浮かべて言ってやった。

 

「ほら、行ってきなさい!!ハリーアップ!!」

「は、はいぃぃぃぃ」

 

ぴゅー、と風を切るようにして、アリサは駆けていった。

あの分なら、涙も自然乾燥していい塩梅になるだろう。

 

そしてケイは、一人になった。

隊長として振舞うことも、先輩として振舞うこともしなくていい、()()()ケイとして居られる時間が、漸く来た。

 

「終わり、かぁ……」

 

吐息混じりの独り言は、空気に溶けて消えていった。

 

実感は、これっぽっちもなかった。

三年間、サンダース大付属で戦車道をやってきた、その終わりが今日。

そんなことを言われても、ケイは全くそんな気にならない。

しかし、後もうちょっとすれば、じわりじわりと心に沁みこんでくるのだろう、という予感だけはあった。

 

三度の全国大会で、結局ただの一度も優勝することはできなかった。

ずっとずっと思い描いていた、日本で一番高い所。

あの真紅の旗をこの手に掴むことは、ついぞ叶わなかった。

 

けれど後悔は不思議となかった。

今までずっと、ケイは戦車道に真剣に打ち込んできた。

その時間と熱量に値するだけの結果が欲しくないと言えば、それはウソになる。

勝ちたくて努力したきたし、敗けたくないから誰よりも頑張ってきた。

でもだからって、今までやってきたこと全部が無駄だったわけじゃない。

戦車道に費やした全ては、血肉となって今のケイを形作っている。

今のケイがあるのは、戦車道のお蔭なのだ。

 

それに思わぬ幸運もあった。

ずっと焦がれてきた、あのノートに記された戦術。

使いこなすことはできないと諦めていたそれを、ケイは最後の最後でようやく自分のものにすることができた。

 

最高の気分だった。

戦車道であんなに楽しかったことは、一度もない。

 

だからケイに、後悔なんて一つもない。

本当に思い残すことなんて、一つもないのだ。

 

「お疲れ様」

 

不意に、声をかけられた。

かき鳴らされた高級楽器のような美しい声色だった。

 

反射的にケイはそちらを向く。

するとそこには見知った顔がいた。

 

陽の光を反射する金の髪と深い色をした青い瞳。

モデル顔負けのプロポーションに、端正な顔立ち。

一目見ただけでも忘れることはない程の美少女だが、加えて片手にティーカップを持っているとなると、もうケイの記憶には一人しかない。

 

「ダージリン……」

「いい試合でしたわ。本当に」

 

相も変わらず、優雅な立ち振る舞いであった。

その所作は、ただでさえ優れた見た目とスタイルをより洗練させる力を持っていた。

 

同性の目から見てもこんなに綺麗なのだから、男子からすればなお輝いて見えるだろう。少し、ぐらいじゃなく羨ましいものであった。

 

……アリサ曰く、「隊長も似たようなものです」らしいが。

 

「見に来てたのね、ダージリン」

「えぇ、もちろん」

「私達が当たるとすれば、決勝戦になるっていうのに。随分真面目じゃない」

「当たるかどうか、は問題ではないわ。大事なのは見たいかどうか、じゃなくて?」

 

違いない、とケイは薄く笑った。

しかしそのために神奈川から足を運んでくるとは、少し物好きではないだろうか。試合なんて偵察班に録画させればいくらでも見れるだろうに。

 

「……強かったでしょう、大洗女子学園は」

 

まるで自慢するかのような、不思議な口調だった。

なぜ彼女がそんな誇らしげなのかは分からないが、ともかくとしてケイは答えた。

 

「えぇ、強かった。本当に、初心者ばっかりとは思えないくらい。……まさか私たちが負けるとは思ってなかった?」

「可能性としては、無くはないと思っていたわ。なぜなら、私達もあやうく負けそうになったもの。それも今よりずっと未熟な彼女たちにね」

 

初耳だった。

まさか聖グロと大洗女子が対戦済みだったとは。

情報収集班の報告ではそんな情報はなかったはずだが。

 

目敏く、ケイの内心の驚きを見抜いたダージリンは楽し気に言った。

 

「防諜がすごいのよ、あそこは。ウチのアッサムでも保有戦車と選手のデータしか取れなかったわ。それもその二つも、ほんの浅い所だけね」

「ワオ、そんなことできる子がいたのね」

 

ケイの言葉に、ダージリンは堪えきれない笑みを浮かべた。

果たしてケイは、そんなに可笑しなことを言っただろうか。

その答えは、ダージリンのみ知っている。

 

「っていうか、ダージリンの方こそ随分大洗女子に詳しいじゃない」

「それはもう、見ていて心躍るチームですもの。不思議と惹きつけられる魅力がある。実際に戦った貴女なら分かるのではなくて?」

「……まあね」

 

今日の試合があんなに楽しかった理由は二つ。

一つはあの戦術を初めて実戦で使えたこと。

そしてもう一つは、きっと対戦相手が彼女たちだったからだ。

 

「みんな一生懸命で、ひたむきで、私達とは違う強さがあったわ」

「貴女の()()戦術を破るくらいですものね」

 

あまりにも唐突な言葉に、ケイは思わずため息が出そうになった。

彼女の良くない所は、正にこういう所である。多少の脈絡は無視して、一気に核心を突いてくる。こっちの都合は一切無視して、自分の心のままに。

外見が良いからと言って、性格も良いとは限らないという説の生きた証拠がケイの目の前にいる。

 

「サンダースのものでも、貴女本来のものでもない異質なものだったけれど、凄い戦術だったわ。正直、初見なら私でも破れなかったでしょうね」

「なら、やっぱり大洗女子の隊長が凄かったのね」

 

初見では誰も破れない、というのはケイも同じ気持ちだった。

だからこそ、大洗女子学園の隊長、西住みほに短時間で攻略された時の衝撃は一入だった。

 

「……もしくは、私の力が足りなかったから、かもだけど」

 

ケイは一つ思うことがあった。

それは自分とあのノートを書いた人物があの戦術を実践した時、果たしてどちらの方がより優れているか、ということである。

 

間違いなく自分の方が下だと、ケイは思っている。

理論と真髄はケイも理解しているが、習熟度が違う。あのノートを書いた人は発案者で、ケイはその後追い。先行には先行のメリットが、後追いには後追いのメリットがあるが、同一の戦術を競うとなればどうしたってオリジナルの方が有利だ。

 

もしあのノートを書いた人が今日の指揮を取っていたなら、おそらく大洗女子学園に破られることはなかった。

使い手の違いが、そのまま戦術の強度へと直結していて、ケイのそれはまだ脆かったのだろう。

後もう少し習得するのが早ければ、もう少し時間があれば、今日と同じ結果にはならなかったかもしれない。

 

そんなことを考えるケイの顔は、暗いものになっていた。

するとダージリンが言葉を紡いだ。それは小説の一節を読み上げるような口調だった。

 

「『あの戦術はサンダースでは絶対に使えない。それでもなおサンダースがあの戦術を実践できているのは、貴女がいるから。貴女じゃなければ、あの戦術は決して完成しなかった』」

「あら、随分褒めてくれるじゃない」

「私じゃないわ」

 

瞑目しながら、ダージリンはケイの言葉を両断した。

どういうこと、とケイが問う前に、ダージリンの瞼が開かれ、青い瞳が露になる。

それと同時に、その言葉は響いた。

 

「あの戦術を作った人が、そう言ったのよ」

「――――――――」

 

思考の歯車が、空回りした。

言葉の意味を、脳が上手く処理できない感覚だった。

 

今、ダージリンは、何と言った?

あの、戦術を作った人。それはつまり、あのノートを書いた人。

 

「貴女の事、随分高く評価されていたわよ。大隊を指揮させれば全国で三指に入るとも仰っていたわ」

「ちょ、ちょっと待ってダージリン!!本当にあの戦術を作った人が来てたの!?っていうか知り合いなの!?」

 

少し面白く無さげに言うダージリンだったが、ケイはそれどころではなかった。

あの戦術を作った人が、今日の試合を見ていた。

その事実は、ケイの心を激しく揺さぶった。

 

「ええ、私の横に。一から十まで教えてくれたわ、貴女が持ってるであろうノートのこととかね。まぁそっちは本当に偶然よ、私も今日まで知らなかったから」

 

ケイはダージリンの言っていることが真実であることを確信した。

ノートという単語は、事情を知っていなければ絶対に出てこない単語だ。それを知っているということはつまり、本当にダージリンはその人と……

 

ならばケイの取るべき行動は一つだった。

ダージリンとの距離を詰め、その肩に手を置いて、一言。

 

「その人のこと教えて!!」

「ダメ」

「Why!?」

 

あえなく却下されたことに、ケイは心底驚いた。

まさか断られるとは思ってもいなかったのである。

 

目を丸くするケイに、ダージリンはつれなく言った。

 

「私があの人のことを教えるには、条件があるの」

「なによ条件って」

 

するとダージリンの白い指が、ピンと一つ立つ。

ティーカップを持ちながら器用なものだ、とどうでもいいところでケイは感心した。

 

「まず戦車道に真剣なこと。()()()が誰よりもそうなのだから、あの人のことを知りたいなら、お遊びで戦車道をやってるようでは絶対にダメ」

「お遊びって……」

「勿論貴女がそうじゃないのは知っているわ。肝心なのはもう一つの条件よ」

 

ピン、ともう一本指が立つ。

そしてダージリンは、深刻な口調で言った。

 

「もう一つはね、あの人のことを絶対に好きにならないこと」

「……What?」

「だから、あの人のことを好きになっちゃダメなの。だから貴女は絶対にダメ」

 

はて、ダージリンとはこんなにも意味不明なことを言う人間だっただろうか、とケイは首を傾げた。

よくわからない言い回しをする悪癖はあったが、それでもケイの記憶ではもう少し理解できる話し方をしていたはずなのだが。

 

「好きになるってなに?憧れちゃダメってこと?」

「違うわ、恋愛感情的な意味よ」

「れっ」

 

どうしようか、とケイは悩んだ。

一発頭に叩き込んでやった方が、もしかすると正常に戻るのではないだろうか。

しかしダージリンは至って真剣である。いや寧ろ真剣である分、(たち)が悪いけど。

 

「恋愛感情って……何言ってるのダージリン。私ソッチの趣味はないんだけど」

 

もしかして今までそんな風に見られていたのだろうか。

確かにケイはバレンタインで同性からチョコを貰ったりすることもあるけれど、だからってケイ自身が()()()()()()ではない。いや別に悪いことでは決してないのだけれど、とんでもない誤解されているとなると流石に看過できない。

 

「貴女の方こそ何を言ってるのかしら……男の人よ、あのノートを書いた人」

「――――――――うそ!?」

「嘘じゃないわ。紛うことなき男性よ、見た目も中身も」

 

盲点だった。

戦車道は女性の競技。だからあのノートを書いた人も女性だろうと、ケイは何の疑いもなく思っていた。

しかし、それは当たり前の誤解だった。百人中九十八人は、絶対にケイと同じく女性と勘違いするに違いないからだ。

 

「いやでも待って!たとえ男の人だとしても、私が好きになるかどうかは分からないでしょ!?」

 

もしダージリンがケイの男性のタイプを完璧に熟知していて、それがその人とぴったり重なるというのであれば、確かに好きになるかもしれない。

けれどケイはダージリンにそこまで情報を流した覚えはないし、自分の好みなんて、それこそアリサにも言ったことはない。

だからダージリンの条件には当てはまらないはずだ。

 

「『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』。だったら『袈裟が好きなら坊主も好きになる』もあるでしょう。あんなサンダースとは対極にある戦術を諦めずに追いかけ続けた貴女が、戦術にだけ憧れて、その考案者には無関心でいられるとは到底思えないわ」

「うっ……」

 

確かに、ケイはあの戦術を考えた人に会ってみたいと思ったことが一度ならずある。

ダージリンの言う事は図星だった。

 

「だから会うのはダメ。会ったら絶対に好きになるに決まってるもの」

「いや、それは会ってみないと……」

「なるわ、絶対に」

 

珍しく強い語調だった。

面食らうケイに、ダージリンは凛として言い切った。

 

 

「だって、この私が好きになるくらい、凄くてカッコいい人なんだから」

 

 

それは今まで見たことがないくらい、綺麗で、輝く表情だった。

 

ぐっと、ケイの心に響くものがあった。

人は、誰かを好きになると、こんなにも美しくなれるものなのか。

恋する乙女とは、かくもいじらしく可憐なものなのか、とケイは思った。

 

ほんのちょっとだけ悔しさを覚えたケイは、負け惜しみを言った。

 

「……っていうか自分の恋路の邪魔をされたくないだけでしょ、それ」

「そうよ、知らなかったのかしら」

 

これっぽっちも悪びれず、ダージリンはドヤ顔で言った。

 

 

「『イギリス人は、恋愛と戦争では手段を選ばない』」

 

 

ケイは決意した。

何がなんでも、その人に会ってやろう、と。

 

ダージリンが教えてくれないなら、彼女と行動を共にすることが多いオレンジペコやアッサムに聞いてみてもいいかもしれない。

それでもダメなら手当たり次第に、例えば西住みほとかに聞いてみよう。

 

そして絶対に、その人の名前と顔を覚えて、向こうにもケイのことを知ってもらおう。

そしてちょっとでも仲良くなってやる。

 

そうすれば目の前の彼女の、悔しそうな顔が見れるだろうから。

 

 

 

 

 

「えー華と渡里さん、そんな約束してたの!?」

「まぁ、なんかそうした方が華のやる気も上がるっぽかったし」

 

あんこうチームと渡里は、茜色の空の下にいた。

渡里のテキパキとした指示で、現在各戦車は学園艦へと運び込まれており、撤収作業もあと少しで終わろうという頃。

学園艦の出港までの自由時間を、六人は共に過ごしていた。

 

といっても特に何かするわけでもなく、ただお喋りをするだけ。

話の話題はもちろん、渡里が華のことを名前で呼んだ、例の件についてである。

 

色々事情を聞いた結果、なんというか流石は神栖渡里、とみほは思った。

名前で呼んだことに深い意味はなく、言ってしまえば戦車道の為にそうしただけ、とのこと。

何もかもが戦車道の為の、情緒なんて一切ない実利一辺倒な気質に、我が兄ながらみほは思わずため息が出そうになった。

名前で呼んでもらうなんて、女子からすれば結構一大事なのだが、その辺りの事をちゃんと分かっているのだろうか、いや分かってないだろうな。

 

「それじゃあ、今まで西住殿以外名前で呼ばなかったのはどうしてでしょうか?」

「だって呼んでくれって言われてないし」

「じゃあ頼めば名前で呼んでくれるんですか!?」

「ダメですよ、沙織さん。私だって一筋縄ではいかなかったんです。名前を呼んでもらうために私がどれだけの努力を重ねてきたのか――――」

「いいよ」

「あれっ!?」

 

がーん、という効果音が文字となって華の頭の上にあった。いや勿論幻だけど。

華は渡里の腕にしがみついて抗議した。

 

「渡里さんっ、私の時は条件付きだったのになぜですか!?」

「華はそっちの方が何か頑張りそうだったから」

 

シンプルすぎる答えだった。

華は複雑な表情をしながら、眉を逆八の字にした。

兄の言っていることは正しいと思いながらも、それはそうとして納得はできない。

そんな胸中だろうか。

 

みほとしてはあんな兄、お腹に一発叩き込んでやっても全然いいと思うが、淑女な華には到底できないだろう。

結果、頬を膨らませて恨みがましく見上げるだけの可愛い抗議が精々のようだった。

 

「むくれんなむくれんな。お前のことはちゃんと認めてるから」

 

ぽんぽん、とあやすように渡里は華の頭を軽く叩いた。

随分と、心の距離が近くなったような気がするみほであった。

 

いや別にいいけどね。兄が誰と親しくなろうとみほは全然構わないけど、だからってあんまり女子高生と親密になるのはどうなのだろうか。分別ある大人として、守らなければならない一線はあるんじゃないかと思う。

みほは妹だからいいけど。っていうか妹以外にはダメだと思うけどっ。

 

「西住殿、あの、顔が……」

「何かな優花里さん」

「い、いや、何でもありません……」

 

一方で兄は、華と沙織に挟まれてやいのやいのと何かを話している。

断片的に聞こえてきたのは、甘いものをおねだりする華と、便乗してみんなでパフェを食べに行こうとする沙織と、財布の中身を心配する兄の声だった。

 

なるほどプチ祝勝会か、とみほは思った。

どうせ兄の奢りだろうから、いっちばん高い物を頼んでやろう。

いつぞやに「金はある」とか言っていたし、何の問題もないだろう。

 

なんせ記念すべき、公式戦初勝利なのだ。景気よく一日を締めくくったって、罰は当たらないはずだ。

 

「……ん?」

 

するとその時だった。

どこからか、猫の鳴き声が木霊する。

周りを見渡す。しかし何もいない。

それはそうだ、なぜなら音の発信源は、麻子の鞄の中だったから。

 

「知らない番号だ……はい、もしもし」

 

携帯を取り出し、麻子は発信者を確認して、通話ボタンを押した。

 

「―――――え?」

 

麻子の瞳が、大きく揺れた。

それは滅多に表情を変えない麻子が見せた、大きな心の機微だった。

 

みほ達は顔を見合わせ、首を傾げた。

その中で渡里だけがただ一人、厳しい表情をしていた。

 

そして麻子の次の一言に、渡里以外の全員が目を丸くすることになる。

 

 

 

「おばあが、倒れた……?」

 

 

 

 

 

 

 

 



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第27話 「少し自分の話をしましょう」

あんこう祭参加者の方々はお疲れさまでした。
筆者は参加できませんでしたが、来年こそは参加したいですね。

今回は結構暗い話です。
その上オリ主がメインになるので、ぶっちゃけ書いてて一番しんどかったです。

オリ主(コイツ)の過去を掘り下げようとするとこんなことになるからあまり焦点を当てたくない、というのが筆者の本音です。


 

花の香りが鼻腔を擽る。

普段戦車ばかりに乗っていると、こういう鉄臭さとは真反対にある匂いがとても新鮮に感じる気がする。

甘くて、でも少しツンとしていて、嗅いでいるだけで気分が落ち着く匂いだ。

 

その元を辿ると、そこには二色の花束がある。

白色の花と赤色の花がたくさん連なっていて、視覚を彩り、楽しませてくれる。

あいにく花の名前は分からないが、きっとこの場に相応しいものなのだろう。

そう、きっと……()()()()に、相応しい花に違いない。

 

サンダースとの一回戦を終えた翌日のお昼、みほと華と優花里は、学園艦を離れとある病院へと足を運んでいた。

用件は一つ。倒れて病院に運ばれてしまったという、冷泉麻子の祖母へのお見舞いであった。

 

「冷泉殿のおばあ様、大丈夫でしょうか……」

「うん……沙織さんからは『割と元気』ってメールがあったけど」

「今朝まで意識がなかったそうですし……心配ですね」

 

三人は歩みを進める。

 

冷泉麻子の祖母が倒れた。

その連絡が入ったのは、サンダースとの試合が終わった直後のことであった。

それを知っているのは六人。今ここにいるのは、三人。

 

なら他の三人は何処にいるのか、それを説明するには、時計の針を少し戻さなければならない。

 

 

 

「おばあが、倒れた……」

 

麻子の手から、携帯電話が滑り落ちていく。

それは彼女がどれほどの衝撃を受けたかを、何よりも雄弁に語っていた。

 

携帯電話が砂浜に刺さると同時、沙織が麻子の肩を掴んだ。

それは今にも倒れそうな麻子の身体を、支えるためであったのかもしれない。

 

「ま、麻子。大丈夫!?」

「おばあが、おばあが病院に運ばれて……」

 

その眼は既に何も映してないのではないか、とみほは思った。

そのあまりの姿に、情けないことにみほは何も言えなかった。

 

冷泉麻子という人間は、とても思慮深く冷静で、めったに感情を揺らがせることのない人物だと、みほは思っていた。

聖グロリア―ナとの練習試合の際、初めての実戦でありながら彼女は誰よりも冷静に戦車を操縦してみせた。今のサンダースとの試合だって、彼女は決して焦ることも不安な表情をすることもなかった。

操縦手に必要な、どんな状況でも慌てない不動の心が、彼女には元から備わっているのだと、そう思っていた。

 

しかしそれは大きな勘違いなのだと、みほは思わされた。

麻子だって人間だ。いつだって、どんな時だって、冷静でいられることはないのだ。

それを勝手に、みほはそうなのだと思い込んでいた。

 

「冷泉……」

「わ、渡里さんっ」

 

その時、麻子の小さな手が渡里の服を掴んだ。

それは折れそうな心を支えるために、必死になって縋っているように見えた。

 

「おばあが、おばあが……」

「……あぁ、わかってる。()()分かった上で、それでも俺こう言うぞ―――――落ち着け、冷泉」

 

渡里の手が、麻子の手を包む。

 

「不安になってもいい。でも取り乱すな。お前がここで慌てたって、時間の流れが止まるわけじゃない。だからまずは、大きく深呼吸するんだ」

 

まっすぐに目を見て、ゆっくりと諭すように優しく言葉を並べる。

たったそれだけのことで、麻子はほんの少し落ち着きを取り戻したようだった。

 

大人の男性というのは、時として絶大な安心感を与える存在になる。

こればかりは、渡里にしかできないことだった。

元々の気質と、これまで積み重ねてきた時間があってこそでもあるが。

 

「学園艦はもう暫くは出航しない。多分飛行機が一番早く茨城に帰れる手段だ。今すぐ空港に向かおう」

「く、空港に向かうって、タクシーとかでですか?」

「いや、俺が車を運転する。荷物の運搬用に学園艦から降ろしてたのが一台あるからな」

「それでどのくらいかかるんでしょうか……?」

 

華の質問に、渡里は少し苦い顔をした。

 

「どうしたって夜だ。飛行機だって一日に何十何百と飛ぶわけじゃないし、そもそも茨城まで直で帰れる便があるかどうかも分からない」

「夜……」

 

麻子の表情が明らかに曇った。

頭では仕方ないと分かっているのだろうが、心が納得できるかどうかは別問題だ。

欲を言えば、もっと早く帰りたいというのが本音なのだろう。

 

しかしできる限りの範囲で一番早く帰れる手段は、おそらく渡里の言うものしかない。

全く馬鹿げた話だが、それこそプライベートジェットなんかがあればもっと早く帰れるのだろうが……

 

「―――――私たちのヘリを使ってください」

 

その時、その声はあまりにも突然聞こえた。

凛とした声色。それはあまりにも、みほに馴染のあるものだった。

 

振り返り、みほはその思わず呟いた。

 

「お姉ちゃん……」

 

みほより少し濃い色をした髪と、渡里に近い系統をした瞳。

真っ直ぐに、身体の真ん中に鋼の芯が通っているのではないかと思わされる程真っ直ぐに、この世界でただ一人しかいない姉、西住まほはそこに立っていた。

 

「私達の乗ってきたヘリなら、飛行機よりも早く帰れるはずです」

「!」

 

ヘリコプター。確かにそれなら、此処から空港までにかかる時間や、飛行機が離陸するまでの時間など、諸々を省くことができる。

その分だけ、間違いなく早く茨城には帰れるだろう。

 

しかしなぜ、という疑問の方が、みほ達には大きかった。

そんなことをして、何になるのか。

そんな疑問は露知らず、提案者の瞳はまっすぐにみほ達に向いている。

 

「急ぐのでしょう、()()()?」

 

いや、違う。

彼女の視線は、みほ達に向いているのではない。

そして渦中の麻子でもない。

彼女の視線はただ一人、渡里にだけ注がれている。

 

「……冷泉、乗せてもらえ」

「渡里さん?」

 

しかし逆に渡里は、まほのことを見ることはなかった。

彼の瞳は、ただ一人麻子だけに向けられている。

 

「大丈夫だ。別に取って食われるわけじゃない。ここは好意に甘えさせてもらおう」

 

トン、と渡里は麻子の背中を押した。

つんのめる体。踏み出さされた一歩は、しかし後に続くことはなく静止した。

麻子の手が、渡里の袖を掴んでいたからだ。

 

「わ、渡里さんも一緒に……」

 

その行為を弱さというのは、あまりにも酷だった。

彼女の心をギリギリの所で繋いでいるのは、その指先に触れるモノ。

それがなければあっけなく崩れてしまう程、今の彼女は儚く見えた。

 

それを渡里は、ほんの一瞬だけ苦い顔で見つめた。

本当に、おそらくみほと、まほにしか気づかないレベルのごく小さな表情の変化だった。

 

何故そんな顔を、と問いただす時間はなかった。

それよりも早く渡里が言葉を紡いだから。

 

「…わかった。一人くらい増えても大丈夫だよな?」

「ええ、問題ありません」

 

姉は静かに頷いた。その口元に僅かな笑みがあったことを、果たしてどれだけの人が気づいただろうか。

 

「西住、冷泉のことは角谷達には言うな。用事で抜けた、とだけ伝えろ」

「は、はいっ」

 

みほの返事に渡里は一つ頷いた。

すると突如として、風が慌ただしくみほ達の頬を撫でていった。

あまりにも強烈な風に、思わず目を瞑る。

かろうじて開けることのできた瞼から見えたのは、特徴的な形をしたヘリが地に降り立つ姿だった。

 

「さぁ乗ってください」

「……久しぶりに見たな、Fa223。まだ現役だったのか」

「えぇ、お兄様が初めて乗った時からずっと頑張ってくれています」

「そりゃ随分と長生きだ」

 

懐かしむように、渡里は一瞬だけ目を細めた。

しかしすぐに扉を開放すると、麻子を手招きして中に入れた。

そのすぐ後、みほ達に一瞥もくれることなく彼もヘリに乗り込んでいく。

 

「わ、私も乗ります!」

 

風に流される髪を必死に抑えていた沙織が、慌てて声を上げた。

あまりのことに口を挟めずにいたが、麻子は沙織の親友だ。

ついていこうとするのは、沙織の性格を考えれば当然のことだった。

しかし、

 

「すまないが、このヘリは四人までしか乗れない」

 

あっけなく、沙織の行為は一蹴された。

四つしかない席は、既に埋まっている。

物理的にどうしようもないのでは、沙織も引き下がるしかない。

 

そして最後の搭乗者たる姉も、渡里と同じく一瞥もくれずにヘリに乗りこもうとする。

声を掛けるのなら、最早ここしかない。

みほはヘリの音に負けないよう、声を張り上げた。

 

「お姉ちゃん!……ありがと」

「……あぁ」

 

姉の返事は、それだけだった。

余計な装飾を好まない姉らしい、実直な言葉。

けれどなぜだろうか、そこにほんの少しの違和感を覚えてしまう自分がいるのは。

 

そしてヘリは飛び立つ。

空に昇っていく姿を、もうみほ達は見つめることしかできない。

どうか、という祈りを込めながら。

 

 

 

「みほさんのお姉さんがいてくれてよかったですね」

「そうですね。そうでなければ、きっと冷泉殿も茨城に帰るまでもっと時間がかかったでしょうし……」

 

その後、学園艦で茨城へと帰るみほ達に、渡里と麻子が病院に到着したという連絡が入ったのは夕方のことだった。

それを受けた沙織は、帰港するなり麻子の元へ向かい、「全員で押し掛けても」ということもあってみほ達は翌日にお見舞いすることに。

 

麻子は祖母の元を離れようとせず、その付き添いである渡里と沙織もまた、病院で一夜を明かすことにしたそうだ。

 

そして今日の朝、意識不明だった麻子の祖母が目を覚ましたという。

倒れた原因は分からないが、意識が戻り、その上「倒れる前より元気かも」というのであれば、過度な心配もいらないだろう。

 

これで事態は、一件落着。

ちょっと慌ただしかった二日間も終わり、また戦車道だけに集中する日々がやってくる。

 

(……お姉ちゃんとお兄ちゃん、何か話したのかな?)

 

しかしみほの中には、まだ少し澱むものがあった。

それは他でもない、兄姉のことだった。

 

みほの記憶では、姉と兄の関係は、みほと兄のそれとよく似ている。

いや、兄へのなつき度という点では、みほ以上かもしれない。

みほだってまあまあ、いやかなり兄にくっついて回っていたが、多分姉はそれを越えている。本当に、何をするにしても一緒だった。

 

その二人の姿を、みほは今でも鮮明に思い出すことができる。

けれど、昨日見た二人の姿は、それとは少し違っていた。

 

みほは兄と再会した時、思わず感極まって抱き着いてしまった。

姉も、てっきりそうだと思っていた。仮にそこまでじゃないとしても、もっと劇的なリアクションがあるだろう、と。

 

結果は、あまりにも普通だった。いっそ、冷めていると言っていいほどに。

そしてその傾向が強かったのは、兄の方だった。

久しぶりの再会なのに、交わした言葉はほんの少しだけ。

みほの時はあんなにも、喜んでくれたのに。

 

状況が状況だけに、空気を読んだのだろうか。

確かにあの場で、そんな感動の再会をするのは相応しくない。

けれどもう少し、何かあってもいいのではないかと、みほは思った。

 

麻子を病院に送り届けた後なら、二人きりになれる時間もあったはず。

そこで何かしらあったか、それとも何もなかったのか。

いや別に、みほが気にすることじゃないかもしれないけど。

 

「ええと、この階のどこかのはずなんですけど……」

 

そして気づけば、みほ達は麻子の祖母の病室がある階層まで来ていた。

両側の壁にはいくつものネームプレートと部屋番号が掛けられていて、このうちのどこかに麻子の祖母の名前があるのだろう。

 

とりあえず端から順番に見ていけば、いつかは辿り着く。

そう思い歩き始めた三人は、そんな必要はなかったということに気づくことになる。

 

廊下にいくつか置かれている横長の椅子。

その一つに、見慣れた姿が座っていた。

 

「お兄ちゃん……」

 

壁を背もたれにして、俯きながら座る男性。

紛うことなき、神栖渡里がそこにいた。

 

やや早足になって近寄るみほ達。

その足跡に反応したのか、兄の黒い瞳が横目でみほ達を捉えた。

 

「よお、おはよう」

 

その声は、普段と違って覇気がなかった。

しかし顔色は良く、目には光があり、身体は芯が入っているようにしっかりしているので、ほんのちょっと疲れているだけのようだった。

 

「あの!冷泉殿の―――」

「静かに」

 

優花里の言葉を、渡里の眼と言葉と指が遮った。

そうだ、ここは病院。あまり大きな声を出してはいけない。

 

するとみほは、渡里の影に何かがあるのに気づいた。

不思議に思い、覗くとそこには、

 

「沙織さん……?」

 

渡里の右肩を枕にし、深い呼吸を規則正しく繰り返す、眠り姫の姿があった。

その身体には見慣れた上着が掛けられている。

 

「朝までは起きてたんだけどな。お前らにメールした後、電池が切れたみたいだ」

 

同時に、みほは兄の声に普段の覇気がない理由を悟った。

そう感じたのは、兄の声がいつもより小さいから。

いつもより小さいのは、横にいる彼女を起こさないためだったのだ。

 

「夜にここまですっ飛んできて、冷泉が婆さんの傍を離れないからつって、自分も寝ずに冷泉に付き合ってた。試合の後にそんなことしてりゃ、こうなるもの当然だよな」

 

薄く笑いながら、渡里は沙織の顔を見つめた。

沙織の眠りはかなり深いようで、ちょっとやそっと騒いだくらいでは起きそうにない。

それはそのまま、彼女の疲労がどれほどのものだったかを表していた。

 

「友達思いはいいが、もっと自分の身を労わってほしいな。結局冷泉に追いだされるまで、ずっと付きっ切りだったし」

「沙織さん……」

「まぁ俺も女子高生に寄りかかられていい気分だけども」

 

台無しにしたよ、この人。

セクハラで訴えようか、とみほは本気で思った。

沙織の意識がないのをいいことに、良からぬことをしてないだろうな。

 

疑念がレーザーとなって、みほの目から放たれる。

そしてみほは気づいた、兄の眼にほんの少しだが隈ができていることに。

 

「……お兄ちゃん、寝た?」

「こんな硬い所で寝れるかよ。俺は枕が変わるとダメなくらいデリケートなんだ」

 

嘘だ、とみほは即座に見抜いた。

兄にそんな繊細さは、微塵もない。この人はジャングルだろうが公園のベンチだろうが、普段と変わらずぐっすり眠れるくらい図太い神経をしている。

 

しかし「寝てない」という言葉は、きっと本当だ。

なら、なんで起きているのか。

 

「……お兄ちゃんも麻子さんに付き添ってたんだね」

「いや。俺はここにずっと座ってただけだし」

 

妙に素直じゃない所を見せて、渡里は瞳を閉じた。

病室の中で麻子が起きているのか、そうでないのか。

それに関わらず、自分が眠るわけにはいかないと、大方そんなことを考えていたのだろう。

外にいるんだから、誰も気づかないし咎めもしないのに。

 

まったく、身体を労われというのなら、まずは自分が実践してほしいものだ、とみほは思った。戦車道に限らず、平気で無茶をしてしまうのが兄の悪い癖だ。戦車道が関われば、もっと無茶をするけれど。

 

そんなみほの心配をよそに、渡里は指先で一つの部屋を示した。

 

「病室はそこだ。今は静かだけど、さっきまでは大変な騒ぎだったぜ」

「騒ぎ……!?やはり容体が……」

「違う違う」

 

手を軽く振って、渡里は華の言葉を否定した。

その顔には、苦笑が浮かんでいる。

 

「あんな元気な婆さん初めて見たわ。お前らも、見舞いするなら相応の覚悟をしていけよ」

 

そしてみほ達は、渡里の言葉の意味をすぐに実感することとなる。

物静かな冷泉とは真逆の、雷神の遣いなのではと思ってしまうほど激しい気質をした老婆。

つい今朝まで意識が無かったとは思えない程元気なその人の迫力に、思わずみほ達は呑まれてしまった。

 

けれどその言動の裏に見え隠れする、不器用な優しさに気づいてしまったら。

 

みほは不思議と、麻子が懐く理由も分かる気がした。

それでもまぁ、おっかない人だとは思うけれど。

 

 

 

お見舞いが終わったのなら、学園艦に帰ろう。

みほ達は病院を後にして、駅へと向かっていた。

道中寄り道をするところは、実はたくさんある。それこそショッピングやカフェなど、より取り見取りだ。こういう所に来れる機会も中々ないし、時間なんて潰そうと思えばいくらでも潰せる。

 

しかし、それでもみほ達がまっすぐに帰ろうとしたのは、他でもない麻子が理由だった。

心労か、疲労か、ともかくとして麻子が、病院を出た瞬間にぐっすりと眠ってしまったのだ。

 

「こうなった麻子は絶対に起きない」という幼馴染の言葉通り、ちっとも起きる気配のない麻子。こんな状態では、とても寄り道なんてできない。

 

ということで一番腕力のある渡里が麻子をおんぶし、華の被っていた帽子をナイトキャップ代わりに被せてあげて、このまま学園艦まで持っていこうということになったのだった。

 

一方、麻子と入れ替わる形で起きた沙織は、だいぶ元気である。

それはもう、渡里から何かしらのエネルギーを吸い取ったのではないかというほどに。

ちなみに沙織が寝ている間、『えへへ渡里さんもっと~』という謎の寝言が幾度となくあったが、それは墓場まで持っていこうと誓ったみほ達であった。

 

「それにしても、麻子さんは本当にお婆様のことが好きなんですね」

 

それは一同が等しく抱いた思いだった。

いわゆるお婆ちゃんっ子というやつなのだろう。麻子の祖母への懐き方は、普通の人のそれよりも二回りくらい大きい。

あくまでみほ個人の物差しになるが、祖父母が倒れてあそこまで心配するということは、筋金入りのお婆ちゃんっ子と言ってもいい気がする。

 

すると沙織は、妙な表情を浮かべた。

それは一言で形容できるようなものではなく、様々な感情が織り交ぜられたものだった。

そして決まって、そういう時に発せられる言葉は、ひどく人の感情を揺さぶるのだと、みほは知る。

 

「麻子はね、両親いないんだ」

「……え?」

 

誰の、声だったんだろう。

肺から漏れた空気が、そのまま音になったかのようなか細い声だった。

 

「麻子が小さい時に事故に遭って……そこからおばあだけが、麻子に残されたたった一人の家族。本当はね、おばあもう何度も倒れてて……その度に麻子は病院に行って、看病して、すごく不安になるの」

 

それはそうだろう。

たった一つの、血の繋がり。それを失うということは、きっとみほの想像できない程辛いことのはずだ。

お化けや高所なんかよりも、よっぽど恐ろしいことに違いない。

麻子は祖母が倒れる度に、そんな恐怖と独りで戦っている。こんなにも、小さい身体なのに

 

「だからあんなに動揺してたんですね……」

「うん……まぁおばあは倒れても全然元気に復活するんだけど、麻子は気が気じゃないみたい」

 

みほの脳裏に、病室での一幕が映像となって甦る。

そういえば麻子は、しきりに祖母の体調を心配していた。

アレは倒れたからとかそういうことではなく、おそらく普段から言っていることなんだろう。それは、そのまま麻子の祖母への情の深さを示している。

一日でも、一秒でも長く。ずっと元気でいてほしいという、麻子の想いを。

 

「渡里さんは、知っていらしたのですか?」

 

華の言葉が、渡里を射貫いた。

先ほどから沈黙を保ち、そして麻子の話を聞いても表情一つ変えなかった兄を不思議に思ったのだろう。

すると兄は、あまりにも平然として言った。

 

「知ってた。戦車道受講者のプロフィールを生徒会から貰ってるからな。スリーサイズとかは知らないけど、出身地と家族構成と血液型くらいは全員把握してる」

 

良かった。そこが明らかになっていたら、みほのこの右手が全力で唸るところだった。

 

「ただまぁ、冷泉に関してはそんなもん無くてもその内気づいたんじゃないか、とは思う」

「神栖殿と冷泉殿はよく話しますもんね」

 

優花里の言葉に、兄は曖昧に笑った。

 

「それもあるけど、不思議とシンパシーみたいなもんがあったんだよな。なんとなくだけど、似てるなぁーっていうか」

「麻子と渡里さんの似てるところ……?」

 

はて、とみほと麻子以外が首を傾げた。

オンオフのスイッチがはっきりしているところ。寝るのが好きな所。天才肌なところ。髪色、性格、趣味嗜好。

おそらく彼女たちの中では、そういったものがリストアップされているだろう。

 

けれど違う。そんなんじゃない、とみほは断言できる。

なぜなら渡里の言う相似に、みほは一瞬で辿り着いたから。

そしてそれに確信を持っているから。

 

答えは、本人の口から与えられた。

 

 

「俺も両親いないんだよ」

「―――――――」

 

 

いっそ沙織のように、深刻そうに話してくれた方が反応しやすかったかもしれない。

こんな、まるで()()()()()()()()のように言われてしまったら、一体どんな顔をすればいいのだろうか。

沙織たちの絶句は、そういう理由だろうとみほは思った。

 

「だからずっと冷泉に妙な親近感があった。まぁ最初から冷泉に両親がいないってのを知ってたから言えることかもしれないけどな」

 

ちょっとカンニングか、と笑う兄。

一方笑えないのが、沙織達の方であった。

 

だって()()()()()は、決して軽く扱っていいものではない、という感覚があるから。

というか、それはおそらく全ての人が持っている当たり前の感覚のはずだ。

『へぇ、なんでいないんですか?』と平然と聞ける人がいるなら、その人は多分まともな精神構造をしていないと思う。

 

「なんだ、みほから聞いてなかったのか」

「え!?みほ知ってたの!?」

「う、うん」

 

驚愕の視線が六つ、みほに向いた。

そう、みほは知っていた。それが、渡里の話を聞いても反応が薄かった理由である。

 

「でも普通言わないよ……お兄ちゃん」

「それもそうか。じゃあ()()()()も知らないのか、武部達は」

 

あのこと、というオウム返しが聞こえた。

そして渡里は、またあっけらかんとして、とんでもない事を口走った。

 

「俺とみほが血繋がっていないっていう話」

「………」

 

驚愕の絶叫が、空を突き抜けていった。

渡里の背にいる麻子が起きなかったのは、おそらく奇跡だったに違いない。

 

 

 

 

神栖渡里は、いわゆる天涯孤独というやつである。

この世のどこを探しても彼と同じ血を持つ者はおらず、彼の血縁は完全に断絶されている。

 

父は彼が物心つく前に逝去した。

直に父と触れ合った記憶はなく、写真や映像でしか彼は父を見たことがない。

その分失くした悲しみを味わわずに済んだ、とは彼の言葉であるが、果たしてどちらがより悲しいことなのかは、誰にも分からない。

 

祖父母は、父方も母方も両方他界している。

これもまた、彼が赤子の頃の話である。初孫として両方の祖父母から大層可愛がられたらしいが、生憎彼の記憶にはない。

 

彼にとって家族とは、母親のみを指す言葉であった。

 

母は、燃え上がる炎そのもののような人だった。

誰よりも苛烈で、熱くて。

周りを圧倒し、慄かせ、惹きつける。

豪放で快活で凛然とした、そんな格好いい母だった。

まぁそれは戦車に乗っている時の話であって、私生活は結構ダメな人だった。

料理はそんなに上手くないし、掃除洗濯は雑に済ませ、何事も自分の心の赴くまま決める無法で無計画で無秩序な、そんな母だった。

 

しかしそれでも、彼は母を慕っていた。

その生き方に、憧れすら抱いていた。

何者に縛られることなく、ただ自分の行きたい道を切り拓いていく母の姿を、心の底から格好いいと思っていた。

 

そんな母を彼が失ったのは、八歳の頃であった。

 

「戦車道の試合中の事故でな。他の乗員を助けている間に逃げ遅れて、そのまま逝った」

 

兄の言葉が、普段よりも大きく聞こえる気がした。

それはみほ達が、あまりにも静かに聞いている所為だろうか。

構う様子なく、兄は続ける。

 

「仕方ないことではあるんだ。どれだけ安全を追求したとしても、事故っていうのは起きる。電車が脱線するとか、飛行機が墜落するとか、そういうのと同じように、ただ運が悪かったとしか言いようがない。戦車道の欠陥とかそういうんじゃなく、不運な事故だった」

 

仕方ない。

果たして、そんな風に割り切れるものなのだろうか。

確かにどれだけ用心して生きても、善く生きても、賢く生きても、死ぬときは死ぬ。

とんでもなく理不尽に、脈絡もなく、ソレは突如としてやってくる。

 

第三者であるなら、「運が悪かった」で済ますこともできるだろう。

けどそれが自分の身近なところで起こった時、同じことを言えるだろうか。

 

「母親の死後は、母親と親交のあった西住家に引き取られることになった。所謂先輩と後輩みたいな関係だったらしくてな、みほのお母さんは快く俺を迎えてくれたよ」

 

それが西住渡里の始まり。

そして他でもない渡里とみほが、初めて出逢った日だった。

当時渡里が八歳で、みほがおそらく二歳の時だ。

 

みほの最古の記憶は三歳か四歳くらいの頃のものだが、その中にあって渡里は既に()として存在していた。

だからみほは渡里が自分の兄であることに何の疑いもなく、彼が渡英するまでの九年間ずっと血の繋がった家族だと思っていた。

 

当然、今は違う。

兄が渡英した際、みほと姉は母から全ての事情を聞かされている。

その時点で兄は、血の繋がった家族ではなく、血の繋がらない家族になった。

 

ただ、それだけの変化だ。

そして、たったそれだけのことでは、みほは何も変わらなかった。

依然としてみほの中では、神栖渡里は西住みほの、世界でたった一人の兄であり、彼に対する思慕も憧憬も、幼き頃と何一つ変わっていない。

変わるわけが、ないのだ。

 

「んで、まぁなんやかんやあって今に至るわけだな」

 

雑に締めくくり、兄の言葉は終わった。

悲壮感の欠片もなく、まるで教科書を朗読するような軽々しさに、面食らったのは寧ろみほ達の方であった。

こういう時、どう言葉を紡げばいいか。何を言うべきなのか。

正しい選択をするために必要な経験値が、みほ達には圧倒的に不足していた。

みほ達にできるのは、ただ曖昧な表情をして俯くという陳腐な反応だけだった。

 

「まぁ、こういう話をすると大抵の人はお前らみたいな反応をするわけだが。あまり変に気ぃ遣うな」

 

殊更に明るい口調で、兄は言った。

 

「冷泉はどうか知らないが、俺に関してはそこまで深刻にならなくていい。俺の母親の話が聞きたいってんならいくらでも聞かせてやるし、身の上話だってしてやる。お前らが思っている程、俺は自分の過去に囚われてないよ」

「で、でも……」

 

悲しくないのか、という言葉が続くはずだったんだろう。

沙織がそこで言葉を切った意味が、みほには分かる。

そしてそれは、渡里も同様であった。

 

「そりゃあ母親を亡くした直後は、もう大変だったよ。何を食っても味はしないし、世界はモノクロに見えるし、息をするのも億劫だった。でもそれは、もう過去の話だ」

 

兄は言う。

ほんの少しの陰りもなく、堂々と明朗に。

 

「もう俺は母親と一緒にいた時間よりも、母親がいない時間の方が長くなった。いくらなんでも、そこまで過去は引き摺れない」

 

カラカラと笑う兄を、みほ達は複雑な表情で見つめた。

例え彼が過去を乗り越えたとしても、彼が天涯孤独であるという事実は変わらない。

けれど彼はそれを、もう身体の一部として受け入れている。

極論、足が遅いとか背が低いとか、そういうレベルでしか捉えていないのだろう。

 

それは、喜ぶべきことなのだろうか。

強い人だと、感心していいことなのだろうか。

 

みほ達には分からない。

分からないから、何も言えない。

 

「それにさ、血の繋がった家族はいないけど、別に寂しいわけじゃなかった」

 

だからきっと、兄が言葉を紡いでくれるのは、彼の優しさなのだと思った。

みほ達はその優しさに、甘えるしかない。

 

「厳しくておっかない義母がいて、とんでもなく優しい義父がいて、あと甘えたがりで大人しい義妹と……」

 

ぽん、とみほの頭に軽い衝撃が走った。

そこからじんわりと広がる暖かさに、みほは自分の頭に兄の手があることを悟った。

 

「見てるこっちが元気になるくらい明るくてやかましい義妹がいた。血の繋がりじゃなく、心で繋がった家族がいたから、全然寂しくはなかったよ」

 

ぐりぐり、と頭が雑に撫でまわされる。

栗色の髪の毛があっちこっちに飛び跳ねてしまって、綺麗に梳いたヘアスタイルが一瞬で崩れる。

抗議の視線を放つも、兄は華麗にスルーした。

 

心で繋がった家族。

それはみほも、同じ気持ちだ。

誰が何と言おうと、兄はみほの家族であり、みほは兄の家族である。

兄とみほの間にあるつながりに比べれば、血の繋がりなんて本当に些細な問題なのだ。

 

だからみほは薄く笑った。

それと同時に、兄も笑った。

 

「今だってそうさ。みほがいて、華がいて、()()()()()()()()()がいて、大洗女子学園の皆がいて、他にもたくさんの人との縁がある。そんな中で、講師として戦車道に関わることができてるんだから、これ以上の幸せはない」

 

それこそ、過去なんてどうでもいいくらいに。

晴れやかに、心の底から浮かべる笑顔だった。

 

そんな顔を見せられては、みほ達がいつまでも辛気臭い顔をしているわけにはいかない。

他でもない本人が気にしてないのだから、みほ達が必要以上に気にすることもない。

みほ達は生来の明るさを、徐々に取り戻していった。

 

「あ、っていうか渡里さん今名前で呼んでくれましたよね!」

「贔屓は良くないからな。みほと華を名前で呼ぶなら、もういっそあんこうチームは全員名前で呼ぶことにした」

「………むぅ」

「まーだ納得してないのか。今度甘味処にデートしに行くってことで手打ちになったろ」

「ででで、デートぉ!?」

「わ、渡里さんそれは内緒で――――」

「ちょっと華!?いつのまにそんな約束したの!?」

「ええと、そのぉ……」

 

ううん、と渡里の背にいる麻子が身じろぎした。

それほどまでに沙織と華の喧騒は大きく、思わず優花里が仲裁に入るも一向に冷める気配はない。

 

そうして世界は、あっという間に元通りになった。

元気で、明るくて、騒がしい、いつものみほ達の世界。

五人に一人を加えた、六色の世界である。

 

「……ねぇ、お兄ちゃん」

「あん?どした?」

「お姉ちゃんと、何か話した?」

 

聞くタイミングは、今しかないと思った。

別に、聞かなければならないことじゃない。姉と兄が何を話したかなんて、みほが知らなくても全然構わないことだ。

 

けれど不思議と、聞かなければならない気がした。

何故そう思ったかは、みほにも分からないけど。

 

「お前と一緒だよ。麻子を送ってくれたお礼を言おうとしたら、急に抱き着かれた。話したことも『逢いたかった』とか『何処に行ってたんだ』とか、そんくらい」

「……それだけ?」

 

みほの言葉に、兄は長考の姿勢に入った。

軽く十秒ほどの時間を置いて、渡里の豆電球が点灯した。

 

「身体の一部がすごい成長してた。めっちゃ柔らかかったわ」

「お兄ちゃん、これ最終警告だから」

 

丸い瞳が精いっぱい吊り上がる。

普段大人しい外見をしている分、迫力が割り増しになっていたようで、兄は気まずそうに視線を逸らした。

 

「……何かあったでしょ」

 

戦車道では嘘をつかないこの人は、その分戦車道以外のところで嘘とついたり、何かを隠したりする。

そしてそういう時の兄を、みほは直ぐに見抜くことができた。

今もそうである。

 

「……秘密」

 

そして兄は、薄く笑いながらそう言った。

 

「秘密って……」

「お前には教えられないってことだ」

 

いっそ、「何もなかった」と言ってくれればまだ追撃のしようがあったのに。

そんな風に言われてしまったら、みほはもうこれ以上踏み込めない。

たった一言で攻撃の手を潰す、鮮やかな手並みだった。

戦車道における防戦の名手は、平時でも名手ということか。

 

「……いつ教えてくれるの」

「気が向いたらな。ともかくとして今お前が考えるべきは、二回戦で当たるアンツィオ高校のことじゃないか?」

 

みほは内心でため息を吐いた。

こういう時に限って正論を言うから、この人は厄介なのだ。

 

もし兄と血が繋がっていたら、自分もこんな性格になったのだろうか。

そんなことを想像して、みほはちょっとゾッとして。

 

それも悪くないかも、と思った。

ほんの少しだけ。

 

 

 

 




どんなスポーツでも事故の可能性はあって、それが原因で亡くなる可能性はあるという話でした。
戦車道の闇とかじゃなく、極々当たり前の話ですね。
なんでガルパンでこんな話をするんだ、と思った人は「オリ主が全部悪い」ということでどうか一つ。


次回はサクっと小話を一つ挟んで、アンツィオ高校戦です。


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第28話 「アンツィオと戦いましょう 下準備」

今話は試合前のつまらない話(助走)。


各隊長の強さってどうなってるんだろうか、と試合描写をするたびに思う作者です。

オールマイティに戦えるまほと愛里寿。
大軍の指揮ならケイ、カチューシャ。
奇策に秀でたアンチョビ。
単騎での速戦ならミカ。

誰彼が戦ったらどうなるのかなっていうのは多分誰もが一度は通る道。
最終章のトーナメント表を見ていると妄想が捗りますね。継続VSサンダースとか。

こんなことばっか考えてるから内容がスポ根に寄るんだよ(自戒)


「二回戦の相手はアンツィオ高校だ」

 

その一言で、大洗女子学園戦車道の作戦会議は始まった。

会場は生徒会室。司会進行は戦車道講師、神栖渡里。アシスタントには片眼鏡がトレードマークの河嶋桃がつき、各チームの車長(カバさんチームは例外)をホワイトボードの前に集めて行われるのが大洗女子学園のノーマル会議スタイルである。

大洗女子の選手数を考えると全員を一か所に集めても、悲しいことに問題ないのだが、兄は兄→車長→各選手という風な伝達ルートを使っている。

 

それが面倒くさいからなのか、はたまた別の理由があるのかは、みほには分からない。

ただ――特に車長組に見られる傾向だが――後でチームメイトに説明しなければならないためか、単に話を聞くよりかは作戦会議の内容への理解が深まるので、一定の効果はあったりする。

 

「戦車道の歴史はウチより長いが……っていうかウチより短いとこなんて無いんだが、ここ最近力をつけ始めているチームだな」

 

アンツィオ高校。

黒森峰時代に対戦した経験はないが、みほはかの高校の代名詞とも言える文言を知っている。

それは、『勢いに乗ると強い』である。

何故か知らないが、アンツィオ高校は自分のリズムで戦っている内は本領を発揮する、という性質の選手が多く、それが群れになって勢いづくとそれはもう実力以上のものを発揮する……らしい。

らしい、というのは実際にみほがその光景を見たことも体験したこともないからである。

どうも聞くところによると、勢いに乗るところを見たことがある人の方が少ないらしいが、果たして実際どうなのだろうか。

 

「一回戦でマジノ女学院を破ってきただけあって、そこそこの地力はある。個人的には一度勝っているマジノの方がやりやすかったが、まぁそこを言っても仕方ない」

 

そう言うと兄は河嶋に目配せをして、ホワイトボードにいくつかの写真を貼らせた。

あの人、いつかの絵が不評だったからって随分短絡的な手段に出たようである。

 

「保有戦車はイタリア系統の戦車二種類。陽動・奇襲担当のタンケッテ、火力担当のセモヴェンテ。どれも特徴的な戦車だな」

「タンケッテ……すごい小さい戦車?ですね」

 

磯辺が手元の資料(例によって神栖渡里作)とホワイトボードに貼り付けられた写真を交互に見ながら言った。

 

兄は「タンケッテ」と言ったが、一般的にはCV33やカルロ・ヴェローチェと呼ばれることが多いこの戦車の特徴は、なんといってもサイズ。そしてそれに起因するスピードである。

 

「四号戦車と比べると大きさは半分、重さは三分の一以下。戦車の歴史を遡ってもここまで小さい戦車はあまりない。サイズ感的には学園長のフェラーリとほぼ一緒だ」

 

一メートルくらい全長が短いだけ、と兄は微妙に分かりやすい例を出した。

まぁ確かにそれくらいの大きさなんだろうけど、そんな風に言われると写真の中のCV33がやけに高級車っぽく見え始めるので止めてほしいみほ達であった。

 

「装甲は17㎜、火力も機銃だから貧弱。おそらくウチが戦車の性能で有利に立てる最初で最後の試合だろな」

 

しみじみと兄は言った。

イタリア系の戦車がほとんどのアンツィオ高校だが、残念なことにイタリアはそこまで戦車が盛んなわけではない。

戦車と言えばとにかくドイツ、イギリス、アメリカ、ロシアという中で、イタリア系の戦車の性能は結構どころじゃないレベルで見劣りしてしまう。

 

揃いも揃って古い戦車しか持ってないみほ達が言うのもなんだが、今まで苦労してきたのではないかと思う。

しかし強みが一つでもあれば勝てるのが、戦車道である。

 

「ただ注意すべきは、装甲と火力を補って余りあるスピード。はっきり言うが、今まで経験してきた戦車の中でも次元の違う速さだ。ある程度の対策はしておかないと痛い目に遭うぞ」

「そ、そんなにですか……?」

「データを見る限りは、最高速度が四号戦車とほぼ同じだが……」

 

カタログでは確かに四号戦車とCV33はほぼ同速だ。

けれど戦車道におけるスピードとは、イコール最高時速ではないのである。

 

それを良く知る兄の言葉は、不思議と鋭く聞こえた。

 

「『軽くて小さい』は戦車道では大きな武器だ。こればっかりは経験しないとだが、感覚的には視界から消える速さと言ってもいい」

 

特に操縦手と砲手はそう感じるだろうな、とみほは思った。

キューポラから身体を出して見る分には何てことはないが、これが照準器などから見ると全然違う。視界が著しく制限されているせいで、本当に煙みたく消えることがある。

 

「行進間射撃で当てるのは至難の業だ。かといって静止射撃をしようと足を止めれば、このセモヴェンテが狙い撃ってくる」

 

セモヴェンテ。イタリア語で自走砲という意味で、搭載されている75㎜砲は短砲身とはいえ十分な対戦車能力を持っている。弾が山なりに飛ぶから遠距離射撃は難しいが、近接戦闘(インファイト)になれば、装甲の薄い大洗女子学園にとっては脅威。

兄の言う通り、迂闊に足を止めれば容赦なく肉薄されてしまうだろう。そうなれば流石に無傷ではいられない。

 

「こっちに関してはタンケッテとは違い、ある程度は防御の必要性が出てくる。対処法としては、迂闊に側面を晒さない事。それから懐に潜り込ませないことだが……、アウトレンジから有効な攻撃ができるのは三突しかいない。場合によっては引き付けて撃つことも必要だ」

 

でも当然リスクはある。近ければ近いほど撃破はしやすいが、同時に撃破されやすくもある。

一両の損失が他のチームとは比較にならない程重い大洗女子学園としては、あまり投機的なことはしたくない、というのが隊長としてのみほの考えである。

 

ここは攻撃の軸を三突のみに絞り、後の戦車は三突の前に相手をおびき寄せる役に終始するのも一つの手だろうか。防御に意識を全振りすれば、おそらく撃破されることもないだろうし。

 

「対戦車能力がほとんどないCV33を機動・攪乱の要とし、セモヴェンテを火力担当に据える。前者に気を取られれば後者に背後を突かれ、後者に注意し過ぎると前者が追いきれなくなる。いかにして素早い動きに惑わされず、しっかりと狙い撃つか。自分達のペースを乱さないことが、二回戦のポイントになってくるだろうな」

 

サンダース戦とは違った方向性の戦いになるかもしれない、とみほは思った。

あの時はいかにして相手のペースを乱すかが肝だったが、今回はその真逆だ。

相手の攻撃を受け流しつつ、強かに逆撃する。

そのためには高い対応力が必要になってくるので、隊長のみほとしてはある程度アンツィオの攻撃パターンを把握しておかなければならない。

兄お手製のこの資料にも大抵のことは載っているだろうが、場合によっては過去の試合も見る必要があるだろう。

 

「ここに加えて一回戦では出てこなかった戦車が二回戦で出てくるという情報がある」

「……ははぁ、()()ですか」

 

角谷が口角を吊り上げて渡里を見やった。

不思議とそういう不敵な表情が似合う人である。兄もまた同様だが。

 

「今回は俺が頼んだんだ。とある戦車をどこかの高校が買った、という情報があったからその裏付けをしてもらおうと思ってな」

「それで、結果は大当たりだったってわけですか。しかし毎度毎度どこでそんな情報を仕入れてくるんです?」

「角谷と同じ方法だよ、多分な」

 

なんとも背筋がヒンヤリする会話だった。

兄も謎の諜報網を持っているが、おそらくそれに勝るとも劣らないものを角谷会長も持っている。なんせみほですら知らなかった兄の所在を突き止め、講師として招聘したのは他でもない彼女なのだ。

 

まぁ今回はみほも情報の出所を知っている。

ご存知、秋山優花里である。

今回もコンビニ船だかなんだかに紛れて、アンツィオ高校に潜入してきたらしい。

そこで目にしたのが、件の戦車である。

 

「資料にデータは載せてあるからよく確認しておくように。言っても戦車一両一種類増えたぐらいじゃ、アンツィオの戦術は特に変わらないだろうけどな」

「アンツィオの戦術はやはり機動力を活かしたものですか?」

 

カエサルの質問に兄は腕を組みながら答えた。

 

「うーん、一回戦では多方向から攻めてフラッグ車を孤立させたところを狙い撃ちしてたし、過去の試合を見てもそういう攪乱からの一点強襲攻撃の傾向が強いな。戦車は変則的だが、フラッグ戦の戦い方としては王道的だ」

 

みほは内心で頷いた。

極論、フラッグ戦はフラッグ車以外の戦車を倒す必要はない。

フラッグ車の撃破が勝利条件な以上、それ以外の戦車を撃破することは寧ろ無駄とさえ言えるだろう。まぁ当然、数を減らせばフラッグ車を狙いやすくなるし、相手の戦術の幅も狭めることができるから、本当に無駄というわけではないけれど。

 

ただ一番効率が良いのは、他の戦車を無視してフラッグ車だけを撃破するやり方だ。

それゆえ、一番難しいが。

 

「お前達がマジノ女学院と練習試合した時にやったことと同じことをやってくると思えばいいんだが、当然アプローチが異なる。その辺は過去の試合映像を見るなりして対策を積んでくれ」

「映像って……サンダースの時みたいにはできないんですか?」

 

サンダースの包囲戦術の対策を立てる際は、神栖渡里による『相手の戦術を完全に模倣することで弱点を見つける』という裏技を使った。

磯辺の言う事は、今回もそれをやればいいのではないか、ということだろう。

それはみほも同じ気持ちである。

おそらくこの世界で唯一兄にしかできないやり方で、言ってしまえば他校にはない大洗女子学園だけの長所だ。使わないのは勿体ないと思う。

 

「あぁ、今回は無理だ。戦術が模倣できないからな」

 

途端、会議は静寂に包まれた。

()()()()。その言葉は()()()()()()()でという条件が付くことによって、みほ達に決して小さくない衝撃と動揺をもたらした。

 

大洗女子学園の面々にとって、神栖渡里は戦車道において全能の存在であった。

知識が豊富で、整備もできて、対戦相手の戦術を模倣してしまえる程の実力もある彼に、戦車道でできないことはないのだと、大洗女子学園の誰もが思っていた。

そんなバカげた信仰を集めてしまうほど神栖渡里は頼れる存在だったし、その期待を一度も裏切る事が無かったこともまた、彼の信仰を助長させる一因だったに違いない。

 

「で、できないって……どういうことですか?」

 

澤の声は僅かに震えていた。

それは彼女の動揺を正しく表現していた。無論、この場にいる大半の人間の気持ちの代弁でもあった。

 

「アンツィオの隊長のアンチョビっていうのが曲者でな。立案する作戦の中身は王道的なんだが、どうにもアプローチが独創的で……有体に言うとよく分からん」

 

よくわからんって……と全員の思考が一致した。

そんな空気を敏感に察知したのか、渡里は頭を掻きながら言った。

 

「サンダースの戦術をあそこまで模倣できたのは、サンダースの戦術が戦車道の教科書にそのまま載せてもいいくらいに完璧で綺麗なものだったからだ。変な捻りもなく、基本に忠実だから真似する方としてはそっちの方がやりやすい」

 

それはそうだ。

乱雑に描かれた絵より、綺麗かつ分かりやすく描かれた絵の方がトレースはしやすい。

絵心が皆無の兄でも分かる簡単な理屈である。

 

「でもアンツィオは隊長であるアンチョビの個性が戦術に顕著に表れている。教科書通りの戦術じゃなく、オリジナリティを加えた変則的な戦術だ。加えてバリエーションが豊富で、複数の戦術を使い分けるからピンポイントで対策を立てることができない。それこそ、アンチョビの頭の中を覗きでもしない限りはな」

 

なるほど、とみほは得心がいった。

技術的にできないわけじゃなく、サンダースの時のように対策を立てる戦術を絞り切れないからできないのか。

確かに兄のやり方は、サンダースのように絶対的な「勝利の方程式(究極の一)」を持つチームに有効だが、あらゆる戦術を満遍なく使いこなすチーム相手には効果が半減だ。

 

兄の知識量ならおそらく戦車道に存在する全ての戦術を網羅しているはずだが、一つの戦術に対して一つのアプローチ、というわけではない。

ゴールに至るまでの道筋はたくさんあって、その数はすなわち指揮官の数と等しい。

それらを全部読み切り、模倣するには多分すごい時間がかかる。

兄の言うところの真意は、メリットよりデメリットの方が大きいからしない、ということだろう。

 

安堵の息が所々で漏れる。

一同の頭にあったのは、一つの可能性。

それはアンツィオの戦術が、あの神栖渡里でさえ模倣できないほど高度なものであるという、背筋の凍る仮説。

 

もしそうだったら、サンダース戦を超える程の困難が二回戦で待ち受けていただろう。

そうじゃなくて、本当に良かった。

 

「サンダースのケイとは全く違うタイプだが、作戦立案に関しては同じくらい優秀な隊長だ。二回戦でも予想外の一手を打ってくる可能性はある。今回あまり力になれない俺が言うのもなんだが、できるだけ対策は積んでいこう」

 

了解の意を伝える返事が、それぞれの個性に沿って生徒会室に響き渡る。

 

「と言った傍から申し訳ないんだが、アンツィオ戦に向けて戦車を少し弄らせてもらう。夜までは戦車に乗るのを我慢してくれ」

 

そして思いっきりつんのめるみほ達であった。

やる気を上げるだけ上げといて、この仕打ちである。

まぁ戦車に乗らずともできることはたくさんあるけれども。

 

「河嶋。例の話を」

「はっ」

 

するとこれまで司会進行のアシスタントに徹していた河嶋が、突如としてホワイトボードの前に立ち、渡里から場の主導権を受け取った。

 

何事か、と首を傾げる一同を前に、河嶋は片眼鏡を光らせて言った。

 

「先日戦車道関係の書類を整理していた時、我が校には今の五両以外にも戦車があるという記録が見つかった」

 

おお、と感嘆の声がどこからか上がった。

これは朗報かも、とみほも思った。

戦車道は数を多く揃えた方が絶対的に有利な競技だから、戦車の数は一両でも多い方がいい。五両と六両じゃ大して変わらない、と思う人もいるかもしれないが、みほからすれば全然違う。その一両の差は、とてつもなく大きいのだ。

 

「どんな戦車なんですか?」

「不明だ」

「え」

 

何だろう。盛り上がった空気が、一瞬で萎んでいく感じだった。

 

「記録が古すぎて戦車の所在までは分からなかった。つまり現在も行方不明だ。そこでお前達には、今からその戦車を探してきてもらう」

 

えぇー、という否定の大合唱が起こった。

それはそうだ。

いつかの時も戦車を探すために学園艦中を歩き回ったが、これが結構な重労働だった。アヒルさんチームなんか崖を下る羽目になったりしたのだ。もう一回やれと言われて喜ぶ人間はいないだろう。そもそも試合前だし。

 

そんな皆の反応に、河嶋は声を鋭くした。

 

「うるさいうるさい!戦車数が少ない我々にとっては、新しい戦力の確保は最重要かつ最優先事項だ!おおよそのポイントは絞ってあるから、手分けして探してこい!」

「まぁ戦車の整備が終わるまでの暇つぶしと思って、一つ頼むよ」

 

果たしてどちらの言葉に従ったのか。

それは分からないが、作戦会議は終了し、一同は外へと繰り出していった。

 

「あ、渡里先生」

 

しかしみほだけが足を止め、生徒会室を出た直後に渡里を呼び止めた。

スタコラと歩き去ろうとした渡里は足を止め、黒い瞳が此方を向く。

 

「なんだ西住」

 

兄は公私の区別をしっかりとつける人で、普段は名前で呼ぶみほのことも学校では苗字で呼ぶ。

兄がそんなだから当然みほも、こういう場ではちゃんと「お兄ちゃん」ではなく「渡里先生」と呼ぶようにしているのだが、これがなかなかむず痒かったりする。

圧倒的にお兄ちゃんと呼んできた時間の方が長いので、未だに違和感を覚えてしまうのだ。

 

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」

「聞きたいこと?」

「アンツィオ高校に行ったとか、知り合いがいるとか、そういうことない?」

「うん?」

 

黒い瞳が丸くなる。

その反応で、みほは自分の言いたいことが半分も伝わっていないことを悟った。

 

「ええと、サンダースと戦った時ね、サンダースの隊長のケイさんが……渡里先生と同じ戦術を使ってきて……」

「あぁ、そりゃ俺の所為だ。悪かったな」

「うん、知ってる。渡里先生が昔書いたノートを、ケイさんが見たんだよね」

 

試合の後日、みほはケイと話す機会があった。

どこから番号を入手したのかは知らないが、突然みほの携帯にケイから電話がかかってきたのである。

そこでみほは、ケイが使った件の戦術は、ケイが見つけたとあるノートに記されたものであり、その書き手が他ならぬ神栖渡里であることを知ったのだ。

 

正確には「一回戦をダージリンの横で一緒に見ていた男の人」がノートを書いた人らしいが、まぁ間違いなく兄だろうとみほは思う。

そのことを伝えたケイは大層驚き、近々大洗に遊びに行くとか云々言っていたが、果たして……

 

「そういうことが二回戦でもないかなって思ったんだけど……」

 

ただでさえ豊富なアンチョビの戦術に、兄の戦術まで加わるとなるといよいよ大変である。

万が一そうなった時にキチンと対処できるよう、事前に聞いておきたい。

 

そんなみほの言葉に、渡里は腕を組んで少し唸った。

 

「……無いとは言い切れないな」

「え、心当たりあるの?」

 

だとすればこの人、一体どこまで手を広げてるのだろうか。

戦車道をしている女子で兄と関わりのない人などいないのではないか、とみほは危惧した。

 

すると兄は手を振って否定の意を示した。

 

「可能性の話としては、だよ。人の縁なんてどこでどう繋がるか分かったもんじゃないだろ?俺とダージリンの縁なんて、『俺がイギリスにいた』ってだけで始まったんだぞ」

 

それも渡里から何かしらのアプローチをかけたわけではなく、寧ろ自分の知らないところでいつの間にかできた縁。

人と人とのつながりは、必ずしも劇的に始まるものではない。勝手に、理不尽に、無作為に縁が結ばれることだってある。

 

「そうやって、また俺の知らない所で、勝手に縁ができてるかもしれない。そこから何かの拍子で、サンダースと同じことがアンツィオでも起きてるかもしれない。まぁそんなこと言い出したらキリがないけどな」

「……結局どっちなの」

「気にする程のものじゃないってことだよ。だいたい、俺の戦術を使ってくるならお前にとっては好都合だろ」

「まぁ、そうだけど……」

 

誰かに自慢するほどのことじゃないが、みほは『対神栖渡里』なら百戦錬磨である。

サンダースとの試合、苦戦した理由が『ケイが兄の戦術を使ったから』なら、勝てた理由の一つもそれだ。

 

「アンツィオってイタリアの文化が入ってるところだろ。俺イタリア行ったことないし、アンツィオの学園艦にも乗ったことはない。つまり接点は限りなくゼロだ」

 

ダージリンとの縁ができたのは、聖グロがイギリスと深い関わりを持つ学校だったから。

ケイとの縁ができたのは、サンダースが渡里の母校だったから。

 

でも今回は、そのどちらでもない。

 

「流石に今回は大丈夫だろ」

 

そうやってカラカラと笑って、兄は立ち去っていった。

そしてみほもまた、「それもそっか」と深く考える事はなく、戦車捜索に合流することにした。

 

思えばそれは、致命的とまではいかないまでも迂闊な事だったかもしれない。

もし二人が、ほんの少しでもアニメやゲームに詳しければ。

あるいはほんの少しでも戦車道以外のものに目を向けていれば。

きっとこの単語が出てきたに違いない。

 

―――――――フラグ、と。

 

 

 

 

武部沙織は、ウサギさんチームと共に学園艦の地下を歩いていた。

学園艦は一つの都市であると同時に、名前の通り船でもある。

甲板は居住区に使われているが、機関部はそのまま船を動かすための機関部なのである。

しかしただの機関部ではない。横幅も縦幅も余裕でキロメートルを超える学園艦のものとなれば、それはもう巨大ショッピングモールをも超える超巨大地下空間である。

 

普通科の沙織たちは滅多にここに入ることはない。

主にここを住処としているのは学園艦の、ひいては沙織たちの生活を支えてくれている船舶科の生徒だ。

沙織たちが着るセーラー服とは違う意匠をした、純白の制服に身を包む彼女たち無くして学園艦は立ち行かず、もし彼女たちが全員ストライキを起こせば、その瞬間学園艦は海に浮かぶ巨大な流氷となって何処へとドンブラコしていくことになるだろう。

 

学園艦の地下は、そんな彼女たちの完全なる縄張りである。

噂によると地下に行けば行くほど治安が悪くなり、普段地上で生活している生徒たちへの敵意も高まっていくとかなんとか。幸いなことに今のところは全然そんなことはないけど。

 

沙織たちがなぜそんなところに足を踏み入れているかと言うと、新しい戦車の所在候補の一つがここだったからである。

本当はみほと麻子と一緒に探すはずだった沙織だが、ウサギさんチームが意気揚々と()()で地下に潜ろうとしている所を見てしまい、ついつい心配でついてきてしまったわけだが……

 

(私ごと迷子になりそうだよね……)

 

とにかく広い。そして複雑に入り組んでいる。加えて景色がどこも似たようなものだから、方向感覚がちょっと狂う感じがある。

沙織とて別に学園艦に詳しいわけではないし、油断すると普通に帰れなくなりそうである。

 

まぁそうなったら携帯で救助を呼ぼう、と沙織は楽観的に考えることにした。

 

「うーなんか下に行けば行くほど暗くなってない?」

「言われてみれば確かに……」

「なんか寒い~」

「海に近い所にいる分冷えてるのかもね」

「おーなるほど、武部先輩流石です!」

 

だいぶ適当な発言だったが、ウサギさんチームは感心したようだった。

沙織としても尊敬されて悪い気分ではない。

特にウサギさんチームは、沙織の事を恋愛マスターとして慕ってくれる貴重な後輩である。

大洗女子学園は世間一般と違って、恋愛上手より戦車上手の方が尊敬されやすいのだ。

 

例えば同じ学年のバレー部三人はあまりそっちの話に興味はなく(すごくモテそうなビジュアルとスタイルなのに)、沙織と同級生のカバさんチームも同様。

カメさんチームはそもそも恋愛に興味があるのかないのかすら不明。

 

あんこうチームは……

 

(優花里はともかくとして、他はちょっと怪しいよね)

 

例えば華。いつぞやは「恋愛はわからない」なんて言っていたのに、ここ最近は神栖渡里と随分親しげにしていて、この間なんか二人でデートに行っていた。

まぁ二人で甘い物を食べにいくことをデートと呼ぶのかは知らないが、何にせよ沙織の中では既に要注意人物である。

 

麻子は、華が黒だとするからグレーというところである。

華ほど積極的な行動は見せていないが、あの人見知りの麻子があれだけ男の人に懐くということはない。猫みたく心を許すまでが長いが、一度心を許せばまた猫みたく懐くのが麻子であるからして、沙織としては幼馴染みといえど警戒を緩めることはできない。

 

そしてみほ。彼女は現在沙織の中では、最大要注意人物である。

大洗女子学園で一番神栖渡里と仲が良いのは、間違いなく西住みほ。他にも仲良しな女子は色々いるが、家に平然とお泊まりしたり料理を振る舞ったり、そんな通い妻みたいなことをしている女子はみほ以外にはいない。

 

沙織はそれを、つい最近までは別に何とも思っていなかった。

なぜなら西住みほは神栖渡里の妹であり、その絶対的な関係ゆえに何をしようと恋愛関係に発展することはない、と考えていたからである。

 

だからみほがどれだけ渡里と親しくしていても、何の危機感も覚えることはなかった。

ただ「仲のいい兄妹だなー」と楽観的に見ていられたーーーーのに。

 

先日明かされた衝撃の真実。

神栖渡里と西住みほは、なんと血の繋がった兄妹ではなかったのだ。

 

もう事件だよ、と沙織は思う。

なんでって、それはつまり今までのみほの行為すべての、最強の免罪符となっていた「妹だから」が通用しなくなったということ。

兄妹の微笑ましい触れ合いも、あっという間に男女の逢瀬に早変わりである。

 

みほが渡里に向ける感情が兄妹のものなのか、男女のものなのかは分からない。

ただそれがとてつもなく大きい好意というのは確かだ。

例え今が兄妹のソレだとしても、何かの拍子で入れ替わることだって十分あり得る。

そのことに対して沙織は、明確な危機感を覚えていた。

 

(まだ他にもいるんだよね……)

 

そして沙織が戦々恐々としているのは、みほだけではない。

大洗女子学園を飛び出し、神奈川の海上を悠然と漂う聖グロリアーナ女学院にも、神栖渡里を慕う者はいる。

その名を、ダージリン。

金髪青眼の、超が何個つくか分からない程の美少女である。

 

彼女もみほに負けず劣らずの好意を渡里に注いでいることを、沙織は知っていた。

しかもこっちは完全に恋愛的な好意なので、ある意味みほより脅威だ。加えてアプローチも凄い。隙あらば距離を詰めようとしているし、実際出会ってから今日に至るまでの僅かな時間でかなり親密な関係を築いている……と思われる。

 

沙織は内心でため息を吐いた。

他にも、神栖渡里に想いを寄せる女子はいるかもしれない。

そんな面々を相手に、自分は戦っていかなければならないのである。

戦車道とは違い、頼れるのは己一人。勝者もたった一人だけ。

なんとも熾烈な戦いに身を投じてしまったものだと思う。

 

(でも仕方ないよね……)

 

だって―――――――

 

「…部先輩。武部先輩!!」

「へっ?あ、何?」

「だから、タイプです」

「タイプって……何の?」

 

考え事をしていたせいで、何一つウサギさんの話を聞いていなかった。

聞き返した沙織に、宇津木優季がほのぼのとした声で言った。

 

「好きな男の人の~タイプです♪」

「――――えぅ」

 

あまりのも唐突な問いに、思わず変な声が出た。

好きな、男の人の、タイプ。

()()()()()()()()()!?

 

「なな、なんで急にっ」

「だって気になるじゃないですか」

「武部先輩一回も教えてくれないし~」

 

何がどういう流れでそんな話題になったのだろうか、と沙織は思った。

しかし確かに、今まで散々恋愛講座をしてきたが、好みのタイプを言ったことはない気がする

 

「やっぱりイケメンですか!?」

「年上ですか!?年下ですか!?」

 

そして質問攻めに遭う沙織であった。

 

好みのタイプ?

そんなの―――――あるに決まってる。

それも明確かつ、具体的に。

 

でもそれを言う事は……ちょっとできない。

あまりにも具体的すぎて、多分即特定される。

そして特定された後の展開を考えると、だいぶ面倒なことになると思う。

 

「そ、そんなことより今は戦車を探さないと!」

 

ここは三十六の策も及ばぬ逃げの一手である。

 

ちょっと熱を持ってしまった頬を隠すために背を向けた沙織。

それをウサギさんチームの面々は訝しんだようだったが、話題は恋愛系から無事シフトチェンジした。

 

「でも……もう結構深い所まで来たと思うんですけど」

「戦車のせの字もないですよ」

「これ以上行っちゃうと帰れなくなりそう」

「そしたら遭難?」

「あい!そうなんです!」

 

キャッキャと騒ぐ一年生達を背後に、沙織は少し考えた。

確かにこれ以上進むのは良くないかもしれない。

生徒会長達からは「深く潜り過ぎると危ないから」と言われていたし、時間もいよいよ夕方だ。見つかっても見つからなくても一度帰ってくる手筈になっているし、ここは素直に戻った方が良いだろう。

 

「うん、戦車見つからなかったのは残念だけど、帰ろっか」

「はーい!」

「で、どっちに帰ればいいんですか?」

「えーと………」

 

そして、そこから言葉が続くことはなかった。

どっちに帰るって、そりゃ来た道を戻るだけなのだが。

来た道って、

 

「どっちだっけ……?」

 

スーッと血の気が引いていくのが、自分でも分かった。

そしてこんなにも暗いのに、そんな沙織の表情の変化を、ウサギさんチームは敏感に感じ取ったようだった。

 

沙織の記憶が正しければ、多分後ろの道を行けば帰れるはずなのだが、その道中に階段を何回か上り下りしてるし、右左折したりしている。

だがそのポイントで登ったのか降りたのか、右に曲がったのか左に曲がったのかが曖昧だ。

そしてそれが分からない限り、おそらく沙織たちは地上には帰れない。

 

「と、とにかく戻りましょう!」

「戻るってどっちに!?」

「こっちじゃない!?」

「こっちだよ!」

 

状況はパニックになった。

別の意味で一気に騒がしくウサギさんチーム。つい先ほどまでの恋バナ満喫モードから一転、お化け屋敷に叩き込まれたような焦燥である。

 

一つ、沙織は大きく深呼吸した。

こういう時こそ、人間は冷静でいなければならない。

加えて沙織は、この中で一番の年長者なのだから尚更に。

 

「大丈夫、携帯で連絡すれば迎えに来てくれるよ。ほら、ここに私たちの居る場所が書いてあるし。これを伝えればすぐに来てくれるから」

 

その言葉に、ウサギさんチームは大層救われたようだった。

砂漠でオアシスを見つけたみたいな表情になり、歓声が上がる。

 

それを聞きながら、沙織は壁に飾られた目印に目を向けた。

 

「えーと……ここが私達のいるところだから、第十七予備倉庫の近くかな」

 

暗くてよく見えないが、多分間違ってないだろう。

携帯を取り出し、麻子あたりに電話を掛けようとする。

 

 

そして沙織は、携帯電話の画面が真っ黒になっていることに気づいた。

 

 

「……」

 

ぎゅー、っと電源ボタンを押してみる。反応しない。

とりあえず色んなボタンを押してみる。反応しない。

ぶんぶん、と携帯を上下に振ってみる。反応しない。

こんこん、と携帯に拳をお見舞いする。反応しない。

 

「………」

 

ダラダラ、と汗が滝のように吹き出てきた。

そんな沙織を見て、ウサギさんチームもまた顔を青くした。

不思議と沙織は、鏡を見ているような気分になった。

 

あぁ、うん。そうだね、とりあえずまぁ、言いたいことは色々あるけれど。

まずは現状を正しく報告しよっか。

 

「充電切れちゃった……」

「「「「「いやーーーーー!?」」」」」

 

いやほんと、漫画みたいなことが起きたと思う。

このタイミングで都合よく、携帯の充電が切れるなんて、もう神様が沙織たちを迷わせようとしているのではないだろうか。

 

「だ、誰か携帯持ってる人は……」

 

ブンブンブン、と一同は首を横に振った。

なるほど、詰んだぞ、これ。

 

船舶科の生徒が通りそうな気配は、残念ながらない。

上層の部分は何度かすれ違うこともあったが、ここまで下層になると人の気配が全く感じられない。というか人が通るなら、ここまで明りが少ないこともないだろう。

 

闇雲に動くのは他武運得策じゃない。だって余計に迷うかもしれないから。

これ以上ひどい状況になるとも思えないが、もしかしたらもっと大変なことになる可能性はある。

 

けれど援軍失くして籠城は無し。

助けが来ない状況でじっと待っていたって、状況は好転しない。

あるとすれば、時間になっても帰ってこない沙織たちを心配したみほ達が救助に来てくれることだが、ノーヒントでこの広い学園艦の中から沙織たちを見つけるのに、果たしてどれほどの時間がかかるか。

 

「わ、私達ここで一夜を過ごすんですか……?」

「っていうか誰か助けに来てくれるんですか!?」

 

不安が伝播する。

一瞬助かると思った分だけ、衝撃は大きかった。

流石にこのまま何日も、ということはないだろうが、不安が恐怖を後押しして、有り得ないことも有り得ると思ってしまっている。

慰めようにも果たして、何というべきなのか。

 

「うぅ……」

 

じわり、と誰かが涙ぐむ。

すると一気に、その感情は周囲へと広がった。

まずい、と沙織は思った。

このままでは自力で助かろうという意志すらなくなる。

そうなったら帰るどころではない。

 

とりあえず何故か持っていたチョコレートでなんとかならないだろうか、と沙織がポケットに手を突っ込んだ……その時だった。

 

 

「なんだお前ら、こんなとこまで戦車探しに来たのか」

 

 

とても聞き馴染みのある声が、沙織たちの耳を打った。

弾かれるように顔を上げ、声のする方へと目を向ける。

 

するとそこには、沙織たちのよく知る人の姿があった。

あぁ、という誰かの嘆息が一つ漏れて、そしてウサギさんチームは一斉にその人の名前を呼んだ。

 

「「「「「渡里先生だーー!!」」」」」

 

キーン、と狭い通路に甲高い声が木霊する。

ウサギさんチームの喜びを過不足なく表現した合唱を至近距離でくらった渡里は、わずかに眉間に皺を寄せた。

しかし沙織たちからすれば、そんなことは些細な事。

なんならもう、渡里から後光が差して見えるレベルであった。

 

「助かったー!」

「これで帰れるー!」

「良かったー!」

「助かった?帰れる?何してたんだ、お前達」

 

ウサギさんチームの喜びようを不思議に感じたのか、渡里は首を傾げた。

まぁそういう反応だろな、と沙織は思いつつ、渡里に事情を説明した。

すると渡里は声を押し殺して笑った。

 

「学園艦の中で遭難か。あやうく大洗女子学園の歴史に名を遺すところだったな」

「いや笑いごとじゃないです渡里さん……」

 

割と本気でした。いや本当に。

 

「渡里さんが来てくれてよかったです……」

「そりゃよかった。まぁ偶然通りかかっただけだけど」

「通りがかりって……こんなところまで来て何してたんですか?」

 

沙織たちが言うのもなんだが、こんなところ普通来るものじゃない。

まさか散歩してたわけでもあるまいし……と沙織が思っていると、渡里は薄く笑って答えた。

 

「ここからもっと下の方の……どん底くらいまで行くとバーがあってな。そこでちょっと休憩してた」

「バー?バーってあのお酒とか飲む……」

「そうそう。言っても学生がお遊びでやってるようなところだけどな。俺酒得意じゃないし、それくらいが身の丈に合ってるんだけどさ」

 

ほわんほわん、と沙織の頭の中で具体的なイメージが浮かび上がる。

静寂に包まれながら、落ち着いた色調の明りで照らされる部屋。

ドラマでよく見るような、木目調のカウンター。

背もたれの無い丸い椅子に座り、目の前には大きな氷の入ったグラス。

そこに注がれたカラフルな液体を、少しずつ味わう大人の男性。

 

「――――良いっ!」

「はぁ?」

「あ、いや、なんでもないですっ。そ、そんなところがあるんですねっ」

「あぁ、普通科の生徒はほとんど誰も知らないだろうけど、良い所だよ。たむろってるメンツが変わってるけど」

 

常にマイク持って歌ってるシンガーとか、海賊気取りのスケバンモドキとか。

そんな渡里の言葉を聞きながら、沙織は「なんか想像と違うな」と思ったが、口には出さなかった。

 

(良かった今度連れていってほしいです……とか)

 

言えたら、どれだけ良かっただろうか。

そんな簡単な言葉を、口に出さないじゃなく、口に出せない自分がとっても悔しい沙織だった。

華はいったいどうやってこの人を誘ったというのか。

少なくとも沙織にとってそれは、多大な勇気を必要とする行為だった。

 

「んで、結局戦車見つかったのか?」

「へ、あ、それがまだ……」

「ふーん、まぁカバとアヒルが見つけたって言ってたし、気にすんな。どうせ二回戦じゃ使わないし。そもそもアヒルが見つけたの戦車じゃないし……ん?」

 

唐突に、渡里の視線が沙織の瞳から後方へと移った。

沙織もまた、その視線を追いかけるために後ろを向く。

 

するとそこには、

 

「戦車!?」

 

ゴツゴツした図体から伸びる、勇ましい砲身。

それは間違いなく、沙織たちが普段目にしているものと同類のもので、加えて言うなら一層強そうな見た目をしていた。

 

「ポルシェティーガーか。なんでこんなイロモノばかり見つかるんだ、ウチは」

 

見ただけで戦車の名前が出てくる渡里に、もはや驚きはしなかった。

ただ彼の難しそうな顔と、呻きにも似た声の方が沙織の印象に残った。

 

「い、イロモノって……」

「走るだけで炎上したり地面にめり込んだりと、マイナスの意味で数多くの逸話を持つ戦車だ。動かなくていいならそこそこ強いぞ」

 

マジでイロモノだった。

動かないという戦車道にあるまじきハンデを背負って、それでも「そこそこ強い」ってそれ通常の運用だとどれだけ……

 

あまりにもな評価に、沙織は絶句するしかなかった。

 

「しかしコイツか……変な縁もあるもんだなぁ」

「へ?」

「あぁいや、昔ちょっとな」

 

その時の僅かな表情の変化を、みほなら見抜けたのだろうか。

いつか解るようになりたいと、沙織は切に思う。

そうすればもっと、この人の心に寄り添えるのに。

 

「……ん?なに?」

「へっ!?いやっ、何でもないですっ!?」

「あんまりジロジロ見られると照れるなぁ。そんなにいい造りの顔じゃないから」

 

冗談交じりの言葉だった。

しかしこういう、返球の難易度が高い球をポンポン放ってくるのが神栖渡里という人である。

 

「そ、そんなことないですよ!」

「そう?でも今まで彼女できたことないぜ、俺」

 

うぐっ、と沙織は息を呑んだ。

なんて返したら正解なんだ、これ。

沙織の処理能力は早くも限界を越えようとしていた。

 

「まぁ仮に顔が良くても、戦車道しか頭にないバカだからな。モテたくはあるけど、直そうって気もないから多分ずっと独り身だろうよ」

「も、モテたいんですか!?」

「そりゃモテたいよ。女の子にキャーキャー言われるのは男の憧れだろ?」

 

これどこまで冗談なんだろう、と沙織は思った。

渡里がここまで俗っぽい話をすることは、かなり珍しい。

休憩していたと言っていたし、スイッチがプライベート寄りになっているのだろうか。

 

ふと、沙織の中に過るものがあった。

それは悪魔の囁きに近いものだった。

 

「―――あ、あの、渡里さんって、そのぉ、こ、好みのタイプとかってあるんですか?」

 

ずっとずっと、一度聞いてみたい質問だった。

女の子なら、好きな人の好きなタイプは、最重要最優先事項である。

ただ渡里はあまりそういう話をしないから、聞けずにいたのだが……なぜか知らないがそういう雰囲気になった今ならいける!

 

「人に聞くならまず自分から、じゃないか?」

 

そしてあえなく反撃を食らってしまう沙織だった。

しかも一瞬で白旗を挙げるしかない、痛烈な一撃だった。

 

沙織の好みのタイプ。

それは背が高くて、髪の毛を短く整えていて、シャープな顔つきをしていて。

鋭い目つきをしていて、吸い込まれそうな黒い瞳をしていて。

厳しくて、でも優しくて。

真摯に向き合ってくれて、困った時にはいつだって助けてくれて。

私生活はダメダメだけど、誰よりもカッコいい姿を見せてくれる。

 

そんな人が、沙織は大好きだ。

 

「ほらほら、教えてみ?」

「あぅ……す、すいません許してくださいっ」

 

嗜虐的な笑みを浮かべて詰め寄る渡里に、沙織は壁際まで追いつめられてしまう。

見ようによっては少女漫画チックな構図だが、しかし沙織はそれどころではない。

史上稀にみるほどに近いところに渡里の顔があるので、心拍が早鐘を突いている。

 

「ほ、ほら!早く上に戻りましょう!?」

 

素早く脇を抜け背後に回り、ぐいぐい、と沙織は渡里の背中を押していく。

そうして必死に、沙織は自分の顔を見られないようにした。

 

流石に言えないよ。

特に貴方には、絶対。

 

あぁ早く地上に上がりたい、と沙織は思った。

そうすればきっと、潮風が冷ましてくれるはずだ。

熱を持って朱に染まってしまった、この頬を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして数日後、全国高校戦車道大会二回戦。

大洗女子学園対アンツィオ高校の試合が、幕を開けた。

 

おそらく大会参加校の中で、最も類似した二チームの戦いは、お互いの武器と武器とを激しく打ちつけ合う戦いとなったのだった。

 

 

「パンツァー・フォー!」

「アバンティ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




マカロニ作戦を予測出来たら、流石にご都合主義なのでやめときました。
人間の読みじゃ無理ですよね。


P虎をあそこからどうやって地上に持ち出したのか。
それだけが謎。


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第29話 「アンツィオと戦いましょう② ボンゴレパスタ」

アンツィオ戦、開始。
特にタイトルに意味はない。


テーマは『マカロニ作戦が成功したら?』と『ノリと勢いの正しい運用』。

w〇tとかやってみると、照準器覗いて動きながら動きの速い戦車に弾当てるとかムリゲーじゃねってなると思う。
それくらい速いってすごい(小並感)




全国高校戦車道大会、二回戦。

大洗女子学園VSアンツィオ高校。

舞台は山岳と荒れ地。

生い茂る木々で視界が制限される上、傾斜が多いため動きづらいステージと、広く見通しは良いものの、バンピーな路面のせいで戦車が走りづらいステージの二つが複合された戦場である。

 

大洗女子学園、アンツィオ高校双方ともが機動力を武器に動き回るチームであるため、ステージとの相性は今一つ。

しかし輪にかけて軽量級の戦車を多く持つアンツィオの方が、その分だけまだマシと言えた。

だが元より両者とも、武器が多いわけではない。

どちらも限られた長所を最大限に活かすことによって短所を補いつつ戦うチームであるがゆえに、戦場との相性如きで戦い方を変えることはない。

 

特にアンツィオの方がその傾向が強く、おそらく多少の走りづらさなどお構いなしに駆け抜けてくるだろう、とみほは踏んでいた。

 

「みほー、アヒルさんもウサギさんもまだ相手は見つからないって」

「分かりました。引き続き偵察をお願いします」

 

そんな中、大洗女子学園が取った初動は()()であった。

 

アンツィオ高校の基本的な思考は、フラッグ車一点狙い。

余計な戦闘は極力避け、倒すべき獲物だけを即座に刈り取る疾風の戦術。

群れた相手は機動力で攪乱し、動き回る相手は追い続けて自分達の縄張りまで引きずり込む。

 

どう戦うのが正解か。

みほが考えたのは、あえて待ってみるということだった。

おそらく向こうはみほ達を探し、この戦場を駆け回るだろう。

だったら此方が動かなくても、向こうはこっちを見つけてくれる。そしてその時、みほ達もまたアンツィオを見つけることができる。

 

一番避けたいのは、みほ達がバラバラに動いている時に接敵し、そのまま向こうのペースに引きずられること。

自分達のペースを守ることがこの試合の肝である以上、ゆったりと構えて相手の出方を見る方がいい。

理想の姿は、練習試合の時の聖グロリア―ナ。無理に流れに逆らわず、受け流し、攻めるべき時に一気に攻める。

広い懐と余裕、そして勝負所を逃さず捉える眼と爪。

今日のみほ達には、緩急極まる攻防が求められている。

 

ゆえにみほ達は、まずあんこう、カバ、カメの三両で一つの塊を作り、そこからすぐ合流できる距離の内でアヒルとウサギを偵察に出していた。

 

『待ち』と言っても完全な不動になるわけじゃない。

それは「向こうの出方を見てから動くという気持ちでいる」という意味であり、目となる二両が動けば、それに付き従う形で三両一体の塊も動く、という行動をみほ達は繰り返していた。相手より先に相手を見つけることは、例え後手に回る方針でも優先される戦場の鉄則だからだ。

そして現在は警戒度を上げつつ臨戦態勢。

相手がどう出てくるか、どこで接敵するかによっていくつか用意してある行動パターンから取捨選択していくことになるだろう。

 

しかし、とみほは思った。

やはり五両での戦いは、中々に厳しいものがある。

偵察に二両出しただけで、もうみほ達に余裕はない。フラッグ車の護衛に二両は必要だから、この時点でみほ達に自分から攻めるという選択肢がなくなる。

厳密には攻められないわけではないが、その場合みほ達はフラッグ車を伴って攻撃を仕掛けることになる。

 

それはつまり、流れ弾でフラッグ車が撃破されるというリスクを意味する。

これがもっと防御力の高い、あるいはすぐに逃げられる脚を持った戦車であれば全然構わない。その分だけ撃破されるリスクは下がるから。

 

でも大洗女子学園のフラッグ車は38t。

あまり言いたくないが、フラッグ車に必要な護りも速さも、あんまりない。

かといって他の戦車にしても、似たり寄ったりである。

 

手っ取り早くこの問題を解決するなら、戦車の数を増やせばいい。

そうすれば攻守ともに余計なリスクを負わずに済む。

 

(せめて、あともうちょっと見つけるのが早かったらなぁ……)

 

そして大洗女子学園は、奇しくもその機会を得ていた。

先日、二両の戦車が学園艦内で見つかったのである。

その戦車の名前は、ルノーB1bisとポルシェティーガー。

新しくみほ達の仲間になる、()()()()()戦車達である。

 

その二両は、現在ここにはいない。

それは何故かというと、かの神栖渡里が「ダメ」と言ったからであった。

 

二両の戦車が試合に参加できなかった理由は、二つある。

一つは、戦車の整備が間に合わないこと。これはポルシェティーガーに当てはまることである。

長い間整備もされず放置されていたせいか、全身がボロボロでパーツ交換の必要が多々あり、加えて駆動系が特殊な構造をしているため、その調整の時間も考慮すると、あの兄と自動車部を以てしても「あーこれ間に合わねえわ」という結論になったらしい。

 

もう一つは、凄くシンプルな答え。

乗る人が、いなかったのである。これは両方の戦車に当てはまることであった。

大洗女子学園戦車道受講者は22名。それに対し戦車は五両。大体一両につき五人がベストと言われている戦車道の中で(もちろん定員四名以下の戦車もあるけど)、みほ達は既に人数が足りていない。

そこに戦車が二両増えても、肝心要の乗員がいないのだ。

 

戦車の発見に際し、生徒会が人員確保に動いてはくれたものの、授業選択の時点で戦車道を受講しなかった生徒が今更参加するわけもなく、増員はあえなく失敗。

今いる人数で遣り繰りしようというなら、最早各チームから乗員を割くしかない、となったところで兄の一言である。

 

『んなことしたら逆に弱くなるわ』

 

各チームの戦闘力が下がるのに加え、新しく出来たチームが下がった分以上の戦力になることもないのでトータルでマイナスになる、らしい。

その理屈は分かるようで分からないが、とにかく兄は新しく見つかった戦車を二回戦に出す気はなかったようで、その意志はみほ達がどれだけ頼んでもダメというのがはっきりとわかるほどであった。

 

正直な所、ポルシェティーガーには参加してほしかった。

色々と難のある戦車だが、装甲と火力に関して言えば黒森峰女学園にも引けを取らないし、最も不安な足回りもあの兄と自動車部なら多分、時間さえかければまともに動くようにしてくれるはず。

そうすれば攻撃の要に使っても良し、フラッグ車の護衛として使っても良し、という正真正銘の主力戦車が誕生する。

 

そうすれば戦術にもバリエーションが出る。

みほの頭の中にある、実現不可能のレッテルを貼られて埃を被っている無数の戦術たちも使えるようになる。

 

(……まぁ、ないものはしょうがないけど)

 

戦車が無くて一憂し、戦車があっても一憂する。

なんとも悲しい話である。

 

みほがそんな風に考えていると、状況は俄かに動き始めた。

始まりは、沙織の所に入ってきた二つの通信であった。

 

『こちらアヒル!街道で展開する戦車を発見しました!』

『ウサギチーム、同じく戦車を発見!』

「そのまま偵察を続けてください。発砲はNGで!」

 

無線により入ってきた情報を、沙織が手早くミニホワイトボードに記していく。

 

「みほ、十字路の北と南が抑えられてるって。北がCV33一両、セモヴェンテ二両の編成、南はCV33が二両に、セモヴェンテが一両」

「……やっぱり早い」

 

暗記した脳内の地図を参照しながら、みほは嘆息した。

予想はしていたが、流石の機動力だ。

 

この二種類の顔を持つ複合ステージを全体で見た時、要所となるのは今アンツィオが抑えている十字路。

ここを取れるかどうかでこれからの戦い方がだいぶ変わってくるし、大洗女子学園の方針である『待ち』にも向いている場所だ。

 

あわよくばアンツィオより先に取りたかったが、向こうも流石に押さえ所は分かっているらしい。まぁ脚を遅くしてでも安全を取った大洗と、多分全開で飛ばしてきたアンツィオがよーいドンでスタートすれば、勝つのは当然後者だし、ここは仕方ない。

 

「相手に動きはありますか?」

「えーと……ないっぽいね」

「持久戦ですかね?アンツィオにしては珍しいですけど」

 

どうなんだろう。

確かにそれは大洗女子の泣き所ではあるが、同じくらいアンツィオの苦手とするところだ。

試合が長引き、戦車の性能差と乗員の練度が如実に現れ、ジリ貧になるような事態を避けるために、彼女達は短期決戦を選ばざるを得ない。

 

みほ達も同じだからこそ、よく分かる。

 

(接敵まではゆっくりやるつもりなのかな)

 

地の利を活かすなら悪い選択じゃない。

中央突破させ、包囲するという作戦もあるが、あまりアンツィオと相性のいい戦い方ではない。

それよりは十字路を拠点として偵察の網を広げ、相手が掛かってから攻め立てる。

そっちの方が十分あり得る。

 

「どうします、みほさん。相手の出方を見る作戦でしたけど……」

「うん……」

 

華の言葉に、みほは曖昧に頷いた。

相手が仕掛けてくるのを待つつもりだったが、みほ達が先に相手を見つけてしまい、その上アンツィオにまだ見つかっていないと言うのなら話は変わってくる。

 

今は、先制攻撃の絶好のチャンスなのだ。

 

ただ、チャンスだからと言って「さぁ行け」というわけにもいかない。

 

受け身になって戦う、という方針で試合に臨んでいる以上、おいそれとそれを変えるわけにはいかない。臨機応変といっても、それは事前に決められた枠の中で、という話で、コロコロと枠を変えては統一性、一貫性が無くなる。

それはすなわち、自分達で自分達のペースを乱すことに繋がりかねない。

 

しかし倍の戦力がある以上、撃破できる機会は確実に掴みたいという思いもある。

相手の編成の多数を占めるCV33に対して、戦車の性能差である程度有利に立てるとはいえ、数は脅威。減らしておいて損はない。

 

みほの悩みどころは、畢竟そこにあった。

行くべきか、待つべきか。

前者は予定外、後者は予定内。

メリットとデメリットを秤にかけて、少しでも利のある道をみほは選ばなければならない。

 

「……ウサギさん、相手の戦車を()()()()()()撃破できますか?」

『え!?えーと……すみません、ちょっと難しいです』

「わかりました。これより本隊がそちらに向かいます。それまで相手の動きに注意してください」

 

みほは操縦席とその隣に視線を飛ばした。

返ってきたのは、二つの頷き。

僅かな間の後、四号戦車はエンジン音を響かせて動き始める。

そしてそれに連なるようにして、三突と38tもエンジンを噴かせた。

 

「攻めるんですか?」

「うん。ただ本格的に攻めるんじゃなくて、相手を動かすための……牽制くらいな感じで」

「十字路から引っ張り出すんですね!」

 

アンツィオが持久戦をしようとしているのか否かはさておき、十両中六両が動いていないという状況は好ましくない。それではみほ達の方から攻めるしかなくなる。

 

だったらみほ達のやることは一つである。

攻めてこないなら、攻めさせればいい。

 

狙いは十字路南。

本隊プラスウサギさんチームの計四両で、()()()一両以上撃破する。

そうすればみほ達の位置はバレるが、同時にアンツィオも動くだろう。

十字路を()()()()()として使ってるなら、そこまで固執はせず、すぐにみほ達のことを追いかけてくるはず。

そうじゃなくても、南に関しては四対三。数的有利を活かして、ジワジワと攻めればそれでいい。

 

本隊が移動することにより、アヒルさんチームとの距離が開いてしまうが、八九式のスペックと彼女たちの練度、そしてこの地形を考えれば、万が一攻められても逃げることができる。る

その時はみほ達も退いて、冷静に群がってくる相手に対処するだけでいい。

 

リスクを最小限に抑え、その範囲で最大限の攻撃をする。

この辺りの防御と攻撃への絶妙な力の配分は、隊長である西住みほの高い力量をそのまま表していた。

 

 

―――――しかし。

 

 

『こちらアヒル!!CV33三両と接敵!交戦状態に入ります!!』

 

状況は、みほより一歩早く動いた。

偵察中だった八九式の側面から、突如としてCV33の編隊が襲い掛かったのである。

 

「新手か。これでほとんど割れたな」

 

麻子の静かな呟きに、みほもまた頷いた。

これで十両の内、九両の所在は掴めた。残るは例の、二回戦から新しく投入された戦車のみ。おそらくそこに、隊長であるアンチョビがフラッグを掲げて乗っているはずだ。

 

「アヒルチーム、こちらに合流できますか?」

『すみません西住隊長、ちょっと厳しいです!!』

「みほ、ウサギさんから連絡!十字路北の三両動きないって!」

 

沙織の声が耳を打つ。

連動してこないのか、とみほは思考した。

 

流れとしては、アンツィオが八九式を発見→攻撃開始→他の戦車が同調して動き始める、と思っていたが、アンツィオにその気は見られない。

 

狙いはなんだろうか。

八九式が此方に合流するのを見越して、あえて泳がそうとしているのか。

しかしそれはあまりにも非効率だ。アンツィオくらいの機動力があるなら、普通に動き回った方が何倍も安全だし効果もあるだろう。

第一今のアンツィオは、八九式の逃亡を許さない構えだ。

 

 

なら――――

 

 

「―――アヒルさんチームを撃破されないことを最優先で動きつつ、時間を稼いでください。落ち着いて対処すれば、そこまで脅威な火力じゃありません」

『了解!』

 

みほが送った指示は、現状を維持するだけのものだった。

 

残念ながら、まだみほにはアンツィオの狙いが分からない。

あの兄であればこの段階でも見切れるのかもしれないが、今のみほに兄と同じ読みをするのは不可能だ。

 

けれど相手の狙いを解き明かす手掛かり、それを集める時間を作ることはできる。

読めないからといって、突然危機的な状況になるわけじゃないのだから、今は焦らずじっくりとアンツィオの動きを観察すればいい。

 

それだけの余裕がみほ達には、ひいてはアヒルさんチームにはあるはずだ。

 

だって彼女たちは、大洗女子学園の中で()()()()()()、神栖渡里の練習に順応したチームなのだから。

 

 

 

「わ、わ、やっぱりすっごく早い…!」

 

照準器を覗く佐々木の声は、驚きよりも感嘆の色が大きいように感じた。

ぐいん、ぐいん、と右往左往する砲身の動きは、彼女の動揺よりも寧ろ、驚くべきアンツィオの機動力を表しているに違いない。

 

「く、進路のブロックが上手い……!」

「落ち着いて!十字路に行かないように気をつけてれば大丈夫だから!」

 

操縦桿を握る河西も、その横に座る近藤もまた、佐々木と同じ心境のようだった。

 

確かに、と磯辺は思った。

アンツィオは本当に機動力のチームだ。

それは純粋な戦車の速さもそうだし、それ以上に機動力の使い方が上手い。

 

先ほどから磯辺達は、三両のCV33にいいようにやられてしまっている。

戦車のスペックでは勝っているはずなのに、である。

その理由に、磯辺は気づいていた。

 

向こうは三両でしっかりとフォーメーションを組んでいる。

一両は前方で進路を防ぐ役。

一両は側面に取りつき、行動を制限する役。

一両は背後に回って観察し、相手の動きを他の二両に伝える役。

 

そんな風に綺麗に役割分担をして、的確かつ効率よく相手を追い詰めていく。

巧みな連携を前に、磯辺達は全く思い通りに戦車を動かすことができていない。

 

(全然ノリと勢いだけじゃないんだけど)

 

そしてそのフォーメーションは、一向に崩れる気配を見せない。

此方が多少仕掛けても、まったく揺るがない強固さだ。

確かな練習量に裏付けされたものがなければ、ここまで乱れないこともないだろう。

 

おそらく彼女たちは、『速さ』がどんなアドバンテージをもたらすかを熟知している。なんとなく、頭で理解しているというよりは身体に叩き込まれている、という感じがするけれども。それでも彼女たちは『速さ』を矛として、そして盾として自在に使っている。

 

特に厄介なのは、盾としての速さである。

とにかく弾が当たらない。CV33の車体の小ささもあるんだろうが、常に動き続けているせいでまともに照準が定まらず、弾を撃つことができない。

 

『戦車道は遠すぎると当てづらいし、近すぎても当てづらい』。

 

磯辺は自分達がコーチと呼び慕う神栖渡里の言葉の意味を、初めて理解した。

遠いのが当てづらいのは当然として、近いのが当てづらいとはどういうことか。

それは状況が接近戦(クロスレンジ)であることが大きく関係している。

 

戦車道での接近戦は、基本的に足を止めない。

とにかく動いて、動いて、動く。そうしないと、すぐに射貫かれるからだ。

もちろん足を止めることもあるが、それは砲撃のための、ほんの一瞬だけ。

「止まって撃つ」という砲撃の基本が、接近戦になれば見事に逆転する。

 

アンツィオはその逆転した基本に忠実だ。

CV33に搭載されているのが8㎜機関()であることをいいことに、動きながら弾をばら撒く。一発にかかる比重が戦車砲と比べて軽い分、精度が悪くても数でカバーしてやろうという気なのだろう。

 

聖グロ程の装甲があれば、それこそ動かざること山の如しでも良かったが、大洗女子学園最薄を誇る八九式では、機銃ですら結構油断ならない。

 

故に動き続けなければならないのだが、行進間射撃の精度は静止射撃のソレには遠く及ばない。そこにアンツィオのすばしっこさが加われば、それはもう簡単には当たってくれない。

 

大洗女子学園も速いテンポの戦いには慣れているが、それでもこういった戦いは特化して鍛えているアンツィオの方に分がある。

今この場で有利なのは、アンツィオ高校の方と言えるだろう。

 

 

―――――ほんの、少し前までは。

 

 

「――――いいか佐々木、気合いだぞ!」

「はいっ」

「よし、河西!!」

「はい!!」

 

磯辺が指揮を飛ばす。

瞬間、河西がギアを上げ、八九式は高らかに吠えた。

 

側面に取りついていたCV33一両を加速の勢いで弾き飛ばし、巧妙に自分たちの進路を妨害する前方の一両を猛追する。

それと同時に、背後を狙っていた最後の一両を置き去りにし、大きなスペースを作る。

 

これで状況はシンプル。アンツィオがフォーメーションを立て直すまでの数秒間は、一対一。

 

「撃て、佐々木っ!」

「っ!!」

 

合図とほぼ同時、佐々木がトリガーを引く。

轟音と共に撃ち出される砲弾。

軌道はまっすぐ、向かう先はCV33のエンジン冷却部。

数日間、目を瞑っても当てられる位身体と頭に叩き込んだCV33の弱点に、八九式の一射が直撃した。

 

「やった!」

 

被弾の衝撃でバランスを崩し、スピードが落ちたCV33。

それを一気に追い抜かし、籠のようなアンツィオの陣形から八九式は脱出。

 

しかし問題は、ここからである。

フォーメーションの一角を崩しても、アンツィオは直ぐに一両がカバーに回ってフォーメーションを再構築してしまう。

それを防ぐための一番簡単な方法はCV33を振り切ってしまうことだが、スピードでアドバンテージを取られている以上それはできない。

 

でも、簡単ではないけれど、他にも方法はある。

それが、()()だ。

 

「河西、回せ!」

 

河西が操縦桿の右側をニュートラルに戻したことで、左右の履帯に伝わるパワーに差が生まれ、進行方向がぐいんと右に曲がる。

それと同時に、正面を向いていた砲塔が時計回りに90度回転。

その銃先に、先ほどとは別のCV33を捉える。

 

「アタッーーーーク!!」

「えいっ!」

 

放たれた一撃は、鋭いカットを切ったCV33の残像を貫くに終わる。

 

「もう一度!」

 

だがしかし、アヒルさんチームに失意はなかった。

次は右の操縦桿を前進に切り替え、左の操縦桿をニュートラルに戻し、八九式はヘアピンカーブを曲がるような軌道を描く。

砲塔は更に時計回りに180度周り、再びCV33に照準を合わせ、一息。

火薬が炸裂し、撃ち出された砲弾は、今度はCV33の車体前面、その端を捉えた。

 

その衝撃で、僅かにCV33の動きが鈍る。

その時間を使い、八九式はまたもや方向転換し、一つ前の砲撃態勢に戻る。

砲撃、方向転換、砲撃、方向転換。

 

まるで蛇のようにグネグネとした軌道を描きながら、八九式は間断なく自分たちの背後を走るCV33へと砲弾の雨を降らせた。

 

これがアンツィオのフォーメーションを破る、()()()()()()()()だ。

CV33は車重が軽いため、普通の戦車と比べて被弾の衝撃が大きい。

言ってしまえば、当たれば紙みたいに吹っ飛ぶし、掠っただけでもバランスを崩しやすい。

 

そうなった時、どうなるか。

答えは、速度が落ちる、である。

綺麗に走っている時は、それはもう風のように速く走るCV33だが、反面車重の軽さから安定性に欠ける。少しの綻び一つで、あっけなく自身の長所たるスピードを失ってしまうのだ。

 

だから極論、弾を当て続ければCV33の脚は鈍る

一両速度が落ちれば、他の二両も足並みを合わせるために速度を落とす。

そうしてフォーメーションの核である機動力が鈍れば、もう組み直すことはできない。

 

しかし口で言うのは簡単だが、これほど難しいこともない。

なぜならそもそもの話として、CV33に弾を当てるのが至難の業だからだ。

 

実際それができるのなら、磯辺達はあっという間にアンツィオを振り切ることができただろう。ここまでCV33に食いつかれたのは、ひとえに一つも弾を当てられなかったからだ。

 

一番肝心な部分が、一番難しいという事実。

しかし大洗女子学園にて戦車道講師を務める彼が、そのことに対して無策で教え子を試合に臨ませることなど有りはしなかった。

 

『行進間射撃の精度は一朝一夕じゃ上がらない。けど、比較的弾を当てやすい状況を作ることはできる』

 

曰く、行進間射撃にコツはない。

その精度は質の高い練習をどれだけ積み上げてきたかが全てであり、要はどれだけの時間を費やしたか、である。

どれほどの天才でも、その法則(ルール)を飛び越えてショートカットすることはできない。

 

だから必要なのは、精度自体を上げることじゃなく、今の精度でも当てられるようにすること。

 

『どんな形でもいいから、相手の戦車が並ぶような位置取り(ポジショニング)をすること。バラバラにさせず、なるべく固まらせるんだ。相手がバラバラだと()で狙うことになるが、纏めちまえば()で撃てる。それが出来れば二発に一発は当てられるようになるはずだ』

 

行進間射撃でもっとも難しいのは、横軸の合わせである。

なぜなら縦軸の合わせとは違い、相手の動きを読み、コンマ数秒の未来へと弾を撃ち込まねばならないからだ。

その読みが少しでもズレれば当たらず、当然照準がズレても当たらない。

必要なのは正確に未来を視る目と、精確な砲撃の腕。

しかしそのどちらも、大洗女子学園は充分に熟達しているわけじゃない。

 

ならどうするか。

その答えが、『相手を纏める』である。

 

例えば相手の戦車が三両いたとして、それが横一列になるように誘導する。

そうしたら後は、照準を真ん中の戦車に合わせて撃てばいい。

それなら上下にブレない限りは、右にズレようが左にズレようが問題。

 

畢竟、そうやって『横軸がブレても問題なく当たるような状況』を作ることこそが、神栖渡里が示した攻略法であった。

 

(なんとか作れたけど、難しかったなぁ)

 

そしてそれを最も上手くこなしているのが、他でもないアヒルさんチームであった。

彼女たちはおそらく、自分達がどれほどのことを成しているのか気づいてはいないだろう。なぜなら彼女たちはこう思っている……「流石コーチの作戦」と。

 

確かに神栖渡里の作戦は、良く出来ている。

忠実に実行した結果、先ほどとは一転して優位に立ち回れているのだから、神栖渡里の論理は正しかったということではある。

 

『あれ?でもそれ、その状況を作るために相手に弾を当てないといけない時はどうするんですか?』

『あ、確かに。最初は当てやすいとか何もないですよね?』

『んなもん気合でいけ。当てるという強い意志があれば当たる』

『そこは根性論なんですか!?』

 

作戦会議中、そんな会話があったりもしたけれど。

だからといって100%神栖渡里のお蔭かというと、それはまた違う。

 

どんな理論も、実行に移せないのなら絵に描いた餅。

神栖渡里のそれは、おそらく誰も彼もできる簡単なものではない。

 

そんなものを正確に実行し、あまつさえ()()()()()()()()()()()というのは、アヒルさんチームの高い実力の証明に他ならない。

言ってしまえばこれは、アヒルさんチーム(他のチームにも言えるが)の実力ありきの作戦なのである。

 

とある妹曰く、

 

『実際はすごい無茶振りだけど詐欺師みたいな説明のせいでなんか簡単そうに思えてくる』

 

というのが、神栖渡里の作戦の真実だった。

 

まぁとにかく、ここからはシンプルである。

磯辺達の役目は時間を稼ぐことであり、無理に相手を倒す必要はない。

今のままだと撃破するのは難しいが、同じくらい撃破されることもないし、磯辺達は現状維持するだけでいい。

幸いにも佐々木の砲撃は安定しており、チーム内の連携も上手くいっている以上、順調といっていい状態だろう。

 

「よーし、このまま気合でいくぞ!バレー部ファイト―!」

「「「おー!」」」

 

乗員たちの気合を受けて、八九式は焔を巻き上げながら疾走する。

このあと、彼女たちはただの一度も被弾することなく、完全にCV33の連携攻撃を防ぎきった。

 

それは後に、西住みほが『大洗女子学園のベストチーム』と讃えるアヒルさんチームの力量、その片鱗であることに疑いはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

アヒルさんチームが奮闘している一方で、あんこうチームが率いる本隊はウサギさんチームとの合流を果たそうとしていた。

 

ウサギさんチームからの報告によれば、未だに十字路南の戦車に動く気配はなく、どうやらアヒルさんチームと交戦中の三両とは完全に分離した状態であるようだった。

それならそれでいい、とみほは思う。

連動してこないなら、寧ろシンプルになっていい。あっちはあっち、こっちはこっちでそれぞれ適した対処をすればいいのだから。

 

しかしアンツィオの狙いはなんだろうか。

ここまで動きが無いと、かえって不気味である。

 

八九式を熱心に追いかけているのは、目の前に現れた獲物を狩るという意志に忠実に従っている結果だろう。数で勝っている状態で接敵しておいて、途中で抜けるなんてことは普通しない。

問題は他の戦車がそれでも動かない事。

 

接敵すれば少しは動くだろうと読んでいた戦況も、一向に変化しない。

みほ達が待ちの態勢に入っている以上、アンツィオが動かない限り変化することはないから、当然と言えば当然だけれど。

 

(やっぱり少しつっついてみるしかないのかな……)

 

流石に撃たれて無反応ということもないだろう。

何かしらのリアクションがきっとあるはずだし、そこからアンツィオの狙いを割り出すこともできる。

 

「みほ、もうすぐ合流するよ」

「わかりました。麻子さん、十字路の少し手前で停止してください」

「わかった」

 

さて、どうせ撃つなら一両は持っていきたい。

なら狙うべきは、やはりそこそこの対戦車能力を持つセモヴェンテだろう。

CV33の機銃はよっぽど変な当たり方をしなければ撃破されることはないし、火力的な脅威度はセモヴェンテの方がよっぽど高い。

 

セモヴェンテの装甲はそんなに硬くないし、多分四両同時に攻撃すればおそらく撃破できるだろう……まぁ、38tに関しては砲手的にあんまり期待できないから、実質三両だけど。

 

(なんで河嶋先輩は……あんなに……)

 

みほも長く戦車道をやってきたが、あんな人は見たことが無い。

射撃センスというか、何かその辺に関係した部品がどこかに行ってしまったんじゃないかと思うほど、河嶋の砲撃はなんかもう奇跡的だ(控えめな表現)。

時々砲身の向き的に有り得ない方向に弾が飛んでいってる気がするし、何よりあの兄の教えを受けてもそれが改善しないというのだから、多分どうしようもないんだろうな、とみほは思う。

 

(その点華さんはすごいよね……あっという間に全国トップクラスになっちゃったし)

 

同じ時間、同じ師、同じ環境でここまで差が出るのは、なんとも不思議である。

まぁ両者がお互いに正反対の意味で飛びぬけていた結果なんだろうけど、とみほが自身の前に座る華に目を向けた時だった。

 

「……何か音がしませんか?」

「……え?」

 

照準器を覗いたまま、華の声は鋭く車内に響いた。

 

その時、みほの背中に冷たいものが走る。

弾かれるようにしてキューポラを開放し、辺りを見渡す。

そして間もなく、みほはその両眼にその姿を捉えた。

木々の間を縫うようにして疾走する、鉄の狼達を。

 

「―――8時の方向!!CV33二両、セモヴェンテ一両接近!!」

「え、えぇ!?ウサギさんチーム、十字路の相手は!?」

『へ、特に動いてないですけど……』

「まさか十字路北の戦車が此方に!?にしては速すぎるような……!」

「今はそれどころじゃない――――来るぞ」

「迎撃用意!フラッグ車を守ってください!」

 

背後を取られた大洗女子学園の戦車が、フラッグ車を残してゆっくりと反転する。

しかしほとんど全速で駆け抜けてくるアンツィオに対し、大洗女子学園は圧倒的にスタートが遅れている。

 

反転後の砲撃態勢がギリギリで整わないことを、みほは直感的に悟った。

 

「―――華さん!」

 

そんな中にあって、四号戦車だけが他の戦車と比べて一足先にその砲身を相手に向けていた。

四号戦車の砲手、五十鈴華がみほの指示が飛ぶよりも一瞬早く、砲塔旋回を始めていたのだ。

サンダース戦以降、五感が研ぎ澄まされるようになった華だからできたファインプレイだった。

 

「っ!」

 

華が迷いなくトリガーを引き、火薬が炸裂する。

撃ち出された砲弾は一直線に、矢となって森を駆けてゆき、そしてただ虚空を貫いた。

 

「くっ、やっぱり早い……!」

「次弾装填します!五十鈴殿、構わず撃ち続けてください!」

 

いや、もう遅い。

最初の一射をかわした時点で、もうアンツィオはみほ達の懐に潜り込むに十分すぎる程の猶予を得てしまった。

 

しかし華は責められない。今日まで欠かさずイメージトレーニングをしてきたとはいえ、想像と実践は違う。一発目からアジャストしろという方が無茶だ。

それに今の華は、兄によってリミッターを掛けられている。サンダース戦ほどの精度を期待してはいけない。

 

これは迂闊に行動をした、自分の責任だ。

みほは悔恨の念を押し殺しながら、指示を飛ばした。

 

「麻子さん、戦車を前に!食い止めます!」

 

車長の意気を買うようにして、戦車は唸りを上げる。

一息、四号戦車は火の玉となって地を駆けていく。

 

三匹の狼に立ち向かうは、一頭の獅子。

咆哮し、お互いの肉を引き裂かんと爪牙を振るう。

 

インファイトになれば不利なのは此方だが、みほ達には兄から授かったアンツィオ対策がある。そこに加えて自分たちの練度を考えれば、あんこうチーム単騎で三両を相手取ることはできる。

 

それにみほ達の目的は相手を倒すことではなく、フラッグ車を守ることだ。

みほ達が三両を引き付けている分、他の戦車がフリーになる。

 

「今の内に態勢を――――」

 

その言葉は、途中で停止した。

キューポラから身を乗り出して指揮を取るみほは、他の車長と比べて視野が圧倒的に広い。

それゆえにみほは、見てしまった。

 

反転した大洗女子学園の背後に迫りくる、有り得ざる()()()()()()―――!

 

「後ろです!!」

『む、なに!』

『バカな!?』

『えぇ!?』

 

車長たちの驚愕が、無線越しでも感じ取れた。

それはそうだ。なぜならその戦車達は、本来そこにはいないはずの戦車。

決して存在してはいけない、十一、十二、十三の戦車なのだから・

 

『え、え!?でも私たちの前にまだ……』

「か、数が合いません!?」

「まさかインチキをしているのでは……!」

 

二回戦の参戦可能戦車数は十。

いまアンツィオの戦車は、アヒルさんチームと交戦中の三両。

あんこうチームと交戦中の三両。

そして十字路に六両。

そして未だ姿を見せない隊長車一両。

 

十字路北にいた三両がみほ達と戦っている三両と同一だとしても、規定数から三両オーバーしている。なぜならウサギさんチームの前に、同じく三両の戦車がいるのだから。

 

(まさか……)

 

ふとみほは、一つの仮説に思い至った。

あるはずのない戦車が存在していて、それがインチキではないとするのなら、その答えは一つしかない。

 

「ウサギさんチーム、此方に合流を!十字路の戦車はフェイクです!」

『フェイク!?よ、よく分からないけどすぐに合流します!』

「みほ、フェイクって何!?」

「………ハリボテか」

 

麻子の静かな呟きが、そのまま答えであった。

 

「本で見たな、港の模型を作って爆撃を外させたり、ベニヤで大量の戦車を作って相手を騙したりしたマジシャンの話を」

「なにその子ども騙し!?」

「立派な作戦だ。現に私たちはしっかり引っかかってしまった」

 

意外とこういう単純な手の方が、上手く行ったりする時もある。

しかし手法自体は単純だが、おそらくかなり念入りにデザインされた作戦だ。

意識の死角を突かれたような感覚がみほにはある。

 

兄の言っていた『独自性(オリジナリティ)の強い戦術』とは、正にこういうことだろう。確かにこれは、あの兄でも事前には読み切れない。

 

『こちらカバチーム、三両は引き受けた!』

「フラッグ車はウサギさんチームと合流してください!」

 

固定砲塔の三突には、正直CV33とセモヴェンテの相手は荷が重い。

待ち伏せ運用が基本の三突は、行進間射撃がほとんどできない。なぜなら進行方向がイコール砲身の向きであり、横や後ろに張り付かれると何もできないからだ。

 

しかし今フラッグ車を守れるのは三突しかいない。

おそらく一両か二両は逃がしてしまうだろうが、その前にフラッグ車がウサギさんチームと合流できれば――――

 

そんなみほの考えは、次の瞬間に打ち砕かれることになる。

 

後背より迫っていた三両の戦車は、逃げる38tではなく、自分達に向かってくる三突へと群がり始めたのである。

 

そしてそれと同時、みほ達と交戦していた三両の動きもまた変化する。

今まではみほ達を倒そうという気合に満ちていたのが、その背後にうっすらと三突との合流を防ごうとする意志が見え始めるようになったのだ。

 

その意図を、みほは眼は素早く見破った。

 

(各個撃破を狙ってきた……?)

 

普通なら悪手。

しかしそれは、大洗女子学園が相手という条件を付けた時、悪手から有効打へと変貌する。

絶対的に数の少ない大洗女子にとって、もっとも避けるべきは撃破されることである。

数が少なくなれば戦術の幅も狭まるのが戦車道の常だが、大洗女子は一層その影響が大きい。

 

だから戦術的な意味合いで言えば、大洗女子学園にとってはフラッグ車もそうでない戦車も、価値はさほど変わらない。

『撃破されたら即試合が終わる』というリスクがフラッグ車にはあるだけで、それを除けば一両の損失はほとんど同じだ。

 

故に大洗女子学園を相手にした時、フラッグ車に固執する必要はない。

目の前の戦車をただ撃破する。それだけで大洗女子は翼を捥がれ、やがては地に墜ちる。

それだけのことで、おのずと勝利は近づいてくるのだ。

 

(なら……)

 

そこまで分かれば、黙ってやらせてやる理由もない。

みほ達だって一対多を相手取る練習はしてきているし、その成果はアヒルさんチームが証明している。

 

何処かのタイミングで相手の拍子を崩して、そこを一気に突けば形勢は逆転することは充分にできる。

今みほ達がすべきことは、慌てず、相手の動きを読み、対処することである。

 

みほは咽頭マイクに手を当て、努めてゆっくりと言葉を紡いだ。

無線を通して自分の冷静さが、みんなに浸透していくことを願って。

 

「相手の狙いは各個撃破です。充分気を付けていれば、撃破されることはありません。練習でやってきたことをそのままやりましょう」

 

無線から、気合の入った返事がやってくる。

それを聞いて、みほは僅かに頬を緩めた。

サンダースとの一戦を制したという事実が、理想的な形でみほ達の背中を押してくれているようだった。

 

これなら大丈夫だろう。

みほもまた、静かに気を引き締めた。

まずは自分達に牙を剥く三両の戦車の内、どれかを撃破しよう。

それができるだけの力は、自分達にはあるはずだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで。

西住みほは、深慮遠謀というよりは臨機応変の隊長であるが、決して想像力に乏しいわけではない。寧ろ危機を察知する能力に関して言えば、高い部類に入る。

黒森峰時代にもその能力は発揮されていたが、より戦力が乏しく、強引な戦い方ができない今の方が、ひと際その力は輝いていた。

 

しかしそれは、受け身になって立ち回ることが得意ということを意味するわけではない。

 

例えば今日みほが戦術のイメージにしているダージリンが、相手の攻撃を防ぎながら強烈な反撃の機会を構築する後手必殺の戦術を得意としているのは、みほと同じく危険を察知する能力が高く、加えて相手の攻撃をそのまま利用できる手腕を持っているからである。

 

それを『守りながら攻める』と表現するなら、みほのそれは、あくまで『守っているだけ』。

前者が防御と攻撃がひとつなぎになっているとすれば、後者はコインの裏表であり、切り替え(スイッチ)の有無という差がある。

 

それは優劣の差ではなく、個性の差である。

ダージリンは相手に主導権を握られても、即座に取り返すことができるし、何なら主導権を握られている状況を利用することだってできる。だから攻防の切り替えがとてもスムーズになって、相手は攻めているつもりでもいつの間にか攻められていることになる。

 

みほは一度主導権を握れば簡単には離さないし、そのまま相手を押し切る破壊力を持っているが、取られた主導権を取り返すことが得意ではない。だから攻防にメリハリがあって、時には勢いで状況を打破することができる。

 

必要な時に必要なだけ仕掛けるか、常に仕掛ける側に立つか。

 

両者の違いはひとえにそこにあり、ダージリンが絶対的な逆境を作らせない試合運びをする隊長なら、みほはそんな逆境からでも瞬発力で一気に形勢をひっくり返すことができるタイプの隊長であった。

 

そしてそんなみほの性質を、受け身になって戦うことができるとは、残念ながら()()()()のである。

 

 

約数分の後、その認識の差がそのまま状況に現れることとなる。

 

 

 

「――――――状況は?」

「マカロニ作戦による大洗女子学園の分断は成功したようです。おそらくドゥーチェの()()()()、此方の狙いも見破った頃だと思われます」

「よし、頃合いだな。全員に通達しろ―――――――『コンパス作戦』開始だ!!」

 

 

薄い灰緑色の髪をした隊長が、鞭を掲げて高らかに宣言する。

一人の絶対的指導者によって率いられた狼の群れが、静かに秘めたるもう一つの牙を抜き放とうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




アヒルさんチームが大洗女子のベストチーム云々は『リボンの武者』から。


今回は出番ないけどアンチョビはマジ見た目も性格も言動も作戦名もカワイイからヤバい(語彙力)


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第30話 「アンツィオと戦いましょう③ マカロニグラタン」

あけましておめでとうございます(一週間ぶり一回目)

2020年もゆったりと更新しつつ、「年内完結」を目標に頑張っていきますので、今年も拙作を宜しくお願いいたします。




「――――以上がコンパス作戦の全容だ!」

 

おぉー、いえーい、という歓声と拍手が至るところで上がった。

アンツィオ高校の隊長であるアンチョビは、それを受けて満足げに笑みを浮かべた。

 

「こんな作戦を思いつくなんて流石ドゥーチェっす!」

「ふふーん、そうだろうそうだろう。なんせ三日三晩寝ずに……というわけじゃないが、とにかく頑張って考えた作戦なんだからな!」

「ドゥーチェ!」

「ドゥーチェ!」

「ドゥーチェ!」

 

ドゥーチェコールに気分を良くしたアンチョビは、頬を緩ませた。

しかし慌てて鞭を一度、二度と振り回し、コールを止めさせると目いっぱい厳しい顔を作ろうと顔の全筋力をフル稼働させた。

上に立つ者が、だらしない姿を見せるわけにはいかないのである。

 

「いいか、我々はナメられている!やれアンツィオは勢いとノリだけだの、勢いに乗れなかった時悲惨だの、戦車が貧弱だの頭が悪いだのっていうか普通に弱いだのーーー」

「ドゥーチェっ、言い過ぎですっ」

 

金色の髪を背中まで伸ばした副官の言葉に、はっ、とアンチョビは我に帰った。

いけないいけない、ついヒートアップしてしまった。

 

こほん、と咳払いを一つ。

 

「要するに相手は油断している!どんな強いチームでも、我々を相手に100%全力を尽くすことはできない!なぜなら誰もが我々をナメているからな!」

「ドゥーチェ!」

「ドゥーチェ!」

「ドゥー…いやまって?これ喜ぶとこじゃなくない?」

 

そんな察しのいい誰かの声は、歓声に掻き消えていった。

 

「我々はそこを突く!諸君らの機動力と私の作戦が合わされば、必ず勝てる!そのための秘密兵器も用意してあるんだからな!」

「秘密兵器って?」

「アレでしょ、ピヨピヨ号」

「え、なにそれ私見てない」

「毎日はしゃぎながらコロッセオの周りで乗り回してるじゃん」

「燃料もそんなにないのにね」

「う、うるさい!いいだろ別に!」

 

アンチョビは僅かに頬を朱に染めながら叫んだ。

 

秘密兵器。

それはアンチョビたちが血の滲むような節制(おやつを我慢)を、気の遠くなるほど長い時間をかけて続けてきた努力の結晶。決してピヨピヨ号などというヘンテコな名前が付けられていいものではない。

 

今でも思い出しては、心が震える。

それが届いた時の感動は、ちょっと一言では口に表せない。原稿用紙十枚は最低でも欲しい。

 

それだけ嬉しかったんだから、そりゃ乗り回すだろ。

寧ろ乗らずしてどうするというのか、とアンチョビの瞳が吊り上がる。

 

すると「ドゥーチェ!ドゥーチェ!」とよく分からないタイミングでコールが起こった。

 

アンチョビは思った。

もしやこいつら、私がコールさえ受けていれば幸せだと思ってるんじゃないだろうか。

なんとなくなめられている気がするアンチョビだった。

 

「とにかく!今日から試合までの間、このコンパス作戦を徹底的に練習する!そして空いた時間でマカロニを作るぞ!いいな!?」

「コンパス……?」

「なんで首を傾げるんだ!?さっき説明しただろ!私が考えた戦術―――」

「マカロニ……?」

「そっちも!?さっき言っただろ!!マカロニ作戦で使う―――」

 

首を傾げる一同を前に、いよいよアンチョビがお目目をぐるぐるさせ始めた、その時だった。

 

ゴーン、ゴーン、とベルが鳴った。

それが意味するのは、お昼ご飯の時間。

この時期大変混雑するアンツィオ高校食堂人気メニュー争奪戦、開幕の合図である。

 

途端、アンチョビの前に整列していた彼女たちの目が、獣のように光る。

そして「あ、まずい」とアンチョビが思ったその時には、既に彼女たちは疾走を始めていた。

 

「おぉい!!お前達、話は最後まで―――――」

「大丈夫です、マカロニを作るんですよね!?」

「ちゃんと買い出しはしてきますから!」

「よーし、今日はマカロニ祭で一儲けだー!」

「それ食用の方だろ!?そうじゃなくて――――」

 

ぴゅー、とアンチョビの声も虚しく、辺りはすっからかんになった。

 

彼女たちを止める手段は、残念ながらアンチョビにはなかった。

ただアンチョビにできる事は、砂埃が風に揺られて流れていく寂しい広場の中で、力なくため息をつくことだけだった。

 

「うぅ……大丈夫かなぁ、あいつら本当に作戦分かってるのかなぁ」

「だ、大丈夫ですよ。自分に素直な子がたくさんいるのが、アンツィオの良い所ですからっ。あの子達も一度戦車道の方に目が向けば、きっとちゃんとやってくれますよ」

「カルパッチョぉ……」

 

金色の髪をした副官の言葉が、やたら沁みるアンチョビだった。

本当に、彼女が居てくれて良かったと思う。

戦車道の時もそうだが、平時でもアンチョビの事を多方面で支えてくれていて、彼女がいなければアンチョビは心労で倒れていたかもしれない。

 

もう一人の副官なんて、もうどっかいっちゃってるのに。

いやアレもアレで頼りにはなるんだけども。頭が残念なだけで。

 

「はぁ……でも、あいつらの良い所を戦車道にも活かせれば、って思ってたけど、難しいなぁ……」

「そう、ですか?」

「そうだ。言う事あんまり聞かないし、聞いてもちょっと間違ってたりするし……まぁそれもこれも私にもっと隊長としてのカリスマがあれば………ぐすん」

 

自分で言ってて辛くなるアンチョビだった。心なしか、目頭が熱い。

すると慌てたように、カルパッチョが満面の笑みを浮かべながらフォローする。

 

「ドゥ、ドゥーチェ!そんなことないですよ!みんなドゥーチェがいたからここまで頑張ってこれたんですから!ドゥーチェがいなかったらアンツィオはもっと大変なことになってましたよ、きっと!」

「………ほんと?」

「ほんとですっ」

「そう……だよな!そうだよな!カルパッチョがそこまで言うんだもんな!」

 

アンチョビの心に活力が戻った。

ふぅ、危ない危ない。もう少しで弱メンタルメードになってしまう所だった。

 

ちなみに弱メンタルモードとは、茹ですぎたパスタと同じくらいの強度しかない精神状態であり、この状態になるとアンチョビは三食イタリアンを食べることが難しくなり、晩御飯に味噌煮込みうどんを食べるようになってしまう。

 

「そうですよ、こんなすごい作戦を考えられるんですから、ドゥーチェは」

「……そうなんだよ。本当に、すごい作戦なんだ」

「……ドゥーチェ?」

 

それは、アンチョビにしては珍しいくらいに静かな声だった。

その声に込められた感情は、賞賛への謝意ではなく、同感。

作戦立案者としてはチグハグな感情だった。

 

アンチョビは思った、カルパッチョには話しておいた方がいいかもしれない、と。

別に言ったからって何が変わるわけでもないだろうが、それ以上に隠しておく理由もないだろうから。

 

「これはさ、本当の意味で私が考えた戦術じゃないんだ」

 

ポカンとした表情を、カルパッチョは浮かべた。

まぁいきなり言われても困るよな、とアンチョビは順序立てて説明することにした。

 

「私が一年生の時に大学選抜の試合を見たことがあるんだ。といっても、身内だけの紅白戦みたいなやつだけどさ」

「はぁ、大学選抜の規模ならそれくらいは余裕でできるでしょうけど……よく見れましたね」

「あぁ、ちょっと忍び込んだんだ」

 

カルパッチョは苦笑いした。

仕方ないじゃないか、他に方法がなかったんだから。

近くで大学選抜が練習してる、と聞いてじっとしているのは、アンチョビには無理だった。だから忍び込んででも見たかった。

 

時に木々に紛れ、時に陰に潜み、時に段ボールの中に隠れ、アンチョビは練習を覗いた。

そしてアンチョビは、自身の戦車道観が変わるほどの衝撃を受けることになる。

 

「その時は知らなかったんだが、当時の大学選抜はあんまり良いチームじゃなかったらしくてな。同じチームなのに実力順で一軍と二軍に別けられていて、扱いが全然違ったんだ」

 

カルパッチョにはオブラートに包んで言うが、有体に表現するなら二軍の選手は一軍の奴隷のような扱いを受けていた。食事、清掃、身の回りの世話まですべて二軍の選手が行い、一軍の選手はそれに感謝するどころか、手際が悪いと文句を言う事もあったとか。

 

アンチョビも実際見たわけじゃなく、人伝に聞いただけで多少脚色されているのかもしれないが、それに近いことが行われていたのは間違いないと思う。

今は島田流が大学選抜を治めるようになり、そういった話はちっとも聞かなくなったけれど。

 

しかしアンチョビの衝撃は、そんなことではなかった。

 

「それで紅白戦も一軍と二軍に別れてやるんだが、当然一軍の方が有利だろ?だって実力順で決められてるんだからさ」

「それは……そうですね」

「で、いつも二軍がボロボロに負けてたそうなんだが、私が見た時だけは違ったんだ」

 

今でもアンチョビは、その時の光景を鮮明に思い出すことができる。

性能で劣る戦車を押し付けられ、モチベーションも練度も低い二軍の選手。

それを率いて戦った一人の戦車乗りと、その人による魔法のような戦術を。

 

猛る火山のように苛烈な攻撃を見せたかと思えば、堅牢な城を思わせる守りで相手の攻撃を防いで、空を裂き地へと奔る稲妻のように迅く動く。

どこまでも流麗で、どこまでも美しい、芸術のような戦車指揮。

 

見る人全てを魅了する、宝石のような煌めきがそこにはあった。

 

「もう相手の動きが全部読めてるんじゃないかっていうくらいでさ、その上状況に応じて色んな戦術を使い分けて、相手に何にもさせなかった。全国から集められた選りすぐりの戦車乗り相手に、だぞ」

 

それこそがアンチョビの衝撃だった。

どんなチームでも、どんな戦車でも、戦術の腕さえあれば勝つことができるのだと、目の前で証明されたのだ。

弱者だけが思い描く、そんな都合のいい夢物語を。

 

「心に焼き付いたよ。こんな戦車道があるのかって」

 

それだけじゃない。勝つことで全てをひっくり返した二軍の選手たちの姿。

それがどれだけアンチョビの心を救ってくれたか……まぁこれは口が裂けてもカルパッチョには言えないけど。

 

「このコンパス作戦は、その紅白戦で見た戦術の一つだ。といってもそのまんまじゃなく、私が色々とアレンジを加えているがな」

「えっ、その人もベニヤ板でデコイを作ったんですか?」

「いや違うぞ。実質十両でやってた」

 

カルパッチョの目が見開かれた。

察しの良い彼女は、すぐに気づいたようだった。

アンチョビが今言った言葉が、どれほどかの人の凄さを表していたのかを。

 

「そ、それって……」

「そうだ。私たちがダミーで水増ししてやろうとしている戦術を、その人は単純な()()だけでやってみせたんだ」

 

正しく言うのなら、その人が十両でできたものを、アンチョビ達はそれ以上の数を出さなければ再現できなかった、になる。

本当に難しいのだ。一年生の時に見てから、今日に至るまでずっと記憶に焼き付いたかの戦術を再現しようとしてきたが、どうにも上手くいかなかった。

 

マカロニ作戦で使うベニヤ板のデコイは、苦肉の策だ。ダミーで代用できる部分を探して、無理矢理それっぽい形にした。

アンチョビがその人の戦術を改修して生まれた『コンパス作戦』は、完成度で言えば多分半分もいっていない。

 

だからこそ、

 

「憧れなんだ、私の。いつかあぁなってみたいと、本気で思ってる」

 

同じ戦車乗りとして、心の底からアンチョビはそう思う。

ずっとずっと遠くに在るその人に、アンチョビは焦がれているのだ。

 

するとカルパッチョは薄く笑いながら、アンチョビに問うた。

 

「どんな人なんですか?」

「それが実際に見たことはなくて……私も名前しか知らないんだ」

 

それにしたって大変な苦労だった。

アンチョビがその紅白戦を見て間もなく、大学選抜は大規模な再編を行い、選手から指導者に至るまでまるっきり別のチームになった。

その結果その人の存在は、完全に掻き消されてしまったから。

 

名前を見つけられたのは幸運だったが、しかし残念なことにどこのチームを探してもその名前はなかった。結局その人の行方は、未だ知れない。

 

「神栖渡里っていうだけどな。同じ()()、同じ戦車乗りとして、いつか会ってみたいんだけどなぁ……カルパッチョは聞いたことないか?」

「うーん……残念ながら。女の人にしては珍しい名前ですから、一度聞いたら忘れないと思うんですけど……」

「そっかぁ……そうだよなぁ。ま、今はそれより二回戦の事を考えないとだな!」

 

ぶんぶん、と鞭を素振りしてアンチョビは気持ちを切り替えた。

聞いておいてなんだが、カルパッチョが神栖渡里について何か知っているかどうかは、割とどちらでもよかった。

 

だってアンチョビは思うのだ。確かに今は全然名前を聞かないけれど、あんなに凄い人が、ずっと埋もれ続けるはずがない。本人にその気がなくても、きっと周りが放っておかないはずだ。

神栖渡里という四文字は、必ず世界に轟く。

だからアンチョビは、それを待っているだけでいい。

待っていれば必ず、アンチョビは彼女に会えるはずだから。

 

「ところでドゥーチェ、マカロニはいくつ作りましょうか?」

「うーんそうだな……予備も入れて多めに作っておくか!」

「……大丈夫でしょうか?ウチの子の気質を考えると、勢い余って全部置いてしまうんじゃ」

「……………………………あるな」

 

 

 

 

しかしまぁやはり、アンツィオ高校とはノリと勢いで出来ているとアンチョビは思った。

 

マカロニ(ダミー)展開時のペパロニとの通信で『てめーらありったけ置いてやれぇ!』という理性の欠片も感じない言葉を聞いた辺りで、アンチョビはカルパッチョの言葉が予言であったことを思い知った。

多分、持たせたダミーが何枚でもペパロニの言う事は変わらなかっただろう。そしてやる事も変わらなかっただろう。

持たせたダミーの数に関係なく、ぜったい全部置こうとしたに違いない。

そういう意味では、カルパッチョのファインプレイだった。

 

お蔭でマカロニ作戦、そしてそれに連なるコンパス作戦は順調に進んでいる。

 

現在大洗女子学園は陣形を保てずバラバラになった。

火力はないがすばしっこく、仄かに危険な香りがする八九式には三両のカルロ・ヴェローチェを。

大洗女子学園で最も高い火力を持つが、固定砲塔故に小回りの利かない三突には二両のカルロ・ヴェローチェと一両のセモヴェンテを。

そして隊長車であり、名実ともにチームの中核を担っている四号戦車にも三突と同じ編成の三両をぶつけた。

 

アンチョビが彼女たちに指示したのは二つ。

一つは、できるだけフラッグ車から遠ざけること。

まとわりついて動きを制限し、フラッグ車が孤立するように相手を仕向ける。もっと言うなら、視線を自分達に固定させて『フラッグ車を守る』という意識を薄める。

そのためにはある程度、相手に自分たちが脅威であると思わせなければならない。

ゆえに大洗女子学園で最も手強い二両に、アンツィオ高校の最大火力であるセモヴェンテをぶつけた。

 

もちろん向こうの最大戦力に此方の最大戦力をぶつけるというのは、かなりリスクを伴う。セモヴェンテが撃破されてしまったら、アンツィオはこれから先の戦いが不利になる。長期戦なんて以ての外だ。

 

だからこそ、さっさと状況を進めなければならない。

アンチョビが下したもう一つの指示は、そのためのものだ。

 

「各車、状況を報告しろ」

『こちらペパロニ!type89が意外としぶといっす!姐さんちょっと本気で攻めていいっすか?』

「おぉい!もう目的忘れかけてるだろお前!」

『あ、そーだった!』

 

本当に頼むぞ、とアンチョビはため息を吐いた。

一つのことに集中できるのはペパロニの長所だが、それは同時に短所にもなりうる。

八九式を追いかけるのに夢中になり過ぎて、アンチョビの指示をうっかり忘れるくらいのことは普通にやるし、今やりかけた。

 

『こちら四号がやばいくらい強くて困ってますうえーい』

『正直きついですドゥーチェマジでもう保たないかもです』

 

次いで無線から妙に緊張感のない返事がきた。

あまりに気の抜けた語調だったのでアンチョビは反応に困ったが、しかし間違いなく彼女たちの言う事は正しい。

()()()はアンチョビが予想した中で、最も厳しい相手だから。

 

(西住流……やはり三両がかりでも抑えきれないか)

 

本当に化物しかいない流派だ、とアンチョビは心底思う。

黒森峰にいる西住流もそうだが、一人いるだけで羊の群れを狼の群れに変えてしまうくらいの影響力と、並外れた実力が彼女たちにはある。

 

アンチョビとしても四両はつけたかったところだが、流石にそれ以上戦力を割くことは難しい。勝ちに行くためには、三両でなんとか抑えてもらうしかない。

 

「なんとか堪えろ。四号に関しては自由に動けなくするだけでいいからな。……あ!危なくなったちゃんと逃げろよ!?無茶はダメだぞ!?」

『はーい何とか頑張りまーす』

 

……もう少し覇気を込めてくれないものだろうか。

相当に緊迫した事態のはずだが、変に余裕があるように感じてしまう。

しかし戦車道界屈指のバランスブレイカーと戦っているという事実は変わらない。アンチョビも早々に動かなければならないだろう。

そのためには、

 

「カルパッチョ、行けるか?」

 

金髪の副官の力が必要だ。

カルロ・ヴェローチェを率いて三突と交戦している彼女に、アンチョビは静かに問うた。

 

今現在大洗女子学園には、二両フリーの戦車がいる。

一両はフラッグ車、もう一両はM3リー。

それ自体はアンチョビの想定通りの状況であり、別段気にすることではない。

 

他でもないアンチョビが、その二両ならば()()()()()()()()()()()と考えていたからである。

 

ただそれはそうとして、最高の状況というものはある。

最善よりも尚良い、理想の状況が。

それを実現するために、カルパッチョの力が必要なのだ。

 

『―――――行かせてください』

「っ」

 

返答に詰まったのは、アンチョビの方だった。

なぜならカルパッチョの声が、普段アンチョビがよく耳にするものよりも数段鋭く、あるいは質を異にしていたから。

 

カルパッチョという人間は、落ち着きのある人間である。

冷静というほど冷たくなく、呑気というほど温くもなく、アンツィオ高校では珍しいくらいに感情が安定して、その上思慮深い。

加えてそもそもの気質が温厚で優しく、他人を思い遣ることを呼吸のように当たり前にできる、そんな人間だ。

 

快活で感覚派、色々と雑で物事を深く考えず、妙に好戦的なペパロニとは、正に対極にあるといえる。

 

だからアンチョビは、その時驚いたのだ。

返ってきたカルパッチョの声から、炎のように熱い戦闘の意思を感じ取れたから。

 

試合中でアドレナリンが出ているのか、はたまた別の原因があるのか、アンチョビはカルパッチョの変化の理由に思い当たるものがない。

 

「わかった、任せたぞ」

 

しかしそれを、僅かな間でアンチョビは両断した。

考えても分からないものは、分からない。

ならアンチョビは、カルパッチョの言う事を信じるだけだ。

今までも、今も、これからも。そうやってきたのだから。

 

それに良い傾向だと、アンチョビは思うのだ。

悪く言えばカルパッチョは、ちょっと大人しすぎる。

戦車乗りだと言うなら、今くらい血の気がある方が健康的だ。

 

誰かに勝ちたい、誰かを倒したいという戦いの意志が彼女の中で芽生えつつあるというのなら、それを止める理由はアンチョビにはない。

それがどういう経緯で生まれたのかには、少し興味があるけれど。

 

「三突はカルパッチョが単騎でやる。手の空いた二両はM3リーの方に回れ」

 

重戦車P40を駆りながら、アンチョビは新たな指示を飛ばす。

これでフラッグ車以外の全車にウチの戦車がついた。

その意味を、大洗女子学園は、あの西住流は正確に見抜いているだろうか。

自分がまだ捕捉されていないということの重みを、理解しているだろうか。

 

どちらでも構わない。

()()()を防ぎにこようが、この状況に持ち込んだ時点でアンチョビ達の狙いの八割は達成されている。

事ここに至れば、アンチョビ達は、大洗女子学園が座らなかった椅子に座るだけでいいのだから。

 

「――――――――よし、フラッグ車を詰みに行くぞ」

 

狼の群れを率いる者は、その瞳に剣呑な光を灯す。

車長の意気に呼応するかのようにして、初陣の戦車もまた咆哮した。

 

 

 

「あらあら、不味いんじゃないの、貴方の教え子さん達」

「貴女が此処にいる方がよっぽどマズいですよ、俺の精神衛生上」

「随分な言い方じゃない。折角会いに来てあげたっていうのに」

「お気持ちだけ頂くので帰ってください」

「遠慮しなくていいのよ」

 

コロコロと笑う彼女に、渡里は大きなため息を見せつけるようにして吐いた。

勿論そんなものじゃ、この人はビクともしないだろうが。

 

(なーんでこうなったんだか)

 

試合会場を一望できる―――といっても会場は広すぎるので一部だけだが―――丘の上に、渡里は何も敷かずに座り込んでいた。

観戦するならライブ中継してくれるモニターが見える観客席に座った方がよっぽどいいのだが、渡里は諸事情であまりそちらには居たくなかった。

 

加えて一人で静かに観戦したかったので、わざわざこんな外れの方まで歩いてきたというのに、いざ観戦しようと思った数分後には、この人が現れてしまった。

 

「なに?私の顔に見惚れちゃったかしら?」

(あぁーーーめんどくさいーーー!)

 

蝶野亜美。

おそらくこの世界で唯一といってもいい、神栖渡里の天敵であった。

とにかく食えない、口が減らない、絡みが面倒くさいという三拍子が揃った逸材で、本当に冗談抜きであまり会いたくない相手である。

なんせ疲れる。自分も大概マイペースだと思うが、この人は輪にかけてマイペースだ。何か喋る度に渡里の精神的なモノがゴリッと削れる音がして、どんどん元気が摩耗していく。

 

(ほんとに何しに来たんだこの人)

 

まさか自分への嫌がらせだろうか。

だとするならこれ以上にないくらい効果覿面だ。だから帰ってください。

 

「いいの?」

「えぇ、是非」

「帰らないわよ……そうじゃなくて」

 

普通に心を読まれたが、渡里はもはや気にしなかった。

一々突っ込んでいたらキリがないのである。

 

「あの子達。アンツィオの術中に嵌っちゃってるじゃない。このままだと取り返しのつかないことになるわよ?」

「んなこと言われたって、俺にどうしろってんです。戦車道には野球やサッカーみたいな、試合中でも助言してくれる監督はいない。自分達でどうにかするしかないんだから」

「心配じゃないのかってことよ」

 

別に、と渡里は短く返した。

 

アンツィオの戦術は、巧妙というよりはよくデザインされていると言った方がいい。

ダミーを使ってみほ達の脚を止め、その隙に飛びかかる準備を整え、同時多発的に襲い掛かることでみほ達をバラバラにした。

渡里が上手いと思ったのは、そこでフラッグ車をターゲットから外したこと。

これは普通ならば悪手だが、大洗女子学園相手に限っては有効な手に変わるのだ。

 

大洗女子学園の弱点は、何よりも数。

参戦可能数の半分、それもフラッグ車がほとんど戦闘に参加できないとなると実質四両。これは殲滅戦だろうがフラッグ戦だろうが、致命的な弱点だ。

なんせ一両の重みが違う。フラッグ車を撃破されたらゲームが終わるが、それ以外の一両でも失えば、大洗女子学園は実質的に詰む。

 

それをみほは良く知っている。

そしてだからこそ、アンツィオ高校の狙いが絞り切れない。

 

一両捕捉できていない戦車がいて、こちらのフラッグ車は味方からも敵からもフリー。

なら当然、そこに未確認の戦車が襲ってくるのは読める。

でもだからといって、フラッグ車を守ろうと無理に動けば、おそらく四号戦車以外のどれかが落ちる。そしたら試合は一気に不利になる……どころか、敗けるかもしれない。

 

手っ取り早く解決するなら、取りついているCV33やセモヴェンテをなぎ倒せばいい。そうすれば一気に状況は逆転する。

けれどアンツィオは、それを最も避けようとしている。

無理に攻めず、絶対に撃破されない範囲で攻撃し、ジワジワと追い詰める算段なのだろう。。

 

みほは今、天秤がどちらに傾くかを慎重に見定めようとしている。

その選択がそのまま、試合の勝敗に直結していることを感じ取っているが故に。

 

しかしそうやってみほが迷っている時間が、そっくりそのままアンツィオの時間になる。

みほには悪いが、いま時間は大洗女子学園に味方しない。動くなら絶対的に、速いほうがいい。これは、時間を取り合う試合だから。

 

しかし本当によくできた作戦だ。

効率的で、理に適っていて、柔軟性もある。美しいとすら言っていい。

けれど、

 

「どこか貴方を彷彿とさせる戦術ね。そういえば一回戦で戦ったサンダースも、そんな感じだったかしら」

「サンダースはともかく、アンツィオと面識はないですし。たまたまですね多分」

 

似たような戦術なんていくらでもあるだろう。

サンダースのそれは渡里の完コピだったが、アンツィオのそれはかなりオリジナルの色が強い。起源が渡里の戦術だとしても、あれは既にドゥーチェ・アンチョビのものになっている。

 

「狙いは?」

 

挑発するかのような声色に、渡里は嘆息した。

どうもこの人は、人を煽らないと会話できないらしい。

 

「フラッグ車でしょう。この状況ならどこを攻めても崩せますが、時間が掛かるのはアンツィオも避けたいはず。ならフラッグ車をさっさと倒した方が効率が良い」

 

結局、キモはそこだ。

フラッグ車一本釣りという狙いを、どこまで隠蔽できるか。

アンツィオの行動の全ては、そこに繋がっている。

 

「黒森峰やプラウダには通用しない手ね。フラッグ車の守りをガチガチに固められたら、彼女たちには崩しようがないでしょうし」

「ウチが相手だから使ってきたんでしょ。その二校と戦うなら、アンツィオも別の戦術を使いますよ」

「呑気ね。その余裕はアンツィオの力を軽く見ているからかしら?」

 

その言葉に、渡里は首を横に振った。

軽く見る?とんでもない。寧ろその逆だ。

渡里はアンツィオ高校というチームを、これ以上ないくらいに高く評価しているとも。

 

「アンツィオはいいチームです。多分彼女たちは、自分達にできることは少ないと自覚した上で、できることだけを磨いている。その上全員が、キチンと自分たちの役割を理解しているから動きに迷いがない」

 

チームの強さとは、何か一つの定義によって決まるものじゃない。

強い戦車に強い選手を乗せれば、それが一番強い……というほど、戦車道の世界は単純じゃないと渡里は思っている。

目に見える強さだけじゃなく、曖昧で不確かで抽象的だけど、確かに存在するナニカ。

それを含めての『強さ』であり、アンツィオ高校はそのナニカが優れている。

 

それだけじゃない。

渡里はアンツィオ高校と対戦するに辺り、彼女たちのことはかなり調べた。

そしてその中で、アンツィオ高校というチームはドゥーチェ・アンチョビが一人で創り上げたということを知った。

 

詳細は分からない。

けれどおそらく、並大抵の苦労じゃなかったと思う。

彼女がアンツィオに入学した時点で、戦車道受講者は彼女一人。

アンツィオには三年生が他にいないことから、彼女は入学してからの一年を独りで過ごしたはずだ。

 

戦車も、人も、資金もない中で、孤独に耐え忍びながら、ずっと努力を続ける。

本当に戦車道ができるのかという、不安を押し殺して。

それはなんて辛く、険しい道。

 

そんな道を歩き切った人間が、弱いはずがない。

そんな人間が核となって生まれたチームが、弱いものか。

 

サンダース程強くはないとしても、サンダースより楽な戦いになるわけないんだ。

ノリと勢いだけなんて言われてるが、彼女たちは彼女たちだけの、サンダースや黒森峰にもない強さを持っているんだから。

 

―――――だがそれでも。

 

 

「でも、大洗女子が勝ちます」

 

 

ただそれでも渡里は思う。

勝負の世界に絶対はないが、それでも断言できる。

アンツィオの戦術がいくら優れていようと、アンチョビの指揮官としての素質が高かろうと、大洗女子学園が勝つ、と。

 

「理由は?」

 

挑戦的な視線を送る蝶野に、渡里は少し驚いたような顔をした。

まさか理由を聞かれるとは思っていなかったである。

()()()()()西()()()()()()()()がそれを言うのか、という気持ちをそのまま、渡里は言葉に乗せた。

 

 

「西住みほがいる。それ以外に理由がいりますか」

 

 

意表を突かれて硬直した蝶野の隙を突き、渡里はポケットからあるモノを取り出した。

それは地図。何の変哲もない、上から大地を見下ろした時の光景を複写した、ただの地図。

 

「覚えてますよね、この訓練」

「……えぇ、地図だけを見て空想の戦車を動かし戦う、西住流独特のイメージトレーニングね」

 

戦車の訓練と言っても、何も実際に戦車を動かすだけじゃない。

戦車がなくてもできる練習というのが、西住流にはいくつかあって、これはそのうちの一つ。

感覚的には目隠し将棋みたいなもので、口と地図さえあればできるというお手軽さから渡里は特に好んでいた訓練である。

 

「最も、()()()()できる人間はほとんどいなかったけどね。その訓練に必要な、二次元の地図を頭の中で三次元に展開する技術と、それを維持し続ける想像力。その二つを高レベルで兼ね備えていた戦車乗りは貴方と師範くらいのものだったわ」

 

蝶野の言っていることは事実である。

二つの必須スキルを兼ね備えた戦車乗りは、何人もいる。ただそのスキルは、持っているだけではダメなのだ。

なぜならこれは、二人一組でやるもの。構築した空想の戦場を、自分と相手とで共有しなければならない。

そのためにはある程度力量が拮抗した者同士で組まなければならず、実力に差があれば空想の戦場はリアリティを失い、イメージトレーニングの効力は半減する。

 

そして渡里についてこれた戦車乗りは、たった一人しかいなかった。

ほんの少し、前までは。

 

「今は、俺としほさんだけじゃない。少なくとも後二人はいて、その内の一人は栗色の髪をしてる」

 

その言葉の意味を、蝶野は正確に理解したようだった。

渡里は薄く笑いながら、言葉を重ねた。

 

「俺は西住みほの実力を、()()()()()()()()()。だからこそ断言できます――――俺にできることは、みほにもできる、ってね」

 

もし自分が、今のみほと同じ状況に在ったとして。

渡里はここからアンツィオに勝つまでの道筋が見えている。

 

なら何の心配があろうか。

彼女の眼にだって、渡里と同じものが見えているのだから。

 

「……そう上手くいくといいけれど」

 

水を差すような蝶野の言葉に、渡里は心の中で返事した。

 

上手く行かなくても勝つさ、と。

 

 

 

 

 

 

 



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第31話 「アンツィオと戦いましょう④ アクアパッツァ

こんな投稿ペースで年内完結できるのかよ……(残り準決勝二試合分+決勝戦)

でもどんなに忙しくても投稿が遅れても、決して書くことは止めませんのでどうかご容赦を。
合言葉は「エタりません、完結までは」。


あと今まで言ってこなかったですが、感想はしっかり読んだ上で励みにさせて頂いております。これからも拙作を宜しくお願いします。


カルパッチョは、自分が勝負事に向かない性格であることを自覚していた。

 

勝負の世界は、常に非情だ。

どれほどの努力を積み重ねても、どれほどの時間と情熱を費やしても、それが何の意味もなかったかのように、敗北という二文字で真っ黒に塗りつぶされる。

過程に意味はなく、結果だけが全て。

 

勝利という二文字を誰よりも希求し、そのために何もかもを捧げることのできる鋼のような心を持つ人間。

勝利という二文字を誰よりも渇望し、そのために己の魂を限りなく燃焼させることのできる覚悟を持つ人間。

そういう人種だけが、その栄光を掴む権利を許される。

 

戦車道だって、それは例外じゃない。

 

そしてそれを理解した上で戦車道をするのは、「戦車道が好き」なんというレベルの話じゃないんだろう。

戦車道が好きなのは当たり前。

そこからプラスアルファの、何か。

戦車道がなくちゃ生きていけないとか、戦車道をやることに何か大きな意味を持っているとか、それこそ――――夢とか。

並み外れた想いを、戦車道に懸けていて、そのために何よりも()()()()と思える人。

 

それが本当の意味で、()()()

 

そんな世界にあって、自分の気質はあまりにも温すぎる。

 

カルパッチョは、結果だけが全てとは思えない。

アンツィオ高校の皆と過ごした時間は、自分にとっては何よりも掛け替えのないもの。

だから皆と出逢えたことにこそ価値があると思い、皆と戦車道をすることに意味を見出してしまう。

 

だから心の底から負けたくないと思うことがない。

いや勿論そういう気持ち自体はある。

でもカルパッチョの「負けたくない」と、そういう人たちの「負けたくない」の間には、大きな開きがある気がする。

方向は同じでも、その大きさが違う。同質ではあっても、同量ではない。

 

高校から戦車道を始めて今に至るまで、数多くの戦車乗りを見てきた。

その中でひと際輝く才能の持ち主や圧倒的実力を持つ者も、何人かいた。

そしてその誰もが、カルパッチョにはない()を持っていた。

 

それをカルパッチョは心底羨ましいと思うし、何よりその熱を持っていない自分が後ろめたかった。

 

自分達がドゥーチェと呼び慕う彼女もまた、そういう人間だ。

戦車道が盛んではないアンツィオ高校に一人でやってきて、一人でここまでのものを築き上げた。

彼女の戦車道に対する想いもまた、並みではない。

 

だから、そういう人の隣に自分なんかがいていいのかと思ったことが、一度もなかったわけじゃない。

並び立つためには相応のものが必要なんじゃないのか、とか余計なことを考えてしまったことは、一度ならずある。

 

けれどそんなカルパッチョでも、彼女の力になることはできた。

想いも、熱も、到底及ばないけれど、それでも彼女を支えることはできた。

 

ならカルパッチョは、それでいい。

彼女や、他の優れた戦車乗りのような、()()()()()()になれなくても。

そういう人たちの助けになることはできるのだから。

そのためにカルパッチョは頑張ればいい。

 

死ぬ気になれなくても、普通にしかなれなくても、そんな自分でもできることがあるから。

それを精いっぱい頑張ればいいと、そんな風に思っていた。

 

 

―――――――その、パーソナルマークを見るまでは。

 

 

「まさか、私がこんな気持ちになれるなんて」

 

車体から身体を出し、風を受けながらカルパッチョは微笑んだ。

 

マカロニ作戦、及びコンパス作戦は順調そのもの。

ドゥーチェの想定した通りに、状況は動いている。

 

大洗女子学園の戦車は分断され、フラッグ車は孤立状態。

しばらくその状態を維持し、フラッグ車への守りの意識が薄くなったところを見計らい、ドゥーチェが仕留める。

カルパッチョ達に課せられた使命は、それまで他の戦車の動きを封じること。

相手に取りつき、進路を妨害し、とにかく行動を制限する。

 

カルパッチョの駆る戦車はセモヴェンテ。

火力だけであれば大洗女子学園にも十分通用するこの戦車に、カルロ・ヴェローチェ二両の随伴を加えて、狙うは三号突撃砲。

 

大洗女子学園最強の火力を誇るかの戦車を、カルパッチョ達は足止め、あわよくば撃破する。

 

客観的に見て、十分可能な仕事だ。

相手と此方の練度、戦車の性能差、その他諸々を鑑みても、成功する確率の方が高い。

これが一対一なら、成功と失敗の確率は五分五分になってしまうけれど、数の有利を前面に押しだして戦えば問題はない。

 

そう、問題はなかったのだ。

 

それを分かった上で、全てを冷静に理解した上で、カルパッチョは今、単騎で三突へと肉薄しようとしていた。

それは非効率の選択。

随伴の二両は他所へ回し、カルパッチョはあえて勝算の下がる道へと足を踏み入れた。

 

全体的に見れば、悪い選択ではない。

カルパッチョが単騎になる事で、二両はフリーになり、その分だけ他の箇所の戦力を厚くすることができる。

この場に限った場合のみ、カルパッチョの選択は悪手と言えるが、一つの試合の中で見るなら寧ろファインプレイだ。

 

あぁ、けれど。

カルパッチョは断じて、そんな思考を基に動いたわけじゃなかった。

それは本能的な判断。

理性ではなく、心に従って、カルパッチョは動いたのだ。

 

「砲撃で牽制しつつ、一気に間合いを詰めます!」

 

木々を掻き分けたその先。

深い碧色の眼が捉えていたのは、目標の獲物。

背が低く、長い砲身が特徴的な戦車。

そしてその装甲に貼られた、水色のカバのパーソナルマーク。

 

そこにめがけて、セモヴェンテは一直線にひた走る。

 

『――――敵襲!!』

「遅いっ」

 

挨拶代わりの一撃は、三突の装甲を掠めるのみに終わる。

だが構わない。行進間射撃の精度を考えれば、当たれば御の字くらいの感覚だ。

本当の狙いは、

 

「距離さえ詰めれれば……!」

 

彼我の間合いをゼロにすること。

アウトレンジからの砲撃が厄介な三突を相手取るには、その懐に飛び込むしかない。

勿論当たれば即撃破の状況は変わらないが、此方も撃破が見込めるようになるため、有利不利がイコールになる。

 

そしてセモヴェンテは、自身を弾丸とし、三突へと疾走した。

先手を取られた三突に、もはや回避の術はない。

せめて側面は晒すまいと、方向転換して正面を向くことが精いっぱい。

 

瞬間、金属同士がぶつかり合う豪快な音と、正面衝突により発生した衝撃が各員を襲った。

 

『ぐっ……!』

「っぅ…!」

 

しかし尚もセモヴェンテは歩みを止めない。

エンジンを全力で吹かし、衝突の勢いをそのままに三突を押し込む。

 

『おりょう、押せ!』

『わかってるぜよ!』

 

しかし三突もすぐさま転輪を回し、前進する。

ギリ、ギリ、と二つの戦車が互いに押し合う姿は、さながら達人同士の鍔迫り合いを思わせた。

 

これで状況はイーブン。

互いが互いに、一撃で相手を葬る必殺の間合いに踏み込んでいるのなら、もはや勝負はどちらが先に弾を当てるか。

融通の利かない固定砲塔同士の戦い、鍵となるのは戦車の操縦能力と、駆け引き。

幾千、幾重先の手を読み合い、致命の一撃を放つ。

 

そんな息つく暇もない、緊迫した勝負がこの先繰り広げられる。

 

なら、タイミングはここしかない。

カルパッチョは声を上げた。

 

「たかちゃん!」

 

それは、カルパッチョの親友の名前。

今日、この試合。大洗女子学園の五両の戦車の内、どれかに乗っているであろう、彼女。

それが今目の前にいることを、カルパッチョは確信していた。

 

三突に貼り付けられているパーソナルマーク。

珍妙で、特徴的な水色のカバのイラスト。

それは彼女のトークアプリのアイコンと、まったく同じものだ。

 

だからきっと、その中にいるはずなんだ。

そうだよね、たかちゃん。

 

「―――ひなちゃん」

 

そして彼女は現れた。

三突から身を出した、赤いマフラーの巻いた女の子。

決して見間違えることのない、親友の姿。

それがそこにあることを確認した時、カルパッチョは僅かに微笑んだ。

 

あぁ、いけない。

今は勝負の最中だ。あんまり気を緩めるのも、ましてや長々と喋るわけにもいかない。本当なら、今こうやって顔を合わせることもダメなんだから。

だから短く、それでいてはっきりと、この想いを伝えないと。

 

「―――真剣勝負だよ、たかちゃん」

 

本当に不思議な気分だ。

試合が始まる前は、たかちゃんと一緒に戦車道ができる喜びだけだったのに。

今こうして、敵として相対すると、カルパッチョの中に何か熱く脈打つものがある。

 

「手加減したら怒るからね」

 

口角が自然と吊り上がる。

内から湧き出るこの感情は、体中の血液が沸騰するようなこの興奮は、一体なんだろうか。

 

そんなの分かり切ってる。

身体の奥底で燻っていたものが、親友との真剣勝負という火種を以て、一気に燃え上がったんだ。

だから自分は、単騎でここに来たんだろう。

誰にも邪魔されたくないから。

思う存分、正々堂々と戦いたいから。

 

「さぁ――――」

 

親友でも、今は敵。

不滅の友情も、今だけは忘れろ。

 

代わりにこの気持ちを燃やせ。

自分に芽生えた、初めての感情を。

貴女が目覚めさせてくれた、この想いを滾らせろ。

 

「―――始めよう、たかちゃん!」

 

カルパッチョは笑った。

初めて獰猛に笑った。

 

ずっと自分にないものと思っていたものを、赫々の意志と共に胸に抱きながら。

 

 

 

「……なんでだろ」

 

知らず、そんな呟きがみほの口から洩れていた。

人間、集中力が高まってくると思考が勝手に外へと出ようとする。

それは言葉という形で出る時もあれば、身体の動作という形で出ることもある。

出力のされ方は人それぞれだが、この時のみほの呟きはそういう類のものだった。

 

(……なんかしっくりこない)

 

絶え間なく響く轟音と、忙しなく乗員が動き続ける車内で、みほは考える。

この違和感はなんだろうか。

歯車がかみ合っていないというか、焦点がボケているというか。

何かが変にズレているような、そんな気がしてならない。

 

(狙いを読み違えてる……?)

 

こういう時、何が原因でそういう気持ちになるのかを、みほは経験則で知っていた。

 

アンツィオの作戦は、フラッグ車を守ろうとする意識が他のチームより高い大洗女子学園の隙を突いたもの。

デコイを使って足を止めさせ、奇襲を仕掛けて攪乱し、全車を分断させる。

一両でも撃破されればその時点で一気に不利になる此方としては、無茶な動きは禁物。

多少性能差で勝ってるとはいえ、群がってくる相手から意識を逸らすことはできない。

 

それで――――終わり?

 

否、違う。

 

「この作戦はまだ途中……」

 

このままいけば、戦況は膠着する。

なぜなら現状、攻めるアンツィオに対して大洗女子学園は、そこまで圧倒されているわけじゃない。油断こそできないが、安定して守ることはできている。

なら、アンツィオが何かしら新たな手を打ってこない限りは、この状況がずっと続く。

 

それをアンツィオが望んでいるとは思えない。

彼女たちは絶対的に、長期戦を避ける性質があるから。

だからこれはきっと途中なんだ。

どこからがスタートかは分からないが、ある一つの作戦の中腹に、みほ達はいる。

 

そもそも、膠着することがおかしいのだ。

相手が必死になって攻めてきて、こっちも必死になって守って。

その結果が現状維持なんてありえない。良くも悪くも、何かしらの変化は起きるはずだ。

例えば、どちらかの戦車が中破するとか。

 

 

それが起こらないのは何故か。

みほの思考、そして研ぎ澄まされた感覚が、それを探り当てた。

 

 

「―――――沙織さん、ちょっと頼んでいいかな」

「へ?私?」

「うん、大変かもだけど……全車を一か所に、同時に集まるようにしてほしいの」

「同時……?」

 

こくり、とみほは頷いた。

 

「多分向こうは、そう遠くない内にフラッグ車を狙ってくると思う。それを逆に利用しようと思って」

「なぜフラッグ車が狙われると?」

 

華の言葉に、みほは自身の思考の結果を伝えた。

 

ヒントは、アンツィオの攻めの温さだ。

一対三という状況は、いくら戦車の性能差があっても楽な戦いじゃない。

それこそ目の前の対処に精いっぱいで、他の事なんて考える暇はないだろう。

しかし今は、そのゆとりがある。

 

何故か。

彼我の実力差がそこまでかけ離れたものじゃない以上、答えは一つ。

()()()()()()()()()()()()()()()()()、これしかない。

 

そこまで思い至れば、もう充分。

 

「今までの行動は全部ブラフ。全ては、たった一度のチャンスでフラッグ車を仕留めるための布石」

 

勿論みほの予想が間違っている可能性は十分にある。

しかしどちらにせよ、フラッグ車がみほの手から完全に離れている今の状況をそのままにしてはおけない。

 

だからひとまず、一石で一鳥は落とす。

此方のフラッグ車を狙ってくるなら、おそらくフリーの隊長車(フラッグ車)が来るはず。

それなら運が良ければ、()()()()()()()()()()可能性もある。

 

(……ここ最近お兄ちゃんと戦ってたせいで、なんかやり方が伝染っちゃったかも)

 

まぁ効率的だし、とみほは即座に切り替えて倣わせてもらうことにした。

1:1交換は論外。最低でも相手に三倍の損失がなければ取引に応じようともしない兄のやり方は、いまは有効だ。

 

「……できる、かな?」

 

しかしそれも、沙織次第。

みほは目の前の相手に対処しなければならないため、全車の動きをコントロールすることはちょっと難しい。ましてや『同じ場所に同じタイミングで集める』なんていう複雑な統制は取れない。

 

だからこれは、みほの力の及ばない領域の話。

自分にできないからこそ、みほは仲間に託すしかない。

 

疑問と、少しの申し訳なさを含んだ視線。

それに対する返事は、満面の笑顔だった。

 

「わかった、任せて」

 

言うや否や、沙織は普段使っているミニホワイトボードを壁に掛け、新たにもう一つミニホワイトボードを取り出した。

それは渡里からプレゼントされたものではない、新たに自分で購入したものだった。

 

「できるのか、沙織。相当難しいぞ」

 

忙しなく操縦桿を動かしながら、それでいて全く忙しさを感じさせない口調で麻子が言う。

その言葉は正しい。

ただ動いている戦車を誘導するだけなら簡単だが、フラッグ車を除く全車は絶賛戦闘中。

つまり指示を飛ばしても、その通りに動かない可能性が極めて高い。

 

故に求められるのは、精密な計算(スケジューリング)瞬発力(アドリブ)

作り上げた予定表を、刻一刻と変化する状況に合わせて即座に修正を加え続けなければならない。

 

それはいわゆる、経験値だけが為せる技。

沙織に決定的に足りてないものが、成否を分かつ要因。

 

しかし沙織はそれを知ってから知らずか、一つ笑みを浮かべた。

 

「できるよ」

 

それはみほ達がよく知る、神栖渡里のそれによく似たもの。

人を惹きつけ心を奪う、不敵な笑みだった。

 

「渡里さんに鍛えてもらったのは、華だけじゃないんだから」

 

ただ一言、そんな当たり前の事実を述べるだけの返事がこんなにも頼もしく聞こえるのは、果たしてなぜだろうか、とみほは思った。

だが同時に、不安も消し飛んだ。

余計な心配はいらない。もうみほはただ、沙織の事を信じて自分の仕事をするだけだ。

 

「こちらあんこうチームから各車へ、現在の位置情報と状況を教えてください――――」

「西住殿、合流するのは賛成ですけど……」

「うん、わかってる。どこかで相手を振り切らないと、向こうの戦力も集まっちゃう」

 

みほ達はこれから、アンツィオの戦車を引きずりながら合流地点に向かう。

なら当然、何かしらの対応をしなければアンツィオの戦車もそのまま合流してしまう。

 

だからそれより前のタイミングで、みほ達は快速を誇るアンツィオの戦車を振り切らなければならない。

 

純粋な速度と操縦技術では、多分無理だ。

操縦技術はともかく、スピードという一点においては大洗女子学園の戦車は一枚下。

まともにいっても食いつかれるだろう。

 

「でも大丈夫。本当は別の使い方をするつもりだったけど、()()があれば……」

「あぁ!そういえばその手がありました!」

 

ならまともにやり合わなければいいだけの話。

正攻法じゃ無理なら、奇策を使って振り切ればいい。

そのための作戦は、既にみほの頭の中にある。

 

砲手と装填手の視線を受けて、みほは頷いた。

車長の指示を受けて、四号戦車の動きの()が変わる。

 

 

思えばこの試合が始まってから、みほ達は後手に回り続けている。

それは相手の出方を見るという方針のせいだが、思うにそれは、大洗女子学園のスタイルに合ったものじゃなかったのかもしれない。

 

防御に徹することと、後手に回ることは違う。

それを証明し続けてきた人が近くにいるのに、みほはすっかり勘違いしていた。

相手の対処に集中しすぎていて、逆転の道筋を探すことを忘れてしまっていたのだ。

 

戦車道はいつだって、相手の上を行く者が勝利する。

全国の猛者が集まる西住流において不敗を誇った、みほが世界で一番強くてカッコいいと思う兄の戦車道のように。

相手を横から眺めるんじゃなく、上から見下ろさなければ決して勝つことはできないのだ。

 

「よし、行こう」

 

先んずれば人を制す。

相手の一歩先を行かんとする意思を灯して、みほ達は疾走を開始した。

 

 

 

 

カエサルはどちらかと言えば、文化系の人間である。

歴史を嗜み、八卦や占星術にも手を出してみたりする一方で、スポーツなどに手を出すことは今までになく、所謂大会というものにちゃんと参加するのも戦車道を始めてからのことであった。

 

別に闘争心がないわけではない。

同じく歴史を愛するカバさんチームの面々と、日々知識を競い合っては勝ったり負けたりして一喜一憂するし、負けた時は「次は負けてなるものか」と思い一層文献を読み漁るから、負けず嫌いでもある。

 

ただ()()()()と、競技の勝負とは、まったく別のものなんじゃないかと思っていた。

そして時々、例えばラケットやバットなんかを担いで歩く体育会系の人達とすれ違う時なんかに、自分もそっちの世界を味わってみたいと思ったことが、何度かある。

 

自分の全く知らない世界。

残酷で、努力すれば必ず勝てるとかそんな甘っちょろい考えが通用しない世界。

そこで闘うというのは、果たしてどういう気持ちなのだろうか。

 

離れ離れになってしまった幼馴染で親友のひなちゃんは、高校で戦車道を始めたらしい。

毎日のようにトークアプリで会話(チャット)をするから、その情報が入ってきたのはすぐだった。

 

戦車道。

戦車に乗って戦う、古くは乙女の嗜みと言われていた競技。

名前と概要だけ知っていたカエサルは、戦車道とひなちゃんの性格とを並べてみては、「あんまり似合わないな」なんて思ったりもした。

 

チャットで聞く限りは、なんとも大変そうだった。

人数が少なくて、戦車もあんまりなくて、その数少ない戦車も古いやつで。

ほとんど初心者ばかりなのに先輩は一人しかいないから、必然的にある程度は独学しないといけなくて。そのせいで間違った知識がそのままになってたりすることもあるし、自由気ままな生徒もたくさんいるからもうしっちゃかめっちゃかで。

 

だから何度かやった練習試合もほとんど負けちゃって、その度にすごく悔しい思いをして。

 

 

そしてその分だけ、いやそれ以上に、勝った時は嬉しかった。

 

 

ビックリマークが普段の三倍くらい付いて送られてきたチャットは、その時の喜びが如何ほどのものだったかを、何よりもカエサルに伝えてくれた。

 

カエサルがそういう、所謂「真剣勝負の世界」に対して一層興味を持つようになったのは、多分それからだと思う。

 

親友のひなちゃんがあまりにも楽しそうに話すから、あまりにも哀しそうに話すから、あまりにも不機嫌そうに話すから……あまりにも幸せそうに話すから。

 

自分もそっちの世界に行ってみたいと、カエサルは本気で思うようになった。

 

 

大洗女子学園で戦車道が復活したのは、カエサルのそんな思いがいよいよ溢れそうな時分だった。

願ってもないタイミングで、まさに渡りに船。

迷わず選択し、カエサルは仲間と共に戦車道の世界へ降り立った。

 

結論から言えば、手放しに喜べるものではなかった。

戦車道の講師として招聘された、神栖渡里なる男の人。

戦車道の名門西住流の直系である西住みほが兄と慕う人。

これがまぁ、とんでもなく厳しい人だったのだ。

 

自分の限界とその向こう側を反復横跳びさせるような絶妙の塩梅の練習をさせる人で、もう連日連夜ヘトヘト。

正直走った距離で言えば陸上部といい勝負をしてるんじゃないかというほどで、一体自分は何の授業をしてるんだっけかと思うこともしばしば。

 

そして筋肉痛が一周回って筋肉痛じゃなくなってきて、そろそろ戦車に乗ってみたいな、なんて思い始めた頃だった。

大洗女子学園戦車道のターニングポイントとなる、聖グロリア―ナとの練習試合が行われた。

 

相手は全国屈指の強豪校。

勝てないのは当たり前。講師も「負けてもいいんだし気楽にやれば」なんて言う始末。

それでもできるだけの知恵を絞って作戦を考え、少しでもマシに戦車を動かせるようにと僅かな間でも練習を重ね、迎えた試合当日。

 

カエサルは、大洗女子学園は見事に負けた。

 

一見、惨敗というほど酷い試合ではなかったかもしれない。寧ろ最終スコアだけ見れば接戦だったくらいだ。

でも内容で言えば、きっと惨敗だった。

作戦通りに行ったことも、思った通りに戦車を動かせたこともほとんどなく。

部分的には相手を押しているように見えたかもしれないが、それはきっと偶々とかまぐれとかで、結局は相手の方が一枚も二枚も上手だった。

 

そんな中でまともに戦えてたのは、西住みほ率いるAチームだけ。

彼女がいなければ大洗女子学園は正真正銘の惨敗を喫しただろう……あるいは、カエサルたちが彼女の足を引っ張ったか。

 

本当はもっとできると思っていた。

自分の力はこんなもんじゃないと思っていた。

やればできるんだと、そう思っていたのに。

そんな甘い世界じゃないんだと、カエサルは思い知らされた。

 

戦車道に熱が入るようになったのは、それからのことだ。

強くなりたいと願い、講師に頼み合宿を開いてもらって、文字通り血の滲むような練習を毎日繰り返す。

そしてカエサルは初めて、疲労で動けなくなるという経験をした。

息をするのも辛いという感覚を味わった。睡眠と気絶は違うということも知った。

 

けれど、全ては強くなるため。

あんな悔しい思いを、二度としないため。

必死に頑張った。

 

けれどカエサルは、カエサル達はそれに夢中になり過ぎたのかもしれない。

強くなる事に必死で、悔しい思いをするのが嫌なだけで、『絶対に負けたくない』と思うことは、もしかするとなかったのかもしれない。

 

それは似たようなものだと言う人もいるだろうが、それでも決定的に何かが違うとカエサルは思う。

 

だってそうじゃなければ。

今湧き上がるこの気持ちは、何だというのか。

 

 

「装填完了!」

 

身体に染み込んだ装填の動作を、一つの淀みもなく行い、弾を砲手へと届ける。

そして轟く発砲音。すぐさま機械的な駆動音とともに薬莢が排出され、カエサルはまた弾を装填する。

 

この繰り返し。装填手とは畢竟、永遠にこれを行う役職だ。

その役目は、ひたすらに献身。

できるのはただ、支える事だけ。

 

これが砲手であれば「相手を倒したい」という熱が生まれるだろうが、分かりやすく優劣のつかない装填手にはそういう類の興奮はあまりない、とカエサルは思っていた――――けれど。

 

「装填完了!」

 

弾を運ぶ手に、力が籠り、火が灯る。

それは明らかな、熱を持った証明。

 

あぁそうだ。カエサルは今、()()()()()

身体全体を流れる血が沸騰したかのように熱く、心は高らかに踊る。

 

 

なぜ?

決まっている。

そこに―――――――()()がいるからだ。

 

 

轟、轟、とかつてない程激しい音が響く。

お互いに至近距離で砲弾を撃ち合うため、砲撃音が幾重にも重なっているからだ。

しかしそれだけではない。

一歩でも早く、一瞬でも先に相手に弾を当てようという意志が灯った互いの戦車が、装甲や履帯をぶつけることに一切の躊躇もなく躍動しているのだ。

そうしてそこに生まれたのは、さながら剣士同士の戦いが見せるような白刃の乱舞だった。

 

セモヴェンテが左側面に回り込む。

その動きを即座に察知した三突が、操縦手の視界から消えるセモヴェンテを視覚以外の感覚で捉えながらバックし、右に九十度旋回。相手を正面に据えようとする。

そして間髪を入れず、砲撃。

 

近距離ならば堅守を謳う聖グロリア―ナの戦車ですら一撃で倒す魔弾に対し、当然セモヴェンテは受けるという選択をしない。

鋭いカットで急速に方向転換し、紙一重で砲弾を避けると同時に、今度は右側面にくらい付こうとする。

 

「撃って!!」

「前だ!!」

 

放たれる一撃。三突より火力は劣るものの、十分打倒の可能性を秘めた一射は、しかし三突の残像を貫くに終わった。

旋回して正面装甲で受けるのが間に合わないと踏んだ三突が、バックから前進に切り替えて弾を避けたのだ。

 

「背後について!!」

「させるか、おりょう!」

「どっ、せぇぇい!!!」

 

グン、と三突の挙動がブレた。

セモヴェンテが背後という完全な死角に入った瞬間、再び三突は後ろ向きに加速し、Lの字を描いてセモヴェンテの右側面へと回り込む。

 

固定砲塔の戦車の背後は完全に安全領域。そこに入った安心感に付け込んだ、虚を突く行動だった。

 

「――――廻して!!」

 

そのあまりにも鋭すぎる動きに、反射的にカルパッチョは叫んでいた。

回避するにはあまりにも時間が足りないと判断し、ならば、と車体を半回転させることで砲身を横に薙ぎ、三突の砲身を払った。

 

ガン、という衝突音は、火薬の炸裂する音より一瞬早く響いた。

空を割き、彼方に飛び去っていく砲弾は、木々か土壌かを破壊するのだろう。

そして砲撃の衝撃で車体が諸共揺れる中――――

 

「押せ!!」

「押して!!」

 

エンジンを全速で吹かし、両者は同時に組み合った。

押し付け合う装甲が、ギリギリと軋む。

それは戦車の悲鳴か、あるいは決して曲がらず譲らない、鋼の如き意志が削れ合う音か。

やがてどちらともなく弾かれるようにして距離が空き、また鉄色の狼は炎の牙を振るう。

 

一撃を食らえば終わる。

互いにそれは理解している。だから決して止まらない。絶えず動き続け、銃先から逃れる。

その上で砲火は常に浴びせる。

戦車を押し付け、引いて、相手のバランスを崩し、即座に致命の一太刀を浴びせる。

均衡した状況だ、かすり傷一つでも突破口になり得る。

ならばとにかく撃ち続ける。

 

そのためにカエサルは、ただひたすらに弾を込める。

講師から教わった、装填の術を頭の中で繰り返しながら。

 

『装填は力を込めれば早く出来るってもんじゃない。大事なのは、正しいフォームを正しく行う事。そしてそれを維持すること』

 

弾を持ち上げ、載せて、押し込む。

一連の動作を、淀みなく、正確に、適切な力配分で行う。

 

「焦らないっ、慌てないっ、力まないっ!」

 

『それさえできれば、どこへ出ても恥ずかしくない装填手になれるさ。まぁ、今は全然ダメだけどな』

 

なら果たして、今はどうなのだろうか、とカエサルは少し笑った。

装填すること数十回、戦車道を始めたあの頃ならきっと、腕が痺れて上がらなくなってしまっているだろう。

けれど今は違う。自分の思い描いたイメージそのままの動作で、カエサルは速い装填を延々と繰り返すことができている。

 

そのスピードレンジが既に戦車道強豪校と遜色ないレベルにあるということを、カエサルは自覚できていない。

ただ彼女の頭の中にあるのは、理想のイメージから寸分も違えてたまるかという思いと。

 

(ひなちゃん―――)

 

向こう側で、自身と同じ速度で弾を装填する、親友の姿のみ。

 

(知ってるよ、ひなちゃん。)

 

ひなちゃんも、装填手なんだよね。だってチャットで嬉しそうに、砲弾を抱えている写真付きで送ってきたもんね。

私はそれを知っていたから、ひなちゃんと同じ装填手になろうと思ったんだ。

親友だから、一緒がいいなって。

 

ひなちゃんもそれは知ってるよね。

私も戦車道を始めたことや、装填手になったこと、全部全部ひなちゃんに話したから。

 

「カエサルっ!!」

「わかってる―――そら持っていけ!!」

 

左衛門佐の声に応じて、カエサルは弾を装填する。

装填スピードを上げる、という意識を持ってはいけない。それは余計な力みを生む原因になる。

考えるべきは、理想(イメージ)現実(アクション)のリンクの精度を上げる事。

最速の装填は、いつだってカエサルの頭の中にある。そこに自分をどれだけ近づけられるかが、即ち装填の速さに繋がる。

 

(分かってはいるが――――)

 

それを頭では理解しているが、一方で身体がカエサルの意に反する行動をとり始めている。

逸る身体(本能)思考(理性)が精いっぱい抑えつけているというのが、カエサルの現状だった。

 

その理由を、カエサルは知っていた。

 

(ひなちゃん……強い……っ!)

 

セモヴェンテの装填速度が、此方と同等―――あるいは、僅かに上回っているからだ。

一発でも当たれば勝ちという状況では、一発でも多く撃てる方が有利。

なら装填速度の速さが、勝敗を分かつ一因になる。

その点においてカルパッチョのソレは並みではない。ほんの僅か、半歩でもカエサルの装填が遅れると、たちまち二歩分の差が開く。

 

神栖渡里が教えてくれた装填の技術は、全くの素人をほんの数か月で一級品に仕立て上げたという点を含めて優れたものである。

けれどそれでも、カルパッチョの方が僅かに上を行く。

なぜなら向こうも、例え講師やコーチなどがいなくとも、一年以上装填の腕を磨いてきている。

それはカエサルがやってきたことに比べて効率で劣るかもしれないが、積み重ねてきた努力はカエサルの幾倍もある。それが力にならないわけがない。

磨いて輝かないものなんてないのだから。

 

その事実が、確かなプレッシャーとなる。

加えて普段は感じることのない、自身が勝敗を分かつというプレッシャー。

この二つの重圧がカエサルの身体を緊張させようとし、あるいは焦燥させようとしている。

それを処理しきれていないのが、カエサルの装填が鈍る理由だ。

これをそのままにしておくわけにはいかない。

排すのか、あるいは―――――

 

『とはいえ機械的にやるのも味気ないだろ?今の戦車と違って人が装填している以上、機械にはできない何かが大きな意味を持つはずなんだ。それこそ、気持ちとかな』

 

カエサルは大きく深呼吸した。

 

そうだ、その通りだ。

感情がカエサルの動きを妨げると言うのなら、その逆。

()()()()()()()()()()()()()()ことだってある。

人も物も感情も環境も、なんでもプラスに変えることはできるはずなんだ。

 

ひなちゃんは強い。カエサルよりほんの少しだけ、確実に前を行っている。

それは認める。その上で、それを糧にする。

火種にして、燃え盛れ。その熱を、力に変えろ。

 

実力を認めても、負けは認めるな。

親友だから。同じ装填手だから。

 

だから、絶対に、絶対に――――――

 

(あぁ――――)

 

そうか、と不意にカエサルは、難しい数学の問題を解いたような気分になった。

これが、()()か。

大洗女子学園の初勝利となった、マジノ女学院との練習試合。

公式戦初勝利となった、聖グロリア―ナに並ぶ強豪校サンダース大付属との一回戦。

そのどちらでも終ぞ味わうことのなかった感覚。

 

マジノ女学院の時は自分たちの力を試すことに夢中で気づかず、サンダースの時は勝つことに必死でそれどころじゃなかった。

けれど今は分かる。

 

これが、この気持ちが――――――――――!!

 

 

 

一方でカルパッチョもまた、カエサルとは別の重圧を感じていた。

カエサルよりキャリアの長いカルパッチョは、その分だけプレッシャーとの付き合い方も心得ている。故にそれが原因で、パフォーマンスが落ちることはない。

 

だがカルパッチョが今感じている重圧は、今まで経験してきたものとは別のもの。

それはいわば、追われる者の重圧、とでも言うべきものだった。

 

(すごいね、たかちゃん)

 

装填の腕は、ほとんど互角。

この一騎討ちで、カルパッチョはそれを悟っていた。

そしてその事実が与えた衝撃は、並みではなかった。

 

(私の方が、ずっと早く始めたのにね)

 

カルパッチョが戦車道を始めたのは一年生の時。

たかちゃんが戦車道を始めたのは、二年生の時。

カルパッチョの方が一年以上先にスタートして、ずっと努力を重ねてきたのに、戦車道を始めて僅か数か月の親友はカルパッチョのすぐ背後にいる。

 

それはとても、素直に受け入れられない事実だった。

だって、それじゃあ今まで自分がやってきたことは何だったというのか。

たくさん頑張って、辛いことも苦しいことも乗り越えてきたカルパッチョの一年は、たった数か月で追いつかれてしまうほどちっぽけなものだったと?

 

そんなのは認められない。

でも、いくらカルパッチョが目を逸らしたって、現実は変わらない。

キャリアでずっと劣る親友と接戦してしまっているという事実は、覆せない。

 

(まさか……)

 

ここまで強いとは思わなかったよ、たかちゃん。

いったいどんな練習をしてきたの。いったいどんな経験をしてきたの。

私はもう、全然余裕がない。

今にも背中を掴みそうな貴女から、背後からすごい勢いで追いかけてくる貴女から逃げるので必死。

今こうやって装填していても、考えられるのはそれだけ。

もう自分がどうやって装填しているかなんてわかりはしない。

 

心を占める感情は、焦りと悔しさ。

でもだからこそ、一層思う。

 

自分がやってきた一年半が無駄じゃないことを証明するために。

そしてそれが貴女を上回っていることを証明するために。

 

カルパッチョは、カルパッチョは―――――――――!!

 

 

 

「「―――――絶対に負けたくない!!!」」

 

 

 

初めて芽生えた感情をそのまま表現するように。

赤熱する意志を互いに感じ取りながら。

初めて出逢った好敵手(ライバル)を前に、獰猛な笑みを浮かべて、二人は吼えた。

 

それが真剣勝負の愉しさということに、まだ気づかないまま。

 

 




死ぬほど負けたくないって思えるっていうのは、幸せな事。

同性の幼馴染設定とか仲良し設定はどうしたってバチバチにやり合う運命だってスポ根では相場が決まっている、多分。



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第32話 「アンツィオと戦いましょう⑤ グラタン

大変長らくお待たせいたしました。
過去最長に最後の投稿(2/14)から間が開いてしまいました。
この一月で本作のことを忘れてしまった人がいるかもしれないので、思い出してもらえるように頑張る所存です。


→前回までのあらすじ
カエサル&カルパッチョ「真剣勝負楽しぃぃぃぃ!!!」
みほ「ピンチだよ!全員集合!」
沙織「できらぁ!」


「――――なるほど、わかった。だがすまない、此方は身動きが取れない。悪いが我々のことは戦力として数えず、そちらだけでなんとかしてほしい」

 

幸運を祈る、そう締めくくりエルヴィンは無線を切断した。

その様子を、装填動作を繰り返しながらも横目で伺っていたカエサルが視線で問う。

それを受けたエルヴィンが厳しい表情をそのままに答えた。

 

「全車に命令が下った。指定の位置に、指定のタイミングで集まれとのことだ……西住隊長が妙案を思いついたのだろう。反撃の時来たれり、だな」

「なっ……だったら我々も行かなければ!」

 

詳細な内容は分からないが、指示から察するにおそらく全体の歩調を合わせなければならない類のもののはず。

ならばその中にあって、カバさんチームだけが単独で動くわけにはいかない。

確かにセモヴェンテとの戦闘で身動きは取れない。だがそれは他のチームだって同じこと。

自分たちだけが特別窮地であるわけではないし、それをどうにか打開してほしい、という西住隊長のメッセージに気づかないエルヴィンではないはずだ。

 

「――――本心か、カエサル」

「――――っ」

 

軍帽の下から、鋭い視線が覗いていた。

怯んだカエサルの隙を突き、エルヴィンは更に言葉を続けた。

 

「お前が本当にそれを望んでいるというのであれば、是非もない。我々も西住隊長の指示に従おう。客観的に見ても、それができるだけの力は我々にある」

 

できない、ではなく。

しない、というのがエルヴィンの取った行動。

 

「だが今のお前には、もっとしたいことがあるんじゃないのか?」

「そ、それは……」

 

否定はできない。

なぜならカエサルの心は、魂は今この状況をこそ何よりも求めているから。

 

けれどそれは、カエサル個人の話。

これがカエサルだけの試合なら、それもいいだろう。

心のままに、この瞬間を味わいつくそう。

 

でもこれは、大洗女子学園というチームの戦いだ。

何よりも優先すべきはチームの勝利であって、個人の愉しみじゃない。

 

「だとしても、私の一人の我儘でチームに迷惑をかけるわけにはいかない」

「正論だな。しかしカエサル、それは正しいだけで最善じゃない」

 

エルヴィンはなおも厳しい顔でいる。

こうして話している間にも、相手はカバさんチームの首を刈ろうとしてくる。

決して気を緩めていい状況ではない。

しかしエルヴィンは、話すことを止めなかった。

 

「我々の付き合いはたかだか一、二年。何から何まで知っているとは到底言えないが、それでもこれだけは言える―――――今のお前は、良い顔をしている」

 

そこで初めて、エルヴィンは僅かに表情を崩した。

口角が、少しだけ上がったのだ。

 

「今お前が戦っているのは友だろう。おそらく我らなどより余程付き合いの長い、それこそ親友と呼べるほどの深い仲の」

「……あぁ」

 

カルパッチョ。ひなちゃん。

カエサルの幼馴染で、唯一無二の存在が、倒すべき相手として眼前にいる。

 

「絶対に勝ちたい。死んでも負けたくない。そう思える相手だ」

「私にはそういった相手がいない。だから今お前の気持ちを推し量ることはできない」

 

けれど、とエルヴィンは言う。

 

「そういう相手と、そんな思いで勝負することができる。それはきっと滅多にない幸運だ。お前はこの先、何度そんな機会に恵まれると思う?今この瞬間を逃して、本当にお前は後悔しないか?」

 

そして遂に、エルヴィンの口が弧を描いた。

 

「安心しろ。お前の為にチームを犠牲にするつもりは毛頭ない。もし仮にお前がそんなことを言い出したなら、我らはお前を殴ってでも止める。この選択は、それなりの道理があってのことだ」

 

ぴん、と指が一つ立ち。

エルヴィンの戦況分析が披露される。

 

「我々が動かなければ、確かに西住隊長の描いた形からは逸れることになる。だが同時に、我々は相手の、たった三両しかない貴重な戦力の内の一つを押さえることができる」

 

すなわちそれは、セモヴェンテである。

何もこの状況は、カバさんチーム達だけを縛るものではない。

同じ制約が、鏡に映したように相手にも掛けられている。

 

セモヴェンテは大洗女子学園の戦車全てに通用する火力を持つ要注意戦車。その一つを身動き取れなくするというのは、十分なメリットだ。カバさんチームが合流できなくなるデメリットを打ち消すには。

 

「だからここは、決して隊長命令を軽んじるわけではないが、どちらを選んでもいい。どちらにも同じ程度のメリットがあるのならな、カエサル――――――少しでも友の為になる方を選ぶさ」

「――――っ」

 

不敵な笑み。

その背後にある、明確なメッセージをカエサルは受け取った。

背中越しでしか見えないが、雰囲気で分かる。他の二人も同じ気持ちだろう。

 

通せる我儘なら、通しておけ。

戦いたいんだろう。

 

あぁ、まったく。

私は、人に恵まれっぱなしだ。

相手にも、味方にも、こんなにも得難い存在がいる。

 

――――――なら、遠慮なく存分にやらせてもらう。

 

万感の思いを、カエサルは必死に押し込めた。

そしてそれすらも、燃ゆる心の薪にする。

 

「礼は言わないぞ」

「いらないさ。その代わり―――――必ず勝て」

「――――上等だ!!」

 

歓喜の笑みは、獣のように猛々しく。

いっそう火は燃え上がる。

 

さぁ、憂いは無くなった。

後はもう、燃え尽きるまで戦うだけだ。

 

三号突撃砲とセモヴェンテ。

カエサルとカルパッチョ。

決して譲れない大一番は、まだまだ白熱の様相を見せている。

 

 

 

「カバさんは合流できない」

 

二つの場所で、その言葉は同時に呟かれた。

一つは、四号戦車の車内、通信手席にて。

もう一つは、試合観戦席から遠く離れたとある場所で。

方や計算式の変更を余儀なくする変数として。

方やただの些細な事実として。

女と男の口から、呟かれた。

 

「うーん、となると……こっちをこうしてあっちをこうして……」

「大丈夫?沙織さん」

「―――うん、大丈夫!任せといて!」

 

「仕方ないな。状況が許さないことだってある」

「いいの?戦車道は、ほんの少しの綻びから呆気なく勝負が決まるわよ?」

「アレが本当に綻びなら、ね」

 

 

「これくらいならへっちゃらだから!」

「あんまり武部を甘く見ないでくださいよ」

 

 

通信手とは、戦車道において直接戦闘に関わる役職ではない。

攻撃の主役である砲手、その生命線である装填手。

戦車の制御を一手に担う操縦手。

そしてそれら全てを統括する車長。

そのどれもが、例えば目の前に相手戦車がいる時、決して欠かすことのできない働きをする。

 

その中にあって通信手は、そこに一切関与しない。

もちろん機銃を撃つ機会などもあるから、全く戦わないというわけではない。

だからこれは、本質の話。

 

通信手の、通信手にしかできない役目とは何か。

それはひとえに、コミュニケーションの要となること。

人と人とを繋ぐ、架け橋であることだ。

 

そして神栖渡里は、それをこそ何よりも重視した。

 

大洗女子学園に与えられた、あまりにも短すぎる時間に対して、渡里がいくら複数箇所を同時に鍛える効率の良い練習を行っても、絶対的に時間が足りない。

ゆえに渡里は、取捨選択をしなければならなかった。

 

戦車道に必要な能力、勝つために必要な技術。

いくつもあるその中から、本当に必要なものだけを選び、それを集中して伸ばす。

 

結果として当然、できることとできないことが発生してしまうが、そんなことは言い出したらキリがない。

それよりも大事なのは、一つのことを何よりもできること。

 

そして神栖渡里が通信手たちに特化させたものこそが、連携の中心になることだった。

 

「思考の言語化は、あくまでチーム全体の意思疎通を円滑にするためのもの。通信手は更にその上の段階に進まなければならない」

 

発信力と受信力。これは通信手のみならず、他の誰もが身につけておかなければならないもの。もちろん通信手たちには人一倍優れていてほしいが、それより渡里が求めたものは、

 

「戦場に数多存在し、刻一刻と変化する情報。それを総て捉え、捌くこと」

 

もし一両の戦車の意思疎通が滞れば、その戦車はチームから孤立する。

それと同じく、戦場の潮流を読み損ねたものは、戦場から孤立する。

前者は遊兵を生み、後者は主導権争いから弾かれる。

そうなれば勝利など、夢のまた夢だ。

それらを防ぐ役割を一身に担っているのが通信手だと、渡里は考えている。

 

「特に武部は隊長車の通信手ですからね。求められることは他の通信手より多いけど、その分アイツの、情報を捌く能力はみほにも並ぶ」

 

そしてそれは、車長をアシストする力になる。

武部沙織は、神栖渡里とのマンツーマン特訓をこなしてきた。

鬼のように厳しい特訓だった。けれどそれに必死になって食らいつき、その知識を、技を、全てを吸収しようとした日々の成果が、何も無いわけがないのだ。

 

「ウサギさんチーム、北東へ方向転換をお願いします。速度はそのままを維持で」

「アヒルさんチーム動けませんか?わかりました。そのまま撃破をされないことを最優先で交戦を続けてください」

「カメさんチーム周囲に相手の姿はなし……なら合流地点を変更して……」

 

洪水のように押し寄せる通信。

それをそのまま車長(みほ)に渡すと、チームで一番大事な頭脳がパンクする。

だから武部沙織は、それを切り分ける堤となる。

 

諜報の網を張り、捉えたものは全部吸収して、要るものと要らないものに別けろ。

そうしたら次は紡ぎ合わせる。断片的な情報を幾重にも繋げて、一つの像を結べ。

点で見るな、線で感じろ。

戦場の全ては連動しているんだ。それを掴めば、武部沙織は戦場を調律できる。

 

目標地点に順調に向かっている戦車。

足止めを食らって遅れている戦車。

そもそもの距離が遠い戦車。

動かなくてもいい戦車。

一方はわざと遅くして、一方はその分急がせて。

速度の調節が効かないなら目標地点を再設定して。

倒されてはいけない戦車(フラッグ車)の進路と周りの安全には常に気を払って。

 

―――決して誰も置き去りにするな。

 

ホワイトボードの上をペンが躍る。

情報を書き加え、消して、修正して、また足して。

それを何度も繰り返し、それでいて精度は絶対に落とさない。

武部沙織の処理能力は、それを許さない。

 

無線機を忙しなく動かしながら、並列で思考の歯車を回す。

ちょっと前ならあえなくオーバーヒートするような負荷にも、今は耐えられる。

耐えられる分の余裕で、沙織は少しだけ過去を振り返った。

 

――――あの人の話のよると。

 

隊長車に乗る一流の通信手、それも飛びぬけて優れた通信手は、一つのシステムを構築している。

それがどういうものかを、具体的に説明することはできない。

ただそのシステムが機能することによって、チーム全体がまるで一つの糸で繋がっているように綺麗に動くという。

そういうのが強いチームだと、あの人は言った。

そしてそういう通信手がたくさんいることが理想だと、重ねて言った。

 

 

――――今の私には、そこまではできないけど。

 

 

「麻子、直進!思い切り加速して!!」

 

 

それでも、何もできないわけではなかった。

今の沙織は、みほの意を汲むことができる。

話を聞いて、みほが思い描く戦術の形と、そこに至る過程を想像することができる。

 

この差はとてつもなく大きい。

今、自分がしていることは何なのか。

立ち位置はどこか。意味はなにか。

それを理解しているといないとでは、圧倒的にパフォーマンスが変わるからだ。

 

言われたことは確実に行う、というのは勿論大切だ。

けどそれ以上に大切なのは、そこからほんの少しでも想像の翼をはためかすこと。

そうすれば人は、「自分で考える」という自由を手にできる。

 

神栖渡里に師事し、通信手としての技術以上に、戦車道への理解を深めた沙織は、正しくその自由を得ていた。

 

グン、と加速していく四号戦車を、三両の戦車が留めようとする。

三方向から相手戦車を抑え、自由を奪うのがアンツィオの基本陣形。

しかしそれは、もう通用しなかった。

 

なぜなら四号戦車の向かう先。

そこにあったのは、たった一両の戦車しか通る事の叶わない狭い道だったから。

 

『やば、間に合わな――――』

「一歩、遅かったな」

 

CV33が四号戦車の頭を押さえるよりも早く、四号戦車は狭道へと入る。

それを許してしまえば、アンツィオはもう四号戦車の後ろに付くしかなくなる。

それも横一列じゃなく、縦一列に三両だ。セモヴェンテではなくCV33が列の先頭になった時点で、いやそうでなくてもこの道に入った時点で、二両は遊兵化を余儀なくされる。

後ろの二両は、先頭の一両が邪魔で攻撃ができなくなるからだ。

 

一方で事前にこうなることを知っていた四号戦車は、既に砲塔を進行方向とは真逆に向けていた。

CV33の豆鉄砲では四号戦車の装甲を削ることはできないが、四号戦車の短砲身はアンツィオの戦車を屠るには十分な威力を持っている。

 

「撃て!」

「―――!」

 

そして容赦なく、砲撃は放たれる。

 

動きながらの砲撃とはいえ、左右に自由の効かない狭い道だ。

どれだけ機動力があっても、できるのは精々前後の移動だけ。

そんな鈍い相手なら、華の腕を以てすれば外すほうが難しいくらいだ。

 

衝撃をいなすスペースが無い以上、弾を食らったアンツィオの戦車はあえなく吹っ飛ぶしかない。

最後尾にいたCV33が弾の直撃で横転し、陣形から離脱。

そしてそのまま、あえなく白旗を掲げる。

 

それを受けて残りの二両は、状況の不利を悟ったのかはたまた別の理由か、速度を落として四号から離れていく。

 

そうして彼我の距離が空く。

アンツィオの機動力を以てすればすぐに詰められる距離。

しかしみほ達が手を打つには十分すぎる時間をくれる距離だった。

 

「―――抜けた!」

 

そして狭き道を抜け、視界が一気に広がる。

同時、無線から声が響く。

 

『こちらアヒル!!目標地点まで残り100メートル!!』

『ウサギチームももうすぐ着きます!!』

『みんなお疲れー』

 

それは久方ぶりの再会を告げる知らせ。

アンツィオ高校によってバラバラにされた大洗女子学園が、再び紡ぎ合わさる音だった。

 

 

「―――見違えたわね」

 

蝶野の声は、感嘆の意が込められていた。

すると不思議と、渡里は胸がすくような気持ちになった。

 

「全車の位置、状況、そして地形。それら全てを考慮して、最適な合流地点とそこに着くまでのルートを作る。それも一両だけじゃなく、四両が同時に到着するように調整して……まさかあんな小さな道まで把握してるなんてね」

 

それが口で言うほど簡単なことではないことを、二人は知っていた。

今ではGPSなんかがあるから、造作もないことかもしれない。

けれど武部沙織は、現代の機械が出す精度を、己の思考一つで成し遂げた。

それは間違いなく、驚嘆に値することだ。

 

「それだけじゃないですけどね」

 

首を傾げた蝶野に、渡里は自分には見えているものが彼女には見えていないことを悟った。

 

確かにそれだけでも、十分凄いことだ。

でも渡里としては、それは決して尋常ならざることじゃない。

沙織の力を以てすれば、全車を完全に制御することは不可能じゃない。

 

それよりも渡里が沙織を褒めたいことは別にあるのだ。

 

答えを問い質すような視線。

しかし渡里は、それに応えるのは自分ではないことを知っていた。

 

途端。

 

『わぷっ』

『な、なにこれっ』

『見えねぇ!!』

 

突如として、アンツィオは濃霧が襲った。

それは瞬く間に拡散し、一瞬で戦車を包み、そして彼女たちの視覚を奪う。

彼女たちには、それはあまりにも唐突で奇怪な現象だったに違いない。

しかし外から見ている者には、あまりにも単純なことだった。

 

「煙幕…」

 

蝶野の言うことが、そのまま正解だった。

大洗女子学園の戦車、その車体後部に付けられた発煙筒が撒き散らす白煙が、濃霧の正体。

それが大洗女子の戦車の軌跡をなぞり、覆い隠したのだ。

 

「アンツィオを引きずったまま合流すれば、向こうの戦力も集めてしまう。かといって機動力で劣る以上、普通に引き離すのは無理」

 

なら、普通じゃない手を使うしかない。

合流地点のほんの手前。そこで煙幕を吐き、アンツィオの視界を一瞬奪う。

そしてその隙に、

 

「方向転換します!全車、あんこうについて来てください!!」

 

集合し、切り返し、全速力で振り切る。

沙織の通信の元、あんこう、アヒル、ウサギの三両は、それぞれに張り付いていたアンツィオを振り払い、横一列で疾走した。

 

これこそが、西住みほが思い描いた形。

そして武部沙織が書き上げた形。

大洗女子学園の反撃、その幕開けであることを、渡里は感じ取っていた。

 

「単純に全車を集めるだけなら簡単なんだ。本当に難しいのは、それをどういう形で実現させるか」

 

ただ()()なルートを選べばいいというわけじゃない。

大前提としてみほの立てた作戦があって、沙織はそこに沿う形でルート選択を行わなければならない。

 

「アンツィオを振り切る。そのために煙幕を使う。けど至近距離で食いつかれていると煙幕は意味がない。ならどうにかして、一瞬だけでも距離を空けないといけない」

 

それを沙織は想像できていた。

理解していたからこそ、あの道を見つけることができた。

アンツィオの虚を突き、隙を作る道を。

みほの作戦へと繋がる道を。

 

他の通信手と同じように練習していては、きっと見つからなかった。

だってそれは、通信手の技能の延長線上ではなく、外側にあるものだったから。

 

沙織が、仲間のためにできることはなんでもしたい、と思い、更に向こう側を求めたからこそ、沙織の眼は隊長(みほ)と同じものを見ることができるようになった。

 

それこそが隊長車の通信手に必要なもの。

隊長の意を汲み、共有し、戦場の潮流さえも読み取る俯瞰の瞳。

 

すなわち―――――戦術眼。

 

 

「やりました!アンツィオを振り切りました!」

「いいルート選択だ、沙織」

「沙織さんかっこいいです!」

「でしょ!?私結構すごくない!?」

 

四号戦車の車内で、歓声が上がった。

思考の歯車をフル回転させながら、みほは「すごすぎだよ」と内心で沙織を褒め称えた。

 

正直無茶な注文だと思っていた。

決して沙織の実力を軽く見るわけじゃないが、熟練の通信手でも難しいことだと思っていたから。

だから完璧は求めない。そこそこでいいからやってくれたら、後は自分でどうにかしようとみほは考えていたが……沙織は余裕でその上を行った。

 

もう本当に、文句なしの百点満点である。

みほが思い描いていた理想の形そのものの状況が、今目の前にある。

 

(あとで謝らないと……)

 

みほは固く心に誓った。

本当は今すぐにでも謝らないといけないが、どうにも状況がそれを許してくれなさそうである。

 

沙織のおかげで流れは変わった。

押され気味だった戦況は僅かに色を変え、勝利へと続く追い風が、大洗女子に吹きつつある。

 

ならば、後はその風を摑んで往くだけ。

それが、今みほに課せられた役目だ。

 

沙織が百点満点の働きをした以上、そのバトンを受け取った自分が半端な真似をするわけにはいかない。

 

強い意志の元、みほは思考と眼を研ぎ澄ます。

その頭の中には既に勝利へのビジョンが描かれていた。

 

そして、とある男の頭の中にも同じものが。

 

「これで振り出し、かしら?」

「―――じゃないでしょ」

 

視線を感じた渡里は、そのまま言葉を重ねた。

なんでこの人に一々解説してやらねばならないのか、果たして渡里には分からない。

 

「武部がいれば、全車の散開・集合は自在だ。つまりみほ達は、好きな場所に好きなタイミングで戦車を展開できる」

 

それは今、正に彼女たちが証明している。

なら、もうほとんど結末は見えている。

 

「そしてみほは、相手のフラッグ車が自分たちのフラッグ車を狙っていることに気づいてる。だったら後は簡単だ。相手のフラッグ車が来たところを、囲んで叩けばいい」

 

この際フラッグ車は餌だ。

ゆらゆらと水中を漂う、針も何もついていないただの餌。

 

それを相手が食らおうと近寄ってきたところに、網を掛ければいい。

そうすれば後は煮るなり焼くなり、だ。

 

「それができれば理想ね」

 

蝶野の声色に、半分ほど懐疑の色が混じっていることを渡里は敏感な感じ取った。

確かに、渡里の言う通りに事が進めば、こんなに美味しい話はない。

しかし往々にして、そうそう上手くいかないのが戦車道だと、彼女は知っているのだろう。

けれど、

 

「行きますよ」

 

断じた渡里に、蝶野の視線が刺さる。

説明を要求されているのだろう。

けれど渡里には、生憎一から十まで説明してあげる甲斐性はない。

 

だからここは、簡潔に言おう。

 

「風向きが変わりましたから」

 

伝わるだろうか、いや伝わらないだろう。

何一つ具体性を持たないこんな説明で、理解できる人がいるものか。

 

でも渡里は、それを悪びれることはなかった。

だってすぐに、渡里の言葉の真意を、みほ達が身を以て証明してくれるはずだから。

だから自分はただ待っているだけでいいのだ。

 

「……相変わらず、なんでもよく見える眼ね」

 

褒められているはずなのに、不思議とそう感じない自分がいることを、渡里は奇妙に思った。

この人以外の誰かに言われたなら、果たして素直に言葉を受け取る事ができたのだろうか。

 

そんなことを考えながら、渡里は戦場に目を向けた。

その視線の先には、まるで吸い寄せられるように大洗女子学園のフラッグ車に迫るP40の姿がある。

もう間もなく、あの戦車から白旗が上がり、試合は終幕を迎える。

 

渡里の眼にははっきりと見えるそのビジョン。

それが蝶野には見えていないことを、そして誰にでも見えるものではないことを、渡里は改めて悟った。

 

 

 

順調だ。

これ以上なく、上手く試合が運んでいる。

 

新たな愛馬P40を駆り、風を切って走るアンチョビは、そう思った。

その視線の先には、青い旗を掲げた小さな戦車の姿。

 

あれこそがアンチョビが探し求めたもの。

この試合の勝敗を握る、大洗女子学園のフラッグ車である。

 

流れは、完全に此方にあるとアンチョビは確信した。

フラッグ車をどれだけ早く捕捉できるか、それがアンチョビの最大の懸念だったのだ。

 

コンパス作戦は全ての戦車が激しく入り乱れるため、例えフラッグ車の位置が分かっていても作戦が始まった瞬間には、情報が錯綜してフラッグ車を見失ってしまう。

特に今回は相手もフラッグ車を逃そうとしていたから、尚更。

 

だからアンチョビは、作戦が始まる直前の大洗女子学園の戦車の配置から、フラッグ車の行方を追うしかない。

それは常に変化する戦場において、あまりにも賞味期限が過ぎた情報だ。信頼性が低くて、普通なら使い物にならない。

 

だからここは、正直賭けだった。

フラッグ車を見つけるまでの時間が長いか短いかで、その後の展開は180度変わる。

 

けれどアンチョビは、その賭けに勝った。

大洗女子学園の分断、そこからのフラッグ車への奇襲。

コンパス作戦は、この上なく綺麗に成功したと言えるだろう。

 

(いやいや、落ち着け私。フラッグ車を仕留めるまでが作戦だぞ!)

 

ちょっとフライングした自分を、アンチョビは諫めた。

まだ安心するには早すぎる。

迂闊にも目の前を悠然と走るあのフラッグ車を撃破するまでは、決して自分を許すな。

 

「よし、行くぞ。背後にこっそり回って、一撃で仕留めるんだ」

 

隊長の指示を受けて、P40は走り始める。

火力的には側面からでも十分撃破できるが、ここは確実性を取る。

こっそり、息を潜めて、慎重にP40寝首を掻こうと38tに迫る。

 

『くっそーー!!』

「ひゃっ!?な、なんだペパロニ、無線で叫ぶな!びっくりするだろ!」

 

突如として咆哮が響き渡る。

あまりの事にビックーッと両肩を震わせてしまったアンチョビは、別に誰に見られているわけでもなかったが羞恥で頬を染めた。

 

『すいませんドゥーチェ!なんか煙吐かれて振り切られたっす!』

「はぁ?煙?」

 

なんだそりゃ、とアンチョビは首を傾げた。

 

『多分煙幕っす!』

「煙幕?」

 

ははぁ、なるほど。それを使ってウチの戦車達を振り切ったと。

そんな手も用意していたとは、やはり素人の集まりとはいえ侮れない。

しかし西住流にしては、随分奇抜な手を使う。先のサンダースとの一回戦の試合映像も見たが、どうにもアンチョビの中の西住流のイメージと重ならない部分がある。

 

まぁ、事ここに至れば些細な疑問だし、振り切られたのも同じく些細な事だ。

 

「わかった、相手の場所は?」

『分からないっす!!』

「じゃあ走り回って索敵だ!他の戦車と連携して網を広げろ!」

 

果たしてどういう経緯なのかは不明だが、そんなこと今はどうでもいい。

今は勝ちが目の前に転がってるんだ。なによりもそれだけが大事だ。

 

『了解っす!おいてめーら、行くぞー!』

「あ、ちょっと待てペパロニ!お前今どこだ!」

 

些事とはいえ、状況把握を怠るわけにはいかない。

切りかけた無線を慌てて繋ぎ直し、アンチョビはペパロニに問うた。

作戦の絵図を描いたのはアンチョビだから、ある程度全車の位置は把握しているが、とりあえずアップデートはしておこう。

 

そんな、言ってしまえば軽い気持ちで聞いた自分を、アンチョビはすぐに後悔することになる。

 

『えーと、地図地図……ここがこうであっちがあぁだから……S61っす!』

「S61だな――――――はぁ!!??」

『うわぁ!?ドゥーチェ、声がおっきいすよ!』

 

ちょっと待て、とアンチョビは地図を取り出し、情報を照合する。

そして一瞬で、心拍が急上昇した。

焦燥を隠すこともなく、アンチョビは声を飛ばす。

 

「おいお前達!!それぞれの現在位置を報告しろ!」

『ええ?Sの44ですけど』

『S57でーす!』

「ーーーーしまった!!??」

 

悲鳴が上がった。

 

まずい、まずいまずいまずいまずい!

嫌な予想がばっちり的中した。してしまった。

 

地図を見ながらアンチョビは目を剥いた。

全車の位置、そして相手フラッグ車の位置。

それら全てが、()()()()()()()()()()――――――!!

 

それが何を意味しているのか、アンチョビは一瞬で悟った。

 

「おい!急いでフラッグ車を仕留めるぞ!!」

「了解!」

 

指示を受け、P40が急加速する。

履帯が激しく地をえぐり、けたたましい音が響くがそんなことを気にしている場合ではない。

 

慣性で後ろに吹っ飛びそうになるのを堪えながら、アンチョビは必死にフラッグ車の姿を追った。

 

(作戦が見破られた?あるいは偶々か!?)

 

味方が近くにいること自体は、普通ならそんなに問題じゃない。

寧ろいつでも合流ができる分、良いことですらある。

 

でも今この時だけは、そうじゃない。

だってそれは、アンチョビの書いた絵じゃない。

コンパス作戦は、()()()()()()()()()()()()()()()()

アンチョビの近くにフラッグ車以外の戦車があっていい作戦ではない。

 

それが崩れたと言う事は――――

 

「捉えました!」

「!よし、砲撃用意―――」

 

なんとしても速く、何よりも速くフラッグ車を撃破しなければならない。

そんな強い意志が、時として好機を招き―――――

 

 

(間に合っ――――)

 

 

表裏一体の窮地を呼ぶ。

 

「――――――」

 

アンチョビの背筋を、冷たいものが駆け上がっていった。

戦車に乗っていると、不思議と五感が研ぎ澄まされ、普段は感じ取れないようなものもはっきりと知覚できるようになったりする。

 

この時アンチョビは、正にそういう状態だった。

そしてそれが故に、一瞬で理解した。

 

 

自分が、相手の罠の中に飛び込んでしまったことを。

 

 

自分達のものではないエンジン音が、四つ聞こえる。

そして照準器の奥から覗く、狩人の視線を感じた。

 

あぁ、間違いない。

アンチョビは確信した。

 

「止まれっっ!!」

 

――――狙われている。

 

アンチョビの絶叫と砲撃音が、ほぼ同時に響く。

戦車のブレーキと着弾は、僅かに前者の方が早かった。

 

P40のほんのすぐ隣の大地を、砲弾が抉る。

それも一つではない。瞬く間に、連なるようにして砲弾がアンチョビに降り注いだ。

 

そんな中にあって、まともに動くことさえ許されなかったP40が僅かな負傷で済んだのは、おそらく奇跡だったに違いない。

雨が止み、ようやく周囲を見渡すことを許されたアンチョビが目にしたのは、木々の合間から此方に砲身を突きつける、大洗女子学園の戦車の姿だった。

 

(囲まれた……!!)

 

散らしたはずの大洗女子学園の戦車、それが成す籠の中に自分は閉じ込められた。

 

半ば信じられない気持ちだった。

戦場は、間違いなく自分がコントロールしていた。

相手のフラッグ車を孤立させ、そこを狙うというコンパス作戦も、読まれてはいなかったはずだ。

いやあるいは、読まれていたのか。

全て見抜いた上で、あえて自分の策に乗り、掌で踊らされているように見せかけてアンチョビの隙を突くつもりだったのか。

 

 

 

答え合わせをするならば、それはどれも誤りだ。

この状況を招いたのは、なんてことのないもの。

抽象的で、非科学的だ、存在しているかどうかも曖昧で、だからこそ時としてあまりにも残酷なもの。

 

すなわち、偶然である。

 

本当に、偶々だった。

みほ達がアンツィオを振り切り、フラッグ車の元に集まろうとしたその時点で、たまたまアンチョビがフラッグ車を見つけてしまった。

そして自分達が狙われていることに気づいたカメさんチームの報告に伴い、この包囲が形成された。

カメさんチームは時間差を付けられただけで、最初からみほ達と合流することになっていたため、当然両者の距離はそう離れたものじゃない。

 

アンチョビがカメに追いつく時間で、十分みほ達はアンチョビを捕まえる()を作れた。

他の通信手ならいざ知らず、武部沙織が全体の意思疎通を図っている以上、それくらいの事は容易にできる。

 

もし、アンチョビがカメさんチームを見つけるのが遅かったなら

あるいは、みほ達がCV33やセモヴェンテを振り切るのが少しでも早かったなら。

少しでも何かの歯車がズレていたなら、この事態は決して起こり得なかった。

 

それでもそうなってしまった理由を、あえて言うのなら。

 

()()()()()()、と言うしかないのだろう。

人によっては、『流れが悪かった』と言うかもしれない。

 

とにかくアンチョビの窮地を招いたのは、そんな不確かなものだ。

何かミスを犯したわけじゃなく、ただ運が悪かっただけ。

それだけで、勝敗の天秤が一気に傾いた。

 

非情だろう。けれど、それが戦車道であり、勝負の世界なのだ。

 

緻密な計算も、巧妙な策も、卓越した技術も、何もかもを台無しにしてしまう強大な力。

誰のものにもならず、それでいて誰もに祝福を施す、気まぐれな女神。

その女神が、たまたま今は大洗女子学園に微笑んだ。

これは、それだけの話だ。

 

あるいはそういう()()()()()()が、西住みほにはあった、という話かもしれないが。

 

 

 

当然そんなこと露知らぬアンチョビ。

疑心が暗鬼を呼び、暗鬼が疑心を育てる。

彼女の思考は、マイナス方向のスパイラルに陥った。

 

しかし時間の神は、そんなことお構いなしである。

窮地は最終ラインを越え、致命へと至ろうとしていた。

 

砲弾の雨が、またもやアンチョビを襲おうとしている。

アンチョビはそれを肌で感じ取り、そしてその先の結末を見た。

すなわち、敗北の二文字である。

 

「―――――――」

 

そしてその二文字が突き付けられる刹那の前、アンチョビの意識は時を逆行した。

 

景色は瞬く間に変わり、アンチョビは母校の姿を幻視する。

漠然とアンチョビは、自分が走馬燈を見ているのだと思った。

 

 



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第33話 「アンツィオと戦いましょう⑥ パンナコッタ

本当は一つの話を長すぎてぶった切った後半になります。

原作ではアンチョビ入学時点で数名受講者がいたそうですが、本作ではストーリーの展開上面倒だったのでゼロにしときました()。

原作にはなくOVAだったアンツィオ戦に三か月くらいの時間をかけて投稿することになったのは、とあるシーンを書きたかったからでした。

反省点としては、長すぎて分かりづらい構成になってしまったこと。
これに関しては読んで下さる方々に申し訳ないと思っております。


アンチョビこと安斎千代美は、中学時代から戦車道を嗜む乙女だった。

キッカケは余りにも普通で、家柄がどうとかいうこともなく、ただ興味があったから始めてみただけ。

一回やってみたら、これが存外面白くて、ずっと続けるようになった。

 

そんな、本当に普通な戦車道人生が、安斎千代美の中学時代だった。

 

そして特に目立った成績を残すわけでもなく、中学三年の最後の大会もそこそこな結果で終え、進路を考える時がやってきた。

 

戦車道を辞めるつもりは、これっぽっもなかった。

だから高校は戦車道があるところが良かったし、幸いにも選択肢は多かった。

 

ただ問題は、どこの学校を選ぶかだった。

それはまさに、安斎千代美の戦車道における分岐点。

 

ただ戦車道を続けるだけなら、自分の学力でも狙えて、自分の気質にあった風土の学校に進む道を選べばいい。

自分の力がどこまで通用するのかを試したいというのであれば、全国屈指の強豪校に入る道を選べばいい。

 

安斎千代美は、後者を()()()()()()

 

全国大会で優勝できるような強い学校は、四つ。

黒森峰女学園、サンダース大付属高校、聖グロリア―ナ女学院、プラウダ高校。

その内のどれかに入れば、高校三年間を戦車道に捧げる代わりに、誰もが憧れる頂点に立てるかもしれない。

 

千代美にも、当然()()()はあった。

戦車道を嗜む者全ての願いである、真紅の旗をこの手に掴むという夢が。

 

けれどふと、思ってしまった。

果たして自分なんかが、そんな強豪校に入って戦車道を続けられるだろうか、と。

 

どの学校も、自分なんかが霞むほどの実力者たちの集まりだ。

入学生にしたって、全国に名の知れた有望株が溢れかえるくらいにいる。

そしてそういう人間が、例え血の滲むような努力を重ねても試合に出れないことが、当たり前のように起きる世界。

 

そんな厳しい世界において、自分が通用するだろうか。

飛びぬけた才能も、実績も、何もなく、どこまでも普通でしかない自分が。

 

――――そんなに、甘くないに決まっている。

 

そして安斎千代美は、アンツィオ高校に進学することになった。

戦車道が、これっぽっちも盛んではない高校だ。

 

なぜそんな学校を選んだのか。

理由は、一つ。

 

『アンツィオ高校の戦車道を、強くしてほしい』。

 

そんな誘いが、突如千代美の元にやってきたからだ。

思えばそれは、救いの手だった。

 

『何もない所から、一から築いて、頂点に立つ』。

 

全国大会で優勝したいと思いつつも、強豪校でやっていく自信はなく、かといって夢を捨てることもできない。

そんな中途半端な自分を慰めてくれるには、その言葉はあまりにも甘美すぎた。

 

だって見栄を張れるじゃないか。

「自分は用意されたレールを歩くのではなく、自ら険しい道を切り拓いて行きたいのだ」と。

 

あぁ、なんてカッコいい()()()だろう。

やるだけやってダメでも、恰好がつく。

あまつさえ誰もが千代美のことを、英雄のように見てくれるだろう。

本当は、ただの臆病な意気地なしだというのに。

 

何が険しい道だ。

誰よりも、何よりも自分に甘いだけの、楽な道だよそれは。

 

けれど千代美は、その道を選んだ。選んでしまった。

それが一番、自分に優しい道だったから。

 

そして高校一年の春。

千代美は、現実を知った。

 

六割の意気と四割の後ろめたさでアンツィオ高校の地を踏んだ彼女。

その視線の先に、戦車はおろか受講者の姿さえもなかった。

そう、アンツィオ高校には戦車道がなかったのだ。

 

そしてその時、千代美はようやく理解した。

楽な道なんて、本当はどこにもないということを。

 

一から、いや零から築き上げていく。

道なき道を、己の力のみで拓いていく。

 

それは言葉にすれば目映いものだ。

けれど実際に行うとなれば、これほど過酷なものもない。

導いてくれる人も、寄り添ってくれる人もなく、ただ独り火を灯して暗き道を行くのだから。

 

「スカウトされて来たのだから、周りは自分よりレベルの低い戦車乗りだけだろう」。

あぁ、なんて甘い考えだったのだろう。

そこでなら()()()じゃなく、()()()()()()()()()になることができると思っていた自分を、殴ってやりたい。

 

けどもう、時間の針は巻き戻せない。

安斎千代美は、この何もない学校で、独りで戦車道をやり続けなければならない。

 

一年目は、誰も戦車道をやってくれなかった。

そりゃそうだ、なんせ戦車が無い。

アンツィオにあったのは、錆とカビと共生するボロボロの、それも旧式で貧弱な戦車が二両。

試合なんて到底できない。

だから、と戦車の購入を頼んでみても、「今は金が無い」と言われてあえなく撃沈。

 

練習をしようにも、一人じゃ戦車は動かせない。

結局、露店を開いて少しでもお金を稼ぎ、合間に戦術の勉強をするだけの毎日を過ごした。

 

辛い日々だった。自分は正しい選択をしたのか、と疑わない日ははなかった。

ちゃんとした学校に行っていれば、もっとマシだったかもしれないと、そう思わずにはいられなかった。

 

それでも心に灯はあった。

全国大会に出場し、真紅の旗を勝ち取る。

すっかり遠き理想になってしまったその夢だけが、ギリギリの所で千代美を支えてくれたから、なんとか歩き続けることができた。

 

そして二年目。

そんな風にボロボロだった千代美を、変えてくれる出逢いがあった。

言わずもがな、今の仲間たちである。

 

死ぬ気で勧誘したお蔭で受講者、ペパロニやカルパッチョ達が入ってきてくれた。

あいにく経験者はいなかったけど、一緒に進んでくれる仲間という存在は、千代美の心を救ってくれた。

灰色の世界が、一気に色づいたんだ。

 

そして向かい風は止み、追い風が吹く。

 

以前から嘆願していた甲斐あってか、学校側が十分な数の戦車を揃えてくれたのだ……まぁ、スペック的にそんなに優秀じゃないイタリア戦車ばかりだったけれど。

それでもようやく試合をすることも、大会に出ることもできるようになった。

 

今までに比べれば、遥かにマシだった。

とにかく幸せを噛み締めるように、毎日練習して、たくさん試合をした。

 

けれど結果は惨敗ばかりで、到底優勝なんてできっこない有様。

経験者はほとんどいないし、戦車のスペックも低いとなれば、それは勝てる方が不思議だ。

 

でもそれは別に、いや良くはないけど、良かった。

ただ千代美の心配は、こんなに負けてばっかりで、皆がやる気を失くして止めちゃわないか、ということだった。

だってそうだろう。誰だって、負けるのは嫌だ。勝たなきゃ、何にも楽しくない。

 

自分の力不足で辛い思いをさせていないか、それだけが気がかりだった。

折角できた仲間を失うことは、千代美にとって何よりも悲しいことだったから。

 

でも皆は、そんな千代美の心配をよそに、笑いながら「次は勝ちましょう」なんて言うから、千代美は心に決めたのだ。

 

 

絶対に、戦車道を選んだことを後悔させない、と。

 

 

そして彼女は、安斎千代美は、アンツィオ高校の戦車道を統べる者、統帥(ドゥーチェ)・アンチョビになった。

 

強気で、不遜で、高い志と実力を持ち、負ける事なんて微塵も考えずチームを引っ張る、そんなカリスマに溢れた指導者の仮面を、千代美は被り続ける。

全ては自分を救ってくれた、仲間たちのために。

 

弱くて、勇気もなくて、ただ辛い思いをしたくなかっただけの自分を、ひた隠しにして。

安斎千代美は、アンチョビとして、チームを率いる。

 

そして一つでも多く勝つ。

勝利の美酒の味を、少しでも多く味わわせてやる。

日本一という栄冠を、与えてやる。

 

それが嘘つきな自分を慕ってくれる彼女たちへの、たった一つの恩返しだから。

 

けど、

 

(ここまで、か……)

 

どうやらそれは、叶いそうにない。

このすぐ後、自分はあえなく撃破され、アンツィオの敗北が決まる。

掲げた夢も、今までの努力も、これで全部お終い。

 

(……ごめんな、お前達)

 

ごめんね、皆。

 

もっと私が強かったら。

戦術一つで弱いチームを勝たせた、神栖渡里(あの人)のように。

仮面なんて被らなくてもいいくらいに強ければ。

きっともっと勝たせてあげられたのに。

 

日本一にさせてあげられたかもしれないのに。

 

(いや、無理か……口では優勝優勝と言いながら……他でもない私が、それを信じていないんだからな)

 

結局、そこがアンチョビ(千代美)の器の限界だった、というわけか。

 

『――――――――!!!』

 

あぁ、応えたかった。

 

『―――――――ェ!!』

 

こんな私を慕ってくれた、あの子達に。

その期待に、応えてあげたかった。

 

『――――――チェ!!!』

 

この声を、裏切りたくなかったなぁ。

 

『ドゥーチェーーーーーーっっっ!!!』

 

瞬間、轟雷の如き声が、アンチョビを呼び起こした。

 

「ペパロニ!?」

「ドゥーチェ、大丈夫っすか!!??」

 

視線の先、そこには大洗女子学園の戦車を、文字通り身体を張って止める、何よりも大切な後輩の姿があった。

 

「お前、なんで……」

「いやー、ドゥーチェがなんか危なそうだったんで、慌てて駆けつけたっす!!」

 

ギリギリと、装甲が削れ合う音がする。

小さなタンケッテがエンジンをフルスロットルで回し、一回りくらい大きな相手の戦車を真正面から止めている。

お蔭で完全に籠の中に閉じ込められるその一歩手前で、包囲の完成を防がれている。

 

「ちなみに皆もいるっすよ!!」

『ドゥーチェ!!』

『間に合ったーー!』

『マジギリギリだった』

 

そして鉄塊が群れを成して、意気揚々と現れる。

そこかしこから湧き出て、そして一目散に相手の戦車へと食らいつく。

技術も作戦もない、ただの体当たりで、それでも自分よりも大きな相手に、真正面から立ち向かっていく。

 

「む、無茶をするな!!怪我でもしたら……」

 

タンケッテの重量は僅か3.2t、セモヴェンテも15tを越えない軽量級戦車。

それに比べて相手の戦車は八九式以外20tを越える中量級。八九式にしたってタンケッテの約四倍はある。

そんな重量差で押し相撲なんて、勝てるわけがない。どころか吹っ飛ばれされて、危険な目に遭うかもしれない。

 

「無茶でもなんでもいいっす!!」

 

だというのに彼女たちは、一向に歩みを止めようとしなかった。

 

「ウチらは姐さんと一緒に優勝するって、約束したんすから!」

「っ!!」

 

真っ直ぐな言葉が、胸を打った

それはかつてアンチョビがペパロニ達に言った、大きな大きな()

ここ最近はめっきり口にしなくなったけれど、一年前までは口癖のように言っていた目標だった。

 

「ペパロニ、お前……」

 

まだ覚えてたのか。

昨日言った作戦の内容は忘れちゃうくせに。

一年も前の約束は忘れてなかったのか。

 

「ここはウチらに任せて行ってくださいっす、ドゥーチェ!」

『ドゥーチェ!』

『ドゥーチェ!』

「お前達……っ」

 

やめてくれ。

私は、そんな大層な人間じゃないんだ。

お前達が身体を張ってまで守る程の器じゃないんだ。

 

歯を食いしばり、拳を握る。

視線の先で懸命に抗う彼女たち。

その献身に応えられない自分の不甲斐なさを、ただただアンチョビは呪った。

なのに、

 

「信じてるっす、ドゥーチェ!!」

 

お前達は、それでも私の背中を押すのか。

私の事を、信じているのか。

 

――――――だったら。

 

仮面を被れ、安斎千代美。

自分を守るためじゃなく、弱さを隠すためじゃなく。

彼女たちの為に、アンチョビ(統帥)に成れ。

 

「てめーらぁ!!戦車ぶっ壊れても構わねぇ!!姐さんの道、意地でも切り拓け―――進め(アーバンティ)―――――!!」

 

 

―――――進め(アーバンティ)!!!

 

咆哮。

闘志に火が付く。

気炎となって立ち昇り、乗員の熱が戦車に伝播する。

 

そして彼女たちは、ただ前進するだけの獣になった。

 

 

そして試合は、最高潮(クライマックス)を迎える。

 

 

 

 

 

『わ、わ…!な、なんでこっちが押されるの!?』

『こっちの方が重いはずなのに!?』

 

無線から伝わる困惑を、西住みほは敏感に感じ取っていた。

なにせみほ自身も、彼女たちと同じ気持ちだったから。

 

「落ち着いてください!闇雲に押し返さず、重心を捉えて!」

 

指示を飛ばすも、一体どれだけの効果があるのか。

大洗女子学園は確実に、アンツィオ高校の気迫に呑まれつつあることを、みほは悟っていた。

 

包囲の完成を間一髪で防がれたところから、また流れが変わってしまった。

あそこでトドメを刺せなかったのは、かなり痛い。

お蔭でアンツィオ高校が、また息を吹き返し、そしてその勢いのまま繰り出される逆襲に、こちらは対応できていない。

 

本来なら充分対処できる範囲のはずだ。

いくらアンツィオが気合を入れたって、実力差や性能差は無くならない。

それでもみほ達が押されているのは、アンツィオの気迫に浮足立ってしまっているからだ。

 

得てしてこういう時、天秤は簡単に揺れ動く。

ここで終わらせなければ、勝負は分からなくなってしまう。

 

「麻子さん!」

「あぁ、ちょっと激しく動くぞ」

 

四号戦車に食らいついているのは、二両。

これを早々にどかさないと、相手のフラッグ車が包囲を脱してしまう。

 

麻子もそれを理解していた。

四号戦車を最大ギアで加速させ、二両がかりの押しを物ともせずにジリジリと前進する。

そして負けじとアンツィオが更に加速してきたところで、

 

「やばっ!」

「うわっ!?」

 

一気に後進し、相手のバランスを崩した。

人間の身体も戦車も、重心の崩し方はそんなに変わらない。

とどのつまり、押すか引くかの駆け引きだ。

相手が力を入れて踏み込んだところで、こっちが退いてやれば、あっけなく均衡は崩れる。

 

「華さん、砲撃を!」

「ふっ!」

 

そして接近されていては取れない俯角も、距離を空けてしまえば問題ない。

短砲身の75㎜砲が火を噴き、CV33の芯を捉え、吹き飛んだ車体から白旗が上がる。

 

そして次の瞬間には、四号戦車は再び前進していた。

バランスを崩していたもう一両を車体で殴るようにしてぶつけ、横転させて走行不能にし、向かうはフラッグ車。

 

包囲は完成していないが、相手の道もほぼ塞いでいる。

今この状況で使える道は、一つだけ。

そこに入られる前に接近戦に持ち込めば、ほとんど詰みだ。

 

相手もそれを分かっているのだろう。

急加速して、残されたたった一つの道へ飛び込もうとする。

 

(ちょっとだけこっちの方が早い)

 

間に合う、とみほが思った、その時だった。

 

ガァン、と横から激しい衝撃が襲った。

あまりの事に身体が吹っ飛びそうになるのを堪えながら、みほは真横へと視線を写した。

するとそこには、

 

「ギリギリ、間に合いました……!」

「――カルパッチョ!」

 

ここにはいないはずの、セモヴェンテがいた。

 

「このセモヴェンテ、カバさんチームと戦っていたはずじゃ!?」

 

優花里が驚きに顔を染める。

みほも、華も、麻子も同じ気持ちだった。

しかしただ一人だけが、違う顔をしていた。

 

「あーー!」

 

沙織が、地図を眺めながら悲鳴を上げた。

 

「私、念のためと思ってカバさんチームから割と近いところに皆を集めちゃった!!」

「おい沙織」

「ご、ごめん!」

「さ、沙織さんのせいじゃないよっ。気にしないで」

 

実際、沙織のミスとは言えない。

だってこのセモヴェンテは、カバさんチームが引き付けているはずの戦車だ。

普通なら、それを振り切って此方に来るとは考えない。

カバさんチームだって、最初からそのつもりで戦っていたはずだし。

 

いや、ちょっと待て。

なら、カバさんチームはどこに行った?

戦っている相手を放置して逃げるようなことは、絶対にない。

 

なら、と最悪の答えがみほの頭を過る。

すなわち、撃破である。

 

「カバさんチーム無事ですか!?」

 

 

 

一方でみほの予想を裏切り、カバさんチームは健在ではあった。

しかし無事ではあるものの、チームは機能停止に陥っていた。

いや、チーム全員がそうだったわけではない。

 

思考と動きを止めていたのは、ただ一人。

チームリーダーを務める、カエサルのみ。

 

「ひな、ちゃん……」

 

なんで、行ってしまったのか。

さっきまであんなに全力で、本気で鎬を削っていたというのに。

あんなに、楽しかったのに。

なんでそれを捨てて、そっちに行ってしまったのか。

 

試合中にも拘わらず、何故、という疑問だけが、カエサルの中にあった。

 

そしてカエサルがそう思っていることを、カルパッチョは知っていた。

 

(ごめんね、たかちゃん)

 

裏切り、だろうな、これは。

自分から吹っ掛けておいて、自分から抜け出すんだから、こんなに酷い話はない。

悲しいだろうか、悲しいだろうな。自分が逆の立場なら、きっとそう思う。

けれどカルパッチョは、謝ることしかできない。

 

本当に申し訳ないけれど、カルパッチョには心の底から愉しかった親友の戦いを捨ててでも、行かなければならないと思ってしまったのだ。

 

「――――行ってください、ドゥーチェ!!」

 

叫びと共に、弾を装填する。

間髪入れず、砲撃。

あえなく避けられるが、それでも構わない。

カルパッチョはただ、時間を稼げればそれでいいのだ。

 

(たかちゃんは、私の一番大事な親友)

 

それは間違いない。

誰に聞かれたって、カルパッチョはそう答える。

 

あぁけれど、本当にそれはウソじゃないけれど。

それと同じくらい大事なものが、カルパッチョにはあるのだ。

 

(ドゥーチェや、アンツィオの皆も、私は大好きだから)

 

だから一人だけ知らぬ顔はできなかった。

みんながドゥーチェの為に身体を張っているその横で、自分一人だけが自分の愉しみに浸ることはできなかった。

 

気づけばカルパッチョは、親友に背を向け、仲間の元へ走っていたのだ。

 

「―――やっぱり私は、自分の為にだけは戦えないね」

 

結局それが、カルパッチョという人間なのだろう。

どこまでいっても、非情になり切れない。

勝ちに拘ることもできない。

そんな甘い人間が、自分。

 

(だから、容赦なく撃ってね、ひなちゃん)

 

そんな人間に、手加減なんていらないから。

だからどうか、貴女は私のようにならないで。

そうしてくれないと私、自分を許せそうにないから。

 

 

『カバさんチーム、セモヴェンテを剥がしてください!』

「ひなちゃん……!」

 

隊長からの指示も、カエサルには届かない。

彼女の眼にはただ、自分を置いていってしまった親友の姿だけが映っている。

 

「カエサルっ!!」

 

しかし突如として、カエサルは現実に引き戻された。

まるで雷のように激しい声が、彼女の鼓膜を打ったからだ。

 

吸い込まれるように視線がそちらを向く。

そこには厳めしい顔で前を見据える、軍帽を被った仲間の姿があった。

 

()()()()()()。全部分かった上で、それでも私はこう言うぞ――――撃て、カエサル」

「――――――っ」

宿敵(ライバル)同士の戦いは、必ずしも劇的な結末を迎えるわけじゃない」

 

上杉と武田のように。

ハンニバルとスピキオのように。

 

戦うことを宿命づけられたような二人が、必ずどちらか手によって討たれるとは限らない。

事故によって逝き、病気によって世を去り、第三者の手によって斃れ、未来永劫に勝ち負けが着かないなんていうのは、決して珍しいことじゃない。

誰もが望まぬ終わりを、あっさり迎えるのは普通のことだ。

 

だから今カエサルに起こったことは、悲劇でもなんでもない。

それよりも悲しいのは、

 

「ここで手を抜くことこそが、相手に対する裏切りだ。向こうとてお前に討たれるのを承知で、それでも仲間のためにと身を投げうったんだ」

 

その覚悟に敬意を表すなら。

カエサルが、本当にカルパッチョの好敵手なら。

 

「全力を尽くせ、カエサル!!自分が成すべき事を成せ!!」

「――――っ左衛門座!!」

「応!!」

 

全てを振り払うように、カエサルは弾を込めた。

 

言われなくても分かっている。ひなちゃんが何を望んでいるか、今自分が何をすべきかなんてことは。

けどそんなに簡単に、割り切れるものじゃなかった。

だって、もし続けることができるなら、と迷ってしまった。

有り得たかもしれない未来に思わず手を伸ばしてしまいそうになるくらいに、本当に楽しいひと時だったから。

 

「――――あぁ」

 

声にならない声が漏れた。

見えないけれど、カエサルにははっきりと見える。

親友の背中へと飛翔し、止まることのない鉄の一撃が。

 

これでカエサルとカルパッチョの戦いはお終い。

魂が燃え尽きる前に火は消え、熱は失せる。

 

こんな終わりじゃなければよかったのにと、カエサルは思った。

だから祈るよ、ひなちゃん。

もし次があるのなら、その時こそ――――

 

(本当の決着をつけようね)

 

音が響く。

弾が装甲を貫く、歪な音。

終幕を彩るにはあまりにも寂しい、別れの音だった。

 

『アンツィオ高校セモヴェンテ、走行不能!!』

「勝ってください……ドゥ―チェ……!」

 

四号戦車を押し留めていた壁が、崩れ去る。

妨げるものがなくなった四号は自由になるが、その視線の先には、

 

「あぁ……!任せろ!」

 

大洗女子学園の包囲を抜け出し、フラッグ車へと迫るP40の姿があった。

 

(抜かれた……!)

 

一歩、ほんの一歩だけ遅かった、とみほは眉を顰めた。

同時、沙織が無線を飛ばす。

 

「カメさんチーム、相手フラッグ車がそっちに向かってます!」

『な、なにぃ!?』

『わー、ほんとだ。なんか凄い勢いで来たねー』

『呑気な事を言わないでください、会長!』

「逃げてください!」

 

P40 のスペック上の最高速度は時速40キロ。

38tのスペック上の最高速度は時速42キロ。

ほんの僅かに上回っているとはいえ、その程度の差はほとんどあってないようなもの。

それにそれはあくまでカタログスペックの話。

操縦手の力量を加味すると、多分ちょっとだけP40の方が早い。

 

即座にみほ達もP40を追いかけ始めるが、四号戦車のスピードはP40 とほぼ同じ。

こちらは操縦手の力量に何の文句もないが、麻子の腕を以てしても、スタートが遅れた分の差はあまりにも大きい。

 

(まずい……)

 

やはりあそこで決めきれなかったのが、相当痛い。

アンツィオの気迫が、間違いなく流れを引き込んでいる。

ちょっとやそっとじゃ、この流れは変えられない。

 

「どうします西住殿!?このままじゃ……!」

 

優花里の声は焦燥に塗れていた。

その言葉の続きを、みほは容易に想像することができた。

このままじゃ、多分負けるだろう。

 

「沙織さん、カメさんチームの進路を左斜め上に変えさせてください」

 

なら一か八か、勝負に出るしかない。

みほはおよそ考え得る手の中で、最もリターンが大きくリスクの大きい手を選択した。

 

「左斜め……?あ、そういうこと!」

「時間を稼ぐんですね!」

 

こくり、とみほは頷いた。

 

このままP40 、ひいては38tの軌跡をなぞるだけじゃ、こっちが近道をするか、相手が遠回りをしなければ絶対に追いつけない。

だからみほは、両方取って極限まで時短する。

 

狙いの地点は、前方1キロ先。

カメさんチームには()の字を描く形で迂回してもらい、みほ達は一直線にそこに向かう。

カメさんが遠回りした分のロスで、ギリギリみほ達が追い付けるはずだ。

 

ただ、おそらくP40はカメさんの後を追うだろう。

問題は目標の地点までにカメさんが追い付かれないかどうか、だ。

 

みほ達が別ルートを行く以上、カメさんを助けられるチームはいない。

彼女たちには自力で、なんとか撃破されずに頑張ってもらうしかない。

 

『なるほどー、そういうこと。わかったよ、西住ちゃん。こっちは何とかするから、合流地点で会おうねー』

「会長……お願いします!」

 

緊張感の欠片もない、普段そのものの角谷の言葉を信じるしか、今のみほ達にできることはない。

 

そして38tはその進路を変えた。

森林地帯を飛び出す形で、見晴らしの良い平野を無防備にひた走る。

 

「ドゥーチェ、相手フラッグ車が進路を変えました!」

「かまうな、追え!」

 

障害物の多い森林地帯を抜ける理由はない、とアンチョビは断じる。

確かに走りづらい場所だが、それ以上に木々が砲撃から身を守る盾になってくれるため、どちらかと言うとまだメリットの方が大きい。

 

そこを敢えて捨てた理由に、アンチョビは既に思い当たっていた。

背後から追ってきている四号戦車、アレの為の仕込みだろう。

 

だから愚直にフラッグ車を追いかけるアンチョビの行動は、大洗女子学園の想定通りと言える。

 

(そう上手く事を運ばせるか!)

 

これは時間との戦い。

アンチョビが仕留めるか、相手フラッグ車が逃げるかの勝負。

あっちは後者の方が勝算アリと見込んで一か八かの勝負を挑んだようだが、この賭けはアンチョビの方が有利だ。

 

「相手フラッグ車の砲手は精度が低い。走りながらの砲撃じゃまず当たりっこない!構わず全速力で追いかけろ!」

 

普通なら追いかけっこと言っても、ある程度攻撃なり防御なりに気を回さないとだから、最高速度を維持することはできない。

けど今は違う。アンチョビ達は確実に撃破できる距離(クロスレンジ)まで攻撃する必要はなく、また相手の攻撃を防御する必要もない。

ただただ走ることだけに集中することができるこの状況なら、分はアンチョビにある。

 

『目標まで残り50メートル!』

 

報告を受け、アンチョビは自論を確信した。

この速度差、距離ならあと数秒で詰められる。

 

そしてP40が自身の牙の間合いに相手を捉えたその時こそ、アンツィオの勝利の瞬間だ。

 

『目標、捉えます!』

「――砲撃用意!」

 

アンチョビは鞭を構えた。

さぁ、後は振り下ろすだけ。

一度は掌から零れ落ちた勝利は、すぐ目の前にある―――――

 

 

「悪いね、チョビ子」

 

 

はずだった。

 

ガァン、と不可解な音がアンチョビの鼓膜を打った。

同時、身体が前後に激しく揺さぶられる。

 

何事か、と思う間すら、なかった。

視線の先、目と鼻の先にいたはずのフラッグ車の姿が、遥か遠くにある。

 

「どうした!?」

『ほ、砲撃です!履帯部分に直撃しました!』

 

バカな、とアンチョビは耳を疑った。

偵察では、確かに38tの砲手の精度は劣悪だった。

普通なら当てられるような距離でも、信じられない軌道で外す程に。

 

それがここに来て、よりにもよって履帯を的確に狙ってくるだと。

偶然にしては、あまりにも不運な話だ。

 

「くっ、走れるか!?」

『行けます!』

 

そして致命的ではないにしろ、痛恨と言える距離が彼我の間に生まれる。

それを作ったのがアンチョビの知る、壊滅的な砲撃センスを持つ片眼鏡をかけた砲手ではないということを、アンチョビは当然知る由もないのであった。

 

 

「カメさんギリギリ逃げれそうだって!」

「これなら……」

「行けるかもしれませんね!」

 

沙織、華、優花里の顔に喜色が浮かんだ。

願ってもない朗報だ、彼女たちが喜ぶのも分かる。

 

けれど、とみほは思った。

そしてみほと同じことを、厳しい表情をしている操縦手は考えていた。

 

「問題はこっちにもあるぞ」

「へ?何が?」

「私たちはこれから、あの中を突っ切らないといけないんだ。それも全速力でな」

 

四号戦車の前方。

そこには行く手を阻むように立ちはだかる木々の群れと、日の光が僅かに差し込むだけの暗闇。

どう考えても走りやすいとは言えない道が、そこにはあった。

 

「あー、そうじゃん!だ、大丈夫、麻子!?」

「さぁな」

 

あまりにも他人事な麻子の言葉だった。

 

しかしここから先は、一秒が勝負を分ける展開だ。

麻子の両腕に、勝ち負けが掛かっていると言っても過言ではない。

彼女の小さな手に、みほ達は賭けるしかない。

 

「やるしかないだろ」

 

そしてふと、その横顔に、みほは()()()の面影を見た。

その瞬間、みほの心を染めたのは不安ではなく、不思議と安堵の気持ちだった。

 

「沙織、これ持ってろ」

「へ、ちょ、麻子!?」

「動かすなよ」

 

目を丸くする沙織をよそに、麻子は言うや否やハッチを開けて身体を外に出した。

沙織が麻子の代わりに操縦桿を握っていなければ、四号戦車はあらぬ方向に取っ散らっていただろう。

しかし麻子はそんなこと気にした様子はなく、ただじーっと前方を見つめている。

 

「………よし」

 

その行動の意味にみほが気づくのと、麻子が操縦席へと戻るのは同時だった。

 

「麻子さん、まさか……」

()()()()()()()。飛ばすぞ、しっかり捕まってろ」

 

そして常軌を逸した速度で、四号戦車は木々の中に突っ込んでいく。

傍から見ればそれは、どこか一つでも拍子が狂えば即ゲームオーバーの、無謀な疾走。

普通なら残しているはずのマージンを完璧に捨て去った、文字通りの全速力だった。

 

「い、いくら冷泉殿でもこの速度は……」

「ちょっと速すぎぃぃぃぃぃ!!???」

「沙織、うるさい」

 

しかし思わず目を覆いたくなるような狂気の走りとは裏腹に、四号戦車は天衣無縫に、まるで木の方から避けているかのように、鮮やかに傷一つなく間を駆けていく。

 

(麻子さん、すごい……!)

 

この綱渡りの走りを麻子が破綻させない理由。

それは麻子が、大地の呼吸を読んでいるからだ。

 

「道を覚えた」と彼女は言ったが、おそらくそれは比喩表現。

あんな先行きの暗い道を、いくら麻子の目がいいからといって、望遠鏡のように見通せるわけがない。

 

だから彼女が頭に刻んだのは、道筋そのものじゃなく、大まかな道のリズム。

一を知って十を識るが如く、麻子は目に見える景色から得た情報で、目に見えない道を予測した。

そうして作られたイメージを、あの狭い窓から投射し、そこを走っているのだ。

 

誰にでもできることじゃない。

卓越した操縦の腕と、集中力、そして鋭敏な感覚(センス)があってはじめて成せる技だ。

それをあっさりと成し遂げてしまう辺り、やはり冷泉麻子は天才なのだろう。

 

「――――見えたぞ」

 

そして汗一つない涼し気な顔のまま、麻子は一度も戦車をぶつけることなく走破した。

みほは改めて、自分がとんでもない幸運を得ていたことを認識した。

 

「カメさんチームは……」

「無事ですけれど―――その後ろに相手フラッグ車がいます!」

「あまり距離がありません!向こうもすごい速度で走っています!」

 

執念か、とみほは心の中で呟いた。

 

視線の先、懸命に走る38tの姿と、それを射程内に収めているP40 の姿がある。

 

一度離されて、それでもなお食らいつこうとする。

その心を支えているのは間違いなく……

 

「麻子さん――――」

「解ってる―――――当てて止めるぞ」

 

理想はカメさんとP40の間に割り込むこと。

けれどどうやら、それは叶いそうにない。

 

なら仕方ないが、多少手荒い手で行くしかない。

モタモタしていると、38tが撃破されてしまう。

 

(割り込めないなら、ぶつけてでも止める――――!)

 

そして四号戦車は、P40の側面めがけて、ノーブレーキで吶喊した。

 

「っ!」

「ぐっ!?」

 

砲撃とは比べ物にならない衝撃が、各員を襲う。

まともに体当たりを食らってしまったP40と、まともに突っ込んだ四号。

垂直だったお互いのベクトルが、衝突の衝撃で歪に曲がる。

 

「左旋回!」

「四号……!」

 

しかし即座に、両者は弧を描くようにして態勢を整えた。

そして間を置かずして、P40が牙を剥く。

 

「邪魔を、するなぁ!」

「―――っ」

 

威圧。

相対して初めて感じる感覚に、みほは僅かにたじろいだ。

 

勝ちたいという欲。

負けたくないという想い。

それらが身体から溢れ出し、みほの肌を鋭く撫でていく。

それはサンダース戦の時に味わったものと同質のものだった。

 

やっぱり、皆そうなんだ、とみほは思った。

誰もが、心の底から勝ちたいと願って戦いに臨んでいる。

そのために、ありとあらゆる努力を惜しまないし、いつだって全力だ。

それが当たり前。

 

(それなのに私は……)

 

その当たり前から外れてしまっている。

勝ちたいという想いが無いわけじゃない。

負けてもいいや、なんて思ってるわけでもない。

 

でもみほは、そういう人に相対した時、常に思ってしまう。

自分は、決定的に何かが違うんだ、と。

 

「――――」

 

ふと、目が合った。

特徴的なツインテールに、吊り上がった目をしたアンツィオの隊長。

その勝気な瞳の奥が、濡れている。

 

あぁ、とみほは悟った。

この人は、仲間がとても大切だったんだろう。

勝ち負けと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に大事に想っていたんだろう。

 

ならきっと、今の状況は辛いはずだ。

彼女が今ここにいるのは、他でもない仲間たちが身を挺して道を作ってくれたから。

悪い言い方をすれば、仲間の犠牲の上に彼女は立っている。

 

それをこの人は、受け入れているんだ。

悲しいのに、辛いのに、それでも受け入れて、前に進もうとしているんだ。

自分の為に犠牲になってくれた、仲間たちの為に。

痛む心を、必死に焚きつけて。

 

なんて強い人なんだろうか。

こういう人こそが、きっと勝ち上がっていくべきなんじゃないのか。

自分みたいな中途半端な人間じゃなく、本当に心の底から勝ちを望み、そのためならどんな痛みも厭わない、そんな強い人が。

 

そんな人の邪魔を、自分なんかが邪魔していいわけがない。

 

――――いいわけが、ないのに。

 

『人は迷いながらでも歩いていける』

『『これが西住みほだ!!』って胸張って言える、そんなみほが見たいと思うよ』

 

あぁ、あぁ。

声が、背中を押す。

心に焼き付いたあの人の言葉が、立ち止まろうとするみほを、許してくれない。

だからみほは、迷いながらでも、今ここにいるんだ。

 

「―――――前進!!」

「来るぞ、備えろ!」

 

一騎討ち。

お互いに作戦も、戦術も、小細工も何もない、真正面からの撃ち合い。

純粋な力比べ。

勝敗の行方は、戦車道の女神に託される。

 

(ごめんなさい、アンチョビさん)

 

全力の加速。

四号戦車は地を駆ける灰色の流星となって、一直線にひた走る。

待ち構えるは深緑のカラーリングをしたP40。さながら山のように、流星を迎え撃つ。

 

(こんなに中途半端なのに――――)

 

 

――――それでも勝とうとする私を、許してください。

 

 

「撃て―――――――!!」

撃て(フォッコ)―――――――!!」

 

 

衝突。轟音。炸裂。

黒煙が二つの戦車を、すっぽりと覆い隠す。

 

その様子を、観客たちは固唾をのんで見守る。

 

やがて風が、黒いベールをすっかりと吹き飛ばしてしまう。

そうして晴れた景色の中、白い旗を挙げる戦車が一つ。

 

 

迷いながらここまでやってきて、最後に振り切った者。

同じく迷いながら、最後まで迷っていた者。

 

色々な意味で似た者同士だった二人の戦いは、

 

 

『――――アンツィオ高校フラッグ車、走行不能!』

 

 

まだまだ先の長い道を、苦悩と共に征かんとする者に、勝利の女神が微笑んだ。

 

 

『大洗女子学園の勝利!!』

 

 




アンチョビって何で時々自信なさげな発言するんだろう。
そんで何ですぐに訂正して強気になるんだろう。
スカウトされるくらいの実力者なのにアンツィオに入った理由ってなんだろう。
普通スカウトされても行かなくね?

個人的にはそんな疑問を全部書ききれたかな、と思います。

やっぱアンツィオは良いチームだよなぁ。


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第34話 「アンツィオと戦いましょう⑦ グラッツィエ」

長かったアンツィオ戦もこれにて終了です。

本当は「OVAだし省こうかな」と思っていましたが、アンツィオ高校の魅力に惹かれて書くこと五か月……五か月?マジか。

アンツィオはとにかく明るいのであんまり真面目な話とかしんみりした話は似合わず、そんな話ばっか書く筆者にとっては難しかったですが、少しでも彼女たちの魅力が伝われば幸いです。

個人的にはもっと可愛いところを引き出したかった……(痛恨)


「グラッツィエ!本当にいい試合だった!」

 

輝くばかりの笑顔と共に、西住みほはアンチョビに抱かれた。

声とも吐息ともならぬ曖昧な音が、口から漏れる。

みほはあまりのことに、ただなすがままにハグをされ、目を丸くすることしかできなかった。

 

「こんな試合ができてよかった。今日戦えた事を、私は誇りに思うよ」

 

ギュ、と回された腕に、ほんの一瞬だけ力が篭る。

痛くはなかったが、それよりも鼻腔を擽る良い香りの方がみほの意識を多く占めていた。

 

「こ、こちらこそいい試合をありがとうございました!」

 

唐突に、みほに思考と意識が戻る。

いけない、とみほは自分を叱責しながら、とりあえず言葉を吐き出した。

 

「いやー、本当に強いんだな。サンダースに勝ったから当然といえば当然だけど、本当に初心者の集まりなのか?」

「え、えっと、一応は……」

 

それはみほも常々思うところだが、大洗女子学園に戦車道経験者は一人しかいない。

一切の虚偽なく、戦車道歴数ヶ月の素人集団が大洗女子学園というチームである。

 

まぁ歴が浅いだけで、もはや素人とは言えないかもしれないが。

 

「ふぅん、じゃあやっぱり隊長の力によるのか。なんたって西住流だもんな」

「そんな、私なんて全然……」

「そうか?何か一つ、柱となるものがないチームは脆い。私たちはそういう脆さを突いて戦い勝利してきたが……大洗女子学園は違った」

 

薄く笑いながら、彼女は言う。

 

「一度は私たちの策に呑まれながらも、すぐに立て直して反撃してきた。そして逆に私たちを追い詰め、そのまま勝利を勝ち取った。その中心には……」

 

まっすぐな視線がみほへと向けられる。

褒められるのは嬉しいが、少しむず痒い気持ちになるみほであった。

 

「でも、それを言うならアンチョビさんの方が、ずっと凄いと思います」

「え!?そ、そうかな!?」

「はい。アンツィオは、皆アンチョビさんのことを心の底から信頼してるんだなって、戦っている最中にすごく感じて……」

 

チームの柱。

その言葉は、まさしくアンチョビにこそ相応しいとみほは思う。

アンツィオ高校には、迷いというものが一切なかった。

行くべき道をひたすら真っ直ぐに突き進むというか、とにかく一途でひたむきだった。

 

彼女たちがそう在れるのは、きっとアンチョビがいるからだ。

アンチョビという光が道を照らしてくれるから、彼女たちは迷いなく走ることができる。

そういうものを与えてやれる存在をこそ、柱と言うのではないだろうか。

 

「最後だって、みんなアンチョビさんの為に必死で走ってきて、アンチョビさんの為に道を切り拓こうとした」

「あぁ、あれな……」

 

みほの言葉に、アンチョビは苦笑した。

 

「ケガするかもしれないからやめて欲しかったんだけどなぁ。でもあいつら無鉄砲で考え無しだし、そんなの吹き飛んじゃったんだろな」

 

困ったように、けれどもどこか嬉しそうな、そんな複雑な表情だった。

あぁ、やっぱりこの人は強くて優しい人だと、みほは改めて思った。

 

「………でも、あいつらは最後まで勝とうとしてた。全員がまだ勝負を諦めていなかったっていうのに、私は……」

 

そして唐突に、アンチョビの表情が曇る。

漏れる声は、あまりにも弱弱しく、彼女に似つかわしくないものだった。

 

「ここだけの話な、最後包囲されたとき……『あ、負けた』って思ったんだ」

 

罠に嵌めたつもりが嵌められて、たった一手で戦況を覆され、砲弾の雨に晒されながらアンチョビは、そう思ってしまった。

それは、彼女だけは決して抱いてはいけない思いだった。

 

「あの時、あの瞬間、私だけがただ一人、試合を諦めた。思うに多分、その時に私たちは……いや、()()負けたんだろうな」

 

勝つことへの執着。

その灯を、アンチョビはほんの一瞬だけ消してしまった。

常に焚き続けなければならない、大事な灯を。

 

「それだけが心残りかな……まぁいいけどな!本当に楽しい試合だったし、悔しさはあっても悔いはないさ!」

 

愁うような表情をすぐに消して、彼女は明るく笑った。

その言葉が彼女の心を正しく表現していることを、みほは悟った。

 

ふと、何かを言わなければならない衝動に、みほは駆られた。

 

「あ、あの!本当に勝負は紙一重だったと思います。もしどこかで一つ、何かが違っていたら、結果は逆になってたかもしれません」

「えぇ?本当かぁ?私の作戦、結局全部見抜かれてたみたいだしなぁ」

「そ、そんなことは……」

 

あわわ、はわわ、とみほは挙動不審になった。

こんな時、口下手な自分が心底憎いみほであった。

しかし今はとにかく、言葉を並べなければならない。

 

「私も気づいたのはギリギリだったっていうか……それにあんな独創的な作戦は私じゃ考え付かないし、あ、あのとにかくアンチョビさんは凄いと思います!」

「―――――ぷ」

 

くっくっく、と喉を鳴らす音が聞こえた。

視線の先には、堪えきれないと言った様子で笑うアンチョビの姿がある。

そして間もなく、彼女の笑いは大きなものになった。

 

「ありがとう、褒めてくれてるんだな」

「ええと、あの……はい」

 

笑顔のアンチョビとは対照的に、穴があったら入りたいみほであった。

恥ずかしすぎて、顔から火が出そうである。

 

俯き、頬を押さえるみほの眼前に、ふと映るものが一つ。

灰色のタンク・ジャケットの袖から覗く、小さな手。

 

「決勝まで行けよ。我々も全力で応援するから」

 

それが握手の合図であることを、みほは遅れながら理解した。

彼女の手と、彼女の顔を交互に見る。

 

「は、はい!ありがとうございます!!」

 

慌てて両手で握り、みほは勢いよく頭を下げた。

両手から、じんわりと温かいものが伝わる。

 

「まぁ褒めてもらってなんだけど、私が今日立てた作戦、別の人がやってたのを参考にした半分パクリみたいなものだけどな」

「えぇ!!??」

「いやー、一回でいいから再現してみたくてな。オリジナルはもっと凄いんだけど……」

 

結構茶目っ気のある人なんだ、とみほは思った。

というか、喜怒哀楽がすごくあって表情が短い時間の間で何度も変化する。

こういうのを愛嬌、というのだろうか。

なんとなくアンツィオの皆がついていきたくなる理由が、少しわかる。

 

「ドゥーチェ、またその話っすかぁ」

「む、なんだペパロニ。ちゃんと準備は終わったんだろな?」

「バッチリっすよ、後は取り掛かるだけっす。だからそんな話は置いといて、速く来てほしいんすけどねー」

「そんな話ってなんだ!本当に凄いんだぞあの人は!」

「あ、あのぉ……」

 

いきなり始まった言い合いに、みほは一瞬で蚊帳の外に弾かれた。

弾かれたのだが、未だにアンチョビと握手しているみほはその場から動くこともできないので、なんというかすごく困った状況になってしまった。

 

「ん?あぁ、すまない。コイツが私の憧れの人を馬鹿にするからつい……」

「バカにしてるんじゃなくて、飽きたって言ってるだけっすよ」

「はぁ!?飽きるな!私がどれだけ感動したと思ってるんだ!!」

「だってウチらの誰も知らない人じゃないっすか……ってかドゥーチェもその人のこと、全然知らないっすよね」

 

もう勘弁してください、とみほは思った。

多分、このまま何も話さないでいると、永遠にこの場から解放されない気がする。

多少強引にでも会話に割り込み、脱出の機会を伺うしかない。

 

「あ、あのその人っていうのは……」

「ドゥーチェが憧れてるっていう戦車乗りだよ。ドゥーチェ曰く、めちゃくちゃ戦車道が強い人らしいんだけど、実際は誰も知らない超マイナーな人で……名前何だったかな。えぇと……なんか変わった名前だった気がするんだけどなぁ」

「お前なぁ……あれだけ私が何回も言ってるのに忘れるなよ」

 

はぁ、とアンチョビは心底大きなため息を吐いた。

 

一方でみほは、果たしてどんな人だろうかと少し思いを馳せてみた。

マイナーというくらいだし、多分同年代の選手じゃなくて、大学とか社会人チームの選手だろう。

その中で戦車道が強いとなると結構選択肢は絞られてくるが……有名じゃないとなるとちょっと分からない。

基本的に強い人は、よく記事に取り上げられたりするし、実力と知名度は基本的には比例するものである。

 

あんまり表に出たがる人じゃないのだろうか。

まぁそれはそれとして、結構気になるかも、とみほが思った――その時である。

 

 

「神栖渡里!二年前に大学選抜にいて、二軍を率いて一軍を倒した戦車乗りだ!」

「――――――」

 

 

ピシっ、とみほは石化した。

笑顔のまま時間が停止したのが、せめての幸いだった。

 

世界から色が急速に失われ、会話の音が遠のいていく。

そんな中でみほは、極めて冷静に思考の歯車を回した。

 

―――なにか、とてもよく聞いたことのある名前が、聞こえた気がする。

 

気のせいだろうか、気のせいであってほしい。

というかその名前が出たことは認める代わりに、同性同名の別人であってほしい。

 

かみすわたり、なんていう名前、日本は広いんだしあの人の他にも一人や二人いるだろう。

みほは未だかつて見たことも聞いたこともないけど。

 

「あ、なぁもしかしたら知ってたりしないか?西住流にいたならその辺りのこと結構詳しかったりするだろ」

 

……果たして何て答えるのが正解なんだろうか。

一応、その名前を持つ人は知っているが、同一人物かどうかは分からない、と言うべきか。

 

しかしみほの勘は猛烈に告げているのだ、間違いなく同一人物です、と。

 

というかあの人、一体どこまで手を伸ばしているのだ。

ダージリン、ケイ、そしてアンチョビと高校戦車道における優秀な戦車乗り、というか隊長たちと今のところ100%の確率で接点を持ってるのだが。

 

もしこれが意図した結果だと言うのなら、みほは兄と少しお話ししなければならない。

そして念入りに、兄の性格を矯正する必要があるだろう。

 

「ええと、知ってると言えば知ってるというかーーーーー」

「みほー!みんな集合だってーー!」

 

突如、みほの声をかき消すくらいの大声が、みほの背後から聞こえてきた。

慌てて振り向き、そしてみほは彼女たちを視界に収めた。

 

沙織、華、優花里、麻子。

みほのチームメイトであり、共に四号戦車を駆る4人の友達。

 

―――――そしてその背後に立つ、4人より頭ひとつ以上大きな身長の、彼を。

 

「………」

「呼ばれてるぞ?返事しなくていいのか……って、んん?男の人?」

 

あ、やばい、バレた。

みほはアンチョビに背を向けながら、かといって沙織たちの方を向くわけでもなく、曖昧なところに視線を飛ばした。

 

「―――――かっこいい!!」

「ふぇ!?」

「誰だ誰だ!?身内か!?」

 

目を丸くするみほとは対照的に、キラキラと目を輝かせるアンチョビ。

その視線の先に誰がいるのかは、明白だった。

 

あ、これ見たことある、とみほは思った。

初めて兄を見た時の沙織と、全く同じ反応なのだ。

 

「あはは……」

 

兄を褒められて悪い気はしないが、それ以上に複雑な思いが大きいみほであった。

しかし何と答えるべきか。身内は身内なのだろうが、兄とみほの間には血縁関係がない。その辺りのことを説明するのは、ちょっと避けたい。

 

「私たちの……戦車道の先生です」

 

とりあえずみほは、迷いながら別の答えを述べた。

 

「へぇー……先生!?」

 

そして「あ、しまった」と言ってから思った。

アンチョビの驚きは、当然のものだった。

 

「男の人だよな!?あの人、戦車道ができるのか!?」

 

そう、神栖渡里は紛うことなき男性。

そして戦車道とは、女性の競技である。

 

みほ含む大洗女子学園の面々はすっかり麻痺してしまっているが、実は男性の戦車道講師とはかなり特殊な存在なのだ。

 

「えっと、一応……」

 

こうなると寧ろ、素直に兄と答えたほうが良かったかもしれない。

血縁関係なんて、言わなきゃバレないものだし。

 

「へぇー……そうかぁ」

 

ふぅん、ふぅん、と曖昧な表情をアンチョビは浮かべた。

腕を疑ってる、というところだろうか。

まぁ、みほがアンチョビの立場でも、「本当に戦車道できるのか?」と同じことを思う。

 

実際はできるどころの話ではないが、そんなもの一目見ただけで分かるものでもない。

アンチョビの反応は、ごく自然なものだ。

 

「……そんな人がいたら、もっと違う道があったかな」

「え?」

「いや、なんでもない。それより、先生なら挨拶しておかないとな!」

「あっ」

 

意気揚々と、アンチョビは沙織たちの方へ歩いていく。

その背中を、みほは見つめることしかできなかった。

 

 

そして、それは起こった。

時間にすればそれは短い間のことだったが、ここはあえて克明に説明しようと思う。

 

まずアンチョビが、兄の前に立った。

背丈の差がかなりあるため、自然とアンチョビは上を見上げる形になってしまう。

対して兄は、なんだなんだと首を傾げて、視線をアンチョビに固定する。

その近くにいる沙織たちも、兄と同じような反応をする。

 

アンチョビが名乗る。

私の名前は、ドゥーチェ・アンチョビ。

アンツィオ高校を仕切る隊長だ。

 

高らかに、胸を張り、多分自慢げに口角を吊り上げ、彼女は自分の名前を宣言した。

一方で兄の反応は、曖昧なものだった。

言葉にすれば、「は、はぁ…」みたいな感じ。

沙織たちも兄と似たような反応をする。

 

しかし気にせずアンチョビは言う。

 

大洗女子学園で戦車道を教える先生と聞いて、挨拶に来た。

 

兄は「随分礼儀正しいなぁ」といったような顔をした。

そして兄は答える。

それはそうだ、名乗られたからには名乗り返さなければならない。

そんな当然の礼儀に則って、兄は自分の名前を口にする。

 

ご丁寧にありがとうございます。大洗女子学園で戦車道の講師をしてます、神栖渡里です。

 

アンチョビは、一度、二度と頷いた。

その言葉を噛み締めるように、瞑目して腕を組みながら、うん、うん、と。

 

そうか、そうか。神栖渡里か。

 

そして十秒くらいの沈黙が、場を支配した。

「ん?」と兄は思ったに違いない。

「え?」と沙織たちは思ったに違いない。

「あぁ…」とみほは状況を見守ることしかできなかった。

 

一息、

 

「神栖渡里――――――――!!??」

 

絶叫が、木霊した。

 

 

 

 

 

 

 

ずっと憧れていた戦車乗りとようやく会えたと思ったら、女性じゃなくて男性だった件。

 

いやマジか、とアンチョビは心の中で叫んだ。

 

神栖渡里。

アンチョビが一年生の時、大学選抜で見た戦車乗り。

弱小チームを戦術一つで見事勝たせてみせた、知られざる指揮官。

 

ずっと、ずっと探していた。

社会人チームやら何やら、ありとあらゆる所を探して、それでも手掛かり一つ見つからなかった、謎の人。

 

その人と、アンチョビは今日会うことができた。

どんな偶然か、幸運かは知らないが、アンチョビは悲願とも言える邂逅を果たしたのだ。

 

もし神栖渡里と会うことができたなら。

アンチョビは、話したいことがたくさんあった。

 

経歴とか、戦術とか、とても24時間では足りないくらい、聞きたいことが山ほどあって。

そしてそれら全部を聞き終えた後に、アンチョビはどうしても言いたいことがあった。

 

それは、感謝の言葉。

 

一年生の時。

何にもなかったアンツィオ高校で戦車道をしなければならなかった自分。

本当にこんなのでやっていけるのだろうか、と不安で不安で仕方がなかったあの時、貴女の戦車道を見て、私は奮い立つことができた。

 

どんなに弱くても、隊長の腕次第では勝つことができるのだと、貴女は私の前で証明してくれたから。

 

だから私は、ここまでやってこれました。

貴女が見せてくれた、希望を頼りにして。

 

そう言って、深々と頭を下げよう。

感謝を述べよう。尊敬を捧げよう。ついでにサインとかもらっちゃおう。

アンチョビは、そう思っていた。

 

 

――――しかし、そんな考えは、全部吹き飛びました。

 

 

アンチョビが思い描いていた神栖渡里と、実際の神栖渡里は、180度違う姿をしていたのだ。

 

「……」

「ドゥーチェ?水沸いてるっすよ?」

 

チラ、と横目で、アンチョビはその人を伺った。

アンチョビよりも随分高い、180㎝くらはあるであろう身長。

スラッと伸びた手足は、力強さを感じるほどに引き締まっている。

綺麗に整った髪型もあいまって、スポーツマンのような精悍さがあった。

 

「ちょちょ、ドゥーチェドゥーチェっ。火、火!」

 

目つきは特徴的だ。鋭くて、吊り上がってて、怒ってないのになんだか怒って見える。

けどその奥には宇宙みたいに深い色をした瞳があって、不思議と視線が吸い込まれそうになる。

 

「ぎゃー!?焦げてるっすよドゥーチェー!」

 

一言で言うなら、その人は磨き抜かれた剣のような人だった。

緩慢なく、怠惰なく、無駄なものは一切そぎ落として、ただひたすらに丹念に刃を砥いだ剣。

そんな一種の芸術のような雰囲気を醸し出す―――――男性だった。

 

「いい加減にしてほしいっすドゥーチェ!」

「うわぁ!?な、なんだペパロニ、ビックリするだろ」

「なんだ、じゃないっすよ。さっきからチラチラチラチラあの人のこと見て、ちっとも料理に集中してないじゃないっすか」

「そ、そんなに見てないぞ!」

「嘘っす。穴が空くくらい見てたっすよ」

 

はぁ、と大きくため息を吐くペパロニに、アンチョビはぐぬぬと唸ることしかできなかった。

しかし仕方ないだろう、とアンチョビは自己弁護する。

それだけ、衝撃的なことだったのだから。

 

(神栖渡里が……男の人)

 

その事実は、未だアンチョビには処理しきれないものだった。

 

同性同名の別人、ではない。

アンチョビも確認したが、今あそこにいる人は紛うことなき、アンチョビが見た神栖渡里だ。

『大学選抜?あぁ、二年前まではそこでコーチやってたよ』、という本人の証言に加え、あまり公になっていない大学選抜の格差問題のことも知っていた。

 

戦車道の実力に関しては、これも疑うには値しない。

なんたってほとんど素人の集まりであった大洗女子学園を、僅か三か月ほどでサンダースに勝つほどに鍛え上げた実績がある。

 

教育手腕と実戦の腕は別物、という人もいるだろうが、往々にして優れた指導者とは過去、優れた選手であることが大半だ。

アンチョビが見た戦術家としての顔を、あの人が内に秘めていてもなんら不思議ではない。

 

結論。

アンチョビが見た神栖渡里とは、すなわち大洗女子学園で戦車道の講師をしている男性であることに、もはや疑いはない。

 

別に女の人じゃなかったからといって、何か問題があるわけではない。

アンチョビは戦車道の手腕に憧れたのであって、その持ち主の性別が男だろうと女だろうと、何にも関係ない。

 

関係、ないのだが……

 

(うぅー……男の人かぁ……!)

 

ブン、ブン、とアンチョビは頬を押さえながら頭を振った。

そのせいで長いツインテールが勢いよく振り回されることになるが、そんなことは知ったことではなかった。

 

二十代前半の男の人。

それはアンチョビにとって、ほとんど未知の存在だった。

 

これまでの人生で男の人と話す機会は、そんなになかった。

アンツィオに入る前も、入ってからも、女子と過ごすことが大半で、恋愛小説のような青い春の学校生活(ボーイ・ミーツ・ガール)とは、残念なことに縁遠かった。

 

有体に言えばアンチョビは、男の人と話すことに関しては、バリバリの新兵なのである。

 

何を話せばいいのか、はしっかりと頭の中で思い描くことができるのに。

どう話せばいいのか、は全くこれっぽっちも想像できない。

 

通りすがりの人とかなら、別に何てことはないのだ。

どうせ二度と会う事もないのだから、と開き直って、全然普段通りに話すことはできる。

実際、神栖渡里(判明前)に挨拶した時はそうだった。

 

しかしこれが、境界線を一歩超えてアンチョビの方に近づいてくると、途端に上手くいかなくなる

 

対面しただけで頬は熱を持つし、思考は茹るし、足は笑う。

目線はあっちこっちに飛び、舌は必要以上に回ったり、回らなかったりする。

 

情けない話だが、緊張してしまうのだ、アンチョビは。

 

神栖渡里と話したいことは、たくさんある。

けどそのどれもを、アンチョビは飲み込むしかない。

だって男の人だもん。ちょっとカッコ良さげな人だもん。

仮に女の人であってもちょっとは緊張しただろうに、男の人なんて尚更である。

 

結局アンチョビに出来たことは、「労いのパーティをするからぜひ参加してほしい」と言って、その準備にかかる時間で、少しでも緊張を和らげようとすることだけであった。

 

「ドゥーチェ、こっちいい感じになってきました!」

「こっちはもう少し時間かかりまーす」

「わ、わかった!」

 

試合が終われば、それに関わった選手、スタッフ全員を労うのがアンツィオの流儀。

全員で寸胴を持ち出し、日々の屋台で鍛え上げた料理の腕を存分に振舞う。

勿論アンチョビもその中に混じり、パスタを茹でているわけだが……

 

(……全然話せる気がしない)

 

もう少しで全ての準備は終わり、パーティが始まる。

しかしアンチョビの心は、まだ全然スタンバイできてない。

時々目線がうっかり合ってしまったりすると、それだけでアンチョビの心臓は高鳴ってしまうのである。

 

いっそ遠目から眺めるだけにするか。

いやしかしそれはあまりにも勿体なさすぎる。

 

そんなことをつらつらと考えていた、その時だった。

 

「ちょっといいかい?」

「ひゃわ!?」

 

とても聞き心地の良い低い声が、アンチョビの鼓膜を打った。

肩が跳ね上がる。

弾かれるように面を上げる。

 

そして目の前には、あの人がいた。

 

「か、か、わ」

「あ、ごめん。調理中に声はかけない方がよかったな」

「い、ひぇ!ぜ全然大丈夫です!?」

 

だめだ、とアンチョビは思った。

全く呂律が回らないし、なんか顔も熱い。

 

しかしそれでも、とアンチョビは自分を奮い立たせ、なんとか言葉を紡いだ。

 

「な、にかご用です、かっ」

「いや、少し話がしたくてね」

 

そう言って彼は薄く笑った。

あ、笑うと少し穏やかな顔に見えるんだ、とアンチョビは関係のない事を考えた。

 

「君は、俺が大学選抜にいた頃のこと知ってただろ?どこで聞いたのか、教えてほしくてね」

 

あ、とアンチョビは思った。

穏やかな表情そのままに、彼の瞳の奥に鋭い銀の光がある。

知らず自分は、何かしでかしてしまったのかと、そう思わせる光だった。

 

「ええと、その、し、忍び込んで……こっそり覗いたというか……」

「忍び込んだ?誰かから聞いた、とかじゃなくて?」

「と、当時の選抜の人に多少は……でも内情とかは、そんなに詳しくは…」

 

そう言うと彼は、ふーむ、と考え込んだ。

怒ってる、というわけではなさそうだ。

けれどなんとなく、判決を待つ被告人のような気分になるアンチョビだった。

 

しかしアンチョビは嘘を言ってるわけではない。

無関係者ほど知らないわけじゃないが、当事者ほど詳しく知っているわけでもない。

後ろめたいことがあるとすれば、それこそ覗き魔をしたくらいだ。

 

「そっかそっか……」

 

彼は一つ頷いた。

どうやら判決が決まったようだった。

 

「知ってるとは思うけど、俺がいた時の大学選抜は、まぁそんなにいい所じゃなかった。別に思い入れがあるわけでもないけど、大っぴらに言い回ることでもないし、その辺りのことは秘密にしとおいてくれないかな?」

 

アンチョビ、無罪。

釘を一つ刺されただけで、被害は極々軽微。

アンチョビは胸を撫で下ろした。

 

「は、はい!――――――あ゛っ」

 

その時のアンチョビの口は、実に素直にアンチョビの心を表現してくれた。

こんな時ばっかり。

 

アンチョビの反応に、彼は片眉を上げた。

 

「もしかして手遅れだったかな」

「い、いや!大学選抜の良くない所はあまり言ってないんですけど、その、か、神栖さんのことは結構……」

 

言いふらした、とかいうレベルを超えて言いふらした。

主に後輩に。

 

「俺の事?」

「あの、その、神栖さんが戦車指揮をしていた時のこととか……」

「あぁ、そっち。それは別にいいよ、言ってもあんまり誰も信じなかっただろ?」

 

カラカラと笑いながら言う彼。

アンチョビは曖昧な反応しかできなかった。

神栖渡里という人間は、その実力を広めるにはあまりにも無名過ぎた。

 

「しかしそんなに言いふらすことがあったかな。大したことはしてなかったはずだけど」

「そ、そんなことありません!」

 

語気が強くなったことを、アンチョビは自覚していた。

しかし当の本人がなんと言おうと、それだけは譲れない事だった。

 

「本当に感動したんです!戦車の性能差とか、選手の実力差とか、そんなのを全部ひっくり返して見せた貴方の戦術に!」

 

先ほどまでのつっかえ具合が嘘のように、アンチョビの言葉は滝のように流れる。

 

「ずっと、ずっと、会えたら聞いてみたいと思ってたんです。どんな世界が見えてるのか、とか、どんな考え方をしているのか、とか。あの時私が見たもの、全部教えてほしいって」

 

そして、静寂が訪れた。

その間は、アンチョビに正気を取り戻させるのに十分な時間だった。

 

自分はもしかしてとんでもなく恥ずかしいことを言ってるのではないか、と思い至ったアンチョビは、慌てて手を振った。

 

「す、すみません!つい――――――」

「―――――そこまで言ってもらえるなんてね」

 

視線の先。

どこかこそばゆそうに笑う彼の顔があった。

大人びた外見とは裏腹に、その一瞬だけ彼は子どものように見えた。

 

「ありがとう。励みにするよ」

「い、いえ。私なんかの言葉じゃ―――」

 

大したものにはならないだろう。

なんせ一介の、ただの普通の戦車乗りだ。

その言葉に、一体どれだけの価値があるというのか。

 

「そうかい?俺は、君は優秀な戦車乗りだと思うよ」

「………へ?」

 

アンチョビは目を丸くした。

優秀、とは果たしてどんな意味だったか、アンチョビは一瞬分からなくなった。

 

「アンツィオは、君が一人で創り上げたって聞いてる。何も無い所から、ここまでのものを築き上げただけでも十分凄いことさ」

 

それに、と彼は言葉を続けた。

 

「今日の試合だって、一歩間違えればウチが負けてた。性能の低い戦車五両とはいえ、こっちの隊長は西()()だぜ?それを追い詰めたんだから、誰がどう見たって優秀だろ」

 

西住流の三文字は、そんなに低いトコにはない。

それは戦車乗りであれば、誰もが知っていること。

 

「最後もさ、皆君の為に必死になって走って、君を守ろうとした。それだけでも、君がどれだけ慕われているかは分かる。ダメな人間に、人はついてこないからね」

 

一体自分は、今どんな顔をしているだろうか。

わからないが、なんとなく妙ちくりんな顔になっている気がした。

 

「君が自分の事をどう思っているかは分からない。けどあんまり卑下することもないんじゃないかな。アンツィオ高校というチームをここまで引っ張ってきた君は、間違いなくとても強い人だと思うから」

「―――――っ」

 

あぁ、とアンチョビは息が漏れそうになった。

こんな、こんなことがあっていいのだろうか。

 

憧れてきた人に。

なりたいと思ってきた人に。

アンチョビの道が、認められた。

安斎千代美という人間が、褒められた。

 

あぁ、こんなに嬉しいことがあっていいのだろうか。

 

「ま、それこそ俺なんかが褒めたところで何にもならないか」

「い、いやいや!全然そんなことないです!!」

 

今までずっと、自分を疑ってきた。

もっと他に選択肢があったんじゃないかと後悔し、もっとやれることがあったんじゃないかと迷い続けた。

そんな歪に曲がりくねった明りも何もない真っ暗な道が、アンチョビの歩いてきた道だった。

 

それがずっと後ろめたかった。

誰にも正々堂々と、真正面から胸を張れる、そんな誇りのある人間であればと、そう思わずにはいられなかった。

 

でも、でも。

それは間違いじゃなかったと、そう言ってくれたのだ。

君の歩いてきた道も、十分胸を張れるものだと、と。

他でもない、彼が。

 

ならもう、アンチョビはそれだけで十分報われる。

心を覆っていた霧は、一瞬で吹き飛んでいった。

勢い余ってなんか泣きそうだ。

 

「話の続きはまた後でにしようか。聞きたいって言ってたこと、時間が許す限りは答えるよ。君の話も聞きたいしね」

 

うわ、うわ、どうしよう。

本当に、本当に、今日はなんていう日だ。

なんだかさっきから、自分の願いが全部叶っていってる気がする。

こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。

試合負けてるけど。試合負けてるけど!

 

「それじゃ。料理、楽しみにしてるよ」

 

踵を返し、彼は去ろうとする。

いけない、とアンチョビは慌てて口を開いた。

 

「ひゃ、ひゃむ!」

 

そして、せいだいにかんだ。

 

「――――」

 

幸か不幸か、彼は此方を振り返ることなく歩き去っていった。

聞こえていなかったのか、あるいは聞こえないフリをしてくれたのか。

どっちにしろアンチョビの心には結構なダメージだけども。

 

「………はぁ」

 

そして途端に、全身から力が抜けていく感覚が襲ってきた。

妙な浮遊感があって、もしかして自分は今、夢の中にいるんじゃないかとアンチョビは思ってしまった。

それくらい、この数分の間に起こった事は、衝撃的すぎた。

 

「姐さーん……って、何してんすか?」

「正気度チェックだ」

「はぁ?」

 

両手で頬をみょいーんと、しかも真顔で抓むアンチョビの姿は、さぞや滑稽だっただろう。

ペパロニの反応も尤もだが、アンチョビはアンチョビで真剣である。

 

「あの人が私のこと褒めてくれたんだよ!しかも私の話もっと聞きたいって!!」

「ふーん、そりゃよかった……すね?」

 

他人事そのもののようなペパロニのリアクションだった。

まぁ、この感動は誰かに伝わるものではないだろうな、とアンチョビは思った。

しかしアンチョビの気分は、

 

「良かったなんてものじゃない!最高だ最高!あぁもう本当に試合に負けた事以外は何もかも最高の日だ!!」

「あー、そりゃまぁそれは仕方ないっすよ」

「………いや、冷静に考えたら仕方なくはないけどな」

 

急に理性が帰ってくるアンチョビだった。

 

あらゆる手を尽くして、全力を振り絞って、身体の中に何一つ残ってないくらい出しきって。

それでもなお負けたということは、ここがアンツィオ高校というチームの限界だったということだろう。

もし運よく今日の試合を拾ったところで、きっとそれ以上先には進めない。

日本一という頂きに立つ資格が、アンツィオ高校にはなかった、ということだ。

 

反省すべき点があるとすれば、そこだろう。

畢竟アンツィオ高校は、優勝できるチームになれなかったのだ。

それは他でもないアンチョビの責任だし、きっと仕方ないで済ませていいことではない。

 

「まぁまぁ、次また頑張ればいいじゃないっすか!!」

 

しかしそんなアンチョビの思いとは裏腹に、ペパロニは屈託なく笑った。

今までずっと口にしてきた、試合後の常套句と共に。

 

「次って……何言ってんだお前。私は――――」

 

でももう、その常套句を聞くことはない。

だって、アンツィオ高校はこれから先もずっと続くだろうけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

なぜなら安斎千代美は、たった一人の()()()

敗北は同時に、彼女の引退を意味している。

この大会が、アンチョビの出場できる最後の大会なのだ。

 

まさかこの後輩、そんなことまで分からない程お馬鹿になってしまったのだろうか。

 

アンチョビは懐疑的な視線を送りながら、口を開こうとして、

 

 

「また作戦考えてくださいっす。ドゥーチェの作戦はいっつも難しくてウチらすぐ忘れちゃうけど、今度は頑張って覚えるっすから!」

 

言葉が、止まった。

 

なぁ、とペパロニが振り返る。

そこにはいつの間にか、後輩たちが集まっていた。

皆一様にペパロニの言葉に頷きながら、笑顔を浮かべている。

 

アンチョビがこれから先もずっといることを、これっぽっちも疑ってない様で。

 

「―――――」

 

アンチョビは、喉元まで出かけていた言葉を咄嗟に飲み込んだ。

 

安斎千代美は、ドゥーチェ・アンチョビは今日で最後。

その現実は、もう変えられない。

正真正銘、アンチョビは引退だ。

 

 

もう彼女たちと一緒に戦車道をすることは、ない。

 

 

「―――あぁ、そうだな。()はもっと難しい作戦にするから、しっかりついて来いよお前達!!そして今度こそ優勝だぁ!!」

「イエーイ!」

「ドゥーチェ!ドゥーチェ!」

「ドゥーチェ!ドゥーチェ!」

 

――――――けれど。

 

「よーし、とりあえず今は宴の準備だ!目の前のことを全力で取り組んだ人間だけが、パスタを食べる権利がある!!」

「はーい!」

 

 

安斎千代美の高校戦車道生活は、迷い続けた三年間だった。

行く先に光はなく、視線は常に後ろ向き。

少し前に進んでは、振り返って道程を確認する。

だからちょっとずつしか進めないし、真っ直ぐにも歩けない。

途中で疲れて、立ち止まったりしたこともあった。

 

誰に恥じることのない歩みだったとは、決して言えないけど。

けれどアンチョビは、それでもここまで歩いてこれた。

 

 

「―――――お前達のお蔭でな」

「へ?なんか言ったっすか、ドゥーチェ?」

「何も!」

 

 

安斎千代美(弱い自分)を、アンチョビ(強い自分)にしてくれた彼女たち。

 

自分を慕ってくれた、掛け替えのない後輩たちの視線の先にあるものこそ、アンチョビが目指すべき姿だった。

それこそが折れそうな心を支えてくれた、一つの光。

暗い道を照らしてくれた、標。

 

そんな彼女たちがいたからこそ、安斎千代美はアンチョビに成れた。

 

だから他でもない彼女たちがそう望むなら、アンチョビは最後まで仮面を被り続けよう。

虚しさも、弱さも、全部押し殺して。

現実から目を背けてでも。

彼女たちが望む限り、アンチョビは彼女たちの望む姿でいよう。

 

それが安斎千代美にできる――――――

 

 

 

「――――ありがとな」

 

 

 

―――――たった一つの、恩返しだ。

 

 

 

 

 

「良いチームだよなぁ、アンツィオは」

 

その声色は、とても穏やかで、嬉しさを多分に滲ませていた。

 

「皆は隊長のお蔭で走っていける。隊長は皆のお蔭で立っていられる。お互いに寄りかかって支え合わなきゃあっけなく倒れてしまうけど、一度繋がればそうそう崩れることはない」

 

いや、嬉しいというよりは、楽しい、だろうか。

綺麗な宝石や絵画を見ている時に出るような、そんな声色だった。

 

「強かったろ」

「……うん、すごく」

 

サンダースの方が強いチームのはずなのに、サンダースと同じくらい苦戦した。

当然、それはみほ達が弱くなったからじゃない。

 

「チームの形は千差万別。チームの強さは多種多様だからな」

 

何か決まった枠があって、その中で優劣に分かれているんじゃない。

色んな枠があって、それらは並べて比べて見てもどっちが優れてるか分からない。

 

「アンツィオはサンダースや他のBIG4とは違って、単に戦車道が好きな奴が集まっただけの、部活みたいなチームだ。そういう意味では、少しお前らに似てるかもな」

 

彼女たちはきっと、純粋に戦車道を楽しんでいる。

あるいは、仲間と一緒に戦車道をすることを喜んでいる。

別にBIG4にそういう気持ちがないとは思わないが、それでも明確な差はあると思う。

 

「すごく楽しそうだもんね、アンツィオの人たち」

「あぁ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「はぅ!?」

 

ギクゥ、とみほは両肩を震わせた。

しまった、何か弁明をしなければ、とみほが思った次の瞬間。

みほのほっぺを柔らかな衝撃が襲った。

 

「バレないと思ったか、妹」

「うぅ……ごへんなひゃい」

 

むいー、と軽く頬を抓る、兄特有の叱り方。

決して痛くはないけれど、こんな小学生にやるような叱り方、誰かに見られたらみほは穴を掘って埋まるしかない。

 

しかしやはり、兄に隠し事はできないか。

ほんの一瞬とはいえ、確かにみほは迷った。

自分は本当に勝っていいのか、それが分からなくなった。

 

その揺らぎを、兄は正確に見抜いていたのだ。

 

「誰にだって平等に、()()()()は与えられてる。どんな理由があったって、勝っちゃいけない奴なんてのはいないんだよ」

「ふぁい……」

 

ため息交じりの声に、みほは力なく答えるしかない。

今回は、どう見たってみほの方が悪いから。

 

「ま、ちょっと前のお前なら動けなかったかもしれないところを、ちゃんと振り切ったんだもんな」

 

頬から手の感触が無くなる。

そして代わりに、頭にほのかな温かみが降ってくる。

 

ぐりぐり、と乱雑で、しかし優しく髪を撫でていく大きな手。

その感触を、みほは虚を突かれながらも、すぐに享受することにした。

 

よくやった、という声はなくとも。

頑張ったな、という想いを受け取りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「同じこと、沙織さんにはしちゃだめだよ」

「あ、もうしてきたわ」

 

はいギルティ。

 

 

 

 

 

 

 




何気に敬語のアンチョビって、違和感がすごい。
でも年上にため口のアンチョビも、あんまり想像できない。


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第35話 「ちょっとだけ昔の話をしましょう」

お久しぶりです。
コロナウイルスが猛威を振るっており、思うように外に出れなくなる日も続いて「なんだか2020年つまんねぇな」ってなってる人もいるかと思います。

そんな人を少しでも元気づけるための話を今回持って……これませんでした。

今回の話は、オリ主関係の話です。
つまりシリアスしかないし、全体的に暗いです。

またオリジナルキャラ(名前なし)が二名程出てきます。
といってもちょっとだけですが、要注意です。


今までと違って結構ヘイト・ダーク要素を盛り込んでいるので少し恐怖。
久々の投稿がこんな話で本当にすまない……


「大学選抜のコーチをしていた時の話?」

 

怪訝そうな顔をして、兄はそう言った。

それが「何の話をしているか分からない」という顔ではなく、「何でそんなことを聞くのか」という顔であることを、みほは即座に気づいた。

 

そして、やはり兄にとっては、積極的に口に出す話題じゃないんだろう、とみほは自分の予想が当たっていたことを確信した。

 

 

全国高校戦車道大会二回戦。

アンツィオ高校との激戦を制し、準決勝へと駒を進めた大洗女子学園は、暫しの休息を享受していた。

 

というのも、準決勝が始まるまでかなりの間が空くのである。

 

大会に参加している学校の数は16校。

二回戦の数はたった4試合。

その全てが同時に進行する……というわけでは、実はない。

 

殊更詳しくは語らないが、戦車道の試合はとにかく時間と金と手間がかかる。

朝に始まって夜に終わる、どころか日を跨ぐこともある競技なんて、そうそうないだろう。

大会ルールに採用されているフラッグ戦は、時間無制限の殲滅戦と違ってキチンと試合終了時間の線が引かれているが、それにしたって一日で終わるようにされているわけではない。

 

というわけで、対戦校の実力にもよるだろうが、戦車道の試合はすぐに終わるものではなくて。

端的に言うと明日、最後の二回戦が行われることになっており、準決勝はそれが終わってから。

加えて言うなら二試合ずつ進行する二回戦とは違い、準決勝は一試合ずつ行われるので、二つある準決勝の後の方である大洗女子学園の試合は、まぁ随分先になるというわけである。

 

みほとしては、試合の間隔が空くことは全然構わない。

流石に一週間二週間も空けられては困るが、であれば大会の緊張感を維持しつつ、それでいて身体を休めることができるし………

 

「そんなもん聞いてどうすんだ?」

 

こうやって、気になる疑問を解消することもできる。

 

時間は、四限目が終わって昼休み。

場所は旧用務室。

 

みほ、そしてあんこうチームの四人の計五名は、神栖渡里を訪れていた。

言わずもがな、みほ達は一つ聞いておきたいことがあったのだ。

 

二回戦が終わり、アンツィオ高校の隊長アンチョビと話している際、みほはある事を聞いた。

 

『神栖渡里は、大学選抜でコーチをしていた』。

 

この話は、実は以前に一度だけ出ていた。

兄が大洗女子学園の戦車道講師として着任して間もなく、優花里が「男性でありながら戦車道の指導者」という兄の特異性を不思議に思い、兄の事を調べたのである。

 

その時は、確からしい証拠もなく、噂話以下の信憑性しかない話、で終わった。

一定以上の指導の腕がある、ということの裏付けとしては、「西住流の直系であるみほの兄」だけで十分だったから。

極論、嘘でも本当でもどっちでも良かった。

 

しかし今、その話が真実のものとして出てきたのなら、みほは知りたいと思ったのだ。

果たして兄は、みほと別れてからどんな道を歩んできたのか、と。

 

みほが知る神栖渡里の経歴は、少し空白がある。

生まれてから西住家に来るまでの経緯は知っている。

西住家から英国に渡るまでの経緯も知っている。

英国で何をやっていたかも、少しだけ知っている。

 

けれど英国から日本に帰国し、この大洗女子学園に辿り着くまでの道のりは知れない。

 

大学選抜のコーチをしていた時期は、正にこの空白を埋める所だ。

 

アンチョビ曰く、「コーチとして大学選抜の半数を率いて、もう半数の選手達を叩きのめした」という兄。

一体なにがどうしてそういうことになったのか。

どういう理由で大学選抜のコーチになり、どういう理由でそれを辞めたのか。

 

みほはそれを知りたい。

別に試合のモチベーションに影響するとか、そういうわけじゃない。

こんな些細なことで、みほの調子の波は揺れたりしない。

 

でも次の相手は、昨年の覇者、プラウダ高校だ。

強力な戦車を数多く揃え、選手達は北国の厳しい環境で鍛えられている。

下馬評では黒森峰女学園に次ぐ優勝候補。

 

正直に言って、過去最強の相手かもしれない。

そんな相手と戦う以上、少しでも気になるものは解決しておきたい。

多分それが、少しでも勝率を上げることに繋がるから。

 

「今まであまり聞いたことのなかったことなので……」

「ちょっと詳しく聞いてみたいなって!」

 

ということをあんこうチームの皆に話してみたら、なんでか皆で一緒に行くことになりましたとさ。

いや別にいいけどね、とみほは思った。

独り占めしたいわけでもなし、兄も兄で(みほ)にしか聞かせられないというわけでもないだろうから。

 

しかしまぁ、神栖渡里のこととなると途端に足並みが揃うのも、なんだかなぁという感じである。いや別に普段揃ってないわけじゃないけど。

それだけ兄が皆の興味を惹く人、ということだろうか。

 

「そりゃ今まで話したことはないけどな……」

「えっと、もしかして言いづらいことでしょうか……?」

 

あんこうチームの言葉に、兄は珍しく歯切れが悪かった。

こういったことは、実はほとんどない。

何事もスパっと言い切ってしまう人だから。

 

それがこんな反応をするということは、もしかして。

優花里の気持ちは、おそらくそんなところだろう。

 

しかし兄は、手を軽く振って答えた。

 

「俺に過去に言いづらいことなんてないさ。何一つ後ろめたいことなんて無い人生だからな」

「だったら……」

「言いづらいことなんじゃなくて、()()()()()()ことなんだよ」

 

黒い瞳が、まっすぐに向けられる。

 

言いづらいじゃなくて、聞かせづらい。

それはつまり、兄の方(話し手)に問題があるんじゃなく、みほ達(聞き手)にあるということ。

 

なるほど、とみほは嘆息した。

此処から先は――――

 

「楽しい話じゃないんだ。お前達が知ってる戦車道は、きっと清いものなんだろうけど、世の中全部が全部そういうわけじゃない。中にはお前達が想像もできないくらい酷い部分もある」

 

何事にも清と濁があり、光と影がある。

みほ達はきっと戦車道の良い所だけを見てきた。

けれど兄は、その両方を見てきたのだろう。

 

その時の兄の表情は、とても珍しいもので。

困ったように苦笑いする兄の顔を、あんこうチームはじっと見つめていた。

 

「大人になるってさ、良いことだけじゃないんだよ。今まで見えなかったものが見えるようになるし、見たくないものも見なくちゃならない。そのくせ子どもの時見えてたものは、見えなくなる。あるいは、子どもの時と同じように見ることができなくなる」

 

それは悲しいこと、ではない。

誰もがそうやって、そういう時を迎えて、子どもを辞めていく。

いつか必ずやってくる、避けられない転換期なのだ。

みほ達も、決して例外じゃない。

 

みほは兄の言いたいことを理解した。

いつか目にしなくてはいけない影の部分。

それをわざわざ今見ようとすることもないんじゃないかと、兄はそう言いたいんだろう。

 

「だから、わざわざ俺の話なんて聞かなくてもなぁ、とは思う。まぁ聞きたいって言うなら別にいいけどさ」

 

兄の態度は、拒絶じゃなかった。

多分感覚的には、「下水掃除のボランティアに来る学生」を見ているようなものなんだろう。

物好き、というわけじゃないが、勿体ないなぁ、くらいには思ってる。

……まぁそれは、個人の価値観によるところで、世の中にはそういうものに価値を見出す人もいるんだろうけど。

 

さて、どうしたものか、とみほは思考する。

みほ一人だけなら、別に構わない。

例えそれが兄の優しさだとしても、知りたいものは知りたい。

その先に、仄暗いものが待っているとしても。

 

だって他人ならいざ知らず、これは兄の話なんだから。

 

けれどあんこうチームの皆を巻き込むとなると、少し話は変わってくる。

今この場で聞くよりかは、時間と場所を改めた方がいいのかもしれない。

 

ならここはひとまず、仕切り直しかな。

みほがそう考えた時だった。

 

「ん?――――はい、もしもし神栖です」

 

不意に規則的な電子音が、部屋に響いた。

音の在処は、兄のポケットから。

多分デフォルトのまま弄ってないであろう着信音が、いかにも兄らしかった。

 

「はい、はい……そうですか、ありがとうございます。それじゃ予定通りに、えぇ、お願いします」

 

アレ学校から渡された携帯なのかなぁ、とかそんなことをぼんやり考えていると、ぷつ、と通信の音が切れた音がした……まぁ聞こえるわけじゃないけれど。

あまりにも短い通話だった。

 

そして兄はみほ達に向き直り、笑顔と共に言った。

 

「悪い。話できないわ」

 

 

 

 

 

 

神栖渡里が、出張する。

 

その知らせは、驚愕と共にして戦車度受講者たちに瞬く間に広まった。

 

……なんて大仰に言ってみたが、特に大したことではない。

たった二日、兄が学園艦を離れるというだけの話である。

 

『偵察だよ。どうしても見ておかないといけない試合があるからな』

 

その言葉の受け取り方は、おそらくみほとそれ以外とで大きく異なっていたと思う。

きっとみんなは、言葉通りに受け取った。

そしてやはり神栖渡里とは、戦車道に熱心な人だと思っただろう。

 

でもみほは違う。

みほは、明日行われる二回戦の対戦カードを知っていた。

そしてそれゆえに、兄が何を見に行ったのかも理解した。

その事に関して、みほが言えることはない。

資格がないのもそうだが、みほはみほでそれ以上にやらなければならないことがあったから。

 

「渡里さん抜きで戦車道の練習って、なんか不思議な感じだね」

 

戦車格納庫に向かう道の途中。

沙織がそんなことを言った。

 

「確かにそうですね。神栖殿が一応練習メニューを置いていってくれているとはいえ……」

「教えてくれる人がいないのは困る」

「渡里さん、いつも誰かに何かを聞かれていますしね」

 

指導者がいない。

それは大洗女子学園にとって、かなりの未知だった。

なんせ神栖渡里は、みほ達が行くべき道を照らしてくれる導だ。

誰もが困った時にあの人を頼り、答えを求めようとする。

 

まぁ兄は兄で、思考を重ねた自分の答えを持たない、脊髄反射的な質問には一切答えないし、答えたとしてもそれは行くべき方向を示すだけで、具体的なことはあんまり教えてくれなかったりする。分かりやすく優しい人では決してないけれど。

 

それでもあの人は、大洗女子学園には欠かせない存在だ。

言ってしまえば、多分物差しみたいなものなんだと思う。

あの人を通して、みほ達は自分を量り、その度に自分が間違っていないことを再認識する。

そうして一歩、また一歩と進んでいく。

 

その物差しが、二日もなくなるというのは、確かに困り事かもしれない。

それでも、別に緊急事態という程じゃないけど。

 

「でも偵察かぁー、準決勝の相手はもう決まってるんだよね?」

「昨年の優勝校、プラウダ高校ですね!強力な戦車を数多く揃え北の厳しい環境で鍛え上げられた優秀な戦車乗りが多くいてですね――――」

「優花里さん、優花里さん。その話はあとで」

「あぁ。だから渡里さんが見に行ったのは、その先を見越してのことだ」

 

準決勝を越えて、決勝戦。

その相手として最も可能性が高い学校を、兄は偵察しに行った。

 

「ふーん、じゃあやっぱり渡里さんは、私たちが準決勝で負けるとは考えてないってことだよね」

「あの人はそもそも、そんなこと考える人じゃない。どこが相手だろうと絶対に勝つつもりでいる」

「えぇ、そうですね。だから私達も頑張らないといけません。渡里さんの偵察が、皮算用で終わらないように」

 

士気が上がる。

こういう時、兄の姿勢というか態度は、凄くいい方向に働く。

負ける事を微塵も考えていないから、必然的にみほ達もそういう風に考えるようになる。

 

果たしてこれも意図した結果か、あるいは偶然か。

まぁ流石に狙ってはいないだろうな、とみほは思った。

無自覚ゆえの必然、とでも言うんだろうか、こういうのは。

 

「頑張りましょうね、西住殿!」

「うん!」

「そうと決まれば早速戦車に―――――あれ?」

「どうした沙織――――」

 

突如として、沙織の視線が一か所に固定された。

横にいた麻子がその視線の先を追いかけ、そして同じように固定。

そうなれば後はドミノ倒し。華、優花里、そしてみほもまた麻子と同じ道を辿った。

 

彼女たちの視線の先。

そこには、一人の女性が立っていた。

 

背は、華と同じか少し高い。

髪は茶色で、肩を少し超えるくらいの長さを一纏めに結っている。

着ている服は、大洗女子学園の制服じゃない。かといって、教師たちのような恰好のものでもなく、言うならそれは私服。

カジュアルな服をセンス良く着こなしていて、どことなく垢抜けて洗練されている感じがする。

 

この時点でみほ達は、あそこに立っている人が大洗女子学園の人間ではないことを悟った。

 

「―――あら?」

 

視線が、交差する。

じっと格納庫を眺めていた彼女の瞳が、みほ達を捉えた。

そして横顔しか見えなかった彼女の顔が、はっきりと正面から見えるようになる。

 

第一印象は、綺麗な人。

切れ長で、少し吊り上がった目。

髪型も相まって、落ち着いた大人という雰囲気が強い。

それでいて凛々しさも兼ね備えていて、陳腐な表現になるが「すごく仕事のできるキャリアウーマン」といった感じが強い。

 

年齢は、兄と同年代、もしくは少し年上だろうか。

みほよりは間違いなく年上だが、世間一般でみれば若い部類に入る。

 

しかしなんにせよ、この場において()()とは言えない人だった。

服装的にも、年齢的にも、彼女はこの場に溶け込んでいない。

 

「タンク・ジャケットを着てるってことは、貴女達が大洗女子学園の戦車乗り?」

 

声は極端に高いわけでも、低いわけでもなかった。

しかしどこか、芯の強さを感じさせる声色。

そう感じるのは彼女が、間違いなく部外者なのに、あまりにも平然と、堂々としているからだろうか。

 

「ん?違うのかしら?」

 

みほ達の沈黙を、彼女は否定と受け取ったらしかった。

我に返った沙織が、慌てた様子で頷き、応えた。

 

「そう、良かった良かった。誰もいないものだから、どうしようかと思ってたの」

 

カラカラと彼女は笑った。

見た目に反して、というのも失礼かもしれないが、結構表情が豊かな人らしかった。

 

しかし本当に誰だろうか、とみほは思った。

みほ達が着ている服を見てタンク・ジャケットと分かったということは、多分戦車道に関係のある人なのだろう。

なら、誰かの身内だろうか。しかし母親にしては若すぎるし、姉妹という程誰かと似ているわけでもない。

 

となると後は、兄の知り合い。

なんとなくそっちの線の方が濃い気がするみほであった。

 

そしてその勘は的中する。

 

「渡里君いるでしょ?」

「渡里君……?あ、神栖殿のことですか?」

 

渡里君。

それはなんだか、とっても聞きなれない呼び方だった。

優花里が一瞬誰の事を指しているのか分からなくなったのも無理はなかった。

 

しかしやはり、兄の関係者か、とみほは思った。

名前呼びされるなんて、また随分と親し気である。

まぁ兄のフルネームはどっちも名前っぽいせいで、昔っから下の名前で呼ばれることが大半だったけど。

 

「そうそう、神栖殿神栖殿。悪いんだけどさ、ちょっと呼んできてくれないかなぁ?」

「あの、お兄ちゃん、じゃない渡里先生はちょうど出張に行ってしまって……」

「え!?もしかしていないの!?」

 

コクリ、とみほは頷いた。

なんともタイミングの悪い話だが、兄はついさっき出立してしまっていた。

今頃はチャーターしたヘリで陸へと向かっている最中だろう。

生憎帰港日は、まだ先なので。

 

「うーん、そっかぁ……それは弱ったなぁ。ちゃんとアポ取っとけばよかったなぁ」

「……渡里さんのお知り合い、なんですよね?」

 

頭を掻く女性に、華が静かに問うた。

すると女性は眉をピンと跳ね上げて答える。

 

「まぁ、そんなところかな。お友達って言うほど親しいわけじゃないし」

「でしたら、どういうご用件がお聞きしても良いですか?渡里さんには後でお伝えしますけど……」

「あー、うん。ごめん、ありがたいんだけど、直接じゃないとダメなの。あんまり人に聞かせられない話でね」

 

人に聞かせられない話。

そう言われては、こちらとしてはそれ以上踏み込むことができない。

華も「そうですか」と言って、引き下がった。

 

「渡里君はいつ帰ってくるのかな?」

「えっと、明日には帰ってきます!早ければ夕方くらいには!」

「んー、そう。ありがとう。じゃあ一応私が来たってことだけ伝えといてくれる?」

 

コクリ、とみほ達は頷いた。

素直な反応に気を良くしたのか、彼女は笑みを浮かべて言った。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が来た―――彼にはそう言っておいて」

 

 

身体が、硬直した。

耳から入ってきた情報を、脳が処理できず滞留しているような感覚がある。

しかし大学選抜時代という言葉が意味するところを、みほはそれでも理解していた。

 

「じゃあよろしくねー」

「あっ――――」

 

彼女が立ち去ろうとする。

それはそうだ。もう彼女に、ここに留まる理由はない。

部外者だし、あんまり長く居座るのも良くないと思ったのだろう。

 

みほは反射的にその背中に声を掛けようとし、そしてすぐに自分が何をしようとしているのか分からなくなってしまった。

呼び止めようとしたのだろうか。果たして、なんのために。

 

そうやってみほが考えている内に、突然現れた彼女は、風のようにいなくなった。

跡形もなく、まるで夢幻だったかのように。

 

「………なんか、不思議な人だったね」

 

沙織のその一言が、全てを表してるような気がした。

 

「大学選抜時代ということは……あの人は神栖殿が大学選抜のコーチをしていた時の選手だったんでしょうか?」

「そうだろうな」

「でも……気になる事を言ってませんでしたか?噛み付いた、とか……」

「どういう意味だろね?」

「さぁ……」

 

少なくとも今は、兄と彼女にしか分からないことなのだろう。

 

しかしなんとまぁ、妙な星の巡りもあるものだと、みほは思った。

兄に大学選抜時代の話を聞こうとしたその日に、その時代の関係者が兄を訪ねてくるとは。

もしこれが神様の仕業だとすれば、一体どういう意図があってのことなのか。

 

「西住ちゃん。今誰か来てなかった?」

「ひゃっ、か、会長……」

 

そしてまたもや、唐突に人が現れる。

 

赤い髪をツインテールにした、小柄な女子。

けれどその実、この大洗女子学園において最も位の高き人。

生徒会長、角谷杏が、気配もなくみほの後ろに立っていた。

 

「えっと、渡里先生の関係者?らしい人が……」

「渡里さんの?女の人だったけど、まさか元カノとかじゃないよねー?」

 

角谷杏とは、常に人を喰ったような……とは言わないまでも、悠々とした態度を崩さないため、こういう冗談っぽい言葉も、逆に冗談に聞こえなくなることが多々あった。

 

「も、もももも元カノぉ!?」

「落ち着け、沙織」

「ち、違います!……た、多分」

 

みほは強い口調で否定する一方で、ちょっと弱気になった。

大学選抜時代の教え子?というのは間違いないだろうが、そこから三歩ほど進んだ関係かどうかは、実は分からない。

可能性の話として、なくはない話である。

 

「大学選抜時代にどうとか仰っていたのですけど……」

「――――――あぁ、なるほど。そりゃ間違いなく元カノなんかじゃないね」

 

途端、角谷の表情はみほ達が見たことのないものに変貌した。

 

そのあまりの変化に、みほ達は面を食らった。

もし角谷が一人の高校生としての顔と、大洗女子学園を統べる生徒会長としての顔の、二つを使い分けているのだとしたら、今この顔は後者のものなのだろうか、とみほは思った。

 

「その人、また来るって?」

「え、あ、い、いえっ。会いに来た、ということだけ伝えてほしいって」

「そっか、そっか……うーん……ま、いっか」

 

どうにも角谷の中では一つの答えが出たらしかった。

それが何なのか、みほ達には皆目見当がつかないけど。

 

「あの、角谷会長は何かご存知なのでしょうか?」

「んー?なんのこと、五十鈴ちゃん」

 

神栖渡里のことか、はたまた彼女のことか。

いやあるいは、それらは根っこでは一つのものなのか。

そのいずれをも、角谷は知っている。

 

「渡里さんが大学選抜のコーチをしていたという話は知っています。それが、()()()()()()()()()()ということも。先ほどの人は、きっとそれに関係しているんですよね」

「………まぁね」

 

いつもの不敵な笑みを、角谷は浮かべた。

しかしその目は笑っていなかった。

 

「――――渡里さんを大洗女子学園に招いたのは私だ」

「……はい、存じております」

「じゃあ、数多いる戦車乗り中から、よりにもよって渡里さんを選んだ理由はなんだと思う?」

 

決して、くじ引きなんかで選んだわけじゃない。

角谷杏は、明確な理由を以て、神栖渡里を選択した。

 

「今でこそ渡里さん以外はない、と思うけど、最初からそうだったわけじゃない。実績とか実力とか、後は受講者たちとの相性とか世間体とか、そういうのを含めて考えると、実は渡里さんより相応しいと思った人はたくさんいた」

 

それでもなお、選ばれたのは神栖渡里だった。

果たしてその理由は?

 

問われずとも、もう話の流れでわかる。

角谷杏が神栖渡里を選ぶ決め手となったものこそが、

 

「大学選抜時代、渡里さんが()()()()()()()。それを知ってたから、私は渡里さんを選んだんだ」

 

剣呑な光を灯した目が、みほ達を射貫く。

チームメイトとしてではなく、上に立つ者として角谷は正対していた。

 

「渡里さんはそれを教えなかった。いや、というよりは『聞かない方がいい』って言ったんじゃない?」

「……はい、仰る通りです」

「でも西住ちゃん達はそれを知りたいんだ?」

 

試すような視線だった。

言い方は違うが、角谷もおそらく兄と同じ忠告をしてくれている。

片や大人として、片や生徒会長として、みほ達を守ろうとしてくれているのだろう。

引き返すなら今だぞ、と。

 

「―――聞きたいです。聞かせてください」

 

けれどみほの心は既に決まっている。

 

「お兄ちゃんがどんな道を辿ってきたのか、それを知りたいんです」

 

兄の口からでも、誰の口からでもいい。

あの人が見てきたものを、みほは知りたい。

 

「――――他の皆は?」

「―――私も、みほさんと同じ気持ちです」

「お互いの事を知るのは大事だもんね!将来的に!」

「どうせなら知っておきたい」

「皆さんがそう言うなら私も!」

 

あんこうチームの言葉に、角谷は短く息を吐いた。

そして瞳からは、剣呑な光が消えた。

 

「かーしまー!」

「はっ、なんでしょうか会長」

「ちょっとあんこうチーム借りるから、練習は西住ちゃん達抜きでやっといて」

「……え、か、会長!?」

「頼んだぞー。じゃあ行こっか」

 

角谷が踵を返す。

向かう先を戦車を格納してある倉庫から、校舎の中、誰にも聞かれない場所(生徒会室)へ。

 

 

そしてみほ達は、神栖渡里の過去を知る。

 

 

 

 

大学選抜は、ごく最近だが大規模な組織改革を行った。

これは一般の戦車乗りの知るところではなく、それこそ西住みほの母や、戦車道協会の上層部といった、戦車道界でも上位の人間のみが知るところである。

 

外部に向けては、プロリーグ設置に向けた日本戦車道振興策の一つとされており、おそらくは今代の大学選抜の選手達も同じような説明をされているだろう。

『これからの日本戦車道を支えるのは、若い世代。若手の育成なくして、戦車道の未来はない』、という甘く輝かしい言葉によって。

 

さておき、それは重要な事ではない。

今注目すべきは、大学選抜は組織改革によって、その歴史にターニングポイントが設置されたこと。

つまり組織改革以前の大学選抜と、以後の大学選抜の二つがあり、

 

「渡里先生はその前者に属していて、後者にはいないってこと」

「はぁ…それは、まぁそうですよね」

 

沙織は曖昧に頷いた。

同意、というよりは「それがどうかしたのか?」という疑問の意味合いが強い風に見える。

 

「じゃあそもそも、何で組織改革が行われたと思う?」

「それは、戦車道振興のため……と仰っていましたけど」

「表向きはね。本当の理由は何か、っていう話だよ」

 

本当の理由。

そんなもの、一つしかないだろうとみほは思う。

 

「なにか、不祥事があった……」

 

公明正大な理由があっての改革なら、寧ろ世間に向けて大々的に広告するだろう。

そうでないと言うのなら、それはそのまま後ろめたい事があったということに他ならない。

 

「その通り。それを隠すために、戦車道振興なんていう嘘をついたってわけ」

「……え!?ちょ、ちょっと待ってください!じゃあもしかして渡里さんが……」

 

その不祥事を起こした張本人。

驚く沙織の言葉の続きを、誰もが正確に予測した。

 

しかし角谷は、首を横に振ってそれを否定する。

 

「不祥事の原因は、当時の大学選抜の監督だよ。渡里さんはコーチ。全然違うでしょ」

 

一同は胸を撫で下ろした。

まぁよくよく考えてみれば、あの人がそんな戦車道を裏切るような真似をするはずがない。

 

「では不祥事というのは?」

「んー、そうだねーどう説明しよっかなー」

 

ソファに背中を預け、角谷は天井を仰いだ。

そしてうーんと思案すること数秒、唐突に彼女は言った。

 

「西住ちゃんさー、黒森峰に一軍とか二軍とか、そういうのってあった?」

「えっ、それは……ありましたけど……」

 

人数が多い戦車道強豪校では、そういう分け方は普通にされている。

黒森峰ならず、確かサンダースでも三軍まで設置されていると聞いたことがある。

というか戦車道に限らず、何かしらスポーツで有名な学校では当たり前の事ではないだろうか。

 

「うんうん、そりゃあるよね。大学選抜もね、例外じゃなかった」

 

角谷の指が踊る。

まるで魔法使いが杖を振るうかのような手ぶりと共に、角谷は言葉を続けた。

 

「大学選抜じゃ、各役職に分かれて、順位がつけられてたんだ。砲手の一位、装填手の二位、操縦手の三位って感じで全部縦一列に。そして、チームを作る時はそれを横で結ぶんだ」

 

そうすると各役職の一位(トップ)が集まったチーム、三十位(ビリ)が集まったチームといった具合に三十個のチームが出来上がる。

 

「色々賛否はあるだろうけど、まぁ効率的だよねー。分かりやすく強いチームと弱いチームができるし」

「そう、ですね」

 

チームの作り方はそれぞれだ。

大洗女子学園は偶々仲の良い者同士が集まってチームを作っているが、当然そうじゃないチームもたくさんある。

寧ろ大学選抜のような、完全実力順で作られるチームの方が多いかもしれない。

 

そこに良し悪しも優劣もないのだ。

だって一番強いチームの作り方なんて誰も分かりはしないから。

強い人を集めたら強いチームができるというほど、戦車道の世界は単純じゃない。

 

「それでね、そうやってできた一位から十五位までの集まりをAチーム、十六位から三十位までの集まりをBチームとした。まぁ単純な分け方だよ」

 

前者が一軍、後者が二軍ということか。

此処まで聞いた感じ、別におかしなことはない。

普通に普通のことをやっているだけだ。

 

「ところでさ、一軍と二軍の違いって何だと思う?」

「違い……ですか?それはやっぱり、実力でしょうか」

 

一軍は最精鋭で、二軍以下はその控え。

一軍より強い二軍はいないし、二軍より弱い一軍はいない。

二つを明確に分かつものといえば、みほはやはり実力が真っ先に出てくる。

 

「それだけ?一軍だけが得られる特権とか、そういうのはなかった?西住ちゃんも一軍だったんでしょ?」

「そ、そんなのありません!」

 

後は何も二軍と変わらない。

寧ろ変わっていてはいけないのだ。

だってそうじゃなければ、それは()()になってしまう。

 

確かに、試合に出られるのは一軍だけで、言ってしまえばそれこそが一軍だけが得られる特権かもしれない。

でもそれ以外は平等だ。同じ時間、同じ権利、同じ環境が等しく与えられている。

その中で競い合い、一軍の座を取り合う。

そうでこそ、その席に座れなかった者は、席を勝ち取ったものを素直に応援することができる。

 

『平等じゃない』は言い訳になってしまうし、それは結果としてチームの強度を下げてしまう。

それが解ってるから、誰もが決して差別をしようとしない――――

 

 

「―――――大学選抜にはね、それがあったんだ」

 

 

―――――はずだった。

 

「まぁAチームに特権が与えられたというよりは、Bチームから人権が奪われたって言った方がいいのかな」

「じ、人権って……」

「そのままの意味だよ、武部ちゃん」

 

驚愕に顔を染める沙織に、角谷はあまりにも平然として告げた。

 

「Bチームの選手はね、自由と尊厳を奪われたんだ。あらゆる雑用を押し付けられ、Aチームの世話をさせられ、少しでも反抗的な態度を見せれば、気に食わないと物を投げつけられることも珍しくなかった……ただ、弱いという理由だけで」

「そんな……そんなの酷すぎます!」

 

優花里の眉が逆八の字を描く。

 

「同じ選抜のチームメイトなのに……」

「そうだね。でも、これは事実だよ。公になっていないだけで、チーム内では当たり前のように行われていた事だった」

「……なんでそんなものがまかり通るんだ。渡里さんがコーチをやっていたなら、そんなことは絶対させないはずだが」

「その時は渡里さんじゃなくて別の人がコーチをしてたんだって。……まぁ誰がいても同じだったと思うけどね」

「なぜでしょうか?指導者という立場であれば、そんなことすぐにでも辞めさせることができたはず――――」

 

 

「だってそんな風にしたの、大学選抜の監督だもん」

 

 

そんなことがあり得るのか、とみほは耳を疑った。

選手達が暴走した結果の横暴であれば、それはまだ分かる。

力に溺れて我を失うなんてことは、よくある話だから。

 

けれどよりにもよって指導者が、それを率先して行ったなんて。

一体なんのために。

何がしたくて。

そんな酷いことができるのか。

 

「言ったでしょー、不祥事の原因は監督だって……あえて名前は言わないけど、()()()が監督になってから大学選抜は変わった。和気藹々と互いに切磋琢磨できていたチームは、完全実力主義になり、強い者だけにあらゆる権利が与えられ、弱者はただ虐げられるだけの存在になったってわけ」

「………どうして」

 

ポツリ、とみほの口から言葉が零れた。

それはさながら、満杯の器から水滴が落ちるようであった。

 

「どうして、その人はそんなことをしたんですか……?」

「――――王様になりたかった。ただそれだけだよ」

 

心底つまらないものを見るかのような口調だった。

勿論角谷の瞳が映しているのは、みほ達ではなく、ここに在りはしない者の姿である。

 

「大学選抜っていう国の全てを支配して、好き勝手やりたかった。だから強い奴(Aチーム)に特権を与えた。そうやって甘い蜜を吸わせてやれば、Aチームは従順な犬になる。結果としてBチームからは反感を買うだろうけど、一番強い奴等(Aチーム)は自分の味方なんだから、そんなの痛くも痒くもないよね」

 

巧妙な手だ、とみほは思った。

もしBチームの不満が爆発し、反旗を翻したとしても、Aチームには勝てない。

なぜならAチームは、その強さの対価として特権を賜った者であり、Bチームはその弱さの罰として虐げられた者だから。

 

そしてそうやって搾取される側とする側がいる限り、支配体制が崩れることはない。

()()の独裁は、盤石であり続ける。

 

「そんなのがずっと続いたんだ。Bチームの中には戦車度を辞めようとした人も相当いたらしいよ」

「……ん?()()()()()()()?ってことは実際は辞めなかったんですか?」

「うん。最終的には全員大学選抜に残ったよ」

「な、なんでですか?」

 

それは変だ。

戦車道を辞める、とはいかないまでも、大学選抜に残る理由はないだろう。

別に大学選抜じゃないと戦車道ができないわけでもないのに。

 

「監督がね、島田流の関係者だったらしいよ」

 

その名前は、特にみほにとっては深い縁を持つものだった。

 

「西住ちゃんは知ってるよね、島田流」

「……はい」

 

島田流。

それは西住流と対を成す、もう一つの最大流派。

あらゆる意味で西住流の対極にある、もう一つの最強。

 

「その島田流?がどう関係あるんですか?」

「皆、大学選抜から途中下車して島田流に目を付けられるのが怖かったんだ。もしそうなれば、この先まともに戦車道ができるかどうかも分からない。本当はそんなことないとしても、そう思い込ませるだけの力が、島田流にはあった」

 

それはあまりにも辛い二者択一。

日々虐げられながらも、それを我慢して未来を取るか。

戦車道ができなくなる未来を選んででも、現状から逃げ出すか。

 

そのどちらかをBチームを迫られ、そして全員が前者を選んだ。

すなわち、()()の独裁の存続を。

 

「だから誰も逃げれなかったし、口外することもできなかった。Bチームに出来たのは、ただただ我慢することだけ。自分が引退する、その日までね」

 

八方塞がり、というのは正にこういうことを言うのだろう、とみほは思った。

反逆の芽はあっても開花することはなく、外部とは完全に断絶され、助けが来ることもない。

あまりにも綺麗に作られた独裁体制だ。

 

状況を打破するには、Bチームが立ち上がるしかない。

そしておそらく、それが分かっていたからこそ、()()は真っ先にBチームの心を折っている。

決して褒めるつもりはないが、その()()は支配の仕方を良く知っている。

 

「……わかった」

「へ?どしたの麻子」

「渡里さんが大学選抜で何をしたのか、だ」

 

麻子が静かに言う。

その傍らで、みほもまた麻子と同じ答えに行き着いていた。

 

『大学選抜の半数を率いて、もう半数を叩きのめした』、という兄の話が、今ようやく鮮明に浮かび上がる。

つまり兄は、

 

「その差別をなくそうとした……」

 

みほの言葉に、角谷の口角が吊り上がった。

それが同意を表していることは明白だった。

 

みほの知る兄であるならば、当時の大学選抜は決して容認できるものではなかったはずだ。

何よりも戦車道に対して誠実だからこそ、その戦車道が間違った使い方をされるのを黙って見ていられない。

話し合いで、それが無理なら力づくで、戦車道を本来あるべき姿に正そうとするだろう。

誰にも、何にも折れず曲がらない、鋼の意志を以て。

 

「それまで大学選抜にいたけど、直接指導に関わることはなかった渡里さんがBチームのコーチになったのは、差別が横行してからしばらくしての頃。ずっと『コーチやらせろ』って催促し続けて、ようやく口利きしてもらって就任したんだって」

「とても渡里さんらしいですね……」

「Bチームの人達にはあんまり歓迎はされなかったらしいけどね」

「そうなんですか?神栖殿の実力であれば寧ろ……」

「いやいやー、だって当時の渡里さんの年齢21とかその辺だからねー。ほとんど同い年の人がコーチだって言われても、正直微妙でしょ?」

 

確かに、とみほは思った。

年下のコーチなんて、普通に受け入れられるわけがない。

 

「それに加えて渡里さんは男性だったしね。それだけでもちょっと疑うのに、諸悪の根源である監督も男性だった大学選抜じゃあ尚更ね」

「あぁ……それは……」

 

兄が悪いわけじゃない。

けど「自分達をこんな目に遭わせた人間と同じ属性を持っている」というだけで、Bチームの人達にとっては充分信用ならなかったんだろう。

それもまた、仕方のないことではある。

 

「まぁ、開幕に『ひどい負け犬の匂いがするなぁ。一緒にいるコッチまで辛気臭いのが伝染るわ』って言った渡里さんも大概だけどね」

 

それは兄が悪い。

いや何してるんだろう、あの人。

およそ考え得る中で最悪の選択肢をヘッドスライディングしながら両手で掴みにいってるレベルなのだが。

 

「負け犬……あの、もしかしてさっきの人は―――」

「あ!そういうこと!?」

「Bチームの方だったのかもしれませんね」

「だとしたら用件は怨恨か何かか」

「ま、麻子さん……」

 

しかし強ち否定できないみほであった。

一番噛み付いた負け犬、とわざわざ自分で言うくらいだし、相当強い感情を持ってることは間違いない。

 

「まーそれはどうだろね?渡里さん、形はどうあれ一応はBチームを救ったわけだし」

「……ということは、渡里さんは」

「うん。紆余曲折はあったけど、Bチームと一緒に戦い、Aチームを倒した。実力が全てだった大学選抜において、これ以上ないくらい完璧な下克上ってわけ」

 

強いから、という特権の支柱を失った以上、Aチームはこれまでと同じように振舞うことができない。

そしてAチームとBチームの力が同一になったことで、()()の支配体制も崩壊する。

 

「そこからはもうあっという間。瞬く間に()()の悪行は広まって、大学選抜は改革のメスを入れられることになった。当然、()()は責任を取らされて失脚(クビ)。Aチームも同じように除名処分された」

「大学選抜の悪行に関わった人間は全員いなくなったわけか」

「じゃあ大学選抜も元通りになったんですね!」

 

諸悪の根源も、その恩恵を受けた者もいなくなり、残ったのは正しい心を持った選手(Bチーム)コーチ()のみ。

悪は滅びて善が勝つ、お手本のような勧善懲悪ではないだろうか。

 

何が聞かせづらい話、だ。

確かに差別とか特権とか、あんまり気分の良くない単語が出てきたけれど、最終的には善き結末を迎えているのだから、隠すようなことでもないだろうに。

 

寧ろみほは、兄がみほの知っている姿から今も昔も変わってない、ということを知ることができて良かった、とすら思っている。

 

(あ、だから話したくなかったのかな)

 

()()()()()()()を見せたくなかった、ということか。

まったく、変な所で恥ずかしがり屋なんだから―――――と、みほが思った、その時。

 

 

「――――――じゃあ、渡里さんは何でここにいるんだろうね」

 

 

角谷の静かな、それでいて鋭い一言がみほ達を襲った。

沈黙が、場を支配する。

 

角谷の言葉は理解していた。

その上でみほ達は、出すべき言葉を失っていた。

 

「西住ちゃん達さぁ、一つ勘違いしてない?」

 

角谷の声色が、変貌する。

それはおそろしく冷たい色だった。

 

「改革、だよ?改造じゃなくて、改革。ちょっと手を加えて直すとかじゃなくて、一から作り直すんだ」

 

背筋が温度を失う。

だというのに汗が零れ落ちそうになる自分がいた。

それは角谷の次の言葉を、正確に予知してしまったからだろうか。

 

一言、放たれる。

 

 

「なら()()()()()()()()は、全部いらないよね?」

 

 

 

 

 

 

みほは夜を歩いていた。

戦車道の練習終わりは、いつもこんな時間だった。

 

帰り道に、みほは色んなことを考える。

晩御飯はどうしようか、とか、明日の宿題まだやってないな、とか。

そういったことをツラツラと考えながら、ゆっくりと歩いて帰る。

 

けれど今日は違う。

みほの頭の中では、角谷の話がずっとリフレインしていた。

 

『改革を掲げる以上、先代のものは何一つ残してはいけない。例えそれが、悪を討った善だとしても』。

 

そんな理由で、兄は大学選抜を除名されることになる。

その説明を聞いて、みほは一つ思い出したことがあった。

 

それはずっと前に優花里に聞いた話。

兄が大学選抜にいたという情報が、根こそぎ消去されていたという事。

アレもまた、改革の過程で行われた、野焼きの一つだったのだろう。

 

「…………」

 

兄は、何一つ間違ったことはしていない。

正しい価値観と正しい行動を以て、悪を正した。

それは絶対に、褒められるべきことのはず。

 

なのに兄は、戦車道を奪われた。

正しい事をした対価として、何よりも大事なものを失った。

 

兄は、それを理解していたのだろうか。

それとも、知らなかったのだろうか。

 

どっちにしても残酷だ。

一体誰が、そんなことを兄にさせたんだ。

 

『私はこの件について、渡里さんと当時Bチームにいた人の、両方から聞いた。そして一つ気づいたことがある』。

 

角谷は話の最後に、一つの推論をみほ達に披露した。

 

曰く、これらの一連の騒動は、ある者によって仕組まれたものである。

その者の目的は、()()と同じく大学選抜を掌握すること。

しかし直接的にではなく、管理という形で支配することを望んでいた。

 

そのためにその者は、神栖渡里を大学選抜のコーチにした。

その者は神栖渡里の性格をよく知っていて、神栖渡里が大学選抜の現状を受け入れることができず、間違いなく打破するであろうと確信していたから。

そして結果、神栖渡里はその者の予想通り、()()を叩きのめし、改革への道を拓いた。

 

ならば次はどうするか。

大学選抜をその手に収めるためには、自らがそのトップの座に着かなければならない。

そのためには、自分に逆らう可能性のある者、自分より求心力のある者を全て排除する必要がある。

 

それこそが、神栖渡里だった。

大学選抜の改革という名目に託けて、その者は神栖渡里を大学選抜から排除した。

そして残ったのは、自分の裁量で好きな色に染め上げることができる、真っ白な大学選抜。

その者は、ただの一度も表舞台に出ることなく、一度も自分の手を汚すことなく、誰もを掌の上で踊らせて、自分の目的を完璧に果たしたというわけだ。

 

畢竟、神栖渡里は利用されたのだ。

目的を達成するための、都合のいい駒として採用され、使われ、そして最後には捨てられた。

おそらくは、戦車道を餌にされて。

 

「…………」

 

誰がそんなことをしたのか。

()()()とは一体誰なのか、と聞いたみほに、角谷は短く答えた。

 

――――この騒動で、一番得をした人だよ。

 

その人が、兄を利用した人。

 

兄を大学選抜に招いて。

兄を大学選抜のコーチにして。

そして兄を大学選抜から追放した。

 

それが誰か、みほは既に思い当たっていた。

 

「………」

 

けれど、それだけだった。

勿論怒りは、ある。

大好きな兄がこんな形で利用されて、その挙句に捨てられたなんて、例えどんな理由があろうと、みほは決して認めることができない。

 

けれどそれ以上にみほの心を占めていたのは、一つ。

角谷が兄から聞いたというある言葉が、その怒りを打ち消していた。

 

 

「『俺は戦車道の女神に嫌われている』……」

 

 

みほは夜空を見上げた。

そこには微かに瞬く、星々の輝きがある。

 

兄にとって戦車道とは、あの星々と同じようなものなのだろうか。

自分にはこんなに綺麗に見えるものが、兄には違う風に見えているかもしれないことを、みほはこの日初めて知った。

 

 

 

 

 

 




〇3分でわかる35話まとめ

オリ主を大学選抜に招いた人:島田流家元。島田○○○の母。今回の話のキーパーソン。
「娘のために大学選抜という日本でもトップクラスの環境を与えたい。っていうか娘の実力的には大学選抜くらいが適正」
という考えの元、大学選抜GETだぜ!作戦を敢行したただの子煩悩。
話がみほ視点で進んだため悪者っぽく見えるが、実際は悪くない人。良い人ではない。

「監督」:島田流の分家の人間。
島田の名前を使って大学選抜を我が物にしていたところ、「分家とはいえ仲良いわけじゃないし、何より大学選抜をGETするには邪魔」ということで、島田流家元の策略により全てを失った。自業自得。
ちなみにプロローグでオリ主と戦っていたのはこの人。
結果は知っての通り、ボコボコのボコ。テーマは「分かりやすい悪役」。

オリ主:戦車道に釣られて島田流家元の策略の片棒を(知らないまま)担がされた。
まぁ知ってても同じことをしたので、結果は一緒。
一応島田流家元から「その気があるなら再雇用するけれど?」と言われたが断ったため無職に。ここからなんやかんやあって大洗女子学園に講師として招かれることになる。


それでは次回、36話「ひねくれチューリップ帽子と会いましょう」にてお会いしましょう。








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第36話 「ひねくれチューリップ帽子と会いましょう」

全ては「クールキャラが最も輝く瞬間とは」という疑問から始まった。

というわけでダー様、カバさんチームと並ぶ「三大書くの難しいキャラ」の一角、カンテレスナ〇キンの登場です。

まじなんなんだよこいつもっと普通に喋れよキャラ崩壊させないのめっちゃむずいんだよそういうところも好きだけどさぁ。






ヘリを降りて、地を踏み締める。

人工の大地ではなく、地球そのものである大地の感触は渡里にとって随分久しぶりで、知らずその頬が緩んでいた。

 

学園艦が嫌いなわけでも、海が嫌いなわけでもない。

潮風の匂いも揺蕩う波の光景も、渡里には十分楽しめるものだ。

でもそれでも、渡里は()()()の方が性に合ってる気がした。

 

それもそうか、と渡里は思った。

 

みほや沙織と違って、渡里はまだまだ学園艦に乗ってない月日の方が長い。

サンダース大付属にいた時で二年。

大洗女子学園にやって来てから今に至るまでで、三ヶ月。

合計しても、彼女たちの三分の一程しかない。

 

たったそれだけの時間でも馴染んでしまえる人は、多分たくさんいる。

でも渡里はそうじゃない。

ということはやっぱり、渡里は陸の上の方が合ってる人間なのだろう。

 

(んー、意外と早く用事が終わってしまった)

 

今回の出張の目的は、最後の二回戦の偵察である。

しかしどうせ学園艦を降りるなら、ということで、ついでに済ませてしまおうと色々な予定を纏めていたわけだが、渡里の予想に反してそれらは滞りなく終わった。

 

その結果、現在時刻は午後3時。

何かするには遅いが、何もしないには早い、というとても中途半端な時間に、渡里は二回戦の試合会場に着いてしまった。

 

(ホテルは……うーん、時間が勿体ないよな)

 

試合開始は翌日。

所謂前入りというやつをやってみたわけだが、こんなことになるならやめとけばよかった、と渡里は少し後悔した。

他の予定との兼ね合いやヘリの都合も考えて一泊二日にしたわけだが、どうも裏目である。

 

やることがないならさっさと宿泊先にチェックインして、引き篭もればいいかもしれないが、スイッチさえ入れば結構アクティブな気質の渡里にとっては、それはあんまりよろしくない。

 

かといって試合会場は立ち入り禁止。観客席くらいまでは入れても、実際に戦車が走る戦場を見ることはできない。

だから下見は不可能で、加えてこの辺りは別に観光地というわけでもないから他に見るものもない。

まぁ探せば色々あるのかもしれないけど、少なくとも探してまで観光したいという気持ちではない。

時間はあるが、暇つぶしの為ならなんでもする、というわけじゃないのだ。

 

(仕方ない。我慢してホテルで寝るか)

 

携帯を取り出し、地図アプリを起動して、ホテルへの道を検索する。

どうせならできるだけ何かありそうな道を通ろう、と渡里は思った。

多少の遠回りは、この際目を瞑って。

 

 

 

 

テク、テク、テク、と。

辺りを見回しながら町を歩く。

 

すれ違う人と時々目が合えば会釈して、ショーウィンドウに飾ってある商品を別に興味もないのに見たりして、美味しそうな物が売ってあればちょっと買いたくなっちゃって。

 

そんな風に、なんでもないように歩く。

 

そうしていると、渡里は少し昔を思い出す。

大学選抜を辞めてから、大洗女子学園の講師になるまでの、一年を。

 

その一年を一言で言い表すなら、旅。

日本全国をあてもなく、風の行くまま気の向くまま、フラフラと巡るだけの、そんな一年だった。

風来坊、と言うんだろうか。でも、そんな格好の良いものではなかったかもしれない。

ただ無気力で、やる事が無くて、けれど何にもできない自分には耐えられなかったから、とにかく動いていたかった。

足から生える根が地面と結びついて、動けなくなってしまわないように。

そうなってしまったら、きっと自分はもうどこにも行けなくなると、そう確信していたから。

 

なんとなく、いい旅だった気はしている。

今まで知らなかったものをたくさん見て、聞いて、嗅いで、触って、味わって。

戦車道しかなかった神栖渡里という人間に、たくさんの色が入った。

 

人との縁も増えた。

老若男女、様々な人と数え切れないほど出会った。

中にはまぁ、そんなにいい出会いじゃなかったものもあったけど、それもこれも貴重な経験。

きっと、人間的にはとても豊かになれたと思う。

 

けれど結局、渡里の心が満たされることはなかった。

人の優しさも、施しも、痛みも、悲しみも、喜びも、怒りも、醜さも、美しさも、何もかもも、心にポッカリと空いた穴を埋めてはくれなかったのだ。

 

別に感情を失ったわけじゃないし、自棄になったわけでもない。

人に優しくされれば嬉しいし、逆に優しくしてあげたら良い気分になる。 

変な目で見られたらムッとすることもあるし、時々悲しくなったりもする。

人並みの情動はちゃんと持ってる。

 

しかし渡里の中から、寂しさがなくなることはなかった。

何をしていても、どんな時でも、ずっと寒かった。

戦車道がない世界は、渡里にとって余りにも暖かさに欠けていた。

 

我ながらよく耐えたものだと思う。

あんまり考えたくないが、大洗女子学園から戦車道講師の要請がなかったら、果たして自分はどうなっていたのだろうか。

 

角谷から講師の話を聞かされた時は、敢えて乗り気じゃない風を装ってみたが、角谷から「じゃあ他当たりますねー」と言われたら、その場で何の躊躇いもなく土下座しただろう。

それくらい戦車道に飢えていたのだから、あのまま旅人を続けていたらと考えると、ゾッとする話である。

 

(そういや、見抜いてた奴がいたっけか)

 

そんな渡里の状態に気づいていた人間が、一人いた。

状態というよりは本質と言うべきかもしれないが、とにかく戦車道がなければダメという渡里の基本骨子を会って直ぐに見抜いた人間が。

 

思い出しても、変わった奴だったと思う。

なんというか、とにかく捻くれている奴で、日本語の表現力と難解さを体現するような困った性格をしていた。

 

旅の最中、いろんな人に出会ったが、アレより強烈な奴もそうそういなかったと思う。

未だに顔と声、それから初めて会った時のことを鮮明に思い出せるし。

 

(無駄に美少女だったんだよなー)

 

ちゃんとした格好をして街を歩けば、すれ違う男共の視線を独占するような、そんな少女だった。

ただ当然、口を開かなければという条件がつくが。

あと格好も普段のままじゃダメだろうな、と思う。

別に変じゃなかったが、普通でもなかったのだ。

 

上はジャージ、下はスカート。

小脇には楽器を担いでいて、頭の上には変な縞々の帽子。

 

いくら美少女でも、そんな恰好をしてるのでは流石に声は掛けづらいだろ、と渡里は思う。

なんとなく、記憶に焼き付いている理由の大半は、彼女の見た目にあったような気がしてきた。

 

(特にあの帽子……アレなんていうんだろうな……ドアノブカバーみたいなやつ)

 

正式名称あるんだろうか、と何気なく考えていた、その時だった。

 

――――ふと、視界の端に渡里はソレを捉えた。

 

振り向き、視線を注ぐ。

そこにあったのは、白と水色の縞々。

妙に背の高い形をした、変なデザインの帽子。

 

しかし紛れもなくそれは、渡里の頭の中にある像と一致する形。

 

(あーそうそう、これこれ。こんな形してたわ)

 

値札の所に名前とか書いてないだろうか、と手に取って確認しようとする渡里。

その視界に、()()の姿は映っていなかったのだろう。

 

 

「いきなり頭を撫でようとするなんて、随分情熱的になったんだね」

 

 

なぜならその声を聞いた時、初めて渡里はその帽子が店頭に飾ってある売り物ではなく、人が被ってあるものだと気づいたのだから。

 

「でも、できればもっと暗くなってからにして欲しいな」

「………うわ」

 

記憶の中の映像が、現実とリンクする。

まるで投影でもしたかのように、頭の中の彼女は渡里の視線の先にいた。

 

水色を基調としたジャージと、ダークグレーのスカート。

アッシュのロングヘアと、端正な顔立ち。

そして膝の上に乗っかった、珍しい種類の楽器。

 

「―――――渡里さんが我慢できないと言うなら、別にいいけどね」

 

ミカ、という呟きが、虚空に溶けて消えていく。

彼女はにっこりと、典型的な美少女の顔をして笑った。

 

 

 

渡里が彼女と初めて出会ったのは、とある森の中であった。

 

いや、別に富士の樹海よろしく自殺しにいったわけじゃなく、なんとなく「おにぎりって森の中で食べたら遠足みたいな気分になって美味しくなるのでは」と思い至ったからなのだが。

今考えると自分でも結構頭おかしいな、とは思う。いや思いつくだけならまだ良いかもしれないが、それを実行に移した辺りがヤバイ。

けどまぁ、まともな思考回路をしてたら旅なんてそもそもしてないし。

 

ともかく、そうしてコンビニ袋を携え、その辺にあった手頃な森へと足を踏み入れて、どうせなら奥の方まで行ってみるか、とテクテクと歩いて進んだ、その先で。

 

渡里は、美しい音色を聞いた。

 

その音がカンテレによるもの、というのは後に知ることだが、ともかくとして渡里はその音を聞いた。

 

芸術はサッパリだが、それでも巧い弾き手だというのはわかった。

これが少しでも感受性の豊かな人間であれば、「踊るような音」だとか「森と調和するような音色」だとか、そういう詩的な表現でその音を評したのだろうが、その時の渡里は「綺麗な楽器の音だ」という小学生以下の感想しか出てこなかった。

 

さてさて、それで渡里がどうしたかというと。

心に穴は空いてても、好奇心が失われたわけじゃない。

あんまり人気のない森の中で、楽器の音が聞こえてきたなら、それはもう音の在処を探すしかないだろう。

 

というわけで、幼少のみほよろしく、吶喊である。

草を踏み分け枝を避け、意気揚々と突き進む。

そして渡里は、間もなくソレを見つけた。

 

「………」

 

水色と灰色と白を足して混ぜたような、そんなカラーリングが施された戦車。

その傍に置かれたテントと、おそらく焚火になるであろう枝の山。

そして、

 

「―――――♪」

 

戦車に腰を掛け、瞑目して楽器を鳴らす、一人の少女。

 

思わず息が漏れそうになったのを、渡里は今でも覚えている。

 

なんとも、ノスタルジックというか幻想的というか、そんな光景だった

森、戦車、少女。

その道の者ならば、大枚を叩いてでも買うような、そんな絵が目の前にあって。

 

「――――♪」

 

渡里の心は、釘付けになっていた。

立ち去ることも、声を掛けることもできず、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 

「――――お兄さん」

 

彼女の綺麗な瞳が、渡里を貫く。

楽器に負けず劣らずの美声が鼓膜を打ち、ようやく停止していた渡里の意識が動き始めた。

 

あぁしかし、それでも渡里の身体は未だ停止していた。

なぜなら渡里の心が、彼女の美しい表情に、可憐な仕草に、魅了されてしまっていたから。

 

だから渡里は、ただ彼女を見つめることしかできなかった。

端正な唇から紡がれる言葉の一字一句を聞き洩らさないよう、耳を凝らすしかなかった。

 

息が言葉を成す刹那の間さえも、渡里にとっては永遠のように感じられて。

一刻も早く声を聞きたいと、そう思う自分が既に彼女の虜になっていることを、渡里は今更に理解した。

そしてあまりにも美しい彼女は言う。

 

 

「――――何か食べる物持ってないかな?」

 

 

 

 

 

「――――待って。私はそんなこと言ってないよ」

「俺だってお前の虜になんかなってねぇわ」

 

勝手に過去を改変するな、と呆れた様子をこれっぽっちも隠すことなく、渡里はそう言い放った。

その横で彼女は、ミカは相変わらずのポーカーフェイスを保っている。

出会った時と何一つ変わっていないようで、安心したやらガッカリしたやらの渡里であった。

 

場所は移りて二回戦試合会場の観客席。

本来であれば関係者以外立ち入り禁止のこの場所に、渡里と彼女は我が物顔で居座り、昔話に花を咲かせていた。

 

「それはどうかな?初めて会った時、私の顔を穴が空くくらい見つめてただろう?」

「残念だったな。アレはお前の顔を見てたんじゃなく、お前の後ろにあったBTを見てたんだ」

「隠さなくてもいいんじゃないかな?聞くところによると、私の見た目は渡里さんの好みと一致してるらしいね」

 

どこで聞いたんだ、と内心で渡はため息をついた。

いやもちろん、ミカの言葉が渡里を揶揄うためのものであることは承知している。

彼女は渡里の反応を見たいだけであり、好み云々は実際にどこかで聞いたわけじゃなく、要するに捏造だ。

渡里の好みのタイプは、残念ながら渡里しか知らない、多分。

 

どう対応すべきか、と渡里は思考した。

ただ落ち着いて否定しても、慌てて否定しても、否定した時点でミカの二の矢が飛んでくることは明白。

そうして一度でも防御に回れば、あっという間に主導権を握られ、この嗜虐的な笑み(ドヤ顔)を延々と見せられることになるだろう。

 

いくら聞き心地のいい声だとしても、そんなのはまっぴらごめんである。

 

ならどうするか。

その答えは、既に渡里の中にあった。

 

前に向いていた視線を、横に向ける。

黒い瞳が覗くは、彼女の髪色と同じ色の瞳。

真っ直ぐに見つめて、一言。

 

 

「あぁ、大好きだ」

 

 

白い肌に、朱に染まる。

あえて詩的に表現するならば、白雪から紅玉へ、というところだろうか。

まぁ何にせよ綺麗な事には変わりないが。

 

その様子を見るに、どうやら決定的な逆撃を与えることには成功したようだった。

 

真っ赤な顔。開いた目。真一文字に結ばれた唇。

 

戦車道以外の万事に鈍い渡里だが、流石にこの様を見て何も気づかないわけはなかった。

この少女、間違いなく照れている。

 

「そ、そうかい?あ、いや―――――だろう?」

 

そうしていつものすまし顔を浮かべるミカ。

しかし時すでに遅し。

慌てて顔を取り繕ったところで、その真っ赤な頬っぺたは隠しようがない。

自分がどれだけ致命的な隙を晒したのか、果たして彼女は分かっているのだろうか。

 

「もう少し年を重ねたら、な。悪いけど今は子どもにしか見えねぇよ」

「む」

 

追撃してもいいが、それはそれで面倒くさそうな匂いがしたので、渡里は退くことにした。

とりあえずはこの少女に一杯食わせてやっただけで良しとしよう。

硬直したミカを横目に、渡里は内心で笑みを浮かべた。

 

「……そうやって、今までどれだけのいたいけな少女を揶揄ってきたんだい?」

「バカを言うな。紳士の国に留学してた俺がそんなことするわけないだろ」

「実際に今してるじゃないか」

「いたいけな少女がどこにいるってんだよ」

 

じとー、という視線を感じる。

しかしそんなのどこ吹く風、渡里は喉を震わせて静かに笑った。

悪いが舌戦なら負ける気はしない。

みほ相手ならまだしも、ミカ程度に後れを取る自分ではない。

 

「……どうやらあの頃の純真で素直な渡里さんは、もういないみたいだね」

「そういうお前は一向に変わってないようで何よりだ」

 

不意打ちに弱いところとか、特に。

そう言うとミカは僅かに頬を膨らませて、プイと顔を逸らした。

とりあえず第一ラウンドは渡里が制したようである。

 

ところで純真で素直な神栖渡里って、それ人間なのだろうか。

想像するだけで鳥肌が立つのだが。

 

「大体半年振りくらいか?」

「………四か月だよ」

 

ミカはそっぽを向いたままだった。

そして白い指がカンテレに添えられ、間もなく綺麗な音が響くようになった。

 

ミカと渡里の付き合いは、実は大洗女子学園の面々より長い。

知り合った時期もそうだし、一緒にいた時間もそう。

渡里の記憶が正しければ、確か半年くらいは一緒にいた。

 

断っておくが別に同棲していたとか、そういうわけではない。

ただ大学選抜のコーチを辞めてから大洗女子学園に講師として招聘されるまでの一年、渡里の放浪の旅に半年ほど付き合っていた物好きがいた、というだけの話である。

 

出逢ったのは、本当に偶然。

なんかもう声を掛けずにはいられないくらいの変わり者(ミカ)がいたから、好奇心でちょっと話してみたら案の定すっごい変わり者で、「こいつやべぇ」と速やかにエスケープしようとしたらそのまま纏わりつかれて、そこからあれよあれよと話が進んで一緒に旅をすることになった。

 

渡里に拒否権は、どうやらなかった。

ミカ、そして彼女の仲間たちの言い分は『自分たちの行くところに渡里がいる』であり、決して同行しているわけではなかったそうだが、どう考えても詭弁である。

 

そういうわけでミカ達をお供にするようになって渡里の周りは随分華やかになったわけだが、これがもう一月くらいで「勘弁してくれ」と言いたくなるものだったのだ。

 

確かに、客観的に見れば女子高生を三人も侍らせるという世の男性の浪漫の果てみたいな状況だったかもしれない。

故に渡里に対して「そこ変われ」という男性もいるだろう。

けれどそれは、その女子高生が華や沙織や麻子といった普通の女子高生であった場合の話である。

 

一人、お前本当に女子かと言いたくなる程の野生児。

一人、根は真面目で優しいのだけど凄くお節介な子。

一人、カンテレと帽子が本体の美少女の無駄遣い。

 

果たしてこのメンツを見て羨ましいと言う奴がいるだろうか、いやいない。

キャラが濃すぎて胃もたれする。っていうか実際にした。

 

「アキとミッコは?戦車のお守りか?」

 

いつも傍に控えている仲間がまだ見えてないことを疑問に思い、渡里は少し聞いてみた。

ちなみにアキがお節介の方で、ミッコが野生児の方である。

 

「二人なら食料調達に出かけているよ」

「相変わらずの現地調達か。貧乏学生は大変だな」

 

渡里は喉を鳴らして笑った。

ただの女子高生、それもアルバイトも何もしてない彼女たちは、当たり前だがいつも金欠。

渡里がいた時は多少マシな生活をさせてやれたが、どうやら彼女たちは渡里と別れてからは、渡里と出逢う前の生活に戻ったようだった。

 

件の二人も、おそらくは川で釣ったり、そこらで山菜を採ったりしているのだろう。

 

「そうでもないさ。最近、無料でご飯を食べられるイイ方法を見つけてね」

「あ?……お前、いくらなんでも盗みはダメだろ」

「渡里さんの中で私はどういう扱いなんだい?」

 

そりゃお前、屁理屈捏ねて人の財布から金抜き取っていくような奴だけど。

 

「簡単さ。人生に疲れた大人の男の人に、少しいい思いをさせてあげるだけ。それだけで皆喜んでご飯を恵んでくれるんだ」

 

彼女の瞳が、蠱惑的な色を帯びた。

途端、ジャージを下から押し上げる確かな胸の膨らみが妙な存在感を放つ。

 

「男の人って簡単なんだね。今まで渡里さんしか知らなかったから気づかなかったけど」

 

ずい、と彼我の距離が縮まる。

今度は渡里からではなく、彼女の方から。

 

「ねぇ、渡里さん」

「……なんだよ」

「久しぶりの再会を祝して、美味しい物を食べに行かないかい?」

「そりゃいい。お前が少しでも金を払ってくれるならな」

「悪いけど今は持ち合わせがないんだ。けど―――」

 

声が、近くなる。

それは余りにも妖艶な声色。

甘く、甘く、理性を溶かし尽くす毒が、脳髄に直接叩き込まれる。

 

 

「対価は払うよ。この身体を使って、ね」

 

 

気づけばミカは、渡里の膝へと跨り、その両肩に手を添えていた。

それを無抵抗で受け入れていることに渡里は驚き、また腕が自身の意思に反し、吸い寄せられるように彼女の背へと手を回していた事にも気づいた。

 

「大胆だね、渡里さん。誰かに見られてしまうかもしれないよ」

「……嫌か?恥ずかしがり屋だもんな、お前」

「さっきは不意を突かれただけさ……これでも、覚悟してきたつもりだからね」

 

距離が更に近づく。

お互いの息遣いが感じられるくらい、近く、近く。

 

「目、閉じろ」

「ん――――」

 

思えばミカの顔をこんなにまじまじと見たことはなかった。

けれどこの少女、本当に整った顔立ちをしている。

ちゃんと化粧をすれば、ファッション誌の表紙を飾っていてもおかしくはないだろう。

 

それがこんなにも無防備な姿を晒しているのだ。

さながら毒リンゴを食べてしまった白雪姫というところか。

彼女の場合は紳士な運命の王子様が現れてくれたが、残念ながらここにいるのは赤ずきんすら食らう狼。

 

白い肌。長い睫毛。瑞々しい唇。

それらを視線でなぞり、渡里は欲望を解き放つ。

 

 

 

――――――――――カシャッ。

 

 

 

「………渡里さん」

「ふーん、こうやって写真で見るとお前やっぱ美少女だな」

「渡里さん」

「あ?大丈夫大丈夫。俺SNSとかやってないし、拡散したりしねぇよ」

「渡里さん」

「ところでアキとミッコまだか?早く見せてやりたいんだけど、ミカ痛恨のキ―――」

 

ガシッと腕を掴まれる。

ミシ、ミシ、と骨が悲鳴をあげる程の、女子とは思えない馬鹿力で。

しかしそこらの男ならまだしも、こちとら毎日戦車の整備をこなす身。

やたらめったら重い戦車の部品を持ち運んできたこの腕は、そんなものではビクともしない。

 

「渡里、さん?」

「残念だな、ミカ。お前にマタ・ハリの才能はねぇよ。音楽教師は向いてるかもしれないけどな」

 

必死の抵抗を見せるミカに、内心で渡里はほくそ笑んだ。

男を篭絡する魔性の女を気取るには、ミカは圧倒的に経験値が足りない。

そもそも根っこが初心(ピュア)なんだから、自分から男に話しかけるなんてできっこない。

つまり先の言葉は全部(フェイク)である。

 

「手、緊張で震えてたぞ。あんまり無理すんな」

 

よいしょ、と渡里はミカを隣の席にリリースした。

 

我ながら性格が悪いことは認めよう。

しかし一つ言い訳させてもらえるなら、吹っ掛けてきたのはミカの方である。

渡里は一人の善良な大人として、少女が間違った道に行かないように指導してやったのだ。

 

だってそうだろう。

これが渡里ではなく、本当に悪い大人だったら。

それこそ取り返しのつかないことになるかもしれないというのに。

 

まぁ、建前だが。

本音はぎゃふんと言わせるのが楽しいからである。

 

「――――消すんだ」

 

そんな顔をするくらいなら最初から止めとけばいいのに、と渡里は思った。

この少女、一緒に旅をしていた時も何かにつけて()()()()ことをしてきたのである。

戦績は百戦百敗だけど。

 

果たして渡里を篭絡して一体どうするつもりなのだろうか。

最近はそんなにお金も持ってないから、あんまりいい買い物ではないと思うのだが。

 

しかし売られた喧嘩は買う主義の渡里は、決して「もうやめろ」とは言わない。

ミカが飽きるその日まで、渡里はミカの挑戦を受ける。

だってその度に美味しいネタが増えるし。

 

とりあえずここは、笑顔と共にこの言葉を贈ろうか。

 

 

「対価払え」

 

 

ミカは笑顔でカンテレを振りかぶった。

渡里は画像を消去した。

 

 

 

 

「ところでお前、何しに来たんだ」

「別に。風に流されてきたら、たまたま渡里さんがいただけさ」

「風向き真反対なんだけど」

 

ポロロン、とミカはカンテレを弾いて答えるだけだった。

とにかくあんまり深く考えない、が渡里の見つけた対ミカ作戦である。

 

「そういう渡里さんは?」

「偵察。お前らと黒森峰のな。俺今、とある学校で戦車道の講師やってんだよ」

「……ふぅん、偵察」

「なんだよ」

 

カンテレを弾く手を止めないまま、ミカは言葉を紡ぐ。

 

「そんなものに意味があるとは思えない」

「はぁ?敵を知り、己を知らば百戦危うからずという名言を知らねぇのか」

「知ってるさ。その上で言ったんだ」

 

会話に頭を使わないといけなくなるのが、ミカの悪い所である。

同級生の男子とかどうやってコイツとコミュニケーションを取っているのだろうか。

少なくとも高校生の自分では「お、おう」しか言えないと思う。

 

「……お前って彼氏できたことある?」

「急に何の話だい?」

 

いや、『女子は顔でモテるのか性格でモテるのか』という問いの答えが目の前にある気がしたのでつい。

ごめんごめん。そんな真顔で見つめないで。

 

「……渡里さんなら、黒森峰なんて偵察するまでもないだろう?」

「……まぁ」

 

一般的な偵察の意味から考えるなら、渡里は黒森峰の試合を見に来ても何の意味がない。

なんせ黒森峰と密接な関係にある西住流にいたのだ、黒森峰の事など、今更研究するまでもない。

加えて大洗女子学園の隊長は、元黒森峰の副隊長だし。

 

「けど今日見とかないと、お前らが勝ち上がってきた時に困るだろ」

「―――本当にそう思っているのかな?」

 

カンテレがひと際大きく音を出した。

 

「隠さなくてもいいさ。渡里さんは私達と彼女のどちらが勝つか、もう知ってる。いや、もっと言うなら、例え相手が誰であろうと()()()()()()()()()()()()()()()、だろう?」

「――――」

 

言葉が詰まる。

それはミカの言葉が、過不足なく渡里の考えを言い当てていた証左だった。

 

ゆっくり深呼吸が三つ出来る程の間を空けて、渡里はため息を一つ吐いた。

どうにも、この少女に気を遣う必要はないようだ。

 

「あぁ、お前の言う通りだ。俺は、自分の教え子が決勝まで勝ち進むと信じているのと同じくらい、黒森峰の事も信じている」

 

知波単学園、継続高校、そして恐らくは聖グロリア―ナ女学院。

黒森峰女学園が決勝に至るまで当たるであろう三校、そのどれにも黒森峰は負けることはないと、渡里は最初から思っていた。

 

理屈じゃない。

データを集めて客観的に見た結果、そういう答えに辿り着いたのではなく、渡里の根拠はもっと漠然としたもの。

 

「そういう、星の巡りなんだよ」

 

それでも渡里には確信がある。

運命論者ではない渡里だが、それでもこればかりは()()()()()()があるとしか思えない。

みほが大洗女子学園にいて、まほが黒森峰女学園にいる以上、二人は必ず戦う運命にあるのだ。

 

だってそうでなければ――――

 

「星の巡り……相変わらず、羨ましいくらいになんでも見える眼だね」

 

遠回しに『お前は負ける』と言ってるようなものだというのに、ミカの態度は余裕だった。

それは彼女が最初から覚悟をしていたからなのか、あるいは試合の勝敗など彼女にとっては些細な事だからなのか。

 

「ここに来た本当の理由は、教えてくれないんだね」

「言っても伝わらないからな」

 

決勝戦の相手が黒森峰と決まっている以上、渡里は「大洗女子学園が当たる可能性のある学校」以外の偵察をする必要がない。

それでもなお、今日ここに来た理由は、他でもない自己満足と、一つの約束のためだった。

 

「私の事を応援しに来てくれたと、思っていたんだけどね」

「別に負けろとは言ってないだろ。お前も最後の大会だ、悔いなく終わってほしいさ」

「でも勝ってほしいとは思ってくれないんだろう?」

「勝てるもんなら勝ってみろ、とは思ってるぜ」

 

そしてどちらともなく、二人は笑った。

渡里は人によっていろんな顔を使い分けるが、ミカといる時はみほやまほと同じくらい、素の部分が大きく出てしまう。

 

波長が似たようなものだからなのだろう。

まぁ、渡里の方が遥かに社交的で真人間だが。

 

「……戦車道の先生は楽しいかい?」

「楽しい楽しくないで仕事は選べねぇよ。それが大人ってもんだ」

「渡里さんは子どもだろう?」

 

中身が、という副音声をバッチリ聞き取った渡里は、薄く笑みを浮かべた。

否定できない自分が、ちょっと悲しい。

 

「先生はいつから?」

「四月くらいからだな」

「あと三か月持つかどうか、だね」

「なんてことを言うんだお前」

「楽しくない仕事を続けられる程、渡里さんは我慢強くない」

 

ポロロン、とカンテレが嘶いた。

そんな風に知った口を聞かれては、渡里とて反論の一つや二つはしたくなる。

 

「どうかな。指導者として大成功したら、味を占めるかもよ。人は名誉とか金とかに弱いからな」

「そんな人並みの感性があれば、渡里さんは今ここにはいない」

 

私と同じでね、とミカはにっこりと笑った。

渡里は肩を竦めるしかなかった。

それは白旗と同義だった。

 

彼女()また、自身の価値観を何よりも上に置く者。

紛れもなく渡里の同類だ。

 

ミカといると素が出てしまうのは、きっとそれが理由なのだろう。

似た者同士だから、つい気を許してしまう。

もしそうでなければ、約半年も一緒に旅はできなかった。

 

「先生を辞めたら教えてほしいな。また一緒に旅をするのも悪くない」

「お前の目当ては俺じゃなくて俺の財布だろ」

「私たちは渡里さんを戦車に乗せる。渡里さんはその運賃を払う。当然の理屈じゃないかな」

「燃料代どころかお前らの食費まで払わされてたんだけど」

「戦車を動かしてるのは私達だからね。私達にも燃料をくれないと」

 

いや操縦してるの一人だけだし。

お前後ろで気ままにカンテレ弾いてるだけだし。

 

「ところで渡里さん、私本当にお腹空いたんだけど」

 

くきゅ~、という隠そうともしない空腹の訴えを渡里は聞いた。

何が、ところで、なのだろうか、果たして渡里には分からない。

 

「……はぁ、分かったよ。折角の再会だもんな」

「ふふ、渡里さんのそういう律儀な所は好きだよ」

「俺もお前の、自分を偽らない所が好きだぜ」

「回らないお寿司屋さんがいいな」

「調子に乗るな」

 

さてさて、と渡里は腰を上げた。

当然、回らない寿司屋は無し。かといってレストランでご飯というのも、少なくともミカと自分には相応しくない。

 

ここは一つ、あの頃に戻るとしよう。

 

「BBQしようぜ。適当な店で食材買って、手当たり次第に焼いて食えばいいだろ」

「……」

 

ミカは少し不満げな顔をした。

大方、「そんなの毎日食べてるし」というところだろう。

けれど渡里は、そういうのはご無沙汰なのである。

 

「嫌か」

「渡里さんがいるなら何でもいいけれどね……でもそうなると――――」

 

不意に、遠くの方から声が聞こえた。

振り返り、視線を送る。

 

その先には小柄な体躯をした、二人の少女がいた。

 

「ミカー、ごめーん、遅くなっちゃ……た……」

「けど結構釣れたぞー、まぁ何の魚かはわかんないけ、ど……」

「独り占めができなくなってしまうのが、少し残念だね」

 

何を独り占めするつもりだったのか、渡里には分からなかった。

けれど聞くとまた面倒なことになりそうなので、渡里は黙って曖昧に笑うことにした。

その横でミカは、静かに、けれどはっきりと笑っていた。

 

まもなく、「あー!!」という合唱が二人の背中を打つ。

するとドタドタという足音が聞こえて、次の瞬間、パァンと渡里は勢いよく肩をぶっ叩かれた。

そしたら次は腕を掴まれグイングインと振り回され、渡里の周りは一気に騒がしくなった。

 

なんだか暇つぶしどころじゃなくなったなぁ、と渡里は苦笑した。

この分だと、どうにも長くなりそうだ。

焚火を囲んで、カンテレの音色をBGMにぐだぐだと駄弁る、あの頃の再現が間違いなく行われるだろう。

 

果たして自分はホテルに帰れるのか。

それだけが、唯一の心配だった。

 

 

 

 

 

 

美味(うま)ーーー!!肉なんて久しぶりに食べた!!」

「あー!?ミカ、私の分まで食べたでしょ!?」

「それは、大切な事なのかな?」

「大事に育ててたのにっ!!」

「人は間違いを犯す生き物だからね」

「うぅ……渡里さん~」

「謝れ」

痛い(いふぁい)痛い(いふぁい)渡里さん(わふぁりさん)痛い(いふぁい)

 

 

 

 

 




オリ主の人生概略

8歳で西住家に引き取られ、高校生で渡英し、2x歳で大学選抜のコーチになって、三か月あまりで大学選抜を辞め、約8か月の放浪期間を経て、大洗女子学園に招聘される。

大体こんなイメージで書いてきましたが、おそらく部分部分で矛盾が発生してるんじゃないかと思っています。細かい時系列作ったはいいものの、見たり見なかったりして書いてるので。

ポツポツとその辺りも修正していきますので、見つけた方・気づいた方はお願いですから見逃してください()


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第37話 「プラウダと戦いましょう➀ ゴー・スノーフィールド」

プラウダ戦、開幕。
恒例の試合開始前の助走回です。

本編前に今話の独自設定を一つ。

なんでも試合会場はルーレットで決められているそうですが、本作では大会運営が協議して決めています。なぜって?その方が都合がいいからです。
特に重要な箇所の設定改変ではないと思うので、許してください。


ところで話は変わりますが皆さま、プラウダ戦の試合会場がどこだかご存知でしょうか?作者は「惑星ガルパンだもんな。俺らの世界とは違うよな」って諦めました。


「ついに準決勝ですか」

 

我ながら感慨深い声が出たものだ、と角谷は思った。

しかしそれも当然じゃないだろうか。

全国高校戦車道大会、熾烈を極めるトーナメントを、角谷達大洗女子学園はベスト4という所までやってきたのだ。

それも運否天賦ではない。サンダース大付属、アンツィオ高校という強敵たちを打ち破って来たのだ。

 

初出場校にして、戦車道歴半年未満。

大洗女子学園のこれまでは、十分快挙と言えるだろう。

 

「まだ準決勝だ」

 

それもこれも、この人がいなければどうなっていただろうか、と角谷は瞑目して茶を飲む目の前の男性を見やった。

 

大洗女子学園戦車道講師、神栖渡里。

 

男性でありながら戦車道において類まれな実力を持ち、教育者としての能力も高い稀有な人物。彼の要素を別々に持つ者はいるだろうが、一か所に集まっているというのはおそらくない。

加えてその人生は、当然のように戦車道に彩られている。

戦車道の名門、西住流で育ち、十代で戦車道先進国である英国に留学、帰国後は一時とはいえ全国のエリートが集まる大学選抜のコーチをも務めた。

 

大洗女子学園の快進撃、その全てがこの人の力によるものだとは思わないが、それでも半分くらいは担っているんじゃないかと角谷は思う。

この人を見つけてきたことこそが、角谷最大の功績だろう。

 

「次が最大の山場だぜ、角谷」

「プラウダ高校、ですか」

 

準決勝の相手は、雪原の精鋭部隊であるプラウダ高校。

強力な戦車を数多く揃え、極寒の大地で鍛えられた彼女たちの実力は高く、実際に去年の全国大会では見事優勝している。

総合的に見て、サンダースと同等、あるいはそれ以上の強敵であることに疑いはない。

 

「いやー、サンダース以来のBIG4ですか」

「準決勝では参戦可能な戦車が15両に増える。そういう意味では、サンダースの時より厳しい」

 

何せ大洗女子学園の戦車が増えることはない。

そもそも10両まで出していい一、二回戦ですら5両で戦ってきたのだ。

それが準決勝になってどうして倍以上になろうか。

増えるのは彼我の戦力差だけである。

 

()()は間に合いませんか」

「無理だ。駆動系の調整がまだ上手くいってない。碌な整備もされずに放置されていたんじゃ、当たり前の話だけどな」

 

実を言うと、追加戦力の見込みがないわけではない。

一応あるにはあるのだが、しかしこれが何ともすぐに戦力になるような素直な子ではなく、かの神栖渡里といえど苦労しているようであった。

 

「決勝には必ず間に合う。だが準決勝は6()()で戦ってもらうしかないな」

「はぁ……そうですか――――――ん?」

 

残念無念、とため息を吐き替えた角谷は、しかし彼の言葉に聞き捨てならない単語があったことに気づいた。

条件反射で彼の顔を見る。

すると彼は、事も無げに言った。

 

「見つかった戦車は二両だろ。()()()()()()()()()()は間に合わないが、()()()()()()()()()()()()()()()はもう整備が終わってる」

「……渡里さんも人が悪いね」

 

曖昧に角谷は笑った。

対照的に渡里は白い歯を見せて笑っていた。

 

「それじゃあ準決勝からは?」

「当然出すつもりだ。一両とはいえあるとないとでは大違いだからな……ただ、問題が一つある」

「あぁ、乗員ですか」

「目ぼしい奴は?まぁこの時期に選択科目を変えようって輩もそういないだろうが」

 

今度は角谷が白い歯を見せて笑った。

 

「三人確保しました」

「………やるね」

 

渡里は苦笑した。

その反応からするに見込み無し、と踏んでいたのだろうが、残念なことに角谷杏はとっても優秀なのである。

 

「というわけで後はお願いします。まぁ三日弱しかありませんが」

「なんとかするさ。それ以上の問題があるしな……今回に限っては」

「……初めての雪ですもんね」

 

角谷は窓の外を見やった。

生徒会会長室の窓からは、外の景色がとてもよく見える。

 

しかし今は違った。

時刻は既に夜。ガラスの向こうの景色は真っ黒。

角谷の目に映るのは、ガラスに反射した自分の姿。

炬燵に入り、赤色の半纏を身に纏った冬の自分であった。

 

現在学園艦は、準決勝の試合会場に向けて航海中。

そしてその終着点こそが、白い雪の積もる極寒の大地なのである。

 

雪。

おそらくは大半の人間がコンスタントに経験するのことない気候。

場合によっては交通機関が麻痺する程、生活への影響力を持つそんな環境の中で、角谷達は戦車に乗って戦うのである。

 

いつも通りに戦えるだろうか、いや無理だろう。

雨と晴れですら戦車道は大きく姿を変えるというのに、雪なんて難易度何段飛ばしだというのか。

 

今回は相手の研究以上に、そこが重要なポイントである。

如何にして雪に対処するか。

ここをどうにかしない限り、角谷達はまともに戦うことすらできないだろう。

 

「プラウダは北国育ちですからねー、そういう心配は無いでしょうけど」

「……そこなんだよな」

 

何気ない角谷の呟きに、渡里は途端に深刻な表情になった。

知らず、角谷の身体に緊張が走る。

 

「変だと思わなかったか?」

「何がです?」

「試合会場だよ。なんでわざわざ、こんな時期に雪が積もってる所まで行く必要があるんだ?」

 

今は夏。

雪が降っている所とそうでない所を比べて数えれば、間違いなく後者の方が多い。

 

「それは運営の方にしか分かりませんねー。大会規則には、連盟が認めた競技場及び競技区域から選ばれるとありますが」

「だから、尚更おかしいんだろ」

 

黒い瞳が、角谷の目を覗いた。

その視線に、角谷は思考を促すような意味合いを感じ取った。

 

おかしい。

果たして、何がだろう。

試合会場は連盟が選ぶ以上、角谷達にどうこうできる事ではない。

連盟が協議した結果、今回は雪の競技場になったというだけの話だ。

 

雪。

 

「………」

「気づいた?」

 

角谷は静かに頷いた。

殊更答え合わせをするつもりもなかったのだろう、渡里は自分の考えを披露した。

 

「雪自体は別に構わねぇよ。戦車道は全天候型競技(オールウェザー)だからな、雨だろうと雪だろうと雹だろうと関係ない」

 

そう、雪が降っているか降ってないかなんていうのは、大した問題じゃない。

問題なのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()こと。

そして対戦カードが、大洗女子学園VSプラウダ高校であるということだ。

 

「ウチとアンツィオとか、そういう場合なら雪でもいい。けどウチとプラウダなら絶対にダメだ。なぜなら―――――」

「プラウダ高校は雪の戦場に慣れていて、逆に私たちは一切雪への耐性がない」

 

渡里は頷いた。

 

競技場は、できるだけ公平にしなければならない。

地形を味方につけるのは、戦車道の常道だ。

けどそれは大前提として、『お互いに有利不利がある公平な戦場』の中での話である。

 

自分達に有利な位置で待ち構える。

相手に有利な位置では戦わない。

そういった駆け引きがまかり通るのは、あくまで試合が公平だから。

 

しかし今回はどうだ。

他の戦場ならいざ知らず、雪なんてプラウダ高校の独壇場。

日本で彼女たち以上に雪上での戦いを知る者はいないだろう。

つまりこの時点で、プラウダ高校は絶対的なアドバンテージを取っていることになる。

いやあるいは、大洗女子学園が絶対的に不利な条件で戦う事を強いられている、というべきか。

 

「大会の過去の記録を漁ってみたけど、プラウダは過去一度も雪のステージで戦ったことがないわけじゃなかった。けど、ここまで露骨なものも未だかつてない」

 

お互い雪に慣れているなら、そういうこともあるだろう。

けど大洗女子学園は茨城県大洗町大洗港を母港とする学校。

海原を航海しあちこちを放浪する学園艦といえど、基本的な気候は茨城県のそれに近い。

そして茨城県は、そんなに雪の降る地域ではない。

プラウダ高校の本拠である青森、北海道と比べると皆無と言えるだろう。

 

「連盟が夜中の三時くらいに会議して決めた、っていうわけじゃないですよねー…?」

「いっそそっちの方が良かったかもな」

 

冗談めかした角谷の言葉に、渡里は薄く笑った。

しかし目が一つも笑っていないことに、角谷は気づいていた。

 

「黒森峰と聖グロの準決勝は、いたって公平な戦場で行われた。過去の一回戦、二回戦も同じ。おかしいのは、此処だけだ」

「……渡里さんなら、その理由も分かってるんじゃないですか?」

「………」

 

彼の沈黙を、角谷は肯定と受け取った。

黒い目が、問いかける。

角谷は神妙に頷いた。

 

彼は少し重々しく口を開いた。

 

 

「――――誰かが、大洗女子学園を負けさせたがってるのかもな」

 

 

角谷は瞠目した。

可能性の話をしているにしては、彼の口調はあまりにも確信を伴っていた。

 

負けさせたがっている。

一体、誰が。

何のために。

 

数多の疑問が浮いては消え、円環を為して回転する。

角谷は僅かに混乱していた。

 

「とはいうものの、大洗女子学園が負けて喜ぶ人間ってのは、実はいない。そもそも大洗女子が優勝するなんて本気で信じてる奴はいないだろうし、んなことしなくても勝手に敗退する可能性の方が高い」

 

俺らは優勝する気だけどな、と彼は付け足した。

その言葉で角谷は冷静さを取り戻しつつあった。

 

「じゃあ誰が……」

「大洗女子が負けるっていう()()じゃなくて、大洗女子が負けてっていう()()が欲しい奴ってのが、一人だけいるんだよ」

 

渡里の言葉は、少し難解になり始めた。

角谷の理解力を以てしても、彼の言いたいことはイマイチ掴めない。

 

しかし彼の、未だ見たことのない()()()()な表情は、言葉よりも雄弁に角谷に訴えかけるものがあった。

 

「まぁつまり――――――()()()の狙いは俺だ」

「渡里さんが……ですか」

「俺の教え子をボロカスに負かして、俺に苦渋を舐めさせたいんだよ。んで多分、今回の試合会場が雪になったのも、ソイツの仕業」

 

点と点が、一つの線になる。

なるほど、と角谷は思った。

 

彼がその結論に至ったのは、他でもない彼自身がその線を構成する一つの点だったからというわけか。

 

「もしかして大学選抜関係ですか」

「勘がいいな」

 

角谷は笑みを浮かべた。

彼もまた、曖昧に笑っていた。

 

「お察しの通り、大学選抜自体の因縁が今更になって返ってきたと思ってる。この陰険なやり口にも覚えはあるしな」

 

呆れと怒りを混ぜた、絶妙な表情に彼はなった。

戦車道に対して誰よりも誠実な彼だ、こういう事は人並み以上に許せないのだろう。

 

「こんな手は今回限りだろうが、それでも二度はやらせない。こっちで手を打っておくから、お前達は試合に集中しろ――――――ま、それもこれも今はただの推測だけどな」

 

彼はそう言うものの、角谷にはもう答えとしか思えなかった。

曖昧に苦笑する角谷に、渡里は一枚の紙を差し出した。

どうも背もたれに体重を預ける暇さえくれないようである。

 

「競技場が知らされてから24時間以内なら、提示された競技場に対して異議申し立てができる」

「なるほど、クレームですか」

「大会の規則で俺たちに与えられた正当な権利だ、使わないと損だろ」

 

二人は悪い笑みを浮かべた。

気質的には、この二人は少し似通ったところがあるのである。

 

「分かりました。提出しておきます」

「頼むよ……まぁ、普通なら多分通るはずだ」

 

ずずー、と彼は茶を一杯啜った。

確かに、今回はあまりにもプラウダ贔屓な競技場の設定だ。

書面に目を通して見ても、そこに記載されている彼の言い分は論理的で説得力がある。

茨城県の年間降雪量と学園艦の航行ルートにまで言及しているのだから、彼も本気である。

 

しかしそれでも、彼は「多分」という言葉を付けた。

それが妙に、仄暗いものを角谷の中に落としている。

 

角谷は問うた。

もし、通らなかったら?

 

彼は答えた。

俺の推測が、推測じゃなくなるだけだ。

 

 

 

 

そして準決勝の二日前。

大洗女子学園が競技場の異議申し立てを行ってから僅か12時間後。

 

試合会場が変わることは、なかった。

 

 

 

 

 

「というわけで準決勝だ」

 

はて、どういうわけだろうか、と西住みほは首を傾げた。

しかし特に突っ込む所ではないだろう、と思い黙った。

 

もはや定番となった、試合前の作戦会議である。

会場はいつもの生徒会長室。メンツもこれまたいつも通りの車長連中&生徒会メンバー。

そして主催者は戦車道講師、神栖渡里。

ホワイトボードの横に立つ兄も、干し芋をもきゅもきゅと食べる会長も、みほにとっては見慣れた景色だった。

 

「対戦相手はプラウダ高校。言うまでもなくBIG4の一角で、昨年の優勝校だ」

 

僅かな緊張が部屋の中を走っていった。

BIG4、優勝校。

その単語は、みほ達に決して少なくない畏れを抱かせた。

 

特にみほは、プラウダ高校とは浅からぬ因縁がある。

いや直接的に何かあるわけではないが、それでも素通りできるものでもない。

みほが今ここにいることと、プラウダ高校は決して無関係ではないから。

 

俯きそうになる頭を、みほは堪えた。

今下を向いたって、何にもならない。

目の前の事に集中するしかないのだ。

 

「細かい事は後で言うが、先にこれだけ言っておく――――間違いなく、今まで一番デカい壁だ」

 

プラウダ高校の特徴は、何と言っても強力な戦車を数多く揃えていることにある。

保有戦車数はサンダースに匹敵するものがあり、そしてそのどれもが高性能なロシア戦車。

おそらく一番性能の低い戦車でも、みほが駆る四号戦車より二回りは高い能力を持っている。

 

それを持て余してくれるならいいが、プラウダ高校というのはその優秀な戦車の力を最大限に引き出しており、まぁ分かりやすく言うなら戦車も選手も両方強い。

極寒の大地で日々鍛錬を重ねる彼女たちが、弱いはずもないだろうけど。

 

「それってサンダースよりも強いってことですか?」

 

アヒルさんチーム車長の磯辺が問うた。

サンダースもプラウダと同格のBIG4。言うまでもなく、みほ達の最初にして最大の障壁である。

 

「単純な戦力なら同じくらいだ。だが今回は違う。プラウダの方が強い」

 

神栖渡里は、戦車道では嘘をつかない。

彼がそういうのなら、それはもう間違いのないことなのである。

 

「一回戦の時と今回じゃ、全然状況が違うんだよ」

「……参戦可能な戦車数か」

「そう。その分だけプラウダの方が強い」

 

カエサルの言葉に、兄は頷いた。

 

そう、一回戦、二回戦では10両だった戦車の参戦可能数が、準決勝からは5両増えるのである。これは単純にして、致命的な違いだ。

 

サンダースとの戦いは、多分奇跡的なものだった。運とかそういうものに救われて、ギリギリ勝ち取った勝利だったが、その時の戦力差が五両差。

今回はその倍だ。

しかも相手がサンダースと同等だというなら、サンダースの時より厳しい戦いになるのは自明の理である。

 

「こっちの戦車は増えないですもんね……」

「五両しかないしなぁ……」

「あるよ」

「あるのか……あるのか!?」

 

なんだこのコント、とみほは渇いた笑みを浮かべた。

目を剥いて食いつく一同に、渡里は事も無げに言った。

その横では生徒会長が未だのんびりと干し芋を堪能している。

 

「この間見つけてきた戦車の整備が終わった。試運転してみたが、問題なく試合に参加できるだろう」

「おぉ!」

 

思わぬ増援に、一同は沸き立った。

表情にこそ派手に出さないが、内心ではみほもガッツポーズである。

 

10両から15両も大した違いだが、5両から6両はそれ以上の違いである。

なんせ作戦行動の幅が一気に広がる。今まで数が足りないから、とゴミ箱に捨てるしかなかった戦術たちが、たった一両増えただけでリサイクルできてしまうのだ。

 

しかし問題が一つ。

 

「どっちの戦車ですか!?」

 

喜色に塗れた澤の表情であった。

彼女は新しい戦力が増える、という事で単純に喜んでいるのだろうが、みほは違う。

 

大洗女子学園にあるはあるが、試合に参戦してない戦車は()()

実はその内で、みほ的に()()()()()()()()()()()というのがある。

いやまぁ戦力が増えるならどっちでもいいので、これは単なる願望だ。

 

けれど次の相手がプラウダであるなら、

 

(できれば……)

 

一同の視線、そして縋るようなみほの視線を集めた兄は、静かに言った。

 

 

「ルノーB1bisだ」

 

 

みほは内心で突っ伏した。

 

ルノーB1bis。

フランス系の重戦車で、特徴としては短砲身の75㎜砲と47㎜砲の二つの武装を持っている事。これにより榴弾を撃って建物を破壊することや対戦車戦をこなすことができ、二つの攻撃的な性質が一両に同居しているという点ではウサギさんチームのM3リーに近いものがあるかもしれない。

加えて防御力も高く、最大装甲厚は60㎜。第二次世界大戦初期においては、非常に強力な戦車であったとされている。

 

しかしこれだけならいい戦車なのだが、弱点としては機動力の著しい欠如が挙げられる。

この時期に造られた戦車の共通点と言えばいいのだろうか、聖グロのマチルダなんかもそうなのだが、装甲の厚い戦車=足の遅い戦車なのである。

 

流石にマチルダよりはそれなりに速いだろうが、大洗女子学園全体で見ると多分一番鈍足。

唯一の対抗馬になりそうな八九式が兄の手により普通では考えられないスピードを持っていることから、多分その座が揺るぐことはない。

後は車体が大きくて被弾しやすいとか、そういう細かな弱点もあるのだが、みほが一番懸念していた所は()()である。

 

聖グロにマチルダがある分には構わないが、大洗女子にルノーがある事は実はあんまりよろしくない。

なぜかというと、全体の足並みが揃わないからだ。

チームの機動力は、端的に言うなら持っている戦車の速さの平均値だ。

脚の速い戦車が多ければ多いほど、チームの脚が早くなる。

 

大洗女子はそういう意味で、機動力の高いチームだ。

戦車が五両しかないという弱点も、言い換えれば全体の足並みを揃えやすい事であり、それが機動力の一助となっている。

 

それがチームの強さの一つなっている以上、そこを崩すことは避けなければならない。

だから()()()()()()()()()()()()()沿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

それこそが、ルノーの方がもう一方の戦車と比べて優先順位が低かった理由である。

 

(うぅ……まぁ、腕の見せ所と思えば)

 

みほは内心で息を吐いた。

とはいえ、新戦力には変わりないのだ。

絶対的な話として戦車が増えてマイナスになる事はないのだから、ルノーをどう活かすか、そしてそれをどうチームの力に繋げるか、これはみほの隊長としての責務だろう。

 

大洗女子(ウチ)には珍しく防御力の高い戦車だ。基本的には盾として使うことになるだろうが、使い方次第ではそれなりのバリエーションが出せる。ウチは戦車一両の価値が他のチームとは段違いに高いからな、あまり勿体ない使い方はしてくれるなよ」

 

兄の視線が、みほを一瞬射貫いた。

言われるまでもない、という意味を込めてみほは一つ頷いた。

 

「……あれ?でもその戦車って誰が乗るんですか?」

「各チームから一人ずつ出すしかない、か?」

「その点は心配ない。角谷が新しく人を見つけてきてくれた」

「そゆことー」

 

有能だ、とみほは思った。

人無くして戦車が動かない以上、戦車と人はセットで用意するものだが、それはそうとして新しい人員なんてホイホイ見つかるものじゃない。

それをあっけらかんとやってしまえるところが、会長の凄い所である。

 

「……ちなみに渡里先生、その人たちって戦車道は……」

「安心しろ西住、当然未経験だ」

 

何が安心できるのだろうか。

渡里の言葉に、一同は驚いた。

 

「それ大丈夫なんですか!?」

「今から試合までに戦車を動かせるようになるとは到底思えないが……」

「落ち着け、そこは俺がなんとかする。試合に参加する以上は、絶対足手纏いにはさせねぇよ」

 

説得力のある言葉だった。

しかしそれに、みほはうすら寒いモノを感じた。

というより、恐ろしい事が考え付いてしまったのだ。

 

おそるおそる、みほはそれを口にした。

 

「あの、ちなみにどうやって……?

「お前達が二か月でやってきたことを三日弱でやる。練習の時間が大体20分の1になるから、その分練習の濃度を20倍にすればいいだろ」

 

はい。

 

みほは、いやおそらく全員だろう、内心で合掌した。

新しく入ってきてくれる、まだ見ぬ仲間。

こんな時期に戦車道を受講してくれるのだ、きっと彼女たちはとても優しい人たちなのだろう。

 

それが何でこんな残酷な仕打ちを受けることになるのだろうか、とみほは思った。

兄の理論がそのまま実行された時、果たして彼女たちがどういう結末を迎えるのか。

恐ろしすぎて口に出す事もできない一同であった。

 

しかし止めろとも言えない。

この人は一度言ったら絶対する。

 

最早みほ達にできることは、お願いだから無事であってくれ、と祈る事だけである。

 

「身内の話はこれくらいにして、相手の話をしよう」

「プラウダ高校の主力戦車は……T34/76」

「T34/85っていうのもありますね」

「……なんかグラフが大きい!」

 

磯辺が目を丸くした。

兄の資料は大変親切な設計になっており、相手戦車のスペックが一目で分かるようにグラフ化されている。

磯辺が驚いたのはそこではなく、そのグラフがこれまでに比べて一回りは大きいものだったからだろう。

当然だが、グラフが大きければ大きいほど性能が良い戦車になる。

 

「渡里先生、これって……」

「見ての通りだ。控えめに言って万能だな」

 

またそうやって何でもない風に言う、とみほはため息を吐いた。

視線の先、そこには引っ込んでいる部分が一つもない綺麗なグラフがある。

 

「特徴は『なんでもできる』事。走攻守三拍子揃った、軽い芸術みたいな戦車だ。俺がチームを一つ作る時に枠が余ったらとりあえずコイツを入れる。それくらい雑に強い戦車と認識しておけばいい」

 

とっても手軽で強い戦車、というわけである。

みほも大体兄と同じ考えだ。T34よりハイスペックな戦車もあるが、トータルバランスで見た時にこれ程優れた戦車はそんなにない。

困ったらとりあえず、的な戦車なのだ。

 

なんせ兄の言う通り、撃ってよし、守ってよし、走ってよしの万能戦車。

76㎜砲、85㎜砲ともに対戦車戦において不足のない攻撃力を持っており、スペック上の機動力は時速55キロ。装甲は驚くほど硬いというわけではないが、避弾経始のメカニズムを搭載した形状により数字以上の防御力がある。

 

正直当たると撃破レベルで装甲の薄いみほ達にとっては、攻撃性能はさほど重要ではない。今回の場合厄介なのは、機動力と防御力だろう。

 

ここをどう対処するかが、おそらく重要なポイントになってくる。

 

「ただプラウダに関してはこれ以外にも注意すべき戦車がある。今更言うまでもないだろうが、戦車の性能差を比べ合うような戦いはするな。そういう状況にも持ち込ませるな。ここに関しては徹底的にしておかないと、あっという間に試合が終わるぞ」

 

一同は頷いた。

絶対的に戦車の性能が低いみほ達にとっては、それは最早鉄則である。

兄のお蔭で戦車の詳細なスペックと当日の編成は分かるのだから、殊更頭に叩き込んでおかなければならないだろう。

まぁ見れば見る程、眩暈がしてきそうなくらい強いわけだけど。

 

「よく使用してくる戦術はサンダースと同じく包囲殲滅。数と戦車の性能差にモノを言わせて、囲んで叩く。まぁ頭のいい戦い方だな」

「加えて今回はサンダースよりも数が多い分、包囲はより強固……」

「コーチ!今回はサンダースの時みたいに……」

「あぁ、できるよ」

 

あっけらかんと言い放つ兄に、歓声が上がった。

本当に戦車道に関しては優秀な兄である。

 

相手の得意とする戦術を一つ、ほとんど無効化する。

このアドバンテージは、間違いなく大洗女子学園だけのものだろう。

一つの戦術を限界まで磨き上げたチームに特に刺さるが、みほのような多種多様な戦術を使い分けるタイプの指揮官にしたって、これは厄介極まりない。

 

なぜなら兄の読みの前には、選択肢の多さなど無意味。

戦場、天候、編成、あらゆるものを加味し、()()()()()()()()()()()を予測して対策してくるため、結局対戦相手は自分が打ちたい手を封殺されることになる。

合理的な思考の持ち主であれば尚更だ。だって兄は()()を確信犯的に狙い撃つから。

 

「ただ隊長のカチューシャの戦術的ボキャブラリが豊富なせいで、完璧な対応は難しい。一口に包囲と言っても、色々なやり方があるからな。今回はその色々なやり方に対処するために、()()()()にならざるを得ない」

 

それでも兄は、完全無欠というわけではない。

弱点だってそれなりになるのだ。模倣が完全ではなかったり、そもそもアンツィオ戦の時のように模倣自体ができなかったり。

それでも十分、相手チームからすれば脅威だけど。

 

「一応傾向は掴んである。カチューシャは相手を全滅させて完全勝利を目指す悪癖があって、お蔭で思考の追跡が容易い。最終的な目標(ゴール)はそこから動かない以上、狙い目はそこだ。ある程度の対策になって申し訳ないが、今回はそれでなんとか対応してくれ」

 

兄の息遣いに、ほんの少し呆れの色が混じっているのをみほは感じ取った。

 

フラッグ戦においては、極論フラッグ車以外は倒す必要がない。

当然戦車の数が減ればそれだけ相手の力を削げるわけだから、全くの無意味というわけではないが、毎回全滅を狙うというのは確かに非効率かもしれない。

そして兄は、そういうのを「面倒くさい」と思うタイプなのである。

 

「とは言っても、トータルで見れば力の差は歴然……」

「そんなもん、サンダースの時だってそうだった。でも勝ったからここにいる」

 

そう言って笑みを浮かべる渡里に、みほ達もまた薄く笑みを浮かべた。

 

 

神栖渡里が、これっぽっちも負けることを考えていない事。

たったそれだけのことが、みほ達の心に余裕を与えてくれていた。

 

 

 

 

 

 

ギィ、ギィ、カン、カン。

 

無機質な音が、戦車格納庫に響き渡る。

陽が沈み、すっかり誰もいなくなったその場所で、渡里は静寂の中一人でいた。

彼と共にいてくれるのは、今は六両の戦車だけである。

 

ボルトを回す手を止め、渡里はふぅと一息ついた。

額に浮かぶ汗が、一つ彼の頬を撫でていき、地面を濡らした。

 

戦車の整備というのは、結構重労働である。

工具は鉄でできてるから重たいし、ボルトを締めるには相応の力がいるし、何より作業量が多い。渡里の手が六本程あればパッパと済ませられるのだが、生憎この手は二つ。

せっせと手を動かし、一つの戦車の整備が終わる頃には普通に汗をかいてしまう。

 

(一応冬並みの気温なんだけどなぁ)

 

つい一昨日くらいまでは半袖が当たり前の世界だったのに、今はそんな恰好すれば間違いなく風邪を引くくらい気温が下がってしまっている。

学園艦が試合会場に近づいている何よりの証拠なのだが、正直寒暖差がエグイ。

 

何もしてないとめっちゃ寒いのに、何かしてるとすっごい暑い。

これ、一体どうすればいいのだろうか。

長袖を袖捲りにして着ているが、イマイチ効果があるように思えない。

 

(うーん、今回は体調管理もしっかりする必要があるか)

 

試合当日に体調を崩されでもしたら一大事である。

代わりの人員なんて一人もいない大洗女子学園において、恐れるべき所は怪我と風邪。

全員五体満足でいてくれないと、大変困ったことになる。

 

「つってもやれることなんてほとんどないわけだけどっ」

 

全身に力を入れ、一息で履帯を担ぎ、渡里は倉庫の隅へと置いた。

雪中戦ということで履帯も冬季用履帯に変えたわけだが、これがエライ手間であった。

やってることはノーマルタイヤからスタッドレスタイヤに変えてるようなものだが、それなりに腕力があると自負している渡里でも腕がプルプルするくらい体力を消耗する。

 

「次は誰かに手伝ってもらおう」

 

ふぃー、と渡里は大きく息を吐いた。

これで計五両の整備が終了。残すはアヒルさんチームの駆る八九式だけである。

 

渡里は時計を見た。

時刻は午後8時。やはり一人で整備するとなると、結構時間がかかってしまう。

 

(でも自動車部は手一杯だしなー)

 

実を言うと、渡里はこれまで戦車の整備にそれほど関わっていない。

というのも、大洗女子学園には西住流本家でも通用するようなウルトラハイスペックメカニックチーム、通称自動車部がいたからである。

 

彼女達がいれば普段の整備なんてお茶の子さいさい。

渡里は指示だけ出せば、次の日には万全な状態の戦車が出来上がっているという状態だったのだが、そんな彼女たちは只今別件に駆り出されており不在なのである。

 

これが思ったより痛かった。

渡里も全く整備をやっていなかったわけではないのだが、流石に一人でこなせる作業量ではなく、軽い部品交換のはずなのに結局こんな時間まで掛かってしまった。

彼女たちの不在に関しては、渡里が一枚噛んでいるのでまぁ自業自得なのだけど。

 

「よし、もうひと踏ん張りだ」

 

しかしそれももう終わる。

八九式は渡里がほとんど専任で面倒を見ている戦車。その分、他の戦車より手間は少ない。

 

袖で汗を拭い、深呼吸を一つして、工具を握る。

そして八九式の車体を登り、中に入ろうとした―――その時だった。

 

「あれ、コーチ?」

「あ?」

 

おそらくは自分を指すであろう言葉を、渡里は聞き取った。

振り向き、声の方を見る。

 

「コーチ!お疲れ様です!」

「「「お疲れ様です!」」」

「アヒルさんチームか」

 

常にバレーのユニフォームを着ているという、間違いなく一目で誰か分かる出で立ちをした女子四人が、そこに立っていた。

 

「こんな時間まで戦車の整備ですか?」

「まぁな」

 

金髪とカチューシャが特徴の佐々木が、多分悪気ゼロの質問を投げてきた。

受け取り方によっては「他にやることないのか」とも取れるが、まぁそれは偏屈が過ぎるだろう。特にこの子に、そんな皮肉が言えるとは思えないし。

 

「ありがとうございます!」

 

ほらね。

渡里は肩を竦めて苦笑した。

 

「お前らこそ何してんだ……って、聞くまでもなかったか」

「てへへ」

 

渡里の視線の先には、バレーボールが一つ。

それだけで彼女たちが今まで何をしていたのかは察せる。

 

「好きだな、お前達も」

「コーチ程じゃないですよ」

「俺はそんなにバレーにのめりこんでねぇよ、河西」

「そっちじゃなくて、戦車道の方です」

 

あぁ、と相槌のような、肺から空気が漏れただけのような、そんな曖昧な音が渡里の口から出た。

どうにも、少し思考が鈍っている気がする。

 

「コーチ?少し疲れてますか?」

「そういうお前らは、戦車道の練習もあったってのに元気だな」

「それが私達の取り得ですから!!」

 

根性ー!と磯辺が気勢を上げた。

流石は気合と根性とちょっとの頭でここまで戦ってきたチームである。

そんなでも大洗女子学園では一、二を争う実力だというのだか、不思議なもんだけど。

 

「………」

 

ふと、渡里の中で浮上するものがあった。

渡里はほんの一瞬だけ迷い、しかしそれを表に出すことにした。

 

「お前らさ」

 

キューポラに腰を掛け、渡里は彼女たちを真正面から見据えた。

彼女たちはキョトンとして、渡里を見上げた。

 

 

「この戦車に、不満とかあるか?」

 

 

言いながら、渡里は自分の質問の仕方が悪かったことを悟った。

この言い方だと、少し威圧しているように聞こえる。

渡里はすぐに次の言葉を紡いだ。

 

「いや、ずっとさ、悪いなって思ってはいたんだよ。お前らだけ、こんな弱い戦車に乗せてること」

 

アヒルさんチームの練度は、極めて高い。

元々体育会系で体力と精神力があって、根っこも素直。

そりゃちょっと頭が足りない所はあるかもだけど、それは知識が足りてないだけで地頭は良いから機転が利く。

渡里の教えた戦車道理論を理屈では理解できていなくとも、彼女たちは本能で理解している。

 

だというのに、アヒルさんチームは一回線、二回戦共に目立った活躍をしていない。

 

大洗女子学園公式戦初撃破を成し遂げた三号突撃砲。

フラッグ車に任命され、ただの一度も致命的な被害を受けていないカメさんチーム。

二門の火砲を備え、大洗女子学園の火力に三突と同じく大きく貢献しているウサギさんチーム。

そしていわずもがな、チームの中核にして隊長車、あんこうチーム。

 

アヒルさんチームは決して活躍していないわけではないが、他のチームと比較すると相対的に劣って見えてしまう。

その原因こそが、戦車であると渡里は考えていた。

 

彼女たちは、バレー部復活という目的のために戦車道を受講している。

なら当然、多くの人の目を引くためにはたくさん活躍できたほうがいい。

けれど彼女たちは、『戦車』という自分たちの努力次第では如何ともし難い要素によってそれを妨げられている。

 

その責任が渡里に無いとは、決して言えない。

言ってはならないと、渡里は思っている。

 

「乗っている戦車さえ違ってたら、お前らももっと―――――」

「そんなことないですよ、コーチ!!」

 

大きな声に、渡里の言葉は遮られた。

目を丸くする渡里の視線の先で、アヒルさんチームは笑顔を浮かべている。

 

「この戦車は、すっごくいい戦車です!小さい身体で一生懸命走って、頑張り屋さんで……そりゃ確かに火力とか装甲は弱いかもしれないけど―――――」

 

あ、そこは否定しないんだ、と渡里は思った。

いやまぁ純然たる事実なので言い返すことはできないんだけども。

 

「―――でもこの戦車に乗って嫌だと思った事は一度もありません!私達は、この戦車結構好きですから!」

「……そっか」

 

きっと嘘じゃないんだろうな、と渡里は内心でため息を吐いた。

コイツらは本気で、こんなボロくて弱っちい戦車を好きでいてくれてる。

 

「それに『はっきゅん』はコーチの戦車ですし!」

「あぁ―――あぁ?なんだって?」

 

何か摩訶不思議な単語が聞こえた気がして、渡里は思わず聞き返してしまった。

 

「八九式の名前です!8と9だからはっきゅん!」

「………………………………そう」

 

果たして自分は今、笑えてるだろうか。

あまりにもユニークすぎる名前を付けられた八九式に、渡里は少し同情した。

名付け親は多分、磯辺か佐々木だろう。

きゃいきゃいと騒ぐアヒルさんチームが、なんだか遠くに感じる。

 

まぁ、愛称がつけられるくらいには気に入ってもらえているということだろう。

こんな戦車でも大事に扱ってくれてる以上、渡里は彼女たちに足を向けて寝れない立場。とやかく言う資格はない。

 

「―――――………」

「へ?コーチ、今何か言いました?」

「―――――いや、何も」

「そうですか?」

「そうだ」

 

渡里は頑なな態度を示した。

首を傾げる彼女たちに、渡里は追い払うジェスチャーをした。

 

「もういい時間だ、さっさと家に帰れ」

「はぁ、わかりました!」

「それじゃ失礼します、コーチ!」

「失礼しまーす」

 

綺麗に一礼し、去ってゆく彼女たちを、渡里は軽く手を振りながら見送った。

そして彼女たちの姿が完全に見えなくなった時、渡里は大きく息を吐いた。

 

「あっぶねー……」

 

寸での所で思いとどまった自分を、渡里は褒めた。

危うく彼女たちに絆されて、余計なことを言うところだった。

 

「流石に、うん、言わない方がいいよな」

 

みほとかならまだしも、彼女たちはある意味で渡里の恩人。

誰に乗られることもなく、埃とカビと錆を友とし、ついぞ陽の光を浴びることなく朽ち果てようとしていた八九式を、彼女たちは公式戦という舞台で走らせてくれている。

本当ならもう二度と走る事のないはずだった、あの戦車を。

 

そんな彼女たちに、渡里は余計な荷を背負わせるところだったのだ。

迂闊と言わずして、なんというのだろうか。

 

「……すっごくいい戦車、か。どうするよ、お前」

 

渡里は踵で八九式の装甲を軽く小突いた。

何か反応が返ってくることは、決してなかったけど。

 

「良いトコ見せなきゃ、だよな」

 

工具を手の中で弄び、渡里は決心した。

いや、元から決まっていた事ではあったから、決心とは違うか。

言うならこれは、覚悟だろう。

 

 

「お前の最期の試合だもんな」

 

 

さて、何の覚悟だろう。

アヒルさんチームに土下座する覚悟か。

それとも――――()()()()を捨てる覚悟か。

 

なんにせよ、プラウダとの戦いは長くなりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

整備を終えた帰り道。

誰もいない、何も聞こえない、暗い暗い夜の道。

一人で歩く渡里に、不意にそれは訪れた。

 

ピピピ、というシンプルな着信音。

ポケットから携帯を取り出し、発信者の名前を渡里は確認する。

 

受信ボタンを押し、一言。

 

「―――なんだよ、みほ」

 

受話器の向こうで、よく知った声が聞こえる。

会話を続けながら、渡里は再び歩き始める。

 

 

――――会いたいという彼女の言葉に、一つ頷きながら。

 

 

 




次回、カモさんチーム、(半分くらい)死す。
なお時間的に三日弱くらいあったカモさんチームがエライ目に遭うので、未来のアリクイさんチームはもっとエライ目に遭う。
でもアリクイは全員のポテンシャルもやばいからフィフティ・フィフティです(?)

カモさんチーム三人で戦車動かすとかマジかよー、って思ってたんですけどルノーって砲塔部分は一人しか乗れないらしいですね。

フランス系の戦車(ソミュアとか)はそういうのが多いそうで、最終章でマリー様や安藤が外に身を乗り出し車体に腰かけてるのは、もうすでに砲塔部分に砲手が乗っていて車長が座るスペースがないからだとかなんとか。

いやあぶねぇよ。


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第38話 「プラウダと戦いましょう② レディ・レディ」

「やべぇ黒森峰戦ほとんどオリ主喋らねぇ。出番は多いのに」
「……プラウダ戦でいっぱい喋らすかぁ」

ということで、プラウダ戦はこれまでとは違った形でお送りしたいと考えております。




まだ試合始まってすらないけど。
おかしいな。進まないな。


 


「うーん、寒いねー」

 

他人事のように呟く角谷を横目で伺いながら、みほはほんのり頷いた。

 

見渡す限りの白。

雪景色、雪化粧、色々言い方はあるだろうが、雪の戦場である。

 

はぁ、と吐く息が白く染まる。

気温はおそらく3℃以下。外気に触れている手が、じんわりと熱っぽいのに冷たくて痛む。

紛れもない、冬の環境だ。

 

九州で生まれ育ったみほだが、雪と無縁だったわけではない。

冬になれば熊本だって寒くなるし、滅多にないけど雪だって降る。

しかしここは、ちょっと未体験ゾーンに片足を突っ込んでいる気がした。

こんなに寒いっけ、雪って。

 

「うぅ~冷える~カイロ持ってても寒い~」

「沙織、うるさい」

 

雪に対する各チームの反応は様々だった。

あんこうチームは沙織だけが「うぅ」や「あぁ」と唸っていて、他の皆は割と平気そう。

特に華は平時と何一つ変わらぬ様子でいて、その秘訣をぜひとも伺いたいみほであった。

 

アヒルさんチームは黙って円陣を組んでおり、恰好もいつもと変わらぬパンツァー・ジャケット&ユニフォーム。正直剥き出しの脚がとっても寒そうなのだが、彼女たちに微塵もその気配はない。いつもの根性だろうか。

 

カメさんチームもいつも通り。地図に目を通し、準備に余念のない河嶋と、戦車に物資を積み込む小山、そして戦車の上でのんびりとくつろぐ角谷。特に角谷のいつも通りっぷりが頼もしい。

 

カバさんチームは戦車の近くに集まって何やら作戦会議をしている。

今日の試合、待ち伏せ運用の三突を駆る彼女たちにとっては絶好のステージ。

地図を見てアンブッシュに適した位置を探しているのだろう。ぜひとも活躍に期待したい。

 

ウサギさんチームは雪合戦に無我夢中。まぁ、ああやって身体を動かしているのが一番の防寒対策なのかもしれない。やろうとは、ちょっと思わないけど。

 

「………」

 

十人十色の待機状態だが、全員に共通しているのは強敵との戦いを前に、一つも委縮していないということ。

これは大会初出場校にしては稀有なことだった。

 

対戦相手は昨年の覇者、舞台は準決勝。普通の参加校は勿論、そこそこの強豪であっても緊張しないということはない条件。

そこにあって大洗女子学園は決して気負っていない。

寧ろ緊張を、集中への程よいアクセントとして飼い慣らしている。

 

(これなら大丈夫かな)

 

今日は不確定要素と不安要素が多い。

それらが自力でどうこうしようがないモノである以上、自分たちのコンディションだけは良い状態にしておきたかったが、この分なら問題はないだろう。

士気は高く、気合も十分。きっと普段通りの力を発揮することができる。

 

さて、とみほはある所へと目を向けた。

そこには試合が始まるまでに、隊長として絶対に確認しておかなければならない事がある。

 

「………ブツブツ」

「ブツブツ……」

「…ブツブツ…」

 

新しく参戦した戦車、ルノーB1bis。

そしてそれを駆る、新進気鋭の三人。

全員が黒髪のおかっぱ頭という、髪型の統率がバッチリ取れたニューフェイス達。

 

風紀委員チーム改め、カモさんチーム(みほ命名)である。

 

彼女たちの状態チェックは、絶対にしなくてはならない。

なぜなら彼女たちは今日が初陣、加えて戦車道歴はおそらく今大会最短の三日未満。

完全なる素人、見ようによっては数合わせ以外何者でもない彼女たちを無視して試合を始めることはできない。

 

緊張、しているだろう。

三人身を寄せ合い、何やら小声で話している姿が、何よりも雄弁に彼女たちの状態を語っている。

仕方ないことなのだ、これは。

みほ達はすっかり緊張を飼い慣らしているが、カモさんチームはそうではない。

心臓に毛が生えてたって、ここでは平常ではいられないんだから。

 

だからここは、みほの出番だ。

緊張を解し、少しでもリラックスして試合に臨んでもらうのが、隊員を引っ張る隊長の務め。

 

白い大地に足跡を残し、みほは彼女達へと歩み寄った。

 

「あの………」

「――――――――ブツブツ」

「ブツブツ――――――――」

「――――ブツブツ――――」

 

ええと、とみほは次の言葉を見失った。

流石に此方を見てくれないと、話のしようがないのだが。

周りを気にする余裕もないということだろうか。しかしそれにしては、何か暗いオーラがふよんふよんと漂っているような。

 

しかし退くわけにはいかない。

みほは先ほどよりちょっと大きな声を出した。

 

「あの!」

「「「―――――――」」」

 

ギョロ、と本当にそんな音を出しながら、六つの目がみほに向いた。

ひっ、という声が反射的にみほの口から零れる。

しゃり、と雪を踏む音がした。

 

「「「―――――――」」」

「……あ、あの……?」

「「「―――――――――――」」」

「ええと………」

「「「―――――――――――――――――――――――」」」

 

やばい、人は視線で死ぬ。

真っ黒な、いやもうドス黒いだ。一片の光も灯っていない目が、欠片も動かずみほのことをじぃっと見つめている。

シンプルに怖い。何のホラー映画だろう、これ。

 

「―――――ねぇ」

「ひゃ、は、はい!」

 

何だこの声、とみほは思った。

地獄の底から響くような重苦しい音。

女の子、っていうか人ってこんな声出せたんだ。

 

「戦車道って、楽しいわよね」

「へ?」

「戦車道って、いいわよね」

「は、はい?」

 

ゆら、ゆら、と幽鬼のように彼女は立ち上がる。

俯き、おかっぱの前髪が目にかかる。しかしその奥から、赤い光が怪しく瞬いた。

状況を呑み込めず、うろたえるみほ。

 

その隙を突いて、彼女はみほの懐へと潜りこむ。

そして、冷気に濡れた声で一言。

 

 

「戦車道って―――――――――最高よね」

 

 

逃げよう。みほは踵を返した。

しかしそこには、また別のおかっぱ頭が道を塞いでいた。

まずい、と第三のルートに目を向けると、既にそこにもおかっぱ頭。

 

包囲された、とみほは悟った。

 

ふ、ふ、ふ、という怪しい笑いの三重奏が、ぐるぐると回転しながらみほへと迫りくる。

じり、じり、と包囲網が狭くなる。笑い声は近くなる。

 

あ、終わった。

 

みほが(よくわからないけど)観念したその時だった。

 

「―――――落ち着け、そど子」

「そど子って呼ぶな!!―――――あれ?」

 

救いの手は、突如として舞い降りた。

いつの間にか近くにいた冷泉麻子の、たった二言がそど子――本名は園みどり子――を正気へと戻したのだ。

いやこの場合は、そど子に憑りついていたナニカを浄化したというべきかもしれないけど。

 

みほは再び彼女たちを見た。

目は赤く光っていないし、怪しい笑みも浮かべていない。

ハイライトがしっかり灯った目と、風紀委員らしい清廉とした雰囲気が帰ってきている。

元に、戻ったのだ。

 

「ここどこ?」

「試合会場だ。記憶喪失か」

「違うわよ!なんで私達がそんな所にいるわけ!?」

 

はぁ、と麻子はため息を一つ吐いた。

横でみほは首を傾げた。

正気に戻ってはいると思うのだが、なんだろうか、この支離滅裂な言動は。

 

なんでって、そんなの彼女たちが一番知ってるはずなのだけど。

 

呆れ顔を隠す様子もなく、麻子は口を開いた。

「戦車道に参加したからだ。渡里さんに戦車道教えてもらったんじゃないのか」

「わたっ!?」

 

そど子が石になった。

なんというか、突然心臓が止まったらこんな感じなのかな、とみほは思った。

 

時間にして五秒ほどだっただろうか。

やがてそど子は、荒い呼吸と共に帰ってきた。

 

「はぁ…!はぁ…!そうよ、思い出したわ……私達、今日から戦車道をするのよね……!」

「おいそど子、本当に大丈夫か」

 

胸に手を当て、まるでマラソンでもやってきたみたいに肩で息をするそど子。

その様子に、麻子は相当訝しんだようだった。

 

大きく、そしてゆっくりとそど子は頷く。

 

「大丈夫よ……戦車に触れた時に気も触れたっていうか、余計な事を思い出しただけよ……具体的に言うと神栖先生との特訓を」

 

ずしゃあ、と何かが倒れる音がした。

慌ててみほがそちらを向くと、短いおかっぱ頭の風紀委員が顔から雪へとダイブしていた。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

「パゾ美……フラッシュバックする記憶に身体が耐えきれなかったのね……」

 

どゆこと、とみほは愕然とした。

 

いや、カモさんチームが準決勝までの僅かな時間で、少しでも戦力になれるよう、兄が彼女たちにそれはもう想像するのも恐ろしい特訓を課したのは知っている。

分かりやすく言うなら、人が聞けば「あたまおかしい」と評するみほ達の合宿、その約20倍。まぁ、多分人がやるような練習ではない。

 

しかしカモさんチームは紛うことなき人間であり、加えて言うなら兄にも多少は人の心があるとみほは思っていた。

だから、流石にカモさんチームの状態を見て、少しはまろやかにした練習にするだろう、と。

そこまで無理はさせないだろう、と。

 

そしてその結果がこれである。

一体どこの世界に、思い出すだけで人が昏倒する……だけならまだしも、人格に影響を及ぼすレベルの練習メニュを作れる指導者がいるのだろう。

 

短いおかっぱ頭の風紀委員の、「かゆ……うま……」という呟きが雪原へと溶けていった。

 

「ええと……た、体調の方は……?」

「それが不思議なことに、普段より元気なくらいなのよね。筋肉痛とか、そういうのもないし」

「本当か、それ」

 

麻子が未だ亡者状態の風紀委員を見やりながら言った。

アレを指して普段より元気というなら、普段はナマケモノ以下の活動になるのだが。

するとそど子は腕を組みながら答えた。

 

「アレは唐突に来る発作みたいなものよ。しばらくすれば収まるから問題ないわ」

「な、ならいいですけど……」

「試合中にああなったらどうするんだ」

「試合が始まったら試合に集中するわよ。ちょっとでも他の事考えてると、ふと思い出すだけで」

 

それ、重大な精神障害なのではないだろうか。

みほは渇いた笑みを浮かべた。

まぁ、本人たちが大丈夫というのなら大丈夫なのだろう。

 

「一応神栖先生から聞いてると思うけど、戦車の操縦の方は問題無しよ。流石に西住さん達ほどじゃないけど、足を引っ張らない程度には戦力になるから」

「はい、よろしくお願いします」

 

そっちの方は、実はあんまり心配してない。

そど子の言う通り、みほは兄からカモさんチームの仕上がり具合を聞いていた。

兄が「まぁそれなりにはなった」と言う以上は、みほもそこまで気を遣って指揮をする必要もないだろう。

ただ技術(テクニック)じゃなく、精神(メンタル)の方が心配だっただけなので。

後者が良好かと聞かれると、微妙に困るけれど。

 

「緊張してテンパるなよ」

「緊張って何か怖いことをする時にするものでしょ。あの人の練習以上に怖いモノってこの世に在るの?」

 

真顔で言わないでほしい、とみほは思った。

 

ともかく、試合開始である。

 

 

 

 

寒い。

オレンジペコは極力表情に出さないようにしつつも、真冬のような気温に根を上げそうになっていた。

 

雪原の戦いである。

大洗女子学園対プラウダ高校、最後の準決勝。

大洗女子学園としてはサンダース以来のBIG4戦、プラウダ高校からすれば取るに足らない戦車道新設校との戦い。

 

その舞台がよりにもよって雪積る極寒の地。

肌を撫でていく冷風は容赦なく両チームを襲うだろう。

これにより早く対応した方が勝利へと近づく、というのであれば、それはあまりにも大洗女子学園に不利な戦いだ。

 

なにせプラウダ高校は雪原の精鋭部隊。

およそ雪中戦になれば、かの黒森峰女学園ですら一枚劣ると評されるほどの名手。

対し大洗女子学園は、最早言うまでもないだろう。

 

おそらくはサンダースの時よりも厳しい戦いになる。

それは明確。そこを大洗女子学園がどうやって戦っていくのか。

 

オレンジペコは、ひいてはオレンジペコの横にいる金髪青眼の隊長は、それを見る為にわざわざこんな所まで来たのだ。

 

「………防寒着を持ってくるべきでした」

「あらオレンジペコ、紅茶の温かみでは不満かしら?」

「間に合わないです……」

 

ココアよろしく身体の中から暖めるのはいいが、寒さから身を守るための手段としてはあまりにも無力。手と喉とお腹があったまっても、すぐに掻き消されていく。

 

「ダージリン様は平気そうですね……」

 

半ば信じられないものを見る目で、オレンジペコは二人掛けの椅子に一人で座るダージリンを見た。

彼女の佇まいと言えばそれはもう、学園艦にいる時と何一つ変わらない優雅なもので、まるで背景だけが切り取られて入れ替わったようである。

まさかこの人、本当に紅茶の温かみだけでこの寒さを耐えているというのだろうか。

 

「心頭滅却すれば火もまた涼し、氷もまた温しよ。要は気持ちの問題だわ」

「………本当は?」

「中にヒートテックを着てるの。最近のってすごいのね」

 

西洋の令嬢そのままのような姿形で、そんな俗っぽいことを言わないでほしい。

オレンジペコは静かにため息を吐いた。

 

「アッサム様が来るのを断った理由がわかりました……」

 

なぜわざわざ寒い思いをしてまで観戦しにいかないといけないのかしら、とつれなく宣ったダージリンの右腕を、オレンジペコは思い出した。

「貴方にはないでしょうけど、私には拒否権があるもの」なんて言っていたが、それを知ってるならちょっとくらいオレンジペコに救いの手を差し伸べてほしいものである。

おそらく彼女のことだから、一人くらいスケープゴートが必要ということでオレンジペコを差し出したのだろうけど。

 

「本当にもったいないわね。戦車道の高みを目指す者なれば、そこに少しでも糧になるものがあるなら例え雪が降ろうと雷が降ろうと貪欲に喰らうべきでしょう」

「………アッサム様も、本当にダージリン様がそう思ってるならついてきてくれたと思います」

 

しかしアッサムがここにいないということは、そういうことなのである。

お察しの通り、ダージリンが今日ここにいるのは向上心の賜物ではなく下心の結果だ。

 

「どういう意味かしら?」

「ある人がいなかったら、ダージリン様は此処に来ていたのかという話です」

「……なんだか貴女、アッサムに似てきてないかしら」

 

じとー、というオレンジペコの視線を受け止めながら、ダージリンは吐息を一つ漏らした。

ちなみにダージリンの言っていることはちょっと当たっている。

最近オレンジペコは気づいたのだ。従順な後輩の顔ばかりしていると、それはもうダージリンに好き放題されてしまう、と。

そこでオレンジペコが取り入れたエッセンスが、聖グロで唯一ダージリンに対抗できる、データ主義の金髪砲手であった。

 

まぁそこには、「ゆくゆくはアッサム様のような淑女になりたい」というオレンジペコの願望と憧れもちょっと混じっているが。

 

「別に渡里さんがいる、いないは関係ないわ。私達は既に敗退した身とはいえ、戦車道を引退したわけじゃない。ここでみほさん達の戦いを見る事は、必ず未来の糧になると思ったからここにいるのよ」

「では渡里さんにお誘いの連絡はしてないんですね」

「でもどうせなら一緒に見た方がいいわよね。勉強になるもの」

 

はぁ、とオレンジペコは内心でため息をついた。

一体何の見栄なのだろうか。ダージリンが神栖渡里という男性にどれだけ深い想いを抱いているかなんて、既に周知の事実。

暇さえあれば電話、何かする度にメール、そんなちょっと重い女ムーブをやろうとしていた彼女が、こんな絶好の機会を逃すわけがない。

 

まぁ二人掛けの椅子を持ってきていた時点で、色々と察していたけども。

 

アッサムが嫌がった理由がコレである。

ダージリン+神栖渡里という状況がどれだけ面倒くさいかを身を以て知っているが故に、彼女はオレンジペコを差し出したのだ。

 

はぁ、とオレンジペコはもう一度内心でため息をついた。

 

前向きに考えよう。ダージリンはともかく、神栖渡里の話は間違いなく戦車乗りにとって有益なものなのだから、いっそそっちに集中してしまえばいいのである。

そうすれば多少は気が紛れるだろう。

 

よし、覚悟完了。

 

 

「―――――ハロー、ダージリン」

 

 

そして突然、そんな声が響いた。

オレンジペコの聞き覚えのない声。けど、どこかで聞いたことのある声。

明るくて、快活で、まるで太陽のように眩しい声色だった。

 

振り返り、声の主を見る。

 

「わざわざこんなところで観戦するなんて、結構物好きなのね」

 

まず目を引いたのは、ダージリンともアッサムとも違う、柔らかな色をした金色のウェーブロング。

そして次に、大きな瞳。雪の中にあっても爛々と輝く、ダージリンと似た色の目。

やがて全貌が明らかになり、その人がとても端正な顔立ちをしていることがわかる。

灰色のブレザー、赤いスカート。

そして、悪戯っぽい愛嬌のある表情。

 

そこでようやく、オレンジペコは彼女が誰であるかを知った。

同時、ダージリンが彼女の名前を呼ぶ。

ほんちょっぴり、マイナスの感情を滲ませて。

 

「……ケイさん」

「久しぶり。こうして顔を合わせるのは一回戦の時以来かしら?」

「ええ、何度か電話では話したけど」

 

ケイ。

聖グロと同じBIG4の一角、サンダース大付属高校の隊長を務める、全国でもトップクラスの戦車乗り。

卓越した指揮能力を以て、かの神栖渡里に「大軍を指揮させれば日本でも一、二を争う」と言わしめた実力者。

 

そんな畏怖されるべき存在が、あまりにもフレンドリーに、そこに立っている。

オレンジペコは、そんな状況を処理しきれずにいた。

しかし容赦なく、会話の矛先はオレンジペコへと向いた。

 

「オレンジペコも久しぶり」

「は、はいっ。お久しぶりです!」

「準決勝、観てたわよ。すごい活躍だったじゃない」

「え、あ……」

 

曖昧な返事しかできなかった。

「まさか」と「なんで」が、彼女の口を麻痺させていた。

 

「結果は残念だったけど、一年生であんなにできるなら将来有望ね!来年、再来年にはサンダースの大きな壁になっちゃうかも」

「あ、ありがとうございます!」

 

ふふ、とケイは人懐っこい笑みを浮かべた。

一方でオレンジペコは、ただただ彼女に畏敬の念を抱いていた。

 

かつて彼女は、サンダースでは実現不可能と言われた神栖渡里の戦術を、自身のある能力によって成立させてみせた。

それは全ての隊長にあまねく備わるものでありながら、明確に差をつけられるもの。

人心を掴む力―――ひとえに、カリスマ。

 

ケイという隊長は、それが人一倍優れているらしい。

神栖渡里からそれを聞いた時、オレンジペコはまだよく理解できなかったが、今なら解る。

 

この人には、「ついていきたい」と思わせる力がある。

人を魅了するというか、尽くさせるというか。

誰にも好かれ、誰からも支えてもらえる、さながら王の器とでもいうべき力が。

 

ダージリンにも同じような力があるが、ケイのそれは少しベクトルが違う気がする。

神聖視されることで畏敬されるダージリンとは違って、彼女のはもっと親近感のある、等身大の魅力だ。

どちらにせよ人の上に立つに相応しい人格だろうけど。

 

「それで、何の用かしら?」

 

瞑目しながら、ダージリンはつれなく言った。

それは久しぶりに会った友人に向ける温度のものではなかった。

しかしケイは一向に気にする様子もなく、口を開いた。

 

「もちろん、試合観戦よ。大会が終わったからっていって、戦車道を辞めるわけじゃないもの。将来のための勉強ね。貴女もそうでしょ?」

「そうだけど―――――――」

「じゃ、お邪魔するねー」

 

ずい、とあまりにも軽いフットワークで、ケイは()()に座った。

ダージリンの座る二人掛けの椅子、その空いた一席に。

既に(ダージリンの脳内では)予約されている席に。

 

あ、とオレンジペコは思った。

ピクリ、とダージリンの形の整った眉が跳ね上がった。

 

「一人で観戦するのもなんだし、と思って探したのよ?貴女の金髪って目立つはずなのに、観客席のどこにも見当たらないし。あ、紅茶は別にいいわ。自前の飲み物持ってきてるから」

「………ケイさん」

「なあに?」

 

眉をぴくぴくさせながら、ダージリンは瞑目して言った。

その声が僅かに震えていたことに、果たしてケイは気づいていただろうか。

 

「申し訳ないけど、今日は先約があるの。だからここは―――――」

「―――――ところで()()()()はまだ?」

 

瞳と瞳が、交錯する。

空気が張り詰める音がした。

 

「まさか本当に、ただ一緒に観戦しにきたと思ったの?」

 

ケイの口が、三日月を描く。

妙に芝居がかった声が、やけに挑発的に聞こえた。

 

カラカラと彼女は笑う。

対照的にダージリンは、あまりにも静かに、身じろぎもせずにいる。

感情を隠す擬態。しかしそれこそが、どうやらケイの求めていたものだったらしい。

 

「その反応を見る限り、やっぱり今日ここに来たのは正解だったわね」

「……なるほど」

 

ダージリンは深く息を吐いた。

 

「もう()()()()は意味がないということね」

「ええ。素敵なプレゼント、どうもありがと」

「どうかお気になさらず。日頃の感謝の気持ちですので」

「あら、だったらお返しを考えておかないと」

 

なんか寒いなぁ、とオレンジペコは遠い目になった。

ふ、ふ、ふ、と響く怖い笑いが、どうか幻聴であってほしい。

 

というかこの人、さらったとんでもないことを言わなかっただろうか。

言葉から察するに、ケイが神栖渡里と会うのを、ダージリンが邪魔していたらしいが……何をしてるんだろう、この人。

 

「楽しみねーどんな人なんだろ」

「………どうあっても、立ち去るつもりはないようね」

「勿論、これでも会えるのを楽しみにしてたんだから。ほら、例のノートだってここに」

 

はぁ、とダージリンは大きなため息をついた。

二人の金髪の持ち主は、対照的な表情を浮かべている。

 

オレンジペコは、ようやく全てを理解した。

あのノートはおそらく、神栖渡里が言っていた『サンダース大付属にいた時に書いた戦術書』。オレンジペコ達はノートと神栖渡里を一つの線で結びつけていたが、どうやらケイもその事を知ったらしい。

それで会いたい、会いに来た、というわけだろう。

 

「―――――あれ?」

 

そしてその時はやってきた。

奇しくもケイが現れたのと同じ方角から、聞き心地の良い低音が響く。

 

六つの目が、そちらを向く。

そこには当然、

 

「なんだ、俺だけじゃなかったのか」

 

ダージリンとケイが待ち望んでいた、彼がいた。

大きな背丈。深い色をした髪。鋭い目つき。

ご存知、神栖渡里(防寒着バージョン)である。

 

「わ――――」

「ハロー!初めまして、私はダージリンの友達のケイ。貴方がMr.渡里?」

 

ケイの行動は迅速だった。

ダージリンが何か言うよりも早く、立ち上がり彼の懐へと潜り込む。

そしてダージリンが口を挟む余地のない、完璧な一対一の構図を作り上げた。

 

神栖渡里は少し面食らいながらも、大人の対応をした。

 

「はい、そうですけど……」

「イエース!ダージリンから話は聞いてるわ!大洗女子学園の戦車道の先生で、とっても戦車道が上手な男の人がいるって」

「はぁ……恐縮です」

「ずっと会いたかったの!あ、敬語はナッシングよ。今日はフランクにいきましょ?だから渡里さんって呼ばせてもらうね、私の事もケイでいいから!」

「ははぁ……じゃあ遠慮なく」

 

そこから二人の会話は、さながら捻った蛇口から溢れ出る水のようであった。

オレンジペコはそれを、丸い目で見つめていた。

 

あれ、本当に初対面の人同士の会話なのだろうか。

 

なんというか、ケイの活発性と、神栖渡里の受容性がこれ以上ないくらいに噛み合っている気がする。

いや、二人とも多分、元々のコミュ力が高いのだとは思う。

けどこの噛み合い方はちょっとない。さながらS極とN極、凸と凹だ。

ケイがもう少し奥手でも、渡里がもう少し神経質でも、この状況は生まれていないだろう。

 

もう二人とも名前呼び、敬語無しの会話に移行してるのがすごい。

ダージリンがコツコツと積み上げてきたモノに、ケイは一瞬で並んでいる。

 

(………あ)

 

しかしそうなると、穏やかではない人が一人いることを、オレンジペコは思い出した。

チラ、とオレンジペコはそちらを伺った。

 

「…………むすー」

 

むすー、としているダージリンがいた。

はい。ほっぺを膨らませて可愛いですね。

あざとい以外何者でもないけれど、整った容姿を持つダージリンだからこそ、可愛いで収まっている。

 

「……オレンジペコ、ズルくないかしら」

「なにがですか」

「ケイさんよ。あんな可愛い人があんなに人懐っこくアタックしてきたら、世の男性なんて皆イチコロじゃない」

「ダージリン様もやればいいんじゃないですか」

「私がケイさんと同じムーブをしたら、渡里さんどう思うかしら」

「受け入れてくれると思います。だいぶ怪訝な表情で」

 

それがダージリンの望むところかは知らないけど。

 

「でも渡里さんは、あまりそういうの効かなそうですけど」

「そういう所も素敵よね」

 

何の話なんだよ、とオレンジペコは内心で荒ぶった。

もう頼むから巻き込まないでほしい。

 

「でも分からないじゃない?渡里さんだって男の人、もしかしたらああいうのが好みで――――」

「やぁダージリン。今日はお誘いどうも」

「いえ渡里さん、来て頂いて光栄です」

 

いっそ見事な表情の切り替わりだった。

そういう二面性が、ケイとダージリンの違いだろうな、とオレンジペコは思った。

 

「ダージリンも人が悪いな。他に誘ってる人がいたなら言ってくれればいいのに」

「―――えぇ、すみません。ちょっとしたサプライズです」

「ダージリンはそういうの好きだもんねー」

 

なるほど、どうやらケイは「自分もダージリンに招かれた客」と神栖渡里に伝えたらしい。

優美な笑顔を一つも崩さない様は見事だが、ダージリンの心中は穏やかではないだろう。

しかしケイのニコニコとした笑顔よ。

よくもまぁ、いけしゃあしゃあとそんな嘘をつけるものである。

 

「まぁでも、ちょうどよかったかな」

「はい?」

「俺も連れが一人いてさ、そいつを同席させてもいいか聞きにきたんだよ」

「―――はい?」

 

硬直するダージリンを他所に、おーい、と渡里は手招きした。

するとざっ、ざっ、と雪を踏みしめる音がして、()()()は現れた。

 

「うぅ渡里さん……本当にいいのかな?」

「えっ?」

「ワオ」

 

薄い灰緑の髪を、黒いリボンで結った特徴的なツインテール。

小柄な体躯に、戸惑いがちな表情。

そして何よりも目を引く、黒いマント。

 

オレンジペコは彼女の名前を知っている。

今大会、二回戦にて大洗女子学園と対戦し、彼女たちを苦しめたイタリア戦車の使い手。

 

「アンチョビさん……」

 

奇計速戦の統帥(ドゥーチェ)、アンチョビ。

借りてきた猫のような表情で、彼女はそこに立っていた。

 

あ、なんか今日厄日かも。

オレンジペコはすっごい面倒なことが起きる事を予見した。

 

「大丈夫だよな、ダージリン」

 

そんな彼の声は、寒空に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

安斎千代美ことドゥーチェ・アンチョビ。

オレンジペコは彼女について、多くの事を知っているわけではない。

 

アンツィオ高校という、失礼だがそんなに強いわけではない高校の隊長をしていること。

奇策を以て相手を攪乱する戦いを得意とすること。

そして今大会二回戦にて、大洗女子学園と対戦し、敗北しているということ。

 

ちょっと調べればすぐ手に入るような、そんな程度の情報しかオレンジペコは持っていない。

当然、実際に話したことはない。

顔は知っているが、そんなのは大会パンフレットに目を通していた時に見ただけ。

 

面識ゼロ。オレンジペコとアンチョビの間には、なんの縁も繋がっていない。

 

ではケイ、ダージリンはどうなのかというと、実はオレンジペコと大差なかったらしい。

名前と顔くらいは知っているが、それだけ。

あえて言うなら二回戦で当たるかもしれなかった分、ケイがほんのちょっと詳しかったくらい。

それにしたって友人と呼べる程の関係ではなく、顔見知り以下の薄い縁しかなかった。

 

よってアンチョビと親しい関係なのは、ただ一人だけ。

 

「いやー寒い寒い」

 

彼女をこの場に連れてきた、神栖渡里のみである。

 

既に時は流れ、大洗女子学園とプラウダ高校の試合も始まろうかという頃。

神栖渡里以外面識がないというアンチョビ。

ケイだけ面識がないという神栖渡里。

そして以上の二人と面識がないケイ、という複雑な人間関係を描いていた五人は、しかし当事者達の(主にケイと渡里)コミュニケーション能力の高さもあって、程々に打ち解けていた。

 

五人が一堂に会してからの時間で、交わされた会話はかなり多く、主に聞き手だったオレンジペコはかなりの情報を収集できていた。

 

まずアンチョビと神栖渡里の関係について。

事の始まりは、ダージリンやケイと似たようなもの。戦車道をしていた神栖渡里を見て、その戦術に心を惹かれ、彼を目標にして今まで頑張ってきたという。

戦車も人も十分でない弱小校にとっては、戦術一つで戦力差をひっくり返す神栖渡里の戦車道は、何よりの救いだったらしい。

 

まずここでケイとダージリンが頷き一つで共感。

 

接点ができたのは二回戦の後。ここでアンチョビは、今まで女性だと思っていた神栖渡里が男性であることを知ったそうで、詳しく聞くと今まで彼については名前しか知らなかったそうだ。

そこから縁があって連絡先を交換し、そこそこ交流を深めて、そして今日に至るという。

 

友好度は、おそらく結構高め。

神栖渡里はダージリンの時とは違った顔……言うなら『年上の友人』くらいの距離間であり、アンチョビが敬語を使わずに話していることからもそれは窺える。

 

次にケイ。

彼女に関してはオレンジペコの予測だが、ダージリンが危惧しているような事はないと思われる。

今日神栖渡里に会いに来たのも、興味や好奇心といった色合いが強そうで、少なくともダージリンのように彼と深い関係になりたいとか、そういう雰囲気は感じられない。

 

ただ尊敬というか、敬意を以て接しているのは間違いないと思うのだが……距離感が近いと思わなくもない。

彼女がパーソナルスペースの狭いタイプだからなのか、それともそういう気質だからなのか、とにかくグイグイ行く。

ダージリンも大概だと思っていたが、ケイもまた別ベクトルですごい。

その詰め方たるや、傍目にはもう兄妹なんじゃないかと思うくらいである。

 

(うぅ……どうか何事もありませんように)

 

以上二人に加えて、神栖渡里ガチ勢のダージリンが集まったこの場。

果たして何も起きないことがあるだろうか、いやない。

故にオレンジペコが祈るのは、自分の精神の無事。

もう何も起きないことは諦めるので、どうか変に巻き込まれることがありませんように。

 

 

「ねぇねぇ渡里さん、今日はどうやって戦うつもりなの?」

「ん?」

 

 

話題はいよいよ始まる試合に移った。

オレンジペコは内心でケイに感謝した。

なぜなら、少なくとも戦車道の話をしている間はみんな真面目になるからである。

 

「相手はプラウダ、当然無策じゃないんでしょ?大洗女子の子達にどんな策を授けたの?」

「いや別に?俺は未だかつて、ただの一度もそんなことしたことないよ」

「えっ!?そうなのか!?」

「うん」

 

彼は頷いた。

その表情は、「自分の方が驚いた」とでも言いたげなものだった。

 

「なんで!?」

「そんなことしても勝てないから」

 

彼は真顔で言った。

 

神栖渡里の実力は、日本でもトップクラスのものである。

オレンジペコは彼が実際に戦車道をしているところを見たことはないが、それでも伝え聞く彼の逸話から、彼が一人の戦車乗り、特に作戦を立案する指揮官として並外れた力を持っていることを確信している。

 

その力を、指導者という枠内で最大限発揮するなら。

それはやはり、彼が考えた戦術を西住みほ達が実践する、これに尽きる。

 

かつてはサンダース大付属に、「キチンと実行さえできれば黒森峰すら倒せる」戦術を授けたこともある彼だ。その気になれば全国大会に出場している全ての学校に対し、有効な戦術を作り上げることなど造作もないだろう。

 

それは間違いなく大きな力。

なのに「勝てない」とは、一体どういうことなのか。

 

「確かに俺がアレコレ口を出せば、一回か二回は勝てる……かもしれない。けど絶対に優勝はできない」

 

彼はオレンジペコの淹れた紅茶を一口味わった。

 

「そんな操り人形で勝てる程、日本一っていうのは安くないだろ。あいつらが優勝するには、結局あいつら自身が強くなるのが一番の近道なんだ」

 

楽だけど、途中で途切れる道。

険しいけど、最後まで続く道。

神栖渡里は、その二つを前にして後者の方を取った。

全ては優勝という二文字のために。あるいは、それこそが彼女たちの成長に繋がると信じてか。

 

「そもそもアイツらは俺の駒じゃない。外野が試合に口出しなんて、あまりにも品が無いと思わないか」

「うーん、そっか……それもそうだよなぁ」

「じゃあじゃあ、渡里さんが大洗の隊長ならどう戦う?」

 

ケイは更に質問した。

オレンジペコも耳を大きくした。

それは少しどころじゃなく気になる所だった。

 

すると彼は笑みを深めながら言った。

 

「こんなに優秀な戦車乗り達が集まってるんだ。どうせなら議論した方が面白いんじゃないか?」

 

確かに、とオレンジペコは思った。

ここには、錚錚たるメンツが揃っている。

 

聖グロリア―ナ女学院の隊長、ダージリン。

サンダース大付属の隊長、ケイ。

そしてアンツィオ高校の隊長、アンチョビ。

 

全国の隊長16名の内、上から数えた方が早い所にランクインしている隊長が三人もいるのだ。もったいない使い方をするものではないだろう。

 

「あら、良い考えですわ」

「グッドアイディア!」

 

二人の金髪の持ち主は、即座に乗り気になったようだった。

 

「じゃあアンチョビさん、貴女からどうぞ」

「じゃあアンチョビ、最初は貴女ね!」

「わ、私か!?」

 

そしてイマイチ乗り気ではなかった様子のツインテールが、真っ先に標的となった。

 

「はい、これ地図」

「うえぇ!?渡里さんまで……」

 

ぽい、と放り投げられた地図を、アンチョビがワタワタしながらキャッチした。

そして眉を八の字にして、唸りながら地図に目を通していく。

 

「うぅ……えーと、全体的に高低差がある感じで……こっちには、集落跡か?あんまり使えなさそうだけど……あ、でもこっちの森林地帯は戦車隠すのにいいかも……」

 

ブツクサ言いながら、アンチョビは思考の海へと潜っていく。

その僅かな間隙を縫うようにして、ダージリンが渡里へと言葉を投げかけた。

 

「地形的には大洗女子学園が不利でしょうか」

「まぁね。雪対策はそれなりに積んできたけど、流石にその分野はプラウダに一日の長がある」

 

雪対策。

一体どういう練習をしてきたのか、オレンジペコは聞きたい衝動に駆られたが、二人の間に口を挟む勇気がなかったのでひとまず心の中に仕舞い込んだ。

 

「ただ雪さえなければ、そこそこウチにも有利な条件は揃ってる。やりようによっては―――――あぁいや、まずは話を聞いてからだな」

 

黒い瞳が、ツインテールへと向けられた。

その視線を感じ取ったのか否か、アンチョビは伏せていた顔を上げた。

 

「やっぱり攪乱からの奇襲しかないんじゃないか?まともにやりあったら勝ち目はないし、なんとかフラッグ車を孤立させてそこを狙い撃つとか……」

「好きだな、そのやり口」

 

カラカラと彼は笑った。

そんな彼に、アンチョビは「うぐっ」と一つ唸った。

間髪入れず、ダージリンが畳みかける。

 

「機動力を活かすのは賛成だけれど、果たしてフラッグ車だけを上手く分断できるかしら?倍以上の戦力差があるのだから、プラウダもフラッグ車の周りは固めると思うけれど」

「いや、プラウダはフラッグ車を安全圏に置いて、本隊から離す傾向がある。本隊とフラッグ車の間を断ち切れば……」

「させるかしら?カチューシャ、ああ見えて結構危機察知能力は高いわよ」

「それに大洗は戦車も少ないしねー」

 

ううむ、とアンチョビは腕を組んだ。

するとケイがピンと指を立てて言った。

 

「でも勝ち筋としては、確かにフラッグ車の早期撃破しかないと思うわ。長期戦になればなるほど、大洗女子は不利だもの」

「まぁ、そこは動かないでしょうね」

「優勢火力ドクトリンはどう?全体の数では負けてても、局所的には数の優位は作れる。そうやって一両ずつでも減らしていけば、フラッグ車を狙うチャンスも作れるわ」

 

その言葉を聞いて、オレンジペコは大洗女子学園VSサンダース大附属の一回戦を思い出した。

確かあの時は、まさに今ケイが言ったような戦い方を大洗女子学園がしていた。

各方から小隊で押し寄せるサンダースを、西住みほは戦力を流動的に運用する事で、数の上では劣るというのに五角の戦いを繰り広げた。

 

一つ気がかりなのは、その時と今とでは状況が違うということ。

一回戦の時にやったことが、そっくりそのまま今回も通用するかどうかは分からない。

まぁそんなのは、やってみないと分からない話でもあるけど。

 

「難しいところね。一つでも歯車が噛み合い損ねると全てが破綻する、薄氷の上を歩くようなもの。賭けね」

「プラウダ相手にノーリスクで勝とうなんて虫が良すぎるわ。それともダージリン、貴女にはもっといい策があるのかしら?」

「行進間射撃なんてどう?とにかく撃って撃って撃ちまくるの」

「一番シンプル!?」

「貴女ねぇ……こんな時に手の内を隠そうとしてどうするのよ」

「冗談よ。そうね、私ならーーーーーーーーー」

 

そこから三人の隊長による議論は加速していった。

アンチョビが表情をコロコロと変え、ケイは笑みを絶やさず、ダージリンは優雅に。

言葉を交わし、知識を交わし、心を交わしていく。

 

その様子を、オレンジペコは見ることしかできない。

それをオレンジペコは、悔しいと思った。

 

あの輪の中に入っている自分を、オレンジペコは想像できないのだ。

それがなぜかは、わからない。

知識が欠如しているからか、実力が不足しているからか、はたまたもっと別の理由か。

ともかくとしてオレンジペコには、あそこに割って入る勇気が湧かなかった。

 

だってこんなにも近いのに、ダージリン達がすごく遠くに感じる。

手を伸ばせば届きそうな所にある彼女達とオレンジペコの間には、何か大きな見えない壁があるようで、確かな疎外感がオレンジペコの中にはあった。

 

きっとこれが、現在地なのだ。

戦車道の名門、聖グロリアーナで一年生ながら隊長車に搭乗しているとしても、オレンジペコはこれっぽっちも彼女達に及ばない。

最早できることは、少しでも彼女達のいるところに近づけるよう、彼女達の会話を心に刻むことだけだった。

 

(あぁでも……この人は……)

 

ダージリン達の会話を、まるでクラシックでも聴くかのようにニコニコと味わう一人の男性。

オレンジペコは彼を、羨ましく思った。

 

彼もまたオレンジペコと同じく、一言も喋っていないが、それはオレンジペコの沈黙とはまるで違う意味合いだ。

なぜなら彼は、

 

「ねぇねぇ渡里さん、そろそろ渡里さんの考えを聞きたいわ」

「うん?あぁ、そうだなぁ」

 

こうやって、話を振ってもらえる。

それがどういう意味なのか、オレンジペコは理解していた。

 

「………まぁ、一つだけある狙い目を突いていくのが、一番簡単なのかな」

「狙い目?」

「是非聞かせてほしいですわ」

 

アンチョビとダージリンの声に、彼は少し背筋を伸ばした。

途端、彼の声色が真面目さを帯びる。

 

「プラウダ高校っていうチームは、隊長であるカチューシャの存在に依るところが大きい。隊長が指揮系統の頂点にあるっていうのは別に珍しくないが、プラウダのそれはもっと露骨。彼女のカリスマを核とすることで成り立っているようなチームだ」

「でも、それは普通じゃない?チームってそうやってまとまるものでしょ?」

「そうだね。そしてそういう絶対的存在がいるチームは例外なく強い」

 

彼の視線が、遠い向こうへと向けられた。

黒い瞳に、僅かながら剣呑な光が灯る。

 

「だから、隊長を狙うんだ。どれだけ優秀な選手が揃っていても、指揮棒を振るうのは一人。隊長の存在が大きければ大きいほど、隊長の弱点はチームの急所になる」

「………なるほど。では、渡里さんはカチューシャの弱点を見抜いている、と?」

 

ダージリンの言葉に、彼は曖昧に笑った。

 

「弱点はない。けど、傾向がある」

 

そう言って彼はアンチョビに視線をやり、地図を寄越すようにジェスチャーした。

そうした後、アンチョビから地図を受け取ると、今度はそれを全員に見えるようにした。

 

「一つはフラッグ車の配置。さっきアンチョビが言った通り、フラッグ車には一両、二両の護衛をつけて戦闘には参加させたがらない」

 

うんうん、とアンチョビは頷いた。

 

「隊長のカチューシャとか()()砲手とかはバリバリ前線に出てくるんだけどな」

「賛否はあるけど、リスクマネジメントとしては間違ってない。そのやり方なら、流れ弾でフラッグ車が倒される危険性はないからな」

「戦車の性能と自分達の実力。それが相手を上回っていると確信している故の行動ですわね」

 

となると、微妙に狙い目ではなくなるのだろうか、とオレンジペコは思った。

フラッグ車を完全に本隊から切り離すということは、フラッグ車に敵が接近しても守れないというリスクがある。

カチューシャもそれを理解しているはず。その上でそれをやるということは、怒涛の攻めでで完封してやる自信があるということに他ならない。

 

「カチューシャが指揮を取ってる試合のビデオをいくつか見たけど、多分これは彼女の癖な気がする。そして、そういう所に人の性質は表れる」

 

彼の指が地図をなぞっていく。

オレンジペコ達は、そこにプラウダ高校の戦車配置を幻視した。

 

「前線を形成する部隊が此処にあるとしたら、フラッグ車は大体その後方。この時両者の距離は遠く、即座にフラッグ車の救援に駆けつけることはできない」

「うんうん。それで?」

「守りを主眼に置くチームなら、この配置はしない。ということは、カチューシャという隊長は『やられる前にやればいい』と考えるような、そういう攻めっ気の強いタイプなんじゃないだろか」

 

オレンジペコは正に守りに主眼を置く聖グロと比較して考えてみた。

基本ダージリンもフラッグ車を積極的に前線に出すことはしないが、かといって安全圏まで下がらせることはない。

それは「フラッグ車を利用して相手の動きをコントロールする」というやり口をダージリンが好むためでもあるし、手元にいてくれた方が不測の事態に対処しやすいためでもある。

 

「じゃあそこを突くの?」

 

ケイの問いに、渡里は首を横に振った。

 

「ここがカチューシャの厄介な所で、彼女は危険察知能力が高い。フラッグ車に危険が及びそうとなると、一旦攻撃を止めて守りに入ってしまう。おまけに、これが簡単には崩せないくらい堅い」

「まぁそうだよな。プラウダは長期戦なんてドンとこいだろうし、慌てて戦うことはない」

 

長期戦は絶対にやりたくないチームの隊長が、うんうんと首を縦に振った。

 

 

「「――――――それが二つ目の傾向ね」」

 

 

その時、突如として二人の金髪の持ち主が重なった。

へ?と目を丸くするツインテールの横で、神栖渡里はニヤリと笑った。

 

「フラッグ車を安全圏に置くのは、おそらくカチューシャなりの切り替えのスイッチ」

「フラッグ車が無事かそうでないかで、カチューシャは退き時と攻め時を区別してるんだわ」

「――――――ああ!?そういうことだったのか!?」

 

得心がいった様子の三人に対し、オレンジペコの理解は未だ追いついていなかった。

それを見抜いたのか、渡里が言葉を足してくれた。

 

「攻めたがりのカチューシャにとって難しいのは、守りに入るタイミング。彼女はそれをできるだけ分かりやすくするため、フラッグ車を安全圏に置くというやり方を取っているんじゃないか、ってことさ」

 

フラッグ車が無事そうなら、意識は攻撃に全振り。

危なそうなら仕切り直しとして守りに入る。

両天秤にならないため攻防の質は上がり、判断は迅速。

それは一つの強みになる。

 

 

あぁなるほど、そしてだからこそ――――――

 

 

「じゃあ、その両方の選択肢を与えられた時、彼女はどうなるんだろう」

 

 

それは一つの弱みとなる。

 

彼の声は、静かにオレンジペコ達に浸透していった。

 

「少し攻めれば相手のフラッグ車を倒せる状況、かつ、少しだけ守りに意識を割かないと自分のフラッグ車が倒されそうな状況。この時カチューシャは、攻防のスイッチをどっちに入れるのか――――あるいは、どちらにも入れられないのか」

 

彼は不敵な笑みを浮かべた。

またそういう表情がよく似合う人だった。

 

「隊長が麻痺ればチームも共倒れだ。そうすれば、こっちにも付け入る隙がある」

 

そこを突けるだけのセンスと力は、大洗女子学園に十分備わっている。

 

 

「まぁ全ては予測。当てが外れたら即ゲームオーバーだけど―――――勝負ってのはそういうもんだろ」

 

 

物騒なことを言いながら、彼の視線はダージリン達に移る。

 

お気に召しましたか、お嬢様方。

そんな声を、オレンジペコは聞いた気がした。

 

 

返事は、三種の視線となって彼に注がれた。

一つ、驚愕。

一つ、好奇。

一つ、憧憬。

 

それらを浴びながら彼は、一口紅茶を味わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

果たして。

 

もしこの場に西住みほがいたならば。

 

その口元に滲む僅かな寂寥感を、見逃すことはなかったかもしれない。

 

 

 

 

 




オレンジペコちゃんの視点で物語が進んでいるのは、彼女が圧倒的に使いやすいからです。



作者は「その道の一流達が集まって話し合う」ようなシーンが好きです。

一流同士だからこそ伝わる・理解できるハイレベルな会話とか、カッコよくないですか?ちょっと憧れませんか?


まぁ作者は戦車道未経験なので、描写しろっつわれたらエライ難しいわけですが。

読者様の中に高校時代戦車道やってたよーっていう方がいらしたら、是非取材させてください。


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第39話 「プラウダと戦いましょう③ ルーズ・バランス」

試合開始

「冷静に考えなくてもこれムリゲーじゃね?」ってなるのが対プラウダ。

原作とは違う形で勝機を見出していくのも一苦労。
おまけに出番の増えた主人公がなんとかクサくならないようにするのも一苦労。


「大洗もプラウダも特に動きはないな…」

「まぁまだ最初だしね」

 

渡里の視線の先には、大洗女子学園とプラウダ高校の動きがリアルタイムに追える電光モニターがある。

三角のマークで記された戦車達を俯瞰で見れるという、戦車道に詳しくない人にも分かる優しい仕様で、実際戦況を把握するにはとても役立つ代物である。

 

三角のマークは、特に変わった動きはしていない。赤の三角も青の三角も、まとまって真っ直ぐ進んでいる。

ケイの言う通り、今はまだまだ序盤。どういう形であれ、動きが出てくるのはもう少し後になってからだろう。

 

はてさて、とりあえずはオレンジペコの入れてくれた紅茶を楽しむとしよう。

 

「渡里さん、今日は新しい紅茶を持ってきてますの。よろしければいかがですか?」

「あぁ、折角なら頂こうかな」

 

ダージリンの言葉に、渡里は頷いた。

紅茶なんて何だろうが渡里には味の違いは分からないが、好意を無下にすることもないだろう。

 

ところで先ほどから渡里のカップに紅茶を注いでくれてるのはオレンジペコなのだが、ダージリンがその台詞を言っていいのだろうか。

 

「ちなみに何ていう名前なんだい」

「ルクリリです」

「………そ、そう」

 

どういう反応をすべきか、渡里には分からなかった。

いや、ルクリリなんて一般人からすれば紅茶の名前以外何物でもないんだろうが、渡里はそうじゃない。

紅茶の名前を持つ聖グロリアーナ女学院の戦車乗り。そこにまったく同じ名前を持つ女子がいることを渡里は知っているのだ。

 

「えーと、元気かい?」

「それはもう。渡里さんから頂いたあのジャケット、毎日のように自慢されますわ」

 

今は亡き自身のジャケットが、旅立った先でそんな扱いを受けているとは思いもよらない渡里であった。

いや1週間2週間はそういうこともあるかもしれないが、今はもう2ヶ月ほど経っている。渡里の人生においてそんなに長い間自慢できるものは、未だかつてなかったのだが。

 

「……ありがとうと伝えておいてくれると助かるよ」

 

とりあえず渡里は当たり障りのないことを言っておいた。

ただのジャケットにそんな価値を付けられても困るというのが、本心だけれど。

 

「あ、渡里さん渡里さん。これパンペパートって言うんだけど……」

 

紅茶を味わう渡里に、アンチョビが何やら取り出してきた。

視線をそちらにやる。

アンチョビが差し出していたのは、ナッツのようなものが入ったチョコレートパンのような菓子だった。

 

「なにこれ、焼き菓子?」

「うん。普通はワインと一緒に飲んだりするんだけど、多分紅茶にも合うと思う。良かったら食べてくれないかな……?」

 

遠慮がちなアンチョビの表情だった。

今一度、パンなんたらを見る。

 

正直今までの人生で見たことのない代物である。

色合いが黒っぽいからか、謎の警戒心が生まれる。

 

そんな渡里の躊躇いを敏感に察知したアンチョビが、ワタワタとしながら口を開いた。

 

「べ、別に無理ならいいんだっ。そんな特別なものじゃないし、今日渡里さんと会えるかなー会えるんなら何か差し入れくらい用意しないとなーって作った奴だからっ!」

「いや、食べる食べる」

 

どうぞと出されたものを一口も食わずに断るわけにはいかない。

そんな失礼は大人としてできないし、女子が作ってくれたお菓子にノータッチって男としてどうなんだという気持ちもある。

 

ちょびっと勇気を振り絞って、渡里は一つ摘んだ。

 

あむ。

 

「……あ、うまい」

「そ、そう!?」

「うん、アンチョビってこういうのも作れんだな」

「えへへ……よかったぁ」

 

生憎ボキャブラリの貧弱な渡里には、うまい具合に説明することはできないけれど。

それでも間違いなく美味なお菓子だと断言はできる。

思えばこの少女、二回戦の折も絶品イタリアンを賄ってくれたし、料理の腕は抜群。どっかの妹よりも一枚は上だ。変なものなんて、出てくるはずもない。

 

まぁ、大抵のものは美味しく食べられるので、彼女のパンなんたらがどれほどのレベルの美味さかは分からないけど。

 

「アンチョビさん……まずは胃袋を掴もうという魂胆ね……!」

「………はっ!?いやいやいや!そんなつもりじゃないぞ?!私はただーーーー」

「ダージリン様には無理な攻め口ですね」

「甘いわねオレンジペコ。少々なんていう不愉快な匙加減がなければ私だってまともな皿は出せるのよ」

「料理の方も、アレンジなんていう妙な知恵さえなければまともな皿になれたのに、と嘆いてると思います」

 

なんか騒がしいなぁ、と渡里は聞こえないフリをした。

自分が口を挟むとロクなことにならない予感がバリバリなので、渡里は全神経を味覚に集中させる。

 

そうやってもぐもぐ、とアンチョビの焼き菓子を味わっていると、渡里はまた新たな視線を感じた。

釣られるようにそちらを見ると、そこには笑みを浮かべたケイがいた。

 

はて、なんだろうか。

渡里が首を傾げると、彼女は口を開いた。

 

「渡里さんって人気なのね」

「え?あぁ……」

 

我ながら曖昧な返事だ、と渡里は思った。

上手い返し方が分からなかったのを誤魔化すにしては、あまりにもお粗末だった。

 

「人気かわからないけど、まぁ色んな人に親切にはしてもらってるな」

「間違いなく人気よ。こんなダージリン今まで見たことないし」

 

そういえば、と渡里は視線を辺りに散らした。

ダージリンから紅茶を淹れてもらっているのは、自分だけである。

 

『こんなダージリン』に関しては、渡里は初対面から今に至るまでこんなダージリンなので何とも言えないので、この紅茶が親切故なのか人気故なのかは分からないが。

 

「だとしたら戦車道のお蔭かな。今まで碌に使い道のない能だったけど」

 

渡里は、ダージリンが自分の何に魅力を感じてくれているかを知っている。

彼女との出会いのきっかけになったものも、彼女との交流がここまで続いているのも、全ては戦車道のお蔭。

 

男性であるために公式戦に参加することはおろか、戦車道に関わることすら難しい自分には本当に使い道のないものだったが、それが誰かとの縁、それも美少女との縁になってくれているなら、少しは戦車道の女神に感謝していいかもしれない。

 

(てかそう言う意味では本当に恵まれてんだよなぁ)

 

客観的に考えて。

今、自分はどういう状況か。

 

金髪青眼のお嬢様然とした美少女。

表情豊かで純情っぽそうな美少女。

スタイル抜群で人懐っこい美少女。

 

そして小動物的な可愛さを持つ少女。

 

ただ戦車道が少し得意というだけで。

そんな四人に囲まれてお話させてもらってる、ならまだしも紅茶を貰ったり手作りの菓子を貰ったりというのは、世の男性陣に刺されて文句言えないのではないだろうか。

 

 

(…………)

 

 

けれど渡里は、あぁ本当に救えないことに、何も満たされないでいる。

 

こういう時渡里は、とことん自分がどういう人間かを実感するのだ。

戦車道さえあればよく、それ以外に何の価値も見いだせない戦車道至上主義。

悲しいほどに心は踊らず、どこか冷めた目で自分を見ている自分がいる。

 

(いや、踊らないわけじゃないか)

 

ただ、飢えている。

どうしようもなく、渇いている。

 

空腹を埋めることができるのは食事だけであるように。

心の傷を癒すことができるのは愛情だけであるように。

 

()()()()を満たしてくれるのは、戦車道以外にないのだ。

 

この渇きを忘れることができる時は、稀にある。

例えば、大洗女子学園で戦車道を教えている時。

例えば、仮想の戦場(妄想の中)で戦車を動かしている時。

 

例えば、英国でただ一度だけ戦った、『常勝』と謳われる金髪の戦車乗りと戦った時。

 

そういう過去を少しずつ齧って、渡里は飢餓を耐え忍んできた。

 

みほや、まほや、大洗女子学園の皆や、ダージリンや、ケイや、アンチョビや、ミカが、何の気兼ねもなく戦車道をする姿を横で眺めながら。

 

ギリ、と拳を作る。

 

 

あぁ、それはなんて――――――――――

 

 

いけない、と渡里は心の中で首を振った。

()()()()を表に出す事は、何の意味もない。

寧ろ大人げないとさえ言える愚行だ。

 

一つ、浅くを息を吸って。

渡里は普段の神栖渡里に戻った。

 

「渡里さん?どしたの?」

 

丸くて大きな目が、渡里を覗き込んでいる。

渡里は何気ない顔をして答えた。

 

「いや、ケイとの縁も戦車道があったからだなーって」

「そう!このノート!これ渡里さんが書いたんでしょ!?」

 

しゅば、と眼前に突き出されたのは一冊のノート。

それを見た瞬間、渡里は高校時代にタイムスリップした気分になった。

 

「そうそう。あー、懐かしいなぁ」

 

手に取り、中を見る。

そこにはかつて渡里が記した、いろんな意味で意地悪な戦術が載っていた。

 

「うーん、若い若い」

 

卒業アルバムを見るかのような、なんともこそばゆい気持ちだった。

未熟、というか全然垢抜けてない。

 

「当時は傑作だと思って作ったけど、今見るとなんかあれだな、下手くそだな」

「What!?これで!?」

 

横からノートを覗いていたケイが、驚きの声を上げた。

しかし渡里は事も無げに頷いた。

 

だって本当のことだ。

もし今の自分がこのノートに黒森峰の攻略法を記すとして、間違いなくこれ以上のものを書ける自信がある。

 

「じゃあ今はもっと凄いのね……」

「英国に留学する前だったからな。海外の戦車道に触れると結構変わるよ」

「そうなの?」

「戦車道に関してはドイツとかアメリカとか、そういう所の方が進んでるから」

 

日本の戦車道が弱いとは思わないけど、それでも優れているのは海外勢だ。

理由はいろいろあるけれど、一番大きいのはプロリーグの有無だろうか。

世界各国から集まった優秀な戦車乗り達が鎬を削る海外プロリーグと、社会人チームが仕事の合間にチョコチョコとやっているような日本とでは、そりゃ差が出てくるに決まってる。

 

「もし本気で戦車道を生涯の生業にしていくつもりなら、留学も悪くない。これまでとは全く違うものに触れるっていうのは、何にしても大事なことだよ」

「うーん、そうなんだ。留学かぁ……」

「サンダースならアメリカに何かしらの縁があるだろ?そんなに難しいことじゃないじゃないか」

 

なんせサンダース大付属だ。

あそこはチャレンジ精神のある生徒には結構な支援をしてくれる。

日本で一番、やる気さえあればなんでもできる学校だと思う。

 

「そうなんだけど……ねぇ渡里さんは英国に留学してたんでしょ?もっと話聞かせてくれない?」

「もちろん。少しでも役に立つなら」

「ついでにこのノートの事も!私ずっと話を聞いてみたかったの!」

 

渡里は苦笑しながら頷いた。

本当に人懐っこい子だ。心の距離の詰め方で言えば、角谷と似たようなところがある。

あっちはいつの間にか忍び込んでいる感じだが、ケイは正々堂々真正面から乗りこんでくる感じ。その分爽やかというか、迫られてるこっちも気持ちいいものがある。

 

だからだろうか。

留学時代の話を、してもいいと思ってしまっているのは。

 

 

「お、プラウダが動き始めたぞ」

 

アンチョビの声に、全員の視線が中継モニタへと移る。

ケイと渡里の会話は、これにて一旦途切れることとなる。

果たしてそれが、良いことであったのか、悪いことであったのかはさておき。

 

「四つの小部隊に分かれての前進。扇形に広がる感じの進路から見るに、いつも通りの包囲殲滅か」

「カチューシャからすれば小細工なんて必要のない相手。自分の一番自信のある戦術を打つのは当然でしょう」

「大洗女子も、それが一番嫌だっただろうしね」

 

三人の会話を聞きながら、渡里は静かにモニタを見つめた。

確かに何の変哲もない一手。

数、質、全ての要素で相手を上回っている以上、ああいう純粋な力押しは最善の一手となる。

プラウダの隊長も、その辺は確信犯的にやってるだろう。

 

「――――――――」

 

しかしその時、渡里の眼は()()()()を捉えていた。

おそらくは神栖渡里にしか見ることのできないような、あるいは余人には見えたとしても異常として映らない、そんな機微を。

 

渡里は地図を開く。

そしてそこに記された地形情報と、モニタに映る()()()()()()の配置を脳内に取り込み、空想の戦場を創り上げた。

 

それは渡里にとって何ら難しい事ではない。

寧ろ呼吸するのと同じくらい、無意識でも行える動作であった。

 

「渡里さん?」

「なんだなんだ」

 

周りにいる少女たちは、渡里の急変に不審に思ったようだった。

しかし渡里は、そんな事に思考と感覚の矛先を向けている暇はなかった。

 

なぜなら彼はその時、数十分以上先の未来にいた。

 

 

「―――――――」

 

 

頭の中を、仮想の戦車と仮想の戦車乗りが駆け巡る。

彼女達がこれから描く紋様、渡里はそれを見透かす。

他人には見る事は勿論、この時点では感じることすらできない遥か先の未来を。

 

「―――――――おかしいな」

 

大きく息を吐いた後、渡里はポツリと呟いた。

それは彼が思考の海から浮上した証であった。

 

「渡里さん渡里さん、急にどうしたの?」

「読みが外れたかも」

 

隣にいたケイに目もくれず、渡里は視線を地図に固定したまま答えた。

故にこの時、ダージリンが珍しく驚いた表情をしていたことに、渡里が気づくことはなかった。

 

「…………頭でも打ったかな」

 

その時の渡里の言葉は、おそらく誰にも理解されるものではなかった。

例えそれが、彼を良く知る西住みほであろうとも。

 

仕方ないことなのだ。

空を駆る生物に水底を知る由がないように。

誰も、自身とは違う領域に棲むものを理解できない。

 

なればこそ、未来いる彼を、どうして現在にいる諸人が理解できようか。

 

「渡里さん、一人で考えてないで説明してほしいわ。一体何があったの?」

「………あぁ」

 

その声は渡里にしてはひどく緩慢で、寝起きのそれに近いものだった。

それが現在に帰還するための料金だったということを知っていれば、また違う風に聞こえたかもしれないが。

 

 

はてさて、どう説明しようかと渡里は考えた

今、自分の頭の中にあるものをそのまま言語化して伝えることは容易だ。

しかしそれは、言ってしまえばただの予測。

 

ドヤ顔で「かくかくしかじかだ」みたいなことを言って、それが見当違いだった時の恥ずかしさたるや。

20歳を超えた身空でも速やかに首を吊るレベルの羞恥だ。

 

加えて、果たして彼女たちは理解できるのかという懸念もあった。

我ながら思考回路が突飛だという自負のある渡里は、自分の考えを、特に結果ならまだしも過程となると、あまりつまびらかにすることはない。

 

それは説明しても意味がないからという、孤独な理由だった。

 

(ま、いっか。あくまで可能性の一つという体にすれば)

 

姑息な事を思いついて、渡里は口を開いた。

 

「フラッグ車の位置が少し気になるんだ。心なしか、普段より前がかりな気がする」

「えぇ?あー、言われてみれば……そんな気もするようなしないような」

 

アンチョビの反応は、渡里の予想通りのものだった。

というか多分、誰に言ってもこういう反応だっただろう。

 

渡里は、そんな優秀な戦車乗りでも首を傾げるような些細な、言ってしまえばあるかないかも曖昧な変化点をキッカケとして、思考を展開していたのだ。

 

穿った見方と言われれば、渡里は否定できない。

前がかり、とは言っても、それは最後尾より少し前気味というだけの話。

全体で見ればフラッグ車の位置は陣形の真ん中よりという、教科書通りのものだ。

 

これに違和感を覚えるというのは、あまりにも神経質かもしれない。

しかし渡里は、自分の感覚は過敏でも鈍麻でもないという自負があった。

その感覚が見過ごさなかったということは、おそらくそういうことなのである。

 

「もしあのフラッグ車があのままの位置を維持するなら、これからプラウダが作るであろう包囲網の()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

これは今あのモニタに映っている光景の時間を少し進めればわかる事だ。

大洗女子と接敵した所から、プラウダはあっという間に包囲網を構築する。

しかしこの場合は、プラウダの作る包囲網さえ抜けてしまえば、大洗女子学園は目と鼻の先にフラッグを捉えることができるということでもある。

 

大洗女子からすれば願ってもないチャンスだ。

唯一の勝利条件が、あらゆる障害を自分から乗り越えてこちらに来てくれたのだから。

 

しかし、

 

「ご丁寧に急所を差し出されることを、果たしてチャンスと呼ぶのか」

「私なら罠と見ますわ」

 

それはこの場にいる全員がそうだった。

戦いの大前提として『フラッグ車を危険にさせない』というカチューシャの性質を知っていれば、罠と見破れずとも違和感を覚えることはできるだろう。

 

「みほも多分それは気づく。だが、踏みとどまれるかと言われれば……」

「罠を承知で突き進む?」

 

ケイの言葉に渡里は頷いた。

 

仮定の話をしよう。

目の前にあるフラッグ車を追いかけるとどうなるか、が分からないとして。

サンダース大付属は止まれる。

聖グロリア―ナも止まれる。

 

しかしアンツィオ高校はそうでなく、また同じように大洗女子学園もそうではない。

 

「大洗女子は絶対的に短期決戦しなければならない。雪という環境、戦力差、それらを考えた時、時間は大洗女子学園に決して味方しない」

「そのため、ほんの少しでも隙があればすかさず飛び込む」

「例えそれが、見せかけの隙だとしても」

 

一旦仕切り直せばいい、となるのがサンダースや聖グロなら。

罠だとしても食い破ればいい、となるのがアンツィオや大洗だ。

それはそれで、一つの正解でもある。

 

「おまけに作成会議の時、俺が『さっさと終わらせろ』と言ってしまっているし、多分みほや……角谷もかな、同じことを試合前に言ってるだろう」

 

間違ってはいないのだ。

ただ今回に限って言えば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という、悪い意味での後押しになってしまっただけで。

 

「でも、なんで飛び込んじゃダメなんだ?」

 

アンチョビが首を傾げながら言った。

更に彼女は言葉を続ける。

 

「渡里さんの言い方だと、まるでそれがダメみたいじゃないか。例えそれが罠として、プラウダが何かしらの策を用意していても、別にそれが致命傷になるっていうわけでもないんじゃ……」

「確かに。仮に窮地に陥ってもみほはそういう状況を打開するのが得意だし、リスクリターンを考えたらそこまで悪い気はしないけど」

「うん、そうだな」

 

渡里が肯定すると思っていなかったのか、面食らったのはケイとアンチョビの方であった。

 

彼女たちの言う事は、当然渡里も通った道である。

大洗女子学園の実力を考えれば、一回くらいはなんとか凌ぐことができるのではないかと渡里も思う。

運がよければフラッグ車を撃ちとれると考えると、悪い話には聞こえない。

 

 

「「――――――ある一つの策さえ使われなければ」」

 

 

声が、重なった。

今度は流石に、渡里も面食らった。

 

目を丸くし、もう一人の発言者に目を向ける。

すると彼女は、にっこりと美しい笑みを浮かべながら、渡里の方を向いていた。

 

「渡里さんにはあるのでは?食いついてはいけない、致命傷になると、そう断じる考えが」

「……多分、ダージリンが考えている事と同じことだよ」

「すみません、私は何も思いついていませんの」

 

はぁ、という声がどこからか上がった。

そんなこと気にした様子もなく、ダージリンは紅茶を一口味わった。

 

「カチューシャの事はあまり知らないし、彼女が今何を考えてるかもわかりません―――――けれど、渡里さんの考えている事は少しだけ想像できますわ。渡里さんがそう言うからには、何かしらの理由があるのでは、とまぁ逆算して考えてみただけで。あら、これでは読みではなく推理ですね」

「………ハッ」

 

渡里は笑った。

一本取られたとでも言うような、そんな笑いだった。

 

「――――初手、1()0()()以下の包囲か否かが分かれ目だ」

 

空気が張り詰める。

可能性の話をしているはずなのに、その言葉はあまりにも現実味を帯びていた。

 

「後者なら何の問題もない。ウチはプラウダの包囲に関しては対策を積んできてるから、そこを突破口にしていける」

「も、もし前者だったら?」

 

一言、簡潔に渡里は答えた。

 

 

「――――負けるかも」

 

 

神栖渡里は、戦車道では嘘をつかない。

それを知っているかどうかで、今の言葉は重くも軽くもなった。

 

 

 

 

大洗女子学園は初めての雪の戦場に、意外なことにそこそこ対応していた。

神栖渡里が課した雪対策、それがこれ以上ないくらいに役立っていたからである。

操縦は何の問題もなく、部隊の行動に乱れはなし。

これが初めて雪中戦を行うチームの動きだと言われても簡単には信じてもらえない程、大洗女子学園の行軍は立派なものだった。

 

隊長の西住みほは、改めて大洗女子学園戦車道講師にして兄である神栖渡里の手腕に驚くしかなかった。一体あの人は、何度自分をびっくりさせれば気が済むのだろうか。

 

(最初は正気を疑ったけど……)

 

ちゃんと意味があるものだったんだと、みほは過去を思い返した。

 

 

 

『これから戦車に乗る時は、常にこのサングラスをしてもらう』

 

神栖渡里による雪中対策は、そんな一言より始まった。

それに対する大洗女子学園の面々の反応は、言葉にするなら「はぁ?」であった。

 

サングラス。日光から目を守るために色を付けた眼鏡である。

日差しのキツイ夏によく使われるもので、間違っても戦車道に使われるものではない。

 

『雪対策は視覚と聴覚、そして操縦の三点だ。コイツはその内の視覚を鍛えるために使う』

 

曰く。

雪中戦は視界が悪く、雪が音を吸うためにエンジン音などが聞こえづらく、戦車の操縦が一等難しくなる。

雨天時の戦闘と似たことが言えるが、低気温のために五感が鈍りやすく、その下降分を打ち消す為に平時下での五感をより研ぎ澄まさなければならない。

 

普段より調子いいな、くらいでようやく普段通りになるのが雪中戦であるそうで、そこで兄が考えたのがこの策、兄が言うところの小細工である。

 

『これから試合まで、視聴覚を封じさせてもらう。サングラスを着用し、戦車から外を覗ける部分には全てこのメッシュネットを張り付ける』

『ほ、ほとんど何も見えないんじゃ……』

 

黒い糸で塗った虫網のようなものを、例えば照準器なんかに着けられて普段通りに砲撃できるわけがない。

 

『聴覚に関しては大した問題につながるわけじゃないが、まぁついでだな』

 

耳栓を手の中で遊ばせながら言う講師に、誰もが思った。

ついでで五感の一つを奪われてたまるか、と。

 

『此処に加えて、水でズブズブにした泥の上に草を敷いて作った、嵌るんだか滑るんだかよく分からない道を用意した。試しに走ってみたら雪に近い……わけじゃないがまぁ走りづらかったし、仮想雪としては使えるだろ』

 

雪に近くないんかい、と誰もが思ったが、兄を怒ることはできなかった。

その道を作るのに掛かった労力と時間を想像することが容易かったためである。

 

『じゃあそういうことで。あまりにパフォーマンスが下がったチームは当然ペナルティがあるから、気合入れてやった方がいいぞ』

 

 

 

(多分外から見たら相当面白い光景だったよね……)

 

サングラスと耳栓を付けた女子が戦車を乗り回す姿は、さぞ滑稽だったに違いない。

しかし当のみほ達は真剣そのもの。

神栖渡里の口から出るペナルティという言葉にロクな思い出がなかったのも要因の一つであった。

 

そんなこんなの雪対策だったわけだが、実は『五感を鍛える』という点においては付け焼刃以下の効果しかないとみほは思っている。

見えないものを見えるようにするのも、聞こえないものを聞こえるようにするのも、決して簡単ではないからだ。

 

だからあの訓練の本当の意味は、もっと別。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

不可視の可視化ではなく、意識の拡大。

自分達が普段、どれだけ漫然と物事を感じているかを自覚することが、兄の狙いなのだとみほは思う。

 

後は小さいところだが、すごく重い荷物を降ろした時、一時だけ身体が軽くなった気がするような、そういう効果の狙いもあるだろう。

この試合限りのドーピングだが、どうせこういうシチュエーションは今回限り。この試合だけどうにかできてしまえばいい、という講師の思惑が透けて見える。

 

(まぁ、なんでもいいけど)

 

実際兄の雪対策は本当に意味があったのか、正しい論理を伴った訓練だったのかは、今はどうでもいい。

隊長であるみほにとって大事なのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことである。

お蔭で雪を考慮に入れて作戦を立てる必要もなく、余計な変数が混じらない分思考はクリア。

 

それで充分なのである。

 

まぁ一つ言わせてもらえるなら、あの人の雪対策は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()というところに終始していて、防寒とか、そういったものを何一つ教えてくれなかったのが不満といえば不満である。

 

……兄らしい、という言葉で許してしまいそうになる自分がいることを、みほは果たしてどう捉えるべきなのだろうか、と考えた。

 

 

「中々プラウダの姿が見せませんね……そろそろ接敵してもいいはずですが」

「自分達に有利な場所で待ち構えているのでしょうか……?」

「もしくはトラブルでも起きたか。それだと楽だ」

 

パンツァーカイルで進軍すること数十分。

今回は相手が大多数ということもあって、積極的に斥候は放っていない。

基本的にはまとまって動き、偵察をする場合は二両以上にし、あまり本隊から離さないようにしてきたが、未だ成果はない。

 

一応プラウダの進行ルートを予想し、そこに合わせて部隊を動かしてきたのだ。

優花里の言う通り、そろそろ戦車の影くらいは見えてもいい頃合いだとみほも思うが、プラウダ高校は依然として白雪の彼方に消えている。

 

こうなってくると待ち伏せ(アンブッシュ)を考慮しなければならない。

雪中戦においては黒森峰すらも凌ぐ彼女達に用意された罠に引っかかってしまえば、おそらく無事では済まないからだ。

 

みほとしては慎重に戦車を動かさなければならないが、これがそうも言ってられない。

なんせ時間をかければかけるほど不利になる試合だ、ある程度は積極的にいかなければならない。

 

(向こうが先に動いてくれるなら助かるんだけど……)

 

先手を取るという定石に逆らった考えを、みほはこの時持っていた。

そして幸か不幸か、その時は音もなくやってくる。

 

「―――プラウダ高校の戦車確認!方角10時方向、数は四!」

「各車戦闘準備!」

 

咽頭マイクに手を当て、みほは指示を下す。

 

四両は偵察部隊とも、それ以外とも取れる微妙な数だ。

前者であればこちらから攻め、後者なら迎撃態勢を整える。

判断の難しい所だが、相手に後退の気配はなく、寧ろ好戦的な雰囲気を醸し出している。

 

(包囲かな……)

 

プラウダ必殺の戦術、大いに有り得る。

戦車の性能は勝ちこそすれど、数で負けていながらそれでも戦うというのであれば、それは近くに友軍が在る事の証左。

 

交戦しつつ引き付け、みほ達が前がかりになった瞬間に背後からズドン。

後は流れるように囲んで叩く、というところか。

 

「みほ、どうする?」

「10時方向の相手を叩きます。真正面から戦うと危険だから上手くいなしつつ、火力を集中させて一息に」

 

隊長の指示により、大洗女子学園は取舵になった。

こういう時に足を止めて戦うと囲まれる。かといって退いては士気に関わる。

 

なら相手の戦力が集まる前に、各個撃破してしまおう。

六両の戦車は、さながら狼のように牙を剥き、襲い掛かった。

 

大気を切り裂くような轟音が一つ、二つ、そして間もなく連なるようにして響くようになる。

砲撃戦の幕開けである。

 

火力は客観的に見てこちらが微有利。

砲性能はあちらが上だが、こちらは手数で勝る。

まともに装甲を抜ける火力を持つ戦車は少ないとはいえ、やはり数の利は大きい。

 

加えて今回は、積極的に砲撃戦を挑める理由が一つ増えていた。

複数砲塔を持つルノーB1bisの参戦も勿論あるが、それ以上に大きいのは……

 

「華さん、調子はどう?」

「感触の違いにも慣れましたし、かなりいい感じです」

 

四号戦車に新しく搭載された、長砲身43口径75㎜砲。

前装備と比べて貫通力が向上し、単純な攻撃力で言うなら三号突撃砲に並ぶあんこうチームの新装備が、この試合にて初陣を飾っていたのだ。

 

これは慢性的な火力不足である大洗女子学園にとっては、本当にありがたい追加装備であった。なにせ三突頼みだった中距離以降の対戦車戦闘において、切れるカードが一枚増えたのだ。隊長であるみほにとって、その一枚がどれほど戦術の幅を広げてくれるか。

 

全くこういうものがあるなら、早く換装してくれないればよかったのに、とみほはメカニックチームリーダーである兄に愚痴を零した。

 

この装備自体はルノーB1bisと同時期に発見されており、搭乗員不足やら整備不足やらでアンツィオ戦に間に合わなかったルノーとは違って、十分アンツィオ戦から使えるはずだったのだ。

それを兄が「まぁ別にいんじゃね」と換装できる準備だけしておいて実行に移さなかったのである。

まぁ「準決勝に向けて手の内は隠しておきたい」とか「アンツィオ相手には過剰火力」だとか、そういう理由があってのことなのだから、プンスカ怒ることではないけど。

 

しかし満を持しただけあって、効果は覿面。

華の砲撃精度も相まって、プラウダをジリジリと後退させるだけの威圧感はあるようだった。

 

しかし喜んでばかりもいられない。

どれだけ押しても、撃破に繋がらないのであれば意味がない。

 

「距離を詰めます。一番右端の戦車に砲撃を集中させてください!」

 

砲撃は苛烈さを増す。

撃ち出された弾は白雪を抉り、下地になっている茶色を抉り出す。

その光景を眺めながら、みほはプラウダに抗戦の意志が健在であることを感じ取っていた。

 

(やっぱり簡単にはいかない……)

 

なんとか一両二両落としたいところだったが、流石にそう上手く事は運ばないか。

 

「どうしますか、西住殿。このまま粘られてしまうと……」

「―――――ううん、このまま行こう」

 

優花里の懸念は、眼前の戦車に気を取られすぎて包囲されてしまうのではないか、というもの。

みほもそれは承知。その上で、みほは現状の維持を決断する。

 

「沙織さん、各車に伝令をお願いします。後背に相手戦車が来た時点で、()()()()()()の戦術に切り替えます」

「真っ向勝負か」

 

麻子の言葉に、みほは一つ頷いた。

包囲に関しては、実はそんなに心配していない。

言わずもがな、兄の力があるからである。

 

だからみほとしては、()()()をどこで切るかが問題だった。

ずっと隠して、ここ一番で切るべきなのか。

それとも最初に切って、相手の得意戦術を一つ潰すべきなのか。

 

後に取っておけば、ここ一番での勝負所で一歩相手を出し抜けるかもしれない。

先に使ってしまえば、プラウダの歯車を一つ壊すことができるかもしれない。

 

どちらにもメリット・デメリットはあるが、みほは後者を取ることにした。

それは絶対的強者であるプラウダに普段通りの戦車道をされては敵わない、自分達が勝つためには相手のペースを崩さなければならない、という考えあってのことだった。

 

「プラウダ増援!背後に四両!」

()()か。思ったより少ないな」

 

みほもまた同様の感想だった。

八両にしたって大洗女子学園を屠るには十分かもしれないが、かといって余す理由もない。

おそらくは時間とともに戦力は増大していくだろう。

 

なら、抜けるタイミングは今しかない。

 

「包囲を抜けます。練習通りに行けば問題ありません。落ち着いて行動しましょう」

 

了解の意を伝える声を聞きながら、みほは周囲を見渡した。

 

八両というと、一回戦で対戦したサンダース以下の数だ。

それを経験し、加えて少なくも15両以上の包囲を想定して練習してきたみほ達にとって、突破口を見つけるのは容易い。

 

(数か所はある。なら……)

 

より可能性のある道はどれかを選ぶ。

部隊の展開がしづらいとか、増援と鉢合わせそうとか、そういったものを削除していき、最終的にみほは一つの道を残す。

 

「沙織さん、お願いします」

「りょーかい!」

 

そしてその思考は、通信手によって部隊に伝播していく。

 

そこからはあっという間だ。

まるで互いに()()()()()()()()かのような連動を見せ、大洗女子学園は火力と機動力の双方を以て包囲網を崩しにかかる。

 

この包囲は簡単に破れる、とみほは思った。

包囲を構築する部隊間の連携に、僅かな解れがある。

おそらくは地吹雪の異名を取るかの隊長が、此処にはいないのだろう。

 

理由は不明だが、僥倖である。

ここで完膚なきまでに包囲を攻略してみせれば、後々の戦いがやりやすくなる。

それだけでも包囲に挑んだ価値はある。

 

そうこうしている間に、大洗女子学園は呆気なく包囲網に穴を空けた。

こうすれば後は簡単である。

包囲の穴を修復しようとした相手の逆を突いて、別の穴から抜けていけばいい。

サンダースの時と似たような手だ。

 

(口で言うほど簡単じゃないけど)

 

それでも大洗女子学園があまりにも簡単そうにやってのけるのは、しっかりと対策ができているから。

あるいは、その対策の完成度が異常と言ってもいいほどのものであるからだ。

 

「全員包囲から脱出!損害なし!」

「やりましたね西住殿!」

 

歓声を聞きながら、みほは一つ息を吐いた。

成功する確率の方が高いとはいえ、失敗した時のリスクは常に考えてしまう。

特にそのリスクが多大で、チームを預かる隊長という立場なら尚更。

 

それでも消極的ではいられない。

戦車道の女神というのは勇者と賢者に加護を与え、腑抜けと白痴には剣を突きつける、そういう存在だ。

故にその寵愛を得たければ、例え危険があったしても踏み込まないといけない時もある。

 

 

「―――――――あ!?」

 

 

そしてそれを踏破した者には、ちゃんと相応の褒美をくれる。

 

「こちらアヒルから全車へ!前方にフラッグ車!!護衛がいません!」

「こちらカバ!確認した!」

 

包囲を脱し、疾走しながら隊列を整えようとした大洗女子学園の眼前。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()姿()

さながら大洗女子学園の決断と行動に対する天からの授かり物であるかのように、それは立っていた。

 

「―――――」

 

本能的に、本当に咄嗟という言葉がピッタリと当てはまるくらいに、みほは()()()()を口にしかけた。

それが寸での所で声にならなかったのは、みほの中にある天稟と経験のお蔭だっただろう。

 

しかし、

 

「チャンスだ!奴ら私達を包囲で倒せると思ってフラッグ車の守りが甘くなってるぞ!」

「護衛もいないし、ここで倒せれば―――」

「勝てる!!」

「進めーー!」

「へ?あ、ちょっと!河嶋先輩、みんな落ち着いて―――」

 

それは、持たざる者には足を止めることはできないということに他ならない。

 

沙織の静止も虚しく、四号を除く五両の戦車は前進してしまう。

唯一ルノーB1bisだけが二の足を踏んだが、四両に釣られるようにして結局は進んでしまった。

 

「みほ、どうしよ!?」

「………」

 

思考の猶予は、極僅か。

その中でみほは、最大限の事をした。

 

フラッグ車を安全圏に置くのがプラウダの隊長の特徴である以上、この状況が生まれる為には『人為的ミス』か『罠』のどちらかが必要。『偶然』はない。

なら二つの内、どちらがより可能性が高いかと言われれば、それは後者である。

 

だからここは慎重を期するべき、かもしれない。

けれど理屈に適った事だけをしてれば勝てるというものでもない。。

時には勢いとか、そういった抽象的なものが勝敗を分かつことだってある。

 

故にみほの選択肢は二つ。

安全を取ってチームの背中を掴んで止めるか、

 

「―――行こう」

 

その背中を押してやるか、である。

 

「みほさん、いいんですか?」

「うん、みんなの士気を下げたくないし……今は勢いを優先したい」

「ですが罠の可能性もあるんじゃないでしょうか?」

「だが同時に千載一遇のチャンスでもある。この先また同じような機会がある保障もない」

「時には勢いでどうにかなる時もあるしね!恋愛と一緒!」

 

議論は終了。

意志の統一が済めば、四号戦車はすぐに部隊の先頭へと躍り出て、逃亡を開始したフラッグ車の無防備な背中に痛烈な砲火を浴びせる。

 

「撃て撃て撃て撃てーーー!!」

 

一番声高に叫ぶ人が一番的を外しているのはさておき。

追撃は走りながらの砲撃。静止射撃と比べれば、格段に精度は落ちる。

河嶋ほどではないにしても、全員中々弾を当てることができない。

 

全速力で飛ばしても、彼我の速力を考えると差はあんまり詰められない。

残念だが、此処に関してみほの戦術の出る幕はない。ただ砲手たちが、かの戦車を貫いてくれることを祈るしかない。

 

 

「―――――――」

 

 

ここが、実は分水嶺だった。

この時みほ達の脳裏には、当然のようにプラウダ高校が敷いた罠の可能性が過っている。

 

それは間違いではなかった。

事実として、プラウダのこの行動は恐るべき作戦の前段階であり、それは安易な表現になるが『よく練られた戦術』だった。

 

しかしそれは、試合全体で見た時の話である。

焦点をこの、追う大洗女子学園と逃げるプラウダ高校フラッグ車に当てた時、実はそこには何の策もなかった。

 

言ってしまえば、ここは洗女子学園にとっても、プラウダ高校にとっても、賭けだったのである。

これは誰にも予想しえないことだった。

しかし当然である。一体誰に、プラウダが『フラッグ車の撃破』というリスクを前提にした作戦を立てるなど、想像できるというのだ。

 

それは無意味を通り越して有害とさえ言える暴挙。

しかし地吹雪の異名を持つ小さな暴君は、それを悠々と行った。

 

 

「―――――あ、丘の向こうにいっちゃった……」

「うーん、これじゃあ……」

「く、間に合わなかったか……!」

 

かくして戦車道の女神は、プラウダに微笑んだ。

背負ったリスクに値するだけの、大きなリターンを伴って。

 

「まだだ!!追いかけろ!!」

「え、えぇ!?河嶋先輩落ち着いてください!『稜線は迂闊に超えるな』ですよ!?」

「『機は逃すな』でもある!今は絶好のチャンスなんだぞ!」

 

沙織の言葉は、河嶋を止めるには軽すぎた。

ならばもっと、重みのある言葉が必要だろう。

みほは口を開いた。

 

「河嶋先輩。深追いは危険です。仕留めきれなかったのは残念ですが、ここは一度退いて態勢を整えましょう」

「………だが!」

 

抑えきれない激情。

その中にみほは、ほんの僅かな焦燥を感じ取った。

 

「あの、何をそんなに―――――」

 

急ぐ必要があるのか。

それは言葉として発露する前に、喉の奥で霧散した。

 

突如として砲撃が大洗女子学園を襲ったのである。

舞い上がる白雪に目を細めながら、みほは砲弾が飛んできた方に目をやった。

 

「伏兵……!」

 

やはりいたか、とみほは口を一文字に結んだ。

フラッグ車でこちらを釣り、伏せていた兵で不意を突く。

教科書に載っているレベルの王道戦術だ。

 

「数は……六両!」

「同じじゃん。いけるんじゃないの?」

「沙織、よく見ろ」

「へ?………あ゛!」

 

稜線の脇から這い出るように現れた六両の戦車。

そこには見逃せないものがあった。

 

「KV-2にIS-2!プラウダ高校の最大火力です!」

 

KV-2。街道上の怪物の異名を取る、重装甲超火力を誇る要塞の如きロシア製戦車である。

正面装甲厚110㎜というだけでも十分手を焼くが、特筆すべきは152㎜榴弾砲。

おそらく戦車道に参戦可能な戦車で、これの直撃を耐えれる戦車は存在せず、装甲の薄い大洗女子学園など掠っただけでも余裕で撃破されてしまうだろう。

 

そしてIS-2。KV-2が街道上の怪物なら、こちらは戦場の化物だ。

何せ最大装甲厚ではKV-2を10㎜上回り、火力に関しては同程度の脅威を持ち、なおかつ機動力は四号戦車と遜色ないという走攻守が完全に揃ったハイスペック戦車。

 

ただ真に脅威なのは、戦車の性能ではない。

そこに乗っているであろう、暴風雪(ブリザード)と冠される戦車乗り。

サンダースのナオミと、日本一の砲手の座を争うもう一人の砲手(ガンナー)

 

魔弾の射手、ノンナ。

兄の情報では、赤ペンで三重丸が付けられるレベルの、ある意味では隊長のカチューシャよりも注意しなければならない選手である。

 

「みほ、どうする!?」

「後退します。各車に伝達をお願いします」

 

それ以外の選択肢があろうか。

まともに戦うのは当然論外。

なぜならアレらは事前に「なるべくまともにやり合わずに済ませよう」という意見で満場一致していたもの。

そこに関してはあの兄も「まぁそりゃそうだ」と苦笑いするレベルだ。

 

みほの決断に、流石の河嶋も従った。

全車速やかに踵を返し、未だ履帯の後が残る雪原を帰ろうとする。

 

 

 

「終わりね」

 

 

 

そしてこの時、天秤は完全に傾いた。

果たして小さな暴君の声は、みほに届くことはなかったけれど。

 

 

「――――……」

 

みほは全身の血が一気に足まで下がる感覚を味わった。

あ、という呟きが知らず口から零れ、虚しく寒空に溶けていく。

 

隊長たる者、例え攻撃の最中であろうとも防御の事は忘れない。

相手を追撃するために前進の指示を飛ばしても、その一方では常に退路の事を考えている。

少なくともみほは、そういう隊長であった。

 

だからみほの頭の中の地図には、はっきりと退却ルートが描かれている。

そしてその両目にも、白い雪の上を奔る光の道が映っている。

 

 

故に気づいた。

その退却ルートを阻害するものはなくとも。

その両側に配置され、退却しようとする大洗女子学園を容赦なく撃ち滅ぼさんとする戦車の群れが在ることを。

 

あぁ、そういうことか、とみほは理解した。

プラウダの狙いは、包囲で大洗女子学園を倒すことではなく。

フラッグ車を餌にした待ち伏せで倒すことでもなく。

 

縦深陣を敷き、その深くまで大洗女子学園を誘い込むこと。

そして何より、大洗女子学園から退()()の二文字を誘い出す事ことこそが、地吹雪のカチューシャの作戦だったのだ。

 

 

 

「…………まずい」

 

 

 

そして、絶望が足音を立ててやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 




※効果は個人差があります。
意味がないように思える練習も効果があると思いこめばそれは意味がある練習()


頼むからダー様は料理下手であってくれ、という作者の願いと、アンチョビの女子力の高さは武部殿に比肩するだろ、という作者の想像が合体して生まれたのが序盤の光景です。

しかし隊長組の料理スキルとか、ちょっと一考の価値アリじゃないでしょうか。
西住姉妹は仮に下手くそでも好きな人ができでもすればめっちゃ頑張るだろうし、ダージリンも多分そういうタイプ。ケイさんは「実はできるのよ」ってウインクしてきそうだしアンチョビは言わずもがな、カチューシャはノンナが作るから問題無し。西さんは高校卒業してから花嫁修業するだろうしミカは「できないんじゃない。やらないのさ」とか言うしマリー様は「買えばいいじゃない」で全てを終わらせそう。



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第40話 「プラウダと戦いましょう④ グンシン・ハート」

原作のプラウダ戦には「あんこう踊り」という超名場面があります。
二次創作でアレを超えるのは絶対に無理だったので、作者は「なかったことにすればいいんじゃね」という姑息な手段を思いついてしまいましたとさ。
まぁアニメでやってることをわざわざ書いてもね()。

黒森峰対プラウダの決勝戦は西住みほの心に深い傷を与えましたが、果たして傷を負ったのは彼女だけだったのでしょうか、というのが今回の話の一角です。

オリ主が戦えないから格好良く書けないというのなら、女の子の方を格好良くするしかないじゃない! 
そういうわけで一味違ったカチューシャをお届けできたら、と思っています。
今回そんな出番ないけど。



 

寒い寒い、と手袋をしていない丸出しの手を擦る。

そうしている時だけじんわりと暖かくなるが、そんなものは焼け石に水。

数秒も動作を止めれば、あっという間に熱が失われていく。

 

それでもそんな無意味なことを続けてしまうのだから、不思議なものだなぁと渡里は思った。

ポッケに手を入れた方がよっぽどマシだろうに。

 

「雪なぁ……」

 

縁遠いようで、身近なもの。

渡里にとっては17歳までは前者で、17歳以降は後者である。

渡里は母を亡くした以後は西住まほに引き取られた。

そして西住流本家は九州にあり、そして九州とは雪がそんなに降らない地域であるからして、渡里はみほやまほやしほさんと雪合戦する機会はそんなになかったというわけである。

別段雪に憧れがあるわけではなかったから、それを恨めしく思うことはなかったけれど。

 

寧ろ恨めしやと思ったのは、英国に留学してからである。

あちらは東西南北で気候が変わり、中央から南部、ロンドンとかその辺りはそこまで雪が降るわけではないが、渡里のいたところはそうではなかった。

最初こそもの珍しく、雪だるまなんかも作ったりしたわけだが、そんなのは一時の事。

間もなく鬱陶しくなり、白い大地を見るのもうんざりという気持ちになった。

 

そこまで面倒なものになってしまった理由の一つには、渡里があまりにも雪を知らなかった事が挙げられる。

これが日本の豪雪地帯に住む人間であれば、ある程度耐性があるから上手く付き合っていけたのだろうが、渡里は九州男児。

 

身の回りのもの、服、生活の仕方に至るまでテコ入れを要求され、ワンシーズン丸々順応に当てられたというわけである。

 

そんなこともあってか渡里は、寒さとか雪とか、そういったものに対する備えとか心得が身に着いた。

なので手を擦り合わせても、寒い寒いとボヤキながらも、実はそんなのはただのポーズで案外平気だったりする。

 

果たして英国で雪を経験していなかったら、どうだったのだろうか。

それは過去から分岐する異なる未来の自分に関する話なので、タイムスリップでもしない限り渡里には推測するしかないわけだが、実はそんなことしなくても漠然と「あぁこうなったのかなぁ」と思う事はできる。

 

「あ、お兄ちゃん」

 

こうして、寒さに身を震えさせている妹の姿を見る事で。

 

「………なにその恰好」

「あはは……」

 

部屋着。

パッと見で浮かんだ感想はそれである。

 

渡里はため息を吐いた。

ここが家であればそれもいいだろうが、今は外だし夜だしなんなら冬だし。

あまりにも迂闊で軽率で無防備極まるみほの恰好であった

 

バレー部しかりみほ然り、どうにもここの生徒は学園艦には不審者なんていないと決めつけている節がある。

果たしてこの少女は、自分が来るまでに他の男に話しかけられでもしたらどうするつもりだったのだろうか。

一介の講師とはいえ大切な令嬢を保護者から預かる身としては、その辺り一度言っておかなければならないかもしれない。

 

「ほらよ」

「わぷっ」

 

渡里は上着を脱ぎ、みほに投げ渡した。

 

「風邪引いたらどうすんだ、試合があるってのに」

「これくらいじゃ引かないけど……」

「だったらもう少し平気そうな顔をしてほしいもんだ」

 

隊長、試合目前に体調不良。

笑い話にもならない、あまりにも間抜けな結末である。

 

「ふふ、暖かい」

 

俺は寒いけどね、という言葉を渡里は飲み込んだ。

代わりに別の言葉を吐き出す。

 

「んで、何の用?」

「……うん、ちょっと言いたいことがあって」

 

みほは視線を他所にやった。

追うとそこには、真っ暗な空を映した海が広がっている。

そこに何かを見出しているのか、はたまた何となしに見つめてるだけなのか、生憎覚エスパーではない渡里には分からない。

 

暫く間があった。

波がさざめく音だけが木霊していく、とても静かな間が。

しかしちっとも気まずくない、どころか不思議な心地よささえあったのは、やはり渡里とみほが家族だからなのだろう。

 

そして秒針が一周するほどの時間を経て、彼女は口を開いた。

 

「二回戦の時からずっとね、考えてたの。私が戦う理由って、なんなんだろって」

 

声は静かに、渡里の鼓膜を打った。

 

「アンチョビさんは、自分を支えてくれた仲間の為に勝ちたがってた。皆のお蔭で戦車道をできるようになったから、その恩返しがしたいって」

 

それは渡里も聞いたことだ。

アンチョビの根っこにある、核となる部分。

それがしっかりとあるから、彼女はあんなにも強かった。

 

「きっと皆、そういうのを持ってるんだよね。負けられない、勝ちたいって思う気持ちがすごく強くて、だから一生懸命になれる」

 

彼女の横顔は、複雑な感情が入り混じったものだった。

しかしそこには、羨望のようなものが確かにある。

 

渡里は当然だと思った。

だってそうだろう、人であるなら誰だって、()()()()()()()()は羨ましい。

 

「―――じゃあ、そういうのを持ってないお前は、一生懸命じゃないってことになるな」

「……いじわる」

 

酷い言い方をする渡里に、みほはクスリと笑った。

 

一生懸命じゃない、わけがない。

寧ろみほは、誰よりも一生懸命だ。

手足に絡みつく蔦を必死に振り払って、なんとか前に進もうとしている。

 

けれどそれは、最初の一歩を踏み出すための頑張りだ。

アンチョビ達はそんな所既に通り過ぎている。

だから比べて見た時に、みほの方が劣って見える。

いや他の人からすればそんなことはなくても、みほ自身が引け目を感じてしまっているのだ。

 

それは渡里にどうこうできる事じゃない。

みほが自分の力で何とかしないといけない事だ。

 

「……本当に何も無いなら、二回戦の最後の攻防の時に、多分私は終わってた」

 

だから渡里は、みほを待つ。

何も話さない代わりに、話したいことがあるなら聞こう。

何も見せない代わりに、見せたいものがあるなら見よう。

ここに関しては、渡里はそうすることでしかみほを支えられない。

 

だからこんな時間でも、寒空の下でも、渡里は此処にいる。

 

「でもそうじゃなかった。私が気づいてないだけで、私の中には何かがあった。それがあの時、私の背中を押してくれた」

 

彼女は空を見上げた。

その瞳には、黒い天幕に散りばめられた星々が映っている。

渡里には見えないものを、彼女は見ているのだ。

 

「………なんだった?」

 

渡里の言葉に、彼女はゆっくりと此方を見た。

その口元は、緩やかな弧を描いている。

 

 

「――――――」

 

 

そして彼女は宣誓する。

自分が戦う理由を。

負けられない理由を。

彼女が背負った、想いの名前を。

 

彼女は笑った。

本当にスッキリしたように、夜の空の下で、晴れやかに笑った。

だから渡里も笑った。

 

彼女が自分だけの戦車道を見つけるのも、そう遠くないと、そう思いながら。

 

 

「なぁ、みほ――――――――――」

 

 

 

 

 

 

「―――――悪い方の予想ばかり当たるな」

 

神栖渡里が眼前の光景を眺めている。

焦燥なく、悲嘆なく、しかし自らの予想の的中を喜ぶ様子もなく、無色透明な笑みを浮かべながら。

オレンジペコにその感情を伺い知ることはできない。

ただ声色から、彼が怒っているわけではないことだけは理解していた。

 

「ふーむ、どうするかなぁ」

 

行儀悪く彼は椅子の上に片膝をついた。

しかしそれを咎める者は誰もいなかった。

決して「年長者だから言えなかった」とか「神栖渡里だから許容した」とか、そういうことではない。

 

その時オレンジペコは、そしてダージリン達はとてつもない衝撃による放心状態にあった

 

神栖渡里が戦車道において、卓越した力を持っている事は知っている。

戦術眼、作戦立案能力、そして指導力、他にも見聞したことがないだけで、戦車道という名前さえついていれば彼は余人を圧倒する力を発揮することは間違いない。

 

しかしそれが過小評価だったことを、オレンジペコは知った。

 

モニターに示された戦況。

大洗女子学園を中心とし、縦に伸びた凹の陣形を取るプラウダ高校。

それは先刻、神栖渡里が予言したものと、全く同じ形をしている。

 

たった一つ。

ほんの僅かな、気のせいで済んでしまいそうな違和感。

そこからここまで正確に未来を見通す人間が、この世に存在する。

それはオレンジペコにとって、最早恐怖に近い感情を喚起する事実だった。

 

「本当に渡里さんの言う通りになっちゃった……」

「アンビリーバボー……」

 

オレンジペコ程の衝撃ではないにしろ、アンチョビとケイもまた同ベクトルの感情を抱いたようだった。

ただ一人、ダージリンだけが心酔と尊敬の視線を彼に注いでいたので、おそらく彼女の方が少数派なのだとオレンジペコは思った。

 

「どういう頭の構造なんだ……?」

「普通の造りだよ」

 

アンチョビの言い方に、渡里は少しムッとしたようだった。

 

「見えるものから想像を膨らませていく。みんなやってることだろ?」

「でも私はちっとも想像できなかったわ」

 

寧ろケイの方が大多数だろう。

少しばかりでいいから、これを普通と言い切る彼の頭の中を覗かせてほしいものである。

それで理解できるとは限らないけれど。

 

「フラッグ車の動き云々は、モニターでプラウダの動きを見てたからできただけのイカサマ。でも違和感は、プラウダが仕掛けてきた最初の包囲の時にもあった」

 

すると彼は地図を広げ、指で戦絵巻を描いた。

 

「包囲があまりにも温い。勝負を決めるならもっと数を用意すべきだし、そうでなくともある程度の戦力、隊長のカチューシャか、最高の砲手(エースガンナー)のノンナは入れておいて損はない」

 

あわよくばそこで大洗女子学園の戦力を削ることもできるから。

それはオレンジペコでも理解できる道理だった。

 

「そうじゃないってことは、最初から包囲は捨て駒。加えてフラッグ車を餌に引き込もうとしてるなら、自ずと相手の狙いは分かる」

「伏兵で叩くか、今みたいに退却する所を狙うか」

 

曰く。

西住みほは判断力に優れた隊長だ。

進むべき時は進む、退くべき時は退く。その精度は高く、速度は迅速。

だから『退却しなければならない状況』を意図的に作ってやれば、その行動は簡単に誘導できる。

反応が素直すぎるみほの特徴を捉えた、見事な手腕である。

 

と、そんな風に説明されれば、オレンジペコとて理解できる。

しかし例え同じキッカケを掴んだとしても、オレンジペコは神栖渡里と同じ思考ができるとは到底思えなかった。

 

天性か、修練の果てか。

一体この人は、どれほどの高みにいるというのか。

 

「敵ながら鮮やかだね。特に、全部が全部『そうした方がいい』という状況に追い込んでいる所が」

「あら、奇しくも渡里さんと同じような戦い方ですね」

「効率よく勝とうとすれば、似たような戦い方になるだろうさ」

 

彼は肩を竦めて、モニターを改めて眺めた。

その視線は、心なしか曇っているように見えた。

 

「そんなことより問題は、ここからどうするか、だな」

「みほさんの予定していたルートを通れば、退却中に左右から撃たれる。かといって正面突破はあまりにも無謀で、左右からの離脱も同様」

「に、逃げ場がないじゃないか……」

 

オレンジペコもまた、アンチョビと同じ意見だった。

正直言って、これ以上ないくらい完璧に詰まれているように見える。

三方を抑えられており、唯一の逃げ道はよりにもよって相手に用意されたもの。

そんな所を無傷で通過できるはずもない。

 

「帰り道を突っ切るしかないな」

「結局それが一番マシね。けど多分……」

「あぁ、結構な被害が出る。だがそれ以外は死路だ。賭けだが、みほの手腕に託すしかない」

 

不幸中の幸いなのは、西住みほが神栖渡里達と同じ結論を出すことに間違いないこと。

つまり、ひとまずはあの状況における最もベターな選択はできる。

 

それでまだ勝ち目があるかどうかは、さておき。

 

「けどプラウダにしては珍しいよな」

「なにがかしら、アンチョビさん」

 

顎に手を当てて、うーむと唸りながらアンチョビは言った。

 

「だって()()、大洗女子が包囲を対策してくると踏んで、それを利用したんだろ?つまり相手の事を研究したってことじゃないか」

「―――――――」

 

途端、ダージリンは動きを止めた。

青い瞳は琥珀色の水面に向けられ、その様はさながら一つの絵画のように美しかった。

ずっと見ていても飽きない光景だったが、しかし絵画はまもなく動画となった。

 

「確かに。あのカチューシャが相手を研究するなんて、妙だわ」

「えと、そうなんですか?」

 

不肖なオレンジペコには、全く分からない。

オレンジペコのカチューシャに関する知識は、高い実力を持っていることと、プライドが高いことくらい。彼女の性格とかそういったものは一つも知らない。

 

オレンジペコの疑問に答えてくれたのは、主人とは違う金髪の持ち主だった。

 

「カチューシャは相手に合わせて戦い方を変えることはしないの。相手が誰だろうと自分のやり方を貫く!って感じでね。自信家の彼女らしいけど」

「あんまり対戦相手に興味がないんだろな」

 

うんうん、と頷くアンチョビ。

これだけの人数が言うなら、間違いないのだろう。

となると、とオレンジペコもダージリン達と同じ疑問に直面した。

 

「なのに今日は違う。一、二回戦はケイの言うカチューシャだったのに」

「急変と言ってもいいレベルの変化ですわ―――渡里さんに心当たりは?」

 

ダージリンの言葉に、彼は冗談めかしながら言った。

 

「頭を打った、とか?」

「あぁ、だからさっき……」

 

アンチョビの言葉で、オレンジペコは先刻の渡里の言葉を思い出した。

そういえば「読み違えた」と言った後に、そんなことを呟いていたっけか。

というかあの時点でそんな所まで見えていたのか。

 

「けど確かに。そうとしか思えない変わりぶりよね」

「変に小細工する方がマイナスだもんな、プラウダは」

「やる意味がない。けれどそれでもやるというなら……」

 

ダージリンは言葉を区切った。

それは次の言葉をより印象付ける作用を持っていた。

 

「もしかすると、()()()()()()が相手だからこそ、なのかもしれないわね」

 

視線が、一か所に集中する。

その先にいるのは、椅子についた片膝の上に更に腕を乗せた、どんどん行儀が悪くなる一人の男性。

 

神栖渡里は様々な縁を持つ人間である。

加えて言うなら、不思議なことに彼自身にその気はなくとも、勝手に縁の方が結ばれるケースが多い。

今ここにいる隊長三人は、まさにそうだ。

形は異なれど、彼が能動的に結んだ縁はない。

 

それゆえ彼は、「自分は知らなくても向こうが知っている」という状況になりやすい。

そういったことを、オレンジペコは渡里から何回か聞いたことがあるし、見たこともある。

 

そしてもう一つ。

彼は戦車道の分野に限った話だが、とても大きな影響力を持つ人間である。

その力たるや、見聞しただけで他人の戦車道を変えてしまう、悪い言い方をすれば()()()()()()ほどで、これもダージリンやケイを参照すれば、間違いないことである。

 

この二つを以てすれば、カチューシャの変貌に説明がつくとオレンジペコ達は気づいてしまったのである。

寧ろこれ以上に説得力のあるものがあるだろうか、とさえオレンジペコは思った。

 

「―――――あぁ、なるほど」

 

しかし視線の独占者は、一人だけ別の答えを得たようであった。

 

「ダージリンの通りだ。カチューシャは、相手が大洗女子学園(ウチ)だからあんな作戦にしたんだ」

 

そうか、そうか、と彼は一人頷いた。

 

「渡里さん、心当たりがあるの?」

 

彼の反応を訝しんだケイが問うた。

すると彼は断言した。

 

()()ない」

「な、ないのか!?」

 

目を丸くしたアンチョビ。

じゃあさっきの言葉は何だったのか、という疑問が彼を除く全員の頭上を回転する。

しかしそれは、間もなく放たれた彼の言葉の次なる言葉によって氷解することとなる。

 

「けどいるんだよ、大洗女子学園には。他の奴とは比べ物にならないくらい、カチューシャと強い()()を持つ奴が」

「……どちら様でしょうか?」

 

ダージリンの問いに、彼はその名を口にした。

 

 

栗色の髪をした女の子の名前を。

あるいは、()()()()()()()()()()の名を。

 

 

 

 

 

 

 

カチューシャはプラウダ高校戦車道を統べる王である。

同校の戦車乗り全員から畏怖と敬意を抱かれ、誰一人として逆らう者がいない専制君主と、圧倒的強者として君臨している。

 

それは同校ならず他校ですらも周知の事実であったが、それが最初からそうであったかと問われれば、それは否であった。

 

彼女が今日の地位へと就いたのは、昨年の夏。

それまで彼女は、「小さな暴君」と揶揄され、そして敬遠される()()()()()()()であった。

 

実力はあった。

BIG4の一角、プラウダ高校にあって一年の頃から頭角を現し、最上級生と比較しても遜色なく、試合に出れば人並み以上の活躍をする。

チームの中核、主力を担うに何の不足もない力が。

 

普通であれば盛大に歓迎されるべき逸材である。

しかし彼女は、決して万人に好意的に受け入れられる人間ではなかった。

どころか白眼視され、絵に描いたような孤独でさえあった。

 

なぜか。

彼女は高い実力に伴うだけの、高いプライドも備えていたのだ。

「自分は他人の数倍、数十倍の努力を重ねてきた。だから他人よりも強い」という自負が彼女の中にはあり、その自負は自分より弱い者の下につくことを、ましてや媚びへつらい機嫌を伺うような真似を良しとしなかった。

 

戦車道の強豪校は、大半が実力主義である。

いや別に戦車道に限らず、全ての競技でそうだろう。

 

しかし日本において実力主義とは、試合に出場する人間を選ぶための、ただの方便である。

年功序列の風潮が圧倒的に強く根深いこの国において、「実力さえあれば何でも許される」ということは、決して許されない。

 

自分より弱い者なら、先輩であろうと容赦なく楯突く。

そんなカチューシャの気質は、真の意味で実力主義の場所なら当然のものである。

しかし実力主義の上辺だけを切り取り、本質を根付かせなかった日本という国においては、迫害の対象へと成り下がるのだ。

 

そして彼女は、出る杭として打たれることになった。

しかしカチューシャの異質だったところは、それを理解していたことにあった。

不平を言う事もなく、当たり散らすこともなく。

ただただ毅然と、誹謗の嵐もまるでそよ風のように受け流し、自分の境遇を享受していたのだ。

 

不満がなかったわけでは、決してない。

寧ろ毎夜のように、夢の中で呪詛を吐き続けてさえいた。

 

しかし彼女は、それが永遠に続くことではないことを知っていたのだ。

何か一つ、大きなキッカケさえあれば、全てを変えられる。

()()は、その時が来るまでに必要な我慢なのだと。

 

そう思うことで、彼女は自己を保っていた。

そして彼女は牙を砥ぐ。

黙々と、来るべき日のために。あるいは、来るチャンスを確と掴み取るために。

 

その様を、戦車道の女神は見ていた。

そしてきっと、強き者に媚びず靡かず、自らこそが強き者とする彼女に、加護を授けたくなったのだろう。

 

転機は訪れた。

全国大会決勝戦という絶好の舞台にて、彼女はフラッグ車を自らの手で討ち取るという、最高の栄誉を手にしたのだ。

しかも相手は名門黒森峰、フラッグ車の車長は西住流の直系、その次女。

誰にも何も言わせぬ、誇るべき()()だ。

一人の戦車乗りとして、これ以上の武勲はない。

 

全てが変わると、そう思った。

世間もチームメイトもカチューシャの力を認め、小さな暴君はプラウダの玉座へと至る。

もう誰にも何も言われない、言わせない、そんな存在になるのだと、そう信じて疑わなかった。

 

しかし現実は、あまりにもカチューシャの想像と乖離していた。

 

『フラッグ車の指揮を放棄した車長』。

彼女のせいで負けた。彼女がいたから負けた。

どこを見てもそんな文言ばかりで埋め尽くされていて、カチューシャの活躍など誰も取り上げていなかったのだ。

 

カチューシャは知った。

世間は、『プラウダが勝った』とは思っていない。

ましてや、カチューシャがフラッグ車(西住流)を討ち取ったとも思っていない。

誰もが、『黒森峰は一個人のミスにより負けただけで、それが無ければ勝っていた』と、そう思っている、と。

 

カチューシャは気づいた。

あぁそうか。

自分は、プラウダを優勝に導いた英雄とは見られていない。

ただ()()()()()()()()()()()()()()()()()、そんな戦車乗りだと思われているのだ。

 

 

――――――ふざけるな。

 

 

その時カチューシャの心に宿ったのは、雪を溶かす灼熱の意志だった。

じゃあ自分の今までの努力は、なんだったのか。

血の滲むような努力を重ね、どれほどの屈辱にも耐えてきたのは、栄誉を掴むため。

勝利という唯一無二の栄光を勝ち取るためだ。

 

それを、『勝利を盗んだ』などと言われて、納得できるか。

 

そしてカチューシャは誓った。

その当時彼女は、フラッグ車撃破の功績により隊長へと昇格していたが、既にそんなことはどうでもよかった。

 

彼女の心にあったのは、今度こそ世に知らしめる事。

完全に、完膚なきまでに、何の言い訳も許されない程無欠に、勝利すること。

自分を影に落とし込んだ、()()()()()()()()()()()()を、今度こそこの手で討ち取るのだ。

 

 

「ノンナ、状況は」

 

 

そして今日、ようやくその時が訪れた。

相手は黒森峰女学園……ではなく、大洗女子学園という戦車道新設校。

だがカチューシャの望んだ相手は、そこにいる。

黒森峰を辞め、弱小校で戦車道を続けている理由は分からないが、そんなことはどうでもいい。

彼女がカチューシャの前に立っているということだけが、何よりも大事だった。

 

準備は万端だった。

西住流の戦術を調べ、黒森峰時代のデータを取り寄せ、本当に業腹だったが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

今までのカチューシャであれば考えられない行為だ。

 

けれど全ては完全なる勝利の為だと、そう言うのなら。

研究もしよう。対策もしよう。流儀も曲げよう。

いかなる事でも、受けいれようじゃないか。

 

「こちらの想定した撤退ルートを進行中。おそらくは、カチューシャ様の思惑通りになるかと」

「そう」

 

副官の言葉を聞いて、カチューシャは鼻を鳴らした。

当然だ、と彼女は思った。

かつてない労力を掛けて練り上げた戦術構想だ。

緻密に、念入りに、間隙なく、大洗女子学園というチームを叩き潰すためだけに用意した、カチューシャの全身全霊と言ってもいい。

 

「けどここまで呆気ないと思わなかったわね」

「お気に召しませんか?」

「別に。ただ歯ごたえが無さすぎるのもつまらないわ。獲物が反抗してくれないと、猟師の腕が悪く見えるじゃない」

「一流は難しいことを簡単に見せる、と言います。カチューシャ様の実力を示すことはあっても、評価を下げることにはなりませんよ」

「……ならいいけどっ」

 

カチューシャは白い大地を見やった。

ここは、通過点であって最終地点である。

去年の夏から今に至るまで、カチューシャを捕え続けた一人の戦車乗り。

彼女を打倒することが、カチューシャの望み。

 

そしてその先にある真紅の旗。

今度こそ本当の名誉と誇りと共に、カチューシャは掴み取ってみせる。

 

あぁけれど。

ただ平坦な道を歩くだけでは、何とも味気ない。

覇者には覇者に相応しい道がある。

そうでなければ、凱旋はあまりにも閑散としたものになるだろう。

 

「………足掻いてみせなさい。サンダースの時のように、アンツィオの時のように。勝つために、死に物狂いでかかってきなさい」

 

それでこそ、意味がある。

弱者を嬲って勝ち誇るなど、カチューシャの趣味ではない。

やはり強者を屈服させてこそ、だ。

 

 

「そんな貴女を叩き潰すわ―――――――西住みほ」

 

 

呟きは、雪風に運ばれて消えていった。

 

 

 

 

 

「各自、被害報告をしろ……」

 

河嶋桃の声には、威圧はあれど覇気はなかった。

普段は怜悧で鋭い印象を周りに与える河嶋だが、今その顔には翳りが見えており、どこか弱弱しい。

いや河嶋だけではなかった。

大洗女子学園戦車道受講者のほとんどが、大なり小なり河嶋と同質の表情をしていた。

 

「かろうじて生き残ったな」

 

表情が変わらなかった少数派の一人である麻子のそんな呟きが、状況の全てを表していた。

 

大洗女子学園は、プラウダの策略に嵌った。

選手達も、観客も、誰もがそれを理解していた。

理解せざるを得ない程、状況は明らかだった。

 

経緯を語ろう。

大洗女子学園の撤退は、かろうじて成功した。

ただ一人の脱落者を出す事なく、彼女たちが教会という一時の避難場所に逃げ込めたのは他ならぬ西住みほの手腕と幸運によるものだっただろう。

 

しかし被害は軽微ではなかった。

撤退中、プラウダ高校の放った砲弾を砲塔部に食らってしまった四号戦車は、砲塔旋回に支障をきたすようになり、砲手である五十鈴華の力量を大きく制限することとなった。

他の戦車に関しても装甲が削られており、ただでさえ低い耐久力に拍車がかかった。

機関部、履帯部分に損傷を受けた戦車は、決して少なくないレベルで機動力を削がれていた。

総じて戦闘続行に問題はないが、十全な実力の発揮は不可能という結果になった。

 

それだけで済んだなら、まだよかっただろう。

しかし現実は、彼女達をより深い絶望へと叩き落としていた。

 

一時な避難先として選んだ教会だが、当然これは砦や城塞ではない。

ただ雪と風を防げるだけのものであり、天地がひっくり返っても砲弾を防ぐことはない。

 

つまりそれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()がその気になれば、大洗女子学園は碌な抵抗もできず敗れるということであった。

 

その事態が未だ起きず、大洗女子学園が現状把握に努める時間があったのは、カチューシャの言葉によるものだった。

 

『三時間の猶予をやる。その間に降伏するか、抗うかを決めろ』

 

伝令として送られて来た一介の戦車乗りから告げられたカチューシャのそんな勧告は、大洗女子学園にとっては死刑宣告に等しかった。

同時に彼女達は悟る。自分達はなんとか逃げ延びたのではなく、()()()()()()()()()()()ということに。

 

ここまでが、カチューシャの策略だった。

策に嵌め、逃げ道を残した上で追撃し、籠城した相手を囲んで、最後は言葉の矢を以て士気を下げる。

 

三時間という時間は、起死回生の一手を練ってもいいというカチューシャの恩情ではない。

少しずつ、けれど確実に大洗女子学園の体温を奪い、凍てつかせるためのもの。

反攻の火を消すための、吹雪を降らせるためのものであった。

 

最早素人目に見ても分かる、完璧な詰め方だ。

戦車の性能差で負け、知恵比べでも負け、状況でも負け、士気の高さでも負けたとなれば、もはや勝ち目はない。

これを見せられて、大洗女子学園が窮地ではないと思える者はおらず、彼女たちの講師である神栖渡里でさえも、それは例外ではなかった。

 

しかし思い描く終幕は違った。

およそ大半の者が大洗女子学園の敗北を疑わなかったが、数人だけが正反対の結末を見ていた。

この逆境の中に、一筋の光を見出すものがいたのだ。

 

 

数人曰く。

――――――まだ、負けてはいない。

 

 

 

 

「河嶋先輩……あの、そろそろ……」

「………分かっている」

 

カチューシャの勧告から一時間と三十分が経過した時、大洗女子学園は遂に岐路に立った。

武部沙織から遠慮がちに声をかけられた河嶋は、一つ大きく息を吐いた後に応えた。

 

決断の時だった。

大洗女子学園は用意された二つの道から一つを選び、一つを諦めなければならない。

すなわち、継戦か降伏か。

無謀だろうが不名誉だろうが、それ以外の道はない。

 

「西住は?」

「あの、それがまだ帰ってきてなくて……」

 

そしてその選択権を与えられたのは、副隊長である河嶋桃であった。

本来であれば、チームの舵取りは隊長である西住みほの義務である。

しかし現在、彼女は教会の中に不在であった。

 

『ごめん、ちょっと外出てくるね』

 

教会に立てこもり、少し時が経った頃である。

たった一言、そんな言葉を残して西住みほはただ一人の付き添いを許すことなく、姿を消していた。

 

「やはり責任を感じてるのか……?」

「そう、かもしれないです……」

 

そんな姿を彼女達が見るのは初めてのことだった。

故に彼女たちは、そんなみほの行動をこの状況を招いてしまった責任から来る、所謂落ち込みのようなものだと思っていた。

 

本来であれば帰還を待つか、あるいは引き戻すべきである。

そうして議論の末、西住みほに決定してもらうのが筋だ。

 

「だが時間もない。仕方ないが、西住には後で話そう」

 

しかしそれは時間の余裕があればの話。

降伏するなら構わないが、継戦となった時には今後の戦術・方針を練るための時間が必要だ。

それとチームの合意形成にかかる時間を考えた時、みほが帰ってくるのをただ待つのは得策ではなかった。

 

「車長たちは集合しろ!今後の方針を決めるぞ!」

 

副隊長の命令に、四人が立ち上がった。

しかしその動作は重く、決して快活とは言えなかった。

河嶋の心に、それはマイナスな感情を芽生えさせる。

 

「なんだお前達!もっとシャキッとしろ!」

 

返ってくる返事もまた、緩慢なものだった。

しかしこれ以上叱責することに意味を見出せなかったので、河嶋は言葉を呑み込んだ。

それよりも言うべき言葉は、他にあった。

 

「状況は最悪の一言だ。だがここで諦めるわけにもいかない。我々は降伏しない、それでいいな?」

 

この時点で河嶋には、絶対的な答えがあった。

故に彼女にとってこの場は意見を交わして答えを出すものではなく、弁舌を以て周りを説き伏せ、自分の意見を浸透させるものであった。

 

 

「………まだ、戦うんですか?」

 

 

しかしそれは自分に限った話ではないということを、河嶋は知った。

ぽつり、と唯一の一年生車長である澤から、その言葉は漏れた。

 

「おい、何を――――――」

「だ、だってもう勝ち目がないじゃないですか!」

 

怒気と猜疑を含んだ河嶋の声は、それ以上に大きな澤の声によって掻き消された。

 

「最初は勝てると思ってました!サンダースにも、アンツィオにも勝ったから、今回もきっと勝てるって!でも、そうじゃなかった……!」

 

本来であれば、澤の恐れはより大きな勇気によって封じられるものだった。

一年生とはいえ、彼女も神栖渡里の指導を受けた身。この程度で折れるメンタルではない。

 

しかしそれは平時であれば、の話。

実力差を見せつけられ、寒さと空腹によって士気が低下した状況では、寧ろ澤の方が正常な反応であった。

心を折って、相手を制す。カチューシャの真意は、ここにあった。

 

「ここから勝てる方法なんてきっとないです……どうせ負けるなら、いま降伏した方がいいじゃないですか。プラウダに一斉に攻撃されたら、ケガ人だって出るかもしれないし……」

 

澤の言う事は、一つの事実であった。

そうだからこそ、誰も反論の矢を持ち得なかった。

 

「―――――――――――ダメだ、認められない」

 

ただ一人を除いては。

河嶋の口調と視線に、ナイフのような鋭さが帯び始める。

 

「徹底抗戦だ。我々は勝つんだ、絶対に。勝たなければならないんだ」

「な――――――――――――」

 

その時河嶋には有無を言わせぬ迫力があった。

しかし納得できない気持ちの方が大きかった澤が、反射的に反論しようとした時、河嶋は更に言葉を重ねた。

 

「どうせ負けるなら降伏した方がいいだと?神栖先生(あの人)がそんな戦車道を教えたか!?」

「っ」

 

河嶋はその時、卑怯な手を使った。

大洗女子学園にとって神栖渡里という名は、絶対的な規則(ルール)ですらあった。

 

神栖渡里は、勝負を途中で投げるような真似は許さない。

諦めれば勝率はゼロだが、逆を言えば諦めさえしなければ勝ち目はある。

それがどれほど微小なものであったとしても、神栖渡里はそれを追いかけることを是としていた。

 

「ケガがなんだ!そんなもの勝つことに比べれば大したことじゃない!勝つためならどんな犠牲だって払うべきだろう!」

「わ、渡里先生はそんな人じゃありません!勝つことよりも大事なことだってあるって、そう言って――――」

「――――――そんなものは詭弁だ!!」

 

ひと際大きい声に、一同は黙るしかなかった。

既に車長連中の会話は秘密のものではなく、全員に聞こえるものになっていた。

 

「あ、あの河嶋先輩、別にいいじゃないですか、ここで負けちゃっても。そりゃ確かに悔しいですけど、戦車道始めたばかりの私たちが準決勝まで来られただけでも上出来ですし……」

 

俯き、表情を隠す河嶋に、沙織は殊更明るい口調で言った。

それは雰囲気をこれ以上悪くしないためのものであったが、皮肉にも真逆の結果を引き起こすこととなった。

 

「負けたからどうこうなるものでも――――――」

「―――――――――負けたら我が校はなくなるんだぞ!!!」

 

へ、という声が虚しく響いた。

誰のものであったかは分からないが、その時誰もが同じ感情を抱いていた。

 

「な、なくなるって……どういうことですか?」

 

沙織の震える問いに、河嶋は答えなかった。

代わりに聞こえたのは、無色の声だった。

 

「言葉の通りだよ、武部ちゃん」

「会長……?」

 

その時沙織は一瞬だが、角谷杏とよく似た別人がそこにいると思った。

それほどまでに、角谷は普段とは違う顔をしていた。

 

「大洗女子学園はこの大会で優勝しなければ廃校になる。きれいさっぱり、跡形もなくなっちゃうってこと」

「な、なんで……」

「なんで?ニュースで聞いたことない?学園艦ってお金かかるからさ、全体数見直して、いらない奴は廃校にするか統合しちゃおうっていう話」

 

角谷の口が弧を描く。

一方で瞳の奥は、一切笑っていなかった。

 

「それで大洗女子学園(ウチ)、目立った実績がないから廃校の側に入っちゃってね。でも納得できないでしょ、そんなの。だから約束したんだ、『戦車道の大会で優勝したら廃校の話はなしで』って」

 

この時沙織たちは知る由もないが、角谷がなぜ戦車道を選んだかというと、「大洗女子学園では昔戦車道が盛んだったから」という過去と、「世界大会やらプロリーグ誘致やらで国内に戦車道隆盛の兆しがあったから」という現在の二つの理由からであった。

 

「だから大洗女子学園(私達)は勝たないとダメなんだ。だって私たちには、学園艦に住む老若男女二万人の生活と人生が掛かってるんだから」

「そ、そんな……そんなこと……」

 

角谷の真っ直ぐな視線と言葉が、嘘偽りがないことを証明していた。

 

「悪いけど降伏はしないよ、澤ちゃん。私は、学園艦を自分から捨てることはできない。だったらまだ、誰かに奪われた方がマシ」

「それはっ……私も、そうです……」

 

戦う意志の火が灯ったのを、角谷は感じた。

しかしすぐに、それが今にも掻き消えそうな程弱弱しい火だということに気づいた。

角谷の視線の先、そこには震える澤の手があった。

 

いや、澤だけではなかった。

カエサルも、磯辺も、そど子も、他の皆も、一様に項垂れている。

 

それを見て角谷は、自分がカードの切り方を誤ったことを悟った。

負けたら廃校になるという事実は、そんなことさせてたまるかという気炎にも、更なる絶望へと呼び水ともなる。

故に神栖渡里は、そんなカードを切らなくてもいいようにしてくれていた。

同時に、切るなら慎重に、とも言ってくれていた。

 

なのに角谷は、よりにもよって最悪の切り方をしてしまった。

発破をかけるどころか、更に士気を下げてしまったのだ。

これでは勝てるものも勝てない。

 

あぁ、と内心で角谷は嘆息した。

戦車道という競技は、とても残酷だ。

最も頼れる人の顔を見ることを、聞きたい言葉を聞くことを、選手達に許していない。

 

神栖渡里さえこの場にいてくれたら、こんなことにはならなかった。

神栖渡里は導だ。それを失くして、一体どうして進めるというのか。

 

 

「すみません、遅くなりました」

 

 

不意に、その声は響いた。

この場に不釣り合いなほど明るく、どこか儚げで、けれど芯の通った、不思議な声。

 

一同の視線が集まる。

彼女は、西住みほは困ったように笑っていた。

 

「本当はもっと早く帰ってくるつもりだったんですけど、途中で色々あって……雪投げられたりとか」

「西住……今まで何をしていた」

「偵察です。プラウダの戦車の配置が分からないと、作戦が立てられませんから」

 

重々しい河嶋の口調とは対照的に、みほの口調は明朗だった。

誰もが悟らざるを得なかった。

西住みほが、未だ戦う気であるということを。

 

「?……皆さん、どうかしましたか?」

 

みほは自分一人だけが違う温度を持っていることに気づいた。

優れた感受性がなくともわかるくらいに、それは明らかなものだった。

 

「西住ちゃんは、降伏はしないんだね?」

「へ?えぇと、そうですけど……皆さんは違うんですか?」

「ち、違わないです!……違わないんです、けど……」

 

澤の煮え切らない言葉に、みほは首を傾げた。

角谷は彼女一人だけに隠すのも意味がないと思い、皆に言ったことをそのまま繰り返した。

 

どういう反応をするだろうか、と角谷は思った。

驚くだろうか、悲しむだろうか、落ち込むだろうか、慌てるだろうか。

責任感の強い子だ、もしかすると必要以上に背負ってしまうかもしれない。

 

角谷は色々な反応を予想した。

そのいずれにも適した返事を用意した。

 

そして、

 

 

「――――そうですか。じゃあ、勝つために頑張るしかありませんね」

 

 

みほの言葉は、表情は、これ以上ないくらいに角谷の予想を裏切っていった。

あまりにもあっけなく、たったそれだけの言葉を放って、みほは会話を終わらせた。

 

「―――――え、えぇ!?それだけですか!?」

「わ、びっくりした……」

 

驚いたのは、果たしてどちらの方だったのか。

おそらくより驚いた方が、言葉を続けた。

 

「負けたら廃校なんですよ!?」

「う、うん……聞いたけど」

「だったらなんでそんな、平気そうなんですか……」

 

なぜこうも受け取り方が違うのだろうか、と一同は思った。

負けたら、廃校。二万人の未来を背負ってるんだ。

その重圧に耐えかねたから、こんなにも皆沈んでいる。

なのにみほは、「それがどうした?」とでも言わんばかりだ。

 

「―――あ、もしかしてここからでも勝てる方法があるとか!」

「あ、なるほど!」

 

それならば、と一同は思った。

勝利への確信があるからこそ、ここまで平然としていられるのだ、と。

しかし、

 

「それはこれから考えます」

 

本人はあっけなく否定した。

唖然呆然とする一同の前に、みほは地図を差し出した。

 

「プラウダの包囲はかなり厳重です。ちょっとやそっとじゃビクともせず、おそらく脱出する前に力尽きる。多分……プラウダはかなり私達のことを研究してきているんだと思います。そうじゃなければ、ここまで練られた作戦は出てきません。勝つのは至難の技です」

「そ、そんな……ただでさえ強いのに研究もされたんじゃ……」

 

益々勝ち目などない。

このチームにおいて最も実力のある者に「至難の技」と言われてしまったら、一同は自分たちの勝算の無さを再認識するしかなかった。

 

霧散しかけた重圧が、より質量を増して帰ってくる。

みほの帰還で僅かに復活を見せた闘争の火は瞬く間に消滅し、再び大洗女子学園は暗中へと落とされる。

 

「――――――」

 

その様を見て、みほは理解した。

今、自分がすべきことを。

 

『なぁ、みほ――――もしあいつ等の心が折れてしまいそうになったら、この言葉を言ってやってくれ』

 

一緒に戦えない俺は、あいつらに何も言えないから。

だから頼むぜ、とそう言って託された兄の言葉を、彼女たちへ送るべきは今なのだと。

そして、

 

 

 

「『下を、向くなーーーーーーーーーー!!!!!』」

 

 

 

怒号が、響き渡った。

全員が、本当に全員が、肩を震わせた。

 

彼女たちはこの声を知っていたから。

何回、何十回と聞いてきた、その声を。

身体の真ん中に一本芯を入れてくれるような、その声を。

 

いつだって大洗女子学園(彼女達)を導いてくれた、()の声を。

 

「ケホッ、ケホッ……お、大声で怒るのって難しい」

 

しかし声の発信源に、彼はいなかった。

そこにいたのは、恥ずかしそうに笑いながら咳き込む、一人の女の子だった。

 

「みほ……」

「西住ちゃん……」

 

一同は現実を認識した。

 

そりゃそうだ、神栖渡里は、どうしたってここに来ることはできない。

彼女達が聞いたのは、彼の声と幻聴させた彼女の声だ。

 

「急にどしたの、みほ……」

「みほさんの大声って初めて聞きました」

「西住さん、あんな声出せたんだな」

 

やがて彼女の喉は正常を取り戻した。

そしてまっすぐな目で、彼女は言う。

 

「どんなに辛くても、下を向いたらダメです」

 

あ、という呟きが漏れた。

西住みほの瞳に、表情に、一挙手一投足に、()の姿が重なる。

 

「前を見れば、進もうとする気持ちが生まれます。後ろを見れば、今まで自分が歩いてきた道程を振り返れます。横を見れば、一緒に歩いていく仲間の顔が確認できます。上を見れば、なんとなく気持ちが楽になります――――でも、俯くのだけはやめましょう。下を向いたら、どこにも行けず、ただ立ち尽くすしかない無力な自分を思い知るだけです」

 

神栖渡里はここにはいない。

けれどその時、確かに彼女たちは、神栖渡里を見た。

栗色の髪の毛をした女の子に、『不敗の指揮官』と呼ばれた彼の姿を見たのだ。

 

「私は、もう下を向きません。何があっても、どんな窮地(ピンチ)でも、絶対に諦めず最後まで戦い抜きます」

「な、なんでですか……」

 

何がそこまで、貴女の心を支えているのか。

澤の問いに、みほは莞爾と微笑んだ。

 

 

「だって――――――託されたから」

 

 

景色が、重なる。

兄を呼び出し、夜空の下で誓ったあの日と。

 

ならば言う事も同じだ。

あの日兄に言ったように、今度は彼女達にも言おう。

黒森峰女学園にいた時には気づくこともなかった、一つの答えを。

みほが、戦う理由を。

 

「サンダースの皆さんに、アンツィオの皆さんに、託されたんです。戦車道に懸けた想いも、優勝したいっていう夢も、全部全部、私たちがあの人たちに勝ったその時から」

 

たくさんの努力を、数え切れない時間を、戦車道に捧げてきた彼女たち。

そんな彼女たちの上に、みほ達は立っている。

その時点でみほ達の勝敗は、みほ達だけのものではなくなっている。

もうみほ達は、自分たちの為だけに戦うことは許されなくなっているのだ。

 

「だから諦めることはできません。ここで諦めてしまったら、あの人たちを裏切ってしまうことになる。私は何があっても、あの人たちの前では胸を張っていたい」

 

期待してるわ。

そう言って、みほの手を握ってくれた人がいる。

 

決勝まで行けよ。

そう言って、みほの手を握ってくれた人がいる。

 

この手には、色んな人の想いが刻まれている。

それを裏切るのは、何よりも耐えがたいのだ。

 

みほは皆を見渡した。

きっとそれは、みほだけじゃないはずだ。

 

「今までで最大の窮地(ピンチ)です。怖くなったり、落ち込んだりするのは当然です。でも、私たちはそんなに弱いですか?そんな弱い私たちに、サンダースやアンツィオの皆さんは負けたんですか?」

 

否である。

これまでみほ達が勝ってこられたのは、他ならぬみほ達の力によるものだ。

決して兄のお蔭じゃない。

そうでなければ、サンダースやアンツィオがみほ達に期待してくれるわけがない

 

「逆境なんて、そんなのずっとそうだった。私たちの道は、決して平坦で楽なものじゃなかった。俯いて、挫けて、心が折れて諦めてしまってもおかしくないような困難な道だったけど、それでも私たちは乗り越えてきた」

 

忘れてしまっているなら、思い出させてあげよう。

 

独りじゃ越えられない壁は、仲間と一緒に。

どんなピンチでも、決してめげずに。

勝ちたいと思い、足掻いてきた。

 

がむしゃらで、粗削りで、恰好なんて一つもつかないけれど。

いつだって一生懸命で精いっぱいに頑張る。

 

 

「――――――それが、皆が認めてくれた大洗女子学園なんです」

 

 

降伏なんてしたら、どの面下げて彼女たちに会えばいい。

もう無理だ勝てっこないなんて、どの口で彼女たちに言えばいい。

 

あぁそうだ。そんなことできるものか。

あの人たちの前でそんな情けないことできるか。

あの人たちの想いを、こんな形で踏みにじってたまるものか。

 

「だから最後まで戦いましょう。私たちに託してくれたことは間違いなんかじゃないって、サンダースやアンツィオは本当に強かったんだって――――――」

 

彼女たちの夢は、想いはここにある。

みほ達は彼女たちの分まで此処に立っている。

だから胸を張って、堂々と戦え。

 

 

「それを証明できるのは――――――私たちだけだから」

 

 

火が、灯った。

さっきまでの弱弱しいものではない、雪をも溶かすとても大きな火が。

 

「そうだよね!諦めたら終わりだもんね、戦車も恋も!」

「確かに!試合を諦めるに早すぎます!」

「ええ、そうですね……こんなところで止まってしまったら、きっと渡里さんも怒ってしまいます」

「渡里さんに怒られるのは……ちょっと悲しい」

 

気炎が、あちこちから立ち昇る。

皆口々に、そして一様に抗戦の意志を露にしていく。

その中にポツリと、弱音を吐いてしまったことを河嶋に謝る澤と、言い過ぎたことを澤に謝る河嶋の姿もあった。

 

「カッコいいね、西住ちゃん」

「ふぇ!?い、いや私なんて全然……」

 

角谷の言葉に、みほは赤面しながらワタワタとした。

これがほんの一瞬前まで士気高揚の演説を繰り広げていた子と同一人物であるというのだから、不思議なものだった。

 

 

 

 

西住みほは、何も変わらない。

兄と一緒に過ごした頃も、黒森峰女学園にいた頃も、そして今も。

西住みほは、ずっとずっと変わらない。

 

ただ彼女は、ようやく気付いたのだ。

自分がここに立っている理由に。

自分が負けてはいけない理由に。

 

それは神栖渡里に問われた、『西住みほの戦車道』ではないけれど。

彼女の、彼女だけの戦車道はまだ見つかっていないけれど。

 

それでも彼女は、この時大洗女子学園の()となった。

神栖渡里と同じように、闇を払い行くべき道を照らす、導となったのだ。

 

 

 

 

さぁ、これにて大洗女子学園は一つ階段を登った。

絶対絶命の窮地に、それでも彼女たちは笑顔で立ち上がる。

 

試合は中盤を越え、物語は最高潮(クライマックス)へ。

誰も彼もが迸る熱に身を任せ、勝利という名誉を求め無我夢中で疾走する。

 

 

 

 

 

その果てに、一つの別れがあることを知らぬまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




西住みほの戦車道≠負けられない理由。
実は一人だけ覚悟完了していた西住殿でした。

原作を見てるとカチューシャは「子供っぽくて我儘でサディスティックで負けず嫌いで勝てさえすればいい」みたいなイメージですけど、そんな奴に誰もついていかんだろ、とも思います。
やっぱり一つ、信念とか核みたいなものがあって、それがノンナとかを魅了するのかなーなんて考えたり。

原作では『今回もよろしく(また去年と同じ失敗しろ)』的なことをみほに言ってたけどね。
まぁそんなもんいくらでもなかったことにできるよ、二次創作だもん。


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第41話 「プラウダと戦いましょう⑤ タートル・ラン」

本当はもっと先の展開まで書きたかったけどなんか書いてる内に16000字とか言われたので途中で切った話。

「オリ主の影薄いなー」と思いつつも「元からだったわ」と思い直しました。
まぁオリ主の出番はこの先にめちゃくちゃあるしね。

プラウダ戦は生徒会の三人の株が爆上がりした回ですね。
原作を見た時は「会長マジかっけぇ!」ってなった記憶があります。
「履帯切りの噛みつきカメ」みたいな二つ名があったらもっと格好良かったですが、ガルパンで異名持ってるのはカチューシャとノンナだけ。

ファンの間ではたくさんあるけどね。
「軍神」とか「ゼクシィ」とか


その戦車は、渡里の目にとても格好良く見えた。

いや、その戦車が古い……いわゆるオンボロとか旧式とか、そういうものだということは知っていた。

足は遅く、砲弾一発で炎上し、百発当てたって相手を倒せない。そんな、びっくりするくらい弱い戦車。

ティーガーとかセンチュリオンとか、ああいった戦車には逆立ちしたって勝てないようなそんなポンコツ。

 

けれど渡里は、そんな戦車を駆って誰よりも勇敢に、苛烈に、燃え盛る火のように戦う人を、誰よりも近くで見てきた。

本当に、奇跡のようなものだったと思う。

どんな戦車も、あの人が乗るだけで歴戦の猛者になる。

 

風のように走り、城のように硬く、火山のように激しく。

並み居る相手を薙ぎ倒し、誰もが倒れ伏した戦場にたった一人立つ。

覇王とか魔王とか、そういう名前がピッタリと当てはまるなんて、渡里は幼心に思ったものである。

 

『ねぇ、もしかして魔法使いなの?』

 

ある時渡里は、その戦車の乗り手にそう尋ねてみた。

カタログスペックをガン無視して最精鋭、最新鋭の戦車を屠っていく姿をその様は、渡里には魔法としか思えなかったのである。

 

すると戦車の乗り手はこう答えた。

 

『もしそうなら、空を飛んで上から戦車で爆撃してやるさ』

 

つまりその疾走は、タネも仕掛けもないただの技術であった。

しかし当時の渡里は、その答えに納得がいかなかった。

はぐらかされた、と思ったのもあるし、それ以上にそれほど()()の技術は現実離れしていたのである。

 

ふくれっ面になった渡里に、彼女は愉快そうに笑って言った。

 

『なぁ渡里。戦車道っていうのは、強い戦車に乗ってる奴が勝つでも、強い奴が勝つでもないんだ』

 

何言ってんの、とでもいうような表情になった渡里。

すると彼女は、ポケットから棒付きキャンディーを取り出し、包みを向いて咥えた。

それが「子どもの前で煙草を吸うわけにはいかない」という彼女の、「咥えてる感触が似てるからこれで我慢するわ」という涙ぐましい努力であったことを渡里が知るのは、これより随分先の話である。

 

『勝つのは、()()()()()()だ。戦車の性能とか戦車乗りとして技量とか、そういったものを全部ひっくるめて、コンマ1でも相手を上回った奴が勝つ』

『じゃあ強い奴が強い戦車に乗るのが一番強いじゃん』

 

至極まっとうな渡里の反論に、しかし彼女は指を振って否定した。

 

『強い戦車っていうのは一つじゃないんだよ。大事なのは、ソイツに乗った時ハートにズシンと来るものがあるかどうかだ』

『なにそれ?せーしんろんってやつ?』

『要するに相性だよ。私が私らしく戦えるかどうか、私の持ってるもの全部吐き出せるかどうか、全てはそういうことだ』

『………ふーん』

 

ふい、と渡里は視線を他所にやった。

そこには今さっきまで彼女が乗っていた、例のオンボロ戦車がいる。

 

『じゃあアイツが()()だってこと?』

『アレは母親から譲り受けたはいいが、あちこちガタが来てるしそもそも性能も低いから使いようもないし、とはいうものの倉庫で埃を被って一生を終えるのは忍びないと思って使ってやってるだけだ。私の心が揺れ動いたことは未だかつてない』

『さっきまでの話なんだったの!?何がハートにズシンだよ!?』

『しょうがないだろ。私がしほや千代の乗ってるみたいなやつ使ってみろ、あいつら以外に誰も私を止められなくなるぞ。ついでに私も止まらなくなるぞ』

『今でも止まってないじゃん』

 

カラカラと笑う彼女に、渡里はため息を一つ吐いた。

あの戦車は彼女の拘束具でありながらリミッターでもあるらしい。

確かに今でも圧倒的な力を誇る彼女だ、それが更にもう二段くらい上に上がるとなると、いよいよ想像すら怖くなってくる。

戦車道とは彼女のいるチームが勝つだけの、なんともしょうもないゲームになるだろう。

 

『っていうか別にそれでもいいんじゃないの?勝ちたいんでしょ?』

『私は勝つために戦車道をやってるんじゃない。戦車道を心行くまで楽しみたいからやってるんだ』

 

そのためなら縛りプレイ上等。

 

彼女がそう言う限りは、きっとあの戦車は老骨に鞭を打たれ続けることになるのだろう。

倉庫で埃と共に暮らす日々とどっちがマシだろか。

渡里ならどっちも嫌だけど。

 

『さぁてと、それじゃあ常夫に整備させるか。渡里、しほにコイツ持ってくように言っといてくれ』

『なんでしほさんにやらせんの……自分で持っていけばいいじゃん』

『大人には色々あるんだよ。アイツ、キッカケがあればガンガン行けるのに、肝心のキッカケ作りがド下手だからな』

『はぁ………?』

『いいから行け行け。なんならお前が操縦して持っていってもいいぞ』

『俺ティーガーⅠ以外乗りたくない』

『コイツ………』

 

笑うように怒った彼女から逃げるようにして、渡里は足早に立ち去った

土を巻き上げ走る最中、ふとその戦車を見る。

 

ボロボロで、傷だらけで―――――それでもどこか誇らしげなその戦車。

ふと、渡里は思った。

 

コイツはきっと、最後まで走って死ぬのが本望なんだろう。

走って、走って、走り続けて。

戦って、戦って、戦い続けて。

その果てに精も魂も尽き果てて、戦場の中で死ぬ。

それを望むからこそ、あの人とうまくやっていけてるのだ。

 

あの人も、同じだから。

 

 

しかしてその望みが叶うことはなかった。

唯一の乗り手は、たまたま別の戦車に乗った試合で、戦いの最中事故によって命を落とした。

それによってかの戦車は永遠に乗り手を失うこととなり、戦場から引き離された。

 

彼女の子どもに受け継がれ、そして彼女の子どもと共に戦場を駆ける未来もあっただろう。

しかし残酷なことに、彼女の子どもは男であり、その未来が実現することは決して無かった。

男に、戦車道はできないのである。

 

そしてその戦車は誰を背に乗せることもなく、ひっそりと倉庫の中で眠り続けることとなる。

埃を被り、錆ができて、それでもなお目覚めることはなく。

遂に焦がれた鉄風雷火の戦場を再び見ること叶わず、その生を終えようとしていた。

 

 

『久しぶり。元気にしてたか?』

 

 

しかし人生に夜の帳が下りようという時、一筋の光が差し込む。

唯一の乗り手と同じ血脈を持った、男の手によって。

 

『実は困り事があってさ。戦車道新設校に講師として赴任したんだが、戦車が足りない。五両ほどいるんだが、多分見つかっても三つか四つだ』

 

あの頃と違って一段と低くなった声。

一回り大きくなった手の感触。

それらが鉄の体躯をなぞっていく。

 

 

『もしまだその気があるなら――――――もう一度走らないか?』

 

 

その時、()()の想いは一致した。

一方は、求めていた終わりを迎えるため。

そしてもう一方は、

 

 

『―――――今度こそ、お前を戦場で死なせてやる』

 

 

かつて心に焼き付けた疾走を。

母が見せてくれた勇ましき姿を。

誰よりも格好良いあの姿を。

 

再びこの世に、呼び起こす為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

「………」

「麻子―?なにしてんの?もう行くよ」

「……分かった」

 

「全員作戦は頭に入ってるな!」

「ここからは休憩なしだからね。皆お腹は空いてない?」

 

「うー、責任重大……」

「怖気つくなー!根性で乗り切るぞ!!」

 

 

大洗女子学園は窮地にある。

それを既に全員が正しく理解していたが、しかし不思議と一同に不安や恐れはなかった。

 

なぜなら彼女達には、負けられない理由があるから。

 

怯え、恐怖、そんなものはただの足枷だ。

そんなものに足を引っ張られている暇はない。

私達は前に進む。

そうすることでしか報いることのできない人たちがいるということを、知ったから。

 

そんな燃える思いが彼女たちの中の薪を燃やし、動力となっているのだ。

 

本当に不思議なチームだと、みほは思った。

『自分達が勝ちたい』よりも、『誰かの為に負けられない』の方が強いなんて。

そんなの、みほは今まで見たことが無い。

 

みほの知る戦車道は、いつだって厳しい世界だった。

自分の為に勝つ、自分の為に頑張る。

どんな努力もどんな勝利も、全ては自分の為。

それが戦車道。

 

それは確かに、紛れもない戦車道の一面だ。

けれどそれだけが全てじゃないと、みほは教えられた。

誰かの為に強くなれる人だって、戦車道にはいるんだ。

 

「じゃあ西住ちゃん、そろそろ行こっか」

「あ、はい」

 

隣に立つ赤い髪をツインテールにした少女、角谷の言葉に一つ頷いたみほは、しかしやや間を置いて彼女に問うた。

 

「あの、本当にいいんですか?」

「んー?」

 

とぼけたような表情だったが、その実彼女がみほの言う事を理解していることは明らかだった。

 

「……いいに決まってるよ、西住ちゃん。だってこれは、私たちがやらないといけないことだから」

 

瞳が真剣味を帯びる。

そんな顔をされてしまったら、みほから何かを言う事はできなかった。

 

「責任ってやつ?まぁ渡里さんは共犯だけど、西住ちゃん達にはちゃんと果たさないとね――――だから任せて」

 

すると彼女はニンマリと笑って言った。

 

「後は頼むよ、西住()()

「………はい」

 

ぎゅっとみほは、知らず拳を握っていた。

踵を返し、38tへと乗り込む彼女を見届けてから、みほもまた四号戦車へと乗り込んだ。

四号の中には既にあんこうチーム全員が着座していた。

 

「華さん、砲塔の調子は?」

「……すみません。渡里さんに教えてもらった応急処置も試してみたんですが、砲塔の旋回機能が直らなくて。激しい機動戦は少し難しいかもしれません……」

 

申し訳なさそうにする華に、みほは僅かに微笑みながら。首を横に振って答えた。

四号の砲塔はこの教会に逃げ込む際に弾が直撃し、不調に陥った。

しかしそれは華の責任ではないし、勿論誰かの責任でもない。

彼女が気に病む必要は皆無なのだ。

 

しかし事実として、四号戦車は武器を一つ封じられたに等しい。

なぜなら華の砲手としての類まれな力量も、長砲身へと換装した事で向上した火力も、砲塔旋回機能の不良という問題の前では十分に発揮されないからだ。

 

本来であれば行進間射撃、あるいは高速で動く相手への精密射撃なども難なくこなせただろうが、今の四号戦車には真正面の相手を撃つのが精々。

華の敏腕を以てしても、物理的に砲塔が回らなければどうしようもない。

 

だからといって腐らせるわけにはいかない。

それに問題は、何も四号戦車に限った話ではない。

撤退時、被弾により何らかの損害を被った戦車はいくつかあるのだ。

今更アレが動かないコレが動かないなどで気落ちしているわけにはいかない。

 

そういうのを一緒くたにして、なんとかして勝機を作る。

みほの隊長としての力が試されるところであった。

 

すぅ、と大きく息を吸った。

冷たい空気が肺を少し沁みたけど、思考はクリアになった。

 

「皆さん、これからプラウダの包囲網を抜けます。相手の陣形は堅く、簡単にはいかないでしょうが……それでも可能性はあります」

 

万に一つか、千に一つか。

もう本当に砂粒のようなものかもしれないけれど、希望は確かにある。

 

「最後まで諦めずに―――――走り抜けましょう」

 

もしその希望を掴み取るために奇跡が必要だというのなら、それでも構わない。

誰も勝つとは思っていなかったサンダース戦の時のように。

ここでも奇跡を起こして、皆をびっくりさせてやる。

 

眼前に広がるのは氷雪の舞台。

待ち受けるは雪の精鋭、プラウダ高校が敷く絶凍の包囲網。

この状況にあっては黒森峰女学園ですら凌ぐ堅固さと威力を誇る戦陣に、

 

 

「――――パンツァー・フォー!!」

 

 

大洗女子学園は不退の覚悟を以て挑む。

 

 

 

 

 

 

三方包囲という言葉がある。

端的に言ってしまえば、相手を包囲する際は完全に退路を断つのではなく、あえて一つ逃げ道を用意してやる、という考えである。

なぜそんなことをするのかというと、それは窮鼠が猫を噛まないようにするためだった。

 

人は追い込まれれば、本当になんでもする。

いい意味でも悪い意味でも、普段ではできないようなことを成し遂げてしまうのである。

そしてそういう時のエネルギーは計り知れない。今までどこにそんな力を隠していたのかと、そう問い詰めたくなるほどに強大だ。

 

それが『包囲から抜け出す』という方向性の元に発揮されたとき、果たしてどうなるか。

どれほど緻密に練られた堅牢な陣であっても、おそらくは無傷で済まなくなる。

ともすれば甚大な被害を受け、あまつさえ相手を逃がしてしまうことだってあるだろう。

 

そうならないために、一つ逃げ道を与えてやる。

すると不思議なことに、人は勝手に「その逃げ道を使わなくては」と思うようになるのだ。

選択肢はいくらでもある。前に進むも左右に進むも後ろに下がるも、いくらでも選択肢はあるというのに、その逃げ道を見た瞬間に他の選択肢は霧散してしまう。

そして間もなく、人はその逃げ道に殺到する。

そこに秩序はなく、あるのは死にたくないという本能だけ。

 

包囲を敷く側からすれば、これほど楽なこともない。

何せ相手が勝手に逃げ腰になる。そして正直に、予想していた道をひた走っていく。

本来であれば真正面から矛を交えなくてはならなかったはずが、逃げる相手の背に矢をかけてやるだけで済むようになる。

 

これは有史、戦場で幾度となく繰り広げられ、そして常識とさえなった論理である。

相手を追い詰めないという、たったそれだけのことでいとも簡単に相手を無力化してしまえる策。

 

この時カチューシャは、正しくその論理に則っていた。

教会を覆うようにして形成された包囲網。

その一か所に、決して見過ごすことのできない程の広大なスペースがあった。

 

人為的なミスによるもの、では決してない。

これはカチューシャが大洗女子学園の為に用意した、見せかけの活路。

わざとそこに飛び込ませ、無防備になった所をを強襲して終いにしようという罠であった。

 

そこまでする必要があるかと言われれば、それは微妙な所であった。

真正面から来ようが策を弄そうが、そんなものは弾き返してやるという気概も確信も、カチューシャにはある。

 

しかし手は抜かないと決めた。

全身全霊で、完膚なきまでに叩きのめすと。

 

ならば最善の手段を取る。

大人げなくても、容赦なくても、そんなものは知ったことではない。

カチューシャは何を引き換えにしても、西()()に勝たなければならないのだから。

 

「――――――ノンナ、準備はいい?」

『いつでも、カチューシャ』

 

突如、眼前の教会から戦意が充満する気配をカチューシャは感じた。

長く戦場に身を置くと、こういう風に目に見えないものを知覚する能力が磨かれる。

カチューシャの戦車乗りとしての経験が、大洗女子学園の攻勢の機を察知したのだ。

 

しかしカチューシャの備えは万全だった。

わざと開けたスペース。大洗女子学園が通るであろうそのルートに、カチューシャは魔弾の射手を置いていたのだ。

 

やることはあくまで単純だ。

相手の動きを誘導し、タイミングを見計らって堰き止め、その背後を撃つ。

ノンナの砲撃能力が全国でも一、二を争う以上、これほど有効な手もない。

 

今の陣形など、いわば仮初。

大洗女子学園の動き出しに合わせて流動変化する本当の陣形がプラウダ高校にはあった。

 

―――――それが綻びとなることに、この時は誰も気づいていなかった。

 

「―――――――来るわね。全員用意!」

 

カチューシャの号令から瞬き三つほどの時間。

それは始まった。

 

教会の中から、突如として一発の砲弾が射出されたのである。

 

行方は、誰にも分からなかった。

高速で飛来する砲弾の行き先など、見てから反応できるものではない。

 

故にその時プラウダ高校の誰もが、その砲弾が射出された事と、それが誰の戦車にも当たることなく地面に突き刺さったという結果を、コンマ数秒の僅かな時間で体験させられた。

 

そして、外れたと思う間もなく。

一息、雪が間欠泉のように舞い上がった。

 

「榴弾……雪を使った煙幕ってわけ」

 

 

カチューシャの言う事が、現実を一ミリの狂いもなく正確に表現していた。

榴弾は()()砲弾ではなく、()()()砲弾だ。

例えるなら前者がスナイパーライフル、後者がグレネードランチャーのようなもので、極小範囲に絶大な威力か、広範囲に高威力かの違いがある。

 

雪上を抉ったのは、その爆ぜる砲弾。

撃ち込まれた榴弾は地中で爆発し、土ごと雪を巻き上げたのである。

水を吸った重い雪であればこうもいかないだろうが、パウダーに近い細雪であれば確かにこんな芸当も可能だ。

カチューシャは感覚を研ぎ澄ませた。

環境に適した手を打てる辺り、どうやら破れかぶれにはなっていないらしい。

であれば相応の反攻を見せてくれるだろう。

 

そんなカチューシャの期待に応えるかのように、数秒ほどしか持続しないであろう白煙を切り裂き、一匹の蛇が飛び出した。

 

先頭は隊長車である四号戦車、その後に三号突撃砲、フラッグ車の八九式、M3リー、ルノーB1bis、最後尾には38t。

戦車が一列を成して、左右に細かく揺れながら地を這う。

 

その様をカチューシャはしかと見た。

蛇行は進路を悟らせないための擬態だ。

けれどどれほど巧妙に隠そうとしても、決して誤魔化せない部分はある。

胴体が蛇行しようとも、蛇の頭は必ず進行方向を向くのだから。

 

故にカチューシャが見るべき箇所は一つ。

先頭を走る四号戦車、その動向にだけ注意すればいい。

 

そしてその時は来た。

四号戦車が一度頭を振ったかと思えば、大きく進路を曲げて包囲網の一角、カチューシャの用意したスペースへと飛び込む動きを見せたのである。

 

「ノンナ!」

『問題ありません』

 

魔弾の射手が引き金に指を添える。

照準器の先では疾走する戦車。限られた視界の中では瞬く間に消えてしまいそうになるソレを、しかしノンナはその目に捉え続ける。

 

間もなくだと、カチューシャは確信した。

あともう少し大洗女子学園が踏み込んだその時、冬の冷気のように無慈悲な一射が彼女たちを射貫く。

 

まずは四号戦車だ。頭を失えば胴体も動かなくなる。

フラッグ車を真っ先に仕留めて試合を終わらせてやるのもいいが、それでは味気ない。

どうせ四号戦車以外は残しておいても大した脅威にはならないのだから、此処はカチューシャの欲を通す。

 

キューポラから顔を出し、カチューシャは趨勢を見守った。

直接手を下すことに、カチューシャは固執しなかった。

一騎討ちで打倒してこそ、という声もあるかもしれない。

 

けれどプラウダ高校は、カチューシャという一人の人間が統括し、支配するもの。

同校に所属する全ての戦車乗りは、カチューシャの意志を体現する為に存在している。

プラウダ高校という一つのチームが、カチューシャという個人と言っても良い。

 

であればこそ、カチューシャは誰が西住を討ち取ってもいい。

誰が討ち取っても、それはソイツの功績であり、カチューシャの功績でもあるから。

 

チームとしてその形は、歪かもしれない。

カチューシャ個人に大きく依存した、ワンマンチーム。

チーム全ての功罪は、カチューシャ一人が背負う。

しかしプラウダ高校の強みは、正にそんな所にあった。

 

さぁ、誰が西住の首を持ってくる。

カチューシャの口が弧を描く。

そしてそれとほぼ同時に、それは起こった。

 

 

蛇の頭が、真反対に曲がった。

 

 

カチューシャは一瞬で表情を変えることとなった。

 

大洗女子学園の隊列、先頭車両の四号の行き先が、カチューシャの用意したルートを外れたのである。

バカな、という思いと、何を、という思いが一挙に到来した。

 

()()()は、カチューシャが用意したという点を除けば、紛れもなく最善のルート。

仮に最善と言えなくても、他にどんな道があるというのか。

消去法でも選んだって、()()()になるはずだ。

 

なぜなら包囲網の一部をワザと脆くするということは、その分他の部分は一層強固になるということ。空いたスペースに置かれるはずだった戦車は、他の部分に回され補強材となっている。

そこにわざわざ突っ込むというのか。一体どういう論理で。

 

カチューシャは僅かに混乱した。しかしそれは、彼女の指揮をなんら鈍らせるものではなかった。

大洗女子学園の敗北の運命は変わらない。

背後から撃たれるか、真正面からハチの巣にされるか。

前者を嫌うというのなら、後者の末路を選ばせてやる。

 

しかし状況は、カチューシャの予期しない方へと進んでいく。

 

四号戦車の向かう先は、包囲網のどこでもなかった。

北でも南でも東でも西でもなく、四号戦車は進路を曲げた後、円を描くようにして走り始めたのである。

蛇の頭は、包囲網のどこにも食らいつかなかったのだ。

 

それが何を意味するのか、カチューシャは瞬時に悟った。

それは狂気の沙汰であった。

 

つまり大洗女子学園は、

 

「包囲網の中で戦うつもり………!?」

 

包囲を脱するのではなく、()()()()()()()戦う道を選んだのである。

 

包囲された側の動きの最終目標は常に、その包囲を破ることにある。

というのは、錯覚である。

考え方として、相手に四方を囲まれながらも戦うというのは、十分にある。

 

ただ誰も実行に移すことがないだけだ。

なぜならそんな戦い方で勝てる程、甘い世界ではないから。

どれほど知恵を絞り勇敢に戦ったとしても、数多の犠牲の経て最後には摩耗し潰える。

 

だから包囲は抜けださなくてはならない。

包囲されながら戦うなんていうのは、正気でやるものじゃないのだ。

 

「―――――全員砲撃用意!」

 

カチューシャは思考を停止させた。

これ以上大洗女子学園の行動に対する議論を重ねることに、意味を見出せなかったのである。

 

考えても仕方のないものは考えない。

それよりも今やるべきことはなにか。

それは明確であった。

 

包囲網の中で戦うというなら是非もない。

四方から砲弾の雨を降らして、それで終いにしてやる。

ビニール傘程度の防御力で、果たしてどこまで耐えられるものか。

 

「ノンナ、貴女もこっちに――――……」

 

カチューシャは魔弾の射手へと目を向けた。

プラウダからすれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()状況だ、全国トップクラスの砲手を遊ばせておく理由はない。

 

空けたスペースは最早無用。

ノンナを呼び寄せ包囲の輪を少しでも狭め、じわりじわりと削っていく。

カチューシャの算段は、そんなところだった。

 

そしてそれが実現することはないということを、カチューシャは次の瞬間に知ることとなる。

 

 

「―――――!!」

 

 

ノンナの駆るIS-2に、忍び寄る影が一つ。

全員の目が包囲網の中を這いずり回る蛇へと向けられている隙を突くようにして、ソレは魔弾の射手へと噛みついた。

 

「38t……!」

 

IS-2よりも二回りほど小さい戦車が、砲塔を右に45度回し、すれ違いざまにIS-2の右側面に一射浴びせた。

同時に、大洗女子学園の隊列最後尾を走っていた38tが、いつのまにか部隊を離れ単独行動に移っていたことに全員が気づく。

 

囮、ではない。

この状況で囮を使うなら、ポジションが逆。空いたスペースに部隊を、包囲網の中に38tを置かなければならない。

ならこの38tの狙いは?

 

その迷いと混乱がプラウダ高校に僅かな硬直を作り出し、そして38tはその硬直時間の中で最大限に躍動した。

IS-2に一射浴びせたのを発端とし、その勢いのままIS-2周辺の戦車に手当たり次第に砲撃し始めたのである。

 

絶対的窮地に立たされたいた者からの思わぬ反撃に、それを喰らった者たちは動揺した。

38tの火力では、余程ピンポイントで狙わない限り撃破されることはない。

しかしそんな事を知っているはずの彼女たちは、それでも動揺した。

それほどまでに、38tの攻撃は予想外であった。

 

しかしただ一人、冷静さを保っている者がいた。

彼女の冷たい声が、浮足立った同胞たちを静めていく。

 

「38tの砲手は精度が低い。落ち着いて対処しなさい」

 

ノンナの言葉は紛うことなき事実であった。

これまで38tの砲手として試合に臨んでいた河嶋桃は、神栖渡里の腕を以てしても向上が見込めない程、絶望的な砲撃センスをしている。

彼女がこれまで何度弾を放ったかは数え切れないが、その内いくつが命中したかは子どもでも数えられる。つまりゼロである。

 

攻撃的な脅威が無い以上、38tに大して囮の効果はない。

極論、無視しても構わないという考えの元放たれたノンナの言葉は、確かに正解だっただろう。

 

 

「―――――――」

 

 

一人の戦車乗りが、獰猛な笑みを浮かべた。

それを待っていたと、言わんばかりに。

その誤解が欲しかったと、言わんばかりに。

 

 

突如、――――――――鉄が折れる音がした。

 

 

鈍いようで甲高い、致命的な音だった。

 

何の音だと、あるプラウダの戦車乗りは思った。

そして間を置かずして、またもや同様の音が響き渡る。

 

「――――――――――っ」

 

いち早く()()に気づいたのは、やはりノンナだった。

キューポラから身を乗り出して戦場を視る彼女が、おそらく一番()()()()を見る確率が高かった。

38tから放たれし一射が、同胞の戦車の履帯を破壊する、その光景を。

 

「ちょっとノンナ、なにして―――――ちっ!!」

 

事態は同時多発的に起こった。

38tがT-34の履帯を撃ち貫いた直後、包囲網の中で這いずり回っていた蛇もまた毒液をまき散らし始めたのである。

一列に連なった戦車から生える、左右に向けられた砲身。

それらが間断なく火を噴く様は、蛇と言うよりは火山のようであったが。

 

火山岩が包囲網を手当たり次第に襲ったため、カチューシャはその対処に当たらねばならなくなった。

 

これにより戦場は二分された。

すなわちカチューシャ率いる部隊とそれに相対する大洗女子学園五両と、ノンナ率いる部隊とそれに相対する38t単騎である。

 

二分されたとはいえ、数の上でプラウダ高校は圧勝していたが、しかし状況は見た目ほどに優勢ではなかった。

なぜならカチューシャとノンナは互いの戦車が見えるほど近くにいるにも拘わらず、それぞれがそれぞれの眼前にいる相手に対処しなければならないために、互いの戦場に干渉する事が不可能になっていたのである。

 

これは特にノンナに対して大きな影響を与えた。

ノンナは砲手に対して最も高い適性を持つ戦車乗りであるが、能力値的にはオールマイティに属する。車長、あるいは部隊指揮官として振舞うことも可能だ。

しかしそれは、カチューシャという絶対的存在の下にあってこそ。

カチューシャと完全に遮断されたこの状況にあっては、おそらくノンナはフルスペックを発揮できない。

 

加えて今は、更に一つ困惑の要因があった。

それはデータに無い、38tの正確な射撃。

 

戦車にとって履帯を切られることは、足の健を切られることに等しい。

一本でも断ち切られれば、行動の自由を奪われ、その場で立ち尽くすだけの鉄塊に成り果ててしまう。

 

あの38tは、それを確信犯で狙っている。

そんな事できるほどの精密さは、なかったはずなのに。

 

『り、履帯部に直撃!身動きが取れません!』

 

三両目の被害者が出た瞬間、ノンナは決断した。

これ以上はマズいと、そう思ったのである。

 

IS-2を動かし、38tの進路上に躍り出る。

途端、38tは牙の矛先をノンナへと向けた。

 

右に左に大きくうねる様な軌道で迫りくる38t。

狩りを行う狼のような俊敏さを相手に対し、ノンナはあくまで冷静だった。

大袈裟な動きに惑わされないようにし、必ず38tの砲身がIS-2の正面装甲へ向くようにしたのである。

 

その動きは実に巧みで、そして大きな効果を生む―――はずだった。

 

38tの砲性能では、どうあがいてもIS-2を正面から打倒することは叶わない。

ならば当然、38tの方が先に現状の打破を図る。

此方の側面を取ろうと躍起になり、隙を晒したところを狙い撃てばいい。

それがノンナの算段。

 

 

「―――――そうそう、そうするしかないよねー」

 

 

そしてそれこそが、38tを駆る彼女たちの、カメさんチームの狙いであった。

 

あっち(カチューシャ)と合流はできない。履帯が切れた三両の戦車を置いてはいけないし、何より合流しようと思ったら私たちに背を向けなきゃなんない。だからここは、先に私たちを仕留めた方がいいし、仕留めないとダメ」

 

IS-2の周りを旋回する38tの車内で、彼女はニヤリとしながら呟く。

 

「そうすると注意はこっちに向く。この位置からなら西住ちゃん達を狙い撃ちにできるけど、その砲身は西住ちゃん達よりも私たちを優先する。それがどういうことかっていうと―――――」

 

 

一息、38tは流星となって雪上を駆けた。

目指す先はIS-2の側面、ではなく真正面。

掠っただけでも大損害を被るであろう超火力の砲身が鎌首を擡げるが、そんなことはお構いなし。

疾走の勢いそのままに、38tはIS-2への無謀なる吶喊(ラムアタック)を決行した。

 

 

「私たちがこうしている間、プラウダで一番厄介で危険なIS-2を無力化できるってわけ」

 

 

衝突は、劇的な結果にはならなかった。

元より体格差のある戦車同士の正面衝突だ。

38tが助走をつけて体当たりしたって、IS-2の被害といえば乗員の身体が大きく揺れた程度だろう。

 

しかし38tは止まらなかった。

エンジンが唸りを上げ、車体は前へと進もうとし、IS-2も負けじとアクセルを踏んで、装甲同士がひしめき合う。

さながらその様は白刃の鍔迫り合いを思わせた。

 

「―――――後退」

「背後に回りこめ、小山!」

 

IS-2が不意に刀を引いた。

途端、38tは前につんのめる―――――勢いを利用して、そのまま急旋回。

IS-2の後ろを取ろうとするところを、咄嗟に反応したIS-2が急速前進して距離を取る。

しかし38tも追い縋る。間断なく砲撃を浴びせながら、不規則かつ独特のリズムで彼我の距離を詰めようとする。

 

それに対応するノンナは、この38tを相手にするに辺り、カチューシャを気にする余力を残しては痛手を負うことを静かに悟った。

 

カチューシャ対戦相手の研究を行うことは史上初めてのことであったが、ノンナに関してはそうではない。

寧ろカチューシャが対戦相手に関心を抱かない分、ノンナが人の二倍その役目を担っていたと言ってもいい。

 

故にノンナは、38tが戦車性能的に、そして乗員の実力的にまともな対戦車能力を持っていないことを知っていて、それこそが38tがフラッグ車に任命される所以だと考えていた。

 

しかしノンナは今、内心である確信を抱いていた。

この38tは、今までとは違う。

乗員が変わったのか―――――あるいは、乗員間の役割が変わったのか。

ともかくとして、一定以上の脅威を持つ相手に格上げしなければならないとノンナは思った。

 

 

「―――――――」

 

 

青氷色の瞳が、絶対零度の冷気を纏う。

これまでノンナがその瞳に捉えるべき相手は、あの西住流の戦車乗りだけだった。

しかしどうやらその対象は増えた。

敬愛する隊長のために屠らなければならない相手は、今目の前にもいる。

 

ならばどうするか。

答えは簡単だ。

 

いつもと同じように、この腕を揮う。

ただ一人の隊長の為に磨き上げたこの砲撃の腕を以てして、彼女の覇道の前に立ちはだかる者の悉くを撃ち貫くだけ。

 

「誰であろうと、カチューシャの邪魔はさせません」

 

壮烈な覇気が充満し、IS-2から放逸される。

間もなくサンダース大付属のファイアフライと同等以上の脅威が、容赦なく迫る。

 

「どうやら、ようやく目が合ったみたいだねー」

 

38tの車内で、それを敏感に感じ取る者がいた。

砲手席に座り、照準器を覗く片眼鏡の女子――――ではない。

今その席に座り、砲撃のトリガーを引いているのは河嶋桃ではなく、赤い髪をツインテールにした、小さな少女であった。

 

「そうでなくっちゃ」

 

冷や汗を一つ流しながら、それでもなお不敵な笑みを浮かべてIS-2に相対する彼女。

その名は、角谷杏。

 

これまで38tの車内で干し芋を味わうだけだった彼女が、如何にして今に至るようになったのか、それを説明する為には時間の針を少し巻き戻さなければならない。

 

 

 

 

 

 

「カメさんチームが囮になる!?」

 

武部沙織の絶叫が、教会の中に木霊した。

それに対し角谷は、事も無げな一つの頷きを以て返答とした。

 

みほが包囲網から脱出する策を考えた時、どうしても避けられない大きな壁があった。

それがIS-2という大火力の戦車を駆る、日本トップクラスの砲手の一翼を担うブリザードのノンナである。

彼女の砲撃の腕を以てすれば、みほ達が如何な動きをしようと、包囲網の中という限られた領域の中であれば百発百中だろう。

 

「そうでもしなきゃ止まらないんでしょ、IS-2」

「………はい」

 

彼女を止める方法は二つ。

そもそもとして撃たせないか、彼女の照準を何処か一つに固定するか、である。

 

その二つを、特に後者を満たすことのできる策が、囮作戦であった。

 

「で、でも!その……」

「時間稼ぎするにしても、すぐに撃破されたら意味がない。ついでに言うと、無視されても同じだ」

 

沙織が言い淀んだことを、麻子ははっきりと言った。

それが暗に「カメさんチームでは役不足だ」ということを、この場の誰もが悟った。

 

冷たい言い方だが、麻子の言う事は正論であった。

誰かがIS-2に張り付いたとして、難なく撃破されてはいけないのだ。

あくまで目的は包囲を破るための時間を稼ぐことであり、できるだけIS-2の前で健在で居続けなければならない。

 

加えてIS-2にとって脅威であらねばならない。

否が応でも注意しなければならないと、ノンナにそう思わせないと囮としては無意味。

 

その為には最低でもIS-2と渡り合うだけの実力がいる。

その役が叶うとすれば、ともすればIS-2を打倒しうるあんこうチームであり、これまでまともな戦果を挙げていないカメさんチームでは……という思いが大洗女子学園に蔓延した。

その原因の一端を担っているのが、砲手河嶋桃の絶望的射撃センスであった。

 

 

「大丈夫大丈夫、私が砲手やるから」

 

 

しかし解決策は、思わぬところからやってきた。

 

「は、えぇ!?」

「会長が……砲手を?」

 

唖然とする一同に、角谷はニヤリと笑いながら言った。

 

「とりあえず三両くらい履帯切って、そこからブリザードちゃんとタイマンって感じかなーまぁ向こうは油断してるだろうし、結構いけると思うけどねぇ」

「ちょ、ちょっと待ってください。え、会長って砲手初めてじゃ……」

「違うよ」

 

沙織の問いに、角谷は端的に答えた。

それが嘘を言っている様子でもなかったのが、余計に一同の混乱を招いた。

 

すると角谷はうーん、と一つ間を置いて。

 

「渡里さんに言われたんだよねー、砲手の練習もしろって」

 

おそらく大洗女子学園で一番説得力のある説明をした。

 

それは大洗女子学園全員の頭と体に深く刻まれた、神栖渡里による地獄の鬼も逃げ出す強化合宿が始まってすぐの事。

二人だけの生徒会長室で交わされた会話があった。

 

『河嶋のアレは多分呪いだな。前世でよっぽどのことをやらかしたんだろ』

 

アイツに必要なのはコーチではなく、霊媒師だ。

そう言って呆れたようにため息を吐いた神栖渡里は、次にこう言ったのである。

 

『だからって攻撃能力がありません、は話にならない。そこで角谷、お前には砲手の練習もしてほしい』

 

それはお願いですか、と問い返す角谷。

すると渡里は頷いて答える。

 

『大洗女子学園戦車道を興した責任と、そこに付随する義務に対して、真摯な対応をしてくれると期待してのことさ』

 

そうして角谷は、イエスと答える以外の道を失い、そして神栖渡里の要請に応えることとなった。

 

神栖渡里の言う通り、角谷杏は戦車道に対して最も真摯で、そして熱心でいなければならない人間であった。

なぜなら大洗女子学園戦車道とは、ひとえに彼女の望みを叶える為に創出されたものであり、彼女の願いを成就する為に数十名の女子達はその戦車の道を歩んでいる。

 

なればこそ、どうして本人だけが外野から素知らぬ顔でいられようか。

本当はしたくなったかもしれないものを、無理に捻じ曲げてやらせた子もいるというのに。

少なくとも角谷杏は、誰かに何かを強いるでのあれば、自身もそれに等しい何かを背負わなければならないと、そう思う人間だった。

 

だからこそ彼女は、合宿期間中おそらくは西住みほ、五十鈴華と並ぶ最多の練習量をこなしたのだった。

血が滲もうと汗が流れようと、誰にもそれを見せぬまま。

 

 

「……ま、少なくとも河嶋よりはまともだろうし。渡里さんからも一応はお墨付きももらった。どう、冷泉ちゃん。囮として全く使えないってわけじゃないと思うけど?」

 

麻子は答えなかった。

その沈黙が、議論を一決させた。

 

 

「かーしま、装填もっと早く」

「はい!」

 

 

砲手席に座り、照準器を覗き込む角谷の姿は、少なくとも河嶋より様になっていた。

 

五十鈴華と比べると角谷の砲撃の腕など、本当に常識レベルだ。

ちょっとセンスのいい子が、結構頑張ればたどり着けるような、そんな領域。

 

しかし間違いなく、角谷は戦力になる砲手であった。

砲手として初の実戦でありながら、的確に履帯部に弾を当てたその実績からも、それは伺える。

 

更に言うのであれば、角谷の特性が砲手という役職にピタリと当てはまっていたのも大きかった。

基本的に砲手とは能動的な役職である。

自分で考え、自分で判断し、自分で実行する。

主従で言うなら、主に属する役職と言える。

生徒会長として学園艦に住む二万人を統べる角谷にとっては、まさに適役である。

 

そういう意味で言うと、河嶋は砲手には向いていない。

角谷が砲手に移ったことで彼女は装填手になったが、彼女に向いているのは正にソレであった。

一つのことを正確に、連続で、ミスなく行うという単純作業限定の高い処理能力。

そして何より、河嶋桃は誰かに使われることでその能力を十全に発揮できるタイプであった。

 

そして角谷と河嶋の間に、人の考えをよく理解できる小山が操縦手として立つ。

乗員の特性的にも、そして乗員間の連携としても、おそらくこれがカメさんチームの最善で最高の形だった。

 

そしてその結果は、誰の目にも明らか。

 

戦車の性能的にも、乗員の練度的にも、カメさんチームはIS-2を大きく下回る。

それでもなお、現状は拮抗していた。

およそ誰もがIS-2の一方的な蹂躙と予想していた二両の戦いは、38tの善戦によって思わぬ長期戦と化していた。

 

「くー、流石に硬いね」

 

角谷の口角が吊り上がる。

困ったような口調とは裏腹に、彼女はこの時、おかしな話だが高揚していたのである。

 

いくつもの砲弾を放ち、その全てがあえなく弾かれ、逆に相手の一撃は悉く角谷の心胆を寒からしめる。

どれだけ此方が攻めても手ごたえはなく、必死に秤を傾けても指先一つで簡単にイーブンに戻される。

この戦いは、本当に不平等極まりない戦いだ。

 

傍目には接戦に見えるかもしれないが、その実カメさんチームは、あと一歩で崖から落ちるというギリギリのところで手押し相撲をしているようなもので、この拮抗はいつ崩れてもおかしくない。

加えて言うなら、向こうがその気になればあっけなく自分達は突き落とされるだろう、という予感が角谷にはあった。

 

しかしそれでも、角谷は不敵に笑みを浮かべる。

 

不利?不平等?

それがどうした。

 

そんなものは最初から承知の上。

あっちとこっちには圧倒的実力差があって、万に一つも角谷達が勝つことはないだろう。

 

けれどそれでいい。

なぜなら角谷は()としてここにいる。

最初から勝利なんて見ちゃいない。

 

どれだけ無様でも不格好でも、ボロボロの雑巾みたいになっても、IS-2の前に立つ。

ただ立っているだけでいい。

このIS-2の照準を此方に向けさせておくだけで、カメさんチームには意味がある。

 

(それにほんのりと、苛立ちが見えてきてるよブリザードちゃん)

 

照準器の向こう。

決して見えぬ砲手の顔が僅かに歪んでいるのを、角谷は幻視した。

 

早く向こうに行きたいのだろう。

その為に私たちを早く沈めたいのだろう。

それは分かる。

 

「させないけどね!」

 

だからこそ、角谷は一秒でも長くIS-2に食らいつく。

 

一息、トリガーを引く。

放たれた一矢はあえなく鉄の鎧に弾かれ、IS-2はびくともしない。

もう幾度となく繰り広げられた光景だ。

巌のような堂々たる立ち振る舞いが、ノンナの余裕を表しているように見える。

実際彼女からすれば、本当に余裕の戦いなんだろう。

 

悪いがこちらは捨て身だ。

生還という希望を代償にして、悪魔から力を貰っている。

 

だからこそ、追い縋れる。

なぜならお前は違うから。

最も恐れるものは、自身が撃破されあの小さな隊長の役に立てなくなること。

だから安全圏から足を出すことができない。

 

ならば当然、撃破されることを前提で突っ込んでるこっちの方が一歩先を行く。

そうだからこそ、この拮抗があるのだ。

そうだからこそ、お前は此方を見ざるを得ないのだ。

 

 

「ここを通りたければ、私を斃してから行け――――ってね」

 

 

さぁさぁ、この死兵の戦を御覧じろ。

この身の果ては敗北。この躍動はつまるところ、少しでも長く生きるための悪足掻き。

だがそれでも足を止めるな手を止めるな。

魔弾がこの身を貫き、地に伏すその時まで、どこまでも舞い続けろ。

 

少しでも多くの希望を、あの子達に齎すために。

 

 

「さぁ、存分に付き合ってもらうよ――――――ブリザードちゃん?」

 

 

 

 

 

 

 




次回、プラウダ戦最終回(多分)。

これが終われば小話一つ挟んで、いよいよ黒森峰戦。
……年内完結、まだあるぞこれ(慢心)



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第42話 「プラウダと戦いましょう⑥ ヒヨク・レンリ」

プラウダ戦最終話とか言ったけど終わらなかった。
3週間以内に投稿するつもりだったけど書き終わらなかった。
何も終わらなかったこの一月の間に終わったのは、山のように溜まった仕事だけ……

というわけで最終話、一歩手前の話。

大洗女子学園の誇る天才操縦手、冷泉麻子がメインとなっております。





全国屈指の破壊力を誇るプラウダ高校の包囲戦術を相手に、よりにもよって彼女たちの独壇場である雪のステージにて、包囲の突破を狙うのではなくあえて包囲の中で戦うという狂気とも言える大洗女子学園の一手。

 

それにより二分された戦場の一方では、38tを駆るカメさんチームとIS-2を駆るノンナの衝撃の一騎討ちが繰り広げられている中、もう一方の戦場でもまた事態が動き出そうとしていた。

 

(履帯が切れた戦車が三両。これで包囲網を形成する戦車は、フラッグ車とその護衛を除いて九両)

 

キューポラから身を乗り出して状況を確認するみほは、戦場が想定していた通りの形になりつつあることを悟った。

カメさんチームがほぼ四両分の戦力を削ってくれたお蔭で、包囲は緩んでいる。

隊長のカチューシャが包囲に空いた穴を埋めるため、戦車の配置をうまくスライドした為に包囲自体は健在だが、最初に突入した時と比べれば遥かに戦いやすい。

 

「西住殿!」

「うん、わかってる」

 

優花里の視線に頷きの返事を一つ、みほは大きく深呼吸をした。

それは集中力のギアを一段階挙げるために儀式であった。

肺に一杯空気をため込んで、それをゼロにする勢いで全て吐き出した時、みほの視界はより鮮明になるのだ。

 

「沙織さん、各車に通信を。包囲の突破にかかります」

「わかった!」

「華さん、優花里さん、ちょっと忙しくなると思うけど……」

「大丈夫です、みほさん」

「任せてください!」

 

四号戦車の中の空気が少し変化する。

プラウダの包囲の中にあるのだ、今まででも既に緊張感はあったが、ここからは毛色が変わる。

 

みほ達からすれば、実はここまでは「いける」と判断していた領域だった。

プラウダ高校の包囲網の中で戦う。

それは確かにリスキーな一手かもしれないだろう。

 

けれどみほは、「カメさんチームが囮として機能し、IS-2を抑え込む」という前提さえクリアされれば、そこまで無謀な賭けだとは思わなかった。

 

なぜなら、プラウダの包囲の脅威とは何か、と考えた時。

みほは真っ先にIS-2とノンナの存在を挙げ、そしてその次にカチューシャの指揮能力を挙げ、三つ目に戦車の性能差を持ってくる。

そして一番目の脅威と、二番目、三番目の脅威の間には大きな開きがある。

 

要するに「どれが一番対処できないか」という話だ。

戦車の性能差は、機動力と戦術でどうにかできる。

カチューシャの指揮能力も、それの恩恵を受ける戦車の数を減らしてしまえば、実質的に削ぐことができる。

 

けれどIS-2はどうにもならない。

アレは一個で最大限の効果を発揮することができる存在だ。

対処法がないわけでは決してないが、包囲された状態の中で野放しにしてしまえば、本当にどうしようもなくなる。

 

だからこそ、今カメさんチームがIS-2を抑えている意味は大きい。

そうだからこそ、万が一はあれど、十中八九はプラウダの恐るべき包囲の中でも立ち回れるとみほは踏んだ。

 

寧ろ問題はここから。

みほ達の目的は、あくまで包囲の突破。

プラウダがどういう読みをしているかはしらないが、みほ達は当然こんな包囲の中で戦い続けるつもりはない。

 

どこかのタイミングで、包囲を崩す。

そして包囲を抜け出し、安全圏にいるフラッグ車を叩く。

勝ち筋は最早、これだけしかない。

 

そしてみほは、今こそがその勝ち筋に入る時だと直感した。

 

「――――……」

 

実のところ、みほの胸の中には高揚と不安の両方があった。

前者は、全国屈指の威力を誇るプラウダの包囲網を破るという難事を前にして、戦車乗りの血が騒いでいる所からきている。

あんまりみほは認めたくないが、こればっかりは()()()にそっくりな所だと思う。

本質的に、みほもまた高い壁を前にした方がより高く飛べるタイプなのだろう。

 

後者は、()()()()()()()()()()()()()()不安とでも言うのだろうか。

プラウダの包囲が破れるかどうかとか、そういった類の不安ではない。

いや勿論それも多少はある。いつだってみほには、隊長としてチームを勝利に導かなければならないという重圧と、それが叶わなかったらという恐怖がある。

 

けれど今は、それとは少し違う。

幼い頃、飛行機に初めて乗る前に経験した気持ちによく似ている、とみほは思った。

そわそわして落ち着かないというか、想像だけが先走るというか。

 

(けど……悪い意味の不安じゃない、よね)

 

『それは期待っていうんだよ、みほ』

 

空港のターミナルであまりにも忙しないみほを、呆れた顔をしながら大人しくさせた兄の言葉を思い出して、みほは薄く笑った。

そう言う兄も、確かずぅーっと貧乏ゆすりをしていて、結局母にみほと一緒に「落ち着きなさい」と諫められていたのだ。

 

「―――――よし」

 

精神状態はOK。

後はやれるだけの事を、ただやる。

結果なんて、どうしたって先に来ることはないんだから。

 

「麻子さん、お願いします」

 

緊張感の増す四号戦車の中。

車長席から最も離れた、戦車の最先端に位置するその席。

戦車の操縦を一手に担う、ある意味で車長よりも重要なその席に座る彼女に、みほは声をかけた。

端的だけれど、それ以外に最早かける言葉は無かった。

 

「――――――あぁ」

 

どこか兄とよく似た色をした長い髪の彼女は、みほと同じく端的に答えた。

その小さな背中に、不思議と安心感を覚える自分がいることにみほは気づいた。

 

 

 

 

 

「それで、どうやって包囲網を破るわけ?」

 

大洗女子学園の議論は、最も重要な点に突入していた。

角谷の火蓋を切る一言に、みほは少し考えてから答えた。

 

「一つや二つ包囲に穴を空けたところで、おそらく意味はありません。空いた所からすぐに塞がれてしまいます」

 

事実としてカチューシャの指揮能力はずば抜けている。

戦車の数が同数であれば力押しでどうにかできると思わなくもないが、カメさんチームがIS-2の抑えに回ると此方の戦車は五両。フラッグ車である八九式は積極的に戦闘参加できないので、実質的には四両。

プラウダの包囲を正攻法で破るのは、諦めざるを得ない。

 

ならどうするか。

みほの頭の中には、最早一つの策しか残っていなかった。

 

「だから――――――穴を空けるなら、たくさんです」

 

皆がポカンとした表情になったので、みほは慌てて説明を足した。

 

まずプラウダの包囲網は、通常より強度が落ちる。

それは何故かというと、ノンナという()()()が包囲網に参加していないからである。

 

ブリザードのノンナ。

戦車乗りであれば誰でもその名と、彼女の存在理由を知っている。

彼女はIS-2という強力戦車を操る全国屈指の砲手であり、そしてそれ以上に()()()()()()()()()だ。

 

副隊長とはいえプラウダ高校だ、生半可な実力では務まらない。

つまりノンナには、()()()()()()()()()()()()()()()()()だけの力がある。

砲手としてではなく、一つの部隊を指揮する者としての力が。

 

それがカチューシャの形成する包囲に、何の恩恵も与えていないとは思えない。

自分の身に置き換えて考えてみればいい。

もしみほがカチューシャのように包囲網を展開したとして、その一角を――例えばアンチョビが担ってくれていたらどうだ。

間違いなくみほの負担が減る。そしてその分だけ、みほ自身の指揮の質も上がるだろう。

 

つまりはそういうことだ。

カチューシャだけでは『盤石な』包囲が、ノンナが加わることによって『無欠の』包囲へと進化する。

 

だけれどノンナはカメさんチームが抑える。

無欠の包囲は盤石へと退化し、包囲の全てはカチューシャ一人が統括しなければならなくなる。

 

「そこが狙い目です。カチューシャさんが包囲を直すのが追い付かないくらい、とにかく穴を空けるんです」

 

カチューシャ+ノンナであれば、どれだけ穴を空けてもすぐに塞がるし、なんなら穴すら空けられないだろう。

けれどカチューシャだけなら。

一つ二つの穴を空けるくらいでは意味がないだろうが、五つ六つ空けてやれば。

盤石の包囲に亀裂を入れることができるかもしれない。

 

「あくまで可能性の話ですけど……」

「西住ちゃんが言うなら間違いないんじゃない?十分やってみる価値はあると思うけどねー」

 

角谷と同様の反応を、皆がした。

となれば方針は決まった。

教会を出るまでは一緒。

目くらましと同時に出て、カメさんチームは即座に部隊から離れて別行動へ。

残った本隊でカチューシャの敷く包囲網からの脱出を図る。

 

そこから打ち合わせが念入りに行われた。

カメさんチームは単独で動いてもらう為、完全に角谷に裁量を任せてみほは関与しない。

というより、包囲突破のための作戦行動にはみほの全神経を集中させる必要があるため、カメさんチームにまで頭を回す余裕がないというべきだった。

 

包囲に穴を空けるなんて、言葉にすれば簡単だ。

だが実際にやるとなれば、話は別。

前提として火力と機動力の二つをフル活用しなければならないが、そこには大きな問題がある。

 

まず火力。

これは一点集中させて威力を上げなければならない。

なぜなら大洗女子学園にはIS -2のように単騎で大火力を持つ戦車がなく、単発単発ではT-34を始めとする高性能戦車を怯ませることすらできないだろうからだ。

 

だけれど一つに束ねれば、小銃も大砲となって相手を穿つこともできる。

しかしそのためには適切なタイミングで適切な箇所へ攻撃しなければならない。

 

加えて今回は、繰り返しになるが包囲の中で戦う。

つまり足を止めることだけは絶対に許されず、絶えず動き続けての戦闘になる。

それもただ動き回るだけじゃない。ちゃんと撃破されないように、その場その場で最適なルートを選び続けなければならない。

もしほんの一瞬でも迷い、ルート選択を誤れば、それはすなわち致命傷に繋がる。

 

問題は、まさにこれ。

砲撃の指示と、部隊の舵取り。

その両方の指示が、みほ以外に不可能な事。

各自自由な判断で戦う大洗女子学園だが、今回に限っては完全にみほの指揮下に入り、その指示に従うだけの駒になってもらうしかない。

 

「火力を最大限に発揮しつつ、機動力を損なわない……」

 

みほの独語はか細く、あっという間に溶けて消えた。

幸いにも皆、みほの考えに賛同し、この場はみほに預けてくれた。

そうして作戦会議が順調に終了しても、四号戦車へと帰るみほの足取りは僅かに重かった。

 

難しい作戦、だろう。

なにせ達成しなければならない二つの課題が、二つとも現場での判断を必要とする。

事前に絵図を描いて動くことはできず、みほは瞬間的な判断を積み重ねてゴールまでたどり着かなければならない。それも一つの、ミスもなく。

 

戦場に流れる数多の情報。

その処理が遅れることは、決して許されない。

正確に、迅速に、捌き続ける。

 

だというのに、みほはこれから戦場をかき乱す。

マドラーで飲み物を混ぜ合わせるみたいに。

何とも皮肉な話だ。

自分で波を起こしておいて、その波濤に呑まれたら終わりとは。

 

(お兄ちゃんみたいに……か)

 

本当にできるのか、という一抹の不安はあった。

みほがこの作戦を思いついたのは、他でもない兄の影響がある。

打ち明けた話、似たような状況を見事乗り切った兄の策を、大洗女子学園流にアレンジして使おうとしているのである。

 

だからこそ、みほには不安がある。

 

私生活ならいざしらず、戦車道においてみほに可能な事は須らく、兄にも可能だ。

しかしその逆は、成り立たない。

兄に出来てもみほにはできないことは、多分たくさんある。

今からやろうとしていることがそこに含まれないとは、残念ながら言い切れないのだ。

 

「できる、かな」

 

心の中で問うても、返ってくる言葉はない。

 

やれるだけ、やるしかない。

みほは両手で軽く、自身の頬を叩いた。

 

マイナス思考は無し。

みほだって判断の速さと奇策・速戦には自信がある。

賭けは賭けだが、悪くない賭けのはずだ。

 

「―――――」

 

大きく深呼吸を一つ。

四号戦車の車長席に戻ると、優花里たちが声を掛けてくれる。

その声と顔が幾分かみほの緊張を和らげてくれたが、完全に緊張が無くなることはなかった。

 

「………よし」

 

瞑目し、静かに呼吸する事三つ。

覚悟を決め、いざ開戦の狼煙を上げようとした―――――その時である。

 

 

「――――――待った」

 

 

一つの声が、四号戦車の中に響いた。

 

喉元まで来ていたものが、霧散して消えていく。

何を言うべきだったか、何を言おうとしていたのか、みほの頭の中から言葉が消え、代わりに()()の言葉が浸透する。

 

「西住さん……話がある」

 

冷泉麻子。

四号戦車の操縦手にして、敏腕を誇る天才。

普段はずっと眠たげで、ぼんやりとしている彼女の眼が、此方を向く。

凛々しく、一つの火を灯して。

 

それが異変ではないにしろ、異常だと真っ先に感じ取ったのは長い付き合いのある幼馴染だった。

 

「ま、麻子…どしたの?」

「大事な話だ」

 

僅かに首を傾げた沙織に、麻子は端的に答えた。

そして沙織から少し遅れて、みほ達も麻子の変化を感じ取った。

 

麻子は寝る子と書いてネコと読むくらいに、常に眠たそうにしている。

実際彼女の一日を観察してみれば、そこまでぐうたらしているわけではないのだが、何分彼女は典型的な夜行性の人間で、快活な姿は夜しか拝めず、その機会が滅多に無いことから、そういうイメージが付いてしまっているのである。

 

だからおそらく冷泉麻子の印象は、良く言えば穏か、悪く言えば緩慢、そんな所だろう。

 

けれど今の麻子は、そのイメージに全く当てはまらない姿形をしていた。

気が張っているわけでも、ピリピリしているわけでもない。

ただ凛然と、何ひとつ澱むもののない澄んだ雰囲気を纏っている。

 

「麻子さん……?」

 

今目の前にいるのが本当に冷泉麻子なのか。

確信を持てなくなったみほは、彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。

そして冷泉麻子は、真っ直ぐにみほの目を見て言った。

 

 

「私は、厳しいと思う」

 

 

心臓を貫かれたような衝撃が、みほを襲った。

何が、と言葉を返すこともできない程、正確に急所を射貫いた麻子の言葉だった。

 

呆然とするみほと、麻子の視線が交差する。

時間にすれば本当に僅かな間だったが、しかしみほは麻子が自分の心の内を透かして見ている事を悟った。

 

「ちょ、ちょっと麻子、いきなり何の話?」

「さっきの作戦の話だ。沙織も聞いてただろ」

「そりゃ聞いてたけど……」

「砲撃指示と部隊運用、その両方を西住さんがやるのは、西住さんにかかる負担が大きすぎる。他の相手ならまだしも、プラウダ高校が相手となるとどちらも100%の力で当たらないといけないはずだ」

 

麻子は言う、それは右手で絵を描きながら、左手で文章を書くようなものだと。

 

人間はどうしたって二つの事を同時にはできない。

あるいはできたとしても、本来なら到達できたレベルより下回る。

一つずつなら綺麗な絵と洗練された文章を出せるとしても、同時にやれば拙いものになるだろう。

 

「西住さんの力が足りないんじゃない。そもそも人間は、そういう風にできていない。一人でできる事には限界があるように作られてるんだ」

 

だから、と麻子は続けた。

二つを成り立たせないといけないみほの作戦は、おそらくどちらかが躓く、と。

そしてそうなった時、大洗女子学園はプラウダ包囲網の中で戦うことはできても、突破には至らないだろう、と。

 

麻子の話を聞き、みほは内心で嘆息した。

麻子は学年で一番の成績を取る頭脳明晰の才女だが、どうやら戦車道の世界でも正しい答えを見つける名人のようだった。

 

「………確かに、麻子さんの言う通りかも」

 

困ったようにみほは薄く笑った。

自身の不安を的確に言語化されてしまったから、ではない。

自分は仲間に心配されるほど強張った顔をしていのか、とみほは思ったのだ。

隊長としてあんまり情けない姿は見せたくないと思っていただけに、みほは少し自分が恨めしい。

 

「お兄ちゃんはできたんだけどね」

「渡里さんは例外だ。あの人は戦車道に限って言えば、人間じゃない」

 

兄、教え子から人外認定。

麻子のあんまりな言い方に、みほは思わず笑ってしまった。

その時みほは気づかなかったが、そうやって笑う事でようやく彼女の身体は弛緩することができた。

 

確かにそうだ。

あの人は本当の化物。戦車道の怪物。遥か高みを征く天才だ。

男性でありながらあの人の内に秘める戦車道の才は、常人のそれを容易く超える。

()()()天才も、あの人の前ではあっけなく霞んでいく、そんな規格外だ。

 

講師として生徒を教え導く神栖渡里しか知らない人は、多分それほどとは思わないだろう。

正しく理解しているのは、あの人が戦車に乗って戦っていた姿を見たことのある者だけ、戦う人としてのあの人を知っている者だけだ。

その姿が、一番カッコイイ兄の姿なのだ。

 

(………あれ?)

 

ふと、みほは違和感を覚えた。

それは思考が浮かび上がらせた、現実世界の陰影のようなものだった。

 

なぜ麻子は、神栖渡里が怪物であることを知っている?

 

「………麻子、さん?」

「―――渡里さん(化物)みたいには、人間はなれない。けれど人間だからって、渡里さん(化物)のやる事ができないわけじゃない」

 

人は怪物になれないけれど。

怪物のように戦う事はできる。

 

「一人じゃできないことは、()()でやればいい。一人じゃ渡里さんに追いつけないなら、二人で追いつけばいい」

 

みほの瞳が揺れる。

それとは対照的に、麻子の瞳は凪いだ水面のようで。

みほはその眼を知っていた。

 

何度も何度も見てきて、記憶に焼き付いた眼。

何よりも、誰よりも惹かれた眼。

 

「―――――部隊の指揮を任せろ。私が、西住さんの負担を半分持つ」

 

神栖渡里と同じ、眼。

 

 

 

 

 

時間は遡り、合宿期間中。

冷泉麻子は「お前には足りないものがある」という神栖渡里の言葉に対する自分なりの答えを見つけていた。

それは多くの時間を消費した末のものではなく、『天才』という称号が相応しい程のごく短時間で見つけ出されたものだった。

 

神栖渡里に渡された(押し付けられたとも言う)本を小脇に抱え、麻子はある場所へと向かっていた。

その間も、思考は続いていた。

 

要するに『何が足りないか』で考えるから迷うのだ。

考え方を変えて、『何ができないか』とすればいい。

 

戦車道において冷泉麻子にできない事は何か。

操縦手という枠の中で考えた時、それはとても少ない。

 

戦車の操縦は、客観的に見て及第点以上だろう。

麻子は戦車道歴こそ浅いが、操縦の上達には必ずしも経験値を必要としない事を証明していると言ってもいいほどに操縦の腕は熟達している。

手足のように操る、というのがどういうレベルのものを指すのかは分からないが、それに近しい所にはいるだろう。

 

だけれど操縦手とは、それだけでいいのか。

好きな所に、好きな軌道で、好きな速度で戦車を持っていくことができる。

車長の指示通りに。

操縦手に求められる役割とは、それだけなのか。

 

いや、違う。

操縦手の役割が本当にそれだけなら、あの人(渡里さん)があんなことを言うはずがない。

何かあるのだ。操縦技術以外に必要なものが。

 

しかし麻子にはそれが分からない。

神栖渡里が求めているものが。

自分に欠けているものが。

 

――――――でも。

 

いま自分がしなくちゃいけないと思うことは、あった。

だから麻子は、それを答えとした。

そしてそれを伝えるために、神栖渡里を訪れたのだ。

自分のお昼寝スポットに今日も居座る、神栖渡里を。

 

 

「西住さんと同じくらいの戦術眼が欲しい」

「……………」

 

 

麻子の言葉に、彼は少し驚いたようだった。

理由は分からなかったが、何となく彼の想像とは違った言葉だったのだろうと麻子は思った。

 

秒針が5回動くほどの沈黙があった後、渡里は一言「ふーん」とだけ呟いた。

しかし彼の眼は未だに麻子を捉えていたので、麻子は自分が更なる発言を促されているのだと考えて、言葉を紡いだ。

 

「私は多分、西住さんの言う事を正確に理解できる。西住さんが思い描いた戦車の動かし方を、西住さんの言葉から理解して、その通りに動かすことができる」

「そうだろうな」

 

そっけないと思うほどの渡里の相槌だったが、気にした様子もなく麻子は続ける。

 

「けど、私は西住さんが言ってくれないと何も分からない。西住さんの言葉がないと、どこに行ったらいいかわからなくなる」

 

麻子はみほがくれる「1」を「10」にすることはできる。

みほの言葉をきっかけにして、そこから多くのものを考えることができる。

けれど「0」を「1」にすることはできない。

 

なぜならそれは、

 

「――――――私は、戦車道に詳しくないから」

 

麻子が、戦車道を始めて数か月の人間だからである。

 

これは当然の話だ。

人は誰しも、言われたことはある程度できるのだ。

例えそれが、全く経験も知識もないことでも。

けれど自分で考えて行動に移すというのは、経験と知識がないと絶対にできない。

人は知らない事は、できないから。

 

今まで麻子にとって戦車の操縦とは、()()()()()()()()()ものだった。

でもそれじゃダメだと気づいたから、麻子は一つ先の領域に進まないといけない。

 

そのために麻子は、今よりもっと戦車道を知らなくてはいけない。

西住みほが見ている景色を、麻子もまた見なくちゃならない。

 

(操縦手)は多分、西住さん(車長)がいなくても大丈夫じゃないとダメなんだ」

 

車長がいなくても、寧ろその代わりができるくらいに。

操縦手は、戦車の中で車長の次に強い存在でなければならないのだ。

 

麻子の言葉(答え)を、渡里は咀嚼しているようだ。

やがて彼は、肩を竦めてうっすらと笑みを滲ませながら言った。

 

「…………頭が良過ぎると、教える側も物足りないんだな」

「え」

「大正解だ、冷泉」

 

彼はポンポンと、自分のすぐ横の芝生を叩いた。

どうやら座れ、ということらしかったので、麻子は大人しく彼の隣に腰を下ろした。

 

「お前の言う通りだよ。操縦手は車長とは別の意味で戦車の命運を握る存在だ。そんな奴が戦車道詳しくありません、は絶対に許されない。時には車長とまったく別の道を示すのが操縦手の役割だと俺は思う」

 

彼は麻子の抱えていた本を寄越すようにジェスチャーした。

そうして担い手の変わった本は、麻子の手よりも二回りも大きい手の中で弄ばれることとなる。

 

「この本にも書いてただろ。初めから車長になる人間はいない。皆車長以外の役職から始まって、優秀な奴から車長へと昇格する……それが一番多いのは、操縦手だって」

 

それは操縦手が事実上のNo.2である事の証左だった。

 

「だからお前の方向性は間違ってない。というか余りにも正解すぎて、教えてる俺からすればもう少し悩めよ間違えよと思うくらいだ」

「それはどうなんだ……」

 

それでいいのか教育者、と麻子は心の中で呟いた。

まぁ冗談だろうけど。

 

「ただ……みほと同じくらいってのは、考えてなかった。俺は精々、みほに言われてない事でもできるくらいでいいと思ってたからな。みほの力になってもらうためには、最低でもそれくらいは、って」

 

渡里の瞳が、麻子を覗き込む。

黒い瞳が、不意に剣呑な光を灯したのを麻子は感じ取った。

彼が真剣な話をしようとしているのだと、そう理解する。

 

「なぁ冷泉。みほは、生まれた瞬間から戦車道と共にあった。今はどう思ってるか知らないが、以前のアイツは、戦車道は傍にあるのが当然のもので、一生離れないものなんだと()()()()()()()思ってた。これがどういうことかわかるか?」

 

麻子は直ぐに言葉を返さなかった。

というのも、彼が返事を求めているように感じなかったのである。

そして瞬き一つ分の間を置いて、彼は言葉を続けた。

 

「戦車道に掛けてきた時間が違い過ぎるんだ。日本に戦車乗りが何人いるか知らないが、高校生でみほより長く戦車道をやってきたのは一人だけ。同じように西住流に生まれた、みほの姉だけだ」

 

麻子は『西住みほと同じくらいの戦術眼を持つ』という自身の目標が、現在地からどれだけ離れているかを漠然と理解した。

それは神栖渡里の次の言葉によって、より具体性を増すことになる。

 

「17年。それが、アイツが戦車道に掛けてきた時間だ。まだ戦車道を始めて二か月もないお前が、そこに行くって言ってるんだぜ」

 

神栖渡里の表情は、笑顔だった。

ただ戦車道以外の時に見せるような、柔らかなものではない。

挑戦的で、獣のような、獰猛な笑み。

戦車道を甘く見ているのか、とでも言うような圧がそこにはあった。

 

17年。

決して、軽い数字ではないと麻子は思った。

一つの道にそれだけの時間を費やしたことは、終ぞない。

どころかその半分の時間さえも掛けたものはないだろう。

読書は幼き頃より嗜んでいるものの、それはあくまで趣味の範囲。

血と情熱を注いできたかと言われれば、それは否だ。

 

大会までは残り二月程。

17年と比較すれば、それはほんの僅かな時間だ。

 

「やるって言うなら力になるよ。今日から大会まで、俺が培ってきた戦車道の全てをお前に教えて、今とはまるで違う景色を見せてやる」

 

そこで途端に、彼の雰囲気は変わった。

肌を撫でていた冷たい気は消え、春風のように穏やかなものへと変化する。

そしてとても柔らかな口調で、彼は言った。

 

「けれど妥協できるなら、妥協してくれ。お前はそれでも、大した操縦手だ」

 

麻子には知る由もないことだったが、この神栖渡里の言葉はいつかの日、五十鈴華に向けて放たれたものと同様のものだった。

 

神栖渡里は、向けられた熱量に対して等しい熱量を変えす性質ではない。

寧ろその逆。自身の熱量に等しいものを、相手にも要求する性質である。

つまり「俺がこれくらいやるんだから、お前らもそうしろ」と当然のように思うタイプなわけだが、これが発露することは、実はあんまりなかった。

彼自身、それが時に相手を壊してしまう可能性があるという事をしっかりと認識しており、加えてギリギリを攻める力加減を心得ていたからである。

 

その結果、大洗女子学園は五体満足で今なお健在なわけだが、時々この力加減は狂うことがある。

それが、彼が引いておいた線を、相手が踏み越えようとしてきた時である。

 

五十鈴華が正にそうであった。

現状維持でも十分優秀な砲手になれるところを、日本一の砲手になるために、神栖渡里に更なる力を求めた。

血が滲むような努力も痛みも厭わず、ひたすらに前進しようとした。

 

神栖渡里はそれに応え、自身の全力を以て五十鈴に相対している。

彼は、五十鈴が壊れそうになっても止まらないだろう。

「お前が止まらないと言ったんだから」と言って、容赦なく五十鈴を鍛える。

彼女が燃え尽きてしまうほどの熱量を、彼女に注ぎ続ける。

 

それが危険と分かっているから、神栖渡里は五十鈴に選択肢を与えた。

お前にそんな顔をされたら手加減ができなくなるから、と彼女に安全な道を用意した。

その上で選べ、と言って。

 

そして今、麻子にも同じことをしている。

 

麻子は当然、そんな神栖渡里の配慮を知らない。

言葉の裏に秘められた思い遣りに、気づくはずもない。

 

ただ一つ、感じるものはあった。

これは、彼の優しさだ。

 

神栖渡里は鬼のように厳しい人だけれど、厳しいだけの人じゃない。

彼にとっては厳しさと優しさは、一枚のコインの裏表。

厳しさの裏には優しさがあって、優しさの裏には厳しさがある。

 

きっと、麻子の行こうとしている道は険しいものなのだろう。

自分一人ではたどり着けず、彼の手を借りてようやく開く道。

けれど彼の敷く道は茨の道。

無傷で通れるなんていうのはあり得ない。

 

なら、彼の言う通り妥協するか?

()()()求めるレベルじゃなく、()()求めるレベルに留める。

それだけでも十分だと、彼は言っているのだ。彼が言う以上は、皆許してくれるだろう。

 

「……もし」

 

―――――でも。

例え誰が許してくれても。

この世界には一人だけ、麻子を許してくれない奴がいる。

静かに、麻子は()()()を納得させるための言葉を放った。

 

 

「もし私の上に乗っているのが西住さんじゃなかったら、私は今のままで良かったか?」

 

 

麻子の言葉に、渡里は少しの間を置いて、ゆっくりと首を縦に振った。

たったそれだけのやり取り。

時間にすれば10秒もない僅かな間で、麻子の心は決まった。

 

結局は、そういうこと。

メリット・デメリット、損得、理屈感情、全部ひっくるめて。

()()が納得できるかどうか。

 

神栖渡里の厳しさも優しさも、関係なく。

麻子は、自分で決めた道を行く。

 

「だったら、私は止まるわけにはいかない。これからどれだけ西住さんと一緒に戦車道をするのかは分からないけど、今一緒に戦う仲間なのは確かだ。私は、西住さんを独りにしたくない」

 

独りは、寂しい。

麻子は痛いくらいに、それを知っている。

きっと西住さんもそう。特に彼女は、寂しくても笑って誤魔化せてしまえる人だから。

一緒にいてほしい、という言葉も飲み込んでしまう。

 

―――――――だから。

 

麻子は真っ直ぐに、黒い瞳を見つめた。

そこには幼馴染に無理やり起こされそうになって、全力で反抗している時のような、意固地な顔が映っている。

 

 

「勉強は嫌いだけど得意だ。17年でも100年でも、追いついてみせる」

 

 

 

 

 

 

 

 

「隊長車から各車へ!これより作戦通り、指揮を分割します!部隊の指揮は冷泉麻子、砲撃指示は西住みほが取ります!通信手の皆さん、二人の指示を切り分けて乗員に伝えてください!落ち着いてでいいので、正確に!!」

 

沙織の声が飛んでいく。

四号戦車から放たれたその通信をキッカケとして、大洗女子学園全員に僅かな緊張が走る。

今まで西住みほという一人の人間が統括していた指揮体系が、突如として分離するのだ。

練習なんかしてきていない、完全なぶっつけ本番。

統一された動き、どころかまともに戦えるかすらも分からない。

 

けれどそこまでしなければ、この包囲網は抜けられない。

全員がそれを理解し、そして覚悟を決めた。

大洗女子学園の命運を、二人の()()に託すと。

 

「―――――……」

 

じぃ、とみほは戦場を見つめた。

既にみほの頭の中には、一列に連なり一匹の蛇と化した部隊をどう動かしていくか、という考えはなかった。

 

あったのは、どこに矢を放つか。

プラウダの陣形と人員の配置。それらを鑑みて、どこにどういう風に砲撃を加えていけば陣形が崩せるか、であった。

 

(隊長車周りは多少じゃ乱れない。狙うなら、IS-2がいた部分か、隊長車から最も離れた所にいる戦車)

 

そして一瞬の思案の後、みほは第一射を放つポイントを定めた。

後は機を見て、指示を出すだけ。

そこからは余計な事は一つも考えられない、怒涛の展開が幕を開けるだろう。

 

(………)

 

みほは一時(ひととき)、思考のベクトルを変えた。

自分が見るべきものではないと分かっていたが、それでもみほは()()()()してしまった。

もし自分ならどういう風に部隊を動かすか、と。

それは車長として、そして隊長として長く戦場に身を置いてきたが故の、一種の癖のようなものだった。

 

雪上に道が浮かぶ。

それは今だけ見える、大洗女子学園が通るべき(ルート)

砲撃指示と同時でなければ、みほはこうやって行くべき道を照らすことができる。

 

けれどここから一手先は、闇の中。

輝く道は、プツリと途切れている。

 

(………)

 

それ自体は問題じゃない。

大事なのは、今こうしてみほが見ている道を、冷泉麻子もまた見ることができているのかということ。

 

部隊指揮を操縦手に一任するというのは、暴挙である。

大前提として、チームを動かす人間は一人でなくてはならない。

一つの身体(コントローラー)を一人の人間が動かすのは簡単だ。

けど二人で動かすと考えたら?一方は右手、一方は左手でコントローラーを握り、ゲームをプレイしろと言われたら?

 

そんなのできるわけがない。

小学生でもわかる事だ。

けれどみほと麻子は、今からそれをやる。

 

肝要なのは、今目の前の状況に対する最善が見えているかどうか。

たった一つしかないベストを見抜ければ、みほと麻子は()()()()という意識もなく同調することができる。

二人で一つの身体を自在に操ることができるだろう。

 

 

―――――――できる?

 

 

みほの心に、一抹の迷いが生じる。

もしこれがみほと麻子のペアでなく、みほと兄のペアだったなら。

その時みほは、何の迷いもなく「できる」と答えただろう。

みほは兄の戦車道の実力を誰よりも知っているからこそ、自分が辿り着く答えには、兄もきっと辿り着くと断言できる。

 

けれど麻子は違う

兄はみほと同じく部隊を指揮する者としての資質が最も高い戦車乗りだが、麻子は操縦手。みほとはそもそもタイプが異なる。思考の仕方も方向性も、きっと全然違うだろう。

 

それでも同じ所に行き着くことができるか。

 

 

――――――――信じろ、みほ。

 

 

声が、迷いを断ち切った。

 

それは、ここにはいないはずの彼の声。

紛れもない、みほの幻聴。

しかしみほに前を向かせる、確かな声だった。

 

麻子が振り向く。

その瞳には、一つの迷いもない。

あぁ、と内心でみほは嘆息した。

 

眼を閉じる。

この作戦に必要なのは、信頼。

きっとついてきてくれるはずと、仲間を信じる心。

 

眼を開ける。

もう、迷いはない。

みほは、()()()()()()()()を放った。

 

「――――――本気で行くよ、麻子さん」

「――――――上等だ」

 

二人は笑った。

一息、

 

「か、加速します!!」

 

麻子がトップギアを叩きつけるように入れ、四号戦車が一気に加速する。

その緩急たるや、沙織が一瞬前にフォローの無線を飛ばしていなければ、後続は間違いなく引きちぎられていただろう。

 

しかし麻子はそんなことに気を払うつもりはない。

言葉で理解するよりも、肌で感じろと言わんばかりの疾走を披露する。

 

それもそのはず。

麻子の頭の中には、既に後続の事など頭にはない。

部隊運用と言っても、大洗女子学園は先頭を走る四号戦車と、それに追随する他の戦車が一列を為す図式だ。指示なんて極論、「ついてこい」だけで構わない。

だから彼女の中に在るのは、事前に記憶したプラウダ高校の配置。

眼に映るのは、刻一刻と変化する戦場。

 

それらを併せた時に浮かび上がる、勝利への道。

それを忠実になぞることしか、麻子の頭にはない。

 

「砲塔右に30度!!用意―――――」

 

そしてみほもまた、無心となる。

余計な雑念はとうに消え、彼女の眼は穿つべきプラウダ包囲網の穴へと向けられている。

麻子がどういう道を選んでいくのか、なんて考えない。

戦車はきっと、その時その時の最善な位置にある。ならみほは、()()()()逆算して狙点を決めていく。

 

「撃て!!」

 

一列になった戦車の群れから放たれる砲弾が、包囲網を襲う。

しかし堅牢な装甲を持つプラウダ高校は、たかだが一射程度では小揺るぎもしない。

 

だからどうした?

みほは次弾を放つポイントを指示し、麻子もまた操縦桿を動かす。

大洗女子学園の進む姿にも、乱れ無し。

 

「随分威勢がいいじゃない……!」

 

小さな巨人は、好戦的な笑みを浮かべて大洗女子学園を見据える。

どうやら本気で、この包囲の中で生き残れると思っているらしい。

ならばすぐにわからせてやる、と繰り出す指示は迅速にして的確。

大洗女子学園が空けた穴は、たちまち埋まっていく。

 

状況は膠着した。

戦場は穴を穿つ大洗女子学園と、それを塞ぐプラウダ高校という図式に固定され、延々とそれが繰り返されていく。

 

そうなると有利なのは、プラウダ高校である。

彼女達からすれば、無理に攻め立てる必要もない。

極論、防御に徹していれば、大洗女子学園は衰弱し勝手に果てる。

相手が、自ら首を差し出してくれるのだから、これほど楽な戦いもない。

 

しかし大洗女子学園は、否。

西住みほは、この不利な状況で、笑みを深めた。

 

時間を経る毎に。

指示を出す度に。

みほの中に、歓喜の感情が沸き上がっていたのだ。

 

それは言うなら、対等の存在がいる事の喜び。

どこまで全力で駆け抜けても、どれだけ高く飛ぼうとも、決して離れずについてきてくれる。

自分は独りではないのだと、そう実感させてくれる存在がいることの、なんと嬉しいことか。

 

勿論今までそう思わせてくれる人たちと出会ったことがないわけじゃない。

兄やケイ、ダージリン、アンチョビ、自分と同じかそれ以上の高みに在る戦車乗りをみほは知っている。

けれど隣にいて、一緒に戦ってくれる人は、麻子が初めてだった。

 

喜びに比例して、みほの指揮は鋭さを増す。

しかしピッタリと、麻子の指揮も追い縋る。

 

合宿以前の麻子なら、当然こんな芸当はできなかった。

戦術も戦略も、何もかも知らないままの操縦手なら、きっとみほに振り切られていただろう。

 

けれど今は違う。

麻子の中には、神栖渡里の血脈が流れている。

あくなき努力(勉強)と、あくなき勝負(模擬戦)

神栖渡里から知識を授かり、神栖渡里から実戦経験を得たその先で。

 

麻子は手にした。

遥かなる高みを征く、不敗の戦車道。

その一端を。

 

今の麻子には、はっきりと見える。

堅牢に思えたプラウダ高校に、僅かに生じつつある穴。

西住みほが少しずつ穿ち、作り上げた隙。

希望の風が吹き込む、たった一つの突破口。

 

彼女の意図を、麻子は理解できている。

 

『く、流石にプラウダ高校……』

『守りが硬い……!』

 

しかし俄かに、大洗女子学園の間には動揺が広まりつつあった。

攻めても攻めても崩れない相手というのは、それだけで大きなプレッシャーだ。

麻子とみほには綻びが見えているが、それ以外の者には難攻不落の城塞のように見えているのだろう。

 

加えて、

 

『に、西住!!まだか!?此方はもう―――――っ!?』

『うるさい河嶋。大丈夫だよ、西住ちゃん。まだまだこっちは――――っと!』

 

ある意味でみほ達よりも困難な道を行っていたカメさんチームが、本気を出し始めた全国一、二を争う魔弾の射手の足止めに限界を感じ始めていたのである。

 

無理もない。

元々実力差は明白。

カメさん、特に角谷が勝ちを捨てて全身全霊を足止めに費やしているからこそ成り立った拮抗だ。

真の意味で互角ではないのだから、崩れるのもまた早い。

 

角谷は言うが、大洗女子学園一同は魔弾の射手の到来を予知する。

間もなく、ブリザードがやって来る。

 

動揺は更に大きくなる。

それを肌で感じながら、みほは危機を悟った

士気が下がるのはマズい。

前へと進む勢いが減衰すれば、この包囲網は破れない。

 

ここは隊長の出番だ、とみほは息を吸い込んだ。

弁舌と行動を以て仲間を奮い立たせる、その役目を果たす時は今だろう。

 

一息、言葉を放つ………その一瞬前。

 

 

「―――――ひるむな!!」

 

 

みほとは違う鋭い声が、雷のように響き渡った。

動揺は霧散し、代わりに目を剥く驚愕が訪れる。

 

みほも、沙織も、華も、誰も彼も。

きっと目を丸くしていた。

だって、初めて見る。

 

 

「余計なことは考えるな!全員、目の前の戦車の後を追う事だけに全神経を注げ!」

 

 

――――冷泉麻子が、大声で叫ぶ所なんて。

 

 

「そうすれば――――――」

 

操縦桿を握る麻子の細腕が唸りを上げ、ぐいん、と四号戦車が曲がる。

決して緩やかではない、乗員ごと振り回すような急激なターン。

それが断続的に行われる。

味方でさえ油断すれば振り落とされそうな制動だ。

尚更、プラウダ高校では捉えきれない。

 

カチューシャの支配力を、麻子の操縦技術が凌駕し始めていた。

 

 

「―――――私が、全員無傷で連れてってやる」

 

 

火が灯る。

あぁ、とみほは嘆息した。

いつもは自分がその役目だから、初めて見た。

 

自らを薪として戦人(いくさびと)の火を盛らせる、将の器を。

 

麻子の小さな背中が大きく見える。

きっと、この頼もしさを皆感じているはずだ。

目に見えずとも、戦車を越えて彼女から溢れ出す闘志を肌で感じて。

 

(――――――――行ける)

 

みほは予兆を感じ取る。

プラウダの包囲が緩み、突破の隙が確実に生まれつつある。

 

おそらくカチューシャには麻子の行く先が見えているんだろうが、他の選手は違う。

彼女たちはカチューシャから降りてくる指示を全うしているだけで、麻子の動きについてこれているわけではない。

今まではそれでも十分通用したのだろうが、今回は違う。

 

こっちは二人がかりだ。一つの頭と一つの身体では、いくらカチューシャでも半歩遅れる。

だからノンナの存在が大きく、だからカメさんチームが足止めしてくれている意味は大きい。

 

「砲撃を集中させてください!!―――――撃て!!」

 

放たれる一斉砲撃。

コンマ数秒以下の、ほぼ同時と言ってもいいタイミングで束ねられた砲撃は、プラウダの包囲網に穴を空ける。

 

「―――――――ッ!!」

 

そして此方は完全に同時。

およそ一人の人間がコントローラーで動かしているのではないかと言うほどのタイミングで、麻子がみほの穿った穴に飛び込む。

 

「させな――――――――!?」

 

指示を飛ばそうとしたカチューシャに、横合いから突如砲弾が浴びせされる。

無礼に、無粋に、差し込まれた一撃。

下手人は誰か。

カチューシャの目は、すぐにソレを捉える。

 

ボロボロで、所々黒煙を吐きながら、それでも威風堂々と立つカメのマークを。

 

「させないのは、こっちもだよ。カチューシャ」

 

ニヤリと不敵に笑う、赤髪の少女を。

 

「こ、の……ちっこい戦車風情で!!」

 

ここまでが計算か、とカチューシャは歯噛みした。

IS-2との一対一(ノンナへの妨害)は、あくまで主戦力部隊が包囲の中で戦っている間だけ。

包囲突破のキッカケを掴んだなら、次はその妨げになるカチューシャの邪魔をする。

カチューシャからすれば小蠅にたかられるようなもの。実害はないが、しかし集中力と思考が削がれる。

 

そんな小さな事でも、みほ達からすれば値千金の活躍。

 

「ノンナ!!」

 

そして最後の活躍でもあった。

カチューシャに向かう為に、カメさんチームはIS-2に背を向けた。

それが意味するところは、明白。

 

「……ふぅ」

 

角谷は予感する。

数秒後の未来を。

背中を貫かれ、雪原の上に散る結末を。

 

けれど恐れも、悔しさも、微塵もない。

寧ろ角谷は、晴れやかな気分でさえあった。

 

なぜなら、

 

「――――――私達はここまで!後は頼んだよ、西住ちゃん!」

 

為すべき事を為した。

角谷達はここでプラウダに討たれるが、しかしこれは負けじゃない。

 

角谷の視線の先。

そこには傷一つなくプラウダの包囲網を脱した、大洗女子学園の背中がある。

 

彼女たちは、この籠の中から飛び立った。

それこそが、角谷の勝利だ。

 

「あー、疲れた」

 

背もたれに身体を預け、角谷は全ての力を抜いた。

目も閉じた今、お疲れ様です、という部下たちの言葉だけが角谷の中にあった。

 

『大洗女子学園、38t走行不能!』

 

今大会、大洗女子学園で初めての脱落者を告げるアナウンス。

それを背で受けながら、それでも大洗女子学園は前を向いていた。

 

振り返ることは、彼女たちの為にならないと知っていたから。

 

 

「作戦を第二段階に移行します!!」

 

 

誰が落ちても、時間の針は止まらない。

みほは包囲網の突破を喜ぶ間もなく、次の指示を繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第43話 「プラウダと戦いましょう⑦ ラスト・ダンス」

史上最多25000字でお送りするプラウダ戦最終回。

書きたいこと全部書いたら収集がつかなくなったので、二度とこんなことはしないと誓いました。


拙作ですが楽しんでいってください。





包囲を脱した大洗女子学園は、迅速に次の行動に移った。

 

説明するまでもなく、この時点で大洗女子学園の勝ち筋は一つしか残っていない。

つまりフラッグ車一点狙い。

他の戦車は見向きもせず、勝利条件であるフラッグ車だけを追う。

 

既にカメさんチームを失い、ただでさえ大きかった戦力差はより大きくなった。

時間は大洗女子学園に味方せず、可及的速やかに試合を決着させなければならない。

そういったみほの意志は、チーム全体に行き渡っている。

故にみほの作戦を、全員が迷いなく遂行するだろう。

 

「アヒルさん、ウサギさん、カモさん、後は頼みました!!」

 

二つに分かれた大洗女子学園。

その内訳はあんこうとカバの二両チーム、アヒル、ウサギ、カモの三両チーム。

戦車の特性を見れば、どういう道理で分けられたかは明白。

 

すなわちプラウダに通用する火力を持つ二両、四号戦車と三号突撃砲がフラッグ車を叩く本命。

もう一方は、本命から目を逸らすための囮である。

 

本来フラッグ車は前線に出すべきではない、というのが戦車道の鉄則である。

みほはそれを承知の上でフラッグ車の戦闘参加を止む無しとしていたが、それでも積極的に被弾の可能性が高い場所へは行かせなかった。

 

しかし今回は違う。

みほは明確な理由を以て、フラッグ車を敵前に晒すことを決意していた。

 

それは、カチューシャの目を逸らすためには何が必要か、というのを考えたからである。

 

この作戦は、はっきりとした弱点がある。

それはフラッグ車を狙うあんこうとカバ、そちらにプラウダの全戦力を投入された場合、それだけで詰むということである。

 

というよりは、普通それが定石だ。

例えばこれが兄であれば、何の迷いもなくみほ達を刈り取りに来る。

もはや大洗女子学園の勝ち筋はソレだけ。ならばそこさえ潰してしまえば、と合理的な思考で冷酷なまでに勝利を取りに来るだろう。

 

けれどカチューシャならば、とみほは考えた。

緻密な計算もできる戦術家、けれど同時に激情も内心に秘めている。

氷のように冷たい思考と、焔のように熱い本能。

その両方を併せ持つのが彼女。

 

そんな彼女の前にフラッグ車を泳がせる。

果たして無視できるだろうか。

 

理性は放っておけ、と言うだろう。

しかし本能は?

こう言うんじゃないか?―――西()()に踊らされていいのか、と。

 

カチューシャの激情の裏にある想い。

それが自分への対抗心のようなものであることを、みほはこの試合を通して読み取っていた。

どういう類の感情かまでは分からない。

けれどそれが、カチューシャにとって小さなものではないことは理解できた。

 

なら、それを利用しない手はない。

 

存分に煽れ。

心をかき乱せ。

均衡を崩して隙を作れ。

 

そう、これはカチューシャの心を狙い撃つ一手。

彼女だけに向けて放たれる、混迷の一矢。

 

与えられた選択肢は二つ。

カチューシャはいずれを選ぶか。

完全な正解は一つだけ。

それをカチューシャが違えた瞬間、大洗女子学園に光明が差す。

 

(偶にはこういうのもいいかも)

 

分の悪い賭けだ。

けどそれも良し、とみほは思った。

 

兄も、こういうのが好きだろうから。

きっと楽しんでみているはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

一方でプラウダ高校は、みほの思惑通り決断を強いられていた。

包囲を突破された時点で、カチューシャの指揮により追撃の体勢が整ってはいたが、問題は指針であった。

 

「カチューシャ、ここは一時フラッグ車の守りに専念すべきかと」

「………」

 

ノンナの声はカチューシャに届いていたが、返ってくる声はなかった。

小さな暴君は、ただ前だけを見つめている。

 

「状況は圧倒的に此方が有利です。大洗女子学園の勝ち筋はもはや一つ、此方のフラッグ車を倒すことだけ。そこさえ防いでしまえば、後は時間が我々に味方します」

 

しかしノンナは言葉を止めなかった。

それは彼女が、カチューシャの心の行き先を感じ取っていたからであった。

 

「………全車、相手のフラッグ車を追うわよ」

「カチューシャ!」

 

青い瞳が、ゆっくりと此方を射貫いた。

たったそれだけのことで、ノンナの身体は委縮した。

自分よりも数段低い身長、小さな体躯。

だというのに放たれる圧力は、膝から下を折ってしまいそうなほどに重い。

 

「……どうかお考え直しを。これは大洗の隊長の挑発です」

 

僅かに汗を滲ませながら、ノンナは声を絞り出した。

 

分かっていた。

カチューシャは、きっとその道を選ぶだろうと。

なぜなら彼女の相手は、大洗女子学園じゃない。

初めから彼女の眼に映るのは、西()()()()という一人の戦車乗りだけ。

 

よりにもよってその彼女に、()()()()()()()()()()()()()

カチューシャがその道を、どうして我が物顔で歩けるだろうか。

 

『私と決着をつけたいなら、私と同じ道を歩くがいい』。 

そんな大洗の隊長の思惑を、知りながらも彼女はその道を往くに決まっている。

 

けれどそれは、本来冒さなくていいはずの危険を冒す行為だ。

このままいけば、プラウダは100%勝利する。

断言してもいい。カチューシャが勝つという未来は、絶対に覆らない。

 

だからノンナは言う。

どうかこのまま、勝利に徹してくれと。

 

「――――それで?」

 

瞳と声が、冷気を纏う。

聞き慣れたはずの声が、やけに普段と違って聞こえる。

 

「挑発?上等じゃない。あっちがそれを望むなら、私はそれを受けて立つわ。どこだろうとなんだろうと、真正面から往って、完膚なきまでに捻じ伏せてやるのよ」

「……カチューシャ。無理に相手の土俵に立たなくても、貴女は勝ちます。そもそも、この状況に相手を陥れた時点で、貴女は勝っているようなものです」

「誰がいつ勝ったというの。相手はまだそこに立っているじゃない」

 

ノンナがカチューシャと意見をぶつかり合わせるのは、何も初めてではない。

寧ろノンナは、積極的に意見を差し出す方だった。

そしてカチューシャもまた、「ノンナが言うなら」とその意見を汲んでくれるのが常だった。

 

けれどこの瞬間、ノンナはいかなる言葉を以てしても、今度だけはカチューシャの意志を曲げることが叶わないことを悟った。

 

「カチューシャ、お願いです。貴女は必ず勝ちます。この私が、何に代えても勝たせてみせます。貴女の誇りも、矜持も、全て守ります。だからどうか……」

 

それでもノンナは、言葉を尽くした。

そうすることしか、彼女にはできなかった。

 

「―――――ノンナ」

 

心に語りかけるような口調。

ノンナはゆっくりと、面を上げた。

 

「―――――それは、誰の為の勝利?」

 

そして一瞬にして、心身共に氷結した。

 

「私の為に勝利を捧げるというなら、なんで私の邪魔をするの。私はね、運よく掴み取った勝利も、相手のミスに付け込んだ勝利も、これっぽっちもいらないの」

 

声が、心身の奥まで浸透していく。

 

「私が求めるのは、完全な勝利。誰にも言わせない、そして何よりこの私が心の底から納得できる、そんな勝利だけが欲しいのよ」

 

およそその発言は、百人に近い戦車乗り達を統べる者としては、あまりにも無責任なものだったかもしれない。

 

『勝利も敗北も、全てはチームで分かち合うもの』。

かつて神栖渡里はそう言ったが、カチューシャの言葉はその正反対を行く。

チームの勝利は、すなわちカチューシャの勝利。

チームの敗北は、すなわちカチューシャの敗北。

チームの意志とは、すなわちカチューシャの意志で()()()()()()()()

 

だからカチューシャは微塵も思わない。

例えば自分の判断が原因で、この試合が最後になってしまう三年生がいたとしても、カチューシャは何の迷いもなく我を通す。

そんなことは知ったことではない。

自分はやりたいようにやるし、行きたい道を行く。

 

それが当然なんだと、カチューシャは本気で思っている。

そしてそれは、彼女の配下もまた同様。

自分達の全てはあの小さな暴君の為にあると、当然のように思っている。

 

そんな信頼関係が、プラウダにはある。

 

「二度と勝利を盗んだなんて言わせないんだから……!!」

 

青い瞳に、炎をが灯る。

既にこの時、カチューシャはノンナを見ていなかった。

 

状況は単純だ。

相手より早く、相手のフラッグ車を倒せばいい。

たったそれだけの事。相手が何をしてこようが、それさえ為せば全ては無意味。

 

だというのに、何を恐れることがあるというのか。

あぁ確かに、敗北の可能性は出てくるだろう。

万が一、いや100分の一くらいの確率で、負けの目が出る状況だ。

 

しかしそれでも、カチューシャは意志を曲げない。

敗北するよりも受け入れ難いモノが、カチューシャにはあるのだ。

 

「………カチューシャ!!」

 

鋭い声が、袖を掴んで歩みを止めた。

振り返り、声の主を見る。

そこには今まで見たことのない表情を浮かべる、右腕の姿があった。

 

「……それでも、()()()にも譲れないものがあります」

 

二つのサファイアの瞳が交錯する。

 

「何があっても貴女に勝利を捧げる。この身がどうなろうと構わない。それほど、貴女に勝ってほしいんです。例え、それで貴女が私たちを恨んだとしても」

「………」

 

腰が折れる。

いつも高い所にある頭が、カチューシャと同じ目線にまで降りてくる。

 

「お願いです。一両でも構いません。フラッグ車の守りを固めてください」

 

少しの沈黙が、場を支配した。

カチューシャがじっとノンナを見つめる間、ノンナは身じろぎ一つしなかった。

雪が容赦なく彼女に降り注ぎ、体温を奪っていっても。

ノンナは本当に、微動だにしなかった。

 

それが覚悟の表れであることを、カチューシャは理解していた。

恐らく自分が何も言わなければ、彼女は試合が終わるまで、ずっとここを動かないだろう。

例えその先に、凍死が待っているとしても、だ。

 

「………」

 

大きく、深く、カチューシャは息を吐いた。

白煙が、雪に混じって天に溶けていく。

それが完全に消えた時、カチューシャはノンナに一瞥もくれることなく命令した。

 

「カーベーたんはこの先の戦いについてこれないでしょうから、フラッグ車の護衛に向かわせなさい。後一両は貴女に任せるわ」

「―――――――カチューシャ」

 

喜色が滲んだ声。

カチューシャはその声を掻き消さんとするように大きな声を出した。

 

 

「貴女に免じて二両だけ折れてあげる!!でもそれ以上はダメだから!!」

「はい……はい……!」

 

 

仕方ない、とカチューシャは腕組みをしながら吐息を零した。

他の誰ならいざ知らず、ノンナがそう言うのだ。

全部受け入れてやるわけにはいかないが、少しくらいなら自分を曲げてやってもいいだろう。

 

カチューシャはこれまで、たった一人でのし上がってきた。

けれども誰の力を借りなかったわけでは、決してないのだから。

 

「それと!交換条件よ!」

 

畳みかけるようにカチューシャは言葉を紡いだ。

これだけは絶対に言っておかなければならなかったのだ。

 

 

「私に勝利を捧げると言ったなら、それを実践しなさい!分かった!?」

 

 

きょとん、とした顔。

カチューシャでも中々記憶にない、ノンナの珍しい顔だった。

 

しかしそれも一瞬の事。

すぐに彼女は、目に見えるくらいの気炎を上げた。

絶対零度の瞳に、焔が灯る。

全国で一、二を争う魔弾の射手は、ここに完全覚醒を果たした。

 

これもまた、比翼。

二つの心があるからこそ高く飛べる、二心同一の飛翔。

 

そして試合は、終わりへと加速していく。

 

 

 

 

 

 

状況を整理しよう。

勝敗を分けるポイントは最早単純。

どちらが先にフラッグ車を撃破するか、である。

 

大洗女子学園からは二両、四号戦車と三号突撃砲。

プラウダ高校からは十両以上、そのどれもが大洗のフラッグ車である八九式を一撃で葬る火力の持ち主たち。

これらが互いのフラッグ車を撃破せんと疾走する。

 

フラッグ車周りの防御は、どちらも薄い。

大洗女子学園はルノーB1bis、M3リーを護衛として付けているが、おそらく肉壁以上の役割はできない。

対しプラウダ高校は現時点でフラッグ車は孤立状態。

護衛として二両の戦車が向かっているが、合流までは暫しの時間を要する。

 

その点だけ見れば大洗女子学園が一歩先んじているように思えるかもしれない。

しかし実際は真逆。

現時点で圧倒的に有利なのは、プラウダ高校の方であった。

 

なぜなら未だフラッグ車の影さえも見つけられていない大洗女子学園に対し、プラウダ高校は既に大洗女子学園のフラッグ車を射程圏内に収めているからである。

 

スピード勝負においてこれは、本当に絶対的なアドバンテージ。

大洗女子学園はまず、この差をどうにかして埋めていく事から始めなければならない。

 

故に初手。

大洗女子学園は当たり前かつ、普通の一手を打った。

 

「ゴモヨ、アヒルさんチームの護衛に回るわよ!後ろにつけなさい!」

「桂利奈、こっちも同じようにアヒルさんの後ろに回って!」

 

後背に砲塔の群れを背負った今、意識を注ぐべきは後ろのみ。

フラッグ車の即死を免れるために、カモさんとウサギさんは弾を防ぐための盾となる。

 

もちろん、盾として優秀というわけではない。

ただでさえ薄い装甲に加え、戦車の急所とも言うべき背面を常に相手に晒した状態での逃避行。

一撃貰えば撃破は免れない。

 

しかし彼女たちは、そうする他ない。

一分、一秒でも時間を稼ぎ、八九式に少しでも長く生きてもらう。

その為に全力を尽くすことだけが、今の彼女たちにできる事だから。

 

「曳光弾、撃て!」

 

放たれた弾の軌跡が、煌々と光る。

それは暗夜を照らす月光となり、大洗女子学園の戦車をスポットライトのように照らし出した。

 

それはこの試合のクライマックスを彩るに相応しい、砲声の大合唱の幕開け。

一息、猛吹雪の如く一撃必倒の砲弾が大洗女子学園を襲った。

 

 

「―――みほ、あっち攻撃され始めたって!」

「あまりモタモタしてられないな。そう長くはもたないぞ」

 

一方でプラウダ高校のフラッグ車撃破の為に疾走するみほ達。

沙織によってもたらされた情報は、僅かな焦燥と緊張を生んだ。

 

そんな中、みほは思考をフル回転させていた。

フラッグ車は何処か、それをみほは読み切らなければならない。

 

(過去の試合の傾向から、お兄ちゃんがフラッグ車の配置を大体三つに絞ってくれてる……そこから先は、私が読まないと……!)

 

神栖渡里は天才的な先読みの持ち主だが、予言者でも予知能力者でもない。

戦場では森羅万象を見通す眼も、盤外では想像力という限界に阻まれて本領を発揮できない。

しかし神栖渡里からすれば、それは大した問題ではなかった。

なぜなら大洗女子学園には、西住みほがいる。

自分の読みを継承し、そして戦場の情報を入力することで読みを完成させてくれる隊長が。

 

みほもみほで、自分で一から十まで読み切る必要がなくなったため大きく負担が減った。

お蔭で最後の詰めだけに、全神経を集中させることができる。

通常よりも、高い精度で戦場を見切れるのだ。

 

とはいえ、もちろん百発百中ではない。

今のみほでは、どれだけやっても十中八九。

何を選んでも、必ずそこには外れる可能性を内包する。

 

「――――――――うん」

「みほ、決まった!?」

 

しかしそれでもみほは一つの答えを選んだ。

沙織の言葉に頷き一つ、指示を飛ばす。

 

「ポイントA23に向かってください!」

「よし――――飛ばすぞ」

 

叩きつけるようにしてギアを上げる麻子。

途端、四号戦車は火の玉となって雪原を駆けていく。

外れるかもしれない、という不安はなかった。

そんなことを考えている隙間がなかったというのもあるが、それ以上に「外してたまるか」という意志が勝っていた。

 

なぜなら今この瞬間にも流れていく一秒一秒は、アヒルさん達が必死で稼いでくれている貴重な刻。

一つだって無駄に消費していいわけがない。

彼女たちの努力を無為にしないために、みほはほんの少しの失敗でさえも拒絶する。

その為に全身全霊を尽くすのだ。

 

「―――――っ」

 

そしてみほの一念が天に届いたのか。

勝利の女神は、ここにきて大洗女子学園にも慈悲を零し始めた。

 

降雪と闇夜。

著しく視界の悪い中、それでもみほの両眼は確とソレを捉えた。

 

「フラッグ車!西住殿の読みが的中しました!」

 

掲げられる、赤い旗。

勝利条件(フラッグ車)を意味する、みほ達の望んだものが目の前にあった。

 

「さすがみほ!バッチリ!」

「ドンピシャ」

 

活気づく乗員。

しかしみほは、砂一粒ほども気を緩めることはなかった。

これでようやく追いついただけ。ここからが本当の勝負なのだ。

 

「華さん!カバさんチーム!砲撃用意!」

 

精度の高い静止射撃は、不可能。

相手のフラッグ車も此方の存在に気づいたのか、快足を飛ばして逃げ始めている。

命中率は下がるが、行進間射撃でいくしかない。

 

二人の砲手が、ハンドルを回して砲身を調整する。

上下左右に揺れる中での砲撃、教科書通りの角度など存在しない。

頼れるのは己の感覚(センス)のみ。

弾道を虚空へと映し出し、想像力だけでそれを修正していく。

 

「撃て!」

 

初撃。

放たれた二つの砲弾は、雪原を抉るだけの結果に終わる。

悔しがる暇は、ない。

装填手たちが弾を配給する間、砲手たちも再び調整を加えていく。

 

そしてみほはその間、結果の考察を進める。

初撃の外れ具合と、華と左衛門左、二人の砲撃技術を鑑みて、相手フラッグ車を仕留めるまではおそらく、かなりの時間を要する。

 

二人の腕が未熟と言うよりは、環境があまりにも悪すぎると言うべきだろう。

視界不良に行進間射撃、そして高機動の戦車。

これほど砲撃にマイナス補正がかかる状況もない。

 

しかしそれでも今は、ひたすらに撃つしかない。

そのうちの一発が、あのフラッグ車に当たることを祈って。

 

「装填完了です!」

「――――――う」

 

て、という声は続かなかった。

 

唐突。

本当に唐突に何の脈絡もなく―――――――雪原が燃えた。

 

「っ!?」

 

みほの視界が赤に染まる。

同時、足元でダイナマイトが爆発したかのような衝撃が、全員を襲った。

砲撃なんて以ての外、操縦手の麻子でさえ急な接地感の消失により車体の制御を失う。

 

「な、なになになに!?」

「至近弾です!!けどこの威力は――――!」

 

くるり、と強制的な超信地旋回を一回行った後、四号戦車は麻子の敏腕により平静を取り戻す。

キューポラから身を乗り出していたみほは、すぐさま爆撃とも言うべき一射の下手人を見つけた。

 

「KV-2……!」

「『街道上の怪物』の異名を取る戦車!」

「ええとKV-2……KV-2……あった!搭載してるのは……152㎜砲!?」

 

ノートを捲っていた沙織が、悲鳴に近い声を上げた。

 

KV-2。

ソ連製の重戦車で、その特徴は何と言っても他の戦車とは隔絶する超威力の152㎜榴弾砲。

その破壊力を簡単に言うなら、()()()()()()()()並みの戦車を打倒し得る。

四号や三突の砲撃を()とするなら、KV-2は()

圧倒的な攻撃範囲と威力を以て多数の相手を薙ぎ払う、制圧兵器とも言うべき戦車である。

 

(ここで来るなんて……)

 

カチューシャがフラッグ車を単独にしておくわけはない。

必ず護衛を送り込んでくると、みほは予想していた。

故にそれまでにフラッグ車を見つける、あわよくば撃破するというのがみほの考えだったが、しかしそれはあの小さな暴君に見透かされていたことを、みほは悟った。

 

KV-2は、教会を包囲している時には見なかった。

それが今、みほ達よりも早くフラッグ車と合流していたということは、おそらくカチューシャはここまでを読んでいた。

みほ達が通るであろうルートに、KV-2を動かしていたのだろう。

 

視界の奥、KV-2の陰にフラッグ車が消えていく。

一秒だって無駄にしたくないというこの状況で、遠ざかるフラッグ車の姿はみほ達に焦りを生んだ。

そして追い打ちをかけるようにして、悪い知らせがやって来る。

 

『大洗女子学園、M3リー走行不能!』

「ウサギさんチームが……!」

 

フラッグ車を守る盾の消失。

それは明確な危機の到来を示していた。

 

 

 

 

『うぅ、すみません!後は頼みます、カモさんチーム!!』

「了解!!」

 

ウサギさんチームが黒煙を吐いて斃れたのは、あまりにも突然の事だった。

八九式の背後にピッタリとくっつき、防御に徹していたところ、飛来した砲弾によってエンジン部を破壊されたのである。

 

相手に一番脆い所を差し出しながらの逃避行ゆえ、覚悟していたことではあった。

だからウサギさんチームも、すぐさまカモさんへと指示を飛ばすことができたのだが、しかし一同には緊張が走っていた。

 

彼我の距離は、決して短くない。長距離と言っても差し支えはないだろう。

そして視界が悪くなる闇夜、加えて降雪。

更に言えば行進間射撃。

 

これだけの悪条件が揃ってなお、ウサギさんチームは的確に急所を射貫かれた。

それも短い時間の間で。

 

射手が誰かは、もはや疑う余地もない。

ブリザードのノンナ。

IS-2という強力戦車を駆る魔弾の射手が、牙を剥いたのである。

 

「………っ」

 

極寒だというのに、そど子は汗を流した。

 

多分これは、理屈じゃない。

本能が、叫んでいる。

 

こっちを見るな。

もっと速く走れ。

何でもいい。何でもいい。何でもいい。

何でもいいから、あの狩人の視線から外れろ。

全身全霊で逃げろ、と。

 

心臓が早鐘のように鼓動する。

息は浅く、背筋は凍り、悲鳴が喉から零れ出ようとする。

 

あぁ、神に命を握られる感覚とは、こういうものか。

ただただ真面目に、模範的な学生であろうと三年間努めてきただけのそど子にとって、それは未知の体験。

闘争とは縁遠い世界に浸し続けた身体と心は、ゆっくりと恐怖に屈しようとしている。

 

「そ、そど子ぉ……」

 

そしてそれは、そど子以外も同じ。

操縦席に座るゴモヨが振り返る。

その顔は、不安の色に染まっている。

 

分かっている。

この恐怖は、並大抵じゃない。

どんな不良学生と対峙しても、ここまで足が竦みそうになることはなかった。

 

「――――ダメよ。ここは絶対に退いちゃダメ」

 

けれどそど子は、逃げるわけにはいかない。

心身に鞭を打ってでも、足に釘を刺してでも、ここに立ち続けなければならない。

 

「私たちは自分の意志でここにいるのよ。それが怖くて逃げだしたなんて、恥ずかしくて風紀委員なんてやってらんないわ」

「で、でも……」

「言われたでしょ!どんなになっても、頼まれた事は全力でやり通せって!」

 

カモさんチームは紛うことなき新参者であるが、まるっきりの素人のまま今日に至ったわけではない。

神栖渡里という、彼女たちからすれば背後の魔弾の射手よりも恐ろしい人物の教えを受けてここにいる。

 

もちろん、多くの事ができるようになったわけではない。

必要最低限の事がいくつかできるようになっただけだ。

しかしその中には、素人なりに心得ておかなければならないことが、ちゃんと含まれていた。

 

『隊長からすれば、指示を守ってくれるだけでも十分力になる。とりあえず目指すべきとこはそこだな』

「私達まだまだ初心者だけど、だからって何にもできないじゃただの足手纏いじゃない!言われた事くらい守れなくて、なにが風紀委員よ!」

「……風紀委員関係ないけど」

 

パゾ美の呟きは有意義に無視して。

カモさんチームは気炎を以て、恐怖を焼き払った。

疾走に芯が一本通り、今にも崩れそうだった盾は堅牢さを宿す。

 

その様を見ていたカチューシャが、ポツリと零した。

 

「あのルノー、今日が初陣だったわよね?」

「はい、乗員も戦車道を始めたばかりの素人だと聞いています」

 

ふぅん、とカチューシャは興味があるのかないのか、曖昧な返事をした。

 

「その割には、随分骨がありそうじゃない。これもあの西住の力ってわけ」

「……そうかもしれませんね」

 

ノンナは返答には、少し間があった。

言うべきか言うべきでないか、判断のつかない事が一つ彼女の中にあったのである。

 

大洗女子学園にいるのは、西住流だけではない。

彼女はあくまで戦場で人々を率いる指揮官であり、育成という分野においてはそれほど突出した存在ではない。

その箇所を補う、どころか一つの強みにさえ昇華させた別ベクトルの怪物がいるということを、ノンナは心の中に仕舞い込んだ。

 

「ともあれ、所詮は素人。さっさと片づけて、フラッグ車を墜とすわよ」

「もちろんです」

 

一息、魔弾がカモさんチームを襲う。

 

轟音と激震の中、カモさんチームは数分、あるいは数秒後の未来を視る。

しかしそれがどうした。来るならこい、とカモさんチームは強がる。

 

最後に勝つのは、こっちなんだから。

 

 

 

 

「この分だと、そど子の方も時間の問題だな」

「はやくフラッグ車を追いかけないとじゃん!」

「うん、だから――――KV-2はここで墜とそう」

 

時間的余裕は皆無。

立ち塞がる怪物には、さっさとご退場願う。

 

みほは指示を飛ばした。

 

「KV-2は火力こそ並外れていますが、動きは遅いです。砲身の動きをよく見ていれば回避できます。次の砲撃を外させて、カウンターで一気に仕留めましょう」

『了解!』

 

そうして四号戦車と三号突撃砲は、お互いの邪魔にならない範囲で、かつ許容できる最大限まで距離を縮めて固まった。

 

本来であれば、お互いが別方向に逃げてターゲットを分散させる方がよい。

そして狙われた方が時間を稼いでいる間、狙われなかった方が抜け出す。

KV-2の鈍重さと状況を考えれば、此方が最善のように思える。

 

しかしKV-2は攻撃力もさることながら、防御力もまた高い。

黒森峰が所持しているような戦車であれば単騎でも撃破できるだろうが、大洗女子学園では二両がかりでないと難しい。

 

後々の事を考えてKV-2をここで墜としておくというなら、ここは二両一丸となって戦う方がベターだと、みほは考えたのである。

 

当然リスクはある。

弾を避け損ねたら、その時点で二両とも白旗を挙げることになるだろう。

 

けれどみほは確信していた。

KV-2は脅威ではあれど、対処不能ではない、と。

 

その予測は的中することとなる。

 

ゆっくりと狙いを定めるKV-2の砲身。

通常の戦車と比べて二回りほど緩慢なソレは、砲撃ポイントを割り出すのに十分な時間をみほ達に与えてくれる。

 

横合いから不意打ちされたらどうしようもない。

実際さきほどは、それで危うく撃破されるところだった。

 

けれど撃たれる場所がわかっているなら――――――

 

 

「―――――散開!」

 

 

避けるのは、難しいことじゃない。

 

火薬が炸裂し、弾を撃ち出す―――本当に直前。

まるで砲手のトリガーにかかる指を見透かしていたかのように、みほはここしかないというタイミングで指示を出した。

 

瞬間、四号と三突の合間を綺麗に弾が抜けていく。

遥か後方で爆発が起こったことを全身で感じながら、みほは返す刀で一太刀を浴びせた。

 

「装甲の隙間を狙ってください!ピンポイントで貫けば撃破できます!」

『応!』

「――――!」

 

ドン、ドン、と連なるようにして放たれた二発の砲弾。

まるで銀の矢のようにして、一直線に向かうは怪物の心臓。

降雪を蹴散らし、闇夜を切り裂いて、流星となって突き刺さる。

 

怪物は一度、大きく震えた。

そして間もなく、悲鳴を上げることなく永遠に沈黙した。

 

『プラウダ高校、KV-2、走行不能!』

 

「やった!」

「お見事です五十鈴殿!」

 

それを見届けた後、二両の戦車は走り出す。

行く手を阻む者は、もうなにもない。

消えかけたフラッグ車の背中を、再び掴む――――

 

 

『させませんよ』

 

 

前に。

前方に突如として、一つの影が現れる。

 

「――――っ回避!!」

 

半ば脊髄反射に近い形で放たれたみほの指示。

それと同タイミングで麻子もまた、回避運動に入っていた。

しかし二人とも気づくのが、僅かに遅かった。

眼前の相手は、既に攻撃態勢に入っていたのである。

 

 

放たれる砲弾。

それは四号戦車の砲塔部分を直撃した。

 

「きゃあ!!」

「くっ!」

 

衝撃が振動となって乗員へ伝わる。

みほもまた身体を大きく揺さぶられたが、しかし相手から目は離さなかった。

第二射、到来の予兆を感じ取る。

 

「麻子さん!」

「わかってる。カバ、二手に分かれるぞ」

 

ギュン、と即座に分離する四号と三突。

狙いを絞れなくなった影は、一時砲撃を中断する。

 

影、いやもうそんな風に呼ぶべきではない。

既にその姿は、みほの前に明らかになっている。

 

「T-34/85……」

「護衛は二両だったんですね!」

 

自分のフラッグ車を守るよりも、相手のフラッグ車を倒す方に戦力を大きく傾けるよう仕向けるのが、みほの策だった。

しかし護衛が全く来ないとは思っていなかった。

極端に少なくなるだけで、何両かは来るだろうとは踏んでいた。

そしてその数次第で、状況は大きく変わるだろう、と。

 

しかしその不確定要素も、いま確定した。

 

(この局面で時間差を付ける理由はない。となると、護衛は多分これで最後)

 

つまりこれが、本当に最後の壁。

このT-34/85さえ倒してしまえば、フラッグ車は丸裸。

 

しかしみほは直感していた。

このT-34/85は、楽に超えられる壁ではないと。

 

対峙するだけで、だいたいわかる。

意地とか気迫とか、そういったものは関係なしに。

ただ純粋に強い戦車乗りが、そこにいる。

 

『カチューシャ様の勝利の為、ここは通しません』

 

誰だ、とみほは思考した。

兄の諜報(スカウティング)では、カチューシャとノンナ以外に特別危険度の高い戦車乗りはいなかったはず。

しかし、それじゃあ目の前の相手は誰だと言うのだ。

間違いなく手こずると、みほがそう確信するに足る戦車乗りなんてもういないはずなのに。

 

「―――カバさんチーム、こちらで相手を引き付けます。その間に抜けてください」

『我々がフラッグ車を……?』

「お願いします。もう時間がありません」

 

おそらく二両がかりで相手しても、そう大した時短にはならない。

ならば一両だけでも、フラッグ車の元に向かわせる。

そうでなければ、結局勝ちの目は出てこない。

 

「麻子さん、上手くカバさんチームの道を作ってください」

「任せろ」

 

戦車が急旋回し、T-34/85へと肉薄していく。

必然、相手の矛先はこちらへと向く。

そして迷いなく、砲弾が放たれる。

 

迫る初撃。

麻子の操縦技術により、なんとか回避。

装填のタイムロスをついて、あんこうチームは車体を体当たりさせる。

 

「今です!行ってください!」

『わかった!必ず仕留めてくる!!』

 

その背後を、三突が疾走する。

遮るものはなにもない。

 

「……?」

 

不意に、みほは違和感を覚えた。

この状況、フラッグ車の元に一両たりとも行かせたくないであろうこの場面で。

T-34/85から、その()が感じられなかったのである。

 

(見送った……?)

 

なぜ、という思考はそれ以上前に進まなかった。

途端、それまでとは打って変わって、T-34/85が猛烈な反攻を始めたのである。

 

「……これ以上はマズいな。一旦離すぞ」

 

余計な被害を負う、と感じたのだろう。

みほの言葉を待たずして、麻子は戦車を動かした。

彼我の間に距離ができ、ゆとりが生まれる。

そうするとT-34/85は、また大人しくなったのである。

 

「なんでしょう……お相手、何か変な感じが……」

「さっきまで肉食系だったのに、急に草食系になっちゃった」

「まるで此方が近づいてくるのを待っているみたいです」

 

――――まさか、とみほは瞠目した。

 

「……なるほど。そういうことか」

 

同時、麻子も気づく。

 

「へ、どうしたの麻子?」

「相手の狙いは、私たちをここに釘付けにすることだ」

「釘付けって……でもカバさんはもう行っちゃったけど」

「『カバさんなら通しても問題ない』、ということだろ」

 

客観的に見て。

みほはあんこうチームなら、フラッグ車を取れると思っている。

今は時間的余裕がないだけで――それが一番致命的なのだが――時間さえかければ実力的には多分問題ない。

対してカバさんチームは、微妙。

並みの相手ならまだしも、プラウダ高校でフラッグ車を任されているチームを相手となると、おそらくは分が悪い。

 

そしておそらく同じ読みを、プラウダの隊長もしている。

いやもしくは副隊長の方かもしれないが、ここにきて的確に大洗女子学園の勝ち筋を潰しにきた。

 

「やられた……」

 

みほがそうやって苦悶の表情を浮かべている一方で。

みほとは対照的に笑みを浮かべる者がいた。

 

『クラーラ、この局面を託せるのは貴女しかいません』

 

T-34/85の砲手席。

そこに座り、好戦的な笑みを浮かべて照準器を覗き込む、日本人から遠く離れた顔の造形をしている少女。

 

『貴女はまだこの大会一度も参戦していない。つまり相手には、貴女のデータがありません。間違いなく意表を突けるでしょう』

 

その隙を活かして、西住流を止めてください。

その言葉に二つ返事をして、クラーラはここに駆けつけていた。

フラッグ車を守る、最後の盾として。

 

「ノンナの指示は一つ。四号戦車を足止めする事。撃破するのではなく、とにかくフラッグ車の元にはいかせない」

 

容易いことだ、とクラーラは笑みを深めた。

ここまで圧倒的に有利な状況もない。

時間も状況も、全てはプラウダに味方している。

 

「さて、どうしますか?そうやって立ち尽くしているだけでいいのですか?」

 

それでも一向に構わない。

ただし勝利の女神と時間の神は、容赦しないけれど。

 

『大洗女子学園、ルノーB1bis、走行不能!』

「チェックメイトは近いですよ?」

 

 

 

 

 

 

その時アヒルさんチームは、絶望的な状況にあった。

 

自分達を護ってくれる盾はついに斃れ、この広い雪原にただ独り。

背後には敵の群れ。十を超える砲身が、己を撃ち貫かんと睨みつける。

 

頼れるものはなにもない。

健在の味方は遠い彼方。

駆けつけてくれることは、万に一つもない。

アヒルさんチームは、たった独りでこの状況を切り抜けなければならない。

それも戦車道歴数か月の素人が、低スペック戦車に乗って。

 

本当に、笑ってしまうほどの絶望だ。

希望なんてどこにもない。

どう足掻いたって待っているのは凍死。

こうやって必死に逃げているのだって、無意味な延命かもしれない。

 

――――けれど。

 

「うぅー、ピリピリくるなぁ」

「強豪校のジャンプサーブが来る前の感じに似てます……」

「サーブレシーブが一番緊張するもんね」

「今回飛んでくるのは砲弾だけど」

「どっちにしろ怖いことに変わりないな!」

 

アヒルさんチームは笑った。

冷や汗を流し、バクバクとする心臓をなんとか鎮めながら、それでも笑っていた。

 

強がり、と誰もが思うだろう。

実際半分くらいはそうだ。

笑うしかないから、笑っていると言ってもいい。

 

けれど。

アヒルさんチームは周りが思っている程絶望しているかと言えば、そうではなかった。

 

「……コーチの言うことが本当に当たっちゃったなぁ」

「本当に予言者って感じですよね」

 

アヒルさんチームはしばし、その意識を過去に移した。

思い起こされるは、試合数日前の会話であった。

 

『八九式を少し弄った』

『弄った……ですか?』

『試合前なのに……』

 

磯辺と佐々木の言葉に、神栖渡里は呆れたように返した。

 

『弄ったっても操作感が変わる様なことはしてねぇよ。そんなことして意味あんのか』

『いや、コーチのすることは何でも意味あるように感じちゃうんですよ』

『それは改めろ』

 

はぁ、と一つため息を吐いて、気を取り直したように神栖渡里は続けた。

 

『プラウダが相手で、フラッグ車はお前達。となればもう展開は読める。最後は間違いなく、お前達がプラウダに追っかけられている』

『追いかけられるって……そんな』

『プラウダ相手ならどうしたってそうなるんだよ。説明しても分からないだろうけど、間違いなくな』

 

神栖渡里はこと戦車道に関しては誰よりも見る眼がある。

その彼が言うのであれば、多分それは予知に等しい的中率で到来する。

 

『その為の調整だ。弄ったのは出力系。簡単に言うと――――今までよりもパワーが出るようにした』

『……っていうと、前より速くなったってことですか?』

『そういうこと』

 

そう言いながら、彼は頭を掻いて少し困ったような表情をした。

 

『厳密に言うと、()()()()()、なんだけどな。今までは出力系と変速機に細工をして、フルパワーが出せないようにしてた。一番美味しいとこを封印してたってわけだ』

『な、なんでそんなことしたんですか!?』

『当時のお前らじゃ使いこなせないパワーが出るからだよ』

『八九式なのに、ですか?』

『うん』

 

八九式。

それは低性能の代名詞。

 

『けど今はお前達のスキルも上がった。そうでなくても、プラウダ相手に出し惜しみはできない。なんとかして逃げ切るための手段がいる』

 

コンコン、と彼は八九式の装甲を二度小突いた。

 

『そこで、今までずっと封印していた最高出力(トップギア)の出番だ。これを使えば、ギリギリ競る所までは行ける。そこからはお前らがなんとかしろ』

『なんとかしろって……』

『どうしたってプラウダを振り切るだけの速度までは出せない。機体性能はイーブンにしたんだから、後は中に乗ってる奴等の勝負だ』

 

戦車道は人車一体。

どんな戦車も、全ては乗り手次第という彼の哲学が垣間見える瞬間だった。

 

そしてピンと、指が一つ立つ。

ひと際真剣な声が、アヒルさんチームの鼓膜を打った。

 

『いいか、これはとっておきだ。最初からは絶対に使うな。使っていいのは――――』

 

「――――本当に最後の最後の勝負所だけ。その時だと思ったら、迷わず叩き込め」

 

大きく深呼吸を一つして、磯辺は神栖渡里の言葉を諳んじる。

それは、間違いなく今、この時である。

この最終局面まで残しておいた()()()()()

神栖渡里がくれた、最後の切り札。

 

それをここで解放し、死ぬ気で逃げる。

 

あぁ本当に、事前に言ってくれて良かった。

心の準備ができないままこんな状況に追いやられてたら、パニックを起こしていただろう。

 

「やっぱりコーチっていいなぁ……バレーやってたみたいだし、戦車道だけじゃなくてバレー部の方も面倒みてくれないかなぁ」

 

どんな逆境でも、必ず希望の道を示してくれる。

それがどれだけ、戦ってる選手にとって心強いことか。

 

そして今回も、彼は期待を裏切らなかった。

ちゃんと、この絶望的な状況を打開する策をくれた。

 

なら後は、とても単純だ。

上手くいくかいかないか、そんなのは考えない。

ただ上手くいくように、必死で頑張る。

 

アヒルさんチームにできることは、最早それだけだ。

 

「ここからははっきゅんの力も大事だぞ!」

「頑張ってね、はっきゅん!」

「応援してるから!」

「しっかりね」

 

声援に応えるようにして、八九式はひと際大きく唸りを上げる。

同じようにして、バレー部の四人も気勢を上げた。

 

「いくぞー!!」

「「「おー!!!」」」

 

 

――――ずっとずっと、本当に長い間。

()()()()は、鎖で雁字搦めにされ、檻に閉じ込められていた。

それは今にも崩れ壊れそうな身体を、少しでも長く生き永らえさせる為の医療処置。

しかし()の心を蝕む毒でもあった。

 

檻の中で生まれ、檻の中で育った獅子ならば、それでも生きていけただろう。

けれどずっと草原を駆けて生きてきた獅子には、同じ生き方はできない。

 

だから彼は、きっと悲鳴を上げながら戦っていた。

あるいは逸る心を、溢れる衝動を、必死に抑えつけてここまできた。

 

いつの日か、この枷が外れる時が来ると、そう信じて。

 

そしてようやく、その時は訪れる。

四肢を縛る鎖も、身体に嵌められた枷も、全て取っ払い。

自由に、思うがままに、戦場を駆けることができる日が。

 

操縦手がギアを入れる。

ずっと封印されてきた、封印しなければならなかったギア。

しかしもう、その必要はない。

固く閉じられていた鍵が、弾け飛ぶ。

 

『――――――――』

 

かつて烈火の如く戦場を駆け抜けた戦車乗り。

そして今は亡き彼女と共に時を重ね、そして緩やかな死を迎えようとしていた獅子。

彼は錆びて黴てボロボロになった姿ではなく、全盛期そのままの姿となって。

 

 

『■■■■■■――――――!!!!!!』

 

 

雪原に放たれる。

 

 

 

 

 

「……?」

 

異変を真っ先に感じたのは、ノンナであった。

既に行進間射撃でありながら、M3リー、ルノーB1bisと二両の戦車を屠ってきた彼女は、当然のように次の獲物を照準器に捉えていた。

 

ノンナからすれば、最も容易い獲物が最後に残った形であった。

八九式のスペックは既に承知。

ついでに言うと、どのようなカスタムをしたかは知らないが、あの八九式が並み以上のスピードを出せる事も知っている。

 

それを踏まえて尚、ノンナは容易いと断言する。

多少スピードが上がった所で、ノンナには関係ない。

例え目の前を走っているのが八九式ではなく、快足と言われるクルセイダーなどであっても問題なく射止めてみせただろう。

 

しかしこの時、ノンナの身体が、あるいは砲手としての直感が告げていた。

八九式に、何かが起こったと。

 

「どうかした、ノンナ」

「……いえ、なんでも」

「そ。じゃあさっさと沈めなさい」

 

頷き一つ、ノンナは照準器を覗き込む。

その眼に映る八九式には、何の変化も見られない。

 

考えすぎか、とノンナは結論付けた。

所詮は八九式。ここまでまともに戦ってこれた事自体が、奇跡に近い。

なればこそ、これ以上の事は起こるまい。

奇跡とは、そんな安上がりなものではないのだから。

 

「―――――」

 

意識を砲撃に集中させる。

集中というと静寂を連想する者も多いが、ノンナは違う。

彼女の神経を研ぎ澄ませてくれるのは、歌。

いつも頭の中に流れる愛らしいメロディーが、彼女の砲撃を高次元のものへ昇華してくれていた。

 

そして今もそう。

必中の加護を授けてくれる歌声が、絶えずノンナの中で響いている。

 

こういう時ノンナは、砲撃を外す気がしなくなる。

弓道の世界では「中るかどうかは打つ前に分かる」なんて言うらしいが、それと似たようなものだろうと思う。

最善の角度、最善のタイミング、全てが手に取るように分かるのだ。

 

「―――――」

 

さぁ幕引きだ、とノンナはトリガーに掛ける指に力を込めた。

ドラマはない。観客が求める大どんでん返しは、残念ながら訪れない。

 

この一射。

この一撃を以て戦いを終わらせ、そしてノンナは敬愛する隊長へと勝利を捧げる。

 

だからどうか、さっさと眠ってくれ。

そんな思いを込め、放たれた砲弾。

糸を引くようにまっすぐ、美しい軌道を描くソレは、まるで八九式に磁石で吸い込まれているかのように飛翔し、そして。

 

 

「………え?」

 

 

白い大地を、穿つだけの結果に終わった。

 

状況は、何も変わらない。

ただノンナが一つ弾を外した、という事実だけがこの試合の歴史に積まれただけ。

 

目を、疑った。

しかし何度瞬きをしても、現実がノンナの思い描いていた理想に上書きされることはなかった。

ただただサファイアの瞳は、()()()()()()()()()()()を映している。

 

「そんなはずは……」

 

ガコン、と荒々しい装填の音が鼓膜を打つ。

それは目覚まし時計のような効果を果たし、ノンナは再び照準器を覗く目と、トリガーに掛かる指に神経を集中させた。

もちろん歌は、今も流れ続けている。

 

しかし此度は、ノンナはトリガーを引くことができなかった。

視線の先、疾走する八九式の姿が――――変容していたから。

 

「これ……は……?」

 

なんだ、と枯れた声が零れる。

先ほどまでは距離を取るための直線軌道だった八九式は、盾の消失と共に的を絞らせないような蛇行の軌道に変わっている。

 

それ自体は、大したことじゃない。

寧ろ蛇行することが当たり前。そんな逃げ方をする戦車を、ノンナは幾両も仕留めてきた。

 

けれど今目の前にあるあの戦車は、なんだ。

 

「あの軌道……っ!」

「蛇行しているのに……さっきより速い……!?」

 

そして全員が、とうとう異常事態に気づく。

八九式の動きが、桁外れに速くなった、と。

 

直線軌道と蛇行軌道、100mをどちらが早く走り切るかと言われば、それは間違いなく前者である。

理由は単純。寄り道をしない方が早いから。小学生でもわかる簡単な理屈だ。

 

しかしその理屈を根本から覆す事象が、目の前にある。

 

右に、左に、大きく、小さく、細かくフェイントを入れながらの疾走。

だというのに、先ほどより遅くなっているはずのに、その姿が捉えられない。

照準器の中に入れたと思っても、次の瞬間には霞んで消えていく。

 

「変な動きしちゃってなによ!全車、一斉砲撃!」

「!カチューシャ、それは――――!」

 

ダメだ、という声は届かなかった。

まるでマシンガンのように、一撃必倒の砲弾が八九式へと降り注ぐ。

しかしその全てが、八九式の残像を射貫くだけの結果に終わった。

 

当たる、素振りすらない。

まるで木の葉のように、砲弾の風圧に揺れてするりとかわしていく。

 

「カチューシャ、一度砲撃を止めてください!下手に撃てばより狙いが定まらなくなります!」

 

ただ闇雲に撃って当たるものでは、最早ない。

旧式の戦車には似つかわしくない程の軽やかな疾走。

まるで最新型の戦車のように、雪道をものともせずに走り抜けていく。

それも雪に慣れた自分達よりも速く。

アレはもう、並みの砲手の手に負える相手じゃない。

 

「私が仕留めます!」

 

ノンナはさっきよりも照準器を縮小した。

拡大(ズーム)した方が当てやすいのは間違いない。しかし狭くなった視界だと、八九式の動きが捉えられない。

だから視界を広くし、八九式の全部を見えるようにする。

 

(これなら左右に激しく動こうとも、関係ありません)

 

見えないから予測できないのであって、逆に言えば見えてさえしまえば、八九式の次の動きが読める。

どれだけのスピードで走ろうと、行く先が見えているなら惑わされることはない。

 

「―――――」

 

そしてその時ノンナは、信じられないものを見た。

突如、彼女の目は雪上という湖面から飛び立とうとする白鳥を映していたのだ。

 

(まぼ、ろし―――――……)

 

幻視に決まっている。

それは分かっている。

 

しかしノンナは、間違いなく見た。

雪が見せた幻か、あるいは砲手としての本能が見せたイメージか。

 

走る八九式。

その背から生える――――白い翼。

一つはためく度に羽根を散らしていく、大きな翼を。

 

 

「―――ノンナ!!」

 

隊長の頬を叩くような声が、ノンナを現実へと帰還させた。

もうその目に、白翼は見えない。

 

「時間は気にしなくていい!落ち着いて、確実に仕留めなさい!状況はまだまだこっちが有利なんだから!」

 

その言葉に、ノンナはハッとした。

いつの間にか()()()()()()と、そう気づいたのである。

 

そうだ、何を浮足立つことがある。

追い詰めているのは此方。窮鼠は相手の方だ。

噛みつかれることだってあるだろう。けれどそんなものは無駄な抵抗だ。

 

大きく深呼吸をし、平静を取り戻す。

加護をくれる歌が、また流れ始める。

 

 

『■■■■■―――――!!!』

 

 

一つの異音を、混じらせながら。

 

 

 

 

 

「な、なんかアヒルさん、なんとかなってるっぽい!」

「っぽいってなんだ」

「通信が悲鳴混じりだった!」

「……まぁ無事ならいいんじゃないか」

 

麻子の返答は素っ気ないものだったが、しかし状況を考えれば当然だった。

細い腕は激しく操縦桿を動かしていて、麻子の額には僅かに汗が滲んでいる。

 

切迫した声で、彼女は言う。

 

「それよりこっちの方が問題だ。カバは?」

「あっちのフラッグ車に追いつきはしたけど……倒すのは難しいかもって」

 

チラ、と麻子の瞳が後方へ向く。

車長席に座るみほは、神妙な面持ちで頷いた。

 

三突単騎でフラッグ車を撃破するのは、多分難しい。

固定砲塔はそもそもとして、追いかけながらの撃ち合いに向いてない。

特に待ち伏せ運用が基本の三突では、尚更。

 

やはりフラッグ車を取るなら、二両がかり。

一秒でも早く、みほ達は三突と合流しなければならない。

 

それは、わかっている。

わかっている、けれど。

 

(この人……守りが硬い……!)

 

そうさせてくれない壁が、目の前にある。

T-34/85。KV-2の次に現れた、最後の砦。

あんこうチームの怒涛の猛攻を受けながらも、なお健在である堅牢な城壁。

既にして五度、みほは()()で倒しに行き、その全てを凌がれていた。

 

「こんな人がいたなんて……」

 

みほは苦悶の表情を浮かべた。

 

兄のチェックミス、とは思わない。

あの人がそんなヘマをするはずがない。

とすればおそらく、カチューシャの策謀。

兄の眼を欺く為、かどうかは不明だが、あの小さな暴君が何かしらの罠のつもりで、ここまで巧妙に隠してきた人材なのだろう。

 

いやそんなことはどうでもいい。

ここから、どうする?

 

「こちらは一度も攻撃に当たっていないのに……どうして突破できないんでしょうか……!?」

「……あるいは、一度も攻撃に当たっていないから、なのかもしれません」

 

華の静かな呟きに、みほは一つ頷いた。

 

単純な実力で言えば、あんこうチームの方が上。

乗員の練度、連携、全ての要素で此方が勝っている。

 

それでも突破できない理由。

それはT-34/85が、自身の戦力を全て防御に回しているからである。

 

みほは、いやみほでないにしても、多くの戦車乗りは自分の持っている力を、時には攻撃に多く偏らせ、時には守りに多く偏らせ、と言った風にバランスを考えながら立ち回っている。

今もそう。みほは攻撃を仕掛けながらも、いつでも反撃(カウンター)に対応できる状態を維持しているし、その逆も然りだ。

普通は、そうやって戦う。

 

けれど目の前のT-34/85は違う。

とにかく守ることだけに意識を集中させていて、攻撃をする気がない。

例え反撃のチャンスがあっても、それを無視している。

それが意味するところを、みほは既に気づいていた。

 

勝つ気が、ない。

そして生還する気も、またない。

目の前の相手は、ただ時間を稼ぐことだけに()()を捧げている。

斃されるのは前提。そこに至るまでに、どれだけみほ達を足止めできるか。

ともすればみほ達と接戦を演じることもできるであろう戦車乗りの想いは、その一点だけ。

 

だからこそ、簡単にはいかない。

 

『まだです!まだ斃れません!全ては、プラウダの為に!』

「くっ……!」

 

どうする、とみほは思考した。

攻め手がないわけじゃない。このまま攻め続ければ、倒せるという確信はある。

けれどそれまでにどれだけ時間がかかる?

最速最短で、みほ達は三突と合流しなければならないのに。

 

(時間が……零れる……!)

 

ポツリ、とみほの頬から垂れた雫が、床を濡らす。

 

「――――――みほさん」

 

そしてそれが呼び水となったのか。

静かな声が、みほの鼓膜を打った。

 

「渡里さんはきっと、約束を破るような子は嫌いですよね?」

 

視線が、()()()()()()()

みほの前に座る、長い黒髪の砲手の、その柔和な笑みに。

 

「華さ――――――――」

 

みほの言葉を待つことなく。

すぅ、と大きく一度、瞑目しながら華は息を吸い込む。

 

そして息を吐くと同時。

開かれた瞼の奥にある眼は、まるで凪いだ水面のように静謐を湛えていた。

 

「華さんまさか―――――」

「麻子さん、真っ直ぐに行ってください―――――次で、終わらせます」

 

フツ、フツ、と。

彼女の周りの空気が砥がれ、裂けていく。

近くにいるだけだというのに、まるで刃に肌を撫でられるような感触。

 

全身が泡立ち、息を呑む。

この刺すような威圧感。身体を切り刻むかのような覇気。

サンダースとの試合、最後の砲撃で見せた、()()状態。

神栖渡里が五十鈴華に授けた奥義。

 

――――明鏡止水。

 

『な、に―――――』

 

覇気に押され、四号戦車が加速する。

何の変哲もない、ただの突進。

けれどそれがさっきまでとは次元を異にしたものであることに、彼女は気づいているか。

 

「通してくれないのであれば、仕方ありません」

 

そして、極限の集中状態から放たれる一矢。

必中にして必死。回避不能の致命の一撃。

華の覇気に全身を射貫かれ動きを止めたT-34/85に、抗う術はない。

 

一息、

 

 

「押し通ります」

 

 

無情の砲撃が、直撃する。

 

あっけなく。

本当にあっけなく。

あれほど苦戦したとは思えない程あっさりと。

T-34/85はその一瞬で沈黙した。

 

『そ、んな……!』

 

そんな驚愕と絶望の声を、果たしてあんこうチームは聞いただろうか。

いや、聞いてないだろう。なぜなら彼女たちは、白旗を挙げたT-34/85に一瞥もくれることなく、走り去っていった。

クラーラという、戦車の乗り手名前すら知らないままに。

 

「やった!さっすが華!」

「お見事です五十鈴殿!」

 

歓声に沸く車内。

しかし次の瞬間には、彼女たちは顔色を180度変えることとなった。

華が、短い悲鳴と共に苦悶の表情を浮かべ始めたのである。

 

「は、華さんっ」

「五十鈴殿、大丈夫ですか!?」

「大、丈夫です……少しクラっとしただけですから。まだまだ戦えます」

 

そう言って微笑む華。

しかしほんの一分前にはなかった大量の汗が、みほ達の心を暗く覆っていた。

 

「……華さん、もしかしてさっきの……」

 

汗の理由に、みほはすぐに思い当たった。

というよりも、気づかない方が不自然だった。

なぜなら以前、まったく同じ事が華の身に起きていたから。

 

「……多分、渡里さんには凄く怒られると思います。でも、勝つ為ですから」

 

華はそう言って、それ以上の事は口にしなかった。

 

みんな頑張っているのだから自分も。

そんな思いが彼女に無茶をさせてしまったのだろうか。

だとしたら責任の一端は、自分にもある。

こんなところで手間取り、決断を代わりにさせてしまった不甲斐ない自分に。

 

けれど照準器を覗き込み、戦う意志を漲らせる華を見て、みほはそんな思考を振り払った。

 

「ありがとう華さん。でもお兄ちゃん、多分そんなものじゃない。三日くらい口聞いてくれないと思う」

「え」

 

頭を切り替える。

今は、フラッグ車を仕留める事だけに集中しろ。

 

雪道を駆ける四号戦車。

ついに遮るものはなにもなく、あんこうチームはプラウダ高校のフラッグ車を捉えた。

 

 

 

 

 

 

 

最初から最後までプラウダ高校が優勢だったこの試合において、ついに戦況は本当の意味で互角となった。

 

スタートラインに辿りつくことさえままならず、プラウダに大きくリードを許してしまった大洗女子学園。

しかし細い細い希望の糸を握り、時には犠牲を払い、決して諦めず前に進み、ようやく彼女たちはプラウダ高校に追いつく。

両チームの砲手たちは勝利を掴み取る為、絶え間なくトリガーを引く。

 

優勢、劣勢は既に存在しない。

 

プラウダ高校は超機動で逃げ回る八九式を未だ捉えることはできず、大洗女子学園は廃村という障害物を巧みに使って逃げるT-34に弾を当てることができない。

前者は数こそ足りているが技量が、後者は技量こそあるが数が足りないという対照的な要因によって決め手に掛けていた。

 

勝負の行方は、神のみぞ知る。

今は両者、勝利へ続く道をひた走るだけ。

その想いにも上下はない。同じレベルで、勝利を渇望している。

 

しかしどちらともが勝者になることはない。

必ずどちらかが、敗者という道へ分岐する。

 

そしてその岐路は、突然やってきた。

 

「―――――え」

 

大洗女子学園フラッグ車八九式が、何の前触れもなく黒煙を吐いたのである。

 

被弾、ではない。

八九式は本当の力を解放して以来、未だただの一度も弾を頂戴していない。

 

「は、はっきゅんから―――――」

「煙が出ている?」

 

真っ先に気づいたのは二人。

キューポラから身を出して指揮を取る車長、磯辺。

そして照準器越しにその姿を捉え続けていた、IS-2の砲手ノンナ。

 

二人は瞬時に悟る。

一方は危機の、もう一方は好機の到来を、全く同じ根拠の元に。

 

原因は何か。

直ぐに思い当たったのは、この異常な機動力。

八九式にあるまじき超スピードでの疾走。

これが黒煙と無関係ではないと思うほど、二人は楽観的ではなかった。

 

「おい、はっきゅんから煙が出てる!中に異常は!?」

「え、えぇ!?中は……と、特に変わったことはありません!」

「河西、操縦してて変な違和感は!?」

「ありません!」

 

磯辺は余計に困惑した。

目に見える範囲に異常はなく、走行にも問題はない。

ならばこの煙はなんだ?

何かしらの問題がなければ、こんなものは絶対に出てこないはず。

 

「コーチは何も言ってなかったけど……」

 

あるいは彼すらも想定外の事態なのか。

そんなことがあるのか、と磯辺は疑念に駆られた。

よりによってあの人が整備不良なんて、本当にあるのだろうか。

 

けれど磯辺は、八九式のこの疾走は、自身も傷つける諸刃の剣なのではないかという思いが芽生え、それを拭うことができなかった。

あの翼が生えたような超機動の代償が、この黒煙なのではないか。

 

その時、八九式に更なる変化が訪れる。

 

バキンと、甲高い音が一つ車内に響く。

それは磯辺達にとって正体不明の音だったが、()()()()()()と察するには十分すぎるものだった。

 

磯辺は反射的に叫んだ。

 

「河西、ギア下げて!」

「は、はい!」

 

もはや確定的。

このままこの速さで走り続ければ、間違いなくまたどこかが壊れる。

磯辺はそう直感した。

 

速度を落とすしかない。

被弾の確率はグンと落ちるが、戦車が壊れたらそれこそ終わり。

全国一、二を争う砲手相手にどこまで通用するか分からないが、技術で弾を避けるしかない。

 

しかし、

 

「変速機が……動かない!?」

「なに!?」

「ギアが下げられません!何かが引っ掛かってるみたいで……!」

 

さっきの音はソレか、と磯辺は疑った。

よりにもよって変速機の故障。

これではこの状態で走り続けるしかなくなる。

 

「なんとかして無理やりにでも下げて―――」

 

それは寿命を削る行為だ。

八九式を救おうとした磯辺の声は、しかし轟音と振動によって遮られる。

ほんの僅か数センチ横に、砲弾が突き刺さったのである。

 

思わず背筋が凍る。

少し気を緩めただけで、ここまで追いつめられる。

これで速度を落としたら、一体どうなる?

 

磯辺はギアを下げるか下げないかという岐路に立った。

そして少しの思考の後、彼女は悲痛な表情で叫んだ。

 

「――――お願い、はっきゅん!後少しだけでいいから頑張って!」

 

次いで通信手に指示を飛ばす。

 

「あんこうチームに連絡!八九式に異常発生、多分あと数分しか持たない!」

 

 

「――――みほ!!」

「――――」

 

沙織の切迫した声に、みほは頷きだけを返した。

 

状況は、とても難しい。

相手のフラッグ車は手の届きそうな所にいるが、後一歩が届かない。

その理由は明確。

廃村という地形が、限りなくあちらに味方しているからである。

 

端的に言うと、相手が見えない。

家屋などがブラインドになってしまっていて、相手の行き先が読めないからどうしても捉えきれないのだ。

 

元より雪上というステージでの機動力はあちらが上。

二両がかりでも追いつけない。どころか相手を見失ってしまうこともある始末。

 

このままでは埒が明かないと、みほはそう結論づけた。

そこに加えて今の無線。

数分以内に、フラッグ車を倒す。

 

 

次の一手で確実に獲ると、みほは覚悟を決めた。

 

 

躊躇は、なかった。

多分自分は今、岐路に立っている。

右の道、左の道、どちらを選ぶかで勝利か敗北かが決まる。

 

それでも何の迷いもなく、みほは選んだ。

勝つ為に、と。

 

「麻子さん、後はお願いします!」

 

戦車から、飛び降りる。

 

「ちょ、みほ!?」

「西住殿!?」

「私が高い所から相手フラッグ車を見て状況を伝えます!」

 

問題は単純だ。

要するに見えないから捉えられない。

ならば見えるところに自分を持っていけばいい。

 

廃村には地上を一望できる高台がある。

そこに登れば、相手フラッグ車の動きを直で見れる。

そこで指示を出せばいい。

 

鬼ごっこの練習と要領は同じ。

きっとできる。

車長がいなくてもあの戦車には、冷泉麻子がいるのだから。

 

ざく、と靴が柔らかな雪を踏む。

着地は、あえあく失敗。

慣性を上手く殺しきれず、みほの身体は雪の絨毯の上を転がる。

 

「西住殿、大丈夫ですか!?」

「大丈夫!」

 

遠ざかる声。

見向きもせず、みほは直ぐに立ち上がって走る。

 

冷たい風が口から入る。肺が凍りそう。

でも走れ。

 

足が滑りそうになる。こけたらきっと痛い。

でも走れ。

 

木製の梯子を掴む。軋んだ音がした。

腐りかけているのだろうか。

 

崩落したら大惨事だ。怪我じゃすまない。

けど構うか。

 

一歩。一歩。一歩。

掴んで、登る。掴んで、登る。

下は見ない。上だけ見ろ。

 

今自分にできる事は、これしかない。

勝つ為に、皆頑張っている。

カメさんチームは皆を勝たせるために囮になってくれた。

ウサギさんチーム、カモさんチームはフラッグ車を守ってくれた。

アヒルさんチームは勝つ為に今必死に逃げている。

 

皆、皆、歯を食いしばって必死で勝とうとしている。

一度は諦めそうになったけれど、それでもここまで上がってきた。

心の底から勝ちたいと、そう願っている。

 

だったら。

西住みほは、皆を勝たせなければならない。

だってみほは、みほは、

 

 

―――――大洗女子学園の、隊長なんだから。

 

 

梯子を登り切る。

何度か足を滑らせて膝を打った。鈍い痛みがじんわりと広がっているけど、そんなものは関係ない。

 

目を見開き、地上を視る。

あんこうチーム、カバさんチーム、T-34。

全ての戦車の現在位置と、地形情報。

 

それら全てを一瞬のうちに処理したみほは、喉が潰れそうなほどに叫ぶ。

 

 

「右――――――――――――!!!!」

 

――――届け。

 

 

 

「――――カバ、そのままフラッグ車を追え!!」

 

――――受け取った。

 

「五十鈴さん、戦車を相手の側面に出す!一瞬だが行けるか!?」

「――――やってみせます」

「六秒後だ!」

 

華の瞳に火が灯る。

照準器を覗き込み、トリガーにかかる指が熱を持つ。

大きく深呼吸をし、六秒後に現れる、撃ち貫くべき相手だけを見据える。

 

それと同時。

華と全く同じ態勢に入っている砲手が、一人いた。

ブリザードのノンナである。

 

既に八九式の異常には気づいている。

どういうわけか知らないが、時間が経つごとにその疾走に陰りが見え始めていることも。

なればこそ、次こそ仕留めてみせる。

 

サファイアの瞳に冷気が宿る。

呼吸を一つ、絶対零度の冷徹となってトリガーに指をかける。

 

「……っ!」

 

その殺気を、磯辺は痛いほどに感じ取っていた。

既に八九式は満身創痍。

最初は少しだった異常も、いまや黒煙が噴出する箇所は増え、車体全体から軋む音が絶え間なく響く。

 

ボロボロ、なんていうレベルじゃない。

こうやって走れているのが奇跡。

弾が当たるまでもなく、いつ自壊してもおかしくない。

 

「はっきゅん、頑張れ……!!」

 

けれど八九式は止まらない。

速度を少しも落とさない。

身を削りながら、前に進む。

 

痛みなど知らぬ。斃れることも知らぬ。

ただ走る。最後まで戦う。

そしてその果てに―――朽ち果てようとも。

構わないんだと、そう言わんばかりに。

 

「あと少しだけでいいから頑張って!!」

 

 

そして、二人の砲手はトリガーを引く。

 

放たれる弾丸は、真っ直ぐに標的へと飛翔する。

一切のブレが無い綺麗な軌道。

 

回避は不可能。

既にその機は逸し、両者迫りくる魔弾をその身で受ける以外に道はない。

 

けれど勝者二人になる事は非ず。

必ずどちらかが敗者となる。

 

それがどのようにして分かたれるのか。

実力?運?それとも執念?

それは誰にも分からない。

 

いやあるいは、戦う者達にとっては、そんなものどうでもいいのだろう。

結果は、先には来ない。ならば考えるだけ無駄。

 

ただ、勝利を求めてひた走る。

勝つか負けるかではなく、斃れる最後の刻まで()()()()と想いながら戦う。

それだけが近道なのだ、と。

 

「----……」

 

実力差はあった。

運は両者とも恵まれていた。

執念は拮抗していた。

 

それでも尚、勝利の女神を一方にしか微笑まない。

そしてもし、女神を振り向かせるものがあったとしたら。

それはきっと、

 

『プラウダ高校、フラッグ車、走行不能!』

 

泥に塗れても立ち上がり続け、。どんなになってもひたむきに進み続けた。

 

 

『大洗女子学園の勝利!!」

 

 

そんな彼女たちの横顔に、勝利の女神は惚れたのかもしれない。

 

 

 

 




世の中には羽を生やして夜道をドリフトする車があるそうですよ。
なんたら豆腐店っていうんですけどね。

ラスト、あっさりし過ぎている気もしないでもない。
なぜ八九式が生き残ったか。その辺は次の話で。

書ききれたようなそうでもないような感じですが、このモヤモヤは黒森峰戦に全てぶつたいと思っています、まる。


後日談は5000字くらいでまとめて、さっさと黒森峰戦にいこう。


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第44話 「告げましょう」

これにてプラウダ戦はおしまい。
色々書きたいこともありましたが、ここはテンポ重視。

次の話から黒森峰戦へとなりますが、お知らせがありますので後書きの方にお目通し頂けますよう。




 

その戦車は、本当は戦えないはずの戦車だった。

旧式で、低性能で、ボロボロで、錆まみれで、持ち主はよりにもよって男で。

あらゆる要因が重なって、二度と戦場に立つことができないはずだった。

きっと薄暗い倉庫の中で、このまま朽ちていくのだろうと、そう思っていた。

 

けれども運命は転機した。

持ち主の男によって引っ張り出され、新たな主によって錆は落とされ、腕の良い整備士によって修繕され、最後に持ち主の男の手が魔法をかけた。

かの戦車は、()()()旧式戦車になったのだ。

 

それからかの戦車は、戦場を三度駆けた。

一つめは、金髪青眼の隊長が率いる神奈川の雄との戦い。

二つめは、並外れた統率力を持つ自由の隊長との戦い。

三つめは、独特なアイデアで相手を翻弄する奇策の隊長との戦い。

 

そのいずれの戦いにおいても目立った活躍はなく、されど旧式だからと足を引っ張ることもなく。

かの戦車は普通に、そう()()に戦った。

 

だから誰もが錯覚した。

この戦車は、ずっと戦い続けることができる。

古くても弱くても、そんなものは関係ないんだ、と。

 

 

―――――本当はもう、戦えないのに。

 

 

戦いたいと、思ってはいる。

けれど意思に反して、身体が悲鳴を上げる。

一つの戦いを越える度、この戦車は崩壊への階段を一つ登ってしまう。

 

だから、騙し騙しやってきた。

あの手この手で、少しでも延命させようとした。

本当に相応しい最期を迎えるまでは、なんとか走っていけるように。

 

そう、求めるはソレだけ。

こんなツギハギだらけの身体、どうなっても構わない。

未来なんてものも、この老体には不要。

勝って終わる、負けて終わる、どちらでもいい。

 

ただ―――――戦場で死にたい。

 

この血を、魂を、全て燃焼して。

真っ白な灰になるまで戦い続け、その果てに終わりを迎えたい。

本当に、それだけでいい。

 

それが叶ったならば、きっと満足して逝ける。

少しの後悔もなく、この生を終えられる。

 

だからどうか――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前に、一両の戦車がある。

それは元の色がどんなものだったのか分からなくなってしまうほど、黒い焦げで塗りつぶされてしまっていて、パーソナルマークの白いアヒルも今やカラスのようである。

装甲はボロボロ。もう見るからに色々なところが剥げてしまっていて、特殊カーボンが露出しているところもある。

 

満身創痍。

一言で表すなら、そんなところか。

 

みほは唇を真一文字に結んだ。

こんなになってまで、自分達を勝たせてくれた。

ただそのことに対する感謝だけが、みほの中にあった。

 

大洗女子学園は、勝利した。

きっとそれは幾つもの偶然が重なった、純粋な実力による勝利ではなかったが、それでも彼女たちは決勝戦という次のステージに駒を進めた。

同時に、大洗女子学園の廃校という結末もまた先延ばしとなる。

 

今でもなお、みほは半ば信じられない思いだった。

勝負は、本当にギリギリだった。

何か一つ歯車がかみ合っていなかったら、あるいは少しでも運が悪ければ、きっと結果は真逆だった。

というか未だに勝てた理由が分からない。時間の針を巻き戻し、この準決勝を今日と同じ戦い方でやってみたら多分普通に負ける。

それくらい、プラウダ高校は圧倒的だった。

 

「やったー!!勝った勝ったー!!」

 

その分、勝利の美酒の味は格別だったのだろう。

アナウンスが流れた瞬間、みほは高台の上でへたり込んでしまったけれど、他の皆は歓喜に沸いていたという。

流石に今は落ち着いてきているが、多分みんなあんな状態だったのだろう、とみほは雄たけびを上げ続ける河嶋を眺めながら思った。

 

生憎みほには、あそこまで喜ぶ元気はない。

この結果は偶然以外の何ものでもないという思いとか、勝利の実感の薄さとか、あとぶつけた膝が今更すっごい痛いとか、そういうのが心の大半を占めていて、嬉しいという感情がついてきてくれていないのだ。

 

まぁけれど。

自分の分まで喜んでくれている人がいるから、それはそれで。

 

 

「それが勝った人間の顔?」

 

 

突如、横から氷のように冷たい声がみほに掛けられた。

反射的にみほは振り向く。

しかしそこには、誰もいなかった。

 

「………ちょっと」

 

更なる声。発信源は、僅かに下。

みほは視線を下げた。

 

そこに彼女はいた。

小さな身体と、亜麻色の髪。

勝気に吊り上がった瞳。

 

プラウダの暴君、カチューシャ。

 

「貴女いま、私の事見失ったでしょ」

「い、いえそんなことは!!」

 

あったけども。

みほは手をブンブンと振って否定した。

自分よりずっと小さいはずの彼女から、尋常じゃない圧を感じたからである。

 

彼女はフンと鼻を鳴らすと、腕を組みながら下からみほを睨みつけた。

 

「この私がわざわざ顔を見に来てあげたっていうのに、なによその顔。勝者は勝者らしく、堂々と胸を張ったらどうなの」

 

ぐさり、と真っ直ぐな言葉がみほの心を貫いた。

 

「そっちにそんな顔されたらコッチはどんな顔すればいいわけ?今の貴女より惨めったらしい顔でもすれば満足?」

「そ、そんなことは………!!」

 

あるはずがない。

しかしそんな言葉が、彼女を満足させることは思えなかった。

だからだろうか。

自然と、みほの口から本音が漏れた。

 

「……勝ったなんて、信じられないんです。私達は、プラウダの皆さんと比べたらずっと弱くて……きっと、運が良かっただけで……誇るなんて……」

「それがなんだっていうの?」

 

いっそ清々しい程の即答に、みほの方が面を食らった。

目を丸くし、みほは小さな彼女を見つめる。

 

「運が良かろうが悪かろうが、相手のミスがあろうがなかろうが、勝ちは勝ちでしょ?だいたい、世の中の勝ち負けが全部実力で決まるわけないじゃない。準備、実力、運、勢い、そういうの全部含めて勝負よ」

「それは、そうですけど……」

「それともなに。小細工なしでぶつかり合ったら勝てたっていうの?」

 

みほは慌てて首を横に振った。

それこそ、本当に有り得ない話だった。

 

するとカチューシャは、ビシッと人差し指をみほに突き付け、吼えた。

 

「だったら喜びなさい!!勝ち方を選ぶなんていうのはね、この偉大なるカチューシャにだけ許された贅沢なんだから!!貴女みたいなのは勝ったらただ馬鹿みたいに喜べばいいの!!」

 

ずい、と一歩間合いを詰められる。

彼女の覇気が、数段重みを増す。

 

「教えてあげる!貴女たちが包囲を抜けた時、私たちはフラッグ車を追う四号と三突を()()()()()()。けどもしその道を選んでいたら、間違いなく私達が勝ってたわ!負け惜しみじゃなくね!!」

 

それは、みほもそう思う。

あそこは間違いなく、この試合における最大の分岐点だった。

だからこそ、カチューシャが選択を誤るようにみほは全霊を尽くした。

そしてみほの思惑通り、カチューシャはミスをしてくれたと、そう思っていた。

 

「でも私はソレを選ばなかった!!そんなことをして勝っても意味がない、同じ条件で貴女を負かさないと気が済まないって思ってたから!」

 

けれどそれは違ったのだと、みほは知った。

この少女にとって、本当の誤りとは何か。

それが何かを、ようやく理解したのだ。

 

「私はね、()()よりも()の方が大事なの!私が納得できない勝利は勝利じゃないの!私が好きな勝ち方じゃないと勝ちじゃないの!!」

 

カチューシャにとっての誤り。

それは自分が、自分でなくなること。

自分の往きたい道を、往かないこと。

自分の心に、嘘をつくこと。

 

カチューシャはただ、それだけを恐れていた。

その為なら勝利さえも、彼女は犠牲にできるのだ。

 

あぁそれは、なんて強い―――強い人だろう。

 

「それで、貴女は!?貴女にとって勝利ってなに!?」

「わ、私は………」

 

それに引き換え自分は、一体なんだ。

みほの中に誇りなんてものはない。貫くべき信念も、矜持もない。

 

目を伏せながら、みほは答える。

 

「……分かりません。私は、ただ勝ちたいだけだったんです」

 

あったのは、想いだけ。

勝ちたいという想い。

勝たせたいという想い。

 

どんな形でも構わない。

ただ勝って、先に進めればそれでいい。

そんな想いだけが、あの時のみほを突き動かしていた。

 

それはカチューシャと比べて、なんて薄弱なものだろう。

 

 

「――――だったらいいじゃない。喜びなさいよ」

「え………?」

 

途端、猛吹雪のような声が、パウダースノーへと変化した。

視線の先、薄く笑みを滲ませる彼女の顔がある。

そしてその目が、語っていた。

 

貴女は、最初から勝ち方を選ぶつもりがなかった。

どんな形でもいいから、勝ちたかった。

だったら、運が良かっただのなんだのと、グチグチ言うのはやめなさい。

勝ちたかっただけなら、喜べばいい、と。

 

呆気に取られるみほ。

するとカチューシャはみほの右手をグイと握り、獰猛な笑みを浮かべて言った。

 

「いい?私たちはまだ一勝一敗、本当に勝ったなんて思わないことね」

 

一勝一敗。

去年の分と、今年の分。

本当の決着は、この先でつける。

 

しかしカチューシャは三年生。みほは二年生。

みほには来年があっても、カチューシャにはない。

 

そんなことは彼女も分かっている。

それでも彼女がそう言うということの意味を、みほは理解した。

 

「次こそは私が勝つ!それまで誰にも負けちゃダメなんだから!」

 

ぎゅーっと遠慮なく握られる手。

小さい身体なのに力は強くて、みほは驚く。

 

「カチューシャの命令は絶対よ。わかった?()()()()()

「――――は、はい!!ありがとうございました!!」

 

頭を下げる。

自分よりずっと小さい彼女の、目線まで。

彼女よりも頭が高くならないように。

 

すると彼女は、フンと一つ鼻を鳴らして踵を返した。

その間際、チラと見えた口元が、心なしか弧を描いているようにみほは見えた。

そして彼女は、遠くで控えていた背の高い副官を伴って去っていく。

副官の一礼に、みほもまた応えた。

 

今度は、みほもできるだけの笑顔を浮かべながら。

 

「―――――ふーん、カッコいいじゃん」

「わ、お、お兄ちゃん!」

 

そして入れ替わるようにして、不意に現れることに定評のある兄が出てくる。

カチューシャの時とは違い、今度は目線を上に向ける。

やけに首が忙しい日だ、とみほは思った。

 

「終わったら来るに決まってんだろ。試合の前と後が俺の仕事だもん」

 

「ちっこいのに大したもんだ。暴君だのなんだと言われてる割に、人がついてくる理由が分かる」

「……うん、本当に」

 

薄っすらと笑みを浮かべている兄と、同じような表情をみほは浮かべた。

カッコいい、というのはあんまり女子に相応しい褒め言葉じゃないんだろうけど、それでも兄からすれば最上級に近い褒め言葉である

そしてみほもまた、兄と同じように思う。

 

小さいのに、とっても強くて、カッコイイ人。

一人の戦車乗りとしても、一人の隊長としても、尊敬に値する人。

 

じん、と熱を持つ右手を眺めながら、みほは吐息を一つ漏らした。

 

「あ、渡里さん!」

 

そしてまた人がやってくる。

隠しきれない喜色を滲ませた声。

みほが振り向くと、そこには同じ戦車に乗るチームメイト達の姿があった。

ただ一人だけ、バツの悪そうな顔をしていたが。

 

「お疲れ」

 

短く答えながら、兄は口元を緩ませた。

そして視線を、この中で最も小柄な彼女に向ける。

 

「見てたぜ、麻子。大活躍だったな」

「……まぁ、あれくらいは」

 

視線を他所にやりながらの素っ気ない言葉に、しかし兄は歯を見せて笑った。

 

「謙遜するな。俺は自慢したくなったよ―――チームを勝たせたあの凄い操縦手は、俺が育てたんだ、って」

「……」

 

頬に朱が差す。

それは果たして、雪の寒さのせいなのか、はたまた別の理由か。

 

「よくやった、麻子。お前がいてくれて本当によかった」

 

突き出される拳。

麻子は目を丸くさせながら、兄の拳をじいーっと見つめた。

 

そしてほんの少しの間を置いた後、おずおずと自分の拳を差し出し、コツンと合わせた。

 

「次も頼むぜ、教え子」

 

そう言って兄は、麻子の頭をぐしゃぐしゃーと乱暴に撫でた。

まるで犬を可愛がるかのような、そんな雑な手つき。

麻子も迷惑そうに眉を顰めたけれど、しかしどこか嬉しそうに頬を緩ませていた。

 

なんとなくみほは、そんな麻子に昔の自分の姿を重ねる。

髪色と雰囲気だけ見れば、この二人も兄妹にようだと思った。

 

「沙織も、よく麻子のサポートをしてくれた。包囲を抜ける時に一人の脱落者も出なかったのはお前のお蔭だ」

「え!?え、えへへ!そうですかっ!私もそんなことあるななんて思ったり――――」

「優花里も安定した装填だった。もう装填の腕は一人前だな」

「はい!毎日自主練習してるので!」

 

そして麻子に続き、沙織と優花里にも労いの言葉が与えられる。

余程機嫌がいいのだろうか、とみほは思ったが、沙織への対応を見る限りなんとも平常運転らしい。

まぁ間違いなく今までで一番の激戦だったし、それをどうにか乗り越えたみほ達を労わってやろうという心が兄に芽生えたって不思議ではない、とそう思ったところで。

 

 

「ところで―――――()()()

 

 

氷の剣みたいな声が、静かに響いた。

 

あ、怖。

みほは直感的にそう思った。

 

「は、はいっ!?」

 

返事をした華は身を固くしていて、なんなら声も上ずっていた。

普段何事にも動じない強い精神力の持ち主である華だが、この時ばかりは恐怖が上回ったらしかった。

 

「その反応を見る限り、自分が何をしたか正しく理解できているようだな?」

 

ギロ、と凪いだ瞳が華を貫く。

その眼力たるや、直接浴びてはいないみほでさえ足が竦むほど。

直視されている華の心境は、察するに余りある。

こんなに寒いのに、めっちゃ汗かいてるし。

 

しかしこれは予測できた状況である。

詳細は知らないが、華は兄との約束を()()()()()()

守れなかったんじゃなく、自ら破ったのだ。

 

もちろんやむに已まれぬ事情があったのは皆が理解している。

きっと兄もそうだろう。

 

あの時あんこうチームは、一秒でも早くT-34/85を撃破し、フラッグ車を追わなければならなかった。

華の行動は、究極まで時短しようとした結果だ。

 

それが勝利に結びついたとも言えるが、それはそれとして華が約束を破ったことには違いない。

そして兄は、そういうのを凄く嫌う。

 

約束がいついかなる時でも、絶対に守られるものではないということは兄も分かっている。

だから『仕方なかった』で済ませることもある。

 

けれど、『正当な理由があれば』とか、『事情があったから』とか、そういう建前があるから()()()()()()()()んだと開き直る輩を、兄は絶対に理解しようとしない。

兄にとっての約束とは、誰かに破られるものであっても、自分で破るものではないのだ。

それだったら最初からするな、というわけである。

 

今回の華は、多分グレーゾーンだ。

華の誠実で律儀な性格は兄も承知。

『いざという時は破ってしまえ』なんて軽い気持ちで約束を交わしたわけじゃないということは理解しているはず。

 

情状酌量の余地はある。

だとしたら後はもう、天秤がどちらに傾くか。

 

「…………何か言う事は?」

「……へ?」

 

天秤は、無罪へと傾いたようだった。

 

「だーかーら、何か言う事があるんじゃないかって」

 

張り詰めていた空気が、解けていく。

黒い瞳から冷たさは失われ、代わりに温かみが戻ってくる。

そして瞬く間に、みほ達の見慣れぬ神栖渡里は消え、みほ達の良く知る神栖渡里が現れた。

 

「す、すみませんでした!!」

「よろしい」

 

息が漏れる。

華の口からではなく、状況を見守っていたみほ達の口から。

それは紛れもない、安堵の息だった。

 

「よ、よかったね、華……」

「は、はい。みほさんが三日は口を聞いてくれないと言っていたので……もっと怒られるのかと……」

「初犯だからな。次からは容赦しない」

「こ、心に刻んでおきます!!」

「おう、そうしろ。こっちは決勝戦に調子のピークが来るようコンディション調整してたのに、お前のお蔭で全部計算狂ってんだ。また同じことされたら俺が発狂するぞ」

「そ、そんなことしてたんですか!?」

「そうだよ。予定じゃ次の黒森峰戦は最初から最後まで()()()()でいられるはずだったんだよ」

 

なにそれ怖い。

そんなことを言われるとかなり惜しいことした気分になってくる。今更だけど。

 

はぁ、と大きく息を吐いて兄は頭を掻いた。

そして仕方ない、という顔で一言。

 

「帰ったら全力で身体を休めろ。いいな?」

 

コクコク、と華は頷いた。

そして兄もまた一度頷くと、視線を別に移す。

それは、この話はこれで終わりという合図でもあった。

 

彼の視線の先には、ボロボロになった八九式。

彼が持っていた戦車。今はアヒルさんチームが乗る戦車。

歩み寄り、彼は装甲を一つ撫でる。

 

その横顔に、みほは不思議な感覚を抱いた。

見たこともない、わけじゃない。

けれど兄がどういう気持ちなのか、読み取れなかったのである。

 

「………バレー部は?」

「へ?ええと、多分近くにいると思うけど―――――」

「コーーーーチ!!」

 

どぉん、と砲撃にも負けないくらい大きな声が響く。

呼ぶまでもなく彼女たちは来てくれたのだと、みほは思った。

 

バレーのユニフォームとパンツァー・ジャケットを併せた独特の恰好をした四人組。

みほが思う今試合のMVP、アヒルさんチームである。

 

「見てくれてましたか!?私達やりましたよ!!」

「あぁ、見てた。よく頑張ったな」

 

磯辺の言葉に、兄は薄く笑いながら答える。

すると続々と、他のメンバーたちも兄に群がり始めた。

 

「えへへ、本当はちょっと泣きそうでしたけど!」

「ここが私たちの代々木第一体育館!って頑張ったんだよね!」

「コーチの用意してくれた秘密兵器がなかったら危なかったです」

「……そうか、なら良かった」

 

兄の表情は変わらない。

変わらないのに、みほはひどく胸騒ぎがした。

普通の表情なのに、見ていて不安になったのだ。

 

「最後、良く避けたな」

「へ、あぁ。アレですか」

 

魔弾の射手、ノンナ。

彼女が放った一撃は、ギリギリ八九式を掠めただけに終わった。

まぁ掠っただけでも重傷だったのだけれど、しかし生死を分けたのはその紙一重。

一秒遅れていたら、一センチずれていたら、弾は八九式に直撃していた、そう聞いた。

 

あのレベルの砲手がそう何度も弾を外すとは思えない。

ということは、アヒルさんチームが気合と根性で避けたのだと、みほはそう思っている。

――――そう、思っていた。

 

「いや、本当は『当たる!』って思ったんですよ。相手の砲手がトリガーを引く音?みたいなのが聞こえて、あ、これは避けられない、って。でも八九式が――――」

「――――八九式が?」

 

兄の問いに、磯辺は満面の笑みで答えた。

 

「何もしてないのに、勝手に八九式が動いたんです。きっと八九式が避けてくれたんですよ!」

「………」

 

そんなわけない。

戦車は操縦した通りにしか動かない。

勝手に動いたということは、気づかない内に何らかの操作をしていたか、あるいは地形の影響。今回で言えば、雪で履帯がスリップしたとか、多分そういうことだと思う。

 

けれど、

 

「はっきゅんが、私たちのことを護ってくれたんです。どうしても勝ちたいって、私たちが思ってたから」

 

そんな風な顔をされたら、そういう事も言えなくなる。

本当に嬉しそうに、誇らしげに、八九式を見つめるアヒルさんチームに、それはただの偶然だという事は余りにも無粋だとみほは思った。

 

「そうか、お前達が言うんなら、きっとそうなんだろうな」

 

そして兄もまた、同じ思いだったに違いない。

そうじゃなければ、あんな顔はしないだろう。

まるで子どもを褒められた父のような、あるいは母を褒められた子のような、そんな顔を。

 

「西住、後は任せた。戦車の運搬はいつも通り俺がやるから、今日はここで解散だ。全員疲労が溜まっている。一応さっきケアしといたが、今日が初陣のカモさんチームは特にな。寄り道せず、真っ直ぐ家に帰らせろ」

「あ、はい。わかりました」

 

そういえば今日、今までで最長の試合時間だったっけ。

そう思い出すと、途端に疲労感がやってきた。

自覚していなかっただけで、身体の中にはしっかりと激戦の跡が残っていたということなのだろう。

そしてそれは、みほだけではなかったようで。

 

「うぅー……なんかすっごい眠くなってきた。こんなに疲れたの合宿以来かも」

「私は元気だ。夜は大得意だからな」

「早くお風呂に入りたいですね。もう身体が冷えてしまって……」

「あー分かります。私も手が悴んじゃって」

 

わいわいがやがやと、大洗女子学園一同に帰艦の雰囲気が漂い始める。

その光景を見ながらみほは、安堵の息を吐いた。

 

今日もし負けていれば、この光景はなかった。

きっと陰鬱な表情をして、重い足取りでの帰艦になっただろう。

ただ敗けただけなら、そこまで落ち込むことはなかったかもしれない。

けれどこの試合には、いや次の試合にも、大洗女子学園には廃校という二文字が掛かっているのだ。

 

負けていた時の事を考えて、みほは少しゾッとした。

この学校がなくなる。それはなんとしても阻止しなければならない。

だってみほは、もっと、ずっと―――――……

 

(――…そういえばお兄ちゃんは廃校のこと知ってたのかな?)

 

知らない、ということはないだろう。

神栖渡里は角谷杏が直接指名し、招聘した。

なら大洗女子学園が廃校の危機にある事は、当然話しておかなければならない事項のはず。

 

まぁ兄は廃校がかかっていようがいまいが、最初から優勝以外眼中にない。

知ってる知らないで何かが変わるわけでもないだろう。

けれどなんとなく、みほは確認しておきたい気になった。

 

そう言えば聞いたことがなかったと、そう気づいたのだ。

兄はどういうつもりで、この大洗女子学園にやって来たのか。

 

講師として一つのチームの全権を握る。

それは確かに魅力的な話だろう。

けれど戦車道との関わり方なんて、たくさんある。

別に講師でなくたって、兄には他の道があったはずだ。

それこそ、英国に留学してたのだから日本に拘らなくてもいいのに。

 

それがどうして、大洗女子学園なのか。

廃校という憂き目から救ってやりたいと、そう思ったのか。

もっと別の理由があったのか。

 

それを聞きたいと、みほは思った。

 

踵を返し、兄を追う。

 

「あれ、コーチ?はっきゅんだけなんか別の土台に乗ってますけど……」

「へ?本当だ」

「どこか別の所で修理するんじゃないですか?」

「はっきゅん、一番ボロボロだもんね」

「――――そのことで、話しておかなきゃならないことがある」

 

――――そしてみほは、一瞬で自分が何を聞こうとしていたのかを忘れた。

次に耳に入ってくる言葉が、あまりにも衝撃的だったから。

 

 

「八九式とは、ここでお別れだ」

 

 

時間が、止まる。

空間が、凍る。

言葉の意味を、脳が理解しなかった。

 

アヒルさんチームも、そしてみほも。

ただ茫然と、彼の顔を見る。

そして焼き付けた。

 

痛みを堪えるような。

悲しみを掻き消すような。

喜びが滲むような。

 

そんな何色かも読み取れない複雑な――――彼の表情を。

 

 

 

「完全に壊れた。あいつはもう、二度と走れない」

 

 

 

 




お知らせ

これまでは書き終わったら投稿、書き終わったら投稿という感じでやってきましたが、黒森峰戦だけは全7話を7日間毎日投稿する形でお送りしたいと思っています。

しかし現時点でプロット(初めてちゃんと作ってる)段階、黒森峰戦は未だ筆者の頭の中。
なので3週間以内の投稿という鋼の掟(2、3回破ってるけど)を黒森峰戦だけは無効にします。

年内完結を目指しているので、順当にいけば12/25~12/31の投稿となりますが、まぁ大体順当にいったことないので断言はできません。2か月3か月の空白期間ができるかもしれません。
それでも失踪だけはしません。なるべく早く投稿できるように頑張ります。

しかし何のアナウンスも無しは無責任かなと思うので、
作ったはいいものの飽き性が災いして放置していたTwitterアカウントに進捗具合を書いていきます。

SNSはよく分からないのであんまり関わってきませんでしたが、折角なので有効活用します。
興味がある方はススキト@shiroutoshudanをどうぞ。

それでは。
できるだけ早く帰ってくるようにしますので、しばらくお待ちください。





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幕間
幕間1 再会の舞台裏


一時間くらいで書いた、補足的な幕間です。
本編には特に関係なかったりあったり。


加筆:時系列は4話「再会しましょう」のすぐ後です。


先日大洗女子学園に戦車道の講師として着任した神栖渡里なる男性は、武部沙織の友人である西住みほの兄らしい。

そのことが判明したのは、つい最近のことであった。

 

 

 

うっかり学校に忘れ物をした沙織は、付き添ってくれた三人の友人とともに薄暗くなりつつある道を歩いて学校に帰ってきた。長い付き合いの友人は呆れたように息を吐き、長い黒髪の友人はにこやかに笑いながら、新しく出来た癖っ毛の友人は明るく、沙織の後をついてきてくれた。友達思いの良き友人だと思う。

 

忘れ物を今度こそカバンの中に入れ、帰路に帰ろうとしたとき、沙織はふと思い立った。

この四人の中にもう一人、いなければならない友達のことを。

長い黒髪の友人は言う。「みほさんはなんだか用事があると言って、学校に残ってました」と。

癖っ毛の友人は言う。「神栖渡里殿に話があるような雰囲気でした」と。

 

そのことは沙織も知っている。一緒に帰ろうとしたとき、同様の断りを受けたからだ。

しかし、と沙織は思う。あれからもう結構時間たってるし、そろそろ用事も終わっているのではないかと。

 

「みほを迎えにいこ」

 

沙織は言った。なんというか、この四人が揃っていて西住みほがいないということに、変な違和感を覚えてしまったのだ。ピースが欠けているというか、あるべきものがないような空白感が、沙織をそわそわさせるのだ。

 

沙織の言葉に三人は、いや二人は笑顔で頷いた。長い付き合いの友人は特に何も言わなかったが、心の中では賛同しているのを沙織は知っていた。

 

戦車を収めている倉庫にみほがいるとみて、四人は移動を開始した。

三人寄れば姦しい、といわれる女子が四人。当然、会話の花が枯れることはない。

道中の話題は、みほが神栖渡里に何の用事があるのだろうか、である。

 

癖っ毛の友人が「やっぱり戦車道のことじゃないですか?」と言えば、

長い付き合いの友人は「違う話かもしれないぞ」と返し、

長い黒髪の友人は「………もしかして、恋とか?」と続いた。

 

その時沙織に電流が走った。

 

県立大洗女子学園は名前の通り『女子高』。そこにいるのは女子の生徒だけであって、当然男子は皆無。一般的なボーイミーツガール的な青春からかけ離れた環境。閉ざされた地。出会いなど当たり前のようにない世界である。

みほはそんな世界の住人で、聞くところによると前の学校でも同様。

 

そんなところに現れたのは、ちょっとクールで固そうな印象だけど見た目も恰好も整った大人の男性。正体は生徒会に招かれた、自分たちの選択必修科目の講師。

 

男を知らないで生きてきた生粋のお嬢様と、年上の魅力を漂わせる男性。

そんな二人が出会えば、どうなるか。

 

沙織は生唾を呑んだ。聞いたら分かる、トキメクやつじゃん。

 

自然と足が速くなった沙織を、三人の友人は首を傾げながら追いかける。

 

全く関係ない話だが、一目惚れは科学的に実在するらしい。これは沙織が愛読している女性誌に書いてあったことだし、今ハマっている少女漫画にも書いてあった。つまり実在する。パーフェクト・トゥルーでファイナル・アンサーである。

統計的には素直で純粋な女性ほど一目惚れしやすいらしい。翻って我が友人はどうか。

ちょっと重たい過去を背負っている感じはあるが、属性で言えば間違いなく光。もしくは白。あるいはホワイト。主観的な意見だが、純粋と言っていいだろう。つまり確率的には、有り得る。

 

一目惚れからの即告白コンボ。沙織的にはもう少し段階を踏むのが理想だが、ちょっと天然でアワアワすると何しでかすか分からない感のあるみほならやりかねない。

否、あるいは。

好きという気持ちを伝えることができず、かといって遠くにいるのは嫌で近くにいてみるけど、何気ない行動一つ一つにときめいてしまって、その度に自分の中の好きという感情が大きくなっていくのを感じながらやっぱり告白に踏み出せなくてやがて立ちはだかる大きな障害試される愛時に傷つき時に悲しみ時に喜びそしてそれを乗り越えた二人は的な――――

 

「だめ、みほにはまだ早いと思う!!!!」

 

行かねばならない。突然の絶叫に目を丸くした三人を尻目に、沙織は足を早めた。

 

気持ちは分かる。好きになるということは理屈ではないし、恋とは心でするもの。心が赴くままに行動することは決して間違いではない。だがしかしである。流石に早すぎると沙織は思う。まだ戦車道が始まってないのに、ここでみほがゴールしてしまったらストーリー的には大惨事。一巻に収まる驚きのページ数である。

恋することも大事だけど、もっと友情とか友情とか友情とか、大事にするべきものもあると沙織は思う。

しかしもしみほが本気で恋してるなら、それを見守り、支えるのが沙織たちの役目でもある。

どうすればいいのか、沙織は二つの感情の間で揺れ動く。

 

倉庫の前まで来た沙織は深呼吸した。ドアは解放されていて、中の明りが漏れている所を見ると、ここに二人はいると見て間違いない。

 

癖っ毛の友人が言った通り、色気のない話をしているのなら良し。

何気なく混ざって、ついでに自分もヒロイン候補にしれっとスライドインさせて頂こう。

 

長い黒髪の友人が言った通り、色気のある話をしているのなら……ギルティ?いやギルティではないな。

そっとここから様子を伺って、事の顛末を見届けさせて頂こう。

 

沙織はもう一度深呼吸した。三人の友人はようやく追いついてきたようだが、そんなことは最早どうでもいい。

こちとら友人の未来とかかかってるのである。

 

―――――――いざ!!!

 

 

 

 

 

「でもほんとびっくりだよね~。まさかみほのお兄ちゃんが戦車道の講師としてウチに来るなんてさ」

「うん、私もびっくりしたよ……あととんでもない誤解が生まれたことにもびっくりだよ……」

 

行きつけのアイスクリーム屋で五人は甘い味に舌鼓を打っていた。ハードな練習を終え、疲れた体を癒すようにしてデザートを食す。そんな女の友情的な青春の模範的光景であった。

明るい様子で話をする沙織とは対照的に、みほはちょっとだけ表情を曇らせた。いわずもがな、『神栖渡里、不純異性交遊疑惑問題』である。当然のごとく誤解だったが、あやうくみほの兄は、男性として社会的に最強レベルな不名誉を負うところだったのだ。

 

「六年振りなんだっけ?それは思わず抱きついちゃうのも分かるなぁ……私も妹いるからさ、やっぱり家族と会えたら嬉しいもん」

「あぅ、お恥ずかしい所を……」

 

げに素晴らしきは、家族の愛である。親元を離れ、学園艦の上で一人暮らしをする沙織だって、帰省したときは妹とハグしたりする。会えない時間の長さだけ、愛情が大きくなっていくのは恋愛も家族愛も同じなのかもしれない。

 

「……沙織、とんでもない勘違いしてなかったか?」

「し!?してないよぉ~?やだなー麻子ったら」

 

 

疑惑の目が六つほど突き刺さったので、武部は明後日の方向を向いた。こいつら、やけに鋭い。しかししてないったらしてない。勘違いなんてしてないし、邪なことなんて一つも考えていない。武部沙織は、清廉潔白の純真無垢なのである。

 

「そ、そうだ!あれから神栖先生とは会ったりしたの!?」

「露骨に話をそらしたな…」

 

そこ、うるさい。

 

「え、えーと戦車道する時に毎日会ってるけど……」

「そういうことじゃなくて、学校以外で、の話」

 

沙織がそう言うと、みほは納得したように相槌を打った。時々、この友人は天然っぽいところを見せるのだ。

 

「まだ一回も会ってないかな。お兄ちゃん、練習が終った後も遅くまで学校に残ってて、あんまり時間取れないんだって」

「あ、そうなんだ」

「でも家の住所は教えてもらったから、会いに行こうと思えばいつでもいけるよ。今度の週末にちょっと行ってみるつもり」

「へぇ~どこに住んでるんだろ?やっぱり学校の先生達が住んでるとこらへんかな?」

「学校から近いところだったかな?えーと、確か―――――」

「あ、あの!!」

 

びしっ、と真っ直ぐ手を挙げて、優花里は話に割って入った。沙織とみほは、何事かと目を丸くして秋山へと視線を向ける。優花里は視線を右左と一往復させて、意を決したように言葉を紡いだ。

 

 

「あの、西住殿と神栖殿は兄妹なんですよね?」

「う、うん。そうだけど……」

 

それがなにか?と言わんばかりのみほに、質問している優花里が逆に狼狽えた。沙織もまた優花里の言わんとしていることが掴めず、明るい色の髪を傾けた。

 

「そ、そのぉ……言いづらかったら別にいいんですけど……」

「いいよ秋山さん。なに?」

 

温和な雰囲気のみほに、優花里はぐっと一度言葉を飲み込んで、そして吐き出した。

 

「兄妹なのに名字が違うじゃないですか?それってどうゆうことなのかな、と思いまして…」

 

あ、という声が漏れた。沙織だったかもしれないし、みほだったかもしれないし、アイスに夢中の五十鈴と冷泉だったかもしれなかった。

 

確かに、神栖渡里は『神栖』だし、西住みほは言わずもがな『西住』。二人が兄妹だというのなら、どちらも同じ字の姓を持っていなければならない。しかし二人の名字は、似ても似つかない響き。夫婦別姓、という言葉が最近あるが、兄妹が別姓というのは変な話であった。

 

いや、変な話ではない場合がある。沙織は瞬時に悟った。

例えば、離婚した親の再婚。

いわゆる、フクザツな事情というやつである。

 

沙織は戦慄した。

こういったものは「あれ?おかしいな?」と思っていても事情を察してあえて触れない、という類の話だが、この秋山優花里という少女は、そこをぶち抜いたのだ。

 

同時に沙織は、優花里がやけに口ごもっていたことの理由を理解した。

聞くべきか、聞かないべきか。そんな二択を彼女は持っていたのだ。

いや、だからって聞く方を選ぶのもどうかと思うけど。

 

しかし沙織の戦慄とは対照的に、みほは拍子抜けするほどあっさりした反応だった。

 

「あぁ、そのこと。えっとね、私とお兄ちゃんは―――――」

 

あ、言うんだ。沙織はまたもや驚いた。しかし全員が耳を大きくした。口には出さないものの気になるものは気になるし、聞けるものは聞いておきたい。女子とはそうゆう抗えない本能を持っているのだ。

ごくり、と沙織は息を呑んだ。他の者も同様だったかもしれない。

 

そしてみほが今まさに、優花里の質問に答えようとした、その時だった。

機械的な音が、突如として無神経に響いた。

 

「あ、ごめん電話だ。噂をすればお兄ちゃんから」

 

ずこー、と沙織は古いリアクションをするところだった。まさかそんな漫画みたいなタイミングで電話が鳴るなんて。

 

一言断って、みほは席を立った。帰ってきたのは、秒針が三周もしないころだった。

 

「ごめん、私帰らないと……お兄ちゃん今私の家に来てるみたいで…」

「え、そうなんですか?なんでまた西住殿の家に……」

 

優花里の問いに、みほは目を逸らした。そしてため息混じりに言う。

 

「家にあった食材が、賞味期限今日までらしくて……それで私の家に持ってくるんだって……」

「持ってくるって……なんで?」

「御裾分けじゃないなら、理由は一つだな」

 

首を傾げる沙織に、後ろから麻子が言う。意味が分からない沙織は更に首を傾げ、みほは乾いた笑みを浮かべた。

 

「お兄ちゃんは料理なんてできないから……っていうか家事が一切できないし……」

 

なのでみほに作らせよう、という魂胆である。あぁ、と優花里が曖昧な言葉を発した。

 

「じゃあ神栖先生の家にみほが行けばいいんじゃないの?」

「いま人が住める状態じゃないんだって……」

 

ふふふ、とみほは笑った。目は笑っていなかった。

マイナス的な意味で隙が無い神栖渡里に、沙織は最早何も言えなかった。みほの身体から出てる黒いオーラも見なかったことにした。

 

「まったく昔っから散らかすところは変わってないんだからっ。いちいちやることも雑だし、戦車道での真面目さの半分くらい日常生活に回したらどうなのっ」

 

ぷんぷん、と頭の上から煙みたいなものをだして、みほは鞄を持った。

 

「そうゆうことだからごめんね、また明日!」

「あ、うん。気をつけてね……」

 

そしてあっという間に、みほは夜の中に消えていった。

残された四人の間に、何とも言えない空気が漂う。

 

「あんな西住殿、初めて見ました……」

「みほさん、あんまり怒る性格には見えませんものね」

「怒ってるというほど、怒ってる風には見えなかったが」

 

確かに、と沙織は頷いた。出会った頃から今までのみほは、ふにゃりとした笑顔を浮かべることもあれば、悲しそうに俯くこともあった。しかしあんな風に、遠慮のない物言いをすることはなかった。

もし理由があるならば。

それはきっと、普段沙織たちに隠しているというわけではなく、

 

「神栖先生だから、あんな顔をするのかもね」

 

沙織は席を立った。一人抜けてしまったし、このまま長居することもない。自然と、解散するような雰囲気が流れていた。後に続くように、麻子達も席を立つ。

ふと沙織の横顔を覗いた麻子が言う。

 

「沙織、嬉しそうだな」

「え?私笑ってる?」

「口元が緩んでる」

 

沙織は口元に手を当てた。感触から察するに、沙織の口角は麻子の言う通り、上がっていた。

どうやら無意識のうちに口が笑っていたらしい。しかしすぐに、沙織はその理由に気づいた。

 

「友達の新しい一面を見れたからかも」

「………そうか」

 

麻子はそのとき、付き合いの長い者にしか分からない程僅かに、表情を変えていた。それは沙織と同じものだった。

 

アイスクリーム屋さんを出て、街灯が僅かに照らす道を歩いていく。数十歩ほど歩いたとき、秋山は思い出したかのように言った。

 

「そういえば結局、神栖殿と西住殿の関係は分からず仕舞いですね」

「そうだね。でもいいんじゃない?」

 

不思議そうに秋山は首を傾げた。

沙織は既に、神栖渡里とみほの関係など些細なことで、聞いても聞かなくてもいいと思っていた。それは決して、マイナスな意味ではなかった。

秋山は分からないそうなので、沙織は満面の笑みを浮かべて教えてあげた。

 

「みほにあんな顔させることができるんだから、きっと良い関係なんだよ。二人の間にどんな事情があっても、あの二人は『兄妹』。それでいいじゃん」

 

ぐうたらな兄を口では喧しく言うものの、なんだかんだ世話を焼いてしまう妹。

誰がなんと言おうとそれは間違いなく、兄妹の姿なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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幕間2 ツー・カー

本来ならば大洗女子学園VS聖グロリア―ナ女学院の練習試合の話を投稿する予定でしたが、読み返してみてイマイチ出来が良くなかったので書き直しています。
なので別の話(時間稼ぎ)を。

特に頭を使って書いたわけじゃない(クズ)ので気楽に読んでくださると幸いです。

本編にまだ登場していない人物は名前とセリフが出ません。ご想像にお任せします。


加筆:時系列は4話「再会しましょう」の少し後です。


『お兄ちゃーん!これなーんだ!?』

 

不意に声をかけられ、渡里は紙に走らせていたペンを止めた。

そちらに目を向けると、珍妙なポーズを取っている末妹がそこにいた。床に座り込んだ体勢から、腕を鳥のように大きく広げ、足は二つ揃えて真っすぐに伸ばし、頭は少し引っ込める

 

『………』

 

何かって言われたら、滑り台を滑っている最中の子どもの真似にしか見えない渡里だが、直感的にそれは違うと思った。

この妹が、そんな簡単な問題を出してくるわけがない。こういう何の脈絡のない時はいつだってそうだった。

 

注意深く観察する渡里に、末妹はヒントのつもりなのか、両腕をバタバタと忙しなく動かし始めた。その瞬間、渡里の脳に閃光が走った。イメージで言うと、豆電球に光が灯った感覚だった。末妹の姿と記憶にある一枚の写真がピタリと重なったのである。

渡里は確信とともに、その言葉を口にした。

 

『T-35重戦車』

『せいかーい!!』

 

心底嬉しそうに駆け寄ってくる末妹に、渡里もまた不思議な満足感を得て、再びペンを走らせ始めた。

 

『すごいねお兄ちゃん!これお姉ちゃんもお母さんも、みんなわからなかったんだよ?』

 

でしょうね、と渡里は心の中で呟いた。戦車のモノマネなんて普通砲撃音とか駆動音の声帯模写だし、まさかボディで表現してくるとは誰も思うまい。ましてやT-35重戦車なんて、常人には不可能。千手観音がワンチャンできるようなモノマネだし。

 

正解してくれたのがそんなに嬉しかったのか、末妹は「にへへ」と頬を緩ませながら体を揺らしている。やめなさい、机まで一緒に揺れて書きづらいでしょうが。

 

『お兄ちゃんさっきから何書いてるの?』

『夏休みの宿題だよ』

 

げんなりとした表情で、渡里は呟いた。そろそろ夏休みも中頃に差し掛かっているが、いまだ宿題に一切手をつけていなかったことが鬼にバレてしまったのである。夏休み終了三日前くらいからやればいいや、と呑気に考えていたらこのざま。あえなくお叱りをくらって、居間で一人静かにペンを走らせることとなってしまった。

 

『お前もそろそろやらないとまずいんじゃないか?』

『うぐっ、わ、私はちゃんとやってるもん……』

『こっち見て言え』

 

ちゃんと毎日コツコツやってる奴はそんな下手くそな口笛吹かない。

渡里はため息を吐いた。上の妹は真面目にやってるのに、一体誰に似たんだろうか。あんがい母親のDNAなのか。だとしたら渡里はすごくおもしろいのだが。

 

『お兄ちゃんを見て育ったから、しょうがないよね!』

『あ、お前誰にそんな言い方教わったんだ』

 

とんでもない責任転嫁をして、末妹は勢いよく立ち上がり、逃げるように襖の向こうへと消えていった。相変わらず戦車道以外の勉強の話は苦手らしい。

……と思っていたら、すぐに帰ってきて。

 

『お昼ごはんができたから、お兄ちゃんを呼びにきたんだった』

『あ、もうそんな時間だったのか』

 

黙々と取り組んでいたせいで時間を忘れていたが、時計を見ればぴったり12時。お昼時とわかった途端、急にお腹が空いてきた。

渡里は机の上を片づけることもなく立ち上がった。どうせ今日はこの部屋でカンヅメだし、散らかしっぱなしでも構うまい。それよか飯である。

 

『昼飯なんだって?』

『ソーメン!』

『夏だなぁ』

 

廊下を歩きながら、渡里はふと庭を見やった。眩しいくらいに差し込む熱線によって、景色がゆらゆらと揺れている。陽炎が現れるくらい暑いということらしい。蝉も喧しいくらいに鳴いている。

まさしくそれは夏の風景。いつかとは違う、鮮やかな景色を渡里は感慨深げに見つめていた。

 

『つれてきたよー!』

『連れてこられましたよー』

 

部屋に入ると、すでに昼食の準備はできていた。長方形の机の中央にどんと載せられたソーメンの束に、薬味が入った小皿が添えられている。

 

長方形の長い辺には、行儀よく上の妹が座っていた。こちらを見るなり口をvの字にして、トントンと自分の横のスペースを叩いた。そこに座れ、ということなのだろうか。とりあえず胡坐を書いて座布団に腰を下ろすと、上の妹はどこからともなく本を取り出した。

 

その表紙に『戦車』の二文字を視認した瞬間、渡里の背中をうすら寒いものが駆け上っていった。慌てて席を移動しようとするが、時すでに遅し。渡里はがっちりと衣服を掴まれていた。

しまった、という顔をする渡里。対し上の妹は捨てられた子犬みたいな目をしている。この瞬間、渡里は自分の不利を悟った。

 

『わかったわかった…聞いてやるからそんな泣きそうな顔すんなって。なに、今日は防勢作戦について?しかも退却戦?なんでもまたそんな長引きそうな話題……いや、嫌じゃないから、うん。ほんとほんと。でもとりあえずお昼ご飯食べようぜ?』

 

ぐいぐい服を引っ張ってくる上の妹に渡里は苦笑いするしかなかった。普段は大人しいが、こういう時は末妹にそっくりの頑固さだから困る。

上の妹は度々、渡里に戦車道のことを訊いてくる。それだけなら別にいいが、質問魔なので一度話すと簡単には解放してくれないのだ。

 

渡里も戦車道の話をするのは好きだが、今日は宿題せよ、という鬼からの御達しがあるのだ。はたしてあの居間に帰れるのはいつになるのか。

いやいっそ、ポジティブに宿題から逃げる格好の言い訳を手に入れたと考えると――――

 

『はっはっは、やだなぁ。そんな良からぬことは当然考えてませんって―――』

 

いつの間にか背後にエプロンをつけた鬼が立っていた。右手に雪平鍋、左手にはお玉。ゴゴゴ、と背後から文字が浮かび上がるくらいの迫力を漂わせ、妹たちの母はそこにいた。

ダラダラ、と夏の暑さとは別の要因で汗が吹き出る渡里。しばらくの均衡があって、不意に圧力が霧散したので渡里は胸を撫で下ろした。一気に涼しくなってしまった。

 

『いただきまーす!』

『いただきまーす』

 

母の到着が、お昼ご飯開始の合図だった。妹たちの父はお仕事で外出中の様である。冷えたソーメンを冷えためんつゆに浸して啜ると、胃の中から体の熱を冷ましてくれるようで、とても美味である。さすが夏の風物詩。

しばらくズズーっとみんなで啜っていると、不意に末妹が言った。

 

『お母さん。お兄ちゃんはあのモノマネ分かったよ!!』

 

嬉しそうにそう言う娘の姿を見て、母はこちらに視線を移す。

 

『え、なにその顔』

 

ありえないくらい怪訝な目で見られた。まるで火星人を見るかのような視線に、渡里のメンタルは5のダメージである。ついでに横にいる上の妹からも変な(ものを見る)目で見られ、プラス6ダメージ。

 

『なにってT-35重戦車だよ。ほら、あの砲塔いっぱいついてるやつ』

 

答えを聞かれ、渡里がその戦車の名前を口にすると、二人は納得したような表情に―――――はならなかった。

むしろ妹の残念な表現力と、渡里の気持ち悪いくらいの理解力に、ますます顔をしかめるのみである。

……けっこう分かりやすかったと思うのだけど、ここまでドン引きされることなのだろうか。手をバーッとしているところなんかすぐに多砲塔を表現してるなぁ、と思い至ったもんだが。

 

『以心伝心?そこまでのもんかなぁ……これが分かりやすいだけじゃ…?』

 

妹たちの母の言葉に、渡里は首を傾げた。サラッと自分の横に座っていた末妹を見ながら、ソーメンを啜る。末妹は末妹で、以心伝心の意味が分からなかったのか、無垢な瞳で渡里と同じようにソーメンを啜っている。

……ふとなんとなしに、渡里は空っぽだた末妹のコップに麦茶を注いでやった。

すると突然、末妹は「ミッ?!」という謎の悲鳴を上げた。何事か、と一同の視線を集める中、末妹は頬を膨らませながら胸を叩きはじめた。……ソーメンが変なとこで詰まったのだ。

慌ただしい末妹と、アワアワする上の妹に挟まれながら、渡里はため息を混じりに注いでやった茶を渡す。もぎ取るような勢いでコップが持っていかれ、末妹はゴクゴクと喉に流し込んでいく。そして一拍置いて、勢いよく息を吐きだした。峠を越えたのだ。

 

『あ、ありがとお兄ちゃん……』

『今日の絵日記に書くことができてよかったな』

 

からかうように笑う渡里に、末妹はまた頬を膨らませた。

 

『え?さぁ……なんとなくかなぁ。喉詰まらせそうな雰囲気してたし』

 

妹たちの母の質問に、渡里は曖昧に答えた。なぜ先に茶を注いでいたのかなんて、本当にわからない。確信があったわけでもないし、意味があってやったことでもない。ただ漠然とそうしたほうがいいと思っただけだし。

 

『いやだからこんなん以心伝心でもなんでもないって』

 

渡里は渋面を作って茶を啜った。何年も一緒に暮らしてる家族ならこれくらい、別に珍しくもなんともない。渡里は妹たちの母が、末妹が喉を詰まらせる直前にコップを差し出そうとしていたことに目ざとく気づいていた。

 

『いしんでんしんって?』

『なんにも言わなくたってお互いの考えとか、気持ちがわかることだよ。特別仲良しな人たちのことをそう言うんだ』

 

へぇー、とのんきな声を出す末妹。ちゃんと分かってるのか分かってないのか。

 

『私とお兄ちゃんのことだね!』

『わかってなかったわこいつ』

 

えー、と不満げな声を上げ、抗議するような目を向けてくる末妹に、渡里はそのおでこを軽く小突いてやった。目を><の形にして呻く末妹に渡里は思わずため息である。違うって言ってんのに。

 

『だってお兄ちゃんだけだよ、モノマネわかったの』

『………それはそうだけど』

 

それを言われてしまうと、渡里は何にも言えなくなる。

むふふーん、と気分よさげに笑う末妹とは対照的な渡里の表情である。

 

『あ?なに?』

 

急に末妹とは逆方向から服を引っ張られ、渡里がそちらを向くと、そこにはこちらをじーーーーっと見つめる上の妹の姿が。

なにかを語りかけるように渡里の瞳を覗き込んで止まない。

 

『………』

 

とりあえず渡里はじっと見つめかえしてみた。お互い何も言わず語らず、という変な空間が形成される。

……いやまぁ、変態的な理解力を持つ渡里には、この真顔でガン見してくる妹が何をしたいのか、あるいは何をしてほしいかは既に分かっているのだが。

ここまで露骨にやられると、ちょっとした悪戯心が働いてしまうわけで。

 

なので渡里は、全てを分かった上で、あえてここは知らん顔をしてみた。

 

上の妹はこの世の終わりみたいな顔をした。

 

『あ、ウソウソ。わかってるわかってる、いやほんと。大丈夫だってちゃんと通じてるから!』

 

じわっ、と瞳に雫が溜まったかと思うと、口を真一文字にしてぷるぷると震えだしたので、渡里は慌てて空いているコップに緑茶を注いでやった。

 

『お前は麦茶より緑茶派だもんな。兄ちゃんちゃんとわかってるぞーだから泣くなよー』

 

依然として涙目で服を放そうともしない上の妹をなだめながら、渡里はやりすぎたかと苦笑した。

普段は毅然として歳不相応の成熟さを見せる上の妹だが、内面はまだまだ小学生のそれ。隠しているつもりなのか知らないが、根っこは寂しがり屋で甘えん坊なところがあったりする。

今のも末妹が渡里と以心伝心で仲良しだなんて言うもんだから、自分もそれくらい仲は良いんだと見せつけたい、ヤキモチのようなものだったのだろう。

 

そのあたりが何ともいじらしく、可愛らしく、そして嗜虐心を煽るところである。末妹とは別ベクトルでイジワルし甲斐があるので、ついつい渡里もあまのじゃくなことをしてしまう。その度にこんな感じで慰めないといけないのだけど。

 

『え?罰として退却戦だけじゃなくて包囲の破り方も教えてほしい?えーめんどくさ』

 

ペシペシと太ももを叩かれたので、渡里は大人しく首を縦に振った。いい加減にしないと本当に拗ねられてしまう。そうなったらご機嫌取りにかなり苦労するのである。その辺の境界線上で反復横跳びするのもスリルがあって楽しいのだが。

 

『えー!?お姉ちゃんばっかりずるい!私もお兄ちゃんと遊ぶ!』

『話聞いてたか?遊びじゃねぇよお勉強だぞ。お前の苦手な』

『きのうはきのう、今日は今日だよお姉ちゃん!そもそもお姉ちゃんだってきのうの夜は一人じめしてたもん!』

『おい人を挟んで言い合いすんな。袖引っ張るな。腕も掴むな』

 

めんつゆを持つ左手と箸を持つ右手がぐらんぐらんするせいで、渡里はまともにソーメンを食えない。めんつゆは器の中で激しく波打ち、箸先のソーメンは上下左右にダンスダンスである。成長期を迎えた身体は多少のじゃれつきでは小揺るぎもしないはずだが、どこにそんなパワーが眠っているのだろうか。

 

ぎゃあぎゃあ、とキャットファイトが行われること数十秒。渡里がなんとかしてソーメンを食べようとし試み、麺に浸ったつゆが引っ張られた腕のせいで勢いよく弾け、あえなく渡里の顔面と机をびしゃびしゃにしたとき、鬼は動いた。

 

『……はい、すすすすすいません』

 

ギロリと、と鬼も裸足で逃げだしそうなくらいの眼光で三人は睨まれた。カチコチに凍りついた三人は冷や汗を滝のように流しながら、すみやかに元の位置に戻り、行儀よく正座した。代表して謝った渡里だが、あまりの冷気に呂律が怪しかった。お食事中に暴れるのはやめましょう。

 

『ん?宿題?えーっと、三分の一くらいかな』

 

妹たちの母からの質問に、渡里は指を折って数えた。夏休みの宿題なんて所詮は復習レベル。成績だけ見れば優秀な渡里にとっては、もはや学習課題ではなくただの作業。得意な国語、社会科系はすでにパパっと終わらせている。ちなみにこの家では『必殺・答え写し』は禁忌の技であり、見つかった瞬間それはもうとんでもない目に遭う。口に出すのも恐ろしいので言わないが。なので当然、渡里も自力で解いている。

 

まぁ、夏休みなのに朝の七時に文字通り叩き起こされ、そこからノンストップで宿題をやってれば、そりゃあ三分の一くらい終わるというものである。妹たちの母も、まぁ当然ね、みたいな顔で特に驚きもしない。

 

『っていうか俺宿題やんないとだから、お前らと遊んでる暇ないわ』

『ええーーーー』

 

二人の妹が異口同音に非難してくるが、渡里にはノーダメージである。なぜなら渡里が宿題をするのは、偉そうに言うことではないが自分の意志ではない。この家の絶対的存在からの御達しなのである。「あの人に言われてるからー」はこの家にて最強(の言い訳)。止めることは誰にもできないのだ。

渡里がそれを持ち出せば案の定、二人はあっけなく沈黙した。

 

『悪いな。話は晩飯前にまた聞いてやるから、そんなむくれんなって』

 

むすっとしだした上の妹をあしらいつつ、渡里は華麗にエスケープの体勢をに入る。毎日家にいる渡里も大概だが、だからって毎日妹たちに付き合わされるのも辟易モノである。それも寝る時以外はずっと一緒なんじゃないか、くらいの粘着具合となれば尚更である。

 

まったく妹たちの母は、いいタイミングでいいご命令を下さった。渡里が「一人の時間がほしいなぁ」と密かに思っていたのを敏感に感じ取り、その機会をくれたのだ。実にありがたいことである。

 

『ご馳走様でした。それじゃ俺はこの辺で――』

 

折角の行為に遠慮なく甘えようと、渡里はそそくさと部屋から出ようとした。以心伝心、というのはこういうことを言うのだ。何も言わずとも察してくれて、さりげなく、自然に、そして密かに気遣う。通じ合うとはどういうことか、妹たちもはやく気づいてほしいものである。彼女たちの母に倣って。にらめっこなら日本最強なんじゃないかと思うくらいの仏頂面でも、その中にはちゃんと優しさがあるのだ。マジ感謝。渡里は笑みを浮かべて敷居を跨ごうとした。

 

なのでその寸前、

『三分の一も終わってるなら、今日はもう自由にして構わない』と言われたときは、

文字通りひっくり返ってしまった。それはもう、マンガみたいに。

 

『い、いやいや……ちょっと待ってそんな裏切り方ある?』

 

なんのこと、とすまし顔をする妹たちの母を、よろよろと立ち上がった渡里は信じられないような目で見た。

 

『ぐふぅ、いやそれはそうだけどそうじゃないじゃん!』

 

そんなに宿題がしたいならそうしなさい、と言われ渡里は思わず唸った。

宿題がしたい?そんなわけあるか。そんなもんできることならしたくない、永遠に。しかし表面上そんな素振りを見せていたのは、宿題をすることが妹たちからの逃げる恰好の口実だったからだ。否、正確には()()()()()()()()()()()()()が口実だった、のに。

 

同じ口から『しなくていい』なんて言われてしまったらその口実が消えてしまうではないか。それってつまりどうゆうことかと言うと。

 

『――――ッハ!?』

 

突如殺気を感じ取った渡里は慌てて回避行動を取ろうとした。しかしそれはほんの僅かに遅かった。

 

『ぐふっ』

 

末妹のこうげき!ずつき!

 

『ごはっ』

 

上の妹のこうげき!足払い!

 

びたーん、とカエルみたいに畳に叩きつけられた格好の渡里は、二人の妹によって両足を確保され、自立不可能になった。

地べたに這いつくばる渡里は、下から諸悪の根源を見上げた。相変わらずの仏頂面で、あちらはこちらを何の感情もない目で見ている。その目に気遣いとかそんなものはなかった。

 

うそやん、以心伝心とは一体なんだったのか。全然通じ合ってなかった。

 

(――――いや違う!)

 

しかし理解力に定評のある渡里、瞬時に仏頂面の奥にある感情に気づく。

それは至ってシンプル。本当に、純粋で簡単な一つの答え。

 

『ああああああああああああああああ』

 

ずるずるー、と碌な抵抗もできず、敗者の遠吠えをあげる渡里は自分が望んでいなかったポーズで部屋を出ることになってしまった。今の自分はきっと熊本一情けない姿をしているだろう。

 

(あの人、娘の方が大事ってかーーーーーーーー!!)

 

そりゃそうかもしれないけども!だからって渡里を売り飛ばすような真似しなくても!別に全く妹たちに構わないと言ったわけでもないのに。兄なら何がなんでも妹と遊べということか。もしかして心の中で仏頂面仏頂面と連呼したのが聞こえていたのだろうか。

 

『ちょ、お前ら!小学校低学年の女子が中一男子を引きずるな!どんな力してんだ!?あぁくそ、これだから西住流は―――!』

 

掃除が綺麗に行き届いたフローリングの床は、これっぽっちも掴むことができない。すごいねお手伝いさん、こんなにツルツルにしてくれるなんて。お陰様で渡里はカーリングみたいに廊下を滑っていく。

 

ひゅー、と景色が後ろに流れていく。すでに仏頂面の人は見えない。

っていうか妹たちも見えない。うつ伏せで引きずられているから。

 

『わかった!わかったからせめて、せめて居間の片づけだけさせてくれ!じゃないと俺ころ―――』

 

故に渡里には知る由もなかった。妹たちが心底楽しそうな顔をしていることを。

妹たちの母が、その仏頂面をほんの僅かに崩して、口元に穏やかな笑みを浮かべていたことも。

 

 

この後めちゃくちゃ戦車道の話をした。

その後めちゃくちゃ三人で外で遊んだ。

最後にめちゃくちゃ渡里はおこられた。

 

 

 

 

「おーーー高校生の一人暮らしにしては立派な部屋だなぁ」

 

ずかずか、と兄は玄関をくぐるなり、なんの遠慮もなしに奥へと進んでいった。その姿をみほは、ほんの少しの違和感と共に見ていた。

ここが女子高の学園艦の上で、なおかつここが女子寮であることを考えると、目の前の光景はまぁまぁ異常事態ではなかろうか。

ぱんぱんに詰まったビニール袋を両手に持ち、もの珍し気に辺りを見渡す目の前の男。自分の兄じゃなければここまでの無遠慮は許さなかっただろう。

 

「お兄ちゃん、あんまりじろじろ見ないで」

「あ、悪い悪い」

 

全然悪びれる様子もなく、兄は手に持ったビニール袋を床に置いた。

客観的に見て、みほの部屋は散らかっているというほど散らかってはいない、はず。物は綺麗に片づけられているし、掃除も小まめにしているからホコリも少ないと思う。

とはいえども、あんまりキョロキョロされるのも少し気恥ずかしいので、兄にはとりあえず一仕事してもらおう。

みほは鞄を置いて、兄が持ってきたビニール袋の中を覗き込んだ。

 

「わ、なにこれ。野菜からお肉までたっぷり……」

 

そこには色とりどりの食材がこれでもか、というくらいに詰め込まれていた。

どれくらいかというと、いくら一人暮らしの成人男性と言っても二日三日では消費できないくらいである。スーパーで買ったというなら、余りにも計画性がなさすぎるのではないかこの兄。。

みほの視線から考えを読んだのか、兄は心外そうに口を開いた。

 

「俺がこんな無駄遣いするわけないだろ。これは全部、俺が買ったんじゃなくて貰いもんだ」

「もらった」

「そうそう、引っ越し祝いだか就職祝いだか知らないけど。あれもやるこれもやる、となんでもホイホイ受け取っていたらこの様だよ」

 

参った、とでも言うようなポーズをして、渡里もまたビニール袋を覗き込んだ。

 

「半分くらいは生徒会からだな。後は近所の人」

「生徒会の人からも貰ったんだ」

「給料が現物支給だからな」

 

え゛、と固まったみほを見て、渡里はイジワルに笑った。その表情からみほは全てを察して、非難の視線を送った。

 

「なんにせよ有難いご厚意だよな」

「そのご厚意をお兄ちゃんは、今まさに腐らせようとしてたけどね」

「まだ腐ってないからセーフ」

 

みほは大きくため息を吐いた。

兄が今日、自分の部屋をわざわざ夜に訪れてきた理由は、まさにそこである。

 

「頼むぞ、みほ。こいつらが料理として無事転生できるかどうかはお前にかかってる」

 

無責任にそう言い張るこの兄に、みほは最早何も言うことはできなかった。

何を隠そうこの兄は、色々な人から貰った食材を、たった一度も調理することもなく、なんなら一度も触ることなく、消費期限切れで廃棄する一歩手前まで放置するという中々なことをやらかしているのである。そうなる前になんとか使えよ、とも思うがこの兄、自炊能力が皆無。というか家事全般において著しい能力の欠損を感じさせるレベルのダメ人間なため、料理という選択肢はまずない。

 

ということで白羽の矢が立ったのが、みほである。夕方、武部達と放課後にアイスクリームを楽しんでいるところに電話一本で呼び出されたのだった。

 

「とりあえず、消費期限切れそうなの全部取って。野菜はまだ日持ちすると思うから、冷蔵庫の中に入れておいて」

「よしきた」

 

兄に食材の選別を命じ、みほは冷蔵庫前に陣取る渡里を飛び越え、部屋の奥へと進んだ。さすがに制服のまま自宅にいるのも、料理するのも嫌だった。

 

~~~~それから十分後~~~~

 

「じゃあ作ろっか。はい、お兄ちゃん」

 

ぽん、と渡されたものを素直に受け取る兄は、一拍遅れて首を傾げた。

 

「え、待って。何作んの?」

「なにってカレーだよ、カレー。お兄ちゃんはお米炊く担当」

「カレーって……」

 

シンクに並べられた食材を見て、渡里は不思議そうに唸った。それもそうかもしれない、とみほは思う。普通カレーと言ったら、入る物は肉、じゃがいも、ニンジン、玉ねぎ、辺りが定番で後は家庭によって多少増えたり減ったりするだろう。

対しシンクに並べられているのは、牛肉、鶏肉、豚肉、魚介類、申し訳程度のニンジン一本。

渡里が首を捻るのも当然のラインナップであった。

 

しかしこれにはちゃんとした理由があるのだ。

 

「仕方ないでしょ。こんないろんなもの使う料理なんて私作れないよ」

 

みほの料理スキルは客観的に見て中の中。料理本を見ていれば失敗はしないが、何も見ずに美味しく作れるほど達人というわけでもない。武部ほどの料理上手なら、材料を見ただけで何品目もの料理が思い浮かぶのだろうが、みほにはそんなことできない。

ということで、カレーである。

 

「カレーってこんな肉肉しいものだっけ……ってか普通に貝とか魚とかあんじゃん」

「大丈夫だよ。世の中の食べ物は全部カレールーに入れれば美味しく食べられるから」

 

何気なしにそう言って包丁を握るみほに、兄もまた覚悟を決めたようだった。

カレーライス。それは万能の料理。何を入れても、何と混ぜても、味は劣化しない……はず。

 

「じゃあやるか。………あれ、みほアレどこ?」

「お兄ちゃん、今どき一合升でお米は量らないよ。はい、計量カップ。メモリの読み方くらい分かるよね?」

「任せろ、六合くらい炊けばいい?」

「お兄ちゃんの中の計量カップどうなってるの?六合も炊いたら大変なことになるよ………三合で」

 

あいよー、と炊飯釜に米を入れていく兄を尻目に、みほもまた調理に入った。とりあえず肉は一口大に、ニンジンは適当に切って、魚介類は………よくわからないからテキトーに切ろう。まさか下処理がないとお腹を壊すようなものはないだろうし、最終的に煮込むのだから大丈夫だろう。火を通せば問題はない、武部もそう言ってた。

 

「あ、ごめんお兄ちゃん――――」

「なに?皿か?ちょっと待てよ……」

「小さいの二つあるから、それで」

「これでいいか?」

 

みほの想像通りの小皿を二つ寄越して、兄は米を洗う作業に入った。勢いよく水を出し、それ以上の勢いで米をかき混ぜるその姿は豪快そのもの。あまりにも豪快すぎて、水と一緒に米も飛ぶ始末である。まぁどうせあの兄のことだから、規定量なんて守ってはいない。三合ピッタリよりちょっと多いくらいの米があの釜の中に入っているはずだから、多少吹っ飛んだほうがむしろいいのかもしれない。……いやよくはないけど。

 

「よし、これでおーけー。西住隊長、炊飯釜のセット完了いたしました」

「ではお兄ちゃん一等兵はそのまま鍋を取り出して、そこに油を引いてください」

「え」

「具材を先に焼いてから煮込むの。いきなり水で煮込まないよ」

 

何も言ってませんけどー、と言う兄だが、みほはお見通し。料理のりの字の書き方も知らないレベルの兄の意見なんてこの場において信頼性ゼロである。

 

「あ、お兄ちゃんの出番はそれで終わりだから」

「クビになるの早」

 

愕然とする兄だが、みほ的には米洗いまでが限度ギリギリである。そこから先はちょっと、いやかなり調理に関わってほしくない。

それよか兄でもできることは他にある、とみほは目線で訴えた。

 

「はいはい、洗い物でもしとけばいいんだろ」

「それが終わったら―――」

「食器出して、あとはじっとしてまーす」

 

みほは声を出さずに笑った。言葉にしなくても伝わる、というのは変な感覚だが、不思議と心地いいものである。

ふと、みほは昔の事を思い出した。以心伝心。それは『なんにも言わなくたってお互いの考えとか、気持ちがわかること』。今この状態は、どうだろうか。

 

不器用な手つきで使い終わった包丁やらまな板を洗う兄の横で、みほもまた鍋を振るう。

狭いシンクで二人は肩を並べ、黙々と作業をした。

兄の家事スキルがゼロで良かった、とみほは思った。お蔭で包丁一つ洗うのに、兄はとても時間がかかるのだから。

 

その後、綺麗に拭かれた食卓にはそれはもう見事なカレーライスが並んでいた。

その中身は実に風変りなものだったが、味は実に美味なものだった。いや、実際はどうかわからないが、ともかくこの二人の舌はそう感じた。

それはきっと、料理の腕とか食材の質とか、そんなものとは別の所に理由があると、みほは思った。

 

「意外となんとかなるもんだな。雑多な具材と半端な腕でも」

「ごめんお兄ちゃん、手が滑った」

 

びゅん、と風を切って突き進んだタオルを、兄は紙一重で避けた。どうやら先読みされていたらしい。考えを読めるのはお互いさまということか。

 

「でもま、助かったよ。お陰様で近所中に土下座して回らなくて済む」

 

ケラケラと笑う兄だが、みほは笑えなかった。そんなことをしたら学園艦中で噂になるだろう。その噂の人と兄妹だとバレてしまった時、みほはもうここにはいられない。恥ずかしくて。

 

「これを機に少しでも料理を覚えたら?」

「大丈夫大丈夫、ウチには食材を持っていったら完成品に変えてくれる錬金術師がいるから」

「その人『西住みほ』って名前じゃないよね?」

「わお、同姓同名かな?」

 

舌戦ではやはり兄の方が一枚上手と言わざるを得なかった。昔はここらでずつきでもやっていたかもしれないが、流石に花も恥じらう女子高生にそんなことはできなかった。

いやそれ以上に、

 

「……毎日はやめてね」

 

ほんの少しでも、心の片隅で嬉しいと思ってしまっている自分がいる時点で、元々勝ち目などなかったのかもしれない。

 

「そんなに暇じゃないかな」

 

意地悪に言う兄に、みほはむすーっとした。

 

それからは他愛もない話をいくつもした。ほんとうに、明日になれば忘れてしまいそうな些細な話を、いくつも、いくつも。

 

 

 

時にこんなことがあった。

旨い旨い、とカレーライスを文字通り流し込んでいた兄が突如として、「ミッ?!」という奇妙な悲鳴を上げた。頬を膨らませて胸を叩く兄に、みほは冷静にお茶が入ったコップを渡した。ごくごく、と流し込んで一拍、ぷはーと息を吐きだした兄は峠を越えて。

 

「助かった。でもなんで喉を詰まらせる先に茶を注いでたんだ?」

 

そういう兄に、みほははっきりと答えた。

 

「なんとなく、そんな気がしただけだよ」

 

不思議そうな顔をする兄を見て、みほはにっこりと微笑んだ。

あいにく絵日記は、もう書いていなかった。

 




特に本編とは関係ない(こともないかもしれない)話。
オチはなかった。


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幕間3 その後のお茶会

約一か月の時を経て投稿されるのが、こんな話。

独自設定やら何やらの地雷要素が結構ありますので、無理な方は止めた方がいいと思います。

本作のダージリンはこんな感じ。格言を喋らないのは、きっと作者の知識量のせい。





その時の自分は、きっと自惚れていたのだと思う。

『男性でも戦車道に参加できる』、そんな言葉にまんまと騙され、お世話になった人を裏切り単身英国へ渡った。

いや騙された、というのは違うか。男性でも戦車道に参加することは、変則的ではあったが確かにできた。ただ過程で、嫌がらせとしか思えないようなことがあっただけだ。

一体何人の人間が心折られ、夢半ばで去っていったのか。参加資格を手にすることができた自分は、きっと幸運だったのだろう。

 

幸運。果たしてそうだろうか。今思えば、それは更なる苦難の幕開けだった気がする。

八百長を告発され、大規模な改革が行われた英国の戦車道協会。そのゴタゴタに乗じて滑り込ませた、男性の戦車道参加に関する規則は、きっと誰にとっても邪魔な存在だった。八百長問題を嫌悪し、立ち上がり、腐敗した協会を打破し新たな秩序を作り上げた高潔な精神を持つ彼女たちにとっても、それは例外ではなかった。

いやむしろ、これ以上不浄な存在を戦車道に近づけてなるものか、と一層苛烈に男性を排除しにかかっていた。

 

それを自分は、ただ黙って見ていることができなかった。

英国に渡って、綺麗なものばかり見てきたわけではない。参加資格を手にする過程で、執拗な虐めを、迫害を受けたこともある。男性が戦車道に関わるな、と石を投げられたことも少なくなかった。

自分はそれに耐えてきた。結果さえ出せば誰も文句は言わないだろうと、努力を重ねた。その先に自分の夢があるから。

だがこれは違う。黙っていたら、容赦なく自分の夢が摘み取られる。家族も、友人も、何もかもを捨てて追い求めた未来が、途絶えてしまう。

 

立ち上がるしかなかった。結果だ、結果さえ出せば、自分の夢は守られる。そのためなら、とあらゆる手を、人脈を、金を使った。

そうして男性の戦車道参加資格を賭けた、女性にとっても男性にとっても重要な戦いが開かれた。起死回生の一手だった。

事ここに至れば、後は単純。ただ勝てばいい。たとえどんな形だろうと、勝ちさえすればいい。

 

しかし現実は厳しかった。向こうが用意したのは、当時最高峰の選手たち。ただ憧れだけでこの場に立っている男性選手たちは、あっけなく蹂躙された。

あっという間に黒星が積み上がり、残されたのは自分だけ。

自分が負ければ、全てが終わる。それだけは、絶対に嫌だった。

 

全身全霊を懸けて、策を練った。絶対に勝てるように、あらゆる条件を、変数を、全てを思考に組み込み、方程式を組み上げる。

それは報われた。これまでの戦いで失った分の負けを、自分は一人で取り戻した。あらゆる策を、妨害を、裏工作を読み切り、勝利し続けた。

 

そして最後に立ち塞がったのは、当時から常勝と称され、今や伝説となった一人の戦車乗り。

自分は知っていた。彼女が、どれほど化物染みた強さを持っているかを。間違いなく自分より格上、いやそれどころか、彼女に勝てる人間など存在するのかと本気で思ってしまうくらいの実力の持ち主だった。

しかし負けるわけにはいかなかった。例え相手が戦の神だったとしても、自分は勝たないといけなかった。

 

戦いは熾烈を極めた。戦術では誰にも負けない自信はあったが、初めてその自信が揺らいだ。五手先を読んでも、相手は六手先を読んでくる。自分が立てた作戦は全て見切られ、無効化されていく。

唯一有利に立てたのは、防御。相手の攻めを受け流し、無力化させ、自軍の好機へと繋げるという能力に関しては自分が勝っていた。

ならば、ここを突破口にするしかない。削れていく味方の戦力が、限界に達する直前で秘策を作動させた。

一世一代の大博打、成功するかは運次第。

 

そしてそれは、成功した。形勢は一気に逆転し、自分が失った戦力の倍の損失を相手に与える。そこから畳みかけるようにして道を絶っていく。逆転の機会を与えないように、慎重に、相手を追い詰めていく。

勝利は、目前だった。結果を見れば、一体どっちが勝者か分からないほど無様でボロボロで、負けてないのが不思議なくらいだったけれど。

それでも自分は勝った。誰がなんと言おうと、それは勝利だった――――――――――――――――――――はずだったのに。

 

 

 

 

 

 

 

オレンジペコは聖グロリア―ナ女学院戦車道において、一年生でありながら隊長車の装填手を務めるという、いわゆるエリートである。

しかし彼女はそんな風に呼ばれる人間にありがちな、高慢さとか歪んだ自尊心などは一切持ち合わせておらず、寧ろ素直で真面目な、良き後輩そのものだった。

 

それは何故かと言うと、自身のすぐ隣にもっと凄い人がいたからである。それはもう、色々な意味で。

金髪青眼、モデル顔負けのプロポーションとビジュアルを持ちながら、戦車道の腕前は聖グロどころか全国トップクラス。神は彼女に二物を与えたとかと言われるほどの才色兼備は他に類を見ず。正グロリア―ナ女学院において絶対的な存在であり、オレンジペコの憧れであるその人の名前は、ダージリンといった。

 

オレンジペコはまだダージリンと共にチャーチルに乗ることになってから日は浅いが、それでも心酔と言えるほどの尊敬を捧げていた。ところどころ変な人だな、とは思うものの、もし目の前にダージリンを侮辱する人がいれば近年稀に見るレベルで怒る程には敬愛していた。

 

これは別にオレンジペコに限った話ではなく、聖グロで戦車道をしている者ならば、大小の差はあれど誰でも思うことである。それくらい、ダージリンという人は慕われているし、尊敬されている。

 

ダージリンの主な住処である『紅茶の園』に入りたくて血の滲むような努力を何の躊躇いもなく日々重ねるような人が後を絶たず、紅茶の園に入ること自体に、相応の実力と気品の持ち主という称号が与えられるくらいである。

 

だからこそオレンジペコは困惑していた。それも人生でベスト5に入るレベルで。

目の前で起きている光景を、視覚はしっかりと認識しているのだが、それを脳が処理しきれていないような感覚がさっきからずっとあるのだ。

 

 

「いい?すなわち戦力差を覆すことはできないけれど、戦術によって相手を分断することで局所的に優位な状況を作り、これを連続することで相手の一部を機能不全にしたの。それと忘れてはいけないのは、序盤で伏線が張られていたことによって最後の作戦が成功したということ。つまり試合の流れは最初から最後まで完璧にデザインされていて、相手の動きは完全にコントロールされていたの。これがどれだけ驚異的なことかわかるかしらオレンジペコ?」

「はい、はいもう充分わかりましたダージリン様……」

 

オレンジペコは必死に頷いて、許しを乞うた。もう限界だ、これ以上話を聞かされると机に突っ伏すことになる。一人の後輩、一人の淑女としてそれだけは避けねばならなかった。

 

「そう……まぁ、神栖渡里様に関することはこれくらいよ。理解できたかしら?」

 

語り足りないのか不満げな様子のダージリン。

その問いにオレンジペコは、すぐさま答えることができなかった。

 

発端は神栖渡里という、聖グロの聖域『紅茶の園』に初めて足を踏み入れた男性という名誉を手にした人について、オレンジペコが何も知らなかったところからである。

 

いや、オレンジペコはてっきり、神栖渡里という人は()()だと思っていたのだ。

だってそうだろう。ダージリンの語り口は、一人の戦車乗りを褒め称えているものであった。なら誰だって女性と思う。だって戦車道に参加できるのは女性だけなのだから。

 

ところが実際に合ってみれば、神栖渡里という人はどこからどう見ても男性。

聖グロの凝ったデザインの椅子に座っていてもわかるほどの高い身長。

丸みのないシャープな顔つき。広い肩幅に筋肉質な腕。

そして聞き心地のいい低い声。

百人いれば百人男性と答える外見だし、中身も紛うことなく男性だった。

 

となるとオレンジペコは、それはもう混乱した。

シンプルな疑問として、なぜ戦車道に参加できない男性である神栖渡里を、ダージリンは一人の戦車乗りを褒めるような口ぶりで尊敬しているのか。

もし神栖渡里が女性なら、こんな謎はなかった。

世間一般に知られてないだけで、そういう人もいたんだなぁ、とその程度の感想で済んだはずだった。

 

というところで、助け舟を出してきたのはダージリンだった。

そしてそれが、オレンジペコの最大のミスだった。

 

彼女はお気に入りのティーカップを片手に、それはもう雄弁に、流暢に、まるで我が事のように自慢げに神栖渡里について語った。

 

それはありがたいことだった。先輩の好意として、後輩は嬉しい限りだった……のだが、長かった。そのまま神栖渡里のヒストリーを上から下に素直に読んでくれればいいのに、所々、というかほぼ全ての箇所で脱線したのだ。

一々ダージリンが、「アレはこういうことだ」「これはそういうことだ」といった具合に自分の所感を言うものだから、とにかく話がとっ散らかる。

 

そういう時にストッパーとして頼りになるはずのアッサムは、何故か今回は我関せずの姿勢を貫いて一言も喋らない。オレンジペコはアッサムの代わりが務まるほどダージリンに気安くはなれないし、初対面で招待客の神栖渡里は殊更に無理。

ということでブレーキを踏む人がいないダージリンは、とにかく喋った。それはもう、口から産まれたのではないかというくらいに。

 

そんな聴覚に不健康な状況が、今ようやく終わった。

謎の倦怠感に襲われながら、オレンジペコはダージリンの説明を必死に整理する。

 

「ええと神栖渡里様はイギリスにいたとき、戦車道の試合に出たことがあって……それはイギリス戦車道協会が合法的に認めた権利を使用しての正当な参加で……けれどすぐに参加資格が凍結されて、『男性が戦車道に参加した』という記録は隠蔽されて、情報統制も行われて……だから誰も知らないはずが、唯一残っていた試合映像が運よく規制から漏れて、ダージリン様の元に渡ったから、ダージリン様は神栖渡里様を知っていたということでいいですか?」

「大事な言葉が抜けてるわ。知って、尊敬しているの」

 

それは重々承知してます。

こんな原稿用紙半分もいかない文字数を話すのに、あんなに長い時間かけたのかこのお人。脱線のほとんどはその試合映像の中身に関することだったけども。

 

「しかしよく調べましたね。日本でダージリンさんくらいですよ、そんなに詳しいのは」

 

机を挟んでダージリンの対面に座る神栖渡里は、感心したように息を吐いた。

紅茶の園に男性がいることにまだ違和感を覚えるオレンジペコだが、不思議と目の前の男性は瀟洒な館の雰囲気にマッチしていた。一つの風景としては寧ろ何の問題もないくらいである。

 

最初はダージリンが自分のファンと聞いて、少し驚いた様子だったが今は完全に持ち直したらしく、紅茶を慣れた手つきで飲んでいる。

ただ自分の過去の話をされるのはアレだったのか、少し居心地が悪そうな感じでもあった。だいぶ美化されてるなぁ、という呟きが印象的だった。

 

「ふふ、聖グロリア―ナには秘密の諜報機関がありまして。聖グロの隊長になった時、いの一番に調べさせましたの」

 

なんという特権の乱用。オレンジペコは白い目になった。

 

「あと渡里さん?敬語は結構ですわ。できれば先ほどの……そう!みほさんと話していた時と同じようにして頂ければ!ええ、是非!」

 

んふー、と鼻息が荒く見えたのはきっと幻覚なのだろう。オレンジペコは全力でそう思うことにした。敬愛する先輩の姿を、そのままにしておくために。

 

「え、流石に妹と同じように話すのは……」

「妹!?……なるほど、そういうのもあるのね。アリだわ」

「はい?」

「いえ、お気になさらず。私たちも年長者にそんなに改まれてしまうと、困ってしまいますので!なので私のこともダージリンと、どうか呼び捨てにして頂いて結構です!」

 

着実に距離を詰めていこうとするダージリンの策士っぷりに、オレンジペコは心の中でため息を吐いた。

あと、対面で距離があったから相手には聞こえなかったかもですけど、横にいる私には丸聞こえでしたよ。なんですか、妹アリって。もしかしなくてもそうゆうことですか。

オレンジペコの中の敬愛カウンターが減少した。

 

「あ、じゃあそっちも様付けは無しにしてくれるなら」

「あら……で、では、わ、渡里さんとお呼びしても?」

 

一転、いじらしく頬を染めるダージリン。先ほどまでの表情が嘘のようである。

まるで可憐な花のような表情に、オレンジペコの中の敬愛カウンターが急上昇。

 

「結構だよ、ダージリン」

「はうっ……!」

 

ずきゅーん、と何処かで銃声が鳴った気がした。

憧れの人から名前で呼び合う関係になる、というのはトキメク展開なのだろうか……なんだろうな。全然関係ないオレンジペコですら、少しドキッとしたのだから。

 

「どうしましょうアッサム……何年も温め続けていた『神栖渡里様と会えたらやりたいことリスト』の最上位をあっさり達成してしまったわ……私死ぬのかしら?」

「私がなぜ今まで一言も喋らなかったのか分かる?巻き込まないで、ダージリン」

 

つれないアッサムの対応も、有頂天のダージリンにはノーダメージ。

頬に手を当てて漫画みたいな照れ顔ムーブで、アッサムにやいのやいのと絡んでいる。

 

「ダージリンは普段からあんな面白い感じなのかい?」

「いえ……」

 

こっそり聞いてくる神栖渡里に、オレンジペコは曖昧に返事するしかなかった。普段はもっと理知的で覇気と余裕に満ちた感じだが、案外あれが素なのだろうか。

というかあのダージリンを見て、面白いの一言で済ませる神栖渡里も大概な気がする。

 

「聖グロの生徒から羨望と尊敬の念を一身に集める、凄い人なんですけど……」

「そんな戦車乗りから尊敬されているのか、俺は。人間生きてればいいことあるもんだ」

 

感慨深い語調だった。オレンジペコはダージリンからの話でしか神栖渡里という人を知らないが、話の限りでは結構な苦労をしている。オレンジペコが同じ言葉を言ったとしても、きっと重みが違うだろう。

 

「ねぇねぇアッサム!次はこの『やりたいことリスト』第6位を聞いてみようと思うのだけど!どう思うかしら!?」

「お好きにどうぞ」

 

一方何やら小声で相談している二人である。オレンジペコとアッサムは対面同士なので、何を言ってるのかはよく分からない。しかしなんとなく、アッサムの表情から内容を察するオレンジペコであった。

 

「渡里さん、お好きな紅茶はありますか?」

「紅茶?……あー、あんまり詳しくはないんだ」

 

聖グロと言えば聖グロらしい質問だった。なんとなくダージリンの思惑を読み取ったオレンジペコ。おそらく神栖渡里の帰り際にさり気無くプレゼントするつもりなのだろう。

 

しかし相手の反応は芳しくなかった。そういえばアッサムが淹れた紅茶も美味しい美味しいと飲んではいるものの、種類を聞いてこなかったな、とオレンジペコは先刻のことを思い出していた。

 

うーんうーん、と腕を組んで分かりやすく悩んでることを示す神栖渡里は、大体10秒くらいの間を終えて、

 

「あ、ダージリンが好きだったかな」

 

と、はっきり答えた。

ぼかーん、と何処かで何かが爆発する音がした。

 

あ、とオレンジペコが言った。

あ、と神栖渡里も言った。

前者は右隣に座っている人の惨状を見て、そう言った。

後者は自分の発言がこの場においてあらぬ誤解を生むことを悟って、そう言った。

 

ダージリン(紅茶)が好き。

普通に考えれば、人はこのように神栖渡里の言葉を理解できる。

ただ紅茶の名前をニックネームとして使うような習慣がある、ここ聖グロにおいては、それはとても愉快な意味になる。

 

どういうことが起こったかというと、紅茶のシャンパンの名前を持つ、オレンジペコの敬愛する先輩は、神栖渡里の言葉を正確に理解できず、あるいは音の響きに惑わされてーーーー爆発した。

 

「だ、ダージリン様!?」

 

ティーカップを持った状態で見事に機能停止したダージリンに、オレンジペコは慌てて近寄った。顔の前で手を振っても、肩を揺すっても反応がない。どうやら意識を失っているようだ。気絶しても紅茶を零さない辺り、もはや流石としか言えない。

 

「あー、申し訳ない。ちょっと不用意だったか……」

「いえいえ、ちょうど良かったですわ。うるさいのがいなくなって」

 

髪を掻きまわす神栖渡里に、アッサムは美しい笑顔で答えた。

 

「いくら尊敬する人に逢えたからといって、少し興奮し過ぎです。紅茶のおかわりはいかがですか、神栖さん?」

「頂きます。あと、できれば渡里の方で呼んでくれると有難いんだけど……」

「そうするとこの人がやきもちを焼いてしまうので。一度拗ねるとご機嫌取りに苦労するんです」

 

流麗な手つきで渡里のティーカップに紅茶を注ぐアッサムは、聖グロ女子の一つの理想であった。選手としての尊敬はダージリンの方が大きいが、女子としてはアッサムの方がより憧れるオレンジペコであった。

 

「全くこんなものまで作って……よっぽど楽しみにしてたんですね、貴方に逢える日を」

 

席に戻ったアッサムが手に取って見せたのは、表紙に大きなマル秘の文字が書かれた、やけに凝ったデザインのノートだった。二人が何やらヒソヒソしていた時にダージリンが持っていた物である。

 

「よろしければどうぞ見てやってくださいな」

 

すっと差し出されたノートを手に取り開いた神栖渡里は、黙々とページを読み進めていく。ちなみにそれが何か知らないオレンジペコは、このアッサムの行為がどれほど残酷なものか分からなかった。

 

ノートの中身が気になりつつも知ることができないオレンジペコ。

チラチラと横目で神栖渡里の様子を窺っていると、オーバーヒートしていた隣のダージリンが不意に目覚めた。

 

「はっ!?何かとてつもなく素敵な言葉が聞けたような……夢だったのかしら?」

「現実ですよ、ダージリン様。神栖さんは()()のダージリンが好きなようなので、後でお持ちします」

「そ、そうよね……ダージリンは普通紅茶のことよね……」

 

何やら息が荒いダージリンだが、オレンジペコはもはや気にしないことにした。

 

「それで渡里さんは……」

「今はアッサム様と話してますよ」

 

すー、とダージリンの青い瞳が、神栖渡里の方に向けられた。

そして顔を凝視すること三秒、視線が神栖渡里の顔から手元に行く。

そしてまた三秒くらいの間があって、

 

 

「きゃ――――――――――――!????」

 

 

突如としてダージリンは絶叫した。

高価な楽器のような美声が、音割れしたみたいに部屋中に響き渡る。

オレンジペコのティーカップの中の紅茶が大きく波立ち、神栖渡里の肩がビクンと震えた。

 

絶叫が止むと、なんだなんだと全員の視線が金髪青眼に集中し、ダージリンはまたもやオレンジペコが見たこともないような表情をした。

 

「な、なんで渡里さんがそのノートを――!?」

「私が渡しました」

「アッサム―――――――!????」

 

目を丸くして、あわわわわ、といった表情でアッサムと神栖渡里を交互に見やるダージリンは、端的に言うととてもテンパっていた。

 

「だ、ダメです渡里さんっ!お願いですからそれは見ないでください!」

「第1位『神栖渡里様と名前で呼び合う』……第5位『一緒に紅茶を飲む』、第13位『好きな戦車を聞く』……」

「あぁぁ―――――!!」

 

ダージリンの表情が青くなったり赤くなったりと、忙しなく変わる。

神栖渡里の言葉から大体のことを察したオレンジペコは、ダージリンに今日初めて同情した。つまりあのノートには、ダージリンの願望やら妄想やらが事細かに記されていて、アッサムはそれを直接本人に見せたというわけか。恐ろしい。

 

「質問がいっぱい書いてるね」

「だいたい60個くらいありますわ。ところで神栖さん、私としては第9位の『好きな女性のタイプ』を推しますが。もしくは15位の『付き合っている人』とか―――」

「アッサム!いい加減にしなさいアッサム!それ以上はほんとに私が死ぬわよ!?」

 

謎の脅し文句で、ダージリンは必死の抵抗を見せた。女子としてはほとんど致死レベルの羞恥だし、気持ちは痛いほど分かるが60個も質問考えていたのか、あの人。毎日毎日ノートにコツコツと書き連ねていたと思うと……オレンジペコは複雑な気持ちになった。

 

「貴方のことだからどうせおっかなびっくりになって、半分も訊けないに決まってるもの。だったら見てもらった方が早いじゃない?」

「そ、それは………」

「どうする?とりあえずこの第7位の『戦車道の話を聞く』から答えようか?それとも第22位の『紅茶を淹れてもらう』の方がいいかい?」

「い、いえそのぉ……」

 

二方向から意地の悪い攻撃を受けて、ダージリンはタジタジになった。

おそらく普段の鬱憤を晴らそうとしているアッサムはともかく、神栖渡里も結構いい性格をしていたらしい。

 

助け舟を出そうにもオレンジペコでは力不足なので、敬愛する先輩の無事を祈るしかない。まぁ、兎も角として自分の願いが叶うのだから、ダージリンも嫌なわけじゃないだろう。

多分、きっと。

 

やがて毒牙が金髪青眼に襲い掛かろうとした瞬間だった。

コンコンコン、とドアが叩かれた。

 

「は、入りなさい!!」

 

ダージリンの心境的には、きっと「入ってきてください」くらいだっただろう。

静かに開かれたドアから現れたのは、青い制服に身を包んで、茶色の髪をサイドで三つ編みにした女子だった。

その姿はオレンジペコもよく知っているものだった。

 

「ルクリリ様?」

「ようやく来たのねルクリリ!待ってたわよ!」

 

オレンジペコより一つ年上の先輩にしてマチルダの車長、ルクリリがそこにいた。

淑やかな女子が大半の聖グロにおいて、強気で勝気というか、普通の学校なら普通の生徒だったのに聖グロにいることによってその枠から外れてしまった人である。

 

ただオレンジペコはルクリリのお嬢様っぽくない気質が不思議と気持ちよく、ダージリン、アッサムに次ぐ仲の良い先輩でもある。入学間もないが、何度かお世話になっている。

 

「――――――――」

 

だからオレンジペコは、この時ルクリリが普段と違う様子なことに気づいた。

荒々しさ(悪口ではない)が鳴りを顰め、それこそ聖グロスタンダードのお嬢様のようである。

練習試合の汚れを落としてきたのだろうけど、そのせいか普段より髪の艶が良い気が…

 

「紹介しますわ渡里さん。彼女はルクリリと言いまして、聖グロのマチルダ隊で活躍する優秀な戦車乗りですの。ルクリリ、こっちに来なさい」

 

ぎくしゃく、と油の切れたロボットのようなルクリリの動きだった。

オレンジペコは思った、誰だろうアレ、と。普段のサバサバした感じのルクリリとは真逆である。

 

「オレンジペコ、悪いけど紅茶を貰えるかしら」

「あ、はい」

 

席を立ち、アッサムの横に移動してポットから紅茶を注ぐ。

聖グロの一員として紅茶の淹れ方は猛勉強したオレンジペコは、一応先輩方から合格点を貰ってはいるものの、緊張しないと言われればそうではないわけで。

ほんの少しだけ震える腕を必死に抑えつつ、オレンジペコはなんとかやり遂げた。

 

「あの、ルクリリ様はどうしたんでしょうか?」

 

隣に来たので、ちょっと聞いてみるオレンジペコ。

アッサムは紅茶の香りを楽しみつつ、何気なく答えた。

 

「ダージリンが言っていたでしょう?あの子もダージリンと同じなのよ。積み重ねてきた時間はルクリリの方が長いけどね」

 

あ、とオレンジペコは練習試合中のダージリンの言葉を思い出した。そういえばルクリリも神栖渡里のファンであることを匂わせるような事を言っていたような。だからあんな感じになってしまっているのか。

オレンジペコの視線の先にいるルクリリは、ダージリンと神栖渡里に挟まれる形で石柱のように直立不動になっている。

 

「ダージリンがとても喜んだのを覚えるわ、『神栖渡里様を知ってる子が入ってきた!』って。ダージリンとは別ルートで知ったらしいけど、不思議と同類は一か所に集まるのね」

「でも反応は対照的ですね。ルクリリ様の方がファンっぽいです」

 

寧ろダージリンの方がおかしいのだろうか。

正直見たことない姿だが、それでも普段の延長線上のような気はする。

 

「ダージリンは元々話す方が好きだし、テンションが振り切れたらあんな風になるのは予想できたわ。……ただ、私からするとダージリンもかなり緊張しているわよ」

「え、アレでですか」

 

ブレーキが粉々に砕けているだけではないだろうか。

しかしアッサムは冷静に言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()を、一言も話してないじゃない。多分神栖さんに変な娘と思われるかも、と迷ってるのね」

 

とんでもない説得力があるアッサムの言葉だった。

そういえばあの歩く格言再生機のような人が、今日はまだ一度たりとも格言を披露していない。

オレンジペコは愕然とした。これは恐るべきことであった。どれくらいかというと、聖グロのお茶会に緑茶と煎餅が出るレベルである。

 

あんな人でもやはり緊張するのか、とオレンジペコは視線を再び移した。

そこにはぎこちなく話している様子の人、嬉しそうに語る人、そして楽し気に笑う人の三人がいた。

 

 

 

 

ルクリリという少女が差し出してきたのは、いわゆる色紙という奴だった。

渡里はそれが一瞬、何を意味しているのか理解できなかった。まさか自分がこんなものを向けられる日が来るとは、思ってもいなかったのである。

 

「さ、サインをください……!

 

頬を紅潮させてそう言う彼女に、渡里は何も言わなかったらどんな反応をするだろうか、と少しイジワルなことを思いついたが、流石にやめておいた。

 

「名前を書くだけでいいのかな?」

 

当然サインなんて持っていない渡里はサインの決まりとか分からないので、渡されたペンをクルクル回しながら聞いてみた。

 

なんでもこのルクリリという少女、ダージリンと同じ自分のファンであり、なんと聖グロに入学したのも自分がきっかけだという。イギリスと縁のある聖グロなら、いつか渡里に会えるかもしれないと思ったらしい。結果的にはそれは叶ったわけだが、だいぶリスキーなことをする娘だと渡里は思った。

 

そんな風に憧れてもらえるのは人生になかったことなので、渡里としてはサインを書くことに文句なんてない。なんなら三十枚くらい書いてもいいくらいである。

それくらいに気分が良かった。美味しい紅茶も飲めて、才能豊かな戦車乗りに尊敬してもらえて、渡里は万々歳である。暗黒色に染まった思い出が繋いでくれた縁だが、世の中不思議なこともあるものである。こんな日が来るなら、少しは良い思い出として受け止めることができるかもしれない。

 

だから何か頼みごとがあるなら、可能な限りは聞こうと思った。

ダージリンと話していたお蔭で、もはや大抵の事は動じずに受け入れることができると思っていたから。

 

それでも、次のルクリリの言葉は渡里の予想を超えていた。

 

 

「な、何か神栖選手に関係ある物が欲しいです!!」

 

 

はい?と渡里の一瞬停止し、そして高速回転する。

戦車道関連でしか本領を発揮できない極端な脳は、今回は珍しく働き、ルクリリの言葉の意味を即座に理解した。

 

『名前を書くだけでいいのかな?(やり方を聞いている)』という渡里の言葉を、

『名前を書くだけでいいのかな?(ほかに頼み事はないのかな?)』と受け取ったのだろう

 

マジかこいつ。渡里は笑みを必死で崩さないようにしながら、内心で冷や汗を垂らした。

日本語って難しい…、いや受け取り側にも問題がある気が。

しかしどうしたものか、今更そうじゃなくて、とは言い難い。ただでさえテンパり気味なルクリリにそんなことをしてしまうと、どうなるか分かったものではない。

ファンと言ってくれたこの子のために、という想いが渡里には捨てられなかった。

 

だが何かをプレゼントしようにも、渡里は時計もアクセサリの類も身に着けていない。今持ってるのは携帯電話と財布だけである。

あげれるものなんて……

 

「あ、じゃあこのジャケットは?」

 

冗談っぽく渡里は言ってみた。

 

「これ、ほとんど使わなかったタンクジャケットなんだ。パッと見た感じは普通の私服っぽいけど」

 

汎用性が高いので、本来の用途ではなく普段着として重宝している神栖渡里の一品である。サッカーや野球ではないが、ユニフォームみたいなものだしプレゼントとしては悪くない。

とはいえ流石に、男が今の今まで着ていたものは欲しがらないだろう。これは場を和ませるため、そしてルクリリの反応を見て対処を考えようという考えからの行動だった。

 

渡里は端的に言うと、ファンというものを侮っていた。

 

「ぜ、是非!」

 

そして罰が当たった。

一度言ってしまったことは取り消せない。渡里は泣く泣く、私服を一枚失うことになった。もはや返ってくることはないだろうし、まさかルクリリが着ることもないだろうと思ってジャケットにサインを書いておいたが、その時の渡里はもうどうにでもなれ、くらいの気持ちであった。

 

まぁ、ルクリリが心底嬉しそうに渡里のジャケットを抱きしめていたので、それで良しとすることにしようと渡里は思った。

 

「渡里さん渡里さん、私も渡里さんのファンなのですけど」

 

くいくい、と長袖のシャツを引っ張られて、渡里は意識を金髪青眼に移した。

 

「そういえば第8位だっけ、『サインをもらう』は。いいよ、どこに書く?」

「そ、それはもう忘れてくださいっ。というか、そうじゃなくてですね……」

 

歯切れの悪いダージリンに、渡里は首を傾げた。

ダージリンは視線を泳がせて、言葉を口の中で転がしては飲み込んでいるようであった。

なんだ、と綺麗な金髪に視線を注いでいると、ふと渡里は思いついた。

 

「私も、何か渡里さんに関係するものが欲しいですわ」

 

渡里は恥ずかしそうなダージリンの表情から、きっと勇気を振り絞って言葉にしたんだろうな、と思った。同時に申し訳ない気持ちが沸き上がる。

 

「もう渡せるものがないんだけど」

 

ここから更に追剥されると、渡里はおそらくこの紅茶の園を出た瞬間警察に捕まる。

そして死ぬ。

 

するとダージリンは、今まで見たことない悲しい表情をした。

渡里はその顔に見覚えがあった。昔みほが好きなボコのキーホルダーを失くした時の顔と同じだった。何も悪いことはしてないはずなのだが、心が罪悪感で大変なことになってしまった。

 

「……な、何か他に頼み事があるなら何でも聞くよ」

「―――――今、なんでも、と仰いました?」

 

背中らへんが一気に寒くなった。

 

「か、可能な範囲ならね……」

「ええ、ええ分かっていますわ勿論。ふふ、ふふふふ……」

 

ほんとにわかってんだろうか、この子。笑みは怪しいし目も血走っている気がするのだが。

何か致命的なミスをしてしまったようで落ち着かない渡里であった。

しかし本当に致命的だったのは、この後だった。

 

「じゃあこれ、電話番号とメールアドレス。渡しておくから、決まったら連絡してくれ」

 

財布の中から名刺(角谷杏謹製)を取り出して、渡里は自分の携帯に直通の連絡先をダージリンに差し出した。

それは自分なんかに憧れてくれた目の前の少女へのお礼であり、いつか大洗女子学園戦車道の利に繋がればいいなという伏線であった。

 

個人情報を渡すのはあんまりよくないが、この子たちに限って変に悪用することもないだろう。

 

 

 

後に30分で40件という驚異的なペースで送られてくるメールの恐怖を、神栖渡里はまだ知らない。

 

 

 

 




いつか聖グロVS大洗女子学園が公式戦でやってくれるといいな(願望)。




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幕間4 その後の夕食会

新社会人になりましたが、投稿は続けます。

久しぶりの投稿が本編には関係ない幕間
できるだけ全員をかわいく書きたかったのですが、筆者の力量では無理でした。




西住みほは過去と向き合うことを決意し、その第一歩として武部達に自分のトラウマについて明かすことにした。

どう思われるかは分からなかったが、それでもこの先、共に歩んでいきたいと思う相手ならば、話さなければならない。そうじゃなきゃ、きっとみほはずっと武部達に引け目を感じたまま戦車道をすることになる。

 

神妙な顔で自分の過去について話し始めたみほに、武部達は真剣に向き合ってくれた。

そして一通り話が終わった後、僅かに震えるみほの手を掴んで言ってくれたのだ。

 

「話してくれてありがとう」――――と。

 

それから皆は、順番に自分の想いを伝えてくれた。

じゃあこれからは、私たちがみほを守ってあげる。

みんなで、一緒に強くなりましょう。

私は、西住殿が間違っているとは思えません。

誰にだって辛い過去はある。元気を出せ。

 

みほが心が震える思いだった。心の底から思った、話してよかったと。

一体自分は、この先何度思いだすんだろう――友達に恵まれた、という兄の言葉を。

 

そこからは大変だった。思わず涙ぐんでしまったみほを、みんながハンカチはないかティッシュはないか、と騒ぎ、無いと分かると結局自分たちの袖で拭ってくれた。

着の身着のままで飛び出してきたから、携帯しか持ってなかったと笑う武部と、私も同じです、と微笑む五十鈴。私は一応非常食も持って来ました、とポケットからいつかの乾パンを取り出す秋山に、冷泉が大げさだと静かにツッコミを入れる。

 

そしたら誰かのお腹がきゅーと鳴って、一拍置いてみんなで大笑いした。

音の出所はみほだった。紅葉顔負けに顔を赤くして恥ずかしがるみほに、みんなは「晩御飯を済ましていなかったから私もお腹が減った」とフォローしてくれた。

 

そんな時だった。ずーーーと遠くでみほ達のことを見守っていた渡里が声をかけてきたのは。

武部達は尋ねた。神栖先生もみほのことが心配だったんですね。場所が分かってたなら教えてくれればよかったのに。みほの昔のことについて知ってたんですか。

次々に飛んでくる質問を、しかし兄は一切合切無視して。

 

そして言った、「それはさておき、飯食いに行こう」――――と。

 

 

 

そしてやってきたのは、学園艦の中にあるとあるファミレスだった。

既に夜も遅いこんな時間に、店を開けていてなおかつみほ達の要求に応えてくれる飲食店はここしかなかった。

 

受付担当の女の人が、外用の服と寝間着を足して二で割ったような恰好をしている女子五人と、ジャージ姿の成人男性一人という奇妙な組み合わせの六人組に眉を顰めていたが、禁煙席の一番隅っこの席に案内してくれた。

 

みほ達だけなら不良と間違われ、そこに兄が加わるといたいけな少女五人といかがわしい男性という構図になる。みほは密かに変な誤解を受けてないだろうか、と危惧した。兄の名誉を守れるのは自分しかいなかった。

 

「ファミレスで夕食なんて、私いつ以来でしょうか」

「わ、私も全然かも。お昼ご飯は食堂かお弁当だし、晩御飯は自分で作るし」

「私も全然来ない。精々アイスクリーム屋だな」

「私は結構家族と来たりしますよ!まぁこのお店じゃないですけど」

 

席に着くなり談笑を始める一同。

ちなみに席は片側三人の六人席。秋山、みほ、五十鈴と並ぶ反対側に、冷泉、武部、渡里という具合で座っており、五十鈴の正面に兄が座る形である。

なぜこうなったかというと、三人乗りの横長の椅子を見た兄が、「一番小さい奴と一番大きい奴は一緒の列」という言ったことが原因である。

兄は無駄におっきな体をしているので、おそらくは自分が狭くならないようにそんなことを言ったに違いない。見たところ、向かい側は椅子の幅にジャストフィットしているし、

もし冷泉の代わりにみほが向こうに座っていたら、兄の思惑通りギュウギュウ詰めで座ることになっただろう。

 

というわけで、見た目で一番小さい冷泉、そしてどう見ても一番デカい兄、そして真ん中に武部が巻き込まれる形で同じ椅子に座ることになった。

しかしギュウギュウ詰めではなくとも、個人個人の距離は近いわけで。

常に肩が触れあうようなことはないが、身じろぎひとつでもすれば肌が触れあう距離ではある。

なので何が起こるかというと、

 

「ちょっとメニューくれ」

「ひゃい!?」

 

兄が冷泉の近くにあるメニューを取ろうと手を伸ばすと、その間にいる武部は素っ頓狂な声を上げた。たぶん、兄の腕がわずかに武部の腕に当たったのだろう。別に強打したわけでもなく、ちょっと触れただけ。この状況では、何もおかしくないことである。あれだけ近ければ、それくらい普通に起こる。

 

おかしいのは、武部の反応のほうだった。

一々敏感というか、兄の一動作一動作に対してリアクションが過剰なのである。

 

はて、とみほは首を傾げた。あれはなんだろうか。

見た感じ、兄が何かしているようには見えない。今もぼーっとメニューを眺めているし、いたって普通な感じである。「あーこれ美味しそうー」以外何にも考えてなさそうな顔をしている。

 

となると問題は、武部の方だろうか。

みほはじーっと観察してみた。

 

「武部、そっちのも見せて」

「へぁ!?あ、こ、これですか!?」

「そうそう。こっち期間限定しか載ってなかった」

「は、はいどうぞっ」

「いや、渡さなくてもいいよ。机に置いてくれたら俺も冷泉も見えるし」

 

挙動不審、と言うほどではない。ただ明らかにいつもの武部ではない。

目線は泳ぎ、口調は早口で、頰はわずかに赤い。

チラチラ、と兄とメニューを交互に見ては、視線が合うとすごい勢いで逸らす。

 

……なんだろう、すごくデジャヴだ。みほは記憶を辿った。

つい最近、本当に今日くらいにあんな感じの人を見たような。

 

瞬間、みほの頭の中の電球が点灯した。

今の武部の姿と、今日出会ったばかりの金髪青眼の美少女の姿がバッチリと重なる。

 

まさか、とみほは仮設に思い当たった。

もしかして、緊張しているのだろうか。……武部が、兄に。

そんなばかな、とみほは首を振った。初対面のダージリンと違い、武部はもう何度も兄を見てるし、会話もしてる。最初こそキャーキャーと兄に黄色い歓声を上げていたが、神栖渡里が西住みほの兄であることを知ってからは、変に意識するような言動は見られなかった。普通の、例えば学校の先生と接するような、そんな距離感と関心だったはず。実際、ここに来るまでは何ともなかったし。

 

それが何で今更。

しかしみほは、あることに気づいた。武部は大洗()()学園の生徒で、男性と接する機会はほとんどない。あってもお爺ちゃんとか、子ども。同学年どころか、年が近い男の人すらも滅多にいない。ゆえに、耐性があんまりない。

だからだろうか。武部は何事も恋愛に結びつけてしまうような、いわゆる恋に恋するお年頃。少女漫画はもちろん読み込んでいるし、なんなら階段3つくらい飛ばして結婚雑誌すらも読んでいる。とにかく恋とか青春とか、その辺にすごく憧れを抱いているのだ。

 

これらを踏まえて、今の状況を見てみる。

舞台はファミレス。横には年上の男の人、しかも属性は友達の兄。

配置は、少し動けばそれだけで肌が触れあうような、至近距離。息遣いだって聞こえちゃう。

一つのメニューを、二人(反対側にもう一人いるけど)で共有して見る、ためにちょっと顔が近いというこの場面。

 

みほは思った。結構、少女漫画チックじゃない?

そこまで思いつけば、答えは目の前だった。

普段は心理的にも物理的にも遠いところにいた渡里だったが、思わぬ形で急接近することになったため、武部の心の奥の方に沈んでいた()()という感情が再び浮上したのだろう。

一度()()()()目で見てしまったら、もう止まらない。

 

とどのつまり武部は、兄を先生としてではなく、一人の男性として見ていたのである。

 

(………まぁ、そのうち慣れるよね)

 

そしてみほはメニューを見る作業に没頭しはじめた。よそ見ばかりしてないで、自分の分も決めてしまわなければ。

 

「いっぱいメニューがあるんですね……どれにしようか迷ってしまいます」

「そうですね~あ、これ美味しそうです!」

 

三人で肩を寄せ合いながらメニューを眺める。流石有名チェーン店の名前を冠するファミレス、かなり品揃えが豊富である。サラダからアイスクリーム、お酒まで置いてある。

パスタ、ハンバーグ、ピザ、その他諸々。ここまであるとなると、どうしても目移りしてしまうみほであった。

 

「どうしよかな……」

 

お昼ご飯を食べてからここに至るまで何にも食べていなかったので、空腹メーターはかなり高まってる。練習試合もしてるんだから、普段より割り増しでお腹ペコペコである。

となると、結構ボリュームのある品でも問題ない。すると、単品よりかはセットの方がお得なのでは。ここらへんのハンバーグセットとかとても美味しそうだし……

 

「お兄ちゃんはもう決めた?」

「ハンバーグセット」

 

被った。まさか兄もハンバーグ推しとは。

 

「ハンバーグは安牌だろ。嫌いな奴いないぞ」

「たしかに。ハンバーグ嫌いな人見たことないかも」

 

みほは不意に、少しだけ過去のことを思い出した。そういえば、黒森峰にもハンバーグが大好きな人がいたっけ。

 

「それに量多そうだし」

「それが一番の理由でしょ」

「そりゃな」

「食べ過ぎると太るよ」

 

まぁ、兄は絶対に太らないだろうけど。子どもの頃からよくご飯を食べる人だったが、体型が変わった所を見たことない。おそらく食べたもの全部、横じゃなくて上に大きくなるために使われてるんだろう。それこそお菓子だろうが何だろうが、である。女子からすれば羨ましい限りだ。

 

特に意味はなかったみほの言葉は、しかし別の人間にぶっ刺さった。

 

「………私この明太子パスタにする」

「さっきまでステーキセット食べようとしてなかったか、沙織」

 

ソンナコトナイヨー、と変な口調になる武部と、呆れたような視線を向ける冷泉。みほは自分の言葉が失言だったことを悟った。

 

「女子は大変だなぁ」

 

フォローしようとしたみほに先んじて、カラカラと笑いながら兄は言った。

いけない、とみほは手元のお手拭きを投げつけるべきか迷った。それは経験則による警鐘だった。

デリカシーのない兄がこれ以上話すと、何を言うか分かったものではない。そうなる前に口を封じなければ。しかしみんなの手前、あんまりはしたないことをするのは……

 

「でも今日くらいは遠慮せずに食べたほうがいいぞ。戦車道は激しい競技だから、選手の負担も大きいんだ。自分で思っている以上にエネルギーを消費してるはずだから、その分ちゃんと食べないと、どんどん細くなってくんだよ」

 

しかし渡里、ここで意外にも普通の発言。拍子抜けしたみほであった。

 

「や、痩せれるならそれもありかも……」

 

視線を逸らしながら口をもにょもにょする武部。

あのな、と兄は呆れたように言った。

 

「健康的な痩せ方じゃないんだ。調子は悪くなるし、身体も壊しやすくなる。これから本格的な練習が始まるっていうのに、そんなんじゃ困る」

 

あう、とぐうの音も出ない武部。しかし兄の言葉は、武部だけでなく全員に言っているような気がした。

 

「食べたいものを我慢してまで痩せることなんてないさ。それに痩せてるからって男性にモテるとは限らないし」

「ど、どういうことですか!?詳しく!!」

 

今日一番鬼気迫る表情の武部に、兄はつれなく言った。

 

「武部は今のままで大丈夫だってことさ」

 

みほからすると、兄のこの感じはかなり面倒臭がってる時の反応である。まぁ武部に辟易としているんじゃなく、ぐだぐだ語るのが嫌だったんだろうけど。それにしてももうちょっと取り合ってあげればいいのに、とは思う。武部さん、結構真剣だったよ。

 

しかし当の武部は、兄の言葉を誉め言葉として受け取ったらしく、えへへと笑顔を浮かべていた。……うん、複雑な気持ちだ。

 

「うーんうーんどうしましょう……これも美味しそう……あ、こっちも……」

 

チラ、と横を見るとウンウンと唸っている五十鈴がいた。食い入るようにメニューを見つめている。

 

「五十鈴殿は随分迷ってますね……」

「そうだね……秋山さんは何にしたの?」

「カレーライスです!」

 

わぁ、普通。イロモノ担当とか勝手に思っててごめんなさい、とみほは心の中で懺悔した。

横では腕組みをする兄と、眉を八の字にした五十鈴が何やら話している。

 

「なぁ、もう店員さん呼んでいい?」

「す、すいません……もう少しだけ」

「そんなに悩むことか」

 

ずずい、と兄は身を乗り出すと、五十鈴が見ていたメニューを反対から覗き始めた。

みほも横から同じところを見てみる。開かれているページにはセットメニューが並んでいた。兄が言う、ボリュームが多い品ばかりのページである。多いといっても女子には食べ切れないほどでもないが。

 

「どれで迷ってんだ?」

「えっと、コレとコレと……あとコレです」

 

兄の質問に、綺麗な指で一つずつ指し示して答える五十鈴。すると兄は「ふーん」と気の抜けた返事を一つして。

そして何でもない風に、

 

「じゃあ三つ全部頼めばよくね?」

 

と、まるで妙案を思いついたかのように言った。

 

「えぇ!?」

 

一同、驚愕。しかし渡里、自らの暴挙を気にした様子もなく、寧ろ当然とばかりに言い放った。

 

「決めきれないなら、決めなければいいんだよ」

「いやっ、それはそうなんですけどっ」

 

困惑する五十鈴。

兄の発想が馬鹿すぎて辛いみほであった。

 

「大丈夫大丈夫。食べきれなかったら俺が食べるし」

 

サムズアップしていい笑顔で言う兄。でも、と口ごもる五十鈴に、兄はトドメの一撃を繰り出した。

 

「それにどうせ俺が全部払うんだから。お前ら財布持ってないだろ」

 

 

 

 

そして結局、テーブルの上には八人分の皿が並ぶこととなった。五十鈴は最後まで遠慮していたのだが、渡里の「メニューに載ってるもん全部頼めるくらいの金はある」発言と、「年長者が奢るって言ってんだから大人しく奢られなさい」発言によって五十鈴含む全員が撃沈。

財布を持っている人間が本当に渡里しかいなかったので、どうあっても渡里が払わざるを得なかったというのが、みほ達が折れた理由でもあった。仮にみほ達が財布を持っていたとしても渡里は自分で全額払おうとしただろうが。

 

どうせなら、と渡里はサイドメニューまで頼もうとしたが、みほ達は全力で拒否。これ以上お金を払ってもらうわけにはいかない、という優しさと、お腹周りに対する心配が生んだ結果だった。

 

いざ皿が並んで食べ始めれば、「無料で食べるご飯ってすごい美味しいね」状態で全員舌鼓を打っていたのだから、現金なものであった。

ちなみに五十鈴が頼んだ三皿は、渡里と分割で食べられることになった。比率は五対五であった。五十鈴、見た目に反してかなり大きめの胃袋を搭載。

 

そんなこんなで渡里が大人として当然の義務を遂行し、みほ達から一定の感謝を捧げられることとなった夕食会は、腹ごなしの雑談タイムに突入していた。

女子とは話題が一つあれば、そこから何時間でも話せるものなのである。……渡里は男性だが。

その中で特に盛り上がったのは、名前に関する話題。

始まりは、渡里が神栖という自分の名字を呼ばれるたびに、むずがゆそうな反応をするところをみほに指摘されたところからだった。

 

「あんまり神栖って呼ばれ慣れてないからなぁ。なんか変な感じするんだよ」

「なんでそんなミエミエの嘘つくの」

 

戦車道の練習中は普通に呼ばれてるし、そんな素振り見せないでしょ。

ジトー、とみほは白い目を向けた。

しかし兄は手を振って、

 

「練習中はもうそういう心構えだから。今はプライベートじゃん」

 

上下ジャージの姿は、そりゃ誰が見てもプライベートだろうけど。

口調も普段と違って砕け気味だし。

 

「人生の大半はずっと下の名前で呼ばれてきたからさ、気が抜けてるとイマイチ反応できなかったりする時もある」

「そういうものなんですかね?」

「私はどっちでも返事できるけど」

「それは両方で呼ばれてるからじゃないか」

「私は『武部さん』で冷泉さんは『沙織』だもんね……」

 

名前でしか呼ばれないというのは、そう考えると結構稀な気がする。それだけ兄が特殊な環境で生きてきたということだろうか。

 

(あ、そっか……)

「でも神栖先生のお名前は、どこか不思議な響きですよね」

 

みほが不意にあることに思い当たった時と、五十鈴がそんなことを言ったのは同時だった。

 

「それに、何故かすごく聞き覚えがあるというか……」

「あー、大洗女子の人間なら俺の名前は結構聞き馴染みがあるかもな。地名的に」

「え??」

 

どういうことだろうか、と首を捻ったみほ。

しかし対照的に、他の四人は得心が言ったように歓声を上げていた。

ますます意味が分からず、疑問符を浮かべるみほに、渡里は苦笑しながら言った。

 

「茨城県には神栖市っていう名前の市があるんだ。大洗町から更に南の方で、字も一緒だぞ」

「あ、そうなんだ」

 

知らなかった、とみほは感心したように息を吐いた。

だから武部たちはあんなリアクションをしたのか。ずっと茨城県に住んでいる彼女たちなら、当然県内の市くらいは知っているはずだし、みほだって地元熊本の地名は大体言える。

 

「じゃあ渡里市もあるの?」

「そんな市は聞いたことがないなぁ。な、五十鈴?」

 

イジワル気に笑う兄に、眉を吊り上げて頬を膨らませるみほ。

話を振られた五十鈴は、困ったように笑いながら答えた。

 

「水戸市の中に、渡里町というところがあるんです。大洗町と比べるとすごく小さい町なんですけど……あ、字も神栖先生と一緒ですよ」

「え、じゃあお兄ちゃんの名前って……」

「全部茨城県にある地名と一緒ってことだな」

 

なんだその偶然、とみほは驚いた。熊本で生まれ育った兄の名前に、遠く離れた茨城の地と深い関係があるなんて。しかもその茨城県の学校で、戦車道を教えているとなると、少し運命的なものを感じる。

 

「華よく知ってたね?」

「私は実家が水戸にありますから」

「それにしてもすごい偶然ですね!」

「ほんとな。でも覚えやすいし、名前も呼びやすいだろ?」

 

暗に名前で呼べ、と言う兄だった。

公私で区別をつけることはできているが、本人的にはおそらく「渡里先生」で呼んでくれた方が楽なのだろう。みほは別に構わないが、他の人がそう呼ぶかどうかは、その人次第だろう。

しかし自分の兄が、自分以外の女子に名前を呼ばせようとしていることには、思うところがないわけではないみほなので、

 

「そんなに名前で呼ばれたいんだ?」

 

と、少し温度を下げた声で言ってやった。

すると手痛い反撃が待っていた。

 

「あ、なにやきもち?大丈夫大丈夫、お前普段『お兄ちゃん』呼びだし、アイデンティティはまだ守られてるぞ」

「そ、そんなこと言ってないよ!」

 

みほは声を上ずらせながら、か弱い反論を行った。迂闊だった。みほは舌戦で兄に勝った試しがなかったのだ。兄の言ってることは的外れもいいところだが、武部達がどう受け取るかは容易に想像がつく。

 

途端、おつかいをする幼稚園児を見守るような暖かい視線がみほに注がれた。

いけない、話題を変えなければ。みほが慌てて軌道修正しようとした瞬間、一歩早く兄が口を開いた。

 

「つーかお前の方こそ、いつまで名字呼びなんだよ」

「あ、え、だってみんな神栖先生って呼んでるし、お兄ちゃんも練習中は西住って……」

「そっちじゃなくて」

 

と兄は言って、ピンと立てた指をくるりと回した。

 

「武部達の方」

「………え!?」

 

言葉の意味を理解して、みほは誰の目にも分かりやすく狼狽えた。

いや、確かにみほは武部も五十鈴も冷泉も秋山も、名字で呼んでいる。

それは別になにか理由があってそうしてるわけじゃない。ただ最初から名字で呼んでいたから、切り替えるタイミングが見つからなかっただけ。

 

「過去は明かした、弱みも見せた。ならもうお前にとって武部達は、何よりもかけがえのない存在だろ。そんな人たちに他人行儀な名字呼びはどうかと思いまーす」

 

前半は真剣に、後半は茶化すような渡里の口調だった。

言い返そうにも、渡里の言うことは全て正しい。だから反論のしようがない。

こういうとき、兄の口の巧さをみほは思い知るのだ。心が読めるというのは、全く卑怯な話だ。

 

「あ!それいいじゃん!」

「いいですね、私もみほさんから名前で呼んでほしいです」

「私もです!」

「……私は、別にどっちでもいいが」

 

そして増援である。思わぬ所からの援護射撃で、みほは一気に不利に。

あと冷泉さん、どっちでもいいという割にはその期待するような目はなんですか?

 

「別に名前の呼び方で仲の良さを量れるとは思ってないけど、戦車の操縦はチームワークが命。乗員同士の仲は良いに越したことはない。お互い名前で呼び合えば、もっと仲良くなれるし、もっと戦車道が上手くなる。いいこと尽くめだと思うけどな?」

「む、むむ……」

 

トドメとばかりに兄は、戦車道の講師としての理由まで持ち出してきた。

逃げ道をどんどん塞がれてしまったみほは、もはや力なく唸るしかなかった。

 

断じて言っておくが、決して嫌なわけじゃない。武部達とはもっともっと、仲良くなりたいと心の底から思っている。

……ただ、こうも丁寧にお膳立てされてしまうと、変に恥ずかしいのである。

 

普通こういうのって、成り行きでいくものじゃないの?

内心で兄に精いっぱいのしかめっ面を送るみほは、しかしもはや覚悟を決めるしかなかった。

大きく息を吸って、南無三。

 

「さ、沙織さん!」

「うん!」

「華さん!」

「はい!」

「優花里さん!」

「はいです!」

「麻子さん!」

「ん」

 

おー、という感嘆の声と共に、パチパチパチ、と讃えるような拍手がテーブルの上で巻き起こった。

しかしみほは顔から火が出る思いだった。なに、この公開処刑。

斜め前では諸悪の根源たる兄が大爆笑していた。割と本気で殴っても許されると思うのだがどうだろうか。みほは正当な怒りを覚えた。

その視線に気づいたのか、兄は不意に笑うのをピタリと止めて、気まずそうに後頭部を掻いた。そして仕切りなおすようにコホン、と咳を一つして、

 

「良かったな、みほ」

 

なにが、という言葉が口から出る前には、みほはある思いに至った。

もしかして、最初からこれが狙いだったのだろうか。恥ずかしがり屋なみほは、きっと自分から「名前で呼びたい」とは言えない。たとえ、心の中でそれを望んでいても、きっとどこか遠慮して、それを実行に移せないだろう。

 

それを知っていたから、兄は――――――――

 

「な、名前で呼べるようぶふっあちょっとだめだ笑いが我慢できな――――」

 

みほは手元にあったおしぼりを、あらん限りの力を込めて兄に投擲した。

会心の一撃が兄のおでこに炸裂した。

 

 

 

 

「さっきから渡里先生の携帯すごく鳴ってますけど、大丈夫なんですか?」

「あぁ、これ」

 

さり気に『渡里先生』呼びをした武部は、不思議そうにテーブル上で振動する携帯を見つめた。

()()()()()()()()()()おでこを真っ赤にした兄は、その携帯を掴んで手の中で遊ばせた。不思議とその表情は気だるげだった。

 

確かにみほもずっと気になっていたことだった。ほんとに、2分に一回くらいのペースでバイブレーションしていて、それが30分くらいずっと続いている。会話を止めてまで聞くことではなかったので皆スルーしていたが、いよいよ沙織は我慢できなかったのだろう。

 

兄は後頭部を掻きながら白状した。

 

「聖グロの隊長さんと連絡先を交換したんだけど、どうも筆まめ?な人だったみたいで」

「ダージリンさんと?」

 

うん、と兄は頷きながら携帯を操作した。

 

「こっちが一件返すと五件くらいメールが送られてくるもんだから追っつかないんだよな。だから時間を置いてまとめて返そうかと思って放置してる……まぁ気にすんな」

「そ、そんなに……」

 

普通の女子高生なら普通かもしれないが、あの聖グロ、それもダージリンが高速でメール打ちしている姿は、ちょっと想像できないみほであった。

 

「そういえば渡里殿は聖グロの人達に招待されたんですよね?どんな話をされたんですか?」

「大したことじゃない」

 

好奇心に目を輝かせた優花里に、兄は笑みを滲ませて言った。

 

「普通の話さ。少し昔話して、戦車道の話をして、世間話。それだけ」

「へーなんか意外かも。それってメールもですか?」

 

次は隣に座る武部が尋ねた。兄は携帯を置いて、背もたれに身体を預けた。

 

「大体はな。今さっき届いたのは、ちょっと違ったけど」

「どんな内容だったんですか?」

 

お淑やかに聞くのは、五十鈴だった。兄は冷泉と一緒に頼んだメロンソーダを飲みながら、メールの内容を諳んじる。

 

「『ティーセットを二つ御贈りしましたので、一つは渡里さんに。もう一つはみほさんに差し上げてください』……だってさ」

「ティーセット?私に?なんで?」

「さぁ?」

 

聖グロリア―ナ女学院が対戦相手にティーセットを贈る理由を、この時のみほと渡里は知らなかった。

 




オリ主の名前はこんな感じで決まりました。

オリ主への名前呼びは、あんこうチーム→会長→全員って感じでこの後広まっていきましたとさ。
西住殿の苗字呼び→名前呼びも、本作ではこのタイミングとなりました。

ダー様が携帯片手にずっとニマニマしながらポチポチメール打つの、可愛くない?

次回は秋山殿メイン回です。


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幕間5 メモリー(ズ)

先日投稿した武部殿メイン回で、UA数が結構伸びました。
仕組みはよく分かりませんが、「色々な人に見てもらえたんだろな」と解釈し、「みんな武部殿大好きなんだなぁ」と現実世界でのモテっぷりに感嘆しておりました。

というところで特に本編とは関係のない幕間のお話です。
大会の日程とかその辺は捏造です。

原作キャラ→オリ主への呼び方に揺れが発生していますが、そういう仕様()です。


パンフレット及び選手名鑑作成の御案内。

小学生でも理解できそうな簡潔さで、そう書かれた書類が神栖渡里の目の前にある。

これが届いたのはついさっきのことだった。大洗女子学園の生徒会長、角谷杏からポンと手渡されて、住処である旧用務員室でなんぞやと開封して出てきたのが、この数枚の書類であった。

 

渡里は茶を一口啜って、改めて書面に目を通す。

色々面倒なことが書かれているが、見るべきところは少ない。だから適当に流し読みしても問題ないだろう。なんたってこの書類は、大洗女子学園に届くことにこそ意味があるのだから。

 

「とりあえず、参加申し込みは完了か」

 

ひと段落した気分だった。まぁ、実質的には何も始まってないわけだが、それでも一つの門を潜ったことには間違いない。

 

 

全国高校戦車道大会の開催は七月。大会運営が諸々の準備に一ヶ月の時間を要するため、エントリーの開始は五月から開始される。

別に早いもの順というわけではないが、先延ばしにしていい事があるわけでもないので、渡里は早々に申込していた。

 

パンフレット及び選手名鑑の作成とは、大会に参加する学校を紹介するためのもの。そしてこの書類は、そこに載せるための写真やらプロフィールを送れ、という大会運営からのお達し。

これが来たということは、つまり大洗女子学園が大会への出場権を無事獲得し、その頂点へと続く果てしない道のりのスタートラインに立つことができたことを意味していた。

 

「必要なものは……チーム全員の集合写真とピンショット…あと保有戦車か。うーん面倒くさいな」

 

どうにもすぐに終わる感じじゃなさそうである。渡里は頭を掻いた。

今すぐに、そして片手間にできるものが、一つもない。仕方ないが、練習時間を削るしかないだろう。

ただ撮影はどうしたものか。かなり大多数の人間の目に触れるものだし、ちゃんとしたものを送らないといけないわけだが、そうなるとプロのカメラマンを呼んだ方がいいのだろうか。

 

「学園艦の航行ルート的にどうなんだろ……」

 

学園艦は、海の上を漂う街。ある意味では、完全に外部から切り離された孤島である。学園艦内にそういう業者がいてくれるならいいが、いない場合は陸地から呼んでこないといけない。となると、学園艦が大洗港に帰港するタイミングが一番いいわけだが……学園艦は

そんなに頻繁に帰港するわけじゃない。学園艦内で、生産と消費が賄えているからだ。

 

書類の提出が先延ばしにできない以上、もしつぎの帰港が結構先になるなら、カメラマンはヘリでもチャーターして空輸するしかない。ただそうなったら余計なお金がかかる。

薄々と角谷たちがお金のやりくりで苦労していることに気づいている渡里としては、その手はちょっと選びにくい。

 

「………角谷に聞いた方が早いな」

 

パソコンを起動し、渡里は一通のメールを角谷へと送った。

まぁそんな絶望的な話じゃない。学園艦の中にカメラマンがいればいいし、いなくても帰港が近ければいい。それがなくとも、角谷がどうにかできる話ならそれでいい。

 

まぁそんな大した問題じゃないな。

そんな風に考えていた自分を、渡里はすぐに後悔することになる。

 

 

 

「というわけで事前に連絡があった通り、今日は写真撮影をしまーす」

 

なんであの人、ちょっとテンション低いんだろう。みほは首を傾げた。

 

今日も今日とて行われると思っていた練習は、いつも通りから離れたものだった。

回ってきた連絡網によると、どうやら大会運営に提出する用の写真を撮影するとのこと。それ自体は、別におかしな話ではなかった。黒森峰にいた時に、そういうことは経験していたから。

ただいろんな人に見られることになる、ということもあって、練習の時よりも気合いが入っている人が結構いる。

沙織なんかはその筆頭である。昼休みに化粧室に飛び込み、昼休みが終わる頃にバッチリメイクして帰ってきた彼女は、今も手鏡を片手に髪型や顔のチェックを入念に行なっている。沙織ほどではないが、そういう意味でいつもと違う人は何人もいる。

 

逆に、マイペースな人たちもいる。麻子はその筆頭である。今日も眠たげな目と雰囲気を隠そうともせず、ぼーっとしている。

他にはアヒルさんチームが、バレー部のユニフォームとパンツァー・ジャケットを組み合わせた独特のファッションを貫いて撮影に臨もうとしている。

カバさんチームも同じである。

 

本気であの格好で取るつもりなのだろうか、とみほは危惧した。大洗女子学園がイロモノチームとして見られる未来は、遠くないかもしれない。

いや、別に個性だからいいとは思うけれども。

 

「最初にピンショットを撮る。順番にあそこの椅子に座れ。終わった奴から靴に履き替えて外へ。集合写真用の足場が戦車を格納してる倉庫の前に組んであるから、そこら辺で待機してるように」

 

見かけのテンションとは裏腹に、兄の指示はテキパキとしている。

 

撮影用の機材が並べられている中で、ポツンと置かれた質素なパイプ椅子をみほは見た。

 

ちょうど一年振りになるだろうか。昨年は黒森峰の選手として、黒のパンツァー・ジャケットに袖を通して選手名鑑に名前を載せた。戦車道の名門、西住流の次女という看板を背負って。

 

しかし今年は違う。

 

新調された大洗女子学園のパンツァー・ジャケット、濃紺色のジャケットと白のスカートに身を包み、西住みほは大洗女子学園の隊長として大会に出る。

 

思うところがないわけじゃない。かつてのチームメイトは、自分のことをどう思うだろうか。黒森峰から逃げて、別の学校でのうのうと戦車道をやっている自分を。

 

「―――み」

 

いや、見るのはチームメイトだけじゃない。

姉や、母だってきっと………失望するだろうか。それとも、怒るだろうか。西住流から逃げ出して、それでも戦車道を続けるみほのことを。

 

「――ずみ」

 

それがどうした、と言ってやれたなら、どれほど楽だったか。

でも今は無理でも、そう遠くない先の未来で、みほはそう言えるようにならないといけない。

自分の意思を貫く通せるだけの、強さを持てるようにならないといけないのだ。

それはきっと、簡単なことではない。それができるのなら、みほは黒森峰から逃げ出し、大洗女子へとくることなかっただろう。

 

「西住!!」

 

垂れた頭が、喝を入れるような声によって跳ねあげられる。

慌てて辺りを見渡し、やがて視線が正面に向いた時、みほの両目は呆れたような顔をした兄の姿を捉えた。

 

「何ぼーっとしてんだ。お前から撮るから、さっさと座れ」

 

指で示された先には、無人のパイプ椅子。

周囲から刺さる視線。

みほは自分の頰が熱を持つのが分かった。

 

(うぅ……)

 

また余計なことを考えてしまった、とみほは自省した。

誰がどう思うとか、自分がどうするとか、そんなこと今考えたってどうしようもない。

今は、目の前のこと一つ一つに全力で取り組むしかないんだから。

 

なので、

 

「……表情固い。もうちょい柔らかく」

「西住ちゃーん。大洗女子の顔としてパンフに載るんだから、もっと笑顔じゃないと」

 

大洗女子学園戦車道のトップと、大洗女子学園のトップ二人からのダメ出し&要望にも、みほは全力で答えないといけないわけである。

 

「こ、こうですか…?」

「固いって」

「もっと自然な感じにならない?」

「うぅ……」

 

笑顔ってどうやるんだっけ、とみほは目を回した。

自分では結構笑ってるつもりなのだが、どうにも向こうの二人には伝わってないらしい。

というか、

 

「あの、なんで渡里先生がカメラマンに……」

「本職の人が税関に引っかかった」

 

どういう状況それ、とみほは三脚に固定されたカメラの後ろに立つ兄を微妙な目で見た。

密輸しようとしたの、お兄ちゃん。

 

「いやーどうしても向こうの人と都合がつかなくてさーまぁパンフの写真くらいなら素人でも大丈夫でしょってことで、渡里さんにお願いしたってわけ」

「シャッター切るだけだしな」

 

別に試合の結果に関わることでもないし何でもいいや、と渡里は面倒くさげにため息を吐いた。戦車道以外となると、途端にやる気がなくなるのが神栖渡里という人間である。

 

「それに自分らでやった方が金と時間かからないし。お蔭で練習時間削らなくて済んだ」

 

それは……まぁ確かにそうなんだろうけども。みほもプロの人と兄、どっちが自分の前に立っていて緊張しないかと訊かれれば、それは間違いなく後者だし。

 

「というわけで、さっさと終わらせるぞ。はい、笑え」

「もう少し笑わせる努力して!?」

 

どんな無茶振りだ、とみほは悲鳴を上げた。

結局OKサインが出たのは、16回目のシャッターが切られた時だった。

 

 

 

「はぁ~~今日も疲れたぁ」

「でも最初の頃に比べると全然余裕がありますね!」

「ようやく身体が慣れてきた、ということだろう」

「それに今日は、写真撮影で少し練習時間が短かったですし」

 

練習終わりの日課である戦車の清掃を終えたあんこうチームは、せっせと掃除用具の後片付けに勤しんでいた。毎日毎日頑張ってくれている戦車は、その分だけしっかりと汚れていく。整備自体は兄と自動車部がしてくれているが、だからこそ付いた汚れはみほ達が落とさないといけない。しんどいことではあるが、絶対にしないといけない作業だ。

 

でもみほは結構、この時間が好きだったりする。戦車の汚れは、それだけ自分たちが頑張った証だから見ると嬉しいし、ピカピカに磨いた戦車を見るのも、やっぱり嬉しい気持ちになる。一粒で二度美味しいのが、この掃除の時間である。

 

「写真かぁー私ちゃんと綺麗に取れてるといいけど。後で確認とかさせてくれないかな?」

「神栖殿はデジカメで撮ってましたし、頼めば見せてくれるんじゃないですか?」

「でももう椅子とかは片づけてしまいましたし……」

「変な所があっても撮り直しはできないぞ」

 

それもそっか、と沙織は大して気にしてない様子で頷いた。

正直、あの気合の入れ方なら変なところなんてないと思う。撮る方がよっぽどの下手っぴでもない限り。

 

「そういえば、なんか渡里さん写真撮影終わった後もデジカメ持ってなかった?」

「あ、確かに。練習終わるまでずっと持ってたかも」

「他に撮る物でもあったのでしょうか?」

「でもパンフレットに必要なのは集合写真と個人写真と戦車だけですよ?ちゃんと全部撮ってましたけど……」

 

戦車道の練習なんて何があるか分からないし、用が無いならさっさとしまっておくべきだろう。特にカメラなんて、すぐに壊れそうだし。

それに大会運営本部に提出するデータなのだから、その辺の事務作業もあるはず。となるとますます、持ちっぱなしでいる意味がない。

 

「………気になるなら見てみるか」

「見てみるって……わざわざ渡里さんのとこに行ってもまだ持ってるとは限らないじゃん。それに、別にそこまで気になるわけじゃないし」

「だが手元にカメラがあったなら見たいだろ」

「えぇ……?まぁそりゃ、見たいけど」

 

沙織は困惑した様子で頷いた。

みほも沙織と同じ気持ちだった。どちらかと言うと消極的なタイプの麻子が、まさかここまでの食いつきを見せるとは思わなかった。

 

その理由を、みほ達は直ぐに知ることになる。

 

ポン、と何気なく麻子はそれを四号の上に置いた。

全員の視線がそこに集中する。

そして五秒ほどの沈黙が辺りを支配し、ようやく全員が事態を理解した。

 

「――――デジカメあるじゃん!?」

 

沙織が麻子以外の三人の気持ちを代弁するように絶叫した。

飾り気のないシンプルなデザインをしたそのデジカメは、紛れもなく渡里が持っていたものだった。

 

「えー!?なんで冷泉殿が持ってるんですか!?」

「ちょっと麻子!まさかくすねてきたんじゃないよね!?」

「人聞きの悪いことを言うな」

 

心外そうに麻子はため息を吐いた。

そして指で背後を示した。

 

「そこの作業台に置いてあった。おそらく渡里さんが忘れていったんだろ」

 

その作業台にはドライバーやらスパナやらが雑に置かれており、みほは一目で兄の痕跡を見抜いた。麻子の言うことは、おそらく正しい。

 

「どうします?折角ですし見てみましょうか?」

「五十鈴殿!言いながら操作を始めないでください!」

「気になってたんだ……華さん」

「別に悪いことをするわけじゃない。見つかっても怒られることはないだろ」

「そ、そうだねっ!それにもし中のデータとか壊れてたらダメだしね!確認だよ確認!」

 

そんな誰にしてるのか分からない沙織の言い訳を最後に、一同はデジカメの小さな画面を覗いた。

結局全員見るんだ……とみほは心の中で苦笑した。自分だって見るけども。

 

機械的な起動音がした後、すぐにカメラマン渡里の本日の成果が姿を現した。

 

「これは……個人写真の方ですね」

「トップバッターの西住殿が写ってますよ」

「やたらに撮り直しさせられてたやつだな」

「うぅ……ほんとにキツかった……」

「でもちゃんと撮れてるよ。良かったじゃん」

 

画面の向こうにいる自分に、みほは同情するような視線を送った。

十六回もリテイクされては、どんなスーパーモデルだってげんなりするだろう。

沙織の言う通り、変に写ってないことだけが不幸中の幸いだった。

 

「麻子……選手名鑑に載るんだからもっとシャキッとしなよ」

「いつも眠そうですもんね、麻子さん」

「最近は低血圧がマシになってきたって言ってませんでした?」

「眠いものは眠い」

 

目が半分くらいしか開いてない麻子を見て、みほは少し笑った。

彼女の目がぱっちりと開くのは、きっとケーキを差し出された時とかだろう。

 

「華さんって姿勢が綺麗だよね」

「あ、分かります!こう、立ってても座っても真っ直ぐと言いますか、気品があります!」

「そんな……照れてしまいます」

「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、というやつだな」

 

頬を染めた華は、まさに可憐だった。

写真の中の彼女はこんなにも凛々しいのに……これがギャップ萌えだろうか。

 

「優花里……意外と写真映りいいんだね」

「そうですか?こういった機会はあんまりなかったので、自分では分かりませんけど……」

「綺麗に撮れてますね」

「変なところはないな」

 

自然な笑み、というのはこういうことを言うんだろうな、とみほは思った。

優花里は確か一発OKだったはずだし、自分もこんな笑い方が最初から出来たら良かったのに。

 

「これは……なんと言いますか……」

「沙織さん、気合が入りすぎです」

「朝から化粧室に篭ってたからな……まぁこうなる」

「なによ、当たり前でしょ?誰が見るか分からないんだから」

 

普通こういった証明写真のようなものは、実物よりマイナス補正がかかって見える、と言われている。有り体に言うと可愛くは写らず、いいとこ75パーセントくらい出れば十分とされてるわけだが……沙織の写真は余裕で120パーセントは出てる。正直、お見合い写真にもそのまま使えるくらいだった。武部沙織、恐るべし。

 

「うーん……他の子も結構ちゃんと撮れてるね。渡里さんが巧いのかな?」

「いやカメラの性能が良いんだよ」

「即答ですね、みほさん……」

 

あの兄にそんな技能はない、とみほは断言できる。

写真と言ってもそれは立派な芸術の一つ。兄はその分野においてはポンコツ以下である。似顔絵なんて書かせた日には、それはもう目も当てらないことになるのだ。

 

「あ、集合写真です!」

「他の学校と比べるとかなり少ないが……こうして並んでみれば壮観だな」

「パンツァー・ジャケットを着ているから尚更そう感じますね」

「そう!このジャケット結構可愛いよね!」

 

沙織はその場でくるりと一回転した。それに合わせて短い丈のスカートがふわりと舞う。

 

「私はどちらかと言うとカッコいいと思います!」

「確かにいい服ではある。丈夫だし汚れにくいし」

「誰がデザインしたんでしょうか……?」

「うーん……?」

 

兄ではないことは確かである。濃紺色を基調とするジャケットと純白のスカート、この二つが生み出すコントラストは間違いなく芸術音痴の兄からは生まれない。百年に一度レベルの奇跡が起きれば、中に着ている緑のタンクトップの発想くらいは出てくるかもしれないが、まぁ多分ない。

となると残りの候補は……

 

「生徒会の人、かなぁ。多分発注したのもそうだろうし……」

「そういえば角谷会長はご実家が塗装会社と聞いたことがあります。戦車のマークを作ってくれたのも角谷会長ですし、もしかすると……」

「だとすると、あの独特なセンスからよくこのパンツァー・ジャケットが生まれたな」

「た、確かに……」

 

ウサギさん、カメさん、アヒルさんチーム辺りはまだマシなデザインだと思う。普通に「まぁ可愛いんじゃない?」の範疇に収まる。ただ残りの二つはどうかと思う。カバさんチームはマ○バオーみたいなカバがお尻をこっちに向けているし、あんこうチームはもう何というか覇気を感じない。隊長車なのに。いや別に文句があるわけじゃないけど。

 

「後は……戦車の写真で終わりかな―――――ん?あれ、まだ写真が入ってる」

 

初めて出会った頃と比べて遥かに綺麗になった戦車達の姿が四、五枚ほど流れてきてもなお、カメラはまだ次のスクロールを表示していた。

みほは首を傾げた。提出する予定のデータは、戦車の写真で最後のはず。ならこの次に出てくる写真は一体なんなのか。

 

ほんの一瞬だけ逡巡した後、みほはカメラを操作してページをめくった。

 

「これは………」

「ん?なになに?」

「あれ?なんの写真でしょうかこれ」

「写ってるのは……澤さんとカエサルさんとみほさんですね」

 

それはみほの記憶にない写真だった。

いや、この場面自体は覚えがある。

今日の夕方、澤とカエサルの二人と少し戦車の連携について話していた、その一幕だろう。

最初はカエサルが話しかけてきて、そこに後から澤が混じって、そこから三人で30分くらい話して、という風に経緯まで覚えている。

みほの中にないのは、その場面を撮られた記憶だった。

 

―――――――いつの間に。

 

みほは目を丸くしてカメラの操作を続けた。

 

「まだあるな。これは……通信手組か」

「武部殿が何やら必死にもがいてますね……」

「ちがうよ!?ジェスチャーだよ!これも立派な練習なの!」

 

まぁそうなのだろうけども、とみほは視線を写真に注いだ。

写真を見て浮かんだ題名は「荒れ狂う海に投げ出されて溺れそうな人」、だった。

ピンショットであれだけ気合を入れていた武部が、こんな姿を自分から披露するわけがない。やはり、カメラで撮られていることに気づいていなかったのだろう。

 

「あ、私の写真もあります。これは確か……ウサギさんチームに砲撃のコツを教えている時ですね」

「これは私か。そういえばアヒルさんチームにアドバイスを訊かれたな」

 

そして次々に写真が捲られていく。

 

砲弾を担いでいる優花里の姿。戦車の上で本を読む麻子の姿。

何やら作戦会議をしている様子のカバさんチーム。

八九式の横でバレーに勤しむアヒルさんチーム。

森の中を元気に駆け回るウサギさんチーム。

椅子に座ってのんびりする角谷の世話を焼く河嶋と小山。

戦車を弄る自動車部。

 

そして―――キューポラから身を乗り出して指示を飛ばすみほの姿。

 

写真はまだまだ出てくる。しかしそのどれもが、他愛のない普通の姿を写したもの。

大洗女子学園戦車道の、練習風景を切り取ったもの。

みほ達の、日常を収めたものだった。

 

「こんなの撮ってたんだ……」

「全然気づかなかったですね」

「凄いですね渡里さん。探偵とか向いてそうです」

「普通に盗撮だがな」

 

辛辣な言葉とは裏腹に、麻子の語調には柔らかさがあった。

麻子だけではない。沙織も、優花里も、華も無許可で撮られたにも拘わらず、その口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。

そして、それはみほも同じだった。

 

「―――――――皆、楽しそうだね」

 

隠しきれない嬉しさを滲ませながら、みほはそう言った。

 

始まりは、きっと皆バラバラだった。

今までの自分とは違う自分を見つけたくて。

今よりも立派な乙女になりたくて。

単位が欲しくて。

友達が欲しくて。

他の皆も、それぞれ違う想いを持って道を歩きはじめた。

 

そして今は、皆同じ場所にいる。

バラバラに始まった線は、一つの場所で重なり、交わっている。

それはとても素敵なことなんだと、みほは思う。

当たり前の日常のように見えるこれらの写真は、きっと奇跡のような日々の記録。

七十億いる世界の、一億人にいる日本の、三百万人いる茨城県の、二万人いる学園艦で起きた、一期一会。

 

この写真はそんなことを教えてくれる。

なら、断じて隠し撮りを許容するわけじゃないけど、まぁしょうがないから許してあげてもいいかもしれない。

 

「あーーーーっ!?なにこれ!?こんなの撮ってたの!?」

 

みほは苦笑した。

その眼前には、隠し撮りの犯人がいた。

バレーのユニフォームの上からパンツァー・ジャケットを着たアヒルさんチーム四人の真ん中に、すっぽりと収められて両腕を掴まれた、呆れたように笑う兄が。

 

「アヒルさんチームと渡里さん、仲良いですもんね」

「『コーチ』って呼ばれた時は、すごい変な顔してたがな」

「でも時々いっしょにバレーしてるところを見たことがありますよ!」

 

神栖渡里を訪れるランキングがあれば、ベスト5入りが固いのがアヒルさんチームである。

元が体育会系な彼女達にとって、容赦なく厳しい練習を投げてくる渡里は寧ろ好ましい存在のようで、チーム単位で見ればおそらく最も早く渡里と打ち解けていた。

渡里は渡里で、根っこが素直で向上心と根性があるアヒルさんチームは可愛がり甲斐があるようでよく気にかけている。

 

畢竟、華の言う通り仲がとても良いのがアヒルさんチームと渡里である。

故にこの写真のアヒルさんチームは、みんな笑顔。その表情から、マイナスなものは微塵も感じられない。

………感じられるのは、寧ろ兄の方であった。

なんとなくみほは、この写真を撮るに至った経緯を察した。

おそらく隠し撮りがバレて、の流れだろう。

腕を掴まれ、振り払おうにもアヒルさんチームの笑顔が眩しくて、それができずにズルズルと引きずられてカメラの前へ連れてこられた兄の姿が、みほには容易に想像できた。

 

そして、この後の展開も。

 

「アヒルさんチームだけじゃないな。カバさん、ウサギさん、カメさんも渡里さんと一緒に撮ってる」

 

ほらね、とみほは笑った。一チームだけ撮るなんて器用な真似、できるわけないんだから。

 

「渡里さん、カバさんチームに何か着せられていますね。これはなんでしょう?」

「この横に広い扇形の帽子、海軍の軍服、それに右目と右腕を隠したポーズ……うーんもしかして」

「しかしコスプレさせられているにも関わらずノリノリだな」

「目が笑ってないけどね」

 

一般的な20代前半の成人男性の精神なら、とんでもない辱めだろうなとみほは兄に同情した。周りが周りだけに、それほど変に見えないのが不幸中の幸いだろうか。

まぁカエサルたちがとても楽し気な表情をしていることに比べれば、兄の気持ちなんて些細なことである。

 

「ウサギさんチームもすっかり渡里さんと打ち解けてるね。最初はすっごい怯えてたけど」

「怯えるというか、緊張してたんだろ」

「いつも遠巻きに見てましたしね」

 

それが今や、取り囲んでピースサインである。

みほはウサギさんチームに群がられている兄を見て、微笑ましい気持ちになると同時に、少しだけ昔の自分を思い出した。

幼い頃の自分も、きっとあんな感じだったに違いない。……多分、ウサギさんよりもっとやんちゃだったけど。

 

「か、神栖殿……明後日の方を向いてますね……」

「なんでこんなことになる」

「カメさんチームの方々はとても決まってらっしゃるんですけど」

「うーんカメさんと渡里さんの関係ってよくわかんないよね」

 

一見仲良さげには見えるが、実際のところは沙織の言う通りである。

決して関係が悪いというわけじゃない。でもそういった仲の良し悪しじゃなく、もっと別のもので繋がっているというか……他の誰にもない独特の関係がそこにはある気がした。

それが何なのか、みほにはさっぱり分からないけれど。

 

「えーいいないいなー!ねぇ、私たちも撮ろうよ!」

 

保存されていた写真全てを見終わり、カメラの電源を落とした後沙織はそんな風に言った。

 

「撮るって……写真をですか?」

「そう!私たちも、渡里さんと一緒に!」

「それはいいですけど……肝心の渡里さんがいらっしゃらないと……」

「わざわざ呼びに行くのは面倒だぞ」

「どっちにしろこのデジカメ届けに行くでしょ、そのついでだよ!」

 

果たしてどっちがついでなのだろうか、とみほは思った。

その真意は沙織にしか分からないだろうけれど……どちらにせよそんな必要はなかった。

 

コツ、と床を叩く音が一つ。振り返ればそこには、

 

「あれ?なんでお前達がそのカメラ持ってんだ?」

 

デジカメの届け先がいたから。

 

深い色合いの髪と瞳を持った彼は、驚いたように目を丸くしていた。

 

「お兄ちゃんが忘れていったのを見つけたの。作業台に上に置きっぱなしだったよ」

「あーやっぱここだったか。もうここが最後の希望だったんだが……見つかってよかった」

 

疲れたように兄はため息を吐いた。

その様子から察するに、色々なところを歩き回ったのだろう。片づけ下手な兄は、同じレベルで探し物も下手だから。

 

「中のデータとか大丈夫だったか?消えることなんて早々ないと思うけど」

「ちゃんと残ってたよ。ピンショットも、集合写真も戦車の写真も……お兄ちゃんの隠し撮りもね」

 

咎めるような視線を込めてみほは言った。ちょっとした悪戯だった。

勿論、この程度で狼狽える兄ではない。

 

「アレは角谷の頼みだよ。卒業アルバムに載せる写真がいくつか欲しかったんだとさ。今年から復活した戦車道は一枚も写真ないからな」

「あ、そういうこと」

 

話を聞いていた沙織たちも、みほと同じように得心がいった様子だった。

まぁそういう事情がなければ、兄もそんなことしないだろう。まさか本気で、みほ達に日常の尊さを教えようとしたわけでもあるまいし。みほはそう受け取ったけど。

 

「結構楽しかったぜ。まぁ途中で磯辺たちに見つかって、エライ目に遭ったけど」

 

乾いた笑みを兄は浮かべた。

お疲れ様、とみほは心の中で兄を労わった。それじゃついでに、もう一枚宜しいですか?

 

「あの渡里さん!私たちとも写真撮ってもらってもいいですか!?」

「えっ」

 

ガシっ、とみほは兄の腕を掴んだ。

普段は鋭い目が、この時ばかりは丸みを帯びて、みほと視線を交わす。

そしてにっこりと、みほは微笑んだ。

すると兄は、ゆっくりと大きなため息を吐いた。

 

「わーったよ、いいよ」

 

みほは渡里の、この諦めたように笑う顔が好きだった。

だってこの顔をする兄はいつだって、どんなワガママでも受け入れてくれるから。

 

そして状況はトントン拍子で進んでいく。

みほはきっと、何十年経とうともこの日のことを忘れることがないだろう。

 

「場所はどうします?」

「渡里さんは真ん中ですね」

「私はどこでもいい」

「私は西住殿の横にします!」

「みほさんは渡里さんの横ですね」

「え」

「カメラセットしたよーって……渡里さんの横空いてないじゃん……」

「早い者勝ちですよ、沙織さん」

「むむむ……じゃあ麻子と華の間に入ろっと」

「俺の真ん前に来てもいいぞ」

「流石にセクハラだよお兄ちゃん」

「マジか」

 

ハイ、チーズ。

 

「………おい、アレはいつ撮るんだ」

「あれーおっかしいなータイマーは十秒にしたはずなんだけど」

「間違って押しちゃったのかな?」

「あのカメラのタイマー、十秒の次は三十秒だぞ。あと二十秒くらいどうすんだ、これ」

「沙織さんったら……」

「こうしてるとなんだかこの前撮った写真のことを思い出しますね!」

「沙織が派手にコケたやつか」

「そ、それは忘れて!」

「つーか腹減った。アレ食べたいな、海鮮丼」

「お兄ちゃんそれ今言うことじゃ―――――――――」

「………あの西住殿、聞き間違いじゃなければ今お腹の音が」

「ししししてないよ!?」

「アッハッハ!!!」

「笑いすぎだよお兄ちゃん!!皆も!!」

「きゅ~ってまた可愛い音だなお前、子どもの頃から変わってねー!」

「―――――――もうっ!」

 

パシャ。

 

 

 

「会長?何見てるんですか?」

「んー?ほら、この間渡里さんにお願いした卒アル用の写真。最後の方に面白いのがあってさー」

「これは……ふふっ、渡里先生とあんこうチームですね」

「うん、皆――――すっごい良い笑顔だなって」

 

 

 




6/15(土)に最終章第2話を観てきました。

ネタバレになるので感想は一切言いませんが、一つだけ。

もしこの先自分が世界で一番面白いガルパン二次を書くことができたとしても、きっと原作の面白さには及ばないだろうな、と思いました。

すごいね、あのアニメ。


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幕間6 雨の日に

本編じゃなくて幕間。
毎回言ってますが、幕間は頭からっぽで書いてます。

台風で大変な目に遭っている人もいる中で、「不謹慎かなぁ」と思いながらも投稿することにしました。少しでもそういった人を元気づけることができれば幸いです。

本編が盛り上がっているところでもあり、文字通り水を差す話ですが、よろしければどうぞ。


ザアザアと、はげしい雨っていうのは本当にそんな音がするんだな、とまほは思った。

視線の先、窓のむこうの景色はどんより雲でお昼とは思えないくらい暗い。

ホースで水をまいたみたいにガラスは濡れていて、もしここで少しでも窓を開けたら教室の中は大変なことになるだろう。

 

男子はそんな外の様子を見て、キャッキャと笑っている。

何が面白いのかまほにはさっぱり分からないけど、とにかく面白いらしい。

逆に女子は静かだ。「俺ぬれてかえる!」なんて馬鹿言ってる男子に冷たい視線を送ったりする子や、外の暗さと大きな音にちょっと怖がっている子もいる。

 

「どーしよ、わたし傘持ってくるのわすれちゃった」

「わたしもー天気よほうは雨って言ってなかったのにね」

 

ちょっとだけ盗み聞きをしながら、まほはもう一度外を見てみた。

雨の勢いは、全然収まりそうにない。しばらくはずっとこんな感じだろう。

しかしなんとも、見ているだけで少し気分が落ち込んでくるくらいの、大雨である。

まほは天気よほうを見ていないが、家を出る時にだれも何も言わなかったし、朝はすごく晴れていた。だからまさか、こんな風になるとは思いもしなかった。

 

「わたし雨きらい。服はぬれるし髪はボサボサになっちゃうし」

「どこにも遊びにいけないもんね。男子はちっとも気にしないけど」

 

ランドセルに教科書やノートを詰めながら、まほはちょっと考えた。

さて、どうしようか。

こんな雨が降るとはまさか思ってもいなかったわけだから、当然まほはこういう時ぜったいに必要なものを持ってきていない。

すなわち、傘である。あるいは、合羽である。

 

これらがなければ、おそらくまほは家に帰るころにはお風呂に入った時のようにずぶぬれになっているだろう。いや体がぬれるのはまだいいけど、ランドセルの中の物がそんな風になってしまうのは大変困る。

 

しかし傘はどこにもない。

いっしょに登校した妹も、まほと同じように持っていなかったら、二人で相合傘をすることもできない。かといってだれかに借りることもできない。

 

「まほちゃん。まほちゃんも傘ないの?」

「あぁ、わすれてきてしまった」

 

クラスメートに声をかけられて、まほはそちらを向いた。

クラスメートは「そうなんだ」と言いながら、とても嬉しそうな顔をした。

 

「わたしも傘わすれてきちゃったんだ!でもお母さんがむかえに来てくれるの!さっき先生が教えてくれたんだー」

「よかったじゃないか」

「うん!じゃあね!」

 

そう言ってクラスメートはランドセルを背負って教室から出ていった。

いったい自分は何を聞かされたのだろうか、とまほは首を傾げた。

 

しかしお迎えか。

たしかにその手はある。

でもまほには使えない手だった。

 

まほは知っている。

お父様は、今日は戦車のせいびがたくさんあるらしくて、帰ってくるのがおそくなると朝に言っていた。

お手伝いのきくよさんも、今日はどこかに行くらしくて夜まで帰ってこないらしい。

そしてお母様も、そう。

ずっとずっと忙しそうにしているお母様は、きっとむかえには来れない。

 

「………」

 

さびしくはない。

まほは戦車のせいびがとても上手なお父様が大好きだし、強くてかっこいいお母様も同じくらい大好きだから。

だからさびしくなんかない。二人がすごく頑張っているのをまほは知っているから、ちっともさびしくない。

 

キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴った。

みんなまばらに教室を出ていく。

男子はぬれて帰る道を。

女子はだれかに迎えに来てもらう道をそれぞれ選んだらしい。

だれかの傘に入れてもらうことはできないようだ。どっちにしろ、そんな気もなかったけど。

 

ランドセルを背負い、教室を出て、階段を降りる。

下足箱で上履きと靴を履き替えて、外と中の境目にまほは立った。

 

雨は止んでない。止む気配もない。

どうしようか、とまほは立ち尽くすしかなかった。

家まで走れば、どれくらいぬれずにすむだろうか。でも、この雨じゃあんまり変わらない気がする。

 

暗く、重く、黒い空。

こんな日の空を、なんていうんだろう。

まほにはわからないけど、見ているだけで心が痛くなるのだけはわかった。

かなしいのか、さびしいのか、つらいのか、そのどれでもないのか。

 

ただまほは漠然と、独りはいやだと思った。

だれか、

 

「だれか、きてくれないかな」

「来たよ」

 

遠くの方で、声がした。

辺りを見渡す。だれもいない。

ただシャワーのように降り続ける雨と、それが地面を叩く音だけがまほの周りにはあって、だれもかれもそこにはいない。

 

気のせいだろうか。

視線を真正面に戻す。

 

――――そしてまほは、それを見つけた。

 

とてもよく知ったデザインの、何度も何度も見た中学校の制服。

まほよりずっと高い身長に、深い色をした髪。

するどい目つきの中には、まっくろな目。

よおく、よおく知っている男の人が、青い傘を持ってそこに立っている。

 

瞬間、まほは駆け出していた。

さっきまであった「ランドセルの中のものがぬれたらいやだなぁ」とか「風邪ひくかもしれないなぁ」とか、そういうの全部置き去りにして、砲弾みたいになってまほはひた走る。

 

ぐん、ぐんと加速して、二号戦車よりも速くぬかるんだ地面を駆けて。

助走の勢いそのままに、一直線。

まほはその人のお腹に飛び込んだ。

 

「お兄様!」

「ぐえっ」

 

ドン、とおでこがみぞおちにさくれつ。

トラックにひかれたカエルみたいな声を上げて、兄はまほの頭に手を置いてプルプルしていた。

 

「むかえにきてくれたのですかっ」

「うん、そして今迎えに来るんじゃなかったと後悔してる」

「ありがとうございますっ」

「聞けよ」

 

げんなりしてても、傘は手離さない。

雨が傘を叩く音に、兄の息づかいが混じる。

ぎゅっ、とまほは兄の背中に手を回した。身長差的に、腰か背中かわからないけど。

そしてぎゅーってすると、兄はまほの背中を二度叩いた。

それだけのことで、まほは心が少しあたたかくなった。

 

「待った?」

 

まほは首を横に振った。

そっか、と兄はまほをぺいっと引きはがした。

 

「雨ん中走ってくんなよなーそんなことしなくても近くまで行ってやるのに」

 

そう言いながら兄は、カバンの中からタオルを取り出して、まほの頭に被せた。

そしてポンポン、と軽く叩くようにして滴を取ると、次は身体を服の上からふいてくれた。

 

まほは上を見る。

 

まぎれもない、まほのよく知る兄の顔。

おこってないのにおこってるように見える、カッコいい顔。

お母様とは違うするどさがある顔。

まほの、好きな顔。

 

「しほさんから帰り途中迎えにいけって言われてさ。まほもみほも、傘持ってかなかったろ?」

「お兄様は持っていったのですか?」

「もちろん。雨降るって知ってたし」

「天気よほうでは晴れって言ってました」

「ばかだなぁ。そんなもんより外見りゃわかんだろ」

 

うりうり、と頭をくしゃくしゃに撫でられる。

少しくすぐったくて、まほは目を細めた。

見ればわかる、と言われてもまほにはさっぱりだけれど、今はそれよりこの感触を味わっていたかったので、まほは何も言わないことにした。

 

「はい拭けた。それじゃ帰ろか。みほは?もう帰った?」

「わかりません」

 

まほとみほは行く時は一緒だけど、帰りはそうじゃない。

まほにはまほの友達が、みほにはみほの友達がいるから、帰りはその子たちと帰ることが多い。

まだ教室にいるだろうか。もしかしたらこの雨の中走って帰っていったかもしれない。あの子はとってもやんちゃだから、これくらいの雨でも関係なしに突っ走っていってもおかしくない。

 

「お兄ちゃーーーーーーーーーーーーーんっ!!」

 

すると遠くから、学校全体に聞こえるんじゃないかというくらい大きな声がした。

思わずそっちを見る。

するとそこには雨にぬれるのも御構い無しに、ドチャドチャバシャバシャと泥と水を巻き上げながら突進する戦車がいた。

いや、戦車じゃない。あれほ、

 

「みーーーーーー」

「お兄ちゃんっ!!」

「ほげぇっ」

 

戦車みたいな、妹。

ぴょーん、とジャンプし、どーん、とぶつかって、ぎゅーっ、と首に腕を回して抱きつきプラプラと浮かぶ、元気120パーセントなおてんば娘。

まほと一文字ちがいの名前の、顔と名前くらいしか似てないとよく言われる、たった一人の妹。

 

「みほ、よかった。まだいたんだな」

「お兄ちゃんなんでいるの!?むかえにきてくれたの!?あ、お姉ちゃんもいる!」

 

ぐいんぐいん、と身体を振りまわすみほ。

たぶん兄の首が大変なことになってるが、それでも傘は落とさないし、みほの体もしっかり受け止めている兄はすごいと思った。

 

「傘をわすれてただろう?だからお兄様が迎えにきてくれたんだ」

「そうなんだ!ありがとお兄ちゃん!」

「………うん」

ぼそり、と何かをつぶやいて、兄はみほを降ろした。

 

「ってかみほ、なんでそんな濡れてんだよベチャベチャじゃん」

「へ?」

 

まほはみほを見た。

髪の毛はしっとり、服はビッショリ、肌にはところどころどろんこが。

母が見たら何も言わずお風呂場に叩きこみそうな、そんな有様だった。

 

するとみほは「えへへ」と一つ笑って、

 

「さっきまで外で遊んでたの!」

「あほか」

「あいた!」

 

ズビシ、と兄のチョップがみほの頭に直げきした。

 

「こんな時に外で遊ぶな!風邪引くだろ!」

「えー、でもこんなに雨がふることってないもん!」

「男子か!」

 

ギャイギャイと一つ傘の下でくり広げられる小さな争いは、まほの耳から雨の音さえ消していく。

どんな雨が降っても、どんなあらしが来ようとも、きっとこの傘の下の世界は変わらない。ずっとずっと、この景色はまほの近くにある。

まほはちょっとだけうれしい気持ちになったので、少し笑った。

 

「あーもうこんなちっちゃいタオルじゃ追っつかねぇな」

 

ぐしぐし、とまほの時とは違ってちょっと激しく、兄はみほの頭をタオルでふいていく。

その下のみほの顔は、頭をなでられてる犬みたいにうれしそうである。兄はとてもあきれてるけど。

 

「いいや、終わりっ。あとはもう家帰って風呂入れ」

「えー、じゃあお兄ちゃんも一緒に入ろ!」

「やだよ、俺濡れてないもん」

「ケチー」

「ケチじゃありませんー」

 

そうして二人は、どちらからでもなく笑った。

雨の中、太陽みたいに笑う妹と兄。

つられてまほももっと笑ってしまった。

 

「よし、帰るぞー!」

「おー!」

「お、おー」

 

傘を上に突き上げる兄。

元気よく右手を突き上げる妹。

二人に挟まれたまほは、ちょっと恥ずかしかったので小さく左手を突き上げた。

 

そして一つの傘に三人入って、仲良く歩き始める。

真ん中は傘を持つ兄。その左側はみほで、右側はまほ。

ゆっくり、ゆっくり、雨の中を歩いていく。

 

「ねぇお兄ちゃん、帰ったら戦車ゲームしよ!」

「えーまたかよ。みほ弱いからなーやってても面白くないんだよなー」

「むー、今日はちがうもん!すっごい作戦かんがえたんだから!」

「へーどんな?」

「こっつん作戦!」

「弱そう」

 

キャーキャー言いながら歩くみほの反対側で、まほはとっても静かに歩く。

ふと、左ななめ上を見た。

 

兄は右利きだから、何かを持ったりする時は右手で持つことが多い。

おはし、本、電話、おかしを食べる時も当然右手。

だから()も、右手で持つ。

今も、そう。兄の右手は、傘が独占している。

 

「………」

 

まほは反対側を見る。

ニコニコとしながら歩くみほの右手、その先にあるのは兄の左手。

ちっちゃい手とおっきな手がしっかりとにぎり合って、一つの橋ができている。

 

「………」

 

まほは前を見た。

それはよそ見歩きしないためのもの、ではなかった。

 

いいんだ。だってまほは、みほのお姉ちゃんだから。

一年早く生まれたまほは、みほより一年多く甘やかしてもらえた。

だからその分、みほは誰かに甘えさせてもらうべきなんだ。

それにお姉ちゃんは、妹に優しくしないといけない。

母や父が自分よりもまほたちを大事にしてくれるように、まほもまた自分より妹のことを大事にしなければならない。

 

おかしはみほに一つでも多くあげて、アイスの当たりが出たらゆずってあげて、みほがこまってたら手を引いてあげる。

みほが好きなことを好きなだけできるように、まほはちょっとだけガマンをするのだ。

 

それが、お姉ちゃん。

だからまほは、()()()()()()()()()()()いい。

だってその分みほが、兄と手をつないでいられるんだから。

 

「………みほ、肩車してやるよ」

「へ?どうしたの急に」

「いいからいいから、ほら傘持って」

「お兄様?」

 

兄は突然立ち止まり、変なことを言いはじめた。

傘を押しつけるようにしてみほに渡し、みほの体をひょい、と持ち上げて少しかがむ。

そして、

 

「合体!」

 

チャキーン、という音はしなかった。

しなかったけど、みほの体はとても高いところにいった。

 

「わぁー!高―い!」

「これでだいたい常男さんと同じくらいだな」

「お父さんと?へぇー、こんな風にみえてるんだー」

「そうそう。あ、こらちゃんと傘持てそんな高く掲げるな。濡れる濡れる」

 

ぶおんぶおん、と傘をゆらすみほと、つられて体がゆれる兄。

みほが楽しそうで何よりだけど、いったい兄は何がしたかったのだろうか。

まほは首を傾げた。

 

「よーし!行けーお兄ちゃん!ぱんつぁー、ふぉー!」

「おー」

 

みほのかけ声で、兄が発進する。

 

よくわからないけど、まぁいいか。

そんな風に考えて、まほも歩こうとする――――――よりも早く、まほはだれかに引っぱられて前に進んだ。

そしてようやく気付く。自分の左手を、だれかがつかんでいることに。

いや、だれかなんてわかりきっていることだった。今まほと手をつなぐことができる人なんて、一人しかいないんだから。

 

左手の先。そこにあるのは、自分よりも一回りもふた回りも大きな手。

ゴツゴツしてて、ちょっと冷たくて、でもじんわりとあたたかくまほの手をつつんでくれる、そんな手。

 

「あめあめふれふれーかーさんがー♩」

「じゃーのめでーおむかえうれしいなー」

 

兄が、手をにぎってくれていた。

何も言わずに、だまって、まほのちっちゃな手を。

 

心の声が聞こえたのだろうか。それとも、たまたまだろうか。

しかしまほはすぐに、どっちでもいいかと思った。

ただ前も見ずに、自分と兄をつなぐ橋をながめる。

 

いつだってそう。

兄は、とっても優しい人なのだ。

まほがしてほしいと()()()()はすなおにやってくれないのに、してほしいと()()()()はすぐにやってくれる。

まるで心がつながってるみたいに。

 

うれしい。うれしい。うれしい。

雨が降っているから体はさむいのに、心はこんなにもあったかい。

 

ほっぺたがユルユルになるのが、まほは自分でわかった。

きっと、へんな顔になってる。でも、いいや。

 

きゅっ、とまほは左手を強くにぎった。

すると、同じくらいの力で、きゅっ、とにぎり返される。

それだけのことで、こんなにもしあわせな気持ちになれる。

 

「ぴーちぴーち♩」

「チャープチャープ」

「らん!」

「ラン」

「……らん♩」

 

三人は歩く。

歌いながら、笑いながら、手をつなぎながら、楽しく歩く。

わんぱくな妹と、遠慮しがちな姉と、優しい兄。

そんな関係を描きながら。

 

 

 

 

 

ところで帰り道、兄は言った。

 

『うーん、この雨夜までいきそうだな。雷降るかも』

 

その時まほは、兄が「痛い痛い」と言うくらいに兄の手を強くにぎってしまった。

雷。

はげしい雨といっしょに、ヤツも来るらしい。

 

まさか、とまほは思った。

 

しかしこういう時、兄の言うことはぜったいに当たる。

本当にふしぎなことに、100パーセント当たる。

なぜかわからないけど、当たってしまう。

こんな風に。

 

「………っ」

 

ゴロゴロ、ドッカン。

遠くの方で、その音は聞こえた。

まほはふとんの中に頭まですっぽり入って、枕を抱きしめた。

 

こわくはない。ほんとうである。

だってまほはお姉ちゃんだから。小学二年生だから。

カミナリがこわいなんてことは、ぜったいにないのである。

 

ただこれは、そう。

カミナリがうるさくて眠れないから、ふとんの中にもぐって少しでも静かにしようとしているだけ。

ガタガタバンバンという窓や、ゴロゴロとおこってるカミナリから逃げようとしているわけではない。

だってどんな時でも逃げないのが、西住流だから。

 

「………っ」

 

ゴロゴロ、ドッカン。

まほはまくらをぎゅーっと抱きしめた。

それで何かが変わるわけじゃないけど、とにかく抱きしめた。

 

小学生になってからまほは、みほといっしょに使っていた部屋から自分一人だけの部屋にお引っ越しした。

自分から出ていきたいといったわけじゃなく、母からそうするように言われたからである。

 

別にまほは今のままでよかった。みほといっしょにいるのが楽しかったから。

でも母にはダメと言われたので、兄に聞いてみたところ、「西住家の風習じゃね」と言われた。

ふうしゅう、というのがなにかは、まほには分からなかったけど、兄が「良いことだよ」と言ったからまほはそれを受け入れた。

 

広い部屋。だれにも、なんにもされない自分だけの部屋。

いいことはたくさんあったけど、わるいこともすこしあった。

よくもわるくも、ここではまほ一人しかいられないのだ。

 

「……?」

 

ふとゴロゴロ音がしなくなったので、まほは頭だけふとんから出してみた。

そして窓の外を見る。

そこにはザァーザァーと降りつづける雨。でも少しだけ、さっきよりマシになっている。

 

『まぁ、明日の朝には止んでるだろ』

 

まほは兄の言葉を思い出した。

そうだった。この雨も雷も、ずっとつづくわけじゃない。

明日の朝には止んでいるということは、この夜の間には雨は止むということ。

そしてそれは、お日様が出てくるとの同時とは限らない。今止んだって、おかしくはないのだ。

 

まほは上半身までふとんから出し、大きく息をはいた。

まったく、めいわくな天気である。さんざんうるさくしておいて、気がすんだらかってにどこかに行って。みほでももうちょっとおとなしい……かは、ちょっとわからないけれど。

しかしまぁ、これ以上まほの眠りをじゃましないと言うなら、ゆるしてあげよう。

まほはお姉ちゃんだから心が広いのである。

 

 

 

ピカッ。

ドカーン!!!

 

ガタガタッ。

ガチャバタン。

ドタドタドタドタ……。

 

 

 

 

 

「……それで逃げてきたわけか」

「にげてません。せんりゃくてきてったいです」

「それ昨日教えてあげたやつじゃん」

 

まほは兄の部屋に来ていた。

兄の部屋はとにかくちらかっていて、本本本たまに服、みたいな感じ。全部出しっぱなしにされていて、片づけのかの字もない。

そんな、母が見たらとてと怒りそうな部屋のまんなか、ベッドの上にまほと兄は座っていた。

壁にもたれる兄、の股の間に座って胸にもたれるまほ、という図である。

 

あいかわらず外はうるさい。

でも兄がいるだけで、こんなにも気にならなくなるのは、ふしぎなことだった。

 

「カミナリが怖いねぇ。音だけなら戦車のほうがよっぽど大きいと思うけど」

「ぜんぜんちがいます」

 

ぎゅっ、とまほはいっしょに持ってきたまくらを抱きしめた。

兄にはわからないかもしれないが、まほにとってはぜんぜんちがうのである。

 

「戦車はドーン、で雷はドカーン、です」

「ドーンとドカーンの違いとは……」

 

兄はケラケラと笑った。

 

「……お兄様はなんの本をよんでたのですか」

「んー?」

 

まほは話題を変えることにした。

視線の先、まほの目の前には、兄の両手と一冊の本があった。

正確に言うと、兄と本の間にまほがむりやり割って入っていったから、本の方が先にいたのだけど。

 

「戦車の図鑑だよ。世界中の戦車が載ってるんだ」

 

ぐい、と兄が少し身を起こした。

するとまほと兄の姿勢がちょっとだけ前のめりになる。

そしてぽん、とまほの頭の上に兄のあごが乗っかった。

ほんのちょっと重み。でも、しあわせな重みだった。

 

「まほはドイツの戦車はわかるよな?これが普段乗ってる二号戦車、それが進化した三号戦車。名馬って言われた四号戦車に、三号と四号が合体して生まれた五号戦車、パンターって呼ばれてるやつだな」

「パンターは好きです」

「まほが好きなのはパンターF型。設計上の最終形態で、実際には量産されなかったんだ。でも戦車道にはギリギリ参加できるから、いつか乗れるといいな」

「お父様に買ってもらいます」

「常夫さん頑張れ……いくらするのか知らないけど」

 

まほは本の1カ所を指差した。

 

「お兄様が好きなのはこのティーガーですよね」

「お、そうだよ。戦車道をあまり知らない人でも、ティーガーは知ってるって人はいたりするよな。それくらい有名な戦車だ」

 

ティーガーI。

兄が言うには、世界最強の戦車と呼ばれたこともあるらしい。

 

「硬い装甲。高い火力。シンプルで、だからこそ誤魔化しが効かない。誰が乗っても強いわけじゃないけど、使いこなせばどんな戦車にも負けない。そんなカッコいい戦車だよ。いつか俺も乗ってみたいな……」

 

まほにはチラと兄の顔を見た。角度的に全部は見えなかったけれど、それでもわずかに見えた兄の顔は、うれしそうで、でもかなしそうだった。

 

まほには、なんで兄がこんな顔をするのかわからない。

それが、まほが子どもだからなのか、別の理由なのか、それすらもわからない。

 

でも、兄のこんな顔は見たくないと、それだけははっきりと分かった。

 

「お兄様」

「うん?」

「私が、ティーガーに乗せてあげます。お父様にティーガーを買ってもらって、お兄様を乗せてどこへでも連れていってあげます。お兄様の行きたいところに、いつでも連れていってあげます。だから……」

 

その後の言葉は出てこなかった。

代わりに、ぎゅっ、と兄の腕をつかむ。

答えは、息づかいとともに返ってきた。

 

「……ふふ、そりゃ楽しみだなぁ」

 

兄は笑った。うれしそうに笑って、まほの頭に乗せたあごにちょっと体重をかけた。

 

「でもいいよ。まほは、まほの好きな戦車に乗りな。俺のためとか、そういうんじゃなくてさ」

 

兄は本を置いた。

そして空いた両腕が、まほの体に巻かれる。

前のめりの体は、再び元の体勢に戻った。

 

「まほはお姉ちゃんだから、みほのために色々我慢しなきゃいけないこともあるかもしれない。まほが偉いのは、それをちゃんと分かってて、実行できてること。でも、ちょっと行きすぎかなってお兄ちゃん思うな」

 

とくん、とくん、と兄の心臓の音が聞こえる。

ふしぎとそれに心地よさを覚えるまほがいた。

 

「みほの前だけじゃなくて、しほさんや常夫さんの前でもそういう風にしてるだろ。俺がまほのくらいの頃なんてさ、もっともっと聞き分けなくてみほよりヤンチャだったよ」

 

みほよりヤンチャな兄。まほにはちょっと想像できないけれど、いろんな意味でたいへんな子どもだったにちがいない。

 

「それに比べたらまほはすごいよ。でもさ、まほはみほのお姉ちゃんだけど、俺の妹でもあるわけじゃん」

 

兄はあたりまえのことを言った。

そしてほんのちょっとだけ、両腕の力を強くした。

 

「だからもっとワガママ言っていい。自分のことを考えていい。しほさんも常夫さんも、きっとそう思ってる」

 

じんわりと、その言葉はまほの心にしみこんでいく。

優しい声色。

父とも、母ともちがう、ふしぎなあたたかさ。

それが、まほの心を解いた。

 

「……じゃあ、ずっといっしょにいてください」

 

それはウソ一つない、まほの心からの言葉だった。

まほにとっては、兄のいない世界なんて考えられないことだから。

だから、グーっと兄の胸におもいっきり体重をかけて、まほはワガママを言う。

 

「ずっと、ずっと、この先ずっと、私といっしょにいてください」

「んー、それはできないかも」

 

まほはほっぺたをふくらませた。

 

「話がちがいます」

「なんでも言うことを聞くとは言ってないし。それにできないことはあるよ。鳥みたいに飛べったってできっこないだろ?」

 

むー、とまほはうなった。

口げんかで、まほは兄に勝ったことは一度もない。兄に通用するのは、母から教えてもらった『なきおとし』だけである。

 

「ずっと一緒は無理だけど、今日くらいはいいよ」

「いやです。明日もいてください」

「……はいはい」

 

そして二人は、布団の中で横になった。

時刻はすでに23時を回りつつあり、それは中学生と小学生が起きてていい時間ではなかった。

電気を消し、部屋の中は外と同じくらい暗くなる。

しかしまほは、ちっとも怖くなかった。

 

「なぁ知ってるか、まほ。クーゲルパンツァーは火星人が地球に置いてったオーパーツなんだ」

「いせいじん」

「だからあんな変な見た目してるんだ。ちなみにイギリスにはそういうのがたくさんあるんだぞ。パンジャンドラムとか」

「たくさん」

 

こうやって触れることができる暖かさが、そこにある限りは。

まほは何にも怖くないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「隊長、今日の練習の中止を伝えてきました」

「あぁ、すまない。流石にこの雨じゃ、少し危ないからな」

「いえ……あの、どうかされましたか」

「どうした、急に」

「少し、気落ちしてるように見えましたので」

「………そんなことはない、が。少し昔のことを思い出していた」

「昔……ですか?」

「あぁ、知ってるかエリカ。クーゲルパンツァーは、火星人が地球に置いていったオーパーツなんだそうだ」

「は、え、……はい?」

「昔、そう教わったんだ」

「あの、隊長……騙されてますよ、それ」

「――――――――知ってるさ。でも、それが私にとっての真実なんだ」

 

 

 

 




ちなみに原作のまほさんはちゃんと自分を持っている人です。
本作ではオリ主がいるせいで変な感じになっています。

「まほさん好きな戦車はパンターなのになんでティーガー乗ってるんだろ」という疑問は誰しもが一度は抱くものですが、本作ではこんな風に解釈しました。


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幕間7 「平凡だけど普通じゃない幸せ」

アンツィオ戦の最中ではありますが、久しぶりに幕間の話です。
たまにはこういう季節に沿ったネタをやるのも良いですよね。
水着回の話とか、書いたはいいもののシーズン過ぎてお蔵入りしたけど。

此度より本編と幕間は完全に分けることにしました。
時系列は前書きなりに書いておきます。徐々にですけど。


「菊代さーん!!」

 

ドコドコドコ、と廊下を派手に踏み叩く音と一緒に、そんな元気100%な声が響く。

その時菊代は前を見ていたので、背後から近づく何者かの姿は見えない。

けれどその音だけで、菊代は後ろから誰が近づいてきているのかを理解した。

 

振り返り、柔らかな笑みと声色を以てその子の名前を呼ぶ。

 

「みほお嬢様」

「菊代さん!おはよう!」

「はい、おはようございます」

 

時刻は午前九時。

誰もが活動的になり始める時間だがこの少女に関しては、他の人の数倍はエネルギッシュ。輝く陽のような笑顔につられて、菊代もまた口角が自然と上がった。

土曜日という二連休の始まりということもあってか、西住みほはいつもより割り増しで元気に見える。

西住家の使用人ということで土曜だろうが水曜だろうが変わらず働く菊代には分からないが、やはり休みの日というのは違うものだろうか。

 

学生時代を思い返して、少し逡巡する菊代であった。

 

「菊代さん、おはよう」

「あ、まほお嬢様も。おはようございます」

 

すると次は、西住みほとは対照的に、あまりにも静かに現れた影があった。

実母の血をより濃く受け継いだのか、菊代の主人にそっくりな顔立ちをした、理知そうな子。

さながら太陽のような西住みほとは違い、月のように静謐な少女の名前を、西住まほと言った。

 

二人は菊代の主人、西住しほの実子であり、この西住流家元における歴としたお嬢様である。

当然使用人の身分である菊代よりも上の立場になるわけだが、幸いにも二人は菊代のことを慕ってくれているようで、ぞんざいに扱われたことは未だ一度もない。

 

しかしだからといって菊代の方から、過剰に馴れ馴れしくすることはできない。

こんな小さく可愛い子達であっても、将来はこの家と名を背負う者。

その身には戦車道界に覇を唱える西住の血が、しっかりと、それも色濃く受け継がれているのだ。

だから菊代は、決して仕方なく畏まっているわけじゃない。

自分なんか足元にも及ばないであろう才に、唯々敬意を払っているのだ。

自分もかつて戦車乗りであったが故に。

 

「どうされましたか?」

 

この二人が二人でいることは、決して珍しいことじゃない。

学校の登下校は勿論、時間と機会が許す限りは、二人は一緒にいる。

何処へ行くにも何をするにも、本当に一緒だ。

 

まぁ西住を継ぐ二人の仲が良いのは、菊代にとっては大変喜ばしいことだ。

仲が悪いより何百倍もいい。この世界、に限らずこういう名家には往々にして骨肉の争いというのは存在するが、当然無いにこしたことはないのだから。

 

(……まぁそこにはもう一人いますけどね)

 

ここにはいない、西住しほの長男の姿を思い浮かべながら菊代は笑みを深めた。

 

「あのね、もうすぐ()()()()()()でしょ!?」

「あぁはい、そうですね」

 

そうか、もうそんな時期か、と菊代は矢のように過ぎゆく時の流れに思いを馳せた。

 

バレンタイン。

それは様々な風習を持つ文化だが、ここ日本においては、主に女子から男子へとチョコレートを渡す文化として知られている。

決してイギリスの戦車のことではない。

そんな鉄の匂いがするものじゃなく、寧ろ甘酸っぱい恋の香を日本中に漂わす、ピンク色のイベントなのである。

 

最近は友チョコとかなんとか言って、色恋は薄れつつあるが、それでも未だに日本ではカップルの仲を深める、あるいはカップルを量産する文化だ……菊代ももうあまり分からないけれど。戦線離脱してからが長すぎて。

 

「それでね、実はチョコレートを作りたくって」

「私とみほだけじゃ作れないから。菊代さんの力をかりたい」

「それは……」

 

なるほど、と菊代はいずれ来るであろうと思っていた日が、遂に到来したことを悟った。

手作りの、チョコレート。そしてバレンタイン。

このワードを並べて見て、果たしてそのことに思い至らない人間がいるのだろうか。

 

実に喜ばしいことだ。

8歳と7歳にしては少しマセすぎていないか、と言う人間もいるだろうが、菊代は決してそうは思わない。

いくら花より団子、花より戦車な二人であっても、あの西住しほの娘。

本人の前では決して、というかどこにいても大きな声で言えないが、そういう男女の関係に関しては誰よりも貪欲……じゃなくて意欲的!であってもなんらおかしくはない。

 

そうでなければ旦那様も、そしてこの二人も今ここには存在していないだろう。

撃てば必中、守りは硬く、進む姿に乱れ無し。

西住の女は戦車に乗っていようが降りていようが、常在戦場の天下無双なのである。

 

「良いことですね。どなたに送るのですか?」

 

チョコレートの作り方を指南することに関しては何の異論もない。

菊代としては喜んで引き受ける。年齢的にも大人が一人いないと危ないし。

ただ、別に駄賃をねだるわけではないが、誰に送るかどうかは聞いても許されるだろう。

 

えぇ、決して邪な気持ちがあるわけじゃなく。これは大事な大事なお嬢様方に悪い虫がつかないようにするための、いわば護衛である。

もし名前を聞いて、それが禄でもない人間であったなら、その時はあらん限りの手段を以て排さねばならぬ故に。

 

「お兄ちゃんだよ!!」

「お兄様です」

 

そっちかーい。

 

 

 

 

『菊代さんにはお兄様がどんなチョコレートが好きかを聞いてきてほしいんだ』

『お兄ちゃんが一番好きなチョコレート作りたいの!』

 

というわけで菊代は、お嬢様二人から重大な任務を賜る運びとなった。

普通に二人で聞きに行けばいいのでは、と思い進言してみたのだが、どうも二人には企みがあったらしく。

 

『さぷらいずしたいから!』

 

こっそり作って、かの人を驚かせたいのだと言う。

まぁそれは大変結構なことだが、そこでなぜ菊代が採用されたかというと、単純に二人ではバレてしまうからである。

妹の方はもういわずもがな。隠し事なんて絶対にできない。すぐ顔に出るから。

姉の方は結構ポーカーフェイスだが、それでも()()()相手には分が悪く、おそらく見抜かれる。

 

というわけで菊代の出番と相成ったわけだが……

 

(結構難しいですよね……)

 

主人、西住しほの元に仕えて数年。

戦車道の名門の次期家元ともなれば、当然相手にする人間も並みではない。

彼女に付き従う菊代も魑魅魍魎、跳梁跋扈の手合いと対峙し、それはもうお嬢様方には聞かせられないような戦を繰り広げたことも何度かある。

故に経験は豊富。舌戦においてはそこそこできるという自負もある。

 

ただそんな菊代を以てしても、自信満々に「任せてください」とは言えない相手というのが、かの人なのである。

 

おおよそ、大事を成す人間というのは常人とはかけ離れたものを持っている。

例えば幼少の頃から異常に理知的であるとか、慧眼の持ち主だとか、とにかく何かが()()とは違うと周囲に思わせるような、そんな人間が得てして天才だとか異才だとか言われる。

かのお兄様は、どちらかと言うとそういう人間寄りだ。

勿論菊代は、彼の事を怪物だとか化物だとか、そんな風に思ってはいない。

普通の男の子のように笑い、怒り、悲しみ、喜ぶ、そんな姿を何度も見てきたから。

 

ただ時々、ふとした瞬間に菊代は思わされるのだ。

 

――――あぁ、やっぱりこの子は普通とは違う、と。

 

片鱗、とでもいうのだろうか。

何か巨大な、それこそ菊代の想像もつかない程のナニカ。

その一部が時折、そして確実に顕現する時を菊代は何度も見てきたし、その度に背筋を凍らせた。

 

そしてその()というのが、よりにもよってこういう時に多いのだ。

 

「隠し通せるでしょうか…」

 

眼力、とでもいうのだろうか、ああいうのは。

彼の眼はとにかく、()()()事に関しては超一級品。

人の心、人格、物事の本質など、あの眼は森羅万象を見通す。

隠し事なんて一番できない相手だと菊代は思う。

そのあまりにも透徹した眼の恐ろしさたるや、間違いなくあと数年もすれば菊代なんて足元にも及ばない傑物になるだろう。

 

そんな未来の怪物を相手に、これから菊代は挑まなければならない。

バレンタインが近いということ、お嬢様二人がそれに備えてチョコレートを作ろうとしていること、そしてそれを渡す相手が彼であること。

これらを絶対に気づかせず、彼のチョコレートの好みを聞く。

 

「渡里様、菊代です。いま少しお時間よろしいでしょうか?」

 

割と無理ゲーじゃないだろうか、と思いながら菊代は彼の部屋の前に立ち、ノックと同時に彼の名を呼んだ。

しかしやらねばなるまい。他ならぬ、あの二人の為なのだから。

 

「…………………」

 

しかし応答はなかった。

はて、と菊代は首を傾げた。

土曜日とはいえ、時刻はもう午前10時に迫ろうかというところ。

流石の彼ももう起きているはずなのだが。というか起きてないと菊代の主人が黙ってないと思うのだが。

 

「渡里様?渡里様―?」

 

念のため、もう一度ノックをしてみる。

しかし依然、応答はなし。

 

数秒逡巡して、菊代はドアノブを回した。

 

「渡里様、失礼いたします」

 

そして一息、ゆっくりとドアを開けた。

 

「渡里様?」

 

部屋の中を見渡す。

相変わらず、というのは失礼かもしれないか、あまり綺麗にされていない部屋である。

とにかく至る所に物が散っていて、そこそこ広いはずの部屋がやけに狭く感じる。

そしてまた、散っている物のほとんどが戦車道に関する物というのかいかにも彼らしいところだが……肝心の本人の姿がそこにはなかった。

 

「留守ですか…」

 

うーむ、と菊代は頬に手を当てて息を吐いた。

彼は別に日がな一日部屋に篭っているわけではない。普通に外に出かけたりもするし、なんなら朝に出てって夜遅くまで帰ってこないこともある。

だから部屋にいないこと自体は珍しくもないのだが、果たして問題はどこに行ったか、である。

 

菊代の知る限りでは、友人と遊ぶといった話は聞いてない。

だから多分、いつもの衝動に任せた突発的な外出だろう。

そうなると困った事に、彼はいつ帰ってくるか分からない。こういう時の彼は決まって気分で行動しているから、帰りたいという気分にならなければ本当に帰ってこないのだ。

 

チョコレート作りは結構時間が掛かりそうだし、できるなら昼一に始めたい。

それが無理となると、別日にするしかないが……そうこうしている間にバレンタインは来てしまう。

 

少し考えて、菊代はとりあえず手当たり次第に聞いて回ることにした。

もし所在がわかって、それが近くならば出向いた方がいいだろう。

 

くるっ、と踵を返して、

 

「あれ、菊代さん。なにしてんの?」

「わぁっ」

 

くるり、とそのまま一回転しそうになった。

 

「わ、渡里様」

 

彼が、いた。

綺麗に整えられた髪に、宇宙みたいな色をした瞳。

すっかり声変わりをして、少年から青年へと変化する真っ最中の、西住しほの長男。

 

「俺に何か用だった?」

 

西住渡里が、薄い笑みを浮かべながらそこに立っていた。

 

「お、驚かせないでくださいっ」

 

僅かに乱れた鼓動を抑えつけながら、菊代は抗議の視線を送った。

すると彼はあまりにも屈託のない笑顔で「ごめんごめん」と謝る。

 

もう、と小さく息を吐いて、菊代は改めて彼を見やった。

 

身長は、もうすっかり抜かされてしまった。

初めて会った時は菊代の腰ほどしかなかったのに、いつのまにか彼の顔は菊代の視線の上にある。まだまだ成長期の最中だし、もう一、二年もすれば頭二つ分くらいの差が生まれてしまうだろう。

身体の成長に伴って、顔つきもどことなく大人びつつある。

目つきが()()()に似て鋭すぎるが、それを差し引けば整った顔立ちだ。

しかしそこそこ女の子にモテそうな見た目なのに、そういう話が一切聞こえてこないのは、やっぱり彼の心をたった一つのものが独占してしまっているからだろうか。

 

「……あら、渡里様お顔が」

「あぁ、油?さっきまで常夫さんと一緒に戦車弄ってたからさ」

「旦那様と?」

「そうそう」

 

ちょっと呼ばれて、と彼は腕で顔を拭いながら答える。

 

それはまた珍しいこともあるものだ、と菊代は思った。

西住しほの夫である西住常夫は、腕利きの整備士である。西住家にある戦車の大体は彼が整備しており、また彼の腕を頼って各地から整備依頼が届くことも多々あることから、整備の腕がどれほど優れているかが分かる。

 

しかし彼は、あまりそれを人に見せたがらない。

勿論「見せてくれ」という頼みを無下にすることは決してないが、自分から「見に来い」ということもまた決してないし、手伝いを乞うことも滅多にない。

 

まさかそんな彼が、という思いが顔に表れていたのか、あるいは早速彼の眼力が力を発揮したのか、渡里は苦笑交じりに答えた。

 

「俺が前々からせがんでたんだよ、整備見せてくれって。そうやって言わなきゃ、常夫さん絶対にやってくれないからね」

「あぁ、なるほど」

 

そうかそうか、まぁそうだろうな、と思いながら菊代は頷いた。

しかしまぁ、本当に戦車道が好きな子だ。

何をしている時よりも、戦車道をしている時が一番いい顔をする。

その辺もやはり()()()の血筋だろう。

 

「それで?結局何の用だったの?」

「あぁ、えーと……」

 

どうしようか、と菊代は逡巡した。

一体どういうアプローチで攻めるべきか、一応いくつか考えてきてはいるが、どれが最適なのだろうか。

 

 

プランAとしては、今度お客様に出す茶請けの試作の味見と称して、彼に様々か甘味を食べさせてそこから好みを探っていく。

問題点としてはまず茶請けの試作なんていうものが完全な嘘であること。ちょっと真実が混じっていればまだしも、純度100%の嘘なんて果たして彼に通用するのか。

そこからお嬢様方二人の目論見が見抜かれる可能性もあるし、なかなかにリスキーである。

 

プランBは、あえてバレンタインという話題で世間話をし、菊代の巧みな話術でこっそり好みを抜き取るというもの。

時期的には全然違和感のない話題だし、話の流れと菊代の技量にもよるが、プランAよりかは成功率が高いと思う。まさか彼も、何もない所から「サプライズでチョコレートを送られる」ことを見抜くことはできまい……もちろん、違和感さえ抱かせなければ、の話だが。

 

結局はそこだ。

どれだけ彼に不信感を与えず、自然な話ができるか。

全てはそこに掛かっている。

 

「次期家元の方から、渡里様が部屋を散らかしていないか確認してこいとのお達しがありまして」

 

とりあえず場を繋ぐ為の話を菊代は繰り出した。

ここから話を転がして、バレンタインの話題なり何なりを出してもおかしくない空気を作っていこう。

ちなみにコレは全くの嘘というわけじゃない。確かに主人から言われたわけではないが、渡里のお部屋チェックは定期的に行われており、周期的にはそろそろのタイミングで主人から言われるはずのものだから、渡里も変には思わないだろう。

 

すると彼は「あちゃあ」みたいな顔をした。

 

「そろそらくるかなー、とは思ってたけど、来ちゃったかー…」

「失礼ながら中を見させてもらいましたが、案の定でしたね」

 

アレを「片付いてる」と報告することは、菊代にはできない。

 

「アレはアレで効率的なんだよ?よく手に取るものはベッドから動かずに取れるように、それでいてスペースは極力使わないように計算して置いてあるんだ」

「毎度同じ言い訳ですね」

 

ニッコリ笑顔でバッサリ斬った菊代に、渡里は気まずそうに身を逸らした。

 

「ま、まぁ後でちゃんとやっとくから……しほさんには黙っててくれない?」

「あら、どうしましょうか。そういって渡里様がちゃんとやってくれたことはあまりないですからね」

 

あまり、とは言うものの、菊代が知る限りではほぼ無いレベルである。

この子はとにかくしない。

 

「……菊代さんは俺の味方だと思ってたのになー」

 

非難まじりの視線だった。

こういう所を見ると、まだまだ中学3年の子どもだと思う。

なんとなく、彼の背丈が菊代の腰ぐらいまでしかなかった頃の関係を思い出して、菊代は言葉を紡いだ。

 

()()()が良い子の内は、ちゃんと味方だよ」

「………敵わないなぁ、菊代さんには」

 

困ったように笑う彼を見て、菊代もまた笑った。

こうなってしまえば、菊代にとって彼は未来の怪物なんかじゃなく、可愛い弟にしか見えなくなる。

 

「今から片付けるよ。まぁいつ終わるかはわからないけど」

「あまり寄り道しないでくださいね?」

「難しいね。腕を引っ張られて無理やり寄り道させられることもあるから」

 

かのお嬢様方、彼にとっては妹二人、のことだろう。

だいたいこの部屋のドアを開けるのは、あの二人だから。

 

「今日一日は大丈夫ですよ、きっと」

 

そんな菊代の言葉に、彼は目を丸くした。

確かに彼の言う通り、普段ならばそういうこともあるだろう。

けれど彼は知る由もないだろうが、今回ばかりは大丈夫なのである。

少なくとも、2月14日までは。

 

「だから安心してお片付けしてくださいね。部屋を散らかす男の子は今時女の子にモテませんから」

「そこは別にいいよ」

 

不貞腐れたような、そんな表情だった。

けれど菊代は知っている。彼は本気で、女の子にモテたいという気がないということを。

彼が振り向いて欲しいのは、たった一人。戦車道の女神様だけだから。

 

「そんなだと、バレンタインにチョコレートを貰えませんよ?」

「あれ、珍しいね。菊代さんからそんな話題が出るなんて」

 

鋭いなあ、と菊代は表面上はニコニコとしながら、内心で少し冷や汗をかいた。

普通、そんなところで引っかからないだろうに。

 

「菊代さんにも遂に春が来たのかな?」

「あはは、渡里君は面白いことを言うね」

「す、すみません……」

 

菊代と一切目を合わせずに、彼は僅かに後退りしながら声を震わせて言った。

おかしなものだ、別に菊代は何にもしてないというのに。

何をそんなに怯えることがあるのだろうか。

 

「渡里」

「あ、しほさん…」

 

すると不意に、凛とした声が菊代の背後から響いた。

そして彼の視線もまた、菊代の後ろへと抜けていく。

途端彼は、とても微妙な顔になった。

その内心を、菊代は彼ほどの眼力を持ってないにしても推し量ることができた。

 

援軍かと思ったら第三勢力だった、そんなところだろう。

まぁ仕方ない。救援がよりにもよってこの人なんて、助かったのか助かってないのか、よくわからないし。

 

「菊代。渡里に何か用かしら?」

「いえ、用という程のものでは……」

 

菊代としても、主人の言いつけを偽造して渡里に届けた以上、あんまりよろしくない事態である。

あまり余計なことを言うと薮蛇を突きそうだったので、菊代は慎重に言葉を選んだ。

 

そう、と彼女は短く答えて、

 

「渡里、常夫さんが探していたわ」

「え?なんで?」

「教え忘れたことがある、だそうよ」

「ふーん、わかった。行ってくるよ」

 

そして彼もまた、あまり長期戦を望んではいないようだった。

おそらくは、部屋の中を見られたくないが故に。

パッパッと会話を進ませて、彼はこの場からエスケープしようとする。

 

「じゃあ菊代さん。()()()()()はまた後で聞かせて」

 

そんな風に、さりげなく菊代の心胆を寒からしめて。

 

トットット、と軽い足取りで彼はいなくなった。

 

……本当に、全くを以て恐ろしい眼である。

一体どこをキッカケに、菊代の心を見抜いたのか。

あるいは本当に心を読んでいるのだろうか。

 

「本当の用件?」

 

そしてジロリ、と渡里とは別の意味で鋭い眼光が、菊代を貫いた。

一瞬の思考の後、菊代は大人しく白状することにした。

 

「実はかくかくしかじかで……」

「……そう、あの子達が」

 

その時のしほの表情は、長年の付き合いがある菊代でもかろうじてでしか読み取れなかった。

この人は滅多に笑わないし、それを他の人に見せようともしない。いつも眉を釣り上げ、口を真一文字に結んでいる。

でもこの時ばかりは、その口元にほんの少し、本当に少しだけれど、穏やかな笑みを浮かべていたような、そんな気がしたのだ。

 

西住流そのもののような鉄の女傑でも、自分の子どもは可愛いということだろう。

きっとそうに違いない、と菊代は思うことにした。

口には、出せないけど。

 

「―――――苦味は出さないようにしなさい」

「……はい?」

 

いつもの表情に戻ったしほが、唐突に言った。

それがあまりにも脈絡のない言葉だったので、菊代の理解は少し遅れてしまった。

 

「あの子は甘いのが好きだから。ビター風味は避けて、味も普通でいいから甘くすること」

「あ、あの……?」

 

菊代の静止も虚しく、しほは更に言葉を続ける。

 

「アーモンドやスナックを入れるのもやめておきなさい。変に凝ったものを作るのはあの子達には難しいでしょうし、渡里もその方が喜ぶわ」

 

そして一呼吸おいて、

 

「―――――独り言よ」

 

そうしてスタスタと、踵を返して足早に彼女は去っていった。

もしかするとその機敏さは、表情を見られまいとするためのものだったのかもしれない。

 

「……ありがとうございます」

 

深々と頭を下げて、菊代は彼女の背中を見送った。

随分と大きな独り言だ。

あまりに大きいから、菊代も聞く気はなかったのに耳に入れてしまった。

お蔭で、菊代はお嬢様方の期待に沿うことができそうだ。

 

「……にしても、素直じゃないですね」

 

ニヨニヨしようとする頬を、菊代は必死に押さえた。

別にいいだろうに、()()()()()()()()()()()()()()()

それを誰が変に思うというのか。当然のことだろう。

 

「さてさて、早速お嬢様方とチョコレートを作るとしましょうか」

 

好みはばっちり抑えた。

後はそれに沿うようなチョコレートを作って、渡すだけだ。

 

どうせだ、ラッピングくらいは凝ったものにしよう。

 

そう思い菊代は、ラッピング用の飾りが余っているかどうかを確認しに向かった。

その足取りは、とても軽かった。

 

 

 

 

そうしてそうして、後はどうなったかと言うと。

 

チョコレート作りは、非常に上手くいった。

エプロンを付けて、三角巾を頭に被って、悪戦苦闘しながらそれでも一生懸命に。

少しでも美味しいチョコレートを贈りたいという一心で頑張って。

そうして、菊代が手伝ったとはいえ、小学校低学年が作ったとは思えない程の出来栄えで、味もバッチリ。完璧に彼の好みに沿う、そんなチョコレートが出来上がった。

 

そこまではとても良かったのだが。

問題は、ラッピングで起きた。

 

大事に大事に箱に詰めたチョコレート。

それを包装している時、急にかの姉妹が、やれ「お兄様はこっちの色が好きだ」、やれ「お兄ちゃんはこっちの色が好きだもん」と言い争い始め、果ては「こっちの方がカッコよくてお兄様に合ってる」「こっちの方が可愛いからこっちがいい」など、あやうく掴み合いになるところまでいってしまったのである。

 

折角仲良く作ったのだから、最後まで仲良くあってほしいものだ。

苦笑いしながらその様子を見ていた菊代が、最終的に「チョコレートは二つあるから、それぞれでラッピングしましょう」と言って場を納めたことで、喧嘩の火は燃え上がる前に鎮火したが、まったくこんなところで仲違いなんて笑い話にもならない。

 

そうしてなんだかんだあって、西住家は2月14日を迎えて。

彼の元に、無事二つのチョコレートが届くこととなる。

 

「お兄ちゃん!!」

「お兄様」

「ん?」

 

 

「「ハッピーバレンタイン!」」

 

 

それは妹二人と、そして母の愛情がたくさん込められたチョコレート。

太陽のように眩しい笑顔と、月のように輝く笑顔と、そして少しのサプライズと一緒に贈られたそれを受け取った彼は、それはそれはもう――――

 

 

 

「菊代さん」

「あら、渡里様」

「みほ達から聞いたよ。菊代さんが手伝ったんだってね」

「微力です。ほとんどお嬢様方が自分の力で作ったんですよ」

「あぁ、そう。通りで――――今まで食べたチョコの中で、一番おいしいと思ったわけだ」

 

 

 

 

 

 

 




菊代さんの話し方とか全然分からないし、未婚かどうかも分からないけれど。
とりあえず言えることは、なんか母性がすごそう。


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3つの小話

ちょくちょく箸休めに書いていた話が積もってきたので、小話として投稿することにしました。
こういうので少しでも投稿間隔を狭めないとね。

小話1 みほとオリ主の話(サンダース戦後の話)
小話2 ダージリンとアッサムの話(オリ主とダージリンが出逢った後の話)
小話3 まほの話(全国大会の開会式が始まる前の話)
となっております。

興味のあるとこだけ読むのも、全部読むのもご自由にどうぞ。
個人的に三つめは……「なんでこうなっちゃうかなぁ」って感じ。



 

小話1 『妹は策を巡らし兄を嵌める』

 

 

 

『お兄ちゃんなにこれ』

『知らないのか、みほ。オムライスって言うんだぞ』

『………私のしってるオムライスじゃない!』

『どこからどう見てもオムライスだろ。ほら、赤いご飯に卵が乗ってるじゃん』

『のってないよ!これほとんどふりかけだよお兄ちゃん!?』

『大丈夫、料理は見た目じゃない。気持ちだから』

 

 

 

 

 

「なーんで祝勝会をウチでやるかな」

「だってお兄ちゃんの家が一番広いし」

「麻子と一緒の寮だっつの」

「でも物が少ないからちょっと広いでしょ?」

 

むぅ、と唸る兄を横目に、みほは満足げに口角を上げた。

 

 

時は全国大会一回戦より少し流れ、麻子の祖母へのお見舞いの翌日のことである。

みほ達は、角谷会長がプチ祝勝会を行ったという話を聞いた。

なんでも一回戦突破&公式戦初勝利記念ということで開催されたらしい。

 

まぁ確かにめでたいことだし、お祝いをするのは全然構わないけれど、少し早すぎやしないだろうか、とみほ達は思った。

目標はあくまで優勝。みほ達はそこへ続く険しい道の、第一歩を踏み出したに過ぎないのだ。

 

ということを会長達も、どうやら弁えていたようで。

祝勝会と言っても小規模な、それこそ帰り道にどこかでご飯を食べるくらいのものにしたらしい。加えて各チームバラバラで行ったらしく、祝勝会をしたというよりは、祝勝会を推奨した、という方が近い。

 

しかしそれを唯一行っていなかったチームがある。

当然、麻子のアレコレでそんな暇がなかったあんこうチームである。

 

正直みほとしては、「あぁそんなこともあったんだ」くらいの気持ちだったのだが、祝勝会という単語を聞いた沙織が即座に「私達もやろう!」となり、その横にいた華と優花里が「いいですね!」、「やりましょう!」と賛同し、麻子が「まぁおばあも無事だったし」と何気に同意したことでほぼ開催が確定。

あんこうチームの五分の四が乗り気なら、当然みほも参加することになり、そして偶々通りがかった兄が開催場所の提供者として確保された。

 

みほはともかくとして、兄は完全に巻き込まれた形だが、「一回勝ったくらいで何言ってんだ」と口に出さないだけで間違いなく思っているであろう兄が自発的に祝勝会なんてするわけないので、参加させるなら多少強引な方がいい。

 

渡里としては会場として自分の家が使われることより、その場に自分がいることの方が面倒だったようだが、沙織や華の猛攻を前に、逃亡が叶わぬと悟るとさっさと諦めたようだった。

 

「んで、何買ってきたんだコレ」

 

両手に携えたビニール袋を少し掲げ、兄は尋ねた。

袋はパンパンに膨らんでおり、兄は軽々と持ち上げているが、みほ達女子からすると結構な重さであることが容易に想像できる。

何をそんなに買い込んだかと聞かれれば食材だが、兄が尋ねているのはそんなことではない。

それを弁えた上で、みほは答えた。

 

「オムライスだよ」

「……はぁ」

 

疑問と呆れを足して割ったような声色だった。

目つきに関しては、後者が十割を占めていたが。

 

「まぁ俺は金出すだけだし、何作るかはお前らに任せるけどさ」

「渡里さんはオムライスがお嫌いなんですか?」

「嫌いじゃないけど、祝勝会にオムライス?とは思う。いや祝勝会にふさわしいメニューとか知らないけどさ」

「言われてみれば……」

「祝勝会って何を食べるのがいいんでしょうね?」

 

大一番の前は、『カツ』を食べるのが大体の風潮である。

カツを食べて勝つ、というダジャレだが、まぁほとんどの人があやかっている。

昔の、戦国の時代は鰹、後はアワビと栗と昆布なんかを食べていたと聞く。

 

しかしこれらは戦いの前に食べるもの。

果たして戦いに勝った後には、何を食べるのがいいのだろうか。

 

その答えは人それぞれだろうが、みほとしては……

 

「まぁ、普通に考えれば食べたいもの食べるのが一番いいんだろな」

 

一緒にいたい人と、食べたいものを食べるのが一番いいと思うわけである。

 

「っていうか何でオムライスになったんだよ」

「あれ、そういえばなんでだっけ?」

「えぇと……確か……」

「西住さんが」

「オムライスにしようって……」

 

十個の瞳が、一斉に此方を向く。

それを受けてみほは、莞爾と微笑んだ。

 

オムライスにしようと言ったのは、確かにみほである。

何故?そんなの決まっている。

 

「お兄ちゃんに作ってもらおうと思って」

「はぁ?俺が?なんで?」

「いっつも私が作ってるから。偶には作る側の気持ちを味わってもらおうと思って」

「余計なお世話なんですけど」

 

心底嫌そうな兄の顔を、みほは下から覗き込んだ。

その口元は、緩やかな弧を描いている。

 

「祝勝会は、()()()()()()()()()()()()()()……でしょ?」

 

みほの言葉に、兄は悔しそうに笑った。

そう、その顔が見たかったよ、お兄ちゃん。

ふふん、としたり顔のみほに、兄はぐうの音も出ないようだった。

 

それはそうだろう。

兄には悪いが、状況はもう詰んでいる。

 

今宵の夕餉はただのオムライスじゃない。

()()()()()()()オムライスだ。

それがどういう意味を持つか、みほは知っている。

 

「渡里さんの手作り!?」

「わぁ、素敵ですね!ぜひ食べてみたいです!」

「男の人の手料理ですかぁ……なんかソワソワしますね!」

「楽しみだ」

 

食いつく人が、たくさんいるのだ。

みほは九割九分九厘の勝ちが、十割になったことを確信した

 

今、この瞬間。

全員の食べたいものは「神栖渡里の手作りオムライス」になった。

 

さぁ、作ってもらおうじゃないか。

「食べたいものを食べるのが一番」と言った兄に、皆が食べたいと思っているものを。

 

「……やってくれるじゃねぇか」

「お兄ちゃんは逃げるのが上手いから。これくらいしないとね」

 

残念ながら逃げ道はない。

なぜなら吐いた唾は飲み込めないから。

もう兄はその手に持った食材たちを、オムライスに変身させるしかないのだ。

 

「自信ないなら別にいいけど?お兄ちゃん戦車道以外はダメダメだもんね」

 

かっちーん、という音が聞こえた。

 

「はぁ?なめんなよ、あんなんちょっと具と飯炒めて卵被せるだけだろが。オムライスくらい余裕で作れるっつーの」

 

そんなことを言いながら、兄は歩く速度を速めた。

 

(その発言がもうオムライス舐めてるけどね)

 

ぷんぷん、という効果音が浮かんでそうな兄の背中を見て、みほは莞爾と笑った。

兄には申し訳ないが、例えレシピを見たってまともなオムライスが出来上がることはないだろう。

兄の事は、みほが一番よく知ってるのだ。

 

お米すらまともに砥げなかったような人が、オムライスなんていう高等な料理を作れるはずがない。

材料を切るところで指を切りそうになるだろうし、具材を炒める時は火加減が分からなくて焦がしそうになるだろうし、オムライスの肝である卵なんてスクランブルエッグ以下のナニカになるだろう。

 

みほはそれを知っている。

でもそれでも、兄にオムライスを作らせたかった。

 

 

だってオムライスは、みほにとってはとても思い出深い料理だから。

 

 

(お兄ちゃんは忘れちゃってるかな)

 

兄がみほに初めて作ってくれた手料理のことなんて。

兄はきっと覚えていない。

ぐちゃぐちゃな見た目で、所々黒焦げになっちゃってたけど、それでも美味しかったあの不思議なオムライスを、覚えてるはずがない。

 

でもいいんだ。大事なのは、兄が今またこうしてオムライスを作ってくれるということだから。

 

先を行く兄の背を、少し小走りで追いかけて。

がっしりとした兄の腕を、みほはやんわり握った。

 

そしてにっこりと笑って、しかめっ面の兄に言う。

 

「できなかったら手伝ってあげるね!」

「いらねぇ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小話2 『十回に一回の喧嘩』

 

 

ダージリンとアッサム。

聖グロリア―ナで断トツの人気と尊敬を集める前者と、二番目に人気と尊敬を集める後者。

そんな両者とティータイムを楽しむことができるこのポジションを、オレンジペコは入学以来ずっと羨ましいと言われ続けている。

 

あぁ確かにその通りだろう。自分でも逆の立場だったら、同じようなことをしているに違いない。

何の疑問もなくそう思えてしまうほど、かの二人は聖グロリア―ナでも飛びぬけた存在であり、その二人と同席することができる自身の幸運に対しオレンジペコは、ただの一度も感謝の気持ちを忘れたことが無い。

 

自分という人間は、本当に恵まれているのだろう。

 

――――それはともかくとして。

 

オレンジペコは心の中で白状した。

誰かこの席変わってくれないかな、と思ったことが、幾度となくあります。

 

いや当然、オレンジペコのこのポジションをあわよくば奪い取ろうという人がいるなら、それはもうオレンジペコは全力で抵抗する。

この鍛え上げた腕力による武力行使も辞さないレベルである。冗談だけど。

冗談だけど、ありとあらゆる手段を以って略奪を阻止しようとするだろう。

そしてもちろん、この位置にいることが当たり前と思わず、この先ずっと居続けられるよう努力を重ねるつもりだ。

 

けれどけれども、それはそうとして。

 

この二人、結構クセが凄いんです、とオレンジペコは思う。

 

ダージリンは、それはもう同じ女性として、そして一人の戦車乗りとしてオレンジペコが混じりっ気なしの尊敬と忠誠を注ぐ人である。

 

陽の光を反射する綺麗な金の髪に、宝石のような青色の眼。

神様が丹精込めて作ったとしたか思えない美形の持ち主である彼女は、戦車乗りとしても全国屈指の実力をも備えており、まさに天は二物を彼女に与えたというもの。

 

オレンジペコは彼女を侮辱する者は親でも許さないし、叶う事なら一生お側に仕えたいとさえ思う。

 

 

でも格言がしつこい。

趣味が格言集を読むのは個人の自由だからいいが、それを何かにつけて引用して披露されるのは大変困り事である。

いやオレンジペコもその辺は詳しいから、別についていけないわけではないけれど、それはそうとして四六時中聞かされるのは勘弁願いたい。付けっぱなしのラジオでももう少し静かだと思う。

 

しかし最近は、その頻度か減りつつある。

喜ばしいこと?全然違う。

格言を言わなくなった分、次は恋バナを話し続けるようになったのだ。

しかも大体前者が40%減ったところに、後者が70%入ってきたので、トータルで見れば130%と大幅な増量をしている。つまり普段に輪をかけて喋るようになったのだ。

 

一般的な女子高生から少し遠いところにいる聖グロの生徒としては、いい意味で俗っぽくなったわけだが、これはこれで聞いてるこっちが胸焼けを起こしそうになるくらい喋るのでオレンジペコの精神がやばい。

 

想い人について話している時のダージリンは、それはそれは可憐で美しいものだが、そんなものが毎日も続けばそれどころではない。

願わくばもう少し口数を少なくしてほしい、とちょっぴり思うオレンジペコである。

 

そしてアッサムは、まさにその口数が少ない女子である。

といっても喋らないわけじゃなく、適度。必要な時に必要なだけ言葉を話すという、オレンジペコがダージリンに求めるものを体現している人だ。

 

ダージリンがその言動を以って日輪のような輝きを放つのに対し、アッサムはその真逆。無闇に動かず、話さず、そこにいるだけで眩い輝きを放つという、静的な美の持ち主であり、さながらダージリンを太陽とするなら月のような人と言える。

 

戦車乗りとしてはダージリン、女性としてはアッサム。

これは聖グロの間で俄かに噂される、二人がどういった種類の尊敬を集めているかを的確に表現した評価で、オレンジペコも一切の誤りがないと認めるものであった。

 

確かにアッサムは、聖グロ女子の理想の一つを体現している。

その理由はたくさんあるが、一つ挙げるならば紅茶を淹れる時に最もその特徴が現れる。

 

まず淹れる紅茶が尋常じゃなく美味しい。

同じ銘柄で、ここまでは差が出るのかというほど、アッサムのソレは卓越している。

そして所作。一挙手一投足に至るまで洗練されており、それはもう動く芸術かと言わんばかりなのである。

 

オレンジペコも憧れて真似しようとしてるのだが、これが中々上手く行かない。

なんというか、頑張って背伸びしている子ども、みたいになってしまって、有体に言うと垢抜けてない。

 

アッサムとオレンジペコの間にはスタイルとか教養とかその他諸々、決して小さくない差があるが、それにしたってここまで差が出ると言う事は、やはりアッサムもダージリンと同じく何かが飛びぬけた存在なのだと思う。

 

ただ一つ、アッサムという人は、敬虔な数字の信仰者なのである。

ノートパソコンを持ち歩いていることからも分かるが、とにかくデータ主義。

自分が集めた情報と、そこから導き出される答え。彼女はそれしか信じないのだ。

 

それが良いことなのか悪いことなのかは、多分人による。

オレンジペコはどちらかというと、占いとか運命とかそういったものを信じるタイプで、ダージリンもそちら寄り。

 

けどアッサムは違う。

彼女からすれば占いはバーナム効果やコールド・リーディングの産物であり、運命は単なる因果関係を仰々しく語ってるだけのものなのである。

 

それはあまりにも、なんというか、ロマンチックに欠ける話だと思わないだろうか。

女子たるもの、運命の出会いとか赤い糸とか、そういうものには誰だって憧れるはず。

オレンジペコも、ダージリンもそれを信じている。

けれどアッサムからすれば、それは「くだらない」と一蹴できるものなのである。

別に人間的な温かみに欠けているわけじゃない。

むしろ聖グロの中でも、トップクラスに優しい人だと思う。

 

でもそれはそれとして、行き過ぎたデータ主義のアッサムは、まぁ付き合いやすいタイプではないのかなぁ、とオレンジペコは思ったりする。

 

そういう意味では、ダージリンとアッサムは本質的には似たもの同士なのかもしれない。

一見正反対に見えて相性が良くないように思えるが、いざ戦車道の試合となれば比翼連理の如く息の合った連携を見せるし、お互いの事を真に理解している感じがひしひしと伝わる。

 

もはやこれは友人、ではなく。

親友、という間柄と評すべきなのだろう。

 

ところで、

 

 

「よくもまぁ、そんなくだらない事に熱を注げるものですね」

「……はい?」

 

 

親友だからと言って喧嘩しないとは、限らないと思いませんか?

 

 

アッサムの一瞥もくれない無機質な言葉に、ダージリンは笑顔のまま首を傾げた。

しーん、と部屋が無音になって、オレンジペコはふと「嵐の前の静けさ」という言葉を思い出した。

 

「運命だのなんだの、非科学的だと言ってるんです」

 

あぁ、なんという切れ味だ。

パソコンを目の前に置いているからか、普段より割増で威力があるように感じる。

まぁいつも置いてるけど。

 

「貴方とあの人の出会いは、別に運命でもなんでもありません。英国でお仕事をなさっている貴方の父と、英国に深い縁を持つ聖グロ。この二つがあったゆえに、貴方は他の人よりあの人のことを知る確率が高かった。それだけのことです」

 

あの人、というのはご存知ダージリンの想い人、神栖渡里という男性である。

今は大洗女子学園にて戦車道の講師をしているが、それ以前は英国に戦車道留学をしていたので、アッサムの言うこともあながち間違いではない。

 

しかしとうのダージリンは、そんな風には思っていない。

かの人との出逢いはまさしく運命であり、科学や数字では説明できない強い縁があったの

だと、本気でそう思っている。

 

「……へぇ」

 

そんなダージリンに対してアッサムの論理は、火に油を注ぐようなものだったのだろう。

普段は高級な楽器をかき鳴らしたかのような美声が、まさか地獄の最下層みたく冷たいものに化けている。

 

チラ、とオレンジペコはダージリンの表情を伺った。

そして即座に後悔した。

 

口元は穏やかな笑みを浮かべているが、青い瞳が全然笑ってない。

美人ほど怒ると怖い、というのは真理だったのだと、オレンジペコはダージリンから目を逸らしながら思った。

正直もう直視できない。怖すぎて。

 

「そう、()()()()貴女は、そう感じてしまうのね」

 

ギギギ、と開いてはいけない扉が開放されつつある音を、オレンジペコは聞いた気がした。

 

あぁ、なんでこんなことになってしまったのだろうか。

いつもならアッサムだって、ダージリンの話を右耳から左耳に素通りさせて受け流しているのに。

いよいよ我慢の限界が来てしまったのか。

気持ちは大変分かるけれども、アッサムが堪えてくれなければ一体誰が堪えるというのだ。

 

「全ての事象は数字で説明できます。勿論、貴女の恋もね。いい論文を紹介してあげましょうか?そこには詳しく載っていますよ、恋心なんて所詮は、生理的なものでしかないと」

「ふふっ、いかにもデータ主義者らしい言葉ね。ぜひお願いするわ」

 

そして次のダージリンの言葉によって、完全に扉は開放された。

 

 

「人を本気で好きになったことのない可哀そうな人達の考え方、一度見るのも一興だわ」

 

 

そこからのことは、叶う事なら記憶から消し去りたいオレンジペコであった。

しかし未だ残るこの胃の痛みが、それを許してくれないのでオレンジペコは今日も胃薬を飲む。

 

二人はあれから、それはもう語りつくせない程の壮絶な舌戦を繰り広げ、最終的にはダージリンの元に神栖渡里からの電話が入ったことで集結したが、果たしてそれがなかったらどこまで続いていたのかと、オレンジペコは恐怖した。

 

オレンジペコの胃に大変なダメージを与えてくれた二人はというと、結論から言うと何もなかった。

まるであの喧嘩がなかったかのように平然と、そしていつも通りに、優雅に紅茶を楽しみながら談笑しており、その様はオレンジペコの方が「夢だったんでしょうか」と思う程の自然さで、喧嘩の影響など微塵も感じられなかった。

 

思うにアレは、もしかすると二人だけに許されたコミュニケーションのようなものなのかもしれない。

二人の友情、信頼関係があってこそ、二人はあそこまで言い合うことができるのだろう。

オレンジペコはそう結論づけた。

 

しかしそれはそうとして。

 

ダージリンとアッサム。

聖グロの誇る二大巨頭、その傍にいられることを、オレンジペコは心の底から嬉しく、誇りに思う。

思うけど、時々すごく疲れるので、願わくば自分がいる時に喧嘩するのはやめてほしいなぁ、とそう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小話3 『西住まほは付き合わない』

 

 

 

 

「―――――ずっと好きでした!!俺と付き合ってください!!」

 

腰を折って、頭を垂れる男性が目の前にいる。

その光景は、まほはどこか他人事のように眺めていた。

 

場所は黒森峰女学園、戦車格納庫。

時間は午後五時半を少し回ったところ。

戦車道受講者たちは練習を終えて寮に帰っており、人気は少ない。

 

なるほど、だからこの時間、この場所に呼び出されたのか、とまほは今更ながらに気づいた。

確かにこんな話は、人がいてはできないだろう。

男から女への、愛の告白なんて。

 

「……へ、返事を聞かせてもらっても、いい、ですか……?」

 

垂れていた頭が上がり、彼の顔が再び明らかになる。

短く、綺麗に整えられた髪に、浅く焼けた肌。

半袖のTシャツから見える腕は引き締まっていて、まっすぐ立てばまほより十センチくらいは身長が高いだろう。

顔は精悍で、爽やかだ。いわゆる、イケメンというやつだろう。

しかし今は、その顔は朱に染まっている。

 

「………」

 

返事。

あぁ、そうか。

私は今、告白されてるんだったか。

 

あまりにも突然なことに半ば止まっていたまほの思考が、ようやく動き始める。

 

(整備士の彼が、私に告白か)

 

まほは今目の前にいる男子が誰かを知っていた。

まほが乗っているティーガーの整備を担当している、他所の高校の生徒だ。

練習終わりには必ず戦車の調子をヒアリングしてくれて、まほや他の乗員の注文にもすぐ答えてくれる、真面目で腕のいい整備士……正確には、その卵だろうか。

 

確かその性格と見た目から、黒森峰内での評価も良かったはずだ。

後輩が彼に差し入れを渡している場面を、まほは何度か見たことがある。

 

そんな彼が、まほに告白してきた。

自分の、彼女になってほしいと。

 

「………すまない」

「―――――っ」

 

まほが黙っていた時間を、彼は悩んでいると受け取っていただろうか。

だとしたら本当に申し訳ないが、まほの答えはとうの昔に決まっている。

返事に間があったのは、ただ状況を整理していただけだから。

 

「私は今、黒森峰を再び優勝させ、去年の雪辱を晴らすことしか考えられない。他のことに気を回す余裕がないんだ……だから、誰かと付き合うなんてことは、今はとてもじゃないが考えられない」

「……そう、ですか」

「貴方を悪く思ってるわけじゃないんだ。性格は好ましいと思うし、整備の腕も信用している――――ただ、今は……」

 

こういう時、まほはどういう顔をするべきなのか分からなくなる。

申し訳なさそうな顔をするべきなのか、それとも固い意志を見せるべきなのか。

ただどんな顔をしても、彼の顔を晴らすことはできないということだけは、理解していた。

 

「いえ、いいんです。そういう真面目でまっすぐなまほさんだから、俺は好きになったんですから」

「………」

 

すまない、という言葉がもう一度出かけたのを、まほは喉元で抑えた。

これ以上謝るのは、なんとなく違う気がした。

 

「良く思ってくれてるって、それが分かっただけでも良かったです……すみません、お時間を取らせてしまって」

「……あぁ」

「それじゃあ、失礼します」

 

踵を返し、彼は立ち去ろうとする。

 

「――――――もし」

 

その背中に、まほは声を投げた。

立ち止まり、彼は振り向く。

 

「もし貴方さえよければ、これからも私の戦車を整備してほしい。貴方が一番、私の戦車の事を良く知っているから、だから……」

 

言いながらまほは、もしかすると自分は残酷なことを彼に言ってるのかもしれないと思った。

フられた相手の戦車なんて、というか顔なんて普通は見たくないのではないものだ。

それなのにこれからも、今までと同じようにしてくれなんて……

 

しかし彼は、そんなまほの考えを裏切り、あまりにも嬉しそうに目を輝かせた。

 

「は、はい!俺でよければ!!」

 

小さく漏れたまほの吐息に、果たして彼は気づいただろうか。

いや、気づいてないだろうな、とまほは思った。

 

そうして今度こそ、本当にまほは一人になった。

彼もいなくなり、ここにあるのは戦車と自分だけ。

無機質な静寂が、そこにはあった。

 

「――――出てこい」

 

だからこそまほは、その存在に気づくことができた。

太い鉄の柱の陰に声の矢を放ち、盗み聞きした不届き者を射貫く。

 

「―――なぁんだ、バレてたのか」

「あはは、ごめんね、まほ」

 

そして彼女たちは現れた。

その顔を、まほはよく知っている。

 

「まったく、見世物じゃないんだがな」

「そう言うなってまほ。もし襲われたりしたら、と思っていつでも助けられるようにしてただけだって」

 

まほと同じく、ティーガーに乗車する、まほのチームメイト。

数多いる同級生の中でも、特別仲が良い二人の戦友が、バツの悪そうな顔をしてそこにいた。

 

「無用な心配だ。西住流の直系として、一通りの護身術は納めている」

「まぁそんなに心配はしてなかったけど、一応ね」

「しかし告白かぁ!アレ、ティーガーの整備してくれてるイケメン君だろ?相変わらずモテるねぇ、まほは」

 

相変わらず、という言葉にまほは少しだけため息を吐いた。

彼女たちとの付き合いも、もう長い。

隠せていることなんて、もうあんまりない。

 

「でも、今回もやっぱり断っちゃったのね」

「もったいない話だよなぁ。アイツ狙ってるっていう後輩、結構多いんだぜ」

「だったら、その後輩たちに頑張ってもらうさ」

 

口説き落とすなりなんなり、好きにやってくれればいい。

彼の前では決して言えないが、まほは彼の事を異性として見ているわけじゃないから。

 

「……あのさぁ、まほ。お前のことだから悪気はないんだろうけど、『今は付き合うとか考えられない』って断り方、あんまりしないほうがいいぞ」

「……?」

「あ、やっぱりわかってなかったのね」

 

あーあ、というため息と、はぁ、というため息が聞こえた。

しかしまほは、首を傾げることしかできない。

というか会話の内容、ばっちり聞いてたのか。

 

「お前、別にその気はないんだろ?例えば大会が終わったら、とかさ」

「あぁ、無い」

「だったら、ちゃんとそう伝えた方がいいわ」

 

なぜだ、とまほは目を丸くした。

それは、確かにまほだってそう考えた。

でもそれはあまりにも直接的で、彼を傷つけてしまうかもしれないと、そう思ったからあえて別の言い回しをしたのだ。

 

「じゃあ大会が終わって、アイツがもう一回告白してきたらどうすんだよ」

「……」

 

それは盲点だった。

だが確かに、有り得る話だ。

「好ましくは思ってる」、なんて余計なことまで言ってしまっているし。

 

「時にはバッサリ断ってやった方が、男の方も幸せなんだよ。咲かない花に水をやり続けるよりかは、新しい種を探しに行く方がさ」

「優しさも、使い方を間違えれば人を傷つけるものよ」

「……なるほど、そういう考え方もあるのか」

 

この辺りのことは、まほにはさっぱりだ。

経験がないというのもあるが、それ以上に興味がない。

そんな素人の考えよりかは、彼女たちの言う事の方が遥かに正しいに決まっている。

次からはそうしよう、とまほは思った。

 

「ところでさ、まほは何で誰とも付き合おうとしないんだ?」

「……さっき言っただろう。今は、大会で勝つことしか考えられない、と」

「でも、それずっと言ってるでしょ?」

 

四つの眼が、まほに突き刺さる。

なんだってこんなことになったのか、とまほは内心でため息を吐いた。

 

「恋愛に興味がないとか?」

「人並みにはあるさ」

「じゃあ男の人に興味がないとか?」

「生憎私はノーマルだ」

 

だったら、という声が、重なる。

 

「「好きな人がいる、とか?」」

「………」

 

思わず黙ってしまったことを、まほは即座に後悔した。

その沈黙は、すなわち答えだったから。

 

嫌な予感がした。

身体が、今すぐこの場所から立ち去れと叫んでいる。

 

特に逆らう理由を見出せなかったので、まほは命令に従うことにした。

 

「へぇ、へぇへぇへぇ!あのまほに、好きな人かぁ!」

「えぇ、なにそれ!水臭いじゃない、私たちの仲でしょ?」

 

あぁ、見なくても分かる。

にんまりとした笑顔で、目を輝かせながらまほの後をついてくる、二人の姿が。

 

「誰!?整備頼んでる高校の奴!?それとも学校の先生!?西住流の関係者!?」

「地元にいる幼馴染とか、実家の近くに住んでる年上のお兄さんとか!?」

 

あぁ、うるさいうるさい。

背後からやってくる洪水のような質問に、まほは一度も答えることなく、女子寮にある自室まで早歩きで向かった。

 

 

 

 

 

 

ガチャ、と扉を開け、そして即座にまほは鍵を閉めた。

そして扉の前で大きく深呼吸してから、パンツァー・ジャケットから部屋着へと着替える。

 

この部屋が一人部屋で良かったと、まほは心の底から思った。

もし同居人がいたら、あるいは同居人が彼女たちであったなら、これほどゆっくりすることはできず、質問攻めは未だ続いていただろう。

 

戦車道受講者たちが住む寮は相部屋があったりもするが、まほは戦車道の隊長として大きめな一人部屋を与えられていた。

それは別に隊長の特権というわけではなく、おそらく西住流の影響だと思われる。

かつてまほも、小学校に入学するのと同時に、妹との二人部屋から一人部屋へと移された。

 

『上に立つ者は、独りでも強くあらねばならない』という西住流の思想は、こんなところにも表れているのだ。

 

黒を基調としたパンツァー・ジャケットはハンガーへ。

代わりに纏うは、機能性最優先のオシャレとは程遠いジャージみたいなもの。

 

友人には「もう少し気を遣った方が……」と言われることもあるが、別に誰彼に会うわけじゃないし、気にすることでもない。

おそらく彼女たちは、こんなラフなまほの姿を見て、後輩たちが幻滅することを危惧しているのだろうが、それも同じくまほの気にするところではない。

 

 

―――――だって()()()も、家ではこんな恰好だったから。

 

 

椅子に座り、必要最低限のものしか置かれていない机をまほは眺めた。

その視線の先には、一つの写真立てがあった。

 

「…………」

 

手に取り、中に収められた写真を、まほは何よりも愛おしく見る。

 

この写真は、まだまほが小学生だった頃に撮られたものだ。

写っているのは、男の子っぽい服装に身を包んだ、今の自分よりもずっとずっと背の低い自分。

そしてその自分の頭に手を置いて笑う、ある男の人の姿。

 

「……相変わらず、仏頂面だな、私は」

 

まほは苦笑した。

写真の中の自分は、口を真一文字に結んで、眉を逆八の字にしている。

別に怒っているわけじゃないが、笑っているわけでもないという、硬い表情だ。

 

なぜこんな顔をしているのか、まほは未だに覚えている。

 

自分は、緊張していたのだ。

本当に変な話だが、西住まほは()()()()と一緒に写真を撮るだけで、とても緊張してしまったのだ。

でもそれは、悪い意味の緊張じゃない。

 

「嬉しいのなら、もっと笑え、私」

 

寧ろその逆。

誰よりも、何よりも嬉しかったからこそ、まほは緊張してしまった。

 

だってツーショットなんて、滅多にないんだ。

この人と一緒に写っている写真はたくさんあるけれど、そこには必ず妹の姿があるから。

いつも絶対にこの人にくっついていた、妹が。

 

これはその妹が不在の時に撮ったもの。

ひとえに、奇跡の一枚のようなものだ。

だからこそ、まほの宝物になった。

 

 

世界で一番、誰よりも大好きな、この人と一緒に写っている、この写真が。

 

 

「……好きな人、か」

 

まほは覚えている。

何よりも安心をくれる、この人の温もりを。

自分の名前を呼んでくれる、この人の声の色を。

頭を撫でてくれる、この人の手の感触を。

 

眼差しも、優しさも、この人のものは全部全部、鮮明に覚えている。

 

「言っても良かった、かな」

 

まほの好きな人は、この写真の中にいる人。

 

まほが中学校に入る前にいなくなってしまった人。

 

そして今どこで何をしているかも分からない人。

 

 

「……逢いたいです、お兄様」

 

 

そんな人を、西住まほは心の底から慕っている。

昔も、今も、そしてこれからも。

 

 

 

 

 




小話1 
なんでオムライスかは知らない。そして特に深いストーリーもない。
オリ主は生活能力が皆無なので、当然出来上がったオムライスは名状しがたきナニカ。
でもあんこうチームは美味しく食べてくれましたとさ。

小話2
ダージリンとアッサムは色々妄想が捗る。
データ主義というアッサムに、乙女でスイーツ系の本作ダー様を一刀両断してほしかった。

小話3
まほさんはメインストーリー上なんか悲しくなっちゃうだけで、決勝戦が終わればマジで砂糖を煮詰めたような甘々な姿を見せたりますよ、ええ。
ちなみにちょっとだけ出てきた二人は、レンとか夏海とか言われてる二人。リボンの武者から出張してきてもらいました。

あと、これは開会式前の話だから。
まだ拗らせてない、ただの寂しんぼのまほさんだから。



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無冠の女王VS常勝の覇王

特別番外編、聖グロ対黒森峰-幻の準決勝-。

というわけで大洗女子学園VSプラウダ高校の裏番組として、ひっそりと書いていこうかと思います。
メインは大洗女子の方を進めていくので、こっちはまぁ気が向いたらポツポツ書くくらいのスタンスです。


以下注意点。
・BIG4という名の捏造設定。
・聖グロが過去優勝したことないという捏造設定。
・聖グロが黒森峰に勝ったことないという捏造設定。
・準決勝ではクルセイダーは二両しかいないのに四両いるという捏造設定。
・西住まほの拗らせという捏造設定。

おい捏造ばっかじゃねーか。




BIG4。

 

それは高校戦車道界における四つの強豪校にして、決して斃れぬ不動の王者達を示す言葉である。

大会ベスト4を長きに渡り独占し、BIG4を倒しうる者は同じBIG4しかいないと称されるほど、他とは隔絶した力を誇っており、その勇名を全国へと轟かしている。

 

圧倒的物量を誇る自由の戦車乗り、サンダース大付属高校。

 

極寒の大地が生んだ雪原の精鋭、プラウダ高校。

 

伝統と格式を貴ぶ神奈川の雄、聖グロリア―ナ女学院。

 

何よりも勝利を欲する群狼、黒森峰女学園。

 

以上がBIG4を構成する四校であり、全国に数多いる高みを目指す戦車乗り達は必然的に、いずれかの学校を目指すこととなる。

それが頂点へと続く最も近い道であり、それ以外に道がない故に。

 

そういった意識の高い戦車乗りが集まると、チームは強くなる。

チームが強くなれば大会で良い成績を残すようになり、評判が上がる。

そしてその評判を聞きつけた将来有望な戦車乗りがまた集まる。

 

この好循環がある限りBIG4が衰退することはなく、他の学校との実力差が埋まることは決してない。

しかしBIG4同士の力関係は、どうなのだろうか。

 

これは全国の戦車乗りの間でも、盛んにおこなわれる議論であった。

どこのチームが一番強いのか。

例えば雪の降る場所での戦いなら、プラウダ高校に一日の長があるだろう。

真正面から堂々と戦うような力比べなら、高性能な戦車を多く揃える黒森峰。

持久戦であれば物量のサンダース、防戦に秀でた聖グロ辺りが一枚上手となる。

 

こういったように、BIG4の力関係が均衡していて、戦況次第で簡単に有利不利がひっくり返る現状においては、ひとえに「このチームが最強」と断定することは難しい。

 

 

しかしそれでもなお、優勝という栄冠を手にし続けた学校がある。

 

全国高校戦車道大会においては前人未到の九連覇。

強力なドイツ戦車を数多く揃え、軍隊のような規律を以て乱れなく進撃する鉄心の群れ。

日本における戦車道最大流派の片割れ、西住流の教えを最も色濃く受け継いだ唯一のチーム。

 

黒森峰女学園である。

 

彼女たちは最初から頭一つ抜けた強さを持っていたわけではなかった。

加えて言うのなら、現在においてもそれは同じである。

あくまでBIG4の力関係は互角であり、何か一つ拍子が狂えばそれだけであっけなく優劣がひっくり返るような、そんなパワーバランスの上にある。

 

だが黒森峰女学園は、それでも勝利してきた。

特にここ十年で見れば、全ての勝負を制してきたと言ってもいいだろう。

 

トーナメントを勝ち上がれば、必然的にBIG4同士の戦いになる。

故にその頂点に立つ黒森峰女学園は決して、運だけで勝ち続けてきたチームではない。

 

何故勝つのか。

何故勝てるのか。

それを説明できる者はいない。

 

当の黒森峰の戦車乗りからすれば、ただ勝つべくして勝っているだけだ。

与えられた使命を全うし、役目を果たす。

彼女たちにそれ以上の意識はない。

 

故に彼女たちにとって勝利とはただの副産物に過ぎないが、しかしその副産物を何より欲する為に、彼女達は死に物狂いで戦う。

 

目的と手段が倒錯したその姿勢は、周りからすれば理解を超えたものとして映るかもしれない。

けれどある男は言う、「それでも黒森峰は勝つ。理由が無くても勝利する」

その得体の知れなさ、説明のつかなさにこそ、黒森峰というチームの強さがある、と。

 

その論の正当性は、今議論すべきところではない。

重要なのは、「誰が勝ってもおかしくない」という絶妙なパワーバランスの上にあって、それでもなお黒森峰女学園が勝つということ。

 

時に圧倒的に、時に迅速に、時に堅牢に、時に破壊的に。

紙一重の勝負を制し、並み居る強敵を制し、決して簡単ではない道を制す。

 

そんな姿を、常に観客に見せ続けてきた。

そしていつしか彼女たちは、その力と姿に対する尊敬と畏れを込めて、こう呼ばれるようになった。

 

 

歴戦の猛者―――――『常勝の覇王』、と。

 

 

例え一度二度負けようとも、彼女達は王者を張る。

誰よりも勝利を欲し、誰よりも鍛錬を積んできたという自負がある故に。

彼女たちは誰よりも眩しく、輝いて見えるだろう。

 

 

しかし光あるところに影はあり。

そうして黒森峰女学園が栄光に照らされた道を歩く一方で、苦渋を舐めさせられた者達がいる。

 

 

それがBIG4の一角、聖グロリア―ナ女学院である。

 

 

聖グロリア―ナ女学院は高校戦車道黎明期より存在する古豪にして、今に至るまでその力を衰えさせず維持し続けた不朽の強国である。

全てのBIG4に言えることだが、選手の質は高く、資金も申し分なし。

戦車乗りにとっては理想と言える環境を持っている。

 

実力も全国屈指。

大会が近づくと必ず優勝候補として取り上げられ、取材陣も多く押し寄せる。

聖グロリア―ナ女学院が生粋のお嬢様学校であることから、眉目秀麗にして才色兼備な生徒が多く在籍していることも、取材陣の関心を引く要因の一つだろう。

 

応援の声も多い。

OG会が現役に対して常に大きな期待を持っていることもそうだが、何より常に気高く、気品があって、誇りを失わない凛々しい彼女たちには、多くのファンがいるのだ。

 

彼女たちもそれを自覚している。

恵まれた環境や期待の声など、自分達に向けられた全てのモノに対し、自分達は勝利を以て応えるしかない。

それこそが高貴なる者の義務である、と。

 

 

しかし過去十年に渡り、聖グロリア―ナ女学院が優勝したという事実はない。

 

 

その背景には、他でもない黒森峰女学園の姿がある。

黒森峰女学園の勝利の数だけ、聖グロリア―ナ女学院の敗北がある。

黒森峰が『常勝』という称号を手にし、栄誉を享受する一方で、聖グロに与えられたのは積み重なる敗北の歴史と、落胆と失望の声だった。

 

それでもなお気品を失わず、自分達は誇り高き者だと信じ、その姿勢を貫く彼女たちを、人々はいつしかこう呼ぶようになった。

 

 

虚飾の貴族―――――『無冠の女王』、と。

 

 

数多の侮蔑、嘲笑、それら全てを彼女たちは受け入れる。

そしてその上で、誰よりも気高くあろうとするだろう。

どれほどの敗北も、屈辱も、彼女たちを曇らせることはできない。

そんなもの、ただ一度の栄冠を以てすれば容易に祓えるものなのだから。

 

未だ余裕の態度を崩さぬ彼女たちを、無様と言う者もいるだろう。

これだけ負け続けておいて、よくもまぁ偉ぶれるものだこの恥知らず、と。

 

しかし彼女たちは知っている。

そう言った言葉に膝を屈した時、あるいは何回挑んでも勝てぬ相手に心折られた時、立ち上がれないことこそが無様。

それをこそ、恥と呼ぶことを。

 

何人たりとも我々を傷つけることは能わず。

何があろうと我々の心が折れることはない。

 

いつか勝利する、その日まで。

紅の衣を纏いし気高き君は、決して誇りを失わない。

 

 

 

そして今日、再び―――――

 

 

 

「さぁ、行きましょうか」

 

 

 

――――無冠の女王は、常勝の覇王へと挑む。

 

 

 

 

 

 

 

 

「正念場よ」

 

聖グロリア―ナ女学院の会議は、重苦しくなくとも緊張感に満ちていた。

しかしその中にあって隊長であるダージリンの声は、いつもと変わりなく聞こえる。

余裕を滲ませながらも凛然とした声色は、彼女の配下を僅かに落ち着かせる作用を持っていた。

 

こればかりは生まれ持った素質だろう、とオレンジペコは思った。

世の中には色々な人間がいるだろうが、彼女はまさしく誰かの上に立ち、誰かを率いる人間だった。

そうでなければ、名門聖グロリア―ナ女学院の隊長など務まらないだろうが。

 

しかし先代の隊長方もこうであったのだろうか。

オレンジペコにとって聖グロの隊長とは、ダージリン只一人を指す言葉だが、ダージリンやアッサムにとってはそうではない。

彼女たちが一年生の時には彼女たちの上に立つ者が、彼女たちが二年生の時には彼女たちにバトンを渡した者がいたはず。

 

思えばそういった話は、未だ聞いたことがなかった。

ダージリンの御傍に仕えてはや三か月以上、会話量だけで言えば常人の三倍くらいはあるが、不思議とダージリンの口から先代の隊長の話は出たことが無い。

 

果たして何故だろうか、とオレンジペコは内心で首を傾げたが、すぐにその疑念を刈り取った。

今は試合前。他の事に頭を使っている暇はない、と判断したのだ。

 

何せダージリンも言った通り、今日は本気の本気で正念場なのだから。

 

「いい機会だし、少し過去を振り返りましょうか」

 

ティーカップを持つダージリンの姿は、変わらず優雅なものだ。

けれどカップの中の琥珀色の水面が僅かに揺れていることを、オレンジペコは知っていた。

 

「私が隊長になってから黒森峰女学園と対戦したのは二度。去年の秋と、今年の春先。どちらも練習試合ね」

 

その両方に、オレンジペコは参加したことがない。

前者はまだ中学生の時分であったし、後者は大洗女子学園との対戦以前の話で、オレンジペコはまだギリギリチャーチルに乗っていなかった。

けれど結果は知っている。

一方は伝聞で、もう一方は直接目の当たりにして。

 

「結果はどちらも完敗。特に秋の方は酷かったわね」

 

曰く、接戦でも善戦でもなく、惨敗。

黒森峰の強靭さに、ダージリン達は一つも歯が立たなかったという。

オレンジペコは当事者たちに聞いてもなお、俄かに信じられない気持ちだった。

 

聖グロリアーナの強さは、よく知っている。

確かに戦車の性能では負けているかもしれないが、それを補ってあまりある知恵と勇気が先輩達にはある。

だからこそ、聖グロは未だ全国屈指の強豪校であり続けているのだ。

 

けれど黒森峰の強さは、そんな先輩達をあっさり蹂躙した。

有り得るのか、そんなことが。

実際春先の練習試合は、接戦だった。そこまで圧倒的な実力差があるとは思えなかった。

聖グロと黒森峰は互角なんだと、そう思っていた。

 

それはオレンジペコが真に黒森峰の力を知らないからか、あるいはオレンジペコがまだ経験の浅い新人(ルーキー)だからか。

果たしてオレンジペコには分からない。

ただ一つ確かなのは、「自分達は勝てるだろう」という甘い考えをしているようでは、この試合に勝つ資格すらないということだった。

 

「OG会の方々にも色々言われはしたけど……まぁこの話はいいでしょう。自分達は戦いもしないのに、後ろの方で騒ぐだけの輩の声なんてどうでもいいわ」

 

珍しく静かな怒りを感じさせるダージリンの声色だった。

しかしそれもほんの一瞬だけ。

瞬き一つした時には、ダージリンの調子は戻っていた。

 

「大事なのは、私達がその敗北を受け入れたこと。そして敗北から立ち上がり、二度と負けてなるものかと強い気持ちを燃やし続け、今日まで来たこと」

 

ダージリンの青い瞳の奥に、オレンジペコは赤い炎を見た。

それが彼女の持つ覇気と、壮烈な意志の顕現だった。

 

「相手は名門黒森峰。率いるは西住流の直系。おそらくは日本一の戦車乗りだけど、相手にとって不足はないわ」

 

一同が頷く。

西住流の名、それは誰もを恐れさせるものかもしれない。

けれどこの場に竦む者も怯む者もいなかった。

 

「いい加減、無冠なんていう称号も聞き飽きた―――――今日を勝って、誰の目にも明らかになるように見せつけるとしましょう」

 

いつも通りの優雅な微笑みに、別の色が混じる。

それはいつかどこかの()が見せたような、

 

 

「私達こそが、本当の王者ということね」

 

 

獰猛な、笑み。

 

 

 

 

 

戦場は、至って平凡なものだった。

平凡、という語弊があるかもしれない。この場合は、オーソドックスというべきだろう。

砂漠や密林といった特殊な環境ではなく、丘陵や市街地、平原といった様々な要素が複合された平均値的な戦場。

 

戦車の性能的に戦場(ステージ)の得意不得意がはっきり分かれる聖グロにとっては、戦う場所をある程度選ぶ必要が出てくるだろう。

 

そして黒森峰。

控えめに言って万能な戦車を持つ彼女たちにとっては然したる弊害はないかもしれないが、全てにおいて弱点の無い戦車など存在しない。彼女たちには彼女たちで、必ず選びたくない場所がある。

つまりはこの戦場、局所的に有利不利を双方に与えるため、少しでも自分達に有利な場所で戦うか、あるいは有利な環境を作り上げなければならない。

 

おそらくは勝敗を分かつ一つのポイントとなるだろう。

 

それをダージリンは、過不足なく理解していた。

故に初手、彼女が取った行動は聖グロの誇る俊足部隊、クルセイダー隊を偵察に出すことだった。

 

「初めから奇をてらってもね」

「まずは定石通り、ということですか」

「不満かしら、アッサム」

 

金髪の砲手は、静かに首を横に振った。

彼女は理解していたのだ。

この試合は、一つのミスで呆気なく勝敗が決まるほど、ギリギリの所にあるものだと。

 

「あの子が暴走しないか、それだけが心配なだけです」

「大丈夫よ。ローズヒップもやる時はちゃんとやる子だもの……アクセルを抜くと、気も抜けちゃうけどね」

 

はぁ、という静かなため息をアッサムは吐いた。

そんな所作すらも綺麗だというのだから、不思議なものだった。

 

「どう見ます?」

「まずは丘陵でしょう。お互いが接敵しそうなポイントで、かつ相手より早く動けるなら、余程の事がない限りそこで待つわ」

 

お互い進軍しているなら、鉢合わせそうな場所はいくつかある。

その中で黒森峰が待ち受けやすく、聖グロが攻めづらいという場所は一つしかなかった。

故にダージリンも全隊をそこに向けて動かしていた。

 

勿論最悪の事態を防ぐための方法(リスクマネジメント)を欠かすわけにはいかないから、斥候を放っているわけだが。

 

問題は斥候のリーダーを務める、濃い桃色の髪をした少女であった。

とにかくスピード狂で、相手を撃つよりも自分の速度を落とさないことを優先してしまう困った気質があるため、ダージリンも手放しではいられない存在だった。

クルセイダー隊の隊長であることから優秀なことは優秀なのだが、そういった点もあってとりあえずダージリンは相手のいなさそうな所に彼女を送っていた。

もし接敵してしまうと、突っ込んでしまうかもしれないので。

 

「ダージリン様、クルセイダー隊から報告。黒森峰、ダージリン様の予想通り丘の上に部隊を配置しています」

「そう、クルセイダー隊とローズヒップに伝達。相手の側面に伏せて、此方の合図を待つように」

「―――っ」

 

開戦が近い。

その緊迫した空気を感じ取ったのか、装填手のオレンジペコは身を固くした。

黒森峰と相対するのは、これが初めての事。

ビデオで研究はしたが、映像と実物は当然ながら違う。

 

果たして如何ほどのものなのか。

そして自分はそれに呑まれずにすむだろうか、という緊張がオレンジペコを襲っていた。

そうでなくとも彼女は一年生。準決勝という舞台に、無神経ではいられない。

 

「落ち着きなさい、オレンジペコ」

 

そういう時、後輩を助けるのが先輩というものであった。

優雅で落ち着きはらった声が、オレンジペコの緊張を鎮静させていく。

 

「緊張するな、とは言わないわ。だけど、自分にできる事だけをしなさい、とも言わない」

 

青い瞳と、灰色の瞳が交錯する。

 

「気負わず、緩まず―――――力になりなさい」

「力……」

「貴方は聖グロの隊長車、その装填手よ。チームを勝利に導く為、そして他ならぬ私に報いる為に自分はいるのだと、そう心得なさい」

 

端正な唇が、弧を描く。

 

「私は伊達や酔狂で乗員を選ばないわ、オレンジペコ。チャーチルに乗っている意味、ちゃんと理解してね」

「……励ましてるのか脅してるのか、分からないわよダージリン」

「どう受け取るかはオレンジペコ次第、でしょう?」

「どう受け取らせるつもりなのかしら」

 

金髪の美少女同士の会話は、オレンジペコより遠いところにあった。

オレンジペコの頭の中は、ある言葉で埋め尽くされていたのだ。

 

――――力になれ。

 

自分にできる事だけをやれ、は()()だ。

もうそんなところ、オレンジペコはとっくに通り過ぎてる。

期待されているから、オレンジペコはここにいる。

ならその期待に、オレンジペコは答えなければならない。

 

「―――分かりました」

 

大きく息を吐く。

すると思考はクリアになって、心身が清らかになった。

指の先にまで、活力が漲っている。

 

それをダージリンは、満足げに眺めていた。

 

「さてと、それじゃあ挨拶といきましょうか」

 

部隊が形を変えた。

パンツァーカイルは分断され、二つの小隊が生まれる。

一方は真っ直ぐに、一方は進路を変えて進撃する。

 

そして間もなく、ダージリン達は黒森峰を視界に収めた。

 

「黒森峰、丘の上で横隊を組んでいます!」

「全車揃っているわけではないようですね。まぁ、それでも真正面からいっては呆気なく散るでしょうけど」

 

アッサムは他人事のように呟いた。

横隊は正面に火力を集中させやすく、高い攻撃力を持つ黒森峰、そして高所から撃ち下せるこの場所と相性がいい陣形だ。

硬い装甲を持つとはいえ、流石の聖グロでも無策で真正面から戦えば先に力尽きる。

 

「けどこの場所は私達も使いたいわ」

「無理矢理奪うのは無理でしょうね」

 

そうなると聖グロは、あの火力と装甲相手にガチンコ勝負を挑むことになる。

かといって戦わないという選択肢はない。

結構な難題だが、

 

「えぇ―――――だから、譲ってもらうわ」

 

既にダージリンは策を思いついていた。

無線を飛ばし、命令の声を届ける。

 

「クルセイダー隊、3時方向から9時方向に向かうようにして、相手の背後を走りなさい」

 

返答は、遠くからでも聞こえる砲声だった。

土を巻き上げながら、聖グロ一の俊足が黒森峰の背後を突く形で疾走する。

当然、それに気づかない黒森峰ではない。

 

即座に砲塔を旋回させ、後ろから刺そうとする不届き者に照準を合わせる。

そして一息、苛烈な罰が下される。

 

雨のように放たれる砲弾。

しかしその全てはクルセイダー隊の残像を貫くばかりで、地面に無数の穴を掘る結果に終わる。

名手の多く集まる黒森峰とはいえ、時速40㎞近い速度で走る戦車を、それもピンポイントで射貫くのは困難だった。

だが数をこなせば、そのうちに慣れてくる。

 

そうなる前にクルセイダー隊は、疾走を終えて身を隠しながらの応戦に入る。

上から撃ち下すとはいえ、狙える場所には限度がある。

そういった場所に車体を隠し、クルセイダー隊と黒森峰の砲撃戦が始まる。

 

しかし当然ながら、これは勝ち目のない戦いである。

クルセイダーに搭載されている6ポンド砲では、精々が黒森峰の装甲に僅かな傷をつける程度。超接近戦ならまだしも、これでは撃破には至らない。

 

ゆえにダージリンは次の手を打つ。

 

「戦車前進」

 

マチルダ、そしてチャーチルで構成される五両の部隊が、黒森峰の正面に躍り出る。

これで黒森峰を中心とし、9時方向にクルセイダー隊、6時方向にダージリン率いる小隊を置いたL字型の陣形が完成する。

 

「この距離で装甲は抜けないでしょう。履帯を集中的に狙いなさい――――撃て(ファイア)

 

チャーチルはともかく、マチルダⅡに搭載されている主砲はお世辞にも火力が高いとはいえない。

しかし戦車の弁慶の泣き所、唯一堅牢な装甲に守られていない履帯部分を破壊するには、十分すぎる威力がある。

履帯は戦車の脚。そこを折られれば、どんなに強力な戦車でも木偶の坊だ。

 

クルセイダー隊に意識が向いた黒森峰部隊の不意を突く形で、返礼の砲撃が届けられる。

 

戦車は正面の装甲が最も硬い。

だから相手と撃ち合う時は、相手に正面が向くように構える。

実際は避弾経始を発生させるため、少し斜に構えるわけだが、それでも戦車の基本的な設計として、二方向からの砲撃は防げないようにできている。

 

右を見ながら左を見ることができないように、戦車はどこを正面装甲で守るかの取捨選択をしなければならない。

故に最も効果的なのが、こういったL字の陣形である。

射線を十字に交差するようにして、どちらか一方が相手の弱みを突けるようにする。

 

シンプルだが、これこそが戦車単騎では防げない絶対の方程式なのだ。

 

「黒森峰、密集してクルセイダー隊と此方の両方に対応する防御隊形に変更しました」

「まぁ、そうなるでしょうね」

 

とはいうものの、これはあくまで戦車の数が少ない場合の話。

一人では右を見ながら左は見れないが、二人ならそれができてしまうわけで。

 

ダージリンの視線の先には、お互いの弱い所を庇い合うようにする黒森峰の姿があった。

これでクルセイダー隊もダージリン達も、相手の正面装甲しか狙えないようになった。

あまり言いたくはないが、例え何百発撃とうと相手はビクともしないだろう。

 

しかし此方がL字陣形になってからの判断の速さたるや。

流石は黒森峰というところか、とダージリンは紅茶を一口味わった。

いっそモタモタしてくれた方が、ダージリンの予想を裏切っただろう。

それはそれで、美味しくはあったが。

 

「ダージリン」

「えぇ、当然織り込み済みよ――――クルセイダー隊、こちらに合流を。それが済んだら後退しましょう」

 

このまま攻撃し続けることに意味がないならば、さっさと兵を仕舞った方がいい。

準決勝に導入可能な戦車数は15。

その内の半数以上をここに投入し、あまつさえ分散させてすらいるのだ。

 

余計な傷を負う前に、とダージリンは次の手を打つ。

 

「クルセイダー隊、合流しました」

「全車後退」

 

ジリジリと砲弾を浴びせながら後退を始める聖グロリアーナ。

元々クルセイダーを除いて機動力に難のある聖グロの後退スピードは、傍目には迂闊に見える程であった。

 

聖グロの弱点を一つ挙げるなら、正にここであった。

チャーチル、マチルダといった主力の戦車の設計思想が歩兵随伴を前提としているため、とにかく足が遅い。

戦車道において機動力が勝敗を分かつ重要なポイントである以上、これは本当に弱点と言える所であった。

 

なんせ何をやるにしても、相手と同時にスタートしたのでは絶対に勝てない。

相手より先んずるために、常に一歩、二歩早く動き出さなければならないわけだが、そんなもの誰もができる事ではない。

 

幸い聖グロにはダージリンという卓越した戦術眼を持つ隊長がいるため、その難点をクリアできてはいる。

しかし彼女の読みと判断の速さを以てしても、マイナスをゼロにすることが精々。

彼女が脚の速い部隊を率いていたなら、と考えると、やはり戦車の機動力は軽視していいものではない。

 

聖グロも戦車に特別なチューンを施している。

そのため戦車道においても『周りと比較してちょっと遅いくらい』で済んでいるが、それにしたって相手より大幅に先んずるわけではない。

 

だからこうして、

 

「黒森峰、部隊を前進。こちらに肉薄してきます!」

 

ダージリンが潔く退いても、すぐに追いつかれてしまう。

通信手の僅かな焦りを含んだ声を聞きながら、ダージリンは悠然と紅茶を一口味わった。

 

ただ進むだけで、相手に圧を与えることができる。

なるほど確かにそれは、王者に相応しい行進かもしれない。

しかし()に飛び込もうとする猛獣など、ダージリンの目には兎にしか見えなかった。

 

「別動隊―――――前へ」

 

クルセイダー隊が最初に出現した地点より、新たな戦車が現れる。

ダージリン率いる本隊から分離したマチルダⅡ四両。

陸の女王の異名を冠された鉄の群れが、誰もいなくなった丘の上をあっさり占拠し、そしてダージリン達に食らいつこうとする黒森峰に、ゆっくりと照準を合わせる。

 

一息、無防備な側面に火球が襲い掛かった。

黒森峰と比べれば貧弱な火力とはいえ、ノーガードの横っ面を思い切り打たれれば黒森峰とて怯み、僅かに脚を鈍らせる。

 

「全車、前進。罠にかかった虎を締め上げなさい」

 

そして間髪入れず、ダージリンの命令が飛ぶ。

後進していた本隊とクルセイダー隊が、今度は逆にジリジリと戦線を押し上げ始めた。

前、そして横から猛烈に砲弾を浴びせられ、黒森峰も後退を余儀なくされる。

 

当然、ダージリンは手を緩めない。

クルセイダー隊を動かし、黒森峰正面から左半分を覆う形で隊列を形成して、容赦なく攻撃を加える。

 

これで聖グロは全15両の内、14両を一つの戦場に投入したことになった。

これがダージリンの描いた絵である。

丘の上に陣取る黒森峰を釣りだし、その隙に別動隊で丘の上を取り、後は連携して叩く。

いたって単純で、それゆえに決まれば何よりも鮮やかに見える。

しかしこの試合初めての会戦にしては、それはあまりにも大胆不敵な采配だった。

 

普通であれば小規模な戦闘を繰り返し、相手の狙いや状況を鑑みて、『ここぞ』というタイミングを設ける。

そしてそこに全ての力を集約するべきであって、全ての戦闘に全力を注ぐことはない。

しかしダージリンはその真逆を行く。それはあまりにもリスクの高い選択だった。

 

なんせここで万が一あれば、その時点で試合の趨勢が決まる。

一両、二両の損失ならまだしも五両以上失うとなれば、いくらダージリンが卓越した戦術の腕を持っていたとしてもカバーしきれない。

そして相手が黒森峰である以上、その可能性は並みの相手より高い。

 

そんな投機的な一手を、涼しい顔をしてダージリンは打つ。

 

ダージリンからすれば、こんなもの博打でも何でもないのだ。

なぜならこの戦場を、既にダージリンは掌握している。

自らの目の及ばぬ所であればまだしも、自分の手の上で踊るモノをどうして制御できぬだろうか。

 

この戦場に限れば、()()()()()()というものはダージリンには存在しない。

傍目には綱渡りのような用兵に見えても、ダージリンからすればテラスで優雅に紅茶を味わうようなものである。

 

当然、誰にでもできることではない。

戦場を広く見下ろすことのできる()を持つダージリンだからこそであり、余人が真似すれば自らの腹を割くことになる。

 

しかしこれは隊長としての優劣ではない。

世の中には色々なタイプの隊長がいて、それぞれに相応しい戦い方というものがある。

ダージリンはその中で、十両の戦車を与えられれば十五両の相手を屠る、そんなタイプの隊長だったというだけの話である。

 

「黒森峰は撤退を始めたようです」

「兵は神速を尊ぶ。流石はまほさんね」

 

現状旗色が悪いのは黒森峰である。

このままこの状況が続けば、致命的ではないがそれなりの傷は負うだろう。

打開する策があるならまだしも、無いなら大人しく下がる方が賢明。

 

ただ理屈はそうでも、それを受け入れられない時というのもある。

特に王者としての誇りに満ちた黒森峰にとっては、相手の策にいいようにやられたままおめおめと撤退するというのは、素直に実行できるものではないように思える。

 

しかし彼女たち、あるいはその上に立つ西住まほは、そういう見栄を張りたい故に自分の首を絞め続けるという愚行とは縁遠いようであった。

不利なら退いて、態勢を立て直してまた戦えばいい。

そういう合理的な判断が、スパッと彼女たちはできる。

 

やはり彼女たちにとっては『勝利』こそが全てであり、最後に勝ちさえすればその過程で逃げようが煮え湯を飲まされようが構わない、ということなのだろう。

そういう手合いが最も厄介なのだと、ダージリンは知っている。

 

「追いますか」

「無用よ。あちらさん、もうこの場所で戦うつもりはなさそうだし……各車に全周警戒を」

 

戦うつもりはないが、警戒はする。

矛盾したダージリンの発言に、通信手は戸惑いを見せた。

しかし金髪の隊長の言うことが間違いだったことはない、と思い、素直に各車に指示を伝えた。

 

「タダで帰るわけがないわ」

 

その呟きを、通信手が聞くことはなかった。

次の瞬間である。

 

腹に響くような重低音が、彼方より飛来した。

 

「―――敵襲!方角、別動隊の背後!」

「反転して迎撃。地形を上手く活用して立ち回りなさい」

 

黒森峰が後退していった真逆の方角から、また別の黒森峰が出現する。

その数、四つ。

先の後退していった部隊と合わせると、これで黒森峰も全車両の三分の二以上が露になったことになる。

 

伏兵、ではない。

最初から読んでいたというなら、伏兵を出すタイミングがあまりにも遅すぎる。

おそらくは別動隊、あるいはどんな事態にも対応できるようにするための予備部隊だろう。

 

しかし前者と後者では、大きく意味が異なる事をダージリンは理解していた。

 

「どうしようかしらね」

 

新手が来たこと自体は、何も驚くことではない。

黒森峰、ひいては西住まほと何度も対戦したダージリンにとって、これは充分予想できる範囲のことである。

 

ただダージリンは、ここから先の展開は現場で判断しようと決めていた。

すなわちここで本格的な戦闘に入るのか、退くのかである。

 

前者を選んだ場合はどうか。

数の上では勝っているし、地形的にも有利。

よほど下手を打たなければ、互角以上で戦える状況だ。

しかしそれは長くは保たないだろう。退いていった部隊が引き返し、未だ見えぬ黒森峰の増援がここ来た時点で、おそらく秤が一気に動く。

あっという間に包囲され、じわじわと削り倒されて最後には力尽きるだろう。

 

黒森峰がその手でこないなら、戦ってもいい。

しかしダージリンに思いつくことは、西住まほにも思いつくことなのである。

間違いなくこの場における最善手を打ってくるに違いないし、既にその兆候が見え始めている。

 

「退きましょう。ワンチャンスに賭けてみたけど、やはりこんな温い手では王者は倒せないようね」

 

()()()()()()()()()()()()()()()

それが黒森峰との戦いに臨むダージリンの見立てである以上、無暗に戦うこともない。

なんせまだ序盤だ。これが決戦だというならまだしも、全力を投下するにはあまりにも早すぎる。

ダージリンとてここで決着をつけようという気は毛頭ない。

軽いジャブが上手い具合に顎に入ってノックアウトできればラッキー、くらいの感覚でここはやっている。

この後にも戦いは幾度となく続くのだ、来るべき時まで戦力は温存しておくのがベターだろう。

 

そしてダージリンの指示を受けた聖グロは丘の上を放棄して撤退。

それを見た黒森峰は特に追撃はせず、初戦は両者にこれといった損害を与えることなく終息した。

 

手緩い指揮だが、それでも卓越した戦術の腕を見せつけたダージリン。

そしてそれに対し、冷静に対処し無傷で戦闘を終えた黒森峰。

 

両者、互角。

観客たちがその結論に至ることに、何の疑いもなかった。

 

 

―――――しかし一人の男がこの戦いを見ていたならば、こう言っただろう。

 

『まほが一枚上手だ』――――――と。

 

 

 

 

 

 

それから数度、交戦が行われた。

平野、山岳地帯など様々な場所を転々とし、両者は砲弾を撃ち合う。

しかし状況は、試合が始まった瞬間から何ひとつ変わっていなかった。

試合に、大きな動きがなかったのである。

 

両者が消極的だったわけでは、決してない。

寧ろお互いに、隙あらば喉笛に食らいついてやろうと牙を光らせ、例え試合を決める気はなくともその戦場における最善を尽くしていた。

 

しかしそれでも、何かが変わることはなかった。

お互いに撃破した戦車も、撃破された戦車もなく、ただ徒に乗員の体力だけが消耗していく。

 

その様を観客たちは『実力が互角だからこそ起こる均衡』だと思っていた。

なんせお互いに本気は本気だ。やったやられたは無くても、見ている側には手に汗握る展開に映る。

おそらくはそのうち、どこかでその均衡が崩れる。

それこそが、この試合の最高潮だろう、と。

 

 

それが誤りであることに気づいた人間が、果たして何人いるだろうか。

 

 

「………」

 

青い瞳の隊長は、静かに、そして大きく息を吐いた。

その表情に僅かな翳りがあったことに、幾人気づいたか。

おそらくは彼女と同じ答えに行き着いた人間にしか、それは分からなかっただろう。

 

「ダージリン様、黒森峰は横隊を組んで待ち構えているようです。次はどうされますか?」

 

通信手が指示を乞う。

それを聞いてダージリンは、思考の歯車を回した。

 

待ち構える黒森峰。

それが妙であることに、果たして気づかないものか。

黒森峰、ひいては西住まほの戦術といえば機動力を活かした電撃的な急襲である。

とにかく迅速に、相手に考える暇もなく畳みかけ、そのまま完封する果断速攻の攻めが彼女の戦術ドクトリンである以上、()()というのはおかしいのだ。

 

いや、確かに彼女の能力であれば()()から試合の流れを作ることも容易だろう。

しかし他ならぬダージリンが相手の攻めを利用し、返す刀で首を一息に断つ後手必殺の戦術家。その分野では、ダージリンの方が一歩先を行く。

 

(私に攻めさせることで私の長所を潰す、ということかしら)

 

確かにそれならば、理屈は通っている。

お互いの得意分野をぶつけ合うよりは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()で勝負。オールマイティで目立った弱点を持たない西住まほであれば、苦手な土俵でも十分相手を上回れるという確信があってのことだろう。

 

「…………」

「ダージリン様?」

「いいえ、何でもないわ。相手が横に並んでいるのなら、左右から引っ張って間延びさせましょう。中央が薄くなったところを、クルセイダー隊で引き裂くのよ」

 

違和感の正体は、果たしてこれだろうか。

数度の戦闘を経て、ダージリンの身体の中にある拭い難いモノ。

それがこんな単純なものなのだろうか。

 

否、とダージリンは内心で首を横に振った。

今は指揮に集中するべきだ。

それにおそらく、ここでその違和感が何なのかは明らかになる。

 

「全車、配置完了しました」

「砲撃開始」

 

巌の如く立ちはだかる黒森峰の両翼に、砲弾の雨が襲い掛かる。

すぐさま防御の構えを取り、反撃を行う黒森峰に対し、聖グロは構うことなく砲撃を浴びせ続ける。

 

装甲の硬さを考えるなら致命傷にはならない。

しかしやたらに攻撃され続けて無反応というわけにもいかない。

ジリ、ジリ、と黒森峰の両翼がダージリンの思惑通り左右に引っぱられる。

 

ダージリンが巧妙なのは、常に相手に選択肢を複数与えていることにあった。

そしてその中から、ダージリンは引いてほしいカードを相手に引かせる。

当然相手は、そういう風には思わない。あくまで、自分の意志で選んだのだと錯覚しているのだ。

 

その辺りの読み合い、駆け引きの巧さがダージリンの妙である。

 

「頃合いね。クルセイダー隊を前に」

 

隊長の指示を受け、俊足部隊はエンジンを噴かす。

そして一息、号令と共に彼女たちは風を切り疾走する。

狙うは僅かに薄くなった中央。この身を鎌鼬とし、一息に切り裂く。

 

「―――――」

 

その時青い瞳は、空にあった。

青天を旋回する鷹のように、遥か遥か高い所から、彼女は戦場を見下ろす。

 

故に気づいた。

左右に伸びつつある黒森峰の横隊が、急激に収縮を始めていたことに。

 

「――――停止」

 

狙いが見抜かれた、とダージリンは即座に判断した。

伝令を可能な限り早く飛ばし、クルセイダー隊の脚を止めさせる。

 

「ダージリン」

「えぇ、あのまま突っ込んでいたらクルセイダー隊は全滅していたでしょうね」

 

西住まほ、読みもまた尋常に非ず。

両翼が伸びつつあったのは、中央を()()()()ための偽装。

ダージリンの策を見破った挙句に、それを利用して致命的な一撃を与えようとするとは。

 

「やってくれるわ――――――でも、それも織り込み済みよ」

 

自分のお株を奪う反撃(カウンター)に、ダージリンは笑みを浮かべた。

それくらいやってもらわねば困るし、何よりダージリンはそれすらも計算に入れている。

 

全車に指示を飛ばす。

両翼と中央、各所に散っていた三つの部隊が瞬く間に連結し、円弧を成す。

そして収縮し、横の線から一つ塊へとなった黒森峰を、すっぽりと覆ったのだ。

 

観客たちは感嘆の声を上げた。

それはあまりにも鮮やかな、包囲の形成だった。

 

相手が横隊のままであれば、この包囲は成立しない。両翼が引っかかって、包囲の強度が下がってしまう。

しかしクルセイダー隊の突撃に備え、密集隊形を取ろうとした今であれば、包囲は容易。

両翼を再び伸ばし包囲の完成を防ごうとしても、すでに遅い。

 

ダージリンの絵は、ここに完成した。

これは二段構えの戦術。

一の矢が防がれたとしても、その直後に不可避の二の矢が襲い掛かる。

ダージリンが憧れる()()()が得意とした、手掌の戦術である。

 

「一両二両は此処で持っていくわ。全車、全力で攻撃しなさい」

 

そして容赦なく砲弾の雨が浴びせられる。

初戦の時と似たような光景だが、しかし今回は違う。

これは()()()の戦術だ、詰め方が他の戦術とは段違いに容赦ない。

 

いくら黒森峰とはいえ、この戦術を前にしては―――――

 

 

「――――――あぁ、()()()()()

 

 

カチ、と何かが嵌る音が、ダージリンの頭の中に響いた。

そして唐突に、悪寒が背を駆け上っていく。

その正体をダージリンが理解する、よりも速く。

彼女の眼は、()()を映していた。

 

包囲の真ん中にある黒森峰部隊。

その隊列が既に、銃弾のような形を成していたことに。

 

警鐘が、鳴る。

ダージリンは脊髄反射的に、叫んでいた。

 

「包囲を解除!!全車、突撃してくる黒森峰の両側を最大速度で駆け抜けなさい!!!」

「もう遅い」

 

一息、装甲の厚さを前面に押し出した鉄の群れが、女王の包囲網へと喰い掛った。

ダージリン、そしてその直轄である左翼、中央のクルセイダー隊は素早くその牙から離脱した。

しかしある程度指揮権を譲渡されている右翼部分が僅かに遅れる。

 

「撃ち返さず、逃げることに集中するのよ!!」

 

ダージリンの声は虚しく。

黒森峰がその隙を見逃すはずもなく。

 

逃げ遅れた二両のマチルダⅡが圧倒的火力を誇る黒森峰の餌食となる。

聖グロとは比べ物にならない攻撃に、もはや身動きすら取れなかった陸の女王は、あまりにもあっけなく装甲に穴を空けられ、黒煙と白旗を吐いて沈黙した。

 

「マチルダⅡ二両撃破されました!」

「足を止めないで!!全速でこの戦域から離脱するわ!」

 

そして応戦することもなく、聖グロは戦場から消えた。

その様を、黒森峰はじっと静かに見ているだけだった。

もしダージリンがあと少しでも気づくのが遅かったなら、その時の被害は二両では済まなかっただろう。それはそのまま、試合が決まることを意味していた。

 

逃走の中、ダージリンは歯噛みした。

まんまと、してやられた。

違和感の正体は、これだったのだ。

 

初戦からここに至るまで、幾度と行われた戦闘。

あの手この手と品を変え、一つとして同じ絵の無かった戦闘だが、ある共通点が一つあった。

 

それは戦闘の終わり方。

聖グロと黒森峰、どちらが仕掛けたに関わらず、戦いは全て()()()()()()()()退()()()終わっている。

初戦なんて一番それが顕著だ。ほとんど主導権を握っていたのに、結局最後はダージリンが兵を引いて戦いを終わらせている。

 

それこそがダージリンが、()()()()()()()()()()()()()()()と感じていた理由。

そしてその根源にあるものが、今分かった。

 

「――――そうだろうな。そうするしかないだろう、そこが偽物(お前)の限界だ」

 

ダージリンの戦術が、全て読まれている。

これは上辺だけの話じゃない。

もっと深く、深く、それこそ核にあたるもの。

それが西住まほによって、完全に掌握されている。

掌で踊らされていたのは、此方だったのだ。

 

「さぁ次はどうする、ダージリン」

 

考えてみれば、当然の話だった。

 

ダージリンの戦車道の核、根底にあるものは()()()の戦車道。

美しく、鮮やかで、無敵の戦車道。

誰よりもカッコいい、あの人の戦術。

 

それが通用しない人間が、世界には三人いる。

 

一人は他ならぬ()()()――――神栖渡里。

一人はその妹であり、ずっと神栖渡里の戦車道を見てきた――――西住みほ。

そして最後の一人は、今ダージリンの目の前に立っていた。

 

()()()の戦車道ならまだしも、その紛い物が、私に通用すると思ったか?」

 

今日、この日のためにダージリンが用意した戦術は、およそ二十。

ありとあらゆる状況を想定し、それに対応するために大会が始まってからずっと編み続けてきた戦術その全てに、神栖渡里の血脈が流れている。

 

「お兄様の戦車道は、お兄様だけのもの……生半可な覚悟で手を出していいものじゃないんだ……」

 

 

そしてたったそれだけの理由で、それら全てが西住まほには一切通用しないであろうことを――――ダージリンは静かに悟った。

 

 

「いくらでも仕掛けてこい。その全てを打ち砕き、お前を完膚なきまでに打ちのめそう。そして―――――」

 

 

どこまでも凪いだ瞳の奥に、赫々たる焔が燃えている。

怒りを薪として燃え盛るそれは、近く聖グロリア―ナを襲い焦がす。

 

それは誰にも止めることはできない―――ただ一つ、力を以て捻じ伏せる以外には。

 

 

 

「あの人に憧れたことを―――――後悔させてやる」

 

 

 




〇見ると緊張感がなくなる物語の悲しい背景。


西住まほ(ファン歴=10年以上)(ガチ恋勢)(同担拒否)
「推しの事は私だけが知ってればいい、誰も手を出すな」

VS

ダージリン(ファン歴=3~4年)(ガチ恋勢)(布教推進派)
「推しってこんなに素晴らしいから、是非皆にも知ってほしい!でも本当に推しの事を理解してるのは私だけどね」


※あくまでイメージ及び妄言です。



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カミ栖まう天を覗く者

プラウダ戦のクライマックス4000字が消えた悲しみを力に変えて生まれたのがコレ。

過去最多の文字数を以て、黒森峰女学園VS聖グロリア―ナ女学院の戦いは終了となります。

間違いなくダージリンは筆者の寵愛を受けたキャラでした。




西住まほにとって、神栖渡里とは神聖不可侵なものである。

 

かの人の戦車道は誰にも真似することのできず、それ故に誰の目にも輝いて見える。

一度目にすれば誰もが心奪われ、そして誰もが彼の道を歩きたいと思うだろう。

 

遥か高みを征く、あの人の道を。

 

西住まほとて、それは例外ではない。

幼少の頃、初めてあの人の戦車道を見た時から今に至るまで、西住まほはずっとあの人の、そしてあの人の戦車道の虜だ。

同じ道を歩きたいと思ったことなんて、もう数えきれない程ある。

 

けれど西住まほには、それはできなかった。

()()()()()()()()で、心の底から渇望する戦車道を、まほは諦めるしかなかった。

 

それは、仕方のないことだ。

悔やんでも悔やんでも悔やみきれないが、西住まほはそれでも割り切った。

男という理由だけで戦車道ができないあの人と同じように、自分にもそういう類のものがあったと、それだけの話なんだと自分に言い聞かせた。

 

そしていつからだろう。

西住まほは、あの人の戦車道はあの人だけのものであって、誰も手を出してはいけないものだと思うようになった。

それは多分、職人が自分を真似た不出来な贋作を認められないのと似たような感情で、誰よりも本物を近くで見て、誰よりも本物を知るが故に、あの人の戦車道を真似た贋作なんてあってはならない、と。

 

しかし幸か不幸か、その怒りにも似た感情が発露する事は滅多になかった。

西住流においては、あの人の戦車道は圧倒的な力を誇りながら、あまりにも西住流からかけ離れたもの故に禁忌とされており、例えかの戦車道を知る者でも表に出すことはなかった。

他所においては、そもそも神栖渡里を知る者がいない。

 

それはそうだ。西住流ならまだしも、そこから一歩出れば彼は公式戦に一度も出たことがない、取るに足らないただの人。

余人には知る由もないだろう。

 

それでいい、と思った。

誰もあの人のことを知らなくていい。

誰もあの人の戦車道を見なくていい。

 

そうすれば、まほは西()()まほでいられる。

 

撃てば必中、守りは固く。進む姿に乱れ無し。

鉄の掟、鋼の心。

 

母と同じく、西住流そのものでいられる。

 

 

 

――――――はずだった。

 

 

 

七月某日のことである。

西住まほは、兄と再会した。

実物ではなく、妹との会話の上で。

 

何年も何年も音沙汰なく、どこにいるかさえも分からなかった兄。

ずっとずっと会いたくて、焦がれた人。

心の底から求め続けた温もりは―――――妹の傍にあったのだ。

 

西住流から、黒森峰女学園から、そして何よりも戦車道から離れていった妹。

それが遠い茨城の地で、兄と再会し、そして一緒に戦車道をしているのだと、まほは知った。

 

 

―――――あぁ。

あぁ、あぁ。

あぁ、あぁ、あぁ。

 

その時まほは、自分の心の奥から湧き上がるどす黒いナニカを自覚した。

その感情に、名前はない。

ただどうしようもなく悲しく、虚しく、そして残酷な気分になったので。

 

まほは全てを忘れる為に、戦車道に没頭しようとした。

戦車道をしている時だけは、間違いなくまほは西住まほだから。

 

だというのに。

 

いつの間にかこの世界には、こんなにもあの人の紛い物が蔓延っている。

 

サンダース大付属。

アンツィオ高校。

あの人の戦車道を愚かにも再現しようとした贋作者。

 

継続高校。

そして聖グロリア―ナ女学院。

あの人の戦車道を、まるで自分の方が理解していると言わんばかりの傲慢者。

 

そして―――――――

 

 

(ふざけるな)

 

 

ふざけるな。

ふざけるな。ふざけるな。

あの人の戦車道は、そんなものじゃない。

あの人の戦車道は、もっと素晴らしいものなのに。

 

それを理解していない者達の手によって、あの人の戦車道が貶められていく。

それを見ていることなど、どうしてできようか。

 

だからまほは決意した。

贋作は、破壊する。

的外れな解釈は、修正する。

そうやってあの人の戦車道を守ろう。

誰にも歪められないように、誰にも曇らされないように、誰にも触られないように。

まほが世界で一番好きなあの人の戦車道を守ろうと、そう決めた。

 

どす黒いナニカは、いつの間にか消えていた。

本当は消えたのではなく、まほがそれを異物と認識しなくなっただけなのだが、それすらもどうでもよかった。

 

「お前で二人目……それが終われば、あと一人だけだ……」

 

あぁ、そうしたらしばらく休める。

自由な時間ができるんだ、あの人の所に会いに行こう。

 

あの人は褒めてくれるだろうか。

急に押し掛けて怒られないだろうか。

いやそんなことあるはずがない。

きっといつものように、困った顔をしながら笑って許してくれる。

そうしてあの頃のように、頭を撫でてくれるはずだ。

あの時もそうだったじゃないか。

 

 

「待っていて下さい、お兄様……」

 

 

 

 

 

 

「痛恨のミスだったわ」

 

ダージリンの表情は、側近のオレンジペコでさえ見たことがないほどに苦々しいものだった。

彼女の象徴とさえ言えるティーカップがその手に握られておらず、乱雑に置かれていることからその感情がどれほどか察することはできた。

 

「渡里さんの戦術が通用しないのは分かっていた。私なんかよりずっと長くあの人の戦車道を見てきたんだから、それは当然」

 

独り言だ、ということがオレンジペコもアッサムも分かっていたので、口を挟むことはしなかった。

 

「だというのに二両の損害を出した……心のどこかで、私なら()()()()()()()と、そう本気で思い込んでいたというの、ダージリン……!」

 

その時のダージリンは、既に聖グロリア―ナ女学院の理想たる令嬢の姿をしていなかった。

感情をむき出しにした、荒々しい戦士の形がそこにはあった。

 

「不遜にして傲慢だわ……!あの人にも失礼よそんなの!」

 

がぁん、と白い手が何の手加減もなく叩きつけられた。

横に座るオレンジペコが慌てたように目を丸くする一方で、アッサムはただ瞑目するだけであった。

 

そしてチャーチルの車内は沈黙に包まれる。

それが破られたのは、他ならぬ静寂の生み手によってであった。

金髪青眼の隊長は、一つ大きく息を吐いて面を上げた。

 

「見苦しい所を見せちゃったかしら」

「お気になさらず。無線は全部切ってありますので」

 

間髪入れずアッサムが答えることができたのは、おそらく付き合いの長さ故だった。

オレンジペコ含む他の乗員が曖昧な態度を取っていた中、アッサムだけが平然としていたのだ。

 

「他の子に隊長が乱心したと伝わっては一大事ですから」

「私だってストレス発散くらいするわ。特に、こういう失敗をした後はね」

「相手の策に乗せられておいて二両の損失で済んだんです。上等でしょう」

「……そうかしら」

 

アッサムの口当たりの良い毒舌を食らい、ダージリンは完全に平静を取り戻したようだった。

 

「確かに自分を責めるよりは、まほさんを褒めるべきかもね。見事にしてやられてしまったもの」

 

紅茶を一口味わい、ダージリンは喉を潤して言った。

 

「思えば、あまりにも()()()()()()()()()()()。相手がまほさんである以上、渡里さんの戦術がそのまま通用するはずがない。だからある程度の修正は必要だと思っていたところに、まほさんは敢えて手を緩めて劣勢を装った」

 

神栖渡里の戦術はやはり不敗なのだと。

使い手にそう錯覚させるために。

 

「お蔭でこっちはセーフティゾーンを踏み越えてしまった。止まるべきところで止まれなくさせたのよ、まほさんは」

「気づいた時には崖際に立たされていて、後は少し押すだけでお終いということですか」

「崖際を栄光への架け橋と勘違いさせたうえでね」

 

呆れたように、あるいは感服したようにアッサムは一つ息を吐いた。

一筋縄ではいかない、ということを誰もがようやく理解した。

 

「相手の心理を巧妙に操る戦い方……渡里さんに似たやり口だったわ」

 

それがどういう意味か、おそらく理解したのはダージリンとアッサムだけであった。

 

端的に言えば、『お前にできることは私にもできる』という挑発である。

少し解釈の羽を広げれば、『私の方が神栖渡里を理解している』ととれるかもしれない。

そう考えれば、一杯食わされたダージリンの取り乱し方にも理由がつくというものであった。

 

「過去の話はやめて未来の話をしましょう。ダージリン、勝機は?」

「………」

 

車内が緊迫した。

通信手は無線が未だに切れているかを、今一度確認した。

 

「……今日までに作りあげた対黒森峰の戦術は、全てゴミ箱行き。かといってアドリブで戦える程甘い相手じゃなく、私たちもそこまで芸達者じゃない」

 

金髪青眼の隊長は、冷静に現実を受けいれていた。

無慈悲に思えてしまうほどに。

 

 

「勝てる、という確信のある筋はもうないわね」

 

 

誰かの息を呑む音が聞こえた。

それは常勝の信仰を抱かせるべき隊長にあるまじき発言。

『負けるかも』という禁句であった。

 

無線を切っていたのは間違いなく正解であった。

そこらの隊長が言うのと、ダージリンが言うのとでは重みが違う。

 

戦車道の名門、聖グロリア―ナ女学院の隊長。

試合に出られない選手は勿論、OG会などから多大な期待を寄せられ、並みの人間なら圧ししてしまいそうな重圧を平然と背負い、なおも優雅に高貴に振舞う彼女。

弱気な姿なんて見せるはずがない。

いつだって不敵で強気で、堂々たる立ち振る舞いをしている。

 

そんな彼女が「勝ち筋がない」という。

その衝撃は、決して小さなものではない。

まるで身体の芯を鷲づかみにされてシェイクされたような、そんな立ち眩みにも似た酩酊感。

 

支えてくれる柱を失った彼女たちはいずれ思うだろう。

地に足を踏みしめているはずなのに、まるで空中に浮いているようで、あぁ下手をするとこのままどこかに飛んで行ってしまうんじゃないかと。

 

否、既にその兆候は表れていた。

絶対的な心の支え、それを失うということはそれほどまでに重大な危機であり、そこに付随するマイナスの影響は決して防ぎようがない―――――

 

 

「そうですか。ではやはり、やるしかありませんね」

 

 

――――事前に()()()()という覚悟がなければ。

 

アッサムの言葉は、大きな声ではないのにはっきりと響いた。

それは全員がその言葉を予想していたからだった。

 

「……えぇ、できれば使いたくはなかったけれど」

「オレンジペコ、鏡があったらダージリンに見せてあげて頂戴」

 

アッサムは半ば呆れながら言った。

言葉につられて、オレンジペコが真横の彼女の顔を覗く。

 

そこには、ちぐはぐな顔があった。

 

口振りは渋々。けれど彼女ときたらどうだ。

青い眼の中には、赤い火と銀の光。

瑞々しい唇は綺麗な三日月を描き、白い歯はまるで牙のように。

 

淑女はもうどこにもいない。

そこに在ったのは、唯々獰猛な獣。

鉄風雷火の戦場に相応しい――――闘争の色に染まった顔。

 

「全車に通達。これから一度黒森峰に仕掛けるわ」

「準備運動ということですね」

 

ダージリンは一つ頷いた。

 

「絶対条件として一両も撃破されないこと。撤退を前提として動くこと。後は……」

「良く言う事を聞くように、とでも言っておきましょうか」

「あら、アッサムにしては核心を突いた言葉ね。それに短くていいわ」

「昔ながらの言葉でもありますしね」

 

金髪の持ち主たちは場違いかもしれないが笑った。

聖グロの良い所を一つ挙げるなら、それはチームのナンバーワンとナンバーツーが同じ戦車に乗っていることであった。

ここはチームによって良し悪しが分かれるところであるが、聖グロに限っては同一の戦車に乗っていた方が遥かに良かった。

なんせナンバーワンがどこまで高い所に行ってしまっても、ナンバーツーという楔がある限りは手の届く範囲に降りてきてくれるのだから。

 

クロムウェル(フラッグ車)をこちらに合流させて頂戴」

 

ダージリンは膝の上に地図を置き、手に無線のマイクを持った。

 

 

「――――――オペレーションW&D、お披露目といきましょう」

 

 

 

 

 

 

 

黒森峰女学園は半ば勝利を確信していた。

といってもそれは油断とか慢心とか、そういった足を引っ張る類のものではない。

ただそう、()()()()()()()()()()()()とでも言おうか。

おそらくは長く戦場に身を置いた者にしか分からない感覚だが、スポーツの世界においては珍しい者じゃない。

 

戦っている内に自然と相手の力量が分かってきて、それと比較して自分達が上にあると確信した時、それはやってくる。

そういった漠然とした勝利の予感が、どことなく黒森峰女学園に広まりつつあったのだ。

 

聖グロリア―ナ女学院の強さは勿論知っている。

決して油断ならない相手。戦車の性能差で勝っていても、何か一つの拍子が狂えば負けてもおかしくない、そんな相手。

 

けれど黒森峰の戦車乗り達は、ここに至るまでただの一度も聖グロを()()と思うことがなかったのだ。

理由はいくつかある。

最近に限らず、黒森峰女学園の歴史を振り返って見ても聖グロに負けたことがないとか、トータルな戦闘力で見れば一枚、二枚は上手だとか、そういうことが。

 

けれど一番大きな理由は、やはり隊長の力。

西住流の直系、西住まほの実力を最も知る者は、それを最も近くで見てきた彼女のチームメイトである。

だから西住まほがどれだけ桁外れの存在かを、彼女たちは知っている。

隊長として部隊を統率する指揮官としての能力、戦車単騎での戦闘力の直結する車長としての能力、そのどちらもが悪魔みたいにずば抜けている。

欠点が存在しない、真の意味での全局面対応型(パーフェクト・オールマイティ)―――それこそが西住まほ。

 

そんな彼女が、聖グロの隊長をここまで圧倒していた。

どんな戦術を仕掛けられても、それを即座に見切って対処する。

 

現状こそ二両しか撃破していないが、それは彼女が敢えて手を緩めていたから。

彼女がその気になれば、返す刀で一閃するだけで致命傷を負わせることができるというのは、白旗を挙げた二両のマチルダが証明している。

 

聖グロの隊長が優秀な隊長だというのは知っている。

戦術能力だけで見れば全国で一、二を争うということも。

けれどそんなのを相手にしながら、西住まほは一切表情を変えずに淡々と指示を飛ばして確実に衰弱させていく。

 

そんなものを見ていたら、誰だって思う。

 

 

―――――()()()()に勝てる奴がいるのか、と。

 

 

そう、黒森峰女学園に蔓延する勝利の気配の源は隊長への信頼ではなく、畏怖。

彼女たちは知っているのだ。

遥か昔、洪水とか地震とか雷とか、そういったものは人間に抗えぬ神の御業であると人々が悟ったように。

戦車道においては西住まほも、そういう類のものだということを。

 

今さっきも、それを見せられた。

二両の戦車を失った聖グロが再び攻撃を仕掛けてきたが、何の成果もなかった。

ただ闇雲に攻撃し、先ほどまでの流れるような連携もどこへやら、いっそ無様とさえ言えるほどに拙い動きで、そそくさと逃げていってしまったではないか。

 

あの金髪青眼の隊長でさえ、そうなる。

なればこそ、黒森峰女学園は決して負けない。

全員が西住まほの忠実な僕、黒森峰というチームを動かすための歯車に徹すれば、負ける事などあり得ないのである。

 

 

 

「―――――その信仰を、崩してあげるわ」

 

 

 

どこかで、誰かが呟いた。

それは当然黒森峰女学園の誰にも聞こえないものであったが、天上に座す勝利の女神にとっては最後の戦いの始まりを告げる号砲であった。

 

「………来たか」

 

ポツリ、とまほは呟いた。

その数秒後、通信手から聖グロリア―ナの戦車五両が陣形を組んで現れた、という報告が入る。

 

予想通り、ではない。

そもそもまほは、この試合が始まってから予想などというものを立てたことがない。

だって意味がないのだ。あの金髪青眼の隊長がどういう策で来るだとか、そんなものは。

事前に考えるだけ無駄。下手をすると相手に付け入る隙を与えかねない。

 

だから徹底的にまほは後手に回る。

そう言うと相手に先んじられている感じがするから、()()()()()()と言うべきだろうか。

ともかくとして、アレコレ考えるのは相手の出方を見てからでいい。

なぜならまほは、そこからでも十分()()()()

初めの一歩を見るだけで、相手の狙いが何でどういう風に部隊を動かそうとしているのか、という最終ゴールまでの道筋が手に取るようにわかるのだ。

 

なぜか、理由は一つだ。

()()()の戦車道の息吹が、そこにあるから。

 

「………五両編成の部隊にチャーチルの姿は?」

『ありません』

 

そうか、とだけ返して、まほは思考した。

相手の狙いが分かっている以上、当然それを阻止するポイントも分かる。

問題はそれが複数あるため、どこで止めるかを選ばないといけないこと。

 

今ダージリンがやろうとしていることは、此方の兵力を分散させてからのフラッグ車一本釣り。

つまりフラッグ車を討ち取る役目の一両を残し、他の全車で道をこじ開け、まほ(フラッグ車)に肉薄させようというわけだ。

 

確認できている五両編成の部隊は、此方の注意を引き付けるための罠。

おそらくは別方向から来るであろう三両か四両編成の部隊が本命で、そこにチャーチルがいる。

 

まほはそれに対処するため、兵を割く必要がある。それでも数の有利は取れるだろうが、そのタイミングで間違いなく足の速いクルセイダー部隊も前線に参加する。

そうなると一時的に戦力が互角となり、クルセイダー部隊と別動隊が連携すれば此方の陣形に穴を空けることも不可能ではなくなる。

 

聖グロからすれば一両だけでも抜け出させればいい勝負だ。

そういう意味で言えば、あちらの方が有利。成功率も低くはない。

 

ならまほはどうするべきか。

一つは、確認できている五両編成部隊を、全戦力を以て迅速に壊滅させるという手。

そうすれば返す刀で別動隊も一網打尽にできるし、何より兵力を分散させている相手に対し、戦力を集中させての各個撃破戦法という定石にも則る。

 

二つは、一騎討ちを制すという手。

ダージリンの策は一騎討ちという状況を作ることによって「勝機を作るため」のものであり、それ自体が「勝ちを確定させる」ものではない。

一騎討ちに持ち込まれようが、まほがその勝負を制せば何の問題もなく、まほが能動的なアクションを起こす必要がないという点においては実に省エネな一手と言えるだろう。

 

『隊長、相手部隊攻撃を開始しました』

「……」

 

暫しの沈黙の後、まほは短く「同数を以て応戦しろ」とだけ答えた。

リスクとリターンを天秤に掛けるなら、取るべき策は前者であった。

しかしまほの中には否定しがたい、一つの暗澹とした感情があった。

 

それは、あの人の贋作は自分の手で破壊しなければならないという使命感。

いや破壊したいという衝動であった。

 

「相手の狙いは私だ(フラッグ車)だ。なら、望み通りに相手してやろう」

 

 

―――――それがほんの僅かな綻びとなったことを、まほはまだ知らない。

 

 

『聖グロリア―ナ、別動隊が出現しました。数は三両、隊長車の姿もあります』

「三両にて対応。四両はクルセイダー部隊の攻撃に備えて待機。それから護衛はもういらない。五両編成の部隊の対処に加わり、圧迫を加えて後退させろ」

 

淀みなく、迅速にまほは指示を飛ばす。

それはあの金髪青眼の隊長によって書かれた台本通りの台詞だったが、今はそれでいい。

それで気が済むというのなら、掌の上でいくらでも踊ってやる。

最後の一文だけは「黒森峰女学園の勝利にて終幕」と改竄させてもらうが

 

しかし何の捻りもない作戦だ、とまほは思った。

当然ではある。兄の戦術の模倣は、練習段階ですら多大な時間と労力が必要となる。それが実戦となれば、いよいよ他の事に頭を使う余裕がなくなる。

 

言ってしまえばあの人の戦車道は黒色なのだ。

ただただ一色に、全てを真っ黒に染めていく。

一度塗ってしまえばもう何色も残ることはないし、後から色を足すこともできない。

自分の色なんて、出したところから染め直されていく。

 

あの金髪青眼の隊長も身に染みているだろう。

あの人の戦車道の模倣は通用しない。なら、それを少しでも変化させるしか勝ち目がないが、それができない。

 

一流画家の描いた絵に誰も手を加えられないのと同じように。

自分が余計なことをしたせいで、完成度が下がるのではないかという恐怖が付き纏うからだ。

それも尊敬の念が深ければ深いほどに。

 

付け加えて言うのなら、ダージリンにはそもそもとして実力が足りていない。

確かに彼女は高校戦車道界において比類なき存在である。戦術能力だけを抜き取らずとも、総合的な実力で言えば上から十番以内に間違いなく入る。

そんな彼女を以てしても、あの人の戦車道は使いこなせない。

 

その証拠に、チャーチルは今に至るまでの数度の戦闘において、全て前線に参加している。

これはリスクが高すぎる行為である。

 

聖グロリア―ナはダージリン一人の力が飛びぬけて高く、一位と二位以下の間にとてつもなく大きな開きがある。

 

つまり聖グロには彼女の代わりを務めることのできる人間がおらず、ダージリンを失った瞬間に敗北が確定する。なら極力、撃破の危険性がある前線には出さない方が賢明だ。

彼女が戦術能力に秀でた隊長である以上、多少後ろに下がったところでパワーバランスが崩れることもないのだから。

 

しかしその危険を冒してまで前線に参加するのは、彼女が()()()()()()()()()()()

端的に言えば、あの人とダージリンでは見えている世界が違うのだ。

 

兄とダージリンは、おそらく戦場を俯瞰して見ることができる。

けれどあの人の眼は遥か天上にあるが、ダージリンの眼はそれよりずっと低い所にある。

 

だから使いこなせない。

あの人と同じ高度に眼を持ってこない限りは、絶対に。

彼女の前線への参加は、それを補うための苦肉の策にしか過ぎない。

 

『クルセイダー部隊出現。此方を包囲しようとしていますが―――』

「擬態だ、させておけばいい。それよりも全車、目の前の相手に攻撃を加えて自由にさせるな」

 

終わりは近い、とまほはため息を一つ吐いた。

一対一の勝負は、生憎と負ける気がしない。

 

西住流は個人技を重視した流派ではないが、それでも()()()()()()()()()()()の力は備えている。

一歩遅れを取ることがあるとすれば、それは西住流と対をなすもう一つの流派を相手にした時くらいだ。

 

加えてダージリンは戦術家としては最高峰だが、単騎レベルで見た時はその限りではない。

寧ろ不得手。

これはデータに基づいた事実である。

 

今までそれが露呈してこなかったのは、ひとえに彼女が()()()()()()を作ってこなかったからであり、そもそもとして二流に後れを取る程不得手というわけではなかったから。

 

しかし今回は違う。

戦術の比べ合いでは互角かもしれないが、単純な力比べならまほが勝つ。

 

「――――――――」

 

まほは操縦手と砲手に指示を出した。

言うまでもなく、チャーチルが突っ込んでくるであろうルートと、それに対する此方側の動き方である。

 

チャーチルの装甲は堅牢。

しかし進行ルートが見えているなら、側面を狙い撃つことも容易。

加えてこちらはティーガーⅠ。

56口径88㎜砲は例え正面からでもチャーチルを貫き得る威力があり、最早一発さえ当てれば撃破できると言ってもいい。

 

気を付けなければならないのは人為的ミスだが、それこそ杞憂である。

常勝を掲げる黒森峰女学園に、そんな温い選手はいない。

 

完全に詰んだと、まほは確信した。

逃げ道はない。

ダージリンが確信しているであろう勝利への一歩、それは既に断頭台へと続く一歩へと変容している。

そうとも知らず、チャーチルは間もなく歩みを進めるだろう。

 

その時が、まほが贋作に引導を渡す時となる。

早く来いと、まほはおそらくこの試合で始めて焦れた。

 

そしてまるでそれを感じ取ったかのように、ソレは起こった。

 

『チャーチル、吶喊してきます!』

「通せ」

 

一瞬のことであった。

流れるような連携で此方の戦車の身動きを封じ、生まれた間隙。

ここしかないというタイミングで、チャーチルがそこに飛び込んだのである。

 

これにより黒森峰の構築する戦線からチャーチルは抜け出し、フラッグ車との一対一という未来が確定される。

それを見たまほは、一つ嘆息した。

 

あの金髪青眼の隊長は、本当に部隊を指揮させれば一級品だ。

彼女は、まほのように高名な戦車道流派の出身ではない。

ただ普通の少女が、普通に戦車道を好きになり、そしてこの高みまで上り詰めたのである。

 

だからこそ、まほは彼女を憐れむ。

もし彼女にほんの少しでも才能が無ければ。

あるいはほんの少しでも戦車道に不誠実であれば。

 

「―――――お兄様の戦車道に囚われることも、なかっただろうに」

 

だから解放してやろう。

これは訣別の一撃だ。

お前とお兄様の間にある繋がりを、この一射を以て断ち切る。

 

「忘れろ、ダージリン」

 

お前は今まで夢を見ていたんだ。

とても幸せで、残酷な夢を。

けれど人は夢だけを見て生きてはいけないから。

私が、お前を現実へと還してやる。

 

まほは右手をゆっくりと上げた。

そして左手で咽頭マイクに手を当てる。

 

既にティーガーⅠはチャーチルの進行方向から考え得る、最善のポジションへと移動している。

この一騎討ちは、戦いというほど白熱したものにはならないだろう。

両手を縛られ首を差し出す罪人に刀を振り下ろすような、そんな一方的で瞬間的なものになる。

 

けれどそれくらいの方がいいのだ。

痛みを感じる間もなく楽にしてやるのが、優しさなのだから。

 

 

「夢の――――――終わりだ」

 

 

一息。

まほは右手を降ろした。

 

火薬が炸裂し、重厚な鎧をも貫く魔弾が放たれる。

大気を切り裂くような発射音と、鉄が壊れるような着弾音は、ほぼ同時だった。

 

しぃん、と戦場にあるまじき静寂が、一瞬世界を覆った。

しかし間もなく、チャーチルの黒煙と共に吐き出された悲鳴が静寂を破る。

 

誰もが、チャーチルの撃破を悟った。

戦車道では、まだ戦えそうなのに動けなくなる戦車と、ボロボロなのにまだ戦える戦車の二つがある。

競技を長くやっていればその二つの違いは直ぐに分かるが、この時のチャーチルは間違いなく前者であった。

 

機械的なアナウンス音が、戦場に木霊する。

それは女王の訃音通知。

今大会において不撓不敗であった金髪青眼が斃れた事を、そして聖グロリア―ナの実質的敗北を告げる声だった。

 

 

『聖グロリア―ナ、チャーチル走行不能』

 

 

終わったと、まほは思った。

唯一にして絶対の柱を失った聖グロに、最早勝機はない。

部隊を率いる者はなく、烏合と化して散っていく。

まともな抵抗など、もうできはしないだろう。

 

「畳みかけるぞ。全車、攻撃開始」

 

フラッグ車が撃破されない限りは、ルール的に負けはしない。

だがフラッグ車一つだけが残ったとして、果たして何ができるというのか。

ましてや今の聖グロは、頭を失った手足だ。

心臓があるから壊死はしないが、動くことなんてできやしない。

 

ここから先の戦いは、そういうものを相手にしたものになる。

それはどれほど楽な戦いだろう。

 

いい機会だ、来年チームを引っ張っていくであろう副隊長に経験を積ませるとしよう。

間違っても勝敗がひっくり返ることはない状況だし、決勝戦に向けての弾みにもなる。

彼女の器であればもう一段階難しい課題を与えてもいいが、まぁそれはそれだ。

下手に手間取って威厳を失われても困る。

 

とにもかくにも、まほにはもうモチベーションがない。

倒すべき敵を倒し、為すべき事を為した。

この試合においてまほがやることは、もうないように思えてしまったのだ。

 

「エリカ、後は――――――――」

 

任せた、という言葉が紡がれることはなかった。

ふと、まほの頭が警鐘を鳴らしたのである。

 

 

――――――――戦意が、失われていない。

 

 

眼前に在る聖グロリア―ナの()()

隊長を失い、勝機すらも失った彼女たちを覆っているべき絶望が、そこにはなかったのである。

 

こういったものも選手にしか分からない感覚だ。

相手がやる気なのか、心が折れているのか、そういうものを判別する感覚。

しかしこの時、観客の目にも明らかな程に、聖グロは戦意を保っていた。

必勝の意志が、立ち昇る焔として具現して見えるほどに。

 

これはまほでさえも予想外の状況だった。

一体何が、彼女たちを支えているというのだ。

聖グロというチームに、隊長を失っても戦い続けることができる程の強度はないはずだ。

黒森峰でさえ、まほを失えば相応の脆さを見せる。

いや他のどのチームも、そうであるはずだ。

 

 

「―――――――――」

 

 

背筋を、突如として冷たいものが走っていった。

それは西住流の血が齎した直感であった。

 

弾かれるように、そして本能のままにまほは視線を動かした。

そして致命的な欠陥が発生していることに気づいた。

 

(分断させられている―――――)

 

陽動であった五両編成部隊にあたった部隊。

クルセイダー部隊とチャーチルの混成部隊にあたった部隊。

その両者の間に、見過ごすことのできない程大きなスペースが空いていた。

 

何故、という疑問はまほにはなかった。

なぜなら、アレはある意味で必定のもの。

黒森峰は今に至るまで、聖グロの動きに合わせる形で動いてきた。

故に聖グロが()()()()()に仕向ければ、簡単にこの状況は完成する。

 

それ自体は、何ら問題ではない。

まほの中にあったのは、何を、という疑問であった。

 

 

「まさか――――――」

 

 

まほは全車に指示を飛ばそうとした。

それは脊髄反射的なものであったが、それよりも早く()()はやって来た。

そして、

 

 

――――――――流星が、走った。

 

 

遥か遥か後方。

戦場から離脱するほんの一歩手前ほどの、西住まほですら感知できない盤外から。

 

風を切り。

音を置き去りにし。

反射も反応も対処も対応も許さない、最短最速で。

 

その戦車は到来し、そして――――――

 

 

「――――――っ!!」

 

 

鉄の虎へと突き刺さる。

 

身体を鷲づかみにされてシェイクされたかのような衝撃がまほを襲った。

鉄と鉄がぶつかり合う激しい音がして、ティーガーⅠとその戦車は一つの塊となって地を転がっていく。

勿論横転したわけではない。ただ両者制御不能状態となって、慣性と勢いの奴隷となって、しっちゃかめっちゃかになっただけ。

 

しかしそんな状況でも、まほの身体は正確に状況を理解しようとした。

ティーガーⅠの側面に突撃(ラムアタック)を仕掛けてきた戦車。

其れが何者か、まほは直ぐに理解した。

 

その戦車に付けられた称号は、最速の二字。

WWⅡにおいてこの戦車より速きものはなく、流星の名前を冠したエンジンによる推力はあらゆる戦車を置き去りにした。

英国巡行戦車の極致にして完成系。

 

 

名前を―――――クロムウェル。

 

 

まほは注意深く、その姿を見た。

その間にティーガーⅠは熟練の操縦技術により自我を取り戻し、体勢を整えて臨戦状態へ移行した。

同じくしてクロムウェルも慣性の束縛から解かれ、二つの戦車は少しの距離を置いて対峙する。

 

(誰が乗っている……?)

 

金髪青眼の隊長は斃れた。

彼女以上の人材は聖グロにはいないはずだが、今の一連の動きは間違いなくここしかないというタイミングで行われた。

絶好の好機を逃さず最善の一手を打てるほどの戦車乗りが、まだ聖グロにいたというのか。

 

まほは珍しく、本当に珍しく答えを見失っていた。

 

 

「―――――――ふふっ」

 

 

そして、それを待ち望んでいた者がいた。

 

 

「どうやら一泡、吹かせることができたようですわね」

 

 

まほは目を丸くした。

視覚が持ってきた情報を、脳が正確に処理できない感覚を久方ぶりに味わった。

 

きぃ、とクロムウェルのキューポラが開く。

その中から、まるでスポットライトを浴びながらステージに現れるスターのように、彼女は現れた。

 

陽の光を反射し煌めく金の髪。

宝石のように美しい青い瞳。

見る者にため息をつかせる美貌。

 

まほはその顔を、良く知っていた。

 

「ごきげんよう―――――――まほさん」

 

音楽的な響きすら感じる声で、惚れ惚れするような笑みと共に彼女は言う。

 

 

「その顔が見たかったわ」

 

 

どこまでも愉し気な彼女の名前は、ダージリン。

紅茶の名前を持つ、金髪青眼の隊長。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あの!本当にやるつもりですか……?」

 

不安そうな声が、ダージリンの背中を掴んだ。

振り返り、声の主を見る。

そこにいたのは、ほんの数か月しか一緒にいないはずなのに、もう何年も共にしてきたかのように感じる一人の後輩だった。

 

ダージリンは静かに彼女の名前を呼んだ。

 

「勿論よ、オレンジペコ。だってこうでもしなければ、到底まほさんは越えられないもの」

「で、でも()()()()は今まで一度も―――――」

「成功した試しはないわ。練習ではそれもよかったけれど、本番で失敗すればその時点で負けが確定するでしょうね」

「だったら……」

「でもねオレンジペコ、このまま何もしなくても結果は同じよ。なら少しでも勝つ可能性のある道を選ぶ……当然でしょう?」

 

青い瞳に反射するオレンジの髪をした少女の顔は、未だに不安の色を消せないでいた。

 

「……私が信じられないかしら?」

「ち、違います!」

 

オレンジペコは肩を震わせながら言った。

あまりにも真剣な表情に、ダージリンの方が寧ろ驚いてしまった。

 

「……信じられないのは、私の方です」

 

目を伏す彼女に、ダージリンは不安の原因を悟った。

 

「本当に、私なんかが()()()()()を動かせるでしょうか……?」

「………」

 

ダージリンは内心で嘆息した。

 

オペレーションW&D。

その基本骨子は、擬態にある。

 

詳細は省くが、簡単に言うとダージリンはこのチャーチルから()()()

降りて別の戦車に乗り、そこから部隊の指揮を行うこととなる。

 

よってチャーチルはダージリン以外の誰かに動かしてもらわねばならず、そして擬態の看破を防ぐためにチャーチルは前線に出なければならない。

つまりダージリンが乗っていると相手に思わせるだけの技量が、その誰かには必要になってくる。

 

ダージリンはその役目を、オレンジペコに任せることにした。

理由は一つ。

それはオレンジペコが、この数か月間最もダージリンを近くで見てきたからだった。

 

オレンジペコより技量の高い者はいる。

それこそルクリリなどは、一回りも二回りもオレンジペコを凌ぐだろう。

 

オレンジペコよりダージリンと付き合いの長い者もたくさんいる。

三年生なんてその最たるものだし、ダージリンへの理解度など下級生とは比べ物にならないだろう。

 

 

「オレンジペコ、聞きなさい」

 

 

けれどオレンジペコよりダージリンに憧れ、その背中を一心に追い続けている者はいない。

だからこそ、ダージリンはオレンジペコを選んだのだ。

 

「私の代わりをしようなんて――――そんなことは考えなくていいの」

「え……?」

 

ダージリンは微笑んだ。

そうすることで、少しでもこの子の不安が消えてなくなるのなら、と。

 

「一生懸命やりなさい。自分にできる事をがむしゃらに、誇りを持って、全身全霊を尽くすの。そうすればきっと、チャーチルは貴女に応えてくれるわ」

「そう、でしょうか……?」

 

大きく、ゆっくりとダージリンは頷いた。

そして彼女の小さい手を、両手で握った。

突然のことにオレンジペコはビックリしたようだったが、ダージリンは構わず言葉を続けた。

 

「力が足りないなんて、そんなのは当たり前よ。私だって貴女くらいの頃は、今よりずっとずっと下手くそだった。誰だって最初から名人なわけないわ」

 

ぎゅっと、オレンジペコの手を握る。

あんなに重たい砲弾を持ち上げているなんて思えない程に、小さくてか弱い手だ。

けれどダージリンは、こんな手にずっと助けられ、支えられてきた。

今度は、彼女が誰かに支えてもらう番だ。

 

「だから、助けてもらいなさい。精いっぱいやって、それでもできない事があったなら、誰かを頼りなさい。ルクリリも、ローズヒップも、ニルギリも、貴女が本気で頑張っていたらきっと貴女の力になってくれる」

 

オレンジペコの顔を、ダージリンは真っ直ぐに見つめた。

小さくて、気弱そうで、けれどしっかり自分の考えを持っている子。

努力家で、ダージリンも驚くくらい強い意志がこの子の中にはある。

 

 

「貴女をチャーチルに乗せたのは、格言に詳しいからじゃないわ。貴女にならいつか――――――このチャーチルを託せると、そう思ったから装填手に任命したの」

「―――――――っ」

「本当よ?」

 

彼女の手を放す。

いつまでも握ってやるわけにはいかない。

後輩は、いつかは先輩の元から巣立っていかなければならないのだから。

 

「貴女がいるから、この戦術ができる。心の底からそう思っているわ」

 

だから、とダージリンは言葉を迷った。

頼んだわよ、は少し味気ない気がした。

それよりもっと相応しい言葉が、今はある。

 

 

「信じてるわよ、オレンジペコ」

 

 

そしてダージリンは、チャーチルから降りた。

振り返ることはしなかった。

後ろにいる後輩がどんな顔をしているかなんて、そんなの分かり切ったことだから。

 

 

「――――――ご武運を!!ダージリン様!!」

 

 

カツン、とクロムウェルの装甲をブーツが叩いた。

キューポラを開け、車長席へとダージリンは座す。

中の光景は、今までチャーチルしか知らなかったダージリンにとっては、とても新鮮に見えた。

 

「随分と長いお別れでしたね」

 

いや、とダージリンは嘆息した。

とっても見慣れたものも、中にはあった。

ダージリンより明るい金髪をした、データ主義の砲手。

彼女もまた、チャーチルから此方へと移っていたのだ。

 

「言い残したことは?」

「ないわ。言うべきことは言った。オレンジペコならきっとやってくれるわ」

 

ダージリンの言葉に、アッサムは少し微笑んだ。

 

「あの子がチャーチルをね……初めて会った時は、まだまだ垢抜けない一年生って感じだったのに」

「ええ、本当に可愛かったわ。貴女の言う事にも一々大袈裟に反応しちゃってね」

「『ダージリンに憧れて戦車道に?じゃあ髪型も真似したら?』って言ったらあの子、本当に次の日からダージリンそっくりの髪型にしてきたものね」

 

くすくす、と二人は笑い合った。

本当に、本当に可愛い後輩だった。

たった数か月だったけど、色んな思い出をたくさん作った。

叶う事なら、もう一年遅く生まれたかったとすら思う。

 

「いつの間にか、よく似合うようになったわね……」

「本当にね」

 

最後まで一緒に戦えないことが少し心残りだけれど。

そんなことばかり言っていられない。

別れの時は、誰にも等しくやってくる。

 

「さて、と。オレンジペコの心配ばかりしていられないわ。こっちはこっちで大仕事よ」

「えぇ、頼んだわよ、ダージリン。ここから先は、全部貴女次第なんだから」

「大船に乗ったつもりでいなさい……と言いたいところだけど、何分成功した試しがないしね」

「その割には、やけに自信満々の顔だけど」

 

鏡がないからダージリンには分からないが、アッサムがそう言うのならきっとそうなのだろう。

事実、失敗するつもりは微塵もない。

やるからには、必ず成功させてみせるつもりだ。

 

しかし一抹の不安もないかと言われれば、そうではなかった。

 

ダージリンにとって戦いとは、万全の備えを以て挑むものであった。

練習でできたことしか本番ではせず、そうでないものは一切使ってこなかった。

 

けれど今回は違う。

打算も計算もなく、理屈も理論もなく。

ダージリンは初めて、身体の内から溢れる衝動に身を任せ、戦いの狂気へと身を委ねる。

こればかりは、誰にも言えず、隠し通さねばならない事だった。

 

「さて、どこまで行けるかしらね」

 

目指す高みは遥か天上。

人の身では到底辿り着けない、神々の栖まう領域。

 

かつて神栖渡里という一人の指揮官が成した神の如き業を、ダージリンもまた此処で成す。

 

「一応聞いておきますが、自信の源は?」

「あら、聞きたい?」

 

僅かに滲んだ喜色から、アッサムは嫌な予感を抱いたようだった。

しかしもう遅い。

聞かれたなら、答えてあげよう。

 

熱く燃え盛る、ダージリンの心の中にある火を。

 

 

()()()が言ったの、私ならできるって――――――」

 

 

―――好きな人がそう言うんだから、それは誰が何と言おうと絶対的な真実でしょ?

 

 

「……恋愛脳も、ここまで来れば長所ね」

 

長年の戦友はつれなく言った。

その声は、既にダージリンから遠のきつつあった。

 

深呼吸を一つ、ダージリンは静かに瞳を閉じる。

そしてやってくるは、暗黒の世界。

何も見えず、何も感じない、只の闇。

 

けれど恐れる必要はない。

これからこの世界を、この世界で一番信頼できる仲間たちの声が照らしてくれるのだから。

 

 

「征きましょう――――――――遥か高みへ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「この状況は予想できなかったのではなくて、まほさん?」

 

目の前の彼女の沈黙を、ダージリンは是と受け取った。

それもそうだろう。これだけは、絶対に予想できないという確信がダージリンにはあった。

 

なぜならこれは、不確定の未来からやってきた作戦。

一手、二手、あるいは数十手を一瞬で見抜く西住まほといえど、()()()()()()()()()()()()()()()()を考慮することなどできはしない。

というより、する必要を感じないはずだ。

 

「ポーカーなら貴女に勝てっこないけれど―――ごめんなさい。これ、コイントスなの」

 

表が出ればワンチャンス、裏が出れば破滅。

そんなギャンブルだからこそ、西住まほの虚を突くことができた。

裏が出た時の事は、想像すらしたくないけれど。

 

「………最初から、これが狙いだったというわけか」

 

したり顔のダージリンに、まほはポツリと呟いた。

 

「劣化版とはいえ、お兄様と同じことができるとはな」

「お褒めに預かり光栄ですわ」

 

まほの瞳に鋭さが増す。

危険領域に足を踏み入れつつあるのを、ダージリンは肌で感じていた。

 

黒森峰を倒すためには、フラッグ車との一騎討ちに持ち込むしかない。

これは最早、必定の選択だった。

 

何せどんな手を打っても、西住まほには通用しない。

なら戦えば戦う分だけ、ダージリンは追い詰められていく。

勝ちを拾うためには、一発逆転のギャンブルを仕掛けなければならなかった。

 

しかし問題が二つあった。

一つは、一騎討ちに持ち込むためには、ダージリンが全体の指揮を行わなければならないこと。

どんな状況からでも逆転する可能性のあるフラッグ戦の怖さは、黒森峰が一番よく知っている。見す見すフラッグ車との一騎討ちなんていう状況は作らせないだろう。

そこに無理やり道を作るのだ、並みの指揮では傷一つつけられない。

聖グロにおいては、ダージリン以外に不可能な難事である。

 

そしてもう一つは、西住まほとの一騎討ちで勝利しうる戦車乗りが、ダージリンしかいなかったこと。

これが本当に致命的であった。

 

ダージリンの見立てでは、西()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

つまり戦術でどうにか道をこじ開け戦車を送り込んでも、不意打ちでなければ西住まほは見てからでも間に合う。

 

故に一騎討ちをする戦車は、西住まほの視覚外、戦場から離れたところに待機し、そこから一気に肉薄しなければならない。

 

だがその役目を担うダージリンは、前線にいなければならない。

そうでなければ、そもそもとして一騎討ちの状況が作れないのだ。

 

この二つは単体で見れば解決可能なもの。

しかし同時に解決するとなると途端に無理難題(デッドロック)と化す。

 

簡単に言うと、ダージリンは()()()()()()()()()()()()()()()西()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ダージリンの身体が一つしかない以上、それは間違いなく不可能であった。

 

 

――――――だったらどうするか。

 

 

「本当に渡里さんは凄い人ね。こんなのを、平然とやるっていうんだから」

 

 

戦域外にいなければならないなら、戦域外にいればいい。

それでも前線にいなければならないなら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

どうやってそんなことをやるか?

()()()()()()()()()()()()()()、それだけである。

 

視覚情報はない。

唯一の情報源は、無線から入ってくる声。

相手の位置、味方の位置、向いている方角、距離、相手が取り得る行動、そういったものは全部全部、仲間に教えてもらう。

 

そして、たったそれだけを頼りにして、戦場を想像(創造)していく。

 

概念的には目隠し将棋に近いだろう。

だが難易度はソレを遥かに上回る。

 

大前提として、指揮官の支配力は距離と反比例する。

指揮官に近ければ近いほど、指揮はより細かに鋭敏になるが、一方で遠ければ遠いほど、曖昧で漠然とした指示しか出せなくなる。

 

そんな中で上記のような技ができるなら、確かに後方にいながらにして前線にいるかのように部隊を指揮できるだろう。

 

だが刻一刻と変化する戦場を、声による伝達などという最も曖昧なものを媒介にして描きだしていくなど、人の業じゃない。正確な図を描ける方が不思議というものだ。

おまけに少しでも集中力を欠けば、頭の中の戦場はあっという間に霧散していくだろう。

 

だから指揮官は、常に戦場を視なければならない。

それを欠かした瞬間、指揮は一気に鈍る。

実際ダージリンは、一度そうなりかけた。

 

けれどダージリンは諦めなかった。

きっとできるはずだと、そう疑わなかった。

 

だってここには、仲間がいる。

背中を預けられる仲間が。

自分を慕ってくれている仲間が。

ダージリンと一緒に戦っている。

 

なればこそ、できないものか。

加えて好きな人が「できる」と言ってくれた。

なら、絶対にできる。

恋する乙女のパワーは、無限大なんだから。

 

言ってしまえば、たったそれだけの理由。

たったそれだけのことで、ダージリンは史上一人しか到達できなかった神業を成し遂げたのだ。

 

「私なんてほとんどまぐれね。同じことをもう一度やれと言われてもできないわ。まぁたった一回成功すれば、それでいいのだけれど」

「…………あのチャーチルは影武者か」

「ん?――――えぇ、よく出来た子でしょう?」

 

なにせ貴女の目を欺いたのだから、と彼女は言った。

 

そして二人の隊長の表情は、対照的なものになった。

一方は楽しくて仕方ないとでも言うように笑みを浮かべ。

一方は眉を顰めて口を真一文字に結んでいる。

 

「さて、そろそろ始めましょうか。あの子達も頑張ってくれてはいるけれど、貴女たち相手じゃ時間稼ぎもそう長くできないでしょうから」

 

金髪青眼の隊長の後方、そこには救援に向かおうとする黒森峰部隊を、身体を張って押し留める淑女たちの姿があった。

勝利の絶好の機会。ダージリンが作り出した千載一遇のチャンス。

そこに邪魔者を立ち入らせてなるものか、という強い意志が気炎となって燃え上がっている。

 

 

事此処に至りて、もはや戦術も作戦もなにもない。

正真正銘、ダージリンは全てを出し切った。

描いた戦絵巻は、ここより先から白紙。

 

後はただ、力と力をぶつけ合い、単純(シンプル)に決着をつけるだけ。

その結果白い星になるか黒い星になるかは、勝利の女神のみぞ知る。

 

 

「…………一つだけ聞く」

「………どうぞ」

 

片目を瞑りながら、ダージリンは発言を促した。

 

「――――――お兄様の戦車道を、捨てたな?」

 

感情が見えない、無機質な声だった。

けれど不思議なことに、相手を威圧する重みを纏った声だった。

 

「あぁ、だから読み切れなかったと?」

 

反応はなかったが、それが正鵠を射ている事をダージリンは知っていた。

西住まほに、神栖渡里の戦術は通用しない。

彼女に勝つ方法は唯一、彼女の言う通り神栖渡里の戦車道を捨てるしかない。

 

「………捨てた、というのは語弊があるわ」

 

けれどそれは否である。

ダージリンは、自身の心の内をそのまま語ろうという風に思い至った。

 

「あの人の戦車道は、もう私の心身に染み込んでいる。初めて見た時から、私の心はずっとあの人の虜。捨てるなんて、地球が三角になってもできないわ」

 

あるいは、もう少し時が浅ければそれもできたかもしれない。

けれど神栖渡里と決別するには、ダージリンはあまりにも長く時を刻み過ぎた。

 

「なら………」

「けれど違うのよ、まほさん。あの人の戦車道を捨てなくても、貴女に勝つ方法はあるの」

 

ダージリンの言葉に、彼女は本気で分からないといった様子だった。

 

それを見てダージリンは、あぁ確かに彼女にとっては盲点かもしれないと、そう思った。

なら教えてあげよう。

 

ダージリンはとても綺麗な笑みを浮かべながら、言った。

 

 

「あの人を踏み台にするのよ」

 

 

時間が止まった。

氷の中に閉じ込められたマンモスとはこういう気持ちなのかもしれない、とダージリンは思った。

 

「あの人の戦車道を真似るでもなく。あの人の戦車道を追うでもなく。あの人の戦車道を喰らって(利用して)、上に行くの」

 

そんなに可笑しなことかしら、とダージリンは肩を竦めた。

それが地雷を踏み抜く行為であると、知った上で。

 

「貴女だってそうでなくて?ハインツ・グデーリアン、エルヴィン・ロンメル、ミハエル・ヴィットマン、オットー・カリウス。高名な戦車乗り達が後世に残したものを一つ残らず食らい尽くして、ここまで来たのでしょう?」

 

いつだって、なんだってそうだ。

先人たちが築き上げたものの上に、後人は胡坐を掻く。

彼らの栄光を、技量を、真髄を、まるで自分達のものであるかのようにして。

 

しかしそれは先人への侮辱ではない。

草を掻き分け道を拓いた彼らへの、敬意の表れなのである。

 

そう、偉大なる者は須らくして、後世の礎となる。

なればこそ、どうしてそれが神栖渡里にだけ適用されないことがあろうか。

 

「私もそうしただけ。あの人の戦車道を学び、取り込み、そうやって自分の戦車道を昇華させてきた。そして今日ようやく、私の戦車道が完成した」

 

神栖渡里の模倣(コピー)ではない。

ダージリンの戦車道と、神栖渡里の戦車道。

二つを融合させた、ダージリンだけの戦車道。

 

「渡里さんの事を良く知るからこそ、貴女は渡里さんの戦術を読める。けれど私の事は、そこまで御存じだったかしら?」

「………あぁ、そうだな」

 

短い返答に、ダージリンは内心でため息を吐いた。

もう少し感銘を受けて欲しかったが、どうやらそれは叶わぬようだ。

 

いや、それも当然か。

なんせ彼女は―――――――とても怒っている。

地雷を踏み抜いたのはワザとだが、どうやら地雷ではなく火山噴火のスイッチを押してしまったらしい。

まぁ大好きな人を利用されて平然としていられるほうが不思議だが。

 

例えるなら「性悪女に散々貢がされて最後に捨てられた兄、を見たブラコン妹」といったところか。

別にダージリンは今でも全然、神栖渡里の事を尊敬しているし好きなのだが、今更言ったところで火に油を注ぐだけだろうか。

 

「ま、いいわ。頭に血が上って少しでも冷静さを欠いてくれるなら儲けよ」

「煽り過ぎよダージリン!」

 

車内から響く声を、ダージリンは有意義に無視した。

 

「もう話すことはないでしょう。正々堂々真正面から――――――犬のように序列を決めましょう」

「……一対一で私に勝てると?」

「もちろん。私いま、ちょっと無敵な気持ちなの」

「――――」

 

目は口ほどにモノを言う。

完膚なきまでに叩きのめしてやるという意志を、ダージリンはひしひしと感じていた。

 

けれど今は、そんなドライアイスの剣のような敵意さえも心地よい。

変な話だが、ダージリンは高揚していたのだ。

夢見心地というかなんというか、戦いの中にあるまじき多幸感がダージリンを包んでいて、さっきからずっと頬が緩みっぱなしだ。

 

「―――――――――ッ」

「あら、開幕から随分と熱烈ね」

 

疾風怒濤。

嵐のような猛攻を、ダージリンは涼しい顔をして捌いていく。

 

戦車道の名門、西住流。

その直系にして長子たる西住まほ。

単騎での戦いを重視していないとはいえ、その実力は充分に怪物級。

 

それが全身全霊で牙を剥いてくるのだ。

並みの戦車乗りであれば、身が竦んでまともに相対すらできないだろう。

 

けれどダージリンは、それでも笑っていられる。

愉しくて仕方ないというように、嬉しくてどうしようもないというのに、口で三日月を描く。

その訳を、誰か聞いてくれないだろうか。

 

「右から来るわ。いなして背後に回るわよ」

「簡単に言うわ、まったく!」

 

車内の淑女たちは冷や汗を掻きながら忙しくしている。

とてもじゃないが、ダージリンの話を聞いてくれそうにない。

 

「なんでそんなに笑っていられるのかしらね!」

「それは―――――――幸せだからよ」

 

ふふ、とダージリンは一層表情を喜色に染めた。

 

 

 

かつて、イカロスという少年がいた。

蝋で出来た翼で空を飛び、あまりの嬉しさに遥か天上まで舞い上がってしまって、最後は陽の光に翼を灼かれて地に墜ちた、そんなお話。

 

人の身でありながら、神々の栖まう高みへと昇った者の末路は一つだと彼は教えてくれた。

神域に踏み込んだ代償として、命を奪われる。

誰もがその物語を悲劇と呼ぶだろう。

 

けれどダージリンは、今なら彼の気持ちが分かる。

 

身に余る飛翔の先にあるのは破滅。

イカロスだって、きっとそんなことは分かっていた。

 

けれども彼は、見てみたかったのだ。

人の身では決して見ることのできない、天上に座す者だけが知る世界を。

 

その果てには、墜落が持っている?

それがどうした。

この胸の高鳴りを成就できるなら、どんな結末も受け入れる。

 

だから彼は、幸せだったのだと思う。

その墜落に悲嘆はなく、満開の笑みと共に彼は墜ちていったに違いない。

 

だって―――――――ダージリンもそうだから。

 

 

「あぁ―――――――よかった」

 

 

万感の思いをこめて、ダージリンは呟いた。

 

本当に、良かった。

遂にダージリンは、そこに達したのだ。

今まで誰も見ることのできなかった景色。

この世でただ一人、彼だけが見ることのできた世界。

彼が栖まう、遥か高み。

 

ダージリンは初めて、それを垣間見た。

ならば後悔はない。

ずっとずっと憧れてきたあの人にようやく、ほんの少しだけかもしれないけれど、近づくことができたのだから。

 

 

「本当に―――――――良かった」

 

 

かくして無冠の女王は、地に墜ちる。

人の身でありながら神域へと至った代償として。

 

されど彼女に後悔はない。

誇らしげに、堂々と、とても綺麗な顔で。

微笑と共に、彼女は墜ちてみせたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

『聖グロリア―ナ女学院、フラッグ車―――――走行不能』

 

 

 

 




戦車の乗り換えはルール上問題ありません(ノンナもやってた)。

黒森峰戦に一両だけ参加したというクロムウェル。
先代隊長の形見だと言われてたり言われてなかったりするこの戦車を活かすにはどうしたらいいか、という所から作中のチャーチル→クロムウェルの乗り換えが誕生しました。

ダージリンをチャーチルから降ろすのはかなり悩みましたけどね。
けどダージリンからオレンジペコへのチャーチル継承はいつかくる未来だから。
ルクリリ?そりゃ次代の副隊長よ。


あと対神栖渡里性能が最強の西住まほに対して、どうやってダージリン(ファン歴数年)が勝つのか、という問題。
これは結局ダージリン自身が一時的にでも神栖渡里と同じレベルになるしかない、という答えになりました。

何事もまずは模倣から。
色んな一流の真似をして、初めて自分だけの一流が完成するのかもしれませんね(適当)


じゃあプラウダ戦書いてきまーす。


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