SAO another hero (L.H.)
しおりを挟む

プロローグ

彼らはずっと一人部屋が欲しいと思い続けている。

だが現実問題、家の一階には寝る部屋などなく、二階には両親の部屋を除くと一つしか部屋はない。家は曽祖父母の代に建てられた築八十五年の木造住宅だ。風呂やキッチンなどの細かい内装はこれまでにリフォームしてきた。風呂に湯沸かし器と床暖房がついたのも最近の話だ。土台や地震対策に関しても求められることは全てやった。この家にはもっと長く住める。

だから、引っ越そうとはいいづらいのだ。もっとも、家を引っ越そうなんていうのは簡単な話ではないのだが。

そんな中、幸いなことが一つある。それは、兄弟二人が使っている部屋が結構広いことだ。畳敷きで二十畳ある。そしてちょうど真ん中をカーテンで仕切っている。二人が駄々をこねた結果だ。このカーテンこそが思春期の、孤独を求める切なる願いを今までかろうじて満足させてきたのだ。

二人は両方思春期の暗いトンネルをやっと抜け出せたといった年だ。一人部屋はどうでもいいと思えてきた。喧嘩しないよう付き合う方法はもう体得した。カーテン仕切りの共同生活はそういう訓練にはうってつけだった。

弟は本を読んでいた。俗に言うラノベだ。本人いわく、流すように読むのがいいらしい。熟読する価値は無いが、読み返すことは頻繁だ。というのも、1作品しか読んでないからだ。ほかのものを読みはじめると、一線を超えてしまいそうな気がするからだ。だからといって他のジャンルの本を読む気にもなぜかならないのだ。畳に寝転がりながら、自分の中途半端を軽く嘆いていると、不意にカーテンが少し開いた。兄の声。

「お前、よくもまあそんなもの何回も読んでて飽きないなあ。カバーボロボロだぞ?」

「うん。ラノベには人を執着させる、魅力とは別次元の何かがあるみたいだな。夏目漱石とか芥川龍之介とかいう純文学の類なんてのは体が受け付けなくなってるね」

「とはいったって、代表的なやつは大体読んだだろ?坊っちゃんとか羅生門とか。ペースは笑えるぐらい遅かったけど」

「お前は器用でいいな。色んなジャンルの読めて」

「はっ!ライノベなんて読んでて気色悪いな。台詞回しやキャラの性格が型にはまりまくってる。二つの作品に同一人物がいるってぐらいにな。それに今時どこの女子高生が語尾に『わよ』とか『わね』とかつけて話すんだよ。おかしいだろ。せめて言葉づかいは実状に合わせろってんだ。まあ世界観と作画は評価するけどな」

とはいう兄だが結構夢中で読んでたりする。細かくアンチを言うのもきちんと読んでる証だ。兄は不意に話題を変える。

「そういえば、お前の今読んでる一巻、黒幕を実写化したら、親父に似てないか?」

「いきなり何言ってんだよ。そういうお前の方こそ、主人公に似てるぞ。スターバッ○スストリームってな」

予期しなかったタイミングのボケはたとえつまらなくてもダメージ大のようだ。兄は爆笑しかけたところを何とか吹くに留めた。

「何ブレンドしてんだよ。くっそなんかハマるな、それ。エ○マン級だな」

「それはスタバじゃないな。まあそんなのどうでもいい。親父といえば、遺言のアレ、どうする?」

彼らの父親は大学教授だった。あまりプラクティカルでない方の物理学とプラクティカルな方の工学を研究していたが具体的な内容を知る者は誰もいなかった。学会にもろくに出席せず、教授職に留まっているための必要最小限の論文しかださず、同僚からは煙たがられていた。大学へは講義の日以外ほとんど顔を出さなかったが、学生からはその面倒見の良さで慕われていた。いつもは自室に閉じこもっていて何をしているのかわからなかった。しかし、息子たちや妻もほとんど気にしなかった。暇があるときはきちんと家族と時間を過ごす良き父であり、夫だったからだ。家族を養うために真面目に仕事をしている、と思えばそれでよかった。そもそも父以外誰もそういう学問には興味はなかったのだ。

しかし残念なことに、父は何ヶ月か前に脳卒中で倒れて若くして亡くなってしまった。五十四歳だった。

相続の関係は何とか片付いたと思いきや、最近になって隠し遺産の存在が発覚したのだ。父の部屋を整理しているときに個人的なメモを息子たちが発見したのがきっかけだった。大学のある一室を借りて何かを製作していたらしく、自分にもしものことがあったらその部屋のものをすべて処分してほしい、という内容だ。母にはまだ知らせてない。

「研究室といえば、ごちゃごちゃしてるイメージしかないんだよな。メンドそう」

兄は乗り気ではなかった。

「それに、整理して誰々に研究を引き継がせろって言うんならともかく、全部処分しろってのはなんか不自然だな」

弟も同感だった。しかもそれは、今までに処理した内容が書いてある遺言とは別の場所に保管されていたのだ。不思議さは増すばかりだ。が、

「死人に口なし。いちいち気にしてたって仕方ないよ。こういうのを後回しにしたっていいことは一つもないない。今日は様子だけでも見に行こうぜ?あと母さんには黙っていよう。無理に肉体労働させて体壊されたら元も子もない」

「あの人責任感は強いからな。葬式や告別式も全部一人でこなしてたし。ま、行きますか。あ〜あ、こんな炎天下の中外へ出るのか。ちゃっちゃと済ませようぜ」

「温暖化もここに極まれり」

太陽が真上に昇る時刻。窓もカーテンも閉めきっているが、直角に降り注ぐ陽光はカーテンの繊維の隙間を回折し、その周辺の空気を暖めている。部屋にはエアコンがきいていて少し肌寒いくらいだが、カーテン周辺では冷たい空気と暖かい空気が境界を保って同居していて、その間に入ると寒暖のギャップを同時に感じることができてどうにも心地いいのだ。

二人は部屋着から適当に着替えて階下に降りていった。

 

彼は薄暗い広間にいた。

五十人ほどの人があちらこちらに散らばっていた。壁に寄りかかり呆然としている人、くずおれて泣いている人、仰向けになって息をあげている人、勝利に歓喜している人、しらふの人。各人にもたらされた感情は千差万別だが、ここにいる皆は同じことを成し遂げた。大きな目標をちょうど半分達成したのだ。

この広間に渦巻く感情より遥かに多様な感情が、いや、心がこの広い、にもかかわらずあらゆる点で閉ざされた世界に幽閉されている。普段生きている世界の常識からは明らかに逸脱している世界。

アインクラッド。具現化する世界。人間の肉体が行ける場所ではない。意識だけをそこに連れていくことができる、バーチャルワールド。ソードアート・オンラインというゲームの世界だ。全てを決めるのは己の剣と不屈の心。それだけでよかった。一つの、たった一つのルールが加えられるまでは。

この世界での死は本当の死。命の残量は、残酷までに無機質で、儚く短いHPバーで表される。これがゼロになると本当に死ぬ。あまりにもわかりやすく、滑稽でさえある。バカにしているのか、と。いまやこれが事実となった。戦いで減っていくが、回復もできるHP。これが人に与えるのはいささかでも減ることへの過剰な恐怖心、あるいはレッドゾーンになっても死の近さを感じられない危うさ。死との距離感を容易に混乱させてしまうのだ。

こうなってしまった今、必要なのは、透明な死を正しく認識すること。HPの増減を冷静に見なければならない。生きることは死なないこと。死に近づく要因、もしくは生き残りに貢献するアイテムや知識を熟知して活用することも重要だ。そのために情報力が不可欠になった。このサバイバルを乗り越える最大の要素だ。

ただ、知っていることには責任が伴う。情報というものは扱い方次第で盾にも剣にもなる。その情報を広めるか広めないかの選択で時には人を救い、時には人を殺す。ひとりひとりの良心と判断力が異常なまでに試されるのだ。あなたはどんな器を持つ人間ですか、と。

しかしながら、よく考えてみると現実世界でも正念場ともいうべき場面は沢山あるではないか。その意味で、アインクラッドは本質的に現実世界と同じ、いや、現実世界よりも個々人の本質が克明に現れる世界なのだ。

彼はまさにその正念場に立たされていた。

だが人間というのは弱いものだ。彼はその場面で正しく判断できなかった。彼は自分の両手両足を見つめる。そして自分のスキルスロットを開く。

この世界に閉じ込められている人々はゲームのアバターとして存在している。ボタンでピコピコやるRPGと同じようにステータスがあり、レベルがあり、スキル、もしくは技がある。それらがこの世界での強さの要素となる。原則から言うと、これはプライバシーと同じで安易に他の人に教えるべきではない。いろんなトラブルのもとになるからだ。この極限状況でならなおさらだ。

しかし、さっきまでの彼の状況は違った。

――これを使えば、どれほどの人が死なずに済んだだろうか。

彼はそう思った。

この広間ではさっきまでボスとの戦いが繰り広げられていた。

百層の城、アインクラッドを登り通すことがクリアの条件となる。そのためには一層一層ボスを倒さなくてはならないのだ。それができるのはほんの一握りの集団のみだ。彼もそれに属していた。

ここは第五十層。クオーターポイントと呼ばれる場所で、ボスもひときわ強いものが現れる。ワンパーティー七人のフルレイド以上の人数で立ち向かった。事前から偵察が行われていたにもかかわらず、ボスの弱点らしきものは何も報告されなかった。それで、数回の偵察戦の後、レイドリーダーの決断で攻略を開始することになった。

万難を排しての準備だった。だがボスは想定外の強さだった。

自らは動かないが、攻撃パターンは多様で物理的範囲も恐ろしいほど広かった。人数が多ければ多いほど、混乱も大きかった。大抵の人は恐慌に陥ったが、一人のトッププレイヤーの尽力で何とか持ち直した。何時間もかけてボスはようやく倒されたのだった。

このボス戦で、ある大ギルドの主力メンバーがほとんど死んでしまい、これがきっかけでそのギルドは攻略から手を引いた。それほどの被害だった。

しかし、彼はボスの弱点を知っていた。彼は偵察隊のメンバーだった。周知していれば被害は大幅に減ったかも知れないほどのだ。

それでも彼はできなかった。どうしても彼の秘められた能力を用いなければならなかったからだ。そうすると自分はどうなるだろうか。この世界では、ステータスは基本機密事項だ。下手に披露すると、どんな視線を向けられるか全く予想できなかった。嫉妬の的になり、さらにエスカレートして攻撃の対象になれば、誰が彼を守るだろうか。結末が予想できないのであればやりたくないのが人間の性だ。他人の命より自分の命。これを利己的ではないと解釈することもできるかもしれない。

しかし、彼の行動にはそう理由付けできる根拠などあっただろうか。もしかしたら、また別の結末もあったのでは?いまさらその考えに至った。

これこそがゲームが現実となったときに問われることだ。自分はその問いに自信ある答えを出せなかった。このゲームを外から見てる茅場もほくそ笑んでるだろう。

そう思ったとき、不意に後ろから肩を叩かれた。激戦の後とは思えないほどの、明瞭で穏やかな声。

「残念だったよ。もっと暴れてくれるのを期待していたのだが」

声の主は、上記のトッププレイヤーに勝るとも劣らない活躍を見せた深紅の騎士。人数で勝負するギルド聖竜連合に対し、人数では劣るが精鋭ぞろいの血盟騎士団―彼があの能力を手にいれた後から頻繁にスカウトがきたが、その度に断っていた。規律が厳しいことで評判だったので彼の性にあわなかったからだ―。そのリーダーのヒースクリフだった。

一瞬だけ何のことを言われているのかわからなかった。だが今この状況で当てはまることは一つしかない。スカウトがきた時期からも容易に推測できる。言われた意味を悟ったのも一瞬、全身が凍りつく感覚に襲われたのも一瞬の出来事だった。

――あいつ、一体どこで?

足が動かない。震えが止まらない。金縛りのような感覚。頭の中は混乱していて、返す言葉が出てこなかった。あいつは一体なんなんだ?会う度にただ者ではないと感じさせられてはいた。もしかしたら、ほくそ笑んでいるのは・・・・・・

いや、それは短絡的にもすぎる。それ以上は考えたくない。でも彼は感じた。彼の声の、まるで人ごとのような響きを。

当のヒースクリフはギルドメンバーのところに戻っていた。レイドメンバーで何か話し合うようだ。少し離れた場所なので、聞こえてくる声もごく微小で、内容はわからなかった。というかこんな状態で会話など気にしていられるはずもない。

どれくらいつっ立っていただろうか。気づけばレイドメンバーは三三五五帰途につきはじめていた。

そのとき、群衆から一人、自分に近づいてくる人影を認めた。眩しいくらい派手な騎士装だ。見た目は華奢な女子だが、

その実力はみんなも認める。ヒースクリフ率いる血盟騎士団のサブリーダー、人呼んで『閃光』アスナ。メインアームはレイピア。彼女が繰り出す連続技を受けきれる者はほんの一握りだけだ。彼はデュエルしたことがないので正直どっちが強いかわからない。しかし、あれを使えば多分勝てる。そう思ったとき、落ち着きかけていた感情の嵐がまた吹きすさびそうになった。彼女の第一声。

「お疲れさま」

間違いなく純粋なねぎらいだろう。彼はなんとか声を絞り出せた。

「ああ、ありがとう」

「範囲攻撃が多いのによくあんなに接近して戦えたわね。ナイスファイトだったわ」

彼女はなるべく多くの人をねぎらいに回ってるらしい。動機はなんだろうか。自分は攻略組のリーダー格だという自負か、それとも、

「またスカウトに来たのか。何度も言うが俺はギルドになんて入るつもりはない」

「違う。今はそういうのじゃないわ。団長に何か言われたの?」

「あんたには関係ない」

虚勢を張ってみたつもりだ。アスナは一瞬間を置いて、

「そう。ま、ゆっくり休んで明日から張り切って一緒に攻略しましょう」

そのとき、なぜだろうか、突発的に強い感情がわきあがってきた。ただでさえショックで不安定になっているのに、何を鈍感なことを言ってるんだ、空気を読めよ、と。それに個人的にも攻略組の大きなギルドのメンバーへの不満は昔からあった。特にアスナは気に入らなかった。規則で団員をがんじがらめにし、攻略のためにハードなノルマを自分を含めみんなにも課す。純粋にその鋭い瞳と細剣の鋒はただ前へ向けられていた。心が綺麗すぎるのだ。それはある意味でほかの人との間に壁を作り、多くの人がただ空虚な崇敬の念しか抱かなくさせた。ただ百層を目指せ。そのためにただ進め。アスナの理想はみんなの願いを、生きる願いを強め、同じ動機のもとにレベルアップへとみんなを駆り立てていた。彼女は彼らの先頭を毅然と、美しく歩むヒーローとして全プレイヤーにその存在を刻みつけた。でも彼はみんなとは別の願いを抱いていた。

本来はこのソードアート・オンラインはただ楽しむため誰かと競い、泣いたり笑ったりするために存在するはずだった。それがこんなくだらないルールが加わって、何もかもが変わってしまった。ダンジョン攻略で感じるスリルと興奮は、死と隣り合わせの恐怖心になり代わり、仲間と競う楽しさは、自分をいつ標的にするかわからないレッドと競う苦しさにとって代わり、何よりも、やりたいときに攻略し、時間をかけてこのゲームを究めることができるという心の余裕が、単なるグランドクエストのクリアへの義務感に埋められてしまった。

しかしそれでも彼は攻略組の一員として役割を果たしている。デスゲームでもゲームはゲーム。こんな死闘でさえも、楽しむ余地があると信じ続けたい。死のルールに心まで縛られたくなかった。現実世界に帰るのは二の次だ。死ななければ、それでいい。いつでもログアウトできるというフィクションにしがみついてでも心の余裕を保ちたい。そう思いながらこのゲームをプレイしてきた。でも一人の人間として、死の重さは肝に銘じた。でなければ今、こんな罪悪感は感じていない。これはしばしば葛藤のもととなった。ボスとの戦いをゲームとして楽しむ気持ちと、仲間の死を悼む気持ちは果たして両立しうるのだろうか。彼のその気持ちを理解してくれる人はいなかった。

彼のような考えを持つ者はマイノリティだ。だから彼はその願いを心に秘めて、攻略集団に協力していた。怒りをぶちまけても意味がないと思っていた。一つの目標のもとに団結している集団は彼にとって恐ろしいものだった。それに水を差せば何をされるかわからない。それにみんなの考えが自然なのは明らかだ。誰に怒りをぶつければいいのかわからないやるせなさで視界が一気に潤んだ。泣き顔を見られるといろいろ面倒くさい。 彼は素早く顔を背け、ストレージから転移結晶を取り出して部屋から立ち去った。アスナはしばらくポカンとしていたが、特に気に留めずに最近興味をもち始めた男子の方へ駆けていった。

 

アインクラッドから約六千のプレイヤーがログアウトして長い時がたった。

東京都台東区御徒町。こまごまとした古い店が建ち並ぶ、下町風情漂う通りにその喫茶店はある。

ダイシーカフェ。ダイシーは運任せという意味らしい。響きだけをとると魅力的なこの店は、西東京市にあるSAO帰還者学校の生徒の溜まり場となっていた。店主が帰還者だからだ。

SAO帰還者学校とは、ソードアートオンラインからログアウトした人たちが通う学校だ。政府が臨時に設けた。校舎は統廃合になった高校が利用されている。なにせ異質な社会の中で二年間生きてきた人たちだ。何をしでかすか分からないので一ヶ所に集めておきたいのが自然だろう。

そんなダイシーカフェが新しいサービスを始めた。

『ブレークアンドスタディ』。放課後の時間帯に生徒がたくさん来るのを利用して、喫茶店に勉強の場所を設けるサービスだ。午後5時。喫茶店がバーに変わるまで数時間ある。店の隅の机で向かい合っている人影が二人。

「この式見てなんで気づかないんだよ。相加平均相乗平均だろうが」

「おっとついつい微分してしまうなあ。たしかにその方が早い」

一元高次多項式で、二つの項に分けてそれらをかけあわせて平方根を求めると簡単になり、すぐに最小値が出せるものを、わざわざ微分して極値を求めて最小値を出そうとし、計算の袋小路に迷い込んでいたのが、廣瀬秋斗。ブレークアンドスタディの利用者の一人だ。帰還者学校の最高学年だ。大学受験が控えているので、落ち着いた雰囲気が評判のこの店で受験勉強をしている。

「テストってのは制限時間があるんだ。その中でいかに簡潔かつ的確かつ見やすい答案をつくるかが数学ではカギになってくるんだ。そのために最短の解法を探して、できれば計算が少ないようにする。途中計算ばっかの答案なんて見たいと思うか?」

受験数学についてやけに熱く語るのは、最近住み込みでダイシーカフェに入ってきた佐藤海彦。これにはありえない事情が絡んでいるが今は伏せる。年齢は二十歳。午前中は店主と店を切り盛りし午後は必要に応じて接客する他、放課後の時間帯にこのように生徒たちに主に数学を教えている。店主も英語の勉強をたまに教えている。

2026年の夏休み半ば。東京はとにかく蒸し暑い。

秋斗はSAOにおいて、最後までソロプレイヤーを貫いていた。だからといって友達がいなかったわけではなかった。ソロプレイヤー同士仲のいい人が何人かはいた。現実世界に戻ったあともその関係は続いている。来年の三月には受験が控えている。センター試験を前身とする学力到達度テストではまずまずの成績を保持していて、まずまずの大学を目指せる。コンピュータにはめっぽう強く、その方面の大学でまず推薦入試を受けることになっている。入試科目は数学と、情報処理実技、口頭試問がある。数学は苦手ではないが、答案を書かせると計算ミスが目立つ。論証力重視の問題の方が性に合っている。現在の課題は計算力を付けることだ。なのでこうして計算ばかりの問題を解いているのだ。

「うっせえんだよ。そんな口ばかり出されても集中できないっての。はいはい。計算は簡潔に書きますから黙ってて」

「悪かったね。おせっかいで」

数分後。

「ああ!符号書き間違えてた。クソ!計算し直しだ!ああもう、これで何回目なんだよ」

「はい、計算用紙。普通答案用紙と一緒に配られていて、長い計算をするときに、ここで答えを出してから答案用紙に簡略化した計算過程を書くといい」

「それを早くくれ!」

「黙ってろって言ったの誰だっけ?」

「はいはいすみませんでした」

「じゃ、こんだけあげる」

海彦はB5のコピー用紙の四分の一だけちぎって秋斗に渡した。

「ふざけんな!書ききれねえよ」

「仕方ない。もう一行分あげよう」

「真面目にやれ!時間の無駄だ」

というふうにくだらないやりとりがダイシーカフェで繰り広げられていた。大抵このようにピリオドが打たれる。

「18時ちょうどだ。ドリンクサービスは終了だぞ」

店主の声。

「ほら見ろ。結局一問も解けなかった」

「お前の要領の悪さだよ」

「次は真面目に教えてくれよ。じゃ」

店主の声で秋斗はそそくさと帰り支度を始めた。

瞬間、店の扉が開いた。店主が先に挨拶する。

「いらっしゃい」

「こんにちは、エギルさん」

店主を名前で呼ぶからには相当の常連だろう。制服を着た女子高生。メガネをかけていて、黒髪のショート。前の方の髪の両側をヘアピンでクロスに留めている。

「お?ついにVRゲーム以外の趣味でも見つけたのか?シノン」

店主も彼女をあだ名らしき名前で呼んでいる。仲がいいようだ。シノンは多分ゲームのハンドルネームだろう。本名は朝田詩乃だ。彼女は折りたたみの将棋板と駒を抱えていた。

海彦も一応彼女とはある程度言葉を交わしたことがある。

「ええ、まあ。新川君の影響かな?」

新川という男は今とある事情で少年院に収容されている。明日退院する。

「どういう意味?」

尋ねたのは海彦だ。

「結構前に少年院で非行少年更正を目的とした将棋教室が開かれてね。それがきっかけで新川君、将棋にはまっちゃったみたいなの。最近久しぶりに面会に来たら勧められて。それと佐藤さん、挨拶を省略してるわよ」

「ああ、悪い。ちゃっす」

「この上なく無駄のない挨拶ね」

秋斗は既に帰っていた。シノンは手近なスツールに腰掛ける。鞄の中から文庫本を取り出し、盤を広げて、駒を並べ始めた。最終的に盤上に並べられたのは駒七、八枚ほど。加えて一枚の駒を自分のそばに置いた。

「お、詰将棋でも解くのか。盤面からすると七手じゃ詰まなさそうだな」

「そうね。この本によると十三手詰めよ」

「すげえな。始めてから日は浅いはずなのにもうそこまでか」

海彦が感心するも、もうシノンからは反応がない。

VRゲームで培ったのだろうか、シノンはものすごい集中力で盤を睨みつけていた。駒を動かしては戻しを繰り返し、もう自分の世界に閉じこもっていた。周りの音は全て遮断しているようだ。なんでもゲームの中でスナイパーをしていたらしい。納得だ。しかし、店に入っても何も注文しないのはいただけないなと海彦は思っていた。

三十分後。シノンはまだ盤面とにらめっこしていた。ちらほらとバータイムの客が来始めた。エギルがおそるおそるシノンに声をかけた。

「あのよお、そろそろお客もたくさん入ってくるし、そろそろお引き取り願えんか?後で家で考えればいいじゃんか」

はっと気づいたシノンは「あ、ごめんなさい」と言って海彦たちに挨拶してそそくさと店から出ていった。もう日も沈んだので海彦たちも帰ることにした。

 




みんなが面白くないだろうと思うような設定をどうしてもやってみたかったのです。色々伏せてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。