陰日向にて笑う。 (アウトサイド)
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ビッキーが反抗期を迎える前のお話。
日影にて出会う。


 空が重い。体が重い。空気が重い。

 

 思い。想い。重い。ああ、何もかもがしがらみに思える。息を吸うのも、一歩を踏み出すことも、まして生きることさえも今の私には重くて仕方がない。だけど、歩かなくちゃ。そう一心に歩みを進める。

 

 どこに? どうして?

 

 問いはある。答えは知っている。でもって、だからといって、ああ。やるせなさが心を打つ。

 

 何をしているんだろう。何がしたいんだろう。どうすればよかったんだろう。

 

 問いにこたえる。どうしようもなかったんだと。

 

 そうだ、仕方がなかった。みんなの怒りは正しくて、私の命は間違いで、私だけが許されない命だった。そんな理不尽を押し付けられて、それでも笑って生きようと頑張ってみたけど、それだって限界はあった。私が生きることは罪なのだろうか?

 

 自問自答、それに苦笑する元気もなく、涙する一滴すら零れやしない。

 

 “八百万 異の血啜り鳴く ホトトギス”

 

 命なんて無数にある。数知れず、私の知らない人たちが、私の知らない幸せと不幸を味わっている。そうだ、だから私は許されなかった。多くの人が死んだ中、私は生き残ってしまった。生き残ろうと必死だったあの骸の中に埋もれることなく、悲劇のスポットライトを当てられた。

 

 どうして生き延びてしまったんだろう。そんな自問自答には、もう疲れてしまった。日常での誹謗中傷は当たり前の毎日、怯えて卑屈にならないように守ってくれる母と祖母。頑張ることはできた。頑張ったけど、それが報われなかっただけの話。

 

「ここ、どこだろう……」

 

 気が付いたら、知らない場所に来ていた。いつも通りの周囲の言葉に下を向いて、人のいない方、人のいない道を選んだ結果、山道に向かっていったのは覚えている。あとは自分でも知らない間に、足に肉刺ができるくらいには歩き続けていた。

 

「雨……」

 

 こんな天気だ。雨だって降るだろう。問題は、自分が雨ざらしのままでいることか。だが、それを気にする余裕だって私にはなかった。いや、正確には気にするという気にすらなれなかった。濡れたところで何が変わる? 水をかけられたことだって一度や二度じゃない。薄汚いなどと、濡れネズミ扱いされたことだってもう十分だ。

 

 だから、人のいない今は濡れていたい。一人でいたい。

 

「でも、お母さんには迷惑をかけちゃうな……」

 

 迷惑? そんなもの、私が一緒にいるせいで散々にかけているだろう。生き残ってしまった私のせいで、お母さんにだって誹謗中傷の波は少なからずあった。生きていることを嘆くつもりはない。生きろと願われたこの命を、そう簡単に無駄にするつもりはない。

 

 そう、思っていたのに……。

 

「どう……すれば、よかったのかな……?」

 

 途切れ途切れの言葉に、自分が泣いていることに初めて気が付いた。雨とは別のぬくもりが頬を伝う。けどそれは、冷たい雨に誘われてすぐに熱を奪われていく。鼻をすすりだすと、いよいよ涙を止めることはかなわなかった。喉から声が出る。悲痛な叫び。聞いていて自分の胸が苦しくなるような、そんな慟哭。

 

 多分、以前の自分なら駆けつけていたのだろう。親友に言わせれば、自分は正義感が強いらしい。でも、そんな助けを呼ぶ声は自分から洩れていた。雨が降っているから、いくら泣いても許される。誰もいないから、いくら叫んでも届かない。

 

 助けてほしいのに、その声が聞こえないことにまた涙する。

 

「ひぐっ、助けてよぉ……もう、嫌だよぉ……っ!」

 

 徐々に歩く速度は速くなり、今ではもう雨の中を全力で駆け出していた。前なんて見ちゃいない。雨で、涙で、絶望に項垂れて前なんて見えちゃいなかった。靴はずぶぬれ、いや、全身が雨に濡れて肌寒さを覚える。それでもこの体は熱を持っている。走り続けて、雨に奪われて、ようやく自分が生きていることを実感している。だけど、そこになんら喜びはなかった。

 

 ノイズの大災害に襲われて、病院で一命をとりとめたとき、家族と一緒に泣いた。泣いて喜んだ。でも今は違う。泣いて、泣いて泣いて――苦しんでいる。命に、苦しんでいる。体の中で動く熱に、口から洩れる吐息に、涙するこの瞳さえも私を苦しめ続けている。

 

「ああ、いっそ……」

 

 いっそのこと、このまま逃げてしまえたら。でも、そううまくはいかないのは知っている。ノイズは簡単に人を亡き者に変えてしまう。だけど、本当ならそうじゃないんだ。生き残ってしまった自分がよく知っている。生きたいと強く願い、願われた私が一番理解している。

 

「生きたいのにっ! 生きたいんだっ!」

 

 生きたい。生きていたい。生きたい生きたい生きたい――だけど、なんでこんなに辛いんだろう。なんで、こんなに泣いているんだろう。

 

「苦しいよっ! 助けてよっ!」

 

 さんざんため込んだものを吐き出すかのように、私は叫び続ける。誰も聞いていないからこそ、叫べる自分が嫌になる。でも、それが仕方ないことで、私にできる数少ない頑張りだったのかもしれない。そうだ、私は頑張った。耐えて耐えて、耐えきれなくなっただけだ。

 

 だったら、これくらい許してほしい。

 

 脳裏には、これ以上走ることの危険性が浮かんでいる。そもそも道は一本道だったように思えたけど、前を見て走っていたわけじゃない私は、とっくの昔にここがどこなのかわからなくなってしまっていた。

 

「あ……」

 

 唐突に、心が締め付けつけられるような恐怖心に襲われる。ここがどこかわからなくて、ここには誰もいなくて、誰からも見捨てられてしまったのだという妄想が、心と体にひび割れのように走る。先ほどまでとは違う涙が滴り落ちる。そこには熱はなく、恐怖を覚えていた。

 気が付いたら、あとは簡単だった。体から体温が奪われているという事実。全力疾走による体力の消耗。ふらつく足は、脳を揺らして千鳥足のように行き先知らず。

 

 そして、

 

「うぁっ」

 

 情けない悲鳴とともに、体が崩れ落ちるのがわかった。地面に横たわった際に胸を強く打ったのか、激しく咳き込み、だけど起き上がる気力はなかった。泥にまみれ、雨に濡れ、私の体から命というものが流れ、奪われていくのを感じる。

 

「私、死んじゃうのかな……?」

 

 ノイズの大災害、あのライブでの悲劇を思い出した。血は流れていない。誰も死んでいない。だから、死ぬなんて実感はなかったけど、自分でつぶやいたその一言にどこかホッとしている私がいることに気が付いた。それが情けなくて、ひどく悲しく思えて笑えて来る。

 

「疲れたなぁ……」

 

 思えば、今日は全力で走っていたんだった。疲れて当然だ。

 

「眠いなぁ……」

 

 体から熱が奪われ、雨の降り方が激しく、粒の一滴すら大きいだろうに、私はそれを感じることができなくなっていった。失われていく感覚に、心は休息を求める。

 

「死ぬ……のかなぁ……」

 

 だけど、

 

「もう、いいかぁ……」

 

 そう納得している自分がいるのも事実で、私は目を閉じて意識を失った。

 

 

 

 

 ――――――…………

 

 

 

 

 夢を見ていた。

 

 まだ家族が、父親がいたころの夢を。そして、父親が去っていった。逃げていったころの悲しい夢を見た。私が周囲から浴びせられる誹謗中傷に、お父さんは無力だった。それを責める気にはなれなかった。だって、悪いのは私だったから。私が悪者で、お父さんはそれに巻き込まれたかわいそうな人だったから。

 

 そう理解して、納得した。

 

 だから、私は――――。

 

「……あったかい、な」

 

 自分が布団に包まれていることに気が付いた。だけど、そこから香る匂いは、自分や母のものではなくてどこか懐かしい……守ってくれているような匂いがした。

 

「ここどこだろう……」

 

 起き上がろうと体に力を入れる。よほど弱っているのか、大仰にかぶせられた重い布団を持ち上げるのにも一苦労だった。周囲を見回すと、すぐそこに焚火があった。

 

「これ、囲炉裏っていうんだっけ?」

 

 現代社会で生でお目にかかることのない、原始的な光。だけど、それはとても暖かく心が休まる光景だった。思わず、引き込まれるように傍へとよっていく。囲炉裏で暖められたこの部屋は、テレビで見るお屋敷のような広い印象を覚えた。

 

「あ、服が違う」

 

 何気なしに自分の恰好を確認すると、私には大きさが全然あっていないぶかぶかの洋服が着せられていた。しかも簡単には脱げないように、裾を縛ったりしてサイズを修正してある。初見で、この服が男の人のものだと気が付いた。

 

 あれ、じゃあここって――?

 

「おう、気が付いたか?」

 

 声がした。低く響いて、ぶっきらぼうな印象を覚える男の人の声。振り返れば、そこにわずかに無精ひげを生やして髪をざっくばらんに生やした男の人が立っていた。年齢の印象は、たぶん三十代前後。背が大きくて、ガタイもしっかりしてる。でも、若干くたびれた服を着ているせいで、世捨て人とはいかなくとも浮世から外れた印象を覚えた。

 

「おい、大丈夫か? お前さんが山道でぶっ倒れているのを運んできたんだが……。これ、指が何本に見えるかわかるか?」

「あ、三本です。ごめんなさい、体調はもう大丈夫です。あと、迷惑をかけて、ごめんなさい」

 

 どうやら、倒れていた私を助けてくれた人らしい。なんとなく、いい人っぽいというのは私にもわかった。

 

「ああ、いいって。今はあったまれ。今、風呂沸かしてきたところだ。少しでも気分が落ち着いたら、あったまってこい。お前さん、低体温でかなり危ない状況だったんだ。さすがに死にやしないとは思ってはいたが、体、ずいぶんキツいだろ?」

「えっと、はい。でも、お風呂まで迷惑をかけちゃ……」

「いやいや、ここで遠慮される方が迷惑なんだが? なんのために風呂沸かしたと思ってんだ。善意の押し売りくらい、受け取るのが筋ってもんだろ」

 

 無茶苦茶な言い分ではあったけど、なんとなく、私のことを心配してくれているのはわかった。どこか不器用な人だなという印象がある。だから、私を助けてくれたのかもしれない。だから、こんな私に普通に接してくれるのかもしれない。そう、思った。

 

「あ、そういえば服……」

「ん? ああ、その服な。悪いが、あのままじゃ風邪をひくどころじゃなかったからな。勝手に着替えさせたぞ? お前さんの服はこの雨だ。しばらく乾くのに時間はかかるだろうが、まあ早めに返すさ」

「そ、そうじゃなくて、その……見ました?」

「いや、見なきゃ着替えさせられんだろ……。目隠しでもしろってか? 下手すりゃ、お陀仏するかもしれない子供前にして戸惑うようじゃ、大人はやってけねぇんだよ。あと、お前さん十代前半だろ? どう考えてもお巡り案件だろうが、普通」

 

 よかった。確かに羞恥心が体を火照らせるけど、決してそういう人ではないみたいだ。何気に男の人と二人きりという状況ではあるけど、その心配がないというだけども少し安心できる。そして、その安心感が私にようやく生きながらえたという実感を浴びせた。

 

「ああそうだ。お前さん、名前と家の番号言いな。もう夕方過ぎて夜が近いだ。親御さんに連絡せにゃ、まずいだろう」

「あっ、はい。えっと、立花響です。えっと家の番号は――」

「そうかい、俺は天野日影っつーんだわ。まあ、んじゃ風呂に案内してやるからこっちこい。その間、俺は電話しといてやるよ」

 

 案内された脱衣所で、ぶかぶかの服を脱ぐ。大きな服は重いから脱ぎにくいかと思ったけど、むしろ結びをほどいてしまえば、あとはすんなりといけた。この脱衣所に来るまでに、この家が大きいのだということを認識した。少なくとも、ここまでに四部屋以上の襖を見かけたし。

 

「あ、お風呂も大きい」

 

 さすがに旅館なんてサイズではないが、四人家族で暮らすなら十分な広さと大きなお風呂があった。その割には、丁寧な掃除が行き届いている。ここまでくるとおもてなしの域だろう。だけど、この家には天野さん以外の人間の気配はないように思えた。

 

「あったかい」

 

 体を洗い流して、改めてお湯につかる。じんわりと広がるぬくもりは、心を癒してくれる効果でもあるのか、心地よさがこの上なかった。暖かさに包まれていると、この時間が少し夢見心地に思えてきてしまった。それこそ、私はあのときすでに死んで、ここは天国……なんて冗談を真に受けてしまいそうだ。

 一応、体を見回してみる。洗っていたときにも思ったが、特に打ち付けた場所も痛みを発してはいない。同時に、乱暴をされた様子もなかった。信用とは別に確かめておいたが、間違いなく救護以上のことはされていないようだ。

 

「あ、星。そうか、もう結構な時間なんだ」

 

 天野さんがうちに連絡をつけてくれているらしいけど、きっと心配をかけているはずだ。下手したら、電話越しで話がこじれているかもしれない。そう思いつつ、天野さんにそのまま丸投げしてしまったのは、自分でも不思議だった。なんとかなる、というか、決して悪い人ではないのだから勘違いを放っておくようなことはしない。なんとなく、そう思ってしまった。

 

 焚火に揺られて、なんとなく、信頼してしまった。

 

「お母さんは、どうするかな?」

 

 もしくはなんというのだろうか? 電話越しで人柄なんてわかるわけないし、まして私も周囲の状況からして誘拐にあったなんて勘違いが始まりそうだ。そう思うと、本当に申し訳ないことをしたと思う。だけど、一番謝らなきゃいけないのは――――。

 

「死ねなかったって……思っちゃった」

 

 あるいは、また生き延びてしまったと。無責任な話だ。勝手が過ぎると自分でも思う。だけど、多分そこまで思いつめられなきゃ人は自分で命を捨てるような真似はしないんだろう、と勝手に理解したような自分がいる。

 

 つまり、

 

「ああそうか、私、いっぱいいっぱいだったんだ」

 

 残された家族が苦しむことも、自分が生きることも、頑張ることも、何もかも投げ捨ててしまいそうになるくらい、苦しんでいたんだ。我ながら鈍感だとは思うけど、きっとそういうことなのだろう。

 

「じゃあ、お礼を言わなきゃだね」

 

 まだ言えてなかった。助けてくれてありがとうなんて、簡単に口にできる言葉じゃなかったから。その言葉は、私にとってすごく重い言葉だったから。

 

「ん、あがろう」

 

 用意されていた着替えは、案の定ぶかぶかの男物だった。加えて、さすがに下着までは用意されていなかった。されたらされたで、気まずいけど。

 

 

 

 

 ――――――…………

 

 

 

 

「だぁかぁらぁ、今はあんたんとこの娘さん、風呂入ってるから出られねぇっつってんだろ! もうちっと待ってろ! 誘拐じゃねぇってっば! だから……ああもう! めんどくせぇなぁっ!」

「やっぱり……」

「あ、出てきた! ほら、お前からも話してくれ! このままじゃ、勘違いされて終わる!」

 

 案の定、天野さんは電話越しでまだお母さんに説明をしているようだった。見たところ、話が一向に進んでいないようで、私がお風呂から上がったのをこれ幸いと、助けを求めていた。なんとなく不器用そうな背中が、少しだけおかしかった。

 

「あ、お母さん」

『響、大丈夫なの!? 変なことされてない!?』

「うん、大丈夫だよ。本当に助けてもらっただけ。心配かけてごめんね。すぐ帰るから」

「いやおい、すぐ帰るっつってもここ山ン中だぞ? しかもこの雨で夜だし。せめて一晩泊まってけ。そもそも服も乾いてねぇだろうが」

「って言われたけど……」

『響は……どうしたい? 正直、知らない男の人の家なんて泊めたくはないのだけど……』

「泊ってくよ。心配しないで、天野さん、いい人だろうし」

 

 心配そうなお母さんの声が電話越しに聞こえてくる。だけど、不思議とその答えに違和感や抵抗はなかった。その後、いくつかお母さんに説明をして再び謝罪。そんなこんなで、私は天野さんの家で一泊することになった。知らない家、知らない布団と天井。なのに、少しだけ気が楽だった。

 

 そんな私の様子を訝しんだんだろう、天野さんはこう尋ねてきた。

 

「お前、どういう家庭環境なんだ? お前の母親の心配の仕方、半ば発狂寸前だったぞ?」

 

 お母さん、ひどい言われようだった。だけど、何も知らない様子の天野さんがそういうんだから、本当にそれほど取り乱して心配してくれていたんだろう。

 

「うん、この前、お父さんが出て行っちゃったんだ。だから、その分余計に……ね」

「それだけじゃないように思えるけどな。そもそも普通、あんな場所にお前みたいな子供がぶっ倒れてる時点で、驚いたわ」

「えっと……わ、私、は……」

 

 話すべきなのだろうか? だけど、話して嫌われるのも、追い出されるのも嫌だ。こんな優しい人が、私の周りにいた人たちみたいに豹変するのが、耐えられない。

 

「ああいいよ、無理に話そうとしなくて。なんにせよ、お前はここで一泊してくんだろ? 腹は?」

「あ、お腹減って――」

 

 ぐぎゅるぅ、我ながら気合の入った空腹音が響き渡り、さすがに赤面した。だけど、天野さんは感心したように笑った。

 

「クハハハッ、結構結構。ほれ、寒い日には鍋がうまいぞぉ」

「わぁ、すごい! おいしそう!」

 

 囲炉裏にかけた鍋の中には、具沢山の野菜とお肉が入っていた。見たことのない山菜も入っていて、正直お腹を空かせていた私には、ごちそうのようにしか思えなかった。

 

「こ、これ、食べていいんですかっ!」

「もちろん! 食え食え! 使ってあるのは、イノシシの肉だが、お前さん初めてか?」

「イノシシ……天野さんは猟師さんなんですか?」

「いいや、お前さんが倒れていた山の反対の方に集落がある。そこのおっさんの畑手伝ったときにもらったもんだ。処理がちゃんとしてあるから、さほどクセはないぞ」

「へぇー、ご飯も炊きたてでおいしそう! いただきます!」

 

 天野さんがお鍋からよそってくれた具材に、無遠慮にかみついて、飲み込む。

 

「うっまぁ~~いっ! すごい、お母さんのご飯も好きだけど、これもおいしい!」

「ははっ、そいつはよかったぜ! ほれほれ、もっと食えや!」

 

 言われるがまま、というより言われる前に食らいつく。野菜もスープも、ご飯も、イノシシのお肉だって全部おいしかった。本当に本当に、全部がおいしくてたまらなかった。無理に明るくふるまう必要のない食卓、暖かい火を目の前にして食べるご飯は本当、泣きそうなくらいおいしくて――――。

 

「アホ、泣きながら食うな」

「え?」

「何があったのか知らんが、飯は泣いて食うな」

 

 気が付けば、私は泣いていたようだ。それを見て天野さんは、どこか呆れたようにそう繰り返しいった。

 

「飯っつーのはなぁ、泣いて食うもんじゃないだろう。いや、そりゃうますぎて泣くなんて作った側からすりゃうれしいよ? だけど、俺らは同じ釜の飯を食ってんだぜ? 白米に薄い塩味つけてどうするよ? いいか!? 飯はな! 笑って食え! それが一番、うまくてたまらん食い方だ!」

 

 ぶっきらぼうな顔をやめて、子供のようにはじけた笑顔を見せてくれた。ああ、ダメだ。そんなことを言われると涙が止まらなくなる。おいしくておいしくて、たまらなくなる。自分が食べたものが血と肉になるのが、たまらなくうれしい。

 

 生きているのが、ここでご飯を食べるのが、たまらなくうれしくて仕方がない。

 

「おいおい、笑いながら食えっつったのに、泣きながら笑いながら食うって忙しいなぁ、お前さん」

「響です」

「あん?」

「立花響って、言いましたよね? だから、響って呼んでください。そしたら、笑いながら食べます」

「ははっ、生意気にも条件付きかよ! いいぜ響、もともと俺は大食らいだから飯はたんとある! 好きなだけ食ってきな!」

「はい!」

 

 そういった私は、また少し泣きながら大いに笑った。



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命にて涙す。

 ごはんを腹いっぱい食べた。食事をたらふく楽しんだのは、久しぶりのような気がする。お鍋の最後は、卵雑炊にして食べるのも、おいしかった。うん、お腹が満たされると眠くなるという幸せを噛みしめる、この感じに頬を緩めるのはまったくもって贅沢だ。

 

 贅沢すぎて、ふと我に返った瞬間、自分が意外と大胆なことをしている自覚が出てきた。

 いやだって、お母さんにも言われたが、知らない男の人の家にこれから一人で寝泊まりをするのだ。あれ、弱ってるからって私、それでいいのか? なんて今更ながらに思ってしまう。まあ、もっともそれこそ今更で。ここから自宅に帰るなんて選択肢はないのだが。

 

 だが、だからといって。

 

「ちょっ、天野さん! なんで上半身裸なんですか!?」

「っと、わりぃ。つい一人暮らしの感覚でだな。いやぁ、夏場本番じゃなくてよかったな。夏なら全裸の可能性もなきにしもあらずだ」

「とりあえず、服着てください!」

 

 まさか年上の男性、それも立派な大人の上半身を生で拝むことになるとは思わなかった。意外と引き締まっていた。中肉中背だとは思っていなかったが、それにしても引き締まっていた。顔が赤くなるのはこの際仕方ない。だというのに、この背徳感はなんだろうか?

 

「お前、何いっちょ前に顔赤くしてんだよ?」

「しますよ! 思春期女子の過敏さ舐めないでください!」

 

 背徳感と同時に湧き上がるこの苛立ち。いくらなんでもぶっきらぼうすぎるでしょ。いやまあ、確かにこのいい加減さに今日は救われた感はある。しかしそれとは話は別で、ある程度気づかいができないと大人としてどうかとは思う。

 

「ってあれ? 天野さん、髭剃ったんですか?」

「ん? ああ、一応な。過敏な思春期女子には鬱陶しいだろうと思ってよ」

「なんでそういう気づかいになるんですか! 思春期女子に髭かんけーないですし!」

 

 いや確かに髭があるかないかは、ない方がいい。正直、印象として見た目が整理されて変わるものはある。だけど、だからといって、もっと別の場所に気づかいを持つべきだ。

 

「ほれ、お前の布団だ。ここに敷くぞ。今日は多少冷える。他の部屋を貸してやってもいいが……どうするよ?」

「あーもう、どうしてそういう気づかいならできるかなぁ。大丈夫ですよ、今日はここで寝ます」

「そうか、俺は囲炉裏を挟んで反対側で寝るから、なんか用があったら声かけろ」

「……そういえば、天野さんはどうしてこの家に一人で暮らしてるんですか?」

 

 ずっと思っていたことだった。この家は、一人暮らしで住むには、いささか広すぎる感じがある。それに、ここは山の中だ。詳しく確認したわけではないが、すぐ近く歩いて行ける距離には人の住んでいる場所はなかった。こんなところで暮らしていたら、車は必須だろう。

 なら、ここに住むための理由はあるのだろうか?

 

「んー、ここは昔いた恋人の実家なんだよ。ご親戚の方に許可をもらって、今は俺が管理している」

「え? 昔いたってことは、今はどちらに……?」

「死んだ。ノイズによって殺されたんだ。恋人の両親もろともな」

「――――そう、ですか」

 

 ああ、そうか。この人もなんだ。この人もこの世界の被害者なんだ。被っていた布団を強く握りしめる。脳裏に炭化していく人々の悲鳴がよみがえる。体が震えるのを誤魔化すように、視線を天井へと向けた。

 

「いつですか……」

「ツヴァイウィングのライブ、知ってるか?」

「――――はい」

 

 それ以上の問答は必要なかった。それ以上の言葉を聞きたくはなかった。だけど、私は聞かなければならない。あの地獄を生き延びたのだから。そんな責任も義務も存在しないことは知っている。知ってて、今温もりを手放そうとしている。怖いけど、死んでしまいそうになるくらい、怖いけど。

 

 私は尋ねる。

 

「あの、天野さんは私のこと……?」

「気づいたのは、名前を聞いたときだよ」

 

 知っていた。気づいていた。わかっていてあの態度だった。私には、その理由も意味もわかりはしない。誰からも石を投げつけられた私には、私を助けるための意図がわからなかった。

 

「俺の彼女は、親孝行な奴だった。偶然当たったペアチケットと友人から譲られた分のツヴァイウィングのライブに、両親を誘ったのからわかるように、その日は彼女の両親の結婚記念日だったんだ。そりゃ、最初はおいおい俺もつれてけよ、なんていいながら見送ったもんだ。見送ったときに見た彼女の申し訳なそうな顔は今でも覚えているよ。でも、そんときはそれが最後の顔になるなんて思ってもなかった」

 

 何気ない言葉、その人の人生を語る言葉が私に重くのしかかってくる。生き延びた私に、生きられなかった人の分の命が襲い掛かってきた。この背筋が寒くなるような感覚は、まだなれない。自分が正しいのか、自分が生きていていいのか、そう問いかけてくるようだった。

 

「彼女が死んだって聞いたとき、正直信じられなかった。信じたくなかった。今朝見送ったばかりの人間が、炭に変わったなんて聞きたくもなかった。だけど、しばらくはふさぎ込む暇なくいろいろと手続きやしなきゃいけないことがあって、実感がなかったよ。自分の好きな人の死のために、自分ができることをやる。その意味がわからないくらい、心は荒んでた」

 

 大丈夫、まだへいきへっちゃらだ。散々に浴びせられた誹謗中傷に比べれば、周囲からの非難に比べれば、まだ受けとめられる。私は、まだ大丈夫。

 

「だから、あの悲劇の中、生き残った女の子の話を聞いたとき、やるせなさが勝ったのは事実だ。どうしてっていう疑問と、どうしてっていう怒りが込み上げてきた。それを言葉にする気にはなれなかったけど、それでも思う分にはいろいろとあったんだ」

「そう、ですか」

 

 でも、じゃあ、それならどうして私を助けるような真似をしたんだろう。名前を聞いたあとからでも、私を放り出すことくらいできただろう。あるいは、強引に車でふもとまでおろして、家に突き返すくらいはできたはずだ。

 

「でもさ。その女の子、泣いてたんだぜ?」

「え?」

「雨の中、信じられないくらい冷え切った体のまま、許しを請うように謝り続けていたんだ。恨みだとか、怒りだとかそういう感情なんてなくなったよ。むしろ謝らなきゃと思った。子供を守るべき大人として、本当にごめんって、頭を下げなきゃと思った」

 

 布団が捲られる音が聞こえた。気が付いたら、囲炉裏の反対側で、天野さんが正座をして――そして次の瞬間、私に向かって頭を下げた。

 

「響、ごめん」

「どうして――?」

 

 同情だろうか、慰めだろうか? そんな感情は、いらなかった。そんな感情が欲しくて、私はここにいるんじゃない。そんなもののために私は、笑ったんじゃない。

 

 だから、

 

「生きてくれて、ありがとう」

 

 その言葉にどうしようもなく、涙した。

 

「辛かったよな。苦しかったよな。でも、頑張ってくれてたんだな。あのライブ会場で、なにがあったのか俺にはわからない。でも、響は響で何かと戦っていたんだな。世間から向けられる怖い言葉や恐ろしい目から、お前は立ち向かい、耐えていたんだな。ごめん、でもありがとう。お前が生きているだけで、生きようとしてくれていたおかげで――――」

 

 ああ、ああ――――しゃくりあげて涙を流す。雨に濡れて誤魔化すことのできない熱が、頬を伝う。

 

「俺は救われたよ。俺は、間違えずにすんだ。お前を助けることができる。だから、響。俺は何度でもいうよ。生きていてくれて――ありがとう」

 

 この日、私は生きていることを感謝された。こんな私なんかで、救われたといってくれた人がいた。その人はどうしようもなく、ぶっきらぼうで豪快な無神経な人ではあるけど、私に確かなぬくもりと休んでいられる場所をくれた――――陰日向でした。



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子どもにて生意気。

 泣きつかれて眠る。そんな経験をしたというのに、不思議と心は晴れやかに舞い上がっていた。普段はベッドを使って眠っている私だが、木の香りをかぎながら眠る布団は、どこか守られているようで暖かかった。いつもより遅く、朝日が完全に昇って目を覚ました私は、美味しそうなごちそうの香りに誘われた。

 

「天野さん! 朝ご飯はなんですか!?」

 

 飛び上がるようなテンションで、私は囲炉裏へと駆け寄った。どこか苦笑も交えて嬉しそうにする天野さんは、私にご飯茶碗をよこす。ご飯がいっぱいに盛られた茶碗には、キノコと鶏肉の炊き込みご飯。そしてテレビでしか見たことのない川魚(イワナというらしい)を串に通した塩焼き。白菜の味噌汁。

 

「うまぁいっ!」

 

 昨晩、何度も繰り返した言葉。もはやその言葉と笑顔しか浮かんでこない食卓など、幸せと呼ぶ以外に何があるだろうか。というか、本当においしい。

 

「天野さんは、いつもこんなにおいしいご飯を食べてるんですか? 正直、羨ましいんですけど」

「アホ、普段からこんなに作るかよ。朝食は、魚の缶詰だったり納豆とかの方が多いよ。米一つ炊くのにも時間かかるからなぁ。まあ、台所は別にあるし」

「へぇ、そういえばここ、電気も水道もあるんですね」

「電気はソーラー発電があるし、水道は湧き水を電気でくみ上げてる。正直、一人暮らしで俺もずっと家にいるわけじゃないから、特に山だからって苦労はないな」

 

 確かに、昨日のお風呂も電気で沸かすタイプのものだった。普段の生活に贅沢な山の幸が合わさっているようで、やっぱり少し羨ましい。まあ、といっても私が知らない苦労なんかはいっぱいあるんだろう。ああ、それにしてもご飯がおいしい。

 

「ていうか、天野さん、お仕事は?」

「ああ、そういや言ってなかったか。ガテン系って言ってわかるか? 土木業だったりの技術職のことなんだが。もとはそういう仕事をしてたんだ。今はその器用さと力自慢を生かして、周りの畑仕事手伝ったり、建築手伝ったりと……そんな感じだ。設計士もしてる」

「思ったよりちゃんと働いてるんだ……」

「むしろ、響がどう思っていたのか、よぉくわかったよ」

「アハハッ、おかわりお願いします!」

 

 お腹は膨れた。満足のいく食事は心を満たし、胃を満たした。つまり、私がこの家から帰るときが来たことを示す。長居する理由はないだろう。ただし、それは理屈の上での話だ。感情の上では、まだどこかこの場所が恋しい気がする。

 

「響、家に送る前に電話しろや。さすがに何もなしだと向こうさんも不安だろうさ」

「うん」

 

 そうして、お母さんにこれから家に帰ることを伝えた。天野さんの車に乗り込む。山道は狭い場所もあるということで、軽トラックとは別に軽自動車も保有しているとのこと。天野さんが運転席、私は助手席に乗り込んで、山を下っていく。

 

 今日は、昨日と一転して、信じられないくらいの快晴だった。晴れ渡った空のおかげで、昨日は目にすることのなかった山道がよく見える。

 

「どこまでいっても林しかないねー」

「しゃーないだろう。ここは別に花が咲き誇るような丘なんざねぇんだし。下手に林に出てみろ。イノシシだか、鹿だかに襲われるかもしれねぇぞ」

「鹿も人を襲うの?」

「季節による。気性が激しいのは、子供を守るためだろうな。まあ、そうないと思うが」

「ふーん、日影さんは鹿肉も食べたことあるの?」

「ああ、あるぞ……ていうか、響。お前急に砕けたな。いきなり下の名前で呼んでんじゃねぇよ」

「ダメ?」

 

 我ながらあざとく上目遣い。とはいってもあながち計算ではなく、自然にできてしまった。それだけ私は日影さんに急に甘えたくなったんだろう。それがどうしてなのか、自分でもよくわからなかった。

 

「いや別に呼ぶ分には構わねぇけどよぉ……いきなりなんだ? 小遣いでもせびる気か?」

「失礼な! 私はそんなに厚かましい人間じゃないよ!」

「知らんがな。俺、お前と会ってまだ一日分も過ごしてないんだぞ?」

 

 そうだった。昨日の夜に散々泣きついたところを見られて、それで急速に距離感が縮まったように錯覚していたけど、私、まだ日影さんとは会ったばかりだった。一晩過ごしたとはいえ、客観的に見たらまだ知らないおじさん状態に近いかもしれない。

 

「とにかく! 私は日影さんのこと、日影さんって呼ぶから!」

 

 半ば意固地になってそう言った。改めて思うと、男の人の名前呼びなんて初めてに等しくて、ちょっと恥ずかしかった。と、そういえばと思い出したことがある。

 

「ねぇ、日影さんって何歳なの? 三十代前半?」

「ああ? 俺はまだ二十八だ。三十代なんて言うんじゃねぇ!」

「えー、似たようなもんじゃない」

「お前、それ歳食ったときに自分で後悔するセリフだからな? 覚えとけよ?」

「そういうもんなのかなぁ? まあでも、年齢気にしてたって仕方ないよ」

「いーや、お前みたいなのは年老いて体の不調に文句言うタイプと見たね! 歳重ねるとな、肩こりだ関節だのなんのって、年齢を感じることが増えるんだよ」

「日影さん、じじくさーい」

「……響、この山道走るか、てめぇ?」

 

 きゃー、怒ったぁなんて、そんなバカみたいなやり取りをしながら車は進む。さながら、近い世代の少年と話すように、私は日影さんとの会話を楽しんだ。というより、ここでの会話でわかったのは、思ったよりも日影さんが子供っぽいということだ。というか、大人げない。年齢いじりのあとも色々と言いあったりしたが、子供の冗談に本気になりそうになるところがある。

 それだけ向き合って話しているんだろうなぁという思いと、実はこの人、ただの馬鹿なんじゃないかという思いが重なって、結局子供っぽいという理解に落ち着いた。

 

「日影さんは優しいね」

「唐突に変な話しないでくれる? 鳥肌立つわ」

「ごめん、今のなしで。日影さんは意地悪だ」

「それでいいわい。こんなんやさしさでもなんでもねぇ、誰かがやっていたはずの当たり前だ」

 

 日影さんは、そういった。当たり前のことだと。だから、私はその言葉にこう返す。

 

「当たり前のことができるのが、究極の優しさなんだよ」

「わかったような口きいてんじゃねぇよ、中坊。そのセリフが似合う女になりたきゃ、いっぱしの男捕まえて、恋して大人になってから言ってみろ」

「はいはい、私は子供だよー。恋なんて未経験ですー」

 

 まあでも、日影さんの言うことは正しいんだろう。こういうセリフは、子供が言うべきじゃなくて、格好いい大人かなんか言った方が似合うのだ。ただ、一つ間違っているのは、似合う似合わないじゃなくても、それはわかっているべき言葉だということ。

 

「じゃあ私、さっきのセリフが似合うようないい女になってやる」

「おう、いいんじゃねぇか? それで世の男どもを見返してやりなって」

「その相手には、日影さんも入ってるの?」

「いや、俺を見返してどうすんだよ……」

 

 あほらしいといった表情の日影さんだが、むしろその顔が腹立つ。なんだその顔は? まるで私に女として魅了されないとでも言っているみたいじゃないか。あ、なんかそう考えたらムカついてきた。決めた。将来、日影さんを見返すようないい女になってやる。私は一人、そう決心していた。

 

「ほれ、街が見えてきた。こっから先は待ち合わせ場所まですぐだし、とっとと済ませるぞー」

「制限速度は守って安全運転でね」

「お前、本当いきなり生意気になったな、おい」

 

 知るか。なんか、話していたら遠慮するのも馬鹿らしくなったんだ。そうして車に揺られてすぐにお母さんの姿が見えてきた。助手から見てもどこか不安そうな様子は見て取れた。

 

「おーい、お母さん!」

「ああ、響! 大丈夫!? けがはない? 痛いところは? 体は大丈夫なのね?」

 

 矢継ぎ早に言われた一言に苦笑し、頷く。心配をかけた私が言うのもなんだけど、やっぱり申し訳ないというかなんというか。ああ、やっぱり日影さん信用されてなかったんだなぁという思いでいっぱいだ。その後のお母さんの質問にも答え、ようやく落ち着いたころに、日影さんが話しかけてきた。

 

「おう、落ち着いたかい?」

「あ、日影さん。一応言っとくけど、お母さんを口説かないでね」

「オーケー、お前の豹変ぶりにおじさんはもう驚かないよー」

 

 日影さんはそういうけど、驚いて目を点にしていたのは、お母さんの方だった。私が男の人とここまで砕けて、遠慮なしに話すところを初めてみたせいだろう。でも大丈夫だよ、お母さん。お母さんも日影さんと少ししゃべったら、へりくだるのも馬鹿らしくなるから。

 

「あの、この度はうちの響がご迷惑を……」

「ああいやいいって、こっちが勝手に拾って助けただけですから。それに、助けられたのは俺も一緒です」

「はぁ……といいますと?」

「お母さん、日影さんはライブ会場で恋人とその両親を亡くしたんだって」

「――――ッ!? それは、その……」

 

 私から飛び出た言葉によって、お母さんは狼狽する。それもそのはずだ。その関係の話で、よかったことなんてなかったんだから。でも、大丈夫。

 

「はい、俺はあの事故で恋人を亡くしました。正直に言うと、娘さんを恨み妬む気持ちはありました。でも、そんな俺に響はチャンスをくれたんです。事故のあとからずっと苦しんでいた響の助けになるというチャンスを。若輩の身ではありますが、娘さんが困っているようなことがあったら、連絡してください。なんとか、助けになるように努めさせていただきます」

「だってさ、お母さん」

 

 信じられないという表情と、困惑が重なったお母さんの顔は、見ていて不安になる。だけど、事情がよくわからなくとも日影さんのことを少し理解したのか、お母さんは泣きだしてしまった。そこからは、日影さんと二人でお母さんの涙を止めるために必死になるという笑い話。特に日影さんが何か言うたびに、お母さんは泣きだすから本当に大変だった。今更ご近所の目も何もないけど、だからといって自分の母親の涙を止めるために男の人が必死になるというのは、変な絵だったと思う。

 

「ねぇ、日影さん」

「なんだ? こっちはお前のお母さん慰めるのに、疲れたんだが?」

「また、遊びに行ってもいい?」

「いや別に構いやせんが、あの山、車で二十分以上かかるんだぞ?」

「うん、だからすでに電話番号は控えておいたのさ! いざとなったら、迎えに来てもらうよ!」

「お手が早いことで。わぁったよ。いつでも遊びに来な。飯ぐらいなら、たんと振舞ってやらぁ」

「うん! またね!」

 

 こうして、正式に私の新しい居場所ができた。お母さんの許可ももらって、これから私は何度も日影さんの家に遊びに行くことになる。最終的に、実は教員免許ももっていた日影さんが、私の進学した私立リディアン音楽院に教師として赴任したりするけど、それはまたあとのお話。



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秋口にて風吹く。

「おーい、響ー。柿もらったぞー食うかー?」

「食べるー。でも、とりあえずこっちの作業終わらせるねー」

 

 あくる日、というには、まだ俺と響との出会いからそう時間は経っていない秋の話。響を送り届けた日以降、言葉通りあいつは、俺の家に遊びに来ることがあった。というか、俺の仕事の都合で送り迎えができないとき以外は、高確率で俺を呼びつけていた。

 

 響曰く、俺の家は癒しなのだと。別に俺の家からマイナスイオンが流出しているとかそうことではなく、単に俗世から隔離されたように存在する俺の家は、響の心身にいい影響を及ぼしているとかなんとか。まあ、本人が言っていたのだから間違いではないだろう。

 

 実際、響の周囲の環境を思えば、一度家を離れるという選択肢もあった。というか、響の母親にもそういう提案をされたことはある。だが、そこは俺はともかく、響が譲らなかった。曰く、高校に進学するまでは家で暮らすとのことだ。どちらにせよ、響が進学したい高校は、寮制を採用している場所を希望するようで、いずれ離れるなら今は一緒にいるといっていた。

 

「ねぇ、それ手伝おっか?」

 

 そんなセリフを聞いたのはいつだったか? 確か、俺が自分の畑で、成長しきっていたオクラを採取していたときだったような気がする。夏がシーズンのオクラ、その最後の収穫をしようとしていたとき、響が手伝いを申し出たのだ。

 まあ、俺としても手伝いを申し出てくれたのはありがたかった。恋人の実家の畑を腐らせるわけにいくまいと始めた畑だったが、いかんせん一人で道楽的に作業をするには、いささか大きい。響が手伝ってくれるならこれ幸いと始めたのがきっかけだ。

 

 まあ正直、力仕事だし泥臭いし汗臭い。音を上げる可能性の方が大きいのでは? なんて思っていたものだが、意外とこれがハマってしまったらしい。というのも、現在の響には趣味にさくだけの精神的な余裕がなかったようで、何かに没頭して作業するのが楽しいとのことだ。今では俺の家の畑だけにとどまらず、俺が手伝いを買って出たじーさんばーさんの畑を手伝ったりしている。

 もちろん、そのときだって素直にはいかないものがあった。いくら山の上の集落に住んでいるじーさんばーさんだからって、自分が敬遠されているんじゃないかという不安が、響にはあったからだ。だが、そこはうまい具合に機能したというべきだろう。響は孫のように可愛がってもらい、優しくしてもらっていた。多分、これが俺と響の出会いにおいて一番プラスに働いたことだと俺は思っている。

 

 世界中の誰からも嫌われ、疎まれていると刷り込まれていた響の心に、自分を受け入れてくれる場所もあるのだと知らせることができた。そういった意味では世俗に疎いじーさんばーさんの環境は、ある意味打って付けだったのだ。

 

 で、現在も響に俺の畑で秋の味覚。さつまいも収穫を手伝ってもらっているというわけだ。

 

「おおー、これは大きいよ!」

「ん、我ながら見事なもんだ」

「いやでも、全体的にサイズはばらけてるよ?」

「うるせー。しゃーないだろ、農家ってわけでもないし。自分たちで食うには十分だろうよ」

「うん! ところで、このさつまいもは何の料理に使うの?」

 

 そういえば、秋といえばさつまいも! みたいな感じで作ってたから、具体的に何を作るかまでは決めてなかったな。まあ、真っ先に思い浮かぶのは焼き芋だけど、この量全部を焼き芋で食うのは正気の沙汰じゃねぇし。

 

「響、お前焼き芋以外で何か食べたいのあるか?」

「紅イモタルトッ!」

「……いきなりスイーツかよ。いや別にいいけど、それどう作るんだよ? 言っとくが、俺は菓子を作った経験はあまりないぞ?」

「あまりってことは少しはあるの?」

「スポンジケーキ焼いたり、クッキー焼いたりした程度だよ。器用な男はな、意外と料理するんだよ」

「その割には、普段の料理は男の山料理って感じだよね?」

「そうだなぁ、いい加減海の幸も食いたい気分だ。秋の旬っていやぁ――――」

「さんま! 私、さんまの塩焼きとかいいと思うよ、日影さん!」

「ああ、そいつはいいな」

 

 いつものことだが、働いているときに飯の話をすると異様に腹が減る。特に響の場合、本当にうまそうに話すし、本当に食べたそうな表情をするので聞いてるこっちの腹は鳴りっぱなしだ。まあ、響の場合食べる時もうまそうに食うから、作る身としては大変喜ばしいんだがな。

 

「ていうか、お前も料理学んだらどうだ? いい女ってのは、料理もそれなりにできないとモテないぞ?」

「えー、料理ぃ? なんだかなー、料理ってグラムだったり、塩加減だったりに気を使う印象で大変そうなんだけど?」

「お前、俺が味見以外で料理の味の匙加減確認しているとこ見たか?」

「あー、そういえばないかも。てことは、やっぱりセンスかー」

 

 うーん、と頭を悩ませている様子の響。まあ、正確にはセンスというよりも食べてもらう相手のことを考えることの方が、結構大事な気がする。だが、それを言うと今日一日はからかわれそうなので、そこは放っておくことにした。響の場合、そういうことは得意なイメージがあるんだが、どうしても食べているところの方が、印象深く残る。

 成長期というやつなのだろうなー、あれだけ食っても太る様子は見せない。畑仕事を手伝ってもらっているが、そのおかげでいい具合に筋肉がついていきそうだし。なんというか、将来こいつ美人になるんだろうなーという予感がバリバリである。

 

「ん? 何見てるの?」

「いや、なんやかんやお前っていい嫁さんになるんだろうなーって」

「もー、いきなり何言ってるの! 何? ようやく私の魅力に気が付いたみたいな? このこのー!」

「アホ、ちょーしにのるなっての」

 

 別に響の魅力に気が付いたとかそういう話ではない。ただ、俺が思っていたよりも立花響という少女は、優しかったことに尽きるだろう。こいつの今の学校での生活を想像するのは、俺には難しい。いじめだのなんだの陰湿な思いをしているのか、はたまた一人孤独な生活を送っているのか。だが、ここにいる響はそういうことを感じさせない、笑顔の似合うやつだ。

 それがどれほどすごいことなのか、こいつ本人はあまり自覚していないのだろう。元気でいる。笑顔でいる。それができるだけですごい環境にいたのだ、響は。

 

「あー、お腹すいた! 今日のお弁当は何かなー?」

「つーか、素直にお前んとこのお母さんにでも料理習えよ。わざわざ弁当作ってきてくれてんだし。あの人自身の息抜き、ガス抜きにもなるわ」

「うん、そうだね。それはいいアイデアだよ! あっ、じゃあ初めての料理は日影さんに作ってあげる! 日影さんの好きな料理って何?」

「ふむ、俺の好きな料理かー。特に苦手なものもないし、あえて挙げるなら――ハンバーグか?」

「おおー、男の人っぽい好物だ! あっでも、私もハンバーグ好きだし、ちょうどいいかも!」

「お前の場合、男っぽいっつーよりも子供っぽいの方が似合いそうだな」

「なにをー! 訂正しなさい! 私は花も恥じらう中学生なんだよ!」

「いや、大人から見たら中坊はまだ子供だぞ」

 

 しかし、そうすると俺の味覚も子供っぽいのだろうか? まあ、響のいないところなら酒も飲みはするし、ツマミだって作って食う。だから、特別俺の舌が子供舌というわけではないのだろう。だとすると、俺が好物をハンバーグだって言った理由は――――。

 

「ああそれと、ハンバーグは生前、俺の恋人が唯一胸張ってた料理だ。ちったー気合入れてくれよ?」

 

 そういうことなのだろう。このことを俺から響に告げるのは、どうなのだろうか? お互いが悲劇の登場人物。違いは生き残った側と助けられた側。だが、俺は響との関係の上で恋人がいたことを忘れる気はないし、隠す気もない。それが伝わったのかどうかは知らんが、響は笑顔でこう言った。

 

「わかった! じゃあ、とびっきりおいしいハンバーグ作ってあげるね!」

「おう、楽しみにしておいてやるよ」

「とりあえず、今日はこのさつまいもを焼き芋にしよう!」

「あー、確かに寒いし、昼のデザートってことにするか。家にいくつか持ち帰るか?」

「おっ、いいねー! へっくしっ」

「体冷やすなよー。秋口は季節の変わり目で体調崩しやすくなってんだし」

「はーい」

 

 案の定、次の日に響は風邪を引いた。



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