死の方程式 (月島しいる)
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01話 友愛数

「たまにさ、周りが凄く馬鹿に思えない?」

 どこか気だるそうに彼女はそう言って、誰もいなくなったイラストサークルの溜り場を見つめた。

 随分と傲慢な言い草だ。

 けれど、彼女にはその発言を負うだけの素養があった。つまり、相応に頭の回転が速かった。

「……凡人の俺からすれば、そうは思えないけど」

 私は彼女の言葉に慎重に反発してみせた。

 正面から否定しても無駄だと分かっていたから、遠回しに宥めたつもりだった。

「そう?」

 彼女は興味なさそうに答えて、それから足元の絵に目を向けた。私の書いた絵だった。

「京はやっぱり、まともな絵描いてるね。これ、ウラムの螺旋をモチーフにしてるでしょ? うん。凄く綺麗だよね。その中に更にいくつかの数列を組み込んでオリジナリティを出してるのが凄く良いな」

 彼女はそう言って、特殊な素数パターンを基にした私の絵を褒める。

「基本は三原色? 重複箇所は色を加算してるんだね。ほら、緑はフィボナッチ数列だ。赤は……待って。今考えるから」

 彼女、日影玲(ひかげ れい)は先ほどまでの周囲を見下した様子とは一転して、楽しそうに笑う。私はその変化に些細な疲労感を覚えながら、彼女に絵の説明を始めた。

 私、長瀬京(ながせ きょう)はこの日影玲と付き合っている。もちろん友人としてではなく、恋人としての意味で。

 そうなるに至った経緯を、少しだけ振り返ろうと思う。

 

 

 

 

  死の方程式

 

 

 

 

 大学という教育機関、研究機関には様々な専門分野がある。文学や文学史を扱う文学部や、薬学などを扱う薬学部。電子工学や建築などの工学部。エトセトラ。数えればきりがない。

 私が入学したのは、都内にキャンパスを設けるある大学の理学部数学科だった。

 数学科。

 この存在を知らない人が世の中には多数いる。「数学科です」と言うと不思議そうに首を傾げて「卒業後、どういう仕事に就くの?」と聞かれることも多い。こうした反応の原因は大学全入時代となり、最早大学は就職の為の通過点に過ぎないという風潮が日本全体に根付いてしまっているからだろう。その是非はここでは置いておくが、私はただ純粋に数学が好きで、将来のことなど微塵も考えていなかった。正直に言うならば、就職のことなど頭になかった。社会に出る前の最後の猶予期間を、自分の好きなように使いたかった。それだけの理由で、私はこの数学科を選択した。

 数学科に入ったばかりの私たち一回生は教科書を買い揃える前に、気になる講義を見て回る時間が与えられていた。けれど一回生の選べる講義というのは少なく、極力単位を取ろうと時間割を組めば、必然的に似たり寄ったりのものとなる。意識的に特定の講義を捨てたりすれば自由度は跳ね上がるが、私はシラバスを睨みながら実に平均的であろう時間割を組み、講義に臨んだ。単純に、そうした方が知り合いが作りやすいと思ったからだ。

 初めての講義は、線形代数だった。

 講義室の席は既に半分近く埋まり、どこかよそよそしい雰囲気が漂っている。半分近くの席が埋まっていると言っても、偏りが見られた。後部の席が集中的に埋まり、前列が空いていたのだ。

 私は少し迷った後、最前列の誰もいない席に腰を下ろした。「大学生活は頭の良い友人がいるかどうかで難易度が変わる。前列に座っているやつらと仲良くなれ」と高校時代から連絡を取っている先輩からアドバイスを貰っていた為だった。

 講義の開始までは少し時間がある。まだ教科書も買っていない為、予習することもできない。自然とスマートフォンに手が伸び、ネットに繋いで面白くもないニュースを見て暇を潰すことになった。

 転機が訪れたのは、そんな時だった。

「ねえ、隣いい?」

 すぐ近くから放たれた声に、私は驚いて顔をあげた。声をかけられたことに驚いたのではなく、それが女の声だったからだ。数学科は圧倒的に男のほうが多い。

 見上げると、まず肩までかかる綺麗な黒い髪が目に入った。次いで、どこか強気な印象を受ける双眸。高い鼻に、ぷっくりと厚い唇。綺麗めに整えられた服装のせいか全体的に痩せ気味な印象を受ける。

 可愛いというよりも、綺麗な女の子だと思った。

「嫌かな?」

 僅かな沈黙を拒絶と解釈したのか、女が淡々と確認作業を行う。

「いや」

 私は女の声を反芻するように声を絞り出して、首を横に振った。

「空いてるよ。どうぞ」

「ありがと」

 彼女はそう言って、隣に座ると腕時計に目を向けてから一冊の本を鞄から取り出した。数学史についての本だった。

「数学史……好きなの?」

 思わず、口から言葉が飛び出た。

 彼女はこちらを振り返ると、そ、と朗らかに笑った。

「矛盾をなくす為にひたすら概念を拡張していく様子がとても綺麗だと思う」

「綺麗?」

「そう。意味を、壊していく。壊れることによって、世界が広がる。凄く、綺麗」

 彼女はそう言って、笑った。

 聞いたことのある言い回しだった。

「失楽園?」

 私が問いかけると、彼女は嬉しそうに笑った。

「そう。楽園性を取り戻す為に、信じられないほどの天才たちが散っていく。特に……」

 自然と、会話が弾んだ。

 他人と数学の話で盛り上がるなんてこれまでに経験したことがなく、数学科に入ってよかったと心から思った。多分、彼女も同じ気持ちだったんだと思う。だから、講義室に講師らしき初老の男が入ってきた時、この会話が終わることを寂しく感じた。

 一瞬で講義室が静かになる。私たちもそれに倣うように口を閉ざした。

 初老の男が一回生の講義について説明を始める。メモを取り出してペンに手を伸ばした時、隣からそっとメモが差し出された。ちらりと目を向けると「220」という数字が小さく書かれていた。

 220。一体何のことだろう。

 自然数……偶数……。

「あぁ……」

 答えに辿りつき、自然と小さい声が零れた。

 220は友愛数の代表例だ。それ自身を除いた約数の和が等しくなるような2つの自然数の組み合わせを友愛数という。

 そして、220の対になる数は284だ。

 私はそっと講師の方を確認してから、彼女が差し出したメモに284と素早く書き込んだ。満足そうに彼女が笑う。

 友愛を示す数字の片割れをわざわざ差し出した彼女の意図を考えて、何となくバツが悪くなった。「友達になろう」と直接言われたような気恥ずかしさがあった。それでも、悪い気はしなかった。むしろ、数学について話せる友人を得たことが嬉しかった。

 彼女はメモを鞄にしまってから、新しいノートを取り出してメモを真面目に取り始める。私もそれを真似するように、意識を講義に向けた。

 出欠の取り方、具体的な評価方法、ゼミの話、教科書について。

 数学とは何の関係もない説明で90分があっという間に過ぎていく。

 大方の説明が終わると、少し早いが今日はこれで終わりにする、と講義を締めた。途端、講義室が僅かに騒がしくなる。私は筆記道具を鞄にしまいながら、隣の彼女に目を向けた。

「次、何とってる?」

「生命科学」

「やっぱり一回生は殆ど一緒だね」

 私は相槌を打って、それから思い出したように言葉を続けた。

「名前、聞いてもいい?」

「日影玲(ひかげ れい)。君は?」

「長瀬京(ながせ きょう)。よろしく」

 私がそう言うと、彼女は朗らかに笑った。

「互いに数学に縁のある名前だね」

 

 私たちはそれから一緒に講義を回った。

 彼女は快活な性格をしていて、よく喋った。

 初対面の人に対して意識的に会話が途切れないようにしているのではなく、それが彼女の自然体のようだった。

「じゃあ、長瀬くんは本当にこの近くに住んでるんだ?」

「そう。実家から通うと片道二時間半かかるから」

 昼休み。

 学食で私たちは昼食をとりながら、少しずつ互いの理解を深めていた。

「へえ。今度遊びに行ってもいい?」

 定食を食べながら、彼女が無邪気に言う。私は一瞬答えに詰まった後、いいよ、と言った。

 どうせ社交辞令だ。それでも、不用意な言葉に思えた。

「自炊とかしてるの?」

「まだ一度も。調理器具も揃ってない状態なんだ」

 私が肩を竦めると、彼女はクスクスと笑った。

「だめじゃん。する気はあるの?」

「いつかはね」

「それ絶対やらないパターンだよね」

 そうかもしれない、と私は定食に箸をのばす。

「日影さんは、家近いの?」

「まあまあかな。電車で四〇分くらい」

 そこでふと、彼女が思い出したように言葉を続けた。

「あ、そうだ。長瀬くん、高校だとなんか部活やってたの?」

「……ずっと野球をやってた」

「やっぱり。全体的に筋肉ついてるもんね。じゃあ、ここでもサークル入ったりするんだ?」

 その質問に私は僅かに躊躇してから、いや、と答えを濁した。

「いや……右肘故障して……もう無理だから……」

 え、と彼女の表情が強張る。

 その反応を見て、もう少し言い回しを工夫すればよかった、と後悔した。

「え、あ……ごめん……」 

 彼女も後悔したように目を伏せる。

 一瞬で彼女の持つ快活さが失われ、嫌な沈黙が落ちた。

「……だから、野球とは関係ないイラストサークルに入るつもりだよ」

 沈黙を、気まずさを払拭する為、私は咄嗟に口を開いた。彼女が意外そうな顔をする。

「イラスト?」

「水彩画、好きなんだ。風景専門だけど。それ以外も色々やってみたくて」

「……へえ、意外。長瀬くんって結構マルチだね」

「全部中途半端だけどね」

 私はそう言いながら、沈黙を何とかできたことに安堵していた。そして、言葉を続ける。

「共感覚って知ってる?」

「きょうかんかく?」

「知覚が、普通の人と少しずれてるんだ。俺の場合は、数字を見ると色が重なって見える。例えば、1は赤。2は緑……みたいな感じで。12だと紫に見える」

「……数字に、色が?」

「そう。組み合わせによって、色が変わる。同じ数式でもいじったりすると、全体の色調が変わったり。何の役にも立たないけど、たまに凄く綺麗な数式とかパターンが見える。これを使って数学と絵を組み合わせたいなって前から思ってて。だからイラストサークルに入ろうと思ってる」

「すごい……それ、本当に凄いことなんじゃないの?」

「そんな大層なもんじゃないと思うよ。何の役にも立たないし。数字に対して共感覚持ってる人が数学で成功するわけでもない」

「ねえねえ。じゃあ、オイラーの等式は何色に見えるの?」

 小さな子どものように目を輝かせて食いつく彼女に私は思わず苦笑した。

「綺麗なライトグリーンだよ。少し光って見える」

「じゃ、三平方の定理は?」

「全体的に青緑っぽい。オーロラみたいな」

「今まで見た中で印象的だったものとかある?」

「マクスウェルの方程式かな。それぞれ全く違う色をしてるのに、全体として不思議なまとまりがある。言葉では上手く説明できないんだけど……」

「すごい……一種の超能力じゃない?」

 どこか羨むような目で見られ、私は居心地の悪さを誤魔化すように首を横に振った。

「そんなんじゃないよ。何の役にも立たない」

 そう言って、私は時計を見る。次の講義までもう少しだった。

「そろそろ昼休み終わるよ。次、語学だよね」

 私が指摘すると、彼女は慌てたように時計を確認して、それから半分以上残っているトレイの上の皿を見つめ、うー、と情けない声を出した。

 その姿が本当に情けない感じで、思わず笑ってしまった。

 

 次の語学の講義は、つまらないものだった。

 私も彼女も必修科目である為に義務的に受けているだけで、興味などなかった。

 彼女はつまらなそうにノートの端に数式を書いていた。とりとめのない色が踊っていた。

 講義が終わると、彼女は退屈そうに背伸びして、やっと終わった、と愚痴を零した。

「今日、これで終わりだよね?」

 私が確認の問いを発すると、彼女は欠伸しながら頷いた。

「あ、そうだ。連絡先教えてよ」

 廊下に出たところで彼女が言う。

 今更のようにまだ連絡先を交換していないことに気づき、私は慌てて携帯を取り出した。

「はい」

 彼女が、連絡先を見せる。

 ネイピア数らしき数列といくつかの文字列が混ざっていて、私は思わず苦笑しながら彼女の連絡先を登録した。

 その時、不意に後ろから声がかけられた。

「あれ? 長瀬じゃん」

 振り返ると、人ごみで溢れる廊下の中、すぐ近くに日向佐織(ひむかい さおり)がいた。私と同じ高校出身の彼女は、嬉しそうに笑った。

「数学科だっけ? 学部違うから会う機会ないと思ってたけど、世間って狭いもんだね」

「日向は語学部だっけ?」

「そう。ごめん。私、まだ講義あるからいくね。また連絡するよ」

 そう言って、日向は人ごみの中へ消えていく。それを見送っていると、すぐ近くから低い声が届いた。

「今の、知り合い?」

 振り返ると、すぐそばに日影玲の姿があった。

「ああ、高校が同じだったんだよ。特別仲がいいわけでもないんだけど」

「ふーん……」

「じゃ、帰ろうか」

 私がそう言うと、彼女は頷いて人の流れに沿うように歩き始めた。

「あ、そうだ」

 彼女が思い出したように言う。

「帰ったら、電話するね。私、メールとか好きじゃないから」

「え? あぁ……」

 思わず、私はたじろいだ。こちらを見つめる彼女の視線が、どこか粘着質なものだったから。

「絶対、電話するから」

 彼女は世間一般的に見て美人で、そんな彼女にこう言われれば普通は悪い気がしないだろう。

 しかしこの時は何故か、得体の知れない不安感が胸の奥から湧いた。

 そして、この直感が間違いではなかったことを、私は後に知ることになる。



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02話 ガロア理論

 約束通り彼女から電話が入ったのは、私がシャワーを浴びた直後だった。

「もしもし」

 濡れた髪を拭きながら、左手で携帯を手に取る。

「もしもしー。長瀬くん? 電話越しだと声渋いね」

 日影玲の快活で軽い声が届く。

「今何してるのー?」

「シャワー浴びてて出たばかりだよ」

「わ、セクシー」

 からかうように電話の向こうで笑う彼女に、私も釣られて笑った。

「私はね、今ガロア理論がんばってるところです」

「ガロア?」

 予想外の言葉に、思わず聞き返してしまった。

 ガロア理論。一人の天才が築いた定理の集合体だ。大学に入ったばかりの学生が理解できるようなものではない。

「そう。色々なテキスト読んで頑張ってるよ。必要になる前提知識が膨大でちょっと面倒」

 私は、言葉を失っていた。

 私は数学が好きだ。好きなだけだった。

 誰もが驚くような発見を繰り返してきた訳でもないし、一瞬で複雑な定理の証明が出来るわけでもない。

 同じ数学科でも、その才能には格差がある。数学が好きなだけで、新しい発見なんて何もできない人なんて山ほどいる。私はその集合に内包されている。

 でも、彼女は違うのだ。私はそのことに気づいて、愕然としていた。

「テクニックも複雑でね、でもこれだけのテクニックを総動員する必要があるんだって考えたら燃えるよね」

 言葉が出ない。

 電話越しに聞こえる彼女の声が、妙に遠く聞こえた。

「長瀬くん?」

「……ガロア、か。凄いな。俺はまだ全然理解できる気がしないよ」

「そうかな。時間さえかけたら大丈夫だよ」

 そうとは思えなかった。多分、私には理解できない。

「あ、そうだ。長瀬くん明日三コマ目からだよね? お昼ごはん、学食で一緒に食べていかない?」

「……ああ。いいよ」

 突然、話題が変わる。

「よし。じゃあ決定。またねー」

 電話が一方的に切れる。

 私は携帯を見つめた後、思わず溜息をついた。

 中途半端に乾きかけた髪が、冷たかった。

 

 翌日。

 日影玲は約束通り、学食で待っていた。

 私は彼女を見つけると、トレイを持って真っ直ぐ向かった。彼女も私に気づき、軽く手をあげる。

「おはよ」

「おはよう。早いね」

 彼女は、本を読んでいた。プログラミングについての本だった。

「プログラミング……もう、勉強してるんだ」

 私の問いに、彼女は顔をしかめた。

「やり方が綺麗じゃないし、好きじゃないんだけど、それでも総当りとかは機械にやらせるしかないしね」

「……日影さんは、本当に数学が好きなんだね」

 私の言葉に彼女は何か思うところがあったのか、一瞬だけ動きを止めた。

「うん……好きだよ。でも、周りは誰も理解してくれない。小さい頃は、違った。私が難しい問題を解くと、皆して褒めてさ。将来は数学者だなー、なんて言ったりして。テレビ局の取材陣がくると、誇らしそうに教育方針とか語ってさ。本当、都合のいい奴ら」

 諦めと憎悪の混ざった声だった。

 その落差に驚くより、彼女の言葉にあった「テレビ」という単語が気にかかった。

「……テレビ?」

「そう。天才数学少女なんて持てはやされた輝かしい時代が私にもあったのです」

 彼女は茶化すように肩を竦めて、それから本を閉じた。

「まあ、昔のこと。今は長瀬くんみたいな数学を共有できる人もできたし、満足だよ」

 彼女はそう言って、無邪気に笑った。

 不覚にも、綺麗だと思ってしまった。

 

 数学科と言っても、数学ばかりが続くわけではない。

 昼食後の講義は、昨日に引き続いて興味のない退屈なものだった。

「後ろの方に行かない?」

 彼女の提案で後部の席に座っていた私たちは、二日目にしてだらだらと講義を受けていた。

 彼女は相変わらず、無関係な本を読んでいる。

 プログラミング。確か、二年次からのはずだった。

 彼女は私よりどれほど前を歩いているのだろうか。

 そんなことを考えながら、あっという間に九〇分が過ぎた。

「有意義な時間だったね」

 彼女は本を鞄にしまいながら、皮肉っぽく笑った。

「次、解析だったよね。楽しみだな」

 教授、なんか凄いらしいよ。

 最後に彼女がそう付け加えた言葉の意味を、私はすぐに知ることとなる。

「諸君は、壮大な勘違いをしている」

 解析を担当している老教授の第一声がそれだった。

「君たちは、文科省によって洗脳され、誤った数学知識を身につけている。君たちは数学という学問を誤解している」

 そして、老教授は黒板に勢いよく書きなぐり始めた。

「連続、極限、収束、微分。随分と曖昧な概念だと疑問を持ったことはないかね。実数とは何だ? 極限は、どこにある? 君たちは、それを理解しているのかね?」

 また、と老教授は黒板に矢印を書く。

「これは線形代数の範囲だが、ベクトルについてどう学んだかね。ベクトルとは、大きさと量を持つ矢印である。そんな認識は、捨て去る必要がある。逆だ。本来のベクトルとは、ベクトル空間の元のことである。矢印や行列はこのベクトル空間の別の表現に過ぎず、それ自体がベクトルであるわけではない」

 そして、老教授の視線が講義室を走った。

「さて、毎年多くの学生が勘違いしたまま数学科に入る。数学は厳密な学問で、必ず答えが導かれるはっきりとした学問だと。そんな概念は、この一年で悉く破壊されるだろう。君たちがこれまで学んできた高校数学は曖昧に満ちたものだった」

 老教授は大きく息を吸い込み、それから言った。

「私の役割は、君たちの概念を破壊していくことにある。ここであらゆる概念が破壊され尽くして、君たちの中で新たな概念が形成されるだろう。二年次以降では、その作り直した概念すら破壊される。この数学科では、きみたちが考えているような数学は行われない。面倒な計算作業などは、求めない。私が諸君に求めるのは作業ではなく、創造である。そして、君たちは本当の厳密性に近づいていくことになる。私はその為のツールを君たちに伝えることになる」

 そして老教授は宣言する。

「さあ、破壊を始めよう」

 

 

 

 老教授は、終始私たちの無知を指摘する形で講義を終えた。

 無知の知、というやつだろうか。

 数学像の再構成には、それが不可欠のようだった。

 講義が終わった後、講義室には独特の空気が漂っていた。

 不安。懐疑。不信。それらが綯い交ぜになっている中、彼女は普段と変わらない様子で立ち上がった。

「面白い講義だったね」

 彼女はそう言って、微笑む。

「破壊。言い得て妙だと思う。それまで信じられてきた当然の事実を破壊することによって、純粋数学は発展してきた。数学者は、破壊的であるべきだと思う」

 私はその全てを受け入れるような微笑みに、視線が釘付けになるのがわかった。

「じゃ、帰ろっか」

 彼女が歩き出す。

 私は残った筆記道具を鞄に詰め込むと、彼女の後を追った。

「ね、長瀬くんの家ってどっち方面にあるの?」

 廊下を歩きながら、彼女が興味津々といった様子でたずねてくる。さっきの講義の独特の雰囲気にまだ浸っていた私は、それでようやく日常に戻った。

「本当にすぐ近くだよ。東口の方から見えるくらい」

 私はそう言って、一緒に階段を下りていく。

「長瀬くんは、休みの日とか何してるの?」

 少し後ろを歩く彼女の声が耳に届く。

 前方から集団が階段を上がってくるのが見えて、私は壁際を進みながらその問いに答えた。

「画材詰め込んで、絵描きにいったりしてるよ。当分、生活に必要なものの買い物とかで終わりそうだけど」

「ふーん。彼女とかいないんだ」

「いないね。高校の時は野球小僧だったし」

「もしかして坊主だったりした?」

 彼女が少し笑いながら言う。

「中学生の時は丸坊主だった。高校では流石になかったけど、あまり長いと良い顔されなかったな。一応、野球の名門だったから」

 階段を下りて、そのまま外に出る。良く晴れていて、気持ち良い風が吹き抜けた。

 駐車場を通り抜け、キャンパスを出る。そこで私は足を止めた。

「見える? あの少し茶色っぽいマンション」

「ちょっと古い感じだね。オートロックもない?」

「ないよ。学生ばかりだから、新興宗教の勧誘とか結構来るみたいで気をつけるように言われた」

「へえー」

 彼女が相槌を打って、マンションを見つめる。そのまま彼女が動かなくなった為、私は別れの言葉を切り出した。

「じゃ、また明日」

 そう言って、マンションに向かって歩き始める。

「うん。また明日」

 彼女はそう言って、私とは反対の方向へ歩き始める。

 風が少し、冷たかった。

 

 家に帰ってから、私は何となくカレンダーを見つめた。カラフルな色が宿っている。

 子どもの頃は、私と同様に他の人にも数字に色が重なって見えるのだと信じていた。この色にはある程度の法則があって、日付を見るだけでその日が何曜日なのか何となくわかった。これを両親が不思議がったのをきっかけに、私は自身が稀有な知覚を持っていることに気づいた。

 私たちは、今見ている世界が他の人と同じものだと信じて疑わない。けれど、多分、同じ世界などどこにもないのだと思う。私たちの世界はそれぞれ位相がずれているように、見え方が違っていて、だから理解もずれる。そして、それこそが多様性を生み出し、あらゆる分野を発展させていく。

 中学の時、不思議なくらい駆け引きのうまい投手がいた。彼には打者の心の動きが見えていたのではないか。そう思ったこともある。そうした見え方が、才能という壁を作り出す。知覚しうる情報だけでは超えられない認知的な壁が、どこかにある。私は今でもそう思っている。

 そして、彼女のことを思い出す。

 日影玲。

 天才数学少女、とかつて呼ばれていた彼女には、普通の人と違う何かが見えていたのだろう。彼女は私の共感覚を羨ましがっていたが、彼女もそれに似た特別な知覚を持っているのだろう、と思った。

 数学という分野では、本当に何らかの特別な能力があるのではないかと疑いたくなるような人間がたまにいる。

 いや、数学だけではない。過去の自然科学、工学の発展を支えてきた人間には、常人には理解できないような何かを感じることができる。

 ウィリアム・ハミルトンはラテン語、英語、ギリシア語、ヘブライ語を五歳までに読めるようになっていた。十歳の時には更に五つの言語も加わった。ユークリッドの原書を読み漁り、更に十二歳の時にはプリンキピアを解した。そして彼は十五歳から本格的に数学を独学で学び始め、その三年後、主席で大学に合格する。

 怪物的だ。

 しかし、こういう怪物的な人間がいなければ、世界はここまで発展しなかった。

 神の寵愛を受けたような人間が定期的に産み落とされ、鈍重な人類全体を遥か前方へ引っ張っていく。それが自然科学の歴史だった。

 私はそのことに、畏敬に似た何かを感じられずにいられない。

 だから、私はこの共感覚を特別なものだとは思わない。この知覚能力は、きっとただ他の人と本当にずれているだけの差異でしかない。これを有効活用する術はないと思う。必ずしも多様性が有効性に繋がる訳ではない。

 それでも、と私は思う。私が感じる数字と色の関係を絵として残していれば、後で特別な何かを持っている人がそこから新しい何かを発見するかもしれない。だから、私は筆をとるのだ。

 

 イラストサークルの見学に向かったのは、大学に入学して数日後のことだった。

 私は日影玲以外の友人をまだ作れずにいた。

 周囲ではグループというべきものが形成され始めていたが、私の隣には日影玲がべったりという状態で、他の学科生との交流は酷く乏しかった。

「イラストサークル? 私もいく」

 日影鈴に見学に行くことを伝えると、意外にも彼女が興味を示し、一緒に見学にいくことになった。

「あ。長瀬?」

 イラストサークルに向かうと、日向佐織がいた。

 同じ高校出身の彼女の姿を見ると、何となく安心した。それほど仲が良いわけでもなかったのだが、慣れない場所において見知った顔というものは予想以上の安堵感をもたらすらしい。

「日向もイラストサークルの見学?」

「うん。あの……ちょっと恥ずかしいんだけど、漫画とか描くの好きで……」

「へえ……知らなかったな」

 高校の時、彼女はどちらかというと派手なグループに属していて、そうした趣味があるとは露とも知らなかった。

「長瀬も、絵……描くの?」

「水彩画を少しだけ。色々やってみたくて」

「へえ……知らなかった」

 日向佐織が素直に驚いた顔を見せる。

 そこで彼女は私の隣の日影玲に視線を移した。

「ああ、ごめん。彼女、同じ数学科の日影さん」

「どうも」

 日影鈴がどこか無愛想に頭を下げる。意外と人見知りするのかもしれない。

 そういえば、彼女が私以外と話しているところを見たことがないな、と思った。

「あ、私と長瀬くんは同じ高校だったの。日向って言います。よろしくね」

 対照的に日向佐織はにこやかに笑って自己紹介する。

 日影鈴は何も言わずもう一度頭を下げると、それっきり黙りこんだ。

 沈黙を避けるように、日向が言葉を続ける。

「あ、見学に来たんだよね。一緒に話聞きにいこうか」

「そうだな。日影さん、いこう」

 私が日影玲に声をかけると、彼女は真っ直ぐ私を見たまま無言で頷いた。

 まただ、と思う。

 べったりと粘つくような視線。

 私はそれを無視するように、三人で先輩方からサークルについて説明を受けて回った。

 日影玲は終始無言で、私のすぐ後をついてきた。奇妙な疲労感が、私の中に蓄積していくのがわかった。

 そしてその後、彼女が日向佐織と言葉を交わすことはなかった。



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03話 漸近

「結構適当なところだよね」

 サークルの見学を終えた後、玲がぽつりと零した。

 私はそれに反論しなかった。熱心なサークルではない、というのが正直な印象だった。

 薄暗くなった駐車場。

 日向佐織と別れた私たちは帰路についていた。

「ね。どこかで晩ご飯食べていかない?」

 彼女が暗くなった空を見上げながら言う。私はまだ慣れない近辺の地図を頭に浮かべた。

「近くだとファミレスくらいしかないな。駅前までいけば色々あるけど」

「ファミレスでいいよ。面倒だし」

 私は頷いて、敷地を出るといつもとは違う方向へ向かった。

「日影さんは、入りたいサークルとかないの?」

「ないよ。数学サークルとかあるみたいだけど、なんか合わないし」

「一応どこかに顔出しといた方が、後々交友関係広がってていいんじゃないかな」

 押し付けがましくならないように注意を払いながら私は言った。

 不意に、彼女の足が止まる。

「私、別にそういうのいいから」

「え?」

 彼女の視線が真っ直ぐと私に注がれて、固定される。

「中身のないコーユーカンケイだとか、いらない。面倒で、邪魔なだけじゃない? 私、長瀬くんとはちゃんと中身のある付き合いしたいって思ってるよ」

 彼女の黒い瞳が、車道から届くライトで暗闇に煌いた。

「長瀬くんは、そうじゃないの? 長瀬くんにとって、私はコーユーカンケイの中の一人なの?」

 何かを見定めるように、感情の見えない彼女の瞳が私を射抜いた。

 私は魔法をかけられたかのように彼女の瞳から視線を外すことができなかった。

「……いや」

 声を搾り出すように、かろうじて答えを返す。

 喉が異常に渇いていた。

「俺も、日影さんとは中身のある付き合いをしたいと思ってるよ。ちゃんと、理解を深めたいと思ってる」

 私の答えに満足したように、彼女が微笑む。優しい笑みだった。同時に、粘りつくように固定されていた彼女の視線が外れる。奇妙な息苦しさから解放された私は、小さく息をついた。

「そう言ってくれると思ってたよ」

 彼女は微笑を浮かべたままそう言って、再び歩き出す。

 私もそれを追うように、再び歩き始めた。

 

 ファミレスにつくと、彼女はメニューを広げて楽しそうに笑った。

「お腹減ったー。何食べる? 」

 テーブルの上に広げられたメニューにざっと目を通す。その時、彼女がメニューの角を指差しておどけるように言った。

「ここの角度が何度か答えよ」

 私は食べ物の写真から目を離して、メニューの角を見つめた。少し考えてから、彼女に視線を移す。

「地球が丸くないと仮定して?」

「あーあ。引っかからなかった」

 彼女がつまらなさそうに言う。その時、ちょうど店員が水を持ってきた。それぞれ注文を伝える。

「長瀬くんって、兄弟とかいるの?」

 店員が去っていくのを見ながら、彼女が口を開く。

「いないよ」

「ふーん。じゃ、一人暮らしでもあまり寂しく感じたりはしない?」

「今のところはそういうの感じないかな。日影さんは、兄弟いるの?」

「姉がいたけど、もう会ってないよ。親が離婚して私は父親。姉は母親についていったから」

 さらりと口にした彼女の言葉に、私は思わず時計を見た。

「時間……大丈夫なの?」

「何が? ご飯の用意ってこと? 親はいつも外で食べてくるから大丈夫だよ」

 それより、と彼女の視線がゆっくりと私に向けられる。

「兄弟もいないし、父親は仕事だし。私いつも家で一人だからさ、なんというか、結構暇なんだよね。その……また電話とかかけていい?」

 先ほどまでの態度とは一転して、伏し目がちなどこか不安そうな目が私に向けられる。その落差に私は反射的に頷いていた。

「え、ああ……もちろん、いいよ」

「本当? また電話するね」

 彼女が嬉しそうに笑う。

 同時に、店員が食事を運んできた。

 彼女の前にパスタが出される。絡み合ったそれは、彼女のフォークに巻きついて離れないように固まっていく。

「結構おいしいね」

 彼女はそう言って、パスタを絡めていく。

 私も自身の食事に手をつけたが、味はよくわからなかった。

 

 

 

 休日がやってきた。

 私は引越しのダンボールを片付けていた。

 部屋にはまだ最小限のものしかない。必要なものをリストアップしてはいたが、中々買いに行けずにいた。

 出てきたゴミをまとめ、分類していく。

 区切りがつくと私は鞄からシラバスを取り出し、時間割を確認していった。休み明けには時間割の登録作業が待っている。二年次、三年次、四年次の講義の繋がりも確認していく。

 数学そのものに関係する科目は大体が必修科目で、一つ落ちればそこから繋がる科目を二年次でとることができない。となれば三年次、四年次の時間割にも影響し、結果的にストレートでの卒業が不可能になるものが多い。それを見て、数学科の留年率が三割に達する理由を理解した。

 下から三割は、ストレートでの卒業ができない。中の中の成績をキープしていてもストレートでの卒業組では下位に位置し、進学や就職にも影響するだろう。初めから上位の成績グループに入らないと後々後悔することになりそうだった。

 次に一般教養科目を見ていく。同じ講義でも講師が違うものが多い。適当に単位のとりやすいと評判のものをとっていけばいいのだろうか。

 シラバスと睨み合いを続けていると、携帯が鳴った。ディスプレイには日影玲の文字。

「もしもし」

 通話ボタンを押すと、雑音混じりに彼女の声が届いた。

「あ、もしもし。長瀬くん?」

 電話の向こうが外であることが雑音でわかった。

「ああ。どうした?」

「あのね。今、長瀬くんの家のすぐ近くまで来てるんだ。上げてくれない?」

 一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。

 徐々にその意味が頭の中に浸透し、咄嗟に散らかった室内を見渡す。

「ちょっと待ってくれ。片付ける」

「うん。待ってるね」

 そう言って、電話が切れる。

 私は携帯をベッドに投げ出すと、急いで部屋の片づけを始めた。

 とりあえず目立つものをゴミ袋に突っ込んで、ベランダに放り投げる。片付けというよりは、応急処置である。

 シラバスや入学資料など床の上でバラバラになっていたものをまとめ、本棚に突っ込んでいく。

 五分ほどで室内にある程度の秩序が訪れた。私は携帯に手を伸ばすと、履歴から彼女の番号にかけなおした。

「もしもしー。片付け終わった?」

「ああ。待たせてごめん。もう大丈夫」

「じゃあ、行くね」

 通話が切れる。直後、インターフォンが鳴った。

 まさか、ドアの前で待っていたのだろうか。そう思いながら玄関に向かい、ドアを開ける。

「突然来てごめんね。色々持ってきたよー」

 涼しそうな春服に身を包んだ彼女は、にこやかに笑って右手の買い物袋を持ち上げた。

「……大学に用事でもあったのか?」

 彼女がこの辺りまで来るとすると、それくらいしか思いつかない。

「うん……ほら……図書館にどんな本あるのか気になって」

 彼女はそう言って、それより、と私の後ろを見た。

「あがっていいかな?」

「ああ、うん」

 私は頷いて、後ろに下がった。それに合わせるように彼女が玄関に入り、後ろ手でドアをゆっくりと閉める。

「お邪魔しますー」

 ブーツを脱いだ彼女が玄関の上に上がる。

 汚い部屋だけど、と私はどこかで聞いたような言葉を使って、彼女を部屋の中に案内した。

「へえー、何だかいかにも大学生の一人暮らしって感じの部屋」

 彼女はキョロキョロと部屋を見渡すと、感想を零した。次に冷蔵庫に向かって歩き始めて、買い物袋を床に置いた。

「これ、中にいれとくよ」

 私が答えるより早く、彼女が勝手に冷蔵庫を開ける。

「ほんと、何も入ってないね。あ、このプリン私も好き。コンビニの中だとダントツだよね」

 微かな疲労感を感じた。

 彼女の距離感が、近すぎる。

 冷蔵庫を漁る彼女の後ろ姿に、思わず苦言の言葉が飛び出した。

「……他人の家の冷蔵庫を勝手に開けるのはやめた方が……」

 私の言葉に、彼女が振り返って真顔で首を傾げる。

「なんで?」

「いや……」

 私が言葉を濁すと、彼女は何かに気づいたようにバツが悪そうな顔をした。

「ごめん。私さ、女子高出身なんだよね。男の人との距離感とかよくわからなくてさ、なんか、ほんと、ごめん」

「女子高……」

 初耳だった。

 そういえば彼女と出会った日。隣に座ったのは彼女からだったが、直接話しかけたのは私の方からだった。それ以上の勇気がなかったのかもしれない。

 今だって、彼女は他の学科生と全く接触していない。男女比が逆転した慣れない環境に戸惑っていたのだろうか。

 距離感が合わない理由がわかった気がした。そして、私は納得してしまった。

「そう、女子高。だから、男友達とか全くいなくて。正直、長瀬くんとの付き合い方もよくわからないんだよね。普通、異性同士ってどうやって遊ぶのかな。そういうことが、よくわからない。そういうのってない?」

「え、ああ……俺も別に女友達が多かったわけじゃないけど……」

 ぼんやりと相槌を打つと、彼女は途端に黙り込んだ。

 何かを考え込むような沈黙。

 そして、彼女の黒い瞳が私に向けられる。

「ねえ……」

 どこか自信がなさそうに、彼女は言った。

「私たち、付き合ってみない?」

 家のすぐ前の道路を、車が通る音がした。

 開いたままの冷蔵庫。

 床に置かれた買い物袋。

 そのすぐ傍で立つ彼女の瞳は、伏せ目がちに私を捉えている。

 私は彼女の言葉の意味を理解しようと努めて、そして誤魔化すように笑った。

「急すぎないか?」

 私の言葉に、彼女は顔をあげて微笑んだ。

「それは、シチュエーションのこと? それとも、まだ知り合って間もないのにって意味?」

「両方だけど、俺たち、互いのこと知らなさ過ぎるんじゃないかな」

「そうかな。互いを知る為にそれなりの時間を過ごしても、恋愛対象に見れなくなる場合だってあるわけじゃん。付き合ってから理解を深めていくって方法もありだと思うけど」

「……まあ、そういうのもあるかもしれないけど」

 私が同意すると、畳み掛けるように彼女が口を開いた。

「なんていうか、数学とか好きな人って滅多にいないわけじゃない? 私はそういう人と出会うの長瀬くんが初めてだったから嬉しかったんだ」

「……俺も数学好きな人と会うのは初めてだったけど、でも、いきなり付き合うっていうのは話が飛びすぎじゃない?」

「……長瀬くんは、嫌なの? 私のこと、恋愛対象として見れない?」

「……そうじゃないけど」

 言葉を濁すと、日影玲はにこりと微笑んだ。

「なら、いいじゃん。難しく考えすぎじゃない? 世の中にはいきなり告白して付き合う人たちも相当数いるんだからさ」

「……日影さんは、他の人にもこうやって軽く告白してるの?」

 疑問が、自然と口から飛び出した。

 途端、彼女の顔から表情が消える。

「女子高で、男友達なんていなかったって言ったでしょ。怒るよ」

「ごめん。悪かった」

 即座に訂正する。

 正直なところ、ひどく混乱していた。

「長瀬くんって、女の人と付き合ったことないでしょ? 無意識に壁作ってない?」

 私は、何も言わなかった。

 彼女の言葉に、少しだけ思い当たる節があったからだ。

「私も、そういうところあるから。でも、それ、違うでしょ」

 沈黙。

「ねえ、私たち付き合ってみない?」

 彼女が、繰り返す。

 私は諦めたように、両手をあげた。

「俺が悪かった。こちらからもお願いするよ。俺と付き合ってくれ」

 彼女は歯を出して笑うと、漸近したね、と言った。

 私はその馬鹿馬鹿しさに思わず笑ってしまった。

 嫌な空気は、あっという間に消え去っていた。



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04話 二項定理

「京は、これでいくの?」

 休み明け。

 私たちは大学の自習室で時間割の登録作業をしていた。

 小さく区切られたブースの中で、私は玲と一緒に一つの端末を覗き込んでいた。

「これが一番いいんじゃないかな。一般教養に拘りなんてないだろう? 単位をとりやすいものだけ選んでおけばいい」

 私の言葉に玲は少し考えから、そうだね、と頷いた。

 玲。京。

 私たちは、互いを名前で呼ぶようになっていた。彼女が、それを望んでいたから。いいきっかけになったと思う。少なくとも、苗字で呼び合うのは友人としても相応しくないと思っていた。

「私も全部同じにしとこうかな」

 学内サイトからログアウトすると、入れ替わるように彼女がキーボードを引っ張って操作を始める。

 元々似たような時間割だったものが、完全に同じものとなる。彼女は申請ボタンを押すと、満足そうに笑みを浮かべた。

「これで大学内はずっと一緒にいられるね」

「ああ……それで、どうする? まだ時間あるけど」

 次の講義までまだ時間がある。時計を見ながらたずねると、すぐに答えが帰ってきた。

「売店前のほうでゆっくりしようよ」

「わかった。行こうか」

 シャットダウンしてから、鞄を持って立ち上がる。彼女も同じように立ち上がった。

 二階の売店前には割と大きな休憩スペースが設けられている。講義の合間や暇つぶしによく利用されるようだが、私はまだそこを利用したことがなかった。

「フラッシュ暗算とか、やったことある?」

 売店でお菓子とジュースを買い込んで空いた席に座ると、私は何気なくそうたずねた。特に意図があった訳ではない。昨日たまたまそういうアプリを見つけただけで、彼女はそういう計算も得意なのだろうか、と気になっただけだった。

「ほら、簡単にできるの見つけて。ランキング上位が結構凄いよ」

 私が携帯のディスプレイを彼女に見せると、彼女は興味なさそうに一瞥して冷たく言った。

「こういうランキングの人たちって、素の計算が得意というより反復で習熟しただけでしょ」

 こういう人たちはそんなの練習して何がしたいんだろうね、と馬鹿にしたように彼女は笑った。突然の嘲笑に、私は驚いて言葉を失っていた。

「私は、別にこういう計算得意じゃないよ。それを悪いこととは思わないし、むしろ計算や暗算ができるから何って話。そんなのに時間費やしたくないし。でも、数学好きにはたまに計算速い自慢する馬鹿いるよね。なんていうか、システムエンジニアやプログラマ志望の人がキータイピングの速さを自慢するくらいズレてるなって思わない? 数学に反復なんて意味ねーから」

 彼女は心底馬鹿にするように言って、同意を求めてくる。あまりにも酷い言い方に、私は思わず反射的に反論しようと思って、寸でのところでそれを抑えた。

 慎重に、彼女の言葉を検証する。

 数学に反復は意味がない。計算能力があるからといって、数学能力に反映されるわけではない。それは、事実だった。

 エルンスト・クンマーは簡単な九九もできないくらい計算が苦手だったが、彼が偉大な数学者であることに変わりはない。数学能力というものは、そういうものだ。混同されがちだが、算数と数学は決定的に違う。計算能力が早いだけの人間には二項定理を発見することはできない。虚数の存在を受け入れることはできない。数直線を二次元的な平面として新しくとらえることもできない。それが学校の一教科としての数学ではなく、学問としての数学ができる、ということだ。

 システムエンジニアに求められるものは、タイピング能力ではない。建築士に求められるものは、釘打ちの丁寧さや早さではない。そんなものは、必要ではない。求められるものは全く別のもの。本質的な数学は、反復ではなく先天性の才覚に依存し、後天的な数学的バランス能力によって肯定されうるものだ。

 彼女の言葉は、間違っていない。しかし、肯定されうるものでもない。

「……確かに、数学能力と算数能力は別物だよ。でも、あまりそういうこと他人に言わないほうがいいよ。理解と納得はべつものだから」

 私の言葉に、彼女は一瞬目を見開いた後、薄い笑みを浮かべた。

「へえ。京は叱ってくれるんだ。うん。なんか嬉しいな」

 私は彼女の意図を測り損ねて、ただ黙って彼女の目を見つめることしかできなかった。彼女は私の視線を受けながらも、涼しそうに薄い笑みを浮かべるだけで何も言わない。

 理解を諦めて、彼女の言葉で気になっていたことをたずねる。

「玲は……数学者になりたいの?

「そう。だから院まで進学するよ。OLなんてまっぴら。京は違うの?」

 即答だった。迷う素振りを見せない彼女とは反対に、私は歯切れの悪い答えしか用意できなかった。

「……お金があったらね。院まで行くのは、親に負担かかりすぎるから」

 彼女はお菓子を口に含みながら、残念そうに唸った。

「ふーん。うちもそこまで余裕があるわけじゃないけど、私は親の貯金使い潰してでも院いくよ。これで生涯の数学にかけられる時間が信じられないくらい変わるんだから迷ってなんていられない」

 悪びれる様子もなく、彼女はそう言い切った。

 言葉が出てこない。

 黙りこんだ私とは反対に、彼女は尚も言葉を続ける。

「京は、数学者になりたいって思ったことないの?」

 数学者。

 考えたこともなかった。ずっと遠い世界のことのように思っていた。

「……数学の教師にでもなれたらいいなって漠然と思ってるだけで、数学者なんて考えたこともないよ」

「なんで? 数学が好きなら、そこがゴールでしょ。まあ、本来はスタート地点なんだろうけど」

 なんで。

 単純な疑問に対する答えを私は用意できない。

 無理だと思っていた。初めから諦めていた。だから、その為に努力したことなどなかった。ただ好きだから、グダグダと数学を続けていた。

 でも、彼女は違うのだろう、と思った。彼女は本気で数学者になろうと考えている。だから、算数と数学を混同するような真似に厳しく当たったのかもしれない。

「今からでも遅くないじゃん。一緒に院行こうよ」

 彼女はそう言って、身を乗り出してくる。

 数学者。

 院。

 考えたこともなかった世界。

 普通に大学を出て、会社員として過ごすのだと疑わなかった人生。

 この時、初めて私が抱いていた漠然とした将来像に新しい可能性が見えた。

「京って、変に未来狭めてない? まだ何にでもなれるでしょ」

 なれるのだろうか。

 私が、数学者に?

 博士に?

 なれるのだ。博士号をとれば、名実とともに博士に。それは大学を卒業して与えられる学士という学位と比べて特別なものでは決してない。

「……考えてみるよ」

 私はぼんやりとそう答えていた。

 まだ何にでもなれる。

 この時の私には、彼女の言葉が正しく思えた。

 正しく思いたかったのだろう、と私は後にこの時を振り返ってそう思う。



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05話 ユークリッド幾何学

 全ての講義が終わってから、私は再びイラストサークルへ向かっていた。見学ではなく、正式に入る為だった。

「本当に入るんだ」

 後ろを歩く彼女が、どこか意外そうに言う。今回も彼女は私に付き添うといって聞かなかった。

「あまり真面目なとこじゃないでしょ。時間無駄にするだけと思うけど」

「それでも、いい刺激にはなると思うから」

 私はそう言って、部室の前で息を吸った。

 二度、ノックする。

 はい、と女の声がした。ドアを開けると、縦に長い部屋に六人の男女がいた。その中に、日向沙織の姿もあった。

「あ、この前見学に来てた子だね。今日も見学?」

 前回の見学の時にも顔を合わせた女の先輩が気さくに声をかけてくる。

「いえ、今日は入部届けを出そうと思って」

「あ、本当? 今日は二人目だね。ほら、こっちの女の子もそうだよ。同じ一年だし仲良くね」

 先輩がそう言って、すぐそばにいた日向沙織に目を向ける。日向は控えめに笑って、彼とは元から知り合いです、と答えた。

「あ、そうなんだ。同じ学部?」

「いえ、俺は数学科です。たまたま高校が一緒で」

「へえ。数学科? そんな感じには見えないけど」

 先輩が意外そうに私を見つめる。それから私の後ろの玲に目を向けて、そっちは? と言った。

「私も入部希望です」

 玲の言葉に、私は驚いて彼女を見た。彼女は私に構わず、滑らかに言葉を続ける。

「絵は全然なんですけど、前から興味があって。彼が入るからっていうのもあるんですけど」

 玲は人当たりの良い笑みを浮かべ、極自然に言葉をつなげていく。部室の奥でこちらを見ていた男の先輩が興味を持ったように口を開く。

「なに? きみら付き合ってんの?」

「はい。付き合ったばかりです」

 玲が躊躇なく答えると、日向が意外そうに私を見た。その後ろで先輩たちが一斉に冷やかすように笑う。

「彼氏持ちか。はい残念でした」

 おどろけるように笑い合う先輩に、玲はただ笑みを返すだけだった。

「えっと、一応部費って形でお金とったりするけど、大丈夫? 絵自体に興味ないんなら損するよ」

 女の先輩が確認するように言うと、玲は素直に頷いた。

「大丈夫です」

「それならいいけど……まあ、熱心な人も少ないしね。一応、ここって毎年プロになる人がいるんだけどさ」

 先輩はそう言って、肩を竦めた。それからずっと黙っていた私に目を向けて、説明を始める。

「私、部長の谷口。で。見学の時にも言ったかもしれないけど、ここの共有パソコンは好きに使って大丈夫です。一応、一通りのソフト入ってるから、家で出来ないこととかこっちでやるといいと思う。あ、ディジタル? アナログ?」

「アナログですが、色々やりたいと思ってます」

「うん。じゃあ使い方とか分からなかったら適当に誰かに聞いたら答えてくれるから遠慮なくね。ペンタブも共有のだから好きに使っても大丈夫。個人のペンタブ持ってきてる人もいるから見慣れないもの使う時は確認するように。画材は基本的に各自で用意。で……」

 部長の谷口さんは途中で言葉を切ると、部屋の隅の本棚を指差した。

「あっちの本棚にある資料とかは昔の先輩が置いていったものばかりだから、好きに使って大丈夫。ただし勝手に切り取ったりは勘弁ね。漫画も結構置いてあるけど、好きに読んでいいよ」

 本棚を見ると、雑多な本が並んでいた。人体デッサン。解剖学。世界の風景の写真集。パース。水彩画。油絵。イラストツールの解説本。民族衣装の写真集。ポーズ集。配色集。デザイン集。

 普段全く描く機会がないジャンルの本も揃っていて、なるほど、と思った。一人で描くよりは、こうしたサークルに身を置くほうが遥かに視野が広がるだろう。

「基本的に緩いサークルだから、無理に出る必要はないよ。全く絵描かずにダベってるだけの人もいるし」

 谷口部長はそう言って、椅子に座り込む。そして玲に目を向けた。

「えっと、そっちの彼女も数学科?」

「はい」

「数学科の人が入るの珍しいな。それも二人も。留年率高いらしいし、この人たちみたいにサボったらだめだよ」

 谷口部長が顎を向けた先には、三人の男先輩がいた。そのうちの一人が隣の先輩の肩を叩いて大きく笑った。

「これな、二年生四回やってるんだよ。悪い見本だから参考にな」

「どうも、悪い見本です。って、この紹介の仕方おかしいだろ。大先輩なんだから敬え」

 低い笑い声が響く。四回留年してるという先輩は、少し老けて見えた。一体何歳なのだろう、と疑問に思いながら私は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。入るサークルを間違えたかもしれない、と思った。

 不意に、後ろのドアが開く気配がした。振り返ると、髪の長い女が立っていた。

「あ、いいところにきた。こっち、入部希望の……」

「長瀬です」

 日影です、と玲が続く。

「あ、そうそう。長瀬くんと日影さん。で、こっちは三回生の秋月(あきづき)ね。当サークルのエースです」

 秋月と呼ばれた彼女は、何も言わず小さく頭を下げた。長い髪が垂れ、わずかに乱れる。暗そうな人だ、と思った。

「エース?」

「そう。絵をみたらわかるよ。うちらの中だと一番プロの立場に近いからね」

 谷口部長がすぐ近くの棚から冊子を取り出し、それを差し出す。受け取って中身を見るとコンクールの受賞作品が並んでいた。その中に、秋月菫という名前があった。

「これ……」

 自然と目を引く絵だった。海中都市。そう題された絵には、海に沈んだ都市が映し出されていた。縮小されていた為細部はよく見えないが、それでも自然と目のいくつくりをしている。

「驚いた? 今でも結構ファンいるんだって。秋月よく部室で絵描いてるから、アナログ派なら参考にしたらいいんじゃないかな。勉強になると思うよ」

 秋月さんはもう一度小さく頭を下げると、無言で私たちの横を通り過ぎて壁にかけられたカレンダーの前に向かった。ボールペンで予定らしきものを書き始める。その時、私はふと妙なことに気づいた。秋月さんが書いた日付らしき数字には、色が踊っていなかった。ボールペンの黒いインクがのっぺりと広がっているだけ。

「なに?」

 私の視線に気づいた秋月さんが振り返る。恐ろしく低い声だった。

「いえ……」

 私は誤魔化すように視線を外した。どこか生気のない暗い瞳が、夜の海のような、底知れぬ暗闇を連想させた。

 少しだけ、苦手な人だと思った。

 秋月さんが部室の隅で描き始めるのを、じっと観察する。

 キューブ形の固形絵具とパレット。

 その前で、彼女は素早く筆を走らせていく。

「日向さんは、ディジタル派だったね。どういう絵を描くの?」

「あの、漫画的なものです。最近はポップ系のキャラクタも描きます」

 後ろのほうから、谷口部長と日向の声が届く。それらが気にならないほど、私は目の前の光景に目を奪われていた。

 空白が、瞬く間に暗い色で彩られていく。そして、それらはすぐ新しく別の色で上書きされ、立体的に世界が産まれていく。

 無秩序に暗い色が踊っていただけの世界は、瞬く間に秩序ある空間へ整形され、奥行きが発生する。

 考える様子もなく、休む事無く筆が踊り続ける。そこに思考や迷いは見られない。ただひたすら新しい世界が広がっていく。その光景に、私は圧倒されていた。

「わ、かわいい!」

 後ろから、甲高い声。谷口部長のようだった。振り返ると、極端にデフォルメされた二頭身のクマの絵を見せる日向と、頬を緩める谷口部長の姿があった。

 単色で塗られたクマは確かにうまくデフォルメされていた。谷口部長が何度もかわいいと言う。日向は褒められて嬉しそうに笑っていた。

 視線を、秋月さんの絵に戻す。彼女は無言で描き続けている。それに呑まれている私も、何も言わなかった。言葉が出てこない。単純な一言で褒めることは、秋月さんの絵と彼女の姿勢、技量を貶めるような、そんな気がした。

「数学科だっけ。珍しいな。でも、実用性がないと就職で不利じゃない?」

「そうですね。多くの数学には実用性がないように見えます。でもそれは、数学の問題ではなく私たちの理解力の問題だと私は考えています」

 玲と男の先輩話し声。目の前に広がる秋月さんの世界に塗りつぶされるように、その会話はどこか遠くのもののように思えた。

「理解力の問題?」

「ラマヌジャンという数学者がいます。当時植民地だったインドで生まれた彼は数学について体系的に学んだことはなかったけれど、定理だけを網羅した書物と出会ってから、数学にとり憑かれ、異常な数の不思議な定理を発見しています。夢の中で女神が教えてくれた、と説明した彼の不思議な定理群は、その多くが役に立たないと思われていましたが、今では素粒子論などに関係することがわかりました。ユークリッドだって、そうです。彼は数学が実用的であるか、なんて問題にしませんでした。むしろ、これが何の役に立つのか、と問いかけた弟子を追放までしました。でも、誰も価値がわからなかったユークリッド幾何学をニュートンは二千年後に天文学や物理学を大きく発展させる為の強力な道具として用いました」

 暗かった世界に、明るい色が灯る。光が、現れる。

「リレーなんです。数学は天才たちのリレーです。普通の人には利用方法が想像もできず、それを道端の石くらいにしか認識できません。でも、それが人類の宝であることに、本当に一握りの天才だけが気づいて、それを次の世代へ繋げていきます。本人たちも、それが何の役に立つかわかっていないことが殆どです。でも、綺麗なんです。無限に存在するパターン。その中で、輝きを持つパターンがあります。直感的に、感覚的に、それが特別な定理であることがわかるんです。美しいからです。それが存在するのは必然的である、とわかるんです。そして、人間社会がある段階に達してその数式を受け入れる素養が整った時、その価値がようやく評価されるんです。数学は、科学に先立ちます。科学は遅れて、数学の正当性を証明します」

 だから。後ろから玲の熱の篭った声が響き続ける。私は依然として、目の前で色が広がる光景に釘付けになっていた。

「だから、実用的であるかどうか、を論ずることに私は意味を見出せません。これが何の役に立つか。それは、愚問だと思います。自信過剰で、ナルシストで、冒涜的です。想像力の欠如を示すサインでしかありません。無価値に思えるのは、私たちの理解力が届かないから。そう、考えています。だから、就活における数学の有利性なんて、考えるだけ無駄です。それは私たちの理解を超えたところにあって、予測たりうるものではない。そう思いませんか?」

「え、ああ……本当に数学が好きなんだね」

 玲の舌が回り続けている。熱を帯びた声。

 天才。

 その単語が、私の頭に焼きつく。目の前で完成に近づいていく絵は、まさしくそれそのものだった。

 迷う事無く、最良の座標に、最良の配色がなされていく。そのパターンには必然性を感じざるをえない。

 後ろでは、谷口部長と日向がデフォルメされたクマのイラストについて意見を交し合っている。少し離れたところでは、玲が先輩の一人に数学の魅力を説いている。

 秋月さんは喧騒の中、ひたすら絵を描き続けていた。私以外、誰も彼女に注目していなかった。私だけが新しい世界の誕生に立ち会っていた。

 彼女の筆を持つ手は、止まらない。

 あれだけ暗かった世界が、今は光に満ちていた。そこには確かな空間があった。

 色合い。パターン。それを、綺麗だと思う。

 似ている、と思った。

 綺麗な数式と、似ている。それらが持つ特殊な色合いと、目の前の絵は似ている。

 数式に色が見えるように、目の前の色のパターンの中に数式が見えた気がした。

 そして、絵が完成する直前。彼女の筆が初めて止まった。

 秋月さんは筆を置いて、それから席を立った。

「なに。今回もだめなの?」

 立ち上がった秋月さんに谷口部長が声をかける。秋月さんは何も言わず、こちらを振り向いた。そこで、私は息を止めた。

 秋月さんは、泣いていた。無表情だった顔を悔しそうに歪めて、涙を流していた。

 突然のことに、私は呆然と無遠慮に彼女を見つめていた。彼女は私に視線を向けることなく、黙って私の前を横切り、そのまま部室から出て行ってしまった。

 重い音とともに、扉が閉まる。私は説明を求めるように、谷口部長に視線を向けた。

「あー、あの子ね、完璧主義というか何と言うか、最後まで絵を描く事のほうが稀なんだよね。少しでも納得できないところがあるとああやって泣き出して描くのやめちゃうの」

「納得できない? これが?」

 私は完成間近の絵に目をやって、そして理解できないと思った。私の様子を見て、谷口部長が困ったように笑い、そして投げ出された絵のもとへ近づく。

「まあ、私たちみたいな一般人から見て完璧な絵でも、あの子にとってはそうじゃないんだから仕方ないよ。見えてる世界が、立っている世界が違うから」

 どこか諦めたように、谷口部長は秋月さんが散らかしたままの画材を慣れた様子で片付け始める。

 部屋の隅では、玲が興味なさそうに絵を見つめていた。

 かわいそう。

 小さく彼女が呟いた言葉が、妙に耳に残った。



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06話 エントロピー

「秋月さんの絵、凄かったね」

 部室から出て帰る途中。私の右側を歩く日向が紺碧の夜空を見上げながら、どこか達観した様子で言う。

「うん……」

 私は相槌を打って、それから左隣の玲を見た。玲は絵自体に興味がないのか、何も言わない。

「私たちは素人基準で上手いって褒めるけど、秋月さんはもうプロ基準で考えてるから自分の絵に納得できないのかな。認識してるステージが違うんだよね」

 日向はそう言って、私を見上げる。

「長瀬は絵を描いていてプロになりたいって思ったこと、ある?」

「ないよ」

 即答した。プロなんて、意識したことがなかった。ただの趣味で、暇つぶしでしかなかった。

 そもそも、夢、というものを持ったことがなかった。幼稚園の時だって、夢なんてなかった。それでも、自分の夢を発表しなければならない時があって、私は子どもながらに先生や親に気を遣って、いかにも子どもらしく正義のヒーローになりたい、と言った。心の底では、私が正義のヒーローになれるなんて微塵も思っていなかった。

 昔から、高い目標を持てない性格だった。何かになった自分、というものを上手く想像することができなかった。自己評価を高くすることを恥ずかしいことだと思っていた。

 数学だって、そうだった。玲に言われるまで、数学者になることなんて考えたこともなかった。ただの趣味だった。普通に学校に通って、大学にいって、サラリーマンになる。そうした一般的な道以外を意識することが馬鹿らしく思えていた。そんなものは叶わない、と根拠もなく思い込んでいた。それは今だって、変わらない。

「私も、ないかな。なれたらいいな、と思ったことはあるよ。でも、プロになりたい。プロを目指そう、なんて考えたことはないよ。だから、絵のことで悔しくて泣いたことなんてないし、絵がうまい人に嫉妬したこともない。でも、プロを目指してる人は、別なんだろうね」

 私は、何も言わなかった。

 普通より少し上手い。それだけで、私は満足してしまう。それ以上の上を目指そうとは思えない。必死になれない。

「私は、わかるよ」

 不意に、玲が言った。短い言葉が、凛と響いた。

「負けるのが、嫌なんだと思う。追い越されるのが、嫌なんだと思う。才能のある人は、無限に後から生まれてくる。気を抜いていたら、すぐ追い抜かれてしまう。後が、ないんだよ。与えられた立場は、すぐ奪われてしまうから」

 駐車場を出る。そこで彼女は足を止めた。

「ねえ、なんか気分悪くなってきちゃった。京、ちょっと家あげてくれない?」

 私が答えるより先に、玲がしなだれかかってきた。暗闇の中、その表情は見えない。しかし、甘えるような声が響いた。

「ごめん。私たち、こっちだから」

 私の同意を待つより早く、玲は私にしなだれかかったまま、日向に向かって申し訳なさそうに言った。

「え、あ、うん。その、大丈夫? お大事にね」

 日向が困ったように首を傾げて、それから私に一度だけ目を向けた後、すぐに踵を返した。

「え、ああ。じゃあ」

 反射的に口を開いた時、既に日向は背を向けて歩き出していた。

「じゃあ、行こっか」

 玲が街灯の下、薄明かりの中で微笑んで、腕を絡めてくる。とても気分が悪いようには見えない。

「玲?」

 名前を呼ぶと、玲は私を引っ張るように歩き出した。そして、前を見たまま口を開く。

「私が女子高出身だって、もう言ったっけ?」

「聞いたよ」

 そう、と彼女は絡めた腕に力を入れる。

「男の目がないから、共学より皆奔放でさ、色々なところが見えやすいんだよね。もちろん、嫌なところも」

 そして、彼女が横目で私を見る。

「多分ね、京が思ってるよりは女の子って好きな相手が彼女持ちかなんて気にしないよ。むしろ、彼女持ちだけ狙う子もいるしね」

 一瞬、彼女の言っている意味が理解できなかった。あまりにも唐突な話題だった。

「それ――」

「私が言いたいのは」

 私の声を、彼女が遮る。

「彼女がそうかってことじゃなく、そういうタイプが存在するってこと。大事なのは、自己評価なの。競争して、勝つ。自分の優位性を明確に示す。それが大事な人っていっぱいいるじゃない。むしろ、大多数がそういうところあるでしょ。だから、警戒してるわけです」

 くるり、と彼女が足を止めて正面から私を見上げる。

「言ったでしょ。秋月さんの気持ちがわかるって。負けるのが、嫌なの。気を抜いてたらすぐ抜かれてしまう。何だってそうじゃない? それがわかってるから、早めに芽を摘んでおくべきだと思ったわけ。大体、彼女がすぐそばにいるのに、一緒に帰ろうとするのってどうかと思わない?」

 私は一瞬言葉を失って、それから気づいた。目の前で軽薄な笑みを浮かべる玲がとても幼く見えた。

「玲は――」

 無意識のうちに、手が彼女の頬へ伸びた。

「――まわりに味方と敵しか、いなかったんだね」

 彼女の目が大きく開く。

 彼女の唇が、何かを紡ごうと動く。しかし、そこから音が発せられることはなかった。

「どうする? 理由なくなったけど、このままうちに来る?」

 私が問いかけると、彼女はようやく調子を取り戻したように、もちろん、と答えた。

「彼女が彼氏の家に上がることに、理由なんていらないでしょ」

「たしかに」

 私は小さく笑って、それから彼女と並んでマンションに向かった。

 四月の夜はまだ肌寒い。私は少し迷った後、彼女の手をとった。冷たかった。彼女が僅かに驚いたようにこちらを見て、それから微笑んだ。

「あったかい」

「俺は冷たいよ」

 私の言葉に彼女は、エントロピーは増大するのです、と拗ねたように夜空を見上げた。

「そのうち、温度差も何もかもなくなるよ」

「それまでどれくらいかかるのかな」

 私が問いかけると、私計算好きじゃないから、と彼女は楽しそうに笑った。



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07話 等比級数の和

 大型連休が迫っていた。

 大学内ではそれぞれグループのようなものが完成しつつある。いくつかの講義を通して私もサークル外の知り合いが出来ていたが、大部分を玲と過ごしている為に交友関係は極めて狭いものとなっていた。

 彼女は相変わらず、数学以外に興味を向けることは殆どない。学科内で極少数の女性グループとたまに言葉を交わす程度のようだった。その偏り方には一抹の不安を覚えるが、私が干渉すべきものではないように感じられた。

 数学科の講義では、早くも脱落者が出始めていた。特に既存の概念の破壊の必要性を始めに説いていた解析の授業では、早くも理解が追いつかないということが珍しくない。数学科全体が、数学という学問に対して認識を新たにすることを求められていた。

 そして私と彼女の関係は、あれから全く進んでいなかった。デートらしいことも全くしていない。一度休日に遊びに行こうと誘ったが、彼女の希望で図書館で数学について話すだけになってしまった。難しい、と思った。

「連休、予定ある?」

 食堂で一緒に昼食をとっていた玲が思い出したようにそう言った。

「一度実家に帰って墓参りに行くくらいかな。玲は?」

「高校の時の友達と会うくらいかな。基本暇なんだよね。ね、どっか行かない?」

 ずい、と玲が身を乗り出す。

「……行きたいところがある感じだね」

 私の言葉に玲はにっこりと笑うと、パンフレットをとりだした。

「理数博物館だって。都内だし、日帰りで行けると思う。ね、行ってみない?」

 私はまじまじとパンフレットを見た後、思わず彼女顔を見つめた。

「これ、家族向けじゃない? 夏休みの自由研究用というか……」

「いいじゃん。結構面白そうだよ。ほら、結構いい技術使ってる」

 そう言って、玲は写真を指差した。確かに設備は立派なものが使われていて、少しだけ興味が惹かれた。

「うん……こういうのも、たまにはいいかもしれない」

「本当? じゃ、いつにする?」

「金曜日は?」

「オッケー。決まり!」

 そう言って、彼女は嬉しそうに笑った。

 

 

◆◇◆

 

 

 朝の九時半。待ち合わせ場所に現れた彼女は、私を見つけると控えめに右手をあげた。私もそれに応えるように小さく右手をあげ、彼女の元に歩み寄った。

 薄手のすっきりとしたパーカーに、プリーツのミニスカート。それにお気に入りらしきロングブーツとハンドバッグ。長い黒髪と合わさって、いつもより大人びて見える格好だった。

「待った? って一応聞いとくね」

「今来たところだよ、と一応答えておくよ」

 私の返答に彼女は満足そうに笑うと、行こっか、と歩き出した。

「開館十時からだよね。昼過ぎには大体回れるかな」

「軽く調べたけど、子ども用のコンテンツが多いから、そんなに時間はかからないんじゃないかな」

 私鉄の駅構内に入り、改札を通る。大型連休ということもあり、ひどく混んでいた。

「京は、自由研究とかで科学博物館とか行ったことある?」

 都合よく停車した電車。人が出るのを待ちながら、玲が振り返って私を見上げる。

「あるよ。でも、あまりよく覚えてないな。太陽系の大きな模型があって、自由研究の為にメモに写したことは覚えてる。でも、どういうところだったかってのは全然覚えてないな」

「惑星か。男の子なら興味あって記憶に残りそうだけど」

「逆だよ。その頃は多分、宇宙が怖かった時期だから」

 電車に乗り込みながら、答える。

「怖い?」

「そういう時期って、ないかな。無限に広がる宇宙のことを考えるとどうしようもなく不安になるとか」

「ああ……あったね。小さい頃は、怖かった」

 彼女は昔を懐かしむように微笑んで、吊り革に掴まった。

「理屈に合わないんだ。無限に続く空間。無限に続く時間。どこにも果てがない。それが直感的におかしくて、得体の知れない恐怖心があった」

「無限って概念は、変な錯覚を引き起こすよね。ずっと考えてると、頭おかしくなりそう」

「うん。そう、それ。多分それが、俺が数学に興味を持ったきっかけだよ」

「きっかけ?」

 彼女の瞳が私を真っ直ぐ見上げる。私は頷いた。

「小学生の時、割り算と掛け算をならうじゃないか。それで、一度割ったものは掛けなおすと同じ数に戻るっていうことも習う。でも、実際に1を3で割ると、0.333...になって、それに3を掛けると今度は0.999...になる。1掛ける3割る3は1になるはずなのに、別々に計算すると0.999...になって何かが欠ける。その薄気味悪さが凄く怖かった」

「無限小数との出会いだね」

「そう。無限って概念が、子どもの時は凄く怖かった。宇宙と一緒だよ。それにほら、ちょうど死を意識し始める年齢でもあるよね。死んだ後、無限の無が訪れる。無限に意識がなくなる。それはどういうことだろうって突き止めて考えていくと、凄く怖かった。それと同等の怖さを、俺は目の前の数式に感じていたんだと思う」

「何で、こうなるんだろうって?」

「そう。ちょっと背伸びして従兄弟に教えてもらったら、等比級数の和の公式が出てきた。こういう理屈で1=0.999...が導き出されるって聞いて、でも、よくわからなくて」

「それで、数学に興味持ったの?」

「そう。これを何とかしたら、得体の知れない恐怖感や不安感をどうにかできるんじゃないかって思って」

「うん。無限って子どもの時は凄い怖い。でも、大きくなるといつの間にかどうでもよくなる。そういうものだって、割り切ってしまう」

「感性が衰えてるんだと思う。全部がどうでもよくなって、麻痺してる。数学って、歳をとると新しい発見ができなくなるって言うけど、多分、こういう感性が衰えてるからだと思う。綺麗な数列と、醜い数列の区別が段々できなくなる。数式から、何かを感じることができなくなる。ほら、数学者は年をとると自殺する人結構いるけど、こういう感性の衰えに絶望しているんだと思う。それが一番の理由ではないだろうけど、そういう人も一定数いるんじゃないかな」

 それで、と玲の目がじっと私の心の奥を見透かすように固定された。

「その得体の知れない恐怖はどうにかできたの?」

 私は少し考えた後、首を横に振った。

「1割る3掛ける3が1に戻らない理由は中学に上がってからわかったよ。戻らないと思い込んでいただけ。0.999...と1が等しいということを知らなかったし、納得できなかった。単純に定義と厳密性の問題だったんだけど、俺はそれに気づかなかった」

「大多数の人がそうでしょうね。そもそも、二つが寸分違わず等しいと知ったところで、それに納得できない人が後を絶たない」

 私は頷いた。

「まず、数字を抽象的に見ることができないんだと思う。昔の幾何と同じだよ。面積を測る為に発達した古典的な幾何学では、負の数が長い間意味をなさなかった。数字から現実の何かを想像してしまって、記号的に操作することできない。それと同じ。だから、1という数字でケーキを思い浮かべて、0.999という数字から少しだけ欠けたケーキを思い浮かべ、それらが等しくないと判断してしまう」

 目的の駅につき、扉が開く。私は玲から目を離すと、ゆっくりとホームに出た。

「解析の講義で、はじめに教授が言ってたよね。数学は厳密ではないって。確かに皆、数学や数字があまりにも厳密なものだと思い込んでいるんだと思う。だから、数学の持つ本質的な曖昧性や二重性というものを無視してしまうんじゃないかな」

 そこで、私は言葉を止めた。デート中に話す内容ではない。

 行こうか。そう言って、階段に向かう。

「ねえ」

 彼女の声とともに、袖が後ろに柔らかく引っ張られた。

 振り返ると、彼女が真剣な顔で私の目を見つめていた。

「それで結局、無限に対する恐怖も解けたの? 永久の死に対する恐怖も?」

 あまりにも真剣な顔で問われた為、私は言葉に詰まった。

 冗談交じりに答えることを許さないような、鋭い視線だった。

 黒曜石のように黒く透き通った彼女の瞳の奥で、何らかの感情が蠢いて見えた。しかし、その感情の名前を推察することは叶わず、私は奇妙な圧力に負けて目を逸らした。

「……麻痺して、どうでもよくなったよ。もう、そんなこと考えることもなくなった」

 私の返答に、そう、と彼女は穏やかな顔で答えて歩き出した。そのまま横を通り過ぎた時、彼女の横顔が一瞬だけとても悲しそうに見えた。

「玲?」

 私の言葉を無視するように、彼女は私の前を歩き、そして振り返った。

「早くしないと混むよ」

 さっき一瞬だけ見せた陰は跡形もなく消え去り、彼女は笑顔でそう言った。

「……ああ」

 私は頷くと、彼女を追うように足を進めた。肩が並んだ時、どちらからともなく手が絡み合った。

 頭上では空がよく晴れていた。



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08話 チャンパーノウン定数

 駅から理数博物館までの道沿いにはちらほらと家族連れの姿が見えた。小学校低学年ほどの小さな子ども連れが特に目立つ。

 前を歩く小さな兄弟らしき二人が子ども特有の甲高い悲鳴ともとれる声をあげて走りだし、追いかけっこを始める。その様子を見て、車道に飛び出したりしないだろうか、と不安な気持ちに駆られた。

「子供のああいう元気な姿って一歩間違えば事故に繋がりそうで見ていてちょっと怖いよね。可愛らしいんだけど」

 自然と零れた言葉に、玲が冷ややかに答えた。

「そう? 私、子ども嫌いだからうるさいとしか思わない」

 私は続けようとしていた言葉を飲み込んで、繋いだままの手をじっと見つめた。

 数学について語り合っていた時はあれだけ近く感じられた距離が、途端遠く思えた。

 そして、思い知らされる。

 付き合う事になったとはいえ、私と彼女を繋ぐものは数学という学問しかない。私達にはそれ以外の情も、信頼も、思い出も何もない。

 私と彼女はまだ本質的に友人未満の他人で、相互理解というものが圧倒的に足りていない。

 今はまだ、彼女と私の関係は本当に形だけのものだ。

 彼女についての理解を広げていなければならない、と思った。そして数学以外の繋がりも広げていかなければならない。

「あ、見えてきたよ。結構駅から近いね」

 彼女の言葉で、前方に理数博物館が近づいていることに気づく。

「随分と大きいね」

 無意識に呟きが零れた。

「出来たばかりだしね。都内の小中学校の課外学習とかよく来るから結構大きくなったのかな」

 赤茶色の外壁をした理数博物館が近づいてくる。周辺は広場のようになっていて、スピーカーやら機材を広場に広げている人がいた。大道芸人だろうか。まだ朝ということもあり、そこまで人通りは多くない。

 外で二人分のチケットを買ってから館内に入る。照明が控えめで僅かに薄暗く感じるが、出来たばかりということもあり内装は清潔感があり綺麗だった。

 入場ゲートの係員にチケットを渡し、順番に中に入る。通路に進んで歩くと、はじめに人間の手を模した石像があった。

「数の始まり……三万年前の原始人は、一という数とたくさんという概念しか持たなかった。やがて一つと二つを分けて考えるようになり、一、二、三と続いた。今もなお、ボリビアの一部の民族では一から三しか数が存在せず、それ以上はたくさんという数字で処理をしている。やがてこれらは、四という数字を表現する時、二と二という表現を用いるようになり、言葉の組み合わせによって大きな数を表現するようになる。二進法の誕生である。やがてこれらの底の数は人間の最も身近な道具である手足の指の数を基にするようになり、現在の十進法へと繋がっていく。人の手足は、最も使い古された計算機である」

 玲が朗読するように抑揚をつけて読み上げ、肩を竦める。

「恋人や夫婦が常に一緒にいることが求められている国だったら、四十進法とかが流行ってたのかしら?」

「どうだろう。数字の記号だけで四十もあるとパソコンとかのキーボードが大変なことになるし、ある程度コンパクトに収まるところで勝手に収束するんじゃないかな」

「ああ、印刷技術が出てくる辺りの文明レベルで不要な記号は徐々に破棄されていくね。あまりにも大きすぎて整理出来ない場合は中国語のピンインみたいな発音記号で変換するようになるのかな。そういう意味では原始的だった二進法が一番優れてるね。桁数が跳ね上がるけど、必要に応じて十六進法に変換して圧縮できるし」

 雑談を交えながら、通路を進んでいく。バビロニアの計算機が展示してあり、その使用方法について詳しい解説がついている。流し読みしながら、楽しそうに数学について語る玲の横顔を見た。

「あは、六十進法だって。バビロニア人は相当な捻くれ者だったのかな。こういう数学の考え方一つとっても、当時の気候や地質、宗教や勢力図が綺麗に反映されてて面白いよね。水害に悩まされていたエジプト人の数学体系は本当に合理的で、実用的な幾何学に特化している」

 玲の言葉を聞きながら、それなら玲の数学観にも彼女の暮らしてきた環境などが反映されているのだろうか、とぼんやりと思った。

 数学には強い意欲を見せるが、大学ではそれ以外に興味を向ける事は決してない。その執着心はどこから生まれているのだろう?

「ねえ、京が数学でこれまで一番感心したり驚いたことってなに?」

 展示品が天文学と数学の繋がりに入った時、玲がくるりと私を見てそう尋ねた。

 私は少しだけ悩んだ後、ガウス平面かな、と答えた。

「数直線という考え方自体、文明がかなり発達してから生まれたものだよね。何の疑いもなく、この数直線に全ての数字が入っているのだと思ってた。この一次元的な数直線を二次元的なガウス平面にまで広げるなんて考えもつかなかった。初めてこの概念を知った時、なんというか目眩みたいなのを感じたよ」

「世界が広がる瞬間って、凄いよね。うん。数学の面白いところは、こういう得体のしれない広がりが色々な分野に散らばってるからだと思う」

 彼女は展示品を眺める為に腰を屈めながら、私はね、と言葉を続けた。

「私はね、チャンパーノウン定数が一番好きだよ。この中には全ての有限パターンが入っている。私の電話番号、京の電話番号はもちろん、アスキーコードで表した源氏物語、京が生まれた瞬間の映像のバイナリコード、既に絶滅した生物のDNAのパターン。便宜的に数字で表せる全ての有限パターンが詰まっている。私が生まれてから死ぬまでの情報を電子的にバイナリで記録できるとするならば、私の生涯も予めこの数字の中に詰め込まれている。ある時点での全ての細胞にコードを割り振ったとすれば、その身体構造そのものも記録されている。もし、宇宙に終わりがあるならば、宇宙の果てがあるのならば、宇宙が生まれてから死ぬまでの全ての状態もこのチャンパーノウン定数に入っている。この概念の中に、あらゆる事象が圧縮される。そのどこまでも広がる広大さに、畏敬に似た何かを感じて仕方がないよ」

「全てのパターン……」

 現在社会では、よほど複雑で精密性を求められるもの以外はバイナリデータで表現できる。

 文字。音楽。映像。計算機で表せられるようなものの全てが、チャンパーノウン定数のどこかに既に存在している。

 無理数であり、超越数でもある。循環しない、ということはそういうことだ。決められたパターンを繰り返さない以上、無限に新しい数列を作り出していくのだ。

「……円周率も、無理数で超越数だよね。あれも全ての有限パターンが入っているのかな」

 私の言葉に、玲は残念そうに首を横に振った。

「ううん。円周率についてはまだ証明も否定もされていない。不思議だよね。数学定数の中で最も重要なもので昔からあるのに、まだ殆ど何もわかってないなんて」

 本当に残念そうに彼女はそう言った。

 わからないことを悔しがるように。

「ねえ、展示コーナーはここで一旦終わりみたい。向こうにちょっとしたゲームがあるよ」

 入り口から続いていた通路を抜けると、広場になっている大部屋があった。参加型のちょっとしたアトラクションが置いてある。さっきまでの通路は殆ど人がいなかったが、ここには小さいこどもを連れた親子の姿がちらほらあった。昼に近づけば、もっと人が増えるのだろう。

「あれやってみない?」

 玲が目を輝かせて、一つの筐体を指さす。素数シューティングと大きなタイトルがついていた。どう見ても子ども向けのものだったが、彼女はそれを気にした様子もなく、ずかずかと低年齢層の中に入っていく。

「二人プレイできるみたいだよ! 一緒にやろうよ」

 三、四人の家族連れが並んでいる後ろに玲が陣取り、はやく、と急かす。私は思わず苦笑して、彼女の後を追った。

「画面に素数が出たら撃つのか」

 前の子どもが銃を持って画面に向かって撃ってるのを見て、タイトルと合わせて何となくルールを理解する。画面下には素数について丁寧な解説があって、いくつかの例が載っていた。はじめは例に載っている素数しか出ないが、ゲームが進むにつれて徐々に数字が大きくなっていくようだった。

「もうこれはトップを狙うしかないね」

 玲は不敵な笑みを浮かべ、子どものようにはしゃいでいる。

 子ども嫌いと言っていた割に、こういうのは嫌いではないらしい。

 そして、私達は大人気なくランキングトップを取った。当分、この記録が破られることはないだろう。

 そして、この結果もチャンパーノウン定数には既に刻まれている事なのだろう、とふと考えて落ち着かない気分になった。



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09話 ZFC公理系

 理数博物館を全て回り終えたのは、十二時を過ぎてからだった。

 出口のおみやげコーナーで三十分ほど時間を潰して、外に出る。よく晴れていて、風が気持ちよかった。

「ご飯どうする?」

 玲が眩しそうに空を見上げながら聞いてくる。私は携帯を取り出すと、予め登録していた地図を呼び出した。

「近くにイタリアンがあるって。ランチタイムはバイキング形式みたい。混み具合はわからないけど、いってみる?」

「へえ。値段、大丈夫?」

「そんなに高くないみたい。品数は少ないらしいよ」

「じゃ決定だね」

 玲はそう言って、す、と手を出した。私は僅かに迷った後、彼女の手を握った。

「お昼ごはんの後、どうする?」

 どちらからともなく歩き出すと、彼女が上機嫌な様子で私を見上げた。

「そうだな。適当にブラブラしてみる? この辺り来たことなかったから、ちょっと見て回りたいんだけど」

「うん。知らないところ歩くのってワクワクするよね」

 それから、言葉がなくなった。

 理数博物館で頭を使って少し疲れていたせいか、沈黙も気にならなかった。

 彼女との会話の半分は数学に関連する話だ。その範囲も広く、彼女との雑談は下手な講義を受けるよりも集中力が必要で、どんどん先へいくために気が抜けない。気を抜いていれば、置いて行かれてしまう。

 無言のまま、大通りを渡って地図通りの目的地に向かう。視線を感じて横を向くと、玲が私をじっと見上げていた。

「京は、誰かとこうやってデートしたことある?」

「ないよ。高校の時は部活ばっかりだったし」

「ふうん」

 玲が楽しそうに相槌を打つ。

「健全な高校球児だったんだ?」

「今思えば、野球馬鹿だったな。玲はなにか部活やってなかったのか?」

「帰宅部だったよ。数学以外、興味なんてなかったし。あ、でも先輩に数オリ*1のメダリストがいてね、放課後はよく一緒にいたかな。それが部活みたいなものだったかも」

「へえ……先輩……」

 脳裏に、放課後の教室で誰かと二人っきりで楽しそうに喋る制服姿の玲の姿が浮かんだ。同時に、僅かな不快感が沸き起こった。

「あ、ちなみにその先輩は女だからね。女子校だし。安心した?」

 私の思考を読むように、彼女が悪戯っぽく笑った。

「ちょっとだけ」

 それだけ答えると私は足を止めた。

「ついたよ」

 メニューと値段の載った看板があり、奥に細い階段がある。少し、入りづらい店だった。

 細い階段をのぼって二階に上がると、待ち用の椅子が並んだ空間の先にすぐ店があった。そのまま自動ドアをくぐって中に入る。

「意外と広いね」

 玲が小さい声で囁いて、キョロキョロと周囲を見渡す。入り口からは想像できないほど、中は広かった。

 店員に案内されて席につくと、玲は言いづらそうに私を見上げた。

「ごめん。タバコ、いい?」

 予想外の言葉に、反応が一瞬遅れる。

「え、あ、うん。いいよ。もしかして気遣ってた?」

「うん……あんまり吸わないようにしてたんだけど……」

 そう言いながら、玲は鞄からタバコを取り出すと、そっと火をつけた。

「京は、やっぱりタバコ吸う女の人はいや?」

 ふう、と息を吐いてから玲はどこか自嘲するように言った。

「いや、別に……限度があるけど、ちょっとくらいならいいんじゃない?」

「そっか」

 沈黙。

 私は水に口をつけると、食べ物とりにいこうか、と切り出そうとした。しかし、それより早く玲の唇が動いた。

「ねえ」

 タバコを吸いながら、玲の瞳が真っ直ぐと私に向けられていた。

「私達、まだお互いに知らないことだらけだと思うんだよね。聞かせてよ、きみのこと全部。私も全部言うからさ」

「全部……」

 反芻すると、彼女は微笑んで頷いた。

「そう、全部。きみの中身、全部、知りたいな」

 彼女の瞳が、私を射る。

 正直なところ、この目が私は苦手だ。彼女の瞳は時折、酷く粘着質に感じることがある。

「と言われてもなあ……何から言えばいい?」

「ん、そんな難しく考えないでさ……前、兄弟はいないって言ってたよね。三人家族?」

「ああ。母親は専業主婦。父親は普通のサラリーマンだよ」

「ふうん……なんか、そういうのってよくわからないな」

 玲はそう言って、視線を逸らした。

「前も言ったと思うけど、私、父子家庭なんだよね。基本的に父親は仕事で家には誰もいなかったし。なんだろう。母親っていうのがうまく想像できない」

「……別に、そんなの家によって違うんだから想像できなくてもいいんじゃないか」

「うん……まあ、そうなんだけどね。でも、同じ公理系の中に立っていたいわけじゃない?」

 灰皿の上でタバコを揺らしながら、玲が薄い笑みを浮かべて言う。

「誰もが無意識にZFC公理系の中で思考する。でも、私だけZFC公理系を選択的に選んで、その枠組を意識しながら手探りで作業をすすめるのってなんか、すごく疎外感がない? まあ、こんなこと言っても仕方がないんだけど」

「同じ公理系の中に、立ちたい……」

 彼女の言葉を繰り返すと、そう、と彼女は笑みを深くした。

「だから、京のことをもっと知りたいし、私のことも知ってほしいわけ」

 そして、玲は立ち上がった。

「食べ物、とりにいこうか。それからゆっくりと色々なこと話したいな」

「ああ」

 頷いて、立ち上がる。

 もっと彼女のことを知りたい、思った。

 

「やっぱり、品数は少なかったね。値段考えたら仕方ないけど」

 トレイにピザとパスタを盛り付け終わり、テーブルに戻ると玲が小声で囁いた。

「そもそも、パスタとピザってそんなに種類あったっけ。似たようなのはいっぱいあるけど」

「あー、大別するとかなり少ないかも」

 玲はそう言いながらピザを一口齧ると、うん、と頷いた。

「イタリアか……すぐ出てくるのはフィボナッチだね」

 一瞬、彼女の言葉についていけなかった。

 一拍遅れて、イタリアの数学者、レオナルド・フィボナッチのことだと理解する。

 普通のことを話していても、ふとした拍子に数学の話に飛躍するということが、彼女にとっては珍しくない。

 彼女のこの思考の飛躍に慣れるのにはまだ時間がかかりそうだった。

「とても基本的なことだけど、フィボナッチ数列はいいよね。すごくスマートで綺麗だけど、ポテンシャルが凄い。虫や植物といった自然物の中に不思議と組み込まれていることがある。まるで誰かが数学的にプログラミングしたように。そこに必然性があるように思えてわくわくしない?」

「多分、分解能が足りないんじゃないかな。だから現象は見えるのに関係性が見えない」

 私の言葉に、玲は嬉しそうに微笑んだ。

「それは私もよく思う。空間があるの。空間に、地球のような球体がある。その球体の影が、地面に落ちる。平面上に広がる影の、その一部を切り取った直線。それが、数直線。私達は零れた一つの軸だけすらも扱えなくて、観測しきれない。世界はもっと広大で、続いていて、でも私達の分解能では到底捉えきれない。決して捕まえられない」

 物語を伝えるように、大事な日記を読み上げるように、彼女は言った。それから恥ずかしそうに笑った。

「ごめん。そう、キミのことを知りたいんだった」

「俺はもっと玲の数学観を聞いていてもいいけど」

「それはまた今度。京は生まれも育ちもこっち?」

 玲が小首を傾げ、私の瞳を覗きこむように見上げる。

「そう。引っ越しとかは一回もなかったよ」

「ふうん。中学の時も野球してたんだよね。坊主だったって言ってたし」

「ああ。野球は小学校から地元のリトルリーグに入ってた」

「高校の時、バイトとかは?」

「土日だけ近くの小さいゲーセンで。受験に入って辞めたけど。玲は?」

「短期は何度か。長期はやったことないよ。お金だけは黙って出す親だったし」

 玲は素っ気なく言って、もう一口ピザを齧る。

「……お父さんとは、あまり仲が良くないの?」

「さあ。悪くはないんじゃないかな。どちらかと言えば無関心な方だから喧嘩になったりしないしね」

 私は何も言わず、彼女に倣うようにして手元のポテトを口に含んだ。

「離婚の原因だって、過干渉な母親と家庭に無関心な父親の摩擦が原因だったし。まあ、だから結構自由だよ。門限も曖昧だし」

 彼女はそう言って薄い笑みを浮かべた。

 私は彼女の話を聞きながら、以前も彼女は親に対して似たようなことを話していたことを思い出した。

 あれは確か、将来は数学者になりたい、と言っていた時だっただろうか。

 ――うちもそこまで余裕があるわけじゃないけど、私は親の貯金使い潰してでも院いくよ。これで生涯の数学にかけられる時間が信じられないくらい変わるんだから迷ってなんていられない。

 あの時、彼女は悪びれる様子もなくそう言い切った。

 無関心な父親だと玲は言ったが、玲もそれと同じように父親や家庭に対して無関心なのだろう、と思う。

 仲は悪くない。彼女の言葉はきっと嘘ではないのだろうけど、真実でもない気がした。

「ねえ、この後どうする? ブラブラするって言っても色々あるじゃない。私、出来れば本屋行きたいな。オススメの本結構知ってるんだけど」

 彼女はそう言って、機嫌が良さそうに残りのピザを頬張る。

「ああ……いいよ」

 私が相槌を打つと、彼女は、うんうん、と何度も頷いた。

 それから、私達は色々なことについて話し合った。

 彼女が言った通り、お互いのことについて。

 大学のことについて。

 とりとめのない雑談。

 当然のように数学のことも。

 彼女が言ったような、互いのことについて知り合うということは正直なところたった数時間ではできそうにないが、それでも前には進んでいるのだろう。

 少なくとも、子ども嫌いだ、という彼女の言葉に面食らうことはもうない。

 彼女がタバコを我慢する必要もない。

 父親との関係について下手に踏み込むこともない。

 悪いところも含めて、少しずつ彼女のことを知っていけばいい。

「そろそろ出ようか」

 私が言うと、彼女も頷いて立ち上がる。

 そのまま会計を済ませて外に出ると、私達はブラブラと歩きながら本屋を探した。

 付き合わない?

 初めは、その言葉に戸惑った。

 好き、という感情はなかった。

 でも、こうやって一緒の時間を過ごすことで、徐々にそれらしい感情が芽生えるのだろう。

「ね。あの店寄らない?」

 玲が弾けるように笑って、私の手を引く。

 私も釣られるように笑って、そのまま彼女の手を握り返した。

 このまま穏やかにうまくやっていける。

 確かな根拠は何もなかったけれど、そう思った。

*1
国際数学オリンピック。一年に一度開催される高校生を対象とした数学の国際競技のこと



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10話 スペクトル

 日影玲とのデートらしい初めてのデートを終えて一ヶ月が経過した。

 六月に入り、梅雨前線が日本列島に向かって北上を始めていた。

 玲との関係は変わらず、あれから何度かデートらしいことをした。相互理解は深まったものの、恋人として次の段階に進むことはなかった。私は特にそうしたペースについては気にしていなかったし、彼女も焦れているわけではなさそうだった。互いに付き合うということに慣れていなかったし、交際自体が順調であった為、それはあまり重要なことのように思えなかった。

 数学科では、徐々に講義についていけない者が現れ始めていた。特に解析の講義では目に見えて受講者数が減り、講義中に自習室で復習を繰り返している学生が増加した。解析の単位を落とせば留年の確率が急激に高まるために、私は念入りに予習と復習を行っていたが、それでも理解できているかは怪しかった。

 解析以外でも幾何の講義が難関で、多くの学生は丸暗記という方法で対応し、私もその例に漏れることなく理解を放り投げていた。

 数学科の学生は基本的に就職などを考えずに数学が好きだという理由でここに集まっているはずだったが、その殆どが一年のうちから講義についていけなくなる、という奇妙な現象が起きていた。同じ数学でも高校数学と方向性があまりにも違いすぎるせいだった。厳密性や考え方が一から違ったのだ。

 全ての講義を終えた後、私は玲と離れてイラストサークルの部室に向かった。この頃、玲はイラストサークルを頻繁に休むようになっていた。元々絵に興味がなく、他のサークルメンバーもよく休む為、このまま徐々に休む回数も増えるのだろう。

 部室のドアを開けると、秋月さんと谷口部長がいた。秋月さんはスケッチブックに下絵を描いていて、谷口部長はファッション誌を読んでいた。

「キミも真面目だねえ」

 谷口部長が本から顔を上げて、どこか呆れたように言う。

「部長も毎日いるじゃないですか」

「まあ、単位大体取ってるし」

 谷口部長はそう言って、ファッション誌に視線を落とす。その間、秋月さんは私達に注意を向けることなく、スケッチブックにペンを走らせ続けていた。

 私は秋月さんの絵をちらっと見てから、すぐにカレンダーを開いて、その数字に重なって見える色合いを見つめ、その規則性を探した。

 私は基本的に数字の色をモデルに、それをプロットしていく。モデルとなる数字はなんでもいい。適当な数列の色合いに何かを感じたら、何も考えずにプロットし、また別の数列を探す。そういう作業を繰り返し、絵になりそうなものを見つけるとそこで初めて絵を描き始める。

 部室には暫く沈黙が落ち、たまに秋月さんが下絵を破いて捨てる音だけが木霊した。

 私はカレンダーのパターンを確認し終えると、適当に幾何の教科書を開いて、その中で使えそうなものがないかをじっくりと探した。丸暗記したものの、中身についてはあまり自信がない幾何の教科書と睨み合いながら、たまに出てくる色を見つけては、それをプロットしていった。

「ねえ」

 不意に、低い声がした。平坦な、どこか不気味な声だった。

 顔をあげると、秋月さんが目の前に立っていた。彼女の長い髪の毛の間から、深海を連想させるような暗い瞳が私を真っ直ぐ捉えていた。

「あなた、共感覚を持っているんでしょう?」

「……はい。数字に色が重なって見えます」

 内心、戸惑っていた。秋月さんとまともに話したことはこれまで一度もなかった。

「どうやって、色が見えるの?」

 彼女の暗い瞳が私を捉えて離さない。

「えっと、数字ごとに色が違います。パターンによっても変わって、グラデーションがかかったり……」

「そうじゃなくて」

 私の言葉を、秋月さんの暗い声が引き裂く。

「色は、物体から乖離しているでしょう。色は相互の関係に於いて初めて認識されるものであって、単独で存在しうるものではないでしょう。その色は、あなたの環世界で創造されたものであったとしても、環境の影響を受けるの?」

「……あの、おっしゃってる意味が……」

 私は思わず、否定の言葉を口にした。それを契機に、彼女の唇が機械的に開閉を始める。

「光があるでしょう。太陽が放つ太陽光があるでしょう。青空で拡散されたスカイライトがあるでしょう。反射光があるでしょう。色は光なのだから、私達は物体の真の色ではなく、相互に関係した光をそのまま色として認識するでしょう。曇天ではこのスカイライトが更に拡散するでしょう。室内では光源があるでしょう。白熱灯と蛍光灯のスペクトルパワーの分布は全く異なって色を変化させるでしょう。夜ならどうかしら。ネオン、水銀灯、アーク灯、LEDライト、メタルハロイドランプ、ナトリウム灯。全てスペクトルが異なるでしょう。こうした光があれば影と陰ができるでしょう。最暗部は、オクルージョンシャドウは? 大気が存在する以上、その影には拡散した光が入り込むでしょう。雨ではどうかしら。光が屈折して分解されるでしょう。あなたの共感覚上の色にこれらは反映されて映るのかしら? それとも、一切の影響を受けず、色空間上に絶対座標を持って全ての影響を与えても動じないの?」

 一切の熱量を持たず、彼女は機械的に口を開閉させて問う。

 人形のように整った顔。それを隠すような黒髪。その間から覗く暗い瞳。

 それが不気味で、私は思わず彼女から距離をとるように仰け反った。

「……影はありません。光の影響をそのまま受けて暗いところだと暗く見えます。細かい影響は、その、わかりません」

「そう。あなたも逃げられないんだ」

 秋月さんは独り言のようにそう言った。

「え?」

 私が聞き返した時、既に彼女の視線は私から外れ、部室のドアへ向けられていた。

「秋月?」

 谷口部長の声。それを無視するように、秋月さんはふらふらと部室から出て行く。

 ドアの閉まる音。

 後には私と谷口部長、そして秋月さんの捨てた大量の下絵が残された。

「スイッチ入っちゃった」

 部室に残った奇妙な空気を払拭するように、秋月さんが茶化すように言う。

「スイッチ?」

「なんかたまにブツブツ言い出すんだよね。なんか壁にぶつかってるのかなあ。まあ、私みたいな凡人には理解できないけど」

 谷口部長はそう言って、何事もなかったように本に視線を落とす。いつの間にか谷口部長の手にはファッション誌ではなく漫画が握られていた。

 私は秋月さんの出ていったドアに視線を移すと、どうしてもある疑問が胸の奥から沸き起こり、谷口部長にぶつけた。

「……あまり他人のことについてこんなこと言うのも変ですけど……なんで秋月さんって美大に行かなかったんでしょうか。才能もあって、あれだけ熱意もあって……」

 谷口部長は漫画から目を離さず、軽い口調で答える。

「あー、長瀬くんは秋月の学科知らないんだっけ?」

「あー、そういえば知らないですね」

「理学部だよ。物理。現象をきっちり理解したいんだってさ。さっき言ってた光だってそう。描く世界を完全に把握したい。そう言ってたよ」

「描く世界を、把握したい……」

「そう。真面目っていうかさー、なんか危ういよね。完璧主義っていうの、あれ? 一回転んだらさ、ね」

 谷口部長はそれから漫画を閉じて立ち上がった。

「あー、私もう帰るわ。戸締まりだけよろしく」

 そう言って、谷口部長が去っていく。私は気のない言葉を返して、谷口部長が残した言葉を反芻した。

「一回転んだら……」

 一体、どうなるのだろう。

 人生を賭けて全力で取り組んできた事に失敗した時、人はどうなってしまうのだろう。

 私は思わず、自分の右肘を見た。

 故障して、挫折した野球。

「そんなんじゃないだろ」

 自然と、呟きが零れた。

 それからどうしようもなくイライラして、全てがどうでもよくなって、私は逃げるように目を閉じた。

 瞼の裏に、一瞬だけ球場の景色が広がった。

 あと少しで掴めそうになって掴めなかったものが、そこにあった。

 外から梅雨前線の到来を知らせるように、雨音がする。

 記憶から蘇った幻は、雨に押し流されるようにして一瞬で掻き消されていった。



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11話 閾値

「雨、多いね」

 その日も雨が降っていた。講義室前の傘立てに傘を置いたところで、後ろから玲の声がした。

「梅雨入りしたらしいね」

 振り返ると、雨に濡れて髪がくしゃくしゃになった玲がいた。彼女は潰れた髪型を気にするようにいじりながら、最悪、と呟いた。

「傘は?」

「持ってきたけど、完全に横雨だったから全然意味なかったし」

 傘立てに傘を無理やり入れながら、玲はそう言って不機嫌そうに講義室に入る。私もそれに続いて、適当に空いている席に座った。教養科目であったため、私も玲もあまり講義自体に興味はなく、講義が始まるまでの間、あまり見慣れない別の学科生たちをぼんやりと見つめた。

「ね。雨の中、どうやったら一番濡れないかな」

 突然、玲がそんなことを言い出した。

「体を小さくして走るのが一番じゃないかな」

 私の言葉に玲は小首を傾げて、本当にそうかな、と呟いた。

「走ると、前方向の雨を体が吸収するよね。腕と足も大きく降るから、より多くの空間を占有して、その分の雨を受けるじゃない」

「まあ、そうだけど。歩くよりはましじゃない?」

 玲は黙りこむと、じっと前を見つめて動かなくなった。

 付き合って二ヶ月。

 大学でほぼ毎日顔を合わせている為、彼女のこうした動きが既に気にならなくなっていた私は前回のレジュメをぱらっと復習することにした。

 講師が入ってきて講義が始まっても、玲はうわの空だった。教養科目であるため、講義室にいる学生の殆どにやる気がなく、特別玲が浮いているわけではなかったので、私は何も言わなかった。

 講義が始まってから十分ほど経った時、不意に玲がルーズリーフに何かを熱心に書き始めた。

 数式だった。

 中身自体は簡単なもので、いくつかのパターンを書き出しているようだった。暫く彼女はそうやって熱心に書き続け、時々考えこむようにペンを止めたかと思うと、何かを思いついたように再びペンを走らせる。そんな様子が十分ほど続いた後、彼女は満足そうにルーズリーフを私に押し付けた。

「人間を立方体、雨粒も均一に存在する。雨は等速運動で降ってくる、と仮定しよう。こうやって、側面と上部で分けて考える」

 数式を指しながら、彼女が小声で楽しそうに説明する。

「ほら、単位時間あたりでは、走ったほうが濡れる。でも、もちろん、走った場合は濡れる時間が減少するから、合計では濡れない。これは感覚的に納得できるよね。じゃあ歩いたら得する場合、走ったら損する場合の閾値はどこだろう」

 私は、ちら、と講師の方を見た。講師は気にすることなく独り言のように講義を続けている。

「雨の傾きを操作してみる。どんどん傾けてみる。側部の影響が大きくなって、上部の影響は徐々になくなる。横殴りの雨。ほら、ここ。走ると余計に濡れて、歩くと逆に濡れないようになる。次に、雨の密度も操作して、目的地までのトータルで濡れる量の影響差を縮めてみる。どんどん縮める。これで雨の中を歩く方がどんどん有利になった。この二つで現実的な値を探してみると――」

 そこで、講義室に一人の影は入ってきた。日向だった。

 途中で顔を背けた私に釣られるように、玲も話を止めてこそこそと入ってくる日向に目を向けた。講師は途中で入ってきた日向を気にすることなく、独り言のように講義を続けている。

「ここ、いい?」

 小声でそう言って、私と玲が何か言う前に日向は空いていた前の席に腰を下ろした。

「雨で道が凄い混んでてさ」

 日向はそう言いながら荷物を置いて、前列に置いてあるレジュメをとりに向かう。私はそれを見送ってから、玲に視線を戻した。

「えっと、現実的な値を探すと、どうなるの?」

「……もういい」

 玲は不機嫌そうに、ルーズリーフを足元の鞄に突っ込んで、それからつまらなさそうに頬杖をついた。レジュメをとりにいった日向が小走りで前の席に戻ってくる。

「Webに正解全部載せてくれるからこの講義楽だよね」

 日向が嬉しそうに話しかけてきて、私は思わず苦笑した。

「逆に面倒じゃないか、それ。聞きながら書いてる方が頭に入る」

「後でやったほうがお菓子食べながら適当にできるじゃん」

 日向はからからと笑って、それから講師の方を気にするように笑い声を抑えた。

 私は隣の不機嫌そうな玲が気になって、ペンを止めた。日向はそれに気づかず、あるいは気にしていないのか、小声で話を続ける。

「今日もイラストサークル出るの? 私も出ようかなって思ってるんだけど、誰もいないと寂しいからさ。部長は毎日来てるんだよね?」

「……谷口部長は、デートがある時以外は全部来てるんじゃないかな」

「そっか。あの人、あまりそういうの出さない人だよね。なんか余裕あっていいな、そういうの」

 玲は、喋らない。彼女は、私以外の人間と殆ど喋らない。人見知りなのか、日向のようなタイプの人間が嫌いなのか。あるいは両方かもしれない、と思った。

 結局、玲は講義が終わるまで一言も喋らなかった。

 

「今日は私もサークル出るから」

 廊下で日向と別れた後、玲は開口一番にそう言った。

「え?」

「京があの人といるの、嫌なんだけど」

 玲が睨むように私を見上げる。以前にも似たようなことを言っていたのを思い出し、私は適切な言葉を探した。

「……俺は、その気ないよ。信じられない?」

「京の気持ちは関係ない。あの人が、京をそう言う目で視るのが嫌。耐えられない」

「日向には、多分、そういう感情はないと思うよ」

 そのはずだった。高校時代でも、日向との接触は殆どなかった。イラストサークル内でもそれほど親しいわけでもなければ、二人っきりで食事に行ったことも誘われたこともない。こちらから誘ったようなこともない。

「そう。そういう感情はない。優ではない。でも、可、なの。勢い、雰囲気、流れ。そういうもので、可、になるの。もしかしたら、優、になるかもしれない。不可、ではないでしょ。その可能性が許せない」

 玲は苛々するようにそう断言した。私は彼女の言葉を咀嚼しながら、慎重に言葉を選んだ。

「……別に、一緒に食事に行ったりとかはしないよ。でも、同じサークルに参加しているんだから、部室で顔を会わせることは仕方ない。そんなことでサークルを辞めたら、何もできなくなる」

「わかってる。私、別に無理を言うつもりなんてない。だから私もただサークルに出るってだけ。なに。それも嫌なの?」

「そういうわけじゃ。でも……暇じゃない?」

「いいよ。私、気にしないから。次、遅れるよ。行こう」

 話を打ち切るように、玲が歩き出す。私は少し迷った後、言葉を繋げた。

「玲。次の休み、どこか行こうか」

 玲は僅かに驚いたように振り返る。

「まだ詳細は決めてないけど、予定だけ空けといて欲しい」

 彼女の表情に喜色が彩り、それから彼女は弾けるように笑った。

「部分点。加点」

 

 全ての講義が終わって一階のエントランスホールに来た時、隣を歩いていた玲が不意に立ち止まった。

「先行ってて。トイレ」

 私は頷いて、そのままエントランスから外に出た。外はまだ雨が降っていて、どんよりとした雨雲が頭上を覆っていた。

 傘を開いて、部室のある棟に向かう。その途中、人影が見えた。傘も差さず、雨天を見上げる影。

 その人影が秋月さんであることに気づいて、私は足を止めた。

 秋月さんは雨を気にする様子もなく、頭上の雨雲に向かって右手を突き上げたまま動かない。

「秋月さん?」

 近づくと、彼女はひどく緩慢な動作で私の方を振り向いて、目元にへばりついた黒髪をそっとかき分けた。

「通常、固有色は、私達にはその固有色とは異なった光で経験される」

 彼女は唐突にそう言った。

 ざーざーと五月蝿い雨音の中、それほど大きくない彼女の声は不思議とクリアに聞こえた。

「空にかざした手は、晴天であるならばスカイライトを浴びて変色し、コントルジュールによってフォームが浮かび上がる。でも、それだけじゃ正しくない」

 秋月さんは雨の中、ゆっくりと腕を下ろしてそれを私に向けた。

「血液中のヘモグロビン、筋肉に含まれるミオグロビン。この二つの色素によって、太陽にかざした手は視覚によって赤く経験される。物体中のこうした特異性がわかっていない限り、環境光だけで全ての光を捉えることは難しい」

 そして、彼女は無表情に言った。

「観察していたの。雨の中、空にかざした手。それを、私はまだ経験していない。だから、観察していたの」

「……風邪、ひきますよ」

 秋月さんは表情一つ変えることなく、それもいい、と答えた。

「風邪という状態が視界に与える影響を、私はまだ良く観察できていない」

「……せめて、傘だけでも」

 私が傘を彼女に向かって伸ばそうとした時、彼女の黒い瞳が私を正面から捉えた。

「いらない」

 不要な影できる、と彼女の拒絶を受けて、行き場を失った傘が私と彼女の間で止まった。

 肩に降り注ぐ雨が冷たかった。

「経験と訓練が、必要なの。訓練を受けていない人は、アスファルト、コンクリート、曇天。そうしたグレーの色彩を捉えられない。グレーの中に混じる色合いを捕まえるには、訓練と経験が必要。あなたは、あの雨雲の色が見える? 私には見える。決められた訓練を順番に行ってきたから。これも、構造を捉える為の訓練なの。放っておいてくれないかしら」

「訓練……」

 私は何も言えなくなって黙り込んだ。

 彼女は私を無視するように再び手のひらを雨雲に向かって突き上げる。

 ざーざー、と雨は弱まる気配を見せず振り続けていて、雨音だけが私と彼女の周囲を支配していた。

「見えなくなったの」

 ぽつりと、秋月さんが空を見つめたまま言う。

「昔は見えていたはずのものが、いつの間にか見えなくなってしまったの」

 私は彼女の言葉の意図がわからず、何も言わずに次の言葉を待った。

「太陽の絵を描く時、幼い頃の私は真っ赤なクレヨンを手に取っていたの。その赤は一体どこから出てきたのかしら」

 雨に濡れた彼女の横顔は、どこか泣いているようにも見えた。

「見えていたはずのものが、死が近づく度にどんどん見えなくなっていくの。忘れていってしまうの」

 見えていたはずなのに、と彼女は呟いて、それから何も言わなくなった。

 後には雨音だけが木霊して、私は傘を持ったまま動けなくなっていた。

 彼女の言葉が、遠い情景を思い出させた。

 記憶もあやふやな、遥か昔の、しかしとても懐かしい何か。

 何かが沸き起こりそうになって、しかし、それはすぐに過ぎ去って、何も掴めない。

「京?」

 不意に、玲の声がした。

 振り返ると、傘を差した玲がいた。

「秋月さん……?」

 私のすぐ横にいる秋月さんに気づいて、玲も近寄ってくる。しかし、秋月さんは玲を無視して、空を見つめ続けている。

 玲はじっと秋月さんを見た後、私の手を取った。

「京、行こう」

 私は迷うように、雨に濡れる秋月さんを見た。

「いいから。邪魔しちゃだめ」

 邪魔。

 その言葉を受けて、私は彼女の邪魔をしているのだ、とようやく自覚した。

「ああ……」

 自然と、意味のない相槌が喉の奥から飛び出した。私は玲に引っ張られるようにして、秋月さんに背を向けた。

「かわいそうな人」

 最後に、小声で玲はそう呟いた。

 私は思わず、玲を見た。玲は前を向いたまま、言葉を続ける。

「ああいう人って、どこに到達しても満たされないんじゃないかな。それはきっと、限界を作らない芸術家としての才能だよね。でも、人としてはとても不幸」

 雨の中、私は玲の言葉の意味を考えて、うん、とだけ答えた。玲はそれ以上、何も言わなかった。

 部室のある棟に辿り着いて、傘を閉じる。玲は鬱陶しそうに濡れた前髪を払うと、それから微笑んだ。

「今日は何か描くの?」

「……良い数字があったら」

 私の言葉に彼女は何故か嬉しそうに笑って、それから廊下を進んでいく。私もその後を追って、部室に入った。

 中には、谷口部長と日向がいた。

「あれ。日影さん珍しいね」

 谷口部長が玲を見て意外そうな顔を浮かべる。

「遊びに来ました」

 玲はそう言って、愛想笑いを振りまく。普段ならそのまま邪魔にならないように端っこにいる事が多いが、今日の玲は携帯を手に私にひっついてきた。

「ね、京、これどう? なんか面白い色とかない?」

 彼女が見せてきたものは、円周率を延々と記述したサイトだった。画面いっぱいに数字が羅列し、数学嫌いな人が見れば頭痛がしそうなものだった。

「円周率はあまり真剣に見たことないな」

 私は彼女の携帯を覗きこんで、初めて見る色合いを探した。自然と玲との距離が近くなる。

「……熱いね」

 谷口部長の呆れたような声。それから私は何となく日向の方を見た。日向はこちらに興味なさそうにデフォルメされたうさぎの絵を描いている。

「ほら、ここは。同じ数が続くところ」

 玲がますます距離を縮め、身体が完全に密着する。

 私は玲の意図をようやく理解して軽い疲労感に襲われた。

 今日は、何も描けそうになかった。



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12話 グラフ理論

 連日のように雨が降っていて、洗濯物が溜まる一方だった。

 じとじとした部屋で干すことに抵抗感があった為、その日、私は講義後に一度家に戻ってから近所のコインランドリーに洗濯物を突っ込んで、それから時間潰しを兼ねて部室に向かった。

 部室には秋月さんしかいなかった。私がドアを開けると同時に彼女は絵を描いたまま目を合わせず口を開いた。

「部長は今日は来ない。最後の人が戸締まり」

「はい」

 私は邪魔にならないように最低限の答えを返すと、そのまま隅で図書室で借りてきたグラフ理論の本を取り出して、適当な図を見繕った。

 面白そうなグラフがあると、それをスケッチブックに移して出来るだけ普通の木のように書いていく。適当に書いていたら何かそれっぽく見えないだろうか、という程度の落書きだった。

 いくつかのパターンを描いてそれっぽいのが出来上がると葉っぱを付け足して本物の木に近づけていく。これを玲に見せたらどういうグラフかすぐに気づくだろうか。そんなことを考えながら何十分も時間を潰していると、不意に影が差した。

「一般的に、枝が三つに分かれる木は、全ての枝が同様に三つに分かれる」

 抑揚のない低い声。

 振り返ると、秋月さんが背後に立って私のスケッチブックを見下ろしていた。

「あ……そうなんですか。でも、すみません。これ、元々数学のあるグラフを元にしたものなんです。だから、あまり気にしないことにします」

「グラフ……」

「はい。プログラミングで利用されるある木構造を上下に反転させたものです」

「そう。意味のない指摘だった」

 秋月さんはそれだけ言うと、静かに自分の席に戻っていった。秋月さんからこうやって話しかけられることは非常に珍しいことで、私は思わず会話を繋げる言葉を無意識のうちに探して選びとった。

「絵、ってただ過去にみたものを記憶に頼って描いてるだけじゃ駄目なんですね。今まで、全く意識したことがありませんでした。光とか、物質中の特異性とか、植物の遺伝的な決定事項。そういうことが抜けてしまえば、全て嘘になってしまう。知りませんでした」

「そう。だから、画家は構造を捕まえる為の訓練を行う。絵の訓練ではなく、構造の理解を行う。人を描くために解剖学の知識を一通り修め、光の特性を捉え、相対性を排除して色彩を見分け、その色に近づけるための色の混合を総当りで覚えていく。東西古今の建築法を把握して、あらゆる物体の規格、スケールを記憶していく。でも、数学的なアートを基本としているあなたには必要ないこと」

 珍しく饒舌に、秋月さんはそう語った。

 彼女の瞳はもう、キャンバスに向けられて動かない。

「秋月さんは」

 自然と、口が動いた。彼女の絵に対する熱に対しての疑問が、自然と飛び出した。

「どうして絵を描かれているんですか?」

 口に出してから、ひどく失礼な質問のように思えて、私は取り繕うように言葉を繋げた。

「楽しいから、でしょうか? それとも、尊敬しているアーティストが――」

「納得したいから」

 私の言葉を遮るように、秋月さんの低い声が響いた。

「私は今見えている世界を理解して、納得したい」

 彼女の瞳は、いまだにキャンバスを捉えて離さない。

 しかし、彼女の言葉は力強く私の耳を打った。

 憧れや模倣。そうしたものとは到底かけ離れていて。

 感情や欲求。それとも次元が違う。

 衝動ともいうべき何かを彼女から感じて、そしてそれを感じることによって秋月さんの絵に対する熱意に対して納得のようなものが得られた。

 本物と偽物。

 その二つの分類があるとするならば、彼女は間違いなく本物だった。

 憧れのような感情が、私の中で渦巻いた。それは、私が偽物である証拠。でもきっと、彼女はそうした憧れという感情を他人に抱いたことがないのだろう。

「秋月さんは、画家になりたいんですか?」

「別に。けれど、超えなければならない。フェミールは、たった十七の顔料しか使っていなかった。あの人達は不幸だった。今はもう、状況が違う。それくらいは、超えなければならない。私もいずれ大勢の人たちに追い越される。不幸になる時がくる。でも、今は、この時点では、超えないといけない。そこからようやく始まる。そうでないと、納得なんてきっとできない」

 秋月さんはそう言って筆を動かし続けている。私は何も言えなくなって、彼女の絵を黙って見つめることしかできなかった。

 不意に、秋月さんの筆が止まる。それから立ち上がると、彼女はドアに向かって歩き始めた。

「戸締まりお願い」

 秋月さんはそれだけ言って、部室から出て行く。私は広々とした部室の中で立ち尽くして、それから時計を見た。既に洗濯が終わってる時間。

 部室から出る直前、秋月さんの絵が目に入った。

 未完成の、絵。

 素人目には八割は完成しているように見えた。これも、だめだったのだろうか。

 私はそれに目を奪われた後、努めてそれを無視するように部室の鍵を閉めた。

 廊下の先に見える外は、雨に包まれている。私は傘立てから黒い傘を取り出すと、そのまま外に向かった。

 雨が降っている。

 雨雲にかざした手をじっと見つめていた秋月さん。

 雨を数学的に捉えようとしていた玲。

 私はただ、コインランドリーに向かう為だけに雨の中を進む。

 そしてふと、小さい頃を思い出した。

 雨の中、投げ込みをしていた幼いころの私。天気も気候も関係なく、がむしゃらだったあの時。

 遠い昔の出来事だった。

 あの頃の私はもう、どこにもいない。

「そろそろ試験勉強か」

 解析についての理解が怪しい。もう一度復習する必要があるな、と思考を強引に日常に戻す。

 他人から与えられたカリキュラムを、まずは消費しなくてはならない。

 じとじととした雨が、鬱陶しかった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 その日は午後からしか講義がなかったため、エントランスホールで玲と待ち合わせをしていた。

 窓際の休憩席でぼんやりと学生の出入りを見つめていた私に、ゆっくりと歩いてきた玲がだるそうに手をあげる。心なしか、顔色が白く見えた。

「玲?」

 休憩席から立ち上がると、彼女は曖昧な笑みを埋めて小首を傾げた。

「軽い頭痛がするだけ。薬は飲んだから大丈夫」

「……昼飯、どうする? 食欲は?」

「うん。頭がちょっと痛いだけだし」

 頭痛持ちなんだよね。彼女はそう言って、食堂に繋がる廊下に向かって歩き始める。

 三コマ目と四コマ目の講義は必修科目だ。私は彼女の顔色を観察してから、それほど無理はしていない、と判断した。薬が効いているだけかもしれないが、講義を受けるだけなら大丈夫だろう。

 食券を買って、私が交換している間に玲には席取りにいってもらった。席に戻った時には彼女は額を抑えて目を閉じていた。

「食欲は?」

 彼女の前に親子丼を置くと、うん、と短い言葉が返ってきた。もそもそとスプーンを手にとって食べ始める。それを確認した私は、僅かに安堵して自分の食事に手をつけた。

 結局、彼女は半分以上を残した。

 

 三コマ目。彼女は講義を聞かず、だるそうに顔を伏せていた。薬が効いていないのは明らかだった。

 板書をすぐに消す教授と競うようにルーズリーフに証明を書きなぐりながら、私は何度も玲の様子を伺っていた。心なしか、頬が朱いように見える。

「熱、あるんじゃないのか」

 小声で話しかけると、そうかも、と玲は顔を伏せたまま答えた。その間も板書を順番に消していく教授。私は取り残されないように再びノートをとる。

 玲の体調は回復せず、悪化しているように見えた。三コマ目が終わり、僅かに講堂が騒がしくなる中、玲はだるそうに立ち上がる。

「……玲、無理しない方が」

「……後一時間半だけだし。心配しなくていいよ。たかが頭痛だし」

 玲は鞄を手に取ると、そのまま出口へ歩き出す。たかが頭痛。そう言われるとそれ以上は何も言えず、私は小さく息をついた。

 廊下に出ると、見慣れた顔と目があった。日向だった。

「あ、長瀬。私、今日サークル出るからね」

「え、ああ」

 そうしているうちに、玲はどんどん先へ行ってしまう。また、とだけ言葉を返して私は足を早めた。

 次の講義室は同じ階だ。そのまま廊下を進んで、玲と並んで中に入る。出来るだけ目立たない後ろの席に座るなり、玲は机に突っ伏して動かなくなった。どうやら、本気でしんどくなってきたらしい。

「今度、ノートコピらせて」

 くぐもった声。ああ、とだけ答えると、彼女はそれっきり動かなくなった。

 試験が近い為か、普段より僅かに人が多い講義室。

「解析、本気でやばいんだけど」

 近くの席から、そんな言葉が届いた。それほど騒がしくない中、自然とその後の言葉も聞こえてしまった。

「中学、高校の時は、数学が楽しくて仕方なかったんだけどさ。なんかさ、最近違うなって感じてきた。俺、本当に数学が得意だったのかなって、それすらも分からなくなってきて」

 私は、意識的に教科書を開いて続きを聞かないように努めた。

 それでも、それは聞こえてしまう。

「今度の成績次第で、辞めるかもしれない」

 教科書を握る手に不自然に力が入って、紙に皺が寄る。私はそっと力を緩めると、皺を伸ばすように教科書を撫でた。

 その時、教授が講義室に入ってきた。周囲が徐々に静かになる。それ以上の言葉を聞かなくてよくなったことに、私は内心安堵していた。

 他人の挫折の瞬間など、出来れば見たくない。

 私は大きく息を吸うと、ペンを手に取って先ほどの言葉を忘れようといつも以上に講義に集中した。隣の玲は、突っ伏したまま動かなかった。

 

 四コマ目の講義が終わってすぐ、玲は身体を起こした。その動きは緩慢で、活気が無い。

「終わった?」

 そう言いながら立ち上がる玲の顔は、青白い。

「ごめん。ちょっと」

 突然、玲が出口に向かって走る。机に彼女の鞄が置いたままで、私はそれを手に取ると、その後を追った。

「玲?」

 声をかけた時、彼女は既に廊下に出ていた。追いかけると、玲はそのままトイレに入っていった。

 嘔吐だろうか。

 五分ほどで、玲は出てきた。

「最悪」

 短くそう言って、玲は額を抑えた。頭痛も酷いらしい。

 大学から駅まで距離がある。私は僅かに迷った後、一つの提案をした。

「家、駅より近いけど。休んでいく?」

「ごめん。甘える」

 覇気がない声で玲はそう言うと、ふらふらとエレベーターに向かって歩き出す。私はそれに並ぶと、一階エントランスまで降りて外に出た。曇ってはいるが、幸い雨は降っていない。

 東口からキャンバスを出て、そのまま通い慣れた道を進む。その間、玲はだるそうに私の後を歩いていた。

「着いたよ」

 赤茶色の外装のマンションの前に来ると、玲も心なしか安心したような表情を見せた。

 二階まで階段で上がり、鍵を開ける。その間、玲は終始無言だった。

「おじゃまします」

 私が入った後、玲がそう言ってブーツを脱ぐ。

「ベッド、使っていいから。吐き気ある?」

「ちょっと。気持ち悪い」

 玲が上着を脱いで、ベッドに倒れ込む。その間に私は浴室から洗面器を持ってきて、横に置いた。

「一応置いとく。下は安いカーペットだし、別に気にしなくていい」

「ん、ありがと」

 弱々しい玲の声。さっきまでの青白い顔色とは違い、頬がほんのりと朱い。

 薬箱の中に入れていた体温計を取り出して、玲に手渡す。

「一応、測った方がいいと思う。偏頭痛じゃなくて、風邪じゃない?」

「かも」

 もぞもぞと布団の中で玲が体温計セットする。その様子をぼんやりと眺めてから、視線を時計に移す。四時半過ぎ。まだ外は明るい。

「休んで落ち着いたらタクシー呼ぼうか」

「うん」

 弱々しい玲の姿が、どこか新鮮だった。

 体温計の電子音。体温計を取り出した玲が小さく呻く。

「八度二分」

「結構高いな」

 引っ越してまだ四ヶ月。クーリングの道具が家にはない。

「薬局行ってくる。すぐ戻るから」

「うん」

 小さな返事。私は立ち上がると、玄関に向かった。

 後は薬と、スポーツ飲料もいるか。ついでに胃腸薬なんかも買っておこう。いつか使うかもしれない。

 まだまだ買い足りないものが結構あるものだ。そういえば、近辺の病院もよく知らない。一度調べておかないと。

 外に出ると、生ぬるい空気が私を包んだ。灰色の雲間から明るい日差しが差し込んでいる。梅雨明けも近いかもしれない、と思った。



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13話 1+1

 薬局で必要なものを買って部屋に戻ると、玲はベッドの中で静かな寝息を立てて眠っていた。僅かに頬が紅潮し、額には玉のような汗が滲んでいる。

 買い物袋の中から冷却シートを取り出し、そっと彼女の額に貼ると小さく呻いたが、目を覚ます様子はなかった。

 薬やスポーツ飲料水の入った買い物袋をそのままテーブルの上に置くと、途端に手持ち無沙汰になって私は部屋を見渡した。玲が寝ている以上、テレビをつける事も出来ない。

 結局、静かに試験勉強をすることにした。まとめていたノートを読み直し、一度でも躓いたところを繰り返し反復する。

 そのまま復習に集中してふと気づくと、時計は午後七時を指していた。玲はまだ起きる気配を見せない。

 そろそろ起こすべきだろうか。しかし、以前に玲が言っていた言葉が脳裏をよぎった。

 父子家庭。

 関係は冷えきっていて、互いに無関心。

 そして、こうも言っていた。父親は殆ど外で食べてくる。門限はない、と。

 玲を起こしてタクシーで送ったとしても、恐らく自分自身で夕食を用意せねばならないだろう。家族が家にいるならともかく、どうせ一人ならばよく眠っているところをわざわざ起こす必要性はないように思えた。

 そっと部屋の明かりを消して、廊下に付随している狭いキッチンに移る。この時間ならばついでに夕食も用意したほうがいいか、と考えて私はお粥でも作ることにした。

 室内が静かであるため、物音が妙に大きく聞こえた。いつもは隣の部屋でテレビや音楽をかけっぱなしにするため、不思議な感じがした。

 そのまま三十分ほど経った時、不意に横から声が届いた。

「今、何時?」

 振り返ると、ベッドで上半身を起こした玲が暗闇の中からこちらを見ていた。

 私は鍋の前に立ったまま、つけっぱなしだった腕時計に視線を落とした。

「七時半過ぎ」

「七時半……」

 玲は周囲を見渡して、それから額を押さえた。

「頭、まだ痛む?」

「ううん。大分マシになった。ごめん」

「夕飯のお粥作ってるんだけど、食欲ある? いらないなら俺が二人分食べるけど」

「……いい香り……うん。貰う」

 弱々しい声。

「もうちょっと寝てたら? 後十分くらいかかる」

「うん」

 沈黙が落ち、鍋の音が妙に大きく響いた。

「ねえ」

 小さな玲の声。

「サークル、行かなかったんだ」

 その話があまりにも唐突に思えて、私は思わず振り返った。

 キッチンの明かりが漏れ、ベッド上で上半身だけを起こした玲の瞳が私を真っ直ぐ捉えているのがはっきりと見えた。

「サークル?」

「日向さんと話してたでしょ。結局、行かなかったんだ」

 三コマ目の後の話だろうか。廊下ですれ違いざまに日向が何か言っていた気がする。ほぼ一方的な会話だったが。

「ああ、忘れてた」

「ふうん」

 途端に玲は興味を失ったように横になり、そのまま寝返りを打つ。

 彼女はそれっきり喋らなくなり、私は黙々と出来上がったお粥をお皿に盛りつけた。

「出来たよ。どうする? 後にする?」

「……今もらう」

 玲はそう言って、もぞもぞとベッドから降りた。

「お粥。炊飯器で作ったんじゃないんだ。初めて来た時は鍋すらなかったよね」

 器を覗き込み、意外そうな顔をする玲。

「最近はそこそこ自炊するようにしてる。ああ、無理に全部食べなくていいよ」

「うん」

 ゆっくりと食べ始める玲を眺めてから、私も自分の分に手を延ばす。

 暫く、静かな食事が続いた。

 様子を見ている限り、玲の状態は大分回復しているようだった。食欲もそれなりにあるらしい。

「父親には連絡した?」

 食べながら、気になっていたことを問いかける。

「まだ」

 玲は短く答えて、食事を続ける。やはり、という思いが私の中にあった。

「いいよ、別に。いつ帰ってくるかわからないし、顔合わせない日のほうが多いくらいだし」

 あまりにも素っ気ない返答。

 その素っ気なさが、私には強がっているように映った。だから、自然と口が動いた。

「……泊まっていけば?」

 私の言葉に、玲が動きを止める。

「今日中に熱は下がらないだろうし、ゆっくり寝てればいい」

「……迷惑じゃない?」

「二十四時間看病するわけじゃないし」

 沈黙。

 玲の瞳が迷うように動いて、それからすぐに私を見た。

「いいの?」

「いいよ。必要なものがあれば言って。買ってくるから。あ、歯ブラシならまだ使ってない予備とかもあるけど」

「……ありがとう。でも、今は何もいらないかな」

 私は頷いて、食事を再開する。それを見た玲も、止まっていた手を動かした。

 暫く無言で食事を続けて、玲はお粥を完食した。

「ごちそうさま」

「市販薬だけど、一応薬買ってきた」

 私が薬を渡すと、彼女はだるそうにそれを飲み込んだ。そのままふらふらと立ち上がる。

「ごめん。寝る」

「うん。おやすみ」

 ベッドに倒れこむ彼女を横目に、夕食の後片付けを始める。

 明日になっても恐らく熱は完全には下がらないだろう。洗い物をしながら、明日の予定を確認する。

「明日、休む? それなら起こさないけど」

「……うん。休む」

「わかった」

 私は頷いて、そのまま最後の鍋を洗った。それから乾燥機に突っ込んで、部屋に戻る。

 時計は午後九時を指していた。寝るには少し早い。

 机のスタンドライトをつけて試験勉強を再開する。必修科目を念入りに。

 暫く机に向かっていると、背後から声がかけられた。

「ねえ」

 振り返ると、ベッドの中から玲がこちらを見ていた。

「京は、どこで寝るの?」

 どこか探るような言い方だった。

「下で適当に寝るよ」

 即答すると、沈黙が落ちた。

 ベッドの中の玲の視線が、部屋中を舐めるように彷徨った。

「……知ってる? 風邪って他人に移した方が早く治るんだって」

 完全に不意打ちだった。

 一瞬、頭の中が真っ白になった。

 私は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。

「……なら、一緒に寝ようか」

 言ってから、失敗したのではないか、という思いが湧いた。

 しかしすぐに杞憂だとわかった。

 玲は口元を隠すように布団をかぶって、うん、と小さく答えた。

 薄暗い部屋の中、玲がもぞもぞと動き、私のためにスペースを空ける。

 私は手に持っていたペンを机に転がして、スタンドライトの明かりを消した。

 ベッドに向かい、そっと中に潜る。

 すぐに玲の手が腕に絡んできた。

「……風邪の時ってさ」

 囁くような声で、玲が言う。

「人肌が恋しくなるよね」

 そう言って身を寄せる玲は、ひどく幼く見えた。

 時々、彼女は驚くほど幼く見える時がある。

 だから普段の傲慢とも言える振る舞いも、私には気にならなかった。

「……ああ」

 そっと後ろ髪を撫でると、玲は気持ちよさそうに目を閉じた。

 それから、玲の目がゆっくりと開いた。

 どこか粘着質な視線が暗闇の中、じっと私に注がれるのがわかった。

「普段はあんまり言わないけどさ」

 そう前置きして、玲は妖しい笑みを浮かべた。

「私、京のこと好きだよ。怖いくらいに」

 そして、唇に柔らかいものが触れた。

 

 

 

 朝。

 昨夜と同じように試験勉強をしていると、背後のベッドで玲が動く音がした。

「おはよう」

 手を止めて振り返ると、玲と目が合った。

 彼女は少しだけ恥ずかしそうに笑うと、眠そうに上半身を起こしながらキョロキョロと周囲を見渡した。

「……おはよう……ごめん、今何時?」

「十一時半。お昼前」

「……そんなに寝たんだ、私」

 寝癖を気にするように頭を抑える玲は、昨日に比べて顔色が良い。

「熱、測ったら?」

「あ、うん」

 ベッド横のミニテーブルに乗っていた体温計を玲に向かって放り投げると、彼女は上手くそれを受け取ってもぞもぞと服の中に体温計を滑りこませた。そこで彼女は不思議そうに私を見た。

「京って午前の講義なかったっけ?」

「自主休講にした」

 玲は一瞬意外そうな顔をした後、ふうん、とだけ呟いてごろんとベッドに寝転がった。

「ただの風邪なのに」

「大事な講義でもなかったから。解析とかだったら行ってたよ」

「解析、か。そんなに不安?」

「自分の理解度がよくわからない」

 正直に言うと、彼女は笑みを浮かべた。

「理解した、なんて思わないほうがいいよ。どうせあとで全部引っくり返されるんだから」

 そして、彼女はだるそうに寝返りを打ちながら仰向けになった。

「全ては暫定性の上に成り立ってるんだよ。教科書の解説なんて、その場限りの嘘っぱちばかりじゃない。数式と証明以外は話半分で聞くべきだよ」

 そこで体温計の電子音が響いた。体温計を取り出した玲が機械的に数字を読み上げる。

「七度二分」

「頭痛とかは?」

「何もなし」

「安心したよ。テレビ、つけていい?」

「うん」

 テレビの電源をいれると、昼のニュースがやっていた。

『欧州を中心とした局所的バブルは今後、大きく広がる恐れがあり――』

 アナウンサーの淡々とした声。それに混じるように、玲の声が届いた。

「京のにおいがする」

 からかうように笑いながら玲が毛布に顔を埋める。

「……ごめん。洗っておく」

「悪い意味じゃないって。なんかさ、落ち着くよ」

 玲はそう言ってそのまま目を閉じる。

「ごめん。もうちょっと寝る」

 その言葉に毒気を抜かれて、私はキッチンに向かった。

「午後から大学行くから、昼食だけ用意しておく」

「うん。ありがと」

 簡単な料理だけを作って、私は家を出た。

 よく晴れた空。

 暑い。

 ふと思い出して、太陽に手をかざす。

 手のひらが赤く見えた。

 秋月さん風に言うならば、赤く経験された、というべきか。

 とても小さかった頃、こうやって無意味に太陽を見上げた気がする。

 空を見上げなくなったのは、一体いつからだろう。

 すぐに大学の敷地に到着する。駐車場を抜けて、そのまま学舎の中へ。

 フロアを移動し、目的の講義室に一直線に向かう。中に適当に知り合いの学科生のグループを見つけて、近くの空いている鞄を下ろす。

「この席いい?」

 そう言いながら、私は席についた。

「いつもの彼女さんは?」

「風邪ひいて休み」

 話している間に講義が始まる。時間ぎりぎりだったようだ。

 適度にノートをとりながら、適度に力を抜く。

 板書がまとまっていない教授だ。レジュメも不要なものが多い。必要なものだけチェックして、後は廃棄のための印をつけていく。

「この教授、後期もあったよな」

 うんざりしたように隣の人が耳打ちしてくる。同意見だった。

 終盤になって、範囲と重要度の説明が始まる。午後からだけでも出席して正解だったようだ。

 そのまま講義が終わり、私は真っ先に席を立った。

「じゃ」

「おう」

 廊下に出て、そのまま一階のフロアへ向かう。

 置いてきた玲のことが気になった。熱も殆ど下がり、それほど心配はいらないと思ったが、病人であることに変わりはない。

 外は太陽が眩しかった。

 空調との効いた室内との気温差が激しく、自然と汗が滲み出る。

 引っ越してから殆ど毎日通っている道。見慣れたそこを進めば、十分も経たずに家に着いた。

「ただいま」

 玄関から中を覗くと、ベッドで寝る玲の姿が見えた。

「おかえり。早いね」

 だるそうな声。

「徒歩十分だから」

 そのまま本棚に向かい、教科書を取り出す。

「また勉強? 京って結構真面目なんだ」

「すべき事はしておかないと」

 テーブルの前に腰を下ろし、ノートを開く。

「ね、ちょっとだけなら手伝えるよ、私」

 ひょこ、と玲がベッドから身を乗り出す。

「……玲は、自分の分はいいのか」

「うん。まあ、今のレベルならそんなに」

 玲はそう言って、余裕のある笑みを浮かべる。

 この時、私は随分と自信過剰だな、と玲を危惧した。危ういと思った。

 しかし、私のその危惧は無意味なものだと、すぐに判明する。

 

 前記試験。解析学Ⅰ。

 数学科一年生の受講者のうち、及第点に達した者は僅か三割に満たなかった。

 必修科目の中で最も重要な科目であるこれを落とした者は七割にも昇り、後期における補講が決定した。カリキュラムの都合上、この全体の七割の学科生は後期で再び単位を落とせば留年が決定する事になる。

 玲はその中で、最高得点に近い得点を叩き出した。

 Webサイトに貼りだされた膨大な数の補講決定者。それを見ていた玲がクスクスと笑う。

「うん。やっぱり京も合格したね」

 私の学籍番号は、補講決定者のリストの中にはなかった。

 殆ど欠番がなく続く学籍番号。その膨大なリストは、単純な事実を示していた。

 才能の有無である。

 得意科目を聞かれれば真っ先に数学と答えたであろう人々。高校の時は数学において学年でトップレベルの成績を維持していたであろう人々。教育カリキュラムから外れた数学書籍を好んで読み漁っていたであろう人々。

 その七割は、たった半年間の講義についていけず脱落していた。

 これは、明確な振るい落としだった。

「まあ、早めに適正の有無がわかったほうが親切だよね」

 玲は補講者リストを冷ややかに見つめながら、それから興味を失ったようにブラウザを閉じる。

 そして、いつもの酷薄な笑みを浮かべるのだった。

「ねえ、どこか遊びにいこっか」

 夏季休暇が、始まる。



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14話 ゲーデルの不完全性定理

 心地良いまどろみの中、意識が浮上する。

 最初に感じたのは温もりだった。

 目を開けると、玲の寝顔があった。

 ゆっくりと身体を起こし、時計に視線を向ける。

 十一時半。

 随分と寝てしまった。

 背を伸ばすと、背骨から小気味良い音が響いた。

 シングルベッドに二人で寝ると、あまり寝た気がしない。寝返りが打てないせいか、身体の節々が痛かった。

 それでも最近は朝まで眠れるようなった。なにしろ、夏季休暇に入ってから玲はずっと家に帰らずに泊まりこんでいる。いい加減身体が慣れてしまっていた。

 しばらく玲の穏やかな寝顔を見つめてから、私はベッドから降りてキッチンに向かった。

 1kのキッチンは本当に形だけのもので、使い勝手は最悪だった。最近は殆ど使っていなかったが、たまにはマシな朝食を用意しようと冷蔵庫から卵を取り出し、器に割り入れる。

 その時、ベッドから呻き声が響いた。

 振り返ると、玲がもぞもぞと起き上がるところだった。

「おはよう」

 声をかけると、彼女は何故か気まずそうにシーツに手を気にする素振りを見せた。

「ごめん。汚した」

 短い言葉だった。

 理解が及ばず、キッチンから離れて玲の元に向かう。

 玲は私を見上げながら、そっと掛け布団をあげてみせた。

 そこにあったのは血痕だった。

 そこでようやく事態を理解し、ああ、と意味をなさない言葉が口から漏れた。

「多分、ずれたんだと思う」

「……えっと、シャワー浴びてきたら? 適当にハイター浸けとくから」

「うん。ごめん」

 玲は小さな声で言って、そのまま棚からバスタオルと着替えを取り出して浴室に向かった。

 私はそれを見送ってから、血で汚れたシーツを見下ろした。

 ここ数日で随分と玲の持ち物が増えた。バスタオルだって、シャンプーだって歯磨きだって彼女専用のものだ。共同生活には慣れてきたが、未だに戸惑う事も多い。

 汚れていたシーツと敷きパッドを取り外す。

 処理した後、部屋に戻ると玲の研究ノートが目に止まった。

 無題のそれは、すでに使い古されてボロボロになっている。

 拾い上げ、表紙を捲る。

 書き殴ったかのような数式が並んでいた。

 いくつかは私でも知っているような有名な難題で、大勢の数学者たちが証明に取り組んでいるものだった。

 ノートを捲っていくと、玲がそれらに順番に挑戦し、放り投げていくのが見て取れた。

 飽きっぽいと思う一方で、それを正しいとも思う。

 フェルマー予想なんて、350年に渡って多くの数学者を葬り去ってきた。天才と呼ばれた人たちがそれを解くために人生を賭け、何もなしえずに死んでいった。

 唯一、フェルマー予想を解いたアンドリュー・ワイルズは200ページにも渡る論文を書き上げたが、殆どの数学者はそれを理解すらできなかった。その解が正しいと判断した審判だって6人がかりで章ごとに分割して解釈していくしかなかった。

 証明を成し遂げても、それが正しいのか誰もわからないことなんて往々にあるのが数学だ。だからこそ、誰もが理解者を欲している。

 玲もきっと、理解者を欲している。

 きっと、それが私の役目なのだと思う。

「盗み見は感心しないな」

 玲の冷たい声。

 顔をあげると、玲が裸で立っていた。

 髪から滴る水が、フローリングを濡らしていく。

「っていうか、見ても面白くないでしょ? それ、ただのお遊びだし」

 玲はそう言ってゆっくりと近づいてくる。

 ひたひたと足跡が床に広がっていった。

「私、誰かの考えた問題で自分の人生潰す気ないんだよね」

 それにさ、と玲の冷たい目が私の目を覗き込んだ。

「答えがある保証もないしね」

 中学時代、教師がこう言っていた。

 数学には必ず答えがある。だから面白いのだ、と。

 けれど、それは嘘だ。

 ゲーデルは不完全性定理を証明してしまった。

 数学には、正しいとも正しくないとも判断できない命題が存在すると証明してしまった。

 それが正しいと保証されたものであっても、証明することが永遠に不可能なものがこの世界には存在する。

 そして、このゲーデルの不完全性定理すら、真の意味で理解できている者は数えるほどしかいないと言われている。

 百年前の定理すら現代に生きる大半の数学者が心の底から理解し、納得できないのが数学の世界だ。

 どれだけ正しくても、それを理解できる者は殆どいない。

 正しいことを提唱しても、学会に相手にされなくて自殺した数学者だっている。

 数学自身の持つ正しさは、先鋭化するにつれて誰も理解できなくなっていく。

 だから、誰もが理解者を欲している。

「私はね」

 玲の唇が、ゆっくりと言葉を吐き出す。

「もっと単純で、綺麗なものを見つけたいの」

 私の手にあったノートが、玲に奪われる。

 玲はそのままノートを放り投げると、薄い笑みを浮かべた。

「無限に続く対数の底、無限に続く円周率、不可視の虚数。それらが結びつくと、-1になる。全てが必然で、これらはただの人工物ではない特殊な記号であると確信できる。私は、そういう綺麗なものを自力で発見したい」

 だから、と玲の目が私に向けられた。

 いつもの粘着質な視線だった。

「私のこと、もっと見ててよ。必ずやってみせるから。こんなお遊びじゃなくてさ」

 足元に落ちたノートが、玲の足で踏みつけられる。

 傲慢という言葉を体現するような存在が、そこにあった。

「京には歴史を目撃する特等席と、はじめにそれが正しいと判定する権利をあげるよ」

 かつて天才少女と呼ばれた日影玲は、未だその歩みを止めようとしない。



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