虹の軌跡 (テッチー)
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ワン・パニック

 

 ――過ごした時間はなくならない。育んだ絆はなくならない―― 

 

 ● ● ●

 

「これで終わりっと。それにしても暑いな」

 腕に抱えていた荷物の束を倉庫に置くと、額の汗を拭ってリィン・シュバルツァーはそう独り言ちた。今は八月、暑い昼下がりの午後である。

 夏休みを目前に控え、今日のカリキュラムは午前中で終了している。もっとも夏休みというのも貴族生徒の帰省という名目なので、そうでない生徒には三、四日の連休があるくらいなのだが。

 ここトールズ士官学院は帝都ヘイムダルの東に位置する近郊都市トリスタにあって、帝国中興の祖ドライケルス大帝が設立した軍事学校である。

 新型戦術オーブメント《ARCUS》の運用の為に、今年から設立された特科Ⅶ組。

 彼はそのクラスの一人だった。

 部活に入っていないリィンは特に予定もなく、とりあえず学生寮に帰ろうとしたのだが、校門に差し掛かったあたりで、とある女子生徒を見つけた。

 生徒会長のトワ・ハーシェル。

 小柄な体躯には似つかわしくない大きな荷物を抱えて、よたよたとグラウンドに向かって歩いていた。

 見過ごすことも出来ず、リィンは手伝いを申し出て――今に至るのだった。

 

「ありがとう、リィン君。助かっちゃったよ」

 リィンに少し遅れて、トワがグラウンドの倉庫に入ってきた。

「通りがかって良かったです。それにしても相変わらず忙しそうですね」

「今日はリィン君に荷物運びを手伝ってもらったから早く終わりそうだけどね。暑い中がんばってくれたし、なにかお礼をしたいんだけど……」

「お礼だなんて、気にしないでください」

 むー、と考え込むトワ。リィンの声は届いていないようだった。

「そうだ!」

 思いついた様子で、嬉しそうに跳ね上がる。

「冷たいもの食べたくない? 学生会館の売店で期間限定のパフェが売ってるんだけど、明日から夏休みだから今日までの販売なんだって。でねでね、私もそのパフェまだ食べてないんだよ。よかったら食べに行かないかな? ご馳走しちゃうよ!」

 瞳を輝かせながら、まくし立てるように熱弁する。どちらかというと彼女自身が食べたくてしょうがない雰囲気ではあった。リィンは先輩の意を汲んで、

「えーと……でしたら、お言葉に甘えて」

「うんうん、甘えてどうぞ!」

「でも、いいんですか? ちょっと荷物運びを手伝っただけなのにお礼なんて。なんだか申し訳ないというか」

「まったくもー」

 トワは頬をふくらませた。

「リィン君は自分のやったことにもっと胸を張らないと。私もいつも助けてもらって感謝してるんだから」

「す、すみません」

「そこがリィン君のいいところなんだけどね。なんだったら今度はリィン君から私に何かお願いしてみてよ。これでもリィン君よりお姉さんなんだから」

 お姉さんという一語が妙に強調されていた。

「トワ会長にお願いですか? すぐには思いつきませんが……わかりました。何か考えておきます」

 そんなやり取りを交わしつつ、倉庫から外に出た時だった。

「あ」

 先にそれを見つけたのはトワで、彼女の視線を追ってリィンもすぐに気づいた。グラウンドの片隅に動く小さな影。異口同音に二人は言う。

『犬がいる』

 

 

 《☆☆☆――虹の軌跡 ~ワンパニック☆☆☆――》

 

 

「どこから入ったワンちゃんなんだろうね?」

「町中から迷いこんだんでしょうか」

 トワとリィンの視線の先には、ウロウロする犬の姿があった。

 まだ子犬のようだ。茶色い毛並みで、尻尾は短い。首輪をつけていないようなので、やはり迷い犬かもしれなかった。

「やっぱり放っておけないよね。リィン君、協力してくれる?」

 貴族生徒も多いトールズ士官学院で、平民の彼女が生徒会長を務められる理由がこれだ。

 リィンは即答した。

「もちろんです」

「そう言ってくれると思ったよ。なんでもお願いしてって言ったばかりなのに、逆にお願いしちゃってごめんね。お詫びにパフェのトッピングいっぱいにしてあげるからね」

「あ、ありがとうございます。それで俺はどうしたらいいでしょうか?」

「とりあえずリィン君はあのワンちゃんを保護して欲しいんだ。その間に私はトリスタから捜索届が出てないかの確認と、念のため外来のお客さんが連れてきた可能性はないか調べてくるね。先にワンちゃんが保護できたら生徒会室で待っててくれたらいいから」

 こういう時のトワの指示は端的でわかりやすく、そつがない。

 先月に帝国解放戦線が帝都でテロを起こした際にも、彼女の迅速な対応には目を見張るものがあった。その時のことがきっかけで、今月末にクロスベルで行われる通商会議に出席することになっている。

「それじゃお願いね!」

 トワは本校舎に走っていった。

 残ったリィンは犬を見据え、じりじりと間合いを詰めていく。犬はまだこちらには気づいていない。

「そういえば……犬ってどうやって捕まえるんだ?」

 先にトワ会長に聞いておけばよかった。

 よくわからないが、まずは腰を落とし、すり足の要領でさらに接近してみる。ユミルの実家では犬を飼っているが、素手での捕獲を試みたことはない。

 とにもかくにも相手の機先を制さなければ。 

 八葉一刀流、無手の型を取る。瞑目し、高まる闘気。呼吸を整え、準備が整った。

 ――よし、いける。

 みなぎる気迫。見開く双眸。

 そしてばっちり子犬と目が合う。いつの間にかこっちを向かれていた。

「あっ」

 一鳴きするが早いか子犬は逃げ出した。

 グラウンドからあっという間に姿が見えなくなってしまう。子犬とはいえ、足の速さは中々のものだった。

「不意を突かれて体が止まるなんて、俺もまだまだ未熟だな」

「なにがまだまだ未熟なのよ」

 見当違いの反省をするリィンの後ろでは、同じⅦ組のアリサ・ラインフォルトがあきれ顔で佇んでいた。

 

 

「――と、いうわけなんだ」

「なるほどね」

 事情を説明すると、アリサは一応納得した様子だった。彼女はラクロス部の用事でグラウンドまで来ていたらしい。

「まあ、経緯はわかったけど」

「けど、なんだ?」

「犬を捕まえるのに、武道の型ってあなた本気なの?」

 もっともな指摘に、リィンはたじろいだ。

「う、仕方ないだろ」

「傍から見てたけど、あなた相当怪しかったわよ。あれで逃げない犬がいたら、むしろ見てみたいわ」

「……もう許してくれ」

「まったくもう。それよりそろそろ追いかけなくていいの?」

「それもそうだな。じゃあ、アリサ」

「ちょっと待って」

 その場を離れようとするリィンを引き留める。

「一人じゃまた失敗するかもしれないでしょ。だから、私も手伝ってあげる」

「いいのか?」

「あ、あなた一人だと心配だし、子犬も気になるし!」

 何か気に障ったのか、アリサはそっぽを向いた。

 ともあれ、二人は子犬が逃げていった方向――ギムナジウムへと向かう。

 

 

 ギムナジウム。

 学院正門から本校舎を挟んだ先にある施設で、練武場やプールなどの設備がある。

 一般カリキュラムでは水練や屋内での実技訓練に使われることが多いが、放課後はもっぱらフェンシング部と水泳部が部活場所として活用している。

「とりあえず中に入って調べてみるか」

「子犬だからどこでも隠れられそう。あと女子更衣室は開けたらダメだからね」

「はは、当たり前だろ」

「他人事みたいに笑ってるけど、あなたの場合はうっかりがあり得るのよ。最近はわざとなんじゃないかって思えてきたわ」

「それは勘違いだ。不可抗力なんだぞ」

「だから許されるってものでもないから」

 まずはエントランスの右手側。練武場を調べようとしたが、扉には鍵がかかっていた。

「今日は稽古をやってないらしいな」

「フェンシング部は貴族生徒も多いから、帰省の関係で人数が集まらないんじゃないかしら? でも水泳部はいるみたいね」

 水しぶきの音に混じってホイッスルが鳴っている。

 さっそく奥へと進み、水練場に足を踏み入れると、

「そうだ。もっと全身の力を使うのだ。肩の力を抜いて……うん、いい感じのようだな」

 よく通る声が耳に届く。

 腰まで流れる綺麗な青髪をポニーテールでまとめた少女がプールサイドに立っている。彼女もすぐリィン達に気づいた。

「リィンにアリサではないか。二人共どうした?」

「練習中に悪いな、ラウラ」

 ラウラ・S・アルゼイド。レグラムを治めるアルゼイド子爵の息女で、アリサと同じくⅦ組のメンバーだ。

 彼女も貴族生徒なので帰省する権利はあるのだが、月末の特別実習のこともあってか実家に戻るつもりはないらしい。

「ちょうど一区切りついたところだ。モニカ、少し休憩にしよう」

 ラウラはプールで泳ぐ部員の女子に声をかけた。水泳部の一年で、ラウラの友人だ。泳ぎに不慣れで、よくラウラが指導している。

「それで何か用事があって来たのだろう?」

「ああ、実は子犬を探していて――」

 

 事情を聞いたラウラは首を横に振った。

「子犬か。それは心配だが、少なくともここには来ていないな」

「そう……ギムナジウムには入らず通り過ぎたのかしら。だとすると旧校舎の方に行ってなければいいんだけど」

 アリサが不安げにうつむく。

「旧校舎は施錠されているし、迷い込むことはなかろう。私も子犬のことは気にかけておく」

「俺たちもそろそろ捜索に戻るか。時間を取って済まなかった。行こう、アリサ。早く見つけ出してやらないとな」

「ええ、そうね。それじゃ失礼するわ」

 顔を上げたアリサは、ふとプールを見やった。

「それにしてもモニカさん、ずいぶん泳げるようになったみたいね」

 先ほど休憩しようとラウラが伝えていたが、モニカはずっと泳ぎ続けていた。

 ラウラは優しげに笑った。

「モニカ。調子がいいのはわかるが、根を詰めるのは感心しないな。休むことも必要だぞ」

 ラウラの声が聞こえていないのか、疲れを感じさせない水しぶきを上げながら、モニカは泳ぎ続けている。もう少しでプールサイドの端まで泳ぎ切るところだった。

「まったく、成長したものだ。しかし今日はいつものクロールではないのだな。犬かきなど余計に疲れるだろうに」

 水しぶきの中に見え隠れする茶色い毛並み。モニカの髪も赤茶色ではあるが――

 三人の間に一瞬の沈黙が流れた後、リィンが我に返って叫んだ。

「って、あれモニカじゃないぞ! 犬だ!」

「わかっている。モニカは犬ではなく私の友人だ」

「わかってないぞ!」

 そうこうしている内に、子犬は泳ぎ切り、プールサイドへよじ登ろうとしている。

「私に任せて!」

 出遅れたリィンとラウラに代わり、アリサが一番に走り出した。子犬の正面に先回りし、上がってきたところを抱きかかえようとする。

 早かったのは子犬の方だった。アリサが回り込む前に、プールサイドに上がっている。わずかに遅れて、アリサが子犬の元にたどり着いた。体が濡れているからか、子犬の動きは鈍い。

「よーし、観念なさい」

 子犬めがけて両手を伸ばす。

 そのタイミングを計っていたかのように、子犬は全身を激しく震わせ、体に滴る水を弾き飛ばした。

「きゃあああっ!?」

 飛び散った大量の水滴はアリサに襲い掛かり、たまらず彼女は尻もちをつく。

 子犬はアリサの脇を通り抜け、追ってきたリィンをかわし、入口へと走っていった。

「ラウラ、捕まえてくれ!」

「承知した!」

 子犬は止まる気配もない。このまま外まで駆け抜ける気だろう。ラウラは不敵に笑った。

「その意気やよし。だがこの私を簡単に突破できると思わないでもらおうか。アルゼイドの名にかけて、ここは死守させてもら――」

「わんっ!」

「きゃっ」

 怯んだラウラの隙を突き、あっという間に子犬は出て行ってしまった。

「ラ、ラウラ。大丈夫か」

 呆然としたままのラウラに、リィンは声をかける。

 はっとしてラウラは入口に振り返るが、子犬の姿はすでになかった。

「あの子犬らしからぬ気迫……見事なものだった。しかしすまない。逃げられてしまったようだ」

「気にしないでくれ。アリサも無事みたいだし」

「無事じゃないけど! 制服が濡れちゃったわよ!」

 憤るアリサはスカートのすそをしぼっている。怒りは中々収まらない様子だ。

「夏だしすぐに乾くんじゃないか?」

「そういう問題じゃないの! あ、の、ワンちゃん……必ず捕まえるんだからね」

「ついさっきまで、かわいそうとか言ってたのに……」

 アリサに聞こえないよう、ぼそりとつぶやく。

「そういうことなら、そなたらは先に行くがいい。私も着替えたらすぐに捜索に加わろう」

 手近なタオルで髪を拭きながら、ラウラはそう言った。

「それは助かるが、練習はいいのか?」

「モニカには悪いがこちらの方が優先だろう。それに子犬を捕まえるときに言ってしまったからな。アルゼイドの名にかけて、と」

「……律儀だな」

「当然のことだ。このままでは父上の名も汚すことになってしまう。必ずや、あの子犬を捕まえてみせよう」

 ラウラの協力も得る形となり、リィンとアリサは改めて水練場を後にしようとしたところで、

「少し待て、リィン」

 ラウラに呼び止められる。どことなし声が低い。コホンと咳払いをしてから彼女は続けた。

「そなたは何も聞かなかった」

「は?」

 怪訝顔のリィンに、ラウラはさらに詰め寄る。

「ち、ちょっと、近いわよ!」と焦るアリサを手で制し、彼女は「よいか」と押し含める口調で言う。

「先ほど私が子犬に吠えられた時のことだが……そなたは何も聞かなかったな?」

「あ、さっきの悲鳴――」

「なにも聞かなかったな?」

 尋常ではない威圧感が、肌の表面をしびれさせる。

「あ、ああ、俺は何も聞いていない」

「ならばよし」

 ラウラは一息つく。

 しかしプールサイドの陰から一部始終を見ていたモニカは、初めて見たラウラの意外な一面に「きゃっ」と声を上げて喜んでいた。

 

 

「次は位置的にここか。奥まっているから、ここにいてくれると捕まえやすいんだが」

 続く捜索場所は中庭だ。ギムナジウムと中庭は目鼻の距離にある。

「順序的にはそうね。ところで、さっきラウラは何のこと言ってたの?」

「……俺は何も聞いていない」

「ふうん、そうなんだ」

 納得しない視線がリィンに刺さるが、彼は冷や汗をかくだけで、それ以上は何も言わなかった。

 この中庭は本校舎の東側と西側に挟まれるように作られていて、木陰になることから学院生の憩いの場の一つとして愛用される場所だ。

 だが今この時に限って、その機能は完全に失われていた。

 東側のベンチには、怜悧な瞳に反して落ち着いた雰囲気を漂わせ、アリサとはまた質の違うブロンド髪の持ち主の少年が。

 西側のベンチには眼鏡をかけ、いかにも理知的に見えるが、どうにも激情にかられやすそうな雰囲気の少年が。

 それぞれ向かい合う形でどっかりと腰かけ、しかも険呑な雰囲気を隠そうともせず、互いに無言で牽制しながら読書に興じている。

 ユーシス・アルバレアとマキアス・レーグニッツ。

 双方ともにⅦ組所属。貴族の上位に位置する四大名門のユーシスと、帝都知事を務める父を持つ貴族嫌いのマキアス。

 不仲になることを定められたような二人で、Ⅶ組最初のトラブルとして周囲も気を揉んだものだったが、特別実習を重ねる中で和解し、今に至っている。

 とはいえ反りが合わないのは相変わらずで、些細な小競り合いは日常の光景となっているのだが。

「何やってるんだ、二人とも」

 見かねたリィンが先に口を開く。ユーシスとマキアスは本から目を離し、

「お前か」

「君か」

 同時に応じる。そのタイミングも二人には面白くなかったらしく、そろって『ちっ』と舌打ちで牽制し合う。これほど乾いた空気の流れる憩いの場があっていいものか。

「舌打ちが重複して聞こえたの初めてだわ……」

 アリサは呆れを通り越して感心さえしているようだ。

 ユーシスが不機嫌そうに言った。

「大したことはない。読書でもして午後の時間を過ごそうとしていたら、そこの無粋な男がやって来ただけのことだ」

 すかさずマキアスが反論する。

「そもそもこの場所で読書をするのは今日の朝から決めていたんだ。君にどうこう言われる筋合いはないぞ」

「俺は昨日の夜から決めていた」

「ならば僕は昨日の朝だ!」

「そういえば一昨日の夜だった気がするな」

「くそう!」

 まさに売り言葉に買い言葉。このままでは埒があかないと判断したリィンは、二人の言い合いを割って本題に入った。

「悪いが先に話を聞いてくれ。ここらで犬を見ていないか?」

『犬?』

 またも同じタイミングで言葉を発した二人は、ステレオ舌打ちを披露した。

 

 リィンからの説明を聞いて、

「なるほどな。僕は一時間前からここにいるが、犬は見ていない」

「つまり俺は一時間も不快な思いをし続けていたというわけだ」

「こちらのセリフだ!」

 この短時間で何度目になるかわからない口喧嘩をリィンとアリサがなだめつつ、その都度脱線しがちな話を元に戻す。

「要するに中庭には来てないってことね」

「それだけわかれば十分だ。けどまいったな。次はどこに行くか……」

 学生会館か図書館か、こうなると旧校舎の捜索も視野に入れなければならなくなってくる。

「犬なら見たよ」

 不意に起伏のない口調が差し挟まれた。向かいの花壇から銀髪の少女が、てくてくと歩いてくる。

「フィー、いたのか」

「ぶい」

 無表情のピースサインが顔の前で揺れる。

 フィー・クラウゼル。リィン達よりは二歳年下だが、わけあってⅦ組に在籍している。普段はどこかで寝ているか、園芸部として花の世話をしているかだが、今日は後者だったらしい。

「それより犬を見たって本当か?」

「ん、さっき花壇の前の道を走っていくのを見たよ。茶色い子犬だったと思う」

 フィーは子犬が走り去ったらしい方向を指さす。旧校舎側だ。

「まずいな。急いで追わないと」

「子犬を捕まえてどうするの? 非常食とか」

「するか!」

「冗談。あんまりおいしくないしね」

「冗談に聞こえないんだよ、フィーのは。……え、食べたことあるのか?」

「イノシシに近い風味。獣臭さがあるから好みがわかれるかも」

 深く追求するのが怖い話題だった。

 しかし子犬が本当に旧校舎側に行ったのなら、さすがに余裕が無くなってくる。アリサも不安げな表情を浮かべていた。

 成り行きを聞いていたユーシスは「旧校舎に行くなら俺も同行しよう」とベンチから立ち上がり、一方のマキアスも「人手は多い方がいいだろう」と本をたたむ。

「二人とも助かるよ。フィーは……」

 戦力的にも同行して欲しいところだが、炎天下の中で花壇の世話をしていたということは、草花の日光対策だろう。旧校舎探索となると時間がかかる。花壇のことを考えると、この状況で彼女は誘えない。

「私も行くよ」

 フィーはあっさりとそう言う。

「それは助かるが、花壇の世話をしていたんじゃないのか?」

「大丈夫。昨日エーデル部長と花壇に屋根をつけたから」

 見れば確かに、花壇には手作りであろう木製の日除け屋根が設置されていた。

「じゃあフィーはずっとそこで何してたんだ?」

「ユーシスとマキアスの観察。面白かったから」

『おい!』

 本日三度目のステレオ舌打ちが鳴った。

 

 

 リィン、アリサ、ユーシス、マキアス、フィー、そして合流したラウラを加えた六人は、旧校舎へと続く細道の前に立っていた。

 この道を抜ければ旧校舎はすぐそこなのだが、今皆の目の前には小さなバリケードがあって、旧校舎へ立ち入れないようになっている。

「なんだ、これは? 朝方に通りかかった時はこんなもの無かったぞ」

 マキアスが戸惑い、「封鎖されるような事前連絡は、掲示板にも張り出されていなかったと思うが」とラウラも首を傾げた。

「あ、いたいた、リィン君~」

 トワが小走りでやってくる。彼女の両どなりには、バイクスーツ姿のボーイッシュな女性――アンゼリカ・ログナーと、つなぎを来た恰幅のいい温厚そうな男性――ジョルジュ・ノームがいた。二人とも二年生でトワの友人だ。

「リィン君、ワンちゃんはどう?」

「すみません、まだ保護できていません。もしかしたら旧校舎まで逃げ込んだかもしれないので確認しに来たんですが、このバリケードはもしかして先輩たちが?」

 アンゼリカがずいと前に出た。

「そうさ。トワの頼みだったからね。このアンゼリカ、ひと肌脱がしてもらったよ。むしろトワを脱がしたいぐらいさ。脱がしたいというか脱がすんだ。そう決めたんだ」

「アンちゃん、やめてよ? 言葉の構成がおかしいよ? よだれ、拭いてよ……?」

「まあ、設置したのはほとんど僕だけどね」

 アンゼリカにハンカチを渡しつつ、ジョルジュが肩をすくめる。

「トワの指示でね。万が一に備えて旧校舎側への進入を防ぐことと、あと一時的に今は正門も閉めている。そういうわけで、子犬は必ず学院内のどこかにいる。これで捜索場所も絞られてくるはずさ」

「さすがの手腕ですね」

「ああ、見事だ」

 アリサとユーシスが感嘆の声を漏らすと、当のトワは気恥ずかしそうに「みんな、やめてよ」と顔を両手で覆った。

「これは……お持ち帰りしたくなる可愛さだな。ふんふんふん!」

「鼻息荒いから。後輩達の前では控えた方がいいと思うよ」

 妖しく蠢くアンゼリカの手がトワに伸びるのを、ジョルジュは慣れた様子でたしなめる。

 捜索は各段にやりやすくなっていた。旧校舎に入ることと、トリスタ市街まで出てしまうこと。この二つの可能性を除外できることはかなり大きい。

「ここからは班を分けよう。A班は学生会館、B班は図書館を。先輩方は子犬が元の場所に戻ってくることも考えて、グラウンド側、中庭側、講堂前を巡回して欲しいのですが」

 リィンの提案に、トワたちもすぐに了承した。

「それで二施設の捜索後、子犬が見つからなければ、A班、B班合同で本校舎の捜索。こんなところでどうだ」

 Ⅶ組の面々も異論はなく、そのプランで捜索することになった。

「それで班分けはどうするの? リィンが決めていいわよ」

 アリサが言うと、リィンは少し考え込んでから

「A班は俺、アリサ、ユーシス。B班はラウラ、マキアス、フィーで行こう」

 各個人の特性、性格、技能を考えるとバランスの取れた人選だ。先月までならラウラ、フィーのコンビは考えられないが、今なら全く問題ない。

 ユーシスが言った。

「どこかの教官の悪意に満ちた班分けとは大違いだ。やるな、リィン」

「ああ、それで一番苦労したの……たぶん俺だからな」

 心労絶えないⅦ組のリーダーの言葉に、心当たりが多分にあるクラスメイト達はそろって目を逸らした。

 

 

 分かれた二班はさっそく担当する施設に向かう。

 ラウラ、マキアス、フィーの三人は図書館だ。

「ふうむ。内部の構造を考えると、図書館内に子犬がいる可能性は低そうだな」

 マキアスは辺りを見回している。図書館は二階まであるが、見通しはよく、子犬の隠れられそうな場所はあまり多くない。受付の事務員に聞いてみても子犬は見ていないとのことだった。

「しかしあの素早い子犬のことだ。扉の出入りにまぎれ、受付の目をかい潜ったかもしれん」

 ラウラが注意深く本棚の陰を確認していると、「あっ」と二階からフィーの声が聞こえた。

 急いでラウラとマキアスが二階に駆け上がる。

 そこに子犬の姿はなく、代わりにフィーの手には『ココパンダー物語・中巻』というタイトルの一冊の本があった。

「フィー?」

「ん。前から続きが気になってたけど、ずっと貸出中だったんだ。やっと戻ってきた。ココパンダーのタメロウが野生になっちゃうところで上巻は終わってたから」

「ココパンダーは元々野生であろう。どういう設定なのだ。それに今はそういう目的では――はっ!?」

 ラウラの視線が本棚のある一点で止まった。

「『槍の聖女と三人の騎士』だと? 幻と言われた至極の一冊ではないか!」

 一瞬で目的を見失ったラウラは、震える手でその書籍を棚から抜き出すと、自身の頭上に高々と掲げてみせる。図書館の照明が後光となり、本は神々しい輝きをまとっていた。

「なんと荘厳であることか。このラウラ、今日ほど女神に感謝したことはない」

「いやいや、二人共。今は子犬を探すことが先決……ん?」

 言いながらマキアスの目も本棚に移っていく。視点が定まった先にあったのは『モテる男のメガネ選び』というタイトルだった。

「いや、僕はそういった類のものに興味はない。だが自分の見識を拡げる為に、あえて普段読まない本を読むことも大切だ」

 誰に言っているのか、マキアスはぶつぶつと呟きながら、本に手を伸ばす。

 B班の機能が停止するまでに時間はかからなかった。

 

 

 場所は学生会館に移り、リィン、アリサ、ユーシスのA班。B班が各々の読書に熱中しだしたのとほぼ同時刻。

「回り込め、リィン!」

「了解だ。アリサは退路を塞いでくれ!」

「わかったわ」

 三人は1Fラウンジのテーブルや椅子、果ては厨房の中にまで入って大立ち回りを繰り広げていた。

「相変わらず素早いわね!」

「アリサ、テーブルを動かして移動経路を制限するんだ」

 B班同様に屋内の捜索に入ったA班だったが、探すまでもなく扉を開けた先に子犬がいたのだ。

 休み前でラウンジには学生がほとんどおらず、気を抜いていたからか売店の人も子犬が入ってきたことに気づいていなかった。

 リィンたちを見るや、やはり子犬は逃げ出した。テーブルの下を潜り、椅子を飛び越え、縦横無尽にラウンジを駆け巡る。三人は後手に回り、一匹の子犬にいいように翻弄されていた。

「そこだ!」

 動きを見切ったユーシスが、子犬の方向転換にタイミングを合わせて、捕まえにかかる。

 子犬は急に足を止め、彼が迫る逆方向に進路を変えた。予期しない動きに足がもつれ、ユーシスは転倒する。

「この俺が膝をつかされただと?」

 ぎりと歯を軋るユーシスはリィンに向かって叫んだ。 

「少し持ちこたえておけ! 俺はグラウンドから馬を用意してくるぞ」

「馬を? なんでだ?」

「要は狩りと一緒だろうが」

「一理あるな……あるか?」

「ないわよ!」

 自信に満ちたユーシスの案は、アリサに一蹴された。

「なんだか騒々しいようですが……どうかしましたか。って、なな、なんですかこれ!?」

 二階から誰かが降りてきた。髪を三つ編みでくくり、丸メガネをかけた女子――Ⅶ組の委員長こと、エマ・ミルスティンだ。

 乱雑にひっくり返ったテーブルと椅子。「それでも馬を取りに行く」となぜか憤慨するユーシス。そんなユーシスを「ちょっとリィンも手伝ってよ!」と必死で抑えるアリサ。そして「さあ、いい子だからこっちに来るんだ」と何かに語りかけているリィン。

 困惑するエマが固まっていると、リィンの足元から小さな影が飛び出した。その影は一直線に彼女へと向かう。

「え、え、え? ひゃっ!?」

 いきなり吼えられ、エマはびくりとのけぞった。その拍子に、手に持っていたレポート用紙を落としてしまう。はらりと舞った一枚をぱくりと咥えると、子犬はタイミング悪く開いた扉から外に飛び出してしまった。

「あー! 返してください! それはドロテ部長の大切な――」

「委員長、無事か!?」

 駆け寄ってきたリィンに、エマはふるふると首を横に振った。

「リィンさん、あの子犬は何なんですか……」

「多分迷い犬だ。とりあえず俺たちは今の子犬を捕まえる為に動いている。それよりも何か取られたようだったが、課題のレポートだったのか?」

「あ、あれは文芸部の先輩から添削して欲しいと頼まれた小説の原稿でして……」

 ラウンジから大きな音がしたので、添削途中だったものを思わず手に持ったまま来てしまったのだ。

 それはともかく、問題は文章の内容だった。

 少年達の熱い青春を赤裸々に綴った、文芸部部長の渾身の力作。加えて山場だったから、そういう描写もがっつりだ。

 エマの顔色がみるみる青ざめていく。

「と、取り返さないと。誰かに見られるわけには」

「顔色が悪いようだが……」

「大丈夫です! それより早く子犬を追いかけましょう、ええ、早く追いかけないと!」

「そ、そうか」

 普段のエマからは想像できないほどの気迫。

 売店の店員にはあとで必ず片付けに戻ると伝え、エマを加えた四人は学生会館を後にした。

 

 

 A班が学生会館を出ると、子犬の姿はまだ見えた。

 道なりに行けば講堂だが、その付近にはトワたちがいるはずだった。途中にある正門は閉まっているし、本校舎の入口も出入りがない時は閉めている。

「よし、このまま追いかけよう」

 ようやく終わりが見えた子犬の逃亡劇に、リィンが胸をなで下ろしたタイミングで、B班も図書館から出てきた。

 子犬を追うA班に、B班も追いついて合流すると、リィンは走りながら端的に状況説明をした。

「承知した」

「了解」

「任せてもらおう」

 銘々に答えるB班の三人。それぞれの手にリィンの視線が向く。

「三人とも、なんで本を抱えながら走っているんだ?」

「リィンも興味があるのか。ふふ、そなたにも聖女サンドロットの偉大さを教えてもよいぞ。おっと、もちろん私が読んだ後にはなるが。……それにしても、彼女に使える筆頭騎士のポンコツさといったら……」

「君も意外にメガネが似合いそうだからな。何だったら僕が見立ててやろうか。将来メガネをかける時のためにな」

「まさか野生になったのはガールフレンドのココパンダーだったなんて……驚き」

「……図書館で何やってたんだよ」

 先を走る子犬の動きに変化があった。正門前まで来ると、講堂側には行かず、右へ進行方向を変えた。つまり本校舎入口側だ。

 勝ち誇ったようにユーシスが言う。

「馬鹿め。本校舎の入口は閉まって……む?」

 しかし本校舎の扉は開いていた。そのそばにハインリッヒ教頭が立っている。

「子犬に気づいて扉を閉めてくれればいいんだけど」

 アリサの期待とは逆に、ハインリッヒは財布から写真のようなものを取り出し、うっとりと眺め始めた。とても子犬に気づける様子ではない。

 案の定、子犬はハインリッヒの足元をたやすくすり抜けて、本校舎の中へと入り込んでしまった。

 リィンたちも校舎内に入ろうとするが、さすがの教頭もこれには気づいた。

 焦った素振りで写真を財布にしまうと「こ、こら! むやみに走り回るでない!」と叱責の声を上げた。さらにそこから延々と続く粘着質な説教。

 解放されたのは十分後だった。

 ようやく校舎内に入ったものの、子犬の姿は見えない。ただでさえ広い校舎である。固まって動くのは効率が悪い。

「今からは各人分散して捜索しよう。子犬は見つけても逃げられる可能性の方が高い。一人で行動に移さず、《ARCUS》で全員に位置を連絡してくれ」

 導力を利用して遠隔通信を行う技術は、先代モデルのオーブメント《ENIGMA》から試験的に実装されている。

 通信機能に制限はあるが、使い勝手がよくⅦ組メンバーも多用していた。

 リィンの指示で、メンバーは校舎内に散開していく。

「一階はラウラとフィーがいるから、俺は二階から探してみるか」

 明日から貴族生徒は長期の、平民生徒も数日の連休になるため、休み前最後の課外活動を行っている学生も多い。

 さっそくリィンは近くにいる生徒から聞き込みを開始した。

「ああ、犬なら見たぜ。えっと教員室前だったかな」

「すばしっこい犬だと? 私のマッハ号より早いわけがなかろう」

「犬~? ええ、見ましたわよ。どこで? そんなの覚えてませんわ。それよりアリサさんはどこですの!」

「やあ、君も一緒に釣りに行かないかい? 犬? ははは、さすがに犬は釣れないよ」

「んー、写真を撮ってる時にいたような……でも女の子の方に気が向いてたからなあ」

「うふふ、さっき調理室前にいた子犬どこに行ったのかしら。捕まえてラブクッキーのエッセンスに……」

 ざっと聞き回ったところで、リィンは談話コーナーのテーブルに手をつき、息を吐いた。

「だめだ。むしろ情報が多すぎて場所が特定できない。目撃証言はそこそこあるんだが……」

「あ、いたいた。リィン!」

 残るⅦ組メンバーの二人、エリオット・クレイグとガイウス・ウォーゼルがこちらに歩いてくる。

 小柄で温厚そうな方がエリオットで、長身で精悍な方がガイウスだ。

 この二人とは最初のオリエンテーションで行動を共にしたこともあり、リィンにとっては早い段階から親しく話をしていた友人でもある。

 彼らにも手伝ってもらえないだろうか。

 そう思うリィンに、先に訊ねてきたのはエリオットだった。

「子犬を見なかった?」

 

 

 エリオットの話では、吹奏楽部の演奏中に件の犬が入ってきて、彼の楽譜を一枚咥えて走り去ってしまったらしい。

「替えはあるんだけど、いろいろ楽譜に書き込んでたからさ。あれが無いと困るんだよね」

 しゅんと頭を落とすエリオット。

「もしかして、ガイウスも何か取られたのか?」

「ああ。さっきまで美術室で絵を書いていたのだが、突然子犬がやってきて、緑の絵の具チューブを持っていかれてしまったのだ。ノルドの緑に合うように混ぜ合わせて作ったものだから、代わりがない」

 ガイウスも困り果てた様子だ。

「災難だったな」

「風のいたずらかと思ったぞ」

「それは違うと思うが」

 こちらの事情も伝えると、エリオットもガイウスもすぐに捜索に加わってくれた。

 その時、《ARCUS》に通信が入る。相手はアリサだった。

『リィン? 子犬を見つけたわ』

 

 

 アリサからの連絡でⅦ組は屋上へと集まった。彼女が屋上の隅を指差すと、そこに茶色い毛並の子犬がいた。

「こんなところにまで来るなんて……」

「まったく見上げた瞬足だった。感心するぞ」

 マキアスの嘆息に、ラウラが同意する。

「うふふ。ワンちゃん、レポート用紙はどこにやったのかな~?」

 魔導杖を握りしめているエマを「委員長、それはダメだからね!?」と同じ魔導杖使いのエリオットがいさめている。メガネの奥に見えるエマの瞳は半分以上本気だった。

「エリオットの楽譜も俺の絵の具も見当たらないな」

 きょろきょろと視線を巡らすガイウス。

「さて、どう捕まえる? さすがにこの人数なら同時に行けば何とかなると思うが」

「それはダメね」

 リィンの提案をアリサが止めた。

「確かに逃げ場はないけど、ここは屋上よ。外に飛び出す危険もあるわ」

 一応屋上の端は少し高めの段に囲まれているが、あの子犬なら楽に飛び越えられる程度だ。アリサの言う通り、下手に手出しをして興奮させれば、最悪の事態にもなりかねない。

「フィーなら子犬の警戒心を解けないか? 帝都での猫探しの時みたいに」

「無理。あれは猫限定」

「そ、そうなのか」

 打開策が出ないまま時間が流れていく。

 耐えかねたユーシスが口を開いた。

「ここで手をこまねいていても、状況は変わらんだろう。とにかく刺激しないように、少しでも近づいて警戒心を解いたらどうだ」

 他のメンバーも異論はないらしく、リィンの号令を待っている。

「わかった。それで行こう。ミッション開始だ。これより特科Ⅶ組、総力をもって子犬を保護する!」

『了解!』

 その言葉を合図に、彼らは子犬を囲むように広く扇型の陣形を取った。あまり密集しても威圧感を与えてしまう。互いに距離を調節しながら、子犬にゆっくりと近づいていく。

 リィンの目配せで先陣を切ったのはエリオットだった。

「じゃあ、やるよ」

 自前のバイオリンでエリオットは演奏を始めた。落ち着いたメロディが屋上に響き渡る。

 子犬はピクリと反応し、メンバーの方を向く。まだ警戒しているようだ。

 続いたのはエマだった。懐から小さな缶を取り出すと、それをコトンと地面に置いた。

「美味しいご飯ですよ。こっちにおいで~」

「エ、エマくん? それはキャットフードだ!」

 マキアスが眉をひそめた。

「す、すみません。これしか持ってなくて……」

「むしろなんでキャットフードを持っているのかが気になるが……やむを得ないな」

 マキアスはエマの置いた缶の横に、すっとティーカップを添えた。

「僕の入れた特製のコーヒーだ。遠慮せずに飲みに来るといい」

 自慢げに子犬に告げるマキアスに、「犬がブラックを飲めるか。せめて砂糖とミルクを用意しろ」とユーシスが冷たく吐き捨てる。

「あなたも色々と間違ってるわよ?」

 アリサがすかさずつっこむも、ユーシスは気に留めた様子もなく、右手を子犬に向かって差し出した。

「いつまで意地を張っている。いい加減にこっちに戻ってこい」

 子犬はじっとユーシスを眺めている。

「お前が望むなら、好きなだけ走り回って構わんのだぞ。その時は俺も馬に乗って付き合ってやろう」

 ユーシスは子犬に説得を始めていた。「その時はノルド高原に来るといい。歓迎しよう」とガイウスが横からフォローを入れる。

 成立しているんだかしていないんだか、よく分からないやり取りを見たラウラは「ふむ、そういうのもいいのか」と一人で納得し、ユーシス同様に手を差し伸べた。

「聞くがいい。そなたには非凡な才能がある。私と共に自分を磨いてみないか」

 子犬を諭すラウラのとなりで、フィーは「にゃー、にゃー」と彼女なりにコミュニケーションを取ろうとしている。

 現場は混沌としていた。

「怪しすぎる光景ね……。私もだけど、たぶん皆ペットとか飼ったことないんだわ」

「すごくがんばってくれているのはわかるんだが……」

 アリサとリィンが、どうにか警戒心を解く方法を考えていたその時、先に子犬が動いた。

 全員に背を向けると、ピョンと屋上端の囲い段に飛び乗ったのだ。

「あっ!」

 しかも間の悪いことに、ちょうど屋上を強い風が吹き抜けた。子犬の体は風圧で、囲い段の外に押し出されてしまった。

「っ! 危ない!」

 小さな鳴き声。リィンは子犬に向かって全速力で走る。限界まで伸ばした指先が、落ちかかった子犬の体にわずかに触れた。だがそれ以上は届かなかった。

 離れていく小さな体。

 リィンの傍らを凄まじい速さの人影が通り過ぎた。

 それは自身も屋上の外に飛び出しながらも、瞬時に子犬を脇に抱え、わずかに壁にかかった足先を起点に、鋭敏な身のこなしで舞い戻ってくる。その人影はⅦ組を率いる担任教官、サラ・バレスタインだった。

「まーた、あんた達は何をやってるのよ? ハインリッヒ教頭が『Ⅶ組の連中が走り回っているから見てこい』って言うもんだから来てみたけど……っと」

 サラの腕の中で、もぞもぞと子犬が動く。

 安堵と疲労が半分ずつ。彼らはその場に座り込んだ。

「ま、事情は後で聞くとして、とりあえずみんながんばったみたいね?」

 サラは笑顔を浮かべると、いつものウインクをしてみせた。

 

 ●

 

 時刻は十七時。日は陰ってくるが、この時期ではまだまだ明るい時間だ。

 Ⅶ組のメンバーとは一旦別れて、一通りの顛末をトワに報告する為に、リィンは学生会館の生徒会室にいた。

「それは大変だったね。あのワンちゃん、そんなにあちこち行ったんだ」

「最終的にはサラ教官に助けられる形になりましたが……その、すみません。逆に俺があんなに追いかけなかったら、もっと早く保護できたのかもしれません」

「それは違うよ」

 トワは首を横に振った。

「何がどうなるかなんて誰にもわからないよ。それにリィン君が動かなかったら、ワンちゃんは誰にも見つけられなかったかもしれないし。リィン君は自分のやったことにもっと胸を張っていいんだよ」

「トワ会長……ありがとうございます」

 その言葉は今日、午前中にもトワに言われたものだった。どこか胸のつかえが取れた気がした。

「さて、と。遅くなっちゃったけどそろそろ行こっか、リィン君」

「どこに行くんですか?」

 いそいそと椅子から立ち上がりながら、トワは言った。

「忘れてるの? 荷物運びのお礼だよ」

 

 

 一階のラウンジは綺麗に片付いていた。テーブルも椅子も並べられ、完全にいつもの風景だ。話によるとジョルジュとアンゼリカが元に戻してくれたらしい。

「すみません。ラウンジの後片付けまでして頂いたなんて」

「あはは、言いっこなし」

 笑顔で目の前の巨大なパフェにぱくつくトワの表情は幸せそのものだが、パフェが大きすぎて彼女の顔は見えなかった。

 リィンの目の前にも、ありとあらゆるトッピングを施された巨大なパフェが運ばれてくる。

「遠慮せずにいっぱい食べちゃってね!」

「う……頂きます」

 トワの厚意を断わることなどできず、リィンは帝国男子の意地で見事完食してみせたのだった。

「おいしかった?」

「ご、ごちそうさまでした。しかし会長もよくあれだけの量を完食できましたね」

「甘いものは別腹だよ? 帝国女子のたしなみなんだから」

「初めて聞きましたが……」

 巨大パフェをぺろりと完食したトワは、紅茶を飲んで口直しをしている。一方のリィンは紅茶に浮かぶレモンの切れ端でさえも今は見たくなかった。

「そういえば、あの子犬のことは何かわかりましたか?」

「うん、リィン君には伝えようと思ってたんだけど」

 トワはカップを置いて話を切り出した。

「やっぱり、あのワンちゃんは本当に迷い犬だったみたい。トリスタにも茶色い子犬を飼ってる家は見つかってなくて、捜索届も出てないの。来館のお客さんが連れてきたわけでもないって。お母さん達とはぐれちゃったのかな…」

「そうですか……あの子犬は今後どうなるのでしょうか」

「えと、ね。言いにくいんだけど、学院内ではやっぱり飼えないの。すぐに里親が見つかればいいけど、そうじゃなければ――」

 トワは口をつぐむ。その先は言われなくてもリィンにもわかっていた。

 今日はあの子犬に振り回された一日だったが、同時にあの子犬の為の一日でもあった。Ⅶ組の皆で協力した結果を、無駄にしたくはない。

「トワ会長」

「うん?」

「会長は今日、俺に言ってくれましたよね。次は『リィン君から何か私にお願いしてよ』って」

「う、うん。言ったよ」

「では」

 リィンはテーブルにずいと身を乗り出した。

「お願いがあります」

 

 

 次の日。

 Ⅶ組が普段使用している第三学生寮に小さな同居人が増えた。

 皿に注がれたミルクをペロペロとなめる、茶色い毛並みの子犬。

「うふふ。まあ、よく飲みますこと」

 この学生寮の管理人でもあるラインフォルト家のメイド――シャロンの入れたミルクを、その子犬はおいしそうに飲んでいた。

「昨晩、サラ様がその子を連れて帰って来た時には、サラ様の非常食かと思ってしまいましたけど」

「ケンカ売ってるのかしら。今なら高価買取中よ?」

「まあ、サラ様ったら怖い」

 年上のお姉さんたちのそんなやり取りを見ながら、リィンはエントランスのソファーに腰かけた。

 昨日、トワに頼んだ内容がこれだったのだ。

 “学院内で飼えないのなら、せめて学生寮で世話をする許可が欲しい”

 リィンから頼まれたトワは、その足で学院長室に赴き、ヴァンダイク学院長に直接許可をもらってくれたのだ。

 許可にあたり、学院長から提示された条件は三つ。

 一つ目は当然だが、里親が見つかるまでということ。二つ目は、期限は二か月の間ということ。三つ目は、Ⅶ組全員で世話をするということ。

 Ⅶ組は満場一致で、その条件を受け入れた。

 知ってか知らずか、新しいⅦ組の仲間は元気に吠えてみせたのだった。

 

 ●

 

 ――後日談――

 

 子犬に奪われたガイウスの絵の具、エリオットの楽譜、エマのレポート用紙は無事に発見された。見つけたのは用務員の男性で、発見場所は本校舎一階の階段横のスペースだ。

 校内のどこかにあることは予想できたので、三人はそれらしいものがあれば連絡が欲しいと用務員に頼んでいたのだ。もっともエマだけは最後まで自分の力で探すと言い張っていたのだが。

 ガイウスとエリオットはそれぞれ楽譜と絵の具を受け取ると、ほっとため息をついて用務員室から出ていった。

「あ、あの……」

 一人残ったエマと用務員の男性の間に、妙な沈黙が流れる。

「これは……君のものかね」

 一枚のレポート用紙を差し出した用務員は、静かに口を開いた。

「は、はい。そうですが」

 おずおずと肯定するエマは、用務員の頬がほのかに赤らんでいることに気づいた。

 嫌な予感しかしない。

「これは君に返そう。私は今年で六十歳になるが……ここまで体の芯が熱くなったのは久しぶりだ」

「……!」

 やはり用紙の内容を読まれている。エマの顔は火が出るほどに赤面していた。

「違いますから! 私が書いたんじゃないですよ!?」

「よもやあのような世界があったとは……目からウロコとはこのことだ」

「違うんです、違うんです! 話を聞いて下さい!」

「男子学生か……。ふううぅ。実に……実にいいね」

「いやああああ――っ!」

 本校舎全域に響き渡る絶叫。

 これが長きに渡る因縁の始まりであることを、彼女はまだ知る由もなかった。

 

 

 ~FIN~

 

 

 

 

 

 

 

 ★おまけ★

 

 保護された子犬が第三学生寮にやってきた夜。エントランスにて、

「わー犬だ! 犬だ!」

 Ⅶ組のメンバーに混じってはしゃぐ少女の姿があった。彼女の名はミリアム・オライオン。所属は帝国正規軍だが、なんらかの特務を受けて現在はこのⅦ組にも所属している。

「ミリアム、今日どこ行ってたの?」

 そう問うフィーに、「おじさんのとこだよ」ミリアムは快活に笑って答えた。

「それよりもさ、この犬飼うの? 飼うの~? ねえ、ユーシス~?」

「ええい、なぜ俺に聞く!」

 腕にしがみつくミリアムをユーシスが振り払っていると「おー、なんだか騒がしいな」と玄関から一人の男子学生が入ってきた。

「ああ、クロウ先輩。遅くまでどこに行ってたんですか?」

 リィンが挨拶すると「ちょいと野暮用でな。あと先輩はいらねえって」とクロウは苦笑した。

 クロウ・アームブラスト。トワたちの友人で、彼も二年生なのだが単位数が足りないとのことで、今月からⅦ組のカリキュラムに参加することになっている。

 先のミリアムと合わせて、これがⅦ組のフルメンバーである。

「それよかよ。その犬ころなんだよ? サラの非常食か?」

「クロウ? ちょっとここ座りなさい」

 こめかみに青筋を浮かせつつ、ひきつった笑顔でサラが手招きする。

「おっかねえな。冗談に決まってんだろ。リィン、そいつここで飼うのか?」

「期限付きですけどね。そういうことになりました」

「へえ。で、なんて名前なんだ?」

 名前と訊ねられて、全員が『あ』と声をそろえた。

「まじかよ。まだ決めてなかったのか? もう今のうちに決めちまおうぜ」

 クロウの提案で急遽名前の募集がされることになった。

「一人一案だ。ほれほれさっさと出せ。じゃあ、マキアスから」

「ぼ、僕からですか? うーん。そういえばチェスで最強の駒はクイーンなんですが、犬の鳴き声とかけまして“キュイーン”というのはどうでしょう」

「いや、ねーだろ。ドリルの音みたいになってんじゃねえか」

 そう言うクロウに乗っかって、「まったくだ」とユーシスは嘆息した。

「なんだと? そういう君はどうなんだ!」

「ふん。俺が世話をすることもあるのだからな、それに相応しい高貴な名前をくれてやる。そうだな、“ノブリティー号”がよかろう」

「高貴さの欠片もねーな。ていうか号をつけるから馬っぽいんだよ。じゃあ、次はリィン」

「あ、はい。そうだな。うーん……三日もらえれば何とか形にしますが」

「悩みすぎだろ! そういうとこだぞ!? あーもう、どんどん案出せ!」

 次々に名前の候補が飛び交った。

「ガーちゃん二号!」

「子犬には荷が重すぎる!」

「テリーヌとかどうですか」

「なんかうまそうだな!」

「いい日、いい風」

「それは名前なのか?」

「アルゼイド流、瞬足轟天撃」

「技名にしか思えねえ、つーかアルゼイド流って言ってるしな!」

「RF-3265Cなんてどうかしら」

「ラインフォルト社製でもないからな。あと形式番号だろそれ!」

「茶毛のクレイグ」

「さらっと自分の名前を入れんな!」

「……ネコ」

「……イヌだ」

 一通り出揃ったところで、突っ込み疲れたクロウが「だああっ!」と叫んだ。

「この中から決まるわけないだろうが! もうサラが決めちまえよ。一番懐いてるみたいだし」

「ええー、あたし? うーん」

 急に話を振られたサラは、きょろきょろと辺りを見回してみる。目についたのはいつものビールだった。

(ビール、ビールか。ビール飲みたいな。ビール……)

 ふと思いついた。

「えと。ルビィとかどうかしら。この子、男の子だから似合わないかもだけど――」

 するとサラの膝で丸まっていた子犬が「ワンッ」と鳴いた。

「ははっ、そいつも気に入ったみたいだな。響きも悪くねえし、それでいいんじゃねえか」

 そういうわけで子犬の名前は『ルビィ』に決まった。

「名前の元がビールだって、この子たちには内緒にしとかないと……」

 また一つ秘密が増えたⅦ組の教官は、小声でそう呟くのだった。

 

 

~END~



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夏夜の幽霊騒動(前編)

「今夜肝試しをしてみないか?」

 

 事の始まりはリィンのそんな提案からだった。

 彼の呼びかけで、第3学生寮のエントランスに集められたトールズ士官学院Ⅶ組の面々は、突然の提案に困惑の表情を浮かべた。

「いきなり召集をかけたと思ったら、いったい何を言い出すのよ?」

 普段のリィンらしからぬ突飛な発言に、アリサが最初に反応する。

「そもそも、肝試しというのは何だ?」

 ガイウスが問う。どうやら故郷のノルドでは肝試しという文化、というかイベントはないらしい。高原暮らしの彼の集落にとっては、該当する場所は遺跡くらいで、加えて夜の高原に出ることは肝試しどころか、命を懸けるに等しい。無くて当たり前の慣習だ。

 エリオットが彼の疑問に答えた。

「肝試しっていうのはね、ちょっと怖い雰囲気のところに行ったりする……まあ、度胸試しみたいなものだよ」

「あえて魔獣の多い道を進むというわけだな。精神鍛錬の一種でもあるわけか」

「ちょっと違う気がするけど……でもリィン、なんで急に肝試しなんて言い出したの?」

 雰囲気でも出そうとしてか、リィンは声音を低くして言う。

「実は最近、学院内で不可解なことが起こっているらしい」

 不可解なこと。そう言われⅦ組メンバーが真っ先に思い浮かべたのは、他でもない旧校舎だ。もはや不可解のデパートと言っても過言ではないのだが、リィンが言うには今回の件は旧校舎のことではないらしい。

「グラウンドやギムナジウム、図書館に学生会館、あと本校舎。まあ学院全体だな」

 ギムナジウムと聞いて、首をかしげたのはラウラだ。彼女は水泳部であることから、この中では一番ギムナジウムを使用する頻度が高い。

「私はそのような話を聞いたことがないぞ。そなたが言っている不可解なこととは、具体的にどのようなものなのだ?」

「そうだな……たとえば誰もいない教室から物音がしたり、気づいたら物の配置が変わっていたりとか」

「ふん、くだらんな」

 そうユーシスは言い捨てた。「まあ、確かにそうだな」と珍しくマキアスも意見を合わせる。

「その程度なら勘違いでも済まされる話じゃないか。まだ学園七不思議の方が信憑性があるぞ?」

「体験例も多いんだ。まあ、話を聞いてくれ。そもそも”ちょっと不可解な現象”が起きだしたのは今学期、つまり四月になってからだそうだ――」

 リィンの話によると、その四月から始まったという不可解な現象も、最初の内は物の位置が変わったりといった程度だったらしい。しかし月日が経つにつれ、物音がしたり、何かの気配を感じたりと、徐々に現象が具体性を増していき――

「――ついに二週間程前にそれの目撃証言が出た」

 一人の女子生徒が忘れ物を取りに、学生寮から本校舎まで戻った時のことだ。

 時刻は夜の八時過ぎ。女子生徒が二階の廊下に差し掛かった時、遠くに黒い人影が見えた。

 遅い時間に誰かいるのだろうかと、不信に思った彼女が用務員に報告に行こうと思った矢先、その影はゆらゆらと動き、しばらくするとスッとその場から消えてしまったらしい。

 この時はそれだけだったのだが、その日を境にそれ以降学院内のあちこちで同じような影が見られるようになった。その時間も日が落ちてからで、部活などで遅くまで残っている生徒の目撃例が多い。

 そしてその目撃者の中には生徒会長、トワ・ハーシェルも含まれている。

「それは……ちょっと気になりますね」

「ちょっとどころじゃないわよ! エマってそういうの大丈夫なの?」

「あ、えっと最近ホラー小説を読んだので耐性が上がったんですよ」

「普通、女子だったら怖がりそうな話じゃない……ね、ねえ?」

 意外にも落ち着いているエマとは反対に、アリサはあからさまに動揺している。彼女は他の女性陣に同意を求めたが、

「ふむ。学院内の備品を許可なく移動させるとは、不埒な輩だな」

「だね」 

 しかし”普通の女子”ならぬラウラとフィーは、なんら気にする様子もなく二人で話し込んでいる。

「ま、まさか肝試しっていうのは、その不可解な現象の調査ってわけじゃないでしょうね!?」

「ああ、その通りだが」

 当然のように肯定するリィンに、アリサはがっくりと肩を落とした。

「それに学院内調査の依頼を出されたのはヴァンダイク学院長だ。トワ会長が四月からの体験例や目撃例をまとめて学院長に報告にしたんだが、『じゃったらⅦ組の諸君に任せようではないか。旧校舎の調査もしているし、大丈夫じゃろう。はっはっは』とのことで――」

「学院長……無責任なことを……」

 しかしそういうことなら断ることもできない。そう悟ったアリサはしぶしぶ承諾し、他のメンバー達も、やむなくの形で今回の調査に協力することになるのだった。

 だがリィンの話の最中、ずっと押し黙っていた少女がいた。

「ミリアム? お腹痛いの?」

 フィーが心配そうにミリアムのそばによる。彼女はぷるぷると震えていた。

「ボクは……ボクは行かないよーっ!」

「なんで? お腹痛いから?」

「お腹は痛くないよ! 怖いだもん! そんなとこ行くんだったら、ここでルビィと留守番してるから!」

 ルビィ、というのは先日Ⅶ組が世話をすることになった子犬だ。今はソファーの上で丸まって眠っている。

「わかったよ、ミリアム。別に無理やりってわけじゃないし、ここで俺達の帰りを待ってくれ。校舎内でアガートラムに暴れ回られても困るしな」

「ほ、ほんと? よかった~」 

 リィンが言うとミリアムは安心したらしく、ソファーに座り込んだ。

「じゃあ、今回は俺も遠慮させてもらうぜ」

 近くで話を聞いていたクロウも便乗した。

「なにかと忙しいんでな。お前らだけで行って来いよ。せいぜい幽霊とやらに呪い殺されないようにな」

 怖がっていそうなアリサやエリオットにわざとらしくいつもの含み笑いを浮かべると、クロウはそそくさと自室に戻っていった。

「あの人、確実に楽しんでいるわね」

「本当は僕も行きたくないんだけど……」

 こうして一夜の肝試し、という名の幽霊調査が幕を開けた。

 

 

《★★★夏夜の幽霊騒動★★★》

 

 

 リィンはトワから預かった鍵を使い、正門の扉を開いた。学院長からの計らいで、今日はこの時間でも各施設に入れるようになっている。

 夏とはいえ、すでに日は落ち、辺りは暗い。

 薄闇が校舎を包み、昼とは全く違う様相を醸し出している。漂う空気や時折頬を撫でていく風も、今日はどこか寒々しく感じるほどだ。

 アリサは身震いした。

「や、やっぱり雰囲気あるわね。……で、どうやって学院内を調べるのよ?」

「今回も班分けして、各施設を散策しようと思う」 

 そう言うとリィンは上着の懐から、いくつかの紐を取り出した。ちょうど人数分ある。

「今回は調査という形だが、実際は噂の事実確認が主だ。班分けはそこまで気を遣わなくてもいいだろう。夜の学院に入るのもそうあることじゃないし、せっかくだから肝試しのテイストも入れてみようと思って」 

 紐ごとに先端にはA、B、Cと書かれており、リィンはその部分を握って見えなくすると、紐の反対側をメンバーに向けて差し出した。

「まったく、そなたも酔狂だな。まあ、確かに班分けなどなんでも構わんが」

 ラウラがまず最初に紐を引き、アリサ、エマと続いていく。

「もう、何だっていいわよ……」

「ちょっとドキドキしますね」

 紐を引き終わったところで、全員のアルファベットを確認すると、

 

 A班……ユーシス、アリサ、マキアス 

 B班……フィー、ラウラ、エリオット

 C班……リィン・エマ・ガイウス

 

「認めないぞ! なぜ僕がまたこの男と一緒の班なんだ!」

「うるさい。幽霊などよりよほど面倒そうだ」

 案の定、班分けに異を唱えたのはユーシスとマキアスだったが、さすがにくじの結果を変えることはせず、互いに牽制しながらも班を組む。

「あなた達、本当に頼むわよ!? 一番とばっちりを受けるのは私なんだから。それとリィンの班は偏ってない?」

「そうか?」

 C班はリィン、エマ、ガイウス。いわゆる”気配を感じる人達”だ。もっともこの時点ではエマのその力は皆の知るところではないが。アリサが言いたいのは、危機感知能力に長けている人間が集中しているということだろう。

 先ほどから黙っていたガイウスが口を開いた。

「……学院内に入った時から妙な気配を感じるのだ。敵意とは少し違うようだが……」

「変だな、俺は感じないぞ」

 しかしリィンはかぶりを振る。

 リィンとガイウスが読む気配というのは、似て非なるものだ。その本質は異なっている。

 リィンは人体から発する気を読み、相手の位置や攻めの予兆を感じる武道の心得に則した技術である。

 一方のガイウスは、自然の気の流れを――彼らが呼ぶところの”風”を感じることで、そこに存在する不可視を察するというものだ。

 リィンが感じられず、ガイウスは感じ取った何か。

 嫌な予感しかしない。

「うう……やっぱり、僕もミリアムと留守番しておけばよかった~」

 エリオットは心底帰りたそうに第三学生寮の方向に振り返る。トリスタの町明かりがまるで別世界のようだった。

 そんな彼に同じ班のフィーとラウラは力強く声をかける。

「大丈夫。エリオットのことは私が守ってあげるよ」

「うむ。なにも心配はいらない。我らの後ろに控えるがいい」

「二人とも、ありがとう。……普通は反対の気がするけど……」

 全員の準備が整い、調査区域が決められた。

 A班はグラウンドとギムナジウムを、B班は本校舎を、C班は図書館と学生会館を、それぞれ担当することになった。

「なにかあったり、わかったことがあれば《ARCUS》で連絡してくれ。これより学院内の調査を開始する」

 リィンの号令の下、三班に分かれたⅦ組の幽霊調査が始まった。

 

 ●

 

 ――A班、グラウンド

「来てはみたけど、やっぱりグラウンドじゃ変わったこともないようね」

 自分に言い聞かすかのようにアリサは言う。その声にいつもの張りはない。

「当たり前だ。さっさと一通り見回るぞ」

「君がしきるな」

「やめて、そういうの本当に今はやめて」

 さっそく小競り合いを始めたユーシスとマキアスをアリサがなだめながら、三人はグラウンドを回る。面積は広いが調べる場所は限られているから、調査自体は手間ではなかった。倉庫、馬舎共に施錠されており、問題も特に見当たらない。

「はい、異常なし。異常はなしよ? 異議もないわね?」

 グラウンドを一週し、アリサはそう結論づけた。

「まあ、当然と言えば当然か」

 マキアスもどこか安心した様子だ。

「怖かったのならお前も寮で待っていてもよかったんだぞ。布団にでもくるまって、延々とメガネの手入れをしておけ」

「なんだ、その恐怖の紛らわせ方は……。それに本当は君だって――」 

 風が吹き抜けた。木々が揺れ、葉がざわざわと音を奏でる。これが昼なら心地よくも思うのだろうが、今はどことなく不気味に感じてしまう。

 それ以上の口論を続ける気が削がれたマキアスは、深く息を吐き出した。その足元に、こつんと何かが当たった。

「これは……ボール?」

 そこにあったのは小さな球。どこから転がってきたのか、不信に思いながらもマキアスはそれを拾い上げた。

「これ、アリサが持ってきたのか? このボールはラクロスで使うものだろう」

「あら、本当ね。でも今は休み中だから練習はないし、備品も倉庫に入れてあるはずだけど……」

 倉庫に振り返ったアリサは、そこで制止した。赤い瞳が普段よりも大きく見開かれて、そのまま固まってしまっている。

 マキアスはすぐにその理由に気づいた。

「あれ、倉庫の扉が開いてるようだが。さっき施錠の確認は三人でしたよな……?」

「待て。誰か倉庫の扉が開く音を聞いたか? 俺は聞いていない」

 ユーシスが怪訝そうに問うと、二人は顔を見合せた。

 倉庫の扉は野ざらしのせいで立てつけが悪くなっており、普通に開ければ必ず耳障りな音がする。仮にグラウンドの一番端まで三人が離れていたとしても、こんな静かな夜に音が届かないわけがない。にも関わらず、誰もその音を聞いていない。

「ま、まさか」 

 硬直したマキアスの手の平からボールがこぼれ落ちたその時、

 ――じゃり。

 ボールが地面に落ちた音とは全く違う音が、少し離れた場所から聞こえた。 

 じゃり、じゃり。

 砂地を踏みしめる音が、徐々に近づいてくる。だが三人の目には誰も映らない。しかも音の方向は倉庫側からだ。

 ユーシスの判断は早かった。

「て、撤退するぞ!」

 彼の言葉を合図に三人はグラウンドの外へと一目散に駆け出す。 

「君も本当は怖いんだろう!?」

「うるさい! 戦略的撤退だ。このままギムナジウムまで行くぞ」

「いやあああ! もう行きたくないわ!」 

 

 

 ――B班、本校舎一階

「エリオット、どうしたの?」

「な、なんかアリサの悲鳴が聞こえたような……」

「ふふ、エリオットは心配性だな」

 各教室を回りながら、フィー、エリオット、ラウラたちB班は異常がないか確認していた。

 特に目立った問題もなく、調査は穏便に進んでいる――というのはあくまでラウラとフィーの見解だ。

 廊下などの共用部の電気は消えており、廊下は暗い。エリオットは明かりをつけたかったのだが、校舎内に導力を供給するメインブレーカーの場所まではさすがに分からず、暗がりをあるくハメになっていた。

「二人はもっと慎重になったほうがいいよ――ひっ」

 自然と最後尾を歩くエリオットは、唐突に見えた明かりに思わずのけぞった。少し先、教官室前の廊下。その天井に設置されている蛍光灯が明滅しているのだ。

「なんで明かりがついてるの……しかもあそこだけ、へ、変すぎるよ」

 しかも明滅の仕方が不規則で、どこか人為的だ。明らかに普通の状態ではない。

「蛍光灯が古いのかもしれん。明日にでも用務員殿に伝えておかねばな」

「目がチカチカするね」

 ラウラとフィーは平然とその下を通り過ぎていく。

「いや、もう、ちょっとくらい気にしたら……」

 この二人と離れることは今のエリオットにとって、魔導杖無しで単身旧校舎の捜索をするに等しい。

「だ、大丈夫、大丈夫。怖くない。そうだ、演奏会のことを考えよう」

 大勢の観客に見られながらバイオリンを奏でるのだ。その緊張に比べたら、この程度はどうということはない。

 精神の均衡を保つ想像をしながら、そろそろと廊下を通る。

 蛍光灯の真下に来たところで、突然蛍光灯が消えた。そのバチンという音が、バイオリンの弦が切れた時のそれと重なり、同時にエリオットの中の何かも切れた。

「あれ、エリオット?」

「どうしたのだ。やはり気分が優れぬのではないか?」

 エリオットは目を開き、一点を凝視したまま動かない。ラウラとフィーが同時に言う。

『……気絶してる』

 

 

 ――C班、図書館。

 昼ですら静かな雰囲気の図書館だが、夜になるとその静寂はさらに際立つ。

 先人たちが書き連ねてきたであろう蔵書の数々。一つ一つの書籍に書き手たちの想いがあり、その全てを納めているこの図書館は、ある種の厳かさを感じさせた。二階の窓から差し込む月明かりも、そう感じさせる一因だろう。

 リィンは静謐な空気を吸い込んだ。

「なんというか、心が落ち着くな」

「夜の図書館もいいものですね」

 本を借りることの多いエマだが、いつもと違う図書館の雰囲気を気に入ったらしい。青くにじむ月明かりが妙に似合っている。

 ガイウスも本棚を適当に見回りながら、気になる書籍を手に取っていた。

「帝国の歴史か……一度時間を取ってゆっくり読み解いてみるのも面白そうだ。気になる伝承も多くある」

「ああ、各地の精霊信仰とか面白いと思う。帝国独自の伝承だと魔女とか」

 エマがびくりと背を震わせた。

「リ、リィンさんは魔女に興味がおありですか?」

「興味……? なんで委員長、そんなに汗をかいてるんだ?」

 入口カウンターや一階の本棚を確認し、続いて二階の読書コーナーなども一通り回ってみる。特に気になるものはなかった。

 三人は一階のカウンターまで戻る。

「図書室は異常なしだ。ここはそろそろ切り上げるか」

「そうですね。次の施設に移動しましょう」

「二人とも待ってくれ。今、何かの気配が――」

 ガイウスが足を止め、同時に二階から、ゴトンと重い音がした。しかし二階はこの位置からだと、暗くてよく見えない。

「……確認に行く。ガイウスと委員長はフォローを頼む」

 リィンを先頭に、慎重に階段を上がっていく。目を凝らしてもまだ先は見通せない。どうやら月が雲で隠れてしまったらしく、先ほどよりも濃い闇が視界を阻んでいる。

 今回の調査に武器は携行していない。《ARCUS》はあるから、万が一の時にはアーツの使用は可能だが、場所が場所である。火、水はもちろん、風系のアーツでさえも使いたくはない。

「……あの辺りの本棚か」

 雲の切れ間から差し込んだ月明かりが再び薄闇を晴らし、本棚やテーブルの輪郭を青白く浮き立たせた。

「リィンさん、あれを。何かが落ちてます」

 エマが指し示した先、一冊の本が床に落ちている。リィンは近寄って、それを拾った。

「この本が棚から落ちたらしいが……タイトルは『エレボニア帝国近代史』か」

 そばの本棚を見てみるが、書籍の並びは整然としたもので、勝手に本が落ちるとは考えにくい。そもそもこの本が落ちたのは偶然だろうか。 

 本を開いてパラパラとページをめくってみるが、資料図と説明があるだけで、特に目を留めるような内容はなかった。

 例の”影”が意図をもって起こしたこと、そう思うのは突飛すぎる考えか。本当に偶然落ちただけかもしれない。

 リィンは本を閉じた。

「これ以上は何もないみたいだ。先を急ごう」

 不意に《ARCUS》に通信が入った。

 A班かB班のどちらかか。腰のホルダーから《ARCUS》を取り出し、リィンは応答する。

「こちらリィンだ。何かあったのか?」

 しかし通信相手は探索メンバーではなかった。

『おーう、クロウだ。幽霊調査は順調かよ?』

 緊張感が一瞬で消える軽い口調だ。

「クロウ先輩? どうして通信を?」

『トワからちょっと気になることを聞いてよ。今どこだ?』

「トワ会長から? 今は図書館ですが」

『ちょうど近いところにいるな。いいか。今から生徒会室に向かえ』

 なぜと聞くより早く、クロウは言った。

『一人、幽霊候補が見つかった』

 

 

 A班、ギムナジウム。

 グラウンドから逃げて――ではなく、戦略的撤退を余儀なくされたユーシス、アリサ、マキアスの三人は、そのまま次の捜索場所のギムナジウムまで走り込んでいた。それこそタイムを計っていたら、自己ベストを叩き出していたであろう全力疾走で。

「はあっはあっ……もうダメかと思ったわ」

 疲労困憊でアリサは壁に寄り掛かった。

「なんということはない。なんということはない……」

 襟元を正すユーシスは、実技訓練でも見ないくらい汗をかいている。

「ああ、わかってる。今そっちに行くよ、姉さん。ははは、懐かしいな……」

 マキアスは床に大の字になり、生気のない笑みを浮かべて何やら口走っている。体力と思考力が失われていた。亡き従姉の幻影でも見えているのか、嬉しそうに天井に向かって両手を差し出している。

「ちょ、ちょっとマキアス! そっちに行ったらダメよ!?」

「そっち方向であっているぞ。迷わず突き進め」

 彼の意識を戻そうとするアリサと、逝かそうとするユーシス。

 何度もうなされるマキアスだったが、結局意地が勝ったようで「誰が君の言葉に従うか!」と跳ね起きた。

 その直後、奥のプールから水音が聞こえてくる。水しぶきが上がり、誰かが泳いでいるような音だった。

 棒読み口調でユーシスが言った。

「……水泳部というのはこんな時間まで練習熱心だな」

「そんなわけないでしょ! はあ、もう勘弁して」

「ぜったい今日は厄日だ。……とりあえず確認だけはしないと」

 三人はプールの入口に向かって、縦一列になって静かに歩く。先頭がマキアス、二番手がユーシス、最後がアリサだ。

「自然とこの並びになったが、なぜ僕が一番前なんだ……」

「万が一の為の保険だ。副委員長らしく、たまにはいい働きをするがいい」

「お、男らしいわよ、マキアス? それにほら、循環ポンプから流れる水の音かもしれないし」

 水音はまだ止んでいない。なぜか照明はつかなかった。薄闇の中を慎重に進む。

 扉前までは何事もなくたどり着き、マキアスは汗ばむ手でドアノブを持った。

「い、いいか、もう一気に開くからな」

 後ろの二人は無言でうなずく。

 勢いよく押し開けられる扉。広い空間に、消毒塩素の臭いがかすかにただよう。

 二階はほぼ窓に面しているから、差し込む月明かりの光量は多い。水の雫が輝いて見えるのは、プールの水面に映った月が揺らめいているからか。

 ――そう、水面が揺らめいている。

「は、波紋が……?」

 プールには誰もいない。だがまるで今の今まで誰かがプールに入っていたかのように、水面にはいくつにも拡がるいびつな円形の波紋があった。

 何かがいた。あるいは、いる。

 言い知れない冷ややかな感覚を身に感じながら、三人はプール内を見渡した。入口近くから確認する限りでは、やはり誰もいない。

 ユーシスがマキアスの背中を押した。

「もう少し奥まで進まんと確認もできんだろう。行け、進め」

「な、なら君が先に行ったらどうだ?」

「情けない男だ。正直に怖いと言うがいい。心配せずとも骨は拾ってやる」

「どうして僕が玉砕する前提なんだ……って背中を押し続けるな! やめろ!」

「あなたたちね! こんな時にまでいい加減にしなさい。さすがに怒るわよ!?」

 状況そっちのけでもめ始めた時だった。

 二階の窓の一部が妙な光の反射をした。三人から見て正面にあたる横並びに四枚の窓だ。

 彼らは同時にその光に気づく。異変は止まっていなかった。

 窓の一枚ずつに、何かの模様が描かれていく。ガラスに付着した水滴を拭きとるかのようにして浮き上がってきたのは数字。

 マキアスたちは呆然とその四つの数字を見上げた。

『1、1、9、2……?』 

 

 

 B班、本校舎一階。

 エリオットが目を覚ました時、彼は真っ暗な保健室――そのベッドに寝かされていた。

「ここは……?」

 呆けた意識のまま体を起こす。徐々に記憶が戻ってきた。

「そうだ、僕は確か本校舎の探索をしてて、一階の廊下の蛍光灯が明滅してて……」

 そこでおそらく意識を失った。ラウラとフィーが保健室まで自分を運び、ベッドに寝かせてくれたのだろう。そして二人で探索を再開した。

 おおよその経緯を推察したエリオットは、自分の置かれた立場の危うさも同時に理解した。異常が起きている本校舎に、一人だけ残されているという状況。

「ま、まずいよね、これ」

 ラウラとフィーの優しさが今はつらい。

 エリオットはベッドから飛び起きた。保健室の時計を見るに、気絶してからまだ二十分と経っていない。

 このくらいならまだ二階を探索している頃。急げば合流できるかもしれない。

 駆け出そうとして、しかしエリオットは足を止めた。

 音がしたのだ。カタン、という固い音が。

 いつも保健医のベアトリクス教官が使っている机。音はその机の端に置いてある花瓶からだった。

 カタカタと花瓶が揺れていた。窓は閉まっているから風ではない。しかしなぜかカーテンはふわふわと波打っている。

 消毒液などの医薬品を保管してある戸棚の扉が、勝手に開き、そして閉まる。倒れた椅子がクルクルと床の上を踊り回る。背後のベッドが軋み、ガタガタと耳障りな音を打ち鳴らす。

 不協和音は鳴り止まず、粗雑なオーケストラを奏で出した。観客は引きつった笑みのまま固まるエリオットただ一人。

「に、逃げる。逃げないと……!」

 また気を失ってはいけない。

 どうにかして震える足を動かし、エリオットは数アージュ先の扉へ走る。扉は何事もなく開いた。

 後ろを振り返る余裕もない。足がもつれて転倒しそうになりながらも廊下を走り抜け、一気に階段を駆け上がる。

 二階に着くも、ラウラとフィーは見当たらない。教室の散策に入っているか、あるいはもう本校舎から出たしまったか。

 かすかに人の声が聞こえた。その声に混じってピアノの音も。

 フィーがピアノを弾けるとは聞いたことがない。ラウラはもしかしたら嗜みくらいはあるかもしれないが、さすがの彼女もこの状況でピアノを弾く興は持ち合わせていないだろう。

 嫌な想像だけが喚起される。

 どのみちこのまま立ちすくんでいても、二人には追いつけない。そもそも自分もⅦ組のメンバーとして調査に参加している。気絶しただけで夜を終えるのはあまりに不甲斐ないというものだ。

 エリオットは生唾を飲み下し、ピアノの音色が聞こえる音楽室へと歩を向けた。

 扉は開いているようだ。そっと中をのぞくと、そこにラウラとフィーの姿を見つけた。

「あ、エリオットが戻ってきた」

「大事無いようだな。心配したぞ」 

 エリオットに気づいた二人は、ほっと息をついていた。

「ごめんね、二人とも――って何してるの!?」

 普通に話しかけてくるラウラとフィーだが、その体勢がおかしい。ラウラはピアノの下に潜り込んでいて、フィーは譜面台に乗っかって弦や響板をいじり回している。

「あああ! ななな! お、音が狂っちゃうよ! とりあえずフィーはそこから降りて!」

 慌てたエリオットが鍵盤側に回り込むと、フィーはひょいと反対側に飛び降りる。

「エリオットが怒った」 

「それは怒るよ。調律とかし直さなきゃいけないし。ラウラも早くピアノから離れて」

「私はもう離れているぞ」

「いやいや、ピアノ鳴りっぱなしだから……え?」

 ピアノは先ほどまでと変わらず、音を奏で続けていた。

「そなたも早合点だな。私とフィーがここに来た時にはピアノはすでにその状態だったのだ。ピアノが壊れてはいまいかと、調べていただけだ」

 ラウラが話している最中も鍵盤は一人でに浮き沈みを繰り返し、足元のペダルも上下させながら、時に長く、時に短く単音を奏でている。わかりやすぎるくらいの心霊現象だ。

 だというのに、この女子二人はそんな超常ピアノを好き放題いじくり回していたのだ。豪胆というか驚嘆だ。

 一週回って、なんだか怖さが薄れてくる。ふとエリオットはピアノの音に違和感を覚えた。

「あれ、これって……?」

 単音の繰り返し。長短の組み合わせ。動いている鍵盤はたった一つ。気絶する前に見た明滅する蛍光灯も、なぜかこのタイミングで思い出した。何かが線となって、繋がっていく。

 エリオットは自分の《ARCUS》を手にした。フィーが不思議そうに問う。

「リィンに連絡するの?」

「ううん、リィンじゃない」

 確証はないが、確信がある。しかし自分の知識だけではその先の答えを導き出せない。

「連絡するのはミリアムだよ」

 

 

 C班、学生会館二階。

「1、1、9、2……?」

 オカルト研究部や文芸部、チェス部や写真部の部室が両脇に並び、最奥の生徒会室にまっすぐ伸びる廊下を歩きながら、リィンは《ARCUS》に向かってその数字を聞き返した。

『そうよ。プールの二階窓に突然浮かび上がったんだから』

 通信相手はアリサだ。

「わかった。まだ何の意味があるのかわからないが覚えておくよ。他にも何かわかったら連絡してくれ」

『了解よ。って、あなた達いい加減にして! これ以上うるさくしたら、うちのベルトコンベアにその眼鏡を流して――』

 騒々しいまま通信は切れた。マキアスとユーシスがまたやっているらしい。アリサの苦労がうかがい知れる。

「二人ともアリサからの報告は聞こえていたな。どう思う?」

「正直、見当もつかない。意味のある数字なのか?」

「うーん、何かが引っかかるんですが」

 ガイウスと違い、エマはこめかみに指を当て、何かを思い出そうとしている。

 リィンにも引っかかりはあった。どこかで覚えのある数字。例の『エレボニア帝国近代史』を今一度思い返した時、唐突にひらめいた。

「その数字ってもしかして年表じゃないか?」

 少しページをめくっただけでも、出来事、事件、そして年表のオンパレードだったのだ。

 ガイウスが「なるほど」と諸手を打った。

「さすがリィンだ。それで1192年には何があったんだ?」

「え?」

 リィンは沈黙する。覚えていないのだ。くもりのないガイウスの期待の視線が心に痛かった。

「百日戦役。エレボニア帝国によるリベール侵攻。最近の授業で習ったばかりですよ?」

「う、年表の暗記は少し苦手で……」

「もし将来、歴史学の教官にでもなったらどうするんですか?」

「いや、ならないから」

 百日戦役。隣国のリベール、その国境を守るハーケン門をエレボニア軍が制圧したことに端を発する侵略戦争のことである。おおよそ百日で戦乱が終結したことからその名で呼ばれている。

 厳密に言えば、”端を発した”のは、今となっては名前すら残らない小さな村だが、その歴史を知る者はごくわずかに限られている。

 そして、それが起こったのは七耀暦1192年。

「今が1204年だから……えーと――」

 その年数を算出した時、クロウからの通信内容を思い返し、リィンは体の芯が寒くなるのを感じた。

 

『一人幽霊候補が見つかった』

「幽霊候補? 一体誰なんです」

『トワも最近黒い影を見たって知ってるだろ? それからあいつ、ここ十数年の生徒の在学情報を調べてたらしんだよ。卒業名簿やら生徒会の記録を引っ張り出してな。今より生徒数が多かったから、苦労したらしいが』

「すごいですね。あの人は……」

『でだ。中退とかで学院を去ったやつはそれなりの人数だったんだが、一人いたんだよ。死亡が原因で学籍が無くなった人間が』

「まさか……死因はわかっているんですか?」

『不明だ。記録には残っていないし、記録用紙も劣化して名前も読み取れなかった。だが一つ判明したことがある。学院内でのポジションだ』

「ポジション?」

『そいつは生徒会長だった。亡くなった時期を見ると、まだ任期途中だったらしいが』

「ど、どれくらい前の話なんですか、それは」

『ああ、そいつは――』

 

「――12年前……!」

 偶然の一致とは思えない。因果関係を考えてみるが、憶測も立てられなかった。

 一番に考えたことは、その生徒会長の亡くなった理由。

 没年が1192年なのはともかく、原因が百日戦役というのは、繋がらないように思えた。エレボニア帝国は軍事国家だが、学生にまで徴兵は行わない。さらに当時優勢だったのはエレボニアで、リベールの王都グランセルとレイストン要塞を除く地域はほぼ制圧済みだった。戦乱に巻き込まれたとは考えにくいのだ。

 クロウは通信の切り際にこうも言っていた。

 

『学院に少しずつおかしなことが起こり始めたのが今年の四月から。そんで黒い影が見られたり異変が多くなってきたのが二週間前だ。関係あるかわかんねえが、二週間前にトワは生徒会室の大掃除をしたらしい。そん時に十年以上前から保管してた生徒会の色々な物品をうっかり床にぶちまけたんだとよ。だから呪いだ祟りだと騒いでんだ。何もねえとは思うんだけど一応調べてやってくれや。きっと今頃一人でトイレもいけねえだろうからよ』

 

 それでも生徒会室で責務を二週間以上こなしたのは、彼女の責任感の成せる業だろう。最初にリィンに相談しなかったのは、「これでもリィン君よりお姉さんなんだからね」という日常の一語が邪魔をしていたのは想像に難くない。

「トワ会長を見かける度に涙目だったのはそのせいか……早く解決しないとな」

 生徒会室の扉はすでに目の前だ。多分、この先に何かしらの手がかりがある。

 リィンにとって開きなれた扉だったが、今はなぜかドアノブが妙に重たく感じていた。

 

 

 ――後編に続く――




思ったより長くなってしまいまして、今回は前後編に分かれています。お付き合い頂けたら幸いです。



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夏夜の幽霊騒動(後編)

 

 ――B班、音楽室

『やっほー、ミリアムだよ!』

 昼の大人しさはどこへ行ったのか、大音量で聞こえた声にエリオットはたまらず《ARCUS》を耳元から離した。

「や、やあミリアム。寮は変わりない?」

『みんながいないから暇だよ。シャロンがブレードで遊んでくれるんだけど、強すぎてつまらないんだ』

「シャロンさんってカードゲームもできるんだ……」

 ラインフォルトのスーパーメイド。彼女ならなんでもこなすのだろう。

 エリオットは本題に入った。

「一つ聞きたいんだけど、ミリアムは正規軍の所属なんだよね?」

『そーだよ』

「暗号通信の解読とかできたりしない?」

『できるよ。クレアに教えてもらったから、でも簡単なのしかわからないよ?』

 それで十分だった。ピアノの音はすでに止まっているが、一度聞いた音をエリオットは忘れない。手元の小さな紙にはいくつかの音符がメモされていた。

 そのメモをのぞき込んだラウラは、

「やはり信じられんな。先ほどのピアノの音色が何かの暗号だったとは」

「音を使った伝達方法は珍しくないよ」

 フィーがピアノを見やる。

「導力通信が発達してきたから、今では廃れてきてるけど。でも数年前までは結構使われてたんだって」

 フィーに言わせると、短音と長音の組み合わせで簡単な言葉を伝達できるのだという。

 エリオットが暗号の可能性に気づいたのにはもう一つ理由があった。明滅する蛍光灯だ。

 光って消える明滅の仕方、その間隔がピアノの音色の長短とほぼ一致していたのだ。

 かつて航海中の船はこれで連絡を取り合っていたと戦史の授業で聞いたこともあった。とはいえ学院の授業では通信技術に関する説明はあっても、暗号解読の授業はない。

 それでミリアムを頼ったのだ。半分はダメ元だったが。

 エリオットは音のリズムを口ずさんでミリアムに伝えてみる。

「んー? ちょっと待っててね」

 しばらくすると、ガサゴソと何かを探すような音が聞こえてきた。

『ふいー、やっと見つけた。信号通信解読書。さっきの音でいいんだよね』

「う、うん。ミリアム、今のでわかるの?」

『大丈夫だよ。さっきのは暗号化はされてない、少し前まで使われていた信号通信だよ。すぐに音を記号化するから』

「す、すごい」

 改めて”鉄血の子供達”の異名を思い出す。ミリアムは確か白兎――ホワイト・ラビットと呼ばれているのだったか。

『解読が終わったよー。ちょっと意味わからないけど、そのまま伝えるね』

「うん。お願い」

 ミリアムは言葉に変換した一音一音を口にする。

『ワ・レ・ノ・ゾ・ム』

 ――我望む

『で、次がね……』

 続く言葉を聞いて、エリオットは困惑した。

 

 

 ――C班、生徒会室

 思えばおかしなことだったのかもしれない。明かりがつかないのは導力供給のブレーカーが止まっているからだと思い込んでいたが、考えてみれば学院の捜索許可を出されているのに、そんなことがあるのだろうか。そもそも学院内の導力供給が、夜になると止められるなど聞いたことがなかった。 

 夜の生徒会室。十二年前にこの部屋を使っていた生徒会長の手がかりを求めて、リィンたちは薄暗い部屋を散策していた。差し込む月明かりだけを頼りに、棚の上、テーブルの下など思いつく限りの場所を探してみる。

「要領を得ないな。せめて何を探すかがわかっていればいいのだが」

 ガイウスが言う通りだった。

 気になる情報と言えば、トワが二週間前に床にばらまいたという十年以上前の生徒会の物品だが、さすがにもう片付けられて見当のつけようがない。

「……特にこれといったものは見つかりませんね」

 エマも同様らしく、開けていた引き出しを閉める。

「ここに何らかの手掛かりがあるっていうのは、あくまで憶測だしな……」

 一度、調査を切り上げて全員に集合をかけた方がいいかもしれない。

 そう思案するリィンは、ふと本棚とロッカーの隙間に棒のようなものが落ちていることに気づいた。取り出してみると、それは三十リジュくらいの筒だった。

「これは……?」

「リィン! 何かが来るぞ!」

 ガイウスが叫ぶと同時に、全身が総毛立った。空気が濃くなり、ぐらりと揺らぐ。

 室内の窓際に黒い人影が滲み出てきた。だが暗い闇に塗られた顔に、目と口は見えない。

 その影は緩慢に蠢き、リィンに顔を振り向けたようだった。

 反射的にリィンは《ARCUS》を引き抜く。

 黒い影はそれまでの虚ろな挙動とは逆に素早く動き、アーツの駆動準備にも入らないリィンに接近した。

 手と思われる部位が影の密度を増し、そのままリィンを弾き飛ばす。腕で防いだものの衝撃は殺しきれず、リィンは背後のロッカーに叩きつけられた。

 手から離れた《ARCUS》が床を転がっていく。

「――ぅぐっ!?」

 体勢を立て直す前に、影がリィンの首にまとわりついた。さっきと同じように影の密度が増して、首が締まっていく。

「リィンから離れろ!」

 ガイウスが影に向かって、ぶんと蹴りを繰り出す。しかし足はすり抜け、わずかに乱れた影もすぐに元の形に戻った。

「下がって下さい! 私がアーツで攻撃します」

 エマの《ARCUS》に導力が漲り、光の紋様が闇に描かれていく。

 その時、エマの足元にまで転がってきていたリィンの《ARCUS》に通信が入った。

 アーツ発動までは時間がかかる。エマは迷ったが、かがんで足元の《ARCUS》を拾った。

『リィン? エリオットだけど』

「すみません、エリオットさん! 今は緊急事態でして!」

『なんで委員長がリィンの《ARCUS》に? 実は幽霊のことなんだけど』

「その幽霊にリィンさんが襲われています。事情は後で!」

 導力の充填まであとわずか。まもなくアーツが発動できる。

『そこに幽霊がいるの!? だったら今から僕の言うことを伝えて!』

「え?」

 

 リィンはほとんど呼吸ができていなかった。振り払う手にも力が入らない。

 遠のく意識の中に何かが見えた。

 見知った廊下、教室、グラウンド、ギムナジウム、図書館。そこかしこを歩く学院生。だがリィンの知る人間はいない。

 いや一人いた。二アージュ近い大柄な男性で、今よりだいぶ若いが眼光の鋭さは変わらない。ヴァンダイク学院長だ。

 これはこの影の記憶?

 場面は変わり、練武場。

 剣を持って相対する不愛想な少年。金髪碧眼でずいぶん端正な顔立ちだが、口元は真一文字に閉じられている。

 リィンはこの少年にもどこかで会った気がしたが、思い出すことはできなかった。

 場面は目まぐるしく移りゆく。

 帝国時報と銘打たれた新聞、年代は1192年3月。

 たくさんの食料品が詰め込んである荷馬車。視界から遠ざかるトリスタの町並。ライノの花はまだ咲いていない。

 壊れた巨大な石の門。掲げる旗は黄金の軍馬。気骨があり、たくましい軍人たち。彼らが自分に向ける笑顔は優しい。

 空を見上げる。青い空。その中に見えた小さな影。それは空を駆け、雲を突き抜け、一直線に向かってきた。船体に刻印されているのは、翼を広げて飛び立たんとする白いハヤブサ。

 あれは――リベールの軍用警備艇だ。

 そこで画面は黒くかき消えた。

 感情が流れ込んでくる。失った悲しみと、心残りと。

 そうか、そうだったのか――

 理屈のない理解が不意に胸に落ちる。しかしリィンの意識は限界だった。視界が狭まり、思考がかすれていく。

「生徒会長さん! 聞いて下さい!」

 エマが叫ぶが、影は止まらない。アーツの駆動はすでに解除していた。

「私たちは、あなたを卒業させます!」

 影の動きがピクリと止まった。リィンの首に巻きついていた闇が、するすると離れていく。

「っはあっ、はあっ!」

 大きくむせ込みながら、リィンは肺いっぱいに空気を吸い込んだ。ガイウスの肩を借りて立ち上がると、改めてそれを注視する。

 先ほどまでと変わり、取り巻いていた黒い影は薄くなっていた。そこに見えたのは間違いなくトールズ士官学院の制服だ。色は緑。平民出身だ。精悍な顔つきだが、どこかあどけなさも残す少年の面立ち。

 そして右腕にしっかりと巻かれた生徒会の腕章。

 どこか申し訳なさそうにしている。おそらく自分の行動が制御できなかったのだろう。伝えたい気持ちと、羨む気持ちが入り混じったが故か。

 次第にその姿が薄れていく。

「待ってくれ」

 リィンは〝彼”を呼び止めた。

「リィンさん、あの人は――」

「わかってるよ、委員長。さっき彼の想いが伝わってきた」

 想い、未練、願い。それらを果たさなければならない。

「さあ、先輩。十二年越しの卒業式だ」

 

 ●

 

 ――我望む、学院からの、卒業を――

 それが、ミリアムが解読した彼からのメッセージだった。

 リィンからの連絡で、再び集合したⅦ組一同は状況を理解し、さっそく講堂を使って卒業式の準備にとりかかったのだが。

「なーんでこんなことになってんのよ!?」

 ラクロス部のユニフォームに着替えたアリサは、クラウチングスタートの構えでグラウンドにかがんでいる。

 となりのレーンには同じく体勢をかがめて、スタートを待つ彼の姿があった。

 現在、講堂では急ピッチでガイウス、フィー、それにエリオットが卒業式の準備を進めてくれている。

 その間、彼には微々たるものではあるが、少しでも学院生活を楽しんでもらいたい。それがリィン達が考えた彼への卒業の贈り物だった。ちなみに彼を何と呼べばいいのかわからなかったので、便宜的に”先輩”と呼ぶことにしている。

「ああ、もう。やるからには負けないからね! 手加減抜きよ!?」

「始めるぞ。よーい、スタート!」

 リィンが掲げた腕を振り下ろす。それを合図に両者同時に走り出した。

 まずはアリサがリードする。

 普段から部活で走り込んでいるのだ。幽霊相手でも負けるつもりなどさらさらない。 だが彼はコース中盤から速度に乗り、ゴール目前でアリサを抜き去った。大きく腕を振る豪快な走法だ。

「納得いかないわ。もう一度よ。幽霊だからって空飛んだんじゃないでしょうね!?」

 ずいずいと詰め寄るアリサは、もう恐怖など微塵にも抱いていないらしい。

 その後三レースほど走ったが、結局アリサは一度も勝てなかった。

「ず、ずるいわ。幽霊だから疲れないんじゃないの? リィンもそう思うでしょ」

「それは許してあげて欲しいが……」

 いつの間にか彼を取り巻いていた黒い影はほとんど薄れ、遠目には一人の学院生と見ても違和感がない。

「じゃあ次だ。アリサは講堂の手伝いに入ってくれ。俺は先輩の案内人を務めるよ」 

 

「さて、私の番だな」

 続く相手はラウラだ。水着に着替えてプールサイドに立った彼女は、純粋に勝負を楽しもうとしている。

「聞けば、貴公は先ほどもここで泳いでいたそうではないか。一昔前は水練の稽古も今より厳しかったと聞く。その成果、存分に披露して頂こう」

 なんとも尊大な態度だが、嫌味はなくむしろ清々しい。なにより幽霊相手にもその対応ができることがすごい。

 リィンはちらりと彼を見やる。その姿が学生服から水着へと変わっていた。

「服を変えられるのか……なんでもありだな」

 リィンは驚くが、ラウラは感心した様子で「筋肉のバランスがいいな」と彼の引き締まった肉体をしげしげと眺めていた。

「うん。鍛錬を怠らなかった証だ。私も気を入れてお相手をしよう。リィン、合図を」

 ラウラはスタート位置につき、彼もすぐ横のコースに続いた。

 双方の準備が整ったのを見て、リィンは号令を発した。

 二人ともきれいなアーチを描いてプールに飛び込む。

 前半リードしたのは彼だが、折り返し地点でのターンでラウラが大きく差をつける。そこからは一進一退の勝負が繰り広げられた。

 全身をバネのように使い、しなやかに水中を泳ぐラウラに対し、彼は力強く腕を回して水をかき、強い蹴り足を推力に進む。

 最終的にほぼ同時のゴールだったが、タッチの差で彼が勝利した。

「全力を出したつもりだが、一歩及ばなかったか」

 ラウラは肩で息をしながら、一足先にプールサイドに上がった彼とリィンの元へやってきた。

「いい勝負をさせてもらった。感謝する。」

 ラウラは胸に手を添えてその意を示す。

 一方の彼は、変わらずの無表情でラウラを見ている。

 表情に加えて、言葉が交わせないため、感情がどうにも読みにくい。

 ただこうしてこちらの誘い――というか半ば一方的な挑戦にも応じてくれているので、自分たちの意図は伝わっているようだった。

 

 そのまま練武場に移動する。

 そこではユーシスが二人を待っていた。練習用の木剣を手にしている。

「手向けに花を持たせるつもりはないが、それでかまわないな」

「もちろんだ。だけど先輩は今のところ負けなしだぞ」

「ほう、そうでなくては」

 ユーシスは木剣を構えた。様式美と合理性を兼ね備える宮廷剣術だ。

 対する彼はおもむろに手をかざした。練武場の端に置いてあった木剣の一つがふわりと浮き、その手に収まった。

「双方、準備はいいな? 立会人は俺が務めるが、危険と判断したら割って入るぞ」

 リィンは数歩下がると、自身も木剣を持った。

「では……始め!」

 号令を境に一瞬で場の空気が変わる。最初に動いたのはユーシスだった。電光石火で鋭く剣を横に薙ぐ。

 彼は手首を素早く返し、刃の腹でユーシスの斬撃を受け流した。すかさず返す刀で反撃。鮮やかな剣閃が虚空に刻まれる。

 夜の練武場に木剣がぶつかり合う音が響く。上段、下段、中段、フェイントを挟んでまた下段。

 互角に見えた切り結びだが、手数の多さで徐々にユーシスが攻め込んでいく。大きく振るった剣が、ついに彼の体勢を崩した。片足が一瞬沈み、体軸が傾く。

「もらった!」

 しかし崩れたはずの彼の体勢が、急激に芯を取り戻す。沈んだ片足を軸にして、まるでコマのように半回転すると、遠心力の勢いと落とした重心の力を刃に乗せて、渾身の切り払いを放ってきた。

 予期せぬ斬撃の軌道に、ユーシスの反応が一瞬遅れる。

 空気を裂いた彼の剣は、ユーシスのこめかみ直前でピタリと止まった。

「今のは……ヴァンダール流だ」

 彼の体捌きと剣筋を間近で見たリィンは、目を丸くして驚いた。

「あ、勝負あり」

 そして遅れた判定を下す。

 アルゼイド流とヴァンダール流は、帝国における武の双璧と言われる。ユーシスも彼の実力に納得したらしい。

「まさかヴァンダールの門下だったとはな。さすがの剛剣だった。……ところで」

 ユーシスの声音が変わり、ぎろりとリィンをにらむ。

「危険と判断したら止めに入ると言っていなかったか? 俺の顔面近くにまで剣が迫っても、微動だにしなかったようだが」

「すまない。つい見入ってしまっていた」

「何のための立会人だ!」

 やいやい言い合う二人のやりとりを、彼は変わらずの無表情で見つめていた。どこかその目は優しかった。

 

「悪いが僕も手を抜く気はないぞ?」

 学生会館、第二チェス部。マキアスは机を挟んで座る彼に言う。

 今回の勝負はチェス。マキアスの十八番だ。二人の間にはすでにチェス盤が設置されている。

 ユーシスたちが遅れを取ったところを見ると、どうも彼は体育会系らしい。ならばこちらの土俵で勝負する、というのがマキアスの戦法だった。

 学院内の明かりは、すでに通常通りスイッチ一つで何事もなく点灯している。やはり今までは、黒い影による何らかの力が働いていたようだ。

「では、こちらから行かせてもらう」

 白の駒がマキアスで、黒の駒が彼だ。

 マキアスはポーンを一マス進めた。次に彼のターン。彼はナイトを動かした。そのナイトの駒はふわりと浮き進み、すとんとマスに落ちる。

 マキアスは立会人のリィンに焦った目を向けた。

「こ、これはありなのか!?」

「ルールブックには、駒を浮かす行為は禁止と書かれていなかったと思うが」

「そんなルールがあってたまるか」

「だが駒の進め方は合ってるだろう」

 確かにナイトの駒の動きで間違いない。

 初めの数手は駒が浮かぶ度にうなり声を上げていたが、やがてマキアスの目は盤上に集中し始めた。一手に長考を要するようになる。

 強いのだ。

 常に二手三手先を読んでくる。目先の駒を不用意に取ろうとせず、徐々に、しかし確実にキングを詰めてきた。

 マキアスも後手には回らず、攻めと引きを繰り返し、敵陣を乱していく。

 駒が浮くなど、もう意識の外だ。マキアスが攻め、彼がかわす。彼が仕掛け、マキアスが守る。

 互いの駒を削り、最後のチェックメイトは黒の駒――彼の一手だった。

「ま、参りました」

 白のキングは完全に逃げ道を失った。ビショップとルークが右陣を抑え、絶妙の位置にあるナイトとポーンがどう動いてもキングを刺す。

「クイーンを中心とした戦力に頼らず、個々の特性を最大限生かした戦術で戦う。理想の指し方だ。こんな勝負は久しぶりだな! 先輩、もう一回手合せを願いたいのだが……」

 充実した時間だったらしく、マキアスはすでに二局目の準備に取りかかっている。

「さすがにそこまでの時間はないって」

「むう……」

 それでもと食い下がるマキアスをどうにかなだめ、リィンはその場を離れた。

 

 

「さあ、これが最後だ」

「あ、あの……ほんとにやるんですか?」

 彼との勝負を終えたメンバーは順に講堂の手伝いに向かう。今回が最終のイベントだ。残ったのはエマ一人。場所は講堂の裏である。

「頼む、委員長。マキアスが言うには学園には欠かせないイベントらしいんだ」

「マキアスさん、きっと変な本読んだんですよ……う~、わかりました。やります……」

 しばらくして、講堂裏でエマは一人で立っている。そこにリィンに促され、彼が歩いてくる。

 向かい合う二人。

 無言が続いたあと、「あ、あの」と、エマはおずおずと口を開いた。胸前で組んだ指が落ち着きなく動き、足は内股でもじもじしている。

 彼もどことなく緊張しているようにも見えた。

「わ、私……初めて会った時から先輩の事が……す、すっ、すすっ」

 赤面するエマ。かたかたと唇が震えるが、続く言葉を勇気をもって紡ぐ。

「スパークアローッ!」

 稲妻が轟音と共にほとばしる。乙女の純情が雷の矢と化し、彼の傍らを突き抜け、その後方のリィンに直撃した。

「言えない、言えない、言えません! リィンさんなんか知りませんー!」

「な、なんで俺、が……」

 口から黒煙を吐きながら、リィンはくずおれていく。

 エマは両手で顔を覆ったまま猛スピードで駆け抜けると、そのまま講堂内に飛び込んでしまった。直後にマキアスの悲鳴が聞こえたが、リィンは何も聞かなかったことにした。

「あー……なんだかすみません。げほっ」

 伏したままリィンは彼に声を掛ける。彼は固まったまま、しばらく動こうとしなかった。

 

 ●

 

 講堂内。整然と並べられた椅子にそこかしこを彩る草花。

 時期的に普通は卒業式に飾る花ではないが、鮮やかな色合いは見る者の気分を和ませる。フィーが育てているものを持って来てくれたのだ。

 リィンに連れられて彼が講堂内に足を踏み入れると、Ⅶ組の全員は椅子から立ち上がって拍手で出迎えた。

 彼は全員に向かい合う形で正面に立つと、ぐるりと講堂の中を見渡した。

「急いで準備したからちょっと殺風景かもね」

 エリオットが申し訳なさそうに鼻先をかいた。

「何分、卒業式というのを経験したことがなくてな。もし何か間違っていたらすまない」

 そう言ったガイウスの指先は黒ずんで汚れている。椅子の設置や講堂内の清掃に尽力してくれたのだろう。

「ああ、十分だ。みんな、ありがとう。それじゃあ始めようか。委員長」

 リィンも彼から離れて、Ⅶ組の側に立った。代わりにエマが歩み出て、丁寧に折り畳まれた紙を開いていく。

 エリオットが末席に立てかけてあったバイオリンを手に、柔らかな音色を奏でると、エマは「在校生、送辞」と静かに告げた。

「あなたと過ごした時間はとても短いもので、もしかしたらこのように私たちが送り出すことすら、本来は間違っているのかもしれません」

 本当なら十二年も前に、もっとたくさんの後輩たちに見送られるはずだった。

「ですが、ほんのわずかな間でも……グラウンドやプールで競争したり、チェスや剣で勝負したり、確かに先輩と同じ時間を共有できました。結局私たちは一勝も上げることができませんでしたが――」

 もしそのまま卒業して軍に入隊していたら、今頃は有能な指揮官になっていたのだろう。自分たちの特別実習での縁もあったかもしれない。

「――いつかあなたにも負けないと、胸を張って言えるくらいに成長して、先輩が過ごした大切なこの学院を、これからも守っていきます」

 それが彼にできる唯一の誓い。

「まだまだ未熟な私たちですが、これからはどうか女神の御許で私たちを見守って下さい。――在校生代表、エマ・ミルスティン」

 送辞を終えたエマは一礼すると、再びリィンと立ち位置を交代した。

「先輩にお渡しするものがあります」

 リィンの手にあったのは、生徒会室の本棚とロッカーの間に挟まっていた黒い筒。その筒の蓋を取って、中から丸まった一枚の紙を取り出す。

 金色に装飾された縁取りに、雄々しい角を生やす獅子の紋章が印字されたその紙。

「先輩の卒業証書です。受け取って下さい」

 証書に名前は書かれていないが、間違いなく彼の物だとわかる。きっと十二年前の生徒会役員たちが亡き生徒会長を惜しみ、悼んで、そっと生徒会室の片隅に忍ばせておいたのだろう。

 彼がその時、その場所にいた証を遺すために。

 彼はゆっくりと手を差し出すと、その卒業証書を手にした。

『ご卒業おめでとうございます』 

 全員が声をそろえ、大きな拍手で称えた。

 彼の姿が薄らいで消えていく。まるで柔らかな月の光に溶けていくように。

 彼は初めて笑顔を見せた。その瞳から一筋の涙がこぼれる。頬を伝い、雫が床に落ちた時には、もう彼の姿はそこになかった。

 

 ――ありがとう――

 

 頭の中に声が届く。一人の卒業生から七人の在校生に送られた、たった一言の答辞だった。

 

 

 ●

 

 ――後日談――

 

「以上が昨夜の報告になります」

「うむ、ご苦労じゃった」

 豊かな顎ひげをさすりつつ、ヴァンダイク学院長はそう言った。

 一夜明けて、リィンは幽霊調査の結果を学院長室まで報告に来ていた。

「それにしても彼の卒業式を開いてしまうとはな。いや、よくぞやってくれた。礼を言おう」

「もしかして学院長は黒い影の正体に気づいていたのですか?」

 リィンは自然と”彼”と口にした学院長の言葉に違和感を持った。そういえば彼の心の中に、若い頃のヴァンダイクの姿もあった。面識があった可能性は高い。

「確信まではなかった。軍を退役して、この学院に赴任した時の生徒会長が彼じゃった。もっともその頃はわしもまだ学院長ではなかったが」

 聡明で、毅然とした少年だったと、ヴァンダイクは懐かしむように言う。

「そうでしたか……。ただ結局わからなかったのは、なぜ異常の始まりが十二年も空いた今年の四月からだったのかということです。二週間前から現象が多くなった理由は何となくわかったのですが……」

 二週間前というのは、トワが昔の生徒会の物品をばらまいた時だ。おそらくその際に卒業証書の入った筒があの場所に挟まったのだろう。それがどう影響したのかまでは定かではないが、彼を呼び起こす一因になったのは間違いない。

 だとすれば四月は何がきっかけになったのだろうか? 

「それは君らの入学じゃろうな。彼も元々Ⅶ組だったしの」

「え?」

「彼はⅦ組で、君らは特科Ⅶ組じゃ」

 そこまで言われて、リィンは意味を理解した。

「昔は生徒数も多かったからのう。当然クラス数も多かったのじゃよ」

 そういえばクロウも昨日の通信の時に、昔は今より生徒が多かったと言っていた気がする。

「Ⅶ組の活躍は、生徒の間でも話題になっておった。それがこの学院のどこかで眠っていた彼の耳に届いたのじゃろう。だから君たちに頼んだのじゃよ」

 リィンは依頼の際のヴァンダイクの言葉を思い出した。

 ”じゃったらⅦ組の諸君に任せようではないか”

 普段は”リィン君”だが、今回に限っては”Ⅶ組の諸君”と指定していた。なんとも老獪な手腕だ。 

「彼はなぜ、亡くなったのですか?」

 リィンは最後まで気になっていたことを訊いた。

 沈黙したヴァンダイクは、少しして重い口を開く。

「……きっかけは百日戦役で間違いない。知っての通り、今から十二年前にエレボニアはリベール侵攻を開始した。宣戦布告からの電撃作戦で圧倒的な優勢を得た我が国は、瞬く間にリベール各地を制圧した」

 それはリィンも知っていた。

 導力通信の利点を最大に活かして、宣戦布告文書をリベールのアリシア女王が受け取ったのとほぼ変わらないタイミングで、ハーケン門に砲弾を撃ち込んだという。

 傍目に見てもグレーゾーンな開戦の仕方だが、当時の情勢を鑑みると自国の非難を強くすることもできない。

「各重要拠点も抑え、抵抗の規模も日増しに少なくなっていったが、軍人も人間。補給物資は必要じゃった。もちろん補給運搬は基本的に軍が行うが、それとは別に民間の有志による救援活動も、当時は盛んに行われておった」

 民間有志なので戦地に直接赴くわけではなく、あくまで駐屯地に食料や衣類などを届ける程度だが。

 エレボニアに限らず、戦争の歴史が長い国ではそのような慣習も珍しくない。

「彼は補給物資を届ける民間団体に志願した。わしは学生が行くところではないと止めたが――」

 彼は応じなかったという。卒業も間近に控え、授業もない。士官学院を束ねる生徒会長として、自国のために何かしたかったのだろう。愛国心も強い少年だったらしい。

 開戦から二か月後。彼は制圧後に拠点としていたハーケン門に、補給物資を届けにいく団体に同行した。

 タイミングが悪かったという他ない。

「その日、戦局が大きく変わった」

 それは近代史を語る上で避けては通れない出来事だ。

 リベールのレイストン要塞で開発されていた、三隻の軍用警備艇を起点に反抗作戦が実行されたのだ。

 当時エレボニアでは、実用に耐えうる飛空艇の実戦配備はほとんどなく、遥か上空から降り注ぐ導力兵器に成す術はなかった。

 制圧した関所から次々に奪還され、やがて警備艇の一隻がハーケン門の上空に到達した。

「そして巻き込まれた。上空からでは民間人がいたなどわからなかったじゃろうし、仮にわかったとしてもどうにもならなかったじゃろうな。リベールも奪還作戦に命がけだったはず」

 リィンに言えることはなかった。自分と年齢も変わらない少年が戦火で命を落とすなど。無念だっただろう。いや、その想いは昨夜すでに感じている。

「今となっては昔の話じゃ。リィン君が気にすることではない。それに君たちは彼の心を救ってくれている」

「そんな……」

「それに、彼は無意味に命を落としたわけではないぞ」 

「……? それはどういう――」

 コンコンとノックの音がし、ドアが開く。

「失礼します。学院長、先月の件なんですが……ん? いたのか、シュバルツァー」

 軍用ブーツの踵を鳴らして、姿勢よく室内に入ってきたのは帝国正規軍、第四機甲師団所属、ナイトハルト少佐だった。

 学院へは出向という形で、特別教官として度々足を運んでくれている。

「……あ」

 愛想の無い実直剛健な顔立ちを見て、リィンはようやく思い至った。

 彼の心の中に見た金髪碧眼の少年と、ナイトハルトの顔が重なって映る。ナイトハルトは現在二十九歳、十二年前というとちょうど自分たちと同じ年の頃である。

 彼とナイトハルトは同期だ。

「なんだ、シュバルツァー? 人の顔をじっと見て」

「し、失礼しました」

 ヴァンダイクが笑った。

 ナイトハルトは不思議そうにヴァンダイクを見る。

「学院長?」

「確かに彼の死は不遇だったが……そんな彼と切磋琢磨し、競い合ったかつてのライバルが君たちを指導し、育ててくれている。常々言っておるじゃろう? ”若者よ、世の礎たれ”と」

 その時は普段の威厳に満ちた学院長ではなく、年相応の好々爺としての表情をのぞかせて、ヴァンダイクは晴れやかにこう続けた。

 それは”彼”にとって、どんな勲章よりも価値ある言葉だったに違いない。

「これを礎と呼ばず、なんと言うのかね」

 

 

 ――FIN――

 

 

 

 

 

 

 ★おまけ★

 

「んー……う~ん」

 リィンはベッドから身を起こした。真夜中である。窓から見える外の景色は、まだ真っ暗だ。

「俺、何してたんだっけ。……幽霊騒ぎを解決したあと、みんなで第三学生寮に戻って、それから――」

 おそらく疲れ果てて眠ってしまったのだろう。きっと他のみんなも同じだ。今日は大変だった。

 喉が乾いている。一階に降りて、水を飲んで来よう。それから寝直しだ。朝までは時間がある。

 リィンは部屋の外に出た。

「た、助けてくれー!」

 いきなりの叫び声にぎょっとする。廊下の向こうから、マキアスが必死の形相で走って来ていた。

 その後ろを誰かが追いかけている。

「うふふ、鬼ごっこって楽しいわ。お兄さん、待ってー」

 すみれ色の髪に、白いゴシックドレス。見たことのない少女だ。可愛らしい姿恰好をしているが、その手には身の丈よりも大きい鎌が握られている。死神が携えるようなそれだ。

「マ、マキアス、その子は誰だ? なんで追いかけられてる!?」

「僕にもわからない! 気づいたら枕元に立ってて、問答無用で襲われたんだ!」

「つーかまえた。そーれっ」

 無邪気な掛け声と共に、大鎌が迫る。物々しい三日月刃が、振り返ったマキアスの顔面を縦一閃に擦過した。

「ぎゃあああ!」

 ブリッジから半分に両断された眼鏡が、カランカランと床に転がる。顔は無事のようだが、マキアスは両膝をついてうなだれた。

「あ、ああ、僕のメガネ……これは悪夢だ」

「あー楽しかった。また会いましょう、お兄さん」

 くすくすと笑んで、少女はふっと消える。同時にマキアスの姿も透けるようにして消えてしまった。

「な……!?」

 何が起きた? 

〝これは悪夢だ”

 今しがたのマキアスの言葉を思い出す。

 そうか、夢なんだ。俺はまだ夢の中にいるんだ。

「う、うぅ、リィン」

 さっきまでいなかったはずのラウラが、すぐそばに立っていた。

「どうした、ラウラ? そんなに泣きそうな顔をして」

「父上の《ガランシャール》を折ってしまった……どうしたらいいだろうか」

 刀身の折れた大剣を見せてくる。アルゼイド家に伝わる宝剣だ。250年ほど前に《槍の聖女》リアンヌ・サンドロットが率いた鉄騎隊、その副長たるラウラの祖先が使っていた由緒正しい剣だとか。

「落ち着くんだ。ちゃんと事情を話せば子爵閣下はわかって下さると思う。そもそも、どうして折れた?」

「……言えない」

「言えないのか……」

 ラウラはその場に正座した。

「こうなったら腹を切るしかあるまい。東方にはそうやって罪を償う方法があると聞いた。リィンは介錯を頼む」

「切腹のことか!? か、考え直せ!」

「父上。このラウラ、死んで詫びますゆえ!」

「ダメだって! やめろ!」

 伸ばしたリィンの手が、ラウラをすり抜ける。彼女もまた消えてしまった。

 息も荒く、リィンは汗ばんだ手をぬぐう。

「そうか……これ、夢なんだよな……」

 わかった。今日の幽霊調査の影響だ。怖がった人も、そうでない人も関係なく、自分にとって恐怖であることを夢に見ているのだ。

 ということは、これはみんなの夢の中でもあるのだろう。

 ガイウスの部屋の中から声がした。

「クララ先輩、どうか父と弟には手を出さないで頂きたい。脱げというなら俺が脱ぎますから……」

 悲痛な懇願が廊下まで漏れている。どんな状況の夢だ。クララとは美術部の部長の名前だが、普段からガイウスは何をされているのか。起きて覚えていたら聞いてみよう。

「やめて! 母様!」

 今度はアリサの部屋からだ。女子部屋は三階のはずなのに。寮の構造まで滅茶苦茶になっている。

「授業参観とか絶対にイヤよ! 私、ずっと下を向いて、何も発言しないから!」

「やれやれね。なら授業中に質問を当てられたら、私が答えてあげるわ」

「もっとイヤ!」

 彼女の母親のイリーナ会長の声だ。部屋の中にいるのだろうが、とても扉を開ける気にはなれなかった。

 その他も混沌としていた。

 何をやったのか、ユーシスは父親のアルバレア公爵と同じ部屋で8時間過ごす刑に処されているし、エリオットは姉のフィオナに無理やり女装させられそうになっている。

 フィーは勉強を教えようとするエマに追いかけられているし、そのエマはなぜか用務員のガイラーに追いかけられていた。

 みんなの怖いものが独特だ。

「……あれ?」

 そういえば俺の怖いものはなんだ? まだ出て来ていない。とはいえ、怖いものと考えてみても、そうそう浮かんでは来なかった。

 とりあえず当初の目的を果たそう。喉が乾いているのだ。夢の中で飲んで、意味があるのかはわからないが。

 リィンは一階のラウンジに降りる。

 コップに水を注ぎ入れようとした時、玄関ドアがノックされた。

 こんな時間に誰だろう。

「はい、どちら様で」

 扉を開けると、外に立っていた人物はリィンをじとりとした目で見つめた。

「私がお送りした手紙の返信が、一週間経ってもないのですが。弁解はありますか?」

「エッ、エリ――」

 

 弾丸のごとく跳ね起きる。頭が天井に突き刺さらんばかりの勢いだった。

 今度こそリィンは目を覚ました。ぐっすり眠りこけていたので、もう朝だ。

「お、俺の怖いものって……」

 

 

 ――END――



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ガールズクッキング

 九月初旬。レグラムでの実習、続くガレリア要塞での一連の事件も終え、日常は落ち着きを取り戻していた。

 貴族生徒の帰省期間も終わり、トールズ士官学院は通常の授業を再開している。

 そんなある日の放課後、いつものⅦ組の教室で、五人の女子生徒が浮かない顔を並べていた。

「はあー、一週間後よね。どうしよう、みんな何とかなりそう?」

 その中の一人、アリサが言った。

 ラウラはかぶりを振る。

「いや難しいな。恥ずかしながらこの手のことはさっぱりだ。やはり剣以外も学ぶべきだったか……」

「どうしましょう。調理実習試験」

 エマが深いため息をつく。

 彼女たちは一週間後に家庭科実習の試験を控えているのだ。

 家庭科のカリキュラムは女子の必須科目。座学だけではなく、今回のような調理実習もある。

 例年、特に貴族子女にとって、この授業は大きな壁となって立ちはだかることで有名だ。

 Ⅶ組女子はラウラ以外は貴族ではない。

 とはいえアリサはラインフォルトのお嬢様で、料理なんかはシャロンが担うことが多いから、自分で何かを作る機会は少なかった。

 フィーは料理のジャンルが偏っていて、言わばサバイバル系。味音痴ではないが、調味料の扱いがよくわかっていない。

「委員長も料理が苦手だったのはちょっと意外かな」

 困り顔のエマにフィーは言う。

「薬草や薬品を混ぜたりとか、そういう調合はよくやったんですけど……。料理もアンブロシアやダイノフィレとかを使ったちょっと特殊なものが多くて」

「聞いたことない材料だけど。野菜?」

「えっ、あ、そうです。地元でしか採れない食材で!」

 なぜかエマは焦っていた。

 唯一さほど困っていなさそうなミリアムがあくびをする。

「食べられたら何でもいいんだけどなー。ボクは調理部だけど、食べる専門だし」

「でもミリアムちゃん、赤点を取ったら補修や追加レポートが課せられちゃうんですよ」

「えー、それはヤダよ」

 試験は試験である。

 どうにか乗り切らなくてはならないが、さしあたっての問題は先頭に立って料理を教えられる人間がいないことだった。

 シャロンに教えを乞う案も出たが、タイミング悪く彼女はラインフォルト本社に用事で戻っている。

 考え込むことしばし、ラウラが思いついたように両手を打ち鳴らした。

「実際に作った料理を食べてもらって、意見を取り入れるのはどうだろう」

「確かにそれなら上達も早いかもしれませんね! でも誰に食べてもらいましょうか?」

「エマったら何言ってるの? こんな時のために男子がいるのよ」

 アリサは力強く断言する。〝こんな時のための男子”発言には、誰も異議を唱えなかった。

 さっそく女子は段取りを組み始めた。

「では私とフィーは食材を調達しよう」

「私はエマと必要な調理道具を揃えるわね。調理室の使用許可はミリアムに頼めるかしら?」

「オッケーだよー」

 話がまとまり、五人は立ち上がる。

 放課後の時間を思い思いに過ごしている男子たちは、最大の危機が迫りつつあることを、この時はまだ知る由もなかった。

 

 

《★☆☆ガールズクッキング☆☆★》

 

 

 それから三日経った放課後。

 男子たちはフィーに連れられて調理室前まで来ていた。

「フィーが料理を作ってくれるなんてな。どういう風の吹き回しだ?」

「ひみつ」

 リィンがフィーに訊くも、返答はそれだけだった。

「何でもいいじゃねえか。食わしてくれるんだったらありがたく頂こうぜ。放課後になりゃ腹も減るってもんだ」 

 クロウは軽薄に笑っていた。

 普段気さくに話していても、この手のイベントにはなぜか参加しないことが多いのだが、珍しく誘いに乗ってきたのは食事にありつく為だったらしい。

「今日は馬術部が休みだからな。時間潰しにはなるだろう」

「料理を作ってもらうというのに相変わらず偉そうだな、君は」

 ユーシスとマキアスも都合がよかったらしく、

「フィーの料理か~、ちょっと興味あるかも」

「ああ、ごちそうになろう」

 ガイウスとエリオットも時間が空いていたとのことで同行している。

 フィーが調理室の扉を開くと、大きめの長机に椅子が六つ横並びに用意されていた。

 彼女に促されるまま、リィンたちは席に着いていく。奥の席から、ガイウス、エリオット、マキアス、ユーシス、クロウ、リィンの順番だ。

「おまたせ」

 すぐにフィーが料理を運んできた。どうやら前もって用意してあったらしい。それを一人一人の前に置く。

 リィンは皿をのぞきこんだ。

「へえ、サラダか」

「そう、マイルド野菜サラダ。どうぞ」 

 料理と聞いていたから、サラダというのは想定外だった。それでも一生懸命作ってくれたフィーに対して、そんな指摘は野暮だ。

 菜葉系が多いサラダ。盛り付けは中々のもので、緑をメインに黄色、赤と色彩豊かで見た目もいい。

「じゃあさっそく頂くよ」

 いただきますと声をそろえ、まずはフォークで手頃な根菜を口に運んでみる。

 シャキシャキとなんとも瑞々しい歯ざわりが心地良い。鼻を新鮮な自然の香りが抜けていったのも一瞬、続いて根菜本来の味が舌の上に広がっていく。

「おいしいじゃないか。少し苦味があるみたいだが……苦味が、苦味が――」

 苦味が止まらない。止まらないどころか加速する。口の中に直接アーツを撃ち込まれたかのような激しい衝撃が男子たちを襲った。

「ごふっ!?」

 マキアスが吹き出しそうになったが「やめろ!」と横に座るユーシスが、彼の口を押さえ込んだ。

「んーんー!?」

「こんなところで吐き出したら俺の皿にもかぶるだろうが。それに見てみろ」

 フィーは明らかにこちらの反応を気にしている。彼女とて目の前でそんな惨事が起これば、さすがに傷つきもするだろう。

「だから、飲み込め!」

 ユーシスの額には多量の汗が滲んでいた。彼もリスクを承知の上で、凶悪な刺激物を飲み込んだのだ。

「むぐぎゅうー!」

 マキアスも意地を見せた。無理やりに痺れる舌を動かし、口の中の物体を喉の奥に押し込める。

 尋常ではない苦味。毒々しささえ感じる深淵の味わいだ。

 一足先にそれを飲み下したリィンは、うつろな目をフィーに向けた。

「これ野菜じゃないよな……。なんだ?」

「本当は野菜買おうと思ったんだけど、予算オーバーしちゃったから」

「……しちゃったから?」

「その辺で摘んできた草」

 マイルド野菜サラダは名前を変え、ワイルド野草サラダとなった。

「……そうか、つまり俺たちは」

 小奇麗な皿に盛りつけてあるが、その辺に生えた雑草をもしゃもしゃと食べている。

「ねえ、リィン。おいしく……ないの?」

「それは――……っ!?」

 フィーの瞳が、迷った子猫のように頼りなく揺れる。

 このサラダ(?)は自分たちを想って作ってくれたのだ。それに彼女の生い立ちを考えれば、野草を食べて生き延びた日々もあったのかもしれない。

 拳を握りしめ、リィンは覚悟を決めた。

「おいしいに決まっているじゃないか! ああ、フォークが止まらないぞ」

「んおいっ!」

 クロウが何とか撤回させようと、リィンの足をげしげし蹴る。

 しかしフィーの視線が自分に向くと、彼もつい言ってしまった。

「おう、こんなうまいサラダ食ったことねえよ……」

 その言葉にフィーの頬がわずかに緩む。

 もう後には引けない。その笑顔を守らなければ。

 男子たちは震える手でフォークを持ち直した。

 

「ごっ、ごちそうさまでした……」

 決死の覚悟で雑草を胃に押し込めた彼らは、早々に退室しようとする。一秒でも早く胃薬を入手したかった。

 席から立ち上がろうとした矢先、両手に大きな買い物袋を抱えたアリサが調理室に入ってくる。彼女はテーブルの上の皿を見ると、眉をひそめた。

「え? もしかして先にサラダを出しちゃったの?」

「ん、野菜は新鮮さが命だからね」

 道端の雑草だろう。その言葉を男子はかろうじて口中にとどめた。同時に“先に”という一語に引っかかる。

 アリサに続いて、エマ、ラウラ、ミリアムも姿を見せた。

「待たせてすまなかった。さっそく始めるとしよう」

 そう言うとラウラは荷物を手近なテーブルの上に置く。

 てきぱきと何らかの準備を進める様子を見て、リィンは不安げに訊いた。

「ラ、ラウラ? 済まないが説明して欲しい。今から何が始まろうとしているんだ」

「なんだ、何も聞いていなかったのか? 女子は来週に調理実習の試験があるのだ。そこでそなた達に試作の料理を食べてもらって、忌憚のない意見をもらおうと思ってな」

「な、なるほど」

「全員来てくれて何よりだ。腕によりをかけさせてもらう」

「だけど聞いてくれ。俺たちは今、サラダを食べたばかりで腹もふくれ気味というか。なあ、みんな?」

 他の男子はかくかくと首を縦に振る。まるで壊れた玩具のようだ。

「たかがサラダを口に入れたぐらいで、食べ盛りの男子が何を言う。遠慮する必要はない。それに料理とはコースで頂くものだ」

 ラウラはやる気満々だ。しかしさっきのサラダの後である。運ばれてきた大量の食材やら調理器具には、嫌な予感しかしない。

「あーはいはい。じゃ、あと頼むわ」

 間髪入れずに逃げ出そうとしたクロウを、両どなりのリィンとユーシスが超反応で拘束する。椅子に体を押し付けられたクロウは、足をじたばたとさせた。

「は、離しやがれ! 俺はあれだ。用事があるんだよ!」

「暇だって言ってたでしょう」

「抜け駆けは許さんぞ」

 そうこうしている間にも眼前のテーブルには純白のクロスが敷かれ、銀色のカトラリーがセットされていく。ナイフとフォークが悪意のある凶器にしか見えなかった。

「少し準備に時間がかかる。しばし歓談でもして待つがよい」

 女子たちはいそいそとエプロンを身に付けだした。

 

 

 男子は無言だった。時計の針が進む音が妙に大きく感じる。

「なあ、あれなんだ?」

 ぽつりとクロウが言った。

 調理室の一角が巨大なカーテンに覆われている。あの辺りに皿やらコンロなどを持ち込んでいたようだったが、中は見えない。カーテンの表側には『乙女の領域』と書かれた札が掲げられていた。

 今現在、その乙女の領域内では調理が行われているらしく、グツグツと食材を煮立てるような音が聞こえていた

「……わからない。俺たちがこのあとどうなるのかさえも」

 リィンはうつむいて、視線を一点から動かさない。

「今日、家に帰れるのかな……」

「大丈夫だ。風が……風が導いてくれる」

 エリオットをはげますように、そして自分にも言い聞かすように、ガイウスは何かに祈りを捧げている。

 一方のユーシスとマキアスは落ち着いたものだった。

「お前たち、悲観的過ぎるぞ。さっきのサラダはフィーが単独で作ったものだろう」

「エマ君もいるし、とりあえずは安心じゃないか」

 確かにそうかと、一筋の光明が見えてきたとき、不意にカーテンが開いた。ビクッと一斉に男子の肩が跳ね上がる。

 乙女の領域から現れたアリサが、滑車付きの配膳台を押してきた。

「お待たせ」

 一人一人の前に平皿が置かれていく。

 コース料理の基本に乗っ取って、最初はスープからだった。薄味のスープを飲むことで胃の環境を整え、続く料理に備えるのだ。しかし眼前のスープには、そんな控え目な前座としての役割は微塵にもない。

 スープの色が真っ赤なのだ。皿の底など到底見えず、時折、気泡がぽこぽこと浮き上がっては弾けて消える。野菜が入っているようだが、大きさもバラバラで、岩石と見紛う程のごつごつした物体――おそらくジャガイモ――が激しすぎる主張をしていた。

 頬を引きつらせ、リィンは問う。

「料理名は?」

「え、名前? そうね、じゃあ天国スープで。東方にはそんな言葉があるんでしょ?」

「まあ、その、なんだ。楽園を意味する言葉だな」

「ぴったりの名前じゃない。じゃあ冷めない内に召し上がれ」

 天国というのは東方の言葉で、死した後に辿り着く楽園――女神の御許と解釈されている。

 それほどに絶品という意味のネーミングなのだろうが、このスープは見れば見るほど“楽園”よりも“死した後”という意味合いの方が強いように思えてならない。

 冷める前にと言うが、未来永劫冷めることのなさそうなスープを、皆はスプーンですくった。

「い、頂きます」

 その液体を口腔内に注ぎ込むことを全身が拒否していた。それでも意を決して口に運ぶ。

 一瞬でそれは訪れた。燃えて赤熱した鉄の棒を、体の芯に突き刺されたかのような、戦慄さえ覚える辛さ。生きたまま炎で炙られるが如き苦痛が足先まで駆けずり回る。

「ほ、ほーっ、ホアアーッ! ホアーッ!!」

 マキアスが聞いたことのない悲鳴を上げた。

 朦朧とする意識の中、全員の視界が調理室から移り変わっていく。

 空に太陽はなく、周囲は闇に包まれていた。足元には蒸気をあげ、果てなく続く岩肌の道。

 その道を少しでも踏み外せば、そこは咎人の血で溜められたかのような真っ赤な池溜まり。辺りには魔獣とは違う禍々しき存在――魔物の群れがひしめいている。希望の一切がなく、原罪から続く忌まわれた場所。

 天国などもってのほかだ。かつて子供の時、日曜学校で教えてもらったことがある。悪いことをしたらここに堕ちるのだと。そうだ、この場所は――

「煉獄……!」

 これは天国スープなどではなく、言わば煉獄スープ。人の犯した罪の象徴だ。

「どう、リィン? スープの味は。お世辞はいらないわよ?」

「ああ、このスープを飲めば、世界から争いはなくなるんじゃないか……」

「なんだか、わからないけどおいしかったのね?」

「……はい」

 フィーの時と同様だ。嬉しそうなアリサの姿に、もう残すという選択肢自体が残されていない。

 幻視の中で襲い来る魔物の群れを全力で退けながら、滝のような汗を流してリィンたちはかろうじて煉獄スープを完食する。

 アリサは空になった平皿を台車に下げると、軽い足取りでカーテンの奥に戻っていった。

「なんとか耐えたか。しかしこれが続くとなると――ん、どうしたエリオット?」

 ハンカチで口元をぬぐうガイウスは、横のエリオットの様子がおかしいことに気づいた。テーブルに突っ伏し、声掛けにも反応がない。

「ま、まさか!?」

 リィンは席から立ち上がり、彼のそばに駆け寄る。肩をつかんで体を起こすと、エリオットは力ない笑みを浮かべた。

「あはは、リィン……僕、もうダメみたいだ」

「な、なにを言ってるんだ、エリオット。まだ九月だぞ。学院生活はこれからじゃないか」

「そう、だね。短い間だったけど、こんな僕と仲良くしてくれてありがとう……」

 ガイウスがエリオットの体を強くゆすった。

「俺はまだエリオットを故郷に案内していないぞ。来てくれるんだろう?」

「ああ、ガイウスの故郷か……見てみたかったな」

 エリオットの呼吸がどんどん小さくなっていく。ユーシスとマキアスも彼に声を掛け続けた。

「お前が弾かねばあのバイオリンが泣くぞ。わかっているのか」

「気持ちをしっかりもつんだ!」

「みんな……あれ?」

 エリオットの差し出した右手が空を切る。

「変だな、みんなの姿が見えないや……声も、聞こえない。ねえ、みんなそこにいるの?」

 リィンはエリオットの右手を両手で力強く握った。

「いるぞ! 俺たちはここに! また演奏を聞かせてくれるんだろ!? なあ、エリオット!」

「……バイオリンの音しか聞こえ、ないや。ううん、もうバイオリンの……音、も」

 がくんと脱力したエリオットの体から全ての力が消え失せた。リィンの手から彼の腕がだらんと抜け落ちる。

「はは、おいウソだろ、エリオット? ……エリオット……うああああ!」

 慟哭が調理室にこだます。

「お前ら、何の世界に入ってんだよ。つーか先に脱落した方が楽なんじゃねえか……?」

 うぷっと餌付きながら、クロウは何杯目かの水を飲み干した。

 

 

 煉獄スープにとどめを刺されたエリオットは、アガートラムに抱えられ保健室に運ばれた。

 女子たちには先日の幽霊調査のショックが、突然フラッシュバックして気絶したとだけ伝えている。

 出まかせの理由だったが、そんなエリオットを間近で見ていたラウラとフィーはすぐに信じてくれた。

「なあ、この料理がマズ――成功していないことも女子に伝えた方がいいんじゃないか?」 

 マキアスは次の料理が運ばれてくるまでの合間に、リィンに小声でそう言った。

「いや。伝えたところで、すぐにどうにかなる代物じゃない。明確に料理が失敗している原因を伝えないと悲劇は繰り返されるだけだ」

「その通りではあるんだが、原因といってもな……」

 あれは料理という名の校内暴力。生徒会に報告しなければならない事案だろう。

「お、おい、次が来たぞ。構えろ」

 ユーシスが警戒を発し、否応なく緊張が走る。

 コース料理の順番にはそれぞれ意味がある。サラダとスープに関しては軽い塩味や酸味で胃を慣らし、食欲を起こす為だ。だが食事環境を整えるはずの二品は、胃腸内を余すことなく蹂躙し、暴虐の限りを尽くしてくれた。

 もし順当に行くなら――

「お待たせしました。次は『シェフの気まぐれロールパン』ですよ」

 エマが料理を運んでくる。

 ここでパンが出てくるのも本来は繋ぎの為だ。

 スープの味をパンを食べることによってリセットするのだが、今までの流れを考えると人生そのものをリセットされかねない。むしろリセットならまだマシな方で、下手をすればその場でゲームオーバーになる可能性さえある。

「……お?」

 リィンたちはほんのわずかに安堵する。

 目の前に配られたロールパンが当たり前のロールパンの形をしていた上に、運んできたのがエマだったからだ。

 料理ができそうなのは、エマを置いて他にいない。むしろ彼女ができなかったら自分たちの命運が尽きる。

「これは、いけるんじゃないか?」

 皿の端に添えてあるバターをロールパンに塗りながら、マキアスは表情を明るくさせた。

 まず異臭がしない。変な色をしていない。パンの形として成立している。

 とりあえず一口。

 普通だ。とりたてて美味くもなく、不味くもなく、至って普通のロールパン。きっと市販のパンだ。しかしそれが何より救われる。

「ああ、考えてみればパンまで手作りというのは逆におかしいか。はは、さすがに勘ぐりすぎたかな」

「がばふひゅっ!」

 胸をなで下ろしたマキアスのとなりで、ガイウスが口からアーチを描くようにロールパンを吹き出していた。そのまま椅子から崩れ落ち、床に倒れ込んでしまう。

「な、なんでガイウスだけ!? ロールパンは全員食べたはずだぞ! エマ君、何をしたんだ……!?」

「えっと、調理部の女子の方からいい香りのエッセンスを頂いたんですが、全員分のパンに入れるには量が足りなくて……思い切って一つのパンにだけ入れてみたんです。一つだけ当たりという趣旨で」

 ガイウスは指先まで痙攣を起こしている。当たりとは毒に当たるとかの意味ではないのか。マキアスは悪寒を感じた。

「“気まぐれ”ってそういう意味なんだな。そのエッセンスをくれた調理部の女子って誰だ?」

「えーと、マ、マ、マル、マルガ……鉱山じゃなくて、マルガ……マルガリ、あ、丸刈りー?」

「マルガリータだ、それー!」

 叫んだのはリィンだった。

 またの名を恋する重戦車。恋愛における障害突破力は、帝国最強と謳われる第四機甲師団に匹敵するともっぱらの評判だ。主にそれが発揮されるのは、二年生のヴィンセント・フロラルドに対してらしいが。

 リィンはガタガタと震えていた。

「エッセンスという名の薬品だぞ、それは! 多分非合法の!」

 例によって品名詐称だ。シェフの気まぐれロールパンなどと穏やかな代物ではない。

 それは一発だけ弾丸が入った拳銃を自分の頭に向けて、皆で順番に撃ち回す死の遊戯。『シェフの激薬ルーレットパン』と呼ぶ方がふさわしい。

 エマはこの世で最も使ってはいけない調味料を、いかにも無害そうなロールパンにぶちこんだのだ。

 これは無差別テロだ。可愛らしいクマのぬいぐるみに爆弾を仕込むがごとき、残虐極まりないテロ行為だ。

 Ⅶ組の委員長は帝国解放戦線も引くほどのテロリストだったのだ。

「う、うう……」

 ガイウスが苦しそうなうめき声を上げた。

「ふふ、思ったより早くエリオットと再会することになりそうだな……」

「弱気な事を言うな! ガイウスらしく……ないじゃないか」

 彼を勇気づけようとするリィンの声は震えていた。もうガイウスは戻ってこれないのだとわかってしまったからだ。

「父さんと母さん、それと弟妹たちにも宜しく伝えてくれ。俺は一足先に風になると」

「風ってそんなふうにも使える言葉だったんだな……」

「もう一度馬に乗って、あ、あの広大なノルド高原を、駆けて……」

 たまらずユーシスも彼のそばに膝をつく。

「わかった。もうわかったからこれ以上しゃべるな」

「体が……動かない。まるで石になったみたいに……これでは馬の背に乗ることも……できない、な」

 ガイウスはわずかに残された力で、両手を天井に突き出した。それはあたかも手綱を握ったかのように。

「蒼穹の大地に……ハイヤー」

『ハイヤーッ!!』

 リィンとユーシスが全力で掛け声を上げる。それ以上ガイウスの言葉が続くことはなかった。

 

 

 ガイウスもアガートラム直行便で保健室送りにされた。ちなみに彼の状況は不幸な事故として女子に認識されてしまっている。

 さすがにマキアスとユーシスも焦っていた。

「まずいぞ。コース序盤ですでに二人が戦闘不能だ。しかもエマ君もどうやら料理ダメみたいだし」

「失敗ならともかく……出てくる品がことごとく攻撃料理なのはどうにかならんのか」

「ここまでの料理って、本来はこの先のメインディッシュの為にあるんだろう? ここから何が待ち構えているのか想像がつかないし、なにより想像したくないな……」

「このあとは魚、肉料理と続くはずだ。……下手に調理するより、食材のままで出されたほうが安全な気もするが」

 調理スペースのカーテンが開く。

 今度はラウラが料理を運んできた。男子は急に押し黙る、

 彼女はテーブルの上に一つの大皿をどんと置いた。その皿にはクローシュと呼ばれる半球状の蓋がかぶせてあり、中身をうかがうことはできない。

「順当に行くならこれは魚料理のはずだが?」

 ユーシスがラウラに質問する。

「うむ。魚料理だ」

「コース料理は一品ずつ、個々に出されるものと記憶しているが」

「四大名門、それもアルバレア家の子息なら舌も肥えているだろうと思ってな。この料理は少し趣向を凝らさせてもらった」

 クロウが恨みがましい目をユーシスに向けた。

「お前のせいか。ふざけやがって。余計な趣向とかいらねえんだよ」

「なぜ俺が非難されねばならんのだ……。しかしラウラ、これは魚料理だろう。大皿で食べるほどの魚が店に売っているものなのか?」

 それにはリィンも同じ意見だった。

「そういえばそうだな。一体どこで手にいれたんだ」

「レイクロード氏に譲ってもらったのだ」

 ケネス・レイクロード。一年Ⅱ組に在籍の貴族生徒で、釣皇倶楽部の部長だ。リィンも彼の勧めで釣りを再開した経緯がある。

「へえ、彼が釣った魚を他人に譲るなんて珍しいな」

「フィーが交渉してくれてな。快く譲ってくれたらしいぞ」

「……フィーが交渉? なんか不安だが」

 とはいえそういう事情なら、今回は食材の心配は無用そうだった。

 ソーディかカサギンか、最悪シュラブでもかまわないし、皿の大きさから察するに、サモーナやグラトンバスの可能性も高い。新鮮な魚ならそれだけで、ほとんど調理しなくても十分食べられるのだ。

 ラウラの手によって、クローシュがゆっくりと持ち上げられてく。

 大皿には、レタス、白菜、ネギが一面に敷かれており、その上に一匹の大きな魚が添えられていた。

「へえ、これは大きな魚だな……魚? 魚っていうか……」

 それは透き通るような美しく青い体表を持ち、しかし四肢があった。おたまじゃくしからカエルに成長する過程のような、中途半端に手足が生えてきたような姿格好だ。

「オ、オオザンショだあっ!」

 リィンも近郊でかかる魚は一通り把握している。

 オオザンショはサンショの上位種にあたり、簡単に釣り上げられるようなものではない。

「ケネス……やってくれたな。しかも魚類っていうか、両生類じゃないか……」

「うん。『オオザンショのドレッシング仕立て~鮮度を残して』だ。さあ、どこからでも食すがいい」

「いや、これは無理だ!」

 見た目もそうだが、どこから手をつけていいかわからない。体表のぬめりがドレッシングなのかも怪しい。

 ラウラの目が険しくなる。

「無理、と言うか?」

「あ、ああ、食べられないとかじゃなくてさ。その、ほら今まだ暑いだろ? さすがに生のままじゃ衛生的にどうかと思うんだ」

 リィンは必死に弁解する。ラウラの気分を害するのもまずい。下手をすれば、無理やりにオオザンショを口に詰め込まれるかもしれない。

 ラウラは一つうなずくと、

「そなたの言うことはもっともだ。確かに配慮が欠けていたのかもしれぬな。いや、アリサが『こんなもの触れないわ!』と憤慨したので、素材の良さを活かすことにしたのだが」

「素材の良さというか、素材そのものなんだが」

 さっきは“食材のまま出された方が”なんて言っていたが、これはどうしようもなく無理だった。理解してくれたらしいラウラを見て安心する。

「済まないな」

「ああ、惜しいことをしたぜ」

 感情のこもらない詫びを入れるユーシスとクロウ。

 どこか残念そうに、ラウラは大皿を引き上げて乙女の領域へと引き返していく。

 その時、オオザンショのつぶらな瞳がキョロリと動いた。マキアスが席からずり落ちそうになる。

「い、生きてたぞ。鮮度良すぎだろう。食べなくてよかった、本当に……」

 カーテンの奥からラウラとエマの話し声が聞こえてきた。

「――頼めるか? 季節的に生はよくないと」

「そうですね。まあ、触らなければ。とりあえず耐熱皿に移して――」

 カーテンの隙間から中の様子が見えた。

 神託の台座に供えられた生贄のように、身じろぎ一つしないオオザンショ。その瞳がリィンたちの方に向けられる。何かを訴えているようだった。

 

 ――タスケテ  

 

「っ! オオザンショーっ!」

 椅子を蹴倒しながら立ち上がるリィン。同時に上がる火柱。天井まで立ち上った炎が、渦を巻いてオオザンショを包み込んだ。

 エマの眼鏡が陽炎に揺らめいている。オオザンショが遠いところへ旅立ってしまった。

「やめろ、やめてくれえええ!」

「行くな、リィン! お前まで巻き込まれるぞ! そんなことはオオザンショだって望んじゃいねえよ!」

 机を乗り越えんとするリィンをクロウが押さえ込んだ。

「でも、でも俺は……」

「あいつはもう助からない。助からないんだ」

 再びラウラがそれを運んでくる。皿の上には黒い塊があった。炎で体中の水分を飛ばされて、一回り小さくなっている。

 オオザンショには見えなかった。つぶらな瞳は石灰のようになり、輝きさえも失っていた。

「焼き加減はウェルダンだ。これで心配は無用だろう」

 料理名はすでに変わり『オオザンショのヴォルカンレイン仕立て~哀憐を残して』である。

「ラウラー、ちょっとこっちも手伝ってー」

「ああ、すぐに行く。」

 ミリアムに呼ばれ、ラウラは調理スペースに帰っていった。

 沈黙の男子たちの中で、リィンが言う。

「俺は、このオオザンショを食べられない……」

「この馬鹿野郎!」

 クロウが珍しく、本気で声を荒げた。

「じゃあオオザンショは何のために逝っちまったんだ? お前が食わなきゃあいつの命が無駄になっちまうんだよ」

「命……」

「そうだ。個の命は、他の命の上に成り立ってんだぜ。言ってる意味、わかるよな?」

「うっ、うう……」

 リィンは涙を堪え、フォークを手にした。彼だけではない。マキアスもクロウも、ユーシスでさえもフォークを持っている。

「君だけにつらい思いはさせないさ」

「付き合ってやるから、さっさと片付けるぞ」

「ったく、一年のくせに……いい仲間を持ちやがって」

 極限に追い込まれた戦地でのみ育まれる友情を超えた信頼。命を預け合うに足る仲間。人はそれを戦友と呼ぶ。

「ありがとう、みんな。オオザンショ……安らかにな」

 しかし決意と味覚は別だった。

 炙った泥を食べているような不快極まりない触感。自然の風味と言えば聞こえはいいが、それはただの生臭さだ。

 オオザンショを悼む涙はすでに枯れ、嗚咽と餌付きが別の涙を瞳に滲ませる。不味い。ひたすらに不味い。

「ぐ、ぐふっ、おぐ……ご、ごチ……そう、さマでし、タ」

 四人がかりで完食した時には、言語すら脳内から削り取られたような虚脱感と疲労感があった。

 全員がフォークを卓上に置いた時、ピシッと不穏な音がした。

「ここから先は君たちに任せよう」

 静かにマキアスが言った。

 不審に思い、彼の顔を見たリィンは愕然とした。その眼鏡に亀裂が入っていたのだ。

「マ、マキアス!?」

「どうやら僕も……ここまでらしい」

 レンズのひび割れが少しづつ拡がっていく。亀裂から彼の命が漏れ落ちていくような不吉があった。

 とっさにユーシスはマキアスの眼鏡、そのフレームとレンズの結合部を指で押さえた。

「くっ、だめだ。ひびの進行が止まらん」

「レンズを素手で触るな。まったくこれだから君は」

「口を動かすな! 亀裂が拡がるぞ!」

「嫌味ばかり言って、ズケズケと遠慮もなくて……しかし自分の矜持に反することだけはしない。僕はそんな君が大嫌いで……ケンカばかりで、気の合わない――」

 その先の言葉がユーシスに届くことは、ついになかった。

 パリンと乾いた音を立ててレンズが砕け散る。その欠片がユーシスの指の間を抜けて床にぱらぱらと落ちた。

「おい……おい、どうした。お前の下手な演技など見たくはないぞ!」

 マキアスは眼鏡のブリッジを指で押し上げる仕草のまま硬直している。まるで彼の時間だけが止まってしまったかのようだ。

 ユーシスに悪態を突き返さないマキアスを見て、リィンとクロウはかける言葉をもたなかった。

 

 

 今日のアガートラムは大忙しだ。

 マキアスは固まったポーズのまま、調理室から運ばれていった。本来は校内でのアガートラムの運用は禁じられているが、男子にとってはもうどうでもいいことだった。

「残りは三人か。半分になっちまったな」

「いよいよメインの肉料理か。何が来ると思う?」

「知るか。羽をむしり取られた飛び猫あたりが、皿の上に転がってるんだろう」

 投げやりにユーシスが言う。

「やっほー、ボクの番だよ! あれマキアスは?」

 元気よく乙女の領域からミリアムが飛び出してきた。彼女はきょろきょろとマキアスを探している。

「あいつは眼鏡の修理のために違う世界へ行った。……そもそも、お前のアガートラムで運んだだろうが」

「あはは、そうだった。せっかくのメインディッシュなのにもったいないよね。次はお肉。『ケルディック牛のステーキ~豪華に派手に』だよー」

 ユーシスが言うと、ミリアムは無邪気に笑った。

「待て。今お前、ケルディック牛と言ったか?」

「言ったよ?」

「れっきとしたブランド牛だぞ。てっきり魔獣でも焼いて出してくるのかと思っていたが」

「む、失礼だなー」

 品質保証をされている食材を使っているというのは、何よりの朗報だった。

 リィンとクロウも顔を見合わせて、ほっと息をついている。

「よかった。ただ豪華に派手にってのが気になるが……」

「まったくだ。さっきみたいに丸々牛が乗ってるんじゃねえだろうな」

 ミリアムは慣れない手つきで一人一人に配膳する。大皿ではないので、先ほどのようなことはなさそうだ。

「さあ、召し上がれ!」

『召し上がらない』

 三人は異口同音に言った。

 皿の中央には、型崩れした黒い物体が盛り固められている。それだけだ。添え野菜らしきものも見当たらない。

「ちょっと火加減をまちがえちゃってさー。でも香ばしい感じでしょ?」

「炭の臭いしかせんぞ」

 ユーシスが顔をしかめる。

「どうやったら上質な肉をここまでの消し炭に変えられるのだ」

「ガーちゃんのライアットビームで」

「おい!」

 火加減ではなく、間違えたのは出力だ。

 豪華に派手にというのは、どうやら調理過程の事を指していたらしいが、これでは『ケルディック牛のステーキ~業火の果てに』だ。いったいどこでビームをぶっ放したのかが気になるところだった。

「さっきも言った通りだ。こんなもの食べられるか。とっとと出直して――」

 ミリアム相手なら、どうとでもあしらえるだろう。早々に下膳させようとするユーシスだったが、彼女の背後にいきなりアガートラムが出現したのを見て、その身を硬直させた。

 白銀のボディの一部が開き、ビームの発射口が男子に狙いを定めている。

「……食べるか」

「……だな」

「……頂きます」

 またも選択肢は奪われた。アガートラムは自分が料理したものを残すなと言わんばかりに、砲口を順に三人に向けていく。

 極限状態のプレッシャーだ。わずかにでも残したり、あろうことか吐き出したりすれば、彼らが第二の消し炭ステーキになるのは免れない。

 ナイフとフォークで食べる代物ではなくなっていた。三人はスプーンで炭化した肉をすくう。

 まずは一口。想像通り、炭の味だ。飲み込むごとに、喉に炭がへばりつき、胃が悲鳴をあげ、体内が黒く染め上げられていくのを感じる。いつ発射されるかもわからないビームにも怯えながら、三人は黙々と食べ続けた。

 半分くらい食べたところで、ユーシスが言う。

「なぜ、俺だけ……」

 砲口が向けられる回数が、ユーシスだけ明らかに多い。しかもアガートラムの動作が、その時だけ妙に女子っぽいのだ。

 ようやくミリアムが背後のアガートラムに気づいた。

「あれ、ガーちゃん、いつの間にいたの? ははーん、わかったぞー。ユーシスがいたから出てきちゃったんだなー?」

『§±ΔΕΓΞ』

 アガートラムは銀色のすべすべボディをなまめかしく動かし、「もうやめてよ」と言わんばかりの仕草をみせた。

「ガーちゃんはさ、ユーシスのことが気に入ってるんだよねー?」

「な、何だと?」

 さらにアガートラムは照れたようで、グイングインと稼動音を響かせながらさらに激しく動き回る。

 クロウはその様子を見て、即座に行動した。アガートラムのわずかな隙を突き、自分とリィンの皿にあった黒い物体を全てユーシスの皿に注ぎこんだのだ。

「なっ、何をする!?」

「おいおい、どうしたんだよ? 早く食べなきゃ、アガートラムさんが見てるぜ?」

 アガートラムはもうユーシスしか、ロックオンしていない。体の火照りに反応したのか、出力は最大まで上昇している。

「卑劣な……恥を知るがいい!」

「へへ……悪いが俺はまだ死ねないんでな。貴族の義務(ノブレス・オブリージュ)なんだろ。あーん?」

 クロウは邪悪に口の端を引き上げた。これまでの連帯感はどこに行ったのか。自分の助かる道を見出した瞬間、クロウは悪魔と化したのだ。リィンの分もユーシスに流したのは、彼も同罪にするためだ。

 ユーシスに渡った炭を引き戻す気力はなく、リィンは涙をのんだ。

「すまない、ユーシス……」

「ほら、早くいけ。アガートラムさんをお待たせするんじゃねえよ」

「お前たち、覚えておけ!」

 最大出力のビームを構えられては、ユーシスに拒む術はなかった。無心でスプーンを上下運動させ、業火の果てに消し炭と化したケルディック牛を完食する。

 誇り高き貴族の義務を全うし、ユーシスは静かに瞳を閉じた。

 

 

「あとはデザートだけだか。いいな、リィン。俺たちは生き残るぞ。逝っちまったやつの分までな」

「ユーシスはこっち側でとどめを刺した気が……」

 とうとうリィンとクロウの二人だけになってしまった。

 ガチャガチャと食器を洗ったり、片付けたりといった音が聞こえてくる。もう大がかりな調理は必要ないのだろう。ようやく長い戦いが終わりを迎えようとしていた。

「ごめんね、ガーちゃんがユーシスをなかなか離してくれなくてさー。時間がかかっちゃったよ」

 ユーシスを保健室に送ったミリアムとアガートラムが調理室に戻ってくる。

「こっちとしては永遠に戻ってこなくてもよかったんだぜ」

「次で最後だな? 覚悟はとうに済んでる。さあ、出してくれ」

「覚悟? よくわかんないけど、はいどうぞ」

 アガートラムが後ろを向いた。背部の一部がばくんと開き、中からケーキらしきものが出てくる。

「チョコレートケーキだって。アリサが〈キルシェ〉で買って来たんだ」

 喫茶店キルシェ。リィンもよく利用するので、そこで買ったものだというなら味の心配は無用だ。

 問題があるとすれば、そのケーキが異常なほどの冷気をまとっていることだった。

 ひんやり冷たいというレベルではない。ケーキ全体に霜がかかっており、上部に飾り付けられているクリームは、人を刺せるのではないかというぐらいガチガチに凍り付いている。クリームの凝固点などリィンは知りもしないが、並の冷蔵庫ではこうはなるまい。

「暑いとケーキが痛んじゃうから冷蔵庫に入れてほしいって言われたんだけど、もう食材でパンパンだったんだよね。だからガーちゃんの内部冷却機関にケーキを入れといたんだ」

「クロウ……」

「もう何も言うな。食えば終わる。それだけだ」

 ケーキにフォークが突き刺さらない。

 仕方なくクロウは手づかみでケーキを口まで運ぶ。ガリッと硬い音がした。

「あがっ!? コ、コンクリート食ってるみてえだ……」

 体から熱という熱が奪われ、クロウの唇が紫に変色していく。血管と神経まで凍ったかのように、彼の動きは極端に鈍くなった。

 たった一口でこの威力。もはや呪い。チョコレートケーキならぬ『超硬冷凍ケーキ』と呼称すべきだった。

「ク、クロウ、はやくケーキを口から離すんだ! 取り返しのつかないことになる前に!」

「……できねえんだよ」

「馬鹿いうな、早く――」

「できねえんだよ!」

 悲痛な叫びに、リィンは気づいた。

「凍ったケーキが……唇に張り付いて、離れねえんだ」

 またたく間にクロウの肌から血色が失われていく。

「クロウ! クロウ! こんなことって……」

 必死に自分の名前を呼ぶ後輩を見て、クロウは笑った。

「そういやさっきから“先輩”をつけてねえな?」

 Ⅶ組に編入になった時から、クロウは他のメンバーにため口でいいと言っていたが、生真面目なマキアスやリィンは中々応じることができなかった。それが今――

「当たり前だ! 一緒にここまで死線を越えたんだ。先輩も後輩もない、同じ仲間だろう!?」

「へ……実際に呼ばれると変な感じだな。っと、もう……感覚もなくなって、きたか……」

 クロウの体が透けてきている。彼の向こう側の景色まで見えるほどだ。

「ど、どうなってるんだ。 おい、消えるなクロウ!」

 凍結に加えて、これは消滅。特殊な空間以外では発現しない力のはずだが、どういう理由か、今この調理室は上位三属性が働いている。おそらくは煉獄の門を開き、オオザンショの魂を贄にした業深き行いが、古の力を呼び起こしているのだ。

「50ミラは……貸しにしといてくれや――」

 その言葉を最後に、クロウはケーキを口にくわえたまま、すっと消えてしまった。

「うああああっ!」

 絶叫しながらリィンはフォークを逆手に取ると、そのままの勢いでケーキに突き立てた。悲しみを乗せたフォークの先端がわずかにケーキに刺さる。

 リィンの体から力がほとばしった。

 己の師は武器を選ばなかった。本質は一緒なのだと、事実兄弟子の一人には剣を置き棒術の道を選んだ者もいたという。

 ならばこそ、たとえフォークであってもできるはずなのだ。

「でやああああ!」

 フォークが炎をまとった。直接熱を送り込み、氷を溶かす。しゅんしゅんと液体が沸騰するような音を立てながら、おびただしい量の蒸気がケーキから立ち上った。

 調理室の全てが白煙に染まる。何も見えない。

 ほどなく蒸気が晴れ、視界が明瞭になっていく。

 そこにリィンが立っていた。空になった皿を掲げながら。

「ごちそうさま」

 散っていった仲間に黙祷を捧げる。

 多くの犠牲の上に、リィンはこの長く激しい戦いに勝ったのだ。 

 

 

 勝っていなかった。

 超硬冷凍ケーキを制したリィンの前には、クローシュの被せられた新たな大皿があった。皿を持ってきたラウラにリィンは問う。

「……これは何だ。もうデザートは頂いたぞ」

「さっきのケーキは市販のものであろう。材料も余っていたし、やはり手作りのデザートも一品作ろうと思ってな。ところで他の男子達はどうしたのだ?」

「みんな急用でさ。……遠いところに行ってしまった」

「よくわからんが、この場にいるのはそなただけということか」

 ラウラはきょりきょろともう一度辺りを見回し、

「皆で食べられるようにと思ったのだが、そなた一人に作る形になってしまったな。その、気に入ってもらえるとよいのだが」

「はは……」

 力なく笑う。気に入っても気に入らなくても、どうせ食べるしかないんだろう。リィンは諦念の心地で、眼前のクローシュを眺めていた。

「それでは味わってくれ」

 クローシュが開かれる。

 皿の上にはひっくり返したバケツよりも、さらに一回り大きいフルーツゼリーが中央にどんと鎮座している。その周りには様々な果実が添えられていた。

 そして巨大ゼリーの内部には、周囲全てをゼラチンに固められたオオザンショがいた。

「ケネ―――ス!!」

 彼はまさかの二匹目を釣り上げてしまっていた。

「大丈夫だ。今回、そのオオザンショはちゃんと死んでいる」

「ちゃ、ちゃんと死んでいるって……」

「苦労したのだ。形を崩さずゼリーに固めるのは。何せそやつが暴れたものでな。朝一番でレイクロード氏から仕入れたので、活きがよくて手を焼いたぞ」

 リィンは固まっている。ゼリーの中のオオザンショと同じように。

「名付けて『朝どれオオザンショゼリー~至極の一時をそなたに』。さあ遠慮するな」

 オオザンショの瞳は暗く閉ざされている。

 辛かっただろう。今朝までいつもと同じように気持ちよく泳いでいたに違いない。それを突然陸に連行され、気付けばゼリーに押し込められ、真っ暗な闇の中。その断末魔は如何ほどのものだったのか。

 ここまで罪深いデザートがあることをリィンは知らなかった。

 この一品に相応しい名は『拉致られオオザンショゼリー~漆黒の嘆きは彼方に』。

 食べるのだ。食べなくてはいけない。命を粗末にしてはいけない。

 ゼリーの中ほどにプスリとフォークを突き刺す。ぷるぷるとゼラチンが波打ち、中のオオザンショがあたかも水中を泳いでいるように見えた。いや、それは涙で滲んだ視界がそう見せただけか。

 震える手でフォークを口に運ぶ。味などもうわからない。突然、床が自分に迫ってくる。

 鈍い衝撃が頭蓋に走り、彼の意識はそこで消失した。

 

 

 まどろみの中、リィンは思う。

 絶望的に料理が下手でも、彼女たちは味音痴ではない。なのになぜ、平然とあんな物体を出せるのだ? 不味いということがわからないから? それはなぜ?

 彼女たちが料理の工程でしなかったもの。あるいは今までの人生でする機会がほとんどなかったもの。それは――

「――途中で味見をしないからだ!」

 叫んだ自分の声で、リィンは跳ね起きた。白い掛布団にシーツ、嗅ぎ慣れた消毒薬の匂い。ここは保健室だ。

「あら、起きたのね? でもまだ安静にしてなきゃ」

 落ち着いた深みのある声だった。まだ呼吸も荒いリィンにそばに歩み寄ってきたのは、保健医のベアトリクス教官である。

「今日は千客万来ね。こんなおばあちゃんをあまり働かすものではありませんよ」

 ベアトリクスは穏やかな笑みを浮かべる。その笑顔に“生還”したという実感が湧いてきた。

 保健室には先に運ばれた男子の姿もある。ベッド数が足りず、何人かは簡易式のベッドに寝ていたが、大事ないようだった。

 そこには消滅してしまったクロウの姿も。

 さすがは、“死人返し”の異名をもつベアトリクスで、毒、凍結、石化などそれぞれの状態異常を手早く解除してくれたらしい。

「大変な目にあったみたいね? 銀のお人形さんが扉を開ける度に寿命が縮まったわ」

「ご冗談を……」

「でも体の資本は食事からよ。今回の事で何か得た教訓はあったかしら?」

 食事の大切さはリィンも身に染みて理解した。ふと今日のフルコースを思い出す。

 

 『ワイルド野草サラダ』(毒、バランスダウン、リンクブレイク)

 『煉獄スープ』(炎傷、混乱、暗闇)

 『シェフの激薬ルーレットパン』(気絶、石化、即死) 

 『オオザンショのヴォルカンレイン仕立て~哀憐を残して』(石化、駆動介助、封技、封魔)

 『ケルディック牛のステーキ~業火の果てに』(気絶、遅延、毒)

 『超硬冷凍ケーキ』(凍結、消滅)

 『拉致られオオザンショゼリー~漆黒の嘆きは彼方に』(悪夢100%)

 

 凄まじいラインナップだ。

 力、速さ、防御、回避。全て大切だが、それだけで戦闘を制することはできない。自分の命があって初めて戦えるのだ。

 教訓、と問われてリィンは迷いなくベアトリクスに答えた。

「これからは最大限に状態異常を警戒します」

 

 ● ● ●

 

 ――後日談

 彼女たちの問題は、好き放題に食材を調理してしまうこともだが、途中で味を見ないことが致命的だったようだ。

 ミリアムとフィーは元々感覚派なので味見に対する意識は薄く、アリサとラウラに関しては彼女たちの“他人に提供する料理に先に手をつける”ことをマナー違反だと思っていたらしい。

 エマに至っては「薬品の調合中に味なんてみたら、大変なことになっちゃいますよ?」と調理を化学と捉えていた辺り、もしかしたら一番致命的だったのかもしれない。

 ともあれ彼女たちは試行錯誤を繰り返し、無事に調理実習試験をパスしてみせたのだった。調理実習を担当するメアリー教官の味覚を破壊したなどの疑惑も出たが、真実はわからない。

 この一連のイベントで男子達が受けたトラウマは相当なものだったらしく、

「ねえ、あなた達。なんでそんなにアクセサリーつけてるのよ」

 第三学生寮、ラウンジ。皆でそろっての夕食時、アリサは彼らの様子に呆れ顔だった。

 男子はシルバーチェインにシャイングラス、オレンジケープにホーリースフィア。ありとあらゆる装飾品を体のあちこちに装備している。全て状態異常防止の為だ。

「おいリィン、今日はグラールロケット俺の番だろうが!」

「嫌だ、これは渡せない!」

「この裏切り者どもめ」

「とりあえず眼鏡を買わないとな……はあ」

「風というか……嵐だったな」

「煉獄……煉獄……」

 ラインフォルト本社から戻ってきていたシャロンは、にこやかに笑う。

「今日の夕飯はわたくしが作りましたので、問題はないかと思いますが」

 惨劇の一端を知った女子は多少なりとも責任を感じたらしく、後日お詫びにと女子全員でクッキーを焼いて男子達に配って回った。

 しかし引きつった笑顔と震える手でクッキーを受け取った彼らが、それを口にしたのは度重なる成分調査と、審議に審議を重ねた五日後だったという。

 

 

~FIN~

 

 

 

 

 

 ★おまけ★

 

 惨劇の当日、早朝。

 食材調達を任されていたフィーは、トリスタの町、その川縁近くの木の陰に隠れていた。

 視線の先には釣りに興じる白い学院服の少年――ケネス・レイクロードの背中がある。

 先ほどからずっと監視しているが、彼が釣り上げるのは小さな魚か、大きくても中型のサモーナくらいだ。

「……足りない」

 男子六人の食欲を満たすにはさすがに少ない。

 ――とその時、

「お、お、おーっ!」

 どうやら大物がかかったらしい。ケネスが喜びの声を上げている。

「オオザンショかあ、この辺でも釣れるんだな」

 大きい。あれがいい。

 思ったが早いか、フィーは気配を殺してケネスの背後に迫った。ラウラからはケネスが魚を釣ったら、説得して譲ってもらうように言われている。

「ケネス」

「うわあ! びっくりした。って君は確かⅦ組の……」

「フィーだよ」

 多分初めて話をするであろう年下の女子から、いきなり呼び捨てでよばれたケネスは、戸惑いながらも彼女に用件を聞いた。

「えっと、朝早くからどうしたの。何か用かい?」

「うん。ケネスお魚ちょうだい」

 フィーはそう言うと、大きめの空バケツを差し出した。ケネスは困り顔で、

「うーん、僕は自分で釣った魚は人にあげないんだよ」

「そっか、残念」

 あまり残念そうな口調ではなかったが、フィーはすんなり空バケツを下げた。

「ああ、ごめ――」

 一言謝ろうとしたケネスの視界の端に、不穏なものが映り込む。後ろに回したフィーの手から、スカート越しにちらりとのぞいたのは、朝日を受けてぎらりと輝く鋭利なナイフだった。 

「え……?」

 ただのナイフではない。柄の部分には引き金が付いている。武器には詳しくないケネスだが、こればかりは一見して逆らったらダメなやつだとわかった。

「お魚くれないんだ。残念だな」

 言いながらフィーがじりとケネスに歩み寄る。後ろは川だ。逃げられない。

「大きいのがいいな。でもくれないんだよね?」

 とうとうケネスは折れた。

「わ、わかった。好きなのを持って行ってくれ」

 ややあって、フィーのバケツにはオオザンショが一匹収まっていた。

「ありがとう、ケネス」

「気が済んだかい? そ、それじゃあ僕はこれで」

「待って」

 急いで立ち去ろうとするケネスを、フィーは一言で止めた。

「これ釣って。もう一匹。もしかしたら足りないかもしれないし」

「ええ!?」

 釣ってと言われて釣れるものではない。ただでさえ希少なオオザンショである。しかしフィーはお構いなしに「釣って」とにじりよる。もちろんナイフをチラつかせながら。

 このままでは自分が魚のエサになる。

 そう確信したケネスは意地で二匹目のオオザンショを釣り上げるのだった。

 オオザンショをフィーに引き渡したケネスは逃げるようにしてその場を去る。

 大物を二匹手に入れたフィーは「説得成功」とご満悦の様子でいつものポーズを決める。“勝利”と“二匹”の意味を込めて。

「ぶい、だね」

 

 

~END~




最後まで読んで頂きありがとうございます。男子達がかわいそうな目にあってしまいました。
 実は今回の話の裏テーマは、「いかにしてリィンがクロウと呼ぶようになったか」でした。本編では9月になったらナチュラルに呼び捨てでしたが、何らかのきっかけはあってもいいのではと思った次第です。なので以降のストーリーでは、リィンはクロウにため口になっています。
 次回からはⅦ組の個々にスポットをあてた、今回のような日常ストーリーとなりますが、その前に大枠の話を進める為のインターミッションを挟みますので、またお付き合い頂けたら幸いです。


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Intermission~ルビィと彼と

 眠たくなったので目を閉じる。外はもう真っ暗だ。

 リィン達も今日は遅くに帰ってきたかと思ったら、早々に自分達の部屋に戻ってしまった。

 僕はこの場所が好きだ。陽だまりのように暖かくて落ち着く。どんどん眠たくなってきた。もう首を上げるのも億劫だ。たまらず大きく口をあけてあくびをしてみる。

「あら、ルビィったらおねむの時間? まあ、あの子たちも今日は学院長からのお達しで、夜の学院調査とかやって帰ってきたし。今頃いい夢みてるのかしらね」

 僕の名前を呼んで、頭をなでてくれた。うん、やっぱりサラの膝の上が一番落ち着く。そういえば、僕に名前をくれたのもこの人だった。

 眠ってしまう前に思い返してみた。ほんの数日前の事だけど、僕にルビィという名前がついた日のことを。

 

 

《☆☆☆Intermission~ルビィと彼と☆☆☆》

 

 

 物心ついた頃にはケルディックっていう町で暮らしていた。

 暮らしてたって言っても勝手に住み着いていただけだけど。でも色んなお店がたくさんあったから、適当に歩き回っているだけでも、ご飯にはあまり困らなかった。

 僕にはお兄さんが三人(僕らの数え方は”匹”っていうらしいけど、まあいいか)いて、お母さんもいた。

 でもお父さんのことは覚えていない。僕らのご飯を街道に探しに行ったまま帰ってこなかったらしい。

 ある時、雨がたくさん降って、お店もやっていない日が続いた。だからか、その日は母さんがとってきたご飯が少なくて、お腹を空かしていたのを覚えている。

 だから、みんなで街道にご飯を探しにいった。でもやっぱり行くべきじゃなかったんだ。父さんが帰ってこなかった理由がわかった。

 僕たちはそこで怖いものに襲われた。僕より一回りも二回りも大きい獣。

 唸り声が聞こえたと思った時にはそいつは牙を剥いて、僕の方に走ってきていた。逃げなきゃっていうのは分かってたけど、足がすくんで動けなかった。

 でも兄さん達と母さんが前に飛び出して、僕をかばってくれた。

 母さんが、逃げなさいと大きな声で叫ぶ。

 どこへ? どうやって? 聞くことも出来ず、とりあえず僕は反対側へ、道が続く限り必死に走った。

 ずいぶん走ったところで後ろを振り返ると、あの怖い獣は追いかけて来ない。安心して僕はその場所で母さん達を待つことにした。でもどれだけ待ってもみんなが僕の所に来ることはなかった。

 戻ろうか? 迷っている内に、今度は別の怖い獣が襲ってきて、僕はまた走る羽目になった。

 どんどんケルディックの町から遠ざかってしまう。休まる時はなかった。襲われるたびに、物陰や草木に隠れたりを繰り返して何とか逃げ続ける。

 怖い獣は僕に追いつけない。そういえば兄さんに、お前は末っ子だけど一番足が早いと褒められたことがあった。

 どれだけ走ったかも覚えていない。朝から走って、昼を過ぎた頃。街道を抜けた僕は知らない街に来ていた。

 落ちついた雰囲気の町。ずっと住んでいたケルディックの町は、市場から聞こえる人の声がうるさいくらいだったけど。

 市場……で思い出す。今日は朝から何も食べていないんだった。

 お腹は減っているけど、どこで食べ物を手に入れたらいいか分からない。

 ふらふらとあてもなく歩いていると長めの坂に差し掛かって、道の先に視線を向けると、大きな建物と門が見えた。

 何か食べるものがあればいいな。

 門をくぐって、しばらく道なりに進んでみる。

 人間はそれなりに多かった。みんな同じような年頃で、同じような服を着ているけど、よく見ると服の色が違う。

 一番多いのが緑色で、次が白色。なんだか遠くで荷物を運んでいる人がいるけど、その人は他と違って赤色の服を着ている。でもやっぱり見つかるのは怖いから、僕は隠れながら進むことにした。

 しばらくすると、とても大きくて開けた場所に出た。そこは今まで通ってきた石畳じゃなくて、一面砂だ。

 ここは今ほとんど人がいない。少し休みたかったので、適当な木陰を探していると、後ろから誰かの気配を感じた。

 一瞬びくりとして、とっさに振り返る。だけど言葉が耳に届いたのは、その動きよりも早かった。

(何だお前、迷い込んだのか?)

 耳、というより頭に直接届いた感じだ。

 改めて声の主を見上げると、緑色の学生服をきた男の子が、僕のそばに立っていた。短い髪と真面目そうな顔立ち。腕には何か腕章のようなものが巻かれている。

 普通の人間に見えたけど、僕にはわかった。

 ”彼”はもう、この世界に生きていない。

 

 ● ● ●

 

(俺も犬と話したのは初めてだ)

 僕が人間と話したのは初めてだと言うと、彼はそう答えて笑う。笑顔を見て、不安が薄れていくのを感じる。

 この人は怖くない。

 でもどうしてここにいるの? そう聞くと彼は、

(俺はこの学院から出られないんだ。やり残したことがあって。でも、もうどうにもならないって分かってるんだけど、それでもこの場所に居続けている。まあ、面白い奴らがいるし、とりあえず退屈はしていないが)

 彼の言うことはあまり理解できなかった。でも彼が望んでここにいるわけじゃないと感じた。

 そんな時、彼はふと何かに気付き、(ほら、面白い奴らの一人だ)と視線を別の方に向けた。

 あれはさっき荷物を運んでいた赤い服の人だ。何だかこっちに慎重に歩いてきている。

(俺の姿は見えていないからな。お前を捕まえようとしてるんじゃないか?)

 捕まえる。じゃあ、あの人は怖い人だ。もう近くまで来ていたこの赤服の人は、変な構えを取ったまま目を閉じてブツブツつぶやいている。

(な? 面白いだろ。次にそいつが目を開けたら、思い切り吠えてやれ)

 言われた通り、目の前の人が目を開けたのと同時に吠えてみた。すると驚いたみたいで、相手の動きが一瞬だけ止まった。

(今だ。走り抜けろ!)

 彼がそう言い、先に走り出す。僕もすぐ後に続いた。後ろから「……っ! しまった。不意を突かれて――」という声がしたけど、すぐに遠ざかって聞こえなくなる。

 そこから僕は彼が言うところの、『学院』の中を走り回ることになってしまった。

 

 ● ● ●

 

 さっきの広い場所を抜けて、今は違う建物の前にいる。怪しい赤服の男の子は追って来てはいないみたいだ。とりあえず喉がカラカラだ。そう思う僕の耳に、ぱしゃんと水の音が聞こえた。よかった、水が飲めるんだ。

(おい、そっちは……まあいいか)

 彼が扉を開いてくれる。と言ってもドアノブに手をかけることなく、彼が視線を向けるだけで扉は勝手に開いていった。不思議だ。

 そのまままっすぐ進むと開けた場所に出る。視界いっぱいに広がる一面の水があった。

(プールだ。お前まさか泳ぎたいのか?)

 泳ぎたくなんかない。水が飲みたいんだ。さすがにこんなには飲めないけど。

 プールの外には長い髪の女の人が、水の中で泳ぐ別の人に「いい感じだな、モニカ。もっと力を抜いて泳ぐといい」と声を掛けている。まだ僕には気付いていないので、そっと回り込んで静かに奥に進む。

 この辺りでいいかな、さっそく飲もう。この水、少し変な臭いがするけど、まあいいか。

(あ! その水は飲むな!)

 舌をつけようとした時、彼が慌てたようにそれを止めた。驚いた僕は、足を滑らせ水に落ちてしまう。

(おいおい、大丈夫か!? プールの水は消毒液入ってるから、飲んだら腹壊すぞ?)

 先に言っておいて欲しい。とりあえず、落ちたところからは段差がありすぎて上がれないから、プールの端側――段差が少なくなっているところを目指して泳ぐ。

(はは、頑張れよ)

 こんなに泳いだのは初めてだ。結構しんどい。さっき扉を開けたような力を使って、僕を浮かすこととかできないのかな。あ、でもそんなことしたらあの人達に見つかっちゃうか。

 そんなことを考えた時「って、あれモニカじゃないから! 犬だから!」と声が響く。結局見つかったらしい。早くここから逃げなきゃ。

「あたしに任せて!」

 ブロンド髪の女の子が、プールから上がったばかりの僕に走ってくる。

 濡れて重くなった体を振って、水を飛ばそうとした時、(もうちょっと待て)といつの間にか横に立っていた彼が言った。

 そんなこと言ってたら捕まっちゃう。女の子はもう正面に回り込んでる。

「よーし、観念なさい」

 両手が迫る。(今だ、水を弾け)と彼が叫び、僕は激しく体を震わした。

 体中の水滴が勢いよく飛んで、女の子を水まみれにすると、彼女は悲鳴を上げて尻もちをついた。

 その隙に僕は走り、続けてやってきた男の子の足をすり抜け、出口へと向かった。今度はさっきの青髪の女の子が道を塞いでいる。

(よーし、今度も思い切り吠えてやれ。さっきよりも大きくな?)

 さっきから彼の言う通りにしていると上手くいく。僕は大きく息を吸って強く吠えてみる。

 青髪の女の子は「きゃっ」と叫んで体を逸らした。道が開け、出口までは一直線。一息に走り抜ける。

 どこにいても追いかけられてしまう。でも今回も彼のおかげで逃げ切れたみたいだ。結局水は飲めなかったけど。 

 

 ● ● ●

 

 疲れた。お腹減った。喉も乾いた。

 いつもならこの時間は午後のお昼寝タイムだったり、兄さん達に遊んでもらったりしている。

 みんな今頃何してるんだろう。心配してるかな。ううん――もう僕にも分かってた。

 多分、二度と会えない。

 急に悲しくなって、寂しくなって、鳴きたくなった。

(お前、腹減ってるんだろ? 少し進んだら学生会館ってとこがあるから。厨房にでも入って適当なもん持ってきてやるよ。だから、顔上げて歩きな)

 もしかして、元気づけようとしてくれたのかな。

 ありがとうと伝えると、彼は(元生徒会長のやることじゃないよな)と苦笑いを浮かべていた。

 さっきの建物を出て、ほんの少し進んだところで、ちょっとした休憩場所を見つけた。木陰もあってベンチもある。ベンチの下なら見つからずに休めるかも。

 そう思ったけど、ダメだった。

 二つあるベンチに向かい合うように座って、ちっちっと舌打ちを鳴らし合っている男の子が二人いる。

 怖い。二人の雰囲気も最悪だ。木の上の小鳥さん達が困って、みんな空に避難しちゃってるよ。

 小鳥会議が聞こえる。数分後に上空から、フンの一斉投下を行うみたい。それまでにここから動けばいいんだろうけど、大丈夫かな? 

「あ、犬だ」

 反対側の花壇のそばから、そんな声が聞こえた。振り向くと銀髪の女の子が僕を見ている。

 見つかったと思って少し焦ったけど、彼女は僕を追って来ようとはしなかった。とりあえず、ほっとして足早にその場を去る。

(はは、あいつらも面白いだろ?)

 彼はそう言って笑うけど、何が面白いのかわからない。そういえば、今の人たちもみんな赤服だった。

 気のせいかな。彼は笑っているけど、その表情はどこか悲しそうに見えた。

 

 

 彼の案内で、僕は学生会館という建物の一階、食堂の片隅に隠れている。

 明日から「なつやすみ」とかいうのがあって、今日は人が普段よりだいぶ少ないらしい。

 おかげで誰にも見つからずにここまでこれた。ここに来る途中、脇道もあって、そっちの方が静かな感じだったから行こうとしたら(旧校舎か。ここには入らないほうがいい)と彼が強く止めたので、そのまま真っ直ぐ来ることになった。

 多分僕一人だったら、そっちに入っていたと思う。道が封鎖されてたので、どのみち入れはしなかったのかもしれないけど。

 彼は厨房に入って、何か食べるものを探してくれている。でも間が悪いことに、

「ふっふっふ。ワンちゃん、みーつけーた」

 見つかってしまった。

 顔を見ると、プールで水びたしにした女の子だった。やっぱり怒ってる。

 口は笑ってるけど、目が笑っていない。後ろには赤服の怪しい男の子と、さっきベンチに座っていたブロンド髪の男の子もいた。

 あっという間に、また追いかけっこが始まった。女の子の足の間を潜り抜けると、「きゃあ!」と叫び、僕をキッとにらむ。

「リィン! 捕まえるのよ、早く!」

 言うが早いか、残りの二人が同時に飛びかかってきた。

「この犬っ!」

「相変わらず素早いな……」

 でも捕まらない。その場から素早く動いて二人をかわす。僕の逃げ回り方もだいぶ上手くなってきたみたいだ。

 赤服の三人は、机や椅子を動かしながら僕の逃げ道を塞いでいく。さっきかわしたブロンド髪の男の子は「――俺はグラウンドから馬を用意してくるぞ」なんて言っていた。

 どんどん逃げ道がなくなってくる。まだ、抜けられる隙間を見つけて僕はそこに向かう。二階に続く階段だ。

「な、なな、なんですか、これは」

 僕の行く手を遮るように、階段から一人の女の子が降りてきた。眼鏡をかけて、おさげ髪で、やっぱり赤い服を着ている。

 何で赤服の人達は邪魔をするんだろう。僕はただご飯が食べたいだけなのに。

「わわん!」

 今までみたいに大きな声で吠えると、眼鏡の女の子は「ひゃっ!?」と怯んで、手に持っていた紙を一枚はらりと落とす。反射的にその紙をくわえると、階段を上ることはあきらめて、僕は出口に向きを変えた。でもドアは閉まっている。これじゃあ出られない。

 気が付いたら、ドアのそばに彼が立っていた。

(騒がしいと思ったら、そいつらまた追ってきたのか)

 彼はつぶやくと、扉を開いてくれた。

 ようやくその建物から無事に出ることができた。僕がご飯を食べられるのはいつになるんだろう。

 

 ● ● ●

 

(それで、このあとはどうするんだ)

 彼はそんなことを聞くけど、僕にだって分からない。

 追いかけられてばかりのここには、もういたくなかった。

 さっきの食堂を出て、道なりに少し進むと最初に入ってきた門が見えた。どうやら一週して戻ってきたらしい。

 もう帰ろう。そう思って近づいていくと、門は閉まっていた。どうしよう、これじゃ外に出られない。

 後ろを振り向くと、やっぱり赤服の集団が追いかけてきている。……なんだか、数増えてない?

(こっちに来い)

 彼は正面の一番大きな建物に向かった。

(本校舎だ。……あいつら別にお前を悪いようにはしないと思うぞ。多分、助けようとしているんじゃないか?)

 そんなの嘘だ。僕はもう一人なんだ。助けなんかいらない。

 彼が本校舎と言った建物、その正面の扉は開いていた。

 入口の横には、気難しそうなおじさんが立っていたけど、僕には気付かなかったみたいで、すんなりその建物の中に入ることができた。

(ここからは生徒達に見つかっても仕方ないだろ。ところで、いつまでそれを持ってるんだ?)

 言われて気付いた。眼鏡の女の子が落とした紙を咥えたままだった。

(まったく……ああ、いい場所教えといてやるよ)

 何かを思い出したようで、彼が案内してくれたのは一階の階段。その横の奥まったスペースだった。

(変わってないな。ここは俺がこの学院に通っていた頃に見つけた場所でさ。何か気に入って、意味なく色んなものを隠してたよ) 

 懐かしむような口調だった。

(とりあえず、そこにそれ置いていけ。邪魔になるだろう)

 言われた通り、紙をその場所に置く。

 甘い香りが鼻先をくすぐった。匂いは二階からだ。

(ん? この香りは……多分調理室からじゃないか)

 やっぱり何か食べたい。連れて行って欲しいな。見上げると、彼は肩をすくめて少しだけ笑った。

(今日の俺は案内役だ。犬とはいえ、会話をするのも久しぶりだしな。お前の行きたいところに付いていってやるさ)

 なんだろう。こう思うのは間違っているのかもしれない。この人は優しくて、頼れて。兄さんみたいだ。

 

 

 調理室という場所に案内してもらって、確かにそこには食べ物、クッキーが見えたけれど、僕がそれを口にすることはなかった。鼻で臭わなくても、本能で分かる。あれは絶対に食べちゃだめだ。

「あらーん。可愛い子犬ちゃんね」

 野太い声が響いて、ズシンという足音と共にそれはやってきた。多分あの危険なクッキーを作った人で、そしてそのクッキーよりも危険だと感じる。

「……クッキーと一緒に子犬を包んだら、女の子らしくてかわいいわ。きっとヴィンセント様もお喜びに……」

 やたらと横幅が広いその女の子は「ムフォッ!」と口の端を吊り上げると、丸太のような腕を僕に伸ばしてきた。

(こ、こいつは本気だ。逃げろ!)

 初めて彼が慌てたような声を上げ、同時にそれが本当に危機であることを察して、とっさに一つ隣の部屋に逃げ込んだ。

 色んな絵がたくさん置いてあるところだった。隠れられそうなところはあるかな。

 部屋の中を見回すと、絵を描いている背の高い男の人に目が留まった。この人も赤い服を着ている。さっき追いかけてきた人達の仲間かもしれない。

 そうだ。仕返ししちゃえ。

「ん? 犬がなんでこんなところに――」

 こっちに気付いたみたいだけど、そんなのお構いなしだ。

 ピョンと飛び跳ねて、その手に大事そうにもっていた小さなチューブを前足ではたき落す。すぐにそれを咥えて、僕はその部屋を飛び出した。

「お、俺の調合したノルドグリーンが!」

(何やってるんだ。早く逃げろ)

 忘れていた。僕は追われているんだった。そして廊下で再び遭遇する。

「出てきたわね。さあ、可愛さだけを抽出してエッセンスにしてあげる」

 確かクッキーに僕を添える話だったはずだけど、いつの間にかクッキーの材料にされてない? 

 彼女は先を塞ぐように立っているので、もう調理室の方へ引き返すしかない感じだ。

 方向転換して、その場から逃げ出す。もちろん調理室には入らない。そこで捕まったらそのまま材料にされちゃう。

 そのまままっすぐ走り、突き当りの扉へ入った。

(って、こっちは音楽室だ。行き止まりだぞ)

 そんなの知るわけない。中には僕が初めて見る楽器がいっぱいあって、ちょうど数人で音楽を演奏しているところだった。

 また赤い服がいる。もうこうなったらついでだ。僕はそのまま中に走って、赤服の小柄な男の子の前まで行くと、またピョンと跳ねて、小さな台に乗っている紙の一枚を咥えた。先に持っていたチューブが落ちそうになったけどなんとか堪える。

「わっ!? い、犬が! あ、僕の楽譜!?」

 紙にはいっぱいおたまじゃくしの絵が描いてあるけど、なんだろうこれ。まあいっか。  

 部屋から出ると、あの女の子が追いかけてきていた。ズシン、ズシンと地鳴りのような足音を立てながら。

「ムフォッ、ムフォッ」

 すごい迫力。とりあえず一階まで戻ろう。僕は全力で走った。

 

 

 一階の階段横のスペース。さすがにあの女の子も気付かなかったみたいだ。ばるるる、と馬の鼻息みたいに激しい彼女の呼吸が、その場から遠ざかっていく。

(いや、危ない所だったな。今はあんな生徒もいるのか……)

 ほんとだよ。こわい所だねと言うと、彼は首を横に振った。

(いや、だから楽しいんだ。個性の違う奴らと、遊んで学んで、成長して、そしていつか卒業する。……俺が最後までできなかったことだ)

 なんで、彼は最後までそれができなかったんだろう。僕にはわからない。

(そうだな。やっぱり、少しうらやましい)

 気付いた。

(俺は自分がここにいることを……誰かに気付いてもらいたいんだろうな)

 彼の足元から、うっすらと黒い煙のようなものが立ち上っている。これは霧?

(どうして俺はあの時……教官も止めてくれたのに……)

 表情も強張って、さっきまで兄さんみたいに感じていたのに、まるで別の人みたいだ。

(俺は――)

 黒い霧が、彼の体を包んで、影のようになってしまった。

 今日ずっと一緒にいたのに、全然今までそんなこと感じなかったのに、今はこの人がすごく怖く感じる。

 ――逃げろ

 それは多分、霧に包まれる前に彼が言った言葉。

 体の全部が震えていたけど、僕はその言葉を聞いて、やっと動き出せた。ここから一番離れた所へ。

 こんなに走るのは今日が初めてだ。

 

 

 階段を駆ける。僕の体では一息に上るのはさすがに無理だったから、一段一段よじ登るようにして、ひたすら上を目指した。

 彼は一体どうしてしまったんだろう。一人になった途端、すごく心細い。

 全ての階段を上りきったら、扉があった。偶然にも開いていて外に出ることができた。

 太陽が照り、風が吹き抜ける。そこは屋上だった。これ以上はどこに行くこともできない。とりあえず隠れられるように隅っこまで歩いていく。

 屋上には誰もいない。

 しばらくすると、扉の辺りからひそひそと声が聞こえた。振り向かなくても、匂いで分かる。あの赤服の人達だ。一、二、三……全部で九人だ。

 とりあえず気付かない振りをしてみる。

 例えば、全員をかわして扉まで逃げたとしても、今度は下に降りないといけない。それは少しこわい。どうしよう。

 考えている内に、赤服の人達が先に動き出した。

 突然音楽が屋上に響き渡った。さっき音楽室でみた小柄な男の子だ。なんで急に楽器を弾くの? でも何だか落ち着く音だ。

 彼らは次から次に、僕の周りで何かを始める。

 眼鏡の女の子は何か食べ物を置いてくれた。食べていいのかな? でも同じく眼鏡をかけたお兄さんが横に置いた黒い飲み物は、怪しいから近づかないでおこう。

 そうこうしていると、僕に話しかけてくる人が増えていく。もう何が何だか分からない。

 でも不思議だ。何をしているのかは分からないけど、一生懸命に何かをしようとしてくれているのはわかる。

 あまり怖くない。もしかして、優しい人達、なのかな。

 足が赤服の人達に向きかけた時、僕は見てしまった。

 扉付近に立ち尽くす黒い影を。

 彼がそこにいた。

 だめだ。行けない。僕はまた飛び跳ねて屋上を囲っている段の上に飛び乗った。そしてそこから見えた景色に、僕の動きは止まった。こんなに高いところにきちゃってたんだ。足がすくむ。 

 普段なら、それでも大丈夫だったと思う。

 黒い影を見たから、怖くて、だから突然吹いた風にも負けて、体が外側に流された。

 今日一番最初に会った男の子が、わき目も振らず僕に向かって走ってきて、手を伸ばす。

 ああ、やっぱり彼の言った通り、僕を助けに来てくれてたんだ。

 伸ばした指の先が僕に触れたけど、間に合わず体は離れていく。

 その男の子の横をすごい勢いで駆け抜けた人がいた。屋上から飛び出ながら、僕を脇に抱きかかえると、その人はあっと言う間に体をひるがえして、屋上の中に着地した。

 視界はぐるんぐるん回りっぱなしだったので、正直何が起こったのかはわからない。

 屋上に戻った時、黒い影は扉の近くからいなくなっていた。彼の姿はどこにも見えない。

 僕を抱えたまま、その女の人は「ま、事情は後で聞くとして、とりあえずみんな頑張ったみたいね?」と笑顔を見せていた。

 この人の笑顔は安心する。まるでお母さんみたいだ。

 

 その日の夜から、赤服のみんなと同じ家で暮らすことになった。

 どれくらいぶりかもわからないご飯を食べさせてもらったあと、僕を屋上で助けてくれた人――サラの膝の上で一休みする。

 そして僕はサラからルビィという名前をもらった。

 

 ● ● ●

 

 目が覚めた。僕はいつの間にかサラの膝から下ろされて、ソファーで眠っていた。サラも自分の部屋に戻ったのかもしれない。毛布を掛けてくれたみたいだけど、多分これはサラじゃなくてシャロンかな。

 そうか、あれからもう三日か。今の穏やかな時間が嘘みたいに感じる。

 まだ夜中だし、もう一回眠ろう。

 そう思った時だった。寮の中では嗅ぎ慣れない匂いが、鼻先をなでた。いや、嗅ぎ慣れないだけで、知らないわけじゃない。

 この匂いは、彼だ。

 首を上げて、匂いの方向に視線を向ける。やはりいた。玄関に彼が立っている。

(三日ぶりか。ルビィって名前をもらったんだな)

 言いながら、彼は僕の所まで歩いてくる。一瞬どきりとしたけど、すぐに心配ないとわかった。彼を覆っていた黒い影はもうどこにも見えないからだ。

 あの時の、お兄さんみたいな彼だ。そういえば、学院の外には出られないんじゃなかったっけ?

(もう大丈夫だ。俺が縛られていたものを、彼らが振り払ってくれた。行こうと思えばいつでも女神の所へ行けるさ)

 彼は手に持った一枚の用紙に目を落とした。それは多分彼にとって一番大切なもの。

(今日はお前に謝りに来た。あの時は怖がらせて悪かったな)

 僕は彼に出会わなかったら、Ⅶ組の皆とも出会えなかった。謝られることなんて何もない。

 じゃあ、もう女神様のところに行っちゃうの?

(いや、まだ行かないことにした。俺は最後に彼らに恩返しがしたい。それを済ませてからだろうな)

 恩返し?

(まあ、今すぐってわけじゃないが。ただその時が来るまでは、あの学院を陰から支えようと思う。元生徒会長として、な)

 よくわからないけど、少しの間はここにいるんだね。僕もここにいられるのは少しの間だけだから。

 リィン達が話しているのを聞いたけど、僕はⅦ組の皆とは二ヶ月しか一緒にいられないらしい。

(そうか。先のことなんて誰にも分からない。この先、俺とお前がどうなるかなんて、余計にな。だから――)

 力強い口調で、彼は続けた。

(ここで過ごす時間を大切にするといい)

 そう言い残すと、彼は消えてしまった。きっと大事な場所へ――学院に帰ったんだ。

 彼の言う通りだ。

 この先何が待っていても、今を大切にしないと、きっと後悔してしまう。リィン達、サラ、Ⅶ組のみんなを取り巻く大勢の人。

 先の事を考えると、やっぱり不安だ。

 それでもいつか。何気なく、取り留めのない出来事が、いつか宝物に変わる日がきっとくる。その時まで――

 彼が導いてくれた、僕とⅦ組の日常は、まだまだ続く。

 

~FIN~

 

 



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そんなⅦ組の一日 ~ユーシス

9月12日(自由行動日) 11:30 ユーシス・アルバレア

 

 第3学生寮を出て学院側へと向かう。

 天気はすこぶる快晴。九月も半ばに差しかかる頃だが、残暑の日差しは、じりじりと肌を照りつける。

 約束の時間は13時。とはいえ早めに着いて色々準備しておきたい。

 学院側と言っても別に学院に行くわけではなかった。用があるのはトリスタ礼拝堂だ。

 なぜこんなことになったのか。そう、これは昨日の帰り際のことだ。

 

 ●

 

「あの……ユーシスさん?」

 授業も終わり、部活もなかった俺はそのまま寮に帰ろうとしていた。その聞きなれない声に呼び止められたのは、ちょうど正門をくぐった時だった。

 声の主は門の端に静かに佇んでいる。

 おとなしそうな雰囲気で、伏し目がちな女子生徒。ショートカットのブロンドヘアが特徴的だ。

 ああ、見覚えがある。確か名前は――

「ロジーヌと言います。初めまして」

 そうだった。同じ一年のロジーヌだ。他のクラスとは合同授業くらいでしか接点がないが、彼女の顔は覚えていた。

 特別実習の朝に駅へ向かう途中、早朝にも関わらず礼拝堂の玄関口を掃除している姿を何回か目にしたことがある。とはいえ直接話したことはない。

「俺になにか用か?」

「はい。……その」

 言いづらそうに、もごもごと口を動かしている。意味がわからない。

 何やら躊躇していたらしいロジーヌは、やがて意を決したように伏せていた目を上げた。

「明日、礼拝堂に来る子供たちに授業をしてあげて欲しいんです」

「……は?」

 余計に意味がわからず、彼女の澄んだ瞳を見返す。

「実は……明日は日曜学校があるのですが、急用でシスター・オルネラとパウル教区長がヘイムダルまでお出かけになるそうで。それで子供たちのお世話を一緒にお願いできないかと思いまして」

 理由はわかるが理屈がわからん。なぜ俺なのか。

「そういうのはⅦ組に適任のやつがいるんだが。リィン・シュバルツァー、知っているか?」

「存じています」

 こういった頼まれ事はあいつの専売特許だろうに。そういえば実習でノルドに行った時も子供たちに授業をしていた。

「リィンさんにはさっき頼みに行きました。ですが明日は予定が多いらしくて引き受けて頂けなかったんです」

「そうか。それでなぜ俺のところに来た?」

「私の困った様子を見たリィンさんが『だったらユーシスに頼んでみたらどうだ。あいつ明日は予定ないはずだし、子供の面倒見も意外といいんだ』と」

「リィン……!」

 勝手なことを。なぜお前が俺の予定を把握しているのだ。寮に戻ったら散々文句を言ってやろう。

「どうでしょうか。突然のお願いなので無理は承知なのですが……」

「そうは言われてもだな」

「ダメですか?」

 そんな迷い犬のような目で見るな。しかし明日予定がないのは事実だし、気乗りはしないがうまく断る理由も見つからない。色々と言い訳を思案していると、

「そうですか、無理ですよね。私のような者の頼みなどお聞きして下さるはずがありませんよね」

「な、なんだ、急に」

「貴族様、それもアルバレア家のお方に、このようなこと……申し訳ございません」

 何なのだ、この流れは。俺が悪いのか?

「うう、きっと明日、私一人で子供たちをまとめることなどできるはずもなく、礼拝堂は荒れに荒れ、今まで平和だった日曜学校は学級崩壊を起こすのです。未熟な私に対する父母の方々からの叱責と折檻は、それはもう正視に耐えないものでしょう。もちろんユーシスさんに非はありません。全ては私の至らなさです」

「おい」

「ユーシスさんに非はありません」

「繰り返すな、強調するな」

 両の手を組み合わせて、ロジーヌは潤んだ瞳を空へと向けていた。

「ああ。ルーディ、カイ、ティゼル。力及ばない私を許してね」

「わ、わかった。引き受けよう」

 つい言ってしまった。もう撤回はできない。その言葉にロジーヌは嬉しそうに笑っていた。

 

 

 ――12:00

 回想も程々に、気がつけばもう礼拝堂だ。

 扉の前でロジーヌが立っていた。その装いはいつもの学院服ではなく、黒色を基調に白いラインの入った七耀教会の修道服だ。

「お待ちしておりました、ユーシスさん」

「……早めに来たつもりだが」

 にこやかに出迎えてくれるが、いつから立っていたのだろうか。ずいぶん暑かったはずなのに、それでも彼女は涼しげな表情をしている。

 ロジーヌの先導で堂内に進むと、中央の赤絨毯の左右に設置された縦並びの長机、そして最奥に位置する教壇が視界に入ってくる。いつもの礼拝堂だ。

「俺はあそこで授業とやらを行うのか?」

「そうです」

「いや、しかしあの場所は……」

 当たり前のように返してくる。あそこは教区長しか立つことを許されない教壇だぞ。

「今日は教区長様に許可を頂きました。どうぞ、存分に教鞭を振るって下さいね。外出からのお戻りは16時前だそうですよ」

 ここに来てみても、やはり教壇に立つ自分が想像できない。

 とりあえず教科書の用意だ。今日は歴史と算数らしい。委員長にだけは事情を伝えて、簡単な参考書を借りてきたので、これを元に教えていくつもりだ。

 あれやこれやと準備していると、

「ロジーヌ姉ちゃーん」

「ちょっと一礼が先でしょ」

「そそっかしいなあ……あれ? あの人、誰かな」

 三人の子供たちが礼拝堂内に入ってくる。教壇にいる俺を見て少し戸惑ったようだった。

 ロジーヌが経緯を説明すると三人は挨拶にやって来た。

 落ち着きがなく、いかにも悪ガキそうなのがカイ。カイとは反対におとなしい印象のルーディ。二人のまとめ役、お姉さん的存在のティゼル。

 町中で遊んでいるのを時折見かけることがある。

 いずれも昨日のロジーヌとの会話に出た名前だ。どうやらこの三人は年長で、あとは彼らより年下らしい。

 それからだんだんと子供たちが増え、あっという間に席が埋まっていく。十人ちょっとだ。

 いや、ちょっと待て。

「お前ら何してる」

 見知った顔が、さも当然のように後ろの席についていた。

「あはは、面白そうだからさ」

「うん、見にきたよ」

 ミリアムとフィーだ。Ⅶ組の中では年下二人組だが、さすがに日曜学校に交じると違和感がある。

「委員長からユーシスが礼拝堂で授業やるって聞いたからねー。のぞきに来たら表でフィーと会ったんだよ」

「ん。私はちょっと事情があるんだけど」

「お前らの事情など知らん。早く出ていけ。五秒くれてやる」

「またツンツンしてるー」

「そういうとこだよね」

 冷やかしに来たのならつまみ出す。

 そもそもあまりⅦ組の連中には見られたくないのだ。俺も口止めまではしていなかったが……口が軽いぞ、委員長。

「ロジーヌ。こいつらを外に出すぞ」

「いいえ、ユーシスさん。誰であっても勉強する気持ちがあるのなら、参加してもらって大丈夫です。女神の教えは平等ですよ」

 俺への不条理には寛容なようだが。

 控え目な女なのだが、なぜか口論では勝てる気がしない。

「はあ……好きにするがいい」

 授業開始までに事前準備と流れの確認はしておきたい。これ以上相手をしていられるか。俺は教科書を片手に教壇へと向かった。

 

 

 ――13:00

 ロジーヌが女神に祈りを捧げ、子供たちも彼女に続いた。毎回の事らしく、授業はこの礼拝のあとに行うという。

 祈りの時間も終わり、ロジーヌが俺のことを改めて子供たちに紹介する。

「――そういうわけで、今日一日みんなに勉強を教えてくれるユーシス先生ですよ。みんな、よろしくね」

 意外だ。ロジーヌの声は大きく、はきはきと話している。普段の印象とはまた違う。子供たちも大きな声で『はーい』と声をそろえた。フィーとミリアム、お前らはせんでいい。

「ユーシス・アルバレアだ。さっそく授業を始めるぞ」

「ユーシス、愛想ないぞ~!」

「そういうとこだよね」

 さっそくミリアムとフィーがいらんちょっかいをかけてきた。あいつら、やはりつまみ出すべきだったか。愛想のことなどフィーが言うな。そもそも授業に愛想などいるものか。

 俺は坦々と、完璧に授業をこなすのみ。面倒な二匹の猫のことなど思考の外だ。

「では近代史からいくか」

 ロジーヌから聞いた話では、子供たちは教科書を持っていないらしい。通う年代にばらつきがあるので、教科書のレベルを統一するのが難しいという。その場その場で話す内容を変えたり、その子供の理解度に合わせた質問をするそうだ。

「ではそうだな。俺たちの暮らすエレボニア帝国についてだ。我が国の国旗には何が描かれている?」

「はーい、はーい。おーごんのぐんばー!」

 当てるよりも早く答えたのはカイだ。

 答えはあっているが棒読みだったぞ。意味がわかって言っているのだろうか。なぜか彼は自慢げな顔でロジーヌに振り向いている。その顔をティゼルが荒っぽく正面に戻した。首からゴキリと鈍い音が響き、つかの間カイは白目になる。大丈夫か、あれは。

「正解だ。ではなぜ軍馬が描かれている?」

 その問いには皆が押し黙り、当てられまいと下を向く。しかしフィーとミリアムまで顔をうつむけているのはなぜだ。お前らはこの前の授業で習っただろうが。

「ではミリアム、答えろ」

「ユーシスのいじわる! 悪質ないじめだぞー! 尊厳ある扱いを希望するー!」

「そういうとこだよね」

 何がいじめなものか。そしてフィーはさっきからそれしか言わない。そっちの二人は無視して、子供たちに教えなければ。

「いいか、かつてドライケルス大帝がノルドの地で挙兵した際に……いや、そもそも軍馬というものはだな――」

 きょとんとした顔で俺の説明を聞く子供たち。少し難しかったか。

 ここで年長のティゼルが口を開いた。

「この国を作った人がね、お馬さんに乗っていっぱい戦ったんだよ。だからみんなでお馬さんを大事にしようねってことになったんだ」

 ティゼルがそう言うと、子供たちは『そーなんだあ』と納得した様子だ。俺の説明を聞いた上で、わかりやすく周りに伝えている辺り、中々のしっかり者だ。

「よし次は――」

 その後も度々ティゼルからのフォローを受けながら、なんとか歴史の授業を終える。

 体力は使っていないはずだが、すさまじい疲労感だ。

 だから後ろの席の二人。なんでお前らまで疲れているのだ。

 

 

 ――13:40

 算数の授業だ。歴史の授業に比べて幾分かやりやすい。

「5たす4は? ではルーディ」

「えと、9です」

「正解だ」

 ルーディは指を折りながら、計算して答えた。まだ暗算ではむずかしいのか。ならば、これならどうするのだろう。

「続けてルーディ。7たす6は?」

 これなら両指を使っても足りまい。案の定困っている。すると、となりに座るカイが自分の指もルーディに貸して、数字を数え始めた。

「あっ、13です」

「いいだろう。正解だ」

 しかしティゼルは納得いかなかったようで「そんなのズルよ!」と声を大きくした。

 なるほど、少し彼女の性格が分かった。しっかり者だが、自分の中で筋が通らないことは看過できないらしい。この場合は、ティゼルの言い分も認めながら場を収めるのがいい気がする。

「いいか、ティゼル。これが試験なら確かにズルだ。しかし今は違う。わからない問題をみんなでわかるようにするのは大切なことだ」

「で、でも」

「もしお前が答えをわかっていたのなら、遠慮せずに教えてやるといい。ただし答えをではないぞ。答えの出し方をだ。さっきカイはルーディに答えを教えていたか?」

 ティゼルは賢い。きっと理解する。

「……ううん、先生ごめんなさい」

「謝るのは俺ではないだろう」

「うん、カイ、ルーディ、ごめんね」

 それでいい。ふとロジーヌの視線に気づいた。彼女は驚いたような表情を浮かべていた。俺の対応は間違っていたのだろうか。まあ構うものか。どのみち本職ではないのだし。

 そんな折、年少の男の子の一人がつまらなさそうノートに絵を描いている。どうやら計算が苦手らしい。

「どうした?」

 その子に近づき、腰を落として目線を合わせる。「けいさん、ぼくわからない」と今にも泣き出しそうだった。絵を描いていたことを咎められると思ったのだろう。小さな腕で必死にノートを隠そうとしている。

「隠す必要はない。上手く描けているじゃないか」

 その子のペンを使い、簡単に馬の絵を描いてやる。

「おうまさん?」

「そうだ。馬の足は何本あるか知ってるな? 四本だ」

 もう一頭、追加の馬の絵を描く。

「これで馬の足は全部で何本になった?」

 一生懸命、指で数えて、

「えと、八つ?」

「できるじゃないか」

 軽く頭に手を置いてやると、その子は顔を明るくした。

「先生、馬の絵上手だなー!」

 いつの間にか机の周りは子供たちが集まっていた。

「当たり前だ。俺は馬術部だからな。馬の絵だけではなく、馬のことなら何でもわかるぞ」

 言ったが最後、質問が嵐のように飛び交った。

「じゃあさ、馬ってどれくらいの早さで走るの?」

「やっぱり大きいの?」

「なに食べてるの?」

 馬の話なら無下にはできまい。一つ一つの質問に答えていく内に、見事に授業は脱線していった。

 

 

 ――14:20

 横道に逸れつつも授業は無事終えたが、ほっとする間もなく次の仕事だ。俺は授業をするだけではなかったのか。

「ユーシス、ボクたちのお菓子は~?」

 ミリアムが手をぶんぶん振って猛烈にアピールしてくる。

「お前らの分などあるか」

「フィー、今の聞いた? ひどいよね! 今日一番ひどい言葉だよね!」

「ないね。これはないと思う。陰険。悪質。人格を疑う。あとでユーシスの枕に爆弾を仕掛けよう」

「あはは、吹っ飛ばせー!」

 陰険で悪質で疑われるべき人格の持ち主なのはお前たちだ。なぜ俺がこんなやつらから非難を受けねばならんのだ。

 今は休憩がてらのおやつタイムだ。ロジーヌが焼いたクッキーと紅茶を子供たちの前に運んでいく。これを目当てに日曜学校に来る子供も多いらしい。

 露骨なのはカイだ。クッキーを前に「でへへへ」と締まりのない笑みを浮かべている。先行き不安な事この上ない。

 それにしても俺が給仕をするなどと、実家に知られたら大事件だ。

「あなた達の分もありますよ」

 ロジーヌはミリアムとフィーにもクッキーを渡した。

「わー、ありがとう! 頭を使うとお腹が減るんだもん」

「同感」

 どの口が言う。二人ともかなり早い段階で寝ていたくせに。

「ふえええん」

 今度は何だ。見れば年少の女の子が泣いている。

「あ、あたしのだけクッキーが少ない~」

「そんなことか。ロジーヌ、クッキーを一つ持って来てやってくれ」

「それが生地はまだあるんですが、焼いてあるのはそれが全部で……」

 なんということだ。《キルシェ》まで行って買ってくるか? いや、しかし――

 そんな時、フィーが女の子に歩み寄り、皿の上にクッキーを置いた。

「私のクッキーあげる。だから泣いちゃだめだよ」

「おねえちゃん、いいの……?」

「ん」

 フィーはその子にVサインを見せてやる。

 ……泣きやんだ。

 普段はⅦ組の中でも年下だから、あまりこういう姿は見ないが、意外に子供の面倒見がいいのだな。

 自分よりさらに年下の子供たちに、クッキーをたかりに行っているミリアムとは大違いだ。

 

 

 ――15:00

 クッキーを食べ終わると、今度は外で遊ぶらしい。

 ここまで来たら最後まで付き合うしかあるまい。

 学校と言っても、勉強ばかりではないようだ。俺は子供の頃から家庭教師だったから、日曜学校など行ったことがない。だから当然ではあるが、同年代で友人と呼べる存在はいなかった。

 それに、欲しいとも思っていなかった。

「ユーシスせんせー」

「力つよーい」

 体中にへばりつく子供たちを、半ば引きずりながら礼拝堂の外に出る。しかしこのタイミングで外に出てしまったことを死ぬほど後悔した。そこに一番この姿を見られたくない男がいたからだ。

「はあっはあ……くそう、まさか礼拝堂ってことはないよな。って君は何をしてるんだ!?」

 こちらに気付くと、マキアス・レーグニッツは声を上ずらせた。

 どうしてお前はこうタイミングが悪いのだ。いや、それより俺が知りたいのは、なぜこの男は礼拝堂前で息を切らしているのかだ。怪しい男め。

「今は君に関わっている場合じゃない。ルビィを見なかったか?」

 俺とて関わりたくなどない。ルビィ? 俺が知るわけないだろう。

「一体どうした。大方なにか取られたんだろう。お前は色々なところが抜けているからな」

「な、何だと!? いや、今はいい……くそっ、覚えておくといい」

 三下の敵のようなセリフを吐いて、レーグニッツは学院の方へと走っていった。相変わらず騒々しい奴だ。

 今みたいに誰かに遭遇する可能性があるから、やはり外で遊ぶのはまずい。

「お前たち、中に戻るぞ。たまには屋内で静かに遊ぶがいい」

「ユーシス!」

 踵を返した時、背後から呼ばれた。この声はすぐにわかる。

「リィンか。お前のおかげで俺は面白いことになっているぞ」

 精一杯の皮肉を込めて、振り向いてやる。そこにいたのは確かにリィンだったが、

「お、お前?」

「俺が悪かった! 許してくれ、ユーシス!」

 頭を下げるリィンの頭はずぶ濡れで、髪の毛からは水滴がとめどなく滴っている。頭だけではなかった。体全身だ。上着、ズボン、足の先まで水浸しではないか。

「この通りだ」

「わ、わかったから、頭を上げろ」

 まさか詫びのつもりで滝にでも打たれてきたのか。確かにこの男ならやりかねんが。

 これ以上責める気もないので、リィンには帰ってもらった。歩く度にびちゃびちゃと靴から水を吐き出して、第3学生寮の方向へと戻っていく。

 何かトラブルでもあったのだろう。あいつのことだ、案じても仕方あるまい。

 俺も足早に礼拝堂の中へと引き返すのだった。

 

 

 ――15:30

「ユーシス先生、何して遊ぶの?」

 子供たちがそんなことを聞いてくる。そんな面倒まで見ていられるか。

「遊びくらい自分たちで考えろ」

『え―――っ!?』

 大ブーイングだった。

 四方八方から、容赦なく罵り声が飛んでくる。だからⅦ組の二人がそこに交じるな。というかいつまでいる気だ。

 ここまで罵声を浴びるなど、おそらく人生で初だろうし、この先もまあ無いだろう。もっとも子供の軽口など、たかが知れている。痛くもかゆくもない。

 おもむろにミリアムとフィーが最前列にやってきた。

「やーい、ユーシスの陰険~、ボクを捕まえられるもんならやってみろー」

「嫌味金髪」

「いい度胸だ」

 お前らは見逃さん。紐で縛って馬で引きずり回してくれる。

 駆け回るそいつらを捕まえようとした時、フィーの背後からぬっと手が伸び、その肩をがしとつかんだ。

 フィーの体がびくりと強張る。

「フィーちゃーん? 探しましたよ~」

「い、委員長?」

「あら、ユーシスさん、一日先生は順調ですか?」

 なぜ委員長がここに。借りた参考書は今日の夜に返す話のはずだが。礼拝堂の薄闇に眼鏡が浮き立って妙な威圧感がある。

 委員長はフィーをつかまえたまま「うふふ、お邪魔しました」と不敵な笑みを浮かべて、出入り扉に引き返していく。

「……つかまっちゃった」 

 まるで襟首をつままれた子猫のように、フィーはどこかへ連行された。

 まあ、いい。厄介なのが一人減っただけだ。もう一人の厄介者に視線を向けて――俺は絶句した。

 巨大な傀儡人形が礼拝堂の中央で、ぐるぐる回っているではないか。その白銀の体のあちこちに子供たちをぶら下げたまま。

 なにをやっているアガートラム。よくもやってくれたなミリアム。

「ガーちゃんイエー!」

 イエーではない。横で見ているロジーヌが固まっているだろう。

「早くしまえ、あいつを!」

「えー? なんでー?」

 ぶーぶーと口をとがらせるミリアム。

「なんでだと? 帰ってくるからだ、もうすぐシスターと教区長が――」

 どさり。荷物が床に落ちた音。最大級の嫌な予感。首をぎこちなく動かして、ゆっくりと振り返る。

 最初に視界に入ったのは、床に横たわる手提げかばん。

 徐々に視線を上げていく。

 震えながら立ち尽くす二組の足が見え、次に胸前で手を組み合わせる姿が映った。祈っている。あれは祈っている。願わくば、アガートラムを降臨した女神の使者くらいに思ってもらえていれば。

 意を決して、表情を見る。

 彼らは青ざめ「どうか子供たちの命だけは……」とひたすらに嘆いていた。

 ダメだ。煉獄から顕現した悪魔にしか思われていない。固まっていたロジーヌが、我に返ったようにアガートラムの前に飛び出した。

「ち、違うのです。シスター・オルネラ、パウル教区長。これは、これは……」 

 いや無理だ。ロジーヌがどんな言い訳をしようとも、これは無理だ。

「ユーシスさんの私物です。今日は皆を楽しませようと持参してくれたのです」

 おい。

「ほ、本当かね?」

 そんなわけあるか。しかし、もうこれで突き通すしかあるまい。

「その通りです。アルバレア家を見くびらないでもらいたい。子供の頃はよく兄上もあれで遊んでいた……気がします」

 申し訳ありません兄上。あなたの気高き幼少時代の思い出を、わけのわからない銀色の物体で汚してしまいました。

「う、ううむ。た、確かに子供たちは楽しんでおるようだし」

 何人かは悲鳴をあげているが、頼むから気づいてくれるな。

「ところで、授業の方はうまくいったのかね?」

 パウル教区長の質問に、俺とロジーヌは声をそろえて言った。

『それはもちろん』

 

 

 ――16:00

 シスターと教区長が帰ってきたので、俺の役目は終わった。

 ミリアムは遊び疲れたのか、先ほど一人で帰っていった。どこまでも自分勝手なやつだ。

 扉を出たところの花壇まで、ロジーヌは見送りにやってきた。彼女は深々と俺に頭を下げる。

「今日はありがとうございました」

「気にするな。脱線した授業もあったしな。上手くはできなかったかもしれん」

 ロジーヌは一瞬きょとんし、相変わらず澄んだ瞳で俺を見ると小さく笑った。

「そんなことありません。ティゼルとカイ、ルーディを取り持った時も、馬の足で算数を教えた時も、ユーシスさんはいい先生でしたよ」

「そうか? 自分ではよくわからんが」

「もしかして、昔から子供に懐かれやすかったのではないですか?」

 そんなことはない、と思うが、故郷のバリアハートではよく子供達が話しかけてきたな。ミリアムは……あいつは別物だろうが。

「また機会があれば、お手伝いして下さいますか?」 

「気が向いたらな。では俺はこれで失礼する」

 子供の相手は大変だ。

 これを日常的にこなしているのだから、ロジーヌも実際大したものなのだろう。学生寮に足を向けようとした時、「あ、待って下さい」とロジーヌが何かを差し出してきた。

 丁寧にラッピングされた、小さな桃色の包み紙。

「おやつの後、またクッキーを焼いたんです。今日のお礼としてはささやかですが、その……受け取ってもらえると嬉しいです」

 クッキーはまだ温かかった。単に温度の話ではなく、心が入っているのだとわかる。子供の頃から慣れ親しんだ、伯父の作ってくれたスープの温かさに似ている。

「ありがたく頂こう」

「優しい目をされるのですね」

「目つきは悪い方だと自覚しているが」

「そうでしょうか? 私は思いません」

 ロジーヌは微笑んだ。

 礼拝堂の扉が勢いよく開き、子供達が雪崩のように飛び出してくる。

「ユーシス先生、今日はありがとう!」

「また来てね!」

「算数の勉強しとくからー」

 体中にまとわりついて離れない子供たちを、ロジーヌが一人一人引きはがして順に整列させていく。その手並みはさすがのものだ。何が“私一人で子供たちをまとめることなどできるはずもなく”だ。

「まったく。お前たち、あまりロジーヌに面倒をかけるなよ?」

『はーい!』

 元気のいい無邪気な返事が帰ってくる。わかっているのか、いないのか。多分わかっていないな。

 その中の一人――カイが近づいてきて、小声でぼそりとつぶやいてく。

「ロジーヌ姉ちゃんは渡さねえからな」

「なんのことだ……?」

 カイはすぐにルーディとティゼルに両腕を掴まれ、もとの列に戻された。

「あんたじゃ無理よ。知力、財力、権力、おまけに顔と身長。全部負けてるんだから」

「それよりカイ。あとでブレードやろうよ」

「うう……ちくしょー」

 子供には子供の事情があるのだろう。そんなことを思いながら、俺は礼拝堂を後にする。ロジーヌと子供たちに見送られながら。

 帰り道。

 手に持ったままの包みに目を落とす。せっかくだ。冷める前に一つだけ頂こうか。

 小さなクッキーを取り出し、一口。さくさくとした歯ごたえ。やわらかな風味が拡がっていく。

「……うまいな」

 今日の対価としては十分釣り合う味だ。疲れも充実感に変わっていく気がする。

 そうだな。たまにはこんな一日も悪くない。

 

 

 ~FIN~




最後までお付き合い頂きありがとうございます。
というわけで『一日』シリーズの一発目はユーシスでした。作中の時間やら、キャラクターのセリフなどでお察し頂いているかと思いますが、今回はⅦ組個々にスポットを当てながら、それぞれの『9月12日』を描くストーリーです。続きものではなく、時系列が同じ横並びの短編と受け取って頂けたら幸いです。もちろん、どこから読んで頂いても成立するような構成ですので、短編形式がお好みの方もご安心ください。
さて、今回メインで出てきてくれたサブキャラクターはロジーヌさんでした。意外なキャラの掛け合わせが好きなので、これからも色んなレアキャラが出るかもしれません。
それでは次回の『そんなⅦ組の一日』は……誰でしょうか


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そんなⅦ組の一日 ~マキアス

9月12日(自由行動日) 12:00 マキアス・レーグニッツ

 

 僕は静かな一時が好きだ。

 風の音、鳥の声。心が落ち着く。そしてもっと好きなのが、静寂の中に響くチェスを指す音。

 平らかな駒の裏側が、盤上にストンと落ちる瞬間。極限まで研ぎ澄ました思考による至高の一手。

 己の心音が大きく感じ、駒を持つ手が脈動しているとわかる。

 チェスの面白いところは一人でも楽しめることだ。白と黒の駒をどちらも自分が動かすのだが、もちろん簡単ではない。

 要は対局する自分が二人いて、かつ思考を共有していると考えると、決着などつくはずがないだろう。

 しかしそれは突き詰めると思考力の向上につながる。より先を見据えた駒の展開が可能になってくるということだ。

「で、次はこうだ。すると、こうなるから――」

 第3学生寮、1Fラウンジ。

 ソファーに座って、僕は休日を趣味に費やして過ごしている。今日は寮にあまり人がいないらしい。休日はインドア派のエリオットとガイウスも、先ほど外出したところだ。そろって浮かない顔をしていたが、何かあったのだろうか。

 ともあれ、人が少なければ、それだけ静かなわけで。

「集中してチェスができるな。次の一手は……と」

 さすがは僕だ。そう簡単に切り返せる一手じゃないな。いやいや、そこは僕だ。思いもよらぬ手で逆転してみせる。うむうむ、楽しいぞ。

 しかし至福の時間は、突如終わりを告げた。

 階段を降りてくる足音が二人分。しかも何やら口論している。

「それで? 昨日ロジーヌさんから何言われてたのよ?」

「いや、今日礼拝堂で子供達に授業してくれないかって。結局断ったんだけどな」

 例によってアリサとリィンのペアだ。経緯はさっぱりだが、朴念仁のリィンが彼女の怒りを煽ったのだろう。どうせ自覚もなく。 

「何で断ったのよ? ロジーヌさんかわいいのに」

「あ、あの? いや今日は予定があって……トワ会長と」

 言ってしまった。露骨にアリサの目つきが鋭くなる。

「あ、あなたって本当に節操がないというか……!」

 騒々しい、騒々しい。僕の姿も目に入っていないようだ。

 ああ、そうだ。今の内に部屋に戻ってチェスの指南書でも取ってこよう。その間に二人の痴話げんかも収まるかもしれないし。

「ふう、まったく」

 ソファーから立ち上がり、自室に戻った僕は愛用している指南書の一冊を手に取った。ずいぶん使い古したが、読み直す度に新たな発見や気付きがあるいい本だ。

 すぐにラウンジに行っても状況は変わっていなさそうなので、適当な頃合を見計らって再び一階に向かう。

「よし。アリサもリィンもいないな。ようやく静かに――ん?」

 ソファーまで戻り、チェス盤に目を落としたところで違和感。

 さっきまでこんな駒の配置だったか? 所々違うし、それに何か変だ。

「あ!? 白のナイトがない!?」

 さっきまで確かに盤上にあったのに。

 机の下、ソファーの下、雑誌の裏、果てはポストの中まで。探せど探せど見つからない。もちろん予備の駒は持っているのだが、それを使うつもりはない。

 あちこち探し回ったところで、

「うふふ、マキアス様。何かお困りでしょうか?」

 涼しげな声が厨房から聞こえてきた。

 ラウンジまで出てきたシャロンさんが、変わらずの佇まいで一礼してくれる。

「あ、どうも。騒々しくしていてすみません。食事の仕込み中でしたか?」

「今日はお出かけの方が多いので、厨房の片付けをしておりました。マキアス様はお昼はこちらで済まされますか?」

「じゃあお願いしようかな。……じゃなくて、チェスの駒が一つ足りないんですが、シャロンさん見ていませんか?」

「ええ、見ましたよ。白い駒ですね」

 あっさりとそう言った。

「え!? どこでですか?」

「ずいぶん前にルビィがくわえて、外に持って行ってしまいましたが」

 それなら早く教えて下さい。僕の様子を見て、察しくらいはついていただろうに。この人は本当に何を考えているのかわからない。アリサもかなり振り回されたに違いない。

 いや、そんなことよりも。 

「だったら急がないと! すみません、探しに行ってきます」

「どうぞお気をつけて、行ってらっしゃいませ」

 粛々と頭を下げたシャロンさんは、微笑んで僕を送り出してくれるのだった。しかしどこか含みのある笑顔のような。

 この人、絶対楽しんでるだろ。

 

 

 ――13:00

 第3学生寮を飛び出した僕は、とりあえず見える範囲で視線を巡らしてみた。

 やはり近くにはもう見当たらない。手掛かりはないので聞き込みから始めるしかなかった。

 そういえば腑に落ちないことがある。

 ルビィが駒を取ったのなら盤上はもっと荒れているはずだが、ずいぶん整っていた。そして所々入れ替わっていた駒の配置。どういうことだろう?

「ひとまず手近な所からあたってみるか」

 この辺りからだと、雑貨店や公園か。まずは雑貨店に行ってみる。少し歩けば目的地はすぐだ。

 扉を開くと、からんころんと音がした。扉に鈴をくくりつけてあるらしく、音に気付いた店主が「いらっしゃい」と声をかけてくる。

「何かお求めで?」

「いえ、犬を探してるんです」

「うーん、犬は取り扱ってないなあ。帝都のペットショップに行ってもらえると」

「そういう意味じゃなくて! うちで預かってる茶色い毛並の子犬を追ってるんです。さすがに店内には入って来てませんよね?」

「ああ、ルビィちゃんのことか。今日は来ていないな。逃げちゃったのかい?」

 待て待て。なぜ雑貨屋の店主がルビィの名前を知っている。それに今日はとは、どういう意味だ。

「最近よく遊びに来るんだよね。尻尾振られるとついつい売れ残った果物とかあげちゃうんだ」

「はあ、そうだったんですか。どうりで……」

 最近、一階ラウンジの隅にルビィ専用の昼寝スペースができたのだが、その周りにやたらと食べ物が潤沢にあったのはそのせいか。てっきりみんなが甘やかしているとばかり思っていた。色んなフルーツが集まりすぎて、リゾートみたいになっているのだ。

 なんにせよ、ここでは目撃情報は得られなかった。

「すみません、お邪魔しました……ん?」

 戸口に向き直ろうとしたところで、店の奥に覚えのあるツインテールが見えた。アリサだ。

 彼女も寮を出ていたのか。誰かともめているようだが、今度はリィンじゃない。

 薄紫の豊かな髪に赤いリボン、貴族用の白い学院服。確かⅠ組のフェリス・フロラルドだったか。アリサと同じ、ラクロス部だと記憶している。

「こんなのがいいんじゃない?」

「だからこれじゃないですわ!」

 あまり関わらないほうがいい気はしたものの、それでも一応声はかけてみる。

「君達、何をやっているんだ」

『きゃあ!?』

 二人そろって、体に電気が走ったみたいな悲鳴を上げた。

 そこまでびっくりしなくてもいいだろう。女子に悲鳴を上げられると、基本的に男子は傷つくんだぞ。

「マ、ママ、マキアス? どう、したの?」

 いやに歯切れが悪い。むしろこちらが聞きたいぐらいだ。

「ちょっと探し物を。そうだ、ルビィを見かけ――」

「っ! あー、早く買い物の続きをしなくちゃ、行くわよフェリス。おじさんお会計!」

「あ! 袖を引っ張らないで下さいな!」

 不自然なくらいに急ぐアリサ。

 支払いを済ますと二人は足早に店から出て行ってしまった。

 一体なんだったんだ?

 

 

 ――13:20

 雑貨屋を出た僕は、町中央の広場に足を運んでみた。

 ここから見渡せば大体の場所は視界に入るのだが、ルビィの姿は依然として見つけられない。

 可能性は二つ。屋内に入っているか、屋外でもここから見えない場所にいるか。

 自分で言ってて悲しくなってくる。可能性は二つでも捜索範囲広すぎだろ。結局は町全体だ。しかも学院捜索の時と違って、今回は自分一人なのだ。

 とりあえず屋外は一通り洗っておこうと、家屋が立ち並ぶ路地に入る。

 憶測は外れて、そこにもルビィはいなかった。

 せっかく足を運んだんだ。情報収集がてらに、路地の並びにある一件の店に入ってみる。

「こんにちは」

「おう」

 カウンターにいた男性が無愛想な応答で出迎えてくれた。

 質屋《ミヒュト》。そして店主のミヒュトさんだ。

「なんか入用か? 手早く済ませろよ」

 およそ客にする対応ではないが、ここで購入、交換できる物品は希少価値の高い逸品が多い。正直なところ、かなり助かっている。

 ミヒュトさんって口は悪いけど、これで結構面倒見のいい人なんだよな。あと謎の情報網持ってるし。

「ちょっと寮で預かっている子犬を探してまして」

「ちびなら今日は来てねえよ」

 ここでもか。あいつの行動範囲はどうなっているんだ。

「あのちび犬、ちょいちょい顔出しにくるんだよ。どこで拾ったのか結構な素材を持ってきやがるから、何気にお得意様なんだぜ?」

「……まさか」

「もちろん、相応のもんと交換させてもらってる。こないだはレアクオーツ持っていってたな。あと中古の戦術オーブメントも」

「うちの犬に変なもの持たすのやめてもらえますか」

「品物を持って来る以上、客には違いねえからな」

「その理屈はおかしいですよ……」

「はっ、ジンゴのとこの犬は店番もするんだ。おかしいことはないだろうよ」

「ジンゴ……?」

 知らない名前だ。商売仲間なのかもしれない。犬に店を任せるという発想がある時点で、すでに普通の人ではない気がする。

 とにもかくにもルビィの昼寝スペースに、フルーツに交じって見慣れないクオーツがあった理由がようやくわかった。

 どんなフルーツがあるのかと覗きに行ったことがあるのだが、いきなり凄まじい数の光軸が防護壁を展開して、あと一歩踏み込んでいれば僕は塵になるところだったのだ。その瞬間にユーシスが舌打ちをしたことを、僕は一生忘れないだろう。

 それにしても、ルビィの昼寝スペース、危険すぎる。セキュリティー高すぎる。

 しかもサラ教官が近づいた時には、しっかり駆動解除してあるし。したたかな奴め。

 犬がアーツを駆動させられるとは知らなかったが、実際に使用してくる魔獣もいるあたり、そこまで無茶な話でもないらしい。

 話を聞くに、ルビィは多くの近所の人に知られているとのことだ。その内に僕らよりいい暮らしをしてそうだが――それはともかく。

 必ず返してもらうぞ、僕のナイト!

 

 

 ――14:00 

 一度、中央広場まで戻る。

 屋内の線は消して、屋外に集中しよう。それなりに知られているなら、必ず誰かが見ているはずだ。

 道行く人に尋ねてみるが、中々情報は得られない。

 ルビィは隠れたり、誰かに見つからずに目的地にたどり着く術に長けていた。狙っているのか、天性なのかはわからないが。

 あと広場の様子を確認できていそうな人といえば――あの人だ。

「ルビィちゃんなら見ましたよ?」

 ガーデニングショップの店主ことジェーンさんが、うんうんとうなずく。ビンゴだ。

 園芸部関係らしく、フィーと話している姿を時折見かける。よく街頭で花の世話をしているから、彼女なら広場の様子は目につきやすいと思ったのだ。

「それでジェーンさん。あいつがどこに向かったかわかりますか?」

「学院の方に走っていったわ。ついさっきのことよ」

「ついさっき?」

 シャロンさんが言うには、ルビィは僕よりだいぶ早く寮を出たそうだが、ここを通ったのはついさっきなのか? 

 まあ、どこかで遊んでいたのだろう。ようやく距離が縮まってきた。

「ルビィってこの店にもよく来たりするんですか?」

「私のお話相手にね。お礼に花飾りをあげたりするのよ」

 頭にきれいな花の輪をつけて帰ってきたり、フルーツが花でやたらとデコレーションされていたり、あいつのライフスタイルが彩りにあふれ出したこの頃だが、そういう背景があったのか。

 ラウンジの片隅がどんどんリゾート開発されていく。

「ありがとうございました。僕は学院まで行ってみることにします」

「そうだわ。ちょっと待って」

 彼女は何かを思い出したようで、店の奥から少し長めの黒い筒を持ってきた。

「今から学院に行くのよね? これを園芸部のエーデルさんまで届けてくれないかしら」

「かまいませんが、これは?」

「この筒の中に苗木が入っているの。エーデルさんに頼まれてて。というか昼頃にフィーちゃんが取りに来るはずだったんだけど、中々来ないのよね」

 いつものことだけどと笑って、ジェーンさんは肩をすくめた。

「わかりました。確かにお届けしますよ」

 手間ではないし、そのくらいはお安いご用だ。

 ふとリィンのことを思い出す。彼もこうやって人と話す内に、頼まれごとが増えていくんだろうな。

 

 

 ――14:30

 リィンのことを考えたからなのか、僕は彼の姿を見つけた。

 学院に行く途中の橋を渡った辺り。川縁でリィンが釣りをしている。

「やあ、リィン。釣れるか?」

 声をかけたが、距離があった上に川音もあって、リィンは僕に気づかない。

 そういえば昼ごろアリサと口論していた時に、今日はトワ会長と用事があるとか言っていなかったか? 

 リィンがこっちに気づいた。

 軽く手をかかげ、何気ない返事をしたつもりだったのだが、その瞬間――いや正確にはかかげた手に持っていたジェーンさんから預かった黒い筒を見た瞬間、リィンの表情は強張り、青ざめた。

 何か叫んでいるようだが、やはりうまく聞きとれない。

「え……おい!?」

 そして彼は、川に落ちた。自分から飛び込んだようにも見えた。

 実際、落ちた場所からは上がってこず、なぜか対岸まで泳ぎ出している。しかも必死の形相で。

 先のアリサといい、リィンといい、僕が何かしたのか? 身に覚えは全くない。

 理解に苦しむが、別に溺れているわけでもなさそうだ。手は貸さなくても大丈夫だろう。事情はまた今度聞くとして。

「ん? あ……!」

 リィンの行方を目で追っていたら、視界の端で小さな影が動いた。

 さっきまで彼が釣りをしていた場所の木の陰だ。あの茶色の毛並み、間違いなくルビィだ。

「ルビィ、僕のナイトを返せ!」

 ルビィに駆け寄りながら叫ぶ。その口にくわえていたのは間違いなくチェスの駒――白のナイトだった。

「いい子だ。そのまま動くんじゃないぞ」

 ルビィはとにかく足が速い。ここからは慎重に、と思った矢先。一吠えすると、伸ばした僕の手を素早くかわして、脇を走り抜けてしまった。

「しまった!」

 ここまで来て逃がすものか。

 追いつけないのは目に見えているが、走らないわけにはいかない。右に左に逃げるルビィを僕はひたすら追いかける。

 道を戻って、再び中央広場。

 ルビィがベンチの下をくぐり抜ければ、僕は植木を突っ切ってショートカット。

 さらに《キルシェ》のオープンテラスの丸机を挟んで、互いにグルグルといたちごっこを繰り返す。

 果てはガーデニングショップにむかって疾走するルビィ。こちらも全力で追うが、あいつは店先のジェーンさんの前で直角カーブ。

 危うくジェーンさんの胸に特攻ダイブするところだった。とっさにジェーンさんは魔獣みたいな食虫植物を突き出してガードしていたが、そのまま止まれなかったら僕はどうなっていたんだ。そもそも、なんでそんなものが店にあるんだ。

「はあっはあっ! くそ!」

 見失った。それでも学院の方へ行ったまでは確認できたから、追いかけることはできるが……

 ルビィの目的は一体何なんだ?

 

 

 ――15:00

 学院に行く前に一応ここも見ていくか。ルビィの行動範囲は予測できない。

「扉は普段から閉まっているし、さすがに礼拝堂の中には入っていないと思うが」

 中から誰か出てきた。その人物を見て、僕は今日一番の困惑をする。

「って君は何をしてるんだ!?」

 ユーシス・アルバレア。礼拝という柄ではなさそうだが。

 しかし大勢の子供達にしがみつかれているのはなぜだ。後ろにはフィーとミリアムの姿も見える。というかフィー、ジェーンさんとの約束忘れてるだろう。

 ユーシスも僕に気付いていたようで、露骨に嫌な表情を浮かべていた。

 出会って一秒で不快にさせてくれるよな。目がもう語っている。何も聞くな。早く行け、と。

 腹は立つが、こっちも急ぎだ。口論など時間がもったいない。

「今は君に関わっている場合じゃない。ルビィを見なかったか?」

「どうした? 大方何か取られたんだろう? お前は色々なところが抜けているからな」

 なんと嫌味な。しかも的を射てるので、とっさに言い返せない。

「な、何だと!? いや、今はいい……くそっ、覚えておくといい」

 自分でも気の利かない捨てセリフを吐いてしまった。

 ここはもういい。早く学院に向かおう。

 礼拝堂を過ぎると、学院の正門はすぐだ。

 門に向かって伸びる最後の坂を、肩で息をしながらひた走る。半分くらい進んだところで、坂を降りてくる人影が見えた。あれはエマ君だ。

「あら、マキアスさん。ずいぶんお疲れの様子で……」

「ああ、実は色々あって――ってエマ君!?」

 いやいや。どう見ても彼女の方が疲れている。もはや憔悴と言ってもいいだろう。立っているのが精一杯じゃないか。何がどうなったら、休日の午後にここまでの事態になるのだろうか。

 魔道杖を老婆が使うそれのように地面に突き立て、うふふと力なく笑っている。もう目が死んでいた。

「お気づかいなく……ところでフィーちゃん見ませんでした?」

「あ、ああ。さっき礼拝堂で見たが?」

 彼女の眼鏡がギラリと光る。

「ああ、なるほど。盲点でした。うふふ、今行きますよ~」

 よく分からないが、フィー逃げた方がいい。もしかして逃げた末にあそこにいたのかもしれないが。

「あ、エマ君、僕も一つ。ルビィを見なかったか?」

「ルビィちゃん? 見ましたよ。さっき何かくわえて走って行きました。本校舎の裏手に回ってたので、中庭辺りでしょうか?」

「そうか! ありがとう!」

 相変わらずふらつく彼女は気にかかりつつも、エマ君と分かれた僕は、正門に向かう足を早めたのだった。

 

 

 ――15:30

「うわあああ!」

「ぐおおおお!」

 耳をつんざくような悲鳴が鼓膜を震わした。今日は一体どういう日だ。

 正門をくぐった僕の目の前を、エリオットとガイウスが絶叫しながら走り去っていく。ロープで腰にくくられた導力車のタイヤを引きずりながら。

 さらに二人は馬に追い駆けられているではないか。騎乗している女子は馬術部の一年、ポーラだ。同じ馬術部のユーシスとの小競り合いを見たことがあるのでよく覚えている。

 そのポーラが手にしているのは乗馬用の鞭ではなく、いわゆる女王様がお使いになられるような、漆黒で長くしなるムチだ。

 ピシィ! パシィ! と乾いた音を立てて地面を叩き、口汚いセリフを揚々と発しながら、ポーラ様は片口の端を吊り上げた素敵な笑みを浮かべ、僕の親愛なる友人達を情け容赦なく追い立て回す。

 だめだ。理解力が限界突破してしまっている。

 手に持っていることさえ忘れていた苗木の筒を落としかけた時、もう一頭の馬の足音が響き、固まっていた僕の思考は動き出した。

「さすがポーラだ。任せてよかった。……うん、そこにいるのはマキアスか?」

 やってきた馬に乗っていたのはラウラと、彼女と同じ水泳部のモニカだ。二人ともなぜかジャージを着用している。

 それ、学院の指定ジャージか? 見たことがないぞ。

 馬上から僕を見下ろして、ラウラは言った。

「ふむ、よかったらそなたも走るか?」

 開口一番がそれか。もっと他に言うことないのか。

 事情を聞く気にもなれず、遠くから聞こえ続ける二人の叫び声を背後に、僕は無言で首を横に振った。

「そうか、残念だ。まあ、気が変わったら声をかけるがいい。――ハイヤッ!」

 ラウラの掛け声で、馬は再びエリオット達を追走した。朝に二人が浮かない顔で寮を出て行ったのは、これが原因なのだろうか?

 何にせよ、早くこの場から離れなければ。巻き添えを食らうのはごめんだ。

 

 

 ――15:50

 ようやく裏庭まで来れた。途中一周してきたエリオットとガイウスとすれ違ったが、僕は彼らにかける言葉を持たなかった。

「ん、あれは、サラ教官と……ハインリッヒ教頭?」

 中庭の前の道で口論している。しばらくするとハインリッヒ教頭はふんと鼻を鳴らして、どこかに行ってしまった。

 その背中に向かって、サラ教官は「いーっ!」と自分の頬を引っ張り、精一杯の反撃をしている。恥ずかしいからやめて下さい。

「あの教頭覚えてなさいよー。勝つのは絶対Ⅶ組なんだから!」

 よくわからないが、一つだけ言えることがある。知らない内に僕らは何かに巻き込まれたようだ。

「……あの、サラ教官」

 声をかけると、教官は「あ、あら、マキアスどうしたの?」と焦りながら振り返る。

「ハインリッヒ教頭どうかしたんですか? 何か言い合っていたみたいでしたが」

「あー、君たちには関係ないことよ? 安心なさい」

 嘘だ。勝つのはⅦ組うんぬん言ってたくせに。

「はあ、まあそういうことにしておきます。ところでルビィ見てませんか――ってああ!?」

 僕は思わず声を上げた。サラ教官の手に握られているのはナイトの駒だったからだ。

「何よ、大きな声出して? ああ、これ。さっきルビィが私のところに持ってきたんだけど、あなたのだったのね。ルビィったらどういうつもりだったのかしら」

 サラ教官から駒を受け取った僕は、それを陽光にかざしてみる。

 ずっと使い続けて、刻み込まれた細かな傷痕。汚れた表面。これなのだ。僕が駒の代替えをしない理由。

 ずっとキングを守って戦ってきた証。仲間と共に。

 想いが連なって意味を成している物は、簡単に挿げ替えることはできないのだ。それは物であっても、人であっても。

「良かった、本当に」

「ふふ、まあ大事にしなさい。」

 結局ルビィの行動は謎のままだったが、心底安堵する僕の様子を見て、サラ教官はにこりと笑ってくれたのだった。

 

 

 ――16:00

 目的は達したが、もう一つやることがあった。

 ジェーンさんから預かった苗木を届けなければ。といっても園芸部の活動場所である花壇と、中庭は目鼻の距離だ。

 すでにエーデル先輩のトレードマーク、麦わら帽が草花の間に見え隠れしている。

「あの……エーデル先輩」

「あら? 確かフィーちゃんのお友達の」

 穏やかな口調で僕に振り向くエーデル先輩。さすがに名前までは出てこないか。

「Ⅶ組のマキアスです。ジェーンさんから頼まれて苗木を持ってきました。フィーの役目だったらしいですが」

 今頃はエマ君に捕まっているだろう。無事ならいいが。思いながらも、黒い筒ごと苗木を先輩に渡した。

「ありがとう。フィーちゃん遅いなあ」

 ずいぶんのんびりした部活だ。

 花壇の奥にまだ二人、女子生徒がいる。じゃれあいながら作業しているようで微笑ましいが――同じ顔!?

「あ、ああ。あの二人か」

 一年の双子コンビ、リンデとヴィヴィだ。

 園芸部なのはどっちか一人だったと思うが、また何かやっているのか。

 用を終えた僕はその場を後にする。

 今日はずいぶん走りまわった。そろそろ帰ろうか。

「マキアス君!」

 勢いよく名前を呼ばれ、足を止める。

「お疲れ様です、ステファン部長。せっかくの自由行動日にどうしたんですか?」

 第二チェス部の部長、ステファン先輩だ。

 チェスへの情熱は見事なもので、僕とコアなチェストークができるのはこの人くらいなものだ。

 聞けば今日は空いた時間を使って部室の清掃をしてくれていたらしい。さすがというか、声をかけてくれたら僕だって手伝うのに。

「ところでマキアス君、時間は空いているかい。よかったら一戦お相手できないかな?」

「もちろん。僕もちょうど用事が終わったところです」

 一人でやるチェスも好きだが、やはり誰かと対局してこそ。

 眼鏡をくいと押し上げ、部室のある学生会館へと歩を向けた。その手にようやく取り戻した白いナイトを、しっかりと握りしめて。

 色々振り回された一日だったが、結局のところ僕の一日は、チェスに始まりチェスに終わるらしい。

 

 

 ~FIN~

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。
一日シリーズ、二回目はマキアスでした。ルビィの日常を垣間見ながら、取られたチェスの駒を取り返すだけの話なんですが、彼の話だけ少し他のⅦ組メンバーの一日と異なっています。チェスの駒を取り返す過程で彼は色んな人と出会いました。そのほとんどの行動はまだ意味がわからないものですが、これから他のメンバーの日常の中で徐々に経緯が明らかになってきます。一体誰が事の発端だったのでしょうか。
そんなことも考えながら続くメンバーの話をお楽しみ頂ければ幸いです。
それでは次回の『そんなⅦ組の一日』は、男子が続いたので女子の誰かです。
ご感想お待ちしております!


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そんなⅦ組の一日 ~ラウラ

9月12日(自由行動日) 10:00 ラウラ・S・アルゼイド

 

 読み終えた本をぱたりと閉じて、机の上に置く。

 残った紅茶に口をつけるが、もう完全に冷めてしまっていた。ふと時計に目をやると時刻は十時を過ぎた所だ。本を読み始めたのが九時前だったから、気付けば一時間以上経っている。それは紅茶も冷めるわけだ。

「ふう……」

 椅子に腰かけたまま、少し背を伸ばしてみる。ずっと同じ姿勢だったので、体が固まってしまっていた。

 朝食を終えて自室に戻った私は、委員長から借りた本をずっと読んでいた。

 普段はこの時間を素振りなどの鍛錬に充てることが多いのだが、今日は読書に興じることにしたのだ。

 武門の家に生まれ、剣と共に成長してきたが、文と武は両道だと心得ている。知なくして理を備えた剣など振るえるはずもない。

 とはいえ借りた本は堅苦しいものではなく、娯楽小説の一種だ。

 肝心の内容だが――うん。面白かった。

 運動部に所属している男子二名が主人公。挫折と努力、喧嘩と和解を繰り返し、試合で勝ち進んでいく様は、不覚にも気分が高揚してしまった。

 やはり帝国男子の青春はこうあるべきなのだ。一つのことを皆で乗り越え、友情が芽生える。理想的だ。

「さて、ティーカップを返しに行くか。本は……後日でもよかろう。委員長も今日は出かけているようだしな」

 時間があれば、もう一度読み返そうと思う。たまには読書も良いものだ。

 ちなみに紅茶はシャロン殿が淹れてくれた。さすがの風味だったが、温かい内に飲み損ねてしまったことが悔やまれる。

「ん? この音色は……」

 三階の自室から階段を下り、二階に差し掛かった所で柔らかなバイオリンの旋律が聞こえてきた。考えるまでもなくエリオットであろう。休日は自室でよくバイオリンを奏でている。

「ふむ……」

 先の小説を読んだからだろうか。思う所もあったので、そのままエリオットの部屋の前まで足を進めてみた。

 暑さも続いているし、換気の為かドアは開いている。やはり楽譜を見ながら彼はバイオリンを手にしていた。

 ふと向かい奥の部屋に目がいく。そこも同じようにドアが開いていた。あの部屋はガイウスか。少し覗いてみれば、ガイウスは立てかけたキャンバスに向かい、何か考え込んでいた。

 エリオットは吹奏楽部で、ガイウスは美術部なので当たり前と言えば当たり前、なのだが。

 小説のワンシーンを思い出す。泥にまみれながらグラウンドを走り、仲間と成長していく姿を。

 他人の趣味をとやかく言うつもりはないし、各々有意義に時間を過ごしていると思う。

 しかし、今は、今だけは。どうしても気持ちがたぎってしまうのだ。

「そうだ。いいことを思いついたぞ」

 このラウラ、今日は冴えている。

 思いついたが、すぐ実行だ。ティーカップを厨房に戻した後、私は改めて二人の部屋を訪れた。 

 

 

 ――11:00

「ではありがたくお借りしていきます」

「どうせ廃棄する予定だったし、何なら壊れても構わないからね」

 身支度を整え寮を出た私は、その足で技術棟のジョルジュ先輩を訪ねていた。

 もちろん午後の準備である。自由行動日でも先輩がここにいてくれたのはありがたかった。おかげで色々役立ちそうなものが手に入ったのだ。

 あの後、エリオットとガイウスには昼過ぎに学院に来るよう伝えたのだが、彼らの自由時間を使うことにもなるので、万全の準備をして、互いに有意義な午後となるよう努めなくてはならない。

「ところで、具体的には何に使うんだい?」

「それは成果が出てから報告するとしましょう」

 ジョルジュ先輩には、こんな機能のものが欲しいと曖昧にしか伝えていなかったのだが、それでも納得いく物を取りそろえてくれた辺り、さすがという他あるまい。

 しかし抱えて持ち運べるような量ではなかったので、ちょっとした台車もお借りし、技術棟を後にする。

 心が躍る。二人が来るのが待ち遠しい。

 

 

 ――11:30

 物はそろった。あとはそうだ、マネージャーだ。小説では、彼らを心身ともに支えるマネージャーが必要不可欠な存在だった。

 技術棟を出たところで、目の前をモニカが通りかかる。

 素晴らしいタイミングではないか。これぞ女神の天啓。そなたはマネージャーになる為にここを通ったのだ。

「あ、ラウラ」

「いいところに来てくれた。そなた今日はマネージャーになるがいい」

「は、ええ? いきなり言ってることがわからないんだけど……」

「マネージャーを知らないのか?」

「それは知ってるけど」

 モニカは明らかに戸惑っている様子だが、とりあえず事情を説明する。彼女はぶんぶんと首を横に振った。

「わ、私マネージャーとかやったことないよ」

「大丈夫だ。そなたはマネージャーに向いている。むしろ今までの人生は今日の為にあったと思うといい」

「私の人生って何なの……」

 モニカもひとまずは承諾してくれた。持つべきものは親友だ。

 一旦モニカとは分かれて、グラウンドに向かう。グラウンドも使いたいので、他の部活が使用していないかの確認だ。

「ラクロス部は……いないな。馬術部は――」

 馬術部が活動している様子はない。

 そういえばユーシスも外出の準備をしていたから、今日は休みなのだろう。そう思ったが、馬舎の方に誰かいる。念のため確認しておくか。

 グラウンドまで下り、馬舎へと向かう。

「すまない、聞きたいことがあるのだが」

「なに?」

 振り返った女子生徒は、同じ一年のポーラだった。髪をポニーテールでくくり、物怖じしない瞳が印象的だ。馬術部だからポニーテールなのかは分からないが。

 そういえばユーシス相手にも強気な物言いをすると聞く。あまり話したことはないが、多分好きなタイプの性格だ。

「今日は馬術部は休みなのか?」

「そうよ。と言っても馬の世話は毎日やるけどね。今日の当番は私なの」

 なるほど。それはそうだ。しかし、淡々と話す物言いはますます気に言った。フィーといい、愛想がなくても、私は裏表なく話す人を好む気質らしい。

「もう終わったから帰るけど。用事はそれだけ?」

 用事ならできたぞ。たった今。

「そなた、今日マネージャーをやってみないか?」

「マネージャー?」

 さっそく勧誘だ。モニカと同じような反応をするポーラだったが、同じく事情を説明すると、思いの外乗り気になってくれた。

 うん、ポーラとは友人になれそうだ。

 そろそろエリオット達が来る頃。快諾してくれたポーラを連れ、私はギムナジウムに向かった。

 

 

 ――12:00

 ギムナジウム、プールサイド。

 自主練習をしていたクレイン部長にプールの使用許可を頂いた。

 練習中だったので断られるかとも思っていたのだが、今日の部長はすこぶる機嫌がよく、一も二もなく了承してくれた。何か良いことがあったのだろうか、あるいはこれからあるのかもしれないが。

 部長がその場を離れた時、ようやく二人がやってきた。すでに彼らには水着に着替えてもらっている。

 困惑している様子のエリオットが口を開いた。

「あの……ラウラ。僕らあまり主旨を聞かされずにやってきたんだけど」

「説明しよう。まずは二人とも、休日にも関わらず誘いに応じてくれて感謝する」

 二人は顔を見合わせ、「それは構わないが」とガイウスが首を傾げる。やはり見当もついていないようだ。こほんと咳払いしてから続ける。

「今日は半日かけて、そなたらの心身を鍛えようと思う」

「ええ? な、なんで」

 いい反応だ、エリオット。

「気が緩んでいると言っているわけではない。普段から厳しい学院のカリキュラムをこなしているわけだしな。しかし――」 

「しかし?」

「帝国男子たるもの常在戦場の心構えを持つべし。ナイトハルト教官もそう仰っていたであろう。そなたら有事の際にはキャンバスを盾に、バイオリンを鈍器にして敵と戦う覚悟があるのか?」

 ガイウスは目を丸くして「キャンバスを盾に……!?」と戦慄し、エリオットに至っては想像しただけで「ひいいいい」と今にも気絶しそうになっている。

「特にエリオット。そなた夜の学院調査の時、あとは先日の調理室の一件の時にも気絶しているな?」

「学院調査はともかく……料理の時は僕のせいじゃ」

「言い訳などきかぬ」

「ええ~……」

「とにかく、そなたらの心身が向上すれば、Ⅶ組としての戦力も強化されるのだ。異論はあるか?」

 押し黙る二人だったが、間もなくして『ありません』と声をそろえた。

「しかしラウラ。具体的に俺達は何をすればいい?」

「そなた達には私の用意した特別カリキュラムをこなしてもらう。全てが終わった時には別人になっているかもしれんぞ?」

「それは……不安だな」

 露骨にうんざりした顔を浮かべおって。まあいい、じきにそんな表情もできなくなるのだ。

「あと一つ聞きたいのだが、後ろの二人と、それとお前達の格好はなんだ?」

 二つではないか。まあいいか。

「後ろの二人は今日そなたらのサポートをするマネージャー役の二人、モニカとポーラだ。顔ぐらいは知っているな」

 軽く紹介すると二人は「モニカです、宜しく」、「ポーラよ。私は甘やかしたりしないんだから」と二者二様に挨拶した。

「それで、もう一つの質問だが、このジャージのことだな?」

「ああ、学院指定の物ではなさそうだが」

 制服カラーと合わせ、私は赤、ポーラとモニカは緑のジャージをそれぞれ着てもらっている。

「制服では色々支障があるのでな。今日の為に用意させてもらった」

 そう言いはしたが、実際は少し違う。

 さすがに全員分の運動着など持っていなかったので、何か代わりになるものはないかと水泳部の女子更衣室に入ったのだが、私のロッカーの中で小箱に入ったこのジャージを見つけたのだ。

 ついでに小箱の上には見覚えのある達筆で「こんなこともあろうかと」と書かれた張り紙が。

 さすが爺やだ。アルゼイド家の執事なだけはある。とりあえず次に帰省した時に、じっくり話を聞く必要がありそうだが。

 ともあれ、ジャージに関してはそういう事情だ。

「よし、質問は以上だな。まずは準備運動だ。50アージュ自由形、十往復!」

 号令と同時に、ポーラとモニカがそれぞれエリオットとガイウスをプールに突き落とす。

 打ち合わせ通り。二人とも立派にマネージャーしているではないか。

 

 

 ――12:50 

「あと三往復! 速度をキープしなさい。底に足をついたら一往復追加だからね」

 二人に合わせてプールサイドを歩きながら、ポーラが笛を吹き鳴らす。見れば随分楽しんでいるようだし、マネージャーを頼んでよかった。

「ひいい……」

「もう少しだ、エリオット」

 意外にも根を上げない。いや、それこそ普段の特別実習の成果が現れているというわけか。

 そろそろ頃合だな。

「モニカ、あれを」

 目でそれを促す。モニカは頷くと、プールサイドの端に向かった。水中に腕を入れ、手さぐりでそれのスイッチを入れる。

 起動。グイングインと音を立てて、小さな波が水面に広がっていく。

 これぞジョルジュ先輩が発明した“導力式大渦発生機(仮)”。

 元々は船に取り付けて速度を上げる追加ユニットだったそうだが、先輩は作り上げたあと自分が船を持っていないことに気付いたらしい。

 最初は小さかった波が、またたく間に回転の速度を上げ、プール全体に凶悪とも呼べる大渦を発生させた。

 さあ、見事この試練に打ち勝ち、泳ぎきってみせるのだ。

「だああああ!?」

「うおおおお!?」

 エリオットとガイウスが叫びながら水中に消えた。

 まるで濁流に落とした一枚の葉のように、浮き沈みを繰り返しながら、渦の回転に飲まれてプール中央に流されていく。

 予想以上の威力だ。感嘆の声を漏らしていると、モニカが私のところに戻ってきた。

「すごいね、これ」

「正直驚いている。まさかこれほどとは」

「うん、出力最大にしてきたから」

 モニカもやるようになったな。さあ二人とも力を振り絞れ。

「ごほっ、ガイウス……! 姉さんと父さんに伝えて、僕は勇敢に戦ったって」

「生きて帰って自分で伝えるんだ! ごふっ」

 すでに今わの際ではないか。最後の言葉を絞り出してどうする。

 ガイウスがエリオットの腕を掴んで一旦底に潜った。ぐんと足を屈伸させて、蹴伸びのように水中で構える。手の先は天井に向いていた。これはまさか。

「カ、カラミティホークッ!!」

 体に風をまとったガイウスは、底を蹴って一気に水中から飛び出した。水しぶきが尾を引き、キラキラと光を反射させながら彼は鳥になる。

 そのまま大渦を越えて、エリオットを抱えたままプールサイドへと着地した。

「はあ、はあ……無事かエリオット!?」

「た、助かった……」

 息荒くその場にへたり込んだ彼らに歩み寄り、私は賛辞を贈る。

「見事な機転だったぞ。凄まじい気迫だ」

「……一応礼を言っておく」

「よし、では残りの三往復、手早く済ましてしまおうか」

 そう言うと、二人は絶望の色を顔に浮かべ、石像のように硬直した。

 何かおかしいことを言っただろうか? 最初に十往復と伝えていたはずだが。そんな時ポーラが「待ってラウラ、それはおかしいわ」と駆け寄ってくる。ん、二人の目に生気が戻った。

「ガイウスはプールの底に足をついたでしょ。だから一往復追加で、四往復よ」

 そうであった。さすがポーラはよく見ている。

 そしてポーラとモニカは、固まる二人を再び大渦の中へと突き落とすのだった。

 

 

 ――13:30

 プールから生還したガイウスとエリオットを連れて、私達は本校舎の中庭に来ていた。

 最大出力で使用し続けていた導力式大渦発生機が、オーバーヒートを起こして停止してしまったので、やむなくの撤退ではあるが。

「ねえ、次は何をするの……僕このあと吹奏楽部の夕練習もあるのに」

「もう渦は勘弁して欲しいのだが」

 ずいぶんこたえたようだ。しかし次の特訓は、先ほどの試練に比べたら少しぬるいかもしれない。順番を変えればよかったか。

「次はこの壁を登るのだ」

 そう言って、本校舎の壁面を見上げた。

「か、かべ!? どうやって登るのさ!?」

「手で、だが?」

 異なことを問う。壁面には所々窪みがあるから、うまくやれば登れるだろう。

 屋上まで登って欲しいところだが、落ちた時のリスクも考えて二階までにしておこう。

「エリオット、分かっているだろう。もう何を言っても無駄だ」

 さすがガイウスは潔い。さっそく壁に手を掛けている。エリオットもしぶしぶだが、ガイウスの隣に続いた。

「なんでこんなことに……」

「今日の風は……冷たい」

 言いながらも何とか壁を登っているではないか。

 ガイウスはともかく、エリオットも中々頑張っている。そういえば最近ナイトハルト教官が男子限定で、山岳戦闘を想定したクライミングの授業を行ったと聞くが、身についているようで何よりだ。

 このままでは何事もなく達成してしまう。せっかくだからもう少し試練があって欲しいのだが。――そうだ。

「ポーラ、あれを」

「もう準備しているわ」

 さすが仕事が早い。

 ポーラは折り畳んであったそれを、てきぱきと展開し二人が登っている壁の真下に設置する。

 その様子に壁の中ほどまで登っていたエリオットが気付いた。

「な、何それ、ベッド?」

「うん。落ちた時用の衝撃吸収と思ってもらっていい。寝心地もいいらしいから、なんならそのまま眠っても構わないぞ」

 ジョルジュ先輩が作った“安眠ベッド(仮)”である。

 何でも冬にベッドから出たくないというクロウからの依頼で作ったらしいが、さすがにそのオーダーには頭を悩ませたらしく、とりあえず保温効果や肌触りを極力残したまま、布団をとりもちにしてみたらしい。問題は一つ。

「ただし、布団は二度と離れない」

「ただの永眠じゃないかあ!」

 クロウも同じことを言って、ジョルジュ先輩にベッドを突き返したとのことだ。

「エリオット!」

 先に二階の窓までたどり着いたガイウスが、エリオットに手を差し伸べる。どうやらそのまま引き上げるつもりらしい。今日はそのような協力を全般的に認めている。やはりチームプレイこそが青春だ。

 しかしエリオットがその手を掴んだ時、ここで私にも予想外のことが起きた。

「ん?」

 ガイウスが窓から中を、つまり二階廊下を見たが、彼はわずかに目を細めた。

 手をかけている窓に光が映った次の瞬間、ガラスが破裂して砕け散る。刹那、光の剣のようなものが見えたが、すぐにそれは霧散する粒子と化して、視界から消え失せた。

 事の次第は一旦思考から外すとして、このままではガイウスはもちろん、手を繋いだままのエリオットも永眠ベッドの餌食に――いや安眠ベッドか、一応は。

 ガイウスは体勢を大きく崩しながらも、中空で上体を反転させる。地面とほぼ平行になりながらも足を壁面に付けた。そして、

「カッ、カラミティホオアアアクッ!!」

 いつもより三倍増しの気合いと掛け声。

 力強く壁を蹴り出し、とりもちに触れる寸前で、風を轟かせながら彼は舞い飛んだ。

 突風の如く滑空した二人はそのままの勢いで、向かいの花壇に頭からずんと突っ込む。プランターにきれいな顔型が二つできた。

「な、なんだね? 今の音は!?」

 誰かの足音が近づいてくる。まずい、さっきの声はハインリッヒ教頭だ。窓ガラスを割ったのは我々ではないが、疑われると言い逃れできない状況だ。

「ポーラ、モニカ、撤退する!」

「ラウラ、あの死神ベッドどうしよう!?」

 モニカ、安眠ベッドだ。ネーミングがどんどん禍々しくなっていく。

「片づける時間はない。ひとまず置いていくしかあるまい。そなた達も早く立って走るのだ!」

 のそのそと起き上がるガイウスとエリオットを急かし、私達は中庭を後にした。

 

 

 ――14:10

「ふう、とりあえず大丈夫だろう」

 走った結果、グラウンドまで来てしまったが問題はない。そもそもこの後は、どの道グラウンドを使う予定だったのだ。

 肝心の男子達は地面に膝を突き、肩で息をしている。

「そなた達、ずいぶん疲れているようだな。すこし休憩しようか。モニカあれを持って来てくれ」

 こうなることはある程度予測していたので、事前に作ってきたのだ。この(くだり)もあの小説に書いてあった。

 これをマネージャーから渡されて、主人公が辛い特訓を耐え抜く描写がある。

 余談だが主人公はそのマネージャーと恋仲になる。その話の展開に赤面こそしたものの、ページをめくる手が止まらなかったことは、まあ……委員長にも秘密にしておくつもりだが。

 モニカがタッパーを持ってきた。

「では、それを二人に。差し入れというやつだ。たまには息抜きもなくてはな」

 タッパーのふたを開け、中の物を二人に差し出した。

 なかなか手をつけない。遠慮など男子らしくないぞ。

「せっかくラウラが作ったんだから食べて。……食べなさい」

 今、モニカが最後に小声で何か言ったような。命令口調だった気がするが、あのモニカに限って、まさかそれはないだろう。

 ようやく二人はタッパーの中に手を入れた。手が震えているし、一体何を躊躇しているのか。

 ただのレモンのはちみつ漬けなのに。

 

 

 ――14:20

「休憩も済んだし、さあ再開しよう。というか休憩前より疲れていないか?」

「そ、そんなことない、よ」

「甘い……苦い……」

 まったくこの者たちは。今日はこのような場を設けて正解だった。

「さっそく始めよう。そなた達、そこに立つのだ」

 続いてある物を持たせたモニカとポーラを、直立した二人の背後に向かわせる。

「では二人とも装着してくれ」

 ジョルジュ先輩の発明品が、その姿を現した。

「え? え? なに?」

「こ、これはなんだ?」

 バチン! バチン! バチン! 鉄の留め金が激しい音を響かせながら、彼らの体にそれらが固定されていく。間もなく装着終了だ。

「いだだだ! なっ、なにこれ!?」

「ぐうう、体が……」

 二人に付けたのは一見すると、装備品などでも時折見かけるプロテクター。

 しかしその実、裏側には多種多様な特殊スプリングが施されており、あらゆる体の機能を制限してくれるのだ。

 バネに逆らって行動することで、負荷が掛かり、筋力増強を促進する仕組みらしい。

 機能的な面に文句をつけるところなどないが、一つ問題があるとすれば、

「いだだだだ! ひーっ!」

「これは、まずい……」

 死ぬほど痛いとのことだ。

 以前眠っているクロウに試した所、一秒で跳ね起きて、状況もわからないまま三秒後には涙を滲ませて許しを乞うたらしい。ジョルジュ先輩はちょくちょくクロウを実験台にしているそうだ。

 その時よりはバネを緩めているみたいだが、二人の痛がり方を見るに、それでも相当なものだ。

 これには興味があって少し迷ったのだが、先に自分で試さなくてよかった。

「は、早く何かやるなら済ませてよ! 体がおかしくなる!」

「ど、同感だ」

「まあ慌てるでない。今回は体を鍛えたいわけではないのだ。最初に言ったであろう。心身を鍛えると。これまでは“身”、今からは“心”だ」

 つまり精神を鍛えるのだ。

「ではモニカ、ポーラ頼む」

 私の合図で二人がセッティングに取り掛かってくれる。

 ガイウスには椅子とキャンバス、そしてペンと絵具を。エリオットにはバイオリンと適当な楽譜を。それぞれ美術室と音楽室から拝借してきたものだ。

「ふふ、さあそなた達の好きな音楽と絵画だ。存分に堪能するといい」

「こ、こんな状態で演奏できるわけないよ、いだだ」

「筆すら持てないんだが……うっ」

 それでも二人は自分の持ち場に向かう。ガイウスは油の切れたブリキ人形のように、角ばった動きでキャンバスの前に座り、エリオットは機能不全を起こした機械人形のように、ぎこちなくバイオリンを手にした。

 モニカはガイウスに、ポーラはエリオットの横にそれぞれ控える。

 かろうじて二人は演奏と下書きを始めた。ここからはポーラとモニカの出番だ。

 まずはモニカから動いた。

 彼女は風景を描くガイウスの下書きを覗きこんで「へー、ドローメ系の魔獣?」とキャンバスを指さす。ガイウスは「な、なんだと?」と思わずペンを落としかけていた。

 プライドを揺さぶるのは申し訳ないとは思うが二人の為なのだ。どうか甘んじて受け入れて欲しい。

 特にエリオットには精神の強化が必須なのだから。モニカとポーラには心に思っていなくとも、彼らのメンタルを責めてくれと伝えている。

 モニカは柄にもないのだろうが、頑張ってくれているようだ。一方のポーラはどうだろう?

「ええ? 今の演奏!? 錆びたのこぎりでピアノ線を擦り切る音かと思っちゃったわ」 

 なんと流調に言葉を紡ぐのだ。

「もう! こんな旋律、もはや戦慄よ。なんか鼓膜を通り越して、すでに胃腸に悪いんですけど」

 心には思っていない……はずだな? 妙に目が輝いているが。

 エリオットからは悲しみの表情すらなくなり、無心でバイオリンの弦を右に左に撫でているだけだ。

 いかん、ポーラが想像以上だ。

「う、うむ。そろそろ――」

 その時、轟音が学院全体に響き渡った。続いて地面に激震が走り、衝撃がグラウンドまで伝わってきた。

 音は上からだ。視線を持ち上げると、屋上が光に包まれている。

 程なくして閃光は収まり、静寂が戻ってくる。何かあったのだろうか。

 まあ、とにかく二人を解放するか。いや――

「――にも関わらずイシゲェロの鳴き声以下の不協和音をよくも――」

 先の異常にも動じず、エリオットを罵り続けているポーラを止める方が先だ。

 

 

 ――15:00

「よくぞここまで耐え抜いた。次が最後の試練だ」

 エリオットもガイウスも無言かつ無表情だ。

 先ほどの精神鍛錬がよほどきつかったようだ。エリオットなど意識消失寸前で、小刻みに頭が揺れている。

「……早く終わらそう」

「うん……」

 二人はぼそぼそと何か話している。会話をする元気ぐらいは戻ってきたか。

「では次は走り込みだ。基本中の基本だが、ゆえにおろそかには出来まい」

「そ、それならなんとか」

「ああ、授業でもさせられているからな――」

 バチン。ガイウスの話の途中で、ポーラとモニカは二人の腰に専用ベルトを巻きつけ、留め金をロックした。もう私の合図も無しにだ。彼女達もマネージャーとして申し分ない成長を遂げてくれたようで、嬉しく思う。

 そして腰のベルトから後ろに伸びた特性チューブの先には、導力車のタイヤを括りつけてある。

 私が小説で最も感動を覚えたシーンだ。さらなる力を欲する主人公は、自らの肉体をいじめ抜き、あえて苦難の道を征く。

「じゃあラウラ、あたしは準備してくるからね」

「任せた」

 予定通り馬舎へ向かうポーラの背中を見送っていたが、ふと視線を巡らしてみて気付いた。

「あれは……?」

 グラウンド入口の坂の上に立って、委員長がこちらを見ている。その背後に誰かいるようだが、顔はよく見えない。どうやら学生ではないようだが。

「ラウラ、連れてきたわよ」

 馬を二頭率いたポーラが戻ってきた。

「この子は私の馬、その白い子はいつもユーシスが乗っている馬よ。さすがに部長のマッハ号は借りれないからね」

「俺たちは何をさせられるんだ?」

 ガイウスとエリオットが後じさる。そういえば細かい内容までは話していなかったか。

「今日の総仕上げだ。そなたらにはそのタイヤを引いて、学院を一周してもらう。その後ろから私達は馬で追走する。今回は心身を同時に鍛えるので、教官役はポーラに一任しようと思う」

「任せといて」

 ポーラは手にしていた鞭のたるみを両手で引き、ビンッと鈍い音を響かせる。男子達の背筋が伸び、表情が強張っていく。ポーラには指導者の才覚があるのだな。少しうらやましい。

「そういえば、乗馬で使う鞭とは形状や長さが異なっているようだが」

「女王様仕様よ」

 ポーラは事もなげに言い放った。

 よく分からないが、例えばリベールのアリシア女王も愛用しているということだろうか。それならそれで格式高い鞭ということだな。ちなみに鞭ではなくムチらしい。

 さっそくポーラは自分の馬に騎乗し、私とモニカはユーシスの白い馬に乗った。

 乗馬経験のないモニカは落馬しないように前、私がそれを支える形で後ろに位置取る。初めての馬の背だからか、モニカは緊張しているようだ。

 男子達もスタート位置につく。コースはグラウンド入口から正門側へ進み、学生会館、中庭前の道を通って元の場所に戻る、一周のみだ。

「エリオット……俺たちは絶対に生きて、もう一度筆と楽器を手にするんだ」

「……僕もうすでに立ち直れなさそうなんだけど」

 うん、これだ。追い詰められた境遇の中で芽生える友情と連帯感。ジョルジュ先輩にいい報告ができそうだ。

「それでは、位置についてよーい――」

 ピシィッ! 私の合図を遮るように、ポーラは馬上からムチで地面を打ち鳴らした。ポーラは冷ややかな口調で男子達に告げる。

「何のんびり合図なんて待っているの。私が馬に乗った時点でレースは始まっているのよ。さあ――」

 エリオットとガイウスの額から、汗がとめどなく噴き出した。

「死に物狂いで走りなさい。子馬ちゃん達!」 

 再びムチを振り上げると、二人は弾かれたように飛び出した。

「ハイヤッ!」

 間髪入れずに、ポーラは馬を走らせる。今回は私の出番はなさそうだ。

「うわあああ!」

「ぐおおおお!」

 絶叫しながらも二人は正門前を越えた。いい調子だ。

「さすがポーラだ。任せてよかった。……ん、そこにいるのはマキアスか?」

 正門にマキアスが立っていたので近づいていくと、呆然とエリオットとマキアスの特訓を眺めている。そういえば、この男も休日はよく一人でチェスをしていたな。いい機会だ。

「ふむ、よかったらそなたも走るか?」

 マキアスは首を横に振る。なぜ無言なのだ? よく見れば息が荒い。もしやすでに走り込みをした後かもしれん。だとすれば感心なことだ。

「そうか、残念だ。まあ、気が変わったら声をかけるがいい。――ハイヤッ!」

 とりあえずは追いかけねば。見れば随分離れされてしまっていた。

 馬を走らせて、ポーラ達に追いついたのは二人が学生会館前を抜けるところだった。

 縦横無尽に宙を舞うムチが、ひゅんひゅんと空気を裂く音を響かせる。

「ほーら、足がもつれちゃってるわよ。止まったら百叩きだからね。みみず腫れで大陸地図を描いてやるわ」

「た、助けてえ!」

「俺の背中がキャンバスにされる……!」

 ポーラの勢いたるや、尋常ではない。性格すら変わっているような。そんなことを思っていると、ポーラは「いつもいつも……ユーシスのやつ、腹が立つのよ~!」と声を荒げ、ムチの勢いをさらに増した。

 何かとストレスが溜まっていたのだな。しかも身内が迷惑をかけているようで申し訳ない限りだ。

 そのまま中庭に近づき馬を走らせるが、そこで思い出した。モニカも同じことを思ったようで「ラウラ、私達あの死神ベット片づけてない!」と私に振り返る。

 だからモニカ、あのベッドの名前は……なんだったか。しかし確かにそうだ。今どういう状態だろう?

 中庭を通り過ぎる時、確認してみると――うん、まだ残っている。残っていることがいいことなのかはひとまず置いておいて、さらに中庭には二つの人影があった。

 すぐに通り過ぎたから、少ししか見えなかったが、今のはサラ教官とハインリッヒ教頭だ。

 何か口論をしていたらしく、サラ教官はこちらに気付いたが、一方のハインリッヒ教頭は背を向けていた上に、よほど熱弁していたようで馬の足音にも気付いていない。気付かれると厄介なのでこちらとしても助かるが。

 中庭を抜けると間もなくゴールだ。

「うわっ!」

「エリオット!?」

 ポーラのムチに足元を叩かれ、バランスを崩したエリオットが転倒した。ポーラは容赦なく、再びムチを振り上げた。

 ガイウスが駆け戻ってエリオットを起こすが、もう間に合わない。

「うあああ! 生きた大陸地図にされるー!」

「くっ、うおおおお!」

 出るか。本日三度目、限界を越えた――

「キッ、キャラミティィッフォオアアアック!!」

 そんな名前だったか? あんなに甲高いガイウスの声は初めて聞いたぞ。さらにその威力も今までとは桁が違う。

 エリオットを脇に抱えたまま、猛スピードで低空を駆け、残光を残しながらポーラの一撃を瞬時にかいくぐる。砂塵を巻き上げながら輝く鳥は翼を広げ、グラウンドまで一直線に飛び抜けた。

 ムチの先端を手元に戻したポーラは嘆息をつく。乱れた前髪をかき上げてから一言口にした。

「今日のところは私の負けね」

 明日もある……のか?

 

 

 ――16:00

 全てのカリキュラムを終えた。

 ガイウスとエリオットの憔悴ぶりは見てわかるが、我々の達成感は確かなものだ。

 二人の前に立ち、その顔を見てみる。土埃にまみれたガイウスはますます精悍な顔立ちとなり、エリオットは眼光鋭く、口も真一文字に閉ざされていた。これぞあるべき帝国男子の面構えだ。

 二人に問う。

「改めて聞こう。そなたらにとってキャンバスとは、バイオリンとは何か?」

 彼らは静かに口を開く

「キャンバスは……盾」

「バイオリンは……凶器」

 ん? 最初は鈍器と言った気がするが、まあいい。この後用事のないガイウスは寮へ、吹奏楽部があるエリオットは音楽室へ向かって、ふらふらとその場を立ち去っていく。

 その背中に最後の問いを投げかけた。

「ガイウス。そなたは帰ってキャンバスに何を描く。広大で穏やかなノルドの地か?」

「……勇壮で荒々しい海原の絵だ」

 うむ。あとでレグラムの風景資料を渡そう。

「エリオット。そなたはこの後音楽室で何を奏でる。調和を取り持つ協奏曲の調べか?」

「……日常を壊す狂想曲と、無くしたものを悼む葬送曲を」

 うむうむ、うむ? エリオットが何かおかしい気がするが、気のせいであろう。

 試練を乗り越えた男子達を見送った後、私は今日一日尽力してくれたモニカとポーラに向き直り、礼を述べた。

「あはは、楽しかったし私はいいよ。ちょっとやりすぎた気もするけど」

 モニカはそう言って鼻先をかいている。ポーラも「まあ、退屈しのぎと……ストレス発散にはなったわね」とうなずいていた。

 よかった。ああ、そうだ。

 一つ言っておきたいことがあったのだ。

「……ポーラ。そなた私の友人になってくれぬか?」

「何言ってるの。もうなってるでしょ」

 彼女は即答し、快活に笑ってくれた。

 一息ついた私達は死神ベッドを回収。その後、三人でジョルジュ先輩にお礼を言いに行った。

 それからモニカの提案で、紅茶とケーキを片手に女子三人、食堂で他愛もない話に花を咲かしたのだった。

 小説の通りだ。皆で一つのことを乗り越えると友情が芽生える。

 自己鍛錬も行い、仲間の地力も上げ、そして友人が増えた。

「うん。今日はいい日だ」

 

 

 ~FIN~

 

 




お付き合い頂きありがとうございます。ラウラの気分でガイウスとエリオットがひどい目に合いました。彼女はストレートな分、小説とかに影響受けやすそうな感じですね。
そしてもうポーラ様には逆らえません。ちなみに一日シリーズ、エリオット編とガイウス編ではそのあとの彼らの話がメインになるのですが、加えて彼ら視点での特訓の様子を楽しんで頂ければ幸いです。彼らにはモニカとポーラはどう映っていたのでしょう……エリオット大丈夫?
さて彼らの9月12日はまだまだ続きます。それでは次回の『そんなⅦ組の一日』は……誰にするか決まってませんが、どうぞお楽しみに!


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そんなⅦ組の一日 ~ガイウス

9月12日(自由行動日) 10:00 ガイウス・ウォーゼル

 

 目の前には真っ白なキャンバス。下書きのペンすらまだいれていない。

 いつも風景画ばかりだから、何か違うものを、と思っているのだが。正直さっぱり思い浮かばない。

 普段と違うといっても、あくまで俺らしく。自分の感性と違うものにいきなり挑戦しても、まあ多分描ききれないだろう。もっとも俺らしくというのも、今一つ掴みきれていないが。

「……どうしたものか」

 一人つぶやくも、打開策は見つからない。別に作品として出展するわけじゃなく、美術部の活動の一環なのだから、そこまで悩む必要もないのだが。

 少し町を散歩して気分転換でもしようか。ペンを置き、自室から出ようとした時、部屋の入り口にラウラが立っていることに気付いた。絵を描く時は換気も兼ねて扉を開けている。

「ラウラ。何か用か?」

「少しな。そなた、午後から時間は空いているか?」

 理解した。というより直感に近い。これは厄介事だ。しかし今日は一日予定がない。どうせ気分転換しようと思っていたところだし、まあいいか。

「大丈夫だ。特に用事はない」

「それは何よりだ。では十二時にギムナジウムに来るがよい。あ、水着を忘れないようにな」

 それだけ言うと、ラウラは踵を返して行ってしまった。エリオットの部屋も訪ねているようなので、召集されるのは俺だけではないらしい。

 一体何なんだ?

 

 

 ――11:00

 約束の時間にはまだ早いが、準備を整えて寮を出ることにした。あくまで絵の題材を探したいので、散歩はしておきたかったのだ。

 一階に降りると、ソファーにマキアスが座っていた。チェスを一人で指している

「やあ、ガイウス。出かけるのか?」

 マキアスが先に声を掛けてきた。

「ああ、少し用事ができたのでな」

「気をつけて行ってくるといい。お互い良い休日になるといいな」

 俺もチェスが出来れば、マキアスの暇潰しにくらい付き合えるのかもしれないな。そんなことを思いながら、俺は第三学生寮を出た。

 町を適当にぶらついてみる。

 トリスタの落ちついた雰囲気は好きだ。

 木々の間から吹き抜けてくる風も心地いい。ここに暮らす人たちも皆大らかで気がいい。ノルドを単身離れた時には、それなりに不安もあったのだが、Ⅶ組とみんなと出会って日々を過ごす内に、いつの間にかそんな気持ちはどこかに消えてしまっていた。

「そう簡単に絵の題材など見つからないか……」

 せめてきっかけでもあればいいのだが。

 町中央の公園まで足を運んでみると、見覚えのある女子生徒がベンチに座っていた。

 あの後ろ姿は……Ⅰ組のフェリスといったか。最近アリサとよく一緒にいるのを見かける。

「今来たところですわ、今来たところですわ……」

 何かぶつぶつ言っているようだが、様子がおかしいし一応声を掛けておくか?

「すまない。大丈夫か?」

「今来たところですわ!」

「な、何がだ?」

 突然立ち上がって振り向いたと思ったら、いきなりそんな事を言われた。今来たところなのは俺の方だが。

「あ、あら。あなたⅦ組の留学生の……」

「ガイウスだ。ガイウス・ウォーゼル。驚かしたのなら済まない」

 フェリスはきょろきょろと辺りを見回し、ふうと深く息を吐くと、またベンチに腰を下ろした。

「もしかして誰かと待ち合わせか? アリサならまだ寮にいたと思うが?」

「そ、そんなことわかっていますわ。約束は十二時過ぎですし」

「まだ一時間近くあるぞ?」

 まさかこんなに早く待っているのか? これが噂に聞く“貴族の義務”というやつだろうか。貴族も楽ではないのだな。

「それも分かっていますわ! 用事がないなら早く行って下さいません?」

「ああ、では失礼する」

 ふいとそっぽを向いたフェリスにそれ以上掛ける言葉もなく、俺はその場を離れた。

 その後も色々と店を回ったりしたのだが、どうしても町中を歩くと公園付近を何度も経由することになってしまう。その度にフェリスがにらんでくるので、どうにも視線が気になり、俺は予定より早めに学院に向かうことになってしまった。

 

 

 ――11:30

 学院の正門に入ったところでフィーとすれ違った。

「あ、ガイウス」

「フィー? 自由行動日に珍しいな。どうしたんだ」

「ん、逃亡中」

 また何かやらかしたのだろうか。

「ガイウスはどうしたの?」

「俺はラウラに呼び出されてな。何の用かはまだ聞いてないが」

「ラウラなら、さっき台車にいっぱい色んなもの乗せて走り回ってたよ」

 それは気になる情報だな。嫌な予感がする。どの道今更逃げ出すわけにも行かないが、頭には留めておこう。

「ではフィー、俺はもう行くが気をつけてな」

「了解」

 フィーは早足で学院の坂を下って行った。

 さて招集場所はギムナジウムだったな。俺も気をつけていくとしよう。

 

 

 ――12:00

 ギムナジウム。とりあえず着替える為に男子更衣室に入ると、すでに水着に着替えたエリオットがいた。

 やはりエリオットも呼ばれていたか。しかし俺たち二人だけなのだろうか。

「あ、ガイウスも呼ばれたんだね」

「ということはエリオットもだな」

「……僕たちどうなると思う?」

「先日の調理室の一件も、聞けば元々ラウラの発案だったらしい」

 空気が重くなった。黙っていると悪い方に考えてしまうので、手早く着替えを済ませて俺たちはプールサイドに向かった。

 その途中。

「おお。お前らか、ラウラから聞いてるぞ」

 向かいから歩いてくる水泳部の男子生徒。顔は知っているが、名前はわからない。二年の水泳部の部長だったはずだが。

「クレインだ。ラウラが何か気合い入ってたから、せいぜい頑張れよ」

「いえ、練習場所をお借りするみたいですみません」

「ああ、別に気にすんなよ。あとでやりゃいいんだしな」

 クレイン先輩は上機嫌な様子で更衣室に入って行った。

 俺たちも行くか。視線の先には見慣れないジャージを着た三人の女子が待ち構えている。

 

 

 ――13:30

 ラウラの言うことをまとめると、どうやら俺とエリオットを心身共に鍛え直したいらしい。

 今一つその動機は見えて来なかったが、ここに来てしまった以上付き合うしかあるまい。

 先ほどは準備運動と称して、プールでひたすら泳ぎ続け、なぜか発生した大渦に巻き込まれながらも、俺達は何とか生還できた。

 そして今度は、本校舎の中庭で壁登りを強要されることになった。

「か、かべ!? どうやって登るのさ!?」

 エリオットが問いただすも、ラウラは「手で、だが?」と何事もないかのように答えている。

「エリオット、分かっているだろう……もう何を言っても無駄だ」

 ラウラはⅦ組きっての前衛部隊。彼女に後退の二文字はない。

 手早く済ませるのが一番だ。幸い二階までなら登れなくはない。俺が先に登ってエリオットを引き上げればいいだろう。

「ふんっ」

 小さな窪みに手をかけ、体を持ち上げる。わずかな引っかかりに足をかけて、体重を支えながら慎重に上を目指す。このくらいのクライミングは故郷でも遊びの範囲だ。見ればエリオットも何とか続いてくれているし、今回はどうにかできそうだ。

「ふう、何とか着いたか」

 順調に二階まで登り切り、窓枠に手をかける。俺は反対側の手を下に差し出した。

「エリオット!」

 この距離ならエリオットの手を掴める。

 エリオットの伸ばした腕をしっかりと握った時、不意に窓の外から二階廊下の様子が目に入った。

 誰かが何かを言い合っているみたいだが――

「委員長? それに……」

 遠目でよく見えなかったが、委員長なのは間違いない。あとは手前に誰かいるようだが、――っ!?

 委員長がいきなり魔導杖を振るい、彼女の前面に光陣が現れる。輝く剣をいくつか生成するや、それをいきなりこちらに放ってきた。

「なに!?」

 窓から手は離せない。エリオットも落ちてしまうし、しかもいつの間にか下には怪しげなベッドが設置されている。多分触れてはダメなやつだ。

 わずかな逡巡が判断を遅らせた。光の剣は窓に突き刺さり、剣先自体はかわしたものの、窓ガラスは砕け散り、結局俺たちは壁から落ちることになった。

 そこからは無我夢中でよく覚えていない。気がつけば俺とエリオットは、向かいの花壇に顔面を半分以上めり込ましていた。

 一応助かったとしておこう

 

 

 ――14:20

 朦朧とする意識を引きずって、中庭からグラウンドまで走る羽目になったのだが、一応そこで小休止をもらえた。

 その際、ラウラが用意してくれた、自称“レモンのはちみつ漬け”を完食し、さらに体力を消費してしまうことにはなったのだが。

 そして現在、俺はグラウンドのど真ん中でなぜか絵を描いていた。ちなみにエリオットはバイオリンを奏でている。

 お互い体に激痛を与えてくる謎のプロテクターを装備して、女子にひたすら罵倒されながら。一体これはどういう状況だ。

「へー、ドローメ系の魔獣?」

 モニカが俺の絵を見て、そんなことを言ってくる。木だ、これは。いや確かに木には見えないが。この装備のせいで、まともにペンも握れない。

「モニカ……さっきからどうしたんだ」

 やたらと精神的に攻撃を加えてくる。知る限りでは、そういう性格の女子ではなかったはずだ。

「だってラウラが楽しそうなんだもん」

 モニカは小声でとつぶやいた。そういうことか。何かが間違っている気もするが、ラウラはいい友人を持ったな。

「私もがんばる。そんなの私が日曜学校の時に描いた絵と同じくらいの出来よ。もしかしたら今も同じくらいかもね!」

 何をがんばって言い出すのだ。しかも微妙に失敗している。

 いや、むしろ俺は彼女でよかった。ポーラなど、モニカとは桁違いの勢いでエリオットを責め立てている。こちらが不憫に感じるくらいだ。一体誰にとって有益な時間なのだ。

 終わりが見えない。体が痛い。

 先日、故郷への手紙に、俺はⅦ組の仲間と勉学に励んでいると書いてしまったぞ。

 妙な拘束具をつけてグラウンドの真ん中で、女子に罵られながら魔獣に間違われるような絵を描いてるなどと知ったら、両親はどう思うだろうか。

 そんな意味不明の青空教室は、突如屋上から鳴り響いた轟音によって終わりを迎えた。

 なんの音だったかは知る由もないが、この不毛な時間を断ち切ってくれたことに感謝したい。

 

 

 ――15:00

「エリオット大丈夫か!?」

「僕もう無理だよ……」

 次から次へとよく思いつく。もしやアルゼイド流の門下生は日常的にこのような稽古をしているのだろうか。

 リィンではないが、今日はおそらく厄日というやつだ。

 俺達は今、今日初めて話した女子にムチを鳴らされながら、馬に追いかけられている。走り込みならせめて普通にやって欲しいところだ。

「ほら、もっと早く走りなさいよ!」

 ムチを振り回すポーラはとてもいい笑顔だ。だから余計に恐怖だ。

 追われながらも学生会館前を走りぬけて、ふと気付く。

「なんで、ここの地面だけ焼け焦げたようになっているんだ?」

 地面が黒ずみ、まだ熱を持っている。見たところそう時間も経っていないようだが。しかしそれ以上の思考をポーラは許してくれなかった。容赦ないムチの一撃が足元の地面を弾けさせる。舞い上がる土飛沫が視界を汚していった。

 地面の焦げ跡は不可解ではあったが、とりあえずはこの状況を凌ぐことが先決だ。

 腰に紐で括りつけられたタイヤをひきずりながら、俺とエリオットはただ走る。

「うわあ!」

「エリオット!?」

 しかし中庭を抜け、ゴールまであと少しという所でエリオットが転倒してしまった。どうやら足にきている。すぐには立ち上がらない。

 ポーラが迫る。本当に容赦なしだ。このままではエリオットが、ムチで叩かれまくった挙句、『赤肌のクレイグ』などという不名誉な名を付けられかねん。

「くっ、うおおおお!」

 体の奥から力が湧いてくる。

 先ほどの壁登りと同様、後は無我夢中だ。視界が霞み、激しく揺れる。

 気がつけば俺とエリオットはグラウンドに砂まみれになって横たわっていた。

 

 

 ――16:00

 ようやく俺たちはラウラから解放された。ラウラはまあ、ご満悦の様子だ。

 結局よくわからない内に、ラウラの用意したカリキュラムは終わったらしい。

 もう帰ってもいいとのことなので、早々に引き上げることにした。エリオットはこの後吹奏楽部の練習があると言っていたが大丈夫だろうか。

「ガイウス。そなたは帰ってキャンバスに何を描く。広大で穏やかなノルドの地か?」

 正門に向かう俺に、ラウラが聞いてくる。これは……なんと答えたら正解なのだ。

「……勇壮で荒々しい海原の絵だ」

 一応そう返してみる。正直描く絵のことなど忘れていた。題材をまた考えないといけない。

 とりあえずラウラは納得してくれたようで、俺はそのまま学院から出ることができた。

 改めて振り返ってみても、とんでもない半日だった。

 

 

 ――17:00

「体がまだ痛いな」

 普段から運動不足というわけではないが、それでもずいぶんガタがきている。今日の特別カリキュラムがどれだけハードだったのかを物語っている。

 とにかく、まずは寮に帰りたい。礼拝堂を過ぎ、公園を抜ける。ミヒュトさんの店がある路地に入れば多少のショートカットにはなるが、今は角を曲がるという日常動作でさえも、体が悲鳴をあげるのだ。

 どの道大した距離ではないので、そのまままっすぐ進むことにした。

「ん……あの子たちは?」

 トリスタ駅を曲がれば第三学生寮はすぐなのだが、駅前で二人の子供が、不安げに首を巡らせていることに気付いた。

「どちらも見覚えがないな」

 男の子と女の子。察するに兄妹か。

 トリスタは広い町ではないので、大体見知った顔が多いのだが、この子たちは初めて見る。迷子……とは事情が違うようだが、少し気になったので声をかけてみることにした。

「お前たち、どうした?」

 歩み寄って行くと、少女は「ひっ」と小さな声をあげて、少年――おそらく兄――の背中に隠れた。俺のことが怖いのか。でかいしな。

「驚かして済まない。困っているように見えたのでな」

 腰を屈めて視線をなるべく合わせる。故郷にいた頃は年下の相手が多かったから自然にやっていたものだが、ついうっかりしていた。

 ようやく少し警戒を解いてくれたらしく、男の子が「別に……」と口を開く。

「俺はガイウスという。お前たちは何と言う名前だ?」

「知らない人には名前を教えないんだ」

 俺は名前を言ったのだが。

「ふむ。では質問を変えよう。トリスタに来たのは初めてか?」

 その質問には小さくうなずいてくれた。

「そうか、子供二人で観光ということはなさそうだが、ご両親は一緒じゃないのか?」

 しばらく押し黙っていたが、程なくして「……父ちゃんはいないよ」と言った。

 しまった。事情も知らずに立ち入ったことを聞いてしまった。

「すまない」

「気にしてない」

 一言詫びると、彼は首を横に振る。

 しかし、そうとなると。

「もしかして誰かに会いに来たのか?」

 細かな事情を聞くことは避けたが、多分母親だろう。

 話をする内に少しは打ち解けてくれたようで、質問の全てにではないが、言葉を返してくれるようになった。相変わらず名前だけは教えてくれないが。

 この子たちは、やはり兄妹で誰かに会いに来たらしい。しかし待ち合わせ場所にいく為の地図を無くしてしまって、立ち往生していたのだそうだ。

 手がかりはないし、あまり細かなことを教えてくれないので、今のところ見当もつかないが、俺にはこの子達を放っておくことはできない。

 俺はこう提案した。

「しばらくこの町を案内しよう。広い町ではないし、その内に向こうから見つけてくれるかもしれない」

 

 

 ――17:30

 最初は戸惑っていたようで、特に男の子はすぐには応じてくれなかったが、駅に留まっているよりはマシと判断したのだろう。一応は俺について来てくれている。

「ここがガーデニングショップだ。きれいだろう?」

 男の子はともかく、女の子はほとんど口を聞いてくれない。

 少女だから花で機嫌が良くなるという考えは浅はかだったらしい。人見知りな年頃なのだろうが、そんな妹の手を男の子はしっかりと握っている。

 そういえば故郷の弟妹達は元気だろうか。あいつらも昔はこんな感じだったかな。

「ジェーンさんはこの子たちのこと知りませんか」

「うーん、見ない顔ねえ」

 ふむ。ジェーンさんの隠し子という線は消えたか。あと子供がいそうな女性は……

「ガイウス君。今何を考えたか言ってごらんなさい」

「な、何も考えていないが」

 ジェーンさんは心眼の使い手か? 気をつけねば。

 ここはもういいだろう。雑貨屋とブックストアは行ったし、残るは質屋くらいなものだが、そこは行かないことにした。

 ミヒュトさんに会ったら、この子たちはまた心を閉ざしてしまいそう気がしたからだ。

 あとは――そうだ、喫茶店もまだ行っていなかったな。

 《キルシェ》に歩を向けると、オープンテラスの席に座っている赤い学院服が二つ見えた。

「委員長にフィーか。こんな所で珍しいな」

 二人はテラスの丸机に、向かいあって座っている。机の上に参考書や問題集が開かれているので、委員長がフィーに勉強を教えているといったところだろう。

 二人も俺達に気付いた。

「あら、ガイウスさん」

「ん。勉強中」

 昼前に会ったフィーは委員長から逃げていたのか。

 一方の委員長はずいぶん疲れ切った様子だ。今日の二階廊下での事は気になるが、今は聞くのをやめておいた方が良さそうだ。

「ガイウスさん、その子達は?」

「ああ、実は――」

 経緯をあらかた説明すると、委員長は椅子から立ち上がり、女の子の前にかがんでにっこりとほほ笑んだ。

「あっ……」

 一瞬女の子はびくりとしたようだったが、「お母さんに会いに来たんだ。えらいえらい」と委員長が頭を撫でてやると、安心したようで頬を赤らめてうつむく。フィーも「ん。クッキーあげる」と小包から小さなクッキーを取り出し、女の子に手渡してやった。

 女の子は手にしたクッキーをぱくりと一口頬張ると、途端に目を輝かせて「これ、おいしい」とようやく年相応の笑顔を見せる。

 そんな妹の様子を見て、男の子も気が落ち着いたらしい。

 改めて待ち合わせ場所で何か思い出すことはないか聞いてみる。すると、やっとまともに話をしてくれた。

「この町で一番大きい建物って聞いてるんだけど……」

 それはもう、一つしか思い当たらない。

 

 

 ――18:00

 委員長とフィーと別れた俺は、二人を連れてトールズ士官学院に戻っていた。トリスタで大きな建物というと、まあここだろう。

「うわあ」

 正門をくぐり、そびえ立つ鐘楼塔を仰ぎ見て二人はそんな声を漏らした。

「でかいだろう。授業の始めと終わりに、あの鐘が鳴るんだ」

 大変なのはここからだ。学院の敷地自体相当な広さだ。学院での待ち合わせと言えば、普通どこだ。

 正門……には誰もいない。学院関係者の子供ということなら、応接室辺りに一旦連れて行くか。メアリー教官のお子さん、などと言えばさすがに怒られそうだし。ああ、もしやベアトリクス教官のお孫さんか。ふむ、一番これがしっくりくるな。

「一応聞くが、地図に待ち合わせ場所の目印みたいな物は書いてなかったか?」

「えーと、大きい場所だったと思う」

「……グラウンド、か?」

 学院そのものが大きいのだが、とりあえず言われて連想する場所はそこだ。

 まずは二人をグラウンドまで連れていく。

「さすがにここで待ち合わせとは考えにくいが――」

「わああーっ」

 再び二人が声を揃えた。それは先の鐘楼塔を見上げた時よりも、さらに大きな声だった。

「お馬さんがいるー」

 女の子が馬舎の方を指さした。

「ああ、あれは馬術部の……」

 俺とエリオットを追い回した馬だ。忘れかけていた体の痛みが戻ってくる。まだ馬舎の中に戻っていないのか。

「なんなら少し見に行ってみるか?」

 さすがに興味深々といった様子で、二人は俺についてきた。近づくにつれ予想以上の馬の大きさに、二人とも俺の後ろに隠れてしまったが。

 さらに馬舎には誰かがいた。あのポニーテールはポーラだ。……ムチの乾いた音が幻聴で聞こえてくる。さっきのジャージ服から普段の学院服に着替えていた。

「あら、あなたまだいたの?」

「訳ありでな。戻ってきたんだ」

 雰囲気で察するに、どうやらあのポーラではなく、いつものポーラだ。少し安堵した俺は、事情を話してみることにした。

「なるほどね。でもさすがにグラウンドはないと思うわよ」

「それはそうなんだが、馬に興味があるみたいでな。少し見に来たのだ。というかポーラこそまだ帰ってなかったんだな」

「さっきまでラウラ達とお茶してたのよ。でも今日はこの子達を走らせちゃったからね。慣らしでグラウンド歩かせてあげようと思って」

 走った後のケアは大切だ。ポーラは乗馬経験が浅いと聞くが、よく馬のことを考えている。

 少し思案した素振りを見せたポーラだったが「なんならその子達、馬に乗ってみる?」と俺の後ろの二人に視線を移した。

「構わないのか?」

「ほんとは駄目なんだけど。まあ、私とあなたも一緒に乗るわけだし、グラウンドを歩くだけだから、内緒でね」

「そういうことなら、感謝する」

 ポーラは先に自分の馬に女の子を乗せてから騎乗し、反対に俺は先に騎乗してから男の子を引き上げる。

 初めて乗る馬の背に、二人の緊張は手に取るように感じたが、少し慣れると辺りを見回す余裕が出てきたみたいだ。

「うわ……」

「どうだ。馬に乗ってみる景色は?」

 落ちかけた夕日が一面を赤く照らし、長く伸びた自分達の影がグラウンドに陰影を映す。涼やかな風に葉がざわめきを奏で、虫の鳴き声が澄んだ空気に響いていた。

 ゆっくりと馬はグラウンドを一周する。緩やかに変容していく視界を、この子達はどう感じているのだろうか。

 すでに感嘆の声を漏らすこともなく、男の子はただ黙って赤く染まりゆく景色を眺めていた。

「う、馬に乗せてくれて、ありがとう」

 もうすぐ一周し終えるところで、男の子は少し照れたようにそう言った。

「気にするな。しかしそろそろ待ち合わせ場所を探さないとな……あ」

 今更ながらに思い至った。この子達の探し人が学院の関係者なら、名前を聞けば早いではないか。だが、ここまでを振り返ってみて、この子が素直に教えてくれるかどうか。

 望み薄ながら一応聞いてみると、今度は意外な程すんなり教えてくれた。

「僕の兄ちゃんは――」

 ん……兄ちゃん? 

 

 

 ――18:30

「クレイン兄ちゃん!」

「にいたーん!」

 その姿を見つけると、二人は小さな体を目一杯に広げて、脇目も振らずプールサイドで待つクレイン先輩のところに走って行った。

「おう、よく来たな! 遅かったから心配したぞ。ってプールサイドは走るなよ」

 自分の胸に飛び込んできた弟と妹の頭を、先輩は力強く、そして優しく撫でてやっていた。

「ともかく一安心だ」

「すまない。弟と妹が面倒かけたみたいだな」

 先輩は俺に何回も礼を言ってくれた。

 幸いなことに、男の子の口から出た名前は、偶然にも今日の昼に聞いた名前と同じだった。

 クレイン先輩が上機嫌だったのは、これが理由だったのか。何でも母親からの提案で、弟妹二人だけで会いに来ることになっていたらしい。確かに母親に会いにいくとは一言も言っていなかったな。会話の流れで勝手に勘違いしてしまっていた。

「それでは自分はこれで失礼します。二人とも、よかったな」

 俺はギムナジウムの入り口に歩を向けようとしたが「あ、待って」と二人が駆け寄ってきた。

「どうした?」

「その、今日はありがと。おかげでクレイン兄ちゃんに会えたよ」

「これも風の導きだろう。ただ次からは地図を失くすなよ?」

 妹の引率役としては痛い所だったのか、「気をつけるよ」と少し落ち込んだ様子で目を伏せた。

「あと、その、僕たちまだ……自分の名前を言ってない」

 ああ、そういえば知らない人には教えないと言っていたか。

 二人は顔を見合わせて、互いに小さくうなずくと――

「僕の名前は――」

「あたしのなまえは――」

 どうやら俺は、もう知らない人ではないらしい。

 ようやく教えてもらった名前を改めて呼んでから、俺は二人に別れを告げたのだった。

 

 

 ――19:00

 やっと寮に帰ってこれた。長い一日だった。

「あら、お帰りなさいませ、ガイウス様」

「シャロンさん。ただ今戻りました」

 ラウンジでシャロンさんが出迎えてくれたが、何か二階が騒がしいような。

「リィンの部屋か? 何か騒々しいようだが」

「さあ? どうしたのでしょうか。うふふ」

 不要な詮索はしないでおこう。俺はそのまま自室へと向かった。

 部屋に入ると、出たときと変わらない真っ白なキャンバスが置いたままだ。

 だが構わない。もう題材は決まっているのだから。

 キャンバスの前に座ると、俺は迷いなくペンを手にした。

 俺らしく、というのは未だに分からないのだが、今は描きたいものがある。

「うむ、下書きはできた。次の絵はこれにしよう」

 キャンバスには高原で戯れる四人の兄弟の姿。ほんの少し前までの、自分の日常の風景。

 遠い地に暮らす弟妹達に思いを馳せながら、俺は絵の具を手にしたのだった。

 

 

 ~FIN~

 




またお付き合い頂きありがとうございます。今回はガイウスの一日でした。
前半はラウラとの特別カリキュラムですが、主はラウラサイドなのでやや断片的な視点となっております。
どちらかというと後半がメインの迷子探しという構成でした。
クレイン先輩の弟妹は終章で初登場でしたが(違ってたらすみません)名前がなかったのでこのような形となっています。ガイウスとクレインはしっかりもののお兄ちゃん同士気が合いそうな感じですね。
さて次でようやく折り返しです。次回はⅦ組の一日はエマが主役となりますが、うん、コメディ回です。お楽しみにして頂けたら幸いです。
ご感想もお待ち致しております!


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そんなⅦ組の一日 ~エマ

9月12日(自由行動日) 10:00 エマ・ミルスティン 

 

「これと、これ。あとは……」

 参考書に資料集、できれば挿絵は多い方がいいかな。

 約束の時間は十一時。私は少し早めに図書館に足を運び、使えそうな本を揃えていく。

 今日はフィーちゃんに勉強を教えることになっているのだけど、彼女は単調な教え方や難しい言葉が出てくると眠気に襲われる体質のようで、それなりの工夫が必要不可欠なのだ。

 挿絵、小話、適度な質疑応答と日常会話。全てがバランスよく揃わないと、とても勉強としては成立せず、寝息と揺り起こしの繰り返しになってしまう。

 フィーちゃんはⅦ組の中では年下なので、やはり普段の授業についていくのは大変らしく、そこで時々だけど私がお節介を焼いている。

「今日は導力学も進めたいけど、少し難しいし大丈夫かな……」

 彼女は習うより慣れる方が肌に合うから、今回は実験器具――というか、私の魔導杖を持ってきていた。

 実際に導力の流れを見てもらった方がイメージしやすいという理由だ。あとはフィーちゃんが興味を示してくれれば。……なんだか気まぐれな子猫の相手をしている感じだけど、最近は私もずいぶん慣れてきたような。

 うん。これで準備は万端。あとはフィーちゃんが来るまで適当な本でも読んで待つとしよう。

 

 

 ――11:30 

 ええ、来ません。

 約束の時間を三十分過ぎても、一向に図書館の扉は開く気配すらありません。

 とはいえ慌てなくても大丈夫です。三十分程度の遅刻は誤差の範囲内です。目標からずれても放たれた弾頭は近くに落ちるもの。

 私が寮を出るときにはもう部屋にいなかったので、すでに学院に到着しているか、あるいは、だとしてもどこかで眠っているか。

 もちろん待ちます。今日はその為に来たのですから。

 

 

 ――12:30 

 うふふ、来ません。

 約束の時間を九十分過ぎても、図書館の扉は一リジュも動きません。誤差と呼べる範囲を軽くオーバーしています。弾頭は遥か頭上を過ぎ去り、星になってしまいました。

 もしかしてあの扉、鋼鉄でできているのでしょうか。それは重過ぎてフィーちゃんには開けられませんよね。

 しかし、さすがに遅すぎるような。

「普通に眠っているだけかもしれないけど……」

 一応周りの様子を見に行ってみようか。魔導杖を置いたままでは行けないので、杖を片手に図書館を出てみると、やはり見える範囲にフィーちゃんの姿はない。

 だけど、今図書館を出たことは今日最大の失敗だったのかもしれない。

「おや、エマ君じゃないか。自由行動日なのに勉強かね?」

 ……この声は。

 背後から掛けられた声に、体が一瞬びくりとして、額から一滴の汗が流れていく。

 振り返ると白髪の混じった髪に、鼻下に整えられた髭、年相応に垂れ下がった目尻の、一見して優しそうな初老の男性。トールズ士官学院専属の用務員、ガイラーさんだ。

 その手には竹ぼうきが握られており、おそらくは落ち葉の掃除でもしてくれていたのだろう。

「ガ、ガイラーさん、どうもこんにちは」

「ああ、こんにちは」

 私はこのガイラーさんが少し苦手だった。簡単に詳細を説明すると八月下旬、ルビィちゃんの学院内捜索に話は遡る。

 あの日、私はルビィちゃんに添削していた小説の一ページを取られてしまった。それをこのガイラーさんが見つけてくれたんだけど、その際に小説内容の一部を読まれたのだ。

 ちなみにそれは文芸部のドロテ部長が執筆したもので、内容は男子生徒のやや過激な青春を扱ったもの。

 どうやらガイラーさんはその小説に多分に、いや過分に影響を受けてしまったらしく、変な方向に価値観が変わってしまったのだった。

 ここまででも結構危うい話なのだけど、問題はここから。ガイラーさんはその過激な内容の小説を、私が書いたと思い込んでいる。

 それからというもの、ガイラーさんはことある毎に小説の続きを催促してくる。私が書いたものではないことを説明するも、謙遜と取られて全く誤解が解けないまま今に至っている。

 普段は授業を理由にその場をはぐらかすものの、自由行動日の今日ではその理由を使えそうにない。

「あはは、では私はこれで」

「エマ君」

 苦笑いを浮かべながら、半ば無理やりその場を離れようとしたら、ガイラーさんの妙に力強い一言に足を止められてしまった。

「な、なんでしょう」

「聡明な君のことだ。用件は分かっているだろう。小説のことだよ」

 いつものガイラーさんが来た。待っているフィーちゃんは来ないのに。

「すみません、私急いでいますので」

「何、時間は取らせないよ」

 押し殺したような、言い含めたような声音に、背筋に正体不明の悪寒が走る。無意識に魔導杖を強く握りしめている自分がいた。

 私が一歩退けば、ガイラーさんは一歩詰め、距離が動かない。

 無言で相手の動作を先読みするような、緊張感が辺りに充満していくのが分かる。私はラウラさんやリィンさんみたいに剣の世界に生きたことはないけど、なんとなく実感した。これが剣を交わす前に勝敗が決すると言われる要因の一つ。間合いを制するということ。

「私本当に今日は用事があるんです。そこをどいて頂けませんか?」

「私とて君にいつでも会えるわけではない。今この時間を女神の天啓と理解し、目的を果たすまで退く気はないよ」

 女神様も過激な青春小説がお好きなのでしょうか。この状況本当に困るんですが。

「さすがの私も怒っちゃいますよ?」

「ふふ。腕ずくかね? やってみるといい」

 脅しだと思っているのか、両手を大きく開いたガイラーさんは、余裕を感じさせる笑みを浮かべたまま、立ち尽くしている。

 悟られないように地面に目を落とすと、そこは石畳だ。やれないことはない。魔導杖に意識を集中すると「それでいい」と見透かしたようにガイラーさんが言った。

 人通りはない。ためらいはもちろんあるけれど、今後のことを考えると、本気であることも伝えておきたい……どうすれば。

 そんな時、ガイラーさんが熱を帯びた吐息を深く吐き出し、怪訝そうな顔で空を仰ぎ見て、

「どうしたんだろうか。今日は妙に体が……たぎる」

「ひっ」

 悪寒が限界突破した。躊躇は一瞬で消え失せて、気付けば魔導杖を振り上げて燃え盛る火球を生み出していた。もう止められない。狙いはそこだ。

 赤黒い炎の塊が、ガイラーさんより少し前の地面に着弾する。火の粉を舞い上げながら熱波と陽炎を勢いよく立ち上らせた。

 直撃はもちろん避けて、あくまで牽制だが、しかしこれでガイラーさんも驚いて――

「悪くないね」

 炎の向こう側から落ち着き払った声音が響き、揺らめき立つ黒い影が何かを振り上げたように見えた。

 次の瞬間、突風が炎を裂き、その先には竹ぼうきを振り下ろしたガイラーさんの姿があった。

「え、ええ!?」

「実にいい攻撃だったが手加減したね。それもわざと外した。君の優しさだと受け止めるが、戦場では時に命取りになることも覚えておいたほうがいい。Ⅶ組は実戦を経験したこともあるのだろう?」

「そんな……」

「伊達に士官学院の用務員を十数年続けていないよ。今程度の炎をかき消すなど、秋口の落ち葉を掃除するよりよほど容易い」

 容易さの基準がよくわかりませんが、用務員の仕事を続けると戦闘技能も向上することを初めて知りました。

「次はこちらの番、ということでいいのかな?」

 ざり、という足音を立てながら、ガイラーさんは未だ炎が燻ぶる地面を平然と歩き出す。

 熱で空気が屈曲して歪んだ視界の中、ガイラーさんの表情は読み取れないが、さっきから私の本能が警鐘を打ち鳴らしている。

「さ、させません!」

 この状況で駆動時間のあるアーツは使えない。ならさっきと同じように、魔導杖の力を利用して。

「……ほう」

 魔導杖の最大の利点は直駆動させられるアーツを扱えること。個人と魔導杖自体の機能で扱える技に差はあるが、これなら。

 導力に指向性を持たせ、五つの輝く剣を生成し、一斉発射。先ほど放った火球より一撃の威力は落ちるものの、速度と直進性は遥かに凌ぐ。

「面白い。君は機転も早く、意外に行動力もある。それがあの責めのある小説の根幹ということだね」

「違いますから!」

 あと攻めです。責めってなんですか。

 言ってる間に、光の剣がガイラーさんに迫って――

「うそ……」

 凄まじい速度で中空を舞い飛んだ五つの剣は、すべてガイラーさんをすり抜けた。違う、軌道を完全に掌握したガイラーさんが必要最小限の動きでかわしたのだ。あたかもすり抜けたと見紛うほどに。

「真っ直ぐだから読みやすい。君の文章と同じでね……おや」

 私は一瞬の隙を突いてその場から撤退する。今日のガイラーさんはいつもに増して変な感じだ。

 本校舎に向かって逃げるが「逃がさないよ」と呟かれた一語が耳朶を打ち、私はさらに足を速めた。

 フィーちゃんに勉強を教えに来ただけなのに、どうしてこんなことに。

 

 

 ――13:00 

「ど、どこか隠れられるところは……!?」

 本校舎の正面入り口をくぐり、左右に視線を素早く動かす。

 自由行動日だから入れる教室は制限されている。各クラスの部屋には入れない。となると特別教室、二階だ。

「エマ君」

「きゃあ!?」

 私の背後に、すでにガイラーさんが立っていた。相当距離を離したと思ったのに、見ればガイラーさんには息切れ一つない。

 逃げなきゃ、そう思う私の視界に、廊下の向こうから歩いてくる二つの人影が映る。

「いやー、ご飯おいしかったですね」

「ふふふ、そうですね。私はあまり食堂を使わないのですが」

 あれは、サラ教官とメアリー教官だ。何気に珍しい組み合わせのような。でも助かったかもしれない。

「サラ教官、メアリー教官!」

 二人に走り寄る。とりあえず、しばらくこの二人と一緒にいれば状況をしのげる。

「あらエマ、どうしたの? ていうか何で魔導杖持ってるわけ?」

「まあ、廊下を走ってはいけませんよ」

「あ、すみません、メアリー教官……じゃなくって助けてくだ――」

「おやおや」

 言いかけた私の言葉は、あくまで穏やかに発せられたガイラーさんの声に遮られた。

「これはこれは、花のあるお嬢様方がそろわれると、辺りが明るくなった気がしますなあ。これなら今日は蛍光灯の交換はいらんかもしれませんな」

 ガイラーさん、何を……? しかしサラ教官は「まあ、ご冗談を」と、あからさまに嬉しそうに顔に笑みを浮かべていた。

「冗談などではありませんぞ。しかし気をつけては頂きたいものですな。お二人がそろって歩かれるなど、男子生徒には目の毒でしょうから。学業に専念できなくなってもいけません」

「もー、ガイラーさんったらー」

「ふふ、お上手ですこと」

 サラ教官だけではなく、メアリー教官まで。いや、メアリー教官は社交辞令的なものとして受け取っているようだが、サラ教官は割と真に受けている。

 年上好きとは聞いていますが、さすがに守備範囲が広すぎます。

「さて……」

 ガイラーさんの目が私に向けられる。瞳の奥が妖しく光った気がした。

「う、いたたた!」

 突然、腰を押さえてうずくまる。驚いたメアリー教官が「どうしたのですか!?」とそばに駆け寄ると、彼は顔にあぶら汗を浮かべて、うめき声を漏らした。

「実は先ほど落ち葉を掃いていて、腰を痛めてしまいましてな」

「まあ……では早く保健室に」

「いえ、この後は二階の掲示板の張替をせねばならんのです。私がやらねば……たとえこの腰が砕け散ろうとも」

 演技ですよ、それ。騙されないでくださいね。というか落ち葉掃いてて何で腰を痛めるんですか。「くうっ」とか言いながらよろよろ立ちあがっていますけど、うそっぽいですからね。

「そんな、ガイラーさん!」

「あなたがこの学院の用務員であることを……誇りに思います」

 終わりました。

「しかし、だれか手伝ってくれる人がいれば……見ればお三方は楽しく談笑されていたご様子、他に誰か――」

「ああ、それなら大丈夫ですよ。私は授業準備、メアリー教官は吹奏楽部の練習準備があるんですけど、彼女とは今すれ違っただけですから。エマ、ガイラーさんのお手伝い頼めるわよね?」

「え!?」

 何という老獪な手口。

 教官達と私が関係ないことを知っておきながら、あえて知らない振りをして会話に入ってきた上に、いつの間にか正式な頼みごととして成立させている。

「素晴らしいですわ。さすがはⅦ組の委員長ですね」

 これ以上この場に留まっていると、どんどん状況が悪くなっていく。

「し、失礼します」

 ぎゅんと不自然なくらい素早く踵を返して、私は早足でその場を立ち去った。

「あら、もう二階に走って行っちゃったわ。さすがやる気ねえ」

「あ、廊下は走っちゃだめですよー」

 こうなったら、全力でガイラーさんを止めてみせる。

 そして、何が何でもフィーちゃんに勉強を。

 

 

 ――13:30 

「やあ、エマ君。掲示板の張替は済んだのかな?」

「どうしても諦めて頂けませんか?」

 二階、普通教室側の廊下で、私は魔導杖を構えてガイラーさんと対峙していた。逃げても追いつかれるなら、正面突破しかない。

「例えば手を伸ばせば、すぐ届くところに目的を叶える手段があったとして、君はそれを諦めることができるのかい」

「そうですか。なら――私も本気出しちゃいますよ」

 魔導杖が私の意志に呼応するように鳴動する。

 体前面を覆うように白銀の円陣が浮き立つと、その紋様から溢れ出た光の粒子が瞬く間に剣の形に凝固されていった。

 輝く大剣は全部で五本、私を守護するように周囲に展開して、その剣先をガイラーさんへと向ける。先ほど外で放ったものとは違う、正真正銘全力だ。

「導力の伝搬だけで大気を震わすか。敵意をもって向けられた剣圧も心地いい。しかし――」

 深い色をした瞳が静かに私を見据えた。

「それが君の本気かね?」

「それは……これからです!」

 エリオットさんのそれとは違い、左右非対称に設計された魔導杖の先端を、ガイラーさんに向かって勢いよく振り下ろす。

 明滅する残像を網膜に焼き付けながら、空気を切り裂く光の剣がガイラーさんに襲いかかった。

「先ほどより遥かに速い一撃、しかし変わらずの直線。一度見せた技で機先を制しようなどとは愚の骨頂――……っなんと!」

 彼の体捌きは一度見た。直線の攻撃は避けられる。だけどこの技は直進しかできない。だから、

「そう、時間差です」

 光の剣を一気に斉射せず、わずかな間隔をあけて、かつ狙いもずらしての連射。

 一撃目が右上方、二撃目は左下方、三撃目がフェイントと目暗ましを兼ねた、斜め上へと突き上がる胸部から頭上にかけての高低軌道。

 そして四撃目が仕留めの直線軌道!

 三撃目でバランスを崩しながらも、ガイラーさんは腰の回転だけで上体を捻り、四撃目をかろうじてかわしてみせる。

「見事! しかし残念、90点だ」

「いいえ、100点です」

 四撃目と同じ軌道で隠した本命の五撃目が姿を見せた。

 ガイラーさんなら命中させるつもりで放った四撃目も避けると思っていた。

 さらにバランスを崩したところからの不意の一撃。必中の間合い、位置取り、タイミング。絶対にかわせない。

 そして直撃、したはずだった。いや直撃自体は確かにしていた。

「点数を改めよう、エマ君。90点ではなく……」

 ガイラーさんが突き出した右の掌に阻まれ、剣先はそれ以上の進入を防がれていた。

「99点だ」

 その手が徐々に握り締められると、勢いのまま押し切ろうとする光の剣は、少しずつその威力を殺されていった。

 剣先から順に光は粒子となって爆ぜていき、行き場をなくした導力の残滓が、輝きを失いながら霧散していく。ほどなく光の剣はその形状を完全に崩壊させ、かき消えるように消滅した。

「あ、ああ……」

「さて。攻撃自体はともかく、いくつか減点対象がある。まず、外した最初の三撃だが、廊下と天井にそれぞれ傷を残し、四撃目に至っては直線だったから……見たまえ。中庭側の窓に突き刺さってガラスが割れてしまっているだろう」

 それは確かに私の失態だった。

 生徒がいないことは確認していたし、校舎内に当たる前には威力を減殺して消すつもりだったけど、そんな調節をしている余裕はなかった。

 そういえば、奥のガラスが割れた時、ガイウスさんとエリオットさんの悲鳴が聞こえた気がしたけど、それはきっと気のせいに違いない。

「……すみませんでした」

「なに、気にすることはない。私が後で片付けておこう」

 首を軽く回し、ぱきぱきと間接を鳴らしたガイラーさんは、私に向かって一歩足を踏み出す。薄く口元に笑みを浮かべ、妙に凄みのある声音でこう続けた。

「なぜなら私は、この学院の用務員だからね」

 

 

 ――14:00

 不吉が集まって人の形を成したような! 

 およそ普段柔和な一用務員さんに思うような言葉ではないけど、私の脳裏には先ほどの酷薄な笑顔が張り付いて離れなかった。

「こ、ここなら」

 私が今隠れているのは音楽室、ピアノの陰だ。

 あの後すぐにその場を駆け出し、一階へ行こうとしたのだが、途中で音楽室の扉が開いていることに気付いたのだ。

 さっきメアリー教官は吹奏楽部の練習準備があると言っていたから、もしかしてその関係で鍵が開いていたのかもしれない。

「今日のガイラーさん、本当にどうしたのかしら」

 なんというか、全開というか制御不能というか。いっそドロテ部長をこの場に連れてきたら、全てが円満に収まるのではないだろうか。

 そんな私の思考は、静寂の中に聞こえた一つの足音に中断された。

 ぱた、ぱた。靴裏で床を叩くような少し変わった足音は、用務員専用の屋内スリッパだとわかる。来た、ガイラーさんだ。

 息を潜めて、ピアノ越しに扉付近をのぞいてみる。足音は少しずつ近づき、扉前でぴたりと止まった。

 ――ガチャ……ガチャ、ガチャ。ドアノブを何回も回す音。大丈夫、入ったときに内側から鍵を閉めている。

 ガチャガチャ……ガチャ。ガチャガチャ、ガチャ!

 な、長い。そして無意味に怖い。

 しばらくすると、ようやくドアノブから手を離したらしく、足音は遠ざかり、再び静寂が戻ってきた。

 息を吐いて、わずかに緊張が解けた私は、ふとフィーちゃんのことを考えてみた。

「もし、あの後でフィーちゃんが来ていたら、……謝らないと」 

 そのまま来ていない可能性も大いにあるけど。フィーちゃんを探しに行くどころか、今となってはこちらが探されている身だ。

「そろそろ行っても大丈夫、よね?」

 ピアノから離れ、入口へ向かおうとした時だ。

 涼しげな風が吹き、私の髪をほのかに揺らした。汗もかいていたし、心地よい初秋の風――

 おかしい。窓はすべて閉まっているはずだ。鍵の確認までする時間はさすがになかったが、開け放しになっていた窓はない。

 嫌な予感を全身に感じながら、窓側に振り返ってみる。閉まっていたはずの窓の一つが開いていた。

 なぜ、まさか、そんな。

 単語でしか状況を問う言葉は出て来ず、思わず後じさった時、柔らかなバイオリンの音色が届いた。そして同時にあの人の声も。

「このバイオリンはいい。よく手入れされている。音楽に対する愛情を感じるよ」

 ガイラーさんバイオリンも弾けるんですね。もう許してください。

 いつの間にか椅子に座り、愛おしそうにバイオリンを奏でていたガイラーさんは私に視線を移す。

「狂詩曲を知っているかね? ラプソディとも言う。名とは異なり、その曲調は意外なほど自由だ」

「さ、さあ。音楽には疎いもので」

「ふふ、謙遜を。私はね、このラプソディが好きだ。狂詩曲とは狂った詩と書く。まるで君の小説のようではないか」

 ガイラーさん違うんです。私じゃないんです。何回も言ったじゃないですか。

「私も君と同じ狂宴の席に着きたくてね」

 そんな椅子に座った覚えはありません。もう、もう……

 バイオリンを脇に置くと、彼はゆらりと立ち上がる。

「さあ、宴の続きを」

「無理ですー!」

 その場の空気に堪え切れず、私は入口に走る。扉に手をかけるが開かない。そうだ、自分で鍵をかけたのだった。簡単なレバー式の鍵を私は二回も手から滑らせ、ようやくの思いで扉を押し開けると、脇目も振らずに駆け出した。

「角を曲がる時は気を付けたまえ。誰かにぶつかったら恋が始まってしまう」

 何の法則ですか。

 そんな言葉が遠ざかりながら聞こえたけど、多分またすぐに追いつかれてしまう。

 私は覚悟を決めた。

 

 

 ――14:30 

 屋上。その最奥に私は立っている。私がその位置についたのと間を置かず、ガイラーさんはやってきた。

「かくれんぼは終わりかね?」

「鬼ごっも終わりです」

 魔導杖を構えてガイラーさんを牽制するも、彼の余裕の表情は崩れない。

「いつになったら君の全力を見せてくれるのかな」

「ガイラーさんは勘違いされています。私はさっきまでも全力でした」

「それは違う」

 私の言葉を否定すると、改めて「それは、違うのだよ」と諭すような口調で繰り返した。

「私から見るに、君はまだ本気を出していない。無意識なのかそうでないのか、まるで何かを隠すように君はいつも一歩引いている」

 どきりと心臓が跳ね上がる。心の中心に杭を突き立てられたような衝撃に、私は反論する言葉すら失った。

「遠慮ではない。奥ゆかしさともまた違う。薄紙一枚隔てた先にいるのは果たして私が、いや君の仲間たちが知るエマ君なのかね?」

「あ、あ……」

「事情はそれぞれだ。聞き出す野暮も、無粋な詮索もしまい。ただこれだけは言っておこう」

 温和な瞳が、わずかに鋭さを帯びた。

「君が本気を出さないのなら、私の体に傷一つ付くことはない」

 鳥達が一斉に羽ばたいて、その場から飛び去っていった。まるで屋上だけ風が止まったように、しんと静まり返る。

 そうかもしれない。

 私はⅦ組の皆に隠し事をしている。それを薄々気付いた上で、皆は変わりなく私に接してくれている。

 甘えていたのかもしれない、皆の優しさに。

 全力を出していないつもりなんてなかった。でもそれは、あくまで隠し事に触れない範囲の中でだった。いつかは伝えよう、そう思いながら、居心地のいい今に慣れてしまっていた自分もいたのだ。

 ガイラーさんがそこまで詳細を知っているはずもない。

 ただ感じとったのだ。あくまで周りから浮き立たないように、目立たないように過ごす、どこか本当じゃない私の日常を。

 ここでまた自分を偽ることは簡単だ。そうしたら恐らくガイラーさんは諦めてくれる。でもそれはきっと、失望という形で。

「わかりました、ガイラーさん。――全力です」

「いい目だ。受けて立とう」

 全身全霊を賭して魔導杖にありったけの力を注ぎ込む。びりびりと学院全体を振動させて、力場が屋上に広がっていった。

 周囲に迸る力とは反対に、膨大な導力を御する為、心はさざ波一つ立てず深く集中する。

 ――解放。魔導杖を介して生み出される力と私本来の力。それらが合わさり、一つの力を成した。

 錯綜する輝きが、足元に光陣を生み出す。

「……すばらしい」

 ガイラーさんを囲むように、地面から轟音を響かせて立ち上る、鈍い光を帯びた五つの巨大な塔。

 顕現した巨塔の先端にエネルギーが凝縮されていき、レーザーのようにガイラーさんの頭上に照射された。五つの光軸は全ての塔の中心に集中し、何倍にも膨れ上がった光の塊が、その場に留まれる限界を越えて、閃熱と共に直下へと一気に降り注ぐ。

「ぬああああ!」

 咆哮。私が本気のように、ガイラーさんもまた本気だった。

 両の腕を頭上に突き出し、まるで大岩でも支えるかのように、凄まじい衝撃をその身一つで受け止めている。屋上全体が鮮烈な光に包まれた。

「押し返される!?」

 ガイラーさんから発せられる異常なまでの圧に、導力を送り続ける魔導杖が軋みの音を立てて、シャフト部分まで押し曲げられていく。

 勝てない。全力だったのに。

「まだだ」

 ガイラーさんの声が聞こえた。あたりは変わらず轟音が響いている。声なんて聞こえるはずがないのに、不思議とその時は妙にはっきりと聞き取れた。

「まだ力をセーブしているね。もっと踏み込むんだ」

「セーブなんかしていません! 私は本当にこれが限界なんです!」

 そう、これは嘘じゃない。

「エマ君。君は仲間が窮地に陥り、自分しかそれが助けられない状況だとする。それでも同じ言葉を言うのかい。限界だからと諦めるのかい?」

「そんなこと……」

「踏み込むんだ。たとえ皆に君の全てを伝えていなかったとしても、君が仲間を大切に思う気持ちは嘘じゃないだろう?」

 はっとして、魔導杖を握りなおした。押し曲がったシャフトをぐっと堪え、足で力強く地面を踏みしめる。

 そうだ。たとえ、まだ伝えられないことがあっても、気持ちまで偽ってはいけないんだ。

 まるで枷が外れたように、力が溢れ出してくる。

 徐々に収縮しつつあった力が再び大きく、明るく、強くなった。それまでとは比較にならない程、勢いと輝きを増した光の大瀑布。

「ぐおおおお!」

 さらに増大した威力は押し返せず、ガイラーさんの片膝が初めて地に着く。

「そうだ。限界を超えるんだ、そして――」

 ガイラーさん、あなたは私にそれを伝えるために。

「もっと踏み込んだ、規制ぎりぎりの激しい表現の小説を書きあげるんだ!」

「なんの話ですかあ!」

 私の叫びと一緒に、ついに暴威の閃光がガイラーさんを包み込んだ。

 弾ける衝撃、擦過する熱波、吹き荒ぶ暴風、激震する大気。

 やがて全てのエネルギーは放射状に四散していき、屋上には幾重にも折り重なった蜘蛛の巣状の亀裂と焦げ跡が残されていた。

 そこにガイラーさんの姿形は微塵もなく、屋上の端には彼の愛用した竹ぼうきだけが、物悲しく転がっているのだった。

 

 

 ――14:50

 屋上を後にした私はそのまま本校舎の外に出た。もう思考が追いつかない、というか考えること自体ができない。

 ガイラーさん、私が皆に隠している何かを、ああいう系の小説のことだと思ってたのでは。

 グラウンドから声がする。だれかいるのだろうか。

 足がもつれて何回かこけそうになりながらも、声のする方へふらふらと足を進めた。この行動自体も意味のあったものではなく、ただ何となくだ。

「あれはラウラさん……?」

 遠目にだがシルエットで分かった。他にグラウンドにいるのはガイウスさんとエリオットさん。あとは名前は知らないけど、多分同じ一年の女子が二人。

 一体どういう組み合わせだろう? 見慣れないジャージを着ているようだし、男子二人はどうも疲れきっているようだし……あ。

「……もしかして」

 機能停止していた思考が、のろのろとようやく回りだす。

 きっとラウラさんは私が貸したあの小説を読んだんだ。

 内容は青春スポーツ物。彼女が好みそうなストーリーだと思って勧めてみたのだけど、どうやら予想以上に感化されてしまって、その煽りをガイウスさんとエリオットさんが受けている、といった所だろうか。きっとそうに違いない。

「エリオットさん達に謝った方がいいかしら……」

「その必要はないだろう。これも彼らの糧となるのだから」

「だといいのですけど……え?」

 とても自然に会話に入ってきた初老の用務員は、当たり前のように私のとなりに立っていた。

「ガイラーさん!? い、いつの間に」

「屋上から飛び降りてその場を凌いだ、という発想はできないかね?」

 すみません。できません。

「ではエマ君。本題に入ろう」

 もうこれ以上は無理だ。しっかり事情を説明して、あれは私の小説ではないことを理解してもらう以外にない。

「ガイラーさん、はっきり言います。あの小説は――」

「これを受けとってくれたまえ」

 言い終わらない内に、ガイラーさんは懐から取り出した大きめの封筒を私に差し出してきた。促されるまま受け取るも、私にはよく意味がわからない。

「僭越ながら私の執筆した短編小説だ。君に読んでもらいたい」

「え、え? 今日ずっと私を追っていたのはその為……だったんですか?」

「もちろんエマ君の小説の続きも切望して止まないが、今回は私の小説を君に届けたかった。言っただろう?」

 いえ初耳ですけど。……まさか“私も君と同じ狂宴の席に着きたくて”というのはそのことを言っていたんですか。なんてややこしい言い回しを。 

「しかし良いものだ。二人の若き獅子が試練を乗り越えて成長していく様は。汗と涙と、そして芽生える友情。これがたぎらずにいられようか」

 ガイラーさんの熱い眼差しは、今にもグラウンドに倒れてしまいそうなガイウスさんとエリオットさんに注がれていた。湿った瞳が潤み、切なさを絞り出したような吐息を吐き出している。

「ひえっ……」

 時期外れの寒々しい風が、木の葉を舞い散らせた。

 今日ガイラーさんが異常な力を発揮し、妙に全開で全壊だったのは、もしかしてラウラさんの青春企画が要因? さらに元を辿ればラウラさんに小説を貸した私が原因?

「ふうう……」

 全身の力が抜け落ち、私はその場にへたり込んでしまった。

 もちろん楽しんで読んでくれたらしいラウラさんに、小説を貸したことを後悔したりなんてしないけど、回り回ってガイラーさんの覚醒に繋がってしまうなんて。

「では私は行くとしよう。仕事の途中なのでね」

「仕事、ですか?」

「うむ、焦げ付いた図書館前の道、二階廊下の傷跡、割れた窓、そして屋上の修繕。今日は残業かもしれんね」

 全部私のだ。さすがに申し訳なく思う。

「これが君たちの学院生活をサポートする私の役目だ。そんな顔はしなくてもいい。なぜなら――」

 再び風が吹き抜け、舞い上がった木の葉がほんの一瞬私の目を隠す。木の葉が視界から離れた時、もうそこにガイラーさんの姿はなかった。  

 しかし私は聞いた。風の音にかき消されて聞こえなかった言葉の続きを。

 彼は確かにこう言ったのだ。

 

 ――なぜなら私はこの学院の用務員だからね――

 

 同じ言葉のはずなのに、先に感じたような悪寒はそこになく、私にはむしろそれが何より誇り高い言葉に聞こえたのだった。……たぶん。 

 

 

 ――15:10 

 図書館に戻ってもフィーちゃんはいなかった。

 もしかして園芸部かもと思って花壇まで足を運んでみたけど、そこにもいなかった。

 園芸部部長のエーデル先輩がいたので、少し話を聞いてみるとフィーちゃんはまだ来ていないらしい。

 ぐるりと敷地を一周して今は講堂前だ

 フィーちゃんは一体どこに行ったのかしら。そもそも私は何でフィーちゃんを探していたんだっけ。

 勉強の為だ。危ない、その目的すらも頭から消えてしまうところだった。

 学院内はガイラーさんに追われて、計らずも走り回ることになってしまったし、中庭、屋上といったお昼寝スポットでも彼女は見つからなかった。

「こうなったら、トリスタの町まで行くしか……」

 なんだか意地になってきた。

 これでフィーちゃんが見つからなかったら、私の一日は用務員さんに追いかけられた挙句に、自作の小説を渡されただけで終わってしまう。

 そんな時、正門からこちらに向かって走ってくる小さな影が。

「……あれはルビィちゃん?」

 そのままルビィちゃんは私の横を走り抜けていった。

 あら、口に何か持っていたような? いえ、とにかく今はフィーちゃんのことを。 

 正門を出て坂を下る。力の戻りきらない体を魔導杖で支えながら、こけないよう歩を慎重に進めた。下り坂で転倒しようものなら、今は止まれる自信がない。

 杖をこんな風に使っているからか、急に故郷のおばあちゃんが懐かしくなる。元気かな。少なくとも今の私よりは元気に違いないだろうけど。

 ふと顔を上げると、坂を必死に駆け上がってくるマキアスさんが見えた。

 ずいぶん汗だくだけど、どうしたのかしら。

「マキアスさん。ずいぶんお疲れの様子で……」

「ああ、実は色々あって――ってエマ君!?」

 私の憔悴した様子に、マキアスさんは目を丸くして驚いていた。

 けれど事情を説明する元気は、私には残されていない。

「お気づかいなく……ところでフィーちゃん見ませんでした?」

 そう尋ねると、マキアスさんは少し戸惑いながらも「あ、ああ。さっき礼拝堂で見たが?」と後ろを振り返った。

 礼拝堂は坂を下ってすぐだ。すでに建物自体も見えている。

 フィーちゃんが礼拝堂というのは意外だったが、すぐにある事に思い至る。

 昨晩ユーシスさんから、日曜学校の先生役をやることになったので使えそうな参考書を貸して欲しいと相談を受けていた。その授業場所はトリスタ礼拝堂と聞いている。

「ああ、なるほど。盲点でした。うふふ、今行きますよ~」

「あ、エマ君、僕も一つ。ルビィを見なかったか?」

「ルビィちゃん? 見ましたよ。さっき何かくわえて走って行きました。本校舎の裏手に回ってたので、中庭辺りでしょうか?」

 ルビィちゃんはやっぱり何かいたずらをしてたようで、おそらくマキアスさんはその被害にあったのだろう。私にお礼を言うと、彼は一目散に走っていった。

 今日は私だけじゃなくて、みんな走り回っているのかしら。

 

 

 ――15:30 

 礼拝堂に入ってまず視界に入ってきたのは、たくさんの子供達と、彼らに体中しがみつかれたユーシスさんの姿だった。そして子供達に交じって騒ぐミリアムちゃんとフィーちゃんの姿も。

 私は後ろからそっと近づいて、フィーちゃんの肩にそっと手を掛けた。つもりだったのだが、心とは裏腹に私の手はがしっと音を立てて彼女の肩を掴んでいた。

「フィーちゃーん? 探しましたよ~、うふふふ」

 ユーシスさんが戸惑ったように「い、委員長?」とこちらに視線を向けた。

「あら、ユーシスさん、一日先生は順調ですか?」

 見たところ上手くやっているようですね。子供たちも懐いているみたいですし。昨日貸した本が役に立っていればいいのですが。

 話は後日聞かせて頂くとして、ひとまず私はこれにて失礼します。ようやく会えたフィーちゃんを、子猫みたいに掴みながら。

「うふふ、お邪魔しました」

 フィーちゃんはちらりと私の顔を見ると、観念したように目を伏せた。

「……つかまっちゃった」 

「ええ、つかまえました」

 さあ、お勉強の時間ですよ。

 

 

 ――17:30

「はい、じゃあ次の問題です」

「ちょっと休憩……」

「休憩は五分前にしましたよ?」

 私は《キルシェ》のオープンテラスでフィーちゃんの勉強を見ることにした。

 学院の図書館まで戻るのも時間が掛かるし、何よりまたガイラーさんに遭遇したらどうすればいいか分からない。

 意外とオープンテラスでの勉強は新鮮で、フィーちゃんも飽きずに付いて来てくれている。次回からは屋外も活用していこう。

「ん。そういえばガイウス達大丈夫だったかな」

「心配いりませんよ。ガイウスさんお兄ちゃんですし」

「……根拠になってないと思う」

 つい先ほど、ガイウスさんが迷子の兄妹を連れて私達の所にやってきた。今から学院まで行くらしいけど、彼の面倒見の良さなら心配はいらないだろう。

 日が傾き、夕焼けがトリスタの街を赤く染めていた。そろそろ頃合いだろうか。

「じゃあ、フィーちゃん今日はこの辺にしておきましょうか」

「了解」

 あ、ほっとしてる。最近は無表情でもフィーちゃんの気持ちが何となく分かるようになってきた。

「でもちゃんと復習して、同じ問題で間違わないようにするんですよ」

「了解」

 あ、面倒だと思ってる。

 フィーちゃんはこの後園芸部に用事があるらしく、学院に向かい、特に用事もない私は一人寮への帰路へ着いた。

 今日はゆっくり休もう。でも何か忘れているような――

 あ、ガイラーさんの小説読まなきゃいけないんだった。

 

 

 ――20:00

 せっかく寮に帰ってきたのに、今日はトラブルばかりのような。リィンさん大丈夫だったかしら。

 今しがたのリィンさんの様子を思い出して、少し不安になった。

 大丈夫よね、おばあちゃんの秘伝だし。

「ふう……」

 部屋の椅子に腰かけ一息つくと、机の端に置いたそれに視線を向けてみる。

 ガイラーさんから渡された封筒。彼の執筆したという小説。内容は予想が付くようで、実のところ全くの未知だ。

 正直に言えば、封筒を開けるのが怖い。とは言え、

「やっぱり読まなくちゃ」

 それがどのような内容であれ、精魂込めて書き上げたのなら読まなくてはならない。しかも今回は私に、ということなので尚更だ。

 意を決して開封する。

 封筒の中から桃色とも紫色とも付かないオーラが噴出している気がするが、それこそ私の先入観が生み出した幻覚だ。そうに違いない。

 中には小説の原稿が三十枚ほど入っていた。文章は手書きで、かつ達筆ではあったが読めないことはなさそうだ。枚数から察するに短編だろう。

「では……拝読させて頂きます」

 一枚、二枚とページをめくっていく。物語の舞台は学校。主人公はその学校に勤める用務員だ。

「……はい?」

 いや、これはこれで新しい。学園物なら普通は生徒か教師が主役だろう。それをあえて第三者である用務員を主役に置くことで、客観的、多角的に物語を展開する手法か。ガイラーさんらしい、むしろ彼にしか書けない物語なのかもしれない。

 五枚、六枚と読み進める内に奇妙な点に気付いた。

 女子生徒が一人も出てこない。おかしいな。男子校なんていう設定ではなかったはずだけど。 嫌な予感がする。しかし今のところ内容は登場人物紹介の段階だ。

 そして十ページ目。内容は急展開を迎えた。

「えっ?」

 困惑して前のページを読み直す。変だ。ページが飛んでいるとしか思えない。だけどページの通し番号は合っている。

 どういうことだろう。さっきまで言い争いをしていた主人公とライバル的位置づけの男子が、いきなり用務員の胸に抱きついて号泣している。俺たちが間違っていたとか何とか言いながら。

「……え?」

 何が、どうなって、こうなったんですか? さっぱりわからないんですが。

 そして意味の分からないままに話は進み、最終的には用務員をめぐってクラスの男子全員がバトルロイヤルを繰り広げる始末。

 そして優勝者はなぜか乱入してきた体育教師。脈絡なく大団円でまとまり、物語は終わった。

「………」

 シャロンさんに紅茶を入れてもらわなくてよかった。きっと残らず机の上に吹き出していただろうから。

 無言のまま原稿用紙を封筒に戻すと、全く無駄のない動作で引き出しの奥深くに閉まった。今の心情に最も則した言葉を使うなら、封印だ。

 虚ろな意識の中で、何気なく天井を見上げた。

 今日はフィーちゃんに勉強を教えるだけのはずだったのに、ガイラーさんに出会って相当な回り道をすることになってしまった。

 とはいえガイラーさんの言葉が、私の心のどこかにあった引っかかりを外してくれたのも事実だ。

「そう、なんですよね」

 彼のおかげで、ほんの少し心が軽くなった気がしている。“本当”を伝えられなくても、それは“嘘”ではないのだと、そう気づかせてくれた。

 フィーちゃんに勉強を教えようと思っていたことも、ガイラーさんに追いかけられて大変だったことも。

 Ⅶ組の皆と過ごす日常を、何より大切に感じていることも。

 間違いなく私の本当の気持ちなのだから。

 

 

 ~FIN~



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そんなⅦ組の一日 ~フィー

9月12日(自由行動日) 11:30 フィー・クラウゼル 

 

 目が覚めた。

 そうは言っても別に部屋のベッドで目を覚ました訳じゃない。

 私が今体を横たえているのは、中庭のベンチだ。学院には用事があって来たんだけど、少し時間があったから昼寝をすることにしたんだった。

 多分、大体の人はこのベンチに寝転がると、足が余るか幅が足りないかで、もれなく地面に落ちるんだろうけど、私の体躯なら全く問題がない。

 委員長からはよく「女の子だからどこでも寝ちゃだめですよ」と、そんな指摘を受けたりもする。そういえばラウラからも「睡眠中は隙ができるから、みだりに人前で眠るのは控えたほうがよい」と言われたこともあった。

 まだラウラの方が分かる。

 そもそも私だって外で横になって熟睡するなんて、ちょっと前までしなかった。いや、猟兵団にいた頃はしてたかな。でも熟睡まではしてないし、団がなくなってからはゆっくり眠るどころじゃなかったし。

 こんな風に眠れるようになったのは一体いつからだったか――

「あ」

 委員長の名前を胸中に呟いて、もう一つ思い出したことがあった。今日は委員長に勉強を教えてもらう日だ。約束の時間は十一時だった気がする。

「時計……」

 見回した範囲に時計はない。

 あくびをしながらベンチから下りて、日なたに向かう。いい天気。起きた所だけど、また眠たくなってしまう。

 目線を下げて自分の影を見てみる。足元に届くくらいに短くなった影。

「十一時、半くらい」

 日時計というやつ。正午には近くなっているけど、まだ達してはいない。

 約束の時間すぎちゃった。どうしよう。今から行こうかな。

「……めんどくさい」

 別に委員長から勉強を教えてもらうことがじゃない。図書館まで足を延ばすのが、だ。

「散歩でもしようかな」

 そのついでに図書館に向かうということは考えていない。

 それに歩き回っていたら、多分委員長の方が先に私を見つけて、図書館に連れて行くだろう。いつものパターンだし、最近はなぜか委員長も、私がどこにいても必ず見つけ出してくる。その都度メガネを光らせて「探しましたよ~、うふふふ」とちょっと怖い笑みを浮かべながら。

 そういう訳で散歩開始。

 中庭を出て向かいの花壇が視界に入ると、さっそくまた一つ思い出したことがあった。

 今日の夕方、園芸部の活動があってエーデル部長にも呼び出されているんだった。

 新しい花を植えるらしく、私がその苗をガーデニングショップのジェーンから受け取りにいくことになっていた。

 めんどうだけど、それは仕方ないか。

「絶対大丈夫だって」

「だからその後どうするの……」

 花壇の奥から話し声が聞こえてきた。誰だろう? 聞き覚えのある声だったので見に行くと、

「ヴィヴィ……が二人?」

 私と同じ一年の部員。薄ピンク色の髪が特徴的な女子生徒。その薄ピンクの髪が二つ並んでいる。

 あ、そうか。聞いたことがある。そろっている所を見るのは初めてだけど、二人は双子だ。もう一人はガイウスと同じ美術部で、名前は確かリンデ。ちなみに双子だけどリンデの方が一応お姉さんらしい。

「あ、フィーちゃん。どうしたの?」

「Ⅶ組の子? 園芸部だったんだ」

 ヴィヴィとリンデは同時に私に振り向いた。

 まるで鏡越しの動作みたいに息がピッタリだ。《ARCUS》いらずのリンクぶりはさすが双子、なのかな。この距離からだと二人の違いは髪型くらいで、ヴィヴィはストレート、リンデは左右でまとめた三つ編みおさげとしか見分けがつかない。

「別に。そっちこそ何してるの」

 ヴィヴィは「んふふ」といたずらっぽく笑った。

「エーデル部長を驚かせようと思って。多分部長は私が双子って知らないから、ヘアスタイルも一緒にしてリンデと現れたら、さすがにビックリすると思うの」

「そして私がその思いつきに巻き込まれたの……」

 リンデはがくっと肩を落とした。こういうことに付き合わされるのは初めてじゃないみたい。

 あのおっとりしたエーデル部長が驚く所は、あまり想像できないけど……ちょっと興味あるかも。

「そういえばフィーちゃんどこか行くの? 部長は夕方からでいいって言ってたよね?」

「ちょっと寄っただけだから」

 そういえば散歩に行こうとしていたんだ。二人と別れ、私は軽く伸びをしながら歩を進めた。

 グラウンド側に歩いていると、その途中でラウラを見かけた。見たことがない機材を台車で運んでいる。

「……なんだろ」

 よく分からないけど、ラウラ楽しそうだし、いいか。

 さらに正門前まで進むと、今度はガイウスに会った。丁度学院に来たところみたい。今日は立て続けに色んな人に会う。

「フィー? 自由行動日に珍しいな。どうしたんだ」

「ん、逃亡中」

 本当は散歩中だけど、何となくそんなことを言ってみた。

「ガイウスはどうしたの?」

「俺はラウラに呼び出されてな。何の用かはまだ聞いていないが」

「ラウラなら、さっき台車にいっぱい色んなもの乗せて走り回ってたよ」

 ガイウスの顔色が少し曇った。どうしたんだろ。

「ではフィー、俺はもう行くが気をつけてな」

 少し気になったけど、いつも通り「了解」とだけ返して私もその場を離れた。

 

 

 ――12:10 

 少し迷ったけど、そのまま正門を出てトリスタに行くことにした。

 さすがに学院の外に出たら、委員長も見つけにくいかな。でもジェーンに苗を貰わないといけないし。まあ受け取ったら学院に戻ったらいいか。

 坂を下りきり、トリスタの礼拝堂に差し掛かった時、私よりも小さな赤い学院服を着た女子生徒がいることに気付く。

 あれはミリアムだ。なんで礼拝堂の前に?

「あ、フィー!」

 ミリアムは私に気が付くと、ぴょんぴょん飛び跳ね、腕をいっぱいに振り回し、全身で存在を主張しながらに声をかけてきた。

「ミリアム、どうしたの?」

 そばに寄っていくと、ミリアムは先ほどのヴィヴィのような笑みを浮かべている。いたずら、とは違うようだけど、好奇心に満ちた笑顔だ。

「実はね~、今から礼拝堂で面白いことがあるんだよ」

「面白いこと?」

「そうだよ。なんかユーシスが日曜学校の先生を頼まれたんだって。それで今から子供たち相手に授業だってさ」

「それは……面白いね」

 無愛想なユーシスが子供達に授業なんて。いや私も人のことを言えないのかもしれない。あまり無愛想なつもりもないけど、というか愛想よくというのがよく分からないのか。私の場合。

「フィーも見に行こうよ!」

「ん、いいよ」

 その誘いには即答する。興味あるし。

「そういえば、なんでミリアムはユーシスが先生するなんて知ってたの?」

「委員長が教えてくれたんだ。あ、そういえば委員長からは一応内緒にしててって言われてたんだっけ」

 諜報部とは思えない口の軽さ。機密情報とか扱ってるんじゃないの? 

 まあ、今に始まったことじゃないけど。気にしても仕方がない。

 さっそく私とミリアムは礼拝堂の扉を開けた。

 ……何か忘れているような気もするけど。ま、いいか。

 

 

 ――13:00 

 潜入成功。ユーシスには見つかったけど、ロジーヌが説得してくれたおかげで、とりあえず椅子に座ることができた。なんでもロジーヌが一日先生をユーシスに頼んだらしい。

 というか何でユーシス? リィンの方がよさそうな感じだけど。

 さっそくユーシスが授業を始めている。あ、でも意外と似合ってる。

「あはは、ユーシスが先生だよ」

 となりに座るミリアムがからからと笑う。ユーシスがぎろりとこっちをにらんだ。私は言ってないのに。

「でも子供がいっぱいだねー」

「ミリアムだって子供だけど」

「む、フィーだって!」

「私はミリアムより年上」

 見回してみると、十歳にも満たない子供がほとんどだ。その中で、前の席に座る三人は年長なのか、十二、三歳に見える。

 私は日曜学校に通ったことがない。

 あの子達の年の頃、私は猟兵団にいた。それを不遇だと思ったことはない。団の皆は兄妹ではないけど兄妹のように接してくれたし、家族ではないけど血よりも濃い絆があった。

 私が一番年下だったからかもしれないけど、面倒も見てくれたし、可愛がってもらっていたと思う。

 戦闘になるといつも最前線ではあったけど。

「フィー急に黙ってどうしたの?」

「……眠くなってきた」

「うんうん、ボクもだよー。ふあ……」

 私とミリアムはうつらうつらと舟を漕ぐ。少しすると二人そろって机に突っ伏した。

 顔を伏せる寸前、ユーシスがチョークを飛ばしてきた気がするけど、眠気で意識が定まらない私には、もはやどうでもいいことだった。

 

 

 ――14:20 

 授業が終わるなり、私たちはユーシスに叩き起こされた。

 もう少し優しく起こしてほしい。そんな思いを目に込めて訴えてみると、ユーシスは「何か言いたそうだな?」と鋭い視線を向けてきた。

 こんな先生やだ。宿題忘れたら延々と説教されそう。宿題を出したことすら忘れるサラの適当さ加減も大概だけど。

 そういえば何だかさっきからいい匂いがしてる。

「はい、おやつのクッキーですよ」

 ロジーヌが焼いたらしいクッキーを子供達に配っていた。そういえばお昼食べてないし、お腹減ったな。

「ユーシス、ボク達の分は~?」

 ミリアムが手を上げてユーシスに言うと「お前らの分などあるか!」とそっぽを向く。

 ひどい先生。ここが教室だったらトラップ仕掛けるのに。扉を開けたら、挟まってた黒板消しが爆発する的な。

 そんな悪魔教師ユーシスの横から女神先生ロジーヌが「あなた達の分もありますよ」と小皿に乗ったクッキーと紅茶を手渡してくれた。

「頭を使うとお腹が減るよねー」

「ん、同感」

 またユーシスが何か言いたそうにこっちを見てる。どうせお前ら寝てたくせにとか思ってる顔だ。ユーシスに今度教えてあげなくちゃ。寝ててもお腹は減るんだよ。

「いただきま――」

「ふえええん」

 唐突に女の子の泣き声が耳に届き、私は口に運ぶ最中だったクッキーを皿の上に戻した。

 どうしたんだろうと女の子に目をやると「あ、あたしのだけクッキーが少ない~」と泣きじゃくっている。

 ユーシスとロジーヌの会話を聞くに、すぐに追加のクッキーは用意できないらしい。

 ……仕方ないか。

 私は席から立ち上がり、その子のそばに歩み寄ると、自分のクッキーを皿に入れてあげた。

「私のクッキーあげる。だから泣いちゃだめだよ」

 女の子はまだ涙の滲んだ瞳で「おねえちゃん、いいの……?」と私を見上げた。

 こういう時、委員長みたいにすぐ笑ってあげられればいいんだけど、私はいつでも笑顔になれる程器用じゃない。だから代わりにVサインを胸前で作って心配いらないことを伝えてみる。

 女の子はクッキーを一口頬張ると、すぐに泣き止み「ありがとう、おねえちゃん」と笑顔を見せてくれた。

「ん」

 おねえちゃん。もしかしたら年下の子にそう呼ばれたのは生まれて初めてだったかもしれない。少なくとも記憶にはない。

 今のはおねえちゃんらしい行動だったのかな。団にいた頃、周りは年上ばかりだったからピンと来ないけど、今みたいにお菓子を内緒でもらったりしたことはある。

 お菓子っていうか干し肉だったり、軍用レーションだったりはしたけど。それでもやっぱり嬉しかった、かな。

「ごめんね、フィーちゃん。ありがとう」

 ロジーヌが申し訳なさそうに謝ってくれた。

「別にいいよ」

 そんな時、てくてくとミリアムもやって来て「ボクのクッキーが残ってたらフィーにあげるのに。ボクも子供達にあげちゃったよー!」と無邪気に笑っていた。

「……うそつき」 

「あ、ばれた」

 ミリアムのクッキーは、もらった一秒後には口の中に入ってたし。

 

 

 ――15:00

 おやつを食べ終わった後、子供達は外で遊ぶらしい。食後に適度な運動は必要。私は何も食べていないけど。

 ユーシス達は先に礼拝堂の外に行ったので、とりあえず私も後に続こうとしたら、「フィーちゃん、ちょっと待って」とロジーヌに呼び止められた。

「なに?」

「さっきは本当にありがとう。クッキーまた焼いたから、よかったら後で食べてね」

 そう言って、ロジーヌはクッキーの入った綺麗な包み紙を手渡してくれた。

「ん、ありがと」

 さっきのクッキー、いい匂いがしてたから、ちょっと嬉しい。

 包みを制服のポケットにしまってから、改めて礼拝堂の外に出ようと思ったら、扉が開いてユーシスが子供達と一緒に戻ってきた。 

 外で遊ぶんじゃないの? 子供達の頭の上から開いたままの扉の外を見てみると、そこにはマキアスの姿が。

 また喧嘩したのかな。それならいつものことだけど、いつもの通りめんどくさい。

「……あ」

 マキアスの手にあるものを見て、私は思い出した。

 あれはガーデニングショップの苗を入れる専用筒。何回かもらいに行ったことがあるから一目でわかる。

 ジェーンの所に行くのすっかり忘れてた。でもなんでマキアスが持っているんだろう。

 もちろんあれが園芸部用の物とは限らないけど、マキアスが何か言いたげな目をして私を見ていたし、どうやら学院に向かうみたいだから、多分エーデル部長宛てで間違いなさそう。

「ふん、まったく口の減らん男だ」

 やっぱり軽く口論してきたらしいユーシスは、戻ってくるなりそんなことを言う。

「いや、どっちもどっち……」

 言いかけた私の言葉は、今日一番睨みを効かしたユーシスの鋭利な瞳に制されてしまった。 

 

 

 ――15:30 

「フィーちゃーん? 探しましたよ~、うふふふ」

 そんな声と同時に、私の肩に手が置かれた。いや、掴まれた。声の主は振り返らなくても分かるけど、それでも一応振り返ってみる。

 案の定、そこには眼鏡をぎらりと光らせた委員長の姿が。

 口元は笑っているけど、目が見えないからちょっと怖い。ずいぶん疲れているみたいだけど、そこまで必死に私を探したのかな。だとしたら少し反省。

「……つかまっちゃった」

「ふふ、つかまえました。ここに来るまで長かったですが……」

「何かあったの?」

「アクシデントです。それもとびきりの……ふう」

 ここまで疲れ切った委員長は珍しい。いつも胸前で整えられているリボンはよれていがんでいるし、赤い学院服は所々が汚れて、煤けていたりもした。一人で旧校舎散策を三往復したぐらいの憔悴ぶりだ。

 私を連れて礼拝堂の外に出ると、委員長は《キルシェ》へと向かった。ユーシスの先生ぶりを最後まで見てみたかったけど、まあ仕方ないか。

「喫茶店? ここで勉強するの?」

「ええ、オープンテラスで。たまにはこんなのも悪くないかと」

「いいと思う」

 テラスの椅子に座ると、委員長は色んな参考書や図説をテーブルの上に並べていく。

 いつも私の為に色々考えて用意してくれるみたい。ありがたいんだけど、量が半端じゃなく多いのが難点。今日も大量だ。

「はい、では始めますよ」

「あ、委員長。その前に――」

 さすがにもう限界だった。

「何か食べていい?」

 

 

 ――16:00

 実は委員長もお腹が減っていたらしく、その提案には「仕方ないですね」と言いながらも乗り気で応じてくれた。

 《キルシェ》の名物メニューであるスペシャルピザを二人で完食した後、改めて参考書を開く。

「お腹いっぱいで眠気が……」

「寝ちゃったらタバスコでいたずらしちゃいますよ?」

「それは……やめて」

 委員長の冗談は分かりにくいけど、最近は本気かどうか何となく分かるようになってきた。ちなみに今のは割と本気だ。タバスコで何をされるのか想像できないけど、とりあえず何もされたくない。

「導力は採掘された七耀石から生み出されて、七種の属性に分かれます。その特性は――」

「ふあ……」

「うふふ、フィーちゃん?」

 委員長の手がタバスコに伸びる。起きるからやめて。とりあえずタバスコの瓶を委員長から遠ざけた。なんか今日の委員長攻撃的。

 でも実際の所、委員長がこうやって勉強見てくれるから、何とかⅦ組のカリキュラムに付いていけてる。実技はともかく座学はさっぱりだし。今日の子供達みたいに日曜学校に行っていたわけじゃないから、一般科目の基礎知識は他のⅦ組の皆より多分乏しい。

 戦闘における常識や戦場の機微は、下地がある分理解しやすいけど、導力学や歴史は正直だいぶしんどい。だって今までの人生で必要なかったし。

 導力の仕組みを理解しなくても敵を倒すことはできるし、国の成り立ちを知らなくても今日一日を生きることはできる。国家の情勢やパワーバランスは意識するけど、まずは国の過去より自分の明日だった。

 武器の手入れ、火薬の扱い、毒草の見分け方、星の位置から方角の割り出し、太陽を使った時刻の把握。

 全て生きるために必要な技能だ。

 普通の人が普通に生きるための知識なんて、私には必要のないもの。そう思っていた。

 例えば、花を育てる方法、だとか。

「起きてますか? フィーちゃん」

「ちゃんと聞いてるから」

 参考書から目を離して、委員長に視線を上げる。委員長はにこりと笑って「じゃあ問題です」と自分のノートをめくった。

「導力革命が起こったのは何年前?」

「三十年前……くらい?」

「うふふ」

「タバスコは……だめ」

 ユーシス先生より厳しい。エリオットが音楽に対して妥協しないように、委員長も勉強に関しては結構容赦がなかったりする。

 それでも委員長はわかりやすく教えてくれて、私も珍しく眠らずにペンを動かすのだった。

 まあ、昼寝もしたし、礼拝堂でも寝たしね。 

 

 

 ――17:30 

「疲れた」

「今日はフィーちゃん、頑張りましたね」

 予習と復習をしっかりやるように言われたけど、委員長は毎日やってるのかな。前の試験は総合一位だったし。マキアスが試験結果の張り出された掲示板の前で、石像みたいに固まってたっけ。 

「それじゃあ、今日はここまでに……あ」

 中央公園に目を向けた委員長が、何かに気付いた。

 私もその方向に視線を合わせる。こっちに向かってガイウスが歩いてくるところだった。その後ろに見慣れない男の子と女の子を連れて。

「あら、ガイウスさん」

「ん、勉強中」

 勉強はもう終わりだけど。ガイウスもラウラとの用事は済んだみたい。

「ガイウスさん、その子達は?」

 委員長も後ろの二人が気になった様子で、ガイウスに聞くと「ああ、実は――」と簡単に経緯を説明してくれた。

 トリスタ駅前で道が分からなくなっていた兄妹だけど、あまり自分達の事を話さないので、とりあえずガイウスが町の案内がてら面倒を見ている、といった感じ。

 相変わらずだけど、Ⅶ組にはお人好しが多い。筆頭はもちろんリィンだけど、ガイウスも委員長も、意外にアリサとかもその傾向がある気がする。頼まれたら何だかんだで断れないタイプかな。

 リィンに関しては関係ないトラブルまで自分から拾いに行く変なところもあるけど。

「ん……」

 ガイウスの後ろ二人を見てみると、男の子はともかく、女の子は人見知りなのか、お兄ちゃんに隠れて怯えているようだった。

 おもむろに委員長が椅子から立ち上がる。その子の前にいくと、そっと頭を撫でてあげた。

「お母さんに会いに来たんだ。えらいえらい」

「……あ」

 女の子は安心したように頬を赤らめてうつむいている。でもまだ少し緊張しているみたい。

 そうだ。自分のポケットの膨らみに気付いて、私はそれを取り出した。

「ん、クッキーあげる」

 ロジーヌからもらったクッキーだ。正直、ちょっと食べてみたかったんだけど仕方ない。

 女の子は戸惑っているみたいだったけど、私の渡したクッキーを一口かじった。

「これ、おいしい」

 食べるなり、今まで無口だった女の子が口を開き、初めて笑った。残りのクッキーもあっという間に口の中に消えていく。

 そういえば礼拝堂の時も女の子が一瞬で泣き止んでたし、ロジーヌのクッキー、スペック高すぎ。 

 クッキーの効果なのか、少し気を許したらしい男の子がガイウスに目的の場所を伝えていた。この後、学院まで行くことになったらしい。

「俺たちはそろそろ行くとしよう」

 ガイウスが二人を引き連れ、学院へと向かう。去り際に女の子は「おねえちゃん、ありがとう」と小さく手を振ってくれた。

 手を振り返す私を、委員長が優しげな表情で見ている。

「フィーちゃん、お姉さんでしたね」

「別に。クッキーあげただけだけど」

 礼拝堂の時と一緒だ。クッキーを渡しただけで、お姉ちゃんだとは思えない。そんなことを思っていたら「違いますよ」と委員長が笑った。

「ほんとはフィーちゃんもクッキー食べたかったんでしょう? でも自分は後回しにして女の子に渡してあげたんですから、それはあの子にとって優しいお姉ちゃんですよ」

「……よく分からないけど」

 そうなのかな。でもそう言う委員長も自分の時間を削って、私に勉強を教えてくれている。だとするなら、私にとって委員長は優しいお姉ちゃんということか。

 ふと思い至って、少しだけ胸の奥が暖かくなった。同時にやっぱり反省。

「今日図書館に行かなくてごめんね」

 ちょっとだけ意外そうな表情を浮かべた委員長は「いいんですよ」と首を横に振った。

「私も色々寄り道して、思い返すことがありましたから」

「何が?」

「ふふ、秘密です」

 出た。委員長の秘密。でも今日の秘密は軽い感じ。私には委員長がいつもより明るく笑っているような気がした。

「委員長はお姉ちゃんっていうより、お母さんって感じだよね」

「お、お母さん!?」

「じゃあ、お父さんは誰になるんだろ? やっぱり――」

「フィーちゃん! フィーちゃん!」

 耳まで真っ赤にした委員長はグラスの水を一気に飲み干した。

「そ、そろそろ行きましょうか。今度は時間通りに来て下さいね、探し回るのは……何かとトラブルが付きまとうので……」

 最後に言葉を濁したのは何でかわからないけど。

 だけど委員長は頭いいけど、どこか天然というか。

「いつも思うんだけど、《ARCUS》で連絡したらいいんじゃない?」

 委員長の動きが静止し、しばらくすると「ふうう」と息を深く吐きながらテーブルに額を付けた。

 委員長も何かと大変なんだね。

 

 

 ――18:00 

「あらあら、フィーちゃんいらっしゃい」

「ども」

 麦わら帽子のリボンを風に揺らしながら、エーデル部長が花壇で微笑んでいる。委員長よりもお母さんな人がそこにいた。

 委員長との勉強が終わって、私は園芸部の用事でもう一度学院まで来ていた。日差しもずいぶん和らぎ、風にも涼しさを感じる。外での作業には丁度いい気温だ。

「今日はね、新しい花の苗を植えるの。何でか分からないけど、さっきマキアスさんていう男の子が苗を持ってきてくれたわ」

「ん、知ってる」

 やっぱりマキアスが持ってきてくれたんだ。その辺の詳細を聞かずに苗だけ受け取るあたり、さすがエーデル部長。

「それじゃあ、苗を植えましょうか。今日はヴィヴィちゃんが二人いるから助かるわ」

「え?」

 花壇の奥に目をやると、薄ピンク色の髪の女子生徒が二人揃って、土を運んだり、水を撒いたりしている。

 髪型がどちらも同じなので、片方は髪を下したリンデだろう。そういえば昼前にあった時、二人はエーデル部長を驚かすとか言ってたっけ。

 どっちがヴィヴィか分からないけど、とりあえず近くにいる方に寄って声を掛けてみた。

「ねえ、驚かすって言ってたのどうなったの」

「あ、フィーちゃん。それが聞いてよ」

 話しぶりからして、どうやらヴィヴィだ。

「エーデル部長の前にリンデと二人で立ってみたんだけど、部長ってば驚くどころか『まあ、ヴィヴィちゃんが増えたわ』とか言って、当たり前のように仕事を割り振ってきたのよ」

「部長……すごいね」

「私は“こっちのヴィヴィちゃん”でリンデは“あっちのヴィヴィちゃん”て呼ばれてるんだから!」

 “あっちのヴィヴィちゃん”ことリンデは「なんで私が~」とかぼやきながら花壇に水を撒いている。

「あんまり水あげ過ぎちゃダメだから」

「うう……了解です」

 リンデの方がお姉ちゃんなのに、妹のヴィヴィに振り回されてる。姉妹の形も色々なんだ。

 私はエーデル部長と一緒に新しい苗を植えることになった。

 一度掘り返して柔らかくなった土に、苗を一つずつ丁寧に植えていく。作業自体は単調だけど、エーデル部長は鼻歌交じりで楽しそうだ。

「部長は花や野菜を植えるのが好きなの?」

 私がそう聞くとエーデル部長は「育てることが好きなんです」と手は休めずに答えた。

「お野菜もお花もね、お店で売ってるものだけ見ると、初めからそういう形のものだって勘違いしそうになってしまうんですが、でも誰かが小さな苗や球根から手間暇をかけて作って下さったものだと思うと、温かい気持ちになれるんですよ」

「それは……」

 なんとなく分かる。花を育てて知った。

 花は日に当たりすぎても、水をあげ過ぎても枯れてしまう。当たり前のように道端に咲いている花は、たまたまその場所の環境がよかっただけで、実際はつぼみにすらならず枯れていく花の方が多い。

 そんな道端の花なんて園芸部に入るまでは気に留めたことすらなかった。それどころか、少し前までは平然と踏み歩いていただろう。

 植物は食用かそうでないか。毒性があるか薬効があるか。そんな認識しかなかった。

「そうやって自分が一生懸命作ったお花やお野菜を、誰かに渡して喜んでもらった時が一番嬉しいんですよ」

「誰か?」

「誰でもいいですよ。友達、恋人、家族、仲間。フィーちゃんには自分が育てた花をあげたいと思う人はいるかしら?」

 私は少し考える。でも答えは出ていた。

「いるよ」

 最後の苗を植える。

 手がかかるのに、花を育てることは、めんどうじゃない。

 エーデル部長も持っていた苗を植え終わり、後は片付けをするだけ……なんだけど。

「ちょっと休憩」

 今日は頭を使いすぎて疲れた。中庭のベンチに座って一休みだ。

「……ふあ」

 やっぱり眠気が襲ってきた。あれだけ昼に寝ても足りないみたい。そういえばここは、今日昼寝したのと同じベンチだ。

「花をあげたい人……か」

 私が花を育ててるなんて知ったら、団の皆はどう思うかな。……もし生きていれば団長も。

 今、私が花をあげたいと思うのは、やっぱり仲間の皆。家族とは……少し違うけど、この場所は猟兵団にいた頃とは別の心地良さがある。

「ふああ……」

 ああ、そうか。いつでもこんな風に眠れるようになったのは――

 一人じゃなくなってからだ。

「………」

 もし皆が家族だったらどんな感じだろう。サラがお母さんだとして、クロウが遊んでばかりの長男。ガイウスがしっかり者の次男。ユーシスとマキアスはケンカばかりの三男、四男で、その下に仲裁役のリィンとエリオットがいる感じかな。

 女子は……エマが皆に優しい長女、ラウラはまとめ役の次女。アリサは……反抗期の三女? その下に私がいてミリアムがいる。

 それは、賑やかで……楽しそうだね。

「あー、部長。フィーちゃんこんなところで眠ってますよ」

 ヴィヴィ? リンデ? まだ起きてるよ。もう目は開かないけど。

「あらあら、でもいい夢見てるみたいだし、片付けが終わるまでそっとしておいてあげましょう」

「なんでいい夢ってわかるんですか?」

 意識がまどろみに沈む寸前、最後にエーデル部長の優しげな声が聞こえた気がした。

「だって、フィーちゃん笑っているもの」

 

 

 ~FIN~

 

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。今回はフィーの一日でした。
前回のエマ編はドカーンな回だったのでフィー編はおとなしめに……という意図はなかったのですが、結果として一番平穏な一日になりました。
フィーは生い立ちのこともあるのか、一人でいるところをよく見ますので、今回は日曜学校の子供達、クレイン兄弟、双子姉妹と家族を感じられる人達との接点が多くなっています。そもそもフィーは愛想が少ないだけで、冗談も言うし、人付き合いもそんなに悪くないですからね!
余談ですがフィーにセプターつけて敵陣ど真ん中でSクラフト。セピスを稼げや稼げで重宝した方も多いのではないでしょうか。次作でもがっつり財布事情を助けて欲しいものです(笑)
さて一日シリーズも詰めに入ってきました。次回の『そんなⅦ組の一日』はエリオットです。といいますか、ここまできたらエリオット→アリサ→リィンの流れに自然に落ち着きますよね!
次回もお楽しみにして頂ければ幸いです。





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そんなⅦ組の一日 ~エリオット

9月12日(自由行動日) 10:00 エリオット・クレイグ 

 

 

 朝食後。自室に戻るなり僕はさっそくバイオリンを手にした。これはもう習慣だ。

 リィンは剣を学ぶことを好きとは言わず、あるのが当たり前、自分の一部だと教えてくれたことがある。剣のことは分からないけど、リィンの言葉は理解できた。

 それは僕が音楽に抱いている気持ちと同じだったからだ。

 あって当たり前。

 僕の家は音楽一家だった。亡くなってしまった母さんも、最近ますます母さんに似てきた姉さんも、音楽と共に生きている人だ。もちろんそんな環境で育った僕も。

 父さんは職業軍人だけど、音楽にも理解がある。母さんや姉さんが演奏する曲を、いつも機嫌よく聞いていたし、僕が音楽を習うことを咎めたりもしなかった。

 ただ本格的に音楽を学び、僕がそういった専門の道に進むことだけは、最後まで首を縦には振らなかったけど。

 オーラフ・クレイグ。それが僕の父さんの名前だ。

 階級は中将で、率いる部隊は帝国軍最強と謳われる第四機甲師団。軍務につく人間ならその名を知らない人はいなくて、猛将、“紅毛のクレイグ”なんて呼ばれている。

 僕とは正反対だ。唯一の共通点は髪の色くらいかな。

「さて、と」

 弓を持ち、弦を弾く。

 いつもと変わらない音色。今日は天気もいいし、湿度も少ない。音の伸びやかさも上々だ。

 ただ何気なく弾いているだけだから楽譜は別に必要ない。思うままに音色を奏でることが、僕は楽しい。

「………」

 父さんとは先月末、ガレリア要塞への実習で久しぶりに顔を合わせた。軍服姿の父さんは少し緊張したけど、でも話してみたらやっぱり普段の父さんだった。むしろ普段過ぎて恥ずかしいくらい。

 それでも父さんは何だかんだで、僕に帝国男子らしくあって欲しいというのが本音みたいだ。

 強く、誇り高く。

「………」

 その言葉で、直感的に僕が思い浮かべるのはラウラとガイウスだった。

 強さはもちろんなんだけど、ラウラは貴族としての自分に誇りを持ち、ガイウスは故郷そのものを誇りに思っている。

 二人の生き方や言動を間近で見てきて、僕は強さも誇りも、その定義は人によって違うと知った。

 なら僕にとっての強さって、誇りってなんだろう。

「エリオット」

「うわあ!?」

 まったくの不意打ちに声をあげ、思わずバイオリンが顎置きからずれ落ちてしまうところだった。

「ラ、ラウラどうしたの?」

 まだ荒い呼吸のまま部屋の戸口に目をやると、そこには腰に手をあてたラウラが立っていた。

「驚かせたのならすまない。扉が開いていたのでな。それでもノックはさせてもらったのだが、演奏に夢中で気づかなかったようなので声をかけさせてもらったのだ」

「ううん、こっちこそごめん。何か用だった?」

「ふむ、エリオット。そなた今日は空いた時間があるか?」

 なんだろう。嫌な予感がする。予定がないことはないんだけど。

「えっと、今日は夕方から吹奏楽部の練習があるんだけど」

「では昼は空いているのだな」

 会話に無駄がない。そう言われてしまうと否定もできない。

 わずかにとまどった僕の無言を肯定と受けとったラウラは「なら、十二時に水着持参の上、ギムナジウムまで来るがよい」と、どこか嬉しそうな様子で言う。

 もう口調が決闘を申し込む騎士のそれだ。

 何の用か聞いてみたけど「来れば分かる」とだけ言い残して、ラウラは立ち去ってしまった。

「一体何なんだろう……?」

 検討も付かない。とりあえず大変な何かに巻き込まれたことだけは直感で分かった。

 

 

 ――10:30

 簡単に身支度を整えた後、僕は自分の部屋を出た。

 約束の時間には早いけど、少しブックストアに用事があったので、学院に向かう前に寄って行こうと思っていた。

 階段に向かう途中、奥の部屋から誰かが出てくる。

「あ、リィン」

「エリオット? どこかに出かけるのか」

 リィンは額の汗をタオルで拭っていて、よく見れば息も上がっている。

「うん、ちょっとね。というかリィンすごい汗だよ。もしかして剣の稽古してたの?」

「ああ、まあ習慣みたいなものだからな」

 習慣。やっぱり僕と同じだ。それをわざわざするとか、時間を割いてとか、そういう感覚じゃないんだ。

 僕は楽器を、リィンは剣を。手にしているものは全く違うけど、根底にあるものは同じなんだと思う。

 ……いや、それは少し違うかもしれない。さっき父さんのことを思い出してから、どうも心に引っ掛かるものができてしまった。できたというより、思い出したという方が正しいか。

 気付いた時、僕は心に呟いたはずの言葉を口に出してしまっていた。

「リィンはさ、強いよね」

「エリオット?」

 きょとんして、リィンは僕の顔を見返した。

 脈絡のない言葉に困惑しているかもと思ったけど、僕がもう一度口を開く前にリィンは苦笑した。

「そんなことはないさ、まだまだ修行中の身だしな。それに俺からしたらエリオットの方が強いと思うぞ」

「ええ!?」

 そんなことはありえないよ。例えば僕が魔導杖で魔獣を全力殴打したら、こっちの腕がへし折れる気がするし。

「単に戦闘力の事じゃないさ。心の話だ」

「あはは、それこそありえないよ」

 そう、それが引っ掛かりだった。僕とリィンの根底の違いが全てを表している。上手く表現できないけど、一番近い言葉は信念だと思う。僕は音楽が好きだし、その道に進みたいという気持ちは本物だ。

 ただ、気持ちがあっても、行動を貫き通すことは出来なかった。

 父さんの反対を押し切る道もあったと思う。だけど僕はそこまではせず、妥協という形でトールズ士官学院に入学した。

 以前ヘイムダルに実習で行ったメンバーには伝えたことがあるけど、もちろんこの学院に来たことを後悔はしていないし、むしろ今となっては良かったとも思っている。

 それでも――何かをしたくて、強い気持ちを持ってここに来たわけじゃないのは事実だ。

 軍関係の学校に行くこと、音楽からは離れたくないこと。父さんと僕の食い違う希望をすり合わせた場所が、ここだったんだ。

 入学から半年経った今、Ⅶ組としてではなく、僕個人としてこの学院で何をしたいのかと問われたら、きっと未だに答えることはできない。

「何かあったのか?」

「大したことじゃないんだ。気になったことをつい考え込んだだけで」

「……それならいいんだが」

「僕はそろそろ行くよ。話を聞いてくれてありがとう」

 それでもリィンは気を遣ってくれたみたいで、階段に向かう僕を引き留めた。

「何なら今度一緒に座禅でもやってみるか? 心も鎮まるし、考えも定まってくるぞ」

「うん、考えておくよ」

 座禅っていうのは、東方に伝わる精神統一の一つだったかな。そういった修行とかは今まで縁遠い感じだったけど、試しにやってみてもいいかもしれない。

 そういえばリィンは自分の流派から、形式上は破門になっていたはずだ。それでも剣を持ち続けることに葛藤はあったと思う。

 ケルディックで彼が言った、“自分を見つける為”という言葉と、剣の道がどこかで重なるものなのかは分からないけど。

 悩みながらも前に進むリィン。悩んでしまって後ろを振り返る僕。

 僕は、僕にない“強さ”が少し羨ましい。

 

 

 ――11:30

 ブックストア《ケインズ書房》。ジャンル毎に立ち並んだ書籍に目を通しながら、僕は目当ての本を探していた。

 学術書や参考資料なんかは学院の図書館で事足りるんだけど、それ以外となるとやっぱり書店を頼るしかない。

「うーん。どこにあるんだろう?」

 Ⅶ組の中でブックストアをよく利用しているのは委員長とマキアスだ。出かける前に大体の場所くらい聞いておいた方が良かったかもしれない。ちょうどマキアスは一階でチェスを指していたようだったし。

「えーと、これかな」

 店主のケインズさんに場所を聞こうかと思った矢先、本棚の一角に目当ての本を見つけた。

「あ、エリオット君?」

 聞き覚えのある声に視線を向けると、髪を左右二つにまとめたお団子頭が視界に入る。とっさに本棚へと伸ばしていた手を引いた。

「や、やあ、ミント」

 同じ吹奏楽部の一年でフルート担当、小柄な僕よりさらに一回り小さい女子生徒だ。

「エリオット君がブックストアにいるなんて珍しいね? それもこんな朝早くに」

「う、うん。ちょっとね。というか十一時半はもう朝とは言わないよ」

 自由行動日のミントはどれだけ寝ているんだろう。フィーといい、もしかして体が小さな人程、睡眠を取るものなのかな。ああ、でもそれなら僕が該当しないか。

 取り留めもなくそんなことを思っていると、ミントが「あー!」と声を上げ、続いて意味ありげな笑みを向けてきた。

 ミントの声に驚いたのか、ケインズさんがカウンター越しにこっちを見ている。

「そっかー。エリオット君も男の子だもんね? そういう本も買うよね?」

「へ?」

「私も実家のお父さんの部屋でさ、そんな本を見つけちゃって。しかもうっかり片付け忘れて、お母さんがそれを見つけて大変だったんだから」

 ミント、何か勘違いしていない? それよりもミントのお父さん……

「すごい怖い顔でお母さんが詰め寄ったら、お父さんは帝国男子の嗜みとか言うし。あはは、食器が投擲器になったの初めて見たよ。今となってはいい思い出だけどね」

 笑えないし、多分お父さんにとってはいい思い出ではないと思う。

 僕の父さんとはずいぶん違う。もし父さんが母さんや姉さんとそんなケンカになっていたら、うちの場合は楽器が宙を舞うのかな。

 グランドピアノVS紅毛のクレイグ。たぶんピアノが勝つんだろうな。

「そういえばエリオット君のお父さんって、軍で猛将って呼ばれてるんだよね」

「う、うん。ミントも知ってたんだ」

「有名な人らしいからね。知ってる人は知ってるみたいだよ」

 らしい、ということはミントもどこかで聞いたレベルのようだ。

 正直、父さんと比べられるのは肩身が狭いので、自分からはあまり言わないんだけど。でもクレイグの名前から、察せられることもあるのか。父さんの部下にあたるナイトハルト教官と話す姿も、その一因だったりするのかもしれない。

 ミントはこほんと咳払いしてから続けた。

「だからね。猛将の血を引くエリオット君だから、そんな本を買っても不思議じゃないんだからね?」

「え、いやいや、ミント? 違うよ、僕は――」

「いいの、何も言わないで。私も何も言わない。私は小説の新刊買いにきただけだから。あ、今日は吹奏楽部の練習もあるもんね? また夕方にね。エリオット君が猛将だってことは二人の秘密だからね?」

「ちょっと話を聞いてよ!」

 ミントは言いたいことだけをまくし立て尽くすと、早々に会計を済ましてブックストアから出ていってしまった。

 最後まで僕をちらちらと何度も横目で見ながら。

 僕が猛将ってどういうことさ。後で誤解を解いておかないと。

「……はあ」

 ため息が漏れる。そもそも僕が今ブックストアにいるのはミント、君の為なのに。

 改めて、目当ての本を棚から手に取った。

 タイトルは『分かりやすい指導の仕方』と『初心者から始めるフルート演奏』の二つ。

「まあ、こんなところかな」

 もうすぐ吹奏楽部の定期演奏会があるのに、ミントのフルートパートのミスがどうしても目立っている。

 彼女も頑張っているし何とかしたいんだけど、僕もフルートの指導には余り慣れていない。

 少しでもかみ砕いて教える為に、今日は参考になりそうな本を探しに来たんだ。

 それなのにミントは盛大な勘違いをしてしまった。誰にも言わないっていうし、誤解が広がることはないと思うけど。

 二つの本を重ねてカウンターまで持っていくと、妙に神妙な面持ちのケインズさんが「待っていたよ」と静かに口を開いた。

「え、はい。お会計お願いします」

 無言のケインズさんはカウンターの奥から、本を入れる袋を取り出した。どういうわけか、いつもの白い袋と違う真っ黒い袋だ。 

「袋、変わったんですか?」

 ケインズさんは首を横に振った。

「この袋はね。外からは絶対に透けて見えないようになっている。いわゆる紳士の為の袋さ」

「はあ」

「これを手に、胸を張って大通りを歩くといい。君は……猛将なんだろう?」

「は!?」

 ケインズさんまで誤解している! 猛将ってそういう代名詞なの!? 

「最近の軟弱者は知り合いに見られるのが恥ずかしいなどと言って、わざわざヘイムダルまで行く輩も多いのに、君のその堂々たる立ち振る舞いたるや、まさに誇り高き帝国男子の象徴。猛将の二つ名に恥じないものだ」

 こんなことで誇り高いとか言われてしまったら、ラウラやガイウスの誇りはどうなるの。

「ち、違いますよ! あれはミントが勝手に言っていただけで、僕はこの本を買いに来たんです」

 カウンターに重ねた二つの本に目を落とすと、ケインズさんは不敵に笑った。

「皆まで言わなくてもいい。だが猛将にしてはいささか弱腰じゃないか。一見して普通の参考書の間に、目当ての本を挟むなどと――」

 そう言ってケインズさんは上段にある本を手に取った。

「な、なに……?」

「いえ、その二冊だけなんですけど……」

 驚愕の様子で目を見開いたケインズさんは、何度も本の裏表を見返した。

 さらに何度も何度も本と僕の顔を交互に見て、ずいぶん長く黙考した。

「ははは、済まなかった。早合点したみたいだ」

「いえ……それは構いませんが」

 だったら何で、僕の本は黒い袋に詰められているんだろうか。

「ぜひまた来て欲しい。その袋は君の前途に対する先行投資だと思ってくれて構わない」

「あの……」

「君に資格があるのなら、裏ケインズ書房は自らその扉を開くだろう。若き獅子の帰還を待っているよ」

 裏ってなんだろう。僕は返答を濁しながら、ブックストアを後にした。よく分からないけど、しばらくこの店には入らない方がいい気がする。

 程なくして、黒い袋を手にぶら下げた僕の眼前には、いつもと変わらないトールズ士官学院の正門があった。

 どことなく不穏な空気を感じたけど、意を決して門をくぐる。

 女神様、どうか今日も平穏な一日でありますように。

 

 

 ――16:00

 ……正門だ。

 変だな。さっき正門をくぐったと思ったんだけど、気が付いたら夕方の日差しだし、何だかずいぶん時間が経っているような。

 それに体中が余すところなく痛い。昼の事を思い出してみようとすると、乾いたムチの音と誰かの高笑いが脳裏に反響して、まるで周波数の合わない導力ラジオのようなノイズ音が僕の思考をかき乱す。

 ラウラに呼ばれて、ガイウスに会って――ああ、だめだ。思い出せない。

 僕は今からどこに行くんだったっけ。

 それは覚えている。この後は吹奏楽部の練習があるんだ。だから音楽室に行かないと。

 ミントにフルートの演奏を教えてあげないといけないしね。でも買った本はまだ読んでないや。

 ……あれ? 本を買ってから今まで時間はあったはずなのに、何で僕はまだ本を読んでいないんだ。

 どうにも言うことをきかない体と、霞がかって定まらない思考を引きずって、僕は本校舎の扉を開いた。

 

 

 ――16:30

「やあ、エリオット君遅かったね」

 音楽室に入ると、ハイベル部長が声を掛けてくれた。丸眼鏡をかけて温和そうな見た目だけど、音楽に対する熱意は人一倍あって、僕も尊敬している。

「君はいつも来るのが早いから、少し心配してしまったよ」

 集合時間を過ぎてしまったみたいだ。ハイベル部長に頭を下げて、手荷物を教室の端に置く。

「エリオット君……?」

 ハイベル部長が不思議そうに僕を見る。何か顔に付いていたのかな。

 パート毎に並べられた楽器の間を通って、僕は自分の椅子へと向かう。

 楽器の配置は部員の皆で済ませてくれたみたいだ。自由行動日の自主練習にも関わらず、十人近い部員がそろっている。これなら十分演奏できるし、選曲の幅も広がる。

 あとで遅れたことは謝っておかないと。

「エリオット君、待ってたよー」 

 椅子に向かう途中、フルートパートの前列に座っていたミントが手を振ってくる。

 普段なら手を振り返すぐらいはするんだけど、何だか今はすごく全神経が集中している感じだ。軽い会釈だけして、僕はミントの横を通り過ぎた。

「ほええ?」

 間の抜けた声が耳に届く。ごめんね、いい集中具合だから途切れさせたくないんだ。

 椅子に座って、自分の楽器のコンディションを軽く確認する。

 吹奏楽にチェロやバイオリンは基本使用しない。ただ例外として唯一使われる弦楽器がある。フォルムはバイオリン、でもその大きさは二回りは大きい――それが僕が担当するコントラバスだ。

 楽曲にもよるけど、コントラバスはソロパートもある上に音量を上げるのが難しいから、自分で言うのも何だけど、多分この部で僕以外には扱えないと思う。

「はい、皆さん集まっていますか?」

 演奏準備が整ってまもなく、顧問のメアリー教官が音楽室の扉を開いた。

 普段から演奏の指揮はメアリー教官が取ってくれることが多い。教官はタクトを片手に指揮者の位置に立つと「がんばりましょうね」と、楽譜とにらめっこをするミントに微笑みかけた。

「えへへ、はーい」

 そう言うミントだけど、すでに吹き口を反対にしてフルートを持っている。

「ミント君、フルートの向きが逆だ」

「あ」

 僕が指摘する前にハイベル部長が教えてくれた。ミントは焦ってフルートを持ち替える。周りの部員はいつものことながら笑っている。

 この雰囲気が好きだ。真剣に吹奏楽に取り組みながらも、学生らしい楽しさや明るさがある。

「ふふ、それでは始めましょうか。曲目は――」

 メアリー教官がタクトをしなやかに振り上げ、僕はコントラバスの弦に弓を添えた。

 

 

 ――17:00

 各パートの音域を確かめながら、ウォーミングアップ代わりの曲をいくつか演奏する。

 まだ準備運動といったぐらいなのに、ミントはもう精一杯のようだった。

 指が追いつかず音がずれ、焦って楽譜を見間違って音も違う。それでも前よりはずいぶん上達しているんだけど。

「ミントさん、ここをこの様に指で押さえて――」

「うう、ごめんなさい」

「なに、一つずつ出来るようになればいいさ」

 メアリー教官とハイベル部長が交互に指導に入っている。中々うまくいかないみたいだ。

 何気なくミントの様子を見ていて気付いた。ミントは指の位置は悪くないけど、腕の角度がよくない。あれじゃすぐに疲れてしまう。

 部長達の横から口を挟むのは少し気が引けたけど、ミントの為だしやっぱり言っておこう。

「ふむ、少しよいか。ミントの腕の位置なのだが」

 僕が口を開いた途端、なぜか音楽室に流れる空気がピシッと音を立てて凍った気がした。

「え、エリオット君……? 今なんて」

 ハイベル部長には聞こえにくかったのかな。

「ミントの腕の位置の話です。ミント、その持ち手では腕が疲れて一曲保たんのではないか?」

 ミントは僕を凝視したまま固まっている。他の部員たちも同様だった。

 僕はそんなに変な事を言ったんだろうか?

 硬直していたミントの口がパクパクと動き「エ、エ、エ……」と震えた声が聞こえてきた。

「エリオット君が猛将になっちゃったー!」 

 な、何が? ていうか猛将って!?  

 ハイベル部長が駆け寄ってきて僕の両肩をがしっと掴む。今まで見たことがないくらい焦燥と戸惑いに満ちた表情で、眼鏡も蒸気に曇っている。

「エリオット君! 何か辛いことがあったのかい!? すまない、僕が至らないばっかりに……」

 言葉を詰まらせるハイデル部長の脇からミントも出てきた。

「わ、私がちゃんとできないから、だからエリオットくんが……」

「いや、だからミント、そなたの腕の位置が――」

「ふええ、そなたって何ー!?」

「落ち着けミント君、きっとソナタ形式のことだ!」 

 何だか大変なことになっている。事態の収拾を求めてメアリー教官に視線を向けると、彼女は窓際に立ち尽くして空を見上げていた。 

「女神よ。私の力不足でエリオットさんがおかしくなってしまいました。……ぐす」

 メアリー教官の頬を伝う一滴の涙。一体どうなってるんだ。

「何が原因でエリオット君が……」

「ああーっ!」

 うなだれるハイベル部長の横でミントが大声を上げた。彼女が指さした先にあったのは、僕が音楽室の隅に置いた《ケインズ書房》の黒い袋。

「あ、あの袋はもしかして……今日エリオット君が買ってたいかがわしい本!?」

「な、なんだとおっ!?」

「ああっ! 女神よ!」

「猛将がここにいるぞー!」

 他の部員たちも絶叫し、しかしそこは吹奏楽部らしいのかどうなのか、自分の楽器に今の心情をそのまま叩き込んでいる。

 楽譜が宙を舞う。

 ホルンやトランペットが音ならぬ唸りを上げ、ティンパニやドラムは16ビートのリズムを激しく打ち鳴らす。

 高音域のフルートに至っては、窓が震えるほどの怪音波を放っていた。

 混乱というより、もはや混沌の音楽室だ。

 叫ぶハイベル部長。

「きっと僕が演奏会直前に腕を怪我したりしたからだ。それがエリオット君の心労になったに違いない!」

「それは、そうかも!」

「後輩の立場的に一応そこは否定しとこうよ、ミント君!」

 これはどう収拾をつけたらいいのかわからない。そもそも何でこんな事態になっているんだろう。

「こ、こうなったら」

「ミント君!?」

 ミントが僕の黒い袋に向かって走り出した。

「あのいかがわしい本を捨てて、エリオット君を元に戻さなきゃ!」

「待つんだ、ミント君! 女性がそれを手にしてはいけない。その本は僕が適正に処分する!」

 焦っているらしいハイベル部長はミントを追いかけた。そして僕の黒い袋を手にしたのは、二人ほぼ同時だった。

 左右の取っ手をそれぞれが掴み、お互いに渡すまいと引っ張り合っている。

「離したまえ。僕は部長としてエリオット君を元に戻す義務がある」

「んんー! 私がエリオット君を何とかしますから、部長こそ手を離してくださいぃー」

「そうはいかない。君に有害図書を見せるわけにはいかないんだ!」

「そんなこと言って、部長が見たいだけなんじゃないですか?」

「そ、そんなわけないだろう!」

 二人の力に耐え切れず、袋が中心から裂けてしまった。裂け目から二冊の本がばさりと床に落ちる。

「な、二冊も!? 昼間から猛り過ぎだろう!」

「ほえ!? 早く布か何かで覆わないと!」

 言いながら落ちた本に手を伸ばした二人。

『え?』

 表紙とそのタイトルが目に入ると、そろって動きを止めた。

 彼らの挙動に合わせるように、鳴り響いていた周囲の不協和音もピタリと止まる。なんなの、このミュージカル的な演出感。 

「これは……『分かりやすい指導の仕方』に――」

「えーと『初心者から始めるフルート演奏』……?」

 部長とミントの視線が僕に向く。

 内緒にしておくつもりだったのに、見つかっちゃったよ。

 本を拾い上げたミントは、僕の前に戻ってきた。

「もしかしてエリオット君……私の為にこの本を買ってくれてたの?」

 僕はうなずいた。ミントに遅れてハイベル部長も戻ってくる

「自分のパートだけじゃなくて、ミント君の演奏にまで気をかけていたなんて……」

 それはそうだよ。吹奏楽は一人じゃできないんだ。

 僕は楽器を弾くこと自体も好きだけど、奏でた音色が重なり合って、調和して、一つの音楽に変わる瞬間が何より楽しいんだ。

「えへへ……ありがとうエリオット君。たくさん練習して、もっともっとフルートを上手に吹けるようになるからね!」

 ミントは満面の笑みを浮かべてくれた。

 その屈託のない笑顔を見て、ずいぶん久しぶりに安らいだ気持ちになる。心まで軽くなった気がした。

「うん、僕もいつでも練習に付き合うからね。がんばろう、ミント」

 そう言ってミントに笑い返す。

「あ……!」

 彼女は部員の皆と顔を見合わせた。そして、

『も、戻ったー!!』

 部長とミントが叫び、教官は「女神よ……」と、また空に祈りだす。

 今日のメアリー教官、そればっかり言っているような。

 トロンボーンとホルン、トランペットがやたらと荘厳なファンファーレを全力で奏で始めた。

「あはは……何これ?」

 ミュージカルのフィナーレみたいになってるんだけど。

 状況はさっぱり飲み込めないけど、とりあえず大団円ってことでいいのかな。

 

 

 ――18:00

「よいしょ。これで終わり、と」

 演奏用に配置した椅子を元の場所に戻し、楽譜を束ねて棚の中にしまう。

 来るときに少し遅れてしまったし、どうやら僕が原因で練習を中断させたようなので、部長に頼み込んで一人で後片付けをさせてもらっていた。部長は気にしなくてもいいと言ってくれたけど、僕がどうしても譲らなかったので、やむなく折れてくれた形だ。

「ありがとうございます、エリオットさん」

 一段落したところでメアリー教官が音楽室に入ってきた。鍵は教官が持っているので施錠の為だ。

 一通り音楽室を見回したメアリー教官は、くすりと笑い声をこぼした。

「どうかしましたか?」

「いえ、ごめんなさい。楽器の片付けがとても丁寧なので……エリオットさんは本当に音楽が好きなのですね」

 教官にそう言われても、即座に返答できなかった。

 音楽が好き。それは間違いない。だけど。

「教官、僕は――」

「悩んでいるのですか?」

 心境を言い当てられ、どきりとする。

「その……はい。上手くは説明できないんですが」

「進路のことでしょうか?」

 的確過ぎる。さすがメアリー教官、その人柄からよく生徒に相談を受けているらしいけど、正直納得の慧眼だ。

「まだ入学して半年なのに、ちょっと気が早いですが。少し座ってお話ししましょうか」

 促されるまま手近な椅子に座ると、メアリー教官は僕の斜め前の椅子に腰かけた。上品な立ち振る舞いだった。

 そういえばこういう場合、対面で座るのはあまりよくないんだったっけ。その気遣いを自然に出来るあたり、生徒に人気があるのも分かる気がする。

 と言っても、僕の悩みもそこまで具体性のあるものじゃないので、教官には取り留めがなく、要領を得ない話を聞かせることになってしまった。

「なるほど。お父様の意に沿うこと、エリオットさんがやりたいこと。今はどちらの道にも向かえず、揺らいでいるのですね。そして周囲の仲間と比べてしまって、自分の道が見いだせないことに小さな焦りを感じている……というところでしょうか」

 メアリー教官、すごい。

「は、はい、概ねその通りです」

 彼女はしばらく黙考していた。ややあって口を開く。

「今はたくさん悩んで、揺らいでいいんですよ。この学院で過ごして、いつかエリオットさんだけの答えを見つければいいだけのことです」

「ですけど……」

 メアリー教官は穏やかに続けた。優しい口調だ。

「自分の道をすでに見つけているエリオットさんの仲間は、最初からその道を見つけていたのでしょうか」

「え?」

「きっと今のあなたと同じで、悩んで揺らいだ先にようやく見つけたのではないですか? いいえ、もしかしてまだ悩んでいる最中なのかもしれません」

 急にリィンの事を思い出す。レグラム実習の後のことだ。

 リィンは同行していたメンバー以外にも、それまで自分の中にあった畏れを教えてくれた。自分でも抑えきれない程の力だったと言っていた。

 道。リィンにとってはそれを御する為の剣の道。

 破門になっても習慣と言えるくらいに剣の稽古を欠かしていない。そうだ、彼もずっと揺らぎの中で足掻いている。

 僕はメアリー教官に質問した。

「教官は悩んだりはしなかったんですか? 確か伯爵家のご令嬢と伺っているんですが、その……士官学院の教官になることについて……」

 少し不躾な質問だったかもしれない。

 士官学院の教官としては、彼女はかなり珍しい方だと思う。

 大体の貴族子女はあらゆる嗜みを身に付けて、より上流階級の男性と結婚するのがステータスだと聞いたことがある。

 古い考えなのは分かるけど、エレボニア自体が古い制度を残している国なので、そういう意識が根付いていても不思議じゃない。

「もちろん私だって悩んでいましたよ。それに今年赴任したばかりなのに、実家からは縁談のお話が山のように来るんですもの。でも――」

 メアリー教官は言う。

「私はこの仕事を誇りに思っていますから」

 夕日に照らされた教官の横顔はいつもと変わらず優しい面立ちだ。けれど、その言葉には確かな芯の強さがあった。

「エリオットさん、音楽は好きですか?」

 メアリー教官はもう一度その言葉で問う。

 次は迷いなく答えることができた。

「もちろんです」

「それなら何も心配することはありませんね。さあ、そろそろ行きましょうか」

「あ、はい。あの、ありがとうございました」

「構いませんよ。いつでもお話聞かせてくださいね」

 メアリー教官の後に続いて音楽室を出る。 

 僕にはまだ自分の道は見つからない。

 それでも好きなものを好きと胸を張って言える強さは、持っていよう。

 いつかそれが揺らがない信念になって、僕の誇りに変わるまで。

 

 

 ~FIN~

 




お付き合い頂きありがとうございます。今回はエリオット編でした。彼は本編でも誰とも大きな確執を生むことなく、むしろ仲立ち役として頑張ってくれていましたが、何か一番進路で悩みそうだよなーと思い、今回のような話になりました。

さて残すところもあと少し。次回の『そんなⅦ組の一日』はアリサです。
お楽しみにして頂けたら幸いです。


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そんなⅦ組の一日 ~アリサ

9月12日(自由行動日) 11:00 アリサ・ラインフォルト 

 

 鏡の前に立ち、身支度を整える。うん、おかしなところはない。

 あまりそわそわしてもダメね。シャロンったら本当に勘がいいというか、何でもお見通しというか。

 普段通りにしていれば気付かれることはまず無いと思うけど、そう断言できないのがシャロンだもの。

「自由行動日くらいは私服で出歩きたいところだけど。まあ仕方ないわ」

 私の通うトールズ士官学院には――というか士官学院の体裁を保っているところは大体そうらしいけど、休日というものがない。

 それは軍の在り方に沿う形で定められたって聞いてるけど、軍人さんだって非番くらいあるでしょうに。

 確かに事が起これば、休みなんて関係なく軍務に付くわけだから、休日と銘打てない理由は分からなくもないけどね。

 そういう訳で、私達学院生も休日ではなく自由行動日というものが設けられていた。

 休みじゃなくてカリキュラムがないというだけだから、外出の際は原則として学院服の着用が義務付けられている。

 実家を出る時に何着か私服は持ってきているけど、今日まで数える程しか着ていない。

「年頃の女の子がおしゃれも出来ないなんて間違ってるわ」

 言っても仕方がないこととは分かっていても、つい口に出してしまう。

 叶うなら、私服を着て、友達と色々なお店をまわって――というのは士官学院生には中々無理なお話。

 軽く息を吐いてから、私はいつもの赤い学院服に袖を通すのだった。

 

 

 ――11:20

 約束の時間までまだ余裕がある。

 何気なく部屋の外に出て、二階まで降りてみたら談話スペースのソファーにリィンが一人で座っていた。

「リィン、どうしたの?」

 声を掛けても返事はない。どうしたのかしら。

 少し気になったから近寄って顔をのぞき込むと、リィンはまぶたを閉じて寝息を立てている。

「なんでこんなところで寝てるのよ」

 まだ昼前なのに。フィーじゃあるまいし。

 つい顔を近付け過ぎてしまった。さすがにちょっと離れないと……

「あ……」

 眠っている時の彼は思いのほか幼く見えた。どこかあどけないというか、少年の面立ちというか。

 勝手に頬が緩む。こんなに近くでリィンの顔を見るなんて今までなかったかも。

 入学初日、旧校舎の地下に落とされてリィンが私をかばってくれた時も、距離は近かったけど顔は見えなかったし。

 あれ、なんでだったかしら。

「っ!」

 だってあの時リィンの顔は、私の、む、む、胸に――

 何の考えもなく例の一件を思い出してしまい、いたたまれない恥ずかしさが全身を巡る。

 せっかく忘れていたのに。

 記憶がフラッシュバックして、気付けば私はあの時と同じように、反射的に右手を振り上げていた。

 振り上げた右手を、理性でその場に押し留める。それはそうよ。あの時のことは清算済みだし、それにリィンは今何もしていないわけだし。 

 眠ってる男子にいきなりビンタとかする女子はいないわよ。

 落ち着け、落ち着くのよアリサ。

「……ん、アリサ?」

 不意にリィンの目が開いた。

「きゃああっ!」

 心臓が跳ね上がって、頭が真っ白になる。

 遅れて思考が戻ってきたとき、振り上げていたはずの右手はすでに振り抜かれていた。

 視界の中には片頬に手形をくっきりと残したリィンが、スローモーションで椅子から崩れ落ちていく姿が映っている。  

「はあっはあっ……」

 乱れた呼吸を整える前に、床に倒れ込んでいたリィンは頬を押さえながらよろよろと体を起こす。

 彼は開口一番こう言った。

「まず俺は……何を謝ったらいいんだ……?」

「起きる時は起きるってちゃんと言いなさいよ……」

「……それは無理だろ」

 眠っている男子にビンタする女子がここにいた。

 ふらふらと立ち上がったリィンに謝ろうとするも、引っ叩いた理由に具体性も正当性もないので、どう言ったらいいのか悩んでしまう。

「あの、とりあえずごめんなさい。その、悪気があったわけじゃないのよ?」

「いや、気にするな。アリサのビンタは二発目だからか、体が自然に受け身を取ってくれたらしい。一発目の時はそれは痛かったものだが――」

「三発目いくわよ?」 

 余計な事を思い出さないで。

 それにどう見ても受け身は取ってなかったじゃない。もしかしたら私に気を遣わせない為にかもしれないけど、あなたはもうちょっと言い回しに気を遣いなさいよ。

 一応感謝はするわ。

 非があるのはこっちだし、私ももうちょっと素直に謝れればいいんだけど。当面の課題だわ、これは。

「それはそうと、アリサはどこかに出かけるのか?」

 三発目回避の為か、リィンは話題を変えてきた。もちろんそれは、私にとってもありがたい。

「ええ、ちょっと約束があって。もう少ししたら出るわ。リィンは? というか何でこんなとこで寝てたのか先に聞きたいんだけど」

「あ、ああ。朝一で剣の稽古をしていたんだが、一通り終わったから休憩のつもりで座っていたら、いつの間にか眠ってしまったみたいだ」

「はあ……なるほどね。せっかくの自由行動日なのに相変わらずというか。でも、こういう日は色々な頼まれ事受けてるんじゃなかったの?」

「必ずあるわけじゃないからな。いや、昨日ロジーヌから頼まれたことはあったんだが、少し都合がつかなくて。彼女には悪い事をした」

 ピクリと私の何かが反応する。

 確かV組の女子で清楚を絵に描いたような物静かな人だ。よく礼拝堂に出入りしているのを見かける。

 何でかしら。私、今、機嫌が悪くなったわ。

「へえ……リィンは優しいのね。特にロジーヌさんみたいな、おしとやかな女の子には」

「ア、アリサ?」

 言いながらリィンに詰め寄っていく。

「よ、よくわからないぞ。何の話だ」

 じりじりと距離を狭めると、リィンは「そ、そうだ、シャロンさんに寝覚めの紅茶を淹れてもらおう」とか言って階段側に向き直った。

 そのまま小走りで階段を下っていく。何よ、その露骨な逃げは。

「それで? 昨日ロジーヌさんから何言われてたのよ?」 

 私も階段を下りながら、あくまで平坦な口調で問う。

「いや、今日礼拝堂で子供達に授業してくれないかって。結局断ったんだけどな」

 依頼の内容はともかく、付け加えられた最後の一言も何だか腑に落ちない。

 リィンはそういう頼みをあまり断らない。それ以上に大切な用事って何なの。 

「へー何で断ったのよ? ロジーヌさんかわいいのに」

「あ、あの? いや今日は予定があって……トワ会長と」

 今度はトワ会長? あなたって、あなたって――  

「あ、あなたって本当に節操がないというか……!」

「何か誤解をしていないか!?」

 言ってて自分でも分かってる。

 困っているロジーヌさんの頼みも聞いてあげたかったけど、普段お世話になってるトワ会長も無下にもできないし……みたいな感じなんでしょう。

 いつものお人好しだってことは理解してる。でもなんだか妙に心がざわついて、落ち着かないの。何なのよ、もう。

 一階に着く。

 今日は誰もいないみたい。さっきマキアスの姿が目に入った気はするけど、意識の外だったので少し曖昧だ。

「アリサ、俺は――」

「な、に、よ?」

 私がじろりとにらむと、リィンは「その……」と言葉を濁しながら足を引く。

「言いたいことがあるなら早く言って頂戴?」

 私が一歩前に出ると、リィンはさらに一歩引く。

「私もこの後予定があるのよ。お互い良い日になるといいわね?」

 口の端を上げて笑顔を作って見せる。でも多分目は笑っていない。

 私の“怒っている時の乾いた笑顔”に「な、なんだか分からないが、もう許してくれ」とさらに数歩下がったリィンの足が、すぐ後ろの机に強くぶつかった。

 たくさんの何かがバラバラと音を立て机上に転がっていく。

「うわっ」

「あ!」

 リィンがぶつかった机にあったのは、マキアスが普段から愛用しているチェス盤。盤上の駒は机が揺れ動いた衝撃で、残らず倒れて散らばっていた。

「……まずい」

「……そうね」

 マキアスはチェスを指している時に、近くで騒いだりすると結構怒る。いや、元々何かと怒りっぽいんだけど、チェスが絡むと尚の事だ。

 リィンは手早く散乱した駒をかき集めて、盤上に再び戻し始めた。

「崩れる前の配置を覚えてるの?」

「いや、少し視界に入った程度だから微妙だが、だからといって、このままにしておくと俺達マキアスに相当絞られるぞ」

「それは勘弁願いたいわね……」

 見る間に白と黒の駒が立ち並んでいく。うん、なんかそれっぽくなってきた。

「こんな感じだったか?」

「よく分からないけど、大丈夫じゃない? ――きゃっ!?」

 最後の駒をリィンが盤に置いた時、机の下から突然ルビィが飛び出してきた。そのまま私の足の間を抜けて入口から走り去っていく。

「な、な!?」 

 事あるごとに私の足の間を潜って行くのやめて欲しいんだけど!

 ルビィを追った視線を再び盤上に戻そうとしたところで、

「あら、お嬢様? それにリィン様も」

 私の声が届いてか、シャロンが調理場から顔を出した。

「い、いたの? シャロン」

「これは失礼致しました。お嬢様とリィン様の仲睦まじいお時間をお邪魔してしまうなど、このシャロン何とお詫びすれば……」

「そ、そういうことを言ってるんじゃないのよ!」

 絶対分かって言ってるわ。いつものこと、というか昔からのことだもの。

 ……あら? シャロンの襟元……?

「うふふ、まあ?」

 シャロンの視線が机のチェス盤に向いた。何か考え込む素振りを見せたシャロンは、すぐに曇った表情を浮かべる。

「もしかして、マキアス様のチェス盤を崩してしまわれたのですか?」

「そうだけど……よく分かったわね」

 駒が散乱しているならともかく、一応配置は戻しておいたのに。

「ああ、これは大変なことになってしまいました。お二方少々お待ちを……」

 そう言い残すとシャロンはもう一度、調理場の奥へと引き返していく。

「お待たせしました。これを」

 少ししてシャロンが戻ってきた。その手にはボロボロで所々が穴だらけになった、小さな棚のようなものが抱えられている。

「実はこの棚は――」

 

 

 ――12:30 

 シャロンの話を聞いて、私とリィンは第三学生寮からすぐに出発していた。

 どのみち私は出かける所だったし、リィンもトワ会長に用事があるって言っていたので、学院に向かったんだと思う。

 とりあえずマキアスに会ったら全力で謝っておこう。ちょっと怖いけれども。

「時間には間に合ったわね。えーと……あ」

 トリスタの中央公園、そのベンチの一つに彼女は座っていた。

背中側だったけどすぐにわかる。緩やかなウェーブのかかった薄紫色の豊かな髪に、赤いリボン。そして貴族生徒を象徴する白を基調にした学院制服。

 フェリス・フロラルド。同じラクロス部で私の友人、そして今日の待ち合わせ相手だ。

「フェリス? ごめんね、待たせちゃったかし――」

「今来たところですわ!」

 彼女はベンチから勢いよく立ち上がり、こちらに素早く振り向いた。私が言い終るより早かった。

「え、フェリス怒ってる?」

「お、怒っていませんわ!」

 ならいいんだけど。フェリスって時間に疎いイメージがあったから、多少遅れても私の方が早く着くと思っていたのに。

 今来たところだったら、待たせたわけじゃないみたいだけど。

「さっそく行きましょうか。フェリスはあまりトリスタのお店には入らないのよね」

「せいぜい《キルシェ》くらいですわ。だから、その……今日は任せますわよ?」

「ええ、大丈夫よ」

 今日はフェリスと二人でショッピングだ。

 彼女はあまり一人で買い物をしたことがないらしく――というか、今まで必要な物はフロラルド家の使用人が用意してくれたそうだ。その感覚は私にも分からなくはない。

 ただ、今回ばかりはその使用人――サリファさんに頼むわけにもいかなかった。

「サリファはどういうものを喜ぶのかしら?」

「んー、フェリスが贈ったら何でも喜んでくれると思うわよ。私だってシャロンの好みとか今一つわからないし」

 ショッピングの目的はこれ。

 私はシャロンに、フェリスはサリファさんにそれぞれ内緒で贈り物をすることだった。

 なんでそういう話になっているかと言えば。

 以前より仲が良くなったといっても、私とフェリスは一緒に遊びに行ったりということがまだなかった。

 それをお互い中々切り出せずにいたんだけれど、つい最近、話をする内に私たちに共通の話題が見つかった。それがシャロンとサリファさんだ。

 長年自分の家に仕えてもらっているけど、今まで贈り物と呼べるようなものを渡したことがない。

 最近ちょっとそんなことを考えていて、何気なくフェリスに話してみたところ、偶然にも彼女も同じようなことを思っていたらしい。

 そんな所から、今回のサプライズ計画と一緒にお出かけ企画がスタートしたのだった。

「そういうものなのですか。でも贈るからには私もちゃんと選びたいですわ」

「ふふ、そうね」

 フェリスはプレゼントを決めかねているみたい。

 けど私はもう贈る物自体は決まっていた。それが決まったのはついさっきのことだが。

 寮を出る前、シャロンと話した時に気が付いたけど、いつも彼女の襟元にある青色のブローチが付いていなかった。

 あのシャロンがうっかり付け忘れたなんてことは私には考えられない。となれば壊れたか失くしたか。

 シャロンにしてはそれも考えにくいけど、とにかく私の目的は、代わりになるブローチを贈ることだった。

「とりあえず最初は雑貨屋でも行ってみましょうか」

「楽しみですわ」

 それは私も同じ。

 少し前まではフェリスと一緒にショッピングなんて考えられなかったもの。

 気持ちを弾ませて、私とフェリスは《ブランドン商会》へと歩を向けた。

 

 

 ――13:00 

「いらっしゃい、お嬢さん方」

 店に入ると店主のブランドンさんが笑顔で出迎えてくれた。

「ちょっと小物とかアクセサリーを見せて頂くわね」

「ああ、ゆっくりしていってくれ」

 食品、雑貨が主な商品だけど、実は店の奥には小洒落た装飾品もあったりする。値段も手頃でデザインも悪くない。

「ふうん。初めて来ましたけど、小さい店ですのね」

「ちょっ、フェリス!」

 ブランドンさんのこめかみがピクッと脈打ったのがわかった。だけどそこは商売人、「悪いなあ、自営の小さな店なもんでね」とにこりと笑みを浮かべてくれた。

「まあ一通りは揃えているから我慢して見てやってくれよ」

「ふう、仕方ありませんわね。でもこの照明の暗さは何とかなりませんの? 導力が行き渡っていないのかしら」

「……ふ、風情ってやつでね」

 カウンター越しにも彼の憤りが伝わってくる。笑みの奥で、歯を噛みしめているらしく、引きつった頬が小刻みに震えていた。

 そうだった。フェリスはこれで相当の天然だ。悪気は全くないのだけど、ブランドンさんにそれが伝わるはずもない。

「フェリス早く行くわよ」

「急になんですの?」

 早々にフェリスの手を引き、小物のある棚へと進む。

「……あら」

 ガラス板の上に陳列された装飾品の数々に、フェリスは予想外だと言わんばかりの声をもらした。

「意外と色々ありますのね」

「だから言ったでしょ」

 イヤリング、ネックレス、ブレスレットにブローチ。そこまで品揃えが多いわけじゃないけど、質は悪くない。

 たぶんブランドンさんのこだわりで仕入れているんだと思う。安っぽ過ぎず、いい物を。かと言って手が出ない額でもない。学院生が多い町だから、そんな配慮をしているのかもしれない。

「わかりましたわ。ではこの棚の物を全て包んで下さいまし」

「フェリス、貴族買いはやめなさい」

「き、貴族買い!? そんな名前がついていますの?」

 多分ついてないけど。

「贈り物っていうのはね。一つでいいのよ。しっかりその人の事を考えて、心を込めたものを手渡すの。そうじゃないと貰った人も嬉しくないわ」

「そういうものですのね……でもさっき私が贈ったものなら何でも喜ぶと……」

「こ、言葉のあやよ!」

 あれやこれやと悩んではみるも簡単には決まらない。

 私もシャロンに贈る用のブローチを探してみた。今一つピンとくるものがない。

 いいものはあるけど、シャロンに似合うものがないというか。

「ねえ、フェリス。多分ブティックにもアクセサリーはあると思うし、なんなら質屋も見てみましょうよ。ここに拘らなくてもいいんじゃない?」

 そう提案した矢先、フェリスは「……あ」と声を上げ、棚の奥に隠れていた一つのブローチを手に取った。

 じっとそれを見つめるフェリス。

 銀の縁取りを施された楕円形をしていて、中心に使われている輝石は控え目な薄紫の光沢に覆われている。

「気に入った?」

「ええ、とても」

 ブローチを眺めたまま、一言だけ感想を述べる。

 まさか一つ目の店で決まるとは思わなかった。正直、いいブローチだと思う。

 あれならシャロンにも似合いそうなんだけど、先に見つけられたから仕方がない。

 うん。時間もあるし、この後フェリスには私のブローチ探しを手伝ってもらおう。

「君達、何をやっているんだ」

「きゃあ!」

 急に背後から声を掛けられ、思わず叫んでしまった。しかも、この声は……

「マ、ママ、マキアス? どう、したの?」

 振り返った先にいたのは、やっぱりマキアスだった。まさか私を追ってきたとか……?

「いや、ちょっと。ああ、そうだ、アリサ――」

 ま、まずいわ!

「っ! あー、早く買い物の続きをしなくちゃ、行くわよフェリス。おじさんお会計!」

「あ! 袖を引っ張らないで下さいな!」

 カウンターまでフェリスを引っ張っていき、急いで会計を済ます。

 ブローチは中々のお値段だったけど、ためらいも驚きもせず、平然と財布を開いたフェリスはさすがというべきなのかしら。私もまあ、実家はラインフォルトだけど、金銭感覚はまだまともな方……だと思う。

 いえ、それよりも今は早くこの場から離れないと。

「ラッピングは後でもいいわ。いくわよフェリス!」

「ア、アリサ? 待ってくださいな!」

 もしシャロンの言ってたことが本当だったら、私達大変なことになるんだから。 

 

 

 ――13:30 

「もう、なんですの? 急に」

「ご、ごめんなさい。とりあえずいいブローチが買えて良かったじゃない」

 店を出た私達は、再び中央公園まで戻ってきていた。

 マキアスが追ってくる気配はない。もしかしてやっぱりシャロンのいつもの冗談だったのかしら。まだ油断はできないけど。

「それでフェリス、お願いがあるんだけど、私もシャロンにブローチを贈りたいの。手伝ってもらえる?」

「ええ。それはもちろん構いませんが……」

「助かるわ。とりあえずミヒュトさんの店にでも行ってみようかしら」

 買い物続行。改めて歩き出そうとしたその時、

「あらーん? そこにいらっしゃるのはフェリスさんじゃない?」

 野太い声が鼓膜を震わした。木々がざわざわと不穏に揺れ、小鳥たちのさえずりが一斉に止まる。

 一瞬びくりとしたフェリスの表情が強張りを見せた。怯え、に近いかもしれない。

 声の主はすぐにわかった。

 たとえグラウンドの端から端まで離れていても、一発で見分けがつくそのシルエット。1年Ⅱ組所属、貴族生徒のマルガリータさんだ。

 マルガリータさんは私たちに向かってゆっくり歩いてくる。ズン、ズンと一歩足を踏み出す度に小鳥達が飛び去っていくのは、多分偶然じゃない。

 距離が縮まってくるにつれて、フェリスの緊張も増していくように感じた。

「うふふ、ごきげんよう」

 私達の前で足を止めたマルガリータさんは、私ではなくフェリスを見て挨拶をする。若干釈然としないけど、それよりも私はフェリスの様子が気になっていた。

「マ、マルガリータさん、何かご用で? 今日はお兄様なら外出しておりますわよ」

「そうなのよお。最近ヴィンセント様とはすれ違いの生活が続いていて、全くお会いできていないの」

「そ、そうですの。お兄様もあれでお忙しい人ですので。それでは私達この辺で――」

「だから、今日はあなたに用があってきたのよお」

 半ば強引にその場を離れようとした時、マルガリータさんは右手をフェリスの眼前に突き出した。掌底と見間違えるような速度と威圧に、フェリスの前髪はぶわりと波打った。

「はひっ!?」

「ちょっとマルガリータさん……え?」

 右手に何か持っている。可愛らしいリボンのついた小さな包み紙だ。

 マルガリータさんの握り拳と比較してそう見えただけで、実際はそこまで小さくはないけれど。

「私が作ったラブクッキーよお。あなたからヴィンセント様にお渡しして欲しいのよ」

「な、なんで私が? 同じ第一学生寮ですし、直接お渡しになればいいではありませんか」

「そうしたいのは山々なんだけど、第一学制寮は男女間の部屋の行き来が他の寮より相当厳しくて。エントランスで待ち伏せしたりもしたけど全然会えないのよねえ」

 マルガリータさんは口から、ごはあと蒸気の塊を吐き出した。

 彼女的には恋する乙女の切ないため息とか、そんな感じだったのかもしれないけど、私には獲物を前に牙を剥く魔獣にしか見えない。

「そういうわけで、これ渡してもらえるかしら」

 さらにずいと前に出された包み紙からは、およそクッキーから出ているとは思えない毒々しい瘴気が立ち上っている。

「お断りしますわ」

 フェリスは毅然とした態度で首を横に振った。

「どんな物でも心を込めた贈り物は、直接本人に手渡しして下さいまし。そうでしょアリサ?」

「その通りよ、フェリス」 

 よく言ったわ。

 その直後、辺りの雰囲気が一変した。

 ずしりと空気が重くなって、どこか息苦しささえ感じる。四方を隙間のない狭い壁に囲まれたかのような閉塞感と重圧感。

 そんな肌にまとわりつく粘度のある空気が、マルガリータさんから発せられていると気付いた時、私の、いえ私達の足は自分の意志とは関係なく震え出していた。

「だめよお、そんなこと言っちゃ。だって……」

 さらに一歩踏み出す。ズシンと大型の機械人形のような足音を響かせたマルガリータさんの表情には、形容し難い含み笑いが浮かんでいる。

 盛り上がった頬の肉が瞳を押し上げた。細く鋭さを増した視線をフェリスに向けると、彼女は巨大な二枚貝を思わせる分厚い唇を静かに開いた。

「――だって私は、あなたの未来のお義姉さんなのよお」

 

 

 ――13:50

「ミヒュトさん、私達をかくまって!」

 質屋《ミヒュト》の扉を勢いよく開けるなり、カウンターで雑誌を読んでいたミヒュトさんに叫ぶ。

 本来ならシャロンのブローチ探しに来るはずのお店だったけど、今は身を隠すことが目的だ。

 マルガリータさんが無理やりクッキーを渡そうと、フェリスを追って来ている。

「なんだあ、お前ら?」

 息を切らしながら店に飛び込んできた私たちを、ミヒュトさんは思ったほど驚かなかった。

 それどころか「仕方ねえな。ほら、こっちに入ってこい」と私達を招き入れてくれた。

 促されるままカウンターの下に潜り込む。大人二人が十分に入れるスペースがあった。

「助かりますわ」

「ごめんなさい、ミヒュトさん」

 何だかミヒュトさん、すごく手慣れた感じがあるのは気のせいなのかしら。何気ない顔でまた椅子に座って雑誌を開いてるし。これならなんとかやり過ごせそうね。

 大まかな経緯は走りながらフェリスが話してくれた。

 要点をかいつまむと、マルガリータさんはフェリスのお兄さんのヴィンセントさんに恋をしていて、怪しげなお菓子を作っては渡しに来ていたそうだ。

 だけどヴィンセントさんが逃げたり隠れたりで彼女をかわすうちに、その標的が妹であるフェリスにシフトしてきたらしい。

 要は妹から仲良くなって兄に近づく作戦だ。ただそのアプローチが激しく、さすがのフェリスも押され気味とのことだった。

「マルガリータさんの積極性はすごいわね。機動力というか何というか」

「機甲師団を志望すればいいと思いますわ」

「兵士として?」

「戦車としてですわ!」

 あれはラインフォルトでも製造不可能だから。

「お前ら黙ってろ。……来たぞ」

 ミヒュトさんが小声でそう告げてすぐ、カランカランと扉が開く。

 誰かが店内に入ってきた。ずしずしとカウンターに近付いてくる足音は、床越しにも感じられる程の重量感がある。

 間違いなくマルガリータさんだ。

「なんだ。見ない顔だな。なんか入用か?」

 普段と変わらない演技を、ミヒュトさんはそつなくこなして見せる。

「違うわ。女の子を探しているの。薄紫の髪をした子なんだけど、こっちには来なかったかしら?」

 私もフェリスも口に手を当て、一切の物音を立てない様にしていた。出来るなら呼吸も止めたいくらいだ。

「そんなお嬢さんがこんな店に来るかよ。お前さんも用がそれだけなら出ていってくれ」

 さすが接客放棄の0点店主。もう演技なのかも分からないくらい普段のミヒュトさんだ。

「そう……残念ねえ」

 助かった。その思いが気を緩ませかけた時、

「な、何をしやがる!?」

 滅多に聞くことのない彼の焦った声が店内に響き渡り、浮かびかけた安堵は一瞬でかき消えていった。

「あなたは好みじゃないわあん」

「や、やめ……!」

 私達のいる場所からはミヒュトさんの足しか見えないので、状況が全く掴めない。

 頭上から漏れてくる呻き声。次の瞬間、ミヒュトさんの両足がふわりと浮き上がって、そのまま宙に留まってしまった。

(う、うそでしょ!?)

「ぐふふう」

「ぐあああ!」

 全身が粟立つような笑い声と、苦痛に満ちた叫び声が重なる。

 額から流れ落ちた冷たい汗が、手の甲に雫の跡を残した。

 ミシミシと何かを締め上げていく低い音。ビキビキと何かが圧砕されていく鈍い音。

 すでに声も出さず、じたばたとばたついていたミヒュトさんの足は、間もなくだらりと力をなくし、吊るされた干し肉のようにその場をたゆたった。

 椅子に突き戻されたミヒュトさんは、大きく横に傾いたまま動こうとしない。

 とどめを刺すかのように彼の膝上に投げつけられた雑誌が、ばさりと音を立てて床に落ちた。

「ひっ!」

 フェリスが声を出してしまった。

「……あらーん」

 気付かれてしまった。

 もうここまでだ。フェリスに目配せとジェスチャーで次の行動を伝える。理解してくれたようで彼女はうなずいた。

 息を吸い込み、三本立てた指を順番にたたんでいく。3、2、1――

「行くわよ!」

 私とフェリスはカウンターの左右から二手に分かれて飛び出した。

「あ、あらん?」

 マルガリータさんはとっさに反応が出来ず、私とフェリスに何度も首を巡らしている。

 これくらいのコンビネーションは普段からラクロス部でこなしているもの。

 呼吸の読み方や、初動のタイミングは手に取るようにわかるわ。

 ミヒュトさんのことは気になったけれど、うなだれた顔を注視する勇気はなく、私たちはそのまま店を飛び出した。

「この後はどうしますの!?」

「つ、次は……」

 片っ端から隠れられそうな所を探すしかないじゃない。

 捕まったらフェリスはともかく、私はミヒュトさんみたいにされちゃうかもしれないのよ!

 

 

 ――14:20

「ジュリアさん、何でもいいから試着できる服を貸して!」

 《ミヒュト》を出て右手にある階段を登れば、その店はすぐにある。

 ブティック《ル・サージュ》だ。

 何気に店内にはメアリー教官が普段着ている服のカラーバリエーションが飾っていたりする。

「はい、あの……?」

「すぐに着れるようなものを、早く!」

 呆けたままの店主のジュリアさんを急かす。状況は分からないままに彼女はいくつか服を用意してくれた。

「変装でもしますの?」

「そんなことをしてもすぐに見つかるわ」

「では何を?」

「この場所にはいないって思わせてやり過ごすわ」

 そう言って店の外に面しているショーウインドウを指差す。それを見たフェリスは首を傾げた。 

「……マネキン?」

 

 《ル・サージュ》の入口扉を挟んで両脇に、ガラス張りのショーウインドウがある。

 普段は季節の新作モデルなどを展示するスペースなんだけど、ジュリアさんの協力の下、今はその中に私とフェリスが収まっていた。

 両方にそれぞれが入ることも考えたけど、一緒に動けるメリットの方がありそうだったので、それはやめておいた。

「ほ、ほんとにこれで大丈夫なのですか? 店の中に隠れていた方が……」

「だから賭けだって言ったでしょう。それにジュリアさんをミヒュトさんのような目には合わせられないし」

「それはそうですが……」

 私はブラウンを基調とした薄手のジャケットに、上品な羽根飾りがついたキャスケットをかぶっている。

 一方のフェリスはライトグリーンのワンピースを学院服の上から通し、目立つ髪は後ろで括って、顔が見にくいようにニットベレーを合わせてもらった。

「はい、じゃあ行くわよ。せーの」

「仕方ありませんわね」

 マネキンらしく私たちはポーズを決めたまま静止する。

 私は両腰に手を当て、顎を少し上げての見下し目線。フェリスは優しげな微笑みを浮かべ、両手を自然に前で揃えたお嬢様スタイル。

「や、やるわね。様になっているというか」

「ふふん、貴族の容貌(ノブリス・アパランス)というものですわ」

 恰好はともかく、私達の表情ってバランス悪くない? 同じショーウインドウ内に混在したらちょっと違和感があるでしょうが。

 せめて表情だけでも変えようとしたところで、

「変ねえ、こっちのほうだと思うんだけど」

 あの声が響き、些細な動きでさえも許されない状況になってしまった。

「せっかく今日のクッキーは成功したんだもの。絶対に逃がさないわあ……!」

 何て声量。周囲のガラスがびりびりと振動する。

「あらん?」

 マルガリータさんの視線が私達に向けられた。否応なく緊張が高まっていく。絶対動かない。瞬きさえもしない。

「ふうん。秋の新作かしら。でもだめ、趣味じゃないわ」

 あ、そうですか。

「そもそもこの店。服のサイズが小さすぎるし、顧客を馬鹿にしているとしか思えないわあ」

 あなたが大きすぎるのよ。ああ、声に出して叫びたい。視界の端に映るフェリスの横顔もぴくついている。

「それにこのマネキンもまるでダメねえ。ポーズも表情も三流の素人以下だわ」

 な、なんですって。 

「私がショーウインドウに入った方が、よほどお店の売り上げに貢献できるんじゃないかしらあ。ぐふふ、いやらしい目つきで見たらだめよお」

 マルガリータさんはショーウインドウの前で次から次へとポーズを取り始めた。時々うふーんとかヴィンセントさまーんとか艶めかしい声を上げながら。何よ、この罰ゲームは。フェリス耐えてよ、お願いだから。

 しばらくすると気が済んだのか「まあ、こんなものねえ」と一言呟き、マルガリータさんは私達に背を向けた。 

 なんとかなった。

 彼女の背中を見送りながら息を吐いて、固まった体勢を少しだけ崩す。その時「ふえっ」とフェリスが小さくのけぞった。

 フェリス? 声を出すにはまだ早いわよ。

 制する意味でも彼女に振り向くと、何か白いふわふわしたものがフェリスの鼻先をくすぐっている。

 それが私のキャスケットから垂れた羽飾りであると気付いた時には、フェリスは「へくちっ」と小さなくしゃみをしてしまっていた。

 マルガリータさんの足がピタリと止まった。

「まあ、可愛いくしゃみだことお……!」

 ぐふっと笑ったマルガリータさんが振り向いた。だめだ、完全に気付かれた。

「くしゃみくらい我慢なさいよ!」

「なっ? アリサのせいですわ!」

 段差につまづきそうになりながらも、ショーウインドウから店内に戻って辺りを素早く見回す。すぐに隠れられそうなところはない。かといって今外に出るとマルガリータさんと鉢合わせになる。

 やっぱりあそこしかない。

 覚悟を決めてそこに向かい、私は試着室のカーテンを閉めた。

「お邪魔するわよお」

 ガランと勢いよく扉が開き、マルガリータさんが店内に入ってくる。

「うふふ、どっちかしらねえ」

 試着室は二つある。どうやら彼女は迷わず試着室前まで直進したらしい。

「面倒ね、そおれ」

 二つ揃って開かれたカーテンがぶわりとはためき、試着室が全開にされた。

 その中には私たちはいない。

「あららあん?」

「今よ!」

 ミヒュトさんの時と同じく、隠れていたのはカウンターだ。

 試着室に気を取られた隙を突いて抜け出し、《ル・サージュ》からの脱出に踏み切る。

「ジュリアさん、必ず後で服のお金払いに来ますから!」

「申し訳ありませんわ!」

 事の成り行きに呆然としているジュリアさんに、それだけは告げて店を出ようとすると「うちのマネキン、ポーズとかとってないのよ?」といらない情報を返してくれた。

 なんでこのタイミングで恥ずかしいことを言うのよ。

「アリサって結構天然ですわね」

「あ、あなたに言われたくないわ!」

 ほんとに今日はどういう日なのかしら。部活の練習以上に走り込んでる気がするわ。

 

 

 ――14:40

「ジェーンさん、助けて!」

 もうその言葉しか出て来なかった。ブティックの次はガーデニングショップだ。

 これでトリスタ西側の店舗は全て回ったことになる。これ以上は行動場所が限定されてくるので、さすがにこの辺でやり過ごしておきたい。

 とりあえずマルガリータさんの足が遅い事が唯一の救いだった。

「あら、どうしたの?」

「じ、実は――」

 ジェーンさんは要点だけを伝えた私の説明で納得してくれたらしく「そういうことなら、少し店の中に隠れていなさい」と植木や花が立ち並ぶ店内に入らしてくれた。

「二人ともその観葉植物のそばに立って。動いちゃだめよ?」

「え、あの……ジェーンさん?」

「な、何をするんですの?」

 ジェーンさんは植物の蔓や、大きな草花を私たちの体に巻き付けていく。

「木を隠すには森の中よ。丁度あなた達の服、土気色と雑草色だしね」

「ブラウンって言って下さい!」

「これはライトグリーンですわ!」

 それって園芸用語なの? フィーが変な言葉使い始めたら注意しておこう。

「あ、ごめんなさい。言い直すわね、えと……秋のカマキリと夏のバッタみたいで二人によく似合っているわ」

「え……褒め言葉なんですか?」

「バ、バッタ……?」

 話しながらもジェーンさんは手を休めず、あっという間に私達は周囲の草木と同化していった。

 横のフェリスを見ると中々のクオリティだけど、これでマルガリータさんを騙せるかはわからない。

「ふう、できた。ん、あの子かしら?」

 作業が終わると同時に、ジェーンさんがマルガリータさんに気付く。

 体全体で風を切りながら、ゆっくりと歩を進める様は威風堂々というか、一個中隊くらいなら軽く殲滅できそうな迫力がある。

「ぐふふう、この辺ねえ?」

 彼女はガーデニングショップの近くまでやってきたが、急に辺りを右往左往し始めた。

「……おかしいわ、匂いが途切れちゃったじゃない」

 まさか匂いで追って来てたの? どうなっているの、マルガリータさんの嗅覚は

 もしかして草花の匂いが邪魔して私達を見つけられないのかしら。それは予想外の僥倖というか。

「……やっぱり学生寮でヴィンセント様のお帰りを健気に待つしかないわあ」

 自分で健気とか言ってるし。ともあれ、ようやくマルガリータさんは第一学生寮の方に向き直った。

 やっと諦めてくれた。フェリスも安心したように深くため息をついている。

 もう聞こえる心配もない距離だからか、フェリスが小声で話しかけてきた。

(なんとかなりましたわね)

(ええ、大変だったわ)

 トールズ士官学院は色んな人がいるけど、彼女はその中でもかなり異色だ。

(そう言えばマルガリータさんも貴族なのよね? 貴族のイメージを変える必要がありそうだわ)

(多分あの方だけですわ。確か男爵家のご令嬢と記憶していますが。そう言えばⅦ組にも男爵家の男子がいましたわね。ええと……)

 男爵家? ユーシスは公爵家、ラウラは子爵家だし……ああそうか、つい忘れがちになっちゃうけど。

(リィンのことね?)

(そう、そうですわ。同じ男爵家ですし、マルガリータさんもその方に求愛すれば――)

「そ、それはダメ!」

 意識なく飛び出した言葉だった。気付いた時、私はフェリスの言葉の途中で、弾かれたように叫んでしまっていた。

「ア……アリサッ……!」

 ひどく焦った様子でフェリスが私の袖を引いたけど、全ては遅きに失していた。

「……最近の植物はおしゃべりをするのねえん……?」

「ま、またこのパターンなの!?」

「今度こそアリサのせいですわ!」

 ドスドスと地面を踏み鳴らして、マルガリータさんが戻ってきた。

 巨大な空気の壁が押し迫ってくるような感覚を覚えて、体中の蔓を解いて急いで店の外に駆け出す。

「ま、待って」

 フェリスの声に、出しかけた足をとっさに止めた。

「これが離れませんの!」

 フェリスの腕に巻かれた蔓が、そばの観葉植物に絡まっている。必死に振りほどこうとするフェリスだけど、片手ではどうにもできないみたいだった。

「何とかするわ! ジェーンさんハサミ貸して!」

「え、ええ!」

 ジェーンさんが奥にある園芸用の工具棚に向かう。その間にもマルガリータさんが肉薄する。

 彼女がハサミを手にしたのを確認すると「こっちに投げて! 大丈夫だから!」と私は腕を伸ばした。

 一瞬躊躇したジェーンさんだったけど、手渡しでは間に合わないと判断してハサミを投げ渡してくれた。

 放物線を描いたハサミが宙を舞う。

 同時にマルガリータさんもその巨体を跳躍させた。

 限界まで伸ばした指先がハサミの取っ手に引っ掛かる。かろうじてハサミを引き寄せると、開いた刃先を蔓に押し当てて、ナイフの要領で断ち切った。

「捕まえたわあ!」

「捕まるもんですか!」

 丸太のような腕が突き出されたのは、フェリスが蔓から解放されたのとほとんど変わらないタイミングだった。

 一瞬前までフェリスの体があった位置に、もはや貫手と呼ぶべき突拳が繰り出される。

 拳が空を切った反動で、初めてマルガリータさんの体勢が崩れた。

「フェリス!」

「アリサ!」

 その機は私もフェリスも見逃さなかった。目線で意志を察し、ぐっと腰を屈めて呼吸を合わせる。 

「せーっの!」

 崩れた体勢が戻る前に、全部の力を込めた体当たりをマルガリータさんの半身にぶつけた。

 それでも彼女はぐらりと二、三歩よろめいただけだったけど、うまい具合にさっき解いた蔓が今度はマルガリータさんの体に絡みついた。

「何よこれ!? う、うごけないわあ! 助けてえヴィンセントさまああん!」

 断末魔の雄叫びを上げるマルガリータさん。

 やがて全ての力を使い果たしたかのように、自分を拘束する蔓にぎしりとその身を預けて沈黙した。

「終わったわね……」

「……長い戦いでしたわ」 

 私はフェリスとハイタッチを交わす。パチンと鳴った手の平が熱くなった。まるで試合で点を決めた時みたいな心地よさだ。

「ふふ、行きましょうか」

「ええ!」

 何事もなかったかのようにその場を離れようとした私達を「ちょっと二人とも?」とジェーンさんが呼び止めてきた。

「とりあえずお片付けを手伝ってもらえないかしら」

 やっぱり、そうよね。

 

 

 ――15:00 

 ひとまず店回りは片付けた。

 蔓に巻き付かれたままのマルガリータさんは、ジェーンさんの許可をもらってそのままにしておいた。意識が戻って、落ち着いた様子だったら解いてあげて下さいとは頼んでいる。

「それで、これからどこに行きますの? さすがにトリスタを歩き回るのはまだ危険じゃなくて?」

「うーん、そうよねえ」

 ガーデニングショップを後にした私たちは、公園を抜けてトリスタ駅前に来ていた。

 フェリスの言う通り、いつ行動を再開するかもわからないマルガリータさんの近くを、ウロウロするのは自殺行為に等しいし。

「駅まで来ちゃったし、そのままヘイムダルまで足を延ばしてもいいかもしれないわね」

「私は構いませんわよ。どうせ三十分くらいの距離ですし」

「あ、じゃあせっかくだし、ブローチを探しながら、おしゃれなお店とか美味しいお店とか色々回ってみましょうよ」

「それはいいですわね。そんなお出かけ、ずいぶんしていない気がしますわ」

 何だかんだでフェリスとは気が合う。息が合うっていう方がしっくりくるかも。友達ってそういうものなのかしら。

「じゃあ気を取り直して行きましょう!」

「ふふ、アリサはいつも元気ですわね」

 トリスタ駅入口の階段に足を踏み出しかけた時だった。

 ――ズル。

 そんな音が鼓膜を震わし、心中をざわつかせた。

 ズル、ズルッ。

 そんなはずはない。あってはいけない。

 生唾を飲み下す。私とフェリスは角張った動作で、不穏な音のする方向へと振り返った。

「え!?」

「うそ……」

 体に巻き付いていたはずの蔓を根こそぎ引きちぎり、それらを振り解くことなく四肢に垂らしたままのマルガリータさんが歩いてくる。

 髪や制服の至る所に小枝や葉っぱが絡まり、もはや迷彩服と化した白い学院服は、山間における白兵戦闘のエキスパートみたいな出で立ちだ。

 その右手にはクッキーの入った小包が、がっしりと握り締められている。

「ムフォオッ!」

 灼熱の蒸気が鼻の双穴から噴出し、マルガリータさんは興奮したケルディック牛のような突進を繰り出してきた。

 もう止められない。気圧されて反応も遅れた。かわせるタイミングと体勢じゃない。

 とっさにフェリスを覆いかぶさって庇う。

 動力弓を持ってきておけばよかったと詮無い後悔がよぎったのも一瞬、その視界はマルガリータさんの巨体に黒く塗り潰された。

 光景がスローで流れる中、心の底から思った。

 昼前にリィンを引っ叩いたことをもっとちゃんと謝っておけばよかった。ほんの少し素直になればこんな後悔をせずに済んだかもしれないのに。

 ――ああ、そういえば。

 どうして私はさっき、マルガリータさんとリィンの話で、それはダメだと叫んだのだろう。

 その問いに答えを出す前に、駅の扉が開いた音がした。続いて私にはあまり聞き覚えのない声が聞こえてくる。

「ふふふ、見たまえ。トリスタの町が僕の帰還を待ちわびているようだぞ。そう思わないか、サリファよ」

 一秒にも満たないことだった。瞳の奥を光らせたマルガリータさんが、鋭敏な動きで突進の向きを急転回し、私達の脇を擦過しながら凄まじい速度で駆け抜けた。

「ヴィンセントざまああああ!」

「ひっ!?」

 傍らに楚々と控えていたサリファさんは、なんとも上品な所作で身を翻すと、マルガリータさんの突進を難なく回避する。

 一方、本能レベルにまで恐怖を刷り込まれていたヴィンセントさんは、足を動かすことも出来ず、勢いづく巨体を正面から受け止める事態なってしまった。

 まるで導力車が衝突したような一撃に、ヴィンセントさんは紙切れのように宙を舞い、そのままトリスタ駅構内に押し戻される。

「サ、サリファ、僕に女神の如き救いの手を――」

「マルガリータ様はヴィンセント様のお帰りを心待ちにしておられたご様子。ならば相応の態度を以て返礼するのが、次期フロラルド家当主としての器量かと存じます」

 マルガリータさんの下敷きになりながらも、こちらに手を延ばすヴィンセントさんの姿は、サリファさんによって閉められた扉に遮られ見えなくなってしまった。

「あ……ひっ? それはなんだ!? なぜ僕の口を無理やり開く!? やめ、やめろ……」

「はい、あーん。ムフォッ!」

「ぎゃああああああ!」

 扉越しの絶叫を最後に、辺りは不気味なほどの静寂に包まれた。

「あら、お嬢様? それにアリサ様もご一緒でしたか。これはお二人とも素敵なお召し物で……」

 私達に気付いたサリファさんは階段から下りてきて、恭しく頭を下げた。カマキリとかバッタとか言われなくて良かった。

「おそろいでお出かけでしたか?」

「え、えっと、その……」

 言いよどむフェリスの背中を軽く押した。

 たどたどしく学院服のポケットから小さな袋を取り出すと、彼女はそれをサリファさんに手渡した。

「お嬢様、これは?」

「い、いつも私やお兄様に仕えてくれているあなたへの贈り物ですわ。さっき買ったばかりなので綺麗な包みもありませんけど……」

「開けさせて頂いても宜しいでしょうか?」

「え? あ、構わなくてよ」

 サリファさんは袋を開けると、中のブローチを丁寧に取り出して、じっと眺める。

 この人は表情があまり変わらないので感情が読みにくい。

「ど、どうなんですの。気に入らなかったらのなら別の物に――」

「いえ、お嬢様。このサリファ、とても気に入ってしまいました」

 そう言うとサリファさんは、その場でフェリスが贈ったブローチを胸元に付けた。

「ふう、気にいったのなら良かったですわ。似合っていますわよ」

「ありがとうございます、お嬢様。これから肌身離さず付けさせて頂きますわ」

「そこまで大層な物じゃありませんことよ? 探せばもっと良いものが……」

「サリファはこのブローチが気に入ったのです」

 そう繰り返したサリファさんは、本当にブローチを気に入っているようだった。

 少し照れたのか、フェリスは「そう言えばお兄様を救出しませんと……」と駅の中に走って行く。

 サリファさんは私に向き直ると、

「どうやらお嬢様がお世話になったご様子で。アリサ様、本日はありがとうございます」

 深々と頭を下げ、彼女はこう続けた。

「どうかこれからも、お嬢様と良きご学友でいて下さいませ」 

「ふふ、それはこちらからもお願いするわ」

 フェリスも戻って来ないし、私は何気なくサリファさんに聞いてみることにした。

「そのブローチのどこが気に入ったんですか?」

 するとサリファさんは「この石が……」とブローチの輝石に優しく指をあてる。

「お嬢様の髪の色と同じだからです」

 そう言ったサリファさんの口許には、柔らかな笑みが浮かんでいた。

 

 

 ――15:30 

「やっと一息つけたわね……」

「なんだか疲れましたわ」 

 私達がいるのはトリスタ町内の川岸だ。

 普段は釣りスポットらしいけど、今は誰もいない。

 マルガリータさんはフェリスがどうやってもヴィンセントさんから引きはがせなかったので、後のことをサリファさんにお願いしてきた。

 その横を素通りしてヘイムダルに行けるはずもなく、かと言って《キルシェ》で休憩という気分でもなく、気が付いたら風通しのいいこの場所を選んでいたという流れだ。

 木陰に腰を下ろし、幹に背を預ける。ひんやりした感触が伝わってきて気持ちがいい。

「でもどうしますの。アリサもブローチを探すのでしょう?」

「ん……そうなんだけど」

 どうもシャロンに似合う物が思い浮かばない。私があの襟元のブローチを見慣れ過ぎているからだと思う。

 ただやっぱりシャロンが付け忘れた可能性もあるわけだし、一応本人に確認してからの方が良かったのかもしれない。

「どうしようかしら」

 そう呟いた時、視界の端に何かがきらめいた。目を凝らすと、川縁に小さな光る物が落ちている。

 あれってまさか。

 立ち上がってそれに近寄ると、疑念は確信に変わった。やっぱりそうだ。 

 落ちているというより、置かれているという印象だったけど、間違いない。

「……これ、シャロンのブローチだわ」

 装飾のないシンプルな円形の型取りに、海のように深い青色の輝石。

 なんでこんな所にあるのかは検討もつかないけど、とりあえずそのブローチを拾い上げて、ハンカチで汚れを拭き取った。

 傷はついていないし、留め具も壊れていない。

「どうかしました?」

「ふふっ」

「な、なんですの? 急に笑ったりして」

 思わず笑い声をこぼしてしまった私を、不思議そうにフェリスが見ていた。

 私は彼女に告げる。

「もうブローチは探さなくていいみたい」

 

 

 ――16:00

 その後はガーデニングショップで放心状態だったジェーンさんに謝り、ブティックに寄って服代を支払った。

 ジェーンさんは、マルガリータさんが咆哮を上げて蔓を引きちぎる様がよほど衝撃的だったらしく、私たちがお店に戻った時、ショックのあまり一人で植物に何かを語り掛けていた。

 一応ミヒュトさんの様子も見に行ったら、変わりない不愛想な表情でカウンターに座っていてくれた。

 巻き込んでしまった私達は怒られるかもと思っていたんだけど、どうやらミヒュトさんはその時の記憶が飛んでしまっているらしく、何も覚えていなかった。

 不憫というか、ある意味幸せというか。思い出さないことを祈るばかりね。

「それじゃ、フェリス。今日は楽しかったわ」

「こちらこそ。ま、またどこかに出かけましょう」

「ふふ、もちろん」

 本当なら少し喫茶店にでも……と思っていたけど、お互いもう疲れ切ってしまっていた。

 目的も果たしたし、今日は寮に帰ってゆっくり体を休めることにしよう。

「それじゃあ、また部活でね」

 フェリスは第一学生寮に、私は第三学生寮へと歩を向けた。

「あ、もうこれはいいんだったわ」

 寮までの道すがら《ル・サージュ》で購入することになった羽根飾りつきキャスケットと、薄手のジャケットを脱いだ。

 ペナルティを課されるわけじゃないけど、一応は校則違反だものね。これくらいなら許される気もするけど。

「ただいま」

「お帰りなさいませ。お嬢様」

 扉を開いてエントランスに入ると、シャロンがモップを片手に玄関口を掃除していた。

 なぜか床が水びたしだ。そういえば寮の前の道にも、点々と水の跡が残っていた。

「何かあったの?」

「いえ。普段通りのトラブルですわ」

 トラブルが日常的にあったらたまらないわよ。

 今日はまさにそれがあったわけだけど。

 こそりとシャロンの襟元を窺うと、やっぱりブローチはついていないままだった。

「あー、シャロン?」

「はい?」

 軽く咳払いしてから、私は川縁で見つけたブローチを取り出す。

 それを見て珍しく、本当に珍しくシャロンが驚いたような顔をした。

「それをどちらで?」

 トリスタの川で見つけた。そう言いかけて、私は言葉を口中に留めた。

「秘密よ」

「お嬢様が秘密だなんて……シャロンは嬉しくも寂しい気持ちでいっぱいです」

「どういう意味なのよ、それは」

 なんで寂しさまで出てくるのか。

 シャロンが見つけられなかったものを先に探し出して、少し得意気になっている自分がいる。

 これはあれかしら。

 妹が姉より先回りして勝った気になる――そんな心情なのかしら。

 そう考えると、少し気恥ずかしくもあるけど。

「今お嬢様は、妹が姉より一歩前に出て、勝った気になっているという心境でしょうか?」

「な、なんで分かるの!?」

「秘密です」

 ほんとに何でもお見通しだ。別に嫌なわけじゃないけれど。

 シャロンはくすくすと笑って、私が渡したブローチを襟元にパチンと止めた。

「そういえばお嬢様はお出かけだったのですね。新しいお召し物をお買いになられたのですか?」

「え、ああ。これね。まあそんなところよ」

「自由行動日を満喫されたようで。今日は良い一日でしたか?」

 腕に抱えていたジャケットに目を落とし、ふと気付いた。

 私服を着て、友達と色んな店をまわる。

 今日出かける前に無理だと思っていたことを、いつの間にかやっていた。普通の女の子同士のショッピングではなかった気はするけど。

 それでも。

「ええ。楽しい一日だったわ」  

「それは何よりでございました」

 シャロンはにこりと微笑んだ。襟元にいつものブローチを煌めかせて。

 

 

 ――FIN――

 

 




お付き合い頂きありがとうございます。マルガリータさんが弾けちゃいました。

冒頭で自由行動日でも学院服うんぬんの件は、本編の様子に合わせて補完設定してみたものです。違和感なく設定が馴染めばいいのですが……

今回はフェリスとアリサの物語でした。シャロンとサリファは心情が読み辛いお姉さん達ですが、したたかでなくては名家の使用人は務まらないのかもしれませんね。
そういえば本編の回想シーンで登場していたシャロンは、アリサ10歳くらいに対し、全く現在と変わらない容姿でしたが、あなた一体何歳なんですかと突っ込みを入れたくなります。

では今年の更新はアリサで終わり、新年一発目はリィンとなります。お楽しみにして頂ければ幸いです。
碧の発売も6月と決定し、多分以降になる閃の続編も控え、待ち遠しい気持ちですね。
来年も皆様にとってよいお年でありますように。


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そんなⅦ組の一日 ~リィン

9月12日(自由行動日) 11:20 リィン・シュバルツァー 

「きゃああっ!」

 そんな叫び声と共に、左頬を鋭い痛みが襲う。

 ぐらりと傾いていく視界の中に、息を荒げながら右手を振り抜いたアリサの姿が見えた。

 朦朧とする意識は痛みのせいなのか、寝起きのせいなのか分からない。

 びりびりと痺れる左頬、ぐわんぐわんと反響する左耳。

 定まらない思考だったが、半年前にも経験した痛みが記憶の底から蘇り、アリサの平手打ちが炸裂したのだと理解した。

「俺は……何を謝ったらいいんだ……?」

 第三学生寮二階。階段前のソファーから床に転げ落ちた俺は、尻もちを付いたままアリサを見上げた。

「起きる時は起きるってちゃんと言いなさいよ……」

 アリサは落ち着かない呼吸のまま、理不尽な要求を突き付けてくる。

 それは修行したら出来るものなのだろうか。一瞬本気で熟考し、「……それは、無理だろ」と最終的に導き出した答えを彼女に告げた。

 ご意向に沿わない返答にもう一発覚悟したが、アリサは言いよどみながらも俺に謝ってくれた。

「あの、とりあえずごめんなさい。その、悪気があったわけじゃないのよ?」

 なら、なぜ俺はビンタをもらったんだ。

 会話を交わすうちに、さっきの一撃の話から逸れていく。結局、引っ叩かれた理由は謎のままになってしまった。

「――というか何でこんなとこで寝てたのか先に聞きたいんだけど」

 アリサがそんなことを聞いてくる。

 それはなんでだったか……そうだ。

「あ、ああ。朝一で剣の稽古をしていたんだが、一通り終わったから休憩のつもりで座っていたら、いつの間にか眠ってしまったみたいだ」

 朝方の出来事を順に思い返してみる。

 朝食を済まし、日課の剣の稽古も一通りこなし、部屋の外に出たところで俺はエリオットに出会ったんだ。

 エリオットは“強さ”について悩みを抱えていたらしい。どこまで参考になったか分からないが、俺は少し話をした。その後だったか、このソファーに座ったのは。

 まさかビンタで起こされるとは思いもしなかったが。

「はあ……なるほどね。せっかくの自由行動日なのに相変わらずというか。でも、こういう日は色々な頼まれ事受けてるんじゃなかったの?」

「必ずあるわけじゃないからな。いや、昨日ロジーヌから頼まれたことはあったんだが、少し都合がつかなくて。彼女には悪い事をした」

 今日はトワ会長の手伝いをすることになっていて、頼まれたのもロジーヌより先だった。

 悩みはしたが依頼の内容から、意外と適任そうなユーシスに声を掛けてみてくれと彼女には伝えている。 

「へえ……リィンは優しいのね。特にロジーヌさんみたいな、おしとやかな女子には」

 瞬間的にアリサの雰囲気が変わった気がした。声音がわずかに低くなり、口調にどことなく棘を感じる。

 これはアリサの機嫌が悪い時だ。

 俺と話していると、時々アリサは機嫌が悪くなる。

 そしてその理由はいつだってわからない。特に怒らせるようなことを言った覚えはないんだが。

「よ、よくわからないぞ。何の話だ」

 無言の迫力に気圧されて、俺は後退を余儀なくされる。

「そ、そうだ、シャロンさんに寝覚めの紅茶を淹れてもらおう」

 階段に向き直って、一階まで撤退だ。シャロンさんに仲立ちをしてもらわないと。彼女は彼女で事をややこしくしたりもするから、一種の賭けではあるんだが。

 しかも困ったことに、彼女はわざとそれをやっている節がある。

「それで? 昨日ロジーヌさんから何言われてたのよ?」 

 急ぎ階段を降りる俺に、アリサは追撃を仕掛けてくる。

 ナイトハルト教官の講義で習っただろう。逃げる敵を深追いしたら駄目なんだぞ。

「いや、今日礼拝堂で子供達に授業してくれないかって。結局断ったんだけどな」

 足は止めずにそう言うと「へー何で断ったのよ? ロジーヌさんかわいいのに」と荊のように鋭い言葉が弾き返ってきた。

「あ、あの? いや今日は予定があって……トワ会長と」

 プツン、と何かが切れた音が聞こえた気がした。

「あ、あなたって本当に節操がないというか……!」

 苛立ちを顕わにアリサが詰め寄ってくる。い、一体なんなんだ!?

 いつの間にか一階に到着していたが、友軍候補であるシャロンさんの姿は見えない。

 あっという間に俺はラウンジのソファー側に追い詰められる。

 両脇はソファーに阻まれ、背後には小さなテーブル。完全に退路を断たれてしまったが、アリサが攻勢を緩める気配はない。すでに追い打ち作戦は殲滅作戦に変わっているようだ。

「アリサ、俺は――」

「な、に、よ?」

 一言区切る毎に、怒気、毒気、冷気を込めて言い放ってくる。短気は損気だぞと言いかけて、必死でその言葉を喉の奥に押し込めた。

「言いたいことがあるなら早く言ってちょうだい?」

 言ったら怒るだろ、絶対。

「私もこの後予定があるのよ。お互い良い日になるといいわね?」

 アリサは口許だけ笑ってみせる。ビンタから始まった時点で、多分もういい日じゃない。

「な、なんだか分からないが、もう許してくれ」

 その時、気付かない内に引いていた足が、後ろの机に強く当たった。

 ガタンと音がして、バラバラと何かが転がり落ちていく。たくさんのチェスの駒だった。これはマキアスのものだ。

 激昂した彼の顔が脳裏に浮かび上がり、急激に腹の底が冷えていく。

「……まずい」

「……そうね」

 さっと血の気が引いて、アリサも平静さを取り戻す。チェス関係で怒ったマキアスは、その説教に容赦がない。

 急いで駒を拾い集めると、手早くそれらを盤上に戻していった。

 クイーンがここで、ルークがここか。あ、それだともうチェックが掛かっているからダメか。

 少し目についたくらいなので正直配置は曖昧だが、この後のことを考えると放って置くわけにもいかない。

「こんな感じだったか?」

 何とかそれらしく並び直し、最後の駒を盤に置いたところで、机の下からルビィが飛び出してきた。

 叫ぶアリサをよそに、ルビィは彼女の足の間を抜けて、寮から出ていってしまう。相も変わらず神出鬼没というか、行動が読めないというか。

「あら、お嬢様? それにリィン様も」

 アリサの叫び声が聞こえたのか、調理場からシャロンさんが顔をのぞかせた。

 シャロンさんは俺とアリサ、それぞれに意味ありげな視線を巡らすと、

「これは失礼致しました。お嬢様とリィン様の仲睦まじいお時間をお邪魔してしまうなど、このシャロン何とお詫びすれば……」

 仰々しく頭を下げる。一体何をどう見たら、その結論に至るんだ。

「うふふ、あら?」

 シャロンさんは俺の後ろの机に目を向けた。

「もしかして、マキアス様のチェス盤を崩してしまわれたのですか?」

 相変わらず鋭い。駒は戻し終わっているのに何で分かるんだ?

 途端にシャロンさんは、悲哀とも焦燥とも取れる表情を浮かべる。

「ああ、これは大変なことになってしまいました。お二方少々お待ちを……」

 急に調理場へと引き返していく。

 どうしたんだ? 戻ってきたシャロンさんの腕には、ぼろぼろになった小さな置き棚が抱えてあった。

「お待たせいたしました。これを」

「なんですか、それは?」

「実はこの棚は、今朝方にマキアス様が壊してしまったものなのです」

「マキアスが……なんで?」

 彼女の表情がかげる。

「いつものようにラウンジのお掃除をしておりました所、私の不注意でほうきを机に当ててしまいチェスの駒を崩してしまったのです。慌てて駒を元の場所に戻したのですが……」

 どんどん重たくなっていくシャロンさんの口調に、俺とアリサはごくりと息を飲む。

「マキアス様は盤上の配置を全て記憶しておられたようで、所々入れ違った駒を見るや憤激されました。謝罪する間もなく、手近にあったこの棚に狂わんばかりの怒りをぶつけ始めたのです」

「……そ、それってシャロンの冗談でしょ?」

 アリサが願望を込めて聞くも、憔悴の色を瞳に浮かべたまま、シャロンさんはただ無言で見つめ返してくるだけだった。

「シャロンは怯えて調理場の隅に隠れるより他ありませんでした」

 小さく肩を震わす。

「しばらくすると音も収まったので、マキアス様の様子を確認しようと思いました。すると物静かにラウンジに立ち尽くしておられたのです。落ち着かれたものと思い、謝罪を申し上げようとしたのですが……」

 嫌な予感がした。

「その手にご愛用の導力散弾銃が握られているのを見て、シャロンは思わず足を止めました」

 導力散弾銃。俗にショットガンと呼ばれるマキアスが使用する武器だ。

「その直後でございました。銃を掲げられたかと思いきや、すでにぼろぼろになった棚に即座に狙いを移し、慈悲の一片も感じさせない機械的な動作で引き金に指を掛け、そして――」

 シャロンさんの視線が改めて、廃材と化した棚に向けられた。

「始末、という言葉が相応しいでしょう。その後マキアス様は何事もなかったかのようにソファーに戻られ、チェスの続きを再開されました。眼鏡を光らせ、口許に冷ややかな笑みを浮かべたまま。シャロンは……シャロンは……!」

 うう、と嗚咽を漏らしながら力なく壁に寄り掛かる。

 正直、本当かどうかは疑わしい。

 いくらマキアスでもそこまでのことを……だけどチェスが絡むと普段見せない一面を覗かせるのも事実だし……

 仮にその話が本当だとしたら、現実としてある問題は一つ。

「ということは、今の状況は今朝に続いて二回目……ということですか」

 シャロンさんは無言のままこくりとうなずく。

「私達これ、相当まずいんじゃないかしら!?」

 アリサの言う通りだ。しかし、どうすれば――

 動揺を隠せない俺達に、シャロンさんが「お逃げ下さいませ」と静かに口を開いた。

「あとはこのシャロンめにお任せを。マキアス様も時間が経てば落ち着かれましょう。お二人とも元々今日は予定がおありのご様子。どうぞこのままお出かけ下さいませ」

 調理場の隅で怯えるしかなかったというシャロンさんに任せていいのか、そんな疑問が頭をよぎったが、時間を空けるというのは賛成だ。

 急いで身支度を整え、俺とアリサは寮を出る。

 いつになく幸先の悪そうな俺の自由行動日は幕を開けた。

 

 

 ――13:00 

「リィン君ごめんね~」

 生徒会室に出向いた俺をトワ会長が出迎えてくれた。

 今日は物品整理を手伝うことになっている。彼女は元々一人で片付けるつもりだったそうだが、中には一人で運ぶにはさすがに重たい物もあって、それで俺に声をかけるに至ったらしい。

 何度も、無理にとは言わないよ? 時間が空いてたらでいいんだよ? と申し訳なさそうに言うトワ会長の頼みを断る術を、あいにく俺は持ち合わせていない。

「気にしないで下さい。それで俺は何からしたらいいでしょうか?」

「うん、だからほんとにごめんね!」

「何がでしょうか?」

「実は――」

 トワ会長は生徒会室内をぐるりと見渡した。そういえば随分さっぱりとしたような。書類や資料の束もきれいに整えられている。 

「リィン君が来る前にほとんど済ましちゃったんだよ。実際に片付けてみると動かせないほど重い物ってそんなに無くってね。あとはあれを本校舎の用務員室に運ぶくらいかなあ」

 トワ会長が指さした先にあったのは不要な備品の入った箱で、両脇に抱えられる程度の大きさだ。

「そうでしたか。来るのが遅れてしまったみたいですみません」

「ううん。せっかくの自由行動日だし、たまにはリィン君にも息抜きして欲しかったし。こっちこそ呼び立てておいてごめんね」

 再三謝ってくれるトワ会長を見て、逆に何だか申し訳ない気がしてきた。

「気にしないで下さい。だったら俺はこの備品を用務員室に持っていきますね」

「それくらい私がやるから大丈夫だよ」

 これ以上トワ会長に何かをさせたら、俺の立つ瀬がない。

 半ば強引に箱を持ち上げた俺に「ありがとう、またお礼するからね」とトワ会長は笑ってくれた。

「そうだ。私も今日は仕事が片付いちゃったし、久々にお菓子でも作ってみようかな。完成したらリィン君のところに一番に持っていくよ」

「本当ですか? それは……ちょっと楽しみですね」

「えへへ、腕によりをかけちゃうよ」

 本当に楽しみだった。トワ会長の手作りのお菓子なんて食べたことがない。それだけでも今日ここに来た甲斐があった。

 軽い足取りで本校舎へと向かう。用務員室は中庭側の入口から入った方が近いので、正面ではなく校舎の裏手に回ることにした。

 その途中、技術棟前を通り過ぎようとした時、

「――頼む! もうお前しか頼れねえんだ!」

 屋内から大きな声が聞こえてきて、思わず足を止める。

 この声はクロウだ。

 朝から見かけなかったが、技術棟に来ていたのか。何かジョルジュ先輩に頼み込んでいるようだが。

「作れないことはないけど、そんなもの何に使うのさ。悪巧みかい?」

「それは言えねえ。だがお前を男と見込んでだ!」

「悪い予感しかしないなあ」

 会話の内容が見えないが、立ち聞きは趣味が悪いか。

 声はかけずに、そのまま中庭に向かうことにした。

 

 中庭東側の入口を入ると、用務員室はもう目の前だ。

「あれ?」

 用務員室には鍵が掛かっていた。

 さっき生徒会室へと向かう途中に、落ち葉を掃いているガイラーさんを見かけたから、今日が非番というわけではないはずだが。

「困ったな。鍵を開けてもらわないと」

 学生会館からの道中ではガイラーさんを見なかったので、グラウンド側か校舎内のどちらかだろう。

 とりあえず正面入り口側に向かってみる。幸い、すぐに彼は見つかった。

 ガイラーさんが階段前で何人かと話している。

「ん?」

 その中の一人が急に向きを変えて、階段を駆け上がっていく。

 後ろ姿しか見えなかったが、赤い学院服に三つ編みのおさげ髪だったので、遠目にも委員長だと分かった。あんなに走ってどうしたんだろうか。

 その委員長の背中を見送っているのはガイラーさんに……サラ教官とメアリー教官か? 何だか珍しい組み合わせだ。

 二、三言ガイラーさんと話をした後、彼女たちはその場から離れていった。

 近付いて、ガイラーさんを呼び止める。 

「何かな?」

「借りていた備品をお返ししたくて。用務員室の鍵を開けてもらえませんか」

「ふむ……」

 顎をしゃくり、まるで品定めでもするかのように、俺の頭のてっぺんから爪先までねぶるように視線を這わせる。ガイラーさんはにたりと頬を緩めた。

「悪くないね」

 悪寒が背筋に走り、冷たい汗が滲みだす。

 狩人が獲物をみるようなこの目はなんだ。

「本来なら君の熱い要望にお応えして、用務員室でゆっくりと二人で過ごすことはやぶさかではないのだが。今はどうしても外せない用事があってね」

 そんなオーダーを出した覚えはないぞ。なんで二人で用務員室に入ることになっているんだ。

 ガイラーさんは階段を見上げている。二階から不穏な空気が渦巻いている気がするのは気のせいか?

「外せない用事……ですか?」

「理性と本能の狭間に囚われる、才ある少女の枷を壊すという用事がね」

「はあ……」

 さっぱり意味がわからない。

「備品は用務員室の前に置いてくれて構わない。後で責任を持って片付けておこう」

 それだけを言い残すと、ガイラーさんは異様な雰囲気のまま二階へと姿を消した。

 妙な胸騒ぎがしていたが、ひとまずは言われた通り用務員室のドア横に荷物を置く。

「よしこれで終わり。後は……あ」

 そこで気が付く。

 俺の今日の用事はこれで終わってしまった。

 

 

 ――13:30 

「さてと、これからどうするかな」

 外に出て軽く伸びをする。

 半日は生徒会室の片付けに費やすつもりだったのだが、それはトワ会長がほとんど済ましてくれたわけだし。

 これなら昨日、ロジーヌの頼みを受ければよかった。

 ユーシスが昼前に寮を出たところを見ると、おそらく俺の代わりに礼拝堂での授業を引き受けてくれたのだろう。

 帰ってきたらユーシスに謝らないといけない。顔を合わすのは怖い気もするが。 

「トワ会長も仕事が片付いたって言ってたし……」

 生徒会の手伝いもなく、自由行動日にしては珍しく依頼もない。普段なら歩き回っているだけで何かと頼まれごとをされるのだが、今日はそんな気配もない。

 時間が空いたはいいが、それならそれでやることが見つからない。

「……釣りでもするか」

 結局そんな結論に至ってしまった。朴念仁。そんな揶揄をされるのも不本意ながら仕方ないことかもしれない。

 学院の敷地内にも釣りスポットがある。

 中庭、花壇奥の池溜まり。月を重ねる毎に魚の種類が増えていく謎の釣り場だ。ケネスが放流でもしているんじゃないかと、そんな疑問が浮かぶほどだ。

 すでに正面玄関から出てしまっていたので、グラウンド側を回ってもう一度中庭に向かうことにする。

 ギムナジウムの前を通り、ようやく花壇に差し掛かったところで、

「うん、いい感じだな」

 凛とした声音が耳に届いた。中庭に見慣れないジャージを着たラウラと、その両サイドに女子が二人控えている。

「ポーラとモニカ……だよな」

 これもあまり見かけない組み合わせだ。

 ここ半年あまりの依頼をこなす内に、いつの間にか学院関係者の名前と顔はほとんど一致するようになっていた。

「ラウラたちは一体何をやってるんだ?」

 彼女たちが見上げる先にあった光景を目にし、絶句する。

 エリオットとガイウスが壁をひたすらよじ登っているではないか。

「エリオット、もう少しだ!」

「ゆ、指先が痺れてきた……」

 そんな二人をラウラは助けるでもなく「その調子だ」と落ち着き払い、モニカは「落ちたら痛いよね? ね?」などと、執拗に彼らを追い詰めている。

 ポーラに至っては「落ちた時のペナルティーが必要じゃない?」といかにも怪しげな機材を、壁を登る二人の下に楽しそうに設置し始めた。

 状況を見ても何をやっているのかは不明だが、二つだけ理解できたことがある。

 絡まないでおくのが良さそうだということ。そして、ここで釣りをすることは叶わないということだ。

 後じさりながら踵を返し、俺は速やかにその場を離れた。 

 エリオット。朝に話した“強さ”っていうのは、多分そういうことじゃないと思うぞ。

 

 

 ――14:10 

 足の向くまま、今度はアノール川へ。やはり釣りならあの場所だろう。

「あ、そういえば餌を切らしているんだったか」

 うっかりしていた。

 仕方がないから川は一度素通りして、ミヒュトさんの店に行くことにした。

 貴重なクオーツや掘り出し品を扱っている上に、なぜか釣り用の撒き餌まで揃えているので何かと重宝している店だ。

 道中、ブティックのショーウインドウ――その中のマネキンに目が留まる。

「……アリサによく似たマネキンだな」

 まだ距離はあったが、遠目にもそう見えた。

 そしてなぜかⅠ組のフェリスにそっくりなマネキンも隣に置かれている。

 あまりに精巧な作りなので本人達と見間違える程だったが、もしかしてマネキンのモデルにでもなったのだろうか。

 ……さすがにそれはないか。しかしあのマネキンを見ていると、今朝ビンタされた頬が疼きだすのはなぜだろう。

「アリサの平手打ち……トラウマになりかけているな」

 ずきずきする頬をさすりながら路地に入り、質屋《ミヒュト》の扉を開く。

 店内にミヒュトさんの姿はなかった。

「外出しているのか? 店も開けっぱなしで不用心だな」

 まあミヒュトさんを知っている人なら、この店に強盗に入ろうなんて思わないだろうけど。一筋縄ではいかない雰囲気があり過ぎて困る。

 カウンターまで歩み寄って気付いた。

「ミ、ミヒュトさん!?」

 ミヒュトさんは椅子に座り、うなだれている。顔をのぞき込むと白目を剥いていた。生気の欠片も感じられない。意識があるのかさえ定かではなかった。

「だ、誰がこんな真似を」

 薄々感づいてはいた。様々な情報網を持っているらしいミヒュトさんはどこか“世間の裏”に通じているところがあると。

 どこかの危険な組織がミヒュトさんを亡き者にしたのかもしれない。

 武器密売の闇ブローカーか、あるいは怪しい宗教団体か、もしかしたら以前サラ教官が口にした《身食らう蛇》とかいう謎の結社か。

 いずれにせよ、ミヒュトさんはもう戻って来ないのだ。

「くそっ!」

 刹那に湧いた激しい怒り。握りしめた拳をカウンターにどんと打ちつける。

「ぐうっ」

 その時、ミヒュトさんから呻き声が漏れた。

 生きている。

「ミヒュトさん! ミヒュトさん!」

 安堵と焦りが混じり、必死に声をかける。

 少しのあと、ようやくミヒュトさんは意識を取り戻した。

「よかった。無事だったんですね」

「お前は……ここは……肉が、肉玉が……」

 本当によかった。記憶が定まらないのか、よく分からないことを口走ってはいるが。

 傾いていたミヒュトさんの体を戻そうと肩に触れる。その瞬間だった。まるで電流でも走ったかのように彼はビクリと身を震わせた。

「う、うおおおおっ! やめろおお!」

 絶叫。それは俺に対しての言葉ではない気がした。激しくぶれて焦点の定まらないミヒュトさんの眼は、その先にある何か得体のしれない恐怖に怯えているようだった。

「ぐあああ!」

「ミヒュトさん!? 何を!」

 弾かれたように椅子から立ち上がったミヒュトさんは、俺に向かって拳を振り上げると、一切の容赦なく殴り掛かってきた。咄嗟に引いた体が後ろの棚に強くぶつかって、陳列されていた商品を派手に飛び散らせる。

「ぐっ!」

 ミヒュトさんは今正気じゃない。再び繰り出された拳をかいくぐって回り込むと、背後から首を両腕で締め上げた。

「落とすだけです! 悪く思わないで――うっ!?」

 頸動脈を圧迫する為に力を入れていたはずの腕が、無造作にかけられた彼の手によって容易く引き剥がされていく。

 手首を掴まれたまま力任せに振り払われ、成す術なく中空を舞った俺の体は、受け身を取る暇もなくカウンターに打ち付けられた。

 嗚咽をもらした俺の視界に「ムフォー!」と雄叫びを上げたミヒュトさんが迫りくる。

 どこかで聞いた一声だと思ったのも一瞬、染みついた感覚が考えるよりも先に体勢を戻す。

 やらなければ殺られる。刹那によぎる言葉が拳を固めた。

 左掌を突き出し、右拳を脇に引く。無手の構えで、迫り来るミヒュトさんを正面に捉える。

「うおおおっ!」

「ムフォオッ!」

 瞬きよりも早く、互いの拳が交差する。ミヒュトさんの一撃は俺のこめかみを掠め、俺の一撃はミヒュトさんの顎を掠めた。

 決定打ではない。だが二撃目の必要はなかった。

 ミヒュトさんは再び白目をむくと、その場にくずおれて動かなくなる。

 顎からの衝撃に脳が揺れたのかもしれない。元々意識が不安定だったのも要因の一つのようだ。

 荒れに荒れた店内の真ん中で、俺は力なくへたりこんだ。願わくば今の衝撃で、ミヒュトさんの記憶が飛びますように。

「……撒き餌は諦めるか」

 今更ながらこの店に来た目的を思い出し、疲れの溜まった息を吐く。

 

 

 ――14:40 

 川に餌の付いていない針を投げ落とす。

 虫でも捕まえて餌にしようと思っていたが、もはやそんな気力と体力は残されていなかった。

 これで魚など釣れるはずもないが、釣りの真似事でもしていれば心も落ち着くだろう。

 今はそれで十分だ。

「……結局ミヒュトさん何だったんだ」

 あの後、乱雑になった店内を片付けてから、ミヒュトさんは元の椅子に座らせておいた。

 顎への一撃以外に外傷はなかったようだし、呼吸も安定していた。

 誰かに連絡しようかとも考えたが、それは止めておくことにした。直感だが、そこまでの大事ではない気がする。

 しばらくしたら目を覚ますと思うが、問題は一連の事柄をミヒュトさんが覚えているかどうかか。

 釣竿を片手に川縁に腰を下ろす。吹き抜けた風がふわりと前髪を揺らしていった。

「気持ちいいな。ガイウスが好きそうな風だ」

 がさりと近くの木陰から音がする。そこにいたのは、短い尻尾に見覚えのある茶色い毛並み。

「ルビィ? 寮を出て行ったと思ったらそんな所にいたのか」

 名前を呼ぶとルビィはそばに寄ってきた。

 相変わらず自由なやつだ。口に何か咥えている様だが、また変な物でも見つけたのだろうか。

 頭を軽く撫でてやると、ルビィは気持ちよさそうに体を伸ばした。

 ずいぶん毛並みの質が良くなっているのは女子達のおかげだろう。

 どこで手に入れたのか上質の犬用トリートメントで、手厚いケアを定期的に実施しているらしい。

「お前は呑気だよな。わかってるのか? 俺たちがお前と一緒にいられるのは、あと一か月くらいしかないんだぞ」

 二か月。それが第三学生寮でルビィを預かれる期限。

 ヴァンダイク学院長から出された条件の一つだ。つまり十月の半ばまでに、新しい飼い主を見つけなくてはいけないのだ。

「ん?」

 じっと水面を眺めていたルビィは、ぴくりと耳を動かして、不意に首を持ち上げた。

 同時に餌の付いていない釣り針がぐっと重たくなる。

「あ、しまった。根掛かりだな」

 針だけだし当たり前か。

 目を凝らして水底を見てみると、大きな石の間に針が引っ掛っている。こうなっては簡単に外せない。

 糸が切れるのも承知で、強く竿を引っ張り上げた。

 石に針が掛かっていたわけではなかったらしく、少し竿の位置がずれると、そのままリールを巻き上げることが出来た。

 ぱしゃんと飛沫を立てて、釣り針が水面から上がる。

 何か光るものがぶら下っていた。ガラスの破片だろうか。とりあえず糸を手繰り寄せてみる。

「これは……ブローチか?」

 丸い縁取りで青い輝石のはめ込まれたシンプルなブローチだ。なんでこんなものが川底に? 

 釣り上げたものでも、落とし主の判らないものを持っていくのは気が引けるし……

 どこかで見たような気もするが、どうにも思い出せない。

 ひとまず川縁の端、目立つ所にそれと分かるよう置いてみた。もしかしたら探しに来た人が見つけるかもしれないし。

「よし、そろそろ餌になりそうな虫でも探すか」

 気合を入れ直した時、自分の名前を誰かに呼ばれたような気がした。

 なぜかルビィがそそくさと木の陰に隠れてしまう。

 辺りを見回してみる。そして橋の上にその人物を見つけてしまった。全身の血が冷えわたり、畏怖を覚えた体がみるみる強張っていく。

「マ、マキアスっ!?」

 橋の上からマキアスが俺に向かって何かを叫んでいる。

 まさかチェスの事で俺を追いかけてきたのか。どこか笑っているようにも見えるが。

 唐突に、忘れかけていたシャロンさんとの会話を思い出した。

 

 ――所々入れ違った駒を見るや――狂わんばかりの怒りをぶつけ始めたのです――

 

「お、俺に狂わんばかりの怒りをぶつけに来たのか!?」

 いや、あれはシャロンさんの冗談の可能性もある。普通に散歩でもしていて、俺に声をかけただけかもしれない。そうだ、そうに違いない。しかしチェスを崩してしまったことは謝らないと。

「マキアス、チェスのことは済まなか――」

 

 ――謝罪を申し上げようとしたのですが、その手にご愛用の導力散弾銃が握られているのを見て――

 

 彼女の言葉が否応なく脳内で再生され、言葉が詰まる。いくらマキアスでもこんな町中で武器なんか所持しないはず。そう思いかけて息を飲んだ。

 片腕を掲げたマキアス。その手には黒光りする長物が携えられていた。

「シ、ショットガン!?」

 

 ――その直後でございました。銃を掲げられたかと思いきや、すでにぼろぼろになった棚に即座に狙いを移し、慈悲の一片も感じさせない機械的な動作で引き金に指を掛け、そして――

 

「待ってくれマキアス! 話を聞いてくれ! 冗談なんだろう!?」

 

 ――始末、という言葉が相応しいでしょう。眼鏡を光らせ、口許に冷ややかな笑みを浮かべたまま――

 

「あ、ああ……!」

 全ての状況がシャロンさんの言った通りに動いている。

 あの笑みは獲物にとどめを刺す直前の舌なめずりということなのか。あるいは追い詰めて逃げ場を失った標的を嘲笑っているのか。それほどまでに、マキアスのチェス盤を崩したことは罪深いことだったのか。

 その口許がわずかに開き、こう言い放ったように見えた。

 

 ――チェックメイト――

 

 逆光で黒く塗り込められたマキアスの表情は見えず、妖しい光を放つ眼鏡だけが浮き立っている。

 ついに銃口がこちらに向けられた。

 前後左右に逃げ場がない。もう選択肢は一つしかない。

「うおお!」

 俺は川の中へと飛び込んだ。

 もはや退路はここだけだ。幸い散弾銃の射程は長くない。どうにかして距離を取らなければ。

 流され過ぎないよう、力を振り絞って精一杯泳ぎ続ける。気付けばマキアスは橋の上から姿を消していた。

 威嚇だけだったのか?

 しかしすでに川の中。浮き沈みを繰り返しながら対岸を目指す。流れに抗いながら、俺は確信した。

 今日は久しぶりの厄日だ。

 

 

 ――15:00 

 何でこんなことになってしまったんだ。

 自分にそう問いかけた時、最初に思い浮かんだ不義理はユーシスの一件だった。

 ロジーヌからの依頼を断わる形でトワ会長の頼みを優先し、あげくその引継ぎを無関係なユーシスに振ってしまったのだ。

 ユーシスには依頼を受けたのかの確認を含め、昨日の内に謝っておくべきだったのだが、何となく二の足を踏んでしまい、部屋のドアを叩くことができなかった。

 明日でいいかと後伸ばしにした結果、結局のところ未だユーシスには会えていない。

 だから、これは受けて然るべき罰なのだろう。

 少し罰が重すぎるような気がしないでもないが、甘んじて受け入れるしかない。

 今からでもいい。ユーシスに謝りに行こう。そうしないと俺の気が済まない。

 水を吸って鉛のように重たくなった服をまとい、ひたひたと水を滴らせながら礼拝堂へと向かう。

 一歩歩くごとに靴の中の水がびちゃりと音を立て、不快な感触が足裏から伝わってきた。

 礼拝堂が見えてくる。丁度ユーシスが扉を開いて中に戻るところだった。

「ユーシス!」

 びっちゃびっちゃと足を踏み鳴らしながら、駆け寄ってその背中に叫ぶ。

 ユーシスは振り返りながら「リィンか。お前のおかげで俺は面白いことになっているぞ」とたっぷり皮肉を浴びせてくれるが、俺のずぶ濡れ姿を見ると不意を突かれたように目を丸くした。

「お、お前?」

「俺が悪かった! 許してくれ、ユーシス! この通りだ」

 誠心誠意、頭を下げて謝る。垂れた前髪から水が落ち、足元に水たまりが広がっていった。

「わ、分かったから、頭を上げろ」

「許してくれるのか?」

「子供のおもりなど造作もないことだ」

 礼拝堂に向き直るユーシス。

「それよりもお前……いや何でもない」

 何か言いかけたようだったが、言葉を途中で切り上げる。彼は毅然とした態度で礼拝堂へと戻っていった。

 悪いとは思っているが、やっぱり適任なのは間違いなかったようだ。

 ユーシスが礼拝堂内に足を踏み入れた途端、大勢の子供達がその体に一斉にしがみつく。

「ええい、お前たち離れるがいい!」

「やっぱり似合ってるな」

 気になるのは子供たちに混じってフィーとミリアムがいることか。別に違和感はないが。

「俺はそろそろ寮に帰るか……」

 今日は外を歩くと何かとトラブルに見舞われる。もうこれ以上のアクシデントはごめんだ。部屋でゆっくり休むとしよう。

 帰路につく俺の背を、涼やかな風が柔らかく押してくれる。普段なら心地よく感じる秋風も、濡れた体には冷たかった。

 

 

 ――15:30 

「シャロンさん、ただいま戻りました。……とりあえずタオルをもらえますか」

 第三学生寮の扉を開くと、ラウンジの掃除をしていたシャロンさんはこちらを見るなり目を(しばたた)かせた。

「まあ、リィン様。滝にでも打たれてきたのですか?」

「どんな予想ですか」

 俺のイメージってどうなってるんだ。大体、滝に打たれるにしても服ごとはいかないだろう。

「うふふ、どうぞ。シャワーでも浴びられますか?」

 タオルを差し出しながら、シャロンさんはそんな申し出をしてくれる。そういえばずいぶん体も冷えていた。

「すみませんが、お願いします」

「今なら寮内には誰もおりませんので、シャロンが心を込めてお背中をお流し致しますわ」

「やっぱりやめておきます」

 そんな姿をアリサに見られでもしたら、それこそビンタじゃ済まない。気が済むまで、あらん限りの矢を撃ち込まれることになりそうだ。

「あら、冗談ですのに」

 くすくすと笑いながらシャロンさんは言う。シャワーはもちろん浴びたいが、少し休んでからでいい。

 とりあえず自室に戻り、濡れた学院服を脱いで部屋着に着替え直した。

「なんだか……大変だったな」

 床に腰を落として、ベッドに寄り掛かる。一息つくと、一気に溜まっていた疲れが押し寄せてきた。

 シャワーを浴びに行かないと。しかし一度座ってしまうと、立ち上がるのが億劫になってくる。

 まどろみに溶けてしまいそうだ。重くなったまぶたが落ちていく――

 

 

 ――17:00 

 目を開ける。

 霞む視界の中に時計を捉えると、針が示している時刻は十七時。

 おかしい。十分程度目を閉じていたつもりだったのに、一時間半も経っている。

「いつの間にか眠っていたのか?」

 ベッドの端に手をかけて立ち上がる。

 ぐらりと歪んだ景色に思わずたたらを踏んで、今度は机にもたれかかってしまった。

 何だか寒気がする。頭はふらつくし、目頭が熱い。

「っくしょん!」

 そしてくしゃみ。鼻をすすると、喉の奥に鈍痛が走った。

「これ……風邪だ」 

 冷えた体のまま、毛布も使わずに床でうたた寝をしたのだから、それはそうなっても仕方がないことか。

 うかつだった。せめて先にシャワーを浴びて体を温めておけば良かった。

 遅い後悔を感じながら、おぼつかない足取りで壁伝いに部屋から廊下へと歩み出る。

 せめてシャロンさんに状態を伝えて、薬を用意してもらわないと。

 手すりを脇に抱えるようにして、一段一段時間をかけて階段を降りた。

 ようやくの思いで一階に辿りついたが、ラウンジにシャロンさんの姿は見えなかった。

「シャロンさん、いませんか……ごほっ」

 咳も出てきた。声が出しにくいし、もう立っているのもしんどい。ひとまずソファーまでは行かなければ。

 のろのろと向き直った時、扉の開いた音がした。

「リィンか? 今日は寮にいたのだな」

 聞こえてくる快活な声。ラウラが帰ってきた。

 いいタイミングだ。シャロンさんが戻ってきたら、ラウラから俺の体調不良を伝えてもらえばいい。

「その、ごほっ、ラウっぐ!」

「リィン、どうしたのだ?」

 話そうとするも咳き込んで言葉にならない。そんな俺の様子を訝しんでか、ラウラが近づいてくる。

 そうだ、紙に書こう。ペンは確か棚に――

「あっ?」

「リィン!?」

 ペンを取りに行こうとしたら、足がもつれてしまった。

 そのまま崩れるように倒れ込んでしまうが、間一髪壁に手を付いて、何とか留まることができた。

 危ないところだった。下手をしたら頭から床に突っ込んでいた。丁度よく目の前に柔らかい壁があったから良かったものの――

「え……」

 嫌な予感のまま、落ちていた視線をゆっくりと上げる。

 それが視界に入った時、列車砲の弾になって撃ち出されたかと思う程の、想像を絶する衝撃に慄然とした。

 突き出された両の手の平は、見事に、寸分違わず、狙い澄ましたかの如く、まるで旬の果実をもぐかのように、ラウラの両胸をわし掴んでいたのだ。

 俺は固まり、ラウラもまた固まっている。

 氷に閉じ込められたみたいに時が止まっていた。

 永遠とも思える数秒を経て、ラウラが震える口を小さく開いた。

 瞬間、はっとして俺は体を引く。

 まずはとにかくこの手を離さないと! だがそう思う意志に、体は付いて来なかった。

 引きかけた足が何もないはずの床に引っ掛かり、さらに体勢が大きく傾く。 

「はっ!?」

 ラウラの胸に手を押し当てたまま、彼女を背後の壁に勢いよく押し付けてしまった。

 どんっと大きな音が響いて、気付けばさらに強くラウラの胸をつかみ――いやもう、握りしめていた。

 わざとじゃない。絶対にそれだけは言わないと。

「こ、これは……わざとっ! ぐふっふっ」

 放たれた咳が最悪のタイミングで言葉を断ち切った。さらに不運なことに、何とか堪えようとして詰まった咳き込みは、自分でも耳を閉ざしたいくらいの下種な笑い声に聞こえた。

「なんでしょう? 大きな音……」

 調理場からシャロンさんが顔を出して、こちらを見るなり「あら……まあ」と口許を手で覆った。しかし目元が笑っている。

 ずっといたのか。なぜもっと早く出て来なかったんだ。むしろなぜ今出てきたんだ。最悪のタイミングを持っている人がここにもいたぞ。

「うふふ、お邪魔致しました」

 そう言い残すと、シャロンさんはまた調理場へと消えてしまった。

 今度こそ俺はラウラの胸から手を引いた。手の平にはじとりとした汗が滲んでいて、その感触は未だに消えてくれない。 

 どうなる、俺はこの後どうなる。

 どう考えても無事では済まない。ばくばくと心臓が脈打つ中、思い返したのは入学初日、旧校舎地下にて行われた特別オリエンテーリング――その出口で戦ったガーゴイルだ。

 ラウラの大剣によって両断され、中空を舞い飛んだ石の首が、俺のそれへとすげ変わる様を幻視してしまった。

「……ち」

 顔をうつむけていたラウラが何かを小さく呟いた。

 ついに実刑判決が下されるのか。

 ラウラは顔を上げて、震える声で言葉を続けた。

「父上に言う……」

 実刑判決ではなく処刑宣告だった。

 顔から火が出るほどに赤面したラウラは、さっき自分がされたように、俺の胸をぐんと押した。

 その反動で二、三歩後退する――程度なら良かったかもしれない。想像以上の膂力が背中まで突き抜け、すでに耐える力など微塵にも残っていなかった俺は、反対側の壁まで盛大に吹き飛んだ。

 体全体がへしゃげるくらいに壁にぶち当たった後、塗りたてのペンキが垂れるように床にずるりと落ちて、そのまま力なく横たわる。

 ラウラは真っ赤な顔のまま、階段を駆け上がって行ってしまった。

 動かない、というか動けない俺のそばに、再び調理場から出てきたシャロンさんが粛々とした佇まいで歩み寄ってくる。

 足元で立ち止まったシャロンさんは、静かな口調でこう言った。

「今、リィン様が考えていることを当てて差し上げましょうか?」

 目線だけでシャロンさんを見上げると、変わらず柔和な笑みを口許に湛えている。今俺の思うことは一つ。今日は厄日、その一言だけだ。

 シャロンさんは自信たっぷりに答えた。

「どうせならエマ様の方が良かった……ですね?」

「そんなわけっ、ぐふっふ」

 咳も、災難も一向に止まらない。

 

 

 ――19:00 

「ごほっごほ……」

 シャロンさんに風邪を引いたことを伝えた後、満身創痍で自室まで戻ると、力尽きた俺はベッドに倒れ込んだ。

 シャロンさんが言うには、風邪薬を切らしているらしく、雑貨店まで買いに行くとのことだったが、それ以降の音沙汰が全くない。

 雑貨屋って《ブランドン商店》だろう。時間がかかってもせいぜい二十分くらいだろう。

 どうして一時間以上も帰って来ないんだ。いや、もう帰っているのかもしれないが、こんな体調だと気配を察知する感覚まで鈍くなっているらしく、他階の様子が今一つ掴めない。

 まったく、風邪を引くなんてしばらくぶりだ。

 ぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。足音は俺の部屋の前で止まり、誰かがこんこんと扉を叩く。

「リィン大丈夫? 入るわね」

 やってきたのはアリサだった。

「シャロンから聞いたのよ。風邪引いたんですって?」

 声が出しにくいので、ただうなずく。

 心配して見に来てくれたのか。手に何かを持っていようだ。

「何も食べてないんでしょ。それじゃ治るものも治らないわ。お粥を作ってきたから、その……か、感謝しなさいよ?」

 アリサはベッド横に、持ってきてくれたお粥を置いた。ちらりと見てみる。

 変だ。俺の知っているお粥は白色なんだが、なぜか燃えるような赤色をしている。

「シャロンが教えてくれたの。体の熱を引かすには汗をかくのが一番いいんだって。だから発汗作用のある香辛料を隠し味に入れてみたのよ」

 全然隠れていない。むしろステージの最前線でスポットライトを浴びている。いつぞやの煉獄スープに米を投下しただけだろ、それ。

「ん……んん!」

「そっか。起きられないのね? し、仕方ないから食べさせてあげるわよ。仕方なくよ!?」

 スプーンを手にしたアリサは、お粥と呼ばれたモノを俺の口許に近づけてきた。

 それはスプーンの上さえぐつぐつと煮立って、まるで慟哭を上げているように、しゅーしゅーと得体のしれない蒸気を噴出している。

「はい。あーん」

 やめろ……やめてくれええええ!

 がちゃ、と扉が開く音がした。

「失礼します、リィンさん。あらアリサさんも……」

「エマ。どうしたの?」

 委員長が俺の部屋にやってきて、アリサの手が止まった。助かった。

「シャロンさんからリィンさんが倒れたと聞きまして。それで様子を見に来たんです」

 ありがとう、委員長。おかげで俺は――待て、その手に持っているものは何だ?

 俺の視線に気付いたらしく、「あ、これですか」と手に持ったものを掲げてみせる。

「おばあちゃん秘伝のお薬です。私も子供の頃、風邪を引いた時はよく飲ませてもらっていました」

 そうじゃない。聞きたいのはどうして実験器具用のフラスコの中に、風邪薬と思わしき液体が入っているのかだ。

「記憶を頼りにしていたので調合に手間取ってしまいましたが、多分大丈夫です」

 記憶を頼りにとか多分とか、その時点でだいぶ危険じゃないのか。

 俺は市販の薬でいいのに。シャロンさん一体何をやっているんだ。

「でもお薬を飲むなら何か食べてからじゃないと」

「そうでしたね。ではアリサさんからお先にどうぞ」

「み、見られてるとできないわよ!」

「な、何がでしょうか?」

 二人が揉めていた時、

「……リィン、少しよいか?」

 三度目の扉が開き、普段とは別人のような、おずおずとした態度のラウラが部屋に入ってきた。

「アリサに委員長か。そなたらもいたのだな……まあ、いいか」

 ラウラは枕元まで近づいてくると、その目線を落ち着きなく動かしながら歯切れ悪く言う。

「その……そなたが体調を崩しているとは知らなかったのだ。さっきは……あんなことがあって……気が動転してしまって……すまなかった。あの……今までにないことだったゆえ……」

 待ってくれ。なんでそんな誤解を誤解で塗り固めるような言い方をするんだ。

「リ、ィ、ン~!? あんなことって何? 今までにないことって何なのよ!?」

「うふふ、私も聞かせて頂きたいですね……じっくりと」

 アリサと委員長の視線が刺さる。

 そんな二人には構わず、ラウラはタッパーを取り出した。

「今日の昼、エリオットとガイウスに食べてもらったレモンの蜂蜜漬けだ。程よい甘さと酸味が体に活力を与えるのだ。これを食べて体調を戻すといい」

 タッパーには並々と注がれた蜂蜜の中に、レモンがまるまる一個浸かっている。

 これをエリオット達は食べさせられたのか? 普通はレモンを輪切りか何かにするだろう。何を勘違いしてこんなものを作ったんだ。

「う……うぅ」

 どれも今は食べられない。その意味を込めてアリサ、ラウラ、委員長と、三人に順に目で訴えたところ「ふむ、なるほどな」とラウラは何かを納得した。

「まずアリサのお粥、次に私のレモンの蜂蜜漬け、最後に委員長の薬がいいというわけだな」

 違うぞ! どんな解釈の仕方だ!

「たしかにバランスがいいかもね」

 バランス感覚が間違っている。アリサは再びスプーンを構えなおした。今度は待ったなしだ。口の中に真っ赤なお粥が容赦なく侵入してくる。

「がっ!」 

 細胞の全てが常軌を逸した辛さに悲鳴を上げた。体が干からびるほどに、汗が吹き出す。

 濡れた雑巾を絞り上げるように、一滴たりとも水分を残さないという悪意を孕んで胃に滞留する異形の塊。

 これがお粥だというのなら、この世界の病人には一片の救いもない。

「よし次は私だな。……とはいえ、さすがに病人の口にレモンは入るまい」

 常人の口にもまず入らないぞ。どうやってあの二人に食べさせた。

 レモンのことを諦めたらしいラウラは、タッパーの淵を俺の口につけ、直接蜂蜜を流し込んできた。

「ごふっ!?」

「レモンの成分が蜂蜜に染み込んでいるだろうから、効能的には同じはずだ」

 皮も剥いていないのにそんなことがあるわけない。

 骨の全部がぐずぐずに溶けてしまいそうな、凶悪な甘さが体を巡っていく。

 血液までも糖分に侵されていく感覚の中、身じろぎ一つできない俺はただ呻きを漏らすしかなかった。

「では次はお薬です。しっかり飲んで下さいね?」

 矢継ぎ早に委員長がフラスコを片手に、ラウラと立ち位置を代わった。

 せめてコップに移して欲しい。そう言いたくて果たせなかった俺の口に、フラスコの挿入口が添えられた。

「むっ? ぐっ? ごおっ!?」

 緑とも黄とも言えない謎の液体が、どろどろと無遠慮に注がれてくる。

 瞬間、喉の内側を直接バーナーで炙られたような耐え難い苦痛が、凄まじい苦味を伴って襲い掛かってきた。

「がんばって下さい、良薬は口に苦い物ですよ」

 絶対、調合間違ってる。

 苦さの領域を踏み越えて、すでに痺れが指先まで回ってきている。飲まずとも見ただけで子供が家を飛び出して、そのまま三日間は帰って来ないレベルの代物だ。

「がっは……」

 もう意識を繋ぎ止めるだけで精一杯だ。こうなれば気を失った方が楽かもしれない。

 これ以上は限界だ。飲む量も少なくなるし、できればスプーンの方がよかったのに。

「――でき、れば、スプーンの方、が……」

 声に出てしまっていた。

 それを聞いたアリサは「元気になってきたわ!」と顔を明るくさせ、ラウラは「確かにその方が良かったか」と改めてスプーンを手にする。委員長も「配慮が足りず申し訳ありません」とフラスコから小皿に移した液体をスプーンですくい直した。

 違う、今のは違う。もう俺はいらない。いらないんだ。 

「はい、あーん」

「待てアリサ、もう順番は関係ないのではないか?」

「先にもう一口お薬を……」

 ぎゅうぎゅうと押し合うように、三人は俺の枕元で騒ぎ立てる。

「あ、ちょっと押さないでよ、きゃっ!?」

「私は何もしていないぞ、なっ!?」

「ちょっとお二人とも、ひゃあ!?」

 誰かが足を滑らせ、それが連鎖したのか、三人同時に俺のベッドに覆いかぶさるように倒れ込んできた。

 さらに誰かの肘が俺のみぞおちを突き、嗚咽と一緒に思わず口を開いてしまう。

「いたた、大丈夫?」

「うむ……」

「ええ、リィンさんはご無事ですか?」

 乗りかかったまま俺の顔に視線を向けた三人は、『……あ』と声を揃えた。

 三つのスプーンがまるでそういうオブジェでもあるかのように、開いた口の中に綺麗に納まっている。

 強制的に押し込まれた三つの異物は、胃の中で想定外の融和反応を起こした。

 背骨がぎしぎしと軋みを上げ、意志とは無関係に上体が反り上がっていく。

 やがて凝縮された不穏な力は体の中心で爆ぜ、あばらが全て噴出するかのような衝撃を俺に与えてくれた。

 ついに意識が遥か彼方へと飛び去ろうとしていた。

 全ての力を失い、急速に視界が狭まっていく。その最中、ばさっと何かが落ちる音が聞こえた。

 うつろう瞳が最後に目にしたのは、床に落ちた鮮やかな色合いの小さな袋と、部屋の入口で呆然と立ち尽くしているトワ会長の姿だった。

 そういえばお菓子を作ったら一番に俺の所に持って来ると……しかしそんな出来たてのお菓子は今、冷たい床の上に転がっていた。

 違うんです、トワ会長。この状況は不可抗力なんです。

 しかし言葉を発することは叶わず、その目を潤ませたトワ会長は身を返して走り去ってしまう。

 トワ会長と入れ違うように、今まで一向に姿を見せなかったシャロンさんが、開いたドアの隙間からすっと現れた。相も変わらず、穏やかな微笑みの表情を浮かべて。

 一体今まで何をしていたんだ。

 今日は厄日だ。

 何度目になるかもわからないその一言を胸中につぶやく。同時、俺の視界は暗く閉ざされ、意識が闇の淵に沈んでいく。

 こうしてビンタから始まった俺の一日は、受難に見舞われたまま終わりを迎えたのだった。

 

 

~FIN

 

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。今回の一日はリィンでした。主人公は見た的な感じで、各メンバーの裏パートにちょろっとずつ実は出ていたりしました。そして中盤から後半にかけては主人公らしくトラブルのオンパレードとなっていますね。いい目にもあっている気はしますが。
そういえばちゃんと明言していなかった気がしますが、最初からストーリーを用意していたメンバーは11人。後はシャロンとサラの話で一日シリーズは終わりとなります。
ということは『そんな第三学生寮の一日』にした方がよかったのかなと、今更ながら思ったりもしましたが、二人ともⅦ組関係者ということでご勘弁ください。
ちなみに話のボリューム次第ではシャロンとサラで分けて出すか、シャロン&サラとして二話をまとめて出すかのどちらかになりそうです。
いずれにせよ、あと一話もしくは二話ですので次回もお楽しみにして頂ければ幸いです。


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そんなⅦ組の一日 ~シャロン

9月12日(自由行動日) 6:00 シャロン・クルーガー  

「さあルビィ、お散歩に参りますよ」

 第三学生寮の使用人として恥ずかしくないよう身だしなみを整えて、(わたくし)は首にリードをつけたルビィを連れて外に出ました。

「わん」

「あら、吠えてはダメですよ。まだお休みの方も多いのですから」

 尻尾を振って一吠えしたルビィをたしなめて、トリスタの町へと繰り出します。

 町を一周するのが、いつものお散歩コースですわ。

 今日は一週間に一度の自由行動日。日頃の疲れもあるでしょうから、Ⅶ組の皆様にはゆっくりして頂きたいものです。

 充実した学院生活を送って頂けるよう尽力するのが、使用人たる者の務め。私の喜びは、皆様のご健勝と共にあるのですから。

 この時間ではさすがに人通りが少ないものですが、早い方ならすでに店先の掃除をしたり、ヘイムダルまで仕事に行かれたりといった姿も見られます。

「あら……」

 とある民家の入口にふと視線を送ってみると、

「……まあ」

 熱い抱擁を交わす新婚夫婦の姿が。

 あわや口付けまでもう少しという所で、奥様が私に気付いて、慌てて旦那様から離れてしまいました。これは申し訳ない事を。

 これ以上の無粋は望むところではありません。邪魔者は退散するとしましょう。

 ルビィを連れてぐるりと町を巡り、アノール川に掛かる橋の上で一休み。

「朝のお散歩も気持ちいいものですね」

 何気なく思い出すのは先ほどのご夫婦。とても仲睦まじいご様子でいらっしゃいました。

「アリサお嬢様もいつか素敵な方を見つけられるのでしょうか」

 いざ言葉にしてみると、やはり寂しいものです。当分先の事なのでしょうが。

 私が見たところ、お嬢様はやはりリィン様を気にかけておられるご様子。

 ですが、それが恋愛感情なのかどうかは、さしもの私にも分かりかねるところ。

 仮に恋愛感情だとしても、素直になれないお嬢様とそのような事に疎いリィン様。状況が進展しないのも無理からぬことでしょうか。

 いいえ、そうだとしても。

「わんっ」

「そうですわね、ルビィ」

 小首を傾げるルビィを横目に、私は小さく心に決めました。

「お嬢様。このシャロンにお任せを」

 アリサお嬢様の性格はよく存じております。心根はとてもお優しく素直。ご自身を見つめ直すきっかけさえあれば、きっと良い方に向かってくれることでしょう。

「さあ、そろそろ――あら?」

 眼下に流れる川にぱしゃりと飛沫が上がったので、少し身を乗り出して覗いてみると、見えたのは優雅に泳ぐ魚の影。

 今日の夕食はお魚にしてみましょうか。

 そんなことを考えていたら、留め方が緩かったのか襟元のブローチが取れて川に落ちてしまいました。 

 とっさに手を伸ばすもすでに遅く、私のブローチは川底に消えていきます。

 水の中に入るわけにも参りませんし……代わりはもちろんありますが、この使用人服に合うような控え目なブローチとなると、少し探してみないと分かりません。

「困りましたわ……とりあえず帰りましょうか、ルビィ」

 ブローチ一つも身だしなみの内。

 町の方々に見られる前に、寮に戻るとしましょう。

 

 

 ――8:00 

 もう皆様起床されているのでしょうが、まだ降りてはこられないようですね。

 自由行動日に関しては朝食を一同そろって食べられないので、それぞれのご予定に合わせてお一人ずつ作らせて頂いています。

 そういえば、すでにお出かけになられた方がお一人いましたか。

 意外にもサラ様が一番に起きて来られ、素敵な置き土産を残して出ていってしまいました。教官というお仕事も何かと気苦労が絶えないのでしょう。

 続いて降りて来られたのも意外な方でした。

「シャロン、おはよ」

「おはようございます。フィー様も今日は自由行動日なのにずいぶんお早いのですね」

「なんか目が覚めちゃった。今日は委員長に勉強を教えてもらう日だから、別にやることもないし学院に行ってくるね」

 エマ様とフィー様、お二人を見ていると仲のよい姉妹のようで微笑ましい限りです。

 アリサお嬢様も、以前私のことを“姉のような存在”だとリィン様に話されたことがありました。私にお嬢様の姉代わりが務まるとは思いませんが、それでもやはり嬉しいものです。

「でも先に行ってもやることないし。シャロンは学院で寝心地が良さそうなところ知らない?」

「寝心地……でしょうか?」

 寮にいても学院にいても、結局寝られるのですね。

 でしたら少し待ってエマ様と一緒に学院に行けば宜しいのでは……いえ、そんな進言は差し出がましい事。

 とはいえ頻繁に学院に立ち入る訳ではないので、寝心地のいい場所と申されましても――ああ、あそこなら。

「中庭のベンチなどいかがでしょう。通りがかった時に目にした程度ですが、木陰もあって休憩されるには良いところかと」

「ん、いいと思う」

 採用されました。どうかお風邪を召されませんよう。

 何となく約束の時間を寝過ごされるような気もしますが、それこそ過ぎた邪推。

 手早く朝食を済まされたフィー様をお見送りすると、上階から扉の開く音、水道から流れる水の音、ぱたぱたと廊下を歩く音がまばらに聞こえ始めました。

「そろそろですね」

 足音の癖や雰囲気などから、降りて来られる順番を予測して私も動きます。

 お好みに合わせて、コーヒー、紅茶、ミルク、フルーツジュースをテーブルに揃え、グラスとお皿を用意したら、卵、ハム、野菜などを取り出して下ごしらえに取りかかります。

 もちろん作り置きはしません。出来たてを召し上がって頂くのが基本ですからね。

 卵一つにしても、目玉焼き、卵焼き、ゆで卵、スクランブルエッグと全てのオーダーにお応えして、初めて使用人の務めを果たせるというもの。

 さあ、ここから朝が忙しくなります。

 

 

 ――9:30

 私の第三学生寮におけるお仕事は大まかに分けて四つあります。

 一つ目が、三食のお食事をご提供させて頂くこと。

 二つ目が、お掃除を行い、寮内の整理、整頓、清潔を維持すること。

 三つ目が、皆様のお見送りとお出迎えを行うこと。

 四つ目は……秘密ですわ。

 この中の内、日常においては三つ目が大切なのです。

 ご機嫌よくお出かけ頂く為というのはもちろんですが、平素からお顔をよくよく見ることで、お帰りになった際の疲れ具合やご気分を慮る為でもあります。

 お疲れの様子ならば少し甘めの紅茶と口どけの良いお菓子を。ご気分が優れない様子ならば特製のアロマとハーブティーを。

 その時、その方にとって、もっとも必要とするものを選び取れることが、使用人としてそばにお仕えする意義だと心得ております。

 そのような理由で、今日も私は皆様のお見送りを欠かさず行うのでした。

 

「それでは行ってきます」

「行ってらっしゃいませ」

 フィー様に続いて寮を出たのはエマ様でした。お勉強をフィー様に教えられるとのことでしたが、無事にお会いすることができるでしょうか。

 きっとフィー様は今頃中庭で昼寝、いえ朝寝をされているかと思いますよ。

 

 ――10:30

「夕刻までには戻りますので」

「かしこまりました」

 いつになくご機嫌の良さそうなラウラ様は、はつらつとして扉を開かれました。

 背すじが伸び、凛とした佇まいは日頃の研鑽が身に現れたものでしょう。

 ですが時々覗かせる年相応の女の子としての反応は、普段の差とも相まってとても可愛らしいものです。

 残念ながら男子の皆様が、そんな姿に気付かれるご様子は今の所見受けられませんが。

 

 ――11:00

「……行って来ます、はあ」

「どうぞ、お気をつけて」

 いつもお部屋で音楽を奏でているエリオット様も、今日は外出なさるようです。

 やや表情が重たいような気がしますが、何かあったのでしょうか。

 お声を掛ける前に出て行ってしまわれたので、ただお見送りをするだけになってしまいましたが。

 エリオット様のチェロの音色を聞きながら、お掃除をするのは秘かな楽しみでしたのに。少し残念ですわ。

 

「では出かけてきます」

「よい一日でありますことを」

 エリオット様が出かけられてすぐに、ガイウス様も身支度を整えて一階まで降りて来られました。

 お変わりはないご様子ですが、エリオット様と同様、お顔色に緊張が見られます。

 何となくですが、今日はお二人ともさらにお疲れになってご帰宅される気がします。

 夕食は消化によく、体力の戻りやすいメニューを一考してみることにしましょう。

 

 ――11:30

「ふん、夕方には戻る」

「お待ち致しております」

 今日はいつもの自由行動日と比べましても、お出かけの方が多いようですね。

 続いたのは少々ご機嫌の宜しくなさそうなユーシス様でした。憮然としておられるのは日々のことですが、今日は少し雰囲気が違うようです。

 外出先で良いことがあればいいのですが。

 

 ――11:40

「シャロンさん、コーヒーを淹れて頂けますか?」

「もちろんですわ。あら……」

 ラウンジのソファーに腰掛けたマキアス様は、テーブルに置かれたチェス盤に駒を並べ始めました。

「マキアス様はお出かけにならないのですか?」

「ええ。今日は特に用事もないもので、ゆっくりさせてもらおうかと」

 言いながらも手は止められず、早くも駒を進め始めました。相変わらずチェスがお好きなのですね。

 さっそくコーヒー豆をミルで挽き、マキアス様のお好みの中挽きに調節した後、粉の粒度が均一になっているかを確認。いい具合ですわ。

 本当はこの時間でお掃除をしようと思っていたのですが、チェスに興じる横で埃を立てるのは忍びありません。

 ご所望頂いたコーヒーをテーブルに置いて、先に厨房の片付けをすることにしました。

 そういえば――あと寮内に残っておられるのは、リィン様とアリサお嬢様でしたか。

 

 ――12:00

 ラウンジに何かがばらばらと転がり落ちる音がしました。

 厨房から少し顔を覗かせてみると、そこにはリィン様とアリサお嬢様の二人揃って固まる姿が。仲のよろしいことです。

 そんなお二人の視線の先には、傾いたチェス盤と崩れた駒。

 概ね理解しました。いつものようなお戯れの最中、うっかりテーブルにぶつかってしまったのですね。

 リィン様は盤上に駒を戻し始めますが、果たして上手くいくのでしょうか。

「きゃっ!」

 突然テーブルの下からルビィが飛び出してきて、お嬢様を驚かせてしまいました。

 ルビィは白のナイトの駒を咥えて寮から出ていきましたが、お二人ともお気づきではない様子。

 急に閃きました。朝に考えていた“きっかけ”を。

 きっかけ。それは試練。同じ危機を共有することで気付く心もあるかと存じます

 これも一重にお嬢様の為。このようなことしかお力添えできないシャロンをお許しください。

 そうですわ。あれを使うことに致しましょう。

「あら、お嬢様? それにリィン様も」

 そして私は、白々しくもお二人の前に歩み出るのでした。

 

 ――13:00

「白のナイトがない!?」

 盤上の異変に気付いたマキアス様は、続けて駒の一つが無くなっていることにも気付かれました。

 あちらこちらとお探しになられていますが、ルビィが持ち出してしまったのですから、もちろん見つかるわけがありません。

 私の話をお聞きになったリィン様とアリサお嬢様が、寮を出てからおよそ三十分。

 頃合いですね。

「マキアス様。何かお困りでしょうか?」

「あ、シャロンさん。チェスの駒が一つ足りないんですが、どこかで見ていませんか?」

 マキアス様には申し訳ない限りですが、どうかアリサお嬢様の為、今回ばかりはご容赦くださいませ。

「ええ、見ましたよ。白い駒ですね?」 

「え!? どこでですか?」

「ずいぶん前にルビィが咥えて、外に持って行ってしまいましたが」

 血相を変えたマキアス様は「だ、だったら急がないと!」と慌てて玄関に向かわれました。

「すみません、探しに行ってきます」

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 私が一礼を終える頃には、すでにその姿は見えなくなっていました。

 さあ、お嬢様、リィン様。危機はトリスタへと解き放たれました。

 シャロンの作った“きっかけ”を存分にご活用なさいませ。

「……あら」

 一つ重要な事を忘れていました。

 今日はお二人同時に出かけられましたが、一緒に過ごすとは聞いておりませんでしたわ。

 二人で同じ試練を乗り越えることが目的なのですが、ともすればお一人ずつになってしまうかもしれません。

「私としたことが。でも……」

 リィン様とお嬢様は私の話でマキアス様を警戒し、マキアス様はルビィを探してトリスタの町中を探し回る。それはそれで何かが起こるかもしれません。

 こうしてⅦ組の皆様は全員外出され、第三学生寮には私一人が残ることとなりました。

「それでは皆様が帰って来られるまでに、きれいにお掃除をしておきましょうか。ふふ」

 

 

 ――15:30

 皆様が出払われてから二時間と少し。扉が開いた音。

 どなたかが帰ってこられました。さっそくお出迎えを――と思ったのですが、エントランスに立ち尽くしていたのは全身ずぶ濡れになったリィン様。

 私は思わず足を止め、何度もまばたきをしてしまいました。 

「シャロンさん、ただいま戻りました。……とりあえずタオルをもらえますか」

 一体どうされたのでしょうか。マキアス様の一件だけで、このようなことになるとは想像できませんが。

 しかし、そこはリィン様のこと。奇跡的なすれ違いや不幸なタイミングを束ね合わせて、最悪の結果を引き寄せたのかもしれません。

 それにアリサお嬢様がいないところを見ると、やはり今日の予定は別々だったご様子。どうやら私の試みはうまくいかなかったようですね。残念ですわ。

「うう……寒い……」

「シャロンが温めて差し上げましょうか?」

「……遠慮しておきます」

「まあ、リィン様ったらつれないこと」

 濡れた服を着替えにリィン様は自室に戻られました。がたがたと震えて、よほどお寒いのでしょう。後でいいとは仰っていましたが、シャワーの準備はしておくことにします。

 早い方ならそろそろ順に寮に戻られる時間。さあ、今度はお出迎えです。

 

 

 ――16:00

「ただいま」 

「あら、お帰りなさいませ。お嬢様」

 玄関が水びたしになってしまったので、モップで拭き取っているとアリサお嬢様がお帰りになられました。

 お嬢様は床に目を落とすと「何かあったの?」と怪訝な表情を浮かべられました。

「いえ。普段通りのトラブルですわ」

 詳細は私も聞いておりませんので、そうとしかお答えできませんでしたが、お嬢様には納得して頂けたようです。

「あー、シャロン?」

「はい?」

 どこかそわそわとしながら、何かを取り出したお嬢様。促されるまま手の平を差し出すと、そこに置かれたのは一つのブローチ。

 さすがに驚きました。それは朝方に川に落としてしまった私のブローチだったのですから。

 どのような経緯でこのブローチがお嬢様の手に渡ったのかは推測もできません。

 しかし嬉しかったのは、私のブローチがないと気付いて下さったこと。そして、そのことを気にかけて下さっていたこと。

 やはりお嬢様はとてもお優しい方です。

 少しお話ししてから部屋に戻ろうとされたお嬢様に私は言いました。

「ブローチのお礼に、アプリコットジャムをたくさん作っておきますね」

「べ、別に大したことないし、気にしなくてもいいんだから」

「では分量を間違えて多めに作ってしまうことにしますわ」

 小走りで階段を上がる背中を見送りながら、私は襟元に戻ってきたブローチにそっと指を添えてみるのでした。

 

 ――16:30

「お帰りなさいませ」

「ああ」

 アリサお嬢様に続いて寮にお帰りになったのは、お出かけの時に不機嫌なご様子だったユーシス様でした。

 何か良いことがあったのでしょうか。表情は相変わらずですが、雰囲気が少し優しくなられたような気がします。

「何を見ている?」

「いえ、何もありませんわ」

「まあいい」

 ふいとそっぽを向いて、お部屋に上がられたユーシス様の手には可愛らしい包み紙が。

 やはり良いことがおありだったようですね。

 

 ――17:00

「では夕食の下ごしらえに掛かりましょうか」

 調理場の片付けも昼の間に出来ましたし、やはり整然清潔とした環境でこそ、おいしい料理は作れるものです。

 整然、という言葉で思い出したのはサラ様のお部屋。

 サラ様がお出かけの隙にこっそりお掃除したら駄目でしょうか。せめて空の酒瓶だけでも処分させて頂きたいのですが。

 そんなことを思っていたら、どんと壁に何かがぶつかった音が響きました。

「なんでしょう? 大きな音……」

 調理場から顔を出してみると、そこにはラウラ様を壁に押し付け、しかもそのお胸を掴んで――いえ、揉みしだいているリィン様のお姿が。

 リィン様の剣技に『揉みじぎり』というものがあったと記憶しています。

 この際、揉みじぎるという動詞が存在するのかはともかくとして。ええ、はい。確かに胸を揉みじぎっておられるようにお見受けします。

 反撃の隙さえ与えず、相手の思考をゼロにして動きを制する。噂に名高いユン・カーファイ老師の編み出した八葉一刀流、その苛烈なまでの真髄を確かにこの目で拝見させて頂きました。

 はあはあと息も荒く、ほのかに充血した目付きのリィン様は、ともすれば軍が捕縛にかかってくるような危険な雰囲気です。

 小耳に挟んだ程度ですが、リィン様は身の内にご自身でも抑えられないほどの――何でしたか……ああ、そうです。確か、ケダモノを飼われているとか。

「うふふ、お邪魔致しました」

 ご自身でも御しきれないものを、どうして一使用人に抑えることができましょう。 

 厨房に引き下がって間もなく、私の耳に先ほどよりも遥かに激しく大きい衝突音が聞こえてきました。

 いそいそと再び厨房からラウンジを覗いてみると、奥の壁際の床に伏し、動かなくなったリィン様のお姿が。

 近寄ってお話を伺うと、どうやらお風邪を召されたとのこと。

 実は先ほどお顔を見た時に、察しはついておりましたが。ですが困りました。今は確か薬が切れているのです。

「風邪薬を買ってまいりますわ」

「お、お願いしま――ごほっ」

 よろよろと立ち上がったリィン様は、一人で自室まで戻られていきます。

 そんなお姿を見て、私はまたまた閃いてしまいました。

 素晴らしいきっかけを。

「お嬢様、シャロンはまだあきらめません。ふふ」

 今日という一日は、まだまだこれからでございます。

 

 ――18:00

「そんな感じで、今日はルビィに取られた駒を探し回っていて――」

「それは災難でしたね。私は探し回られた方ですが……」

 お話し声が外から聞こえてきました。この声はマキアス様とエマ様ですね。Ⅶ組の委員長と副委員長のお二人がそろってお帰りのようです。

「マキアス様、エマ様。お帰りなさいませ」

「ああ、シャロンさん。ただいま戻りました。なんとか駒は取り戻せましたよ」

 そう言うと、マキアス様は白のナイトを掲げて見せてくれました。どうやら傷なども付いていないようです。

「それは何よりでございました。エマ様もご一緒だったのですか? 確かフィー様とお勉強を……」

「マキアスさんとは帰り道が偶然一緒になりまして。フィーちゃんのお勉強は先ほど見終わりましたよ……まあ、そこまでの道のりは長かったですが……」

 何やら大変だったご様子。フィー様の居場所を最初からお伝えしておいた方が良かったのでしょうか。

 マキアス様も相当お疲れになったのか、早々と二階に上がられていきます。

「では私も失礼します」

「エマ様。少しよろしいですか?」

 マキアス様に続こうとされたエマ様をお呼び止めし、私はさっそくリィン様の状態をお伝えします。

「リィンさんが体調不良?」

「はい、先ほど倒れ込んでしまいまして……そして薬が商店にも品切れという状況でして」

 もちろんお薬は先に購入してきましたが、そこはあえて伏せておきます。

 見たところリィン様の容体は急を要するものではありませんでした。

 ですので、普段から何かとトラブルを背負い込むリィン様を、皆様で協力してお助けし、さらに結束を強めて頂く――というのが目的の一つですわ。

 もう一つの目的は言わずもがな。

 アリサお嬢様にも献身的にリィン様のご看病に加わって頂き、なおかつ他の女子の皆様とも同じ立場に立つことで、わずかなりとも焦りを抱いてもらうことです。

 ほんの少しでも気持ちがざわつくのなら、それがきっかけとなるかもしれません。

 もちろんそれは、お嬢様のリィン様に対するお気持ちが、好意だという前提の話ではあるのですが。

「そこで市販薬に変わるものをお作り頂けないかと思いまして。聞けばエマ様はハーブや薬草の調合にお詳しいとのこと。どうかリィン様をお助け下さいませ」

「それはもちろん構いませんが……どのような症状なんですか?」

「所構わず女性の胸を揉みじぎるという――」

「も、揉み……?」

 間違えました。ある意味病気とも言えますが。

「いえ、喉の痛み、咳き込み、発熱でございます」

「風邪……ですよね? それなら何とかできそうです」

 さすがはエマ様ですわ。

「ああ、そうですわ。先ほどリィン様はお休みになったばかりなので、お薬ができましたら十九時頃にお持ちして頂くのが丁度よい頃合いかと思います」

「え? あ、はい。わかりました」

 何だか楽しくなってきましたわ。

 

 ――18:20

「この時間にラウンジに誰もいないなんて珍しいわね。シャロン、紅茶淹れてもらえる?」

 お部屋に戻られていたアリサお嬢様が一階に降りて来られました。お声掛けに行くことも考えていたのですが、素晴らしいタイミングです。

「これはお嬢様、よいところに。実はリィン様がお風邪を召してしまいまして」

「リィンが? だ、大丈夫なの?」

 まあ。予想以上のご反応。これはいい傾向ですわ。

「今のところは……ですが熱も下がらず、食事も取れていないもので。そうですわ、お嬢様」

「……なによ?」

 あ、少し警戒されましたね。話す前から雰囲気で察して下さるなんて、お嬢様の成長をシャロンは嬉しく思います。

「シャロンの代わりに、リィン様に召し上がって頂くお粥をお作り頂けませんか?」

「ええ!? な、なんで私が? シャロンが作ってあげればいいじゃない?」

「そうしたいのは山々なのですが、シャロンは手を痛めております」

「また唐突ね。うそっぽいわ」

「シャロンは手が痛いのです」

 このような水掛け論になった場合、お嬢様の言い分が通る可能性はまずありません。

 経験上お嬢様もそれは分かっておられ、しぶしぶと言った様子ですが、エプロンを片手に厨房に入っていかれました。

「お粥なんて作ったことないんだけど……」

「料理は気持ちですわ。リィン様のことを思い浮かべながら、おだしと一緒にご飯を水で炊き、アリサお嬢様の頑なな心を解きほぐすように柔らかくなるまで煮込むのです」

「な、なんなのよ、それは」

 まったくもう、と嘆息しながら、お鍋を取り出したお嬢様。

 あまりお料理の経験がないお嬢様の為に、さすがにお手伝いくらいはさせて頂こうかと思っていたのですが「見られてると作りにくいから厨房の外にいてよ」と鋭い声が飛んできたので、私は仰せのままにラウンジでお待ちすることにしました。

「えと、どうするのよ。このあと……」

 程なくして、厨房からがちゃがちゃと忙しない音と一緒に、戸惑いの声も聞こえてきました。 

 とりあえず外からお声だけ掛けてみることに。

「やはりお手伝いしましょうか?」

「いいってば! あ、でも味付けとかスパイスとかはどうしたらいいの?」

 ……お粥にスパイス? 

「おだしで作っていますので、味は問題ないかと思いますが」

「せっかくだから体にいいものにしたいじゃない。熱ってやっぱり汗をかいたら下がるものなの?」

「それは……はい。もし香辛料をお使いでしたら右の棚にございますが……やはり少しお手伝いを」

「だから大丈夫だってば! えーと……汗っていったら辛いものがいいのかしら……」

 恐らくリィン様が大丈夫じゃなくなる可能性が高いかと。ですが厨房に入ったら怒られてしまいますし。

「シャロンさん? ただいま帰りました」

「お帰りなさいませ、エリオット様。申し訳ありません、お出迎えもせずに」

 これは失態。エリオット様が声を掛けて下さるまで気が付きませんでした。

「あはは、気にしないで下さい。厨房、誰かいるんですか?」

「ええ、今アリサお嬢様がお粥を作っておられるのですが……」

 コトコトと煮込む鍋の音は、次第にグツグツと響きを変え、最終的にはなぜかドクンドクンと脈打つような謎のシグナルに。

 お嬢様は一体何を生み出そうとしているのでしょうか。

「エリオット様? どうかなさいましたか?」

 なぜか固まり、厨房を凝視したまま動かないエリオット様は「いやな予感がする……」と額に汗を浮かべておいでです。もちろんいい予感はしませんが、それにしてもずいぶん怯えておられるような。

 そんな時、厨房から「できたわ!」というお嬢様の声が届き、エリオット様はびくりと肩を震わせました。

 器に移したお粥を手に、お嬢様が厨房から出て来られました。

「やっと完成よ。あら、帰ってたのエリオット?」

「う、うん。さっきね。ところで何でアリサはお粥なんて――ひっ!?」

 言いかけたエリオット様の言葉は、器の中のお粥を見て、小さな悲鳴へと変わりました。

 まあ……真っ赤。

「れ、煉獄っ!」

 悲痛な叫びを吐き出すと、エリオット様は脇目も振らず階段を駆け上がって、勢いよく部屋のドアを閉められてしまいました。

「……どうしたのかしら。変なエリオットね」

 何か触れてはいけないトラウマがあったようですね。

 それにしてもすごい色。まるで灼熱の溶岩を器ですくってきたみたいな、燃え盛る炎をそのまま押し固めたみたいな――ここまで見事に紅に染まったお粥は私も初めて目にします。

「さっそくリィンのところに持っていくわね」

「あ、お待ちくださいお嬢様。出来たては熱いと思いますので、もう少し冷めてからお持ちください。それまではお嬢様のお部屋で保管なさって下さいませ」

 お嬢様の部屋、というところがポイントです。まだ一階ではやることがありますからね。

「ええ? じゃあ冷めてから持って行ったらいいの?」

 この世の終わりまで冷めることのなさそうなお粥ですが。

「はい、十九時にリィン様のお部屋にお持ち頂くのがよろしいかと」

「意味わからないわよ。何でそんな時間に」

「シャロンは十九時がいいのです」

 さて準備は整ってきました。では、あとお一人をお待ちしましょうか。

 

 ――18:40

 もうすぐ十九時。時間的には際どい所でしたが、ようやく最後のお一人が階段を下りて来られました。

「あら、ラウラ様」

「……うん、他の皆は来ていないのか……?」

 落ち着かれなく視線を動かすラウラ様。きっとお部屋で一人悶々としておられたのでしょう。

「……リ、リィンは……その、部屋か?」

 まあ、ラウラ様からお話を振って下さるなんて。リィン様の名誉の為に少しフォローもさせて頂きましょうか。

「それがリィン様は体調を崩してしまわれまして……ずいぶん足元がおぼつかないご様子でした」

「そ、そうなのか。もしかしてさっき様子が変だったのは……」

「何かありましたか?」

「い、いや。ところでリィンの容体は?」

 少しほっとされたようですね。それでは本題に入ります。

「それがあまり芳しくなく……体力も戻る気配もありません。どうか、リィン様に一声だけでもお掛けくださいませんか」

「そこまでの状態だったのか」

「私が医者ならもう見放している段階ですわ」

「そんなにか……それなのに私はリィンを突き飛ばしたりして……」

 何かを納得したようにラウラ様は頷かれました。

「ちょうど体力回復にいい物もある。あとで様子を見に行くことにしよう」

「十九時頃が宜しいかと存じます」

「ふむ? 承知した」

 ラウラ様は私の出した時間指定を、さらりと受諾してくださいました。

 これで舞台は整いました。あとは時間が来るのを待つだけですわ。

 

 ――19:00

 さあ、邂逅の時でございます。

 さっそくお嬢様方が順にリィン様のお部屋に入られたようで、次第に二階が騒がしくなって参りました。

 今しがたお帰りなったばかりのガイウス様も、不思議そうに二階を見上げています。

「リィンの部屋か? 何か騒々しいようだが」

「さあ? どうしたのでしょうか。うふふ」

 ここから先は私にも成り行きを見守るしかできません。

 そんな中、開く玄関の扉。

「ただいま。ルビィが町で遊んでたから、ついでに連れて帰ってきたよ」

 この時間でようやくフィー様とルビィが帰宅です。

 フィー様は相変わらずあくびをしてソファーに向かい、ルビィも尻尾を振りながらその後ろについていきます。小さな二人組が一番最後でしたか。

 ああ、違いました。まだサラ様がお帰りではありません。

「シャロン、おなか空いたよ。ルビィもだって」

「あらあら」

 子猫と子犬が空腹のご様子。

 そろそろ夕食の準備に取り掛かりませんと。下ごしらえは済んでいますから、二十時くらいに合わせて作れば大丈夫でしょう。

 誰かがコンコンと扉をノックされました。一瞬サラ様かと思いましたが、サラ様ならノックなんてするはずありません。

「どなたでしょうか……あら」

「こんばんは」

 扉を開いた先に立っていたのは、小柄で緑の学院服をまとった女性。

 この方は、何度かお見かけしたことがあります。トールズ士官学院の生徒会長、トワ・ハーシェル様ですね。

「ようこそ足をお運び下さいました。本日はどのようなご用向きでしょうか」

「リィン君と約束があって。ちょっとしたお菓子を作ってきたんですけど、もう帰ってきていますか?」

「はい、ですが今リィン様は――」

 トワ会長程のお方がお菓子を持ってリィン様に会いに。

 さすがにこれなら、お嬢様でも思う所が出てくるのではないでしょうか?

「リィン君が何か?」

「いえ、お部屋までご案内致します。どうぞこちらに」

 トワ会長をお連れして、階段を上り二階へ。

「右手側の奥がリィン様のお部屋になります」

「ありがとうございます。えへへ、リィン君喜んでくれるかなあ。あ、ドアが開いてる」

 顔を綻ばせながら部屋の戸口に立った彼女は、中の状況を見るなり、その表情を固まらせてしまいました。

 せっかく作ってこられたお菓子の入った袋を、床に落としておられます。

「お、お邪魔しました!」

 ふるふると震えて、みるみる涙目になられたトワ会長。

 すぐさま身を返して、階段を駆け下りてしまいました。「リィン君なんかもう知らない!」と叫びながら。

 何事でしょう。

 とりあえず、私も部屋の中をそっと覗いてみます。

「あら、まあ、リィン様ったら……」

 リィン様のベッドに、アリサお嬢様、エマ様、ラウラ様が乗りかかっておられました。

 さすがはリィン様。お風邪を引いても、出す手は引かないその心意気。

 八葉一刀流の円熟された理念が体に息づいておられるようです。続く技名は……『はやて』でしたか――ああ『早手』ですね。

 『揉みじぎり』からの『早手』。これで初伝とは恐れ入ります。

 ほんのわずか、虚ろな瞳のリィン様と目があった気がしました。

 何かを訴えておられたようですが、女神ならぬ私には全てを見通す程の力は持ち合わせておりません。

 今私に出来ることは一つだけ。

「さあ、夕食を作ると致しましょう」

 そして私は静かにお部屋の扉を閉めるのでした。

 

 

 ――20:30

 Ⅶ組の皆様も銘々に夕食を食べ終わられ、お部屋へ戻っていかれました。

 リィン様にはあの後しっかりと市販のお薬も飲んで頂きましたので、じき落ち着かれるでしょう。もちろん、お嬢様方には内緒でですが。

 お薬をお渡しした時のリィン様は、なんとも悲しい目をしておられましたが、シャロンはただ微笑みを返すことしかできませんでした。

 結局、アリサお嬢様がご自分の気持ちを見直すきっかけになったかはわからないまま――

「たっだいま!」

 弾けるような声と一緒に勢いよく扉が開いて、いかにもご機嫌斜めなサラ様がお帰りになられました。

「驚きましたわ。てっきり強盗かと……思わず泣いてしまうところでした」

「本当に泣かしちゃってもいいのよ?」

「まあ、サラ様こわい」

 ソファーにどっかりと腰かけたサラ様の膝に、すかさずルビィが走り寄って「わんっ」と一吠え。本当にサラ様が好きなのですね。

「はあ、私の味方はルビィだけよ。……あんの教頭、覚えてなさいよ。ぜーったい全生徒の前で赤っ恥かかせてやるんだから!」

「あまり不穏当な発言はお控えになった方が宜しいかと。どこからお話が漏れるかわかりませんわ」

「この状況で漏れるとしたら、あんたからしかないじゃない」

「うふふ」

 にこりと笑うとサラ様は「い、言ったらダメだからね!?」とずいぶん焦ったご様子です。Ⅶ組の皆様には中々見せられないお姿ですね。

「夕食は召し上がられますか?」

「そうね。頂こうかしら」

 今日のメニューは、サモーナの香草包み焼きに旬の野菜スープ。デザートにはさっぱりとした風味のレモンジェラートをご用意しております。

「お味の方はいかがでしょうか?」

「……おいしいわよ」

「恐れ入りますわ」

 こうして私の一日は過ぎていきます。

 食事を終えられたようなのでコーヒーをお出しすると、サラ様は何気なくこんなことを訊いて来られました。

「そういえばあの子達は今日何してたのかしら。何人かには会ったけど」

「Ⅶ組の皆様なら、それぞれで自由行動日を満喫しておられたようですわ」

 そして私も。皆様のおかげで毎日が充実しております。

「それならいいんだけどね。私も何かと留守にすることが多いし、そういう時は……あの子達のこと頼んだわよ」

「まあ。サラ様がそんな頼み事を私にするなんて……明日は嵐かもしれません」

「やっぱり泣かす。絶対泣かすわ」

 サラ様が拳を固めて、私を睨んできます。本当にこわいこと。

「ご安心くださいませ。有事の際、Ⅶ組の皆様はシャロンの身に代えましてもお守り致します」

 そう、それが四つ目の私の仕事。なぜならあの方達は―― 

「私が心を込めてお仕えする大切な方々ですから」

 

~FIN

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。やはりシャロンとサラの話は分ける形になってしまいました。
というわけで今回はお姉さん一人目、シャロンさんでした。朝を除けばずっと寮にいた為、Ⅶ組の行って帰ってくるまでの見守り役兼影のトラブルメイキング役として一日を楽しく過ごしております。なので時間区切りが他の話よりも多めでした。
少なくともシャロンさんが少し動きを変えていれば、リィン、アリサ、エマ、マキアスの受難は回避できたかもしれませんね……
ちなみにアクションなどの動きはほぼない為、オール一人称語りと心情表現で進む少し珍しい回となっています。

さて、予告通り最後はサラ教官ですが、次回でいよいよ一日シリーズはラストとなります。
二人目のお姉さんことサラ教官。きっちりシリーズ締めくくって下さいませ(笑)
それでは次回もお楽しみして頂けましたら幸いです。
ご感想も随時お待ち致しております!


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そんなⅦ組の一日 ~サラ

9月12日(自由行動日) 7:00 サラ・バレスタイン 

 

 枕元の目覚ましが遠慮なく鳴り響く。

 本当に融通が利かないわね。あたしが眠たいの分かってるでしょう? そこは気を利かせて、五分遅らしてベルを鳴らすくらいの配慮はしなさいよ。

「……起きるってば」

 手だけ動かして、いつものように目覚まし時計のスイッチを止める。一つ大きなあくびをして、脳に酸素を送ってから、のろのろとベッドから身を起こした。

「……学生達は自由行動日だっていうのに。教官も楽じゃないわね」

 もちろん教官にも自由行動日はある。

 学生ほど校則に縛られたりはしないから、実質休みと銘打ってもいいとは思うけど。

 とはいえ、学生達も名目上は休みではないのだから、学院の教官室を空にするわけにもいかず、教官勢はシフト体制を取って勤務にあたっている。

 ちなみにあたしは今日、勤務日じゃない。なのになんで、こんなに早く起きなくちゃいけないかと言えば。

「あんの教頭のせいだわ」

 陰険チョビヒゲメガネことハインリッヒ教頭。あたしを見れば一に小言、二に嫌味、三に説教。いつもいつも飽きもせず。

 思い返すのも忌々しい、あれは昨日の帰り際のことだ。

 ハインリッヒ教頭は教官室を出ようとしたあたしを呼び止めて、お小言をねちねちと言いつけてきた。それはいい。いつものことだしね。

 問題はその後。

 以前受け持った授業で実施した小テストの採点を、明日中にやるように指示してきたのだ。

 あたしの担当科目は武術・実践技術。実践とはいえ、もちろん座学だってあるわけだから、定期的に筆記試験もやったりする。

 ペーパーテストなんて柄じゃないけど、形にして分かる点数がないと、学期ごとに個人につける総合評価の基準が曖昧になる――なんて教官らしい理由もあるんだけどね。

 それにしても、何であたしの小テストの採点を教頭に指示されなきゃなんないわけ?

 

 そんなことを思っていたら教頭は、小テストを返すのが遅れれば遅れるだけ、自分のクラスの試験対策も遅れるのだと文句、というかいちゃもんをつけてきた。

 彼は貴族クラスであるⅠ組の担任だ。

 プライドの高い貴族学生をまとめる上に、教頭という立場もあるわけで、何かと体面を気にするのはわからなくもないけど、こっちは完全にとばっちりよ。

 完全に自分都合じゃない。巻き込まれる側の身にもなってよね。

「ったく……」

 あれやこれやと言い訳をつけて逃げようとはした。だけど教頭と話しているほうが時間のロスになるのは明らかだった。

 なので嫌々ながらも、明日中に小テストの採点をしますと宣言して、その場を切りぬけたのだ。いやまあ、採点自体はすることになってしまったので、逃げ切れてはいないんだけど。

「あーもー!」

 思い出したら腹が立ってきたわ。

 枕を一発ばふんと叩いてから、ベッドから足を下ろして立ち上がる。

 何かを足の裏で踏みつけてしまった。冷んやりとした肌触りに、表面が丸みを帯びた何か。

 何かじゃない。あれしかない。

「あ!?」

 飲み終わってそのまま放置した酒瓶が、いつの間にかベッド下に転がってきていたのだ。

 気付いた時には遅く、あたしを乗せたまま酒瓶はごろりと転がっていた。

「くっ、この!」

 大きく体勢がぐらついて、前のめりにこけそうになる。 

 だけどそこは武術教官。そうそう床に膝なんてつかないわ。

 とっさに上半身の力を抜いて、さらに抜いた力をそのまま下腹部に落とす。重心をキープしながら、何とか片足でバランスを取ってみせた。

 これくらいは寝起きでも体が勝手に反応するってもんよ。

「危なかった……えぇっ!?」

 安心したのも束の間。浮いた片足を着地した位置には、想定外の二本目の酒瓶が。

 もはや回避はできず、二つの酒瓶を踏む形になったあたしの体は、まるでベルトコンベアのように前へと送りだされる。そして部屋の隅に置いてあった棚に顔面から突入する羽目になった。

 ぶつかる瞬間、固く目を閉じる。ああ、ナイスミドルのかっこいいオジサマ。どうか唐突に現れてあたしの体を抱きかかえて――

 ガッシャン、ガラガラ。メキメキバキバキ。

 そんなささやかな妄想は、体中に走った痛みとけたたましい音によって、無残にもかき消された。

 棚の上に置いてあったグラスは落ちて割れ、開けてもいないワインやウイスキーのボトルが不規則に回転しながら床の上を滑っていく。

 幸いボトル類は転がっただけで割れず、グラスは割れてしまったけど、私に怪我はなかった。だけど肝心の置き棚は完全に壊れてしまっていた。

 棚の足は根元から折れ、所々にひび割れと板面がめくれ上がって歪な穴も覗かせている。

 長く使っていた物だから、前から痛んでいたのは知っていたけど、ここに来てとどめを刺してしまった。

「朝からなんなのよ……」

 毒づく体力もない。

 のろのろと割れたグラスの破片を一まとめにして、転がっていった愛するお酒達を回収し、壊れた棚の跡地に立て並べていく。

「はあ、もう」

 ため息しか出やしないわ。

 

 

 ――7:30

 壊れた棚を片手に一階へと向かう。

 さすがに自由行動日だから、みんなまだ部屋で休んでいるみたい。学生はいいわよね。あたしだって本当は昼まで寝る予定だったのに。

「あら、おはようございます。どうされたのですか? まだ朝ですよ」

「朝だから起きてんのよ」

 まあ、何もなければ寝てたでしょうけど。朝一番からケンカ売ってきてんのかしら。

 ラウンジにいたシャロンはいつものように笑う。

 足にすり寄ってきたルビィの頭を軽くなでてから、テーブル前の椅子に腰かけた。

「ああ、そうそう。悪いんだけど、これ処分しといてもらえない?」

 さっき壊れてしまった置き棚の一部をシャロンに渡した。多少は解体してきたから、そこまで処分には困らないと思う。

 部屋にはまだ残骸が残っているけど、あれらはおいおい片付けるとして、とりあえず持てる程度のひとかたまりを下ろすことにしたのだ。

 あたしからそれを受け取るなり、シャロンは驚いた表情を浮かべた。わざとらしく。

「いくら空腹でも机をかじってはいけませんわ。お申し付け下されば、何なりとお作り致しますのに」

「いい度胸じゃない。あたしは今、格別に機嫌が悪いのよ?」

「そのように怖いお顔をされては、シャロンは怯えてしまいます」

「白々と……誰のせいだと思ってんの」

「机を壊されたのはサラ様のせいかと」

「その話じゃないわよ!」

 こんのお……。ペースが乱されるわ、まったく。

「ところで朝食は召し上がられますか? それとも街道で仕留めてこられますか?」

「先にあんたに雷撃ち込みたいんだけど」

 割と本気だ。仕留めるっていうなら、まずあんたからにしてやる。

「そのようなことばかり仰っておられると、素敵な殿方も逃げてしまいますわ」

「余計なお世話よ」

 そうそういい男なんていないの。私のタイプはナイスミドルの渋いおじさまだし。

「サラ様は男性の好みの幅を拡げられたほうが宜しいかと存じますが」

「何であんたがあたしの好みを知ってるのよ。じゃああれね、白馬の王子様でも探すとするわ」

 本当に口が減らない使用人ね。アリサの苦労を察するわ。

 朝食を簡単にトーストとコーヒーだけで済ませ、身支度を整えたあたしは玄関に向かう。

「別に見送りなんて頼んでないんだけど」

「シャロンのお仕事ですもの」

 玄関口まで付いてきたシャロンは、そんなことを言ってまた笑みを浮かべる。さっきから押され気味だったし、何か言い返してやりたい。

「ふん、悠長なもんねー。大体あんただってあたしとそんなに年変わんないでしょ。ずっと寮の中にいるわけだし、もしかしたらあたしよりも出会いが少ないんじゃない?」

 どうよ。これで多少は溜飲が下がった感じ。

 だけどシャロンは落ち着き払った様子で、こほんと咳払いをした。

「サラ様は今二十五歳。わたくしは二十三歳でございます」

「……それがなんなのよ。たかが二年の差なんて」

「四捨五入しますと――」

 バタン! と言葉の途中で勢いよく扉を閉めて、あたしは学院までダッシュする。

 これは食後の運動。それだけ。

 視界が滲むのは何でかしら。きっと目にゴミでも入ったのね。

 

 

 ――8:00 

 トリスタの町を抜け、学院に続く長い坂を止まらずに駆け抜ける。

 シャロンめ、シャロンめ!

「ふん、朝から忙しない限りだね」

 憤懣を抱えながら正門をくぐった時、いつもの嫌味が飛んできた。

 最悪だ。

 朝の見回りでもしていたのか、正門前にいたハインリッヒ教頭に出くわしてしまったのだ。

「そのあり余る体力を他のことに使ってもらいたいものだよ」

「これはハインリッヒ教頭、おはようございます。……いい朝ですね」

 さらに重ねてきた嫌味を受け流し、こちらも相応の険を込めた挨拶で応戦する。

「まったくだ。君に出会うまでは静かでいい朝だったのに」

 まるで呼吸をするかのように自然に口から出てくる言葉は、ことごとく私の心にささくれを残していく。

 苛立つわ。そのチョビヒゲを見るだけでも苛立つわ。

「では私はこれで失礼しますわ。小テストの採点を済まさないといけませんので」

「手早くしてくれたまえよ」

 他人に嫌味を言うくせに、人から言われる嫌味には気付かないのかしら。

 まだ小言を言い足りなさそうな教頭に心無く頭を下げてから、あたしは早々にその場を離れることにした。

 ま、どの道やるからには気分を切り替えないと。

 モチベーションを自分で上げるのも大切な事。私の場合はもちろんこれ。

「とっとと採点済まして、お酒でも買いに行こっと」

 

 

 ――11:30  

「やっと半分終わった……」

 採点を終えたものと、手付かずのもの、それぞれの答案用紙があたしを挟んで左右に均等に分かれている。

 生徒数がそこまで多くないとはいえ、採点自体があまり得意じゃないから、相応に時間がかかってしまう。

 しかも見直してみると、間違っていても丸を付けているものがあれば、その逆もあったり。デスクワークは本当に柄じゃない。

 椅子の背もたれにぎしりと寄りかかる。

 席を外している人もいるけど、今日は他の教官達も勢ぞろいしているようだ。

 中には私と同じで、勤務日ではないのに出勤している人もいるみたい。

 カリキュラムのない自由行動日の方が仕事が進むのはわかるけど、一日くらいゆっくり過ごしたらいいのに。

「サラ教官、少し構いませんか」

 あたしの手が空くのを待ってくれていたのか、ナイトハルト教官が資料を手に近づいてくる。

 普段は非常勤、というか軍務にあたっているけど、時々出向という形で学院まで足を運んでいる。

 担当科目は言うまでもなく軍事学。実直、質実剛健という言葉を人の形に固めたら、彼が出来上がるに違いない。

「なんでしょうか?」

 背もたれから体を戻して、ナイトハルト教官に向き直る。

「先月末のガレリア要塞の件で――」

 帝国解放戦線。列車砲の占拠。クロスベル方面への緊張。

 不穏な言葉が行きかう中、やっぱり気になるのは次回の特別実習の有無。あたしとしてはもちろん彼らを実習に行かせてあげたいし、あの子達もそれを望んでいる。

 でも、その安全を預かるⅦ組の担当教官としては、気軽に首を縦に振ることも出来ない。

「――それで、今月末の特別実習はどうなりそうですか?」

 ナイトハルト教官も気にしてくれていたらしく、最終的にはその話になった。

「まだわかりません。と言っても私の一存では決められませんし、理事の方々次第ってところですね」

「む……」

 正論だったはずだけど、あたしの言いようが気に入らなかったのか、ナイトハルト教官は眉根を寄せた。

 どうも言葉選びが雑なのか、意図するニュアンスで伝わらない。特に一言一言を逃さず拾い上げる軍人気質には、余計適当に聞こえたのかもしれなかった。

 だからといって、前言撤回して言い直すほど殊勝な性格でもないんだけど。

 ほんの少し、ひやりと辺りの温度が下がる――そんなタイミングで「いやーナイトハルト教官、今日は出向日だったんですね~」と間延びした声が届いた。

「トマス教官……!」

 露骨にナイトハルト教官の表情が曇り、動きがぎこちなくなった。

 やってきたのはトマス教官。帝国史、文学の担当で、大きな丸眼鏡が印象的だ。

「どうです? 今日こそ仕事終わりに一緒に飲みにいきましょうよ」

「い、いや……自分は本隊に戻りますので」

「そんなこと言わずに~」

 トマス教官がさらに詰め寄ると、ナイトハルト教官はたじろいだように足を引く。

 あれやこれやと理由をつけていたけど、トマス教官から逃げ切れるかは微妙な所だ。

 何となくあたしとハインリッヒ教頭の立ち位置に見えなくもない。もっともこっちはそんな微笑ましい感じじゃないけど。

「……ああ、そうです! 私はサラ教官と話の途中でして――」

「さて一段落したし、お昼でも食べて来ようっと」

「サ、サラ教官? 撤退命令はまだ出ていないぞ!?」

 珍しく狼狽した様子のナイトハルト教官はそんなことを口走っている。

 その命令はどこから来るもんなの? あたしも忙しいんだから、これ以上面倒なことに巻き込まないで。

 トマス教官は絡み酒だから、時間と心に余裕がないと付き合えないのよ。

「ま、待て、せめて援軍要請を――」

「何食べよっかなー。ふんふふーん」

 聞こえない、聞こえない。

 鼻歌を交じらせながら、あたしは教官室からの離脱に成功するのだった。

 次にナイトハルト教官に会ったら、すごい目つきで睨まれそうだけど。

 

 

 ――12:00

 学生会館、一階食堂。普段は学生の利用が多いけど、自由行動日だからか今日は割と空いている。先に席を取る必要もなさそうだったので、そのままカウンターに向かうことにした。

「どーも、お昼食べに来ました」

「あらサラ教官、いらっしゃい。何でも注文して下さいな」

 カウンターに立つサマンサさんに声を掛けると、彼女は快活に笑ってくれた。

 立てかけられた看板メニューに目を通す。どれもおいしそうなラインナップだ。

『どうしようかしら……』

 ひとり言が誰かの声と完全に重なった。

 すぐとなりで驚いた表情を浮かべてこちらを見るのは、澄んだ深緑色の瞳。

「あ、あらメアリー教官」

「サ、サラ教官?」

 彼女は今年から赴任したばかりの新任教官だ。音楽、芸術、調理技術を担当している。

 アルトハイム家の伯爵令嬢で、流れるようなホワイトブロンドの髪は、誰が言ったのか『トールズ士官学院の至宝』とか一部で持てはやされている。

 ちなみに私の後ろでまとめた夕日のように美しく艶やかな赤髪は、誰が言ったのか『トールズ士官学院の逆鱗』とか一部で怖れられていたりする。

 言ったやつは必ず探し出して、然るべき報いを受けさせるわ。紫電の二つ名を嫌と言うほど思い知らせてやる。

 ……十中八九クロウのような気がするけど。

 焦った様子のメアリー教官は顔を赤くして、一歩引き下がった。

「す、すみません。メニューに見入って気付きもせず……お恥ずかしい限りです」

「あはは、私も同じです。メアリー教官もお昼は今からですか? よかったらご一緒しませんか」

「ええ、よろこんで」

 控え目な笑顔で応じてくれるメアリー教官。

 なんとまあ上品な。どこかの腹の黒い使用人とは違う。

 もしあたしがこれをやったら、Ⅶ組の面々はどんな反応をするのかしら。今度試しにやってみよう。

 空いている席に腰かけてしばらくすると、注文した料理が運ばれてきた。

 トマトグラタンだ。溶けて香り立つチーズと、真っ赤なトマトの色合いが何とも食欲をそそる。

「頂きましょうか」

「ええ。とてもおいしそうですね」

 スプーンで一口。クリームソースの絡んだマカロニとトマトの酸味が合わさって、まろやかな味わいが舌の上に広がっていく。

「ん、おーいし! さすがラムゼイさん。いい仕事してるわ!」

「…ラムゼイさん?」

「ああ、調理場のコックさんの名前です。鼻下の髭がダンディで、背中で語るタイプの素敵なおじ様で、加えて料理もこの通り絶品という隙のない男性です」

 何気にあたしの好きなタイプのラムゼイさん。今度、話しかけてみようかしら。

「ふふ、サラ教官は年上の殿方がお好みなのですね」

「そういうメアリー教官はどうなんですか? 好みのタイプというか」

 少し考える素振りをしてから、メアリー教官は口許を緩めた。

「そうですね。一緒にいて楽しくて、頼りがいのある男性……といった所でしょうか」

 一般的というか、無難な感じね。伯爵令嬢ともなれば、気軽にその辺の男性と話ができたわけでもないでしょうから、それ以上の好みを抱くのが難しいのかもしれないけど。

 裕福と幸福は別物よ。女にとっては特に、ね。

 詳しい経緯は知らないけど、伯爵家の息女でありながら、士官学院の教官という道を自分で選んだメアリー教官のことは、個人的に共感に近い好意を抱いている。

 自分の意志を通すには、少なくともあたしよりは難しい境遇だっただろうし。

「お互いいい人が見つかればいいですね」

 割と本心でそう言ってからマカロニを持ち上げた時、男性の声が割って入る。

「珍しい組み合わせですな」

 研究員のような白い服。野暮ったい髪と無精ひげ。加えて眠そうな目。

「あ、マカロニ教官」

「マカロフですが」

 間違えた。そう、マカロフ教官。

 担当は導力技術と自然科学担当。ルーレ工業大学を主席卒業した経歴を持つすごい人なんだけど、まったくすごい人に見えないところがすごい。人は見た目によらないものねえ。

「マカロフ教官もお昼ですか?」

「ああ、いや、そういうわけじゃないんですが……」

 メアリー教官がそう訊くと、どことなく言葉を濁す。マカロフ教官は食堂内を見回して、奥のテーブルに座る一人の女子生徒に視線を止めると、気だるそうに頭をぼりぼりとかいた。

「……いやがったか」

「えーと、あの子は」

「あら、ミントさん。吹奏楽部員ですわ」

 そうそう、Ⅲ組のミント。確かマカロフ教官の姪御さんだったかしら。

 ミントはマカロフ教官の姿を見つけるなり「叔父さーん!」と大きな声で手を振ってくる。小さな体の割に声が無駄に大きい。

「ったく。学院内では教官と呼べって言ってんですがね」

 何でも彼は、絶望的に導力学が出来ないミントの補習をする為に来たらしい。

 他の学生に示しがつかないので、あまり特別扱いはしたくはないけど、さすがに見かねたとのことだ。

「そういうわけで失礼しますよ。どうせ昼飯もおごらされるんだろうし、ほんとに疫病神だぜ……」

 ぼやきながらミントの所に行くマカロフ教官の後ろ姿を見て、メアリー教官はくすりと笑う。

 あたしはマカロフ教官嫌いじゃないけど、さっき聞いたばかりのメアリー教官の好みとは正反対なんだろうな。

 そんなことを思いながら、改めてマカロニを口に入れる。

「仕事も途中で放り出してランチとはいいご身分だね」

 背後から飛んできた粘着質な声に、マカロニを噴き出しそうになった。

 声の主は振り返らなくてもわかる。

「ご心配なく。本日中には仕上げますので」

 だから振り返らずに言う。

「期待しているよ」

 ハインリッヒ教頭は心無く告げて、ふんと鼻を鳴らした。

 なんて薄っぺらい言葉。まるで教頭の髭のような、存在する意味があるのかわからない程の薄さだわ。

 ヴァンダイク学院長を見なさいよ。あの埃を掃けそうなほど豊かな髭を。愛用の筆は髭で作られたという逸話があるぐらいなんだからね。

「まったく施設の見回りに来てみれば……メアリー教官」

「は、はい」

 突然話を振られたメアリー教官は、緊張の面持ちで身を固くした。

「何か困ったことでもあったら、いつでも相談に来なさい。くれぐれも相談する相手を間違えないように」

 なーによ、それ。最後の一言も余計だけど、私を一瞥しなくてもいいじゃない。

 言いたいことだけを言って、教頭は去っていってしまった。見回りなんだか監視なんだかわかったもんじゃない。

「すみません、サラ教官」

「メアリー教官のせいじゃないから大丈夫ですよ」

 そう、全てはあの教頭のせいなのよ。

「ふんだ」

 フォークで力いっぱいマカロニを突き刺してみる。

 

 

 ――13:00 

 昼食を終えて、本校舎に戻ったあたしとメアリー教官は、切羽詰った様子のエマに呼び止められた。

 その後すぐにやってきた用務員のガイラーさんも交えて少し話をしたんだけど、どうやらガイラーさんは腰を痛めてしまったらしい。

 二階の掲示板の張替えするとのことだったから、ガイラーさんを手伝うようエマに言ったら、彼女は泣きそうな顔をして二階に駆け上がって行ってしまった。

 あたし、何か悪い事言ったっけ?

 ガイラーさんと別れた後は教官室へ向かう。

「メアリー教官はこの後どうするんですか?」

「吹奏楽部の夕練習の準備をしに行こうかと」

 聞けばメアリー教官も勤務日ではなかったみたいで、今日はその吹奏楽部の練習の為だけに学院まで来たらしい。それは学生からの人気も出るはずだ。

 教官室に戻ったメアリー教官は、音楽室の鍵を持つとそのまま二階へ。

 あたしはやり残した採点の続きをする為に自分のデスクへ。

 トマス教官とナイトハルト教官の姿は見えない。無事に逃げ切れたのかしらね。

「さーてっと!」

 気合いを入れ直して、机に向き直る。

 さっさと終わらしてしまいましょうか。

 

 

 ――14:30 

「お、終わったあ……」

 手にしていた赤ペンを離し、あたしは机に突っ伏した。

 ようやく教頭の呪縛から解放された。とりあえずⅠ組分の答案用紙を、教頭の机に叩きつけるように置いてやる。

「ちょっと休憩に行こうっと」

 教官室を出てはみたけど、どこで休憩しようか。変にうろつき回ってまた教頭に出くわすのはごめんだし。

「保健室はどうかしら」

 あそこにはベアトリクス先生もいる。

 先生には命を助けてもらったこともあるし、この学院でも事ある毎に相談に乗ってもらったりと、まったく頭が上がらない。

 先生も仕事中かもだけど、少しお邪魔するくらいならいいでしょ。

 何より保健室にはお茶とお菓子が常備されている。さらに言えばあのハインリッヒ教頭も、ベアトリクス先生の前では大きな態度は決して取らない。

 あそこはあたしにとっての安全地帯なのだ。

「失礼しま――……ん?」

 保健室の扉をノックしかけて途中で止める。中から話し声が聞こえた。どうやら先客がいたらしい。しかもこの声は。

「さすが貴女の淹れてくれるお茶は絶品じゃのう」

「ふふ、褒めても何もでませんよ」

 ヴァンダイク学院長だ。何てこと。学院長にあたしのお茶が取られたわ。

「何も出んことはないじゃろう。ほれ、そこの棚の茶菓子など」

「……目がよろしいことで」

 あたしのお菓子まで。

 どうしよう。後で出直そうかしら、それとも知らない振りして入っちゃおうか。

 そんな二択で悩んでいたら、突然轟音が鳴り響いた。続けて校舎全体が揺れるほどの衝撃も襲ってくる。

「な、なに!?」

 たまらず壁に手をつく。保健室の二人は――

「熱っちち! な、何か拭くものを」

「あらあら、自慢のおひげがお茶まみれに。……しかし地震でしょうかねえ」

「は、早く拭くものをくれんかね」

 大丈夫そうね。このお歴々に余計な心配は無用だったわ。

 でも今のは地面から来た揺れじゃない。さっきの大きな音は上からだった。

 とりあえず状況確認の為、あたしは屋上に向かうことにした。

 

 屋上のドアに手をかけようとした矢先、先に外側から開かれた。

「あ……サラ教官……」

 ふらりと現れたのは、完全に生気の失せたエマ。

「屋上にいたのね? 大きい音がしたから見にきたんだけど、何かあったの?」

「いえ……新しい用務員さんを募集した方がいいかと……」

 話が成立していない。うちにはもうガイラーさんがいるじゃないの。 

 エマは今にも倒れそうな足取りで、階段を降りてどこかへ行ってしまった。彼女の様子は気になるけど、まずは現場の確認が先だ。

 屋上に足を踏み入れ、そして眼前に広がった光景に絶句する。

「な……なにこれ?」

 滅茶苦茶だ。地面は焦げ付き、壁はひび割れ、フェンスは残らずひしゃげている。

 生温い風が吹き抜けると、見覚えのある竹ぼうきがカラカラと屋上を転がっていた。

「あれってまさか……」

 唐突にさっきのエマとの会話を思い出す。

 あんた、一体ガイラーさんに何したの。

 

 

 ――15:00 

 一応エマの事は伏せて、屋上の惨状を学院長に報告したら『生徒の誰かがトラブルでも起こしたのだろう。はっはっは』と悠長に構えていたし、隣にいたベアトリクス先生は『とりあえず後で補修に行って下さいね』と笑顔でとんでもない仕事を振ってきたし。

 なんであたしが、とは思ったけど、やっぱりベアトリクス先生の頼みは断れなかった。結局今日は夜まで帰れそうにない。

「アクシデントが多い気がするわ……」

 詳細は何か知っていそうなエマに聞くとして、まずはどこかで座りたい。さすがのあたしにも休息が必要だわ。

 とりあえず中庭のベンチに座って一息つく。

 花壇前の道をガイラーさんがスタスタ歩いていた。

「あ、ガイラーさん?」

「おや、サラ教官。またお会いしましたな」

「もしかして屋上のこと何かご存じですか? エマが何かしでかしたのかと」

 ガイラーさんは笑みを浮かべた。

「大したことではありませんよ。屋上の修復でしたらお任せを」

「それならいいんですが……ああ、あたしも後で手伝いに行くことになりましたので」

「それは心強いですな。それでは先に準備をしております」

 一人でやる羽目にならなくてよかった。

「そろそろ行こうかしら」

「どこに行くのかね」

 軽く伸びをして立ち上がった時、あの声が耳に届く。休憩場所に中庭を選んでしまったことを心底後悔した。もう勘弁してよ。

「採点が終わったのならちゃんと伝えてくれたまえ。報告をするまでが仕事だとわかっているのか」

 三度現れたハインリッヒ教頭。そして始まる説教。この人、小言を言う為にわざわざやってきたとしか思えない。

 でもがまんよ、サラ。大人よ、大人になるのよ。

「申し訳ありません。報告には行くつもりだったのですが、少々トラブルがあったものでして」

「トラブルばかりだな、君は。退屈しなさそうな人生で羨ましいよ。どうせ君の生徒が何かしたのだろう」

 言い返したいけど、半分くらい合ってる気がするわ。

 がまんよ。私はもう大人。だって四捨五入すれば――って、うるさいシャロン。

 うふふと聞こえた幻聴を振り払って、針で刺してくるような嫌味に耐える。

「まったく、担当教官が落ち着かないから生徒も落ち着かないのだ。頼むから学院中を走り回るようなトラブルは控えてくれたまえ」

「いえ、そんなことは――」

 あたしのことはともかく、あの子達を引き合いに出すのはやめてほしい。

 言い返そうとした矢先、タイヤを引きずるガイウスとエリオットが目の前の道を走り去っていった。

「呆けた顔をして何かね」

「い、いえ何でもありません!」

 幸い教頭の背中側なので気付かれてはいなかった。

 そんな所を見られたら、話がややこしくなるじゃないの。

 一安心と思ったその時、今度は二頭の馬がガイウス達を追走していく。しかも片方の馬に乗っていたのはラウラだった。

「あ、あー!」

「な、なんだ。言いたいことがあるなら言いたまえ」

 さすがに馬の足音は気付かれる。とっさに大声を出して、足音を消そうとしてみた。幸いこれも上手くいった。

 なにやってんのよ、あの子達。

「まったく君は――」

 ため息を吐いた教頭はさらに続ける。もう適当に流そう。だけど次に教頭が言ってきたのは、触れてはいけない話題だった。

「浮いた話の一つもないのだから、その分仕事に精を出してもらいたいものだ」

 カチン、ときて、プツン、ときれる。

 我慢は爆発させる為にするものだ。

 気付いた時には、口を開いた後だった。

「でしたら言わせて頂きますが、ハインリッヒ教頭。あなたのお仕事はがみがみと小言を撒き散らすことだけなんでしょうか?」

「な、なんだと?」

 その顔がたちまち険しくなるけど、もう構わない。徹底抗戦だ。

「いーえ、お忙しいはずの教頭殿ですのに、私みたいな若輩者に時間を割いていいものかと」 

「……どういう意味かね?」

「そうこうしている内に、次の学院長はベアトリクス教官になるのではと思った次第ですわ。私としてはもちろん、日頃からお世話になっているハインリッヒ教頭を推しておりますけども」

「うぬぬ、言わせておけば……!」

 あたしの白々しい態度に、教頭はと怒り心頭のご様子だ。

「君に特科クラスを任せたのは間違いだったようだな。実際、何かと諍いが絶えぬようだし、学院の恥さらしにならなければいいのだがね。そう学院長にも進言しておこう!」

「どうぞ、ご自由に。それよりも最近、貴族生徒の言動の悪さが目につきますが、ご指導の方はどうなっているのでしょうか。来館者の多い学院ですから、どこからか悪い印象を持たれて担当教官の責任に……なんてことになるかもしれませんわ」

「私のクラスを愚弄する気かね!?」

「そちらこそ! Ⅶ組は素晴らしいクラスです」

 売り言葉に買い言葉。でもこうなったら後には引けない。

 しばらくにらみ合う。

 苛立ちも顕わに、教頭はこんなことを言ってきた。

「いいだろう。そこまで言うのなら白黒はっきりつけようではないかね」

「もちろん構いませんわ。それで内容は?」

 ずれた眼鏡を押し上げて、教頭は言う。

「君が自慢だというⅦ組の生徒達と、私が選りすぐった貴族生徒達で勝負をしてもらおうじゃないか。名目としては体育祭のようなものでいいだろう。開催時期は今から一か月後! 無論、観客がいた方が盛り上がるだろうから、全学院生を総動員させる」

「望むところです。ですが、そうすると勝負は生徒任せになってしまいますね。私達も緊張感を持つためにこんな提案はいかがでしょう」

「ほう。言ってみるといい」

 あたしはにやりと笑った。

「Ⅶ組が勝てば私が教頭に、貴族生徒達が勝てば教頭が私に。何でも一つ命令できるというのは?」

「な、なんということを!?」

「あ、いいんですよ。貴族のお坊ちゃま、お嬢ちゃま達が実戦経験もあるⅦ組に勝てるとは思いませんもの。私、過ぎたことを言ってしまいました。やはり前言の撤回を――」

「待ちたまえ! 所詮は寄せ集めのクラス。幼い頃より厳しい教育の下に育てられた貴族生徒達が負ける道理はない。受けて立とう」

 かかった。教頭はこの手の揺さぶりには弱いと思っていたのだ。

 さあ、覚悟してもらうわ。

「では私の要求から。教頭、あなたは財布の中にとある写真を入れていますね?」

「な、なぜそれを……!?」

 元遊撃士の情報収集力を甘く見ないで欲しいわね。

 隠れてそれを眺めてにやつく様子を見るに、恐らく家族の写真などではなく、何かこう――エッチな感じの写真だとあたしは推測する。

 お堅く見える人程、裏に暗い欲望を抱えていたりするもんなのよ。絶対絶対そうなのよ。エロヒゲメガネめ。

「もしⅦ組が勝った場合は、その写真を大量にコピーして屋上から学院中にばらまかせて頂きます。もちろん写真の裏には“ハインリッヒ教頭のいけないヒ・ミ・ツ”と書き記して」

「お、お、おのれ、劣悪な! ならば貴族生徒達が勝った場合、君には水着姿で学院中の清掃をしてもらうぞ!」

「なっ!? 私にそんな辱めを受けさせようとするなんて! やっぱりそういうのが好きなんじゃないですか!?」

「やっぱりとはなんだ。勘違いしてもらっては困る! 私の精神的苦痛に比べれば、これでも生ぬるいくらいだ!」

 何が生ぬるいのか。そんなことしたら、確実にお嫁にいけなくなるじゃない。そしてあたしのそんな姿を記録する為だけに、シャロンが導力カメラを用意してくるのが目に見えているわ。

 これは何が何でも負けられない。

「楽しみにしていたまえ。全生徒の前で恥をかく瞬間をな。掃除道具くらいは用意させてもらうよ」

「教頭こそ。そんな暇がおありでしたら、写真の回収手段を今から考えていた方がいいと思いますわ」

 本日最後になる鼻息をふんと鳴らして、教頭はあたしに背を向けた。

 遠ざかるその背中に「いーっ!」と自分の頬を引っ張ってみせる。

 勝負は一か月後。つまり十月の半ば。学院祭よりは前になるわけね。

 題目は『特科クラスⅦ組と貴族生徒連合軍対抗のエキシビジョン体育祭』。

 負ければ水着で学院掃除。

「……完全に勢いだったけど、大変なことになったかも。だけど――」

 あの子達なら大丈夫。今まで身に付けた成果を存分に発揮してもらうことにしましょう。

 あたしの名誉の為にも、お嫁に行けなくならない為にも、

「勝つのは絶対Ⅶ組なんだから!」

 

 

 ~FIN~

 

 

 

☆おまけ☆

9月12日(自由行動日) 11:30 ルビィ 

 

 机の下で丸まっていると、リィンとアリサの声が聞こえてくる。アリサがリィンを怒っているみたいだ。またリィンが何かしたのかな。何もしていなくても怒られてる時があるみたいだけど。

 首を持ち上げると、リィンの足とその向こうにアリサの足が見える。

 アリサが詰め寄ると、リィンの足はこっちに向かって下がってきた。

 リィンは机にぶつかった。頭の上でバラバラと何かが崩れる音や、転がる音が聞こえて来る。

 目の前に何かが落ちてきた。多分、さっきまで机の上にあった何か。

 それは見たことがあった。マキアスがいつも大事そうに使っているものだ。こればかりはマキアスも触らせてくれなかった。

 なんだろう。白い……馬の形をしている。

 朝に言っていたサラの言葉を思い出した。

『――じゃああれね、白馬の王子様でも探すとするわ』

 王子様っていうのは何なのかわからない。ただ白馬っていうのは白い馬のことだ。

 じゃあサラはこれを探していたんだ。だったらサラに渡してあげないと。

 そう思って白い馬を口にくわえようとしたけど、マキアスの怒った顔が頭に浮かんだ。

 そのままでしばらく考える。 

 マキアスの怒った顔か、サラの笑った顔か。

 ……決まった。

 それをくわえる。

 朝にシャロンに連れて行ってもらったところだけど、散歩でもしながらサラの所に行こう。もう一度町を回って、朝には寄らなかった公園で一休みして、川で魚を眺めて、それからあの学院へ行こう。

 何だか楽しくなってきた。

 気付いた時には、もう走っていた。アリサの足の間を駆け抜け、扉の隅に作ってもらった専用の出入り口を鼻先で押し開ける。

 見慣れた景色が目の前に広がる。 

 暖かな日差し、緑の匂い、柔らかな風、鳥のさえずり、たくさんの人が歩く音。

 待ってて。サラの探し物、今持っていくから。

 

 ~FIN~

 

 

 

 

☆後日談×11☆

 

●ユーシス●

「あ、ユーシス先生だー」

「次はいつ来てくれるの?」

 最近町を歩いていると、やたらと子供達が話しかけてくるようになった。

 中には「ロジーヌ姉ちゃんを返せ!」などと覚えのない中傷を投げつけてくるやつもいるが。

 ロジーヌとも日曜学校の一日講師をやってから、学院内でよく会話をするようになった。

 また俺を教壇に立たせようと色々画策しているらしい。だからそういうことはリィンの方が向いていると言ったのだが、子供達がなついたから俺の方がいいとのことだ。

 もう好きにするがいい。

 ……あのクッキーが貰えるのなら、別段悪い話ではないか。

 

 

●マキアス●

 まったく大変な目にあったものだ。チェスの駒に傷がなかったからよかったものの。これからチェスをしている時は、その場を離れないようにしないとな。

 そういえば、最近リィンとアリサに若干気を遣われているというか、怖がられていると感じるのは僕の思い過ごしだろうか?

 あとシャロンさんが「あの時のお詫びです」と手作りのケーキを出してくれたりしたが、まったく詫びられるような覚えがないんだが。

 僕の知らないところで何かやったのか。問いただすもシャロンさんは「うふふ」といつものように笑うだけだし。

 よくわからないが、いつの間にか理不尽な不名誉を身に被っている気がするぞ。

 

 

●ラウラ●

 あれ以来ガイウスもエリオットも悩みが吹っ切れたかのように、二人ともいい表情をしている。

 私もポーラと仲良くなったし、とてもいい一日だった。

 そういえばポーラと一緒にいる時に二人とすれ違うと、表情が青ざめて動きが固まるのはなぜだろうか。ガイウスはともかくエリオットなど「ポ、ポーラ様!?」と怯えてすらいるようだし。

 ふむ、これはもう一度荒療治が必要かもしれん。

 委員長にまた小説でも借りるとしようか。

 

 

●ガイウス●

「よう、ガイウス。昼飯まだだったら食堂行かないか」

 あの兄妹を送り届けてから、クレイン先輩が親しげに声を掛けてくれるようになった。

 長兄同士だからか話も合って、ついでに気も合う。Ⅶ組と美術部以外でできた知り合いは初めてだから、正直嬉しいものだ。

 この辺りの地理にはまだ不慣れな俺を、色々と連れ出してくれたりもした。時間を見つけて水練に付き合ってくれるのもありがたい。

 クレイン先輩が言うには、俺はなんでも弟分とのことだ。

 ということは俺にとって先輩は兄貴分ということか。今まで経験したことがないから不思議な感覚だが。

 まあ、悪い気分じゃないな。

 

 

●エマ●

 ガイラーさんに追いかけ回された次の日。恐る恐る屋上の扉を開くと、驚くべきことにひび割れも焦げ付きも見事に修復されていた。全くその痕跡すら見受けられない。

「待っていたよ」 

 頭上から落ちついた声音が届き、ガイラーさんは屋上にすたんと降り立った。いつから待っていたんですか。というか一体どこから降ってきたんですか。

「私の小説の感想を言いに来てくれたのかな。それとも君の小説の続きを持ってきてくれたのかな」

 どっちも違います。即座に身を返してその場を離脱。ついでに屋上の扉をバタンと閉めて、鍵も閉める。

「ふふ、次の話を早く書き上げないとね」

 そんな言葉が扉の向こうから聞こえてくる。あれ連載物だったんですか。

 どうやら私とガイラーさんの鬼ごっこはまだ続くみたいです。

 

 

●フィー●

 基本的に私の毎日は変わらない。眠って起きて、また眠る。変わるのは眠る場所くらいかな。

 最近のお気に入りはシャロンに教えてもらった中庭のベンチ。

 あそこは涼しいし、花壇にも近いし、ついでに時々通りかかったエーデル部長がタオルケットをかけてくれるし。といってもヴィヴィが何かといたずらを仕掛けてくるから、そこまで気は抜けないんだけど。私の周りに肥料とか撒いても、背とか伸びないから。

 あ、変わったことが一つあったっけ。

 あれから委員長との勉強の約束はちゃんと守っている。時間の三十分前から《ARCUS》に連絡がひっきりなしに入るから遅れようもないんだけど。

『フィーちゃん、今どこですか? 迎えに行くのでその場から絶対に動かないで下さい!』とか。

 そしてやってきた委員長と手を繋いで、その日の勉強場所に向かう。正直ちょっと恥ずかしい。

 うん、やっぱり委員長はお姉さんっていうよりお母さんだね。

 

 

●エリオット●

 ミントのフルートは日増しに上達してきた。それは嬉しいんだけど、最近少し困っていることがある。

「猛将! 猛将! いい本入ったんだけど見ていかないかい?」

 本屋の前を歩いていると、ケインズさんがそんなことを言って手招きしてくる。

「エリオット君、今日は猛将なの? いいよ、皆には内緒にしておくよ!」

 店頭で雑誌の表紙を眺めていたミントも、無駄に大きな声を辺りに響かせる。

 僕はごく一部の人達から猛将と呼ばれるようになってしまった。

 ほんとにやめて欲しいんだけど。

 姉さんと父さんに知られたら、僕は一体どうなってしまうんだろうか。

 

 

●アリサ●

 私はシャロンに、フェリスはサリファさんに、それぞれブローチを渡すことができた。

 残念だったのはマルガリータさんの襲撃にあってしまったので、二人でゆっくりお店を回れなかったことかしら。

 だったら今度はヘイムダルのお店を回ろうと、現在二人で計画を立てている真っ最中。

 廊下でそんな話をしていたら、物陰から「ムフォッ」と声が響き、そこには目を光らせながら佇んでいる大きな影が。

 まさか追ってくる気なの? ヘイムダルのブティックでマネキンの真似なんて絶対やりたくないんだけど。

 近い内にもう一騒動ありそうな気がして、私とフェリスは顔を見合わせた後、がっくりと二人そろって肩を落とすのだった。

 

 

●リィン●

 あの日の記憶がまるでない。

 風邪を引いて倒れたからだろうか。風邪を引いた理由はもちろん、何をして過ごしていたのかさえ思い出せない。

 あれ以来、マキアスに出くわすとどうも落ち着かないというか、何かされそうな気がしてつい身構えてしまう。

 さらに委員長を見ると、喉の奥から凄まじく苦い何かが這い上がってきて思わず吐きそうになるし、アリサを見れば、左頬に焼けるような痛みがずきずきと襲ってくるようになった。

 あとラウラは俺の前に立つとき、胸前で腕を組む回数が多くなった気がする。まるで何かを守るように。

 そういう時、どうしてか俺の両手がざわざわと疼きだすのだ。

 そんな様子をシャロンさんはくすりと笑うし。

 ……俺、大丈夫だよな?

 

 

●シャロン●

 お嬢様の為とは言え、皆様方には大変なご迷惑をかけてしまいました。特にリィン様には不憫の一言で、シャロンは猛省と後悔の日々に胸が張り裂けてしまいそうですわ。

 皆様の円滑な人間関係を取り戻せるよう、早くあの日の誤解を解いておかねばなりませんが……

 まあ、まだそのままでも宜しいかと存じます。

 さて、次は何をしましょうか。

 

 

●サラ●

 学生会館の食堂でⅦ組の面々と出会った。

 皆そろって授業の復習をしていたそうだ。Ⅶ組は特別実習もあったりと他のクラスに比べてカリキュラムがハードだから、部活がない日に合わせて時々勉強会みたいなことをやっているらしい。

 ほんと自慢の教え子達だわ。

「一段落したので、皆で何か食べようかと話していたところなんです。よかったらサラ教官も座っていきませんか?」

 リィンがあたしにそんなことを言ってくれる。そうだわ。今こそメアリー教官のあれを実践する時。

 さすがにあたしのスカートだと短いので、コートの裾を軽く持ち上げて、少し会釈。

 そして一言。

「ええ、よろこんで」

 瞬間、皆の表情が凍り付く。小さなざわめきは、あっという間に喧騒と化した

「なっ、なんの病気だ!? エマ君急いで薬の調合を!」

「わ、私こんな症状みたことありません。ラウラさんはどうですか!?」

「うん……尋常ではないな。ガイウスはどう見る?」

「誤って毒物でも食べたのではないか? フィーは何とかできそうか?」

「無理。酔ってその辺の雑草引き抜いて口に入れたんだと思う。ユーシス、馬用の胃薬いってみる?」

「ここまできては手遅れだ。諦めるしかなかろう。エリオット、葬送曲は弾けるか?」

「ひ、弾けるけど……ねえアリサ、一応シャロンさんに連絡して見たら?」

「喜んで様子を見に来ると思うけど、何とかなるとは思えないわね。もうどうするかリィンが決めなさいよ」

「また俺か。……よし、何も見なかったことにしよう」

 あ、あんた達ねえ。

「いい加減にしなさいよー! 全員グラウンド十週、全速力!」

 あちらこちらから不満の声があがる。だけどこの際知ったこっちゃないわ。今から体力付けときなさい。

 あたしが水着姿で学院内の掃除をするかどうかは、全部あんた達の肩にかかってるんだからね!

  

 

 

☆☆そんなⅦ組の一日 END☆☆

 

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。一日シリーズラストはサラでした。やっぱり教官勢との話が主となってきましたね。そんな感じで、教頭との戦いが決まるまでがサラの一日となっています

彼女も彼女でトラブルに巻き込まれておりますね。またⅦ組を巻き込んで変なことになってますし。あと、彼女のセリフで“あたし”と“私”がありますが、一応使い分けています。誤字ではありませんのでご了承下さい。
ちなみにですが例のエキシビジョン体育祭は、実はこの小説の最終話にあたります。ただそこに到達するまでにはまだまだたくさんの話がございますので、乱文遅筆ではありますが、お付き合い下されば嬉しい限りでございます。

一日シリーズは終わりましたので、次回からはまた一話完結式で楽しくやっていきます! 
次回は、久しぶりにⅦ組フルメンバー出撃の話となりますので、お楽しみ頂ければ嬉しいです。


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アキナイ・スピリット(前編)

 9月中旬、とある昼休み。

「ちょうどええ機会や。本番は学院祭でやるとして、その前哨戦というわけやな?」

「ああ、それならモニタリングにもなるしね」

 トールズ士官学院、本校舎二階の廊下の一角。

 独特の訛りが特徴的な快活そうな女子と、静かな声音の落ち着いた雰囲気の男子が、何かを話し合っていた。

話し合うというより、口論という方が適切かもしれない。お互いが自分の考えを主張し、そして伝わらず、加えて折り合い点も見つからない。

 彼女の名はベッキー。彼の名はヒューゴ。

 性格も思考も正反対な二人に、共通することが一つだけある。それは気質。

 彼らは利益を追求することに長けた商売人気質だった。

「ええで。と言ってもあたしらがやったら意味ないんちゃう?」

「うーん、それなんだよ。そういうの引き受けてくれる人っているかな」

 二人の論争に落ち着くべき場所は見えてきたのだが、実行する人間がいないのが問題だった。

 そんな時、腕を抱えて難しい顔を浮かべる二人の前を、ある男子生徒が通りかかる。

『あ』

 彼を目にしたベッキーとヒューゴは同時に声を上げた。

 そして天性ともいえるタイミングで通りがかった男子生徒――リィン・シュバルツァーは思う。

 ――ああ、また何かに巻き込まれた。

 

 

《☆☆☆アキナイ・スピリット☆☆☆》

 

 

「――そういう訳で皆にも協力して欲しいんだが……構わないか?」

 一年Ⅶ組の教室に戻ったリィンは、先ほど自分が受けた依頼の詳細を他のメンバーにも伝えた。幸い昼休みということもあって、全員が教室にそろっている。

「あなたって歩くだけで何かを背負い込んで帰ってくるわよね」

 アリサは肩をすくめ、横にいたエリオットは「今に始まったことじゃないけどね」と苦笑した。

「ふむ、協力するのは別に構わないが」

「僕たち、そんな経験は多分誰もないぞ」

 ラウラの言葉をマキアスが継ぐ。

 二人の横合いから「ふあ、私はめんどうなんだけど」とフィーがあくび半分で言葉を挟むと、「ふん、同感だ」とユーシスは呆れ顔を浮かべた。

「い、いや、申し訳ないとは思っているんだが……」

 追い詰められた心地のリィンだったが、そんな彼をガイウスとエマがフォローする。

「これも経験と思えばいい。この先役に立たないとも言えないだろう」

「ええ、そうですね。出来ることがあれば協力させてもらいますよ」

 仮にも委員長がそう言えば自然と雰囲気も傾いてくるというもので、まずは全員参加の方向へと落ち着いたのだった。

「おーおー、お前ら。もっとシャキッとしろよ。面白そうじゃねえか」

 そんな雰囲気の中、クロウは椅子から立ち上がって軽い喝を入れた。このような企画は彼の性分に合うのだろう。珍しく乗り気な様子だ。

 黙って話を聞いていたミリアムが呑気に笑った。

「よく分かんないんだけど、とりあえずもう一回説明してくれない?」

「ああ、ミリアムには難しい話だったか? 要は二班に分かれて屋台を開いて、各商品の売れ行きを調べるってことだ」

 リィンがベッキーとヒューゴから受けた依頼は『屋台式売店の売り上げ調査』というものだった。

 二人は商売人気質――ではあるのだが、その根本はやはり違っていて、ベッキーは人情を主眼に置いた薄利多売タイプ。一方のヒューゴは効率を第一とし、かつ安易な安売りはせず商品に見合った値段を設定するタイプだ。

 ざっくりと言うなら、ベッキーは人付き合いの信頼関係からリピーターを会得するスタイル。ヒューゴは安定したブランド力と、商品自体における信頼で顧客数を増やすスタイルである。

 さらに乱暴に表現してしまえば、ベッキーは現場型、ヒューゴは経営者型の気質なのだ。

 経営側の理念と現場主義の言い分は、詰まるところ理想と現実という言葉に帰結してしまう。そんなままならない社会事情の話ではないが、ベッキーとヒューゴの諍いの根幹に全く関係無いわけでもなかった。

 とはいえ今回に限っては、そんな小難しい話ではないのだが。

 “どちらのやり方が、より多く売れるのか”

 それだけである。

 正式な勝負の場としては十月下旬の学院祭で雌雄を決することになっているのだが、その前にモニタリングと称して、まずは学院関係者の趣向や購買傾向を図っておこうというのが今回の主旨だ。

「でもそれって、あの二人が自分達でやったらいいんじゃないのかしら」

 アリサは首をかしげた。

「俺もそう思ったんだが、自分達でやるとそれぞれのやり方を前面に押し出してしまうから、どうしても主旨とずれてくるらしい」

 つまり歴戦の手練手管で、買う気のない人の購買意欲を喚起させることが出来るのだ。

 それは単純な売り上げ勝負なら必須となる商売人の腕なのだが、市場調査を目的としている今回に限ってはそぐわない事だった。

「だがリィン。我々も二班に分かれるのだろう? ならば意図せずとも勝負に発展しかねんのではないか?」

 ラウラの目線がちらりとユーシスとマキアスに向けられる。

「な、なんだ?」

「はっきりと言うがいい」

 もしマキアスとユーシスが別班で分かれた場合、対抗意識から特にそうなる可能性が高い。そうするとあの二人がⅦ組に依頼した意味も薄れていくのだ。 

「うーん、確かにな」

「それやったら心配いらへんで!」

 勢いよくドアが開き ベッキーがつかつかと教室に入ってきた。その後ろにヒューゴも続く。

「今回はな。商売経験がほぼゼロのⅦ組の面々が、どうやって商品を売り捌くかっていうのも見せて欲しいねん」

「だから二班が競い合ってもらった方がいいんだ。市場調査と言っても大まかな傾向を知りたいだけだからね」

 彼らが言うモニタリングとは、どのような客層がどのような呼び掛けに応じるのか。そして当初の目的通り、どんな商品の売れ行きがいいのかという二点だった。

 様々な客引きを試すことが重要になる為、リィン、引いてはⅦ組に依頼をしたのだという。

「もちろんタダでとは言わへんで! ちゃんとお礼はさせてもらうわ」

 ベッキーの言うお礼が何かは分からなかったが、半分押し切られる形で、Ⅶ組による屋台売上勝負は幕を上げた。

 

 

 翌日の放課後。

 一日のカリキュラムを終えたⅦ組の面々は、正門を出て坂を下ったすぐにあるちょっとした広場に集まっていた。

 この広場の西側の階段を上れば貴族生徒達の下宿する第一学生寮が、東側の階段を下れば平民生徒が下宿する第二学生寮がある。

 そして現在この広場には、それぞれの寮に繋がる階段の手前に、一つずつ簡易式の屋台が店を構えていた。

「待っとったで!」

「今日は宜しくお願いするよ」

 一足先に来て屋台のセッティングを済ませていたベッキーとヒューゴは、全員そろったⅦ組の顔触れを見て満足気な様子だ。

「それじゃあ今からルール説明すんで。はい、ヒューゴ」

「ベッキーがするんじゃないのか……まあいいけど。それじゃあ俺の方から簡単に説明させてもらうよ」

 こほんと咳払いしてからヒューゴは続けた。

「見ての通り、この広場には第一、第二、それぞれの寮に近い形で、二つ屋台をセッティングしてある。ここで君達は屋台毎に二班に分かれて売り上げ勝負をしてもらう」

 クロウが手を挙げた。

「おいおい、ちょっと待ってくれ。それだと屋台の場所が公平じゃねえだろ。貴族生徒の方が一般生徒に比べて絶対数が少ないんだぜ。ついでに言えば、財布事情も違うだろ」

 その点を指摘すると、ヒューゴはうなずいた。

「もちろん、その辺りのことは考えてるさ。バランス調整の為に、各屋台で扱うメニューは異なっているし、価格設定もこちらでさせてもらった。で、メニューについてだけど――」

 ヒューゴが調整したという商品とその価格は、

 貴族生徒、第一学生寮側の屋台は『焙煎コーヒー・400ミラ』『手ごねハンバーグ・600ミラ』

 一般生徒、第二学生寮側の屋台は『丸絞りジュース・200ミラ』・『フィッシュフライ・300ミラ』

 第一側は第二側に比べて倍の値段設定だ。

「ちなみに原価に近い値段設定やから正規のもんより相当安いで。全部売ってようやく採算が釣り合う感じや」

「もちろん貴族生徒だからって第一学生寮側の屋台にばかりいくわけじゃないし、その逆もある。そこはみんなの腕にかかっているね。あと今回は単純な売り上げ勝負だから、原価計算や経費を差し引いた純利益は気にしないでくれ。俺からは以上だ」

 ヒューゴがあらかたの説明を終えた所で、ベッキーはぱんと両の手の平を打ち鳴らした。

「気になることが他になかったら、早い所二班に分かれてや!」

 先に声をあげたクロウを始め、Ⅶ組メンバーからの質問はないらしい。リィンが言った。

「それじゃあ、班分けだ。今回もくじ引きでいこう。第一学生寮側の屋台がA班で、第二側がB班でいいか」

 リィンが人数分のくじを手に持って差し出すと「あたし達っていつも二班に分かれるわよね」とアリサが一番手を引き、「ボクは楽しいけどねー」とぴょんと飛び跳ねてくじを抜き取ったミリアムが二番と続く。

 やがて順に全員がくじを引き、最後に残った一つをリィンが取って、班分けは終了した。

 

 A班……クロウ、ガイウス、エマ、マキアス、ユーシス、ミリアム

 B班……リィン、ラウラ、フィー、エリオット、アリサ

 

「我々は十一人だから、どうしても六人と五人の班になるわけか。まあ、仕方ないだろう」

「だね。人数が多いからそこまで有利ってわけじゃないし。別にいいと思う」

「これも風の導きだ。精一杯やらせてもらおう」

「私は呼び込みとかちょっと恥ずかしいんですけど……」

 ほとんどが納得する中で、マキアスがうんざりするように言った。

「また僕は君と同じ班なのか」

「ふん、それはこちらのセリフだ」

 そっけなく応じてそっぽを向くユーシス。

「君の横柄な態度は接客には向かないんだ。ひたすらハンバーグでもこねていればいいさ」

「お前こそ、辛気臭い呼び込みしかできまい。黙ってコーヒー豆でも挽いていろ」

 まったくもって想定内の二人の反応。他のメンバーもとりあえず傍観の姿勢だった。

 飄々とした足取りで間に割って入ったクロウが、彼らの背後から肩にがしっと腕を回した。

「まあまあ。同じチームなんだし仲良くしようぜ。そんなんで負けた方が後味悪いだろ?」

 いつもの含み笑いを覗かせると、マキアスとユーシスは同時に腕を振り払う。

「わかっています。やるからには負けるつもりはありません」

「言われるまでもない」

「その意気、その意気。期待してるぜ」

 この手の扱いにクロウは長けていた。

 二班に分かれたメンバーは、それぞれの屋台に向かう。全員が配置についたことを確認したベッキーは声を張った。

「うちらは離れて橋の辺りから見とるから。制限時間は今から二時間な。よーいスタート!」

 はつらつとした開戦の合図が響き、各チームは一斉に動き出した。

 

 

 ――A班

 第一学生寮側に位置するA班の屋台。扱うメニューは『焙煎コーヒー』と『手ごねハンバーグ』。

 屋台にはハンバーグを焼く為の鉄板と、コーヒー豆を挽く為のミルが設置されていた。

 コーヒー豆はすでに中入りで焙煎されたもので、あとはミルで挽くのみだが、ハンバーグに関しては“手ごね”ということもあり、ひき肉、卵、パン粉から下ごしらえをしないといけないようだった。

 屋台周りのチェックをあらかた済ませたクロウが、残るメンバーを自分の周りに集めた。

「いいか、お前ら。ヒューゴは公平に調整したと言ってたが、実際はB班に比べて俺達A班の方が売り方を考えなくちゃいけねえ。今から各役割と、客の呼び込み方針を決めるぜ」

 第一声でクロウがそう告げると、他のメンバーは首をかしげた。

「役割を決めるのは分かるが、俺達の方が売りにくいのか?」

 ガイウスが言うと、クロウは「あったりまえだ」と腕を組む。

「まずB班の屋台の場合、ジュースとフライを同時に購入することはあるし、そのセットを勧めることもできる。だけどな、俺らが扱うコーヒーとハンバーグって普通は一緒に頼まねえだろ」

 クロウが言わんとしていることを察したエマは、その言葉を引き継いだ。

「なるほど……値段の有利はあっても、単品ずつでしか売れないということですね」

 マキアスが頭を抱えた。

「そ、そうか。しかも熱いコーヒーを持って町は歩きたくないよな」

「使えん男め」

「コーヒーが熱いのは僕のせいじゃないぞ!」

 二人の小競り合いは無視してクロウが続ける。

「だからコーヒーは寮に帰る学生を主なターゲットにする。逆にハンバーグならどの層にもそこそこ受け入れられるだろうしな」 

 全体の方針が決まった所で、ミリアムが手を挙げた。

「それで役割は? ボクは食べる係でもいいんだけど」

「商品つまみ食いしやがったらその場で買い取らすからな。役割はそうだな――」

 全員に視線を巡らす。

「慣れてるだろうからマキアスはコーヒー担当、ユーシスはつまみ食いの見張りも兼ねてミリアムとハンバーグ担当だ。割ときっちりしてそうなガイウスは会計と調理補助。俺と委員長で店頭呼び込みだ。俺が足を止めて、委員長で悩殺する」

 自信に満ちたクロウの采配に、

「やっぱり僕はコーヒーか……」

「な、なんで俺がこいつと」

「ユーシス一緒だねー!」

「俺は割ときっちりしているイメージなのか?」

「の、悩殺……!?」

 それぞれの反応を返しながら、A班は準備に取り掛かった。

 

 ――B班 

「へえ、簡易式とはいえ、結構しっかりした作りだな。導力コンロもいくつかセットされているのか」

 リィンは屋台に視線を巡らしながら感嘆の声をもらした。小さいながらに必要な機能がそろっており、中々使いやすそうな印象だ。

 第二学生寮側のB班は『丸絞りジュース』と『フィッシュフライ』。屋台には揚げ物用のフライヤーと、ジュースミキサーが設置されていた。

 フィッシュフライの白身魚は下ごしらえの済んだものが用意されており、あとはパン粉をつけて揚げるだけだ。

 しかし丸絞りジュースは、バナナ、パイナップル、イチゴなどが箱に詰められたままで、皮やへたを取り除く作業が残っている。

「役割決めが重要そうだ。リィン、そなたに頼めるか?」

 ラウラが言う。他のメンバーも異論はないようだった。

「そうだな――」

 しばし考えてからリィンは言った。

「魚を揚げるだけだし、ラウラはフライヤー担当、手先が器用そうなフィーはフルーツの下ごしらえを頼む。エリオットはミキサーを回しつつ会計をしてくれ。俺とアリサで店頭呼び込みだ。……アリサ、笑顔で頼むぞ」

 リィンが適材適所と考えた配置を伝えると、

「やや気になる発言があったが……まあよかろう」

「めんどくさそうな役にあたっちゃった」

「お勘定の計算間違えないようにしなきゃ……」

「あたしがいつも笑顔じゃないみたいじゃない!」

 やはり四者四様のリアクションを浮かべる中、B班も屋台のセッティングに取り掛かる。

 両陣営ともに準備自体は滞りなく進み、間もなくあとは客を待つのみとなった。

 時刻は十六時半。下校する学生がそろそろ増えてくる時間だ。

 

 

 ――A班

「よーお兄さん! ちょっとお店見ていかない? いい子達そろってるよ」

 そんな呼び掛けをするクロウの前を、学院から下校してきた学院生達はそそくさと過ぎ去っていく。

「ちっくしょ、中々足を止めねえな」 

「まずハンバーグをいい子達と表現するのをやめろ」

 屋台の中で挽き肉をこねる手は休めずに、ユーシスはクロウに冷ややかな視線を飛ばす。

「まだ始まったばかりだろーが。ほら委員長も声出すんだよ」

「い、いらっしゃいませ~……」

 クロウがせっつくと、エマはか細い声を絞り出した。

「そんなんで客が来るか! もっとこう媚びたポーズでだなあ」

「む、無理です~!」

 赤面させて首を左右に振るエマに、マキアスは憐憫の目を向けた。

「エマ君災難だな。というかこれをさせる為に呼び込み役に選んだんだろうけど……あ! 先輩お客さんですよ!」

 その言葉に全員が身構える。

「クロウにⅦ組の面々じゃないか。何をやっているんだい? ……へえ、おいしそうだね」

 やってきたのはゴーグル付きの帽子に、恰幅のいいつなぎ姿の男子学生。ジョルジュ・ノームだ。

 彼は今から学院に向かうようで、その道すがら屋台をのぞいてきた。

「よお、ジョルジュ。なんか買っていってくれや」

「この後は技術棟に缶詰の予定だからね。目の覚めるコーヒーでも貰おうかな」

「任せて下さい」

 待ちかねたとばかりに、マキアスは手動のミルを回し始めた。

「腹も空くだろ。ハンバーグはどうだ?」

「じゃあ、それも貰おうかな」

 即答するジョルジュをミリアムが「太っ腹だなー」と笑うと、彼は「この通りさ」と張り出した腹をぽんと叩いてみせた。

「いやー、お前さんほどハンバーグが似合う男はいねえな」

「褒め言葉と受け取らせてもらうよ」

 いきなり無いと思われていたコーヒーとハンバーグのセットが売れた。計1000ミラである。

「うし、この調子でがんがん売るぜ!」

 ガッツポーズを決めるクロウ。

 まずはA班、好調なスタートを切った。

 

 ――B班。

「あ! A班もう売れちゃったわよ」

「ジョルジュ先輩か……確かにハンバーグが似合うな。なるほど、知り合いだったら呼び込みやすいのか」

 A班の屋台を横目に見つつ、リィン達も呼び込みの声を大きくする。

「エリオットくんだ。何してるのー?」

 間延びした声。

 二つのお団子を頭に乗せた小柄な女子がB班の屋台に近づいてくる。

「あ、ミント。今帰り?」

「そうだよ。いい匂いだね。模擬店なんか出して学院祭の練習でもしてるの?」

「うん、そんなところ。フィッシュフライと丸絞りジュース。よかったらどうかな」

 エリオットが勧めるのに合わせて、両脇のリィンとアリサは同時に笑顔を浮かべてみせた。

 満面の営業スマイルだったが、ミントは第一学生寮側、A班の屋台をじっと見つめると、

「ごめん、私ハンバーグの方が好きだから」

 そう告げて、反対側の屋台まで走って行ってしまった。

「ミント……」

 呆けたように固まるエリオット。

 知り合いだったら呼び込みやすいのではなかったのか。ミントの無情な背中を見つめるその目には、言いようのない哀愁が揺れていた。

「き、気にするな。ミントは見た感じハンバーグ好きそうだろう? 多分あの二つのお団子の中身はハンバーグだ」

「あの子、この場面からでもあっちの屋台に行けるなんてすごいわね」

 意味のわからないフォローを口走るリィンのとなり、アリサは妙に感心していた。

「呆けている暇はないぞ。結局また向こうが売れることになったし、私はさっきから魚を持ったまま油とにらみ合っているだけではないか」

 ラウラは白身魚を片手に不満げな様子だ。

「魚は置いといていいと思う。……ん、この」

 パイナップルの硬い外皮と格闘するフィーは、意外と真剣だ。しかし包丁ではなく、なぜか愛用の双銃剣を手にしている。

 表情は変わらないものの、難敵を相手にフィーは苛立っている。

 それを感じ取ったエリオットが「こ、こっちを使いなよ」と果物包丁を手渡そうとした時、刃がぎらりと煌めいた。

 彼の眼前を真一文字の閃きが走る。

 切断されたパイナップルのヘタが飛び、くるくると中空で不規則に回転した後、地面にぺちゃりと落ちる。

 そんなタイミングで、ぱちぱちぱち、と手を打つ音が聞こえてきた。

「まあ、フィーちゃんすごいわ~」

 先ほどのミントよりもさらに間延びした声。トレードマークの麦わら帽と髪にくくったリボンを風に揺らして、エーデルが屋台の中のフィーに拍手を贈っていた。

「あ、エーデル部長だ。今から学院に行くの?」

「ジェーンさんに肥料を頼んでいたんですよ。今から花壇に戻るところなの」

「そうなんだ。ジュースいらない?」

 脈絡もなく話の流れを断ち切って、フィーはエーデルにジュースを勧めた。

 ヘタを失った――というか刈り取られたパイナップルを、ナイフの切先で突つくという彼女なりのアピールを交えながら。

 アリサは呆れ顔だ。

「な、なんて下手な売り込みなの」

「フィーちゃんのお勧めだったら、もらっちゃおうかしら」

 しかしエーデルはしとやかに笑んでそう言った。

「ヴィヴィちゃんにも持っていってあげたいから二つにしてね。フィーちゃんの分はどうする?」

「欲しいかも」

「じゃあ三つ」

「優しすぎる先輩だわ……。というか売り手が買ってもらうってどうなのよ」

 学院に向かうエーデルを見送りながら、フィーは「ぶい」とピースサインを掲げてみせた。

「まずは一人か。この調子で行こう」

 リィンが正門に続く坂を見上げると、続々と学院生達が下りて来ているところだ。

 勝負はここからだと、B班も気を引き締める。

 そんな中、ようやく自分の出番が回ってきそうな気配を感じたラウラは、手にした白身魚を強く握りしめたのだった。

 

 

 ~後編に続く

 




お付き合い頂きありがとうございます。
久しぶりのⅦ組フルメンバー出撃ですが、やはり登場人数が多いと長くなってしまいますので前編後編に分けさせて頂きました。今回は屋台勝負ということで、次話以降も色んな人が屋台にやってきます。何かとトラブル多そうですが、ちゃんと売りきることはできるでしょうか? 

次回もお楽しみ頂ければ幸いです。


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アキナイ・スピリット(後編)

 屋台勝負は続く。

 

 ――A班。

 やはりコーヒーとセットでハンバーグを頼んだのはジョルジュくらいのものだった。

 あの後もまばらに屋台に寄ってくれる学生はいたのだが、当初の予想通り単品での購入が主だった。

 客の入りだけを見れば、今の所B班の方が多いようだ。

「向こうの方が盛況なんでしょうか?」

「いや、客足だけだ。屋台に寄ったから買うとも限らねえしな。それよか委員長、早く薄着にならねえか」

「な、なりません!」

 呼び込みのクロウとエマがあれこれ言い合う中、屋台の中ではユーシスがハンバーグの空気抜きの真っ最中だ。混ぜ合わせたタネをキャッチボールの要領で、両の手の平に交互に打ち付けている。

 ぱんぱんと規則的な音が響き、鮮やかに舞うハンバーグのタネは、さながら踊っているようでもあった。

「ふっ」

 本人もまんざらではない様子である。

 料理とは言えあくまでも優雅に。高貴な者にしか成すことのできないノーブルクッキング。

「わー、ユーシス上手くなってるねー!」

 ミリアムはひき肉と卵、パン粉をひたすらこねる係だ。一応こねたものをハンバーグの形にまとめるまでも担当しているが、ユーシスの検品によって何度もNGをくらっている。ちなみにさすがの彼女も生肉には手を出さないらしい。

 一方のマキアスだが、ユーシスのしたり顔を向けられて心中穏やかでいられるわけもなく「余計な動きが多いんじゃないのか」と鼻を鳴らした。

「お前こそ飽きもせずゴリゴリと豆を挽いて辛気臭い」

「君だって肉を焼いている時は地味だろう!」

「ほう、ならばフランベでもしてやろうか」

「勝手にしたまえ。屋台に燃え移っても僕は知らないからな」

 そんな二人をいつもの事だと、一歩下がって見ていたガイウスは、第二学生寮に向かう覚えのある後ろ姿を見つけた。

「あ、クレイン先輩」

「おう、ガイウスか」

 先日、ガイウスが成り行きでクレインの弟妹の面倒を見て以来、何かと話す機会が増えていた。生来の気も合っているようだった。

「屋台か? 面白いことやってんな」

「ちょっとした屋台を開くことになりまして。どうですか?」

 少し迷ったようだったが、すぐに「うし、一つもらうか」と、にっとした笑みをガイウスに返した。

「かわいい後輩の勧めだからな。ハンバーグを一個焼いてくれ」

「ありがとうございます。ユーシス、頼む」

「任せるがいい」

 油を引いた鉄板の上に、手の平大に固められた肉が置かれる。たちまち香ばしい匂いを立ち上らせた。 

 ハンバーグが焼き上がるのを上機嫌に待つクレインだったが、そんな彼に反対側の屋台から「クレイン先輩」と凛とした声が飛んできた。

 声の主はラウラだった。屋台の奥に見える彼女は腰に手を当て、むすりとした表情を浮かべている。

「お、おお、ラウラか。そう言えば今日は部活に出れないって言ってたな」

「先輩、かわいい後輩ならこちらにもおりますが」

 ラウラもクレインと同じく水泳部なので、日常的に先輩後輩の付き合いがある。じとりとした目を注がれ、言わんとしたことを察したクレインは肩をすくめた。

「わかったよ。そっちはフィッシュフライだよな。練習後で腹も減ってるし一つ包んでくれ」

「練習後でしたら一つでは足らないでしょう」

「……二つ入れといてくれ」

 ややあって、小袋を二つ手にしたクレインは「俺は苦学生なんだぜ」と言い残して第二学生寮へと帰っていった。

 クレインと立ち代わるように、今度は一人の女子生徒がA班の屋台を興味深げに覗いている。

 ショートに揃えられたブロンドの髪と、穏やかな性格をそのまま映したような優しげな瞳。

「ああ、お前か」

「こんにちはユーシスさん」

 彼女に気付いたユーシスは、心なしか柔らかい声音になった。

「今日も礼拝堂に行くのか? ロジーヌ」

「はい。今日は子供達と堂内のお掃除をするお約束なんです」

「よくやるものだ」

「あら、楽しいんですよ?」

 ロジーヌはしとやかに笑う。それを見たエマは「まあ……うふふ」と意味ありげに口許を手で覆った。

「な、何だ? 委員長」

「いえ、何も。さあ注文を聞いてあげて下さい。そして全力でハンバーグを焼いてあげて下さい」

「全力……火力のことか? まあいい。ロジーヌ、なんなら子供達の分を買っていくか?」

「あ、えーと。さすがに子供達全員分となると手持ちが……ごめんなさい」

 しゅんとして謝るロジーヌ。

「何だ、そういうことなら心配するな」

「え?」

 ユーシスはハンバーグの形を整えているミリアムの元へ向かった。

 こねたひき肉を丸形にしたと言っても、半ば粘土遊びのように作っているミリアムである。傍らには、あぶれた小さな塊や形が悪く売り物にならなさそうなものが多く置かれていた。

 ユーシスはいくつかそれを取って来るなり、鉄板の上で焼き始める。

「形は悪いが味は変わらん。不良品の処分に付き合ってくれると助かるのだが」

「でも……いいのですか?」

「売り物にならんものを勝手に押し付けるだけだ。一つ分の値段で釣り合うだろう」

「いや、形を整え直したら正規品として出せるんじゃ――」

「何か言ったか?」

 ぎろりと凄みのあるにらみを利かされて、さすがのマキアスも押し黙るほかなかった。

「おいおい、さすがに一つ分てことは――」

「ええ、適正価格ですわ。……ね?」

 間髪入れずクロウも異を唱えようとしたが、エマの丸眼鏡の奥に垣間見えた謎の眼力に、有無を言わさず閉口させられる羽目になった。

 焼き上がったハンバーグを受け取ったロジーヌは何度もお礼を述べて、嬉しそうに礼拝堂へと向かった。

「ユーシスさん、優しいですね」

「その優しさの一欠けらでも俺達に分けて欲しいもんだぜ」

「同感です」

 そんな意見はさらりと流し、ユーシスはどこか満足げにハンバーグの空気抜きへと戻るのだった。

 

 ――B班 

 下校者が増えていくにつれ、客足は好調になった。

 動けばまだ汗ばむという気候も相まって、丸絞りジュースは好調に売れ行きを伸ばした。塩気のあるフッシュフライも一緒に勧めるという商法で、一時は列もできた程だ。

 話を聞きつけたトリスタ町民が、少ないながら足を運んでくれたのも嬉しい誤算だった。

 何だかんだと残りの材料は三分の一にまで減っている。

「あ、ラウラだ。そっか今日なんか屋台をやるとか言ってたよね」

「へえ、なに売ってるのよ?」

 客の入りも落ち着きを見せ始めたころ、下校してきた二人組の女子生徒がB班の屋台に歩み寄ってきた。

「そなた達か。よく来てくれた」

 二人に気付いたラウラは顔を明るくする。

 やってきたのはモニカとポーラ。

 モニカはラウラと同じく水泳部なので以前より友人としての付き合いがあるのだが、ポーラと仲良くなったのはつい先日のことだ。

 エリオットとガイウスの強制特訓の折、力を貸してもらったことがきっかけである。

「せっかくだから何か頼んじゃおうかな。喉も乾いたしジュースにしよっと」

「じゃあ私もそれちょうだい」

 あまり深くも考えずにオーダーしたモニカとポーラだったが、一瞬だけラウラの表情が曇ったことを二人は見逃さなかった。

 同時にその理由を脊髄反射の速さで弾き出し『あとフィッシュフライも!』と声を合わせて追加の注文を飛ばす。

「任せて欲しい。精一杯作らせてもらおう」

 頬を緩めたラウラは、すでに用意していた二人分の白身魚をフライヤーへと滑り込ませた。

 直後、勢いよく油が跳ね上がり、思わずラウラはその場から後じさった。

「まさか、ここにきて抵抗するとは……!」

 背後の壁に張り付く程に退避しているラウラは、フライヤーからを飛び出して激しく跳ねまわる油と、その元凶たる白身魚を忌々しげに睨みつけた。

 モニカがフライヤー越しに言った。

「ね、ねえラウラ。ちゃんと魚の水気を取った?」

「いや、しっかりパン粉をつけようと思い……水に浸してみたのだが」

「ああ……ラウラ――」

 さっきまでみたいに、普通に小麦粉とパン粉で作ってくれれば――

 出かかったその言葉を、モニカは無理やり喉の奥へと押し込めた。

 それは大切な友人達に美味しいものを食べてもらいたいというラウラの心遣い。それがわかっていたから、モニカは二の句を継ぐことができなかった。

 たとえその心遣いが、あさっての方に向いていたとしても。

「そ、その……」

「待ってモニカ、ここは私が」

 言いよどむモニカの前に、ポーラが歩み出る。

 まるでトゲを体中にまとったかのような、攻撃的な雰囲気が漂っていた。

「呆れたものね。武門の家の息女として、しかも海辺の町で育ったあなたが、たった一匹の魚に遅れを取り、油ごときに後退を余儀なくされるなんて」

 滑稽だわ、と吐き捨てたポーラの口調は本気だった。

 ラウラの横で「ひっ、ポーラ様!」と怯えるエリオットに一瞥もくれず、「ちょっとポーラ!?」と制するモニカにも構わず、ポーラはさらに続けた。

「あなたは剣を手にして、たくさんの相手と戦ってきたのよね? あなたは目の前の敵から一度でも逃げたことがあって?」

「そんなことあるわけがなかろう。私は戦いから逃げ出したことはない」

「だったらこの状況と何が違うの? 今! あなたの戦うべき相手はフライヤーの白身魚! そして持つべきはトング! ねえ、ラウラ教えて。剣とトングは何が違うの!?」

 店頭で成り行きを見守っていたリィンは「全てが違うだろ……」とぼそりと呟くが、拳を固く握って熱弁するポーラには届かなかった。

「……そなたの言う通りだ。得物は違えど、アルゼイド流の理念は何も変わらぬ」

 ラウラはトングを手にし、高温の油が跳ねるフライヤーに一歩踏み出した。もうその目に恐怖はない。

 モニカはポーラを押しのけながら叫ぶ。

「危険よ! あたし、フィッシュフライなんていくらでも我慢する。だからお願い、無茶はやめて!」

「私の矜持だ。許せ、モニカ」

「やめて……お願いよ。もし肌に油が飛んだら……あなたの白い肌に火傷の痕が残ったらどうするの!?」

「私の身の安全など、このフライヤーを任された時から当に捨てている」

 ラウラの足は止まらない。モニカの目が鋭くなり、彼女をフライヤーの担当に仕立て上げた張本人――リィンに向けられた。

 あまりに強烈な敵意に、意味も分からずリィンは戸惑うばかりだが。

 モニカが視線をラウラに戻した時、すでに彼女はフライヤーの前に戻り、トングを構えていた。

「いいのね?」

「無論だ」

 ポーラの最終確認に即答し、ラウラは迷うことなくフライヤーにトングを突き下ろした。

「やめてえええっ!」

 悲痛な声を辺りに響かせ、モニカはその場にへたり込んだ。

 地面についた手の平から冷たい感触が伝わり、己の無力を噛みしめたモニカは、ただ嗚咽を漏らすことしかできなかった。

「ラウラが、ラウラが……」

「モニカ、顔を上げなさい」

 ポーラに促されるままに力なく顔を上げるモニカ。

「あ……!」

 真っ先に彼女の視界に入ってきたのは小さな紙袋。そして息も荒いままに、それを差し出すラウラの姿だった。

「待たせたな」

 袋の中には出来たての――やや焦げ付いた――フィッシュフライが収まっていた。

 それを受け取ったモニカの瞳が潤む。

「あたしこのフィッシュフライ、宝物にする……ぐす」

 ポーラも高く空を見上げた。まるで目に滲んだ雫がこぼれ落ちないように。

「まったく世話がやけるわね……あたしもしばらくは部屋に飾るとするわ」

「いや、食べなさいよ!」

 ついに耐え切れなくなったアリサが突っ込みを入れるが、三人には聞こえていないようだった。

「そなたらのおかげで、私は大切な何かを思い出せたような気がするぞ」

 晴れやかに告げるラウラを見て、その大切な何かが白身魚を水に浸けないことであって欲しいと、リィンは心の底から願うのだった。

 

 ――A班 

 やめてええええ! とその場一帯を震わす絶叫に、A班の面々はぎょっとしてB班の屋台に振り向いた。反対側の屋台ではまるで劇の一幕のようなシーンが展開されている。

「あいつら何やってんだ?」

「……さあ、とりあえず売れてはいるようですが」

 A班も売れていない訳ではないが、いかんせん取り合わせが悪い。やはりコーヒーとハンバーグでは後手に回ってしまう。となると鍵になってくるのは、どれだけ呼び込みで集客できるかだ。

「ほら、委員長声張れって。ハンバーグ一つお買い上げにつき、一枚ずつ脱いでいきますってよ」

「ぬ、脱ぎませんってば。 七つ売れたら私大変なことになるじゃないですか!」

 ピタリとミルを回す手を止めたマキアスは「な、七つ!?」と驚愕に満ちた声を上げた。

「……マキアスさん?」と疑惑に満ちた目を向けるエマ。

「ち、ちがうぞ、エマ君!」と裏返った声で何かを否定するマキアス。

「何が違うんだ?」と本当にわかっていなさそうなガイウス。

「本性を眼鏡の裏に隠していたか」といつもの責め口調のユーシス。

「マキアス、想像したんだー」とにやつくミリアム。

「なあ、委員長、恥ずかしがんなって」と構わず説得を続けるクロウ。

「君はまだ恥ずかしがっているのかね?」と焦れたように言う――……

 思い思いの言葉が飛び交う中、明らかに知らない声音が混じっていた。

 背中にうすら寒い感覚を覚えて、エマは恐る恐る振り返る。

「きゃあああ!?」

 いつの間にか背後に立っていたその人物を見るなり、彼女は絶叫した。

 時に落ち葉掃きを、時に植木の剪定を、時に校舎の補修を。雑務を一手に引き受ける学院の影の功労者。その温和な性格から物を頼みやすいと、各方面から良い評判を聞くことも珍しくない。

 しかしエマだけは彼の真の姿を知っていた。

 一見して、穏やかな白髪の老紳士。しかしてその実態は、歪んだ愛の伝道師。

 帝国男子の青春を原動力に、秋空に狂い咲いた一輪の用務員。

「ガ、ガガ、ガッ、ガイラーさん!?」

「エマ君、及ばずながら君の力になろう」

 壊れたスピーカーのようにガを連呼するエマの横を通り過ぎ、ガイラーは脇目も振らず屋台へと向かった。

「コーヒー豆は君が挽いているのかね?」

「ええ、そうですが」

 ふむ、とあごをしゃくり、ガイラーはマキアスからユーシスへと、ねめつけるように視線を這わせた。

「このハンバーグ……その綺麗な丸型のものをこねたのは、そちらのお嬢さんかな? それとも君かな?」

「形のいいものはミリアムじゃなくて俺が作ったものだが」

 ユーシスがそう答えると、ガイラーは口の端をにんまりと引き上げて「……実にいいね」と目じりのしわを深くした。

「ではコーヒーとハンバーグを一つずつもらおうか」

「お! いいねえ、ガイラーさん。ハンバーグ焼き上がるまでちょっと待っててくれよ」

 クロウが上機嫌に言うと、ガイラーは「……君もいいね」と小さく呟いた。

 溢れ出す狂気を察知したエマは、魔導杖を持ってきておけばよかったと強く唇を噛みしめた。

 ガイラーはマキアスに言う。

「そうだ。私は甘党でね。スティックシュガーを二本くれるかい?」

「わかりました。お渡しの際に付けておきますよ」

「私は今欲しいのだよ」

 なぜ今必要なのだ。そんな疑問は浮かんだが、断る理由もなくマキアスは箱から取り出したスティックシュガーを、言われたままに二本手渡した。

「ありがとう、さて……」

 何かする。全身が総毛立つ程の嫌な予感が、電流となってエマの体を駆け抜けた。

 ガイラーは二本のスティックシュガーを交差させ、✕印を胸上に掲げてみせる。

 呼び込みを続けるクロウと、売上確認をするガイウスとの間に、その✕印をすっと静かに定めた。

「なるほど、『火遊び好きな先輩と物静かな留学生~黒と白のワルツ』……いいね」

「ひっ!」

 ただ一人、ガイラーの邪な思惑に気付いたエマ。しかし当の本人達が全く気付いていない為、公にそれを止めることはできなかった。

 続いて角度を変えた✕印が、クロウとマキアスの間に移る。

「ほう……『真面目と不真面目のコンチェルト~乱れる放課後の銃撃戦』と言ったところかな?」

「そ、それ以上はさせません!」

 スティックシュガーを奪おうとしたエマをひらりとかわし、立て続けにクロウとユーシス、ユーシスとガイウスといった具合に、鮮やかに、そして滑らかに✕印を躍らせた。

「ふふ、『生意気な後輩エブリディ~本音と建前』に……こっちは『馬乗りフレンドシップ~駆け抜ける禁断の大地』か。いい、実にいい」

 何気に細かな個人情報を掴んでいるらしいガイラーは、ついにメインディッシュへと手を伸ばした。

 ほの暗い欲望を象徴した禍々しい符号が、とうとうユーシスとマキアスの間に添えられる。

「なんと……『素直になれないボーイ・ミーツ・ボーイ~弾ける理性と爆ぜる眼鏡』とは……Ⅶ組男子のポテンシャルはこれほどかね」

 ふんふんと鼻息を荒くしたガイラーは、興奮も収まらないままに、ゆらりとエマに向き直った。

「素晴らしい仲間達じゃないか。大切にするといい」

「いい言葉ですけど、なんだか意味合いが違いますよね!?」

「最高のインスピレーションだよ。さっそく帰って机に向かうとしよう。もちろん、罪深いほどに黒く染め上げられたコーヒーと、焦がれる程に熱を注がれたハンバーグを傍らに置いて、ね」

「とりあえず言葉を勉強し直して下さい……」

 無駄にしなやかな手つきでコーヒーとハンバーグを受け取ったガイラーは、悠然とその場を去っていく。

 学院の男子情報を手中に収めつつ、己の望む道を突き進むガイラー。エマが否応なく抱いたあらゆる危惧は、やがて毒牙という言葉に結実した。

「何か寒気が……?」

「実は俺もだぜ。風に当たり過ぎたか?」

「妙な風は過ぎ去ったようだが……」

「……少し火力を上げるか」

 知らぬ間に身に起きた惨事を、今更ながらに感じている男子達を見て、彼女は一つの決意を固める。

 未だ忍び寄る魔手に気付かない彼らの身は自分が守らねば、と。

 それはⅦ組の委員長として、そしてガイラーをその道に脱線させるきっかけを作った者として。いや、正確に言えば、それは文芸部部長のドロテなのだが。

 エマとガイラー。

 不屈な彼を止める為の、不毛な彼女の戦いは、ひっそりと開戦の狼煙を上げたのだった。

 

 

 ――B班 

「いらっしゃいませー、フィッシュフライいかがですかー」

 誰かが通る度にアリサはにこりと微笑みながら、柔らかな声色で呼び込みを続ける。意外にその効果は高く、足を止める客――主に男子学生――も少なくはなかった。

「さすがにあれは私には真似できんな」

「私にも無理」

 ラウラとフィーはアリサの奮闘を見守るが、リィンは逆に落ち着かないようだった。

「アリサがずっと笑顔だと違和感あるな」

「あなたが笑顔でやれって言ったんじゃない!」

 ふくれっ面で、ずいと詰め寄るアリサ。

「リィンは学院の知り合い多いんでしょ? 顔見知りの一人くらい連れて来なさいよ!」

「そうは言ってもすぐに知り合いなんて……あ」

 ちょうど見知った顔がすぐそばを通り過ぎようとしていた。

 ハンチング帽に水場に適したブーツ、その背に担いでいる筒状のバッグはリィンにも馴染みのあるものだ。

「待ってくれ、ケネス」

「ん? やあ君か」

 名前を呼ばれて、ケネス・レイクロードは足を止めた。釣皇倶楽部の一年生部長で、魚を待つことを楽しむ故か、のんびりとした気性の持ち主である。

「今から釣りに行くのか?」

「そうだよ。今日は橋下のポイントを狙ってみようと思ってるんだ」

「だったら釣りのお共に、丸絞りジュースなんて買っていかないか? 飲み物を片手に魚を待つのもいいと思うぞ」

 ここぞとばかりに売り込んでみる。フィッシュフライも一緒に――と勧めたかったが、これから魚を釣ろうとするケネスに、揚げた魚も悪くないぞとはさすがに言えなかった。

「そうだなあ。うん、だったら貰おうかな」

「ありがとう。じゃあエリオット、ミキサーを頼むよ」

「任せて……あれ?」

 エリオットがミキサーのスイッチを押すも動かない。首を傾げて何回もボタンを押し込むが、モーターの駆動する音は聞こえるものの、肝心の本体がなぜか起動しなかった。

「うーん、故障かな? 結構連続して使ってたし」

「トラブルかい? じゃあ、残念だけどまたの機会に」

 早く釣りに行きたいのだろう。ケネスは川へと歩先を向けた。

「すぐ直すから十分、いや五分待ってくれ」

 リィンが引き止めようとするが、もう体が川へ行こうとしている。

「五分も待ってたら魚が逃げちゃうよ」

「何時間も待つんだろう? 五分くらいいいじゃないか」

「五分でも早く釣り場に行って、僕は何時間でも魚を待ちたいのさ」

「それは何か間違っていないか。修理するから――」

 二人の会話は、突然響いた一発の銃声にかき消された。

 吐き出された薬莢がカラカラと乾いた音を立てて、ケネスの足元にまで転がっていく。

 全員の目が、屋台の中に向けられる。

 重なった視線の先には、涼やかな風に銀髪をそよがせるフィーの姿があった。

 固まった表情でリィンが問う。

「……何をしているんだ」

「ジュース作り?」

「俺に訊かれても」

 今の状況。仮にパイナップルのヘタを髪と表現し、人の顔に見立ててそれを例えるとしたら。

 フィーは左手で髪をわし掴み、右手に持ったガンナイフをこめかみに突き付けて、無表情に、無感情に引き金を絞ったのだ。

 銃弾を撃ち込まれたパイナップルは反対側の外皮を爆ぜさせ、身の詰まった果実を四散させる。

 ヘタを掴んだままのパイナップルをぶら下げ、フィーは呆然としているケネスの前に立った。

「ケネス」

「は、はい!」

 抑揚のない声にビクリと肩を震わす。

 フィーはパイナップルを彼の顔前に持ち上げた。

「ん」

 無残に穿たれたパイナップル。その弾痕からは黄色い果汁が滴っている。

 ケネスは理解した。この年端もいかない少女は、これを飲むように促しているのだと。

「い、いや。実は僕、今そんなに喉乾いてないんだよね、だから」

「早く飲んで」

 感情の読めない瞳の奥に何かがぎらついた。

 冷気をまとった鈍い光が、ナイフの無機質なそれとも重なり、ケネスは記憶の底に沈んでいた悪夢を思い出した。

 かつて早朝に釣り上げたオオザンショを強奪された、あの日のことを。

 なぜ今まで忘れていたのか、あの時ナイフをちらつかせて二匹のオオザンショを奪っていったのは、他ならぬこの少女ではないか。

 途端にケネスの四肢を恐怖が縛る。尋常ではない汗が滲みだして、体が思うように動かせなくなった。

 鈍くなっていく思考の中、ケネスは確信する。これは飲むことを促されてなどいない。ただ強要されているのだ。 

「もしかして飲みにくい?」

 細かく震えるケネスにそんなことを言う。

「ちょっと膝をついて」

 もはや断るだとか、やり過ごすなどという考えすら浮かばない。

 どこからか響く、従えという言葉に従い、ケネスはがくがくと笑う膝を折り、フィーの前に跪く。

 パイナップルがケネスの顔に近づけられる。彼は果汁が滴り続ける破孔に、その口に添えた。

 無遠慮に注がれ続ける甘だるい液体は、それがケネスの口からあふれ出ても止まることはなかった。

「おいしい?」

「は、はい……ごぶふっ!」

 もちろんフィーには悪意も他意もない。戦場における水分補給を、このように済ましたこともあったのかもしれない。

 しかし悲しいことにその光景は、『いたいけな少女の前に跪く危ない男性』というありがたくないタイトルと、明らかに正常ではない背景しか喚起されなかった。

 

「な、なんかこれってよくない絵面のような……」

 止めようとして、その世界に踏み込んでいいものか一瞬迷い、エリオットは二の足を踏む。

 そんな彼の耳に、町側から歩み寄って来る足音が届く。

「その光景を背徳的と捉えるその感性。さすがは猛将だ」

 顔を見なくてもエリオットには声の主がわかった。自分を猛将と呼ぶ人間などこの世に二人しかいない。

 一人は先ほどやってきたミント。そしてもう一人が――

「ケ、ケインズさん、どうしてここに?」

 トリスタ唯一のブックストア、《ケインズ書房》の店主だ。

「やあ猛将。いや、カイから屋台が出てると聞いてね、足を伸ばしてみたら猛将の姿をみつけたんだ。ところで猛将は――」

 ケインズはエリオットを猛将、猛将と連呼する。

 その名で呼ばれるに至る経緯は誤解の一語に尽きるのだが、他のメンバーがそれを知る訳もなく、彼らはエリオットを見ながら訝しげな顔をしている。

「父君だけではなく、そなたも猛将なのか?」

 ラウラがそう訊くとエリオットではなく、なぜかケインズが自分のことのように自慢げに語った。

「彼の猛将列伝を聞きたいかい。あれは忘れもしない九月十二日、彼は店の扉を蹴破って入って来るなり言ったんだ。この店で一番たぎる本を出せって――」

「だあああああ!?」

 エリオットは大声でケインズの言葉を打ち消した。

 いつの間にか記憶の改ざんが行われていた。日にち以外全て間違っている。

「ケ、ケインズさん! 何か買いに来てくれたんですよね、さあ早く!」

 これ以上余計な事を言われる前にと、エリオットはケインズを屋台の前に急かす。しかし彼は、フィーとケネスの交互に視線を巡らしたまま動こうとしない。

 ややあって「うむ」と深くうなずき、ようやくオーダーを口にした。

「あれと同じサービスを」

 至極真面目に注文してくるケインズから目をそらし、エリオットは強く思う。それは偶然にも先程エマが思ったこと同じだった。

 魔導杖を持って来ておけばよかった。

 

 ――B班

「フィーちゃんったら……」

「こっちも負けてられねえな。しかしあいつら、ほんとにさっきから何やってんだ?」

 見ればA班の屋台ではトラブルが起きていたようだ。

 ようやくパイナップルから解放されたケネスは転げるようにして走り去っていき、何やら店頭でごねていたブックストアの店長は、エリオットからフィッシュフライを押し付けられ、しぶしぶ帰っていく。

 そんな折、B班の屋台にも新しい客がやってくる。 

「お、やってるね」

「わー、おいしそうだねえ」

「お前らが来るとは思わなかったぜ」

 クロウは少し驚いたようだった。

 物珍しげに屋台を見回すアンゼリカ・ログナー。その隣にちょこんと控えるトワ・ハーシェルである。

「もしかしてジョルジュから聞いたのか?」

「うん。おいしそうなハンバーグ食べながら歩いてたから話を聞いてみたんだ」

「あそこまでハンバーグの似合う男はそういまい」

 どうやら技術棟に辿りつく前に、ジョルジュはハンバーグを完食してしまったらしい。

「何にしても歓迎するぜ。それでハンバーグとコーヒーどっちにすんだ? 両方でももちろん構わねえぞ」

 しかしアンゼリカはかぶりを振った。

「悪いが私は向こうの屋台に行かせてもらう。もっともエマ君が頬を赤く染めながら、いじらしい手つきでハンバーグをこねてくれるのなら、ここに留まる事もやぶさかではないのだが」

「だとよ。委員長出番だ」

「やりませんってば」

「ふーむ、残念だ」

 アンゼリカはスタスタとA班の屋台に向かっていった。

「アンちゃんたら、もー」

「あいつ冷やかしかよ。トワはなんか買ってくれるよな? というかお前もハンバーグ好きそうだよな」

「見た目で判断しないでくれるかな。……好きだけど」

 ぷくりと頬をふくらますものの、一応は肯定するトワである。

「よーし、ユーシス。ハンバーグ焼いてくれ。材料余ってんだろ? ちょっと大きめのやつで頼むわ」

「ク、クロウ君!? 普通! 普通でいいからね、ユーシス君も!」

「任せておくがいい」

 焼き上がったハンバーグはトワの顔が納まるくらいの大きさがあった。

 ずしりと重いハンバーグを受け取ったトワは、困った表情を浮かべてみせるものの、明らかに嬉しそうだった。 

「もー、えへへ。あ、アンちゃんが帰ってきた」

 A班の屋台からとぼとぼ歩いてくるアンゼリカは、肩を落としている。男装の麗人という言葉が誰より似合う、普段の凛然とした態度の彼女には到底見えない。

「ど、どうしたの。何か買いに行ったんじゃなかったの? 何も持ってないみたいだけど」

 トワが心配そうに言うと、アンゼリカは悲しげな瞳で彼女を見返した。

「うん、さっきフィー君がやっていたサービスを頼んだんだが……アリサ君に追い返されてしまったよ」

「アンちゃん……」

「俺の同期ってロクなやつがいねえ……」 

 クロウがげんなりとした口調で言う。

 今回のオーダーでは出番の無かったマキアスが、そんな彼の背中に目を向けた。

「先輩がそれを言いますか」

 

 ――B班

「やっとミキサー直ったよ」

 エリオットは額の汗を拭う。どうやらパイナップルの下処理が甘かったらしく、残った皮がスクリュー部分に詰まっていたようだ。

「反省」

 そう言うフィーだが、くるくるとナイフを手中で回す姿にあまり反省の色は見られない。

 刻限の二時間まであと三十分といった所で、学院からの下校者も徐々に減ってきた。

「もう少し来て欲しいところよね」

 アリサは正門に伸びる坂を見上げたが、やはり下校者は見当たらない。

 その時、正門から一人の女子が飛び出してきて、そのまま坂を駆け下りてきた。白い学院服。豊かな薄紫の髪を振り乱している。

「フェリス?」

「アリサ!? 助けて下さいまし!」

「た、助けるって何を――え゛」

 フェリスに遅れて、正門から姿を見せたのは彼女だ。ずんぐりとしたシルエット。ずしずしと地鳴りのような足音を響かせて、フェリスを追走する肉塊の戦車――マルガリータである。

「こっちよ、急いで!」

「これでも全速力ですわ!」

 坂を下ったフェリスの腕を掴むなり、屋台の中に二人して身を隠した。

 アリサは全員に叫んだ。

「あなた達絶対に言わないでよ! なんとかあっちの屋台に行かせて! 危険だから!」

「ですわ!」

 危険の意味が分からず、二人の怯えた様子に顔を見合わせるB班の面々。

 少ししてマルガリータも坂を下りて広場までやってくる。

「うふふ、ヴィンセント様との会食の場を取り持ってもらうわ。フェリスさん、どこなのお。色んな匂いが邪魔してわからないじゃないぃ」

 びりびりと腹の底が震える程の声量に、屋台が軋みの音を立て、フライヤーの油が波打った。

「ねえん、あなた達?」

 怪しく光る目がリィン達に向けられた。

「薄紫の髪をした女の子を見なかった? 私の未来の義妹なんだけどお」

(か、勝手なことを……)

(ちょっとフェリス、動かないで)

 憤るフェリスを、屋台の陰でアリサは懸命に抑える。

「つまりヴィンセント様が私の未来のお婿さんなのよお! ムフォッ!」

 これは危険だ。

 意見は心の中で一致し、面々は無言でA班の屋台を指さした。

「あっちねえん?」

 にたりと頬肉を押し上げたマルガリータは、のしのしと反対側の屋台に向かった。

 

「な、何か来たぞ?」

 一方のA班、迫るマルガリータに一早く気が付いたのは店頭にいたクロウだった。

「お、お客さんでしょうか」

「風が彼女を避けていくようだが……」

「あ、マルガリータだ」

 ミリアムとマルガリータは同じ調理部に所属している。マルガリータの調理途中の品を、度々ミリアムがつまみ食いしてしまう為、何かと(一方的な)ケンカに発展してしまうことも多い。

 A班の屋台の前に立ったマルガリータは「ねえ、こっちに薄紫の――」と言いかけて言葉を止めた。

 その視線が鉄板と、その横に置かれた加熱前のハンバーグに注がれている。

「……これ、売ってるの?」

「そうだが、買っていくか?」

「頂くわ」

 ユーシスが尋ねると、マルガリータは即答した。

 ガイウスが会計の為に屋台から店頭に出てくる。

「ハンバーグ一つお買い上げだな。600ミラに――」

「五個よ」

「ごっ……!?」

 平然と告げるマルガリータに、さしものガイウスも言葉を失った。

 ユーシスでさえも焦った様子で、鉄板の上に置こうとしたハンバーグを取りこぼしそうになっていた。

「ばっ、お前ら、ありがてえじゃねえか! ほら早く焼いて差し上げろ」

「あ、ああ、わかっている」

 鉄板の上に敷き詰めるようにして乗せられた五つのハンバーグは、すぐにじゅうじゅうと音を立て出した。

 マルガリータは満足そうに肉が焼ける様を凝視している。その視線から放たれる熱で、肉が焼けているかのような錯覚を覚えたユーシスは、いつのまにか手のひらに汗が滲んでいることに気付いた。

 重圧感、圧迫感。まるで父と対面する時のような居心地の悪さがそこにあった。

(早く焼けるがいい……!)

 物言わぬハンバーグに、焦燥と苛立ちをぶつけるユーシスだったが、もちろん焼き上がる時間が早まるはずもない。

 願い空しく、相応に時間をかけて焼き上がった五つのハンバーグを手早く容器に入れて、ユーシスはマルガリータに手渡した。

「あら、ありがとう。ぐふふ、おいしそうねえ」

 気圧されるメンバーだったが、それでもクロウは果敢に攻める。

「ハンバーグ五つも食べたら、さすがに喉が乾くだろ? 食後の一服にコーヒーなんて」

「いらないわ」

 クロウの言葉に押し被せ、マルガリータはハンバーグの一つを摘み上げた。

 そのまま口許まで運ぶと、肉食魔獣が獲物を捕食する時のように、ぐあとその大口を開く。

 たったの一口でハンバーグ丸々一個が口中に収まり、二噛みしただけで肉の塊はごきゅんと喉を鳴らして、胃まで落ちていった。

「お、おお……」

 絶句するクロウに、マルガリータは言う。

「だってハンバーグって飲み物でしょお?」

 残り四つのハンバーグも、まるでダストシュートでも通るように、あっという間に大口の中へと消えていった。

「フェリスさん、もう寮の中に戻ったのかしらねえ」

 今更ながらに目的を思い出したマルガリータは、固まるA班の面々の間を通り抜け、第一学生寮の階段をずしずしと登っていった。

 

 

 ――終了十五分前。

「リィン、ここらで売上の発表と行こうじゃねえか」

「ああ、客足も落ち着いているし、もう構わないだろ」

 二つの屋台の間に相対して立つリィンとクロウ。

 二人が合図をすると、それぞれの後ろから会計担当のエリオットとガイウスが歩み出た。

 まずはA班、ガイウスが売り上げを読み上げる。

「A班の屋台だが……コーヒーが14杯で5600ミラ。ハンバーグが17個で10200ミラ。合計金額は15800ミラだな。」

 続いてエリオットがメモ紙を広げる。

「B班の屋台は……丸絞りジュースが31杯で6200ミラ、フィッシュフライが26個で7800ミラ。合計金額は14000ミラだね」

「……ということは」

 差し引き、1800ミラでA班に軍配が上がった。

「くそ!」

「作戦勝ちってやつだぜ」

 しかしリィンは諦めなかった。

「まだだ! あと十分あれば逆転できるかもしれない。アリサ、呼び込みを続けるぞ」

「で、でも」

 1800ミラの差を埋めるなら、単純計算でもフィッシュフライが6個。もしくは丸絞りジュースを9個売らなくてはならない。残りの時間と、今の客足を考えると現実的ではない数字だ。

「くく……ははは、ハーッハッハー!」

 そんなB班をクロウはあざけるように、高らかに笑いあげた。まるで悪の組織の親玉だ。

「さあB班の諸君、罰ゲームだ。男子共は俺のたまりにたまった各講義のレポートを代わりに全部書き上げやがれ。女子共は今すぐ水着に着替えて写真撮影会だ!」

「なっ! 横暴だぞ。そもそも罰ゲームなんてなかっただろ!」

「み、水着~!?」

 踏ん反り返るクロウに、味方からも非難の声が上がる。

「下衆め」

「そのペナルティだと先輩しか得しないじゃないですか」

 しかしクロウは知らぬ存ぜぬで「勝ったんだからいーんだよ」とにやつく笑みを浮かべた。

「お話は伺いました」

 雑言吹き荒れる中、涼やかな声が通る。

 楚々とした佇まいのメイド服が微笑を浮かべていた。ルビィを引き連れたシャロンがそば立っている。いつの間にやってきたのか、誰も気付かなかった。

「ルビィの散歩ついでに屋台の事を小耳に挟んだものでして。Ⅶ組の皆様、万事はこのシャロンにお任せを」

 うやうやしく一礼したシャロンは、A班とB班の屋台を見比べると「今日のお夕飯の一品に加えさせて頂きましょう」と上品に微笑んだ。

「ではオーダーを申し上げます。ハンバーグを3個、フィッシュフライを12個お願いしますわ」

「なっ、そりゃねえぜ」

 上乗せの結果、総額は双方共に17600ミラ。つまりは引き分け状態だ。

 アリサが言う。

「ちょっとシャロン! どうせならフィッシュフライもう一個買いなさいよね」

「まあ、お嬢様。皆様の勝敗を分かつ大事な局面ですもの、そんな重責にシャロンはとても耐えられません」

「よく言うわ……」

「ですので――」

 腕をすっと持ち上げ、静かに坂の上を指し示す。

「最後の判定は、あの方にお任せするのはいかがでしょう」

 全員の視線が正門側に向けられる。

 そこには自分達の担任教官――サラ・バレスタインが鼻歌交じりに坂を下りてくる姿があった。

「では私は夕ご飯の支度に戻りますわ。ハンバーグとフィッシュフライを使ったオードブルでもご用意致しましょう。うふふ」

 万事をサラに投げ渡して、シャロンは早々と寮に引き返していった。

 

 

「あんた達、何やってんのよ?」

 二つの屋台の間で足を止めたサラ。正確にはリィンとクロウが進行方向を立ち塞いでいたので、止まらざるを得なかったのだが。

 そんな彼女をA班、B班が共に取り囲んだ。もはや経緯や意図の説明など必要ない。あと一品買わせた側の勝利だ。戸惑うサラにⅦ組の面々は、まくし立てるように商品を押し勧める。

「サラ教官、お疲れでしょう? 甘いジュースでも飲みませんか」

「いや、ここは温かいコーヒーで一息つくべきではないですか?」

「お酒のおつまみにフィッシュフライなんてどうかしら」

「ハンバーグもおいしーよー!」

 あらゆる方向から、フライにハンバーグ、ジュースにコーヒーが突き付けられる。

「え? え! え!?」

 状況が全く呑み込めず、ぐるぐると見回すサラに、クロウは諭すように言った。

「落ち着け。難しく考えなくていい。要はこの商品を男だと思うんだ。安くて量を買えるフィッシュフライか、高くても質のいいハンバーグか。どちらを選べば失敗がない?」

「あ……」

 ふらふらとサラの手がハンバーグに伸びる。

 させるものかと、リィンが声を張った。

「違います、サラ教官! 質の高さを求めて見送ってきた結果が今じゃないんですか!? もう選ぶ余裕なんてないはずです。一発必中はやめて、百発撃って一発でも当たる可能性を選ぶべきだ!」

「……あ」

 出しかけた手を引き、サラはフィッシュフライに目をやる。

 巻き返せとばかりにA班がさらに詰め、負けじとB班も続いた。

「サラ教官には甘くて優しい方が似合うと思います」とアリサがジュースを差し出すと「教官は渋くてほろ苦い方が好みのはずだ」とマキアスがコーヒーを掲げる。

「私が揚げたフィッシュフライをぜひ食して欲しい」とラウラが出れば「俺が焼いたハンバーグは絶品だ」とユーシスも下がらない。

「私が果物をむいたんだよ」とフィーが言えば「ボクだってハンバーグをこねたよ!」とミリアムが言い返す。

 舌戦に継ぐ舌戦。その渦中でサラはたじろぐばかりだった。

『さあ、どれを選ぶ!?』

 全員から追い詰められたサラは「あ、あんた達……」と震える声を絞り出した。

「あんた達なんなのよーっ!」

 叫んでリィン達を押しのけるなり、物凄い速さで走り去ってしまった。

 同時に刻限の二時間が過ぎる。

 その結果。Ⅶ組による売り上げ勝負は引き分けに終わったのだった。

 

「いやーお疲れさんやったなあ」

「引き分けは予想外だったけどね、でも十分だよ」

 サラと入れ違う形で、ヒューゴとベッキーが広場に戻って来る。

 一通りの労いを済ました所で、今回のモニタリングはそれなりの成果があったことを伝えた。

「屋台の中で一緒に勧められる商品があった方がええな。あとやっぱり季節と環境にあったもんが一番や」

「マシントラブルもあったみたいだし、予備はあった方がいいか。あとは――」

 饒舌に語る口の滑らかさは、やはり商売に適しているのだろう。

 二人の直接対決は一か月後の学院祭とのことだ。

 それまでに二人はまた揉めるのだろうな、とリィンは頭の片隅で思う。

「まあ何にせよ、依頼達成だよな。それじゃあ皆、後片付けに――」

「ちょっと待ちや」

 ベッキーはつかつかと二つの屋台、そこに置いてある余った材料をざっと確認しに回った。

「ふむふむ、まあこんなもんやろうな。むしろ上出来や」

 再びリィン達に向き直ったベッキーは、にっと白い歯を見せた。

「片付けんのはまだ早いで。言ったやろ? お礼も用意しとるって」

 

 ●  ●  ●

 

「ユーシスまだー?」

「そんなに早く焼けるか」

「マキアス、コーヒー粗びきで頼めるか」

「おお、ガイウスはわかってるじゃないか。少し待っててくれ」

 広場にわいわいとⅦ組の声が響いている。

 これがベッキーの言うお礼だった。初めて屋台に立つ彼らが、全て売り切れないことはもちろん想定内だ。ならば余った材料を使って労働分の対価を払う。

 ただ働きはしない、させない。それが卵とは言え、商売人の末席に座る二人の流儀だった。

 食べ物の匂いの中で動き通しだったので、腹は普段よりも空いている。リィン達にとっては願ってもない申し出だった。

「フィー、フルーツジュースを頼む。オレンジ多めでな」

「了解。ラウラもフィッシュフライ揚げといて」

「最高の一品を約束しよう」

「普通でいいから」

 皆、皿を片手に二つの屋台を往復する。

「アリサもハンバーグ好きそうだよな」

「ちょっとリィン、何でそう思うのよ!? ……まあ、好きだけど」

「あー、結局俺がレポートやんのかよー。なあ委員長、代わりに」

「やりませんよ?」

 ちょっとした立食パーティーの雰囲気に、それぞれが満足しているようだ。

 全ての材料を使い切った一同は、心地良い満腹感を感じながら思い思いに休んでいる。

「ふう、少ししたら今度こそ片付けしないとな」

「いやー、食った、食った。俺ここで眠れるぜー」

 壁に寄り掛かって一服するリィンとクロウの元に、ヒューゴとベッキーが近づいてきた。

「お、もう終わりなんか?」

「ああ、材料もなくなったしな。片付けは少し待ってくれると助かるんだが」

「片付けはうちらでやっとくからええよ。それよりも、ヒューゴ」

「わかってる」

 ヒューゴはメモ用紙を取り出した。

「えーと。焙煎コーヒー5杯、手ごねハンバーグ8個、丸絞りジュース6杯、フィッシュフライ12個。合計金額は11600ミラ。一人あたり約1000ミラだな」

「はあ!? おいおい、何で金取んだよ。お礼なんだろ?」

 憤慨するクロウに目を向けると、ベッキーは鼻を鳴らした。

「そっちこそ何言うてんねん。お礼ってのは場所と機材の提供であって、材料費は含まれてへんわ」

「機材はともかく場所は公共のもんだろ!」

「細かい事気にしなや。全部売り切ってやっと採算取れるって最初に言ったやんか。元々黒字の見込みはなかったけど、だからって赤字でええはずないやろ」

 労働の対価を流儀とする彼らだが、その上に位置するのは利益追求の信条だった。

 当然あちらこちらから非難の声が上がるが、ベッキーもヒューゴも顔色一つ変えず、集金に回り始めた。

「中々有意義な一日やったでー」

「Ⅶ組のみんなには感謝してるよ」

 平然と言ってのけるベッキーとヒューゴ。商売人の魂はどこまでもしたたかだった。

 

 

 ~FIN

 

 

 

 

 

 

 

 

☆おまけ☆

 

「まったく、やられたな」

「まさかお金を取ってくるとは思わなかったわ」

 帰路につくⅦ組の面々は、それぞれに感想をもらしながら第三学生寮に歩を進める。

「私はおいしかったからいいけど」

「ふむ、私も料理が上達した気がするしな」

 日が落ちかけ、辺りは薄闇に包まれている。ベッキーとヒューゴは、片付けは自分達でするからと言ったが、行きがかり上やはりⅦ組総出で後始末をすることにしたのだった。

「やはりお前は豆を挽くだけの男だったな」

「君だって肉を焼くだけの男だっただろう」

 肌に心地良い夜風を受けながら公園を抜け、駅前を横切り、ようやく寮へとたどり着く。

 扉を開くなり、全員の目に入り込んできたのは。

「おいおい、まじかよ」

 大皿に綺麗に盛り付けられたハンバーグとフィッシュフライだった。

 シャロンが厨房から出てくる。

「お帰りなさいませ、皆様」

「シャ、シャロン……これは?」

「はい、お嬢様。皆様がお作りになった品をオードブル風にしつらえております。動き通しでお腹も空かれたことでしょう。追加の料理もございますから、遠慮なく召し上がって下さいませ」

 シャロンはにこりと微笑を浮かべる。

 リィンが言い辛そうに口を開いた。

「俺達もう食べて来てしまいまして……その、お腹いっぱいと言いますか」

 それを聞いたシャロンは「そんな……」と顔をうつむけた。

「……いいのです。シャロンは出過ぎた真似をしてしまいました。ですが、皆様が心を込めてお作りになったものを処分することはできません。わたくしが責任を持って、夜通しで頂きますわ……」

 うう、と肩を震わせて目を拭うシャロン。

「………」

 どうやら食べる以外の選択肢が残されていないらしい。

 重たい胃袋を引き下げたまま、彼らは再びテーブルについたのだった。

 

 ● ● ●                             

 

 

 

 

 

 ☆後日談☆

 

 第三学生寮の厨房にⅦ組男子達、そしてシャロンの姿があった。

「そうですわ、もっと手首のスナップを利かせて――」

「こうか?」

 ユーシスの両手の間を、目にも止まらぬ速さでハンバーグが往復する。

 その一方で、ガイウスとエリオットはぐつぐつと煮立つ鍋に、塩コショウ、スパイスで味付けを行っていた。

「これは故郷から持ってきた香辛料でな」

「へえ、だったら塩は抑えめにして味を際立たせようか?」

 屋台勝負の際、簡単な調理とは言え、やってみると存外楽しかったらしい。

 加えて男子達の中には故郷の料理を習得している者もいる。その披露の場として内々で試食会を開いたりしている内に、あんなアレンジはどうだ、こんな具材は合うのではないか等と話は広がっていき――気付けばシャロンを中心に料理講座が始まっていた。

「クロウも料理できるのか?」

「あー、自然のもんだけで拵えるサバイバル料理とかなら一応な。リィンはどうなんだよ」

「俺も山の食材を使った料理には多少の心得があるんだ。意外に相性のいいメニューが作れるんじゃないか」

 そんな中、マキアスだけは相変わらずコーヒー豆をゴリゴリと挽いている。

「僕はコーヒーを極めるぞ。目指すはどんな料理にも合う至高のコーヒーだ!」

 そんな男子達の様子を見ながら、シャロンは楽しそうに厨房を動き回る。

「殿方でも料理ができるなんて素晴らしいことですわ。お嬢様方にも参加して頂きたいぐらいですが……」

 男子達が充実した時間を過ごす中、一枚のチラシが寮のポストに投函されていた。

 見出しにはこんなタイトルが記されている。

 

『調理部主催・トーナメント制料理コンテスト』

 

 そのチラシが新たなトラブルを呼ぶことになるのだが、それはもう少し先のことである。

 

 

『クッキングフェスティバル』に続く




後編もお付き合い頂きありがとうございます。そのようなわけで引き分け、というかヒューゴ&ベッキー組の勝利エンドでした。

今回のお話は、一日シリーズで原作ではあまり関わらない人達同士に人間関係が生まれたので、突飛なところは一度総ざらいでもしとこうかなあという感じです。

おさらいも兼ねたこの話を起点にして、今後のストーリーが展開していきますので、またまた宜しくお願い致します。

それでは予告です。次は当小説では珍しく、がっつりのバトル展開です。
迫る強大な敵にⅦ組は果たして勝てるのか――力尽きていくメンバーの中、最後まで立っているのは誰だ。
次回『グランローゼの薔薇物語』
大丈夫です。タイトルは間違っていません。

次回も楽しみにして頂ければ幸いです。ご感想お待ち致しております。


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グランローゼの薔薇物語(前編)

 グランローゼとは何を意味する言葉だったか。

 そんな疑問が頭に浮かんだ気がしたが、窓から差し込む朝日によって、まどろんだ意識は霧散した。

 目を開いて真っ先に視界に入ったのは天井、そしてガラスでしつらえた小振りながらも豪奢なシャンデリア。このシャンデリアは実家から持ってきた特注品だ。

 ベッドから身を起こすと、特注のスプリングがぎしりと苦しそうに軋む音を立てる。

 ゴーディオッサーとか言う魔獣が乗っかっても壊れないという謳い文句だったはずだが、なんという体たらくだ。そもそもそんな魔獣自体見たことがないが、どうせ飛び猫クラスの大きさなのだろう。商人の口車ほど当てにならないものはない。

 カーテンレースを開く。レースの所々に刺繍されたバラの模様は何度見ても美しい。

 もちろんカーテンだけではない。部屋中のありとあらゆる物にバラの意匠がある。

 例えば今足をついている絨毯にもバラの刺繍が施されているし、壁にかけてある絵画もバラだ。ついでに言えば絵を納める額にもバラのモチーフが彫られている。先ほど目に入ったシャンデリアなど、形そのものがバラの花弁だ。

 人が見れば不思議に思うだろう。バラが好きなのかと推測するだろう。

 それは間違っていない。だが足りない。そんな陳腐な言葉ではとても言い表せないのだ。

 あえて言うなら“誇り”であり、自らの先祖が生きた“証”

 そう答えると、さらに問われるのだろう。何が誇りで、何ゆえの証なのかと。

 彼女はそこで一旦思考を中断し、部屋の隅に設置してある机――その上に置かれた花瓶に目を向けた。

 当然ではあるが、そこに活けられているのはバラだ。それも真っ赤なバラ。これはグランローズと呼ばれている品種である。まだ花は開かず、つぼみの状態ではあるが。

 そっとつぼみを撫で、彼女はある人の顔を思い浮かべる。

 いつも自信に溢れ、優雅に振る舞い、我が道を行く芯の強さ、そして純白を着こなす清廉な立ち姿。

 思い浮かべて、彼女の心は熱くなった。体も身をよじるほどに熱を帯びた。

 彼女は考える――この身を焦がすような、たぎる想いは何なのか。

 彼女は考える――どうすれば溢れ出すこの想いを抑えられるのか。

 彼女は考える――いや、そもそもこれは抑えるようなものなのか。

 彼女は思い至る――否、抑える必要などない。気持ちの一切を偽ることなく、己の心にただ従えばいい。

 花瓶からバラを抜き取り、差し込む陽光に掲げてみせる。薄く透けた赤色は燃えているようだった。

 先ほどの問いを思い返し、目を閉じて、自分と重ね合わせながら思考を巡らしてみる。

 何が誇りなのか、生きた証とは何なのか。そしてたぎる想いの正体とは。全ての問いは集約され、やがてたった一つの解に帰結した。

 それは“愛”。

 先祖から受け継がれ、自分の根幹を成す、言わば魂。

 ならばこそ、魂の赴くままに、自分は愛を伝えなくてはならない。

 かつて自分の先祖は数えきれない程のバラを想い人に贈り、熱烈とも言える愛を伝えたという。

 バラの花を用意することこそ容易いが、現代でそれをすることは、多少の時代錯誤であることも彼女にはわかっていた。

 贈るバラはただ一輪でいい。そこに自分の気持ちと、わずかばかりの隠し味を込めて作ったクッキーを添えて。

 彼女はベッドの枕元に置いてある、もう一つの花瓶へと向かう。

 その花瓶にも一輪のバラがあった。この部屋で唯一の白いバラ。こちらはすでに満開だ。まるで想い人の佇まいをそのまま映したかのような、純白。

 その花瓶に、手にしている赤いバラも入れてみた。一つの花瓶の中、仲睦まじく寄り添う赤と白。

 赤いバラの花言葉は『愛、幸福、乙女』

 白いバラの花言葉は『清純、恋の吐息、私はあなたにふさわしい』

 しかし赤と白のバラが二つ揃った時、その意味は変わる。『温かい心』そして『和合』

 彼女――マルガリータは決意する。今日こそは想いを届けよう。たとえいかなる障害が自分の行く手を阻んだとしても。自らの願いが成就したその時こそ、あの赤いつぼみは花開くのだ。

 想い人――ヴィンセント・フロラルドの名を頭に思い浮かべて、マルガリータは微笑んだ。貴族子女の名に恥じないよう、たおやかで、しなやかで、穏やかに。

「ムフォッ!」

 疑問に思うまでもない。すでに自分は知っている。

 グランローゼ。それは魂に刻まれた愛の銘であると。

 

 

《☆☆☆グランローゼの薔薇物語☆☆☆》

 

 

「僕を救いたまえ!」

 昼休みを告げる鐘が鳴ると同時に、バンと勢いよく扉が開いて、Ⅶ組の教室にヴィンセントが駆け込んで来た。

「ヴィンセント先輩、教室を間違っていますよ」

 きょとんとしてリィンが言うと、ヴィンセントは「違うのだ!」と上ずった声を吐き出した。

「僕に……きょ、脅迫状が……っ!」

 脅迫状。その一語に他のⅦ組メンバーも反応を返してくる。

「それは穏やかではないな」

「何か要求されてるの? 犯人に心当たりは?」

 ガイウスが片眉を上げる横で、フィーは淡々とヴィンセントに問う。

「ですがそのようなことなら、僕らなんかより教官達に相談した方がいいのではないですか」

 至極まっとうなマキアスの意見だ。確かに脅迫状というのなら、一生徒が対応する範疇を越えている。

 しかしヴィンセントは首を横に振り、無言のままリィンに小さな封筒を手渡した。

 恐らくはこれが届いたという脅迫状だろう。

 どこかずれながらも、いつも自信にあふれた態度を崩さないヴィンセントだったが、今ばかりはその表情も青ざめ、額には油汗が滲んでいる。

「……それでは」

 リィンもさすがに緊張の面持ちで封筒を開ける。封留めの部分には真っ赤なバラのシールが貼られていた。

「……?」

 赤いバラ。ヴィンセント。

 前にも同じようなことがあったような。そんな既視感を覚えながらもシールを慎重に剥がし、中の便箋を取り出した。

 脅迫状と言うには、便箋自体の色合いが鮮やか過ぎる気もするが、ひとまずリィンはそこに書かれている文章を読み上げる。

「えーと、『愛しのヴィンセント・フロラルド様。涼やかな風が秋の始まりを告げる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。夏の日照りが陰りを見せ始めましたが、わたくしの心は未だ真夏の猛暑日のように ~中略~ そしてわたくしの身は全てあなたに捧げ ~中略~ 貴方にお渡ししたいものがございますので、本日十七時、学院の中庭にてお待ち下さい。――あなたのグランローゼより』」

「ひ、ひいっ!」 

 グランローゼの名が出た瞬間、ヴィンセントはのけぞって叫び声を上げた。

「……これってラブレターってやつだよね」

 エリオットが怪訝顔を浮かべる。文章の内容はどう読んでも脅迫状ではない。

 一方、フィーとミリアムをのぞく女性陣達は顔を赤面させて、うつむき加減である。

 それはあまりに赤裸々な“中略”の部分を、朗々と読み上げたリィンに対しての反応だった。

「あなたってよくそこまで恥ずかしいセリフを、ペラペラと真面目な顔で声に出して読めるわね」

 アリサが呆れる横で、エマとラウラもうなずいている。

「リィンさんったら……」

「そなたはもう少し配慮というか、慎みを覚えた方がよいのではないか?」

「そ、そうなのか。すまない」

 女子達から軽く非難の目を浴び、とりあえず謝るリィン。

 そんな彼を横目に、クロウは含みのある笑い声をもらした。

「相変わらず朴念仁だな、お前は。つーか脅迫状の話はどこに行ったんだよ。その内容だったらむしろ羨ましいくらいだぜ」

「というか、グランローゼって名前の人いたかしら?」

「ああ、グランローゼってのはマルガリータのことだ」

 リィンがそう答えると、アリサは「マルッ!?」と頓狂な声を響かせた。

「ご、ごめんなさい。なんでもないわ」

 皆の視線が集中するが、彼女はこほんと咳払いしてはぐらかす。

 その名を聞いてフィーが首を傾げる。

「マルガリータって確か……」

 先日、ベッキーとヒューゴの依頼で屋台勝負をした際、終盤にやってきたあの女子だ。

 顔をしかめるユーシス。

「俺の焼いたハンバーグ五個を飲み欲したあいつか……」

「えらいのに惚れられたもんだな」

 他人事のようにクロウは笑う。実際、他人事なのだが。

 あのインパクトはそう忘れられるものではない。濃厚な顔立ちが全員の脳裏に焼き付いていた。

 同様にその顔を思い出したのか、ぶるりと身震いしたヴィンセントは、改めて全員に向き直った。

「そういうわけなのだ。Ⅶ組の諸君には僕を助ける栄誉を授けよう」

 リィンは少し躊躇した。例えばヴィンセントを匿い、マルガリータからその身を守ることはできるかもしれない。

 しかし、それでは彼女の気持ちはどうなるのか。別に彼に危害を加えようとしているわけではない。行き過ぎた愛情表現が結果的に危害に繋がるというのは、ひとまず置いておくとして。

 彼女の想いを度外視してまで、ヴィンセントを守ることに正当性はあるのだろうか。

 そんな疑問がふとよぎった時「此度の件、私からもお願い申し上げます」と物静かな声が届いた。

 すっと扉が開き、柔らかな足取りで教室に入ってきたフロラルド家の使用人――サリファはヴィンセントの隣に立つと、慇懃な物腰で頭を下げた。 

「ある筋から入手した情報なのですが、マルガリータ様がヴィンセント様にお渡ししようとされているのは手作りのクッキーらしいのです」

「シャロンといい、使用人っていうのは独自の情報ルートを持ってるものなのかしら……」

 加えて言うなら、今みたいに平然と校舎内にいることもだ。

「問題はそのクッキーに成分不明の薬物が混入されている恐れがあることです」

 薬物。不穏な響きが不安を煽る。まさか告白が失敗した場合、マルガリータはヴィンセントを毒殺でもしようというのか。

 ざわめきの中、サリファは続けた。

「とはいえ、やはり学院の中でのこと。あまり大事にはしたくないのが本音のところでございます。そこで“学院トラブルが俺の友達”と豪語されているリィン様、引いてはⅦ組の皆様にお願いに参った次第なのです」

「いや、俺はそんなことを言った覚えがないんですが」

「そうでしたか」

 だが薬物というのなら看過はできないところだ。事実確認も含めて、やはり受諾するべきかとリィンが考え直した時、その後押しは意外な所からやってきた。

「ねえ、リィン。この依頼受けてくれないかしら。私も協力するから」

 アリサの赤い瞳に強い意志が宿っている。

「この問題が解決すれば、フェリスの悩みも解決するのよ。今回の事は友達の為でもあるわ」

 フェリスの悩みを端的に言えば、マルガリータに付きまとわれていることだ。

 理由は一つ。ヴィンセントとの橋渡し役としてである。

 マルガリータの恋が成就するしないに関わらず、一区切りつけることはフェリスの解放をも意味する。もっとも成就したらしたで、新しい問題も出て来そうではあったが。

「アリサ様……お心遣い痛み入ります」 

「ええ、任せて」

 事の次第から、今回もⅦ組全員での依頼を請け負う形となった。

 彼らはまだ知らない。バラの棘の鋭さを。

 

 

 昼休み前半。

 ヴィンセントとサリファが退室した後、教室では作戦会議が開かれていた。

 今回のミッションにおける目的は二つ。

 一つ目が件の手作りクッキーに薬物混入が確認された場合、速やかにマルガリータからクッキーを奪取すること。

 二つ目が目標の奪取に失敗した場合、ヴィンセントとマルガリータの接触を防ぎ、彼の身の安全を確保すること。

 その為にはマルガリータの行動経路の限定、及びⅦ組メンバーの配置が重要になってくる。

「――と、いう感じでどうだろう」

 リィンが全員の意見や見解をすり合わせたミッションプランを伝える。その概要はこうだ。

 同じ調理部のミリアムが調理室にて待機し、マルガリータがクッキーを作る過程を観察。怪しげな薬物を使った時点で作戦は開始される。

 まずは男子二名がマルガリータを説得し、可能であれば自発的にクッキーを引き渡してもらう。

 女子を外したのはアリサからの進言で、マルガリータの性格を考慮し、ヴィンセントに好意を持っているのではという邪推を起こさせない為だ。

 万が一抵抗するようであれば、不本意ではあるが人命救助を最優先事項とし、強制的にクッキーを押収する形を取らざるを得ない。

 そこまでが第一プラン。

 その後も予想される状況に合わせて第三プランまで練り上げることとなった。

 ちなみにクッキーを作る際に薬物混入を確認できなければ、残念だがヴィンセントには定刻通りに待ち合わせ場所に赴き、愛の告白を受けてもらうことになる。

「これでいいか、アリサ?」

「いえ、正直万全とは言いがたいわね」

 第三プランまで考えることになったのは、アリサの強い要望があったからだった。

 ただ一人、彼女だけはマルガリータの脅威を知っている。

 フェリスと贈り物のブローチ探しをしたあの日、一歩間違っていれば彼女は今この場に立ってすらいなかったのかもしれない。

「マルガリータさんを侮ったらダメよ! 本当なら最初から総力戦を仕掛けたいんだから。お願いだから第二プラン以降の配置には武器を装備させておいて」

「そんな大げさな……」

 先にも述べたマルガリータの性格を考慮し、基本のミッションは男性陣で遂行する。しかしリィンを始め、他の男子達はそこまで事態を重く見ていない。

 確かにあのマルガリータはインパクトこそ群を抜くものの、今回の目的は薬物確認とクッキーの回収のみだからだ。

 一方の女子の主な役割はヴィンセントを匿い、彼を護衛、防衛することだ。

 主とする作戦目的が違う為、ここからの細かい打ち合わせは、男子班と女子班に分かれて行うことになった。

 

 

 昼休み後半。男子達は屋上の一角を陣取っていた。教室でもよかったのだが、話が漏れる可能性を一応考えてこの場所を選んだのだ。

「俺達の作戦プランは決まっているから、あとは人員配置と注意事項を共有するか」

 リィンの提案に異は出なかった。今日は放課後に部活のあるメンバーもおり、なるべくなら早く済ませたいらしい。

「ヴィンセントに代わって中庭に向かう先発隊は、まー、消去法で決まりだろ」

 説得班である。クロウの目線がエリオットとガイウスに向けられた。

「え、僕たち?」

「なぜだ?」

「波風立たなさそうだし適任だろ。ただ説得に失敗して、しかもその場でクッキーの押収が出来なかった場合、お前らには必ずやってもらうことがある」

「やってもらうことって?」

「マルガリータに、ヴィンセントは今屋上にいるという情報を流せ。不自然にならないようにな」

 中庭にヴィンセントがいないのなら、それでフラれたという結論には至らず、恐らく彼女は学院内を探し回るだろう。彼の居場所からは遠ざけるよう誘導しなければならない。

「それで途中の二階にはユーシスとマキアス。屋上には俺とリィンが控える二段構えだ」

「少なくともあの女が屋上に辿り着くことはないな」

 フェンスにもたれ掛かかるユーシス。その横からマキアスが言った。

「そういえばリィン、アリサが武器を所持した方がいいと言っていたが、どうする?」

 リィンは肩をすくめた。

「仮にも相手は女子だ。しかも丸腰の相手に武器は少々みっともないだろう。俺たちは素手でいこう」

 

 

「私達はフル装備でいくわ」

 アリサは強い口調で宣言し、テーブルを囲む他のメンバーを見回した。

 学生会館、一階食堂。

 昼と言うこともあり、利用者は多かったが、この喧騒が自分達の声と姿を隠してくれていた。こういう打ち合わせは、人の多い所の方が逆に漏れないものだ。

「そなたがそこまで言うなら、そのようにしよう」

「ん、私もいいよ」

「リィンさん達で終わるのが一番いいんですけど……」

「ボクは調理室待機でいいんだよね」

 全員の同意を確認したアリサは続ける。

「それじゃあ皆《ARCUS》を出して。フォーメーションの確認をしながらクオーツの見直しするから」

 机の上に人数分の戦術オーブメントが並べられる。

「ミリアムはこのクオーツお願いね。ラウラとフィーはこれを」

「私がこれをか?」

「普段あまり使わないやつかも」

 怪訝顔のラウラとフィーだったが、「マルガリータさん相手に正攻法は危険よ」とアリサは押し含めた。

 エマが心配そうにアリサに目を向ける。

「ところでヴィンセント先輩を匿う場所は、あそこで本当に大丈夫でしょうか?」

「絶対はないけど、かなり安全なはずよ。それに施錠用の鍵の隠し場所には、さすがにたどりつかないだろうし」

「それならいいんですけど……」

 話もまとまってきた所で、昼休み終了の予鈴が鳴り響く。

 一抹の不安は残しながらもミーティングは終了し、後はその時を待つのみとなった。

 

 

 放課後。

 Ⅶ組は各班に分かれ、指定の場所に付いていた。

 今回は各チーム毎の位置が離れているので《ARCUS》の通信機能を最大限活用した連携が不可欠になってくる。

「まったく、お前は色々と安請け合いし過ぎだ」 

「今回のことは仕方ないだろ。まあ、巻き込んだのは悪いと思っているが」

 屋上に控えるリィンとクロウは、適当な話をしながら時間を潰している。

 出番があるとしても一番最後で、またその可能性も少ない二人は、緊張感は持ちながらもどこか悠長に構えていた。

「薬物ってマジだと思うか?」

「正直に言えば、さすがにそれはないと思う。ただサリファさんの情報ルートって不明だし、一応確認はいるだろ」

 真実味はあるが、どこかシャロンと似たような雰囲気を感じるのだ。

 シャロンのように冗談めかしてくるわけではないが、サリファもトラブルを――特にヴィンセントに降りかかるトラブルをどこか楽しげに眺めている節がある。

 その時、《ARCUS》に通信が入った。

 受信のボタンを押し込むが早いか、通話口から『薬物確認したよ!』とミリアムの声が飛び出した。 

「それは本当に薬物か? 香料の類も考えられるだろ」

 念の為、再確認を促すがミリアムは間を置かずに言い返してくる。

『だってクッキーの生地に注射針で何か注入してたんだもん。間違いないと思うけどなー』

「クロウ、どう思う?」

「どうもこうも料理に注射針は使わねえよ。こりゃ決まりだな」

 訊いてはみたものの、リィンも同意見だった。できれば無粋な真似などしたくはなかったのだが、こうなってしまえば仕方がない。

『ボクはどうしたらいい?』

「まだそこで待機してくれ。マルガリータが焼き上がったクッキーをもって調理室を出たら、男子第一班に連絡を頼む。その後でミリアムは女子班と合流だ」

『りょーかい!』

 通信が切れる。

 クッキー回収ミッション、スタートだ。

 

 

「了解した。今から説得に向かう」

「うう、緊張してきた」

 リィンが薬物使用の連絡を受けてからおよそ一時間後、ガイウスの《ARCUS》にミリアムからの通信が入った。

 マルガリータが焼き終えたクッキーを袋に詰め、ついに調理室から出て行ったとのことだ。

「中庭に彼女が現れたら出ていくぞ」

「……話せば分かってくれるよね」

 二人が待機しているのは、花壇付近だ。ここからなら中庭がよく見える。

 まもなく扉が開く音がして、誰かが校舎内から中庭に出てきた。

「来た、マルガリータだ」

「う、うん。行こうか、ガイウス」

 時刻は約束の十七時。マルガリータはきょろきょろと視線を巡らし、おそらくヴィンセントを探している。

 我知らず忍び足で近づいていたエリオットは、ガイウスから「あくまで自然にだぞ」と目を向けられ、苦笑いを返した。

「あの、マルガリータ……さん?」

 背中から声を掛けると、マルガリータはヴィンセントだと思ったのか、ぐるんと素早い動作で振り返る。ぶわっと体動によって生まれた風に体を押され、エリオットは思いがけず足を引いた。

「ひいっ!?」

「……あら、あなた達なんなのよお」

 ヴィンセントでないことがわかると、マルガリータは露骨に態度を変えた。

「今から私、ここで人を待つの。あなた達はお邪魔虫だからどこかに行って下さらないかしら」

 言葉こそ丁寧だが、その細い瞳にはありありと険が盛られている。

 気後れするエリオットだったが、その隣からガイウスがマルガリータに告げた。

「悪いが、ここにヴィンセント先輩は来ない」

「……なんですってえ……?」

 ざわりと木々が揺れ、木の葉が舞い落ちる。虫の鳴き声が止まり、花壇奥の池に泳ぐ魚は全て水底にへばりついた。遠く離れた馬舎からは落ち着かない鳴き声がグラウンドにこだまし、鳥達はトリスタ方面へと群れをなして飛び去っていく。

 ガイウスは感じた。風が怯えている。 

「教えて欲しいわあ。どうしてあなた達はヴィンセント様がここに来ないと知っているのかしら?」

 周囲の異様を訝しげに思いながらも、ガイウスは用意していた答えを口にする。

「実は俺たちはヴィンセント先輩と仲がよくてな。今日の事は前もって聞いていたのだ」

「あなた達がヴィンセント様と……?」

 食いついた。

「しかしあの人も忙しい身だ。急なことでどうしても来られないので、代理で俺達が来たのだ」

 ここからが本題だ。ガイウスは一呼吸置いてから続ける。

「今日はヴィンセント先輩に何かを手渡すつもりだったのだろう。クッキーのような何かを。先輩から言伝で俺達はそれを受け取りに来た。後日、ヴィンセント先輩に責任を持って渡しておこう」

 クッキーのような何かは失言だ。

 かなり苦しく、詰められたら言い訳し辛い部分もあるが、『ヴィンセントが言った』というのは効果的に働くはずだ。若干心が痛まないでもないが、彼の安全確保が第一である。それに成分調査の上で、問題がなければヴィンセントにはクッキーを渡す手はずになっているから、まるきりの嘘というわけでもない。

「そう、ヴィンセント様が……」

 うつむき加減のマルガリータ。やはり乙女心には思う所もあるのだろう。

「ここは冷えるからさ、一度校舎の中に戻ろうよ。クッキーは落ち着いてからでも――」

 エリオットは優しげに言い、本校舎へと歩き出す。

 ――ゴキリ。

 そんな鈍い音が耳に届いたのは、ちょうど扉に手を掛けた時だった。 

 何とはなしに後ろを振り返る。

「え?」

 否応なく視界に映ったのは、ガイウスの長身が宙を舞う姿だった。

 例えばそれは、癇癪を起こした少女が手にしていた人形を投げ捨てたような、そんなあまりにも仕様がなく、単純で、そして物悲しい光景だった。

 どさりと音を立て、彼はそばの植え込みに落下した。身じろぎさえなく、指先の一つすら動かないガイウスは完全に沈黙している。

「ガ、ガイウ……!」

 名を呼びかけて、はっと言葉を詰まらせる。マルガリータの目がエリオットに注がれていた。

「ヴィンセント様がそんなこと言うわけないでしょお」

 太く、底暗い声。

 やられる。その一言が頭蓋を反響し、エリオットは素早く身を返して扉を開いた。

 勢いよく校舎内の廊下に踏み出しながら《ARCUS》を取り出す。

 プラン1は失敗だ。撤退と連絡をしなくては。

『こちらユーシスだ。エリオットどうした?』

 すぐに男子第二班、ユーシスが通信に応答する。

「ユーシス! 聞いて――ぐっ?」

 背後から襟元を掴まれ、力任せに持ち上げられる。エリオットが小柄とは言え、片手で男子一人を持ち上げる膂力はもはや女子のそれではない。

 脳に酸素が回らず、視界が急速に狭まってきた。薄れていく意識の中、何とかマルガリータの姿を捉える。彼女はもう片方の手を拳の形に握り、腰だめに引いていた。

 死神が鎌を振り上げた。まもなく終焉が訪れる。幾何の猶予もない。自分は最後に何を言うべきだ?

 仲間に危険を伝え、かつマルガリータを誘導し、加えて自分達の身に起きた惨事を伝えられる一言。

「屋上のヴィンセント先輩を守って!」

 その言葉を弾き出したと同時、背から胸にかけてズンと重たい衝撃が走る。目に映る全てが一瞬、二重にぶれた。

「うっ」

 これでいい。守ってと言えばマルガリータが攻撃的手段に出たことと、自分達が敗れたことは伝わる。マルガリータにも屋上という認識を持たせた上、屋上に直結する玄関側の階段ではなく、二階廊下を経由しなくてはならない方の階段近くまでも誘導できている。

 ガイウス同様にぶんと投げ捨てられるエリオット。

 壁面が迫ってくる。痛みは覚悟していたが、幸か不幸か壁にぶつかる前に彼の意識は無くなっていた。

 ――男子第一班、消沈。プラン1、失敗。

 

 

「エリオットは何て言ってたんだ?」

「どうやらプラン1は失敗したらしいな」

 二階、特別教室側の廊下。その中程にユーシスとマキアスが待ち構えている。

 エリオットが上手く誘導したおかげで、当初の予定通りのルートをマルガリータは通って来るらしい。逆にこの廊下を突破されれば、屋上に繋がる正面階段まで進まれてしまう。

「しかし、ここまでやる必要があるか?」

「念には念をだ」

 二人の背後にはピラミッド宜しく、天井近くまで積み上げられた机のバリケードが張られていた。

 自分達の退路を塞ぐ代わりに、先への道も与えない。

「一般生徒に多大な迷惑を与えているが……」

「あとでお前が関係各所に謝ればいい。副委員長らしくな」

「か、勝手な事を! そもそも君の発案だろう」

「乗ったのはお前だ」

 いつもの小競り合いに発展しかけた時、ズシンと地鳴りにも似た足音が響いた。階段を上がってきているらしいが、自分達が相手取るのは大型魔獣だったのだろうか。

「来たみたいだな。えーと、確かガリガリータだったか」

「お前は人の名前も覚えられんのか。マルマリータだ」

「それも違うような気が……」

 足音が近づき、階段からマルガリータが現れる。その姿を見たユーシスは不敵な笑みをマキアスに投げ掛けた。

「見ろ。やはりマルマリータだ」

「いやまあ、確かに丸まってはいるが」

 ユーシスはマルガリータに言う。

「止まれ。お前の持つクッキーを引き渡してもらおうか」

 交渉と言うよりは通告のような口調でマルガリータを見据えるが、彼女は困ったような表情を浮かべて「……そういうことだったのお」と灼熱の吐息を吐き出した。

「さっきの二人と言い、あなた達も私の事が好きなのねえ。だから手作りのクッキーを欲しがって……あんな嘘まで付いて。美しさは罪だわあ。グフッ」

 マルガリータを取り巻く熱がぐいぐい上昇する一方、ユーシスとマキアスの周囲の温度は急激に冷え込んでいく。もしここが海なら、あまりの寒暖差に大型の台風が発生していたかもしれない。

「な、何を盛大に勘違いしている」

「でもダメよ。私の愛はただ一人、あのお方のもの。ヴィンセント様を屋上に監禁しているのね。私が必ずお救いするわあ」

 エリオットは『屋上のヴィンセントを守って』と言ったはずだが、どう変換すればそのような解釈に至るのか。説得に失敗した先の二人の結果を納得し、ユーシスはマキアスを一瞥した。

「今からプラン2だ。制圧の上でクッキーを奪取する。武器がなくても俺は問題ない。お前は下がっているがいい」

「ふざけないでもらおうか。実技でも白兵戦は習っている。僕を甘く見ない方がいいぞ」

 互いに余裕の笑みを見せた。

「ふっ、いいだろう。足は引っ張ってくれるなよ」

「君の方こそ!」

 強く地を蹴り、二人はマルガリータに迫る。

 彼女はにたりと口許を歪めた。

「情熱的ねえ。グフフッ」

 ――でもダメよ。付け加えられた一言が耳に届いた時、すでにマキアスの眼鏡は砕け散っていた。

 

 リィンの《ARCUS》に通信が入る。

『リィン……聞こえるか。こちらユーシスだ』

 落ち着いた声音。リィンは作戦終了の連絡だと思った。

「ユーシスか。遅かったから心配したぞ」

 続けられた言葉は予想と正反対だった。

『俺はここまでだ。後の事は任せる』

「何を言って……?」

 いや、そうだ。ユーシスから連絡が来るということは、エリオット達、第一班は失敗したということだ。説得はできず、さらには制圧も出来なかったということなのか。

「一体どうしたんだ? マキアスは!?」

 一瞬の沈黙の後、ユーシスは喉を詰まらせた。

『あいつはやられた。まるで眼鏡が飴細工のように粉砕されたのだ。もう助かるまい』

「うそだろ……マキアスが」

『聞け、リィン。俺の背後にはバリケードがある。つまり屋上に行くためには回り道をしなければならん。時間は稼げるはずだ。態勢を整え直せ』

「わかった。ユーシスはそこから早く離脱してくれ」

 ユーシスは無言だった。

「ユーシス?」

『ふっ』

 少しの沈黙のあと、彼は笑った。どこか自嘲の響きがあった。

『言っただろう。背後にはバリケード。正面にはマルマリータ。退路などない。しかし一矢は報いるつもりだ』

 嫌な予感がした。まるで敗北を悟った兵士が、爆弾を体に巻き付けて特攻するかのような、諦観と悲壮の行きつく先。

 一瞬恥ずかしい名前間違いを聞いた気がしたが、そんなことはもはや些事だ。

 リィンは通話口に向かって叫ぶ。

「馬鹿な真似はよせ!」

『頼みがある。聞いてくれるか』

「なんだ……なんだよ」

『もし兄上に会うことがあったら伝えて欲しい。貴方の弟は、貴族の誇りを胸に……最後まで戦ったと』

「そんなことは直接自分で言え!」

 無理な相談だ、と今度こそユーシスは自嘲に満ちた声を絞り出した。

『さらばだ、リィン……――っな、なんだと!?』

 落ち着いた声音が、驚愕のそれへと一変した。

「ユーシス、おい、どうした!?」

『ば、馬鹿な! 俺の後ろにはバリケードもあるのだぞ!? やめろマルマリ――ぐあああああ!』

 悲痛な叫び声に混じって、大量の何かが崩れ落ちるけたたましい音が響いてくる。

 耳障りなノイズ音が神経にも障り、通信が切れた《ARCUS》を手にしたまま、リィンは肩を脱力させた。

 ――男子第二班、撃沈。プラン2、失敗。

 

 

「クロウ、戦闘準備だ。防衛ラインが突破された」

「まじかよ。てことはプラン3か。できればやりたくはなかったぜ」

 説得、奪取、制圧が不可能だった場合にのみ発動される最後の作戦。成分調査や事実確認は放棄して目標を破壊する、すなわち殲滅作戦。

「で、一班と二班の連中は無事なのかよ?」

「……わからない。ただマキアスはもう……」

「そうか」

 クロウは感情を押し殺した声音で「からかい甲斐のあるやつだった」と空を見上げた。

 青い空にマキアスの顔がチェス盤とセットで映る。眼鏡がきらりと輝いていた。

「本気で行くぜ。銃はねえが、俺も白兵戦はそれなりのつもりだ」

「ああ、俺も問題ない」

 二人が強く意志を固めた時、轟音と共に屋上の扉が吹き飛んだ。べこりとへこんだスチール製の扉は、クロウとリィンの間を凄まじい勢いで抜けていき、後ろのフェンスに衝突した。

「来たか!」

「なんつー登場の仕方だよ」

「ヴィンセント様はどこなのお!」

 屋上に足を踏み入れるなりマルガリータは叫び、びりびりと空気を震わせた。

「悪いな。愛しのヴィンセントサマはここにはいねえ。探すなら好きにすればいいけどよ、クッキーだけは置いて行ってもらうぜ」

「最後通告だ。大人しくクッキーを置いて行ってくれ」

 それぞれに言うと、マルガリータはぶはあと空気の塊を吐き出し、まだ距離のあった二人の前髪を強く揺らした。

「もう、思わずため息が出ちゃうわ」

「今のため息だったのか」

「俺は新手の威嚇方法かと思ったぜ」

 マルガリータはさらに一歩踏み出した。

「ほんと悪質なファンには困るわあ、男の嫉妬は見苦しくてよお?」

 恐らくは本気で言っているマルガリータを見て、二人は素早く戦闘態勢に入った。この後の展開が容易に予測できたからだ。

「あなた達を懲らしめてヴィンセント様をお救いしないとねえ」

 マルガリータは半足を引き、腰を落とした。

 リィンも無手で構え、クロウも拳を作る。

 双方共に仕掛けるタイミングを図る。切迫する緊張感。二人分の気当たりを受けても、マルガリータが臆する様子は微塵にもない。

 強い風が枯れ葉の一枚を屋上に運んできた。たゆたう葉が、一瞬だけ相対する直線上を通る。

 瞬間、マルガリータが地を蹴る。肉薄する肉塊が枯れ葉を吹き散らした。

 速い。リィンは刹那の内に判断する。後の先を取る以外にない。

 初撃をかわす為、足に力を入れた時、視界の中のマルガリータが急に大きくなった気がして、続いてその姿が消えた。

「え?」

 直後、景色の上下が反転する。追いつかない思考の端に、「バカ野郎! 何やってんだ」とクロウの怒声が飛んできた。声のした方に無意識に目が向く。クロウはすぐに視界に入ったが、おかしい。自分は上に目を向けたはずなのに、なぜクロウが下に見える。

 はねられた。

 ようやく現状を理解し、その一語が身に起きた全てを表した。

 猛るケルディック牛にはねられる? そんな生温いものではない。最高速度のアイゼングラーフと正面衝突したような、慈悲の欠片もない鋼の一撃。

「ったく、本気出すしかねえか……!」

 クロウの焦れた声が耳朶を打つ。

 一秒後。

 スローモーションで流れるリィンの視界の中に、同じく宙を舞うクロウの姿があった。

 すでに語る口も持たず、その暇もない二人は何度もきりもみ回転をしながら、無機質なコンクリートの地面に顔面から墜落した。

 鈍い衝撃が首まで届き、二人の意識はそろって闇の淵に落ちていった。

 ――男子第三班、轟沈。プラン3、失敗。

 

 

 今日の《ARCUS》はまともな連絡をよこさない。

 プラン2まで失敗したという報告はリィンから入っていたが、アリサは妙に納得していた。

 戦車相手に素手では立ち向かえないのだから。

 残るはプラン3。殲滅作戦だと聞いているが、逆に殲滅されていそうな気がしてならない。

「無事ならいいんだけどね」

 不安をかき消すように口を開いた時、手元の《ARCUS》に通信が入る。リィンからだ。

「こちらアリサよ。そっちはどう? グラウンド側は異常なしよ」

『……そう、グラウンドなのねえ』

 低く響いた野太い声に、ぞくりと肌が粟立った。思わず《ARCUS》を耳元から離し、屋上を見上げる。

 屋上の端に誰かが立っている。見覚えのあるずんぐりとした、巨大な酒樽を思わせるシルエット。その手に持っているのは恐らくリィンの《ARCUS》だ。

 アリサは自分の迂闊さを後悔した。《ARCUS》は試験運用も兼ねた特注品だ。その特性から個々に同期し、持ち主以外では使用できないようになっている。

 特性――すなわち戦術リンク。Ⅶ組同士であっても、例えばラウラの《ARCUS》をアリサが手にしても、他の誰ともリンクは結べない。だがオーブメント本来の機能として、持ち主以外でも使用しようと思えばできる機能もある。

 それが導力通信だ。盲点だった。さすがに傍受してくるとは考えないが、直接通信してくるなど想定外だ。

 せめて相手の声を先に聞くべきだった。

 後悔は遅きに失している。マルガリータは手にしていた《ARCUS》を後ろに放り投げた。アリサの音声口から、ガシャンとそれが落ちた音がノイズに混じって聞こえてくる。

「全員、戦闘態勢に入って!」

 アリサの号令で、彼女の背後に控えていた女子メンバーが一斉に武器を取り出す。

 ラウラが大剣を構え、エマが魔導杖を掲げ、フィーが双銃剣を光らせ、ミリアムの傍らで見えない何かが駆動音を上げた。

 《ARCUS》で通信してきたのは確かに想定外だったが、この状況は想定内だ。

 導力弓を手に、アリサは鋭い声を発した。

「プラン4開始!」

 

 

 ~後編に続く~




最後までお付き合い頂きありがとうございます。今回も前後編に分けての更新となりました。
はい。バトル展開と言っておきながら、戦闘にすらならず男子達は瞬殺されました。女子達の奮闘にご期待下さい。
余談なのですが、何か話を描くときにはテーマ的な曲を流しながら書いていまして、例えばラウラならレグラムの曲、アリサならルーレ、みたいな。
ちなみに今回のテーマ曲は閃のBGMではなく『IN MY DREAM』というちょっと昔のアニメのオープニング曲です。
今回の話にピッタリの曲なので知らない方は、ぜひ一度聞いて見て下さい。

それでは次回後編もお楽しみにして頂けたら幸いです。


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グランローゼの薔薇物語(後編)

おそらく男子チームが敗退するとすれば、武器、オーブメントを始めとした持てる全ての力を使わなかったこと。マルガリータに対話による説得を試みたこと。そして戦力を分散したことだ。

 よって女子達が取る行動はその真逆。

 武器、オーブメントは用意できる最高かつ最適なものを装備。マルガリータに説得は行わず、わずかでも隙を作らない。戦力は一極集中、総力を以て目標を撃破する。

 それがプラン4。

 男子チームのプラン3まで失敗した場合を想定して、女子チームが内密に仕立てた作戦内容である。

 

「やっぱりこうなったわね」

 今頃、残らず地に伏しているであろう男子達の姿を想像して、アリサは嘆息をついた。

「だが少々信じられんな。男子達が素手だったとしても、マルガリータも素手ではないか。そこまで圧倒できるものなのか」

「それは私も思った」

 屋上のマルガリータを見上げながら、ラウラとフィーは率直な疑問を口にするが、そんな二人に「できるわ」とアリサが平然と告げた。

「絶対に侮らないで。最初から全力よ。ただ屋上からここに来るまでにはまだ時間がかかるはずだし、最後にもう一度作戦の確認を――」

 アリサの言葉の途中で、マルガリータは屋上から飛び降りた。その動作に何のためらいもなかったように見えた。

「え、ちょっ!?」

 マルガリータは落下しながら校舎の所々にせり出した窓枠に手をかけ、壁面を足で削って勢いを減衰させつつ、地面まで到達した。

 ずずうん、と落下点から離れたグラウンドにもその衝撃が伝わってくる。

「え、え、え!?」

 エマは開口しながら固まっていた。今から戦う相手は本当に自分達と同世代の女子なのか。そう言わんばかりだ。

「マルガリータってすごいんだなー」

 ただ一人ミリアムだけは生来の呑気さからか、間の抜けた声を出しているが。

 マルガリータがずしずしとグラウンドに歩いてくる。一歩近づくごとに、その威圧感は肌で感じられる程に大きくなっていった。

「あなた達がヴィンセント様を監禁しているのねえ……!」

 ずんっと肩に圧し掛かる空気が重くなる。

 呼吸さえも苦しい感覚の中、アリサはマルガリータに言った。

「マルガリータさん……悪いけど、私達はクッキーを渡してもらおうなんて考えていないわ」

「グフフ、渡すわけがないじゃない。これはヴィンセント様が召し上がるものよお」

 二人は異口同音に『……だから――』と続け、お互いを見据える。

 交錯する視線の中心に、ばちりと散った火花を幻視した女子メンバーは、ぐっと顎を引いて身構えた。

「あなたを倒して、クッキーを手に入れてみせるわ!」

「あなた達を潰して、クッキーを届けてみせるわあ!」

 大地を揺るがす咆哮が、開戦を告げた。

「戦闘指揮は私が! 初撃は作戦通りに。エマは所定の位置に移動して!」

 アリサが鋭く指示を飛ばすと、全員が戦術オーブメントを構えた。

『《ARCUS》駆動!』

 皆が声をそろえ、五つの光陣が輝きを放つ。

「あらあん?」

 訝しげな声を発し、マルガリータは首を傾げる。アーツ駆動をその場の全員が一度に行うなど、セオリー外れもいいところだ。前衛がいなければ、駆動準備の無防備な間を守れないからである。

 先制を狙うマルガリータが拳に力を入れた時、彼女の右上方の空間がぐにゃりと歪んだ。

 そこだけではない。続けて左上方、右下方、左下方。両手両足側、計四方向の空間が大きく歪曲する。

 五人中四人がアーツを発動した。駆動時間短縮のクオーツを全員が付けている。

 アリサは不敵な笑みを浮かべた。

「耐えられるかしら?」

 大渦のような歪みの中心に引力が生じた。本来この付加効果は敵を吸引し、一固めにしたり、敵陣を乱す為に用いられる。だが今は違った。

「むっふぁあああ!?」

 それぞれに発生した引力が、その中央にいるマルガリータを四方に引き合っているのだ。

 四肢に強固な枷を繋げられたかのように引っ張られ、その肉の面積をさらに押し拡げたマルガリータは、身じろぎさえも許されない状態だ。

「エマ!」

「いきますっ!」

 エマが魔導杖を振り上げる。磔刑に処されたかの如く、体を大の字に開いたマルガリータの目に緑光が瞬いた。

 空気を焼きながら突き進む、竜の爪を束ねたような裁きの稲妻。

 直撃。雷光がマルガリータを鮮烈に染め上げた。

「グッフォオォ……」

 うめき声に続いて、口から黒煙が吐き出される。焦げ付いた臭いが辺りに漂っていた。陰惨な焼肉パーティーだ。

「ど、どうですか?」

「これで……――くっ!」

 しかしマルガリータは倒れない。体中にパリパリと電気を走らせながらも「グフフッ」と口の端を吊り上げて一歩踏み出でる。

「気持ちのいいマッサージだったわあ」

 常人にとって四肢をちぎられる程の苦痛も、彼女にとってはただの“ほぐし”。その後の電撃も所詮は電気マッサージの域。

 初撃で全員が理解した。次元が違う。

「さあて、次はお返しをしなくちゃあねえ」

 これがマルガリータ。これがグランローゼ。

 その名を胸中で反芻し、アリサは息を呑んだ。

 

 

 臆している暇はない。戦いは始まったばかりだ。

「全員止まらないで! フィーとラウラはリンクして前衛に、エマは私とリンクしてアーツを、ミリアムは後衛で補助をお願い!」

 一息に指示を飛ばし、陣形を組みかえる。

 各々の意志に応じ、《ARCUS》がリンクの光を走らせた。

「私が起点の攻撃を仕掛ける。ラウラが仕留めて」

「承知した」

 身を屈めたフィーが素早くマルガリータに接近する。

「生意気ねえ」

 ごうと風を切ってマルガリータの剛腕がフィーに伸びる。俊敏にかわして懐に入り込んだフィーは「あげるよ」と後ろ手で取り出した閃光手榴弾をマルガリータの顔目掛けて放り投げた。

 炸裂。視界が白く塗り込められる。鮮烈な光と弾けた爆音が、視力と聴力を一時的に奪った。

「お願い」

「任せるがいい!」

 切り結ぶ気など毛頭なかった。

 跳躍したラウラは一気に間合いを詰め、頭上に掲げた大剣を振り下した。一撃で仕留めるつもりだ。

 空気を裂いた刃がマルガリータを捉える寸前、彼女は身を翻してその斬撃をよける。

「なに!?」

 音も聞こえず、目も見えないはずなのに。一瞬の動揺がわずかに体の動きを止めた時、マルガリータのひねった上半身から拳が繰り出された。

「ぐうっ!」

 咄嗟に刀身で受け止めたが、鉄の塊をぶつけられたような衝撃に耐えることはできず、ラウラは後ろに吹き飛ばされた。

「ラウラ!」

 フィーの目がラウラにそれる。それを察したかのように、再びマルガリータの腕がフィーに向かった。

 その手に捕まれば、逃げられないどころか握り潰される。悪寒が背を駆け抜け「しまったかも」と毒づきながら、フィーは双銃剣を引き抜いた。

 しかし遅かった。ゴキンと指関節を鳴らした分厚い掌が、すでに眼前を黒く覆っている。

 マルガリータが急に手を引き、突然その場から跳ね退いた。

「フィーちゃん!」

 エマの叫ぶ声が響き、光の剣がフィーとマルガリータの間の地面に突き刺さった。

 続け様に四本の光剣が、マルガリータを遠ざけるような軌道で来襲する。

 全て紙一重で避ける巨体。

 最後の剣を横っ飛びに避けて着地した瞬間、そのタイミングを狙って放たれた燃える矢じりが、マルガリータに向かって飛来した。

「これでっ!」

「甘いわあ」

 大剣の隙間を縫うように舞い飛んできた矢を、人差し指と中指の間で挟み取ると、マルガリータはそのまま力任せにへし折ってみせた。

「ハエを掴まえるよりも簡単よお」

「ハエなんて普通掴まえないでしょ!?」

 フィーの閃光弾で目も耳も使えないはずなのに、どうしてこんな動きができる。

 いや、そうだ――自分はすでに知っていた。彼女の五感でもっとも優れているのは――

「嗅覚……!」

 思い出してぞっとした。尋常ではない。

 全く怯みもしないマルガリータを攻めあぐねているラウラとフィー。

 後衛からミリアムが声を上げた。

「前衛の二人は下がってね! いっくよー!」

 アーツが発動する。

 マルガリータの足元に黒い染みが滲みだした。それを見た二人は一足飛びに間合いを開ける。

 瘴気にも似た紫煙を立ち上らせながら、染みは瞬く間に拡がっていった。

 ドス黒く染まった闇の沼の中心に、何かが浮かび上がってくる。

 それは骸骨。顕現した巨大な髑髏(ドクロ)が、ケタケタと禍々しい笑い声を轟かせた。

「マルガリータの能力を下げるよ! これで少しは戦いやすくなるから」

 しかし逃げる素振りも見せず、彼女は迷いなく髑髏の頭頂部をがしりとわし掴む。

 たくまし過ぎる上腕が唸りを上げた。

「ムッフォオ!」

 雄叫びを上げ、力任せに髑髏を黒ずむ染みの中へ、ずぶずぶと押し返していく。

 おそらく実体ではないはずだが、そんな理屈はグランローゼに通じない。

 髑髏にも呼び出された矜持があったのか、なんとか這い出ようと頑張っていたみたいだが、全てはささやかな抵抗だった。

 ウソオオォォン……と、どこか驚愕の一声にも聞こえる慟哭を最後に、髑髏は闇に沈められた。

「そ、そんなのあり~!?」

「反撃にそなえて防御アーツの準備!」

 一瞬でも気を抜けば詰められる。そして一発でもまともに攻撃を受けたら、まず助からない。

 アリサがミリアムに叫ぶ傍ら、ラウラは剣を構えなおした。

「相当なものだ。――しかし!」

「ん、やるよ」

 まだ視力も聴力も戻りきっていないはず。嗅覚だけで避け続けるのはさすがに限界もあるだろう。やはり攻めるなら今しかない。 

 フィーは双銃剣の銃口を、マルガリータの足元に向けてトリガーを引く。

 連続で吐き出された銃弾は少しずつ狙いの範囲を狭めていき、その動きを封じていった。

「うっとおしいわねえ……!」

 意識が銃弾に逸れた。

 ラウラは間合いの外から、大剣で地面を思い切り斬りつける。

「砕け散るがいい!」

 インパクトの瞬間、柄を締め込む。生み出された力が地中を伝った。

 衝撃が噴出し、土くれを巻き上げながら斬撃が走る。剣閃の通る道に存在するものは、残らず破砕するだけの威力がその技にはあった。しかし、

「ふうんっ」

 足を踏み鳴らす。波動が地中を縦貫し、衝突した二つの力がグラウンドを爆ぜさせた。

「くっ、だが!」 

 相殺されたが、相手もほんのわずかによろめいた。

 間合いに入って切り込むか。間合いの外からもう一撃見舞うか。一秒にも満たない逡巡の中、「かがんで下さい!」と後方から叫ぶエマの声が聞こえた。

 反射的にラウラは身を沈める。

 直後、頭上を猛々しい水流が過ぎゆく。まるで獲物を捕らえる蛇のようにアーチを描いて、体勢を崩したマルガリータへと迫った。

「ちょうど喉が渇いていたの。でも少し飲みにくそうねえ」

 手をぶんと振る。ただそれだけで弾かれ、引き裂かれた水の塊は霧散し、その姿を幾万の滴へと変えた。

 降り注いだ小雨が荒れたグラウンドに染み渡っていく。

「なんという規格外だ……!」

 驚嘆の一語に尽きる。何をどうすれば、ここまでの力を捻出できるのか。よく今まで各所から危険視されなかったものだ。 

「ほんと危険だわ」

「うむ、危険だ」

「ん、危険だね」

「危険すぎるよー!」

「まさにデンジャラス肉玉ですね」

 頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしたのだろうが、エマの放った一言がストレートに容赦なしである。おそらく言った本人にその自覚はないが。 

「ムフフ、物も見えるようになってきたし、音も聞こえるようになってきたわあ」

 目をこすり、耳を一撫でしたマルガリータはにたりと嗤う。

「それじゃあ……お返しよお」

 半身が隠れる程に腕を引く。その瞳が怪しく光ると、地鳴りと共に大気が鳴動し始めた。

 直感、経験、本能。それら全てが激しく警鐘を打ち鳴らす。

 アリサは全員に叫んだ。

「全員こっちに固まって! ミリアム準備は!?」

「いつでもいけるよ! ラウラ、フィー、早く来てー!」

 アリサの指示を受け、前衛の二人が急ぎ戻ってくる。それを待たず、マルガリータが剛腕を突き出した。

 拳が空を切った。違う。拳が空を殴りつけた。

 拳圧に押し出された巨大な空気のかたまりが、凶暴な壁と化して牙を剥く。常軌を逸した、通常の何万倍という質量を伴った“空気圧”。

 まるでガレリア要塞がそのまま押し迫ってくるかのような圧迫感。蹂躙の範囲も桁違いに広い。

 逃げる時間も、隙も、またその術もない。

 暴威の空圧が彼女達を直撃した。

 

 

 マルガリータが攻撃する。ラウラとフィーがその場に到達する。ミリアムのアーツが駆動する。

 それらの全てはほとんど同時だった。

 インパクトの寸前、身構えた全員の前に輝く盾が浮き立つ。盾は即座に黄金色のベールを展開し、堅牢な防護壁をそれぞれに纏わせた。

 不可視の爆撃に、周囲の一切は灰塵と成り果てる。陸に去来した砂の大津波が、グラウンドの表面を削り取り、吹き荒ぶ暴風が大量の砂塵を舞い上がらせた。 

「むっふううぅー」

 マルガリータは息の一吐きで、自身の回りの砂埃を吹き散らす。

 その時彼女は見た。未だ晴れる気配すらない、細かな粒砂が混じった土煙の中に、一瞬だけ銀色が煌めいたのを。

「……何かしらあ?」 

 突如、空に向かって土煙を突っ切り、何かが勢いよく飛び出した。噴射煙の尾を引き、陽光をその身に浴びて輝く白銀のボディ。

 中空を疾駆したそれは、マルガリータの頭上高くに飛来すると、太陽を背に二つの影に分かたれた。

 小さな影と大きな影。

 大きな影がその形状を変化させ、小さな影と再び重なる。

 空に生じた黒点が視界の中で徐々に大きくなり、自分に向かって落下しているのだと理解したマルガリータは、さらに目を凝らす。

 マルガリータの指が強くゴキリと唸った。

 銀の大槌を肩に担いだミリアムが、凄まじい速度で落ちてくる。

「マルガリータッ!」

 上体を弓なりに逸らして背中まで振りかぶった、少女が扱うには余りにも大き過ぎるハンマーが、全力で振り下ろされた。

 落下の速度も加えた比類なき剛の一撃。

「ミィリィアアムウウッ!」

 怒りをむき出しにしたマルガリータは両の腕を交差させ、その身を押し潰さんとする力を一手に受け止める。

 ズドンと激しい衝突音が響き、滞留する砂埃を残らず吹き飛ばした。

「あんたあ! いつもいつも私の愛の手料理をつまみ食いしてええ!」

「味見だよー!」

「このガキャアアア!」

 ビキビキと悲鳴を上げながら地面が裂けていく。二人を中心にグラウンドがズズンと円形状に陥没し、小さなクレーターを作り上げた。

「ムッフウーン!」

「わわ!?」

 マルガリータが腹に力を込めると、ハンマーは少しずつ押し返されていく。

 落下の勢いもすでに失われている。これ以上の力比べはミリアムには不利だ。

 ――そう判断した(、、、、、)

 ミリアムの手から離れた大槌は瞬時に形態を変えた。人型――とは呼べないまでも、圧倒的な存在感を持つ二対の腕を引き下げた、宙に浮かぶ異形の傀儡。

「ガーちゃん、あとお願いね!」

 アガートラムはミリアムの声に応じ機械音で返答すると、彼女をぶんと放って退避させた。 

 状況は整った。

 アリサが右手を高く掲げると、それを合図に全員がリンクを切り替える。

 アリサはフィーと、エマはラウラと。アーツによる合計攻撃値がペアごとに概ね揃い、四人はタイミングを図って《ARCUS》を駆動させた。 

「ここで仕留めるわ! フィー!」

「了解」

 その場から遠ざけられたミリアムが地面に着地した時、マルガリータとアガートラムの周りに風が起きた。

 始めはそよ風にも満たなかった小さな揺らぎが、周囲の大気を巻き込みながら、瞬く間に旋風と化していく。至る所に雷撃の筋をまとった巨大な竜巻がグラウンドから立ち昇った。

 それで終わりではなかった。

「合わせましょう! ラウラさん!」

「ああ!」

 さらに重ねてアーツが発動する。

 竜巻の根底に熱が生まれた。仄かな火種は、酸素を取り込みながら肥大化し、爆発的な炎を生み出した。

 竜巻と融合した業火は、長大な熱風の渦となり、その中心に閉じ込められたマルガリータとアガートラムを炙り焼く。

「みんな、導力が続く限りアーツを持続させて!」

 一方、炎嵐の檻の中で、マルガリータとアガートラムは睨み合っていた。

 マルガリータが剛腕を構えると、アガートラムも豪腕を持ち上げる。

 相対する二つの巨躯が、じりじりと間合いを詰める。そして――

「グフォオッ!」

「§・∃ΓΛЁж」

 猛獣の雄叫びと電子音が響き、互いの拳が激突した。

 

 

 マルガリータとアガートラムが戦闘を開始して五分が経った。

 高熱のフィールドの中で、打ち合いは未だ続いている。外ではオーブメントに導力補給のカプセルを絶え間なく装填しながら、必死にアーツを持続させていた。

 こんな無茶な使用法はおそらく想定されていない。いつ《ARCUS》が損壊してもおかしくはなかった。さらには事前にありったけ用意しておいたEPチャージも底を尽きかけている。

「頼んだわよ……アガートラム」 

 祈るような口調で言い、アリサは炎の中に踊る二つの巨影を見据えた。

 

 アガートラムは困惑していた。困惑という言葉が不適当なら、開示された情報を処理できないと置き換えるべきか。

 先ほどから視界モニターに映る丸い物体に対し、スキャンによる解析を何度も試みている。しかし得られる情報は変わらなかった。

 『人間』『女』。身体データはそれだけだ。しかも断定はせず、解析データに『may be』が付け加えられる。

 その上、戦闘データに至っては『unknown』のオンパレードだ。

 どうなっている。こんなことは一度もなかった。自律思考を有するアガートラムは、今までにインプットした経験から、もしくは統計的な観点から、様々な局面で自ら判断を下して主たるミリアムを守ってきた。

 それが己の使命であると認識している。

「Γ∃ΘЁ……」

 不可解なことはまだある。常人なら目を開けることも、呼吸をすることもできないこの状況。

 なぜこの敵は目を見開き、大きく息を吸って、なお活動状態を維持できているのだ。眼球の水分は消失しないのか。気道から肺にかけて焼きつかないのか。

「ΣΠΛδШ……」

 わからない。

 自分のボディに目立つ外傷はないが、この熱で演算処理を司る内部機構が不調をきたしたのか、あるいは眼前の敵が自分の処理能力すら上回るスペックを備えているのか。

 判断はやはりできない。ただ、その二択なら前者でなくてはならない。

 時にアガートラムとは、その特徴が示す通り『銀の腕』を意味する神の名である。

 あらゆる難敵を打ち倒し、降りかかる苦難を薙ぎ払ってきた銀腕は、地に付くことがあってはならないのだ。

「ゴッファアアア!」

 計測値メーターを振り切って、敵が両こぶしを脇に構えた。 

 アガートラムは内部を伝達する余剰導力を一点に集中させた。

 マルガリータが大地を蹴る。アガートラムが限界値まで出力を上げたスラスターを炊く。相対する距離は瞬く間に詰まり、互いが双腕を突き出した。

 人を越えし巨躯と人ならざる巨躯が組み合い、グラウンドを激震させた。

「グムウウフォオオォオ!」

「ΠЁΘΠ!§Ё∃!」

 マルガリータの足裏が地面にめり込んだ。そのまま押し潰さんと限界出力を超えたアガートラムの腕から、ビキリと圧壊の音が響く。外部装甲にいくつもの亀裂が走る。バラバラと甲殻が剥離していく。各駆動系がオーバーヒートを起こし、赤熱した間接部が火花を散らし始めた。

 競り負ける。全ての状況が冷徹な結果をモニターに表示する。

 そうか。わかった。ならばこうしよう。合理的に勝利への道筋を算出し、アガートラムは先ほど集中させておいた導力を解放した。

 胴体部。顔にも見えるそのパーツの双眸に膨大なエネルギーが収束する。

「――Θ∃жκЖ」

 ――焼き払う。

 一際強い光が瞬いた。

 ビームが発射される寸前、組み合う両手を即座に離し、マルガリータはアガートラムの懐に肉薄した。

 ミサイルの勢いで、彼女は自分の顔面をビーム発射口に叩きつける。巨大な鐘を打ち鳴らしたような残響がこだました。

 アガートラムが大きくのけぞる。

 マルガリータの顔が離れると、肉厚のキスマークが装甲をベゴリとへこましていた。まさに呪いの刻印。発射口は見事にひしゃげて潰れている。

 直後、破裂音と共にアガートラムのボディーが跳ね上がった。行き場を無くした導力の塊が内部で爆発したのだ。体内を駆け巡る熱という熱が、動力系統や反応装置を焼き切り、外殻を融解させていく。

「∃Λ、Εδ……Σ―――」

 全ての力を失ったアガートラムはモニターにブロックノイズを走らせたあと、ガクンとうなだれるように沈黙した。

 

 

 業火の壁を突き抜けて、銀色の巨躯が宙を舞う。

 破損したパーツをまき散らしながら不規則に回転するアガートラムは、重たい音を立てて地面に落下した。

「ガ、ガーちゃん!」

 微動だにしないアガートラムにミリアムが駆け寄る。

「これ以上アーツを持続できないぞ!」

「私も同じく……」

「アリサさん!」

「くっ……」

 アーツの威力が弱まってくる。マルガリータは咆哮を轟かせた。

 放射状に拡がった音の爆弾が、内側から熱波を吹き散らす。

 地面は焼け、熱せられた大気が揺らめいていた。波打つ視界の中に、やはり彼女は立っている。

「まさかアガートラムがやられるなんて……」 

「アリサ!」

 地に伏すアガートラムに目をやった時、ラウラの尖った声が耳をついた。

 はっとしてアリサは正面に視線を戻す。

 視界に映ったのは絶望の光景。

 憤怒の表情を浮かべるマルガリータが雄叫びを上げ、粉塵を巻き上げながら一直線に突進してくる。

 フィー、ラウラ、エマがアーツを駆動した。オーブメント内にほとんど導力は残っていなかったが、かろうじて下級アーツが発動する。

 大気中の水分が凝結し、マルガリータを追随するようにいくつもの氷の刃が生成される。彼女を切り刻まんと、円を描きながら一斉に氷刃が襲い掛かった。

 それらを一瞥したマルガリータは止まろうとも避けようとせずに、灼熱する蒸気を口と鼻、そして耳の五穴から噴出させた。

 熱気が周囲に充満する。氷刃はその姿をコンマ一秒と保てず、瞬時に蒸発して水蒸気と化した。

「しまった……!」

 視界が真っ白に覆われる。誰が狙われるかわからない。

 しかし、走っていた方向を考えると――

「アリサさん! 逃げて!」

 エマが答えを弾き出した時、すでに丸太のような太腕が白煙の被膜を突き破っていた。

 アリサの腕が掴まれる。万力のような握力は逃げ出すという思考さえも起こさせない。

 かすむ視界の切れ間に、アリサは見てしまった。マルガリータが拳を振り上げる瞬間を。一発食らえばそれで全てが終わってしまう。

 打つ手はないのか。相手とて疲弊はしているはずだ。今までの攻防は決して無駄ではない。

 あと一撃、たった一撃でいい。渾身の一撃を入れる方法はないのか。

 思い至ったアリサの額に一筋の汗が流れた。

 用意したカードは全て使い切っている。あとは身一つ。やるのか。やれるのか。それさえ悩む時間さえない。

 覚悟を決めたアリサの《ARCUS》から光のラインが勢いよく伸びる。

 最後のリンク相手の位置を感覚で探し当て、ただ一つ手元に残ったそれを白煙の中に投げ入れた。

 同時、マルガリータの拳がアリサに炸裂した。

 

 

 一秒が引き伸ばされた感覚の中、アリサの思考は飛ぶ。

 目まぐるしく脳裏に展開されていく映像が、浮かんでは消え、過ぎ去ってはまたやってくる。

 一番遠くに見えるのは母だった。

 どうせ今日も仕事が忙しいのだろう。たまに会っても食事の一つさえ一緒に取れやしない。忙しいのは知っているが、ちゃんと栄養は取れているのかが気がかりだ。

 少し画面が近づく。

 今度は祖父だ。乗馬も弓術も彼に教えてもらった。プレゼントした帽子は大切にしてくれているだろうか。あの帽子はリィンと二人で選んだ、自分にとっても思い入れのあるものだ。

 画面は流れるようにして近づいてくる。

 今までたくさんの人と出会ってきた。複雑な家庭環境だったが、それでも人の出会いには恵まれていた方だと思う。

 自分を羨む人も、妬む人も。自分に優しい人も、厳しい人も。

 その中で自分が大切だと思える人たちが出来た。逆に自分を信じてくれる人も出来た。

 友人が、仲間ができた。

 心の映像は徐々に薄れていき、代わりに現実の視界を映し出す。

 ――そうだ、

 自分の背を押し、力を貸してくれる人達の為にも

 ――絶対に、

「負けないんだからあっ!」 

 《ARCUS》の核を成すマスタークオーツが強い輝きを放った。

「な、なんなのおっ!?」

 確かに直撃したはずの拳がまばゆい光に弾かれ、マルガリータはたたらを踏む。掴んでいた腕が緩み、アリサは捕縛から解放された。

 今のは間違いなく致命傷の一撃。しかしそれこそが重要だったのだ。

 翼の紋様を掲げたマスタークオーツ《エンゼル》が所有者の危険を感知し、守護の燐光を走らせていた。

「ムフォオッ!」

「これで!」

 再びマルガリータが腕を振り上げる。アリサは瞬きさえすることなく動力弓を構えた。

 狙いは防御ではない。マスタークオーツの発動と同時にもたらされる付随効果。その技(、、、)を使う為に必要な導力がオーブメント内に漲ってくる。

 導力弓を中心に赤い光陣が浮き立ち、アリサは矢を添えて弦を引いた。

 それは物質の矢ではない。矢の形に凝集された、炎熱のエネルギーそのもの。

 幾重にも放たれた紅の矢が、流星の如き軌跡を描く。

「そんなあっー! グムオオオ!」

 ゼロ距離から射られたにも関わらず、マルガリータは両手を突き出して、荒れ狂う炎弾を正面から受け止める。地面を削り滑って後退しながらも何とか踏み止まってみせた。

 ――今だ。

 口には出さなくてもいい。思うだけで意志は伝わり、すでに駆動準備に入っていた最後のリンク相手――エマが魔導杖を思い切り振り上げた。先ほどアリサが投げ渡したEPチャージを装填して、導力は十分だ。

 その全てを使い切るほどに強大なアーツが発動する。

 マルガリータの遥か頭上後方。中空に陣が浮かび上がる。空間に亀裂が発生した。そこから現れたのは、見るもの全てを震撼させるほど巨大な手。

 蠢いた巨人の五指が開くと、手の平の中央に瞳のような球体が顕わになる。

 収縮される光。

 膨れ上がったそれは直下のマルガリータへと照射された。光軸となった極大の力は、漂う塵芥を蹴散らしながら降り落ちる。

「っがああああ!」

 マルガリータは体を開き、右腕でアリサの一撃を止めながら、さらに左腕でエマの一撃さえも受け止めた。擦過する衝撃がグラウンド側に面した校舎の窓を、一つ残らず砕け散らせる。

「これでも!」

「まだっ!!」

 ありったけの力を注ぐエマとアリサ。受け止め続けるマルガリータ。

 その足元に予期せぬ方向からビーム光が走った。

 満身創痍のまま再起動を果たしたアガートラムが、潰れた発射口を溶解させながらも熱線を放ったのだ。地面が抉れ、マルガリータの足がぐらりと傾く。

 ずれる両腕の位置。届いた二極の閃熱。

 融合した莫大なエネルギーの奔流が、ついにマルガリータを呑み下した。

「ヴィンゼンドザマアア――ン!!」

 グランローゼの断末魔が、轟音の中に掻き消えていく。

 

 

 炎の残滓が舞い、マルガリータがくずおれる。

 全ての力を使い果たし、アリサの両膝も地についた。

「はあ、はあっ……」

 他のメンバーも同様に、不毛の荒野と化したグラウンドにへたり込んでいた。 

「終わった……?」 

 いや、まだだ。マルガリータを下すことが最終目的ではない。クッキーの回収、もしくは破壊が最終目標だ。

 アリサは気付いた。自分とマルガリータとの間に何かが落ちている。

 バラのイラストが施された赤い包み紙。彼女が倒れた拍子に服のどこかから落ちたようだ。

 この相次ぐ激闘の中にあっても傷一つ付いた様子がないが、あの包み紙は一体何で出来ているのか。

「くっ」

 アリサは這うようにして近づき、何とか回収しようとする。だが、

「ム……フォ……」

 マルガリータはまだ動く。巨体を腕だけで引きずってクッキーに向かった。

 二人の手がそれに伸びる。 

「そこまでと致しましょう」

 その手を制するように、静かな声が通り抜けた。

 上品な足音が近づいてくる。その場にあらわれたのはサリファだった。

 彼女は洗練された動作で一礼すると言葉を続けた。

「皆様。目的は違えど、ヴィンセント様の為に死力を尽くすお姿に、サリファは強く感銘を受けました」

 ――なぜ。

「ですが、これ以上のご迷惑を皆様方にかけるとなっては、フロラルド家の名折れ」

 これ以上ないご迷惑はすでにかかった後なのだが、それは置いておくとして。

 ――なぜだ。

「あとはこのサリファにお任せを」

 ――なぜここに彼女がいる。

 絶対に見つからないはずの鍵の隠し場所(、、、、、、、)が、なぜこの場にきているのだ。

「ーっ!」

 この感覚は覚えがある。

 シャロンが笑んで仕掛けてくるような、完璧にデザインされた悪戯。どこに転んでも必ず何かを踏むという、時折気まぐれの様に垣間見せる、たちの悪い使用人トラップ。

 その種類は多岐にこそ渡れ、全てに一貫しているのは、その後に上手く自分が立ち回れる道を用意していることと、こちらが気付いた時すでに状況は詰んでいるということだ。

 注視しなければわからない程かすかだが、今まさにサリファは笑んでいた。

「マルガリータ様」

「な、なによお? あ!」

 しなやかな細腕が、ひょいと包み袋を持ち上げた。

「あなた様はこのようなものに頼らなくとも、十分魅力的でございます」

 踵を返したサリファは、荒廃したグラウンドの一角にたたずむ倉庫へと向き直った。

「フロラルド家の次期当主たる者、受容の心と寛大な器が必要になるかと存じます。ゆえに――」

 すたすたと倉庫に進むサリファ。よろめきながらもむくりと立ち上がるマルガリータ。アリサ達はもう立てない。

「此度の事は、よき経験となりましょう」

 いつの間にか空には雨雲がかかっていた。上空で雷雲がゴロゴロとがなり立ち、落ちてきた雨粒が頬を伝った。

 がちゃりと鍵が開く。

 錆びついた倉庫の扉が軋みの音を立てた。

 

 

 光源のない真っ暗な倉庫の中、ヴィンセントは息を潜めていた。

 いかにあのマルガリータとはいえ、女子同士の戦いではあるし、最初はある程度説得で済むのではないかと考えてもいた。

 しかし冗談かと思う程の爆裂音や衝撃が絶え間なく倉庫を揺さぶると、彼は愕然とし、ただ女神に祈ることしかできなくなった。

 それが今、ずっと鳴り響いていた戦いの音が止んでいるではないか。

 終わったのだろうか?

 Ⅶ組が全滅するにせよ、マルガリータを殲滅するにせよ、この扉が開くときは自分の安全が確保された時だと聞いている。倉庫の鍵もサリファが手にし、他に渡ることはない。

 しばらくの静寂の後、外側からがちゃりと鍵が回された。

「おお……」

 助かった。自分は助かった。これぞ女神の天啓。

 扉がゆっくりと開いていく。光が差し込み、祝福の調べを奏でるかと思ったが、あいにく外は曇っているらしい。ばたばたと倉庫の屋根を叩く雨音も大きくなってきていた。

「サリファ待ちかねたぞ」

 ヴィンセントは顔を上げて入口を見た。

 誰かが立っている。それは暗い闇の中にあって、さらに濃密な影を浮き立たせていた。

「……サリファ?」

 戦慄が頭のてっぺんから足先までを穿つ。

 陰影の境界が映し出すシルエットが、明らかにサリファのものではなかったからだ。

「……な、なぜだ……!?」

 絶望の淵に立たされたヴィンセントは一つの言葉を頭に浮かべる。それは歌劇のような台詞回しを好む彼にしては、まったくひねりがなく、飾り気の欠片もない一言だった。

 

 サリファはあんなに丸くない。

 

「ひっ、ひいいいい!」

 雷光が瞬き、一瞬だけその人物が見える。

 見たくはなかった。信じたくはなかった。妖艶な笑みを顔に貼り付け、熱い眼差しを一直線に注ぎ込んでくる、その物体を。

 マルガリータが跳躍する。ヴィンセントが絶叫する。何物かが扉を閉める

 深い闇が全てを包み込んだ。

 

 時を同じくして、第一学生寮のとある一室。 

 豪奢なベッドの枕元に置かれた一つの花瓶。そこにある赤いバラと白いバラ。

 突如として赤いバラ――グランローズが花開く。同時に傍らの白いバラは、養分を奪い尽くされたかのように、その花弁を全て散らしていた。

 

 

 ~FIN~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆その後の委員長☆

 

 

 カッチカッチと時計の音が響く。外では先ほどから降り出していた雨が豪雨の様相を見せていた。

「さあ、飲みたまえ」

「………」

 用務員室、目の前に置かれた湯呑にエマは目を落とす。

「これは東方から取り寄せたものでね。趣味と思ってもらっていい」

「………」

 無言のエマをガイラーは笑った。

「おや、お嬢さんには煎茶ではなく紅茶をお出しするべきだったかな」

「……いただきます」

 湯呑を手にし、少しだけ口に含んでみる。渋く、苦い味だった。

 顔をしかめかけて、何とか留まる。今自分はⅦ組の委員長として、彼に頭を下げに来ているのだ。

 ガイラーも茶をすすり、満足そうに白い息を吐き出した。

「さて――」

 立ち上がり、つかつかとエマの周りを歩き回る。

「ざっと挙げてみようか。……人型に窪んだ中庭の植え込み、二階廊下に散乱したおびただしい数の机の山、なぜか屋上のフェンスに突き刺さっているスチール扉、そして砕け散った窓ガラス。中々のものだが、それはまあいいとしよう。問題はあれだね」

 彼は窓際からグラウンドを眺めた。

 至る所が焦げ付き、抉れ、岩盤がめくれ上がり、あげくクレーターまでできている。

「隕石でも落ちたのかね?」

 あくまでも穏やかに問うガイラーに、エマは「……申し訳ありません」とか細い声を絞り出した。

「構わんさ。以前にも言っただろう。私はこの学院の用務員なんだからね」

 時計の音が妙に大きく聞こえる。違った。これは自分の心臓の鼓動だ。

「だが、これだけの大仕事。私も君に何かお願いしなければ釣り合いが取れないかな?」

 エマはうつむき、無言で両手を差し出した。

「君は聡明だ。実にいい」

 その手に大き目の封筒が乗せられる。封筒の表には達筆な墨文字で『素直になれないボーイ・ミーツ・ボーイ』と表記されていた。

 エマの腕が細かく震え、手汗がじっとりと封筒に染みを作る。

「さて、さっそく行くとしよう。君はゆっくりしていってくれたまえ」

 扉を開き、廊下へ出る寸前。ガイラーは足を止め、エマにゆったりと振り返った。

「それでは講評と感想、楽しみにしているよ」

 一際大きな雷鳴が轟き、続く雷光がガイラーの顔に深い影を刻み付けた。

 一人用務員室に残されたエマ。

 彼女は眼前の煎茶を一息に飲み下すと、あまりの苦渋の味に視界を滲ませたのだった。

 

 

 

 

 

 ☆後日談☆

 

「しっかり走らんか!」

 ガイラーによって見事に修復されたグラウンドに、ナイトハルトの怒声が飛ぶ。

「聞けばお前達、たった一人の女子に全員で戦いを挑んで、まとめて気絶させられたそうだな!?」

 やや語弊はあるが、悲しいことに概ねその通りだった。

 男子チームの面々は、さんざんナイトハルトの説教を受けたあと、グラウンド二十週の刑に処されている。

 

 ――第一班。

「はあっはあ」

「がんばれエリオット、もう少しだ」

「僕最近気絶ばっかりしてる気がする……」

「気に病むことはない。今回は俺も気絶した」

 

 ――第二班。

「なぜこんなことに!」

「お前が考えもなくマルマリータに突っ込むからだ」

「君だって瞬殺されたって聞いたぞ。あとやっぱり名前が違う気が……」

「ふん、言っていろ」

 

 ――第三班。

「やっぱり素手はまずかったか」

「いやー武器があってもありゃ無理だろ。それよかリィン、芸術的な吹っ飛ばされ方だったぜ」

「クロウだって三回転半捻りしてたぞ」

「おいおい、そりゃお前さんだ。俺はせいぜい二回転よ」

 ナイトハルトが鋭い声を張り上げた。

「無駄口を叩くな! それとシュバルツァー、お前はあと十週追加だ」

「な、なんで俺だけなんですか!?」

「お前は戦術の要である《ARCUS》を奪われたそうだな。壊されなかったからいいものの、これでも軽すぎるペナルティだ」

 ぐうの音もでない正論だ。並走するクロウがにやにや笑いかけてきた。

「ご愁傷様。取られたのが俺のじゃなくてよかったぜ」

「教官! クロウが自分の《ARCUS》が奪われる可能性もあったと言っています!」

 ナイトハルトの目が険しく光る。

「その通りだな。よってお前も十週追加だ!」

「リィン! てめえ!」

 各所で小競り合いをしながら、男子達はひた走る。

「もうあの人に近づきたくないよ」

「同感だ」

「もっと作戦段階から練り上げた方がよかったんだろうな」

「ふん、終わってからなら何とでも言えるだろう」

「八葉の無手が通じないなんて……」

「あんの肉玉、覚えてやがれ」

 しかし、マルガリータにリベンジしてやるなどといった言葉は、男子チームの誰一人として、最後まで口に出すことがなかったという。

 

 

~END~




後編もお付き合い頂きありがとうございます。奮闘というか死闘になりました。

ちなみに本編に合わせる形を取り、アーツ名を叫んだりはしませんでしたが、何のアーツを使用していたか伝われば嬉しい限りです。(ファントムフォビアちゃんに合掌!)
そういえば話の中でエマがデンジャラス肉玉と言っていましたが、あの料理にはずいぶん助けられました。特に空SC。
立ちはだかる執行者の皆さんも、ラストの敵も、みんな一直線に焼き払ってくれました。とどめの一撃も肉玉だったと記憶しています(塩の杭はおまけです。教会の人にはそれがわからんのです)
唯一仕留めきれなかったのは、どっかの手配魔獣で、地震連発してくるミミズみたいなやつ。初見殺しか。

次もお楽しみにして頂ければ幸いです。


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ミスティさんの部活紹介(前編)

 九月下旬、とある日曜日の昼下がり。

「困ったわ」

 この通り、私は困っていた。困りながらトリスタの町を歩いていた。

 今日は日曜日。夜にはラジオ番組『アーベントタイム』がある日。何に困っているかと言うと、ありていに言えばネタね。要は話す内容のこと。

 別に普段はそんなに悩んだりしない。そもそも話すネタはリスナーのみんなから送られてくるんだもの。

 ただ今週は偶然が重なったのか谷間というのか、ハガキが送られてきた枚数が妙に少なかった。しかもその内容もあまりラジオ向けじゃないというか、パッとしないものばかりだったらしい。

 “らしい”というのは、私が内容の選別をしているわけじゃないということ。

 こう見えて私も何かと忙しかったりするので、さすがにその辺りは局の人に任せている。

 収録スタジオに入ると、机の上に選ばれたハガキが複数枚置かれてあって、私はそれを元にトークを展開していくという流れ。

 その場で初見の内容であってもトークに差支えはないけれど、ネタがなければ時間いっぱいに話し通すのはさすがにちょっと苦しい。 

 それで局長に言われたのよ。今日の放送開始までに何かネタを探してきて欲しいって。

「うーん、探せと言われたら探すけどねえ」

 基本的にトリスタには週に一回しか来ない。アーベントタイムの放送と、あとはまあ、ちょっとした用事でね。

 その程度しか足を運ばないのに、面白いスポットを知っているわけがない。

 いえ、当てがあるにはあるけれど。

 橋を渡り、教会を抜け、差し掛かった坂の先を見上げてみる。

 白い門の奥に見える建物はトールズ士官学院だ。

「……どうしようかしら」

 あそこに行けば、話になるネタの一つ二つはあるでしょう。来館者のように振る舞えば敷地内を見て回るくらいはできるし、放送の時に学院の名前を伏せれば問題も出ないと思う。

 ただねえ。

 少し考える。上着のポケットからコンパクトミラーを取り出して、自分の顔を映してみた。

 メガネはかけている。帽子もかぶっている。

「ま、少しなら大丈夫でしょう」

 小さく呟いてから、私は坂の上へと歩を進めた。

 そういうわけでアーベントタイムのパーソナリティを務める私――ミスティは、トールズ士官学院に向かうことにしたのだった。

 

 

《☆☆☆ミスティさんの部活紹介☆☆☆》

 

 

「やっぱり大きいわねえ」

 視界いっぱいに広がる校舎はやはり立派なものだ。

 さすがはドライケルス大帝が設立しただけあると言ったところかしら。ああ、違うわ。さすがに何回も改装されているわよね。

 ほんとに所縁があるのは裏手の校舎か。

「………」

 それはまだいいわ。今はラジオ放送のネタを探しに来たミスティだもの。

 敷地内の設備や配置は一応知っている。とりあえずグラウンドの方から回ってみましょうか。

「あら?」

 講堂前から小犬がこちらに向かって走ってくる。なんでこんなところに犬がいるの?

「待てルビィ! それを返してもらうぞ!」

 その後ろからは、犬を追いかける黒髪の男子生徒。彼の顔はよく知っている。リィン君じゃない。

 私はとっさに近くの物陰に隠れた。よく考えたら隠れる必要はないんだけど、何となくね。

 子犬は勢いよく正門から飛び出して行ってしまった。

「敷地内には入るなってあれほど……って分かるわけないよな」

 ぼやきながら、さっきの犬を追ってリィン君も学院から出て行った。

「彼に話を聞くだけでネタが集まったかもね。それと今……」

 子犬が何かくわえていた物を落としていったけど、リィン君が取り返そうとしていたものじゃないかしら。

 道の真ん中に転がっていたそれを拾い上げてみる。

「ペン?」

 黒いグリップに銀のラインが入ったボールペン。

 中々センスのいいデザインじゃない。でもどうしようかしら。渡そうにも、もう姿が見えなくなってるし。その内戻ってくればいいけど……とりあえず預かっておくことにしよう。

 改めてグラウンドに向かおうとした時、ふと思った。

「今のが犬でよかったわ」

 そう、たとえば猫とかじゃなくて。

 

 

 グラウンドの周りを三頭の馬が駆けている。

「はっはっは! どうした、マッハ号には追いつけんかね?」

「くっ!」

「部長の馬が早すぎるんですってば!」

 黒い馬が頭一つ抜けて早く、それを白い馬が追走し、その後ろに茶色い馬が続いていた。

 軽快な足音を響かせて、三色の毛並みが風を切る。

「マッハ号GO! マッハ号GO!」

「ランベルト部長。変なテーマを口ずさみながら走らないで頂きたい」

「ほんと恥ずかしいんだから。ムチを持ってくればよかったわ」

「お前も何を言っている!?」

 馬を走らせて何をしているのかしら。なんか大声で歌ってるけど。

 あ、もしかして部活? 士官学院だから馬術部くらいあるわよね。確か日曜は自由行動日とか。

 休みじゃないけど、授業はない日。ということは課外活動をしている生徒達が多いのかも。

「そうだわ」

 これだけ広い学院なら相応の部活数があるだろうし、その分トークのネタになりそうな話も転がっているかもしれない。

 うん、今日は士官学院の部活を見て回ろう。

 方向性が見えてきた所で、グラウンドの片隅から女の子達の話し声が聞こえてきた。

 専用のユニフォームに、先端にネットのついたスティック。あれは確かラクロスというスポーツで使うものだ。

 じゃあ彼女達はラクロス部というわけね。どんな話をしているのかしら。

「というわけでアリサと私のコンビネーション技の名前を考えたのですわ」

「な、名前ー?」

「その名もフェリスサイクロンですわ」

「コンビ技なのに私の名前が入ってないじゃない! だったらアリサトルネードとかにするんだから」

「横暴ですわよ!」

「どっちがよ!」 

 なんというか不毛な言い争いね。

 その後もあれやこれやと口論を重ねていた。しばらくしてようやく結論を出せたみたいだったけど、よほど熱が入っていたのか、二人とも肩で息をしている。

「これでいいんですのね」

「もう、それでいいわよ。一応二人の名前が入ってるし」

「じゃあさっそく合わせますわよ」

「ちょ、ちょっと恥ずかしいんだけど」

 二人は『せーの』で声をそろえた。

「フェリサハリケーン!」

 試合では叫ばないほうがいいと思うけれど。

 そんな彼女達を少し離れた所から見ている二人の女子部員。

「ねえ、テレジア。後輩達が面白い事やってるわ」

「そうね、エミリー」

 どうやらさっきの子達の先輩らしい。

「ねえ、テレジア」

「なに、エミリー」

「エミジアデストロイとか」

「やらないわよ」

 私が気にしてもしょうがないけど、ここのラクロス部って試合で勝ててるの? 

 グラウンドでやってる部活はこの二つみたいだし、とりあえず手帳にネタになりそうなことはメモをしておこう。

 そう思ってポケットを探ってみたけど、うっかりペンを放送局に置いてきたみたいだった。手にしている筆記用具はさっき拾ったリィン君のペンだけだ。

「うーん、拾い物だけど今だけ貸してね」

 彼には後でお礼を言わないと。またステッカーでもあげようかしら。

 手帳を開いて『歌う馬術部』、『ラクロス部の必殺技』と書き込む。文字だけだと何の事かはわからないけど、まあまあキャッチーなネタと言えそうね。

 さて、それでは次の部活を見に行こうかしら。

 

 

 ――フェンシング部――

 グラウンドを過ぎて石畳の道を少し行くと、黄金の軍馬の紋章を入口に掲げた建物が見えてきた。ここはギムナジウムとか呼ばれる施設だったはずだ。

 中からは元気のいい声が響いている。さっそく中に入ってみた。

 まず二階へと続く階段が正面にあって、その奥とすぐ右手側にそれぞれ扉が見えた。

 右手側の扉は開いていたので、そっと覗いてみると、サーベルを構えた男の子達が型の稽古をしていた。

「なるほど。ここは練武場で、彼らはフェンシング部ね」

 奥にいた緑服の学生は、壁に向かって打突を繰り返しながら何か呟いている。

「ブリジット……ブリジット……」

 最近のフェンシングって掛け声変わったの? 

 その少し手前では、いかにも育ちの良さそうな白服の学生がサーベルを縦に構えていた。細い白銀をうっとりと眺めながらため息を吐き、刀身の中腹に白い曇りを作っている。

「エリゼ君……」

 あなた達、熱でもあるんじゃない。稽古もほどほどにね。

 ほら先輩が近づいてきた。怒られるわよー。

「おいこら、アラン、パトリック! なに気の抜けた構えやってんだ! フリーデルも言ってくれ」

「まったくだわ。少しお灸をすえないとね」

 フリーデルと呼ばれた女子生徒がどうやら部長らしい。彼女がそう言うと、呟きの男子達は電流でも流されたように背筋を伸ばした。

「い、いえこれは……その、しなやかに敵を突く『ブリジットの微笑み』という打突の練習でして……」

「い、今のは相手の心に隙を作る『エリゼの構え』であって……」

「はっはっは。ほら一年共、覚悟を決めやがれ」

 彼女はにこりと笑顔を浮かべた。

「あら、あなたもよ。ロギンス」

「は?」

 三分後、練武場の隅には山なりに束ねられた悲しい男子達の姿があった。

 一人一分持たなかったわねえ。

 とりあえず手帳には『哀愁のフェンシング部』と書き込んでみる。

 

 

 ――水泳部――

 奥の扉を進めばプールがあるらしい。水の音がするから活動中だと思うけど、いきなりプールサイドに入ったら目立っちゃうし。

「二階からもプールって見えるのかしら」

 エントランスの階段を上がってみると、ちょっとした観覧スペースがあった。ここからならばっちりプールを見下ろせる。案の定、そこでは水泳部が水しぶきをあげながらプールの中を泳いでいた。

「うっし、ラウラ。俺と今から50アージュ競争だ」

「私がクレイン部長とですか。お相手させて頂きます」

 今から部員の二人が競争するみたいね。でも当事者の二人じゃなくて、そばにいる別の部員が何か言い合っているようだけど。

「ねえ、カスパル。ラウラと部長どっちが勝つと思う?」

「そりゃやっぱクレイン部長だって。モニカはラウラなのか?」

「だってラウラって泳いでる時は魚みたいに速いんだから」

「部長だって泳いでる時は魚だ!」

 なんだか話が変な方向に行ってるわ。

「な、なによ。カスパルがカサギンだとしたら、ラウラはゴルドサモーナよ!」

「ふん、モニカがシュラブだとしたら、クレイン部長はギガンソーディだからな」

「シュラブってカニじゃないの!?」

「今度からモニカニって呼ぶからなー」

 口論は次第にヒートアップしていく。

 勝負開始前に気付いた二人が仲裁に入ってきた。

「そなた達どうしたのだ? カスパルも落ち着くがいい」

「くそっ、ゴルドサモーナにカサギンの気持ちはわからねーよ!」

「ゴル……何のことだ?」

 一方、女の子の方も。

「おいおい、モニカ。口ゲンカなんて珍しいな」

「うう、モニカニ……。シュラブなんて、いつか大型魚に捕食される運命なんです……」

「な、何があったんだよ、お前ら」

 結局勝負はお流れに。なんだかどこの部活もドタバタしてる印象ね。

 それでは手帳に一筆。『お魚いっぱい水泳部』っと。

 

 

 ――園芸部・釣皇倶楽部――

 ギムナジウムを出てすぐ。奥まった中庭と、対面するように作られた花壇があった。

 花壇の奥のスペースには小さな池もあって、見ればそこに学生が二人並んでいる。

 一人は男子で池に向かって釣り糸を垂らしていて、その横に立っているのは銀髪の小柄な女子だ。

「ねえ、ケネス。釣れる?」

「は、はは。今日はあまり釣れないなあ……」

 男の子が心なしか緊張しているように見えるのは気のせい? 竿も小刻みに震えてるし、あれじゃ魚も釣れなさそう。

「その……君こそこんな所で何をしているんだい?」

「今日は園芸部の活動がある日だから、エーデル部長を待ってる。ケネスも部活?」

「まあ僕の場合は半分趣味だけどね。一応釣皇倶楽部として活動してるけど」

 なるほど。園芸部と……なんて言ったっけ。釣皇倶楽部? 要は釣りをする部活だと思うけど、何だか変わった名前ね。

「フィーちゃ~ん」

 おっとりした声が聞こえた。麦わら帽子をかぶった女の子が走ってくる。その手になぜか大根が抱えられていた。

「あ、部長」

「はは、待ち人が来たみたいだね。僕はまだここで釣りをしているから行ってくるといいよ」

 男子生徒は改めて池に向き直ると、小さく息をはいた。やっぱり銀髪の女の子が苦手のようだった。

「フィーちゃん見て、この大根。苗を買いに行ったらジェーンさんが貰い物だって言って――きゃっ」

 大根を手にしたまま花壇の段差に蹴つまづき、彼女は池の方へと足をもつれさせた。

「あら~」

 間の抜けた声に続いて、体勢が前のめりに崩れてしまっている。それも手に持った大根を前方に突き出しながら。

 ずむっ、という鈍い音と「うっ」というくぐもったうめき声が重なり、水面を波立たせた。

 ……まあ、これは。

 釣りをしていた彼のお尻に、突き出された大根の先端がめり込んでいる。

 手からこぼれ落ちた釣竿が池に落ち、小さなしぶきと共に不規則な波紋が広がっていく。

「……な、なに」

 彼は後ろ手で大根を恐る恐る触り、ゆっくりと首を動かしてその様を視界に入れた。

 さぞかし衝撃の光景なんでしょうね。さすがに同情してしまうわ。

 男の子は信じがたい物を見るような目で、風に揺れる麦わら帽子と白くたくましい大根を交互に眺めている。

 その大根は彼の着ている純白の制服にも見劣りしない、荘厳な白色だった。

 急に肩を脱力させ、がくがくと膝がくずおれる。大根は抜けたものの、盛大な水しぶきをあげて、彼は池に落ちてしまった。

「まあ大変。フィーちゃん、どうしましょう?」

「助けたらいいと思うけど」

 銀髪の女の子は大根を拾って、池へと伸ばした。

「ケネス、これに掴まって」

 しかし差し出された大根は、タイミング悪く浮き上がってきた顔面に、またしてもその先端をめり込ました。

『あ』

 女の子達は声をそろえ、男の子は再び池の底へと沈んでいく。ぽこぽこと浮かんでは消える気泡も、やがて上がって来なくなった。

 あーあ、ちゃんと助けてあげてね。釣竿は引き寄せられる位置に浮いてるし、がんばれば釣り上げられると思うわ。

 えーと『釣り上げられる釣り人』に『園芸部の大根ガールズ』ってところかしら。

 

 

「……ここは」

 花壇を抜けて、歩を進める途中。私は足を止めた。いえ、無意識に足が止まっていた。

 すぐ目の前に技術棟は見えているんだけど、私の視線はそこではなく手前の小道に向いている。その先に感じる異様な空気。遥か地下から聞こえてくる小さな脈動。

 聞いていた通り、やはり第一の試しが済んでいる。目覚めしは“灰”か。

「……ふふ、今はミスティだってば」

 “その時”が迫っている。

 ただ、それまでは私もこの日常を楽しまないとね。特にパーソナリティーの仕事は楽しんでやっているんだから。

 小道には入らず、すぐ横の建物を見やる。ここが技術棟。もちろん技術部がいるんでしょうけど、さすがに扉を開けて見学させてもらうのは不自然かしら。

「んー、ここは別にいいわよね」

 横目に通り過ぎようとした時、「おいおい、まだできねえのかよ」と焦れた声が屋内から聞こえてきた。

「この声……」

 間違いない。彼だわ。少し耳を澄ましてみる。

「いや、ちゃんと作ってるよ。ただ小型化するとなると少し工夫がいるんだ」

「頼むぜ。お前だけが頼りなんだよ」

「だからクロウ。何に使うのか教えてってば」

「それは言えねえって。くっく」

「怪しいなあ」

 彼も楽しんでいるみたいね。心中で何を思っているのかは、さしもの私にもわからないけど。

 いずれにせよ。今はまだその時じゃない、か。

「さて、次は――」

 首を巡らすと、技術棟越しにも視界に入る大きな建物。あれは確か学生会館とかいう施設。文化系の部活がありそうな感じね。

 このままさくさく見て回りましょう。

 

 

 ――第二チェス部――

 屋内に入ると一階は学生食堂という造りになっていた。

トマトを煮ているのか、いい匂いがする。できれば頂いていきたいけど、さすがにそこまでのんびりとはしていられないわよね。ちょっと残念。

「ここって一階だけ?」

 外から見る限りだと三階ぐらいはありそうな感じだったけど。

 そんな事を思いながら食堂を見回していたら、二つのカウンターに挟まれた通路の先に階段を見つけた。

「二階には何があるのかしら?」

 階段を上り、二階に着く。

 長く伸びた廊下を挟んで左右にいくつかの部屋があって、その最奥にも扉が見えた。

 ドアに貼り紙やかけ札をしている所もある。どうやら部活名を記しているらしい。

「へえ。二階には部室がまとまっているのね」

 部室内で活動するなら、やっぱり文化部が多いのかも。

 階段は三階にも続いていたけど、上には行かなかった。赤絨毯なんかが敷かれていたし、何だかややこしそうだもの。

 とりあえず手近な正面の部屋を見ようと近づいた時、

「キッ、キーング!?」

 そんな絶叫が響き渡る。叫び声は左側、一番手前の部屋からだった。扉を少し開けて、隙間から中を覗いてみる。

 机を挟んで対面して座る二人の男子学生。その机の上に置かれているのはチェス盤だ。

「やってくれるね、マキアス君! まさかそんな伏兵を用意していたとは! だがこれなら!」

「ふふ、ステファン部長。驚いている暇はありませんよ。ほらこうすれば……キングを守る兵士達が次々に――」

「ルークーッ! 共にキングを守るという月下の誓いはどうしたー!?」

「誓いなんて……圧倒的戦力と緻密な戦略の前では、紙切れに等しいのですよ」

「はおおおう!」

 チェスってこんなに騒々しいゲームだったっけ。

 見た感じ優勢なのは、眼鏡をかけた利発そうな男子で、劣勢なのは叫び続ける熱血男子のようね。

「キングさえ生きていればまだ望みはあるんだ。ここで後退を……っ? な、なぜ友軍のポーンがこんな位置にいる!? これでは進路が防がれてキングが逃げられない! 一体どうして……」

 それはあなたが置いたからでしょう。

 相手の男の子は眼鏡をクイと押し上げた。

「そちらの陣営は一枚岩ではなかった。それだけの事です」

「ま、まさか……懐柔したのか、こちらのポーンを! ええい、裏切るかポーン! 身寄りのない貴様を拾ってここまで育てたのは誰だと思っている!?」

「ここまでですね、さあチェックですよ」

 眼鏡の男の子が白のナイトを進ませた。叫んでいる男の子は、目を丸くむいて過呼吸寸前のような息の荒さだ。

 これ勝負が決まった瞬間に、あの子死んじゃうんじゃない?

「まださ。こっちには最強のクイーンがいるのさ。……な、なな、何だとお――!? なぜクイーンがその位置に!?」

 だからあなたが置いたんだってば。

「クイーンも老いたキングに仕えるよりは、若々しいナイトの方がいいようで」

「い、いつだ……? いつクイーンは寝返っていたんだ」

「月下の誓いの時にはすでに……ね」

「げっ、下衆ううッ!」

 月下の誓いって何なのよ。うん、もうここも大丈夫。お腹いっぱい。

 扉を閉めると同時に絶叫が廊下にまで響いた。ついにとどめを刺されたみたい。さっきまでの喧騒がうそみたいに静まっている。やっぱり死んだわ、あの子。

「あっと、忘れるところだったわ」

 手帳とペンを取り出す。そうねえ、ここは……『チェス部、裏切りの応酬』。こんな感じかしら。

 

 

 ――写真部・オカルト研究会――

 奥側の対面する部室の前で、二人の学生が言い争いをしていることに気付いた。

 ニット帽をかぶった男子学生と、濃い紫のリボンを頭で結ってる女子学生。

 男の子はどこか軽薄な立ち振る舞いで彼女に何かを言っていて、対する女の子は垂れ目の三白眼で見返しながら、不敵な笑みを浮かべている。

「だからさベリル。オカルト研究会って何か辛気臭いんだよ。占い部とかに名前を変えればいいじゃんか」

「いつも光の下で被写体を追い求める写真部にはわからないのよ。そもそも占いだけをしているわけではないわ。大体レックスだって――」

 なるほど。男の子が写真部で女の子がオカルト研究会。言い合いの元は、部活の名前についてという感じかしら。

「そういうわけで守護精霊ベラ・ベリフェスが言ったのよ。オカルト研究会で行くがいいって」

「いや、わかんねーぞ」

「私の水晶が映し出す映像を見る限り、あなた女子ばっかりカメラで追い回しているんじゃなくて? そんな人にどうこう言われたくないわ」

「うぐ、そ、そんなことはもうしてねえよ」

 男の子は目を逸らす。多分ちょっとやってるって顔ね。

「とにかく、このままだとお前陰気な女だと思われちまうぞ」

「それがあなたに何の関係があるのよ。私は別に――」

「お、俺はお前が変に見られるのが、その、なんか嫌なんだよ!」

「え?」

 あら? これってもしかして。

「……これ、この前偶然お前がカメラに映ったんだ。ちょっと見切れてるけどよかったら見てくれよ」

 差し出された一枚の写真を手に取った女の子は、たちまちに驚いた表情を浮かべた。

「うそ……この写真、私の為に……?」

「ああ、よく撮れてるだろ。お前の後ろの、空中に浮かび上がった染みみたいな男の顔」

「うん、すごく鮮明」

「欲しかったらそれやるよ」

「え、いいの? あ、ありがとう」

 ぎこちないけどいい雰囲気ねえ。青春の一ページって感じ。ただ写真の内容のどこにときめくポイントがあるのかは、まったく理解できないけど。

「……その」

「……な、なに」

 もうじれったいわ。ほら、ちゃんと男の子からエスコートするのよ。

「じ、時間あったら今から一緒に写真撮りにいかないか」

「でも……外に出ていいかベラ・ベリフェスに聞かなきゃいけないし。それに太陽の光を浴びたら私――」

 男の子は自分のニット帽を女の子の頭にそっと被せた。

「これで大丈夫だろ」

 女の子は赤面してうつむいている。

 うん、すごくいいんだけどね。太陽の光を浴びたらどうなるのか先に聞いてくれないかしら。そこ気になるんだけど。

「でもやっぱりだめ! あなたは写真部、私はオカルト研究会。住む世界が違いすぎるわ!」

 ニット帽を返そうとする女の子を制して、男の子はその手を強く握った。

「やめて……あなたは眩しすぎるわ。私とは違うのよ」

「そんなことねえよ。もうわかってるはずだろ」

 そこで殺し文句が出た。

「作ろうぜ。心霊写真部」

「…………うん」

 もう二人だけの世界だ。明らかに部外者の私に一瞥すらすることなく、二人は横を通り過ぎていく。

 さっきから私お腹いっぱい過ぎて倒れそう。

 えーと、そうね。『霊が運ぶ想い、心霊写真部結成』でいいわよね。というか生徒会とかに認可されないと思うけど、そこは二人の力で乗り越えてちょうだいね。

 

 

 最奥の部屋は生徒会室だった。さすがにここに用事はないので引き返す。

 その途中、左手の扉に『釣皇倶楽部』と書かれた札が貼られているのを見つけた。さっき池に落ちた彼の部活だ。

 もし沈んだままだったら廃部になるわね。そうしたら心霊写真部が新しい部室にしちゃったりして。まあ多分引き上げられたとは思うけど。

「学生会館はこんなものね」

 あとは本校舎の中ぐらい。無理に見回る必要はないんだけど、放送時間の長さを考えると、もう少しネタも欲しいところ。

「あ」

 そういえばさっき見損ねた部屋があった。キーングとか叫ばれてそっちに行ってたからつい忘れてたわ。

 一番手前、階段前の部屋に戻る。扉の掛け札には文芸部と記されていた。

「ふうん、文芸部ね。でも中から声がしないし……」

 ドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。のぞいてみるも、やっぱり中には誰もいない。

「……失礼」

 部屋に入って、室内を見回してみる。本、本、本。棚には所せましと立ち並ぶ本の数々。

 大き目の机には書きかけた原稿が重なっていた。小説の執筆とかもしているのね。

「んー、あまりネタになりそうなものはなさそう」

 部員の学生と鉢合わせても面倒だ。退散しようとしたら、壁に立てかけられた大きなボードに目が留まる。予定表が張り付けられていた。

「創作小説品評会、乙女達の祭典……?」

 近々小説のコンテストがあるみたい。名前から察するに女の子達だけの品評会のようだけど。それも珍しいわね。

 さらにボードの下には部員の名前が書かれていた。

「えーとドロテにエマ。あら、たった二人だけ……え?」

 ……エマ?

 この部活ってもしかして。

 私は帽子を目深にかぶる。

「そう、文芸部。……やっぱり早々に出た方がいいわね」

 足早に扉に向かおうとしたところで、その声がした。

「もう部室にドロテ部長来てるかしら。品評会のこと聞いておかなくちゃ」

 足音がまっすぐに近づいてくる。

 今顔を合わすのは……。 

 とっさに隠れる場所を探す。本棚は無理。物陰はない。窓から――だめだ。ここは二階だった。隠れる場所がない。

 いっそ開き直ってこのまま対面してみる? それとも帽子で顔を隠したまま走り抜けてみる?

 いや、どちらもダメだ。

「失礼します。部長いらっしゃいますか」

 ドアノブが回り、扉は開かれた。

 

 

 ~後編に続く~




最後までお付き合い頂きありがとうございます。これは一話で収めれるかと思ったんですけど無理でした。ちょっと部活多過ぎぃ。

というわけで今回はミスティさんがメインです。まずいくつかの補足を。
とりあえず彼女も二面性のある人物ですが、本編のセリフや行動を見るに、真っ白ではないにせよ心の裏でも他人を侮ったり蔑んだりはしていないこと(どっかの教授とは違って)、そしてラジオパーソナリティーを楽しんでやっている節もあること(もし諸々のカムフラージュならオペラだけでいいですもんね)、謎はあるけど不気味さはなく、一般的な生活感も垣間見れること(どっかの教授とは違って)
その三点があった為、なんとか話の主軸に持ってこれました。

前回が激しかったので軽い話をと思っていましたが、ミステリアスお姉さまが主役なのでそこそこに妖しい雰囲気が滲み出てる! 

後編もお楽しみ頂ければ幸いです。


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ミスティさんの部活紹介(後編)

「失礼します。部長いらっしゃいますか」

 ドアが開き、彼女は室内へと入ってきた。

「あら、いませんね。誰かいたような気がしたんですけど……」

 視界の中に足が近付いてきて、頭上に何かが置かれた音がした。

 私がとっさに身を隠したのは部屋の真ん中にある大きめの机の下だ。というかここ以外に物陰なんてなかった。だけど四足の机なので角度を変えれば私の姿は丸見えになってしまう。

 見付かったら見付かった時の事だけど、できれば今はやり過ごしておきたい。

「うーん、品評会はともかく、他に聞きたいこともあるんですが」

 だったら早く部長さんを探しに行きなさい。

 急にドサッと目の前に何かが落ちてきた。

 厚みのある一冊の本。

 さっき机に置いたものみたいだけど位置が悪かったのか、何かに重ねて乗せていたのか、ともかくそれは私の前に落ちてきた。

「あ、借りてきたばかりの本なのに」

 何て間の悪い。本を拾おうと腰を屈めている。

 まず三つ編みのおさげが、続いて垂れた前髪が、そして丸眼鏡をかけた横顔が、順番に見えてくる。

 近い、近い、近いって。これはもうアウトね。こっちを向かなくても余裕で視界に入る距離。

「エマさん、もう来ていたの?」

「あ、ドロテ部長」

 半ばあきらめかけた時、件の部長さんがやってきた。何て間のいい。

 彼女はやってきた部長さんの方に顔を向けながら、本を拾って立ち上がる。私に気付くことはなかった。 

「お訊きしたいことがあるんですけど、品評会の事とそれと――」

「よかったら食堂でお茶でも飲みながら話しませんか? 品評会の件、私達にとって初の大舞台なんだから」

 二人は話しながら部室を出ていく。足音が遠ざかったのを確認して、私は机の下からようやく出ることができた。

「まったく。あの部長さんのおかげね」

 膝のほこりを一払いして、私も部屋を後にする。

 ……文芸部ね。まあ、似合ってると思うわよ。

 食堂に下りてそっと様子を窺うと、奥の席で二人は何かを話し合っていた。あの子は入口側に背を向けているし、私に気付く心配はなさそう。  

 カウンターの店員さんが不思議そうに私を見てきた。学院関係者を装って何食わぬ顔で食堂を抜け、扉の外に出る。

 三十分も屋内にはいなかったはずだけど、久しぶりに外の空気を吸った気がした。

 ほんとに濃い部活ばっかりだわ。おかげでトークのネタにはなりそうだけどね。

「そうね、この後は――」

 本校舎内も回ろうと思っていたけど、やっぱり長居すると何かと面倒事になりかねない。

 でも逆に考えれば、今あの子は学生会館にいるわけだから、そっちのリスクは低くなっている。

「せっかく来たんだし、もう少しネタも欲しいし……」

 うん、全部回ってみよう。

 

 

  進路に沿って本校舎に向かおうとしたら、途中で左に曲がる道を見つけた。

 何とはなしに立ち寄ってみると、学生会館ほどじゃないけど、ここにも大きな建物があった。

「えーと、この建物って何だったかしら?」

 一応施設の位置は知っているつもりだったけど、ここはちょっと記憶にない。

 気になったので入ってみることにした。

「ああ、そうだったわ」

 扉を開いて一歩目でその施設が何なのかを理解した。視界一面を埋め尽くす膨大な蔵書の数々。ここは図書館だ。

 そこまで重要な施設ではなかったし、すっかり忘れていた。

 でも図書館で活動する部活なんてなさそうね。

「ご来館の方ですか?」

 貸出カウンターの司書の女性が声をかけてきた。

 私は笑顔を浮かべながら会釈をする。

「ええ、そうなんです。この後学院長とお会いする予定があるんですけど、時間潰しでお邪魔させてもらいました」

 さらりと言ってのける。仮にもラジオパーソナリティーだもの。

 適当な内容だったけど、学院長というワードは効果的だったみたい。特にそれ以上聞かれることはなく、司書さんも笑顔を返してくれた。

「まあ、そうでしたか。ゆっくりしていって下さいね」

「お構いなく」

 とは言ったものの、部活がなければ用はない。かといってすぐに図書館を出てもセリフの辻褄が合わなくなる。

 五分程度、本でも眺めてから行けばいい。

 そう考えて奥の本棚に足を向けた時だった。

 扉が開いて、誰かが入ってきた。

「こんにちは、キャロルさん。本を返しに来ましたよ」

「あらエマさん、この前借りたばかりなのにもう全部読んだの?」

 ちょっと待って。部長さんとの話はもう終わったの?

 とっさに身近な本棚の陰に身を潜める。

「面白かったのでつい一度に。あとさっきドロテ部長に頼まれちゃって、資料になりそうな本を探しに来たんです」

「ああ、文芸部のね。小説の方は順調? 書き終えたら私にも読ませてほしいわ」

「そ、その、私の小説なんて人に見せられるようなものじゃないので!」

「何言ってるの。小説はハートよ。その人の在り方が文章にじみ出るものなのよ」

「わ、私そんなんじゃありませんから!」

 図書館に来たことが裏目に出るなんて。しかもあの子、こっちに向かって歩いてきてるじゃない。下手には動けないわ。

「えーと、この辺にあったような気がするんですが」

 私のいる本棚の表側で本を探している。また間の悪いことをして。

「こっちだったかな……」

 目当ての本が見つからなかったのか、首を傾げながら今度は裏側に回ってきた。

 勘弁してよね。私は彼女の動きに合わせて表側に回る。

「うーん、やっぱりこっち側だったような」

 くるりと体を返してまた表側に戻ってきた。私は出しかけた足をとめて、急いで裏側に引き返す。

 そんなやり取りを二回繰り返したあと、ようやく探し物の資料を見つけたらしい彼女は、そのまま貸出カウンターに向かっていった。

 さすがに息が切れる。途中でいい加減にしなさいよって、うっかり文句言っちゃうとこだったわ。

「一週間の貸出ね。いつもありがとう」

「こちらこそ。そういえばキャロルさん、探してるものがあるんですけど」

「今度は何の本かしら?」

「いえ本ではなくて――」

 司書さんと何か少し話したあと、彼女はようやく図書館から出て行った。

 深く息を吐く。

 資料を持ったんなら今度こそ学生会館に戻るはず。

 念の為、少し間を置いて図書館を出ようとした私に、司書さんが声をかけてきた。

「あら、もう行かれるのですか」

「あまり学院長をお待たせしてもいけませんし。お邪魔しまし――」

 言いかけた時、また入口扉が開いた。

「すみません、キャロルさん。一冊返し忘れていた本がありまして――ってどうしたんですか?」

「え? あの、そのー……」

 司書さんの目がちらりと向けられる。声が聞こえた瞬間に、私は素早くカウンターの下に潜り込んでいた。

 口元に指を当てて、“言わないで”のサインを送る。小さくうなずいた彼女は「え、えーと、なんでもないわ」と意を汲んでくれた。

「そうですか? これ今言った本です」

「あ、ええ、大丈夫よ。ありがとう」

「すみませんでした。では私はこれで」

 扉の閉まる音。

 屈めていた身を起こし、司書さんと向かい合う。妙な沈黙が流れた。

「あ、あの。もしかしてエマさんのお知り合いか何か?」

「お構いなく」

 

 

 敷地を一周して、最初の地点に戻ってきた。

 前方には本校舎の正面玄関、後方には正門。このまま正門から出れば、問題なくトリスタに帰れるわけだ。

「……もう決めたしね」

 さっき思った通り、ネタはもう少し欲しい。

 ここで引き返すのも中途半端な感じがするし、それにあの子は今度こそ学生会館にいる。

「校舎内でやってる部活なんて限られてるでしょ。さっと見ていけばいいわ」

 それにどんな部活があるか、ここまで来たら全部見てみたいしね。 

 

 

 ――吹奏楽部――

 一階は授業に使う教室や、保健室、教官室などがあった。

 さすがに教官勢に見つかると厄介。来館者の振りをしても詰められれば厳しい状況だ。

 ごまかし通すだけの根拠と、その手回しが今日はできていない。まあ、だとしても本来の“ネタを探しに来たミスティ”で押し通せるとは思うけどね。

 多少は怒られるんだろうけど、そこから先は局長に謝ってもらえばいいし。

 なので一階はスルーして二階に上がる。幸い本校舎で行う部活は、二階の特別教室で活動しているようだった。

 階段を上がってすぐ、右手側の教室から様々な楽器の音色が聞こえてきた。

「あら」

 奏でられる旋律に、気分が高揚していく。

 練習中だからか、少し音にばらつきを感じるけど、ハートが伝わってくるいい演奏だ。

 そういえばさっきの司書さんも小説はハートだと言ってたっけ。その通りだと思うわ。

 小説でも音楽でも、それ以外でも、ね。

 扉の隙間から中を覗いてみると、フルート、コントラバス、サックス、トロンボーン、ティンパニ、多様な楽器がパート毎に整列している。

 活動しているのは吹奏楽部らしい。

 一つ一つの音に神経を集中させてみる。

 個々のパートもいいレベルでまとまっている。中でもチェロを演奏している橙髪の男の子は、頭一つ抜けて錬度が高い。

 幼い頃から音楽に触れてきたのだとすぐにわかる。

「へえ、いいじゃない……でも」

 演奏が一旦中断した。音のばらつきが大きくなってきたからだ。

「中々そろわないね。もう少しフルートのタイミングを早くしたいんだけど」

 眼鏡をかけた優しそうな男子生徒。どうやら彼が部長らしい。

 フルートパートに座っていたお団子頭の女子が言う。

「今日はメアリー教官、練習には参加できないんですか~?」

「試験の採点があるみたいでね。でも指揮者がいないとやっぱり細かい調整がやりにくいね」

「あ、じゃあー」

 女の子の視線の先にいたのは、先程の橙髪の男の子だった。

 彼はきょとんとして彼女を見返した。

「え? なに?」

「エリオット君が指揮をやってよ」

「僕が? 一応タクトは振れるけど……」

 眼鏡の部長さんも「ああ、それはいいかもね」と乗り気な様子だ。

「エリオット君、僕からもお願いするよ。音合わせ程度でいいんだ。楽にやってくれて構わないし」

「うーん……わかりました。それじゃあ」

 彼は指揮者の立ち位置へと向かった。

 あの子は指揮も出来るのね。逸材だわ。

「では、いきます――」

 軽く息を吸ってタクトを掲げた時、お団子の女子が「よかったー」と安堵の声をもらした。

「ミント?」

「だって、今日エリオット君は猛将じゃないみたいだし。安心して演奏できるよー」

 なに? 猛将?

「ミ、ミント! 変な誤解になるから余計なことは――」

「エリオット君」

 部長さんが席から立ち上がった。

 穏やかな印象の眼鏡が光って、妖しい雰囲気を醸し出している。音楽室全体に異様な空気が漂い始め、次第にざわざわと「ま、またか?」や「あれが来るのか……?」などの喧騒が大きくなっていった。

 なに? 何が起こっているの?

「君はまだ猛将をやっているのかい?」

 押し殺したような声音で問う。猛将をやるってどういうことよ。

「ハイデル部長、それは誤解――」

「君の指は綺麗な音楽を奏でる為にあるのかい? それとも綺麗に袋とじを開ける為にあるのかい? 表紙と中身の落差を知った時のように、僕を落胆させないで欲しいな」

「ぶ、部長が何を言っているのかよく分からないんですが」

 私にもよく分からないけど、どっちかと言えば部長さんの方が猛将じゃないの、これ。

 お団子頭の女子が、急に表情を暗くした。

「エリオット君、私ケインズさんに教えてもらったんだ。猛将列伝のこと。いずれ規制の厳しいエレボニアを抜け出して、自由溢れるクロスベルに行っちゃうんでしょ」

「何それ!? しかも猛将列伝って」

「ケインズさんが最近、嬉しそうにお客さんに話すんだよ。うちの店を贔屓にしてくれる人の中に猛将がいるんだって」

「猛将じゃないし、言うほど利用してないし! そんな話広まったら、僕もう外歩けないよ……」

 男の子は肩を落とし、うなだれている。これから曲の指揮をするのにそんなので大丈夫?

 部長さんは少し落ち着きを取り戻した様子で、椅子に座りなおした。

「今はその話は置いておこう。すまなかった、エリオット君。改めて指揮をお願いできるかい?」

「は、はい。では」

 改めてタクトを構えた彼に、一言付け加える。

「普通でいいからね。この曲に猛々しさは必要ないよ」

「全然話を置いてないじゃないですか……」

 中々演奏に入らないわ。小さな指揮者さんがんばってね。

 さてここは……うん、『猛将と愉快な吹奏楽部』。これにしましょう。

 

 

 ――調理部――

「ギイイイィ! あんたあ、何やってんのよおお!」

 音楽室から離れようとしたところで、となりの教室から怒号が響いた。

 爆弾と言うべき声量が、衝撃波となってドアにぶつかる。

 音の砲弾の直撃を受けた扉が勢いよく開く。捻ることさえ許されず、強制的に押し出されたドアノブは破損し、弾け飛んだ蝶つがいが廊下をカラカラと滑っていった。ドアはガクンと斜めに傾いている。

 え、なんなの。武術系の部活って練武場でやるものじゃないの? 家庭科室ってドアの上に書いてあるんだけど。

 扉は壊れてしまったので、教室の中は覗かなくてもまる見えだ。

「だから味見しただけだってばー」

「はああ!? 五分の四食べたら味見とは言わないのよお!」

 小柄な女の子と大柄な女の子が小競り合いをしている。

 大柄な女の子はまた「ギイイイィ」と悔しさ全開で、シルクのハンカチを噛んでいる。

 って何あれ。ハンカチがぎちぎちと力任せに、へそ下辺りまで引き伸ばされているんだけど。小麦粉からパスタを作ってるんじゃないのよ。どうやったらシルクがあんな風に伸びるのかしら。

 収まる気配もなく、やいやい言い合う二人に、エプロンをつけた男子生徒が近づいていく。

「まあまあ、マルガリータ君にミリアム君も。同じ調理部同士仲良くしようよ」

 うそ? 調理部? そういえば味見がどうのって言ってたけど。

「ちょっとお、ニコラス部長。聞いて下さらない? ミリアムがまた私のクッキーを食べたのよお」

 憤慨した様子で、ぶしゅうと鼻息を鳴らす大柄な女の子。途端、強い風圧に体を押された。

 窓が波打ち、危うく私の帽子まで飛んでいきそうになった。

 あの子すごいわ。闇ルートで出回った人形兵器じゃないでしょうね。デザインもそれっぽいし。

「ははは、それだけ君のクッキーが魅力的ということじゃないか」

「そうよねえ、グフフ」

 大柄な女の子は気を良くしたらしい。

「まあ今回に関しては、ちゃんと謝るんだったら見逃してあげてもいいけどお?」

「んー、味はロジーヌの焼いたクッキーの方が全然おいしかったけどなー」

「グフォオ! 何ですってえ!?」

 いきなり鉄塊のような拳が繰り出される。

 小柄な女の子はそれをひょいと避け、キッチン台からキッチン台へと飛び移った。それた拳が水道の蛇口にめり込み、パイプ部分をひん曲げる。亀裂から水が噴水みたいに吹き出し、あっという間に床が水びたしだ。

「つかまらないもんね」

「このガキイイィー!」

 大柄な女の子が小柄な女の子を追う。

 戦車さながら、あらゆる障害物を駆逐しながら、家庭科室を縦断していった。

 椅子は踏み潰され、机は引き裂かれ、床はクレバスのようにひび割れていく。

「逃げるんじゃないわよお!」

「やだよー」

 まな板、軽量カップ、ボウル、鍋、フライパン、泡だて器などの調理器具は残らず宙を舞い、けたたましい音を鳴らしながら、見る間に飛び散らかっていった。

「こうなったらガーちゃん、リベンジだー!」

「まとめて調理してやるわあ! ムフォオオッ!」

「あっはっは。今日の後片付けは大変そうだなあ」

 この部をまとめるのは、あの部長さんじゃなきゃ無理そうね。

 あと調理ってやっぱりそういう意味なの? 明日から活動場所を練武場に変えた方がいいわね。 

 私も巻き込まれる前に、ここから離れるとしましょう。

 えーと、ここはどうしようかしら。

 『料理しない調理部』。これでいいわよね?

 

 

 ――美術部――

 騒音響き渡る中、さらに隣の教室の前へと移動する。

 多分ここが最後の部活。さっきの調理部とは打って変わって、とても静かな雰囲気だった。

 キャンバスに向かって絵を描く生徒が数名と、その奥で一心不乱に彫刻を掘る女子生徒が一人。

 カリカリとキャンバスに下絵を書き込む音と、コツコツと石をノミで削る音だけが響いている。

 ここはこれ以上いても動きがなさそうだし、ネタになる話も出て来なさそうね。

 美術室から離れようとした時、不意に石を削る音が止まった。

「ふうむ……」

 何だか難しい顔をして、制作途中の彫刻を凝視している。見た所、男性をモチーフにした胸像のようだ。

「ウォーゼル、こっちへ来い」

 横柄な物言いだったけど、名前を呼ばれた部員も慣れているのか、特に気分を害した様子もなくキャンバスの前から立ち上がった。

「クララ部長、どうかしましたか?」

 あら意外。あの目つきの悪い女の子が部長さんだったみたい。

「この通り胸像を彫っているのだが、筋肉の表現が今一つなのだ」

「はい」

「そういうわけでウォーゼル。貴様、服を脱げ」

「はい?」

 困惑の表情を浮かべる長身の男の子。いきなりそんなこと言われたらそうなるわよね。だけど部長さんは彼のそんな様子を気にした素振りも見せず、「どうした、早く脱げ」と急かしている。

「ガ、ガイウス君、脱ぐの?」

 他のキャンバスに絵を描いていた三つ編みの女の子が、いつの間にか彼のそばまで来ていた。その瞳は恥じらい二割、好奇心三割、期待五割といった感じだ。……期待多めね。

「いや。俺は――」

「リンデからも早く脱ぐように言え。芸術の為だ。恥など犬にでも食わせてしまえ」

「ガイウス君……脱いだら?」

「な、なに?」

 戸惑いながらも彼はシャツのボタンに手をかけた。

 シャツを脱ぐと、さすがは士官学院生。浅黒い肌に鍛えられた上半身が顕わになる。

「ふむふむ」

「きゃああ」

 部長さんが彫刻に修正を入れる横で、女の子は両手で顔を覆いながら、指の隙間から男の子の上体をまじまじと注視していた。それじゃ顔を覆う意味ないじゃない。

「もう少し上腕と腹筋に力を入れろ」

「こうですか?」

「きゃあああっ」

 さらに逞しく引き締まる体に、さらにさらに嬉しそうな顔をする女の子。

 部長さんが女の子に視線を移した。

「もう少し丸みもいるな。リンデ、お前も脱げ」

「へ?」

「胸と腕に関してはこれでいいが、首周りには柔らかさが欲しい。そういうわけで脱げ」

「ええええ!? む、無理ですよお!」

 悲鳴のような声を上げて、彼女は首をぶんぶんと横に振る。

「芸術の為だ。恥など犬にでも食わせてしまえ」

「だったら部長が自分の体を鏡で見たらいいじゃないですかあ!」

「お前の方が肉付きがいいだろう」

「なっ!?」

「脱がんと言うのなら――」

 部長さんは立ち上がって、女の子の襟首をむんずと掴んだ。そのままグイグイと無理やり脱がそうとしている。

「な、何するんですか、部長!?」

「四の五の言わず脱げ」

 制服の第一ボタンが外れた。

「やだあ! ガイウス君あっち向いてえ!」

「し、承知」

「脱げえ!」

「いやああああっ!」

 絶叫が美術室にこだました。

 ここは『脱がされた美術部』にしよう。芸術って大変ねえ。

 

 これでようやく全部の部活を見終わった。今日の放送に備えて、局に戻ったら集めたネタを整理しないと。

「それじゃ帰るとしましょうか」

 手帳を上着のポケットにしまった時だった。

「はあ、困ったわ」 

 またあの声が聞こえた。

 私が困るんだけど。学生会館に戻ったんじゃなかったの?

「エリオットさんも知らないっていうし、ミリアムちゃんには話を聞ける雰囲気じゃなかったし……」

 うつむき加減で歩いてくるから、距離は近いけど気付かれてはいない。奥の階段へ――だめね。距離があり過ぎて、さすがに後ろ姿ぐらいは見られてしまう。

 私はとっさに目の前の美術室に入った。

 幸いと言うべきか、先の脱げ脱げ騒動は続いており、私の姿は誰にも見られていないようだった。

 後はこのまま、あの子が向こうに歩いていくのをやり過ごすだけ――

「失礼します。ガイウスさんにお聞きしたいことが――」

 入ってきたんだけど。

「ええ! なんで!?」

 ついに見つかった。 

「ガ、ガイウスさん何で上半身に何も着ていないんですか!?」

「委員長か。芸術の為としか答えられんが……」

 あ、何とか大丈夫だったみたい。

 私が今いるのは、さっきまで男の子が使っていたキャンバスの裏。そのボードで体を隠して、絵を描いている振りをしている。

 まだ下絵の途中みたいだけど、ずいぶんと広大な風景画だ。

 いえ、今はそれよりも。この絵を描いていた彼が戻ってきたら終わりだ。それまでになんとか美術室から出る方法を考えないと。

「む? 俺の絵の前に誰か座っているようだが」

 いきなり見つかったわ。こうなったら最終手段よ。

「え? ガイウスさんの絵が」

「なぜか動いているんだが……」

 椅子に座ったままキャンバスを抱え、そのままずりずりと扉側まで移動する。

「なんでしょう、あれ?」

 もう少し……

「風のいたずらか?」

「それは違うと思いますけど……誰かの足も見えてますし」

 あとちょっと……

「しかし絵を持って行かれては困るな。ちょっと待ってもらおう」

 うん、ここからなら行けるわ。

 入口をキャンバスで塞ぎながら自分の姿を隠し、振り返ることなく廊下へと走り出る。

 なんとか脱出成功だ。

 

 

「早くトリスタに戻りたいんだけど……」 

 私は屋上で風に当たっていた。もちろん休憩しているわけじゃない。美術室を出て、そのまま一階に行こうとしたんだけど、階段を下った先に教官が二人もいたのだ。

 まったく君はいつもいつも――とか、すみません、以後気を付けますう――だとか、年配の男性教員が若い女性教員にお説教をしていたみたいで、さすがにその横を通り過ぎることはできなかった。

 もし声を掛けられて足を止めている間に、あの子が下りて来ちゃったら困るもの。

 そういうわけで一階にも行けず、二階に留まることもできず、やむなく屋上に来ている。ここに学生がいなかったのは幸運だ。

「……そろそろいいかしら」

 二十分くらいは経っているし、もう行っても大丈夫よね。屋上のドアを開いて、一応注意しながら階段を下りる。

 そのタイミングで誰かが階段を上がってきた。

 まさかよ? そんなことある? 何回目だと思ってるの?

「あとはここくらいでしょうか」

 もしかしてわざとやってない? 

 どうしよう。屋上って隠れられる場所がほとんどなかったんだけど。

「部室、図書館、特別教室……今日行った場所は全部探したし、やっぱりセリーヌと屋上で話した時かしら。ルビィちゃんはくわえてなかったってリィンさん言ってたし――」

 なんなのよ、もう。

「――どこに落としたのかしら、私のペン……」

 え? 

 ルビィってリィン君が追い掛けていたあの子犬よね。それにペンって。

 私は胸ポケットに差していたそれを取り出した。銀のラインが入った、いいデザインだと思っていた黒いペン。

 ……そういうことね、まったく。 

 

「あっ!」

 屋上の扉が開いてすぐに声が上がった。

「よ、良かった。こんな所に落ちてたなんて」

 ペンは屋上に出たら目につく場所に、これ見よがしに置いておいた。案の定すぐに見つけたらしい。

「でも疑っちゃったルビィちゃんと、走り回らせることになったリィンさんへお詫びをしないといけないわ」

 そんな事を言いながら足音は遠ざかり、扉がぱたんと閉まる音がする。

 私は扉を出て右手、ちょっと奥まったスペースに壁を背にしてもたれかかっていた。隠れているとは言えないレベルだけど、屋上に入ってすぐには見えない位置だ。

 いつの間にかずれていた帽子をかぶり直し、空を見上げる。

「確かに返したわよ、そのペン。……使わせてもらったし、一応お礼は言っとこうかしら」

 ありがとね。

 口には出さず、胸中で一言だけ呟く。

 吹き抜けた秋らしい涼風が、かぶり直した帽子をほんの少しだけずらしていった。

 

 ようやく。ようやくだわ。

 階段を下りて、正面玄関から出て、正門の前まで戻って来れた。

 全部の部活を見て回ったし、あとはトークの順番とか決めないと。いえ、もうそれも本番中でいいわ。

「ふふ、楽しかったわ」

 校舎に振り返り、空に向かってまっすぐ伸びる尖塔を見上げてみた。午後の西日が、学院全体を鮮やかに染めている。

「――近い内にまた来るわ」

 小さく口からこぼれたその言葉は、風の中に溶けていった。

 不意に聞きなれない音が鼓膜を震わした。ブォンブォンブォンと何かが唸りを上げる太い音。

 紺のスーツを着た女の子が見慣れない乗り物にまたがって、講堂前を横切りながらこちらに向かってくる。

 それは鉄の馬と言うのか、外装を陽光に煌めかせて、すごい速さで私の目の前を通り過ぎていった。

 彼女の高らかな笑い声が、耳から耳へと抜けていく。

「愛のままに女の子を追いかけ、捕まえ、奪い去る! 自動二輪部部員募集中! もちろん女の子限定だ!」

 ……説明ありがとう。これが正真正銘最後の部活よね? 

 あっという間にその乗り物は見えなくなり、同時に声も遠ざかって行った。一応メモしとこうかしら。

 手帳を取り出したところで気付く。

「あ、もうペンはないんだったわ」

 

 ● ● ●

 

 いつもの収録ルームの椅子に座り、マイクの調子を確認する。時刻は二十一時。

 手帳を取り出し、デスクの上に置いた。防音ガラスの向こうに見える局長に手で合図をする。

 さあ、今日も始めるわよ。

 局長が放送スイッチを押し、扉上のランプが赤から緑へと変わった。

『リスナーの皆さんこんばんは。ミスティです。アーベントタイムが夜九時をお知らせします』

 好調、好調。

『最近は夏の日差しも和らいで、過ごしやすい時期になってきましたね。でも油断は禁物ですよ、水分補給はしっかりしてくださいねー』

 さて、そろそろ行きましょうか。

 手帳をめくる。今日はトークがびっしりだ。

 そうねえ……何から話そうかしら。

 ざっとネタの羅列に目を通してみる。ふふ、どれも面白い部活だもの。選ぶのも一苦労だわ。

 よーし、まずはこれにしましょう。今日は楽しい放送になりそうね。

「ねえ、みんな。猛将のいる吹奏楽部って知ってる? 実はね――」

 

 

 ~FIN~

 

 

 

 

 

 

 

 ――another scene――

 

 時刻は二十一時。部屋に戻って椅子に腰かける。

「ルビィちゃんにはちょっと良さそうなビーフジャーキーを渡して、リィンさんにはお詫びのクッキーを焼こうかな」

 考えてみたらおかしいことだった。

 昼にセリーヌと屋上で話したけど、私はその後の授業でこのペンを使っていたのだった。あれから屋上には行っていないから、ペンが屋上に落ちているはずはなかった。

 ペンを取り出し、明かりに当ててみる。

 銀のラインが輝いて、いつも通りの光沢を放っている。店頭で見て、一目でデザインを気に入り、私にしては珍しくその場で衝動買いしたものだ。文字も書きやすいし、かなり大事に使っている。

 何にせよ。手元に戻ってきてくれて良かった。

「それにしても……」

 今日はどことなくだけど、無意識の内に足が何かを追っていた気がする。どこか覚えのあるほのかな残り香を追っていた気がするのだ。 

「あ、壊れてなければいいけど」

 手元に戻ってきてから、まだ試し書きをしていなかった。適当なメモ紙を取り出して、とりあえず自分の名前でも書いてみる。

 

 “Emma Millstein”

 

 うん。大丈夫。もう落とさないようにしないと。

 そういえばこのペンは、誰かが拾って屋上に置いてくれたのだろうか。いや、だったら生徒会とかに届けてくれればいいわけだし。

 ペンを軽く掲げた時、ふとあの香りが鼻先をくすぐった。

 これは――ラベンダーの香り。

「……まさか、ね」

 

 ☆ ☆ ☆

 




後編もお付き合い頂きありがとうございます。
そのようなわけで無事、放送の時間までにネタを集めてこれたミスティさんでした。一応、原作との流れに相違が出ないようセリフや行動にも気を払いましたが、閃Ⅱで司書キャロルさんが黒幕って展開になったら、私死にます。
というかゼリカ先輩って自動二輪部だったんですね。たまたま人物ノートに目を通して知りました。本編で大々的に宣言してたシーンなんてありましたっけ? もう技術部と併合していいんじゃ……。
余談ですが、前回の前編でご感想頂いた皆様のほとんど(多分男性の方々)が、ケネ――ス! と叫んでらしたのを見て爆笑してしまいました。
何気ない一幕のつもりだったんですけど、愛されてるなあ、ケネス。いい装備品と交換してくれるもんなあ。

次回もお楽しみにして頂ければ幸いです。


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そんなⅦ組の一日 ~てんいやーずあごー

 

 ~七耀暦1194年~

 時にそれは10年前、まだ幼い彼らの何気ない一日。

 

 

――リィン・シュバルツァー(七歳)

 

「ふえええ」

「エリゼ、ごめんってば」

 ユミル地方、その山間に建つシュバルツァー邸。屋敷の一室からは少女の泣き声と、少年の焦る声が廊下にまで響いていた。

「にいさまがっ、あたしのお人形さんを……こわしたあ」

「わ、わざとじゃないんだ」

 二人の足元には、白いドレスを着た可愛らしい人形が落ちている。人形の片腕は肩部から折れてしまっていた。

 エリゼはひっくひっくと嗚咽交じりに泣き続けている。泣き止む気配は一向にない。

 そもそもの発端はエリゼがままごとで遊んでいる近くで、リィンがボール遊びを始めたことからだった。

 五歳になったばかりのエリゼの面倒を見ながら、リィンもリィンで部屋の壁にボールを当てたりして遊んでいた。

 しかし、適当に投げたボールが予期しない場所にあたり、あさっての方向に跳ね返り、見事狙ったかのようにエリゼの持つ人形を直撃してしまったのだ。

 驚いたエリゼは手にしていた人形を床に落としてしまう。しばし呆然としていたが、折れた人形の腕と自分と同様に固まった兄の顔を見ると、思い出したようにわんわん泣き出したのだった。

「ふええ! 手が取れちゃったあ~」

「エリゼ、ごめんな」

 泣き続ける妹と謝り通す兄。

「お、おいしいお菓子を取って来ようか?」

「うえええ~!」

「好きな絵本を読んであげるぞ」

「お人形さんがあ~!」

 リィンも何とか泣き止ませようとあらゆる手を尽くしたのだが、全ては徒労に終わり今に至っている。

「エリゼ~、頼むから泣き止んでくれよ……」

 リィンは汗だくだ。こういう時に頼りになる母親は今日に限って外出している。父親はいるが書斎で仕事をしているので、あまり邪魔はしたくない。そもそもエリゼを泣かしてしまったのは、他でもない自分。

 妹をなだめなるのは、兄の役目なのだ。

 小さな決意を固めたリィンは必死に考える。どうすればエリゼは泣き止むのか。

 原因は分かっている。壊れた人形だ。では人形の腕が直ればエリゼは泣き止むのではないか?

「よ、よし」

 リィンは人形を拾い上げた。取れた腕の部分を見てみると、樹脂で加工された材質で弾力性もあった。落ちただけで手が取れるとは思えないが、おそらく長く遊んでいる間に少しずつ痛んでいたのだろう。

 しかしそんなことを今のエリゼに言っても火に油を注ぐだけだ。とどめを刺したのは間違いなく自分なのだから。

「エリゼ、俺がこの人形の腕を直すよ」

 その言葉を聞いて、ようやくエリゼの泣き声が小さくなった。

「ほ、ほんとう?」

「ああ、任せてくれ」

 あれがあれば何とかなるかもしれない。

 リィンは部屋を飛び出すと、母親の部屋めがけて駆け出した。

「母さんはまだ帰っていないよな」

 母の私室の扉を開けて、そっと中に入る。

 目当てのものは棚の上にあった。だがリィンの身長では届きそうにない。引き出しを階段状にして登り、さらにそこから背伸びをして、ようやくその小さな箱を手にした。

 引き出しから降りようとした時、

「わ、わわ?」

 体重で棚が手前に傾き、引き出しの中身を床にぶちまけながら倒れてしまった。化粧品やアクセサリーなどの小物類が、床に勢いよく散らばる。

「………」

 ……誰も来ない。音には気付かれなかったようだ。一応屋敷内に使用人はいるが、父の意向で最小限の人数に留めている。

 基本的に母も家事や雑務を任せっぱなしにはしていない。だからこそ、この部屋に目当てのものがあるのだ。

「棚はあとで片付けよう。エリゼのところに行かないと」

 部屋に戻るとエリゼは泣き止んでいた。しかし、ぐすぐすと涙ぐんでいるのは相変わらずだ。

「……兄さま、それなあに?」

 エリゼがリィンの手にある小箱に目を向けた。

「母さんの裁縫道具だ」

 自分にできるかはわからないが、エリゼの為にはやるしかない。

 苦心しながら針に糸を通し、リィンは見様見まねで腕の接合を試みる。不安げに見守るエリゼ。

 だが人形の細腕を糸で繋げるなど七歳の、しかも初めて裁縫の真似事をするリィンに上手くできるはずもなく、

「あ」

 針が人形の腕を貫通する。

「ふえっ……えええん」

 泣き止んでいたエリゼが再び泣き出してしまった。

「だ、大丈夫だ、エリゼ。まだ方法はあるから」

 次にリィンが持ってきたのはテーブルランプだった。すでに火がついている。

「ぐすっ、兄さま、なにするの?」

「父さんに前教えてもらったんだ。壊れたところを少し溶かしてまたくっつけるんだ。“ようせつ”って言うんだって」

 リィンは人形の折れた断面を火に近づけてみる。すぐに熱が回り、炙った表面がぽこぽこと膨らみ始めた。

「ふえっ!?」

「だ、大丈夫だ。エリゼ、少しあっち向いていてくれ」

 人形をあくまで人間と認識しがちな五歳の少女にはやや刺激が強い。とりあえずエリゼの視界に入らない様にしながら、リィンは腕の溶接に集中する。

 今回は意外にも上手く行きそうだ。溶けた部分同士がくっつき始めている。接合部の継ぎ目やふくらみは冷えてから削れば、それなりの形にできそうだった。

 問題はストレートだった人形のブロンドヘアーが、熱で丸まって所々パンチパーマになっていることだが。

 最初からパーマだったぞ、で納得してくれるだろうか。

「いや、無理だ……」

「……兄さま?」

「な、なんでもないよ」

 とりあえず腕の修復は上手くいった。髪はくしで解かしてみるとして、一度エリゼに見せてみよう。

「エリゼ、ほら人形の腕直ったぞ」

「ほんと? やっぱり兄さますごい……え?」

 人形を受け取ったエリゼは違和感に首を傾げ、その原因に気付いた時、また瞳が潤みだした。

「髪なら大丈夫だ。シャンプーで洗えばきっと元に戻る」

 エリゼの視線は人形の髪には向いていなかった。腕の結合部よりさらに下。エリゼに合わせてリィンも目線を下げていく。すぐに分かった。腕の向きが逆になっている。関節上ありえない方に手が向いているのだ。

 断面に集中するあまり、気が付かなかった。繋がってはいるものの、これはこれで折れているのと同じだ。

 いけない。エリゼが泣く。

「ご、ごめん、エリゼ。俺が父さんや母さんの手伝いして、新しい人形を買ってもらえるように頼んでみるよ」

 エリゼは涙をこらえて、首を横に振った。

「いいの、兄さまいっぱいがんばってくれたから……あたしも泣いてごめんなさい」

「エリゼ……」

 リィンはエリゼの頭を優しく撫でてやった。

「えへへ」

 エリゼはやっと笑顔を見せる。丁度その時、自分達を呼ぶ母の声がした。

「リィン、エリゼ。今帰ったわ。お菓子を買ってきたからお茶にしましょう」

 その声を聞いて、二人はぱっと顔を明るくした。

「母さんが帰ってきたみたいだ。人形のこともお願いしてみるよ」

「兄さまありがとう」

 二人が部屋を出た所で、母親の絶叫が屋敷中に響き渡った。

「わ、私の部屋が? 棚が倒れて!? ちょっとリィン……こっちに来て話を聞かせなさい」

 ……忘れていた。

「エリゼ、人形の話はまた今度だ」

「兄さま?」

 今度は自分が泣く番だ。

 幼心に理解し、リィンは肩を落としたのだった。

 

   ●  ●  ●

 

 

――ガイウス・ウォーゼル(七歳)

 

 エレボニア、その北東方面にある高原地帯。かのドライケルス大帝が挙兵した地としても知られるノルド高原。

「ガ、ガイウスあんちゃん、高いよお……」

「すぐに慣れるさ。ほらしっかり手綱を持て」

 そこに暮らす遊牧民の集落、厚手の布で作られたテント式の住居のそば。ガイウスが四歳になる弟のトーマを馬に乗せていた。

「わ、動かないでよ」

「馬は動くものだ。走っている時はもっと揺れるんだからな」

「ひえ~」

 夕刻。羊と馬の世話も一通り済まし、空いた時間でガイウスはトーマの乗馬の練習に付き合うことにしたのだった。

 移動、運搬、その他を含めてノルドの民の生活は、馬がなくては成り立たない。ゆえに幼い頃から馬に慣れ、それを乗りこなすことは不可欠となってくる。

 とはいえ馬の世話をするのと、その背に乗るのとでは、同じようにというわけにはいかない。

「俺も初めて馬に乗った時はこうだったかな。ああ、あの時は父さんが付いてくれていたっけ」

「あんちゃん、もう下ろしてよお」

 涙目で訴える弟に肩をすくめ、ガイウスは体を支えながらトーマを馬の背から下ろしてやる。

「こ、こわかった。もう乗りたくないなあ……」

「そんなことを言っててどうするんだ。シーダが大きくなったらお前が馬の乗り方を教えてあげるんだぞ」

「そ、その頃には乗れるようになってるよ」

 どうだか、とガイウスは苦笑した。シーダというのは二人の妹で、今は夕餉(ゆうげ)の準備をする母親の背におぶられて眠っている。

「それよりもさ、ご飯まで槍の稽古に付き合ってよ」

「仕方ないな。じゃあ俺に勝てなかったらもう一回馬に乗る練習をするんだ」

「え、ええ~、ぼくがあんちゃんに勝てるわけないって~!」

 そんな兄弟のやりとりの最中、「遊んでいるのか?」と精悍な声が後ろから聞こえてきた。

「あ、父さん。馬と羊の世話はもう終わったよ」

 二人の父、ラカンが近付いてくる。

「あんちゃんに槍の使い方を教えてもらうんだ」

「そうか、よかったなトーマ。ただ騎馬槍術だから馬に乗っていることを前提とした技が多いぞ」

「やっぱり馬に乗る方が先だな」

 うええ、とトーマはうなだれた。

「トーマは母さんの手伝いをしてくるがいい。ガイウスには少し話がある。馬を用意してきなさい」

「……? わかったよ、父さん」

 程なくして、ノルド高原に二頭の馬の足音が響いていた。

 馬たちは尾をなびかせ、風を切って走る。前方を行くのがラカンで、その後にガイウスが続く。

 落ちかけた夕日が高原を黄金色に染め、北に連なる山脈の輪郭が淡い橙色に輝いている。澄んだ空気が肺を満たし、空を見上げると、まだ薄くはあったが星々の瞬きが見え始めていた。

 いつもと変わらず、いつも通りの、そして見飽きることなどない雄大な景色。

 ガイウスは馬を走らせながら、前方の父の背を視界に入れた。

 逞しく、大きく、力強い。トーマはいつも自分に勝てる訳がないと言う。でもそれは自分だって同じだ。父を超えるどころか、その背に追いつくことさえ、今はまだ遠いのだ。

(それでも、いつか……)

 ガイウスは馬の速度を上げ、ラカンに並んだ。

「父さん、三角岩まで競争しようよ」

「ほう、いいだろう」

 どこまでも続くノルド高原を疾駆する親子の影は、やがて大きな影が前へと抜き出た。

「ふふ、私の勝ちだな」

「……父さんには敵わないな」

 三角岩に先に着いたのはラカンで、少し遅れてガイウスが追いついた。

「いつか私もお前に抜かれる時は来る」

 その日を楽しみにしている、と付け加えながらもどこか寂しげに見える父の横顔を、ガイウスは訝しげに見つめた。

「父さん、話っていうのは?」

「……ガイウス。お前はノルドの民として誇りを持っているか?」

 誇り……と言われてもピンとこない。生まれた時から自分はこの地に暮らしている。ただ、確かに言えることは一つ。

「誇りっていうのは分からないけど、ノルドの大地は好きだな」

「そうか。――あれを見るがいい」

 父の視線の先をガイウスも見据えた。あれは知っている。カルバード方面を監視する塔だ。

「ノルドの地は広大だ。しかし地理的にいくつもの問題を抱えているのも事実。いつかそれが災いの元になるかもしれん」

 ガイウスは黙って父の話を聞く。耳ではなく、直接胸に届くような深い声音だった。

「今は分からずともいい。お前が大きくなった時、誇りの意味を知った時、ノルドの地を、民を――お前の弟と妹をしっかり守ってやって欲しい」

「難しくてよくわからないけど……トーマとシーダは俺が守るよ」

 ラカンは目元を緩めてうなずいた。

「それでいい。真っ直ぐに生きていれば、お前の力になってくれる友人にもいずれ恵まれよう。それに、弟妹がまた増えんとも限らんしな」

「うん、父さん」

「話はそれだけだ。さあ帰ろうか。夕餉の支度も出来た頃合いだろう」

 来た時とは逆に、今度は集落に向けて馬を走らせる。帰りはずっと父との並走だった。

 いろんな話をした。父の子供の頃の話、母との出会い、自分が生まれた時の話。自分の知らないことの全てがとても大きく感じた。

 さっき父はまた弟妹が増えることもあると言った。ふと思う。そういえばこれは聞いたことがなかった。

「父さん。どうやったら弟や妹は増えるんだ?」

 さっきまで色んな話を聞かせてくれていた父が、急に無言になった。

 馬の足音だけが、辺りに響き渡っている。

「父さん?」

 ガイウスが再び呼びかけると「それは……」とラカンの口が重々しく開いた。

 目は前に向けたままで父は言う。

「……風が運んでくるのだ」

「えっ?」

「ハイヤーッ!」

 馬を()り、凄まじい速度でラカンは高原を駆け抜けた。あっという間にその背が小さくなっていく。

「……父さん、どうしたんだろう。まあいいか、夕餉の時に母さんに聞こう」

 腹がぐうと鳴った。いつの間にかずいぶんと空腹になっていたらしい。さあ、自分も早く家に帰ろう。家族で囲む食事ほど美味いものはないのだから。

「ハイヤッ」

 ガイウスは手綱を手に、父の背を追いかけた。

 

   ●  ●  ●

 

 

――フィー・クラウゼル(五歳)

 

 どこかの国のどこかの川縁。紛争の火種は燻れど、戦火はまだ届いていないこの地。 

 それはまだ彼女が猟兵王に拾われる少し前のこと。

「くぁ……」

 目が覚めた。最初に視界に入ったのは青い空。聞こえたのは川のせせらぎ。草花の匂いが鼻から抜けていく。

 あくびをしてから、フィーは短い手足をぐっと伸ばした。

「んん……ねてたみたい」

 今日は何をしていたのだったか。ああ、そうだ。いつものように一人で川岸まで来ていたのだ。

 適当にその辺りに穴を掘ったり、意味もなく水路を引いて池だまりを作ってみたり、何となく木の枝を束ね合わせてみたり。そんなことをして時間を潰していたら、いつの間にか木陰で眠ってしまったのだ。

 まあ、それもいつも通りではあるのだが。

「……おなかへったな」

 川にはちらほら魚影が見える。魚を見ると余計に空腹感を感じた。

「おさかな、ほしいな」

 ちゃぷりと手を川に入れてみる。魚はあっという間にどこかに行ってしまった。さすがに五歳の少女の、しかも素手に掴まってくれるほど呑気な魚などいない。

 しゃがみ込んで、じっと水面を眺めていたが、フィーは結局あきらめることにした。

「……もう、行こうかな」

 そう呟いて立ち上がった時、

「すごいや! さすが兄さんだね」

 そんな声が耳に届く。

 視線を対岸に向けると、そこには見知らぬ兄弟が釣りをしている姿があった。どうやら今しがた魚を釣り上げたところらしい。

「こんな所まで足を伸ばした甲斐があったな。ケネスはどうだ?」

「僕はまだかからないや」

 その兄弟も子供だが、二人とも自分よりは年上に見えた。

 ちなみに兄が釣り上げたという魚は中々の大物だった。

「いいなあ」

 その言葉は魚を指して言ったのか、あるいは兄弟を見てのことだったのか。

「兄さん、見てよ!」

 ここで弟の釣竿にも当たりが来たようだ。

「よし、ケネス。落ち着いてリールを巻くんだ」

「う、うん」

 水面に激しく水しぶきが上がる。

「そうだ。そこで一気に引き寄せろ!」

「こ、こうかな?」

 しばらくの格闘の後、弟も魚を釣り上げた。先ほど兄が釣った魚には負けるが、それでも立派な大きさだ。

「さすがケネスだ。いつか僕の夢を手伝って欲しいくらいだ」

「兄さんの夢?」

「将来僕はレイクロード家を継いで、釣りの素晴らしさを世の人に広めていこうと思っている」

 頭をかいて少し照れくさそうにするが、弟は目を輝かせて、尊敬の眼差しを兄に注いでいだ。

「やっぱり兄さんはすごいや! 僕も大きくなったら兄さんの手伝いをするよ!」

「ああ、ケネスが手伝ってくれるなら百人力だ。二人とも釣れたし、そろそろ帰ろうか」

 釣り具を片付けて二人は川沿いに歩き出す。遠目にも仲のよい兄弟だった。

「……あ、そっちは」 

「なああああ!?」

 前を歩く兄の姿が突然地中に消えたのは、フィーがあることを思い出したのと同時だった。

「兄さん!?」

 そういえば、昨日は向こう側の川岸に穴掘りをしたんだった。

 そうだ。あれは“適当に掘った穴”の一つだ。

「な、なんでこんな所に穴が? しかも深いぞ! ……うわあ! 水がっ、水が流れ込んでくる?」

 そうだそうだ。何かが穴に落ちると、石で押さえていた栓がはずみで外れて、“意味もなく作った水路”から川の水が流れてくるんだった。

「まずい! ケネス、紐か何か掴まれるものを持ってきてくれ!」

「そ、そんな急に言われても――あっ! あったよ、兄さん。そばの木からロープがぶら下ってる!」

 弟はロープを手繰り寄せ、穴の中へと投げ入れた。

「助かった。これで! ……ん?」

 ぐいとロープを引っ張ると、急に手ごたえが弱くなる。

「くっ、紐が切れたか?」

 一瞬焦り、頭上を見上げた兄の視界に映ったのは、丸太程の大きさに寄り集められた枝の束。それが自分に向かって落ちてくる光景だった。

「ぎゃあああ!」

 うん、それであってる。紐を引っ張ると、“何となく木の枝を束ね合わせたもの”が落ちてくるんだった。

 メシャ、という音を最後に兄の声は聞こえなくなった。

「うわああ、兄さあん! だ、誰か呼んで来なきゃ」

 弟が急いで走り出す。

「あ、そっちも」

「うわあああ!?」

 あれは一昨日掘った穴だ。

「水がっ! 水が流れてくるよお! あっ、紐がある。これで……ぎゃああああ!」

 沈黙。そして静寂。

 辺りに聞こえるのは、鳥の声、風が木の葉を揺らす音、あとは川を流れる水の音だけだ。

「ん、しずかになった」

 対岸に兄弟の姿はもう見えないが、魚入れのボックスが置き去りのままになっている。

 確か大きめの魚が二匹入っていたはずだ。あんな所に置いたままだと魔獣が持って行ってしまうかもしれない。自分が適切に保護しないと。

 うん。今日はごちそうだ。

「……ぶい」

 

   ●  ●  ●

 

 

――ユーシス・アルバレア(七歳)

 

 クロイツェン州の中心都市、バリアハート。

 貴族の為に発展してきたと言われる洗練された町並みは、別名、翡翠の公都ととも呼ばれる。

 上流階級が集まるこの都において、さらにその上に位置するのが、この地方を治める領主――アルバレア公爵家だ。

 広大な敷地を誇る公爵家城館の、隅々まで整備が行き届いた中庭に、木剣の打ち合う音が響いていた。

「どうした、ユーシス。剣先が下がってきているぞ。もう疲れたのか?」

「そ、そんなことありません!」

 兄、ルーファス・アルバレア、十七歳。弟、ユーシス・アルバレア、七歳。

 それは兄が弟に剣の指南をしている光景だった。

 ルーファスは受け手に徹しており、ユーシスがひたすらに攻めている。

 稽古を開始して一時間あまり、未だユーシスの剣はルーファスに届かない。

「剣の流れが途切れているな。宮廷剣術は格式と伝統も兼ね備えている。ただ敵を倒すだけの蛮剣ではないぞ」

「はい、兄上!」

 ぐんと踏み込み、ユーシスはレイピアを模した木剣をルーファス目掛けて突き出した。

 しかしその一撃は容易く打ち払われる。

「あっ!」

 ユーシスの剣は手から離れ、くるくると回転しながら後方へと弾き飛んでいった。

「参りました……やっぱり兄上には届きません」

「そんなことはない。受け手の私が攻撃に回らざるを得なかった。ずいぶん上達しているではないか」

「い、いえ。そんな」

「ふふ、照れるでない」

 ルーファスは傍らに控える使用人に言う。

「ユーシスに汗を拭うものを。あと飲み物も持ってきてくれ」

 ユーシスは気付く。兄は汗もかいていない。

「では私は行くとしよう。このあと少し用事が入っていてな。そなたはゆっくりしていくといい」

「あ……はい。兄上、ありがとうございました」

 ユーシスが今日この屋敷に来たのは、母に連れられてのことだった。

 ルーファスとユーシスはいわゆる異母兄弟だ。本妻であるルーファスの母が暮らす屋敷に、妾腹の子であるユーシスとその母が住むわけにもいかず、現在二人はバリアハートの別宅で暮らしている。経済的な援助は十分なので、生活に困ることはない。むしろ裕福な方だ。

 世間体もあってか、さすがに放りっぱなしと言うわけにはいかないのだろう。月に一度程度、形式的な近況報告の場を設けられ、ユーシスと母は父であるアルバレア公爵に“謁見”を行うことになっている。

 ユーシスにとってはまったく気の進まない行事ではあるが、唯一の救いは兄であるルーファスにも会えることだった。

 本格的ではないにせよ、剣術や作法の心得を手ほどきしてもらうのが、ユーシスのささやかな楽しみになっていた。

 父への顔合わせを済まし、近況報告は母が行う。その間ユーシスは中庭で待っていて、そうしているとルーファスが声を掛けてくる、というのが通例の流れだ。

 兄は行ってしまったが、母はまだ来ない。今日はいつもより長いようだ。

「……馬舎の様子でも見に行こう」

 木剣を片付け、屋敷の裏手へと歩先を向ける。

 馬舎に着くと、ユーシスは一頭ずつ話しかけながら馬の顔を見て回った。

「この前見た時よりも今日は調子良さそうだな」

 次も。

「毛並が悪いな。ちゃんとエサを食べてるのか?」

 その次も。

「そろそろ蹄を切る時期だな。大人しくしてるんだぞ」

 ユーシスは馬が好きだった。自分を見返してくる目に曇りがないからだ。ここにいる自分をそのままの姿で捉えてくれている、そんな気がしていた。

 使用人の中には慇懃な態度こそ崩さないものの、明らかに自分を見る目が、他のアルバレア家の人間を見る時と異なっている者もいる。

 時折、父でさえもその目を自分に向けることがあった。

 そんな視線と目を合わせるのは苦痛だった。母に心配はかけまいと気付かぬ振りを貫いてはいるが。

「ユーシス、またここにいたのね。もういいの?」

 その声に振り返る。楚々とした佇まいで自分に近づいてくる一人の女性。

「兄上はもう出かけられるとのことで」

「そう、では私達ももう行きましょう」

「はい、母上」

 彼女はユーシスの手を取り、屋敷の外へと向かった。

 大きな門を抜け、バリアハートの市街へ出る。執事のアルノーが車を手配してくれてはいたが、母はそれを丁寧に断った。

「車に乗って帰りたかったかしら?」

「いえ、歩く方が好きです」

 短い言葉のやり取りの中に、互いを想う気持ちがある。ユーシスの方はいささか不器用ではあったが。

 手をつなぎ、白く舗装された石の道を歩く二人。

「そうそう。帰りに《ソルシエラ》に寄るわね。いいハーブが入ったそうよ」

 伯父のハモンドがオーナーを務めるレストランだ。ユーシスはそれを聞いて、心なしか嬉しそうな様子だった。

「あのハーブチャウダーが頂けるのですか?」

「ユーシスも連れていくって言ったら、腕によりをかけて作るって」

「それは楽しみです」

「そうね。お散歩がてらゆっくり行きましょう」

 道中。噴水のある中央広場に差し掛かった辺りで、ユーシスの目線がふと逸れた。

 噴水の周りで子供達が輪になって遊んでいる。おそらくは平民の子供達だ。

 すぐに視線を前方に戻したユーシスに、母が優しげな声音で問う。

「ユーシスはお友達欲しくないの?」

 少し考えた後、ユーシスは答えた。

「……多分、できないと思います」

 欲しくない、とは言わなかった。

 平民の血が入っているとはいえ、アルバレア家の者として生まれたのだから、傅く者も、畏まる者もいる。

 しかし同じ立場、同じ目線で気負うことなく話し、時には仲違いするくらいの、友人と呼べる存在が果たして現れるのだろうか。

 己の立場と、その難しさをユーシスは幼いながら知っている。

 それでも母は言う。半分は願いも込めて。

「いつかできるわ。きっとね」

 

   ●  ●  ●

 

 

――マキアス・レーグニッツ(七歳)

 

 帝都ヘイムダル、オスト地区。

 整備された大通り、緋色が印象的な街並みとは変わり、このオスト地区は下町を思わせる作りが未だに残っている。

 どこか懐古的な雰囲気のオスト地区の一角に、周囲のそれと比べるとやや大きな民家があった。

 レーグニッツ邸。帝都庁役人であるカール・レーグニッツと、その息子のマキアスが住む邸宅だ。作りが大きいとは言っても豪奢なわけではなく、むしろ内装に関しては簡素と表現する方がしっくりくる。

「父さん、まだかなあ」

 リビングのソファに腰かけるマキアスは、読み終えた本を横に置いた。

「もうそろそろだと思うわ。テーブルの上、片付けておいてね」

 独り言のつもりだったが、キッチンから応答が返ってくる。

「わかってるよ、姉さん」

 姉さんとは呼ぶが、近くに住んでいる父方の従姉だ。よく面倒を見に来てくれ、マキアス、カールにとっては家族同然の付き合いだった。ことマキアスに関しては彼女を実の姉のように慕っていた。

 “姉”は言う。

「それにしてもマキアスはいつも本ばかりねえ。同い年くらいの子と外で遊べばいいのに」

「時々は遊んであげてるよ。でもあんまり騒ぐの好きじゃないし」

 別に遊ぶ相手がいないわけではない。彼らの様にボールを追いかけ回し、転げ回るのが性に合わないのだ。

 かといって冷めた子供と言うわけでもなく、一応ボール遊びにもかけっこにも付き合いはする。しかし今一つ、皆と同じ様に騒げないのも事実だった。

 本を読む方が楽しい。姉と話す方がもっと楽しい。

「遊んであげてるとか言っちゃだめよ。まったくもう」

 姉は呆れ顔でマキアスをたしなめる。

 そんな話をしていると、玄関が開く音がした。父が仕事から帰ってきたのだ。

「お帰りなさい、父さん」

「お邪魔していますね」

「ああ、君もきていたか。いつも助かるよ」

 カールはネクタイを緩めながらマキアスのとなりに座ると、ビジネスバッグを目の前のテーブルに置いた。

「父さん、それなに?」

 ソファーの横に立てかけられた白い包み袋。

「はは、これでも隠してたつもりなんだが。マキアスへのおみやげだ」

 出張していたわけでもないのに、父がみやげとは珍しいことだった。

「ねえ、開けてもいいかな?」

「もちろんだ。気に入ってくれるといいんだが」

 丁寧に包み紙を開けていくと、箱のパッケージが見えた。真四角のボードに、色々な造形の駒がイラストされている。

「えっ……と、チェス……?」

 聞いたことはあったが、それを目にするのは初めてだった。もちろんルールも知らない。

「そうだ。ボードゲームの一種なんだが、戦術や駒の動きもあって中々奥深いんだぞ。まあ、詳しいことはルールブックが入っているから――」

 カールが言い終わらない内に、マキアスは説明書をめくり、食い入るように読み込んでいる。

「おーい、マキアス?」

「ポーンが一マスだけ前進、ビショップは斜め移動ができるのか。あと細かいルールは――」

「ふふ、もう聞こえていないみたいですね。コーヒーでも淹れてきましょうか?」

「ああ、頼むよ」

 最後のページまで読み進めたマキアスが、説明書をパタリとたたんだ。

「ルールと駒の動きを覚えたからチェスやろうよ。僕は白の駒を使うから」

「もう覚えたのか? よし、いいだろう。私が黒の駒だな」

 それから間もなく、盤上に駒を指す音が響く。

 黒が攻め、白が守る。白が攻め返し、黒が退く。

 黒と白の応酬の中、互いの駒の数が減っていく。

「ふうむ……」

 カールは驚いていた。

 先程ルールを覚え、初めてチェスを指す子供が、拙いなりに戦略を立て、戦局を変えようとしていることに。

 しかし結果は当然、

「チェックメイトだ」

「あっ!」

 白のキングが、黒のナイトとルークに進路を阻まれている。どう動いても逃げられない。

「私の勝ちだな」

「も、もう一回!」

「楽しそうね、マキアス。でも続きは夕飯を済ませてからにしたらどう?」

「ええー……わかったよ……」

 姉にそう言われて、マキアスは渋々ながらチェス盤を片付ける。

「マキアスは負けず嫌いだからな」

「そんなことない……と思うけど」

「友達でも誘ってやってみたらどうだ?」

「できそうな子はいないかな、多分」

 カールはふと気になり、マキアスに問う。

「マキアスにはケンカするぐらい仲のいい友達はいないのか?」

「ケンカするのに仲がいいの? いや、友達はいるけどケンカなんてしないよ」

 言葉の意味が分からず、マキアスは首を傾げた。

「ふーむ……」

 先のチェスにもその一端が垣間見えたが、マキアスは子供ながらに論理的な思考を持ち合わせている。

 だがそれは柔軟さを欠けば、頑なさにも繋がるものだ。

 対等の立場で言葉を交わし、時に感情を荒げるくらいに物を言い合い、自ずと見識を広げてくれる友人がいずれ必要になるのではないか。カールはそう思った。

「い、いや。そもそもそんな相手とマキアスが友人になるという前提が難しいか……」

「父さん?」

 チェス盤を片付け、皿の準備を手伝おうとしていたマキアスは足を止め、何やら頭を抱える父を見やった。

「ふふっ」 

 朗らかに笑いながらキッチンから姉が出てきた。

「心配症ですね。マキアスなら大丈夫ですよ」

 マキアスに寄り添うと、そっと肩に手を置いて彼女は言う。

「いつかできるわ。きっとね」

 

   ●  ●  ●

 

 

――エマ・ミルスティン(七歳)

 

「はあ……」

 読み終えた本をぱたんと閉じる。うっとりとして、エマはため息をついた。

 読んだばかりの本を抱えたまま、部屋のベッドにころんと寝転んでみる。

「ふう……」

 二度目のため息。彼女が手にしている本は恋愛小説だ。

 部屋の本棚には様々な種類の本がある。絵本もあれば図鑑もあり、娯楽小説もあれば、文芸小説もある。さらには難解な学術書まで置いてあった。

 もちろん全てを彼女が購入したものではない。買ってもらった物もあれば、譲ってもらったものもある。

 これだけ多様な本があっても、恋愛小説と呼べる本は今手にしている一冊だけだった。さきほどエマが書店で購入してきた、この一冊だけ。

 以前からずっと気になってはいたのだが、買うことはできなかった。なんだかそれが、とてもいけないことのように感じていたから。

 さかのぼること数時間前、ついにエマは意を決する。読んでみたい気持ちが少女の背徳感を押しのけ、その足を書店へと向かわせた。

 やたらと小難しい文芸小説二冊の間に、お目当ての恋愛小説をサンドイッチのように挟み込むと、知り合いがいないか慎重に店内を確認しながら、それをカウンターまで持っていく。

 馴染みの店主が、どことなくにやついた顔をしているのは分かったが、ひたすら下を向いたまま会計を済ました。そして本を受け取るや、全力で店の外に走り出した。

 家に入るときはシャツをめくり、服の中に本を隠した。そこから自分の部屋まで足音を立てずに進み、部屋に入ると慎重に、そして素早くドアを閉める。

 早まる鼓動の中、いそいそと机に向かって椅子に座る。しかし本を取り出すのはまだ早い。ちょっとした参考書とノートを脇に用意してからだ。勉強するのではない。不意にドアを開けられた時のカムフラージュの為だ。

 そうして全ての準備が整い、一つ姿勢を正して、エマはお腹に隠した恋愛小説を取り出したのだった。

 ――数時間後、現在。

「はあー、まだドキドキする」

 読み終えた結果。ため息はまだ止まらない。感想を一言で述べるなら、すごく良かった。

 こんなに素晴らしいものがあったなんて。いつか自分もそんな経験を……思いかけて顔が熱くなる。自分と小説のヒロインを重ね合わせるなど、年端も行かぬ少女には気恥ずかしいことだった。

「この本は宝物にしようっと」

 それでも気に入った。ちょっと背伸びした感もあるが七歳にもなれば、このくらいは読んでもいいだろう。いいはずだ。いいに違いない。

 しばらく恋愛小説の余韻に浸っていたエマだったが、唐突にあることに気づき、ベッドから跳ね起きた。

「この本どこに置こう……」

 それが問題だった。身内にはもちろん見られたくないが、困ったことに自分の部屋には鍵がついていない。時々祖母が不意打ちで入ってきたりもする。

 本棚みたいに目立つ場所には置いておけない。

 となれば、

「……隠さなきゃ」

 どこかにいい隠し場所はないかと、部屋の中を見渡してみる。

「ここはどうかなあ」

 ベッドの下は……ダメだ。定番過ぎる上に、ほうきで掃かれたら一撃だ。まあ、おばあちゃんはあまり掃除をしないけど。

「んー」

 ならば枕カバーの中に……これもダメだ。というか頭がごつごつしてさすがに眠れない。

「うー」

 木を隠すには森の中、あえて本棚に置いてみる。うん、目立たない。多分気づかれないと思う。

「……」

 しかし異様に気になる。五分と部屋を出ていられない。まったく落ち着かない。

 ここもダメだ。

「どうしよう。……あ、そうだわ」

 エマは本棚から一冊の本を取り出した。以前読んだ推理小説だ。犯人が証拠の品を、あらゆる場所に隠蔽するのが印象的だったのを覚えている。これを参考にすれば、いい隠し場所が作り出せるかもしれない。

 全ては大切な宝物を守るためだ。

 エマは推理小説をペラペラとめくりながら隠し場所を考えた。

 あれやこれやと、試行錯誤を重ねて一時間。

「こ、ここなら見つからないかな」

 満足気に額の汗を拭う。

 様々な方法を試してみたが、最終的な隠し場所はここにした。

「机の引き出しの一番下の段……のもう一つ下」

 机の引き出しを取り外すと、床と引き出しの下部との間にわずかなスペースができる。ここなら通常の掃除でもまず開かない。さらに小説をそのまま置くことはせず、辞書の保護カバーの中に入れておくという隙のない二段構え。

「うん! できたっ」

 これで秘密は確実に守られる。隠し場所としては完璧だ。きっとセリーヌにもわからない。

 安心したエマは小説を取り出して掲げてみた。表紙を見ただけで思わず頬が緩んでしまう。

「いつか私もこんなお話を書いてみたいなあ」

 ふと少女が抱いた小さな夢。

 私だったらどんなお話を作るだろう。

 魔法使いの女の子とかっこいい騎士様のお話なんてどうかな。

 そんな物思いにふけりかけた時、扉が半開きになっていることに気付いた。

「あ、いけない。ちゃんと閉めとかないと……――!?」

 半分開いた扉の先から、祖母が立ってこちらを見ている。がっちり目が合った。見た目の年齢は自分とそう変わらないおばあちゃん。

 薄闇の廊下にたたずむ祖母――ローゼリア・ミルスティンはにやりと笑みを浮かべた。

「い、いつからいたの? こ、これは違うのっ」

「ほう、なにが違うんじゃ?」

 絹のような金髪をくるくると弄びながら、ローゼリアは言う。その声も見た目同様、可愛らしい少女の声音だ。赤い瞳がエマの抱えた小説に向けられている。

「あのっ、えとっ、だからっ、つまりっ……」

「ほうほう。(わらわ)に内緒でいかがわしい書籍を購入したと?」

「いかがわしくないから!」

「いつの間にやらませたのー。おませさんじゃのー。どれ、ヴィータにも教えてやるかの」

「や、それはダメ!」

「午後の修業に遅れるでないぞ。ふふん」

 エマの抗弁に聞く耳持たず、ローゼリアは足取り軽く去って行ってしまった。

 その場にぺたんとへたり込むエマ。午後にどんな顔をして修行場に行けばいいのだろう。絶対集中できない。

 しばらく一人で悶々としていると、扉の外でどさりと重い音がした。

 ショックの抜けきらない体のまま、ふらふらと部屋から出てみる。廊下に読み古された年代物の恋愛小説が山積みで置かれていた。

 思う存分に読むがいいということだろうか。

「あうう……」

 嬉しいけど、やっぱり恥ずかしい。エマはさらに顔を赤らめた。

 

  ●  ●  ●

 

 

――エリオット・クレイグ(七歳)

 

 帝都ヘイムダル。アルト通りに面した邸宅の一つから、柔らかなピアノの音色が聞こえていた。

 リビングに設置されているグランドピアノ。そのしなやかな指が鍵盤を叩くと、音の連なりが一つの曲となって、流れるような旋律を奏でている。

 エリオットも、姉のフィオナも、母の演奏が大好きだった。

 エリオットはバイオリン、フィオナはフルートで、即興でピアノに合わせて演奏を始める。親子の三重奏が、アルト通りに響かない日はなかった。

 ふとピアノの音が止まる。

「お母さん?」

 エリオットはバイオリンをあご当てから離して首をかしげた。

「いけないわ、もうこんな時間、今日は――」

「あ、お父様が帰ってくる日!」

 フィオナが言った。今日は父親がガレリア要塞での勤務から戻ってくる日だ。

 オーラフ・クレイグ。強面で体躯も大きく、初対面の相手はまず緊張するであろう風貌をしている。

 もっとも実の所は、妻を愛し、娘を愛し、息子を愛する、家族想いな一人の父親なのだが。

 少なくとも子供たちにとっては威厳はあれど、怖い父親というわけではない。むしろ優しい、ともすれば甘いくらいだった。時折頑固なところもあるにはあるが。

 数少ない父の帰宅は、エリオットもフィオナも楽しみな日として指折り数えている。

「お母さんは駅まで迎えに行ってくるわね。二人はどうする?」

「僕は一緒に行く――」

「私とエリオットはお留守番してる!」

 エリオットが言いかけて、フィオナがかき消す。

「え、僕……」

「お父様が帰ってきたら驚かすの。だからエリオットは私とお留守番するのよ」

「あら、そうなの? ふふ、お父さんも喜ぶと思うわ」

 おろおろとするエリオットをよそに、手早く身支度を整えた母は、急ぎ足で玄関から出て行った。

 家の中には姉弟の二人だけだ。

 母を見送った後、エリオットはフィオナに訊いた。

「ねえ、お姉ちゃん。お父さんを驚かすって何するの?」

「久しぶりに会うんだもの。まずはおめかししないといけないわ」

 フィオナは自分の部屋に戻るなり、よそ行き用の服を引っ張り出しては何着も着替え直していた。その都度エリオットに「ねえ、これはどうかしら」などと意見を求めながら。

「う、うん。いいと思う」

「でもこれじゃないわ」

 エリオットがいくら肯定の感想を述べても、フィオナは納得しない。しばらくあれやこれやと召し変えたあと、結局お気に入りの服に落ち着き、鏡の前でくるくると回っている。

「ねえ、エリオット。これはどう思う?」

「……それがいいと思う」

「私もこれがいいと思うわ」 

「だよね」

 ようやくフィオナの“おめかし”が終了する。

 やっと終わった。肩の力を抜いて、エリオットはピアノに立てかけていたバイオリンへと向かった。

 お父さんが帰ってくるまで何か弾こう。そんなことを思っていたエリオットに、背中からフィオナががしっと抱き付いてくる。服が決まって上機嫌なのか、頬ずりまでしてきた。

「お、お姉ちゃん、やめてよお」

「かわいいエリオット。お姉ちゃんがもっとかわいくしてあげる」

 嫌な予感。しかし抵抗はできない。まるでぬいぐるみにそうするかのように、むぎゅーと抱きしめられているのだ。

 エリオットはそのまま二階、フィオナの部屋に連れ去られてしまった。

 部屋の中からは、どたばたと騒々しい音が続いている。

「逃げちゃダメよ」

「や、やだよお」

「これをこうして」

「うわーん、お母さーん」

 ――三十分後。両親がそろって帰ってきた。

「お父様、お帰りなさい!」

 フィオナはパタパタと階段を駆け下りて、父の胸に飛び込んだ。オーラフは豪快に笑い、愛娘を抱きかかえる。

「おお、フィオナ! 元気だったか。うーん、前に会った時より美人だぞ」

「あなたったら、フィオナに会う度に言ってますよ」

「お父様、おひげくすぐったいよー」

 オーラフはそっとフィオナを床に下ろすと、きょろきょろと辺りを見回した。

「んん? エリオットはどうした?」

 あごをしゃくったオーラフに、フィオナはいたずらっぽく笑いかけた。

「エリオットー、出ていらっしゃーい」

 そう呼ぶと、フィオナの部屋の扉が静かに開く。しかし開いただけで誰も出て来ない。

「もう、エリオットったら」

 フィオナは二階に駆け上がり、部屋の中のエリオットの手を引いた。

「やっぱり、嫌だよお」

 首を振りながらも、エリオットは部屋の外へと引っ張り出される。

「なんと……!」

「あ、あなた……!」

 その光景に両親は目を丸くして、口を開いたまま静止していた。

 エリオットは子供用の白いカジュアルドレスに身を包み、橙色の髪には青いリボン、前で組んだ手にはフィオナ愛用の小物入れを、恥ずかしさを紛らわす為か、ぎゅっと掴んでいる。しかしその動作は逆に愛くるしさを引き立てていた。

「て、天使……」

 オーラフはまばたきさえも忘れて、まるで女神に祈る様に両手を高く掲げている。

「フィオナ、素晴らしいわ。そういえばお化粧道具が引き出しに……」

「ねえ、エリオット。次はこのスカートにしてみない?」

「うわあああん、やだよおお」

 音楽と愛に包まれた温かい家庭。

 まだ幼いエリオットに、その愛は深すぎたのだった。

 

   ●  ●  ●

 

 

――アリサ・ラインフォルト(七歳)

 

 ノルティア州領内、ルーレ市。

 お気に入りのワンピースに身を包み、町中を歩くブロンド髪の少女。その足取りはどこか活気がなく、表情も明るいとは言えない。

「ここ……どこなの……?」

 一人不安気につぶやく。

 ルーレは街そのものが、いくつかの層に分かれた巨大な建造物と見ることができる。住み慣れた住人でさえ一つ道を脇に逸れれば位置感覚がわからなくなるほどだ。

 それが子供となれば尚更のこと。

 ブロンド髪の少女――アリサ・ラインフォルトは例によって迷子になっていた。

「だいじょうぶ。うちのビルは街の真ん中にあるんだもの。それに見えてるし」

 不安を払うように、自分に言い聞かす。

 迷子になるのは初めてではない。だからこういう時の対処法も心得てはいる。

 幸いというべきか、彼女の家はかのラインフォルト本社――その最上階のフロアが住居スペースだ。だから基本的に街のどこにいても、目印となる家は見えている状態である。

 だが今回は普段と勝手が違っていた。

「あ、あれ?」

 視界に映る巨大なビルを目指して直進する。しばらく道なりに進んでみるも、行き止まりにぶつかってしまった。

「もー、なんでこんなところに壁をつくるの?」

 コンクリートの壁をぺしぺし叩いたあと、アリサは来た道を引き返す。別に他の道を探せばいいだけだ。

「むー、おかしいわねー」

 来た道を引き返しただけなのに、見たことのない風景になっているような。

 何度も確認するが目印は見えている。しかしそこを目指そうとする度、道は曲がりくねって自分を予期せぬ方向へと誘うのだ。

 かれこれ一時間は歩き続けただろうか。近づくどころか、遠のいている気さえする。

「……ぐす」

 泣いちゃいけないと思って上を向く。涙がこぼれないようにするにはこれが一番だ。

 霞んだ空。くすんだ雲。太陽が隠れてしまっているから少し肌寒くも感じる。 

「今日はいい日のはずなのに……」

 何日も前からカレンダーに印をつけて、とても楽しみにしていた日。それがちょっと遊びに出ただけでこんなことになるなんて。

「……知らない人には道を聞いちゃいけないし」

 ラインフォルトグループの令嬢。幼いなりに自分の立場は分かっているつもりだった。

 基本的に本社周りの一帯は顔見知りの人達が多い。だが少し離れた下請け工場側に行くと、そうとは限らない。

 問題になるのは、自分が相手を知らなくて、相手が自分を知っていることだ。

 物心つく頃にはすでに誘拐の危険性と、自分にその可能性があることを教えられていた。

 だから一人で遊ぶ時は部屋の中。外に出ても本社周りだけ……だったのだが。

 ――もしかしたら今日は浮かれていたのかもしれない。

「くしゅんっ」

 寒い。誘拐の一語を思い出してしまい、背筋もうすら寒くなった。

 周りは装飾の欠片もない無機質な趣きの工場ばかり。さらに人通りもない裏路地。鋼鉄を加工する機械的な音だけが妙に大きく響き、心の中をざわつかせる。

 ガタンガタン。ドンドン。ぐるるる。

 機械音に混じって聞こえた、明らかに生物の唸り声。

「えっ?」

 どきりとして後ろを振り返る。少し離れた所に、歯茎を見せながら牙を剥く犬が見えた。首輪はしておらず、体は煤けて灰色に薄汚れている。

 野犬だ。ルーレに? いや、あり得る。裏路地は領邦軍の見回りも甘い。街道から餌を求めて紛れ込んだのか。

「あ、あ……」

 野犬が自分を見ている。中型犬。しかし少女にとっては大型犬と言っても差支えない大きさだ。

 恐怖を押し込め、震える足を抑え、荒い息を整え、アリサはワンピースの裾をぐっと掴んだ。

「あ、あたしはアリサ・ラインフォルト。犬なんかこわくないもん。あ、あっちにいきなさいよ!」

 再び唸った野犬は身を屈めた。後ろ足に力を入れているのが分かる。

 飛びかかって来る気だ。

「や、やだ……だれか……」

 この期に及んでも、“助けて”の一言が吐き出せない。環境が育んだ気丈さが、知らずの内に見えない枷となって彼女を縛っていた。

 ふとユミルで出会った彼のことを思い出した。雪道で迷って泣いていた自分に声をかけてくれたあの黒髪の少年。

 あなたになら助けてと言うことができるかもしれないのに――

 犬が地面を蹴って跳躍した。大きな牙が迫ってくる。

「やあああ!」

 アリサが固く目を閉じた時、バキッと鈍い音が聞こえた。続く野犬の悲鳴。

 両の肩を誰かに掴まれた。強張りながらも恐る恐る目を開ける。

「あ……!」

「大丈夫なの、アリサ! ケガは!?」

 普段の凛とした様子からは想像できないほど狼狽し、自分を強く抱く自分と同じブロンド髪の女性。

 近くには手の平大の石が転がっていた。

「だ、だいじょうぶ。ありがとう、かあさま」

 母、イリーナだ。

 彼女は野犬に向き直る。石をぶつけられた野犬は怯むどころか、敵意をあらわに太く低い唸り声を上げていた。

 怯えるアリサを自分の後ろに隠し、イリーナは腕を組んで野犬を見据えた。

「うちの娘に手を出そうなんて、頭の足りないワンちゃんね」

 冷気を孕んだ鋭い視線が野犬を射抜く。

「ほんと、呆れるわ」

 かつかつとヒールの踵を打ち鳴らし、イリーナはゆっくりと野犬に近づいた。

 圧倒的なプレッシャー。

 それが何を意味するのかは分からなかったが、その野犬には確かに見えていた。この女性の背後に数百とも言える戦車が隊列を組み、その砲塔が全て自分に向けられている光景が。

 野生の本能が告げる。逆らうな、ただ逃げろ、と。

「うちの工場のベルトコンベアーに乗せてあげましょうか。ラインを一週する頃には多少は従順になっていてよ?」

 ダメ押しの一撃。『きゃん!』と細く鳴くと、それこそ大砲で発射されたような勢いで、野犬は街道側へと走り去った。

 戻ってきたイリーナは、アリサの手を優しく握った。

「ダメじゃないの、こんなところまで一人で来たら」

「ごめんなさい……ごめんなさい」

 涙声で謝るアリサを一撫でし、イリーナは「ほら」と視線を道の先へと向けた。

 遠くに笑みを湛え、眼鏡をかけた優しげな男性が手を振っている。

「あ! とうさま!」

 一転して笑顔になったアリサを見て、イリーナは嘆息をつく。

「今日は仕事を早めに終わらして、家族で一緒に食事をするって約束でしょう。ほら、父様の所に行く前に顔をお拭きなさい」

 ハンカチで泣き顔を拭うが早いか、アリサは大好きな父の元へと走った。

 左手は母に、右手は父に、しっかりと握ってもらったまま、アリサは満面の笑顔を浮かべた。もう寒さなど少しも感じなかった。

「というかあなた。アリサが危なかったんだから、走るくらいはしたらどうなの?」

「君がすごい勢いで走るものだから気圧されてしまってね。何と言ったかな、あれ。ああ、そうだ、ラクロスの選手みたいだったよ」

「あはは、らくろす~!」

 アリサは両親の間でぴょんぴょんと飛び跳ねる。

「もう……アリサのお目付け役に専属メイドでも欲しいわね。いい人がいればだけど」

「そういえば、おじいさまは?」

「もう店で待ってるわよ。店員の女の子にちょっかいかけてなければいいけど」

「あまりお待たせするのもいけないね。さあ、早く行こうか」

「うん!」

 いつまでも心に残る幼い頃の思い出。

 何気ない日常の一ページを、彼女はこの先も忘れることはない。

 

  ●  ●  ●

 

 

――ラウラ・S・アルゼイド(七歳)

 

 帝国南東部、エベル湖の湖畔にある小さな町、レグラム。

 湖畔に面した丘陵の上に建つ屋敷が、この町を治めるアルゼイド子爵邸だ。

 時刻は夜中の二時。屋敷の人間は使用人も含めて寝静まっているこの時間。廊下にひたひたと小さな足音がしていた。

 まだ襟首までしかない後ろ髪をくくって、普段の稽古着に身を包んだその手には、練習用の木剣が握られている。

(今日こそは……)

 ラウラ・S・アルゼイド。アルゼイド家の息女であり、彼女もまた剣を学ぶ身である。

(父上に一太刀いれるのだ)

 父の名はヴィクター・S・アルゼイド。その実力は帝国内でも三指に入ると謳われ、“光の剣匠”を冠するアルゼイド流の筆頭伝承者である。

 当然ではあるのだが、ラウラは父に対して一本を取ったことはない。

 そもそも唯一まともに切り結べる執事のクラウスでさえ、父に決定打を与えたところを彼女は見たことがないのだ。

 父は言った。私に隙があればいつでもかかって来て構わない、と。

 ラウラは思った。ならば、遠慮なく。

 しかしヴィクターに隙はなかった。

 日常の中で何気なく背後を取ってみるも、背に目がついているかのように油断の欠片さえ見えない。

 趣向を変えて、『父上、肩をお揉みいたします』と接近を試みてみたが、『ならばまず背に隠してある木剣を置くがいい』と一瞬で看破されてしまったこともある。

 とにかく敵わない。だが生来の気性もあってか、諦めるという考え自体、ラウラの頭に浮かぶことはなかった。

 あれこれ一生懸命に考え、出した結論――すなわち、もっとも隙が出来るであろうタイミング。それが、

(父上だって眠っている時は隙があるはず)

 今回の奇襲作戦はクラウスにだけ伝えてある。話してみたところ、存分にお試しなさいと笑って承諾してくれた。もっとも承諾などなくともラウラは実行するつもりではあったが。

「……んー」 

 普段ならばラウラとてとっくに眠っている時間だ。

 一応稽古の合間を縫って昼寝はしたのだが、やはり眠い。重たいまぶたを一擦りして、足音を立てぬよう父の寝室を目指す。

 寝室の前に着き、扉に耳を当ててみる。寝息が聞こえた。間違いなく眠っている。

 そっとドアノブを回し、扉をゆっくりと開けた。部屋の奥にベッドに父が寝ている。

(し、慎重に)

 武道の足運びは拙いながらも心得ている。重心を崩さない様に、後ろ足で前足を押し出すようにして歩くのだ。

 一歩、一歩。わずかな物音はもちろん、呼吸もなるべく抑えて、平常心を保つ。父のこと、こちらの攻撃的な気を感じて目を覚ますかもしれない。

「むう……」

 ヴィクターがベッドの上で身じろぐ。ラウラはびくりと肩を震わした。起きたか? ……いや、大丈夫。まだ寝息が聞こえる。

 もう少しで一足一刀の間合い。

「ふっ、ふはは」

「……!?」

 急に笑い声を上げたヴィクター。

 つい木剣を落としそうになったが何とかこらえる。

 しばらくするとまた寝息が聞こえてきた。今のも寝言だったのか。父の寝言など初めて聞いたが、何と豪快な。さすがは《光の剣匠》、就寝中でさえも威厳に満ちている。

(いけない、今は――)

 そんな父を誇らしく思うが、しかし今は真剣勝負の最中だ。雑念を吹き消し、ラウラはさらに一歩踏み出した。 

 入った。自分の間合いだ。あとは勢いで――!

「父上かくごーっ!」

 構えた剣を力いっぱい振り下ろす。剣先はばふんと音を立ててベッドを叩いた。

「え!?」

 今の今まで眠っていたはずの父がいない。

「ふふ、奇襲で掛け声はよくないぞ」

 稽古着の首根っこを掴まれ、ひょいとラウラは持ち上げられた。

「ちっ、父上? どうして……」

 どんな体捌きを使えば、こんな至近距離で悟られずにベッドから身を起こすことができるのだ。

「中々いい作戦だったが、まだまだだな」

「んんー」

 持ち上げられたまま、それでもラウラは四肢をじたばたと振って何とか木剣を当てようとする。それを難なくかわしながら、ヴィクターはラウラに言う。

「まず振り上げてから剣先の初動までが遅いな」

 じたばた。

「あと踏み込みが雑だ。しっかりと後ろ足を使って体を前進させよ」

 じったばった。

「あと気が急いて姿勢が崩れておったな。あごを引き、背筋を伸ばすのだ」

 じったんばったん。

「ええい! 少しは落ち着くがいい!」

「うぅ……」

 また届かなかった。あんなにいっぱい考えたのに。遅くまで起きてがんばったのに。

 幼いなりの悔しさと情けなさが込み上がって来て、視界が滲んでいく。

「む! ぬうう!?」

 突然ヴィクターの顔が険しくなり、ラウラを掴む手を離した。

 よく分からないが、なぜか解放された。泣きそうになったから? いや、父に限ってそれはない。

 ぱっと飛び退き、木剣を構え直したラウラの視界に暗がりから父の両足首をつかむ二本の腕が見えた。

 ぬっと、ベッド下からクラウスが顔を出す。彼は平然とした口調でこう言った。

「こんなこともあろうかと」

 さすがに意表を突かれたらしく、ヴィクターは自分の股下から顔をのぞかせる老執事を見下ろした。

「クラウス、そなたいつから忍んでおった!?」

「おそれながら、旦那様が夕食を召し上がっておられる時分にはすでに。ベッド下にて気配を殺し続けてはや六時間、ついにこの時が参りましたな」

「どうも姿が見えんと思えばそういうことか……!」

「皆の者。お嬢様の力になるのです」

 扉から木剣を構えた門下生たちが、雄叫びをあげて押し入ってきた。クラウスからラウラの夜襲の話を聞き、その力添えに名乗りを挙げた者達だ

「行ってまいります!」

「命を賭して隙を作りますゆえ!」

「我らの屍を踏み越えていきなされい!」

 口ぐちに勇ましく叫んで特攻する男たち。

「そなたたちにかんしゃを!」

 彼らに続くべくラウラも気持ちを引き締めた時、先陣を切った門下生達が束になって、自分の左右、そして頭上を吹き飛びながら戻ってきた。

「おさらばでございます!」

「命ここに尽き果てたゆえ!」

「とりあえずお踏み下されい!」

 通り過ぎ様、そんなことを口走りながら。

「なにしにきたのだ、そなたたち……」

 呆然としていると、ずりずりとクラウスを引きずりながらヴィクターが近付いてきた。大きな手がラウラの頭めがけて伸びる。

「っ!」

 身を固くしたが、父の手の平は優しく自分の頭を撫でていた。

「そなたは誰からも好かれているのだな。嬉しく思うぞ」

 ヴィクターはラウラを両腕で抱きかかえると、床に伏したまま呻き声をあげる門下生たちに告げた。

「今回の件は不肖の娘に力添えしただけのこと。今から朝まで練武場の掃除をすることで不問に致そう。さっそく取り掛かるがよい」

 未だ足腰の立たない門下生達は、這うようにして部屋から出ていく。

「クラウス、そなたもだ」

「謹んでお受けしますぞ」

 足元で答えたクラウスは落ち着いた動作で身を起こし、丁寧に一礼すると自らも練武場に向かった。

「ち、父上。その……わたしも練武場の掃除に」

「ふむ。そういえば最近一緒に寝ていなかったな。たまには父娘水入らずで過ごすのもよかろう」

 ヴィクターはラウラを抱えたままベッドへと戻る。

「父上……ラウラはもう七歳ですので……は、恥ずかしいのですが」

「七歳で父離れなどと、寂しいことを言うでない」

「ですが……」

 しかし温かい毛布が掛けられると、急に眠気がやってきた。神経が張っていたから気付かなかったが、本当はものすごく眠たかったのだ。

「ん……」

 やっぱり今回もダメだった。次はどうやって一本取ってみようか。やはり地道な稽古が一番の近道なのかもしれない。

 ヴィクターの腕の中でいつの間にかラウラはうつらうつらと舟を漕ぐ。

 目を覚ませば、また厳しい稽古が待っている。別に辛いとは思わない。自分の意志でやっているのだから。

「……父上……」

 それでも彼女はこの束の間、剣の事を忘れることにした。

 うん。こんな時くらいは父に甘える娘でもいいだろう。

 

   ●  ●  ●

 

そんなⅦ組の一日~てんいやーずあごー 

~FIN

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。
まずですが、本編で亡くなっている方々、十年前ほぼ全員ご存命です。加えて何名かの背景説明を。
リィン……シュバルツァー男爵に拾われて二年が経過。本人の談より、その頃はすでにエリゼも懐いている。
ユーシス……母存命。本人の談より、アルバレアの屋敷には住んでいないが(母が亡くなってから引き取られた)一応交流はあった。なので、あのような設定になりました。
エマ……町なのか村なのかも不明。でも本屋くらいはあるよね? 
アリサ……父存命。シャロンはまだラインフォルト家には来ていない
フィー……唯一出来事の年代が不明確。ただ傭兵王に拾われる一枚絵のフィーはさすがに五歳以上。本人の談より「両親のことは覚えていない」。しかし五歳が一人で生きていけるとは考えにくいので、孤児院などの施設にいたのではと推測。そんな背景の中での話です。
{IMG114700}
マルガリータ嬢の話が激しかったので、前回の部活紹介はほんわかしたのをと思っていたら、ミスティさんが主役だった為、予想以上に妖しい雰囲気に。なので今度こそ柔らかい話を――というコンセプトでした。
一つでもお気に入り頂けた話があれば嬉しい限りです。

次回もお楽しみ頂ければ幸いです。


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A/B 恋物語(前編)

 

――9月13日、月曜日。

 それは日曜学校の先生をやったり、チェスの駒を探して走り回ったり、用務員に追いかけ回されたり、猛将に仕立てあげられたり――Ⅶ組の面々が様々なトラブルに見舞われた次の日のこと。

「あれ、誰もいないのか」

 放課後。Ⅶ組の教室に戻ってきたマキアスは閑散とした教室を見渡した。

 この時間であっても誰かいることの方が多いのだが、今日はそうではないようだ。

 Ⅶ組の誰かに用事があったというわけではないので、それで別段困ることはないのだが。

 第二チェス部に顔を出したものの、部長のステファンは今日来られないらしく、それで何とはなしに教室まで戻ってきただけである。

「まあいいか。今日は早めに寮に帰って――うわっ!」

 廊下に振り返ると、いつの間にかマキアスの後ろに一人の男子生徒が立っていた。

「すまない。驚かすつもりはなかったんだ」

 驚いて声をあげるマキアスに、男子生徒は申し訳なさそうに謝った。

「あ、ああ、いやこちらこそ済まなかった。ええと……」

 ずれかけた眼鏡の位置を正し、マキアスは彼を見返した。

 真っ直ぐな瞳に、さっぱりとした短髪。第一印象では、実直で生真面目そうな性格に見える。緑服なので平民生徒だろう。

「教室にリィンいるかな?」

「リィンの知り合いか。教室には今誰もいない。それにリィンは体調悪そうだったから、もう寮に帰ったみたいだぞ」

 リィンは今日一日体調不良だった。気力で授業を乗り切ったようだが、さすがに体力は尽きていたのだろう。ガイウスとユーシスが肩を借し、リィンを寮まで連れて帰るところをマキアスは見ていた。

 多分、川に飛び込んだせいだ。

 マキアスだけはリィンが風邪を引いた原因を知っている。しかし川にダイブした理由は未だに不明のままだ。

 さらにどういうわけかリィンに警戒されているらしく、詳細を聞こうにも近づけない雰囲気だった。ちなみに警戒していたのはアリサもだが。

「そうなのか……なら仕方ないな。また出直すことにするよ」

 男子生徒は心なしか肩を落としている。

「何か相談ごとだったのか?」

「ああ、まあちょっとした――」

 なぜか言い淀んでいる。相談ごとというか悩みごとだろうか。

「よかったら話ぐらい聞かせてくれないか。少しは力になれることがあるかもしれないし」

 男子生徒は驚いた表情を浮かべている。初めて話す相手がそんなことを言ってくるとは思いもしていなかったようだ。

 一方のマキアスも自分の発言に驚いていた。

 深く考えもせず口から出た言葉だったが、よく知りもしない相手に対して、自分はここまでお人好しだっただろうか、と。

 知らずの内にリィンの影響を受けている。思い至り、マキアスは心中で苦笑した。

 男子生徒は一瞬戸惑っていたようだったが、マキアスの顔を見て、それが興味本位などで発した言葉ではないことを理解した。

 偶然ではあったが、彼のマキアスに対する印象も“実直で生真面目そう”だった。

 自分と同じ匂いというのか、多少の親近感を感じた彼は、ややあって口を開く。 

「ちょっと長い上に、その……恥ずかしいことでもあるので、口外はしないで欲しいんだけど」

「その点については任せて欲しい。どこかの諜報部員よりは固い口を持っているつもりだ」

「諜報部員ってなんだよ? あ、そう言えば自己紹介がまだだったな」

 思い出したように彼は言う。

「俺はⅣ組のアラン。よろしく頼むよ」

「僕はⅦ組のマキアス。こちらこそよろしく」

 互いに名乗り、軽く握手を交わす。

「立ち話も何だし、食堂にでも行かないか? コーヒーでも飲みながら話そう」

「賛成だ。アランはコーヒーはいける口なのか?」

 根元の部分で似た者同士なのか、早くも打ち解けつつある二人は、学生会館へと向かった。

 

 マキアスとアランがその場を離れて五分も経たない内に、Ⅶ組の教室前に一人の女子生徒が立っていた。

 流れるようなセミロングの髪に白いカチューシャ。カチューシャと同色の白い学院服は貴族生徒のものだ。

 優しげな瞳の持ち主だったが、今はどこか陰っている。彼女はそわそわしながら、Ⅶ組の教室前を往復していた。

「Ⅶ組の誰かに用事か?」

 そんな彼女に声を掛けたのは、偶然通りがかったラウラだった。

「あ、えっとごめんなさい」

「いや、謝る必要はない。それでどうしたのだ?」

 ラウラが尋ねると女子生徒は言った。

「あの……リィン君いる?」

 控え目な声。かすかに潤んだ瞳。

 これは、まさか。

「リィンは今日、体調不良でな。もう寮に帰ったようだが」

「そ、そうなんだ。はあ……」

 残念そうな表情、深いため息。

 ラウラは一瞬で推測する。

 これはあれなのではないか。リィンがいつも無自覚に吐く天然な台詞を、この女子生徒は正面から食らったのではないか。

 朴念仁と思いきや、いやむしろ朴念仁だからか、心を揺さぶるような、言わば勘違いしてしまうような歯の浮く台詞を、さも当然のように言い放つことがある。

 うかつな事に、この自分でさえも赤面させるくらいなのだ、あの男は。

 赤面させられたと言えば、昨日リィンは私の胸を――

 思い出しかけたその光景を振り払うように、ラウラは首を左右に振った。

「えっと、大丈夫?」

「いや、問題ない。そなたはリィンにどのような用事があって来たのだ?」

「それは……」

 口ごもる女子生徒。

「すまない。不躾な質問だったようだ。答えなくて構わない」

 焦ったようなラウラの様子を見て、彼女は頬を緩めた。

「大丈夫よ。実は以前に一度リィン君に相談した悩みがあって、今日はその続きということになるかしら」

「なるほど、そうだったか」

 わずかに安堵した自分がいた。その理由も分からないままに。

「でも体調不良ならお願いはできないもの。また改めて伺うことにするわ」

 彼女の話しぶりや態度から察するに、小さな悩みというわけではなさそうだ。

 背を向けようとした彼女を、ラウラはとっさに引き留めた。

「よければ相談に乗らせてもらえないだろうか。リィンのように力になれるかはわからないが」

 行きがかり上とはいえ話を聞かせてもらったのに、消沈の色が見える彼女をそのまま放って置くことはラウラには出来なかった。

 そこにもう一つ理由を加えるなら、現在体調不良の真っ只中のリィンのことである。

 彼が風邪を引いた――というかその症状が悪化したのは、自分にも原因の一端があることをラウラは理解していた。

 不慮の事故とはいえ、反射的に壁に吹き飛ばしたりもしたし。エマとアリサと一緒に元気の出る一品を提供したら、食材や薬品同士の予期せぬ融和反応が起き、謎の効力が生まれ、リィンは一連の記憶まで失ってしまったようだし。

 責任を取ると言うほど大げさなものではないが、リィン不在の穴埋めは自分がやっておくべきだと思ったのだ。

「で、でも」

「気にしないでほしい。もっとも言いにくい話なら無用に踏み入るつもりはない。出過ぎた提案だったのなら申し訳ないと思うが……」

「そんなことないわ。……じゃあ少しだけお話に付き合ってもらってもいいかしら?」

「ああ、もちろんだ」

 遅まきながら、二人は自己紹介をする。

「Ⅱ組のブリジットです。よろしくね」

「Ⅶ組のラウラだ。尽力させてもらう」

 上品に微笑んだブリジットに、ラウラも柔らかな笑みを返す。

「よかったら《キルシェ》まで足を伸ばさない? 話を聞いてもらうんだもの。紅茶くらいはご馳走させて欲しいわ」

「嬉しいお誘いだ。ならば私は話を聞かせてもらうのだし、菓子でも注文させてもらおう」

 貴族子女ならではの優雅なやり取りを交わしつつ、二人は町へと向かった。

 

 

 《☆☆☆A/B 恋物語☆☆☆》

 

 

「ふうむ、なるほどな」

 学生会館、一階食堂。アランから詳細を聞くと、マキアスはコーヒーを一口すすった。

「笑わないのか?」

「人の悩みを笑うわけないだろう」

 マキアスが聞いたアランからの相談内容はこうだ。

 アランにはブリジットという幼馴染がいて、小さい頃からずっと仲も良かったそうだ。成長し、貴族としての振る舞いを身に付けながら、良識も持ち合わせ、平民蔑視をすることもなかったという。

 士官学院に入学後、アランはフェンシング部に入るが、そこで同じく入部してきたハイアームズ家の三男――パトリックに大敗してしまう。

 パトリックの余計な煽りもあって、アランは劣等感を抱き、同時に強くなりたいと思うようになった。そうでなければブリジットのそばには居れないと。いる資格がないと思い込む。

 結果としてそれは、彼の態度を頑ななものにしてしまい、あわやブリジットと仲違い寸前までいったのだが、そこをリィンが立ち回って互いの誤解を解き、関係の改善に至ったという運びだ。

 問題はここから。

 関係も改善し、以前のように気軽に話も出来るようになったが、どうも最近ブリジットの前に立つと緊張してしまうらしい。顔も正面から見られないし、フェンシングの稽古中も身が入らないとのことだ。

 アラン自身にもどうしてそうなるのかわからない。

 マキアスはもう一口コーヒーを飲んだ。

 舌の上に程よい苦味が広がるが、アランの話を聞いた後だからか、どことなく甘い風味も感じられた。

 カップを口許から離したマキアスは「それって、つまり……」と本当に分かっていなさそうなアランを嘆息交じりに見やった。

「君はそのブリジットさんが好きなんだろう?」

「ぶっ!」

 それはチェスで例えるなら、強固に組んだ陣形をたった一つの手で崩壊させられるようなものだ。全く予期していなかった一撃にアランは口に含んだコーヒーを吹き出した。

「す、すす!? な、何言ってるんだ、マキアス!」

「いやだって、僕ですらわかるぐらいだぞ」

 マキアスとて恋愛沙汰や、その辺りの空気感に鋭い方ではない。さりとてこの状況を理解できないほど鈍くもない。

「ブ、ブリジットは幼馴染でっ、友達でっ!」

「それがいつの間にか異性として気になっていたんじゃないか?」

「―――っ!?」

 さらに考えれば、パトリックに負けて強くなりたいと思ったことも、態度を硬化させたことも。

 そばにいる資格だのと動機付けしているが、話はもっと単純で、気になる子に恰好の悪いところを見せたくなかっただけではないのか。話を聞くに、アラン自身は無自覚だったようだが。

 しかし仲違いの一件で余計に彼女を意識してしまい、知らずの内に抑えていた感情が、今になって表面化したということではないのか。

 それを指摘された今、アランの顔は恥ずかしさと居たたまれなさとが合わさって、どうしようもないほど真っ赤になっていた。

「大丈夫か? 顔がにがトマトみたいになっているが」

「わあああ! 俺を殺せ、殺してくれマキアス! 散弾銃持ってるんだろ、楽にしてくれよ!」

「ぶ、物騒な事叫ぶな。他の学生もこっち見てるじゃないか。落ち着くんだ、アラン」

「マキアスが俺を殺すーっ!」

「は、はあっ!?」

 ざわめき、喧騒が広がっていく。気が付けば自分に対してテーブルが立てられ、周囲にバリケードが張られていた。

 何人かの学生は、ほふく前進で食堂から逃げ出そうとしていて、カウンターからは「生徒会に連絡を! 教官方にも応援を頼んでえっ!」と必死の救援要請が聞こえてくる。

 アランがマキアスの肩をわし掴む。

「俺はどうすればいいんだ!」 

「僕が聞きたいくらいだ!」

 マキアスはアランの手首を握り返して、自分の肩から引きはがし、何とか落ち着かせようとする。その様子を見たカウンターの女性が絶叫した。

「誰かあ! 罪のない少年が眼鏡の殺人鬼に捕まったわ!」

「誰が眼鏡の殺人鬼だ!? もう逃げるしかないぞ」

「俺はもうダメだっ」

 マキアスはその場にくずおれそうなアランの手を引いて、食堂から全力で走り出る。後ろから「少年が拉致されたわ!」などと誤解も甚だしい悲鳴が飛んできたが、振り返る余裕も、事情を説明する猶予もマキアスにはなかった。

 

 

 学生食堂で一騒動起きた頃、喫茶《キルシェ》。

「ふうむ、なるほどな」

 ブリジットの悩み事をあらかた聞き終わり、ラウラは紅茶を口にする。

 《キルシェ》のオープンテラスには二人だけだ。

「だから原因がわからないの」

「確かに。むずかしい話のようだ」

 ラウラがブリジットから聞いた話はこうだ。

 ブリジットにはアランという日曜学校時代からの幼馴染がいて、互いの身分に違いはあったが、年を重ねても疎遠になることもなく、ずっと仲が良かったらしい。

 つい最近のこと。アランの様子がおかしくなり、ブリジットに対して突き放すような態度を取ることがあった。その時もブリジットは悩んだそうだが、依頼を受けたリィンが気持ちの行き違いを修正し、二人は以前のような仲に戻ったのだという。

 問題はここから。

 しばらくは普通に会話もしていたのだが、近頃またアランの様子が変になってきた。

 以前のように冷たい態度を取るわけではないが、目線を合わせなかったり、急に黙り込んでしまうことがあるとのことだ。

「せっかく前みたいに仲良くなれたと思ったのに……私、何かアランに嫌われることしたのかなぁ」

 気丈にも笑ってみせたブリジットだが、語尾は消え入りそうに震えていた。彼女はうつむき、紅茶に映る自分の顔を眺めている。

「……そう落ち込むでない」

 この後に及んでも、アランがそうなった原因を自分の中に見つけようとしている。ブリジットが本当に優しく、気立てのいい女性であることが、この短時間の中でも十分に感じられた。

 だからこそ、力になりたい。

 色々考えてはみたものの、そもそもラウラはアランを知らないのだ。ただブリジットの話を聞くに彼の性格は、真っ直ぐで、努力を惜しまず、そして誠実だと思える。

 確信を持ってまでは言えないが、別にアランはブリジットのことを嫌っていないのではないか。

「聞きたいのだが、そなたはアランのことをどう思っているのだ?」

「もちろん大切な幼馴染よ。ちょっと意地っ張りだけど、真面目で優しい男の子ね」

「関係とか印象ではなく……何というのか、そなた自身がアランに抱く気持ちの話だ」

「私の……?」

 思いに馳せるようにブリジットは目を閉じる。

「小さい頃から遊んでいたし、そばにいるのが当たり前みたいな感じかしら。昔は考えてることもわかるぐらいだったんだけど。そういえば最近はお互い部活もあるし、寮も違うし、一緒に出掛けることもしてないわね……」

「ふむ……」

 もしかしてこの辺りに原因があるのではないだろうか。言葉の通りブリジットは大切な幼馴染としてアランを見ている。それはきっとアランも同じはずだ。

 だけど、もし彼がただの幼馴染としてではなく、彼女を一人の女性として意識していたとしたらどうだろう。

 実直ゆえに不器用ということもありうる。あるいは自分の気持ちに気付いていない可能性も。上手く感情を整理できずに態度がおかしくなっているとしたら。 

 向き合う二人の視線に、ずれが生じてしまっているのではないだろうか。

「……予想だし、なんとも言えんな」

「ラウラさん?」

 そう、あくまでも予想。今まで剣一筋。レグラムに同年代の男子は少なかった。恋愛の機微には疎いと自覚している。……興味がないわけではないが。

 ただ自分の性格はブリジットよりもアランに近い気がした。だからこそ想像ができたのだ。もし同じ状況になったら自分とて似たような反応をするのではないか、と。

 もっともそれを思い浮かべるのは、それなりに気恥ずかしいことではあったが。

「すまない。あまり力にはなれなかったようだ」

「ううん、話を聞いてくれてありがとう。少し気持ちが楽になったわ」

 その折、《キルシェ》横の通りを数人の学生が血相を変えて走り過ぎていく。

「眼鏡の殺人鬼が出たらしいぞ!」

「罪のない学生が被害にあったってよ」

「修羅だ! ショットガンを持った修羅眼鏡だ!」

 そんなことを口走りながら。

「何やら穏やかではないな。そろそろ私達も行くとしようか」

「ええ、そうね」

 腰元のホルダーから電子音が鳴り響いた。《ARCUS》に通信が入ったのだ。

「すまない。少し待っていてくれ」

「大丈夫よ。話には聞いていたけど、それがⅦ組専用の戦術オーブメントなのね」

 ラウラは《ARCUS》を取り出しながら、その場を離れた。

「ラウラさん、いい人ね……あ」

 ふと公園に視線を移したブリジットは、小さな声を出した。

 一人の男子学生がまっすぐに、ぎこちなく彼女に向かって歩いてくる。

 胸が締め付けられるような心地の中、ブリジットは彼の名を口にした。

「……アラン」

 

 

 少し時は戻る。

 学生食堂を出たマキアスとアランは、そのまま正門も抜けていた。

「まったく、あんな場所で取り乱さないでくれ」

「す、すまない」

「もう落ち着いたのか?」

「まあ一応は……」

 そうは言うものの、アランの動悸は未だ収まらずという感じではあったが。トリスタへと伸びる坂を下りながら、何回も深呼吸をしている。

「それで、俺はどうしたらいいと思う?」

 何とも要領を得ない質問だが、それが精一杯の問いだったのだろう。

 マキアスは難しい顔で腕を組む。

 どう答えるべきなのか。気持ちを伝えてこいなどと言うのは簡単だが、それは自分から首を突っ込んだ割に無責任というものだ。

 第一相手がアランの事をどう思っているかは分からない。好意はあるだろうが、幼馴染としてなのか、友人としてなのか、あるいは異性としてなのか。

 そうか、ならば――

「一つデートにでも誘ってみたらどうだ?」

 そんな提案をしてみる。

 聞けば最近は一緒に遊びに行くことも無いという。

 昔のように気心を知った仲になるには、やはり行動を共にすることだ。そうすることで、改めて見えてくる気持ちもあるかもしれない。 

 アランはあからさまに狼狽していた。

「そ、そんなことできるかって! デ、デートだなんて……」

「重く考えなくていい。デートというか、そうだな。一緒に出掛けるくらいに思ってくれ」

「誘うとかどうすればいいか分からないぞ、俺は」

「すまないが僕もそんな経験はないので、正直そこに関しては気の利いたアドバイスができそうにない。ただ――」

 語調を強めて言う。

「君は今、彼女の前に立つだけで緊張しているぐらいなんだろう? 少なくてもそこを直さないと現状は変わらない。また彼女に誤解を与えることになるかもしれないじゃないか」

「そ、それは……そうかもしれないが」

「まずは自然に話せるようになることだ。少し前まで普通に出来ていたんだから、必ずやれるはずだ」 

「……マキアスって見た目とは逆にけっこうお節介なんだな。ありがとう」

「どういう意味だ、それ」

 話しながら歩いている内に、いつの間にか公園にまで来ていた。

「あ」

 そこでアランは気付く。《キルシェ》のオープンテラスに見知った後ろ姿があることに。

「……ブリジットだ」

「あの子がそうなのか?」

 横目に見るアランの顔は、緊張しているように見えた。マキアスはその背を叩く。

「よし、行ってくるんだ」

「む、無茶いうな! 急すぎて心の準備もできてないって」

「そんなことを君は明日も明後日も言うつもりか? 幸い今、彼女は一人のようじゃないか。今日と同じシチュエーションが明日も来るとは限らないぞ」

「自分だって経験がないくせに、なんでそんなに自信に満ちたセリフが言えるんだ」

「逃げて後悔するより、当たって砕けろだ」

「砕けたらダメだろ!?」

 アランから離れたマキアスは公園の木の陰に隠れた。

「僕はここから見守っている。ちょっと出掛けるのに誘うだけだ。落ち着いて行くんだ」

「わ、わかった」

「上手くいかなかったらピザでもおごらせてもらおう」

「……ドリンクもつけろよな?」

 軽口を叩く余裕を見せてから、アランはブリジットに向かって歩き出した。 

 

 

 そして相対するアランとブリジット。

「あ、アラン……どうしたの?」

「その……ブリジット……」

「………」

「………」

 無言が続き、沈黙が辺りに染みていく。

 夕焼けの照らすオープンテラスを秋風が抜け、木の葉の揺れる音が遠くから聞こえた。

 乱れた髪を直しながら、ブリジットはアランが口を開くのを待つ。

 鉛のように重たくなった口を動かし、アランはどうにか一言を絞り出した。

「何してるんだ?」

「少し知り合いに話を聞いてもらっていただけよ。アランこそどうしたの?」

「別に……何でもない」

 再び訪れる沈黙。

 ブリジットはアランの向こう、公園に視線を移した。そこには子供達の遊ぶ姿があった。

「昔はあんなふうに一緒に走り回ったわね。楽しいことも悲しいこともたくさん話した」

 彼らの笑い声が、とても遠い場所から聞こえてくるようだった。

「覚えたばかりのピアノ。弾き間違えたのに、アランは上手だって拍手してくれた。嬉しかったけどなんだか申し訳なくて、あれから一生懸命練習したの。あなたに上達した演奏を聴いて欲しかったから」

 立ち上がって、アランに背を向ける。彼女の手も足も震えていた。

「ブリジット?」

「ねえアラン。私のこと嫌いになったんなら無理して話さなくてもいいよ?」

「な、何言ってるんだ?」

「せっかくまた前みたいに話せるようになったのに、私何かいけないことしたの?」

 抑えていた不安が溢れ出す。ブリジットの瞳から雫がこぼれ落ちた。

「言いたいことがあるならちゃんと言ってよ……アランなんて、アランなんてもう知らない!」

 その場から駆け出そうとするブリジット。その背中に向けて、とっさにアランは叫んだ。

「今度の日曜、一緒に出かけないか!?」

「……え?」

 言われたことの意味が分からず、一瞬静止する。目をぱちくりとさせたブリジットは、振り返ってアランの顔を見つめた。

 二つの視線が重なる。

「……出かけるって、私と?」

「そう言ったつもりだ」

「私の事嫌いじゃないの?」

「き、嫌ったりなんてしないから」

「………」

「………」

 三度訪れる無言。今度の沈黙は長く続かなかった。

「……ふふっ」

「なんだよ?」

 一転して、ブリジットは満面の笑みを浮かべた。

「うん、次の日曜ね。楽しみにしてるわ。ちゃんとエスコートしてね?」

「ちょっと出かけるだけだって」

「わかってるわ」

「わかってないだろ」

 アランも笑顔を見せる。

 屈託なく笑い合うアランとブリジット。それは幼い頃と変わらない、お互いに見慣れた笑顔だった。

 

 

「聞いてくれ、マキアス。今度の日曜にブリジットと出かけることになったぞ」

 ブリジットと別れて公園に戻ったアランは、木の陰に隠れていたマキアスを引っ張り出した。

「よかったじゃないか。これで問題解決だな?」

 しかしアランは急に口をつぐんでしまう。目線を逸らしたまま合わそうとしない。

「まさか君、出かける日の事を何も考えていないのか?」

「急だったんだから当たり前だろ。完全に勢いで誘ったけど、この後はどうしたらいいんだ……」

「まあ、確かにそうなるよな」

 マキアスは考え込んだ。炊きつけたのは間違いなく自分だが、その後の案があったわけではない。

 問題解決というなら、その日曜を越えてからだ。

 今のアランにデートプランを考える程の余裕があるとは思えない。いや、自分とてそんなことを考えたことはないが、力になると決めた以上、やれることはやるべきだ。

 マキアスは実行可能な案を、頭の中で何通りもイメージしてみる。

「出掛けるというのなら、トリスタではなくヘイムダルだろう。町並もきれいだし、店は多いし、雰囲気のいい公園もある」

「なるほど、帝都か」

「それにヘイムダルは僕の地元だ。当日のプランを考えるのに、多少はアドバイスも出来ると思う」

 次の日曜までは六日ある。準備期間は十分だ。

 チェスにおける戦略のように、完璧で、無駄がなく、論理的に組み上げられた行動経路を見つけ出してみせる。

 マキアスはくいと眼鏡を押し上げた。

 

 

「まったくフィーは。課題の範囲を聞く為だけに《ARCUS》の通信を使って――」

「聞いて、ラウラさん! 今度の日曜にアランとお出かけすることになったの!」

 戻ってきたラウラが席に着くのを待たず、ブリジットは彼女に駆け寄った。

「どういうことだ? いつの間に?」

「たった今よ。アランが誘いに来てくれたの。よかった……私、嫌われてたわけじゃなかったんだ」

 ブリジットはとても嬉しそうだ。

「それは何よりだ。私も安心したぞ」

 しかし。

 ラウラは思い直した。些細な事からすれ違いに至ったブリジットとアラン。

 現状でアランの心中が分からない以上、また彼女が困る事態が起こるかもしれない。

「でも二人で出掛けるなんて久しぶりだし。ちょっと緊張しちゃうかな。ふふふ」

「ふむ」

「服は何がいいかしら? あ、でも学院生だから制服じゃなきゃだめよね――あら、どうかした?」

「いや……」

 せっかく笑顔になったのだ。先ほどのような沈んだ顔はもうさせたくない。

 安心するのは次の日曜を越えてからだ。お節介なのは承知の上だが、自分にやれることはまだあるはず。

 ラウラは夕焼けに暮れた空を見上げ、人知れず決意を固めていた。

 

 

「エマ君の力を貸してほしい」

「私の力、ですか?」

 第三学生寮に戻ったその足で、マキアスはエマの部屋を訪れていた。

 ヘイムダルのデートプランは、後日アランと一緒に考えるとして、彼に内緒で計画しておきたいことがあった。

 今日は何とか普通に話すことができたが、アランのこと、当日はどうなるかわかったものではない。色々考えた末、やはり彼の場合は言葉ではなく態度で示すべきだと思ったのだ。

 策自体はシンプルである。

 巻き起こる様々なアクシデントから、アランにブリジットを守らせるというものだ。

 その身を挺して彼女を守れば、少なくとも大切に想っていることは伝わるだろう。今はそれで十分のはずだ。

 問題は“巻き起こるアクシデント”が思いつかないことだった。

 わからないのだ。そのようなシチュエーションで起こる効果的なトラブルというものが。やりすぎてアランに対処できなければ意味がないし、抑え過ぎて仕掛けが地味になっても同様だ。

 参考になるのは恋愛小説などの、言わばベタな展開。しかし本は読むものの、そっちのジャンルを手にしたことは今までほとんどない。

 ならば、読んでいそうな相手に聞けばいい。

「デート中に起こる定番のアクシデント……ですか?」

 不思議そうに聞き返すエマ。要領を得ない質問の内容とは逆に、マキアスの顔は真剣そのものだ。

「何かあったんですか?」

「すまないが僕の口からは何も言えないんだ。漠然とした内容でもいいので教えてくれると助かるんだが」

「正直気になっちゃいますけど……マキアスさんがそこまで言うのなら」

 詳細の口外はしないというアランとの約束だ。

 それ以上は特に聞き出すこともせず、エマはマキアスの質問に答えた。

「そうですね。例えば……ガラの悪い不良にからまれるだとか」

「それだ!」

「ひえ!?」

 マキアスの勢いにエマはのけぞった。

「ありがとう、エマ君! もうそれだけで十分だ」

「今のでいいんですか? あの、とりあえずがんばって下さい……?」

 エマの部屋を出て、階段を駆け下りる。 

 いきなりいい案が出るとは思わなかった。さすがはⅦ組の委員長。

 からんでくる悪漢をアランが撃退すれば、ブリジットを守るに加えて男らしさも見せられる、まさに一石二鳥の策だ。

 しかし自分がその役をやるのか? 

 もちろんアランの為に一肌脱ぐことはやぶさかではないが、今一つ迫力に欠けるような気もする。できれば数人で徒党を組む不良を演じられれば、リアルさも出せると思うのだが。

 頭を抱えながらラウンジにおりると、話し声が聞こえてきた。

「つまりエサの配合にも秘訣があるのだな?」

「そうだ。毛並みの色つやがまったく違う。あとは走らせ方だが――」

 どうやらリィンを部屋まで送った後、ユーシスとガイウスは馬談議に花を咲かせていたようだ。

 寡黙ではないにせよ、はしゃぐイメージもない二人だが、その目はいきいきと輝いている。

 そんな彼らをじっと見つめるマキアス。

「俺たちに用事か?」

 その視線に気付いたガイウスが、マキアスに顔を向けた。

「そんな場所に突っ立っていられると目ざわりだ。チェスをしたいのなら自室でやるがいい」

 相変わらずのユーシスの物言いにも構わず、マキアスはこう言った。

「君達、僕と一緒に不良になってくれ」

 

 

「エマ、そなたの力を貸して欲しい」 

「……今日は頼られる日なんでしょうか」

 マキアスに続き、ラウラもエマの部屋を訪れていた。

「どうかしたのか?」 

「いえ、大したことではありませんけど」

 ブリジットの為に自分が出来ることを考えてみたが、残念なことにそう多くはなかった。

 何より優先しなければならないのは、件の日曜日を何事もなく終え、二人が以前のように気兼ねなく話せる間柄に戻れることだ。

 とはいえ何事もなく――というが、そのような時に起こる何事かが思い当たらなかった。

 ならば知っていそうな相手に聞けばいい。

「男女が二人で出掛ける時に起こるアクシデントですか?」

「小説の中の話でよいのだ。教えてくれると助かるのだが」

「皆さん今日はどうしたんでしょうか」

「皆? すまないが細かい事情は伝えられないのだ。許して欲しい」

 ブリジットに口止めはされていないが、みだりに外にもらしていい話でもない。

 さすがのエマも気になった様子だったが、それでも詳細は聞かず、その問いに答えてくれた。

「あの……例えば、ガラの悪い不良にからまれる、だとか……?」

「それだ!」

「ひええ!?」

 エマは本日二度目になるのけぞりを見せた。

「確かにそなたの言う通りだ。やっかみ混じりの悪漢が害をなしてくることは考えられる」

 アランとブリジットが平穏に一日を過ごす為、降りかかる火の粉を払う。それが自分に出来ることだとラウラは確信した。

「とても参考になった。礼を言わせてほしい」

「いえ、お気になさらず……?」

「しかし待てよ。ということは……」

 二人のそばに控えながらも、こちらに気付かれない手段が必要である。

 果たしてそんな方法があるのか……?

 

 

 日付は変わり9月14日の火曜日、その放課後。

 質屋《ミヒュト》に、陳列された商品を眺めるマキアスの姿があった。

「何かあればいいんだが……」

 目当ての物は二つ。

一つはアクシデントの種になりそうなもの。もう一つは自分達の見た目を“ガラ悪く”するものだ。

 自分達というのは、ガイウスとユーシスを含めてのことである。

 昨晩に不良の誘いを申し出た後、彼らには事情を説明した。が、やはり細かな経緯などは説明していない。

 アランとブリジットが次の日曜日に出掛けるので、その仲を取り持つ力添えをして欲しいことだけを、大まかに伝えてある。

 ガイウスはともかく、ユーシスからは「余計な事ではないのか」との反論も出た。今の二人には必要な事だと説得したところ、最終的には何だかんだで力を貸してくれることになったが。

 もしかしたら貴族と平民というペアに、少なからず思うことがあったのかもしれない。

 ともあれガイウス達の協力を得て、マキアスは入用になりそうなものを探しに来ていたのだった。

「お、こんなのいいかもしれないな」

 棚の奥にあったネズミの玩具を手に取ってみた。導力式ではなくゼンマイ式で自走もできるようだ。

 カウンターで新聞を読むミヒュトがおもむろに言った。

「そいつは東方の骨董品でな。2000ミラだ」

「こんな玩具が2000!?」

 珍しい型だからなあ、と付け加えたミヒュトからそれ以上の説明はなかった。しかし使えそうな一品であることには間違いなかった。

 断腸の思いでマキアスは購入を決める。他にも――

「毛虫のインテリア? なんかリアルな弾力だな。まあ驚きはするか」

「素材がレアでな。3000ミラ」

「この髪用のワックスは使えそうだな」

「リベール王室御用達の品だ。5000ミラ」

 財布を持つ手がわなわなと震え出した。

「ぼ、ぼったくりだ!」

「人聞きの悪いこというんじゃねえよ。適正価格だぜ」 

 ネズミと毛虫と髪用ワックスで、総額10000ミラである。

「なんて横暴な店だ。監査でも入ったら絶対あの人しょっぴかれるぞ……ん?」

 ふと一つのサングラスが目に留まる。フレームがシャープで、スタイリッシュなデザインだ。

 自分の変装用にも何か買わねばと思っていた。サングラスなら強面にも見えるし、いいかもしれない。

 ただ値段が気になるが。

「そいつは10000ミラだな」

「やっぱり。さすがに買いませんよ」

「そりゃまあ、あのヴィータ・クロチルダが使ったと言われるもんだからな」

 それを棚に戻そうとしていた手が、ピタリと止まった。

「ク、クロチルダが? このサングラスを!?」

「興味出てきたか?」

 頬を笑みの形にするミヒュト。客をカモと見るような、明らかに含みのある笑顔だが、興奮するマキアスは気付きもしない。

「それは本当なんですか!?」

「使ったと言われる、だ。確証はねえな。ただ有名人なんだし、お忍びで動く際に変装くらいしててもおかしくないだろ?」

「それはそうですが……10000ミラか……」

 安物のサングラスなど、それこそ5000ミラ以下で十分買える。しかしもし本当にクロチルダが使ったのなら、はっきり言ってその十倍の値段でも釣り合わないくらいだ。

 ミヒュトが息をつく。

「お前、クロチルダが好きか?」

「もちろんです」

「彼女もよ。どこの馬の骨とも知れない奴にサングラス貰われるよりは、お前さんみたいな熱心なファンに買って欲しいんじゃねえかな」

「なにを馬鹿なことを……」

 カモはカウンターにサングラスを置いた。

「これはレーグニッツ家の家宝にする」

「まいどあり。他の商品と合わせて20000ミラだ」

 商品を受け取り、風通しのよくなった財布をポケットにしまったところで、マキアスはその人物に気がついた。

「珍しいじゃないか。一人なのか?」

「そなたもな。聞いていればずいぶん買い込んでいたようだが」

 いつの間にか店内にいたのはラウラである。

「見られていたか。って君こそなんだ、それは」

 ラウラは灰色の大きな毛だまりを抱えている。

「これは内緒だ。ミヒュト殿、会計を頼もう」

「まさかそいつを買う奴がいたとはな。30000ミラにまけといてやるぜ」

「そうか、感謝する」

「いやいや、高すぎるだろ! いったい何買ったんだ!?」

「内緒だと言ったぞ」

 金額に驚くマキアスとは逆に、気にする様子もないラウラは上機嫌で財布を開いている。

 買い物を終えや二人は店の外へと出た。

「君の買ったものは気になるが、お互い目当ての物が手に入ったようだな」

「ああ、納得いく物が見つかって良かった」

「じゃあ僕は学院に戻る用事があるからこれで」

「私も今日は寮に戻ろうと思う。それでは失礼する」

 マキアスとラウラはそれぞれ別方向に歩き出した。

 次の日曜日まで、残すところあと五日。

 正反対に歩を進めながら二人は強く思った。

 ――あらゆるアクシデントを駆使し、必ずアランの力になってみせる。

 ――あらゆるアクシデントを駆逐し、必ずブリジットの力になってみせる。 

「僕に」

「私に」

 意志は違えど、二人の声は揃う。

『任せてもらおう』

 

 

~後編に続く~

 

 

 

 

 

 

 

☆前編、おまけ ~その後のリィン☆

 

 

「っくしゅん! ごほっ」

 くしゃみが止まらない。咳も続いている。完全に風邪だ。

 しかしなぜだろうか。風邪を引いた理由が思い出せない。そもそも昨日の出来事があいまいで、記憶も不鮮明だ。

 シャロンさんに何かを言われて、寮をアリサと一緒に飛び出したところまでは覚えているんだが。

 言われた何かを思い出そうとする度に、頭にノイズが走って記憶が錯綜してしまう。

 散らばるチェスの駒、光る眼鏡、黒光りするショットガンといった光景が断片的にフラッシュバックするが、それが何を意味するのかまったく意味不明なのだ。

「うう……何だか寒くなってきたな……」

 熱がぶり返してきたのかもしれない。

 ずれていた毛布を胸元に引き上げた時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「アリサよ。入るわね?」

 部屋にやってきたアリサは枕元まで歩み寄ってくる。

「どうしたんだ?」

「体調の具合を見に来たのよ。どうなの?」

「まあ、見ての通りだ」

「もう……けど私にも風邪を悪化させた原因はあるわけだしね」

 原因とはなんのことだろう。訊き返そうとして、気付いた。

 彼女が持つ小さなトレイに、湯気の立つ器が乗っている。

「昨日はちゃんと食べさせてあげられなかったから、その……今日もお粥を作ってきてあげたのよ」

 そう言ってアリサは器の中身を見せてくれた。

「昨日……? いや、気を遣わせてすまない――……え?」

 ……お粥? 米が見えないが。というか器の中が血の池のように真っ赤なんだが。

「ちょうどよかったわ。さっき寒いって聞こえたから。今日は体が温かくなるお粥にしたのよ」

 赤い液体からシューと謎のガスが噴き出して、続いて特大の気泡がボコンと弾けた。

「お、落ち着けアリサ。話せば分かる」

「なにが?」

 アリサはすでにお粥をスプーンですくっていた。金属製のスプーンの先端が、熱でぐにゃりとへしゃげた。

「や、やっぱりちょっと恥ずかしいわね。でも仕方ないか。仕方ないもの。仕方なくなのよ?」

 仕方なくない。今なら引き返す道もあるはずだ。

「はい、あーん」

「やめっ」

 湾曲したスプーンの先端が口の隙間から滑り込んでくる。赤い液体と一緒に。

「ぐああっ!」

 瞬間、体が燃えた。

 炎が体内を巡り、血が沸騰していくのがわかる。

 温かくなる? そんな生易しいものじゃない。俺の全てが灼熱している。

「っ!?」

 身を襲う苦痛と共に、心の底に沈殿していた何かが浮かび上がってきた。これは何だ? 俺の……記憶?

 ――剣の稽古をして、エリオットと話して、アリサに引っ叩かれて、チェスを崩して、寮から逃げて、トワ会長に会って、ミヒュトさんに襲われて、釣りをして、マキアスに襲われて、川に飛び込んで――

「そ、うか……」

 ユーシスに謝って、寮に帰って、寝て、起きて、胸を触って、また部屋に戻って、アリサがお粥を持ってきて、委員長が薬を持ってきて、ラウラがはちみつレモンを持ってきて、トワ会長が泣いて、シャロンさんが笑って――

「お、もい、だした……」

 何という一日だったのだ。ようやく全ての記憶が一致した。

「はい、あーん」

 同時に赤い二撃目が口中に注がれる。

「がっ!」

 完全に油断していた。吐き出そうにもそれは、すでに喉を焼きながら胃へと流れ落ちている。

 再び渡された煉獄への片道切符。

 途絶える意識。ようやくそろった記憶のピースが、またどこか遠くに散らばっていく――。

 

 

☆ ☆ ☆

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。
このような感じで、マキアスAパートとラウラBパートの視点から進むA(アラン)/B(ブリジット)の恋物語前編でした。
ちなみに当小説の時間軸の進行具合はミスティ回の時点で、九月中旬を過ぎたあたりなのですが、今回は時間を巻き戻してのストーリー開始となります。後編終了時点で最新の時間軸に追いつく形ですね。

次回はトリスタを離れ、ヘイムダルが主な舞台となります。そういえば前回の10年前ストーリーを除けば、トリスタ以外の街がメインになるのは初でしょうか。あまり帝都で騒動を起こさないで欲しいですが
アランとブリジットの淡い想いはどこに向かうのか、そしてマキアスとラウラの過ぎた気遣いはどこに向かうのか。
次回もお楽しみ頂ければ幸いです。


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A/B 恋物語(後編)

 9月15日、水曜日。

「エマ君。僕達を不良にして欲しい」

「はい?」

 依頼の意味が分からずに、呆けた顔を浮かべたエマは、部屋の入口に立つ三人の男子を見返した。

 意気揚々とやってきたマキアスの後ろには、ガイウスとユーシスが控えている。

「前と同じで詳細は言えないが、僕達は不良にならなければならないんだ」

「すまないが、そういう事になったらしい」

「……俺は一刻も早く済ませたいが」

 不良になる、と言ったはいいが、マキアスにはそのような悪漢のイメージが今一つ湧かなかった。

 ヘイムダルの治安は皇族の膝元ということもあって、その警備は厳重になされている。もちろん素行の悪い者はどこにでもいるが、それでも一般市民レベルである。あまり参考にはならない。

 それで意見を求める為、再びエマを頼ることにしたのだ。彼女はまだ意図を呑み込めていないようだが、

「……具体的に私は何をしたらいいのでしょうか?」

「まずは不良の服装、立ち振る舞い、口調。あと登場や撤退の定番シーンを教えてくれるとありがたいな」

「でしたら、私が今までに読んだ小説の中からいくつか抜粋して――」

 記憶を探りながら言う。

「服装は装飾過多で、アクセサリー類には金属製の物を使用します。必要以上にジャラジャラと音を立てるぐらいが丁度いいでしょう」

「なるほど」

「次に立ち振る舞いですが、あごを上げて常に見下すような視線をキープします。基本の姿勢は足を左右に大きく広げて、胸をそらせ、正面から見た体の面積を大きく見せることが重要です。歩き方はとにかく横柄に」

「高等な威嚇方法だ。フォームを持続するにはたゆまぬ修練が必要になるな」

 何をイメージしたのか、ガイウスはしきりに感心した声をもらしている。

「口調に関しては……そうですね。基本的にラ行は巻き舌を用います。また語尾に『おぉ?』や『あぁん?』などを付属させると効果的ですね。言葉の緩急の付け方で熟練の不良か、新米の不良かが分かるほどです」

「ほう、意外にも縦社会なのだな。独自のコミュニティを形成していたとは」

 社会勉強でもするかのように、ユーシスは興味深げだ。

「えーとそれから……登場は大体、下卑た笑い声を上げる舎弟から出て来て、次に風格のあるリーダーが登場するパターンが多いでしょうか。撤退は『覚えておけ』のような捨て台詞と共に去るのが定番です」

 あらかたの説明を終えて、エマは一息ついた。

「こんな感じでしょうか?」

「ありがとう。想像以上の収穫だ。しかし……」

「うむ、果たして俺達に演じられるのだろうか」

 マキアスのとなり、ガイウスが声に不安をにじませる。

「それならば問題あるまい。客観的にアドバイスできる人間がいるではないか」

 さらりと言ってのけたユーシスは、エマに視線を移した。

「次の日曜まで委員長に演技指導を頼めばよかろう」

「え、ええ!?」

 焦るエマをよそに、その提案にはガイウスもマキアスも賛成のようだった。

「それは名案かもしれんな。構わないだろうか、委員長?」

「エマ君、僕からもお願いしたい」

 ひとしきりの狼狽を見せるエマだが、退く様子もない男子達を前にしては受ける以外になかった。

 小さく息を吐き、首を縦に振る。

「わかりました。お手伝いさせて頂きます」

「ありがとう、エマ君。このお礼は必ずさせてもらう」

「ただ――」

 きらりと丸眼鏡を光らせ、エマはこう付け足した。

「私厳しいですよ?」

 

 

「む、案外と入りにくいものだな。それで、頭がこうか?」

 自室にて苦心することおよそ二十分。作業工程は九割がた完了していた。

「ファスナーに手が届かん……ええい、ままよ!」

 勢いよく背中に腕を回し、伸び切ってぷるぷる震える指でファスナー部を摘むと、かろうじてチャックを締める。

「な、何とかできたか。思ったより頭が重いな」

 ぐらつく頭を両手で抑え、バランスを取ってみる。

 ただ立つだけでもそれなりにコツがいるようだ。たたらを踏みかけて留まり、ラウラは部屋の中に視線を巡らせてみた。

「視界も相当に悪いな」

 ほとんど直線上の物しか見えない。しかしこれなら姿を見られても、自分だと気付かれることはないだろう。

「残る問題は……」

 部屋の扉をノックする音がした。

「ラウラ、いる? フィーだけど」

「どうした? 入ってくるがいい」

「この前聞いた課題の範囲なんだけど、もう一回――」

 部屋に足を踏み入れるなり、フィーの動きが止まった。そこに変なモノがいたからだ。

「……?」

 灰色の毛並に覆われた体表と、床に垂れた太い尻尾。肩幅よりも大きな頭と、手足の裏にそれぞれついたピンクの肉球。タヌキとネコの中間をデフォルメしたような愛嬌のあるフェイスデザイン。

「えっと……みっしぃ……?」

 最近、帝国内に置いても人気が上がりつつある、クロスベルの某テーマパークで人気のマスコットキャラクターである。

 戸惑いながら「……ラウラ?」と呼びかけると、みっしぃから「いかにも」とくぐもった声が返ってくる。正確にはみっしぃの着ぐるみの中から、だが。

 これが昨日ラウラが30000ミラでミヒュトから買い取った一品だった。

「何してるの?」

「見ての通りだが」

 両手を軽く広げて見せたみっしぃは、なぜか得意気だ。

「……今育ててるハーブができたら持ってきてあげる。少しは気持ちが落ち着くと思うから」

「ふむ? それは楽しみにしておこう。ところで何か用事ではなかったのか?」

「ラウラの邪魔したら悪いし、アリサにでも聞くからいいよ。委員長もなんか立て込んでたし」

 フィーは「一応内緒にしとくから」とだけ言い残すと、早々に部屋から出て行ってしまった。

「ふふ、フィーですら初見では私とわからなかったようだな。首尾は上々だ。さて、試着はもうよかろう」

 背中に手を回す。肉球がふにふにと柔らかい音を立てた。

「………」

 ふにふに。ふにんふにん。ふにっふにっ。

 ラウラは事態を理解し、切迫した声を上げた。

「も、戻ってくれ、フィー。ファスナーを下ろして欲しい!」

 

 

 9月16日、木曜日。

「ヒィハハー!」

 放課後の屋上に、マキアスの甲高い笑い声が響き渡る。

「もっと小物感を出す方がいいかもしれませんね。ヒィを少し詰まらせてみてはどうでしょうか」

「こうかな? ヒィッハハ!」

「語尾を伸ばして、波打って、さらに高らかに!」

「ヒィッハハ~ッ」

 不良見習いの三人は来たる日曜日に備えて、宣言通りのエマの容赦ない演技指導を受けていた。

 エマが見出した適材適所によりその役割設定は、風格のあるガイウスは不良のボス、落ち着いた風貌のユーシスは参謀兼ボスの付き人、マキアスはケンカっ早い構成員その一となった。

 風塵のガイウス、冷笑のユーシス、狂犬のマキアス、三人そろって乗流怒(のるど)組。ちなみにネーミングは劇団ミルスティンのエマ座長である。

「マキアスさんはしばらく自主練習を。あ、ガイウスさん。もっと左右にぶれながら歩いてください」

「このような感じだろうか」

「もっと肘と足のつま先を外側に開いて威嚇するようにノシノシと。その状態で屋上周りを三十周ウォーキングです」

「さ、三十周?」

 ガイウスが歩き始めると、エマは屋上の端でぼそぼそと何かを呟いているユーシスに近寄った。

「ユーシスさんは捨て台詞の練習ですね、はいどうぞ」

「お、覚えておくがいい」

「うーん、まだ照れがありますね。もう一度です」

「く、……お、覚えておくがいい!」

「はい、もう一度」

 エマ座長の厳しい演技指導は続く。

「のしのし? ふむ、のしのし」

「覚えておくがいい、覚えておくがいい……」

「ヒィアッハハー」

 屋上にやってきた生徒が次々と無言で引き返していく中、乗流怒組の三人は黙々と稽古に励むのだった。

 

 

 場所は変わってギムナジウム。

 水泳部のカスパルとクレインは、プールサイドでみっしぃと向かい合っていた。

 クレインはこめかみを押さえながらみっしぃ(の中のラウラ)に聞き返す。

「――つまり、今から俺とカスパルはお前と戦わないといけないんだな? しかも理由も分からないままに」

「申し訳ありませんがお願いします」

 みっしぃは重そうな頭を前に傾けた。あまりやりすぎるとこけるので、会釈程度の角度だが。

「カスパルも協力してくれて助かる」

「俺は構わないけどさ……」

 そう言うカスパルだったが、見えてこない主旨と目的に不安は隠せていない。少なくともいい予感はしていなかった。

「モニカは審判役を頼む。危険と判断したら止めてくれ」

「うん、よく分からないけど皆がんばってね」

 少し離れた所に控えているモニカは、競技用のホイッスルを手にしている。もちろん彼女にも事の詳細は知らされていない。

 ラウラが思うとことの今回の主旨――それはみっしぃの着ぐるみを着たままでも、戦闘を可能にすることだった。

 本来はアランとブリジットが一緒に出掛けるにあたって、想定されうる障害――主に外的要因――を排除することが目的なのだが、彼女はみっしぃとなって初めてある問題に気付いた。

 剣が持てないのだ。

 みっしぃの手には五指がなく、三つの肉球があるだけだ。柄を挟み込むくらいなら問題ないが、とても剣を自在に取り回すことは出来そうになかった。

 もっともアルゼイド流にも無手の技は型として存在するので、大剣がなくとも敵を無力化することはラウラとって難しいことではない。

 難しいのはみっしぃの着ぐるみを着てそれをすることだ。全体のバランスと視界が悪い為、使える技と体捌きも自ずと制限されてくる。戦闘を行わねばならない局面になった時、十分な力が発揮できなければ、そもそもみっしぃになる意味がなくなる。

 まずはみっしぃとしての動きに慣れることが第一だった。

「では、そろそろお願いしましょう」

 通常のみっしぃならまずしない、近接戦の構えを取る。

「……カスパル。相手はあのラウラとは言え、今は何でかみっしぃになって、あの通りふらついている」

「はい」

「俺らの本分は士官学院生。当然白兵戦の心得もあり、しかも水練で毎日のように体を鍛えている。勝てないと思うか?」

「いいえ!」

 力強く答えたカスパルは構え、クレインも拳を握った。

「行くぜ!」

「はい!」

 モニカが戦闘開始のホイッスルを吹き鳴らし、まずはカスパルが先陣を切った。

 素早い身のこなしで間合いを詰める。胸前で交差させた腕からは、ぴしりと揃った指先まで力が通り、まるで鋭利なナイフのようだ。

「悪いけど手加減無しだ! 食らえ、『カサギンの一閃』!」

 クロールで鍛えた強靭な肩から繰り出される、目にも止まらぬ二対の高速チョップ。

「その意気やよし」

 みっしぃが拳を突き出す。カスパルが吹き飛ぶ。プールから上がる盛大な水しぶき。

「……は?」

 プールに落ちて、死んだ魚のように水面をたゆたうカスパルを、クレインは呆然と眺めた。

「うん、正面からの攻撃に問題はないな。ではクレイン部長、私の死角に回り込んで頂きたい」

「ふ、はは……余裕でいられるのも今の内だぜ……?」

 笑い声を震わせて、クレインは弧を描くようにみっしぃに迫った。

 視界から消えたクレインを、ラウラは目で追うようなことはしなかった。頭を動かせばバランスが崩れる。何となく分かってきた。みっしぃ形態では、重心をいかに崩さず攻撃を当てるかが重要だ。ゆえに無駄に相手を捉えに行くようなことをしてはならない。 

 必ず相手から近づいてくる。見えないのなら、音で察するまでのこと。

 はやる心を鎮め、耳を澄ます。聞こえた。床を打つ素足と、わずかに水が跳ねる音。

「終わりだ! 一撃一倒『夕焼けに映えるギガンソーディの背びれ』!」

 おまけに声も発した。ついでに技名が長い。

 とにもかくにも左後方、七十度。そこだ。

「ふっ」

 息を吐いて身を屈める。背を軸に素早く一回転。ぶんと空気を裂いた太い尻尾がクレインの脇腹を直撃した。

「ごふっ!?」

 回転の勢いは殺さずに、肘であばらの隙間を追撃。

「がはっ!」

 無防備に開いた上体に突き上げるような肉球掌底。

「ぶほおっ!」

 浮き上がるクレインの体。その様を見て唐突にラウラは閃いた。水泳で培ったスキルと、みっしぃの特性を生かした、フィニッシュブローを。

 直感のままに繰り出される一撃。

「べっふぁああ!」

 クレインは水の中に落ちることさえ許されず、固いプールサイドの床に叩きつけられた。

 陸に打ち上げられた魚のように、しばらくピチピチと小刻みに跳ねていたが、やがて彼は動かなくなった。

「うん、手ごたえありだ」

 肉球についた汚れをぽんぽんと払うみっしぃ。

 戦闘終了のホイッスルが鳴った。

 

 

 9月17日、金曜日。

「で、こんなルートはどうだろうか」

「ああ、俺もいいと思う」

 昼休み、学生でごった返す食堂。そのテーブルの一つに座るマキアスとアランは、二日後に迫った日曜日のことを話していた。

「しかし、ヘイムダルには色々な店があるんだな」

 アランが卓上に広げられた簡易マップに目を落としていると「帝都だからな、当然だ」とマキアスは眼鏡を押し上げた。

「アランはヘイムダルに行ったことがないのか?」

「もちろんあるが、広すぎてどこに何があるかまでは把握してないぞ」

「まあ住んでいなければそうかもしれないな。当日は楽しんでくるといい。昔はよく遊んでいたんだろう?」

「そうだな、何だかんだでブリジットと出掛けるのは久しぶりだ」

 ふと遠い目をしたアランは、子供の頃を懐かしんでいるように見えた。

 こちらから彼女のことが好きなんじゃないのかと言いもしたし、それでアランが動揺したりもしたが、実際の所、彼がブリジットをどう想っているかは分からないのだ。

 悩んでいる時に感情を揺さぶって、一時そう思い込ませてしまっただけなのだろうか。

 数日前とは違い、アランも落ち着いているし、普通にブリジットと話していたりもする。日曜日を待たずとも以前の幼馴染同士といった関係に戻りつつあるようだ。

 どうも余計なことはしなくてもよさそうな雰囲気だ。

(いや……!)

 思いかけて、マキアスはその思考を隅に追いやった。

 少なからず気の置けない間柄なのは間違いないが、前回のように些細な行き違いから仲違いを起こす可能性もある。

 だからと言ってお節介すぎる関与をするつもりはないが、それでも次の日曜までは様子を見ておきたい。

 これは乗り掛かった舟なのだ。それも自分から乗り込んだ舟だ。

「急に黙ってどうしたんだ、マキアス?」

「何でもない……いや、アラン」

 マキアスは含みを持たせた言葉でアランに告げる。

「当日は何があっても動じずに、彼女をエスコートしてあげるといい」

 

 

 同じく食堂。マキアス達の席に近い別のテーブルに、ラウラとブリジットもいた。混雑と喧騒のせいでお互いに気付いてはいなかったが。

「それで、その後アランとはどうだ?」

「前みたいに話してくれるようになったわ」

 ラウラが問うとブリジットは嬉しそうに言った。

 ブリジットはすっかり元気になった様子だ。アランと話せなかったのがよほど堪えていたらしい。以前の消沈ぶりと比べると見違えるような明朗さだった。

「そういえば出掛けるのは明後日だったか」

「ヘイムダルに行くことになったの。色々見たいお店があるんですって」

 本当に楽しみにしているらしいブリジットは、その話をする度に笑顔になる。

 テーブルの下で、ラウラは両の手の平を組んだ。

 話を聞く限りだと、二人の関係は改善されている。過分の助力はもはや不要だろう。

 それでも心配ではある。エマから聞かされた不測の事態がいつ何時、二人に襲い掛かるともしれないのだ。余計なトラブルなどに、せっかくの二人の一日を潰されるわけにはいかない。

 やはり降りかかる火の粉を払うのは自分の役目だ。

「急に黙ってどうしたの、ラウラさん?」

「何でもない……いや、ブリジット」

 固い決意は柔らかな表情に隠して、ブリジットに告げる。

「当日は何の心配も無用だ。二人での外出を存分に楽しんでくるといい」

 

 

 9月18日、土曜日。

 劇団ミルスティン、楽屋――というかエマの部屋。

 連日続けられた放課後の演技指導、その最後の特訓を終えた乗流怒組の三人は、エマ座長の部屋に集合していた。

「皆さん、お疲れ様でした」

 エマが労いの言葉を口にすると、三人は一様に頭を下げた。それは厳しい稽古によって刷り込まれた条件反射だった。

「今日で演技指導は終わりです。そこで皆さんを代表して、マキアスさんにお渡しするものがあります」

 エマは椅子に立てかけてあった袋をマキアスに手渡した。

「こ、これは……!?」 

 こほん、と咳払いしたエマは「一応手作りです」と少し照れたように付け加える。

 袋の中には入っていたのは服、諸々の小物類などの不良変身セットだった。

「エマ君、僕たちの為にこれを? しかもこの短期間で!?」

「最近授業中も眠そうにしていたのは、夜遅くまでこれを作ってくれていたからだったのか」

「見上げたものだ」

 三人は口ぐちに感嘆の声をもらした。

「本当は全員にお渡ししたかったのですが、どうしても時間が足りなくて……すみません」

「何を言うんだ、エマ君。十分すぎる程じゃないか」

 他の二人に試着を促されると、マキアスは「ふふ、いいだろう」とそこはかとなく嬉しそうに袋の中身を取り出していく。

 ほどなくマキアスの変身が完了する。

「おお……」

「これは、何とも……」

 威圧的な黒いレザージャケットに、動く度にじゃらりと冷たい音を奏でる大きな鎖の首飾り。やたらとつま先が尖り、さらに先端が上に反り返った攻撃的なデザインのブーツ。小物類も挑発的な光を湛えたものばかりだ。そして目にはクロチルダのサングラス。

 完璧だった。屋上で練習を重ねた笑い声もすでに物にしている。

 エマは少し申し訳なさそうにマキアスの右手に視線を移した。

「本当は一つ用意し忘れたものがありまして……ナックルダスターという不良の必須道具なんですが」

 それはマキアスも見たことがあった。メリケンサックとの俗称もあり、拳にはめて使用する打撃力強化の為の武器で、どちらかといえば暗器に近い属性を持っている。不良の必需品であるとは知らなかったが。

「それがあったらより不良らしいのか……そうだ」

 正規の品ではないが、それくらいなら作れるのではないか。

 サラ教官の『ビールの栓抜き』とリィンがいつも右手に付けている『グローブ』を合わせれば。

「よし、借りて来よう!」

 思い立ったが早いか、マキアスはリィンの部屋へと走って行った。

「あいつ、あの恰好のまま出て行ったが」

「相手はリィンだし、大丈夫だろう」

 遠ざかる鎖の音。しばしの静寂。

 まもなく、二階からリィンの悲鳴が聞こえた。

 

 

 リィンが叫んだ頃、ラウラの部屋。

「どうだ!?」

「ん、十五秒。というか今、何か聞こえた?」

「よし、二秒縮まったな」

 フィーの質問は聞こえていなかったようで、今しがた着たばかりのみっしぃの着ぐるみを脱ぎながら、ラウラは額の汗を拭った。

「で、ラウラは何をしたいの?」

「見ての通り、みっしぃになる為の着脱時間を短縮しているのだ」

「何のために?」

「それは言えんのだ。付き合ってくれた埋め合わせは後日させてもらおう」

 咄嗟にみっしぃになる必要があった場合、着ぐるみをまとうのに手間取っていては話にならない。

 みっしぃとして戦う術を得た今、あと必要なのは迅速にみっしぃ形態へと移行することだった。

 フィーの助言により、着ぐるみの内側にもファスナーが付いていることを知ったラウラは、中側からチャックを開けられるようになり、その着脱速度は大幅に短縮された。

 これぞ目からうろこ、というのはラウラの談である。

 ちなみに今までは着ぐるみの中でひたすらもぞもぞと動いて、ファスナーがずれていくのを待ち続けていたのだった。

 フィーが何気なく言う。

「そんなに早く着る必要があるなら、最初から着てたらいいんじゃない?」

「そんなことができるわけ――」

 みっしぃはマスコットキャラクターだ。町中にいれば目立つには違いないが、何かのイベント行事だと思われ、怪しまれることはないのではなかろうか。

「――できる……のか?」

 

 

 9月19日、日曜日。

 時刻は昼前。天気は快晴。

 トリスタ駅構内にベルが鳴り響き、ヘイムダル行きの列車が来る。

「アラン、早く! 列車行っちゃうよ」

「発車まではまだ時間あるし、大丈夫だって」 

 アランとブリジットは切符を手に改札を抜けた。

 二人が車両の一つに入っていくのを見ると、ラウラは自分の顔を隠すように持っていた雑誌を脇に置いた。

「無粋な真似をするつもりはない。あくまで私は護衛のようなものだ」

 自分に言い聞かすように呟いて、待合のベンチから立ち上がる。

 同じ車両に乗る訳にはいかないので、ラウラは一つ後ろの車両に乗り込んだ。その手に大きな荷物を持ちながら。

 列車の発車間際。トリスタ駅の扉が勢いよく開く。

「よし、間に合ったな!」

「お前が支度に手間取るから時間が押したのだ」

「わ、わかっている」

 駅に入ってきたのはユーシスとマキアスだ。二人は切符を購入する為に駅員へと駆け寄った。

「ヘイムダル行きの切符を二枚! あの列車に乗りたいんだ、急いでくれ」

「わかりまし――ひっ!?」

 駅員は二人を見た途端、切符を取りこぼした。

 サングラスをかけ、鎖をじゃらじゃら鳴らし立てるマキアスと、髪をワックスでオールバックに固め、頬に黒いペンで傷を描き込んだユーシスが責め立てる。 

「何をやっているんだ!」

「急いでいると言っただろう。早くするがいい」

「すみません、すみません!」

 駅員は半分泣き顔になりながら切符を手渡す。

「切符を落としたくらいでそんなに謝らなくても……」

「止まるな。列車が出るぞ!」

 ユーシスが声を荒げると、マキアスは思い出したように走る。

 二人が飛び乗ると同時に扉は閉まり、列車はヘイムダルへ向かって動き出した。

 

 

 ――帝都ヘイムダル・ヴァンクール大通り。装備品取扱い店《ワトソン武器商会》。

「こういうお店、初めて入ったけどいっぱい種類があるのね」

 壁に掛かった槍や剣を物珍しげに眺めていたブリジットは、食い入るようにサーベルを見ているアランに向き直った。

「ねえ、アランってフェンシング強いの?」

 手にしたサーベルを置き台に戻しながら、「それは……まあまあだな」と、どこか濁したような口調でアランは答える。

「部で何番目に強いの?」

「……今の所、四番目だな」

「アランすごいわ! ねえ、部員って何人いるの?」

「………」

「アラン?」

 小首を傾げたブリジットの手を引き、アランは店の出口へと向かった。

「ち、ちょっとアラン?」

「気になってたサーベルは見れたし、次に行こう」

 これ以上この店に留まると、触れて欲しくない話題が飛んでくる。

 今日は色んな地区の様々な店を回って、最後にマーテル公園で休憩してからトリスタまで帰るというプランだ。起伏の少ないルートだとマキアスは言ったが、今から回る予定の店は、幸いブリジットが好みそうなものなので、特に問題はなかった。

 アランにとってもブリジットにとっても、今日は行動を共にするだけでよかったのだ。

 店の物を一緒に見る。おいしいものを一緒に食べる。ただ歩く、話す、笑う。幼い頃の様に。

 そう、それだけで十分だったのに。

 アランは思う。

 実の所、ブリジットに対する自分の気持ちは未だによく分からない。

 恰好悪い所は見せたくないし、彼女の前だと強がってしまう自分もいる。マキアスの言うように、もしかしたら淡い想いはどこかにあるのかもしれない。

 けれど、それに囚われてブリジットを傷つけてしまうことは、決してやってはならないことだった。それをしてしまったのは自分が弱かったからだ。

 だから――

「アラン、どうかした?」

「いや、次はどこに行こうかなと思ってさ」

 以前は自分のプライドや体裁を守るために強さを求めた。今は違う。ブリジットを悲しませない為に強くなりたい。強く在りたい。

 もしいつか彼女を守れるくらいに強くなれたら、その時は――

「ははっ」

 憑き物が落ちたみたいにアランは屈託なく笑った。

 悩む必要もなかった。今まで通りでよかった。

 見えていなかっただけで、彼女はいつだって隣にいてくれたのだ。

 今日は目いっぱい楽しもう。ブリジットにも楽しんでもらおう。傷つけてしまったお詫びも兼ねて。埋め合わせにはちょっと足りない気もするが。

「なーに? 変なアランね」

「悪い、ブリジット。この通りには《ル・サージュ》の本店もあるらしいんだ。ちょっと寄ってみないか?」

「本当? うん、行きましょう!」

 やっと自分の心と向き合えた気がする。

 きっかけをくれたお前のおかげだ、マキアス。

 アランは胸中で、トリスタで今日の事を案じてくれているであろう友人に感謝した。

 足取りも軽くアランとブリジットは大通りを歩く。

 じゃらり。

 そんな二人の背後から、鎖の音が近付きつつあった。

 

 

 ――《ル・サージュ》帝都本店。

「わあ、見てアラン。これトリスタの支店ではまだ扱ってないデザインよ。ねえ、似合うかしら?」

「俺はあっちの白いやつの方がブリジットには合うと思うんだけど」

「もう、アランったらわかってないわ」

 楽しげに会話を交わす店内のアランとブリジットを、物陰からガラス越しに見守る二つの人影。

「何かいい感じだな。思ったよりうまくいっているようで良かった」

「だから最初に余計な事ではないかと言ったのだ。未だに詳しい事情を聞かないまま協力してやっている俺達に感謝するといい」

「そ、それはありがたいと思っているが。ところでガイウスは間に合うのか」

「あいつはトリスタ西側の街道を通ってくる予定だ。十五時ちょうどにマーテル公園に来るよう伝えてある」

 大通りの物陰というのは町中に停車している導力トラムの裏だったり、随所に設置されているダストボックスだったり、景観の為に植えられている木の陰だったりだ。

 アランとブリジットにはともかく、通行人にはばっちり姿を見られている。

「道行く人が僕達を避けていくような……」

「待っていてやるから自分の姿を鏡で見てくるがいい」

「その言葉はそのままお返しする。今の君の姿を見たら、日曜学校の子供達がもれなく登校拒否になるぞ」

「誰のせいだと思っている!」

 髪のワックスはマキアスが《ミヒュト》で購入したものだが、ヘアスタイルのセットと、頬の傷ペイントは出発の際にエマが仕立ててくれたものだ。抵抗するユーシスをガイウスと二人掛かりで押さえつけるのは、中々に骨の折れる作業だった。

「二人が店から出てきたな」

 小競り合いは中断して、ユーシスは「それでどうするのだ」とマキアスに横目を向けた。

「そろそろアランの男らしさをアピールするか」

 マキアスはミヒュトから購入したそれを取り出し、付属のゼンマイを巻き始めた。

「なんだ、それは。ネズミの玩具か?」

「高かったんだぞ。アランにはこれからブリジットさんを守ってもらう」

「下らん茶番だな」

 そう言い捨てたユーシスには構わずに、マキアスは限界までゼンマイを巻いたネズミの玩具を石畳の地面に置いた。

「さあ、行け!」

 手を離すと、2000ミラのネズミがじくざぐの軌道を取りながら、アランとブリジットに迫る。二人はまだ気付かない。

 さあ、アラン。男を見せてみろ。

 バキャン。

 そんな音がした直後、ネズミはその姿を四散させた。

 何者かがネズミを足で踏んでいる。

「なっ!?」

 内部機構が飛び散り、ゼンマイや歯車、小型タイヤが大通りに転がっていく。いくつかのパーツは道路にまで出てしまい、走行する導力車によってさらに粉々に粉砕された。

 目の前にネズミの尻尾だけがからからと転がってくると、マキアスは震える手でそれを拾い上げた。

「僕の2000ミラァー!」

「な、なんだあれは?」

 マキアスの慟哭をいつも通り無視したユーシスは、ネズミを踏み潰した物体を愕然と見据えた。

 ショックも抜けきらないまま、マキアスはその名を忌々しげに口にする。

「みっしぃ……!」

 愛嬌のある顔だが、今だけは自分を嘲笑っているように見える。

「とにかく撤退だ。幸いあの二人にも、みっしぃとやらにも俺達は気付かれていない」

「くそっ、仕方ない!」

 停車中の導力トラムの裏に素早く隠れる。

 尚、バックミラーに映ったマキアス達の姿を見て、運転手の顔が激しく引きつっていたが、残念ながら二人には及びもつかないことだった。

「何かのマスコットキャラクターか? 間の悪いことだ」

「多分イベントで来ていたんだろう。まったく」

 その折、みっしぃは足裏の肉球をふにふにと鳴らしながら、人通りのない暗い路地へと姿を消していた。

 

 

 ――アルト通り・音楽喫茶《エトワール》

 クラシックな内装、店内に流れる音楽。そしてあっさりとした味わいのサンドウィッチに、温かい飲み物。

 うっとりと音楽に聞き入りながら、ブリジットは紅茶を口にした。

「素敵なところね。アランってば、こんなおしゃれなお店知ってたんだ?」

「ん、ああ。知り合いに教えてもらったんだ」

「そうなんだ」

 カップを持つブリジットの手が、ぴたりと止まる。

「こんな素敵なお店を知ってる知り合いって、もしかして女の子?」

「いや男子だけど。それがどうかしたのか?」

「いいえ、なんでもないわ」

 店内の温度が一瞬下がった気がした。

「な、なんか寒くないか?」

「気のせいじゃないかしら」

 アラン達が軽食を済ましている頃、アルト通りの一角。

「はあ、はあっ……見つけたぞ」

「お、お前、もう少し移動経路のことを考えておけ」

 マキアスとユーシスもアルト通りに到着していた。ちなみに移動手段は徒歩、というか走りだ。

 同じ導力トラムには乗れず、かと言って次の便を待つくらいなら、距離によっては走った方が早い場合もある。加えて、アラン達が行く場所はあらかじめマキアスも知っているので、停留所経由よりは直接目的地に向かった方が時間短縮になるという判断だ。

「次はどうするのだ。またネズミでも使うか?」

「残念ながらあれはもうない。まだガイウスは来ていないが、場所も悪くないし僕達が直接動いてみるか」

 不良絡み作戦だ。本来の予定なら最後に取っておくものだが、人通りなどにも左右される作戦の為、いいタイミングがあれば先行して実施することになっている。

「ここでやるのか? 確かに店内に客はあの二人だけのようだ。しかし万全を期すならガイウスの到着を待つべきだと思うが」

「それはそうだが、万全の作戦が最高のタイミングで実行できるかは分からないじゃないか」

「……まあ、今回はお前に合わせてやろう」

「え、偉そうに!」

 二人は《エトワール》に向かった。

 出方によっては店内が荒れる可能性もあるが、暴れるつもりは毛頭ない。アランが男気を見せれば、それで撤退である。

「あの人は……!」

 突然、マキアスが声を上げた。

 正面から女性が歩いてくる。橙色の髪に清楚な服、優しげな表情に柔らかい微笑み。

「フィオナさん!」

「フィオナ……ああ、例のエリオットの姉上か。おい、お前!?」

 咄嗟にマキアスは駆け出してしまった。

「ご無沙汰しています!」

「え? きゃあ!?」

 フィオナはのけぞる程に驚いていた。

「ど、どうしたのですか」

 マキアスは心配そうにさらに歩み寄る。鎖をじゃらじゃらと引下げ、尖ったブーツを打ち鳴らし、先ほど走った動悸が収まらず「はあ、はあ」と荒い息を挟みながら。

「こ、来ないで……! 誰か」

 怯えるフィオナに、事情を説明しようとユーシスが急ぎ足で近づいてくる。

「驚かしてすまないが、少し話を聞いてもらいたい」

「な、仲間!?」

 それがとどめになった。ダメ押しの登場だ。

「そうだわ! 今日はお父さんが非番で家にいるもの! あとあの方も」

 フィオナは踵を返すと、家の方へ全力で逃げ去ってしまった。

「ま、待つがいい!」

「ダメだ、ここも撤退する! 猛将が来るぞ!」

 自分たちも走り出そうとした矢先、叫ぶフィオナの声が耳に届いた。

「お父さーん、あそこよ!」

 紅毛のクレイグが、ほうきを持って家から飛び出してきた。

「貴様ら、そこを動くなあ! ナイトハルトも追え!」

「了解しました。待てえ、下郎共!」 

 しかも、ありがたくないおまけつきだ。

 帝国軍最強、第四機甲師団の団長とエースが襲ってくる。

 マキアスとユーシスは導力トラムよりも速く、帝都の街を駆け抜けた。

 

 

《ドライケルス広場》

 広場に入ってすぐ、二つの噴水の間から見えるのは、威風堂々たる獅子心皇帝の像。

 その遥か奥、幾重もの尖塔を青空に突き立てる巨大な建造物こそ、現エレボニア帝国皇帝ユーゲント・ライゼ・アルノールⅢ世の赤き居城――バルフレイム宮である。

「み、見つけたぞ……座ってる」

「ようやくか……」

 そんな荘厳なバルフレイム宮には目もくれずに、息を切らしながら広場にやってきたのは二人の不良。

「まったく、准将のほうきが大剣に見えたぞ」

「少佐が投げてきた皿はさながら円月輪のようだった。どうやったら割れずに皿が壁に刺さるのだ……」

 ナイトハルト少佐とクレイグ准将の執拗な追跡を何とか逃れ、マキアスとユーシスはやっとの思いでドライケルス広場に着いたのだった。

 ずいぶん長いこと追われていたので、その間にアラン達はあらかたの店を回ってしまったらしい。今は木陰のベンチで一休みという所だろう。

「それでどうする。今度こそ絡みに行くか?」

「いや、宮殿前で軍人も常駐している。この後はマーテル公園に行くはずだし、その作戦はやはりガイウスを待とう」

「確かにな。だが他に策はあるのか?」

「アランには景観がよく見えるから、あのベンチに座るように指示したんだ。もう仕込みは済んでいる」

 マキアスは気付かれないよう慎重に、ベンチ横の木に近づいた。

「ここのクレープもおいしいわね。アランは何味?」

「俺のはイチゴとバナナだ。あ、チョコレートもトッピングで」

「そっちもおいしそう。一口頂いてもいいかしら?」

「え、ああ……?」

 アランの持つクレープの端を、ブリジットは身を乗り出して小さくぱくりと食べる。

「ふふ、ちょっとお行儀が悪かったかしら。でもたまにはいいわよね。アランも私の食べる?」

「い、いや、いいよ。俺は」

「遠慮しないでいいのよ。はい、あーん」

「だ、だからいいって。あ、あーん」

 ……ああん? 

 いやダメだ。なぜか一瞬、心に黒い炎が燃え盛ってしまった。ああん? は不良の演技だ。素で言ってはいけない。

 いい雰囲気だ。さっきから邪魔が入ってばかりだが、今度こそ男らしさを見せてもらうぞ。

 木から垂れた細い糸を掴むと、そのまま手繰って伸ばしながらマキアスは二人のそばを離れていく。

「それは何だ? 糸は木に繋がったままのようだが」

「まあ、見ていてくれ」

 マキアスがくいくいと細かく糸を動かすと、アラン達の頭上に一匹の毛虫がぷるぷると下りてきた。

「な、お前!」

「これも玩具だ。心配はいらない」

 ミヒュトから3000ミラで購入した素材がレアだという毛虫のインテリア。確かに見た目はよくないが、その弾力は触っている内にクセになる一品だ。回収した後は密かに部屋の、いつでも触れる場所に飾ろうと思っている。

 毛虫がぷるぷると迫る。

「もう少し……」

 ぷるんぷるん。 

「あとちょっと……」

 ぷるるっぷるっ。

「よし、いける!」

 ブルッシャア!

「え?」

 毛虫が空高く舞い飛んだ。急に進化して成虫になったとかそういうわけではない。

 へしゃげて透けた緑色の体表を太陽の光にさらし、エメラルドグリーンの輝きを撒き散らしながら飛んでいく。

 噴水を越え、獅子心皇帝を越え、なお遠く。大きくアーチを描いた毛虫は、そのまま柵を越えて海に落ちてしまった。海底に沈む前に魚のエサになることは、もはや免れない。

「僕の3000ミラァァッ!」

「ええい、叫ぶな! またあいつだ!」

 ユーシスの視線の先にはまたしてもみっしぃがいた。

 どこからか飛び出してきたみっしぃが、鋭い裏拳で毛虫を弾き飛ばしたのだ。みっしぃは即座にその場を離れ、広場から走り去っていく。

「ん? 今頭の上を何か通り過ぎなかったか?」

「海が近いんだもの。風くらい吹くわ。でも潮風に当たり過ぎるのもよくないかしら?」

「そうだな、そろそろマーテル公園に向かうか」

 二人は立ち上がって歩き出す。

 少し離れた噴水の陰。

「みぃっしぃいぃ!」

「だから叫ぶな! 見付かるぞ!」

 石の地面をダンと叩くマキアスの肩は、怒りに打ち震えていた。綿密に準備した仕掛けを二つも潰されたばかりか、合計5000ミラの損失だ。

 失うばかりで得るものがない。もうこれ以上の失敗は許されない。

 時刻は十五時前。ガイウスが到着する時刻だ。

 決意を胸に、マキアスはサングラスをかけ直した。

「乗流怒組……出るぞ」

 

 

《マーテル公園》

 水路に囲まれた公園内。水の流れる音が心地良く耳朶を打つ。

 およそ二か月前の帝国解放戦線のテロのせいで、一部復旧中で入れない施設もあるが、それ以外の場所はすでに一般開放されていた。

「やっぱり落ち着くわね。今日は誘ってくれてありがとう」

「別に。俺の方こそ楽しかったしな」

 マーテル公園の端のベンチ。高低差のある水路から流れてくる水は、しぶきをあげながら光を反射し、七色の輝きを生んでいる。水しぶきの音と一緒に鳥達のさえずりも聞こえてきた。

 そんな自然が織りなす音色に紛れて、じゃらりと硬質な響きが近付く。

「明日からはまた授業ね。女子生徒はまた家庭科実習があるの。そういえば十月になったら調理部主催の料理コンテストがあるって」

「ブリジットは料理できるだろ? というかその料理コンテストでるのか?」

「まだわからないわ。吹奏楽部の演奏と重なったら無理だと思うし」

 二人の話は続いているが、ガイウスはまだ来ない。アラン達がこの場を離れたら、作戦は実行できない。

「焦っても仕方あるまい。そもそも街道からとは言え、町中に入れば目立つ装いだからな。どこかで足を取られているかもしれん」

 マキアスの焦燥を察して、ユーシスはそう言う。

「わかっているが……あ!」

 アランとブリジットが立ち上がった。移動する気だ。

「もう僕と君だけで――」

「待たせたな」

 マキアスが動きかけた時、背後から落ち着いた声がした。

「町中で何人かに声を掛けられてな。何とか上手くかわせたのだが、さすがに遅くなってしまったようだ」

 ようやくガイウスが到着である。

「よく来てくれた。さっそくで悪いが最後の作戦だ。今までの特訓の成果を出そう」

「ああ、精一杯やらせてもらおう」

「ここまで来たのだ。任せておくがいい」

 大丈夫だ。何回も練習してきた。改良も加えてきた。協力してくれる仲間達もいる。今は人通りも途切れている。アランの為にもやらなくてはならない。

 マキアスは大きく息を吸う。そして――

「ヒィアッーハーッ!」

 帝都の空に、下卑た笑い声が高らかに響いた。

 

 

「おいおい、誰の許可取ってそのベンチに座ってんだ。ああん?」

「ふっ、女を置いて去るがいい」

 マキアスとユーシスが横柄な態度で二人に近づいていく。

「ア、アラン……」

「大丈夫だ。俺の後ろに下がって」

 よし、そうだ。ブリジットを守れ。

(この後は台本Bパターンだ)

(わかった)

 マキアスは小声でユーシスに囁いた。 

「くくく、何だあ。ビビッてんじゃねえのか。足が震えてるぜ、おいおーい?」

「俺の頬の傷に秘められた忌まわしい過去を話してやろうか」

 にやにやと二人は侮蔑的な嘲笑を浮かべてみせる。ここまでは練習通りだ。

「何だ、お前ら。向こうに行けよ」

 アランは臆した様子もなく言い返してくる。いい流れだが、撤退にはまだ早い。

 とっておきを出してからだ。

「おーっと、粋がるねえ。でもこれならどうかなあ」

 マキアスは振り返って叫ぶ。

「兄貴ぃ!」

「ハイヤー!!」

 遠くの植木を突っ切って、ガイウスを乗せた一頭の馬が走ってきた。

 ガイウスの顔には、腕の紋様をそのまま引き伸ばしたようなペインティングがなされており、一見しただけでその素顔は分からない。馬はユーシスが馬術部で世話をしている白馬だが、白い毛並だと迫力が出ないと言う理由で、その体には黒い墨でガイウスと同じ紋様が描かれていた。 

 ばるるると荒い鼻息を鳴らして、白馬はマキアスとユーシスの間で止まる。

「な、な?」

 さすがに驚くアランと、さらに怯えるブリジット。

「乗流怒組に逆らうとはいい度胸だな。ああーん?」

 好機とばかりに、マキアスはさらにまくし立てた。

「ほらほらどうした。早く謝らないと兄貴が風を感じちまうぜえ」

 ガイウスにセリフはない。練習はしたものの、どうしても棒読みになってしまうのだ。

 ユーシスが馬を使うという案を出し、それを承諾した時点で彼のウォーキング練習はその意味をなくしたのだが、それでも不平一つもらさず付き合ってくれたのは、その温和な人柄を表すところだろう。

「兄貴が風を感じたら、そしたらお前ら、その……あれだからな! おおう!?」

 いけない。覚えたボキャブラリーが底を尽きかけている。ボロを出す前にマキアスは小声で「Eパターンだ」と両どなりの二人に告げた。

「お前ごとき小物。こいつ一人で十分だ」

「さあ、覚悟してもらうぜ。ヒャハハ!」

 ユーシスに促されたマキアスが一歩前に出る。

 グローブと栓抜きで作ったお手製のメリケンサックは右手に装着済みだ。

「お前ら一体何なんだ……え?」

 アランが何かに気付いた。

「……お前、もしかしてマキア――」

「キャラメルマキアートが飲みたいのか! 先にお前を焙煎して粗挽いてやろうか!?」

 まずい。声や顔の雰囲気で気付かれたのか。とっさにマキア絡みでごまかしたが――いや、こうなれば、多少わざとらしくても。

「おら、その女守ってみろよ。お前なんかにできんのか、ああん!」

「お前……まさか……?」

 伝わった。あとは僕の頬を思い切り殴れ。それで退散。十分に君の男気は見せられるはずだ。

「聞きたいことは山ほどあるが……分かったよ」

 アランは拳を固めた。それでいい。多少は手加減してくれよ?

「ヒィアッハーッ!」

 わざとらしく腕を大振りに振り上げて、アランに襲い掛かかる。

 さあ存分にやれ。今だけ僕は、君の為に道化となろう。

 マキアスの拳が迫る。アランがカウンターを狙う。

 尖ったブーツのつま先が芝生に絡まった。

「あ!?」

 前のめりにぐらつく体勢。意志とは無関係に加速するメリケンパンチ。アランの拳をかいくぐり、マキアスは逆にカウンターを決めてしまった。

「あ」

「お、まえ……」

 あごにクリーンヒット。アランは口をパクパク動かしながら二、三歩たたらを踏んで後退すると、がくりとくずおれて気を失った。

「アラン、しっかりして! あなた達最低よ!」

 倒れたアランを胸に抱くブリジットは、気丈にもマキアスをにらみつけた。

「い、いや。これは……」

 メリケンサックを外しながら、たじろぐマキアス。作戦は失敗だ。しかも収拾を付けられそうにない。

 いったんこの場を離れるか?

 ――ザリッ

 強く地を踏みしめる音が聞こえた。 

 音のした方向に振り向く。

「ま、またこいつか……!?」

 怒りのオーラを立ち昇らせるみっしぃが、ついに乗流怒組の前に立ちはだかった。

 

 

 相対するみっしぃと乗流怒組。

 もはや言葉もなく、みっしぃは肉球を構えた。

「三度も邪魔立てをして……マスコットキャラクターだからと容赦はしないぞ」

 マキアスとて素手での実技訓練は受けている。さらに5000ミラの恨みもある。立ちはだかるなら手を抜くつもりはなかった。撤退するのは、こいつを地に伏せてからだ。

 しかし『ゴッ』とみっしぃから瞬間的に放たれた闘気が大気を揺らすと、マキアスも足を引かざるを得なかった。

「な、なんだと!?」

 擦過する闘気に乗せられた、尋常ではない怒気と覇気。こいつは並のマスコットじゃない。わずかにでも隙を見せたら途端に殺られる。

 間抜けな風貌をしているが、少なくとも一人で戦える相手ではないのは明白だ。

「二人とも、僕に力を貸してくれ!」

 振り返ると、そこにユーシスとガイウスの姿はなかった。

 見えたのは遠ざかっていく白馬と、その背に乗った二人の姿。

 なんて鮮やかな撤退だ。そしてなぜ僕を置いていく。

 遥か遠く、ユーシスが何度も練習したあのセリフを揚々と叫ぶ。

「覚えておくがいい!」

 それこそ、こっちのセリフだ。

 いつの間にか周囲に観客が集まっていた。イベントだと思っているのか、騒ぎ立てる様子はないが、だとしても簡単に逃げられる雰囲気でもない。

「もう後には引けない。行くぞ!」

 みっしぃを倒せばちょっとしたパニックになるはずだ。その騒ぎに乗じて逃げるしかない。

「はあっ!」

 マキアスの正拳が唸る。みっしぃはその一撃を片手で弾くと、素早く足払いを仕掛けた。すかさず後ろに跳躍。着地の瞬間を見逃さず、肉球の掌底が迫る。交差した腕で受け止めるが、堪えられずマキアスはさらに吹き飛んだ。

 体勢を戻しながら、みっしぃの挙動を捉える。追撃をしてこないのは、さすがにバランスが保てないからだろう。

 しかし、どこか覚えのある身のこなしは気のせいか。

 観客の一人が声を荒げた。

「お、おい、あれ、一週間前にトリスタに出たっていう眼鏡の殺人鬼じゃないか!?」

 ざわつくオーディエンス。

「いや待て。俺は士官学院生の友達から聞いたけど、眼鏡の色が違うぞ?」

「あれはこの一週間で手にかけた人間の返り血じゃないか。それなら黒ずんでいることにも説明がつく」

 何を言っているんだ、あの人達は。

「ついに帝都までやってきたってことか!? これは軍に連絡した方がいいんじゃ……」

 そこで己の身の危うさに今更ながら気付いた。

 カール・レーグニッツ。帝都庁長官、ヘイムダル知事。マキアスの父親だ。

 もし自分がここで軍に捕縛されるようなことがあればどうなる? 間違いなく明日の帝国時報の一面を飾るトップニュースだ。

 見出しはこう。『帝都知事の息子、眼鏡の殺人鬼と断定』。さらに今の恰好が写真として出回れば、言い訳もできない。加えて情勢面を考えると、スキャンダルに乗じて貴族派が勢いづき、オズボーン宰相の政策にも影響がでる可能性は高い。

 いつの間にかマキアスは薄氷の上に立っていた。軍だけは絶対に呼ばれてはならない。

「俺が通報してくる!」

 観客の中の一人がその場を離れようとする。焦って声を出そうとしたが、それを制したのはみっしぃだった。

 みっしぃは大きな首を左右に振り、その腕で自分の胸を叩いた。まるで“私に任せておけ”と言わんばかりに。

 割れんばかりの歓声が巻き起こる。

「みっーしぃ! みっーしぃ! みっーしぃ!」

 観客に味方はいない。ユーシスたちはもう街道に出た頃だ。力になろうとしていた友人は、あろうことか自分の手で沈めてしまった。

 何のために自分は今ここに立っているのか。

 瞬きの間もない油断だった。追撃はして来ないという気の緩み。完全に虚を突かれた。

 みっしぃが稲妻のように間合いに踏み込んできた。反応、反射、反撃。全てが間に合わない。

 肘が腹部にめり込む。回転してきた尻尾が頬を打ち据える。抉り上げるように肉球があご下に直撃した。

 間抜けな顔のまま、容赦なく急所を狙ってくる。なんて残虐なマスコットだ。クロスベル恐るべし。

「ぐはあっ!」

 体が中空へと打ち上げられた。何とか体勢を直さねばと半回転し、直下のみっしぃを視界に収めて、マキアスは戦慄した。

 足を屈め、力を溜めている。さらに追撃を繰り出してくるつもりだ。それは分かったが、この状態からどうすればいいというのか。

 両手の肉球を頭上に突き出したみっしぃが跳躍する。それはさながら、直上に放たれた水泳の蹴伸びのように――

「あ……」

 唐突にマキアスの脳裏を巡りゆく映像。

 水泳の蹴伸び。覚えのある身のこなしと闘気。そして一週間前《ミヒュト》で目にした灰色の毛並。それを持っていたのは――

(……ラウラだ、これ)

 計六つの肉球が顔面に炸裂する。クレインを一撃で戦闘不能に追いやる程の、すさまじい衝撃がその身を穿つ。

 嗚咽を漏らすこともできず、マキアスはさらに高く宙を舞った。

 急に視界が明るくなる。

 ああ、サングラスが外れたからか。それはダメだ。受け止めないと。

 自分よりさらに高く舞い上がったそれを必死に目で追う。うつろう意識の狭間に、ゆっくりと流れていく光景。

 サングラスのフレームが軋みの音を立てた。つるの根元がベキリと外れ、付随するフレームが湾曲していく。ブリッジが真っ二つに折れ、レムと呼ばれるレンズ縁から、レンズ自身が飛び出した。

 ひび割れ、亀裂が深くなっていき、ピシッピシッと黒い遮光レンズが悲鳴を上げる。

 待ってくれ、僕の10000ミラ。逝かないでくれ、僕の、僕の――

「クロチルダアアッ!」

 断末魔の叫びと共に伸ばした腕。開いた五指の隙間から見える塵ほどの黒い破片が、まるで雨のように芝生に降り注いだ。

 続くマキアスも地に叩きつけられる。残念なことに意識はあった。

 しばらくして、みっしぃに足を掴まれて引きずられている感覚があったが、マキアスはもう目を開けるつもりもなかった。

 なぜ? 決まっている。どうせ開けたところで、視界が滲んで何も見えないのだから。

 

 ● ● ●

 

 日は落ちて、辺りは薄闇に包まれている。

 鳥の鳴き声はいつの間にか虫の鳴き声に変わっていた。街灯の明かりが二人を柔らかく照らしている。

「うーん……」

「アラン、気が付いたのね? 良かったあ」

 目を開けて最初に見えたのは、心配そうに自分の顔をのぞき込むブリジットだった。

「ん、ブリジット?」

 ここはどこだ。何があった。どうやらマーテル公園らしいが、もう夜なのか。

 確か不良に絡まれて、でも実はマキアスで――ああ、そうだ。あいつめ、今度あったらじっくり問い詰めてやる。

「いっ、てて」

 起きようとすると、鈍痛があごに走った。

「まだ寝てなきゃだめよ。トリスタへの列車はまだあるから」

「ああ、悪いブリジット――って、うわ!?」

 跳ね起きた。体はベンチに横たわっていたが、頭はブリジットの太ももの上だ。ずっとひざ枕をされていたのか。

「ちょっとアラン! そんなに急に動いて大丈夫なの!?」

「た、単なる打ち身だ。一日寝たら治るよ」

 さすがに一日というわけにはいかないが、ブリジットを安心させるためにそう言う。

「ならいいけど……あ」

 ブリジットが空を見上げる。アランも一緒になって視線を上げると満点の星空がそこにあった。

「……綺麗」

「ああ。そういえば子供の頃でも一緒に星を見た覚えはないな」

 アランが言うと、ブリジットは「それはそうよ」と困ったように肩をすくめた。

「だってさすがに門限があるもの。こんな時間にアランと一緒にいたことはないわ。でも――」

 彼女はくすりと笑った。

「これからは一緒に見られるわよね?」

 二人の間を夜風が通り抜ける。

「え? 今なんて言ったんだ?」

「秘密よ。ねえ、駅までかけっこしない?」

「導力トラム使えばいいじゃないか。まだ動いてるだろ」

「私は走りたいの。はい、よーいどん!」

「待てって。ずるいぞ!」

 幼い頃の様に息を切らして、二人は走る。

 煌めく星々の下、赤い街並みはどこまでも続いていた。

 

 

 ~FIN~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《後日談/アラン》

 

「だからすまなかった。なんならピザもう一枚頼むか?」

「まったく……スペシャルピザだ! まだあごが痛いんだぞ」

「一応言っておくが、僕だってあごに肉球食らったんだからな」

 マキアスは《キルシェ》でアランにお詫びのピザを振る舞っていた。

「あの後は地下水道の中でみっしぃに小一時間説教されたし、そろそろ勘弁してくれないか」

「余計な事するからだろ。まあ、心配してくれたことは感謝するけど……」

 手元に残ったピザをたいらげると、アランはふんと鼻を鳴らした。

「別に怒ってはないさ。世話になったし、お礼にフェンシング教えてやろうか?」

「だったらチェスに付き合ってくれた方がありがたいな」

「チェスか。構わないぞ。気が向いたらな」

 二人は運ばれてきたスペシャルピザに同時に手を伸ばす。それぞれのあごに、仲良く絆創膏をつけながら。

 

 

 

《後日談/ブリジット》

 

「ねえ、みっしぃの中ってどんな感じ?」

「蒸し返るような暑さだな……あ」

「やっぱり、ラウラさんだったのね」

「う、それは、その……すまなかった」

 本校舎二階ソファーにラウラとブリジットが座っていた。

 突然振られた話題に、ラウラが墓穴を掘ったところである。

「悪気はなかったのだ。ただ心配で――許してくれないか?」

「うーん、どうしよっかなあ」

 ブリジットはいたずらっぽくラウラを見る。

「私のお願いを聞いてくれるなら許してあげるわ」

「そういうことならば、なんでも言って欲しい」

「私とお友達になってくれないかしら?」

 意外なお願いに呆然としたラウラだったが、すぐに笑みを浮かべた。

「是非もない。それなら、さん付けはやめてもらおう」

「分かったわ、ラウラ」

 微笑み返すブリジット。

「あなたに困ることがあれば必ず力になる。何でも頼ってね」

「もちろんだ。そうだ、そなたに紹介したい友人がいるのだが、モニカとポーラと言って――」

  

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 

 

 《おまけ ――あの時のリィン》

 

 9月18日、土曜日。

「思い出した!」

 私室。唐突に叫んだ俺は、勢いよく立ち上がった。ようやく記憶に掛かるかすみが晴れたのだ。

 風邪を引いた理由も、記憶を失った理由も思い出した。一度戻った記憶をまた失った理由もだ。

「マキアス……!」

 そもそもの発端は彼のチェスの駒を散らばらせたことだ。だがこの一週間あまり、彼とは普通に話もしたし、もう怒っていないのは明らかだ。

 今度こそちゃんと謝らなければ。大丈夫。笑って許してくれるはずだ。

 部屋の外から足音が近づいてくる。

「リィン、いるか?」

 マキアスの声だ。丁度良かった。

「ああ、入ってくれ」

「失礼する」

 扉がゆっくりと開いていく。謝罪を先に切り出すことにした。

「一週間前のことなんだが、すまないマキアス。実はあの時――」

「ヒィアッーハーッ!」

 笑って許してくれるどころか、笑って襲い掛かってきた。

「なんてな。驚いたか。実は君の手袋を――リィン?」

「う、あ……」

 やはりチェスの事を根に持っていたのか。鎖がじゃらじゃら鳴っているし、ブーツは尖っているし、ジャケットはなんか黒光りしてるし、眼鏡はサングラスになっているし。

 こんなに荒んだマキアスは見たことがない。全部俺のせいだ。

「うぁああーっ!」

 視界が暗転する。

 繋がった記憶はまた闇の中へと消えていった。

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 




後編もお付き合い頂きありがとうございます。

余談ですが、ラウラがネズミと毛虫を即断瞬殺できたのは、みっしぃの着ぐるみをまとっていたからです。さすがのラウラも素手ではためらったでしょう。一応そんな描写はいれていたのですが、流れが悪くなりそうだったので割愛しました。というわけでこの場を借りて補足させて頂きます。

では次回予告です。前からちょいちょいセリフには出ていましたが、次回は文芸部のお話となります。久しぶりのエマ回ですね。うん、嫌な予感がしますな。
あと数話で舞台は10月に移りますが、まだまだ彼らの日常は続きますので、どうぞお付き合い下さい。




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ノベルウォーズは突然に(前編)

 九月下旬。平日。授業を終えた放課後、私とドロテ部長はトリスタの町へ続く長い坂を駆け下りていた。

「エマさん、急いで!」

「は、はい」

 九月に入っても続いていた残暑の日差しは、ようやく和らぎを見せ始め、過ごしやすい日々がやってきていた。正面から吹き抜けていく涼やかな風が、私の三つ編みおさげを揺らしていく。

「はあ、はあっ」

 ただ三つ編みが揺れているのは、風のせいなのか、全力疾走しているからなのか。

 咳き込み交じりに吐いた荒い息が、私の丸眼鏡を曇らせて、視界を薄白色に覆う。

「あと二分ですよ!」

 前方を走るドロテ部長は腕時計を一瞥するなり、焦った声を発した。振り返らずに前方だけを見据える彼女は、実際相当焦っているのだろう。 

「あと59秒……!」

 一分を切った所で、ついに秒カウントに切り替わった。秒針が進む度にドロテ部長の走る速度も上がるので、置いていかれないよう私も必死だった。

「あと30秒! こうなったらエマさん、眼鏡を捨てるしかありませんよ」

「そんなことしても私の足は速くなりませんから! そもそも重たくないですし!」

「そんな……あと重いものといったら」

 ドロテ部長の目が一瞬、私の胸に向く。それは一体どういう意味ですか。彼女は「女神様のいじわるっ」と声を詰まらせると、さらにスピードを上げて疾走した。私が部長にいじわるされたんですが。

 ともあれ、目的のトリスタ駅はもう目の前だ。

「あと15秒っ!」

 駅の入り口扉を勢いよく押し開けて、なおも止まらず走る。

「ヘイムダル行き二枚! おつりはいりません!」

 駅員さんの前にお金をだんっと叩きつけ、半ば奪うようにして切符を手にするとドロテ部長は改札を突破した。半歩遅れて私も続く。

「あ!」

 発車のベルが鳴り、扉が閉まっていく。

 間に合わなかった。やっぱり眼鏡を捨てていれば良かったのだろうか。

 そんな詮無い思考が頭をよぎった時、

「エマさん、まだよっ!」

 ドロテ部長は閉まりかけた扉の隙間に手を差し込み、力任せにこじ開けた。

 食いしばった歯がぎりぎりと軋むと、重い扉がぎしぎしとスライドし、人一人分は通れるスペースができた。

「ドロテ部長!?」

「私の事はいいから、あなただけでも行って! 団体としての受付を先に済ませておけば、私が遅れても問題はないですから!」

 なんという執念。この事態に気付いた二人の駅員が血相を変えて走ってきていた。

「お願い。必ず追いつくわ。早く……早く!」

「わ、わかりました!」

 扉を押さえ続けるドロテ部長の腕の下を潜って、私は車内へと転がり込んだ

 同時に二人の駅員に両脇から捕縛されるドロテ部長。扉が閉まる寸前、力を振り絞り彼女は叫んだ。

「行くのよ、エマさん……乙女達の祭典へ!」

 列車が動き出し、ドロテ部長はどこかへ連行されていく。

 扉の窓から見える彼女の顔は、何かをやり遂げた――そんな満ち足りた表情だった。

 

「ふう……ドロテ部長、大丈夫かしら」

 ガタンガタンと揺れる車内。流れていく景色を眺めながら、私は一息ついた。

 今日は文芸部にとって大切な日だ。チェス部という例を除けば、他の運動部とは違い、文化系の部活には当然ながら試合というものはない。かといって、自分達の作品を外に出す機会がないわけでもないのだ。

 写真部や美術部には展覧会があるし、吹奏楽部には演奏会がある。ちなみにオカルト研究会は、怪しげな集会が定期開催されているらしく、目深にフードをかぶった女子が、ぶつぶつと呪文のような言葉を呟きながら出掛けるのをまれに見ることがある。確かベリルさんという名前だったと記憶しているけど、最近は写真部の男の子とよく外にいるのを目にする。

 ――それはともかくとして。今日は私達文芸部が出席する品評会が開催される日なのだ。文芸部にとっては数少ない大舞台なので、ドロテ部長の意気込みも並以上のものがあった。今頃は駅員さんのお説教を受けているまっ最中かもしれないけど。

「確か『ノベルズ・フェスティバル』という名前だったかな」

 小説の祭典。そう、今回出展したのは創作小説だ。 

 一つ気になるとすれば、ドロテ部長は先程“乙女の祭典”と叫んでいたことか。

「言い間違い……よね?」

 列車は走る。ヘイムダルはもうすぐだ。

 

 

《☆☆☆ノベルウォーズは突然に☆☆☆》

 

 

 道すがら品評会の要項を思い返してみる。

 受付は十七時から。会場は例年と同じで、ヘイムダル郊外の多目的ホール。導力トラムに乗って近くの停留所まで来たら、あとは徒歩にて約十五分。

 地図を書いてくれたらよかったのだが、何かしらの理由があって、そのような情報は書面に残せないらしい。ドロテ部長が口頭で伝えてくれた目印を探して、私は迷いそうになりながらも歩を進める。

「もしかして、あれかしら」

 大通りからは外れ、人通りの少ない脇道を何回も曲がった先に、そこそこ大きな建物が見えてきた。

 外観は古めかしく、数世代前の貴族のお屋敷という印象を受ける。周囲はブロック塀に囲まれていて外からだと中の様子を伺えないが、正面の門には『ノベルズ・フェスティバル』と銘打たれた看板が立てかけてあった。

 どうやらここで間違いないらしい。

 門をくぐり、敷地内に入ると、玄関の前にスーツ姿の女性が立っていた。彼女は私に気付くと「品評会参加の学生様ですね」と丁寧に頭を下げてくれる。

「お名前と学院名をお願いいたします」

「エマ・ミルスティン。トールズ士官学院です」

 名簿をチェックしていた女性は「あら?」と小首を傾げた。

 ああ、そうか。多分、

「もう一人ドロテという女子学生が後で来ると思います。電車に乗り遅れてしまったので、先に私だけで受付を済ますようにと」

「そういうことでしたか。ではエマ様、本日はどうぞごゆっくりお過ごしください。お連れ様のことはご心配なく、お越しになった際にご案内致しますので」

「すみませんがお願いします。そういえば随分入り組んだ所にあるんですね。何回か迷いかけてしまいました」

「あら、初めて参加される方ですのね……色々と事情があるのですよ。あの門もね」

 門、と言われて今しがた通ってきたばかりのそれに目を向ける。今は開かれているが、鉄格子のような扉で、最上部には外部からの進入を阻むように幾重もの棘が突き立っていた。何とも物々しい。

「まあ念の為ですので、あまり気になさらなくても宜しいですよ」

 ギイィと重い音を立てて扉が開かれる。少しの緊張を感じながら私は足を踏み入れた。

 

 

 通路の奥まで伸びた赤い絨毯の上を歩いていくと、突き当たりにまた扉が見えた。

 今度もスーツ姿のお姉さんが立っていて、彼女は一礼するとドアを開けてくれた。

「ええ!?」

 途端に拡がる空間。眩しいシャンデリアの輝き。そして大勢の人、人、人。急に別世界に入ったかと錯覚するほどだった。

 奥には舞台もあり、造りのイメージとしては学院の講堂が近いかもしれない。しかし内装の華やかさはそれと比べ物にならない。

 会場の両脇には彩り豊かな料理が多く用意してあって、ビュッフェ形式で楽しめるようになっていた。純白のクロスでしつらえた丸テーブルも随所に設置されており、雑談に興じながらの立食パーティといったところだろう。

「す、すごい。学生の品評会でこんな豪華な……」

 もちろん出たことはおろか見たことも無いけれど、社交界というのはこんな雰囲気なのだろうか。

 というかどうしよう、普通に学院服で来てしまった。

「……ドレスコードとかは大丈夫かな」

 早くも場に呑まれかけた私は、辺りを見回してみる。

 同年代くらいの女子ばかりだけど、みんな学生服だ。少しほっとする。

「あれは聖アストライア女学院の制服? 十代部門だから年下の子も来てるんだわ。えーとあっちは」

「ジェニス王立学院の制服ですよ。リベールの学校です」

 背後から掛けられた声に振り向く。走ってきたのだろう、ぜえぜえと肩を上下させたドロテ部長が立っていた。思っていたよりもずいぶんと早い到着だ。

「ドロテ部長、間に合ったんですね。心細くて私どうしようかと」

「ふふ、ごめんなさいね。でも駅員さんに分かってもらえて何よりでした」

「大丈夫でしたか? 怒られませんでした?」

 心配そうに私が聞くと、ドロテ部長は急に押し黙った。やっぱり相当注意されたのかもしれない。

「エマさんは私の妹」

「はい?」

 いきなり突拍子もないことを言われ、私は目を丸くする。

「私の妹は難病を患っていて、名医に掛かる必要があった」

「え。何を言ってるんですか?」

「しかし手術には莫大なお金が必要。女手一つで育ててくれた母は資金繰りの為に過労を繰り返し、先日とうとう亡くなってしまったの」

「あ、あのドロテ部長?」

「姉である私は学業の傍ら、寝る間を惜しんで内職に励み、ようやく手術代を工面することが出来た。でも今日になって妹の容体が急に悪化。一刻も早くヘイムダルにいる名医の元へ向かわなければならない」

 ……まさか。

「迫る刻限。列車が出てしまえば、妹は助からないかもしれない。いけないことだとは分かっていても姉は列車の扉を開かざるを得なかった」

 待ってください。ちょっと待って下さい。

「そう言ったら駅員さんは滝のような涙を流して、緊急車両を用意してまで私をヘイムダルに送ってくれたのです」

「なんてことを……」

 だれが難病の妹ですか。しかしさすがは文芸部部長。さらりと設定を作り、駅員さんの心を打つだなんて。ばれたら停学は必死だ。奨学金差し止められたら、私泣いちゃいますよ?

「それはそうと、エマさんにはこの品評会のことをもう少し詳しくお話ししておかないといけませんね」

 場面転換もお手の物ですね。すでに駅員さんの件は過去の話になりました。

「学生だけの品評会ですが、見ての通り帝国内だけではなくリベール、クロスベル、カルバードの学生さんも来ています。カルバードとは緊張状態と言っても、戦争中ではないので入国はできますからね。入国審査自体は厳しいそうですが」

 この会場内にはざっと百人以上の学生が集っている。数こそ少ないものの、確かに東方の顔立ちをした女子学生達もちらほら見えた。

「文学に国境はないのですよ。毎年一回開かれるこの品評会は、各国友好の場としての意味合いもあるんです。世論や情勢に惑わされず、私達の世代が手を取り合うことは大切なことだと思いませんか?」

「それは……私もそう思います。素敵ですね」

 文学に国境はない。素直にいい言葉だと思った。 

「平日の夕方から会が開かれるのも定例でして、遠方からの学生さんは今日この会場に泊まることもできるんですよ」

「開催日時は変だとは思っていましたが、そういう事情があったんですね。でも授業とかは大丈夫なんですか?」

「なんでも社会見学も兼ねた学校行事という名目で、ある程度の融通が利くらしいんです。聖アストライアくらい校則が厳しいとさすがに泊まりはダメらしいですが。あ、私達のような士官学院生もですね」

「あはは、納得です」

「それに、気軽に足を運べない日程の方が都合がいいのです。万が一がありますからね」

「え?」

 最後の一言は理解できなかったが、考えてみれば当然だった。各国から文芸部が集まれば百人規模ではすまないだろう。つまり今日ここに集っているのは日帰りが可能な近隣の学院勢と、学校の許可によって参加できた一部の団体勢ということになる。

 それでも百人は多いと感じるが。

「そういえばあれは何でしょう?」 

 会場の一角。その場所だけ黒山の人だかりができている。

「ねえ、ゆっしゃん派?」

「んー、私はまっきゅんですわ」

 そこでは、そんな不明な言語が行き交っていた。

 ドロテ部長が説明してくれた。

「今日はプロの作家さん達も来てくれていて、その人たちの新作小説を先行販売しているわけです。あれが目的の人も多いくらいでして。あ、そうそう、小説の優秀賞を選定して下さるのもその方々なんですよ」

「はあ、そうでしたか……」

 私達の小説は販売コーナーから離れた大きめの卓上に並べられており、誰でも試読することが可能だ。

 原稿はすでに製本された冊子になっていて、私の小説もそこに置かれている。知らない人が私の本を手に取っていると思うと、それだけで少しドキドキしてしまう。

 そんな折、「あら、あなたは」と私には聞き覚えのない声が聞こえてきた。

 人の隙間を抜けて私達の前までやって来たその女子学生は、軽く会釈をするとドロテ部長に向き直った。紺のブレザーに胸元の赤いリボン。知らない学院服だ。そもそも知っている服の方が少ないが。

「今年も来たのね。お久しぶり。“夢のヴォワヤジェール”。ご機嫌宜しくて?」

 え、夢の……何ですか?

「ふふ、貴女こそ“恋のシルビエンテ”」

 不敵に言い返すドロテ部長。シルビ……はい?

「先ほどあなたの小説を読んできたわ。さすがは“夢のヴォワヤジェール”といったところね。斬新な切り口からの攻めと責め。見事なバランス感覚だったわ」

「お褒めに預かり光栄と言わせてもらいましょう。私は今来たところなのでシルビエンテの小説は後ほど拝読させて頂くわ」

「よしなに。ところでそちらのお嬢さんは新入部員かしら」

 “恋のシルビエンテ”さんが私に視線を向けた。

「初めまして。一年のエマ・ミルスティ――」

「彼女は“(くれない)のグラマラス”。私の後輩よ」

 ドロテ部長は私の言葉に、聞いたことのない語彙を重ねてきた。

 その名(?)を聞いたシルビエンテさんが途端に「こ、この子が……!?」と驚愕の表情を見せる。

「彼女の小説も読んだわ。控え目な描写の奥にある確かな青春、しかもその実力はまだ氷山の一角であることは明々にして白々……!」

 言い回しがくどいのは小説を執筆するからでしょうか? 普通に明々白々でいいのでは。いえ、それすらも日常会話に使うことはまずないですけど。

「ふふ、今年の優秀賞は私達のものでしょうか?」

 ドロテ部長が冗談半分、本気半分と言った様子で返すと、シルビエンテさんは「楽観過ぎてよ」と肩をすくめた。

「甘く見てはいけませんわ。今年は“忘却のフレグランス”に“祈りのフォルトゥーナ”も出展しているのよ。そして……」

 顔から一切の感情を吹き消して、押し殺した声音で告げる。

「“裏切りのグリム・リーパー”も来ているわ」

 途端、ドロテ部長がその表情を固くした。

「な、なんですって。ことごとく読者の予想を裏切る、あの“グリム・リーパー”が? そんな……『ディオス・デ・ラ・ムエルテ』の悲劇が繰り返されると言うの!?」

 知っている言葉がどんどん少なくなっていきます。この方達は私と同じ言語を話しているのでしょうか。

「ただ、その子の潜在能力ならあるいは……」

 言いかけて私を一瞥すると、彼女は踵を返した。

「一旦これで失礼するわ。私も後輩を待たせているの」

 遠ざかるシルビエンテさん。途中、彼女は足を止めるとこう言い残した。

「“紅のグラマラス”……恐ろしい子」

 もう世界観がわかりません。というか、というか――

「紅のグラマラスって何ですかー!」

 

 

 ドロテ部長はうふふと含みを乗せて笑う。

「最後にこれを伝えないといけませんね。この会場ではお互いペンネームで呼び合うのですよ。先ほどの彼女は“恋のシルビエンテ”。本名はもちろん知りません。そして私は“夢のヴォワヤジェール”」

 それは正式なものではないが、いつの間にか慣例化されていた、言わば暗黙のルールらしい。

 シルビエンテさんはともかく、ドロテ部長のペンネームはひどく呼び辛い。舌を噛んでしまいそうになる。

 部長は私の当惑を察したらしく「身内同士なら構いませんよ。普段通り呼んで下さい。私もエマさんと呼びますから」と緊張をほぐすように笑いかけてくれた。

 いえ、私の聞きたいことはそれではなくてですね。

「“紅のグラマラス”というのは、もしかして私のペンネームですか? そんな名前を付けた覚えはないんですが……」

「恥ずかしがりやのエマさんだもの。きっと悩んでしまうと思って私が考えてみたんです」

「あ、あの」

「いいでしょう。教えてあげます。“紅”というのはもちろんその真紅の学院服のこと。“グラマラスは”グラマーと、眼鏡を意味するグラスを掛けているんですよ。総称して“紅のグラマラス”。エマさんにぴったりのいいペンネームだと思いませんか?」

 ただ恥ずかしい。しかし嬉々として語るドロテ部長にそんなことを言えるはずもなく、

「その、えーと、はい。……いいと思います」

 そう答えるしかなかった。

「気に入ってくれて安心しました。安直に“赤いメガネボイン”にしようかとも考えたんですが……あ、そろそろ始まりますよ」

 さらりと恐ろしいことを言ってのけたドロテ部長は、視線を壇上へと向けた。先ほど受付にいたスーツのお姉さんが、舞台の端にあるスタンドマイクの前に立っている。

「各国文芸、文学部の皆様、大変長らくお待たせしました。只今より第八回創作小説品評審査会、ノベルズ・フェスティバルを開会致します」

 八回目だったらしい。意外に歴史が浅いと一瞬思ったが、百日戦役の年代を考えれば妥当と言える開催回数だ。

「それでは審査員の方々をご紹介致します。まずは『バラ色プディング』でおなじみの“花のエヴァンジル先生”」

「皆さん、ごきげん麗しゅう」

 二十代後半ぐらいの女性がにっこりと手を振りながら袖から現れて、舞台上の審査員席に座った。

 かなり人気のある人らしく、登場しただけで歓声と拍手の嵐だ。あまり最近の小説には――というかそういうジャンルには詳しくない私の為に、逐一ドロテ部長が解説を挟んでくれる。

「あの方はリベールの人気作家の一人。流行の言葉を取り入れたコミカルな文章が私達世代に受けているんです。若くして業界の最前線にいるすごいお方よ」

 ドロテ部長の口調が熱を帯びてくる。

「続きまして『監獄ヘブン』、『チェイン&ウィップ』、『事故か事件か』など数々のヒット作を生み出した文豪女傑、“孔雀のティラトーレ”先生」

「今宵の祭典、共に楽しみましょう」

 四十代半ばくらいの人だろうか。凛として審査員席に座る姿は風格が漂っている。

「ま、まさかこの方も来られるなんて! 相容れない恋を描く作風は、哀愁と共に読者を一気に本の世界へと引きずり込むんです。代表作『監獄ヘブン』は囚人と看守の禁じられた逢瀬が見どころですよ!」

 それは禁じられて然りでは。……あと囚人と看守って男性と女性ですよね?

「では三人目の方です。審査員には急遽抜擢されたのですが、きっと皆さん驚くと思いますよ。さあ、どうぞ!」

 コツコツと舞台に足音が響く。静かに現れたのは黒いタキシードを着た男性。

 その姿を見るなり「きゃあああ!」と悲鳴じみた大歓声が会場を揺らした。先に登場した二人の先生より遥かに反響が大きい。

「ど、同志《G》よ!」

 歓声にかき消されたが、誰かがそう叫んだのを確かに聞いた。その言葉に私の背は震えた。帝国解放戦線《G》――ギデオン。

 そんな馬鹿な。クロスベルで死亡したと聞き及んでいる。もしかしてダミー情報? だとしてなぜこの場に? 各国の子女が集まる会合、何かに利用しようとすれば確かにできなくはないが。

「くっ」

 魔導杖なんて持ってきているわけがない。《ARCUS》はあるけどさすがにトリスタの皆までは通信が届かない。加えて攻撃系のクォーツも装着していない。

 巡る思考。とっさには弾き出せない適切な対応。絶叫吹き荒れる中、平然と審査員席に座った《G》を私は強く見据えた。

「あれ?」

 知らない顔だった。と言っても、顔の上半分を覆い隠す蝶を模した仮面を付けているから、顔の全てを捉えることはできない。ただ――

「………」

 あの鼻下で整えられた白いひげには見覚えがあった。マスクから覗く白髪にも。しわ深いあの口許にも。

 まさか、なんで、どうして。

 はっとした。新刊小説の即売コーナーへ振り向き、嫌な予感に押されるまま私は走る。

「エマさん!?」

 ドロテ部長の呼びかけにも応じず、人だかりをかき分けてそこに辿り着き、売り切れ寸前のその本を手に取った。

 表紙のイラストを見る。シャツがはだけた学生服の男の子二人が、読者目線で手を絡めあっていた。

「ああ……」

 目まいに襲われる。タイトルは確認したくなかったけど、まだ勘違いと言う可能性も残っている。見ないといけない。女神様、私に勇気を。

 意を決して表題部を視界に入れた。

 

《素直になれないボーイ・ミーツ・ボーイ》

 

 間を置かずに落ちる、私の肩。

 悪い予感が確信に変わってしまった。

 あれは(ギデオン)じゃなくて(ガイラー)

「ということは……」

 冊子を開く。登場人物紹介、主人公は二人。名前はユーシオス・アルバノフとマキュリアス・レグニール。どこかで聞いた名前だ。片方はブロンド髪で、もう一人は眼鏡をかけている。というか容姿はモデルそのままだ。

 さっき耳にした、ゆっしゃんとまっきゅんはこれだ。

 マルガリータさんと戦ったあの日。グラウンド諸々の補修を頼みに行った際、ガイラーさんから手渡された小説こそが『素直になれないボーイ・ミーツ・ボーイ』だった。

 一人になった用務員室で流し読みして、簡単な添削だけして机に置いておいたのだけど、まさか一週間も経たない内に修正して、製本にまでこぎつけるなんて。出版社の協力だっているはずなのに、一体どうなっているのか。

 ペラペラと適当にページをめくってみる。

『お前の眼鏡は俺のものだ』

『レンズをさわるな、ユーシオス』

『ふっ、抵抗はしないのだな? マキュリアス』

『……君という男は』

『嫌いか?』

『言わせるんじゃない……』

 ばんっと本を閉じ、だんっと台に戻し、急ぎ足でドロテ部長の元へと戻る。

 口調がまんまあの二人だ。以前添削した時よりも遥かに描写が生々しく、かつ禍々しくなっている。あの時は挿絵がなかったし気付きもしなかった。

 万が一これをユーシスさんとマキアスさんが見て、不本意ながら私が力添えしたことを知ったらどうなるだろう。

 きっと四大名門と帝都知事の両子息として、持ちうる全ての力を総動員し、文芸部をひねり潰しにかかってくるに違いない。

「エマさん。急にどうしたんですか」

「あの、ドロテ部長。同士《G》というのはなんでしょうか?」

 彼女は待ちわびていたかのように意気揚々と解説を始めた。

「一か月くらい前に彗星のごとくデビューした大型新人で、《G》はペンネームです。懐古的な文章ながら、常に感性に訴える斬新な表現技法。そして予測不能にして限界突破したストーリー。乙女心をくすぐる絶妙な話運びに、幅広い層のファンを瞬く間に獲得しました。同志と言うのはファンの中での愛称ですね」

 限界は突破したらダメですから。もう軍に通報した方がいいのでは。

 ドロテ部長の熱弁は止まらない。

「デビュー作『高原の中心でハイヤーを叫ぶ』は主人公ダイウスと友人ネリオットの友情物語が秀逸なんです。ラストシーンで病気のネリオットの為に、喉が枯れるまでハイヤーを叫び続けるダイウスの姿に涙を流さなかった読者はいないでしょうね」

 領邦軍では手に負えないレベルだ。正規軍に出撃依頼しないと。

「あと二作目の『クロックベルはリィンリィンリィン』は先輩クロックと後輩リィンのすれ違いを描く切ないストーリーで、発売から数日で重版がかかるほどの人気ぶり。乙女メーターの上限を振り切った内容は、彼の辞書に規制という文字が存在しないことを世に知らしめる一作となりました」

 乙女メーターとはなんだろうか。今日は知らない言葉ばかり耳にする。そしてなぜかリィンさんだけ本名が使われているという悲劇。

「そして新作の『素直になれないボーイ・ミーツ・ボーイ』では身分の違う二人が禁断の――」

「も、もう大丈夫です! ……ありがとうございました」

 料理にはまだ手を付けていないのに、すでにお腹がいっぱいだ。“禁断の――”の先は聞きたくない。聞かなくてもわかる、というかそれを添削したのは他でもない自分なのだ。

 一か月あまりで三作も発刊するなんて、執筆速度が尋常じゃない。

 大人しく審査員席に座っているガイラーさんを改めて見る。

 黄色い歓声には軽く片手を掲げる程度で、愛想笑いを返す素振りも見せない。ドロテ部長が言うには、ファンにも媚びない、その毅然とした態度がいいのだとか。

「ああ……《G》。仮面の下のあなたの素顔を想うだけで、私はもう立っているのも辛い。教えて《G》。普段のあなたはどこで何をしているの?」

 トールズ士官学院で用務員をやっています。ドロテ部長も確実に知っている人ですよ。立っているのが辛いということなので、私は彼女の後ろにそっと椅子を置いておいた。

 お姉さんが司会を進めようとするも、ざわめきはまだ収まらない。《G》人気の程がうかがえる。

「やれやれ。元気なお嬢さん達だ」

 ようやく一言を発したガイラーさんは立ち上がり、そのまま少し歩み出る。彼は両腕を頭上に掲げて交差させると、✕印を作ってみせた。

 一瞬で静まり返る会場内。なんというカリスマ性。

 しかし、次の瞬間。

「エーックス!」

 ガイラーさんが高らかに叫ぶ。

 合わせるように会場内の女子学生も✕印を頭上に作り『エーックス!!』と、もはや怒号に近いそれを響かせた。余りの音響にシャンデリアや、壁際に設置されていた照明器具などがビリビリと微震するほどだ。

「こ、これはなんでしょうか?」

 周囲と同じく✕印を壇上に向けているドロテ部長は、興奮冷めやらぬ様子だったが、それでも質問に答えてくれた。

「この✕印は絆の刻印。本来なら在り得るはずのない繋がりを実現させる魔法の楔。《G》の作品のあとがきは、必ず『次回もエーックス』で締められているんです。まさか実際に目にすることが出来るなんて……光栄の極みですね」

 並び立つ百もの✕印。もうカリスマを踏み越えて、怪しい団体の教祖のようになっている。一体あの人はどこに行こうと言うのか。

「さあ、エマさんも一緒にエーックス」

「や、やりませんから!」

 

 ● ● ●

 

 予期せぬサプライズで一騒動はあったものの、無事に品評会は開始された。

 最初の二時間程度は親睦会が主で、ビュッフェスタイルの料理を楽しみながら他学生との交流を深める。その間に三人の審査員達が話し合って、受賞小説を決定するという運びだ。

 出展された小説は、あらかじめ十作品くらいに絞られてあって、表現、構成、人物などの項目ごとに採点がなされていく。自分の小説がその十作品に選ばれているかは、受賞式の時まで分からないそうだ。

 ちなみに審査員の皆さんは、別室に入って最後の選定をしているらしい。

「それにしても……」

 辺りを見回すとやはり女の子ばかりだ。

 少し違和感があった。文芸部は男女で分かれるような部活ではない。男女別の品評会とも聞いていない。確かに出展されている小説の内容があれなので、男子には居づらい場所には違いないが、一人もいないというのはどうなのだろう。

「男子学生がいないのが気になる……と言ったところですか?」

「あ、ドロテ部長。と、恋のシルビエンテさん」

 離れたテーブルで雑談に興じていたお二人は、私が一人でいたことに気を遣ってか、こちらまで歩み寄ってきた。

「楽しんでいるかしら。紅のグラマラス」

 シルビエンテさんはまたその名で呼んでくる。恥ずかしさに頬が引きつりそうになるのを堪えて「程々にですが」と笑い返してみた。

「それは重畳。ところでグラマラスはなぜこの場に男子学生がいないのか、気になっているのよね?」

「えーと……はい」

 グラマラスの名に即答で返事をするのには、まだ抵抗があった。

 シルビエンテさんはドロテ部長に横目を向けると「ヴォワヤジェール、いいわね?」と謎の確認を取った。

「ええ、いずれはエマさんも知らなければいけないことだもの。私達文芸部の“闇”をね……」

「や、闇?」

 なぜ学生の文芸部に闇があるのか。多分聞かずにこの場を離れた方がいいと思うが、しかしすでにシルビエンテさんの語りは始まっていた。

「全ての始まりは八年前、第一回ノベルズ・フェスティバル。その時は男女混合での品評会だったの。別段トラブルもなく穏やかに会は進んでいった。……だけど事件は授賞式で起こった」

 重い口調で彼女は続けた。

「その年の受賞者は全員が女子学生だった。もちろん男子の執筆した小説にも優良な作品はあったでしょう。でも審査員には選ばれなかった。おそらくは審査員の趣味嗜好、ジャンルの方向性の違いでね」

 ある程度ジャンル別に審査員を設けるか、そもそも会を一まとめにしなくてもよかったのでは。初回なので想定できなかった事態なのかもしれないが。

「そして文芸部の男子達による暴動が巻き起こった」

 いきなり話がおかしくなった。

「何とか収拾は付いたけど、それは深い禍根と確執を残す結果となったわ。以来、文芸部は女子と男子に袂を分かち、未だ仲違いを続ける間柄なのよ。私達の至高とする小説と彼らが崇拝するジャンルは相容れないの。どうやってもね」

 知らなかった。文芸部が男女で二分される事態になっていたなんて。しかも各国を巻き込んで。

「水面下での小競り合いは絶えないけど、今はお互いに牽制し合っているから、争いは表面化していないわ。でもいつか彼らが実力行使で勢力図を塗り替えようとしたら、確実に正面衝突することになる。戦争は免れないでしょうね」

「せ、戦争ですか!?」

「このノベルズ・フェスティバルはね。品評会であり、親睦会であり、決起集会でもある。いつか来る小説戦争――ノベルウォーズに備えて団結力を強めるのが目的。私達は小説家であると同時に戦乙女なの。それをよく覚えておきなさい」

 やっぱり聞かなければよかった。知らない内に妙な戦いに巻き込まれた。

「士官学院生の貴女は戦闘訓練も受けているのでしょう? 期待しているわ、紅のグラマラス」

 そして主戦力に数えられてしまった。

 ドロテ部長が申し訳なさそうに目を伏せた。

「これが文芸部の闇。わかります、エマさん。ショックですよね? 落ち着いて深呼吸して下さい」

 足元がふらついているのはそれが原因ではなかったが、とりあえず一旦落ちつくのは賛成だ。

「すみません、少し席を外してきます。場酔いしちゃったみたいで」

 よろよろと入口扉に向かう。背後から「重すぎる真実を背負わしてごめんなさい」とか「彼女は強いわ。きっと乗り越える」などの声がしていたが、聞こえないふりで歩を進めた。

 文芸部って一体なんですか。

 

 

「ふう、やっと一息つけた」

 なんというか、一言で言うなら予想と違った。何かこう――もっと粛々とした式典のような授賞式をイメージしていた。粛々どころか殺伐とした話を聞かされたわけだが。

「そろそろ戻ったほうがいいかしら。あまりドロテ部長を心配させてもいけないし」

 会の最中は外に出られないらしく、私は適当に建物内を散策していたのだった。

 どうやら実際のお屋敷を改装してホールを作ったらしく、会場以外の造りは結構複雑になっていた。

 使用しない廊下の照明は落とされ、辺りは薄暗い。日はすでに落ち、窓から差し込む月明かりが周囲の輪郭を浮き立たせている。

 ホールの喧騒は聞こえるので、とりあえずそちらに向かって歩き出そうとした時だった。

「おや、迷子のお嬢さんかと思いきや――まさか君とはね」 

 心臓が跳ね上がる。

「女神の小粋な計らいに感謝しよう」

 闇の中から声が近付いてくる。

「月が満ち、星が煌めくいい夜だ。体がたぎってしまうね。君もそう思わないか、エマ君。いや――」

 現れたのは一見してタキシードの紳士。しかし私は知っている、仮面の下の真の姿を。

「こう呼ぶべきかな。“紅のグラマラス”と」

 秋夜に跋扈する、狂い咲きの用務員。

「ガイラーさん……いえ《G》」

 長年の宿敵に遭遇したみたいに、私はガイラーさんと対峙した。

 蝶の仮面が外される。顕わになるグレーの髪にやや垂れた目じり。しかし瞳の奥に灯るのは、野心を秘めた仄暗い炎。

「……なぜここにいるんですか」

「異な事を問うのだね。私をここまで導いたのは他ならぬ君だというのに」

 不意に感じる。ガイラーさんの様子がいつもと違う。一体何が――

「私がここに立っているのは《G》という一人の小説家、そして今宵の審査員としてだ。審査もほぼ終わったので休憩がてら少し屋内を散策していたのだよ」

 わかった。いつもの微笑がないのだ。真意の程はともかくとして、頬を緩めて穏やかな空気を醸し出す、あの笑みが。 

「今日は笑っていませんね」

「さすがに緊張していてね。魂を込めて書き上げられた作品に、私などが優劣をつけるというのはおこがましい気がしてならないんだ」

 それは殊勝な心構えだけれど、何かが違う。まだ見せていない何かがある。私の直感がそう告げていた。

「ああ、案ずる必要はない。たとえ君が知り合いでも審査は平等公平に行ったつもりだ」

「……それはもちろん」

 会話を交わすごとに大きくなる違和感。言葉の裏に何を隠して、心の中で何を画策している?

「そうだ。君は先程、一人だけエックスをやっていなかったね?」

「あの✕印のことですか。私は絶対にやりませんから」

 ガイラーさんは無言のまま首を横に振ると、感情の読めない灰色の瞳を私に向けた。

「君は必ず私に屈する」

 響く、不吉。漂う、不穏。

「それはどんな予言ですか?」

「これは予言でも予測でもない。確定した未来を口にしただけだ。もう一度言おう。君は私に屈する」

 虚勢ではない。自信とも違う。傲慢さも感じない。未来のことをまるで過去のように断ずる口調だ。当たり前のことを当たり前に口にしたという、ただそれだけの言葉。

 屈する? それは私が“エックスポーズ”をするという意味だろうか。そんな未来はあり得ない。

「ガイラーさん、あなたは何を――」

「おや、いけないね」

 私の言葉をさえぎって、ガイラーさんは腕に巻かれた時計に目を落とした。

「あと少しで授賞式だ。君ももう行った方がいい。二つ先の角を曲がればホールの入口が見えてくる」

 それだけを告げると、彼は私に背を向けた。

 闇に溶けていく後ろ姿に問う。

「あなたは……あなたは何をしようとしているんですか」

 姿はもう見えず、渋みのある低い声だけが淀んだ空気を揺らした。

「今日は小説の選定。明日は植木の剪定だね」

 すっとガイラーさんの気配が消える。立ち尽くす静寂の中、薄闇が濃くなった気がした。

 ふと窓の外を見上げてみる。灰色がかった大きな雲が、満月を覆い隠そうとしていた。 

 

 

 私がホールに戻って間もなくすると、授賞式が始まった。

 三人の審査員が好評を述べながら、賞ごとに作品名と作者名を読み上げていく。今回は佳作賞三名、優秀賞二名、最優秀賞一名の計六名という、例年よりも厳しい審査となった。

「では佳作賞、最後は“海のメルカート”さんで『漁師達のメモリアル』。この作品は荒れ狂う海の男たちの日常を描いた荒れ狂った作品で――」

 賞状を受け取った佳作の受賞者達が壇上から下りてくる。

 次は優秀賞の発表だ。

「続きまして優秀賞、一人目。“恋のシルビエンテ”さんで『night of knight』。傷ついた騎士が鎧を脱ぎ、頑なだった心の殻を脱ぎ、ついでに色々脱ぐシーンの臨場感と細やかな心情描写が高評価を獲得し、今回の受賞に至りました」

 名を呼ばれたシルビエンテさんは「うそ……私が」と口許を手で覆って驚いている。

「では受賞二人目」 

 固唾を飲むドロテ部長は、傍目にも緊張が見て取れた。

 彼女が今日の為に努力を積み重ねてきたのを知っている。

 どうか、叶うならば。

「“夢のヴォワヤジェール”さんで『教官室の裏手では』」

 弾かれたように顔を上げたドロテ部長は、その目を大きく開いた。

「学園物でありながら、終始息をつかせぬ怒涛の展開は見事でした。主役教官ライトハルトのセリフ一つ一つが胸を熱くしますね。特に水練後のシャワー室バッティングは見事の一言です」

 気になる名前はあったけど、今は触れないでおこう。

 周りから拍手が贈られると、ドロテ部長の目に涙が滲む。

「それでは受賞者のお二人は壇上へ」 

 目元をハンカチで拭い、シルビエンテさんと二人でドロテ部長は舞台へと向かった。

 賞状を受け取った彼女は、満面の笑みを浮かべている。

「ドロテ部長……よかったですね」

 そして最後は、いよいよ最優秀賞の発表だ。

「エマさんなら大丈夫。選ばれている可能性も十分ありますよ」

 戻ってきたドロテ部長はそう言ってくれるが、これまでの受賞作品を見ていると、正直なところあまり自信はない。私の小説は柔らかい内容と言うか、当たりさわりのない、オブラートに包んだ表現を多用しているのだ。ストーリーに関しても、あくまで爽やかさを念頭に置き、審査員の目に留まるような突き抜けた構成にはしていない。

「最優秀賞の受賞者は――」

 来た。ないとは思っていても、やっぱりドキドキしてしまう。

「“裏切りのグリム・リーパー”さんで『煉獄ぱにっしゅめんと』! 相変わらずの独特な表現と言い回し。予想を裏切り続ける手法はまさにお家芸と言っても過言ではないでしょう。最優秀賞おめでとうございます」

 やっぱり駄目だった。少しでも残念に思う気持ちがあるということは、やっぱりどこか期待していたのだろうか。

 一際大きな拍手の中、壇上に上がったのグリム・リーパーさんは意外にも聖アストライア女学院の学生だった。ミリアムちゃんとフィーちゃんを足して二で割ったような可愛らしい容姿で、もうグリム・リーパーちゃんと呼びたいくらい。確かに諸々の予想を裏切ってくれた。

「それではあとは――」

 全ての表彰を終え、司会のお姉さんが何か言いかけた時だった。

 会場後方の出入扉が勢いよく開き、受付をしていたスーツの女性が駆け込んできた。

「逃げて下さい!」

 開口一番で叫んだ言葉。突然のことに呆ける会場内の学生。しかし受付の女性は構わずに続けた。

「男子文芸部が攻め込んできました! 正門も突破され、ここにくるのは時間の問題。学生の皆さん、審査員の先生方、早く避難を――きゃあっ!」

「邪魔するぜ」

 背後からぬっと出てきた手に肩を掴まれ、彼女は横合いへと押しのけられた。

「ようやく見つけた。こんな入り組んだ場所で品評会なんて開きやがって。いつまでも俺達、男子文芸部の目を欺けると思うなよ」

 ホール内に現れたのは学生服の男子が一人。だが大勢の足音が彼の後ろから聞こえてくる。当然仲間がいるのだろう。

「俺の名は“炎熱のリッター”。八年越しの因縁を終わらせにきた。女子文芸部、お前たちは明日以降ペンを持つことはない」

 私も人のことを言えないけど、そこそこ恥ずかしい自らのペンネームを名乗り、彼はさらに一歩歩み出た。

 小説の祭典は、まだ終わらない。

 

 騒然とする会場内。

「なんで男子文芸部がここに……!?」

 焦燥の面立ちのドロテ部長は、生唾を飲み下した。

「どこから情報が漏れたのでしょう……この場所は代々文芸部の部長にのみ口伝され、書面を残さない為に要項用紙さえも存在しないのに、一体誰が。まさかこの中に内通者がいるのでは……!」

 内通者。その言葉に複数の視線が、裏切りが代名詞のグリム・リーパーちゃんに向けられる。

「あたし、そんなことしないよ?」

 声も可愛らしいグリム・リーパーちゃんは首をふるふると左右に振った。

「“裏切り”はペンネームですものね。でも本当にどこから――シルビエンテ、どうしたの?」

 シルビエンテさんの様子がおかしい。顔が真っ青になり、肩が小さく震えている。

「……どうして」

 彼女は今にも消え入りそうな声で言う。

「どうしてあなたがここにいるの?」

 その言葉は明らかに“炎熱のリッター”に向けられていた。

「お前が教えてくれたんだろ。この場所のことを」

 リッターさんは当然のようにそう返すと、侮蔑的な笑みを浮かべた。

「シルビエンテ、まさか!?」

「違うわ!」

 ドロテ部長が詰め寄るのを鋭く制して、シルビエンテさんはうつろう焦点をリッターさんに合わせた。

「あなたは男子文芸部だったの……?」

「そうだ」

「私に声を掛けたり、私の小説を読んでくれたりしたのは、ノベルズ・フェスティバルの情報を聞き出す為?」

「ああ」

「『俺がお前の騎士になってやる。鎧も、心の殻も、その他の色々も脱いでやる』って言ったのは?」

「俺を信じ込ませる為の演技だ」

「……ねえ、最後に一つだけ教えて」

 うつむいて、細い声で言う。

「私の小説を面白いって言ってくれたのは、うそ?」

「……その通りさ。男は冒険活劇が好きなんだよ」

 会場内の空気が――変わった。

 肌がひりつく。呼吸が重い。

 それはシルビエンテさんだけから発せられているものではなかった。この場にいる全ての女子文芸部の静かな怒り。

「許せない……!」

 そう言ったのはドロテ部長だ。

 シルビエンテさんはもう顔を上げていた。

「いいわ。もういい。男子文芸部、あなた達は今日ここで潰える。没になった原稿のように破り捨てて、まとめて屑カゴに入れてあげる」

 リッターさんはふんと鼻を鳴らした。

「雌伏の時は終わりだ。俺達とて雪辱を晴らすべく八年間力を蓄えてきた。詰まったコピー機のようにしゃがれた悲鳴をあげて、お前たちはここで朽ち果てるがいい」

 互いの視線がゆっくりと逸れていく。

「あなたとは別の章で出会いたかったわ」

「進んだページはもう戻らないのさ」

 それが宣戦布告だった。

 シルビエンテさんは右手を振り上げると、決意と決別を乗せて高らかに叫んだ。

「今! この時より我々は戦乙女とならん! かの聖女の如く戦場を駆け抜け、諸悪の根源を穿つのだ!」

 彼女はばばっと両手を広げる。

「槍を持て!」

 女子達は一斉にフォークを構えた。

「盾を掲げよ!」

 続いて皿を手にする。

「男子文芸部を根絶やしにし、物言わぬペン立てにしてやれ! 突撃っ!」

 女子文芸部の隊列が地鳴りを響かせて迫る。

 リッターさんは動じず、同じく右腕を上げた。

「男子文芸部、諸兄に継ぐ。八年前の屈辱を忘れるな。先駆者達の悲痛を思い出せ!」

 ぐっと拳を握りしめる。

「我々は長きに渡りファンタジー小説を読み続けてきた。身体能力は上がった気がするし、何かしらの特殊能力が目覚めた感じもなくはない!」

 彼は腕を前方に突き出した。

「女子文芸部に正義の鉄槌を下し、冒険小説のしおりにしてやれ! 突貫っ!」

 彼の背後、入口の奥から怒声と共に、男子文芸部が雪崩のように押し入ってきた。

 激突する両陣営。

「エマさん、私達も前衛に出ますよ!」

「な、なんでこんなことに~」

 審査員達は何をやっているのか。この場にいる唯一の大人達は。一声発して場を収めてはくれないのか。

 壇上に目をやるが、“花のエヴァンジル”先生と“孔雀のティラトーレ”先生の姿はすでになく、おそらくは先に退避していた。

「ええ? そんな」

 ただ一人、ガイラーさんだけが不動のまま、静かに審査員席に座っている。特に慌てる様子も逃げる様子もなく、ゆったりと椅子に腰かけていた。

 私は見た。見えてしまった。 

 暴れ回る血気盛んな男子文芸部を見て、ガイラーさんが口許を笑みの形に歪ませる瞬間を。

 そう、彼は今日初めて笑ったのだ。

「いいね。実にいい」

 喧騒の中で聞こえるはずのないその言葉が、確かに私の耳に届く。 

 思惑入り乱れる文芸部同士の戦争が、ついにその幕を上げた。

 

 

 ~後編に続く

 

 

 

 




腐ってやがる、早すぎたんだ。
前編をお付き合い頂きありがとうございます。
エマ回ですが、例によって奴が絡み、例にもれず異色の回となりました。
当小説は基本的に本編に登場したメイン、サブキャラクター達で話が進むのですが、各国文芸部ということもあり、この回に限り、本編には出ていない他の学生さん達が多く登場します。その意味でも異色ですね。
ちなみにペンネームですが、遊撃士スタイルで〇〇の〇〇というようになっています。紫電のバレスタインみたいな。全員のペンネームには意味があり、ヴォワヤジェールは“旅人”リッターは“騎士”グリム・リーパーは“死神”などですが、深い意味はなく完全にニュアンスです。さらりと読み流して頂ければ幸いです。

ついに始まったノベルウォーズ。巻き込まれたエマ。巻き込んだドロテ。そして笑ったガイラー。
混沌の争いはどこに向かうのか。
それでは次回もエーックス!


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ノベルウォーズは突然に(後編)

 戦いが始まった。

 睨み合いも膠着もなく、両陣営入り混じっての乱戦。食器は破砕し、卓上の料理が崩落する。

 立ち尽くす私の頭上を一枚の皿が飛び去り、壁に当たって砕け散った。

「な、な!?」

 気付けばそこかしこで激しい戦闘が繰り広げられている。とても文化系の部活とは思えない。

女子陣営は小チーム編成で動き、単騎奮闘の男子陣を牽制する。そんな中で呆然と孤立していた私は、さっそく標的にされてしまった。

「あの赤服は一人だぞ! あいつを狙え!」

「きゃああ!」

 とりあえず逃げるしかない。追ってくる男子の手には雑誌を棒状に丸めたものが握られている。

 入国審査で露骨な物は持ち込めなかったのか、あれが男子文芸部の主力武器らしい。攻撃力が低そうで何よりだが、他にもっといい物はなかったのか。 

「逃がすか! 我が名は“盲目のテンペスト”! 女神より与えられしこの秘剣。かわせるものなら、かわしてみせよ!」

「目見えてるじゃないですか!」

 どこが盲目。ついでに言えば秘剣は女神じゃなくて、おそらく書店購入だ。

 テンペストさんは「唸れ、テンペストクラーッシュ!」とか叫びながら秘剣を振り上げてきた。

 あの秘剣、あたったら多分そこそこ痛い。私は頭をかばいながら丸テーブルの間を走り回る。

「あっ」

 その時《ARCUS》を入れてある腰のホルダーが、テーブルクロスに引っ掛かってしまった。引っ張られたクロスと一緒に、机上の料理やグラスをまき散らしながらテーブルは勢いよく倒れる。そして追いかけてきたテンペストさんにタイミング悪く直撃してしまった。

「なっ? がはっ!」

 予期しない一撃に打ち据えられ、彼はその場にくずおれた。

「テンペストーッ!」

「盲目のくせに粋がるからよおっ!」

 二人の仲間が駆け寄ってくる。テンペストさんは力ない瞳で見返すと「はは、ドジやっちまったぜ」と自嘲の声を発した。

「悪くなかったな、お前らと馬鹿やった日々はよ。俺はどうやらここまでらしい」

「傷は浅いぞ、気をしっかりもて!」

「ちくしょう、ちくしょう! こんなことってあるか!」

 息も絶え絶えなテンペストさんは、手にしていた秘剣を震える手で持ち上げた。

「だが悔いはない。俺の流れる血がお前達の力になるのなら」

 床に流れ落ちる赤い液体は血ではなく、パスタのトマトソースですよ。

「……さらばだ、友よ。男子文芸部に……栄光、あれ――」

 落ちる腕。閉ざされる瞳。テンペストさんは静かに力尽きた。

 痛恨の面立ちで、彼の死を看取った二人は『イエス! ブンゲイソウル!』と叫び、拳を自らの胸に掲げた。

 あれが彼らの魂の合言葉らしい。

「えっと……あの、すみません……?」

「死した戦士に上からの物言い……何たる侮辱っ!」

 かける言葉も思いつかず、ひとまず謝ってみたのだが、どうやら火に油を注いでしまったようだ。怒りもあらわに二人は私に鋭い目を向ける。

「覚悟はいいか。俺は“双棍のガイスト”。テンペストの仇は討たせてもらう」

 ガイストさんは雑誌を丸めたものを二つ、逆手で両手に持ちトンファーのように構えた。

 その隣でもう一人も、

「後悔をする暇も与えん。“渡り鳥のアルムバント”の鋭き爪を味わえ」

 アルムバントさんは細めに丸めた雑誌を五指に差し込み、まるで鉤爪のように扱ってみせる。

 色々なバリエーションがあるらしい。とりあえずここまでのやり取りで、男子文芸部が好むジャンルが何となく分かった。

「くらえ。『臥竜雷神打』! せいやあ!」

「『サンクチュアリ・ブレイクスルー』! ヒョウッ!」

 私に飛びかかろうとした二人は、最初の一歩目で床のトマトソースに滑り、見事に同じポーズで横転する。

 体勢を戻そうとして結局叶わず、彼らはそろってテーブルの角で強く後頭部を打ち付けた。

 捨て台詞さえなく、ガイストさんとアルムバントさんは仰向けに倒れ込み、白目を剥いたまま動かなくなってしまった。 

「……ごめんなさい」

 私は謝ることしかできなかった。

「紅のグラマラスが三人仕留めましたよ!」

 一連の様子を見ていたドロテ部長が大声で告げる。

『グラマラス! グラマラス! グラマラス!』

 友軍から沸き立つグラマラスコール。男子文芸部の怒りが私に集中する。

「あいつが主戦力か!」

「潰せ! 眼鏡を奪い、機動力を削げ!」

「あの三つ編みに武器を仕込んでいる可能性がある。警戒して撃破にあたれ」

 私は何もしてませんから。その人達が勝手に転んだだけですから。主戦力じゃないですし、三つ編みには何も仕込んでませんし、お願いですから眼鏡を狙わないで下さい。

 ドロテ部長はテーブルの上に立ち、白銀に輝くフォークを掲げた。

「さあ皆さん、紅のグラマラスに続くのです! 戦乙女の槍の猛威、存分にお振るいなさい!」

 こんなにアグレッシブなドロテ部長は見たことがない。とりあえず私を筆頭にするのはやめて欲しいのですけど。

「男子文芸部の横暴を許してはいけません!」

「偽りの歴史に塗り固められた女子文芸部が何を言うか!」

 熱気立つホール内に、咆哮とも思える雄叫びが縦貫し、戦禍は瞬く間に拡がっていった。

 

 

「ええい!」

「いってえええ!」

 ドロテ部長のフォークによる刺突が、男子文芸部の一人を屠る。

「くそっ! “未来のグアルディア”が未来を奪われちまった。……てめえ終わったぜ? この“疾風のガーデナー”を本気にさせちまったんだからなあ!」

 矢継ぎ早に新手が襲い来るも、ドロテ部長は冷静に振り下ろされた雑誌棒を皿の表面で受け止めた。

「ちっ! まだ――うっ!?」 

 即座に皿の角度をずらし、雑誌棒を滑らせる。相手の体勢が崩れると同時に、体を半回転させながら懐に潜り込む。一気に間合いを侵略したドロテ部長は、勢いのままその背にフォークを突き立てた。

 プスリと銀の先端が食い込み、ガーデナーさんは「ぎゃあああ」と耳をつんざく悲鳴をあげた。

「やばい! 出たんじゃないか、これ!? こ、この女クレイジーだぜ!」

 わたわたと後ろ手で何かを確認しているガーデナーさんは、間を置かず顔面に炸裂した大皿の一撃によって、その名の通り疾風の速さで戦線を離脱した。

 思った以上に痛みに弱い男子文芸部。

「さあ、次はどなた? この“夢のヴォワヤジェール”の首を取って、武勲を立てたい者は遠慮なくかかってきなさい」

 フォークをちゃきっと相手に突き付けるドロテ部長は、それこそ甲冑を纏えば一騎当千の戦乙女だ。

「はっ! そっちが戦乙女なら、こっちは狂戦士になるまでよ! 俺は“迅雷のクイックシルバー”。明日の朝日は拝めないと思え!」

 クイックシルバーさんは「コホオオオ……」と呼吸を整え、気を練り込んでいる。そんな彼のみぞおちに電光石火で放たれた掌底が決まった。

「ぐっ……掟破りじゃねえか」

「敵の強化を安穏と待つのはファンタジー小説の中だけですよ。――はっ!」

 気勢と共にドロテ部長の足元がずんと重い音を立てる。

 生み出された力が足を通り、背を流れ、肩を伝い、掌から一気に激発する。ノーモーション、ノーリーチから放たれた体内を穿つ衝撃。

 クイックシルバーさんは堪えることができず、いくつかのテーブルを巻き込みながら吹き飛んだ。

 疾風、迅雷ここに散る。

 ドロテ部長強すぎませんか。男子三人を息も付かずに瞬殺だなんて。授業の実技訓練の評価は確実にSクラスだ。

「さあ、士官学院仕込みの技の冴え、見せてあげてよ!」

 ついにフォークを投げ捨てた。イメージから勝手にサポート系アーツ型だと思っていたが、完全に近接系打撃型だ。

「こいつはやべえ。闘気が獅子の形をしてやがるぜ……!」

「正気の沙汰とは思えねえ。――おい、あいつを先にやるぞ」

 ファンタジー小説を読み過ぎると、相手の気が実態化して見えるらしい。

 牙を剥く獅子を幻視したのか、互いに目配せした彼らはドロテ部長に対して背を向ける。

「あっ!」

 彼らが走る先にいたのはグリム・リーパーちゃんだ。おずおずと戦場を歩く少女に向かって、慈悲の欠片もない雑誌棒が風を切る。

「逃げて!」

 私の位置からだと間に合わず、そう叫ぶより他なかった。

 しかしグリム・リーパーちゃんに近づいた途端、彼らは身もだえしながらその場に膝をつき、急にうずくまってしまった。

「な、何が起きたの?」

 一足遅れて、グリム・リーパーちゃんのそばに駆け寄ると、彼女はぼそぼそと何かを呟いていた。

 耳を澄まして言葉を聞き取ってみる。

「――なによ、あんた達なんて机の角に小指ぶつけて死ねばいいんだわ。ほら想像してご覧なさい。足の指の爪が全て剥がれてフタのようにカッパカパ開く様を。そうだわ、指の爪と肉の間にも針を刺してあげましょう。血の涙を流し、泥の涎を吐き、喉が破れるまで許しを乞いなさい。そうしたら生きたまま体中の皮をはぎ取り、筋線維をむき出しにした人体模型にして、うちの学院に飾り立ててやるわ。それから――」

「ひえええ!」

 可愛らしい声から紡がれる呪いの長口上。男子達は「痛え、想像しちまうよお!」とか「いやあ! もうやめてえっ」など悲鳴交じりに叫びながら、辺りをごろごろとのたうち回っている。

 さすがは最優秀賞受賞者。彼女の領域に接近するだけで、心がへし折られていく。

「こ、ここは大丈夫そうですね」 

 私もこの場から離れないと、自分の身が危うい。私にひらひらと手を振ってくれるグリム・リーパーちゃんはとても愛らしいのだが、見る間に彼女の足元には男子文芸部の骸が増えていく。

「……あ」

 彼女のペインゾーン(痛みの領域)から離脱し、視線を巡らした時、その光景が目に留まった。

 整然とした当初の様相はすでになく、荒れに荒れた会場内の中央に“炎熱のリッター”さんと“恋のシルビエンテ”さんが対峙している。

 けたたましい乱戦の怒号が響く中、二人の周りだけは時が止まったかのような静寂に包まれていた。

 

 

「なぜ私達の作品を認めないの?」

 シルビエンテさんが静かに口を開く。

「相容れないからだ」

 応じるリッターさんの口調には冷ややかな響きがあった。

「どうして! ファンタジーにも恋愛の要素はあるでしょう。それが物語に彩りを添える。違って!?」

「確かにな。だがあくまでも冒険ありき、その中で芽生える想いだ。お前達のは違う。答えろ……! なぜ出会った瞬間に恋が始まる? なぜ朝にぶつかった見知らぬ男が自分のクラスに転校してくる? 頭脳明晰、スポーツ万能、スタイル優秀? ヒロインに対して随所に挟んでくる、目的の見えないちょっとした意地悪には何の意味がある? ご都合主義以外の言葉で説明ができるか!?」

「それは冒頭で読者の心を掴むために……」

「黙れ! パンをくわえて角を曲がれば男にぶつかり、昼休みに屋上へ行けば男がたそがれ、雨が降れば背後から傘を差し出され、道を歩けばもれなく捨て猫に遭遇し、窓際に座れば薫風と共に髪がなびく! そんな展開はもううんざりだ!」

 なぜかリッターさんは恋愛小説の定番パターンに詳しい。それも一昔前の。

「いや、それらはまだ許容できる。だが最近のお前の作風はおかしい。妙に男ばかり出てくるようになった。仲の悪かったライバル同士が急激に友情を深め、川岸で石を投げながら夢を語り合うなど、理解の範疇を越えている!」

 黙って聞いていたシルビエンテさんは「ふふっ」と余裕の笑みをこぼした後、深く嘆息をついた。

「己の狭量と見識の無さをがなり立てて見苦しい。ならば私も言わせてもらうわよ。あなた達が崇拝するジャンルの脆さをね!」

「な、なにぃ!?」

 ぴしゃりと言い放ち、指先をリッターさんに向ける。謎の圧力が発されているようで、彼はたじろぎ、片足を引いた。

「何が冒険活劇、何がファンタジーよ! 倒した敵が仲間になる? 敵の敵は味方? 修行でパワーアップ? 新必殺技? 奥義? 追い詰められて覚醒? 第二形態? 記憶の無い主人公は特別な血筋? 暗い過去に血塗られた運命? 舞台と設定変えただけで何度目よ。もう飽き飽きなんだから!」

「お、お前! 先代が苦心して作り上げた黄金の展開を愚弄するのか!?」

「まだまだあるわ。あとそう、敵の設定が安直なのよ! 倒す度にさらに強大な敵が現れて、結局収拾つかなくなってるわ。それに敵の目的も手順は違えど最終的には同一化してるじゃない。いちいち世界を巻き込んだ戦いを起こして品がない! 定番の繰り返しも甚だしい。何倍希釈のジュースよ。薄くて読めたもんじゃないわ」

「……やめろ、やめろ、やめろ!」

「扱う武器だってそう。剣、杖、銃、斧、鞭、槍、棒、弓、投擲。あまつさえネタが無くなれば剣と銃を合体させたり、槍の柄に斧が付いてたり、扱い辛いそうなことこの上ない! 一週回って素手のキャラクターが普通に強いってどういうことよ!? あと命と引き換えに発動する大技の多いこと多いこと。しかも結局死なないパターンもあるし。ご都合展開なのはどっちかしらね」

「ふざけるな! 命を易々と物語のスパイスにしているのはお前達だ! 事あるごとに病気で悲劇を演出しやがって」

「甘く見ないで。私達の場合、不治の病の設定は崩さないし、必要であればただの風邪であってもキャラは死ぬわ」

「物語の為に登場人物を殺すな! ストーリーを動かすのは書き手じゃねえ。あくまでもその世界に生きるキャラクターなんだよ!」

 なんという熱烈な応酬。引かない主張、譲らない信念。

『………』

 炎の如き会話の谷間に氷のような沈黙が流れる。

「……問答はここまでね」

 シルビエンテさんはそばのテーブルからフォークを取った。

「だから相容れないと言ったろう。もはや語る言葉などない」

 リッターさんは近くに落ちていたテーブルナイフを拾う。

 睨み合う二人。ざわと肌が粟立った。

「受けてみなさい。山さえ貫く聖なる槍を」

 フォークですよ。

「耐え切れるか。海さえ分かつ女神の剣を」

 ナイフですね。

 二人は同時に床を蹴った。先手を取ったのはシルビエンテさんだ。

「やっ!」

 フォークによる怒涛の連撃が、リッターさんに浴びせられる。あまりの手数にフォークの先が分裂して見え、銀の煌めきが扇状に拡がっていった。回避の隙間さえない。

「はあっ!」

 リッターさんはナイフを鋭く一閃させる。虚空を裂いた斬撃は、繰り出されたフォークとぶつかり、甲高い音を響かせた。

「それは残像であって分身じゃない。故に本体はただ一つ。手品にしても二流だな」

「なら、これはどうかしら」

 シルビエンテさんは反対側の手で隠し持っていた丸皿を、手首のスナップを利かせて円盤のように投げつけた。

「当たるかよ。甘い――」

「――のはどちらかしら」

 身を屈めて皿をよけたリッターさんの頭上から、鋭い針のような物が大量に降り注いだ。

「ぐあっ!? お前、これは!」

「ご明察。魚の骨を仕込んでおいたのよ。必殺の『シルビエンテ・フィッシュボーン』のお味はいかがかしら」

「いいカルシウムだぜ……!」

 シルビエンテさんを強敵と見たリッターさんはゆらりと立ち上がり、「こいつだけは使いたくなかった」と上着のポケットからもう一本のテーブルナイフを取り出した。

「魔剣が血を求めているな。果たして今の俺に扱い切れるかどうか」

 二つのナイフを振り上げる。対するフォークは揺らがず構える。

「さあ、覚悟の時だ。家族に別れの手紙は書いたか、シルビエンテェーッ!」

「あなたこそ。死後の恥を晒さぬよう身辺整理はできているかしら、リッタァーッ!」

 振り下ろされる二刃を三叉が受け止める。

 拮抗する力と力。生まれた衝撃が二人を中心に爆ぜ、近くのテーブルクロスを残らず吹き飛ばした。

 

 

 開戦からおよそ一時間。戦況は傾きつつあった。

 当初、女子文芸部の連携によって男子文芸部は劣勢を強いられていた。事実、男子勢の人数は現時点でおよそ四分の一、十五名にまで減少している。

 だがそれ以上に女子勢の消耗は激しかった。武器を持ち、有事に備えていたといっても、やはり文芸部。平素から戦闘技術を身に付けている者など数える程しかおらず、また女子ゆえか文化系だからか体力も少ない。

 一人、また一人と膝を付き、戦える人数が減っていった。初めて経験する戦場に戦意を無くした人もいて、そういった学生達はテーブルの下でクロスにくるまり、身を隠している。

「はあ、はあ……」

 呼吸を整えながら、私は視線を周囲に回してみた。

 女子で立っているのは、私を含めてわずかに四人。

 シルビエンテさんにグリム・リーパーちゃん、あとはドロテ部長だ。

 シルビエンテさんはリッターさんと未だに交戦中で、彼を抑えるのが手一杯のようだ。グリム・リーパーちゃんは相変わらずぼそぼそと痛みの領域を展開しているが、警戒する男子達は彼女に近付くことさえしない。

「エマさん無事ですか?」

 私の身を案じてくれるドロテ部長は、果敢に突撃してきた男子の胸倉を掴み、ぎりぎりと力任せに持ち上げている真っ最中だ。

「お、俺は……“闇のフライングキャット”……ぐふっ」

 死期を察したらしいフライングキャットさんは、最後の力を振り絞って自身の名を告げると、がくりと意識を失う。とりあえず男子文芸部はあと十四人になった。

 四対十四、およそ三倍強だ。私は逃げ回っていただけなのだが、追ってきた人達はなぜか足を滑らせたり、何かにぶつかったりして戦闘不能になっていく。その内“幸運のグラマラス”と呼ばれかねない戦果をいつの間にか上げていた。

 攻めあぐねていた男子文芸部の一人が言う。

「俺がグリム・リーパーをやる。あいつさえ倒せば俺達の勝利は目前だ」

 周りの仲間は戸惑っている。

「一体どうやって? 突っ込んだらもう帰って来られないんだぞ……まさか、お前」

「帰るつもりなんか最初からないさ。俺のペンネーム言ってみろよ?」

「とっ、“特攻のデッドエンド”……!」

「親に会ったら伝えてくれや。どうしようもねえ悪ガキで迷惑かけちまったけどよ。あんた達の息子は最後に誇りの何たるかを知ったってな」

 デッドエンドさんの制服のズボンには、雑誌棒がたくさん挟まっている。

「それ爆弾か!? 早まるな! 方法はまだあるはずだ」

 雑誌棒ですよ。雑誌棒ですから。

「じゃあな。ヴォワヤジェールとグラマラスはお前らに任せたぜ」

「デ、デッドエンドーッ!」

 仲間たちの悲痛な叫びを背に、デッドエンドさんはグリム・リーパーちゃんに特攻する。

「男子文芸部の未来に……栄光あれーっ!」

『イエス・ブンゲイソウル!』

 デッドエンドさんの死出の旅路を見送る男子達は、拳を胸に掲げ涙声を詰まらせた。

「リーパーちゃん! 避けて!」

「――船のスクリューで髪の毛洗って、頭皮ごとべりべりめくれちゃえばいいのよ。その傷口に粗塩を揉み込んであげるわ。おまけに魔獣の背びれを差し込んで醜悪なモヒカン頭に――っえ? きゃああ!」

「ぶもおおおっ!」

 ミノスデーモンのような形相で迫り来るデッドエンドさんに、足がすくんだグリム・リーパーちゃんはぺたんと尻もちをついてしまう。その頭上を大砲の弾のように飛び去ったデッドエンドさんは、正面の壁に顔面から激突した。

 もちろん爆発などしないが、その体勢のままズルズルと下に顔を滑らせるデッドエンドさんは、遠目に見ても完全にデッドエンドだ。

「ふえっ……ふええええ」

 よほど怖かったのだろう。グリム・リーパーちゃんは目元を両手で覆って泣き出してしまった。やはりまだ幼い少女には違いないのだ。

「リーパーちゃん、大丈夫? よしよし」

 すぐさま駆け寄って、頭を優しく撫でてあげる。ぐすぐすと肩を震わせる彼女は私の胸に顔をうずめてきた。

 どこからか「う、うらやましい……」などの声が聞こえたけど、その言葉は速やかに思考の隅へと追いやった。

 ドロテ部長が彼らを牽制するように、私の前に立つ。

「見なさい。このほとばしる母性と弾けそうな制服のボタンを。これが“紅のグラマラス”なのです!」

「ド、ドロテ部長!」

 要所要所で紅のグラマラスを売り込むのは止めて下さい。制服のボタンは関係ないですから!

 恥ずかしさに顔を伏せかけた時、キィンと金属質な音が会場内に響き渡った。全員の視線が、音の方向へと集中する。

 クルクルと不規則に回転しながら、弧を描いて飛んでいく銀のフォークが見えた。

「終わりだな」

 リッターさんが乾いた言葉を吐き、シルビエンテさんが片膝を付く。

「さすがとは言っておこう。俺の双剣ももう使い物にならん」

 想像を絶する激戦だったようで、リッターさんの持つテーブルナイフは刃こぼれだらけだ。

 武器を失くしても戦意を失わないシルビエンテさんは、よろめきながらも立ち上がる。そんな彼女にリッターさんは詰め寄った。

「このボロボロのナイフでもお前を仕留めることぐらいはできる。女子文芸部の将として、お前の口から敗北を宣言しろ。そうすればお前たちの身柄は捕虜として尊厳ある扱いをすると約束しよう」

 じりじりと壁際に追い詰められるシルビエンテさん。しかし彼女は毅然とした態度を崩さなかった。

「たとえ私が折れたとしても、女子文芸部のペンが折れることはないわ。いつの日か必ず再起し、あなた達を絶望の終章へと送る。今日のことはその伏線と思いなさい」

「報復の連鎖を繰り返すか。伏線回収さえできずに志半ばで散った作家がどれほどいると思っている」

 彼女は会場の隅に追いやられた。そこには照明器具に脚立、その他の備品など使わない機材が集められており、荒れた会場内においても特に雑多な一角となっていた。

 式中は目立たないように大き目のホワイトクロスで覆われていたのだが、この戦いのどさくさではがれて向き出しになってしまったのだろう。

「まるでスクラップ置き場だ。死に場所を選ぶくらいの慈悲はくれてやってもいいが」

「気遣いは結構よ。それに私の死は無駄じゃない。だって――」

 声音が変わる。低く、冷たく、重く。嫌な予感がした。

「男子文芸部の筆頭を道連れに出来るのだから!」

「お前っ!?」

 シルビエンテさんの手が積み上げられた機材へ伸びた。バランスを崩させて一気に倒壊させるつもりだ。

「やめて、シルビエンテ!」

 ドロテ部長が走るも間に合う距離ではない。リーパーちゃんを抱いている私もだ。残った男子も私達側にいる。

 咄嗟に駆け出したのはリッターさんだった。逃げようとはせず、シルビエンテさんに向かっている。止めるつもりなのだ、彼女を。

「私の命を糧に、咲き誇りなさい女子文芸部!」

「やめろおっ!」

 手の平が機材に触れる――寸前、その動きがぴたりと止まった。

 彼女の手の先を制するように、別の手の平が遮っている。

 少なくともリッターさんのものではない、大きく、深みのある柔らかな手だった。

「それはいけないね。君の手は何かを壊す為にある物じゃない。新しい世界を創り出す為のものだ」

 黒いタキシードをなびかせ、蝶の仮面をまとい、その奥に見える灰色の瞳を薄く光らせた――

「そう思わないかね。猛る若獅子達よ」

 ガイラーさんが狂騒の戦場に降り立った。

 

 

「ど、同志《G》……!?」

 やんわりと自分の手を抑える《G》を呆然と見つめていたシルビエンテさんは、戸惑いの声をあげた。

「どうして――」

「その先は野暮だね。才能の新芽が摘まれることを是とできなかった、とだけ言っておこうか。さて……」

 ガイラーさんはシルビエンテさんをその場から遠ざけると、リッターさんとその後ろに集結しつつある男子文芸部に向き直った。

「お初にお目にかかる。私はしがない新人小説家の《G》という。今宵は数奇な縁の導きによって審査員を任されていてね。場違いであることは重々承知しているのだが、僭越ながらここに立たせてもらっているというわけだ」

 簡単に自己紹介を済まし、ガイラーさんは慇懃な所作で一礼をしてみせた。

「なるほど。てめえが審査員か……!」

 審査員。その言葉に憤怒の気が伝播していくのを感じた。

 そうか。争いの大元は八年前の品評会、審査員の好みに外れて男子達が賞を取れなかったことに端を発している。女子文芸部には確執があれど、遺恨まではないのだ。

 それは心のどこかで男子達も分かっているのだろう。女子文芸部に対する男子文芸部の目的は恐らく、自分達のジャンルを認めさせ、屈服させること。思えばこの戦いは殲滅戦というよりは消耗戦の色合いが強く、さらに途中の降伏勧告も多かった。

 ならば真に彼らが忌むべくは――!

「《G》とか言ったな……五体満足でこの会場を出ることはできないと思え」

 拡がりゆく強烈な怒気。立ち昇る激烈な覇気。大気を焼く猛烈な殺気

 暴徒の波動が会場全体を揺るがし、八年間堆積し続けた負の感情の全てが、眼前の審査員ただ一人に注がれる。

「血気たぎるというやつかね。実にいい」

 臆す様子もなく、ガイラーさんは緩慢な動作で襟元を緩めた。

「さあ、宴の続きを始めよう」

「ほざけえ―――っ!」

 男子達が一斉に襲い掛かる。

「え!?」

 しかし困惑に足を止めた。今の今までそこにいたはずのガイラーさんがいないのだ。

「な、どこに」

「悪くない。が、遅いね」

 彼らは背後に振り返る。そこには静かに佇むガイラーさんと、最後尾にいた二人の男子が力なく膝を折る姿があった。

 私にはガイラーさんがどう動き、何をしたのかわからなかった。

「ビビんな! 囲め! 数で押し潰せ!」

 止まらずにリッターさんが指示を飛ばす。

 瞬く間に円陣が組まれ、中心にはガイラーさんただ一人。一人対十三人の戦いが始まった。

 

「くらえ! くそっ」

「そっち行ったぞ、皿投げろお!」

「なんで当たらねえ!?」

 四方八方からの波状攻撃をガイラーさんは、まるで幼子でもあやすかのように容易くいなしていく。

 縦横無尽に戦場を疾駆する黒い影。漆黒の残像を引きながら、男子達を翻弄し続ける。

「捉えた! 今だ!」

 方向転換でわずかに動きが止まった瞬間、手あたり次第の食器類が投げつけられた。ナイフ、フォーク、皿、スプーン、果ては燭台まで。

 あらゆる方向から飛来する凶器の群れ。逃げ場はない。

 ガイラーさんは近くのテーブルを踏み台にし、真上に跳躍した。その下を飛び抜けるおびただしい量の食器の数々。

「空中では何もできまい! 第二射構え――なにっ?」

 高く跳んだガイラーさんは、天井から吊り下がるシャンデリアをつかむと、振り子の要領で素早く方向転換し、さらに鮮やかに宙を舞った。

 シャンデリアの輝きを背に纏い、中空で何回転も体をひねりながら、タキシードをはためかせる。

「エレボニアの黒き翼……」

 私の横でドロテ部長がそんなことを呟く。“リベールの白き翼”と同格の比喩表現じゃないですか。それだと“アルセイユ”の反対語が“ガイラー”になるんですけど、大丈夫でしょうか。

 私のそんな不安が届くはずもなく、別のテーブルに華麗な着地を決めたガイラーさんは、右手をすっと頭上に掲げて、指をパチンと鳴らした。

「ぐああ」

 何をされたのかはわからないが、何かされたらしい男子達は、指の音を合図にまとめて倒れていく。

 まだ立っているのはわずかに五人だ。ガイラーさんはテーブルから再び跳び退き、無駄に回転しながら距離を取った。

「何なんだ、こいつは。なんでただの審査員がこんなに強いんだよ!」

「健全な文章は健全な肉体に宿るという言葉を知らないのかね。体の鍛錬は小説執筆の基本だよ」

 不健全の最前線を独走している人が何を言うんですか。

「ふん、あくまで余裕らしいが、自分の立ち位置を見てもそう言えるのか?」

 ガイラーさんが今いる位置。最初にシルビエンテさんを助けた会場隅の機材置き場だ。

 後ろは壁、前には五人の男子文芸部。頭上に飛ぼうにも機材に手をかけたら、さすがに今度こそ倒壊する。

 にじり寄る五人に焦る素振りも見せず、ガイラーさんは言った。

「コンビクラフトを知っているかね?」

 場違いとも思えるゆったりとした口調。

「二つの異なる戦技を同時に発動し、威力を強化させるというものだ。単なる倍加ではく攻撃範囲さえも増大する。もっとも学生で習得することは少ないかもしれんがね」

「何を言っている?」

「後学の為に見せてあげよう。紅のグラマラス」

 ガイラーさんが何かを投げ渡してきた。

「わっ、とと。えーと、これは」

 取りこぼしかけて、なんとか受け止めたそれに目を落とす。

 小さな端末。スイッチらしきボタンがある。

「そのボタンを押したまえ」

「………」

 とてつもなく嫌な予感がする。押してはいけないと、私の中の何かが全力で警告している。

「どうしたね。早く押したまえ」

「……ドロテ部長。代わりに押してもらえませんか?」

「《G》に選ばれたのはあなたよ。うらやましいけど、それはエマさんにお任せします」

 私の切なる願いを、ドロテ部長は聞き入れてくれなかった。

「何をごちゃごちゃ言ってる! これで男子文芸部の勝ちだ!」

 飛びかかる五人の男子達。

 やむを得ず、不本意ながら!

「もうどうなっても知りませんから!」

 ガイラーさんではなく、男子達に向けたその言葉と一緒に、私はボタンを押し込んだ。

 瞬間、ガイラーさんが眩く発光した。辺りを白く染め上げる鮮烈な光が押し拡がる。

「あ、あいついきなり光りだしやがったぞ!」

 横から見ていた私には分かったが、あれは彼の背後の照明器具が一斉に点灯しただけだ。このスイッチはその為のものだったのだ。

 正面から光を浴びた彼らはたまったものではない。手で目を抑え、視界を潰されまいと必死だ。

 ガイラーさんが動く。閃光の中を鋭敏な身のこなしで、五人の間を縫うように駆け抜けた。

「くふっ」

「はふっ」

「へふっ」

 間の抜けた声をもらし、身を震わせて次々と床に突っ伏していく。

 そして今までガイラーさんが何をしていたのかも分かった。すれ違いざまに彼らの耳に息を吹き込んでいたのだ。

 想像するだけでも背筋が寒くなる陰鬱な攻撃手段だ。戦意喪失させられるのも無理はない。

「残るは君だけだ。確か“炎熱のリッター”君だったね」

「く……」

 ガイラーさんはにたりと頬を歪ませた。はふう、と吐き出された熱い吐息が空気を揺らす。

 リッターさん、今からでも遅くないので逃げて下さい。多分追って来ますけど。

「今のが私とグラマラスのコンビクラフト、“光る眼鏡とGダッシュ”だ」

「あの光はグラマラスの眼鏡から発せられたのか。やっぱりとんでもない奴だったな」

「私はボタン押しただけですからね!」

 私の抗議を意に介した様子もなく、ガイラーさんは満足げな様子だ。 

「ここまでなのか。無念だ」

 リッターさんが「好きにしろ」とうなだれると、ガイラーさんは「悪くないね」と歩み出る。

「逃げて下さい、リッターさん! 本当に好きにされちゃいますよ!」

「エマさん、急にどうしたの?」

 焦る私をドロテ部長が怪訝顔で見つめている。 

 怪しく小刻みに稼動する十指。仮面の奥でせせら笑う瞳。

「お待ちになって!」

 リッターさんの命運が尽きかけた時、二人の間に割って入ったのはシルビエンテさんだった。

 

 

 彼女はガイラーさんに向かって両腕を開き、リッターさんを庇うように立っている。

「《G》。女子文芸部へのお力添え、心より感謝しております。ですが、どうか! 彼の命までは奪わないで下さいませ!」

「どけ、シルビエンテ。“Gダッシュ”に巻き込まれるぞ。足、震えてるじゃねえか」

「何よ、どうして私の身を案じるような事を言うのかしら。さっきだって機材を倒そうとした私を助けようとしてたでしょう?」

「そ、それは」

 言葉を詰まらせるリッターさんに、彼女はくるりと向き直った。

「あなたにも本当はもう分かっている。道を違えていたとしても、根元の部分は同じだって」

「違う。それはたとえ近くにあったとしても、交わることのない道だ」

「私達とあなた達のジャンルは確かに違うのかもしれない。でも小説を好きな気持ちは同じはず。待ち望んだ新刊を手にした時の胸の高鳴りも、自作の小説を書き上げた時の達成感と充実感だって同じはずよ!」

「シルビエンテ……」

 いつの間にか、双方の文芸部員達が辺りに集まりつつあった。戦闘不能になっていた者も仲間の肩を借りて立ち上がり、テーブルの下に隠れていた者も順々に這い出てくる。デッドエンドさんだけは相変わらずデッドエンドのままだが。

 百五十人を超える人垣の中心で、シルビエンテさんは言う。

「あなたに私の書いた小説を読んでもらえて……嬉しかったわ」

「……何を言われても、恋愛小説は肌に合わねえ」

 真向に立つその肩を押しのけて歩き出す。

「面倒くさいすれ違いにイライラするし、わけわかんねえポイントでときめいてるし、くだらないことですぐに傷つくしな」

 ぐっと歯を食いしばって目を伏せたシルビエンテさんに「でもよ」と付け加えて、リッターさんは鼻柱をかいた。

「騎士が鎧を脱いだシーンだけは、ちょっと胸が熱くなったぜ」

「……ばか」

 彼はガイラーさんの前で立ち止まった。

「落とし前はつける。俺のことは好きにしろ。だが、他の奴らは見逃してやって欲しい」

「君に一つ問おう。ペンは剣よりも強いと言う。ではそんなペン同士で戦えばお互いどうなるかな?」

「いきなり何を。そんなのは……」

 言いよどんだリッターさんは、わずかに目を逸らした。

「即答はできんかね。ならば紅のグラマラス。君ならこの問いにどう答える」

「それはインクまみれになると思いますが」

「その通り。両者共に無事では済まないということだ」

 私の言葉はガイラーさんの脳内でいい感じに変換された。

「八年の歳月を経て、新たな世代となり、不幸な歴史に分かたれた文芸部が、再び手を取り合う時が来たのだよ」

「男子文芸部と女子文芸部の作品はあまりにも違う。やはりいまさら同じ道を歩むことはできない」

「確執はあろう。禍根もすぐには消えまい。だが否定も拒絶もしてはならない。理解する努力をしたまえ。どれだけ時間がかかろうとも。それが君たち世代の役目だ」

 ガイラーさんは眼前の二人を見据える。

「リッター君とシルビエンテ君が共有した時間は決して偽りではない。先ほど彼女に言った君の台詞がそれを証明している。文学に国境はなく、男女もない。心に届くかどうか、それだけだ。形はどうあれ、彼女の作品は君の心に届いたのだろう?」

「………」

 無言。しかしそれが肯定の意であることは分かった。

「リッター。私読んでみたいわ。あなたの書いたファンタジー小説を」

 少しの沈黙の後、彼はたった一言だけ口にした。

「感想と講評、お待ちしてるぜ」

 フォークの槍が落ち、雑誌棒の剣が折れる。充満していた戦闘の気が、徐々に薄れていった。

 ガイラーさんが諸手を打った。

「さあ、授賞式の続きだね」

 ほんの、ほんの少しだけ。私はガイラーさんがこの場にいてくれて良かったと思った。  

 

 ● ● ●

 

 最優秀賞までの発表で終わりと思っていたが、思い返してみればリッターさんが会場に現れる直前、司会のお姉さんは『それでは、あとは』という言葉を口にしていた。

 色々あり過ぎて気にも留めていなかったが、まだ何かがあったのだ。

 ここまで会場が荒れた状態で整列し直すという面倒はせず、この雑多な人垣の中で“授賞式の続き”が行われることとなった。

「ふむ。あまりもったいぶってもいけないね」

 ガイラーさんが一枚の表彰状を手に、壇上から降りてきた。

「審査員特別賞。紅のグラマラスで『時計の針が戻せたら』」

「え」

 何を言われたのか、とっさには分からなかった。

「丁寧な心情表現に柔らかい背景描写。派手ではないが、そこにいる登場人物達の息吹を感じる素晴らしい作品だ。もう少し主人公に積極性があれば、物語もテンポよく転がるだろう。まあ、それは次への課題としておこう」

「え、あの、わ、私が?」

「審査員特別賞とは今後の期待を込めて贈られる新人賞のようなものだよ。念の為断わっておくが私の独断で決めたことではない。二人の先生方を含めた厳正な審査の上で、君の作品が選ばれたのだ」

 それでも動揺は隠せない。まさか本当に選ばれるなんて思っていなかった。

「さあ、エマさん。受けとって来てください」

 私の背中を軽く押すドロテ部長の顔は、とても嬉しそうだった。

 男女共、全文芸部員が私とガイラーさんを大きな円で囲み、拍手で祝福してくれる。ドロテ部長も、シルビエンテさんも、グリム・リーパーちゃんも、そしてリッターさんも。

 じんと胸の奥が熱くなった。

「ガイ――いえ《G》。ありがとうございます」

「なにを言うのかね。全ては君の努力が成したことだ」

 私が頬を緩めると、ガイラーさんも穏やかに微笑んだ。

 賞状を手に一礼し、元の位置に戻ろうと踵を返しかけた時、

「ああ、待ちたまえ」

 ガイラーさんが私の足を止めた。

「これにてノベルズ・フェスティバルは終了だが、まだ最後にやるべきことが残っているだろう」

 まだ何かあっただろうか。とても円満な閉会式だと思ったのだが。

「戦争はなし崩し的には終わらない。終戦宣言や停戦条約が必要なのだ。きっかけ、合図、号令などと置き換えてもいい。今ここにいる全員が、戦いは終わったと感じなければならない」

 言っていることはわかる。だけど、誰が、どうやって、それをする?

「その為の適任者が一人いる」

 ガイラーさんは事もなげに告げた。

「今しがた未来を期待された特別賞を手にし、そして女子文芸部、男子文芸部の双方から祝福の喝采を浴びた君を置いて他にない。そうだろう、紅のグラマラス」

「は、ええ!?」

 灰色の瞳が一切の揺るぎなく私に向けられている。

「それには私も賛成ね」

「ふん、まあそうだろうな」

 いつの間にか仲が良さげなシルビエンテさんとリッターさんが追従する。

「で、でも私は」

 そもそも何をしたらいいのか、何を言ったら、終戦の意になるのかが思いつかない。

 ドロテ部長がそばにやってきて、そっと私に耳打ちした。

「心配しなくても大丈夫。エマさんはもう答えを知っていますよ」

 私が? どういう事だろう。

「ほら、思い出して。“本来なら在り得るはずのない繋がりを実現させる魔法の楔”、そして“絆の刻印”を。何よりこの場に相応しいと思いませんか?」

 そう言うとドロテ部長は高々と頭上に腕を交差させ、忌まわれた符号――✕印を掲げてみせた。

「ド、ドロテ部長? 何をしているんですか? 気を確かに!」

 こくりとうなずきあった女子文芸部がドロテ部長に続き、それを見た男子文芸部も、おそらく意味を介さないままに✕印を作り始める。

 見る間に周囲に並び立っていく負の交印。その数およそ百五十。

 とっさにガイラーさんを見やる。違う、こういうことじゃないですよね、という願いを込めて。

 彼は無言だった。しかしその口の両端は吊り上がり、邪悪な三日月の笑みを浮かべている。

 急に脳裏をよぎる、ガイラーさんの言葉。

 

 君は必ず私に屈する。

 

「ま、まさか……!」

 全ては“あの一言”を私に言わせるために。

 そうだ。会場を出て廊下で遭遇した時、ガイラーさんはこんなことを言っていた。“いい夜だ。体がたぎってしまうね”と。

 たぎる。なぜその言葉に不信感を抱かなかったのか。

 学院で初めてガイラーさんと交戦したあの日。

 エリオットさんとガイウスさんが、ラウラさんに課せられた強制特訓に、息も絶え絶えだったあの日。

 二人の苦悶を身の内に取り込み、彼が覚醒した際に言い放った言葉こそ“たぎる”だったのだ。

 どうして失念していたのか。私にとってはそれが今日まで続く開戦の合図でもあったのに。

「どうしたね? 簡単な一言だ。緊張することはない」

「あ、あなたは」

 先のガイラーさんがいてくれて良かったという心中の呟きは、速やかに撤回の上、シュレッダーにかけて細切れ破棄だ。

 点と点が繋がり、遅まきの理解が脳裏を巡る。

 月夜の廊下で私と対峙した際、すでに彼は感じていたのだ。血気盛んな男子達が接近しつつあることを。『女子メーター』ならぬ『男子センサー』で。

 そして男子文芸部と女子文芸部の戦争を利用し、その時点で確定していた私が審査員特別賞を手にすることを活用し、己の審査員という立場もこの上なく乱用し、ここに至るまでのお膳立てを水面下で整えていたのだ。

「その目。やはり君は聡明だ」

 シルビエンテさんを助けた時も、加勢にしてはタイミングが遅いという違和感はあった。

 しかもその後、どちらかと言えばガイラーさんから彼らに戦いを仕掛けている。

 審査員である自分が登場して男子達を煽ることで、劣勢だった女子達に降伏勧告をする機を失わせ、同時に戦況を荒立たせた。

 さらにコンビクラフトなどと称して私の存在に注目させ、最終的には自分の手で事態を鎮静化したように演出した。

 場の主導権を握り、己のシナリオ通りに事を運ぶために。

「さあ、グラマラス。見てごらん。みんなが待っているね」

 毒蛇が足元から巻き付き、ゆるゆると首元にまで這い上がってくる感覚。

「だとしても……!」

 だとしても言うわけにはいかない。たとえ人に言えない秘密を持っていても、気持ちまでは偽らないことが大事だと、そう学んだから。

 それを気付かせてくれたのは他でもないガイラーさんです。なのになぜ私はこの人に、ここまで追い詰められているんでしょうか。

「君の言葉一つで戦争は終結するのだよ」

 裏を返せば私が言わないと、戦争は終わらないと言っているようなものだ。

 改めて周りを見渡した。まるで戦場の墓標のように乱立する✕印。

 みんなの目を見る。ああ、期待されている。でもごめんなさい。私は――

「戦争が終わるの?」

「あいつの死は無駄にならなかったんだな」

「やっと新しい時代が始まるのか……」

 涙ぐんでいる人もいる。

「へへ、生きて故郷に帰れるなんてな」

「よかった。本当に良かった……!」

「ありがとう《G》、ありがとう“紅のグラマラス”」

 すでに退路は断たれていた。

「みんな静かに。グラマラスに注目したまえ。君たちは歴史の生き証人となるのだから」

 途端に訪れる静寂。息遣いさえ聞こえない。耳の奥がつんと痛くなるほどの無音。

 唯一聞こえるのは、妙に大きく感じる私の鼓動。

「あうう……」

 角ばった動きで、鉛のように重たくなった両の腕を、ぷるぷると震わせながら持ち上げる。

 眼鏡は曇っていないのに、どうして視界が滲んでいるんだろう。

 わかりません、もう何も。

「え……エーックス」

 私の顔が羞恥に伏せる。ガイラーさんの顔が笑みに歪む。続いた全員の大音声が会場を激震させる。

 折れた私の心と引き換えに、ノベルウォーズは幕を閉じた。

 

 ● ● ●

 

 満月の下、トリスタ行きの列車が走る。

 窓の外にごうごうと流れる風の音を聞きながら、私は暗くて見えない景色を漠然と眺めていた。

 文芸部の仲間達とは来年もまた会う約束をしてから別れた。

 士官学院は二年制なのでドロテ部長は来年卒業だが、十代部門ということで問題なく参加できるらしい。

 次回のノベルズ・フェスティバルは初回と同じく男女合同で行うことになった。審査形式も見直すとのことなので、以前のようなことはもう起きないだろう。結局のところ元の鞘に納まったというわけだ。

「色々ありましたけど、二人とも賞を取れてよかったですね。ふふふ」

 隣に座っているドロテ部長はずっと上機嫌だ。

「ええ、そうですね……」

「なあに、エマさん。気のないお返事で」

「い、いえ。今日は少し疲れてしまいまして」

 疲れるどころか憔悴の体だが、あまり心配させたくないし、無粋なことも言いたくない。

 悟られない様に小さく嘆息を吐く。

 今日はガイラーさんにやられてしまった。次は負けないようにしよう。何をもって勝ちなのかはわからないけど。

 帰り際、彼は私に記念品と称して、自作の小説三冊を贈ってくれた。贈り物というか、ただの追い討ちにしか感じなかったけれど。

 町明かりが近付いてくる。トリスタ駅に到着した。

「さあ降りましょうか。忘れ物はないですね」

「ええ、大丈夫です」

 いっそ置いて行こうかとも思ったけど、これを読んだ駅員さんが新たな覚醒をしてしまっても困る。

 小説三冊が入った重たいカバンを引き下げて、私はドロテ部長に続く。

 列車を降りると、ひんやりとした夜風が髪を撫でていった。

「帰ってきたぞー!!」

「きゃあ!」

 夜の帳を裂いた駅員さんの大声に思わずのけぞった。

 私達が駅のホームに出るが早いか、駐在していた五人の駅員さんが口々に「おめでとう!」と叫びながらこっちに向かって走ってくる。

 まさか、もう私達の受賞がトリスタに伝わっていたのだろうか。しかもそれは駅員さんが総出で迎えてくれる程の偉業だったのか。

 状況が飲み込めず戸惑う私に、一人の駅員さんが満面の笑みを浮かべて近づいてきた。

「いやー、よかったよ。無事に成功したみたいだね、君の手術!」

「は、はい? 手術――あ」

 思い出した。

 電車に乗り遅れて拘束されたドロテ部長が、その場を逃れるためにでっち上げた『妹である私の病気を治す為、ヘイムダルまで行く』という空想設定。

 この駅員さん達はまさか……

「君のお姉さんの涙ぐましい日々の努力に感銘を受けてね。これ受け取ってくれるかい」

 私の手に『快気祝い』の札が張られた大きな花束が渡される。

「立っているのしんどくないかい? 荷物持とうか?」

「そんなに疲れ切った顔をして、とても大変だったのね」

「これ寄せ書き。うちの駅員は少ないけど、みんなに書いてもらったんだ」

 謝らないと。知らない内に事態が重いことになっている。

「あ、あの……正直に言います」

 お願いですから怒らずに聞いて下さい。そう言おうとする。

「おね――」

「エマさん」

 ドロテ部長の鋭い視線が突き刺さる。私が口を滑らしたら即座に意識を奪うつもりだ。すでに手が手刀の形になっている。

「……おねえちゃんのおかげで元気になりました」

 拍手と歓声がトリスタ駅に響く。

 私の秘密がまた一つ増えてしまった。

 

 

 ~FIN~

 

 

 

 

 

 

 

 ~後日談~

 

 彼女は机に向かい、何度目になるか分からない嗚咽を漏らしながら、半分涙目でページをめくっていた。本のタイトルは『クロックベルはリィンリィンリィン』。規制という概念を捨てたと評される《G》渾身の第二作目。

『クロック……鐘の音が聞こえるよ』

『俺達を祝福するベルか。クク、悪くねえな』

『ところで50ミラはいつ返してくれるんだ?』

『心配しなくてもちゃんと返すって。一生をかけてな』

『クロック……』

『リィン……』

 ぱたりと本を閉じ、エマは自室の椅子からふらふらと立ち上がる。

「も、もう無理です……50ミラって何の話ですか……」

 またどこかでネタを仕入れてきたのだろうか。用務員としてのフットワークの軽さと、学院全域をカバーする行動範囲が誇る情報収集能力は、遥かに予想を超えている。いや、予想の斜め上を飛んでいる。

「ちょっと外の空気を吸いに行かないと……」

 悶々とした紫色のオーラが部屋に渦巻いている気がする。窓と入口を開け放してから、エマは部屋を出た。

 

 そのわずか五分後。

「エマ、いる? ちょっと授業のことで聞きたいことがあるんだけど」

 アリサがエマの部屋を訪れていた。

「あら、いないの? でもドアも窓も全開だし、すぐに帰ってくるわよね」

 部屋に入ったアリサは、まもなく机の上のそれに気が付いた。

 三冊積み重ねられた小説。

「一度にこんなに読むなんてさすがというか。でもエマってどんな本を読んでいるのかしら」

 興味本位から一番上の小説を手に取ってみた。

「ふふ、変なタイトル」

 そして彼女は開く。禁じられた書を。

 ――その十五分後。

「あ、アリサさん? すみませんちょっと出ていまして、何かご用事でしたか」

 戻ってきたエマは部屋の中に立ち尽くすアリサに声を掛ける。しかし彼女からの応答はない。石像みたいに固まって動かない。

「あ、あのアリサさん、なにか――あっ!」

 アリサに近付き、彼女が手にしている物を見て、エマの頭にずんと重い衝撃が走る。

 みるみると口の中が乾き、背に冷や汗が流れた。

「そ、そそそそっ、それは……アリサさん、読んだんですか!?」

 ギギギと軋む音を立てて、アリサの顔がエマに向けられる。

 タイトルが目に入った。『クロックベルはリィンリィンリィン』だ。

 ようやくアリサは一声を絞り出した。

「エマ……これ、なに?」

「ち、違うんです! 文芸部の祭典があって、そ、それでその時……ち、違うんです!」

 動揺で舌が回らない。言葉も出て来ない。ただ“違う”を繰り返すのみだ。

「このモデルってリィンよね。名前もまんまだし。文芸部ってことはエマがこれを書いたの……?」

「わ、私じゃなくて《G》がですね……!」

「《(ギデオン)》はもういないわよ」

「《(ガイラー)》です!」 

 だめだ。伝わらない。

「ねえ、エマ」

「な、なんでしょうか」

 沈黙。窓から吹き抜ける風は真冬のように冷たい。

「これ、ちょっとだけ貸してくれない?」

「だ、ダメです――っ!」

 

 ~END~

 

 

 




後編もお付き合い頂きありがとうございます。
不幸、不遇続きの委員長でした。今の所、トラブルランキングの首位争いにいますね。ノミネート者は他にリィン、マキアスあたりですか。
ちなみに出てきた小説の内容や、設定の数々は軌跡シリーズの世界観でもぎり通るだろうという線で考えています。遊撃士を題材とした活劇小説とかは、帝国以外で人気がありそうですね。
ではでは奮闘してくれた文芸部の皆さんありがとうございました。
あ、補足ですが。あの後アリサは結局エマに本を取り上げられました。ですのでそっちの道には進んでおりませんのでご安心下さいませ。
話が変わりますが、公式更新しましたね。クレアさん素敵です。

異色回は無事(?)終わりました。あと一話の後、インターミッションを挟み、舞台は十月に移ります。
次話のタイトルは『貴族たちのお買いもの』です。三度訪れるヘイムダル、その内出禁にされそうな……
次回もお楽しみ頂ければ幸いです。
ご感想も随時お待ちしております!
いえ今回に限っては『感想と講評、お待ちしてるぜ』でしょうか?


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貴族達の放課後

「そなた、このあと何か用事はあるか?」

 放課後の正門前。寮に帰る途中のリィンをラウラが引き止めた。

「今日は生徒会の手伝いも無いし、空いているが」

「そ、そうか」

 リィンがそう答えると、ラウラはどこかほっとした様子だ。

「実は剣の調子が悪くてな。振っていて何か違和感があるというか。一度専門店で見てもらおうと思っているのだ」

「そうなのか。だったら修理じゃなくて新調してもいいんじゃないのか?」

「それも考えたのだが、今週末は特別実習だろう。新調は現地でもできるし、まずは使い慣れた物を持って行こうと思ってな」

 今週末の特別実習。リィンはルーレ、ラウラはオルディスに向かうことになっている。

「それで今日ヘイムダルの武具店に行くことにした。学院の売店ではさすがに見立ては出来んだろうからな。それでそなたにも付いて来て欲しいのだ」

「構わないが、どうして俺なんだ?」

 リィンが問うと「フィーには断られてしまってな」という前振りの後、ラウラは続けた。

「せっかくの機会だし、同じ剣士として剣選びの話など色々聞こうと思ったのだ」

「ああ、なるほど。俺も参考になりそうだ」 

 ヘイムダルまでは列車に乗っておよそ三十分。さっそくトリスタ駅に向かおうと、リィンとラウラが肩をそろえて歩き出した時だった。

「そういうことなら俺も同行させてもらおう」

 背後からそんな声が届いた。

 振り向いた二人の視界の中に、腕を組んだユーシスが立っている。

「………」

 ラウラが物言いたげな目でユーシスを見やるが、彼は「ふっ」と自信ありげに笑うだけだ。

「ちょうど俺も武具店を見に行こうと思っていたのだ」

「ユーシスも剣を使うしな。武具店に用事があるんだったら一緒に行くか。構わないよな、ラウラ?」

「……無論だ」

 わずかばかり低い声音で答えたラウラ。その些細な変化に男たちは気付かない。

 公爵家、子爵家、男爵家。

 Ⅶ組の貴族剣士達は、武具店目指してヘイムダルへと向かうのだった。

 

 

 《☆☆☆貴族達の放課後☆☆☆》

 

 

 道中、列車内。

「それでユーシスは何をしに武具店まで行くんだ?」

「俺も実習に備えて剣の修理だ。剣先の刃こぼれを直そうと思ってな」

 ラウラの大剣、リィンの太刀と違って、ユーシスのサーベルは打突技も多用する。

 刀身に反りがある太刀での突きは、切先を面に押し込むようにして繰り出すが、直刀であるサーベルは、面に対して垂直に剣を突き立て刺し貫く。

 インパクトの際に求められる技術の精細さもあり、手元が寸分でも狂うとサーベルは剣先を痛めやすいのだ。

「まあ、俺は突き技はあまり使わないからな。今の所は“疾風”くらいか」

 もっとも太刀は太刀で、切り下ろす際の手の内の絞り込みや、物打ちで相手を捉える為の間合い取りなど、高等な技術を求められるのだが。

 だがいかなる用途で、どのような扱いをしても、やはり武器である以上金属疲労は避けられない。使用毎の手入れと定期的なメンテナンスは、剣士としては礼法と共に、技の前に覚えるべき心構えの一つだったりする。

「そういえばラウラの大剣はいつから調子が悪いんだ? 手入れなんてしっかりやってそうなものだが」

 リィンがラウラに話を振ると、若干言い辛そうに「ああ、それはだな」と、窓の外に向いていた視線を正面に戻した。

「先日マルガリータと戦った時だ。あの時、彼女が打ち込んできた拳を防ぐ為に、とっさに剣の腹で受け止めてしまってな。多分、あれが原因だろう」

 己の未熟を口に出すのがためらわれたのか、ラウラは小さく嘆息を吐いた。

「もっともああしなければ、とても耐えられなかっただろうがな。そなた達がのんびり気絶している間の話だ」

「う……」

「ふん」

 どことなくご機嫌斜めなラウラは、じとりと二人を一瞥する。

 そのことを言及されると男子勢は弱い。女子グループがマルガリータと交戦中、ユーシスは二階廊下で、リィンは屋上で、それぞれ意識を失っていたのだ。

 回収された彼らが保健室で目を覚ました時、全ては終わった後という不甲斐ない結果だった。

(なんだかラウラ、機嫌が悪そうだな。正門であった時はそんなことなかったと思うが……)

(またお前が何かしたのではないか。朴念仁も程々にすることだな)

 小声でひそひそ話していると「何をしている。私にも聞こえるように話すがいい」と今度こそ険を乗せた声音が発せられて、男子二人は沈黙せざるを得なかった。

「あ、あー。そういえばヘイムダルは実習以来だな。店の場所とか曖昧だから、現地で市街マップでももらおうか」

 場を持たせるためにリィンは話を変えてみた。

「俺はつい最近行ったばかりだから大丈夫だ」

「ほう? 私もだ。いつ行ったのだ」

「この前の自由行動日だ」

「それも奇遇だな。私もだ」

 何か気になったことがあったらしく、わずかばかり瞳を揺らしたユーシスが問う。

「その日何をしていた?」

「特には。帝都を散策していただけだ」

 みっしぃになってブリジット達を護衛していた――とは言えない。

「そなたこそ、何をしに行っていたのだ?」

「同じようなものだ」

 不良になってアラン達にちょっかいをかけていた――とは言えない。

「もしかしたらどこかですれ違っていたかもしれんな」

「広い帝都だ。そうそう遭遇することはあるまい」

 ちなみにラウラみっしぃに連行され、こっぴどく説教されたマキアスだったが、力添えしたガイウスとユーシスのことは最後まで口に出すことはなかった。その為、この二人はあの日のお互いの関係を知らない。

 しかし、どちらも人には知られたくない話の為、余計な口を滑らす前にと双方同時に押し黙る。

「………」

 再び訪れた沈黙。

(俺はまた何か間違えたのだろうか……?)

 急に黙したユーシスとラウラの様子に、意味のわからないリィンはそれ以上場を取り持つことができず、顔をうつむける他なかった。

 ガタンガタンと列車は揺れる。

 いつもならすぐに着くはずのヘイムダルまでの距離が、今日は妙に長く感じられた。

 

 ● ● ●

 

 帝都ヘイムダル。ヴァンクール大通りの一角、装備品取扱い店《ワトソン武器商会》

 陳列された刀剣の数々と壁掛けの槍や盾は、まさに武器屋に相応しい設えだった。

「柄と刀身の根元に歪みがありますね。違和感の原因はここでしょう」

 店の奥の簡易工場から出てきた店主のワトソンは、預かっていたラウラの大剣をカウンターに置いた。

「よほどの衝撃を一点に受け止めたんですね。中々こうはならないものですが」

「私の扱いが悪かったのだ。何とかなりそうだろうか」

 ラウラは申し訳なさそうに、カウンター上の大剣に目を落とした。ワトソンではなく剣に詫びているかのようだった。

「直せる範囲なので刀身交換は必要ありません。ご心配なく」

 見積もりのメモを片手にワトソンが答えると、ようやく安心したらしいラウラは、後ろのリィン達に振り向いた。

「時間を取らせた。そなた達も武器を見てもらうんだったな」

 リィンの手には太刀、ユーシスの手にはサーベルが握られている。

「俺もついでだし、点検しておらおうと思って」

「店主。剣先を見て欲しいのだが――」

 まもなく、カウンター上に三振り三様の剣が並べられる。

 

 

 剣をワトソンに預けた後、三人は時間潰しの為にドライケルス広場を訪れていた。

「今から二時間ってとこか。まあ三人分の点検と修理を頼んだわけだし、それでも早い方だろうな」

「帝都で店を構えるだけあって、腕は確かなのだろう」

「俺のサーベルも刀身交換ではなく、研ぎ直しで対応してくれるらしい」

 そんな会話を交わしながら、適当に座れる場所を探してみる。平日の午後だからか、人通りはあるも広場脇のベンチのいくつかは空いていた。

「あそこで休憩するか」

「うん、賛成だ」

 リィンとラウラがベンチに向かおうとしたところで、「お前たちは先に行っているがいい」とユーシスだけ反対方向へ歩き出した。

「どうしたんだ、ユーシス」

「少々喉が渇いたので出店で飲み物を探してくる。ついでだからお前達の分も買ってこよう」

 言いながら視線を巡らすユーシス。観光客の絶えないヘイムダル、その名スポットでもあるドライケルス広場には日常的に露店が立ち並んでいる。

「悪いな。じゃあアイスティーを頼めるか?」

「私はオレンジジュースを。感謝する」

 二人のオーダーを聞いたユーシスは「任せておくがいい」と屋台の一つへと歩を向けた。

 ユーシスを待つ間、リィンとラウラはベンチに腰かけながら、学院を出る際に言っていた剣の選び方について話し合っていた。

「――そうか、太刀はバランスが重要なのだな」

「切先に重心があれば斬撃に重さが乗るが、その分取り回しづらい。逆に手元にあり過ぎると、扱いやすくなるが攻撃は軽くなる。あと刀身の長さは身長に合わせる必要があって――」

 やはり剣士同士だからか会話も弾むようで、話題は尽きなかった。

 ユーシスはまだ帰って来ない。気に入るものがないのか、屋台を覗いては首をひねり、また次の屋台まで移動するといった作業を繰り返している。

 にわかに明るくなったラウラの横顔を見つめ、リィンは安堵の声をもらした。

「よかった。調子が戻ったらしいな。どうも機嫌が悪そうだったから心配したんだ」

「そ、そう見えていたのか? 気を遣わせたのならすまなかった。いや、機嫌が悪かったわけではないのだ。ただ――」

 ただ――何だろう? 先の言葉が出て来ず、ラウラは口ごもった。

 正門でリィンに声をかけたのは、実はフィーに促されてのことだった。最初はフィーに声をかけたのだが、彼女はクロウとマキアスの二人と放課後に用事があったらしく、一緒にヘイムダルに来ることはできなかった。

 一人でヘイムダルに行こうか思案していた最中『リィンでも連れていったら? 道中の話し相手には丁度いいんじゃない』というフィーの一言で、うってつけの同行人を思い出した、というのがそもそもの発端である。

「どうした、ラウラ?」

「あ、いや……」

 思い返せばなぜだったのだろうか。

 フィーにそう言われて、リィンを探す自分は息切れするくらいに早足だった――それは早くしないとリィンが学院を出てしまうから。 

 リィンが快くヘイムダル同行を受けてくれた時、自分はほっとした――それは道中に合いそうな話し相手が見つかったから。

 リィンに指摘されたが別に機嫌が悪かったわけではない。しかし今は、自覚できるくらいに機嫌がいい――それは対等の相手と剣の話を存分にできたから。

 全ての問いに対する自分の解は間違っていない。その通りのはずだ。しかし違和感が残る。うまく説明できない。しっくりこないという表現がいいだろうか。その答えは半分くらいしか合っていない気がする。

「おい、ラウラ?」

「うむ……」

 ユーシスがヘイムダル同行に加わってきた時、自分の心はざわついた。――それは……明確な理由がわからない。うまく言葉にできない。

 怪訝な顔をしてこちらを見るリィンを、ラウラも小首をかしげて見返した。

「やっぱり調子が悪いんじゃないのか? 潮風に当たり過ぎたのかもな」

 ドライケルス広場は一区画だけだが、海にも面している。

「私はレグラムで育ったのだ。潮風で体調など崩さない」

 ラウラは肩をすくめて微笑する。リィンもその様子を見て、案じる表情を崩した。

「そうだったな。だけどレグラムか、風光明媚と聞いてはいたが予想以上だったな。いい雰囲気の町だった」

「そなたさえ良ければまた訪ねて来て欲しい。前回は実習だったのでゆっくりはできなかったが、観光がてら案内できる場所はまだたくさんあるのだ」

「景色もいいし、料理もおいしかったし、なんならレグラムに住んでもいいかもな。ははは」

 どきりと心臓の音が高鳴った。

 今のは冗談交じりの軽口だ。社交辞令のようなものだ。分かっている。分かっているのになぜ自分は動揺した。分かりきっているのに、真意を問いただしたいのはなぜだ。

「リィン……い、今のはどういう意味で――」

「待たせたな」

 言葉の最中で、横合いから飲み物の入ったカップが差し出された。

「ああ、ユーシス遅かったな」

「………」

「俺は丸絞りジュースが欲しかったのだが、どこの店も扱ってなくてな。別の店でフルーツを購入して、丸絞りさせてきたのだ。む、どうかしたかラウラ?」

「……なんでもないが」

 オレンジジュースを受け取ったラウラは、むっつりとストローを口にする。

 甘酸っぱい味だった。

 ユーシスを交えての小休憩。ドリンクを片手に三人横並びで座り、近くの噴水の水しぶきを眺めながら、適当な会話で時間を潰す。

 授業の事。今週末の特別実習の事。部活の事。学院に来る前の事。ひとしきり話題が出た後は、シャロンの作る今日の夕飯は何かなどと三人で予想してみたりもした――意外にもこれは盛り上がった。 

 そんなこんなで一時間は経ち、そろそろ場所を移そうかとリィン達が立ち上がった時である。

「猫が逃げてしもうた~!」

 トラブルは突然やってきた。

 

 

 あくせくしながら辺りを走り回る白髪の老人を、リィンとラウラは知っていた。

 ユーシスは別班だったので面識はないが、ヘイムダルでの特別実習の際、オスト地区で猫探しの依頼を頼まれたことがある。

「ええと、キートンさん。どうしたんですか?」

 記憶の底に沈んでいた彼の名前を拾い上げ、リィンはキートンに歩み寄った。

「ん? おお、しばらくぶりじゃな。お前さんは士官学院の」

「リィンです。それよりも今、また猫が逃げたとか……」

「そうなんじゃ、実は――」

 焦りの色が隠せないキートンだったが、かいつまんで事情を説明してくれた。

 今日は天気も良く、港まで飼い猫を抱えて散歩に行っていたらしい。だが海と魚の匂いで興奮したのか、猫は急にキートンの腕から飛び降りて走り去っていき、そしてタイミング悪く船員が開けた地下水道の入口に入ってしまったとのことだ。

 猫の事を船員に伝えるも、仕事中の為にほとんど取り合ってもらえず、やむなくその場を離れ軍に頼みに来たのだと言う。

「しかし猫一匹の為には軍だって取り合わんだろう。ましてや帝都の軍だ。猫捜索で警備に穴はあけられまい」

「それはそうじゃが……」

 ユーシスの正論にキートンは肩を落とす。

 いつもの流れではあるが、やはり声を上げたのはリィンだった。

「だったら俺達が猫を探します。構わないよな、二人とも」

「私はもちろん構わないが……しかし」

「お前のことだ。そう言うとは思っていたが、わかっているのだろうな?」

 提案には二人とも応じてくれるが、ユーシスから投げられた確認の言葉で、リィンはようやく思い出した。

 地下水道には魔獣が巣食っている。だが今は、

「俺達は武器を持っていないんだぞ」

 

 

 修理途中でも剣を取りに一度武具店に戻る。その案もあったのだが、三人は結局素手で地下水道に入ることにした。

 理由は二つある。

 事態が急を要する為、すぐに向かわなければならなかったことが一つ。そしてもう一つが、素手でも何とかなるだろうという打算があったことだ。

 地下水道にいる魔物のレベルはあらかた把握しているし、以前よりこちらの実力もついている。加えて《ARCUS》があるからアーツは使用できる。

 ヘイムダル港側の入口から地下水道に入って、すでに数回の戦闘を行っているが、実際危なげなくこれを撃退していた。

 流派による打撃技を扱えるリィンとラウラはもちろん、武術訓練で得た技術だけで、ユーシスも十分に対応できていた

「やっぱり広いな」

 独りごちたつもりの言葉は思った以上に大きく、地下水道内に反響した自分の声を聞きながら、リィンは辺りを見回した。 

 魔獣の気配はないが、視界に入る範囲に猫の姿も見えない。

 地下水道は想像以上に広い。しばらく道なりに進むと、三叉路に行き当たった。

「個々に分かれて捜索するしかないな。二人ともいいだろうか?」

「この場では上策と言い難いが、猫の発見が第一だ。捜索範囲を拡げるしかあるまい」

「ふん、この辺りの魔獣なら一人でもやれるだろう」

 即決で意見はまとまり、ラウラは左、リィンは正面、ユーシスは右へと、それぞれで進む形になった。

 

 

 意外なほど早く猫は見つかった。

 ちょっと進んだ水路の奥、少し開けた場所に白い毛並の猫がいた。怯えているかと思えばそんな素振りはなく、こちらに背を向けたまま呑気に毛づくろいをしている。

(あの猫だな)

 見つけたのはラウラだった。声を出して二人に知らせようか一瞬悩み、そして思いとどまる。

 見れば猫に怪我はなさそうだ。大声を発したら逃げてしまうかもしれない。ここは自分が捕まえなくては。

(しかし、猫などどう捕まえれば……あ)

 思い出したことがあった。以前の猫探しの時だ。あの時はフィーが猫を捕まえてくれた。その方法は覚えている。コミュニケーションを取りながらゆっくりと接近し、警戒心を解くというものだ。

「………」

 柄ではない。だが、策もなく素手で猫を捕らえる自信は正直ない。

 後ろを振り向いてみる。誰もいない。流れる水音は多少の声ならかき消してくれる。

 意を決し、咳払いを一つ。喉の調子は良好だ。

 よし、やってみよう。

「に、にゃー」

 記憶をたどっても思い至らない。おそらく生まれて初めてやってみた猫の鳴きまね。

 しかし猫は気付かない。聞こえなかったのだろうか。

「にゃあー」

 もう少しトーンを上げてみる。それでも反応はない。

「ニャー!」

 三度鳴いてみる。少しばかりの慣れとじれったさが合わさり、そこそこの声が出た。クオリティも中々。猫の耳がぴくりと動く。

「よし!」

「ラウラ」

 いきなり背後からかけられた声。感電したかのようにラウラの肩がびくりと震えた。ポニーテールが逆立つかと思う程に、驚きが電流となって背を駆け抜ける。

 声でリィンだと分かった。弾かれたように素早く立ち上がり、後ろに向き直る。一秒にも満たない動作だったが、その間に彼女は平静を装うことを決めた。

 リィンは何も見ていない、聞いていない。その前提で、動揺を見せずにさりげなく話題を逸らすのだ。

「にゃんだ? リィン」

「……混じってるぞ」

 一言目で失敗した。何が混じっているのか分かっているようなリィンの言葉から、猫まねを目撃されていたことが確定した。

 普段の泰然自若な立ち振る舞いはこの時ばかりはできず、みるみる内に赤面するラウラ。

「い、いつから見ていたのだ」

「それは、その、三回目からだ」

「三回目と知っている時点で、一回目と二回目を見ているではないか!」

「う……すまない」

 三叉路を分かれはしたのだが、中央と左の道は繋がっていたらしく、リィンはすぐにラウラの背に追いついたとのことだ。

「分かっているとは思うが」

 羽虫程度なら視線だけで射殺せるくらいの鋭い目付きで、ラウラはリィンを見据えた。

「も、もちろんだ。誰にも言わない」

「誓うか?」

 ずいと詰め寄るラウラに、たじろいだリィンは「ち、誓うから」と足を引く。

「女神とそなたの剣に誓うのだな?」

 鎖で縛るような強固な念押し。有無を言わせぬ断固たる口調。

「わかった! すまない、俺が悪かった!」

 リィンに非はなかったが、それでも謝罪の言葉を吐き出さずにはいられず、片や宣誓の言葉を聞いたラウラは「ならばよし」とようやく落ち着きを取り戻したのだった。

 平静に戻って、ラウラは気付いた。

 勢いのままにずいずい詰め寄ったせいで、互いの距離が近い。いや、近すぎる。

「っ!」

 反射的に両腕を突き出してしまいそうになったが、寸前で踏み止まる。

 リィンの背後は水路だ。この区画から落ちると、オスト地区――マキアスの実家辺りまで強制水練をする羽目になる。

「ラ、ラウラ?」

 さりとて急に足は引けず、硬直するラウラ。同じく状況が飲み込めず、動くに動けないリィン。

 そんな二人の足の間を、猫が悠然と歩き過ぎていった。

 

 

 そこからは追いかけっこだった。

「リィンそっちだ!」

「ダメだ、ラウラ側から回り込んでくれ!」

 猫は入り組んだ地下水道を縦横無尽に駆け抜け、四方八方に飛び回る。ルビィを追いかけるのとは勝手が違う、猫特有のしなやかな動きに二人は翻弄され続けた。

「早い……!」

「俊敏なことだ」

 リィンとラウラは戦闘時には前衛を務め、それなりに体力もあるのだが、これだけ走り通しだとさすがに息も切れていた。捕まえられなくとも見失うまいと、二人は必死で猫を追う。

「白だから目立ってまだいいな」

「そういうものか?」

 前方を走るリィンと、さらにその先を行く白猫を視界に入れつつ、ラウラも後に続く。

 猫が角を曲がり、数歩遅れてリィンも角に差し掛かった時、その表情は強張った。

「しまっ――」

 迂闊だった。

 ここは地下水道で、魔獣の住処。猫を追うことに集中するあまり、二人とも失念していたのだ。

 リィンの前に黒い影がぬうと現れる。魔獣だ。

「リィン!」

 武器はない。こんなタイミングでアーツなど使えない。切れた息は一瞬で整えて、ラウラは強く地を蹴り、瞬間的に速度を上げた。

 リィンも戸惑いはすぐに打ち消して、拳を構える。

『はあっ!』

 二人の気勢が合わさり、リィンの拳打とラウラの掌底が同時に炸裂する。

 ずんと鈍い音が響き、魔獣はくずおれた。

「ぐふっ、お、お前ら……?」

 そんな声を絞り出しながら。

『ユ、ユーシス?』

 無防備の状態からみぞおちと肺を一度に攻撃されたユーシスは、がくがくと震える膝を折り、地下水道の冷たい地面に顔面から突っ伏してしまった。 

『あ』

 突き出した腕は固まったまま止まっている。クラスメイト、しかもユーシスを仕留めたといううすら寒い感覚だけが手に残り、二人は生唾を飲み下した。

 彼らはⅦ組として半年近くを過ごし、今日に至るまで身分に捉われない関係が築けている。

 それでもあえて、客観的に事実だけを拾い上げるなら。

 男爵家と子爵家が共同で公爵家を潰した。しかも人知れず、帝都の地下で。

 伏したままユーシスの首がぎりぎりと動き、怜悧な瞳が立ち尽くすリィンとラウラを睨んでいる。

「言いたいことがあるなら今の内に聞いておくが」

 弁解の余地はない。冷たい汗が二人の頬を伝った。

 

 

「お前たちは魔獣と人間の区別もつかないのか?」

 皮肉たっぷりの薄い笑みを浮かべて、ユーシスは立ち上がった。が、ダメージは抜け切らないようで、ふらつきながら近くの壁にもたれかかる。

 謝るリィンとラウラにひとしきりの苦言を呈した後、鼻を鳴らして猫の走り去った方に目をやった。

「おい、あの猫まだいるようだが」

 突飛なアクシデントに半ば頭から抜けかけていたが、今は猫探しの最中だ。

 状況がわかっていないのだろうが、ふみゃあと小さい牙を剥いてあくびをした猫は、きょとんとした瞳でリィン達を見返している。

「あの余裕ぶり。どうやらなめられている様だな」

「いや、それはないと思うが」

「……何ともまあ、そそられる仕草だ」

 じりじりと距離を狭める三人。

「この位置からだと挟み込めないな。俺が先陣を切る。後は状況に応じて先回りできるように誘導していくぞ」

 先頭のユーシスは、後ろのリィンとラウラに振り返らずに言う。二人も「わかった」と短く答えて身構えた。

「逃げられるものなら、逃げてみせるがいい」

 大仰な前口上を猫に叩きつけ、ユーシスは駆け出した。

 当然猫は逃げる。敏速に走り、するりとユーシスの脇を抜けた。

「くっ、だが挟み込む形だ。やれ、リィン!」

「逃がすか!」

 飛びかかるが猫は急転回。リィンはずざーっと床を滑った。その間に進路を先回りしたラウラが立ちはだかる。目で追うよりも早く、猫はその足の間を走り抜けた。

「ふ、不埒な!」

 ばっとスカートの裾を押さえ、素早く猫に向き直る。

 忌々しげにユーシスが叫んだ。

「ええい、散開だ! 水路の構造を使って出会い頭に捕縛しろ」

「任せろ! 俺はあっちだ」

「この区画からは出さん!」

 三人は分かれ、入り組んだ地下水道を走り回る。

 猫が向かった先にユーシスの気配を感じて、リィンは声を上げた。

「行ったぞ、ユーシス! そこの角から来るはずだ」

「了解だ」

 予測通り飛び出してきた白い影を、ユーシスはがしりと捕まえた。

「まったく、手こずらせてくれたな」

 嘆息するユーシスに、残る二人もすぐに合流する。

「ふう、ようやくか……ん?」

 ユーシスに掴まれて、じたばたともがく猫を見たリィンの目が細くなった。

 灰色の毛並。猫らしい顔立ち。背中に生えた羽。

 ……羽?

「って、飛び猫だ、それ!」

「何だと!?」

 れっきとした魔獣だ。にゃーではなく、シャーと鳴いている。

 想定外のミスキャッチ。ユーシスは一も二もなく、ぶんと飛び猫を水路に投げ捨てた。

「シ、シャー!?」

 まさかの仕打ちに戸惑いの鳴き声を上げ、飛び猫はオスト地区まで流されていった。

「魔獣と猫などどうやれば見間違うのだ?」

 先程の嫌味を投げ返し、ラウラが呆れ顔を浮かべていると、反対側の物陰からがさがさと音が聞こえてくる。

「む、そこだ!」

 振り向き様に走り、ラウラは物陰から一気に猫を持ち上げた。

「よし、捕まえた。しかしぶよぶよとして、少々太り過ぎではあるまいか?」

「って、ドローメだ、それ!」

 体内の導力を利用しアーツを使う軟体魔獣。すでに駆動状態に入っており、標的はラウラが向けた先にいるリィンとユーシスだ。

「こんな近距離でアーツなんて避けれないぞ!?」

「こっちに向けるな!」

「ど、どうすれば……!?」

 一瞬迷うラウラ。しかし選択肢は一つ。

「たあっ」

 上がる景気のいい水しぶき。じゃばじゃばと水路を流れていくドローメ。

 本日二匹目となるオスト地区への直行便だ。流れ次第ではレーグニッツ邸付近に辿り着くかもしれない。

「はあ、はあ。マキアスには言えんな」

 手に付着したべたべたを拭いながら、ラウラは呼吸を整える。

「ん? そなた、その手はどうした」

 庇うように隠しているリィンの右手に目が留まった。リィンは罰悪そうに笑う。

「気付かれたか。さっき床を滑った時にすりむいたみたいだ。まあ、たいしたことはない」

「雑菌が入ると化膿するかもしれん。衛生的とは言えん場所だからな。消毒液はないが、せめて傷口の処置だけでもアーツでしておこう」

 導力による回復は即座に傷が治るようなものではない。だが、自然治癒効果の促進と多少の免疫向上効果があると授業で習っている。放って置くよりは幾分マシだろう。

「……あ」

 しかしセットしてあるクォーツを思い返すと、攻撃、補助ばかりで回復系のものはなかった。

「やむを得まい。とりあえずこれで傷口を覆うか」

 ハンカチを取り出し、リィンの右手に巻こうとした時、静謐な青い光が薄闇を晴らした。

 ユーシスが回復系のアーツを駆動させたのだ。

「世話のかかるやつだ」

「すまない、ユーシス。助かる」

「………」

 無言でハンカチをたたむラウラ。

 ユーシスはそんな彼女に視線を移す。

「どうかしたのか?」

 リィンを案じての行動。この状況における最適な判断。

 なのに、なぜか小さな口惜しさが心に残る。

「……なんでもない」

 苛立ちではないし、焦燥でもないし、戸惑いとも付かない煮え切らなさ。

 剣で両断した物は例外なく二つに分かれる。剣に限らず、ほとんどの答えはラウラにとって二択で出すものだった。やるか、やらぬか。切るか、切らぬか。勝つか、負けるか。

 今だけは違った。切る切らぬの前に、切れない。……少し違う。何を切ればいいのかが、そもそも判然としないのだ。

「……はあ」

 今日はどうも調子が狂う。ラウラは珍しく深いため息をついた。

 

 

 追いかけっこは継続中。

 三人がかりでも猫は捕らえられない。背には追いつけず、挟み打ちは掻い潜られる。リィンは不屈の精神で飛びかかり続けるが、その都度床を滑らされる。ユーシスも果敢に攻めるが、なぜか飛び猫ばかり捕まえる。ラウラなどもう何回足の間を潜られたかわからない。 

「キートンさん連れてきた方が早かったかもしれないな」

「一理ある……」

「うむ」

 正攻法がダメなら、あとは消耗戦だ。猫の動きも鈍くなってきている気がする。

「もう一度全員でかかってみるか。それで無理ならこの場に二人残って、一人がキートンさんを連れて来よう」

 その案にはユーシスとラウラも異論がないようで、ならば最後の捕獲作戦にと意気込む。

「今だ!」

 リィンの号令で、三人は息を合わせて猫に向かって走った。

 ユーシスの両腕を横っ飛びに避ける猫。間髪入れずに追いすがるリィン。手が尻尾をかすめたが、惜しい所で逃した。さすがに驚いたのか、猫は急に向きを変えた。

 勢いよく駆け、水路を飛び越えようとしている。水路を挟んだ先の道に逃げるつもりだ。

 しなやかに弧を描く跳躍。

「い、いかん!」

 ラウラが焦る声を発した。疲れていたからか、急ぐあまり目測を誤ったか、明らかに跳躍の幅が足りていない。このままでは猫は水路に落ちる。

 迷いもなく、ラウラも水路上に飛び出した。中空で猫を抱きかかえると同時に身を反転させ、片腕を元いた通路側に伸ばす。

 手をかけられるような場所はなかった。

 傾き、落ちる体。せめて猫だけは通路に投げ戻そうとした時、伸ばした片腕をリィンが強く掴んだ。

「ラウラ!」

 だが体勢が悪い。このままではリィンも落ちる。視界の端にユーシスが手を伸ばす姿も見えたが、おそらく間に合わない。

「リィン、無理だ! 猫だけでも」

「何とかする! 猫を離さないでくれ!」

 一息に言い放つと、リィンは自分とラウラの位置を入れ替えるように引き戻し、半歩遅れてきたユーシスにその腕を預け渡した。若干体勢の戻ったラウラはユーシスに引っ張られ、猫を抱えたまま通路側へと着地する。だが反動で位置が入れ替わったリィンは、そのまま水路に落ちてしまった。

「リィン!」

 すぐさま水路際に駆け戻るラウラ。姿は見えない。まさかもうオスト地区まで流れていってしまったのか。あの二匹と同じように。

 狼狽が隠せないラウラの耳に、少し離れた所からばしゃりと水を弾く音が届いた。

「あ……」

 心底安堵する。

 ぜえぜえと肩で息をしながらも、リィンは淵際のわずかな窪みに手を掛け、自力で水路から這い上がってきていた。

「ごほっ、少し水を飲んだな。ラウラ、猫は無事か」

 自分の身を案じるよりも先に、リィンは猫の安否をラウラに問う。

 ラウラの腕の中から、もぞもぞと猫が顔を出した。

「はは、っくしょん!」

 安心の笑みとくしゃみが混ざり、リィンはその場に座り込んだ。全身から滴り落ちる水滴が、地面に黒ずみを拡げていく。

「まったくそなたは無茶をする」

「今回に関してはラウラも人のことを言えないぞ」

「……まあ、そうかも知れぬな」

 さっきは考えるよりも早く飛び込んでいた。自分が落ちれば、たとえ猫を掴まえても意味はなかったのに。

 もう少し冷静であれば、合理的な判断が下せたのだろうか。無理と分かって前に進むのは蛮勇と心得ている、はずなのに。

 もしかしたら眼前でずぶ濡れのまま笑うこの男に、少なからず感化されたのかもしれない。

 二択などではなく、助けるというただ一択のみを迷いなく貫いた、この男に。

 我知らず、ラウラは口角を上げた。

「リィン、これで顔を拭いてくれ。その状態では焼け石に水程度であろうが」

 学院服のポケットから先ほどのハンカチを取り出そうとする。しかし片腕で猫を抱えているので、中々取り出せない。

「これを使うがいい」

 まごついていると、ユーシスが横からリィンに手拭いを差し出した。

「助かるよ。ユーシス」

「礼には及ばん。シルクよりは吸水性のよいものだ」

「………」

 ラウラは取り出しかけたシルクのハンカチをポケットの奥に戻す。

「お、本当だ。これすごいな」

「ふっ」

「………」

 明確に分かる。今、はっきりと自分は苛立っている。配慮の欠片もなく、ユーシスがこちらに目を向けてきた。

「どうした? 呆然と立ち尽くして」

「なんでも……ないっ!」

 ついに声が荒ぐ。腕の中で猫がフギャアと鳴いた。

 

 

 帰りの道中。行きと同様に、三人は列車に揺られていた。

 猫をキートンに引き渡した後、《ル・サージュ》でリィンの濡れた代わりの服を買い、その足で《ワトソン武器商会》まで赴き、預けていたそれぞれの剣を受け取った。

 ちなみにリィンの服を選ぶ際、見立てはユーシスとラウラで行ったのだが、センスと言うか方向性の違いで揉めに揉めた結果、結局均整の取れない珍妙なファッションが完成したのだった。

 店員曰く、出来上がったリィンの出で立ちは『時代の二つ先』らしい。

「とりあえず今日の目的は達成したな」

 時代を先取ってしまったリィンが口を開く。

「うむ。私の剣も直ったし」

「猫も無事だったしな」

 応じるユーシスとラウラだが、二人には疲労感が見えた。地下水道を走り回ったあげく、ブティックであれだけ騒げば疲れもするというものだ。

 ラウラもユーシスも爵位ある家柄に生まれ、伴う品位と教養を身に付けてきた。そんな彼らとて十七才の少年少女には違いないのだ。

「ははっ」 

 ぐったりと座席に沈み込む二人を見て、リィンは思わず笑みを拭きこぼす。

 分かってはいたが、やはり自分達と変わらない。改めてそう思った。

「リィン?」

「頭でも打ったか」

 急に破顔したリィンを二人は訝しげに見やる。そして同時に気付いた。

 リィンの首元に小さな泥汚れが付着したままだ。

「まったく、これを」

「これを使うがいい」

 ほのかな甘い香りが鼻先で揺れ、リィンの首すじを柔らかな感触がなでる。

 今度こそラウラは、シルクのハンカチを差し出したのだった。

 

 

 ~FIN~

 

 

 

 

 

 

 

 ――後日談

 

 昼休み。学生会館食堂のテーブルの一つ。

 円卓を四人の女子が囲み、話に花を咲かせていた。

「とまあ、そんなことがあったのだ」

 ラウラが先日のヘイムダルでの一件を語り終わったところで一息つく。

 この場に座っているのは、モニカ、ポーラ、そして先日仲良くなったブリジットである。

 最初は猫探しの話など笑いながら聞いていたのだが、次第に三人の顔は神妙――というか複雑な表情に変わっていた。

 話を聞き終えるが早いか、ポーラは手にしていたグラスの底を、だんとテーブルに打ち付ける。

「ユーシス~! 空気読んであんたが水路を流れていきなさいよ!」

 グラスを持つ手がわなわなと震え、中身の水を波立たせた。ちなみに話の中でユーシスがリィンとラウラの二連突きを食らって倒れたくだりは、彼女にとっての最高潮だったらしく、天井を仰いで「あーはっはっは、痛快だわー!」と高らかに笑いあげる程だった。

「でも、ラウラ大変だったね」

 モニカは軽く肩を落とし、傍らのブリジットもうんうんと頷いている。

「いい雰囲気になりそうだったのに……」

 三人そろって、深く息を吐く。

「いい雰囲気? 地下水道は薄暗くてとてもいいとは言えないが」

 ブリジットは首を横に振る。

「そういうことじゃなくて、もう少しでいい感じになったかもって話よ」

「もう少しではなく、猫はしっかりと保護したぞ?」

 話がどうも繋がらず、困った顔をするラウラ。

 こちらの言わんとすることが今一つ伝わらないラウラに、もっと困った顔をする三人。

 ひとまずラウラを置いて、緊急ひそひそ会議が行われた。

「ねえ、ラウラってさ……」

「んー、話を聞いてるだけじゃまだ分かんないわね。割とさらっと話してるし」

「探ってみる? ねえ探ってみる?」

 きょとんとして「そなた達何をしているのだ?」と困惑するラウラには構わず、まずはモニカがやんわりと球を投げる。

「あのね、ラウラ。リィン君ってどんな感じの男の子?」

「ん? リィンか。そうだな、自分の事を後回しにして他人の為に動くような男だな。水路に落ちそうになっていた私を助けた時も然り。そなた達も何回か世話になったことがあるのだろう」

 心象は悪くないようだ。ラウラが対等の相手として認めていることが分かる。

「それはそうね。だから彼を探してヘイムダルへの同行を頼んだの?」

 続いてポーラが変化球で様子をうかがう。

「いや、同じクラスのフィーに勧められたこともあってな。剣の事でも話せる相手ゆえ、道中の共にいいと思ったのだ」

 人に勧められたと言うが、自分の意からかけ離れたことならラウラは絶対に応じない。彼女自身が選択し、わざわざ探しに赴く相手。

「ラウラはリィン君のことをどう思っているの?」

 最後にブリジットの剛速球が放たれた。

「どう、とは。その、クラスメイトではあるし、気を置かず話をする間柄、だとは思うが……」

 口調が変わった。語調が淀んだ。目線が泳いだ。指を所在なく動かした。発汗確認。呼吸数増加。心拍数上昇。

 三人の乙女サーチによって、ラウラの一挙手一投足がバイタル込みでスキャニングされていく。

 怪しいデータ解析が三人の頭でなされる中、異様な雰囲気にラウラは訳も分からずたじろいだ。

 診断結果。

「自覚症状は無し。断定するにもデータ不足。が、好意かはともかく特別視の傾向あり」

 ポーラがつらつらと精査した情報を並べ立てる。

「簡易測定はBプラスってとこかしら」

 ブリジットがむーとうなる。

「ということは、これから次第かな」

 モニカが含みのある笑みを浮かべた。

 三人の視線がラウラに集中する。

「さ、さっきから何なのだ?」

 意味ありげな目が向けられるが、何のことかは皆目見当がつかない。

「ラウラはリィン君に何かお礼した? 地下水道で助けてもらった時の」

 モニカに“お礼”と言われて目を丸くする。礼は言ったが、したかと問われると、特別なことはしていない。

 ラウラの様子を見て、ポーラはこんなことを問う。

「時にラウラ、あなた料理の心得はあるの?」

「シャロン殿に時々教わってはいるが、自信まではないな」

 なぜこのタイミングで料理の事を聞いてくるのか。ラウラにはどうにも話の筋が見えなかった。

 三人は目配せと随所の頷きだけで、言葉無き会議を続けている。

 ブリジットがまとめた結論を静かに告げた。

「ラウラ。リィン君にお礼をしましょう。そうね、お弁当なんていいんじゃないかしら」

 ラウラは露骨に困惑の表情を浮かべた。

「き、急に何を言い出すのかと思えば……料理には自信がないと言ったであろう。礼と言うのならリィンの稽古に付き合えば――」

『ダメよ! それじゃあ!』

 三人は一斉にテーブルへ身を乗り出し、鋭い声を発した。あまりの剣幕にラウラは椅子ごと後ろに倒れそうになった。

「そ、そなた達どうしたのだ!?」

『そんなのダメ! 絶対ダメ!』

 改めて否定の言葉を口に出し、三人は焦りの色が見え始めたラウラを強く見据える。

 モニカは思う――今こそ、入部当初から泳ぎを教えてもらったお返しをする時だと。

 ポーラは思う――ラウラと出会ったことがきっかけで上達した鞭使い、そのお返しをする時だと。

 ブリジットは思う――先日のアランとのお出かけの際に、尽力してくれたお返しをする時だと。

 三者三様の想いを内に秘め、彼女達は言う。

「大丈夫」

「ぜーんぶ私達に」

「任せといてね!」

 急にいきいきとし出した友人達を見て、ラウラはなぜか一抹の不安を感じるのだった。

 

 

 ~『ガールズクッキングⅡ』に続く~

 

 

 

 

 

 

 ――後日談➁

 

 貴族剣士の三人が帝都地下で猫探しをした次の日の事。

「やっぱり実家は落ちつくな。まあ、誰もいないのは少し寂しいが」

 授業を終えた放課後、マキアスはオスト地区にある実家に帰っていた。明後日は特別実習日、マキアスが所属する班はルーレに行くことになっている。

「昨日は大変だったな」

 リビングのソファーに腰かけて、ひとりごちる。そう、色々あったのだ、昨日は。

 それで今日何をしに来たかと言うと、件の色々あった中で、壊れた眼鏡のスペアを取りに来ていたのだ。 

「最近、僕の眼鏡壊れてばかりだな」

 手に持ったスペアの眼鏡を眺めて嘆息する。レンズに白い曇りができた。

 ラウラの作った焦げたオオザンショを食べて眼鏡破損。マルガリータの剛拳を受けて眼鏡破砕。みっしぃの肉球を食らってサングラス粉砕。そして昨日の一件である。

 九月だけで、計四回眼鏡が破壊されている。しかも全て外的要因によって。

「十月は絶対守るぞ、僕の眼鏡」

 固い決意を胸に、淹れたばかりのコーヒーをすすった時、

 ――かりかり。

 そんな音が足元から聞こえた気がした。

「ん? 今何か……」

 耳を澄ます。何も聞こえない。

「空耳か? まあいい。眼鏡も持ったしそろそろ寮に戻るか。実習が終わったら一度掃除にでも来よう」

 飲み終えたカップを片付けて、マキアスは実家を後にする。

  

 ――かりかり、がりがり。

 誰もいなくなったリビングに音が響く。

 音源は地下からだった。民家のある区画は魔獣の進入を防ぐ為に、専用ネットや柵が張り巡らされている。しかし水路を流れてきたその二匹は、小さなネットのほころびから住居区画へと侵入していたのだ。

 通路へと帰還し、水の痕を引きながら辺りをうろつく飛び猫とドローメ。

 二匹は人間に怒りを覚えていた。戦いの末敗れるのなら、それは仕方ない。弱肉強食、自然の摂理。それは是であると本能が知っている。

 しかしあれは何だ。いきなり掴まれたと思ったら、次の瞬間には水の中だ。縄張りを得る為でも、ましてや捕食する為でもない。気まぐれの殺意など自然界で許されるはずがない。

 天敵だ、人間は。 

 全という集合意思から個としての自由意思に目覚めた二匹は、薄暗い地下水道からの脱出を図ろうとする。

 そして暗い天井を見上げた時だった。嗅いだことのない匂いが上から漂ってきた。何だろうか。ほろ苦い匂い。

 それがコーヒーという名であると知る由もないが、二匹は誘われるようにその場所から上を目指した。

 ドローメがアーツを天井に放ち、もろくなった岩盤を飛び猫が牙で少しずつ削っていく。

 ――復讐だ。

 暗い一念の下、二匹はただ進む。 

 レーグニッツ家に魔獣が現れるまでのカウントダウンは、人知れず静かに始まっていた。

 

 

 ~『レーグニッツ王国』に続く~

 

 

 

 

 

 

 ☆おまけ☆

 

 帝都《ル・サージュ》本店にて。

「青がよかろう」

「緑がよかろう」

 ラウラは青のジャケットを手にし、ユーシスは薄緑のセーターを手にし、互いに睨み合っていた。

 あとは預けていた武器を受け取りに行ってトリスタに帰るだけなのだが、さすがにずぶ濡れのままリィンを歩き回らせるわけにはいかず、先にブティックに寄ったという運びである。

 なのだが。

「何でもいいから早く決めてくれ!」

 服を見立てるラウラとユーシスは、かれこれ三十分近くも衣服を物色している。これはどうだとラウラが持ってきたシャツはユーシスが季節に合わないと制し、逆にユーシスがズボンを持ってくればリィンには似合わないとラウラが諌める。

 そんなこんなで服選びは難航していた。

 何でもいいからと叫び続けるリィンだが、マネキンと化した彼には残念ながら意見を差し挟む権利はなかった。

 今二人が揉めているのは上服の色である。

「青などと、これから涼しくなる時期に相応しい色とは思えんがな」

「清潔感を醸し出しているのだ。緑とて暖色系ではあるまい」

「自然色は心身に落ち着きをもたらすのだ」

「ならばそなたが着るがいい」

「それはどういう意味だ?」

 互いの視線の中心で、見えない火花がばちばちと散り乱れる。ちなみに青はアルゼイド子爵家、緑はアルバレア公爵家、それぞれの紋章のパーソナルカラーだったりする。

「な、なあ二人とも。一生懸命選んでくれてありがたいんだが、俺結構寒くなってきたんだが」

 ぶるると震えるリィンは二人に歩み寄るが、

「そなたの服の話をしているのだ。黙して待つがよい」

「店内が汚れるだろう。隅から動くな」

「な、なんでだ……」

 すごすごと定位置に戻るリィンだったが、しかしいつまで経っても意見はまとまらない。

 二人はとうとう実力行使に出た。

「リィン、とにかくこれを着ろ」

 ラウラがファーのついたジャケットを手渡す。

「待て、先にこれだ」

 続けざまにユーシスからレザージーンズが投げ渡される。

 成すがままにリィンは試着室に連れ込まれ、あれやこれやと着せ替えられる。

「待て、お前は外に出ろ」

「そなたが残ったら、好き放題のコーディネートをするであろう」

 どったばったと狭い試着室が揺れる。

「二人とも出てくれ!」

 さすがにリィンも声を上げ、不承不承の呈でラウラ達は退室する。が、二人の戦い――と言う名の意地の張り合いは継続中だ。

「リィン、これも履け」

 カーテンの隙間からユーシスが、ブラウンのカントリーブーツを投げ入れる。

「そなたもアクセサリーを付けてみるのはどうだ?」

 負けじとラウラがシルバーチェーンを放り込む。

 その後もぼんぼん装飾品が投入され、その都度「いてっ ちょっ、痛いって!」とリィンの悲鳴が聞こえてきたが、二人はお構いなしだ。

「案ずるな。代金は今回俺が持つ」

「見くびらないでもらおうか。ここは私が支払おう」

 ユーシスもラウラも金銭感覚は一般常識の範囲内で、金遣いは決して荒くない。だがここぞの時の出費を一切惜しまないのは、さすがに名家の貴族気質と言ったところだろう。

 ややあってリィンの着替えは終了する。その時点で三人が三人とも息切れしていた。

「……会計は折半でいいな」

「やむを得ん。よかろう」

 そっちの話も折り合いがつく。

 服は着たままで会計を行う為、リィンはよたよたとカウンターに向かった。

「はい、ありがとうございます。お会計ですね――……っ?」

 リィンの立ち姿を見て、店員の女性は硬直する。

 首元には獅子のたてがみのようなファーが巻かれており、黒光りするレザージーンズはなんとも好戦的だ。装飾過多とも言える、要所に巻き付けられた銀の鎖はぎらぎらと目に痛い。ついでに背には純白のマントコートを羽織っていて、月夜に遭遇したら、わき目も振らず軍の詰所にスライディングで逃げ込むような、怪し過ぎる出で立ちだった。

「……似合っていますか?」

 泣きそうな顔でリィンが問う。

 心中を察した店員は答える。

「じ、時代の二つ先を捉えた前衛的なファッションかと」

 その言葉を聞いたリィンの後ろの二人は満足げな様子で、

「よかったな、リィン」

「帰ったら皆にお披露目だ」

 などと言って頬を緩めるのだった。

 

 

 ~END~

 

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。予告とはタイトルが変わってお送りしていますが、内容は変わりありません。お買いものが初題でしたが、おまけパート以外ではさしたる買い物をしていないという……
しっかりしているようで天然なところがある二人と朴念仁が共に動けばこうなる感じですね。
そういうわけで貴族達の放課後でした。
あ。帝都地下に飛び猫はいませんでしたが、バリアハートの地下にはいたし、環境的にいてもおかしくないだろうというところで登場しています。
後日談から他の話にも繋がりますが、それは十月のお話となります。ラウラがんばって! 


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バレットサバイバル

 昼休み。

 フィーは屋上に続く階段をてくてくと登っていた。

「あとは屋上くらいなんだけど」

 食堂、ギムナジウム、図書館、グラウンド、本校舎一階二階を探し回ってみたのだが、結局見つからない。

 となると残る場所は限られているというもので、彼女は屋上に足を伸ばしたのだった。

「先輩、それは僕のパンですよ!?」

「けちけちすんなよ。一口だけだって。あーぐ」

「ひ、一口がでかい!」

 屋上に繋がる扉を開けてすぐ、そんな声が耳に届く。

「……いた」

 屋上の一角に「はーっはっはー」と勝ち誇った笑い声を響かせるクロウと、「僕のパンがあ!」と打ちひしがれるマキアスの姿が見えた。

「返して下さい!」

「もう飲み込んじまったなー」

 端から見ていると、仲睦まじいというか、じゃれているというか、遊んでいるというか。どうやら昼食を一緒に食べていたようだが、隙を突かれたマキアスがクロウにパンを捕食されたらしい。

「まるで仲のいい兄弟みたい」

 フィーはそう思った。

 要領のいい兄と、生真面目な弟である。得てして弟はおもちゃにされがちだが。

 軽く息を付いてから、フィーはクロウに食い掛かるマキアスの背に歩み寄った。

「二人ともちょっといい?」

「ん、フィーか? ちょっと待ってくれ。僕はパンを奪還しなければならないんだ」

「だーから、もう腹の中だっつーの」

 声を掛けても尚、やいやいと言い合う二人。

「パンなら私の分けてあげるから。だから話聞いて欲しいんだけど」

 小袋から昼食用に持ってきていたコッペパンを取り出して、半分をマキアスに手渡した。

「え、いいのか」

「ん。先行投資」

 年下の女の子から簡素なパンを恵んでもらったマキアスは、ようやく落ち着きを取り戻す。

「いや、興奮してすまない。何しろ売店が混んでてパン一つしか買えなくって」

「まったく見苦しいぜ」

「先輩のせいでしょうが!?」

 いじられた分だけきっちり反応を返すマキアス。ユーシスとの小競り合いが絶えないわけだと納得し、フィーは仲裁の口を開いた。

「で、話を聞いて欲しいんだけど」

 ちょっとばかり低くなった声音に、二人の些細な口論は止まった。

「あ、ああ、そうだったな」

「わりぃ、わりぃ。で何だっけ。身長を伸ばす方法が知りたいのか?」

「違うけど……どうせ牛乳飲めとかだろうし」

 知りたくなくはないが、かといって別段伸ばしたいわけでもない。伸びるなら伸びればいいというスタンスだ。クロウに言われてフィーの脳裏によぎったのは、大きくなれば棚の上のお菓子を取るのに苦労しないという、ささやかなメリットだけだった。

「牛乳なんて定番だねえ。俺を誰だと思ってやがる」

「クロウだけど」 

 クロウはちっちと人差し指を振ってみせた。

「俺がお前の頭を、マキアスが足を持って反対方向に引っ張る。そうすりゃ明日にはガイウスくらいの長身になれるぜ。よかったなあ、ちびっこ」

「そんなことしたら、二人にいじめられたって委員長に言うから」

「ま、待つんだフィー。エマ君がそんな事知ったら――」

 委員長権限でⅦ組臨時学級会の開催だ。二人して黒板前に立たされて、特に女子勢からの集中砲火にさらされること受け合いである。

 ミリアムを守護するアガートラム。フィーを守護するエマ。Ⅶ組におけるこの二柱のサポート体勢は強固の一語に尽きる。

 特にエマはフィーの勉強面のみならず栄養、睡眠管理に至るまでフォローしている節がある。部屋で眠り過ぎていたら毛布をはがしにかかるし、今もコッペパンしか持っていないフィーの為に、弁当を片手に彼女を探し回っていたりする。

 もし授業参観があれば、教室の後ろに保護者に紛れて立っていても許されるくらいのザ・お母さんなのだ。

「それは勘弁願いてえな……」

「……同じく」

 強引に話を進める術は持たないフィー。要所で話の腰を折るクロウと、しっかり脱線に付いていくマキアス。当然、遅々として話は進まなかったが、それでも時間をかけて何とか本題に入ることができたのだった。

 

 フィーの話を聞き終わった二人の第一声は、

『それこそ勘弁願いたい』

 だった。

「なんで?」

 小首を傾げるフィーにクロウが言う。

「そりゃそうだろ。二日後には特別実習があるんだぜ。今から体力使ってどうすんだよ」

 マキアスも難色を示した。

「うーむ。力にはなりたいが、無用なケガを控えたい時期なのは確かだ」

 二人とも乗って来ないが、これはある程度分かっていた反応だ。

「ん」

 フィーはマキアスの手に向かって指をさす。正確には彼の持つコッペパンの半分に。

「それ。先行投資って言ったよね」

 夜の猫を思わせる金の瞳がきろりと光る。

「な、ずるいぞ。僕は――」

「もう一口かじってる」

 返品不可の上、代金未払いである。いつの間にか逃げ道を塞がれていたことに気付き、マキアスは言葉を詰まらせた。

「だ、だがコッペパンを再購入し、君に渡せば問題はないはずだな!」

「くく、もう諦めろって。そういうわけでこいつをしっかり使ってやってくれや。んじゃな」

 薄ら笑いを浮かべて、すたこらと脇を通り過ぎようとしたクロウの腕を、フィーは『はしっ』と掴む。

「クロウも来て」

「なんでだよ。俺は何もしてねえだろ」

 腕を振りほどこうとするが、フィーの手はくっついたまま離れない。

「さっき、私の身長をひどい方法で伸ばそうとした」

「し、してねえよ。つーか仮定の話だろうが!」

「未遂も罪」

 短く言い放ち、じっと二人を見据える。これだけお願いしてるのにと言わんばかりの顔だ。

「な、なんで僕達が責められる側なんだ」

「ほらとっとと教室戻れって。午後一発目はお前のだーい好きな導力学だぜ~」

「だったら……」

 どこまでも応じない二人に、フィーは再びあの言葉を使う。

「マキアスにコッペパンを取られて、クロウにいじわるたくさん言われたって……委員長に言う」

 末っ子スキル、“お母さんに言いつける”である。

「なっ?」

「てめっ!」

 フィーは《ARCUS》を取り出した。すでにエマが通信相手に選択され、あとはボタン一つでマザーコールだ。操作をあえてクロウ達に見えるように行い、じとりとした半眼を向けてみる。

「待て、話せば分かる!」

「悪かったって。身長は小さくても需要があるからよ」 

 いい感じに焦っていた。身長のくだりはよく分からなかったが。

「じゃあ、どうする?」

「ぐ……」

「仕方ねえ……」  

 フィーの背後に丸眼鏡を光らせたエマを幻視した二人は、額に一筋の汗を流し、結局彼女の依頼を受けることになるのだった。

 

 

 放課後。げんなりともどんよりともつかない、曇った顔のクロウとマキアスを引き連れたフィーがグラウンドを歩いていた。

 彼女はすたすたと普段通りに歩き、後ろに続く二人はあからさまに重い足取りである。遠目に見れば、囚人を連行する看守と言ったところだろうか。

 今日は馬術部もラクロス部も活動日ではないようで、グラウンドが余計に広く感じた。

 フィーの先導で、中ほどまで歩を進めたところで、

「はーい、待ってたわよー」 

 閑散としたグラウンドに、よく通る声が響き渡った。

「はー、やっぱりいやがったか。こういう時こそ捕まえとけっての、あの教頭」

 深く息を吐き出し、クロウは頭を落とす。

 グラウンド南側最奥、裏道に続く扉の前でサラが満面の笑顔で待ち構えていた。

「逆にあの笑みが怖いな……」

 呟いたマキアスはぎこちない動作で、眼鏡のブリッジを人差し指で持ち上げる。

 三人がそばまでやってくると、サラはうんうんと大仰にうなずいた。

「あらー、浮かない顔ね。そんなに導力学の授業が難しかったのかしら?」

 わざとらしい口調で軽く笑んでみせたサラに、フィーも含め、三人ともうんざりとした表情を浮かべた。

「ったく、俺だってヒマじゃねーんだぜ」

「今日はチェス部に顔を出す予定だったんですが……」

「めんどくさい」

 横並ぶ三つの渋面。

 フィーに連れられる形で来たマキアスとクロウはもちろんだが、元をただせばフィーとて半強制の参加だったのだ。

 

 ――遡ること数時間前。午前、授業後の小休憩のことである。フィーは廊下でサラに呼び止められた。

 サラからの要件を端的にまとめればこうである。

『今日の放課後、特別訓練をしてあげる。銃を扱う子達限定でね』

 もちろんフィーはにべもなく断り、隙を突いての逃亡も試みてみたが、結局は果たせず、特別訓練とやらを受けざるを得なくなった。

 ついでにこんなことも言われた。

『そうそう、クロウとマキアスにも声掛けといてね。べつに来ないなら来ないでもいいけど、そうしたらフィーが一人で訓練受けることになるから』

 一人でサラと特別訓練などと、体がいくつあっても足りない。

 逃げる、隠れるといった技能で今日一日やりすごせるだろうか。思いかけて彼女はあきらめる。

 どうせサラには通じず、発見、捕縛、連行の上、余計なトッピングも追加しての特別訓練。そんな流れになるのが目に見えていたからだ。

 そんなわけで、しぶしぶの呈ではあるものの、フィーは残る二人の銃使い達を探していた――というわけである。

 

「ほーらほら、そんな顔しないの。早く終わらせたかったら気合い入れなさい」

「まったく、どうして今日やろうなんて思ったんですか。事前に告知してくれれば……」

 訓練と言っても具体的な内容は知らされていなかったが、フィー伝手で目的は聞いていた。

 三者三様の銃使い。二丁拳銃のクロウ、散弾銃のマキアス、双銃剣のフィー、それぞれの持つ武器特性と中~遠距離技を組み合わせたコンビネーションを、実戦での使用に耐えうるレベルに向上させる為だ。

 銃での戦闘は難しい。

 状況に応じて起点、補助、追撃、とどめとフィールドを立ち回らなくてはならない。故に不可欠なのが仲間との連携である。

 それは正論なのだが、疑問は九月も終盤に差し掛かる『この時期になぜ』である。

 今までにも望まぬ形ではありながら、実戦は経験している。対策とするならば、その際や直後に技能訓練を行えばいいのではなかったか。

 なぜ今日やるのか、マキアスの問いに対するサラの答えはこうだった。

「思いついたからよ」

 あっけらかんとサラは言い、開口したまま静止するマキアスをよそに続けた。

「あとあんた達の実習先はルーレ市だしね。あそこはあそこできな臭い場所だし、自力の底上げは必要よ」

 クロウ達は顔を見合わす。言われてみれば、ここにいるのは全員ルーレ組だ。

 とは言え班分けを考えたのはサラである。実習目前のこのタイミングに言い出したことから、本当に思いつきなのだろうと理解し、三人はがくりとうなだれた。

「受けちまったもんは仕方ねえか。こうなりゃ早いとこ終わらそうぜ」

 ようやく観念した様子のクロウが口を開く。

「うんうん、素直が一番。主旨はフィーから聞いてるわね? それじゃ今から細かい訓練内容を説明をするわ」

 軽く咳払いをしてからサラは言う。

「今から銃のみを使用して私と戦ってもらうわ。使う弾は特殊ペイント弾。私が赤であんた達は青ね。それでルールだけど――」

 サラが手元のボードに書かれた、簡易の戦闘設定を読み上げる。

 内容は以下の通りだ。

 

・ペイント弾が頭部、胸部に命中した場合、その人物は戦闘不能とみなされる。また足、手などの致命傷に至らない部位に被弾した場合は、個人の裁量による行動障害を課す。

・担当教官も含め、銃弾は一人につき十発。補充はない。

・フィールド内にあるものは全ての利用を可とする。ただし、攻撃手段は銃に限るものとする。

・担当教官に勝利、もしくはチームが全滅した時点で訓練を終了する。

 

 以上である。

「つまりサラ教官にペイント弾を命中させたらいいんですね。あと『個人の裁量による行動障害』というのは?」

「たとえば右足に被弾したら、びっこ引いて歩くとか。手に当たったら、命中した側の腕は使わないとか。でも今日はジャッジがいるわけじゃないし、その辺は適当にあんた達に任せるわ」

「なるほど。それでフィールドというのは?」

「ふふーん、それがここよ」

 サラは手を裏道へとかざす。

 裏道への門は普段施錠されているが、中は森林道のようになっていて、脇に逸れたら草木でそこそこ入り組んでいる。定期的な剪定や整備は用務員であるガイラーが行っているが、秋口の落ち葉は多く、雑多な様相が見て取れた。

 現在は区画を一時的に封鎖しており、第三者の立ち入りはない。もっとも普段でさえ、この場所を通る者などまずいないが。

「じゃあさっそくペイント弾装填して。もちろん私も十発ね。あんた達の合計弾数が三十発だから、私はその三分の一。ついでに剣も使わないわよ。いやーこれは不利だわ」

「よく言うぜ」

 一言吐き捨てて、クロウは銃弾をセットしていく。

「ガンナー三兄妹でしょ、あんた達。しっかり連携取りなさいよ」

 初めて耳にする語彙に、三人は顔をしかめた。

「くく、こいつらが弟と妹じゃあ兄貴の苦労が知れるってもんだぜ」

「こんな兄さんはいりません」

「同じく」

「お前らな……」

 クロウに注がれる本気の声音と、冷ややかな視線。

 ややあって、フィーとマキアスの準備も終了した。

「それじゃ始めるわよ。あんた達がこの中に入ってから十分後に私が後を追う形ね」

 錠が外され、錆びついた音と共に柵門が開いていく。

「それじゃスタート!」

 いつものウインクに押し出され、三人は林道へと駆け出した。その手に各々の銃を携えて。

 

 

 地面を這う草や蔓を軽快に飛び越え、木々の間を敏速に走り抜けるフィーとクロウを、少し遅れてマキアスが追う。

「マキアス、早く」

「先手を打つには位置取りが重要だぜ。ほら走った走った」

 足元の悪い地形を前方の二人は苦もなく疾走し、息切れも見られない。

「あの二人の体力はどうなってるんだ……!」

 それでも追いすがらねば、後方から襲ってくるであろうサラに一番の標的にされてしまうのだ。それだけは何としても避けたい。

 無理やりにでも速度を上げようと足に力を入れた時、「ん、ここがいい」と最前を行くフィーが急に足を止めた。

「お、悪くねえな」

「だああ!」

 急制動に耐えられず、しかも石ころに蹴躓いたマキアスは、倒れ込みながらクロウの背に思い切り頭突きを見舞ってしまった。

「いでっ! お前何やってんだよ」

 背後からの衝撃に転げそうになるクロウだが、何とかその場に踏みとどまる。

 一方のマキアスはしっかり顔面から転倒しており「す、すみません」と上げた顔からは、土埃と枯れ葉が落ちてくる。

「大丈夫? サラの前でこけなくてよかったね。容赦ないから」

 平坦な口調で言いながら、フィーは膝を払うマキアスを見やる。

「気をつけるよ。というか容赦ないのか? 一応訓練だぞ」

「何言ってんだ。相手はサラだぜ。お前さんの足を片方ずつ撃ち抜いて動けなくしてから、えげつねえ拷問を仕掛けてくるぞ。隠れた俺達をあぶり出す為に、みっともない悲鳴をあげさそうとしてな」

「ま、まさか」

「まさかじゃねえよ。笑いながら順番に指の骨をへし折ってくんだ。その都度、ヘビーな失恋話を耳元で囁きながらな。そこいらの一般人なら確実に精神の均衡を失うぜ」

 ショットガンを握る手がじとりと汗で滲む。

 真顔かつ神妙な口調で言うクロウ。あくびをするだけで否定はしてこないフィー。マキアスはちょっとだけ信じかけていた。 

「そ、それでフィー。この場所がいいのか? 僕にはよくわからないが」

「ここは木が多いから。あと隠れる場所もある」

 フィーの視線に合わせて、マキアスは首を巡らしてみる。確かに大きな木がまばらに立ち並び、ちょっとした茂みも近くにあった。

「会敵の仕方は大事。一応ここに来るまでにわざと関係ない枝を折ったりして、経路の撹乱はしてみたけど、サラには多分通用しないし」

「あの速度で走りながらそんなこともしてたのか……」

 そんな折、周囲を見回していたクロウが口を開いた。

「うし、今から作戦会議だ。サラが俺らを探し当てるまで十分から十五分ってとこか。時間がねえから手短にいくぜ」

 クロウの声音が変わった。空気が薄く張り詰め、ぴりぴりと肌を刺す。戦闘の緊張感が漂い始めた。

「最初に言っとくが、正面から一対一の状況にはなるな。まず勝てねえ。木の陰を走って常に相手を挟み込むように立ち回れ。あと《ARCUS》のリンクは使うな」

「リンクを? なぜですか、コンビネーションで教官に対抗するなら必須だと思うのですが」

「こっちは三人だ。二人がリンクすると一人が溢れちまうだろ。残った一人は阿吽の呼吸を実現しちまう《ARCUS》の連携について来られない。足並みが乱れればサラは必ずそこを狙ってくる」

「そ、そうか。確かにそうですね」

 理路整然と戦局の想定を並べ立てるクロウにマキアスは舌を巻いた。軽薄な口調こそ普段と変わらないが、この戦闘における先見の明には目を見張るものがある。

 先の先を見据え、裏の裏を読む。果たしてこれは生来の業なのか、経験の成せる術なのか。そんな疑問が脳裏をよぎったのも一瞬、傍からフィーが落ち着いた声音を差し挟んだ。

「この辺りにあるもので簡単なトラップ作ってもいいよ。足止めくらいにはなると思う」

「攻撃手段は銃だけじゃないのか?」

「直接の攻撃手段には使わない。攻撃の起点にするだけ。それにフィールド内にあるものなら全て使用していいって言ってた」

 彼女は辺りで使えそうなものに、早くも目星をつけている様子だ。

「最後に弾数の確認とその使用についてだ。俺とフィーは二つの銃に五発ずつ装填する。で、マキアスの散弾銃は一回のトリガーで五発まで同時に撃てるように調整しとけ」

「五発……ですか」

 本来ならもっと多くの弾丸を斉射することができる。しかし今回の指定弾数は十発。

 一回の射撃を五発に抑えても、マキアスには二回しか撃つチャンスがない。加えて両手持ちがスタンダードの為、近距離に入られたら取り回しがどうしても遅れる。

 展開の早さが予想される今回の戦闘は、ショットガンにはいささか分が悪い。

「基本的にマキアスは後方支援だが、当たると判断したらためらわずぶっ放せ。つってもフィーが素早く引っかき回して、俺が中距離から狙うのが理想的だな」

「だね」

「了解です」

 あらかたの役割分担が決まったところで、クロウはフィーに目を向ける。彼女は地面の状態を調べたり、木の枝や蔓を物色していた。

「サラが来るまでに、ちびっこトラップはできそうかよ?」

「……いつかクロウの部屋に爆弾仕掛けるから」

「おっかねえな」

「一体どういうの作ってるんだ?」

 興味深げにマキアスがのぞき込む。

 フィーはその辺に落ちていた蔓を束ねて長いひも状にし、木の根元にくくり付けていた。さらにそのまま地面を這わせた蔓を落ち葉で隠し始める。

「即席ブービートラップ」

「さすがというか、相変わらずの手際だな。ちびっこトラップも侮れないな」

「む。マキアスまでそんなこと言う……――っ!」

 素早く向き直ったフィーは、マキアスの胸を力いっぱいに押した。

 いきなり押し出され、たたらを踏む。同時に響く一発の銃声。

 一秒前までマキアスが立っていた場所にペイント弾が着弾した。赤い飛沫が飛び散り、血痕よろしく地面を紅に染める。

「う、うわあ!?」

「早すぎんだろ……!」

 即座に銃のセーフティを解除して、クロウは焦れた声で言う。

 直後、俊敏な身のこなしで木の上から地面に着地する影。舞い落ちる木の葉の中に、淀みなく持ち上がる銃口。

「さあ、シャロンの洗濯仕事を増やしちゃおうかしら」

 紫電のバレスタイン急襲。赤と青の銃撃戦が始まった。

 

 

「くそっ!」

 サラの目が体勢を崩したマキアスを捉える。

 動揺を隠せないまま、マキアスは応戦のトリガーを引いた。 

「ダメだ、撃つな!」

「え?」

 クロウが制止の声を飛ばした時には遅く、すでに銃弾は放たれていた。

 刹那の内に射線上から退いたサラの脇をかすめ、吐き出された散弾が遠くで青いしぶきを散らせる。

「だめよ、せっかくの散弾を至近距離で撃ったら」

 散弾はその攻撃範囲に真価がある。ただしそれが活きるのは弾道が広がる中距離からだ。至近距離では威力減衰こそ無いものの、肝心の武器特性が活かせない。

 咄嗟の判断を見誤った。しかし悪態をつくよりも早く、サラの銃はマキアスに向けられていた。

「後ろに跳べ!」

 鼓膜に突き刺さる鋭い声。弾かれたように身を退く。絶妙のタイミングで、フィーとクロウの十字火線がサラを狙った。

「あっとと」

 豹を思わせるしなやかな体捌きで、サラは飛来する銃弾を一足飛びに避けた。

「フィー、着地を逃すなよ」

「わかってる」

 サラの足が地に着いた瞬間、双銃剣が四発の咆哮を上げる。放った連射は全て外れ、サラの周囲の土くれを爆ぜさせただけだった。

「残念、はずれね」

 青霧の被膜を裂いた反撃の銃弾が、フィーのすぐそばの木に命中した。

 パァン! と幹から破裂音が響き、返礼の赤いペイント弾が霧状となって視界を奪う。 

「双銃剣の射撃は手数による足止めがメインよ」

 構造的にも双銃剣は精密射撃に向かない。持ち手やグリップの形状から銃撃の反動を流しにくいのだ。あくまでも牽制に用い、接敵の起点にするのがセオリーだ。

「わかってるけど」

 言いながらもう一発。が、悪い視界と定まらない照準では牽制にもならなかった。

 素早くサラは木の裏へと身を隠す。

 フィーとの応酬の間に、サラの死角に回り込んでいたクロウが茂みから飛び出した。

「逃がさねえよ。覚悟しやがれ」

「あら、やるじゃない。でも――」

 肩越しの銃口をクロウへと向け、発砲。

「うお!?」

 ろくに目標も見ずに撃った弾は、恐ろしい正確さでクロウの額に迫った。

 弾道など肉眼で捉えられるはずもないが、反射的に上体を逸らしたクロウの鼻先を銃弾がかすめていく。

 体勢を崩しながらも彼は叫んだ。

「お前の位置がベストだ、撃て!」

 フィーとクロウの銃撃のおかげで、マキアスとサラの距離が開いている。散弾の効果が発揮される距離だ。

 体に染みついた動作でハンドグリップを前後にスライドさせ、空薬莢を排出。マキアスはサラに向けてショットガンを構え直した。

「いける……!」

 位置、範囲は申し分ない。確実に当たる。

 マキアスが引き金に指を掛けた時「そう、その位置がベストね」と、サラは素早く手を地面に潜り込ませ、ぐいと何かを引っ張りあげた。

「何を、おお!?」

 ぴんと張ったロープが、突然足元から持ち上がる。

 いや違う。これはロープではなく蔓だ。さっきフィーが仕掛け途中だったブービートラップ――

 マキアスが理解すると同時に、その足は蔓に絡めとられる。

 不意の衝撃。銃身が激しく震えた。思いがけず指先に力が入り、引き金を引いてしまったのだ。それもでたらめな方向に向かって。

「……っ!」

「やっぱりいい位置。今度こそお終いよ」

 蔓の位置を看破していたサラは、フィーのトラップを利用した。足を絡めとられたマキアスは、成す術なくその場に横転する。

 にわかに鋭さを帯びたサラの瞳が、獲物を見据えた。

「し、しまっ……」

 辺りを鮮烈な光と大音響が支配した。閃光の中に響く声といくつもの銃声。

「くそっ、一時撤退だ!」

「り、了解!」

「こっち。誘導するから目は伏せたままにしといて」

 

 程なくして辺りに静けさが戻る。

 周囲にクロウ達の姿はすでになく、サラは小さく嘆息した。

「閃光手榴弾ね。まあ、直接攻撃に使ってないからいいけど」

 残弾を確認した。そこそこ撃ったから残るは三発だ。

「一人につき一発。問題はないわね。さあ、あの子達ここから巻き返せるかしら?」

 どことなく楽しげな声音でひとりごち、サラは落ち葉の上を歩き始めた。

 

 

「なんつーか、とんでもねえな」

 クロウがため息交じりに言う。

 三人は林のさらに奥、大きめの茂みに身を潜めていた。

 人が立ち入ることはまずないのだろう。開けた場所ではあるが、地面に積もる落ち葉は多く、立ち並ぶ木々も好き放題に枝を伸ばしている。

 フィーは頭にかかった葉っぱを払った。

「さっきは虚を突かれた形だけど、万全の状態で応戦してても際どかったと思う」

「まあな。こちらからはどう攻めるかね」

 腕を組み、思案するクロウ。

 正攻法は意味がない。策を弄しても通じない。中途半端なトラップは逆に利用される始末。

 となれば――

「心理戦で勝つしかねえな」

「……それこそ難しいと思うけど」

 サラが戦闘において彼らより圧倒的に秀でているもの。それは技術よりも相手の手を読む巧みさにある。経験に裏打ちされた心理把握は、二手三手先の展開を予測し、戦いを有利に運ぶのだ。

「だがやるっきゃねえな。長引く程不利になる。次の一手で勝負を決める方法を考えないといけねえ」

「何か策があるの?」

「相手の予想の全てを裏切る」

 短く答えたクロウは、銃に目を落とした。

 熟練者の戦闘予測は言ってしまえば脊髄反射である。その状況が起これば、考えるよりも早く、瞬時に何パターンもの展開を脳が弾き出し、その中から最適な選択を拾い上げる。

 クロウが言うことはつまり、サラが描くであろう全ての選択肢に含まれない行動を取るという事だ。

「サラは戦闘技能も即時の判断も一級品。裏をかく術も熟知してるし、こっちが裏の裏をかこうとすることも多分想定してる。ああ見えて油断もしてないし隙もみせない。そんな相手の虚をつくなんて無理」

 冷静に事実を並べ立てるフィー。そんなことはクロウにももちろん分かっていた。

「だー! 埒があかねえ。おらマキアス、黙りこくってねえでお前も何か案出せ」

 少しの間のあと、マキアスは重たく口を開く。

「僕が囮になる。サラ教官を引き付けている間に、二人で彼女を攻撃して欲しい」

「それは……」

「いいんだ」

 フィーが言いかけるのを制して、マキアスは続けた。

「僕はもう銃弾を撃ち尽くしてしまった。今できることは限られている」

 現在の残弾数はクロウが三発、フィーが二発、マキアスはゼロだ。

「それに、これだ」

「……おいおい」

 右足を二人に見えるように出す。膝下には赤い塗料がべったりと付着していた。

「閃光の中で撤退する時、足を撃たれていたんだ。ルールに従うなら行動障害によって僕はほとんど動けないはず」

 マキアスは先の戦闘で、無駄弾を撃ち、しかも自分のフォローの為に仲間の弾薬も無用に消費させたと思っている。二人の足を引っ張ったと感じていたのだ。

「これ以上、足手まといにはなりたくない」

「気にしなくていい。最初の立ち位置に運がなかっただけ」

 気遣うフィーだが、一方のクロウは何かを考え込んでいる。

「……オーケーだ。お前を囮に使う。サラの残弾は三発のはずだ。一発でも誤射すれば俺達の勝ちが見えてくる」

 すくりと立ち上がり、クロウはマキアスを見る。

「先輩、任せて下さい」 

「クロウ、ちょっと待って」

「わかってる。捨て駒のようには使わねえ。必ず三人生き残った状態で訓練を終わらせるぞ」

 強い口調で彼は告げた。

「チャンスは一度きりだ。お前ら気合い入れろよ」

 

 

 十分後。サラはその区画に到達していた。

「……この辺ね」

 先の撤退の際には、移動の痕跡を消す程の余裕はなかったのだろう。折れた枝葉は進行方向を、不自然に乱れた落ち葉や地面の抉れは、足幅や移動速度を示している。

 油断なくサラは銃を構えた。

「………」

 意識を集中する。感じる。静寂の森林にあって、息を潜める獣の敵意。一つ、二つ、三つ。全員が何かを狙っているという、否応にも肌が粟立つ感覚。

 攻勢の気を隠そうともしていない。むしろ“この場で戦う、応じろ”という彼らのサインか。

 自分を前にしても、逸っていない。急いてもいない。捨て鉢にもなっていない。本気で勝ちを取りにくると分かる。

(どう仕掛けてくるかしら?) 

 誰が何発撃ったかはサラも把握していた。

 先ほどの戦闘結果と、彼らが取るであろう行動を今一度熟考する。こちらの発砲回数も数えられ、残弾数も知られているという前提でだ。

 まず、正攻法では来ない。こっちの弾数を減らそうとしてくる。しかしトラップをいくつも仕掛けている時間はない。現状で効果的な策として考えられるのは、囮を使うこと。クロウとフィーにもその案はあったはずだが、先の戦闘を経て、おそらく提案するのはマキアスだ。彼の性格上、提案したからには自分を囮に使えと言うはず。加えて弾も使い切っているから、その可能性はさらに高い。

 そして――その案は採用されている。多分、クロウによって。

 しかし――自分がここまで読むことは、彼らも承知している、と考えるべきだ。

 ならば――あからさまに囮から姿を現すことはない。

 これら三点を踏まえた上で、必ず何かしらの行動を起こす起点がある――

「っ!」

 研ぎ澄まされ、拡がりゆく意識。その中に投げ込まれた異質な感覚。

 閃光弾だ。直感が告げると同時に、頭上で光と音が炸裂した。咄嗟に目を閉じ、両耳を塞ぎ、口を半分開く。

 第一波の音響を凌げればそれでいい。問題は音よりも光。頭上で作動させたのは、上を見られたくないということ。

「あまい!」

 銃を空に突き出す。収まりつつある閃光の中に見えたのは二つの影。木から勢いよく飛び降りてくるクロウとフィーの姿だった。

 囮にマキアスを使わなかった? あるいは奇襲だけで片が付くと思っていたのか?

 わずかな疑念は一瞬で吹き消して、サラは二人より早く引き金を引いた。

 轟く二発の銃声。狙いは寸分も狂わず、クロウとフィーの胸に命中した。

「ぐっ」

「結構痛い」

 空中でバランスを崩した二人はどさりと地面に落ちる。

 しかし動きは止めず、フィーは木の根元にあった蔓を手繰り引く。クロウが不敵な笑みを浮かべた。

「今だ、マキアス!」

 反射的に、クロウの視線の先に目を向ける。がさりという物音と、銀に煌めく金属質な光――

「そこっ!」

 鋭く銃口の突き付け、迷いなく銃弾を放つ。

 命中。

 ペイント弾とは言え、着弾の衝撃にマキアスの眼鏡はブリッジからへし折れ、レンズが粉々に破砕した。赤い塗料がまるで噴き出した鮮血のようにしぶきを上げ、陽光の下に細かな輝きを拡げながら、その命を散らせゆく。

 そう、蔓に吊るされた眼鏡だけが、砕け散っていた。

「これが囮!? 本体は」

 少し離れた場所で、積み重なった大量の落ち葉が持ち上がる。

 ショットガンを構えたマキアスがその姿を現した。

「今度は外さない! というか本体って何ですか!」

 口に入っていた枯れ葉を吐き出し、照準を合わせるマキアス。

 サラも素早く銃を向け直した。

 そして気付く。自分の弾倉にもう銃弾はない。

 さらに思い至る。マキアスとて弾は尽きている。

 浮上する可能性。フィーとクロウが囮となった意味。

「チェックメイトです、サラ教官!」

「しまった!」

 二人の残った弾丸を、マキアスに託したのか。

 応戦はできない。射線からの回避を――

 思いかけて、芋蔓式に引き出した最後の答えは、回避不能。なぜならば、

「ショットガンの攻撃範囲は広い。ですよね?」

 引き切られたトリガー。斉射される散弾。

 数発が命中し、サラの赤髪が青く染まった。

 

 

「うえー、ギムナジウムでシャワー浴びなきゃだめじゃない」

 べっとりと髪についた青い塗料を拭いながら、サラはうめいていた。

「似合ってるぜ」

「うん、いいんじゃない」

「あ、あんた達ねえ!」

 訓練終了。三人の勝利である。

 サラの裏をかくことに成功したクロウもフィーも上機嫌な様子だった。ただ一人マキアスを除いて。

「僕の眼鏡……実家にスペアあったかな……」

 意気消沈の肩をクロウが強く叩く。

「しゃきっとしろって。なんたってサラ教官殿を完封したんだぜ。胸張れよ」

 にんまりと口の端を上げて、サラに目をやる。

「なーに言ってんのよ。マキアスはともかく、あんたとフィーにはちゃんと当てたじゃない。完封なわけないでしょ」

「おいおい、よく見てくれよ。なあ?」

「だね」

 クロウとフィーは意味ありげな目配せをしてみせたあと、それぞれの武器を取り出した。

「何のことよ……ん?」

 サラは気付いた。ペイント弾が直撃したはずの二人の学院服は小奇麗なままだ。その代わりに赤く染まっているのは、二人が手にしている二対の銃。

 クロウもフィーも、銃身でサラの攻撃をちゃっかり防いでいたのだ。

「余裕だぜ」

「ぶい」

「僕の眼鏡……」  

 常に相手の裏を取ろうとするクロウ

 立案を実現する技能を持つフィー

 戦況を正しく把握し、作戦を実直にこなすマキアス 

 Ⅶ組きってのガンナー達の連携に、今度こそサラは認めざるを得なかった。

「まったく……今回ばかりはあたしの完敗ね」

 

 ●

 

 夕方。第三学生寮、洗濯場にゴシゴシという音が絶え間なく響く。

 クロウ、マキアス、フィーは順番に肩を並べ、服の汚れをひたすら落としていた。直撃こそしていないものの、飛び散った赤い飛沫が服のあちらこちらに付着していたのだ。

 シャロンが洗濯を申し出てくれたが、この程度は自分達でやると告げ、今に至るわけである。

「赤服だから目立たなくてまだよかったぜ。おい、そっちの洗剤取ってくれ」

「眼鏡がないので見えません」

 ぷいとそっぽを向くマキアス。

「まだ怒ってんのか? お前が囮を買って出たんだろうがよ」

「眼鏡を囮にするなんて言ってませんよ!」

 抵抗空しく取り上げられたマキアスの眼鏡は、その場でフィーが蔓を巻き付け、トラップの一部にしたのだった。

 さらにマキアスを地面に隠すため、寝そべって不自然にならないように穴を掘り、枯れ葉でカムフラージュを施した。

 しかし限られた時間の中での作業は乱雑を極め、最終的に二人掛かりでマキアスの頭をぎゅうぎゅうと地面に押し込み、一通りの体裁を保ったあとは、雪崩のように落ち葉をかけまくると言う非道なやり口で、最後の仕込みを済ましていたのだ。

「またコッペパンあげるから」

 上着の汚れをこする手は止めずにフィーが言う。

「コッペパン一つで眼鏡と釣り合うわけがないだろう」

「何個ならいいの?」

「そういう問題じゃなくてだな……」

 騒がしくなった洗濯室をシャロンが覗き込んだ。

「どうかなさいましたか?」

 声をかけたシャロンに気付く様子もなく、相変わらずやいやいと言い合う三人。

 その横並ぶ後ろ姿を見て、微笑ましげに頬を緩めると、彼女は率直な感想を口にした。

「まるで仲の良いご兄妹のようですね」

 

 

 ~FIN

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆おまけ☆

 

 昼休み。弁当を片手にエマは走っていた。

 今日はコッペパンを昼食にするというフィーの為に、野菜たっぷり栄養満点のお弁当を持ってきていたのだ。

 が、いざ昼休みになるとフィーの姿は見当たらない。そういうわけで彼女のことを探し回っているのだが。

「はあっ、はあ」

 息を切らして走るほど切羽詰まっているのは、フィー捜索の為ではない。

 自分の後ろを、もの凄い速さで追走してくる用務員がいるからだ。

「今日も元気がよくて何よりだ。紅のグラマラス」

「学院でその名前はやめて下さいー!」

 歩いているエマを見つけるなり、まるで獲物が巣にかかった蜘蛛のように、ガイラーは機敏な動きでエマを追いかけ回し始めた。

 脇にいつもの封筒を抱えながら。

「待ちたまえ。新作ができたのだよ。『リィンのバラ色愛道中』というタイトルでね。様々な愛の形を知る群像劇なのだが――」

「だからリィンさんだけ本名を使うのやめてあげて下さい」

「ふふ、君は優しいな。まさかリィン君のことを? やめておきたまえ。不健全だ」

「そ、そんなんじゃありませんから! そもそも不健全じゃないですし。いえ、私とリィンさんがということじゃなくてですね! というかガイラーさんの思考回路が分からないんですが。もう、何なんですか!」

 頭に浮かんだ言葉をまとめる余裕もなく、中庭前まで逃げてきたところで、エマは急制動、急転回。ガイラーに向き直った。

「鬼ごっこは終わりかね?」

「またこの展開ですか……」

 弁当を道の端に置き、魔導杖を構えるエマ。

 フィーを探せばガイラーに当たるというジンクスである。最近エマはフィーを捜索する際、魔導杖を持つようにしていた。

 前口上も、威嚇も、交渉も、全て不必要なことを知っている。

 魔導杖が鳴動し、光陣が浮き立つ。五本の輝く大剣が生成され、エマの周囲に滞空する。波動が大気をびりびりと震わせた。

「いいね。実にいい。年甲斐もなく胸が高まるよ」

「手加減はできませんよ?」

「ふふ、愚問だね」

 エマは息を吸い、魔導杖を高く掲げた。

「なんと……!」

 ありったけの力を注ぎ込む。輝く粒子が大剣をさらに作り上げていく。

「まだ……っ」

 扇状に展開していくその数は、実に十五本。日々迫り来るガイラーを退け続ける内に、いつの間にかエマの力は跳ね上がっていた。

 彼との一度の戦闘で得られる経験は、旧校舎探索の三往復分に相当するとかしないとか。

「えい!」

 掛け声と共に、並び立つ光剣がガイラーに襲い掛かる。軌道、タイミングも多種多様だ。

 回避の隙間もない容赦ない連撃に、ガイラーは後ろに飛び退いた。その先には中庭の池がある。そこに相手を誘導するように、エマは剣を巧みに飛ばした。

「もう少し――え?」

 ガイラーの後ろに人影が見えた。

 池で釣りをしている白服の生徒。ケネス・レイクロードだ。集中するあまり、エマは彼に気付かなかったのだ。

「ん?」

 急に波打ち始めた水面に、ケネスも異変を察知し、校舎側に目を向ける。

 直後、視界いっぱいに広がる用務員の背中と、傍らを抜けていく幾重もの閃光。

「え? え?」

 戸惑いもわずか、ぶつかってきたガイラーの背中に押し出され、ケネスは池の中にざっぱーんと落ちた。

「む、いかん。未来ある青い果実が!」

 落ちたケネスを助ける為か、ガイラーも池の中へと飛び込んだ。

 しかしガイラーと入れ違うように、ケネスはすぐさま水面に顔を出す。

「げほっ、何だったんだ……最近何だかよく池に落ちるな」

「よ、よかった」

 岸の柵を掴んだ彼を見て、エマはほっと胸をなで下ろす。

 ケネスが体を外へと持ち上げ、片足を池の淵にかけた時だった。

 水中から突如として伸びた腕が、その足首をがしっと捕まえた。 

「へっ? うわあああ!」

 しわだらけの魔の手が、無垢な釣り人を再び池の中へと誘う。

 困惑と焦燥にかられる中、ケネスも必死に抵抗を試みる。しかし陰湿かつ執拗な手練手管には抗えきれない。半身は徐々に水中へと引きずり込まれていった。

「ひっ、何だよ、これ? わ!? ど、どこさわって……やめっ、やめてええ!」

 ついに彼の手が柵から離れる。ごぼごぼと音を立てて水中に消えてしまった釣皇倶楽部の部長。

 捕食される獲物の最後。ばしゃばしゃと水面から水しぶきが上がっていたが、しばらくするとそれすらもなくなった。

 呆然と立ち尽くすエマ

「………」

 助けに行ったんじゃなかったんですか。

 思っただけで声に出す気力はなく、置いていた弁当を拾い上げると、エマはふらふらとその場を去っていった。

 

 その後少しして、中庭のベンチに力なく横たわるケネスの姿があった。

 まるで魂を奪われた抜け殻のように、彼は動かない。時折、閉じた瞳の端から思い出したように一筋の涙が流れるのみだ。

 フィーを探すとガイラーに当たるというエマのジンクスと同様に、フィー関連に間接的にでも巻き込まれば、もれなく不幸が訪れるというジンクスが、ケネスの中に着々と刻まれつつあった。

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 

 

 ――後日談――

 

 フィーは寮の自室で浮かない顔をしていた。

 思い返すのは先日、クロウ達と行った特別訓練のことである。

 はっきり言ってあの場所は自分の得意とするフィールドであった。使えそうな素材は山ほどあったし、トラップを作るにも手間取るはずはなかった。

 しかし初回のトラップは完成させられなかったあげく、逆にサラに利用されてしまった。効果があったのは最後の眼鏡トラップだが、あれをトラップと呼んでいいのかは正直微妙だ。

 正攻法スタイルが多いⅦ組勢にあって、搦め手で敵を翻弄したり、足止めをする必要があった場合、それができるのは自分だけだというのに。

「というわけなんだけど」

「うんうん、なるほどねー」

 そんな懸念を吐露するフィーの前には、絶え間なくお菓子を口に運び続けるミリアムがいた。

「聞いてた? ミリアム」

「ちゃんと聞いてたよ、もぐ。要するにトラップ作りの、あぐ。勘を取り戻したらいいんでしょ、むぐ」

「飲み込んでから話して」

「うん、ちょっと待って、むぐぐ」

 グラスのジュースを飲み干したミリアムは、満足そうな表情を浮かべた。

「んー、こんなのはどう?」

「なに?」

「学院中にトラップを仕掛けるんだよ。広いし、色んなシチュエーションがあるし。それで罠だらけの学院の中を、Ⅶ組のみんなで宝探しとかしてもらうんだ」

 トラップとは心理戦の集大成の一つである。相手の行動を先読みし、逆手に取り、仕留める。学院中に大量に罠を仕掛ければ、嫌でも勘は戻ってくるだろう。

「それは……いいかも」

 それに何より、幼さの残る感性が面白そうだと叫んでいた。

「でしょー。ボクも手伝うからさ」

「ミリアムもトラップ作れるの?」

「工作技術はあるから大丈夫だよ。機械関係の仕掛けや、機材の用意とかもできるよ。クレアにも協力してもらおっと」

 ミリアムの言う工作は、おそらく図画工作の類ではなく、破壊、隠蔽工作の方だ。

 さっそく二人は模造紙を引っ張り出してきて、学院の見取り図を描きながら、あーでもないこーでもないと議論を重ねる。

「ちょっと楽しみ、かな」

「にしし、ボクもー!」

 最年少二人組の企みは、水面下で進行中である。

 

 

~『ちびっこトラップ』に続く~

 

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。
前回が剣士達のお話だったので、今回は銃使い達のお話にしてみました。クロウは完封と言っていますが、実際は辛勝というところでしょうか。

そういえばずっと疑問だったのですが、導力銃って導力の力で銃弾を飛ばしているのか、導力そのもののエネルギー弾を飛ばしているのか、どっちなんでしょう? 薬莢が落ちる演出があったり、ポンプアクションがあったりと、銃弾がありそうな感じなんですが……
詳しい方がおられれば、ぜひ教えて頂きたいですね!

では次は話の大枠を進めるインターミッションとなります。この話のあとストーリーは十月に入りますので、今後もお付き合い頂ければ何よりです。


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Intermission ~エリゼ来訪(前編)

 九月二十五、二十六日の二日間に渡って実施されたオルディス、ルーレでの特別実習は終了した。

 特にアクシデントが起こったのはルーレ班だった。複雑に入り組んだ背景や手回しの下、ザクセン鉄鋼山を帝国解放戦線が占拠するという事件が発生したのだ。

 事の一端に関わったことで奔走するルーレ班だったが、合流したアンゼリカ、ジョルジュ両名の力添えもあって、見事その状況の打破に成功する。

 世間に公表された結果だけを述べるなら、帝国解放戦線の事実上の壊滅――すなわち、リーダーたる《C》の死亡という結末によって。

 実習を終えて数日が経った九月の末日。

 貴族派と革新派の対立。帝国解放戦線、幹部《S》と《V》の行方捜索。揺らぐ不穏の影は残るものの、表面上は鎮静化に向けて動き出していた。

 

「俺が一番乗りか」

 平日の昼下がり。第三学生寮の閑散としたエントランスを見渡した。

 今日のカリキュラムは午前中の簡単なホームルームで終了。さらに明日は平日にも関わらず、Ⅶ組は学院に登校しなくてもよいことになっていた。

 これはヴァンダイク学院長の計らいだ。

 特別実習の最中にテロに直面し、図らずもこれを退けたⅦ組への休息を便宜してくれたのである。

 とはいえ他の学生の手前もあって休暇扱いにはできず、名目上は“自主学習”という形であるが。

「リィン様。お帰りなさいませ」

 リビングの掃除をしていたシャロンは、手を止めてリィンを出迎えた。

「みんなはまだみたいですね?」

 この後は空いた午後の時間を利用して、Ⅶ組全員参加のとあるミーティングを行うことになっている。

「はい、他の皆様はまだお戻りではありませんわ。ああ、そうです。リィン様――」

「帰ったわよ」

 シャロンの言葉を遮るように扉が開き、アリサが寮に帰ってきた。

「お帰りなさいませ、お嬢様。それでリィン様、あの――」

 アリサへの出迎えもそこそこに、シャロンがリィンに何か言おうとしたところで、

「リィンとアリサだけ? 遅れちゃいけないと思って急いできたんだけど」

「もう少しゆっくりでも良かったな」

 エリオットとガイウスも帰ってくる。

「これはお二人ともお帰りなさいませ。リィン様、実は――」

「ただいま」

 今度はフィーが帰ってきた。

 その後もシャロンが口を開きかけると、その都度エマが、マキアスが、ラウラが、ユーシスが、ミリアムが、クロウが寮の扉を開き、彼女の言葉は中断され続けるのだった。

「……もう大丈夫ですね」

 全員が寮に帰ってきたタイミングを見計らい、こほんと小さく咳払いするシャロン。

「さっそくですが、リィン様」

「はーい、みんなそろってるー?」

 勢いよく扉が開き、サラが軽快な足取りでラウンジに入ってきた。

 微笑みは崩さないまま、シャロンは物憂げな表情を浮かべる。

「サラ様にはいつも困ってしまいます」

「……出会い頭に何なわけ?」

「サラ様こわい。シャロンの足は震えておりますわ」

「あたしの拳も震えているわよ?」

 アンニュイなため息を付いてみせたシャロンに、サラが眉根を寄せて詰め寄る。

 お姉さん達のいつものやり取りには慣れたもので、誰もが風景の一部として流している。最近では仲裁の口を挟むのはエマくらいのものだ。

「見てみなさい、あたしの頬を。苛立ちに引きつって震えているわ」

「サラ様の迫力満点のお声に、シャロンの鼓膜も打ち震えております」

 謎の震える合戦が展開されていく中で「あの、サラ教官そろそろ……」と二人の間に割って入ったのは、例にもれずエマだった。

「む、そうだったわね」

「では(わたくし)はお飲み物の準備を。サラ様はいつものレモンティーで宜しいですか?」

「冷たい方でよろしく。じゃなくて、この、あれよ、覚えてなさいよ!」

 気勢を削がれ、図らずも敗北側の捨て台詞を叫んでしまったサラ。

 怒りの矛先が向き直される前にと、シャロンは足早にキッチンへと姿を消していた。

「ったく……はい、じゃあ臨時ミーティング始めるわよ」

 すでにリィン達は食卓用の長テーブルを囲んで座っている。空いている席の一つにサラも腰かけた。

 臨時ミーティング。全員の視線がラウンジのソファーに集中する。正確にはソファーの上で丸まって眠っている一匹の子犬にだ。

「ルビィの新しい飼い主探し。これについてね」

 それが今回のミーティングの議題。

 八月中旬にルビィを預かって、はや一か月半。学院長との約束で、第三学生寮でルビィの面倒を見ていいのは二か月間だけになっている。

 つまりあと二週間以内に新しい飼い主を探さなくてはならないのだ。

 万が一、引き取り手が見つからなかった場合、そういった動物の保護団体に預けて里親の募集をかけるしかないが、あまりいい結果は想像できない。

 クロウがサラに目をやった。

「サラが飼えばいいんじゃねえか? ルビィが一番懐いてるのはサラだろ」

 屋上から落ちそうになっていたところを助けたからか、ルビィは彼女にもっとも懐いている。

 サラが『待て』と言えばどれだけでも待つし、寮に帰ってきた彼女を出迎える速度はシャロンよりも早い。

 ルビィがソファーにもおらず、散歩にも行っていないなら、定位置は大体サラの膝の上である。

 サラもそんなルビィを可愛がっていた。

「そうしたいんだけどね。でも私も結局は寮住まいだから、そもそも無理なのよ」

 どこか気落ちした様子である、ルビィと離れるのはやはり寂しいらしい。

「何にせよ、まずは案を絞らないとね。第一案としてⅦ組の誰かの実家っていうのは?」

 サラの視線がぐるりと全員を回る。

「俺は無理だ」

 最初に声を上げたのはユーシスだった。

「アルバレア家城館に連れて行ったところで、口には出さないだろうが厄介扱いされるのは目に見えている。そいつの為にもなるまい」

「それはそうよねえ……」

 続けて、

「ノルドも難しいな。広大な土地だが遊牧民と共に暮らす以上は、猟犬の役割も求められるだろう」

 困り顔で腕を組むガイウス。横のアリサも考え込んでいる。

「私の家ってラインフォルト本社だし、今までみたいに自由に外には出れないと思うわ。あと母様にお願いするのは……」

 自立するんじゃなくて? などの小言が飛んでくるのが目に見えている。

 マキアスもうなっていた。

「僕の実家ならいけそうだが、何しろ父はあまり帰ってこないし、世話する人間がいないんだよな。そもそもルビィ、僕の言う事あんまり聞かないし」

 犬は本能的に属する集団の中で順位付けを行う。『ご飯をくれる』『散歩に連れて行ってくれる』『集団の中での扱い』などから総合的にランクが決まるのだが、悲しいことにマキアスの位置づけは、さほど高くなかったりする。

 ちなみに現在の順位のトップはサラで、次点ではシャロンがランクインだ。

 順位付けの重要なファクターに、『逆らうべきでない存在』というのもあり、シャロンに関しては野生の本能が告げた結果であった。

 話し合いが続き、その結果絞られた案は――

 エリオットでヘイムダル。

 ラウラでレグラム。

 リィンでユミル。

 その三人だった。

「僕の場合は姉さんに聞いてみないとわからないなあ。家を空けることもあるし……」

「私の実家か。頼み込めば何とかなりそうではあるが……しかし、世話をクラウス達だけに任せると言うのも考え物だ」

「俺も同じくだ。……卒業後のことはまだ分からないしな」

 可能性のある三人だが、ネックになっているのは学生という立場だ。寮住まいである以上、どうしても実家の人間に世話を任せる形になってしまう。

 とりあえず一考するという形に落ち着き、続いて第二案。

「町、学院関係者に頼み込む案ね」

 トリスタでルビィはそこそこ顔を知られている。自由に外を出歩くが意外におとなしく、行儀もいい。可愛がってくれる人も多いのだ。

 学院関係者というのは、あれほどの人数が集まっている場所なので、数撃てば当たる策の一つとして挙げられていた。

「この二つに関しては全員が自由に動ける明日を利用して、みんなで聞き回ろうと思うんだけど、どうかしら?」

 サラの提案には誰も異を唱えなかった。こればかりは直接自分達の足で赴き、事情を説明してお願いするしかない。

 以前からその案はあったのだが、中々まとまった時間が取れず実行に移せなかった。学院長が手配してくれた実質の休暇である明日は絶好の機会だったのだ。

 ある程度の方向性がまとまったところで、

「それじゃこの辺りで解散としましょう。そんなわけで明日も動き回るわけだし、今日はしっかり休んどきなさい」

 号令を合図にミーティングは終了し、それぞれが席を立つ。

「僕らの中の誰かが引き取れたら一番いいんだけどね。今度姉さんに会って聞いてくるよ」

「私は手紙で父上に伺いを立てねばな。タイミングよく読んでもらえるといいが……」

「俺も手紙だな。本来なら会って頼むべきなんだろうが、ユミルまでは気軽に行き帰りできる距離じゃないし」

 飼い主候補の三人も立ち上がる

 寮に帰ってそのままミーティングだった為、鞄も脇に置いたままだ。一人二人と自室に向かおうとする彼らの背を見て、サラが思い出したように言った。

「そういえばもう一つ連絡事項があったんだけど――」

 足を止めて、サラに振り返るリィン達。

「んー、まあそれは明日に回すとするわ。どうせみんなそろってるわけだし」

 一人で納得したらしいサラは鼻歌を交じりで、グラスに口を付ける。彼女の思わせぶりな発言も、日常茶飯事の事である。

「あ、リィン様。少々お伝えすることが――」

 話し合いが終わった雰囲気を察して、シャロンが調理場から顔を出す。リィンはすでに階段を登っていた。

「すみません、鞄を部屋に置いたらすぐに戻ってきますので」

「まあ……困りましたわ」

 言葉だけで、さほど困った様子も見せず、シャロンはリィンの背中を見送った。

 

「ルビィの飼い主か。いい人が見つかればいいんだが」

 リィンは自室のドアノブに手をかける。

 ユミルという案が出たものの、実を言えばリィンは実家を頼ることに乗り気ではなかった。

 理由はいくつかあるが、一つの大きな引っ掛かりは、未だ自分の進路が未確定だということだった。

 家を出る。という考えも頭の隅にはまだ残っている。勝手を承知で家を出て、さらにこれ以上の頼み事を両親にできるはずもない。

 一つ息を吐いて、ドアを開ける。

「お帰りなさいませ」

 部屋に足を踏み入れるなり、聞き覚えのある声が耳に届く。

 びくりとして、リィンはうつむき加減だった視線を持ち上げた。

「浮かないお顔ですね。私に会うのはそんなに気の進まないことでしたか」

 流れるような長い黒髪。澄んだ空色の瞳。

「ずいぶんお待ちしました。声は聞こえていたのでお帰りは早かったようですが、心の準備でもなさっていたのですか」

 清楚な佇まい。しとやかながらも、どこか棘のある声音。愛嬌のある可憐な丸い瞳は、今ばかりは不機嫌そうに細められている。

「え、え、え……」

 まったく予想しない人物の来訪に、リィンは思いがけず足を引いた。

「エリゼ!?」

 狼狽を見せる兄をよそに、エリゼ・シュバルツァーは上品な仕草でスカートの裾を持ち上げた。

「ご無沙汰しております。兄様」

 

 

 

 ――『Intermission~エリゼ来訪』――

 

 

 

 事前に手紙は貰っていたか。それとも元々今日来る話になっていたか。あるいはまた何か妹の不興を買ったか。

 先ほどからシャロンが言いかけていたのはエリゼのことか。聞いておけば良かったと、詮無い後悔が冷たい汗となって背に滲む。

 前に会ったのは二か月と少し前。

 リィンが送った手紙の内容に不審を感じたエリゼが、直接学院を訪れた時。

 そして帝都における帝国解放戦線のテロに、アルフィン皇女共々巻き込まれたのを救出した時である。

 あれから手紙は何通か送っている。

 内容は近況報告を兼ねた他愛ないもので、前回のようにエリゼが有無を言わせず乗り込んでくるような代物ではなかったはずだ。

 高速で頭を巡りゆく思考が取りまとめたリィンの第一声は、シンプルなものだった。

「どうしてここにいるんだ?」

「それはご自分の胸にお聞きになって下さい」

 投げ渡されたキラーパス。二か月前にも同様の言葉を言われた記憶がある。

 リィンは確信した。エリゼは怒っている。怒っていらっしゃる。

「………」

「………」

 石化の無言。凍結の沈黙。いかなる装飾品でも防げない、強力無比な状態異常が部屋に充満していく。

 一筋の汗が頬を伝い、リィンはずしりと重たくなった口を開いた。

「その」

「なんでしょうか」

 コンマ一秒で返ってくる抑揚のない応答。

 リィンは慎重を重ね、万全を期し、己の発するべき言葉を選別していく。

 何せ相手はエリゼである。『空の女神に誓って兄様をうっとうしいと思う事なんてありえない』と宣言した数分後には『兄様のバカッ、朴念仁! 分からず屋! 大っ嫌い!!』という女神も真っ青の怒涛の連撃を繰り出すのだから。

 後手に回れば不利になる。先手必勝しかありえない。この手で道を切り開く。

「すまん、この通りだ!」

「なにがでしょうか」

 兄様スキル“先制の平謝り”は不発に終わった。

「もう……妹相手に軽々しく頭を下げないで下さい」

 エリゼの口調がわずかに柔らかくなったのを感じて、リィンは心の内で安堵する。

「何を安心なさっているのですか」

 看破されていた。幼少期よりリィンをそばで見続けていたエリゼは、兄の心の動きに人一倍敏感である。

「最後にお会いしてから二か月半です」

「そうだな」

「以前学院の屋上で言って下さいましたよね。今後は時間を作って私の顔を見に来ると」

「……言ったな」

「そっちが遊びに来てくれてもいいんだ、とも」

 ようやくエリゼの不満を理解した。

 怒っているのだ、言葉通り自分が会いに行かなかったことを。

「……そ、それはだな」 

 “学業や実習で忙しかった”は通用しない。“まだ二か月しか経っていない”も地雷だ。

 納得をしてもらえる理由はないだろうか。正当性があって、事実に基づき、仕方がないと思ってもらえるだけの理由が。

 “帝国解放戦線を壊滅させるのに忙しかった”はどうだろう。

 それもダメだ。学生の本分からかけ離れ過ぎている。語弊のある内容で実家に報告されようものなら、両親が教官室に馬で乗り込んでくるレベルだ。

「悪かった。俺の時間作りが下手なせいだ」

 ありのままを語るしかなかった。

 忙しさにかまけていた訳でもないが、連日のカリキュラムに飛び込んでくる依頼の数々、十月下旬にある学院祭でのステージ打ち合わせ、気が付けば特別実習と、多忙極まる日々である。

 それでもエリゼに手紙を書く時間は捻出したが、会いに行くとなると互いの時間調整諸々の事情で、簡単ではなかったのだ。

「いいんです。兄様の日々のお忙しさは分かっているつもりですから。なので今日こうして訪ねてきたのです」

 ようやく口調から険が取れたエリゼ。

 落ち着いたところでリィンもいくつかの疑問を口にする。

「来るんならどうして手紙で知らせてくれなかったんだ?」

「手紙より直接伺った方が早いからです」

 聖アストライア女学院があるサンクト地区からは、導力トラムの乗継ぎ次第では一時間程度でトリスタまで来れる。 

「というか今日は平日だぞ。女学院はどうしたんだ?」

「兄様、今日は祝日です。軍の在り方に倣う士官学院ではあまり関係ないのでしょうけど」

 リィンは失念していたが、世間的に今日は休日であった。夏至祭などの行事も含まれるが、帝国にも国が定めた祝日は存在する。

「でも今日、俺が午前中で授業終わるって知らなかっただろ。なんでこんなに早く来たんだ?」

「それは姫様にあんなことを言われたから……い、いえ個人的な事情です」

 なぜか彼女は口ごもった。

 エリゼは何の目的で来たのだろう。念押しと釘刺しを兼ねて、ただ自分に会いに来ただけなのだろうか。

 真意は分からないが、こうしてわざわざ訪ねて来てくれたのだ。兄として無下にできないことだけは確かだ。

「せっかくだからトリスタの町を案内しようか? 前はそんな時間もなかったからな」

「ほ、本当ですか?」

 ぱっとエリゼの顔が明るくなった。

「ああ、今日の午後は空いてるんだ。そこまで広くない町だから、すぐに見回れると思うが」

「兄様とお出かけ……いつ以来でしょう」

 年相応に表情を綻ばせるエリゼ。ようやく機嫌が直ったと、リィンは胸中で吐息を付いた。

 

「――というわけなんだ」

 一階ラウンジに再び集まった全員の前で、リィンは件の経緯をまとめ伝えた。

 そのとなりに控えるエリゼは、

「お久しぶりです。いつも兄がお世話になっております」

 いかにも貴族子女らしい洗練された所作で一礼してみせる。

「リィンの妹さん、来てたんだ」

「シャロンも先に言いなさいよね」

「まあ、これは心外ですわ」

「ふふ、やはり慕われているのだな」

「ゆっくりしていくがいい」

 などそれぞれの感想をもらしながらも、場は歓迎のムードである。

「そういうことで、ちょっとトリスタを案内してくる。それじゃ行こうか、エリゼ」

「はい、兄様。それでは失礼いたします」

 もう一度ペコリと頭を下げたエリゼは、先に歩き出したリィンのあとを小走りで追う。

 何だかんだで仲睦まじい兄妹の後ろ姿だった。

 

 ●

 

 トリスタの町は帝都から近く、さらに学院生も多いことから活気がある。

 さりとて規模の大きい町ではない。こじんまりした街並みに、必要なものが一通りまとまっている――というのがエリゼの印象だった。

 だから町を見回るといっても、さほどの時間潰しにはならない。

 エリゼにとってはそれでも良かったのだが、傍目に見てもリィンは悩んでいる。どこを案内するか迷っているのだろう。 

 本屋、花屋、雑貨屋。前は通ったものの、あえて入る必要まではない。

 《ル・サージュ》にも連れて行ってくれたが、いかんせん本店が帝都にある。リィンもそれを思い出したらしく、店内には入らなかった。

 そして裏通りにある《ミヒュト》という質屋を紹介された。何かとⅦ組が世話になるお店のようで、ここにはちょっと興味があったのだが、リィンは店構えしか見せてくれなかった。

 店主が不愛想だからという理由らしい。それこそ気にしないのだが。

 結局たどり着いた場所は喫茶《キルシェ》だった。

 テラスのテーブルに向かい合って座り、リィンはコーヒーを、エリゼは紅茶を口にしながら他愛ない会話を交わす。

「帝都に比べると小さな町だろ。あまり見るところがなくて、つまらなかったか?」

「そんなことありません。楽しいです」

 少し焦った様子で、首を横に振るエリゼ。

「それならよかった。言葉数が少ない気がしたからさ。やっぱり面白くないのかと思って」

「せっかく兄様とお出かけするのですから、どこに行こうとも退屈ではありません。ただ――」

 エリゼは辺りを見渡した。

「私の知らない場所、知らない人達の中で、兄様はどのように毎日を過ごしていたんだろうと、ふと思っただけです」

 リィンのことは誰よりも知っているつもりだった。ずっと同じ屋敷で育ってきたのだから。

 自分の知る兄を、自分の知らない人達が知っているというのは、どこか不思議な感覚だ。同時になぜか落ち着かない気持ちにもなる。

 Ⅶ組のメンバー。皆いい人たちばかりだ。リィンが心を許し、信頼しているのが分かる。

 それは素直に嬉しいと思う。 

 けれど、ほんのちょっとだけ寂しいと感じるのは、自分の元から離れていってしまうような気がするからだろうか。

 紅茶から立ち昇る白い湯気を、エリゼは吐息で揺らしてみた。 

「もうすっかり秋だな」

「ですね」

 中央広場の木の葉は色合いを変え、風が吹くたびにひらひらと散っている。

 残暑の日光もなりを潜め、過ごしやすい季節になっていた。

「年末は士官学院もお休みになるのですか?」

「そこはさすがにな。三日くらいらしいが」

「私はユミルに帰省するつもりですが、兄様はどうされますか?」

「うーん、まだどうなるかは……」

「兄様」

 物言いたげな視線を注ぐと、リィンはたじろいだ。

「わ、わかってる。顔は出すつもりだ」

「はい」

 納得し、うなずくエリゼ。とはいえリィンのことである。日が近くなって来たら、念押しの手紙は送らないといけないが。

 十二月の末。ほんの三か月先だ。その頃自分は何をしているのだろう。いや、今まで通りか。

 これまで通り、規則の厳しい寮に住まい、毎日机に向かってお勉強。空いた時間は学友たちと楽しい時間を過ごす。

 変わらない日常が続くだけだ。

「アルフィン殿下はお変わりないか?」

「えっ? ええ、姫様も相変わらずです」

 その名前を出されて、内心ドキリとする。今日、居ても立ってもいられずトリスタまで直行してきたのは、彼女が原因だ。

 姫様があんなことを言うから――

「どうした?」

「な、なんでもありませんけど?」

 声が上ずるエリゼ。訝しげにリィンがのぞき込んでくる。

「いや、やっぱり調子が悪いんじゃないのか? なんならシャロンさんに薬を用意してもらうぞ」

「本当に大丈夫ですから――」

 ワンっと会話を遮る元気のいい鳴き声。

 エリゼにとっての助け船は意外なところからやってきた。

 ぱたぱたと尻尾を振って、散歩用のリードを口にくわえたルビィが、いつの間にかテラスの端に座っていた。

 

 

「しまった、忘れてた。そういえば今日の散歩当番は俺だったな」

 これ見よがしに地面に置かれたリードを見て、リィンは思い出した。

「悪いな、ルビィ。わざわざ探しに来てくれたのか」

 ルビィの散歩は朝夕の一日二回。朝は基本的にシャロンが、夕はサラを含めたⅦ組全員でローテーションを組んで行っている。

「えーと、自由に外に出られるのなら散歩の意味あるんですか?」

「まあ、習慣みたいなものだ。俺達の気分転換にも丁度いいしな」

 散歩の仕方も人によって様々で、たとえばガイウスの場合は街道まで出て、風景画の下絵を描いて帰ってくるのだが、ルビィはその同行だ。時々モデルになっていたりもする。

 フィーの場合は家と家の隙間やら、妙に狭く通りにくい所をルートにしている。どこから登ったのか、以前は屋根の上を散歩していたこともある。

 リィンの場合はアノール川まで連れて行き、釣りの傍ら、川縁でルビィを話し相手にするといった具合だ。

 不遇なのはマキアスだ。散歩途中に高確率でルビィが逃げ出すので、彼の散歩は逃亡したルビィを捕まえるまでというエンドレスルートになるのが定番だ。

 大体は彼がヘトヘトになりながら町中を探し回っている間に、先にルビィは寮に帰っているのだが。

「せっかくだし散歩がてら町を一週してから帰るか。エリゼは時間まだ大丈夫か?」

「はい、時間なら今日はありますので」 

 改めてリードを手にし、リィンはルビィを連れて歩き出した。

 

 エリゼと一緒に通った道を、今度は逆に回りながら、二人と一匹は第三学生寮への帰路に着く。 

 道すがら、リィンはルビィを預かった経緯と、三人の飼い主候補の中に自分がいることをエリゼに伝えた。

「ユミル……ですか。お父様にお願いするのですか?」

「ああ、まあ、そうなるな」

「乗り気ではないようですね」

「そうだな。時期によって豪雪地帯になるし、それよりうちにはもうバドがいるし」

 バド、というのはシュバルツァー家の猟犬である。

「それだけですか?」

 エリゼは含みのある横目をリィンに向けた。

「親子に無用な遠慮は必要ないかと思いますが」

「……そうだな」

 にわかに機嫌が悪くなりかけているエリゼを見て、リィンは汗の滲む額を拭う。

「すまない。父さんには手紙を送るつもりだ」

「もう、兄様」

 ぷいと反対方向を向いてしまう。エリゼの機嫌は山の天気のようだ。他の人にはそんなこともないのに。

 なんとか妹をなだめようと、あれこれと話題を変える内、いつの間にか第三学生寮に到着である。

 扉前でいったん足を止め、リィンはドアノブに手をかけた。

「これで機嫌を直してくれるといいんだが」

 寮の扉をゆっくり開く。

 エリゼはラウンジの光景に「わあ……」と思わず声をもらした。

 中央の長テーブルには、おしゃれなテーブルクロス。

 上品な花々で飾り立てられた卓上には、たくさんの大皿やグラス。その周りでは忙しなく動き回っているⅦ組の姿があった。

「ねえシャロン。このお皿どこに置いたらいいの?」

「それは右手側のスペースに。どうぞお割りにならないように」

「割らないわよ!」

 口を尖らせるアリサの横で、フィーがフォークとナイフを皿の両横に設置していく。

「こんな感じ?」

「フィーちゃん、フォークとナイフの位置が反対ですよ」

 それを端からエマが全部並び替えていた。

「刺突に使うなら、フォークが利き手側の方が合理的」

「フィーちゃん?」

「……ごめんなさい」

 ラウラもテーブルセッティングに追われながら、厨房を口惜し気に眺めていた。

「なぜ私達が料理に関われないのだ」

「だよねー、ボクだってこれでも調理部なんだけどなー」

 ミリアムが呑気な口調で同意する。

 厨房でエプロンをつけているのは男子陣である。彼らの働きぶりは見事なものだった。

「マキアス、サモーナのソテーはどうだよ?」

「あと三十五秒で焼き上がります。エリオット、レモンソースは出来ているか?」

「いい具合だよ。ユーシス、お肉の焼き上がりと合わせられるかな?」

「問題ない。ガイウスはポテトサラダの盛り付けを頼むぞ」

「任せてもらおう。すでにイメージはできている」

 自分の持ち場をこなしながらも、他のメンバーとの連携も欠かさない。料理の実力も中々のもので、この場の総監督であるシャロンもご満悦の様子だ。

 彼らは役割分担を決める時『リィンの妹に煉獄は見せられない』と鬼気迫る勢いで厨房を占拠した。

 もちろん女子勢からは不満やら疑問やらの声が上がったわけだが、そんなことは些細なことなのだ。命に勝る大事はない。

「兄様、これは……?」

「シャロンさんが提案してくれたんだ。せっかくエリゼが来てくれたんだし、皆で歓迎会を兼ねた食事をしようって」

「私の為に?」

「今日は時間があるんだろう?」

 戸惑うエリゼの席に座らせると、リィンも手伝いに加わった。

 もちろん厨房に直行である。

 

 ●

 

 エリゼを含めての食事会。総勢十四名が賑やかに食卓を囲んでいた。

「おいしいです!」

 サモーナの切り身を一口食べるなり、エリゼは驚いた声を上げた。

「す、すみません。私ったらはしたない真似を」

「気に入ってくれて良かった。その魚料理は僕が作ったんだ。遠慮なく食べてくれ」

 上々の反応にマキアスは満足しているようだ。

 負けじと男子達は自分の自信作を勧め出した。

「その肉は俺が焼いたのだ。最後にワインで味を整えている」

「横のレモンソースは僕の特製だよ。少しこしょうを振るのが隠し味なんだ」

「添えつけのポテトサラダは風になびくノルドの大地をイメージしていてな」

「いや、それはわかんねえだろ……」

 一方の女子達は、

「ねえ、リィンって子供の頃どんな感じだったの?」

「それは興味があるな」

「フィーちゃんと同い年なんですか。仲良くしてあげて下さいね」

「委員長、恥ずかしいからやめて」

「あはは、委員長お母さんみたいだねー」

 などと、わいわい楽しげな様子だ。

 止まらない質問に、エリゼもたじたじである。リィンは楽しそうに笑った。

「楽しめているか? 遠慮なく食べてくれよ」

「え、ええ、ありがとうございます」

 こんなに大勢で食事など、実家でもまずないのだろう。最初は緊張しているようだったが、次第にエリゼも場に慣れてきたらしく、

「こほん、兄様。そちらのサラダがおいしそうなのですが」

「ああ、たくさん取ってやるから好きなだけ食べるんだぞ。ガイウス、そっちのサラダをノルド盛りで頼む」

「ほう。挑戦者が現れたか」

「ノ、ノルド盛り……?」

 あっという間に和やかな時間は過ぎていく。

 

 

 シャロンが作った手製のデザートと、マキアスの用意したコーヒーを最後に、ささやかな歓迎会は終了した。

「こんなに大勢での楽しい食事はずいぶん久しぶりでした。私の為に皆様、本当にありがとうございます」

 深々と頭を下げるエリゼ。

「俺からも礼を言わせて欲しい。みんなありがとう」

 リィンも同様に言う。 

 時刻は十九時を回ったところである。エリゼの帰る時間を考慮して、かなり早めの夕食にしたのだが、それでも頃合いだ。日は傾き、すでに空はあかね色である。

「そういえばエリゼは女子寮だったな。門限は大丈夫か?」

「え?」

「そろそろ駅まで行くか? 何なら帝都まで送ってもいいぞ」

「……え?」

 エリゼはきょとんとしてリィンを見返した。シャロンは皿を片付ける手を止めて言う。

「エリゼ様は今日こちらに泊まっていかれるのですわ」

 一瞬の静寂に続いて、沸き立つ戸惑いの声。

「そ、そうなのか、エリゼ」

「はい、明日も女学院はお休みですので。ご提案下さったのはシャロンさんなのですが。もしかしてまだ聞いておられなかったのですか?」

 皆の視線がシャロンに集中する。

 シャロンはあからさまに困った顔をしてみせた。

「これは私としたことが……皆様に、それもよりにもよってリィン様にお伝えしそびれるなど。猛省しておりますわ」

 わざとだ。全員が確信を持った。

「時間があるっていうのはそういうことだったのか。空き部屋はあるがベッドは余ってないと思うぞ。どこで休むんだ?」

「うふっ、ふふふ」

 リィンの疑問に笑い声をもらしたのはシャロンだ。

 何か企んでいる。これも全員が同時に思った。

「外来のお客様ならいざ知らず、エリゼ様はリィン様の妹君ではありませんか。兄妹水入らず、今宵は同じ部屋でゆるりとお過ごしになられるのが宜しいかと」

 ぴしりと固まったリィン。彼は当然として、アリサやラウラも硬直している。

 エリゼは席から立ち上がって言う。

「成り行きでそうなってしまいまして、今宵はこちらにお邪魔させて頂くことになりました」

 すまし顔のエリゼの視線が、何気なく女子達に――いや、女の勘というべきか、アリサとラウラに向けられる。

「色々とお話もしたかったんです。引き続きよろしくお願いします」

 エリゼはあくまでも穏やかに微笑んだ。

 その笑顔に込められた何かを感じ取ったのか、アリサとラウラも笑みを返す。

 異様な空気がラウンジに立ち込み始め、意せず渦中の人となったリィンは、わけも分からずたじろいだ。

「な、なんなんだ?」

 うすら寒いものが背を撫でる。

 明日の一日も長くなりそうな予感がしていた。

 

 

 

 ~Intermission 後編に続く~

 

 

 




前編をお付き合い頂きありがとうございます。Intermission回ですが、前後編に分けさせて頂きました。

色々『閃Ⅱ』も情報公開されてきましたね。発売日が9月25日でしたか。本編前作ではルーレ実習日。カレイジャスで空飛んだ日ですね。

というわけでまだエリゼは帰りません。彼女の行動が何をもたらすのか、9月最後のトラブル、そして10月へ続く接続回として、お楽しみ頂ければ何よりです。


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Intermission ~エリゼ来訪(後編)

『ええええ!?』

 寮内全域に響き渡った大音声(だいおんじょう)に、エリゼは目を覚ました。

 ぼんやりと視界に入るのは、見覚えのない天井。横になっていたベッドからむくりと上体を起こすと、胸までかけられていた毛布が滑り落ちた。

 首を巡らしてみる。整頓された机にたくさんの書籍、あとはハーブや、雰囲気のある小物類が見える。

「私――えっと……」

 だんだんと記憶が鮮明になってきた。

 休日を利用してトリスタまで来て、兄様とお散歩に出かけて、Ⅶ組の皆さんが歓迎会を開いてくれて、シャロンさんの計らいで寮に泊まることになって――

「ここはエマさんのお部屋?」

 昨夜、彼女はリィンの部屋に泊まることになっていたのだが、せっかく来たエリゼと親睦を深めるためにと、食事後にエマの部屋でちょっとした女子会が開かれた。

 その内容はお菓子や飲み物をつまみながらのおしゃべり会のようなものだが。

 女学院のことを話したり、士官学院のことを聞いてみたりと、他愛もない話で盛り上がっていた。しかし二十二時を過ぎたあたりで、まずミリアムが寝息を立て始め、続きフィーが舟を漕ぎ、その辺りからエリゼの記憶も曖昧になっていた。

「いつの間にか眠っちゃったんだわ……」

 何時ごろに眠ったのかはわからないが、こうして自分がベッドに寝かされているなら、少なくともこの部屋の主であるエマは、ここでは休んでいないということである。

「私ったら……エマさんに謝らないと」

 ベッド上のシーツをきちんと整え、毛布をきれいにたたむ。

 手早く身だしなみを整えて、部屋の戸口へと向かった。

 ふと棚の上にある時計に目をやると、針は九時を指し示している。普段からすると寝過ぎたほどだ。

 にわかに焦り、エリゼは廊下に出た。

 

 

 階段を下りる最中にも、話し声が聞こえてくる。

「またそんな事を勝手に。僕らは関係ないじゃないですか」

「困ったことになりましたね」

「決まったことならやるしかないが、しかし――」

 などと言った具合である。

 エリゼがラウンジまで下りると、Ⅶ組総員が半円の人垣を作っており、その囲いの中心にはサラがいた。状況は掴めないが、とりあえず彼女が非難されていることはエリゼにも理解できた。

 近づいていくと、人垣の後ろにいたエマがエリゼに気付く。

「あ、起こしちゃいましたね。ごめんなさい、騒々しくしていたから」

「すみません。ベッドお借りしていたみたいで……」

 申し訳なさそうに、二人同時にぺこりと頭を下げた。

「私なら大丈夫ですよ。昨日はフィーちゃんの部屋で一緒に寝ましたから」

「ん、狭かった。あと大きかった」

 何やら赤面するエマの傍ら、フィーは寝たりないのかあくびをし、重そうなまぶたをこすっている。

「よく眠れたか?」

 続いてエリゼに気付いたリィンが人垣から抜け出してきた。

「エマさんのベッドをお貸し頂きまして。……ところでこの騒ぎは一体――」

「ああ、これはだな……」

 鼻柱をかいて、リィンはサラを見た。

 人垣の奥はエリゼの身長では見通せなかったが、最前列にいるマキアスとユーシスの声はよく聞こえる。どうやら何らかの異議申し立てのようだ。

「せめて一言くらい相談して欲しいのですが。学院祭のステージ練習だってあるんですよ」

「まったくだ。なぜ教頭との小競り合いに俺達が巻き込まれるのだ」

 二人は声をそろえて言った。

『Ⅰ組対Ⅶ組の体育大会など!』

 体育大会。聞きなれない言葉ではなかったが、それが騒動の原因らしい。

 リィンの説明によると、事の発端はおよそ二週間前。

 ハインリッヒ教頭のお小言がきっかけで、サラは彼と些細な(・・・)口論をしたそうだ。

 売り言葉に買い言葉の応酬は、やがてどちらも退けないレベルにまでヒートアップ。

 その果ての収拾案として出されたのが、互いの受け持つ生徒達による全力本気の体育大会勝負だった。

 要はハインリッヒ教頭の受け持つⅠ組――生徒総数が違う為、Ⅰ、Ⅱ組合同の選抜貴族生徒という形だが――と、サラが受け持つⅦ組の全面対決である。

 昨日のルビィに関するミーティングの後で、サラが言いかけていたことはこれだったのだ。

「し、士官学院は大変なんですね」

「それだけなら良かったんだが……」

 歯切れも悪く、渋面のリィンはこめかみを指で押さえた。

 焦ったようなサラの声が飛ぶ。

「成り行きとはいえ相談しなかったのは悪いと思うけど、今回ばかりは協力して欲しいのよ。だってⅦ組が負けたら私、水着で学院掃除しなきゃいけないのよ!」

 リィンが補足説明をした。勝負にあたり、担当教官もそれ相応の責任を持つという理由から、互いに“勝った方の言うことを何でも一つ聞く”というリスクを背負っているという。

 問題はこれのようだ。

 呆れ顔のマキアスが「自業自得です」と、にべのない一言で息をつく。

「で、逆にⅦ組が勝った場合、教官はハインリッヒ教頭に何をさせる気なんです」

「あれよ。教頭の恥ずかしい秘密をばらまくことになっているわ」

 しん、と静まり返るラウンジ。キッチンでシャロンが皿を片付ける音だけが空虚に響く。

「それは教官方がやるようなことではないと思うのだが……」

 ラウラが固い声音を重ねると、さすがのサラも罰悪そうな様子で、

「あの時は勢いもあったし、ついね。一応反省はしてるのよ?」

 しかし果たし状を叩きつけたのはサラからであったし、もう後には引けない状態なのだ。

 まったく乗り気ではない教え子達に、サラは咄嗟に思いついた提案を挙げてみる。

「じゃあこんなのはどう? Ⅶ組が勝ったら教頭側からも、ルビィに関しての様々な便宜を図ってもらうっていうのは?」

「便宜?」

「例えばだけど、飼い主募集の力添えをしてもらうとか、ルビィを預かれる期間を融通してもらうだとか」

 考え込む一同。

 そもそもルビィ関連の約束を交わしたのは学院長とである。

 それについて教頭に決定権はないはずだが、彼から学院長に口添えと、不承不承ながらも自分達に力添えをしてくれるなら、時間切れの手詰まりと言う最悪の状況だけは回避できるかもしれない。

「けど、それは最後の手段だな」

 リィンが言い、他のメンバーも同意した。

 約束は約束である。出来うる限り、自分達でやるべきだ。

 とはいえ、いくつかの案はあるものの見通しが立っていないのも事実だった。ことさら今回はルビィの今後がかかっている。万が一の保険となる手はあった方がいい。

「やむを得ないか。もう決定してしまったことだし、せめて条件を有効に活用しよう。やるからには勝つぞ」

「だね」

「ふむ」

「しゃーねーな」

 などと、それぞれの反応を返す中、サラは満足そうに言った。

「そう言ってくれると思ってたわ。いやー、持つべきものは愛すべき教え子ね」

 白々しく目じりを拭ってみせたサラに、全員が目を細くした。元凶が何を言うのだと訴える目だった。

「な、何よ。今日はトリスタと学院を回ってルビィの飼い主探しするって言ってたでしょ。早く先に行きなさい。あ、他の学生は授業してるから、学院内へは昼休みに入るのよ」

 サラに急かされるがまま、リィンたちは寮の外へと押し出された。

 

 

 第三学生寮前の通り。

 とりあえず班分けと担当区域を決める話になった。

「お役に立てるかは分かりませんが、私も協力させて下さい」

 事情を聞いたエリゼの申し出で、彼女もルビィの飼い主探しに加わることとなる。

 リィンは例によってくじを取り出した。

「またくじ引きでいいか? 今回はそこまで班分けにこだわらなくてもいいだろうし」

「俺達は構わないが、彼女はリィンと同じ班がいいのではないか?」

 ガイウスがエリゼに目をやる。

「お気遣いありがとうございます。ですが、せっかくお手伝いさせて頂くのですから皆さんと同じくじ引きでお願いします」

「エリゼがそう言うなら問題ないだろう。どのみち班別で動くのは午前中だけだろうしな」

 トリスタ市街はともかく、学院の中では手分けして知り合いを当たる方が効率的である。

 くじ引きの結果。

 

 A班、アリサ、エマ、クロウ。

 B班、エリオット、フィー。

 C班、マキアス、ユーシス、エリゼ

 D班、ラウラ、ミリアム、ガイウス。

 

 ちなみにリィンは『全班のサポート』兼『ルビィと一緒に待機』といった役回りだ。

 全員からの報告を待ち、興味を持った人がいればルビィを一度見てもらいに連れていく。その場にルビィがいた方が、話も進めやすいだろうという考えがあってのことである。

「私はC班ですか。よろしくお願いします」

『ああ』

 ユーシスとマキアスは同時に返事を重ね、むっとした目を互いに向け合う。

「二人とも……頼んだからな。本当に頼んだからな」

 もはや懇願のリィンである。

「任せるがいい」

「僕がいるから大丈夫だ」

 心配性の兄の弁に、二人は自信に満ちた声音で即答した。

 一抹の不安を胸に抱えながら、四つの班はそれぞれの担当区域へと分かれる。

 

 

「犬を飼う気はないか?」

 店に押し入るなり問答無用でユーシスが問う。

 前置きのなさにも動じず、カウンターに収まるミヒュトは、読んでいた雑誌から目を離しもせずに「ない」と即答した。

 その憮然とした背中を眺めるマキアスは呆れ顔だ。

「き、君は物の頼み方を知らないのか?」

「……えーと」

 エリゼも継ぐ言葉が見つからなかった。C班が足を運んだのは質屋《ミヒュト》である。

「犬っていえば、お前らの所で預かってるあいつだろ」

「そういえば時々ここにも来るって、前に言っていましたね」

 以前ルビィにチェスの駒を奪われてここを訪ねた時、マキアスはそんな話を聞いていたことを思い出した。どこからか良質な素材を調達してきて、それなりの物品と交換していくのだとか。

「おう、あれはあれで中々のお得意様だが。ただ飼うとなると話は別だ」

 ペラペラと雑誌をめくるミヒュト。取り付く島もない。

 それでも食い下がるユーシス達の後ろから、エリゼが控え目に口を開いた。

「番犬代わりに、というのはいかがでしょうか?」

「ここいらじゃ見ねえ顔だな。……番犬だと?」

「見ればお一人でお店を切り盛りしているご様子。たとえば外出するときなどは、番犬の一匹がいるだけで安心感も違うのではないでしょうか」

「まあ、出かけることは多いけどよ。考えてみりゃ確かに人件費はいらねえし、あいつの場合、しつけも手間かからなさそうだな」

 慣れない弁舌でルビィを勧めるエリゼに一考の態度を見せたミヒュトだったが、そんな彼女の努力を水泡に帰したのは前の二人だった。

「こんなさびれた店に番犬はいらんだろう」

「お、おい。思っていても口に出して言うんじゃない」

 悪びれなく言うユーシスに、無自覚に同意してしまっているマキアス。

 ミヒュトのこめかみがぴくりと動いた。さすがに怒っている。

 重い空気を察して、エリゼは身を固くする。しかしユーシス達は気付きもしない。

「あ、あのお二人とも……」

 ミヒュトの雑誌を持つ手がわなわなと震えている。

 エリゼは焦って仲裁の口を開きかけるが、遅かった。

「お前ら、出ていきやがれー!!」

 怒声が響き渡り、三人はまとめて店の外へと叩き出された。

 

 

「予想通り」

「あはは、見に来て正解だったかな」

 転びそうになりながら店外に飛び出したエリゼの前に、フィーとエリオットが立っていた。

「その様子だと失敗したっぽいね。そんな気はしてたけど」

 フィーが淡々と告げる横で、エリオットは苦笑していた。ユーシスもマキアスも不満気だ。

「ふん、短気な店主だ。もう二度とこの店は使わん」

「極端な結論はやめたまえ。まあ、ミヒュトさんに飼ってもらうっていうのは元々望み薄だったしな」

 それなりに話はまとまりかけていましたが、と言いかけてエリゼは口をつぐんだ。

「それでお前たちは何をしに来た?」

 ユーシスが問うと、フィーはエリゼを見た。

「二人のケンカに巻き込まれたらかわいそうだから、エリゼはやっぱり私達の班に入れることにした。いいよね」

「別に問題は起きていないぞ」

「彼女がよければ僕たちは構わないが……」

 フィーは戸惑うエリゼの袖を掴んで、さっさと歩き出す。

「じゃ行こっか」

「え、あの?」

 エリゼは申し訳なさそうにユーシス達に振り返る。彼らは外に出てきたミヒュトに、店前から追い払われるところだった。

 

 

 そういうわけでB班、フィー、エリオット、エリゼの三人は行動を共にする。

「気にしなくていい。あの二人いつもあんな感じだから」

「最初に比べると、小競り合いも少なくなったけどね」

「そうなんですか。ただ先ほどは別にケンカをしたから店を追い出されたわけでは……」

 エリオットとフィーは、あの二人が店内で諍いを起こしてミヒュトを激昂させたと勘違いしていた。

「で、エリオット。私達はどこから当たってみる?」

「うん。教会はどうかなって思うんだけど」

 さすがの教会でも犬は飼えないだろうが、教区長やシスターなら話くらいは聞いてくれるはずである。上手く話が運べば、情報提供という形で力になってくれるかもしれない。

「いいかも」

 《ミヒュト》から道沿いに進み、中央公園を突っ切れば教会はすぐ見えてくる。

 その途中、エリオットは不意に視線を感じ、足を止めた。

 少年がこちらを指さしている。彼はエリオットを見るなりこう叫んだ。

「父ちゃーん、あの人が来たぜ!」

「え?」

 すぐそばには書店。気付いた時には遅かった。その場を離れるよりも早く、店内から一人の男性が飛び出してきた。

「猛将じゃないか!」

 《ケインズ書房》店主ことケインズである。エリオットの頬が引きつる。

「最近なかなか店に寄ってくれないから心配していたんだ。クロスベル経由で入荷した新作があるんだけど見ていかないか。ふふ、猛将が気に入ってくれればいいが――」

「ちょ、ちょっとケインズさん」

 言葉の端々に挟まる不穏なワードに焦るエリオット。その両脇の少女二人には意味がわかっていない。

「猛将……ですか?」

「エリオットって猛将なの?」

 小首を傾げるエリゼ達を見て、ケインズはエリオットに耳打ちする。

「そのお嬢さんたちは猛将の……アレかい?」

「は、はい?」

「いや、まさか二人とは恐れ入る。さすがは猛将、常人には真似できない豪胆さだ」

 ケインズはニヤニヤと笑い「今日も猛ってるねえ」などと言いながら、肘でエリオットの胸をつんつんと突く。

 横からフィーが言った。

「よく分からないけど、この人にもルビィのこと聞いてみたら?」

「うん、そうしよう!」

 早急に話題を変えたかったエリオットは、半ば強引に話を持ち掛けた。

「あのケインズさん。実は犬の飼い主を――」

 瞬間、雷に撃たれたようにケインズは大きくのけぞった。

「い、いたいけな少女達を犬呼ばわりするとは……背徳の極みだ」

 大げさに空を仰ぐ。その目じりから一滴、涙の筋があごへと伸びた。

「次元が違う。器も違う。やはり私の目に狂いはなかった」

 何の感激だか、ケインズはむせびないている。

「君の行く末、私に見届けさせて欲しい。君の作る新たな世界を私に見せて欲しい」

「二人とも、先に行ってて。お願いだから」

「なんだか分からないけど、了解」

 応じたフィーはエリゼの袖をつかんで先へと歩き出す。

 彼女たちがいなくなってもケインズの暴走は止まらない。

 それでもエリオットはどこかで誤解が解けると信じて、健気にルビィの説明を続けた。

「ですから行儀のいい犬ですので――」

「猛将のしつけはさぞ激しかろう」

「もちろん首輪やリードも全てお付けしますし――」

「そこまで極めたお散歩を!?」

 しかしどんな言葉も、余計なフィルターを通してでしか彼に届かないようだった。

 

 

「エリオットさん、どうしたのでしょうか?」

「私にもわからないけど、大丈夫だと思う」

 エリゼとフィーは学院の正門まで続く登り坂を歩いていた。

 当初の予定なら教会に行くはずだったのだが、以前ユーシスが教会で臨時教師を行ったことを思い出し、そっちの交渉は彼に任せることにしたのだ。

「もう昼休みの時間にはなってるし、学院で聞き込みをしようと思うんだけど。とりあえずエーデル部長を探してみようかな」

「部長? 部活に入ってるんですか?」

「園芸部。ハーブが育ったらエリゼにもあげるよ」

 そんな会話をしながら正門をくぐった時、

「きゃあああ!」

 絶叫が響き渡る。図書館側からこちらに向かって、全力疾走してくるエマの姿があった。ついでにその後ろから彼女を追い回す用務員もセットで。

「聞くんだ、エマ君。いいことを思いついたのだ」

「私にとってはきっと悪いことです!」

「勘違いしてはいけない。まずはこれを読んでみたまえ」

 ガイラーは懐から大きな封筒を取り出した、封筒には『ライノの散花はリィンと共に』と太い文字で筆書きされている。

「リィンが散る時が来たのだよ」

「やっぱり悪いことじゃないですかー!」 

「散ると咲くは、時として同じ意味になると覚えておいた方がいい」

「意味がわかりません! あ、フィーちゃんとエリゼちゃん!?」

 正門前のフィー達を見つけたエマは「二人とも逃げて下さい!」と悲鳴交じりの声を上げて、さらに走る速度をあげた。

 意味も分からないまま、エマの逃走に加わる二人。

「あ、あの、今何か兄様の名前が聞こえたんですが。散るとか咲くとか」

「気にしちゃだめですよ! 振り返ってもダメですから」

「委員長、なんで追われてるの?」

 講堂前、グラウンド横を駆け抜け、ギムナジウムまで来ても執拗な追跡の手は緩まなかった。

「グラマラスの新作もそろそろ読みたいね。今度は誰と誰にするのかな」

「誰と誰にもしませんから!」

 まとわりつくような悶気が背後に迫る。

 エマの両脇を走るフィーとエリゼは、不思議そうに声をそろえた。

『グラマラス?』

「わ、忘れて下さい」

 前方、道の真ん中を白服の生徒が歩いている。

「すみませんが、道を開けて下さいー!」

 エマが叫ぶと、その生徒は振り返る。みるみる内に彼の表情が硬直した。

「あ、ケネスだ」

「うわあああ!」

 白服の生徒――ケネス・レイクロードはその光景を認識するが早いか、全ての力を脚部に集結させ、一目散に駆け出した。

 力強い両腕のストライドは、さながらスプリンターのようだった。もっともストイックにコースを駆け抜ける選手とは異なり、首を振り乱し、気を取り乱しながらの疾走ではあったが。

「なんで、なんで、なんで!」

 それ以上は言葉にならないケネス。なぜならば。

 顔を合わせる度にろくなことにならないフィー。前回池に落ちるきっかけを作ったエマ。そして池に飛び込んでくるなりアレコレと魔の手を繰り出してきたガイラー。今回はその三人全員に追われる形なのだ。

「ほう……」

 エマのさらに先、逃げるケネスの背を見たガイラーは、にたりと頬を歪めた。

 そして勢いそのままに跳躍。身の内に秘めた、ほとばしる情動を推進力にするかのように、彼は中空を高々と舞い飛んだ。

 一瞬大きな影が地面に映り、訝しげに思ったエリゼは空を見上げる。

 それは初めてみる光景だった。体を大の字に開いた初老の男性が、自分の頭の上を高速で飛んでいくというのは。

 もしこれが夜で、満月を背景にその光景を目にしていたなら、確実に死神を連想していただろう。

 獲物に襲い掛かる精悍な猛禽のように全員の頭上を滑空し、ガイラーはケネスの前にすたんと降り立った。

「やあ、昼休みを満喫しているかね」

「う、あ、あ」

 皮肉にも以前と同じ、中庭付近での邂逅だ。遅れてエマ達が彼に追いつくが、時すでに遅し。

 女性がお気に入りのバッグを脇に抱えて上機嫌に微笑むように、ガイラーは沈黙したケネスを脇に抱えて扇情的な笑みを顔に張り付けている。

「実にいいね」

 それだけを言い残すと、ケネスを抱えたまま跳躍。

 校舎の壁面、わずかな窪みや突起に足をかけ、苦も無く垂直の壁を登り切り、屋上へとその姿を消した。

「た、助けないと。フィーちゃん、力を貸して下さい!」

「いいけど。ルビィの飼い主探しは?」

「人命救助、というか彼の尊厳の保護が最優先です」

 エマの剣幕に、さしものフィーも圧され気味だ。

「とりあえず了解。エリゼはどうするの?」

「連れていくわけには行きませんね。下手をすれば一生もののトラウマを負いかねません」

「……だったら私も行きたくないんだけど」

 エリゼは事態に頭が追いつかず、呆然としている。

 中庭から本校舎をつなぐ扉が開き、ガイウスがやってきた。

「騒がしかったから様子を見に来たのだが、委員長達だったか。三人とも聞き込みは順調か? というかエリゼはユーシスたちの班では――」

「ちょうど良かったです。エリゼさんをお願いします!」

 言うだけ言うと、エマはフィーを引き連れて本校舎の中へと走って行ってしまった。

「……何があった?」

「その……わかりません」

 状況を飲み込めない二人の間を、乾いた風が吹き抜けた。

 近くに落ちていた竹ぼうきがカラカラと転がり、そばの壁に立てかけてあった釣竿にこつんと当たる。

 倒れた釣竿に、竹ぼうきの穂先が嫌な感じに絡まった。

 

 

「とりあえず俺も部活の先輩に聞いてみようと思う。少々不安ではあるのだが」

 美術室の前で立ち止まったガイウスは、扉を開ける前に一間置いた。

「ガイウスさんって美術部なんですか」

「そうだが、似合わないか?」

「いいえ、そういうわけでは……すみません」

「謝る必要はない。絵は故郷で描いていてな。ただ独学だったから、トールズへの入学を機に学ぼうと思ったのだ」

「あ、女学院でも絵画の授業はあるんですよ」

「ほう、そうなのか?」

 兄のいるエリゼと妹のいるガイウス。互いの立場が違和感なく馴染み、自然と気兼ねない会話ができていた。

「絵画の授業か。色々と話を聞きたいところだが、今は飼い主候補を探すのが先だな」

「不安があると仰っていましたが、何か問題があるのですか?」

「うむ……」

 じわりとガイウスの額に汗がにじむ。

「美術部のクララ部長は少し気難しい人なのだ。まあ、普通にしていれば問題ない」

 扉を開け、ガイウスは中へと入る。その後ろにエリゼも続いた。

 美術室特有の油絵具と粘土の匂いが、鼻孔をくすぐる。

 立ち並ぶキャンバスの向こうに、椅子に座る女子生徒がいた。彼女は眼前の彫像を難解な面持ちで見つめ続けている。

「失礼します。クララ部長、実は相談があって――」

 キャンバスの間を抜けながら、ガイウスはクララに近づいていく。その足がぴたりと止まった。

 クララのそばのキャンバスに隠れるように、一人の女子が床に打ちひしがれている。

「リ、リンデ? どうしたのだ」

「ガイウス君、見ちゃやだあ……」

 しくしくとすすり泣くリンデ。彼女の制服ははだけて、あられもない姿になっていた。

 ふん、とクララが鼻を鳴らす。

「そいつの体を彫像の参考にしたかったのだが、いかんせん肉付きが良すぎてな。もう少し小柄な方がよいのだ」

「ひ、ひどいです。うぅ」

「……ん?」

 クララの視線が彫像から動く。肉付きがあまりなく、もう少し小柄な、一人の少女に。

「……え?」

 エリゼはうすら寒いものを感じた。クララが無言で立ち上がる。

 その目的を察したガイウスが叫んだ。

「いかん、逃げろ!」

「な、なんでしょうか?」

「早くするんだ! 脱がされるぞ」

「脱がす!?」

 初対面の女性の服を脱がすなど、そんな横暴がこの世に存在していいはずがない。だが、にじり寄る目付きの悪いこの女子生徒は、確かにそれを実行しようとしている。しかも躊躇なく。

 少女の本能が逃走を選択した。

「逃がさん!」

「部長、落ち着いて下さい」

「邪魔だ、ウォーゼル! 貴様から脱ぐか!?」

 エリゼは廊下に出て、後ろ手で扉を閉める。振り返る余裕はなかった。

「脱げえっ!」

「ぐあああ!」

 ガイウスの断末魔。続いてキャンバスや画材の崩れ落ちる耳障りな音が耳朶を打つ。

 燃え盛るような芸術の狂気に、エリゼはただ戦慄した。

 

 

 トラブルは止まらなかった。美術室を出た途端、轟音が響き渡る。

「こ、今度は何?」

 音は長廊下の突き当たりの階段からだ。ドタドタドタと足音が近付いてくる。息せき切って廊下に飛び出てきたのは、ラウラ、ミリアム、アリサ、クロウの四人だった。

「ミリアムが余計な事言うからよ!」

「えー、ボクのせい?」

「まいったぜ、ちくしょう」

「迂闊な……」

 おそらくこの四人も学院で聞き込みをしていたのだろうが、なぜこんなにも必死の形相で――

「ムフォオッ!」

 その答えはすぐに現れた。アリサ達の背後から雄叫びをあげて襲来するデンジャラス肉玉。

 鼻から灼熱の蒸気を噴出し、原生林の大木のような豪腕を振り上げた麗しのグランローゼ、マルガリータが追い迫る。

「ミィリアムゥー! よくも私のラブクッキーを『犬の餌にもならない』なんて言ったわねえ!」

「違うよー、ボクは『マルガリータのクッキーはルビィも食べない』って言ったんだよ」

「同じことよお! グフォオーッ!」

 マルガリータが走る度に、廊下に面するガラス窓がバリンバリン割れていく。

「なんで俺達まで巻き込まれてんだ」

「それは我らがミリアムの逃走経路にいたからだな」

「ついてないわ――って、いけない!」

 アリサが廊下の真ん中で立ち尽くすエリゼに気付いた。同時にラウラが急転回。荒れ狂うマルガリータに向き直る。

「食い止める! アリサは彼女を連れて逃げろ。ミリアムとクロウは私とここに残れ!」

「まじかよ」

「おっけーだよ!」

「分かったわ!」

 一人先行したアリサが、エリゼの手を引いて走った。

「な、なんなんですか?」

「逃げるわよ。私達に任せて」

 不敵に笑い、クロウは拳を鳴らす。

「いつかのリベンジだ。こないだは油断したが今日は違うぜ!」

 女子に拳を振るうという倫理的観念を捨て去った、正真正銘の全力本気パンチ。

 対するは、羽虫を払う程度のマルガリータの平手。

 その一秒後。撃ち出された大砲の弾のように、クロウは窓を突き破って青い空の中へと一直線に消えていった。

 彼の安否など気にしている余裕もなく、ラウラは怒声を飛ばした。

「ミリアム、アガートラムだ!」

「え、でも校舎内じゃ出しちゃダメだって」

「構わん! 彼女に傷一つでもつくことがあれば、私はリィンに合わす顔がない」

「りょーかい!」

 景色が歪み、アガートラムが現れる。銀の双腕がマルガリータと組み合った。

「グムッ……フォオオオ!」

「ΣΠΛδШ」

 拳の乱打が壁面を砕く。レーザーが廊下を焼き削り、ガラス窓を飴細工のように溶かす。あらゆる破壊が二階廊下を蹂躙した。

「やっちゃえ、ガーちゃん!」

「∃ΛΘΕΛΞ‼」

「ムフォオオッ!!」

「ふふ、何やら騒々しいようだが、僕を讃える歌でも小鳥達がさえずっているのかな?」

 混沌の戦場に一人の男子生徒がやってきた。ヴィンセント・フロラルドである。天性の間の悪さだった。

「光よ! 僕を讃えるがいい!」

 いつも通りのオペラ口調で言った次の瞬間、彼は凶暴な光にさらされた。

 誰の目にも耳にも留まることなく、人知れずヴィンセントは極太ビームに飲み下されていた。

 

 

「大丈夫? もう少しだから」

「は、はい。大丈夫……です」

 階段を登って屋上へと向かう二人。アリサの気遣いにそう返したものの、エリゼの体力は尽きかけていた。

「士官学院というのは毎日このような感じなんですか?」

「そ、そんなわけないじゃない。多分、違うと思う……けど」

 アリサも自信なさげである。

「まあ、でも大変だけど楽しいところよ。ええ!」

 話題を無理やりまとめようとしたところで、屋上の扉が勢いよく開いた。

「回収完了」

「早くベアトリクス教官のところへ!」

 エマとフィーだった。二人して担架を引っさげ、バタバタと階段を下りてくる。

 救護用の担架にぐったりと収まっているのは、言わずもがなケネスである。ぴくぴくと痙攣を繰り返し、死んだ魚のような瞳を天井に向ける彼はもはや半死半生だ。

「急病人? すれ違ったのに私達にも気付かなかったみたいだし」 

「……私には分かりません」

 屋上に出ると秋風が心地良かった。走り通しの体を丁度良く冷ましてくれる。

「ここまではマルガリータさんも追ってこないと思うわ。今回のターゲットはミリアムだったみたいだし」

「今回?」

「安心して大丈夫ってことよ」

 にこりと頬を緩めたアリサは、乱れたエリゼの黒髪を柔らかな仕草で整えた。

「これでよし、と」

 優しい手つきだった。まるで兄が自分にそうするような――

 脈絡もなく、姉という言葉が頭に浮かぶ。

「しばらくここで休んでましょう。私も走り疲れちゃったわ」

 屋上の片隅にあるベンチに二人は腰かけた。緩やかに形を変える雲をしばらく無言で眺める。

『あの』

 二人同時に口を開いた。

「あ、ごめん。先にいいわよ」

「すみません、アリサさんからどうぞ」

 顔を見合わせて、二人はすぐに笑みをこぼす。

「じゃあ私から聞くわね。昨日聞きそびれたんだけど、リィンって故郷じゃどんな感じだったの?」

「困っている人は見過ごせなくて、自分から手を差し伸べる人。……でもどこか自分の事を後回しにしてるような……そんな感じでした」

「そうなのね」

「どうしてそんなことを聞くんですか?」

「何となくよ」

 アリサは屋上の一角にあるフェンスを指差した。

「そういえば初めてルビィに会った日のことなんだけど、あそこのフェンスからルビィが外に落ちそうになったの。結局助けてくれたのはサラ教官だったんだけど、私達の中で一番に駆け出したのは、リィンだったわ」

 二人は同じタイミングで、空を見上げた。

「多分、ユミルにいた頃とそんなに変わってないんじゃない?」

「ですね。きっと、そうです。でも少し変わったところもある……気がします」

 どこが、とは明確に答えられない。それこそ“何となく”である。

「あ、でもね。まったく変わってないところもあると思うわ」

「それは私にも分かります」

 二人は大きく息を吸い、『せーの』でその言葉を口にする。

『朴念仁!』

 

「っくしゅん! ……少し冷えたかもしれないな」 

 鼻をすすり、リィンはひとりごちる。 

 川に垂らした釣り糸に反応はなく、ゆらゆらと流れのままに浮きが漂っていた。生け簀代わりのバケツは空っぽである。

 仲間からの連絡を待つこと数時間。通信は来ないし、魚も来ない。

 リィンは水面を眺めながらあくびをするルビィに目をやった。

「……そろそろ集合時間だし切り上げるか。いい飼い主が見つかればいいんだが。少し寂しくなるけどな」

 一吠えしてみせたルビィは腰を上げる。

「ああ、帰ろう」

 釣り具を片付けながら、リィンは学院を見上げる。校舎の鐘楼塔が視界に映った。どうも鼻がムズムズするのはなぜだろう。

「っくしゅん! ……風邪がぶり返したかな」

 

 ● ● ●

 

「わざわざ見送って頂いてありがとうございます」

「また遊びに来てくれ。みんなもそう言ってるしな」

 ヘイムダル行きの列車を待つエリゼとリィン。見送りを彼一人が務めることになったのは、周囲の気遣いである。

「でも次は兄様が会いに来る番ですからね?」

「そうだな。近い内に遊びに行くよ」

「もう、本当ですよ」

 駅の時計を見る。列車到着までもう少しだ。 

「ところでルビィちゃんの飼い主候補は見つかったんですか?」

「結局当たり無しだ。こればかりは地道に探すしかないさ」 

 エリゼはわざとらしく咳払いする。

「私からも屋敷で飼えるようお父様に掛け合ってみます。ただ兄様が言った通り、バドもいるので難しいとは思いますが……」

「いや十分だ。あとは最後の手段として、今度の体育大会に勝たないとな」

「ああ、例の――」

 言葉の途中で列車到着のベルが鳴る。

「来たみたいだな。じゃあエリゼ、気をつけてな」

「はい、兄様も」

 改札を抜けてからエリゼは振り返る。

「そういえばその体育大会というのは、いつ開催されるんですか?」

 列車の轟音にかき消されないよう、リィンは大きな声で言った。

「10月17日。日曜日だ」

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 ――後日談――

 

 聖アストライア女学院。

 校舎を出て正門へと続く道に、肩を並べて歩く二人の女学生の姿があった。

「――と、そのような休日を過ごしてきました」

「まあ楽しそう。その体育大会というのも女学院ではなじみの薄いものだし、士官学院は色々なことをするのね」

 エリゼの話をいかにも楽しげに聞く少女は、顔中を笑顔にして軽やかな足取りだ。波打つ豊かなブロンド髪が歩くたびにふわりと揺れる。

「それにしてもエリゼったら、本当にトリスタまで行くだなんて」

 少女はいたずらっぽくエリゼの顔をのぞき込んだ。

「姫様があんなこと言うからじゃないですか!」

「あんなことってどんなこと?」

「そ、それは……知りません!」

「あら、怒らせちゃったかしら」

 姫様と呼ばれた少女――アルフィン・ライゼ・アルノールは、そっぽを向いたエリゼの前に回り込んだ。

「私は『リィンさんは素敵な方だから、きっと周りの女性が放っておかないと思うの。そういえば以前お会いしたⅦ組の女生徒さんは、みんな美人な方々だったわ』としか言ってないわ」

「ですから! もう! 姫様!」

 一言一句間違えず言い直せる時点で、事前に用意されていた台詞のようにも感じるが、さりとて追求する気にはなれなかった。エリゼは吐き出した嘆息と共に、いつもの笑顔の謝罪を受け入れる。

「それで、どうだったの?」

「とてもいい方々でした。突然押しかけた私にも良くして下さいましたし」

「じゃあその中の誰かが、エリゼにとって将来のお義姉様になっても問題ないってことかしら」

「な、なんでそういう話になるんですか!」

「違うの? わたくしだって次こそはダンスのお相手をリィンさんに引き受けて欲しいと思っているのだけど」

 アルフィンはその場で可憐に一回転。優雅なターンを披露する。

「またそのようなことを……」

「あら、これでも本気なのよ」

「え――」

 小走りのアルフィンは、エリゼより先に正門を抜けた。

「敷地内で走ると先生方に怒られますよ!」

 言いながらエリゼもアルフィンの背を追う。

 なだらかな下り坂の先、大通りに面した道路に黒塗りのリムジン型導力車が停まっていた。ドアの前には護衛らしき男性が二人、油断なく直立している。

 アルフィンの姿を見ると「お帰りなさいませ、皇女殿下」と慇懃な一礼の後、一人の護衛が後部ドアを開けた。

「バルフレイム宮に帰るだけで、いつも大げさなんだから。一人で導力トラムくらい乗れるのに」

「姫様はもう少しご自身の立場を重んじて下さい。二ヶ月前だって危うくさらわれるところだったんですよ」

「さらわれかけたのはエリゼも一緒なのに。でも気を付けるわ」

 アルフィンは離れた道沿いを通りすがる、身なりのいい紳士に目を留めた。

「ふふ、例えばあの方が悪い人でないという保証もないものね」

「冗談でも失礼ですよ、姫様!」

焦るエリゼをよそに、アルフィンは車に乗り込む。

「あ、そうそう、エリゼ」

「なんでしょうか」

「私行くことに決めたわ」

「どこにですか?」

 ごく当たり前のように、さらりと言った。

「トールズ士官学院に例の体育大会を見に。確か10月17日と言ってたかしら」

「え?」

「エリゼも行くのよ。一緒にリィンさん達を応援しましょう」

「え?」

「それではまた明日。ごきげんよう」

 バタンとドアが閉まり、車が動き出す。遠ざかる導力車を呆然と眺めるエリゼ。

 皇女殿下のお言葉を反芻してみた。何度考えても言葉通りの意味である。 

「ええええ!?」

 エリゼの叫びが、帝都の空にこだました。

 

 

 ● ● ●

 

 

 それから数時間後。場所は移り、ノルティア州、ルーレ市郊外。

 人通りもなく、どこか不気味な静寂が漂うその一角に、ひっそりと佇む寂れた家屋があった。雨漏れし、すきま風が吹きそうな、一見して廃屋と呼ぶ方がしっくりとくるような、小さく古びた建物。

 窓のカーテンは閉まっており、外から中の様子を伺うことはできない。

 この廃屋。行政の登録上は空き家である。家主も亡くなって久しく、相続人もおらず、しかし立地の悪さも相まって買い手もつかず、長年半ば放置されていた。

 家の中も当然手入れされた形跡はなく、棚は虫にやられボロボロ、一歩踏み出せば、埃だらけの床から頼りない軋みの音。

 止まったままの壁掛け時計が、物悲さを際立たせる。寂れた外観に相応しい荒れた内観、と言ったところだろうか。

 一つ違和感があった。

 床一面に堆積する埃が、一部分だけ薄くなっている。玄関から奥のリビングまで、まるで何度もその場所を往復し、踏み均したかのように。

 白汚れの道は、リビングにある机まで続いていた。

 注意深く凝視するとかろうじて分かる程度だが、机の四脚を線で結ぶように、一メートル四方に渡って、不自然な切れ込みが入っている。

 素人目にはまず分からないが、ここには地下がある。

 

 廃屋の地下。それなりに広さはあるが、光源は一帯の中心に置かれた小型の導力灯ただ一つ。

 その薄明りを囲むようにして、そこらの段差に、手頃な空き箱に、あるいは地べたに座る、人影の数々。

 総勢は二十五人だ。

「《C》は確かに死んだのか?」

「《S》と《V》はどうなった。消息は掴めたのか?」

「連絡はまだこないのか。そもそも俺達がここに身を潜めていることを仲間は知っているのか」

 ひそひそと外に漏れ出さない程度の声で、不穏な質疑が交わされる。

「仲間は――帝国解放戦線は本当に壊滅してしまったのか……?」

 彼らは先だってザクセン鉄鋼山を占拠した帝国解放戦線の、言わば残党である。

 大部分はあの時に捕まったのだが、ごく一部の人員は軍の包囲網からかろうじて逃れ、ここに身を隠していたのだった。

 事の全てを語るなら《C》は死んでいない。

 帝国解放戦線は壊滅しておらず、幹部達も首尾よく戦域を離脱している。

 それは最後の一手を打つ為の布石。革新派筆頭、ギリアス・オズボーン宰相を討ち、クーデターの開始を告げるトリガーに指を掛ける為に。

「くそ、俺達はどうすればいい!?」

 だがその肝とも言える作戦の全容を、戦線の団員全てが知らされていたわけではない。

 例えば《S》、《V》を始めとする幹部、機甲兵の操縦者、あらかじめ他区域での配置を済ませていた者は、続く作戦に備えている真っ最中である。

 しかしいわゆる戦線の運営中枢に関わらない、末端の戦闘員には事前の情報が伝えられていなかった。

 理由は作戦行動中に捕縛された場合、もしくは内偵が紛れ込んでいた場合に、情報の漏えいを防ぐ為である。

 切り捨てられたわけではない。前線で戦う歩兵達にも、然るべき時、適正と判断されたタイミングで、情報は上から伝えられる。だとしても生存不明となった十数人を、わざわざ警戒区域に赴いて回収するようなリスクを、本隊が背負うことはありえない。

 それは彼らにも分かっていた。

 ならばこちらから行動を起こし、存在を知らせる他ない。それも自分達を保護する価値があると思わせる手段でだ。

 それは賭けである。今や唯一の情報源となった導力ラジオからは、解放戦線は壊滅したとニュースで告げられている。どのように行動しようとも、肝心の本隊が本当に潰されていたとしたら、全ては徒労に終わるのだ。同時に自分達の命運も。

 薄闇の中に、コツコツと足音が響いた。

「帰ってきたのか」

「すまない、念の為に尾行がいないか注意していたら遅くなってしまった。だがいい情報を手に入れた。離れた場所から集音器で会話を拾うのには苦労したが……」

 “身なりのいい紳士然とした男”が言った。

「アルフィン皇女が動くぞ。しかも会話内容から察するに非公式でだ。護衛も最小限しか連れて行かないはずだ」

 小さく歓声が起こる。

 まさに僥倖。かつて失敗した“皇女の誘拐”。それを自分達が成したとすれば。

 それこそ本隊が自分達を迎えに来るには、十分過ぎる功績だ。

 とはいえそれは思い立って実行できるほど容易いことではない。武器弾薬も残り少なく、おそらく運も求められる。成功させるためには、何重にも策を考えねばならなかった。だが、諦めるという選択肢はもはやない。

 策は当日までに練り上げるとして。

 一人が口を開く。

「まずコードネームがいるんじゃないか?」

「ああ、それはそうだな。人数が多いから分かりやすいのがいいか」

 作戦中に名前を呼び合うわけにはいかない。

 誰かが言った。

「さっき一人帰ってきたから、この場にいるのは二十六人だよな……それってさ」

 偶然にもアルファベットの数と同じである。

「同志《A》から《Z》まで、決められるよな?」

「……!」

 遠慮がちの提案が、周囲を驚愕させた。

 いいのか、それ。やっちゃっていいのか俺達が。戦闘員A、B、Cの俺達が《A》、《B》、《C》になれるのか。本物の《S》にお仕置きされないか。いやそれはむしろ望むところなのだが。などといった具合にどよめきが広がった。

 いくつかの議論の果てに『どのみち、この作戦の間だけだし』という理由でその案は採用された。

 ここからは人類共通、くじ引きである。もちろん今回は《C》がリーダーというわけではないが、

「よし、俺が《C》だな!」

 やはり人気アルファベットだった。ちなみに一番人気が無かったのが、

「うっ、《G》引いちまった。嫌な予感がするぜ……」

 男気を見せたのに、不遇の死を遂げた彼のコードネームである。

 そんなこんなで二十六人、全員のコードネームが決定した。

「トールズ士官学院の詳細地図を手に入れる必要があるな」

「残った武器のリストを作れ。全員に分配して、役割を決めるぞ」

「教官共が厄介だな……学生を人質に取れるか?」

 にわかに活気を盛り返してきた帝国解放戦線残党。燻る戦禍の火種は、まだ潰えていなかった。

 彼らの目的はただ一つ。

「俺達はアルフィン皇女をさらう。場所はトールズ士官学院。決行日は――」

 くしくも、くじ引きで決まった仮初の《C》が告げた。

「10月17日だ」

 

 

 

 ~Intermission 後編 END~

 

 

 

 『虹の軌跡・ラストストーリー・10月17日』へ続く

 

 

 




後編もお付き合い頂きありがとうございます。
というわけで、エリゼがやってきたのはアルフィン皇女殿下の差し金でした。兄様の日常トラブルをちょっと体験してみました的な感じですね。おかげでリィンは一日平和に釣りができました。
以前にもどこかの後書きで告知しておりますが、この『10月17日』が最終話となります(タイトルは異なりますが)

では次回予告です。
十月一発目は、あの四人の奮闘記『ガールズクッキングⅡ』です。
次回もお楽しみ頂ければ幸いです。
ご感想も随時お待ちしております。


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ガールズクッキングⅡ(前編)

 十月初旬。天気は快晴、気候は温暖。日差しは暖かく、日かげは涼しく、秋らしく過ごしやすい一日だった。

 そんな初秋の放課後。校舎内に爆発音が響き渡る。

 音源は本校舎二階、調理室からだった。

「こ、こんなことが……」

 よろめき、壁に背をつくラウラ。

 彼女の友人達――モニカは災害に見舞われたがごとく、頭をかばって机の下に避難し、ポーラは絶望に打ちひしがれたように、床に手をついてポニーテールを力なく垂らし、ブリジットは眼前の惨状がすぐに理解できず、頬を笑みの形にしたまま硬直している。

「……説明してもらおうかしら。何をしたの?」

 のろのろとポーラは顔を持ち上げた。応じるラウラは「それがだな」と神妙な面持ちで口を開く。

「卵焼きを作ろうとしたのだ。それでオーブンレンジに入れてみたのだが、この有様だ」

 レンジの扉は『キィ……キィ……』と空虚な音を立てて、窓から吹き抜ける風に揺られるまま開いたり閉まったりを繰り返している。

 その周囲には飛散した白やら黄色やら、かつて卵と呼ばれていたものの残骸があちらこちらにへばりついていた。

「多分、ラップをつけなかったのが悪かったのだろう。やはり料理のひと手間は大事なのだな」

「ひと手間の意味が間違ってるわ……」

 ふむう、と腕を組んでみせたラウラを見て、他の三人は言い知れない不安を感じた。

 

 事の発端は、九月下旬にさかのぼる。

 その日ラウラは、誘ったリィンとついてきたユーシスと三人で、ヘイムダルまで剣の修理に出掛けていた。

 そこで案の定トラブルに見舞われ、地下水道内で猫探しをすることになったのだが、その最中、水路に落ちそうになったラウラをリィンが庇ったのである。

 そこでモニカ達の提案もあり、リィンにお礼と言う形で手作りの弁当を渡すことになった――まではよかったが。

 弁当を作り始めて二十分。事態は想像以上に深刻だった。

「ど、どうしよう。思ってたよりすごいかも」

「乗り掛かった船……というか、私達がラウラを船に乗せたみたいなものだし、何とかするしかないわ」

「あせらずに一つ一つ作り上げていきましょう」

 料理初心者というラウラの為にバックアップを申し出た三人だったが、自分達のキャパシティを遥かに超える窮状に、早くも焦燥の色が浮かんでいた。

 折れそうな心を奮い立たせ、彼女らはラウラに向き直った。

 

 

「まずはお弁当の定番、おにぎりから作りましょう。今回はシンプルに塩にぎりね」

 簡単なものから完成させていく作戦である。先手はブリジットが務めた。

「手の平を軽く水で濡らしてから、少し塩をつけて」

「ふむ」

 言われるがまま、ラウラは準備する。

「次に温かいご飯を手に取って」

「こうか?」

「そう、それで手の中で転がしながら、三、四回優しく握るの。中心部にはあまり力を入れないようにして外側を固めるのがコツね」

 ブリジットはお手本を兼ねて、ラウラの前で手際よく三角のおにぎりを作って見せた。

「よ、よし」

 緊張しながらもそれに続くラウラ。

 お手本の通り握ってみるも、うまく三角にはならない。丸型の握り飯が手中で形取られていく。

「形を整えられない。案外と難しいものだ」

「丸くても問題ないわ。料理は気持ちよ。食べてもらう人のことを考えて握ってみて?」

「わかった」

 目を閉じる。ラウラは食べてもらう相手――リィンのことを頭に思い浮かべながら、米をもう一度握り直した。

「………」

「どうかしら」

「うん……お人好しで、他人の為に迷いなく動ける男だ。同じ剣の道を歩む者として、思う所も多い――」 

 米を握る手つきが、心なしか優しくなった。

「あと、誰にでも気兼ねなく話せるところも長所だろうな。ただ誰彼かまわず女子生徒に声をかけるのは正直どうかと思う――」

 ぴくりとラウラのこめかみがひくついた。

 米を握る手に力が入る。

「あ、あの。ラウラ?」

「そもそもあの男は恥ずかしげもなく、突飛で不用意な発言をすることが多いのだ。こっちは赤面ものだというのに言った本人は自覚がない。だから、それがっ、余計に!」

 ふるふると震えていた両手は、次第にわなわなとその勢いを変えていった。おにぎりに圧力が加わる。

「ちょっと落ち着いて。ええ、少し目を開けましょう」

 なだめるブリジットの声は届かず、おにぎりはぎりぎりと、ぎゅうぎゅうと、最終的にはギギギギ!と、まるでプレス機にかけられているような音を立て始めた。

 見かねたポーラとモニカも加勢して、三人がかりでおにぎりの救出にかかる。

 我に返ったラウラがおにぎりを解放した時、手の平一杯にあったはずのそれは、小さなビー玉くらいの大きさに圧縮されていた。

「しまった。つい気持ちを入れ過ぎてしまった」

「い、いいのよ」

 おにぎり(になりそこねたもの)が焦ったラウラの手から落ちる。床に到達するや『カコーン』という音を響かせた。『ぺしゃっ』などでなく。明らかに硬度のある物体から生み出される音だった。

「これはなんなの……」 

 謎の実験で偶発的に生まれた得体のしれない物質にでも触れるように、ブリジットはおそるおそる慎重にそれをつまみ上げる。

 常軌を逸する硬さだった。

 到底人が口にしていい硬度ではないし、強靭な顎を持つ魔獣とて容易にはかみ砕けない。逆に口腔内の歯が片っ端から破砕されること請け合いだ。

 まさに白き凶弾。銃に詰めて撃ち出したら相当の破壊力だろう。

 ハートに届く『愛情おにぎり』はハートを貫く『銃弾おにぎり』へと変わった。

 一つの攻撃料理の完成である。

「何回でも作るの。イメージを変えればうまくいくと思うわ」

 しかしブリジットはあきらめなかった。根気強く、ラウラが優しいイメージを抱くような言葉を探す。

「クマさんのぬいぐるみ」

「熊か。いつかは素手で倒すべきだ」

「綺麗な星空」

「ふふ、思い出すな。父上に夜襲をかけたあの日のこと」

「みっしぃ!」

「なんだか戦闘意欲が湧いてきた……」

 ダメだった。ただ弾丸おにぎりが量産されていくのみだ。

 全てを出し尽くしたブリジットが最後に言ったのは、およそ彼女らしくない武闘派な言葉だった。

「もう無の境地でいきましょう……」

「? 了解した」

 いきましょうと言われて至れる境地ではないが、雑念を捨ててラウラは呼吸を静めた。

 泉の静寂が調理室を支配していく。

 息を吐き切り、全身を脱力させ、丹田以外の力を解いた。

 思考が鈍くなる。意識と無意識の境界が定まらなくなる。今ここに立つ目的さえも、朧霞の中に溶けていく。

「………」

 空間という概念さえも虚ろになり、上下左右の感覚が薄れていった。

 不意にラウラの手が動く。

 思考によって動かしているのではない。ただそうすべきだと、何かが告げていた。生まれながらの本能か、連綿と紡がれてきた遺伝子か、あるいは生物としての原初の記憶か。

 人知の枠に収まらない、何かが言った気がした。

 

 ――なにゆえ米を握るのか。

 

 ラウラは心の内に答えた。

 

 ――そこに米があるからだ。

 

 神秘の声は告げる。

 

 ――ならば、握るがよい。

 

「是非もない」

 自分の声で意識が戻る

 重ねていた両の手を開くと、そこには美しく均整が取れ、純白に輝く三角おむすびが気高く鎮座していた。

 ブリジットの頬を一滴の涙が伝う。

「おにぎり……できた。ぐすっ……できたわーっ!」

 歓喜の声が廊下にまで響いた。

 

 

「次はサラダだよ。よろしくね」

「こちらこそだ」

 おにぎりを制し、続くはサラダ。担当はモニカである。

「お野菜が入ってるとね。栄養面だけじゃなく見た目の色合いも良くなるの」

「なるほど。脇役と思いきや、意外に重要なのだな」

 しきりに感心するラウラの前にまな板と包丁、レタスとトマトをモニカは用意した。

「シンプルなサラダだけどおいしいよ。これでリィン君の胃袋をがっちりホールドしちゃうんだから」

「それは……凶悪な技だな」

「物理的にじゃないからね、一応」

 まな板の前に立ち、レタスをセット。ラウラは包丁を構えた。

「あ、違うよ。包丁を使うのはトマトで、レタスは手で――」

「はあっ!」

 モニカが言い終わらない内に、包丁がレタスのてっぺんからまな板まで到達する。ズダンと音を立ててレタスは一刀の下に両断された。

 刃筋の立て方は一級品。鋭すぎる断面をあらわにしながら、レタスは中心からまっ二つである。

 どことなく自信気なラウラは、まな板に食い込んだ包丁を引き抜いた。

「これは得意分野だ」

「あ、あのね、レタスは素手で下ごしらえするの。指で芯を取って葉をちぎるのが基本なんだよ」

「なんと、そうだったのか」

「でも大丈夫だから。食べやすい大きさにちぎって先に冷水にひたしておくね。その間にトマトを切ろっか」

 レタスの仕込みを済ますと、モニカは用意してあった材料の中から形のいいトマトをいくつか持ってきた。

「この大きさだと八等分くらいかな。切り方分かる?」 

「見くびらないで欲しい。これでも剣の扱いは幼少から学んできた」

「そ、そう? 包丁と剣は違うと思うけど……」 

 不安を隠せないモニカだが、ひとまずはラウラに任せることにした。

「はっ!」

 振り下ろされる一刀。飛び散る果肉と果汁。返り血よろしくラウラのエプロンが赤に染まった。

「む、刃筋がずれたようだ。少し緊張していたらしい」

 続けざまに別のトマトにもう一振り。結果は先と同じく、血しぶきならぬトマトしぶきが舞った。

「……調子が悪いのだろうか」

 さらに一振り。

 絶えず真っ赤な鮮血が弾け飛ぶその光景を、ポーラとブリジットは背後から息を呑んで見守っていた。

 四つ目のトマトを処刑したところで、ラウラの動きが止まった。やはりどうもおかしいと悟ったようだ。

 照れ笑いを浮かべて、三人に向き直る。

「恥ずかしながら、どうも手順が違うようだ」

 困ったようにはにかむ笑みは、普段のギャップと相まって同性のモニカ達から見ても魅力的だった。

 しかし密やかに笑んだ口許からは、付着したトマトの汁が滴っている。エプロンにべったりと張り付いていた果肉は、ずるりと嫌な感じで滑り落ちている。

 赤く染まった包丁の先端からは同色の液体が染み出すように流れ、ポタッポタッと床に真紅の池だまりを作っている。

 もうどの角度からラウラを視界に入れても、そういった猟奇的なアレコレにしか見えない。万一このタイミングで、調理部顧問でもあるメアリー教官がやってこようものなら、まず確実に卒倒するだろう。

「あ、ははっ、は……うん、初めてだもん……仕方ないよね。ねえ、二人とも?」

 引きつった笑顔を浮かべて、モニカはポーラ達に同意の目を向ける。察した二人も、こくこくと無言で首を縦に振った。

「そ、それじゃラウラ。気を取り直して続きね。トマトは子室に種子が入ってるから、そこを外して切らないといけないの。その為にはトマトの中心から出てる白い線から逸れたところに包丁を当てて――」

 それから十数分あまりの格闘の末、四苦八苦しながらもラウラはトマトの切り分けに成功するのだった。

「最後にさっきのレタスとトマトをボウルにまとめて、ドレッシングで和えていくね」

 レタスの水を切り、ボウルに移し替えて、そこに切り分けたトマトを投入する。

 そこでモニカは異変に気付いた。レタスに触れたトマトがズパッと軽快な音を立てて、さらに二つに切れたのだ。

 見間違いかと思ってもう一度。しかし結果は同じ『ズパッ』であった。

 慎重にレタスの葉を一枚手に取ってみる。

「な、なにこれ!?」

 愕然とした。葉の先が、まるで刃物のようにぎらついている。

 なぜこんなことが。考えて、すぐに思い至った。

 ラウラがレタスを包丁で両断した際、あまりに鋭利な切り口だった為、断面がこんなにも攻撃的になったのだ。

 いやそれだけではない。刃にまとった闘気が斬撃と共にレタスに伝わり、おそらく空前絶後の戦闘系ベジタブルと化してしまったのだろう。

 モニカはそのレタスの切れ端を、余っていたトマトに何気なく振るってみた。

 横並びに置いてあった三つのトマトを、緑色の一閃が擦過する。トマトは切られたことにさえ気付かなかったようで、少しの間の後、思い出したようにぶしゃーと赤い果肉をぶちまけた。

「へ……ええ!?」

 凶暴なまでのみずみずしさ。異常な切れ味を有したレタスの葉は、すでに鉄扇と化している。

 こんなサラダを口に入れたら、どんな惨劇が身に起こるかは想像に難くない。ドレッシングがことごとく鉄の味に変わってしまう。口の赤色がトマトかどうか分からなくなってしまう。心ときめく『ドキドキサラダ』どころか、鮮血滴る『ドクドクサラダ』になってしまう。

 戦慄にぶるると身を震わせたモニカは、一言だけ、しかし断固たる口調で告げた。

「つ、作り直し!」

「むう、料理とはむずかしい……」

 ぼやきながらラウラは二個目のレタスの葉をちぎる。モニカの見守りという名の監視の下、ややあってサラダは完成した。

 

 

 次はメインの肉である。担当教官はポーラだ。

「いよいよメインよ。作るのはとんかつ。男子なら確実に好きなおかずね」

「ほう、そうなのか」

「ただ、火も使うし油も使うわ。作業工程も先の二品に比べて多いから気を抜かないでね。私は甘やかさないわよ?」

「望むところだ」

 憔悴したモニカとブリジットが後ろでぐったりと座り込む中、とんかつ作りは開始された。

「最初は肉の下ごしらえから。脂身と赤身の間に包丁を入れて筋切りね」

「こうだな」

 まずは順調である。

「そうよ。それで次に肉を叩くの」

「シッ!」

 繰り出されるワン・ツー。小気味いい音と共に、殴打された肉が跳ね上がった。

「……何をしているの」

「いや、そなたが叩けと言うから」

「たたきで叩くのよ」

「叩きに叩くのか?」

「どれだけ叩きたいのよ、あなたは。……まあいいわ、偶然にも力加減はよかったみたいだし。ちょっと肉が拳の形にへこんでるけど」

 続いて肉の両面に軽く塩コショウ。三つのバットにそれぞれ小麦粉とパン粉、解きほぐした卵を用意。

 ここまでは目立つトラブルもなくスムーズだった。衣付けも問題なかった。

「いよいよ揚げていくわよ」

「よし」

 厚みのあるフライパンの中にはすでに油が用意され、温度も一七〇度程と丁度いい。

「さあ、ラウラ」

「わかっている」

 衣のついたロース肉を摘み、そっとフライパンに近付けた。まだ何も入ってないのに細かな油が跳ねている。ラウラの額に汗が滲んだ。

 意を決し、投下。フライパンの淵を伝うように、肉は油の中に滑り込んでいく。油が盛大に弾けた。

 斬撃を避けるほどの俊敏な体捌きで、ラウラはその場から飛び退いた。

「ふう、これで――」

「まだよ」

 安堵する間もなくポーラは告げた。

「三分後には肉を裏返さなければいけないの。もちろんトングを使うけど、あなたはまたフライパンの前に立つのよ。あの猛り狂うフライパンの前にね」

「……!」

「あと二分」

 ポーラはトングを二本差し出した。片方は長いトング、もう片方は短いトングだった。

「どちらかのトングを選びなさい」

「どういう意味だ?」

「長いトングは安全地帯からとんかつをひっくり返すことができるわ。ただ長い分扱いにくいから、それなりに時間はかかるでしょうね。逆に短いトングは危険地帯に踏み入る必要があるけど、代わりに迅速かつ的確な作業ができるわ」

 ここまで黙って聞いていたモニカだったが、さすがに焦って声を荒げた。

「ポーラ! あなた何を――」

「待って、モニカ」

 それを横からブリジットが制する。何か意図があると察したのだ。

「あと一分よ」

 安全を考えれば長いトングを選べばいい。しかしまごついていると肉は焦げ付く。だがポーラが提示した選択の真意はそこにはなかった。

 そのとんかつを食べるのはラウラではなくリィンだ。つまり我が身を案じて肉を焦がすか、危険を承知でリィンの為に前に出るか、である。

 今回の弁当は地下水道でラウラと猫を救う為に、危険を省みず動いたリィンへのお礼だ。

 料理は気持ち、とはブリジットの弁だが、もしラウラが我が身可愛さで長いトングを選ぶことがあれば、その時は――

 心情を面には出さず、祈るような心地でポーラはラウラの答えを待つ。

 その手が長いトングに伸びた。

「っ!」

 が、途中でぴたりと止まり、手は反対側の短いトングを力強く掴む。

「ラウラ、あなた……」

「そなたに感謝しよう。もはや迷いはない」

 淀みなく歩を進め、フライパンの前に立つ。依然として容赦なく油は跳ねていた。

 猛る炎、爆ぜる油。

 死地に赴く友人の背に、ポーラは叫んだ。

「炎を怖れないで! 油を恐れないで! 前にも言ったわ、剣とトングは同じよ」

 鼓舞とも嘆願とも聞こえる声音で続ける。

「炎の踊る様を見据えなさい。荒ぶ油の軌道を見極めなさい。流れを読んで先手を打つ、その先を読んで後手を取る。あなたが修練を重ねてきた技術だわ。その全てを今ここで発揮するのよ!」

 モニカとブリジットの声援にも熱が入る。

「負けないで!」

「あなたならやれるわ!」

 友人達の声に背中を押され、ラウラはトングを強く握る。

「はあああっ!」

 烈火の気迫。流水の体捌き。稲妻の踏み込み。疾風の突き下ろし。

 一分の狂いなく、トングが肉を挟んだ。すかさず手首を半回転させ、肉を裏返す。

 焦げ付きはなく、衣は理想的なきつね色だった。

 

 とんかつは完成した。今は油切りをして、冷ましている最中だ。

 妙なことが一つあった。完成して三十分は経ったというのに、まったく冷めないのである。

 余熱ではない。まるでとんかつ自体が熱を発しているような不可思議な現象だった。

 さすがのポーラも訝しげに眉をひそめた。

「……何これ。どうなってるの?」

 試しにフォークでとんかつをプスリと刺してみる。

 衣を貫通し、肉に到達したフォークの先端から『ジュッ!』と音がした。

「え?」

 ゆっくりとフォークを引き抜く。そこに本来あるべき三又は熱に溶け消え、フォークの先端は雨だれを途中で固めたような異様な形に変形していた。

 見た目は確かにとんかつだが、中身は完全に攻撃料理だ。

「な、なんでよ。肉系だし、もしかしてデンジャラス肉玉にでもなったのかしら?」

 今の高熱はそんな生易しいレベルではなかった。命を枯らす熱。生命の否定。死神の大鎌そのものだった。

 これは危険の名を冠するデンジャラス肉玉を超えている。生きとし生けるもの全てを根絶やす殺戮だ。ジェノサイド肉玉だ。

 しかし作業工程におかしなところはなかったはずだ。レシピ通りに作ってなぜこんなことが起きる。

 作り方に問題など――

「……あった」

 一つだけあった。

 思い当たるのは、ロース肉にかましたあのワン・ツーだ。

 突拍子もないことだったが、直感的にポーラは思った。

 悪びれなく放ったあの打撃が、この肉の怒りを煽ったのではないか。この吹き荒れるマグマのような熱は、肉が身の内に抱える憤怒から湧き出ているものではないのか。

 いや、そもそも攻撃料理はなぜ生まれるのか。先の弾丸おにぎり然り、ドクドクサラダ然りだ。

 元はただの食材、どう調理しようとも、殺傷能力など付加されるわけがないのに。

 なのに、なぜだ。なぜこれらは、これほどまでに禍々しい。

「もしかして……!」

 深淵の命題に、ポーラは一つの解を出した。

 それは“食材達の悔恨”。

 食材として用意されながら粗雑に扱われ、あるべき料理へと姿を変えることのできなかった、その無念。その悲壮。

 やり場のない憤懣。ぶつけようのない怒り。渦を巻く怨念が食材にまとわりつき、負の力を増大させている。

 その最果てにあるものが、凝集された怒りをその身に宿す攻撃料理だったのだ。

「この失敗した料理は処分するしかないかな」

「うーん、そうねえ」

「少々もったいない気もするが」

 そんな会話がポーラの耳に届く。彼女は焦った。

「だめ。捨てちゃだめよ! 弁当箱余ってるでしょ。それに詰め直して、今すぐ!」

「でも食べられないよ、これ」

「あとで封印するわ。私達に怒りの矛先が向かないように」

「ふーいん? なに言ってるのポーラ」 

 異様な剣幕にたじろぎながらも、彼女らは攻撃料理達を弁当箱に詰める。一つでは収まりきらず、最終的に二つの弁当箱に分かれる形になった。

「もう一度とんかつを作り直すわ。いいわね?」

 ポーラ様の鋭い一声に、反論の余地はない。

 

 

 そこからさらに時間をかけて、今度こそ危なげなくとんかつ作りは成功した。

 ポーラがひどく緊張した面持ちで、とんかつを食べやすい大きさにカットしていたが、その理由は後ろの三人には分かるはずもない。

 包丁を入れるとサクッと小気味のよい音。ふわりとジューシーな匂いが、揺れる蒸気に乗って鼻の奥をくすぐる。

 ジェノサイド肉玉にはなっていないようだった。

 ポーラは心底安堵する。

「あとは弁当箱に移して終わりよ」

「任せてもらおう」

 ラウラは見栄えよく、おにぎり、サラダ、とんかつを弁当箱に敷き詰めていく。この辺りのセンスは問題なかった。

 おかず二品では寂しいからと、ちょっとした添え物(ブリジットが作った)もそれなりに追加しているが、メインに関しては間違いなくラウラが作り上げたものだ。

 弁当箱のふたをして完成。ポーラ達から拍手が起こった。

「よ、よかった~」

「自分のことのように嬉しいわ」

「まったくもう。ひやひやしたわよ」

 笑いながらも三人の目には、うっすらと涙が滲んでいる。苦労のほどが窺えた。

「さっそくこれをリィンに……」

 天井を見上げて黙考し、何回か首をぶんぶんと左右に振ったあと、ラウラは三人に振り返った。

「……どう渡せばいいのだ?」

 想定外の事態にポーラ達は固まった。作った後のことは考えていなかったのである。

 普通に渡せば、などと言えばラウラのことだ。『黙ってついてくるがいい』とリィンを連行し、弁当を食べさせることには成功したとしても、その後『食後の運動に、鍛錬に付き合え』などと言い出す可能性が高い。

 それはいけない。非常によくない。

 ポーラ達の目論見の一つには、彼女の女性らしさをリィンにそれとなくアピールすることも含まれている。もちろん本人は知りもしないが。

 しおらしく『卵焼きに愛情を注いだのだ』などと頬を赤く染めて言って欲しいくらいである。間違っても『卵をオーブンに入れて爆散させたのだ』などと言ってはならないのだ。

 ラウラに聞こえないよう、ポーラは両隣の二人にぼそりとつぶやく。

「わかってるわね」

「うん、任せて」

「まだやれるわ」

 時刻は一七時を回ったところ。

 放課後から作り出した上に、何回か作り直しをしたので妥当な時間ではあるが、あまり遅くなると自然なタイミングで弁当を渡すことが難しくなる。

 迅速に動かねばならない。ポーラが鋭い声を飛ばした。

「ラウラ、急いで用意して。リィン君を探しに行くわよ」

「い、今すぐか」

「今すぐよ。片付けはあとで私達がやるから」

 ブリジットとモニカが慌ただしく『お弁当はもう中に入れておいたから!』と叫ぶ。手さげ袋を渡されるが早いか、ラウラは調理室から廊下に押し出された。

 モニカが言った。

「ラウラは先にアノール川の橋の上で待ってて。私達がそこにリィン君を誘導するわ」

「それなら私も一緒にリィンを探した方がよかろう。通信で所在を聞けば――」

『それはダメ!』

 《ARCUS》を取り出しかけたラウラを、三人が異口同音に制した。そこに「シチュエーションが大事なの!」と、ブリジットが言葉をつなげる。

「しちゅ……?」

「とにかく早く行きなさい。大至急よ!」

「う、うむ」

 最後はポーラに背中を押され、ラウラは町へと向かった。

 彼女を見送った三人は、互いに顔を見合わせる。無言でうなずいた後、一斉に走り出した。

 彼女達の奮闘も、まだ終わらない。

 

 

 ~後編に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆おまけ☆

 

 ラウラ達が弁当を作り終えておよそ半時間。

 調理部部長、ニコラスは二階の廊下を歩いていた。

 細い目じりをやや垂らした優しげな面立ち。これと言って良いことがあったわけではない。この表情が彼の基本なのだ。

 温和なのは顔つきだけではなく、その性格もだった。

 マルガリータとミリアムというトラブルメーカーを擁する調理部。アクシデントが絶えない部活を率いる彼だが、およそ声を荒げたことはない。ただ寛容に笑い、事の次第をあまねく受容する、懐の深い人物である。

「そろそろ終わったころかな」

 ニコラスは調理室に向かっていた。

 今日の放課後に調理室を使いたいと、一年の女子達が申し出てきたのだ。部活の活動日ではなかったし、彼はそれを快諾した。

 時刻は一七時半。

 調理が終了しているのなら施錠の必要もある為、ニコラスは彼女達の様子を見に来たというわけである。

「失礼するよ」

 ノックし、調理室の扉を開く。人影はすでになく、室内の様子は散々たる有様だった。

 調理テーブルのあちらこちらに焦げ跡や切り傷がつき、オーブン周りには卵らしき物体が破裂した痕跡がある。床は凄惨な事故現場のように赤い液体がぶちまけられており、その近くのまな板には、半分以上刃が食い込んだ血塗れの包丁が怪しげな光を放っていた。

「ははは、これはすごいなあ」

 このように笑えるのが彼のすごいところだ。

「片付け途中みたいだし、みんなして席を外しているんだろうね。……おや?」

 テーブルの片隅に一つの弁当箱を見つけた。

「彼女達はお弁当を作っていたのかな。可愛らしい弁当箱だなあ」

 清楚な花がプリントされた、あでやかな容器。

 ニコラスは興味本位からそれを手に取った。それはポーラが言う所の“封印”されるべき、失敗した料理達の墓場。攻撃料理の詰め合わせ。決して人が触れてはならない魔の弁当だった。

「ちょっとだけ見せてもらってもいいよね」

 それは好奇心だった。料理を愛するがゆえの。

 ふたに手をかける。煉獄の扉が開いた。

 瞬間、ズンと腹に衝撃が響く。一発ではない。ズドドドド!と弾丸おにぎりが機関銃さながら彼の腹部に襲い掛かった。

「ぶぶぶぶ!?」

 続いてヒュンヒュンと空気を裂く鋭い音。ドクドクサラダが回転しながらニコラスの周囲を滞空する。鋭利なレタスが彼の制服をズタズタに切り刻んだ。

「あああっ!」

 もだえ、床に四つん這いになったニコラスの背に、ジェノサイド肉玉が降り落ちる。体中の水分が全て消し飛ぶほどの超高熱が、彼の背中にとんかつ型の焼印を刻んだ。

「ふはあああ!」

 煉獄の名にふさわしい圧倒的な責め苦。

 過ぎた好奇心が身を滅ぼす、という言葉はあるが、これは滅ぼされすぎだろう。

 その力を使い果たし、攻撃料理達は沈黙。次々に床に落下した。

 同時、ニコラスの意識も闇の淵へと落ちていった。

 

 

 静寂の調理室。

 ここに致命的な失態があった。それに気付く者は、残念ながら誰もいない。

 彼女達が作った弁当は三つである。

 一つは成功作の愛情弁当。残る二つが失敗作の煉獄弁当だ。しかしこの調理室には、今しがたニコラスを屠った煉獄弁当の一つしかなかったのだ。

 あの時、手提げカバンを渡されたラウラに――否、その場の全員にもう少しだけ余裕があれば、誰かが違和感に気付いていたかもしれない。

 なぜモニカとブリジットが二人同時に『弁当を袋に入れた』などと言ったのか。本来二つ残っているべき煉獄弁当が、なぜその時点で一つしかテーブルの上になかったのか。

 ラウラはもう橋の上に立っていた。

 弁当が二つ入った手提げカバンを、静かにその手に携えて。

 

 

 ☆☆☆

 

 




前編をお付き合い頂きありがとうございます。
ガールズクッキングⅡということでガールズ四人の奮闘劇です。無印ガールズクッキングは、完成した攻撃料理を男子達が食べるお話でしたが、今回は作ってる最中に焦点を当てています。
Ⅱの前編コンセプトの一つには、いかにして攻撃料理が作られるのか、というのも実はあったり。
無印クッキングで女子達がどんなえげつない調理をしていたか目に浮かびますね!
一応構想はあったので、食材調達から調理までがっつりガールズクッキングⅠの女子サイドを書いてみても面白いかもしれません。
乙女の領域の向こう側を! え、もうやめとけ? そうですか……

十月編一発目ということで、まだまだ彼女達はがんばります!
次回もお楽しみ頂ければ幸いです。
ご感想も随時お待ちしております。


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ガールズクッキングⅡ(後編)

「見つけたわ!」

 本校舎をあらかた探し回り、正面入り口から外に出たところで、ポーラ達は学生会館側へと歩くリィンを見つけた。

「見つけたのはいいけど、このあとどうするの?」

 モニカが言う。ブリジットも困っているようだ。

「そうね。自然にトリスタまで誘導できたらいいんだけど」

 露骨に『ラウラがお弁当を持って橋の上で待っている』などとは言いたくない。あくまでも自分達が介在していることは伏せておきたいのだ。

 当然、このまま何もしなくてもリィンは寮に帰るために橋の上を通るだろうが、いつ帰るのかが問題だった。暗くなってからではお弁当を食べる時間を逸してしまう。

 それにリィンのことである。あんな風に歩いているだけで、いつ頼まれ事が舞い込んでくるか分からない。

 思うそばから、一人の女子生徒がリィンの背に向かって小走りで近付いていく。

「まずいわ……!」

 あれはⅣ組の女子生徒、コレットだ。雰囲気的に何か依頼の予感がする。もしリィンが彼女の頼まれ事を受けたら、確実に日が暮れてしまう。先に声を掛けられたらアウトだ。

 思ったが早いかポーラは駆け出し、同時にコレットが陽気な声を発する。

「あ、リィン君。お願い事があって――むぐっ」

 いきなり後ろから羽交い絞めにされ、口元を押さえられたコレット。状況もわからないまま、近くの茂みまでずるずると後退させられる。そして――

 キュッ

 と、何かを締める音。

 茂みからはみ出して、じたばたともがいていたコレットの足が、やがて動かなくなった。

 額の汗を拭いながら、茂みからポーラが出てくる。

 衝撃の光景を目の当たりにしたモニカとブリジットは、絶句して固まっていた。

「だ、大丈夫なの。コレットさん、なんか反応ないんだけど」

「ど、ど、ど、どうしたらいいのかしら。う、埋めるの、埋めたらいいの、こういう場合……? アラン、私、もうあなたに会えないかも……」

 ブリジットの狼狽の方が激しい。

 動揺をみせる二人に、ポーラは落ち着いた態度で告げる。

「しばらくしたら目を覚ますわ。彼女の依頼なんて、食べ歩きに付き合ってとかそんなのよ。きっと」

「それは偏見だと思うけど……」

 そんな折、リィンは「誰かに呼ばれたような気がしたが」ときょろきょろ辺りを見回すと、改めて学生会館へと歩き出していた。

「いけない! 先に回り込まないと。ほらブリジット、しゃんとしなさい!」

「ええ、大丈夫。あとで教会で懺悔するから。ロジーヌさんに罪を告白するから」

「やめたほうがいいと思うよ。蒼白になったロジーヌさんの顔が目に浮かぶし……」

 屍と化したコレットは放置して、彼女たちはまた走り出した。

 

 

「……モニカだよな。何をやってるんだ。こんな所で」

 学生会館前でリィンは足を止めていた。彼の見下ろす目線の先、モニカは扉を塞ぐように寝そべっている。

「ク、クロールの練習だけど?」

 足をばたつかせ、腕を回す振りをしながら、上ずった声でモニカが答える。彼女にも苦し過ぎる言い訳であることは分かっていた。

「できればプールでやって欲しいんだが……」

「水のない所で泳げて一人前だって、クレイン部長が言ってたから」

「どういう意味なんだ、それは。とにかく生徒会室に行きたいから、そこをどいてくれないか」

「何しに行くの?」

「トワ会長に何か手伝えることがないか聞きにいくんだ」

 まさか自分から依頼をもらいにいくとは。なおさらこの先に進ませるわけにはいかない。

「ええと……リィン君がトワ会長にしてあげられることは何もないよ。そんなに役にも立たないと思うし、早く寮に帰った方がいいんじゃない?」

「なっ!?」

 痛烈な一撃。しかしリィンは折れなかった。

「こうなったら悪いが上をまたがせてもらうぞ」

 リィンが足を上げようとして、

「だめ!」

「うわっ!?」

 鋭い声を上げ、泳ぎ真似をクロールからバタフライへと変えた。

 びったんばったんと、地面の上で跳ねるモニカ。まるで水揚げされたばかりの魚のようだった。ちなみに彼女はまだバタフライは泳げないので、クレインやラウラの見様見真似である。

 ぜえぜえと肩で息をしながら、リィンを横目で見上げる。

「これでっ、通れっ、ないよねっ!?」

「も、モニカ?」

「無理にっ、通ろうとっ! したらっ! あたしっ、泣くから!」

「どういう状況なんだ、これは……」

 すでに涙目。ここまでなりふり構わず何かを貫き通したことは、おそらく初めての事だった。子供の頃、両親に駄々をこねた時でも、ここまで全力全開ではなかった。

 全ては大切な友人の為、モニカは色々なものを捨てたのだ。恥とか外聞とか、概ねそんな感じのものを。

 それでも膠着は続いたが、結局、

「……わかった。今日はやめておくよ」

 リィンが折れる形で、その場を凌ぐことに成功する。

 元来た道を引き返す彼の後ろ姿を見て、モニカはぐったりと四肢を伸ばした。

 

 

「水泳部の練習って厳しいんだな」

 見当違いの事を独りごちながら、リィンは正門とは逆方向に進んでいる。

「今日は中庭の池で釣りでもするか」

 間が悪い。

 彼の後をこっそり追うポーラとブリジットはそう思った。

 どうせ釣りをするなら、アノール川に行けばいいのに。

「今度は私が行くわ。釣りをさせずに、正門側に誘導すればいいのよね」

「頼んだわよ、ブリジット。私も先に行くから」

 ポーラはグラウンドに向かい、ブリジットは校舎内を抜けて中庭へと先回りする。

 リィンが中庭にやってきたのと、彼女が到着したのはほとんど同時だった。

「はあ、はあ。リ、リィン君奇遇ね。どうしたのかしら? こんなところで」

「ちょっと時間潰しに釣りでもしようかと思ってさ。ブリジットこそどうしたんだ? そんなに息を荒くして」

「トランペットには肺活量も必要なのよ……」

 持っていたトランペットをかかげる。ここに来る途中、全力疾走で二階の音楽室まで行って、とりあえず手近にあったトランペットを調達してきたのだった。本来、彼女の担当楽器はピアノである。

「音楽室じゃなくて、中庭で練習してるのか?」

「ええ、大自然の中で奏でる音色は澄み渡ってとても綺麗なの」

 トランペットを吹いてみせると『ぷふぉ~』と、空気の抜けたような音が池の水面を揺らした。

「それ澄み渡っているのか? 俺にはよく分からないが。あと大自然ってほどじゃないし」

「ト、トランペットは練習中なの。それに自然は雰囲気が大事なんだから。そういうわけで、ここで釣りは出来ないわ。ごめんなさい」

「どんなわけなんだ? 別にうるさくはしないし、邪魔にはならないと思う」

「とにかくダメなのよ!」

「ダメな理由が分からないんだが……」

 リィンは中々引き下がらない。ブリジットは右に左に花壇を動き回り、リィンの進入を阻止し続ける。しかしあまり時間はかけられない。

 モニカはラウラの為に体を張って学生会館への道を塞いだ。

 自分とてやらなくては。この場を死守しなければ。何とかして釣りをしようとするリィンの気を削がなければ。

 そうだ。最近読んだ小説を参考にしながら――

 決意を固め、ブリジットは顔を伏せた。

「ねえ、リィン君。釣られるお魚さん達のことを考えたことある?」

「え?」

「おいしそうなご飯があると思って食べてみたら、実は鋭い針が隠れてて、いきなり住処から引きずりあげられるの……」

 薄暗い声。悲しそうな目。悲壮感を漂わせながらブリジットは続ける。

「あなただって嫌でしょう。夕ご飯の料理の所々にホッチキスの針が見え隠れしていたら」

「そ、それは嫌だが……」

「きっと魚にだって親兄弟もいたはずだわ。それをリィン君は自分の愉悦を満たす為だけに引き離してきたの。想像してみて? 昨日あなたが釣ったサモーナのことを。彼女には将来を誓い合った恋人がいたのよ。でもその日、少し泳いでくると言って家を出たきり、二度と帰ってくることはなかったわ。そう、あなたが釣り上げたばっかりに。それも意気揚々と楽しみながら」

「お、俺は昨日サモーナなんて釣っていない……!」

「恋人のサモーナは今も水底で打ちひしがれているわ。彼女は忘れない。大切な彼を奪ったあなたのことを。二人で住んでいた巣は狭かったはずなのに、今ではとても広く感じてしまう。リビングに立てかけてあった二人の写真だけが、今はただ切なくて――」

 もう何が何やら。

 しかしリィンはその場にがくりと膝をついた。

「……なんだか俺が悪かった気がする」

「ここでの釣りは諦めてくれる?」

「ああ、サモーナに謝りたい気持ちでいっぱいだ」

「よかった。サモーナも許してくれると思う」

 ブリジットはにこりと微笑んだ。

「あ、そうそう。アノール川ならいっぱい釣れそうな気がするし、今日はそっちに行ってみたらどうかしら?」

「なんでこの流れで釣りを勧めてくるんだ!」

 

 

 今日は変な事が多い。どこか腑に落ちないものを感じながら、リィンはグラウンドまでやってきていた。さっきから行きたい場所になぜかたどり着けない。

「ちょっと、フェリス。パスのタイミング遅いじゃない!」

「アリサの立ち位置がずれているせいですわ!」

 グラウンドではラクロス部が練習していた。アリサとフェリスの言い合いが聞こえてくる。もめているのは試合中のコンビネーションについてのようだ。

「あなた達、そんな事で前言ってた『フェリサハリケーン』とかいう必殺技できるの? エミリー、伸び悩む後輩達の為に、私達のコンビ技『エミジアデストロイ』を見せてあげましょう」

「そんな技はこの世界に存在しないわ」

 場を収めにやってきた上級生二人も迷走している感がある。 

 時間潰しにのぞいていこうかと思った矢先、

「この浮気者」

 背後から低い声音。振り返ると蔑むような目付きをしたポーラと、彼女をその背に乗せ、荒々しい鼻息を噴く茶色い馬がいた。

「ポ、ポーラ? なんでこんなところで馬に乗って――」

「おだまり」

 一声でリィンの言葉を遮り、馬上から競技用の鞭ではなく、女王様仕様の長い黒色ムチが振り下ろされる。

 地面を叩いたその先端が『ピッシィ!』と乾いた音を響かせた。

 今の彼女はポーラではない。氷の瞳を湛える絶対的支配者、ドミネーション・クイーンことポーラ様だ。

「だいたい浮気者って何のことだ」

「………」

「俺に何か用があったのか?」

「………」

「そ、その、なんで何も言わないんだ?」

「私はおだまりと言ったわ。誰があなたに発言の許可を与えたの?」

 馬が身じろぎし、頭をかがめた。ポーラはムチを振り上げる。

「ま、待て。落ち着くんだ」

「さあ、追いかけっこよ。先に正門から出ればあなたの勝ち。私が追いついた場合は……分かってるわね?」

「分からないし、なんで正門なんだ!?」

「問答無用!」

 再び宙にムチが踊り、リィンに向かって馬が跳躍する。絶叫がこだました。

 

 

 ラウラは驚いていた。

 本人には何も伝えず橋の上まで誘導すると聞いていたが、本当にやってきた。しかもこの短時間で。一体どうやったのだろう。

 橋の欄干に寄りかかり、汗だくのリィンは呼吸を整えている。

「はあっ、はあっ! さすがにここまでは追ってこないか……」

「……リィン、大丈夫か?」

「あ、ラウラ?」

 声をかけて、ようやく気付かれた。汗だくの顔を向けてくるリィンは、ずいぶんと疲弊している。

「そんなに走ってどうしたのだ?」

「ちょっと馬に追いかけられて……なんでそうなったのかは俺にも分からない」

「馬?」

 まさかポーラが? いや、さすがにそれは考え過ぎだ。

「ラウラも帰りなのか? 俺も今日はもう帰ろうと思う。なんだか学院から追い出されたような感覚があるが」

「そ、そうなのか」

 彼女らには後で色々聞かねばなるまい。

 それはそうと、ここからどう切り出せばいいのか。何と言えばいいのだ。弁当を作ってきた、でいいのだろうか。しかしそれではあまりにも台詞が簡素ではないか。

 別に言葉を飾る必要はないし、普段通りでいいはずだ。

 だというのに、なぜかそんな些細なことが気にかかって仕方がない。リボンは曲がっていないか、髪は乱れていないか、そんな取るに足らない小さなことさえも。

「その、だな……うむ」

 言いあぐねていると、先にリィンが口を開いた。

「ラウラも帰りだったら、一緒に帰らないか?」

「いいのか? いやいや、そうではなくてだな……」

 他愛なく何気ない言葉が胸に心地良かった。

 しかし帰ってはダメだ。渡すものがある。必死に言葉を探した。だけど見つからない。

「違うのだ。実は今日は……あぅ……」

 そもそも言葉は探すようなものだっただろうか。やはりおかしい。自分らしくない。

 手にした小さな手提げ袋を、ぎゅっと握りしめる。

「それ、なに持ってるんだ?」 

 どきりと心臓が跳ね上がる。一瞬頭の中が真っ白になる。後はもう勢いだった。

「空腹ではないか!? そなたは今、空腹ではないのか!?」

「え? ああ、走り通しだったから結構減ってるな」

 ぎこちない動作で、ラウラは袋を持ち上げた。

「実はそなたの為に弁当を作ったのだ。あの時、ヘイムダルの地下水道でかばってくれた礼としてだ。よかったら食べていかないか。……食べて……欲しいのだが……」

 最後は失速。それでも言うべきは言った。

「礼だなんて気にしないでくれ。もしかして、ずっとここで待っていてくれたのか?」

「ち、違う。偶然、そうこれは偶然だ。復唱するがいい。これは偶然だと!」

「なんで俺が復唱するんだよ……」

「なんでもいいのだ。ここではなんだし、とりあえず場所を変えるとしよう」

 二人は橋の脇にある階段を下り、川岸の木陰へと向かう。

 手提げ袋の中にはビニールシートも入っていた。ポーラ達の気遣いに感心しつつ、奥の弁当箱を取り出そうとしたところで気付く。 

「む?」

 なぜか弁当箱が二つ入っている。

 自分用など作っていない。となると、成功作の弁当と間違って失敗作も入れたのだろう。彼女らの慌てぶりからして、想像できることだった。

 それにしてもどちらが成功作なのだ。

 容器は同じ。中身は開けないと見えない。とはいえリィンの前でわざわざ失敗作かもしれない弁当など開けたくはない。

「どうかしたのか?」

「あ、ああ。しばし待つがよい」

 逡巡の末、ラウラは直感で選ぶことにした。先に手が触れた弁当箱を取り出す。

「……では開けるぞ」

「ああ、楽しみだ」

 ゆっくりと弁当箱を開く。

 中に入っていたのは、大きな三角おにぎり。彩り鮮やかなサラダ。サクサクに揚がったとんかつ。

 成功した弁当だった。

「へえ。おいしそうだな。全部ラウラが作ったのか?」

「ところどころ友人に手伝ってもらったがな。遠慮せずに食べて欲しい」

「それじゃ、さっそく」

 リィンは手に取ったおにぎりを、口いっぱいに頬張った。

 

 

 そんな二人の様子を、橋の上からこっそりと見守っている影が三つ。

 合流したポーラ達である。

「よかった。お弁当うまく渡せたみたい」

「まったく、手間取ったわ」

「ええ、あとはラウラに任せましょう」

 そう、ここからはラウラ次第。これ以上の手出しは、余計な介入である。

「……でもね」

「……そうね」

「……だよね」

 含みを持って目配せし合う。彼女達にはまだやることが残っていた。

 ラウラはともかく、リィンはやたらと間が悪い。彼のせいではないのかもしれないが、トラブルを呼び込むというのか、何かしら横槍が入ってしまうことが多々あるのだ。

 彼女達のやること――それは“余計な介入”を防ぐことだった。絶対にあの周囲に人は近づけさせない。 

 依然として、奮闘は継続中だ。

 

 ●

 

 川縁は平和である。

 落ちかけた夕日が、景色を赤く染め始めていた。

「このおにぎりうまいな。塩加減もいいし、握り方も絶妙だ」

「そ、そうか! まだあるぞ。水も飲むがいい」

 おにぎりを一つをたいらげたリィンを、ラウラは嬉しそうに眺めている。

「口もとに米がついているぞ」

「すまない。つい急いで食べてしまって。これで取れたか?」

 口を拭うリィンだが、まだ取れていない。

「動くでない、私が取ろう」

 ラウラはリィンの口もとに、白く細い指を這わせた。

 川縁は平和だった。 

 

 所変わって橋付近。

 ポーラ達はまばらに散開して、周囲に気を配っている。

 しばらくすると案の定やってきた。間の悪い人たちが。まるで何かに引きつけられるように。

「たまには川で水練してみるか」

「はあ、この時期だとさすがに冷たいですよね」

 水泳部のクレインとカスパルである。二人はすでに水着姿だ。

「流れに逆らって川上めざして泳ぐんだ。いい練習になるぜ」

「がんばります。モニカも誘えばよかったかな――ってモニカ?」

 二人の前にモニカが立ち塞がった

「丁度よかった。モニカも水練するか?」

 カスパルの誘いにかぶりを振る。

「ここは通せないの。クレイン部長、カスパル。引き返して」

「どうしたんだ。今日は流れも早くないし、たまには川で泳ぐのもいいもんだぜ?」

「ダメなんです」

 先輩であるクレインの言葉にもモニカは応じない。そんな彼女にカスパルは苛立っているようだ。

「モニカが泳がないのはいいけど、俺達が泳ぐのは自由じゃないか。いい加減にしないと――」

「力ずく?」

 強い眼差しがカスパルを捉えた。一瞬、虚を突かれたカスパルだったが、すぐにモニカを睨み返す。

 クレインは見た。二人の闘気が膨れ上がり、何かを(かたど)っていくのを。

 小さなハサミを振り上げたシュラブと、小さな背びれを立てたカサギンが、敵意を持って相対している。

「えーと、お前らやめとけ。な? モニカがそこまで言うなら無理には泳がねえし。カスパルも落ち着けよ」

 年長のクレインがその場を収めようとするも、臨戦態勢に入った二人はもう止まらない。

「クレイン部長、見ていてください。今道を開きますから」

「ふんだ。カスパルなんてすぐにやっつけちゃうんだから」

「言っとくけど手加減しないぞ。練習で身に付けた技を遠慮なく使わせてもらうからな」

「私だって!」

 モニカとカスパルは同時に腕を構える。渋面のクレインが「お前らな……」とこめかみを押さえるが、二人にはもう見えていなかった。

 静寂が満ちていく。

 遠くからラウラの楽しそうな声が聞こえる。みんなで苦労して作りあげた大切な一時。嫌がらせ以外の何物でもない男たちの水練で、あの雰囲気をぶち壊すわけにはいかないのだ。

 橋の下で水がはねた。

 カスパルが地を蹴る。腕を振るいながらの特攻。

「くらえ! 『カサギンの一閃・セカンド』!」

 クロールの要領で、左右から時間差で繰り出される鋭い手刀。

「えい! 『シュラブのオープン・ザ・カーテン』!」

 中心から左右に開く平泳ぎの腕の動きそのままに、モニカは二対の手刀を巧みに捌いた。

「やる……! だけど、まだだ!」

 クロール式で振り回す腕の動きが逆回転。まるで背泳ぎのように大きくしなる腕が舞い戻ってきた。

「はあ! 『レインボウの尾びれ』!」

「きゃっ!?」

 虹が生み出す七色のように、派生の瞬間が捉えにくい打撃だった。ほとんど反射で、モニカは後ろ跳びに距離を取る。

「今のはエビの跳び方……『バックステップ・オブ・ザリーガ』か。まさか習得していたなんてな」

「私だって遊んでいたわけじゃないから」

「それでも技数は俺の方が多い。もう終わらせる!」

 再びカスパルがモニカに肉薄する。

「見切れるかよ! 奥義『サモーナック・バターソテー』!」 

 複雑怪奇な構えから繰り出される、予測不能の連撃がモニカに迫る。その動きは変幻自在の千変万化。

 回避は出来なかった。迎撃する技ももうなかった。歯を食いしばり、固く目を閉じる。

 脳裏に浮かぶのは、はにかんだラウラの笑顔。お弁当を作り上げた時のラウラは、本当に嬉しそうだった。

 いいのか。こんなに簡単に台無しにされてしまって。突如現れた半裸の男たちに、あの領域への侵入を許してしまっていいのか。力が及ばない。たったそれだけの理由で。

 いいわけがない。絶対に。

 モニカは目を見開く。すでに体は動いていた。

「やああっ!」

 両腕が大きく弧を描き、左右同じタイミングで、勢いよく肩上から突き下ろす。それはバタフライの腕の動きに酷似していた。カマキリが獲物を捕らえるがごとく、鋭い二つの軌跡がカスパルへと伸びる。

「がはっ……!」

 ピンと張り、そろった指先が、カスパルの両鎖骨に『ずむっ』と食い込んだ。身を穿つ衝撃にガクガクと膝を折り、彼はその場にくずおれる。

「……シュラブが……クインシザーになったのか……」

 それが彼の末期の言葉だった。

「……とりあえず、コレットさんの横にでも寝かしとこっと」

 意識の途絶えたカスパルを、モニカはずりずりと学院まで引っ張っていく。

 その後ろ姿を見て、クレインは「泳ぎの教え方……俺、間違ってたのか?」と深く肩を落としていた。

 

 

 川縁は平和である。

 木の上からは小鳥達のさえずりが聞こえていた。

「このサラダもいけるな」

 レタスのシャキシャキ感とトマトの酸味がマッチし、そこにドレッシングが合わさることで味が一つにまとまっている。シンプルな素材ながら、奥深い味わいだった。

「何よりだ。レタスの仕込みにひと手間かけた甲斐があったというものだ」

「ラウラって実は料理できるんだな。ほら、この前の一件があったから、正直不安なところもあったんだ」

「あ、あの時の事は忘れるがよい。私だって日々努力しているのだ」

 頬を赤くして、ラウラは目を逸らす。

「はは、悪かった。気にしないでくれ」

「まったくそなたは……ん? ドレッシングが口についているぞ」

「え、どこだ?」

「動くでない。私が取ろう」

 ラウラはハンカチを取り出して、そっとリィンの口もとを拭った。

 涼やかな微風が、二人の前髪を緩やかに揺らしていく。 

 川縁は平和だった。

 

「あれって、ラウラとリィンかな? 何してるんだろう」

 橋の上に来訪者が一人。寮に帰る途中のエリオットである。

「おーい、二人とも――」

 プォー!

 彼の声をかき消すように、太い音が鳴り響いた。

「エリオット君……どうしてここに来たの」

 悲しげな声。トランペットを手にブリジットが近付いてくる。

「あれ、ブリジット? トランペットなんて持ってどうしたの? 今日部活なかったよね」

「ねえ、エリオット君。今を何しようとしたの」

「いや、あそこの二人に声をかけようと――」

 プォー!

「な、なんでトランペット吹くのさ。というかブリジットはピアノ担当なのに何でトランペットを――」

 プォー!

 三たび鳴ったトランペット。それなりに吹けるようになってきていた。

 理由も分からず戸惑うエリオットに、ブリジットはトランペットを向けた。銃口さながらの威圧感をもって、ゆらりと持ち上がる金管楽器。

「ごめんなさい。ここを通すことも、あの二人に声を掛けさせることもできないの」

「なに言ってるのかわからないんだけど……」

 逆光でブリジットの顔が黒い影に塗り込められる。清楚な彼女には似つかわしくない、妙な凄みがあった。

「知ってる? たとえば大きな音とかで三半規管が揺れるとね。バランスが取れなくなって少しの間立てなくなっちゃうんだって」

「え?」

「許してね、エリオット君。明日になったら、私の事いくらでも怒っていいよ」

「ええ!?」

 突き付けられたトランペットの意味を理解したエリオットは、戦慄に一歩足を引いた。すかさず一歩前に出るブリジット。

 さらに一歩下がるエリオット。もちろん一歩踏み出るブリジット。

 だんだんとその感覚が狭まってきて――

「う、うわあああ!」

 緊張に押し負けたエリオットは、踵を返して逃げ出した。その背をブリジットが追い掛ける。担いだトランペットは迫撃砲のようだった。

「ブリジット、おちっ、落ち着いてよ! うわっ」

 足がもつれて転倒するエリオット。無防備な耳元にトランペットが添えられた。

「ほんの少し揺らすだけだから」

「い、嫌だよおー!」

 太い音色が響き渡った。

 

 

 川縁は平和である。

 川のせせらぎが柔らかな音色を奏で、自然と心が落ち着いてきた。

「このとんかつもいいな。衣はサクサクだし、ボリュームもたっぷりだ」

「そうであろう。男子ならとんかつが好きと聞いてな」

 どんどんと少なくなっていく弁当箱の中身に、ラウラは満足気な様子だ。

 手渡されたお茶を飲み欲し、リィンは息をつく。

「まだ食べたりないくらいだ」

「そなたさえ良ければ、また作っても構わない……が」

 控えめな上目つかいでリィンを見るラウラ。

「はは、それはぜひお願いしたいな」

「……まったく、簡単にそんなことを言うから。ん、口の周りに衣がついているぞ」

「またか。……これで取れたか?」

「いや、私が取ろう。動くでない」

 ハンカチを取り出し、優しげな手つきでリィンの口もとにハンカチを添える。

 身を乗り出していたラウラの体勢が、不意に崩れた。

「あっ!」

「ラウラ!?」

 とっさに彼女の体を支えるリィン。細い腰に手が回り、ラウラの身が完全にリィンに抱きかかえられる形になった。

「リ、リィン……っ!?」

 草花がそよ風になびく。木々から鳥達が一斉に飛び去っていく。二人のそばを蝶がひらひらと舞う。

 川縁は平和だった。

 

 その最中、すたすたと乱れぬ歩調で、橋の上を通る学生が一人。

 下校中のユーシスである。

「ん? あれはリィンとラウラか? ここからではよく見えないが」

 二人に気付いた彼は方向を変え、川岸に下る階段へと近付いた。

 ヒュンヒュン、ピッシィと鋭い音。

「な、なんだ?」

「来ると思っていたわ。空気を読まない男」

 待ち構えていたポーラが現れた。『読めない』ではなくて『読まない』という辺り、彼女もユーシスの性格をよく捉えている。

「なんだ、いきなり。顔を合わす度に突っかかってくるのも大概にするがいい」

 この見透かしたような、上から物を言うような、傲岸不遜な態度が気に入らないのだ。最初からである。

「それはユーシスもじゃない。口を開けばちくちく嫌味ばっかり言って。あんた将来ハインリッヒ教頭みたいになるわよ」

「俺はあんなヒゲなど生やさん」

「そこじゃないのよ。なんで時々会話がずれるのよ。やっぱり天然だわ」

 四大名門アルバレア家子息と知って、ここまで明け透けに物を言うのは、同年代でⅦ組以外ではポーラくらいのものである。

「元はと言えば、あんたに原因があるのよ。のこのことヘイムダルまで付いていくから……。だから今になってこんな遠回りをすることになっているのよ」

 ムチを持つ手がわなわなと震える。

「何のことだ」

「説明してもわからないわ。とりあえず、百叩きの上で川流しの刑に処す」

「なんでお前に処されねばならんのだ!」

 ムチの一振りが空気を裂いた。

 横っ飛びに黒い一撃を避けるユーシスだったが、ポーラ様の追撃は緩まない。手首を巧みに返して、まるで生き物のようにムチをしならせた。

 かろうじて二撃目もかわしたユーシスに、ポーラ様は嗜虐的な目を向ける。

「ほら、街道まで遠乗りに行くわよ」

「さっきから何なのだ? そもそも馬がどこにいる」

「私の目の前にいるじゃない」

 ひゅんひゅんとうなるムチが、地面を強く叩く。土くれがユーシスの目線の高さまで弾け飛んだ。

「さあ、ひざまずいて馬におなり!」

「俺が何をしたというのだ!」

「教えてあげるわ、その体に! 刻んであげるわ、その心に!」

 逃げるユーシスをポーラ様は執拗に追いかけ回した。

 

 

 川縁は平和である。

「あ……リィン。すまなかった」

 耳まで真っ赤にしたラウラは、体を戻して元の位置に座り直した。心臓の鼓動はまだ収まらない。

「顔も赤いし、熱でもあるんじゃないのか?」

「だ、大丈夫だ」

「それならいいんだが」

 弁当はもう空である。リィンは軽く伸びをした。

「だけど本当にうまかった。やっぱり少し食べたりないな」

「そこまで気に入ってくれるなら、もう少し作っておけばよかったな」

「また頼むよ。――ん、それは?」

 脇に置いてある手提げ袋。その中にあるもう一つの弁当箱にリィンが気付いた。

 ラウラは焦ったように弁当箱を袋の奥に押し込む。

「これは違うのだ。何というか、その、あまりうまく作れなかったのだ」

 ストレートに失敗したとは言えなかった。

「そんなことか、俺はそんなの気にしないが」

 しかしラウラは首を横に振る。

「おにぎりの形は悪いし」

「はは、そんなことか」

「サラダのレタスはちょっと固めだし」

「あごの運動には丁度いいさ」

「とんかつは、少し揚げ過ぎたようだし」

「香ばしさだと思えば、なんてことないだろう」

 半ば根負けのラウラは弁当箱を取り出し、しぶしぶリィンに手渡した。

「むう、味の保証はしないが、それでもいいなら」

「もちろんだ」

 さっそくリィンは弁当箱を開く。

 川縁の平和は終わりを告げた。

 

 丁度その時、ポーラ、モニカ、ブリジットが戻ってくる。

 橋の上で合流した三人は、川縁に目を向けた。

 そこにはラウラしかおらず、リィンの姿は見えなかった。彼女は何かを叫びながら、空を見上げている。

 ラウラの視線に合わせて、首を上げてみた。そこで彼女達は目撃する。

 赤い夕日を背景に、ぼろぼろになったリィンが、きりもみしながら中空に打ち上がる姿を。

 

 

 ● ● ●

 

 

 翌日の昼。

『ごめんなさい!』

 ポーラ達は声をそろえてラウラに謝った。学生会館の一階食堂である。

「まさか失敗のお弁当を一緒に入れてたとは思わなくて」

 モニカが罰悪そうに、しゅんと肩を落とした。

「私がちゃんと確認しなかったから……」

 その隣でブリジットも目を伏せている。

「私が急かしたからよ。ごめんね」

 珍しくポーラも殊勝な様子だった。

 そんな三人にラウラは言う。

「そなた達が謝ることは何もない。十分に尽力してくれたし、おかげでリィンにもあの時のお礼ができた」

「でもリィン君がひどい目にあったみたいだし」

「大丈夫だ。今日も授業に出ていたしな。……まあ、食欲はないらしいが」

 ちなみに現在、教室でリィンが口にしている昼食は、水とパンを少量である。

「で、でも。せっかくの機会が」

「弁当を食べてもらう機会などいくらでもあろう」

「そういうことじゃなくて……」

 三人はまだ謝り足りないらしい。

 ふむ、と腕組みするラウラは、何か思い立ったようにポーラ達を見回した。

「だったら、これからも私に料理を教えて欲しい。いつか一人で色々なものを作れるように。リィンに食べてもらうのは、それからでも遅くはない」

 きょとんとして顔を見合わせるた後、彼女たちは口々に言った。

「私は泳ぎ方を教えてもらってるお返しだね」

「私はヘイムダルで助けてくれたお返しいうところかしら」

「私は何にしようかしら。そうね、楽しい日々を提供してくれてるお返しってことで」

 わざとらしく適当な理由を並べ立てて、協力を約束する三人。その様子がラウラにはおかしかった。

「私はいい友人を持った」

 小さく笑って、ラウラはそう言った。

 

 

 ~FIN~

 

 

 

 

 

 

 

 ~おまけ~

 

 学院敷地内、図書館に近い茂みの中でコレットは意識を取り戻した。空はすでに薄暗い。

「ん……いたた」

 上体を起こすと、かけられていた枝葉がばさばさと落ちた。

「何やってたんだろ、私……確かリィン君にお願い事をしようとして――」

 だんだんと記憶にかかる(もや)が晴れていく。

「え、と。そうだ、リィン君に近づいたら、いきなり誰かに後ろから羽交い絞めにされて……」

 そこで記憶は途切れている。

「今何時なんだろ。時計――」

 視線を虚ろに巡らして、彼女は気付いた。

 となりにもう一人誰かがいる。同じクラスのカスパルだった。自分と同じく木の葉に埋まって横たわっている。

「ちょっと、カスパル。大丈夫?」

 コレットが声をかけると、カスパルはすぐに目を覚ました。

「ん……あれ、コレット? ……モニカは……?」

 鎖骨あたりをさすりながら、カスパルはよろよろと立ち上がった。彼の体からも木の葉が舞い落ちる。

「カスッ……!?」

 カスパルは半裸だった。

 固まるコレット。自分の姿に気付くカスパル。全ての時が止まった。

 コレットの着衣は乱れている。カスパルの着衣はこれ以上乱れようがない。

 落ちかけた夕陽が、引き締まったカスパルの肉体を赤黒く照らした。

「きゃあああ!」

「うわあああ!」

 二人の絶叫が重なる。

「な、な、な、何やってるの、カスパル! わ、私に何をしたの!?」

「ち、ち、ち、違うんだ、コレット! 俺はまだ何もしていない!」

「これからするつもりだったのね!?」

「何でそうなるんだ!」

 慌てに慌て、焦りに焦り、どもりまくる二人。

「聞いてくれ、コレット。俺も思い出すから、落ち着くんだ。俺は確か最後、モニカに『サモーナック・バターソテー』を――」

「さもーなっくば……? さ、さもなくば……!? 私を脅迫する気なの!? 見下げ果てたわ、カスパル!」

「は、はあ!?」

 コレットはそばに落ちていた大きめの石をわし掴んだ。

「近づかないで! それ以上こっちに来たら、カスパルの頭に三段アイスみたいなたんこぶを量産してやるんだから!」

「量産はやめてくれ!」

 コレットを落ち着かせる為に足を引こうとしたカスパルだったが、モニカから受けたダメージは抜けきっていなかった。

 足がもつれ、逆に前のめりに倒れ込んでしまう。

「うわっ」

「ひっ!?」

 それこそバタフライのように、大きく水をかく腕の動きで、カスパルは勢いよくコレットに覆いかぶさっていく。

「ケダモノーッ!」

 突き出されるコレットの右手。握った石が、カスパルの額に『ゴッ』と鈍い音を立てて直撃した。

 ずるずると地に落ちるカスパル。石を片手に立ち尽くすコレット。

 遠くから聞こえるカラスの鳴き声だけが、物悲しく空に響いていた。

 

 この日、水泳部の一年二人は、幾何かの代償を支払い、そろってバタフライを習得した。

 かたや、乙女の危機を救った『異様に硬い謎の石』が、コレットから依頼を通じてリィンに渡ることになるのは、まだもう少し先の事である。

 

 

 ~END~

 

 




後編もお付き合い頂きありがとうございました。

リィンの爆散と引き換えに、彼女達の仲はさらによくなりました。

クッキング系の話はこれで終わりではありません。お忘れの方もいるかと思いますが『アキナイ・スピリット』の後日談で予告していたアレです。
どちらかと言えばあれがガールズクッキングの正当後継だったりします。タイトルは『クッキング・フェスティバル』。そちらもお楽しみ頂ければ幸いです。


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ユミルの温泉事情(前編)

 十月初旬。昼休みのことである。

 クロウは技術棟を訪れていた。

「よう、ジョルジュ。連絡ありがとよ」

「頼まれていたもの。やっとできたよ」

 工具を片手に、ジョルジュは汗を拭う。今しがた完成したという物は、すでに小さな箱に収められていた。

「助かるぜ」

 クロウは箱を受け取ると、無造作にかばんの中に押し込んだ。

「扱いは慎重にね。急に入用になったって言うから慌てて完成させたけど、まだ試運転もしてないんだ」

「それは俺がやっとくから構わねえよ。手間取らせて悪かったな」

 クロウの言葉にジョルジュは小さな違和感を覚えた。

「君は最後まで言わなかったけど、それを何に使う気なんだい?」

「……悪い、言えねえ。言えばお前まで巻き込むことになっちまう」

 罰悪そうに目を背ける。

 その態度でさえも、普段の彼とどこか違う気がした。なぜ、いつものように飄々とごまかさない。ただ理由も告げず謝るなんてことが、今までに一度でもあっただろうか。

「僕がそんなことを気にすると思うのかい。そこまで浅い付き合いじゃないはずだろう。力になれることがあるなら、協力は惜しまないつもり――」

「もう十分、協力してくれたぜ」

 ジョルジュの言葉を静かに遮り、クロウは踵を返した。かばんを手に、扉へと向かう。

 どこが、とは言えないが、やはり何かが違う。

 形容し難い不安を覚えたジョルジュは、その背に聞いた。

「どこに行くんだ?」

 要領の得ない問いだった。それこそ、どうにでもごまかした返答が出来てしまうような。

 しかしクロウは何も答えなかった。

 ただ無言で右手を振って見せる。

「……クロウ」

 振り返ることさえせず、遠ざかっていく背中を眺め、ジョルジュはその名を呼ぶことしか出来なかった。

 

 ●

 

「僕とチェス勝負……ですか?」

「おう、一つ揉んでやってくれや」

 放課後の学生会館二階、第二チェス部。

 マキアスは驚いていた。クロウがチェスの相手を申し出てきたのだ。

 今までに何度か、マキアスはチェスの対戦をクロウに頼んだことがある。しかし何かと忙しい上、チェスでの一勝負は時間がかかるからと、結局今日までずっと流れていたのだが。

「てっきりブレードの相手でもさせられるのかと思っていました」

「それでもいいんだけどよ。ま、たまにはお前とチェスでもやってやろうかと思ってな」

 さっそく対面して座ったクロウに、マキアスは訝しむ目を向けた。

「……先輩、何かあったんですか?」

「何もねえよ。あ、いや一個あるな」

 わざとらしくクロウは付け足した。

「俺が勝ったら、たまってるレポート仕上げてくれや」

「なんだ、そういうことでしたか。でもお断りします。そもそも負けませんよ」

 不敵に言い放ち、マキアスは肩をすくめる。

「お、言うねえ」

「お望み通り、揉んで差し上げましょう」

 マキアスはくいっと眼鏡を押し上げ、白のポーンを一マス前進させた。

 

「チェックメイト」

 開始から三十分と経たず、マキアスが涼しい声で告げる。

「おいおい、まじかよ。ってことは、こう動かしたらどうだ」

「逃がしませんよ。このフィールドはすでに僕のものです」

「だったら、こっちで!」

「クイーンが逃げ回るなんていけませんよ。もう諦めたらどうですか」

 黒のキングが、白のナイトとビショップに退路を阻まれている。一見して逃げ場はなく、これにて勝負ありである。

「ふふ、レポートはご自分でどうぞ」

「あーあ、ちくしょう。……あ、そういえば」

 思い出したようにクロウが言った。

「お前、このあいだ屋上でなんか叫んでたよな?」

「何のことで……あ」

 言われてマキアスも思い出した。例のアランとの一件で、不良になる練習をした時だ。あの時マキアスは屋上で不良笑いの習得に努めていた。

「あの笑い方、も一回やってくれよ。今ここで」

「ええ? そ、それは無理ですよ。大体なんでこんな所で――」

「頼む」

 今度こそマキアスは驚きを隠せなかった。クロウが頭を下げたのだ。

「え! ちょっと!? 顔を上げて下さい、先輩」

「お前があの笑い声を聞かせてくれるなら、今すぐにでもな」

「わ、わかりましたよ。やりますから! 何なんですか、まったく……」

 訳もわからないまま、結局応じることになってしまった。

「じゃあ、やりますよ」

「ああ」

 こほんと咳払いを一つしてから、彼はあの時のように揚揚と笑いあげた。

「ヒィアッーハーッ!」

 ハー、ハー、ハーと廊下にまで残響がこだまする。

 なお文芸部の部室で、小説を執筆していたエマのペンがピタリと止まったが、それはマキアスに及びもつかないことだった。

「こ、これでいいですか。もう二度とやりませんからね……あれ、先輩?」

 いつの間にかクロウは立ち上がっていた。

「安心した。お前は真面目過ぎるからよ。たまにはそんくらい砕けてみるのもいいと思うぜ」

「何を……」

「ささやかなアドバイスってやつだ。じゃ、俺はたまってるレポートでも片付けに行くとするか」

 作ったような困り顔を浮かべて、クロウは部室を出ていった。一人残されたマキアスは呆然と立ち尽くすのみだ。

「一体どうしたんだ?」

 目的の見えないクロウの行動に違和感を覚えながら、マキアスは盤上に目を落とす。

 気付いた。今のゲームは完全に詰んでいない。黒のキングが逃れる道はまだあるではないか。

 クロウが見落とした? 違う。あの人はそんなイージーミスはしない。むしろ巧妙に生存ルートを探しだし、反撃してくるタイプだ。

「……先輩?」

 廊下に出て、辺りを見回す。クロウの姿はもうどこにもなかった。

 黒のキングが静かに盤上に立っている。

 物言わぬその佇まいが、マキアスにはなぜか不吉を孕んでいるように見えた。

 

 

「よお、お二人さん。今帰りか?」

 帰宅途中、正門を出ようとしたガイウスとエリオットをクロウが呼び止めた。

「今日は部活ないのかよ?」

 軽い足取りで、二人に近づいて行く。

「ああ、美術部はない」

「吹奏楽部もね」

 少し黙考した素振りをみせてから、クロウは言う。

「お前ら、ちょっと俺に付き合えよ」

 

 少しして、三人はグラウンド周りのトラックを走っていた。

「文化部だから体がなまっていいわけじゃねえぞ。特にエリオット、もうへばってんのか?」

 先頭を走るクロウが背後に声を飛ばす。息切れするエリオットの荒い呼吸が聞こえてきた。

「はあ……はあ……僕もう無理だよ」

「がんばれエリオット。もう少しだ」

 速度を落としたガイウスがエリオットに並ぶ。かれこれ、もう七周目だ。

「クロウも何だって急に、俺と一緒に走れなんて言い出したのかな」 

「それは俺にもわからないが、とりあえずあと三週したら終わりだ」

「も、もう耐えられない……」

 一方、クロウのペースは落ちる気配もなく、一定の速度を保っている。

「遅れんじゃねえぞ! ほれ、もう少しだ」

 二人を鼓舞するように、クロウはぶんぶんと腕を振る。

 ガイウスとエリオットは互いの顔を見合わせた。軽薄な口調こそ相変わらずだが、どことなく無理に明るく振る舞っているようにも感じるのだ。

「うーん……」

「ふむ……」 

 何なのだろうか。胸中の疑問に答えはでない。二人は前を行くクロウの姿を、揺れる視界の中に入れる。

 クセのある銀髪が風に揺れ、トレードマークのバンダナが汗に滲んでいた。

 

 グラウンド十周を走り終え、エリオットは片隅でへたり込んでいる。さすがのガイウスも地面に腰を落としていた。

「ほい、お疲れ。お二人さん」

 そんな二人にクロウは冷えたドリンクを手渡した。今しがた売店で買って来てくれたものらしい。

「あ、ありがとう」

「感謝する」

 カップを受け取って、一気に飲み干すエリオットとガイウス。水分が喉を潤し、体中に染み渡っていく。ようやく生き返った心地だった。

「何だか珍しいね。クロウがドリンクまで用意してくれるなんてさ」

 エリオットはクロウを見上げた。

「おいおい、俺をケチ扱いすんなって。同じクラスとは言え、一応これでも先輩なんだからよ」

「そういえば、そうだったな」

 ガイウスが笑うと、クロウは肩を落とす。

「お前まで言うか。ったく」

「それで、どうして急に走り込みを始めたのだ?」

「そりゃーあれだ。十月の半ばに、サラが勝手に取りつけやがった体育大会もあるし、体力は付けといた方がいいだろ」

「ああ、だからか」

 ガイウスは納得したようだった。

「体育大会の後は学院祭もあるしな。忙しくなるのはこれからだぜ?」

「そうだよね……やっぱりまだ不安だけど。楽器は用意できるんだけどさ」

 橙髪が不安げに垂れる。Ⅶ組の出し物としてバンドステージを行うことになったのだが、まだ詰めるべきことは多い。

 当然だがエリオットは楽器演奏の指導役だ。ちなみにクロウは演出担当である。

「楽器って言っても色々あるよな。でかい楽器の方が音の迫力があるのか?」

「そうとも限らないよ。やっぱり演奏の仕方次第かな」

「なるほどな。しかしまあ、お前の体躯で、身の丈ほどの弦楽器を弾けるのは大したもんだぜ」

「扱いやすいから、小さい方が僕は好きだけどね」

 苦笑するエリオットの肩をぽんと叩く。

「ステージの成功は俺らの指導にかかってくる所も大きい。頼りにしてるぜ、エリオット」

「う、うん」

 ジョルジュやマキアスと同じく、エリオットも違和感を感じた。

 調子が悪いようにも見えない。機嫌はむしろいいくらいだ。なのに拭えない小さな引っ掛かり。すぐ近くにあるはずの心が、何かに覆われていて見通せない――そんな気がした。

「お、あんなところにも」

 その折、クロウの視線は馬舎へと向いていた。ユーシスが馬の世話をしている。

「あいつにも声掛けるか。ガイウス、悪いがもう少し付き合ってくれ。エリオットはまだ休んでな」

「俺は構わないが」

 ガイウスを引き連れ、クロウは馬舎へと向かう。

「今日のクロウ、変なものでも食べたのかな……?」

 空のカップを意味もなくすすり、エリオットは怪訝顔で二人を見送った。

 

 

「だいぶ引き締まってきたようだな」

 白馬の後ろ足を軽くさすってやるユーシスに、クロウとガイウスが歩み寄る。

「よっ。楽しそうにやってんな」

「いつ見ても見事な毛並だ」

 振り返るなり、ユーシスは意外そうな目をクロウに向けた。

「お前達か。ガイウスはともかく、クロウが馬舎に来るとは珍しいな?」

「まあな。お前さんこそ一人なのか? ランベルトや、あのポニーテールのお嬢ちゃんはどうしたよ」

「今日は馬術部の活動日ではないが、馬の世話は部員で分担して毎日行っている。今日は俺の担当日だ」

 ユーシスの傍らには、バケツに入ったエサや、馬舎掃除用のモップ。その他手入れ用具などが一通りそろっている。

「食事や体調の確認、ボロの処理などやることは多い。手は足りていないが、厩務員(きゅうむいん)を雇うわけにもいかんしな」

「違いねえ」

「それで」

 ユーシスは手を止めて、改めてクロウに向き直った。

「お前は何をしに来たのだ? まさか馬の世話の手伝いにきたわけでもあるまい」

「何言ってんだ。その馬の世話を手伝いに来てやったんだよ」

「だろうと思っていた。冷やかしなら早く去るが――」

 ピタリとユーシスの動きが止まる。彼の手にあった馬の体調管理張がばさばさと地面に落ちた。

 

「この枯草はこっちにまとめたらいいのか?」

「あ、ああ。そこでいい」

 ユーシスは戸惑いを隠せなかった。あのクロウがわざわざ手間のかかる馬舎の清掃を申し出てくるなど。

 何らかの罰を受けているのかとも考えたが、それにしては積極的だし、今のところ手を抜く様子も見られない。

「馬のブラッシングはあらかた終わったぞ」

 根ブラシ、毛ブラシ、専用のゴム櫛を手に、ガイウスが馬舎へと戻ってくる。

「さすがだな。手早いものだ」

「子供の頃からやっていたからな。久しぶりに馬と接することができて俺も嬉しい。そっちはどうだ?」

「馬舎の中もこの通りだ」

 ユーシスが視線を転じる。枯草まみれになりながら、汗だくのクロウが床をモップでこすっているところだった。

「ふむ。なんと……」

「もう切り上げてもいいだろう。――クロウ、あとはその袋で一まとめにしてくれ」

 腰をとんとんと叩きながら、クロウは顔を上げる。その表情は晴れやかなものだった。

「ふいー。もう終わりでいいのか?」

「ああ、お前たちのおかげで早く済んだ。感謝しよう」

「いいってことよ」

 モップを横に置いて、軽く伸びをする。

「代わりと言っちゃなんだが、ちょっと頼みたいことがあるんだが」

「何かと思えばそういうことか。まあ……助かったのも事実だからな。とりあえず言ってみるがいい」

 クロウはにっと笑った。

「馬に乗りてえんだ。お前らと一緒にな」

 

 軽快な足音を立てて、三頭の馬が街道を走る。

「ひゅー、最高だな!」

「言っておくが、他言はするな。特にマッハ号はランベルト部長の馬だからな」

「クロウは乗馬も出来たのか」

 上機嫌に手綱を繰り、速度を上げるクロウ。その後ろにユーシスとガイウスが続いた。

「今日はいい風が吹いているな」

「ふん、部長に知れたら説教物だ」

「済まないな。俺まで付き合わせてもらって」

「いや、礼のつもりだ。お前は気にしなくていい」

 流れていく景色。身を撫でる清涼な空気。馬の足を通じて伝わってくる振動と、心地良い疾走感。

 ユーシスと並走して、ガイウスは言った。

「今日のクロウ、変だと思わないか?」

「変なのは普段からだが、まあ確かにな」

 馬に乗りたいのなら、わざわざ回りくどい手伝いなどせず、『馬に乗りてえんだけど、構わねえよな。悪いようにはしねえからよ』くらいのノリで来て、必要のない不安を煽っていくくらいが、普段のクロウなのだ。

「何かあったのだろうか?」

「考えて分かることでもあるまい」

 クロウの背中が遠ざかる。本当にどこかに行ってしまいそうだった。自分たちの知らない、どこかへ。

「それはそうと、乗馬において俺達は一日の長がある。いつまでもあいつに前を走らせておいていいのか?」

「ふふ、付き合おう」

 二人は同時に前傾に身を屈め、足に力を入れて手綱を握り直す。

『ハイヤー!』

 重なる掛け声と共に、二頭の馬は街道を駆け抜けた。

 

 

「周囲に気をつけろよ。普段より人数が少ないからな」

 薄暗い旧校舎地下を歩く二つの人影は、クロウとリィンだった。

「ああ、しかし珍しいな。旧校舎探索を兼ねて実戦練習に付き合ってくれだなんて」

「意外かよ。これでも士官学院生だからな。鍛錬は欠かしちゃだめだろ」

「いいことだと思うけど、クロウの場合、先にレポート課題を提出した方がいいと思うぞ。ただでさえ卒業の単位が足りてないんだからな」

「卒業……ね。どのみちできねえよ」

 呟かれたその言葉はリィンの耳に届かなかった。

 地下を流れる水道の音と、小さく響く自分達の足音だけが静かに耳朶を打つ。

「そういえばお前と二人でここに入るのは、あの時以来だな」

「エリゼを助けるのに力を貸してくれた時か? あの時はパトリックもいただろ」

「ああ、忘れてたぜ。こないだもあの嬢ちゃん、お前に会いに来ただろ。兄様は好かれてるねえ」

 どこか悪戯っぽく言い、クロウは頭の後ろで手を組んでみせる。

「やっぱ久しぶりに会うと、変わってたりするもんか?」

「そんなことないさ。久しぶりって言っても、数か月しか経ってないんだしな」

 リィンはかぶりを振って、小さく笑う。

「あの時のままだ。何も変わらない」

 どこか安堵するような優しげな口調は、妹を案じる兄のそれだった。

 クロウの歩みが、心なしか遅くなった気がした。

「変わらないか……だけどな、リィン。変わっていくものもあるぜ」

 一瞬、普段の軽薄さが薄れた。その目もどこか遠くを見据えている。薄暗い通路のさらに奥、見通せない闇の向こうに、彼は何を見ているのか。

「……クロウ?」

「わりい、ガラにもなかったな。だが、お前は迷うんじゃねえよ。いつも自分で言ってるじゃねえか――」

 言いながら、クロウはリィンの右腕を強く掴んだ。

「この手で道を切り開くんだろ?」

 手の平が熱かった。何を伝えたいのかはわからない。暗に含んだように言うが、意図はやはり判然としない。

 ただ、その目に曇りはなかった。

 真っ直ぐに自分の瞳を捉えるクロウに、リィンもまた目をそらさずに応じる。

「頼んだぜ。Ⅶ組のリーダー」

 その言葉に、一抹の不安を感じた。それはⅦ組への編入期間が終わるから、あえて告げた言葉――ではないように思えた。

「なあ、クロウ。一体――」

「待て」

 リィンの言葉を鋭く制し、クロウは一対の銃を取り出した。

「お出迎えだ。数が多いな」

 気配を察したリィンも、すらりと白銀の刀身を引き抜く。

「六、七……いや、物陰にも二匹いるか」

 ざわざわと蠢き、敵意を向けてくる魔獣の影。腹に響く低い唸り声。

「逃げるか?」

「あの数なら追いつかれるだろう。突破しよう。俺とクロウならやれるさ」

「ったくお前は。だが、まあ。同感だ」

 二人の意志に呼応し、《ARCUS》が淡い光をまとう。

 繋がるリンクの光軸が薄闇を裂いた。

 銃口と切先が同時に持ち上がり、揺るぎなく魔獣を捉える。

「俺が援護する。後退はないぜ、わかってるな」

「ああ」

 柄を両手で構え直し、リィンは力強く地を蹴った。

「この手で道を切り開く!」

 

 ●

 

「まあ、こんなもんだろ」

 正門を抜け、長い坂を下りながら、クロウは一人ごちた。

 ふと足を止め、空を見上げる。

 ずいぶんと放課後で時間を使ったので、すでに日が落ちかけている。

 赤く染まる空に流れる雲は刻々と形を変え、やがて風に散っていく。かすれた白い軌跡が、あかね色の中に薄く伸びていた。

「変わらないものはない、ってか」

 自嘲の笑みを浮かべ、クロウは再び歩を進めた。

 教会を横目に通り過ぎ、アノール川にかかる橋の上まで来た時、正面から誰かがやってくる。

 細面ながら凛々しい顔立ち。夕日に照らされる濃紺のバイクスーツ。凛とした佇まいは崩さず、男装の麗人と言う形容が誰よりも似合う、その女性。

 アンゼリカ・ログナーが毅然とした足取りで近付いてきた。

 歩調を緩めるでも、挨拶を交わすわけでもなく、クロウも彼女に歩み寄る。

 目線も合わさずにすれ違い、一歩進んだところで、互いに同時に足を止めた。 

 背中合わせのまま、二人は無言だった。

 遠くから小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 しばらくして、先に口を開いたのはクロウだった。

「……学院、辞めるんだってな」

 肩を落とすでもなく、アンゼリカは平然とうなずいた。

「先日のルーレでの一件でね。親父殿の反感を買ってしまった。名目は休学だが、実質は退学だな」

「悪いと思ってる」

「君が謝る必要はない。ザクセン鉄鋼山でⅦ組に加勢したのは、紛れもない私の意志だ」

「……ああ、そうだったな」

 二人は反対の道を見据えたまま、言葉を交わす。下校時間から外れたせいか、辺りには誰もいない。

 アンゼリカが息を吐き、クロウに問う。

「仕込みは?」

「済ませた」

 主語も述語もない問いに、クロウは一言そう答えた。

「首尾は?」

「上々」

「裏切ることになる。あるいは失うことにもつながる」

「承知の上で俺はここに立ってるんだぜ。……逆に聞きてえ、お前はいいのか?」

「何がだ」

「お前は女だ。あえて危険を冒す必要はないだろ」

 アンゼリカは楽しげに言う。

「クロウがフェミニストだったとは意外だな」

「ゼリカ……! 俺は」 

「わかってる。わかってはいるんだ」

 言葉を遮って、アンゼリカは目線を落とした。

「これは私のわがままだ。ささやかな夢と切実な願い。叶えること自体は容易いのかもしれない。だが百万ミラを拾う事と、百万ミラを稼いで手に入れることでは意味合いが違う。私が欲しいのは達成感だ。この学院での生活に相応しい締めくくりという、ね」

「……は。大貴族のご令嬢の言葉とは思えねえな」

「らしくないだろう。センチメンタルだと笑うかい?」 

「いや、らしいと思うぜ」

 再びの静寂は長く続かず、すぐに二人の笑い声が重なった。

「オリヴァルト殿下もいいタイミングで計らって下さった」

「そうだな」

 アンゼリカは目線を上げた。クロウの瞳にも、すでに強い光が宿っている。

 ぐっと拳を握りしめ、猛々しく声を張り上げた。

「征くは!」

「ユミル!」

「目指すは!」

「温泉!」

「目的は!」

 同時に振り向き、がっと勢いよく腕を交錯させる。

 強く、激しく、高らかに、彼らは宣言した。

『のぞきだ!!』

 悲願、宿願を胸にして、困った先輩達による最高難度のミッションが幕を開けた。

 

 

 

 ――中編に続く――

 

 

 

 

 

 

 

《出発前夜》

 

 

☆マキアス☆

 

「忘れ物はないな。うん……もう一回チェックしよう」

 この手の事前準備は性格が出る。彼の持ち物確認はこれで四回目だ。

「むう。やはり酔い止めの薬は取り出しやすいようにもっと上に……おっと頭痛薬も忘れてはいけないな。あ、胃薬も持って行かないと。飲み水は今から白湯を沸かして――」

 すでにかばんはパンパンだ。しかし見事に整理されているのはさすがと言うべきか。一分の隙間もなく、正解が他にないパズルのように完璧な布陣であった。

「よし! 終わり!」

 ファスナーを締め終わったところで彼は気付いた。忘れ物があったのだ。決して忘れてはいけない、あるものが机の上に出しっぱなしだ。

「しまった。チェス盤を入れなければ」

 今は気分が高揚しているからいいが、向こうで落ち着けばヒマを持て余すかもしれない。

 絶望に駆られ、成す術もなく、しりとりを始めかけるメンバーの前で颯爽とこれを取り出すのだ。『仕方ないな、君達は。いい物があるぞ?』などと言って。

 あまりの先見の明に、皆の驚く表情が目に浮かぶ。

「ふふ。頼りになる副委員長とは僕の事だな」

 眼鏡を押し上げ、かばんのファスナーを開く。

 チェス盤を入れるスペースを確保する為、再びあくせくと中の荷物を取り出すのだった。

 

 

☆アリサ☆

 

「お嬢様、どうぞ」

 丁寧に折り畳まれたハンカチを、横からシャロンが差し出してくる。

「子供じゃないんだから、準備くらい自分でするわよ」

 言いながらも受け取って、アリサはそれをバッグに入れた。

「明日から二泊三日でご旅行ですものね。私はルビィとお留守番ですわ。お嬢様と離れ離れなんて、さみしくて泣いてしまいそうです」

「よく言うわよ……」

 出てもいない涙を拭うシャロンに、アリサはげんなりとした口調で言う。

「ところでお嬢様。ユミルはリィン様の故郷でしたわね」

「ええ、そうよ」

「ということは、リィン様のご両親と対面する可能性もあるわけですね」

「それはまあ、挨拶くらいはするでしょう」

「挨拶……なるほど」

 こほんと咳払い。

「ご両親の前ではリィン様のことは呼び捨てではなく『リィンさん』とお呼び下さい。あと片時もそばを離れず、甲斐甲斐しくお世話をするのです。そしてどこかのタイミングで、うっかりを装ってシュバルツァー男爵閣下を『お父様』と呼び間違えるのです。はにかんだように照れながらですよ」

「な、なんなのよ、それは!」

 赤面するアリサをよそに、シャロンは続ける。

「旅はお互いを開放的にさせるもの。いい雰囲気は突然やってくるものです。ですので――」

「ですので、なに?」

「下着はこちらの方が宜しいかと」

「きゃあ! ちょっと、引き出し勝手に開けないでよ!」

 わたわたと焦るアリサ。うふうふと笑うシャロン。

「何でしたら、今から用意して参りますわ。“目を疑う程すごい一品”を」

「い、いらないわ! どんなのよ、それ! とりあえずもう大丈夫だから出てってよ!」

 一息にまくし立て、シャロンを部屋から追い出す。

 アリサは息も荒いまま、準備に戻る。

「……別に深い意味はないけど。棚に戻すのも手間だし。ついでだし」

 誰に言うでもなくつぶやいて、アリサはシャロンの取り出した下着を、そっとかばんの底に忍ばせた。

 

 

☆ガイウス☆

 

 彼は悩んでいた。旅行の準備は滞りなく終わったのだが、一つどうしても入らない物がある。

 それは眼前のキャンバスだった。

「ユミルは景色がいいと聞く。合間を見つけて、ぜひ下絵だけでも書きたいのだが……」

 しかしどうやってもこれはかばんに入らない。

 それでも諦めきれなかったガイウスは、縦、横、斜め、果ては裏返し、何とかかばんに押し入れようとした。案の定無理だった。

 これが自然の摂理か、いや物理か。などとどうでもいい思考が巡る中、彼は思いついた。

「紙だけ持って行き、置台は諦めよう。これなら何とかなる」

 現実的な譲歩案だったが、それでも絵画用の紙は大きい。たたんで折り目は付けたくないし、巻いてみても縦幅的にかばんには収まらない。

「……これは試練だ」

 あぐらをかいて沈思黙考。

 やがて彼は閃いた。折り畳まず、丸めず、かつ自然に紙を持って行く方法を。

「風の導きだな。今日は冴えている」

 しばらくの後、それは完成した。

 彼は部屋の中心で、天井に向けた槍を満足気に携えている。槍の穂先には開いた状態の紙を括りつけてあった。

 風にはためく様は、さながら軍旗のようでもある

「これならいいだろう。士官学院生らしい」

 ふと思い立つ。

「しかしこれではどこの学生か分からないな。帝国は身分に敏感だ。俺達が何者か一目で分かるようにしなければ」

 ガイウスはキャンバスの裏側に何やら文字を書き足した。

「うむ。明日が楽しみだ。できれば先頭を歩かせてもらおう」

 “トールズ士官学院、1年Ⅶ組一同”

 ガイドのお兄さんの誕生である。

 

 

☆ラウラ☆ 

 

「何を用意したらいいのか……」

 ラウラは困っていた。腕組みをして、壁にもたれかかる。

 衣類は入れた。路銀も問題なし。

「……あとは何だ?」

 他のメンバーのかばんを横目に見た感じだと、皆はち切れんばかりに荷物がいっぱいである。

 特に女性陣はその傾向が顕著に表れていた。

 だというのに、自分と来たら。

「スカスカではないか。その気になればミリアムを詰められるぞ」

 特にかばんが大きいわけではない。入用なものは入れてある。

 ならば、それでいいはずなのだが、何だか落ち着かない。

 “乙女たるもの、荷物多くあるべし”

 自ずとそんな格言が頭によぎる。

「ううむ……何を入れたらいいのだ。みっしぃの着ぐるみでも入れてみるか?」

 見えない何かに追い詰められ、そんな暴挙に出かかった時、ラウラは思いついた。

 ユミルはルーレよりも遠い。時間も当然かかる。騒げばそれなりに腹も空こう。

「よし、弁当を作って持って行こう」

 顔を明るくして、ラウラは厨房へと駆け出した。

 

 

☆エリオット☆

 

「うん、これでオッケーかな」

 まったくノーマルな準備だった。多過すぎず、少なすぎず、しかし必要なものは揃っている。

 強いて言えば、バイオリンとしばらく離れないといけないのが少々心残りなくらいか。ケースに入れて持って行けなくはないが、そこまではさすがにできない。

「マキアスだってチェスを持って行くなんてことはしないだろうしね、はは」

 軽くぼやいて、かばんの中をのぞく。まだ結構スペースがあった。

「本くらいは持って行こうかな。まだ買ったきり読んでない音楽史の本があったんだ」

 机棚からまだ袋に入ったままの本を手に取り、そのままかばんの脇に差し込んだ。

 最近では本一つ買うのにも一苦労するようになってしまった。

 トリスタに一つしかない本屋。《ケインズ書房》。必然、学院外で書籍を購入するとなると、そこを頼る以外にないのだが、エリオットはなるべく《ケインズ書房》に立ち入らないようにしていた。

 先日、この本を買った時もそうだった。

 恐る恐る店内に入った瞬間に『猛将じゃないか!』と店主のケインズは立ち上がり、向けられる他の客の目線がいたたまれない程痛かった。

 さらに目当ての本を探す間、後ろからケインズが付け回してきて『ほーう、今日のカムフラージュはそれですか?』とか『本当に用があるのはこっちのコーナーだろう?』とニヤニヤ笑いかけてくるのが、どうにも胃に悪い。

 そして狙っているのか、そのタイミングで必ずミントがやってきて『今日のエリオット君は猛将だー!』とか叫んでいくわけである。

「勘弁して欲しいな……」

 深くため息をついて、かばんのファスナーを締める。

 この時は気が付かなかった。

 今しがた入れた中身の見えない黒い袋。書籍の入ったビニール製の袋。

 エリオットは失念していた。ケインズ曰く“黒い袋は紳士専用”だという事を。

 袋の中には本が二冊入っている。

 一冊は購入した、音楽史。

 もう一冊はケインズが密かに混入させた、禁忌の書。

「あー、明日楽しみだなあ」

 エリオットは朗らかに笑った。

 

 

☆エマ☆

 

「聞いたよ。小旅行でユミルに行くんだってね?」

「……はい」 

 夜。街灯の下、エマはガイラーと対峙していた。

「君達の功績を考えれば、ささやかすぎる労いだ。楽しんできたまえ」

「……はい」

 何ということだろうか。誰かが入用になるかもしれないと、酔い止めの薬を雑貨屋に買いに出かけたら、あろうことか帰宅途中のガイラーと出くわすとは。

「ユミルは温泉が有名だね。湯治がてら私も何度か足を運んだことがあるよ」

「そうでしたか」

「……で、いつから行くのかな?」

「……言えません」

 言ったら確実に付いてくる。列車の天井に張り付いてでもやってくる。

 そして何食わぬ顔で温泉に現れ、男子達を思うさまに餌食とするだろう。平穏な旅行を守る為、Ⅶ組委員長として絶対に口を割る訳にはいかない。

「ふふ、その毅然とした態度。実にいいね。まあ、君の土産話だけでも私は十分なのだが」

「お土産話ですか。それくらいなら、もちろん構いませんが……」

 少し安堵する。何が何でも付いてくるつもりはないらしい。

 しかしガイラーは目はらんらんと輝いていた。闇の中で怪しく光るその瞳。

「そうそう。次の新作のテーマが決まったのだ。『温泉ミラクル・酒☆池☆肉☆林』というタイトルでね」

「やっぱりお土産話もダメです!」

 即座に踵を返して、寮に向かって全力疾走する。

 一切の躊躇もなく、ガイラーはエマを追いかけ回した。満月を背景に、彼は鮮やかに宙を舞う。

「きゃああ!」

 叫びながらエマは思う。

 頭痛薬と胃薬を追加購入しなければ。

 

 

☆フィー&ミリアム☆

 

「旅行たのしみだねー」

「だね」

 フィーとミリアムは二人で明日の準備を進めていた。

 エマから渡された持ち物リストを参考に、リュックサックの中にあれやこれやと詰め込んでいる。

「準備完了」

「えー、まだだよ」

 フィーがリュックを締めようとすると、ミリアムが不満げな声を発した。

「なんで? もう何もないと思うけど」

「おやつが入ってないよ!」

 それにはフィーも同意だった。

「忘れてた。いっぱい持って行かないと」

「でしょー。おやつはいくらまでとか決まってたっけ?」

「プライスレス」

 そんなわけで一階の戸棚から大量のお菓子が、アガートラムによってフィーの部屋に運び込まれてきた。

 寮内のお菓子はこの二人が食べ尽くしてしまうので、普段は彼女らの手の届かないところにシャロンが格納していたりする。

「わー、すごい量! シャロンが一階にいなくてラッキーだったね」

「ぶい」

 目を輝かせる最年少二人組。

「よいしょ、よいしょ」

「ん……ん」

 詰めて、詰めて、なお詰めて。あっという間にリュックはパンパンである。それでも入りきらないお菓子はまだまだ残っている。

「余っちゃった分はどうしよっか?」

「適切に処理」

「だよねー!」

「まあ、お二人とも。何をされているのでしょう」

 静かな声が割って入り、宝の山に伸ばしていた手の動きがピタリと止まる。

 わずかに開いたドアの隙間から、シャロンが半分顔をのぞかせていた。目も口許も笑顔であるが、それが逆に怖かった。

 山積みのお菓子を体で隠しながら、フィーとミリアムはずりずりと後退する。

 時すでに遅し。

 ギイィィと音を立てて、扉が開かれていく。

「うふふ……」

 笑むシャロンが楚々とした足取りで部屋に入ってくる。

 ちびっこ達に退路はなかった。

 

 

☆ユーシス☆

 

「ふっ」

 と不敵に笑う。準備に一切の手抜かりはなかった。

 実を言えば、このような旅行など初めてだったのだが、それはそれ。つつがなくユーシスは全ての用意を済ましていた。

 それも五日も前から。

「洗面用具は入れたな。留守にする間の馬の世話は、部長とポーラに変わってもらったし、他の講義のレポートも残っていない」

 完璧である。

「目覚まし時計は朝六時から十分置きに三回鳴るようにセットした。これで……いや――」

 いそいそとショルダーバッグを開く。

「寝巻きも入っているな。枕は朝起きてから入れればよかろう」

 バッグの上にでかでかと『枕忘れるべからず』と書いたメモを張りつけると、ユーシスはベッドに横になった。

「体調は万全にしておきたいからな」

 時刻は二十一時。疾風の就寝タイムだった。

 その一時間後。

「寝れん」

 体を起こす。寝るには時間が早すぎるのだ。眠れるわけがない。

 何とか寝付こうと努力してみる。

 その二時間後。

「まったく寝れん」

 自分は遠足を楽しみにしている子供ではないのだ。第一、旅行など別にそこまで期待していない。ちょっと温泉に浸かって、ちょっと郷土料理をつまんで、ちょっと宿に泊まって帰ってくるだけなのだ。

 楽しみというには少々大げさだ。

 そもそも温泉など入ったこともないのに。

 温泉など――どんな感じなのだろうか。癒されるのか? どんな風にだ? 気持ちいいのか? 普通の湯と違うのか? ユミルの郷土料理とはなんだ? 寒い地方だから鍋か? 鍋なのか? 鍋だとして何鍋だ? 事前にリィンに聞いておけばよかった。今から聞きに行くか? ユミルの鍋とは何なのだ、と。

「はっ!」

 気付けばさらに二時間が経っていた。

 夜中の二時である。一睡もしていない。これはまずい。非常にまずい。何が何でも寝なければ。しかし寝ようと思う程に眠れない。

 妙に時計の音が大きく感じる。隣の部屋のエリオットが咳をした。向かいのガイウスの部屋から風の音がする。窓を開けているのか。こんな夜中に風を感じなくてもよかろう。真上はラウラだが、なんだか異臭が漂っている気がする。

「くっ!」

 なぜ今日に限って眠れないのだ。

「白馬が一頭、白馬が二頭……」

 これぞ古来より伝わる最終奥義。これならさすがに眠れよう。

 ユーシスは安らかに目を閉じた。

 その四時間後。

「……白馬が一万七千六百五十二頭……」

 朝六時。目覚ましが鳴った。

 

 

☆サラ☆

 

「私もユミル行きかー。教官冥利に尽きるってもんよねえ」

 部屋で荷物をまとめていたサラは、二本目のワインを開けたところだった。

「にしてもナイトハルト教官ったら失礼しちゃうわ」

 だん! と酒瓶の裏を丸机に叩きつける。

「なーにが、『あくまで引率者として同行するので、節度ある行動を心掛けて頂きたい』よ! わーってるわよ。ていうかそれって生徒にいう言葉でしょうに」

 酒も回ってきたのか、とろりとした目を引き下げて、かたわらのバッグを開く。遊撃士時代から愛用しているバッグで、小振りながら収納性能が高く、何かと重宝していた。

「このとーり、準備だって万端なんだから。むにゃ……」

 ベッドに突っ伏して、サラはそのまま寝息をかく。

 開いたままのバッグには未開封の酒瓶が、ぎっしりと詰まっていた。

 

 

☆トワ&アンゼリカ☆

 

「アンちゃん、いよいよ明日だね」

 第二学生寮の自室にて、トワは《ARCUS》の音声口に向かって言う。

『ああ、しっかり寝てくれよ。愛しのトワが目の下にクマを作ったところなんて、見たくはないからね』

 そんなアンゼリカの応答が返ってくる。

 このような会話で、あまり《ARCUS》の通信機能を使ってはいけないのだが、今日は特別ということにトワはした。

 ユミルへの小旅行が終われば、アンゼリカとこのように話す機会はなくなってしまう。二度と会えないことはないだろうが、それでも彼女の立場を考えると、気軽に会えなくなるのは間違いないだろう。

「……アンちゃん」

『そんな声を出さないでほしい。学院祭には顔を出せるよう、親父殿に掛け合ってみるつもりだ』

「だけど……」

『せっかくのご厚意で、私とトワもユミルへ旅行に行けるのだ。楽しもうじゃないか』

 トワの心情を察してか、アンゼリカはそんなことを言った。

「うん、えへへ。でも温泉楽しみだよね」

 アンゼリカからの返答がなかった。

「……アンちゃん?」

『ああ、ちょっとよだれが……いや何でもない。ちょっと小腹が空いていてね。豊満な果実が旬で、もぎたてで、熟れてなくてもそれはそれでよくて』

「ア、アンちゃん。やっぱり辛いんだよね? ごめんね、力になれなくて……」

 ぐすりと涙ぐむトワ。

『……いいんだよ、トワ。離れても私達は友達だ』

「うん。二泊三日もあるし、いっぱい思い出作ろうね」

『そうだな』

 音声口の向こう、彼女が今どんな表情をしているか、トワに伺う術はない。

 アンゼリカは言った。

『忘れられない思い出を作ろうじゃないか』

 

 

☆リィン☆

 

「えーと、着替えは入れたか。あとは……」

 リィンはバッグの中身をもう一度見直していた。いよいよ明日から故郷、ユミルへの小旅行である。

「半年振りか。まだ戻るつもりはなかったけど……父さん達元気かな。宿泊先まではエリゼが案内してくれるらしいが」

 エリゼも自分達の来訪に合わせて、実家に帰っているらしい。

 なんにせよ皆を故郷に案内できるのは嬉しい。今頃は俺と同じで色々準備してるんだろうけど。

 ふと顔を上げる。

 何やら騒々しい。向かいはクロウの部屋だ。

「クロウも準備中か?」

 それにしては、やけに騒がしいような。訝しげに思い、廊下にまで出てみる。

 やはり音源はクロウの部屋からだった。ノックしてみるが応答はない。

「おーい、入るぞ?」

 ドアノブに手をかけた所で、

「ふははは! やったぜ。完璧だ。あとはこのルートで、退路はこうで。はーっはっは! 待っていやがれユーミルーゥ!」

 高々と笑うクロウの声。

「……クロウも楽しみにしてるんだな。そっとしておこう」

 リィンはドアノブから静かに手を離し、部屋へと戻るのだった。

 




前編もお付き合い頂き、ありがとうございます。

というわけで今回の主人公はヤツらで、舞台はユミル!
ドラマCDのあれですね。がっつり楽しんできてもらいましょう。

今回は本編とおまけが半分半分という変な比率になってしまいました。

では次回、困った先輩二人が闇を駆ける!

中編もお楽しみ頂ければ幸いです。


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ユミルの温泉事情(中編)

 Ⅶ組メンバーとトワとアンゼリカ、そして引率役のサラを乗せ、列車はユミルへ向かって走っていた。

 ユミルまではルーレで乗り換え、さらに北へと向かう必要がある。半日以上は軽くかかるので、出発は早朝からだった。

「こ、ここでミラーを出されるとは……!」

「油断したな」

 しかし彼らに疲れは見えない。年齢相応の笑顔をのぞかせながら、鉄路の旅を楽しんでいた。

 特別実習と同様に、ブレードで時間潰しをしているのはマキアスとガイウスである。

「もう一勝負だ!」

「付き合おう」

 にわかに白熱しだす二人の向かいの席では、エリオットとリィンが雑談に興じている。

 早朝ということもあってか、この車両には士官学院勢しか乗っていない。浮かれて騒ぎ立てるようなメンバーではないが、気兼ねなく過ごせるのは何よりだった。

 一方、女子の座席では、

「あ、トリートメント忘れたわ!」

 肩を落とすアリサに、エマが笑いながら言う。

「大丈夫ですよ。私が持って来てますから」

「ごめん、助かるわ」

「あと頭痛薬、酔い止め、胃薬、その他調合してきた薬もありますから。入用の時は声を掛けて下さいね」

「こ、こんなに。駅員さんに見つかったら確実に取調べ受けるわよ?」

 怪しげな薬が大量に詰まったエマのバッグを見て、アリサは頬を引きつらせる。

 その横ではミリアムが「ゴーゴー、ユミル!」などと上機嫌に窓の外を眺めながら、リュックに詰まったお菓子にぱくついていた。

 さらに少し離れた席では、シートに座るなり一瞬で眠ってしまったユーシスと、同じく睡眠時間に突入したフィーが、肩を並べて仲良く寝息を立てている。もっともフィーに関しては、ユーシスのように寝不足というわけではないが。

 ラウラはラウラで一つの席を陣取って、ごそごそとかばんの中から荷物を取り出している最中だ。

 そして教官、上級生の座席では、

「サラ教官! 昼前から、しかも列車の中でお酒は止めて下さい!」

「他に乗客いないし、いいじゃないのよー」

 案の定、ワインボトルを取り出したサラを、隣に座るトワが必死に制する。引率役であるサラ――のお目付け役がトワだった。

「そういう問題じゃありませんから! ナイトハルト教官に言いつけちゃいますよ?」

「あらあ、言うじゃない。でもあんたも飲んじゃえば同罪よね」

「え?」

 サラの瞳が怪しく光り、「んふふふー」と邪悪な笑みを浮かべながらトワににじり寄る。

「ええ? ちょ、ちょっともう酔ってるんですか。ア、アンちゃん助けて、アンちゃーん! むぐっ!?」

 車両後方から届く悲痛な声に、クロウは楽しげな笑みを浮かべた。

「いいのかよ。愛しのトワが助けを求めてるぜ」

 クロウの横に座るのはアンゼリカである。彼女は困ったように肩をすくめてみせた。

「酒に酔って乱れるトワ、というのも悪くないんじゃないだろうか」

「あいつの場合、酔っても色気は出せそうにねーな」

 気の置けない談笑を交わしていたが、不意に二人同時に表情から笑みを吹き消した。

 目線を正面から動かさないまま、クロウ小さな声で言う。

「実行は二日目の夜だ。いいな」

「逸る気持ちは抑えられないが、やむを得ないだろう」

 列車の音にかき消され、その会話は誰の耳にも届かない。仮に聞こえたとしても、悟られることのないよう決定的な言葉は伏せてある。

「一日かけて目標周りの構造を把握だ。あらゆる角度、高度からベストポイントをピックアップする」

「あとは周辺地形の掌握だな。進行、及び撤退ルートの算出。風向きや天候も調べる必要があるだろう。万が一朝風呂になった場合にも備えて、逆光にならないよう日の出の時間と方角も頭に入れるべきだ」

 ぼそぼそと続く不穏な会話。熟練のスナイパーが獲物を照準(エイム)する時のような、静寂を湛えた緊張感がそこにあった。

「女子達の動向はお前が逐一つかめ。ユミルは《ARCUS》の通信範囲外だ。情報伝達は暗号を使う」

「アルファベットと数字の組み合わせでいくかい? 定番だがトワなら感付かないとも言い切れないな」

「ああ、だから組み合わせの法則を入れ替えた変則暗号を作ってきた。ついでに隠語を織り交ぜながら、集団の中でも状況を伝え合えるようにするぜ」

 ポケットから取り出したメモ紙をアンゼリカに渡す。

「それが変則暗号表だ。暗記したら、その紙はルーレ駅で捨てていく。ルーレまではあと一時間てとこだが、いけるか?」

「五分あれば問題ない」

 あふれ出るリビドーが、アンゼリカのスペックを限界以上に引き上げていた。凄まじい集中力で、膨大な数字と記号の羅列を頭の中に叩き込んでいく。

 そして五分後。

「終わった」

 アンゼリカはクロウにメモ紙を返した。

「すげえな。本当に記憶したのかよ」

「苦でもない」

 クロウはメモ紙を受け取ると、その場で細かく破り、開いた窓の外に投げ捨てた。秋風の中、季節外れの花吹雪が宙に舞う。

 準備は着々と進んでいる。後はその時を待つだけ――

「お二人とも」

 突然声をかけられた二人が肩を強張らせたのは、わずか一瞬のことだった。焦りは毛ほども見せず、即座にリラックス体勢に移行してみせる。

 声の主はラウラだった。その手に弁当箱らしきものを抱えている。

「出発の際にシャロン殿から頂いたものです。そろそろ腹も空く頃かと思いまして」

「気が利くな。腹減ってる。すごい減ってるぜ」

「おや、これはすまないね。ありがたく頂こう」

 適当な軽口で流しながら、二人は差し出された弁当を受け取り、悟られないように一息つく。

「てっきりラウラ君が作ってくれたのかと思ったよ。ははは、いつか君の手料理も食べたいね」

「それが皆の分を作る時間まではなく、とりあえずリィンの分だけ――い、いえ何でもありません」

『ほーう』

 含みのある視線を向けられていることに気が付いたラウラは、焦った様子で踵を返す。

「青春だねえ」

「まったくだ」

 他のメンバーにも弁当を配りに回る彼女の姿を眺め、にやつきながら二人はぼやく。

 まもなく全員に弁当が行き渡った。

 エマの号令で『いただきます』の声がそろい、眠りこけるユーシスとフィーを除く全員が、一斉に弁当箱を開けた。

 直後、ズドンと重い爆発音が車両内に響き渡った。

 丁度そのタイミングで、見回りの為に乗務員がやってくる。

 車両に足を踏み入れたばかりの乗務員が見たのは、黒煙に巻かれながら激しく天井に打ち据えられるリィンの姿であった。

 旅路は順調である。

 

 

 ルーレで乗り換え、そこからユミル方面へ約一時間半。

 窓から見える景色が、徐々に紅葉と緑葉が織りなす山々へと移っていく。

 時刻が十四時を回った頃、トリスタを出発しておよそ七時間。ようやく彼らはユミルの地に降り立った。

「んー、いい空気ねえ!」

 ぐっと伸びをしたサラのとなりで、トワはふらついていた。酔拳と見紛うほどの千鳥足だ。

「きょうかん~、おさけはあ、らめれすからあ」

 ろれつも回らず、倒れそうなトワをとっさにリィンが支えるが、そんな彼もあちこち焦げついていたりする。

「ト、トワ会長、大丈夫ですか?」

「リィンくんもぉ、せつどはまもりなさぁい……ていっていっ」

 えへへと笑いながら、トワはリィンの額にチョップを繰り返していた。

「学園きっての才媛が……もしかしてお酒を飲まされたんじゃ……」

 マキアスが疑惑の目を向けると、視線を回避するようにサラはそっぽを向いて「乗り物酔いでしょ」と口笛を吹き鳴らしていた。

 がっちり睡眠を取り、見事復活を果たしたユーシスが言う。 

「それでリィン、ここからどうするのだ。見たところ町は見当たらないようだが」

「ユミルの町は山間部にあるんだ。歩いてもそんなにかからないが、この麓の駅からケーブルカーも出てる。景色を楽しんでもらう為に歩く予定だったが……」

 ふらふらで笑い続けるトワを一瞥する。

「ケーブルカーを使った方がよさそうだな」

 もたれかかるトワに肩を貸すリィン。そんな彼にアリサとラウラの半眼が刺さる。

「トワ会長には優しいのね」

「紳士なことで何よりだ」

「そ、そうか?」

 冷ややかな空気にリィンはたじろぐが、その折、トワはリィンの肩をするりと抜けて、一人山間に続く道へ歩き出していた。

「あ、トワ会長。危ないですよ!」

「ゆみるがぐるぐるまわるー」

 リィンの制止も聞こえないようで、彼女は右に左にヨタヨタと歩を進めている。

 その時、ガタガタとレールが軋む音がした。

「あ、ケーブルカー出ちゃったねー」

 ミリアムが緩やかに動きだすケーブルカーを指さした。

「次の便は往復を待たないといけないから四十分はかかるな。……大した距離じゃないし、仕方ない。山道を少し歩くけどみんな構わないか」

 元々が歩く予定だったので、リィンの提案に異を唱える者はいなかった。

 ひとまず茂みに頭から突っ込んで、足をじたばたと動かしているトワの回収にリィンが向かおうとした所で、

「そっちは私達に任せておきたまえ」

「そういうことだぜ、朴念仁」

 アンゼリカとクロウがリィンを押しのけて前に出た。空気を読むことに長けた先輩二人のファインプレーである。

「ほれ、色々見えてんぞ」

「そんなトワも新鮮だがね」

 せーので茂みから引っ張り出されたトワは、枝葉だらけになりながらも「えへえへ」と楽しそうに笑っている。

「こいつ笑い上戸だな」

「かわいいよ、トワ。今日こそは必ずベッドに潜り込んで……ふふ」

「とりあえず、よだれ拭けよ」

 二人に両脇を抱えられ、その場に持ち上げられるトワ。彼女の足は地に付いておらず、宙ぶらりんの状態である。

「野放しにしたらどこに突っ込んでいくか分からねえし、もうこのまま行こうぜ」

「同感だな」

 足をぶらつかせるトワをそのまま連行するような形で、クロウ達は山道を行く。

「あ、道案内は任せてくれ」

 リィンは早足で二人の背を追い、さらにその後を“トールズ士官学院、1年Ⅶ組一同”と書かれたお手製の旗を持って、ガイウスが追い掛けるのだった。

 

 

 歩き始めて、早一時間。エリオットとアリサはすでに半死半生状態だった。

「これのどこが『大した距離じゃない』のよ。どこが『少し歩く』なのよ」

「遠い、長いよ……」

 道としてはそれなりに整えられているものの、起伏が激しくゴツゴツとした山道は予想以上に体力を奪っていく。

「二人ともがんばれー」

 ミリアムがからからと笑いながら、肩で息をする二人を宙から応援する。

「アガートラムに抱えられてるのに何言ってるのかしら……というか私も乗せなさいよ」

「んー、アリサが乗ると重量オーバーかも」

「な、なんですってー!?」

「あ、元気になった」

 憤るアリサの後ろでは、エマが魔導杖を地面に突き立てながら、のろのろと歩いていた。

「帰りはケーブルカーにしましょう。ええ、絶対に」

「委員長、大丈夫?」

「あ、フィーちゃん。手をつないで私を引っ張って下さい」

「恥ずかしいからやだ」

 息も絶え絶えな後衛組に、先頭を行くリィンが声を張った。

「みんなもう少しだ。ミリアムはアガートラムを隠してくれ。あと、なんというか……ガイウスもその旗をしまってくれ」

「これは旗ではないのだが」

 言いながらも応じるガイウス。見てくれは完全にガイドのお兄さんである。

 曲がりくねった道を行き、いくつかの坂を越えたところで、ようやく見えてきた。

 山間にかかる横幅の広い橋。その向こうにあるのは、連なる山塊に囲まれて悠然とたたずむ街並み。暖色系で統一された木造建築の家屋が立ち並び、大自然の景観と調和している。街のあちこちには蒸気が揺らぎ、風に乗る硫黄の匂いが鼻孔をくすぐった。

「お待ちしておりました」

 雄大な景色に目を奪われる面々の耳に、澄んだ声が届いた。

 橋を渡った先、背の高い二つの導力灯の間に、一人の少女が立っている。

 清楚な衣服を身にまとい、長い黒髪をなびかせたその少女――エリゼ・シュバルツァーはスカートの裾を持ち上げ、上品な一礼で彼らを出迎えた。

「ようこそ。“温泉郷”ユミルへ」 

 

 

 再会の挨拶も程々に、エリゼの案内で一同は宿泊先である逗留施設を訪れていた。

 皇帝からの言付けを受けた宿泊客、しかも領主の子息であるリィンも招待されているということで、出迎えは従業員総出という盛大なものだった。繁忙期ではないとは言え、彼らが宿泊する間は貸し切りという優遇ぶりである。

「こちらが皆さんが宿泊する『鳳翼館』になります」

 領主令嬢のエリゼによる、ほぼ顔パスのチェックインを済ますと、部屋への案内も彼女が務めた。

「その昔、時の皇帝陛下から恩寵されたという、由緒正しい逗留施設です」

 二階へ続く階段を登りながら、エリゼは鳳翼館の簡単な説明を行う。

 まもなく開けた共用ロビーに出た。

「皆さんのお部屋はこの二階に用意してあります。今いる共用ロビーを挟んで左側が男性、右側が女性のお部屋になります。上級生の皆さんやサラ教官にも別室を用意させました」

「俺は上級生にカウントされねえのかよ」

「いや、まあ。当然でしょう」

 クロウの異議にマキアスが冷静に応じる中、リィンが一時解散の号令を発する。

「この後に学院祭のステージ打ち合わせもあるから、三十分後にまたここに集合してくれ」

 まばらに返事をしながら、まずは各々、荷物を置きに部屋に散っていった。

 

 

 時刻は十六時。

 ステージの打ち合わせは無事終了し、今は夕食までの自由行動時間である。ステージにおける曲目と担当が発表され、当然のように一悶着はあったわけだが、とりあえずは全員の承諾を得て、あとは練習を残すのみとなった。

 観光は明日にということで、ほとんどが部屋で足休めの最中であったり、体力の残っている者は備え付けの遊戯室でビリヤード等に興じていたりする。

 そんな中、この二人だけが鳳翼館の周囲を歩き回っていた。

「――で、トワはどうよ?」

「先ほどベッドに寝かしてきた。時々思い出したように『えへへ』と笑っているが、一応眠っているようだ」

 クロウとアンゼリカである。

「ったくサラにも困ったもんだぜ」

「私はサラ教官は好きだよ。自由奔放だが、ああ見えて思慮深い人だ」

「どうやったらそう見えんだよ。今も部屋で酒飲んでんだろ」

 名目上は散歩であるし、一般人にもまずそのように映るだろう。が、訓練を受けた者が見ればわかる。彼らの挙動には一切の無駄がなかった。

 会話を交わしつつも、油断なく視線を巡らし、この辺りの地形や建物構造などを頭の中にマッピングしているのだ。

 鳳翼館の温泉は外部に面した露天風呂である。無論だが、どのような角度からも見えないように、湯場全域を囲う竹製の壁がある。壁の高さはおよそ三アージュと言ったところだが、この際壁の高さや硬度などは問題ではない。

 必要があれば脚立を用意すればいいし、それが叶わなければ壁をぶち抜くだけだ。幸い竹製ならば、アンゼリカの拳を数発見舞えば容易く破砕できる。

 問題はそこではなかった。

「どのポイントから目標を補足するか……だな」

 これなのだ。

 セオリーのポイントとして、高い位置を選定したいが、周辺にそのような場所はない。そもそも町の内部にそんなポイントがあるのなら、愛すべき紳士達の手によってすでに開拓され、そして当の昔に露見し潰されているだろう。

 可能性があるとするなら、遥か遠く、白雲を穿ちながらそびえ立つあの山々だ。雲の上からの高精細望遠鏡による超長距離照準(ロングレンジエイム)なら、やれるかもしれない。

 だがそれを成す為には、襲い来る魔獣を退けながら、ベストポイントを維持しつつ、加えて雲に切れ間ができる一瞬を狙って、途方もない距離のわずか一点を捉えなければならない。

 この人類史上類を見ない神業(のぞき)をやってのけるには剣聖クラスの実力が必要になる。理に至るか、あるいは修羅に堕ちねば、実現は不可能だ。

「なんつー二択だ……」

「逆に考えたまえ。剣聖や修羅でなければのぞきが出来ないのではなく、のぞきをする為に剣聖や修羅になるとしたら?」

「なるほどな。辛い修行に耐えられるわけだぜ」

「業の深い話だがね」

 リィンやラウラが聞いたら、卒倒ものの会話内容である。

 とはいえ、やはり現実的ではなかった。装備も不十分なまま雲の上まで登山できるわけもなく、望遠鏡などさすがに持って来ていない。そして往復時間諸々の様々な条件がそれを許さない。反対に条件さえ整っていれば、やりかねない二人ではあるが。

「……となると」

 クロウとアンゼリカの目が同時にそこを向く。

 鳳翼館裏手、おそらくは露天風呂にも面しているであろう、山間の一部。

 二人は無言でうなずいた。

 

 

 その頃、女子達の部屋。

「本当、いい景色ねー」

 部屋の窓を開け放ち、アリサはめいっぱい空気を吸い込んだ。山特有の澄んだ空気が肺に満ちていく。

「でも、なんだか屋根が尖った建物が多いわよね。山の景色と合ってるから別にいいんだけど、何でなのかしら?」

「ああ、それはですね」

 その問いにはエマが答えた。彼女は先の山歩きの疲労を残さない為、ラウラにストレッチを手伝ってもらっている最中だ。

「この辺りは豪雪地方なので、雪の重みで家屋が倒壊しないように屋根の傾斜が急なんですよ」

「へえ、そうなんだ。ルーレでは考えられないわね」

 感心するアリサに続き、ラウラも驚いた様子だ。

「なんと、雪で家が潰れるのか。レグラムでも雪は降るが、そこまで積もることはないしな」

「ええ、そうなんです。というか、あの……ラウラさん、もう少し、や、優しく」

 足を伸ばして床に座るエマを、ラウラは背中側からぐいぐいと押して前屈させていた。力を入れる度に、エマの口から「う゛、う゛」と苦しそうな声が漏れ出してくる。

「ん? ちょっと強かったか」

「う、そうですね。そのくらいがいいです」

 フィーがそっとラウラの後ろに回り、いきなり脇腹をくすぐった。

「ひゃっ!?」

 素っ頓狂な声と一緒にのけぞるラウラの下で、エマが「う゛!?」と短い悲鳴を上げた。

「何をするのだフィー!」

「ちょっといたずら」

「まったく。思わず力を入れ過ぎてしまったではないか……あ」

 エマは前屈の姿勢のまま沈黙している。ぐったりとして、ぴくぴくと手足の指先が震えている。

「いかん。アリサ、体を開くのを手伝ってくれ」

「何やってるのよ。あなた達」

 二人掛かりでエマの体勢を戻す横で、ミリアムとフィーは持ってきたお菓子をリュックから取り出していた。

「シャロンに見つからなかったら、もっと持って来れたのにねー」

「まあ、半分持って来られただけでもラッキーかな」

 お菓子をリュックに詰めたところをシャロンに見つかった際、ささやかな抗弁を試みたところ、旅行ということで一部の持ち出し許可は下りたのだった。

「……なんか少なくなってない?」

「列車の中でちょっと食べたから。半分くらい」

「食べ過ぎ」

 フィーがミリアムの両頬をぎゅーっと引っ張る。

「ひたた! フィーが寝てるのが悪いんだよー!」

「起こしてくれたら食べたのに」

「ひたいー!」

 そんなこんなで、女子班はいたって平和であった。

 

 

 一方、男子達の部屋。

「ビリヤード、チェス、ブレード、絵画、読書。今ある物で時間を潰せそうなのはこれくらいだな」

 リィンが適当にリストアップしたものを挙げてみる。

「チェス盤を持って来るやつがいたとはな。ここまで来ると呆れを通り越して尊敬する」

 いつも通りの嫌味を前口上にして、ユーシスはマキアスに目をやった。

「う、うるさいぞ。備えあれば憂いなしだ」

「何に備えているのだ、お前は」

 場所が変わっても、この二人は変わらない。

 二人を諌めながら、ガイウスが言う。

「しかし全員で時間を潰せるものとなると限られてくるな」

「だよね、ビリヤードもチェスもブレードも二人一組だし、絵画や読書は一人だしさ」

「待て、エリオット。全員で円になりお互いの肖像画を描き合えば、この場の五人同時に時間を使うことができるぞ」

「えっと、それって楽しいの?」

「……楽しくないのか?」

 全員での観光は明日ということにしている。今は皆でできる時間潰しを考えているのだが、特にこれと言ったものが見つからなかった。

「枕投げをしよう」

 最終的にリィンが取りまとめた案はこれである。最初に同意したのはマキアスとエリオットだった。

「なんというか意外だな。君の口からそれが出るとは。だが僕は構わないぞ」

「鉄板だよね。日曜学校の時のお泊り会を思い出すなあ」

「どうせ貸し切りだし、こんな時くらい羽目を外してもいいかと思ってさ」

 首を傾げているのはガイウスとユーシスだ。

「聞いたことのない名前だ」

「枕投げ? 枕を投げてどうするのだ?」

 しかし山歩きで失った体力は戻っておらず、枕投げは夕食後に行うことになった。

 そんなわけで、結局今の時間はそれぞれで過ごすことになる。

 やいやい言いつつも、ユーシスとマキアスはチェスを。

 ガイウスは窓縁で風景画のスケッチを。

 エリオットはその辺に寝そべり、「うー」などと唸りながら足をマッサージしている。

「さて俺はどうしようかな。実家に顔を出すのはもう少し後でもいいし」

 思案していたリィンは、思い出したように言った。

「そういえばエリオット、本を持って来てたよな。今読まないなら少し借りても構わないか?」

「いいけど、リィンが読んで面白いかはわからないよ。かばんの右側に差し込んでるから開けて取って」

 うつ伏せのまま、エリオットは自分のかばんを指さした。

「時間潰しになるなら、なんだっていいさ。えーとこの袋だな」

 エリオットのかばんを開け、黒い袋から一冊の本を抜き出しかけて、リィンの手がぴたりと止まった。

「………」

 タイトルは『週刊・貴公思男(きこうしだん)』。表紙にはやたらと面積の少ない軍服を着た、高圧的な表情を浮かべたお姉さまが扇情的なポーズを取っている。どことなく容姿が《S》――スカーレットに似てなくもない。

 煽り文句には『昨日の軍曹、今日は猛将』と意味不明な文言が付けられており、さらにその下にはコラム紹介だろうか、『君の戦車にヒートウェイブ』などの全くもって理解不能な文字の羅列も見えた。

「……エリオット?」

「なに? やっぱりリィンには合わなかったかな。完全に僕の趣味だしね」

「ああ、いや、その、あれだ。なんて言ったらいいのか。……こういうのよく読むのか?」

「ヒマさえあればそればっかりだよ。部屋の本棚なんてもういっぱいで、置き場所も無いくらいなんだ」

「そ、そんなにか!?」

 驚愕に思わず後じさるリィン。

「色々と参考にもなるし、同じ吹奏楽部のミントやブリジットにあげようかとも思ってるんだけどね」

「な……?」

 リィンは震える手から本を落としかけた。

 なんということを画策しているのだ。年端行かぬ少女達に何を教えようとしているのだ。さらにこの雑誌は週刊ではないか。週一でエリオットの部屋にこれが増え続けているというのか。それは本棚もキャパシティオーバーするに決まっている。

 もう色んな意味で容量超過だ。

「い、いや、だけどエリオット、それは……」

 何とか声を絞り出すリィンに、エリオットは笑いながら言う。

「中々捨てることも出来なくってさ。時間をかけて読んでるから、一ページ毎に思い入れがあるんだよね。もういっそ実家に送って、姉さんに片付けてもらってもいいんだけど」

「それはダメだ!」

 顔中に脂汗を浮かべて、リィンは声を荒げた。送られてきた段ボール箱を開けて、フィオナが凍結・石化の状態異常に陥る瞬間が、まざまざと目に浮かぶ。

「き、急にどうしたのリィン。冗談だよ。そういうのは自分でちゃんとやるってば」

「それならいいんだが……」

 言いながら、リィンは雑誌を黒袋の中に押し戻した。見れば中にはもう一冊本が入っていたようだったが、そのタイトルまで確認する勇気は、もうなかった。

「あれ、結局読まないんだ。読み始めると止まらないんだけどなあ」

「ああ……先に実家に顔を出してくるよ。エリゼももう帰ったみたいだし」

 リィンはおぼつかない足取りで廊下に出た。扉を閉める前、彼は背を向けたままで言う。

「俺はエリオットを仲間だと、友人だと思っている。それはこの先も変わらない」

「改まってどうしたのさ。あはは、何だかむずがゆいよ」

 照れたように微笑するエリオットに振り返ることなく、リィンは廊下を駆け出して行ってしまった。

 男子班は一部をのぞき、平和であった。

 

 

 鳳翼館に隣接する裏手の山は、見た目以上に険しかった。

 そもそも人は立ち入らないのだろう。道らしきものはどこにもなかった。

「こいつは予想以上だぜ」

 ルートを見失わないよう、木にナイフでマーキングを入れながら、クロウは辺りを見回した。

 同じ景色が続き、方向感覚さえ定まらなくなってくる。

「だが、ここを越えねば目的は果たせない」

 夜の進行に備えて、アンゼリカはクロウのマーキングの上から蛍光塗料を塗っている。

 露天風呂は鉄壁のガードに囲われているが、唯一守りが薄い可能性があるのがこの裏山側だった。

 誰も来ないだろうという気の緩みが、普段の管理をおろそかにし、自然の要塞が侵入者を阻むだろうという根拠のない傲慢が、心理的にも物理的にも隙を生み出す。

 そんなアリ一匹も通れない程の小さな亀裂が、時として状況を覆す要因になることを、二人は経験から学んでいた。

 希望。偶然。奇跡。呼び方は何だっていい。そこにわずかでも可能性があるのなら、彼らは決して歩みを止めない。

 草木を分け入り、歩を進める最中、クロウはアンゼリカに今一度問う。 

「……ゼリカ。お前は堂々と女子風呂に入れるんだ。どうしてこんな回り道をする?」

 かぶりを振って、アンゼリカは答えた。

「間違っているよ、クロウ。ただ見るだけでは意味がない。無防備かつ自然体、そしてスリルと苦労の果てに得られる光景にこそ意味があるんだ」

 一切の迷いがない、真っ直ぐな言葉だった。

「なら、なぜ俺に協力するんだ? その光景を独り占めしたいとは思わなかったのかよ?」

「思いはしたさ。だが一人でこのミッションを行うのは無謀だ。そこで君と組めば成功確率が上がると考えた。いや、このメンバーの中では君以外にいなかった。そして君も私と同じことを考えているという確信があった」

 アンゼリカは続ける。

「クロウの作戦立案はいつだって多角的で無駄がないからね。意味無く見えることでも、必ずどこかに繋がっている。信頼に値する能力だ」

「そりゃ過大評価だろ」

「それに私にとっては二度とない機会かもしれない。……もしかしたら、一緒に馬鹿をやる相棒が欲しかったのかもしれないな」

 クロウは一瞬押し黙るが、すぐに口を開いた。

「……任せとけよ。持てる力の全てを尽くすぜ」

「ふっ、同じくだ」

 揺るがない結束を確かめ合ったところで、二人はついにその場所へと到達した。

 生い茂る草木に覆われながら、露天風呂を囲う竹製の柵。ここに台座や脚立を用意すれば、悟られることなく崇高な目的を果たすことができる。

「作戦決行は予定通り明日の夜だ。今日は鋭気を養う為、不信感を与えない為におとなしく過ごすぜ」

「了解だ。あくまでもおとなしくトワに襲い掛かる」

「おい」

「冗談だよ」

 軽口を叩くアンゼリカは、ふと思案顔を見せた。

「万が一の為に撤退ルートも確保せねばな。見つかったら八つ裂きでは済まないだろう。特にクロウは」

「心配はいらねえ」

 断ずる口調でクロウは告げる。

 彼の手には、あるものが携えられている。両の手の平に収まる程度の、四角いあるもの。

 これはユミルに行く前日にジョルジュから受け取ったものだ。まさかジョルジュもこのような使い方をされるとは夢にも思っていないだろう

 仕込みはすでに済んでいるのだ。

「これがある限り、俺達が捕まることは絶対にない」

 クロウは不敵に笑った。

 

 

 ~後編に続く~

 

 

 

 

 

 

 

 ★おまけ★

 

 天井の導力灯がいくつか切れていた。

 カン、カン、と薄暗い部屋にそんな音が響く。

 金槌で硬い物を叩く音。振り下ろされる度に、徐々に薄く、形状を変化させていく金属片。

 オイルの臭い。鉄の臭い。どこからか入り込んできた羽虫が目の前をちらついた。

 売店で買ってきたコーヒーは、一口もすすらないまま冷めきっている。

 金槌を振り下ろす手は止めない。雑念を払うように。邪念をそそぎ落とすように。汗が滴り、眼下に落ちても、それを拭うことさえしなかった。

「………」

 今回のユミル旅行は、ザクセン鉄鋼山の一件で、尽力した者達に対して、皇帝陛下から直々に賜った厚意である。

「……どうして」

 薄暗い技術棟に一人、ジョルジュ・ノームは小さくつぶやいた。

 彼のバックアップなしでは、鉄鋼山攻略はもっと困難なものになっていただろう。影の功労者と言っても過言ではない。

 だというのに。

「どうして、僕はユミルに行けなかったんだ」

 ようやく手を止め、彼は汗を拭う。

 目元のそれが本当に汗だったのかは、誰にも分からなかった。

 

 

 

 

 ☆おまけ☆

 

 夕食後、男子部屋にて。

「さあ、枕投げだ」

 リィンが告げると、メンバーは部屋の両端に分かれた。

「お手柔らかにね」

「ふふ、年季の違いを教えてあげよう」

 Aチーム。エリオット、リィン、マキアス。

「やるからには負けねえぜ」

「ルールは把握した」

「ふん、くだらんな」

 Bチーム。クロウ、ガイウス、ユーシス。

 その手に枕を携え、各々にらみあう両チーム。

 ルールはドッジボールとほぼ同じ。両陣営から枕を投げ合い、当たったり、取りこぼしたりしたらアウト。相手チームを殲滅した方が勝ち。ちなみに顔面はセーフ。負けた側のペナルティはトリスタに戻ってから、寮の共用部清掃となっている。

「それじゃあ行くぞ、よーい」

 リィンが右手を掲げ、一同身構える。

「はじめ!」

 号令と同時、入り乱れて飛び交う枕の応酬。

「どーりゃあ!」

 クロウが放った大振りな一発が、リィンに目掛けて一直線に飛ぶ。リィンはそれを『わしっ』と片手でキャッチしてみせた。

「怒ったエリゼから投げつけられる枕を、俺がどれだけ受けてきたと思ってるんだ」

「やるじゃねえか、リィン兄様」

 その横でガイウスの長身から繰り出された、天から降り落ちるような軌道の隕石枕(メテオ・ピロー)がエリオットの脳天を直撃した。

「ふむっ!?」

「おおっと」

 が、落ちかけた枕をマキアスが間一髪キャッチしてセーフ。たたらを踏むエリオットの腹部に、さらにクロウの追撃、弾丸枕(バレット・ピロー)がめり込んだ。

「はうっ!?」

「任せろ!」

 が、これも枕が床に着く前に、リィンがスライディングキャッチした為セーフ。

 次々にエリオットに枕が襲い掛かるが、リィンとマキアスがこぼれ球を全てキャッチするので、ことごとくセーフである。

「いや……も、もうアウトにして……」

 早くも満身創痍のエリオット。

「このままでは防戦一方だ。僕が活路を開く!」

 手近な枕を力強くわし掴み、マキアスは眼鏡を押し上げた。きらりと光る視線の先に捉えたのは、言わずもがなこの期に及んで涼しい顔をした宿敵である。

 今日は晴れて敵同士。ここぞとばかりに溢れ出す日頃の鬱憤。手加減も容赦も必要なし。

 マキアスは体を極限までひねり、全ての力をこの一投に総動員した。

「ユーゥシィィスゥーッ! だああーっ!!」

 顔の造形が崩れる程に絶叫し、オーバースローから繰り出された眼鏡枕(グラス・ピロー)がぎゅるんぎゅるん回転しながらユーシスに迫る。だが、その狙いは上に外れていた。

「ふっ、どこに向かって投げている」

 しかし右斜め上方に逸れていったはずの枕が、突然その軌道を変えて急降下。抉るような軌道で、ユーシスの顔面を直撃した。

「レーグニッツ投法セカンドフォーム、《デスサイズ》の味はどうだ。顔面セーフなのは幸運だったな。いや逆に不運とも言えるが」

 ずるりと顔面から枕がずり落ちると、ユーシスは無言で踵を返し、スタスタと部屋の隅の荷物置き場へと向かった。

 珍しく勝った心地のマキアスは、上機嫌な様子だ。

「臆したと見える。いい教訓だったろう。今後は枕投げを侮らないことだ。僕のレーグニッツ投法をまた味わいたくなければな」

 依然沈黙したまま、かばんの中にゴソゴソと手を入れていたユーシスは、ゆっくりとそれを取り出した。

 それこそ収まっていたかばん程の大きさはあろうかという純白の枕だった。

 馬やら獅子やら、金の刺繍が施された絢爛豪華なその意匠。もし枕博物館などと言うものがあれば、警備員が四方を固め、強化ガラスの中に展示されるような、この世に二つとない格式高い枕である。

 ふかふかもふもふ、ユーシス様ご愛用の貴族枕(ノーブル・ピロー)が、ついにその姿を現した。 

「許さん」

 こめかみを脈打たせ、貴族枕が投げ放たれる。空気力学の概念も取り込まれているのか、中空を駆けるごとにグイグイと速度を増していた。

「ちょっと、あんた達。なーに騒いでんのよ!」

「ダメだよ、宿の人に迷惑が掛かっちゃうよ」

 そこに片手にワインボトルを持ったサラと、酔い潰れから復活したトワが男子部屋に入ってくる。

『あ』という男子たちの声と「むぎゅっ!?」というサラの声は同時だった。

 貴族枕が彼女の顔面を直撃し、その手にしていたワインボトルが宙を舞う。くるくると放物線を描いたボトルは、たまたま上を向いたトワの口にがぽっと収まった。

「む? むぐー!?」

 なみなみと流れ込むアルコール。トワはそのまま壁に背を預け、ずりずりとその場にへたり込んでしまった。

 ピクピクと頬を引きつらせるサラ。

「いい度胸ね、あんた達。元A級遊撃士の力を見せてあげるわ」

 パリパリと雷撃の筋が枕を覆う。

 紫電の枕(ライトニング・ピロー)をその手に従え、サラはずいと前に出る。

 赤い顔で笑い続けるトワをよそに、男子たちの悲鳴がこだました。

 

 ☆END☆




やはり中編となりました。またもお付き合い頂きありがとうございます。

ちなみにこの数時間後に、ドラマCDの事件があるわけですが、さすがにそこはがっつりカットする予定です。

何気にユミル編に入る前に、公式でユミルの町の一枚絵が出ていたので、描写の上でだいぶ助かりました。雰囲気良さそうな街でしたね。リィンの知り合いとかやっぱ多いのかな?

後編もお楽しみ頂ければ幸いです。
ご感想も随時お待ち致しております。


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ユミルの温泉事情(後編)

 ちょっとした騒動があった。

 十月の初旬だというのに、辺りは一面雪景色である。

 昨夜から突然降り出した季節外れの大雪。そして、鳳翼館に届いた謎の手紙。

 彼らは手紙の内容に誘われるまま、今日の午前にユミル渓谷へと赴くことになる。

 そこで予期せぬ邂逅があったものの、無事に異変を解決し、ようやく大雪は降り止むのだった。

「せっかくの旅行だったのにな」

 ユミル渓谷から鳳翼館に戻ってきたⅦ組メンバーは、共用ロビーにて思い思いに体を休めている。

 適当なソファーに背中を沈め、深く嘆息をついたのはアリサだ。

「あの怪盗、空気を読まないにも程があるわ」

 これには全員同意である。今回の一件は怪盗Bこと、ブルブランが仕組んだものだった。予期せぬ邂逅――とは言いつつも、手紙の文面を見た時点で嫌な予感はあったのだが。

 ともかく事態は収拾した。

 積雪は残るものの、すでに雲の切れ間からは陽光が差し込み始めている。もっとも、予定していた観光はできそうになかったが。

 雪は止んでいるが、ケーブルカーはまだ復旧していない。どの道、トリスタに帰るのは明日である。昨日と同じく午後は館内でのんびり過ごすことになった。

「うう、足が痛いです。温泉宿なのがせめてもの救いですね」

 昨日から歩き通しだからか、疲れた様子でエマは足をさすっている。

「温泉の効能には、疲労回復と血行促進、あと筋肉痛の緩和もある。今日はみんなでゆっくり浸かるとするか」

 リィンが提案すると、アリサとラウラがじとりとした――いや、ぎろりとした目を彼に向けた。

「ねえ、リィン。“みんな”っていうのは男女別よね」

「そうだな。そなたの言葉の真意を確かめておこう」

 表情を変えないままの、ひどく平坦な口調だった。

 リィンはぎこちなくうなずいた。

「あ、当たり前だろ。男女別だ。は、はは」

 またリィンが何かやった。そんな視線が集中する。

「みんな、そんな目で俺を見るのはやめてくれ。違うんだ。これは違うんだ」

 特に女性陣から訝しむ目を向けられて、リィンはひたすら首を横に振る。

 彼らの予想通り、昨晩の夜にリィンはやらかしていた。湯に浸かりに行ったら、アリサとラウラと風呂でバッティングするという、極めて遺憾なハプニングを発生させていたのだ。しかしこれに関しては、混浴の時間を把握していなかった彼女達にも非はあったりする。

 ただ混浴の時間と知りながら、迷うことなく風呂場へ突入したリィンもリィンであるが。

 唯一気にしていなさそうなミリアムが、ぐぐーっと体を伸ばす。

「渓谷は寒かったし、早く温泉に浸かって、おいしいものを食べて、ゆっくり休みたいよ」

 全員の希望を取りまとめた言葉だった。

 同意を返す面々の中、眠たそうにあくびをしたフィーが、「あ、温泉に入るんだったら」と、まぶたをこすりながら口を開く。

「せっかくだしエリゼも誘ったら?」

 いいよね。と付け加えて、リィンに目を向ける。うなずいて、「ああ、ぜひ誘ってやってくれ」と応じたリィンは心なしか嬉しそうだった。

「女学院ではそういう機会もなさそうだし、きっと喜ぶと思う」

「ほんとはリィンと入りたいのかもしれないけどね」

 冗談交じりのフィーの言葉を、リィンは軽く笑って否定する。

「はは、一緒に入ってたのは十歳くらいまでだからな。さすがにもうないだろう」

 一変した場の空気に、マキアスとユーシスが揃って呆れ顔を浮かべた。

「君という男は……」

「何回言ったか分からんが、朴念仁も大概にするがいい」

 意味が分からない様子のリィンの両脇を、無言のアリサとラウラが歩き去っていく。すれ違いざまに、雪が視線で蒸発する程の、強烈な流し目をくれながら。

 たじろぐリィンの後ろで、エリオットとガイウスは何やら話し込んでいた。

「僕も姉さんとは十歳くらいまで一緒にお風呂に入ってたけど」

「俺もだ。士官学院に入学するまでは、よくリリの体を洗ってやっていたものだが」

 二人して壁に背を預けながら、兄弟談議に花を咲かせている。この手の話は兄弟持ち同士だと、なかなか盛り上がったりするものだ。 

 程なくまばらに解散し、各々の部屋に戻っていくメンバー達。

 閑散とした共用ロビーには、二人だけが残っていた。

 アンゼリカとクロウ。彼らはロビーの壁にかけられている一枚の絵画を眺めていた。

 絵の中では幾羽もの白い鳥が群れをなして、連なる山塊を背景に大空を羽ばたいている。眼下に見えるのはユミルの町だ。雄大な構図だった。額縁の下部には絵のタイトルも表記されている。

 表題に目を落とし、アンゼリカは微笑を浮かべた。

「いいタイトルだ。絵の構図もメッセージ性に富んでいる。青い空と緑の山々を対比させているのかな」

「山を障害物とも見れるぜ。羽のあるやつだけが労せず空を渡れるって意味かもな」

「皮肉も度が過ぎると笑えないな」

「皮肉じゃなかったら笑えるのかよ」

 アンゼリカは再び視線を白い鳥達に戻した。

「いつまでも空を飛べるのは絵の中だけだ。いつかはどこかで地上に降り立ち、休息を取らなければならない」

 絵から目を離さないまま、密やかに告げる。

「今宵、麗しの小鳥達が羽を休めるようだ」

 うなずいて、クロウは天井を見上げた。いや、見据えているのはさらにその先か。

「羽があれば山の向こうに行ける、か。……なあ、ゼリカ」

 向き直って、彼女に問う。

「羽がなければ、山を越えることはできないと思うか?」

 アンゼリカは首を横に振った。

「羽はなくとも足がある。いかなる艱難辛苦も乗り越えるこの足が。歩き続けてさえいれば、いつかは必ず目的地に辿り着く」

「ああ、そうだ。だから俺達は行くんだ。たとえそれが、どんなに険しい道でも」

 クロウは絵画の中のユミルの町に指を這わした。つつと動いた人差し指が、ある地点でピタリと止まる。その位置はこの鳳翼館。否、さらにその限定された一点を指し示していた。

「やはりこの絵の題目は皮肉ではないな。私達を鼓舞しているようだ」

「違いねえ」

 その会話を最後に、二人はそれぞれ反対方向に歩き出した。離れゆく二つの背中に挟まれて、静かに佇む一枚の絵。

 タイトルにはこう表記されていた。

 『――未来への可能性――』

 

 

 日が暮れた。

 女性部屋がにわかに騒がしくなる。バッグを開け閉めする音や、ぱたぱたした足音が忙しなく聞こえてきた。

 部屋の中では女子達が入浴準備に勤しんでいるところだ。

「フィーちゃん、ミリアムちゃん。着替えは持ちましたか? シャンプーと石鹸はありますね。あ、おやつは持って行っちゃだめですよ」

「ん、大丈夫」

「えー、おやつだめなの?」

 エマがフィーとミリアムの手荷物チェックをする横で、先ほど屋敷から到着したばかりのエリゼは所在なさげに立っている。

「あの、本当に私もご一緒していいのですか?」

「もちろん」

 遠慮がちにエリゼが問うと、かばんの中から着替えを取り出していたアリサは笑顔を見せた。

「せっかくユミルまで来たんだもの。夕食も一緒に取りましょう」

「い、いえ。そこまでは。そもそも今回は私達がもてなす側ですので」

「少しくらいならいいじゃない。リィンも食事はここで取るって言ってるし」

「それじゃあ、あの……少しだけ」

 照れを隠しながらエリゼは言った。

 扉が開いてラウラが入ってくる。

「先輩方を誘いに行ってきた。トワ会長はお付き合い下さるそうだが、アンゼリカ先輩はさっき入ったばかりだから遠慮するとのことだ。一応サラ教官にも声を掛けたのだが、部屋の中からいびきが聞こえたのでそっとしておいた」

 呆れたようにアリサは言う。

「サラ教官……どこにいてもやること変わってないじゃない」

「むしろ堂々と羽目を外せる分、いつもより飲んでいるようだ」

 引率役であり、監視役ではない。というのはサラの弁である。信頼の下に発した言葉であると願いたいが、こうなってくると自由に酒が飲みたかっただけではないかという疑念も沸いてくる。

「ほんとにもう……あれ?」

「どうしたんですか、アリサさん」

 かばんからタオルを取り出そうとしているアリサだが、中で引っ掛かってるようで手こずっていた。

「えーと、これですか?」

 エリゼも手を添え、加勢する。『せーの』で力いっぱいに引っ張ると、その瞬間に引っ掛かりが取れたらしく、勢いそのまま二人は後ろに倒れ込んだ。同時に、かばんから飛び出したそれらが中空に舞い踊る。

「あいたた……え?」

 二人の視界いっぱいに広がったのは、色取り取りの下着が大量に降ってくる光景だった。他の女子達も目を点にして、色彩豊かに四散する下着の山を呆然と眺めていた。

「な、なっ!?」

 一番驚いているのはアリサである。かばんに入れた覚えもなければ、こんなど派手な下着を購入した覚えもない。刹那遅れて脳裏に浮かんだのは、シャロンのいつもの笑みだった。直感で理解した。おそらく出発前のわずかな隙に仕込まれたのだ。シャロンが言う所の“目を疑う程すごい一品”とやらを。ただし一品どころではないが。

 どうりでかばんが膨らんでいたわけだと納得したのもわずか、散乱した下着がフィーの肩やら、エマの腕やら、あげくエリゼの頭やらに乗っかっているのを見て、アリサの狼狽はピークに達した。

「あ、あ。違うのよ。それは、シャロンがね、そ、その」

 しどろもどろに弁解するアリサをよそに、彼女達は落ちたアリサの下着類を拾い上げながら、口々に感想をもらしている。

「攻撃的なデザインだな。これを身に付けるのは……少々勇気がいるな」

「こっちのは装飾が凄いですね。あ、いえ、アリサさんなら似合うと思いますが……」

「……すけすけ」

「見ないで!お願いだから!」

 涙目になって下着を押収するアリサを見ながら、エリゼはショックを受けていた。

「こ、これが大人の下着……やっぱりあの時、姫様の申し出を受けておけば……」

 必死に誤解を解こうとするアリサ。興味深げに下着を物色するその他の面々。

 しばらくしてトワも合流し、意気消沈のアリサを引き連れて、一同は浴室へと向かうのだった。

 

 

 少し時は遡る。

 夕闇を雲間から覗く月明かりがわずかに晴らしている。冷たい夜風がそよぐと、雑草がかすかにささやき声をもらした。

「なんてこった」

 苛立ち交じりの声が、闇の中で悪態をつく。クロウの隣で、アンゼリカも立ち尽くしていた。

 鳳翼館裏手の山。昨日下見までしてルートの選定を行ったのに。さらに言えば、少しでも保護色になるように普段の赤服ではなく、わざわざ緑服に着替えてきたのに。

「ちくしょう……!」

 だんと近くの木の幹を叩くと、枝葉から雪の塊がばさばさと音を立てて落ちてきた。

「これは想定外だったな」

 手近な木にもたれかかり、アンゼリカは山の奥を見据えた。

 一面の雪景色である。昨晩から降り続いた雪のせいだ。町中の雪はすでに半分以上溶けている。しかしこの裏山は、うっそうと生い茂る枝葉が影になって陽光が届かなかったのだろう。ほとんど雪が溶けておらず、足首が埋まるくらいの積雪が残っていた。中腹部に入るともっとかもしれない。

「くそ……どうする」

 整備などされていない自然の山道。見れば昨日木に塗ったマーキング用の蛍光塗料は、雪解け水に流されてほとんど効果を発揮していない。光源はわずかな月明かりだけ。それが雲に隠れれば、闇の中で立ち往生をする羽目になる。山の周りに導力灯でも立てているのか、魔獣の気配こそなかったが、それでも天然のトラップはあちこちに散在しているはずだ。

 目的地である温泉の裏手に出るには、最短ルートでおよそ二十分。昨日は昼の進行であっても、決して楽な工程ではなかった。

 この状況で慣れない山道を抜けるのは、自殺行為に等しい。

「……はっ」

「……ふっ」

 あざけるように笑い、二人は同時に足を踏みだした。サクッと雪を踏む小気味よい音が辺りに響く。

「何やってんだ、ゼリカ。危険すぎる。お前は戻れ」

「聞けない相談だ。君こそ退いた方がいい」

 アンゼリカが腕を組み、クロウは髪をかきむしる。

「慣れない闇夜の雪山道、下手すりゃ死ぬぜ」

「……昨晩、リィンに私の退学のことを伝えた。あと導力バイクを託す旨もね。心残りはないよ。いや――」

 言いかけて、アンゼリカはかぶりを振った。

「ここで引き下がる方が未練が残る。あの橋の上で君には言ったはずだ。私は学院生活を締めくくるにふさわしい達成感が欲しいんだ」

 小さく舌打ちをした後、クロウは投げやりに言った。

「今はっきりわかったぜ。俺のダチはどうしようもねえバカだってな」

「その言葉はそのまま君に返そう」

 顔を見合わし、失笑を交わす。

「彼女達は入浴の準備をしている頃だ。時間に余裕はない」

「上等。本気で行くぜ」

 パンと互いの手の平を打ち合わせ、クロウとアンゼリカは白銀の山間へと駆け出した。

 

 木々の間を縫うように疾駆する二つの影。

 雪の積もり方や、微妙な斜面から瞬時に元の地形を把握し、足をつける地点を決定する。

 クロウはクロスカントリーの応用で、巧みに環境を利用しながら縦横無尽に山中を駆ける。大雑把な動きに見えて、その実、効率的なルートを進んでいた。

 一方のアンゼリカは武道の体捌きの応用で、背骨を軸に体幹をぶらさず、前に倒れ込む力を前進する力に変換し、必要最小限の力で着実に歩を進めている。

 宣言通り、今まで培った全てのスキルを総動員しての、全力全開、全身全霊の山道攻略であった。

 山の奥に進むごとに、やはり雪は深くなる。場所によっては膝下まで埋まる場所もあった。それでも彼らは止まらなかった。視界を遮る枝葉を振り払い、雑草をかき分け、積雪を踏み慣らし、ただ懸命に走る。

 今、彼らが身命を賭す理由は、褒められるものではないのかもしれない。だが。

 “歩き続けていれば、いつかは必ず目的地に辿り着く”

 その言葉を胸に刻み、ひたすらに、ひたむきに、足を前に出し続ける彼らを、一体どうして責められよう。

 それは邪念であると、心無い誰かが言うのかもしれない。

 しかし彼らは胸を張ってこう答えるだろう。そこに雑念はないと。

 それは不純であると、心無い誰かが言うのかもしれない。

 しかし彼らは臆することなくこう答えるだろう。混じり気のないこの真っ直ぐな思いが、純でなくて何なのかと。

 不純な邪念などではない。これは純粋な一念だ。

 心の内から押し寄せる、御し難いこの情動。崇高な目的を完遂せよと、自分の何かが熱く叫んでいる。

「おおおおっ!」

 裂帛の気合が、木々の合間を反響した。

 が、大自然に人の想いは通じない。それどころか、時として嘲笑うかのように牙を剥く。

「なっ!?」

 今がまさにそうだった。速度に乗ったクロウの出鼻を挫くように、その足に蔓を絡ませたのだ。

「クロウ!」

 アンゼリカが叫ぶが、すでに彼は体勢を大きく崩していた。縦に横に不規則に回転しながら、ごつごつした山道の上を転がり、あげく茂みを突き抜けて、その先の崖から転落してしまった。

「がはっ……」

 落差は五アージュ程だったが、うまく雪がクッションとなり、幸いにも打ち身で済んだ。しかし体全体を強く打ち付け、動くたびに激痛が走る。おまけに視界もかすんでいた。自分のうめき声が、わんわんと頭蓋の中を反響する。

 アンゼリカが崖を迂回して、仰向けに倒れるクロウへと歩み寄った。

「クロウ、無事か」

「はは、ヘマやっちまったぜ」

 クロウは力なく頬を笑みの形にした。それは彼の精一杯の強がりだった。

「立てるか? いや、立てなくてもいい。私が君を背負っていく」

「このままだと俺は足手まといだ。お前一人で行け」

「ダメだ。置いてはいけない」

「……もう三十分は経ってる。さすがにあいつらも風呂に入る頃だ。時間切れになる前に早く行け」

 月明かりが銀世界を薄く照らし、光が二人の輪郭を際立たせている。風と共に舞う粉雪が月光を反射し、輝く粒子を宵闇に咲き散らせた。

 雪上に横たわるクロウと、寄り添うアンゼリカを幻想的な光景が包む。

「悪くない最後かもな」

「これを越える光景が、手を伸ばせば届く所にある。意識をしっかり保つんだ」

「くそ、いけねえ、視界がさっきよりかすんできやがった……」

「悪態をつく気力があるなら、まだやれるだろう。大体視界なら私だってかすんで……」

 同時に『ん?』と辺りを見回す。

 この視界の悪さは粉雪ではない。仄かな温かみを感じる。これは――蒸気だ。

「ま、まさか」

 クロウは勢いよく上体を起こす。あばらの何本かに痛みが走ったが、そんなことはどうでもよかった。

 這うようにして、蒸気の濃くなる方へ向かう。

 呼吸が荒い。吐く息が白い。手の平が氷のように冷たい。それなのに体の芯は燃えるように熱い。

「はあっ、はあ……」

 クロウは立ち上がる。傍らにはアンゼリカも立っていた。

 眼前には昨日見た竹の壁。辺りに漂う蒸気は、硫黄の匂いを孕んだ紛れもない温泉の湯気。

 二人はついに、約束の地に辿り着いた。

 

 

「まだ女子達の声が聞こえねえ。セッティング急げ!」

「わかっている」

 ここからも迅速に動かねばならなかった。

 昨日の内に運んでいた脚立を竹壁に立てかけ、足元を固定する。ちなみにこの脚立は鳳翼館の資材置き場に放置されていたものを、クロウが無断借用してきたものだ。

「ギシギシ言ってるな。大丈夫だろうか」

 試しにアンゼリカが脚立の一段目に足をかけると、ベキッと軽快な音を立てて、容易く足場が踏み抜けてしまった。

「……ゼリカ」

「不幸な事故だ」

 信じられない物を見るようなクロウの目を、さらりと受け流す。

「相当古いもんだったみたいだし仕方ねえ。こうなりゃ雪で足場を作るぜ!」

「了解だ」

 目的が明確な人間は立ち止まらないという、最たる例である。起きたトラブルをあまねく受容し、即座に次の手を弾き出す柔軟かつ強靭な思考力。

 クロウとアンゼリカは辺りの雪をあくせくとかき集め、押し固めて足場を高くしていく。さすがの二人も疲労の色が見えていたが、息切れする頃には一アージュ強の高さの雪塊をこしらえていた。

 だが、竹の壁は三アージュ近い。もう少し雪の高度がいる。

 重たい足を引きずり、さらに雪をかき集めようとしたところで。

 ――ガラガラ

 浴室の扉がスライドして開く音が聞こえた。徐々に大きくなるかしましい声。

「きやがったか!」

「やむを得ない。クロウ、この雪の台座の上で私を肩車するんだ」

「はあ!? それだと俺が見えねえだろうがよ」

「後で交代する。時間がない、早くするんだ」

 一考の余地さえなかった。「ちゃんと代われよ!」と焦れた声で言い放ち、クロウは先に雪の台の上に乗る。その首元に身軽な跳躍でまたがるアンゼリカ。

「これはこれで君も役得だと思うのだがね」

「黙ってやがれ」

 毒づき、アンゼリカを担ぎながら、クロウは腰を上げた。

「ふ、ふふふ」

 壁の上部に手をかけ、アンゼリカは頭をぬっと持ち上げる。

 至高の瞬間がやってきた。

 

 冷え込んだ外気の影響もあり、視界は蒸気で白く覆われていたが、それでも浴場を見通せない程ではなかった。

 一番に戸口をくぐってやってきたのはアリサだった。

「ふう、やっぱり温泉って気持ちいいわよね」

 白い柔肌。滑らかで均整の取れたボディライン。ブロンド髪を揺らし、ついでに色々揺らしながら、彼女は足元を滑らせないよう慎重に歩いてくる。普段の言動に成りを潜めてしまうが、彼女も間違いなくお嬢様であり、然るべき教養と立ち振る舞いを身に付けている。ツンの中に見えるたおやかな挙動。それは甘い毒となり、紳士達の脳を麻痺させる。つまりは落差。ギャップというスパイスが、彼女の魅力を余すことなく引き出すのだ。それはここ、浴場においても変わらない。お嬢様ボディというのはもっと粛々として然りなのに、その激し過ぎる主張は何なのか。惜しむらくは体にバスタオルを巻いていることだが、アンゼリカの心眼の前では、そんな布きれなど薄紙ほどの意味もなさなかった。これぞラインフォルト社でも製造不可能な、完全オーダーメイドのツンデレーション・ボディ。

「うむ。今日はゆっくりと浸かるとしよう」

 アリサに続いてやってきたのはラウラだ。

 髪の結いは解き、長いロングストレートの透けるような青髪はとても美しかった。普段から鍛えているだけあって、引き締まり無駄の無い完璧なスタイル。さりとて、筋肉質というわけではなく、十分に女性らしさを感じるシルエットである。言うなれば、何人も触れること叶わぬ国宝級の彫像。レグラムの町のど真ん中に彼女の銅像を建造して、その入浴風景の優美さを讃えるべきであろう。蒸気に撫でられ、つややかな光沢を放つ肌は、もはや芸術。他の追随を許さない、威風堂堂のアーティスティック・ボディ。

 その二人を一瞬の内に堪能したアンゼリカは、『ぶー!』と鼻血をアーチ状に吹き出した。

 鮮血が半円の軌跡を描き、直下のクロウにボタボタと滴り落ちる。

「おまっ! ちょ、ゼリカ!? ぶーすんな、ぶーを!」

「うう、済まない。おもわずドラゴンぶーストしてしまった」

 攻撃力増し増しのアンゼリカである。

 鼻血を垂らしながら、尚も彼女は壁の向こうに頭を伸ばす。

 続けざまに、三人目、四人目が入ってくるところだった。

「ん、やっぱり寒いね」

 てくてくと普段と変わらない足取りで、洗身場に歩を進めるのはフィーだ。

 その身軽さが示す通り、彼女には一切ぜい肉と呼べる物がなかった。ラウラとは違うベクトルで引き締まった体と言うのか、小柄ながら洗練された肉体である。しかしながらほのかに膨らんだ胸と、なだらかに湾曲するヒップは未だ成長過程であり、それは子供から大人へと変わる限定された期間でしか垣間見ることのできない奇跡、そして神秘と言えよう。数年後、彼女がどのような成長を遂げるのか。想像するだけで悶絶必死の、夢と希望を内包するポッシブル・ボディ。

「私も温泉は久しぶりです」

 四人目。楽しみだが、はしゃぐまいと自分を抑えている様子のエリゼだ。カラスの濡れ羽のような、しっとりとした黒髪はユミルの宝と評しても過言ではない。

 普段の楚々として可憐な佇まいは、ここ浴室においても一切乱れることがなかった。一糸纏わぬあられもない姿であっても、その凛とした姿勢を崩さないのは、貴族の義務(ノブレス・オブリージュ)の精神が彼女にも息づいているからであろう。控え目に膨らみを見せる、フィーと同じく成長過程のボディラインは、慎ましく開花の時を待つ初春のライノの花と形容すべきか。その潜在能力はいまだ未知数のハイポテンシャル・ボディ。

「ごふっ、ごぶふっ」

 アンゼリカが激しくむせ込んだ。

 何と限りない夢が詰まったつぼみ達だろうか。というか彼女達をどう表現したらいいのか。自分は最も適した言葉を知っている気がするのだが。

 唐突に脳裏に映像がよぎる。山塊を飛び越える白い鳥の群れ。そうだ、あれだ。

「“未来への可能性”……!」

 ぐっと拳を握りしめ、あの絵のタイトルを口にする。

 リビドーが加速し、連動するように鼻の双穴から血が流れ出した。

「ゼリカァ!」

 下のクロウなどお構いなしだ。

「うう、まだ頭が痛いかも。お酒のせいだよ……」

 続き浴室に現れた五人目はトワだった。必然、アンゼリカの鼻息も荒くなる。

 フィーに負けじ劣らずの小柄な彼女だが、その体型はエリゼに似ている。が、十八歳と言う年齢にしては幾分未発達の部分が目立つ。しかし、先の二人のように可能性をその身に秘めているわけではない。彼女はすでに可能性の先にいる。そう、これが彼女の終着点であり、最終形態なのだ。どのように発育をしようとも、個人差があるのは致し方なく、残酷で辛辣で冷徹な事実である。身長と胸は、見えない何かに押さえつけられているのかと思う程、伸びないし、大きくならない。昨年、寄せて上げて身にまとった学院祭のステージ衣装が、涙ぐましくもささやかな努力と受け取られ、一部のファンの目を滲ませたことは記憶に新しい。だが、彼女は気付いていないのだ。それがすでに完成された至高のものであるということを。それ即ち、一部の人達の一部の人達による一部の人達の為の、ある意味パーフェクト・ボディ。

「あはは、温泉だー!」

 快活な笑い声と共にやってきたのは六人目、ミリアムである。バスタオルなど持ちもせず、恥じらいもなく、生まれたままの姿であちらこちらを駆け回っている。

 ツル、ペタ、ストーン。

 その擬音が彼女の全てだ。なにもないが故、全てがそこにある。屈託なく笑顔を見せる彼女だが、その未発達未発育の体は、非常に難解な哲学を有している。一たびその議論に足を踏み入れたなら、太陽が三度昇り沈みを繰り返すまで、抜け出すことはできないだろう。何より十三歳というその年齢が禁断の果実である。アガートラムと法律により守られた不可侵的存在。邪な意思を持って手を出す者は、肉体的、社会的制裁を容赦なく受けることになる、一罰百戒のクライムアンドペナルティ・ボディ。

「な、なんと……っ!」

 胸を穿たれるような衝撃に、アンゼリカは思わず仰け反った。

 トワの裸身を見る機会は今までにもあった。最後に見たのは昨年の水練の授業の時、ギムナジウムの女子更衣室だったと記憶している。あれから約一年。何も変わっていないではないか。ゼロだ。変動がゼロだ。うら若き十八歳の成長期の乙女に、そんなことがあり得るのか。これはもう、人知を超える力が働いているとしか思えない。一方のミリアムはどうだ。これもゼロだ。何もないという意味でのゼロだ。しかしこの二人から生み出される破壊力たるや。

 無という概念から生み出される衝撃。静と動の極地。これぞまさに、

「ゼロ・インパクトッ!!」

 ぶぶぶー! と噴水のように鼻血が真上に飛ぶ。あたかも壊れた水道管から水が噴出するように。

 もれなく真紅の血雨が直上から降り注いだ。

「ゼェーリィーカァー!!」

 下で何やら吠えているが、全ては些事だ。なぜならこの後に来るであろう、最後の一人は――

「ミリアムちゃん、走ったら危ないですよー」

 ついにやってきたⅦ組の誇る最終兵器。国士無双のダイナマイト委員長。

 この時点で凄い。何だかもう凄い。当然ながら眼鏡は外し、三つ編みおさげも解いている。緩やかに拡がる波打つ髪は、雄大な海原を連想させた。その海原に君臨する双丘は、もはや一枚のバスタオルには収まりきらず、溢れんばかりにせめぎ合っている。一歩踏み出すごとに二つの爆弾は上下に揺れ、辺りに滞留する空気を無遠慮に押し退けていく。リンゴ? スイカ? メロン? 果実で例えるなど愚の骨頂だ。そんな陳腐なものではないのだ。この筆舌に尽くしがたい、唯一無二の宝玉をどう例えたらいいのか。生命の母たる海か、繁栄の父たる大地か、女神の御許たる空か。いや、足りない。そう、言うなればそれら全てをその身に宿す“星”。この星そのものだ。天地開闢の奇跡を体現する爆発力、空前絶後のエクスプロージョン・ボディ。

「ぐはあっ!」

 一トンの鉄球をみぞおちに直撃させられたようだった。しかし、アンゼリカは耐える。これ以上鼻血を出し続ければ、意識を失いかねない。意識を失えばこの光景は消えてしまう。冷静になるのだ。クールダウンだ。想像しろ、悲しい出来事を。萎えろ、萎えろ、萎えるのだ。

 その時、強い風が吹いた。

「きゃっ」

 エマの短い悲鳴。紳士の突風が彼女のバスタオルを吹き飛ばしてしまった。月明かりの下に晒された豊満な肢体が身じろぎする。

「ドッ、ドラグナーハザードゥーッ!!」

 コンマ一秒で臨界突破。吹き荒れる闘気と悶気が融合し、象られし龍が天へと昇る。

 瀑布のごとき鮮血が、ドボドボとクロウに襲い掛かった。緑服が瞬く間に赤服に染まっていく。

「てめえ、ゼリカ! 早く変わりやがれええ!」

「死んでもいい、もう死んでもいいっ……!」

 変われと叫ぶクロウの声など、もはや意に介す必要はない。もう一度、この楽園を目にしなければ。次は一度に全体を視界に入れてみよう。あまりの威力に今度こそ死ぬかもしれないが、それならそれで別にいい。本望だ。

 そう思い、再び竹壁の上に顔を上げようとした所で、

「アンゼリカ・ログナー」

 今までのがなり立てるような声音から一変。地の底から響くような、冷たい声が鼓膜を震わした。

 初めて聞く声音だった。胃の腑が波立つような、低く重い声。少なくとも自分の知るクロウではないように思えた。

 鼻血を被った前髪から、赤い液体が滴り落ちる中、クロウは静かに続けた。

「ゼリカ……俺にも我慢の限界ってあるぜ」

 そう言って、クロウは緩慢な動作で、ホルスターから片手で銃を抜き放った。ぎらりと光る銃身は狂気を纏っている。

「こいつには弾が二発入ってる。一発は自決用。もう一発は裏切り者の粛清用だ。どっちの銃弾も使うつもりはなかったが……」

 どんどん低くなるクロウの声。反して高鳴るアンゼリカの鼓動。

「俺の心はフリーズバレットで凍結中だ。おまけに頭はカオストリガーで混乱と悪夢に満ちてやがる。悪いが自制が利く状態じゃねえよ。なあゼリカ……俺にもよ――」

 クロウが上を見上げた。血よりも赤いその瞳が、静かにアンゼリカを捉えている。

「俺にもドラゴンぶーストさせてくれや?」

 本気だ。ここで応じなければ、この男は自分を撃つ。うすら寒い確信を覚えて、アンゼリカはクロウの肩から降りた。

「ったく最初からそうすりゃいいんだよ。つーか叫び過ぎだ。湯の音で聞こえなかったみたいだから助かったけどよ」

 肩をすくめるクロウはいつもの彼だった。今の得体の知れない重圧感は、すでに消え失せている。

「ほら、次はお前が肩車する番だぜ」

「何を言うんだ。女の私が君を担げるわけないだろう」

「てめえ」

「冗談だよ」

 ひょいとクロウを肩に乗せたアンゼリカは、苦もなく彼を持ち上げた。

 壁の向こうからは「ちょっと凄いわね」とか「大きくて丸い……」だとか、もう色々な想像をかき立てる声が聞こえてくる。

「へへ。何が出るかな、ワイルドカードっと」

 口元をあらん限りに歪まして、クロウの視線が壁の向こう側へと伸びる。

 一番最初にそれが視界に入った。というかそれ以外は目に入らなかった。

 すべらかで、丸みがあり、艶のある肌。背から肩、腕、腰にかけての申し分ない肉付き。いじらしくもバスタオルで前を隠しているが、濡れたそれが張り付いて、穢れのない体表を薄く透かしていた。照れているのだろう。皆の視線が居たたまれないようで、恥じらいもあらわに顔を隠す動作が何とも女子らしい。

「ΠЁΘΠ§Ё///」

 なまめかしくグィングィン稼動音を響かせる銀の乙女(シルバーメイデン)――アガートラムさんのお目見えである。

「なんだそりゃああああ!!」

 魂の咆哮がユミルの夜空を突き抜けた。

 喉が破けんばかりに放った大音声が、ついに浴場へと届いてしまう。

「な、なに!?」

「まさか、誰かいるのか?」

 女子達に気付かれた。ざわざわとどよめきたち、慌ただしくなる浴場内。

「いかん、クロウ。撤退だ」

 ぎりぎりと歯を軋り、血涙を流すクロウを半ば強制的に地面に降ろす。

「ちくしょう……いや、だめだ。ここをやり過ごしたところで、調べられたら俺達にアリバイがないことがばれる」

「だが、どうすれば」

「へっ、こうすんだよ!」

 にっと笑ってクロウはそれを取り出すと、地面の上に力強く置いた。

 

 

 一方、浴場内は不気味な静寂と緊張に包まれていた。

 女子達はとりあえず、湯に肩まで沈み込んで体を隠している。声らしきものは聞こえたが、まだ誰かがいるという確証がないのだ。

 そんな中、沈黙を破ったのはアリサだった。

「ちょっと、誰かいるんだったら返事しなさいよ。のぞきなんて最低よ!」

 応答はない。依然として静寂。時折、風が木々を揺する音がするだけだ。

「………」

 辛抱強く待ち、気配を察しようとする女子達。

 やはり気のせい、動物の鳴き声でも聞き間違えたのだろうか。

 彼女達がそう思いかけた時だった。

『チェックメイト』

 竹壁の向こうから、涼やかなマキアスの声が響き渡った。

 

「こ、これは……?」

 アンゼリカが驚くのも無理はない。存在は知っていたが、ここまで小型化した物は見たことがなかったのだ。

「これはスピーカー内蔵式の導力録音機だ」

 立方体型で前面にはスピーカー部が、背面には細かなボタンがやたらとついている。よくよく見てみれば、『リィン①~⑥』『エリオット①~④』といった具合に、Ⅶ組男子の名前と、それぞれに割り振られたスイッチがあった。

 クロウが今し方押したのは『マキアス③』のボタンだ。

 意図を察したアンゼリカが問う。

「まさかこれに男子達の声を録音しているのか? 昨日今日でそんな時間はなかったはずだが、一体いつの間に……」

「これをジョルジュから受け取った日だ。放課後、あいつらを構いに行った時にな」

 マキアスとチェスをし、エリオットとガイウスと走り込み、ユーシスと乗馬をし、リィンと旧校舎探索に行ったあの日である。クロウはその際に交わした会話の中で、使えそうな内容の言葉を密かに録音していた。もっと正確に言えば、彼らがそういう言葉を使うように仕向けていた。

 男子達があずかり知らぬ内に、惨劇の序曲は始まっていたのだ。

 

「マ、マキアスなの? あなたって人は!?」

 アリサが驚きの声を上げるが、間髪入れずに、

『だいぶ引き締まってきたようだな』

 そこはかとなく明るいユーシスの声が届いた。誰のどこを見てそう言ったのか、女子達の身が固くなる。

「ユーシスまで!? 何考えてるのよ」

 アリサが憤りを見せるも、彼はさも当然のように『言っておくが他言はするな』と付け加えた。

 それはあの日、馬術部以外の人間を馬に乗せたことを口止めする言葉であったが、そんな事に及びもつかない女子達は開口絶句である。

「なっ……」

 何を言っているのだ。のぞきに来たことを他言するなとは。そんなノーブルオーダーがまかり通るわけがない。

 エマが立ち上がり、彼らが身を潜めているであろう竹壁の向こうを見た。

「あ、あの。何か事情があるんでしょう? お二人に限ってそんな――きゃっ!?」

 健気にも弁解の猶予を与えようとするエマだったが、またしても間の悪い突風が吹き、彼女のバスタオルをはためかせた。

『今日はいい風が吹いているな』

 同時、清々しさを感じさせるガイウスの一声。穏やかに笑む彼の表情がありありと浮かぶ。

「ガ、ガイウスさん……?」

 まさかガイウスまでいるとは。しかも、爽快感のある物言いをしているのはどういうわけだ。

 未曾有の事態にエマが後ずさった時、『クイーンが逃げ回るなんていけませんよ。もう諦めたらどうですか』と、その動きを制するようにマキアスが言った。どこか鼻にかかる、余裕を感じさせる敬語でだ。まるで自分がそこに立っていることが、絶対の正義であるかのように。おそらく彼は壁の向こうで、らんらんと光らせた眼鏡をいつものように押し上げているに違いない。

 あの男子達がのぞきに来るなど、正直考えにくいことだったが、現に彼らはそこにいる。

 そうだ、Ⅶ組の良心であるエリオットは何をやっている。この暴挙を止められなかったのか。

 女子達が思いかけた時、彼の声も浴場に届いた。

『はあ……はあ……僕もう無理だよ』

 息も荒々しく、何かを耐えるような不気味な声音に女子達はぞっとした。しかもそんな彼を『がんばれエリオット。もう少しだ』と、力強くガイウスが励ましている。

 何がもう少しだ。何の応援だ。そんな友情があるものか。

 いや、ここにこの四人が揃っているということはおそらく――

「リィン、あなたもいるの!?」

「に、兄様?」

 むしろ、いない方がおかしい。すると案の定、リィンの声も聞こえてきた。

 場違いなほど、しみじみとした哀愁を漂わせて彼は言う。

『あの時のままだ。何も変わらない』

 それは本来、数か月ぶりに妹にあってどうだったという、クロウの問いに対する答えであったが。

「なっ!?」

「兄様っ!?」

 “あの時”。

 アリサにとっては半年前、リィンをその胸で下敷きにした時。

 エリゼにとっては数年前、最後に兄とお風呂に入った時。

 それぞれで該当する時こそ違うものの、色んな意味で激昂に足る言葉だった。

「な、何を懐かしむように言ってるのよ!?」

「あの時と変わらないわけがないでしょう!?」

 女子風呂は混乱のるつぼだ。

 

「くく、これで俺達に矛先は向かねえのさ」

「なんというか、君はダメな先輩だな」

 楽しげに録音機を操作するクロウの横で、アンゼリカは呆れ口調だ。

「万が一の為だって言ったろ。最悪の場合、ゼリカは言い逃れできるが、俺はまず無理だからな」

「何を言う。私だって万が一の備えは持って来ているぞ」

「よく言うぜ。……ん……あれ、なんだよ? 反応が……」

 クロウが怪訝顔で録音機の再生スイッチをガチャガチャ押すが、スピーカー部からのノイズ音が大きくなるだけで、次第に操作を受け付けなくなってきた。

「おい、なんでだよ」

 焦るクロウの横で、アンゼリカが気付く。

「待て、クロウ。そういえばさっきからその録音機、雪の上に置いているだろう」

 はっとして録音機を持ち上げると、排熱のせいで周囲の雪が溶けだして、内部機構に水が入り込んでいた。

「や、やっちまった。だけどもう十分だろ。潮時だし、撤退するぜ」

「了解だ。帰り道わかるのか?」

「大体の方向しか分からねえが、適当に走ってりゃ何とかなるだろ」

 二人はその場から元来た道へと駆け出した。

 ガガッと異音を散らす録音機スピーカーをその場に残したまま。

 

 使用者を失っても、録音機の機能は完全に損なわれてはいなかった。

 好き放題に、録音されたセリフをオート再生している。

「ほ、ほんとにこんなことしちゃだめだよ。あとでサラ教官に報告するよ」

 年長として、女子として、生徒会長として、トワが強い口調で告げる。規律の範たることが彼女の使命だが、今や規律どころか秩序さえ崩壊しかかっていた。

 そんな彼女の警告を無視する形で、マキアスが不敵に言い放つ。

『お望み通り、揉んで差し上げましょう』

 オブラートの欠片もない剛速球。

「そ、そんなこと望んでないよ!」

 即座に胸を押し隠すトワだったが、そこに思案するようなエリオットの声が重なった。

『うーん、扱いやすいから、小さい方が僕は好きだけどね』

 これは楽器の話である。しかしその場におられる“小さい方々”にとって、恐怖を煽る以外の意味は持たなかった。その上、“扱う”と来たものだ。

 トワはもちろん、フィーでさえも「エリオット、最低」と身を低くし、エリゼはただ顔を蒼白にしている。

「そなた達、悪ふざけも大概に……」

 ついにラウラの口調にも棘が立ったところで、

 ザザッ、ザ、ザザザ……ザザザザ!

 不快な音が辺りにざわめき立った。スピーカーがいよいよ不調を来たし、ノイズ音を激しくさせているのだ。だが壁越しに聞こえるその音は、彼女達にとって別の想像を促した。

「ちょっと待って……まさか」

「こっちに来る気か!?」

 それは草木を踏み分け、闊歩する足音。乱れも迷いもない、雄々しい行軍が迫り来る。

「み、皆さん、逃げましょう……!」

『逃がしませんよ。このフィールドはすでに僕のものです』

 エマの焦りをマキアスが一笑に伏す。眼鏡の死神が嘲笑い、乙女達を絶望の淵へと追い込んだ。

 それでもアリサは負けじと、男子達がいるであろう位置を睨み返した。

「できる訳がないわ。その壁を乗り越えるって言うの? それとも壊すとか? 馬鹿げてる。さ、湯冷めする前に出ていくわよ、みんな」

 エリゼやトワは怯えているようだし、ラウラやエマには戸惑いが見える。アリサとて平静ではなかったが、少しでも気丈に振る舞うことで、止まっている全員の足を動かそうとしたのだ。

 意図が伝わってか、

「そうだな。早々に出ていこう」

「ん、賛成」

 順々にアリサの言葉に続く。

 その間、男子達は沈黙していた。

 ようやく諦め、自分達の行動がいかに軽率であったか噛みしめているのだろう。そう思う、いや、そう思い込みたい女子達だったが、不意に不穏な空気を感じて、動かしかけた足を止めた。

 またザザ……という音が聞こえてくる。しかもさっきより大きい。

 そして再び音が止まる。

「……?」

 なんだ、何をしている。嫌な空気をその身に感じながら、女子達は生唾を飲み下す。

 そして――

『この手で道を切り開く!』

 リィンの力強い宣言が、静寂を打ち破った。

「きゃあああ!」

 女子達の大絶叫。もう無理だった。なりふり構わず、一目散に脱衣室まで逃げる。その背に向かって飛んでくる男子達の声。

『も、もう耐えられない……』と何やら限界間近のエリオット。

『ハイヤー! ハイヤー!』と必死に叫ぶユーシス。

『ハイヤハイヤハイヤハイヤッ! ハイヤーッ!!』とさらに全力で連呼するガイウス。

 スピーカーが最後の力を振り絞り、大音量のノイズと男子達のセリフを撒き散らし、その上一部にはリピート再生まで加えていた。

『ヒィアッーハーッ!』 

 フィナーレをマキアスの歪んだ笑い声で締めくくると、録音機はボンッと黒煙を吐き出して、全ての機能を停止した。

 同時、勢いよく閉まる脱衣室の扉。浴場には誰もいなくなった。

 

 

 男子部屋は平和だった。朗らかな笑い声が絶え間なく聞こえていた。気の置けない仲間達と共に過ごし、穏やかに流れる時間だった。

「よし、僕の勝ちだな!」

「ふん」

 窓際の席でチェスをするマキアスとユーシスを、リィン、ガイウス、エリオットが囲んでいる。

「はは、やっぱりマキアスは強いな」

「うむ」

「ほんとだよね。勉強もできるし、さすがだよ」

 上機嫌なマキアスに、ユーシスは「人間一つくらいは取り得があるだろう」と冷ややかに言う。が、別段機嫌が悪いわけではなさそうだった。

 男子達は笑っている。

 その折、一階から二階へと続く階段が、ギシギシと小さく軋みの音を立てていた。

「よし、次は誰が相手だ。今日の僕は絶好調だぞ」

「じゃあ、俺が行かせてもらおうか」

「がんばってよ、リィン」

 ――ギシ、ギシ。

「リィン、俺が横からフォローしてやる」

「なっ、ずるいぞ」

「ふむ、俺もルールを覚えて早くやってみたいものだ」

 ――ギシッ、ギシッ、ギシッ。

「そういえばクロウ、どこ行ったのかな?」

「あ、さっきから見かけないな。まさか一人で温泉にでも浸かりに行ったとか」

「帰ってきたら先輩にもチェスに付き合ってもらおう」

「お前の頭にはチェスの事以外ないのか?」

 全員の笑い声が重なった。

 ――ズンッ!

 突如部屋の中に響いた重い衝撃音に、全員の笑い声が止まった。

「………え?」

 音の方向に目がむく。扉のドアノブ付近から、何かが突き出されている。見覚えのある鋭利な剣先。

 大剣がギリギリと唸りながら半回転した。力任せに抉られ、破孔が押し広げられていく。

 剣が引き抜かれた。ぱらぱらと床に落ちる木片。

「………」

 男子達は、その様を呆然と見つめていた。

 続けざま、銃弾が何十発と絶え間なく扉に撃ち込まれた。おびただしい数の弾痕が、扉いっぱいに大きな円を描く。

「………」

 穴だらけになった扉の向こうで何かが光った。次の瞬間、燃え盛る炎が扉を瞬時に黒炭に変える。炎の残滓が燻りつつも、何とか扉としての体裁は保っていたが、それも巨大な銀の拳に打ち据えられるまでの、ごくわずかな間のことだった。

 轟音と共に木っ端微塵に弾け飛ぶ扉。すでに炭化していたそれは、中空を舞いながら灰塵と成り果て、漆黒の粉雪を部屋の中にぶちまけた。

 黒い塵の向こうに見えたのは、廊下に揃い踏む女子達。その手には各々の得物が携えられている。

 二階全体に充満する猛烈な殺気。突然に共用ロビーのソファーが弾け、壁に亀裂が入り、掛けられていた絵画が床に落ちた。“未来への可能性”が落ちて、割れた。

「……何を謝ったらいいんだ?」

 リィンが問う。生命の危機を察知した体は、自分の意志とは関係なく震え出していた。

 アリサが乾いた笑みを浮かべた。

「自分の胸に聞いたら?」

 感情のない声だった。

「トワ会長なんて部屋に閉じこもっちゃったのよ」

「トワ会長が? なんで……」

「自分の胸に聞いたらって言ったわ」

 感情のない声に、徐々に怒りの火が灯る。男子達は状況を飲み込めないままに理解した。

 逃げなくては、やられる。

 エリゼが横合いから歩み出る。

「エリゼ。これは一体どういうことなんだ」

「兄様の、兄様の……」

 リィンの声などすでに聞こえていないようだった。

「兄様のっ、バカーッ!!」

 その言葉を合図に、惨劇は始まった。 

 

 無抵抗に逃げ回る男子と執拗に追い回す女子。一方的な蹂躙だった。

「今日はいい風が吹いているそうですね」

 エマがガイウスの前に立ちはだかる。魔導杖と丸眼鏡が光った。

「な、何を委員長? ぐああああ!」

 雷撃の閃光がガイウスを包む。

 そのすぐ横をアガートラムに吹き飛ばされたユーシスが、ごろごろと勢いよく転がっていく。

「み、みんな、どうしちゃったのさ!? やめてよ!」

 必死で停戦を呼びかけるエリオットの眼前を鋭い斬撃が走った。ラウラが緩慢な動作でエリオットににじり寄る。

「ひっ」

 たたらを踏んだエリオットは足をもつれさせ、背後の荷物置き場へと倒れ込んだ。

 散乱した荷物の一つを近くにいたフィーが拾い上げる。

「……これ、エリオットのかばんから出てきたよね」

 フィーの手にした一つの雑誌。挑発的なお姉さんが表紙の卑猥な雑誌。

 ラウラが諦めのような、確信を持ったような、悲しげな声で言う。

「やはり血は争えんか。猛将の子は猛将ということだな」

「な、なんのこと!?」

 逃げようとするエリオットの襟首を、フィーがぐいと掴む。

「逃がさない」

 双銃剣のぎらつく刃に、ガタガタと震えるエリオットの横顔が映っていた。

「くそ、こんなところで!」

 剣林弾雨をかいくぐりながら、マキアスは眼鏡を外した。

「割られてたまるか!」   

 眼鏡を外せば視界は悪くなる。捕らえられるのも時間だろう。それでもマキアスは窓の外めがけて、眼鏡を思い切り放り投げた。優先すべきは自分の命ではないのだ。

「お前だけでも逃げろ!」

 闇の中に消えていく眼鏡。

 これでいい。何かをやり遂げた男の笑みを浮かべた時だった。

 窓の外に向かって眩い光軸が伸びる。アガートラムのビームだ。理解した時、戦域から離脱させたはずの眼鏡は、すでに閃熱の中に飲み下されていた。その形状を一秒と保つこともできず、眼鏡は瞬く間に溶解し、成す術なく消滅する。

「僕の眼鏡があ! ぐふっ!?」

 打ちひしがれるマキアスの背に、さらに銀の拳がめり込んだ。

 末期の時を悟った男子達は、口ぐちに叫ぶ。

「行け!」

 その言葉はリィンに向けられていた。

「だが……っ!」

 リィンはとっさに判断出来なかった。組み伏せられ、縄で縛られていく仲間達をどうして見捨てられよう。

 後ろ手に拘束され、横たわるユーシスが声だけ飛ばす。アルバレア家の人々が見れば、白目をむいて卒倒するような光景だ。

「この事をシュバルツァー卿に伝えて救援を頼め! お前が……お前だけが希望だ」

 男子達は意識も虚ろながら、唯一まだ動けるリィンに最後の望みを託す。

「リィン……お願い」

「行け、行くんだ……」

「ぼ、僕の眼鏡……」

 リィンは決意し、拳を握りしめた。

「必ず戻る。死ぬな、みんな。俺達は生きてトリスタに帰るんだ!」

 窓に向かって駆け出す。二階だが、飛び降りれない高さではない。

 躊躇なく跳躍し、着地した瞬間だった。

 地面が陥没して、リィンはいきなり開いた大穴に落ちた。

「お、落とし穴? フィーの仕業か。早く抜け出さないと――!?」

 うめきながら上を見上げると、視界を埋め尽くすほどの大きな丸太が、頭上に降ってくるところだった。

 悲鳴をあげる間もなく、リィンは凶悪なトラップの餌食になった。

 

 

「あんた達いい加減になさい! 貸し切りだって言っても限度がある……わよ」

 あまりの喧騒に耐えかねて、サラが男子部屋に押し入ってくる。

「……なによ、これ」

 その気勢は部屋の惨状を見て、すぐに削がれた。

 まずあるべき扉がない。部屋の中は荒れに荒れた無法地帯。男子達はささくれだった荒縄で縛られ、部屋の隅に固められている。

 サラはこの光景を知っていた。これは凄惨な争いのあとに生まれる光景だ。捕虜達にはあらゆる権限がなく、無力を痛感し、絶望と恐怖に身を苛まれ、未来の一切を奪われる――そんな救いのない光景なのだ。

 よもや旅行先でこれを目にすることになろうとは。

「……何があったの? 誰か説明して」

 女子達から詳細を聞いたサラは思案顔を浮かべる。話途中、男子達が何か訴えていたが、猿ぐつわを噛まされている為、言葉として届くことはなかったが。

「………」

「サラ教官?」

 何かに思い至ったようで、サラは頬を軽く引きつらせた。

「ねえ、クロウはどこにいるの?」

 辺りを見回すが、彼の姿はいない。この手のことなら、先陣に立って指揮を取りそうなものだが。

「浴場で聞こえた男子達の声の中に、クロウの声はあったの?」

 女子たちに少しずつ冷静な思考が戻ってくる。

 竹壁の裏に到達するには山道を行かねばならない。自分達が着替え、ここに来る前に、男子達はあの場所から戻って来れるのだろうか。何より、一番あの場所にいそうなクロウがいなかったのはなぜだ。

「……まさか」

 エマが声をもらす。もう全員の中に答えは出ていた。彼女たちは無言で部屋から出ていく。

 全ての黒幕に制裁を。

 それを合言葉に、山狩りが開始された。

 

 

 一方、クロウは山の中を彷徨っていた。

「ちくしょう、どこだよ、ここは!」

 走り回る内にアンゼリカともはぐれてしまった。雪の山中をかれこれ一時間近く歩き回っている。

 疲れ果て、近くの木に寄り掛かった時だった。

「あれは明かりか?」 

 視線の遥か先、木々の向こうで小さな光が明滅した。

 ようやく街明かりを見つけたクロウは安堵するが、すぐに違和感に気付いた。赤い光が増えて、だんだん大きくなっていく――

「あ、あれは! やべえ!」

 クロウが横っ飛びに回避するのと同時、炎を灯した矢じりが飛んできた。

 それも一本ではない。何本も何本も、射線を変えながら、これでもかと放ってくる。その内の数本が、クロウが隠れている木の幹に深く突き刺さった。これはアリサの矢だ。

「ばれたか! いや、こっちの位置までは気付いていないのか」

 遠くから聞こえる女子達の声は『かがり火を焚け』とか『包囲して蜂の巣よ』とか『死よりも苦しい最後を』だとか、うら若い乙女が口にする言葉ではなかった。

 少し離れた場所では、アガートラムが双腕を振り回し、巨木をことごとく薙ぎ倒して荒れ狂っている。

「俺は結局アガートラムのボディしか見てないっつーの! ……だとしてもアガートラムがキレる意味は分かんねえけど!」

 忌々しげに吐き捨てて、その場から離れようとした時、上空に巨大な光陣が浮かび上がった。

 雲海を散らしながら、無数の光弾が尾を引いて地上に降り注いだ。

 そこかしこで爆音が響く。一瞬で雪が蒸発し、土くれが盛大に爆ぜた。

「委員長のアーツか!? あいつら山一つ消し飛ばすつもりかよ!」

 攻勢の手は緩まない。フィーは銃身が焼けつくほどにトリガーを引き続け、ラウラは手当たり次第に近くの木を切り倒している。導力が溜まる度にアリサはジャッジメントアローで山肌を焼きつくし、エマは二発目のアルテアカノンをぶっ放したところだ。

 身を隠す場所が瞬く間に消えていく。

 史上でも類を見ない凶悪な山狩りだ。

「クロウ、こっちだ!」

 頭に被った砂塵を払った時、アンゼリカの声が耳に届いた。 

「ゼリカ、無事だったか」

 擦過する矢や銃弾に気を付けながら、クロウはアンゼリカに歩み寄る。

「やべえぜ、こりゃ。生きて山を抜けられるかどうか――」

「クロウ、済まないな」

 言葉を遮ったアンゼリカの拳が、クロウのみぞおちに炸裂した。正真正銘のゼロ・インパクトだ。

「ぐっ、ゼリカ……てめえ……?」

「私も万が一の備えを持ってきていると言ったね。心底済まないと思っているよ」

「ぐ……」

 腹に響く重い衝撃に、クロウの意識が遠のいていく。

 アンゼリカが声を張り上げた。

「おーい、クロウはここにいるぞー」

 すぐさま足音が集まってくる。

 最後の力を振り絞り、クロウは首を持ち上げた。

 視界いっぱいに迫り来る禍々しい得物の数々。それが意識を失う寸前に彼が見た全てだった。

 

 ●

 

 ――数日後。

 激動の小旅行は終わった。

 めでたく男子達の不名誉な誤解、そしてエリオットの猛将疑惑も何とか晴れ――後者に関してはまだ半信半疑と言ったところだが――いつもの日常が戻ってきていた。 

 昼休み、Ⅶ組の教室。

「今日の教室掃除の当番、代わってあげるよ」

「授業で分からないところはありませんか?」

「うむ。遠慮なく言うがいい」

 誤解が解けて以来、蹂躙の負い目からか、女子達は男子勢に優しく接している。しかし彼らに刻まれたトラウマは相当の物だったようで、

「う、馬の世話があるので失礼する」

「僕はチェスの駒を磨かなければ」

 露骨に回避行動である。

「なあ、アリサ。次の学院祭ステージのことなんだけど」

 そんな中、リィンだけが女子に対して自然な立ち振る舞いだった。

 いくつかアリサと会話を交わしてから戻ってきたリィンに、エリオットとガイウスが感心したように言う。

「さすがリィンだ。堂々としたものだな」

「ユミルであれだけのことがあったのにリィンは凄いよね。僕なんて未だに夢に見るよ」

 そんな二人を見て、リィンは首を傾げる。

「ユミル? いつ行ったんだ?」

 記憶がまた抹消されていた。

 

 

 正門前にて、アンゼリカは校舎を見上げていた。

「うん、見送りはここまででいい」

 視線を正面に戻すと、目を赤く泣きはらしたトワと、少し無理をしたいつもの笑顔のジョルジュ、そして正門の柵に張り付けられているクロウの姿があった。

 前回のユミルの一件で、クロウにはしばらく行動制限がつくことになった。移動時は紐で繋がれ、その場に留まるときは何かに括り付けられるという、恥ずかしのペナルティだ。背中には『罪人』の張り紙までされている。

「ア、アンちゃん……ふえっ」

 今にも泣き出しそうなトワに、アンゼリカは言う。

「泣かないと約束したじゃないか。笑って送り出して欲しいな」

「う、うん。そうだよね」

 目元を拭うトワの横で、ジョルジュは穏やかな口調で言った。

「学院祭は来れそうなのかい?」

「何とか親父殿を説得してみせるさ。Ⅶ組のステージ、楽しみにしているよ」

 その視線が張り付けのクロウに向く。

「へっ、このザマじゃあいつらにステージの指導なんてできねーだろーが」

「それは自業自得だろう」

「てめっ!」

 しれっと言ってみせたアンゼリカにクロウは悪態を付くが、それを両脇の二人が諌める。

「もう、クロウ君が悪いよ! 私まだ怒ってるんだからね」

「僕の録音機を悪用して……しかもユミルに置いてきたっていうし」

「だーから、俺はアガートラム以外見てねえんだよ!」

 そんな三人を視界に収めて、アンゼリカは笑う。

「君達と過ごした時間は楽しかったよ。ああ、とても楽しかった」

 ほんの少し何かを思い出すように、彼女は目を伏せた。

「僕もだ」

「私も!」

「……俺も、ってことにしといてやらあ」

 もう一度微笑を浮かべてから、アンゼリカは学院の外へと歩き出した。

 やっぱりトワは我慢できずに泣いていて、ジョルジュは何かを言おうとして結局言えなくて、クロウはただその背を見送っている。

 歩みも止めず、振り返りもせず、最後にアンゼリカはこう言った。

「また会おう」

 

 

 ~FIN~

 

 




久しぶりにリミッターが外れた感がありました。銀髪灼眼になってキーボード叩きながら「シャアア!」とか言ってた気がします。

お詫びすべきことがあります。中編を執筆している最中は、ユミルの描写は閃Ⅱの公式の一枚絵と、閃の回想録山歩きシーンを参考に、出て来ていない場所に関しては想像で書いていました。
しかし中編を描き終えた後で、ユミルの全体図を発見。要所の描写が、実際の町の作りと異なっていることに気付きました。
 例えば中編で彼らは山歩きでユミルの町までたどり着きましたが、本来はケーブルカーじゃないとまず着けない感じです。
徒歩だと最後の方でロッククライミングをすることになります。そして鳳翼館の温泉に面しているのは、山じゃなくてなんと崖。鉄壁すぎる陛下。
ただここに関して、肝心ののぞきとその後の逃亡シーンは、話の通りに実現可能な地形をしていた為、ギリギリセーフです。

そんなわけで実はクロウではなく、ゼリカさんの送迎話でした。前編を読み返すと、クロウが男子達に色々なセリフを言わそうとしているダメっぷりが際立ちますね
無事(?)ユミルの悲劇は終了しました。三部に渡りお付き合い頂きありがとうございました。

次回は外れたリミッターを付け直す為、ユーシス先生が主役の柔らかいお話にしてみます。お楽しみ頂ければ幸いです。


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スポットライトは誰が為に(前編)

「お願い事があるのですが」

 放課後。正門を出ようとしたユーシスを呼び止めたのはロジーヌだった。

 ユーシスが振り向くと、彼女は温和な笑みを浮かべている。

「なんだ。また日曜学校の先生でもやれというのか?」

「いいえ。そうではないのですが」

 以前ユーシスが日曜学校の一日先生を務めてから、ロジーヌとはそれなりに話す仲になっていた。教会前と正門前が、ユーシスに声を掛ける彼女のお気に入りスポットらしい。

「はっきり言うがいい」

「言ったらお願いを受けてくれますか?」

「受けるも受けないも、まずは話を聞いてからだ」

 ロジーヌは困った顔をして、ユーシスの瞳をのぞき込んだ。

「話をしてもしなくても、お願い事は受けて欲しいのです」

「な、何だその理屈は」

 ロジーヌは控え目で大人しいのだが、慣れた相手には意外にも明け透けに物を言う。最近それがユーシスにも分かってきた。いつも日曜学校の子供達を相手取っているのだから、当然と言えば当然であるが。粛々としているだけではこなせない仕事なのは、ユーシスも身をもって知っている。

「実は次の日曜日にですね――」

 ロジーヌの話を聞き終わると、ユーシスは額に汗を滲ませた。

 

 

《☆☆☆スポットライトは誰が為に☆☆☆》

 

 

「子供達の為に劇をやる!?」

 次の日の昼休み。Ⅶ組の教室からそんな声が響く。

「そういうわけなのだ」

 話を終えて、ユーシスは後ろの壁にもたれかかった。

 ロジーヌからの依頼というのは、先に述べた通り『子供達の為に劇をして欲しい』であった。何でもボランティアで予定していた当初の劇が、先方の都合でキャンセルになってしまったらしい。子供達も楽しみにしているので、中止と告げるのは心苦しいそうだ。

 ユーシスからこのような頼みというのも珍しいので、一同は興味深げに耳を貸していたのだが、話を聞き終わった後の皆のリアクションは、奇しくも昨日ロジーヌから話を聞いた彼と全く同じであった。

 一様に『うーん』と唸りながら難しい顔を浮かべている。

「次の日曜と言うと……あと五日しかないな」

「学院祭のステージ練習だって時間がないんだぜ」

 渋面のマキアスとクロウが難色を示した。

 ルーレ、オルディスへの特別実習、そして続けざまのユミル旅行ということで、今月下旬にある学院祭――そのバンドステージの練習に充てる時間でさえ限られている状況なのだ。

「無理は承知で頼んでいるが……やはり厳しいだろうか。エリオットはどう思う?」

 ユーシスの目が演奏指導役のエリオットに向く。彼ならある程度の目算を立てられるだろう。

 少し考えてから、エリオットは首を横に振った。

「これからの練習次第ではあるんだけど、やっぱり余裕があるとは言えないかな……ごめん」

「そうか」

 皆協力したい気持ちはあるのだが、今はどうしてもステージ練習がネックになっていた。そのことはユーシス自身も理解している。

「いや、その通りだな。やはり今回は断っておくとしよう」

 心中を悟られない為か、あくまでも淡々とユーシスは言うが、そこに「待ってください」とエマが差し挟んだ。

「今回の件、どうにか受けられないでしょうか」

 驚きを見せる一同に、彼女は続ける。

「やればなんとか時間を作れるはずです。学院内じゃなくても、寮のラウンジなら広さも丁度いいですし、個々の練習もしやすいと思います」

 再度一考の様子を見せた全員に、さらに重ねて言う。

「演奏における表現力、演出における演技力。これはステージのクオリティを上げることにも繋がりませんか?」 

 しばしの沈黙の後、「確かにそうかもしれないな」と口を開いたのはリィンだった。

「学院祭ステージの練習にも繋がるっていうのは同感だ。舞台度胸もつくと思う。時間を割いてやってみる価値はあるんじゃないか? それに内容も内容だ。受けてやりたい気持ちは皆にもあるんだろう?」

 それぞれがうなずく。

 全員の協力が得られる形となった所で、ちょうど昼休憩が終わった。

 ユーシスが感謝を述べたあと、エマが締めくくる。

「あとは午後の講義が終わってから、細かな担当分けは放課後に行うとしましょう」

 

 

 放課後。黒板の前に立つのはエマである。

「――では担当を決めたいのですが、まず劇の脚本が必要ですね」

 脚本がなければ配役のキャスティングができない。だがこれに関して悩む余地はなかった。

 アリサがエマを見返した。

「エマがやればいいじゃない。文芸部なんだしストーリー作りには慣れてるでしょう?」

「わ、私ですか?」

「ああ、エマ君ならいいだろうな」

「ん、いいと思う」 

 全員が同意する中で、クロウが手を挙げた。

「ちょっと待った。脚本なら俺も参加するぜ」

 得意気に鼻を鳴らし、手に持ったペンをクルクルと回してみせる。

「最近のガキ共は目が肥えてやがるからな。俺が山あり谷ありの冒険活劇を作ってやる」

 とても嫌な予感である。クロウに任せると、子供達に見せられるレベルを色んな意味で越えてしまいそうだからだ。

「何言ってるのよ。エマに任せればそれで――」

 言いかけて、アリサの言葉が止まった。

 脳裏によぎるのは少し前、エマの部屋で見たあの本(・・・)である。タイトルは『クロックベルはリィンリィンリィン』。

 内容を一言で説明するのは困難だが、“行き過ぎた友情”と“突き抜けた青春”とでも言おうか。

 表紙下部に書かれていた“G”のサインの意味など知る由もなく、アリサはあの小説を書いたのはエマだと思っていた。

 もしあの作風で突っ走れば、劇の当日、教会の色鮮やかなステンドグラスは全て怪しげな紫色に染まり、子供たちの何人かは幼くして人生のレールを脱線するだろう。

「……えーと」

「アリサさん?」

 アリサはぎこちなく笑った。

「うん、クロウと二人で作っていいんじゃないかしら。丁度良く中和されるというか」

「……なにか勘違いしてません?」

「勘違いというか、キャストの組み合わせが違うというか」

「や、やっぱり。アリサさん違うんですよ。なにがというのはこの場では言いにくいんですが」

 言い出せないエマと、何か言いたげなアリサ。

 取り返しのつかなくなる言葉を伏せたまま続いた二人の微妙なやり取りの果てに、結局、脚本はエマとクロウで担当することになった。

「配役は脚本が出来てからじゃないと難しいだろう。劇のストーリーはどれくらいでできそうだ?」

 ユーシスが訊ねると、エマはちらりと時計を見た。

「細部はまた詰めるとして、プロットだけなら一時間あれば作れると思います」

「おう、その間お前らは、どの役に当たってもいいように心の準備をしとけ。最終的に配役は立候補と推薦、それでも揉めるようならくじ引きになるけどよ」

 紙とペンを用意しながらクロウも言う。

 何しろ今回は時間がない。エマとクロウはさっそく机に向い合わせて座った。

 

 

「だーから、ここでどんでん返しの方が盛り上がるんだよ!」

「待ってください。それだと主人公の心情と辻褄が合いません」

「チビ向けの劇でそこまで深くしなくてもいいだろ。ど派手な演出が一番だぜ」

「子供の感性を伸ばす意味もあるんですから。ここはやはりヒロインが遅れてやってきて……」

「服を脱ぐんだな?」

「どうしてそうなるんですか!」

 脚本作りは見事に難航していた。緻密な心理背景を大切にしたいエマに対し、ど派手に、そして妙にセクシーさを入れたがるクロウ。テーマの方向性の違いが水と油となり、ストーリーがまとまっていかない。予定していた時間を三十分も過ぎていた。

 口を挟む余地はすでになく、周りはただ二人の論争を見守るのみである。

 さらにそこから一時間。場所も教室から寮のラウンジに移ったところで、

「ふう、できました」

「中々の出来だぜ」

 ようやく脚本が完成した。

 相当集中したらしく、それなりに憔悴した様子のエマとクロウが、ストーリーの大枠を全員の前で発表する。

「子供にも分かりやすい構成にしました。ストーリーはシンプルに、『悪者に囚われたお姫様を主人公が助けに行く』という形です」

「王道だろ? これならチビ達でも楽しめると思うぜ」

 最終目的がはっきりしていて、かつ個々の登場人物の立場が明確だ。確かに見ている側が分かりやすい。

「じゃあ細かく話を説明していくぞ。どの役を演じることになるかはまだ分からねえから、イメージしながらよく聞いとけよ」

 冒頭のストーリーを、まずはクロウが語り出した。

「主人公はとある国の騎士だ。こいつは新米なんだが、一目見たお姫様に密かに想いを寄せていた。ある時、その好奇心旺盛なお姫様が城を抜け出すところから話は始まる」

 エマが言葉を継ぐ。

「お城から抜け出したお姫様は、決して足を踏み入れてはならないという禁忌の森に迷い込んでしまいます。そこには古より存在し、不思議な力を持つ森の主がいました。森の主は侵入者であるお姫様を、(いばら)の檻の中に閉じ込めてしまいます」

 そこで一歩前に出るクロウ。

「禁忌の森の荊を断ち切ることができるのは王家に伝わる剣だけなんだが、困ったことに城の連中は誰もその剣を引き抜くことが出来ない。そこで王様は言うわけだ。『この剣を引き抜き、姫を救い出した者こそ真の勇者。その者の望む褒美を与えよう』ってな」

 さらにずいっと前に出るエマ。

「その剣を引き抜いた者こそが今回の主人公です。紆余曲折の果て、彼は馬を繰り、仲間と共に禁忌の森へと入ります。襲い来る魔獣を退け、ついに森の主も倒すことができました」

 二人は交互に説明を続ける。だんだんと口調に熱が入り始めていた。

「だがな……荊の檻から助け出したのに姫は目を開けない。荊の棘には毒があったんだ。毒を消し去る方法はただ一つ。陽の光に当てることだ。だが森の奥に光は届かねえ。主人公は必死で森を抜けようとするが……」

「追いかけてくる魔獣。どんどん弱くなるお姫様の鼓動。傷だらけになりながらも走り続ける主人公」

「ようやくのことで森を抜けるが、空には分厚い雲がかかっていて太陽は見えねえ。そして姫はもう息をしていなかった」

「悲しみに打ちひしがれ、手にした剣を振り上げる主人公。その瞬間、雲が裂け、眩い光が二人を包み込むんです。そしてわずかに身じろぎし、静かに目を開くお姫様」

「剣を大地に突き立てて、主人公は姫を強く抱きしめる。そこで幕は下り――」

 二人は声をそろえた。

『ハッピーエンド』

 子供向けかと言われると、やや対象年齢が高い気がするが、それでも雰囲気は伝わってくる。年少の子供達が話について来れるかはともかく、大団円であることは感覚で分かってくれるだろう。

 ユーシスが了承した。

「これでいこう。全員構わないな?」

 異論は出なかった。出なかったが、アリサは不安そうにしていた。

「……配役はどうなるの?」

「えーとこんな感じです」

 エマが役のリストを書いた紙を全員に見せる。

 

 ・主人公

 ・お姫様

 ・仲間

 ・王様

 ・森の主

 ・魔獣

 ・馬

 ・木

 ・通行人などエキストラ

 ・BGM担当

 ・ナレーション担当

 

 以上である。

「では今から配役を決めますね。やりたい役がある人はいますか?」

 皆が頭を抱えていた。正直どれも難しい。まず自分に合っているものがわからない。魔獣などどう演じればいいのか。そもそも木に役どころがいるのか。疑問と不安が尽きず、中々声が上がらなかった。

 クロウが手を打ち鳴らし、全員の視線が集中する。

「まあ、こうなるとは思ってたけどよ。だが今回は時間がねえんだ。ほぼ決まりの所はこっちから指定していくぜ」

 クロウが順々に告げる。

「エリオットはBGM担当な。舞台袖に楽器をセッティングして、場面に合わせて演奏するんだ。んでナレーションは委員長。落ち着いた口調だし適任だろ?」

 この辺りはハマリ役である。二人もすぐに承諾した。

「うん、演技よりは役に立てそうかな」

「ナレーションですか。がんばります」

 問題はここからである。

 まずは主人公。物語の軸となる人物で、必然セリフは多くなる。

「イメージ的にはリィンかユーシスなんだけどな」

 言われて顔を見合わす二人。

「だったらユーシスがいいんじゃないか? 子供達に好かれているんだろう」

「好かれているかは知らんが、今回俺は裏方に回ろうと思っている。主役はお前に任せたい」

 役は受け持つが全体のバックアップも行うと、ユーシスは言う。それは全員の協力に対する彼なりの返礼だった。

「けど……」

「頼む」

 そこまで言われては、リィンも拒めなかった。

「わかった。精一杯やらせてもらう」

 主役はリィンに決定である。

 そうなると次に決めるのはお姫様役なのだが、これもキャスティングは限定されてくる。

「まあ、消去法ではお前らのどっちかだよな」

 クロウの視線がアリサとラウラに向いた。

「わ、私? 演技なんてやったことないわよ」

「同じくだ」

 焦る二人を見て、クロウは大げさに首をすくめた。

「こいつは困ったぜ。ここは一つ主役に意見を聞いてみるか。なあリィン。お前はどっちをお姫様にしたいんだ?」

『えっ!?』

 三人の驚愕が重なり、クロウは口の端を引き上げる。悪意の凝集された笑顔だった。

 ハッピーエンド物語の主役なのに、眼前にあるのはバッドエンド直通の二択しかない。

 顔面にびっしりと汗を浮かべたリィンは、アリサとラウラを交互に見やる。

 しかもこんな時に限って、二人は口を開かない。黙したままリィンを見つめ返しているだけだ。

「お、俺は二人の演技を見てからじゃないと決められない……っ」

 重い空気の中で絞り出したそれが、精一杯の返答だった。

 あくまでも判断基準は演技。この場においての筋は通っている。アリサとラウラが納得するかは別としてだが。

「……まあ、いいわ」

「……よかろう」

 含んだ目をリィンに向けながら、二人は首を縦に振る。視線の意図になど気付きもしないリィンは、安堵の面持ちで胸を撫で下ろしていた。

 お姫様オーディションの緊急開催。

 先程とは打って変わって、いつの間にやら二人ともやる気である。

「それでは私がお姫様のセリフを言いますので、役になり切って復唱して下さいね」

 台本はまだ出来ていないから、適当なセリフを書いたメモ紙を片手にエマが読み上げを行う。

「じゃあ、行きます。『私も自由にお城の外に出てみたいわ。毎日毎日、退屈なのよ』はい、アリサさん」

「う、うん『私も自由にお城の外に出てみたいわ。毎日毎日、退屈なのよ』……どうかしら?」

 初めてと言う割には中々のものだった。流暢に言葉を発するだけではなく、ちゃんと抑揚もつけている。

「うまいですね。それでは次はラウラさん、どうぞ」

「よし。『私も自由にお城の外に出てみたい……わ。毎日毎日退屈、なの、よ』……うむ」

 しっくりこないという感じで、ラウラは首をひねっている。

「何だかすごくセリフが言いにくそうでしたが……もしかして語尾が慣れない言葉だからですか?」

 ラウラの言葉は毅然としているというか、貴族然としているというか、『~のだ』などのはっきりとした語尾で締めることが多い。いわゆる女性言葉をあまり話し慣れないのだ。それが違和感となり、彼女の口調をぎこちないものにしていた。

「むう……『毎日毎日退屈なのよ……だ』……う」

 セリフを言い終わったあと、心地悪そうに身じろぎするラウラ。それでもしばらくはがんばっていたが、最終的に『~なのだよ』とか言い出す始末である。

「ラウラさん、しんどそうですね。時間をかければ何とかなるとは思いますが……」

 しかし今回はそのかけるべき時間がない。ラウラも納得したようで「姫役はアリサに任せよう。どの道柄ではないしな」と、どことなく残念そうに身を退いた。

 その流れで、ラウラは口調を崩さずに演じられる仲間――女騎士役を務めることになった。

「うっし、主人公と姫、んで仲間役も決まりっと。これ以上時間はかけらんねえから、こっからはくじ引きだぜ」

 役の書かれたくじをクロウが差し出す。特に異議もなく、残った面々はくじを引いた。

 その結果――

 

 ・主人公(リィン)

 ・お姫様(アリサ)

 ・仲間の女騎士(ラウラ)

 ・王様(ガイウス)

 ・森の主(フィー)

 ・魔獣(ミリアム)

 ・馬(ユーシス)

 ・木(マキアス)

 ・通行人などエキストラ(クロウ)

 ・BGM担当(エリオット)

 ・ナレーション担当(エマ)

 

 キャスティングの一覧を見て、口ぐちに感想が飛び交う。

「俺が王様役か。ユーゲント皇帝をイメージしたらいいのだろうか?」

「私が森の主?」

「えー! ボク、魔獣~!?」

 それぞれが想定外の役だったようだ。その中でマキアスが「ち、ちょっと待ってくれ」と喧騒を中断する声をあげる。

「僕は木なのか!? 一体何したらいいんだ」

 木は動かない、話さない。あえて舞台の上に存在する意味がわからない。

 クロウは憤るマキアスの肩に、ぽんと手を置いた。

「演じようのないものを演じるには相当のセンスがいるんだぜ。考えようによっては一番難しい役かもしれねえ。お前以外には演じられないかもな」

「ぼ、僕じゃないと演じられない……?」

「ああ、頼んだぜ。マ木アス」

「ちょっと待ってください。今なんか名前の呼び方が――」

 引っ掛かる事があったらしいマキアスだが、それはさておき改めて全員の承諾を確認する。不安はあれど意義はなし、といったところである。

 肝心の演技指導や演出はクロウとエマで分担することになった。

「おっと、そうだ。衣装やらの物品調達もしねえとな。これはどうするか……」

 主人公の剣。お姫様用のドレス。細かいものを挙げれば、王様の冠、森の主の衣装、舞台背景の板やら絵、照明器具その他。入用な物は数多い。

 難しい顔でうなっていると、「それは(わたくし)にお任せを」と厨房から涼しげな声がした。

 皿洗いでもしていたのだろう、濡れた手を拭いながらシャロンがラウンジに顔を出した。

「お話は聞こえておりました。衣装に関してはシャロンがお手伝いしますわ」

「簡単に言うけど、かなりの量よ。さすがにシャロンだけじゃ手が回らないんじゃない?」

 アリサが指摘すると、シャロンはくすりと笑んだ。

「それでしたら心配はありませんわ。手なら追加できますので」

「え?」

「たっだいまー」

 そのタイミングで帰ってきたサラに、全員の視線が集中する。

「な、なに。なんでみんなしてあたしを見てるのよ。何かやったかしら?」

「いいえ、サラ様。何かやるのはこれからですわ」

 当惑を見せるサラ。意思とは無関係に彼女も巻き込まれた。

 一方、馬役のユーシスは考え込んでいた。

 クロウがニヤつきながら歩み寄る。

「よう、どうしたよ。まさか言いだしっぺのお前さんが不服か? 馬役ならセリフはないし、全員のバックアップに回る時間だってあるだろ」

「役に不満などないが、ただ――」

「ただ?」

「馬というのは白馬だろうな?」

 物憂げなため息。

 こだわりのノーブルオーダーを言い放ち、ユーシスは思案顔を天井に向けた。

 

 ●

 

 翌日の昼休み。ほとんど徹夜で仕上げたという台本をエマから受け取り、ユーシスはロジーヌに劇の詳細を伝えていた。

 他クラスの教室に留まって話――というのも目立つので、今は二人して適当に廊下を歩きながら会話を交わしている。

「そういうわけで、劇の内容は今言った通りだ。練習や小道具作りは急ピッチで進めている」

「そんなに本格的に……なんとお礼を言えばいいでしょうか」

「気にするな。ただ舞台は礼拝堂を使うことになる。教区長の許可は取っていると聞いたが、当日のセッティングがスムーズに行くように、子供たちの席配置などは事前に済ませておけ」

「わかりました。……ああ、そうです」

 ロジーヌは思い出したようにくすりと笑った。

「どうした?」

「ユーシス先生が来ることを子供たちに話したら、とても喜んでいましたよ。カイだけはむっつり顔でしたが」

「あいつは町で顔を合わす度に突っかかってくるからな。理由は分からんが」

「あの年頃の子供は難しいですから。普段は素直な子なんですよ」

「どうだかな」

 あの一日先生をやって以来、『ロジーヌ姉ちゃんを返せ』などと叫びながら、カイは木の棒を手に奇襲をかけてくるようになった。その都度、遊び仲間のルーディとティゼルに取り押さえられるのだが、最多記録では一日に三回も襲ってきたことがある。あれを素直と呼んでいいのだろうか。

「ユーシスさんは子供に慕われやすいですね。うらやましいです」

「お前が言うか」

 誰よりも慕われているのはロジーヌだろうに。自分で気づいていないのか。

「昼休憩を使って今日から劇の練習をする予定だ。お前も少し見ていくか?」

「はい、ご一緒させてください」

 時間は限られている。果たしてどこまでのものに仕上がるか。

 

 

『俺はこの剣を引き抜き、姫をお救いしてみせる』

 屋上に伸びやかなリィンの声が響く。

 どうやらアリサと同様、演技にはセンスがあるらしい。あとは身振り手振りの動作がセリフと合わされば、ひとまずは十分である。

 一方で苦戦中なのはガイウスだった。

『お前程度の新米騎士が姫を救おうなどとは笑わせてくれる誰かこやつをつまみ出せ他に腕の立ちそうな者はおらんのか』

 発声が固すぎる上に息継ぎもろくにしないので、セリフを言い終わった後は常に酸欠状態に陥っている。話す度に『はあ、はあ』と息切れする王様は怪しい人だった。

「ガイウスは演技が苦手だったか。そういえばあの時も……」

「あの時?」

「いや、なんでもない」

 言いかけた言葉をユーシスは飲み込んだ。ロジーヌは不思議そうにしている。

 あの時、と言うのはヘイムダルでアランとブリジットのデートの応援――結果として邪魔になったが――をしにいった時だ。

 不良の頭役であるガイウスだったが、下手な演技ではばれてしまう為、結局一言もセリフはなかった。正確に言えば『ハイヤー』だけは発したが。

「ガイウスさん、落ち着いて下さい。私の後に続いてゆっくりやっていきましょう」

 横からエマの演技指導が入る。

 悪戦苦闘するガイウスから少し離れた屋上の片隅では、アリサとラウラが各々で練習中だった。

『そなたのような新入りが姫を救えるものか。王よ、その大役はどうか私めに』

 普段の口調と大差ない女騎士のセリフは、ラウラも問題なく演じられている。というより、演じる以前にラウラそのものだ。違和感は全くなかった。

『私は自由を感じてみたいの。自由に外に出て、買い物をして、友達を作って、恋をしてみたいわ』

 姫役のアリサは相変わらずで、卒なく演技をこなしていた。

 互いの役作りに関して、あれやこれやとアドバイスし合っているあたり、この二人は問題なさそうである。

「……ガイウスがセリフを言えるようになれば、何とかなりそうだな」

 なにせ王様役なのだ。不良役の時のように一言も発さないわけにはいかない。

 ガイウスならやれるだろうと、根拠なく胸中に呟いて、ユーシスは屋上の端に歩を進めた。

 その背に続きながら、ロジーヌが言う。

「皆さん、あんなに一生懸命になって下さって……きっと子供達も喜んでくれます」

「だといいがな」

 柵に寄りかかり、ユーシスは何気なく眼下に視線を落とす。

 そこに見えた中庭では、小さな影が二つ飛び回っていた。

 

 

『ミギャー!』

 校舎から中庭に出たとたん、つんざくようなわめき声が突き刺さる。

『森を荒らす人間め。荊の檻に閉じ込めてやる。ふふふ』

『ワギャー!』

 フィーが邪悪な笑みを浮かべる横で、ミリアムはギャーギャー叫んでいた。

 ユーシスは呆れ顔で言った。

「……お前たちは何をしているのだ」

「あ、ユーシスとロジーヌ。見ての通り練習中だけど。悪い顔はクロウがモデル」

「ボクは魔獣役だからさー。とりあえず鳴き声から入ってるんだ」

 ミリアムは歯を剥き、爪を立ててみせる。これが彼女なりの魔獣らしい。

「まあ、かわいい」

 ロジーヌはにこにこと笑っている。

 ミリアムはともかく、森の主を演じるフィーはそれなりに型にはまっていた。

 ガイウスほどとは言わずとも、もっと棒読みを予想していたユーシスにとって、これは意外なことだった。

 その視線に気付いたフィーは、台本から目を上げた。

「なに?」

「いや、案外とやれているものだと思ってな」

「任せといて」

 珍しいユーシスの褒め言葉に照れ隠しのつもりなのか、フィーは再び台本に目を落とす。

「ねえねえ、ユーシス! ボクは? ホギャー!」

「お前はまとわりつくな。あと鳴き声を統一しておけ」

 周りを飛び跳ねるミリアムを払いのけながら、ユーシスはその場から離れる。

「ここはもういい。行くぞ」

「やっぱり小さい子に好かれるんですね」

「俺はそう思わん」

「ふふ、ごめんなさい」

 すたすたと前を行くユーシスに、ロジーヌは悪びれなくあやまった。

 

 

「ユーシスさんは馬役でしたか」

 グラウンド側へと歩を進めながら、ロジーヌが訊ねた。

「そうだ。白馬だ」

 白馬がいいと言うノーブルオーダーは、無事シャロンに聞き届けられ、専用の被り物と衣装は現在制作真っ只中である。

「主人公かと思っていました」

「リィンに頼んだ。俺には似合わん」

「そんなことありません。私は見たかったです。ユーシスさんの、その……騎士役を」

「……お前も劇に出てみるか?」

 ふと思い立った提案だったが、ロジーヌはさすがに驚いた様子で目をしばたたかせる。

「エキストラなら何人いても構わんのだ。クロウが何役かこなすことになってるが、分担できるならその方がいい」

「い、いえ。私が皆さんの舞台に混じるなんて」

「そんなことを気にするな。それに子供達もお前が出た方が喜ぶだろう」

「ですが……」

「なにも劇中通して出るわけではない。それこそエキストラだ」

 しばらく悩んでいたロジーヌだったが、やがて小さくうなずいた。

「無理なお願いを受けて頂いていますし、私にお手伝いできることがあればさせて下さい」

「ああ、話は委員長たちにも通しておく」

 グラウンドに差し掛かったところでロジーヌは足を止めた。

「やっぱりお優しいのですね」

「優しい? 俺がか? 見立て違いだな、それは」

「もしかして怒ってしまいましたか?」

「そんなことでいちいち立腹するか」

「よかった」

 おかしそうにクスクスと笑う。なにが面白いのかユーシスにはよくわからない。

「しかし、お前も変わっているな。Ⅶ組以外では平民生徒は俺にほとんど話しかけてこないと言うのに。まあ、ポーラは別だが」

 話かけてくるどころか、ムチを振るってくる始末である。

「四大名門。アルバレア家。名前だけで萎縮する者も多いのだ。なぜお前は――」

「ユーシスさんはユーシスさんですから」

「え」

 一瞬、素になって固まる。ロジーヌは不思議そうにしていた。

「あの、どうかしましたか?」

「いや、大丈夫だ」

 気取ることもなく、思った通りの事を口に出したのだろう。

 家でも名前でもなく、ただ自分を見ている。そんな稀有な人間がⅦ組以外で、それもこんなに近くにいたとは。

「劇、成功させましょうね」

「ああ。皆も頑張ってくれているからな」

「ユーシスさん……劇が終わったら――」

 ロジーヌの続く言葉を「ふ、ふふふ」と、不敵な笑い声が遮った。怪しく眼鏡を光らせたマキアスが、近くの木の陰からぬっと顔を出す。

「やはり木を演じられるのは僕くらいだろうな。当日までにもっと木に近付いて、完璧にこなしてみせるぞ。……おっと、次は枝のディテールを観察しに行かなくては」

 やたらと書き込まれたメモ帳を片手に、マキアスはいそいそとその場を去って行った。

「……あの方は」

「あれは気にしなくていい。木だ。単なる背景だ。それより何か言おうとしていなかったか?」

「え、えっとですね、その……劇が終わったら――」

 ここで昼休み終了の予鈴が鳴る。

「いかん、教室に戻るぞ。お前の分の台本は後で持っていく」

「あ、あ……はい、お待ちしています」

 互いの会話を打ちきって、二人は早足で本校舎へと戻った。

 

 ●

 

 時間は流れる。

 初日は台本の読み合わせ。個々に分かれてのセリフの暗記。

 二日目は細かな個別の演技指導、動作、間の取り方。

 三日目は実際の舞台を模しての立ち位置確認、演出、BGM、ナレーションのタイミング合わせ。

 四日目は通し稽古。繰り返し、繰り返し、繰り返し――

 この他にも合間を縫って、舞台背景の書割作成、小道具作り、衣装合わせなど。

 シャロンやサラ、ロジーヌのフォローもあるが、多忙極まりない突貫作業の連続だった。

 そしてあっという間にやってくる劇当日。

 リハーサルは何度もこなしたものの、さすがに緊張の面持ちでⅦ組の面々は礼拝堂に向かっていた。

「むう……」

「ガイウス、大丈夫だよ」

 歩きながらも台本に目を通すガイウスに、となりでエリオットが笑いかける。

 実は彼の演技はあまり上達しなかったのだ。数回に一度はうまくセリフを言えるといった具合なのだが、本番ではその一度を先頭に持って来なくてはならない。

「緊張したら、いつもはしない失敗をしちゃうよ。リラックスしてみて」

「エリオットは大丈夫そうだな」

「僕は演奏会とかの経験があるから、あまり緊張してないかな。皆と違ってセリフがないのも大きいんだけど」

 そんな会話の後ろではリィンとラウラ、ミリアムが終盤のアクションシーンの最終確認をしていた。

「俺が舞台奥から手前に切りかかるから、ミリアムはそれをこうかわして……」

「そこに私がすかさず連撃を入れる。脇下をわざと大きく開けるから、その下を潜って後ろに回り込むがよい」

「うんうん、そこから素早く動いて苦戦させるんだね」

 こちらは順調である。

 さらにその後ろで打ち合わせをするのはフィーとアリサである。

「フィーが私を荊の檻に閉じ込める時の舞台装置って完成したの? 昨日の時点ではまだだったわよね」

「大丈夫。この後で直接ステージ上に仕込むから。ちょっと痛いかもだけど」

「な、何よそれ。トラップじゃないの?」

「応用しただけ。ちょっと痛いかもだけど」

「繰り返さないでよ!」

 列から少し遅れて歩くマキアスは、相変わらずメモ帳をペラペラめくっている。それを横からユーシスが呆れ顔で見ていた。

「風がそよいだ時の枝葉の揺れは完璧だな。あとは礼拝堂内の空気の流れを把握して、自然な演技ができれば、舞台で一番輝くのはこの僕だ」

「お前が輝いてどうする」

「ふふ、僕の演技の質の高さに驚くがいい」

「木に質などあるものか」

「そういう君は馬だろうが」

「白馬だ」

「どっちでもいい!」

 木が、馬がと言い合う二人。

 最後尾ではクロウとエマが礼拝堂内の見取り図を片手に、最終の段取りを詰めていた。

「開始は午後からだから、二時間は余裕がある。その間に舞台セッティングと立ち位置を全員に再度説明しとくか」

「さすがに直前のリハーサルをする時間はありませんしね」

「やれることは全部やったが、それでも十分とは言えねえ。アクシデントは必ずあると思えよ。万が一流れが止まったり、最悪中断することになったらナレーションで乗り切るしかねえな」

「うう、胃が痛くなってきました……」

 礼拝堂に到着すると、扉の前にロジーヌが立っていた。

「お待ちしておりました。今日はよろしくお願いします」

 深々と頭を下げた後、彼女は扉を開いた。澄んだ空気の漂う礼拝堂に足を踏み入れる。

 開演は間もなくだ。

 

 

 ~後編に続く~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ☆おまけ~物品準備☆

 

 

 夜。第三学生寮。演技練習を終えた後は、小道具作りの時間である。それぞれ担当に分かれて、あくせくと工作の真っ最中だ。

「うむ、こんなものだろう」

 額の汗を拭い、ガイウスは眼前の書割を眺めた。演技では苦心するものの、そこは美術部。背景の下絵などは彼の独壇場だった。

「ここに色を塗ったらいいのかな?」

 絵の具と筆を手に、エリオットがガイウスに訊く。

「ああ、薄い色から順に塗ってくれ。高い位置は俺が受け持とう」

「助かるよ。僕も身長が高くなればいいな」

「フィーよりは高いだろう?」

「そこと比べてもね……」

 文化部二人が受け持つ背景の作成は順調だった。

 

 衣装班はサラ、シャロンだ。

「ちょっとシャロン、ここからどうするのよ」

 手元の布は針を入れ過ぎたせいで穴だらけになっていた。おまけに彼女の手は絆創膏まみれである。

 慣れない裁縫に悪戦苦闘するサラは、スカートと思わしき布きれからシャロンに視線を移した。

「サラ様ったら。雑巾はもう足りておりますわ」

「あんた、ここぞとばかりに言ってくるわね」

 ぎろりと睨みつけると、シャロンはわざとらしく肩を強張らせた。

「まあ、サラ様こわい」

「時間無いんでしょ、早く教えなさいよ」

 シャロンに教えを乞うのが負けに感じるのか、サラは不機嫌に鼻を鳴らして新しい布を取った。

「縫い目はもっと丁寧に仕上げませんと、着ている内に糸が緩んでしまいます。舞台上でお嬢様たちがあられもない姿に……あら」

「それはそれで面白いかも、とか思ったでしょ」

「何のことでしょう?」

 言いながら、シャロンは工作道具を運ぶアリサに目を留めた。

「そうですわ。アリサお嬢様、採寸を合わせたいのでこちらに来て頂けますか」

「ん、いいわよ」

 アリサが衣装班の場所――ラウンジ脇のテーブルまでやってくる。

「では失礼致します」

 採寸用のメジャーをピンと張り、シャロンはにこやかに微笑んだ。その動作がどうにも手慣れ過ぎている気もしたが、サラがその指摘を発する前に、アリサは早くもメジャーでがんじ搦めにされていた。

「ちょっとどこまで測るのよ!?」

「余すことなくですわ」

「離しなさいってば。怒るわよ!」

「なんということでしょう。寝不足のせいで目がかすんで数値が読み取れません。リィン様、申し訳ありませんがお手伝いを」

「きゃあああ! 来ないでーっ!」

 

 小道具班。何かと細かいものが入用なので、ここの担当者は多い。

「王の冠はこんなものか? いやガイウスの長身に合わせるなら、もう少し目立つ方がいいか」

 ちょきちょきとハサミで、冠の追加パーツを作るラウラ。

 リィンはシャロンに呼ばれ、続けざまにアリサに罵倒を浴びせられ、すごすごと戻ってきたところだ。

「何だったんだ。まあいいが、先に剣の具合を見ておこう」 

 舞台で自分の太刀を使うわけにはいかず、適当な木材から作った剣をリィンは手に取った。

 刀身は銀紙でコーティングし、拵えは見栄えがよくなるように玩具の装飾品をつけている。軽く振ってみると、バランスも丁度よかった。

「問題は台座から剣を引き抜く時なんだよな」

 剣先と台座のくぼみが合わず、剣を刺したままでの固定がしにくいのだ。接合が緩すぎて、剣を引き抜く感じが出せない。

「フィーとミリアムは今空いてるか? ちょっと台座と剣が合わなくて、調整を頼みたいんだが」

「いいよ」

「ボクにお任せ!」

 フィーとミリアムが台座をひっくり返したり、くぼみを調べている内に、今度はユーシスとマキアスの小競り合いが始まった。

「木の枝葉などそこまでこだわることか。そんな暇があるのなら色塗りの一つでも手伝ってくるがいい」

「君だって馬のたてがみの調整に何十分かけているんだ。その時間で小道具の一つも作れただろう」

「話のわからん男だな」

「君が言うか!」

 見かねたリィンが二人の仲裁に向かう。

 諍いには関わらないスタンスのちびっこ達は、台座を前に思いつく案を並べていた。

「ねえ、くぼみを接着剤で固めたらどうかな」

「分量を間違えなかったら大丈夫だと思う……たぶん」

 集中しているラウラの耳にその会話は届かない。つまり制止をかける者はいなかった。

 

 台本を手に意見を交わしているのは、演出班のエマとクロウである。

「剣の位置はこの辺りでしょうか?」

「照明の当て具合で輝きを強調したいから、もう少し前の方だな」

 劇の完成度を高める為、二人は小道具作りには関わらず、空いた時間はほぼ打ち合わせに使うことになっている。

 演出器具には限りがある。光などのエフェクトは舞台袖から補助アーツを使うという案も出ていた。

「あとはやっぱアドリブがいるよなあ。委員長そういうの苦手そうだな」

「アドリブですか?」

「例えばよ。舞台上で騎士の鎧とかが外れるとするだろ。それをトラブルだと思わせず、あたかも演出の一つとして見られるようにナレーションで繋ぐんだ」

「そこまで臨機応変なナレーションをやれる自信がないんですが……」

「だから練習すんだろうが」

 クロウはエマの台本を取り上げた。

「じゃあこんな時はどうすんだ。『お姫様が城を抜け出す時に、ドレスの裾を踏んでずっこける』ほれ」

「えーと。『これが森の主の呪い。姫は無力を噛みしめながらも、よろよろと立ち上がり――』こんな感じでしょうか」

「森の主がそのタイミングで出てきたらおかしいだろ。でもまあ、そんな感じだな。じゃあ続いて『主人公がうっかりお姫様の胸に下敷きになった場合』これでどうだ?」

「まだやるんですか。『お姫様の平手が強く騎士の頬を打ち据え、しばらく二人は微妙な雰囲気に――』」

「悪くねえ、悪くねえな!」

「そ、そうですか?」

 演出班も盛り上がっていた。

 

 




前編をお付き合い頂きありがとうございます。
今回はユーシスのターンでした。劇というのも皆馴染みがなさそうですね。もっともエリオットとマキアスはクロチルダファンということで、劇場に足を運んだことはありそうですが。

私も高校の時、何かの出し物でちょっとした寸劇をしたことがあるのですが、まあ激スベりしましたね。今思い出しても吐きそうです。観客含め、惨事を知る者を速やかに抹殺しなければと思い立つ程でした。

……それはともかく
次回はいよいよ劇本番。あらゆるアクシデントに見舞われる中、彼らは無事エンディングまでたどり着けるのでしょうか。そしてロジーヌ嬢とユーシス様の行方はいかに。
次回もお楽しみ頂ければ幸いです。
ご感想も随時お待ち致しております!


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スポットライトは誰が為に(後編)

 

 舞台セッティングは思いの外うまくいった。

 正面の教台といくつかの礼拝机は端に寄せ、劇を行う為のスペースを確保する。舞台の両脇には暗幕を設置し、簡易の舞台袖を作った。リィン達は基本的にここから登場する。

 子供達がやってくるまで後一時間といったところか。今は各々最終の台本確認や、衣装合わせをしている。

「お前の出番は劇中盤だな。子供たちは知っているのか?」

 礼拝堂の椅子の一つに腰掛け、台本をめくりながら、ユーシスはとなりに控えるロジーヌに言った。

「いいえ。秘密にしてあります」

「そうか。きっと驚くだろう」

「ふふ、どうでしょうね」

 彼女の役は“禁忌の森への案内人”となっているが、かつて禁忌の森に立ち入った恋人を亡くしているという、なくてもよさそうな重たい設定が付いていた。

「そういえば教区長とシスターがいないな? 挨拶くらいはしておきたいが」

「パウル教区長とシスター・オルネラはヘイムダルの礼拝堂までお出かけです。皆様には宜しくと言付かっています」

 エマが二人のそばに歩み寄って来る。意味ありげに笑みを湛えながら。

「お邪魔してすみません。ロジーヌさんもそろそろ衣装合わせに」

「はい。では失礼します、ユーシスさん」

「ああ、行ってくるがいい」

 二人の背中を見送り、ユーシスは再び台本に目を通す。

 馬としての出番自体は少ないが、場面転換の際の書割の変更や、物品の配置は全員で協力しなければならない。事前に考えておくことは多いのだ。

「ん……?」

 ふとユーシスは首を傾げた。今し方のエマの言葉が引っかかる。

 邪魔、とは何がだ?

 

 ●

 

 程なく子供達がやって来だして、堂内は喧騒に包まれた。やはりユーシスは懐かれているようで、見る間に全方位から子供達にしがみつかれている。

「お前達、いい加減に離れるがいい!」 

「はい、みんな。ユーシス先生は劇の準備がありますからね」

 一人一人を手際よく引き剥がすロジーヌの手並みは、相変わらず大したものだった。その隙にユーシスはそそくさと舞台袖へと避難する。

 少し離れた所で、その様子を面白くなさそうに眺めている少年が一人。

「ふん。劇やるって言うから見に来てやったけどさ。これでも普段から本は読んでるんだぜ。子供だましの内容じゃ納得しないからな」

 カイだった。彼の父親はケインズである。家がブックストアなので、本には不自由しないらしい。

 その両脇から鼻息の荒い彼をなだめているのが、遊び友達のルーディとティゼルだ。

「劇中は大人しくしなさいよ。あとユーシス先生に絡みにいっちゃダメだからね」

「そうだよ。もし今日そんな事したら、さすがのロジーヌさんもカイのこと嫌いになっちゃうよ」

 十字火線の釘刺しに、「そ、そんなことしねーよ」とカイは罰悪そうに目を逸らした。劇中はともかく、ユーシスには絡みに行く腹積もりだったようだ。

 その三人も順々に席に着き、年少も合わせておよそ二十名程の子供たちが劇を見に来ている。

 ロジーヌが席を割り振り、“トイレに行きたくなった時は手を上げる”や“舞台には上がらない”など、日曜学校ならではの諸注意を子供達に説明しているところだ。

 舞台袖から様子を伺っていたエマは、「たくさん来てますね」と小声で呟き、背後に控える役者達に振り返った。

 それぞれが専用の衣装に身を包み、準備は万端である。

 ちなみに登場人物の名前は、演じる人間の名前と同じになっている。これは名前を覚える時間を省略できるからという理由だ。

「ああ、気合いを入れよう」

 主人公のリィンはアクションもある為、薄手の胸当てや籠手の着用していて、騎士と言うには軽装だが中々様になっている。

「稽古の成果を見せる時だ」

 仲間である女騎士役のラウラも同系統の装備だが、リィンとの差別化を図る為、細部の装飾が異なっている。これも違和感はなく、彼女自身がしっくりきているようだ。

「うむ」

 王様役のガイウスは、ゴテゴテしたそれらしい赤マントに金の冠、ついでに口元にはヴァンダイク学院長のようなあごひげを付けている。元々の雰囲気とも相まって貫録は十分だった。

「ミギャーかな、やっぱりワギャーの方が……」

 魔獣役のミリアムは、尻尾をくっつけた毛皮のコートを羽織っていた。ちょっと小さめではあるが、遠目には立派に魔獣である。

「任せて」

 森の主のフィーは、シーツを柔らかく体に巻き、ふわふわとはためかせることで、シンプルながら人外の存在を思わせる格好だ。彼女の話口調も意外にマッチし、独特の空気感を出すことにも成功していた。

「ふう、やっぱり子供相手でも緊張するわね」

 お姫様役のアリサは白を基調としたドレスを身にまとっているが、難なく着こなす辺りはさすがである。髪の結いはストレートに下ろし、アクセントに赤いカチューシャを付けていて、どこぞの朴念仁でなければ、どぎまぎして演技に集中できないほどの艶やかな容貌だった。

 一方でマキアスとユーシスは後半からの登場なので、今は衣装を身に付けていない。

 またクロウはエキストラとして何度も登場するので、着替えの簡単なカジュアルなものを複数用意している。

 エリオットは反対側の舞台袖でバイオリンを手に、所定の位置に立っている。エマの視線に気付くと、彼は頭上に丸印を掲げてみせた。

 全員の準備が整っていることを確認したエマは、軽く咳払いをした後、舞台袖から歩み出た。彼女の立ち位置はステージ外の端である。

 可愛らしい歓声と拍手が湧いた。

 ざわめきが収まるのを待ってから、エマは自分専用に作ったナレーション用の台本を開き、静かな声を礼拝堂内に響かせた。

『昔あるところに、大きな王国がありました――』

 いよいよ第一幕の開演である。

 

 

『お城に住むアリサ姫はいつも退屈していました。お友達もおらず、話しかけてくるのはお付きの女中だけ。彼女はいつもお城の外を眺めていました。それはとある満月の夜のことです――』

 エリオットの奏でるバイオリンの音色の中、舞台中央まで歩いてきたアリサは、物憂げな表情で遠くを見つめた。

「ああ、どうしてお城から出られないのかしら。私は自由を感じてみたいの。自由に外に出て、買い物をして、友達を作って、恋をしてみたいわ」

 それから考え込む素振りを見せ、彼女は「そうだわ」と両の手を合わせた。

「城の者達には内緒でこっそりお城を抜け出してしまいましょう。朝日が昇るまでに帰ってくればいいわ」

 ドレスをひるがえし、アリサは早足でその場を去って行った。

『――お城の外に出ることを決めたアリサ姫は、二階のバルコニーにカーテンを括り付け、紐を伝うように中庭に降り立ちました。巡回の兵士の目から逃れる為、ドレスが汚れるのも構わず茂みに隠れ、うたた寝をする門番の隙をつき、城の外へと出ることに成功したのです』

「やっと外に出れた……。でも夜だし、面白そうなお店は閉まっているわよね。どこに行こうかしら……」

 右に左に歩き回り、アリサは思い出したようにある方角に目を向けた。

「そういえば、街の外のずっと向こうに森があるって聞いたことがあったような。確かお父様は禁忌の森だなんて呼んでいた気がするけど、なんで禁じられているのかしら?」

 思案顔を浮かべる。

「ちょっと見に行ってみましょう。歩いていくには遠いけど、がんばればきっと朝までには帰って来れるわ」

 軽快な足取りで舞台袖へと消えるアリサ。同時に照明が暗転する。

『――好奇心旺盛なアリサ姫は、こうして街の外に出てしまいます。しかし姫は次の日も、その次の日もお城に戻ってくることはありませんでした』

 

 場面は変わり王宮内。玉座に座るガイウスが肘掛けを荒く打ち据える。

「我が娘は! アリサはまだ見つからんのか!?」

 幸いなことに演技は好調だった。舞台上の全員がひそかに安堵する。

「ガイウス王。町の者からアリサ姫らしき女性を見たという情報を入手しました」

 衣装を変え、親衛隊風の騎士を装ったクロウがやってきて、慇懃な態度で王の前にかしずいた。

「よくやった。して姫はどこに?」

「それが……三日前の夜に町を出て、禁忌の森の方角に向かわれたと……」

「な、なんということだ」

 両手で顔を覆い、ガイウスは肩を震わせる。

 ここでエマのナレーション。

『――ガイウス王が衝撃を受けるのも当然でした。なぜなら禁忌の森には、人間嫌いの上、不思議な力を持つ主が住んでいるからです。荊が生い茂る森の奥に踏み入ったが最後、無事に外に抜け出せた者は今までに一人もいません』

 開始直後はざわざわとしていた子供達も、気付けば劇に見入っている。好感触を間近で感じながら、エマはナレーションを続けた。

『森の荊は主の不思議な力で守られていて、ふつうの武器では断ち切ることができないのです。そこで王様はある物を用意させました』

 舞台の中心に、台座に突き刺さった剣が運ばれてくる。作りは木剣だがきらびやかな装飾のおかげで、見た目は立派な儀礼剣だった。

「王家に伝わりしこの剣なら……森の荊を切れるのだ」

 ガイウス王に違和感。語調がわずかに固くなった気がした。

「さあ、騎士……達をここへ、呼べ。剣を引きぬ、引き抜かせるのだ」

 様子がおかしい。しかも台詞をかんだ。この後はさらに長い台詞が続くのだが、今の調子のままではまずいかもしれない。

 咄嗟にそう判断したクロウは機転を利かし、いくつかの台詞を飛ばして場を繋ぐことにした。

 舞台袖に控えるラウラにアイコンタクトを飛ばすと、意を察した彼女はうなずきを返す。

「騎士ラウラ、まずはお前が剣を抜いてみせろ」

 クロウの促しに応じ、ラウラが登場する。

「王よ、私にお任せを」

 言うなり、剣の柄に手を掛ける。だが彼女に剣を引き抜くことは出来なかった。悔しそうにうなだれる。

 クロウが言う。

「そうだ。先日新たな騎士が入隊しただろう。新人だが腕は立つと聞く。そいつをここに連れてこい」

「お待ちください。そやつには荷が重いかと存じます。ここは私がもう一度――」

「かまわん。物は試しだ」

 納得しかねる様子だったがラウラが合図をすると、反対側の舞台袖から一人の若い騎士がやってくる。リィンだ。

 口を真一文字に結んで、背すじを伸ばし、主人公の実直な性格がよく表現できていた。

 本来ならここで、新人ごときに任せられるかとガイウス王が激昂するのだが。 

「………」

 ガイウスは無言だった。まだリィンは動けない。王様の怒声の中、誰にも期待されていなかったリィンが剣を引き抜くという演出に意味があるのだ。

「………」

 ガイウスの額に薄く汗が滲んでいる。

 彼自身、実は台詞を覚えていた。まずかったのはクロウのアドリブだ。

 場の流れを切らさない為、そしてガイウスに一呼吸入れさせる為にやったことではあったが、しかしそれは結果として彼を戸惑わせることになった。

 演劇自体が初めての彼に、舞台における暗黙の自由など分かるはずもない。

 わずかに遅れて自分の失態にクロウが気付き、その場を切り抜ける言葉を探そうとして、

 事態を飲み込んだエマが、どうにかナレーションで繋ごうとして、

 それらを果たせずに訪れる一瞬の静寂。完全に流れが途切れる刹那――

「私を愚弄するのか。そのような名も知らぬ末席の騎士ごときが姫を救うなどと」

 力強く、揚々とガイウスが台詞を発する。しかしそれは彼の声ではなかった。

 

 

 その時動いていたのはユーシスだった。

 ガイウスの座る玉座は暗幕の近くにある。子供たち側からは見えないよう、ユーシスは物陰から《ARCUS》でガイウスとリンクした。接続を示すリンクの光軸は、幸い照明が目立たなくしてくれている。

 戦術リンクにおける意志疎通は、ある程度の思考の共有であり、戦闘における『阿吽の呼吸を実現する高度な連携』を主眼においたものである。

 詰まるところ、この機能は言語を相手の脳に直接伝達するような代物ではない。テレパシーではなくシンパシー。『共鳴』が最も近い表現かもしれない。

 オーブメントはあくまでも道具。拾い上げるのは意志という名の信号である。とはいえ思考という膨大な情報の全てを収集し、しかも他者に送信するなど不可能だ。少なくとも現時点での導力学では。

 故に《ARCUS》が行う思考の選別には強弱を基盤にした優先順位がある。その強弱が明瞭に現れるのが、戦闘という精神が研ぎ澄まされる状況だった。

 攻撃、防御、回避、追撃、フェイント、カウンターなど、場面に応じて、全ての選択が確かな意志の元に下される状況。リンクというシステムが、戦闘において効果を発揮しやすいとされるのはその為だ。

 だがこれは仕組みさえわかっていれば、戦闘外でも使える機能だ。

 ユーシスは全力で自分の思惟を《ARCUS》に注ぎ込んだ。それこそ最優先で拾い上げる程の強い意志を。

 ――俺の声に合わせて、口を動かせ。

「……!」

 言葉は伝わらない。しかしガイウスは《ARCUS》を通じて伝わるユーシスの意志を受け取った。

 劇を失敗に終わらせたくない。子供達に楽しんで欲しい。

 届いた想いに促されるまま口を開くと、同時にユーシスが台詞を言った。

 

 

 ユーシスが発した台詞は先の一言だけだった。

 落ち着きを取り戻したガイウスは即座にシーンを把握し直す。

 まだ劇冒頭。皆の為にもここでつまずくわけにはいかない。練習はしてきたのだ。この後の展開は分かっている。落ち着いて思い返してみれば、二つ三つ台詞が飛んだところで、流れには支障を来たしていない。

「ならば一度だけチャンスを与えよう。その剣を引き抜いてみせよ」

「御意」

 大仰に言ってみせると、リィンが静かに応じた。

 剣の前に立ち、柄に両手をかける。序盤の見せ場の一つだ。力強いエリオットの演奏が期待感を煽る。

「アリサ姫。必ずこのリィンがお救いします」

 ぐっと力を入れてリィンが剣を引き抜こうとする。

 ほどなくして彼の動きはピタリと止まった。

 

 

 おかしい。引き抜けない。焦る挙動は表に出さないものの、リィンは自分の背に冷ややかな汗が流れるのを感じた。

(な、なんでだ……?)

 昨日までは普通に引き抜けたのに。むしろ緩いくらいだったのに。そういえば、フィーとミリアムに頼んだ台座の隙間調節は、劇前にすると言っていた。調節……あの二人何をやった。

 ふと目を上げ、玉座のさらに向こう――舞台袖に控える彼女達を見た。声は聞こえないが、どうやらユーシスに怒られている。こっちの視線に気付いたユーシスが、これ見よがしに一つのバケツを持ち上げた。

(あれは――)

 中身を見て剣が抜けない理由を理解し、同時に慄然とした。

 あれは工作用の液体接着剤だ。おそらくあの二人は台座と剣の隙間を接着剤で埋めようとしたのだろう。そしてそれが固まり切る前に、剣を突き立てた。

 改めて台座に目を落としてみれば、半透明状の液体が凝固し、完全に剣と台座を接着してしまっている。

「お、俺はアリサ姫を救うぞ」

 もう一度発してみたその言葉は、時間稼ぎにもなりはしない。

 どうする。もう台座ごと武器にしてしまうか? 実は剣ではなく棍棒でしたなどと言って。ナレーションの委員長は――ダメだ、彼女の位置からでは今の事態に気付くことはできない。

 焦燥の中、全力稼動する脳が閃きをもたらした。接着剤は熱で溶ける。自分の技ならあるいは。

「はああああ!」

 迷っている時間はない。集中。リィンは力を刀身に送り込んだ。刃を伝わり、切先に熱が宿る。ぽこぽこと接着剤から気泡が上がり、少し剣が動いた。

 やれる。もう少しだ。

「だあああ!」

 さらに増大する力。

 剣は炎に包まれた。そして炭になった。

 一瞬で炭化した剣がその手からボロボロと床に崩れ落ちていく。

「……あ」

 王家の剣が消滅した。エマが蒼白になった顔をこっちに向けている。

 リカバリーは可能か。無理だ。森の荊を切るには王家の剣が必要と、すでにナレーションで言ってしまっている。

 フリーズする思考。

 うつろう視界の端に何かが光る。呆然とする意識を裂いて、舞台袖からそれが飛んできた。ズダンと音を立てて足元の台座に突き刺さる。

 ユーシスの騎士剣だ。

 再び舞台袖に目を戻すと、急いで剣を取ってきたのか息を切らせたユーシスが口元だけ動かして「それを使え」と言っている。

『――こ、黒炭の中から現れた一振りの剣。それこそが選ばれし者にのみ姿を見せると言う、王家の剣の真の姿だったのです』

 機転を利かせたエマのナレーションが入った。

 安堵の間もなく、リィンは剣を引き抜いて、頭上に掲げてみせる。

 子供達の歓声があがった。

 

 

 舞台は前後編の二幕で構成されている。リィンが剣を引き抜いて、先輩騎士であるラウラも同行し、禁忌の森に向かうまでが第一幕である。

 まもなくその一幕も終盤に差しかかるが、クロウは焦っていた。

「店主よ。禁忌の森に向かう為、馬が欲しいのだが」

 ラウラがリィンを従えて、眼前にやってくる。

 現在のクロウの役は馬屋の店主だ。森へ向かうことになった二人に、馬を貸し出すシーンなのだが。

「禁忌の森に行くのか? やめとけよ。命がいくつあっても足りねえぜ」

 言うなり、二人は顔をしかめた。当然の反応だった。このセリフも本来はないのだから。

 それでも構わずにクロウは続ける。

「えーとだな。あれだ。森の主は不思議な力を持っていてだな。お前らが馬に変えられちまうかもしれないぜ。だから歩いて行った方がいいんじゃねえか」

 意味不明な理屈を言っている自覚はある。しかしなんとか場を繋がなくてはならない。

「何を言っている。早く馬を用意するのだ」

「そうだ。俺達には馬がいる」

 リィン達はアドリブで応じながらも、馬を要求してくる。

「いやあ、馬は貸したくねえなあ」

「おい……!」

 貸したいのは山々だ。だが現時点で舞台袖に控えているはずの馬が、なぜかいないのだ。

 騎士役は二人なので、必然馬役も二人。一人は白馬のユーシス。もう一人は王様役を終えたガイウスが黒馬を演じることになっている。

 実際の流れでは一度クロウが舞台袖にはけて、二頭の馬を引き連れてくるのだが。

(あいつら、何やってんだ)

 馬の衣装など、体は簡単な着ぐるみで、頭に馬面を被ればいいだけなのだ。なのに舞台袖ではユーシスとガイウスがセッティングにまごついている。

 どうやら馬の被り物がおかしいようだ。うなじから後頭部にかけての縫い目がほどけて、まともな被り物として機能していない。なぜ、急に――。

(あれ作ったのサラか……!)

 直感だったが間違いない。

 おそらく彼女は縫い止めを適当に済ませたのだ。そして何回も練習で使う内に緩んで、この本番でついに糸が抜けたと言うことだろう。

(くそ、覚えていやがれ)

 胸中に毒づきながらも、状況の打破を思案するクロウ。

 ユーシス達は急いで簡易の補修をしようとしているが、もう馬の被り物はベロンベロンの布きれに戻りつつある。そしてリィン達にその状況は見えない。

「そもそも禁忌の森になんて行くべきじゃねえ。おまえらまだ若いんだ。死に急ぐ奴らに馬は貸せねえ!」

 語調を荒げ、嘆願の目をエマに送る。気付け。アクシデントだ。

 察したエマがぎこちなく首を縦に振り、口を開いた。

『――その……店主の息子は騎士を目指していたのですが……力試しをすると言って禁忌の森に立ち入ってしまい、帰らぬ人となったのです』

 その場ででっち上げたにしては悪い設定ではない。まだ続けられる。ナレーションを聞いたリィンとラウラも、トラブルには感付いたようでそっと目配せをしていた。

「そ、そういうことだぜ。息子の二の舞にはさせねえ」

 ナレーションに同意した言葉を思わず口走ったのはミスだったが、そこは上手くラウラがフォローした。

「なんと、そうであったか。だが心配されるな。我々は死にに行くわけではない」

「ああ、俺達に任せて欲しい」

 クロウは肩を震わせて「へっ、最近の若い奴らはよお」と、ぐっと押し詰まった声を絞り出す。

「俺はもう何も言わねえ。お前らならやれるかもな。……それでも馬は貸せねえが」

 にべのない一言で締めくくり、第一幕は終了した。

 

 ●

 

 ガチャリと控室の扉が開く。

「あれ、誰もいないなあ」

 入ってきたのはカイだった。今は第二幕に入る前の小休憩である。

「せっかくお菓子持ってきたのにね」

「きっと色々準備してるのよ」

 お菓子箱を持ったルーディ、コーヒーや紅茶をトレイに乗せたティゼルが続く。彼らはⅦ組への差し入れを持ってきていた。

「でも劇面白かったよね」

「うん、後半が楽しみ。お姫様、綺麗だったなあ」

「ロジーヌ姉ちゃんの方がきっと似合うって」

 うっとりと目元を細めるティゼルに、カイが余計な言葉を挟む

「はいはい、よかったわね……あら?」

 投げやりに応じたティゼルは、机の上に置いてあった台本に目を留めた。

 遅れて気付いたカイが、その台本を手に取る。紙を束ねてホッチキス止めしてある簡単な装丁だ。表紙の端には“Emma”と表記されている。

「エマ……? ああ、ナレーションのお姉さんか」

「あ、カイ! 何してるのさ! だめだよ!」

 エマの台本を開けようとしていたカイを、ルーディは慌てて制止した。

「先の展開が気になるし、ちょっとのぞくだけならいいかなって」

「いいわけないよ。怒られるよ」

「ほんの少しだけだって!」

「ダメだから!」

 ぐいぐいと台本を引っ張り合う二人。

 ビリッ。

 破れた。真ん中から見事に真っ二つだ。

「カイのせいだよ!」

「ルーディも引っ張ったじゃないか」

「二人のせいよ!」

 不毛な口論をぴしゃりとさえぎり、ティゼルは床に散らばった紙片に手を伸ばした。

「拾い集めるの。早く! まだ繋ぎ合わせれば何とかなるわ。――きゃ!?」

 焦っていたティゼルは、すぐそばにあった紙の一枚に足を滑らせた。短い悲鳴と共に、トレイがひっくり返る。 

 用意してきた紅茶とコーヒーが床にぶちまけられた。

 瞬く間に黒やら茶色やらに染まる紙片の数々。色々と書き込んであったようだが、メモなどもう読み取れない。

 固まる三人の子供達は初めて知った。

 これが惨劇だ。

「ど、どどど、どうしよう……!?」

 すがるようにティゼルは二人を見た。

「じ、時間はまだあるんだ。ルーディは床掃除してくれよ。俺、残った台本の状態を確認するから」

 破れたのは後ろの数ページのみ。第二幕の台詞や流れも割と残っている。これなら何とかなるかもしれない。

 淡い希望を抱いてページをめくってみたが、やはり途中から文章が途切れていた。数ページ飛んで、後は白紙だ。

「よ、よし。だったら!」

 それは子供の発想だった。

 カイは近くの引き出しからペンを取り出し、白紙の部分に文字を書き込んでいく。

「ちょっとカイ? 何してるの!?」

「とりあえず劇が続くように、この後の展開を書くんだ。……これでどうだ!」

「できるわけないでしょ。正直にあやまるの。大体なによ。その森の主が仲間になって終わりって。そんなわけないわよ」

 横からのぞいていたティゼルは、カイからペンを奪い取る。彼女も彼女で、平静ではなかった。

「騎士がお姫様を助けて終わりなのよ。森の主をやっつけなきゃ。あ、でも仲間の女騎士様は、主役に恋をする展開かも」

「お前がそうなって欲しいだけだろ。つーか書き込むなよ!」

「二人ともやめなってば!」

 その時、廊下を歩く足音が聞こえてきた。 

「やばいって」

「どうするのよ!」

「お、怒られる~」

 とっさに三人は物陰に隠れた。直後に扉が開き、誰かが入ってくる。

「えーと、台本はどこに置いたかしら。早く行かなきゃ休憩終わっちゃう」

 この声はナレーションの人――エマだと分かった。

 彼女が控室を出て行ったあと、おそるおそる三人も物陰から出てみる。やはり台本がない。いろいろ書き込んだあれを持って行かれてしまったのだ。

 続け様に扉が開き、びくりと体を震わせる三人。

「あなた達ここにいたのね。もう劇が始まるから早く席に戻らないとダメよ」

 ロジーヌだった。謝るなら、このタイミングしかない。

「ロジーヌ姉ちゃん、あの……」

「どうしたの、カイ。劇面白くなかった?」

「ううん、すごく面白いよ。だけどその……」

「ふふ、よかった」

 大好きな笑顔が胸に突き刺さる。

「じゃあ、一緒に戻ろうね」

 カイは――後ろに控えるルーディも、ティゼルでさえ何も言えなかった。

 

 ●

 

 第二幕からは少々変更が必要だった。

 元々は町から森まで、馬での移動だったが、馬の被り物が使い物にならなくなってしまったので、途中まで徒歩で進むシーンが追加された。

『――町を出た騎士リィンと騎士ラウラは道中、古びた民家を見つけます。町の外れにひっそりと建っていたその家には、一人の女性が住んでいました』

「珍しいですね。このような所まで出向かれる方がおられるなんて」

 リィンとラウラの前にロジーヌが現れた。サプライズでの登場に、子供たちは大喜びである。

 もっともカイ達三人はそれどころではなく、固唾を飲んでナレーションのエマを見つめている。問題はまだ起きていないようだった。

「実は禁忌の森に行こうと思うのですが、町で馬を借りれなくて――」

 リィンが事情を説明すると、ロジーヌの表情がたちまちに曇った。

「あの森は危険です。私もかつて、森の主のせいで恋人を亡くしてしまったのです。あれから一年経ちますが、悲しみが癒えることはありませんでした。悪いことは申しません。どうかお引き返し下さい」

 重たい設定炸裂である。

 どうでもいいことだったが、正誤性を合わすため、先の馬貸しの主人の息子が彼女の恋人という設定も急遽盛り込まれている。

 劇に入り込んでいる子供達――特に年少の女の子――からは「ロジーヌお姉ちゃんかわいそう……」などと、すすり泣く声が聞こえてきた。

「心配は無用だ。我々は戦う術を持っている」

 自信に満ちた口調でラウラが言うと、リィンは腰の剣をロジーヌに見せた。

「俺達は王家の剣を預かってきた。これなら森の荊を切れるんだ」

 黙考するロジーヌ。

「でしたら……せめてこの馬をお使い下さい」

 舞台袖に一旦消え、再び戻ってきた彼女は、一頭の白馬を連れていた。

「この馬は、ある日禁忌の森から抜け出してきたのです。家の馬舎に住み着いてしまったので世話をしているのですが、森の奥に進むならこの子が導いてくれるでしょう」

 白馬の中身は当然ユーシスである。先の休憩時間に緊急の補修作業が行われ、どうにか白馬の被り物だけは形に出来たのだった。

 顔以外の馬のディテールを再現することは困難だったので、ちょっとした白い着ぐるみをまとい、四つん這い歩行で何とかそれらしく見せている。

「ありがとう。恩に切る」

 リィンは白馬の背にまたがる。さらにその後ろにラウラも続くが、彼女が乗った瞬間、馬の口から「うっ」とくぐもった声が漏れた。本来はガイウスと分担するはずが、今やその背に二人分の重量を引き受けているのだ。やむを得ないといえばやむを得ないことだったが。

 ラウラのこめかみがピクリと脈動する。

(なぜ私の時にだけ、声をあげたのだ!?)

(ラウラ、子供達に聞こえるぞ!)

(お、お前たち動くな……!)

 膝が床にめり込みそうになりながら、ユーシスは背中の二人に小声で告げる。

(リィン、私は断じて重くないぞ)

(わ、わかったから)

(しゃべるなと言っている!)

 二人の騎士を背に乗せた白馬は、のそのそと、ガクガクと、ぷるぷると、よたつきながら森へと歩を進めた。

 

 

『――白馬に誘われ、二人は森の奥深くに足を踏み入れます。うっそうと生い茂る木々を剣で払いのけながら、道なき道を行き、ついに彼らは森の主と対面するのです』

 エマのナレーションが終わるとフィーのセリフだ。

「また人間がやってきた」

 シーツをはためかせ、森の主に扮しているフィーが舞台中央に現れる。威厳に満ちた主というよりは、悪戯好きな妖精という感じだった。

(今のところ問題なさそう。台本どうりでいける)

 フィーは秘かに安堵した。

 前半のようなトラブルが起きた場合、さすがに対処しきる自信はない。もっとも前半のトラブルの一つは、自分とミリアムで起こしたものなのだが。

 あの後は休憩中に、チクチクと針で刺すようなユーシスの叱責を受けることになってしまった。

 長く正座させられたせいで、足のしびれがまだ残っている。途中で委員長が助けてくれて良かった。

「お前が森の主か。アリサ姫を返してもらうぞ」

 そう言ったリィンが引き抜いたのは、ユーシスのナイトソード。

 あの短い休憩時間で代わりは用意できなかった。

 ちなみにラウラはバスタードソードを模した木剣だ。

 作るのにはかなり苦労したが――それはともかく長物が二つ。片方が本物だから、このあとのアクションは注意しなければならない。

「姫ってこの前、森にやってきたこいつのこと?」

 森の主の後ろには、意識を失ったまま大きな鳥カゴのような檻に入れられているアリサの姿があった。

 カゴは緑色に塗って、スポンジ製のトゲを付けて荊に見えるよう改良している。

「アリサ姫! すぐに俺がお助けします」

「させない。魔獣ミリアム。出番だよ」

 応答がない。

「いでよ、魔獣ミリアム」

 もう一度繰り返しても同じだった。ワギャーだか、ミギャーだか雄叫びをあげながら舞台中央まで駆け出してくるはずなのに。

 彼女が待機しているはずの部隊袖を見ると、ちゃんとミリアムはそこにいた。四つん這いの体勢のまま、しっかりスタンバイしている。

 早く来て。

 目で訴えると、ミリアムは泣きそうな顔で首を横に振った。

 

 

 どうしてこんなことに。まさかこれほどの代物だったなんて。

 両手両膝を床につき、ミリアムは顔を上げた。舞台ではフィーが自分の名前を呼んでいる。

 回呼ばれても応じなかったからか、急かすような目を向けてきた。気付いてほしい。今はどうやってもそっちにいけない。

「うう……動けないよ」

 準備は万端だった。雄叫びはハギャーに決めたし、衣装もばっちりだし、がんばって台詞も覚えた。

 唯一失敗したのは、接着剤の入ったバケツを足元に置いていたことだ。

 顛末は実にシンプルだった。

 足を引っかけ、倒れたバケツから大量の接着剤が床に流れ出る。焦って足を滑らし、両膝を付く。前のめりに倒れる上体を、床に手を付いて支える

 それだけで最悪のポジショニングは完成した。

 しかも液状接着剤のくせに、空気に触れてから固まるまでの時間がかなり早かった。我に返って立ち上がろうとした時には、四肢と床は完全にくっついてしまっていた。

「ど、どうしよう」

 こちら側の舞台袖にはBGM担当のエリオットただ一人。事態には気付いているが、バイオリンの音を止めるわけにもいかず、ただ焦燥の表情を浮かべたまま、その場で演奏を続けている。

 この劇で終盤の見せ場となるアクションシーン。クロウはここが男の子の心を掴む一番のポイントだと言っていた。

 何とかして行かなくちゃ。どうにかして舞台まで。

「……委員長~」

 お願い、ナレーションで引き伸ばして。

 身じろぎしながら、懇願するようにエマに視線を向けた時、彼女は台本を手に固まっていた。

 

 

 台本を持つ手が汗ばむ。一向に魔獣が出て来ないのはまたトラブルだろうか。

 なんとかナレーションで場を持たせたいエマだったが、今はこちらにもトラブルが発生していた。

「……!?」

 ページを何回もめくり直す。残念なことに見間違えではなかった。ここから先、エンディングまでの脚本がごっそり無くなっている。その上、うしろの白紙ページにはこのあとの予想展開が好き放題に書き込まれていた。

(子供の字……?)

 台本を手放したのは、休憩中のわずかな間だけだ。事情は分からないが、その間に誰かが何かをやらかしたということか。

 暗幕の陰にのぞくミリアムは、ただ潤んだ瞳を向けてくる。困ったフィーは「魔獣……ちょっと忙しいみたい」などと苦しい言い訳をしている。

 リィンとラウラの位置からは向かいになるので、二人もミリアムの動けない様はわかっている。

 木の衣装に身を包んだマキアスは、一心不乱に枝葉を揺らし、ただただ森の背景の一部に徹している。

 どうすれば。

 全ての状況を精査しながら、聡明な頭脳をフル稼働させるエマ。ふと雑多な書き込みの一部に目が留まった

 

 《魔獣は強くて大きくて、全然倒せない》

 

 これが子供の持つ魔獣のイメージか。ミリアムではむしろ正反対だ。彼女じゃなくてもいい。控えの誰かは出れないだろうか。

 考えた末に、思いつくことがあった。

 それがアリかナシかを問うている時間はない。通常時はナシだが、非常時はアリだ。そう思い込むことにして、エマは大きく息を吸った。

『――森の主が呼ぶと、現れたのは“大きくて強い銀色の魔獣”でした』

 

 

 エマのナレーションが再開される。

 それを聞いて意味を理解したミリアムは、すぐさまアガートラムを呼びだした。

「なっ!?」

 想定外の事態に、ラウラはとっさに木剣を構える。

 ミリアムが動けないのは察していたが、まさかこんな展開になろうとは。しかしエマがそのように場を進めた以上、こちらも合わせる他ない。

 子供たちは歓声をあげていた。怖がるかと思いきや、意外に喜んでいるらしい。

 アガートラム。相手に取って不足はないが、こんな舞台で大立ち回りは厳しい。

「どうする?」

「やるしかないだろう」

 横に立つリィンに小声で問うと、そう即答された。ここ最近でトラブルに慣れ過ぎていて、逆に落ち着いているようだ。頼りになる、と思っていいのかどうなのか。

「∃ΓΣШ§Ё」

 機械音を響かせ、アガートラムが腕を振り上げた。

 こちらも本気で応戦だ。もはや演技では済まされない。アガートラムを倒さなければ、騎士二人は全滅。まさかの森の主勝利エンドで劇が終わってしまう。

 ゴッと突き出される豪腕。拳をかいくぐったラウラは、鋭いカウンターを見舞う。だが弾かれた。

「やはり木剣では無理か!」

 刃筋を通す以前に強度の問題だ。攻撃した側の剣が欠けてしまっている。

 ならば頼みはユーシスのナイトソードを持つリィンだ。騎士剣の扱いには慣れていないようだが、アガートラムと切り結べるのはその剣しかない。

「う……!」

「どうした!?」

 なぜかリィンの動きが悪い。注意が散漫と言うか、今も危うく直撃を食らうところだった。

「いや、なんでも……なんでもないんだが」

 そうは言うが、明らかに様子がおかしい。視線が一定の角度に入る度に、目を逸らしているような気がする

 リィンを視線を追ってみる。

 その先にいたのは、荊の檻に囚われているアリサだ。

 急に心が絞まる。

 それはそうか。この劇の姫はアリサで、騎士はリィンだ。自分はあくまで助力をする脇役。この物語は二人の為にあるのだから。

 劇の中の話とはいえ、言い知れない寂しさが胸に湧く。

(だとしても、こんな状況で集中を乱さなくてもよかろう)

 ちょっと納得しがたいものを感じながら、意識をアガートラムに向け直す。そこで視界の片隅にそれが映り込んだ。

「ん?」

 アリサのドレスはあんなに丈が短かったか? 見ればスリットが入って太ももまであらわになっている。

 そういえばあのドレスもサラ教官が仕上げていた。まさか糸がほつれているのか。このままでは馬の被り物と同じ末路をたどってしまう。しかもアリサは気を失っている演技中なので気付いていない。

 リィンはあれを見ていたのか。見ていたのだな!

「ラウラ、連携で仕留めよう。隙を見て――」

「見るでないわ!」

「ぶっ!」

 リィンの顔面をビンタが打ち据えた。クリーンヒット。当たりどころが悪かったのか、その鼻からつつーと細い血が流れ出てきた。

「な、なんだ!?」

「鼻血まで出しおって、この痴れ者が!」

「これはラウラのせいだろ!」

「そなたのせいだ!」

 言い合う二人を黒い影が覆う。

『え?』

 気付いた時には遅く、アガートラムがラリアットを繰り出していた。

 

 

 リィンが私を助けると言った。

 それは劇の台詞の一つだったけど、面と向かって言われるとやはり恥ずかしい。いつの間にか口元が緩んでいる自分がいた。

 気絶の演技中であったことを思い出し、荊の檻の中でアリサは慌てて表情を改める。

(それにしても)

 さっきからなんだか騒々しい。

 絶え間なく続く剣戟の音が、礼拝堂内を震わせている。その度に子供達の興奮の声が聞こえてくるから、アクション自体は好評のようだが。

 勢い余って堂内の備品を壊さないか心配だ。エマが“銀色の魔獣”と言ったのは気にならないでもないが、たぶん言い間違いだろう。

 この後はリィンが森の主と魔獣を退け、自分を助け出す。しかし荊の毒のせいで目は覚めなくて、日の光を浴びる為に森の外へと脱出する、という流れだ。 

 この辺りは姫としての台詞がない上、時間の都合もあり、実はリハーサルでも簡単な位置確認しかしていない。だが今は本番、最後まで通しで演じる必要がある。

(やれるかしら……)

 演技は問題ない。全員の台詞や間の取り方も把握している。

 問題は一つ。馬の背に乗って森を抜けるまで、アリサは終始リィンと密着する形になることだった。

 考えただけでも落ち着かない。心臓が早鐘を打ち、呼吸が苦しくなる。

 しかも、しかもだ。

 エンディングで意識が戻ると、騎士との抱擁が待っている。

 ああだこうだと理由をつけて、リハーサルでは後回しにしたり回避したりしたが、その時はもうすぐ確実にやってくる。

(どうしよう、どうしよう……)

 落ち着けと胸に言い聞かせ、ばれないように深呼吸。大丈夫。これは劇、劇なのよ。

 心が落ち着いてくると、ふと下半身に違和感を感じた。太ももの辺りがスースーする。

 薄眼を開けてみると、ドレスは驚くべき事態になっていた。

「なっ、なによこれ?」

 思わず声に出た。

 スカートは足元から一直線に切れ目が入り、かなり上の方まで露出していた。上半身もだ。背中側の留め具が外れているらしく、ちょっと動くだけで肩がずれ落ちてガンガンはだけていく。

「――っ!?」

 これで馬に揺られでもしたら、森を抜ける頃には大惨事だ。

 どうにかして取り繕わなくては。そうだ、劇は今どこまで進行しているのだろう。

 視線を上げるアリサ。その直後、視界いっぱいに映ったのは、アガートラムの振り回す巨腕に巻き込まれたリィンとラウラが、こっちに吹き飛んでくる光景だった。

 

 

 こんなにも余裕が無く、際どい演奏はやったことがない。それがエリオットの思うことだった。

 今日の劇中演奏は彼でなければ務まらなかっただろう。まさしく影の功労者である。

 シーン毎の曲は、場の情景に合ったものを事前に決めていた。

 だがトラブルに継ぐトラブル。アドリブに継ぐアドリブ。予定していた曲はことごとく場にそぐわず、ほとんどが使えないものになった。

 目まぐるしく場面が動く喧騒のステージだったが、それでも彼は即興で演奏をやってのけ、なんとかして臨場感のあるBGMを途切れさせないよう一人奮闘していた。

 しかし今、彼の演奏は停止していた。せざるを得なかった。

「あ」

 一語だけ喉から絞り出る。

 さすがのエリオットもこの状況に合う曲は思いつかない。逆に思いついたとしても演奏することはもう出来ない。

 バイオリンを奏でながらも、舞台袖から一連の流れを見ていたからわかる。今日はたくさんのトラブルに見舞われたが、これは最たるものだ。

 アガートラムがリィンとラウラを吹き飛ばす。そのままアリサの入っている檻に激突し。檻は大破。

 勢いは止まらず、アリサも一緒に――さらにすぐ後ろにいたフィーさえ巻き込んで、自分のいる舞台袖まで突っ込んでくる。空中でもつれ、団子になった四人はあっという間にエリオットの視界を埋め尽くした。

「うああ!」

「きゃああ!」

「くうう!」

「痛いかも」

 四者四様の悲鳴が耳に刺さった。とっさの判断。バイオリンを床に滑らし退避させる。これだけは守らねば。

 しかし判断ミス。いまだ床に接着されたままのミリアム、その近くまで滑っていったバイオリンは『ネチャッ』と粘着質な音にまみれ、不自然にその動きを止めた。

 なにが起きたのかは想像したくない。なにより思考が巡る前に、二人の騎士、お姫様、森の主。主要キャストがそろって衝突してきたのだ。 

 受け止められるはずもなく、エリオットを下敷きに全員床に倒れ込む。

「ちょっと、どこ触ってるのよ! やだ、リィン鼻血だしてるじゃない!?」

「この痴れ者!」

「不可抗力なんだ!」

「んー、こんがらがっちゃった」

 自分の上で暴れ、がなり立てる四人。誰かの肘がみぞおちに入り、誰かの足が頸動脈を圧迫する。

「うっ、むぐ……」

 やがてエリオットの意識は、どこか遠い場所へと旅立っていった。

 

 

 目標の殲滅を認識したアガートラムは、その場から姿を消す。

 誰もいなくなった舞台を、エマは呆然と眺めていた。いや正確に言えば、白馬と木だけは残っている。

 手元の台本に目を落とすも、相変わらず子供たちの書き込みだらけである。

 もっとも仮に満足な台本があったとしても、この状況では何一つ意味をなさないが。

 子供達がざわめき出した。

 どうにかしなければ。すがる思いで台本をめくっていく。落書きのような文字の羅列の中に、いくつか目に留まった文章があった。 

 

《ユーシス先生が――》

《強い魔獣が現れて――》

《最後に二人は――》

《ロジーヌさんと――》

 

 ひらめく。

 ここが文芸部の真骨頂だ。話作りとは点と点を繋ぎ合わせて線を成すこと。

 急場であっても矛盾は起こさせない。今日の自分の発言、全員の発言を頭の中に一瞬で並べ立てる。 

 いけると確信した丸眼鏡が照明で光った。

 エマは台本を静かに閉じる。これはもういらない。ナレーションを再開する。

『――森の主は倒れました。傷ついた体を引きずり、騎士達はお姫様を森の外へと連れ出します』

 役者が誰もいないので、ここの下りはシーンカットだ。本番はここから。

『――誰もいなくなった森の奥に人影がありました。それは二人の騎士を見送ったロジーヌでした。彼女は胸騒ぎを感じて、危険な森に一人踏み入ったのです』

 いいですか? 踏み入るんですよ。踏み入って下さい。

 エマの念が届いたのか、しばらくするとロジーヌは戸惑いながらも舞台袖から歩み出てきた。

 ここからは連携だ。エマは台本を持ったまま《ARCUS》を片手で操作し、暗幕の奥に控えるクロウに通信で一言指示を出した。

『――彼女は森の奥で騎士達に同行させた白馬を見つけます。するとどうした事でしょう。突然、白馬は光に包まれ、なんと人間の姿になったのです』

 同時にクロウの補助アーツ《アダマスシールド》が、とびきり派手な金色の光を奔らせる。

 その間にナレーションを聞いたユーシスが、閃光に紛れて素早く衣装を脱ぎ捨てた。

 光が止むと若干表情を引きつらせたユーシスが立っている。彼も意図を察してくれたようだ。

 一体ここからどうする気だと訝しむ目を向けてくるが、それには気付かないふりでエマは続けた。

『――彼こそが一年前に亡くなったと思われていた彼女の恋人だったのです。彼は森の主に馬の姿に変えられていたのでした。しかし森の主が倒れた今、彼にかけられた呪いは解けました』

 子供たちのざわめきは止まっている。 

『――二人は喜びを交わし、森を出ようとします』

 エマに促されるまま、二人は踵を返し、肩をそろえて舞台袖へと歩き出そうとする。 まだだ。まだここでは終われない。

『――しかし二人は不穏な空気を感じて足を止めます。これは魔獣の気配。それもとても強い魔獣です。森の主が倒れたことにより、その魔獣はこの森を支配するのは自分だと思いました。そしてついに、今まで木に擬態していた凶悪な魔獣が、雄叫びをあげて姿を現すのです』

 静寂。沈黙。

『――木に擬態していた凶悪な魔獣が、雄叫びをあげて姿を現すのです』

 語調を強めて繰り返すその言葉。ややあって背景の木々の一つが不自然に揺れ動き、

「ヒィアッーハーッ!」

 下卑た雄叫びと共に、マ木アスが舞台に躍り出た。

 

 

 マ木アスは状況についていけない視線をあちらこちらに移してみた。

 リィンとラウラはどこに行った。フィーはどうした。ミリアムは、アリサは。BGMも止まっている。なぜ馬のはずのユーシスが人間になっているんだ。

 木の衣装は前面が顔を出す仕様になっている為、ずっと後ろを向いたまま演じていた。だからナレーションは聞こえていたが、ここに至る流れが全くつかめない。

 さっきからけたたましい音が響いていたが、もしかしてまた何かあったのか。

 現時点での情報をまとめると、馬から人間に戻ったユーシスはロジーヌの恋人役。そして自分は森の主の後釜を狙う魔獣。

 最悪の役回りではないか。しかもさっきの雄叫びのせいで、前列の子供たちの何人かは泣きじゃくっている。

 ナレーションの声が聞こえた。

『――魔獣マキアスは二人を見るや、いきなり襲い掛かってきました。ユーシスは落ちていた王家の剣を拾い、ロジーヌを守ります』 

 もうナレーションのまま動くしかない。だが木の衣装はひどく動きづらい。

 攻撃を試みようとするが、ろくに前にも出れず、わさわさと葉っぱが舞い落ちるだけだった。

 ユーシスが剣を手に歩み寄って来た。

「悪く思うな」

「思うに決まってるだろ!」

 ナイトソードから青い光がほとばしる。

「そ、その剣は本物だぞ」

「すぐに済ませてやる」

 切先に光陣が浮かび上がるや、輝く水晶膜が半球状に周囲を囲んでいく。

 待て、何をする気だ。やめろ。それは使ったらダメな技だ。

「させるかっ!」

 黙って攻撃を受ける筋合いはない。掟破りの魔獣勝利エンドにしてやろうかと、半ば本気で体当たりを仕掛た時だった。金色の盾がユーシスの前に浮き立ち、マ木アスの特攻はあえなく弾かれてしまった。

 さっきかけたエフェクト代わりの補助アーツの効果がまだ生きていたのか。マ木アスは完全に水晶に覆われた。

「や、やめろおお!」

 魔獣の咆哮。

 崩れた体勢を戻すより早く、ユーシスが剣を振るった。

 十字に交錯する剣閃が、水晶ごと切り砕く。重い衝撃が爆ぜ、静謐な青い光が舞台上に霧散していく。

 押し拡がるアクアマリンの輝き。

 飛び散った眼鏡のレンズが光の一部と化していく様を、マキアスは声も出さずに見送ることしかできなかった。

 

 

 ユーシスは倒れて動かなくなったマキアスから、エマへと視線を転じた。

 さあ魔獣は退治したぞ。早く劇を締めくくるがいい。

 ユーシスを一瞥し、うなずいてみせたエマは言う。

『――魔獣を倒したユーシスでしたが、彼の呪いは半分しか解けていませんでした。夜になればまた白い馬に戻ってしまうのです』

「は?」

 何を言い出すのだ。これ以上、劇を引き伸ばしてどうする。

『――呪いを完全に解く方法はただ一つ。想い人からの口付けです』

「なっ!?」

「えっ!?」

 ユーシスとロジーヌが二人して驚愕する。顔を見合わせた後、ロジーヌは頬を真っ赤に染めてうつむいた。

(委員長……!)

 鋭い目付きで彼女をにらむが、当のエマはすまし顔で正面を向いている。

 これが正真正銘のエンディング。ここを越えねば劇は終わらない。

 静まり返る礼拝堂。子供達は期待の目を注いでいる。両どなりの二人に頭を押さえ込まれているカイの姿がちらりと見えたが――それはともかく、この場をどうするべきか。

 選択肢などなかった。ユーシスは小声で言う。

「やれ。フリで構わん」

「で、でも……」

「あいつらの為だ」

 ユーシスの視線を追って、ロジーヌも子供達を一瞥する。見返してくるのは期待の入り混じった無垢な瞳。

「……わかりました。えっと……ほっぺたで?」

「……なんの確認だ」

「い、一応です。一応」

 ユーシスはその肩に優しく手を添える。ロジーヌはまぶたを閉じて少しだけ背伸びする。

 狭まる二人の距離。

 舞台袖から駆動したいくつものアーツの光が、舞台をきらびやかに締めくくった。

 

 ●

 

 劇は無事――ではないが、喝采の中で幕を下ろすことができた。子供たちも帰り、片付けも終わり、ようやく一段落である。

「帰ったらサラ教官に文句言うわ。なによ、あのドレスは!」

「うー、ひざと手がベタベタするよー」

「僕のバイオリン……」

「僕の眼鏡……」

 それぞれでぼやきながら荷物をまとめていると、奥の部屋からカイ、ルーディ、ティゼルを連れたロジーヌがやってきた。

「皆さん、申し訳ありません。どうやらエマさんの台本をダメにしちゃったのはこの三人みたいで。しかも色々書き込んだりしたとか……」

 頭を下げるロジーヌに、後ろの三人も「ごめんなさい」と落ち込んだ様子で続く。それなりに怒られたらしい。

 エマは笑った。

「みんなが色々書き込んでくれたおかげで、とっさにストーリーを続けられたんですよ。ですよね、ユーシスさん?」

「まったく……最後の展開もお前たちが書いたのか」

 やれやれと肩をすくめたユーシスは、ロジーヌを見やる。彼女は照れたように目を逸らした。

「でも最後のキスは素敵だったわね~」

「ばっか、あれはフリだよ、フリ!」

 ティゼルの言葉を、カイはやたらと強く否定する。

「でもあのシーンってティゼルが書いたの?」

 ルーディが問う。

「私じゃないし。カイでしょ?」

「俺が書くわけないだろ」

「僕はそもそも書いてないし……」

「もう、その話はおしまいにしてね?」

「どうせ慌てていて、書いたことを忘れたのだろう」

 ユーシスとロジーヌに挟まれて、怪訝顔で首を傾げる三人の少年少女。

 そんな中、台本を後ろ手に隠したエマだけが、訳知り顔の笑みを浮かべていた。

 

 

 

 ~FIN

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――後日談

 

「ユーシスさん」

 部活も終わった帰り道、学院の正門前でロジーヌが声をかけてきた。

「お帰りですか?」

「そうだ。お前もか」

 彼女はうなずいて微笑む。

「教会までですが、ご一緒してもいいですか?」

「ああ」

 正門を出て坂を下る。ロジーヌはユーシスの数歩後ろをついてきた。

「なぜ俺の後ろを歩く」

「この位置が落ち着くのです」

「俺が落ち着かん」

「そうですか。では失礼します」

 肩が並ぶ位置まで歩を進めてくるロジーヌ。なにが失礼なのか、さっぱりわからない。

 しばらく歩いている内に、ふと思い出したことがあった。

「そういえば学院で劇の練習を見に回った時、何か言いかけていただろう。劇が終わったらどうとか」

「ああ、あれはですね。その――」

 ロジーヌは歩みを止め、じっとユーシスの目を見返してくる。相変わらず澄んでいて、心まで見透かされそうな水色の瞳だった。

 しばらく考え込んだあとで、彼女は口元を緩めた。

「劇が終わったら、お礼にクッキーを焼こうと思っていたのです」

「礼など気にするな。それに勿体ぶって言うことでもあるまい」

「それもそうでしたね。ごめんなさい」

 とは言ったものの、正直それは楽しみだった。ロジーヌの作るクッキーは絶品なのだ。

「実は新作ができたんです。よかったら最初に食べてもらえませんか? もう教会に置いてありますので」

「そうだな。頂こう」

 なぜもう教会にあるのだ。まさか一度教会に行ってクッキーを焼いたあとで、また正門にまで戻って来ていたとでもいうのか。わざわざ俺を待つために? 

 さすがにそれはないか。いやロジーヌならやりかねない気もする。

「どうかしましたか?」

「大したことではない」

「気になります」

「気にするな」

 そんな会話を交わしながら、教会前までたどり着く。ロジーヌは早足に堂内へと入り、そしてすぐに戻ってきた。手にもった小綺麗な包み紙をユーシスに差し出す。

「どうぞ。本当は中で食べて欲しいのですけど、今日は子供たちが多くて……」

「絡まれるだろうな、確実に。寮でゆっくり味わうことにする」

「感想聞かせてくださいね」

「ああ」

 なぜかロジーヌはくすりと笑う。

「どうした?」

「大したことではありません」

「気になる」

「気になさらないで下さい」

 首を横に振って、ロジーヌは続けた。

「また困ったことがあったら助けてくれますか?」

「どうだかな。まあ――」

 受け取った包み紙を掲げて、夕日に透かしてみた。香ばしい香りが鼻先をくすぐる。

 ユーシスは彼女の問いに冗談半分、本気半分でこう答えた。

「クッキー次第だな」

 

 

 ~END

 

 



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Intermission ~ノーブルメンバーズ

 初めてその話を聞いたのは先月の末だった。

 正直、面倒なことに巻き込まれたと思う。なぜその場で収集をつけられなかった? なぜ自分達がそこに介在する必要がある? 話の流れと勢いで? それこそ我々に関係ないではないか。

 授業を終えた放課後。重い頭を抱えつつ、学院内を歩き回る。中庭辺りまで歩を進めた時だった。 

「パトリック」

 背後から名前を呼ばれた。仮にも侯爵家の人間の名を呼ぶとは思えない、気後れも遠慮もない気安い声音でだ。

 声の主はもう分かっている。振り返ってみると、やはり案の定だ。そこにはリィン・シュバルツァーが立っていた。

「珍しいな一人で。どうかしたのか?」

 その第一声に小さな苛立ちを覚える。別にいつも連れ立っているわけじゃない。周りが勝手に寄ってくるだけだ。

「君には関係ないだろう。いや――」

 関係なくはなかったか。ため息を付いてから僕は言う。

「今月半ばの体育勝負に関してだ。ハインリッヒ教頭からの頼まれ事があるんだ」

「ああ、あれか。じゃあパトリックも出場するのか?」

「不本意ながら」

 学院祭の出し物であるオペレッタの稽古もあるので、余計なことは受けたくなかったのだが。

「そうか。当日は宜しくな」

「敵チームにかける言葉ではないだろう。言っておくが僕は手加減するつもりはない」

「わかっているさ」

 本当に理解しているのか。安穏とした口調で言い、その上こんなことを申し出てくる。

「ハインリッヒ教頭の頼みがあるんだったな。何なら手伝おうか?」

「は……?」

 さすがに拍子抜けする。Ⅶ組との勝負絡みでハインリッヒ教頭が僕に依頼事だぞ。君達に対しての策か何かだと訝しまないのか。

「結構だ。失礼する」

 短く言い捨てて、踵を返す。他人の手など借りるつもりは元よりなかったが、この男の助力となると尚のこと受けるわけにはいかない。

 それはそうだろう。

 なぜなら僕が今からやることは、Ⅶ組に対抗する為のメンバー集めだからだ。

 

 

 《☆☆☆Intermission ~ノーブルメンバーズ☆☆☆》

 

 

『Ⅶ組に勝利する為、体育大会に出場する貴族生徒の選定を君に任せたい』

 

 ハインリッヒ教頭からそんな依頼を受けたのは今日の昼だった。

 先月から教頭も教頭でメンバーを考えていたみたいだが、結局ベストオーダーを絞り込むことは出来ず、学生目線で決定した方がバランスがいいだろうとかいう理由で、僕に丸投げしてきたのだ。

 実に勝手な話である。

 貴族の誇りと力を見せる時だとか、サラ教官の素行を正す為だとか、理由の並び立てには事欠かなかったが、最後に付け加えられた『私の尊厳を守るためだ』という一語が根底にあるような気がしてならない。

「だが……受けた以上はやるしかないか」

 自分を納得させるように一人ごち、戦力になりそうな貴族生徒を頭の中に巡らした。一般生徒に比べて人数は多くない。必然、当てに出来そうな人間も限られてくる。

「まずはそうだな。あそこに行ってみるか」

 

 

 やってきたのはグラウンドだ。

 目当ての人物はすぐに見つけることができた。グラウンドの隅にいたのは同じクラスのフェリス・フロラルドである。

「もっと角度はこう……いえ、もう少し斜めに構えた方がいいのかしら?」

 ラクロスのラケットを手にし、色々と試行錯誤しているようだが、周囲には誰もいない。どうやら自主練習をしているらしい。

 少し意外に感じながらも、彼女に声をかけてみる。

「フェリス」

「きゃっ!?」

 声を発した瞬間、フェリスはびくりと肩を震わせてこちらに振り返った。同時、有無を言わさず繰り出されたラケットが、僕のこめかみに直撃する寸前でピタリと止まる。

「な、なにをする?」

「あ、あら。パトリック」

 僕だとわかると、彼女はそそくさとラケットを引いた。ラクロスとは直接攻撃が認められているスポーツだったのか。

「なにかご用でして?」

「そうだが……君は一人で練習してるのか?」

 本題に入る前に何気なく聞いてみると、彼女は大げさに首を横に振って否定した。

「ちょっと体を動かしているだけですわ。大層な事ではなくてよ」

「つまり自主練習だろう」

「まあ……そうとも言いますけど」

 しぶしぶフェリスは認めた。

 努力を人に見せることを良しとしないのか、あるいは単に恥ずかしいからか。彼女が負けず嫌いなのは知っている。そして負けたくない対象が誰なのかも。

 運動神経は決して高い方ではないが、その性格はムードメーカーに向いているかもしれない。

「今月半ばにⅦ組との体育勝負があるのは知っているな。君にメンバーに入ってもらいたいのだが」

 さっそく用件を伝えると、彼女は驚いた表情を浮かべた。ずいぶん戸惑っているようだ。

「わ、(わたくし)がですか?」

「Ⅶ組に勝ちたい相手がいるんだろう。だからこうやって練習をしているんじゃないのか」

「それは……」

 うつむいてフェリスは黙考する。

「ライバルとして対抗するいい機会じゃないか」

「私は友人として対等でいたいだけです。ですが――」

 彼女は顔を上げた。

「お誘いには乗らせて頂きます。ラクロス以外でアリサと勝負したことはありませんし、定期テストでは……ちょっとだけ負けてますし」

 負けず嫌いというよりは、フェリスの原動力はプライドの高さか。それでこそだと思う。貴族とは誇りの上に成り立つものだ。  

「当日まではオペレッタの稽古と体育大会の特訓のかけもちだ。忙しくなるぞ」

「望むところですわ」

 フェリスはぐっとラケットを握りしめる。

 そういえば自主練習の途中に邪魔をしたのだった。長居するのも本意ではない。

 しかしグラウンドを離れる前にこれだけは訊いておこう。

「他に戦力になりそうな貴族生徒はいないだろうか? 二年でもいい」

 人数が少ないと言っても、さすがに貴族生徒の全員は把握していない。人に紹介してもらった方がてっとり早そうだった。

 メンバーには、二人までなら二年も入れていいと聞いている。

 Ⅶ組に比べて人数が少なくなることが予想され、かつ向こうには二年の編入生がいる。ある程度戦力を均等にする為の措置で、これはサラ教官も了承済みらしい。

「急に言われても……あ? んんー……ど、どうしましょう……」

 フェリスには思い当たる名前があるようだが、それを口にするべきか激しく悩んでいる。

 心を決めたらしく、彼女は重い口を開いた。

「あの……あまりお勧めはしませんが」

「かまわない。選ぶかどうかは僕が決める」

 まるで呪いの言葉でも発するかのように、フェリスは低くなった声でぼそりと告げた。

「マルガリータさん」

 

 

 そういえばあの女も貴族生徒だった。確かドレスデン家――男爵位と記憶している。極限まで肥大化した男爵イモの間違いではないかと思ったこともあったが、例のグランローズにまつわる物語は僕も知っていた。彼女が現代のグランローゼというのは、この上ない品名詐称のような気もしてならないが。

 聞けば先月に、Ⅶ組女子と“小競り合い”をしてグラウンドを荒野に変えたとか。

 この時間、彼女は調理室にいることが多いという。

「ひいああああ!!」

 本校舎に入ろうとしたところで、いきなりの悲鳴。

 誰かがこちらに走ってきていた。防水用のブーツにハンチング帽、背に掲げた釣竿。

 彼には覚えがあった。Ⅱ組のケネス・レイクロードだ。中庭の池やアノール川で釣りをしている姿が印象に残っている。

 誰かに追われているのか。しかしケネスの背後には誰も見えない。

「パトリック君!? 僕を助けてくれ!」

「な、なにからだ?」

 ほとんど話をしたことがない僕に救いを求めてくるとは、よほどの緊急事態らしい。

 彼は素早い動きで僕のそばに立つと、ひどく焦って辺りを見回している。呼吸は荒く、肩はがたがたと震えていた。

「少しは落ち着け。状況を説明して――」

「おやおや」

 穏やかな声が聞こえた。声は前後左右のどこからでもない。上、と理解した時、それは空から降り立った。

「ひいっ!」

「やあ、ケネス君。」

 白髪交じりの初老の男性が、軽やかな着地を決める。この男はどこから降ってきたのか。

 よくよく見てみれば、知った人物だった。

「あなたは用務員の……」

「お話をさせて頂くのは初めてでしたかな。私はガイラーという名でね。記憶の隅にでも留めてもらえれば光栄だよ。パトリック・ハイアームズ君」

 僕の名前は知られていた。四大名門の一角なのだから、当たり前と言えば当たり前か。

 彼が現れるなり、ケネスはこの世の終わりのような顔をして固まっている。

 僕と彼をセットにして、ねぶるようように視線を這わせたガイラーはその口許をにたりと歪ませた。

「悪くないね」

 背中に冷たいものが走る。知らずの内に嫌な汗が滲んでいた。

「ケネスに用か?」

「ふふ、彼がフィッシングに勤しんでいたのでね。その背を眺めていたら、ついハンティングをしたくなったのだよ」

 意味がわからないが、ケネスは怯えている。とりあえずこの用務員には消えてもらおう。

「放課後とは言え、勤務時間内だろう。通常の業務に戻るがいい」

 わずかな制止のあと、目を(しばたた)かせたガイラーは、わざとらしく両腕を大きく開いた。

「これは私としたことが。君の言う通りだ。秋口の落ち葉は厄介だからね」

「ならば無駄口を叩かず本分を全うすることだ」

「その憮然とした言い様。実にいいね」

 そう言って、彼はズボンのポケットからペンを二本取り出した。それを僕と、僕の袖にすがり付くケネスとの間に掲げるように交差させる。

「ふむ。『傲岸不遜と温厚篤実。~純白は秋風に溶けて』と言ったところかな」

 すっと踵を返したガイラーは背中越しに言う。

「今はただ育みたまえ。機が熟した時、私は再び君達の前に現れよう」

 落ち葉が風に舞い、一瞬視界が奪われる。その刹那に、用務員の姿は消えていた。

「何だったんだ? ……おい、いい加減に離れるがいい」

 腰にしがみついたままのケネスを引きはがす。

「ありがとう、君のおかげで助かった。お礼にどんな魚でも釣らしてもらうよ」

「いや、結構だ」

 そんな礼の仕方は初めて聞いた。

 改めてケネスを見返すと、白い学院服が目に留まる。それが専用のウェアみたいな着こなしなので、あまりイメージにないが、彼もれっきとした貴族生徒だ。

 運動能力は未知数だが、釣りはそこそこの体力、そして忍耐力も必要と聞く。いけるかもしれない。

「礼というなら、一つ頼みたいことがあるのだが」

 

 

 成り行きではあったがケネスも出場メンバーとなった。同行するケネスを引き連れて、調理室のある二階へと向かう。

「体育大会か。僕には向かなさそうだけど」

「競技次第だろう。種目はハインリッヒ教頭とサラ教官が、各自の割り当て数だけ自由に決めるらしい。普通の種目が出てくればいいが」

 特に予測不能なのがサラ教官だ。山の中でのサバイバルなど課してくるんじゃないだろうか。そこまでいくと、体育という領域を軽く踏み越えている気がする。

 ぼやきながら歩を進め、程なく調理室前に辿り着いた。

 マルガリータか。戦力としては申し分ないが、応じてくれるかは微妙なところだ。 

「じゃあ入るよ」

「ん? ああ」

 考え事をしていて、足が止まっていた。先行したケネスが調理室の扉を開こうとした、その時。

 ズドン! と大砲が発射されたような爆音が轟き、扉が内側から吹き飛んだ。廊下の壁に扉もろとも叩きつけられたケネスは、ずるりと床にくずおれ、そのまま扉の下敷きになってしまう。

「グッフォッフォッ……」

 獣の唸るような笑い声が、腹の底を震わせた。もわもわと白煙が充満する室内に、大きな影がうごめいている。

「ついにできたわ。ラブクッキー改が。これで……グフッ」

 いくつもの災厄が組み合わさって、救いのない何かが生まれたらしい。

 というかくさい。すごい異臭だ。あの女、自称クッキーに何を混入させた。

「あとはラッピングをして……ムフォッ」

 ものすごく行きたくないが、行くしかあるまい。セレスタンにガスマスクを用意させておけばよかった。

「Ⅰ組のパトリックだ。ごふっ! 少し話があるのだが……げふっ!?」

 ダメだ。この白煙は侵入者を阻む結界か何かか。滞留するそれらを吸い込んだ時点で、意識が遠退いていく。吹雪の山中を進むよりも危険だ。とてもそばまで近付いて話など出来ない。

「引き返さねば……!」

 諦めて振り返るが出口はもう見えなかった。がむしゃらに扉に向かうも、全くたどり着けない。まだ数歩しか踏み入っていないのに、すでに方向感覚が狂っている。

「ケネスっ! いるか、僕を助け――」

 そういえばケネスは扉の下敷きになっていた。くそ、視界がかすむ。手足が痺れる。

 ここ、まで……か。

「こっちよ!」

 苦し紛れに突き出した腕を誰かが掴んだ。しなやかで細い指という感覚があったが、その顔を見る前に、僕の意識は闇の中へと落ちていった。

 

 

 カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ます。消毒液の匂いで、そこが保健室だと分かった。となりのベッドにはケネスも寝かされている。

「むう……」

 ゆっくりと体を起こしてみる。若干頭がふらついた。

 僕に気付いたベアトリクス教官が、椅子から立ち上がってこっちに近付いてきた。

「大事ないようね。おとなりの彼も、もうすぐ気付くと思うわ」

 手早く血圧や脈拍を計りながら、教官は笑いかけてくる。

「この時間は調理室に近付いちゃダメよ。でもさすがにニコラス君からも注意してもらわないとね。体調不良者が後を絶たないわ」

 困ったように肩をすくめ、ベアトリクス教官は「パトリック君はもう大丈夫そうですよ」と誰かに声をかけた。

「本当ですか。よかった」

 ぱたぱたと小さな足音が近付いてくる

 ベッドスペースのカーテンをめくったのは、知っている顔だった。Ⅱ組の女子生徒で、名前はブリジット。同じフェンシング部のアランと一緒にいるのをよく目にする。

「彼女があなた達を保健室まで連れて来てくれたのよ」

「そうだったか。感謝する」

「楽器の片付け中に気付いたの。音楽室と調理室は近いから」

 音楽室。彼女は吹奏楽部か。

「でもどうして調理室に入ったの? マルガリータさんに用事?」

「そうだ。実は――」

 ブリジットにも事のあらましを説明する。 

「なるほど。それでマルガリータさんに……メンバーにするにはいいと思うけど」

 けど、の後は言われなくても分かる。ハイリスク過ぎた。仲間にしたとしても、陣地に野放しはできない不安感がある。なんなら鎖が必要だ。

「当てはないだろうか? 君も貴族生徒なら誰かよさそうな人を……む」

 言いながら思い立つ。

「よければ君がメンバーに加わってくれないか? ブリジット」

 しばし呆けていたが、すぐに彼女はぶんぶんとかぶりを振った。

「む、無理よ! 私そんなに運動得意じゃないし、Ⅶ組には友達のラウラもいるし」

「純粋な運動勝負ばかり出て来るとも思えん。手先の器用さが求められる種目もあるだろう。あと衛生兵的な存在としても活躍できそうだ」

「え、衛生兵って。そんなに危険なの?」

「あ、いや。可能性の話だ」

「別に私じゃなくても……他にもっと適任がいそうな気がするわ」

 まるで応じる気配がない。誰かを説得するなどの経験はほとんどないが、こういう場合どうしたらいいのだろうか。

 ふとラケットを振り続けていたフェリスの姿を思い出す。

 ダメで元々。とりあえず話してみる。

「友人とはただそばにいるだけのものなのか?」

「え?」

「話したり、行動を共にするのもいいだろう。だが時に競い合い、互いを高め合うことも必要ではないのか。それは友人同士だからできることではないのか?」

 ただ付き従う者達とは絶対にできないことだ。それは求めることはおろか、今まで思うことすらなかったことだ。

 半分は自分に問いかけるように、頭に浮かんだままの言葉を紡ぐ。

「正直、僕はその感覚があまりわからない。ただ……友人というのは対等なものではないのか?」

 フェリスはそうありたいと望んでいた。

 ブリジットの瞳が僕を見返してくる。

「私はラウラと同じ立場でお話をするし、どちらが上で下かなんて考えたこともないわ。それはラウラもきっと同じ」

 少しブリジットの語調が強くなる。不快にさせたのか。慣れないことなど、やはりするものではなかった。

「すまない。余計なことを言ったようだ」

「けど、あなたのいう事は分からなくない。お互いが本気になることで理解できることもある、ということよね?」

 それが最終的に僕が言いたかったことなのかは、実は自分でも判然としなかった。彼女が納得してくれたのならそれでいいが。

「何だかパトリックってイメージと違う人ね」

「どこから得たイメージだ。まあ、どうせアラン辺りだろう」

「どうかしら?」

 はぐらかすように言って、彼女は口元を緩めた。

「どこまで力になれるかは分からないけど、人数が必要なんでしょう。私もメンバーに入るわ」

「いいのか?」

「考えが変わったの」

 なぜ急に。意外に気まぐれな性格なのか。

 ともかくこれで三人目。事務仕事に戻っているベアトリクス教官は、にこにこと笑んでいる。

 一応順調にメンバー集めはすすんでいる――のだろうか。

 

 

 ここからは一人でいいと断ったのだが、ブリジットは僕達の体調がまだ気にかかるとお節介なことを言い、ケネスは暗くなったらどこに潜まれているか分からないと意味不明なことを言い、結局二人を連れ立って歩くことになった。

 学生会館二階にて。

「僕は遠慮しておくよ。その代わり君達の勇姿はファインダーに収めさせてもらうさ」

 物は試しにと頼みに行ったのは写真部である。しかしフィデリオ部長には応じてもらえなかった。

「どうしようかしら。二年生は二人まではいいのよね。協力してくれそうな人いるかしら」

「馬術部のランベルト先輩とかどうかな」

「あの人は多分無理だろう」 

 馬以外のことには、無頓着のような気がする。それに馬術部は学院祭で大掛かりな出し物をすると聞くし、音頭を取るのはランベルト先輩だろうから、どのみちメンバーには入れそうもない。

 二年で戦力になる人間と言われて連想するのは、かのアンゼリカ・ログナーだが、彼女は先日学院を去っている。もっとも、いたとしても僕は彼女に声を掛けなかっただろうが。

「サロンにはあまり役立ちそうなのもいないしな」

 廊下を引き返し、三階に繋がる階段を見上げながらそうぼやく。二人はサロンに顔を出したことがほとんどないらしく、ピンと来ていないようだ。

 僕が一声発せばおそらく人数は集まる。しかしそれではダメなのだ。

 有象無象の寄せ集めでは、あのⅦ組に勝つことなど到底出来ない。個人としてなら渡り合うことも出来るだろうが、チームとして戦った場合、圧倒的な差をつけられるだろう。悔しいが、これは事実だ。

「いったん外に出るぞ。これ以上は時間の無駄だ」

 一階に引き返し、途中食堂を眺めてみるものの、声を掛けられそうな生徒はやはりいない。

 外に出ると、すでに夕焼け空だった。

「パトリック?」

 不意に名を呼ばれる。近付いてきたのはフェリスだった。

「練習は切り上げたのか?」

「先ほどね。メンバー集めは順調ですの? あら、後ろのお二人はもしかして」

 フェリスの視線が、ケネスとブリジットに向いた。

「うん、僕達も出場することになったんだ」

「よろしくね、フェリスさん」

 一礼で返したフェリスは、落ち着かない様子で辺りを見回した。

「それで……その、マルガリータさんは?」

「それが話が出来る状態ではなくてな。人数差を補うために彼女の力は借りたいのだが」

 制御できれば、の話ではあるが。ちなみに競技毎の出場人数を制限するそうなので、こちらの人数をⅦ組側と合わせる必要はない。ないが、リザーバーは多いに越したことはない。

 彼女との交渉が出来なかったことを伝えると、またフェリスは難しい顔をして、下を向いたり、上を向いたり、果てはその場でクルクルと回り始める。何の儀式だ。

 ややあって動きを止めると、彼女はいくつかの質問をしてきた。

「人数は足りてないのですわね?」

「見ての通りだ」

「マルガリータさんの力は必要なのですわね?」

「Ⅶ組と張り合う為にはな」

 そこで言葉を区切り、フェリスは息を吸う。

「二年生枠は空いていまして?」

「まだ二人分残っているが」

 何かを諦めたように彼女は肩を落とし、「わかりました」と毒杯をあおるような苦しげな声で告げた。

「マルガリータさんを制御できる、唯一の方法の元に案内しますわ」

 

 

 屋上の扉をくぐると、フェリスはある一角を指差した。

 その先には白い学院服を身にまとい、あかね色の空を物憂げに見上げる男子生徒が一人。

「ふっ、燃えるような夕日が僕の未来を祝福しているようではないか」

 台詞の練習だろうか。劇系の文化祭の出し物は一年Ⅰ組だけだと思っていたが。申し訳なさそうな、やや恥ずかしそうな声音でフェリスが言った。

「ヴィンセント・フロラルド。私の兄です」

「あの人がそうなのか……」

 フェリスから聞くところによると、マルガリータ女子は、あのヴィンセント先輩に恋をしているらしい。

 身もふたもなく言ってしまえば、彼を餌にマルガリータをチームに引き入れ、引いてはその抑止力となってもらうのが目的だ。

「いつも自信満々ですが、お兄様は運動神経が壊滅的なのです。しかも自分で気付いていないという有様ですわ」

 君と似ているじゃないか。

 喉元まで出かかった言葉を、かろうじて飲み込んだ。

「でもいいんですの? 貴重な二年生枠をお兄様で埋めてしまって」

「それでマルガリータがメンバーに入るなら十分過ぎる」

 たそがれるヴィンセント先輩の元へ全員で向かう。今回の説得はフェリスが買って出てくれた。

「お兄様、少し宜しくて?」

「おお、我が最愛の妹よ。この兄に何か用かな?」

「実はお願いがありまして。ぜひ協力して頂きたいことが――」

「見つけましたわ。ヴィンセントさまぁ……」

 野太い声がフェリスの言葉をさえぎった。

 屋上の入口に丸い物体がたたずんでいる。マルガリータだ。その手に持つのはラッピングされた包み紙。さっき作っていた得体の知れない死神クッキーに違いない。

「はひぃ! マ、ママ、マルガリータッ君!?」

「今日こそはラブクッキーを召し上がって頂きますわ」

 その姿を見ただけで青ざめている。いったい彼はどんなトラウマを抱えているのだ。

 あんなものを召し上がったら、召されるぞ。女神の御許に。

 マルガリータが歩み出た。その一歩の衝撃で、ズズンと腹の底まで震える。信じられない。屋上が揺れた。

 負けじとフェリスも前に出た。毅然とした態度だが、自殺行為に他ならない。

「あらあ、フェリスさん。邪魔をするのお?」

「ち、違いますわ。あなたにお願いしたい事があるのです」

 頬肉に押し拉げられた目をさらに細め、「お願いごとお?」と、マルガリータは首を傾げた。

「もうすぐⅦ組と貴族生徒の体育勝負があるのは知っているでしょう。あなたにもメンバーに加わって欲しいのですわ」

「なんで私が? いやよお、無理よお、怖いじゃなあい。こんなにか弱いのに。ねえ、ヴィンセントさま」

 なんのアピールだ。グラウンドを半壊させる女のどこにか弱さがある。

 身じろぎするごとに、あらゆる部位の肉が絞られ、ギチギチと圧のかかる音が聞こえる。それは蛇がとぐろを巻いて、獲物を絞め殺す様に似ていた。

「でしたら、お兄様もメンバーに加わると言ったらどうですか?」 

「フェリス、何を言っているのだ?」

「ちょっと静かにして下さいまし」

 兄を一蹴する妹。

「……さあ、マルガリータさんどうなさいますの。それにお兄様はこう言っていますわ。『マルガリータ君がメンバーに入るなら百人力だ。君の作ってくれたクッキーをいくらでも食べよう』と」

「フェリィース!?」

 ヴィンセント先輩の声が裏返った。

「それは本当かしらあ?」

「そんなわけ――ぐむっ」

 背後からブリジットが「ごめんなさい、先輩」と口を抑え込み、さらにその陰に隠れて「本当さ、僕は君のクッキーが食べたいんだ」と声色を変えたケネスが言う。

「……本当に?」

 再度確認するマルガリータ。

 フェリス、ケネス、ブリジットはヴィンセント先輩の頭を三人がかりで掴み、無理やりうなずかせた。

 マルガリータの口元が笑みの形に引き上がる。

「ムフォッ」

 これは承諾の『ムフォッ』だ。

 巻き込まれた先輩は不憫の一言に尽きるが、この際やむを得まい。実妹の許可が出ているわけだし、問題はないだろう。多分。

 包み紙からクッキーを取り出したマルガリータが、ゆっくりと迫る。

 逃れようとする先輩の体をケネスが抑え込み、ブリジットが頭の角度を固定し、フェリスが口を開かせた。

「フェリス、何のつもりなのだ! 兄に! この兄に!」

「可愛い妹の頼みですわ!」

「んー! サリファー! 僕を救うのだ、頼むからー!」

「お覚悟なさいませ!」

 太腕が突き出され、紫煙立ち昇るクッキーが『ずむっ』と彼の口中に押し込まれた。

「ぐふぉっ」

「グフォッ」

 重なる悲鳴と歓喜の声。

 たちまちに先輩の様子がおかしくなる。辺りをのたうち回り、肌の色が髪と同色の薄紫に変色し、口と鼻から黒い蒸気が噴き出し始めた。

 ……この人、魔獣とかに変身するんじゃないか。

 その様子を眺めていたマルガリータは、横たわる屍を不思議そうにのぞき込む。

「変ねえ。食べ合わせが悪かったのかしら?」

 本気で言っているらしい彼女を見て、ヴィンセント先輩一人では鎖代わりにすらならないことを知った。

 

 動かなくなったヴィンセント先輩は、マルガリータが責任を持って保健室まで送ることになった。もちろん約束なので、彼女もチームメンバーに加わるとのことだ。

 お姫様抱っこでマルガリータに連れ去られる先輩。あの邪まな目は気になるところだ。まっすぐに保健室に行ってくれればいいのだが。

 ブリジットが言った。

「またメンバー探しに行かないとね。でも誰か他にいるかしら」

 僕を入れて現時点で六名。せめて一名、枠を考えるなら二年生が欲しい。それも、人数の不利を打ち消すくらい、とびきり戦力になるような貴族生徒だ。

 どう考えてもあの人しかいなかった。

「僕にも当てがある。みんなついてきてくれ」

 屋上から場所を移し、練武場。

 今日は稽古日ではなかったが、その人は一人で鍛錬に励んでいた。

「――というわけなのですが、お力を貸して頂けませんか。フリーデル部長」

 フェンシング部部長、フリーデル。

 サーベル捌きは部内最強。僕でさえ成す術なく完封される。その実力は学内でも五指に入り、戦闘技術においては、あのアルゼイド家の息女と互角以上ではないかと噂されるほどだ。

 マルガリータとフリーデル部長を対Ⅶ組の切り札にできるなら、勝算も見えてこよう。

 話を聞き終えた部長は「そうねえ」と僕たちを一瞥した。

「パトリック。あなたがこの子達のリーダーなの?」

「成り行きで僕が声をかけ回ったので、別にリーダーというわけでは」

「でもあなたを中心に動いていたのよね?」

「まあ、一応そうなりますが」

「んー……よし!」

 諸手を打って、彼女は言う。

「いいわ。力を貸してあげる。可愛い後輩の為だもの」

「あ、ありがとうございます」

「ただし」

 フリーデル部長は持っていたサーベルを僕の胸に押し付けてきた。

「それが私に届いたらね」

 

 

 でたらめな強さだ。

 勝負を開始して、まだ十分と経っていない。だというのに、こちらはすでに満身創痍の疲労困憊だ。対してフリーデル部長は汗一つかいていない。

 サーベルを受ける度に、右腕の感覚が失せていく。体捌きについていけず、足がもつれて膝を付く。

 意地で相手をにらみ上げると、相変わらずの微笑を湛えている。

「どうしたの? もう終わり」

 彼女から出された条件は、サーベルが手から離れるか、足が立たなくなったら僕の負け。剣が届けば僕の勝ち。時間は無制限。

 侮辱されているのかと思う程のハンデだったが、正直それでも足りない。全く届かないのだ。

「ま、まだ」

 それでも立ち上がり、サーベルを構え、打突を繰り出す。

 一瞬の内に捌かれ、いなされ、弾かれた。流れを切らさないカウンターが、僕の脇腹をかすめていく。

「くっ」

「剣を目で追っちゃダメよ。相手の全体を捉えるようにしなさい」

 僕に対する指導を差し挟みながらも、手は止まらない。切り、突きの鮮やかな連撃が、視界の中に鋭い光線を刻む。

 間合いの取り合いにすらならない。受けて避けるのが精一杯だ。

「ふっ!」

 鈍った足の動きを見逃さず、フリーデル部長は即座にサーベルを引いた。

 突きが来る。頭では分かっていたが、体が先に言うことを聞かなくなった。どうにか一撃はかわしたものの、体勢を戻すことはもう出来ず、僕はその場に倒れ込んだ。

「パトリック!」

 後ろで三人が口々に僕の名を呼ぶ。うつ伏せに倒れたまま、そちらに首を向けることもできなかった。

 情けない姿だ。アランに見られなくてよかった。というか彼らも連れて来ない方が良かったかもしれない。

 最初から分かっていたじゃないか。

 この人は別格だ。抜群のセンスがあって、しかも継続した努力を惜しまない。地力も違えば積み上げてきた時間も違う。合理的で無駄の無い剣の動かし方が分かるのだろう。その為に体をどう使えばいいかが分かるのだろう。

 半年間、フェンシング部にいたのだ。彼女の実力は嫌というほど目にしてきた。

 勝てないことは最初から知っている。剣先くらいなら届くかもしれないと思ったのは、甘すぎる目算だった。

 なら、ここで伏せたまま終わるのか。

「……っ!」

 なんの為に僕は勝てない相手に挑んでいる。見苦しく土埃だらけになってまで。教頭から依頼を受けたから? 教頭の頼みなど断ろうと思えば断れたではないか。

 教官同士が競り合っているだけで、そもそも体育勝負とやらも受けてやる義務はなかったはずだ。

 なのになぜ、僕は。

 ――あの時、トリスタ駅でその声を聞いたのは偶然だった。

 

『兄様。その体育大会というのは、いつ開催されるんですか?』

 

 あの娘が僕達の勝負を見に来るかもしれない。

 初めて会った時は泣いていて、二度目に見た時は気を失っていて、まだまともに話さえできていない、あの娘が。

 優しげで、どこか儚げな、その声を聞いた時。 

 戦わずに背を向けたくない。無様な戦いはしたくない。何よりも負けたくない。

 理屈もなく、そう思った。

「……ぐ」

 奥歯を噛みしめる。

 認めたくないが、Ⅶ組は強い。こちらがどれだけの精鋭を集めても、決して楽な戦いにはならないだろう。

 だとしても。

 僕は絶対に退かないからな。帝国貴族として、ハイアームズ家の名に懸けて……違う、そうじゃない。

 戦うのは僕の意志だ。だから懸けるものは身分でも、家の名でもない。ただ、そう。

 僕自身の、誇りに懸けて。

 笑う膝を押さえて、両足を踏ん張る。不作法にも剣先を地に突き立て、必死に上体を持ち上げる。無理やりにサーベルを構えると、体中が軋みの音をあげた。

「はああっ!」

 全ての力を振り絞って繰り出す渾身の一突き。

 全然ダメだ。軸は定まっていないし、剣と体の動きがバラバラだ。こんな勢いだけの技が、部長相手に通じるはずもない。

 それでも腕を伸ばす。サーベルを突き出す。一歩でも前へ。少しでも遠くへ。

 ギィンと甲高い音がして、手に受けた衝撃が肩まで走る。

 気が付けばサーベルは僕の手から離れ、中空に半円の弧を描いていた。その行方は目で追いきれず、先に僕の両膝が折れる。

「勝負ありね」

「……承知していますよ。約束ですから」

「そうね、約束通り」

 彼女は腰を屈めると、僕の胸をトンと叩いた。

「私もメンバーに入るわ」

「は?」

「だから入るの」

「……もし情けをかけているつもりでしたら、こちらからお断りする。僕の剣はあなたに届かなかった」

「あら、ちゃんと届いたわよ?」

「からかうのはやめて頂きたい。どうみても剣は――」

「私、剣でなんて言ってないけど」

 僕の胸に当てていた手を離し、それを自分の胸に添えると、フリーデル部長は目許を緩めた。

「ちゃんと届いたわ」

 剣ではなくて、何が届いたというのか。

 もしかして部長の酔狂に付き合わされただけか? この人の考えていることは今一つ理解できない。

「パトリック!」

 フェリス達が駆け寄ってきた。

 虚勢だったが、フリーデル部長が差し出した手は借りず、何とか自力で立ち上がってみせる。遅れて部長も腰を上げた。

「やるからには勝つわよ。当日まで全員みっちり鍛えてあげるから。覚悟なさいな。ふふふ……」

 口調こそ穏やかだったが、目が本気だ。皆の顔がわかりやすく引きつっていた。

 彼女はさらに僕に近付くと、今度は額を人差し指でツンと突いて、一言告げた。 

「期待してるわよ、リーダー」

 

 ●

 

 貴族チームの選抜メンバーは七名で打ち止めだ。

 増やそうと思えば、まだ増やせるのだろうが、僕はもうこれでいいと思っていた。実力も、策も、持ち得る全てを費やして、このメンバーでⅦ組に勝ってみせる。

 やることは多い。考えることも多い。フリーデル部長の特訓など、想像するだけでえづきそうだ。

 空には薄闇がかっていた。もうすぐ日が暮れる。とりあえず帰ろう。今日は何だか疲れた。

 正門を抜けた時だった。

「パトリック」

 今日はよく名前を呼ばれる日だ。そして、またこの声である。リィン・シュバルツァーだ。

「君か。なぜまだ学院にいる?」

 そう聞いてみたが予測はついている。大方、誰かの依頼を受けて、学院中を走り回っていたのだろう。飽きもせずよくやる。まあ、今日に関しては人の事を言えないかもしれないが。

「少し頼まれ事があって。あっちこっち動く羽目になったんだ」

 正解だ。予想通り過ぎて、返す言葉も浮かばない。

「そういえばパトリックも依頼を受けていたんだったな。そっちは片付いたのか?」

「当たり前だ。僕を誰だと思っている」

「ははは、悪い」

 それにしてもこの気安さは何とかならんのか。あのフェリスだって入学当初は僕の名に恐縮していたぞ。慣れた会話をするようになったのは、ここ最近のことだ。だというのに、この男は最初からではないか。

 最初から僕を対等に見ていた。

「……ふん」

「パトリック?」

 苛立たしいことだ。全く持って。君なんかが僕と対等などと。本当に、おかしな話だ。

「Ⅶ組のリーダーだったな。確か」

「え? ああ、いつの間にかそう呼ばれているが」

「僕も今日、いつの間にかリーダーになった」

「そうなのか?」

 意味が分かっていなさそうだが、構わず続ける。 

「Ⅶ組との勝負、勝つのは僕達だ」

「俺達だって負けるつもりはない。全力で迎え討つ」

 そうでなくては困る。リーダー同士、雌雄を決する時だ。 

「楽しみにしておこう。せいぜい準備は怠らないことだな」

 返答は待たず、僕は彼に背を向ける。

 10月17日。決戦の幕が上がるのはその日。

 フェリス、ケネス、ブリジット、マルガリータ、ヴィンセント先輩、フリーデル部長。

 僕が背中を預ける仲間だ。

 七人で必ず君たちに勝ってみせる。

 

 

 ~FIN

 

 

 

 

 

 最終話『Trails of Red and White』に続く。

 

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。全てのインターミッション回は最終話に繋がるお話なんですが、今回はⅦ組に対抗する貴族サイドの一幕でした。
主役格はパトリックぼっちゃま。もう10月なので態度も軟化し、少しずつ周囲を慮れる考えも持ち始めています。
冒頭での彼なら、多分体面を気にし、勝つだけのチームを目指し、まとめ役にはとてもなれなかったでしょう。集団におけるムードメーカーの重要性にも、友人の在り様にも気付けなかったと思います
三章でやらかしたぼっちゃまは株価大暴落でしたが、章を追うごとに成長が見れていい感じでしたね。終盤のセレスタンとのサブイベントは特にお気に入りです。
Ⅱではエリゼ参戦も決まり、彼女との絡みもあることから、パトリックにもスポット参戦が期待できるところでしょうか。

今まで『対等』と呼べる存在が限られていたパトリック。頼れる仲間を得て、いざⅦ組との決戦へ。

ようやく役者が出揃い、最終話のタイトルコールもできました。もうしばしお付き合い下されば何よりです。

では予告を。次は『貴族達の放課後』でラウラとユーシスに水路に落とされた二匹の魔獣と、最近不幸続きのマキアスとのお話です。
次回『レーグニッツ王国』でお送りします。 

お楽しみ頂ければ幸いです。


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レーグニッツ王国(前編)

 十月の初旬。

 日々忙しいのは士官学院生として当たり前のことだが、今日は放課後に少し時間が取れた。

 そこで前々からやろうと考えていた実家の掃除を、今日の内に済ましてしまうことにした。

 僕より遥かに多忙な父さんが実家で過ごすことはほとんどなく、あっても寝泊まりや休憩に使うくらいなので、どうしても家の管理がおろそかになってしまう。

 そんなわけで、僕はヘイムダルの実家まで出掛けることにしたのだった。

「うーん。思った以上に汚れがたまっているな。一日で終わればいいが」

 ぼやきながら雑巾をしぼり、今一度部屋の中に視線を巡らしてみる。部屋の隅には視認できるほどに肥大化した埃の塊が散見され、それだけで今日の清掃が長丁場になりそうなことを予感させた。

 まったく、一人で来なくてよかった。

「ねえマキアス、これはもう捨てていいかな?」

 とりあえずテーブルから拭こうとした時、雑誌を両腕に抱えたエリオットが近付いてくる。

「帝国時報だけは置いててくれ。父さんが読み返すかもしれないから」

 その類の情報誌は帝都庁に一揃いしているとは思うが、念の為だ。

「これは手強いな。洗剤はどこだ?」

「下の戸棚を開けてくれ。そこにあったと思う」

 キッチンではスポンジたわしを片手に、ガイウスが水垢と格闘している。

「二人とも助かるよ。僕一人だったら一日では終わらなかったかもしれない」

 改めて二人に礼を言う。

 昼時に何気なく実家の掃除に行くことを会話に出したら、エリオットとガイウスが手伝いを申し出てくれたのだ。

 持つべき者は親友だ。嫌味たっぷりに「せいぜい頑張るのだな」などと言ってのける、どこぞの鼻持ちならない男とは大違いだ。

「気にしないでよ、僕もこのあと実家に顔を出すつもりだしね」

「俺もクララ部長から画材の買い出しを頼まれていてな。ついでのようなものだ」

 本当に気がよくて穏やかな二人だ。全人類がエリオットとガイウスになれば、世界はきっと平和になるだろう。

 しばらく三人で手分けしてあちこち清掃していたのだが、思ったより時間が掛かるものだ。物を動かして配置換えしたりと、だんだん大掃除のようになってきていた。

 窓の外を見てみれば、すでに日が傾きかけている。もともとついでの手伝いだったんだ。これ以上二人を付き合わせることは出来ない。

「ここらで一旦切り上げよう。あとは僕一人で大丈夫だ。二人とも助かったよ」

「まだ結構やること残ってるし、遠慮しないでよ」

「うむ、中途半端になってしまう」

 エリオットもガイウスもまだ続けてくれるつもりらしい。素直にありがたいと思うが、好意に甘えてばかりいるのも、やはり申し訳なかった。

「二人とも用事があるんだろう。画材屋が閉まってもいけないし、遅くなったらフィオナさんと過ごす時間も減ってしまうぞ?」

「まだ店が閉まるような時間ではないと思うが……」

「姉さんは学院祭にも来てくれるし、話す機会はあるからさ」

 僕は首を横に振る。

「だったら時間が空いた時にでもまた手伝ってくれないか? 定期的に来ないと元通りに汚れてしまうしな。それで十分助かるんだ」

 それでも掃除途中だという事を気にしていたようだが、結局は二人ともうなずいてくれた。

「ありがとう。この埋め合わせはいずれさせてもらう。そうだな、とっておきのコーヒーでもごちそうさせてくれ」

 ガイウスとエリオットを送り出して、僕は一人片付けに戻るのだった。

 

 

《☆☆☆レーグニッツ王国★★★》

 

 

「ふう、大雑把には終わったな。細かなところはまた明日の放課後にやるとしよう」

 凝った首を回しながら、リビングのソファに背中を沈ませる。

 あの二人のおかげで、ずいぶんと早く一区切りができた。

「……少し休んだら二階も見ておくか。今日はここに泊まればいいし」

 実家掃除に赴くにあたっては泊りがけになるかもしれないので、すでにサラ教官に外泊届を手渡している。

 寮生が外泊するには届出を数日前に提出する必要があるが、サラ教官は『はいはーい、気をつけてね』と二つ返事で、当日に手渡したそれを簡単に受理してくれた。

 良く言えば融通が利き、悪く言えば適当。今更という所ではあるが、今回はそれが功を奏している。

 朝は三〇分も列車に揺られればトリスタに着くわけだし、授業に遅れる心配はない。

 実家でくつろぐのが目的ではないので、あまりゆっくりするつもりもないのだが、それでも一息つけるというか、安心するというか。

 気持ちが落ち着いたせいか、小腹が空いている自分に気が付いた。

「もうこんな時間か……」

 時刻は午後八時過ぎ。冷蔵庫や戸棚を確認してみたが、缶詰やちょっとした菓子類しかなかった。それはそうだ。僕も父さんも中々家には帰れないのに、生ものを置いておけるはずがない。

「外に食べに行くしかないか。下手なレストランより、シャロンさんの作るご飯の方がうまいんだけどな」

 最近舌が肥えてきた気がする。学生会館の食堂メニューも悪くないのだが、しかし彼女の腕には及ぶべくもない。一宿の為に寮での夕飯は食べ逃すわけだが、それが今になって惜しくなってきた。

 まあ、仕方ない。

 どこに行こう。大通りに出るか。トラムに乗ってちょっと遠出してみるか。そんなことを思いながら、財布を手にソファーから立ち上がる。

 その時だった。

 ――ガサリ。

 どこかから音がした。気のせいにするには聞き逃せないほどの、確かな物音。

「……なんだ?」

 二階じゃない。この一階からだ。リビングに素早く視線を走らす。

 何もいない。キッチンでもない。別室はいくつかあるが、先の掃除で大体は部屋の確認をしている。

 そういえばと視線を向けたのは、階段の陰にある一つのドア。物置代わりに使っている部屋だ。乱雑さ加減は三人掛かりでも手に負えないだろうと、今日はまだ開けてすらいない。

「な、なにかいるのか?」

 脳裏を巡るのはいくつかの可能性。

 可愛い方から挙げれば、例えば近所の猫が侵入しているとか。可愛くない方を挙げれば、知事である父さんのスキャンダルを掴もうと、何物かが潜入しているとか。

 小さく息を飲んで、ゆっくりとそこに近付く。

 途中、テーブルにあった置物を手にした。いつだったか、父さんが出張先で買ってきたお土産だ。陶器製で重量感もある。ささやかだが今はこれを護身用の武器にするしかない。

「誰かいるのなら返事しろ! こっちには散弾銃もあるんだぞ」

 無い。そんな物は無い。特別実習じゃないんだ。手続きもなく、危険物を所持して列車に乗れるものか。

 一応家の中には父さんの散弾銃があるにはあるが、最悪な事に保管場所はあの物置の中だった。

 声を荒げても反応はない。

 気味が悪いくらいの静けさの中、僕はドアノブに手をかける。意を決して勢いよく扉を開けた。

「っ……!」

 手に持った置物を振り上げて部屋に踏み入り、辺りを素早く警戒する。

 部屋の中は薄闇でよく見えない。慎重な手探りで天井灯のスイッチを入れた。

 照らし出される室内。雑多な物置なのは相変わらずだったが、すぐにある異変に気が付いた。

 部屋の中心近く、床がぼろぼろになって穴が空いている。子供一人が通れるかどうかといった小さな破孔だが、いつの間にこんなことになっていたんだろう。

「床が腐食して底が抜けたのか?」

 雨水が漏れ出したわけでもなさそうなのに、腐食なんてあるのだろうか。それに穴周りの木屑がやけに多いような。

 かがみこんで、損傷具合を確認しようとした時だった。視界の端で何かが動いた。

 もぞもぞと棚下の隙間にうごめく、黒い何かと、青い何か。

「だあああ!?」

 それを目にして、叫ばずにはいられなかった。

 後じさって壁に背を強くぶつけ、手から落ちた置物がつま先を直撃し、蹴躓いてさらに横転する。

 上に下に目まぐるしく回転する視界の中で、そいつらは確かにそこにいた。

 小さな唸り声を上げて、物陰からぬっと現れたその“二匹”。色々な亜種が各地に生息しているから、何度も見たことがあるし、実際に襲われたことだってある。

 獣型で黒い毛並に覆われ、背中に小さな羽を生やした方は《飛び猫》。

 透き通るように青く、ぶよぶよとしたスライム状の体の中に、瞳のような赤い球体を泳がせているのが《ドローメ》だ。

 つまりは魔獣である。

「な、ななな、なんでこんなところに!?」

 この穴から出てきたのか? 地下水道を通って? 確かに水道内には魔獣がいるが、居住区画には入り込めないようにバリケードやネットが張り巡らされている。どこかに綻びがあったのか? いや、そんなことは後回しだ。

 動揺は収まらない。体勢を戻そうとして果たせず、さらに足をもつれさせて、僕は尻もちを付いた。

 二匹の魔獣が動く。

 まずい。武器はない。《ARCUS》でアーツを使用するしか。

 こいつらに対しての効果的な属性は何だったか。普段から攻撃アーツなど使い慣れないからとっさには思い出せない。

 まごついている間に、魔獣が近付いて――

「……っ!?」

 近付いては来なかった。

 身じろぎしたかと思ったら、二匹ともその場に力なくくずおれてしまった。目線だけはこちらに上げて来るものの、襲ってくる気配はない。

「弱っている……のか?」

 僥倖だった。軍に通報するべきか。その前に地区の保安部への連絡が先か。あるいはここでとどめを刺す方が早いか。動けないのなら安心してアーツの駆動準備に入れる。

 この二匹は今、自分に敵意を向けていない。衰弱が激しくその気力もないのだろう。

 だからこれは、わずかな気の迷いだったのかもしれない。

 今まで戦ってきた魔獣は、どんなに体力を削っても最後まで牙を立ててきた。だから敵という認識は崩れなかったし、引き金を引くことにも躊躇いはなかった。

 だがこいつらは何だ。種族も違うくせに、互いが互いを庇うように寄り添い合っている。まるで同じ苦難を乗り越えた――そう、仲間みたいに。

 微かに震え、見返してくるその瞳。

 僕はどうしてもアーツを駆動することが出来なかった。

 肩の力を抜いて一つ息を吐き、踵を返してキッチンに向かう。

 それがどういうリスクかも分かっているつもりだったし、万が一の可能性も度外視したわけでもない。自分で馬鹿な事をしている自覚もある。

「さあ、飲むんだ」

 それでも僕は、彼らに水を差し出した。

 

 

 

 次の日の昼休み。僕は図書館に足を運んでいた。

 目当ての本は魔獣図鑑とか魔獣大全とか、そんな感じのだ。探してみるとそれなりの関連書物が見つかった。

「これは『進化の系譜』に『生物分類学』か。こういうのじゃないな」

 とはいえどこに参考になる情報があるか分からないので、一応の流し読みはしてみる。

 しばらく目を通していると、興味深い記述はいくつかあった。

 動物と魔獣の違いについてだ。例えば猫は動物、飛び猫は魔獣と呼ばれる。だが実の所は“生物”という一括りであって、厳密な線引きがあるわけではないらしい。

 魔獣と言う名は、環境や食習慣など様々な要因から人間と共生できない害獣を指しての総称で、一般に呼び名が定着しているが正式名称ではない。

 数は少ないが、生態が判明している一部の個体に関しては、科目の分類も徐々になされてきているそうだ。まあ、実体がない系や魔法生物みたいなやつは、さすがに既存の枠にははまらないようだが。

 魔獣についての研究が進んできたのはここ最近のことで、その生態や行動原理には不明点も多いのだが、現時点での大多数の傾向としては以下のものが挙げられる。

 

➀特性上、人に懐くなどの行為は見られず、飼育に成功した例は未だ報告されていない。

➁飼育ではないが、古代遺物(アーティファクト)や一部の特殊器具を用いて操ることは可能とされている。だがそれも確立された技術ではない。

➂七耀石の欠(セピス)片を好む性質があり、種によっては捕食行動をせず、導力自体を活動源とする個体も認められる。

 

 意外に面白いな。人と共生できれば動物、できなければ魔獣か。

 大雑把な括りだが、ある意味分かりやすい。学問として成立してくれば、もう少し理論的な大別の定義も生まれてくるのだろうが。セピスに対する執着反応というのもキーポイントになりそうだ。転じてそのような行動を促す体内器官でも見つかれば、それが魔獣と動物を決定的に分ける要因にも――

「あら、マキアスさん?」

 流し読みのつもりだったのに、いつの間にか集中していたらしい。声を掛けられるまでまったく気が付かなかった。

 我に返って振り向くと、エマ君とその後ろに控えるラウラとユーシスが視界に入る。なんだか珍しい組み合わせだ。

「導力学のレポートで、参考になりそうな本をお二人に紹介しに来たんです。マキアスさんも課題関係の本を探しに来たんですか?」

「あ……いや、僕は」

 つい返答に窮してしまう。対魔獣戦闘の対策だとか適当な事を言えなかったのは、心に秘密事を抱えていたせいか。

 いつも通り「ふん」とユーシスが鼻で笑う。相変わらず一秒で不快にしてくれるな、この男は。

「知識を溜め込むのはいいが、使いどころで発揮できなければ意味がないぞ」

 第一声が嫌味とはこの上なく苛立たしい。その横からラウラも「そうだな、識って扱えて初めて会得と言うのだ」と尻馬に乗ってくる。

 彼女に悪気はないのだろうが、なぜか責められている心地だ。

「見たところ図鑑ではないか、課題には関係なさそうだが――むっ?」

 卓上に開いていた本をのぞき込むなり、ユーシスの表情が渋くなった。

「魔獣図鑑に生態学か。これはまた珍しい――なっ?」

 続いたラウラも同じような反応を見せる。エマ君は別に普通だ。この二人だけどうしたんだ?

「……なぜそのページを開いている」

「ああ。聞かせてもらいたい」

「なんだ君たち。このページがどうかしたのか?」

 図鑑のページはもちろん飛び猫とドローメだ。こちらの事情を知らなければ、別に気を留める内容ではないはずだが。

 二人の動きがぎこちなくなり、何となく歯切れも悪くなる。

「別に大した理由じゃない。たまたま開いたページがここだっただけだ」

 そう答えると、ラウラとユーシスは顔を見合わせて『ふっ』と安堵したような笑みを見せた。

「まあ、そうだろうな。紛らわしい真似はよすがいい」

「そのようなページを開くなどと、時と場所を考えた方がよいぞ」

「なんでだ!?」

 僕の問いに、二人は異口同音に言う。

『気にするな……うむ』

 リンクしているのかと思うほどの連携ぶりだ。最後の『うむ』など芸術的とさえ思えるシンクロ具合だったぞ。

 エマ君から本を紹介してもらうと、二人は足早に図書館から出ていってしまった。

 一体何だったんだ?

 

 

 放課後、僕はまた実家に足を運んでいた。

 学院祭のステージ練習もあったりで、本来ならこの時期にここまで自由には動けない。しかし幸か不幸か僕の担当はボーカルだ。いずれはもう一人のボーカルであるユーシスとの歌い合わせが必要になってくるのだが、今は歌詞やメロディ暗記を含むソロパートでの練習がメインだったりする。

 つまり演奏組と違ってボーカル組は全体練習にまだ参加しなくていい分、余裕が無いなりにも多少の時間は作れるのだ。

 そういうわけで昨日と同じくヘイムダル、家の玄関扉前に僕は立っている。

 目的は掃除の続きもあるが……それ以上に、あの二匹だ。

「一応ケージに入れておいたから大丈夫だとは思うが……」

 物置にあった小さな柵や針金を組み合わせて、簡易のケージをあの二匹の周りに作っておいた。手作りなので幾分心許なさはあるが、あの憔悴ぶりなら十分だろう。

 結局、昨日あの二匹は水を飲まなかった。飛び猫はともかく、ドローメが水分を必要としているかは不明だが。図鑑には魔獣の詳しい生態までは乗っておらず、その辺りの事は分からないままだ。

 とりあえず鍵を回し、慎重にドアを開く。

「なっ……!?」

 そして絶句。

 リビングのテーブルや床は傷だらけ。キッチンの水道は根元が折れて、噴水のように水が噴き出している。

 食器類はことごとく砕け、お気に入りのコーヒーカップはかろうじて取っ手だけ発見することができた。

 父さんの為に残しておいた帝国時報は無残に引き裂かれて、あちらこちらに散らばっている。

「なあああ!!」

 なんだ、この惨状は。あいつら動けないんじゃなかったのか。

 僕は仮にもお前達を助けてやろうとしたんだぞ。少し回復したら、せめて地下水道ぐらいには戻してやろうと思っていたんだ。

 だというのに、何をしてくれたんだ。許さん、許さんぞ。やはり昨日通報しておけばよかった。

 怒りに全身を震わせ、鋭くなった視線を部屋の隅に置いていたケージに飛ばす。案の定、ズタズタにされている。

「どこだ!」

 ドタバタと家中を探し回る。もう魔獣に対する怯えだとか、竦みだとかは一切ない。というか一生懸命掃除したばかりなんだぞ。一体どうしてくれるんだ。いや、むしろどうしてくれようか。

 机下、棚上、物置、キッチン、果ては戸棚の中と荒々しく探し回り、最終的に階段の物陰で奴らを発見した。

「見つけたぞ、覚悟しろ!」

 ぜえぜえと肩で呼吸をしながら、びしりと指を指してやる。

 しかし、そいつら二匹を視界に収めるや、僕の怒りは急速に萎えていった。

 飛び猫は床に突っ伏したまま、もう僕を見上げても来ないし、ドローメはくたびれたように触覚を垂らし、体躯も昨日より一回り小さくなっている気がする。 

「……自業自得だろう」

 ケージから出ようとして、あるいはこの家から出ようとして、なけなしの力を振り絞って暴れたんだろう。

 飲まず食わずでそんなことをして、さらに弱ってるじゃないか

 飛び猫の目が微かに動き、僕を見た。呼吸がどんどん小さくなっていく。

「くそっ!」

 僕はなにをやってるんだ。気付いた時にはまた小皿に水を用意して、飛び猫の前に置いていた。

「早く飲むんだ。少しでもいい」

 もう水をすする力もないのか。舌の乾き具合からして脱水は明らかだ。そうだ、だったら手拭いを水に浸して口元に直接当ててやれば。

「ちょっと待ってろ。手拭いはどこだったか、えっと……痛っ!」

 焦る気持ちが視野を狭めたのか、手拭いを探しに行く途中で、手を戸棚に引っかけてしまった。いくつかのお菓子や食器、コーヒー粉の入った瓶がけたたましい音と一緒に床に散乱する。

 インスタントのコーヒー粉があるのは意外だった。父さんも僕もコーヒーは挽きたてを好む。多分、豆を挽く時間のない時用に買って、そして買ったことすら忘れたものだろう。

 結構な音を立てたので、二匹を刺激していないか気になって振り返ると、魔獣達は小さな反応を見せていた。

 動けないまでも飛び猫はヒクヒクと鼻先を動かし、ドローメも触手を微震させ何かを探っているようだった。

 辺りに立ち昇る香ばしい匂い。鼻先と触覚は確実にその方向を向いている。

「ま、まさか、コーヒー……なのか?」

 

 どうせ水は飲まないんだし物は試しにと、少しミルクを混ぜて冷ましたコーヒーを飛び猫の皿にいれてやった。

 驚いた。最初は先ほどと同じように鼻をヒクヒク動かしていたが、少しすると自分から顔を近づけ、コーヒーに舌をつけたのだ。一口、二口と続き、徐々に皿の底が見えてくる。

 意外だった。コーヒーを好む魔獣がいたなんて。もしくは僕の淹れたコーヒーの味が、種族を越えて魔獣にも伝わったということだろうか。

 とにかく水分を取れるならまずはいい。問題はもう一匹の方だ。

「ドローメか。こいつはそもそも水を飲むのか?」

 さっきから水分には興味を示さないし、コーヒーには反応を見せたが、どこから飲ませたらいいか分からないし。頭からかけてみるのもいいが、それで怒らせたら厄介だしな。

「うーん……あ」

 悩んでいると、ふと今日読んだ資料の一文が頭に浮かんだ。

 

 “――種によっては捕食行動をせず、導力自体を活動源とする個体も認められる――”

 

 だとすれば、直接導力の補充をさせてやればいいのかもしれない。たとえば導力を詰めたカプセル――《EPチャージ》なんて使えないだろうか。

 ……それは難しい。あれはオーブメントにセットして導力を伝搬させる類のものだ。外の充填ケースをそのままで、中身の導力だけ吸い取るなんて無理だろう。

「なら、これでどうだ?」

 適当なアーツを駆動させる。《ARCUS》を淡い光が包み、それを待機状態のまま、そっとドローメに近づけてやった。

「何もしないからな。……驚くなよ」

 ドローメの赤い一つ目が僕に向き、頭部から生えている二本の触手がゆらりと動く。背に冷や汗が流れ、思わず体を引きそうになったが、そこは何とか踏み止まった。

 触手の先がほのかに輝き、オーブメントの光を吸い取っていく。《ARCUS》の燐光は薄れていくが、反比例するようにドローメの体表は艶やかさを取り戻していった。

 飛び猫もコーヒーを飲み終え、首を持ち上げるくらいには気力を回復している。

 どうにか二匹の命を繋ぎ止めることができた。力が抜けて、その場にへたり込む。

「よかった」

 自分の口から出た言葉に驚いた。こいつらを助けられて、僕は安堵したのか。

 その時、家のチャイムが鳴った。

 家の惨状を見られると色々まずいので、少しだけドアを開いて隙間から素早く外に出る。結構な怪しい挙動だったと思うが、玄関先に立っていた男性は特に何も言わなかった。

 中年くらいの男性だ。私服だったが、胸に見覚えのあるバッジを付けている。これは確か地区の――

「私は地区の保安委員の者なのですが。レーグニッツさんのお宅ですね?」

 保安委員というのは地区毎に担当があって、例えば町内会の一役職と置き換えれば分かりやすいだろうか。

 町ではなく地区だから担当規模は広くない。区の治安維持が主な目的で、軍とは関係ない民間自警団のようなものだ。

「どうかしましたか?」

「いえ、昼過ぎ頃からずいぶん大きな音がしていると連絡を受けまして、それで伺わせてもらったのですが」

 あいつらが暴れていた時か。

「ああ、それは――」

 ちょうどいい。彼に魔獣の事を言って引き取ってもらおう。瀕死の状態は脱したし、そうすれば――

「あ……」

「レーグニッツさん?」

 そうすれば、どうなる。

 魔獣だぞ。犬や猫とは違うんだ。保護になんてなるわけがない。おそらくその場で処分される。しかしここで匿ったとしても、いつまでもあの二匹を家に置いておける訳がない。もっと回復すれば、今日みたいに暴れるかもしれない。

 言うか、言うまいか。

 どちらの選択が正しいかなんて分かり切っている。言うべきだ。

 だけど……あの二匹は普通の魔獣とは違う気がする。なぜかは分からないが、そう感じる。

 思い込みかもしれない。気のせいかもしれない。少なくとも、まったく論理的じゃない。

 でも、僕は――

「それは僕が大掃除していた音ですね」

「大掃除?」

「父との二人暮らしなんですが、僕は寮住まいで中々家には戻れなくて。それで時間を見つけて掃除に足を運んだんです。ですが近隣の方の迷惑になったようですね。申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げると、彼は得心いったようで「そうでしたか、いえ、それならばいいんです」と朗らかに笑った。

「最近何かと物騒でしてね。これは失礼しました」

「い、いえ」

 やってしまったという、焦りにも似た感情が去来する。まだ前言撤回は可能だ。逆に今言わないと、後で問題になった時に弁解の余地さえない。

「それでは私はこれで」

 保安部の男性は帰ろうとする。

「あ、あの!」

 とっさに呼び止める。

「まだ何か?」

「……その、気をつけてお帰り下さい」

 笑みを返して、遠ざかっていく背中。

 彼の姿が見えなくなってから、額と手の汗を拭う。

「これは、とんでもないことになったな……皆に相談するか、それとも――」

 いずれにせよ、もう引き返せない。退路は自分で絶ってしまった。

 家の中ではゴソゴソと奴らが動き始めた音がしている。

「とりあえず家の片付けだ! 父さんが帰ってきたらどうするんだ、これ!?」 

 こうして僕と魔獣との、騒々しい付き合いが始まった。

 

 

 ~後編に続く~

 

 

 




前編をお付き合い頂きありがとうございます。
今回もまた異色のお話で、主役はマキアス。何かと報われない彼に、またトラブルが舞い込んできました。

元を正せば、ユーシスとラウラの魔獣スローイングが原因なのですが、当然マキアスがそれを知るはずもなく、がっつり巻き込まれた形ですね。

話は変わりますが閃Ⅱに続々パーティ参戦のようですが、リンク戦闘する以上、皆《ARCUS》を持っているんでしょうか。エリゼとか特に。その辺りも気になる所ですね。
そしてポーラ様がカレイジャスに乗ってる……しかも、その後ろには馬が。なるほど、ユーシスが新Sクラフトで使う馬はあそこから投下されるのか。同じ部活のコンビネーションというやつですな。うんうん、二人が仲良くなってよかった。そして馬に合掌。

話を戻しまして。
結構RPGにおけるモンスターの定義って気になってたりします。自然生物なのかどうか。その辺りの設定がある作品は好きです。

ではでは、マキアスと二匹の魔獣の物語はどこに行き着くのか。

次回もお楽しみ頂ければ幸いです。


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レーグニッツ王国(後編)

 僕が魔獣を匿って数日が経った。

 コーヒーによる水分補給とオーブメントによる導力補充によって、飛び猫とドローメは少しずつ回復の兆しを見せていた。

 が、動けるようになればなるほど、家財道具は破壊されていく。

「うわあああ!」

 今日も家の扉を開けるなり叫ばずにはいられない。

 あちらこちらが傷だらけ。壁紙には鋭利な爪で引っかいたような、乱れのない三本のラインが幾重にも刻まれている。当然のように食器類は粉々で、白い破片が床に散乱していた。

 おそらくドローメがアーツを使用したのだろう。キッチンの蛇口からまた水が噴き出したらしいが、その状態でガチガチで凍らされており、リビングからでも巨大な氷のオブジェが見て取れた。

 なんだこれ。昨日よりひどいじゃないか。

「あ、あいつら!」

 もはや恒例行事として、僕は二匹を探し回る。ゴソゴソという音ですぐに察した。またあそこ――階段横の物陰だ。

 あの場所が定位置なのか、大体はそこにいることが多い。例にもれず、今回もそこで魔獣達と対面する。

「見つけたぞ。毎度毎度、やってくれるな」

 僕がこめかみをひくつかせながら近づいて行くと、飛び猫が「シャー!」と牙を剥いてきた。

「おっと!? こ、こいつ……」

 体力が戻ってきたらこれか。

 やはり人には慣れず、共生などできない魔獣――だと思っていたが、この数日間、威嚇はしてくるものの直接危害を加えて来ることはなかった。ドローメも……相変わらずよくわからないが、敵意は向けて来ない。

 普通の魔獣とは違う。僕がそう思うのも、問答無用で襲って来ないこの辺りの行動が要因だ。

 とはいえ、こちらの言う事は全く聞かないのだが。

「うーん……」

 困った果てに視線を向けたのは、あいつらが地下水道から這い出てきた時の物置の穴。

 これ以上魔獣が増えるのは勘弁願いたいので、ベニヤ板を重ねて釘打ちし、簡単な補修を済ませておいた。

 最終的にはあそこに帰すつもりだが、なるべく早くしたほうがいいのかもしれない。

 

 

 次の日。

 僕が食事を提供する存在だということは、どうやら理解しているみたいだ。

 飛び猫にはコーヒー牛乳と生肉――何を食べるか分からないので、とりあえず生肉を食べさせている――を皿に入れてやり、ドローメには相変わらずオーブメントを使って導力補充をしてやる。

 その間は二匹とも大人しいものだった。

「だいぶ回復してきてるようだが……そろそろ地下水道に帰してもいいだろうか」

 なにより、これ以上家の物が壊されるとまずい。また音を聞いた保安部の人が来て、あろうことか家の中を点検でもされたら大変なことになる。

 今日一日様子を見て、問題がなければ明日に地下水道へ。そうだな、そうしよう。

「また今日も片付けか……」

 片付かないどころか、どんどん散らかっていく。それも明日までの話であるが。

 ひとまず清掃開始だ。とりあえず見た目の体裁だけでも整えておこう。ちょっと整頓するだけでも、かなりの労力を使いそうだ。

 諦め半分で足をリビングに向けた時、どこからか風が吹いた。窓は閉めてあるはずなのに、一体どこから。

「あ……!」

 バサバサと音がしたので魔獣たちの方に振り返ると、背中の羽をばたつかせて飛び猫が宙に浮いていた。

「お前、飛べるようになったの――!?」

 最後の「か」を言おうとしたら、あごに重い衝撃が走って、後頭部にまで痛みが響く。

「がっ!?」

 猛スピードで頭突きをかまされた。

 理解が追いついた時、僕の目には天井しか映っておらず、大きくのけぞりながら床に大の字で倒れ込んだ。

 元気になって一番にやることが、恩人へ電光石火の一撃か。お前の思考回路はどうなっている。

「うう……い、痛い」

 奥歯がじんじん痺れる。舌を噛まなくてよかった。

 あごをさすりながら身を起こすと、その間にも飛び猫はリビング中を縦横無尽に飛び回っている。わずかながら無事に残っていたティーカップは残らず崩落し、唯一被害を受けていなかった天井にも引っかき傷が量産されていった。

「お、おい、やめろ」

 やめるわけもない。

 背後からはドローメが触手をムチのように使って、僕のふくらはぎにビシビシ攻撃を与えてくる。地味に痛い。なんだ、こいつら。まさか僕を始末しようとしているのか、あるいは元気になったアピールか? いや、それはないか。 

「あ!」

 ドローメの触手を振り払いつつ、飛び猫を捕らえようとしている最中、僕は気付いた。テーブル近くの床に、食器でも雑誌でもなく、見覚えのある四角い物が落ちていることに。

 焦って近付き、急いで拾い上げる。

 それは僕がこの家で一番大切にしているものだった。

「姉さんとの家族写真……!」

 写真に複製はない。この一枚だけなんだ。もし傷ついていたりしたら僕は――

 おそるおそる表面を確認してみる。

「よ、よかった」

 額縁に小さな傷はついていたが、写真自体は無事だった。安堵すると同時に、湧いてくる怒り。そうだ、こいつらは魔獣。人が大切にしている物の価値なんてわかるわけがない。

 額縁を持つ指先に力が入り、僕は二匹をにらみつけた。

「お前たち、いい加減にしないか!」

 怒鳴ると、魔獣たちの動きがピタリと止まる。荒いだ声に反応したのか。どうせ言葉など通じない。でも僕は怒らずにはいられなかった。

「いいか、食器を何十枚割ろうが、壁紙をどれだけ破こうがかまわない。だけどこれは違う。壊れたら直せないし、買い替えることもできないんだ!」

 魔獣にこんなことを言ってどうする。元を正せば、こいつらの事をかくまっておきながら、写真を出しっ放しにしていた僕が悪い。やり場のない憤りと、妙な居心地の悪さだけが胸に残る。

「どうせお前たちは明日、地下水道に戻るんだ……」 

 それは誰に対しての呟きだったのか。僕は手にした写真を自分の部屋に運び、扉をしっかりと施錠する。さすがに扉をぶち抜くまではしないだろうから、まずはこれで大丈夫だろう。

 なんだかもう片付ける気がしない。沈黙したまま床に佇む二匹を残し、今日は早々に寮へと帰ることにした。

 

 

 さらに次の日。

 実家に向かう足取りがどことなく重い。足取りだけじゃなく、気分もだ。授業中も、昼休み中も、放課後も、列車に揺られる間も、そして今も。

 導力トラムに乗ってオスト地区へ。少しばかり歩くと、間もなく家が見えてきた。

 魔獣たちがあの状態だったら、地下水道に戻しても大丈夫そうだ。ベニヤ板を外して、物置の穴から二匹を下ろし、そしてもう一度床を修繕する。それで全てが元通り。

 地下のバリケード類が破損している可能性もあるから、後で地下水道の住居区画の点検を保安部に依頼しようかと思ったが、一週間もしたら定期点検の時期だったので、この際の連絡はやめておくことにした。個人が依頼するのも変な話だし、点検の依頼理由をでっちあげるのも面倒だしな。

 家に到着し、扉を開ける。玄関に入ると昨日と同じく荒れた室内。

 まあ、そうだろう。昨日と変わっていないだけマシか。

 そう思って、違和感を覚えた。昨日と変わっていないのだ。今までのことを考えれば、さらに雑多なことになっているはずなのに。

 どうしてだ、今日は暴れなかったということか? 

「あいつらはどこだ……?」

 リビングにはいない。キッチンも同様。いつもの階段脇の定位置にもいなかった。一応物置部屋も開けてみたが、やはりいない。家から外に出た可能性もよぎったが、玄関扉の鍵は閉まっていたし、どこの窓も割れている様子がない。

「一階にはいない。二階か?」

 焦燥感。探し回る内に息が切れる。何をした、というより、何があった、という気持ちの方が強い。この期に及んであいつらの身を案じているのか、僕は。

「くそっ」

 悪態をついて階段を登り、僕の部屋の前でようやく見つけた。

 威嚇するわけでも、暴れるわけでもなく、飛び猫とドローメはそこにいた。部屋の戸口の前で、ただ静かに僕を見返してくる。

「お前たち、そこで何をしているんだ?」

 答えが返ってくるはずもなく、二匹はまた視線を扉へと戻した。

 どことなく頭を垂れている感じだ。元気がないというか、人間の動作に置き換えるならしょぼくれているというか――そう、反省。反省しているように見える。

「まさか……」

 動物にも感情は存在する。たとえば親に窘められたりした時などは、その傾向が顕著になると言う。ならば魔獣も然りか。だが仮に反省しているとして、何にだ? 僕の部屋に対して反省する事なんてあるわけが――

「もしかして、昨日のことか?」

 昨日叱りつけて、そして僕の部屋に片付けた姉さんとの写真。

 まさかこの二匹はそのことを気にしているのか。そんなことがあり得るのか。人間の、いや僕の大切にしている物がわかるというのか。しかもそれを壊しかけたことに対して反省の意を見せるなどと、そんなことが。

「あの写真は僕にとってかけがえのないものだ。お前たちにそのことが理解できるのか?」

 改めて二匹の様子を窺う。やはり、そうとしか思えなかった。そうだ、今思ったばかりじゃないか。魔獣にも感情が存在すると。

 ただそれは種族や集団として大まかで単純な、生存本能に基づく画一的なものだと、そう考えていた。

 でもこいつらは違う。そう確信する。どういう理由で何が原因か、あるいは突然変異かも知れないが、この二匹はそういった枠組みから外れている気がする。

 人間と同じ、というには些か乱暴だが、種として同じ姿を持ちながら、心は個別にそれぞれが違う形をしている。その一点においては、僕たちと変わらないんじゃないだろうか。

「……自分でも馬鹿馬鹿しい考えだな」

 眼鏡を押し上げてから、二匹に背を向けて一階に戻る。

 階段を下りる途中、僕は足を止めて言った。 

「今日は……そうだな。インスタントじゃなくて本物のコーヒーの味を教えてやる」

 それから「もう怒ってないからな」と付け加える。

 程なくして、飛び猫とドローメはたどたどしく一階に戻って来た。

 

 ●

 

「待ってよ、マキアス」

 授業を終えて、早足で正門へと向かう僕を呼び止めたのはエリオットだった。その横にはガイウスもいる。こうして並ぶと特に身長差が際立つコンビだ。

「どうしたんだ、二人とも?」

「あ、ううん。大したことじゃないんだけどさ」

 そう前置きしてから、エリオットは続けた。

「最近マキアスって学院を出るの早いよね。でも寮に帰って来るのは遅いし、もしかして実家掃除が終わってなくてヘイムダルまで通ってるんじゃない?」

 どきりと心臓が高鳴った。無意識に泳ぎかけた目を慌てて留めるが、それよりも早く「そうか。そうなのだな」と得心いったようにガイウスが腕を組む。

「すまなかった。やはりあの時に手伝っておけばよかった」 

「い、いや、それは」

 違う、と言いかけて、言葉を口中で濁す。言ったところで理由を問われたら、なんと返せばいいか、とっさには思いつかなかったのだ。

 結果、肯定も否定もできず、曖昧な返答をすることになってしまった。

「そ、掃除はもうすぐ終わるんだ。だから、その……心配はいらない」

「だけど毎日大変そうだし、よかったら僕たちが今から手伝いに行こうか?」

 それはまずい。気持ちはとてもありがたいが、しかし僕の家には魔獣がいる。二人があいつらを見てどのような反応をするかは想像に難くない。

「申し出は嬉しいんだが、エリオットはステージの演奏指導があるだろう?」

「それなら大丈夫だよ。今日を含めて三日間、どうしても放課後に演奏メンバーがそろわなくてさ。全体練習は寮に帰ってからすることになったんだ。って、その話になった時、マキアスも教室にいたよね?」

 そうだったのか。そういえば昼休憩の時にそんな会話があったような。別の事を考えていたから聞き逃してしまったのか。別の事というのは、言わずもがなだが。

「すまない、うっかりしていた。それに片付け自体は大したことないんだ。夕の全体練習には間に合うように帰るつもりだから、心配しないでくれ」

 僕とて仲間に隠し事などしたくない。だが今回は事情が事情だ。下手に話せば、余計に心配をかけることになる。

「なるべく早く戻る。大丈夫、ボーカルの練習は片付けながらでもやってるさ」

 そう言って肩をすくめてみせたが、少しわざとらしかったかもしれない。

 ガイウスとエリオットの表情がわずかに曇った。チェスで策を練ることは得意なのに、こういう隠し事はどうやら下手らしい。

 これ以上ボロが出る前に、「悪いが列車の時間があるから、僕はこれで」と半ば強引に話を切らせてもらう。

 言ってしまいたい。でも言えない。

 葛藤を抱えたまま、トリスタ駅に向かう。全てが終わったらちゃんと話そう。その時にはきっと笑い話になっている。

 そう、全てが終わったら――つまり、あいつらを地下に帰したら。

 心の中でその言葉を呟くと、なぜか胸が詰まったような心地になった。

 

 

「ほら挽き立てだ。冷ましてはあるが気をつけて飲むんだぞ」

 実家に着くや、僕は二匹の為にコーヒーを淹れる。今日からは手間をかけての焙煎コーヒーだ。

 皿のコーヒーを一舐めした飛び猫は、一瞬渋い表情を見せたが、すぐに癖になったらしくグイグイ飲み進めていく。

 その様子を見てか、ドローメが赤い一つ目を僕に向けてきた。

「わかっているさ。お前の分もあるぞ」

 少し大きめのマグカップにコーヒーを淹れて、近くに置いてやる。するとドローメの触手がカップの中に伸び、ゴキュリゴキュリという脈動と共に、触手を通じてコーヒーが吸収されていった。

「はは、いい飲みっぷりだ」

 ドローメの透き通るようなブルーの体表が、濃いブラウンに染まっていく。最初は心配したが、さしたる問題はないようだった。

「しばらくしたら元の色に戻るし、相変わらず謎の生態だよな……」

 リビングのソファーに座り、家の中に視線を巡らしてみる。

 問題というなら、一つの問題は改善した。

 魔獣達が暴れなくなったのだ。

 どうやら日中も比較的大人しくしているらしい。壁の傷まではさすがに未補修だが、新たに何かを壊すことは、もうなかった。

 威嚇もしてこない。それどころか、あいつらから僕に近寄って来るほどだ。

「それじゃあ僕も頂こうかな。なんだ、お前たち。これは僕の分だぞ」

 物欲しそうに僕のコーヒーカップを見つめてくる二匹。

 仕方ないな、まったく。

「わかった。新しいのを淹れてやるから」

 立ち上がり、キッチンにある豆挽き用のミルまで向かう

 途中ふと思い立ち、僕は二匹に振り返った。いつまでもお前呼ばわりじゃ何かと不便だ。

「……そうだな、名前を付けてやるか」

 魔獣達に交互に視線を往復させ、頭の中で色々と思案してみる。

 こういうのは直感が大事だ。幸いそこまで苦心することなく、すぐに二つの名が浮かんだ。

 まずは飛び猫から。

「よし。お前は毛並が黒いし、クロだ」

 猫の名前としてもありだろう。続いてドローメ。

「そうだな。なんかこう、体がダルダルしてるし、お前はルーダだ」

 うん、いい名前だと思う。二匹とも分かっていなさそうだったが、こいつらなら呼び続けている内にすぐに理解するだろう。

「ルーダにクロ。名前の記念だ。とっておきのコーヒーを期待していてくれよ」

 待ちきれないのか、二匹は僕の後をついてくる。

 よく見ればクロは愛嬌のある顔をしてるし、毛並はとても艶やかだ。ルーダのプルプル具合は至極の弾力加減だし、触手のしなやかさは他のドローメと一線を画すものがある。

「ふふ」

 なんだろうな。なぜ僕が得意気になるんだろう。

 

 ●

 

 寮に戻ればステージ練習。日中は厳しい学院カリキュラム。そして放課後にはヘイムダル。

 忙しい。体はもちろん疲れている。だが不思議と気力は充実していた。

 今日も今日とてあいつらの様子を見に行く。変わりはないだろうが、やはり気にかかるのだ。

「ルーダ、クロ。今帰ったぞ」

 扉を開いて一声発すると、いつもの物陰から二匹が顔を出してくる。

「そうだな。いつも中挽きだから、今日は粗挽きコーヒーにしてみるか。ああ、わかっている。ルーダはブラックで、クロはミルクと砂糖多めだな」

 もう好みまで分かるようになってきていた。

 コーヒーを飲み終え、リビングで一服。

 もう二匹ともすっかり元気だ。その気になれば、いつでも地下に戻すことができる。

 だが……

 もう少しくらいなら、ここに居ても大丈夫じゃないか? 

 悪さはしないし、家にいる分には誰かを驚かすこともない。だから、あとちょっとだけなら。

 その時、チャイムが鳴った。

「だ、誰だ?」

 まさかまた保安委員の人か。しかしここ数日は騒いだりしていないはずだが。

 二匹をソファーの陰に隠し、慎重に玄関扉を開ける。

「あ、マキアスいたよ」

「思った通りだったな」

 戸口の外に立っていたのは、エリオットとガイウスだった。

「ふ、二人とも……どうしたんだ、一体」

「昨日言ったでしょ。明日まで放課後の全体練習はないって」

「それで訪ねさせてもらったのだ」

 何のために、と聞きかけたが、すぐに理解した。この二人がわざわざ足を運んでくれる理由なんて、一つしかない。

「押しかける形になってごめん。でも片付けを手伝うって言っても、マキアスは遠慮してるみたいだったから」

「い、いや、それは……」

 声が上ずる。継ぐ言葉を探していると、「もしかして迷惑だったか?」とガイウスが困った顔を向けてきた。

「う、うう……」

 もうだめだ。ここまで来てくれた二人を追い返すことはとてもできない。正直に話すしかない。

「わかった。家の中に入ってくれ……ただ何があっても驚かないでくれ」

「そんなに片付けが残ってるんだ? 掃除のし甲斐がありそうだよね」

「ふふ、まったくだ。気を引き締めよう」

 そうじゃない。そういうことじゃないんだ。

 穏やかに笑む二人を連れて、僕はリビングに進む。

 頼むぞ、二匹とも。大人しくしていてくれよ。

 そして、邂逅の時。

「ん、何か動いて……」

「……この気配」

 なんら勿体ぶることもなく、当然のようにルーダとクロはソファーの陰から現れた。

 目が点になった二人は、一拍の間のあと、

「まっ、まままま、魔獣っ!?」

 気を動転させ、足を滑らせたエリオットが尻もちをついて、わたわたと後じさる。この辺のリアクションは最初の僕と同じだった。

 一方のガイウスは一目散にキッチンまで走って、ほうきの柄に包丁を手早く括り付け、簡易の槍を作り上げていた。

「よし、いけるな」

 君は何がいけると思っているんだ。

 エリオットは体勢を戻すよりも早くアーツを駆動させているし、ガイウスはお手製の槍を構えて、じりじりと慎重に間合いを計っている。

「待つんだガイウス。エリオットも家の中でアーツはだめだ。とにかく二人とも落ち着いてくれ」

「で、でも!?」

「はあっ!」

 問答無用でガイウスが跳躍。鋭い刺突がクロを狙う。

 かろうじて槍先をかわしたクロは、宙を飛び回り反撃の体当たりを繰りだした。ほうきの柄で受け止めるものの、ガイウスは衝撃に押し負けて背後の戸棚に勢いよくぶつかった。

「ぐ、まだだ」

 すぐさま体勢を立て直し、再びガイウスは槍を構えて特攻した。

「やめろ、やめるんだ!」

 僕の叫びはどちらにも届かない。

 ルーダも興奮していた。ゼリー質の体が発光し、アーツ駆動状態に入っている。

 どうにかして収めなければ。僕は全員の中心に飛び出した。

「みんな動くんじゃない! ルーダもクロも落ち着け!」

「マキアス!?」

 驚いたように目を開くガイウスだったが、ひとまず槍を引いてくれた。しかし強く警戒している。

「大丈夫なんだ、この二匹は。こちらから攻撃しなければ何もしてこない」

「その保証はない。相手は魔獣だ。……いや待て。その口ぶりからすると、その二匹のことを何か知っている様だな」

「説明させてもらう。だからとにかく一度槍を離してくれ」

「……わかった」

 ガイウスから槍を受け取り、離れた壁に立てかける。

「いいか、この二匹は僕が――」

 ベキリ。説明しかけたところで、そんな音がした。音に遅れて事態に気付く。

 近くにあった戸棚が僕に向かって倒れてきている。ガイウスがぶつかったものだ。

 何日か前にルーダたちが暴れ回ったせいで、相当ガタついていた戸棚。

 応急処置としてつっかえ棒で固定していたのだが、さっきの衝撃でそれが完全に折れてしまっていた。

「う、うわあああ!」

「マキアス!」

「そこから離れろ!」

 もう間に合わない。押し潰される。

 頭だけは庇おうと身をすくめた時、青白い光が僕の周りに収束する。直後、床から丸太大の氷柱が勢いよく突き上がり、倒れてくる戸棚を一息に押し返した。

 かき消えていく導力光の残滓の中で、ルーダが触手を揺らしている。

「い、今のドローメのアーツだよね。もしかしてマキアスをかばったの?」

「まさか……」

 顔を見合わせるエリオットとガイウス。ほこりまみれになった服を払いながら、僕は立ち上がる。

「これでわかっただろう。この二匹は特別なんだ」

 

 ひとまず場が収まった後はソファーに二人を座らせ、事の詳細を説明した。

「なるほどな」

「うーん、僕たちに言えなかったのも何となくわかるよ」

 納得はしてくれたものの、さすがに手放しで警戒を解いてはおらず、エリオットとガイウスは何度も視線を魔獣に向けていた。

「このことは他言無用で頼みたい」

「で、でも」

「なにかあってからでは遅いのではないか。確かにあの魔獣たちはマキアスに危害は加えないようだが」

「そんなに長い期間にはならない。ステージ練習にも支障はきたさない」

 無用な心配をかけることも承知している。特にこの二人は、色々と気を遣うことだろう。だけど今回ばかりは僕のわがままを許して欲しい。

「……わかった、そこまで言うならその通りにしよう」

「うん、でも何かあったらすぐに相談してよね。力になるからさ」

 ガイウスがうなずき、エリオットも続く。

 こうなるのなら、最初から打ち明けていてもよかったかもしれない。心がどことなく軽くなった気がする。

「二人ともありがとう。なるべく僕が何とかしようと思う。だから心配しないでくれ」

 そう告げた直後、急に玄関の扉が開いた。

 人の家をノックもしないでドアを開けるなんて、一体どこのどいつだ。

 すぐに思い直す。そうなのだ。自分の家ならノックなどいらない。

「なんで鍵が開いているんだ……ん? ああ、マキアスが帰っていたのか。そちらはⅦ組の二人だね」

 父さん、何てタイミングだ。

 

 

 なぜ、その可能性を最初に考えておかなかったのか。

 父さんはほとんど家には帰って来ず、政庁の宿舎で寝泊まりすることが多い。それでも時々は息抜きがてらに、コーヒーを飲んだりと小休憩に戻って来ることがあるのだ。

 父さんにクロとルーダを見つかるわけにはいかない。絶対にだ。

「……エリオット、力になると言ってくれたよな。ガイウスも僕の言う通りにしようと言ってくれた」

 押し含める口調で言うと、強張った表情のエリオットとガイウスはぎこちなく首を縦に振る。毒を食らわば皿まで。何とかしてこの場を凌がなくては。

「知事閣下。お邪魔しています」

「お、お久しぶりです」

「ははは、楽にしてくれたまえ」

 立ち上がって硬く一礼したエリオットたちに、父さんは朗らかに笑いかける。

「いや、君らが寄ってくれているとは思いもしなかった。市内査察で近くを通りがかったついでに休憩にきたんだが、大した茶菓子の用意もなくて済まないね」

 荷物を置き、父さんもソファーに腰掛けた。

 僕たちはテーブルを挟んで、父さんと対面して座る。そして最悪な事に、クロとルーダは父さんが座るソファーの真裏にいた。

 少しでも後ろを振り向かれたらアウトだ。

「最近は忙しくてね。帝国各地へ実習に赴く君たちほどではないかもしれないが」

「ご、ご冗談を」

「畏まることはない。どうか気楽にくつろいで欲しい。……おや?」

 しばしの雑談の中、父さんが何かに気付く。その視線は戸棚に向いていた。

「マキアス、そういえば戸棚の食器がずいぶん少ないようだが」

「な、なにを言うんだ、父さん。前からあれくらいだったじゃないか」

 苦しい言い訳だ。戸棚いっぱいに重ねてあったはずの皿が、今や数えるほどしか残っていないのだから。

「そうだったか? いや家の事を任せっぱなしにして済まないな。ところで、あの壁の傷も前からあっただろうか」

 しまった。クロの引っかき傷だ。三本の爪痕がしっかり残ったままになっている。

「あれは、その、あれだ……なんだったっけ、エリオット?」

 返答に窮して、つい左隣のエリオットに振ってしまった。

「え? えーと、あれは、ほらあれだよね、ガイウス?」

 エリオットもとっさにはいい答えが出て来ず、助け船をさらに左のガイウスに求める。

「うむ。あれはだな、そう、俺たちの身長の伸び具合を測ろうとして刻んだのだ」

 多分それノルドの実家で、兄弟の成長具合を柱に印付けるとか、そんな感じのやつじゃないのか。

「ああ、んん? ちょっとわからないな」

 父さんの反応が正しい。なんで人の家で自分の身長をマーキングするんだ。しかし言ってしまった以上、突き通すしか道はない。

「実はそうなんだ。僕らの学院生活の思い出を残そうと思って」

「その年齢から急激に背が伸びることはあまりないと思うが……それは置いておくとして、あれはなんだ?」

 父さんはリビングの隅を指差した。そこに立てかけてあったのは、先ほどガイウスが作ったお手製の槍だ。

「我が家にあんな攻撃的なほうきはなかったはずだが」

「あれは、あれは……なあ、エリオット?」

「うん、なんだったかな……ねえ、ガイウス?」

 最終的にまたガイウスに振ってしまうが、それでも彼は応じてくれる。

「ネズミが出た時、駆除用にあると何かと便利と思ったのだ」

 また変な事を言い出した。

 そういえばガイウスは、僕以上に物事をごまかしたりするのが苦手だった。これが彼なりの精一杯なのだろう。

「あれで走り回るネズミを突き捕らえるのは至難の技と感じるが」

「ご安心を、知事閣下。技なら伝授しましょう」

 父さんから笑みが失せていく。

 エリオットの顔が青ざめた。それは父さんの心情を察してのことかと思ったが、そうではなかった。彼の視線を辿り、僕も理解する。

「……!」

 父さんの背後、背もたれ越しに触手がちらちらと踊っているではないか。

 ルーダ、今は大人しくするんだ。

 伝えようにも声は発せられない。焦れた足が震え出す。

「三人とも暑いのかね? そんなに額に汗を浮かべて」

「それよりそろそろ戻らなくて大丈夫なのか?」

 無理やり話題を変える。

 せっかく休憩に帰ってきた父さんには申し訳ないが、下手に今振り返られたら、この後の公務に支障がでるくらいのショックを受けかねない。

「おお、もうこんな時間か。そろそろ行かなくてはな」

 時計を一瞥しつつ、父さんは立ち上がる。

 悟られないように一息ついて、僕達も見送りのために玄関先へと出た。

「それじゃあ私はこれで失礼するが、ゆっくりしていってくれたまえ。……思い出作りも程々にな」

 あの壁紙は早めに張り替えておこう。

 最後に一つ言い残して、父さんは歩き出す。まだ数歩も進まない内だった。

「シャー!」

 家の中で、鳴き声が上がった。これはクロのコーヒーの催促だ。せめてあと十秒堪えてくれれば、何とかなったものを。

「ん、今……」

 父さんが訝しげに振り返る。

『シャ、シャーッ!』

 瞬間、三人そろって全力で叫び、クロの鳴き声をかき消した。

「……それはどういう意味かな」

「い、今学院で流行っているんだ。いってらっしゃいの挨拶みたいなものだから」

 いってらっシャーッいとか、ニュアンスとしてはそんな感じだ。

「若い子の流行はよく分からんな。まあ、行ってくるよ」

 再び歩き始めた父さんは「……レーグニッツの血。これも黒の宿命か」と、小さくつぶやいた。意味深だったが、意味は不明だ。

 父さんの姿が見えなくなると、今までの気疲れがどっと押し寄せてくる。

 僕達はその場にへたり込んだ。

 

 

 

 そしてまた、一日が経った。

 今日もトリスタ駅からヘイムダルに向かう。

 揺れる列車の中には僕の他にもう二人――エリオットとガイウスが乗っていた。

 実家に向かう本当の理由を知った二人だが、それでも同行を申し出てくれたのは、どうやら僕を案じてのことらしい。

 再三に渡って心配はいらないと伝えたのだが、エリオット達は、せめて乱雑なままの部屋片付けくらいは手伝うと言って半ば強引についてきたのだ。

 ヘイムダル駅まであと数分と近づいたあたりで、ガイウスが口を開く。

「それでマキアスはあの魔獣達をいつ地下水道に戻すのだ?」

「あ、ああ、そうだな」

 正直を言えば、今すぐにでも可能だ。早いか遅いかだけのことで、いずれ離れなければいけないことは僕にだって分かっている。だが一度地下に戻せば、おそらくもう二度と会えないだろう。

 それが心の引っ掛かりになって、決断を後伸ばしにさせていた。

 出すべき答えは見えている。後は僕が心を決めるだけ。心の準備だけ。

「早い内に、とは思っている」

 明確な日を口にすることが出来ず、僕はそうとしか答えられなかった。

 

 その時は前触れなくやってきた。

 オスト地区に到着すると、僕の家の前に一人の男性が立っていた。

「あの人は……」

 ちょっと前に訪ねてきた保安委員の人だ。

「あ、レーグニッツさん」

 彼は僕達に気付くと、足早に近寄ってくる。

「どうしたんですか?」

「近隣の方からまた連絡がありまして、なんでもレーグニッツさんの邸宅から魔獣の鳴き声がするとのことで」

 動揺を面に出すまいと必死だった。僕がいる時が大人しかっただけで、日中に鳴いていることもあったのか。

「とはいえ勝手に家に入る訳にもいかず、様子だけ見に来ていたんです」

 このタイミングで帰ってこられたのは幸運だった。父さんに連絡が入っていたら、かなりの騒動になっていただろう。

「一緒に家の中を確認させてもらっていいでしょうか? 万が一本当に魔獣が入り込んでいたら危険ですし、その場合は応援も要請します」

 横の二人が息を呑むのが分かった。「……マ、マキアスどうするの?」と、エリオットが小声で聞いてくる。

 どうもこうもない。来るべき時が来た。それも最悪の形で。責任は僕が取らないといけない。

「いえ、家の中の確認は僕達だけで行います」

 そう言うと、彼は眉をひそめた

「待って下さい。本当に魔獣がいたら危険だと――」

「この家の主はカール・レーグニッツ。もちろん知っているとは思いますが、現帝都知事です」

 相手の言葉を遮って続ける。それが何を意味するかは察したようで、彼は一瞬押し黙った。

「父の私室には外部の人間に見せてはいけない書類があると聞きます。どうかここは僕達に任せて下さい」

 そんな機密書類を実家に持ち帰るような軽率な真似を、父さんがするわけはない。だが、こう言ってしまえばそれ以上の追及は出来ないだろう。少々品のない手段ではあったが。

「で、ですが」

「心配はいりません。同行する彼らは父と面識もありますし、こう見えても僕らは士官学院生です。戦闘訓練は受けている上、今日は戦術オーブメントも持っている。それに物置には護身用のショットガンもあります。仮に……仮に魔獣がいたとしても遅れを取ることはないでしょう」

 僕はこんなに饒舌だったか。違う。言葉を発することで、頭の中を整理しようしているのか。

 しばらく黙考していたが、不承不承といった様子で、結局彼は納得してくれた。

「分かりました。しかし私にも地区の保安を預かる立場がありますので、十分経ったら確認に参加させて頂きたい」

「構いません。ではここでお待ちください。行こうか、エリオット、ガイウス」 

 今日はもうあいつらの為に、コーヒーを淹れてやることが出来そうにない。

 

 家の中に入り、室内灯のスイッチを入れる。二匹の姿は見えなかった。

「ルーダ、クロ?」

 呼びかけにも反応せず、いつもの階段脇にもいない。変だ。僕が帰ってきたら、必ず顔を出してくるのに。

 物置からガサリと音がした。

「……ここにいたのか」

 物置部屋の扉を開けると、二匹は初めて会った時のように、棚下のスペースに身を隠していた。

 もしかしたら、いつもと違う空気を感じ取っていたのかもしれない。

 エリオットとガイウスは何も言わず、僕を見守ってくれている。

「僕たちに残された時間は十分。お前達を逃がそうにも、割としっかり穴は塞いでしまったからな。さすがに十分では板を取り外せない」

 まごついていたら、保安委員が入ってくる。見つかったら駆除される。それがどのような方法でなのかは想像もつかないし、したくもない。

「……だったら」

 壁にかけてある父さんのショットガンを手に取った。さすがに弾を入れたままにはしていないので、そばに保管してあった銃弾をケースから取り出して、手動で装填していく。

「マキアス!?」

「待て、エリオット」

 慌てるエリオットを、ガイウスが制してくれる。それでいい。最後の決断は僕がしないといけない。

 銃弾の装填を終え、セーフティを解除した。いつでも撃てる。

 銃口を持ち上げるが、二匹は身じろぎもしない。ただ何も言わず、僕を見返してくる。

 その目だ。その瞳を見て惑ってしまったのが、そもそもの間違いだったのか。

 僕は眼鏡を外し、それを床に放り捨てる。カラカラと空虚な音が反響した。

「これで見なくて済む」

 静かにショットガンを構える。

 舌が乾く。喉の奥が締まるようだ。トリガーに掛ける指先が痺れてきた。引き金はこんなにも重いものだっただろうか。

 クロとルーダが棚下から這い出ようとした。

「っ!」

 引き金を引いた。激震する銃身。轟く銃声。吐き出される散弾。体全体に伝わる衝撃。

 視界がぼやけて滲んでいるのは、きっと眼鏡がないからだ。

 

「エリオット。すまないが、外で待ってる彼に説明してきてくれないか。銃声を聞いて驚いていると思う。魔獣はいたが適切に……処理したと。色々突っ込まれるとは思うが、上手く説得して帰ってもらって欲しい」

「う、うん、がんばってみるよ」

「恩に着る」

 エリオットは駆け足で玄関を出ていった。ガイウスが僕の背をぽんと叩く。

「それがお前の決めたことなら、そうするがいい」

「ああ」

 一度キッチンに戻り、ある物を用意してから、僕は今一度物置の中に足を踏み入れた。部屋の中程には歪な穴が空いている。眼鏡もろともショットガンで床板を撃ち抜いた、地下水道に続く穴だ。

「……クロ、ルーダ。こっちに来るんだ」

 大きな音に萎縮しているかと思ったが、二匹ともすんなり出てきた。

 まずはクロの首に、さっきキッチンから持ってきたそれを引っかけた。小さな筒が付いた首掛けで、中にはコーヒー豆が入っている。同じものをルーダには片方の触手、その根元に括り付けてやった。

 これでいつでもコーヒーの香りくらいは楽しめるはずだ。

「この穴から元いた場所へと戻るんだ」

 身振り手振りで促すも、二匹は動かない。

「元気でな」

 やはり動かない。

「さあ、行け。行くんだ!」

 口調を強めても、それでも動こうとしなかった。

 今日みたいなことがあった以上、どの道もうここにはいられない。昨日みたいに父さんが帰ってくることもある。僕も毎日はさすがに来られない。

 全部の状況が、僕たちの関係に限界を告げている。

 胸が痛い。心が軋む。

「僕は……っ」

 どうすればいい。この期に及んで、打開策を探し続けている自分がいる。どうにもならないと分かっているのに、諦められない、認められない自分がいる。

 嗚咽が漏れ、震える肩にガイウスが手を添えた。

「……俺とエリオットで一日考えてきたのだが、こんな案はどうだろうか?」

「え?」

 ガイウスはある提案をしてくれ、同時、説得に成功したらしいエリオットが戻って来る。

 彼らの話を聞き終わり、僕は目を丸くした。

 

 ●

 

 街道の景色があっという間に流れていく。導力バイクのサイドカーに収まる僕は、風の音に負けないよう声を張り上げた。

「すまないな、リィン。助かるよ」

 リィンがアンゼリカ先輩から譲り受けたという導力バイク。乗せてもらったのは初めてだが、この疾走感は中々のものだ。

「気にしないでくれ。運転練習も兼ねてるしな。トリスタまではもうちょっとだ。……ところで」

 リィンがちらりと僕を、いや、僕の膝上の荷物を一瞥した。

「その大きな荷物は何なんだ?」

 サイドカーの座席の半分が埋まるほどの、大きな麻袋を僕は抱えている。

「言ったじゃないか。実家から寮に運ぶ書籍類だって」

「それは聞いたが……さっきからその袋、何だかもぞもぞと動いていないか」

 うん、まあ、動いているな。主に羽やら触手やらが。

「走行中の振動でそう見えるんだろう」

「いや、それにしては動きが激しいような」

「それは気のせいだな。眼鏡の度が合っていないんじゃないか」

「俺は眼鏡をかけていないが」

 その後もリィンはちらちらとこちらを見てくるが、気付かぬふりで貫き通す。

 次第にトリスタの町が見えてきた。

 目指すは場所は、ただ一つ。

 誰にも迷惑をかけず、元いた場所とさほど変わらない環境で、かつ僕とも距離が近い場所。

 もうすぐ着くからな、お前達。

 

  

 

 

 

 ――後日談――

 

 水路を流れる水音がごうごうと壁を反響し、ただでさえ先の見通せないこの場所を、余計に物々しい雰囲気に変えている。

 旧校舎地下一階。薄暗い通路に複数の足音が響いていた。

 リィン、ユーシス、ラウラの三人である。

「今更、地下一階などを調べる必要があるのか?」

 道中、そんなことを言ったのはユーシスだ。応じるリィンは「ああ、一応な」と控えめの肯定を返す。

「下階層フロアが出来たら、上階層の構造も変わっているかもしれないし。念の為の調査だ」

「まあ付き合ってやろう。ところでラウラ、さっきから黙っているがどうかしたか?」

 一歩後ろを付いてくるラウラに、ユーシスは目をやる。むすりとして、明らかに不機嫌な様子だった。

「……何でもないが」

 そう言うが、言葉にはありありと険が盛られている。

 元を正せば、リィンが旧校舎探索に誘ったのはラウラ一人だった。

 ギムナジウム前で偶然出会ったことと、地下一階という生息魔獣のレベルの低さを鑑みて、二人という少人数での探索も可能と判断したのだ。

 しかし旧校舎へ向かう途中、狙い澄ましたかのようにユーシスが現れ、「そういうことならば、俺も同行してやろう」と有無を言わさず探索メンバーに加わったのだった。

 ラウラがご機嫌ななめなのは、例によって空気を読まずに割り込んできたユーシスと、それを迷いもせずに快諾したリィンの態度が原因だったりする。

 無論だが、男二人には悪意も他意もない。だから余計に苛立たしいというのは、複雑な乙女心と言ったところか。

「男子同士、仲のいいことだ」

 二人の背中を見て、小さくついたラウラのため息は、誰の耳にも留まることなく水音にかき消される。

 しばらく道なりに進むと、分かれ道に突き当たった。

「この分かれ道は前もあったし、どうやら変わってないみたいだ」

「構造はそのままということだな」 

「ではどうする。引き返すのか?」

 ラウラの問いに、リィンは首を横に振る。

「せっかくここまで来たんだし、とりあえず一通り調べてみよう。まずは右の道から進んでみるか」

 リィンが思案していると、ユーシスは反対側――左の道にすたすたと歩き出した。 

「お前達は右側を行くがいい。俺は左側を調べてくる」

「まさか一人で行く気か?」 

「その方が効率がいいだろう。このフロアの魔獣なら一人でも十分対処可能だ」

 最初のオリエンテーションの際も、ユーシスはこの階で単独先行していた。あの時でも危なげなく魔獣を撃退していたし、さらに実力の上がった今なら、無用に案ずる必要もないのだろう。

「わかった。だが油断はしないでくれ」

「そちらこそな」

 そう言い残すと、ユーシスは憮然とした足取りで、一人薄闇の中を進んでいく。

「じゃあ俺たちも行こうか、ラウラ」

「そうだな。そうしよう」

 歩き出したリィンの後に、ラウラは続く。ほんの少しだけ、その顔は明るかった。

 

「やはり、特に異常はないようだな」 

 辺りを見回しながら、ユーシスは独り言ちる。

 壁も通路も以前来た時のまま。そもそも構造が変わるというのが、未だに信じられない。どんな仕組みなのかは不明だが、ここが単なる古めかしいだけの建築物でないことは明らかだ。

「フロアが動く……などの兆候も見られないな」

 この道をもう少し行くと、リィンたちが進んだ道と合流するはずだ。

 ここまでは魔獣に遭遇せずやって来られたが、向こうは問題ないだろうか。

「問題があるとしたら、リィンがラウラを機嫌を損ねるくらいか。先ほどもおそらく、あいつが何かやらかしたのだろう」

 朴念仁だからな。そう付け加えて軽く鼻で笑う。ラウラの機嫌の傾きが、半分は自分が原因であると思いもしないユーシスだった。

 ――ざわ、と周囲の空気が変わる。

「お出ましか」

 騎士剣を構え、辺りに意識を巡した。

 妙だった。すぐに襲って来ない。普通の魔獣なら、こちらの姿を視認するなり、一も二もなく襲い掛かって来るのに。だが間違いなく視線は感じる。何かを狙っているような、明確な敵意が――

 最大限に集中したその時、カコーンと床に何かが落ちる音が響いた。

「そこかっ!」

 音の方向に素早く剣を向ける。そこに魔獣の姿はなく、代わりに小さな筒のようなものがカラカラと転がっていた。

「……なんだ、あれは」

 ユーシスの背後に、黒い影が躍り出る。中空を勢いよく滑空した影は、そのまま彼の後頭部に体当たりを見舞った。

「ぐうっ!?」

 ゴスッと打たれ、ユーシスはよろめく。衝撃にぐらぐらと揺らぐ視界の中を飛び回るのは、一匹の飛び猫。

「不意打ちとはやってくれる。飛び猫風情がたった一匹で――なんだと!?」

 急速旋回、急発進、急制動を織り交ぜながら、巧みに懐に迫ってくる。

 ぶんと横に薙いだ一撃をかい潜って、飛び猫は速度を乗せた頭突きを、ユーシスの下腹に繰り出した。

「ぐっ」と詰まった声と一緒に、ユーシスは水路上に押し出される。

 ぐらりと傾く体と視界。掴まれそうな物は近くにない。

 せめて悪態の一つもついてやろうと、忌々しげに飛び猫を睨みつけた時、なぜか鼻先をコーヒーの匂いが掠めていった。

 

「今、ユーシスの声が聞こえたような気が……」

 元来た道を振り返るリィン。

「ラウラは聞こえたか?」

「いや、大きな水しぶきの音しか聞こえなかったな」

「そうか、なら気のせいか」

「うむ、気のせいだ」

 二人して納得し、改めて水路や壁面、果ては天井まで眺めてみる。以前と違うような構造にはなっていない。

「もう少し調べよう。俺はこっちの水路側を確認するから、ラウラはそっちの通路側を頼む」

「承知した」

 区画によってはスイッチ一つで橋が繋がったり、離れたりといった仕掛けもあった。フロア全体の構造を変えるとなると、現実的ではないが、可能性がないわけでもない。この旧校舎は不明確な要素が多すぎるのだ。

 ある程度調べ回ってみるも、そのような仕掛けや、その痕跡を発見することは出来なかった。

「そう簡単には見つからないよな……」

「いずれは下の階層も確認する必要があるだろうが、今日はこの辺で切り上げるか?」

「そうだな、ユーシスと合流して――いや」

 言葉を止めて、リィンは鞘から太刀を引き抜く。

「魔獣の気配だ。どこから来るかまでは分からない。ラウラは後ろを警戒してくれ」

「ああ、そなたの背中を守らせてもらおう」

 水路が近いせいで、魔獣の足音やうなり声などは聞こえない。この状況で頼りになるのは眼だ。二人は背中合わせになり、それぞれ前後に剣を向ける。

 近くの物陰から、しゅるしゅると床を這う一本の触手。二人の視線をかわしながら、それはラウラの足元まで迫った。そこから触手の先が方向を変え、ゆるりと真上に伸びる。

「ひゃうっ」

「魔獣が来たか!?」

「い、いや、今そなたの手が……ええい、こっちを向くでない!」

 リィンを押し戻し、再び警戒を厳に。触手はラウラの太ももをさするように、ゆらゆらと揺れ出した。

「リ、リィン、そのっ、もしかしてっ、わざとやっていないか……あうう……」

 急にうつむき、身をすくめるラウラ。

「なんの話だ?」

 きょとんとして聞き返すリィン。 

「だから……ひっ!?」

 触手がするるっとさらに伸び、ラウラから小さな悲鳴が上がった。

 ぼっと火がついたように顔を蒸気させたラウラは、ぎゅるっと勢いよくその場で半回転。

「この……っ!」

「え?」

「痴れ者が!!」

 振り返ったリィンの顔面に、全力の掌底。彼は吹き飛び、水路のど真ん中に頭から落ちた。

「し、痴れ者が」

 吐息も荒く、ラウラはその言葉を繰り返した。ちょっと涙目である。

 そんな彼女の背中を、触手がトンと突いた。

「な、なに?」

 不意を突かれ、バランスを崩してしまう。そこにもう一本の触手が伸びてきて、ダメ押しの足払いを決められた。

 完全に足をすくわれたラウラは、リィンの後を追うように水路に滑り落ちる。バッシャアと水柱があがった。

 物陰から一匹のドローメが姿を見せる。そのドローメは勝ちどきを上げるかのように、いかにも誇らしげに二本の触手を交差させるのだった。

 

 ●

 

「ど、どうしたんだ君たちは」

 マキアスが旧校舎を訪れた時、ちょうどリィンたちが中から出てきたところだった。

 三人が三人とも頭までずぶ濡れで、ボタボタと大粒の水滴を滴らせている。ユーシスは不可解な、ラウラは不機嫌な、リィンは不条理を身に受けたような顔を、それぞれで浮かべていた。

「……お前こそ何をしに来た」

 濡れて重くなった髪をかき上げて、ユーシスが言う。

「別に大した用事はないが」

 ここに来た本当の理由など言えるわけがない。このことを知っているのはエリオットとガイウスだけだ。

「それよりなんでずぶ濡れなんだ? 三人して水路にでも落ちたのか?」

 何をどうすれば、そんな事態に陥るのか。首を傾げるマキアスをよそに、彼らはぶつぶつと苦言をつぶやいている。

「あの飛び猫め……。俺を水路に落とすことに執念さえ感じたぞ。まったく解せん」

「ラウラ、俺が何かしたのか? 具体的に言ってくれないと謝りようもないんだが」

「いや、そなたのせいではないと分かった。……だが、その……とにかくこっちを見るでない」

 とても腑に落ちない。そんな様子で三人はその場から去っていく。

「気になるが、まあいいか」

 ぴちゃぴちゃと湿った靴跡を残して、遠ざかるずぶ濡れ貴族たち。『っくしゅん』と三人そろってくしゃみをする彼らの背を見送って、マキアスは旧校舎に向き直った。

 肩に掛けたかばんの中には、挽き立てのコーヒーをたっぷりと入れた水筒が一つ。そして空のコップが二つ。

 楽しそうに笑って、マキアスは扉を開いた。

「さあ、今日のコーヒーは自信作だ」  

 

 

 ~FIN~

 

 

 




後編もお付き合い頂きありがとうございます。

まずタイトルについての説明を。
何故『レーグニッツ王国』かと言いますと、あれです。『ムツゴロウ王国』からです。魔獣達とのちょっとした触れ合いということで、そんなタイトルにさせて頂きました。ちなみに元タイトルは『僕と魔獣』。そのまんまですね(笑)
いつか魔獣部隊を結成し、真レーグニッツ王国なんてやってみたいものです。

では次回予告を。
割と穏やか(?)な話が続いたので、そろそろドタバタな平常運転に戻ります。次は温泉話と同様に三話でお送りする予定です。

全校生徒を巻き込んで、罠だらけの学院中を走り回るⅦ組一同。最年少二人組が主役のトラブル量産物語。生き残れるかな、全滅かな。

次回『ちびっこトラップ』
お楽しみ頂ければ何よりです。


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ちびっこトラップ(前編)

 時刻は二十時。十月の初旬にもなれば、この時間の風はひんやりと冷たい。

 トリスタ西の街道、そのゲート口に立つのはフィーとミリアムだった。背中側からあたる町明かりが、小さな影を身長よりも長く引き伸ばしている。

「あ、今日は満月だねー」

 間延びした声で言い、ミリアムが夜空を見上げる。促されるままに上を見て、「そうだね」とフィーは簡潔な一言を返した。

 次第に雲が流れ、月を覆い隠し、同時に辺りが薄暗くなっていく。今日は町の喧騒も少なく、静かな夜だ。草の合間から聞こえる虫の鳴き声がいつもより大きく聞こえた。

「ボク眠たくなってきちゃったな」

「同感」

 暗くなるとすぐに眠たくなるという、ちびっこ性質の一つである。軽く伸びをして『くああー』と、二人そろったあくびをした時だ。

 遠くから聞こえてくるオーバルエンジンの振動音。

 ライトで進行方向を照らしながら、街道を走る一台の導力車がフィーたちに近付いてくる。一般のそれよりは少し大きめの車体で、どこか装甲車にも似ている飾り気のないフォルムだった。

 重いブレーキ音を立てて、車は二人の少し前で停まる。片側のドアが開いて、一人の女性が姿を見せた。

「お久しぶりですね」

 物静かな澄んだ声。後ろで括った淡い空色の髪。優しげながら芯を感じさせる赤紫の瞳。月明かりに映えるのはスチールグレイの軍服。

「あ、直接来てくれたんだ?」

「ども」

 意外そうな声をあげたミリアムと、淡白な挨拶を向けたフィーに、車から降りた女性――クレア・リーヴェルトは柔和な笑みで応じた。

「一応非公式なので、他の人には頼めませんから」

「あはは、だよねー。それで、お願いしてたものは持って来てくれたの?」

 今度は困った笑みを浮かべ、車を一瞥してからクレアはうなずいた。

「あの中に入っています。初めに言っておきますが、今回は特別ですよ。後でちゃんと報告書も出して下さいね」

「うんうん」

「……本当に分かってます?」

 どこまでもにこやかなミリアムを見て、クレアは軽く嘆息を漏らす。

 あいさつも程々に、フィーとミリアムはさっそく車内から荷物を引き出し始めた。

 大きめのダンボール箱が全部で四つ。少し動かすだけで、ガシャガシャと金属同士がぶつかり合う音が響く。重量も中々のものだ。

「ミリアム、そっち持って。」

「お、重いよ。クレアも見てないで手伝って~」

「まあ、そうなるとは思っていました」

 クレアの手も貸りて、フィーたちが予め用意していた台車に、一つずつ段ボール箱を積み上げていく。

「こんなものでしょうか」

 やがて三人がかりの作業も終わり、クレアは確認の目を二人に向ける。

 秋口の涼しい夜とは言え、女性と子供二人だけでの力仕事は骨が折れたらしく、白い細面が薄く赤みを帯びていた。

 フィーが言う。

「後は学院に運ぶだけだし、台車を押すのは私とミリアムで出来るから、もう大丈夫」

「そうしてもらえると助かります――ただ」

 クレアは含みのある視線をミリアムに移した。

「そろそろ本当のことを教えてもらいます。使い道のないこれらのスクラップで、一体何をするのかを」

「な、なにがー?」

 わざとらしく目を逸らし、出来もしない口笛を吹こうとするミリアム。分かりやす過ぎるごまかし方に「ミリアムのばか……」と、横のフィーは呆れ顔だった。

「第一、あんなメモ紙一枚を申請書として受理できるはずないですよ。私がちゃんとした書式に落とし込んで、理由もそれらしいものに書き直して、それで今日ここに運んで来られたんですから」

「だって……クレアなら何とかしてくれると思ったんだもん」

「まったく、もう」

 ミリアムがクレアに依頼した内容は、端的に言うと『鉄道憲兵隊で使用済になった資材が欲しい』だった。

 資材というのは要するに、使い物にならないようなジャンク品である。本来ならこのような申し出が通るはずもないが、それが可能になったのは廃棄予定の機器に限定したことと、“情報局から鉄道憲兵隊への依頼”ではなく“ミリアムからクレアへのお願い”という形だったからだ。

 大尉に許された権限の範囲内で、最大限の融通を利かしたという訳である。なお、その際にミリアムが提示した理由は、『ガーちゃんの強化に使うから』というものだ。

 実のところ、届いた申請書に目を通し、さすがのクレアもこれに応じるべきか最初は迷った。

 アガートラムの強化など、ジャンクパーツをいくら持ち寄ったところで出来るとは思えない。よからぬことを企んでいるとの想像はすぐにつく。

 しかし最後の『ボクの任務にも役立つことだから、お願いね!』という一文が気にかかり、さらにはミリアムの任務の重要性を加味した上で、ひとまず彼女の希望に沿うことにしたのだった。

 しかるに、当然その意図は把握しておく必要がある。

「なんにせよ、これらの使用において、その有用性を教えてもらわないとなりません」

 任務においての、という一言を使わなかったのは、そばにフィーがいるからだ。ミリアムが真っ当な編入生でないことを疑われているのはクレアにとっても想定内だが、その目的を明言していない以上、避けておきたい言葉には違いない。

「う、うーん、えーと」

 ミリアムが返答に窮していると、「ねえ、クレア大尉」とフィーが口を挟む。

「鉄道憲兵隊としての勤務時間って終わってるよね?」

 要領を得ない質問だった。

「ええ、一応は。それがなにか」 

「夜ご飯食べた?」

「直行で来たので、まだですが……あの?」

「そっか」

 なにかしら納得したらしいフィーは、ちらりとミリアムを見る。

「え、フィー。もしかして?」

「そう、クレア大尉の意見も参考にしたらどうかと思って」

「いい考えかも!」

 期待のこもった二人分の視線が、同時にクレアへと注がれる。

「じゃあキルシェでご飯食べよ」

「そうしよー!」

「え、ちょっと?」

 戸惑う間すらなく、クレアの両手は『はしっ』とそれぞれと繋がれる。

 ささやかな抵抗も虚しく、ちびっこ達に引っ張られながら、クレアは夜のトリスタへと足を踏み入れた。

 

 

《★★★ちびっこトラップ★★★》

 

 

 レストランではなく、あくまで喫茶店であるこの店は、二十時を回れば客足も途切れてくる。現在《キルシェ》にはフィー、ミリアム、クレアの三人しかいない。

 貸し切り状態ではあるが、あまり目立ちたくないクレアと、内緒話をするつもりのフィーとミリアム。必然、彼女達が座ったのは店の奥――店員のいるカウンターからも見えにくい席だった。

「おいしかったです。帝都に店を構えてもいいかもしれません」

 注文したスープパスタを食べ終えたクレアは、心なしか満足気な様子でフォークを置いた。軍服ではさすがに目立つという理由から、今は持参していたジャケットを羽織っている。

「ボクもお気に入りなんだ、この店」

「手作りマフィンがおすすめかな」

 クレアを《キルシェ》に連れ込んだものの、フィーたちは寮で夕食を食べていたので、実はあまりお腹が減っていなかった。なので二人が注文したのはオレンジジュースのみだったりする。

 グラスに残った氷が溶けて、カランと音を立てた。

「……食べながら大まかな話は聞かせてもらいましたが」

「うん」

「確かに初めから知っていれば協力はしなかったでしょうね。学院中に罠を仕掛けるなんて。というかアガートラムの話もやっぱり関係ないですし」

「まあ、そうだよね」

 呆れ口調のクレアに、フィーはすんなりと同意した。この流れだと下手を打てば、せっかくの機材を持って帰られる可能性も出てくる。「でも」と続けて、手に持ったグラスを揺らし、今一度氷をかち合わせた。

「無差別に仕掛けるわけじゃない」

「目的があると?」

 フィーは一枚の紙を取り出して卓上に広げてみせた。

「これは……トールズ士官学院の見取り図?」

 正門からグラウンド、中庭はもちろん、各フロアの断面、教室の間取り、果ては植木の位置まで網羅したかなり精細な図解だった。さらにその全てが手書きである。ここまで書き込んでいるなら、おそらくは縮尺も正確だろう。

「トラップっていうのは心理戦。相手の行動や状況を先読みして仕掛けるもの。そしてフィールドを問わないことが理想」

「確かに屋外、屋内ともにシチュエーションは数多いようですが。どうして学院を使うんです?」

「一つは敷地面積が広くて、今言ったみたいに地形のバリエーションが多いこと。もう一つは在籍人数が多いこと。この二つが大きな理由かな」

 人数が多ければ、個々によって多種多様な反応や対応をすることが予想される。大まかでも統計を取り、その傾向を把握することは、より効率的で“はずれ”のないトラップの発案、作成に繋がるとフィーは言う。

「今の所、この手の技術があるのは私だけ。だから私のスキルが上がれば、Ⅶ組の戦術の幅が広がる」

「理屈は分かりますが、あなたの学友や関係ない人たちも巻き込むということは理解していますか?」

「みんな戦闘訓練は受けてるし、むしろ危機管理意識を上げるいい訓練になると思うけど」 

「物は言いようですね……ミリアムちゃんはどうなんですか?」

 不意に話を振られ、ミリアムはストローから口を離す。

「ん、ボク? そうだねー」

 本格的なトラップ作りの技術など、今のところミリアムには必要ない。意義を示せと暗に込めたクレアの問いに、彼女はこう答えた。

「ボクがクレアに送った手紙の最後の文章覚えてる?」

「……ええ」

 “ボクの任務にも役立つことだから、お願いね”である。

 ミリアムの任務とはつまり、学院に潜伏している可能性のある《C》の正体を掴むこと。

「それに役立つと?」

「うん」

 言葉を濁し、ぼかし、あえて主語を欠く。フィーは決して鈍くない。訝しまれるのは承知の上だが、それでもここからの会話、言葉選びは慎重にしなければならなかった。

「もしかしたら予想以上の結果になるかも」

「………」

 学院地図に目を落とし、クレアは沈思黙考する。

 あくまでもミリアムの任務は《C》の捕捉。予想以上ということは、その先の捕縛までの可能性があるということだ。《C》潜伏の疑いがあるとは言え、学院内の捜索など大っぴらには行えない。かといってミリアム一人の諜報活動では、その範囲に限界があるのも事実。

 方向性の是非はともかく、今回のように予測不能の形を取りつつ、大規模に動くことで《C》に迫ることができるなら、やってみる価値はあるのではないか。

 それになにより、成功か失敗か、効果があるかないかに関わらず、総じてのリスクが少ないことが際立つ利点だった。この場合のリスクと言うのは学院関係者にかかるものではなく、鉄道憲兵隊――引いてはクレア自身が被るそれのことである。

「そこまでの目算があるのですか?」

「あるあるー!」

 その軽い態度が逆に心配なのだが。しかし言ってみれば、今回の一件は学院生徒が学院内で勝手に起こす騒動となる。

 器材提供という最低限のチップを支払い、後は目標が網にかかるのを待つだけ。その過程でいくつかの“不慮の事故”も想定されるが、まあ、話を伺う分にはそこまで深刻な事態にはならないだろう。

 優しげな面立ちとは真反対に、氷の乙女(アイスメイデン)の異名に違わぬ合理的な冷徹さで、クレアは決断を下した。

「それで私は何をすればいいんですか? 最初に断っておきますが、軍務もあるので学院に足を運ぶことはできませんよ」

「それは大丈夫。トラップを仕掛けたり、その場所を考えるのは私達でやる。お願いしたいのはこれ」

 フィーは地図を指差した。あちらこちらに小さなマーキングがしてある。

「この位置にトラップを仕掛けるって印。クレア大尉はこれを見て効果的な設置の仕方や、想定できる相手の動き方とかをアドバイスして欲しい」

「その程度でしたら」

 紙面上の士官学院に視線を巡らし、やがてクレアは口を開く。

「まずここですね。草むらにトラップを隠すのではなく、草むらを怪しんで回避しようとするルートに仕掛けましょう」

 微笑を浮かべて容赦のない嵌め方、追い詰め方をまるでデザートでも注文するかのように、苦も無くスラスラと並べ立てていく。

「ここなら大丈夫、という安堵感を利用します。休憩所のような場所はありますか?」

「ん、中庭とか」

「ならばそこにも。次に屋内ですが、ここは構造を活かして遮蔽物も上手く使うといいですね。いくつかの仕掛けを組み合わせれば、看破もされにくくなります」

「わかった。じゃあここはどうかな?」

「悪くありませんね。ならアクセントにこんな仕掛けを追加して――」

 見る間に乱立していく罠印。もうマーキングされていない所の方が少ないくらいだ。

 あらかたの助言を終わり、クレアは一息ついた。

「これくらいですか。ですがあなた達だけで全ての作業を行うんですか?」

「それも問題ない。あてがあるから」

「あら」

 協力者が他にもいるのだろうか。そんなことを考えるクレアの視界の端に、何やらゴソゴソと上着のポケットに手を入れるミリアムの姿が映り込む。

「実はクレアに手伝って欲しいことがもう一つあるんだよね~」

 ミリアムは取り出した数枚のカードをテーブルの上に並べた。色分けはされているが、別段変わったところはなさそうなカードである。

「このカードに書くことを考えて欲しいんだよね。必要な情報は伝えるからさ」

「意味がよく分からないのですが……」

「いいから、いいから!」

 話がどんどんと進んでいく一方。

 “嵌める”“仕掛ける”“逃げ道を塞ぐ”。不穏な言葉飛び交う彼女たちのやり取りを、聞かぬつもりでも耳に入ってきてしまう《キルシェ》の店主――フレッドはカウンターの陰に隠れつつ、軍に通報すべきかどうかの二択の間で揺れ動いていた。

 そんな事態になっているとはつゆ知らず、軍属――しかも士官――のクレアはペンを片手にカードと向き合っている。

「うーん、後はどうバラすかだよね」

「埋めたらさすがに分からないかな」

 フィーたちの一言にも戦々恐々とするフレッド。少しでもおかしな行動を見せたら、通信器のあるトリスタ駅まで全力疾走するつもりだった。

 知らずの内、氷の乙女に通報の危機が迫る。

「マスター、コーヒーをもう一杯頂けますか?」

「ひっ」

 カウンターの奥から短い悲鳴が聞こえ、同時にグラスやら調理器具やらが、けたたましい音を鳴らしながら床に散乱した。

 緊張の糸が切れてしまったのか、フレッドはその場にへたり込む。

「あーあ、大丈夫ー?」

「働き過ぎは良くないよ?」

「……私にも言って欲しいのですが」

 こうして時間は流れていく。

 この時、クレアは一つ見誤っていた。

 トラップを仕掛けるにあたり、フィーは技能向上、ミリアムは《C》の捕捉、もしくは捕縛と理由付けた。それはもちろん、まったくの嘘というわけではない。フィーが言う技能向上は当初の目的の一つではあるし、ミリアムが言う《C》の捕捉も、後付けの理由ながら意識の隅には置いている。

 しかし二人の最上位に来ている動機はただ一つ。

 “面白そうだから”

 これだけだと言うことを。

 

 ●

 

 翌日の放課後。

 部屋の隅にはコイルやパイプが乱雑に詰まれ、机には取り留めのない案を書きなぐった紙面が散乱している。

 おそらく学院服よりも多く着用したであろう愛用のつなぎに身を包み、ジョルジュ・ノームはいつもと変わらない技術棟の室内を見渡した。

「はあ……」

 恰幅のいい体躯には不似合いな、小さなため息がもれ落ちる。

 いつもと変わらないはずの技術棟なのに何かが違う。その理由は考えるまでもなかった。

 彼女がいないからだ。いつもそばにいて、長く同じ時間を過ごした彼女が。汗水を流して、一緒に導力バイクを作り上げた彼女が。

 目を閉じればすぐそこにいるような気がするのに、目を開ければやっぱりどこにもいない。やるせない思いが胸にこみ上げて、ジョルジュは一人、力ない笑みを浮かべた。

「はあ」

 二度目のため息。最近は座学にも身が入らず、技術部としての活動も停滞している。こんなことではいけないと思うのだが、どうしても心が奮い立たない。

 もう一度目を閉じる。今頃、彼女は何をしているだろうか。着慣れない清楚な服でも着させられているのだろうか。自分の柄ではないと言うだろうが、着慣れないだけで似合わないわけではないと思う。いや、きっと似合う。似合うに違いない。そんな姿で目の前に立たれたら、上手く喋ることができないかもしれない。

「はは……それこそ柄じゃないなあ」

 君は今、何を考えている。僕は今、考えることが辛い。

 当たり前に感じていた君の笑顔をもう一度見ることができたなら、僕はきっと何でも作ることができるのに。

「――アン……」

 その名を呟いてジョルジュは目を開ける。

「ジョルジュ」

「うわあ!?」

 目の前にフィーの顔があった。思わず引き下がったジョルジュは、後ろの作業台に腰をぶつけてしまう。

「いてて……い、いつからいたんだい?」

「ついさっきだけど。目なんか閉じてどうしたの?」

「い、いや。何でもないよ」

 ごまかすように苦笑して、「それで僕に用事かい?」と腰をさすりながら訊ねると、「そろそろかな」と、フィーは戸口に目を向けた。

 ガラガラという音がだんだん近付いてくる。扉が開き、フィーの背丈よりも高く荷物を積んだ台車が中に入ってきた。

「ひどいよ、フィー! 途中でボクを置いてっちゃうなんて」

「上り坂は一緒に押してあげたし、普通の道ならミリアム一人でも大丈夫だと思って」

 ぶんぶんと振り回す抗議の手が荷物の後ろに見え隠れし、ミリアムのむくれた声が飛んでくる。

「何だい、そのダンボールの山?」

 不思議そうに中身をのぞき込んだジョルジュは、思わず息を呑んだ。

 一見すると壊れた機材にしか見えず、実際そうなのだろうが、しかしその種類や規格の豊富さには驚かされた。品番を消されている上、解体までされているので、元々の用途も分からないものばかりだが、簡単に収集できる代物でないことは明らかだった。

 しかもそれがダンボール四箱である。

「どうして君達がこんなものを。どこで手に入れたんだい」

 そう問うも、二人は『企業秘密』の一点張りだった。Ⅶ組各自のコネクションがユニークであることは多少なり知っていたし、無用に詮索するつもりもなかったので、ジョルジュはそれ以上聞かないことにした。

 聞きたいことは一つ。これで自分に何をして欲しいかである。

 フィーはメモ張を手渡してきた。

 横から「ここに書いてあるのを作って欲しいんだ」とミリアムが割って入り、「一週間以内でよろしく」とフィーが付け足す。

 ミリアムが書いたのだろうか、メモには落書きのような図解が記載されている。その量は膨大だった。

「本当なら受けてあげたいんだけど、僕は今ちょっと」

 ――工具を握る気になれない。

 言葉が口から出る寸前で留まり、ジョルジュは押し詰まった喉を鳴らした。

「……ダメ?」

 二人の無垢な瞳がほのかに揺らいだ。

 首をうつむかせて、ジョルジュはメモ張をぺらぺらとめくってみる。図の横には“あんな感じで”とか“こんな感じで”だとか、曖昧な要望が多く添えられていた。

「難しい物ばかりだ」

 そういえば、とジョルジュは思い返す。

 導力バイクを作り始めた時もこうだった。

 落書きにも満たない稚拙なイラストに始まり、あんなのはどうか、こんなのはどうだと、何もないところからの試行錯誤だった。

「一つ聞きたいんだけど、これで君達は何をするんだい?」

「詳しくは言えないけど、楽しいこと」

「そうか。楽しいことか」

 バイクの製作は壁に突き当たってばかりだった。その度にやり方を変え、工夫し、少しずつ組み上げた。だが一度もそれを苦に思うことはなかった。ただ楽しいという感情だけがあった。放課後になるのが待ち遠しかった。

 初めてアンゼリカを乗せたバイクがよろめきながら進んだ時、とても嬉しかった。何よりその時の彼女の笑顔が最高だった。

 ああ、思い出した。

 何かを作ることは楽しくて、誰かが喜ぶことは嬉しいんだ。

「一週間以内。そう言ってたよね」

 メモを作業台の上に置き、ジョルジュはゴーグルの位置を調整する。

「期限は三日で構わない」

「受けてくれるの?」

「もちろんさ。僕は技術部の部長だからね」

 考え込んで、落ち込んで、ふさぎ込んで、それで作ることをやめたら、一体僕にに何が残る?

 アンはきっと立ち止まっていない。ならば僕も立ち止まらない。次に会う時、胸を張っていられるように。

「さあ、やろうかな」

 迷いのない手つきで、ジョルジュは工具を手に取った。

 

 

 

 そして三日が経った深夜二時。

 第三学生寮は闇と静寂に包まれていた。当然ながら起きている人間は誰もいない。Ⅶ組の面々はもちろん、サラとシャロンもすでに就寝中である。

 明かりの消えた一階ラウンジに、うごめく小さな影が二つ。

「行くよ」

 小声でフィーが告げ、傍らのミリアムは「うん……」と眠たさの抜けない声で応じた。

 ジョルジュからは今日の――日付が変わっているので正確には昨日の――放課後に、三日前依頼していた物品の数々を受け取っている。

 ほとんど徹夜状態で仕上げてくれたらしく、最後の方はジョルジュ自身の記憶も不鮮明だそうだ。完成品のいくつかには、頼んでもいない機能が追加されている物もあったりする。

 それらはまだ一固めにして学院に隠してある。トラップを仕掛けるのは今から朝にかけて行うが、その前に、フィー達には先にやっておくべきことがあった。

「じゃあ、全員の宝物を回収に行こっか」

「みんなの大事にしてる物って何だろうね?」

「それはこれから部屋で探す。音を立てないように注意して」

「りょーかい」

 これである。

 遅かれ早かれ罠が仕掛けられていることに気付けば、学院側としては然るべき対応を取るだろう。まず優先して屋内トラップの介助を行い安全スペースの確保。平日なので授業を行いつつ、みだりに外を出歩かぬよう学院生に注意促し。そして落ち着いた頃合いで屋外トラップの撤去。平行して行われる犯人捜し。内容が内容なので自分達に疑いが向けられる可能性は高い。

 彼らにとっては最良で、自分達にとっては最悪の展開。それでは計画が台無しだ。

 ならば罠があると分かっていても、火中に飛び込まざるを得ない状況を作ればいい。その為には餌が必須だった。危険を承知で取り返しに来るであろう餌が。餌と言う言葉が悪ければ、個々が大切にしているであろう宝物が。

 皆が起きる頃、自分達は“宝物”と一緒に学院のどこかに隠れている。このタイミングで姿を消せば、疑惑など通り越して確信するだろう。あいつらの仕業だと。

 それでいい。やる以上は相応のリスクを背負うつもりだ。餌と言うならこの身をも餌とする。

 宝物を取り戻し、自分達を捕らえる。彼らの動機としては、それで十分なはずだ。

「静かにね」

「うん」

 重たいまぶたを擦り、二人はゆっくりと階段を登り始めた。

 

 

 まずは二階。とりあえず階段を上がって左奥、クロウの部屋から時計回りに訪室することにした。

 ドアの前に立って聞き耳を立てると、中からいびきの音が聞こえてくる。

 そっとドアノブを回し、足元に注意しながら部屋の中に踏み入ってみる。

 目を凝らして部屋内を見てみると、意外にもそこまで散らかってはいなかった。もしかしたら第二学生寮の自室に多少の荷物は残してきているのかもしれない。

 当のクロウはベッドで眠っている。寝相は悪くないようだが、体に掛けているのは薄手のタオルケットのみだ。

「何持っていく?」

 小さな声でミリアムがフィーに訊く。

「壁のダーツ盤、棚にあるブレードのカード……どれにしようか」

 あまり大きな物は持って行けないし、加えて本人にとってそこそこの価値がなければ意味がない。

 「にしし」と笑って、ミリアムは枕側の壁を指差した。

 そこに貼られていたのは、水着のお姉さんが悩ましげなポーズを取っている一枚のポスターだった。

「あれは?」

「剥がしたら音が出そうだし無理だと思うけど」

「そっかあ。でもあのポスターのお姉さん、フィーとは真逆の体型だよね」

「ミリアムほどじゃないから」

「なにをー。ボクだって五年後には――」

 うっかり声のトーンを上げてしまう。クロウがベッド上で動いた。

 とっさにお互いの口をふさぐフィーとミリアム。

「……うーん? マキアス……俺のレポートを代わりにやりやがれ……」

 どうやら寝言らしい。ほっと一息ついたフィーは「レポート?」と、机に近寄った。途中までかき上げている導力学のレポート用紙が、束になって置いてある。

「……これだね」

 単位取得が厳しく、卒業が危ぶまれるクロウにとっては、一科目のレポート――さらにその提出遅れでさえも命取りになる。きっと死に者狂いで取り返しに来ることだろう。

 フィーはためらうことなく、レポート用紙を回収した。

 

 

 ――二人目、リィンの部屋。

「あの太刀は持って行けないね」

「長いし、用意してた袋に入らないよ」

 質素とは言わないまでも簡素な部屋だった。室内で稽古をすることがある為か、中央付近には家具を置かず、スペースを設けている。

 リィンも眠っている。ここは要注意部屋の一つ。リィン、ガイウス辺りは気配を感じ取って目を醒ます恐れがある。先にも増して慎重にならなければいけない。

 だが部屋の物自体は少なかった。持って行けるとしたらラジオかカメラか。

「導力カメラが妥当かな」

 棚に手を伸ばそうとしたフィーに、ミリアムは何かを差し出した。

「これが机の上にあったよ」

「手紙?」

 寝しなにシャロンから受け取ったのだろうか。まだ封も開けていない。裏返して差出人を見ると『Elese Schwarzer』の表記。エリゼからの手紙だ。

 多分これに勝るものは、ない。

「とりあえず預かるね」

 一応そう断ってから、フィーは手紙を懐にしまう。部屋を出ようとした矢先、リィンが「うーん」と苦しそうにうなった。わずかばかり緊張し、二人は動きを止める。

「許してくれ……俺が悪かった……」

 なぜか逆に謝られてしまった。

 

 

 ――三人目、エリオットの部屋。

「うん、あれしかないね」

「だね」

 考えるまでもなく、目星はついている。壁にかかっているバイオリンだ。楽器をそのまま持って行くわけではない。回収するのはバイオリン自体ではなく、その弓。エリオットが手になじむから、特に愛用していると言ったことをフィーは覚えていた。

「……さすがにエリオットは寝相がいいみたい」

 小さく一定の寝息を立てながら、穏やかな表情で眠っている。胸元から見える寝間着の色は薄いオレンジで、所々星のペイントがされていた。頭に三角キャップをつければ、そこいらのお姉さんなら悶絶するくらいの、愛嬌ある寝姿である。

「んー……猛将って言うの、やめて下さい……」

 なにやら切実そうな寝言をもらし、エリオットは寝返りを打つ。どうやらうなされているようだ。

「悩み事があるのかな?」

「今度話聞いてあげよう」

 立てかけてあったバイオリン弓を手にし、二人はそそくさと退出した。

 

 

 ――四人目、ユーシスの部屋。

 この部屋も整然としているというか、余計な物が置かれていない印象である。

 棚にある皿やティーカップはいかにも高級そうだが、ユーシスがそこまで大事にしているとは思えない。多分一家具類程度の認識だろう。

「よく寝てるね。こんなに無防備なユーシスは珍しいし、何かしたくなっちゃうなあ」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、ひょこひょことベッドに近付くミリアムを「それは学院でやるから」とフィーがたしなめる。

「このフカフカそうな枕は?」

「取ったらさすがに起きるでしょ」

 物があり過ぎても悩むが、無くても困る。

 壁に飾ってあるアルバレア公爵家の旗でも持って行こうかと思案していると、ふと甘い香りが鼻先をくすぐった。

 匂いの元をたどると、棚のティーカップ横に色鮮やかな包み紙を見つけた。この香りには覚えがある。ロジーヌの手作りクッキーだ。

 先日、教会で行った劇のお礼にと、全員が彼女からクッキーをもらっている。しかしユーシスのは装丁が違うし、中身も多い気がした。

 にやにやしながら、ミリアムが言う。

「にしし、これに決定~」

「待って。多分、そろそろ来る」

「え?」

 ごそりとユーシスが動いた。

「待つがいい」

 ユーシスはこちらに首を向ける。焦るミリアムだが、落ち着いて見てみればユーシスの目は開いていない。

「……何なら馬で送っていってやろう……」

 もそもそと枕の位置を調節し、再びユーシスは動かなくなる。「間に合ってるから大丈夫」とだけ返して、クッキーを手にフィーは戸口へと向かった。

「……結構みんな寝言言うんだね。もしかしてボクも言ってるのかな?」

「気になるなら、部屋に録音機置いて寝てみたら?」 

 深夜の宝物回収は順調に進んでいた。

 

 

 ――五人目、ガイウスの部屋。

 Ⅶ組メンバーの中で、一番個性が出ている部屋だった。所々に飾られている装飾品は、ノルドの実家から持って来たもので、民族的な意匠というか、独特の雰囲気がその部屋にはあった。

「この部屋は気をつけて」

「わかってるよ」

 先のリィン同様、些細な気配を感じて反応される可能性がある。あまり長居は出来ない部屋だ。

「フィー、これは?」

 ミリアムが言うのは、キャンバスに描かれた一枚の絵。まだ下書き段階だったが、雄大な自然がモチーフであることは分かる。学院祭に出展するつもりの絵かもしれない。

「さすがにこれは大きいから――」

「違うよ、その横」

 横と言われて目線をずらすと、そこにあったのは絵の具チューブ。

「あ、そういえばガイウス、緑色にはこだわってた。いくつかの色を混ぜ合わせて、納得する色を出すとか」

 通称ノルドグリーン。配合色なら代用品がないはずだ。

「ん、これ」

 ひょいと緑の絵の具チューブを摘まむと、フィーは軽く身構えた。意図を理解し、ミリアムも姿勢を低くする。

 この辺りで、また寝言が来る。そう思っていたが、ガイウスはすやすやと眠っていた。身じろぎの気配さえない。

「……大丈夫みたい」

 考えてみれば寝言を言うタイミングで毎回訪室する方が難しい。寝言に警戒するのも妙な話だったが、とにもかくにも二人はそろそろと扉に引き返そうとする。

「ハイヤーッ!!」

 凄まじい気迫の掛け声が背中から突き刺さった。全身の毛を逆立てる猫のように、フィーとミリアムはそろって肩をビクリと震わせた。

 ドクンドクンと早まる鼓動のまま、ぎこちなく振り返ると、ガイウスは何事もなかったかのように眠り続けている。どうやら今のも寝言だ。

「……自分の声では起きないんだねー」

「意外と鈍いのかも……?」

 

 

 ――六人目、マキアス。

 この部屋は部屋主の性格がよく表れていた。

 本棚の中は書籍の高さ毎にそろえられ、ちょっとした置物なんかは、全て乱れなく直角置きを厳守されている。植木がいくつか飾ってあるが、そばの計量カップを見る限り、水やりですら一定の分量を計測しているらしい。

「何持ってく?」

「チェス」 

 ミリアムの問いに、即答するフィー。

 テーブルの上にはご丁寧にチェス盤と、その上に並び立つ駒が置いてある。

「そういえばルビィにもチェスの駒取られたことあったんだっけ」

 あの時もマキアスは必死に探し回ったようなので、今回も同様の反応を見せるだろう。

 と、ここでマキアスが「ええ?」と声をあげた。

「……レポートぐらい先輩がやってくださいよ……僕は知りませんってば……」

 そして沈黙。

「もしかして夢でクロウと会話してる?」

「あはは、仲いいねー」 

 気を取り直して、ミリアムがチェスの駒を取ろうとする。何かに気付いたフィーが、その手をやんわりと制止した。

「なに? どうしたの?」

「やっぱりあれにしよう」

 マキアスの枕元には、きらりと光る眼鏡があった。

 

 

 ――七人目、アリサの部屋。 

 男子部屋の潜入を終え、次に向かったのは三階の女子部屋だ。

 まず二人が入ったのはアリサの部屋である。薄紅色の絨毯が敷かれ、きらびやかな小物類が飾られている。男子達とは反対の意味で、何を持って行くか悩みどころが多い部屋だった。

「これだけあったら小物が一つ無くなってても気付かなさそう」

 いい物はないだろうかと、部屋の中を見回す。

 香水、花、壁掛けの絵画、ラクロスのラケット、ユニフォーム、高そうな皿。

 ユーシスの部屋もそうだったが、実家がお金持ちだと部屋に皿を飾るのだろうか。自分にはよく分からない感覚だと不思議に思いながら、フィーはアリサの寝顔をのぞき込んだ。

「ううん……」

 これはなにか言う。雰囲気で察し、フィーは身を引く。

「……ちょっと、リィン。あなたってばどうしていつも……もう」

 むすっとした後、またスースーと寝息を立てだした。

「リィンの夢見てるのかな。もしかしてリィンが寝言で謝ってたのってアリサに?」

 夢の中でもリィンはアリサに責められているらしい。若干不憫に感じながらも、フィーは当初の目的に思考を戻す。

「いいのあるかな」

「こんなの見つけたよ」

 ミリアムが持って来たのは一冊のノート。表紙を見るに、おそらくは日記帳か。

「人の日記は読んじゃダメだと思うけど……ちょっとだけ」

 気兼ねしながらも数ページめくってみると、やはり日々の出来事が綴ってあるようだ。暗がりで細かい文字までは読み取れなかったが。

「とりあえずこれにしよっか」

「異論なーし」

「声が大きいってば」

 

 

 ――八人目、ラウラの部屋。

「……まったく、そなたはどうしていつもそうなのだ……」

 部屋に入るなり、ラウラの寝言が聞こえてくる。

「またリィンのことかな」

「リィンも眠りながら謝ってるんじゃない?」

 青色を基調にしているというのが、いかにもラウラらしい部屋だ。リィンと同じように稽古でもするのか、物は少なく部屋中央のスペースが広く取られている。

 一応インテリアの類はあるが、そこまで目を惹かれる物はなかった。強いて言えば、みっしぃのぬいぐるみくらいか。しかしこれも、とりあえず飾っておいた感が強い。

 暗い部屋の隅では、みっしぃの着ぐるみが異様な存在感を醸し出している。さすがにあれは運べない。

 フィーが困っていると、またミリアムが何かを見つけてきた。彼女は捜索や探索に秀でている節がある。考えてみれば諜報部所属なので、持って然るべき素質かもしれないが。

「なにそれ。また日記?」

「違うよ。メモ帳みたい。暗くてあんまり見えないけど、多分料理とかのレシピを書いてるね」

 最近ラウラは調理場をよく使うようになった。シャロンに教えを乞う姿も時々見かける。ついでに味見薬のリィンが、口から黒煙を吐いている姿も。

 ともあれ持って行けそうなものはこれくらいしかない。

 その折、ラウラが小さく笑みをこぼす。

「ふふ……次は何を作ろうか……」

 嬉しそうな寝言だが、不吉を孕んでいるようにしか聞こえなかった。

 

 

 ――九人目、エマの部屋。

 ようやく最後の部屋だ。ドアを開くなり、ハーブの匂いが鼻の奥に抜けていく。

「委員長の宝物と言えば……」

「やっぱり本とか?」

 机には読みかけの本が重なっていたが、本、というのもあまりしっくり来ない気がする。何気なく視線を落とすと、机下部の引き出しが少しだけ開いていた。

 のぞいてみると、引き出しの最奥に少し大きめの封筒が収まっている。封筒は何重にもテープ張りされ、中を開けられないようになっていた。

「なんだと思う?」

「うーん、これだけ厳重に保管してるってことは大切なものだよね」

 あまり悩んでいる時間もない。この後は肝心のトラップ仕掛けが残っているのだ。

「これにしてみる?」

「うん!」

 ようやく九人分の宝物が手に入った。

 そこで気の緩みが生まれたのか、封筒を引き出しから引き抜く際に、手が机にぶつかってしまった。ガタリと響く音。

「フィーちゃん、ミリアムちゃん。どうしたんです?」

 エマに呼び止められ、二人は後じさった。

「い、委員長、起きたの?」

「しまったかも」

 ここにきて、計画が全て台無しになった。

「ダメですよ、こんな時間に。二人して何をするつもりなんですか?」

「えっと、それは」

 とりあえずごまかしてみるか、あるいはクレアと同様に協力者になってもらうか。いや、エマに限ってそれは難しい。

 二の手、三の手と思案してみるも、彼女相手に通じるとは思えなかった。

「明日も早いんですから、しっかり寝ないとだめですよ。あと好き嫌いせずに何でも食べないと大きくなれませんからね」

「委員長、なに言ってるの?」

「……もう、胸の話なんかしていません……」

 そっと枕元に回って顔を見てみると、小さな寝息が聞こえてくる。エマは眠っていた。

「え、今の全部寝言?」

「名前まで呼んでたけど」

 Ⅶ組の委員長は、就寝中でもハイスペックだった。

 

 

 ラウンジに戻った二人は学院へ向かう準備をする。

 九人から無断借用した――もとい預かった宝物を袋に詰めるのだが、袋は二つ用意されていた。

「ユーシスのクッキーを入れて、と」

「フィー、マキアスの眼鏡はどっちの袋?」

「回収した宝物は全部右の袋に入れて」

「りょーかい」

 太陽はまだ昇っていない。こんな時間に起きていることなどまずないが、気を張って動いていたせいか、眠気は吹き飛んでいた。昼寝を十分に取ったことも功を奏しているようだ。

「ねえ、サラとシャロンの宝物は持って行かなくてよかったの?」

「サラの部屋は酒瓶くらいしかないし、シャロンは……あとが怖いし」

「うん、シャロンはやめとこう」

 リビングでごそごそしていたら、ソファーで眠るルビィが首を持ち上げた。

「あ、起こしちゃった? すぐ出ていくから吠えないでね」

 ルビィの頭を一撫でして、ミリアムは片方の袋を担ぐ。フィーももう一つの袋を持ち、玄関へと進んだ。

「れっつ」

「ごー」

 その言葉を合図にフィーとミリアムは寮を出る。あくびをするルビィは、遠ざかる小さい背中を見送った。

 

 ●

 

 夜が明けた。

 天気は雲一つない秋晴れ。柔らかな日差しが、寮内に差し込んでくる。

 Ⅶ組の面々が異変に気付いたのは、起床して間もなくのことだった。リビングに降りて来るなり、一様に不思議そうな顔をしている。

「そうか、エリオットはバイオリンの弓で、ガイウスは絵の具か」

 リィンが言うと、二人はうなずいた。

「そうなのだ。昨日の夜まではあったんだが」

「同じくだよ。リィンは妹さんからの手紙だよね」

「ああ、非常にまずい」

 ガイウスとエリオットの場合は部活動に関わってきて、リィンの場合はエリゼの機嫌に関わってくる。

「ユーシスはどうだ。何か失くなったのか?」

 壁際にもたれ掛かるユーシスは、明らかに不機嫌な様子だった。むすっとして彼は言う。

「俺も失くなった物がある」

「そうだったか。それで何が?」

「お前が知る必要はあるまい」

 詮索するなと暗に含めた鋭い視線がリィンを射抜く。剣幕に押されて口ごもったリィンをよそに、「くそっ」と毒づいたユーシスは、苛立ち紛れに背後の壁をだんと叩いた。

 女子たちも身支度を済まし階段を下りてくる。その反応は男子達と同じだ。

「弱ったな。新作レシピをメモしておいたのだが」

「あ、あの日記を誰かに読まれた日には……私死ぬから」

「うう、ガイラーさんの小説、封印してたのに、封印してたのに……何で引き出しが開いてたんでしょう」

 三者三様に困り果てている様子である。

 ラウラは料理手帳が、アリサは日記が、エマは言葉を濁していたが、文芸部関係の小説が、それぞれ朝には失くなっていたと言う。

「この場にいないのは、クロウとフィー、あとマキアスとミリアムだな。あ、クロウは用事があるから先に学院に行くって言ってたか。マキアスは――」

「だああ!?」

 リィンの言葉をかき消しながら、マキアスが階段から転がり落ちてきた。いつになくご機嫌斜めなユーシスが「斬新な朝の挨拶だな」と鼻を鳴らすと、体を起こしたマキアスは「君こそ朝から嫌味か!」と近くのエマに食い掛かった。

「きゃあ!?」

 いきなり接近され、のけぞるエマ。マキアスは眼を細め「も、もしかしてエマ君か?」と慌てて身を引いた。

「いや、すまない。朝起きたら眼鏡が失くなっていたんだ。視界がぼやけて、この通り足元もおぼつかなくて」

「……マキアスもか。この様子だとフィーとミリアムも何か失くなっていそうだな」

 不可解さに顔をしかめるリィンに「それなんですけど……」とエマが小首を傾げた。

「フィーちゃんもミリアムちゃんもお部屋にいないんです」

 その意味はすぐに全員が理解した。いつも起こしても起きない二人が、今日に限って先に寮を出ている。良い予感はしなかった。

「とりあえず学院に行こう。あの二人の仕業だと決まったわけじゃないが、フィーたちを見つけて話を聞く必要はありそうだ」

 リィンの提案に異論は出なかった。

 あっちこっちにぶつかるマキアスをその都度誘導しながら、一同はトールズ士官学院を目指す。

 

 

 学院の正門を抜けるや否や、いつもと違う朝の雰囲気をリィンたちは肌で感じていた。

 あちらこちらから喧騒が聞こえてくるし、校舎内からは忙しない足音がここまで響いてくる。

 少し見渡せば、何人もの学生が血相を変えて、そこかしこを走り回っていた。その表情には焦燥、戸惑い、恐怖など様々な感情が窺える。中には立ちすくんで空を見上げ、乾いた笑みを湛えている者もいた。

 状況が理解できず、困惑する一同の耳に「ようやく来やがったか」と焦れた声が届く。

 正門近くの木の下にクロウがいた。

「お前ら、待ちかねたぜ」

 嘆息交じりの出迎えに、リィンは困惑の目を向ける。 

「一体どういう状況なんだ?」

「どうもこうもねえ。書いてる途中のレポート用に、資料を図書館まで探しに行こうとしてたんだが、気付いたら用紙自体が部屋に無くてよ。昨日は机にも座ってねえし、もしかして学院に忘れちまったかと思って一足早くやってきたんだが」

「いや、そうじゃなくてだな」

「ああ、なんか学院中が騒がしいよな。クク、理由は想像がつくけどな」

「俺が言ってるのは、クロウの状況なんだが」

 薄ら笑いを浮かべるクロウは、紐で足を括られて、木の枝に逆さまに吊るされていた。成すがままに、というか成す術もなく、風が吹く度ゆらゆらとミノ虫のように揺れている。

「教室に行こうとしてこの木の下を通りがかったら、いきなり地中から縄が飛び出してきてな。気付けば視界が上下反転だ。解こうとはしたんだが、かなり頑丈な結び目でまったく取れずに、そんで今に至る訳よ」 

 宙吊りのまま経緯を語るクロウは、なぜかニヒルな態度を崩さない。

 一体何が起きているのか。改めて辺りを見回してみると、他の木に吊るされていたり、草むらの陰で突っ伏していたりと、不憫なことになっている生徒が散在していた。

「フィーだろうか?」

 ラウラが言う。仕掛けられた罠の数々は、見る限り彼女の得意とする系統のものだ。

「そうだとしたら捕らえる必要があるな。共犯だとしたらミリアムもだ」

 ユーシスの言葉には棘があった。

「待って下さい。まだフィーちゃん達だと決まったわけじゃありませんし」

 二人を庇うエマだったが、「いや、あいつらに間違いねえぜ」とクロウが断言する。

「なんで言い切れるんですか?」

「あいつら、お前らが来るちょっと前に俺のところへ来て、背中になにか張り付けて行きやがったんだ。この状態の俺を見てもリアクションが薄かったし、もう決まりだろ」

「背中に張り付ける?」

 エマがクロウの背中を確認すると、カードらしきものが貼られている。トランプほどの大きさの、白いカードだった。

「裏面に何か書いてありますね。えーと……“失われし供物を求めし者達よ。獅子の庭に散らばりし四色(ししき)(しるべ)を収め、さらなる道を歩め”……です」

 どこかで見た趣向。覚えのある回りくどさ。

 嫌な既視感が脳裏をよぎる。

 互いに顔を見合わせ、「あれだよな」とか「あれね」などの一応の確認をして、全員同時にがくりと肩を落とす。目的は分からないが、やりたいことは分かった。

 無くなった私物の居所は、このカードがヒントになっているのだろう。

 話している間にも、絶え間ない悲鳴、叫喚、慟哭、嗚咽が、徐々に大きくなっていく。

「あまりゆっくり考えている時間はないみたいだ」

 リィンは息をつく。

 もはや死地に足を踏み入れ、このゲームに乗るしか道はない。全員が生唾を飲み下し、覚悟を決める。

 幸いにもフィーが仕掛ける罠の類は知っているし、ミリアムは同行している程度と予測できた。警戒すれば突破することは可能。リィンたちはそう考える。

 だが彼らは知らなかった。

 ちびっこ二人の仕掛けてきたトラップ騒動。そこに導力演算機と称される頭脳の持ち主と、ルーレ工科大学から誘いを受けるほどの技術者が、バックボーンに付いていることを。

 危険地帯と化した学院を舞台に、命がけの宝探しが始まった。

 

 

~中編に続く~




前編をお付き合い頂きありがとうございます。

というわけでちびっこトラップスタートです。
今回の陣営と目的を整理しますと――
Ⅶ組+全学院生VSフィー、ミリアム、ジョルジュ、クレア連合軍(ただしジョルジュは巻き込まれていることを知らない)

フィールドは学院全域。
勝利条件はフィー、ミリアムの捕縛、もしくは取られた物品の奪還を果たす。
敗北条件はⅦ組勢の全滅、もしくは学院生が殲滅される。


以下、取り返すべき物品まとめです。

リィン…… 『エリゼからの手紙』
アリサ…… 『日記』
ユーシス……『ロジーヌのクッキー』
エマ……  『Gの小説』
クロウ…… 『導力学のレポート』
エリオット…『バイオリンの弓』
ラウラ…… 『料理手帳』
ガイウス……『ノルドグリーンの絵の具』
マキアス……『眼鏡』

それでは中編もお楽しみ頂ければ幸いです。


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ちびっこトラップ(中編①)

 ――失われし供物を求めし者達よ。

 獅子の庭に散らばりし四色(ししき)(しるべ)を収め、

 さらなる道を進め――

 

 それがクロウの背に貼られていた白いカードの文章だった。

 エマが手にしたカードの内容を考察する。

「……“失われし供物”は無くなった私たちの私物。“獅子の庭”はトールズ士官学院。“四色の導”に関しては不確定ですが、私物の在処を示す手がかりと考えるのが妥当でしょうか」

「待って。ちょっと気になることがあるの」

 横からアリサがカードをのぞき込む。

「今までのパターンなら、一枚目のカードには二枚目のカードの場所が書かれていたはずでしょ。なのにこの文章じゃ探しようがないわ。“獅子の庭”だけじゃ広すぎるもの」

 あるいは“獅子の庭”がこの学院を指すという見解が間違っているか、である。

 悲鳴やら慟哭やらで騒がしい学院内に、リィンはもう一度目を向けた。

「今の時点ではなんとも言えないが、この状況でやみくもに動くのは危険だ。俺たちの行動と役割分担を決めよう」

 固まって動いては、文字通り一網打尽にされる可能性がある。“四色”がそのまま“四つ”を意味するなら、こちらも四班に分かれてフィーたち、及び私物の捜索にあたるべき――というより、現在の総人数的には四班編成が限界だ。

 それさえ見越して“四”という数字を設定したと思うのは、さすがに考え過ぎか。

 だが小さな違和感が拭えない。こちらが考えた上で出す選択を、先んじて予見されていたかのような。

 この白いカードもそうだ。どこか妙な引っ掛かりががある。なにかがおかしい。

「まずは班分けをするか」

 釈然としないものを抱えながら、リィンは順繰りに全員を見回した。

 他の面々もしっくりは来ていない様子だ。この場における最良の判断が、最適の判断ではない。そんな気がしている。

 しかし惨禍の広がりを早急に止めること。事情を知っていて、打開できるのが自分たちだけだということ。

 時間と手段。この二つの制約が、選択できる行動の幅を狭めていた。

「今回はさすがにくじ引きでは決められないな。さて、どう分けるか」

 相性か、バランスか、戦力か。このフィールドを突破するのにもっとも適した組み合わせは。

 いつもよりも慎重に考える一同の耳に、「そんなところで固まっていては迷惑でしてよ」と、聞き覚えのある声が届いた。

 薄紫の髪を揺らして、フェリスが正門を抜けてくる。寝不足なのか寝起きなのか、いつにも増してむっつり顔だ。そのとなりにはヴィンセントもいて、兄妹そろっての登校である。

「ごきげんよう、アリサ」

「やあ諸君、爽やかな朝だね。女神が僕を祝福してくれているかのようだ」

「少し黙っていて下さいまし」

 朝から兄のテンションには、さすがの妹もついていけないらしい。ぴしゃりと言い放ち、ヴィンセントを沈黙させる。

「なんだか騒々しいようですが?」

「ええ、そうなの。今はまだ学院に入らない方がいいと思うわ」

「どうしてですの? 早く行かないと授業が始まってしまいます」

「どう説明したらいいかしら。ちょっとカードを探しててね。あ、カードって言うのは……」

 アリサがどこから話すべきか迷っていると、「カード? カードってあれですの?」と、フェリスが少し離れた木を指さした。

 その枝の一本にこれ見よがしにカードが吊り下がっている。エマが手にしているものと同じ白いカードだ。

「あ!」

「ま、待て!」

 足を踏み出しかけたアリサを、とっさにリィンが止めた。

「露骨すぎるぞ。嫌な予感しかしない」

「確かに……」

「あなた達のやりたいことは、私にはよく分かりませんわ」

 動かない二人を後目に、フェリスはすたすたと木に向かう。「ちょっと待って! もう少し慎重に行かないと!」と、アリサは制止の声を飛ばしたが、彼女はすでにカードを手に取っていた。

 その直後、人ひとり収まるくらいの大きな金属製の鳥かごが、枝葉を散らして勢いよく落ちてきた。

「きゃあああ!?」

 ガシャーンと捕らわれるフェリス。さらに鳥かごの上部から、真っ黒い液体がドボドボと注がれてくる。

「やっ! なんですの、これえ! 墨? いやああ!」

 黒く染まっていく白い学院服。この上ない嫌がらせである。かごは強固で重く、フェリスの力では出られない。わたわたともがくフェリスを見て、誰よりも早く動いたのはヴィンセントだった。

「待っていろ! この兄が助けるぞ!」

 駆け寄ったヴィンセントは、かごを必死に持ち上げようとする。

「ダメですわ。お兄様の服まで汚れてしまいます」

「愛する妹を救う為に、服の汚れを気にする兄がどこにいる」

「か、かっこいいですわ。めずらしく!」

 胸打たれる兄妹愛の一幕を割いたのは、落ちてきたもう一つの鳥かごだった。事態に気付く間もなく、ヴィンセントもフェリス同様に捕らえられる。もちろん墨シャワー付きだ。

「のおおお! 助けてくれ、サリファー!」

「やっぱりかっこ悪いですわ。というかいつまで流れてきますの、これ!?」

 兄妹の叫びは、その後しばらく続いた。

 

 墨がようやく止まる。

 かごの中にいる方が安全だとの判断で、フロラルド兄妹には事態が収拾するまで、そのままで待機してもらうことになった。フェリスは不平満々だったが。

 足先まで真っ黒になったフェリスから、かごの隙間越しにカードを受け取ったアリサが戻ってくる。

「カードも真っ黒だったが、軽く拭き取ると墨汚れはすぐに取れた。カードの表面には➀と番号が振ってあり、裏面には何やら文章が書かれている。

 内容をアリサが読み上げた。

 

“――歴史と共に歩みし、

 勇壮なる友人の影を追え――”

 

 例によって暗号めいた指示であるが、その意味はともかく、一つのパターンがこれでようやく見えてきた。

 今まで得た情報から推測できる概要を、エリオットが取りまとめる。

「多分、白いカードには➀から➃までの番号があって、それぞれに指示が書かれているんだ。文章が示した先にあるのが“四色の導”だと思う」

 そこで言葉を区切って、「問題は……」と重い声音で続けた。

「指示が書かれている白いカードを探すのに、今のところヒントはないみたい。ただ今みたいに、すぐ目につく所に設置されている可能性は高いんじゃないかな」

「つまり餌ということか」

 明白な理由にラウラが顔をしかめた。

 指示カードの場所を明記しなければ、必然学院中を探し回らねばならない。そうすれば罠にかかる可能性も増えてくる。

 さらに指示カードが分かりやすい場所にあるのは、あくまでその次の暗号解きをゲームの要にしていることと、フェリスたちがかかったように、カードを囮にして周りに罠を仕掛けているからだと予想できた。

 加えて深読みするなら、このようなやり方ができるのは、白い指示カードを探し回る過程で、段階を飛ばし“四色の導”とやらに偶然辿り着くことはないという自信の表れとも取れる。

「やるしかないぞ、これは……!」

「同感だ」

 マキアスとユーシスが同時に拳を固めた。

 罠を回避しながら、白いカードを見つけ、指示暗号を解読し、各班で“四色の導”に辿り着き、その先にあるであろう私物を取り返し、最後にちびっこ共に然るべき制裁を与える。

 最後が肝心だ、最後が。と、何人かは目が本気である。

 要するに変則式フィールドオリエンテーション。その過程に罠があり、実害が身体にも及ぶ当たり、怪盗紳士のそれよりタチが悪い。

「よし、じゃあ改めてチーム分けだ!」

 進むべき道が明確となり、リィンが音頭を取る。

 彼も彼で、エリゼからの手紙を奪われているのだ。下手をすれば、トラップにかかるより手ひどい目に合ってしまう。兄の尊厳諸々の為にも、ここは絶対に退けないところだった。

 顛末を見守っていたクロウが口を開く。

「俺も協力するぜ。なんたってレポート取り返さないといけねえしよ。まあ、差し当たってはお前ら……」

 彼は至極真面目にこう言った。

「とりあえず俺を木から降ろしやがれ」

 

 ●

 

 時は少し遡り、Ⅶ組が学院についた頃。

 ケネス・レイクロードは中庭近くの木に吊り下がっていた。

「こ、このっ」

 体勢はクロウと同じで、頭を下に逆さま状態である。

 腹筋を使って必死に上体を起こし、足首を縛っている紐を解こうとする。しかし何度挑戦しても手が届かず、ついには力尽きてしまった。

 なんでこんなことになったのか。経緯は確かこうだ。

 いつものように朝釣りに興じていて、休憩がてら木陰に座った。すると足元の土くれが弾けて、気付けば宙吊りになっていた。実にシンプルである。

 誰が何のために仕掛けたのかは知りようがないが、本来ならそこまで焦る必要もなかった。通りがかった人にでも助けを求めればいいのだから。

「ふっ、ふっ!」

 それでもケネスは諦めずに脱出を図る。悠長に助けなど待っていられないのだ。急く理由が彼にはあった。

「早くしないと……っ!」

 奴が――。

「おやおや」

 深みのある渋い声音が、池の水面を揺らめかせた。砂利道を踏みしめる、ゆったりとした歩調が不穏に耳朶を打つ。

「あ、あああ!」

 奴が来てしまった。

「いい朝だ。釣れているかね。いや、察するに今日は君が釣られたのかな?」

「あひいいい!」

 絶望が押し寄せる。

 芳醇な花の香りに誘われる蝶のように。否、巣にかかった獲物を捕食する蜘蛛のように。

 澄んだ空気を粘度のある濃紫のそれに変えて。輝く朝日を淀んだいかがわしいバックライトに変えて。

 歪んだ愛の伝道師、用務員ガイラーがその場に姿を現した。

「た、助け……」

 ガイラーと遭遇したあとのケネスの記憶はことごとく曖昧で、その身に何が起こったのかさえ覚えていないことが多い。

 だが恐怖は体に刻まれている。心が悲しみを忘れない。

 条件反射というか、もはやPTSDの域。過呼吸寸前、すでに指先まで強張っていた。

 ガイラーは宙吊りになったケネスの前に立つ。

 上下反転する視界の中、怯える瞳でガイラーを見返すケネス。太陽を背にしている為、彼の表情は逆光で暗い。その闇に邪悪な三日月の笑みが浮かんでいる。

「実にいいね」

「ひぃっ!?」

 妖艶に蠢くしわがれた魔手が、ぬらりと伸びてきた。

 銃声が響いたのは、ケネスが短い悲鳴を上げ、ガイラーが愉悦に目尻のしわを深めた時だった。

 続け様の銃声。一発目の威嚇と違って、二発目はガイラーの足元に着弾した。ガイラーは俊敏に背後へ跳躍し、ケネスとの距離を開ける。

 その場に割って入ったのは、フィーとミリアムだった。

「ほう……お嬢さん方。私に用かな。それとも彼かな」

「ケネスの方」

 フィーが答えると、ガイラーはあっさりと踵を返した。

「では私は退散しよう。今から落ち葉を焼かないといけないのでね。――ああ、そうそう、ケネス君」

 足を止め、彼は続ける。

「一つ予言しよう。君は近い内に目覚めの時を迎える。私のこの言葉、よく覚えておくといい」

 心を蝕むような、毒を孕んだ声音にケネスは身震いをした。

 ガイラーの姿が見えなくなってまもなく、ケネスはトラップから解放された。紐をナイフでずっぱり切るという手荒な方法でだったが。

 どさりと地に落ちたケネスは、頭をさすりながら身を起こす。

「あ、ありがとう。君たちのおかげで助かったよ」

「ケネスに手伝って欲しいことがあるんだけど」

 礼に応じるでもなく、フィーはそう言った。

 ケネスは直感した。協力したらダメなやつだ。どうにかして逃げないと。

 フィーの手にある一対の双銃剣がぎらついた。あたかもその考えを制するかのように。

 研ぎ澄まされた刀身に、怯えを隠せない自分の顔が映っている。

 藁にもすがる思いで、その横にいるミリアムにも目を向けた。彼女は屈託のない笑顔をだったが、その背に物々しい雰囲気が漂っている。

 景色が歪み、ほのかに青白い燐光が散っていた。

 ……何かいる。

 得体の知れない畏怖を感じ、尻もちを付きながら後じさるケネスに、フィーはもう一度変わらぬ口調で告げた。

「手伝ってほしいことがあるんだけど」

 ちびっこ二人が、にじり寄る。

 

 ●

 

 校舎内も散々たる有様だった。正面入り口を入ってまず目についたのは、受付嬢のビアンカが机に突っ伏す姿だった。

 いつも澄んだ声で来客を出迎える彼女は、今や喉の奥から「み、水……」と掠れた声を絞り出している。その手元には、倒れてコーヒーを滴らせるマグカップがあった。おそらく飲み物に何か仕掛けられたのだろう。多分辛いやつを。

「ビアンカさん!」

「今はダメだ!」

 とっさに手を差し伸べようとするリィンを、クロウが鋭く制止した。

「目的を見失うな。俺たちが時間をかければかけるほど、この惨状が拡大していくんだぜ。水を用意してやりたいが、水道にも何か仕込まれている可能性は高い」

「それはそうかもしれないが……!」

 断腸の思いで、リィンは出しかけた手を戻す。すがるようなビアンカの目は直視できなかった。

「それでいい。俺は端末室に走る。お前は分かってるな?」

「ああ、俺は学院長室だ。女神の加護を」

 互いの手を打ち合わせ、二人は道を分かつ。

 Ⅶ組第一探索班、リィン、クロウ組の役割は、各所への報告、通達だ。

 

「失礼します!」

 無礼を承知で、ノックの返事も待たずリィンは学院長室のドアを開く。

 ここまでの学院トラブルとなると、さすがに学院長への報告が必要だ。

 息が上がるリィンとは逆に、いつもの椅子に腰掛けるヴァンダイクは落ち着いたものだった。

「騒がしいようじゃが、まずは報告を聞こうかの」

 立派なあご鬚をしゃくり、ヴァンダイクは机越しにリィンを見た。

 現在の状況について、端的な報告を行う。

 話を聞き終えたヴァンダイクは、おもむろに机の引き出しから一枚の白いカードを取り出した。

「そのカードは……!」

「今朝、この机の上に置かれておっての。意味の分からん文章も書かれていたので、いたずらの類かと思っていたが」

 ヴァンダイクからカードを受け取ったリィンは、裏面を確認してみた。先ほどと同じく暗号めいた文章が書かれてある。表面の番号は➃だ。

 その内容は。

 

“――定まらぬ三色を束ねしは翡翠の衣。

 その背を支えし裏を暴け――”

 

 相変わらず不明瞭な言い回し。これを見て、余計に違和感が大きくなる。やはりおかしいのだ。

 その時、室内スピーカーにノイズが走った。

 館内放送だとすればクロウだ。

 無事に端末室までたどり着けたらしいと安堵したが、その直後にスピーカーから響いたのは『ぐっ……!』と押し詰まる彼の声だった。

 

 

 二階端末室。様々な導力機具が並ぶ部屋の一角に、放送用の設備がある。そのすぐそばの床に、クロウは倒れていた。

「ああ、くそ……」

 悪態を付く彼の体は水でずぶ濡れで、時折不自然にピクピクと痙攣している。

「あの、ちび……ども」

 二階は二階で大変なことになっていた。

 途中目に入った音楽室では、お団子頭の女子生徒がピアノの屋根にばくりと挟まれ、じたばたともがいていたし、調理室では顧問のメアリー教官がむせび泣きながら、真っ赤に染まって動かないニコラスの顔をハンカチで拭っていたりした。

 一瞬ぎょっとしたが、匂いからして多分トマトペーストだ。もっともどうして彼がトマトまみれなのかは、想像もつかなかったが。

 さらにどんなトラップにかかったのか、数名の生徒は廊下の壁に張り付けられていて、それはもう聞くに堪えないうめき声をあげていた。

 死屍累々の中を走り抜け、クロウは端末室に辿り着く。

 一応は警戒しながら扉を開けたが、そんな慎重さを嘲笑うかのように、室内に足を踏み入れた途端、水がたっぷり入ったバケツが天上から落ちてきた。想定外の一撃を回避することはできず、あっという間に水びたしである。

 それはまあいい。ここまでのトラップを省みるに、まだ可愛い類と言えた。

 とはいえ笑って済ます道理はなく、操作盤まで大股で歩み寄り、クロウは荒々しく館内放送のレバーを起こす。続いてマイクを手に取り、本体スイッチを入れた。

 その瞬間だった。バチリと弾ける音がして、体内に電流が駆け抜けた。

 自分の意志とは無関係に背が仰け反り、あっという間にその場にくずおれて――今に至る。

「ぐうう……まじか」

 これはない。先の水びたしも電気を通しやすくする為の仕掛けだったのだろう。凶悪過ぎるトラップだ。

 痺れの残る体を無理やり起こす。水を吸って重たくなった服の感覚が気持ち悪かった。

「お前らの思い通りにさせるか……っ」

 台の端に手を付き、上体を持ち上げ、クロウは今一度マイクを手に取った。

 一般的な放送マイクと一緒のタイプで、本体のスイッチを押し込んでいる間のみ機能する仕組みだ。そして電流はそのスイッチに連動して発生するらしい。

 つまり放送中は常に電気を流され続けるわけである。

「上等だ。見てやがれ」

 普段人の出入りの少ない端末室にわざわざ罠を仕掛けるという事は、誰かがこの放送機能を使うと見越していたからだ。逆を言えば、放送による周知や注意促しをして欲しくないということでもある。

 二度三度と深呼吸をして、クロウは心の準備をする。

 本来なら体の水気を取り、絶縁体のゴム手袋を用意したいが、あいにくとそんな時間はない。というか、これまたわざとらしく、端末のすぐそばにゴム手袋が置いてあるが、どう見ても怪しい。この状況で使えと言われて使うお人好しはまずいない。

「なめんなよ」

 きっぱりと言い捨て、クロウはマイクのスイッチを押し込んだ。すぐに容赦ない電撃が襲い来る。

『ぐっ……二年のアームブラストだ。端的に今のっ……状況と打開策だけ伝えるっ……!』

 骨身に走る耐え難い苦痛に、途切れ途切れになる言葉。それでも彼はスイッチから手を離さなかった。

『ほとんどの奴が分かってる、と思うがっ、学院内に罠が、仕掛けっ、られてる』

 まだだ。耐えろ。

『この惨状を終わらす、ためには……っ! 学院のどこかにある白いカードがっ、必要だ……多分四枚ある。それをっ、見つけたら、Ⅶ組にっ! 近くの赤い学院服着てる奴らに渡せ!』

 言い切った。だがあと一言だけ。

『……リィン、合流は出来そうにねえ。あとはっ、お前らに任せるぜ……っ』

 末期の力を使い切り、クロウは再び倒れ込む。全ての感覚が消え失せて、もう指先一つ動かせなかった。

 そんな彼の顔の上に、ゴム手袋がはらりと台から落ちてくる。

 いたって普通。異常なし。ゴム手袋に罠は仕掛けられていなかったのだ。

 そうではない。疑心暗鬼を煽り、逆に素手で行かせる選択に誘導する――あえて何も仕込まないという罠。思考を制限する心理の檻。冷静に考えればガラス、プラスチック、木片、いずれも絶縁体だ。やり様はまだあったかもしれないのに。

「そりゃねえぜ」

 心をへし折られ、クロウはがくりと気を失った。

 

「クロウ―――ッ!!」

 放送が切れ、学院長室にリィンの叫び声が響き渡る。言葉を詰まらせるリィンに、ヴァンダイクが声を掛けた。

「ああ、リィン君。取り込んでいるところ悪いのだがね」

「すみません、つい。ですがクロウの放送にあった通りです。フィーとミリアムが仕組んだようなのですが、事態は必ず自分たちで収拾させます」

 ヴァンダイクから受け取ったカードを手に、リィンは足早に学院長室を退出する。

 扉が閉まり、一人残されたヴァンダイクは「むう……」と、難しい顔を浮かべた。

「いつの世代も若者はせっかちじゃな。どれ」

 ふんふんと鼻息を吐きながら、体を揺さぶってみる。結果は変わらなかった。身動きが取れない。

 完全に椅子と尻が接着されている。迂闊であったと、ヴァンダイクは心中で歯噛みした。

 よもやこの椅子にまで仕掛けていくとは豪胆この上なし。学生のいたずらを本気で怒る気にはなれなかったが。

「うむ……困ったわい」

 トイレに行きたい。最近なんだか近くなった気がする。接着しているのはズボンだけなので、どうにか抜けられるかと思ったが、座位のままでは上手く脱げそうになかった。

 そうこうしている内に、尿意が波となって押し寄せてくる。

「ぬううう……!」

 長きに渡る軍人人生で、ここまでの危機があっただろうか。退路を断たれ、補給もなく、敵軍に周囲を包囲されたが如き焦燥感。いや、それでさえ生ぬるく感じる。

「ぐうう……む?」

 状況の打破を求め、忙しい視線が止まった先にあったのは机上の花瓶。

 手を伸ばせばかろうじて届く距離にある。これは保健医のベアトリクスが東方の土産物を手に入れたからと、快く譲ってくれた花瓶だ。

「ふおっ………」

 トールズ士官学院長にして、帝国軍名誉元帥。齢七十にして、極限の二択が迫っていた。

 

 ●

 

 第二探索班は、ラウラ、マキアス、ガイウスである。

「なかなか見つからないものだ」

 制服についた枝葉を払い落とし、ラウラは茂みの中から腰を上げた。三人は校舎沿いを一周しながら、指示の書かれたカードを探しているところだった。

「待てマキアス、そっちは木があるから近づくのは止めた方がいい」

 見当違いの方向に進もうとするマキアスの手を、ガイウスが掴んで引き留める。

「す、すまない。視界がぼやけて方向がわかりにくいんだ」

 まともに動けないのだから待っていた方がいいと、二人はマキアスを止めたのだが、『眼鏡は僕自身の手で取り返したい』と、彼は頑として応じなかった。

 その時、大きな音がして、いきなり二階の窓が粉々に割れた。

 とっさに頭をかばって伏せる三人。

 ガラスの破片と一緒に飛び出してきた人影が、ドスッと重い音を立てて茂みに落下した。

「うう……痛い……」

「ん? カスパルではないか」

 顔を上げたラウラが目を丸くする。

 うめきながら身じろぎするカスパルだが、幸い茂みと土がクッションになって大事には至っていないようだ。

「意気は買うが、さすがに窓からの飛び込み練習は感心できないな」

「なわけないだろ……」

 カスパルの額にはたんこぶがあった。落下のせいでケガをしたわけではないらしい。それについて言及してみるものの、彼は自嘲気味に笑うだけだった。

「まあ、そなたが言いたくないなら、それ以上は追求せぬが」

 場所を考えるとⅣ組の教室から落ちてきたことになる。他教室にもトラップが仕掛けてあるようだ。

 とはいえ、どうやら単にトラップに掛かったのとは事情が違うようで、何かを思い出しているらしいカスパルの瞳から一滴の涙がこぼれ落ちる。

「やはりどこか打ったのではないか」

「いいんだ。なんでもない……ほらこれ、持ってけよ」

 案じるラウラにかぶりを振って「Ⅶ組の誰かに渡せばいいんだろ」と、彼は懐から一枚のカードを取り出した。

 その手にあったのは➁と書かれた白いカード。

「それを探していたのだ。いったいどこで……」

「そんなのいいから早く行けって。俺はもうダメだ……もう、ダメなんだ」

 完全に意気消沈である。ラウラは全てを失った男の目を見た気がした。

「とりあえずこの場から動かなければ安全だ。しばしの間、そこでじっとしているがよい」

「いっそ殺せよ……」

 えらくナーバスなカスパルは一旦置いておいて、ラウラは白いカードの裏面を見た。ガイウスとマキアスも一緒になってのぞき込む。

 カードにはこう記されていた。

 

“――揺れる鏡は四角き揺籃

 その身を捧げ、贄となれ――”

 

 ●

 

「ひ、ひどい状態だよ、これ」

「目も当てられんとはこの事だな」

 クロウの放送から少しあと、第三探索班のエリオットとユーシスは校舎内に進入していた。

 現在は二階、各教室を調べ回っている最中である。悲鳴は収まる気配を見せず、あっちこっちの教室から助けを求める声が聞こえてくる。特にⅣ組の教室は騒々しいかった。

 気にはなったが、まずは先にⅦ組の教室に向かうことにした。望み薄だが、フィー達が潜伏している可能性もあるのだ。

 先に彼女達を捕まえることが出来れば、カード探しなどしなくても全てを終わらすことが可能だ。もっともあのすばしこい二人である。見つけても捕らえることの方が難しそうではあったが。

 Ⅳ組の教室を通り過ぎ、Ⅴ組の教室に差し掛かった時だった。

 エリオットの足が止まる。

「あ、あれ、ユーシス……」

「どうした?」

 その視線を追い、ユーシスもそれに気付く。Ⅴ組の教室扉の前に、見知った顔が倒れていた。

 ロジーヌだ。

「おい、しっかりしろ」

「ん……あ、ユーシスさん、これは、夢……でしょうか」

 駆け寄ったユーシスが声をかけると、彼女はまぶたをゆっくりと開いた。その声は消え入りそうなくらい小さく、弱々しかった。

「ああ、女神よ。お慈悲に感謝します」

「どうした。なにがあった?」

 ロジーヌは震える手で、教室の中を指差した。窓際のカーテンレールに白いカードが挟まっているのが見える。

「まさかお前、あれを取ろうとして……?」

「放送を聞いたんです。ユーシスさんの力になりたくて、それで――」

「もうしゃべるな」

 ロジーヌを優しく横たわらせて、ユーシスはすくりと立ち上がる。

「エリオット、ロジーヌに回復アーツをかけてやってくれ」

「もちろんだけど、ユーシスはどうするの?」

「決まっている」

 彼の目は真っ直ぐに白いカードを見据えていた。

「い、いけません。あそこにはまだ私が掛かったのと同じ仕掛けがあるかもしれません。悪魔の所業としか思えない、あの罠が……!」

「しゃべるなと言った」

 怖れなど微塵も感じさせない、いつもの憮然とした足取りで、ユーシスは教室に足を踏み入れる。

 廊下からでは分からなかったが、荒れた教室内にはⅤ組の生徒達の屍がいくつも転がっていた。

 写真部のレックス、ちょっと前にⅦ組同士の屋台勝負を持ちかけてきたベッキー、そして個性と言ったら前髪しかないムンク。いずれも黙して床に伏していた。

「……お前もⅤ組だったか」

 窓際の壁に背を預けて、うなだれるポニーテールの少女に視線を注ぐ。同じ馬術部のポーラだった。

 ユーシスは彼女の前に膝をついた。

 思えばマキアスとポーラくらいだったかもしれない。正面切って自分に噛みついてきたのは。

 しかし今や彼女は動かない骸と化し、憎まれ口の一つも叩かない。

「……お前の馬の世話は俺が引き継ごう」

 わずかに目を伏せ、ユーシスは己の胸に手を添える。それは同じ馬術部として捧げる、彼女へのささやかな哀悼の意だった。

 瞳に憐憫の色を揺らがせたのもわずか、ユーシスは鋭くなった目を白いカードに向けた。

 忌々しい事の元凶め。俺のクッキーを返せ。

 憤懣をあらわに、ユーシスは➂と記されたカードを勢いよくむしり取る。

「ふん、結局なにも起こらないではないか。ごぶっ!?」

 直後、頭に衝撃が走る。ゴワアアンとドラを打ったような残響が脳内を揺らした。

 ふらふらとたたらを踏むユーシスの足元を、光沢のある(かな)だらいが転がっていく。天井に仕掛けられていたのだ。

 恐れていた光景を目の当たりにしたロジーヌは、「そんな、ユーシスさん……」と絶望に塗られた顔を両手で覆う。

「これが私たちⅤ組を葬り去った悪夢。金だらいが教室を蹂躙する様は、まさに煉獄。悪魔の顕現としか言い表せないほどでした」

「なにそれ……」

 口を半開きで固まるエリオットである。

 よくよく見れば、教室の中は金だらいだらけだった。ついでにロジーヌのすぐそばにも特大の金だらいが転がっている。なぜこれを最初に怪しまなかったのか。 

「う、受け取るがいい」

 ふらつきながらも、ユーシスはカードを投げる。エリオットはひらひらと飛んでくるカードを掴むと、すぐに裏面を確認した。

 

 “――幾万の叡智に眠る、

 紅蓮の魔人を呼び起こせ――”

 

「うん、指示が書いてある。ユーシスも早くこっちに!」

 エリオットが顔を上げると、すでにユーシスは床に伏す屍の一体と化していた。

 

 ●

 

「この騒ぎはフィーたちだけで起こしたわけじゃないってこと?」

「あくまで勘ですが」

 第四探索班。驚くアリサに、エマはそう告げる。

 一連の事態の中であった、いくつもの違和感にいち早く解を出したのは、やはり彼女だった。

「まず指示が書かれたこのカード。フィーちゃんたちが考えた文章ではない気がします」

 凝り過ぎている、というか語彙の数々からして二人らしくない。

「あとは仕組みが出来過ぎていることでしょうか」

 各人の私物を質にしてゲームに強制参加させ、そのエリア内に罠を仕掛ける。これくらいならまだ二人の仕業、発想だと納得できる。カードを使ってヒントを出すというのも然りだ。

 だが白いカードを餌に使って広範囲の人間を罠にはめたり、班別行動に誘導するようなルール設定を組み込んだりと、この計算されし尽したような場の運びは、果たしてあの二人だけで実現可能なのだろうか。

 そしてエマにとって、もっとも大きな違和感があった。

 それは“遊び”がないこと。

 多少なり大雑把なくらいで丁度いい二人である。それは何かと世話を焼くエマがよく知っていた。

 なのに今回は無駄がない。洗練されているというべきか。

 フィーとミリアムに混じって、要所要所でらしくない色が垣間見えるのだ。

 それが第三者の介入をエマが予測した理由だった。

「言われてみれば確かにそうかもしれないわ」

「ただ証拠はありませんので、最終的にはフィーちゃんたちに聞くしかないんですけど」

「そうよねえ……ふふ」

 アリサの背に黒いオーラが揺らいでいた。

「あ、あんまり怒らないであげて下さいね? えーと、アリサさんは日記を持って行かれちゃったんですよね。日記をつけてたなんて知りませんでした」

「あの日記をもし読んでいたら、二人とも木に縛りつけて頭の上にリンゴを置いて、矢の的にしてあげるんだから」

「ちょっと落ち着きましょう!?」

 そこまで言わせる日記の内容が気になるエマだったが、質問することはやめておいた。口に出したら三つ目のリンゴを頭に乗せられかねない。

 その折、目的の場所に到着する。

「……多分ここよね」

 フェリスから受け取ったカードを軽く掲げ、アリサはグラウンドを見渡した。

 “――歴史と共に歩みし、勇壮なる友人の影を追え――”

 エレボニアの歴史は戦いの歴史でもある。戦において欠かすことが出来ず、その役割が戦車に移行した現代でも、生活から離れ、廃れたわけではない。

 なるほど、確かに“友人”と呼べるかもしれない。

「アリサさん。あれを」

 グラウンドの奥を指し示すエマ。そこには雄々しく朝日を浴びる、一頭の馬がいた。

 

 

「ちょっと待ちなさいよ!」

「アリサさん、回り込みましょう!」

 少しして、グラウンドには馬を追って走り回るアリサたちの姿があった。

 グラウンドを縦横無尽に駆け抜ける馬の背には、一枚の茶色いカードが張り付けられている。体毛が保護色となって見えにくかったが、あれこそが“四色の導”――その一つなのだろう。

 その馬の世話をしている最中に罠に引っ掛かったのか、馬術部部長のランベルトは馬舎の前で大きな巻き藁の下敷きになっていた。

「人間が走って追いつけるわけないじゃないの……!」

 肩で息をしながら、アリサは喘ぎ喘ぎ言う。

 こっそり近づいてカードを取るはずが、あっさり見つかってしまい、勝ち目のない追いかけっこをする羽目になったのだ。

「……草食動物の視界の広さを失念していました」

 馬の視界範囲はおよそ三五〇度。しかも単眼視と言って、左右の目で別々の物を捉えることができるチート仕様だ。目立つ赤服など、草原の天敵より遥かに見つけやすい。

「とりあえず隅に追い込むわ――きゃあ!?」

 再び走り出したアリサだったが、出足の一歩目で地面に腰までズボッと沈む。

「ま、また落とし穴? いい加減にしてよね!」

「お洗濯間に合うでしょうか……」

 馬を追う過程で、エマもアリサもグラウンド中に掘られた落とし穴に幾度となくかかっていた。

 しかも穴の中に水を染み込ませてあるらしく、もう二人とも泥だらけである。

 なぜか馬は落とし穴に引っ掛からない。うまく穴の上を飛び越えるあたり、馬の鼻でしかわからない印があるのかもしれない。

「このままだと埒があきません。高低差を使いましょう。周囲ほぼ全てを視界に入れられるといっても、上は死角になるはずです」

 エマが見たのはグラウンドを出て、段を上がったところにある焼却炉だ。その端のスペースはグラウンドと隣接しているので、馬が近くに来さえすれば、手を伸ばして背に届く位置と高さである。

 そこに誘導する自体がすでに簡単ではないが、思い浮かぶ策が他にない。

 役割分担を決め、エマは焼却炉に向かい、アリサはじりじりと馬に迫った。

「そろそろかしら」

 エマが配置についた頃合いである。しかし焼却炉付近に彼女の姿は見えなかった。

「……エマ?」

 

 

 迂闊だったと言うしかない。

 所定の位置に向かう為、エマが焼却炉の前を通過した時である。

 両開きになった焼却炉の扉から細いワイヤーが伸びていて、彼女は気付かずにそれを踏んだ。

 足首は一瞬でからめとられ、そのままシュルシュルと焼却炉の中に引きずり込まれてしまったのだ。

「ア、アリサさん、気付いて」

 グラウンド側からは焼却炉自体が壁となっていて、多分すぐには分からない。

 この状態でエマは確信した。

 やはりフィー、ミリアム以外にも誰かが一枚かんでいる。なぜなら自分の足を巻き取るこのワイヤーが、機械仕掛けだからだ。

 フィーの罠は自然にあるものを利用することが多い。このような機械を使った罠はどちらかと言えば専門外のはずだ。

 それに機械なんてそうそう手に入らない。最初から持っていたとも考えられない。いったい誰が助力している? その人物が機材を提供した人物なのだろうか。

「うう、炭くさい……それに煤だらけ」

 さすがに焼かれるわけではなさそうだ。しかしワイヤーは複雑にからまっていて、すぐに取れない。

 苦心してワイヤーを解こうとするエマだったが、不意に自分以外の息遣いを感じて、その手を止めた。

「今日はいい日だ」

 冥府から届いたような深く、低い声だった。そして、知っている声だった。

 強張った首を稼働させて、声のした方に硬い動作で向き直る。

 狭い焼却炉の中に、白髪の用務員がにたりと薄ら笑いを浮かべていた。それも三角座りで。

「やあ、エマ君」

「ガ、ガガガッ、ガイラーさん!? どうしてここに!?」

「なに、落ち葉を焼こうとやってきたのだが、うっかりワイヤーに足を取られてしまってね。今まで動けずにこの体たらくだよ」 

 それは嘘だと分かる。彼の足首はもうワイヤーで縛られていない。

「解いたのなら早くここを出ればいいじゃないですか」

「誰かが私と同じような目に合った場合、ワイヤーを解く人間が必要だろう。やむなくここに留まっているわけだ」

 違う。新たな獲物を待っているだけだ。

「この罠を自分のものにして、悪用する気ですね」

「はて、何の事だかわからないな」

「でしたら、私のワイヤーを解いて頂けませんか?」

「待ちたまえ。そう急くものでもない」

 そう言って、懐から何かを取り出す。封筒に入った原稿用紙だった。

 嫌な予感――どころか確信に、エマは作り笑いを引きつらせる。

「見たまえ。『クロックベルはリィンリィンリィン』の最終章だ。君の意見を聞かせて欲しい」

「い、急いでいますので!」

 この上は機械ごと抱えて外に出ようとしたが、勝手に焼却炉の扉がバタリと閉まった。

「き、きゃあ!?」

 真っ暗闇である。問答無用とばかりに、ガイラーの朗読が始まった。

『後夜祭、俺はクロックと踊りたいんだ』

『ああ、とびきりのワルツを披露してやろう。おいおい、リィン。頬に米粒ついてるぜ』

『はは、恥ずかしい所を見せたかな』

『そんなお前だから放っておけねえのさ』

 暗闇で文字など見えるわけもないのに、スラスラと読み進める。

『リィン、後夜祭が終わったらお前に言わなきゃいけねえことがある』

『え、クロック。それって――』

「いやあああ!」

 エマの絶叫。止まらない朗読。

 焼却炉の中は、ある意味燃えていた。

 

 

「も、もうダメ」

 体力を使い果たし、膝を折るアリサ。

 エマの悲鳴を聞く限り、多分トラップにかかってしまったのだろう。救出に行きたかったが、アリサもすぐには動けそうになかった。

 馬は悠然と鼻を鳴らしている。

「……フィーたち、覚悟していなさいよ」

 それでも立ち上がったのは、使命感と日記の為だ。だが体力はどうやっても戻らない。気力だけでは馬に追いすがれない。

「アリサ、大丈夫か!」

 今にもくずおれそうなアリサの体を、慌てて走ってきたリィンが支えた。

「学院長への報告は終わったの?」

「ああ、クロウとの合流はあきらめて、とりあえずグラウンドに来たんだが。今どういう状況なんだ?」

 アリサは簡単な経緯と、茶色いカードが馬の背にあることを説明した。

「そうか。任せてくれ」

「なにするつもり? 一人じゃ無理よ」

 リィンはすたすたと馬の下に向かう。不思議なことに馬は逃げる素振りを見せなかった。

「追い回したりして済まなかった。お前の背にあるカードを取りたいんだが構わないか?」

 頭を一撫ですると、馬は静かに体を屈めた。

 カードを手にしたリィンは、アリサのそばまで戻って来る。アリサは素直に驚いた。

「あなた、すごいわね」

「馬は賢いからな。追えば逃げるに決まってる。というかアリサだって乗馬できるんだろ」

「私はたまにしか乗らないし……。で、そのカードは?」

 茶色いクリアカード。色がついている以外で目立つところはなく、新たな指示も記載されていなかった。

「どういう意味かしらね」

「わからないが、“四色の導”の一つ目ってことは間違いないと思う。後で皆にも連絡してみよう」

「はあー、走り回って疲れちゃったわ」

 へたり込み、地面に手をつくアリサ。そして手をついた地面がまたしても陥没し、今度は腕から落とし穴にはまった。

「きゃっ!」

「アリサ!」

 間髪入れずにリィンはアリサを引き戻す。体までは落ちなかったが、彼女の腕は泥まみれだった。

「大丈夫か?」

「あ……」

 リィンが差し出した手を掴む寸前、アリサは手を引っ込めた。

「一人で立てるわ。あなたの手が汚れちゃうし」

 しかしリィンは構わず手を握って、アリサを立たせる。

「気にしないでくれ」

「あ、ありがとう」

 赤らむアリサの頬。二人はしばらく手をつないだまま、その場で見つめ合っていた。

 おずおずとアリサが口を開く。

「その……もう大丈夫だから、あの……手を離してもいいかしら。さすがに恥ずかしいし」

「いや、握っているのはアリサだろう?」

 変な沈黙。

 二人は繋いだ手をぶんぶんと振った。

「ちょっと、冗談やめてよ」

「ア、アリサこそ」

 ピタリと同時に手を止め、二人は先程の落とし穴に視線を転じた。中には水にしては粘り気のある液体が、なみなみと注がれている。

「もしかして接着剤……か?」

「うそでしょ?」

 もう一度手を振ってみる。結果は変わらなかった。がっちり繋いだ手が離れる気配は微塵もない。

 お互い顔を見合わせ、乾いた笑みを浮かべる。

 残る“(しるべ)”はあと三つ。

 トラップもトラブルも、まだまだ終わりそうになかった。

 

 

 ~中編②へ続く~

 




中編①をお付き合い頂きありがとうございます。
動き出した各勢力。なぜか巻き込まれるケネス。一話の内に二回も登場したガイラーさん。Ⅶ組も何人かはトラップの餌食になってます。
Ⅴ組は金だらいで全滅。Ⅳ組に何があったかは、その内明らかにしたいと思います。学院長のその後も合わせて……。

ではでは激化するトラップ騒動。次回の中編もお楽しみ頂ければ幸いです。


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ちびっこトラップ(中編②)

「あー、終わった」

 中庭でめいっぱいに伸びをし、サラは青い空を仰いだ。緑葉の匂いを運びながら肌を撫でていく風は、ひんやりとして心地良い。

 今日は朝一で出勤し、先ほど連日溜まっていたデスクワークを片付け終わったところである。

「んー、たまには早起きもいいもんね」

 仕事がすんなり片付いたのは僥倖だった。もしハインリッヒ教頭にでも絡まれていたら、段取りはあっという間に狂い、早起きの努力も水泡と帰し、こんなすがすがしい気分にはなれなかっただろう。

「それにしても、なんだか騒がしいわね……この時間ってこんなに賑やかだったかしら?」

 色んな方角から、ざわめきとどよめきが絶え間なく聞こえてくる。

 なにせこの時間に学院にいること自体が久しぶりなのだ。朝の喧騒度合いなど、分かるはずもない。

 腕時計に目を落とす。教材やらの準備の為に一度教官室に戻る必要があるが、時間にはまだ余裕があった。もう少しゆっくりしていこう。

 サラは中庭のベンチに座る。花壇の奥にある池が、陽光を受けて水面を煌めかせていた。

 早朝特有の清々しさだ。たまの早起きも悪くないかもしれない。

 

 ――カチリ。

 

 どこからかそんな音がした。小鳥のさえずりでも、虫の鳴き声でも、枝葉が風に揺れる音でもない。明らかに異質で、人為的な音。

「……なに?」

 異変を感じても無用に取り乱したりはしない。くつろいだ姿勢は崩さないまま、目線だけで周囲に警戒を巡らす。

 すでにそれは始まっていた。

 サラがベンチに座ると同時に、座面裏に設置してあった重量センサーが働き、導力信号を四脚それぞれに伝達する。信号を受信した四脚は、接地部分に仕込まれていた強力なスプリングを一気に稼働させる。

 結果、ベンチは鋭く跳ね上がり、スリングショットの弾になったみたいに、サラは勢いよく中空に投げ出された。

「きゃあああ!?」

 悲鳴もろともアーチを描いて、サラはそのまま池に頭からダイブする。盛大な水しぶきがあがり、大量の雨を花壇に降り注がせた。

「ぷはっ、なによ、なんなのよお!」

 水面に顔を出し、額にかかった前髪をかき上げた時である。見慣れていて、かと言って見たいわけでもない、あのちょび髭が目の前にあった。

「相変わらず朝から騒々しいことだ」

 サラと同じく水面から顔を出して、仏頂面を浮かべるハインリッヒ教頭は、この状況であっても恒例の嫌味を飛ばしてくる。

「まったくあのベンチはどうなっているのだ。どうせまた君の教え子の誰かがやったのではないのかね?」

「そんなことない――」

 断言したかったが、フィー辺りがやらかした可能性は無きにしも非ず。とっさには言い切れず、「――と思いますけど」と濁してから、サラは顔の下半分を水に沈めた。

「思うとはどういうことだ! そもそも君の管理能力が――」

 始まった長口上の説教。

 責任の何たるかを云々かんぬん。日常業務の処理について云々かんぬん。さらに輝かしい帝国の未来と、それを支える若者たちの正しい在り様について云々かんぬん。挙句の果てには、私の若い頃は云々かんぬん。

「重々承知しております。ええ、はい。そろそろホームルームの準備に……ええ、すみません。以後気を付けます。気を付けますから、そろそろ……」

 清々しい朝の一時はあっという間に崩れ去る。何が悲しくて、こんな池のど真ん中でくどくどと粘着質な説教をされなければいけないのか。

 その時、沈まないようにばたつかせていた足の片方が、ハインリッヒの膝頭に接触した。

「ぬあっ!? 君、ついに暴力行為かね! 見えないのをいいことに」

「申し訳ありませんが偶然です。だって足を動かさないと沈んじゃいますし」

 偶然なのは本当だったが、さすがに言葉に険が乗る。そんなタイミングで。

「いたっ。あ! 教頭、私の足蹴りましたね!?」

「ぐ、偶然だ!」

「ひどい! あーあ、アザになってたらどうしましょう。ベアトリクス教官に手当してもらわないと」

 勝ち誇ったような笑みで、サラはハインリッヒを一瞥した。

「貴様っ、陰険な!」

「どっちがですか!」

 水を掛けながらの水掛け論。その水面下で、互いの足が激しくぶつかり合う。

「むう! おのれっ! 言っておくがこれは偶然だ!」

「はっ! せい! こちらこそ偶然ですから!」

 二人の周りにバシャバシャと飛沫と波紋が広がっていく。

「くぬくぬくぬくぬっ!」

「このこのこのこのっ!」

 不毛で無益な偶然は、目下継続中である。

 

 ●

 

「おそらくここであろうな」

 ラウラたち第二班が訪れていたのはギムナジウムだった。その入り口前で三人は足を止めている。

「ああ、僕もそう思う」

「俺も異論はない」

 マキアスとガイウスも納得のようで、三人はカスパルから受け取った白いカードの文章を今一度確認した。

 

 “――揺れる鏡は四角き揺籃 その身を捧げ、贄となれ――”

 

「まあ、後半部分はよく分からぬが……」

 “揺れる鏡”は水面。“四角き揺籃”はそのままプールを指していると想像できた。問題は後半、横並ぶ不穏なワードが、不安感を否応なく煽ってくる。

 ギムナジウムから悲鳴の類は聞こえてこないが、それでも油断するつもりはない。

 ラウラたちは気を入れ直し、扉を開いた。

「では私とガイウスでプール周りを探してくる。マキアスは更衣室と練武場を頼む」

「やむを得ないな。任せてくれ」

 眼鏡がなくて、よたよたとうろつき回る内、プールに落ちられては敵わない。

 “四角き揺籃”はプールの事だと思うが、確証がない以上、施設内での探索範囲は広げておきたかった。

「分かっているだろうが、男子更衣室のみだぞ」

「当たり前だ。視界がぼやけているといっても、そのくらいの班別はできるぞ」

 心外だとばかりに眉根を寄せるマキアスに、「ならばいいのだが」とラウラはプール側に向き直った。

 

 一旦マキアスと別れたラウラとガイウスがはプールサイドに足を踏み入れる。水着姿のクレインがタオルで髪を拭いているところだった。

「おう、お前らどうした。自主練にしては遅いな。もう授業も始まるし撤収するとこだぞ」

 タオルを肩にかけて、クレインは二人に言った。

「いえ、自主稽古に来たわけではありません」

「先輩は朝から練習していたんですか?」

「そうだが?」

 ずっとギムナジウムにいたと言うクレインは、外の惨状をまったく知らないらしい。

 一通りの事情をかいつまんで説明すると、彼はげんなりとしてかぶりを振った。

「お前ら、朝っぱらから何やってんだよ。けどプール内で特に変わった物は見なかったな」

「そうでしたか……ん、あれは?」

 何とはなしにプールへ視線を移したガイウスは、水の底に沈む何かを見つけた。

「別に何も……いや、確かに何かあるな。というかお前、目いいな。さっきまでそこで泳いでいたが、俺は気付かなかったぜ」

「高原育ちなので」

 プールの底でかすかに揺れているのは、小さな立方体型のプラスチック箱だ。半透明で水に同化していたから近づいても分からなかったのだろう。屈折率の加減か、ある一定の角度に立つとかろうじて視認できるくらいで、かなり秀逸なカムフラージュ方法だった。

「ったく、あれを取ってきたらいいんだな」

「部長の手をわずらわせるなど、私が行きましょう。それに何かしらのトラップが仕掛けてあるかもしれません」

「いいって。今から水着に着換えてたら面倒だろうが。第一、ずっと泳いでたけど別におかしなことは起こってないしよ」

 ラウラの警告に応じず、クレインは迷わずプールに飛び込んだ。

 さすが水泳部部長と言うべきか、あっという間にプールの中央まで泳いでいく。そのまま鮮やかに潜水し、水底の箱に手をかけた。

「よしっ回収。なんか青色のクリアカードが入ってるな。今そっちに持って――うおっ?」

 急に水面が波打ち始めたかと思ったら、さながら洗濯機のように水が回転し始めた。息つく間もなくプール内に大渦が生成されていく。

「うおおおお!?」

「クレイン先輩!」

「これは……」

 ラウラもガイウスもこの仕掛けには覚えがあった。九月の中頃にラウラがエリオットとガイウスに課した強制特訓――その際に使用した大渦発生機である。

「なぜあれがここに?」

 ラウラは首をひねった。

 あの時に使った特訓用機械の数々は、全てジョルジュに返却している。もし同じ物を使用しているとしたら、フィーたちが無断借用したか、あるいはジョルジュ自身が手渡したか――

「クレイン先輩! 早くこっちへ」

 ガイウスが叫ぶ。

 大渦に苦心しながらも、クレインは力強い腕の振りで少しずつプールサイド側に近付いていた。

「くっそ、急にどうしやがったんだ!? さっきまでは普通に泳げてたのに! まさかこの箱を動かしたからか」

 今にも荒波に呑まれそうなクレインが口走ったその推察は、実は的を射ていた。

 箱の下には動体センサーが取り付けてあり、垂直移動を行った場合にのみ遠隔信号によって大渦発生器が作動する仕組みだったのだ。

 さらにもう一つ。

「な、なんだ?」

 波間で喘ぐクレインは、ポンプの異常な振動を感じた。続いて、ろ過用給水口から、白い霧状の粉が大量に吹き出してくる。膨大な量だ。

「うっ!?」

 途端に水が重くなる。腕のひとかきは鉛でも括られているように、足のひと蹴りは沼地に埋まっているかのように、普段の何倍もの負荷がかかる。

 急速に四肢の自由が制限されていき、大渦に流されるままクレインは再びプールの中央まで押し戻されてしまった。

「この粉は一体……」

 プールサイドで屈んで、ガイウスは水をすくってみる。手の中のそれはただの水ではなく、粘り気ととろみのある液体に変わっていた。

「まさか、片栗粉か?」

「いや、違うな」

 その横でラウラは、いまだ噴出し続ける白い粉を眺めながら言った。

「片栗粉だけなら加熱しないととろみがつかない。これはおそらく片栗粉に増粘多糖類などを加えたものだ。細粒状で冷たい飲料などにもとろみをつけられる。水に入れたらよくかき混ぜる必要があるが、この大渦がその役割を十分に果たしているのだろう」

 嚥下状態の低下した高齢者や傷病人などによく使用される。最近料理本を読みあさる為、この手の知識だけは増えていくラウラだった。

「だあああ!」

 その間もクレインはプールの中央でぐるぐると回転している。

「“その身を捧げ、贄となれ”とはこういうことか」

「クレイン部長、早く脱出を。そのままではニエになります」

「ニエってなんだよ!」

 どんなに卓越していても、ゲル状の中で泳げる人間などいない。

 己の最後を悟ったクレインは残された力を振り絞って、ずっと手放さなかった箱をプールサイドに放り投げた。放物線を描いて高々と飛んだそれを、しっかりとガイウスがキャッチする。

「確かに受け取りました。先輩も早く脱出を――」

 クレインの様子が変だった。先ほどまでの必死の形相とは打って変わって、笑みさえ浮かべるほどの穏やかな表情だった。

「クレイン……先輩?」

「ガイウス」

 猛る渦から響く静かな声。

「俺の弟と妹に、兄ちゃんは最後まで泳ぎ切ったと伝えてくれないか」

「なにを……」

「お前になら頼める。お前は俺の弟分だからな」

「まだ諦めてはいけない。兄は……兄とは強くあるものです」

 ガイウスは拳を固く握る。クレインはくるくる回る。

 まるでネジのように、回転するごとに体が沈んでいく。水の浮力が働いていない。彼はもう助からないのだ。

 発破をかけるようにラウラも言う。

「クレイン部長。泳ぎ切るとは、往復してこその言葉ではないですか」

「そうだな。ははっ、最後に一本取られたか」

「最後などと……!」

 クレインは天井を見上げ、拳を突き上げた。

「頼んだぜ」

 大切な水泳部を。愛する弟妹を。

 あえて皆まで口には出さず、信頼できる者たちに全てを託し、その片腕は掲げたまま、どろりとうねる水の中へと消えていく。

 沈みゆくクレインの拳が、最後に親指を立てた。

 

 

 なぜだ。おかしい。そんなはずはない。

 クレインが贄となり、ラウラとガイウスが彼の救出活動を開始した頃、マキアスは男子更衣室で自問自答を繰り返していた。

 普段の役回りから忘れられがちだが、本来、彼は頭の切れる男である。応用力もあり、戦局を正しく見据える目も持ち、その場における判断力にも優れている。

 そんなマキアスにとっても、この状況は未曾有の事態だった。

「落ち着くんだ。早まるんじゃないぞ」

 自分自身に言った言葉ではない。いや半分はその通りだが、もう半分は対峙し、硬直している一人の女子生徒に向けての言葉だった。

 バスタオルで体を隠し、その手をわなわなと震わし、信じ難いモノを見るような目をするモニカにである。

 なぜこうなった。確かに自分は男女を示したプレートを確認した。間違いなくここは男子更衣室だ。なのになぜ女子がいる。女子? ああ、女子だ。視界はぼやけているが、シルエットで女子との判別はつく。

「君は更衣室を間違えている」

 これしか考えられなかった。

 怒り、戸惑い、焦り、侮蔑、あらゆる感情を滲ませた声音でモニカは言った。

「そ、そんなわけないでしょ。水泳部で毎日のように使ってるんだから」

 モニカは水着を上半身まで脱いだ所だった。そこにこの男がさも当然のように入ってきた訳である。しかも言うに事欠いて、お前の方が間違っていると来たものだ。

「お、大声出すから。出してやるんだから。 泣き寝入りはしないんだから!」

「待つんだ! 僕は今眼鏡をかけていない。だから何も見えない。君が誰かも分からないんだ」

「誰でもよかったってこと!? ケダモノ!」

「違う! 男子更衣室だと思ったんだ」

「まさかの男子狙い……!?」

「それも違う!」

 いけない。このままでは無差別どころか無分別のレッテルを張られてしまう。Ⅶ組きっての変態副委員長などと呼ばれるのは絶対にごめんだ。

「ラウラー! ラウラー!」

 親を呼ぶ雛鳥のごとく、モニカは叫び出した。間の悪いことにプール側のドアを隔てた先には、(しるべ)探しをするラウラがいるのだ。声を聞きつけた彼女がやってきたらどうなる。弁解の余地などない。有無を言わさずに一刀両断だ。

「叫ばないでくれ!」

「近づかないで!」

 温度設定を最大まで上げた熱湯シャワーが浴びせかけられる。

「うわっあち!!」

 たまらず尻もちをついて腕を振り回すマキアス。その腕が近くのカゴにあたり、中身を派手にぶちまけてしまった。

 宙を舞った白い何かが、頭にふぁさりと覆いかぶさる。シルクの感触だった。

「や、やだっ!?」

 その正体を確かめる前に、電光石火の一撃が鼻柱に炸裂した。乙女の鉄拳が顔面にめり込み、マキアスは吹き飛ばされる。入ってきた戸口を突き抜けて、向かいの壁に背中から激突した。

 ラウラを呼ばなくても十分じゃないか。ずるずるとへたり込む中、もう一度入口の男女プレートを見る。

 ほらやっぱり男子更衣室だ。僕は間違っていなかった。

「ん?」

 プレートの表面が剥がれかけている。どうやら一枚の紙がプレート上に貼られていたらしい。今の衝撃を受けてか《MEN》と書かれたそれが、ひらりと床に舞い落ちる。

 その下のプレートにはがっつり《WOMEN》と記載してあった。

「くそ、フィー……いや、これはミリアムがやりそうだ……!」

 さらにタチの悪いことに、おそらくプレートを張り替えたのは廊下側だけで、プール側はそのままにしてあったのだろう。プールから上がってきた人間は正しい更衣室に入り、自分のように廊下側から来た人間は間違った方に入る。最悪のバッティングが完成するわけだ。その上、普段使い慣れている水泳部なら、いちいちプレートなど見ていない可能性が高い。

「ま、待つんだ。これは罠――」

 釈明の口を開きかけたが、ワイルドに飛翔したモニカの追撃の膝が、マキアスの視界を埋め尽くす方が早かった。

 

 

「ユーシス、首は大丈夫?」

「問題ない」

 エリオットの心配に強がるように、ユーシスは首をゴキッと鳴らしてみせた。

「いや、だいぶ痛そうだけど」

 おそらくは帝国史が始まって以来、金だらいを頭に落とされた名門貴族は彼が最初だろう。もっとも記念すべきものでも、ましてや快挙を讃えられるものでもないが。

 機嫌の悪そうなユーシスから、エリオットは眼前の本棚に目を戻した。

 結局Ⅴ組の教室を抜けたあとはⅦ組の教室も訪れてみたが、フィーたちの姿は見当たらなかったのだ。

 次に二人がやってきたのはここ、図書館である。

「あのカードがここを示しているのは間違いないと思うんだよね」

「それには俺も同感だが」

 改めて二人は膨大な数の書籍が納まる本棚に視線を巡らせた。

 二人が手にしたカードの文面は、

 “――幾万の叡智に眠る、紅蓮の魔人を呼び起こせ――”

「“幾万の叡智”は文字通りここだよね」

 数万冊の蔵書を抱える、この図書館を置いては他にない。

「問題は“紅蓮の魔人”だな」

 実を言えば紅蓮の魔人についても、もうその正体は分かっていた。これは隠語でも暗号でもなく、そのまま“紅蓮の魔人を”指している。

 帝国の言い伝えにある〝千の武器を有し、焔をまといし灼熱の魔人”――その名を《テスタ=ロッサ》。

 ちなみにこの情報は先程《ARCUS》で連絡を取り合った際、ガイウスから聞いたものだ。彼は帝国民俗学に興味があって、入学当初はよく図書館で調べていたらしい。加えて“紅蓮の魔人”に関して記述のある本が《エレボニアの伝説・伝承》というタイトルであることも判明した。

 然るにその書籍の中に、“四色の導”の一つがあるか、あるいはそのヒントがあるか。

 ガイウスが肝心の本の場所まで覚えていれば良かったのだが、そう都合よくはいかず、さらに立て込んでもいるようで、あまりゆっくりと会話もできなかった。通話口の向こうで、『部長の蘇生急げ! ついでにマキアスも蘇生だ』などとラウラが叫んでいる辺り、並ならぬ事態が起こっているのは確かのようだが。

 そういうわけで、当てもなく本棚をローラー式に探し回る羽目になったのである。

「キャロルさんに聞ければ良かったんだけど」

「あの司書か。まあ、今は無理だろうな」

 エリオットとユーシスは、背後のカウンターに振り返る。

 カウンターの奥で彼女は倒れていた。足、腕、首、頭など、体中のあらゆる部位を本に挟まれたまま沈黙している。抵抗の跡は見えたが、それでも身動きが取れず、もがいている間に力尽きたのだろう。

 キャロルにピラニアよろしく襲い掛かり、まるで巨大な洗濯バサミのように、その身を挟み込んでいる本の群れ。

 本の背には小さなバネが複数仕込まれており、ページを開いたりすると反動でバクリといかれる仕様で、ネズミ取り用の罠にも似た構造に変えられていた。

 まじめに本を整理していたのに、彼女は不幸にも無慈悲なブックトラップの餌食になったのだ。

「ある意味、あの散り方は司書として本望だろうな」

「うん? うーん? それは違う気がする……」

 とにもかくにも、頼みの司書は行動不能である。

「そうだ。委員長に聞いてみない? 図書館のことならよく知ってそうだし」

「いい案だな」

 同意したユーシスが《ARCUS》を取り出し、エマへと連絡を入れる。数コールの後で応答があった。

「委員長か? ユーシスだが、少し聞きたいことがあって――」

『――い! ああ、――から!』

「おい、大丈夫か。今どこにいる?」

 聞こえてくるのはノイズ音と、途切れ途切れのエマの声。

 耳を澄まして、音声を注意深く拾い上げる。

『――50ミラの利子を返してもらうぞ。一生をかけてな……』

『いやあ! いやああ!』

『――いつか言わなきゃと思っていた。よく聞け、俺は――』

『やめてえ! もうやめて下さいー! おばーちゃーん! セリーヌー! 助けてー!!』

 全力のヘルプを最後に、通信はブツッと音を立てて切れた。

「委員長、何だって?」

「よくわからんが……猫にまで助けを求めていたな」

 向こうも向こうで修羅場らしい。救援に行こうにも場所さえ不明だ。

「やっぱり地道に探すしかないかな……あ」

 それは唐突に見つかった。

 正面階段左脇の本棚、何気なくその辺りを眺めていたら、ふと白印字された背表紙のタイトルに目が留まる。カバー自体は黒色の装丁で、A4版の少し大きめの本。これこそが《エレボニアの伝説・伝承》だった。

 本を棚から取り出そうとして、エリオットはその手を止めた。

「どうした?」

「あ、うん。目当ての本があるにはあったんだけど、三冊あるんだ」

 上、中、下巻である。普通に考えれば、一冊ずつ調べればいいのだが、この状況がすでに普通ではない。二人は顔を見合わす。

「三部制か。どれに紅蓮の魔人の記述があるのだ?」

「ごめん、僕はわからないよ。ガイウスも委員長も聞ける状態じゃなさそうだし」

「……仕掛けてあると思うか?」

「……多分ね」

 こうなれば三分の一にかけるしかない。

「僕が先にやるから。何かあったら、この先はユーシスだけで進んで欲しい」

 上巻の本の背に指を掛け、エリオットは息を呑んだ。

 万が一、キャロルのように本に挟まれても、動じなければ対処はできる。彼女の場合は一つの本に挟まれて、驚き慌てふためく内に他の本にも接触してしまい、負の連鎖に突入したということだろう。

「……いくよ」

 無言でうなずくユーシス。本を棚から引き出すエリオット。

 目次だけ見ればいいのだ。だとしても緊張が和らぐことはないが、意を決して表紙をめくった。瞬時に目次項の羅列に目を走らせる。

 “紅蓮の魔人”は――

「ない……!」

 理解した途端、背筋が強張り、嫌な汗が流れる。

 しかし本は挟み掛かってこない。コンマ一秒にも満たない安堵。

 次の瞬間、開いた本からいきなり多量の赤い粉末が飛び散った。

「わぷっ!?」

 裏表紙に粉の入った薄いビニール袋が挟まっていて、本を開き切ると袋が破裂し、中身を飛散させる仕掛けである。

 予想外の不意打ちに、のけ反る間もなく顔中を赤飛沫が覆い尽くした。

「けほっ、なにこれ……! けほっ、げほっ!?」

 粉末を吸い込み、激しくむせ込むエリオット。

 口の中にも少し入ってしまった。と、彼の動きが止まる。覚えのある味だった。いや、味と形容するのは間違っているかもしれない。

「うっ!」

 舌を突き刺し、気道を焼くような、尋常ではない辛さ。それはもう辛さを通り越して痛み。

 亡者でさえ叫喚する、容赦ない責め苦。形状は違えど、これを間違えるはずがない。

 二度と口にしまいと誓ったはずなのに。

「れ、煉獄スープ……!」

 別名『狂気の果て』。アリサ必殺の定番料理。というか彼女は何を作ってもここに辿り着くのだ。マイナス方向に開花してしまった、周囲にとってはありがたくない才能である。

「エリオット!」

「きちゃ、だめだっ」

 かすれる声でユーシスを止めた。

 まだ赤い粉が滞留している。彼まで巻き添えになってはいけない。

 最近料理を学び始めたラウラに感化されてか、アリサもちょくちょく厨房に出入りしているのはエリオットも知っていた。

 しかしそこで生み出された激物をフィーたちが採取し、乾燥させて粉末状に加工しているなどとは考えもしなかった。

 そういえばここ数日、ゴーグルにマスク、手袋に完全防備の白衣と、不似合な装いでゴソゴソと何かやっていたようだったが、まさかこの為だったとは。そこいらの魔獣など、七、八匹は束にして屠れるほどの破壊力だ。

 どう考えても対人用に使ってはいけない、卑劣非道な薬物兵器である。

「あはは、また目が見え、ない。音も……聞こえない、や」

 身を内側から炙る灼熱の炎に蝕まれ、エリオットの意識は遠退いていく。もう立っているのか、倒れているのかすら判然としなかった。

 時に紅蓮の魔人――《テスタ=ロッサ》とは“赤い頭”を意味する。

 その名に由来した罠にかかって、同じく橙毛のエリオットが撃沈したのは、何とも皮肉な話であった。

 

「くそっ」

 やられた。胸中で毒づいて、ユーシスは《エレボニアの伝説・伝承》――その中巻を棚から手荒く引き出した。

 残るは中巻と下巻。確率は二分の一。推測も立たない。完全に勘頼みだった。

 外れたら間違いなく、自分も罠の餌食になる。

 うつ伏せに横たわるエリオットを一瞥し、ユーシスは本を構えた。この状況下で、悠長にページをパラパラめくりたくはない。やはり見るのは目次だ。

 さっきの粉末が噴出されても、口と鼻に入らなければ何とかなる。

 息を吸い、そして止め、手早く本を開いた。目次を上から下まで、一気に目を通す。

「――っ!」

 ない。中巻にも紅蓮の魔人は載っていない。

「ふんっ!」

 仕掛けが作動する前にと、ユーシスは勢いよく本を投げ捨てる。キャロルに意識があれば大目玉を食らうところだが、今は緊急事態なのだ。多少は大目に見てくれるだろう。

 ページを派手にばたつかせながら、分厚い本が床を跳ねる。赤い粉末をぶちまけたりといった異変は起こらなかった。

「ふっ」

 勝った。今に見ているがいい。追い詰めて捕らえて、諸々の落とし前をきっちりつけさせてやる。

 わずかな嘲笑を口に浮かべ、ユーシスは最後に残った下巻に手を伸ばす。

 その刹那、ユーシスの見る景色が上下に激しくぶれた。鼓膜をダイレクトに揺さぶるような、あの特有の残響音が図書館内に拡がっていく。

「なっ!?」

 脳天に雷が落ちたような衝撃。視界の中に細かな星が散る。首が体に埋まった気がした。

「お、おのれ……またしても」

 地に落ち、転がるそれを忌々しげに見やる。再襲の金だらい。おまけとばかりに特大サイズだった。

 エリオットが倒れたという焦りが彼の視野を狭めてしまった。もう少し注意深く観察していれば、本から天井に向かって伸びるピアノ線に気付けたかもしれない。

 朦朧とする意識の中、《エレボニアの伝説・伝承》の下巻を本棚から引き抜く。

 あった。《紅蓮の魔人》の記述。その項目に赤いクリアカードがしおりよろしく挟まっていた。

「よし、これで――」

 震える指でユーシスがカードを引き抜いたのと、今日三度目になる金だらいが落ちてきたのはほぼ同時だった。

 さらにスペシャル仕様。その金だらいの中には、例の真っ赤な粉末がこれでもかと敷き詰められていた。

 またもや衝撃に次ぐ残響。加えて視界を染める血色の飛沫。

 赤き死神の大鎌が振るわれ、ユーシスの意識は完全に刈り取られた。

 

 

 

「ぐううっ」

「きゃああ!」

 学生会館二階、生徒会室へと伸びる廊下。その最奥から吹き付ける強力な逆風に、リィンとアリサは中々進めないでいた。目指すは生徒会室なのだが、天井、床の四隅に設置された四つの扇風機が生み出す突風が、唸りをあげて行く手を阻んでいる。

 しかし何よりの枷は二人の手が繋がっていることだが。どうしても風を受ける表面積が大きくなって、余計に前に進めない。

 風の音に負けないよう、アリサは声を張り上げた。

「絶対にこっちを向かないでよ!」

「え、何でだ」

 当たり前のようにリィンはアリサに目をやる。強風にスカートがめくり上がって、えらいことになっていた。瞬時に飛んできたビンタが、リィンの右頬に赤い手形をくっきりと残す。

 バランスを崩したリィンは風に押し負け、後ろに吹き飛ばされた。繋がったアリサももちろん一緒に。

「だあああ!」

「いやああ!」

 もつれ合いながら、廊下を転がる二人。

 そんなこんなを繰り返した果てに、リィンたちが生徒会室のドアノブをつかんだのは、二十分以上あとのことだった。

 

「これは一体どういうことなのかな」

 いつもの会長席に収まり、朝一から書類整理に勤しんでいたトワ・ハーシェルは、息を切らしながら生徒会室の扉を開けた二人組を見て、あくまでも冷静に問いかけた。

 しかし平静を装うとした彼女の瞳は狼狽に揺れ、笑おうとして果たせなかった頬は不自然に震えている。

「こ、これはその……」と説明に窮するリィンの横から、「話せば長い理由があるんです!」とアリサが慌てた声を発した。

「二人が仲良く手を繋ぐ理由なんて、私には一つしか思い浮かばないよ?」

「違う、違うんです! 接着剤がくっついて! でも離してる時間は無くて!」

 赤面のアリサは手をわたわたと振り回す。当然繋がっているリィンの手もそこに付き合わされる。動きがシンクロし、仲睦まじさをアピールしているかのようだった。

 スカートの裾をぎゅっと握りしめたトワは、今にも涙腺が決壊しそうな様子である。

「あはは、お似合いだと思うよ」

 気丈にも彼女はそう言う。

 理由は分からないが無性に泣きかった。だが堪えなければいけない。

 お姉さん、自分はお姉さん。祝福せよ、祝福せよと胸中でひたすらに繰り返す。

 アリサと目配せしたリィンが、トワに歩み寄った。

「ち、ちょっと、動くときは先に言ってってば。どうするの?」

「カードの文章は“――定まらぬ三色を束ねしは翡翠の衣。その背を支えし裏を暴け――”。俺の考えはこうだ」

 状況が理解できないトワを置いて、リィンは解説を始めた。

「“定まらぬ三色”は学生の身である俺たちと、その制服の色を示していると思う。それらを“束ねる”のは生徒会長で、その会長がまとうのは平民生徒の“翡翠の衣”だ」

「つまり『導』の隠し場所はトワ会長か、その周囲ってことね」

「〝その背を支えし裏を暴け”が示すものはわからないけど、とりあえず最初に確認すべき場所は――」

 二人の視線が小さな生徒会長に重なる。トワは足を引いた。私、何かされる。

「ゆっくり事情を説明している時間はないんです。不躾なお願いですが」

 歩みを止めずトワに近付くリィンの目は、かつてないほど真剣なものだった。

「上着を脱いで頂きたいんです」

「ふえっ!?」

 口調も真面目そのもの。冗談が介在する余地は一切ない固い声音。

「もちろん確認はアリサがします。安心して下さい」

「な、なにを安心すればいいのかな?」

 戸惑うトワに二人が迫る。普段なら言葉足らずのリィンを責めるアリサも、「すみません。すぐに終わりますから」とむしろ歩調を早めていた。

「お、落ち着いて二人とも。私なにが何だか分からないよ!」

「説明と謝罪は後で必ずします。まずは体の力を抜いて下さい。俺は目を閉じておきますから」

「それじゃあトワ会長、右袖から失礼しますね」

「やだあーっ!」

 アリサの手にかかり、手早くトワの上着がはぎ取られていく。

 所々両手を使わないと難しい部位もあったが、そうすると必然リィンの手も追随してくることになる。

 その度、

「ひゃあ! 触れてる、触れてるってばあ!」

 とトワの悲鳴が上がり、

「ちょっとリィン、あなた何やってるのよ!」

 とアリサが鋭く叱責し、

「俺は何もやってない! 自分の意志じゃない!」

 とリィンが疑いの深まる台詞を吐く。

 ややあってトワの上着は脱がされた。それをアリサがくまなく調べたが、カードは見つからなかった。

 床にへたり込み、うなだれていたトワが「リィン君……」と肩を小刻みに震わせる。

「会長、申し訳ありません。上着をお返しします」

「リィン君のばかー!!」

「お、俺だけ!? ぐあ!」

 体と心に痛い、会長ビンタ炸裂。今度は左頬だった。

 ふえええと泣きながら、トワは走り去っていく。

 アリサから責められる目を向けられ、リィンは釈然としない何かを感じた。

「でもトワ会長の上着にはなかったか」

「背を支えし裏を暴け……さすがに安直すぎたわね」

 その後も手を繋いだまま生徒会室を探し回り、最終的に緑色のクリアカードが見つかったのは、彼女の会長席――その背もたれの裏という、かなり安直な場所であった。

 

 ●

 

 “四色の導”を集め終わったⅦ組一同は、互いに《ARCUS》で連絡を取り合い、再び正門前にて顔をそろえていた。

 その様は散々なものだったが。

「……べとべとだな」

「うむ」

 クレイン救出の為に、荒れ狂うとろみプールに挑んだラウラとガイウスは、頭のてっぺんから足先までドロドロ。滴る水滴はまるでゼリーのようだ。

「鼻がもげたかと思った……」

 乙女の拳と膝を顔面に頂戴したマキアスは、ようやくさっき鼻血が止まったところだ。『眼鏡をかけていなくてよかった』とは、彼が息を吹き返して一言目に放った言葉である。

「はは、生きてるよ、僕ら」

「煉獄からの生還だな……」

 体中が赤い粉に染まったエリオットとユーシスは、どんよりとした目つきで肩を落としている。エリオットは生きたまま火炙りにされたと言い、ユーシスは頭に三発の雷を落とされたと言った。

「ふふ……うふふ……ふふっ」

 丸眼鏡を灰で曇らし、炭であっちこっちが黒ずんでいるエマは、ずっと乾いた笑いを繰り返していた。闇の中、ガイラーのいつ終わるとも知れない紫色の朗読は、彼女の心をへし折るに十分過ぎる威力だった。煤けて汚れた顔には、涙の痕がくっきりと残されている。

「信じられないわ。クリーニング間に合うかしら」

 さしてダメージを受けていなさそうなアリサだが、落とし穴にはまり続けた汚れっぷりは、メンバーの中でも群を抜いていた。

「みんなとりあえずは無事だな。クロウは残念なことになったようだが」

 そう言うリィンの両頬には真っ赤なもみじマークがある。かなり痛そうだったが、これは多分トラップではないと、その場の誰もが察した。

 手はアリサと繋ったままだった。こうなるに至った経緯は、すでに全員に説明済みである

 しかし納得いかない表情をする者が一人。ラウラが不機嫌そうに提案した。

「そのままでは何かと不便であろう。私が外してもよいが」

「外せるのか?」

「しばし待つがいい。剣を取ってくる」

 二人の間を物理的に切り裂くつもりらしい。リィンと一緒にアリサもぶんぶんと首を横に振る。

「ま、待って。冗談やめてよ」

「ああ、いずれ取れるだろうしな」

 射抜くような眼光で、ラウラは二人を見た。正確にはその繋がった一点を。

「こっちがベトベトしている時に、そなたらはベタベタと……!」

「してないから! ねえリィン!?」

「そうだぞ! してないぞ!」

「息が合ってるではないか! やっぱり剣が必要だ!」

『ダメだって!』

 二人してラウラを止めにかかる。

 一通りのやり取りが済んだあとで、各班が手に入れてきた四色のクリアカードを取り出した。

「……で、どうなるのだ?」

 首をさすりながら、ユーシスは不可解そうに赤、青、茶、緑のカードを眺める。

 何も起こらない。私物の場所を示しているわけでもなさそうだった。

 それぞれのカードの表面には、見たことのない記号の羅列が書かれている。

「……もしかして。カードを私に貸して下さい」

 全員からカードを受け取ったエマは、その四枚を重ねて空に掲げてみた。

 すると単体では意味をなさなかった記号が、合わさることで文字となって読み取れるようになった。

 

 “――苦難を越え、導を揃えし者達よ。その勇気を讃え、新たな扉を開かん――”

 

「……これってまさか」

 嫌な予感にエマは手元のカードと、それらがあった場所に仕掛けられていたというトラップを、頭の中で今一度整理してみる。隠し場所を示す白いカードには、番号も振ってあった。

 その順に並び替えると――

 

① 茶色のカード:落とし穴だらけのグラウンドを走らされる。

② 青色のカード:大渦のプール(ドロドロ)の中を泳がされる。

③ 赤色のカード:灼熱する煉獄の粉末を浴びせられる

④ 緑色のカード:四つの扇風機による突風に晒される。

 

「やっぱり。七耀石の並びと、特性を模したトラップになっています」

 琥耀石は茶で地。蒼耀石は青で水。紅耀石は赤で火。翠耀石は緑で風。

 色と罠の傾向が連動している。

「だが、それは何を示しているのだ?」

「あっ!?」

 ガイウスの問いで、エリオットが何かに気付く。遅れて他のメンバーも、それの意味するところを理解した。

 一番最初のカードの文面の一部、そこにはこう書かれていたのだ。

 

 〝――獅子の庭に散らばりし四色の導を収め、さらなる道を歩め――”

 

 さらなる道を歩め。

 そして字のごとく、七耀石は四つではない。あと三つ残っている。

「幻、空、時!?」

 アリサから驚愕の声が上がった。

 上位三属性。それらの特性まで模したトラップがあるというのか。この満身創痍で、さらに上位の罠に挑めと言うのか。

 全員の表情に絶望の色が浮かんだ時、ひらひらと一枚のカードが落ちてきた。

「どこから降ってきたんだ?」

 近くにいたマキアスが拾い上げる。銀色のクリアカードだった。何かが書いてある。

 

 “――霞のごとくかき消え、朧のごとく薄れるは白銀の揺らめき

  守人を穿ちて汝らの資格を示せ――”

 

 霞、朧から連想される言葉。そして銀という色。もう間違いない。

 銀耀石、幻だ。

 その文章の意味に思考を巡らす前に、銀色のカードが勝手にマキアスの手から離れた。

 まるで蝶のようにひらりはらりと中空を舞いながら遠ざかっていく。やがてそれは、少し離れた所に佇む一人の男子生徒の手に収まった。釣竿を持ち、ハンチング帽をかぶったその生徒――ケネスの手に。

 あらかじめ釣糸が括ってあって、最初からカードはケネスの操作下にあったらしい。

「ケネスじゃないか。すまないがそれを渡してくれ」

 リィンが声をかけるも、ケネスはうつむいたまましゃべらない。ハンチング帽のせいで表情も見えない。

「ケネス?」

「……できないよ」

 彼は小さな声で呟いた。ようやく顔を上げる。

 無表情、しかし。

「だってさぁっ、僕が……僕がさあっ……!」

 たちまちに顔中の皮膚が恐怖に引きつり、歯がカチカチと鳴り出した。

「僕が幻のトラップなんだからあ!」

 ケネスの背後の空間が大きく湾曲する。ぐにゃりと歪んだ景色の中から、豪腕を振り上げた白銀の巨躯が現れた。

「なっ、アガートラム!?」

「うう、逃げようとしたら殴りかかってくるんだ。何これ、新しい戦術殻かい……?」

 構える一同だが、武器は誰一人携行していない。

「こいつから逃れる為には君達を倒さないといけないんだって。だからさ……悪く思わないでくれよおっ!!」

 悲痛な叫びと同時に、アガートラムの双眸が光を放つ。力強い駆動音が木々をざわつかせた。

 もう罠かどうかもよくわからなくなってきたが、どのみち退路はない。

 決意と覚悟を胸に、リィンは全員に指示を飛ばした。

「全力で迎撃する! 目標はアガートラム及びケネス・レイクロード! 取られたものを必ず取り返すぞ!!」

 

 

~後編に続く~

 

 

 




中編②をお付き合い頂いてありがとうございます。
本来はここまで合わせて中編でした。収まるわけないですね。反省です。

前回の学院長のその後と、カスパルのトラブルは二、三日後に章末の『追加後日談、おまけ集』に追加しておきます。彼らの奮闘にも目を通して頂けたら幸いです。

Ⅱ情報がどんどん来ますね! だけどおかしいですね。ジョルジュが全く触れられない。立ち絵も公開されないまま発売日だけが近付いてくる。イージスのマスタークォーツがミリアムよりも似合う男なのに!

Ⅶ組の面々は上位三属性トラップを抜け出せるのでしょうか。
次回、ちびっこトラップ完結の後編。お楽しみ頂ければ幸いです。


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ちびっこトラップ(後編)

「おお、久方ぶりの太陽よ。存分に僕を照らすがいい」

 正門から少し離れた木の下。ヴィンセント・フロラルドは自分を捕らえていた檻からの脱出に成功していた。顔、制服はもちろん、靴に至るまで墨で真っ黒である。

 ヴィンセントはすぐ横で檻に捕らえられたままの妹に視線を移した。

「あら、お兄様は抜け出せましたのね。こちらも助けて頂けますか?」

 檻の中から見返してくるフェリスは、やはり真っ黒だった。

「この兄に任せておくがいい。女神に愛された麗しき彫像のごとき肉体をもって、その忌まわしき鉄の鳥かごを完膚なきまでに――」

「早くして下さいませ」

 長口上が一言で制される

「そう急くでない、フェリスよ」

 やれやれとヴィンセントが彼女の檻に手をかけようとした時、遠くで光が(またた)いた。

「ん? 今なにか――」

 それが彼の最後の言葉となった。

 一直線に伸びてきた荒れ狂う閃光。その暴力的な光に兄が呑み下される光景を、鉄柵越しにフェリスは直視した。

 ジュッと肉が焦げる音と同時に、白く染まる視界の中で黒い人影が型崩れていく。

 悲鳴さえ聞こえなかった。

 

 

 

 アガートラムが放ったレーザーを横っ飛びにかわしたラウラは、着地と同時にアーツを駆動させた。決して得意ではない導力魔法だが、剣が無い以上はこれに頼らざるを得ない。

 青い光陣が浮き立ち、大気中の水分が氷結されていく。精製された氷刃が、円を描く軌道でアガートラムに追い迫った。

 しかしそれは銀腕の一振りで破砕された。普段使い馴れないアーツである。氷の密度も甘く、刃自体も脆いものだった。

「くっ、やはり私では。すまないが補助と回復に専念する!」

 手早く戦術オーブメントのクオーツを入れ替えるラウラの傍らでは、エリオットとエマがリンクをつないでいた。

「ここは僕たちに」

「任せて下さい!」

 エリオットが水流を放ち、そこに間髪入れずエマが電撃を走らせる。雷と一体化した水塊が勢いよく飛んだ。

「∃ΓШΔЖ」

 豪腕を振り回し、アガートラムが二人の放ったアーツを弾く。氷でさえ砕かれるのだ。水など一秒と形を保つことができず、あっけなく辺りに飛び散った。

 だが電気はそうはいかない。体表に付着した水を伝い、装甲越しで内部機構にダメージを与える。

「エリオットさん!」

「うん!」

 さらに追撃。弾かれて地面に落ちた水滴が一か所に集まるや、瞬時に氷結する。生成された氷の槍が、再びアガートラム目掛けて突き上がった。

 駆動時間のあるアーツとは思えないスピーディーな連携。一発目のアクアブリードで発生した水分を、二発目のフロストエッジに転用したのだ。気体を液体に凝固し、そこから氷結させるよりも遥かに派生が早い。

 その上、先に与えている電流のおかげで、アガートラムの関節部の動きが悪くなっている。全ては計算の上での攻撃だ。

 突然アガートラムの姿が消えた。空を切った氷槍が、背後の校舎壁に突き刺さる。

「透明になるだけなら当たると思ったのに……」

「どうやら異相空間に転移しているようですね」

 普段から透明の状態でミリアムに追随しているわけではないらしい。仕組みは分からないが意志に応じる呼び出し――召喚に近いことをやっているようだ。

 エマは確かに、と納得する。そうでなければミリアムが教室の扉をくぐる度に、アガートラムのサイズに合わない戸口は破壊されてしまう。

 これが幻のトラップ。こちらの攻撃が極端に当たりにくく、そしてどこから相手の攻撃が来るかわからない。

 マキアスの背後で景色が揺らめいた。

「後ろです、マキアスさん!」

 エマの警告と同時にアガートラムが現れる。「んなぁっ!?」と飛び退こうとするマキアスの服に、釣り針が引っかけられた。繋がった釣り糸にぐんとひっぱられ、たたらを踏んだ彼に豪腕が炸裂した。

「どわああ!」

 防御はしたものの、重い衝撃が腕を抜けて腹まで響く。ど派手に吹き飛んで、茂みの中に顔から突入する羽目になった。

「眼鏡が無くてよかったな」

「先に僕の身を案じろ!」

 嘆息を吐くユーシスに、マキアスは枝葉を頭にくっつけながら言い返した。

 無感情にリールの糸を巻き戻すケネスに、リィンは叫んだ。

「もうやめろ! こんなことをして何になるんだ」

 ケネスの手は震えていた。

「だって、そうしないとひどい事をされてしまうじゃないか」

「大丈夫だ。先に俺たちがフィーとミリアムを捕まえる。そんなことはさせないから、協力してくれ」

「ひどい目に……合わない?」

「ああ、そうだ。絶対に大丈夫だ」

「そんなのダメだ!」

「ケネス……!?」

 考えるよりも早く口に出たらしい言葉に、ケネス自身も困惑しているようだった。

「な、なにがダメなんだ? あの二人が捕まるなら、ケネスにとってもいいはずだろう?」

「わかってる……わかってるよ。そうなればもうひどいことされずに、静かに大好きな釣りができるんだよね。だけどさあっ!」

 ケネスは身をよじると、頭を激しくかきむしった。

「いじめられなくて安心なはずなのにっ、僕おかしいよ!」

「落ち着け! どうした!?」

「聞こえるんだ、悪魔の予言……! 頭の中で何度も繰り返してくるんだ。〝君は近い内に目覚めの時を迎える”って……!」

 彼は見えない何かに縛られていた。ちびっこ二人でも、アガートラムでもない、もっと泥沼のような何かに。

「違う違う! 僕はそんなの望んでないっ! うっ、うわああああ!」

 絶叫と共に振り回される釣竿。ろくに目標も見ないで飛ばした釣り針は、アリサのスカートの裾に引っかかった。

「ぬうおあああ!」

 呪いを振り払うかのように、ケネスは半狂乱でリールを巻き始める。連動して持ち上がっていくアリサのスカート。

「え、ちょ……やだ! 早くこれ外してリィン! でもこっち見ないで!」

「ど、ど、どうすればいいんだ!?」

 おろおろするリィン。わたわたするアリサ。その後ろにアガートラムが現れる。

「リィン、アリサ! 避けろ!」

 いち早くガイウスが気付くが遅かった。

 二人が後ろを振り向いた時には、視界いっぱいに銀の拳が迫っていた。

 

 

 アガートラムの一撃からアリサを庇ったものの、とても踏ん張って留まれるような態勢ではなかった。リィンとアリサはマキアス同様に吹き飛ばされ、地面を何度も転がっていく。

「っ……」

 立ち上がろうとしたリィンだったが、足が思うように動かず、アリサの上に倒れ込んでしまった。

「きゃ! 何なのよ」

「いや、すまない。足に違和感が……?」

 視線を足元に移すと、見えたのは釣り糸だった。いや足だけではなく、体中が糸まみれである。転がる内に全身に絡まったのだろう。かなり動きが制限されている。なんとか抜け出そうともがくが、余計にややこしく絡まる結果に終わった。

 それでもアガートラムの追撃が来る前にと、四苦八苦しながら脱出を試みるが、

「どこ触ってるのよ!」

「不可抗力なんだ!」

 お決まりのそれが発動し、予定調和のくんずほぐれつへと発展する。

「ええい、そなたら! 何をやっておるのだ」

 二人に走り寄ってきたラウラは糸を解きにかかるが、かなり複雑になっていてすぐには取れそうになかった。

「ちょっとリィン! う、動かないで!」

「そうは言っても、ここの腕を動かさないと糸が抜けなくて」

「や、やめて、もう……」

 眼前で展開されていく不健全な光景。ラウラのこめかみに薄い青筋が浮き立った。

「やはり剣を持って来る。この釣り糸と、そなたらの手を固めている接着剤を切り離そう」

 その目は本気だった。

「お、落ち着いて、ラウラ。すぐ抜け出すから」

「安心するがいい。リィンの方を多めに切るつもりだ」

「あ、それなら」

「ダメだからな!」

 やりかねないラウラと応じかけたアリサに一抹の恐怖を感じながら、リィンはケネスに目をやった。こっちに絡まった釣り糸はすでに切っていて、新しいものに手早く交換している最中だ。

 まだやる気というか、退く気はやはり無いらしい。そのそばでアガートラムは待機している。

 出たり消えたり殴ったりで、厄介この上ないアガートラム。あいつをどうにかしなければ、この先へは進めない。一体どうすれば。

 リィンはふと銀のカードの一文を思い出した。

 

“――霞のごとくかき消え、朧のごとく薄れるは白銀の揺らめき。守人を穿ちて汝らの資格を示せ――”

 

 白銀云々で文前半がアガートラムを示しているは確かだろう。では後半は何だ。守人とは何を指す言葉だ。それもアガートラムと受け取ることはできるが、どこか引っ掛かりがあった。

 戦闘開始直前、ケネスはこう言っていた。“僕が幻のトラップなんだから”と。

 守人とはアガートラムでも、このタッグでもなく、ケネス個人を指し示す言葉ではないのか?

「みんな、集まってくれ」

 どうにか糸を抜け出したリィンは、自分の見解を全員に告げた。

「確かにそうかもしれません」

 エマが納得したようにうなずく。

「始めに気付くべきでした。そもそも私たちが本当にアガートラムを撃破した場合、ミリアムちゃんが困りますからね。あくまでも“本命”からの目くらましと、『幻』の特性に合わせたトラップとして都合がよかったからでしょう。ちょうど銀色ですし」

 そうだとするなら、無理にアガートラムを倒す必要はない。

 エマの視線が、“本命”ことケネス一人に向けられる。

「な、なんだい」

「今日の流れからすると、ケネスさんは今手にしている銀色のカードの他に、もう一枚別のカードを隠し持ってるんじゃないですか? 次の場所を示した空か時、つまり金色か黒色、どちらかのカードを。そうですね……例えばそのハンチング帽の中とかに」

 丸眼鏡が光った。

 ぎくりと肩を強張らして、たじろぐケネス。

「だ、だったら何だって言うんだ。どの道この大きな戦術殻を倒さないと僕には届かないんだから」

「いいえ」

 エマの《ARCUS》が光を放ち、アガートラム直下の地面に濃紺の染みが拡がっていく。揺らめく影が立ち上ると、アガートラムの動作が極端に鈍くなっていった。

「アガートラムの時間の感覚を遅くしています。人間とは効果が違うので、正確に言えば導力伝達速度でしょうか。反応も鈍くなっている今なら、即時であなたのサポートには入れません」

 この状態でアガートラムに攻撃することもできるが――各々はケネスを見据えた。

「は、はは。落ち着こうよ。そうだ、一緒に釣りでもやらないかな。手ほどきするよ?」

 問答など、すでに意味をなさない。

 堰を切ったように、ケネス目掛けて全員が走り出す。動きの遅くなったアガートラムの脇を抜け、必死の形相で逃げるケネスを、雪崩のような勢いで追いかけた。情け容赦なしのバースト攻撃である。

 走りながらケネスはポケットから取り出した大量のビー玉を散乱させた。逃走補助用にフィーたちから渡されたもののようだ。

 ジャラジャラと小うるさい音を立てて転がるビー玉。Ⅶ組勢はそれを踏みつけて、ことごとく横転していく。

「はは、やった。これで――」

 再び逃走の足を出しかけた時、大気を焦がすような猛烈な殺気が身を穿ち、ケネスはその動きを止めた。

「……リィン、もう構わんな?」

 ゆらりと体を起こすユーシスに、「ああ、仕方ない」とリィンが静かに告げる。

 その他の面々も無言で、緩慢に立ち上がっていく。

『《ARCUS》駆動』

 その場の八人、全員の声がそろった。

 眩い輝きを散らし、光の陣が拡がっていく。膨大な導力の伝搬が波動となって、空気をビリビリと震わせた。

「や、やめようよ。話せばわかるよ。そうだろう?」

 聞く耳はすでに持たず、発動。

 炎やら氷やら竜巻やら雷やらが一斉にケネスを埋め尽くし、周囲はあっという間に灰塵と帰す。多種多様の暴威が吹き荒び、もう誰が何のアーツを放ったのかもわからない。

 その災禍の中心であらゆる力の奔流にさらされ、すでに意識のないケネスは、されるがままに死のステップを踏む。その様はまるで、糸の切れた操り人形がワルツを踊っているかのようだった。

 

 

 

 顛末を見届けたアガートラムはその姿を消し、ケネスの屍は焼け焦げた地面の上に転がっている。

 リィンが煤けたハンチング帽を拾い上げると、中から金色のクリアカードが落ちてきた。

「よし、あとはさっきの銀色のカードを合わせれば」

 手元には計六枚。あと一枚だ。

「もう少しね。それで金色のカードにはなんて書いてあるの?」

 アリサがリィンの手元をのぞき込む。

 

“――黄金の咆哮は蒼天を満たし、獅子のまどろみを払うもの。

 眠る供物は女神の御許へ誘われん――”

 

「相変わらず意味が分からないな。委員長とマキアスはどうだ?」

 リィンが問うも、二人は首をひねらす。

「そうですね……」

「うーむ」

 その時、一限開始の予鈴が鳴る。

 この状態では、どの教室も授業どころではない。ここまでの事態になった以上、教職員の何人かも罠にかかっているはずだ。仮にも士官学院。カリキュラムに支障を来たす程のことをやらかして、反省文だけで済むとは思えない。二人には厳罰が待ち構えているだろう。ユーシス始め他数名は、厳罰では生ぬるい、極刑に処すべきだなどと物騒なことを口走っているが。二人の処遇はともかくとして。

『あ』

 予鈴のベルの音が止まると同時、学年首位コンビが顔を見合わせた。

 

 

 

 青い空の中に、白い雲が流れゆく。

 一同は屋上に立ち、晴天に向かって真っ直ぐにそびえ立つ鐘楼塔を見上げた。

 全員が肩で息をしながら、うなだれる。

 階段や手すりにやたらと滑る液体が塗られていたり、それでも屋上に続く階段を登ろうとしたら、大玉ころがしに使うような巨大な玉が転がってきたりと、ここに来るだけでも一苦労だった。

「委員長、マキアス。ここで間違いないんだな?」

 リィンが確認すると、二人はうなずいた。

「黄金の咆哮というのは、あの鐘楼のことだと思う。色も金色だしな。蒼天に満ちるというのも、空に響き渡るという言い回しを変えたものだろう」

「獅子のまどろみは、授業中寝ている生徒――フィーちゃんとミリアムちゃんのことでしょうか」

 一つの疑念が確信へと近づく。このカードを用意したのが、やはりフィーたち以外の誰かということだ。

 文章形態があの二人らしからぬことを除いても、それでもフィーたちがこれを書いたとしたら、自分たちの居眠りを指して“獅子のまどろみ”などとは表現しないだろう。二人を知る誰かで、なおかつ、やや皮肉めいたユーモアを混ぜることのできる人物だ。

 だが今やるべきことは、その人物を特定することではなかった。気にはなるが、それはフィーたちを捕縛して口を割らせれば済む話なのだから。

「女神の御許という一語もありますし、学院内で一番空に近い場所と言えばここですね」

 改めてエマは鐘楼塔を見た。

 何かがあるとは思うが、問題はそこに誰が登るかだった。

 ユーシスがマキアスの背を叩く。

「よし、出番だ。行ってこい」

「な、なんで僕なんだ!」

「女子には行かせられんし、かと言ってリィンに頼むとアリサも連れて行くことになるからな。残った男子で選別するなら副委員長殿のお前が適任だろう」

「待て、君はどうなんだ?」

「俺は今、頭が痛いのだ」

「僕だって鼻が痛いんだ」

 しばし言い合うも、結局はマキアスが先陣を切る形で落ち着いた。

 不平を漏らしながらも、彼は垂直の壁に設置されている埋め込み式のはしごを慎重に登っていく。

 かなり高い。景色を見る余裕はなく、また眼鏡がないから見ることもできない。無用に恐怖心が煽られないので、考えようによっては良かったかもしれないと、密かにマキアスは思った。

 はしごを登り切り、鐘楼台の中へとたどり着く。近くで見るのは初めてだが、かなり大きな鐘だった。

 マキアスは生唾を飲み下して、辺りを警戒する。あのカードがこの場所を示しているのなら、あるはずなのだ。“空”の罠が。

「……なにも起こらないな」

 警戒は解かないまま、まずは鐘を調べてみた。外側。何もない。次に内側。――あった。

 釣鐘の中にぶら下がる、舌と呼ばれる金属。これが鐘の内側にぶつかることで音を発するのだが、その舌に黒いクリアカードが張り付けられていた。

 ゆっくりとカードを外してみる。多分また文章が書かれているのだろう。

 それを確認しようとした矢先、マキアスは隅に布切れを被った何かが置いてあることに気付いた。

「これが……罠か?」

 それにしてはおかしい。わざとらしく置いてあるが、このままこっちが気付かなければ、このトラップは無効になるところだったのだ。大詰めの局面で、そんな危うい仕掛けを施すだろうか。

 少し考えたが、マキアスは中身を見てみることにした。風で飛ばないように押さえている重しをどかし、意を決して布をめくる。

「これは……!」

 すぐに鐘楼塔から顔を出して、マキアスは眼下の仲間たちに叫んだ。

「誰か手を貸してくれ。取られたものを見つけたぞ!」

 

 

 一同の輪の中心には、鐘楼塔から降ろされたばかりの白い麻袋があった。複数の物品が入っているらしく、外側から触った感じでは、本や冊子のような物もあるとわかった。アリサの日記やエマの(ガイラーの)小説などがこれに該当する。

 この袋の中に各々の私物が入っているのだ。

 しかし、手放しで中身を開けることは出来ない。それは麻袋に付随している正体不明の機械が原因だった。

 脇に抱えられる程度の大きさ。長方形型をしていて、上部にはモニターらしき物が取り付けられている。しかもそれは紐やテープ、接着剤で頑強に麻袋と接続されていて、とても引き剥がせるような代物ではなかった。

「これ、何だと思う?」

 エリオットが問うも、誰も答えは返せない。ただ嫌な予感のする物。それだけが共通の認識だ。

「なんとかして袋を開けられないんですか?」

 困った顔でエマは麻袋と謎の機械を交互に見やる。おもむろに袋を触っていたラウラは、首を横に振った。

「難しいな。袋に針金が編み込まれている。刃物があったとしても骨が折れる作業だ。かと言って正攻法で取り出すわけにもいくまい」

 ここまで厳重にされているのだ。麻袋の上部口を縛る紐を迂闊に解けば、何が起こるかわかったものではない。

 やはり鍵はこの機械だ。

「カードには本当に何も書かれていないのか?」

 ラウラに言われて、マキアスはカードを太陽にかざしてみる。

「黒いカードだから見えにくいだけかとも思ったが、無地みたいだ」

「となると、誰かがやらねばならんか」

 全員の視線が機械に集中する。

 簡素な見た目の本体には、七つのスロットがあった。ご丁寧に、赤、青、茶、緑、銀、金、黒の色付きで。

 挿入口もカードの幅と一致する。今までに得たカードをここにセットしろということだろう。

 手をこまねいていても事態は膠着するだけ。ラウラが言ったように、やるしかなかった。

 カードをまとめて預かっていたのはエマだ。彼女は息を呑んで、一枚ずつカードをスロットに差し込んでいく。

「あと一枚……皆さんいいですか?」

 異論は出なかった。カチリと最後の一枚がはまる。

 グォンと機械が唸り声をあげて駆動した。モニターにノイズが走り、文章が一文字ずつ現れていく。

 

 “――漆黒は無か全を示す。その手に全てを取り戻すか、失うか。

   選ぶべき未来は葛藤の下にあり――”

 

 モニターの文章が消え、代わりに『300』という数字が表示された。

 自動で本体上部の一部がスライドして開き、中にあった三本のコードがせり上がってくる。

 続いて側面部も同様に開いて、そこから一つのニッパーが転がり出てきた。

「これは……まさか」

 たらりと汗を流すエマは、ニッパーを拾い上げ、モニターの数字を見た。

 ピッ、ピッ、と音を立てて、数字が一秒ずつ減っていく。

 こんなトラップは物語の中だけだと思っていたが、実際に存在した――というか作ってしまうとは。

「時限爆弾……!」

 これが時のトラップ。三本のコードのいずれかを切り、このカウントダウンを止めなくてはいけないのだ。切るコードが正しければ、爆発は起きず全が戻って来るが、誤れば爆発して私物は無となる。

 そして、度々出てきた“供物”という一語。捧げる相手がいなければ供物という表現はおかしい。捧げる相手――普通に考えるなら《空の女神》だ。学院内においてエイドスにもっとも近いこの場所で、自分達の私物を爆破し供物とする。それがこの一連のトラップ騒動の終局だ。

 リィンが訊いた。

「委員長、この爆弾は本物だと思うか? あくまでも脅かしの可能性は?」

「……おそらく本物かと。ここまで大掛かりに仕掛けていますし、ここで妥協することはないと思います」

「となれば、そのコードを切るしかないんだな。……三択か」

「問題はどれが正解のコードかと、誰がコードを切るかですね」

 残る秒数は200秒余り。危険な役回りを誰が務めるか。

「よし。俺が切ろう」

「ま、待って下さい」

 リィンが危険な役を買って出て、間髪入れずにエマが止める。

 エマはリィンの顔をじっと見つめた。

 この人は多分外れを引く。もう宿命にさえ感じる。爆炎に巻かれて空に打ち上がる彼の姿が容易に想像できるのだ。今回に限ってはアリサも道連れに。

「どうした委員長。俺の顔に何かついているか」

「今リィンさんを対象に占いをやったら、確実に死神を引く自信があります……」

 エマは思案する。自分を含めた上で客観的に判断して、誰が適任なのかを。

 マキアスは……ダメだ。彼も外れを引き当てそうだ。ユーシスも……ダメだ。リィンたち不幸組に隠れているが、実は彼もそこまで運のいい方ではない。アリサは行けそうだが、今は不遇の体現者と繋がっている。自分はどうだ。……ガイラーと遭遇している時点で運など木っ端微塵に爆散している。

 考え抜いた末に、彼女は結論を出した。

 運を呼べそうで、かつ万が一失敗したとしても、全員が納得しそうな人物。

「……お願いできますか」

 エマはニッパーをガイウスに手渡した。

 

 

 刻々とカウントは減っていく。あと120秒。その二分の間に俺は答えを出さなければならない。

 ニッパーを持つ手がじとりと汗で湿り、ガイウスは頭をフル稼働させた。

「むう……」

 しかしわからない。ヒントはないのか。コードの色は三色、赤、白、緑。これは先のトラップにもあったと聞く学院服の色だ。ならば自分たちに関連するのは赤色か? いや、その赤を切るというのは不吉な気がする。では白か? 貴族組との体育勝負が迫ってきているから、発破をかける意味で? それも違う気がする。だったら緑は――ダメだ。堂々巡りで答えが見えない。

「落ち着くんだ、ガイウス。その中に正解はある」

「リィン……だが俺は」

「大丈夫だ。俺達はガイウスを信じている」

 リィンだけではない。皆が自分を信じ、背中を押してくれる。

 そこに混じって、少し変な応援が聞こえてきた。

「今こそ、風の導きを使う時だぞ」

「ああ、存分に風を感じるがいい」 

 マキアスとユーシスだった。そこにラウラが続く。

「それで風は何色が正解だと言っているのだ?」

 なんだか風の導きを勘違いされている。

 あと60秒。

 ガイウスはニッパーを構え、白のコードに押し当てる。「そ、それでいいの?」とアリサが声をあげ、後ろで身構えたのがわかった。 

「くっ」

 やはり離し、今度は赤のコードへ。するとエリオットが「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、「し、信じてるからね」と続く声を震わせる。

「うっ」

 最後に緑色のコードへとニッパーを動かす。「き、君がそれでいいなら、僕はもちろん構わない」とマキアスがごくりと喉を鳴らした。

 それぞれで怪しんでいるコードが違うらしく、その後もニッパーを移動させる度に各々の緊張の増減が伝わってくる。

 あと15秒。

 己の決断一つで、全員の大事な物が消えてしまうのだ。皆はどんな結果になっても恨まないと言ってくれるが、俺はそういうわけにはいかない。悔やむに決まっている。三分の一の偶然に賭けてしまっていいのか。爆発したら全員が巻き込まれるのに。

「………」

 あと10秒。ガイウスは立ち上がると、麻袋を脇に抱えた。すでにニッパーはその手から離れ、地面に転がっている。

「すまない。やはり俺には選べない。だが、そのせいで皆を危険に巻き込むこともできない。どうか許して欲しい」

「なにを言って――」

 歩み寄ろうとして、リィンはその足を止めた。

 ガイウスの周りに、風が集まってきている。瞬く間にそよ風は旋風と化した。

「皆に風と女神の加護があらんことを」

「まさか。やめるんだ……やめろおっ!!」

 リィンの差し出した手は、届かなかった。

「カラミティホアァァーック!!」

 その腕に爆弾付き麻袋を携えて、仲間の叫びを置き去りにして、ガイウスは直上に舞い飛んだ。

 自分の名を呼ぶ仲間の声が、あっという間に遠ざかっていく。

 一息で鐘楼塔の三角屋根まで到達すると、傾斜の縁に足をかけて、そこからさらに全ての力を結集させたカラミティホークを放つ。

 風をまとった大鷹が、空に向かって一直線の軌跡を描いた。

 地上は遥か下。高度は十分。明滅するカウントダウンは、あと3秒。

 急いで抱えたからか、麻袋が上下逆さまになっていた。機械の裏側に小さなスイッチがあることに気付く。そこにはこう表示されていた。

 

 『ON/OFF』

 

「な、なに……?」

 “――選ぶべき未来は葛藤の下にあり”

 そのあまりにも安直な意味を理解したのと、カウントが0になったのは同時だった。

 花火式の火薬が炸裂し、晴天に爆発の轟音が何度も何度も響き渡る。

 牡丹、菊、大柳。色鮮やかな閃光が咲き乱れる中、ガイウスは仲間の私物と共に虚空に散った。

 

 ●

 

 エマは一つの仮説を打ち立てた。

 マキアスが特に仕掛けられていなかったという“空”の罠。果たしてそれは本当になかったのか。

 空が司るのは、文字通りの空ではなくて“空間”という意味である。

 たとえば。

 この惨状を目の当たりにして疑心暗鬼に陥り、そこに仕掛けがなかったとしても焦燥にかられて、トラップとは無関係な被害をこうむった人もいたかもしれない。いや、少なからず二次被害はあっただろう。

 混乱が混乱を呼び、惨禍が他ならぬ自分たちの手で拡がっていく。

 通常ではありえない混沌の“空間”。それらを生み出し、半自動的に拡大していくこの仕組み。

 そう、つまり。

 足を踏み入れた者を否応なく巻き込む、このトールズ士官学院という特異な空間そのものが、一つの巨大な空のトラップと言えるのではないか。

 ここまでの関連付けを、あの二人だけで考えたとは到底思えない。

 計画、立案、実行はフィーたちだろう。しかしそこに協力し、運用のクオリティを引き上げた黒幕が必ずいる。

 もう各々の私物は戻らない。が、やるべきことは残っている。

 あの二人を捕まえ、フィクサーを暴き、いまだ猛威を振るい続ける空のトラップ――この学院をあるべき形に戻すことだ。

 息を吹き返したクロウも合流し、髪がチリチリのアフロになったガイウスも回収し、Ⅶ組は学院を進軍した。

 美術室。開けるなり絵の具入りバケツ水を頭からかけられた。

 調理室。開けるなり四方八方からトマトが飛んできて、ドロドロの果汁まみれになった。

 音楽室。開けるなりドアが勝手に閉まってきて、思いきり顔面を直撃した。

 半ば特攻隊となりながら、ついに彼らはそこにたどり着く。

 フィーたちの潜伏先、その最有力候補。学院内でもっとも罠を仕掛けづらく、また彼女たちも必要とする場所。さらにこの場所に近づくにつれ、接着剤を多用した足止め用トラップがやたらと目についた。まるで学院生がここに逃げ込みたくても、容易にはたどり着けなくしてあるかのように。

「……失礼します」

 散々な有様のまま、リィンたちは保健室のドアを開いた。

 

 保健室内にベアトリクスはいなかった。なぜか机の上にはライフルが置かれている。

 その異様はスルーして、一同はつかつかとベッドスペースに向かった。

 一角を覆うカーテンをスライドさせると、一つのベッドで仲良さげに毛布にくるまる二匹の子猫――フィーとミリアムがスースーと寝息を立てている姿があった。

 夜中通して罠を仕掛け回ったのだろう。二人の普段の睡眠時間を考えると、相当疲れたに違いない。

 幸せそうに眠りにつく子猫たち。心安らぐ光景である。

 リィンたちは互いに顔を見合わせると、微笑み、こくりとうなずいた。

 無言でアリサとラウラが歩み寄り、優しげな手つきで毛布の端に手をかけると、一転してそれを一息で引き剥がす。

「……ん」

「ふぁあ、なにー……?」

 寝ぼけ眼のフィーとミリアムに、お兄さんとお姉さんたちは笑顔を浮かべてこう言った。

『おはよう』そして『会いたかった』と。

 

 

 

「ね、寝坊した!」

 床に無造作に敷かれたブルーシートから、ジョルジュ・ノームは跳ね起きた。

 三日間ほぼ徹夜を繰り返し、依頼されたものを作り上げた彼は、それをフィーたちに引き渡したあと、力尽きてこの技術棟で深い眠りについてしまったのだ。

 一限がまもなく終わる時間だった。

 クロウのように崖っぷちではないから、今回の遅刻が卒業にまで響くことはないが、だからといって安穏としているわけにもいかない。

 焦って身支度を整え、技術棟から飛び出す。

「急がないと……ん?」

 駆け足で本校舎に向かおうとした時、Ⅶ組の面々が目の前を通りがかった。

 理解に苦しむ汚れっぷりだったが、何よりも最初に視線が留まったのはフィーとミリアムだ。

 マキアスはフィーを、ユーシスはミリアムを。それぞれ猫の襟首を掴むようにして引き下げ、手荒く二人を連行している。

「あ、ジョルジュ先輩。技術棟は無事でしたか?」

 なぜかアリサと手を繋ぐリィンが、心配そうに歩み寄ってくる。

「無事も何も、一体どうしたんだい? ひどい格好だよ」

「それは話すと長くなりますが――」

『この人が黒幕』

 会話を遮るように、フィーとミリアムは同時にジョルジュを指差した。告げられた真実に、ジョルジュを含めたその場の全員が固まる。

「そうか、罠の製作者か」や「確かに納得だ」とか「許せない。許せないな」などと口ぐちに仄暗い声が聞こえてくる。

「おいおい、お前のせいで俺は電気ショックをくらったわけかよ」

 クロウが鼻を鳴らす横から、リィンが言葉を差し挟んだ。

「とりあえず後日話を聞きに来ます、全員で。……気付きませんでしたよ。あなたが黒幕だったなんて」

 妙に凄みのある口調。流し目をくれながら一同は再び歩き出す。

 一人状況が飲み込めないジョルジュは、遅まきながら何かに巻き込まれていたことを知った。

 

 ●

 

 その夜。

 関係各所に謝罪を済まし、全ての罠の撤去を行い、荒れに荒れた学院内の原状回復を終わらせて、ヘトヘトになった体と一緒にフィーたちは帰宅した。

 サラを始めとする教職員からも散々怒られたが、都合よく年齢の低さを前面に押し出しすミリアムの泣きまねと、それをかばうというフィーの茶番劇によって、それ以上のお咎めを回避してきたのだった。

 もっとも寮に帰ったら帰ったで、今度は仲間達からのお説教が待ち構えていたが。

「爆破はやり過ぎだ。ガイウスのアフロ、まだ戻らないんだぞ」

「そうよ、反省なさい。女子のリンスシャンプーを総動員してるんだから」

 リィンとアリサがフィーたちに苦言を呈する。かくいう二人もシャロンの調合した特性のはがし液によって、ようやく接着剤から解放されたところだった。

 結局取られたものは返って来なかった。すぐに代えが用意できないものもあれば、代えが利かない類のものもある。

 それぞれの文句を受ける中でフィーは天井を指さし、しれっと告げた。

「大丈夫。ちゃんと返すから」

 

 しばらくして鐘楼塔に隠されていたのと同じ白い麻袋が、寮の屋上から運ばれてきた。もちろん爆弾はついていない。空で爆発したあれはダミーだった。

「この中に皆から借りたものが入ってるよ」

 借りたというか強奪だが。

 袋を開けると、中にはフィーの言う通り、全員分の私物がそろっていた。

「あ、日記!」

「ふん、無事だったか」

 素早く日記、そしてクッキーを懐に隠すアリサとユーシス。

「うーし、レポート回収……ってか破けてるじゃねえか!? どのみち書き直しかよ、おいぃ!」

「ガイラーさんの小説……爆破されててもよかったような……」

 肩を落とすエマとクロウ。

「これでバイオリンが弾けるよ」

「俺もやっと絵が描けそうだ」

 バイオリンの弓とノルドグリーンの絵の具チューブを握りしめ、嘆息をつくエリオットとガイウス。

「エリゼの手紙……よかった」

 白い便箋を手に、胸を撫で下ろすリィン。

「はは、よかった。僕の眼鏡……あれ、僕の眼鏡が入っていないぞ?」

 マキアスがわたわたと焦る。フィーとミリアムは不思議そうに首をひねった。

「それはないと思うけど。ちゃんとまとめてあるし。確か眼鏡だけはミリアムが入れたんだっけ」

「うん、あれはボクが回収したからね。フィーに言われた通り、ちゃんと右の袋に入れたよ」

 麻袋を逆さまにしても、なにも落ちてこない。

「現に空っぽなんだが……どこかに落としたとか言うオチじゃないだろうな」

「ん~?……あ」

 なにやら思い返していたフィーが声をあげた。

「ミリアム、あの時は二つの袋を挟んで私と対面してたよね」

「うん、それがどうしたの?」

「私から見て右って意味だったんだけど」

「え、ボクから見て右じゃなかったの?」

 つかの間の沈黙のあと、二人はマキアスに向き直った。

「ごめん。マキアスの眼鏡だけ」

「あはは、爆破しちゃったー」

 突如として告げられた訃報に、マキアスは慟哭をあげて床にくずおれる。

 むせび泣く彼の横をそそくさと抜けて、フィーたちはソファーに沈み込んだ。

 保健室で十分に眠ったわけでもない上、捕縛されてからはあっちこっち動き回らされたので、すでに眠気はピークに達している。

「んー」

「むー」

 目をこすり、互いの顔を見る。

 宝探しに、かくれんぼ。十分に楽しんだ。後片付けは大変だったが。

「ねえ。いつかまた、何かして遊ぼうよ」

「うん、いいかもね」

 満足気に微笑を重ねると、反省も程々に二人は瞳を閉じた。 

 

 

 ――END――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――後日談――

 

 帝都ヘイムダル。大通りの一角にある小綺麗な喫茶店で、クレアはウエイターが運んできたコーヒーを受け取った。砂糖とミルクを少量ずつ入れ、マドラーでかき混ぜながら、その視線を正面に座るミリアムへと移す。

「結局どうなったんですか?」

 涼やかな声音でクレアが問うと、ミリアムは頬を膨らませた。

「どうもこうもないよー。あの後はみんなに怒られて、色んな人に謝りに行って、残った罠を全部回収して、おまけに汚れたり壊れたりした学院の掃除と補修もやったんだから!」

「それはまあ、大変でしたね」

「なんで他人事みたいなのさー。クレアだってキョウハンシャなのに」

「私はいらなくなったスクラップを渡してあげただけですよ」

「トラップ仕掛けのアドバイスもしてくれたのに?」

「ここのコーヒーも中々ですね。少し苦いですが」

 知らぬ存ぜぬで、クレアはコーヒーを口にする。「うう、ずるいよー」と不平を漏らしながら、ミリアムもコーヒーカップを手に取った。

「あら、ミリアムちゃん。いつの間にコーヒーが飲めるように?」

「いつまでも子供じゃないよーだ」

 そんなことを言いながら、砂糖とミルクをどぼどぼと大量投入している。美味しそうにそれを飲むミリアムを見て、クレアはくすりと笑った。

「砂糖とミルクには子供成分が入ってるんですよ」

「え、そうなの!?」

「さあ、どうでしょうね」

 あくまで自然に視線を店内に走らせてから、クレアはその話題を振った。 

「それで……肝心の《C》の足はつかめたんですか?」

「え、《C》?」

「もしかしてあの時の言葉はやっぱり……」

「わわっ、嘘じゃないよ! 忘れてないよ!」

 吹き出しかけたコーヒーをどうにか口の中にとどめる。

「足をつかむ系のトラップも仕掛けてたし、もしかしたらかかってたかもね」

「そういう意味ではないのですけど……収穫は無しということですね」

「あはは、ごめん」

「まあ、元々無理のある話ではありましたから」

「だよねー」

 カラカラとミリアムは笑う。肩をすくめながらも、クレアはどこか優しげに目許を緩めた。

「でも面白かったよ。また何かする時があったら力を貸してくれる?」

「いえ、それは……そうですね」

 やや苦めのコーヒーに子供成分を追加して、クレアは言った。

「気が向いたら、ということにしておきましょう」 

 

 

 ~FIN~

 

 

 



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Intermission ~お散歩と特訓と悪巧みと

《アリサ ~夢と現と》

 

「あ、この服かわいいじゃない」

 ブティック《ル・サージュ》の前で、アリサは足を止めた。ショーウィンドウの中では、スラリと背の高いマネキンが赤いセーターを着こなしている。

「もう秋だものね。新しい服くらい買いたいんだけど……」

 とはいえ制服ばかりで、あまり着る機会がない。いざ買ったところで、ろくに袖も通さないまま、来年の秋までクローゼットで眠らせてしまう可能性が大だ。

「まあ、私服なら実家から持って来た分があるし、うん。今は大丈夫」

 自分に言い聞かせるよう口に出して、アリサは右手に持ったリードを軽く引いた。

「行きましょうか、ルビィ」

 身を屈めていたルビィはすくりと立ち上がり、先に歩き出したアリサの後に続く。

 今日の散歩当番はアリサだった。彼女の散歩は基本的に自分の行きたいところに行き、そこにルビィを付き合わせるというスタンスである。

 夕方の散歩はローテーションを組んで、シャロンを除く第三学生寮の全員で行っている。ちなみにシャロンを除くのは、夕食の準備があることと、早朝の散歩を一人で受け持っているという理由からだ。

「んー、次はどこに行こうかしら」

 適当に路地を歩いていると、急にルビィが歩みを止める。鼻先をくんくんと上下に動かし、一軒の民家に首を向けた。

「この家がどうかしたの?……あ、いい匂い」

 民家の窓から柔らかな湯気が立ち上っている。時間が時間だから夕食の準備だろう。

 この民家の住人のことは、アリサも知っていた。特別実習の朝に寮の外に出ると、高確率でその現場にはち合わすからだ。仕事に出る夫を甲斐甲斐しく妻が送り出すという、そんな現場に。

「……この前は旦那さんのほっぺにキスしちゃってたわね」

 とっさに目を背けたものの、やっぱり気になって目を戻して、そして奥さんと視線が合ってしまったのだ。すごく気まずい空気が流れたのを覚えている。

 けれど照れ隠しに笑うその顔は、とても幸せそうだった。

 迂闊にも、その姿を自分と重ね合わせてしまった。未来の自分の姿として。

 笑顔の絶えない明るい毎日。決して大きくはないけど、二人で住むには十分な広さの邸宅。いつかは二人じゃなくなるかもしれないが。

 幸せと呼べる日々を妄想している最中で、はっと意識を戻す。

 そして顔から火がでるほどに赤面した。空想の未来の自分のとなりにいた人物が、よく知った顔だったからだ。

「ち、違うのよ! そうじゃないのよ! 誰にも言わないでよ、ルビィ!?」

 ぶんぶんと首を振って狼狽する。

 一方のルビィはきょとんとして、アリサを見返すのみだが。

 ようやく落ち着きを取り戻したアリサの鼻先を、先ほどのいい匂いがかすめていった。

 そういえばラウラは料理に興味を持っているらしい。最近キッチンに立つ姿をよく見かける。

 リィンが試食に付き合わされている光景もセットで。

「私も料理……覚えてみようかしら。深い理由はないけど」

 誰に言うでもなくひとりごち、アリサは雑貨店へいそいそと歩を向ける。

 その後、散歩を終えて寮に帰ったルビィは、ラウンジのソファーでくつろぐリィンの横に、そっとキュリアの薬を置いてくるのだった。 

 

 

       ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《エリオット ~誤解と上塗りと》

 

「猛将と犬か。背徳的な組み合わせだ」

 ルビィとの散歩中、エリオットは道のど真ん中でケインズと出くわした。

「ケ、ケインズさん」

 エリオットはこの場を離脱する方法を考えた。しかし考えをまとめる間もなく、ケインズは胸元から何かを取り出した。

「今日はこれを渡したくてね」

「はあ、なんですか? それは鍵……?」

 どこにでもありそうな普通の鍵である。だとしても、いい予感はしない。

「これは裏ケインズ書房の鍵さ。まあ店裏の倉庫のことなんだが。その中身は猛将ならお見通しだろう?」

「すみません、散歩中なので僕はこれで失礼します」

「まあ、待ってくれ」

 足早に脇を抜けていこうとするエリオットをケインズは笑いながら止めた。

「いや、さすがは猛将、気が早い。だが今言った通り倉庫はこの鍵がないと開かない」

「倉庫に行こうとはしてませんから!」

「兵は迅速を尊ぶとはよく言ったものだ。さあ、受け取ってくれ」

「いらないですって! あ、ちょっと!?」

 まるで話を聞いていないケインズは、その鍵をずいずいと押し渡してくる。受け取るまいと必死のエリオットは、ひたすらにそれをかわし続けた。

「あ、エリオット君とケインズさんだ」

 そんなやり取りの最中に、いつものお団子頭が現れた。

「おお、ミント嬢」

「う、ミント」

 ほがらかに応じるケインズとは反対に、エリオットは頬を引きつらせている。

 ミントは訳知り顔でうなずいた。

「今日のエリオット君……猛将、だね?」

「いかにも」

 それをなぜかケインズが肯定する。

「やっぱり。大丈夫、メアリー教官には内緒にしておくからね」

「その勘違い、早く何とかならないかな……」

 ミントの視線がエリオットの足元に向く。

「あ、ワンちゃんだ。かわいいねー」

 手を差し出そうとするも、早く散歩の続きをしたかったのか、ルビィはてくてくとミントの足の間を抜けていった。

「わわっ」とスカートを押さえるミントと、「ほう!」と目を輝かせるケインズ。

「よくしつけられた犬だ。これも猛将の指示だな?」

「そうなの!? エリオット君はエッチだー」

「ふふ、猛っているねえ」

 ケインズが感嘆の声をあげる横で、ミントは「エッチだエッチだ」と叫び回る。背は低いのに、声はやたらとでかい。

「ちがっ……いや、ちょっと二人とも落ち着いて」

 どうにか場を収めようとするも、二人の妄言は留まることを知らず、ありとあらゆる不穏なワードが入り乱れる。

「猛将の演奏、聞いてみたいものだ。さぞ荒々しく背徳的な音色だろう」

「うん。すごい上手だよ」

「極めた指使いの成せる技だな。常人ではそうはいくまい」

「間違いないよね」

「うむ。間違いない」

 不毛な会話を続ける内に、それらは接続され、融合し、その果てにこんがらがった言葉として二人の口から吐き出された。

『荒々しいエッチな音楽を極めた背徳的なエリオット君の指使いはすごい猛将。間違いない』

 最悪の組み合わせの上、思いきり名前を叫ばれてしまった。トリスタの町中に猛将エリオットの名が響き渡る。

「もう、やめてよ……」

 あきらめ半分の懇願を聞き留めてくれる者はいない。

 その時、ドサッと何かが落ちる音がした。コロコロと足元にリンゴが転がってくる。

「なにこれ?」

 リンゴを拾い上げ、転がってきた方向に目を向ける。買い物袋を落としたメアリー教官が、青ざめた表情で立ち尽くしていた。

「エリオットさん……」

 切ない声。すぐに走り寄って誤解を解かなくては。しかしエリオットとメアリーの間には、『猛将、猛将』と騒ぎ立てるケインズとミントがいる。

 エリオットが声をかけるより早く、メアリーは走り去ってしまった。

「あ……」

 震える手。持っていたリンゴが、ルビィの頭の上に落ちた。

 

 

         ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《フィー ~幸運と不運と》

 

「取っておいで」

 弧を描いてボールが飛んでいき、それをルビィが追いかける。

 人通りも少なく、アノール川に近い路地の一角で、フィーはルビィとボール遊びをしていた。

 てんてんと跳ね転がったボールを一口で咥えると、ルビィは走って戻ってくる。

「ん、よし」

 褒めてやってから、もう一度遠くに投げる。

 また走るルビィ。眺めるフィー。

 しばらくして、ルビィがボールと一緒に戻ってきた。

「よしよし……あれ?」

 咥えていた物を受け取ってみると、それはボールではなかった。

「これ、ティアの薬かな」

 回復アイテムである。ルビィが新たにボールを取りに行く様子はない。間違って拾ってきたのだろう。

「まあ、これでもいっか」

 ボール代わりに、今度はそのティアの薬を思いきり放り投げた。

 ルビィが帰ってくる。今度も何かを口に咥えていた。

「これ、ティアラの薬だ」

 なぜかグレードアップしている。ならばと、もう一度投げてみた。

 次に戻ってきたのは、ティアラルの薬だ。やはり質が上がっている。

「……よし」

 どこまで格が上がるのか試してみよう。その後もアイテム投げを繰り返していくと、ティアラルの薬は今度はクオーツになって返ってきた。

 まずは《妨害》。次に《混乱の刃》。その次が《死神》。そして最後にルビィが持って来たのはマスタークオーツ《バーミリオン》だった。

「ぶい」

 かなりのレアアイテムに、Vサインのフィーである。

 一方でルビィによって釣りを《妨害》され、予期せぬ襲撃者に《混乱》し、その果てに《死神》を幻視したとある男子生徒が、いつかギガンソーディを釣り上げた者に託そうと、大事に持っていたマスタークオーツを強奪されている事実など、フィーには知る由もなかった。

「ルビィはいい子だね」

 戦利品片手に、フィーはルビィを抱きかかえた。

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《ガイウス ~家族と思い出と》

 

 町からはそう離れていないトリスタの街道沿い。

 近くに魔獣の気配がないことを確認したガイウスは、ルビィの首に繋がれたリードを外してやった。

「適当に遊んでくるがいい。あまり遠くには行かないようにな」

 スケッチをするかたわらでルビィを自由に走らせる。これがガイウスの散歩スタイルだった。

 さっそく辺りを飛ぶ蝶を追いかけ始めたルビィ。その様子を横目に見ながら、適当な路傍に腰を落ち着かせて、ガイウスはペンを片手にキャンバスと向き合った。

 そこまで精細な風景画を描くつもりはない。最近は学院祭に出展する為の絵にかかりきりなので、散歩ついでの気分転換といった程度だ。

「ふむ……」

 まっすぐに伸びる並木道と、その上に広がる青い空となびく白い雲。

 そんな絵を描こうとしてペンを構えて、しかしガイウスは手を止めた。

「ルビィ、ちょっと来てくれ」

 今度は木の上の小鳥に興味を示しているルビィを呼び戻すと、街道の真ん中で「待て」を指示した。

 尻尾は振りつつも動こうとしないルビィにガイウスは言う。

「今日はお前をモデルにしようと思う。しばらく動かないでくれ」

 いつ解かれるともしれない果てなき『待て』に、ルビィは辛抱強く従った。

 それからおよそ三十分あまりの制止を経て、ようやく絵は完成した。

 さすがに憔悴気味のルビィは耳を垂らし、舌を出してうつむいている。

「少し無理をさせたな。だがいい出来だ。見に来るといい」

 重そうに首を持ち上げたルビィは、のそのそとガイウスに近づく。

「どのような経緯で学院に迷い込んだかは知らないが、お前にも親兄弟……家族がいたのだろうな」

 ペンをケースに片付ける横で、ルビィはキャンバスを見上げる。

 四角い枠の中では、風のそよぐ街道を数匹の犬が楽しげに散歩をしていた。

 前を歩くのは体の大きな父犬で、その後ろにやんちゃそうな二匹の兄犬が続く。さらにその後ろで母犬にお尻を小突かれながら、兄たちの背についていくルビィ――そんな絵だった。

「どうだろうか。ふふ、まあ想像だがな」

 膝の砂埃を払いながら、ガイウスは立ち上がった。

「そろそろ寮に――ん? どうした、ルビィ」

 じっと絵を見つめていたルビィは、ふと街道の遠くに視線を移す。

 そしてどこまでも届く大きな声で、力いっぱいに吠えてみせた。

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《ラウラ ~創造と破壊と》

 

「材料はこれとこれと、あとは……ああ、野菜も少し買っていこう」

 《ブランドン商店》にラウラは立ち寄っていた。手元のかごの中にトマト、レタス、ニンジン、ピーマンが積み重なっていく。そこにいくつかの調味料も投入して、ラウラは会計台へと向かった。

 その表情は明るい。

「今日は何を作ろうか」

 作るものを決めてから買うものを選ぶのではなく、適当に目に付いた良さそうなものを買ってから、なにが作れるかを模索する。これが彼女のクッキングスタイルであり、そして想定外の魔物が生み出される理由でもあった。

「うん? 見たことのない食材だ」

 レジカウンターに向かう途中、棚の一角に視線が留まる。

 なにかが詰められたビンだった。一見するとハチミツ用のそれかと思ったが、近づいて手に取ってみるとそうでないことがわかった。

 ビンの中では、丸まったタコの足のようなものが、謎の液体に浸けられている。

「ふむ。なんとも奇怪だな」

「なかなか目が高い」

 買うつもりもなくそれを棚に戻そうとした時、店主ブランドンが感心したよう言った。

「それは東方から取り寄せた一品物でな。見た目は悪いけど良い出汁が取れるって評判で、臭いの独特さが逆に癖になるって話だ」

「ほう」

 お嬢様の好奇心がくすぐられる。

 興味はありつつも悩んでいると、ブランドンは商売人の売り口上を重ねてきた。

「いちどはまるとやみつきらしいし、なんなら気になる人にでも作ってみたらどうだい。喜んでくれるかもしれない」

「いや、そういう対象の人間はいないな」

 言いながらも、ラウラはそのビンをかごに入れた。

「……だが、もらっていく」

「お、買ってくれるのか? だったら負けて、8000ミラにしよう」

「そうか、感謝する」

「調理中に臭いが衣類に着かないように、特性のエプロンと手袋のセットはどうだ。5000ミラだが」

「ふむ、もらおう」

「今ならそこに3000ミラをプラスするだけで、秘蔵のレシピがついてくるぞ」

「買いだな」

 ぼったくられお嬢様。その他諸々の食材を合わせ、合計20000ミラを惜しげも無く支払い、ラウラは謎のタコ足を購入する。ブランドンが袋に品物を袋に詰める間も、彼女はうずうずと小さく足先を動かしていた。

 一刻も早く未知の調理に挑みたいのか、あるいは作った料理をいち早く食べて欲しい誰かがいるのか。

「私の買い物に付き合わせて悪かったな。さあ、寮に帰ろう」

 ずしりと重い袋を抱えて、ラウラは戸口で待つルビィに歩み寄る。異様な瘴気を放つ買い物袋を見て、ルビィは二歩三歩と後じさった。

 ラウラは怯えるルビィを見て、優しげに言った。

「案ずるでない。ちゃんとそなたの分も用意しておこう」

 袋の中に、ちらりとタコ足がのぞく。

 鼻先から尻尾まで、ルビィはブルルと身震いをした。

 

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《ユーシス ~貴族と修道女と》

 

「事情はこんなところだ」

 ルビィの散歩ついでに立ち寄ったトリスタ礼拝堂前。

 花壇に囲まれた小さなガーデンスペースで、ユーシスは件の新しい飼い主探しについて説明していた。

 この場にいるのはユーシスを除けば四名。玄関口の掃き掃除をしていたロジーヌと、そんな彼女をかまいに来た――もとい、かまってもらっていたルーディ、ティゼル、カイの三人組である。

 話を聞き終わって、ロジーヌは困ったような表情をみせた。

「教会を通して、そのような保護団体に連絡を取ることはできると思いますが……ただ、教会で飼うのは難しいかもしれません」

「それはそうだろうな。お前たちはどうだ?」

 子供たちも頭を抱えている。その中の一人、ティゼルが言った。

「うちは食品関係扱ってるし、多分無理かなあ」

 うち、というのはブランドン商店のことだ。それは仕方ないと納得して、ユーシスはルーディに視線を移した。

「うーん、僕のところも両親に聞いてみないとわかりません」

「そうか。カイも無理か?」

 最後に問いかけてみたカイは、なぜか勝ち誇ったようにふんぞり返っている。彼は「へっ」と吐き捨てるように笑った。

「ユーシス先生はさあ、犬一匹も飼えないんだろ。とんだカイショーなしだぜ。ロジーヌ姉ちゃんもそう思うだ――」

 スパーンと鋭い一撃が、カイの後頭部に見舞われる。ティゼルの平手打ちだった。最近、彼女のカイに対する扱いが雑になってきているらしい。

「いってえ、ロジーヌ姉ちゃん、赤くなってないか見てくれよー」

 これ幸いにとロジーヌに接近を試みるカイに、今度はルーディが首根っこをつかんだ。

 喉を詰まらせて、その場にへたり込むカイ。

「ふふふ、みんな仲良しね」

 ロジーヌは彼らのやり取りを微笑ましげに見守っている。女神的勘違いは健在だった。

 ルビィの尻尾をわふわふ触って遊んでいたティゼルは、おもむろにこんな提案をした。

「いっそのこと、ユーシス先生とロジーヌさんでルビィちゃんの面倒みたらどうですか? ちょっとした空き家なんか借りちゃったりして」

「ティ、ティゼル? 何を言うの?」

 耳まで顔を赤くするロジーヌ。そこに「あ、いいかも」とルーディが援護射撃を放つ。

 うずくまっていたカイが、がばりと身を起こして「認めるかよお!」といきり立つが、飛んできた二発目の平手打ちによってあえなく撃沈させられた。

 その折、ユーシスは腕組みして思案している。

「交代で世話をしに来るという事か。寮内で飼っているわけではないし、条件はクリアしているな。しかし良い空き家がそうそうあるものだろうか。これは一度全員に相談してみる必要が……」

「ユ、ユーシスさん!?」

 割と真剣に考えているユーシスを見て、もうロジーヌはその場にいられなくなった。フードを深くかぶるや、礼拝堂内に駆け込んでしまう。

「一体どうしたのだ?」

「青春ですよ。ねー?」

 それを迎えるにはまだ少し早いティゼルは、そう言うと同意をルビィに求めた。わかっているのか、返答代わりの一吠えでルビィは応じる。

「まあいい。背伸びも程々にな。ではルビィ、散歩の続きをするぞ」

 失礼する、とさらりと言って、ユーシスはルビィを引き連れて歩きだした。

「ユーシス先生、やっぱりかっこいいよなあ」

「ねえ、憧れちゃう」

 その毅然とした背中を見送り、ティゼルとルーディは息を付いた。しかしカイだけは四つん這いのまま、幼くして知った世の不条理に肩を震わせる。

 彼はいつまでも顔を上げようとせず、地面を悔しげに握りしめていた。

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《エマ ~使命と宿命と》

 

 輝きを散らせて光の大剣が飛ぶ。

 一つ、二つ――計五つの切っ先が凄まじい速度で、乱立する木々の間へと吸い込まれていった。

「もっと……!」

 続けざまに魔導杖を構えて、エマはもう一度光の剣を顕現させた。

 学院裏の林。そこで彼女はひたすらに技を撃ち続けている。

 そんな様子を離れた木の陰で眺めているルビィは、轟音が響き渡る度に耳をピクピクと動かしていた。

「ごめんなさい、ルビィちゃん。中々こういう時間って作れなくて」

 一息ついたエマは、ルビィの元まで戻って来る。あご下を軽くさすってやりながら、ポーチから取り出したビーフジャーキーを鼻先に差し出した。

「秘密の特訓につき合ってくれたお礼です」

 そう、これは特訓だった。あの天敵を撃退する為の。

 今のままではガイラーから逃げることすらままならない。それを数日前のトラップ騒動で、嫌というほど思い知った。いまだにあの朗読が耳にこびりついて離れないのだ。

 しゃがれた黒い囁き声が毒のように染み渡る。散らつく紫の影が心をじわじわと蝕んでいく。

 悪寒に身を苛まれ、エマは自分の片腕をぎゅっと握った。

 彼を止めるには、もはや戦って倒す以外にない。説得など無意味だ。

 それは容易な事ではない。男子たちの青春を吸い漁り、無尽蔵の力を得ていく、あの狂い咲きの用務員。

 果たして自分に彼を下すことができるのか。戦力、戦略。それらで彼を上回ることが出来るのか。

 内なる問答も無用だった。できるできないではなく、やる。

「もう少し特訓を……」

 

 ――実にいいね。

 

 反応ではなく脊髄反射。素早く周囲に視線を走らせるエマは、その手の魔導杖を強く握りしめた。ルビィも唸り声を鳴らし、エマの警戒に続く。

 息を呑む。誰もいない。気配も感じない。今のは風のざわめきがもたらした幻聴だったのか。

 思い返せば二ヶ月と少し前。

 ルビィが同居人として第三学生寮にやってきたその日に、エマとガイラーの因縁は始まったのだ。

 間接的にとは言え、彼のそれまでの価値観を破壊し、新たな世界を与えたのは紛れもない自分。ならばこそ、その幕引きも己の手で成さねばならない。それがどのような形になったとしても。

「……ルビィちゃん、今日はもう帰りましょう」

 リードを首に付け、エマは足早にその場を後にする。

 誰もいなくなった林道。

 その木々の間で、風もないのに枯れ葉が不自然に揺れ動いた。

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《マキアス ~焦燥と競争と》

 

 今日も今日とてトリスタ中を駆け回る。マキアスが散歩当番の時は大体こうだ。

 どんなに警戒していても、ほんのわずかな隙をついてルビィは逃げ出してしまう。手からリードが抜け去るのを合図に、勝ち目のない強制レースが始まるのだ。

「くそ、どこに行った?」

 肩で息をして、辺りに視線を走らせる。

 いた。ガーデニングショップの前、ジェーンが花飾りをルビィに付けてやっている。こっちが必死に探し回っているのに、なんという奴だ。

 ルビィの背後から徐々に距離を詰める。ピクリとその耳が動いた。こっちに振り向かれる前に全力疾走。

「もらったあ!」

 飛びかかろうとした矢先にルビィは逃げてしまう。

 方向転換しようとして果たせず、足がもつれ、マキアスはジェーンに突っ込んだ。

「きゃあああ!?」

 手近な植木を胸前に掲げ、ジェーンは特攻眼鏡をガードする。

 マキアスにとって最悪な事に、その植木はアロエだった。

 

 一通りジェーンに謝罪した後。

 傷だらけの顔面をさすりながら、ずれた眼鏡を押し上げる。今度はどこに行ったと周囲を見渡すと、《キルシェ》のオープンテラスで茶色の毛並が尻尾を振っていた。

「そこか……」

 逃げると言っても、その後は自分で寮まで帰って来るのだから、無理に捕まえる必要もない。だが手ぶらで帰宅すると、「また逃げられたのか。犬は順位付けをするからな」と鼻で笑うユーシスが待ち構えている。わざわざそれを言う為にラウンジで待機していたのかというくらい、必ず控えているのだ。それも優雅に足を組み、紅茶の入ったティーカップを片手に。

 面白くない。なので捕まえたい。リードで繋いだルビィを引き連れ、颯爽と寮の扉を開き、「ふふん、実にいい散歩だった」などと言い放ち、あの高慢な鼻っ柱をへし折ってやりたいのだ。

「あら、かわいい。ピザ食べるかしら?」

「どこの犬だろうな。リードなんか引きずって」

 幸いというべきか、テラスに座っていたのはアランとブリジットだった。このポジションならアランと挟み打ちができる。

「アラン! そいつのリードを掴んでくれ!」

「マ、マキアス?」

 全速力で走る。そして案の定つまづく。

 前のめりにバランスを崩し、マキアスは二人が座るテーブル――その卓上の出来たてアツアツのピザに、アロエ同様またしても顔面から突っ込んだ。

「わっ!」

「きゃあ!」

「うあっちい!」

 とろけるチーズが眼鏡のフレームにまとわり付き、輪切りのトマトがレンズにはまる。

 奪われた視界。したたる高熱。眼鏡型に窪んだピザ。

 もだえるマキアスの脇を通り抜け、ルビィはあっという間に遠ざかっていった。

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《ミリアム ~いじわると仕返しと》

 

「取ってこーい」

 弧を描いてボールが飛んでいき、それをルビィが追い掛ける。

 人通りも少なく、アノール川に近い路地の一角で、ミリアムはルビィとボール遊びをしていた。

 てんてんと跳ね転がったボールを一口でくわえると、ルビィは走って戻って来る。

「あはは、えらいぞー」

 ボールを受け取って、今度は空高くに放り投げた。

 それを地面に落とさずに、ダイレクトキャッチ。

「すごいね、ルビィ。じゃあこれならどうかな」

 次はふわりとボールを投げる。追いかけるルビィ。その着地点に突然現れたアガートラムがぶんと腕を振って、バットで打ち据えるようにボールを明後日の方向に吹き飛ばしてしまった。

「はい、ルビィの負け~」

 にししとミリアムは笑う。

 その後も投げる。追いかける。アガートラムパンチ。ミリアムが笑う。その繰り返しだった。

 思い通りに遊べないルビィは、ご機嫌ななめで喉を鳴らしている。

「ふっふーん、じゃあ次が最後の一回にしてあげるよ」

 思い切り振りかぶってのフルスイング。その時、服の袖が腰元に付けていたポーチに引っかかってしまった。ボールと一緒にポーチが飛んで行く。

「あ! その中には《ARCUS》が入ってるのに!」

 焦って手を伸ばすが、もちろん届かない。

「ルビィ、お願い! ポーチ取って来て!」

 軽快に走って行くルビィはポーチを見事にキャッチする。しかしミリアムの元には戻って来ず、どこかに走り去ってしまった。

「え、え、ちょっと待ってよ」

 オロオロしていると、その内にルビィが戻ってきた。その口には何もくわえていない。

「ボクのポーチどこやったのさ! さては仕返しのつもりだなー!?」

 ぷいとそっぽを向いて、ルビィは早々と寮に向かって行ってしまった。

「ううー、ルビィは悪い子だ」

 草まみれになってポーチを探し回り、結局それを見つけてミリアムが寮に戻ったのは、完全に日が暮れてからだった。

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《クロウ ~半月と仮面と》

 

「ほらよ。半分ずつだ」

 売店で買った骨付きチキンの片割れをルビィにやると、クロウはトリスタ中央公園のベンチにどっかりと腰かけた。

 日の落ちかけた夕方。人通りはほとんどなかった。

「はっ、今日は俺が散歩当番でよかったな」

 手に持った半分をあっという間に平らげ、丸めた包み紙を近くのダストボックスに投げ入れる。

 狙いは外れて、紙屑は地面に転がった。

「あー、くそっ」

 律儀に立ち上がり、落ちたゴミを拾って今度は直接放り込む。

 ちょうどルビィも食べ終わったところだった。

「お前ももうすぐ誰かにもらわれちまうんだよな。そういえば委員長がお前の為に――っと、これは内緒だったな」

 わざとらしく肩をすくめる。

「いい飼い主が見つかりゃいいがよ。ただ、まあ……お前を預かれる期限が、学院祭より前でよかったかもな」

 学院の方向を一瞥してから、クロウは空を見上げた。

 あかね色の空。燃えているかのようで、どこか物悲しい、そんな緋色。そのさらに上方では、薄く月が見え始めている。

 満月と新月との間に見られる半月だ。左半分は光を放ち、右半分は影で見えない。まるで道化師の仮面の様に。

 冷える風が、頬を撫でていく。

 人差し指を顔の前に立てて、クロウは表情から笑みを吹き消した。

 適当に放り投げた紙屑は入れ損なった。しかし明確な意志をもって送り込む“それ”ならどうだ。

 立てた人指し指が、ゆっくりと折り曲がる。

「ああ。これを外すつもりはないぜ」

 夕日よりも赤い瞳が、昏く燃える。

 下弦の月の下、陽炎のように揺らぐその背中を、ルビィはただ静かに見つめていた。

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《サラ ~ビールとルビィと》

 

「昨日も今日も明日も、飽きもせず小言ばかり言って」

 すでに明日も小言を言われる前提で、サラは深く息を吐き出した。

 差し挟まれるハインリッヒ教頭からのお説教にそのたび手を止めながら、ようやく一日分のデスクワークを終わらして、本校舎を出たところである。

 こんな日は冷えたビールで一杯やりたい。しかしそんなことを教え子たちに言うと、別にいつでも飲んでいるから同じだろうと、心無い一言が返ってくるのだ。

 まるで分かっていない。同じ一日が二度ないのと同じように、その時の気分、シチュエーションによってビールの味も変わるのだ。

 何より腹立たしいのは、シャロンまでがⅦ組勢の尻馬に乗って、自分を孤立に追い込んでくることだが。しかも楽しみながら、いや愉しみながら。

 そんな時、自分に寄り添ってくれる味方は、いつもの一匹だけ。

「あら?」

 正門前に、その“いつもの一匹”がちょこんとお座りしている。

 サラの姿を見るなり、ルビィは立ち上がって一吠えした。

「あはは、やっぱり来てたのね」

 サラが散歩当番の日は、ルビィも分かっているらしい。Ⅶ組の面々と違って、散歩の時間に間に合わないことも多いから、彼女が当番の時はルビィから学院へ迎えに行っているのだ。 

 ご丁寧に咥えてきたリードを受け取り、サラは笑った。

「よし、じゃあ帰ろっか。早くビール、ビールっと」

 愛すべき言葉を連呼して、ふと思い出す。

「そういえばルビィの名前ってビールから付けたのよね。今更だけど、やっぱりあの子たちには言えないわ」

 不思議そうに自分を見上げるルビィに、「なんでもないのよ」と優しげに言って、サラは歩き出した。

 ルビィも続いたが、なぜかすぐにその足を止める。リードがぴんと張って、サラの方がぐいと引っ張られた。

「ちょっと、どうしたのよ?」

 正門脇をじっと見据えるルビィ。遠くは見ておらず、その空間の一点に焦点が合っている。

「……別に何もないけど?」

 しばらくの沈黙。ルビィは動かず、時折尻尾を振ったり、耳を立てたりを繰り返している。

 サラが目を凝らしてみるも、やはり何も見えない。まるで、ルビィにしか見えない何かがあるかのようだった。

 最後に小さく鳴いてから、ルビィはサラに向き直る。

「もういいの? 変なルビィねー」

 そうして、一人と一匹は同時に正門をくぐった。

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《リィン ~赤と紅と》

 

 散歩ついでに立ち寄ったアノール川で、リィンは釣糸を垂らしていた。

「……釣れないな。もうそろそろ一時間か」

 さざ波さえ立たない水面。当たりはまだ一度もない。

 とうとうその辺りの段差に釣竿を立てかけて、適当に腰を下ろす。かたわらで伏せていたルビィは首を持ち上げて、リィンを見上げた。

「つき合わせて悪いな。帰りに内緒でビーフジャーキーを買ってやるからな……内緒でだからな?」

 あまり散歩先でおやつを買うと、シャロンにたしなめられるのだ。

「そういえば財布持ってきてたかな……」

 ズボンのポケットを探ってみる。なかった。手に取った覚えもないから、部屋に置いてきたのだろう

「しまった。上着の内ポケットにもないよな……ん?」

 財布ではないが、何かがある。取り出してみると、白い封書だった。

 はっとして思い出す。昨日フィーたちに取られ、そして取り返したエリゼからの手紙だ。

 もう失わないようその場で内ポケットにしまったはいいが、疲れていたからか部屋に戻ってすぐに寝てしまい、結局読めずじまいだったのだ。

 うっかりしていた。エリゼの手紙は届いてから三日以内に返信するのが、破ることの許されない鉄の掟である。暗黙の内に定められた、数ある兄様ルールの一つだ。初日はシャロンから受け取った時間が遅くて読めず、二日目はフィー達に奪われていたから読めず、そして今日が届いてから三日目。

 まだ間に合う。

「あ、危ないところだった」

 焦る手つきで封を明け、中から手紙を取り出す。丁寧に三つ折りされた便箋を開き、内容にじっくりと目を通した。 

 内容はいつもの近況報告だった。定期試験でいい成績を収めたこと。育てている花が咲いたこと。背が少し伸びたこと。料理の腕が上がったこと。

 そして、例の体育大会の応援が楽しみだということ。

「はは、元気そうでよかった。こっちも近況を書かなきゃな。何がいいだろう――え?」 

 一度目を離しかけて、最後の一文に視線を戻す。まぶたを擦り、もう一度見る。なぜか太陽に透かしてもみた。意味を咀嚼し、吟味する。やはり文字通りの内容だった。

  

『――体育大会の応援に、アルフィン皇女殿下も足をお運びになるそうです。お忍びですので、どうかご内密に願います』

 

「ええええ!?」

 よたついて足がもつれ、立てかけてあった釣竿に引っ掛かった。そのままぐらりとバランスを崩し、リィンは川の中へと滑り落ちる。

 派手に水しぶきが弾け、叫びはうねりの中にかき消されていった。

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

《貴族組 ~特訓と猛特訓と》

 

 温い風が吹き抜け、グラウンドの砂がさわさわとたなびく。秋にしては暑い日だった。

「くそっ、こんなことよりもっと実戦で使える連携の練習をするべきだ」

 小さな声で悪態を付きながら、それでもパトリックは命じられたとおりグラウンドを走り続ける。

「同感ですわ……」

 その後ろにぜえぜえと肩で息をするフェリスが続く。走り始めてまだ二周だが、彼女の体力は早くも尽きかけていた。

「大丈夫? もう少しペース落としてもいいんじゃないかしら」

 フェリスと横並びに走るのはブリジットである。彼女はさほど苦しそうな表情をみせていない。

 横目でブリジットを見て、フェリスは言った。

「ブリジットさんって運動が得意ですの? 確か吹奏楽部と記憶していますが」

「うーん? 最近トランペットも扱うようになったから肺活量が鍛えられているのかも。それよりもフェリス?」

 そう呼ばれて、フェリスははっとした。

「さん付けはダメじゃなかったの?」

「あ、ごめんなさい。つい」

 ここで鋭く笛が鳴り響く。二人はとっさに背すじを伸ばした。

「ほら、無駄口叩かないの。走る距離増やしちゃうわよ?」

 コーチ役のフリーデルだった。フェリス達に並走してくるなり、笛を片手に笑いかけるが、それは冗談の笑みではない。

 彼女は笑いながらどぎつい試練を与えてくるのだ。『一年生同士は“さん付け”禁止』を発令したのもフリーデルである。心が近くないと連携は成せないという、彼女の持論から転じた決まり事だ。

 走る足は止めないまま、パトリックが不服を申し出る。 

「部長の言うことはわかりますが、精神論だけでは勝負に勝てないでしょう。いまさら走り込みをするよりも、戦術や想定できるアクシデントへの対応法を――」

「ほいっ」

「いたっ!?」

 ポクッとパトリックの頭を小突く。

「真剣勝負の場で流れを持って来るのは、いつだって強い気持ちよ。他者との連携だって技術だけで行うものじゃないわ。この走り込みも体力を付けるためにやってるんじゃないの」

「しかし……Ⅶ組連中の連携を無視するわけにはいきません。こちらも相応の戦術を身に付けなくては」

 実際、フリーデルがコーチに付いてから特訓らしい特訓をしていない。

 やることと言えば、今みたいにひたすら走り、それが終わると全員での雑談タイムに突入。その繰り返しである。雑談などいらないと、パトリックはフリーデルに食いかかったが、今はこれが必要なことだと応じてもらえなかった。

「そんなことを言っているようじゃⅦ組にはいつまでたっても勝てないわ。彼らの力の根底は、あの新型の戦術オーブメントを介した連携ではないのよ」

「……力の根底?」

「そう。今の私たちは小さな七つ。かたやⅦ組は大きな一つ。この差は大きいわ」

 パトリックは眉根を寄せた。

「よく分かりませんが」

「教えられて理解するものじゃないしねえ。今は黙って走りなさいな。あんまり口答えばかりしてると、あっちに行かせちゃうわよ」

 あっちと言われて、視線を向けた先では、

「お待ちになってええん!!」

「ひいいいい!!」

 土埃の中をけたたましく走り回るヴィンセントとマルガリータ。まるで巨大な魔獣と非力な子ウサギである。

 押し黙るパトリック。

「そう言えばケネスはどこですの?」

 フェリスが言う。見回してみるが、先ほどまで一緒に走っていたはずの彼がいない。

 風が吹いて土埃が晴れていく。例の巨大な魔獣に轢かれたらしいケネスが、無惨な風体でグラウンドに転がっていた。

 

 

「うう、ひどい目にあったよ……」

 休憩中。息を吹き返したケネスは、上体を起こして全員の顔を見渡した。

「グフッ。ごめんなさいねえ。ほら恋は盲目って言うじゃない」

 その湿った瞳が意中の男性に向く。ヴィンセントは「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、フェリスの背に隠れた。

「ちょっと、やめて下さいまし! マルガリータさんもお兄様が怯えておりますわ」

「もう、照れ屋さんなんだからあ」

「か、会話が異次元ですわ……」

 なお『さん付け禁止令』だが、マルガリータだけはこっちの方がしっくりくるという理由で、さん付けが可となっている。

 パトリックは、ケネスの上着からはみ出ている白い紙に気づいた。

「それはなんだ?」

「あ、忘れていたよ」

 ケネスはそれを皆に広げてみせる。

「ハインリッヒ教頭から手渡されたんだ。これが体育大会の競技種目だって」

 サラとハインリッヒが割り当て分ずつ、交互に自由に決めたというプログラム。

 食い入るように競技の羅列に目を通す一同。

「なるほど、こうきたのね」

 フリーデルは両手を打ち鳴らした。

「はーい、全員注目。今頃はⅦ組にもこのプログラムが渡ってると思う。ここからが正念場よ。明日からは実戦練習に移るわ」

 パトリックが安堵の息をつく。

「ようやくですか。それでフリーデル部長、どのような特訓をするんです?」

「あら、明日からのコーチは私じゃないわよ」

「Ⅶ組に勝ちたいか、お前たち」

 その時、固い声音がグラウンドに響いた。

 砂塵にかすむ景色の中に、バタバタと黒いマントがはためいている。金髪碧眼。真一文字に結ばれた口元。質実剛健を体現したかのような憮然とした佇まい。

 帝国軍第四機甲師団、ナイトハルト少佐その人である。

 彼はざっざと地を踏み慣らし、乱れのない歩調で近付いてきた。パトリックたちの数歩手前で立ち止まると、ナイトハルトは言う。

「お前たち。いや、貴様たち」

 鋭い目で一人一人の顔を眺め、ナイトハルトはその顔をさらに険しくした。

「たるんでいるな。貴様らは本当にⅦ組に勝ちたいのか? どうだ、レイクロード」

 急に名指しされたケネスは、体を強張らせながらも「は、はい」と一言返答する。あまりの威圧感に足が震え出していた。

「馬鹿者! そんな気の抜けた返事があるか! もう一度問う! 勝ちたいか!」

「イ、イエス・サー!」

「全員で言え! 勝ちたいか!!」

『サー・イエス・サー!!』

「仮にも士官学院生。容赦はせん、当日まで軍隊式でしごいてやる。口答えは一切許さん」

 戦慄する後輩一同に向けて、フリーデルは朗らかに微笑んだ。

「というわけだから。お忙しくしている中、無理を聞き入れて下さったのよ」

 何をやらかしてくれたんだ、あんたは。

 そんな視線が集中するが、彼女はどこ吹く風でプログラムをナイトハルトに渡していた。

「よし、では早速訓練を開始する。全員二十キロの装備を背負って、屋上まで十往復!!」

 コーチが変わっても走らされる貴族組。むしろさらにハードになっている。

 純白の学院服が泥まみれになるのを覚悟で、彼らはやけになって叫んだ。

『サー・イエス・サー!!』

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

《帝国解放戦線 ~個性と記号と》

 

 ノルティア州、ルーレ市郊外。

 人通りもなく、ぽつりと寂れた一軒家――その地下で蠢く黒い影。

 薄暗い空間の中、いくつかの導力ランプを囲んだ怪しげな男たちは、それぞれの手に持ったトールズ士官学院の見取り図を凝視している。

 その中の一人が言った。

「非常用の物を含めて、あと十日余りで食料は尽きる。水もだ」

 別の一人が、視線を見取り図から薄闇の一角へと移す。雑多に木箱の山が重なっていた。

「あるだけの武器をかき集めたが、リストに挙げてある通りだ。十分とは言えない」

 別紙で用意されたリストには、ナイフ、ハンドガン、ライフル、手榴弾、長剣などがそろえられているが、数は人数分ぎりぎりといった具合で、残弾薬は少なく、刃物類は刃こぼれしている物も多かった。

「それでも使うしかない。やはり成功の鍵を握るのはあれだな」

 全員がある一点に目を向けた。乱雑な物置場と違って、その場所だけは周りに何も置かれておらず、代わりに警戒を表す黄色のテープが張り巡らされていた。その中心にあるのは、厳重に封をされた金属製の箱が一つだけ。

「ちゃんと動くのか? 遠隔式なんだろ」

「信管を抜いた状態で動作確認は済ましている。問題はない」

 爆弾である。ザクセン鉄鋼山退却の際に、かろうじて持ち出してきた発破用の爆弾。しかしその威力は折り紙付きだ。

「では作戦概要を説明するぞ。まず配置は――」

 その後も討議は繰り返される。彼らの目的はアルフィン皇女の奪取。そして壊滅させられていないという一縷の望みに賭け、帝国解放戦線本隊に合流すること。はっきり言って成功の確率は低い。

 いくつもの細い糸をより合わすように、綿密に策を練り上げ、目的を成さねばならないのだ。

 まだまだ詰めることは多い。

 一人が勿体ぶったような、妙に雰囲気のある声音で言った。

「同志《C》よ。当日の指揮系統も決めるべきではないか?」

 この《C》というのも、幹部の真似をして、彼らが勝手にくじ引きで決めたコードネームである。ここには同志《A》から《Z》まで二十六人が揃っていた。

 しかし話を振られた《C》は押し黙ったままだ。

「おい、《C》。返事くらいしたらどうだ?」

「え、俺に言ってるのか? 俺は《P》だぞ?」

「あ、悪い。《C》はお前だったか?」

「いや、俺は《T》だが。仲間のコードネームくらい覚えておけ、同志《B》」

「ちょっと待て。俺は《F》だ」

 見当違いのアルファベットが飛び交う。騎士のフェイスプレートを模したようなハーフヘルメットに、全員統一された戦闘服。没個性を象徴したような出で立ちで、誰が誰かなど一見で分かるはずがなかった。

 戦場で混乱するのはまずい。

 何かいい方法はと思案し、やがて一つの提案が可決された。

「……やむを得ないな。それで相手にこっちが不利になる情報を与えるわけではないし。うむ、それで行こう」

 二十六名全員のベルト――そのバックルにそれぞれのアルファベットが大きくマジック書きされる。

「……まあ、なんだ。悪くないな」

 没個性脱出。

 ちょっとだけかっこよくなったバックルが、暗がりの中で煌めいた。

 

 

        ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 

 

『Intermission ~お散歩と特訓と悪巧みと』 

 

~FIN~

 

 

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。

一応時系列やカレンダーなどは気にしているのですが、今回の区間はノーブルメンバーズ~ちびっこトラップ前後までの幕間シーンでお届けしています。
タイトル通り、Ⅶ組勢はルビィとのお散歩を、貴族組は体育勝負に向けての特訓を、で、奴らは悪巧みを。
やっぱりショートショートは描いてて楽しいですね。

では次は、『アキナイ・スピリット』のおまけで予告していたお話です。そろそろ大詰め!
次回『クッキングフェスティバル』
また、お楽しみ頂ければ幸いです。


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クッキングフェスティバル(前編)

「おねがい、協力して~」

 放課後のⅦ組の教室では、集まった全員に懇願するミリアムの姿があった。

 それぞれの手には、そんな彼女から渡された一枚のプリント用紙がある。食べ物や料理の可愛らしいイラストがてんこ盛りのポップな告知ポスター。その表題はこうだ。

「調理部主催、クッキングフェスティバル……か」

 リィンはA4サイズの用紙を上から下まで目を通してみた。簡単な要項はこの通りである。

 

 ➀形式はトーナメント制料理コンテスト。

 ➁試合ごとに異なったテーマが与えられるので、出場者は即興で料理を作る。

 ➂二人~三人を一組としたチーム戦。

 ➃材料、調理器具は用意してあるが、持ち込みも可能。

 ➄審査員は一試合につき三名。これは各部の部長、及び教官勢に協力要請。

 ➅優勝チームには学生食堂で使える食券、三ヶ月分を贈呈。

 

 細かなルールを挙げれば、対戦チームはクジ引きで決定や、上限人数内ならメンバー補充や入れ替えも認められる、などもあった。

 ユーシスがミリアムに訊ねた。

「この用紙は学院内にも掲示してあっただろう。俺たちに頼むほど参加人数が足りないのか?」

「そういうわけじゃないんだけど、このチーム戦っていう形式が人を集めにくかったみたいでさー。個人での申し込みはそこそこあったんだけどね」

 二人、三人連れ立って出てみようという人間が、思いのほか少なかったという。しかしイベント自体は今の時点から盛り上がりを見せていて、ギャラリーはかなりの人数が予想されるらしい。いまさら中止も延期もできず、そこでどうにかして参加者を確保しようとなったわけである。

「開催は次の日曜日だよ。さすがに授業は潰せないけど、自由行動日ならやってもいいって学院長も許可してくれたんだ」

 つい先日、学院にトラップを仕掛け回り、半日分の授業を潰した元凶の片割れが、得意気に胸をそらした。

 現在、クッキングフェスティバルの設営準備は、調理部が総出で行っている。

 部長のニコラスは運営や当日の段取りを進めていて、顧問のメアリー教官は書類申請や衛生面での認可など、届け出方面で尽力している。一年生、マルガリータは各種食材の手配で、そしてミリアムが参加者の確保という役割分担だった。

 となると必然、参加者候補はⅦ組に白羽の矢が立つ。

 その経緯はそれとして、

「ふむ、向上した実力を試す時だな。全力を尽くさせてもらおう」

 最近、料理にご執心のラウラは乗り気だ。

「ミリアムちゃんのお願いですし。がんばりますね」

 エマもお母さん的な協力姿勢を見せている。

「面倒だけど……いいよ」

 ちびっこシンパシーなのか、珍しくフィーもすんなりと応じた。

「みんながやるなら、私もやるわよ」

 断る理由は特になく、アリサも続く。

 あっさりと女子班の参加が決定した。

 一方、男子班は円陣を組んでひそひそと話し合っていた。

「これはよくない流れだな」

 マキアスがぼそりと言うと、彼らは同時に首をうなずかせた。

 エリオットのひざが、カタカタと震えている。

「ま、まずいよ。このままだと僕たち……」

 さよなら女神様、こんにちは魔物達。血まみれの切符を片手に、帰り道のない煉獄ツアーが大口を開けて待っている。

「うむ……非常事態だ」

 ガイウスの表情は暗い。彼とて魂だけでノルドに帰るわけにはいかないのだ。

「この件は人命がかかっている。メアリー教官にルール改定などを直訴してはどうだ。少なくともこの場の六人分の署名はそろうだろう」

 あくまでも冷静を装うが、ユーシスにも余裕はない。

 しかし絶望的な状況を、クロウの一言が一変させた。

「落ち着け、お前ら。今回は別に俺たちが料理を食うわけじゃねえ。あくまで作り手側なんだ。こっちも参加しちまえば、女子どもの勝負相手にこそなれど、少なくとも得体の知れないブツを口に入れることだけはしなくて済むんだぜ」

 さらに当日まで〝お互い手の内は見せない”などと適当な理由を並べておけば、練習ついでの試作品を食べさせられるリスクもない。

「あえて火中に身を投じるってやつだな。俺らの命はこれで守られるだろ」

 加えてトーナメント戦だと言うのなら、その一回戦で女子班を根絶やしにしてしまえば、続く二回戦以降の審査員の身も守ることができる。

 正攻法で戦えば、男性陣の料理が彼女達のそれに負ける道理はない。

「なにをこそこそと話し合っているのだ」

「まったく、早く決めなさいよ」

 ひどく失礼な物言いをされているとは露知らず、女子は怪訝顏だった。

 異様に強い声音でリィンは告げた。

「俺たちも参加する……参加するぞ」

「ふふ、もの凄いやる気ですね。こちらも負けていられません」

 にこやかに言うエマ。(いや、負けてくれ)と、男子たちの想いは胸中でそろった。

「ありがとう、みんなー! でもⅦ組同士で組むと組数が減っちゃうから、なるべく知り合いを誘ってチームを作って欲しいんだ」

 お願いね、と愛嬌たっぷりで笑ってみせるミリアムに、ユーシスは横目でにらみを利かす。

「俺たちをこうして駆りだす以上は、当然お前も出場するのだろうな?」

「もちろん出るよ。ボクのコンビはマルガリータだから」

「マルッ……!? ハンバーグを丸のみした女だぞ。そもそも料理という概念などを理解しているのか」

「どーだろーね? ニコラス部長が、一年生同士で組んで出場しなさい、なんて言うんだもん。ボクは別に構わないけど」

「俺たちが構うのだ……!」

 マルガリータはそれを聞いた時、ずいぶんと憤慨したらしいが、メアリー教官の口添えもあって、結局は“仲良く”出場することになったのだという。男子女子共に冷や汗が止まらない。

「それじゃさっそくチームを作って来てね!」

 無責任な笑顔が、満開に咲いた。

 

 

《☆☆☆クッキングフェスティバル★★★》

 

 

 学生食堂。ラウラと同席しているのはモニカ、ポーラ、ブリジットという、いつものメンバーだった。

 クッキングフェスティバル参加の経緯を聞いて、三人が三人とも納得はしたものの、不安やら心配やらで表情を曇らせている。

 慎重に言葉を選びながら、まずモニカが口を開いた。

「私たちがチームに入るのは全然いいんだけど、ラウラはあれからお料理作ってるの?」

 あれ、というのは十月初めのお弁当騒動の時である。

「もちろんだ。研鑽は欠かしていない」

 堂々と言ってみせたラウラの指には、あちこち絆創膏が貼られている。椅子の背もたれに寄り掛かりながら、ポーラはその指をちらりと見て、

「その研鑽というのは、まだ実を結んでないようね」 

「だが大体の食材は一息で切断できるようになったぞ」

「真っ二つにするだけでしょ。リンゴの皮むきぐらいはできるようにならないと」

 むう、とうなってラウラは自分の指先を見る。先日ウサギを模したリンゴをリィンのために剥こうとしたのだが、紆余曲折の果てに皿に乗せたのは、刻みに刻んだ無数の角切りリンゴだった。

 リィンは気にせず食べてくれたが、やはり思い通りの物を渡せなかったのは悔やまれる。

 どことなし肩を落とすラウラに、彼女たちは言った。

「大丈夫、大丈夫。練習を繰り返せば絶対に上手くなるから」

「当日まで厳しくやるわよ?」

「感謝する」

 気のいい友人たちに口元を緩めるラウラの横で、ブリジットだけは悩んでいる様子だった。

「どうしたのだ?」

「実は開会式のファンファーレや演奏を吹奏楽部で受け持つことになっててね。多分、私は一回戦に間に合わないと思うわ」

「そうであったか。いずれにせよ、一度に調理台に立てるのは三人までというルールだったはずだ。そなたは気兼ねなく演奏に集中するといい」

「ごめんね。一段落したら皆の応援に行くから」

 まずは練習用の食材調達だ。

 さっそく四人はテーブルから立ち上がった。

 

 

 《ケインズ書房》。様々な書籍が立ち並ぶ棚の一角で、エマは料理本を手に取った。

「あとは、あっちの栄養学なんていうのも良さそうですね」

 多種多様な料理のレシピ本の他に、東方料理の歴史なんてものもある。

 エマは手あたり次第に役に立ちそうな本を抜き出していく。その横で付き合わされているフィーはあくびをした。

「ねえ、委員長。もう十分だと思うんだけど」

「そうですね。そろそろ行きましょうか」

 エマとフィーはチームを組むことになっていた。フィーはヴィヴィ辺りと組もうとしていたのだが、寮を出て早々にエマに捕獲されたのだ。私を一人にしないで下さい、と抱き付かれて。

 その発言の真意はもちろん、あの用務員に付きまとわれないためである。下手にチーム探しで学院をうろつけば、音もなく忍び寄って来て『エマ君、君の力になろう』などと口走り、その後の流れは言わずもがな。

「んー、重い……」

「半分持つよ?」

「だ、大丈夫です」

 両手に本をどっさりと抱えて、エマは会計に向かった。

「おーい、姉ちゃん大丈夫か」

 カウンターからひょこりと顔を出したのはカイだ。

「あら、今日はカイ君が店番だったんですか?」

「うん、父ちゃんが注文を受けた本を学院へ届けに行ってるから、その間だけだけど。早く帰って来ないかな。そしたらロジ――教会に行けるのにな」

「ふふ、カイ君は偉いですね」

「やっぱり委員長、お母さんぽい……」

 カウンターに本を置こうとした時だった。扉が開いて、カランカランと備え付けの鈴が鳴る。

 エマがそちらを振り向くよりも早く「おや、これは粋な女神の計らいだ」と、あの低い声音が耳に届いた。

 びしりと硬直するエマに、ガイラーは紳士的な一礼をしてみせる。

「ど、どうしてここに?」

「私が書店に来るのは意外かね」

 コツコツと足音を響かせ、ゆっくりと店内を見て回るガイラー。その一挙手一投足が油断ならず、エマは本をカウンターに置くことさえ忘れ、ただ固唾を呑んで彼を警戒した。

「ふむ……」

 一通り本棚の間を歩き回ると、ガイラーは眉をひそめて戻ってきた。

「ここに私の求める書籍はないようだ」

「それはそうでしょう……」

「店裏からも本や雑誌の気配があるようだが、なんだか不健全な臭いがするね。よくないことだよ、これは」

 不健全の首位独走選手が、当然のようにそんなことを言う。すでに無機物の気配まで感じ取れるほど、彼の感覚は鋭敏なものに進化していた。カイはカイで「このオッサン、裏ケインズ書房の存在に気付いたのか? 俺でさえ中に何があるか知らないのに」と驚愕を顕わにしている。

 ガイラーの目が、エマの抱える本の背表紙に向けられた。

「料理本……お嬢さん方に花嫁修業は少し早いね。察するにクッキングフェスティバルとやらのためかな」

「ち、ち、違います」

 動揺など隠せていないが、それでもエマは否定した。目じりのしわを深くして、ガイラーは黒い笑みを浮かべる。

「実にいいね」

 その言葉を残すと、彼は踵を返して去っていく。背中越しにこう告げられた。

「次の日曜日。楽しみにしているよ」 

 バタンと扉が閉められると同時、エマはその場にくずおれる。抱えていた書籍の全てが床に散乱した。

 

 

「困ったな」

 ギムナジウムを出たところで、ガイウスはひとりごちた。

 クレインを当てにしてプールまで足を運んだのだが、残念ながら彼とチームを組むことはできなかった。

 というのも、クレインが水泳部の部長だったからである。

「そういえば、各部の部長は審査員を務めると書いてあったか」

 あと頼めそうな知り合いと言えば、やはり美術部だ。しかしリンデはそういう場に出たがらないだろうし、クララ部長に至ってはなおのことだ。そもそも彼女が審査員の役を引き受けたのかさえ怪しい。

「困ったなあ」

 その時、同じように呟きながら、目の前を橙色の髪が通り過ぎていく。

「エリオット。そっちもいい相手が見つからないのか?」

「あ、ガイウス」

 声を掛けるまでこちらに気付かなかったらしく、エリオットは苦笑した。

「うん。吹奏楽部の何人に頼んでみたんだけど、開会式の演奏と重なって一回戦には出られないんだ」

「エリオットはいいのか?」

「僕はトランペットやドラムの担当じゃないからね」

 とはいえエリオットにもそれ以上の当てはなく、途方に暮れていたという。

「ならば俺たちでチームを作ろう。ミリアムはなるべくⅦ組同士は控えて欲しいと言っていたが、この際はやむを得まい」

「そうだね。ガイウスと一緒だと心強いよ」

「それはこちらも同じだ」

 双方合意でチーム結成である。

「じゃあ、簡単なミーティングでもしようか?」

「ああ、ノルドの香辛料を活かした料理を即興で作れれば、いいところまで行けると思う」

 二人はいっしょに歩き出す。

 多少の安堵があったせいなのか、彼らは離れた木の陰に怪しい影が見え隠れしていることに、最後まで気がつかなかった。

 潜めた吐息が空気を小さく揺らす。

「……猛将の力になれる好機かもしれん」

 注文書籍を学院まで届けに来ていたケインズが、ぎらぎらと目を光らせていた。

 

 

 ガイウスがギムナジウムを出た頃、マキアスは練武場にいた。

 自主稽古を切り上げたアランは、マキアスからの参加要請に難色を示している。

「料理なんか得意じゃないぞ」

「僕だってそうだ」

 そんな二人が組んだところで、結果は目に見えている。だがマキアスにも頼れる相手が多いわけではない。まずはチームを組んで、それからのことはまた考えればいいと思っていた。

「マキアスの頼みだし、力にはなりたいけどこればかりはなあ」

「それならブリジットさんにもチームに入ってもらうのはどうだ。料理得意そうだし」

 その提案に、アランは手入れ中のサーベルを取り落としそうになった。

「ま、待てって。確かブリジットは当日に開会演奏するって言ってた。間に合わないんじゃないのか」

「チームに名前を登録しておいて、二回戦から参加してもらえばいい。人数制限内ならメンバーの補充や入れ替えはありだと記載してある」

 眼鏡を光らせ、マキアスは要項をアランに見せてみた。

「でもなあ……」

「もしかして彼女は料理が下手なのか?」

「そんなことはない。すごくうまかった」

「手料理を食べさせてもらったことがあるんだな? それも最近か?」

「うっ」

 探るような視線を逸らして、アランは言葉を詰まらせた。

「君が言えば、ブリジットさんも応じてくれるだろう。何とか力になってくれないか」

 そこまで懇願されると、アランもそれ以上は断れなかった。半ば押し切られる形で、力添えを承諾する。

「まったく。とはいえ一回戦は俺たちだけで勝たないといけないんだぞ」

「それこそ、ブリジットさんに料理の指導をお願いすればいいだろう」

 手入れを済ませたサーベルを手早く片付け、アランはマキアスに向き直った。

「言っておくけど、あいつ結構厳しいからな」

 

 

 貴族生徒達が住まう第一学生寮。

 清掃も行き届き、絨毯には埃一つみられない。一階には受付カウンターも構えており、予備知識もなしにここを訪れたなら、ちょっとしたホテルか何かと勘違いするかもしれない。

 その二階、東側に女子専用の部屋が並ぶ区画がある。

 一つの部屋の中から、楽しげな会話が廊下にまで聞こえていた。

「――で、次の自由行動日にヘイムダルにショッピングに行こうと思っていますの。アリサも一緒に行きますわよね」

「あ、うん。もちろん行きたいんだけど」

 フェリスの部屋だった。

 レースカーテン付きのベッドが窓際に備えてあって、近くに置かれている化粧台は傍目に見ても豪奢なしつらえだ。若干不釣合いな感じもあったが、ちょくちょく飾られている可愛らしいぬいぐるみ類は、おそらく彼女の趣味なのだろう。

 部屋の中央に据えられたおしゃれなテーブルを挟み、アリサはフェリスが淹れてくれた紅茶を口にした。

「あら? 何か用事がありますの」

「というか、むしろ私の用事にフェリスを付き合わせたくて……」

「別に構いませんことよ。ヘイムダル以外でお買いものですの?」

 小首を傾げるフェリスに、アリサは言った。

「フェリスってお料理できる?」

「子女の嗜みですもの。人並み以上には」

 アリサの顔が明るくなった。

「だったら――」

 本題を切り出して数分後――

「ふふん、構わなくてよ」

 クッキングフェスティバル出場を、フェリスは快諾していた。

「ありがとう、助かるわ」

「どんと来いですわ」

 アリサから頼られて上機嫌のフェリスは、そういえばと彼女に問い返す。

「アリサは料理は出来ませんの?」

「もちろんできるわ。よくリィンに食べてもらっているの。床を転げ回るくらいおいしいみたいよ」

 例によって味見をしていないアリサだった。

「むむ、侮れませんわね。でしたら料理クイズで勝負ですわ」

「望むところよ」

 唐突に始まったクイズ対決。まずはフェリスからの出題だ。

「肉じゃがの材料は?」

「これは分かるわ。肉とジャガイモよ」

「やりますわね」

 まんまの答えだが、フェリスは驚いている。次はアリサが問題を出した。

「ジャガイモには男爵イモとか種類があるって聞いたわ。他の種類がフェリスに分かるかしら」

「そんなの決まっていますわ。伯爵イモや子爵イモ。あとは最高級の公爵イモがあるのですわ」

「へえ、やるじゃない」

 元々答えを知らないアリサは、素直に感嘆の声をあげる。フェリスは得意気だった。

「ゆで卵はどうやって作りますの?」

「割った卵をお湯の中に入れて、かき混ぜて――」

「調理法の種類って?」

「焼くのと……燃やすのと……あと焼くのと――」

 お嬢様たちは順調に迷走していた。

 

 

 

「……え、あの?」

「お前は料理は出来るのかと聞いている」

 トリスタ礼拝堂内、戸惑うロジーヌにユーシスはその言葉を繰り返した。

「その、えーと。お料理なら一応できますが……」

 控え目な返答だったが、ユーシスは「まあ、そうだろうな」と納得した様子である。

「あれほど美味いクッキーが作れるのだ。他の物も作れるとは思っていた」

「……っ!」

 ナチュラルにクッキーを美味しいと言われ、ロジーヌの頬は瞬く間に赤く染まった。

「あ、あの! 丁度おやつの時間ですし、焼き上がったクッキーがありますので召し上がっていって下さい! 紅茶も淹れてきますから!」

「そうか、頂いて行こう」

 修道服の裾をぱたぱたとひるがえし、ロジーヌは小走りでキッチンの中へと消えていった。

 程なくクッキーと紅茶のいい匂いが漂ってくる。適当な椅子に腰かけているユーシスの元に、ティゼルが「えへへー」と含み笑いを浮かべて近付いてきた。

「ねえ、ユーシス先生。どうしてロジーヌさんに料理ができるか聞いてたの?」

「ん? ああ、実はな――」

 クッキングフェスティバルに参加することになり、相方を探していることを説明する。

 聞き終えたティゼルは「士官学院生って大変なんですねー」と何やら感心していた。

「ロジーヌさんにはまだその事伝えてませんでしたよね」

「ああ、次に戻ってきたら話すつもりだが」

「だったら、こう伝えたらいいと思いますよ」

 ティゼルはひそひそと耳打ちをする。

「そうなのか? わかった」

「はい、絶対ですよ」

 その折、クッキーと紅茶の入ったポットを持ってロジーヌが戻ってきた。

「お待たせしました。いま淹れますから」

 ポットを傾けて、ゆっくりと紅茶をティーカップに注ぎ入れる。立ち昇る湯気が、ロジーヌの前髪をほのかに揺らしていた。

 その横顔を見ながら、ユーシスはおもむろに立ち上がる。

 と、そのタイミングで礼拝堂の扉が開き、「やっと店番から解放されたぜ。おやつの時間に間に合ってよかったー」と肩で息をするカイが入ってきた。

「ロジーヌ」 

 カイには構わず、彼女の名を呼ぶ。「はい?」と応じながらも紅茶を注ぐ手は止めないロジーヌに、ユーシスは静かに言った。

「俺の為に料理を作る気があるか?」

 カチーンと石化したロジーヌ。口元を手で隠し、嬉しそうに身をよじるティゼル。その言葉が何を意味するのか咄嗟に理解できず、ただ立ち尽くすカイ。

 注がれ続ける紅茶がカップから溢れ出て、現在進行形でテーブルクロスに大きな染みを拡げているが、ロジーヌにとってそれは完全に意識の外だった。

「あ、あ、あ、あ、あのののの?」

 もはや言葉にもならないが、ユーシスの追撃は続いた。

「作るのか作らないのか、どっちだ」

「つ、作ります!」

 女神に祈るように胸前で両手を組み合わせ、ことのほか強い口調で彼女は宣言する。

「ならば俺に付いてくるがいい」

「はい……!」

 颯爽と身を返し、戸口に向かうユーシス。その影を踏まぬよう、三歩下がってロジーヌは粛々と続く。

 行動と思考を停止しているカイの横を抜けて、二人は入口から差し込む陽光の中へと消えていった。

 妙な静寂の中――

「がはっ!」

 明確な理由は判然としなかったが、胸をえぐられるような衝撃に、カイは激しくえずいて膝を折る。

 視界の端でテーブルから滴り落ちる紅茶は、まるで血の涙のようだった。

 

 

 

「さて、俺はどうしようかな」

 適当に町中をぶらつきながら、リィンは空を振り仰いだ。抜けるような青い空に、知り合いの顔が浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。

 日々の依頼事を易々引き受けてしまう彼は、とかく知り合いが多い。が、逆にこちらからの頼み事となると、中々誰かを絞り込むのは難しく頭を抱えてしまうのだ。

「うーん」

 うなってみるが、やはり決まらない。

「よ、お前も困ってんのか」

 不意に声を掛けられ、上げていた首を戻すと、正面にクロウが立っていた。やけに明るげな態度で寄ってくると、肩に手をぽんと置く。その表情とは逆に、彼は重い声音でひそやかに告げた。

「全員の手前、さっきはああ言ったが、事態は想像以上に深刻だ」

「え?」

 クッキングフェスティバルに出場することで、男子達の身は保証されるのではなかったのか。

 息を呑んで、リィンは次の言葉を待った。

「初戦の相手が女子チームに当たるとは限らない。男子同士で潰し合う可能性もある。女子達が勝ち上がれば上がる程、悲鳴と絶叫が増えていくぜ」

「……それは分かっているが」

「下手すりゃ局地的な被害は、こないだのトラップ騒動より上かもしれねえ。男子チームの責任は重大だ。絶対にあいつらを優勝させるな」

「実食する審査員達には不憫だと思うが、そこまでする必要があるのか?」

「ある」

 クロウはきっぱりと言った。

「その先を考えてみろ」

「先……? あ!」

 もし女子チームが優勝、あるいは好成績を収めるなどしたらどうなるか。自分達は料理ができると勘違いしてしまうことだろう。さらに寮の厨房を占拠し、料理に勤しみ始めたとしたら。あまつさえ、そこで生み出された物体共が、食卓に連日並ぶような事態になったとしたら。

「破滅だ……!」

 わなわなと震え、リィンは両手で顔を覆い隠した。指の隙間から覗く瞳が、狼狽に激しく揺れている。

「勝てばいい。勝てばいいんだ」

 全てが凝集された一言を、まるで自分にも聞かすようにクロウは繰り返した。

「大丈夫だ。冷静に考えろ。審査員が通常の味覚の持ち主なら、あの料理を勝ち進ませることはしない。本来ならそこまで懸念することじゃないんだろうが。だが念には念を入れるぜ」

「どうするんだ?」

「リィン、お前は俺と組め。当日まであらゆる即興料理に対応できるように特訓する」

 もはやその目は一介の料理人。己の命運を賭けて、一枚の皿に全てを託す。

 クロウの本気を感じたリィンは「わかった」と返し、硬い表情のままうなずいた。やるしかない。仮に自分達が志半ばで倒れても、男子の誰かが優勝すればいいのだ。

 新たにした決意を乗せて、リィンは拳を握り締める。

「この手で道を切り開く!」

 

 

 

 あっという間に日は流れ、クッキングフェスティバル当日。

 グラウンドに設置された特設会場に、吹奏楽部によるファンファーレが鳴り響いていた。

 予想通りギャラリーはかなり多い。調理スペースを囲むように並べられたパイプ椅子に、一、二年問わず白と緑の学院服が所狭しと入り乱れている。

 調理スペースには、簡易調理台や調理器具類があって、その他盛り付けなどにも使えるよう、大きめの四足テーブルが設置してあった。このセットは間隔を開けて横並びに二つ設けられていて、対決する赤チームと青チームとに分けられている。そして、その二つの戦場を一望できるように、白いクロスの敷かれた長テーブルが中央に置かれていた。ここで三人の審査員達が判定の為の実食をするわけである。

 マイクを片手に、調理部部長のニコラスが仮設台に登った。

「皆様、今日は自由行動日にも関わらず、私達調理部の企画の為に足をお運びくださりありがとうございます」

 冒頭の挨拶も程々に、大会のルール説明へと移る。

「要項にも記載しておりますが、勝負はチーム戦。審査員三名の判定による勝ち抜きトーナメント形式とさせて頂きます。審査員は各部部長や教官方にご協力いただいております」

 ニコラスが手で指し示した先には、十数名にもなる審判員達が控えていた。満腹感が判定に影響を与えるという懸念から、基本は試合毎に審判を変えることになっている。

 ノリノリで手を振るもの、仏頂面を浮かべるもの、様々だった。ノリがいい組にはフェンシング部部長のフリーデルや、教官ではサラ、生徒会からはトワなどがいて、仏頂面組には美術部部長のクララ、ハインリッヒ教頭などがいる。他にも園芸部からエーデル、文芸部からドロテ、馬術部からランベルト、水泳部からクレイン、チェス部からステファン、吹奏楽部からハイベル、ラクロス部からエミリーなど、他にも多くの部長勢が顔をそろえていた。

 それぞれが各方面で名を知られているが、一同に会する機会などそうそうあるものではないので、この揃い踏みだけでも中々の盛り上がりを見せている。

「それでは、戦いに挑むチームの皆さんに登場して頂きましょう。どうぞ!」

 大きな拍手と歓声が沸く中、手作りの入場門をくぐって、各チームが姿を見せた。

 適材適所ということで、ここからのラウンドコールとチーム紹介はトワが務める。マイクをニコラスから受け取ったトワは、一つ咳払いをしてから、はつらつとした声を響かせた。

「じゃあ、さっそく行くよー! リィン・クロウ組、チーム名『バレット&ソード』!」

「よー、応援よろしくなー」

「ベストを尽くすのみだ」

 片腕を掲げながら、リィンとクロウが堂々と入場する。

「どんどん入って来てね! 次はエマ・フィー組、チーム名『ボインとペッタン』」

「な、なんですか、このチーム名は」

「チーム名は全員分のエントリー用紙に、クロウが勝手に書いてたみたいだよ」

 がくっと肩を落とすエマと、無表情のVサインを決めるフィーだった。

「まだまだー! ガイウス・エリオット組、チーム名『でっかいのとちっこいの』」

「うわー、緊張するなあ。というかチーム名雑だよ……」

「ふふ、まあ気にしなくてもいいだろう」

 ボインとペッタンと意味合い的にはほぼ同じである。身長差コンビが入場門を抜けてきた。

「もう四番手だよ! フェリス・アリサ組、チーム名『特攻お嬢様』」 

「負けませんことよ!」

「やるからには勝つわ」

 自信に満ちた足取りの二人は、不敵な笑みを見せた。

「ここから折り返し! ユーシス・ロジーヌ組、チーム名『てめえ、ふざけんな、この野郎』」

「……これがチーム名ですか?」

「クロウ……なんのつもりだ」

 後で絞め上げてやると鼻を鳴らすユーシスの後に、やはりロジーヌは楚々として続く。ちなみにごく一部のギャラリーの方々からは「トワ会長に罵倒して頂いたぞー!」と異様な盛り上がりを見せていた。

「私もクロウ君に後で話があるよ……こほん。えーと次はラウラ・モニカ・ポーラ組、チーム名『モニラ』」

「わー、注目されてるよ」

「チーム名は三人の名前から取ってるみたいだけど、私とラウラは『ラ』の一文字だけってどういうことよ」

「待て、ポーラ。私の名前には『ラ』が二つ付いている。だから私は二文字でカウントすべきではないか?」

 やいのやいのと言い合いながら、三人はかしましく場内へと足を踏み入れる。

「さあ、あと少し! アラン・マキアス組、チーム名『報われない眼鏡』」

「それ僕のことだけだろ!」

「よーし、やるか!」

 憤慨するマキアスと拳を打ち鳴らすアラン。どちらも気合いは十分だ。

「これが最後! ミリアム・マルガリータ組、チーム名『肉ウサギ』」

「あはは、マルガリータが肉でボクがウサギってこと?」

「このガキャア! どう考えても反対に決まってるでしょお!?」

 ぴょこぴょこと跳ね回るミリアムを、地面をズシズシ鳴らしながらマルガリータが追走する。

「はーい、以上が出場選手の皆さんです。みんながんばってねー!」

 計八組が審査員席の前に、ずらりと並ぶ。そこに大きなホワイトボードが運ばれてきた。でかでかとトーナメント表が書かれていたが、チーム名を入れる欄は空白のままだ。

 トワが下がり、ここで再びニコラスが前に出る。

「対戦相手は今から抽選で決定します。形式は先に説明した通りですが――」

 AブロックとBブロックにそれぞれ四チームずつ。つまり三試合勝ち抜けば優勝となる。しかし勝ち抜いた先、優勝を示す王冠マークの下にもう一本、横合いからトーナメント線が繋がっていた。

「あちらをご覧ください」

 選手達が質問の口を開くよりも早く、ニコラスはびしっと全員の頭上を指差した。

 その視線が伸びる先に、一同の目も向く。屋上に何かがいた。

 足首まで隠れる全身黒づくめのローブをまとい、顔の半分以上を覆うフードを目深にかぶった謎の人物が二人。彼らは屋上の細いフェンスの上で背中合わせに立ち、憮然とした振る舞いで腕を組んでいる。威風堂々と風になびくその様は、並ならぬ雰囲気を漂わせていた。

「あの方々こそ我々運営で用意した二人の刺客。優勝者には彼らとのエキシビジョンマッチに挑んでもらいます」

 騒然とする会場内。その折、黒づくめ達はいつの間にか姿を消していた。

「何だか面倒そうなのが出てきやがったな」

 小さく舌打ちして、クロウはとなりのリィンを横目で見やる。「ああ、だが俺達のやることは変わらない」と返して、リィンは屋上から正面の審判席へと視線を戻した。

 抽選箱に手を入れ、トワがチーム名が書かれた用紙を一枚ずつ抜き出している。

 ほどなく全員分の抽選が終了し、ニコラスがトーナメント表にチーム名を書き入れていく。

「さーて、どうなるか」

「ここが肝心だ」

 クロウとリィンの目論見は、各ブロックの一回戦で極力女子チームをふるい落とすことだ。その意図まで他の男子チームに伝えてはいないが、同士討ちは避けたいところである。

 トワによる元気のいいラウンドコールが響いた。

「それじゃあ、さっそくAブロック第一試合始めます。テーマとする食材は『肉』! 対戦チームは……」

 緊張の一瞬。そして――

「『報われない眼鏡』対『てめえ、ふざけんな、この野郎』。マキアス・アラン組とユーシス・ロジーヌ組は前へ!」

 

 

 

 ~中編に続く~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――おまけ――

 

 

 出会ってはならない二人が出会ってしまった。

「ご来館の方ですかな? 受付は正面入り口からとなりますが」

 ケインズ書房から戻ってきたガイラーと、

「いやいや、注文を受けていた書籍をお届けに上がっただけでしてね。今からお暇するところですよ」

 用を済ませて帰路につくケインズである。

「注文書籍……もしや書房の店主、ケインズ殿かな?」

「いかにも。そういう貴方は?」

 うやうやしく一礼し、ガイラーは柔和な笑みを浮かべた。

「しがない用務員のガイラーと申す者。先ほど丁度《ケインズ書房》に立ち寄らして頂きましてな」

「おお、それはそれは。不在にしており失礼を致した。それで、お眼鏡に適うものはありましたかな」

 客を迎える店主の顔となり、ケインズは朗らかに応じる。しかし、

「残念ながら。不躾は承知で進言させて頂くが、あの店には心たぎるような熱いジャンルが少し足りないのではありませんかな」

 わざとらしく肩をすくめたガイラーは、「店裏から感じる不健全なオーラは充足しておるようですが」と事もなげに付け加えた。

「……ほう」

 ざわと大気が震え、鳥達のさえずりが止まった。

「お年を召されると見識が狭まるのでしょうかね。若き獅子達がたぎる書籍なら十分にそろえてあるつもりですが。これを不健全と称すとは、いやはや嘆かわしいですな」

「おやおや、少々顧客のニーズをはき違えておられる。若き獅子同士が青春の汗を流すことに意味があるというのに」

 吐き出される言葉に険が乗り、ぶつかり合う視線の中心でスパーク光がほとばしる。

 ふとガイラーの目が細くなり、ケインズの中指――その第一関節付近に視線が移った。

「それはペンだことお見受けしますが、もしや貴方も小説の類を書くのでは?」

「小説というか実録偉人伝のようなものですが。貴方も、ということはそちらも?」

「稚拙なものながら、細々と書いております」

 不穏な空気が一瞬鳴りを潜める。

 それぞれの瞳の奥を探るように、しばし見つめ合う二人。

 ややあって、『ふっ』と同時に失笑をこぼした。

「どうやら貴方とは相容れないようですな」

「残念ながら、同感です」

 物書き同士の嗅覚が、ジャンルの違いを告げた。

「私は落ち葉掃きの仕事が残っていますので、これで失礼しましょう」

「私も店番を息子に任せきりなので、これにて」

 形ばかりの会釈を交わし、二人は止めていた足を動かした。

 すれ違う寸前、互いの流し目が交錯する。時期にしてはまだ早い、寒々しい風が吹き抜けた。

 

 

 




前編をお読み頂きありがとうございます。

はい、このおまけは誰得なんでしょうね。オッサンしか出て来てないよ。というかガイラーさん、『ノベルウォーズは突然に』で文芸部員達に言ってたこと思い出して下さい。ジャンルを認め合うことが大切じゃないの?

そして本編ですが、無印ガールズクッキングの後継的な位置づけなので、あんな感じのノリで突き進みますが、どうぞ温かくお付き合い下さいませ。
……三部で予定していますが、ちびっこトラップより登場人数が多いので、また四部になっちゃうかも……何とか三部で収められるようがんばります。

虹の軌跡、絆イベント総決戦。今までに育んだ絆で、各員全力のガチンコ対決。どのペアが頂点に立つんでしょうか。さあ、食材と調理器具をその手に携えて――
たーたかいつーづけるだーけー。

次回もお楽しみ頂ければ何よりです。


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クッキングフェスティバル(中編①)

 Aブロック一回戦、第一組。

 赤 ユーシス・ロジーヌ(てめえ、ふざけんな、この野郎)

 青 マキアス・アラン(報われない眼鏡)

 

 Aブロック一回戦、第二組。

 赤 アリサ・フェリス(特攻お嬢様)

 青 ミリアム・マルガリータ(肉ウサギ)

 

 Bブロック一回戦、第一組。

 赤 ガイウス・エリオット(でっかいのとちっこいの)

 青 エマ・フィー(ボインとペッタン)

 

 Bブロック一回戦、第二組。

 赤 ラウラ・モニカ・ポーラ(モニラ)

 青 リィン・クロウ(バレット&ソード)

 

 以上がくじ引きの結果決定した試合順だ。

 トーナメント表の書かれたホワイトボードの前に立ち、対戦チームの並びを確認したリィンとクロウは、思わしげな顔を互いに見合わせた。

「まあ、こんなところか。思ったよりばらけたとは思うけど」

「とりあえず俺たちは何が何でも勝ち残らねえとな。未来が根こそぎ刈り取られちまうぜ」

 学院を悲鳴で満たさない為にも。何より男子達のささやかな平穏を守るためにも。最終目的を思い返し、改めて二人は熱気が立ち上る調理スペースに視線を向けた。

 

 

 赤チームサイド。仮設調理台に設置された導力コンロの前で、ユーシスはみじん切りにした玉ねぎを炒めていた。飴色になった玉ねぎが香ばしい匂いを立ち昇らせる。

「鉄板の温度も十分です。タネも準備できています」

 ロジーヌが言う。

 この試合のテーマは肉。ユーシスたちが選んだのはハンバーグだった。以前ベッキーから持ちかけられた屋台勝負の際に、ユーシスはハンバーグを担当した経験があったので、迷わずこれを選ぶことにしたのだ。もちろんロジーヌもハンバーグくらいはお手の物である。ユーシスの作業工程に合わせて段取りよく下準備を整えていった。

「玉ねぎは炒め終わった。混ぜ合わすぞ」

「はい!」

 一つのボウルの中にパン粉、牛乳、ひき肉、炒めた玉ねぎが投入される。よくこねて、ここからがユーシスの見せ場だ。

「ふっ」

 必殺の高速空気抜き。パンパンと軽快な音を打ち鳴らすハンバーグのタネは、残像を残しながら両手の間を往復する。これぞ高貴な者にしか成せない料理と優美の融合。ノーブルクッキングである。

「ああ、ユーシスさん……」

 手の動きを止め、その光景に目を奪われるロジーヌ。

 ギャラリーからも歓声が沸き、ユーシスは勝ち誇った笑みを青チームに向けた。

 

「く、くそ!」

「落ち着け。まだ巻き返せる」

 余裕の態度を見せつけられてイラ立つマキアスを、となりに立つアランがなだめ付かせた。だがアランにも焦りはある。調理スペースに隣接された仮設テント――その中の食材置き場で二人はいまだにメニューを決めきれずにいたのだ。

「スペアリブなんかどうだ? 作り方は知らないが」

 マキアスが提案するも、アランは難色を示す。

「煮込みもあるから軽く一時間以上はかかるぞ」 

「そ、そうなのか」

「そろそろ時間も気にしないとまずいな」

 アランはテント内の置時計に目をやった。

 調理時間に制限はなく、二組そろって料理を審査員に出す規定もない。ただし先に料理を出されたチームは、そのあと十分以内に自チームの料理も出さなくてはいけないというルールがある。

 ユーシスたちが時間をかければこちらにも余裕が出てくるのだが、厄介なことに相手はメニューを決めるのも早ければ、調理の手際にもそつがなかった。

「猶予がない。もうこれでいく!」

 マキアスは肉用保冷ボックスから、審査員の人数分のステーキ肉を取り出した。

「さすがにひねりがないんじゃないか?」

「味付けに工夫はするつもりだ。とりあえずタイムオーバーの不戦敗だけは回避しなければならない」

「それはそうだけど……いや、仕方ないか」

 肉をトレイに入れて、大急ぎで調理台に戻る二人。アランが鉄板に火を入れる横で、マキアスは肉の繊維と筋に二、三箇所の切れ目を入れていく。

「鉄板の熱伝導が遅いな。いっそフライパンでやるか?」

「それだと三人分が一気に作れない。時間はかかってもいい。とりあえず肉を鉄板に並べよう」

 刻々とユーシスたちのハンバーグ完成が近づく。

「きゃあ!」

 急ピッチで作業を進める二人の耳に、赤チームの調理スペースから悲鳴が届いた。

 

 それは聖職者に対する悪魔の所業だったのかもしれない。

 油が宙を飛び、たまらずロジーヌは鉄板前で仰け反った。引いた油が多かったのか、あるいは肉汁が溢れたのか、慈悲の欠片もない高熱の油が跳ね回ってきたのだ。

 それでも肉の焼き加減は見なければならない。気丈にもそれ以上は引き下がらなかったが、そんな彼女をあざ笑うかのように、今度は一際大きな油の塊が襲いかかった。

「女神よ」

 両の手を組み合わせたロジーヌは、目を閉じて運命を受け入れた。

 しかし想像していた苦痛は、いつまで経ってもやって来ない。

 ロジーヌが目を開けると、そこにはユーシスの背中があった。身を呈して、彼女を油から守ったのだ。

「ぐっ」

「ユーシスさん!」

 がくりと膝をつく。その腕には小さな赤い火傷の痕があった。

「ああ、なんということを……!」

 寄り添ったロジーヌは、すぐさま回復アーツを駆動させた。

「こんなものはかすり傷にもならん。俺のことはいいから、先に鉄板の火力を調整しろ」

「できません」

「このままではハンバーグが焦げついてしまう。そこを退け。お前がやらないなら俺がやる」

「いいえ、退きません。それよりも大切なことがあります」

 立ち上がろうとするユーシスの腕を引き、無理やりに座らせた。青い光が、彼の傷を癒していく。

「まったく。相変わらず強情だな」

「ごめんなさい。嫌われてしまいましたか……?」

「いや、礼を言う」

「良かった。あ、えっと……私って強情なんですか。しかも相変わらずって、どういう……?」

「さあな」

 遠慮がちの上目遣いになって、ロジーヌはさらに質問を重ねた。

「私を助けて下さったのは、貴族の義務(ノブレス・オブリージュ)だからですか」

「違う。体が勝手に動いただけだ」

「そうでしたか」

「なぜ笑っている?」

「いえ、なにも。さあ治療の続きです」

 ハンバーグの乗る鉄板からは、もわもわと黒煙が上がっていた。

 

「アラン見えるか。あれがユーシス・アルバレアという男だ」

「ああ、パトリックと言い、貴族ってやつは……貴族ってやつは……」

 なんか腹立つ。

 釈然としない苛立ちが、腹の底から湧き上がってきた。業腹なマキアスとアランに呼応するかのように、鉄板の火力がゴゴゴゴと音を立てて増大する。

 二人の怒りを引き受けた炎が、フランベよろしくステーキ肉を燃やしていた。

 

 

 審査員は三席の中央に座る主審が一名と、その両脇に控える副審二名で構成されている。それぞれの審査員の前には赤と青のボタンがあって、料理が優れていた方のチーム色を押すことになっていた。無論、押されたボタンの多かった方が勝利となる。

 この試合で主審を務めるのはフリーデルで、副審をジョルジュとフィデリオが担う。それぞれフェンシング部、技術部、写真部の部長だ。

 ほぼ同じタイミングで二チームの料理が完成したので、卓上には二つの皿が並べられていた。

 フリーデルは双方の皿を見比べると、一旦顔を上げ、そしてまた皿に目を落とす。

「んー、どっちがどっちの皿かしら?」

 彼女の問いに「青が右でステーキです」とマキアスが答え、「赤が左でハンバーグだ」とユーシスが重ねた。

「……そう」

 言われてみても、フリーデルにはやはりわからなかった。双方の皿に乗っているのは、どちらも黒く焦げ付いた物体だ。

 再び向けられたフリーデルの目を避けるように、両チームの四名はそれぞれ明後日の方向に視線を逃がした。

「とりあえず食べようか」とジョルジュがフォークとナイフを手にすると、「……審査はしなくちゃだしね」とフィデリオもやむなく応じる。

 そう、審査はしなければならない。

 責任という一語の下に、まずは赤チームの料理――ハンバーグと思わしきものにフォークを突き立てる。

 ぼろりと崩れる炭の山。三叉の隙間から炭屑が落ちていくが、それでもフォークに残っていたものだけを、フリーデルは口に運んでみた。

『うっ!?』

 嗚咽がそろい、審査員たちの背に嫌な汗が滲む。舌にまとわりつくのは、やはり炭の味。見た目通りの黒い味わい。喉を侵食するのは焦げに次ぐ焦げ。

 たまらず水を飲みほすが、口中の不快感は拭えなかった。

「なんというかこう……機械から染み出た劣化オイルを胃に注いだ心地だよ」

 さすがのジョルジュも目が虚ろだ。だが審査はもう一品残っている。

「けほっ、二人とも止まらないで。このまま次よ」

 考えたら動けない。無心で挑まねば恐怖に足をすくわれてしまう。

 必要なのは勢い。続け様に青チームの皿を引き寄せ、フリーデルはステーキ肉にナイフを入れた。結果は先のハンバーグと一緒だ。ぼろりと形状崩壊し、潰れた黒い物体が皿の上に広がる。毒の沼地を見ているかのようだった。

ためらいつつも、皆でそれを口に運ぶ。

『ううっ!?』

 先と大差ない味だ。大差なく、炭だ。

 写真部のフィデリオが、自身の作品にそうするように、これらの皿から受け取ったインスピレーションをそのままに、二つの料理に題名を付けた。

「うん……ハンバーグが『盲目の慕情』で、ステーキが「暗黒の波動」といったところかな」

 もちろん額に入れて飾りたいわけではなく、可及的速やかに袋に密閉して封印したいわけだが。

「さてと、困ったわね」

 ハンカチで口元をぬぐうフリーデルは、難しい顔を浮かべていた。

 たった一口で体力の大方を奪われる程の威力だったが、それでもどちらかは選ばなければいけないのだ。今回の判定ポイントはただ一つ。どちらの料理がおいしかったかではない。どちらが完全に炭化していなかったかだ。要は黒炭の少ない方の勝ちである。

 数分の合議の末、勝利したのは青チーム。マキアス、アラン組だった。

「やった!」

「危ういところだったな」

 ガッツポーズのマキアスたちと、

「すみません、私のせいで……」

「気にするな。おかげで腕の痛みは消えた」

 負けてなお、輝くオーラを放ち続けるユーシスたち。

 全力を尽くして肉を消し炭に変えた両チームを見ながら、フリーデルは言った。

「とりあえずあなた達は全力で肉に謝罪しておきなさい。それと、アランはあとでギムナジウムの裏までいらっしゃいな」

 フェンシング部部長の声音に、アランの顔から笑みが失せる。フリーデルの口元には、意図の読めない微笑だけが浮かんでいた。

 

 

 Aブロック第二試合目。

 アリサ・フェリス組の『特攻お嬢様』対、ミリアム・マルガリータ組の『肉ウサギ』。

 審判は主審が調理部顧問のメアリー教官、副審二人は導力学担当のマカロフ教官、そしてラクロス部部長のエミリーである。試合毎の審判の選定は割と適当なので、生徒と教官が入り混じることも度々あるのだ。

「すみません、マカロフ教官。人手不足で審判をお願いしてしまって。お忙しいことは承知しているのですが……」

 申し訳なさそうにメアリーが右横の顔をちらりと見やると、無精ひげをしゃくるマカロフは眠たげな目を返した。

「ああ、いや。一食分浮くと思えば得ってもんですよ」

「まあ、ふふふ。……なんでしたら今度ランチでも一緒にいかがですか? お弁当を作りますから」

「メアリー教官が? 手作りで?」

「は、はい。お気に召しませんか?」

「いえ、楽しみです」

 嬉しそうなメアリーの左横では、エミリーが感慨深げにアリサとフェリスを眺めている。

「あの二人が一緒に料理かあ。うーん、入部当初を思うと本当に仲良くなったわよね。胸が熱く感じるのは先輩心ってやつかしら。でも審判は公平にやるからね」

 開戦の号令と共に、トワが料理のテーマを発表する。

「二試合目のお題は……『デザート』!」

 

「デザートですって」

「これはもらいましたわね。淑女の必須科目ですもの」

 赤チーム。アリサとフェリスは食材置き場でフルーツ類を物色していた。その表情には余裕しかない。

 なぜなら彼女たちはお嬢様。贅を尽くし、趣きを凝らしたデザートなど、口にする機会は幾度となくあったのだ。むしろ選択肢の方が多過ぎて困るくらいである。

「ストロベリータルトパイなんてどうかしら?」

「いいですわね。マドレーヌやトルテなんかも捨てがたいですし」

「カップマフィンは?」

「シュークリームでも良いのではなくて?」

 ひとしきり話が盛り上がったあと、ようやくその疑問に突き当たる。

「で、どうやって作るの?」

「……さあ?」

 知るわけがなかった。テーブルにつけば、一流品が勝手に運ばれてくるのだから。本物の味こそ知っていても、本物をどう作るかなど意識の範疇外だ。お嬢様タッグはようやく焦り出す。

「ち、ちょっと。どうするのよ。というかフェリス、料理は人並み以上にできるって言ってたじゃない」

「アリサだって床を転げ回るくらいおいしいものを作れるって言ってましたわ!」

 仲違いしても状況は変わらない。思考を切り替え、素早く食材に視線を走らせる。

 アリサの目がぴたりと止まった。手に取ったのはケーキ用のスポンジだ。

「あ、これは用意してくれてるのね。だったら……」

「いい案が浮かびましたの?」

「ええ。フェリスはホイップクリームとかカスタードを探してきてくれる? あと抱えられるだけのフルーツを持って行くわ」

 言いながら黄色のスポンジを見せると、フェリスも意図を理解したようで、「なるほど、ケーキですわね!」とあちらこちらの食材棚を駆け回る。

 その時、青チームの調理スペース側で、一際大きな歓声が上がった。

 

「こんなもの、お安い御用よお」

 逆三角錐のクリアカップに、色鮮やかなフルーツが盛り付けられていく。オレンジ、メロン、アップル、バナナ。器の端にはちょっとしたスナックフレークも添えられている。ポイントはほんのり焦がしたカラメルソース。これが全体の味を整えると同時に、フルーツやアイスの甘さを引き立てるのだ。

 ミリアムとマルガリータが作っているのはパフェだった。

 驚くべきはその細工。マルガリータは小さな果物ナイフ一本で、あらゆるフルーツに薔薇の装飾を施している。もうバナナに至っては、何をどうすればそんな形に持っていけるのか、ある種の執念さえ感じさせる満開の薔薇へと変貌を遂げていた。

 たくましい豪腕から生み出される精細な技巧に、ギャラリーは感嘆の声をあげる。

「んしょっと。パイナップルここに置いとくよー」

 かたやミリアムは食材置き場と調理台をひたすら往復し、必要なフルーツ類を持ってくる役割である。

 ごろんとキッチン台に転がったパイナップルを手にとるなり、マルガリータは顔をしかめた。

「ちょっとお、これ色が悪いじゃない」

「そう? お腹に入ったら同じだと思うけどなあ」

 適当に応じつつ、ミリアムはボウルで何やらかき混ぜている。

「なにやってるのか知らないけど、あんたの作ったのは使わないわよ」

「マルガリータのいじわる! ヴィンセントに嫌われるぞー」

「様を付けなさいよ、ガキィイイ!」

 瞬間的にパイナップルを片手で握り潰し、圧砕と同時に黄色い果汁をぶちまける。

 へしゃげた残骸が雑な手つきで観客席に打ち捨てられると、ギャラリーからの歓声はピタリと止んだ。

 

 先に審査テーブルにデザートを出したのは『肉ウサギ』チームだった。メアリーたちは目を丸くして、そのパフェに見入っている。

「これはすごいですね」

「はあー、ナイフ一本でここまでできるんだな」

「さすがにアリサたちには分が悪いかも」

 輝いているとも思えるその一品を前に、この手の類の物には縁遠そうなマカロフでさえも素直に驚いていた。

「グフッ。さあ審査員の方々、アイスが溶けてしまう前にご賞味あれ。その名も『マルガリータ・トワイライト――メモリーオブグランローズ〜熱愛が二人を包むまで』」

「まだだよー!」

 上機嫌なマルガリータの脇を抜けて、先ほどのボウルを抱えたミリアムが走ってくる。そしてボウルの中身の黒っぽい液体を、審査員の前に並べられたパフェに注ぎ込んだ。

「ミリアム特製ソースを加えて出来上がり!」

 甘ったるい香りが、ぷーんと漂う。湯煎したチョコレートに、ありったけの砂糖を混ぜあわせたドロドロソースだった。フルーツのバラ装飾――その花弁が瞬く間に漆黒に染まっていく。

「なっ! この繊細な味と造形になにしてくれてんのよお!」

「だってボクも何かしたかったんだもん」

「ギイイイィイ!」

 ぴょんぴょん飛び回って逃げるミリアムを、ギリギリと歯をきしりながら、丸太のような太腕で追いかけ回すマルガリータ。

「お待ちいっ!」

「わわっ!?」

 ミリアムは審査テーブルの下に逃げ込んだ。マルガリータはテーブルクロスの両端をわしづかむと、「ふんヌゥっ!」と一気にめくり上げる。

 クロスごと跳ね上がった三つのパフェが、撃ち出されたミサイルのごとく、それぞれ審査員の顔面を直撃した。

 

「とりあえず口には入りましたので」

 渡されたタオルで顔を拭いながら、メアリーは空になったパフェグラスを横によけた。一応顔だけの体裁は整えたものの、服はチョコレートソースや溶けたアイスでべったりで、ホワイトブロンドの髪には髪飾りのようにフルーツが乱れ咲いている。マカロフとエミリーも同じようなものだった。

「ええとだな。まあ、甘い味ってことはわかった」

 ぽりぽりと頭をかくマカロフの白衣はカラフルだ。

「……あなた達のも完成したみたいね」

 オレンジの皮を頭に乗っけたままのエミリーが、次に運ばれてきたアリサとフェリスの手作りケーキに目を落とした。

 上下のスポンジが歪んだりしていて、見た目に少し不格好だったが、それでもしっかりとしたショートケーキにはなっている。

「ええ、どうにかなりました」

「特と味わって下さいまし」

 自信ありげな二人。三人の審査員はフォークでケーキをすくった。

「あら、このクリームって?」

 エミリーが気づいた。薄い緑と黄色のクリームがスポンジの内側の上下に塗られている。

「さすがエミリー部長。それはメロンクリームとカスタードクリームです」

「風味の異なるクリームを二層式にしてみたんですの」

「へえ、いいじゃない。それじゃあさっそく……うん」

 審査員は同時にケーキを口にする。

 まずは上部に飾り付けられたフルーツの程よい酸味が、口腔内にふわりと広がった。

「うん、うん」

 続いて柔らかいスポンジの歯ざわりが、ケーキを食べたと言う実感を伴ってやってくる。そして内側に塗られた二層のクリームと一体化し、新雪のような甘い口どけを運んできた。

「うん、うん、うん……?」

 運んでこない。いつまでたっても運んでこない。それどころか、メロンもカスタードの風味でさえも一向に――

「っ? うっ! ぐむっ!?」

 それはスポンジの隙間を突き抜け、フルーツの酸味を吹き飛ばしながら、邪悪な本性をむき出しにした。

 焼けるような痛みが、鼻、喉を刺し貫く。あっという間に目が充血し、涙と汗が吹き出した。

「ふああああ!?」

 自身の絶叫の中で、エミリーは理解した。

 この緑色はメロンではなくワサビ。

 この黄色はカスタードではなくカラシ。

「あ、なた……たち、やらかし……」

 そんな間違いがどうやったら起こり得る。こんなものデザートどころか、罰ゲーム仕様の対人トラップだ。

 呼吸困難になる。見ればメアリー教官とマカロフ教官は仲良く卓上に突っ伏し、身じろぎさえしない。先に逝ったのだとわかったが、同時に果たすべき責任が自分の手に委ねられたことをエミリーは知った。

「勝者……は……!」

 ガラガラになった喉を震わせて、低く掠れた声をしぼり出す。

 パフェはほぼ味わえなかったとはいえ、これは比べるまでもない。パフェが店で運ばれてくるものなら、このケーキは兵器生産ラインのベルトコンベア上を流れゆくものだ。次元が違う。とても食材とは認められない。

「あ……あ」

 青チーム。しかし宣言もボタンを押すこともできず、力尽きてエミリーは頭からくずおれる。ごちんと音を立ててぶつかった額は、最悪な事に、赤いボタンをしっかりと押し込んでいた。

 トワがその判定を拾う。

「ええと。勝者、赤チーム、『特攻お嬢様』……でいいのかな?」

「とーぜんですわ」

「まあ、こんなところね」

 フェリスとアリサはすんなり勝利を受け入れた。

 

 

 メアリー、マカロフ、エミリーを保健室送りにして、Aブロック二組は終了した。ここからはBブロックである。

「よ、よーし。じゃあBブロックの一回戦始めるよ」

 先行きの不安を感じつつも気を取り直し、トワはマイクに声を響かせた。

 審判席に座るのは、馬術部のランベルト、美術部のクララ、オカルト研究会のベリルである。ベリルは一年だが、部長と言うことで召集の声がかかっていた。

「主審を務めるランベルトだ。みんな期待しているよ」

 白い歯を見せて、ランベルトは爽やかに笑う。反してクララは「ふん、私は早く彫像の製作に戻りたいのだが」と依然として仏頂面を浮かべていた。

「それでは、赤『ボインとペッタン』対、青『でっかいのとちっこいの』 両チーム入場!」

 チーム名はやはり恥ずかしいらしく、エマは顔を手のひらで覆いながら調理スペースに小走りで向かう。

「うう、フィーちゃんは恥ずかしくないんですか?」

「私意外とペッタンじゃないし」

「そこじゃなくてですね……」

 反対側の調理台では、エリオットとガイウスがスタンバイしていた。すでに準備は万全だ。

「どんなお題でも大丈夫だよね」

「ああ、練習通り行こう」

 腕を大きく振り上げて、トワは開戦を告げる。

「Bブロック、第一回戦のテーマは卵だよ! 調理スタート!」

 

 赤チーム。

「卵料理か。エリオットは得意だな?」

「他の料理に比べたらね。ラッキーだよ」

「卵を選ぶ時は表面がざらつくものを選ぶといい。それが新鮮な卵だ」

「へえ、そうなんだ」

 言われてエリオットは卵のからをさすった。

「さて……何のメニューにするか」

「ノルドの香辛料持ってきてたよね」

「あるにはある。しかし癖が強いから多量には使えないと思うが」

 エリオットは選んだ卵を割らないよう、慎重に食材運び用の編みカゴの中に入れる。いくつかの野菜も品定めしたあと、彼はガイウスに言った。

「うん、オムライスを作ろう」

 

 一方の青チーム。エマ、フィー組も、食材選びはスムーズに済んでいた。

 食材を入れてあるトレイには、卵はもちろん、鶏肉、小エビ、ニンジンなんかが並んでいる。選択したメニューは茶碗蒸しだった。

「ねえ、茶碗蒸しって作るのに時間かからないの?」

「大丈夫ですよ。蒸す時間は七から九分程度。下処理の時間を考えてもエリオットさんたちのチームに十分以上遅れることはないと思います」

「ふーん。じゃ、委員長は茶碗蒸し作ったことあるんだね?」

「……それはありませんが」

「え、ないんだ」

 しかし大会参加が決まってから今日に至るまで、あらゆる料理書を読破したエマの頭の中には、相当な数のレシピが詳細に記憶されていた。その中には東方料理に分類される茶碗蒸しもあり、試作こそしなかったものの、調理法自体はしっかりと心得ていたのだ。

 ざっと調理台の上に置かれた備品を確認してみる。

 蒸し器はある。使えそうな陶製の器もある。これならいける。そう判断したエマは、持参していた大きな袋からゴソゴソと色々な物を取り出した。

「ふう、持って来てて良かったです」

 調理台の上に怪しげな器具類が、ごちゃごちゃと乗せられていく。

 ビーカー、メスシリンダー、試験管、気体検知管、成分調査シート、上皿天秤、フラスコ、果ては顕微鏡まで。もはや調理台というより、実験台と言った方がしっくりきそうだ。エプロンよりも白衣の方が似合うくらいである。

「さあ、始めましょうか」

了解(ヤー)

 根本的に間違った何かが始まった。

 

 オムライスを作るつもりの赤チームだったが、下準備が終わったところで致命的なミスが発覚していた。

 エリオットは急いで食材置き場まで走って、調味料の棚を慌てて見直してみたが、やはりどこにも見当たらない。

「どうしよう。ケチャップがないよ」

 オムライスには必須の調味料である。これが用意されていないのは手痛い誤算だった。

 ガイウスも難しい顔をしている。

「トマトならあるようだな。煮詰めてケチャップを作ってみてはどうだ」

「委員長たちが何を作るのかはわからないけど、僕らがケチャップを作って、そこからオムライスを作るほどの時間の余裕はさすがにないと思う」

 そもそもメニュー選択の時点で失敗してしまっていたのだ。一気に劣勢に陥った二人は、それでも何かは作らねばと再び調理スペースへと戻る。

「こうなったらオムライスじゃなくてオムレツにしようよ。ノルドの調味料をアクセントに使って――あっ!?」

 不意に立ち止まったエリオットの視線の先に、赤チームの調理台にもたれかかり、いかにもな雰囲気を醸し出している男がいた。

「やあ、猛将」

「ケッ、ケインズさん!?」

「皆まで言う必要はない」

 当然のようにエプロンをつけるケインズは、自身の懐に手を入れた。

「君の力になりたくてね。猛将が探しているのはこれだろう?」

 おもむろに取り出したのは、ボトルに入った赤いソース。それはトマトケチャップだった。

「ケインズ家特製のケチャップだ。存分に役立てて欲しい」

 観客席から「外部からの助力は反則ではないのか」と、激しいブーイングが飛んでくる。野次を一笑に伏したケインズは、一枚の用紙を高々とギャラリーに掲げてみせた。それは試合前に提出したはずの、チームメンバーを記入するエントリーシートだった。

 エリオットとガイウスのサインの下に、しっかりケインズと署名されている。

「事前に登録されていればメンバーの追加は可能。そして食材の持ち込みも許可されていたはずだ。そして学生限定などとはどこにも記載されていない。問題はないと思うが?」

「い、いつの間に?」

「ふふ、猛将はこれを誰に提出したか覚えているかな」

「え?」

 頼まれたからと言って受付席に座っていたのは――そういえばミントだった。

 すでに観客席に移っているミントは、こちらに向けて親指をビッと立てていた。ケインズも同様に親指を立てながら、彼女にウィンクを投げ返している。

「ミント嬢はいい働きをしてくれた」

 受け取ったエントリー用紙に、その場で名前を書いたのはミントだったのだ。要はグルである。

「さあ、荒々しい猛将クッキングを私に見せてくれ」

 すでにやらかした後で、選択の余地はない。

 諦めと開き直りを半々に、エリオットはケチャップを受け取った。

 

「フィーちゃん。鶏肉が16グラムになってますよ。1グラム減らして下さい」

 天秤の片皿に分銅を乗せながら、エマは丸眼鏡を光らせた。その横では紫色の液体が、フラスコの中でポコポコと気泡を上げている。

「1グラムくらい問題ないと思うけど」

 エマが用意した可愛らしいエプロンと実験用のマスクや手袋を装着した、なんともアンバランスな格好のフィーは、それでも言われた通りに微量の肉を削ぎ落とす。

「錬金術を知っていますか?」

「知ってるけど。急になに?」

 帝国では隆盛しなかったものの、中世に存在した学術である。あらゆる知識に精通した術士たちが、異なる物同士を掛け合わせて、新しい物質を作り出すというものだ。その性格はどちらかといえば魔導科学に近いものがあったという。

「料理は錬金術と同じです」

 エマはフラスコの液体を受け皿に映し、スポイトでいくらかすくい取ると、それを今度はプレパラートに一滴だけ乗せた。てきぱきと慣れた手つきで顕微鏡のセッティングを始める。鏡筒をのぞき込み、ピントや光源を調節しながら彼女は続けた。

「まったく異なる食材を使い、一つの料理へと昇華させる。その意義はきっと同じなんですよ」

「……ちょっと私にはわからないけど」

 率直な感想を述べながら、フィーもフィーで違う試験管同士の液体を混ぜ合わせている。青い液体を黄色い液体に注ぎ入れると、そいつらはあっという間に緑色に変わった。成分調査シートを片手に、いくつかのチェック項目に印を書き入れながら「基準値クリア」と端的な結果だけをエマに告げた。

「では、いよいよ仕上げです」

 謎の合格規定を満たしてしまった紫色と緑色の液体、そして申し訳程度の茶碗蒸しのだしが一まとめにされ、蒸し用の器に移されていく。

「楽しみですね」

「だね」

 魔導科学の粋を結集させた錬金茶碗蒸しが、もうもうと沸く蒸気の中に一つ、二つと消えていった。

 

 実食判定。先に皿を出したのは赤チームだった。ガイウスが審査員テーブルの上に料理を並べ、その品名を伝える。

「これが俺たちの『ふわとろオムライス~ハイヤーを添えて』です。どうぞ」

 それは変わり映えのない普通のオムライス。主審のランベルトは不思議そうにそれを眺めた。

「うむ。このかけられた卵は見事な金色の丘陵だ。しかし、君。肝心のハイヤーがどこにも添えていないようだが」

 副審のベリルとクララは、訝しげにオムライスをスプーンでつつく。聞きなれないハイヤーという言葉が、食材かどうかわからなかったのだ。

「まずはご賞味頂きたい」

 ガイウスは自信に満ちた声でそう促した。

 言われるまま、ランベルトはオムライスをすくう。瞬間、卵の裂け目から香り高い風味があふれ出した。

「おお……」

 それはイメージ。

 ランベルトはどこまでも続く雄大な高原に立っていた。蒼穹の大地と悠久の空。その境目に沈む夕日の赤光の中、一頭の馬がこちらに駆けてくる。

 その背にまたがったランベルトは、果てない地平に向かって走り続けた。爽快な風が吹き抜けていく。

「ハ、ハイヤー!!」

 椅子を蹴倒しながら立ち上がり、ランベルトは高らかに叫んだ。

「ふふ、添えましたね。“ハイヤー”を」

 ガイウスが見越していた笑みを浮かべる。ランベルトは称賛の言葉を贈った。

「この独特な風味のスパイスを卵で覆うことで封じていたのだね。叫ばずにはいられない爆発力。見事だった」

 普段は気難しいクララでさえも、舌鼓を打っていた。

「ウォーゼル。貴様、なかなかやるな」

 食事など栄養摂取でしかないと言う彼女にしては、異例の賛辞と言えるだろう。

「ベラ・ベリフェスはどう思う? おいしい? そう、よかったわ」

 水晶玉を掲げてブツブツとつぶやくベリルだけは、よくわからなかったが。

 もう一口とランベルトがスプーンを持ち直した時、ケインズがそれを止めた。

「待ってもらおう。添えるものはハイヤーだけに限るまい」

「え、ケインズさん、ちょっと?」

 エリオットたちにとっても予想外の行動である。

「ほう、まだ味に変化をつけることができると?」

「左様」

 審査員席まで進み出たケインズは、件の自家製ケチャップを取り出すと、それをオムライスにかけた。ケチャップの赤文字で、『MOUSHOU』の文字がでかでかと描かれていく。

「猛将?」

「いかにも」

 ケインズはケチャップの容器でエリオットを指し示した。観客席から「猛将ってなんだ?」とか「あいつ、まさか……」などの声が飛び交い始める。

「その通り。括目せよ。ここにおられるエリオット男子こそ、これから帝国の未来を担う猛々しき猛将――」

「だあああ!?」

 ケインズの暴挙に、エリオットは叫んだ。

「心配しないで欲しい。今日は猛将の――」

「猛暑だったよねー、今年は!」

「しかし猛将は――」

「もうしょうがないなあ、ケインズさんは!」

 必死で猛将のワードを別の言葉で押し隠す。その折、「なんだかわからないが頂くよ」と、たっぷりのケチャップごと二口目を食べるランベルト。

「ぬうあ!?」

 それもイメージ。

 広大な高原のど真ん中に現れた筋骨隆々のエリオットが、馬の首を羽交い絞めにしている。ゴリゴリのマッチョになった橙毛の彼が、ケチャップを豪快に丸呑みにして白い歯を見せた。

 野太い声が腹の底に響く。

 

 ――君も猛ってみないかい?

 

「ぶはっ……」

「今のはライスに混ぜたものとは違う種類のケチャップだ。精力が付くよう、様々な調合を施してある」

「こ、これが、猛……将……」

 それだけを言い残すと、栄養過多の鼻血をつつーと垂らして、ランベルトの意識は消失した。

「少し効きすぎたかな。ふふ、幻想の果てに彼は何を見たのやら。……さて、お嬢さんたちはどうだい?」

 ケチャップを掲げてみせるケインズに、クララとベリルは左右に首を振った。

 

 茶碗蒸しも完成した。エマとフィーが器を運んでくる。ランベルトの意識は戻らないので、残る副審二人がジャッジを務めることになった。

「……私は茶碗蒸しというものを見るのは初めてだが、通常こんな色をしているものなのか?」

 ふたをあけたクララは、立ち昇る湯気の中で、顔をしかめていた。

 卵の黄色は残っておらず、器の中に見えるのはドス黒いプリン状の物体である。

 エマは即答した。

「味に問題はないはずです」

「あれらの実験器具はなんだ?」

「計量とだしの調合に使ったんです。あ、ちゃんと新しいのですから、心配はしないで下さいね」

 見当違いのフォローだったが、それ以上は追求もせず、「まあ、いい」とクララは茶碗蒸しをスプーンですくってみた。

 ブルン、と揺れる黒いもの。邪悪な意志を押し固めたようだ。しかし大して躊躇もせずにクララは口にする。

 それはイメージだった。

 放課後の美術室。夕日が差し込むその部屋で、クララはいつもの席に腰を据えて胸像を彫っていた。平ノミを片手に携えて、刃の先端を制作途中の像に当てる。

「……?」

 動きづらさを感じて、下を見る。足が灰色の石に変わっていた。尚もその侵食は止まらず、みるみると腰まで石化していく。

「なに……!?」

 そこで意識が現実に引き戻される。卓上に転がったスプーン。依然としてそこにある茶碗蒸し。しかし異変の感覚は消えていなかった。

 それはイメージではなかった。

 パキパキと音を立てながら、すでに胸上まで石化が進んでいる。

「クララ部長!」

「ウォーゼルか。心残りは制作途中の彫像だ。あとはお前が完成させろ。荷が重ければ壊して構わん」

 淡々と告げるその口調は、すでに未来が断たれていることを受け入れているようかのだった。

「俺に部長の作品を完成させることなど出来ません」

「私は石の声を聞いて像を彫る。お前は風の声を聞いて絵を描く。感性に違いはあるが、私はお前の作品が嫌いではなかった」

「なぜ今になってそんなことを……」

「お前には物事の本質を捉える才能がある。後悔はない。私は見つけたのだ。真の芸術とは、己の身をそれとすることだ」

 体のほとんどを石に変えながら、彼女は言う。

 その言葉を最後に、物言わぬ一体の石像が完成した。

 

「調合、間違えちゃったのかしら……」と首をかしげるエマと「クララ部長……」と両手を地につけ、うなだれるガイウス。

 判定はベリルの采配に委ねられたが、彼女はどちらの料理もほぼ手つかずだった。

「じゃあ、審判を下すわ。終末の審判をね」

 意味深に言ってのけ、水晶玉に手をかざす。「そう、そう、そうなのね。わかったわ」などとブツブツつぶやき、謎の交信を開始した。

 しばしのあと、ベリルが決を出す。

「ベラ・ベリフェスはこう言ってるわ。この茶碗蒸しからは黒い魔力を感じるって」

 水晶玉がエマたちを映し出す。

「だから、茶碗蒸しの勝ち」

 

 

「あんな判定ありかよ」

 担架で運ばれていくランベルトとクララを横目に、ぼそりとクロウは言う。

「気持ちを切り替えよう。次は俺たちの出番だ」

 俺たちさえ勝てばいい。言外にそう付け加え、リィンは先に調理台へと向かった。

 彼らは青チームだ。反対側の赤チーム――ラウラ、モニカ、ポーラはすでに配置についている。

 審判も順々に席に着く。四戦目までの惨劇を目の当たりにしてきたので、その足取りは決して軽くない。

「ちくしょう、昼飯代浮くと思ってたのによ……」と鎮痛な面持ちのクレイン。

「今度は腕を怪我するどころじゃすまないかも……」と青ざめるハイベル。

 水泳部部長と吹奏楽部部長である。この二人は副審で、主審は最後に席に座った三人目――トマス教官が務めることになった。

「あはは、珍妙料理とか出てくると嬉しいですね」

 そういう類のものを食べ慣れているのか、トマスだけは気楽な様子だ。

 リィンに続いたクロウが定位置に付いたところで、マイクを持ったトワが一歩前に出る。

「食べてないけど、なんだか胸やけ気味かも……。じゃあ、Bブロック二試合目のお題は――」 

 誰も保健室に行きませんように、と小さくつぶやいてから彼女は言った。

「野菜!」

 

 テーマ発表、開始号令と共に、リィンとクロウは食材置き場へ飛び出した。

「ポトフでいくぞ!」

「了解だ!」

 今日のために様々な料理を特訓してきた二人にとって、即興料理は難しいものではなかった。

 食材選びも悩まない。じゃがいも、ニンジン、ベーコン、玉ねぎ、白菜、コンソメ、オリーブオイルなどを手際よく集めていく。

「俺は野菜の下処理を済ます。リィンは鍋準備頼む」

「わかった。ベーコンはこっちで火を通しておくぞ」

 凄まじいコンビネーション。鬼気迫る包丁捌き。なにせ今回は命がかかっている。下手を打てば、文化祭のステージに男子全員が欠場という事態もあり得るのだ。

「うおりゃああ!」

 咆哮と共に、じゃがいもの皮をむく。

「はあああ!」

 気合いと共に、鍋に火を入れる。

 並ならぬ気迫が会場を震撼させた。

 

「野菜炒めね」

 それしかないとポーラは断言した。

「……そうだね。ラウラもそれでいい?」

「問題ない」

 モニカの確認に、ラウラは迷わず答える。

 本来ならもう少し凝った料理にも手を出せるのだが、それではラウラが二人の調理スピードについて行けない。あくまで三人で作ることに意味があるのだ。

 二人のそんな気遣いには思い至らないラウラは、やる気満々で手にした包丁を太陽にかざしてみせた。ギラリと刃が光る。

「任せて欲しい。なんでも切ってみせよう」

「間違っているわ、ラウラ」

 ポーラはそうたしなめて、ラウラの包丁をまな板の上に置かせた。

「あなたが担当するのはあっちよ」

 ラウラが指定された立ち位置はコンロだ。

 食材カットはポーラとモニカで手早く済ませる。下処理の済んだ野菜を、ポーラがラウラのところまで運んだ。

「さあ、出番よ」

「う、うむ」

 よく熱せられたフライパンに野菜を投下。小さな油が跳ね回るが、この程度はラウラも克服済みだ。

 ラウラは均一に熱が回るよう、調理へらで野菜をかき混ぜようとした。しかし「それも違うわ」と、ポーラ様の棘口調がラウラの背に鋭く刺さる。

「そんなまどろっこしいことはやめて、フライパンを返して一気に野菜を炒めなさい」

「ポーラ!? ラウラはまだそんなことできないよ!」

 例によって制止に入るモニカには取り合わず、ポーラは続けた。

「野菜炒めは水分を飛ばして手早く作った方が食感がいいわ。ヘラでちまちま混ぜ繰り返した一品が、果たして審判三人を納得させられるものなのかしらね」

「しかしポーラ、私がフライパン返しをやったことがないのは事実だ。食材を切ることならできるのに、どうしてそちらの担当を私にしなかったのだ?」

 純粋な疑問のようだった。

 ポーラは逆にこう問い返した。

「ねえ、ラウラ。剣の技術って切るしかないの?」

「そんなことはない。突く、受ける、捌く、返す、流す。他にもあらゆる技術の組み合わせで成り立つ型もある」

「料理も同じじゃない!」

「なに?」

「切るだけで料理ができて!? 焼く、煮る、炒める、蒸す、燻す。様々な調理法の組み合わせで料理は成り立つの!」

「はっ!」

 どががーんとラウラの背後に雷が落ちた……ように見えた。ショックを受けたらしい彼女は、手中のへらに目線を落とす。

「選びなさい。安全を求めてへらを使うか、高みを目指してフライパンを返すか」

 慣れないことをさせて、火傷を負わせるリスクもある。ポーラとて本当はラウラに危険な真似はさせたくなかった。しかし対戦相手にリィン(朴念仁)がいることを知り、その考えは曲げざるを得なかった。

 ラウラは意識的にも無意識的にも、認めた相手と対等であることを望む。それがあのリィンなら尚のこと。

 彼と対等に並ぶなら、相応のことをやらねばならない。なにより例のお弁当の一件で、“料理のできるラウラ”をアピールする作戦は失敗に終わっている。この場は以前のリベンジを果たすための、期せずして訪れた好機なのだ。

「あまりまごついていると野菜が焦げ付くわよ」

「……そなたからは、いつも多くのことを気づかされる」

 ラウラはその手のへらをぶんと放り投げた。相手チームの調理スペースから「うあっちい!? あいつら直接攻撃してきやがった!」とクロウの悲鳴が聞こえたが、それは置いておいて。

 フライパンの柄をつかみ、ラウラは呼吸を整えた。極限の精神集中。

 友人たちの応援を背に、フライパンを振るう。色彩豊かな野菜が宙を舞い、半円のアーチを描いたそれらは、再びフライパンの中へと収まった。

 ラウラが拳を握る。

 天を仰ぐポーラとモニカ。観客席からも称賛の拍手が沸いた。

 

「なにやってんだ、あいつら。つーか熱かったぜ……」

 飛んできたへらを忌々しげに台の隅にやり、クロウは鍋の様子を確認する。問題はなし。間もなく完成だ。

「じゃあ俺は皿の準備を――ん?」

 リィンが後ろに振り返ると、そこに赤チームのポーラ、そしてモニカが立っていた。

「どうしたんだ。向こうはいいのか?」

「野菜炒めはラウラに任せてるから大丈夫」

 悪戦苦闘しながらもフライパンを返すラウラを一瞥し、ポーラは言った。

「それで一体――」

「この朴念仁」

 言葉を遮り放たれた、冷たい一言だった。そこにモニカも「あんなに頑張り屋さんの女の子、他にはいないよ?」と含みのある視線を向けてくる。

「この朴念仁」

 さらに繰り返して、ポーラはふんと鼻を鳴らす。

「ちょっと待ってくれ、何のことだか俺には」

「そういうところがダメなのよ。親しい人にも言われたことないの? 朴念仁って」

「そんなことは……」

 兄様の朴念仁! と、頭蓋に響くその一語。

「きっとその人もたいそう苦労していることでしょうね」

「お、俺は、俺は……!」

「まったく、自覚がないって本当厄介」

「う、うわああー!」

 記憶が飛びかける直前で、クロウが割って入った。

「おい、お前らなんのつもりだよ」

「おだまり、バンダナ」

「バッ……!? 直接攻撃の次は精神攻撃ってか!? おい審判、こういうの反則じゃねえのか!?」

 ポーラ様の責め立てが続く一方で、ぐつぐつと鍋が煮だっていく。

 

「……お待たせしました」

 突然の罵倒からようやく解放され、憔悴しきったリィンが、少し煮過ぎた感のあるポトフを審判に配っていく。

「あいつら掟破りもいいとこだぜ……」

 相変わらずフライパンをとろとろひっくり返しているラウラたちを見やり、クロウは悪態をついた。

「お、うまそうだな」

「確かにいい匂いだね」

 スプーンで野菜をすくうクレインとハイベルに挟まれ、トマスも「はは、たまらないですねえ」と眼鏡を湯気で曇らしていた。

 さっそく実食する三人。

「おお、こりゃあ」

「いけるね」

 煮込み過ぎの懸念は杞憂だった。むしろいい具合に野菜にスープの味が染みている。野菜本来の旨みと甘みも引き出ていて、文句なしの味になっていた。

「活力が沸いてくる。いくらでも泳げそうだな」

「感性も刺激されるよ。いい演奏ができそうだ」

「んー、歴史学の論文作成がはかどりそうです」

 それぞれが満足気な様子である。

 勝てると確信する二人に、トマスが笑いながら言った。

「男の子なのに大したものですよ。リィン君は将来いいお婿さんになれるんじゃないですか?」

 それは誰しもが理解する冗談の一種。愚にもつかないその軽口に、しかし律儀に反応した人物が一人。フライパンを振ろうとした、まさにその瞬間のラウラだった。

 強張る全身。力む肩、腕、手首。際どいバランスで成功していたフライパン返しが豪快に失敗し、炒め途中だった野菜の全てが、残らず宙に放り投げられた。

 大きなアーチを描いて襲いくる無数の野菜爆弾を見上げながら、リィンは防ぐすべもなく身構える。

「ま、まずいぞ、クロウ。ラウラが攻撃してきた!」

「作り手から仕留める気かよ! こっちだ、来い!」

 クロウに腕をつかまれ、リィンは引っ張られるまま審査員テーブルの下に滑り込んだ。直後、灼熱の雨が降り注ぎ、耳を塞ぎたくなるような審査員たちの断末魔が響き渡る。

 静けさが戻り、二人はテーブルの下からおそるおそる顔を出してみた。想像以上の酷い有様に、目を背けずにはいられなかった。

 すでに瞳を閉ざしているクレインとハイベルの体には、兵器と化した野菜がまとわりつき、いまだジュージューと焼けつく音を立てていた。

「そんな……」

「お前らのこと、忘れねえぜ」

 クレインはもう泳がない。ハイベルはもう奏でない。

 観客席では「クレイン部長!」と飛び出そうとしたカスパルが、生徒会役員たちに「あっちは危険だ!」と組み伏せられているところだった。悲しみの連鎖が止まらない。

 トマスに至っては、顔に笑みを湛えたまま昇天している。おそらくなにが起きたのかさえわからずに逝ったのだろう。珍妙料理よりも遥かに禍々しい、攻撃料理というものを彼は初めて知ったのだ。その命と引き換えにして。

 ピピピピと、アラーム音が鳴った。

 我に返って、トワは言う。

「青チームが料理を出してから十分が経過! よってタイムオーバーのため、赤チームは敗北となります」

 勝利は辛くも、リィンたちの手に落ちてきた。

 

 

 A、Bブロック共に一試合目が全て終了する。

 休憩を挟み、各ブロックの第二回戦――即ち準決勝が開始された。

「行くぞ。アラン、ブリジットさん」

「ああ、一回戦のようなミスはしない」

「がんばりましょうね」

 ブリジットをメンバーに追加して、チーム『報われない眼鏡』が戦場に立つ。

「軽くひねって差し上げますわ」

「まあ、ベストを尽くすだけね」

 涼しい顔をした『特攻お嬢様』もリングインである。

 審判は一戦目を終えた『肉ウサギ』のミリアム、マルガリータと第二チェス部部長のステファンに任された。

 疲労の隠せないトワだったが、それでも足を奮い立たせ、ラウンドコールを精一杯の声でマイクに叩き込む。

「Aブロック、準決勝! 料理テーマは……『麺』!」

 

 

 ~中編②へ続く~







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クッキングフェスティバル(中編②)

「あらあら、今日はいそがしいわね」

 穏やかな表情でありながらも、ベアトリクスの迅速な手の動きが緩むことはなかった。

 三十分刻みで搬送者は増えていき、今や苦しげなうめき声で保健室は溢れかえっている。審判という使命を全うし、力尽きた人々だ。ベッドがまったく足りないので、何人かは床に敷いた厚手の毛布の上に寝かされていた。

「もう一度テレジアとラクロスをしたかったな……」

「最後に一枚、シャッターを……」

「さらばだ、マッハ号……」

「私が芸術……ふっ、ふははは……」

「兄ちゃんがいなくても強く生きるんだぞ……」

 口々に末期の言葉を吐いて、覚醒と昏睡を繰り返す部長の皆様方。

「ふふ、話せる内はまだ大丈夫ですよ」

 ベアトリクスは笑顔のままだ。患者の容態を観察して、自らの定めた優先順位に徹し、乱れぬペースで淡々と処置を済ましていく。

 やがて静寂が戻る保健室。

 落ち着いたと思ったところで、今度はグラウンド側が騒々しくなってきた。

「今日は休めなさそうねえ」

 ベアトリクスは追加の毛布を取り出してから、凝った首をほぐした。

 

 ●

 

「これだけあればいけるか?」

 にんにく、ベーコン、ミルク、生クリーム、卵、黒コショウ、粉チーズ。

 そろえてきた食材を調理台の上に並べながら、マキアスはメンバーの二人に訊いた。

「量は十分だと思う」

「うん。あとは作るだけね」

 アランは調理器具をそろえ、ブリジットは底の深い鍋で湯を沸かしている最中だ。

 Aブロック準決勝。調理テーマは麺。赤チームが選んだのはパスタである。

 ミートソース、ペペロンチーノ、ボロネーゼ、その他諸々。一口にパスタと言ってもその種類は多いが、その中で彼らが作ろうとしているのはカルボナーラだった。

「私はにんにくとベーコンを切るから。二人はソースの準備をお願いできる? お湯が沸いたらパスタも茹でてね。お塩加減を間違えたらだめよ」

 言いながら包丁を取り出すブリジットは、もたもたと足を動かす男子たちに要領よく指示を飛ばした。

 マキアスとアランはカルボナーラの調理工程を知っているわけではない。都度ブリジットに質問しながら、不慣れな手際で一つずつの作業をこなしていく。

「ブリジットさん、動きに無駄がないな」

 卵黄をボウルでかき混ぜつつ、マキアスはミルクの計量をしているアランに耳打ちした。

「だろ。手伝うって言っても一人の方が早いからって、いつも断られるし」

「勝手に物の配置を変えたりすると怒るタイプと見た」

「それって、どちらかといえばマキアスじゃないのか?」

「待て待て。手伝いを申し出る? いつも? そんなに彼女に料理を作ってもらう機会が増えたのか?」

「ち、違うぞ。試作品の味見をして欲しいって言うから。俺から頼んでいるわけじゃない」

「そうか、よかったじゃないか」

「違うって言ってるだろ!」

 からかわれた照れ隠しか、アランは顔前で手を振り払う。下から上へと動いた手が、マキアスの眼鏡のフレームに引っ掛かってしまった。

 宙に跳ね上げられた眼鏡は、鮮やかな放物線を描いて沸騰した鍋の中へと落下した。

「ぼ、僕の眼鏡が!?」

 ぷくぷくと気泡を上げて沈んでいく魂の片割れ。すぐさま救出しようとするマキアスだったが、煮えたぎる熱湯がそれを頑なに拒んでいた。

 

 

「パスタとかどうかしら?」

 奇しくも同じ選択だった。アリサはパスタ麺の束を手にして、フェリスに言う。

「それしかありませんわね」

「よね?」

 麺の主流は東方料理だ。しかしレストランより屋台式で食べる物の方が多い。二人にとって、あまり馴染みのある料理とは言えなかった。麺と言われて思いつくのはパスタぐらいだったのである。

「あとはどんなパスタにするかね。うーん、スープパスタとか」

「悪くないと思いますけど。せっかくですし、シーフード仕立てにしてみたらどうでしょう?」

「それもおいしそう。でも魚や貝って用意されていたかしら」

「ふふん。こっちですわ」

 あらかじめ目星をつけていたらしく、フェリスはアリサを先導する。食材置き場の一角に、大きな活魚用水槽が設置されていた。

 水槽に顔を近づけて、アリサはじっと魚を眺めた。

「泳いでるじゃない」

「泳いでますわね」

 水槽の中では小から中型の魚が自由に行き交っている。

「どうやって捕るの?」

「手づかみ?」

「無理よ」

「同じくです」

 鮮度を保つための運営側からの配慮だったが、お嬢様には混乱を煽る以外の効果は生まなかった。

「困ったわね。時間もないし……」

「パスタの具が……ちょっと逃げないで下さいまし!」

 水槽を上から覗いてみたり、小突いてみたり。四苦八苦しているうちに、アリサは水槽にすくい網が立てかけられていることに気づいた。

 さっそくそれを使ってみる。

「な、なにこれ。全然すくえないんだけど」

「早く早く! 右ですわ! やっぱり左――右!」

「どっちなのよ!」

 水槽のど真ん中で泳ぐ魚を捉えるにはコツがいる。第一は隅に誘導することだが、アリサを急かすフェリスが、ばんばん水槽の側面を叩くので魚は逃げてしまっていた。

 奮闘むなしく、成果は底に生えていた海藻を少しと、動かない貝を数匹捕れた程度だった。

「はあ、ただ疲れただけじゃない。あら?」

 その場にへたり込むアリサは、水槽の横に置かれた小さな箱を見つけた。 

 これも生け簀のようだが、ガラス張りではないので外からだと中身がわからない。

 なにげなく中を確認して、アリサは悲鳴を上げた。

「きゃあ!?」

「ど、どうしましたの。ひゃあ!」

 後ろからのぞき込んだフェリスも目をむく。

 わさわさとひしめき合うそいつらは魚ではなかった。小さな六本足。一対の大きなはさみ。全身を覆う赤い殻。

 反射的に抱き合う形となった二人は、同時に顔を見合わせた。

『……ザリーガ?』

 

 

 トングを使って眼鏡を救出したマキアスは、それを使用していない皿の上に置く。

 熱せられたフレームから湯気が立ち上り、とても顔にかけられるような状態ではなかった。

「あちち」

「悪かったよ。まあ煮沸消毒したと思えば」

「ピザ二枚だ」

「うっ」

 謝罪の意はピザで示す。いつの間にかそういうペナルティができていた。

「もう二人とも。パスタもそろそろ茹で上がるのに何してるの?」

 ブリジットが呆れ口調で言った。

「いや、アランが僕の眼鏡を――」

「元はと言えばマキアスが変なことを言うから――」

「こういうのはどっちも悪いの」

 ズパッと両成敗の捌きが下される。二人は押し黙るしかなかった。

「そっちは私がやるから、アランはソース見てて。マキアス君は人数分のフォークを出してくれるかしら。お願いね?」

 最後の一語の圧力には従う以外になく、二人はすごすごと場所を移動した。

「確かにブリジットさんって、料理中は妙な迫力があるな」

「だろ? 見ろよ、あれ」

 ブリジットは手早くパスタを引き上げると、ほとんど手元を見ないでパスタ麺を皿に盛りつけていく。目測とは思えないほどきっちり三等分だ。

 マキアスはアランに視線を戻す。言われた通り、彼は黙々とソースを温めていた。

「アランは将来尻に敷かれるタイプだな」

「はあ? マキアスは眼鏡を割られるタイプだろ」

「どんなバイオレンスな奥さんだ……」

 

 

 審判はステファン、ミリアム、マルガリータだ。一年生二人は部長ではないが、主催側の調理部のメンバーとして、試合に負けた場合はその後の審判も務めることになっていた。

 まごついている青チームはよそに、完成した赤チームのカルボナーラが審判席に並べられていく。

「わあ、カルボナーラだ!」

 ミリアムが目を輝かせた。ステファンも揺らぐ香りを吸い込み「うーん、なんてまろやか匂いなんだ」と、まだ食べてもいないのに幸せそうな表情をしている。

「まあ、私が作った方がおいしいと思うけどお。ぐふっぐふふっ」

 腹の底が震えるような重低音を響かせて、マルガリータはフォークを手にした。

「ん! やっぱりおいしいよ!」

 口の周りがソースで汚れるのもかまわずに、さっそくミリアムが勢いよく食べ進めていく。

「アクセントの黒コショウが引き立つね。これは脇役ではなく伏兵。ポーンではなくビショップだ」

 ステファンはそれっぽいコメントを光らせた。チェス部らしいというべきか、よくわからない例えだったが。

「じゃあ、わたしもお」

 鼻の一息で立ち昇る湯気を吹き飛ばし、マルガリータは細まった目で皿を見下ろした。食事より捕食と言ったほうが似合う光景だ。

 観客席から息を呑む音が聞こえる中、マキアスは調理台の近くをうろついていた。

「変だな。見当たらないぞ、僕の眼鏡。この辺の皿の上に置いて冷ましていたはずだが。そういえばここで最後に作業をしていたのはブリジットさんだったような……」

 ザスッと鋭い音がした。そちらに目をやると、マルガリータがカルボナーラにフォークを刺し入れたところだった。ぼやける視界だが、さほど距離はないので何とか見える。

「いちいち豪快だな。……いや、さすがにあんな音するか? 皿を貫通したわけでもないだろうに」

 フォークがぎゅるりと回転すると、皿の半分以上のパスタが塊となってすくいあげられる。

 そこにマキアスは見た。こんもりとひとかたまりになったパスタ球の中に、魂の片割れが銀の輝きを散らせている光景を。

 ぎらつくフォークの先端が、パスタにまみれる眼鏡をレンズごと串刺しにしていた。

「ぎゃあああっ!」

 それを視認した瞬間にシンクロしたのか、マキアスは胸を押さえて苦しんだ。

 ブリジットもその事態には気づいたようで、蒼白になった顔で駆け寄ってくる。

「あ、あのね。私、台の上に並んでたお皿にパスタを盛り付けていったの。アランにお皿を用意してって頼んでたから」

 それはマキアスも見ていた。手元を見ない手際がすごいと感心したものだった。

 だからだ。盛ったパスタを整える時くらいはさすがに視線を向けただろうが、軽く取り分けるぐらいではわざわざ皿など見なかったのだ。

 その結果、眼鏡はパスタに埋もれ、料理の一部として運ばれ、そして今貫かれた。

「ご、ごめんね。なんで痛がってるのかはわからないけれど」

「いや、いい。そもそも無造作に皿に置いた僕が悪かった。台の端にでも置いておけば良かっ……ぐはあっ」

「吐血!? え、衛生兵の方~!」

「いるわけないだろ」

 アランが冷静にツッコむ。

 最悪の事態は進行中だった。マルガリータの大口の中に、パスタごと眼鏡が消えようとしている。

「やめろおおあ!!」

 絶叫するマキアス。時はすでに遅く「はぐむうっ」と、ばくりといかれた。

 ゴリゴリ、パキパキ、モシャモシャ、ガタンゴトン、キュイィィーン、ギャリギャリギャリ、ジャキンジャキーン!

 工場でスクラップを圧砕するかのような凄まじい破壊音。

「ぐあっ、おうっ、ごはっ、オウッ! オウッ! アオウッ!!」

 咀嚼されるたびに、マキアスは地面をのたうち回る。裏側にひっくり返した昆虫のような動きだった。ブリジットは目を背けている。とても正視に耐えないらしい。 

「いい歯ごたえだけどお……んんー?」

 ぷっと吐き出された小さな銀色が、物悲しく地面を転がった。

 マキアスは息も絶え絶えに這い進み、その欠片をそっと拾い上げる。どこまでも報われない男の眼鏡が報われないことになった。

「あ、ああ……僕の……」

 それ以上は言葉にもならない。

 本当に小さなレンズのひと欠片だった。

「僕は何度失えばいい。何度悲しみに暮れればいいんだ……。誰か教えてくれよ」

 答えられるはずもなく、ブリジットとアランは沈黙を返すのみだった。

 

 

 赤チームがカルボナーラを出して八分が経過。あと二分以内に青チームも料理を出さなければ、自動的に負けが決まってしまう。

 だがアリサたちの調理台ではアクシデントが発生していた。

「下にいったわ! そっちにもいる!」

「無理、無理ですわ!」

 時間も無かったので、ザリーガを生け簀ごと二人がかりで調理台まで運んで来たのはよかったが、最後の最後でフェリスが足を滑らせて、生け簀を横転させてしまったのだ。

 ぶちまけられる水と大量のザリーガ。

 捕まえようとしたが、この赤い奴らは活きがよかった。動き回るわ、飛び跳ねるわ、おまけにはさみがあるから迂闊に手も出せない。

 パスタは茹で上がって皿に乗せているものの、まだ一切の味付けをしていない。仮にザリーガを捕まえたとしても、調理する時間はすでになく、そもそも調理法自体見当もついていなかった。

「だいたいアリサ、どうしてザリーガをパスタに入れようと思ったんですの!?」

「だ、だって見たことあったのよ。パスタの上に大きなエビが殻つきでそのまま乗っかってるのを」

「それは私も知ってますけど、これザリーガですわよ」

「代用はできると思ったの!」

 珍しくフェリスに詰められるアリサは、半分泣きそうになりながらザリーガを追いかける。

 あと一分。

 そこに見かねたブリジットがやってきた。

「えーと、フェリス。よかったらこれ使う?」

 そう言って差し出してきたのは、鍋からマキアスの眼鏡をつかみ取ったトングだった。

「いいんですの?」

「ええ、さあ早く」

 あと二十秒。フェリスは片っ端からザリーガをトングで捕獲して、皿の上にぼんぼんと乗せていく。

「お待たせしました!」

 ラスト五秒のカウントダウンが始まったタイミングで、アリサがぎりぎり卓上に皿を滑り込ませた。

「ザ、ザリーガパスタです」

 息を切らして料理名を告げると、ステファンの表情が絶望に染まった。

 

 

 望まぬ実食が始まる。ただ望んでいないのはステファンだけらしく、調理部の二人は平然とフォークを用意していた。

「あはは、ザリーガが乗ってる」

 ミリアムはパスタに絡まるザリーガを皿から助けだすと、テーブルの上で遊ばせていた。

「ふん! ふうん!」

 一方でフォークを逆手に構えたマルガリータは、逃げ回るザリーガを捕食しようと躍起になっている。フォークが狙いを外すごとにテーブルに穴が空き、ズドンズドンと轟音が辺りを揺らしていた。

「やっぱり食べなきゃダメなのか……」

 ステファンはフォークでパスタをかき分けていく。

 パスタがもそもそ動いていた時点で想像はしていたが、やはり中にはそいつがいた。

 しかしそのザリーガの殻は赤ではなく青色だ。体表は美しく輝き、身も一回り大きい。

「これって、ブリザリーガかな?」

 蒼耀石を体内に取り込んだザリーガの変異種で、それゆえの輝きと冷気をまとっている。

 ひとまずブリザリーガを皿の端に避けようとした時、フォークの先端ががっちりとはさみこまれてしまった。

「うわ、ちょっと……ひっ!?」

 急に体がこわばる。はさみを介し、フォークを通り、凄まじい冷気がステファンに伝わっていた。

 一気に血管が収縮し、筋肉が動かせなくなる。フォークを手離すことさえできず、ビキビキと凍結していく体組織。

 遠のく意識の中で、彼は巨大なチェス盤の上に立ち尽くしていた。同じ盤上に乱立する駒の数々が、彼を睥睨している。お決まりのイメージの世界だ。

「ここは……? うわああ!?」

 地響きを立てて、ポーンが前進してくる。続いて予想だにしていない位置からナイトが跳躍してきた。転げ回るようにそれらを回避したが、残った逃げ道を直進してきたルークに塞がれる。

 明らかにステファンを追い詰めてきていた。

「まさかこの駒たちにとって、僕は敵陣のキングなのか……!?」

 囲まれて、足を止めたマスの対角線上にクイーンが控えていた。もうどこにも逃げ場はない。

 自嘲気味に肩をすくめてみせる。

「チェックメイトされてしまったよ。ふっ……絶望しかないな」

 猛スピードでクイーンが盤上をスライドしてくる。悪態をつく暇もなく、女王の一撃がステファンを屠った。

 

 

 ステファンは凍りついて動かない。

 審判はミリアムとマルガリータで行うことになったが、ミリアムは先のカルボナーラでお腹がいっぱいで、アリサたちのパスタには手をつけずにザリーガと戯れてばかりだった。

 その為、判定はマルガリータが一手に担う。

「おバカさんねえ。審判の意味分かってるのお?」

「だってカルボナーラがおいしかったんだもん」

「むふん、最初からまともな判定なんて期待してないけどお。まあ、確かにおいしかったのはカルボナーラねえ。ザリーガには結局逃げられちゃったし」

 マルガリータは勝利チームのボタンを押す。カルボナーラの赤ではなく、ザリーガパスタの青を。

「な、なんでだ!」

「納得いかないな」

「うそ、味は良かったはずよ」

 憤る赤チームの三人に、マルガリータは物憂げなため息をついてみせる。強烈な風圧に、彼らは足を引かずにはいられなかった。

「だってあなた達の料理、中に異物が入ってたじゃない。あんなのを食べる人に出したらダメよお」

 クッキーに得体の知れないものを混入させる女が、腹立たしいくらいの正論を吐く。

 しかし眼鏡を混入させた経緯を正当化させる理由などあるはずもなく、マキアスたちは悔しげに下を向く。

 三人の視線の先で、のそのそとザリーガが歩いていた。

 

 ●

 

「おいおい、マキアスたち負けちまったぜ」

「まずいな。異物混入とか言ってたが」

「遺物の間違いだろ」

 青チームのリィンとクロウは選手控え席から立ち上がる。

 対戦相手は赤チームのエマとフィーだ。緊張している様子はなく、一回戦で感覚をつかんだのか、むしろ落ち着いているくらいだった。

「油断はできねえな。うし、調理台に向かうか」

「いずれにせよ全力で行くだけだ」

 審判は園芸部のエーデル、釣皇倶楽部のケネス、文芸部のドロテだ。

 エマたちも調理台についたのを確認して、トワが試合開始を告げる。

「それじゃあ、Bブロック準決勝始めるね。テーマは“魚”! ……なんだけど」

 手元の進行表に目を落としつつ、トワは続けた。

「この試合はちょっと特別な趣向があるみたい」

 

 ほどなく中庭の池に釣り糸を垂らす対戦メンバーの姿があった。

「釣れないな」

「釣れねえ」

「釣れませんね」

「釣れないね」

 それぞれが口々にぼやく。適当にばらけて釣竿を構えているが、誰一人として当たりは来ない。

 これが“特別な趣向”だった。食材置き場の水槽はすでに撤去されていて、お題の魚は自分たちで釣らなければならない。

 さらにシビアな追加条件もあった。最初に釣り上げた魚だけしか料理に使ってはいけないというものだ。

 たとえばカサギンを釣ってしまったら、それで審判三人分をまかなわなくてならない。かなり運に左右されるルールである。

 クロウが言った。

「お前は釣りが得意じゃねえのかよ」

「そう言われても、こればかりは魚次第だからな」

 かぶりを振るリィン。その直後、釣り糸の先の浮きがぴくぴくと動いた。水面に細かな波紋が拡がっていく。

「お、来た!」

「マジか! 絶対離すなよ!」

 竿を構え直すリィンは、慎重にリールを巻いていく。

 引っ張り引っ張られを繰り返した果てにようやく釣れたのは、背びれも尾ひれもない、一見すると蛇のような細長い魚だった。

「こ、これイールだ」

「また変なもん釣っちまったな。ま、どうとでも調理してやろうぜ。じゃあな、お二人さん」

 まだ当たりのないエマたちにわざわざそう言って、クロウはグラウンド側へと戻っていく。

 フィーが不機嫌そうに、その背中を一瞥した。

「性格悪いよね」

「今に始まったことじゃありませんから。でも困りました……」

 赤チームの釣糸は動かない。

 この趣向はその場で得た食材をどう捌くかという即応力が試される。即興料理のお題としては秀でている反面、運が悪ければ容易くタイムオーバーしてしまうところに難点があった。

「リィンたちが手のかかる料理を作ってくれればいいんだけど」

「見慣れない魚でしたから、多少は手こずるかもしれませんが……」

「結局こっちが釣れないと意味ないしね。……ねえ、銃撃ってみようか?」

「さすがに魚には当たらないと思いますよ。それに驚いた魚が逃げちゃいます」

「そうじゃなくて。池周りの石段とかに当てるだけ」

「ああ、なるほど」

 着弾で生まれた強烈な振動を水中に伝わらせることで、魚たちの動きを一時的にマヒさせようというのだ。実際の漁で行うことはないが、川遊びの類としてそういうものがあるとはエマも知っていた。

「でもルール違反になるような……」

「銃弾を撃ち込んじゃダメってルールはないと思うよ」

「それはそうでしょうけど。うーん」

 エマが悩んでいると、すでにフィーは双銃剣を水面に向けていた。

「ち、ちょっと待って――えっ? きゃあああ!?」

 発砲の寸前で、エマの竿に反応があった。ピクリと浮きが動いた次の瞬間、糸がちぎれんばかりの勢いで釣竿が引っ張られる。

「フィーちゃん手伝って下さい!」

「了解」

 二人がかりで竿を持ち、持って行かれまいと必死にこらえる。

 劣勢と見るや、すかさず銃口を池に向けるフィーをその都度なだめつつ、奮闘することしばし。

 エマはようやくリールを巻き切り、かかった魚を引き上げることに成功した。

 その魚を見て、二人は目を丸くする。

 

 

「で、どうやって捌くんだよ?」

「いや、これは俺にもわからない」

 バケツの中でうねうね動くイールを眺めて、二人の動きは止まっていた。

 そもそも捌こうにも、まな板の上に乗せることすらままならない。体の表面がぬるぬるで、全くつかめないのだ。

 厄介なものを釣ってしまったと困り果てる二人の耳に、忙しない足音が聞こえてきた。

 エマとフィーだ。二人してバケツの取っ手をつかみ、大急ぎで調理台へと走ってくる。

「ちっ、来やがったか!」

「委員長たちは何を釣り上げたんだ……あっ!?」

 それはひょこりとバケツから顔を出していた。つぶらな瞳に透き通るような青い体表。両端が上がった大きな口は愛嬌さえ感じられる。

「オ、オオザンショだあっ!」

 忘れようもない、あの悲劇。苦過ぎる記憶がフラッシュバックし、リィンは絶叫した。

 審判席ではケネスも頭を抱えてうなだれている。

「まずいぞ、まずいぞ……!」

「大丈夫だ。あんな大物はあいつらだけじゃ捌けねえだろ」

「そうか、それはそうだな。だけど俺たちも早く調理に取りかからないと」

 しかし二チームそろって調理は難航していた。

「これは触れませんね。どうしましょう」

「委員長に任せるよ」

「任されても……」

 バケツのオオザンショに手を伸ばし、また引っ込めるを繰り返す赤チーム。

「いちいちヌメヌメしやがって」

「ダメだ、つかめない」

 イールのぬめりに打ち勝てず、お手上げ状態の青チーム。

「ふむ、困っているようだね」

 このまま膠着が続くかと思われたその時、深く穏やかな声が染み渡る。いつの間にか、学院の用務員が双方の調理スペースの間に立っていた。

「ガ、ガイラーさん!?」

「やあ、エマ君」

 エマの狼狽はよそに、ガイラーは気やすい挨拶をした。二チームをそれぞれ見比べると、にたりと薄く笑う。エマにとってその笑みは不吉の象徴だった。

「見れば魚の調理に手こずっている様子」

「いえ、あのっ!」

「無論、君の力になるのはやぶさかではないし、元々そのつもりだった。しかし状況が変わった」

「状況?」

 ガイラーはゆったりと歩き出す。歩先が向いた先は赤チームではなく、青チームの調理台だった。

 リィンたちの前まで来ると、ガイラーは再びエマに振り返る。

「エマ君の成長のため、私はあえて君の敵となろう」

 

 

 ケインズ同様、ガイラーもリィンたちのエントリー用紙に、勝手に自分の名前を書き込んでいたらしい。二人の言及も巧みな話術でかわし、すんなりとアドバイザーとしてのポジションを手に入れている。

「さあ、リィン君。存分につかみたまえ」

「いや、ヌルヌルでやはり取れませんが」

「ヌルヌルかね?」

「はい」

 そこはかとなく満足そうなガイラーは、今度はクロウに言った。

「クロック。君もやりたまえ」

「さっきからやってるっての。ていうかクロックってなんだよ」

 クロウも結果は同じだった。イールは手の中をぬるりと抜けていく。

「どうかね?」

「だからヌルヌルで取れねえって」

「ほう……」

 自然な動作で、ガイラーは二人の間に割って入った。

「実にいい。では三人がかりでつかもうじゃないか」

「最初からそうすりゃいいだろうが。やるぞ、リィン」

「わかってる。呼吸を合わせよう」

 バケツの中に三人の手が伸びた。

 必然それぞれの横幅は狭まり密着する形になる。リィンとクロウの双方からぎゅうぎゅう押されるガイラーは、切ない声をもらしていた。

「おお……エーックス……エーックス……」

 不健全ど真ん中の恍惚の表情で、妖しく身悶える。道を踏み外した用務員の姿がそこにあった。

 熱い吐息が吐き出されるのを直視したエマは、がっちりとフィーの目を手で押さえ込む。教育上不適切とのマザージャッジだ。

「えと、見えないんだけど」

「フィーちゃんは見なくて大丈夫です。ガイラーさん……やはりそれが目的でしたか」

「それ、とは何かね?」

 イールを捕まえながら、ガイラーは横目をエマに向ける。この衆人環視の中で明言できず、彼女は声を詰まらせた。

「まだ君は自分を偽るのかね。素晴らしい才能を持っているというのに」

「だからそれは勘違いです」

「やれやれ」

 しわ深い指が指し示したのは、フィーの目を覆うエマの手だ。

「見えなければ無かったことになるのかね。視界を隠せば消えたことになるのかね。違う。それはいつだってそこにある。認めるか、認めないか。それだけなのだよ」

「ですからですね。もうどこから説明すれば……」

「隠し事に後ろめたさを感じるのは理解できる。だがいつかは打ち明けなくてはならない。大丈夫。艱難辛苦を共に乗り越えた仲間たちなら君を受け入れるはずだ」

 見当違いのくせに、この用務員はなぜか真に迫る言葉を吐く。

「ふふ、書く仕事が隠し事とは、洒落が利いているじゃないか」

「上手いこと言えてませんから……」

 ガイラーの腕に力が入った。

「さあリィン、クロック。大詰めと行こうじゃないか」

 二人にそう告げ、一息にバケツから両腕を引き出す。計六本の腕ががっちりとイールをつかみ上げていた。

「う、うそ」

「一歩リードということでいいのかな?」

「フィーちゃん、こっちも負けていられませんよ!」

「んー……んー……」

 ぎゅーと手に力がこもる。目元を覆われたままのフィーは苦しそうにうめいた。

 

 

 やはり料理を先に出したのは青チーム。万能と称していいのか、料理にも熟達していたガイラーの協力もあり、どうにかイールを調理することができたのだった。

「これがイール? すごくいい匂いだね」

 ケネスは物珍しげに、運ばれてきた料理を眺めていた。釣りはするものの、その場で食べることはまずないので、イールを口にするのは実は初めてである。

「イールのかば焼きだ。食べてみてくれ」

 リィンが自信ありげに言う。

 開きにしてタレを塗りながら、炙り焼きにした一品だ。

「うん、おいしいよ。脂の乗り具合も最高だ。イールがこんなにおいしいなんて知らなかったな」

 舌鼓を打つケネスに、ガイラーが歩み寄る。

「その魚は今が旬だからね。味わい深いのは当然だよ」

 君と一緒でね、と付け加えられた一語に、ケネスは戦慄を覚えた。調理者ではなく捕食者の目をしたのも一瞬、「お嬢さん方も遠慮なく食べて欲しい」と穏やかな笑顔をドロテとエーデルに向ける。

「あら、おいしいわねえ」

 それを口に運んで、おっとりとエーデルは微笑んだ。彼女の場合、何を食べてもこの反応が返ってきそうだ。

 その横でドロテは、なぜか怪訝そうな顔を浮かべている。

「どうしたよ。口に合わねえか?」

「いえ、ただ。盛り付けが気になって……」

「変か?」

 クロウが皿をのぞくと、少し長めにそろえられたイールの切り身が二つ、交差するように盛り付けられている。

「……この盛り付けをしたのは誰?」

「誰ってそりゃあ――」

 リィンとクロウの視線がガイラーに注がれる。

「用務員さんでしたか。どうしてこの形に盛りつけたんですか?」

「お気に召さなかったかな。特に深い意味はないが」

「……この魚をバケツから取り出す際、あなたはある言葉をつぶやいていました。どうしてその言葉を口にしたんですか?」

「絆の刻印だからね」

「えっ」

 ガイラーは審判席に背を向けた。

「さて。ここから私の出番はないようだ。君たちの健闘を祈っているよ」

「ま、待って下さい! あなたは――」

 がたりと椅子を倒し、勢いよくドロテは立ち上がる。しかしすでにガイラーの姿はそこになかった。

「うそ……そんなことあるわけが……でも、まさか」

 状況が理解できず、呆然とするリィンとクロウ。そんな二人はよそにして、一陣の風がドロテの頬を撫でていく。

 

 

 一方のエマたちは、未だオオザンショをバケツから出せないでいた。時間だけが刻々と過ぎていく。

「リィン。俺らが料理を出してから何分経った?」

「もうすぐ七分になる」

「てことはあと三分で俺らの勝ちが確定だな。もう調理の時間は残ってないし、あの訳のわからん実験器具を使う時間も無い」

「ああ、そうだな……いや、待ってくれ。気になることがある」

 あの日。とある九月の調理室。生きたままのオオザンショが皿に乗せられ、眼前に運ばれてきたあの日。さすがに生では食べられないと理由付け、皿を引き下げてもらったが、その直後にエマは何をした。

 煮るでも、蒸すでも、茹でるでもなく、時間のかからない調理方法がまだ残されているではないか。

 悪い予感が電流となって背を走り、バケツから顔をのぞかせるオオザンショを見た。

 つぶらなその瞳と目があった。きょろりと動いた黒目が何かを訴えて――

 

 ――タスケテ

 

 「や、やめっ」

 それは幻聴だったのか。とっさに差し伸べた手の先で、ごうと火柱があがった。制止の声を発しかけた時には、オオザンショはバケツごと激しい炎に巻かれていた。

 エマの丸眼鏡が陽炎に揺らぐ。

 

 ――ワタシヲタスケテ

 

「あ、あああ!」

 今度は確かに聞こえたその声。もう全てが遅いと分かる。それでも、と前に出ようとした体を、クロウが羽交い絞めにして止めた。

「ダメだ! お前まで巻き込まれるぞ」

「だ、だけどオオザンショが助けを求めてる」

「あいつはもう助からない。助からないんだ」

 言い聞かすような口調で告げ、拘束の力を強くする。クロウの手も震えていた。

 二人が悔しげに見守る中、オオザンショの魂は遠いところへ消え去っていった。

 

 

 ついに赤チームの料理が運ばれてきてしまった。

 主審席に収まるケネスは、眼前の黒い塊をまじまじと眺める。

 これは何なのだろうかと、皿を一回転させてみたが、すでにどっちが前で後ろかも定かではない。

「その、料理名を聞きたいんだけど」

「えっと……焼きオオザンショです」

 エマのあまりにもあんまりなネーミングに、ケネスは二の句を継げなかった。ドロテも困惑しているようで、さらに問う。

「エ、エマさん? これは一体?」

「……焼きオオザンショです」

 繰り返されるその言葉。

 一方、この後に及んでもエーデルは困り気味に微笑んで、焼きオオザンショをフォークでぷすぷすとつついている。

「フィーちゃん、これどこから食べたらいいのかしら?」

「どこからでも」

 ケネスは生唾を飲み下した。

 食べたくなどない。だが責任の放棄はできない。一年とは言え、自分も間違いなく部長。

 さらにレイクロードの名を背負う以上、それがどのような形式であっても、魚絡みの勝負から逃げ出すことなどあってはならない。このオオザンショを魚という括りにしていいのかが、果てしなく微妙であったとしても。

「とりあえず、食べようか」

「そうですね」

「わかりました」

 三人同時にスプーンを口元まで運ぶ。

 震えていた手のせいか、ケネスのすくった黒いブツだけが皿の上にこぼれ落ちてしまった。

 それをすくおうとしている内に、左右の二人が先にブツを一口食べた。

 ドロテの背がびくんとのけぞる。

「男子が、いっぱいの男子が。く、く……くんずほぐれつ……うふ、うふふ」

 空を振り仰いで、何やら嬉しそうに笑っている。瞳孔が開いて、焦点も定まっていない。

「ふふ……きれいなお花畑。これフィーちゃんが育てたの? そうなの? がんばったわねえ。あら、あっちの川の向こう岸にもきれいなお花畑が……」

 ぶつぶつとひとり言をもらしながら、エーデルも笑っている。ここではないどこかに旅立っていた。

 二人そろって、意識が飛んでいる。

 ケネスの額から大量の汗が噴き出す。

 こんな状態を目にした後で、これを食べることはできない。そもそも食べなくてもいい。食べ比べるまでもなく、リィンとクロウの青チームの勝ちだ。

「ケネス」

 ケネスの指先が青いボタンに伸びかけた時、フィーが彼を呼び止めた。彼女は抑揚のない声音で言う。

「ケネスも食べて」

「は、はい」

 それは条件反射。許された返事はイエスのみ。従うしか選択肢はない。嫌なはずなのに、しかしどこか心の高揚を感じながら、ケネスはスプーンを口に入れた。

 ドクンと心臓が高鳴り、急速に意識が薄れていく。

「あ……う……」

 はっと気づくと、ケネスは水の中にいた。水底は深く、水面は遠い。息は苦しくない。ただ流れがあるようだった。

 漠然とここは川だと理解した時、視界の端に大きな影が映り込んだ。凄まじく巨大な、魚の影。

 悲鳴を上げて、その場から逃げようとする。しかし泳ごうとするも、体が思うように動かない。ふと背中に違和感を感じて、腕をうしろに回してみる。何か細いものが水面に向かって伸びていた。

 糸。これは釣り糸だ。

 先ほどの巨大な影がまた迫ってきた。大口をあけて、一直線に。

「う、うわああああ!」

 自分が餌になるというおぞましい幻視の中で、ケネスは暗い闇の中へ吸い込まれていく――

 

「あ、あ、ああ……」

 うつろうケネスの手が、得体の知れない力に誘われ、赤チームのボタンへと伸びていく。

「ケネス! 気をしっかり持つんだ!」

 叫ぶリィンの声で、わずかに手が止まったが、それも一瞬のことだった。再び手が動き出す。

「の、呪いじゃねえか、こんなもん」

 クロウが言う。

 エマは肩を落とした。

「やっぱり焦がし過ぎましたか。おいしくはないですよね……」

「でもケネス、こっちのボタン押そうとしてるけど」

 焦がしただけでこうはならない。確実に負の物質変化が起きていた。

 ケネスの手が赤いボタンに触れる刹那、

 

 ――ソッチハチガウ

 

 ケネスの体をすり抜けた小さな意志が、末期の言葉を彼の心に伝える。

 びくりと指先が震え、つかのまにケネスの瞳に色が戻った。

「あ、あうう」

 力を振り絞り、腕の軌道を無理やりに変え、命がけで青チームのボタンを押し込んだ。

「ケネス……!」

「男だぜ、お前は」

 目を見開いたまま気を失っているケネス。そっとそのまぶたを閉ざして、二人は厳かに黙祷を捧げた。

 

 ●

 

 A、Bブロックそれぞれの準決勝が終わり、あとは決勝を残すだけとなった。

 これまでに行われた試合の顛末を、屋上で見ている者たちがいた。あの黒づくめの二人だ。

 喧騒の絶えないグラウンドを見下ろすのをやめると、二人は互いに目配せをする。

 会話はなかった。身振り手振りのジェスチャーもない。ただうなずき、黒づくめたちは踵を返した。まもなく決勝戦が開始されようとしてる。

 

 

 観客のざわめきが止まらない。

 それは決勝を前に気が高ぶるとか、そんな理由ではなかった。試合数を重ねる毎に激化していく料理対決。審判たちはことごとく違う世界へと旅立って行く。料理を実食するわけではないとは言え、果たして自分たちはここに座ったままでいいのか。こんなに近くにいて大丈夫なのか。

 そんな感じのざわめき――というよりはどよめきである。

「やるぞ、リィン」

「ここまで来たからには必ず勝つ」

 確かな実力と危なげない料理によって、見事勝ち進んできたリィン、クロウ組《バレット&ソード》

「なんか緊張するわね」

「がんばりますわ」

 謎の強運と危うい料理によって、審査員をのきなみ煉獄送りにしてきたアリサ、フェリス組《特攻お嬢様》

 ついに両チームが相まみえた。

 ギャラリーに蔓延する不安を払拭するかのように、無理やりに声を張ったトワが決勝のラウンドコールを行う。

「決勝戦の審判は教官方にお願いしています。どうぞ!」

 審判席についたのは、サラ、ハインリッヒ、そしてナイトハルトだった。

「……あんた達、頼むわよ。ほんと頼むわよ」

「ふん、もったいない自由行動日の使い方をしおって」

「学院長との打ち合わせに来ただけなのに、なぜこのようなことになったのだ……?」

 そんな審判たちに申し訳なさそうにペコリと頭を下げたあと、トワはマイクを掲げた。大きく息を吸って、彼女は声高らかに宣言する。

「それではこれより決勝戦を開始します。料理テーマは――」

 

 

~後編に続く

 

 



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クッキングフェスティバル(後編)

 少し時はさかのぼる。

 A、Bブロックの準決勝が終わって、小休止の時間のこと。

「少し遅れてしまったな」

 正門を小走りで抜けて、本校舎へと向かうのはナイトハルトだった。

 今日はヴァンダイクとの打ち合わせを予定していたのだが、ガレリア要塞で事務仕事に追われていて、出立時間に間に合わなかったのだ。

 ヴァンダイクもそんな軍務事情は理解しており、別に遅れても構わないというスタンスだったが、しかしその配慮においそれと甘んじられるナイトハルトでもない。

 分刻みで動くことが当たり前の職業軍人。加えて面談相手は名誉元帥。

 顔には出さないものの、彼はやはり焦っていた。

「導力通信がもっと普及していればいいのだが」

 そうすれば事前連絡を入れられ、最低限の礼節くらいは守ることができるのに。

 ぼやきながら、歩を早める。

「ん?」

 グラウンド側から大勢の声が聞こえてきた。

「自由行動日のはずだが、課外活動でもしているのだろうか」

 それは良いことだと思う。かつて自分がこの学院に通っていた時よりも部活数は増え――よく分からない部活も増えたが――生徒達の活気も溢れている。

 別に昔は元気がなかったというわけではない。十年程前はこの学院もありきたりの士官学院としての様相が強かった。要は軍隊色である。廊下は走らない。教室内でもみだりに騒がない。教官は上官として接する。居眠りなどもってのほかだ。

 そんな雰囲気だったから、今のような和気藹々という感じは、そこまで前面には出ていなかった。

「今の校風も嫌いではないが、もう少し引き締まってもいいとは思うな」

 もっともサラのような人物が普通に教官を務めているので、規律第一、常在戦場の心持ちで平素を過ごせと言っても、今一つ説得力に欠けるわけだが。

 いつの間にか立ち止まり、そんな事を考えていると、グラウンド側から二人の女子生徒が走ってくる。

「誰かいればいいけどねー」

「もう、走り疲れたわよお」

 一人はⅦ組で、もう一人は体育大会で面倒を見ている貴族組にいたから、それぞれの顔と名前を覚えていた。ミリアムとマルガリータである。

「審判が足りないってどういうことよお」

「みんな保健室に行っちゃったんだってさー」

 だから代わりを探すとか、手頃でちょうどいいのはいないかとか。

 会話の全てを理解することは出来なかったが、とりあえず自分に関係無いことのようだ。思考を当初の目的へと戻し、本校舎の扉に手をかける。

「あらあ、ナイトハルト教官じゃない」

 凄まじい声量に、びりっびりっ、と空気が震えた。

 ごきげんようと、いかにも貴族子女らしい挨拶を向けてきたのもつかの間、マルガリータは無遠慮にずしずし近付いてくる。

 がしっと万力のような握力で、ナイトハルトの片腕を掴み上げると「お願いがありますのお」と、彼女は猫なで声を発してみせた。

 鼓膜が激しく打ち震え、わんわんと頭蓋に反響する。猫の甘声などではなく、もはや虎の咆哮だった。

 反対側の腕をミリアムが掴む。

「じゃあ、ボク達に付いて来てね」

「ま、待て、お前達。説明を――」

 有無を言う暇もない。ナイトハルトはずるずるとグラウンドへと引きずられていく。

 相変わらず状況は飲み込めない。しかし自分は“何かの代わり”で、そして“手頃でちょうどいいの”だということだけは分かった。

 

 

 

「どうする?」

 リィン達は青チームである。適当な食材を並べた調理台を見下ろし、リィンはクロウに問う。

「ああ、そうだな」

 腕を組んで、考え込むクロウ。

「こういうお題の時は、多少強引でも審判を納得させればいい。印象付けるパフォーマンスとかも有効だな」

「えーと。つまり、どういうことなんだ?」

「細かいことは考えず、いつも通りにやればいい。題については俺が口先でそれらしいことを言って押し通してやるぜ」

「何というか、説得力があるな」

「だろ?」と笑んでみせ、クロウは反対側の赤チームに視線を移した。

 こちらと同じように、アリサとフェリスが食材を手に取りながら、打ち合わせをしているところである。

「問題はあっちだ」

 親指でクイっと指し示し、げんなりとした表情を浮かべた。

「この料理テーマの場合、向こうが何作ってくるかは大体想像が付くだろ。頭をひねった挙句、必ずそういう発想に行き着くはずだ」

「ああ、そうだよな。そっちの対策も考えないと」

 クロウの意見にはリィンも同意である。

 厄介なことに決勝の料理テーマは、食材ではなかったのだ。

「あいつら絶対やらかしてくるぜ。何てったってお題は『炎』だからな」

 

 

「炎って何ですの? そんな食材ありませんわ」

 案の定フェリスは唇を尖らしていた。彼女にとっては理解に苦しむ、理不尽な要求である。

「これは食材のことじゃないわ。要するに審査員に炎と納得してもらえる料理を作ればいいのよ」

 そうは言っても簡単な事ではない。イメージなのか、視覚的なのか、味覚的なのか。美味いのは当然として、料理一つで、そのテーマを伝えなくてはならないのだ。

「では例えばですけど、ケーキを作って炎の形にこしらえれば、それはテーマとして成立するわけですわね」

「うーん、難しいわね」

 こちらがそのつもりでも、審判が炎と認識しなければならない。相手が受け取る印象、心象を想像する感性も要求されるのだ。

「火、赤い、焼く……」

「明るい、揺れる、燃える、熱い……」

 とりあえず炎から連想される語彙を並べ立てていく。

 やがて、ありとあらゆる単語の果てに、彼女達はその言葉へと辿り着いてしまった。

『……辛い?』

 

 

 

 コンロから炎が上がり、鉄鍋の中で米が躍る。

 歓声が沸くと、クロウは得意気に手首のスナップを利かせてみせた。

「リィン、付け合わせのスープは五分以内にいけるか?」

「クロウのペースに合わせる。気にせず作ってくれ」

「おうよ!」

 威勢よく返して、鉄鍋に溶き卵を投入する。黄金色の輝きが全体に広がり、さらにテンポよくクロウは鍋を振った。

 いわゆる焼き飯である。様々な具材と一緒に米を炒めるという、シンプルながら奥の深い一品だ。これも東方がルーツの料理だが、その真髄はまさに炎にある。高温で一気に水分を飛ばし、米の一粒一粒に熱を均等に回すことで、仕上がりがパラパラの絶品焼き飯へと変わるのだ。

「ほい、ほいっと」

 鉄鍋はかなりの重さだが、苦を見せることなく、クロウはひたすら米を炒め続ける。焦げ付かさない一線を見極めることが重要だ。

 クロウは味や見た目に“炎”を求めてはいなかった。見せる――否、魅せるのはその調理工程。米が炎をくぐる様である。これを見て、炎と無関係とは言わせない。条件はすでにクリアしていた。万が一、テーマに付いて言及してきても、得意の口八丁で丸め込めばいい話である。

「うし、出来たぜ!」

「スープも完成だ」

 皿に装い、これで準備は整った。さっそくそれを審判席に運ぼうとするリィン。だがクロウは「待て」と短く制した。

「持って行かないのか? 早くしないと冷めてしまうぞ」

「リィン。今までの試合の勝利傾向を思い返してみろ」

「傾向……?」

 そう言われて、順々に出てきた料理と試合結果を頭の中に浮かべてみる。

 焦げ付いたハンバーグ。焦げ付いたステーキ。ワサビマスタードケーキ。マルガリータパフェ。猛将オムライスのハイヤー添え。錬金茶碗蒸し。ポトフ。散弾式野菜炒め。カルボナーラ。ザリーガパスタ。イールのかば焼き。焼きオオザンショ。

 中にはまともな料理もあったが、総じて酷い。

 勝利の傾向ということは、法則的なものだろうかと思案するリィンだが、今一つピンと来なかった。

 首をひねるリィンに、クロウは言う。

「じゃあヒントだ。全てじゃねえが、料理を先に出した方と後に出した方ではどっちが勝ち数が多い?」

「それは……後の方だったと思うが」

 確かにそうだった。それはなぜかと思い出してみると、

「あ!」

 答えは明白だ。

 当然だがスムーズに作れた方が先に料理を出し、手間取る方が遅れて出す。得てして最初に出す方が、上手く作れた通常の料理。後に出す方が、アクシデントの果てに生まれた珍妙料理。あるいは攻撃料理。

「そういうことか」

「おう、分かったか」

 どんなに美味しい料理を出しても、後に続く危険物体が審判員をことごとく葬り去るから、まずまともな判定にならない。つまり、先出しの方が不利という流れが、攻撃料理の介在という特異な条件下で成立してしまっているのだ。

「ちょっと待ってくれ。先に変な料理を出したとしても、審判はどの道倒れていた。結果は同じじゃないのか?」

「その可能性はあるが、正気の残ってる審判だっていただろ。制限時間を目いっぱい使って、審判が落ち着いた頃合に料理を後出しして、そいつらに判定を仰ぐやり方だってあったはずだ」

「じゃあ、この決勝は――」

 言いよどんだリィンの言葉を、クロウが継いだ。

「多少冷めたって味では負けねえ自信がある。審判が全滅しない可能性に賭けて、あえて後攻に回るぜ。分かってるな。俺達は絶対に勝たなくちゃならねえんだ」

 見れば、アリサ達もようやく動き出したところだった。鍋に得体の知れない赤いものをドボドボと投入している。リィンは息を呑み、想いを託すかのように、視線を出来上がったばかりの焼き飯に注いだ。

「そうだな、俺達は勝たないといけないんだ」

 ぐっと喉を押し詰まらせ、リィンは固く拳を握りしめた。

 

 

 青チームの目論見通り、料理完成が遅れながらも、先に皿を審判席に運んだのはアリサ達だった。

 湯気が立つ底の深い器を、それぞれ審判達の前に並べていく。

「これは……なんだ?」

 主審席に腰を据えるナイトハルトは、そうとしか問えなかった。

 ぐらぐらと煮えたぎる血のように赤い液体。ごつごつとした岩のような野菜の塊。ぼこんぼこんと弾ける特大の気泡。立ち上る異常な熱気のせいなのか、この料理の周りだけ空間が歪んでいる気さえする。

 耐え切れず仰け反ったナイトハルトに、フェリスが料理名を告げた。

「トマトスープ改ですわ」

「トマト……? 改?」

 改はいらない。なぜ普通のトマトスープにとどめておかなかった。どうして余計な改良をしてしまったのだ。

 この赤色はトマトということだろうか。明らかにそれだけではない気がするが。

「テーマは炎だったな。この色が火を表しているということか?」

「確かにそれもありますけど」とアリサが答えかけたが「それは食べてみてのお楽しみですわ」とフェリスが意味ありげに続く言葉を隠した。

「……うむ」

 もう大体わかる。

 ちらりと左隣のサラを見てみた。頬をひくつかせ、「あ、あんた達」とこめかみに指を当てている。

 次に右隣のハインリッヒを見てみた。「むう……」と難しい顔を浮かべているが、圧倒されているからか、意外にも苦言を呈したりはしていない。

「とりあえず、食べるとしましょう」

 改めて両隣に言って、スプーンを手に取った時、微風がそよいだ。横合いから吹き抜けてきたそれは、ごわごわと料理から立ち上る湯気を、風下側のサラへとまとめて運んでいく。

「んっ!?」

 苦しげな声が一瞬だけ聞こえて、スプーンが卓上に落ちる乾いた音が響く。だらりと力なく腕を垂らした後、一切の言葉を発することなく、それきりサラは動かなくなった。

「ふん、たかが料理一つで情けない」

 反対側でハインリッヒが鼻を鳴らす。声音には焦りや虚勢が見え隠れしていたが、そこは教頭としての矜恃なのか、その心情を露骨に顔に出すことはしなかった。

「……しかしこれは」

 食べてもいいのだろうか。そんな問いかけをしようとしたその時。

 

 シュボッ

 

 そんな音がした。

「何だね。今の音は?」

「ハ、ハインリッヒ教頭!?」

 その異常事態に、ナイトハルトも思わず声を上ずらせた。

 顔の外へと跳ねるようなハインリッヒのちょび髭。その両突端に火が付いていた。熱気に晒されて引火したそれは、まるで爆弾の導火線を伝うように、顔側に向かって髭を焼き進んでいく。

「な、なに!? だ、誰か火を消せ」

「失礼!」

 ナイトハルトは手元のグラスを取って、中身の水を今にも燃えかかりそうな顔面にぶちまけた。バシャン!と景気良く水が弾け、何とか鎮火には成功する。

 しかしハインリッヒの重力に逆らう鋭角な二本髭は、今や完全にその張りを失って、縮れ、くたびれ、弱々しくしなびれていた。

「が……かっ、むはっ!」

 至近距離で炎に炙られたハインリッヒは、まともに熱気を吸い込んで激しくむせ混む。髭を失ったショックもあるのだろう。胸を押さえ、喉をかきむしり、くぐもった嗚咽を何度も上げ、最後には白目をむいてテーブルから崩れ落ちてしまった。

「な、なんと……」

 二の句が継げない。

 こんなにも凶悪なトマトスープが存在していいのか。交戦規程(ROE)でも制限がかかりそうな、非人道殺傷兵器ではないか。サラとハインリッヒはすでに力尽きているが、そもそもこの二人はまだ料理を食べてすらいないのだ。

「……くっ」

 しかしナイトハルトは逃げなかった。責任感と実直さが服を着て歩くような男である。愚にもつかない些細な案件であっても、軍務である以上手を抜いたことは一度もない。その積み重ねと判断、処理能力が評価され、二十九歳という若さで少佐への昇進を果たしたのだ。

「頂こう」

 スープをすくう。赤くたぎる様は、まさに溶岩。

 気付けば指先が震えていた。尋常ではない汗が吹き出していた。本能が逃げろと叫んでいた。

 しかし鋼鉄の意思で、生理反応を抑え込む。帝国軍最強と謳われる第四機甲師団、そのエース。他人の評価などさして気には留めないが、自分のせいで隊そのものの評価を下げるようなことはあってはならない。

 故に、後退の二文字などない。どこにもありはしないのだ。

「ふん!」

 意を決し、口中にスプーンを押し入れる。その心境を例えるなら、敵軍に追い詰められた挙句、爆弾を腹に巻いて特攻する兵士のそれであった。

 トマトの味はやはりしない。酸味もない。あるのは喉を杭で打たれたような、荒れ狂う辛味だけ。その辛味はすぐに痛みへと変わり、耐え難い苦しみを運んできた。

「か……かはっ」

 次第に辛みと痛みの境界が融合し始める。思考と視界が定まらなくなって、現と幻の狭間を意識が彷徨いだした。立っているのか、座っているのか、あるいはすでに倒れているのかも判然としない。

 ただ熱かった。体内の水分が残らず蒸発するような、逃げ場のない灼熱感が己の全てを焼いていた。

「ここは私が……食い止める……全員撤退せよ。繰り返す、全員――」

 幻視の中で何を見ているのか、うわごとのように呟きながら、ナイトハルトは卓上に突っ伏した。

 

 

「……審判全滅したんだが」

 呆然と審判席を眺め、リィンは無感情に言う。料理が運ばれてからおよそ二分足らずの出来事であった。

「まさかここまでとはな。あいつら半端ねえ……」

 微動だにしない審判を一瞥し、クロウも力なくぼやく。

 リィン達は視線を審判席のトマトスープ改へと移した。

『……ん?』

 同時に気付く。そこでは異変が起きていた。

「お、おいおい。何だありゃあ」

 三つ並んだスープ皿から立ち昇る湯気。その揺らめく白い蒸気が、赤く染まっていたのだ。

「う? 体がっ!?」

 ずんと重くなる。いや違う。重くなったのは空気。肌にひりつくような、そして粘つくような、呼吸さえも億劫になるような、不快な空気が辺りに充満している。

 赤い蒸気は大きく渦を描きながら瞬く間に拡がっていき、やがてその範囲は学院全体を覆う程になっていた。

 観客席からもざわめきが起こり「なんか苦しい……」や「空が、赤い?」とか「何だか喉が渇いたな」など、戸惑いの声が次第に増えていく。

「えっ、うわああ!?」

 それは悲鳴と共に訪れた。

「お、俺の体がっ、消えていく!?」

 先頭観客席に座る一人――カスパルだった。滞留する赤い蒸気の塊に触れた次の瞬間、彼の体は薄れ、消失し始める。すでにカスパルの後ろの席の学生まで、透けて目視できるほどになっていた。

「い、嫌だ……助けて、クレイン先ぱ――」

 悲痛な救いの声を搾り切る前に、彼は消えた。

「こ、これは」

 目を見開き、リィンはわなわなと拳を、肩を、足を、やがて全身を震わした。

 これは上位三属性が働いた時にのみ発生する状態異常――消滅。

 特異な空間でしか起こりえないはずなのになぜ。しかしすぐにその答えに思い至る。その理由をリィンはすでに知っていた。九月に起きた調理室での惨劇、あの時も上位三属性が働いている。

 それはなぜだったか。

「まずいぞ、クロウ!」

「ああ、いつの間にか条件がそろってやがる」

 バリエーション豊富な破壊料理の数々が、苦しみと悲しみを生み出し、負の力場を構築していく。そして膨れ上がったマイナスフィールドの中心に無垢なる魂――オオザンショを贄をとして捧げることによって、煉獄と現世を隔てる不可視の境界線がかき消されるのだ。

 さらに今回は、料理によって生み出された被害者の数が前回とは桁違いの数である。ならばこの場における異常や異変も、前回とは比較にならない程大きいのでは――

「逃げろーっ!!」

 うすら寒い想像が確信となり、リィンは声を張り上げた。絶叫と悲鳴が重なり、蜘蛛の子を散らすようにギャラリー達は一斉に逃げていく。

「クロウ、俺達も退避するぞ……クロウ!?」

 しかし、クロウだけは逆方向、異常の発生源である審判席へと、じりじりと歩を進めていた。皿に盛られた焼き飯をその手に持ったまま。

「これをテーブルに届けなきゃならねえ」

「そんなのはもういい! 逃げるんだ」

「だめだ。ここで出さなければ一品目提出後の十分超過で、ルール上俺達が負けちまう。だが今の内に皿をテーブルに乗せていれば最悪引き分けには持ち込める。まだ判定は出てねえからな」

「待て、待ってくれ!」

 トマトスープ改、いや、煉獄スープから噴き出る赤煙はさらに勢いを増し、とても生身で近づけるような状態ではなかった。すぐに退避しなければ、こちらも危ない。

 それでもクロウは前に進む。

 その体が薄れ始めていた。

「クロウ、だめだ! 戻ってきてくれ!」

「もう少しなんだ。あと少しで、こいつをテーブルに置ける」

 三人の教官達も、すでに消滅している。誰もいない審査台に一歩ずつ、一歩ずつ近づいていった。その度に消えかかるクロウの体。もうテーブルは目の前だった。皿を持つ手を、ゆっくりと伸ばす。

「へへ、うまそうだろ?」

 にっと笑い、焼き飯を卓上に置こうとした瞬間、ついに彼の全ては消えた。

 皿は辛うじて台の端に乗った。しかし吹き荒れる赤い蒸気に押し出され、全ての望みを託した焼き飯は、残らず地面にこぼれ落ちてしまう。

「クロウ、クロウ! うああああ!」

 悲痛な叫びをあげるリィン。すでに彼の体も薄れ始めていた。

 

 

 被害は拡大を続ける。逃げ惑う学生達。屋内に避難しようとする者。仰いで赤い煙を晴らそうとする者。穴を掘って地中に退避しようとする者。全てに絶望して立ちすくみ、己が消える時をただ待つだけの者もいた。

「紙とペンを、せめて遺書を……」

「ああ。母さん、父さん……会いたいよ」

「み、水をくれえ……水を……」

 死屍累々。阿鼻叫喚。赤い霧に呑み込まれていくトールズ士官学院。

「アラン、私達もうここで……」

「大丈夫だ」

 グラウンドの木陰で座り込み、アランはブリジットの手を握りしめた。その手も透けてきている。

「……こんなことになるなら言っとけばよかったな」

「何を?」

 小声で呟いた声だったが、聞き留めたブリジットが問い返した。

「あ、いや、別に」

「聞かせて」

 真っ直ぐに目を向けるブリジット。アランもその瞳を見つめる。

 何度も息を吸って、観念したように息を吐き、そして彼は静かに口を開いた。

「一度しか言わないからな。……俺、子供の時からずっとお前のことが――」

 風が吹き、木々がざわめく。一枚の葉が舞い落ちた時、もうそこに二人の姿はなかった。 

 

 消える。消える。消えていく。想いも夢も諸共に。

 元はただの料理コンテストのはずなのに、どうしてこんなことになったのか。消え入りそうな自身の手を見つめるリィンは、手越しの景色に視線を巡らした。

「……?」

 一つ、異様があった。

 審査テーブルが無くなっている。いや、あるにはあるが、それをテーブルと捉えることができない。空間が歪んで見えるのは、認識を司る幻属性も働いているせいか。

 突然、景色が大きく揺らいだ。

 屈曲する視界の中に、何かとてつもなく巨大な扉が顕現されていく。身の丈五倍はありそうな黒い門。禍々しい紋様が描かれた両開きの扉。

「こ、これは……煉獄の扉?」

 日曜学校に通っていた頃、教典の挿絵で見たことがあった。

 

 ――クク……ハハハ

 

 閉まっている門の向こう側から、底冷えするような笑い声が響いた。

 ゴゴンと重い音を立てる扉が、ぎしりぎしりと軋む。罪と業を鍵として、煉獄の門がゆっくりと開いていった。

 動けないリィンだったが、確かに見た。徐々に開きゆく門の中心に、誰かが立っているのを。

「人、なのか?」

 魔導杖にも似た杖を片手に仰ぎ、酷薄な笑みを浮かべる白衣をまとったその男。教壇に立つのが似合いそうな白皙な風貌。眼鏡の奥に見える怜悧な瞳。そこに人間の温かさは感じられなかった、冷徹で暗い闇を湛えた、ただ人の形をした何か。

 その男の後ろにはおびただしい数の魔物が控えていた。唸りを上げ、扉が全開になる時を待っている。

 あれが解き放たれたら、学院は終わる。だが間もなく自分も消える。もう何も出来ない。

「やめろ……やめてくれええ!!」

 扉が開き切る瞬間だった。

 金色に輝く一条の光が眼前を擦過した。拡散しながら縦貫する閃光は、赤い霧をことごとく晴らしていき、学院をあるべき景色の中へと引き戻していく。

 気付けば煉獄の門は消え、逆に消えていた人達は再び姿を見せていた。

「も、戻った。今の光は一体?」

 光が伸びてきた方向に視線を向ける。

 フードを被ったあの黒づくめ達がグラウンドに立っていた。その手には一つの皿。そこに乗っていたのは、金色の光を放つオムレツだった。

 いつの間にか消滅し、いつの間にか帰還していた調理部部長のニコラスが言った。

「あの人達が救ってくれたのか。やっぱり頼んでおいて正解だった……」

 言い切って、そして気を失う。

 すたすたと乱れなく歩いてくる二人。どこか見覚えのある歩き方だった。

 今の今まで何が起こっていたのか、よく分かっていないらしいアリサとフェリスの前までくると、二人はそのフードをばさりと脱ぎ捨てる。そして楚々とした佇まいを変えることなく、一言こう告げた。

「そこまでです、お嬢様方」

 ラインフォルト家とフロラルド家の使用人――シャロンとサリファである。

 

 

 チーム名『S/Sメイダーズ』。

 もちろん二つのSはシャロンとサリファを意味している。

 彼女達がトーナメント優勝者に立ちはだかる、調理部が用意した最後の刺客だった。

 身内の登場に納得していなさそうなアリサとフェリスに、それぞれのメイドさん達は言う。

「うふふ、アリサお嬢様。決勝まで勝ち進むなんて、ずいぶんとお料理が上達しましたこと」

「フェリスお嬢様。危うくフロラルド家の存続が危ぶまれる事態に陥るところでした」

 確実に含みのある声音。一枚裏のありそうな穏やかな笑み。物言いたげな視線が各々のお嬢様達を射抜く。

「な、なによ。何が言いたいわけ?」

「サリファもですわ。私何も聞いておりませんでしたけど」

 負けじと睨み返すアリサ達。

「さあ、予定通りエキシビジョンマッチを始めましょうか」

「遠慮の一切は無用にございます」

「上等よ!」

「ですわ!」

 対峙する四人。そこへ遠慮がちにトワが近付いてくる。

「えーと、皆さん? 盛り上がってるところ申し訳ないんですけど、審判できる人がもういなくなっちゃったので、勝負とかはもう無理じゃないかなーなんて?」

「あら、そんなことありまんせんわ」

 にこりと笑んで、シャロンは言った。

「私達の前にいらっしゃるではありませんか」

 

 

 少しして、泣きそうな顔で審判席に収まるトワの姿があった。

 両足は震え、逃げ出したい衝動に駆られていたが、生徒会長を務める彼女の責任感はそれを許さなかった。倒れる直前のナイトハルトと同じ心境である。

「うう……」

 力なく目を伏せると、今までの人生が高速でスライドされていく。これが走馬灯。生き残るための情報検索反応。しかし十八年という人生を振り返ってみても、この状況から脱する術は見つからなかった。

 コトン、と何かが置かれた音で再び目を開ける。

 卓上にグラスが二つ並べられていた。

「……あ、もう出来たんだ」

 トワがエキシビジョンマッチのお題としてオーダーしたのは『ドリンク』だった。これなら余計な調理をしなくて済むし、試食に比べて試飲の方がダメージは少ない気がしたからだ。

 片方のグラスを見る。

 澄んだ黄色をしたミックスジュース。パイン、レモン、オレンジ、隠し味にはハチミツ。甘く香しい匂いが鼻先をかすめ、思わず頬が緩んでしまった。

 もう片方のグラスを見る。

 淀んだ赤色をした謎の混濁液体物。もう何が混ざっているかもわからない。隠し味が隠れておらず、全ての食材が激し過ぎる主張をしている。苦く焦げ付いた臭いが鼻先をかすめ、思わず頬が引きつってしまった。

 どっちがどっちのドリンクを作ったのか、聞かなくても分かる。

 シャロンが言った。

「日々お疲れでしょうから、優しい甘さでお体を休めて下さいませ」

 青チーム『S/Sメイダーズ』の“癒しのフルーツジュース”である。

 アリサが言った。

「日々お疲れでしょうから、色んな栄養を取って体調を崩さないようにして下さいね」

 赤チーム『特攻お嬢様』の“元気の出る野菜ジュース”である。

「う、うん。二チームともありがとう」

 トマトや赤ピーマンをジューサーにかけているのは見えたから、野菜ジュースが赤いのは分かる。しかしこれを飲むことで、逆に体調を崩してしまいそうなのは気のせいか。

 トワは先にフルーツジュースの入ったグラスを手に取った。本来ならどうみても苦そうな野菜ジュースを先に飲み、口直しに後でフルーツジュースという流れの方が良かったのだが、いきなり赤い方を飲むには心の準備が出来ていなかった。

「ん……」

 コクリコクリと口中に運ぶ。爽やかなレモンとオレンジの酸味が拡がり、パインとハチミツの上品な甘さが一体となって、乾いた喉を潤していく。口当たりも柔らかく、溜まった疲労と緊張が溶けて流れていくようだった。

「お、おいしー!」

 思わず声に出た。嬉々とした様子も見せず、シャロン達は丁寧に頭を下げる。

 そして、次である。

 野菜ジュースとやらが入ったグラスを手に取った。少しだけ嗅いでみる。

「ん!?」

 とりあえず分かるだけの野菜は、トマト、赤ピーマン、赤カブ、赤キャベツ、ニンジン、他にもたくさん入っているようだったが、一瞬で判明できたのはそれだけだった。どうやら赤い野菜類で統一してきたらしい。正直、このくらいなら問題ない。特有の苦みはあるだろうが、一般の野菜ジュースと内容的に大差がないからだ。

 おそらく問題があるとすれば、繋ぎに使っている調味料だ。鼻を突くようなすえた臭い。元気が出るというコンセプトからか、多分酢を入れている。あと、こう、何かの出汁も入っている気がした。

「じゃ、じゃあ。こっちも頂くね?」

 一口。一口でいいのだ。舐める程度でも判定は下せる。

 グラスを傾け、ほんの少量、舌の上に赤い液体を乗せた。ごく微量の一口である。しかしそれは甘すぎる判断だったと、すぐに後悔することとなった。

 小さな体を電流が駆け抜ける。意志とは関係なく背が仰け反り、指先が痺れだした。

「ひゃあ!?」

 苦い、苦い、苦い。多種多様な苦味が口の中で踊り回る。靴の裏に苦味を塗りたくって、舌の上で激しいステップを踏まれている心地だった。衝撃があごにまで伝わってくる。

 その上、辛い。さっきは分からなかったが、赤い野菜ということでトウガラシも入れてきていたのだ。

 このチームはどうしてここまで辛み成分を執拗に投入してくるのか。もしかしてデトックス効果を狙っているのだろうか。発汗作用も度が過ぎたら脱水症状を引き起こすと言うのに。

 意識を失う前に、ボタンを押さなくては。悩むまでもない。押すのはシャロン達、青い方のボタンだ。

「は、判定……え?」

 しかしおかしい。どちらのボタンも赤色だ。いや、視界の全てが赤く染まっている。このままではどちらが青いボタンかが分からない。右か、左か。どっちだ。

「ん、んー……」

 確か右。右だった気がする。トワは朦朧とする意識の中で、手を右側のボタンへと伸ばす。そこに手を触れ、押し込もうとした瞬間、

「違う! そっちじゃありません、トワ会長!」

 リィンの焦った声が耳に届き、瀬戸際で手の動きを止めた。しかし、それ以上は体がいう事を聞かなくなった。力が抜け落ち、肘が卓上に付く。重力に引かれるまま、手がボタンを押さえようとする。せめてボタン上から手をずらさねばと思った矢先、指先が痙攣したように震え出した。

 カカッ、カカカッと、望まぬ赤いボタンを指が何度も連打しながら、トワの意識は遠退いていく。

「あら」

「まあ……」

 シャロンとサリファが困ったように首を傾げ、

「勝ったの?」

「ふふん、当然ですわ」

 アリサとフェリスが勝利を手にした。

「ああ……」

 離れた所で顛末を見守っていたリィンが膝を付く。

 長きに渡る死闘を制した『特攻お嬢様』には、三々五々に残っていた数少ないギャラリー達から、乾いた拍手がまばらに贈られるのだった。

 

 

 

 ――後日談――

 

 それから数日後のこと。

 保健室送りにされた大勢の人たちは無事回復し、野戦病院と化していた保健室もすっかり日常の様相を取り戻していた。

「優勝しちゃいましたわね」

「ええ」

 騒動の中で完全に忘れ去られていたが、優勝者には学生食堂の無料券――その三か月分が送られる。金銭面では困ることがまずないアリサとフェリスだが、せっかくもらったものだしと、食堂まで足を運ぶことにしたのだった。

「料理って難しいですけど、楽しいですわ」

「そうね。私も本格的にシャロンに教わってみようかしら」

 男子たちにとっては幸いな事だったが、クロウが懸念していた厨房を女子達が占拠するという事態にはならなかった。もっともラウラだけは今まで通り料理作りに勤しみ、厨房に入り浸っているが。

「……うん、私だって……」

 アリサは思案顔でグラスのストローを口にする。頼んだのはオレンジジュースだ。それを眺めながら、フェリスが言った。

「でも作った後は食べてもらわないといけませんわ」

「それは問題ないわよ」

 アリサは試食相手の顔を思い浮かべた。

 頼めばそれくらいは引き受けてくれるはずだ。というかラウラの試食相手は務めているのだ。自分の頼みを受けない道理はない。

 もしラウラのだけで、自分のは受けてくれなかったら……などと小さな不安はよぎったが、それはさすがにないだろうと思い直し、アリサはもう一度オレンジジュースを喉に通した。

「誰かあてがありますの?」

「まあ、一応ね」

「あら」

 ふーん、と適当な相槌を打って、フェリスはその顔を注視する。

「それはアリサの料理を食べてくれる人? それとも食べて欲しい人? どっちですの?」

 思わずオレンジジュースを吹き出しそうになる。微妙なニュアンスの言葉だ。

「な、何を言っているのよ! ただ時間がありそうだし、そういう協力してくれそうだし、色々と感想も言ってくれそうだし。だから――」

「だから?」

 アリサは赤くなった顔をうつむけた。少しの沈黙の後で、

「……食べて欲しい人……だと思うわ」

 

 

 

 ~FIN~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――おまけ――

 

「昼食を一つ頼む」

 ガレリア要塞、その食堂。

 雑多な喧騒が溢れかえる中、ナイトハルトは厳かな声音で告げた。まるで墓前に立った時のように、粛々とした態度である。

 程なく、受け取り口からトレイが手渡された。士官であっても、基本的には一般兵士と同じメニューを食べる。一応栄養士が献立を考えるから、必要な栄養素が不足するということはないが、今日も変わり映えないのないラインナップだった。

 席に関しては士官用がある。何人もが肩を並べる長テーブルではなく、数人で囲むような丸テーブルだ。

 いつもの場所に赴き、卓上にトレイを置いた。

「ふう、頂こうか」

 椅子に腰を預け、フォークを手に取った。

 塩辛いコンビーフ。味気のないコッペパン。根菜と豆類のスープ。あとはサラダと小鉢が数品目。

 決してうまくはない。飯がまずい軍隊は強いという俗説があるが、軍事国家であるエレボニアでもさすがにそれは俗説止まりと分かっている。

 味の改善は出来そうなものだが、なぜそれを積極的に実施しないのか、実はナイトハルトにもわからなかった。意外と根深い軍の伝統がそうさせるのか、あるいは質素倹約で己を律するという考えに基づくものなのか。

 考えても答えが出るわけではないが、しかし確実な事は一つ。結局のところ、この飯はまずいということだ。

「うむ」

 コンビーフを口に入れる。辛い。スープをすくう。これは薄い。コッペパンをかじる。カスカスで口中の水分が奪われる。

「相変わらずだな」

 まずい。まずいのに――。 

 どうしてこんなに安心するのだろう。じんと胸と目頭が熱くなり、生きているという実感が湧いてくる。

 食べられる料理というのが、これほどありがたいものだとは思わなかった。

 小鉢を手に取った時、

「これはないよな。ったく厨房は手抜いてるんじゃないか」

「はは、まったく。非番日の外食が待ち遠しいよ」

 そんな声が聞こえてきた。見慣れない顔が二つ。所属は分からないが、少なくとも第四機甲師団ではない。トレイを返却口に戻そうとしているが、何気なく見てみるとコンビーフもパンも半分以上残っているし、スープに至ってはほぼ手つかずだった。

 聞いていれば、献立に関する不平不満を垂れ流している。

「待て、貴様ら」

 気付いた時には立ち上がり、そう言っていた。

「え、あ! ナ、ナイトハルト少佐!?」

 その二人は即座に踵を合わせ、トレイは手にしたまま直立不動の姿勢を取る。ナイトハルトの只ならぬ雰囲気を感じ取ったのか、肩もぎこちなく強張っていた。

「貴様ら新兵か? いや、そんなことはどうでもいい」

 鋭い視線がトレイを射抜き「なぜ、そんなにも飯を残す。体調不良か?」と険しく問いただすと、「も、申し訳ありません」と二人は蒼白になった顔で謝罪を述べた。

「残すな! 全部食え! トレイを空にするまでそれを返却することは許さん!」

「イ、イエス・サー!」

 鬼気迫る怒声が飛び、騒がしかった食堂は一瞬で静かになった。

 食事を残そうとしていた他の者も、一心不乱に残りを口へとかきこんでいる。

 かちゃかちゃと食器の音しかしない食堂で、ナイトハルトは強く軍靴の踵を打ち鳴らした。

「伝達事項! 全員傾聴!!」

 その場の全員の姿勢がビシリと伸びる。

「今後一切の食事残しは認めん。これを破った場合、この私が直々に厳罰を下す。分かったか!」

『イエス・サー!』

「食事とはありがたいものなのだ。以後、感謝の気持ちを持って、これを食せ!」

『イエス・サー!!』

 この日以降、ガレリア要塞では食事の時間になる度に、食堂の片隅で常に目を光らせるナイトハルトの姿があったという。 

 

 

 

 ~END~

 

 

 

 




後編もお付き合い頂きありがとうございます。

詳しくはないのですが、軍用食品とかって国によってはえげつない味みたいですね。日本のは美味しいらしいですが。というか、そんなのどこで手に入るんだろう。

本作品ではオオザンショを贄にすることで、煉獄への扉が開きます。
図式ではこうですね。

①失敗料理を量産する。②それを誰かに食べさせる。③苦しみと悲しみがその場に蓄積される。④オオザンショを生贄にする。⑤蓄積度合に応じて煉獄へ繋がる

こんな感じです。④が重要なのです、④が。


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そんなトリスタの日常

 

《学院長のヒゲ》

 

 学院長室の椅子にヴァンダイクが収まり、机を挟んでサラが立っている。

「先月の特別実習での報告は以上となります」

「ふうむ、なるほどのお」

 渡された報告文書に目を通しながら、ヴァンダイクは立派なあご髭をしゃくった。

 何気なくサラが言う。

「ずいぶんとそのおひげも伸びましたね」

「はっはっは。そうかね」

 ヴァンダイクは豪快に笑ってみせた。

「そろそろ、もう一本筆を作ろうかの」

「……え?」

 

    

    ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

 《固い意志と硬い石》

 

 一年Ⅳ組の教室に赤い夕日が差し込んでいる。

 放課後、教室に残っていたのはコレットとカスパルだった。

「………」

「………」

 微妙な距離感のまま、二人は相対している。諸々の誤解を解きたいカスパル。露骨に警戒するコレット。真剣勝負の間合い取りのような緊張感が、なぜかそこにあった。

「コレット……」

「……なに」

 方や真摯な眼差し。方や警戒の半眼。

 先に動いたのはカスパルだった。早く誤解を解きたい。また間の悪いヴィヴィに見つかる前に。その思いが焦りの一歩を踏み出させた。

「聞いてくれ。俺は――っ!?」

 前置きも段取りも必要ない。ただそうなることが定められていたかのように、カスパルは足をぐねらせた。

 立ち並ぶ机にひたすらぶつかりながら、けたたましい音を鳴らして、倒れ込むようにコレットにドタドタと接近する。

「いやあああ!!」

 すばやく制服のポケットの手を差し込み、何かを取り出すコレット。

 今日も今日とて“異様に硬い石が”カスパルの顔面に炸裂する。

 夕日に赤く染まった教室で、一匹のカサギンがむなしく散った。

 

 

        ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

 

《ピンキーツインズ》

 

「ねえ、ヴィヴィ」

「なあに、リンデ」

 同じ顔、その上声音も似ている双子姉妹は、そろって学院からの帰路についていた。お互いの部活は違うものの、今日はたまたま終わる時間が重なり、正門前で出くわしたのである。

 姉であるリンデは問う。

「最近、また私に扮装していたずらとかしてないよね?」

 妹であるヴィヴィは答える。

「したけど」

 あまりにもあっさりとした返答に、「やっぱり」とリンデは肩を落とした。

「最近、私に対するガイウス君の態度がぎこちなくなったというか。むしろ気を遣われているというか。避けられてはないんだけど微妙な距離感というか……」

「ふふ、リンデったら自意識過剰なんだから」

 クスクス笑うヴィヴィに、リンデはさらに問う。

「ねえ、怒らないから何やったのか教えて」

「いいわよ。まずはね。リンデのふりして美術部のモデルになって、ガイウス君の前で物凄いセクシーなポーズを取ってみたの。石像になったみたいに固まって、ペンを落っことしてたわね、彼」

「……そう」

 リンデは平静だった。このくらいは予想の範疇内である。

「あとはすれ違いざまに今日の下着の色を耳打ちしてみたり、胸のサイズが大きくなると報告しに行ったり。あ、もちろんリンデのをだから。動揺したのかしら。そのあと壁に激突してたわね、彼」

「………」

 表情が硬くなり、申し訳程度に浮かべていた笑みが消えた。

「そうそう、ガイウス君が二年の先輩にプールで泳ぎを教えてもらってたことがあったんだけど、際どい水着を着てプールサイドに登場してみたの。こっちに気付くなり、いきなり沈んじゃったわ、彼」

「……ヴィヴィ……あなた」

 ふるふると全身を震わすリンデ。もう怒りなのか、悲しみなのか、混然とした感情をそのまま瞳に映し、狼狽に揺れる視線をヴィヴィに注いだ。

「ごめんねー。でも怒らないんだよね?」

「そんなわけないでしょーっ!」

 笑って逃げ出すヴィヴィと泣いて追いかけるリンデ。

 顔と声以外は、どこまでも正反対の双子姉妹だった。

 

       ☆   ☆   ☆

 

 

《白執事と黒メイド 前編》

 

「……ふう」

 雑貨屋に並ぶ野菜類を眺めては、ため息を繰り返している。浮かない顔をしていたのはハイアームズ家の執事、セレスタンだった。

 白菜を手に取っては戻し、ニンジンを手に取っては戻し、その都度重い嘆息をもらしている。

「あら、セレスタン様?」

 呼ばれて振り返ると、背後にほほ笑むメイド姿の女性が立っていた。

「ああ、これはシャロンさん。気付きもせず失礼をしました」

 セレスタンは慣れた動作で丁寧に頭を下げる。応じるシャロンも買い物カゴを片手に、粛々とした一礼を返した。

「シャロンさんもお買い物ですか?」

「はい、お夕食の買い出しに。セレスタン様もでしょうか? 考え事をしていらしたようですが」

「いえ。普段の買い出しはサリファさんとロッテさんにお願いしているのですが――」

 ためらいつつも、結局セレスタンは続く言葉を口にした。

「実はパトリック坊ちゃまのことで悩み事が」

 仕える主の内情を口に出すのははばかられたが、全てはパトリックの為を思えばこそである。

 それに使用人としての立場同士、シャロンが他言するとも思えなかった。

「坊ちゃまは好き嫌いが多いのです。中でも特にピーマンが」

「それで食材を見て頭を抱えておられたのですね」

「私も一応料理の心得はあるつもりですが、しかし苦手なものを美味しく召し上がって頂くほどの技量はなく、何かいい方法はないものかと」

「まあ……そうでしたか」

「お恥ずかしい限りです」

 目を伏せるセレスタン。少し考える素振りを見せてから「もし宜しければ」とシャロンはおもむろに提案した。

「僭越ながら、私が料理の手ほどきをさせて頂きましょうか?」

 

      ▽  ▽  ▽

 

 

 

 

《そんなレグラムの一日》

 

「穏やかな日和でございますな」

 レグラム、アルゼイド家の屋敷。エベル湖を一望できるテラスにて、執事のクラウスはカップに紅茶を注いでいた。

「ふむ」

 応じながらカップを手に取り、ヴィクターはそれを一口すする。視線を湖面の向こう側に伸ばすと、ローエングリン城が荘厳な佇まいを見せていた。今日は霧がないから明瞭にその全容を捉えることができる。

「今頃お嬢様は何をしておいででしょうか」

「勉学に武の修練、学友達との語らい。あのラウラのことだ。充実した日々を送っていよう」

 娘を想う父の声音である。

「ですが、気がかりなことも」

 ピンと背を伸ばした待機姿勢をとって、クラウスは思わしげにそう重ねた。

 カップを卓上に置いて「ほう、なんだ?」と目線を戻すと、「おそれながら」と前置きして老執事は言う。

「お嬢様ももう十七でございます」

「うむ。月日の経つのは早いものだ」

「つまりはお年頃でございます」

「……どういう意味だ?」

 ピクリと眉根が寄り、察した表情に刹那、影がよぎる。

 物寂しげな瞳を湛え、クラウスは空を振り仰いだ。

「たとえば想い人など――」

 言葉の最中で突然ティーカップが砕け散る。残っていた中身ごと飛散し、血痕のような染みが辺りに量産された。さらにテラスへ続く大窓にビシリと亀裂が入り、細かなガラス片がパラパラと地に落ちた。穏やかだった湖面は瞬時にその様相を崩し、激しい白波と水飛沫を荒立たせる。上空には暗雲が立ち込め、遠くで雷鳴が轟いていた。

「お、おお……」

 さしものクラウスもたじろいだ。

 殺気を孕んだ闘気。吹き荒れる強大なオーラ。それを発したのは言わずもがなヴィクターである。

「想い人……と言ったか?」

 ザパーンと波が打ち寄せ、ドカーンと雷が落ちる。

 屋敷地下の宝物庫では、主の変容に呼応するかのように、宝剣ガランシャールが独りでに戦慄(わなな)いていた。

「これは失言を……どうか気をお収めくださいませ」

 物怖じしたのも一瞬、すぐに平静の面持ちを取り直し、クラウスは深く頭を下げた。

 じきに静けさが戻ってくる。湖も空も先程とは打って変わって静かなものだった。

 浅く嘆息し、ヴィクターは言う。

「いや、よいのだ。男手で育てたとはいえ、そなたの言う通り年頃には違いない。しかしラウラが見初めるような男がそうそうおるとも思えんが」

「は。そういえば以前実習で来られたあの黒髪の少年などはどうでありましょうな。ずいぶん親しげに会話を交わし、お嬢様も心を許しておられるようにお見受けしましたが」

「ほう」

 また湖面が荒れ、雷が鳴る。今日のレグラムは天気が崩れやすかった。

 ――閑話休題。

「リィンだったな。あの少年の名は」

 しばらくの後、波が収まった頃合いでヴィクターが言った。

「は、礼儀正しく、剣の心得もございました」

「確かに見どころはある。しかし見極める必要もある」

 そう告げて、クラウスの顔を見た。

「かしこまりました」

 それだけで察したらしいクラウスは、両の手を打ち鳴らす。どこに控えていたのか、あっという間にテラスは現れた門下生達でいっぱいになった。

「“アルゼイドの試練”だ」

 何の前置きもなくヴィクターが放った一言は、その場の全員を震撼させた。

 それは麗しの子爵令嬢を守る為、あるいはその隣に立つことが相応しいのかを試す為の、全門下生勝ち抜き戦のことだった。勝ち進む毎に上段者が待ち構えていて、もちろん最後はクラウスとヴィクターが控えている。

 その本質を有体に言えば、試練の名を冠した公開処刑だ。

「つ、ついにこの時が……」

「何という事だ」

「落ち着けい。全てはこの時の為の修練ではないか!」

 ざわめく一同。古参の者であれば小さな頃からラウラを知っているし、新参の者であれば凛とした立ち振る舞いに憧れる者も多い。

 どこの馬の骨とも知れん輩から、大事なお嬢様を守らねばならない。アルゼイドの名の重みを知らしめてやらねばならない。

 一人が言う。

「して、その不届き者の名は?」

 

 しばらくの後、練武場に凄まじいまでの気迫がほとばしっていた。

「リィン、コラァアア!」

「せいやあ、リィン! せいやああ!」

「リィン、オラア! リィン、テメエ!」

 轟音が響き渡り、呪いの言葉が随所に挟まれる。お嬢様に言い寄る悪い虫に見立てた稽古用の巻き藁に、木剣による容赦ない打ち込みが何度も何度もめり込んでいた。

「次にノコノコ顔を出したが最後、五体満足でレグラムを出れると思うなよ! ええ、リィンさんよお!?」

 それからというもの、門下生達の殺気立った掛け声が、昼夜問わず途絶えることはなかったと言う。

 

 

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

《M/M/M/Mオペレーション》

 

「作戦があるんだけど!」

 昼休みの二階廊下。唐突に投げよこされた声に、エリオットはびくりと背後に振り返る。

 珍しく真面目な顔をしたミントが立っていた。

「えっと、何の作戦?」

「ふふーん。今日の放課後にね、メアリー教官とマカロフ叔父さんが《キルシェ》で一緒にご飯を食べるんだって」

「へえ、そうなんだ」

 何でも誘ったのはメアリー教官からで、生徒についての悩みを聞いて欲しいらしい。叔父であるマカロフに授業の質問をしに言ったところ、偶然にその会話を聞いたとのことだ。

 ミントはこの機に二人の仲をもっと進展させたいのだと言う。

「というか何で僕も協力する前提なんだろう……それで作戦って?」

「うん、まず《キルシェ》に潜入して、いい感じの雰囲気になった時に猛将エリオット君が荒々しく乱入するの。それでマカロフ叔父さんがメアリー教官を男らしく助けるんだよ。どうかな?」

「どう転んでも僕だけがよくないことになりそうなんだけど」

 しかしそんなエリオットにはお構いなしに、ミントは嬉々とした様子だった。

「それじゃあ、今日の放課後に《キルシェ》のそばで待ち合わせ!」

 こうして、M(マカロフ)とM(メアリー)をくっつける為の、M(ミント)とM(猛将)の作戦が始まった。

 

 そういうわけで放課後である。

「さっそく何か話してるね」

「うん、でも本当にやらないとダメなのかな……」

 エリオット達はすでにキルシェの隅の席を陣取っていた。マカロフ達はそこから反対側に位置するテーブルにいる為、こちらには気付いていない。しばらく二人は様子を見ることにした。

 マカロフは普段通りだが、メアリーはどことなし笑顔が多い気がする。談笑を挟んだりして、楽しげな様子だ。会話も途切れていないようだし、傍目に見てもいい雰囲気である。

「ねえ、これ僕達が余計なことをしなくてもいいんじゃないかな」

「むむむー」

 しかしミントは首を横に振る。

「叔父さんはボクネンジンだもん。後押しがいるよ。絶対いるから」

 不意にメアリーの表情が暗くなった。今から例の相談ごとらしいが、思ったよりも深刻な話なのかもしれない。

「エリオット君、今しかないよ!」

「え、ええ? このタイミングで? どうしたらいいのさ!?」

 ミントに急かされ、とりあえずは席を立つエリオット。

 何をしたらいいのかも分からないまま、挙動不審にマカロフ達の席に近づいて行く。

「うわっ!?」

「あっ!」

 もたもた歩いていたからか、料理を運んで来た店主のフレッドとぶつかってしまった。トレイの上に乗っていた器がぐらつき、床に落ちそうになる。

 とっさにエリオットは器をつかんでそれを防ぐが、最悪なことに器の中身はできたてのグラタンだった。

「熱っ!?」

 思わず手を離す。必然、トレイの外に飛び出すグラタン。落としてはいけないと判断し、即座にエリオットは空中で器をキャッチし――

「あ、あつつつ! あつっ! 熱い!」

 何度も取りこぼしそうになりながら、バタバタとマカロフ達がいるテーブルへそれを運び――

「ああああ!」

 叩きつけるように、激しく器を卓上に置いた。その際に熱せられたクリームソースが飛散し、エリオットの顔やら手首やらに付着する。

「うわ! うわああ! 熱いよっ!」

 ドタドタと跳ね回るエリオット。その様を見て、メアリーが席から落ちんばかりに仰け反った。

「エ、エリオットさん!? マカロフ教官、彼が今話していた生徒です。普段はとても温厚なのに、突然猛将になるみたいなんです」

「おお……こりゃ想像を絶する猛りっぷりですな」

 ここでミントが現れる。

「叔父さん! ここは私に任せて、早くメアリー教官を安全な場所に連れて行って!」

「あ、ミントか? お前どうしてこんなとこに」

「早く! 猛将が襲ってくるよ! 欲望のケダモノがメアリー教官を狙ってるよ!」

 状況が飲み込めないまま、マカロフ達は《キルシェ》から撤退する。というか、させられる。

 しばらくして、店内には静寂が戻っていた。

 立ちすくむミント。へたり込むエリオット。双方、息は荒かった。

「作戦成功……かな?」

「失敗だと思う……色々と」

 

 

       ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

《白執事と黒メイド 中編》

 

 それから何度かシャロンによる料理教室が、第一学生寮の厨房で行われた。もちろんセレスタン一人の為にである。

「こうですか? あと塩加減はどのくらいで……」

「丁度良い具合ですわ。さすがはセレスタン様」

 変わらない微笑をシャロンは浮かべている。内心でセレスタンは驚いていた。

 ここは貴族生徒達が住まう専用学生寮である。例えばロッテなんかはここに来た当初、緊張のあまり、まともに仕事の手が進んでいなかった。その心境は理解できる。必要以上に肩肘を張り、失礼をしまいと意識していたのだろう。

 だがこのシャロンはというと。

 丁寧さこそあるものの、彼女から一切の物怖じは感じなかった。堂々とも違う。あくまでも自然。そこにいることが当たり前のように、気づけばふっと場に溶け込んでいる。

「あら? 何か私の顔についておりますでしょうか」

「あ、いや。失礼。えーとコショウは――」

 知らずの内に見つめていた視線を慌てて逸らしながら、不思議な女性だと改めてセレスタンは思った。

 

 それから数日後のこと。

「シャロンさん、聞いて下さい。ついにパトリック坊ちゃまがピーマンを召し上がられたのです」

 いつものように第一学生寮の厨房を訪れたシャロンに、セレスタンは嬉しそうに告げた。刻みに刻んだピーマンを香草スープに隠して独特の苦みと匂いを消し、丁寧な味付けを施すことによって、まったく悟ることなくパトリックはそれを完食したのだった。

「まあ、それはおめでとうございます。私も嬉しいですわ。ただ――」

 物憂げな表情を浮かべて、シャロンは続けた。

「ここでセレスタン様と一緒にお料理を作ることは、今日が最後になってしまうのでしょうか」

「あ……」

 パトリックがピーマンを食べたなら、これ以上シャロンに協力は仰げない。そもそも彼女は自身が抱える第三学生寮の仕事の合間を縫って、わざわざここまで足を運んでくれていたのだ。

「ふふ、セレスタン様なら私などいなくても、何でも作ってしまいそうですけど――」

「シャロンさん」

 気付いた時には、もう口を開いた後だった。

「今度一緒に出掛けませんか? その……お礼がしたいのです」

 

 

      ▽  ▽  ▽

 

 

 

 

 《ドリームオブサイズ》

 

 またこの夢だ。見るのはこれで二回目。一回目は例の幽霊調査を終えた日だったと記憶している。

 目を開くと、あの女の子が僕の顔をのぞき込んでいた。

「おにいさん。また会ったわね」

 可愛らしい声。可憐な容貌。すみれ色の髪と白いドレスが印象的だ。

「ねえ、おにいさんのお名前は?」

「僕はマキアス・レーグニッツだ。君は?」

 彼女にもその問いを返してみたが、「ひーみつ!」と言ってそっぽを向かれてしまった。何とも捉えどころのない不思議な女の子である。

 僕は横たわっていた。身を起こすと、辺りは一面の花畑。トリスタ近郊にこんな場所があっただろうか。いや、夢だから何でもありなのかも知れないが。

「ここはどこなんだ?」

「それもひーみつ」

 くるりと回ってみせ、いたずらっぽい笑みを見せる少女。

 唐突に彼女は言う。

「ねえ、遊びましょう?」

「いや、しかしだな」

「ダメ?」

「あ、いや。わかった。少しだけだからな」

 妙に引き込まれる瞳。正面切って断ることは出来なかった。まあ、ままごとにでも付き合えば納得してくれるだろう。漠然とそんなことを思っていたら「鬼ごっこがいいわ」と楽しそうに少女が微笑んだ。

「なんだ。意外と活動的じゃないか。僕が鬼か?」

「ううん、おにいさんが逃げる役」

「僕は手を抜かないぞ?」

 そうは言いつつも適当な所で捕まってあげるつもりだった。さすがに本気で逃げおおすほど、大人げないつもりもない。

「ええ、すぐ終わったらつまらないし」

「ははは、言うじゃないか――……え?」

 目を疑った。というか言葉を失った。少女はどこから取り出したのか、身の丈よりも巨大な大鎌を携えていたのだ。禍々しさを湛える鎌は、死神のそれを連想させた。

「じゃあ、三秒数えたら追いかけるから」

「い、いやいや、ちょっと待ってくれ! というか三秒!?」

 混乱の内にカウントダウンは終わり、同時に銀色の閃きが僕の鼻先をかすめていく。

「あ、外しちゃった」

「うっ、うわああ!」

 はらりと落ちる髪が視界に踊り、僕は一目散に走り出した。

「うふふ、足早いのね」

 大鎌を持ったまま、器用にスカートの裾を持ち上げて、すみれ髪の少女が追い駆けてくる。

 最初の余裕など、もはやない。さらに全力で速度を上げて、僕は花畑を抜けた先にあった森の中へと逃げ込んだ。

「ここなら一息つけるか……」

 大きな木の裏に隠れ、背中を太い幹に預ける。

 何とか頭を落ち着かせ、状況の整理を試みた。

 これは夢。それは間違いない。前にも一度だけあの少女が夢に出てきたことはあったが、現実の間に出会った覚えはない。

 そして今、遊べとせがまれて応じただけなのに、なぜか命を質に入れた鬼ごっこをする羽目になっている。

「なんて夢だ。最近疲れているのか?」

 悪夢は目を覚ませば終わりなのだが、あいにくと目の覚まし方が分からない。腕をつねってみたりしたが、痛さはある上、一向に目が覚める気配もない。むしろこっちが現実のようなリアリティさえある。

「うーむ、どうすれば」

 もしかしてあの子が満足すれば、この夢は終わるのだろうか。

 ふとそんな事を思った時、遠くでヒュンと風を切る音が聞こえた。

「なんだ?」

 それはヒュンヒュンヒュンと断続的に鳴り、だんだん風切音も明瞭になってくる。凄い速さで何かが近付いてきているようだが――

「――っ!?」

 ぎくりとしてとっさに身を屈めた。

 その直後、頭のすぐ上を『ザンッ』と鋭い音が通り抜ける。あの大鎌が激しく回転し、触れる全てを刈り取りながら飛んで行くのが見えた。あと一秒反応が遅れていれば、確実に笑えない事になっていただろう。

 メキメキと巨木が倒れ、辺りの土くれや落ち葉を巻き上げた。

「うふふ。おにいさん、みーつけた」

 倒れた木の向こうで、少女が無邪気に笑っている。焦りはしたが、しかしそれは表に出さない。どうにも彼女はこっちの反応を楽しんでいる節がある。

 それに状況は些か安堵できるものになっていた。なぜなら、ぶん投げたのだろう、その手元に大鎌が無いからだ。

「待つんだ。鬼ごっこはやめて、何か別の遊びをしないか」

「んー、別? そうねえ」

 その提案に、彼女はこう返してきた。

「だったら、お人形遊びはどうかしら」

 柄ではないが、平和が一番。僕は力強くうなずいた。

「うふふ、よかった。それじゃ始めましょ」

「あ、待ってくれ。僕は人形を持っていないぞ。それに君だって何も持っていないようだが」

「あら、あるわよ」

「どこに?」

 少女が言うと同時、ゴゴゴゴと上空で轟音が響く。見上げてみると、確かに人形はそこにいた。

 ひたすら巨大な、機械人形が。

 ズズンと重い音を立て、そいつは地に降り立つ。衝撃が駆け抜け、滞留する土埃を残らず吹き飛ばした。

 凄まじいの一語だった。

 ワインレッドで統一された緋色の装甲。大きくせり出したショルダーパーツ。随所に垣間見える物々しいバーニア。

「お願いね、パテ――マ――」

 その人形の名を呼んだみたいだったが、巨体が身じろぎする駆動音で、はっきりとは聞こえなかった。

 大きな両肩が稼動し、その突端を僕に向ける。あらわになる合計四門の砲身。青白い光の粒子がそれぞれに収縮していき、大気が鳴動し始めた。

「や、やめろ!」

 撃ってくる。本気だ。直感が告げるが、回避する方法などありはしない。

 しかし、これも直感だった。ここは夢の中。しかも自分の夢。強く思い描けば、それは実体化されるのではないか?

「くっ!」

 機械人形の双眸が光った。

 猶予はない。何をイメージする。こちらも機械人形を出すか? いや、今一つイメージが湧かない。そうだ、巨大なチェスの駒を出して盾にしてみよう。これもダメだ。防げる気がしない。

「うふふ、発射」

 少女が可愛らしい声で告げると、相対する四つの砲身から光がほとばしった。

 もう、やけだ。どうとでもなれ。

「うおおおお!」

 咆哮と同時に僕の眼鏡が輝いた。レンズに光と熱が収束されていき――

「だあ!!」

 眼鏡から極太のレーザーが勢いよく照射された。本当に出てしまった。

 ぶつかり、激しく干渉し合う閃熱が、辺りの木々を薙ぎ倒し、一面を焼き払っていく。

「ぐっ!?」

 しかし相手は凄まじい出力だった。このままでは押し切られる。両踵が地面にめり込み、耐え切れない膝がガクガクと震えだした。

 イメージだ。イメージを強く思い浮かべろ。そうだ。僕は二度と、もう二度と!

「眼鏡を割られるもんかあっ!!」

 二つのレンズから放たれる極大の光が、機械人形のビームを押し返す。そのまま砲身にエネルギーを逆流させ、オーバーロードした機体が機能不全のアラートを響かせた。

「はあ、はあ……やった」

 相殺ではない。競り勝ったのだ。僕と機械人形は同時に膝をつく。森は全て焼き消え、あちらこちらで黒煙が燻っている。見渡してみれば、あの花畑もなくなっていた。

「おにいさん、すごいのね。……ふふ、やっぱり面白い」

「え?」

「えいっ」

 振り向いた時には、いつの間に回収してきたのか、少女が大鎌を振り下ろす瞬間だった。

 ガッと鈍い衝撃が顔中に伝わり、僕の見ている視界が上下で二つにずれた。

 横一線に真っ二つにされた眼鏡が、ばらりと地面に落ちる。

「あ、あああ! 僕の眼鏡が!」

「うふふ、時間切れみたい。また遊びましょう、おにいさん。次は……そうね。虹の実探しにでも付き合ってもらおうかしら」

 僕らを取り巻く景色がぐにゃりと屈曲し、少女の姿も歪みながら消えていく。

「待ってくれ、君は一体誰なんだ」

「いっぱい楽しませてくれたから、おにいさんになら教えてあげてもいいわ」

 大きくうねり、渦を巻く空間の中から声だけが届いた。

「私の名前は――」

 

 目を覚ますと、見えたのはいつもの天井だった。

「う……」

 じとりと汗が滲んだ背を起こし、ベッドに座って眼鏡をかける。まだ夜明け前らしい。薄闇の部屋の中に視線を巡らしてみた。

 整然とした室内。変わりなくそこにあるチェス盤。間違いなく自分の部屋だった。

「ふう、なんだか暑いな」

 軽く汗を拭って、もう一度ベッドに横たわった。

 二度寝するつもりだったが、またあの変な夢を見たりはしないだろうか。それが少しばかり気がかりだ。

 しかし、ふと気付く。

「そういえば……僕はどんな夢をみていたんだっけ?」

 

 

        ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

《どっぐDEきゃっと》

 

 トリスタの一角、人目に付かないその場所で、一匹の犬と猫が睨み合っていた。

「ぐるる」

 と喉を鳴らして威嚇するのはルビィで、

「ニャー」

 と意にも介さない様子なのがセリーヌだ。

 犬と猫の宿命だからか、顔を合わせるなり二匹は臨戦状態に入ってしまったのだ。

二匹の間を強めの風が吹き抜ける。どこからか飛ばされてきた編みカゴが、カラカラと乾いた音を立てて転がっていく。

 膠着は続いたが、先に動いたのはルビィだった。

 ありったけの力で吠えようと喉の奥に力を入れる。

 そんなルビィを一瞥したセリーヌは、「ニャア……」と物憂げな嘆息を吐いて、

「これだから犬は嫌いなのよ」

「!?」

 

 

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

《ぐろーす おぶ ざ はーと》

 

「ねえガイウス。どうやったら身長は伸びるの?」

 学生寮のラウンジのソファーで、フィーはそんな問いを真向かいに座るガイウスに投げ掛けた。「ふむ?」とフィーを見返したガイウスは、少し意外そうな顔をしていた。

「俺は気付けばこの身長になっていたのだ。理由は分からないが、ただノルドでは馬の世話があるから、早く寝て早く起きるという習慣があった。あまり意識をしたこともないが、今考えれば規則正しい生活というものなのかもしれん」

 健康だったから、成長が早かったのではないかとガイウスは言う。

「それは私には無理かも」

 別に不健康な生活はしていないが、早寝早起きは厳しい。早寝遅起き昼寝付きがフィーの基本ライフサイクルである。

 おもむろにガイウスは二階を見上げた。

「気になるのなら、他の皆にも聞いてみるといい。男子達は今日、それぞれの部屋にいるようだからな」

 

 

「というわけで身長の伸ばし方を知りたいんだけど」

 まずやってきたのはリィンの部屋だった。

「フィーは身長を伸ばしたいのか?」

「そういうわけじゃないけど、何となく気になって」

「そうだな……」

 しばらく考えたあと、リィンは言う。

「懸垂で棒にぶら下がってみたらどうだ。体も鍛えられるし一石二鳥だろ」

「……それだと手だけ伸びて、足は伸びないんじゃない?」

 

「身長の伸ばし方教えて」

 次はユーシスである。読書中の乗馬雑誌を閉じてフィーに目をやると、その視線を足元から頭先へと移動させた。

「ふん、諦めるがいい」

 にべもない一言だった。読書を中断させられてご機嫌ななめなのかもしれない。

「いや、何でもいいから」

「牛乳を飲め」

「………」

 あとでこの部屋にトラップを仕掛けよう。フィーはそう思った。

 

 では次にと向かったのはマキアスの部屋である。

「うーん。身長の伸ばし方か」

「マキアスなら何でも知ってそうだし」

 そう言われて悪い気のしないマキアスは「ちょっと待っていてくれ」と本棚をごそごそ漁りだした。

 程なく数冊の書籍を抱えて戻ってくる。

「では説明するぞ。メモの用意はいいか」

「え?」

 フィーの返答も待たず、本を開いたマキアスはつらつらと弁説を始める。

「まず身長が伸びるのは、骨の骨端線にある軟骨部分が増えることが要因となっている。中でも身長に関わるのが大腿骨、脛骨、腓骨頸椎、胸椎、腰椎の六種類。続いてこれらの仕組みと根拠についてだが――」

「………」

「――つまり必要なのは栄養、睡眠、運動のバランスになるわけだが、フィーの場合睡眠に片寄り過ぎているんだ。まず一日の平均睡眠を七時間から八時間に限定して、決められた時間に必要な栄養素を摂取することによって骨端線の成長を促してだな。ああ、そうだ。運動だが僕が効果的なカリキュラムを考案してみよう。まずは――」

「………」

「――これなら計算上、一年半後には一五から二〇センチの向上が見込まれるぞ。納得してくれたか……ん、フィーどこに行った?」

 マキアスが紙面から顔を上げた時、そこにもうフィーの姿はなかった。

 

「クク、最初から俺のとこに来りゃいいんだよ」

 フィーの話を聞き終わって、クロウは口の片端を吊り上げた。いかにも思惑ありげな邪悪な笑みである。

「最初に言っておくけど、私の両手両足を反対側から引っ張るっていうのはダメだから」

 以前その提案をクロウはしてきたことがある。委員長に言い付けるなどと言って凌いだが。

「ちっ。そんなことしねえよ」

 ならどうして舌打ちをするのか、そう問う前にクロウは人差し指をびしりと立ててみせた。 

「じゃあこんなのはどうだ?」

「どんなの?」

「まずお前の両手両足に磁石をくくりつける。んでベッドの頭側と足側にも同じように磁石を設置する」

「……どうなるの?」

「磁石同士が引っ張り合って、朝起きたらお前さんの身長も伸びてるってわけよ。ただ、磁石の向きを間違えると反発し合うから逆に縮んじまうけどな。クックック」

 理解した。この男は真面目に答える気がない。こっちをからかって遊んでいるだけだ。

「じゃあ今度試してみる」

 寝ているクロウに対して。

 胸の内に宣言して、フィーはその部屋を後にした。

 

 そして最後の一人。

「ねえ、エリオット。身長の伸ばし方教えて」

「……なんで僕のところに来たのさ」

 その部屋での会話は三秒で終わった。

 

 一通り男子達の話を聞き終わって、フィーはラウンジに戻って来る。

「役に立つ話は聞けたか?」

 その姿を見るなり、ガイウスが声をかけてきた。

 首を左右に振って応じ、フィーは「さっぱり」とソファーに沈み込む。

「ふふ、だろうな」

「別にいいんだけど」

 そもそも方法を知りたかっただけなのだ。身長を必要に思うのは、棚の上に保管されたお菓子を取る時くらいなので、日常生活にさしたる不便は感じていない。

「別に伸びたら伸びたでいいし、伸びなくても別にいい」

 ガイウスはうなずいた。

「ああ。あるがままを大切にするといい」

「ん、了解」

 卓上のキャンディーに手を伸ばし、包み紙をはがす。口の中に入れてコロコロと舌の上で転がしてみた。リンゴ味。甘酸っぱさが拡がっていく。

「まあ、フィーはこれから成長期だしな。気にせずとも背は伸びるだろう。全ては――」

「風の導き?」

 フィーが先に言葉を継ぐと「そういうことだ」とガイウスは笑った。

 

 

        ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

《猛将伝説 荒の軌跡》

 

[猛将は店のドアを荒々しく蹴破るなり、怯える店主に向かって轟然と告げた。

『この店で一番たぎる本を出せ!』

『ひっ、うちにこれ以上のジャンルはありません!』

 店主が金庫から取り出した秘蔵書籍を、舐めるように眺めていた猛将は、無造作にそれを手に取った。

 助かった。見逃してもらえる。

 店主がそう思った矢先、猛将は素手で雑誌をビリビリに破り捨てた。まだ開けてもいなかった袋とじが、乾いた音と共に引き裂かれ、花吹雪のように宙を舞う。

『こんなもので満足できるか! 眼鏡ボインの学級委員長はどうした! ツンツンデレデレのブロンドお嬢様もだ! 凛とした女剣士を出せ! クール&ドライのちびっ娘がなぜいない!』

 激昂し、カウンターを蹴りつける猛将。

 べコリと痛ましくへこんだ靴跡を見て、店主は理解した。

 この男は獣だ。理性という檻から解き放たれ、本能を剥き出しにした、淫猥の獣だ。

『こ、こいつはクレイジーだ。紅毛のクレイジーだ……!』

『そうさ、僕はエリオット・クレイジー! バイオリンのくびれに情欲を催す男さ!』

『ク、クレイジィーッ!』

『ハハハハハ! 六才から七十五才までは僕のテリトリー!』

 猛将の下卑た笑い声は、トリスタの町中に響き渡るのだった]

 

「うむ……『猛将列伝・序章~獣の目覚め』をようやく書き終わった。さっそく店頭販売を開始しよう」

 ケインズは上機嫌にカウンターに座る。

 ミントから『猛将列伝』が売られているとの情報を聞きつけたエリオットが、魔導杖を握りしめて《ケインズ書房》に突撃してくるのは、今から一時間後のことだった。

 

 

        ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

《委員長の占い》

 

「どうぞー」

 ノックの後で扉が開き、アリサがエマの部屋に入ってきた。

「じ、じゃあ、お願いね」

「ふふ、緊張しないで下さい」

 部屋の外では他の女子メンバーも列になって並んでいる。エマがタロット占いをできるというので、興味本位から一人ずつ占ってもらうことになったのだ。

 カーテンを閉めて薄暗くした部屋。中心に置かれた小さなテーブル。その上に何枚ものカードが並べられていく。

「では……」

 何かに導かれるようにカードを選んでいくエマ。ただならぬ雰囲気に息を呑むアリサ。

「――出ました。アリサさんは……“女帝の正位置”」

「う、うん。それで?」

「……未来を信じること。育むことが力。積み重ねる友愛。あともう少し優しくしてあげてもいい気がします」

「え、最後のなに――」

「以上です」

 

「次の方ー」

「はーい」

 元気のいい返事と一緒にやってきたのはミリアムだ。

「では……」

 アリサの時と同様にカードをめくる。

「ミリアムちゃんは……“月の逆位置”」

「あはは、逆さま?」

「道を歩み続けること。成長こそが力。真実は時間と共に。あと棚の上のおやつは勝手に取らないようにしましょう」 

「わかったー! あれ?」

「以上です」

 

「入ってきていいですよー」

「よろしく頼む」

 三番手はラウラである。

「では……」

 深く、静かに集中し、カードを手に取った。

「ラウラさんは……“正義の正位置”」

「ほう?」

「心が揺らがないこと。信頼こそが力。堅実な努力は身を結ぶ。あとリィンさんは山菜料理なんかも好きですよ」

「なるほど。い、いや、ちょっと待て――」

「以上です」

 

「最後の方ー」

「ん、お願い」

 ラストはフィーだった。

「では……」

 カードの上を手が何度も往復し、不意にピタリと動きが止まる。その下にあったカードを、ゆっくりと開いていった。

「フィーちゃんは……“隠者の逆位置”」

「うん」

「過去を振り返ること。決意こそが力。目標と目的は己の内に。あと寝坊はダメです。目覚ましでちゃんとおきましょう」

「了解。それじゃ」

「まだです」

 立ち上がろうとしたフィーの腕を、エマは机越しに捕まえた。

「今日の復習はしましたか? 明日の予習は万全ですか? 課題のレポートは書きましたか?」

「問題なし。今からするから」

「寝ちゃうでしょう? うふ、うふふ」

 手は離さないまま、ゆらりとエマは立ち上がる。おもむろに一枚のカードを引いてみせた。

 その丸眼鏡が暗くした照明の中で妖しい光を放つ。

「“女司祭長の正位置”。さあ、お勉強の時間ですよ」

 

 

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

 

《ゆっしぃ》

 

「みっしぃとやらの着ぐるみを俺に貸して欲しい」

 ラウラの部屋で、ユーシスはそんな頼み事をしていた。

「それは構わんが、なぜ私が着ぐるみを持っていると知っていたのだ」

 アランとブリジットのすれ違いに端を発するヘイムダルでの一件でだが、それをそのまま口に出すことはできず、

「……人づてに聞いたのだ」

「となるとフィーしかおらんな。まったく」

 そうとしか答えられなかったが、ラウラはどうやら納得したようだった。

 クローゼットの奥から灰色の毛だまりを引き出しながら、ラウラは言う。

「それで、そなたはこの着ぐるみを何に使うのだ?」

「ああ、それはだな――」

 

 ――数時間後。

「む。背中側がしまらんぞ」

 礼拝堂の一室で、着ぐるみに入ろうとして苦心するユーシスの姿があった。

「あ、はい。少々お待ちを」

 背中のファスナーを上げながら「いつも子供達の為にありがとうございます」とロジーヌは穏やかに重ねた。

「ふん、たまたま時間が空いていたからな。しかし何だこれは……頭が異様に重いな。しかも蒸し返るような暑さだ」

 こんなものを一日中着て、よくラウラはあれだけ動き回ったものだと、感心を通り越してもはや呆れてしまう。

「大丈夫ですか? ふらついているようですし、無理をされては」

「構わん。子供達が楽しみにしているのだろう?」

「ふふ、お支えしますね」

 ぐらつく頭にそっと手を添え、よたつく足を先導しながら、ロジーヌはみっしぃと共に子供達が待つ礼拝堂へと歩を進めた。

 

 大人気だった。あっという間にみっしぃは子供達にもみくちゃにされていく。

「みっしぃだあ!」

「肉球! 肉球!」

「尻尾さわらしてー!」

 その勢いたるや、雪崩のごとし。「お、お前達少しは落ち着け――」と声を発しかけて、ユーシスは焦って口をつぐんだ。

 なぜならみっしぃがどんなキャラクターなのか、よく知らなかったからだ。果たして人語を話していいのか。それが子供達のイメージを壊してしまわないか。その懸念がある限り、迂闊な言動を口走る訳にはいかない。

(どうすれば……)

 年少の子供達をかき分けて誰かが近付いてくる。悪い視界の中で目を凝らすと、ティゼルだとわかった。先ほどまでロジーヌと一緒におやつの準備をしていたはずだが。

「ユーシス先生」

 喧騒の中、ティゼルはみっしぃの頭に顔を押し付けて小声で言った。どうやら自分が中身だと気付いていたらしい。

「みっしぃには鳴き声があるんです。それを言えば子供達は喜ぶと思います」

「そうだったか、感謝する。それで鳴き声というのはどのようなものだ?」

 着ぐるみの中から、ティゼルにしか聞こえないように言う。

「えっと、『みししっ』ていう――ううん、違った。鳴き声はこうです。大きい声で言って下さいね?」

 その言葉を伝えると、早々にティゼルは人だかりから撤退する。

 みっしぃは少し沈黙していたが、

「ゆ」

 不意に惑ったように身じろぎする。

「ゆ……」

 言わねばならない。言うのだ。言え。

 念じるように胸中で言い聞かせ、彼はついに鳴き放った。

「ゆししっ!」

 ユーシスみっしぃこと“ゆっしぃ”の誕生である。

 子供達は歓声をあげて喜び、ロジーヌは胸を打たれたように悶え、ティゼルは満足そうにおやつの準備に戻るのだった。

 

 

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

 

《コインの向かう先――I miss you》

 

 一日の業務を終え、用務員室の一人机に向かってガイラーは書き物をしていた。

 今日の分の作業報告書はすでに書き終えている。それが何かと問われれば、答えは一つ。

 “クロックベルはリィンリィンリィン”。その最終章の執筆である。

「ふむ……」

 顎をしゃくり、色々と先の展開を試行錯誤してみる。

「そうだね。ここでクロックはリィンの敵であったことを明かそう。――離れゆくクロックの背中――」

 サラサラと文章を書き連ねていく。導力タイプライターなどは持ち合わせていない。肉筆の方が魂が宿ると言うのは、彼の持論である。

「――だがその心中を察するには、リィンはあまりにもクロックの過去を知らなさ過ぎた。いつも一緒にいたのに、本当の彼が見えていなかったのだ」

 そこで筆の進みが遅くなる。考えながら、慎重に文字を紡いでいく。

「本当にその全ては嘘だったのだろうか? 自分に向けられた笑顔も、共有した二人の時間も、すべては虚像だったのだろうか?」

 知らなければならない。会わなければならない。確かめなければならない。

「たとえ戦うことになっても、その先に真実はあるのだ。必ず連れ戻す。心を決め、リィンは一人クロックを追う」

 主人公の決意に連動するかのように、勢いよく文章が走りだす。

 隠されたクロックの過去。明らかになっていく復讐の理由。胸の内で絶えない凍てつく炎。

 それは裏切るに足る理由だったのか。全てを置き去りにしてまで。答えの出ない葛藤にリィンは苦悩する。

 二人のすれ違いに端を発し、異なる思惑は帝国さえも巻き込んで、やがてその運命を幾重にも交錯させていく。

 会いたい。逢いたい。

 その一念の果てに、ついに対峙するリィンとクロック。

 戦うしか道はないのか。話す余地はまだあるのか。紡いだ想いは届くのか。

 彼らの間を約束のコインが落ちていった。

「――そして最後に彼らは――」

 集中していたから視野が狭まったのか、動かした肘が傍らのコーヒーカップにぶつかり、中身を原稿用紙の上にぶちまけてしまった。

「おお。私としたことが……。しかしこれはどうにもならないね」

 台拭きを手に、コーヒーで黒ずんでしまった原稿用紙の束を引き上げる。やはりタイプライターの方が良かったかもしれないとぼやいている内に、もう文字は滲んで見えなくなっていた。

 書き直しは確実だ。

「完結までは、もうしばらくかかりそうだね」

 

 

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

 

《白執事と黒メイド 後編》

 

 平日の午前中。ヘイムダルの大通りを執事服と女中服の二人が歩いていた。

「すみません、付き合わせる形になってしまって」

 セレスタンは隣のシャロンに小さく頭を下げた。

「お気になさらないで下さい。私も丁度用事が出来たところだったので。それに私の分の荷物まで持って頂くなんて申し訳ありませんわ」

「ご婦人と歩くなら当然のことです」

「ふふ、セレスタン様はお優しいのですね」

 料理を教えてくれたお礼ということで、セレスタンはシャロンをランチに誘ったのだが、間の悪いことに二人とも同じ日に買い物を頼まれてしまったのだ。

 誰にかと言えば、セレスタンはパトリックで、シャロンはアリサである。前者はフェンシング用のカタログで、これは帝都のブックストアにしかなく、後者は調味料各種で、やはり帝都の方が取扱い品数が多い。

 そういう事情から、そろってヘイムダルに出向く運びとなった。

 ある意味、間がいいと言うべきか。

「いい時間ですし、そろそろ昼食にしませんか」

「エスコートはお願いしても宜しいのでしょうか」

「もちろんです」

 無論、誘ったからには相応のレストランを予約済みである。こういった時の店の選び方は、双方のマナーレベルに合わせる必要があるが、今回に関してそれは全く問題にはならなかった。どちらも名家に仕える者として、一般教養から細かな所作、作法事に至るまで、並以上の知識は当たり前に備えているのだ。

 そして一流のレストランを選定しつつも、その格式はあえて最上のものからワンランク落とした店にしている。

 今回は各々が使える主達が勉学に励む中、その彼らを差し置いた外食である。やはり使用人の立場として、主と同格以上の食事は控えねばならなかった。一般的にはそれでも手の出ない店ではあるのだが。

 その店に向かう道中――

「何だ、メイドがいるな?」

「バリアハートでもないのに珍しいことだ」

 そこはかとなく下卑た声。セレスタン達が振り向いた先には、若い二十代前後の男が二人、にやにやと侮蔑的な笑みを浮かべながら近付いてくる姿があった。身なりや態度からして貴族であることが分かる。

「私共に何かご用でしょうか?」

 落ち着き払ったセレスタンが気に入らないらしく、二人はさらに横柄な態度を取った。

「お前に用はない。俺達は観光中なのだ。そっちの女中、お前に帝都の案内をさせてやろう」

「シャロンさん、私の後ろに」 

 セレスタンは詰め寄ってきた二人と、シャロンとの間に立ち塞がる。

「お前、いい度胸だな。俺達が誰だか分かって――」

「あなた達がどなたであろうとも、帝都の大通りで荒事を起こして不問になるとは思えませんが」

「なら試してやろう。俺達は伯爵家子息だ。お前達が理不尽に侮辱してきて、観光中の俺達を怒らせた。そういう話でよかろう」

 男の一人がセレスタンの胸倉を掴もうと、さらに一歩近付いてきて――

 セレスタンの後ろに控えるシャロンの指が、クイっと小さく動いた。

「うおっ!?」

 途端、その男はまるで何かに足を絡めとられたかのように、不自然な動きで転倒する。石畳に顔面から突っ込む形となった。

「……?」

 目を丸くするセレスタン。もう一人の男が「貴様っ!」と声を荒げて足を踏み出し――

 またシャロンの指がクイクイっと動く。

「なあっ!?」

 今度は片足が跳ね上がり、その男は受け身も取れず後頭部から倒れ込んだ。

 緩慢に身を起こす二人だが、存外痛みには弱いらしく「血、血は出てないよな?」とか「俺達は伯爵家子息だぞ、覚えておけ!」などと吐き捨てながら、病院を求めてあっという間に退却していった。

「……何だったんでしょうか、彼ら。勝手にこけたようでしたが」

「帝都の石歩道は歩きづらかったのでしょう。うふふ」

 少しだけ笑みを抑えて、シャロンは言った。

「ハイアームズの名前を出せば、最初の一言で事は済んだのではありませんか?」

「家名はあくまでご当主達のもの。私のものではありません。それに貴女だってラインフォルトの名は出さなかった。なぜですか?」

「セレスタン様と同じ理由ですわ」

 二人は同時に頬を緩めた。

 今更思い出したように、セレスタンは罰悪そうに言う。 

「すみません、怖い思いをさせてしまって……ランチという気分ではありませんよね――あれ、シャロンさん?」

 軽くスカートの裾を払い、シャロンはすでに歩きだそうとしている。

「あら、どうかされましたか。せっかくご予約して頂いているのに、お店に遅れてしまってはいけませんわ」

「え、あ。いや、でも」

「エスコートして下さるのでしょう?」

「それは――」

 やはり不思議な女性だ。だが、どこか惹かれるものがある。心中でそんなことを思いながら、セレスタンは眼鏡を押し上げた。

「ええ、もちろんです」

 

 

      ☆   ☆   ☆ 

 

 

 

 

 

《散る散ると満ちる》

 

 ――なんだか最近物足りない。

 ケネスはアノール川に釣り糸を垂らしながら、取り留めもなくそんなことを思う。

 好きな釣りをしていても、大物を釣り上げても、以前ほどの昂揚感がないというか、どうにも心が満たされないのだ。

 虚ろに釣り糸を垂らしているせいなのか、今日は一匹も当たりがこない。

 となりのリィンに視線を移してみる。彼も少し前に釣りにやってきたのだが、自分と同じく生簀のバケツは空のままだった。

「うーん、今日はダメだね」

「まあ、そんな日もあるさ」

 たわいもない会話を挟みながら、一時間ほど経った頃、

「もう切り上げるか?」

 あきらめ半分でリィンが言った。

「そうしようかな……あれ?」

 応じかけた時、水面に揺れる浮きが波紋を拡げ、ぐいと釣糸が強く引っ張られる。

「あ、僕の餌にかかったみたいだ」

 浮き沈みする魚影を見るに、かなりの大物だ。ここからはいつもの勝負である。

 巧みに緩急をつけながら竿を操って魚の体力を削り、わずかな隙をついて少しずつリールを巻いていく。

 幾度と押し引きを繰り返し、ようやく釣り上げに成功した。黒光りする立派なトラードだった。活きもいい。水面から上がり、糸を手繰りよせている間も激しく暴れまわっている。

「すごいじゃないか、ケネス」

「はは、やったよ」

 嬉しい。楽しい。……はずなのに。やっぱり何か物足りない。

 口から釣り針を外し、バケツに移そうとした時だった。ぐんとその身をしならせ、トラードが激しく跳ね上がる。

 全身をバネにした尾ひれの一撃が、ケネスの頬を強烈に打ち据えた。

「ぶっ!?」

 鋭い痛みが後頭部まで突き抜ける。同時、何かが彼を満たしていった。

「あ、ああ……」

 弾ける昂揚感。駆け抜ける全能感。全身の力が抜け落ちるのを感じながら、ケネスは膝からくずおれる。

「ケネス、大丈夫か!?」

「あ、あ」

 リィンが心配そうに寄ってきて、ケネスの傍らにかがみ込む。

 びっちびっち跳ね回るトラードに対して、ケネスは放心状態でこう言った。

「……ありがとうございます」 

 

 

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

 

《アンゼの日記》

 

 それを見つけたのは偶然だった。

「なんだこりゃあ?」

 ただ、それを手にしたのがクロウだったのは必然と言えるのかもしれない。

 技術棟。乱雑に機材が置かれた一角。そこに小さな小箱を見つけた。木製のちょっとした装飾のついた小綺麗な箱。

 開けてみると、一冊のノートが入っていた。裏を向けるとアンゼリカ・ログナーと記名されている。

「ゼリカの講義ノート? 持って行き忘れたのか」

 興味本位からページをめくると、月日の後に短い文章の羅列。これは日記だ。

 アンゼリカが日記をつけているとは意外だったが、それを個人のプライバシーとして黙って元の場所に直すほど、クロウは殊勝な性格ではなかった。

「くく、ゼリカの日記か。さして興味はねえが、ちっとばかしのぞいてみるか」

 アンゼリカはもう学院にいない。落とし主不明のノートの中身を見たところで、一体誰に責められよう。

「どれどれ……」

 意気揚々とページをめくる。

『三月三一日。春の訪れと共に新一年生が入学してくる。その中には見知った顔、アリサ君の姿もあった。声をかけようとしたところで強い風が吹く。咲き誇るライノの花のように純白だった』

……純白?

『六月一五日。この頃は雨が降り、陰鬱とした空模様が続いている。エマ君が書籍の束を抱えて廊下を歩いていた。手伝いを申し出ようとした所で、彼女は足元を滑らせる。吸い込まれるような漆黒だった』

 ……まさか、これは。ページをめくる手つきが早くなり、次第に鼻息が荒くなる。

「間違いねえ。ゼリカのやつ最高のものを残していきやがった……!」

 それは女子達に知られたら有害図書認定の上、焼却処分は必死のアンゼリカの桃色日記。だが、知られなければ天上へと続く自分だけの夢色日記。

 歪んだ笑みを顔に張り付けて、さらにさらにと読み進めていく。一年、二年問わずあらゆる女子が網羅されていた。

『七月八日。一年の双子姉妹を発見する。《ル・サージュ》の試着室の一つに、二人仲良く収まって服を選んだりしていたので、うっかりを装い突入する。可愛らしい悲鳴があがった。色は二人とも髪と同じ薄ピンク。これが双子のシンパシーというやつだろうか』

 まだ続く。

『八月二八日。寮への帰り、ふらりと練武場に寄った。さしたる用事はなかったが、何はともあれ更衣室に突入する。女神のいたずらか、ちょうどフリーデル君が着替えていた。意外と可愛らしいものをお召しになっている。似合うじゃないかと褒めたのに、彼女はサーベルを片手に襲い掛かってきた。さすがの手並みに自慢のバイクスーツが穴だらけにされてしまう。かろうじて全てかわすことはできたが、私を追い回す最中、終始笑顔なのがちょっと怖かった』

 最後のページを開く。余白はまだ残っていたが、日付はこの日――十月二日で止まっていた。

「これはルーレ実習の後のことか」

 つまり、もう退学が決まっている時期である。

 思う所もあるが、クロウはその日記に目を通してみた。

『この日記をつけるのも今日が最後だと思う。一年半以上を過ごした学院での日々は、これ以上ない満たされた毎日だった。気のいい仲間達にも出会い、悪友と呼べる友人もできた。やり残したことはいくつかあるが、自分の選択に後悔はない』

「はは、悪友って誰のことだよ」

 少し真面目な顔になって、続きを読んでみる。

『そこで最後はとっておきの女性の秘密を書き記そうと思う。ガードが固く、中々それを確認することが叶わなかったが、今回ついに私はその偉業を成し遂げることができた』

「お……おお!?」

 まさかの急展開。文章上を走る目線が、速度を増した。

『ただ美しいの一語だった。目を奪われると表現すべきか。清純ながら攻めのあるフォルム。楚々としながらもエッジの効いたデザイン。ところどころの装飾はまるで散りばめられた宝石のようだった。ああ、至高と呼べよう。あの――』

 だれだ。ゼリカのことだし、やはりトワか。教官ならメアリーが有力候補か。サラは……別にいい。そうか、分かった。シャロンだ。シャロンに違いない。

 そして日記は告げた。

『薔薇が咲き乱れる、マルガリータ君のパンツは』

「ゼリカアアーッ!!」

 喉が裂けんばかりの大絶叫が、技術棟を激しく揺らした。そのまま膝を付き、クロウは力なく倒れ込む。反転する視界。急速に遠退く意識。口中に広がる鉄の味。

 痙攣する指の先――日記の最後の一文にはこう付け加えられていた。

 

 ――堪能してくれたかな? 私の大切な悪友君――

 

 

     ☆   ☆   ☆

 

 

 

 

 

 『そんなトリスタの日常』 ~FIN

 

 

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。

今回はショートスタイル詰め合わせということで、日常のワンシーンを切り取った形となっております。ショートはやはり書くのが楽しいですね。

トリスタと言いながら、一つレグラムも混じっていますが、それはご愛嬌ということで――。

各タイトルは悩まずに直感で決めて、以降の修正はしていません。だからですね。『散る散ると満ちる』ってなんじゃそりゃ。幸せの青い鳥は見つかりそうもないですね。クロチルダさんのグリアノスは幸せを運ぶ感じじゃないしなあ。

さて、次回予告ですが――いよいよ次が最終話となります。ラストタイトルは、

『Trails of Red and White』

最後までお楽しみ頂ければ幸いです。


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Trails of Red and White(前編)

 ――その前日。

 彼らは思い思いに過ごしていた。

 

 ユーシスは礼拝堂でロジーヌと会っていた。

「明日の体育大会、がんばって下さいね」

「ああ」

 最近は何かとここに来ることが多い。特に礼拝をするわけではない。子供達の相手をするのだ。ユーシス先生として。

 さらに頼まれなくても顔を出すことが増えた。その度にロジーヌは嬉しそうな顔をする。

「一般の見学も許可されていましたので、応援には子供達も連れて行きますから」

「一人で引率するのか?」

「はい。みんないい子達だから大丈夫ですよ」

「まあ、お前なら大丈夫なのだろうが。手が足りなくなったら呼ぶがいい。競技の合間に手伝うくらいはできる」

「ふふ、ありがとうございます」

 少し雑談に興じた後、教会を出ようとしたユーシスをロジーヌが引きとめた。

「これをどうぞ」

 手渡されたのは、綺麗な包み紙に入ったクッキーだった。

 思えば初めてクッキーをもらったのは、もう二ヶ月も前のことになる。あの時は仕方なく先生役を引き受けたものだったが。しかし今は。

 この場所を居心地良く感じる自分がいる。

「さっき焼きました。少し早いですけど、差し入れです」

「そうか、感謝する」

 ロジーヌは微笑んだ。

「応援しています。女神の加護を」

 

 

 マキアスは《キルシェ》でアランとピザを食べていた。

「マキアスも出場するんだろ。運動得意だったか?」

「こう見えても一通りはこなせるぞ。明日は応援よろしく頼む」

 ピザにパクつきながら、二人は明日の体育大会のことを話している。

 少し前まではこんな風に話すどころか、せいぜい廊下ですれ違うだけの関係だった。

 マキアスはアランの悩みを解決しようとして、尽力して、空回りして、その結果、友人になった。

 どちらも真っ直ぐ。ある意味頑固。だけど誠実。似た者同士の二人は、すぐに友人から親友となった。

「学院祭も終わったら時間が取れるし、マキアスにフェンシング教えてやるよ」

「だったら僕はアランにチェスを教えよう」

 真反対なのはここだけ。片や武。片や文。

 だが二人そろうと文武両道。やはり相性がよかった。

 思い出したようにマキアスは言う。

「そういえば貴族チームにはブリジットさんもいるぞ。僕と彼女が戦ったら、アランはどっちを応援するんだ?」 

「……いや、それは」

「両方応援するはなしだぞ」

「う……」

 アランは答えず、ピザを口の中に押し込んだ。

 

 

 ラウラは学生会館の食堂で、モニカ、ポーラ、ブリジットとテーブルを囲んでいた。

「私達は両方応援するからね」

「片方だけとか無理だしねー」

 そう言ったのはポーラとモニカである。明日、ラウラとブリジットは組対抗で戦うことになるのだが、少々ややこしいのはその応援だった。

 別にケンカではないし、いがみあってもいない。教官方はどうだか知らないが。

 自分達にとっては、これは力試し。ブリジットもラウラと同じ見解なので、普段の和気あいあいとした雰囲気は変わらなかった。

「うむ」

 ラウラは改めて、彼女たちを見る。

 特に劇的な出会いだったわけではない。モニカに泳ぎを教えたり、ポーラをガイウス達の特訓に付き合わせたり、ブリジットの悩みにお節介をやいたり。

 ただそれだけのことで、三人とは仲良くなれた。

 これからもその関係は続くのだろう。いや、続けていきたい。

 友人とは対等でいるものだ。だから、その為には。

「無論、全力でいく。それが礼儀だ。そうだろう、ブリジット?」 

「ええ、もちろんよ」

 ブリジットは笑って応じ、ラウラもまた口元を緩めた。

 

 

 ガイウスはプールでクレインと泳いでいた。

「ずいぶん上達したな、ガイウス」

「おかげ様です」

 二五アージュ泳ぎ切った所で、二人はプールサイドに上がった。

「ほれ。水分補給」

「ありがとうございます」

 髪を拭くガイウスに、クレインが飲み物を差し出した。

「学院祭に弟と妹と、あとお袋が遊びに来ることになった」

「そうでしたか、あの子たちが」

 ガイウスはクレインの弟妹と面識があった。迷子の彼らを送り届けたのがきっかけで、クレインと親しくなったのだ。

 以来、クレインはガイウスをあっちこっちに連れ回し、泳ぎを始めとして、色々なことを教えてくれている。

 彼が言うには、『自分はガイウスの兄貴分』ということらしい。

「つーことはだ。俺の弟達にとっては、お前が兄貴分になるってことだ」

「そういうものですか?」

「おお。だから明日の勝負はきばれよ。学院祭であいつらが来たときに、お前の奮闘ぶりを教えてやらないといけないからな」

「もちろんですが、どうしてあの子達に伝えるんです?」

 決まってるだろ、とクレインは肩をすくめた。

「兄貴はいつだって強くないとな。目標になってやるのも大切な役目だぜ」

 

 

 フィーは花壇で花の世話をしていた。

 水を撒き、状態を観察する。植物はたくましい半面、とても繊細だ。天候には敏感だし、病気にもかかる。

 一つ一つ注視する必要があった。手間のかかる作業である。

「ん、よし」

 一つ、また一つとチェックをいれていく。確かに手間だが、不思議と面倒ではなかった。

 花が咲いて、誰かにそれを渡して、笑ってくれた時、胸の中があったかくなる。

 それは大切なことなのだと、園芸部部長のエーデルが教えてくれた。自分に返してくれる笑顔が、花を渡したからではなく、心を渡したからだとも。

 後半に関しては、まだよく分からなかったが。

 それでも花を育てていれば、いつか分かる気がする。フィーはそう思った。

「フィーちゃーん、お花の苗をジェーンさんからもらって来ましたよー」

 エーデル部長が小袋を抱えて走ってくる。

「あと明日フィーちゃんが体育大会に出るって言ったら、栄養のあるものをって、ジェーンさんがこれを――」

 と、花壇に踏み入ったところで、その足に雑草が絡まった。

「あらあら~」

 前のめりにたたらを踏みながら、花の苗が袋から飛び出て散乱する。

 最後に白く太いものが、ぬっと姿を現した。それだけはかろうじて掴んだエーデル。彼女は純白の大根を中段に構えながら、池の方向へと突撃する。

 そこには釣り竿を構える男子学生がいた。

 突き出される一撃。

「え? ンハウッ!?」

 振り向いたときには遅く、たくましい大根の先端が『ずむっ』とどこかにめり込む音がした。

 彼――ケネスは池に落ちた。その顔を薄く綻ばせながら。

「………」

 あの笑顔は何だか違う気がする。

 漠然とフィーはそう感じた。

 

 

 エマは文芸部の部室で、ドロテの小説を読んでいた。

「どうかしら、エマさん?」

「ええ、面白いと思います。その……登場人物の九割が男子学生なのは気になりますが……」

 読み終えて、エマは原稿用紙の束をドロテに返した。

「一年後のノベルズフェスティバルの準備です。まあ、その時には私は卒業しちゃってますが、顔くらいは出したいですし」

 この前のはドタバタだったけどと、ドロテは困った顔をしてみせた。

「でもこれから文芸部はきっといい方向に進んでいきます。それを引っ張っていくのは次代を担うエマさん――いえ、紅のグラマラス。貴女なんですよ」

「その名前で呼ぶのはやめて欲しいんですけど……」

「そう言えば」

 ドロテは話題を変えた。

「いよいよ明日だったかしら、例の体育祭」

「あ、はい。そうなんです」

「小説を書き終えたら私も応援に行きますね。あとちょっとだし、時間はかからないと思いますので」

 とんとんと用紙の束を卓上でそろえ、ドロテはペンを持ち直した。

 

 

 エリオットは書店前でケインズに捕まっていた。

「体育祭だったね。猛将」

「ええ、まあ」

 もう猛将と呼ばれても、普通に返事をしてしまっている。

「明日は応援に行かしてもらうよ。一日は店も閉めるつもりだ」

「え!?」

 また厄介なことをしでかしそうである。エリオットは遠まわしにそれを断るが、

「猛将のノーはイエスと同義だ」

 訳の分からない論理を展開し、ケインズに押し切られてしまった。

「ああ、そうそう。猛将応援グッズをいっぱい作ったんだ。明日はそれの初お披露目だな」

 勘違いに勘違いを重ねて、誤解を誤解で塗り潰して、今やその風評被害はトリスタや学院中にまで拡がりつつある。

 僕はこの先、どうなってしまうのだろう。

 饒舌に語るケインズを一瞥して、エリオットは深く肩を落とした。

 

 

 リィンとアリサは雑貨店前で、パトリックとフェリスと出くわした。

「パトリックじゃないか、こんなところで珍しいな。どうしたんだ?」

「気安く声をかけないでもらおうか。今は敵同士だ」

「ですわ!」

「もう、フェリスまで」

 今日は壮行会ということで、リィン達はシャロンに買い物を頼まれていたのだが、見たところパトリック達も同じ理由のようである。

 アリサとフェリスは結局普段通りに会話をし始めたが、パトリックの態度は相変わらずのものだった。

「俺たちの買い物はもう済んでいるからな。行こう、アリサ」

「あ、うん。じゃあね、フェリス」

 これ以上はどうしようもないと、リィンがその場を離れようとした時、「待つがいい」と急にパトリックが呼びとめてきた。何やら言い辛そうにしている。

「その、なんだ。明日はエ、エリ……いや何でもない。早く行くがいい」

「待てとか行けとかどっちなんだ?」

「ふん、君には関係ないだろう」

 鼻を鳴らして店内に入っていくパトリックを、リィンは不思議そうに眺めていた。

 

 

 

 各々がこの数カ月で絆を深めた、あるいは縁のある者達に見送られて――

 

 ――10月17日、日曜日。AM10:40

 

 ついにその日はやってきた。

 

 

 

 貴族生徒チームと一年Ⅶ組による体育大会。

 教官同士の小競り合いに端を発する――などとはもちろん説明できないので、名目上は互いに競い合い、高めることを目的とした親善試合となっている。

 告知は大々的になされていて、トリスタからも一般の観客者が足を運んでいた。当然だが、学生達もこの催しには注目していて、自由行動日の午前にも関わらず、すでに決戦の舞台であるグラウンドには大勢が集まっている。

 グラウンド周りには運営チームである生徒会のテントや、一般、学生用で分けられた観客席がずらりと囲むように立ち並んでいた。

 そして今、そのグラウンドの中心には、整列する紅白二チームの姿があった。

 赤組、Ⅶ組メンバーは、リィン、アリサ、マキアス、エリオット、エマ、ユーシス、フィー、ガイウス、ラウラ、ミリアム、クロウの計十一名。

 白組、貴族組のメンバーは、パトリック、フェリス、ブリジット、ケネス、マルガリータ、ヴィンセント、フリーデルの計七名である。

「――そういうわけで、いい機会じゃと思う。両チームとも存分に今まで鍛え上げた力を、いかんなく発揮して欲しい。儂からの挨拶は以上じゃ」

 開会式。ヴァンダイク学院長の激励の言葉が一通り済んだところで、トワがマイクを手に持った。

 生徒会長である彼女は、今日の運営、進行、実況などを一手に担っている。

「それでは選手宣誓を行います。各チームの代表は前へ」

 ヴァンダイクの前まで歩を進めたのはリィンとパトリックだ。

 二人は高々と右手を掲げて、張りのある声をそろってグラウンドに響かせる。

『宣誓! 我々選手一同は士官学院生としての誇りを胸に、正々堂々、全力を出し切って戦うことを誓います。七耀暦1204年10月17日――』

 

「赤組代表、リィン・シュバルツァー」

「白組代表、パトリック・T・ハイアームズ」

 

 宣誓が終了すると、トワが他の生徒会メンバーに合図を送った。その内の一人が滑車付きの大きな木箱を運んでくる。

「では全員の武器をこの中へ。競技中は体育倉庫内にて厳重に保管されます」

 ここからは身一つで戦うという、形式上の意思表明である。

 箱の中に太刀、槍、銃、弓などが順々に収納され、続く貴族組もレイピアなどを収めていく。ちなみに武器を持っていない者は、ラクロスのラケットや釣り竿など、各々の魂が込もった道具を入れることになっていた。

 戦術オーブメントも当然使用不可だが、ラインフォルト社からの委託という特質上、それを手放すことが出来ない為、アーツや通信、それにリンク機能を使わないという規則の下、《ARCUS》の携帯は許可されている。

 各々の武器、道具を倉庫に閉まって錠をかけ、開会式は終わった。

「それでは両チームとも各陣営で待機し、一試合目のオーダー表を提出して下さい。競技はプログラムに則り、まもなく開始されます」

 

 

 

「みんな頼むわよ!」

 Ⅶ組の陣地は馬舎近くの一角だった。そこに敷かれたブルーシートの上、円になった全員にサラは力強く告げる。懇願に近い口調だ。

 この体育大会の水面下には、決して表に出せないもう一つの勝負があった。教官同士の小競り合いの延長で勢い任せに口に出した、とある“ペナルティ”である。

 ハインリッヒ率いる貴族組が勝った場合、サラは水着姿で学院掃除をすることになり、逆にサラ率いるⅦ組が勝った場合、ハインリッヒは財布に隠す秘密の写真を複製された上、屋上からばら撒かれる、というものだ。

 売り言葉に買い言葉の果てに発生した、大人気ない勝負である。

 その場の勢いとはいえ、それに関してはサラも反省しているし、Ⅶ組勢もさんざん苦言を呈したので、今更蒸し返すことはしないが、勝たねばならない理由はもう一つあった。

 全員の視線がその“理由”へと集中する。

「お弁当も作ってきましたから、どうぞがんばって下さいませ。今日はこの子も連れて来ましたので」

 応援に来ていたシャロン、その手に繋がれたリードの先で尻尾を振る一匹の子犬にだ。

「ふふ、ルビィも皆さんを応援するんですよ」

 ルビィを預かれる期限はもう数日しか残されていない。結局新しい飼い主は見つからないまま、今日を迎えてしまった。

 なのでサラ達の勝負に便乗する形で、“ルビィの預かり期間の延長”及び“新飼い主探しへの協力”、それに伴う“ヴァンダイク学院長の説得”、以上の三点を教頭に願い出ようというのだ。写真うんぬんのくだりは撤廃するという交換条件の下に。

 交渉としては強引だが、ルビィの今後にも関わることなので、最終手段に頼らざるを得なかった。もちろんその話が通るとも限らないが。

 だが何にせよ、全てはこの戦いに勝利してからの話である。

 一縷の望みを繋ぐためにも、絶対に負けるわけにはいかないのだ。サラの水着掃除はともかくとして。

「では私とルビィはあちらの一般席で応援させて頂きます。ご健闘をお祈りしておりますわ」

 後押しのつもりなのか、一吠えしたルビィを引き連れて、シャロンはその場を離れていく。

 その背中を見送ったあと、何気なくリィンは視線をグラウンド中に巡らせてみた。

「……まだ来てない、か」

「もしかしてエリゼちゃんを探してるの? 今日来るんだったわよね」

 そうアリサが訊ねてきた。

 内心ぎくりとしながらも、リィンは「ああ、まあ」と曖昧に返して、手元のプログラム表に目を落とす。

 探しているのはエリゼもだが、もう一人。気を掛けずにはいられない人物が来るのだ。

 その人が来ることを知っているのは、自分の他には学院長であるヴァンダイク、担当教官であるサラ、そして生徒会長であるトワのみである。

 エリゼの手紙には“お忍びなので内密に”と書かれていたので、サラの指示により、本人からの承諾が下りるまでは一応Ⅶ組メンバーにも伏せることになっていた。

 焦れたようにクロウが言う

「おい、リィン。そろそろオーダーを決めねえと。追加ルールのせいでかなり人選が難しいことになってる。メンバー決めでミスると後半の巻き返しが厳しくなるぜ」

「わかってる。そうだな……」

 プログラムに記載された競技は五つ。

 

①綱引き(四名)

②中当て(五名)

③障害物競争(三名)

④玉入れ(四名)

⑤騎馬戦(六名)

 

 以上である。騎馬戦を除けば、日曜学校の運動会でも行われているようなものばかりだ。競技自体はサラとハインリッヒが、各々の割り当て分ずつ決めたらしい。

 内容が単純なものの方が、地力の差が顕著に現れるというのはサラの談だ。競技名横のかっこ内の数字は、出場できる上限人数を表している。

 そしてリィン達を悩ませている例の追加ルールというのが、プログラムの下部に書かれている一文だ。

 

※『なお、両チームの人数差を考慮し、参加できる競技回数を限定する。Ⅶ組は一人につき二回まで、貴族チームは一人につき三回までと定める』

 

 これが厄介だった。プログラムは事前に配布されているので、前もって用意していたオーダーもあったのだが、直前に言い渡されたこのルールのせいで、大幅な変更をしなければならなくなった。

 例えば最初の綱引きを男子勢で固めると、初戦は勝利できても後半の騎馬戦などに影響が出てきてしまう。全員の長所を生かしつつ、上手くばらけさせる必要があるのだ。

「初戦は肝心だ。綱引きのメンバーはこれで行こう」

 リィンはオーダー表に四人の名前を書き入れた。

 

 

 

 競技は五種目で、先に三試合制した方が勝利となる。ちなみに五試合目を待たずに勝負が決まった場合でも、全ての競技は実施されることになっていた。

 一試合目は綱引き。Ⅶ組から選抜された四名はクロウ、ガイウス、アリサ、ユーシスである。

「うっし、行くぜ」

 勢いを付けるためにもここは勝っておきたいところだ。クロウに続く三人もやる気は十分で、それぞれがウォーミングアップに余念がない。

「バラバラに綱を引いてもダメだからな。タイミングを合わせて引く時は引く、耐えるときは耐えるが基本だぜ」

「任せておくがいい。……なっ!?」

 クロウの説明に応じていたユーシスがそれに気付き、途端その表情をこわばらせる。

 白組のメンバーはパトリック、フェリス――そしてマルガリータだった。

「あ、あいつら、初戦から投入して来たか。しかもこちらより一人少ない三人でとはな」

 アリサが言う。

「でも白組の参加回数が一人三回までってことは、マルガリータさんが出場している競技を最低一つは勝たないといけないってことでしょ」

 ガイウスもうなずく。

「ああ、とにかく全力を尽くそう」

 

 両チームが綱の中心から分かれて向かい合う。

「僕たちの力を存分に見せてやろう」

「アリサ。手加減はしなくてよ」

 不敵に笑ってみせるパトリックとフェリスの背後、隊列の最後尾には凄まじい存在感を放つマルガリータが控えていた。

「おいおい坊っちゃん、明らかにあいつ一人の力がでか過ぎるだろうがよ」

 クロウの悪態にもどこ吹く風で、パトリックは綱を持った。

「ふん、出場回数制限は守るし、作戦だって考えている。ただの力押しだと思わないことだ」

 双方所定の位置についたのを確認し、審判役のトワが右手を掲げる。

「それじゃあ、第一回戦の綱引きを始めるね! 勝負は三回、二本先取したチームの勝ちだよ」

 始めの号令と共にホイッスルが鳴り、トワの右手が振り下ろされた。

「ムーッフォッ」

 開始直後、そんな野太い声が空気を震わして、

「だあああ!?」

「きゃああ!?」

「なあっ!?」

「ぐああ!?」

 息つく間もなく、綱が貴族チームの陣地まで引きずられていく。

 早くも四人の叫び声と、勝敗を告げる笛の音が重なった。

 

 一戦目はわずか三秒で敗北した。二戦目は場所を交代しての勝負となる。しかしそんな些細な違いが一体何の役に立つというのか。

「くそ、どうする。分かっちゃいたが、とんでもないパワーだぜ」

「正攻法じゃだめね。でも綱引きに正攻法以外もないし……」 

 クロウのぼやきにアリサも続く。バシュウと鼻から蒸気を噴き出すマルガリータは、排熱する大型重機そのものだった。それこそアガートラムクラスでないと、単純な力勝負では太刀打ちが出来そうにない。

 作戦も決まらないままに、二戦目が開始された。

「とりあえず、凌げ!」

 無茶な指示だとはクロウも分かっていたが、それ以外にどうしようもなかった。

 しかし一戦目とは違う手ごたえがあった。

「おい、何だか向こうの引きがさっきより弱いぞ」

「ああ、一体どうしたのだ」

 ユーシスとガイウスが違和感に気付いた。先程は数秒と耐えられなかったが、今は十秒近く競り合っている。引きや重さはあるが、それはパトリックとフェリスの引きであり、重さに関してはマルガリータ自身の重量だ。どういうわけか、マルガリータがまったく力を発揮していない。

「よく分からないけど今のうちよ! 引いて、引いて!」

「おお……っ!」

 ジリジリと、しかし確実に綱を引き寄せる四人。

『引け引けⅦ組! 行け行けⅦ組!!』

 リィンたち控えメンバーの応援にも熱が入る。

 声援を力に変えて、クロウたちは必死に綱を引いた。

 そして遂に、勝敗を決める綱の規定値が中心線を越え、辛くもⅦ組に一勝があがる。観客席からも歓声が沸いた。

 

 状況は一対一。次勝てばチームに勝ち星がつく。かなり重要な局面。だというのに、パトリックとフェリスの表情には余裕が見えた。

「……あいつら」

 先の引きの弱さといい、この落ち着いた雰囲気といい、クロウは胸騒ぎを覚えた。

 普通なら作戦を練り直したりだとか、声をかけ合ったりだとか、そういうアクションがあってもいいはずなのに。それが無いということは、チームとしての連携が足りていないか、あるいは想定内の為その必要がないか――

「考えても埒があかねえ。さっきと同じように行くぞ」

 もう一度位置を入れ替え、最初のポジションに戻ったクロウは、改めて相手を警戒する。

 マルガリータの鼻息が荒くなっていた。丁度オーバルエンジンが駆動したみたいに、その身体機能を活性化させている。

 完全にフルパワーになったら、もう誰にも止められない。

「トワ! 三試合目の開始ホイッスル鳴らせ、早く!」

「え? う、うん」

 クロウに急かされて、トワはあわてて笛を吹いた。

「全員引け、長引かせるな!」

「ええ!」

 開戦直後で即全力だ。ようやくパトリック達の顔に焦りが見え始めた。

「ぐっ、こいつら……!?」

「やりますわね! マルガリータさん、まだですの!?」

 徐々に力を戻していくマルガリータ。それに合わせて引きがぐんぐんと強くなる。いや力を戻すというよりは、気を戻すという感じだ。

「くそっ!」

 重い。引っ張りきれない。なぜだ。二戦目は何とかなったのに。三戦目の為に力を温存していたから? 違う、そんな印象は受けなかった。せいぜい一戦目と二戦目で違うものと言えば、場所くらいのもの――

 場所。その言葉が引っかかった。最前列で綱を引くクロウはマルガリータを見る。彼女はこっちを見ていない。見ているのはその後方。ぎちぎちと身をよじり、肉を絞り、体ごと後ろに振り向こうとしている。

「そういうことかよ……!」

 遠く、反対側の壁に誰かが張り付けにされていた。猿ぐつわを噛まされ「んーんー!」と唸っている誰か。他でもないヴィンセントだ。

 見誤っていた。相手も最初から四人一チームだったのだ。その内の一人が綱を持っていないというだけで。一応、綱引きの記載ルールには抵触していないし、万が一言及された時の為に、多分オーダー用紙でメンバー登録もしているのだろう。

 いわばヴィンセントはマルガリータを制御し、奮い立たせる為の餌。馬の目先にぶら下げられた人参だ。

 位置によって力の上限があったのは、公然と彼の下に向かうことが出来るか否かが影響していたわけである。

 だとするならば今の位置はまずいが、その流儀に合わせるならこちらにも策が生まれてくる。

「お前ら、あと十五、いや十秒耐えてくれ!」

 振り返らずに後ろの三人に告げ、クロウは綱から手を離して駆け出した。

「ち、ちょっと」

「すぐ戻る!」

 アリサたちの困惑は置きざりにして、クロウはヴィンセントに向かって全速力で走る。

 あれを何とかすれば勝機が生まれる。逆にあれをそのままにしていたら確実にやられる。

 方法は何でもいい。とりあえずヴィンセントをマルガリータの視界の外へ――

「クロウ! 避けろ!」

 ユーシスの切迫した声が鼓膜に刺さる。「何が――」と振り返った時にはすでに遅く、巨大な肉の塊が視界をいっぱいに埋め尽くしていた。

「ヴィンセントさまああ!!」

 綱を持ったままⅦ組、貴族組も含めて、総勢五人を引きずりながらマルガリータが粉塵を上げて突貫してくる。

 クロウを鉄道のレールに転がる小石の一粒と例えるなら、マルガリータはブレーキの壊れたアイゼングラーフのようなものだ。

「ごふっ!?」

 衝突。衝撃。

 景色が上下左右に激しく回転する。

 視界の端でマルガリータに組み敷かれるヴィンセントがちらりと映ったが、宙空を舞うクロウにはどうしようもないことだった。

 負けた。そう思ったと同時、クロウの顔面は地上に激突した。

 

 

 

 綱引きは貴族チームに軍配が上がった。負傷したクロウは保健室まで搬送されていく。

 担架で運ばれながら「ち、ちくしょう……」とうめくクロウを横目に見ながら、パトリックとフェリスがリィンたちのところにやってきた。

「僕達の実力を思い知ったみたいだな。人数が少ないからとみくびらないことだ」

 そこに胸を反らしてみせたフェリスが「ですわ」と自慢気に続く。三試合目でマルガリータにグラウンドを引きずられた為、二人とも土にまみれていたが。

 アリサは呆れ顔を浮かべた。

「あ、あんなのほとんどマルガリータさんの力じゃない」

「違いますわ。彼女の無分別な力を制御するのも含めて、私たちの実力ですわ。まあ、今回に関してはお兄様の力とも言えますけど。それに今日の為に私たち自身も厳しい鍛錬を詰んで……詰んで……」

 じわりと目に涙が滲むフェリス。「おい、思い出すんじゃない!」と焦った様子でパトリックはその肩を揺すった。

 十月前半以降、彼らのコーチ役となったナイトハルトの指導は苛烈を極めた。ハードな練習。軍隊式で飛んでくる怒声。力尽きる度に知った泥の味。中でも一番きつかったのが、30キロの大荷物を背負っての屋上まで階段ダッシュだった。

 せめて女子の荷物はもう少し軽くして欲しいと、フェリスはナイトハルトに直訴しにいったのだが、

「29キロに減らす代わりに三往復追加だなんて……うう、この世にあんな横暴が存在するとは知らなかったですわ」

「悪夢はもう終わったんだ。あとは勝てばいい」

「……ええ、勝ちますわ。絶対に。負けた時の追加訓練なんて御免ですもの」

 悲壮感混じりの気迫に「な、何だかそっちも大変だったみたいね」と、アリサは気の毒そうにフェリスのどんよりした目を見やった。

 そんな中、パトリックは落ち着かない様子で、きょろきょろと視線を動かしている。

「どうした、パトリック?」

 怪訝顔でリィンが問う。

「エリゼく――い、いや。とにかく次も僕らが勝つ。そういうことだ。行くぞ、フェリス」

 口ごもったパトリックは、それだけを言い残すとその場を離れていった。

 直後、不意に背後から声をかけられる。

「お話は終わりましたか?」

「ああ、パトリックも気合いが入っているみたいだ。俺たちも次のオーダーを考えないといけないな」

「プログラムでは中当てですね。どんな競技なんですか?」

「球技の一種だな。ルールは……――」

 この声。

 ピタリと言葉を止め、後ろに振り返る。

「あ!?」

 豊かに波打つブロンド髪に、透き通る青い瞳。

「お久しぶりです、リィンさん」

 エレボニア帝国、第一皇女。アルフィン・ライゼ・アルノールが可憐に微笑んでいた。

 

 

「今日は応援に来させてもらいました。ふふ、宜しくお願いしますね」

「ユミル以来でしょうか。ご無沙汰しております」

 エリゼはともかく、アルフィンの来訪を知らされていなかったほとんどの面々は絶句である。

「兄に連絡は入れておいたのですが。あの、もしかしてご存じでなかった方もおられるのでしょうか」

 未だ驚愕したままのⅦ組の様子を見たエリゼは、「兄様?」とリィンに説明を求める目を向けた。

「ああ、実はそうなんだ。お忍びということだったので、皆に伝えていいかはご本人にお伺いを立ててからと思ってさ」

「まあ、皆さんに秘密にする必要などありませんのに。私のことは気になさらず、どうか普段通りになさって下さいね」

 アルフィンはいつもの赤いドレスをまとっていなかった。エリゼ同様に聖アストライア女学院の、黒を基調とした清楚な制服である。それでもブロンド髪が目立たないわけではないが、申し訳程度に後ろで括っていたり、ちょっとした帽子を被っていたりするので、少なくとも初見で皇女だと看破されるようなことはなさそうだった。お忍びに加え、無用に一般客を戸惑わせない為の配慮だろう。

 やや不安げにユーシスが言う。

「護衛の姿が見当たりませんが」

「正門に四名控えています。導力車もそちらに停めておりますので」

「たったの四名ですか? それに殿下のお傍でお護りしないと護衛の意味がありません」

 ただでさえ、ヘイムダルの一件ではエリゼ共々に誘拐されかけたのだ。ユーシスの心配はもっともだった。

 エリゼも困り顔で、

「私も同じことを申し上げたのですが。しかし姫様に聞き入れてもらえずで……」

「だって怖い顔をした人たちが目を光らせていたら無粋でしょう? それに学院への入り口は見張ってくれていますし、何よりここには皆さんがいますから。そうでしょう、リィンさん?」

 全幅の信頼を垣間見せ、アルフィンはリィンに歩み寄った。

 ごく自然にエリゼがそれを遮る。

「姫様。次の競技の準備があるそうなので、私達はいったん離れましょう。それにヴァンダイク学院長へのご挨拶も済まさないと」

「エリゼのいじわる」

「もう、どっちがですか。では皆様、また後ほど」

 しとやかに一礼し、アルフィンを引き連れたエリゼは本校舎へと向かう。

 そのタイミングで手当てを済ましたクロウが戻ってきた。

「ったく酷い目にあったぜ。ん、お前らどうした? 固まっちまって」

 緊張のせいで動きがぎこちない面々である。その様子にクロウは首をかしげた。

「まあ、後で分かるさ。とりあえず二試合目のメンバーを考えよう」 

 手汗を拭い、リィンはオーダー表を取り出した。

 

 

 

 プログラム二番は中当て。球技である。

「五対五のチーム戦で、ボールに当たった人は外野に出る。どちらかのチームの内野がゼロになった時点で試合終了だよ」

 例によって競技説明はトワが務めた。

 その他の細かいルールと言えば、ボールに当たっても地面に落ちるまでにキャッチできたらセーフや、顔面はセーフとか、あとは外野からボールをヒットさせても内野には戻れない、などである。

「それじゃあ、各チームメンバーを読み上げるから、名前を呼ばれた人はコートに入ってね」

 トワは両チームから提出されたオーダー表を手の中で広げた。

 Ⅶ組はエリオット、ラウラ、ミリアム、クロウ、フィーの五名。

 貴族チームはブリジット、フェリス、ヴィンセント、ケネス、マルガリータの五名。

 双方が各コートに入り、前衛や後衛などフォーメーションを手早く決めていく。

「くそ、リィンの野郎。保健室から帰ってきたばかりだってのに続投かよ。つーか俺二回目の出場だから、これで出番終わりじゃねえか。しかもまたアレがいるしよ……」

 ぼやくクロウは、相手コートの奥を見る。

「ヴィンセント様は私がお守りしますわあん」

「ヒィイイ!」

 貴族チームの大枠の作戦は読めた。まず前半戦でマルガリータを投入し、取れるだけの勝ち星を上げて、士気も高める。続く後半戦では総合力に秀でたフリーデルを要とし、手堅く勝利をつかむという算段だろう。それ以外の個々のバランスも悪くないし、想像以上にいいチームに仕上がっている。

「攻撃の主軸は俺とお前だ。頼むぜ、ラウラ」

「承知した」

 クロウの作戦はこうだ。

 エリオット、フィー、ミリアムのいわゆる『小さいメンバー』がフィールドを駆け回り、相手の狙いを定まらなくする。ボールが回ってくれば、その度攻撃力に優れたクロウとラウラで敵の数を削っていく。作戦の肝は攻撃よりも防御。連携をとる上で、人数を減らされない事が重要だ。

「僕らは回避がメインだってさ。うう、自信ないなあ」

「走り回ればいいんだよねー?」

「表面積が少ないから当たりにくいって、クロウが言ってたよ」

 小さいメンバーの役割も重要だ。避けるだけでなく、甘い球やバウンドボールがくればその都度キャッチし、スピーディにパスを回して相手を翻弄しなければならない。

 ラウラはストレッチをしながらクロウに質問した。

「攻撃側で留意する点はあるか?」

「綱引きでの失敗を踏まえて、先にヴィンセントを仕留める。これに尽きるだろうな」

 マルガリータはヴィンセントありきで力を発揮する。だから同じ競技内には必ずコンビとして参加する。ヴィンセントにとってはありがたくない話だが。

「つまり彼をコート上から外せば、彼女の戦う動機が薄れるわけか」

「力とやる気の減衰具合はさっき見てた通りだ。そこが付け入る隙ってやつだな。ここで勝てばイーブン。その上、マルガリータはあと一回しか競技に出れねえ。この一戦、落とせねえぜ」

 両拳を打ち合わせて、クロウは不敵に頬を吊り上げた。

「やられた分はきっちりやり返してやらあ。見てやがれ」

 

 

「ぐあああ!」

 開始早々、マルガリータの投げ放ったボールによって、彼はコート外に吹き飛ばされていった。

 土煙を巻き上げながらグラウンドを横滑り、ようやくその勢いが止まった時、もうクロウは動かなくなっていた。

 うずくまりピクピクと指先を震わせる。その腹からシュウウーと摩擦熱による白煙を立ち上らせたボールがこぼれ落ち、てんてんと地面を転がっていく。

「……ここからは四人だ。気を入れ直そう」

 またしても担架で搬送されていくクロウを眺めながら、ラウラは残りのフィーたちに告げる。

 作戦が裏目に出た。

 当初の策の通り、クロウはヴィンセントに強烈な投球を見舞ったのだが、肉々しいガーディアンはそれを許さなかった。片手でその凶球をやすやすと止めると、何倍もの力で投げ返してきた。

 それこそ大砲。コンクリートブロックに穴を開け、分厚い鉄板をゆがめるようなその一撃を、まがりなりにも受けとめようとしたクロウはそれだけでも殊勲章ものである。

 無惨な結果には終わったが。

「いくぞ!」

 手元に回ってきたボールを、ラウラは思い切り投げる。かなりの速度だったが、しかしブリジットにキャッチされた。 

「ふうっ……取れた!」

 背後の観客席には彼女を応援するアランの姿も見える。

「ラウラ、私負けないわ」

「遠慮は無用、来るがいい」

 彼女から投げ返されたボールをしっかりと受け止める。狙いのいい真っ直ぐな球筋だった。

「さすがだ。だが私たちも負けるわけにはいかない」

 フェイクの目付きを左に逸らし、視線とは反対方向の右サイドに投げる。鋭いコースで球が走り、警戒していなかったフェリスの右肩を捉えた。

「きゃっ!?」

「僕がやる!」

 フェリスはアウトにしたが、すかさずボールを拾ったケネスが反撃してきた。釣りで鍛えているからか案外と肩がいい。

 エリオットの左肘に当たる。しかしボールが落ちきる寸前に、スライディングで飛び込んできたフィーがそれをつかんだ。

「助かったよ、フィー」

「ん、問題なし」

 ケネスを狙い返すフィー。しかしキャッチされる。さらにそれをケネスが投げ返そうとして――

「ケネス」

 フィーが名を呼ぶ。彼の動きを制するには、それだけで十分だった。

 蛇に睨まれた蛙のように「は、はい」とかろうじて返事をして、ケネスは震える手からボールを取りこぼす。自陣に転がってきた球を拾い上げると、フィーは立ち尽くすケネスにそれをぶつけた。

「あ、ああ……」

「……痛かったの?」

 フィーの心配をよそにして、どこか嬉しそうにケネスはくずおれた。

 

 優勢なのはⅦ組だった。

 クロウを除けば損害なし。こちらはフェリスとケネスをすでに外野に出している。しかし貴族チームに主砲がある以上、わずかな油断も出来ない。

 そして今、全員に緊張が走った。マルガリータの手にボールが渡ったのだ。

 だがクロウの言葉通りなら、そこまで憂慮する事態ではない。マルガリータはヴィンセントを守ることに力を発揮しているが、自分からの攻撃にはあまり積極的ではない。むしろか弱い女子を演じる――あるいは本当にそう思っている――節がある。

「落ち着いて見据えれば大丈夫だ。いいか体勢を低くして――」

 言葉の途中で、ラウラのすぐ横を猛烈な速度の何かが掠め、寸分遅れてきた突風がポニーテールをぶわりと浮き立たせる。衝撃波が駆け抜け、地表の砂を一気に左右に散らした。

「っ……!?」

 確認するまでもない。マルガリータの球だ。なぜここまでの力を。ヴィンセントを守る為でなければ力は発揮されないのではなかったか。

「無事か!」

 我に返って、後ろを振り返る。同時にマルガリータが本気で投げてきた理由を理解した。

 弾道上にいたのはミリアムである。何かと目障りな彼女をこの機に始末しにきたのだ。

 しかしボールはミリアムに直撃していない。その少し手前、中空で静止していた。いや、静止ではなかった。見えない何かに阻まれつつも、ボールはギュルギュルと激しく回転し続け、不可視の防護を突破しようとしている。

「ガ、ガーちゃん」

 実体は現さないまま、アガートラムが砲撃を受けとめたのだ。ボールがスパーク光をほとばしらせ、焦げ付いた臭いが漂い始める。

『§ΞΤΔ……!』

 機械音だけが響き、一際大きな破裂音と同時にボールが思いきり弾け飛ぶ。

 急激に軌道を変えたボールの先にいたエリオットは、巻き込まれる形でその直撃を受ける。くぐもった声を一つ二つもらしたあと、彼も地面に倒れ込んだ。

 

 判定の結果、エリオットに加えてミリアムもアウトとみなされた。二人そろって外野に回るが、エリオットの様子を見るに、立っているのが精一杯という感じだ。

 あっという間にⅦ組はラウラとフィーだけである。

「フィー、まだ動けるか!」

 飛び交うボールを横っ跳びに避けながら、フィーは「当然」と返してきた。かなり練習してきたのだろう、相手はボール回しも巧みだった。

 外野のケネス、フェリス。内野のブリジット、ヴィンセントも加わり、上手く包囲網を狭めてくる。そうこうしているとマルガリータの一撃も飛んで来るので、一瞬たりとも気は抜けない。

「女神に寵愛されし僕の高貴な投法をその目に刻むがいい。君たちは驚愕することになるだろう、なぜならば――」

「黙って投げて下さいまし!」

「グフフッ。素敵だわあ」

 ヴィンセントにボールが渡る度に流れが途切れるので、その度フェリスが外野からお叱りを飛ばしている。

 その隙をついてラウラ達は体勢を立て直した。

 ヴィンセントが投げてきた球は鈍かった。それをワンバウンドさせてからキャッチして、ラウラはすかさず投擲体勢に入る。

「フィー!」

「了解」

 余計な掛け声は不要だった。相手の連携は見事だが、こちらも見くびってもらっては困る。《ARCUS》に頼らねば連携が取れないなどと考えているなら、それこそお門違いもいいところだ。

 こと、フィーと自分においては。

 投げる直前、急停止しフィーに鋭いパスを出す。フィーはそれを受け止めることはせず、勢いも殺すことなく自軍の外野へと流れるようにボールを送った。

「まっかせて!」

 ボールを受け取ったのはミリアムだ。低い身長をさらに屈めて、地面すれすれからのサイドスローが貴族チームのコートに切り込む。鋭角な射線変更。狙うは一人。

「ガーちゃんの敵打ちだー!」

「ミィリィアアムウ!!」

 一番近くに来ていたマルガリータだ。

 低いが、球速は乗っていない。マルガリータはそれを受け止めようと腰を落として、

「グムッ」

 と苦しげにうめく。腹の肉が邪魔をして一定以上に前屈ができないのだ。太くたくましい足首に命中。マルガリータが悔しげに鼻から蒸気を噴き出した。

 外野に転がったボールをエリオットが拾う。息も絶え絶えだったが、それでも力の限り振りかぶった。

 しかしやはり万全ではなく、ふわりしたと弧を描きながらボールはゆるゆるとヴィンセントに向かう。

「僕を侮ってもらっては困るな。そんなもの目をつぶっててもキャッチできるさ。いたっ!」

 ぼむっと脳天にヒットし、ヴィンセントは静かに外野行きとなる。

 残るはブリジット一人。

 パスが外野と内野を何度も行き来し、最良のタイミングでブリジットの手にボールが届いた。

「ラウラ!」

「受けて立つ!」

 ブリジット渾身の一投が迫る。いい球だが、正面だ。取れる。

 突然ボールの軌道がガクンと落ちる。縦回転による変化球だった。

 腕の間をすり抜けたボールはラウラの太ももに当たり、コートの外へと跳ね上がった。

「私に任せて」

 閃光のような瞬発力。フィーが落下寸前のボールに飛び込んで、ギリギリでそれを受け止めた。体勢を崩しながらも向き直って、コートの中へとボールを投げ返す。

 フィーが地面を転がり、同時にボールは高く舞う。

 戻ってくるボールに合わせて、ラウラは思い切り跳んだ。フィーからのパスを空中で受け取ると、着地よりも早く構えに入る。

 高い位置から急角度で放たれる一投。

 避けようとはせず、ブリジットは真っ向から対峙した。ボールは彼女の手を弾き、そのまま勢いよく地面をバウンドする。

 その瞬間、Ⅶ組の勝利をホイッスルが告げた。

「やられたわ」

「いい勝負だった」

 コートの中心線を挟んで、二人は握手を交わす。

 そのコートの外。砂まみれの身を起こしながら、フィーはVサインを掲げた。

 

 

 

 時間は正午となり昼休憩。残りの三競技は午後に行われる。

 前半戦が終わって、戦績は一対一。種目は定番のラインナップかと思いきや、その実いずれもチームワークが試される内容だった。おそらくは後半戦もだろう。

 残る競技は障害物競争、玉入れ、騎馬戦。 

 この時間を使って策を練ったり、メンバーの組み直しを思案する必要があるが、まずは腹ごしらえが必要だ。

 ブルーシートを全員で囲み、シャロンが作ってきた弁当を広げる。

 大皿に並べられたオードブルの数々、彩豊かなサラダ、多種多様なサンドウィッチ。おにぎりまで用意されていた。

「な、なんて豪華なんだ。先輩も早く帰ってくればいいのに」

 サンドウィッチを片手にマキアスが言う。まともにマルガリータの砲撃を食らったクロウは、いまだ保健室から戻ってこない。

「リィンさん、サラダなんていかがかしら。私が取り分けますね」

「で、殿下! そんなことは自分がやります」

 リィンの右どなりに腰を据えるのはアルフィンだった。

「姫様、そんなに兄を困らせないで下さい。それはそうと兄様のお好きな煮物を作ってきたのですが、味見をして下さいませんか?」

「あら、ずるいわ。エリゼ」

「知りません」

 リィンを挟んで展開されるいつものやり取り。それをアリサとラウラがじっと見つめる。

「嬉しそうね、リィン」

「締まりのない顔だ」

 棘のある声音が突き刺さる。

「い、いや。そんなことはないんだが」と体裁を取り繕うリィンだったが、「まあ、リィンさんは私がとなりでは不服なのですね」とアルフィンが悲しげに席を立とうとした。

 その様を面白がったらしいユーシスが「不敬だぞ、リィン」とわざとらしく(たしな)めてくる。

「ユ、ユーシス? 違うんです、殿下。それは何と言いますか……」

「じゃあ、嬉しいんですか?」

「う……」

 話題を変えるネタはないかと、リィンは辺りを見回す。

 ロジーヌが連れてきた日曜学校の子供たちと遊ぶルビィ。こちらの様子を何度もちらちらと伺っているパトリック。そのくらいのものだった。

 最後に視線が向いたのは手元。重箱に詰められたおにぎりである。苦しまぎれに手を伸ばすと、ラウラの顔が明るくなった。

「おお、実はそれは私が作ったものなのだ」

 ピタリと手が止まる。

「そうは言っても全てではないがな。半分はシャロン殿が作ったのだ」

「はい、ラウラ様が早起きして手伝って下さったのです。私の作ったものと混ざってしまい、どれがラウラ様のおにぎりか分からなくなってしまいましたが」

 シャロンはくすくすと笑う。

 つまり二分の一の確立でラウラのおにぎりに当たる。下手をすれば後半戦に出場できるかどうか危うくなる。

 またやってきた弾丸ルーレット。しかも今回は確率五割。

 アルフィンが不思議そうにリィンの顔をのぞき込む。

「どうしたんですか? おにぎりおいしそうですよ」

「よろしければ殿下も召し上がって下さい。恥ずかしながら最近料理を学んでいるのです」 

 ラウラがとんでもないことを言いだした。

「まあ! 恥ずかしいことなんてありませんわ。ラウラさんのおにぎりなんて楽しみ――」

 瞬間。男子たちの手がおにぎりの重箱へと殺到する。手当たり次第におにぎりを回収し、それを各々の胃袋へと押し込んでいく。

 させるわけにはいかない。帝国の至宝を守らねばならない。例えこの身が滅びて、心が砕け散ったとしても。

 そう、自分たちの未来が潰えても、帝国の未来まで潰えさせるわけにはいかないのだ。

「そなた達、空腹なのはわかるが、もう少しゆっくり食べたらどうだ。殿下の分はちゃんと残すのだぞ?」

「いいえ、お気遣いなく。午後からの競技の為に、皆さんには力を付けて頂かなくてはいけませんから」

 肝心の男子たちは呻いて唸って、顔が赤くなったり青くなったり、エリオットに至ってはなぜか黄色くなっている。明らかに状態異常にかかっていた。

「ば、売店開いてたか?」

「ああ、確か」

「買う物分かってるよな」

「キ、キュリアの薬……」

 そんな男子達はいったん置いて、ふとフィーが言った。

「そういえばサラは?」

 ドレッシングのついたミリアムの口元を拭ってやりながら、エマが答える。

「教官室ですよ。教官たちはお昼に集まって打ち合わせをするそうです」

 

 ●

 

 正門脇のスペースに、黒塗りのリムジン型導力車が停まっている。

 アルフィンの護衛を任された四人はその近くに立っていた。基本的に警戒するのはこの正門付近である。

 今日の体育祭とやらは一般公開されているので、トリスタの町からの来訪者もまばらにやってきていた。のどかな秋日和とはいえ、警戒は欠かしていない。しかし怪しげな人物などそうそういるものでもなかった。

 護衛の一人が息をついた。

「本来なら皇女殿下のお傍でお守りするべきなのだが」

 しかし、来ないでいいと言われたら、どうにも出来ない。これが公式の行事や外出なら、もちろん近くに控えられるのだが、いかんせん“お忍び”である。無粋な真似はやめろと言われたら、やはりその意思を尊重しなければならなかった。

 自分達の介入が許されているのは、周囲にアルフィンが皇女としてばれて騒ぎになり、なおかつ、それが一年Ⅶ組でも収拾が付かなくなった場合にのみと限定されていた。

 もちろんそれ以外で不測の事態が起これば、御身第一と言うことで、その原則を無視することは認められているが。

「Ⅶ組でも収拾がつかない場合か。ただの学生を殿下はずいぶんと評価しておられる」

 一年Ⅶ組の功績は知っている。七月のテロの時は実際にアルフィン皇女を救っているし、九月のザクセン鉄鉱山の一件でも、彼らの行動が事態の解決、引いては帝国解放戦線の打破にも繋がった。

 だがそれは――。

 彼らでなければ解決できなかったか。自分達正規軍では状況を変えられなかったか。彼らはその時その場所にたまたま居合わせただけで、全ては運が成したことではなかったか。

「………」

 逆に――。

 もし自分達でも対処しきれない程の事態が起きた時、彼らに何が出来るのだろうか。

 断言しよう。何も出来ない。たかが学生ごときと見下すわけでも、やっかみ混じりの低評価を下すわけでもない。

 勇気ある行動。その先の成果。それは認める。

 しかし、あくまで学生なのだ。状況判断力も、作戦遂行力も、各種連携力も自分達には及ばない。

 詰まるところ、何が言いたいのかというと。

「殿下には我々の方を頼って頂きたいものだ」

 護衛として選ばれるだけで光栄であり、誉れであり、また優秀の証でもある。

 その栄誉に見合うだけの働きをしたいのだ。このような門番など護衛の本分から離れているではないか。自分の身を盾に出来る位置に控えてこそ、理想の護衛というものだ。今のままでは、せいぜい警備員というのが関の山だろう。

「おい、余計なことを考えるな。殿下の仰られた通りにすればいい」

 心中を察したらしく、他の一人がそんな事を言ってきた。

「わかっている。しかし不審人物といってもな」

 目線を正門から伸びる下り坂に向けてみる。

 呑気な顔をした若い男が二人、談笑を交わしながら歩いてきていた。

「いやあ、体育祭だなんて懐かしいなあ」

「はは、まったく」

 トリスタの住人らしく、カジュアルな出で立ち。また体育祭の見学者だ。やはり日曜日というのは時間の都合を付けやすいらしい。自分達のようなシフト勤務制の職業軍人には、長らく無縁の感覚だが。

「あいて!」

 一人が正門をくぐったところですっころんだ。さらにもう一人も足を取られて横転する。

「うう……」

 打ちどころが悪かったのか、押し詰まった声をもらしながらうずくまっていた。絵に描いたようなこけっぷりである。

 さすがに見て見ぬふりは出来ず、体を起こしてやろうとした。

「大丈夫か?」

「あ、すみませんね」

 しかし差し出した手を男の腕がするりと抜け、そのまま勢いよく喉元に迫ってきた。反射的に背後に飛びのいてそれを避ける。

「貴様っ! ぐっ!?」

 胸元の拳銃を取り出そうとした時、後頭部に重たい衝撃が走った。一瞬ぶれて、ぐらりと傾く視界。

 倒れながら、何とか目を背後に向ける。

 先程こけたはずの、もう一人の男が立っていた。その手にハンマーのような鈍器を携えて。

 あれで殴られたのか。だが自分の他に護衛は三人いる。たかが二人の暴漢などすぐに制圧して――

「……!?」

 二人ではなかった。茂みの奥から一人、二人。木の陰から二人、三人。遅れて正門から五人、六人。

 全員私服。しかしその挙動は明らかに一般人のそれではない。

 気付けば数に押し負け、残りの護衛もまたたく間に組み伏せられていた。

「……―――」

 意識が遠のいていく中、「こいつらの銃を奪え」「護衛は他にいないか」「喋れなくしてリムジンのトランクに詰めておけ」などと不穏な言葉だけが明瞭に聞き取れる。

 最後に耳に届いたのは、絶対に許容できない一言だった。

「アルフィン皇女を探せ」

 いけない。こいつらはまずい。誰かに知らせなければ。しかし誰もいない。声も出せない。

 誰か、誰か――

 声なき叫びは、ただ虚しく胸中に反響する。

 

 

 学院への侵入、護衛の制圧は実に簡単だった。おまけに銃を四丁も手に入れることが出来た。

 帝国解放戦線残党の一人、《C》は後ろのメンバーに振り返る。

「ここからは作戦通りに動くぞ。全員散開、幸運を祈る」

 彼らは数人一グループに分かれ、所定の位置に散っていく。

 一応私服ではあるが大勢で動くには目立ち過ぎる。作戦が順調に進めば、事態を“分かりやすく”教えてやる為に、普段の戦闘服姿に着替え直すことになっていたが。

「制圧班、行くぞ」

 元はくじ引きだったが、何の因果か自分は《C》のコードネームを手に入れた。

 元々の発言力の強さもあってか、いつの間にかリーダー的な立ち位置にも立っている。残党とは言え、帝国解放戦線を率いるのが、同じく《C》の名を冠する者だとは。皮肉な洒落もあったものだ。

「《C》、俺たちは本校舎だな」

「そうだ」

 そう確認してきたのは、《I》だった。

 短く肯定を返して、正面の大きな建物を見上げる。

 仲間は《A》から《Z》までの二十六名。

 チームは四つに分けてあって、それぞれが重要な役割を担っている。

 

 チーム1は捜索班。アルフィン皇女の捜索、発見、可能であれば捕縛を行う。

 チーム2は工作班。学院勢の動きを封じる為の、要の一手を仕込む。

 チーム3は制圧班。教官と学生、双方を反抗できない状態にする。

 チーム4は伝達班。全体の状況を把握し、各班に常に最新の情報を伝える。

 

 大まかにこのような形だ。中でも捜索班はアルフィンの身柄を確保する以外に、作戦遂行の上でもう一つ最も重要な役割があるのだが。

 《C》は薄い笑みを浮かべた。

「作戦の入りはスムーズだ。この流れのまま行くぞ。まずは教官達を抑えておく」

 先に学院内に潜入している数名の捜索班から、昼休みの間教官達は教官室で話し合いをするらしいと報告が入っている。

 好都合だった。ひと固まりになってくれる方がやりやすい。ただ戦力が集中する分、各個制圧は難しくなる。

 どうするべきか。

「小説の完成に夢中になり過ぎて、気付いたらお昼になってるなんて。体育祭、エマさん頑張っているかしら」

 そんな声が聞こえ、一人の女子生徒が前を通り過ぎようとした。

 とっさに辺りを見回す。誰もいない。

 そうだ。一番てっとり早い方法があるではないか。

「お嬢さん。すみません」

「はい?」

 その女子生徒が足を止めた。

「申し訳ありません。少し道を教えて欲しいのですが」

「ご来館の方でしょうか? はい、どちらまでご案内しましょう」

「ああ、それは」

 腰に隠していたナイフを抜き取って、彼女に突きつける。呆けた顔をしたのは一瞬で、すぐに困惑と混乱、そして恐怖に表情を引きつらせた。

「きゃっ……」

「声は出すな」

 短く言って、制圧班の一人、《D》が後ろから腕をわし掴んだ。

 青ざめた顔をして見返してくる女子生徒にナイフをちらつかせながら、《C》は感情のない声で告げる。

「教官室までご同行願おう」

 震える唇。震える手。震える足。

 その腕に大事そうに抱えていた原稿用紙の束が、ばさりと地面に落ちた。

 

 

 

 ~中編に続く~

 

 

 




前編をお付き合い頂きありがとうございます。

いよいよ最終話となりました。細かなあとがきは後編の最後にするとして、ここでは短く切り上げさせて頂きます。

今回は中編②は入れず、きっちり三部で終わらせようと思います。
なので、ちょっと一話分が長くなるかもですが、最後まで応援してもらえたら嬉しいです!

まだまだ続くラストトラブル。体育祭、後半戦もお楽しみ頂ければ幸いです。


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Trails of Red and White(中編)

「生徒達が切磋琢磨する姿はいつ見ても清々しいのお」

 昼休憩中の教官室にヴァンダイク学院長の精悍な笑い声が響く。

 教官勢が集まってのミーティングだが、一般来訪者への対応や、体育祭終了後の誘導手順の確認程度で、物の二十分もしない内に打ち合わせは終了した。

 運営や進行は生徒会に任せているので、あまりやることは多くない。イベントの規模が規模なので、一応教官達も出張っているが、いかんせんトワ生徒会長は優秀だった。落ち度がなく、今のところ目立つトラブルも起こっていない。

 あごひげをしゃくって、ヴァンダイクは言った

「何でもナイトハルト教官が、貴族チームのメンバーを直々に指導したとか」

「は、少々心構えについて手ほどきをした程度ですが」

 ナイトハルトはそう答える。実際は軍隊式の鬼しごきだが。

 おもむろに椅子から立ち上がったサラが、不機嫌そうな声で言った。

「ハインリッヒ教頭。出向教官、それも現役の軍将官殿に協力を仰ぐのは少々ルール違反のような気がしますが?」

 ハインリッヒは鼻で笑った。

「私から依頼したのではない。フリーデル君の判断だ。彼らの向上心と積極性を誇りに思うよ。そもそもコーチ役に関する取り決めは特になかったはずだがね」

「くっ、このチョビヒゲぇ……」

「聞こえんね。何か言ったかな」

「このチョビヒゲぇ……」

「聞こえるように言い直せとは言っておらんわ!」

 二人の視線の中心で火花が散ったのを見て、「お二人とも、どうか落ち着いて下さい」と横からメアリー教官がサラ達をなだめつかせた。

 別の机ではマカロフ教官が頭をぼりぼりかきながら、途中だった小テストの採点を再開しており、そのとなりではトマス教官が、今日の打ち上げ用の店をせっせとリストアップしている。

 ちなみにベアトリクス教官だけは保健室待機だ。

「そういえば、少し小耳に挟んだのじゃが」

 不意にヴァンダイクが少し声色を低くした。

「今回の体育祭にあたって、生徒達の勝敗に関係した賭けのようなものを、サラ教官とハインリッヒ教頭が行っているだとか」

 ぎくりとして、サラとハインリッヒは背すじを伸ばす。

「どうなのかね?」

「ま、まさか。これは親善試合ですわ。そうでしょう、ハインリッヒ教頭?」

「そ、その通り。生徒達の成長が嬉しいですな。サラ教官」

 どもりながら、二人は作り笑いを見合わせる。わざとらしいくらい息があっていた。

「本当かね?」

『ええ、もちろん!』

 異口同音に言った。

「ふむ、それならよいのだが。ああ、そうじゃ。もう一つ全員に伝えておくことがある。今日はお忍びということで、実はある方がお越しになっていて――」

 ヴァンダイクがその事を伝えようとした矢先、ノックもなく教官室の扉が開いた。

 私服の男性。一般の見学者だった。

「あ、こちらは教官室になります。本日の催しはグラウンドでのみ行われておりまして」

 物腰穏やかにメアリーが立ち上がり、にこやかに応対しようとしたが、

「動くな」

 その男は即座に拳銃を取り出し、冷たい銃口を彼女に向けた。

「きゃっ――」

 悲鳴が上がるよりも早く、サラとナイトハルトが動いた。俊敏に二手に分かれ、左右から迫る。男の銃が照準を迷わせた。

「動くなと言った!」

 鋭い声が響く。銃を構えた男ではなかった。その後ろから別の男が現れる。一人の女子生徒の喉元に、ナイフの切っ先を突き付けながら。

 サラとナイトハルトは急制止し、ぎりと奥歯を噛みしめた。

「きょ、教官……」

 その女子生徒――ドロテは今にも泣き出しそうな顔で、サラ達にすがるような目を向ける。

「ドロテさん!? あんた達、手荒な真似はしてないでしょうね!」

「危害を加えるつもりはない。お前達が俺達の言う通りにすればだが」

「ひっ」

 切っ先が細い首筋に食い込む。

「やめなさい! 要求は?」

「一つだけだ」

 何人もの男達が教官室に押し入ってくる中、彼は告げた。

「お前たちはここを動くな。最後までな」

 

 ●

 

 教官室でのアクシデントなど知るはずもなく、グラウンドでの昼休憩は終わり、ここからは後半戦である。

 午後の最初、プログラム三番目の競技は障害物競争。

「よし、行くか」

「ようやく僕の出番だな」

「がんばりましょう」

 Ⅶ組からの選抜メンバーはリィン、マキアス、エマだ。

「おう、お前ら気合い入れていけ」

 残ったサンドウィッチを片手に、そう言ったのはクロウだ。中当ての試合中に保健室に運ばれていたが、休憩時間が終わった辺りで、ようやく復帰することができたのだった。

 もっとも彼は前半で二試合に出場した為、参加回数制限により、もう競技には出れないのだが。

「ここから俺は実況に回らせてもらうぜ。ガンガン盛り上げてやるからよ」

 サンドウィッチを平らげて立ち上がると、クロウは生徒会のテントへと歩いていく。

 どうやら強引にトワを説得したらしく、マイクを片手に実況席なるものを勝手に作り始めていた。

「少々不安だが、好きにさせておく方がいい気がする。おっと、対戦相手が出てきたぞ」

 マキアスが言った。

 白組のメンバーはブリジット、パトリック、フリーデルだ。

 

 

 第一走者はブリジットとマキアス。

 先日のクッキングフェスティバルでは同じチームにもなっているので、お互い見知った仲である。

「ブリジットさんか。僕は手を抜かないぞ」

「私もよ。アランも応援してくれてるし」

「……なあ、君ってやっぱり」

「おーし。ルール説明してやるぜー!」

 クロウが意気揚々と解説役のポジションについた。

 マイクを取り上げられたトワが、必死に取り返そうとピョンピョン跳ねているが、身長差に阻まれて些細な抗議にもなっていない。

「コースは100アージュ直線。その途中に障害物が設置してある。それを越えてゴールまで先に到達した方が勝ち。走者は三人だから二本先取したチームに勝ち星が付くってわけだ。んで、障害物の説明だが――、あっトワ、てめ!」

 一瞬の隙を付いて、トワがマイクを取り返す。

「障害物の説明だよ! みんなコースを見てね」

 まず設置されているのは平均台。その細い台の上を渡った先にあるのが、漁業で使うような大きな投網だ。おそらく体のあちこちに引っかかるので、ほふく前進が必須だろう。それを潜り抜けると小さなテーブルがあって、卓上には何枚ものカードが並べられている。

「あのカードの裏にはね――あ、返してー!」

 またクロウがマイクを奪い取る。

「あのカードは借り物のお題だ。人だったり物だったりだが、基本的に学院内でまかなえるものになってる。俺も一応参加選手だから、何が書いてあるのかは見てねえけどな」

 そしてお題のものを手にして、先にゴールテープを切れば勝利である。

 一通りの説明が終わり、マキアスとブリジットはそれぞれスタート位置についた。

 一つのマイクを取り合いながら、トワとクロウは同時に言う。

『それじゃ、よーい、スタート!』

 

 最初にリードしたのはマキアスだった。

 平均台を危なげなく越え、網に持って行かれそうになる眼鏡をかばいつつ、ブリジットより先に借り物のお題へとたどり着く。

「えーと、これにするか」

 適当なカードを選び、裏を確認する。お題は――

 “双子”

 これは簡単だ。候補など一組しかいない。Ⅳ組の彼女達である。

「ラッキーだな! やはり僕は持っている男――ん……?」

 文字には続きがあった。『――の姉』と書かれている。

 “双子の姉”だ。

 となるとリンデだ。マキアスは素早く観客席を見渡す。

 目立つ桃色髪だから、すぐに発見できた。二人そろって最前列に座っている。三つ編みのおさげ髪が確かリンデだったはずだ。

「な、なに……!?」

 二度見する。おさげ髪が二人いるのだ。ヴィヴィのいたずらの最中か、それともこれからするつもりなのか。ともかく一見するとどっちもリンデだ。普段から見慣れているわけではないし、まったく判別ができない。

 本人達に聞くか? いや、ヴィヴィのいたずら心を刺激してしまって、嘘を言われる可能性もある。

「教えてくれ、ガイウス! どっちがリンデだ!?」

 ならば見慣れている人物に聞けばいいだけの話だ。応援に回っているガイウスに大声で訊く。

 彼ならばすぐに見抜くだろう。しかし当の本人は難解な表情で首をかしげている。

「……すまない。わからない」

「ガ、ガイウス!? こんな時のための風の導きじゃないか!」

「それは多分違うと思うが……」

 まさかの事態だ。

 遅れていたブリジットも追いつき、カードをめくっていた。彼女は少し迷ったようだったが、すぐに反対側の観客席へと駆け出している。

 考えたところで答えは出ない。マキアスは双子の前まで移動した。右か左。どっちだ。こうなれば二分の一。

「君に決めた。僕と一緒に来てくれ」

「え? え~?」

 右。心なしか目許が柔らかそうな方を選び、その手をつかんでゴールに走る。手間取った時間で差を埋められたらしく、ブリジットもすでに誰かを引きつれてゴールに向かっている。手を繋いで走っているのはアランだ。

「くそ! 負けるものか!」

「アラン、急いで!」

 双方全力で走り、その結果。

 僅差でマキアスがゴールテープを切る。

 だがまだ勝利は確定ではない。カードのお題と借り物の確認をしなくてはならないのだ。

 マキアスはクロウに、ブリジットはトワに、それぞれカードを手渡した。

「つーか、俺にもどっちがどっちかわかんねえよ。学生手帳を見せてくれ」

 その手があったかと悔やむマキアスの横、連れてきたリンデは手帳を開いて見せる。

「あ……!」

「ごめんねー」

 彼女は姉のリンデではなく、妹のヴィヴィだった。

「もー、リンデの方がおっぱいが大きいんだから、さわって確かめれば良かったのに」

「で、できるか!」

 一方のトワはカードとアランを見比べて、「うん、オッケーだよ」と、にやにやしながらブリジットのお題を認めた。

「やられたな。まずは白組にリードを許したか。そっちのカードにはなんて書かれていたんだ? アランは知ってるんだろう?」

「それがさ、俺もいきなり連れ出されたからわからないんだ。教えてくれ、ブリジット」

「え? え、えーとね! フェンシング部って書いてあったの!」

 ブリジットはそう言うと、急いでトワからカードを回収し、そそくさと制服のポケットにしまい込んでしまった。

「へえ、ちょうどいいカードを引いたんだな」

「……?」

 アランはそれで納得していたようだが、マキアスは疑問を感じていた。

 ならばカードをめくった時、どうして迷うような素振りを見せたのか。考えるまでもなく、アラン一択ではないか。同じフェンシング部のパトリックとでも悩んだか……?

 カードの裏面は女神のみぞ知る、である。

 

 第二走者、リィンとパトリック。

 因縁の――とまではいかないものの、パトリックの対抗心を一手に受ける形で、リィンも勝負に全力を尽くす。

 平均台も網抜けもほぼ互角。両者同時に借り物のカードを手にした。

 リィンのカードにはこう記されていた。

 “年下の女子”

「年下……」

 候補はいる。フィーやミリアムだ。日曜学校の子供の中にも対象者はいる。だが選ぶべきは。選ばなければならないのは。

 リィンはそこに向かう。少し離れたところにある観覧席。生徒会テントの近くにあるその席は、おそらくトワの配慮なのだろう。あまり人目に付かない位置取りだった。

「エリゼ、俺と一緒に来てくれ!」

「に、兄様?」

 困惑するエリゼを半ば強引に立たせた時、

「エリゼ君、僕と一緒に来てくれ!」

「パ、パトリックさん?」

「う、うむ。久しぶりだな」

 なぜかパトリックもやってきた。なぜか緊張気味だ。

「パトリック、何の用なんだ?」

「エリゼ君に用事がある。僕のカードには“黒い服”と書かれているからな」

 エリゼが着ている服は聖アストライア女学院の黒い制服だ。

「だったら俺のシャツを貸す。制服の下はちょうど黒のインナーだ」

「いるか、そんなもの!」

「遠慮はいらないぞ」

 揉めに揉めた末に、二人は同時に手を差し出す。

「エリゼ!」

「エリゼ君!」

「え、えっと」

 しかしそれはパトリックにとって分の悪すぎる勝負だった。エリゼはおずおずとリィンの手を握る。

「行くぞ、全速力だ」

「ち、ちょっと兄様!?」

 

 遠ざかっていく二人と、差し出したまま固まる右手。

 パトリックは数秒の間、沈黙していた。

 分かってはいた。多分エリゼの自分に対する印象は初対面と同じ。同じ土俵に立てば、もちろんリィンには及ばない。

 そんなことは分かっている。だからせめて競技では勝つんじゃないか。それでどうなるものでもないが、少なくとも目は向けてくれるだろう。今はそれでいい。しかしこのままではそれさえも。

「くそっ!」

「ふふ、エリゼったら人気者」

 エリゼが座っていたとなりの席で、一人の少女が楽しそうに笑っている。エリゼしか見ていなかったからか、今の今までまったく目に入らなかった。ブロンド髪を後ろで括り、帽子を目深にかぶったその少女。

 どこかで見たような顔だと思ったのもわずか、彼女の服もエリゼと同様の聖アストライアの黒い学院服だと気づく。

「悪いが僕と一緒に来てくれ!」

「え?」

 今ならまだ間に合う。あいつには負けたくない。

 パトリックはその手を引いて、有無を言わせず走りだした。

 

 追走してくるパトリックに振り返り、リィンとエリゼはそろって目を丸くした。

「ま、まさか気づいていないのか?」

 四大名門のハイアームズ家。拝謁の機会は何度もあったはずなのに。皇女殿下の手首をつかんで、あろうことかグラウンドを全力疾走させるとは。

「姫様のあの顔……あれは絶対楽しんでます。兄様、早くゴールしちゃいましょう」

「ああ、しかし自分が手を引いているのがアルフィン皇女だって分かったら、パトリックは気を失うんじゃないか」 

 逃げ切ろうとするリィン、エリゼ組。追いすがるパトリック、アルフィン組。

 しかしリードは変わらず、二戦目はリィンたちが勝利した。

 

 エリゼがアルフィンを引き連れ、元の観覧席に戻る途中、早くも最後の三戦目が開始される。ちなみにパトリックは、結局最後までアルフィンに気づかなかった。

 第三走者はエマとフリーデルだ。

 身体能力はフリーデルの方が高い。あっという間に差を開けられ、エマが網をくぐっている頃には、彼女はすでに借り物のカードを手にしていた。

「ふんふん、導力カメラ? えーと、写真部は……と」

 フリーデルは観客席の向こうに目当てのものを見つけた。ニット帽をかぶった男子生徒――レックスがバシャバシャと試合風景を写している。なぜかグラウンドではなく、観客席を向く比率の方が高いが。

「ふふ、ちょっと貸してもらおうかしら」

 レックスへと向かうフリーデル。やましい何かがあるかのように、レックスは一目散に逃げ出す。

 その最中、遅れてエマがカードの台にたどり着いた。

「まだ大丈夫……」

 呼吸を整え、エマはカードの上に手をかざした。

 最初の平均台と網なんて、あってないようなもの。障害物競争の肝はこの借り物ゾーンだ。ここをどれだけスムーズにこなすかで、勝敗が大きく左右される。さらに裏の意図までを読むなら、人、物問わず、どれだけこの学院を深く知っているかということだろう。

 これはタロット占いの応用だ。

 カードの裏に何が書かれているかはわからないが、さすがに全ての題に即応できるとも思わない。だから自分がつかむべきは運。フリーデル相手に真っ向勝負で敵わないことは始めから織り込み済みだ。

「………」

 リードを許してしまっているが、まだ巻き返しは出来る。

 選び取れ。戦況を覆す一枚を。

 なるべく近くで入手できるもの。自分にとってわかりやすいもの。

 集中が高まり、周囲の喧騒を薄れさせる。己の中に静寂が満ちてくる。

 幾多あるカード。その中の一枚が、直接頭の中に語りかけてきた。

 

〝汝は我を求め、我は汝を望む。運命はすでに手中にあり、未来はすでに開かれている。さあ、引くがいい”

 

 何者かの意思が確かにそう告げた。

「これを」

 劣勢とは思えない程、落ち着いて静かにカードをめくる。

 借り物のお題は――“用務員のほうき”

「………はい?」

 ほうきでいいではないか。どうして“用務員の”が付くのだ。

 よく見れば前文は筆跡が違う。明らかに後書きされた文字。まさか――

「やあ、エマ君。奇遇だね」

 いつもの嫌な予感が走ると同時、例によってその用務員が姿を現した。

「ガイラーさん……、グラウンドの真ん中は奇遇で出合う場所ではないと思いますが」

「では必然と言い換えておこう。それはさておき、君の探しているものはこれかな?」

 わざとらしく竹ぼうきを掲げてみせる。

 何かを見越したしわ深い目。薄く笑う口元。

 それだけでエマは全てを理解した。この用務員がまた仕込んできた、と。

「よ、よりによってこんな時に」

「こんな時だからこそ、君の力になりにきたのだよ」

 よほど念を込めて、あの一文を書いたのだろう。あまりにも強すぎる念――もはや呪い――がエマの感覚を狂わせたのだ。思い返せば、さっきカードから聞こえた声は、ガイラーの声に似ていた気がする。

「なら、それを貸してもらえますか?」

「もちろん私はその為にここにいる。ただこれは私の愛用する掃除道具でね。魂のこもったものだ。簡単に人に渡せるものではない。だが……」

「何を……――あっ」

 他から見えないよう、ガイラーは人差し指同士を胸前で小さく交差させてみせた。理解したエマは首をぶんぶんと左右に振る。

「む、無理です。イヤです」

「君は聡明だ。これが必要なことだと分かっているはず」

「もう二度とそれはやらないと誓いました」

「やれやれ。君はまたそうやって、自分を自分で縛るのかね」

 聞き分けのない子供を諭すように、彼は穏やかな声で言う。

「今君はチームで戦っているのだろう。それも勝敗を分ける大事な局面だ。我を押し通すのもいい。だがそれで負けていいのかね。君は選ばれてここに立っている。その背に仲間の信頼を背負っているのだ。状況を顧みず、かたくなになることが本当に正しいことなのかな?」

「うっ……」

 腹立たしいくらいに正論である。だからと言って、またしてもこんな大勢の中で“あのポーズ”をやるわけにはいかない。絶対にやりたくない。

 しかしガイラーの言うとおりにすれば、この場でお題のほうきが手に入り、フリーデルに勝てるだろう。

 大局で言えば、二対一となり貴族チームにチェックメイトをかけることができる。逆に自分が負ければⅦ組に後はなくなる。

 自分が折れてしまえば、それだけで済む。

 ……済むことなのだが。

「見たまえ」

 言われて、ガイラーの視線を追う。Ⅶ組の陣地、仲間達が必死に応援してくれていた。足を止めている自分を心配してもくれているようだ。大きな声援。ルビィもこちらを見ている。負けられない理由。自分の意地とどちらが大切だ?

「みんなが君を応援しているね? 信頼には応えないといけないね?」

 まさに悪魔のささやき。自分が悪いような気にさえなってきた。

「う……うう」

 鉛のように重たい両腕をゆっくりと頭上に持ち上げる。ぷるぷると震えながら、掲げた腕を交差させ――

「エ、エ……エーックス」

「実にいい」

 満足そうに笑むガイラー。うなだれるエマ。

「君の想いは確かに伝わった。持っていきたまえ」

 渡される年季の入った竹ぼうき。

「うう、ありがとうございます」

「礼など不要だよ。さあ行くんだ。勝利が君を待っている」

「ガ、ガイラーさん、あなたは……」

「言っただろう。君の力になりにきたと」

 ちょうどその頃、導力カメラを手にしたフリーデルは、華麗にゴールテープを切っていた。

 

 ●

 

「目的は話さない。お前達はここでじっとしていればいい」

 事の全てが終わるまで。そう付け足して、《C》は後ろ手に縛られた教官を一人ずつ見回した。

 サラは目線を悟られないように、慎重に相手を分析する。

 相手が何者かは判明していた。

 帝国解放戦線、その残党。彼らはすでに私服から、戦闘服へと着替えている。

 風景に溶け込める私服からわざわざ着替えるのは、秘密裏に計画を進めるつもりはないということ。おそらくこの後、何らかの強引な手段に出るはずだ。

 話さないと言う目的に関しても察しはついた。このタイミング。アルフィン皇女だ。皇女が来訪していることは当然学院側も把握していると思っているはず。つまり、その目的がこちらに察せられることも承知の上か。

 彼らにとって重要なのは、教官勢をここで身動き取れなくすることだろう。

(……だけど)

 情報が外に漏れ出せば、上手くことは運べまい。そして、その手段がこちらにはある。

 そっと腰元の《ARCUS》ホルダーに手を伸ばす。手を縛られていても操作くらいはできる。通信を誰かに繋いで、こいつらの会話を聞かせてやればいい。逆上したふうを装って、適当にわめき立てるだけでも十分だ。

 通信ボタンを押し込む。誰を選択したかは分からない。誰でもいい。早く応答して。

「させると思うか?」

 大股で歩み寄ってきた《C》がサラの《ARCUS》をホルダーごと奪い取る。

「ノルド高原、ヘイムダル、ガレリア要塞、ザクセン鉄鋼山。何度お前達に作戦を引っかき回されたと思っている。赤服の学生共とその教官が特殊な戦術オーブメントを使うことくらい、とっくに情報が回っているさ。中でも厄介なのはこの通信機能だったが――」

 《ARCUS》を後ろに放り投げる。壁にぶつかって、耳障りな音を立てた。

「これで何もできまい」

「あら、やるじゃない」

 あえて余裕の態度を見せるが、内心は焦っていた。外部への連絡手段がなくなったのだ。唯一この場にいないベアトリクスが事態に気づけば、他にやりようも生まれてくるが、今日はけが人が出るかもしれないから保健室に詰めると言っていた。望みは薄い。

 迂闊だった。作戦順序を相手はよく考えている。

 ドアが開いて、また知らない男が入ってくる。彼は私服だった。

「見つけたぞ。先程、競技の一つに参加していた。多少の変装はしているが間違いない。校舎内に生徒もほとんどいないし、ここからは戦闘服で動いても問題はなさそうだ」

 名前は出さなかったが、これはアルフィン皇女のことだ。

 まずい。ここに皇女が来ていることを知っているのは、この場では自分と学院長のみだ。さっき全員に伝えようとしていたみたいだったが、間が悪く言葉を中断されている。

 サラはヴァンダイクに目を向けた。彼は黙したままだ。何かを考えているようにも見える。

「俺が行く。ここは三人もいれば十分だろう。あとは任せる」

「了解」

 ドロテを別の男に引き渡し、《C》は教官室から出て行った。

(どうすれば……)

 状況を伝える手段はなく、武器もない。おまけに人質まで取られている。

 有体に言えば、最悪の状態だった。

 

 

「ん?」

 リィンの《ARCUS》が受信音を鳴らした。しかしすぐに切れる。発信元はサラからだった。

 すぐに折り返してみるが、応答はない。

「サラ教官……間違えたのか?」

「リィン、次の玉入れの出場者はどうするの? メンバー上限は四人までよ」

 アリサが声をかけてくる。

「すまない。騎馬戦のメンバーも考えながら決めないといけないな」

 《ARCUS》をホルダーに戻して、リィンはオーダー表を取り出す。

 検討の結果、エマ、エリオット、ミリアム、ガイウスが玉入れの選抜メンバーになった。

「すみません、さっきは私のせいで負けちゃいました……」

「気にしないでよ、委員長」

「ここから巻き返せばすむ話だ」

「うんうん、玉入れなんてボク初めてだよ。楽しみだなー」

 ここで勝たねば、Ⅶ組の敗北が決定してしまう。

 対する貴族チームはフェリス、ブリジット、ケネス、フリーデルだった。

「うし、それじゃあルールを伝えるぜ」

「クロウ君、返してってば!」

 相変わらずマイクを取り合いながら、クロウとトワが玉入れの説明を始める――と思いきや。

「今回は僕が説明させてもらおうかな」

 後ろからクロウ達の間に分け入ったジョルジュが、二人して離さないマイクをむんずとつかみあげる。

「あ!? お前!」

「ジョルジュ君まで! 返してよ―!」

「今回の玉入れのセットは僕が作ったんだ。玉は普通なんだけど、実は網カゴに細工をしてあるんだよ」

 台座の上に突き立てられた高さ四アージュほどの棒の先端に、玉を投げ入れるカゴが設置されている。

 ジョルジュが手の中のリモコンを操作すると、カゴが棒を中心にしてグイングインと回転し始めた。そこまで速度は出ていないが、かなり狙いがつけにくそうな動きだ。

「それ以外は普通の玉入れと同じさ。多く玉が入ったチームの勝ち。制限時間は三分で一本勝負。そうそう、棒を支える台座は秤にもなっていて、玉の重量を計算して何個入っているかをモニターが教えてくれるようになっているんだ」

 試しに一つカゴに玉を投げ入れてみる。台座のモニターが反応し、『1』と表示された。

「まあ、こんな具合さ。便利だろう。さて、準備はいいかな?」

 両チーム共にそれぞれのカゴの下に構え、合図を待つ。 

 しつこくマイクを取り返そうとしてくるクロウとトワを押しのけて、ジョルジュは言った。

「さあ、回転玉入れ! よーいスタート!」

 

 号令と同時に、大量の赤と白の玉が宙を入り乱れる。

「これ、結構難しいですわね!」

「ええ、なかなか入らないわ」

 フェリスとブリジットは回るカゴに苦戦していた。

 フリーデルは持ち前の運動能力でコンスタントに玉を投げ入れており、ケネスも安定したフォームで順調に得点を稼いでいる。彼の場合は釣りで得た技能が大きく活きているようだ。

「届かないよー!」

「ミリアムちゃん、がんばって!」

 一方のⅦ組、一番苦労しているのは身長の低いミリアムだった。カゴに入れるどころか、そもそも届かない。

 エリオットは届きはするものの、ミリアムと同様の理由で、思うように玉を入れられないでいた。

 友軍の得点頭は長身のガイウスだが、フリーデルとケネスの手数には及ばず、Ⅶ組の点数は伸びていかない。開始一分が経った頃合いで貴族チームは17個、方やⅦ組は9個だ。

「こ、これじゃ負けちゃうよ」

「届かないー!」

 とりあえず適当でもいいから、弾幕を絶やさない。偶然に入ってくれる玉もあるにはあるのだ。

 しかしエマだけは玉を投げず、じっとカゴを凝視していた。

「皆さん、一度手を止めて下さい。そして私の言う通りにしてみて下さい」

 丸メガネがキラリと光る。

「まず棒から三アージュ離れて。次にカゴを正面に捉えて、自分の前を通過してから二秒半後に六十度の角度で投げて下さい」

 訳もわからないまま、とりあえずエマに応じる一同。タイミングはシビアだったが、まずは言われたように投げてみる。

「あ、あれ?」

 入った。エリオットの玉もだ。

「球速によって差は出ますが、このタイミングなら入りやすいはずです」

「さっすがいいんちょー! でもボクはやっぱり届かないんだけど……」

「ではミリアムちゃんは球拾いをお願いします」

「えー!?」

 エマに言われた通り、ミリアムは落ちた球を拾って手渡す補給役にシフトする。だがこれが思った以上にいい効果を生んでいた。

 投げる側がいちいち体勢を変えたり、その場を動かなくて済む。エマが立てた作戦との相性が良いのだ。もっとも三人の間を終始走り回るので、見た目とは裏腹にかなりハードな役回りではあったが。

 二分経過。残り一分を切ったところで貴族チームが39個、Ⅶ組が35個。怒涛の勢いで貴族チームに追いすがるⅦ組勢。

「フレーフレー! 猛将ーっ!!」

 この大切な局面で、そんな応援が飛んできた。エリオットはがくりと折れそうになる膝をどうにかこらえる。

 観客席の先頭でパイプ椅子の上に立ったケインズが、それはそれは大きな旗をぶんぶんと振り回していた。燃えるような深紅の旗のど真ん中には、でかでかと『Ferocious General』と金刺繍されている。直訳で“獰猛な将軍”。おそらくは猛将の意だろう。

「本当にやめてもらえません!? 聞こえてます? ケインズさーん!」

「フレェイフレェーイ、モ、ウ、ショ、ウ! フレッフレッ猛将! フレッフレッ猛将ー! フゥーウ! ハァーイ! 猛将ー……ファイッ! イエス!」

 オリジナルの応援方式なのか、絶望的にセンスのない振付けを惜しげもなく披露し、壊滅的にやる気の削がれる声援を絶え間なく飛ばしてくる。ギャラリー達の疑惑の目が向けられるのも痛かった。

「は、早く終わらそう!」

 急いだところで制限時間は変わらないが、それでも急がずにはいられないエリオットだった。

 制限時間はあと15秒。

 得点は47対45で負けている。あと数個の差が埋まらない。

 ガイウスが叫んだ。

「ミリアム、エリオットに玉を持てるだけ渡してくれ!」

「わかった!」

「な、なに?」

 両腕いっぱいの玉を手渡されたエリオットを、そのままガイウスが肩車する。

「このまま飛ぶ!」

「飛ぶう!?」

 ガイウスの周りに風が渦巻き始めた。

「カラミティーホォァーック!」

 全力の気合いと共に、烈風をまとったガイウスは地を蹴る。しかし間髪入れず、飛びあがった足をブリジットがつかんだ。

「させないわよ! ポーラから聞いているもの。ガイウス君は“追い詰められたら大体飛ぶ“って」

「な、なんだそれは?」

 とはいえブリジットだけで勢いは抑えられなかった。

「わ、私ごと飛ぶ気……!? 誰か力を貸して!」

「合点承知ですわ!」

 フェリスが加勢に来てブリジットを後ろから引っ張る。まだガイウスは落ちない。さらにケネスもフェリスの後ろについて、三人がかりで引っ張る。さながら離陸しようとする飛行艇を、強固な鎖で繋ぎとめるかのようだ。

 ずりずりと地面を滑る貴族チームの三人。それを引きはがしにかかるエマとミリアム。通常の玉入れではあり得ない異様な光景だ。団子状の混戦が地上で展開されている。

「あなた達、しっかり押さえてなさい」

 フリーデルの援護射撃。鋭い投擲がエリオットを直撃する。

「うわっ!」

 不意の一撃に抱えていた玉がボロボロと崩れ落ちる。同時にガイウスが失速した。とうとう競り負けたのだ。

 完全にその勢いが失われる前にと、ガイウスは両手で思い切りエリオットの足を押し上げる。

「飛べ、エリオット!」

「う、うわああ!」

 そのまま力一杯にエリオットを射出した。猛将が空を駆ける。逆光が勇ましいシルエットを映し出した。

 エリオットの目の前に、回るカゴが迫ってくる。タイミングは完璧。手に残っていた数個の玉をまとめて振り上げて――

 そこでタイムカウントがゼロになり、ホイッスルが響き渡った。

「だあっ!」

 構わずに猛々しいダンクシュートをぶちかます。渾身のブザービーター・ダンク。

 落下するエリオット。ガイウスも地面に引きずり落とされていた。

 モニターの点数は47対45のまま変わらない。表示にノイズが走る。エリオットが瞬間的にかけた重量を差し引いて、双方最後の得点が算出された。

 貴族チーム47点。Ⅶ組48点。

 土にまみれた顔を上げ、得点を呆然と眺めるエリオット。

「やっ……」

「猛―――将―――っ!!」

 半狂乱で興奮したケインズが旗をぶん回し、エリオットの喜びの声はかき消された。

 

 

 一際大きい歓声が校舎内まで響いてきた。

 数人の同志たちを引き連れて、《C》は階段を登っている。楽しそうに笑う声が耳ざわりだった。

 彼は思う。

 お前達の笑顔は“たまたま”だ。

 かつては自分達もそのように笑っていた頃があった。親兄弟がいて、友人がいて、恋人がいて、故郷があった。未来に希望を抱き、夢だってあった。当たり前の毎日を、当たり前に生きていた。

 だが失った。違う。奪われた。

 鉄血宰相の政策によって。

 代表的なものを挙げれば強行的な鉄道網の拡大だが、無論それだけではなく、様々な影響、煽りを受けて、それまでの生活ができなくなった者も少なくない。

 戦線に集う者達はそれぞれの理由、事情があってオズボーン、引いては革新派と戦うことを決意している。

 だが何も帝国を消し飛ばそうとしているわけではない。憂いているのだ、この国を。テロリストと蔑まされながらも、自分達はあくまでエレボニアの為に戦っているのだ。

 だから我々は掲げている。

 “帝国をあるべき姿に”

 揺るぎなきその信念の言葉を。たとえ俗人に理解されなくても、我らの行動の正しさはいずれ後の歴史が証明してくれる。

「着いたか」

 階段を登りきった先にあった扉を開く。屋上だ。

 あとは工作班から作業終了の合図、そして捜索班からアルフィン皇女を確保したと連絡があれば、計画を次の段階に移すことができる。もっともその二つのタイミングはそろわなくてもいい。後者に関しては学院制圧後に実行すればいいのだから。

 屋上の端からグラウンドの様子を伺ってみる。細かな状況は分からないが、アナウンスを聞く限りでは、次が最終競技とのことらしい。

 できるならこの競技が終わるまでに全ての準備を終えたいが。

 一人がそばまでやってくる。ベルトのバックルに書かれたアルファベットを一瞥する。彼は《J》だ。

「伝達班から連絡があった。工作班の作業が終了したらしい」

「そうか、早かったな」

 一つ目の条件はクリア。あとは状況を見て判断する。

 他のメンバーは学院の各所に散っている。今、この屋上にいるのは自分を含め三名だ。

「どうした《C》?」

「いや、何でもない」

 屋上にまで学生達の明るい声が聞こえてきた。

 かつていた日の当たる世界。そしてもう戻れない世界。壊されてしまった世界。

「………」

 だが諦めるつもりもない。戦うと決めた。志半ばで散っていった同志達と同様に、いつか力尽きたとしても。理不尽に打ちひしがれて、呪いの言葉を吐き続ける毎日よりは、よほどいい。

 壊れたのなら、創り直せばいい。

 そう、あるべき姿に。

 この場に残った二六人は、まだその為の力になれるはずなのだ。

 自分達の最終目的は戦線本隊に合流すること。しかしそれは本隊が残っていればこその話。

 詰まるところ、最後は賭けだ。

「信じるしかない」

 《C》はそう言って、再び眼下を見下ろした。

 もし自分達のように理不尽にさらされて、不条理な人生を余儀なくされたとしたら、それでもお前達は笑っていられるか。その原因を憎まずにいられるか。

 無理だろう。

 境遇さえ違えば、お前達も自分達と同じ道を選んでいただろう。

 暖かい庭で育ち、理不尽も不条理も知らず、抗う術も知らない学生達。

 もう一度言おう。お前達の笑顔はたまたまだ。

 

 ●

 

「ここまでの戦績は二対二だぜ!」

「さあ、いよいよ最終戦!」

「最後の競技は騎馬戦だよ!」

 クロウ、ジョルジュ、トワが順々にマイクを持つ。同期生の不毛な戦いは、このような形で一応の折り合いをつけることに落ち着いていた。

 まずはジョルジュがルール説明をする。

「人数上限は各チーム六名まで。ただ騎馬編成は何人でもいいよ」

 次にクロウが言う。

「騎手は頭にはちまきを巻いて、それが相手に取られるか、頭に付けたままでも騎手の足が地面に着いたら負けだ。当然だが、先に相手チームを全滅させた方の勝ちな」

 最後にトワが言った。

「後は……あ、あれ。私が言うこと残ってないよー!」

 トワが頬を膨らます両脇で、クロウとジョルジュはそれぞれ別の方向に顔を背けている。

 進行組がごたつく中、双方のチームはフィールドの両端に分かれていた。

 赤組一騎目はリィン、マキアス、ユーシスだ。馬の組み方は前にマキアス、後ろにユーシス、そして騎手にリィンである。

「最終戦だ。二人ともよろしく頼む」

「任せておくがいい。もっとも前のやつが臆して足並みを乱すかもしれんがな」

「ふん、君こそ遅れて足を引っ張るんじゃないぞ」

 普段通りの二人の掛け合いに「……頼んだからな」とリィンは表情に不安を滲ませた。

 一方、二騎目は女子編成。アリサ、ラウラ、フィーの三人が組む。前がラウラ、後ろがアリサ、騎手にフィーとなっている。 

「息を合わせていきましょう」

「ああ。上は頼むぞ、フィー」

「任せて」

 これでⅦ組メンバーは、全員が二回ずつ何かしらの競技に参加したことになる。

 対する白組一騎目。前はケネス、後ろはヴィンセント、そして騎手はパトリックだ。彼らもまずは男子だけで組んでいた。

「僕が前か……ちょっと怖いかな」

「心配せずとも、すぐに終わらせる。ケガなどさせない」

「僕の華麗なコーナリングをご覧に入れよう。そして勝利を女神に捧げ祝福の――」

 そして二騎目。

 彼女達が姿を現すと、グラウンド中にどよめきが沸き立った。

 マルガリータとフリーデル。たった二人である。前も後ろもない。あるのは上と下。マルガリータがフリーデルを肩車する形だ。

「マルガリータさん、よろしくね。好きに動いてくれていいから」

「ヴィンセント様、お守りしますわあ」

 最凶の上に最強が乗り、ズズンと大地が揺れる。

 双方のセッティングが整ったのを確認すると、大きく息を吸い込んでトワは右手を掲げた。せめてここだけはやりたいらしい。

「それじゃあ、騎馬戦スタート!」

 振り下ろされる腕を合図に、最後の競技が始まる。

 

「どう攻める!? 規格外のモンスターが混じってるぞ!」

 開戦直後、走る速度を上げながらマキアスが言った。

「やっぱりマルガリータを先に倒さないと厳しいな。二騎で挟み打ちにして速攻で勝負をかけよう。そっちもそれでいいか?」

 リィンは並走する女子達を見た。

 フィーがうなずく。

「了解。アリサ、ラウラ、お願い」

 二手に分かれる軌道を取り、リィン騎とフィー騎がフリーデル騎に迫る。

「させるか!」

 猛然と突っ込んできたパトリック騎が、リィン達に体当たりを仕掛けてきた。

「ぐっ!?」

「落ちるなよ、リィン!」

 マキアスとユーシスが踏みとどまり、体を傾けながらもリィンは何とかこらえてみせる。

「君の相手はこの僕だ!」

「パトリック……!」

 さらに続けざまの体当たり。押し負けまいとマキアスも体を張る。

 その騎上でリィンとパトリックは、激しく互いの両手を組み合わせた。

 

 一方のフィー達は、最大の敵と対峙していた。

 マルガリータとフリーデルである。両騎とも一定の距離で止まり、互いの出方を伺っていた。

「リィン達は足止めされてるわ。私達だけでやるしかないみたいね」

「全ての力を注ぐ。フィー、かなり激しく動きまわることになるぞ。心の準備はいいか」

「簡単に落ちたりしないから、私のことは気にしないでいい」

 三人の目が、荒い鼻息を噴出する戦車にそそがれる。その上に乗るフリーデルは余裕の笑みを崩さない。

「手加減はしないわよ。さあマルガリータさん、彼女達を退けてヴィンセント君の援護に行かなきゃね。きっと喜ぶと思うわ、彼」

「グフフッ」

 分厚い二枚貝がいびつに歪み、野太い笑い声が大気を震わせた。

「ムフォー!!」

 巨体が一直線に肉薄する。

「アリサ、右だ!」

「フィー、つかまってて!」

 横っ跳びに特攻を避ける。すれ違いざま、フリーデルの手が伸びてきた。とっさにフィーは屈み、はちまきを狙った腕を巧みにかいくぐる。

「やるじゃない。でもまだよ」

 地面を踵で削り、砂塵を巻き上げながらマルガリータが急転回。向き直るが早いか、再び凶悪な突進を繰り出してくる。

 直線状にあるものは、残らず灰塵に帰すほどの突破力。これぞデンジャラス肉玉。直撃は大型車両との交通事故に等しい。

 二撃目もかろうじて避ける。しかしそれが精一杯。反撃まではできない。

「カウンターは狙えない。思い切って距離を詰めるわよ」

「心得た!」

 加速してからでは手がつけられない。出足を先にくじくしかない。

 方向転換の際、動きが止まる一瞬を見切って、全力で攻め入る。正面から強烈な体当たりを見舞うラウラ。しかしマルガリータは一歩たりとも足を引かず、その体をびくともさせなかった。

「ムフォオ!」

 相も変わらず規格外。だが、これでいい。

「フィー、いけ!」

 密着し、間合いはゼロ。フィーの腕が素早くフリーデルのはちまきに伸びる。

「狙いは悪くないわ。でも!」

 不安定な体勢にも関わらず、上体を思い切り逸らして、フリーデルはフィーの腕をかわした。

 あとわずかが届かなかった。

 背筋と腹筋のばねを使って、フリーデルは勢いよく体を戻してくる。鋭い反撃がフィーのはちまきをかすめた。

 フィーをけん制しつつ、騎上からラウラを見下ろして彼女は言う。

「一年のラウラさんね。名前は聞いてるわ。一度手合わせしたいと思ってたの」

 必死でマルガリータを抑え込みながら、ラウラはフリーデルを見上げた。

「私もです。ただ一対一の手合わせは、またの機会にさせてもらいましょう。今は我々三人の力で勝たせて頂く」

「ふふ、出来るかしら?」

「グムッフォ!」

「ぐっ……!」

 マルガリータの押しが強くなる。ラウラのバランスが崩れた。つられてフィーの体勢も傾く。立て直そうとしたアリサは、フリーデルの腕が再びフィーに迫るのを見た。

 このままではやられる。

 力ではマルガリータに敵わない。技術ではフリーデルに及ばない。

 どの道、正攻法では届かないのだ。

 ならば。

 アリサは思い切りしゃがんだ。フィーの足が地面すれすれまで下がる。足はまだ着いていない。際どいところで、フリーデルの手が空を切った。

「くうう!」

 さらにもう一度フィーを持ち上げながら「飛んで! 投げて!」と勢いよく指示を飛ばした。

 通常ならまず伝わらない意図。しかしフィーは「わかった」と即答して、ラウラの肩に足をかけた。そして飛ぶ。

 マルガリータ側に飛び移り、そのままフリーデルに組みついた。

 驚異的なバランス感覚で、フリーデルは耐えてみせる。

「あなたからやって来てくれるなんてね。はちまき貰っちゃうわよ」

「取れるもんならね」

「え?」

 フィーの頭にはちまきはなかった。

 フリーデルの視界の上端に赤い布が舞っている。フィーははちまきを空に向かって投げたのだ。

「そんなの、はちまきが落ちたらあなた達の負けじゃ――」

「ラウラ!」

「行くがいい!」

 続いてアリサも、身を屈めたラウラの背を台にして飛んだ。落ちてくるはちまきを中空でつかみながら、フィー同様にフリーデルに組みつく。さすがの彼女でも二人分の重量までは流しきれない。

「マルガリータさん、振り払って!」

「やらせん!」

 間髪入れず、ラウラはマルガリータの五指をがっちりとホールドする。

「ムンッフォ」

「何という力だ……っ」

 三秒と保たない。しかし組み合っている間はマルガリータも手が使えない。

 その数秒の間に、アリサとフィーはフリーデルに抱きつきながら、自分達の体もろともマルガリータから落下する。

 砂ぼこりの中を転がる三人。

 赤と白のはちまきは同時に地面に落ちていた。

 

 

 フリーデル騎とフィー騎が壮絶な相打ちになった頃、エリゼは落ち着きなく周りを見回していた。

 勝負の行く末も気になるが、もう一つ気がかりなのは、他でもないアルフィンのことだった。

「姫様、ずいぶん遅いけど……」

 となりの空席を不安げに見る。

 玉入れが終わり、騎馬戦が始まるまでの小休止の間のこと。アルフィンは旧校舎を見に行きたいと言ったのだ。

 帝国中興の祖であるドライケルス大帝が設立したトールズ士官学院。だがほとんどの施設は彼の没後に新しく建造されたものである。ただ一つ、旧校舎を除いては。

 アルフィンは先祖の縁の地を、この機に自らの目で見たかったのだという。

 普段なら、仕方ないと共をするものだが、今回に限ってエリゼは即答することができなかった。

 なぜなら彼女はあの旧校舎に、いい思い出がまったくない。目にするだけでも、あの時の恐怖が蘇ってくる。できることなら近寄りたくなどないのだ。

 そんなエリゼの心情を察したのか、アルフィンは少し建物を眺めてくるだけだからと、一人で旧校舎に向かってしまった。

 絶対に中には入らないようにと何度も念を押しているし、アルフィン自身、騎馬戦が始まるまでには帰ってくるとも言っていた。

 しかし彼女はまだ戻らない。

「もしかして迷ってたり……?」

 とはいえ、そこまで深刻にも考えていなかった。あの姫様のこと。何か物珍しいものでも見つけて、足を止めているだけかもしれない。いや、その可能性は高い。

「この試合が終わったら、探しに行こうかしら」

 まずは兄の応援をしなければ。

 エリゼは視線をグラウンドに向け直した。

 

 

 何度も何度も馬同士がぶつかり合う。その度、騎手同士も取っ組み合う。もう何合目になるかも分からない交戦。それでも勝負はつかない。どこまでも互角だった。

「さすがにやるな、パトリック。だが……」

 こちらはすでに、あのマルガリータとフリーデルを下している。相打ちでも十分過ぎる戦果だ。

 後は一騎打ち。自分達が勝てば、それでⅦ組の勝利が確定する。拳を固めたリィンは、マキアスとユーシスに言う。

「アリサ達が活路を開いてくれた。一気に攻めるぞ!」

「無論だ。この機は逃さん」

「突っ込む! リィンは舌を噛むなよ!」

 疲弊は隠せないが、それでも力強く地面を蹴る。女子があそこまで奮戦したのだ。ここで退いては帝国男子の名がすたる。

『おおおおっ!』

 三人の気合いが重なり、土けむりが巻き上がる。全力の特攻がパトリック達を追い詰めた。

 さりとて貴族チームも引かない。怯まず、真正面から相対する。

「ヴィンセント先輩! ケネス! 全力で押し当たってくれ!」

「ユーシスもマキアスも速度を緩めるな! 突撃だ!!」

 またたく間に両騎の距離が縮まり、激しくぶつかり合った。

 リィンとパトリック、互いの手が拳打の勢いで交差する。防御など、もうどちらも考えていなかった。この一撃で仕留める。一秒でも早く相手のはちまきを奪い取る。

「僕達が勝つ!!」

「俺達は負けない!!」

 リィンの手が白いはちまきをつかみ、パトリックが赤いはちまきをつかむ。

 

 その瞬間、一発の銃声が轟いた。

 

 屋上から拡声器越しの男の声が響き渡る。

「帝国解放戦線だ。たった今からこの学院は我々の占拠下となる。体育祭とやらは終了だ」

 ざわめき立つ場内。状況が飲み込めないでいる全ての人間に、彼は冷徹に告げた。

「抵抗も逃亡も考えないことだ。学院内のいたる場所に爆弾を仕掛けておいたからな」

 

 ●

 

 何度となくシミュレーションを繰り返し、配置を頭に叩き込んできた彼らの動きに、一切の無駄はなかった。

 《C》が屋上に姿を見せてから、物の五分足らずでグラウンドの包囲は完了する。Ⅶ組も含め、その場の誰もが迅速に対応することはできなかった。

「学生だろうが容赦するつもりはない」

 解放戦線の戦闘服を着た男が、導力銃をこれ見よがしに取り出してみせる。ベルトのバックルに書かれたアルファベットは《K》だ。

 一般来訪者も合わせて、学院生達は馬舎近く――ちょうどⅦ組のブルーシート付近に集められていた。縛られてこそいないものの、全員が両腕を頭の上で組まされ、膝を地面につかされている。エリゼはもちろん、シャロンも同様だ。

 日曜学校の子供達は泣きじゃくり、一般客の多くも青ざめた顔をしていた。

 Ⅶ組でさえも迂闊には動けない。

 その理由は先の爆弾を仕掛けているという言葉だった。

 屋上に立つ《C》が、爆弾の起爆スイッチを掲げているが、グラウンドから真偽を判別するには、距離が空きすぎている。しかしあれが本物であろうと偽物だろうと、そう言われてしまえば従うしかなかった。

 《K》が言った。

「赤い学生服を着ているやつらは全員こちらに集まれ」

 リィンは目配せして、全員に応じるように指示する。

「お前達の戦術オーブメントを回収する。通信手段が残っていると厄介だし、あの妙な機能も使われたら面倒だからな」

 リンク機能のことだ。この場で憂慮すべきは、やはりⅦ組の連携だった。水面下で情報を回され、予想外の反撃を企てられるようなことはあってはならない。

「お前達の目的はなんだ」

 リィンは上目で《K》をにらみあげる。そうは言いながらも、察しはついていた。アルフィン皇女だ。彼女をどうするかまでは分からないが。

 あざけるような口調で彼は言った。

「さあな。だがおとなしくしていれば、命は保証しよう。おとなしくしなかった場合は知らんがな」

 別の一人が近づいてきた。バックルには《P》と表示されている。

「おい《K》。赤服共に情けは無用だろう。今までさんざん俺達の邪魔してくれたんだからな」

 忌々しげに《P》は言う。

「俺達が穴倉に隠れている間も、のうのうと過ごしていたんだ。考えるだけで苛立ってくんだよ」

 その昏い目がⅦ組のブルーシートに向けられた。いくつかの弁当箱が積み重なっている。

「呑気なもんだぜ。俺達がこの数日何食ってたか教えてやろうか」

 大股でシートに近付き、弁当箱に残っていたおにぎりの一つを手荒につかみあげた。

「は、うまそうなことで」

 皮肉たっぷりに言い放ち、大きくかぶりつく。

「おお、うめえ、うめえ。う……め、え」

 様子がおかしくなった。

「お、おい?《P》」

「が、がはっ……これ、なんだ……よ」

 顔色がドス黒く変色する。耳や鼻から黒煙が上がり始めた。《P》の腹がピーピー鳴り出している。

 それは男子達が結局食べきれず、やむなく封印していた危険物。彼は禁忌を犯してしまったのだ。

「ト、トイレ……」

 力なく歩きだす《P》。少し進んだところで、彼の下半身がズボッとグラウンドに埋まった。

「な、に……?」

 息も絶え絶えに目を落とす。白い粘着質な液体があふれ出し、もう動くことはできなかった。

 アリサがぼそりとフィーに言う。

「……全部埋めときなさいって言ったわよね」

「忘れてたのがあったみたい」

 少し前のトラップ騒動で、グラウンドに掘った落とし穴の一つだ。

 絶望した表情で《P》は振り返る。さすがのⅦ組(男子達)も憐憫の目で彼を見た。

「た、たすけ……――」

 それが彼の最後の言葉だった。

「おい《P》!? 何か仕込んでやがったな。抵抗をしなければと言ったはずだぞ。見せしめだ。お前、立て!」

「い、痛いじゃないか! 何をする!」

 激昂した《K》は手近な所にいた男子生徒――ヴィンセントの髪を荒っぽくつかみ上げた。

 無機質な光を湛えた銃口が彼に突き付けられる。

「お兄様!」

 フェリスが叫ぶと同時、その横を目にも止まらぬ速さで、黒い大きな影が駆け抜けた。

「あんたあ!」

 怒りの形相をあらわにしたマルガリータだった。

「私のヴィンセント様に何やってんのよおーっ!!」」

 鉄球のごとき拳がうなりをあげる。剛腕制裁。グランローゼの一撃が、《K》の顔面にめり込んだ。

 悲鳴さえなく、ぶっ飛ぶ《K》。

 まるで小石が水面を跳ねるように、縦に横に斜めに不規則に回転しながら、痛々しく、勢いよく、グラウンドをどこまでも転がっていく。

 果ては体育倉庫の入り口に衝突し、その扉をぶち破って、彼は全員の視界から消えた。ズズウン、と倉庫内から重い衝突音が響き、土煙がもうもうと立ち込める。

「ムフォオン、こわかったわあん」

「ぐうっ!?」

 一同絶句する中、急にしなを作って、ヴィンセントに抱きつくマルガリータ。彼の背骨とあばら骨がメキメキと圧砕のメロディを奏でた。

 

 

 その顛末を、《C》は屋上から見ていた。

 何と浅はかな行動を取るのだ。まさか、こちらが仕掛けた爆弾が偽物だとでも思っているのだろうか。

 残念ながら、本物だ。

 と言っても、言葉の全てが本当だったわけではない。実際のところ爆弾は複数ではなく、たった一つだけ。

 だがそれで十分なのだ。仕掛けたと言えば警戒せざるを得ないし、疑念を抱いて動こうとする者がいれば、見せしめに爆発させてしまえばいい。

 それで爆弾はなくなるが、ただの脅しではないと知らしめられる。もし反抗を企てていても、それ以降は下手に動けなくなるだろう。効果としては、申し分ない。

 すでにアルフィン皇女は旧校舎前で捕えている。本来ならこの状況を作り出してから、彼女の身柄を確保する流れになると思っていたのだが、まさかその前に一人で動き、しかもあのような人気のない場所に自ら赴くとは思ってもみなかった。

 かなり抵抗されたので、薬品をかがして今は気を失っているそうだが。 

 作戦はもう八割方成功している。

 皇女には目を覚ましてもらう必要があるので、今やるべきを有体に言えば、その為の時間稼ぎだ。

 ……あの戦車みたいな女子は凄まじい。どうやら大人しくなったようだが、今の暴挙を見た他のの学生達が無用に勢いづいても困る。

 爆弾を起爆させるなら、このタイミングしかない。

 作戦の順番が変わるだけだ。段取りは変わらない。

「後悔しても、もう遅いぞ」

 毒のある声で言い放ち、《C》は迷わず手中の起爆スイッチを押し込んだ。

 無様な悲鳴をあげろ。軽卒な行動を悔いろ。

 さあ、爆発だ――

「………?」

 爆発しない。確かにスイッチは押している。設置ミスや危機トラブルか? いや、そんなはずはない。これが虎の子の一発なのだから、何度も起動確認してきたし、動作不良も起こさないよう細心の注意を払っていた。

 なのに、なぜ。

 わずかな焦りを覚え、グラウンドの様子をもう一度確認した時、一人の学生が立ち上がっていた。

 遠目だったが、女子であることと、緑服であることは分かった。

「……なんだ、あいつは」

 彼女は右手を高々と掲げている。

 その手に握られていたものを目にして、《C》は屋上の囲い柵から身を乗り出した。

 例の特殊な戦術オーブメント。

 なぜあいつがあれを持っている。あれは赤服の奴等だけしか持っていないのではなかったのか。

 そもそも、どうしてこのタイミングで立ち上がっている。それも物怖じをせず。嫌な予感。起爆スイッチを持つ手のひらに、じわりと汗がにじむ、まさか爆弾が作動しないことと何か関係があるのか。

 何も出来なかったはずだ。その時間だってなかったはずだ。

 あいつは誰だ。あいつは一体――

「あいつは一体、何をした!?」

 

 

 マルガリータが相手を吹き飛ばしたのは、正直想定外だった。

 タイミングはずれてしまったが、しかし問題ない。すでに爆弾の問題は解決している。

 作戦の順番が変わるだけだ。段取りは変わらない。

 静かにトワは立ち上がった。

「お前! 誰が立っていいと言った!」

 相手の怒声には応じず、ゆっくりと右手を掲げる。その手に《ARCUS》を携えて。

 周囲の男達が一様に困惑と焦燥の入り混じった表情を浮かべる。なぜそこにそれがある。そう言わんばかりの顔だった。

 彼らの作戦は確かによく練られたものだ。限られた人数で教官室を抑え、皇女を確保し、その他大勢の動きを封じる。作戦遂行の為の立ち回りもスピーディかつスムーズ。

 ――ただ。

 あえて挙げるなら、ここに至るまでに三つのミスがあった。

 

 一つ目のミスは、《ARCUS》をⅦ組しか持っていないと認識していたこと。

 

「みんな」

 彼女は一つ息を吸い、落ち着いた声音でそう言った。

 応じたⅦ組総員が、即座に片膝を立てる。頭上で組んでいた手を解き、地面につける。まるでクラウチングスタートの構えのように。

「お前達、動くなと!」

 一人が声を荒げ、銃を持ち上げた。

「よーい――」

 銃口が向くよりも早く、トワは右手を振り下ろす。それはこの体育祭で、彼女が幾度となく告げてきた開戦の合図。

「スタート!」

 トワの号令と共に、馬舎の扉が勢いよく開いた。雄々しい鳴き声を上げ、荒々しく飛び出してきたのは一頭の白馬。それにまたがり、手綱を握るのはユーシスだった。

「な、なんだ!?」

「よけろ!」

 

 これが二つ目のミス。Ⅶ組の全員を、この場で拘束していると思っていたこと。

 

 勇壮に駆ける白馬が、帝国解放戦線の包囲の一角を崩す。

「今だ! 行くぞ!」

 リィンが叫ぶと同時、Ⅶ組は体育倉庫目掛けて一気に駆け出した。開会式の時に収めた全員分の武器が、そこにある。

「貴様らあっ!」

「ふざけた真似を!」

 怒号が飛び交い、戦線メンバー達は各々の武器を構える。

 立ち上がり、パトリックが叫んだ。

「Ⅶ組を援護しろ! こいつらに邪魔をさせるな!」

「了解よ、リーダー」

 人質の中からフリーデルたち白組が躍り出る。

 完全に予想外の抵抗で、陣形が乱れる解放戦線。

 ――今から三カ月程前。

 帝都ヘイムダルで帝国解放戦線がテロを起こした際、被害が最小限に留まったのはⅦ組の力だけではない。混乱の中で事態収拾を行い、かつⅦ組に的確な指示を出し、彼らを現場に急行させた人物がいる。あの時、解放戦線のテロが成功しなかったのは、彼女の采配によるところが大きい。

 

 彼らの三つ目のミス。それは生徒会長――トワ・ハーシェルを知らなかったことだ。

 

「士官学院生は一般来訪者と子供達の安全確保を最優先に。すぐにⅦ組のみんなが戻ってくるから!」

 とっさの出来事で、ただ戸惑うばかりの大勢にトワは言う。

 虚を突いただけで、形勢は逆転していない。向こうもすぐに態勢を立て直してくる。相手の手の内も見えておらず、最終目的もまだ分からない。

 だがそれは戦いの常。理不尽も不条理も内包する戦場の常だ。

 自分達は学んできた。それらを打ち払う術を、その為の心構えを。

「扉は壊れてる。このまま突っ込むぞ!」

 リィンを先頭に、Ⅶ組勢が体育倉庫になだれ込んでいく。

 反撃はここからだ。

 

 

 ~後編に続く~

 

 

 



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Trails of Red and White(後編)

 屋上に《C》が現れて、爆弾のことを告げた時、誰よりも早く動いたのはトワだった。

 その頭脳をフル回転させ、想定できるだけの可能性を頭の中に走らせた。

 まず言葉の真偽。彼は本当に帝国解放戦線か。答えはおそらくイエス。軍の追跡の手を逃れて、今までどこかに潜伏していたというのは、十分に考えられる話だ。

 次に目的。彼らは追い詰められている。因縁浅からぬⅦ組に最後の意趣返し――という線も無きにしも非ずだったが、タイミング的にやはりアルフィン皇女だろう。すでに彼女の姿は見当たらなかった。

 そして爆弾。直感だったが、複数を仕掛けているというのは嘘、単なる誇示に思えた。わざわざ『~いたる所に』などと明言したことにも違和感を感じる。そこまで物資が潤沢に残っているとは考えにくいし、何よりグラウンドに人が集中していると言っても、あちこちに爆弾を仕掛け回ればさすがに不審者と映る。校舎の破壊を目的としておらず、抑止や脅しに使うつもりなら、一発でも構わないはずだ。もしかしたら爆弾自体、仕掛けていない可能性さえある。

 だが、仕掛けている前提で動くなら――

「クロウ君、ジョルジュ君!」

 同じく実況席付近にいた二人に叫ぶ。ジョルジュは戸惑いを隠せておらず、クロウは黙したまま何かを思案しているようだった。

 頼むべきは一つ。

「ジョルジュ君は爆弾の解体をお願い! クロウ君はその護衛を。爆弾が仕掛けてある場所はきっと――」

 頭の中に学院図面を思い浮かべる。一年半過ごした学び舎だ。知らない場所などない。

 どこだ。逆の立場なら、私はどこに設置する。人目につくグラウンドは無理だ。かといって校舎内でもない。なぜならあのスイッチを持った男は校舎の屋上に立っているから。

 ギムナジウム、図書館、旧校舎も違う。ある程度の被害を見せなくてはならないので、離れている施設に仕掛けても意味がない。

 ならば講堂はうってつけだ。しかしあそこは常時施錠されている。外周のどこかに設置しようにも、正門とグラウンド間に位置しているので、誰の目にも触れないで作業を終えることは容易ではない。

 爆発の威力を目の当たりにさせ、自分達をけん制出来る場所。

 とすればやはり本校舎が有力だが、だとしても大規模な損壊には繋がらない場所。

 それは――

「中庭を確認してきて!」

 あそこは校舎の壁に囲まれ、凹状の形になっている。そしてグラウンドからも離れてはいない。

 仮にそこで爆発したなら、そこまでの威力がなくとも、三方に面している窓ガラスがことごとく砕け散って激しい爆音が轟く。だが学院の構造を考えると、全体に及ぼす影響はそこまで大きくない。少なくとも屋上までは届かない。

「多分、この後は通信が取れない状態になると思う。爆弾がなければ《ARCUS》に一回コール。爆弾があっても解体できない物だったら二回コール。解体が完了したら三回コールをして」

「わかった。トワも気を付けて」

「急ぐぞ、ジョルジュ」

 茂みや遮蔽物に身を隠しながら、クロウとジョルジュはその場を離れる。

 まだ終わりではない。トワはグラウンドの中心、騎馬を降りているリィン達の元に駆け寄った。彼らも動くに動けない様子だ。

「ト、トワ会長、これは――」

「みんな聞いて!」

 事細かに事態についての対応を詰める時間はなかった。打てるだけの布石を打っておいて、後で繋ぎ合わせる他ない。

 リィンの言葉を遮り、トワは今後の行動のみを告げる。その固い声音を受けて、作戦ブリーフィングの時のように、一同は姿勢を正した。

「ユーシス君は馬舎内で待機。私が何かの合図をしたら馬と一緒に飛び出してきて。合図がなくても出るべきと思ったら、ユーシス君の判断で行動していいから!」

「了解しました」

 ユーシスは先に馬舎へと向かう。その直後、十数名の解放戦線のメンバーがグラウンドに現れ、包囲を始めた。

「Ⅶ組は武器の回収を最優先に。ユーシス君が虚を突けたら、その隙に体育倉庫に向かって」

 トワは倉庫の鍵をリィンに手渡した。

「分かりました。すぐに全員に伝達します」

「その時が来たら、パトリック君達はみんなの援護をお願い!」

「り、了解しました」

 屋上に男が姿を見せてから、ここまででわずか一分足らず。武器を持った男達が近づいてくる。これ以上の指示はもう出せない。ここからは拘束された人質を装い、機を待つのみ。

 策というにはあまりに細い綱渡り。

 それでもなぜか、やれるという根拠のない確信があった。

 ジョルジュとクロウ。ここぞの時には自分の意を最大限に汲み取って、最高の結果を出してくれる何よりも信頼する二人。

 Ⅶ組のみんな。あらゆるトラブルやアクシデントを乗り越えてきた彼らは、どんな逆境でも必ず自分達の手で道を切り開く。

 あとは信じるだけ。

 

 それからおよそ十五分後。

 トワの《ARCUS》にコールが三回鳴った。

 

 

《☆☆最終話――Trails of Red and White☆☆》

 

 

 マルガリータが《K》をふっ飛ばし、体育倉庫の扉を破壊した轟音は教官室にまで届いていた。

 明らかに爆発の音ではなく、戦線メンバー達は顔を見合わせる。この場にいるのは三人だ。

「今の音は……? むっ貴様!?」

 一瞬だけたじろいだ男の隙をついて、ドロテはその腕の拘束を振り払った。

「サラ教官!」

 転げそうになりながらも、室内の隅に落ちたままになっていた《ARCUS》を拾い上げ、サラに向かって投げる。

 サラは縛られたままの後ろ手で、器用にそれをキャッチした。

「貴様、よくも……――っ!?」

 ドロテに拳を振り上げた時、男の動きが止まる。サラの手に戻った《ARCUS》がパリパリと電気の筋を走らせていた。ほとばしる紫電が、手首の縄を焼き切る。

「あんた達、覚悟はいいかしら」

「うっ!?」

 動揺を見せた次の瞬間には、サラの右手が男の顔面をわし掴んでいた。弾けるスパーク。だらりと力なく腕を垂らし、男は床にくずおれる。

「ひっ! 動くな――ぎゃっ」

 銃を取り出すよりも早く、荒ぶ雷撃が二人目を屠る。

「くそ、お前こっちに来い!」

「きゃあ!」

 最後の三人目は再びドロテを人質にして、教官室から逃げ出した。

「待ちなさい!」

「サラ教官!」

 追おうとするサラをハインリッヒが止める。

「一人だけでも拘束を解いていきたまえ。あとはこっちで何とかする」

「っ……分かりました」

 彼の言う順序が正しい。

 すぐに廊下に飛び出したい衝動をこらえ、サラはハインリッヒの後ろに回った。

 

 ●

 

「全員武器は持ったか?」

 埃が煙る体育倉庫内で、リィンは言う。視界の端に不自然な体勢で横たわる《K》の姿が映り込んだが、それは触れないことにした。

「ここからは各自で動くことになる。距離的にリンク機能は使えないと思う。十分注意してくれ」

 相手は学院内に広く展開しだした。固まって各個撃破していくのは非効率だ。リンクを結べる二人一組にしても手は足りない。

 光が差し込む戸口の向こうでは、喧騒と怒号が絶え間なく響いている。

 腰に帯刀して、リィンは柄に手をかけた。

「Ⅶ組総員、出るぞ!」

力強い一歩が、足元に滞留する砂煙を散らす。

 グラウンドのいたる所で混戦に次ぐ乱戦が展開されていた。

 武器を取りに走る者、チームを組んで相手をけん制する者、はたまた避難誘導に尽力する者。

 しかし相手が悪い。敵は本物のテロリスト。戦うことに慣れている。

 対する学院勢は、訓練ならともかく、実戦を経験している者などほとんどいない。その大体が攻めあぐね、防戦を強いられていた。

「マキアス、フィー、ユーシス、ミリアムはグラウンドの敵を減らしてくれ。エリオット、アリサは避難の護衛や誘導を頼む。ガイウス、ラウラ、エマは校舎内と外周の安全確保だ。俺はクロウと合流次第、全員の援護に向かう。あとアルフィン皇女についての情報が分かれば、至急連絡を回してくれ」

 一息に指示を出したリィンに各員が了解を返し、学院中に散開していった。彼らの動きを察知した解放戦線のメンバーも、即座に陣型を組み替えていく。

 激突の時がやってきた。

 

 

 体育倉庫から飛び出した赤服達が散開していく。

 その様を屋上から見下ろしながら、《C》は忌々しげに口元を歪めた。

「段取りは狂わされたが、計画はそのまま最終段階に移す」

 後ろに振り返り、引き連れてきた三人に告げる。

「俺は皇女のところに行く。ここはお前達に任せるぞ」

 言いながら屋上の扉に向かって歩き出す。

「了解だ。後のことはお前に託す」

「せいぜい時間稼ぎしてやるさ」

「頼んだぞ」

 それぞれの返答を背中で聞きながら、《C》は足を早めた。

 こうなってしまった以上、作戦の成否は自分にかかっている。だがまだ優勢は崩れていない。皇女はすでに手中にある。仮に同志達が敗れ、捕縛されたとしても、自分が最後の一手を打つことができれば、全て巻き返すことが可能なのだ。それが分かっているから、彼らも身の保全を考えず、作戦に従事することが出来るのだろう。

 そしてⅦ組。あいつらはミスを犯した。

 万が一直接戦闘になった場合のことも、こちらはちゃんとシミュレーションしてきている。導力通信を備えているのも厄介だが、戦闘において脅威なのは、あのリンクとかいう機能だ。

 交戦状態に入ったら、相手の出方を見極めつつ、なるべく団員同士の距離を開けるように言っている。戦力分散を承知の上で、学院中に戦線メンバーを展開するのだ。これは戦闘時におけるⅦ組対策の一つだった。

 そして案の定かかってくれた。

 学院中をカバーする為のやむを得ない判断だったのだろうが、こちらの狙い通り、もうこれでリンクはできない。

 そうなれば各個撃破がやりやすいのは自分達の方である。

 陰惨な笑い声が口からもれる。

 今まであいつらの連携にはさんざん辛酸を舐めさせられてきた。しかし今、孤立する連中をこちらの連携で追い詰めている。

「獅子の紋章が泣いているな」

 赤、白、緑問わず、学制服の二の腕には士官学院のモチーフが縫い付けてあるらしい。

 何が獅子の心だ。学生の身分で思い上がりもいいところだ。

「あがきたければ、あがけばいい」

 仲間が時間を稼ぎ、自分が目的を果たす。決して難しい戦いではなかった。

 

 

 グラウンドを出たガイウス、ラウラ、エマは本校舎を仰ぎ見る。敵はどこまで入り込んでいるのか。

「俺はギムナジウムから技術棟側に向かう。ラウラと委員長は講堂から図書館を――」

「ガイウス! 右だ!」

 不意に伸びてきた一撃を槍の柄で凌ぎ、ガイウスは踏みとどまった。

 エマが魔導杖を、ラウラが大剣を抜くのを見て、とっさに言う。

「だめだ! 二人は先へ行け!」

 槍を払い回して相手との間合いを取る。

 わずかな迷いを見せながらも、ラウラとエマは応じる。まだ敵の規模はわからないし、当然この先にもいるだろう。迅速に動かねばならない。少なくとも、ここで全員が足を止めてはならなかった。

「承知した。そなたも気を付けるがいい。エマ!」

「わかりました!」

 正門側に走る二人と、襲ってきた男との間に立ちふさがり、ガイウスは槍を構え直した。

 相手の得物も槍だった。偶然ではなく、あえて槍使いをぶつけてきてリーチの差を埋めるつもりなのだろう。

 男は穂先を大きく上段に構え、ガイウスを睨みつける。

「俺は解放戦線の《B》。お前の相手だ。そして――」

 後ろで砂利を踏みしめる音がした。

「俺が《V》だ」

 銃を手にした二人目が現れる。

「赤服共のことは調べているからな。お前みたいな前衛には複数でかかり、後衛の奴らには近接戦を得意とする団員をあてがうことになっている」

 だとするならエリオットやアリサが危ない。後衛メンバーでも、あの二人は特に近距離戦闘に適していない。

「おっと、やすやすと行かすと思うか?」

「っ!」

 隙をついてグラウンドに引き返そうとするが、《B》と《V》はそれをさせなかった。槍を受ければ後ろから弾が飛んでくるし、銃を警戒すれば前から槍が踏み込んでくる。

 ほどなくラウラ達が向かった正門側から、剣戟の音が聞こえてきた。ラウラは前衛。言葉の通りなら複数に襲われている。グラウンドに視線を向けると、やはりエリオット達は接近戦を強いられていた。

 他の仲間達も交戦中で、フォローには入れない。

 迂闊だった。相手はこちらを分断させるのが狙いか。

 時間が経てば経つほど劣勢になる。どうすればいい。この状況を覆すには何が必要なのだ。

 ガイウスが歯噛みした時、背後で引き金に指をかける気配がした。

「まずは両足を撃って動けなくさせてやる」

 槍を持つ《B》は後回しだ。やはり銃を何とかしなくては思うように戦えない。即座に身を返して、先に《V》を倒さねば。しかしこの位置から間に合うか――

「無駄だ、諦めろ」

「ああ、そうだな」

 冷徹な《V》の言葉に重ねられた第三者の声。知った声と理解するより早く『ゴッ』と鈍い音が響き、直後、自分に向けられていたはずの導力銃が勢いよく地面を滑っていく。

 振り返ると、よろめく《V》と、拳を振り下ろしたクレインの姿があった。

「今だ! やれ!」

 ガイウスは長柄の打突を水月に見舞う。急所を突かれた《V》はその場に突っ伏した。

「な、なんだお前は!」

「トールズ士官学院二年、水泳部主将のクレインだ。弟分を助けに来たぜ」

 突き付けられた槍にも動じず、堂々とクレインは《B》に言ってのける。

「何が弟分だ。大義も知らない学生風情が邪魔をするな」

「大義? 何が大義だってんだ」

「我々はこのエレボニアの未来の為に戦っている。国を真に憂うからこそ――」

「間違ってるだろ、そりゃ」

 強く言葉を断ち切って、クレインは前に出る。

「未来ってのは親から託されて子が引き継ぐもんだ。弟とか妹とか、自分より後に生まれてくるやつらの為に作ってやるもんなんだ。否定して、拒絶して、壊して、新しいものに取り替えようとするお前らのどこに大義がある」

「そっ」

「お前らが何考えてんのかなんて俺は知らねえよ。ただ、目的はどうあれ、戦う方法は他にもあったんじゃねえのか」

 さらに歩み出るクレイン。その圧力に足を引く《B》。ガイウスは黙ってクレインの背を見つめる。

「今の体制を変えたいのなら政治家になる。何かを訴えたいのなら新聞社だっていい。それが困難で目的まで遠い道のりでも、選択肢はあったはずだ。どんなにご立派な理想を掲げてたって、力に頼って物事を通そうするのは、詰まるところ子供の駄々と変わらねえ。うちの弟妹の方がよほど聞き分けがいいぜ」

 耐えがたい現実に目を背け、絶望し、その結果、一番選んではいけない安易な道を選んだ。そうすることが正義だと、甚だしい勘違いを脳裏に踊らせて。

「最後に言っといてやる。お前らは戦ってなんてない。逃げ続けてるだけだ」

「黙れえーっ!」

 反論さえ見つからず、《B》は全ての否定と共に槍を突き出す。それを切り込んできたガイウスの槍が払い上げた。

「クレイン先輩、いきます!」

「おう、合わせるぞ!」

 体勢を戻した《B》は、二撃目を打とうとした。

 風をまとったガイウスの刺突が繰り出される。烈風が《B》の槍を巻き込みながら、後方まで一直線に駆け抜ける。

「気合い入れ直してやる。一から出直してこい」

 丸腰になった相手に、クレインが肉薄し、拳を固める。水泳部で鍛えた強肩から放たれる重い拳が、ヘルメットに守られていないあごに炸裂した。

「く……そ」

 数歩たたらを踏んだあとで、《B》は昏倒したように倒れた。

 他に新手がいないことを確認すると、クレインはにっと笑いかけてきた。

「大丈夫か?」

「ええ、助かりました」

 笑みを返し、ガイウスは安堵した。

 状況を覆すために必要な何か。きっとそれは、自分達それぞれがすでに持っている。

 

 

 大剣で相手のサーベルを薙ぎ払いつつ、ラウラは壁を背にした。

 相手は三人。銃を持つ《T》、コンバットナイフを持つ《U》、サーベルを持つ《S》。この辺りの武器が、帝国解放戦線の標準装備なのだろう。むしろそれ以上の武器は調達できなかったと言うところか。

 こいつらの登場は何ともいやらしかった。

 《S》が現れ、ガイウス同様に自分がここを引き受けると言い、エマを先に行かせた。そして彼女が本校舎に入ったタイミングで、残りの《T》と《U》が物陰から出てきたのだ。三対一と知れば、さすがにエマも残っただろう。敵は一人ずつこちらを行動不能にしていく算段だ。とすればガイウスもあの後、複数の敵に襲われたかもしれない。

「……案じてばかりもいられないな」

 壁に張り付く形なので、多方面から攻撃を受ける心配はないが、追い詰められたことに変わりはない。加勢にいくにも、まずはこの状況を何とかしなければならなかった。

 敵は口々に言う。

「卑怯などとは思わないでもらおう」

「お前を先に潰し、Ⅶ組の突破力を削ぐ」

 一対一ならまず負けない。一対三でも相手が同じ得物なら、凌ぎ切る自信もある。しかし各々の武器が違うとなるとそうもいかない。対処も異なるし、間合い取りも違う。ここまで苦戦するとは予想外だった。

 大技で一気に蹴散らすか。そうも考えるが、その構えに入る隙も、溜めを作る時間もない。

 乾いた銃声。足元で地面が小さく弾けた。《T》の撃ち込んだ銃弾に気をわずかに取られた瞬間、サーベルを振り上げた《S》が突っ込んできた。

 何とか防御をと大剣を盾にしたが、《S》とは別の軌道を取った《U》が、ナイフを腰だめに引いて迫ってくる。両方は防げない。まずい。

「……っ!」

 ヒュンと風を切る音がした。《S》のサーベルが何かに勢いよく巻きつかれ、そのまま絡め取られるように中空へと投げ飛ばされていく。

 その反対側では《U》が何者かに足を引っ掛けられ、ずでんと転倒していた。

「そ、そなた達……?」

 しなる黒いムチをピシィッと鳴らしたポーラ。足をかけた体勢のままポーズを決めるモニカ。倒れた《U》の耳元に、間髪入れずトランペットの大音量を叩き込むブリジット。

 三人は『お待たせ!』と声をそろえて、今度は逆に男達を取り囲む。

「何をやっている。早く避難を。ここは危険だ!」

「危険?」

 ポーラは嘆息した。

「じゃあラウラが危険な場所に身を置くのは放っといていいの?」

「そんなわけないよね」とモニカが続き、「友人とは対等なものだって、ラウラも言ってたじゃない」とブリジットが重ねる。

 呆れた。グラウンドに彼女達の姿が見えないから、うまく逃げられたのかと気にはかかっていたが、あろうことか自分を追って来ていたとは。これはあとでさんざん文句を言わねばならない。

 いつものように、四人で囲む食堂のテーブルで。

「ガキ共が!」

 《T》が銃口をモニカに向けて引き金を引いた。二人の間に飛び込んだラウラが、立てた刀身を斜めに構えて銃弾を弾き流す。

「なっ」

「ポーラ!」

「任せなさい」

 ムチが舞い、器用に《T》の手を打ち据える。地面に落ちた銃をモニカが蹴っ飛ばす。サーベルを取りに行こうとする《S》に、ブリジットはトランペットを吹き鳴らして威嚇する。

 たじろぐ《S》の横、《U》がよろよろと起き上がる。

 その間に、ラウラは三人の男達の中心で、大剣を脇に構えていた。大技を放つのに必要な溜め。その為の時間は十分ある。彼女達のおかげだ。

「モニカ、ポーラ、ブリジット。伏せろ」

 ラウラの瞳に闘気が宿る。

 振るわれた極大の横一閃。円状に拡がる斬撃の波動。

 渦を巻く強大な力に抗う術などなく、《T》達はまとめて圧砕された。

「ふう……さて、そなた達」

 一つ息をついて、ラウラは三人に振り返る。

「やっぱり怒ってるの? ごめんね。でも私達、あなたが心配で……」

 ブリジットが罰悪そうに顔を覗き込んできた。

「いや、助かった。加勢には感謝する。しかしだな――」

「二人とも、ラウラ怒ってないって」

「まあ、当然よね。むしろお礼を言われる方だと思うわ」

「うんうん、そうだよね」

 この状況にも関わらず、いつもと変わらない笑顔。屈託のないそれらに囲まれて、何だか苦言を呈する気も失せてしまった。

 心底思う。

 やはり自分はいい友人に恵まれた。

 

 

 どう立ち回っても不利なものは不利だった。

 魔導杖が駆動時間なしでアーツを撃てると言っても、それは戦技の話であって、《ARCUS》にセットされたクォーツを媒介にした、いわゆるオーバルアーツの事ではない。

 くわえて自分のクラフトは基本的に補助回復系で、接近戦に耐え得る性能のものでもない。

 結果、エリオットは回避に終始することしかできなかった。

「うわわ!」

 相手は一人。コードネームは《M》。武器はナイフ。何とか攻撃系のアーツで迎撃したいが、そんな暇は与えてくれない。

「ちょこまかと逃げおって!」

 一気に間を詰めるナイフが空気を裂く。これは避けれない。魔導杖のシャフトで防御したエリオットは、ぎらつく凶器を間近に見て息を呑んだ。

 力で押し負け、鋭利な刃先が徐々に頬へと迫る。腕が震え、足も震えていた。

 改めてリィンたち前衛のありがたみが身に染みる。いつも守ってもらっていたという実感が今になって湧いてきた。

「手数で攻めればアーツは使えないだろう。所詮はサポート役、一人じゃ何も出来まい」

「うう……」

 防戦一方。避難誘導の補助に来たはずなのに。もっとも一人は自分に引きつけておけるのだから、一応その役目は果たしているとも言えなくはないが。

 相手の押しがさらに強くなる。これ以上は耐えきれない。

 唐突にゴスッと重い音。「ぬぐっ!?」とうめいた《M》のナイフにかける力が弱まる。

 何事かは分からなかったが、その隙にエリオットは飛び退き、距離を取った。

「その人は近い将来、エレボニアの若き男子達を牽引する人物だ。その彼を手に掛けようなどとは、同じ男として恥じるべきだな」

 ケインズが敵の背後に立っていた。

「ケ、ケインズさん? まだ逃げてなかったんですか」

「やあ、猛将」

 道端で出会ったみたいに気安い挨拶をよこしたケインズに、《M》はぎろりと鋭い目を向ける。

「貴様、後ろから鈍器とは……あ?」

 ケインズがその手に持っているのは鈍器ではなく、辞書ほどの厚さのある一冊の書籍だった。表紙には荒々しい筆書きで『猛将列伝』記載されている。

「《M》と言ったか。一つ質問させてもらおう。ペンは剣よりも強いという。ならばそのペンよりも強いものが何か分かるか?」

「知るかそんなもの!」

「よけて! ケインズさん!」

 ナイフがケインズ目がけて突き出される。叫んだエリオットには微笑を浮かべる余裕を見せ、ケインズはその手の本で、刃の横腹をバシンと払いのけた。予想以上の重たい衝撃に目を開く《M》に、「教えよう」と告げる。

「それは本だ。書き手の想いが全て詰まった書籍に、勝るものなど何もない」

「そうかよ!」

 再び突き上げられたナイフが、ケインズの胸に直撃した。いや、したかに見えた。

 ナイフの刀身は、ちょうど白刃取りの要領で『猛将列伝』の中程に挟まれていた。

「さあ、猛将演奏会の始まりだ。曲目は任せるよ」

「なにが――」

 それはもう始まっていた。

 くるりと魔導杖の向きを上下反転させるエリオット。シャフトが収納されていき、代わりに一本の弓が吐き出された。杖の先端部分は持ち手となり、そこに四本の弦がせり上がる。

 “バイオリン”となったそれを、慣れた手つきで肩とあごの間に差し挟むと、静かに弦に弓を添えた。

 紡がれる音色が光となって周囲に押し広がっていく。七つの音階がそれぞれに色を灯し、膨大な導力の伝搬が大気を激震させた。

「おお……これが猛将の狂詩曲か。ふふ、存分に味わうといい。先程の彼に言った不敬な言葉を後悔しながらな」

「ナイフが抜けん……! 離せ!」

「この猛々しき力。まさに猛将に相応しい。最高の瞬間がまもなく訪れるぞ」

「だがこのままではお前も逃げられまい! 心中でもする気か」

「何を馬鹿な……あ」

 今更ながらケインズは気づく。自分の周りに展開されている七色の光玉。それらが回転しながら急速に狭まってきて――

「猛将、ちょっと待っ」

 インパクト。膨れ上がる閃光が、視界を真っ白に染め上げた。

「………」

 うっかりしていたのは、エリオットも同じだった。まさかその場に留まったままとは思わなかったのだ。

 光が収束し、散っていく。

 プスプスと揺らぐ蒸気を上げながら横たわる《M》とケインズを見て、エリオットはとりあえずこう言っておいた。

「……ご清聴、ありがとうございました」

 

 

 解放戦線のメンバーの多くが、その矛先をⅦ組に向けたことで、図らずも一般人や他の学院生の避難は妨害を受けることなく進んでいた。退避ルートはグラウンドに直結している裏門からである。

 その中でただ一人。裏門とは逆方向に走る女子生徒の姿があった。

「あの子たち、どこにいるの……!?」

 ロジーヌだった。

 戦闘は近くで行われている。流れ弾が飛んでくる可能性もあったが、そんなことはどうでもよかった。

 引率してきた年少の子供たちは先に避難させることができた。だが彼らがいないのだ。カイ、ルーディ、ティゼルの三人が。

 最初に拘束されていた馬舎近くまで戻ってきた時、グラウンド脇の茂みががさりと動く。

「……ロジーヌ姉ちゃん?」

 おそるおそるといった感じで、探していた三人が順繰りに茂みの中から顔を出してくる。

「よかった。みんな、けがはない?」

 駆け寄ってカイ達を抱きしめるロジーヌ。

 彼らは帝国解放戦線がグラウンドの包囲を始めた時、とっさにこの場に隠れていたのだ。あっという間に状況が変わっていき、結局出ていくタイミングを逃してしまったのだと言う。

「とりあえずこの場を離れましょう――……んっ」

 立ち上がったロジーヌだったが、その表情を苦悶に歪めて膝をつく。右の足首が痛々しく腫れ上がっていた。

「ロジーヌさん、その足どうしたんですか!」

「実は走り回ってる最中に足をくじいちゃって。でも大丈夫。そんなに痛くないの」

 慌てるティゼルに、ロジーヌはあくまでも柔らかな口調で言う。無理に笑顔を浮かべるものの、その顔は冷や汗で濡れていた。どう見てもこれ以上動ける状態ではなかった。

「すぐに追いつくからあなた達だけでも早く逃げて。裏門の近くまで行けば生徒会の人達もいるから」

「で、でも、ロジーヌさんを置いていくなんて――」

「逃げ損ねた奴らがいたか」

 ぬっと差し込んできた黒い影が、ルーディの言葉をさえぎる。

 見下ろしてくる昏い瞳。《N》とバックルに描かれた大柄の男。彼は低く笑った。

「ちょうどいい。赤服どもが勢い付いてきているからな。お前らを人質にしてやれば簡単に出鼻をくじける」

「ロジーヌ姉ちゃんに近づくな!」

 動けないロジーヌをかばうように、カイは《N》の前に立って両手を広げた。ルーディもティゼルも立ちふさがってロジーヌを守っている。

「邪魔なガキどもだ」

「三人ともだめ! 人質には私がなります。その子たちには手を出さないで!」

 ロジーヌの嘆願を一笑に伏し、《N》の手が彼らに伸びる。

 泣き出しそうになるのを堪えて、カイ達は強く歯を食いしばった。

「汚い手でそいつらに触れるな」

 冷気をまとった声が届いたのは、その手がカイの胸倉を掴む直前だった。

 彼らとの間を隔てるように、静謐な水晶膜がビキビキと音を立てて《N》を半球状に覆っていく。

「な、なんだこれは」

 振り返った時には、すでに勝負は終わっていた。

 瞳に怒りを湛えたユーシスが、騎士剣を抜き放っている。鮮烈な十字の斬光が、水晶もろともに《N》を切り伏せた。

 青い輝きが舞い散る中、その場に倒れる《N》。ユーシスは一瞥すら向けることなく、その横を通り過ぎてくる。

「お前たち、無事か」

「ユ、ユーシス先生。私たちは何ともないけど、ロジーヌさんが足を痛めちゃって……」

「動けないのか?」

 ロジーヌの横にかがむ。

「すみません、足を挫いてしまって。ユーシスさん、お願いです。子供たちだけでも先に安全な場所に――」

「来い」

 背後に合図をすると、近くに控えていた白馬がやってきた。

「失礼する」

「え? 何を、きゃあ!? はわわわ!?」

 ユーシスはロジーヌを抱きかかえる。いわゆるお姫様だっこという形で。

 そのまま彼女を横向きに馬の背に乗せてやると、自身もその後ろにまたがって、ロジーヌ越しに手綱を握った。

「落ちんように、俺につかまっておけ」

「は……はい」

 遠慮がちながらも、ロジーヌはぎゅっとユーシスの制服にしがみつく。白馬がゆっくりと歩を進める。

「このまま裏門まで向かう。お前たちも離れずに付いて来るがいい」

「がはっ!」

 なぜかカイはダメージを食らっていた。

「カイ、大丈夫?」

 ルーディが心配するが「お、俺はロジーヌ姉ちゃんさえ幸せならそれで――」と言いかけて、また「ぐはあ!」とむせ込む。吐血くらいしてしまいそうな勢いだ。

「へへ、俺はここまでかもな……あとは、ユーシス先生に……ま、まかっ、任せるぜ」

「ばーか」

 そんな彼の後頭部をティゼルが小突いた。

 

 

「ここは私のお気に入りの場所でして」

 屋上。穏やかな声を背中に受けて《I》、《J》、《H》が振り返ると、威圧を放つ五つの巨塔が、彼らを取り囲むように立ち昇っていくところだった。

 塔の先端に乗るエマの丸メガネが、鈍色の輪郭を浮き立たせている。

「な、なんだ、これは? アーツか!?」

「一体どうなっている」

「くそ、回避を……!」

 屋上全域に光の紋様が描き出され、男たちはその上でただたじろぐ。逃げ場などどこにもない。

 五つの塔の中心に照射されたエネルギーは上空で融合し、一際巨大な光軸となって頭上から降り落ちる。全てを圧倒する力が、轟音と共に三人を押し潰した。

 静寂が戻る屋上にエマは降り立った。地面は焦げ付き、所々から煙が燻っている。

「みんなの援護に戻らないと……下の状況は」

 屋上の端からグラウンドを見下ろす。戦いはまだ続いている。途中で分かれたラウラやガイウスも心配だ。アルフィン皇女はどこにいる。敵の最終目的は。皇女をさらった後はどうするのだ。

 先手必勝で相手を倒したので、もちろん新たな情報は得ていない。この倒れている三人の中に、あのリーダー格の男がいるのかも不明だ。

 急ぎ足で引き返そうとした矢先、勢いよく屋上の扉が開いた。

「おい、アクシデントだ! 教官共が……あ?」

 飛び出してきた男は惨状に目を丸くしたが、それ以上に戦慄したのはエマだった。その男に拘束されている女子生徒は彼女の先輩だった。

「ド、ドロテ部長!?」

「エマさん、どうしてここに……」

「赤服の一人か……! お前が三人をやったのか!?」

 怒りに肩を震わしたのも一瞬、切り札が自分の腕の中にあると気づいた様子で、男は狡猾に口元を歪めた。

「どうやらお前たちは知り合いらしいな。こいつが傷つけられたくなかったら、その杖を捨てろ」

「エマさん、私のことは構わないで逃げて!」

「……っ!」

 男の持つナイフの切っ先が、ドロテの首筋をなぞる。押し殺した悲鳴を上げて、彼女は背をのけぞらせた。それでもドロテはエマに逃げるよう促す。

「私のことばかり心配して……。ドロテ部長をおいて逃げるなんて……できるわけないじゃないですか」

 エマは魔導杖を手放した。

「よし、腕を頭の後ろで組んで、ゆっくりこっちに歩いてこい」

 言われた通りにするエマ。あとは自分が人質になる代わりに、ドロテを解放するように交渉する他ない。

 近づくにつれ、バックルに書かれたアルファベットが読み取れた。その文字は――

「君も《G》というのかね」

 しわがれた声が一帯に染み渡る。

 屋上だと言うのに、上から降ってきた初老の男性は軽やかに着地した。そして洗練された一礼。

「お初にお目にかかる。私はこの学院の用務員を務めさせてもらっているガイラーというものだ」

 些細な勘違いから道を踏み外し、狂い咲き、幾度となく自分を追い回し、立ちはだかり、この二か月あまりの学院生活を、ことごとく騒々しいものに変えてくれた張本人。

 彼はいつもの口調で、いつものあの台詞を、こともなげに言い放った。

「エマ君。君の力になりにきた」

 そのしわ深い目じりがにわかに細まった。

「用務員ごときが割り込んでくるな。状況が分かってねえのか」

「状況かね。ナイフをちらつかせた男が、卑劣な手段を取って何の罪もない女子生徒を人質に取っている。私にはそう見えるが」

「ふん、分かってるじゃねえか。だったらどうする」

「よくない。実によくないね」

 刹那、ガイラーの姿が屋上から消える。一陣の風が吹き抜けた次には、彼は《G》の真横に立っていた。驚きから男の腕の力が緩む。その一瞬の間に、ガイラーはドロテを救い出していた。

 さらに瞬間移動のごとき体裁きで、再びエマのそばまで戻ってくる。

「彼女を頼めるかな。私は彼の相手をしよう」

「ガイラーさん、あの……」

 続けた言葉は“気を付けて”ではなく「……お手柔らかに」だった。

「他ならぬ君の頼みだ。善処しよう」

「な、なめやがってっ!」

 飛びかかってくる《G》。連続するナイフの乱れ斬りを、ガイラーはまるで子供でもあやすかのように避ける。

「くそ!」

「おやおや」

 大振りの軌道を見逃さず、斬撃の刃を人差し指と中指だけで挟み取る。

 物憂げなため息をついて、ガイラーは首を鳴らした。

「こいつ……!?」

 ただの用務員などではないと察したのか、《G》はナイフを手放して距離をとった。

「戦闘中に武器を捨てる判断はそうできるものではない。少々感心したよ。それが正しい選択だったのかはともかくね」

 ガイラーは目線だけエマに向けた。

「エマ君、小説には起承転結が必要だと言われる。これは小説に限らない。物語と呼ばれる全てに無くてはならないものだと、私は思う」

 よく分からない話が始まった。エマは嫌な予感がしていた。いや、もう確信だ。

「ねえ、エマさん。ガイラーさんはどうして小説の話をしているの……?」

「さ、さあ?」

 ドロテの問いをはぐらかし、エマは頬をひくつかせた。

「後学のためにお見せしよう。これが私の『起承転結』だ」

「用務員風情が、調子に乗るな!」

 思わず《G》に逃げてと叫びそうになるエマだったが、すでにガイラーは動いていた。

「鬼!」

 鋭い気勢と共に、鬼面が《G》の動きを制した。

「翔!」

 動けない《G》の懐に一瞬で潜り込み、そのまま上空へと打ち上げる。

「天!」

 ガイラー自身も《G》を追い、空へと舞う。

「穴!」

 組み合わされた両第二指が、『ズムッ』と突き上がる。その痛ましい光景を直視できず、エマは目をそむけた。

 ガイラー流《鬼翔天穴》が炸裂する。「はうんっ!?」と悲痛な声を弾けさせ、白目を剥いた《G》の意識は遠いところへと飛び去っていく。

 背徳的なシルエットが、青い空に一点の染みとなって映し出された。

「え……?」

 その光景にドロテが反応した。彼女が思い返すのはあの時。ノベルズフェスティバルの会場で、男子達の暴動を収めた《G》の勇壮な姿。

 シャンデリアを背にタキシードをひるがえして跳ぶ《G》と、今鮮やかに宙を駆けるガイラーの姿が、幻視の中で重なって――

「エレボニアの黒き翼……」

「ドロテ部長、お気を確かに」

 すたんとガイラーが着地し、遅れてどしゃっと《G》が墜落する。目を覚ましても、しばらくはショックから立ち直れないだろう。

 二人の前まで来たガイラーは、胸元から何かを取り出した。それは原稿用紙の束だった。

「正門付近に落ちていた。これは君のものだね」

「いえ、ガイラーさん。それは……え?」

 てっきり自分に渡されると思っていたエマだったが、意外にも差し出した先にいたのはドロテだった。受け取ったドロテは戸惑いながら、ガイラーを見返している。

「あの、は、はい」

「不躾ながら少し読ませてもらったよ。よく練られたストーリーだ」

 エマは訝しげにガイラーを見る。彼は背を向け、屋上の端へと歩いた。

「わかっていたよ。最初に私が読んだあの小説は、エマ君が書いたものではないということくらい」

「い、いつから気づいていたんですか?」

「あの品評会で君達の作品を読んだ時だ。文章の癖や好む表現方法に違いがあった。あれはおそらくドロテ君の小説なのだろう」

「そこまで分かっていて、どうして私に……」

「だとしても君に才能があるのは間違いない。君にも高みに登って、私の見ている景色を知って欲しい。そう思うのは私のわがままだろうか」

 まともなことを言ってるようで、よくよく意味を拾い上げてみれば、やっぱり不健全ど真ん中だ。

 きっとガイラーはこの先も自分を追い掛け回してくるのだろう。

 それならそれでいい。何度だって撃退するだけだ。この二ヶ月間のように。……何回かは撃退し損ねたが。

「そうですね。あまりしつこいと、私も本気を出しちゃいますよ?」

 悪戯っぽくエマが言うと、ガイラーは足を止めて振り返り、意外そうにあごをしゃくってみせた。

「実にいいね」

 エマとガイラーのやり取りを交互に見やり、ドロテは口を開く。

「ま、待って下さい。品評会? 小説? あなたはやっぱり――」

「私はただの用務員だよ」

 言外に続く言葉を制して、ガイラーは空を振り仰いだ。

「さあ、季節外れの落ち葉を掃きに戻らないとね」

 強い風が吹き抜ける。

 二人が目を閉じ、そしてもう一度開けた時、彼の姿はもうなかった。

 

 

 幸いと言うべきか、フィーとミリアムは分断されなかった。

 つまりリンクができる位置には双方いるのだが、彼女たちも防戦を余儀なくされている。

 相手は五人。武器は全員が銃を保持していた。

 名は《O》、《Q》、《R》、《Y》、《Z》だったはずだが、もう誰が誰だか判別できる状況にもない。

「どうしよう、フィー」

「ちょっと動けないかも」

 アガートラムを盾にして、絶え間なく撃ち込まれる銃弾を防ぐ。アガートラムを突っ込ませれば活路は生まれるかもしれないが、敵の配置は絶妙だった。一撃では掃討できない位置取りで散開している。

 仮にアガートラムが一角を崩しても、その間こちらの盾はなくなる。そこを狙われたら、とても凌ぎ切れない。

 その上、まだ問題がある。今、フィーの手には双銃剣が一つしか握られていなかった。

 交戦直後に放たれた不意打ちの一発をとっさにグリップで防いだ際、片方の双銃剣が手から弾き飛ばされてしまったのだ。

「あれがあれば手数でも対抗できるんだけど」

 アガートラムの隙間からそれを見る。八アージュは離れた地面に、双銃剣の片割れが転がっていた。

 フィーの速度なら、三秒あれば回収できる。しかし相手の五人は射撃のタイミングをうまくずらして、弾丸補充の間も弾幕を絶やさない。

 このままではジリ貧。どこかで行動を起こさねばならない。

「一個しかないけど、これを使うよ」

 取りだしたのは閃光手榴弾だった。

「大丈夫なの?」

「危険は危険だけど」

 敵は徐々にその包囲を狭めてきている。射線が変われば、いずれ弾はこちらに届く。

「これで相手の動きが止まった隙に双銃剣を取りに行くから。ミリアムも反撃に備えてて」

「う、うん、気を付けて」

 3、2、1――指で数えたカウントがゼロになると同時、閃光手榴弾を放り投げる。瞬時に光が押し拡がり、視界が白く塗り潰された。

 自分の影さえかき消す光の中をフィーは走る。光を反射する刀身が見えた。あと少し。

 銃声が響く。足元の土くれが弾け、伸ばしかけた手が止まった。

 男の一人がすぐそばで銃を構えていた。

「……それ、防眩フィルターだったんだ」

「そういうことだ。こちらも色々と備えはしていてな」

 男はハーフフェイスのヘルメットをこんこんと叩いてみせた。改めて銃口がフィーに向けられる。

「ガーちゃん、お願い!」

 防御を解いて、ミリアムはアガートラムに迎撃指示を出す。だが遅かった。男の引き金にかかる指に力が入り――

「む?」

 急に男は動きを止めた。

 落ちている双銃剣が勝手に動いている。かたかたと小刻みに震えているかと思いきや、いきなりそれが跳ね上がった。宙を舞った双銃剣は不自然に方向を変え、フィーの手元まで戻ってくる。

「早く構えるんだ!」

 離れた位置からケネスが釣竿を振り上げていた。

 体育祭の開会式で、彼も倉庫に“魂のこもった道具”を収めていた。この騒乱の中で、それを取りに戻っていたのだろう。よく見れば双銃剣には釣り針が引っかかっていた。

 フィーは片方の双銃剣で素早く釣り糸を切断する。

 戦闘準備は完了。

 猫を彷彿とさせる双眸がきろりと動く。いたずら好きの子猫のそれではない。明確に戦う意思を宿した、揺るぎない金の瞳が全ての標的を捉えていた。

 小さな体躯から発せられる圧力に、戦線の五人は束の間足を止めさせられる。それは一瞬。だがフィー達を相手にその一瞬は致命的だった。

 《ARCUS》のリンクが繋がり、光のラインが上空へと伸びる。ミリアムがアガートラムに抱かれて空を駆けていた。

「やっちゃうよ! ガーちゃん!」

 アガートラムが白銀の大槌へと変形する。

 自重を加算して急速に落下するミリアムは、体よりも遥かに大きいハンマーを思い切り地面に叩きつけた。

 大地が破砕する。岩盤がめくり上がり、巨大なクレーターをグラウンドに生み出した。

「うおおっ!?」

「こ、この!」

 砕けた地面に足を取られる五人は、どうにか体勢を立て直そうとする。全ての動作が遅かった。フィーが腰を落とし、すでに足に力を込めている。 

「いくよ」

 瞬発。両手に双銃剣を携えたフィーが、目にも止まらぬ速さで疾駆する。

 銀の閃きが錯綜し、一帯に幾重もの残光が刻まれた。妖精の舞というには、あまりに鋭利なその軌道。彼女を狙おうとして果たせなかった銃口が、次々に弾き飛ばされていく。

 だんと高く跳躍し、中空で身を返しながら「敵の中心に入って、身を伏せて」とフィーは眼下のケネスに言った。「そこが一番安全だから」と重ねられた言葉にあらがう選択肢はなく、ケネスは言われるがまま走りだす。

 スライディングで彼らの中心点に滑り込むと同時、その背中にフィーがどすっと着地した。

「ぐむっ!?」

「ごめん。でも動かない方がいいよ。ミリアムはアガートラムで防御してて」

「了解!」

 銃口を水平に構えたまま、フィーは両腕を大きく開く。そのまま足を軸にして、コマのように勢いよく回転しだした。

 瞬く間に加速する横回転。全方位に斉射されるおびただしい数の銃弾。塵芥と共にグラウンドに量産される弾痕。ぐりぐりと虐げられるケネスの背中。

「ぐああああ!」

「ひああああ!」

 敵の叫声とケネスの嬌声が絡まり合い、不協和音が奏でられる。

 五人の解放戦線が膝をついた時、足下のケネスは満ち足りた笑顔を浮かべていた。

 

 

「くそっ、この!」

 グラウンドの一角。マキアスも苦戦を強いられていた。

 相手は《D》と名乗り、武器はコンバットナイフ一本。これがとことん自分との相性が悪い。しかも敵は散弾銃との戦い方を心得ている。要するにぴったりと張り付く近接戦だ。

 懐に入られたら、ショットガンでは狙えない。相手の攻撃をひたすら凌ぐだけになってしまう。ナイフを防ぎ続けた銃身には、無数の傷痕が残っていた。

「いいかげんに離れろ!」

 ショットガンをバットのように振り回し、何とか間合いを開けようとするが、男は蛇のようなしつこさで食い下がってくる。

 粘着質な口調で《D》は言った。

「俺は眼鏡というやつが許せねえ」

「はあ!?」

 いきなり何を言い出すのか、この男は。

「俺の夢は学者になることだった。勉強もしていたさ。だが紆余曲折の果てにその夢は断たれた」

 経緯は分からないが、そういうことになったらしい。

「勉強なんていくらでもできるだろう。というかなぜ眼鏡を許さないんだ!」

「決まっている。眼鏡は知性の象徴だ。奪われた俺の夢を、当然のように持っている奴らを許せるはずがない」

「偏見だし、逆恨みだ! というか眼鏡屋で買えばいいんじゃないのか!?」

 滅茶苦茶な男だ。テロリストの中にはこんな奴もいるのか。

 呆れはしたが、その実力は本物だった。《D》のナイフ捌きは巧みで、執拗にマキアスの眼鏡を狙い続けてくる。もはや執念。転じて怨念だ。相性が悪いどころか、むしろ天敵とさえ言える。

「この世の眼鏡は全て死すべし!」

 逆手に持ちかえたナイフを突き下ろしてくる。

 その時、割って入ったサーベルの切り上げがマキアスを守った。アランが切先で牽制しつつ、《D》との距離を開ける。

「ア、アラン? なぜこっちに来た。君はブリジットさんを守れ」

「あいつなら何人かと走っていたみたいだったし、大丈夫だと思う。それにお前の方も放っておけない」

「呆れた君はお人よしだ」

「人のことを言えるのか?」

 二対一で仕切り直し、二人は《D》と切り結ぶ。

 それにしても執念のせいか、やたらと強い。

 《D》は基本的にマキアスを狙いつつ、間合いが離れてしまった時は、即座にアランと自分が同じ射線上に入るように立ち回る。これではショットガンを撃てなかった。

 一進一退を繰り返す中、好機を見つけたアランが前に踏み出す。

「はっ!」

「甘い」

 《D》は俊敏にサーベルをかいくぐり、持ち手の甲にナイフの柄頭をめり込ませた。痛みに呻いたアランの手から、サーベルが滑り落ちる。

 アランを案じる間もなく、急転回した《D》がマキアスの喉元をわしづかんだ。息が詰まり、勢いのまま地面に組み敷かれてしまう。

 マウントポジションを取られた。

 こじらせた愉悦が刃に映り、狂気をはらんだ切っ先が迫る。宣言通り、眼鏡をやる気だ。レンズだけで済めばいいが、どう控えめに見てもそこで留めてはくれなさそうだった。

 腕は相手の両ひざに押さえつけられて動かせない。足はじたばたと動かせたが、悪あがきにすらならなかった。

「マキアス!」

 アランが助けようとしてくれるが、間に合わない。視界の中のナイフが、スローモーションで近づいてきて――

 突然飛び込んできた黒い影が、《D》の下あごに強烈な体当たりをかました。

「あがっ!?」

 大きくのけぞったその体に、背後からしゅるしゅると紐のようなものが巻きついていく。マキアスから無理やり引きはがされた《D》は、そのまま力任せに投げ捨てられた。

 体を起こしたマキアスの前にいたのは、彼を守護するかのように控える二匹の魔獣。飛び猫とドローメだった。 

「お前たち、旧校舎から出てきたらダメだって、あれほど言ったじゃないか」

「マ、ママ、マキアス!?」

 アランが露骨に慌てている。

「魔獣だぞ? 早くこっちに来い! というかなんでこんなところに魔獣が!?」

「大丈夫だ。この二匹は大丈夫なんだ」

「な、なにがだよ」

 起き上がった《D》は「まさか《G》と同じ降魔の笛か……?」と警戒をあらわにしていた。ちなみに彼がいう《G》はギデオンのことであって、先ほど悲惨な目にあった《G》でも、それをやらかした方の《G》でもない。

「降魔の笛?」

 マキアスは鼻で笑った。

「僕たちの絆はそんなに浅いものじゃない。お前たち、教えてやろうじゃないか。コーヒーで結ばれた絆は血よりも濃いということを」

「ふざけるな! どんな手を使ったかは知らんが、たかが飛び猫とドローメなど――」

「クロ」

 飛び猫が飛翔し、下腹に重い頭突きを見舞った。

「ルーダ」

 二本の触手が鞭のように風を切り、よろめく《D》に足払いを仕掛けた。

 息もつかせぬコンビネーションに、まったく追いつけない《D》は、ひたすらに翻弄され続けている。

「……お前って、俺が思っている以上にすごいやつなのか」

「なんだ。今さら知ったのか?」

 アランに軽口を返しながら、マキアスはショットガンの筒先を持ち上げた。

 距離よし。位置よし。リミッターを任意解除。出力急速上昇。内部機構に圧縮されたオーバルエネルギーが解放され、光を滲ませた銃身が微震する。

 ぎょっとした《D》は射線上から退避しようとしたが、飛び猫の空中多段蹴りに阻まれた上、ドローメの発動したアーツが、彼の膝から下を氷塊の中に押し固めた。

「今こそ教えよう。お前たちに付けた名前の真の意味を。それは僕が敬愛してやまない人物の名を二つに分けたものだ」

 黒い毛並みでクロ。ダルダルしているからルーダ。それもそうだが、本当の意味は別にある。

「クロとルーダ、そして僕。見せてやる、これが必殺の三位一体!」

「や、やめろお!」

「クロチルダ・ショットだあっ!」

 ショットガンが咆哮を上げ、臨界を越えた光弾が彗星のごとき尾を引いた。

 直撃。爆散。巻き上がる砂塵。

 大量の土砂をかぶりながら倒れ込む《D》。

「そういえば僕の眼鏡を割るとか言っていたな」

 伏した《D》をマキアスは一瞥した。

 割られに割られ、耐えに耐えたこの二カ月。ついにこの日がやってきた。守るべきものを守り切るこの日が。

 マキアスはくいと眼鏡のブリッジを押し上げる。

 陽光を反射した曇りなきレンズが、燦然とした輝きを放っていた。

「アラン、クロ、ルーダ。戦いは続いているぞ。チェックメイトはまだ先だ」

「お、おう。……というか、こいつら襲ってはこないよな?」

「シャー!」

 心を許した親友が背中を守り、心を通わせた魔獣達が両脇を固める。これぞ何人にも突破されざる鉄壁の布陣。

 さあ、割れるものなら割ってみろ。

 

 

 Ⅶ組の各々が相応の苦戦をさせられていたが、もっとも反撃の糸口がつかめないでいたのは間違いなく彼女だった。

 左手に携える導力弓は、ショットガンのようにむりやり打撃に使えるわけでもなく、また魔導杖のように防御に使うなどの取り回しにも難があった。矢をつがえるにもタイミングを図る必要があり、それが外れたとしても即時二射目というわけにはいかない。

 後衛と言うのなら、彼女こそがそれを代表する担い手である。

「もう、何なのよ!」

 弓を前面に突きだしながら、アリサは何とか間合いを離そうとする。しかしその行動は威嚇にもならず、構わず踏み込んできた相手――《X》のサーベルを真正面から受けるのみだった。

 間近で打ち合って、アリサはふと思う。

 ヘルメットのせいで顔の上半分は見えない。だが、秀麗なあごのライン。どこかしなやかさが垣間見えるその体捌き。目立たなくはしているようだが、ほのかに膨らんで見える胸。

「まさか……女性?」

「だから何よ!」

 そしてこの声。間違い無かった。

 アリサを制したまま、《X》は言う。

「同志《S》がいるんだもの。女がいたっておかしくはないでしょう」

 スカーレットのことだ。

 ハーフフェイスのアイガードに覗く丸い瞳が、見定めるかのようにアリサに視線を這わす。不意に《X》はぎりりと歯を食いしばった。

「苛立たしいわ。ザクセン鉄鋼山を逃げ出してから今日まで、私がどんな苦渋の日々を送っていたかあなたに想像できて?」

「そんなの知らないわよ」

「教えてあげるわ」

「別にいらないけど」

 そう返すアリサは無視して、《X》の悲哀に満ちた回想が始まった。

「毎日の食事なんて当たり前にあるわけじゃない。体を洗うことも満足に出来はしなかった。女は私一人、紅一点だなんてとんでもない。肩身の狭い思いをしたわ」

「……そう」

 同じ女性として、その感覚は少しだが理解できた。同情するわけにはいかないが。

「それに何よ、あいつら。口を開けば同志《S》のお仕置きがどうたらこうたら。あのヒールがたまらないだとか、法剣でしばかれてもいいだとか、あの眼帯の下を知っているのは俺だけだとか、蔑むような流し目がご褒美ですだとか訳の分からないことを……!」

 ふるふると剣を持つ手が細かく震えていた。受け止める弓を通じて、何やら釈然としない憤懣がアリサにも伝わってくる。

「しかもよ。そんな男どもの集まりなのに、潜伏生活のこの一カ月余り、誰も私に一切手を出そうとしなかったわ。どういうことなの、これ!?」

「し、知らないわよ!」

 というか手を出されたかったのか。

 ヒステリックにサーベルを横に薙いで、《X》は凄みたっぷりに嗤う。

「あなたも同じ目に合わせてあげるわ」

「いや、どうやってよ」

 冷静につっこむアリサだが、沸点を越えた頭には届かない。たまりにたまった鬱憤を晴らすかのようにサーベルを振り上げる《X》。

「覚悟なさい。次は弓ごと斬り裂いてあげるわ!」

 相手は本気だ。身の上話に付き合ったおかげで時間は稼げたが、依然として反撃する術は見つからない。いつまでも防ぎ切る自信もなかった。

 こんな八つ当たりにやられてはたまらないと、打開策を巡らすアリサの視界に、波打つ薄紫の髪が飛び込んできた。フェリスだ。

「アリサ、これを!」

「こっちに来ちゃだめ! え?」

 走りながらフェリスが何かを投げてくる。《X》の頭上を越え、放物線を描きながら飛んでくるそれは、ラクロスのラケットだった。

 反射的に受け取る。もしかしたら弓と同じくらい馴染んだかもしれない感覚が、手のひらに熱となって拡がった。

「アリサ、やりますわよ!」

 何を、と聞かなくても分かってしまった。「こ、ここで?」と躊躇する言葉を吐きながらも、弓を手放して、すでに体はその体勢へと入っている。

「え? え?」

 たじろぐ《X》の左右から、アリサとフェリスが接近する。

『せーのっ』

 声をそろえて、手前で急制動。二人同時に素早くラケットを半身で引き絞る。

 部長のエミリーには羨ましがられ、副部長のテレジアにはたしなめられ、幾度となく失敗し、その度に改善を重ね、実際の試合では多分使えないであろう、その技。

「フェ」

 フェリスが起点。

「リ」

 アリサが同調

『サ!』

 双方の呼吸がシンクロする。

『ハリケーン!!』

 完全な左右対称から振り切られるラケット。交錯する中心点に顔面を打ち据えられ、相乗した衝撃が《X》の頭蓋まで反響する。

 手から離れたサーベルが地面に刺さり、膝を折って顔面から突っ伏す《X》

 得点のホイッスルの代わりに、二人のハイタッチが軽快な音を鳴らした。

 

 そのハイタッチを見ながら、《X》は腰元に手を添わしていた。

 意識が飛んだのは一瞬だけ。たかがラケットの殴打で、完全に戦闘不能になるものか。 

 ホルダーから銃を引き抜き、四つん這いに体を起こすと、離れ行く二人の背中に銃口を向けた。

 弾を惜しまず、最初からこれを使えばよかったのだ。

 まずはお前からだ、ブロンド髪。

 黒い感情に促されるまま、引き金を絞る。

「え?」

 眼前を何かがきらめいた気がした。直後、銃身が縦一線で三つに分かれて地面に落ちる。輪切りとなって転がるそれらを呆然と眺めたのも一瞬、背後で砂を踏む音が聞こえた。

「私のお仕事は四つあります」

 続いて耳に届く、場違いなくらい涼やかな声音。

「一つ目が、三食のお食事をご提供させて頂くこと」

 すぐに向き直ろうとするが、足が動かせない。

「二つ目が、お掃除を行い、寮内の整理、整頓、清潔を維持すること」

 腕もだ。四肢がまるで何かに縛られているかのように。

「三つ目が、皆様のお見送りとお出迎えを行うこと」

 足音がゆっくりと近付いて来る。《X》がかろうじて首だけを巡らして、背後を視界にいれた。

「そして四つ目が、有事の際はこの身に代えてでもアリサお嬢様達をお守りすること」

 完全に意識を刈り取られる寸前、《X》は見た。

 場違いなメイド服が、やはり場違いなほど、しとやかに微笑む様を。

 

 ●

 

「旧校舎側にはいなかったし、姫様どこに……?」

 正門に控えていた四人の護衛は、リムジンのボンネットの中で縛られていた。縄は解いておいたが、意識を戻す気配はない。

 帝国解放戦線はⅦ組が押さえている。しかしアルフィンの捜索にまではさすがに手が回っていないようだ。

 自分が動かねば。だが見つけてどうする。こちらは丸腰。下手をすればあの時同様、人質にされるかもしれない。 

「エリゼ君、無事か!」

 肩で息をして、パトリックが走ってくる。

「パトリックさん、どうしてこちらに?」

「よくぞ聞いてくれた。もちろん君を守るために――」

 わん! と足元から吠えられる。

 従前用意していた最高のセリフは、唐突に現れたルビィの鳴き声にかき消された。

「ルビィちゃん? それって……!」

 ルビィがくわえていたのは、アルフィンが身に着けていた帽子だった。

「もしかして……匂いでたどれるの?」

 賭けるしかない。しかし先刻の懸念が戻ってくる。見つけたところで一人では……。Ⅶ組は学院中に散開して交戦中。パトリックは乱戦の中を駆け抜けてきたのか、かなり疲労困憊の様子だ。危険を承知で同行を頼みたかったが、それも躊躇してしまう。

 エリゼは決意を固めた。

「パトリックさん、お願いがあるのですが」

 虚を突かれたパトリックだったが、すぐに嬉しげに胸を張った。

「ふっ、もちろん何でも聞こう」

「そのサーベルを私に貸して下さい」

「ああ、好きなだけ持っていくがいい……ん?」

「失礼します!」

 その手からサーベルをつかみ取り、エリゼはルビィに「お願い!」と合図する。走り出すルビィと追いかけるエリゼ。

「あ、おい――」

 訳も分からず見送るパトリックの背中には、例えようもない哀愁が漂っていた。

 

 学生会館の前を横切り、技術棟を抜け、着いた先は旧校舎。

「はあっ、はあ。ここには誰も……鍵は兄様が持っているから入れないはずだし」

 しかしルビィは入り口には向かわずに方向を変え、旧校舎周辺に生い茂る群生林の中へと飛び込んだ。

「まさか、そっちに?」

 エリゼはあとに続く。枝葉をかきわけ、悪い足場につまずきながら、ひたすらに走った。

「どうする《C》。皇女、目を覚まさないぞ」

 不意に男の声が聞こえた。 

「仕方ない。先に目的地へ向かう。向こうで目を覚まさせればいい」

 林の奥、少し開けたスペースに彼らはいた。二人。《C》と呼ばれた男がアルフィンを抱きかかえている。エリゼはサーベルを手に、ルビィと一緒に二人の前へと飛び出した。

「待ちなさい、あなた達!」

「一般の来館者か? 《A》、お前に任せる」

 ろくに取り合おうともせず、《C》が足早にその場を離れていく。

 自身のサーベルを抜いた《A》は、エリゼを阻んだ。

「一人で来たのは間違いだったな。無事で済むとは思うなよ」

「侮らないで下さい。細剣の心得はあります」

 打ち合う剣と剣が火花を散らす。

 力では敵わない。エリゼは木々を盾にしながら、巧みに相手の攻撃をかわした。流れるような剣捌きで相手の突きを受け流し、瞬時に攻勢に転ずる。

「こ、こいつ!?」

 追い詰めていたのはエリゼだったが、地形が彼女の邪魔をした。突き出した枝の一本が制服の裾に引っかかったのだ。わずかに鈍くなった動きを見逃さず、《A》の太腕がエリゼの胸倉をつかみあげる。

「きゃあ!」

 抵抗する間もなく、力いっぱいに背後の木の幹に叩きつけられる。肺から空気が絞り出され、エリゼはずるとへたりこんだ。

「ひ……め、さま」

 遠のく意識と狭まる視界。その中に小さな子犬が映っていた。

 

 エリゼを守るように、割って入ってきたルビィを《A》は嘲笑を浮かべて見下ろした。

「あっちにいってろ」

 サーベルで追い払おうとするも、ルビィはその場を動かない。業を煮やした《A》は、「どけと言っている」と声を荒げて、剣先を突き付けた。

 ぐるる、と唸るルビィ。

「はは、やろうってか?」

 嘲る口調を濃いものにした時、風もないのに葉がざわめいた。まるで唸り声に呼応するかのように。

 ルビィの全身の毛が逆立った時、異変は起こった。

 木から伸びる枝葉の数々が、一人でに折れ、しかも地面に落ちることなく滞空しているのだ。二、三本のレベルではない。大小合わせて、その数は優に二十本を越えていた。

 さらに唸る。

 枝の先が一斉に《A》に向いた。

「ひい!? な、なんだよ、この犬……う、うわああ!」

 大きく吠えると同時に、襲いかかる枝の群れ。

 経験したことのない恐怖に、《A》は枝が到達する前に失神していた。

 

 

「エリゼ! おい、エリゼ!」

「……にい……さま?」

 旧校舎の入り口前で、エリゼは目を覚ました。

 心底安堵した様子で、リィンは額の汗を拭う。

「ど、どうして。ここは……?」

「ルビィに引っ張られて、林の奥でエリゼを見つけたんだ。場所が悪かったから、とりあえずここまでは出てきたんだが」

「そうだったんですか。……! 姫様、姫様は!?」

「まだ動かない方がいい」

 起き上がろうとするエリゼをやんわりと制する。

「あそこに倒れていた男はもう捕縛した。それ以外は誰もいなかったが、まさかアルフィン皇女も一緒だったのか?」

「え、ええ。でも男が倒れていたって、兄様が私を助けてくれたのではないのですか?」

「ん? 俺がその場に着いた時には、敵はもう意識を失っていたが」

 きょとんとするエリゼは、そばにちょこんと座るルビィを見た。ルビィは尻尾を振るのみだ。

 そこにクロウとトワがやってくる。

「リィン君もエリゼちゃんも、ケガはない!?」

「そんなとこにいたかよ。状況報告だ。グラウンドと校舎内はあらかた片付いてる。今のところ大きな被害は出てないぜ。……それにしても、あいつらの目的は何なんだろうな」

 クロウはぼやいた。

「帝国解放戦線は壊滅しただろ? 残党が各地に残っているのは想定できるが、どうしてわざわざこの学院を襲ってきたんだ。Ⅶ組に対する仕返しってわけでもなさそうだしよ」

「何を言ってるんだ、クロウ。あいつらがここに来た理由は、ほぼ間違いなくアルフィン皇女だろう」

「……は?」

 クロウは目を丸くして、聞き返した。

「アルフィン皇女が来ているのか? 今日、この学院に?」

「いまさら何を言って――ってそうか」

 リィンは気づいた。

 最初にアルフィンが自分たちの前に現れた時、クロウは綱引きの後で保健室に運ばれていた。

 二度目は昼食を一緒に取った時だが、その際もクロウは、中当ての後で保健室に運ばれていた。彼が戻ってきたのは昼休憩の終わり。アルフィン達が元の観覧席に戻ったあとである。

 つまりクロウはアルフィンと顔を合わせていないのだ。

「クロウには直接伝えるべきだったな。混乱を避けるために、俺たちもみだりにアルフィン皇女の名前を口に出さないようにしていたし……クロウ?」

「いや、ようやく合点がいった」

 クロウは口を閉ざし、何かを思案する。

「リィン君、考えよう。エリゼちゃんの話ではアルフィン皇女は連れて行かれたんだよね。あの林は入り組んだ上に整備もされてないけど、迂回すれば町にも街道にも出られるの。急がないと追えなくなっちゃうよ」

 考え込むトワ。リィンも手元にある全ての情報と状況と可能性を、今一度頭の中で精査してみた。

 もう一回ルビィに匂いをたどらすのはどうか。やれるかもしれないが、すでに林を抜けていたとしたら、今からあとを追うのは時間がかかり過ぎる。先回りする必要があった。

 相手はどこに向かう。本当の目的はなんだ。アルフィン皇女をさらってどうする。帰るべき本隊はもうないのに。

「本隊……」

 本隊はもうない。だが彼らのように残党が各地に残ってる可能性は高い。実際、ルーレでの一件以降、軍は包囲網を広げて、その発見と捕縛に力を注いでいる。

 ならば彼らの望むこととして、考えられる可能性は二つ。

 壊滅したとされる本隊、あるいはそれに相当する規模の集団が残っているのなら、そこに合流すること。もしくは自分たちが残党の中心となり、各地で潜伏する勢力を再び集めること。 

 アルフィン皇女はその為のキーだ。彼女さえ手中にあれば、軍も迂闊な強硬手段には出れない。

「……どうやって」

 当然、さらうだけでは不完全だ。彼女を連れたまま長距離を移動することも難しい。手の内に彼女がいることを、一気に知らしめるだけの方法が必要だ。

 この界隈でそんな方法など――いや、ある。

 そう、一つだけあるではないか。

 三人同時にその答えにたどり着き、異口同音に彼らは言う。

『トリスタ放送局!』

 そこしかない。放送範囲はせいぜいヘイムダルまで。だがそれで十分。一たび帝都に伝われば、いかに情報規制をかけようとも、あっという間に騒ぎは拡がる。

 盤石とは言い難いリスキーな策だ。しかし彼らにとっては賭ける価値のある策なのだろう。低いには違いないが、確かに成功確率はある。

 加えて今日は日曜日。アーベントタイムがある日だ。時刻は早いが、放送準備自体は整っているかもしれない。

「まずいよ、リィン君! もし本当にそうなら急がないと」

 放送が始まったら終わりだ。しかしどんなに走っても十分はかかる。もう猶予が残されていない。

「トワ会長は教官達に報告を! クロウは俺と一緒に放送局へ。ってルビィ!?」

 二人に先駆けて、ルビィが正門側へと走る。

「勇ましいじゃねえか。俺らも続くぞ」

「ああ!」

「待ってくれ」

 そこに汗だくのジョルジュがやってきた。

「学院外捜索の可能性も出てくると思ってね。これでリィン君が先行してくれ」

 ジョルジュは運んできたそれを、リィンの前で停める。

「アンが君に託したものだ。捕われのお姫様を助けるにはうってつけじゃないか」

 

 ●

 

「あとは動かずにいるんだな。どのみち動けないだろうが」

 トリスタ放送局内。受付とエントランスを兼ねたそのスペースの隅で、二人の男女が目隠しと猿ぐつわをかまされていた。一切の状況が分からないよう、念入りに耳栓までされている。受付嬢のララとディレクターのマイケルだ。

「お前もだ。放送が繋がったら、まずはお前の口から状況を説明してもらう。その方が現実味が増すだろうからな」

 《C》が目を向けたのはミスティだった。手首は縛られているものの、後ろの二人のように口まで封じられていない彼女は、「うーん、困ったわねえ」と安穏な態度のまま首を巡らせた。

「ふん。パーソナリティとか言ってたが、妙な女だな」

 《C》は応接ソファーに横たえているアルフィンに視線を移した。

 もうそろそろ嗅がした薬も切れる頃合いだ。素直に従うとも思えなかったが、一声だけでもマイクに肉声を吹き込めればそれでいい。

 全てはこの時のためだ。

 あれ程の反撃にあったのは正直予想外だったが、こちらもあの規模の学院を相手取って、その全域をたった二十六名で制圧できるとは最初から考えていない。

 目的は皇女を引き連れてトリスタ放送局にたどり着くまでの時間稼ぎ。アクシデントが起こった場合、作戦の途中で学院勢に捕縛されるメンバーもいることも承知している。

 それでも事が成れば、大局を一手で覆すことができるのだ。

 彼らの尽力の上に、今自分はここに立っている。

「う……んん……」

 アルフィンが身じろぐ。

「よし、お前。放送ができる状態にしろ」

 ミスティは肩をすくめた。

「無理よ。機材なんて普段いじらないし。ディレクターにやってもらえばよかったんじゃない?」

「見よう見まねでも出来るだろう。早く従え!」

 銃を突き付ける《C》を見やって、彼女は軽く嘆息をついた。

「本当に困ったわ。この時期に余計なことはして欲しくなかったんだけど」

「なに?」

 その目に冷ややかな色が映る。

 窓の外で鳥の鳴き声が聞こえた。しかしそれは唐突に響いた犬の鳴き声によってかき消される。

 蹴り開けたせいで歪んだドアの隙間から、一匹の子犬が駆け込んできた。

「こいつ、さっきの犬か?」

「あら。可愛らしいナイト様だこと」

「かまっていられるか。早く放送のセッティングをしろ」

「その必要はないみたい」

 ミスティはくすりと笑った。

 直後、呻りをあげる導力バイクが、窓ガラスを盛大に突き破った。けたたましい音をばらまきながら、着地した鉄の馬がガラス片を踏みしだいて横滑る。

「トールズ士官学院特科Ⅶ組、リィン・シュバルツァーだ。これ以上、好きにはさせない」

 じゃりっと床を鳴らし、彼は室内中央にまで歩み出る。

 仮初めの《C》と、Ⅶ組のリーダーが対峙した。

 

「派手な登場ねえ。ぶつかってたらどうするのよ?」

 ミスティは冗談めかすように言った。

「驚かしてすみません。全員の位置は気配でわかっていましたし、時間がなかったもので……」

「ふふ、でも助かったわ」

「ミスティさんは下がっていて下さい」

 太刀を鞘から抜き放つ。

「また赤服か。どこまでも俺達の邪魔をして……!」

「アルフィン皇女は返してもらう」

「黙れ!」

 サーベルを抜いた《C》が斬りかかってくる。剣の腕はリィンと比べるべくもなかった。敵の刃を鍔元で受け、鎬で流し、物打ちで払い、切っ先を突き付ける。

 たったの一合だが、実力の差は明白だった。

「もうやめて投降しろ」

「断る!」

 サーベルとは反対側の手で銃を持ち、素早くリィンの胸を狙ってトリガーを引き絞る。

 吠えたルビィが《C》の足首に噛みついた。痛みに顔をしかめ、放った銃弾は大きく狙いを狂わせて、天井を撃ち抜く。

「この犬がっ!」

 ぶんと足を振り、《C》はルビィを引きはがす。アルフィンのいるソファーの近くまで、ルビィは床を転がった。

「ルビィ!」 

 その隙をついて、《C》はリィンの横をかいくぐり、部屋の端まで退いているミスティに迫った。銃を向けている。人質にするつもりだ。

「ミスティさん、逃げて下さい!」

 乾いた銃声。窓の外から飛来した一発の銃弾が、《C》の銃身のど真ん中を貫いた。窓の向こう遠く、クロウがちらりと映る。

「ちくしょう!」

 砕けた導力銃を投げ捨て、ならば素手でと再びミスティを睨んだ時。背後に強烈な畏怖を感じて、《C》は強張った動きで振り返る。

「無関係の人を傷つけるつもりなら、容赦はしない」

 射抜くような眼光が、真っ直ぐに《C》を見据えていた。

 下段に構えた切っ先に熱が灯る。床がちりちりと鳴り立ち、大気中の塵が炙られて、無数の火の粉が舞い踊った。

 切っ先で生まれたわずかな火種は、刃を伝いながら見る間に勢いを増し、鍔元に至る刀身の全てを炎で包み込む。

「くそ、くそ、くそ……!」

 陽炎に揺らぐ刃が、頭上に掲げられる。押し迫る凄まじい熱気に、《C》が臆したのはわずかな間に過ぎなかった。

 その刹那の内にリィンは動いていた。弾かれたように力強く踏み出し、一瞬で間合いを蹂躙する。思い出したようにサーベルを横にして、防御の構えを取る《C》。

 紅の残光が尾を引き、一直線に駆け抜ける。

 大気を焼き尽くす業火の一閃。

 炎熱と斬撃が合わさり、サーベルは真っ二つに溶断された。衝撃に痺れる腕を無理やり動かし、《C》は腰に隠してあった近接用のナイフを掴む。

 それを引き抜くよりも早く、ひるがえったリィンの二太刀目が、返す刀で逆袈裟を擦過した。

「かっ……!」

 荒ぶ炎が全ての企みを灰にする。

 《C》はついにくずおれた。ぶんと刃を振るい、リィンは刀身に燻ぶる熱を払う。

 いまだ舞い散る火の粉の中に、有角の獅子紋が映えていた。

 

 ●

 

 夕焼けがグラウンドを赤く染める。長い一日が終わりを告げようとしていた。

 そのグラウンドでは、Ⅶ組とサラ、エリゼ。そして無事に帰還したアルフィンが顔をそろえている。

 リィンはサラから現状を聞いていた。

 捕縛した帝国解放戦線残党は二十六名。全員の証言は一致しているが、念のため校舎内や各施設の安全確認作業は続いている。彼らの移送はナイトハルトが指揮を取って行うとのことだ。

 来訪者や関係者への謝罪や状況説明は、学院長も含め教官達が総出で行っている。トリスタ放送局も窓が砕け散った以外は、被害はそこまで大きくないらしい。もっとも窓の件はリィンによるものだが。

 今日の放送や号外新聞でも、残党が現れたことは取り上げられるが、アルフィン皇女が絡んでいた件については、昨今の様々な事情により伏せられることになったそうだ。

 無論、伝えるべきところにはきっちりと詳細を報告することになっているが。とはいえ今回の件でトールズ士官学院は事態解決に尽力した形なので、取りたてて矢面に立たされるわけではない。

 この場合、リムジンで拘束されていた四人の護衛達が責任を追及されるのだが、それに関してはアルフィンが“自分のわがままを押し通した結果”だとして、最大限の擁護をすると言い張っている。

「しかしどうなることかと思いましたが、ご無事で何よりでした」

 ユーシスがアルフィンに言った。

「皆さんには助けてもらってばかりですね。私も一人で動いたのは軽率でした。これから気をつけます。エリゼもそれでいいかしら?」

「本当に心配したんですから。約束ですよ」

 エリゼも心底安堵した様子だ。

 落ち着いてきた頃合いで、彼らは一つの問題を思い出す。

 フィーが言った。

「体育祭、結局勝負がつかなかったね」

 解放戦線が割って入ってきたのは、二対二で騎馬戦の決着がつく前だ。閉会式も行われていないが、おそらく引き分け扱いとなるだろう。

 つまりサラの学院水着掃除は立ち消えとなる代わりに、ルビィの飼い主探しや預かり期間延長の交渉を画策していたことが、全て白紙に戻ってしまったのだ。

「こればかりはどうしようもないわね」

「望み薄だが、学院長に願い出てみるか?」

「うーん……」

 一様に頭を抱える面々の中、エリゼが口を開いた。

「あの、兄様。ユミルの実家にルビィちゃんを連れて行けるかという話なんですけど」

「え、ああ! どうだったんだ?」

 以前エリゼが第三学生寮にやってきた際に、リィンはそのことを頼んでいた。

「やっぱり家にはバドもいるから、難しいとのことでした」

 バドとはシュバルツァー家の飼い犬である。

「そうか……まあ、そうだよな」

「それで――」

 後の言葉を継いだのは、アルフィンだった。にこりと微笑んで、皇女は言う。

「それで、その子は私が預かることにしましたわ」

 一瞬、場が制止して、

『ええええええ!?』

 全員で大絶叫。

 エリゼが経緯を説明する。

 体育祭の応援に来るに当たって、エリゼはアルフィンにもルビィのことを伝えていた。

 初めは興味深げに聞いていただけだったのだが、ユミルの実家でNGが出てしまい、兄の期待に応えられず落ち込む彼女を見て、アルフィンは自分から飼い主候補の一人として申し出たのだという。

 ただし最後の最後まで手を尽くしても他の飼い主が見つからなかった場合、そしてアルフィン自身がルビィを気にいった場合という、二つの条件付きでだ。

 今日アルフィンが学院にやってきたのは、Ⅶ組の応援はもちろん、ルビィを見るためでもあったのだ。 

「ということは、殿下はルビィを気にいられたということですか?」

「ええ、それはもちろん」

 リィンの問いにアルフィンは満面の笑みで答えた。

「ルビィちゃんが私を助ける為に走り回ってくれたことは、エリゼから聞いています。おぼろげですが、必死で吠える声もちゃんと届いていましたから」

「……そうでしたか」

「でも預かるだけです。皆さんの誰かがルビィちゃんと過ごせるようになったら、引き取りに来てあげて下さいね。きっとそれが嬉しいはずです。セドリックにも話していますし、お父様にも承諾はもらっていますから」

「こ、皇帝陛下のご承諾……!」

「それに私、あの子の名前も気に入ったんです」

「名前?」

 アルフィンは離れたところで座っているルビィを見やった。こちらに来ようともせず、あさっての方向を向いて尻尾を振っている。

「ルビィって赤い宝石のことでしょう? 皇族の色は赤。Ⅶ組の制服の色も赤。私と皆さんを繋ぐ名前としては、これ以上なく相応しいものかと思いますが」

 Ⅶ組勢の視線が、“これ以上なく相応しい名をつけた人物”に注がれる。

「え? いやー、あはは。ですよねえ。我ながらいい名前をつけたと思います。あはは……」

 この流れでビールが語源などと、サラに言えるわけもなかった。

「ほら、ルビィ。こっちにいらっしゃい」

 居たたまれなさから逃れるように、サラはルビィを呼んだ。

 

 

 虚空を眺めるルビィの目には、一人の男子学生が映っていた。

 緑色の服を着て、生徒会の白い腕章を巻いた“彼”。

 心の内で彼らは会話を交わしていた。お互いにそれが最後の会話になるとわかっていた。

 

 ――ありがとう。あの林の中で力を貸してくれて

 

 ――いや、よくがんばったな

 

 透ける手が頭をなでる。感触はない。だがとても暖かなものを、ルビィは感じていた。

 

 ――また困ったら助けてくれる?

 

 ――俺はもう行かなくちゃいけないよ

 

 ――どうして?

 

 ――やり残したことを全部やったからさ

 

 ――やり残したことって?

 

 ――俺を救ってくれたあいつらの力になること。それから――

 

 ――それから?

 

 ――お前の行く末を見届けること

 

 彼は微笑し、また頭をなでる。

 

 ――あいつらと過ごした時間はどうだった?

 

 ――楽しかったよ、とても。シャロンのご飯はおいしいし、サラはいつだって笑ってくれるし

 

 ――そうか

 

 ――リィンはいつも大変な目にあってるし、クロウはこっそりおやつをくれるし、ユーシスは子供たちと遊ばしてくれるし、フィーとは一緒にお昼寝するし、ミリアムはよく遊んでくれるし、アリサは時々怒るけど、一人でいるとかまってくれるし

 

 ――そうか

 

 ――マキアスはからかうと面白いし、ガイウスはいっぱい散歩に連れて行ってくれたし、エリオットは色んな音楽を聞かせてくれたし、エマはいつも優しいし、ラウラは作ったご飯を食べさせてくれたし、それは死んじゃうかと思ったけど。でも本当に楽しかったんだ。だから……

 

 ――だから?

 

 ――みんなと離れたくないよ

 

 ――別れはいつか、必ずやってくる。でも心配しなくていい

 

 ――どうして?

 

 ――過ごした時間はなくならないから。育んだ絆はなくならないから

 

 ――よくわからないよ

 

 ――お前にはまだまだ先がある。拡がり続ける未来がある。ゆっくり知ればいいさ。……さあ、そろそろ時間だ

 

 ――消えちゃうの? いなくなっちゃうの? もう会えないの?

 

 ――言っただろう。育んだ絆はなくならないって。お前が俺を覚えていてくれるなら、いつかまた、どこかで会える日がきっとやってくるよ。

 じゃあ、またな――

 

 ぽんと軽く頭を叩いたのを最後に、彼の姿はルビィにも見えなくなった。

 あの優しい匂いも、もうしない。

 だけど不思議と悲しくはなかった。

 なぜなら彼は、また会えると言ったから。

 

「ほら、ルビィ。こっちにいらっしゃい」

 

 大好きなあの声が自分の名を呼ぶ。

 そう、また会える。だからもう、寂しくない

 サラに向かって、ルビィは力いっぱいに駆け出した。

 

 

 ● ● ●

 

 

 ――後日談

 

 盛大に開かれたルビィの送迎会も終わり、散歩がてらのあいさつ回りも済ました数日後の昼下がり。

「子犬を引き取りに来ました」

 第三学生寮の扉を開いてそう言ったのは、クレア・リーヴェルトだった。

 今日は非番で、これまた勤務外なのだがアルフィン立っての頼みで、このお願い事を受けたのだという。

「皇女殿下は直接伺いたいと仰っていましたが、この間の一件もありますので、さすがに陛下もお止めになったそうです」

「はは、まあ、そうでしょうね」

 リィンは苦笑した。

「クレアだー!」

 ぴょんと飛び跳ね、ミリアムはクレアに抱きついた。その横から歩み出たフィーが「この前はども」と親しげな挨拶を向ける。

「……ミリアムちゃんはともかく、あなたとはルーレ以来のはずですが」

「何言ってるの? この前、学院中に罠を仕掛け回った時にアドバイスを――」

「ひ、さ、し、ぶ、り、ですね?」

「……うん、久しぶり」

 まさかあの時の黒幕は。疑惑の目がクレアに向けられるが、彼女ははぐらかすように視線を逃がして、「ああ、その子ですか?」とソファーの上のルビィを見た。

 サラが言う。

「ええ、そうよ。分かってると思うけど、ヘイムダルまでに何かあったら承知しないわよ」

「要人護送用の特別車で来ましたから、万が一はないと思いますが」

「よ、要人護送用……」

「預かるだけとはいえ、皇室の犬となるわけですから。万全を尽くすよう言付かっています」

 そして別れの時。

 ルビィも分かっているのか、全員の間をとことこと抜けて、クレアのもとまで歩いていく。それぞれが一言ずつ再会を約束する言葉をかけながら、その旅立ちを見送った。

 最後にエマが歩み寄り、おもむろにルビィの首輪を外す。代わりにと、そこに巻いたのは赤いスカーフだった。

「みんなで話し合って用意したんです。ルビィちゃんに新しい飼い主が見つかって、いつかここを出ていく日がくれば渡そうって。これは私達の制服に使われている生地と同じものですから」

 Ⅶ組の小さな仲間。その証として。

「それじゃあ、また会う日まで」

 

 

 子犬の送迎にしては、あまりにも物々しい車に乗せられて、ルビィはヘイムダルに向かっていった。彼の新しい住まいはバルフレイム宮だ。

 車のドアが閉まる寸前、ルビィは大きく一吠えした。さみしさを滲ませない元気な声で。あたかも“ありがとう”と言ったかのように。

 車が見えなくなるまで見送ったあと、彼らは順々に寮の中へと戻る。

「うええー、ルビィー! シャロン、ティッシュ~」

「あらあら、サラ様ったら。はい、どうぞ」

 ずっと我慢していたのだろう。堰を切ったようにサラは泣き出してしまった。

「サ、サラ教官、二度と会えないわけじゃないですから」

「水飲む? アメ食べる?」

 アリサとフィーがサラをなだめつかせる最中、まだラウンジの隅に残ったままの犬小屋を見て、リィンは言った。

「ルビィがここに来てから二ヶ月か。何だか騒々しい毎日だったな」

 幽霊騒ぎに始まり、煉獄料理試食会、屋台勝負、マルガリータ制圧、ユミルの温泉事件、教会での劇、トラップ騒動、トーナメント料理対決、そして体育祭。個々で挙げれば、もっと色々あるのだろう。

 だが、まだ終わりではない。

「一息つくのは早いか。ここからはステージ練習が待っているわけだし」

 忙しない日々はまだ続くのだ。

「そ、そうだった」

「ふむ。時間もない。さっそく取りかからねばな」

 やる気は皆十分。

「エリオット、音楽指導頼むよ」

「うん、できるまで眠れないと思ってね」

 笑顔でさらりと怖いことを言うエリオットには苦笑いを返して、リィンはクロウに向き直った。

「クロウは総合演出を任せるからな」

「おう、任せとけ」

 いつものように軽く腕を掲げてみせたクロウに、「頼りにしてるぞ」とリィンは付けくわえた。

 なぜか今言うべきだと思ったのだ。

「なんだよ、急に。むずがゆいぜ」

「はは、何でもない」

 過ごした時間はなくならない。育んだ絆はなくならない。

 いったい誰から聞いたのか、不意に心中に結実した言葉を胸の奥に留め、リィンは全員の姿を視界に収めた。

「さあ、次は学院祭だ!」

 

 

 

 ――虹の軌跡 END――

 

 

 

 




最終話までお付き合い頂き、ありがとうございます。

おまけを含めて全55話。これにて虹の軌跡は完結となります。

長くご愛読頂いた皆様には感謝の念が絶えません。元々は閃Ⅱ発売まで軌跡の世界に浸ってたいなーなんて、思って書き始めた拙作ですが、色々な方からの応援に押され、何とかエンディングまで持ってくることができました。(ゲーム的にはエンディングではありませんが……)

好き放題に描かせて頂きましたが、終始楽しく話を作れたのが何よりでした。

というわけでルビィの名前と魔獣達の名前の意味は、あの通りでした。魔獣達の名に関してはご感想の中で見抜かれてしまったのですが、ルビィに関しては裏の意味もあったのです。
アルフィンとの会話でそれが表に出るように、一話から最終話まで続くながーい伏線でした。回収できてよかったなあ(しみじみ)

ここからは大勢の方と同じく閃Ⅱの発売を心待ちにして、中々執筆中は読めなかった他作者様の小説をじっくり読み進めようかと思います。
もしかしたら、おまけの方を細々更新していたりもするかもしれません。

それでは虹の軌跡の締め括りと参りましょう。

     《ENDING ROLL!》

リィン・シュバルツァー……作中絆を深めた相手(色々)。作中記憶を失った回数(3回)

アリサ・ラインフォルト……作中絆を深めた相手(フェリス)。マルガリータとの交戦回数(4回)

ユーシス・アルバレア……作中絆を深めた相手(ロジーヌ)作中いちゃいちゃしやがった回数(10回)

フィー・クラウゼル……作中絆を深めた相手(ケネス?)彼を直接的、間接的に虐げた回数(10回 ※ガイラーさん含めるともっと多い)

ミリアム・オライオン……作中絆を深めた相手(マルガリータ?)マルガリータとの交戦回数(4回)

ガイウス・ウォーゼル……作中絆を深めた相手(クレイン)クララ部長に脱がされた回数(2回)追い詰められてカラミティホークを放った回数(5回)

ラウラ・S・アルゼイド……作中絆を深めた相手(モニカ・ポーラ様・ブリジット)攻撃料理を作った回数(9回)

エリオット・クレイグ……作中絆を深めた相手(ケインズ・ミント?)猛将疑惑をかけられた回数(11回)

エマ・ミルスティン……作中絆を深めた相手(ガイラーさん一択)ガイラーさんに絡まれた回数(13回 描写してないだけで、台詞から推測した感じ20回以上)

クロウ・アームブラスト……作中絆を深めた相手(なし。これは仕方ない……)マルガリータにぶっとばされた回数(4回)

マキアス・レーグニッツ……作中絆を深めた相手(アラン、飛び猫、ドローメ)眼鏡が割れた回数(10回 ※夢の中とグラサン含む)


以上でした。ではではまたお会いする日まで。

THANK YOU FOR YOUR READING!! 

By テッチー


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追加後日談、おまけ集
☆後日談・おまけ☆


『そんなⅦ組の一日 ~リィン』より

 後日談――《記憶はクッキーと共に砕けて》

 

 あれから一週間後。

 記憶を失ったり、取り戻したりを繰り返した結果、ようやく全てのピースがそろった。

 うっかり胸をさわってしまったことをラウラに謝り、チェスをバラバラにしたことをマキアスに謝り、何かと面白がっていたシャロンさんに苦言を呈し、俺はあの日に起こった事件の清算を一通り済ました。

 もっともラウラには『もういいから決して人に言うな。あと絶対に思い出すな』と何回も念を押されたが。

 前者は守れるが、後者はちょっと自信がない。

 ――それはさておき。

 一通りの清算はしたのだが、一つ、まだ解けていない誤解があった。

 それを解く為に、今俺は学生会館――生徒会室前に立っている。

「トワ会長、いるかな……いるな」

 気配を感じる。間違いなく生徒会室にいる。どうやら一人だ。

 軽く深呼吸してから、コンコンとドアを軽く叩いた。

「トワ会長、今よろしいですか? リィンですが」

 返事がない。

「………」

 まだない。

「………」

 永遠とも思える沈黙の果てに、

「……どうぞ」

 トワ会長の声が聞こえた。声音はやや低い。

「し、失礼します」

 緊張を感じながら生徒会室に入り、後ろ手でドアを閉める。正面の会長専用机に、書類の束を両脇に置いたトワ会長の姿が見えた。 

「どうしたの? リィン君」

「あの、トワ会長。以前寮を訪ねてくれた時の事なんですが」

 忙しなく動いていたトワ会長のペンが、ピタリと止まった。

「実はあれは――」

「あはは、私びっくりしちゃったよ。でも節度は守らないとダメだよ?」

 トワ会長は笑顔で言う。しかし違和感があった。何というか、その笑顔がこわい。

「あれは不可抗力といいますか……決して他意があったわけでは」

「……どういう不可抗力が働いたら、ベッドに寝ているリィン君の上に女の子が三人も乗り掛かるのかな?」

 そう、これなのだ。解きたい、いや、解かねばならない誤解は。

 あれから一週間。あの日の記憶が曖昧だったこともあって、トワ会長とまともに話をするのは、今日が初めてだったりする。

 しかし声音を聞くに、どう考えても怒っている。いや、そこまで露骨ではないが、ご機嫌はよくないようだ。

「いえ、説明すると非常に長くなるのですが……やむを得ない事情というか、不幸が重なったというか」

「そうなんだ。じゃあ仕方なかったのかな」

「そ、それは」

 言葉に詰まる。はい、仕方なかったのです、と答えていいのだろうか。いや、よくない。絶対によくない。それくらいは俺にだってわかる。

 考えろ、考えるんだ。トワ会長は何にご機嫌ななめなんだ。 

「その……」

 謝るべきはなんだ。不可抗力か、不幸な事故か、不注意で風邪を引いたことか、それとも何か、別の何か――

 その時、唐突に脳裏をよぎったのは、床に落ちた小さな包み袋。

 咄嗟だった。考えもせず、気付いた時には口に出していた。

「せっかく作ってくれたトワ会長のクッキーを、食べられなくてすみませんでした」

 な、何を言ってるんだ、俺は! これ以上怒らせる前に早く前言の撤回を! 

「あ、いや、今のは違――」

「ふふっ」

 焦り、言葉が切れ切れになる俺を見て、トワ会長は口の端から笑みを吹きこぼした。

「別に怒ってなんかないよ。だって風邪引いてたんだよね。後からシャロンさんに聞いたの。それでも女の子三人に介抱してもらうのは、手厚すぎる気がするけど」

「いえ、それは」

「不可抗力?」

「ええと……はい」

「むー」

 ぷくりと頬を膨らましたトワ会長は、席から立ち上がって戸棚へと向かった。何かを持って俺の前までやってくる。

「はい、リィン君」

 促されるままに手を差し出すと、トワ会長は俺の手の平に、小さな包み紙をちょこんと乗せた。

「これは、あの時のクッキー?」

「ううん、新しく焼いたの。この前渡せなかったからね」

「わざわざまた作ってくれたんですか?」

「やっぱり渡せなくて残念だったし。というかリィン君からクッキーのことを言ってくれるなんて思わなかったよ」

「トワ会長のクッキーは楽しみにしていましたから」

「えへへ、ありがとう」

 にこりと微笑んで、トワ会長はティーカップを二つ用意した。

「お仕事も一段落したし、少しお茶にしようかな。リィン君もほら座って」

「ええ、ご一緒させて頂きます」

 こうして胸のつかえも取れ、俺はトワ会長のクッキーにありつくことが出来たのだった。

 味も文句なしに美味かった。

 

 淹れてくれた紅茶も飲み終わり、クッキーもあっという間になくなり、雑談の最中――

「でも風邪なんて大変だったね。倒れ込むなんてよっぽどだよ?」

 心配そうにトワ会長が言った。

「いえ、あれはラウラに突き飛ばされたので」

 ん、どうして俺はラウラに突き飛ばされたんだ?

「え、ラウラさんに? またどうして……」

 えーと、なんでだったか。ああ、そうだ。

「うっかり胸をさわってしまって――」

 言ってから気が付いた。そして全てが遅かった。

「……リィン君?」

「ち、違います。トワ会長、違うんです」

 彼女は笑顔をみせた。

「不可抗力?」

「もちろんです」

 だらだらと背に冷や汗が流れる。

 トワ会長はカップを机に置き、ふうと一息つく。どうやら分かってくれたらしい。

「トワ会長、それで」

「そんな不可抗力ないんだからーっ!」

 俺の言葉を大声でかき消し、泣き叫びながらトワ会長は生徒会室から走り去ってしまった。

「ふええ! リィン君のばかー!」

「ト、トワ会長! 待ってください」

 後を追おうと生徒会室から走り出る。

 学生会館二階で活動している文化部の面々が、部室から総出で顔を出し、訝しげな表情で俺を見つめていた。

 写真部のレックスは、固まる俺をバシャバシャとカメラに撮り、オカルト研究会のベリルは、その様子を水晶玉越しにニヤニヤとのぞいてくる

 廊下の奥では、文芸部の委員長とチェス部のマキアスが肩を並べ、ダブルで眼鏡を光らしていた。

「ふ、不可抗力なんだ」

 改めて言葉にすると、何とも空しい響きだった。

 残念だ。こういう時に限って、記憶は飛ばないらしい。

 

 ☆END☆

 

 

 

 

 

『グランローゼの薔薇物語』より

 後日談――《ネームオブローズ》

 

 とある日の放課後。

 学生会館二階、第二チェス部の部室にて、ユーシスとマキアスが机を挟み、対面して座っている。

 珍しいことに、マキアスのチェスの相手をユーシスが務めていた。

 今日は部長のステファンは来られず、対局相手を探していたマキアスは、食堂で出くわしたユーシスに望み薄ながら声をかけたのだが、たまたまヒマだったのか意外にもすんなりと応じてくれた、という流れだ。

 ちなみにマキアスが黒、ユーシスは白の駒である。

 チェスを始めて、およそ二十分。室内には早くも不穏な空気が漂い始めていた。

「君も分からず屋だな」

 黒のルークが三マス前進する。

「その言葉はそのままお前に返してやる」

 白のビショップが、右斜め前に四マス動いた。

「だから違うと何度も言っているだろう」

 黒のポーンが一マス前進。

「どう違うのか答えろと言っているのだ」

 白のキングが一マス後退。

 さっきからこんな調子である。駒を動かす度に、お互いに苦言を呈し合っている。それでチェスを指す手が鈍らないのは、双方さすがと言ったところか。

 諍いの原因は一つ。

「あいつの名前はマルマリータだ」

「ガリガリータだと何回言えば分かるんだ」

 これである。

 先日のマルガリータ騒動のことだ。二人は彼女の名前を間違って覚えてしまったのだが、ふとしたことからそれを指摘し合い、加えて指摘を認めないことに端を発する――まあ、いつもの小競り合い、意地の張り合いだった。

「やつのどこがガリガリなのだ。どう見ても丸まっているだろう。マルマリータだ」

 というユーシスに対し、

「見た目で名前を決めるんじゃない。それに、なんだか木材とかでもガリガリ食べそうじゃないか。ガリガリータだ」

 などと言って引き下がらないマキアス。

「お前こそ偏見ではないか」

「君ほどではない」

 チェスの勝負と同じく、議論は平行線をたどっていた。雰囲気的にチェスに勝った方が正しいという空気にもなりかけている。

 にわかに白熱しだす白黒の応酬。

「冷静さを欠いたな。そのポーンは討ち死にだ。マルマリータに特攻したお前のようにな」

「ふん、そのビショップに退路はないぞ。ガリガリータに追い詰められた君のようじゃないか」

「マルマリータだ!」

「ガリガリータだ!」

 二人の勢いそのままに、敵陣に攻め込む駒と駒。戦局は攻撃特化の殴り合いに発展していた。

 唐突にぬっと黒い影が二人を覆い、急に視界が暗くなった。

 訝しげに、視線をチェス盤から影が伸びてきた方へ移す。

「あらああん? 名前を呼ばれた気がしたからやってきたんだけどお?」 

 いつの間にか机の横に立っていたその人物を見るなり、マキアスとユーシスはそろって絶句した。

 驚愕、戦慄、畏怖が二人の背を走る。

「グフフ。私の名前をそんなに情熱的に呼ぶなんて……困るわああ」 

 ビリビリと腹の底に響く野太い声。窓ガラスが微震し、駒がカタカタと揺れた。

 肉々しくたたずむ巨いなる肉塊――麗しのマルガリータ嬢が二人を見下ろしている。

「なに……!?」

「う、うわ……」

 言葉にならない絶望感。あらん限りに頬を引きつらせる二人など意にも介さず、マルガリータは懐から何かを取り出した。

 真っ赤にペインティングされ、バラの意匠を施されたクイーンの駒。

「でも、二人とも間違っているわあ。教えて差し上げてよ。私の名前は――」

 彼女は口の両端をにたりと持ち上げた。扇情的に、色気たっぷりにその名を口にする。

「マルガリータよお」

 同時、チェス盤のど真ん中に振り下ろされた赤きクイーン。ずどんと衝撃が走り、他の駒はことごとく部屋中に吹き飛んだ。唯一、かろうじて盤上に残っていたのは、お互いのナイトだけである。

「ぐああ!」

「がはっ!」

 駒と同様に吹き飛び、背後の壁に叩きつけられるユーシスとマキアス。

 肺の空気が絞り出され、嗚咽交じりに顔を上げた二人が見たものは、邪悪に口元を歪めるマルガリータが、ズシズシと近付いてくる姿だった。

「んふふふう。ヴィンセント様ほどじゃないけど、よく見たらあなた達も結構いい男ねえ? 特に眼鏡のあなた」

 乙女の熱視線がマキアスを射抜いていた。

「そいつは今絶賛売り出し中だ。好きにするがいい」

「お、おい!?」

「グフフッ」

 肉厚の二枚貝から、よだれが滴った。

「俺は馬の様子を見に行かねばならん。大至急の最優先事項だ。では失礼する」

「な、今日は用事はないって言ってたじゃないか!?」

「明日の昼は俺がおごってやる」

「待て! 答えになっていないぞ!」

 ユーシスは毅然とした態度でスタスタと部屋を出る。扉を閉めると、足音は駆け足で遠ざかっていった。

 残されたマキアスとマルガリータ。

「やめろ、やめるんだ」

 マキアスの懇願など風と受け流し、マルガリータは身を屈める。

「ムーッ……」

 と溜めて、

「フォッ!」

 で跳躍。

「うわああああ!」

 そして絶叫。

 盤上の赤いクイーンが倒れ、黒いナイトに覆いかぶさる。

 彼らは恐怖と共に刻み込まれた彼女の名前を、この先二度と間違えることはなかった。

 

 ☆END☆

 

 

 

 

『A/B 恋物語』より

 後日談――《雨音のセレナーデ》

 

 その日は午後から雨だった。

「困ったわ。傘持って来なかったし……」

 本校舎、正面エントランスの中から、ブリジットは降りしきる雨と、灰色がかった景色を眺めていた。

 雨足はだんだんと強くなり、降り止む気配は一向に感じられない。

「困ったわ」

 もう一度呟き、辺りを見回してみる。吹奏楽部の練習後で、時間は十九時前。

 受付のお姉さんも含め、周りには誰もいない。遠くで用務員のガイラーが、各教室や窓の施錠確認に回っているくらいだ。

 急な雨だったので、傘を持っていた吹奏楽部の仲間は一人としておらず、エリオットとミントも先ほど、ずぶ濡れを承知でそれぞれの寮に走って帰っていった。

「仕方ないか。……うん」

 ブリジットも覚悟を決めた。正門を出て坂を下り切れば、貴族生徒専用の第一学生寮はすぐだ。もっともこの雨では寮までの距離など大した問題ではない。十秒も外に出れば、あっという間に濡れネズミである。

 息を吸って、

「えいっ」

 掛け声と一緒に、外に飛び出ようとした瞬間、

「ブリジット?」

 背後から名前を呼ばれて、ブリジットは足を止めた。

「あ、アラン」

 振り返ると、いつの間にかアランが立っていた。相変わらずの真っ直ぐな眼差しで、ブリジットを見返している。

「アランも今帰り?」

「さっき部活が終わってさ。ブリジットもか?」

「ええ、でもこの雨だから困ってたの。フェンシング部の人達は大丈夫なの?」

「ロギンス先輩とフリーデル部長は濡れながら帰ったよ。パトリックのやつは執事の人に傘持って来てもらってたな」

「ああ、セレスタンさんね」

 面白くなさそうに、アランは肯定した。

「あいつも濡れて帰ったらいいのにな」

「また、そんなこと言って。でもアランも傘持ってるじゃない」

 ブリジットの視線が、アランが持っていた黒い傘に移る。

「教室に置き傘してたの思い出して取りに行ってたんだ」

「そうなんだ。じゃあすぐ帰れるね」

「ああ」

 じっとアランを見つめるブリジット。

「………」

「………」

 しばしの沈黙。ややあって、

「その……入っていくか、一緒に。俺の傘」

「うん、正解」

 にこりと微笑んだブリジットは、アランの隣に移動した。

「しっかりエスコートしてね」

「すぐそこまでだろ」

 開いた傘の下に二人で収まり、アランとブリジットは外に歩き出す。大粒の雨が傘を叩く音だけが、妙に大きく聞こえた。

「すごい雨だね」

「そうだな」

 正門を抜け、長い坂を下りる途中、ブリジットは気が付いた。

「ちょっとアラン! あなたの体、半分傘の外に出てるじゃない!」

「い……いや、そんなことないって」

「そんなことないことないわよ。肩とか濡れてるじゃない!」

 逆にブリジットはほとんど濡れていなかった。

「えーと、ほら。ブリジットの制服は白だろ。汚れたら目立つし、その点俺は緑だから――」

「アランのばか」

 怒ったような一声と一緒に、ブリジットはアランの顔を見た。

 とっさに目を逸らしながら、アランは言う。

「そこまで大きな傘じゃないんだし仕方ないだろ」

「だったらこれでいいじゃない」

 言うが早いか、ブリジットはアランを傘の中に引き寄せ、自分もさらに半歩中心に寄る。

「ばっ……!」

「これで二人とも濡れないわ」

 小さな傘の下、二人はほぼ密着する形になった。柔らかな香水の匂いが、アランの鼻先をくすぐった。

 二人は無言で歩き続ける。どこかその歩調は緩やかだった。

 しかし、どんなにゆっくり歩いても必ず目的地には到達する。やがて下り坂は終わり、分かれ道のある開けた場所に出た。

 右の道に入れば、貴族生徒の第一学生寮。左の道に入れば、平民生徒の第二学生寮。ここでお別れである。

「じゃあ、気をつけてな」

「うん、傘ありがとう」 

 別れの言葉を口にするものの、二人の足は中々動かない。

「また明日学院でな」

「そうね」

 まだ動かない。

「………」

「………」

 少し身じろぎしてから、不意にブリジットが言った。

「ねえ、私お腹が空いたわ。アランは?」

「練習後だし、そりゃ減ってるけど」

 雨音が辺りに響く中、ブリジットは静かに言葉を続けた。

「ね、夕ご飯《キルシェ》で一緒に食べない?」

「ああ、いいかもな」

 ブリジットは頬を緩め、アランは照れたようにそっぽを向いた。

 ようやく二人の足が動く。

 右の道でも、左の道でもなく、アランとブリジットは真ん中の道を歩いていった。

 

 ☆END☆

 

 

 

 

『ちびっこトラップ』より

 おまけ――《それでも僕らは》

 

 それは不幸な事故だった。不遇のアクシデントだった。

 あの日、なぜか彼はモニカと戦う羽目になり、奮戦の甲斐なく敗北した。

 そして、意識を失って次に目を醒ました時、同級生であるコレットの隣に半裸で寝かされていた。

 半裸と言うのも、水泳部用の水着である。元々アノール川で水練をするつもりだったのだ。別におかしいことではない。しかしその事情がコレットに伝わることはなかった。

 盛大に勘違いされた上、彼は思い切り石で殴打され、再び地に沈められることとなる。

 女子の情報ネットワークの伝達速度は、導力式のそれよりも早かった。次の日登校した彼を待っていたのは、同じⅣ組の女子達が向けてくる冷ややかな視線と、“ハッスルしたカサギン”などという不名誉な称号であった。

 誤解を解こうにも、あからさまに警戒されていてコレットに話しかけることさえできず、あれから十日以上経って尚、未だに状況は改善されていない。

 そして今現在、彼――カスパルはまたしても危うい局面に立たされている。

 他に誰もいないⅣ組の教室で、コレットと二人きりだった。

「………あの」

「………なに」

 淡白で短い応酬は、二人の心の距離そのものだ。

 彼は今日、日直である。黒板消しや教台拭きなどをしなくてはならないから、いつもより早く登校したのだ。

(なんでコレットしかいないんだ……?)

 そこまで早く来たわけではない。コレットだけしかいないことに違和感があった。

 だが誰もいないというこの状況は、彼にとって好機でもあった。

 弁明と釈明をするまたとない機会。そう思った時には口を開いていた。

「聞いてくれ、コレット。この間のことは誤解なんだ」

「何が誤解よ! 私、いまだに半裸のカスパルに追いかけられる夢を見て、うなされて夜中に目を覚ますんだから!」

「な、何だよそれ」

 他にも空を泳ぐカスパル、冷蔵庫の中にカスパル、まな板の上のカスパル、果ては蛇口をひねればカスパルなど、様々なバリエーションがあったと言う。コレットにとっては悪夢以外の何者でもない。ちなみに登場する彼は、すべて半裸だったらしい。

 カスパルが一歩前に出ると、コレットは一歩後ろに下がった。露骨に警戒されている。一定に保たれた距離のまま、カスパルは彼女の誤解を解こうと試みた。

「あの時のことは悪かったと思ってる。だけどわざとじゃないし他意もなかったんだよ」

「だ、だって。あんな恰好でいるなんておかしいじゃない」

「あの時は先輩に泳ぎを教えてもらうつもりだったからさ。水泳部だし水着でいたっておかしくないだろ」

「え……水着?」

 きょとんとして、コレットはカスパルを見返した。

 その様子を見て理解する。彼女はあの時の自分の恰好を、パンツ一丁だと思い込んでいたのだ。ひどく狼狽していたし、こちらを直視できる状況でもなかったのだろう。なるほど、それは変態扱いされるわけだ。

 だがそうと分かれば、あとは事情を伝えるだけでいい。

「ああ、アノール川で泳ぐつもりだったんだけど、同じ部活のモニカに邪魔されて、結局川には入れずじまいで。その上、不意打ちを食らって意識も昏倒して、気付いたらあの場所に寝かされてたんだ」 

 不意打ちではなく、堂々と対面してからの勝負。昏倒ではなく、完膚なきまでの気絶。なのだが、ありのままを伝えるのはさすがにちょっと恰好悪い。思春期男子の些細な見得だった。

 それはともかく。

「え、うそ……? だ、だったら私カスパルにひどいこと――」

 誤解が解けかけたまさにその時、教室の扉がガラリと開いた。

『おはよー』

 と同じ声音が重なって響く。戸口には揺れる薄ピンク色の髪が二つ――双子姉妹のリンデとヴィヴィだった。同じ顔をしているが、三つ編みを二つ括っているのが姉のリンデで、ストレートが妹のヴィヴィだ。髪以外で見分けるとしたら、ヴィヴィがいつも浮かべているいたずらっぽい笑みくらいか。

 そんなヴィヴィは、教室の中のコレットとカスパルを見るなり、その笑みをさらに濃いものにした。

「あれー? カスパル、またコレットに何かしようとしてるの?」

 にやっと口の端を緩めるヴィヴィ。せっかく収まりそうだった事態を混ぜっ返そうとしている。悪意ではない。単純に状況を面白そうな方に転がすつもりなのだ。

「い、いや!」

「ヴィヴィ、お前な!」

 例の“ハッスルしたカサギン”を命名し、その上、拡散させたのは他でもない彼女だったりする。

 トラウマが戻って来るコレット。焦るカスパル。「もう、そういうこと言うのダメだから」とヴィヴィをたしなめるリンデ。どこ吹く風で「んふふ~」とにやつくヴィヴィ。

「違うんだ、コレット! 俺は本当に」

「来ないで!」

 たたっと、コレットは背後の窓際まで後退してしまった。一度縮みかけた心の距離が、再び遠ざかっていく。

「今日はやけに騒がしいな」

 再び教室の扉が開く。

 朝一で眠たげな表情ではあったが、芯の強そうな瞳は変わらない。先の四人と同じく、幸運にもトラップに引っ掛からず、そしてその存在にも気付かずにⅣ組の教室に辿り着いた一人――アランである。

 自分の席にカバンを置いたアランは、妙な距離感で静止している四人を見た。

「……何をやってるんだ?」

「ア、アランか。助けてくれ」

 カスパルの救援を断ち切るように、ヴィヴィが言う。

「聞いてよアラン。カスパルったらコレットと二人きりなのをいいことに、黒い欲望を爆発させようとしていたのよ。私達が一歩遅れていたら、彼女は肉食カサギンの餌食になっていたわ。んふふ、間違いないわ」

「黒い欲望が何の事かはわからないが、カスパルはそんな奴じゃないぞ」

「アラン……!」

 お前と同じクラスでよかった。そう思うカスパルだったが、アラン一人が味方になっても、状況は好転しない。

 味方と言ってもアランは状況を飲み込んでいないし、ヴィヴィは虎視眈々と次なる混沌への運びを模索しているし、リンデは軽く注意こそするものの、あまり踏み込んでは来ないし、肝心のコレットは自分への疑いの目を強めている。

 そしてその四人の中心で、どこを向けばいいのか分からず、カスパルはただ視線を揺らがせる。

 ここに偶然の産物が生まれた。各々の立ち位置である。それをある物に例えるなら、

 

 奥窓付近に立つコレット――エレボニア帝国。

 教室斜め後ろの机に腰掛けるアラン――リベール王国。

 入口前部ドア近くにいるリンデ――レミフェリア公国。

 後部ドア寄りにいるヴィヴィ――カルバード共和国。

 そしてその中心にいるカスパル――クロスベル自治州。

 

 西ゼムリア大陸における大国の位置である。

 さらにその心境は、歴史の転換点、西ゼムリア通商会議の縮図とも言えた。

「でも、朝に二人ってなんだか……ねえ? カスパルもずいぶん息荒かったし」

 小さくせせら笑うカルバードは、腹の底で次の手を思案している。

「本当は何考えてるのよ、カスパル。……許せない」

 エレボニアが疑惑に満ちた声を発する。だんだんと声に怒りが乗ってきていた。

「ちょっとヴィヴィ、コレットも落ち着いてよ」

 なだめ付かせるレミフェリアだが、強い介入は行わない。

「クラス同士で仲違いしてどうするんだ。まずは落ち着いて話合えよ」

 リベールが不戦条約を掲げる。しかし状況の全てを把握していない為、明確な打開案が出せない。

「違うんだ、俺は。ただ泳ごうとしていただけで、何度もそう言って――」

 追い詰められるクロスベル。

 不意に教室に備え付けてある放送用のスピーカーにノイズが流れた。

 聞こえてくるのは息も絶え絶えな、かすれた音声。

『ぐっ……二年のアームブラストだ。端的に今のっ……状況と打開策だけ伝えるっ……!』

 ややあって、終始苦しそうな声のまま放送は終了した。何でも白いカードを見つけたら、Ⅶ組の誰かに渡して欲しいとのことだ。

 またⅦ組が何かやったのかの訝しむ傍ら、ここに他のクラスメート達が姿を現さない理由を、カスパルはおぼろげながら理解した。

 “今の状況と打開策”を伝えてくれるなら、むしろ自分のこの状況を打開して欲しい。

 そんなことを考えるカスパルの目に、何かが留まった。

「あれって……」 、

 教卓の端に小さなフックがかけてあって、そこに白いカードがぶら下がっている。これが先ほど放送で言っていたカードなのだろうか。放送はこの場の全員が聞いていた。あのカードをⅦ組に届けてくると言えば、ひとまずはこの場を抜けられるかもしれない。

 カスパルは動いた。

 これ以上ここで話していても、ヴィヴィがいる以上、状況が混ぜ繰り返される。一度全員が落ち着く必要があった。その白いカードはその為の口実にうってつけだ。

 教卓に近付き、カードを取る。

「うわっ!?」

 急に足元が滑った。床が濡れているようだったがこれは水ではない。ドロドロしてやけに滑る液体。

 それの正体に思考を巡らすよりも早く、カスパルの体は大きくバランスを崩していた。体勢を戻そうとはするが、余計につるりと滑ってしまい、前のめりにこけそうになる。

「きゃ!?」

 体が向かう先にいたのはコレットだった。絶対に突っ込んではいけない。今度こそ誤解という理由が通用しなくなる。

 踏ん張るカスパル。その制服の前側のボタンに、教卓横のフックが引っ掛かっていた。

 ボタンが耐え切れなくなり、ブチブチと音を立てて止め糸がちぎれる。制服が勢いよくはだけて、水泳で鍛えた肉体があらわになった。ツルツルとさらに滑る両足。咄嗟に手をかけられる場所を探したが見つからず、激しく動き回る両腕。

 アラン、ヴィヴィ、リンデは見た。ハッスルしたカサギンが、コレットに襲いかかる様を。

「い、いやああ!!」

 悲鳴を上げながら、コレットは制服の内ポケットから何かを取り出した。

 黒みがかった大きな石。カスパルの特攻をかわしつつ、その額目掛けて石のフックカウンターを見舞う。

 勢いづくクロスベルに、エレボニアの列車砲が撃ち込まれた。

 やたらと硬いその一撃。メコッと響く痛々しい音。そのまま派手に窓を突き破って、カスパルはⅣ組の教室から消えていく。

 砕け散る細かなガラス片の中に、一滴(ひとしずく)の涙が煌めいた。

 

 ☆END☆

 

 

 

 

『ちびっこトラップ』より

 おまけ――《老獅子へ捧ぐレクイエム》

 

「ぬううありゃああ!」

 豪快な掛け声と共に、ヴァンダイクは力任せに椅子から立ち上がった。

 かような接着剤など何するものぞ。凄まじい気勢に、机上の花瓶がビリビリと振動し、花びらの何枚が弾け散った。

 やはり花瓶を尿器にするなど出来ない。出来るわけがない。自分の物ならいざ知らず、これはベアトリクスからの贈り物である。齢七十を越えても、帝国男子の意地は衰えていない。女性の厚意を無下にすることなどあってはならないのだ。

 尊厳は守るべきものだが、義に殉じる事こそが人の道。

 今、ヴァンダイクの背中には、雄々しい筆書きで『漢』の文字が浮かび上がっている――気がしないでもない。

「ぬふうっ!? いかんわい!」

 こうしてはいられない。早くトイレへ行かねば。

 急ぎ足で廊下に出て、まずその惨状に愕然とした。

 愛すべき学院生達が壁や床に貼り付けられ、不気味なオブジェと化しているではないか。「た、助けて……」や「いっそ楽にしてくれ」や「おかあさーん!」だとか、悲痛な叫びがあちらこちらから飛び交っている。

「必ず戻る。それまでは耐えるのじゃ」

 助けたいのは山々。しかし、諸々の限界が近い。先に用を済ましてからでないと、救出作業さえ満足に行えそうになかった。

 ヴァンダイクは走る。

 剣林弾雨の中を駆け抜けたこともあった。斃れた軍友達の背の上を跨いだこともあった。それは辛いことだった。

 だが、教え子達の差し出した手を握れないことは、彼にとってそれ以上に辛いことだった。

 そして臨界間際の膀胱も、それと同じくらい辛かった。

 その二つを同列で比較対象にしていいのかはともかく、鍛え上げられた鉄の肉体でも、研ぎ澄まされた鋼の心でも、こればかりは耐え切れない。

「ぬうう!」

 教官室を過ぎ、保健室を越える。

 例えるなら、それは決壊寸前のダム。刻一刻とその時が近づいてくる。死神の足音が次第に大きくなっていくのが分かる。

 踵を浮かし、背をピンと張った。重心を丹田より上へ。カチャカチャとベルトを緩めながら、バレリーナのように爪先立ちで長廊下を直進するご老体。

「もう少し……!」

 見えた。天上の門(トイレ)だ。女神が手招きしている。

 ――パシャ。

 焦燥の一歩を踏み出した時、靴裏でそんな音がした。何かを踏んだという感覚がある。足元に視線を落とすと、靴の横から白い液体がはみ出ていた。

「なんじゃ?」

 よく見ると、生卵くらいの大きさの白い球が、無造作に辺りに転がっている。それもかなりの量だ。どうやらこれを踏んでしまったらしいと理解したのも一瞬、ヴァンダイクは足が床から動かないことに気が付いた。

 初めて見る物体だったが、理屈よりも早く直感が告げる。

 これは接着剤だ。

 衝撃を受けて割れると中身がぶちまかれ、それが空気に触れて凝固するという仕組みか。貼り付けになった生徒達は、この接着玉の餌食になったのだろう。

「ぬうああああ!」

 咆哮が窓を震わせた。

 接着剤? だから何だと言うのか。それがどれだけ強固であろうと、足を止める理由になどならない。

 床に張り付いた靴はその場に捨て置き、猛々しい一歩を踏み出す。

 ――パシャ。また踏んだ。

 次は靴下が接着する。構うものかと靴下を引きちぎりながら、さらに力任せの一歩を踏み出す。

 ――パシャ。また踏んだ。

 とうとう素足だ。何かを脱ぎ捨てることは出来なくなった。

 ならば廊下を破砕してでも前進あるのみ。

「かああああっ!!」

 闘気が立ち昇り、両下肢に力が宿る。足元がビキビキとひび割れ、床に稲妻のごとき亀裂を走らせた。

 修羅一歩手前。白髪の鬼がそこにいた。

「朝から騒々しいですね。あら、学院長?」

 ガラリと保健室のドアが開き、ベアトリクスが顔を出す。

「おお、廊下に出てきてはいかんぞ。貴女まで巻き添えに」

 振り返ることが出来ないので、ヴァンダイクは背中越しに言った。

「………」

 ベアトリクスからの応答はない。

「どうしたのかね。まさか貴女も何かの罠に?」

「……これが罠というのなら。まさにそうでしょうね」

 ひどく冷ややかな声。ヴァンダイクは冷気を感じた。いや、比喩ではない。実際に冷えるのだ。

 尻がスースーする。

「な、なんと!」

 後ろ手で触って理解した。無い。ズボンが尻の部分だけ破れている。ついでに下着もだ。

 なぜ、と考える必要もない。椅子だ。立ち上がった際にズボンの一部を持って行かれたのだ。接着剤が染み込んでいたのだろう。パンツも一緒にだ。

「これは違うのじゃよ」

 早くトイレに駆け込みたい。膀胱も理性も限界。しかし彼は森林を抜ける薫風のように、静かで穏やかな声を発した。焦ればそれだけ怪しい目で見られる。窮地こそ平静であれ。これぞ年月を重ねた歳の成せる業。

 筋骨逞しい桃尻が、キュッと音を立てて引き締まった。

「ふふ」

 微笑を残して、ベアトリクスは保健室へと引き返す。扉がピシャリと閉められた。

「ふう。後で誤解を解かねばならんな」

 再び足元の床を砕かんと力を入れた時、保健室から『カチリ』という音が聞こえた。

 カチリ、カチリ、カチャリと何かが手際よく組み上げられていく音。

 これは……ライフルだ。

「待つのじゃ。話し合う余地は残っておる」

 それでも落ち着いた声音で告げる。

 音が止まった。安堵して冷や汗を拭う。しかし次の瞬間、

 ジャッコン!

 勢いのいいポンプアクションの音が響き渡った。

 そして『コツ……コツ』とゆっくり廊下に戻って来る足音。死人返しが自分を死人にしようと迫ってくる。

 トイレまであと少し。しかし足は動かない。保健室の扉が開く。

 ――いい人生だった。

 全てを悟り、全てを受け止め、彼は安らかに笑う。

 応じるように女神が微笑み、天上の門が開き、眩い光が身を包み込み――ヴァンダイクの意識は遠い場所へと旅立っていった。

 

 ☆END☆

 

 

 

 

 

 




カサギーン! おじーちゃーん!


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虹の軌跡 人物ノート

虹の軌跡内の人物ノートです。お暇つぶしにどうぞ。
※ 『虹の軌跡Ⅱ ~Prism of 《ARCUS》』にも引き継がれる内容です。


★リィン・シュバルツァー★

 

①『重心』……サラ曰く中心ではなく重心。その言葉の通り、日々の出来事は彼が起点になりつつも中心ではなかった。しかし不遇なことには大体巻き込まれる。

 

②『不可抗力』……己の意思とは無関係に、あれやこれやと引き起こす。女性陣を被害に合わすことが多いが、それはそれできっちりと報復される。

 

③『記憶喪失』……不可抗力の後の女子達からの報復や、ショッキングな出来事に直面することでこれに至る。失って取り戻し、また失うの悪循環。精神の均衡を保つ防衛反応のようなものらしい。

 

 

 

☆アリサ・ラインフォルト☆

 

①『マネキン』……マルガリータから逃れる為の策。即興で取ったお嬢様ポージングはフェリスと正反対だった。

 

②『じぇらしー』……リィンが他の女性の話をすると、なぜか苛立つ。責めて、攻めて、彼を追い詰める。

 

③『マルガリータ戦』……フェリスの為に、女性陣を率いて奮戦した。体育大会含め、計4回交戦しているが、完全に撃退するには至らなかった。

 

④『乙女の嗜み』……エマの部屋にあった禁忌の書の一端を見てしまう。危うくその道に踏み込みかけたが、エマに全力をもって阻止された。

 

 

 

★エリオット・クレイグ★

 

①『猛将』……たぎる男の代名詞。ミントとケインズの勘違いから、この称号を冠されてしまった。

 

②『疑惑』……ユミルを訪れた際、不幸な勘違いが重なって、Ⅶ組の仲間からも猛将疑惑をかけられてしまう。一応誤解は解けたが、女子達はまだ少し警戒しているようだ。

 

③『伝播』……叫び回るミントと、間の悪いケインズの掛け合いによって、猛将の名はトリスタ中に拡がりつつある。またミスティの手によって『猛将と愉快な吹奏楽部』が、アーベントタイムでも紹介された。

 

④『反撃』……体育大会での《M》との戦闘時、ケインズ諸共にセブンラプソディを食らわし、図らずも引導を渡した。

 

 

 

☆ラウラ・S・アルゼイド☆

 

①『特訓』……エマから借りた本に感化され、文化系男子のエリオットとガイウスを強制特訓に付き合わせた。その後、協力を頼んだポーラとは友人となる。

 

②『みっしぃ』……ブリジットとアランのデートを影ながら護衛する為の変装。着ぐるみはミヒュトから30000ミラで買い取った。

 

③『淡い想い』……密かに芽生えた小さな気持ち。ラウラ自身はまだその想いに気付いておらず、友人達から様々なフォローを受ける。

 

④『料理』……何かしらを心得た友人達に促されるまま、次々と攻撃料理を量産する。調理場にラウラが立つと男子達は部屋に退避するが、リィンだけは呼び出され、毎回試食をする羽目になる。

 

 

 

★マキアス・レーグニッツ★

 

①『お節介な眼鏡』……アランの男気をブリジットに見せる為に色々と策を弄するが、らっしぃ(ラウラみっしぃ)により、ことごとく失敗に終わった。

 

②『やさしい眼鏡』……魔獣にさえ手を差し伸べる、情に厚い男。そんな彼に魔獣達も心を開いた。

 

③『割れる眼鏡』……事ある毎に割れる。何とか防衛しようとするが、宿命付けられているかのように割れる。

 

④『割れない眼鏡』……体育大会では執拗に眼鏡を狙う敵から、ついに眼鏡を守り切った。燦然と輝く眼鏡は何よりも眩しい。

 

 

 

★ユーシス・アルバレア★

 

①『ユーシス先生』……日曜学校の一日先生をやって以来、子供達からそう呼ばれている。からかい混じりでフィーとミリアムが呼ぶと、怖い顔で睨みつける。

 

②『お邪魔虫』……悪気はないが、リィンとラウラの間に割って入る。機嫌の悪そうなラウラの視線には気付かず、いつもの不遜な態度を貫き通す。

 

③『ゆっしぃ』……みっしぃの着ぐるみをまとって子供たちの相手をした。鳴き声は『ゆししっ!』

 

④『天然貴族』……赤面必死の台詞を意図せず、平然と言い放つ。言った本人にその自覚はないが、ロジーヌは盛大に照れる。

 

 

 

☆エマ・ミルスティン☆

 

①『用務員との因縁』……些細な勘違いから、ガイラーに追われ続けることとなる。彼女のトラブルはここから始まった。

 

②『偽らざる心』……何かを隠していても、心まで騙してはいけないと気付いた。それを悟らせたのはガイラーだが、実際は違う意味合いだったようだ。

 

③『決意』……屋台勝負の折、ガイラーの魔手がⅦ組の男子達にも迫りつつあることを感じ、クラスの安寧を守る委員長として彼と戦うことを決意した。

 

④『お母さん』……フィーとミリアムの睡眠、勉強の管理を一手に担う。生活指導に入る際には、丸眼鏡がきらりと光るらしい。

 

 

 

☆フィー・クラウゼル☆

 

①『因縁浅からず』……お互い認知していないが、ケネスとの出会いは十年前にさかのぼる。幼いフィーはレイクロード兄弟をまとめて落とし穴にはめていた。

 

②『仲間想い』……サラとの銃撃特訓の際、マキアスを囮に使う案を承諾したクロウを諌めようとした。訓練であっても仲間を大事にしている。

 

③『トラップ妖精』……ミリアムと学院中に罠を仕掛け、大量の犠牲者を生み出した。学院生達の悲鳴はトリスタ駅まで届いていたらしい。

 

④『Sクラフト』……サディスティック・クラフト。発動毎に大抵ケネスを虐げるが、当のフィーにそのつもりはない。

 

 

 

★ガイウス・ウォーゼル★

 

①『兄貴分と弟分』……迷子の兄妹をクレインの元に送り届けたことで、彼との交友関係が始まった。時々水練の指導もつけてもらっているらしい。

 

②『カラミティホーク』……追い詰められた時の緊急回避、及び状況打破として度々使用する。しかし無事に窮地を脱した試しはない。

 

③『脱衣』……胸像を彫るクララに不用意に近付くと、モデル代わりに脱がされる。引き締まったノルドボディはヴィヴィを喜ばせた。

 

④『ノルド盛り』……限界突破の超大盛り。果てしない大量のポテトサラダは、雄大なノルド高原を眼前にした時と同じく、いかに人間一人が小さなものかを教えてくれる。

 

 

 

☆ミリアム・オライオン☆

 

①『料理は楽しい』……粘土遊びをするようにひき肉をこねるので、彼女が作ったハンバーグはほとんど売り物にならなかった。ちなみにさすがのミリアムも生肉は食べないらしい。

 

②『ガーちゃんは乙女?』……ユーシスに好意を持ったり、温泉を覗かれて怒り狂うなど、アガートラムには乙女成分が多いようだ。

 

③『罠兎(トラップラビット)』……フィーと一緒に学院中に罠を仕掛け回った。更衣室のプレート張り替えは彼女の仕業で、マキアスがその被害にあった。

 

④『マルガリータとペア』……マルガリータを恐れない数少ない人物でもある。料理トーナメントでは同じチームとして出場した。

 

 

 

★クロウ・アームブラスト★

 

①『策士』……イベント事の作戦立案を担う。落ち度はないのに、なぜか裏目に出てしまうことが多い。

 

②『ガンナー三兄妹』……マキアスとフィーを率いて、サラと銃撃戦を繰り広げる。マキアスの眼鏡と引き換えに、辛くも勝利することができた。

 

③『ダメな先輩』……培った全てのスキルを総動員して、アンゼリカと共に温泉ののぞきを行う。しかし女子達に企みが露呈した結果、砕けた夢が刺さり、痛みに喘ぐこととなった。

 

④『対戦車』……マルガリータと戦う際、不敵なセリフを前口上とするも、一秒後にはあえなくはねられる。

 

 

 

★パトリック・T・ハイアームズ★

 

①『リーダー』……体育大会のメンバー集めの際、成り行きで貴族チームのリーダーとなる。仲間を率いてリィン達Ⅶ組に打ち勝つと決意した。

 

②『気になるあの娘』……フリーデル戦で彼を立ち上がらせたのは心に映ったエリゼだった。ハイアームズの名ではなく、己の誇りを剣に乗せて、渾身の一突きを繰り出した。

 

③『采配の資質』……体育大会で帝国解放戦線に対してⅦ組が行動を起こした際、その援護につくよう貴族チームに指示を出した。

 

④『届かないハンド&ハート』……差し出した手はエリゼに選んでもらえなかった。その後、彼女を守るためにもう一度駆けつけたが、サーベルだけ持って行かれてしまった。

 

 

 

☆フェリス・フロラルド☆

 

①『始めてのお買い物』……アリサとの待ち合わせの時間よりかなり早く来ていた。楽しみと緊張の中、第一声の練習をしていたが、間違ってガイウスに言ってしまった。

 

②『ミートハザード』……ヴィンセントを籠絡せんとするマルガリータに、事あるごとに追跡される。もはや肉の災害。

 

③『努力と代価』……運動神経は決して高くないが、来たる体育大会に向けて、必死でナイトハルトの特訓に食らいついた。乗り越えはしたが、あまりにハードな内容に少々トラウマを負ってしまっている。

 

④『フェリサハリケーン』……アリサとの連携技。ずっと二人で練習していたが、初お披露目は試合中ではなく、帝国解放戦線との戦闘中となった。

 

 

 

★ケネス・レイクロード★

 

①『襲来』……朝釣りしていると背後にフィーが現れて、オオザンショを強奪していった。ちらつく双銃剣は彼の脳裏に消えない恐怖を刻み付けた。

 

②『惨劇』……ガイラーにも目を付けられ、何かと餌食にされる。流れる涙が地面に染みを作り、ケネスの心を蝕んでいく。

 

③『調教』……悪意のない虐げは連日続き、やがてはそれが普通なのだとケネスは錯覚していく。

 

④『覚醒』……気付けば平穏な日常に物足りなさを感じていた。釣り上げたトラードに頬を打ち据えられた瞬間、それまであった虚実の世界は崩れ、ケネスは己の内にある真実に触れた。

 

 

 

☆ブリジット☆

 

①『ラウラと友達』……アランとのヘイムダルデートの折、尽力してくれたラウラと友人となる。みっしぃの中身がラウラということには薄々気付いていたようだ。

 

②『一つの傘の下で』……雨の日にアランと相合傘で学院を出たが、別れて寮には帰らず、一緒にご飯を食べに行った。

 

③『トランペッター』……ピアノ担当だが、最近はトランペットも吹けるようになった。主な用途は威嚇と三半規管攻撃である。

 

④『対等である為に』……体育大会では貴族チームとしてラウラと戦う。遠慮はせず、友人として互いに全力をぶつけあった。

 

 

 

☆マルガリータ・ドレスデン☆

 

①『薬品クッキー』……何らかのブツを混入させられた忌まわれたクッキー。脳内の扁桃体とA10神経に作用し、過剰なドーパミン分泌を促すことによって、対象の恋愛感情を己に誘導することができる。

 

②『赤いバラと白いバラ』……マルガリータの私室に飾られている、自分と想い人を重ねた二対のバラ。体育倉庫に匿われていたヴィンセントにムフォッと飛びついた際、赤いバラは花開き、逆に白いバラは全ての花弁を散らせた。

 

③『料理上手?』……料理コンテストで見せた意外な一面。一応まともな料理は作れるらしい。かなりの腕だが、結局はミリアムに邪魔された。

 

④『デンジャラス肉玉』……ロゼッタアローとクラウ・ソラリオンの高エネルギーを一手に受け止めるなど、その力は常軌を逸している。握力は万物を握り潰し、脚力は大地を粉砕し、咆哮は空を震わす。ちなみに彼女の事を初めてデンジャラス肉玉と呼んだのはエマだった。

 

 

 

★ヒューゴ・クライスト★

 

①『合理的』……ベッキーと販売スタイルのことで口論となり、妥協案としてリィン達にマーケティング調査を依頼した。

 

②『商魂たくましく』……全て売り切れないことは織り込み済みだった。材料費の元を取る為、打ち上げと称した在庫処分兼買取をさせることを始めから段取りしていたようだ。

 

 

 

☆モニカ☆

 

①『ガールズトーク』……ラウラを介してポーラとブリジットととも友人となって以降、学生会館の食堂に集まることが多くなった。話す内容は概ね勉強、部活のことだが、最終的にはどうしても恋愛話が多くなる。

 

②『モニカニ』……カスパルと口ゲンカした際、そんなあだ名を付けられた。闘気を高めると背後でシュラブの幻影がはさみを持ち上げる。

 

③『Sクラフト』……スイマーズ・クラフト。魚達の動きを模した格闘戦技のことで、様々なバリエーションが存在する。モニカの使用する技の名前は、なぜか甲殻類系が多い。

 

④『友情』……帝国解放戦線襲撃の時には逃げようとせず、ポーラとブリジットと一緒に一人で戦うラウラの救援に駆けつけた。

 

 

 

☆ミント☆

 

①『勘違い』……エリオットはミントの為に音楽書籍を探していたが、彼が大人の紳士本を購入していると思い込んでしまった。

 

②『同期としての理解』……エリオットを猛将だと誤解したが、それでもミントは彼を否定しなかった。受け入れ、見守ることが友人なのだと、間違った方向に理解を示す。

 

③『猛将同盟』……猛将エリオットを慕う者としてケインズとは仲がいい。愛読している小説の新刊情報などを教えてもらっているようだ。

 

④『M4オペレーション』……叔父のマカロフとメアリーの仲を進展させようと、エリオット共々に策を練ったが失敗した。

 

 

 

☆ベリル☆

 

①『太陽は天敵』……陽の光を浴びると何かが起こるらしい。何が起こるかは不明。

 

②『ベラ・ベリフェス』……彼女が使役している(らしい)守護精霊。外出も許可をもらう必要があるとのこと。

 

③『黒い青春』……レックスといい雰囲気になったが、どこにときめくポイントがあったかは、ミスティでさえも分からなかったようだ。

 

 

 

★カスパル★

 

①『カサギン』……モニカとの口ゲンカの際、そんなあだ名をつけられた。闘気を高めると背後でカサギンの幻影が背びれを立てる。

 

②『Sクラフト』……スイマーズ・クラフト。モニカより使用する技数は多いが、決定打に欠ける。

 

③『蝶のように』……足が滑って半裸のままコレットに覆いかぶさろうとしてしまう。直後に反撃を受けて失神するが、その手の動きはバタフライと酷似しており、奇しくも陸の上で新たな泳法を習得することとなった。

 

④『裸スパル』……誤解を解こうとコレットに迫るが、その度不幸なアクシデントが重なって半裸になる。ヴィヴィが『ハッスルしたカサギン』と命名した。

 

 

 

★アラン★

 

①『マキアスと親友』……ブリジットとのヘイムダルデートの一件でマキアスと友人となる。性格的な相性は元々合っていたようだ。

 

②『ピザ』……マキアスとはよく《キルシェ》で雑談をする。いつの間にか謝罪や感謝の気持ちは、ピザをおごる枚数や種類で示すようになっていた。

 

③『青春』……たまにブリジットの手作り料理を食べさせてもらっているらしい。マキアスが言及してくるが、照れるので何とかはぐらかそうとする。

 

④『魔獣と共闘』……体育大会では魔獣と共にマキアスの援護を行った。その後、正式にクロとルーダを紹介され、図らずも魔獣との付き合いが始まってしまった。

 

 

 

☆リンデ☆

 

①『興味津々』……クララの指示によりガイウスが服を脱ぐのを、顔を手で覆いながらも指の間からがっつり見る。引き締まった彼の肉体を目の当たりにし、黄色い歓声を上げた。

 

②『脱衣』……芸術という大義の下、彼女もクララに脱がされる。抵抗空しく柔肌が晒され、乱れた着衣とも相まって何とも際どい風体となる。

 

③『何で目を合わせてくれないの』……ヴィヴィのいたずらによって、ガイウスと微妙な空気になることもしばしば。

 

 

 

☆ヴィヴィ☆

 

①『状況操作』……事態を面白そうな方向に転がそうとする。悪意はないが、被害は増幅する。

 

②『楽しいことが好き』……いたずらを仕掛けるなら、自分の身を呈することもいとわない。特にリンデに扮する時は“過ぎたセクシー”を前面に押し出す。

 

③『双子のシンパシー』……合わせたわけではないが、なぜか下着の色がそろう。試着室にやってきたアンゼリカに目撃された。

 

 

 

☆コレット☆

 

①『悪夢』……半裸のカスパルが夢に現れる。冷蔵庫の中にいたり、空から降ってきたりと登場の仕方も様々で、しばらくうなされ続けた。

 

②『Sクラフト』……ストーン・クラフト。拾ったゼムリアストーンをそのまま打撃に使うシンプルな技。七耀脈の力を授かりし強力無比な一撃は、乙女の危機を幾度も打ち払った。

 

 

 

★レックス★

 

①『ベリルが気になる』……写真部とは向かいの部室なので、陰気な彼女を何かと気にしていた。

 

②『心霊写真部』……ベリルと仲が良くなり、怪しげな部活を立ち上げようとした。その後生徒会に申請しには行ったが、トワにより否決されている。

 

③『強奪されたカメラ』……体育大会の借り物のお題にカメラとあり、フリーデルに追い回される羽目になる。奪われた後でちゃんとカメラは帰ってきたが、いつの間にかデータが消されていた。

 

 

 

★ムンク★

 

①『無個性』……ラジオと前髪しか特徴がない。トラップ騒動の折、タライを頭に落とされて物言わぬ屍の一体と成り果てた。

 

 

 

☆ポーラ☆

 

①『ポーラ様』……スイッチが入ると瞳が嗜虐の色に染まり、女王様気質が溢れ出す。『跪いて馬におなり』などの素敵な言葉を普通に言ってしまう。

 

②『AorB』……精神を追い詰めるような二択を度々ラウラに強要する。その実は彼女の為を想っての事だったりする。

 

③『鞭とムチ』……馬用の鞭と女王様仕様のムチを使い分ける。強制特訓に付き合った際は、高笑いを上げながらエリオットとガイウスを追い回した。

 

④『友達思い』……ラウラが作ったフィッシュフライを見て涙ぐんだり、それを部屋に飾るなどと言ったりするなど、友情には厚い性格のようだ。

 

 

 

☆ベッキー☆

 

①『商いの話術』……半ば押し切る形で、Ⅶ組を売上調査に協力させた。相手を畳みかけるように話しながらも、筋道を立てて論破するのは、商人としての必須スキルだろう。

 

②『本戦は学院祭』……Ⅶ組同士の売り上げ勝負は引き分けとなったが、雌雄を決するのはやはり学院祭となりそうだ。顧客ニーズを知る上で、この依頼は思いのほか参考になったらしい。

 

 

 

☆ロジーヌ☆

 

①『クッキーが焼けました』……泣く子も笑う絶品クッキー。何気にユーシスの胃袋も掴んでいる。間違っても妙な薬品は入っていない。

 

②『お願いがあるのです』……慣れた相手には明け透けに物を言う。意外に物怖じしないらしい。

 

③『ユーシスさん……』……一日教師を頼んで以来、ユーシスと話す機会が増えた。ユーシスも教会に足を運ぶ回数が増えたので、最近一緒にいる時間が多い。

 

④『人質には私がなります』……カイ達を人質にしようとする《N》に自分から願い出た。控え目だが、気丈で芯の強い性格のようだ。

 

 

 

☆アンゼリカ・ログナー☆

 

①『共謀』……クロウと組んで温泉のぞきを敢行した。本人が言うには、学院生活を締めくくるにふさわしい達成感が欲しかったとのこと。

 

②『リビドーによる強化』……揺るがない目的意識が彼女のスペックを限界以上に引き出すことで、複雑な暗号表を五分で記憶した。

 

③『ゼロ・インパクト』……凹凸がゼロのミリアムと変動がゼロのトワをそう例えた。その後、本物のゼロ・インパクトはクロウの腹に炸裂した。

 

④『本当の心情』……学院を休学し、アンゼリカはルーレへと帰っていった。温泉騒動のことは『一緒に馬鹿をやる相棒が欲しかった』のが案外本音なのかもしれない。

 

 

 

★ヴィンセント・フロラルド★

 

①『ビームが直撃』……アガートラムのビームによく巻き込まれる。消し炭になっても復活するのは身代わりマペットを装備しているからである。(本来はマルガリータ用)

 

②『妹思い』……罠にかかったフェリスを誰よりも早く助けに行ったのはヴィンセントだった。愛する妹の為なら危険もいとわない。

 

③『餌』……体育大会ではマルガリータを制御する為に生贄にされた。愛する妹の為にがんばったが、その案を出したのは愛する妹だった。

 

 

 

☆フリーデル☆

 

①『微笑みの爆弾』……笑顔を浮かべながら、どぎついノルマを課してくる。

 

②『スキルよりもハート』……剣は届かずとも心は届いた。それはパトリック達に力を貸すに値する理由だった。

 

③『最強のバランス型』……その実力は学院内屈指。高いレベルでまとまったオールラウンダータイプで、試合中はⅦ組勢を苦戦させた。

 

 

 

★ランベルト・マッハ★

 

①『マッハ号GO!』……マッハ号のテーマソング。これを口ずさみながらランベルトは馬に乗る。本気を出したマッハ号は時速555セルジュに到達するとかしないとか。

 

 

 

☆テレジア・カロライン☆

 

①『優しい先輩』……妙な技を練習するフェリスとアリサを一応見守る。どんな形でも二人の仲が良くなっていくのは嬉しいようだ。

 

 

 

☆エーデル☆

 

①『育むこと』……当たり前に花は咲くものではなく、手間をかける過程やそこに込める気持ちが大切なのだとフィーに教えた。

 

②『おっとり』……フィーに頼んだはずの花の苗をマキアスが持って来ても、特に気にせずに受け取った。

 

③『大根』……二度に渡って、大根をずむっとケネスの尻に突き刺す。太く逞ましい一撃は、彼の覚醒を早めるのに一役かった。

 

 

 

★ジョルジュ・ノーム★

 

①『導力録音機』……クロウに頼まれて小型の機器を作り上げたが、それがⅦ組男子達の惨劇に繋がるとは思いもしていなかった。

 

②『君の為なら』……アンゼリカが学院を去ってから意欲が薄れていたが、フィー達の頼みを受けて、物作りの意義と情熱を思い出した。その結果、学院中に大量の罠がばらまかれることとなった。

 

③『フィクサー?』……フィーとミリアムが協力者としてジョルジュの名前を出したことで、トラップ騒動の黒幕として吊るし上げられる。騒動の後、訳も分からないままに各所から割と本気で怒られた。

 

④『技術部の真骨頂』……学院に仕掛けられた爆弾を10分程度で解体した。

 

 

 

☆トワ・ハーシェル☆

 

①『幽霊は怖いけど』……幽霊騒動の期間、二週間も恐怖を我慢して生徒会室で仕事を行った。トイレやシャワーでさえもアンゼリカに付き添ってもらっていたが、アンゼリカにとっては望むところだったらしい。

 

②『生徒会長は見た』……リィンの不可抗力を度々目撃してしまう。その都度泣きながら逃走する。

 

③『リィン君のばかー!』……リィンの不可抗力を度々その身に受けてしまう。その都度泣きながら逃走する。

 

④『陣頭指揮』……帝国解放戦線にグラウンドが包囲された際、即座にリィン達に指示を出した。その後、行動開始の合図を自らの手で下し、反撃の起点となった。

 

 

 

★ステファン★

 

①『月下の誓い』……自軍のルークはキングを守るといつの間にか誓っていたらしい。ちなみにクイーンはこの時敵軍に寝返っていたというが、常人にはよくわからない世界感である。

 

②『盤上は人生』……感情移入し過ぎて、劣勢時は心肺停止一歩手前まで追い詰められる。過呼吸状態になり、白目をむきながらも、震える手で駒を進める様はさながら修羅のようだ。

 

③『チェックメイト』……ブリザリーガパスタによって幻覚の世界におくられる。そこで巨大なチェスの駒に襲われ、危うく精神崩壊するところだった。

 

 

 

☆クララ☆

 

①『脱げ』……作品の為に目についた部員を脱がす。ガイウスとリンデがよく被害に合う。ガイウスは自分から脱ぐが、リンデは抵抗したあげくに脱がされることが多い。

 

②『芸術とは』……エマとフィーの作った錬金茶碗蒸しを食べて石化していく最中、自分自身が作品になることこそ、芸術における至高の境地と理解した。

 

 

 

★ハイベル★

 

①『適切に処理』……エリオットが買って来た(と思っている)大人の紳士本を、有害図書として直々に処分すると言った。ミントに阻まれたが、本当の思惑は誰にも分からない。

 

②『君の手は何の為にあるんだ』……猛将疑惑のかかるエリオットに言った言葉。美しい音楽を奏でるのか、美しく袋とじを開けるのかとエリオットに責め寄った。なんとなく彼も猛将の香りがする。

 

③『奏でるは肉の焼ける音』……クッキングフェスティバルでは、ラウラ達が作った出来たての野菜炒めを頭から被り、保健室に搬送されることとなった。

 

★ロギンス★

 

①『瞬殺』……稽古に身が入らないパトリックとアランに喝を入れるが、二人に対するフリーデルのお仕置きになぜか巻き込まれ、あっという間に練武場に転がる可哀想な一人になった。

 

 

 

☆エミリー☆

 

①『エミジアデストロイ』……フェリサハリケーンを羨ましく思い、テレジアに協力技の特訓を持ちかけた。しかし応じてもらえず、あえなくお蔵入りとなった。

 

②『命尽きかけても』……ワサビとカラシ入りのケーキを食べさせられ昏倒状態に陥る。保健室で生死の境をさまよっていた際、最後にもう一度テレジアとラクロスがしたいと言った。

 

 

 

★クレイン★

 

①『兄貴』……弟妹が自分を訪ねてくる日は、朝から機嫌がよかった。

 

②『苦学生なんだぜ』……ハンバーグを買った後で、ラウラの揚げたフィッシュフライを二個も買わされた。かわいい後輩だから仕方がない。

 

③『Sクラフト』……スイマーズ・クラフト。『夕焼けに映えるギガンソーディの背びれ』という大技を習得している。だが技名が長すぎた為か、たやすくラウラみっしぃに打ち破られた。

 

④『振るう拳は誰が為に』……筋の通らない解放戦線メンバーの言葉に、全霊の一撃をもって応えた。

 

 

 

★ニコラス★

 

①『気になっただけなのに……』……調理室に置いたままのラウラの煉獄弁当を開けてしまい、尋常ではない被害を受けた。

 

②『何が起きたの……』……トラップ騒動の折、調理室に仕掛けられた大量のトマトの砲撃を全方位から受け、血まみれのようになって床に転がっていた。

 

③『大好きな料理が……』……クッキングフェスティバルを企画したのは彼だった。料理の楽しさを広めたいという善意の企画だったが、最終的に煉獄の門まで開く大惨事となった。

 

 

 

☆ドロテ☆

 

①『ストーリーテラー』……列車を止めたことで駅員に咎められるが、お涙頂戴の嘘設定を並べ立て、その場を脱することに成功した。

 

②『文芸部の闇』……文芸部の男子と女子が袂を分かつことになった八年前に起きた出来事。詳細は代々の部長が口伝によって引き継がれる。怨嗟の螺旋とか紡がれる宿命とか、大体そんな感じである。

 

③『実は武闘派』……襲い来る男子文芸部をフォーク一本で次々に撃退した。屠られた一人が言うには、「闘気が獅子の形をしている」らしい。

 

④『あなたはもしかして』……ガイラーが同志《G》ではないかと勘付いたが、決定的な証拠は掴んでいない。以降、エマを追うガイラーを追うドロテという変な図式が出来上がる。

 

 

 

 

☆サラ・バレスタイン☆

 

①『大人気ないケンカ』……ハインリッヒとの口論がエスカレートし、決着案として教え子達による体育大会を開くこととなる。その際、サラはⅦ組が負けたら水着で学院掃除というペナルティを負った。

 

②『味方はルビィ』……何かにつけて生活態度を窘められるサラだが、ルビィだけは寄り添ってきてくれる。いつの間にか癒しになっていた。

 

③『水面下でもケンカ』……トラップ騒動の際、ハインリッヒと同じ罠にかかり、二人して池に落ちる。水面下で蹴り合うなど小競り合いは継続中のようだ。

 

④『堪えていた涙』……クレアの手前、気丈にしていたが、ルビィが寮から去ってしまうとその場で泣き崩れてしまった。その後二時間に渡って、女子達が慰めや励ましをしてくれた。

 

 

 

★ヴァンダイク★

 

①『ヒゲの筆』……自分の筆はヒゲで出来ているというおじいちゃんジョーク。しかしサラは本気にしてしまったようだ。

 

②『尊厳と人の道』……たとえ膀胱が破裂しそうだとしても、理性までは破裂させなかった。廊下を踏み砕きながら、鬼の形相でトイレへと向かう。

 

③『天上の門』……抑制と解放、理性と本能の狭間で、ヴァンダイクは神々しい何かを見た。

 

 

 

★ナイトハルト★

 

①『食事に感謝』……料理審査で煉獄を見たあと、食事を残す輩を許せなくなった。食事の時間になるとガレリア要塞の食堂の隅に、目を光らせる彼の姿が目撃されるという。

 

②『鬼教官』……フリーデルからの頼みを受け、貴族チームをしごきにしごき抜いた。泣こうが喚こうが、カリキュラムは軽くしない。何かにつけてペナルティを課そうとする。

 

 

 

★ハインリッヒ★

 

①『ちょびヒゲ眼鏡』……サラが心の中で抗議する際、この名を呼ぶ。本人はヒゲの手入れに20分かけている。

 

②『えろヒゲ眼鏡』……他意はなかったが、サラに水着掃除を命じたり、秘密の写真を見て口元を緩めたりと、むっつり疑惑が浮上しつつある。

 

③『ちぢれヒゲ眼鏡』……アリサ達の作ったトマトスープ改によってヒゲを燃やされた。ついでに煉獄蒸気を吸い込んで意識を失ってしまう。

 

④『正しいヒゲ眼鏡』……戦線メンバーに連れて行かれたドロテを追おうとするサラを一括し、自分達の縄を解く方が先だと諭す。学院の教頭として、私情に流されない判断を下した。

 

 

 

☆ベアトリクス☆

 

①『ベアトリクス病棟24時』……何かと災難に見舞われた二か月間。学院生達はこぞって保健室を利用したり、運ばれたりしていた。

 

②『言葉無き殺意』……ヴァンダイクの尻を直視してしまったベアトリクスは、無言でライフルを組み上げた。その後、学院内に一発の銃声が轟いたというが、詳細は明らかになっていない。

 

 

 

☆メアリー・アルトハイム☆

 

①『女神の試練?』……エリオットの猛将疑惑に振り回される。なぜか自分の責任のように感じているようだ。

 

②『大人のランチ』……成り行きでサラと相席することとなった。恋愛を語らいつつも無用に踏み込まないなど、会話のバランス感覚を心得ている辺り、大人の女性である。

 

③『やっぱり猛将』……エリオットの猛将疑惑が見過ごせないものになってきて、マカロフに相談することにした。しかし、相談中に荒ぶるエリオットが猛々しく登場し、彼女の中にあった疑惑は確信となってしまった。

 

 

 

★セレスタン★

 

①『執事として』……パトリックのピーマン嫌いを解決するべく、シャロンに料理を習う。元々心得はあったので覚えは早かった。

 

②『不思議な女性』……何事にも物怖じせず、常にマイペースなシャロンの独特な雰囲気に惹かれるものがあるようだ。

 

 

 

☆サリファ☆

 

①『宝物』……フェリスから贈られたブローチはいつも身に付けている。気に入った理由はフェリスと同じ髪の色だから。

 

②『楽しいトラブル』……ヴィンセントに降りかかる災難をこっそり楽しんでいるらしい。体育倉庫に隠れるヴィンセントの元にマルガリータを送り込み、あげく外から扉を閉めた。

 

③『S/Sメイダーズ』……黒装束をまとってクッキングフェスティバルに出場した。シャロンとはメイド同士仲がいいようだ。

 

 

 

☆シャロン・クルーガー☆

 

①『トラブルメイキング』……9月12日の一連の騒動は、ほとんど彼女の行動が引き起こしたものだった。元々はアリサの為だったが、回り回った結果としてリィンが最大級の被害を被った。

 

②『八葉一刀流?』……シャロンの中では“揉みじぎり”、“早手”、“子栄算”、“GO演劇”などがあるらしい。

 

②『四つのお仕事』……シャロンには大きく分けて四種類の仕事がある。中でも四つ目が一番重要とのことだ。

 

④『うふふ』……来客用のお菓子を、根こそぎ旅行に持って行こうとするフィーとミリアムの前に笑顔で現れた。優しいだけがメイドじゃない。

 

 

 

☆クレア・リーヴェルト☆

 

①『特別ですよ』……ミリアムの要請で鉄道憲兵隊経由のジャンク品をトリスタまで運んだ。機密などには触れないような物品に限定しているが、それでも一般には出回らない資材ばかりだった。

 

②『冷徹な仕掛け』……相手の心理を逆手に取った罠の設置や、四色の導の文言製作などを引き受けた。最初は仕方なくだったが、やってる内に何となく楽しくなっていたらしい。

 

③『真の黒幕』……ルビィを引き取りに第三学生寮までやってきた際、フィーの失言であやうく自分も一枚かんでいることに気付かれそうになった。すかさず制したが、何人かには勘付かれてしまった。

 

 

 

☆ミスティ☆

 

①『部活巡り』……ラジオのネタを探す為に学院中を回ることになった。変な部活が多かったり、なぜかエマが追ってきたりと大変だったが、それなりの収穫はあったようだ。

 

②『深淵の……』……放送局が偽の《C》に押し入られた際も余裕の態度は崩さなかった。リィンが来るのが一足遅かったら、むしろ《C》の身が危なかった。

 

 

 

☆エリゼ・シュバルツァー☆

 

①『突然の来訪』……中々会いにこないリィンに業を煮やし、とうとう自分から押しかけてきた。実はアルフィンに炊きつけられた形なのだが、それは最後まで秘密にしている。

 

②『淑女の危機』……ガイウスと立ち寄った美術室で、危うくクララに服を脱がされるところだった。

 

③『屋上でアリサと』……語らっている内にアリサとは意気投合した。リィンは朴念仁という共通の認識を持つ。

 

④『シュバルツァーの剣技』……アルフィンを救う為、帝国解放戦線の一人相手にひるまず戦った。技量は上回っていたが、地の利で後れを取ってしまう。

 

 

 

☆アルフィン・ライゼ・アルノール☆

 

①『ロイヤルエール』……エリゼから話を聞いて、当日はⅦ組の応援に行く事を即断する。

 

②『至宝の危機』……ラウラが作った弁当を食べるところだったが、勇気ある帝国男子達が全て平らげ、かろうじてそれを阻止する。その後、男子達はもれなく状態異常に見舞われた。

 

③『皇女の宿命?』……何かと誘拐されてしまう。

 

④『ルビィの飼い主』……体育大会にやってきたのにはルビィと会う為でもあった。自分を助ける為に奮闘したルビィに感謝して、Ⅶ組の誰かが引き取れるようになるまで、彼女がルビィを預かることとなった。

 

 

 

★ケインズ★

 

①『あなたが猛将か』……エリオットを猛将と信じて疑わない。彼が店の前を通ると、秘蔵書を大声で勧める。エリオットが逃げても追いかける。

 

②『裏ケインズ書房』……選ばれし者にしか扉を開かない禁忌の書庫。ケインズはこの書庫の鍵をエリオットに渡したいらしい。

 

③『ケインズ式応援歌』……絶望的にセンスのない振り付けで、玉入れをするエリオットを応援した。

 

④『本はペンよりも強し』……ナイフによる刺突を本で挟み取ったりするなど、分厚い書籍は戦闘にも転用している。剣はペンよりも強いと言ったガイラーに対する当て付けなのかもしれない。

 

 

 

★ガイラー★

 

①『狂い咲きの用務員』……ドロテの執筆した小説を読んだことで、長い人生の中で培ってきた倫理観と価値観が崩壊し、ダメな方向に再構築されてしまった。

 

②『G』……彼のペンネーム。ファンの乙女達からは敬愛を込めて“同志《G》”と呼ばれている。小説内の言い回しはドロテいわく“懐古的な文章ながら、斬新な表現技法”とのこと。

 

③『クロックベルはリィンリィンリィン』……規制という概念を打ち捨てたと評される《G》の第二作目。クロックとリィンの切ないすれ違いが話題を呼んだ。現時点では未完で、ファンから続編を待望されている。

 

④『知っていたが故に』……ノベルズフェスティバルで審査員を務めた際に、初めて読んだあの小説はエマが書いたものではないと気付いた。しかし才能は本物であると見抜き、彼女がその道に染まるよう色々と画策していた。

 

 

 

★煉獄の門の向こうにいた眼鏡★

 

①『稀代のゲス野郎』……塩漬けにされて逝った。

 

 

 

☆マキアスの夢に出てきた女の子☆

 

①『おおきなかま』……少女は身の丈ほどもある鎌を繰り、マキアスに襲い掛かった。無邪気な笑顔がとても可愛らしい。

 

②『おにごっことかくれんぼ』……捕まえたら、あるいは見つかったらデッドエンド直行となる楽しい子供の遊び。

 

③『おにんぎょうあそび』……女の子なら誰でもやったことのあるおままごと。巨大なお人形さんから放たれる高出力レーザーは、あらゆるものを焦土と化す。

 

④『またあそびましょう』……マキアスの眼鏡を両断して、満足した少女は時空の歪みの中へと消えていった。

 

 

 

★クロ★

 

①『出会い』……オスト地区まで水路を流され、レーグニッツ邸に辿り着いた飛び猫。体力が戻ると暴れ回り、家具類を壊して回った。

 

②『シャー!』……紆余曲折の果てに二匹の魔獣は旧校舎で暮らすこととなった。マキアスは鳴き声の強弱で、クロが何を言いたいかが何となく分かるらしい。

 

③『ユーシスに仕返しを』……自分を用水路に落としたユーシスを、同じく旧校舎地下の水路に落とし、悲願の復讐を成し遂げた。

 

④『必殺技』……空中を飛び回り、高速多段蹴りや体当たりなどの近接戦を得意とする。帝国解放戦線との戦闘時、マキアスの危機を救った。

 

 

 

☆ルーダ☆

 

『出会い』……クロと同じくレーグニッツ邸に辿り着いたドローメ。氷系のアーツを得意とする。ちなみに鳴き声はない。

 

『あなた色に染まります』……コーヒーを飲んだら体が黒く染まる。飲む時は触手をカップに入れて、ゴキュゴキュと液体を吸収する。

 

『ラウラに仕返しを』……自分を用水路に落としたラウラを同じように旧校舎地下の用水路に落とした。その際リィンも巻き込んだ形だが、人間一人どうなろうと知ったことではない。でもマキアスは好き。

 

『実は……』……性別はメス。マキアスにフラグが立った。

 

 

 

★オオザンショ☆

 

①『つぶらな瞳』……曇りのない眼は自分が食材に見られていることなど思いもしない。

 

②『悲惨な運命』……釣り上げられたオオザンショ達を待ち受けるのは無慈悲な調理台。大体エマの手にかかり焼かれる。

 

③『煉獄への片道切符』……攻撃料理によって幾多もの絶望を生み出し、そこに無垢なるオオザンショの魂を捧げることで煉獄の門が開く。要するにラウラとエマがいればいつでも煉獄に行ける。

 

 

 

★幽霊の彼★

 

①『元生徒会長』……12年前の生徒会長。百日戦役時に民間有志として、駐屯地としていた制圧後のハーケン門に救援物資を届けに行くが、リベールの反抗作戦に巻き込まれて命を落とした。

 

②『望みは一つ』……卒業できなかったことが未練となり、霊魂となって学院で眠っていた。トワが生徒会室の掃除中に保管されていた彼の卒業証書を表に出したことがきっかけとなって、異変が大きくなっていった。

 

③『あと少しだけ』……Ⅶ組に卒業式を開いてもらったことで彼の未練はなくなった。しかしルビィの行く末を見届けることと、彼らに恩返しをする為に学院に留まっていた。レックスの心霊写真に写り込んでいたのは彼である。

 

④『育んだ絆はなくならない』……戦うルビィに力を貸した。全てを見届けた彼は、ルビィに別れを告げて女神の元へと帰っていった。

 

 

 

★ルビィ★

 

①『一匹とⅦ組』……ケルディックで生まれた野良の子犬。街道で魔獣に襲われてトリスタまで逃げてきた。学院内でⅦ組に保護され、二ヶ月という期限付きで第三学生寮で暮らすこととなる。

 

②『サラが好き』……サラに一番懐いている。散歩当番が彼女の時は、リードをくわえて学院まで迎えに行っていた。

 

③『わんライフ』……トリスタの町では結構可愛がられているらしい。色んな人からもらった雑品でラウンジにある自分の犬小屋をデコレーションしていた。

 

④『いつか、また会う日まで』……新しい飼い主はアルフィン皇女となった。Ⅶ組と再会するその日まで、今日も元気にバルフレイム宮を駆け回る。

 

 

 

 

~虹の軌跡 人物ノート  END~




どうもお久しぶりのテッチーです。先日ようやく閃Ⅱクリアしました。学院生達の活躍が多く、楽しんでプレイしていました。さあ、次は閃Ⅲかな?

それはともかくで、今回更新したのは虹の軌跡の人物ノートです。ストーリーに出してすらいなかった設定もちらほらあって、お暇つぶしになれば幸いです。ルーダがメスって誰得なんでしょうね。

文体も本家に合わせております。人物紹介くらいならさくっと書けるかなと思っていたら丸々一話描き下ろせる量になっていました……

今回敵強いですね。リィン、サラ、フィー、ガイウスで前衛を固めて、低い属性有効率に賭けて、スーパー遅延タイムでごり押しすることもしばしば。ずっと俺のターンだ、ひれ伏せこの幻獣ども! お願いだからこっち来んといて! 変な息吐かんといて!

何とかクリアできたので、余韻に浸りながら、おまけ的な閃Ⅱの短編詰め合わせをぽろりぽろりと書いております。まだ未定なのですが、その内更新するかもしれないので、その時はまたまた宜しくお願いします。


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ちょっとだけ閃Ⅱ(前編)

《窓際のメランコリー》

 

 エベル湖に面したバルコニーに、ブロンド髪がそよいでいる。湖面を揺らしながら吹き抜けてくる風は、太陽が昇りきらない午前中ということも相まって、頬に刺さるように冷たかった。

 ユーシスは椅子に腰掛けて、卓上のティーカップを手にとった。先ほど自分で淹れてみた紅茶だが、この寒さでとっくに冷めてしまっている。

 構わずに一口すすった。案の定冷たかったが、それでも味わい深さが残っているのは、元々いい茶葉を使っているからか。

 トリスタから撤退して、エマとラウラと一緒にレグラムまでたどり着いて以来、彼もこのアルゼイド子爵邸の厄介になっていた。無論、ただの居候に甘んじるつもりもなく、近郊の魔獣退治や、街道を行く町人の護衛などを手伝ってはいるが。しかし、自分の立場を考えると、やはり思うところは多い。

 ちなみに現在、エマは気になることがあると、屋敷内でレグラムの史書を調べていて、ラウラは少し体を動かしたいと、練武場で剣の稽古に勤しんでいる。

「ふう」

 ユーシスは浅く嘆息し、遠くを見据えた。

 他の仲間達はうまく逃げ遂せたのか。戦禍はどこまで広がっているのか。父は、兄は、今何を考えて、何をしようとしているのか。

 ――リィンは無事でいるのだろうか。

 そんなことを考えている内に、ふとあの場所のことを思い出した。

 トリスタ礼拝堂。

 自分を先生と呼び、慕ってくれた子供達。

 彼らは変わりないだろうか。町に領邦軍が駐留しているのなら、不安な思いをしているかもしれない。

 そして、

「………」

 ティーカップを置く。

 心に浮かぶのは、あの控え目な笑顔。自分が行くといつも嬉しそうに、焼き上がったばかりだと言ってクッキーを出してくれた。

 今、ティーカップの横には何もない。自分のとなりには誰もいない。うっとうしいくらいの喧騒もない。湖畔のさざ波だけがいつまでも耳に残って、心に小さな空虚感を生み落としていく。

 あの温かな場所は、いつの間にか大切な場所になっていたのだろうか。一月も経たないくらいの、ほんの少し前のことなのに、ずいぶんと遠くのことのように感じる。

 実際、遠い。手が届かないどころか、現状を知ることさえままならない。案ずることしか、今の自分にはできない。

 ……本当にそうだろうか?

「いや、違う」

 心中の自問に、声を発して自答する。

 出来ることはあるはずなのだ。アルバレアの名を持つ、自分にしか成せないことが。

 何が正しいのかはまだ分からない。ただ、それでも動くことは出来る。

 自らが混沌の渦中に入り、真に己の成すべきを見極めること。それこそが貴族の義務――違う。それは、ユーシス・アルバレア個人としての意思。

 父の下に付いて動くということが、何を意味するかも分かっているつもりだった。それで仲間達との道が分かたれたとしても。そうなるとしても。

 行こう、バリアハートへ。

 自分にしか出来ない戦いが、自分だからこそ出来る戦いが、そこにあるのなら。

 ユーシスは椅子から立ち上がった。

「ここを発つなら明日になるだろうな。それまでに準備を整えなくては」

「ユーシス様」

 バルコニーの扉が開く。やってきたのは執事のクラウスだった。

「今日は特に冷え込みます。そろそろ屋敷の中へお戻りになった方が宜しいかと」

「ああ、気を遣わせて済まない」

「いえ、差し出がましい事を申しました」

 クラウスは丁寧に頭を下げ、ユーシスを室内へと誘う。

 応じて部屋に戻ると、すでに暖を取ってくれていたらしく、温かな空気が冷えた体を包み込んだ。

 そうだ。彼に明日出立することを伝えなくては。ユーシスは口を開きかけたが、その前に「おお、そういえば」とクラウスは両の手を合わせた。

「お聞きくださいませ、ユーシス様。先ほどラウラお嬢様の稽古の様子を見にいったのですが、その時、門下生達にこんなことを仰っておられたのです」

「ふむ?」

「『先が見えなくても、今はただ自分にしか出来ない事をしようと思う。父の代わりなど到底務まりはしないが、どうかそなた達の力を私に貸して欲しい』……と」

「……そうか」

 見通せない混迷の中、ラウラもあがいている。諦めていない。今の話を聞いて、決意はより固まった。各々の戦いをしよう。進む道が違っても、目指す場所は同じであると、そう信じて。

「お嬢様の成長を間近に見ることができて、私は嬉しゅうございます。おっと、いけませんな。年を取るとどうにも……」

 感極まった様子で、クラウスは目頭を押さえながら天井を見上げた。

「その上、『労いの意味も込めて、今日の夕食は私が作ろう』などと……くうっ、爺は、爺は……っ!」

「な、何だと……?」

 驚愕に足を引き、背が壁にぶつかった。

 小さな嗚咽を収め、クラウスは言う。

「何でもトリスタではよく料理を作っておられたとか。お嬢様の手料理を口にできる日がくるとは、このクラウス、いつ女神の元に召されても悔いはありませんぞ」

 女神にはすぐに会える。おそらく今日の夕食時に。

「それは“自分にしか出来ない事”ではなかろう……」

 虚ろな目をして、ユーシスはぼそりと呟いた。

「おや、何か?」

「いや、なんでもない」

「門下生一同、歓喜の極みでしたな。ふふ、だからと言って稽古に身が入らぬようでは困りますし、後でまた様子を見に行かねばなりませんな」

「………」

 予定は変更だ。すぐに出発しよう。

 

 

     ●  ●  ●

 

 

 

 

《マキアスレポート》

 

 十一月一日。

 僕達三人はあのトリスタ襲撃から逃げ延びて、ケルディックまでたどり着いていた。

僕達、というのはエリオットとフィー、そしてこの僕、マキアスだ。

 領邦軍に手配されているⅦ組だが、オットー元締めはそんな僕達をかくまってくれた。ありがたい事とはいえ、いつまでもオットー氏の家に隠れている訳にもいかない。彼は気にしないでいいと言ってくれたが、やはり迷惑はかけたくなかった。

 しかし、何をするにも拠点は必要である。仮にここを出たとしても当てなどない。どうするべきかと頭を抱える僕達に、元締めはケルディック街道にある風車小屋の鍵を渡してくれた。

 あそこなら街から近すぎず遠すぎずで、情報収集などもやりやすい。完全に厚意に甘える形になったが、もうここまでくれば頼らせて頂こう。

 今は伏せて、ただその時を待つ。

 僕達は信じている。君ともう一度会える日を。

 僕達はあきらめない。必ず君を見つけてみせる。

 だから、リィン。

 君も絶対にあきらめるな。

 

 十一月三日。

 そんな経緯で僕達の潜伏生活は始まる。

 何かと気をかけてくれるオットー元締めは、風車小屋までわざわざ食料を届けてくれたりもした。

 しかし、さすがにそこまでしてもらうわけにはいかない。それに彼が頻繁に街道を往復していれば、領邦軍がその行動を怪しむのは時間の問題だろう。僕達はともかく、元締めの立場を悪くすることだけは避けなくては。

 幸い食料確保に関しては、何とかなりそうだった。小川は近くに流れているし、冬とは言え魚も泳いでいる。風車内には導力式のストーブもあって、凍える心配もないし、お湯も沸かせる。

 何より、サバイバル技術に長けたフィーがいるのが最大の強みだろう。

 

 十一月十日

 風車小屋での潜伏生活、七日目。いくつかの問題が起きていた。

 思っていたほど魚が獲れないのだ。それはそうだ。釣竿もないし、いや仮に竿があっても、餌となる小虫がこの寒さでは見つからない。さすがのフィーも冬の川に入って、素手で魚を捕らえることは難しいそうだ。

 双銃剣やショットガンを川に撃ち込んで……という案もあったが、補給もないこの状況で、いたずらに弾薬を消費するのは得策とは言えなかった。

 わずかな焦りを感じる中、逃げ出す際に持ってきたと言うエリオットのバイオリンの音色が響く。柔らかな旋律が心を癒し、空腹を紛らわしてくれるのが唯一の救いだった。

 

 十一月十二日。

 潜伏生活、九日目。

 双竜橋の様子を偵察に行っていたフィーが、いくつかの葉っぱや草を手に風車小屋に戻ってきた。聞けば街道を逸れた脇道に食べられそうな植物が生えていたらしい。

 素人目には雑草だが、フィーがそう言うなら食べても問題ないのだろう。

 何より耐え難いこの空腹。今ならどんなものでも食べられる。さっそくフィーはサラダを作ってくれた。

 

 十一月十三日。

 その翌日。僕とエリオットは謎の腹痛に襲われた。フィーはけろりとしているので、一概に昨日のサラダが原因とは言えないが。

 喉の内側を荊でこするような、途方もなく凶悪な苦味。三ヶ月前にも猛威を振るったワイルド野草サラダを、また食べることになるとは思わなかった。

 うめく僕達を案じてくれたらしいフィーは、お腹に効く薬草を探すと言って、風車小屋を出て行ってしまう。

 待て、早まるな。

 制止の言葉は喉の痛みが邪魔をして、口から出すことすら出来なかった。

 扉が閉まったあと、エリオットの顔をちらりと見てみる。その目から生気が失われつつあった。

 

 十一月十九日

 潜伏生活、十六日目。

 細かな問題はいくつもあるが、その中でもこれはあって然りというか、ある程度は予想していたものだった。

 フィーが体を拭きたいと言い出したのだ。今までは僕達が出ている間に、手早く済ませていたそうだが、ここ数日は天候が悪く、僕もエリオットも外出をしていない。

 今日は特に気温が低いのだが、そういうことなら応じないわけにはいかないだろう。体調の戻り切らないエリオットの手を引いて、僕達は風車小屋の外――寒空の下でフィーの清拭が終わるのを待つことにした。

 

 ……一時間経ってもフィーから終わったとの声は掛からない。凍える指先が痺れてきた。女子の入浴時間は長いというが、体を拭くだけでも相応の時間はかかるのだろうか。しかし、ここで風車小屋に入るような愚は犯さない。実はまだ着替え中でした、などというトラブルはリィンの専売特許だからな。

 エリオットは地面の一点を見つめたまま、さっきから一言も話さなくなった。

 フィー、急がないと二度とバイオリンが聞けなくなるぞ。

 

 ……二時間が経った。まだ応答はない。これはおかしい。そしてエリオットの顔色もおかしい。

 外から声をかける。やはり返事がない。さすがに心配だ。

 何度も断りを入れてから、遠慮がちに扉を開いてみた。

 ストーブの近く、穏やかな寝息を立てて、フィーはすーすーと気持ち良さそうに眠っている。

 僕の両ひざは、その場で崩れ落ちた。

 

 十一月二十三日

 潜伏生活、二十目。 

 エリオットがいよいよおかしい。時折、バイオリンを撫でては虚空に視線を泳がせ、乾いた笑みをこぼしている。母さん、今日もピアノを弾いてよ、などとぼそぼそ呟きながら。いけない。連日食べ続けている野草のせいなのか、幻覚が見えている。エリオット、気をしっかり持つんだ。しかし、こういう時の処置など今一つわからないし。

 そうだ、姉さんに相談してみよう。最近、川の向こう岸で手招きしている、あの優しい姉さんに。

 

 十一月二十七日。

 潜伏生活……何日目だったか。

 そう言えばチェスもずいぶんやっていない。ステファン部長は無事だろうか。チェス盤を持って来る余裕はなかった。思い出すと余計にやりたくなってくる。ああ、そうだ。手頃な紙にマス目を描いて、ちょっと軽いチェスゲームでもしてみようか。

 ペンに手を伸ばした時、扉が開きフィーが戻ってくる。いつもの草を両腕に抱えて。

 というか、なぜフィーは僕達と同じものを食べていながら体調を崩さないんだ。地力のたくましさと言うやつは、こういう時に発揮されるのか。

 エリオット、目を開けてくれ。食事の時間だ。

 

 十一月二十八日。

 風車小屋での潜伏生活も、もう一か月近い。これでも情報収集はそれなりに出来ていた。やはりフィーの力が大きいが。

 ああ、何だろう。無性にチェスがしたい。そんな衝動に動かされるまま、この近辺の街道地図を引っ張り出す。

 たとえばこの風車小屋をキングとした時、東側の風車をナイトとしたらどうなるだろう。待てよ、なら西側のこの位置にビショップを配置した方が――取り留めもなくそんなことを考えているだけでも、幾分は気が紛れる。それに何だか楽しくなってきた。

 エリオット、面白いことを思いついたんだ。こっちを向いてくれないか。

 ははは、楽しいぞ。

 

 十一月二十九日。

 川の向こう岸にいたはずの姉さんが、気付けば枕元に立っていた。つかれたでしょう? 一緒に行きましょうと、僕の手を引く。

 外はすごく寒いはずなのにどうしてだろう。すごく、温かい。光が、近付いてくる……。

 

 十一月三十日。

 限界だと悟った。

 あと二日持つかどうか。眼鏡の汚れを拭う力も残っていない。

 こちらから君を探しにいくつもりだったが……どうやらそれはもう叶いそうにない。

 ああ、意識が遠のいていく。

 お願いだ、リィン。

 ぼ、僕を……ぼくタチを……はやク……

 

 ボクタチヲ ミツケテ

 

 

     ●  ●  ●

 

 

 《ウォールオブハート》

 

 バリアハート上空。高速巡洋艦カレイジャスは問題なく飛行している。天気は快晴。風も穏やかだ。

 問題があって、穏やかでないのは船内三階。後方甲板に近い一室だった。入口は前後に二つあるが、間取りとしては一部屋である。

 現在この部屋には、店が二つ入っている。

 手前側が武器屋で、店主はカスパル。

 奥側がアクセサリー屋で、店主はコレット。

 必然――

「……納得いかない」

 そう言ったのはコレットだ。彼女はため息交じりでカウンターから出て来て、カスパルに冷ややかな目を向ける。

「どうしてカスパルが横でお店をやってるの?」

「ど、どうしてって言われても」

 カスパルもカウンターから出て、コレットと向き合う。

 二人の間には埋めようのない溝があった。小さな誤解から始まり、不幸なすれ違いを重ねたことで、致命的にまでこじれた溝。否、溝というよりは谷。オーロックス渓谷のような、落ちたら確実に助からない谷。

「私、アクセサリー屋さんなんだけど」

「いや、それは分かってるけど」

「カスパルは何屋さん?」

「見ての通り武器屋だ。俺はレグラムの道場で手伝いをしててさ。そこで武器の扱いも――」

 そんな話などどうでもいいと言わんばかりに、コレットはぷいっと顔をそむけた。

「ありえない」

「な、何がだよ?」

「私のお店を見てみて?」

 言われてコレット越しに視線を向ける。ポップなカラーリングの設えのクロスや陳列棚。可愛らしいぬいぐるみや、おしゃれな包装箱。カウンターの前にはちょっと大きめの植木も置かれている。いかにも彼女らしい華やかな内装だった。

「次にカスパルのお店を見て」

 振り返ってみる。飾り気のない簡素な店構え。並べられた武器、防具類はどれも物々しい。中央のしきりを境に、まるで別世界である。

「くすんだ灰色しかないじゃない」

「……武器屋なんだからそれでいいだろ」

 今度は逆にカスパルがぷいっと顔をそむけた。彼にも培った経験に対するプライドがあるのだ。

「だって、間違っても同じ場所に混在していいようなジャンルじゃないんだもん」

 険悪なムードである。

 それぞれの店の入口では、武器を見にきたリィンと、アクセサリーを見にきたアリサが、そろって足を踏み入れられないでいた。

 カスパルが鼻を鳴らす。

「そもそも、俺の方が早くここで店をやってたんだからな。気に入らないなら他の場所でやればいいじゃんか」

「ここまでセッティングしたのに、今さら動けるわけないでしょ。武器の移動だけなんだし、カスパルが他の場所に行ったらいいじゃない」

「なんで俺がそこまでしなきゃいけないんだ!」

「ふんだ!」

 両者一歩も譲らず。

 以前なら誤解とは言え、負い目のあるカスパルは前に出きれないところであるが。しかし今、彼は強気だった。それには理由がある。

 コレットはもうあれ(・・)を持っていない。自分を幾度となく屠った、あの“異様に硬い石”を。

 十月の半ばくらい、色々なグッズと引き換えに、あの石をリィンに手渡しているのをカスパルは目撃している。

 故に強気。なぜならもう石で殴られることはないのだから。

「コレット。俺を以前と同じままだと思わないでくれ」

「な、なにが」

 反撃が来ないとわかっているから、余裕も出てくる。落ち着いている今なら、あの誤解も解くことができる。いつも邪魔をしてくるヴィヴィは、今はブリッジで観測士をやっている。

 冷静に考えれば、全ての状況が整っていた。何だかんだ言ってもどの道、これから顔を突き合わせてここで店をやるわけである。互いのしこりは取り払っておくべきなのだ。

「……コレット、聞いて欲しい。今なら話せる。あの時の真実を」

「し、真実?」

「ああ」

 自信に満ちた顔で、カスパルは一歩進み出た。

 そして、それが起こる。卑劣な悪魔が意識の隙間を突くかのごとき、理由も脈絡もない足元スリップが。

「うわあ!?」

「きゃあ!?」

 身の危険を察知し、とっさに飛び退くコレット。ばたばたと腕を振り回しながら、自分の意志とは関係なくそれを追うカスパル。

 植木の枝に制服のボタンが引っ掛かる。耐えようとして体を逆側にひねる。その全てが悪い方向に作用して、案の定あらわになる引き締まった上半身。 

 バランスを崩して倒れ込むカスパルの視界の中、怯えるコレットが大きくなる。

 逃げてくれ。彼がそう言おうとした時、コレットは制服のポケットに素早く手を入れた。

 何を取り出す? あの石はもうないはずなのに。そんなことが脳裏によぎる中、彼女はポケットから手を引き抜いた。

 右手の薬指から人指し指までの四指に、何かが装着されている。

 それはコレットがバリアハートの職人街を発つ際に、世話になった人達がお守り代わりにと渡してくれたもの。研磨した宝石を連なったリングにはめ込んで、護身用として暗器に改造したもの。

 ゼムリアストーン・ナックルに代わる、彼女の新しい力。その名もジュエリー・メリケンサック。

「いやああ!」

 乙女の叫びと共に繰り出されるクロスカウンター。ハッスルしたカサギンの顔面に『メゴッ』と痛々しい音が響く。

「ご、ごふっ」

 膝をついてくずおれたカスパルは、もうピクリとも動かない。息を荒くしたコレットは、宝石の輝きをまとった己の拳を、ただ茫然と眺めている。

 その一部始終を見ていたリィンとアリサは、無言でブリッジへと引き返すのだった。

 

 

     ●  ●  ●

 

 

 

 

 

 眼前の卓上に並ぶ、数々の料理に目を落とす。

 彩りは鮮やか。香り立つ湯気が揺れ、何とも食欲をそそってくれる。

 一皿目、二皿目、三皿目。あっという間に空の皿が積み上がっていく。前菜はもう十分だ。次は魚料理を頼もう。肉料理はそれから。飲み物で一服したあとは一品料理をいくつか注文して、少ししたらデザートを片っ端から制覇しよう。

 手を上げるとウエイトレスの女の子が、オーダー表を片手に近付いてきた。

 メニューを一つずつ指差して、私は言う。

「ローストトラードの香草和えと、シュラブの姿揚げを」

「かしこまりました」

「あと、イールのかば焼きとアローナの煮付けを」

「え? は、はい」

「それから、このレインボウの七色刺身を」

「え、えーと……?」

 女の子は何やら戸惑っている様子で、私の顔とオーダー表を何度も見比べている。どうしたのだろう。注文が聞き取れなかったのだろうか。

「なにか?」

 彼女の顔を見返すと、「い、いえ、何でもありません」と手早く注文を書き留めて、カウンターへと早足で向かっていった。

「あ」

 カウンターの奥のキッチンスペースから、油の跳ねる音と香ばしい匂いが漂ってきた辺りで、私はあることを後悔する。

「このサモーナのバターソテーも頼んでおけばよかったですわ」

 

 

  《 機 Λ 騎 》

 

 

 鋼の聖女の側近として、その身を守護せし鉄機隊。

 隊を束ねる《神速》のデュバリィと言えば、結社《身食らう蛇》でも名を知られた存在だ。が、そんなことはどうでもいい。名を知られていようといまいと、主から命ぜられたままに任務を遂行するだけ。

 それが己の全てなのだ。

 食事を終えて、店の外に出る。今はどこにでもいる町娘の恰好をしているので、普通にしていればまず目立たない。剣や軽鎧は転移術でいつでも呼び出せるが、しばらくは使う必要もない。

 風光明媚で名高い、この町の名はレグラム。今日は少し霧があって、あまり景色がいいとは言えないが。それでも町の雰囲気は嫌いではない。歴史や格式の高さも随所から伺えるし、何より料理が美味しかった。今更ながら、あのサモーナを食べ逃したことが悔やまれる。

「はあ……」

 ため息がもれたのは、サモーナのバターソテーとやらを思い出したからではない。まあ、半分はそれもあるが。

 主立つ理由は二つ。

 一つ目は今回の任務で、行動を共にすることになった相方のことだ。実力は折り紙つき。しかし性格に難あり。というか難しかない。口を開けば面倒だの何だの。今だって、ふらりとどこかにいなくなってしまった。どうにも彼とはペースが合わず、同行しているだけで疲れと心労が増えていく。

 二つ目は……あれだ。

 霧の向こうでぼやけている屋敷の影を、忌々しげに見上げてやる。高台にどっかりと鎮座するアルゼイドの屋敷。そして、その傍流たる道場。

 なんと傲慢なたたずまいだろう。あれさえなければ、いい町なのに。

 そんなことを思いながら歩を進めていると、船着き場の近くにそれを見つけた。

 それぞれが斧と大剣を掲げ、かしずく二体の戦士像。その彼らの中心でランスを携える、堂々とした甲冑姿の女性の像。

 ローエングリン城を背にして立つ彼女こそ、二五〇年前の獅子戦役をドライケルス大帝と共に駆け抜けた《槍の聖女》――リアンヌ・サンドロットである。

 デュバリィは目を閉じ、二体の戦士像と同様にかしずいた。

 果たしてそれは祈りだったのか、あるいは誓いだったのか。

「………」

 目を開くと、碑文の一行が目に留まった。

 ――獅子戦役の英雄たる功績を称え、その魂が安らかであらんことを――

 知ったようなことを刻んでくれる。気付けば固く拳を握りしめていた。

 もういい。行こう。デュバリィが立ち上がった時、

「あれ、姉ちゃん。見ない顔だなー」

 そばに三人の子供達がいた。

 

 

 頼んでもいないのに、彼らは名乗る。

 三人組のリーダーらしいのがユリアン。補佐役っぽいのがカルノ。そして二人の後ろに控える年下の子がニコ。

「姉ちゃん、旅の人か? 鉄道の運行も制限されてるのに珍しいよなー。もしかして街道沿いに来たのかよ」

「まあ、そんなところですわ。私、急いでいるのでこれで失礼」

 適当にあしらってから、その場を後にする。子供の扱いは苦手なのだ。

 しかし子供達は付いてくる。走ってみた。三人分の駆け足の音が追い掛けてくる。そんなやり取りを二度、三度と繰り返して――

「な、なんですの、あなた達は!?」

 立ち止まって振り返ると、やはり彼らがいた。あのニコという男の子だけは少し遅れて来たが。

「いやー、姉ちゃんレグラム初めてかなと思って」

 ユリアンが言う。

「何でも言ってよ。教えてあげるよ」

 カルノが続ける。

「結構ですわ。間に合ってますから」

 一言切り捨てて、再び歩き出そうとする。そこにニコが「お姉ちゃん待ってよ」と重ねた。

 待たない、止まらない、振り向かない。面倒事に関わらない為の三原則だ。

「役に立つし、人助けもできるよ。だってぼくたち、少年鉄騎隊なんだもん」

 踏み出しかけた足が止まった。

「……なんですの、それは」

 彼らは「ふふん」と自慢気に笑い、剣やら槍を構えたようなポーズを決める。

「へへ、この町を守る為に結成したんだ。鉄騎隊ってやっぱ憧れだしさー」

「あ、憧れ?」

 不意打ちだった。しかし悪い気はしなかった。

「こう凛としてて、恰好いいし」

「な、なるほど」

 こんな小さな子供達まで、そう思っているのか。

「強くて、誇り高くて」

「そ、それから?」

「何よりも忠義に厚くて」

「ええ、ええ! それはもう」

 うなずきが止まらない。

「俺達もなりたいよなー。ヴィクター様みたいに」

「ええ、まったくですわ――って、どうしてそうなりますの!?」

 あやうくうなずいてしまうところだった。なんという狡猾な手口を!

「え、知らねーの? だってヴィクター様のご先祖って鉄騎隊なんだぜ。俺も大きくなったらアルゼイド流の道場に通うんだ」

 子供の言うこと。これは子供の言うこと。いちいち相手になどしない。同じレベルで話などするものか。凛とした態度を貫くのみ。

「やっぱアルゼイド流が一番強いよな!」

「ふんっ、ほざくがいいですわ」

 デュバリィはやり過ぎなくらい胸をそらして、子供達を見下ろす。嘲るように鼻を鳴らしてから、彼女は薄い笑みを浮かべた。

「アルゼイド流が最強? ちゃーんちゃらおかしいですわね」

「な、何を!」

「こんなど田舎の煤けた道場が何だって言うんですの? いつ床が抜けるのか分かったものじゃありませんわ」

「なっ、言ったな!」

「ええ、言いましたわ! 言ってやりましたわ! 悔しがりやがれですわ!」

 勝ち誇った高笑いを上げるデュバリィ。見事なまでに同レベルだった。

 憤りもあらわに、じだんだを踏むユリアンが言った。

「くっそー、だったら姉ちゃん。俺達と勝負しろよ!」

「ええー、いいですわよ! ……え? 勝負?」

 考えなしにイエスを返し、遅れて言葉の意味を反芻する。

「カルノもニコもいいよな。馬鹿にされっぱなしじゃ、少年鉄騎隊の名折れだぜ」

 押し切られる形で、ユリアンの背後に控える二人も了承した。

「ち、ちょっと待ちなさい。勝負って何ですの? 私急いでるって言いましたけど――」

「よーし、かくれんぼ勝負だ。俺達が隠れるから、姉ちゃんが探すんだぜ。三十分以内に全員探しきれなかったら姉ちゃんの負けだからな」

「か、勝手に話を進めないで下さい。私の話も聞いてって、あ、あなた達!?」

 ユリアン達はデュバリィの声などもはや聞こえない様子で、あっという間に三方に散って行ってしまった。

 残された身に、冷たい風が吹き抜ける。

「あーもう! どうしてこうなるんですのーっ!」

 

 

 無視してその場を去ることは簡単な話である。しかしそれは出来なかった。こちらの言い分を完全に無視して始まった勝負とは言え、逃げれば不戦敗。勝利した彼らは思うだろう。

 やっぱりアルゼイド流が一番。それを認めるのが嫌で、あいつは逃げ出したと。

 冗談ではない。もう容赦はしない。まとめて見つけ出して、目にもの見せてくれる。《神速》の二つ名、骨の髄まで思い知らせてやる

「こうなったら仕方ありません……本気ですわ」

 最初から本気で相手取っていたという事実は、速やかに忘却の彼方へ追いやり、デュバリィはレグラムの町中を走り回った。

 ――その五分後。

「み、見つけました!」

「あちゃー、自信あったんだけどなあ」

 少し息を切らしながらも、教会の裏手でカルノを発見した。

 ――そのさらに十分後。

「み、み、見つけました……」

「くっそー!」

 かなり息を切らしながらも、民家の陰――その茂みに伏せるユリアンを発見した。

「あと一人。すぐに捕まえてやりますわ」

 さほど大きな町でもないから、大方探し回れたつもりだが、しかしニコだけはまだ発見できていない。

 ユリアンとカルノが顔を見合わせていた。

「んー、おかしいなあ。ニコって俺達より隠れるの下手なんだけど」

「隠れるところもワンパターンだしね」

 デュバリィも首をひねった。隠れるのが下手だというのなら、どうして自分が未だに見つけられないのだ。町中はかなり探したつもりだが――いや、そういえば隠れる際、彼はどっちの方向に走っていった?

 確か北東、レグラム駅の方だ。しかし駅は規制がかかっていて、構内にも入れない。

 そして町の中にいないというのなら、もうその可能性を一番に考える他ない。

「まさか……」

 そう、ニコは町の外に出たのだ。

 

 

 エベル街道。この道を北上すれば、南クロイツェン街道に繋がり、その先に見えてくるのが、翡翠の公都バリアハートだ。

 時間的に見て、ニコが街道に出てから二十分近く。あの足ではまだそこまで遠くには行っていないだろう。

「……だけど」

 街道の入口に立ち、その先に目を凝らしてみる。

 深い霧で数アージュ先も見通せない。魔獣の唸り声も遠くから響いてくる。この地の異変で凶暴化しているせいか、導力灯の効果が薄いらしい。

 そして湿った地面には、街道へと続く小さな靴跡が残っていた。

「待ってろ、ニコ。今助けに行くからな」

 霧の中へ走り出そうとしたユリアンの襟首を、後ろからむんずと掴む。それを見たカルノの動きも止まった。

「は、離せよ! ニコが危ないんだぞ!」

「あなた達が行ったところでどうにもなりませんわ。大人を呼んできなさい。……あのアルゼイド流の者達でも魔獣くらいなら遅れを取らないでしょうし」

「で、でもよ!」

 それでも納得の行かなさそうなユリアンの襟首から手を離すと、デュバリィは彼を自分に向き直らせた。

「力の伴わない勇気と行動は、周りにも害を及ぼす。隊を組んで動く以上、それは短絡な蛮勇よりも律さなければならないもの」

「何言ってるか……分かんねーよ」

 今にも泣き出しそうなユリアンの頭に、デュバリィはそっと手を置いた。自分でも苦笑いしてしまう程、柄にもなく不器用な仕草だった。

「鉄騎隊のリーダーなら、そんな顔をするものじゃありませんわ」

「だって……」

「早く行きなさい。あなたが足を止めるほど、あの子が危険になる。それはわかりますわね?」

「う、うん。でも姉ちゃんはどうするんだよ」

「私はあの子が戻ってきて行き違いにならないように、ここで待っていますわ」

 全速力で練武場へと走っていく二人を見届けた後、デュバリィは改めて街道に歩先を向けた。 

 

 

 一人、霧の中を歩く。

 どうしてこのような寄り道を。そこまで自分はお人好しではない。放って置いても良かったではないか。アルゼイド流の者達に任せても、この程度の事態は収拾できただろう。

 なのに、なぜ。

 あの子達が鉄騎隊を名乗ったから? ちょうど三人だったから? 自分と重ね合わせてしまったから? それはない。『騎』と『機』。ただの言葉だが、この二つは決定的に違う。一体何を重ねるというのか。

 これはそう、ただの気まぐれだ。

 不意に空気が変わる。

「……来ましたわね」

 直感と同時に轟く唸り声。下腹に響く足音。白く染まる視界の中に、徐々に鮮明になって現れる異形の影。魔獣だ。それも大型の。

 だから、何だと言うのか。

 空間が歪み、デュバリィを眩い光が包む。具足が、籠手が、胸当てが、額兜が、輝きの中で顕現されていく。

 最後に顕れた白銀の大剣と流線型の盾を携え、彼女は地面を踏みしめた。

「私は――」

 魔獣に名乗るなどと馬鹿げている。だが今は、なぜかそんな気分だった。

「鉄機隊が筆頭、《神速》のデュバリィ。道を開けてもらいますわ」

 

 

 ニコが身を隠しているのは、街道から脇道に逸れた大きな木の陰である。

 彼がレグラムの町を出たのは、絶対に見つからない場所を探してのことだった。もちろん普段のかくれんぼでは、そこまでしない。そもそも一人で街道に出てはいけないと、母親からも言い含められている。

 ただ、幼いなりに理解していた。いつもの遊びと違って、これは勝負。よく分からないが、負けてはいけないもの。

 だから町を出た。見つからないと思ったから。街道で適当な物陰を探していると、近くで魔獣の鳴き声がした。驚いて逃げ出して、気が付いたらもう方向が分からなくなっていた。

「ユリアン兄ちゃん、カルノ兄ちゃん……こわいよ、お母さん……」

 グスと涙ぐむ。鉄騎隊は強くなければいけないのに。

 震える手で目じりを拭った時、近くで何かが動く気配がした。

 誰かが迎えに来てくれた。一瞬そう思ったが、すぐにそうではないとわかった。この界隈には植物系魔獣や昆虫型魔獣が群生していると教えてもらったことがある。まさにそれらだった。

 一瞥しただけで嫌悪感を抱くような大きな虫型魔獣が、感情の映らない複眼でニコを捉えている。それも一匹ではなく五匹いる。聞いた時はピンとこなかったが、群生の意味も今わかった。

「あ、ああ……」

 ギチギチと牙を動かす音が近付いてくる。

 いやだ。いやだ。助けて――

「助けてえっ!」

 ニコが叫び、虫達が一斉に襲い掛かったのと、雷光が爆ぜたのは同時だった。

 奔る稲妻が歪な鉤爪と化し、魔獣の全てを跡形もなく焼き払う。

「え?」

 何起きたのかさえ分からないニコは、霧の向こうに人影を見た。

 甲冑を身に纏い、大剣を構えたその姿を。それは聖女を守護する片割れの像と重なって――

「鉄騎隊……」

 我知らずその言葉を呟く。

 人影はそのまま薄れ、消えてしまった。

 程なく複数の足音が近付いてくる。

「ニコ!」

 ユリアンとカルノと、アルゼイド流の門下生数名だ。

「よかった、心配したんだぞ」

「ケガないか? 一人で街道に出ちゃダメだろ」

 ユリアン達が肩を強く抱きしめる。

「ごめんなさい、お兄ちゃん達」

「さあ、早く帰ろうぜ。お前の母ちゃん、すごい心配してんだからな。あ、そういえば」

 周りを見回したユリアンが言う。

「やっぱこっちにも来てないか。あの姉ちゃん、どこ行ったんだ?」

 

 

 近くの高台から、一同が撤退するのを見送ったデュバリィは嘆息をついた。

「やれやれ、ですわ」

「そりゃあ、こっちの台詞だぜ」

 不意に背後から声を投げ掛けられた。草を踏み分け、一人の青年が近付いてくる。

 薄緑がかった髪、目下にずれた眼鏡。妙に気だるげな態度。

 彼こそが相方――執行者NoI、《劫炎》のマクバーン。

 マクバーンはあくび混じりで続けた。

「急にいなくなるから探したぜ。どっかに行く時はちゃんと言っていけよな」

「なっ、それこそこちらの台詞ですわ!」

 どの口が言うのかと睨むデュバリィだが、マクバーンはたいして気に留めた様子もなく、街道の先に目をやった。

「ま、この後はバリアハートだろ。ちょうどいいし、このまま行くとするか」

 面倒くせえけど、と付け加え、マクバーンは先に歩き出す。

「あーもう!」

 ムスッとして後を追うデュバリィに、目線だけ向けて彼は言う。

「そういやレグラムでの用は済んだのかよ。やり残したことがあるなら待っててやるぜ」

「ふん、昼寝でもしたいだけでしょう。お生憎、やり残したことは――」

 ない、と言いかけて思い出した。

「サモーナのバターソテーを食べ損ねたくらいですわ」

 

 

 

     ●  ●  ●

 

 

 

~後編に続く~




前編をお付き合い頂きありがとうございます。

本当はもっと色々と詰め込もうとしたのですが、『そんなトリスタの日常』と違って一話一話が長めになってしまい、結局分けることにしました。
その加減で何となく男子勢に話が偏ったので、次回は女子多めに加え、今回登場していない人達がメインとなります。先にデュバリィは登場してもらいましたが。彼女も書いてて楽しいですね。
時系列順には乗せていませんが、これはこのくらいの時期だなくらいで察して頂ければ幸いです。

通常通り、サブキャラ達のお話も色々作ってみましたが、とりあえずカサギンとコレットだけ先行です。まさかのとなり同士だもんなあ。

各話のボリューム次第では中編を挟むかもしれないのですが、なるべく後編で収めてみます。無理だったらスミマセン!
次話もお楽しみ頂ければ何よりです。


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ちょっとだけ閃Ⅱ(中編)

《おにいさんといっしょ》

 

 トヴァル・ランドナーは重要な任務の真っ最中だった。

 普段以上に周囲に警戒を巡らし、気も張っている。仕事でいい結果を出すには、万事に余裕を持つべし。それも十分承知の上だったが、それでも今だけは全方位に意識を向け、あらゆるアクシデントに備えなくてはならなかった。それこそ、遊撃士として培ったスキルを総動員するほどに。

「さて、と。ここから本番か」

 正面に続く山道を一瞥したあと、トヴァルは背後に振り向く。

 聖アストライア女学院の制服に身を包んだ少女達が二人、澄んだ瞳で自分を見返している。

 そう、これが最重要任務。

 目指すユミルの町は、まだ遠くにあった。

 

 

 ヘイムダルが貴族連合に占拠されていく真っ只中、混乱の市中をトヴァルは走った。聖アストライア女学院の柵門を乗り越え、誰よりも早くそこに駆けつけた。

 一歩遅ければアルフィンも貴族連合の手に落ちていただろう。保護という名目の下に。

 そこにエリゼもいたのは僥倖だった。トヴァルは二人の手を引き、女学院から脱出する。

 本来、ヘイムダルから列車でユミルまで行くには、黒竜関経由でルーレまで出て、そこからユミル方面に乗り換えなくてはならない。

 だが、今それは出来ない。トヴァルがかなり早いタイミングで動いているとはいえ、この状況下なら鉄道の運行は止まっている。アルフィンが女学院、そしてバルフレイム宮にもいないとなれば、捜索の手は帝都外にも伸びる。

 悠長に事を構えている時間はなかった。

 そこで使ったのは導力車だった。関門が敷かれる前に街道を突破し、可能な限り遠くへ離れる。幸いにも運転のスキルはあるのだ。もっとも免許があるのかと問われれば、最上の笑顔を以って返答とするほかないが。

 肝心の導力車だが、その調達には困らない。機甲兵や戦車部隊の戦闘が行われる中、乗り捨てられた車はあちこちに散在している。

 悪いとは思うものの、これは緊急事態。

 損害請求諸々は依頼元のオリヴァルト殿下にお願いします、などと胸中で詫びを入れながら、トヴァルは手頃な導力車の後部座席に二人を乗せたのだった。

 

 そして今に至る。

 舗装されていない道や林道も無理やり抜けて、何とかユミルの町がある山のふもとまで辿り着く。この時点で車はガタガタだ。

 ケーブルカーが止まっているので、ここからは徒歩で山道を登らねばならない。この先の道案内はエリゼができるから、それはいいとして、問題がまず一つ。

「お二人とも、一応お聞きしますが、戦闘の心得は?」

 エリゼが答える。

「私はシュバルツァー家の剣術を扱えますが……」

 もちろん今は剣などない。次にアルフィンが言った。

「お兄様から教わったことがあるので、多少のアーツなら使えますが……」

 当然、戦術オーブメントなどは持っていない。

「……わかりました。これを」

 トヴァルは最後までどうするべきか悩んでいたが、結局それを渡すことにした。

「あ、これってリィンさん達が使っている――」

「ええ、確か《ARCUS》とか……」

 これもオリヴァルトからの預かり物だが、誰に託すかは一任されている。この先は見通しも悪く、地形の把握もできていない。危険な魔獣もいるだろう。

 不本意だが、二人の身の安全の為には、そうすることがベストだと判断せざるを得なかった。

「あまりゆっくりもしていられません。使い方は後ほどお伝えします。俺から離れず付いて来て下さい」

 トヴァルを先頭に、三人は山道へと足を踏み入れた。

 

 

「――以上がリンク機能の特徴です」

 道すがら、要点をまとめながら《ARCUS》の特徴を説明する。エリゼ達は興味深げにトヴァルの話を聞いていた。

「ただリンクを結ぶのは簡単なことではありません。あのⅦ組でも何人かは実習中に手こずったと聞いています。意識の波長が合わなかったり、ずれたりするとリンクブレイクと言って――」

 エリゼとアルフィンが持つ、それぞれの《ARCUS》が光る。輝く粒子が一本のラインとなって、二人を繋いでいた。

「あ、できました」

「なんでしょう、不思議な感覚ですね」

 口を半分開けたまま、トヴァルは固まっている。

 まさか、こんなにも容易く成功させるとは。いや、考えてみれば当たり前ことなのか。Ⅶ組が《ARCUS》を持たされた時、出会ったばかりの彼らは相手のことなどまるで知らなかった。対して、この二人は最初から友人同士。気心の知れた仲である。元々の土台は出来ていたのだ。

 これなら思ったほど心配をしなくていいのかもしれない。

「なんだかエリゼのことが何でも分かっちゃいそう。それこそ隅から隅まで。まあ、リィンさんのことを? そんなことを考えてるの? うふふ、エリゼったら意外と大胆なんだから」

「な、な、な、何を言ってるんですか! そんなこと考えてません。だ、だったら私だって」

「いや、心の中までは読めませんから」

 やはり心配だった。

 

 

 山の中腹あたりまで登ったくらいだろうか。幸い魔獣には見つからず、一度も戦闘を行わないまま、ここまで来ることができた。

 付いてくる二人も最初は辺りに警戒していた様子だったが、今は幾分か落ち着いているようだ。だからと言って気を抜くわけにはいかないが。

 二人の話し声が、後ろから聞こえてくる。

「姫様、その……大丈夫ですか?」

「これくらいの山登り、全然平気よ」

「いえ、そうではなくて――」

「あ、エリゼが休みたいのね。トヴァルさんにおんぶしてもらったらどうかしら? リィンさんには内緒にしておくから」

「もう、姫様!」

 トヴァルも察した。エリゼの気遣いは体のことではない。ユーゲント皇帝、プリシラ皇妃、セドリック皇太子はおそらく今もバルフレイム宮にいる。家族を置き、一人帝都を離れることとなった彼女の心を慮っているのだろう。

 アルフィンもエリゼの配慮には気付きながらも、心配をかけまいと笑顔で振る舞っている。

 皇族とはいえ、年端もいかない少女が何と気丈なことか。

 早くユミルまで辿り着いて、休息の場を用意しなくては。トヴァルがそう思った時、「ところで……」とアルフィンが話題を変えた。

「ねえ、エリゼ。トヴァルさんって恋人とかいらっしゃるのかしら?」

「またそんなことを。トヴァルさんに聞こえてしまいますよ」

 聞こえている。が、あえて聞こえないふりをする。

「エリゼはどう思うの? 大人の男性の恋愛に興味はないの?」

「そ、それは」

 ……ちょっとありそうな感じだ。

 その後、二人は勝手な想像を膨らまし始めた。ロングヘアーの清楚な感じが好みに違いないだとか。ボーイッシュで活発な感じが合うだろうとか。遊撃士だから、助けた町娘とのラブロマンスがあって然りだとか。

 最初は控え目に諌めていたエリゼも、気付けば話にノリよく付き合っている。何だかんだ言っても女学生。やはりこの手の話題だと盛り上がるらしい。

「………」

 経験で培ったものなのか生来のものなのか、トヴァルは対人コミュニケーションにおけるバランス感覚に長けていた。

 自分が関わる内容であっても、無分別に会話に入ってはいけない場合があることを弁えていた。しかし、

「えーと、お二人とも?」

 やむなく話を割る。このまま放置しておくと、どこまでも加速しそうだった。すでに自分は故郷に恋人を残してきた設定にされている。

「あ、すみません。私ったら……」と赤面するエリゼとは逆に、アルフィンはさらに踏み込んできた。

「トヴァルさんってお付き合いをされている女性はいるのですか?」

 大きな瞳が輝いていた。苦笑しながら答える。

「いえ、いませんよ。遊撃士をしていると、一つの場所には留まれませんしね」

「大変なお仕事ですものね。でしたら気になっている方は?」

 ぐいぐい来る。

 一瞬、ある人の顔がよぎったが、それは違うと思い直した。

 しかし、アルフィンはわずかに変わったトヴァルの表情の変化を見逃さなかった。

「まあ! おられるのですね! ふふ、どんな方なんでしょう」

「いやいや、そういうのではないのですが」

「では、どういうので?」

 追及の手が緩まない。

 上手いかわし方はと思案するトヴァルだったが、不意に肌がざわつくような感覚を覚えて、その足を止めた。

「トヴァルさん?」

「アルフィン殿下、エリゼお嬢さん。静かに」

 風もないのに、周囲の茂みが不自然に揺れる。

 このまま何事も起きないまま進みたかったが、そういうわけにもいかないらしい。

 魔獣が来た。

 

 

 敵の場所はまだ分からない。経験からくる直感だったが、おそらく魔獣は小型。そして複数だ。

 傾向的に大型魔獣は単体であらわれ、力押しで襲ってくることが多いのに対し、小型魔獣は群れをなして獲物を包囲し、隙を窺って襲ってくる。

 今の状況は後者だった。

 同時にトヴァルは戦い方を限定された。相手が複数であっても、応戦、あるいは退避する術は心得ている。

 しかし今は二人の身を守りながら戦わなくてはならない。防戦をベースにしながらも、魔獣の殲滅を目標にしなければならなかった。

「二人はご自分の身を守る事に集中して下さい。攻撃は自分が引き付け――」

「トヴァルさん、上です!」

 エリゼが叫ぶ。近くの木の上から、小さな黒い影が跳躍する。ユミル地方に生息する猿型魔獣――ワラビモンチだった。狙いはトヴァルだ。

 二人に意識がずれた、まさにその瞬間を突かれた。迂闊の二文字を噛みしめながら、トヴァルはスタンロッドを腰から引き抜く。

 しかしわずかに相手の方が早かった。剥かれた牙が迫る。

 雷閃が眼前を擦過した。

 轟く光に呑まれたワラビモンチは、悲鳴をあげる間もなく力尽きる。

「で、殿下?」

 アーツを駆動させたのはアルフィンだった。胸を撫でおろしながら「お怪我はありませんか?」と安堵した様子で訊いてくる。

「まだ来ます!」

 鋭い声音でエリゼが言う。

 木の陰、茂みの中から一斉にワラビモンチが飛び出してきた。六匹いて六方向からの襲撃。一人ではフォローしきれない。戦闘に参加はさせたくなかったが、こうなれば腹を括るしかない。

「二人はサポートを! 俺は近付いてくる奴らを片っ端から叩きます!」

『はい!』

 そろった返事で応じ、リンクするアルフィンとエリゼ。トヴァルはスタンロッドを構え直した。一匹一匹はさほど脅威ではない。頭数を減らしてから、隙をみてアーツで一気に仕留めればいい。

 身を屈めて迎え撃とうとした時、地面に熱が広がり、幾重もの火柱が噴出した。炎に巻かれるワラビモンチ勢。

 またもアルフィンのアーツだった。

「姫様! 山中で火はダメです、木に燃え移ってしまいます」

 間髪入れず、エリゼが激しい水流を放ち、魔獣ごと炎を押し流す。この時点で残りは三匹、半数にまで減っていた。

「あ、ごめんなさい。つい」

 謝るアルフィンだが、早くも次のアーツの駆動準備に入っている。

 ワラビモンチ達が散開した。逃げるつもりはなく、多方面からの攻撃を仕掛けようとしている。

 だが、離れかけた三匹は、突如屈曲した空間に吸い寄せられるようにひと固まりにされる。

 アルフィンが駆動させたダークマターの効果が切れない間に、エリゼは《ARCUS》を構え、地面にかざした。指向性を得た導力が地中を走る。直後、魔獣達の足元が勢いよく隆起し、三匹のワラビモンチはまとめて空高くに吹き飛んでいった。

 戦闘終了である。

「……参ったな、こりゃあ」

 リンクしていたとしても、種別に駆動時間の異なるアーツで連携を取るのは、決して簡単なことではない。それを今日初めて《ARCUS》を手にした二人が、苦もなくこなしてしまうとは。

 アルフィンのアーツ駆動の速さ。エリゼの隙間を埋めるようなフォロー。

 いいコンビだ。これに個々に適した武器が備われば、戦術の幅はさらに拡がるだろう。

「お兄さん、たまげたぜ」

 冗談めかして両手を広げてみせたトヴァルを、エリゼ達は不思議そうに見つめた。

 そして彼女達は同時に気付く。

「ト、トヴァルさん!? 火、火が!」

 先程のアーツが飛び火したらしく、コートの端に小さな火種がくすぶっていた。

「おっと、心配ご無用。このコートは耐火にも優れていて――」

「動かないで下さい! 姫様!」

「ええ、エリゼ!」

 光るオーブメント。大砲から撃ち出されたような二つの水塊がトヴァルを打ち据える。勢いに押されるまま、彼は背後の岩壁に激突した。

「ひ、姫様。威力が強すぎます!」

「あ、あら? でも今のはエリゼの方が強かったと思うの」

 やいのやいのとかしましく言い合う少女達をかすむ視界の中に収めて、トヴァルは無理やり頬を笑みの形にする。

 心配をさせまいと虚勢を張ったつもりだが、残念なことに数秒ともたなかった。

「お……お兄さん、たまげ、たぜ……」

 その言葉を今一度繰り返し、ずるずるとへたり込む。

 どうやらユミルまでの道のりは、思った以上に険しいらしい。

 

  

 ~END~

 

 

 

 

 

《Force majeure》

 

「リィン、この後一緒に釣りにでも行かないか?」

 カレイジャスの甲板デッキにいたリィンに、そんな誘いをしたのはガイウスだった。

「珍しいな。ってガイウスは釣竿を持ってるのか?」

「ああ、ノルドの実家にあったものを持ってきている」

 今はカレイジャスの補給や整備の為に、ルーレ空港に停泊している。時間は十分にあった。

「そうか、だったら行こうかな。俺も釣竿を準備してくるから、何なら先に行っててくれ」

「わかった。場所はスピナ間道の小川あたりでいいだろう。川岸付近で待っている」

 リィンが了解を返すと、ガイウスは先に船内へと戻っていった。

 何気なくその背中を見送るリィン。

 ルーレでは色々な事があった。

 アンゼリカとの再会。軟禁状態にあったイリーナの解放。ラインフォルト本社の奪還。ログナー公爵率いる領邦軍と、立て続けに行われた黒竜関での戦い。そして《V》――ヴァルカンの死。

 考えるあまりに思い詰め、表情に余裕もなかったように思う。もしかしたらガイウスは、そんな自分を気遣ってくれたのかもしれない。

「いけないな、こんなことじゃ」

 両頬を軽く自分で叩いて、「よし!」と気持ちを変えてみた。

 半分は空元気だったが、一人で悩むよりはいいだろう。

 リィンは止めていた足を動かした。

 

 

「あ、リィンじゃないか。今少し時間はあるか?」

 釣竿を片手にルーレ市内を歩いていると、不意に声をかけられた。声の主はマキアスで、隣にはユーシスもいる。

 時間、と言われるとガイウスとの約束もあるし微妙な所なのだが、まあ話くらいはとリィンは二人の用事を訊いてみることにした。

「ふん、実際に見た方が早かろう。俺も今話を聞いた所だしな」

「え」

 言うが早いか、ユーシスはスタスタと先に歩き出してしまう。「お、おい、待ちたまえ」とマキアスも後を追ったので、リィンも続かざるを得なかった。

 

 着いた先はルーレ工科大学、その門の手前である。ハーヴェスとグレゴという学院生二人がリィン達を出迎えた。

「やあ、待っていたよ」

「急な頼みで悪いね」

 彼らは気安げな挨拶をよこし、「ではさっそく」とある物を取り出した。

 小首をかしげてリィンはそれを見やる。

「導力車の……玩具?」

 ハーヴェス達の説明を聞くに、この玩具は『導力ラジコン』というらしい。何でも導力を介した遠隔コントロールが可能で、付属のリモコンを使って無線で動かせるとのことだった。

 頼みとは端的に言えば『レポートを書きたいから、その為の試運転に付き合って欲しい』である。ちなみにたまたま近くを歩いていたマキアスが最初に彼らに捕まり、まだ人手がいるからということで人員を探し回る内にユーシスを見つけ、渋る彼に何とか協力の約束を取り付けたところでリィンが通りがかった――そういう流れだそうだ。

「まあ、あまり時間もかからなそうだしな。俺も手伝うよ」

 ラジコンを操作して、コースを三周程回ればいいらしいので、実際そこまで時間はかからない。五分少々のこと、そこまでガイウスを待たせることもないだろう。

 リィンは釣竿ケースを脇に立てかけて、ハーヴェスからリモコンを受け取った。

 

 レースは思いのほか白熱した。

 一週目はリィン達も操作性の確認がてら、様子見の呈だったが、二周目にもなると鋭いコーナリングやコース取り、駆け引きの応酬が要所で展開されるようになった。

「邪魔だ、道を開けろ!」

「君こそ!」

 二周目を過ぎたところで、ユーシスの操作するラジコンが立てかけていた釣竿ケースに接触してしまう。倒れたケースから竿や糸、釣り針が散乱してしまったが、リィンもレースに集中しており、そこに気を留める余裕はなかった。

 そして三週目の終わり。際どい勝負だったが、一番にゴールしたのはマキアスだった。

「やったぞ!」

 しかし気の緩みからか、彼は操作を誤った。ブレーキを押したつもりが、間違ってアクセルを押し込んでしまったのだ。途端に急加速するマキアス機。

「うわっ!?」

 焦ってさらにリモコン操作を誤る。

 ジグザグに走り、斜面を駆け上り、方向を変え、前輪が何かを踏んだのか、そのまま大きくバウンド。あろうことかマキアス自身に向かって、機体が跳ね上がった。

 しかも最悪な事に、先ほど散乱した釣り糸と釣り針が車体に引っ掛かっている。

「うわあああ!」

「マキアス、避けろ!」

 ぎらりと光る釣り針が顔面に迫る。マキアスは咄嗟にのけぞって、ギリギリでそれをかわす。

 しかし、完全にはかわしきれなかった。フック型の釣り針が、狙ったかのようにマキアスの眼鏡――その蔓の部分に掛かってしまったのだ。

 強奪される眼鏡。操作が利かなくなったリモコン。カラカラパリパリと、眼鏡を引きずりながら走る無慈悲なラジコン。

「あああ! 誰かあれを止めてくれえ!」

 マキアスの悲痛な叫びを受けて、ユーシスとリィンは自分達が繰るラジコンの速度を上げた。

「ふん、世話の焼けるやつめ」

「ユーシス、二機で挟み込んで動きを止めよう」

 直進するマキアス機。追走するユーシス機とリィン機。

 同時に左右から体当たりをして抑えるつもりだったが、それは至難のタイミングである。横目で見合い、二人は《ARCUS》でリンクした。

「おお、君達……!」

 マキアスの目に希望が戻る。

 息を合わせるのに、これほど適した機能はない。シンクロする二機の動き。全く同じタイミングで左右に分かれ、絶妙の速度に合わせ、マキアス機の両隣で並走する。

『今だ!』

 二つの意志が一つに揃い、リィン機、ユーシス機共に車間を双方から狭めた。しかし、マキアス機が急速にスピードを増し、わずかに先行する。

 結果、機を逸した。

 二機のプレスアタックは完璧にマキアスの眼鏡だけを捉えた。車体が両側からフレームを押し潰し、高速回転するタイヤがレンズを微塵に粉砕し、原型を留めないほどに破壊し尽くされた魂の残滓が、あまりに無惨な風体で歩道の上に飛散する。

「うあああ! 僕のっ、僕のお!」

「わ、わざとではない! ええい! 離すがいい!」

 恨みを込めた瞳でユーシスの腰にしがみつくマキアス。

 その折、マキアス機は壁に追突してひっくり返っていた。だが、アクシデントは継続中だ。

「ん? あ、あれ?」

 今度はリィンのラジコンの操作が利かなくなったのだ。突然バックしたり、左右にぶれたり、前進したりと、その動きもかなり不規則である。

「あー、もしかして正常に導力波を受信できてないのかもね。もしくは混線してるのかもしれない」

「とりあえず回収頼むよ。レポートと一緒に試作品も提出するつもりだからさ」

 ハーヴェスの言葉に、グレゴが続く。

「え、ええ!?」

 そうこうしている間に、ラジコンはどんどん遠ざかっていく。当然のように、リィンはそれを追いかける羽目になった。

 

 

 アリサは朝から忙しかった。

 無粋にもハイデル取締役が使用していた住居スペースの掃除、片付けに追われていたのである。会長であるイリーナは諸々の業務処理や体勢立て直しの為に奔走しており、とてもそこまでは手が回らないので、自分で済ましてしまおうと思ったのだ。

 シャロンも手を借してくれたので、幸い昼過ぎには一段落することができた。

 そういうわけで小休止。二人して少し遅めのランチを食べに行こうという話になったのだった。

「シャロンと二人で外食っていうのも何だか久しぶりね。何食べたい?」

「ふふ、私は何でも構いませんわ。お嬢様のお好きなものを」

 そんな会話を交わしながら、ビルの入口を出て数歩進んだ時、

「きゃっ! な、なに?」

 足の間を何かが抜けていった。

「そこだあっ!」

 同時にヘッドスライディングで飛び込んでくるリィン。ずざぁっと地面を滑り、アリサの両足をくぐる形でリィンは制止する。

「くそっ、もう少しだったのに……ん?」

「い、い、い……」

リィンの顔が上に向く。

「いやあああっ!!」

 彼の視界を埋め尽くしたのは、凄まじい勢いで迫るアリサの靴の裏だった。

 

 

「ほう、これはまた面白い形をしているな」

 感嘆の声を漏らしながら、RFストアの店内を見回っているのはラウラである。

 洗濯機に冷蔵庫、レンジなんてものもある。全て導力を利用した生活用品だ。

「すごいな。レグラムの屋敷にも一台あれば便利だろうに」

 値段を見る。桁が違う。子爵家令嬢とて、所詮は学生の身。到底手がでない代物なのは間違いない。

 ため息混じりで苦笑し、次にラウラが目を留めたのは、掃除機なるものだった。説明書きを読んでみる。

「ふむ? “翠耀石を内部機構に組み込み、風の力で埃や塵を残らず吸い込みます”……か」

 やってみたい。とてもやってみたい。ものすごくやってみたい。

 お嬢様の好奇心が刺激されていた。

 そして幸いな事に、試用台が設置されている。実際に掃除機を使ってみていいらしい。

「ど、どれどれ」

 いざ使うとなると緊張してしまう。おそるおそる持ち手を掴み、スイッチを押してみた。

 低く振動し、掃除機が起動する。台の上に置かれたデモ用のゴミ屑に近づけてみると、あっという間に吸い取って、説明書きの通り塵一つ残さなかった。

「お、おお……!」

 感動である。これならほうき入らずではないか。その上、弱中強の力調節が出来て、しかも今は弱ではないか。

 まだ二段階も力の解放を残しているとは。これは尋常ではない。

「………」

 試してみたい。好奇心が止まらない。しかし弱でこの威力。強にしたらどうなってしまうのだろう。人ひとり――それこそフィーやミリアムくらいなら吸い込んでしまうのではないか?

 見当違いのことに思考を巡らしながら、「うーむ」とうなっていると、買い物を終えたらしい一人の客が扉を開けて帰っていった。

 ドアの隙間から、入れ違いになるようにラジコンが入ってくる。

 ラジコンはゆるゆると進み、ラウラの足元近くで止まった。ラウラはそれに気付かない。

 バンと扉が開き、リィンが駆け込んできた。

「確かここに入ったと思ったんだが……」

「リィンではないか。そんなに息を切らして――というかそなた、顔をどうしたのだ」

 リィンの顔面には顎から額まで、くっきりと靴跡が残っていた。

 しかし説明する時間はない様子で、リィンはラウラの足元のラジコンに気付くと、「……動かないでくれ」とじりじりと間合いを詰め始める。

「リ、リィン?」

 異様な雰囲気を感じて足を引きかけたが、動くなと言われた以上、ラウラは律儀にもその場に踏み止まった。「はあ、はあ」と息も荒いまま身を屈め、足元に手を伸ばしてくるリィン。

「ふ、不埒な!?」

 反射的に手にしたままの掃除機を突き出す。吸入口がリィンの顔に押し当たる。ズゴゴゴとけたたましい音を立てて、掃除機がリィンの顔面に吸い付いた。

「ぶあっ!? なんだこれ! ラウラ、とめっ、止めてくれ!」

「す、すまない! ええっと、スイッチを今切るから――」

 押し間違える。強。ズギョオオオ!と全力フルパワーで咆哮を上げるラインフォルト社の技術の結晶。

「ぶあっ、だあっ、ぶはあっ!?」

「あ、あ、あ? なぜだ、ここを押しただけなのに? わ、私はどうすれば?」

 ただただ焦るラウラ。

 そして引っ張られるままに、前のめりに倒れ込むリィン。

「もう今日は許さないわよ、リィン! 覚悟……な、さい」

 遅れてアリサが店内に入ってきたのは、見事にリィンがラウラを組み敷く瞬間だった。

 ラウラもラウラで激昂してすぐに振り解けばいいものを、視線をそらしたまま「ふ、不埒な……」などと呟き、身じろぎもせず頬を赤く染めている。

 掃除機が顔から外れ、ようやく最悪の状況を理解したリィンは「こ、これは違う……」と、額にびっしりと冷や汗を浮かべた。

 凍りつく時間の中、導力波を感知して、息を吹き返したラジコンだけが店から去っていった。

 

 

 中央広場にバイオリンの音色が響いている。

 言わずもがなエリオットの演奏で、それを横で聞いているのはフィーとミリアムだった。

「ふうっ」

 数曲引き終えたエリオットは、ようやく息をついてバイオリンを傍らに置いた。

 パチパチと二人から拍手が贈られる。

「さすが、エリオットの演奏は聞いてて眠くなる」

「あはは、だよねー」

 彼女達の『眠くなる』は、安らぐとか落ち着くとかの意味合いである。

 ちなみにフィーとミリアムの目的は日なたぼっこらしい。二人して手頃な段差に腰掛けて、うつらうつらと舟を漕ぐ様は、陽だまりにて和む猫と言ったところだろうか。

 そんな彼女達を眺めながら弾くバイオリンは、心なしか柔らかな音色だったように思う。

 演奏は心を映す鏡。

 とても穏やかな心地だった。 

 目をこすりながら、フィー達が立ち上がる。

「ん、眠気覚ましに武器の整備でも行こうかな」

「ボクはぬいぐるみを探しに行きたいんだよねー」

 ミリアムの言うぬいぐるみはよく分からなかったが、冷えてきたのでどっちみち野外演奏はそろそろ切り上げ時だ。

「じゃあ、僕は先にカレイジャスに戻ろうかな」

 ふと広場に目をやると、街道側に向かって疾走する何かが視界をよぎった。

「なんだろ、あれ」

 目を凝らすエリオットの耳に、「道を開けてくれ!」と悲鳴にも似た声が届く。

 かなりの狼狽ぶりで、乗り間違えたのだろうか、上りのエスカレータ階段を逆走しながら駆け下りてくるリィンの姿が見える。ついでにその後ろに目を吊り上げたアリサと、赤らんだ顔で襟元を正すラウラが、そろって彼を追いかける姿も。

 また何かやったのだろうと直感したが、この場に留まっていたら正面衝突だ。エリオットはフィーとミリアムを庇うように飛び退く。それは丁度先ほど、リィンがラウラを組み敷いたような形だった。

 リィンはアリサ達に追い回されるまま、ルーレ空港――カレイジャスの方へと逃げていった。

「なんだったんだろう。ごめん、二人とも怪我はない?」

「急だったから驚いたけど」

「うん、ボクも大丈夫」

 安堵したエリオットが二人の上から退こうとした時、背後でゴトンと何かが落ちる音がした。

 ころころと視界の端にリンゴが転がってきた。その体勢のまま、顔だけで振り向く。

「な、なんでここに?」

 顔面蒼白になったメアリー教官が、両膝を震わしながら立ち尽くしていた。両脇に抱えた小袋から、購入したばかりであろう果物や野菜をぼろぼろとこぼしながら。

 彼女もトリスタを離れ、現在はミントの生家で世話になっているのだが、エリオットにそんな事情など分からない。同様に、エリオットが市街のど真ん中でいたいけな少女二人を押し倒している理由も、メアリーには分からない。

「ルーレでも……」

 その唇が小さく動いた。

「ルーレでも猛将っ!」

 落ちた野菜などには構いもせず、メアリーは踵を返して走り去ってしまう。

「メ、メアリー教官、誤解です!」

 伸ばした手は虚しく空を切る。

「早くどいて欲しいんだけど」

「うう、重いよ……」

 自分の下でもがく二人。

 ルーレの住人達の「あ、あいつ猛将らしいぞ」などと言う小声だけが、雑多の中でも妙にはっきり聞き取れる。

 演奏は心を映す鏡。

 今はどんな曲を弾いても、悲しみに暮れた音色にしかならなさそうだった。

 

 

 カレイジャス船倉。エマはヴァリマールを見上げている。

 灰の騎神。その意匠は甲冑を纏いし中世の騎士そのもの。荘厳さの中に芸術的な趣きさえあった。

「ここにいたのね。一人で何してるのよ」

 いつの間にか黒猫がそばに控えている。セリーヌだった。

「ううん、少し様子を見にきただけ」

 自分とて騎神と、それにまつわる歴史、事象の全てを知っているわけではない。むしろ知らない事の方が多い。いや、知らされていない事と言うべきか。

 戦いを収め、平定をもたらす存在。あるいは混沌を生み出す存在。

 なぜ相反する伝承が残されているのか。

 誰が、何の目的で“彼ら”を作ったのか。単なる兵器としてではなく、心と意志を持たせてまで。

 考えても分かる話ではない。憶測さえも立たない。

 ただ唯一揺るがない事実が一つだけある。

 リィンを巻き込んだのは間違いなく自分だという事だ。

 最初は――いや、ずっと負い目を感じていた。だが彼はそれを責めるどころか、感謝しているとさえ言った。その言葉を聞いた時に誓ったのだ。全てを尽くして、力になろうと。

 起動者の導き手としてではなく、Ⅶ組の委員長として。

「……ここは周りが金属ばかりだから冷えるわ。風邪をひく前に戻るわよ」

「心配してくれているの?」

「ち、違うわよ。私が寒いの!」

 セリーヌはぷいっとそっぽを向く。付き合いも長い。これは本当に自分を案じていると分かる。多分体調ではなく、心の方を。

 カンカンカン、と非常階段を忙しなく下りて来る足音が響いた。

「あら、リィンさん。どうしたんですか、そんなに慌てて」

「い、委員長か。すまない、話は後だ。ヴァリマール、ヴァリマール!」

 相当切羽詰った様子で、二回も名を呼ぶ。

 騎神の双眸に光が灯り、グォンと各部から駆動音がした。

『ドウシタ、リィン』

 精悍な男性の声で、ヴァリマールが応じた。

「乗せてくれ、今すぐに!」

『何故ダ? 特ニ戦闘状況デハナイヨウダガ』

「緊急事態だ!」

『……承知シタ』

 光に包まれたリィンは、(ケルン)と呼ばれる騎神の心臓部へと吸い込まれていく。

 成り行きを呆然と見ていたエマは、近付く別の足音を聞いた。

「エマ! リィンが来なかった!?」

「まったく、あの男は……」

 アリサとラウラである。

「え、えーと」

 二人の様子を見るに、リィンが何かをやらかしたのは疑いようがない。しかし事情も分からないのに、彼の所在を告げていいものかどうか。そんな思案をしていたら、無意識に目線がヴァリマールを向いてしまっていた。

 アリサが察する。

「分かった。あの中ね? ヴァリマール!」

 名を呼ばれたヴァリマールが、再び反応する。

『ドウシタ』

「私達も中に入れて」

『質問ノ意図ガ不明』

「できるの? できないの?」

『準契約者タルソナタ達ナラ可能ダ。ダガりぃんノヨウニ、コノ体ヲ動カスコトハ――』

「構わないわ。やって。緊急事態よ」

 再び発せられた緊急事態。断固たる口調だった。

『承知シタ』

 光がアリサを、ラウラを、そしてエマとセリーヌを包む。

「え、ええ? 私達もですか!」

「ちょっと、待っ――」

 

 

 ヴァリマールの操縦空間に収まり、リィンは深く息を吐きだした。

 いい加減、自分の迂闊さに気を付けなくてはと心底思う。今回は随分と怒らせてしまったようなので、アリサ達が少し落ち着いた頃合いで謝りに行くつもりだった。

 だから、これは完全に予想外である。

 右隣にアリサが現れた。左隣にラウラが現れた。真正面にエマが現れた。頭の上にセリーヌが現れた。

「やっと捕まえたわよ、リィン! って何ここ、こんなに狭いの!?」

「リ、リィン、そなた少し離れるがいい!」

「わ、私この位置ですか!?」

 ただでさえ一人用の空間である。そこに合計四人と一匹がぎゅうぎゅうに押し込められた形だ。

 それはもう、てんやわんやである。

「ちょっと、動かないで」

「いや、だけど!」

 ずるりと頭の上からセリーヌが落ちてくる。反射的にそれを支えようとするリィン。セリーヌが「ニャッ!?」と甲高い声をあげた。

「あ、あんた、どこ触ってんのよ!」

「ど、どこ触ったんだ?」

「それを私の口から言わせるつもり!?」

 フシャアと鳴いて、引っかき攻撃。

「痛っ! や、やめてくれ!」

「セリーヌ、暴れないで!」

「あなたって人は猫にまで手を出して!」

「そなた、動くなと何度言えば……!」

「フシャア! フギャア!」

 混沌の中、リィンは全力で声を張り上げた。

「出してくれ、ヴァリマール!」

 核内部に声が響く。

『ヤハリ四人ハ容量超過ダ。排出シタイノダガ――』

「だが、何だ?」

『ツマッタ』

「な、なっ!?」

『……否。四人モ転移シタノデ、霊力ヲ想定以上ニ消費シタ。シバラクスレバ回復スルダロウ。ソレマデ待ツガイイ』

 核内の光が消える。霊力回復の為の簡易休眠状態に入ったのだ。 

「ま、待ってくれ、ヴァリマール。しばらくってどれくらいだ。おい、ヴァリマール!」

 騎神は応えない。

 視界は真っ暗。

 操作を戻そうと色々手を動かしていたせいで、気付けば色々なものに触れていた気がする。

「………ねえ、リィン」

 ひどく冷ややかなアリサの声。何も見えないが、これはお怒りでいらっしゃる。それも先ほどより遥かに。

「何か言う事はある?」

 そう訊かれて、リィンは答えた。

「……不可抗力なんだ」

 

 

 スピナ間道に夕暮れ時を告げる鳥の鳴き声が響き渡る。

「リィン、来なかったな」

 ガイウスは一人で釣りに興じることになっていた。結局最後まで魚は一匹も釣れなかったが。

「仕方がない、帰るとしよう」

 なんとなくは分かっている。あのリィンのこと、ここに来るまでに何か依頼でも受けたのだろう。こちらの約束も忘れていた訳ではないが、緊急度が高いものだったから、やむなくそちらを優先した――そんな所だ。

 それはリィンの長所の一つだと思っている。そんな彼だからこそ、皆が慕うのだ。

「む……」

 ルーレ市内へと歩を向けた時、何かがカタカタと音を立てて近付いてきた。

 リィンが追っていたラジコンである。街道に出た為、導力波がだんだん届かなくなり、ここに来てその動きを完全に停止したのだ。

「導力車の……玩具、か? 動いていたようだがゼンマイ式だろうか」

 しかし周りを見回してみても人影はない。何とはなしに拾い上げる。誰かの持ち物かもしれないと、とりあえず持って帰ることにした。

 街道を引き返し、市内に繋がる大きなゲートをくぐる。

 黒銀の鋼都が赤く染まっていた。子供達がそれぞれの家へと帰っていく。夕食の匂いが湯気と共に漂ってくる。

「絵にしたいものだ」

 考えずに口から出た言葉だった。

 詰まる所、人の生活、営みはノルドであってもルーレであっても、根本の部分は変わらないのではないか。この何気なく、当たり前の風景こそ、守るべきものではないか。

 走る子供達が故郷の弟妹と重なり、ガイウスはそんなことを思った。

 広場を抜けて、ルーレ空港へ。

 ドックにカレイジャスが停泊している。

 赤い船体が夕日を浴びて、さらに真紅に輝いていた。

「ん?」

 後部デッキの端に誰かがいる。あのシルエットはリィンだ。

 いや、いるというか……四肢を括られ、柵に張り付けにされている。遠目にも理解した。彼は何かの反省を強いられているのだと。

 リィンの心中は知りようもないが、甘んじて罰を受けているところを見ると、どうやら非を認めているらしい。

「せめていい風が吹くよう祈るしかないな」

 正直、まったく和む要素のない構図なのだが、不意に懐かしさが込み上げてきた。

 あれは当たり前の風景――とは言えないが、かつてはあって、一度失って、そしてまた戻って来たもの。

 騒がしくて、楽しくて、明るかった自分達の日常。

 鮮やかに輝く日々の連なり。幾重もの未来へと繋がる虹色の軌跡。

 ああ、そうだ。これこそが守るべきもの。その価値のあるもの。

 いつかまた、当たり前にあった日常を当たり前に過ごせるその日まで。

 自分達は、Ⅶ組は、戦い続ける。

 沈みかけた太陽の下、悲哀を映すリィンの背を見上げながら、ガイウスはそう誓った。

 

 

 ~END~




そんなわけでやはり中編を挟んでしまいました。どうしてもⅦ組勢をフル出撃させると一話のボリュームが増えてしまい……
今回はトヴァルさん含め、二話でお送りしています。短編は短編なのでしょうが、詰め合わせにはなりませんでしたね。

ルーレの方はⅡプレイ済みの方はお気づきかと思いますが、あの辺りのイベントを全部一つの話にまとめました。猛将とかはなかったと思いますけど。
リィン視点から始まり、ガイウス視点で終わるというちょっと変わった構成でもあります。
久しぶりのⅦ組勢なので、リィンは例によって不可抗力にまみれてもらいました。
まあ、四の五の言わずに爆発せよ。

ではようやく次回がラストの後編です。
最後までお楽しみ頂ければ何よりです。


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ちょっとだけ閃Ⅱ(後編)

虹の軌跡、正真正銘最終更新です。今までありがとうございました!


 ――七耀歴1203年、七月中頃――

 

「あ、こんなところにいた! 早く起きてよー!」

 まどろみの底に沈んでいた意識が、体を揺さぶられる感覚と共に戻ってくる。

 目を開くと太陽が眩しかった。顔をしかめるよりも早く、陽光は自分の顔をのぞき込む一人の少女によって遮られる。

 トワ・ハーシェルだった。あくびをしながら目をこすると、トワはさらに体を揺さぶってきた。

「もう、クロウ君!」

 名を呼ばれ、ようやくのろのろと体を起こしたクロウは、ずれていたバンダナの位置を直し、頭をぽりぽりとかく。

 確か屋上で昼食のパンをかじって、少し眠くなったからここで寝たのだったか。思考が回り始めるにつれて、そんな経緯を思い出した。

「なんだよ、まだ昼休憩だろうが」

「あと二分で終わりだよっ」

 むくれた顔のトワは急いだ様子で、クロウの手を引いた。

「おいおい、何だってんだ」

「何だじゃないよ。サラ教官に言われてるでしょ」

 言われてそれも思い出す。

 そう言えばそうだった。面倒事が残っていた。

「……ああ、先に行っててくれよ」

「ダメだよ、一緒に行くの!」

 休憩の終わりを告げる鐘が鳴り、トワが「わわっ!」と焦った声を上げた。

 わたわたと先にトワが走り出し、一つ首を巡らせてからクロウも後に続く。

 夏の始まり。日差しは今日も暑かった。 

 

 

      《I remember you》

 

 

「二人とも遅いわよ」

 グラウンドに着くと、腰に手を当てたサラが待ち構えていた。

「す、すみません」

 謝るトワだが、決して「クロウ君を呼びに言っていたから」などの言い訳はしなかった。庇っているつもりなのだろうか。そんな必要はないのに。

「クロウは? 何か言うことある?」

「ん、何もねーぜ?」

「いや、謝りなさいよ」

 呆れた様子のサラは「もういいからそこに並びなさい」と軽く手で示す。

 そこ、と言われて目を向けると、一足先に来ていたらしい別の二人がいた。

 ジョルジュ・ノーム。どっしりした体付き。温和な顔付き。最近技術部に入ったらしく、黄色のつなぎ姿でいるのをよく見かけるが、今は自分と同じ緑色の学院服だ。

 アンゼリカ・ログナー。ログナー公爵家令嬢。貴族生徒用の白い学院服を着ていて、ショートカットの細面。しかし貴族令嬢らしからぬ言行が目立つ。小耳に挟んだ程度だが、武道の心得もあるらしかった。

 その横にトワとクロウも向かう。

 定位置に付くと「まあ、何で召集されたかは察しがつくけどね」とジョルジュが苦笑いを向けてきた。

 それは自分にも分かっている。クロウは腰元のホルダーに目を落とした。収まっているのは一つの戦術オーブメント。

 案の定正解だったようで、サラはそれを取り出すよう四人に指示をする。

「さてと質問。君達が手にしているそれは何? トワ、答えて」

「は、はい」

 サラに名指しされて、トワは背すじを伸ばした。

「えっと、ラインフォルト社製の新型戦術オーブメントです。《All-Round Communication & Unison System》という機能が組み込まれていることから、略称で《ARCUS》と呼ばれています」

「結構。ではその組み込まれている機能を端的に説明して。じゃあ、ジョルジュ」

「導力を使った遠隔通信と、戦闘における高度な連携を可能にするリンク機能です」

「はい、正解。ではどうしてこの《ARCUS》が君達に貸与されているのかしら? 次、アンゼリカ」

「正規品として精度を高める為のデータ集め。そして来年から発足されるという特化クラスⅦ組の運用方針を定める為、だったかな。要はまだ見ぬ後輩達の下準備だ」

「そうね、それが前提。それでは最後の質問よ。どうして君達は今ここに集められているのかしら。クロウ」

「この前の実習の結果が芳しくなかったから、だろ」

 聞かれるまでもなく、分かりきっていることだった。

「そういうこと」とうなずいてから、サラは「特に君達二人のね」と付け加える。順に動く視線は、クロウとアンゼリカに向けられた。

 どちらも表情は変えず、平然と――いや、どことなく憮然としている。

 あらましはこうだ。

 四人は《ARCUS》の試用対象者として選抜され、定期的にサラ指導の下、学外に赴いて実戦運用や、そのシミュレーションなどを行っている。肝心のリンク機能は概ね良好。各組合せを試してみても戦術リンクは一定のパフォーマンスを発揮した。

 ――クロウとアンゼリカ、この二人を除いては。

 入学しておよそ三か月。新型オーブメントのテスターに選ばれたと聞かされて二か月。実際の試験運用が本格的に始まって一か月。

 二人の関係は、未だ良好とは言えなかった。

「まあ、ある程度は想定してたことだけど。とはいえリンクが使えない状態では、この先のカリキュラムにも支障を来たすわ」

 クロウが口を挟む。

「別に俺を降ろしてもらってもいいぜ。こっちから頼んだわけでもねえし。適任は他にもいんだろ?」

 流せる程度の軽口の範囲だった。しかし、それがアンゼリカの気に障ったらしく、にわかに鋭くなった目をクロウに注いだ。

「なんだよ、アンゼリカ? 言いたいことがあるなら言ってもらって構わねえぜ」

 含みを持って横目で見返してやる。アンゼリカは「だったら言わしてもらおう」と一歩前に出た。

「以前の屋外実習の時、私とのリンク中に一瞬手を抜いただろう。曲がりなりにもリンクしていたから分かる。あれは何のつもりだ?」

「別に何のつもりもねえけどな」

 野外フィールドを使った二体二の模擬戦闘。トワ、ジョルジュ班に対するクロウ、アンゼリカ班だったが、開始五分程度で物の見事にリンクブレイクを起こし、結局その日の実習はそれ以上行えず延期となった。

「君は理由もなく手を抜くのか?」

「だから抜いてねえって。ちょっと小石につまずいて気がそれたんだよ」

「リンクはそんなことでは切れない」

 自分を抑えながらも小さな苛立ちを隠しきれないアンゼリカ。明確には答えようとせず、冗談めかしたり、どこかはぐらかしている雰囲気のあるクロウ。

「アンちゃん、その辺りで……」

「クロウもだよ」

 トワとジョルジュがそれぞれをなだめた。

「まったく。ともかく今から前回の補習を――」

「サラ教官!」 

 本校舎側から誰かが走ってくる。ハインリッヒ教頭だった。思いがけず「うわっ」と声が出てしまったサラの表情は、露骨にひきつっている。

「この後は教官会議だろう。学生達は自習だ。こんな所で何をやっているのかね!」

「え、ええー……そうでしたっけ?」

「何を今さら、これだから君は。いいから早く来たまえ。君以外の教官はそろっているぞ」

「ち、ちょっと引っ張らないで下さいよ! あ、補習は今日の放課後にやるからね!」

 ハインリッヒにずるずると引きずられる形で、サラは本校舎に連行されてしまった。

 気まずい沈黙だけが残る。

「えーと、とりあえず教室に戻ろっか?」

 一応の締めくくりはトワがした。ちなみにクラスはそれぞれ違う。

 その場を離れる面々。

 クロウの前を通り過ぎる時、アンゼリカは「君は――」と小さく言った。

「何がしたくて士官学院に入ったんだ」

 

 

 放課後。

 三々五々に教室から出ていくクラスメート達の背を見送りながら、クロウは軽く伸びをした。

「何がしたくてここに来た、か」

 その言葉がいつまでも頭の片隅に残っている。

 何がしたくて? あえて答えるなら身を隠す為だ。凡百の一生徒として。いつかたった一発の引き金を引く、その日の足掛かりの為に。

 だから悪目立ちはしたくなかった。故にこの《ARCUS》とやらの試験運用者に選ばれたのは誤算だった。

 それを差し置くとしても――

「何でだろうな」

 目立ちたくないとは言え、適度に人付き合いはこなしている。冗談も言うし、クラスの足並みも外さない。そんなクロウ・アームブラストだった。可もなく不可もなく。無理に演じているつもりもない。

 最初に絡んできたのは向こう――アンゼリカからだった。特に嫌われることをした覚えもないから、元々の性格が合わなかったのだろう。別にこちらは嫌われようとも、特別好かれようとも思わない。いや、むしろ嫌われていた方が都合がいいかもしれない。

 そこまで考えて、自嘲の笑みがこぼれる。

 それはそうだろう。

 自分がこの輪に居続けることはない、絶対に。誰かと親しくなれば、必ずそれは足枷になる。一番憂慮すべきことだ。

 付かず離れずの関係。それが最善。お互いの為にも。

「クロウ、まだ教室にいたのかい?」

 不意に声をかけられた。戸口にジョルジュが立っている。

「そろそろ行こうとしてたところだ」

「へえ、来ないかもと思って迎えに来たんだけど。その必要はなかったかな。まあ、せっかくだし一緒に行こうよ」

 意外に鋭い。半分くらいは行こうかどうか迷っていた。

「おお、行こうぜ」

 とは言え、それを表に出すことはない。

 クロウは荷物をまとめて席を立った。

 

 

「私はクロウが気に入らない」

 廊下を歩きながら、アンゼリカは隣のトワにそんなことを言った。トワは困った顔を浮かべて「なんでなの?」と聞き返す。

「なんでだろうね。実の所自分でもはっきりわからないんだ」

「な、なにそれ。そんなことで嫌っちゃだめだよ、アンちゃん」

 四大名門の公爵家令嬢。普通に考えて、平民生徒が愛称で呼べるような相手ではない。だがアンゼリカは畏まった態度を取られることが苦手だと、最初の顔合わせの時に、あだ名で呼んで欲しいと皆に頼んだのだった。

 トワは“アンちゃん”。ジョルジュは“アン”。だがクロウだけは「まあ、追々な」などと言って“アンゼリカ”で通している。

 別に不仲はそれが原因というわけではない。

「彼の言動も行動も……私には上辺だけのものにしか感じられない」

 調子を合わせながらも一定の距離を保ち、決してそれ以上は踏み込んでこない。

 顔が笑っているくせに、心が笑っていない。顔を向き合わせているのに、心がこっちを向いていない。

 何かが虚ろだと、アンゼリカは言った。

「そうかなあ、私にはよく分からないけど」

「武道をやってると、そういう事に敏くなるんだ。理屈じゃなくてね」

 アンゼリカは笑い、トワの頭をポンと叩く。

「むう、同い年なのに子供扱いはやめて欲しいんだけど。これ以上背が縮んだら困っちゃうし」

 頬を膨らますトワを横目に見ながら、アンゼリカは明るい口調で言う。

「だったら私が責任を持とうじゃないか」

「ど、どういう意味?」

「知りたいかい?」

「ふええっ!?」

 仰け反るトワに、アンゼリカの手が伸びた。

 

 

 ジョルジュと取り留めのない会話を交わしながら、クロウもグラウンドに向かう。途中、いくつかの教室の前を通りがかった。

 荒いだ声が聞こえる。

「おい、フリーデル! 昨日の勝負、俺は認めてねえからな!」

「あら、ロギンス君。どうしたの、怖い顔をして」

「すましてんじゃねえよ、練武場に来やがれ。昨日の勝負はまぐれだって教えてやる」

「ふふ、別にいいわよ」

 確かフェンシング部の二人だ。女子の方が滅法強くて、上級生でも敵わない程らしい。雰囲気的にあのガラの悪い方が負ける気がする。

 次は別の教室の前で、女生徒二人が言い合っていた。

「ちょっとテレジアさん、今日は練習がある日でしょう」

「そういう気分じゃないの。私に構わずエミリーさんは出たらいいじゃない」

「ラクロスはチームプレイよ。皆で練習することに意味があるの。先輩達も待ってるんだから」

「悪いけど、これで失礼するわ」

「ちょっと待ちなさいよ!」

 話しぶりからしてラクロス部か。同じ一年同士だが、どうも折り合いが悪い様子だ。

 この学院は貴族生徒と平民生徒が混在する。この手のトラブルは例年の事と聞いていた。自分とアンゼリカも、その中の一例なのだろうと、感慨もなくクロウはそう思う。

「うーん、色々あるみたいだね」

 見た目通り穏健派のジョルジュは、特に誰と仲が悪いということもない。単純に《ARCUS》を使う上では高い適正の持ち主と言えるだろう。

 こんな対人関係にも依存してしまうような戦術オーブメントが、果たして普及し、実際の戦闘に耐え得ることができるのだろうか。

 ふと自分達が《ARCUS》を渡された二つの理由を思い出す。サラはこう言っていた。

 ――リンク者の立場や思想、性格が異なった時、《ARCUS》はそのポテンシャルを発揮できるのか。それを測る為。

 ――あとは女の勘よ。

「………」

 前者は理解できる。後者は理解できない。

 女の勘などと当てにならない上、それがあのサラのものとなると、尚の事当てにならない。 

 そもそも、立場や思想など千差万別。極論を言えば、無差別に四人選んでもさしたる問題はないはずなのに。

「ひゃああっ」 

 唐突に響く甲高い声。トワだった。廊下の少し先でアンゼリカとじゃれあっている様子だ。

「あ、クロウ君、ジョルジュ君! 二人もグラウンドに行く所?」

 助けの求め先を見つけたトワは、わたわたとクロウ達に駆け寄った。

 アンゼリカとクロウの目が一瞬だけ交わる。が、それだけ。特に何もなかった。

 トワとジョルジュもわずかに変わった雰囲気を敏感に悟ったようだが、そこに触れるようなことはしない。

「ちょうどいいし、四人で行こう――ん?」

 ジョルジュが言った時、廊下の突き当たり、階段から奇妙な物体が上ってきた。

 

 

「なんだ、こりゃあ」

 初めて見るものだった。

 全身を覆う白銀のボディ。金属質なのだが、丸みがあって柔軟性も感じる。双眸らしきものと腕のようなものはあるが、足はない。その上、ふよふよと滞空している。

「銀色の……傀儡?」

 トワが端的な感想を述べた。実際それ以外に表しようがない。

 未知との遭遇に四人ともが動けないでいると「おや、何をしているんだい」と、そこはかとなくキザな声が聞こえてくる。

 傀儡に遅れて階段を上ってきたヴィンセントだった。確か伯爵家だったか、などとクロウが記憶をたどる間に、彼はつかつかと銀色の物体に歩み寄る。

「ふっ、美しいな。この流れるようなフォルム。硬質でありながら滑らかな触り心地――」

 ヴィンセントが大仰な仕草で傀儡を撫でようとする。小さく駆動音がした。

「ヴィンセント君、逃げて!」

「え?」

 最初に勘付いたトワが叫ぶ。しかし、

「ぶばあっ!?」

 ぐるんと急速回転した傀儡、その腕の一撃がヴィンセントの頬を打ち据える方が早かった。

 吹き飛び、壁に激突したヴィンセントはどさりと床に倒れる。

「これは……!?」

 とっさにアンゼリカが拳を構える。傀儡は弾かれたように動き出し、高速でその脇をすり抜けていった。

「あ、君達!」

 階段からサラが駆け上ってくる。彼女は突っ伏したヴィンセントを一瞥するや「遅かったわね……」と髪をかき上げた。

「あの銀色の傀儡は戦術殻って言ってね。君達の模擬戦闘用にも使えそうだったから色々といじってたんだけど」

『……けど?』

 異口同音に四人の声がそろう。一様に嫌な予感があった。

「出力最大にしてみたら、その状態で暴走しちゃって。こっちの制御をまったく受け付けないのよ」

『……で?』

「君達にあれを止めて欲しいのよ。それが今日の補習ってことでいいかしら」

 いいかしらとはどう言う了見だ。

 じとりとした視線が注がれ、「な、なによう」とサラはたじろいだ。

「が、学院長に報告に行ったら、私も手伝うから」

 けたたましい音が廊下に響いた。

 調理室前の廊下に調理器具やら食器が散乱している。そこに一人の男子生徒が倒れていた。調理部のニコラスだ。上回生に頼まれたかで、運び物の最中に戦術殻に襲われたらしい。

「このままじゃ被害が拡がっちゃう。私達で何とかしよう」

 その間にも、新たな悲鳴が遠くから上がる。

「了解だよ」

「是非もないね」

「しゃあねえな」

 トワの意に応じる三人。

「それじゃ頼んだからね!」

 無責任な声援を背に受けながら、四人は一斉に廊下を駆けだした。

 

 

 フルパワーの戦術殻は想像以上だった。出力もさることながら、スピードが速い。鬼ごっこ状態になると、まず追いつける相手ではなかった。あっという間に見失ってしまう。

 そこでクロウ達は散開。発見次第《ARCUS》で連絡を取り合うことにした。

 捜索道中――

「だあああ!」

 水泳部では戦術殻に蹴り上げられ、見事な飛び込みと無様な着水をクレインが披露した。

「うあああ!」

 写真部では戦術殻が暗幕をひっぺ返し、フィデリオが現像途中だった全ての写真を台無しにした。

「僕の眼鏡があ!」

 第二チェス部では突如押し入ってきた戦術殻が、ピンポイントでステファンの眼鏡だけを破壊した。

 トワ達の決死の追走も虚しく、あらゆる場所で被害を撒き散らす戦術殻。

 結局追い詰めたのは、本校舎に戻った先――屋上だった。

 

「ここなら誰にも迷惑がかからないよ」

 汗だくの額を拭い、トワは《ARCUS》を取り出した。武器は携行していないので、アーツと体術だけで目標を制圧しなければならない。

「前衛は私が務めよう。よろしく、トワ」

「ま、俺も前衛だよな。ジョルジュ頼むぜ」

 光軸が走り、トワとアンゼリカ、クロウとジョルジュ、それぞれがリンクする。

 先行するアンゼリカ。

 滑らかな初動。腰の上下も少なく、体幹も乱れていない。卓越した武道の体捌きだ。素早く間合いを詰め、アンゼリカは鋭い蹴足を見舞う。 

 回避行動を取った戦術殻だったが、かわし切れずにバランスを崩した。

 続いてクロウが踏み込み、体のバネを使った裏拳を放った。頭部に一発、硬質な音が響く。

「痛って!」

 骨身に返ってきた衝撃に思わず手を引いた。見た目通りだが、やはり外装甲は硬い。

「アンちゃん、クロウ君、下がって!」

「アーツを撃つよ」

 トワとジョルジュが《ARCUS》を構えている。

 リンクしているから、どのタイミングでアーツを放ってくるかが手に取るように分かる。

 クロウとアンゼリカは飛び退いた。

「ぐっ!?」

「うっ!?」

 そして互いの位置を見誤り――いや、見てさえおらずぶつかり合う。二人して、どすんと尻もちを突いてしまった。

「おい、どこ見てんだ!」

「それはこっちの台詞だ」

 体勢を立て直すよりも早く、余計な口の方が先に出る。

 その間に、二人よりも先に体勢を立て直した戦術殻。大きく双腕を振りかぶる。

「危ない!」

 一瞬の判断だった。トワは即座にリンク相手をジョルジュに切り替えた。呼吸を合わせて、二人同時にアーツを駆動させる。

 トワは氷系。ジョルジュは炎系。射線上のクロウ達を上手く避けながら、二つの導力魔法が弧を描いて戦術殻に迫った。

 しかし外れる。直撃の寸前、戦術殻がさらに後退したのだ。目標を捉えられず、衝突する氷と炎。一気に屋上全域に水蒸気が押し拡がった。

 誤算だったが、一度撤退する好機でもあった。戦術殻は想像以上に厄介。作戦が必要と判断したトワは声を飛ばす。

「みんな、一度校舎内に戻って! 早く!」

 白霧に覆われる視界の中、揺れる影が近付く。クロウか、アンゼリカか。

 そのどちらでもなかった。

 どういう優先順位が設定されていたのか、前衛の二人を無視した戦術殻が眼前に迫っていた。銀の腕が突き出され、トワの《ARCUS》を弾き飛ばす。

 同期した所有者から離れた《ARCUS》は、リンク状態を維持できずに強制解除される。

「あっ」

 途端にジョルジュの位置が認識できなくなった。拡張していた感覚が収束し、瞬く間に一人分に戻る。かろうじて分かったのは、リンクが切れる寸前、彼がひどく焦っていたらしいということ。

 戦術殻が再び銀の腕を振りかぶった。逃げられない。身を強張らせ、硬く目をつむる。

「トワ!」

 飛び込んできたジョルジュがトワをかばう。

 惑う挙動も見せることなく、戦術殻は二人をまとめて打ち払った。

 

 白く霞んだ視界の中、トワの《ARCUS》がクロウとアンゼリカの間にカラカラと転がってくる。その直後にジョルジュのくぐもったうめき声も聞こえた。

 見えなかったが、二人にも状況は理解できた。

 アンゼリカの表情に焦燥の影がよぎる。

 一方のクロウは冷静だった。

 多分トワ達はやられた。どの程度のダメージを受けたのかは分からない。敵の狙いは今どこを向いているのか。何をすれば効果的に立ち回れるのか。次の手を考えなくては。

「……てめえ」

 冷静でいられるはずだった。

 カードゲームをする時のように、不確定要素を常に予測しながら、最善と思える手段を選択していく。感情で動いたりはしない。大局を見失うから。そうなれば合理的な判断もできなくなり、足元をすくわれることにも繋がる。

 分かっているのに。それなのに。

 手の平に汗が滲んでいた。

 奥底に沈殿させていたはずの冷えた心が、細かに震え小さな熱を灯していた。

 自分でも予期しない心の動きだった。思いもしなかった言葉が次々と湧いて出てくる。

 

 なぜ俺達を待った

 早く逃げればよかったのに

 あいつら無事なのか

 ちくしょう

 よくも

 やりやがったな――

 

 衝動に突き動かされるまま、立ち上がる。気付いた時、クロウは叫んでいた。

「アンゼリカ!」

 腹から出した声。上辺ではない、芯と心が通った強い声。

 驚いた表情を見せたのもわずか、アンゼリカもすぐに立ち上がり、いつもの不敵な笑みで応じてみせる。

「同感だ」

「まだ何も言ってねえ」

「いや、分かるよ」

 言葉で確認する必要はなかった。

 《ARCUS》から伸びる光が、すでに二人を繋いでいる。

 

 風が巻き上がり、滞留する水蒸気を一気に吹き散らす。

 アーツを駆動させたクロウの傍ら、アンゼリカは旋風の中を疾駆した。

 晴れた視界に倒れたトワとジョルジュが映る。トワを守ろうとしたのだろう、ジョルジュは彼女に覆い被さるように伏せていた。

「そこから離れてもらうぞ」

 トワ達に向けて無感情に機械的な動作で、腕を構え直そうとしている戦術殻をアンゼリカが蹴り飛ばす。衝突した先のフェンスが、豪快な音と共にひん曲がった。

「このまま一気に片付けるとしよう」

「任せとけ……あ?」

 戦術殻のアイセンサーが怪しげな光を放つ。腕の突端に輝粒が凝集されていき、高出力のレーザーブレードが顕現された。

 一払いでズッパリと両断される金属製のフェンス。

「これは洒落にならねえもん出しやがったな」

「ふむ、隙を見て一度退くかい?」

「分かってんだろ」

「愚問だったな」

 クロウとアンゼリカは同時に戦術殻へと肉薄する。

「腕の可動域に気を付けるんだ」

「レーザーが伸縮する可能性も忘れんじゃねえぞ」

 空気を焦がす一閃をかい潜り、クロウは相手の腕を跳ね上げる。そのまま開いた空間に滑り込んだ。戦術殻の動きが鈍る。

「こんだけ接近すりゃ逆に何も出来ないだろ」

 無論、それはこちらも同じだったが、しかし狙いは一つ。サラが引き上げたという戦闘設定の解除である。打撃、アーツで決定打を与えられない以上、それが一番効果的な策だ。

 一目で分かる緊急停止スイッチでもあれば幸いだったが、そう上手くはいかなかった。

「どこだよ……!」

 当然目につく場所にはない。あるとしてもおそらく内部。頭部か、背部か。相手も止まっていない。有効攻撃範囲に移動しようとしている。間合いを離されないようにするのが精一杯だ。

 不意にレーザーブレードが消え、戦術殻の動きも止まった。

「導力切れか? 今だ、アンゼリカ!」

「いや、待て!」

 胸部の一部がスライドする。中に見えたのは暗い孔。砲口だ。

「しまっ――」

 ブレードを消したのは、エネルギーを内部に充填する為か。

 遅れた理解。遅れた反応。視界の中でスパークが弾ける。

「クロウ!」

 アンゼリカが拳を繰り出すも、白銀の外装に阻まれる。しかし突き出した拳を引くことはしなかった。その態勢のまま、アンゼリカは後足に力を集中させる。

 地から生まれ、足を流れ、丹田を介し、背を、肩を、腕を伝った力が、掌から放たれる。伝播する波動が装甲を縦貫し、直接戦術殻の内部へと叩き込まれた。

 ズンと重い衝撃が走り、体内機構をズタズタに破壊された戦術殻は、至る所から黒煙を吐き出した。ガクンと腕を垂らし、完全に動かなくなる。

「な、何だよ、今のは」

「……ゼロ・インパクト。寸勁の一種だが、いや、実戦で成功したのは初めてだな。無我夢中だったよ」

 少し呆然とした様子で、アンゼリカは自分の手を見つめた。

「とんでもねえ。自分が食らいたくはねえな」

「君の態度次第と言っておこうか」

「おい」

 クロウの軽口に、アンゼリカは初めて笑みを返した。

 その折、「いてて……」と、のろのろジョルジュが身を起こす。その下で「むー……」と下敷きにされたトワが伸びていた。戦術殻の一撃よりも、ジョルジュのボディプレスの方が堪えていたらしい。

 ともあれ、二人とも無事のようだった。

 

「さて、補習とやらは終了でいいのかな」

「おおよ。完璧だろ」

 どこか雰囲気が変わった様子のクロウとアンゼリカを見て、トワとジョルジュは顔を見合わせる。

「どうしたのかな、二人とも?」

「まあ、いいんじゃないか」

 視線に気付いたアンゼリカがジョルジュに歩み寄った。

「そういえばジョルジュ、トワを庇ってくれたんだね。私からも礼を言わせて欲しい。ふふ、意外と男らしいじゃないか」

「え、あ。べ、別に大したことじゃないさ」

 急にどもるジョルジュ。今度はクロウとトワが目配せをして、二人して思わしげな笑みを浮かべる。 

「ねえ、あれどうしたらいいかなあ」

 思い出したようにトワが指を差す。プスプスと煙を昇らせる戦術殻だった。スクラップ同然である。再起の可能性は、多分見込めない。

「止めろって言われてたと思うけど……壊しちゃったし」

「まあ、いいんじゃねえか。一応止まってるしよ。そもそも非はサラにあるんだし、後片付けは任せといていいだろ」

「手伝うと言っていたが、結局間に合っていないしな」

「そういうことだね。それよりもみんな、動き回ったから小腹が空いてないかい?」

 ジョルジュが大きな腹太鼓をぽんと叩く。

「あはは。うん、お腹減ってるよ」

「この時間なら食堂もまだ空いてるだろう。クロウはどうする?」

 アンゼリカに問われて、クロウは答えた。

「ああ、俺も行くぜ」

 足並みを乱さない為に――ではなかった。

 この三人とテーブルを囲みたい。そう思った。不覚にも思ってしまった。

 ずっと外側に立っていたつもりだったのに、いつの間にか内側に入ってしまっていた。自分でも戸惑うくらいに、まったく予想していないことだった。

「ちょっと待ってくれ、クロウ」

 トワとジョルジュの背に続いて、学生会館へと歩を向けようとした矢先、アンゼリカが声をかけてきた。

「なんだよ?」

 わざとらしく咳払いをしてから、アンゼリカは言う。

「そろそろ君も私の名を呼んでくれるのかな」

「名前なんていつも――」

 ニックネームのことか、とクロウはすぐに察する。

 トワとジョルジュは『アン』と呼ぶ。同じになってしまっても何だか捻りがない。

 ああ、そうだ。だったら。

「……ゼリカ、でいいだろ」

「……ひねくれ者め」

 肩をすくめながら、アンゼリカも屋上の戸口をくぐる。   

「まあ、よしとしようじゃないか」

「なんで上から目線なんだよ」

 まったく、と苦笑する。悪い気分ではなかった。

 しかし、忘れるわけにはいかない。この先、どれだけ親しくなったとしても、いつまでも彼らと一緒にはいられないという事を。

 己の本分は、帝国解放戦線リーダー《C》。

 そびえ立つ鐘楼塔の影が、自分の体半分を暗く塗り込めている。

 忘れてはならない。いずれ自分は、彼らの信頼の全てを裏切る人間だという事を。

「………」

 “その時”が来た時、心を白紙に戻して、全てを割り切ることができるだろうか。正直そこまで出来るとは思わない。

 ただ、引き金を引くその瞬間に、躊躇をしないということだけは言い切れる。

「クロウ君、先に行っちゃうよー?」

「おう、今行く」

 この輪に入ったままで本当にいいのか。この居心地の良さを感じてしまってもいいのか。

 分からない。

 それでも今は――

 

 

 

 ――目を覚ます。

 クロウは辺りを見回した。昏い灯が広大な空間を照らしている。

 煌魔城最上層。

 宿命の終着点。全ての終わりが始まる場所。

「あら、お目覚め? この状況でよく眠れるものだと感心したわ」

 近付く足音に続いて、澄んだ声音が耳に届く。

「ヴィータか。昔から寝つきはいい方でな」

 深淵の魔女、ヴィータ・クロチルダ。彼女はクロウの傍らに立つと「それにしてもねえ」と苦笑する。

「そんなところに座り込んで。何かいい夢でも見ていたの?」

「ああ……」

 いい夢。そうなのだろう。穏やかに流れていた時間、身を包んでいた温かな日差し、他愛もなく何気ない語らい。輝いていた日々。失ったはずだった――もう手にすることもないと思っていた日常。

 トワ達と出会った。リィン達と出会った。たくさんのことがあった。

 当たり前の世界に身を置くことができた。

 だけど歯車はもう止まらなかった。止まれなかった。止まるつもりも、なかった。

 状況に流されたわけでもない。全ては自分の意志で成したこと。だから、後悔はない。

「夢には違いねえな」

 今となっては全てが遠い。

 だから、それらは本当にいい夢だったのだろう。

「……そう」

 ヴィータは視線を移し、クロウもそれを追う。

 フロアの最奥にて脈動する《緋の騎神》

 獅子戦役より遥かな昔、かつてヘイムダルを救った《巨いなる緋色の騎士》。しかし“彼”は暗黒の竜の呪いを受けて、今や《千の武器を持つ魔人》――忌まわれた存在と化した。

 すでに心の欠片も残っていまい。昂ぶることも、憂うこともなく、ただ目覚めの時を待つ力の塊。

 その騎神の前にカイエン公爵が立っている。

 横には椅子に座らされ、アルノールの血族として、己の意志とは無関係に騎神に力を注ぎ続けるセドリック皇太子。

 そして、その横にもう一人――

「……あいつがこの場にいる必要はねえだろう。あんたの力で外に出せないのか?」

「外よりはここの方が安全よ。多分ね」

 想定外のことだったが、考えようによっては都合がいいとも言えた。ヴィータの言う通り、身の安全を優先するなら、とりあえずはここでいい。カイエン公も無用な害は与えないはずだ。大人しくしていればの話だが。

 その時、大きな揺れがあった。この最上層まで届く程の。

「……来たか」

「私が張った結界にかかったみたい。エマが無理やり突破したようだけど」

「委員長が? 灰の騎神じゃなくてか?」

「温存のつもりかしらね。さて、と」

「行くんだな」

「時間はかからないと思う。すぐに戻るわ」

 ヴィータは歩き出す。数歩進んだところで、彼女は闇に溶けるようにして消えた。

「俺は――」

 立ち上がり、自分が今まで背もたれにしていたものに振り返る。

 片膝を付いて静かに控える《蒼の騎神》オルディーネ。

「俺は待つぜ。……なあ、リィン」

 迫る約束の時。

 紅い瞳を揺らがせて、クロウは紺藍の機体を見上げた。

 

 

 

 

 

 『虹の軌跡Ⅱ ~Prism of 《ARCUS》』に続く。

 

 

 




冒頭の挨拶は何なんだって感じでしょうか。
というわけで次回より『虹の軌跡Ⅱ』が始まります。
実はⅡを描くことはかなり前から決めており、この『ちょっとだけ閃Ⅱ』はその布石やら伏線の意味合いもありました。

正題は『虹の軌跡Ⅱ ~Prism of 《ARCUS》』
Prism――プリズムとは光を分散したり屈折したり反射したりする多面体のことで、作中のテーマともなります。

まずストーリー形式で本編スタートから開始ですが、例によってオリ主はおりません。ただ、それだと本編を追走するだけになってしまうので、今回の話のラストで少しその辺りにも触れておりますがオリジナル展開としました。

もちろん、これまでのような短編も挟みながらで、虹の軌跡の人間関係、イベントは全て引き継ぐ形となります。話もリィン視点だけでなく、サブも含め全員分から描いていくつもりです。ああ、ケネスどうしよう……

おまけも含め、これにて『虹の軌跡』は全編終了となります。
少し準備期間でブレイクしますが、近い内にゆるゆる戻って参ります。
今までお付き合い頂き、そしてご感想などで応援頂き、本当にありがとうございました!

テッチー


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