光の旅路 (小石)
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第一局「ゆめとまぼろし」

「囲碁がわからなくても面白い」ヒカルの碁。囲碁の魅力をたくさん教えてくれたヒカルの碁に魅入られた一人であるわたしですが、このお話を書くにあたっておぼつかぬ所多々あります。それでも楽しんでいただけるよう頑張りますので、気づいた点があれば、いつでもご指摘ください。タグにも書いてありますが、逆行ものにしたいと思っています。どうぞ!


 

 

静かな空間に微睡んでいると、どこからか声が聞こえてきた。

 

 

「ヒカルっ!」

 

「ヒカル〜!!」

 

「ヒカルーー!」

 

「進藤〜」

 

「進藤!」

 

「しーんどーう!」

 

「進藤っっっ」

 

「進藤くん!」

 

「進藤君」

 

「小僧」

 

「しんどー!」

 

「進藤!!!!!!」

 

 

 

 みんながヒカルを呼んでる。いろんな人の声が入り乱れて、誰が誰だかわからなくなりそうになるが、それでもたくさんの人が、ヒカルの名前を呼んでいる。あたたかい夢。どの声も明るく懐かしい感じがするが、みんなの姿はなぜかどこにも見当たらない。あたりは明るく、ヒカル自身はふわふわとした心地でちゃんと体があるのかどうかよくわからない。声だけがはっきり聞こえるなか、ヒカルはピンときた。ここは夢だ。

 たまに、夢のなかで夢だとわかることがある。ヒカルは普段から夢はあまり見ない方なので、新鮮な感じがした。

 そこは、前に一度、佐為が出てきてくれた時の夢と似ている。違うのは、風景がただただ光であふれていることだ。声しか聞こえないみんなは、現れてくれる気配がない。今のところ、この空間にいるのはヒカルだけのようだった。

 一人でも、ヒカルは嬉しかった。たとえ夢だったとしても、自分はみんなから必要とされていると思えて。かけがえのない仲間たちの声にこんなにも満たされるなんて思わなかった。

 一度は離れた碁。

 すべてを佐為に打たせればよかったと後悔した。佐為が消えて、はじめて佐為の才能を知ってから、本当は消えてはいけなかった佐為のことを、ヒカルはないがしろにしてしまった後悔がある。

 それでも佐為は、ヒカルに夢の中で会いにきてくれた。扇子を渡されて、やっと前に進むことができた、あの時。あれから、佐為の意思を引き継いで神の一手を目指してきたヒカルには、かけがえのない仲間たちがいた。

 みんなの声に応えたい。そう思い、自分の存在を知らせようとしたヒカルだったが。

 その途端、あたりは急激に光を無くしていき、消えた。みんなの声も途絶えその瞬間に足元の空間が抜け、ヒカルは為すすべもなく闇に落ちていく。

 落ちてからしばらく経ったのだろうか。気づけばヒカルは、まだ暗闇の中にいた。

 なんだ、みんなはどこだ?どこを間違ったんだ?と不安になりみんなを探した。さっきまでみんなは近くにいたはずだったから、今だってきっとそばにいるだろう。とにかく、みんなを探さないと。

「かあさーん!あかりー!和谷ーー?伊角さーん?越智ーー!」

 思いつく限りの家族や友人たちの名を呼ばわってみた。探し回った。だけどどこに行ってもこの空間から抜け出せない。さっきまではあんなに幸せで希望にあふれていたのに、どうすればここから出られるのだろう。

 と、ふいに前方で光るものが見えた。いや、本当に光なのだろうか?距離感もよく分からないなか、一点に集中して見える何かに少しずつ歩み寄って行くが、なかなか近づくことができない。いくら歩いてもまだ遠い気がする。

 ふと気づいた時には、先ほどの光がすぐ目の前にあった。時間感覚も夢の中では曖昧なようだった。

 さっきから光だと思っていたのは、やっぱり光のようだ。でもそれは赤かった。そして浮いているらしく、ときどき小さく儚げに揺れる。

ヒカルはなぜか、その小さな赤い光がかわいそうに思えた。蛍みたいに弱くて綺麗な光だが、その赤色が、かつて佐為が宿っていた碁盤の染みを思い出させて、放って置けなかった。

 しかし、ヒカルには同時に恐怖心もあった。急に暗闇に放り出された時も不安だったが、それだけではなく、この光はどこか恐ろしい。まるで、ヒカルが罠にかかるのをそっと待ち構えているよう。

 それでも、やはりこの光が哀れに思えてしまった。何故だかわからないが、いつのまにかその光に魅入られていた。ドキドキする。離れたいのに離れられない、知りたくないけど知りたい。この光がどこからきたのか、何をしたがっているのか。

 したがっている…?

 光を包むように広げていた手のひらを引っ込め用としたその時、突然赤が爆発した。いや、本当に爆発したわけではないが、光の拡大はそれくらいの衝撃があった。ヒカルはとっさに目をつぶったが、それでもまぶた越しに溢れてくる赤色に飲み込まれ、意識まで麻痺した。津波にあったことなどないが、例えるなら津波のような、津波と嵐が渦を巻いて押し寄せてきて、心にまでも流れ込んでくる感覚。心臓を誰かに握られたような圧迫感を感じて、身もだえた。だが痛みもないし苦しくも辛くもない。ただ、重くて大きな何かが、ヒカルに迫っていた。逃げたいと必死になるほど、がんじがらめになる。でも、見た目には何も映らず、ヒカルの手足は自由なままで、ヒカルは混乱した。

 夢だと思う。でも夢じゃないような、リアルな感覚。押したり引いたりぶつかったり圧迫したり、流されて自由になったり。翻弄される間、ヒカルは現実世界のことを考えた。戦って検討して、学んで教え教えられ、また戦って追って追い越し。上を目指すまでの道のりは、思うようにいかないこともあり、けれど確実に自分のものになっていく日々を思い出す。それは己の意思とは関係のないところでも絡み合い関係し合い、それが積み重なって今がある。ヒカルを形作っているもの全てがヒカルの一部であるということを。

 自分の一部。

 ヒカルは分かっていた。どんなに苦しい状況でも、どんなに過酷な環境でも、ヒカルの立ち向かっていくべき道がある。恐れることなく向き合い、身を任せれば良いのだ。それに押しつぶされない強い意思を持って、生き抜かなければならないのだが。

 ここは夢の中であり、夢の中ではときおり自分の思うように体を動かしたり考えたりできないことがある。たとえ意思がはっきりした夢だったとしても、現実にある以上の力が発揮されるわけではなかった。

 わけがわからないままどこをともなく流された。

 どこに向かっているのかわからない中で、妙にはっきりと聞こえたのは、碁石が打たれる音。みんなが碁を打っている、そう思ったヒカルは自分もみんなの元に行きたかったが叶わない。

 待てよみんな、オレはここだ、オレにも打たせて!

…たのむ、オレを置いていくな!

 苦しくなって叫んだ時、ヒカルは何かに腕を掴まれた。一定の流れから突然引っ張られて反動が大きかったがなんとか、掴まった腕のほうを見上げる。

 そこには緑がかったおかっぱ頭の塔矢アキラがいた。一瞬、助かったと思った。しかし、よく見ると相変わらず強い意志のこもった眼でヒカルを見ているが、いつもと表情が違った。普段とは似ても似つかぬ冷ややかな顔つきだった。睨んだり怒ったりするのは何度も目にしたが、こんな人を見下すような冷徹な様子の塔矢は見たことがない。おかしい、これは塔矢ではない。

「進藤ヒカル…キミに碁を打つ資格はない。」

 塔矢は顔つき以上に冷ややかな声音で言った。

「なんでそんなこと言うんだよ、オレとお前はライバルだろ⁈」

 ヒカルは子供のように叫んだ。そしていつのまにか、塔矢もヒカルも出会ったころの小学生の姿になっていた。

 嵐がますます激しくなってきて今にも体がさらわれそうになり、慌てて塔矢の腕をつかみ直す。塔矢はすがりつかれてもビクともしなかった。

「キミはなんだ。キミの強さはsaiあってのものだろう?saiがいなければ、キミは碁を知りもしなかったはずだ。キミ自身に、価値などない。そうだ、saiはどこだ、どこにいる⁈

…saiを出せ!!!!!!」

 ヒカルは固まった。表情はまるで死人みたいになってると思う。動きだけじゃなく体の血流さえも止まってしまったような感覚だ。

 塔矢の顔は話す間に凄まじい形相になっていた。まるで鬼のような顔つきと声音。目がつり上がって眉間は割れているし歯を猛獣のようにむき出しにして吠えた。

 そして塔矢の方がヒカルを引っ張り上げにかかった。ものすごい力だ。片腕だけでヒカルの手首を掴んでるのに、糸を引き上げるかのように軽々しく持ち上げる。

 塔矢が立っているのは崖だった。というより、いつのまにか崖になっていた。もう少しで塔矢のいる大地の縁まで頭のてっぺんが届くくらいに引き上げられたが、ヒカルはその先を見たくないと思った。ただの勘だったが、向こう側を見てはいけない気がした。見てしまえば最期、もう戻ってこられない。

「離せ塔矢…!!!!!!」

 ヒカルはめちゃくちゃに手足を暴れさせて、塔矢の手を引っぺがすことに成功した。しかし、そのおかげでまた嵐の真っ只中に放り出されることになり、少し後悔して塔矢を見上げたが。

 塔矢は笑っていた。笑顔などではない。まるで口裂け女のような形相で、それくらいの位置にまで口角が上がり、目は逆さまの船形。顔つきは…悪魔とか悪霊などと言われるような怨念の詰まった邪悪な笑みを浮かべている。夢だからってこんな恐ろしいものを見なければならない自分は、どうかしてしまったのだろうか?

…お前は誰だ…?

 ヒカルは落ちて行く間にも考えた。見たときから塔矢じゃないと感じていたが、ではこいつは一体なんなのか。

 しかしヒカルは、しばらくして考えるのはやめた。どっちにしろ、夢だ。

ヒカルは瞬く間に落ちて行く。薄暗い風越しに見た塔矢は、もう消えていた。代わりにまた碁の打つ音が聞こえてくる。暴風にさいなまれながらも、嫌にはっきりと。自分を置いてくみんなの音なんか聞きたくない。

 聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない…!!!!!!

 

 

 

 

「ヒカルーー!!!!!!今何時だと思ってるの、休みだからってダラダラするんじゃないの!もう社会人でしょ!」

 目が覚めた時、聞こえた第一声が聞きなれた母の怒鳴り声だった。

 部屋は眩しい陽ざしであふれていて、まったくいつも通り。途端に夢のことは綺麗に忘れてしまった。どんな夢を見ていたのか、もう思い出せない。

(まぁ、いっか。)

 時計を見るとすでに8時半。母は休みって言っていたし、確かにヒカルにとって休みの日だが、今日は平日の金曜日。棋院のイベントも指導碁も手合も研究会もない。和谷あたりが集まりを作ってるかもしれないが、今日はあかりの高校に行ってやる約束をしていた。でも部活は夕方になるから、それまでは久しぶりに自分の部屋で1日棋譜並べをしようと考えつく。

「ヒカル!いい加減朝ごはん片付けちゃうわよ!」

「食べる、食べるから待ってよ!お腹すいた!」

 朝ごはん抜きはまっぴらごめん!とばかりに飛び起きる。着替えも高速ですませて階段をドタドタと駆け降りた。

 もっと静かに降りなさい!という母の叱咤を聞き流してトイレに行き、続いて洗面所で顔を洗う。

 今、季節は初春で3月のはじめ。気温は暖かくなってきたけどまだまだ寒い。水も流してるうちに雪解け水みたいに冷たくなってめざましにはぴったりだ。今日は天気も良く家のなか全体が空のようなさっぱりした空気をおびていて気分も快調!良い感じに集中して棋譜並べができそうだし、その合間に気晴らしでジョギングでもしようと計画をたてて鏡をみた。

 いつもと変わらない自分の顔がそこにあった。顔を洗ったので前髪がすこし濡れているが、それ以外は何も変わっていないはずだった、が。

(ん?クマ?)

 ヒカルも棋士になり、健康管理は万全だ。仕事の予定のある夜は10時までに寝ているし、昨日は12時近くまで起きていたが朝はおそかった。十分な睡眠をとっている。今はそんなに忙しい時期でもなく疲れだって最近はまったくなかったし、むしろ忙しくなるのはこれからだ。

(…まぁ久しぶりの夜更かしだったからなァ、するとしてもせめて11時くらいに寝るようにしよう…)

 変な夢もみた感じだし、と軽く考えて蛇口を閉めた。

 今日の朝食は味噌汁とごはんとシャケ。今日はというより、いつもとほとんど同じだ。違うのは味噌汁の具とシャケ。ときどき魚がかわってホッケだったりサワラだったり、炒め物だったりする。料理のことは全くわからないが、母の料理はいつもバリエーションが豊富でおいしい。健康管理といえば、食事はすべて母頼りだ。

 席に着いたらいつも通り勢いよくがっついてご飯と味噌汁をお代わりし、あっという間に腹におさめて汚れものを流しに運び、部屋に直行する。家事もすべて母任せだ。ヒカルはときどきは洗濯物を手伝っているだけ。普段は恥ずかしくて言えないが、母には感謝している。

 ヒカルは着替えたばかりの服を脱ぎ、ジョギング用のスポーツジャージに再び着替えて歯をみがいた。いつもなら自分でするより先に母に指図されるのが早いが、今日は本当にいい天気で気分が良かった。

「じゃあちょっと走ってくるから!」

 台所にいる母にそう叫んでさっそく家を出る。

 朝の空気はおいしい。準備体操なんかせず、走りながら腕を伸ばしたりひねったりして済ませる。空は青いし雲は白いし鳥が鳴いているし、ときどき掃除機の音やら水やりの音やらが聞こえてくる。

いつもなら夕方に走るので、そんな日常の景色のある朝のジョギングは新鮮だった。

 ふと、このあたりに住む人々で、囲碁をたしなむのはほんの少しの人だろうと思った。ヒカルの家も、ヒカルが佐為に会うまでは囲碁のいの字も無いような環境だったから、それが現代においてごく普通のことなのだと思う。だけどほんの少しだけでも、皆んなに囲碁を知ってもらいたい。そしてたくさんの強い棋士たちと、もっともっと熱くなれるような楽しい勝負ができたら。

 もう10分くらい走って暑くなってきた。たった今想像した未来に気分も高揚してくる。

(いつか、オレと塔矢、みんなで囲碁を広められたらいいな。)

 今はもちろん自分が強くなるのが先決だ。今のヒカルの段位は三段で、まだまだ塔矢にだって追いついてない。しかし、ときどきはこうやって想像するのも楽しいなと思った。

 勝手知ったるわが地元、考え事をしている間にも足が見馴れた道をどんどん走ってくれる。

2ヶ月後、2回目の北斗杯が開催されることが決まり、ヒカルは心身ともに向上していた。街を走るヒカルを照らす太陽は優しい色をしている。輝く太陽は未来への象徴であり希望だ。ヒカルは未来が明るく輝いていると信じて疑わなかった。

後ろに伸びるヒカルの影は、まだ薄暗い曖昧な姿をしている。これから徐々にその輪郭は濃くはっきりと姿をあらわすだろうが、ヒカルは後ろを振り向かず、その影に気づくことはなかった。

 





実はこのお話、pixivにも投稿しておりまして、そちらの方が話はすでに第六局まで進んでいます(※投稿時)。こちらにはその訂正後のものを投稿しています。pixivの方で見ていただいたら先が読めるのですが、おそらくこちらの方が訂正後なだけあって完成度があるかと思いますので、よろしければこちらでお待ちください。


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第二局「ゆうひのあかり」

お待たせしております。
タイトルにもあるように、今回はあかりが出てきます。
では、どうぞ。


 

 

「ヒカル、最近は調子どう?」

あかりはヒカルの顔を覗き込みながらたずねた。

「ん?ふつーだよ、ふつー。」

ヒカルは近づいた幼馴染に内心驚き、上目遣いに見上げてくる瞳を見返すのが小っ恥ずかしくて、そっぽを向いた。

今日はあかりの母が旅行に行った時のお土産を持ってきてくれて、家の門で立ち話をしているところだった。休日だったヒカルは母に言って、自分からあかりの対応に出たのだった。学校帰りですぐ来てくれたのか、あかりは制服のままである。

高校に行ったあかりは、家も近所で幼馴染とはいえ、普段は滅多に会わなかった。棋士の道を歩み始めたヒカルと高校生のあかりでは、日常の行動時間や範囲はまるでバラバラだ。それでも、あかりの方からたまに声をかけてくれる。そんな風にたまにしか顔を合わせなくなった幼馴染は、見るたびに大人びていくようで、ヒカルはなんだか落ち着かなかった。

今日も、まるまる2ヶ月ぶりの再会だった。幼馴染は今までずっと2つくくりのヘアスタイルだったのが、この2ヶ月の間に心変わりでもあったのか、高い位置でポニーテールにしている。

ポニーテールをしている女性なんていくらでもいるし、耳を出したり、もっとおしゃれなヘアスタイルの女性はたくさんいるが、なにせ子供の頃から知っている相手だ。そんな相手が変わっていくのを間近で見ると、どう反応していいかわからなくなる。特に、あかりには子供の頃から遠慮などぜずに接していた自覚があるので、女らしくなっていくのを側で見ていても、心とは反対に素直に振る舞えない自分がいた。

しかし、そっけない態度を取っても、幼馴染はまったく意に介さないらしい。ヒカルから目をそらさず、

「うそ!だってヒカル、目の下にクマがあるよ。最近ちゃんと寝てないんじゃない?」

とノータイムで鋭く指摘してきた。

「そんなこたねーよ。オレも棋士になったんだ。体調管理くらいちゃんとしてるさ。」

しかし、あかりの推察は間違っていた。社会人になってから、ヒカルの体調管理は万全である。家事や片付けは不器用で大雑把だし、家族や友人に助けてもらわないとできないことは多々あるが、やらなければならない最低限のことくらいは、ちゃんと出来るのだ。

しかし、あかりの指摘はもっともだ。あかりはだてにヒカルの幼馴染をやっていない。昔から、いつもと違うことがあるとすぐに見抜いてしまうところがあった。

そして今、ヒカルはうまい言い訳を思いつかないので、強引に話題を変えることにした。

「あかりの気のせいだよ。

それよりさ、今年は新入部員、入ったのか?」

あかりはヒカルが無理やり話題を変えたのに気づいただろうが、話題が良かったらしい。とたんに表情をパッと明るくさせて、嬉々として話し出した。

「うん!それがね、1年生が3人も入ってくれたの!1人は初心者だけど、他はみんな経験者で…三谷くん並みに強い子がいるのよ!わたしなんか、はじめに対局してコテンパンにされちゃってね。

あ、でもその子、性格は大人しくて優しいんだ。」

「へぇ〜、三谷並みか。即戦力になるじゃないか。」

三谷とは卒業してからは一度も会っていない。ただ、中学最後の大会の対局を見たとき、一年の時に比べてかなり上達していたのを思い出す。あれだけ打てたら、部員としては申し分ない棋力だろう。

「ふふ、そうなの。これで部員が7人!前より賑やかになって、楽しいよ。」

本当に楽しそうに語るあかり。中学で棋士になったことに後悔などないが、学生のまとうキラキラと充実した空気は、やはりときどき懐かしくなる。

「そっか。良かったな。」

あかりが通っているのは普通の共学校ではなく女子高だった。高校には囲碁部はなかったので、あかりが一から作ったそうだ。1年のはじめは先輩はおらず、それなりに苦労したらしいが同学年で3人の経験者を探し出すことができた。そして入学から一年近く経った頃にもう1人入部し、さらに今年の新入生の入部。あかりの囲碁部は見事に形になった。素直にすごいと思うが、どうしてかそっけない返事になってしまうヒカルであった。

それから、今年の夏ある大会に向けての特訓や意気込み、女子だらけの囲碁部の出来事など、他愛ない、けれどヒカルには新鮮な感じのするそれらを、あかりは本当に楽しそうに話した。

「ヒカルも、5月の北斗杯、出場するんでしょ?日本代表に選ばれるなんて、さすがだね!」

ヒカルにしてはおとなしく相槌を打ちながら聞いていたが、突然話題が自分になって驚いてあかりを見た。北斗杯のことは、前にチラッと話しただけで詳しくは教えていない。それに、今回は直接話してもいないのに選手になったことをすでに知っている。母にでも教えてもらったのだろうか?答えはすぐにあかりが教えてくれた。

「わたし、週刊碁とか、碁の雑誌は結構読んでるんだ。そこにね、《第2回北斗杯出場代表選手決定!昨年の雪辱なるか》って見出しで、結構大きく書かれてたんだよ。去年と同じメンバーなんだよね?選手個人のインタビューも少し載ってた。」

そんな記事になっているのか、とヒカルは世間のニュースや自分の記事に興味がないために見たことがなかったが、確かに、代表に決まった時は記者からの質問にいくつか答えた気もする。

「そんなの、いちいち買わなくたって、家近くなんだから聞きに来ればいいじゃねーか。」

週刊碁は一部の値段は安い。だが、それを一年分買ったとするとかなりの値になる。あかりが毎週必ず買っているかは知らないが、それでもイベント毎に買っていればそれなりの値段になるだろう。そんな事にわざわざ金をかけなくてもいいとヒカルは言うが、あかりはなぜか嬉しそうに笑った。

「いいの!買って読むことに価値があるの。ヒカルとは、もっと色々なことを話したいし。」

そう言って笑うあかりの笑顔が眩しくて、ヒカルは目を細めた。なぜそんなに楽しそうに笑うのか、ヒカルには分からない。けれど、それはヒカルにとっても嬉しい事に変わりなかった。身近な人が、自分を応援してくれていると知るのがこんなに励みになるなんて。他人から見ればなんて事はない風景だろうが、子供の頃からの友人で幼馴染のあかりに、初めて感謝の念を抱いた瞬間だった。

あかりは腕時計の時間を見て少し慌てて言った。

「あっヒカル、勉強してたんだよね。ごめん、わたしつい色々話しちゃって、」

あかりが話すのが好きなのは子供の頃から知っているヒカルだから、幼馴染の今更の態度がおかしくて笑う。

「なに言ってんだよ。そんなこと気にすんなって。オレも、好きでこうやって付き合ってんだからさ。」

ヒカルはごく普通に言ったつもりだった。だが、それを聞いたあかりはなぜか耳まで赤くなって、顔をうつむかせてしまう。訳がわからず、今度はヒカルが慌てた。

「ど、どうした、あかり?オレ、なんか悪い言い方したか?」

それでもしばらくあかりは黙っていたが、

「……カ。」

「え?」

「……ヒカルのバカ!」

そう怒鳴って、あかりは踵を返した。走っているわけではないが、このままヒカルが声をかけないでいれば、怒ったまま振り返らず帰ってしまうのは確実だ。なにが原因なのか、気の利かない言動をしてしまう自覚のあるヒカルにはそれでも皆目わからなかったが、あかりは意味もなく怒りをぶつけてくるようなことは絶対にしない。非はヒカルにあるのだろうが、自分でわからない以上、何がいけなかったのかちゃんと話を聞かなければ。

「おい、ちょっと待てよあかり!」

一拍遅れてヒカルはあかりを追った。

「急にどうしたんだよ、帰るんなら家まで送ってやるから。」

「別に送ってくれなくてもいいもん。」

「良いだろ、たまにはさ。すぐ近くだし、それに」

「いいから、ついてこないで!」

ヒカルは面食らった。これは相当怒っているらしい。ここまで怒らせたのはいつ以来か……だが、一体なにに対して怒っているのかわからないし、どう謝ればいいのも…。とにかく、機嫌を直してもらわないことにはヒカルも安心できない。ここは会話を続けなければとヒカルは努めていつもの調子で話し続けた。

「そんなこと言うなよ。お前だって仮にも女なんだし、これくらいしてやるって。」

「仮ってなによ仮って!そんなこと言われなくても正真正銘の女だもん!」

「いや、そう言う意味で言ったんじゃ、」

「ヒカルなんて知らないっ。」

「ちょっと待てよー。」

機嫌を直してもらおうと思っているのに、なぜか逆効果になってしまった。ヒカルは嘆息した。こういう時、佐為がいてくれたら上手くなだめる方法をアドバイスしてくれたかもしれない。

どうしたものかと考えていたヒカルだが、突然ひらめきがおりた。

「……そうだ!あかり、お前今度あいてる日いつ?」

あかりは怒ったままだったが、見るからに渋々といった体で、

「……来月の日曜日は、まだ予定入れてないけど。」

と答えてくれた。

ヒカルは返事をしてくれたことに安心して、明るい口調で言った。

「じゃあさ、久しぶりに2人で打たねぇ?最後に打ったの、もう大分前だよな?」

「……別に、私みたいなへぼをわざわざ相手にしなくても良いんだから。」

やはり俯いたままだが、幾分怒りの波が収まったような声であかりはこぼす。

正直、ヒカルの中で怒りをかった理由は二の次だ。だからといって、しょぼくれて欲しい訳ではないのに、さっきまでぷんすかしていたあかりは気落ちしたように肩を落として歩いている。まったく女心というものはわからない。これでも頑張っているのに、上手くはいかないものだ。

ともかく、いつになく気を使いながら会話を続ける。

「誰もそんなこと言ってないだろ…

そうじゃなくてさ。オレが打ちたいんだから、お願いしてるんだよ。」

こういう時、昔だったら自分に対処できない事としてかなり適当にあしらっていた気がする。あかりはどちらかというと自己主張する方ではないから、オレがそういう態度でいると、大抵自分から引っ込んだ。

今思えば、そのせいで傷ついたことも我慢したこともあっただろう。だから、2人の間で大きな喧嘩をした記憶は少ない。ただ、三谷の時はこのあかりでもヒカルに反発せずにはいられなかったようだが。

そんなこんなの埋め合わせという訳ではないが、たまには自分からあかりに寄り添わなければ…とヒカルは思った。女心はわからなくても、自分なりに出来ることをやってみるしかないのだ。

ヒカルは辛抱強く返事を待った。すぐに返事をしてくれるとは思っていないが、それでも遅いなと思い、もう一度声をかけようと口を開きかけた時だった。

「…私なんかと打って、調子、崩しちゃわない?ヒカル、今大事な時、でしょ…」

あかりはおそらく、北斗杯のことを言っているのだろう。ジュニアとはいえ日中韓の国際大会なのだから、ヒカルも気にするのはわからないでもない。

「大丈夫さ。あかりと打ったところで、オレの腕が鈍ると思うか?」

少し意地悪な言い方だったかな、と思ったが、あかりは今度は起こらなかった。

かすかに微笑んで、でもなぜかそれが、ひどく寂しげに見える。夕陽があかりの顔に影を作り、それがそう見えているのだろうか…?

「そっか…ううん。思わないよ。ヒカルはもう、わたしなんかのレベルじゃ分からないくらい強くなったもの…。」

ドクン

刹那、ヒカルの心臓は今まで感じたことがない妙な跳ね方をした。

不快なものでは決してないが、なんだか…くすぐったいような、心臓をキュッと掴まれたような…同時に、あかりの愁いを帯びた顔に引き寄せられるような。

そんな、自然に湧いてきた自分の気持ちに戸惑いながらも、ヒカルは平静を装って言った。あかりを笑わせたいと、そう思った。

「…なんか、じゃねーよ。

前も言ったけど、お前と打つと落ち着くんだよ。囲碁を始めた頃の、楽しい気持ちを思い出すんだ。」

「それって、わたしが下手だから、下手だった昔を思い出して懐かしんでるってこと?」

あかりはどこか疑った瞳でのぞいてきた。

ただ思ったままを口にしていたヒカルは、そんなことは考えもしていなかったが、指摘されて妙に動揺してしまう。

「そ、そーゆーことじゃねーよ⁈そうじゃなくって、だから、その、えっと、」

また間違えてしまったかと焦るが、とっさに言葉が出てこない。こういう時、ヒカルの頭はまったくの役立たずである。

「もう。ヒカルったら、慌てすぎ。」

必死で言葉を探していると、あかりがコロコロと笑い出した。表情に楽しげな色が踊り、笑うたびに、肩が揺れた。

ドクン

さっきよりも、心臓を締め付ける感覚が強くなった。そしてそれを上回る、自分の心に染みるように広がる喜びの波と安心感。

何度も見た笑顔のはずだった。いつもと同じ声、いつもと同じ瞳の色、いつもと同じ道、いつもと同じ空。なんら変わりのないヒカル自身とあかりの、幼馴染の関係。

(本当に、何も変わらないのか?)

ふと心をよぎった疑問は、一度考え出すとどこからともなく雲のように湧きあがり、胸に広がった。

あかりは変わっていく。それはヒカルの目に、とても眩しく映った。

だが、なんだか自分だけ置いていかれた気分だった。進路的には、未だ学生で将来の夢も決まっていないあかりよりも、すでに棋士としての道を歩んでいるヒカルの方が先にいるし、毎日充実している。あかりの持つ学生特有の雰囲気がそう感じさせるのか、それとも、あかり自身が輝いて見えるのか。

両方、あるのだろう。だが、ヒカルがより強く感じるのは…

ヒカルは、自身の顔が熱くなるのを感じた。

「と、とにかく!良いだろ?今度の日曜日は、予定入れんなよ。オレもその日は休みだし、丁度良かった。どこで打つかは、また連絡するから。」

もしかしたらあかりに気づかれてしまうかもしれないと、取り繕うようにまくし立てた。

あかりはそれを、どこかポカンとした様子で聞いていた。何か変なことを言ったかと思ったところで、あかりが口を開く。

「わかったわ。その日は絶対に開けておく。だから…ヒカルも、やっぱりダメだった、なんていうのは無しだよ。」

口調はいつもと変わらなかった。だが、あかりの瞳はどこか願うように真剣で、ヒカルも自然と目を合わせる。

「ああ。わかってるよ。」

三軒隣のあかりの家には、とっくに着いていた。いつの間にか門の前で立ち止まって話していたらしい。会話に気を取られて、今の今まで気がつかなかった。

「送ってくれて、ありがとうヒカル。約束、忘れないでね。」

「お、おう。またな。」

別れはあかりから口にした。ヒカルがあんまり無言で佇んでいたからだろう。それも珍しいことだった。大抵いつも、ヒカルの方がぞんざいに振舞っていたからだ。

あかりは門をくぐり、ヒカルの知らない色鮮やかな花がたくさん咲いた道を玄関まで歩く。ほんの短い道筋で、いつでも会える距離にいるのに、ヒカルはなぜか一抹の寂しさを覚える。まだ、なにか話していたかった。

「じゃあね。」

ヒカルが何かを言う間もなく、ドアの中に消える寸前、あかりは一度振り返り、ヒカルにそう言って入っていった。

ヒカルは三軒先の自分の家に戻り、自室で一人になる。碁盤の前で正座して、意味もなく姿勢を正した。

しばらくなにも考えず、真っ直ぐな姿勢のまま碁盤を見つめた。いや、もしかすると碁盤もなにも見ていなかったのかもしれないが、とにかく何かを見据えるような瞳で宙をにらむこと数分。

「あいつ、女子高だったよな…。」

しばらくして出てきた言葉はそれだった。言葉にして、なんだかほっとした自分が不思議だった。

「良かった…。」

良かった…良かった…なにが?

(はぁ…オレ、マジか。)

まさか、幼馴染にこのような慕情を抱く日が来るなんて、考えたこともなかったヒカルであった。

しかも、何気ない会話しかしていなかったはずなのに、どこでどうやって自覚に芽生えたのか。思い出そうとすれば辿るのは簡単だが、ヒカルは今の時点で意識的にそれを避けることに決めた。どう考えても振り返っても、なんだか、とても恥ずかしく思えた。

子供の頃からヘアスタイルを変えなかった幼馴染の変容に驚いたから?久しぶりに話して楽しかったから?やはり普段から考えて、自分の身近で親しい異性が幼馴染ただ一人だけだからだろうか?だが、言葉にして原因を考えてみても、うまくいかない。もともとヒカルは、頭で考えるのは得意ではないのだ。

もし、佐為がこの場に居たならば、もどかしげに色々とアドバイスなりハッパをかけるなりしただろう。しかし、彼はもはやヒカルの側にはあり得ず、ヒカルは自分の気持ちに自分で整理をつけて、さらにはその為に今まで試みようと思ったこともない類の努力をすることになるだろう。とはいえ、誰しも一度は経験する事柄であるだろうし、幼馴染との関係上今さらなにを頑張れば良いのか。そもそも、幼馴染は自分のことをどう思っている?

ヒカルはぐるぐると考えに没頭する中、最も考えるべきことに突き当たり、はたと気づいた。

どう頑張れば良いのか。なんとなく形が見えたような気がした。

自分の気持ちと思考にひと段落ついたところで、ヒカルは一旦、自分の脳と心に休息を与えることにした。今まで経験したことのない事柄について悩むのは、今日の場合は喜びと戸惑いと少しの疲れをもたらした。

こういう時は、打つに限る。

もともと碁盤の前に座っていたから、そのまま傍の碁筒を引き寄せて石を並べ始める。

石はまるで元から自分の体の一部だったように馴染み、手は盤上に吸い寄せられるように碁石を打つ。その音は世界に溢れるどんな音よりも耳に心地良く、自らの水に還ったように癒されるようで、同時に気持ちを引き締めさせた。

やはり、囲碁は良い。

自分が自分であれる、自分の全てをかけて没頭し、進んでいける道だ。

それを示してくれたのは佐為だ。そしてそれを共に見据えて歩んでくれるのは、ヒカルにとって唯一で最大のライバルである塔矢アキラ。他にもたくさんの仲間たちをヒカルは得ることができた。

…そしてそこに、遠慮するように控えめに姿を見せる、碁とヒカルの理解者である幼馴染の姿を、ヒカルは今日、見つけた気がしたのだった。

 

 

碁盤と、白と黒のはっきりとした盤の上に、時折まざる煌めきは、さらに新しい世界をヒカルに見せてくれることだろう。

しかしこの時点で、ヒカル自身がそれに気がつくことはなかった。

新しく加わった光に重なるように、澱んだ黒い影がヒカルの将来に暗く侵食する気配にも気づかないように。

 

 

 

 

 

 




わたしはあかりとヒカルの2人がお気に入りです。2人を見てるとほのぼのしてしまいます。
アニメや漫画では、ヒカルが院生になってからはあまり2人が絡まなくなってしまって…。ですが、想像するのも楽しいのでそれはそれでいっかな、と思ったり。


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第三局「なかまといま」

囲碁の道を進む仲間たちと、今までに劣らずさらに意識を向上させて挑む日々。
今回はヒカルの友人の和谷の視点で書いています。


「ふーう。進藤、終わったぜ。」

新しいパソコンに向かっていた和谷義高は、一仕事終えた達成感を感じながら後ろにいる友人に呼びかけた。

「おっ!マジで?」

今日からそのパソコンの持ち主となった友人、進藤ヒカルは、今まで難しい顔で並べていた盤面から目をあげると、途端に表情を明るくさせ、セッティングが終わったばかりの新品のパソコンに歩み寄った。

「すげー。大変だっただろ、ありがとな!」

「良いってことよ。」

「それにしても、意外に早く終わったな。もっとかかるかと思ってたけど。」

「作業自体は、そんなに複雑でもないんだよ。ただ、仕組みがわかってないと少し難しいかもしんないけど。オレは、慣れてるから。」

実際、和谷は自分のパソコンを買った時もセッティングを自分でしたし、師事している森下九段に連れられて囲碁の国際イベントに行った時も、準備を何度か手伝った。その頃は運営の大人たちに教えられながら頭を唸らせていたが、一度覚えると、考えていたほど難しい作業ではなかった。

「仕組みね。オレがやってたら、こうはいかなかったな。多分何時間もコードの束と格闘することになってた気がするよ。」

友人は嘆息気味にそうこぼした。確かに、進藤は囲碁と運動には長けているものの、こういった細かく理解を求める緻密な作業は苦手そうだった。出会ったばかりの頃の、後先をまるで考えていないような大胆な発言の数々からも、繊細な事柄には向いていないような感じはしていた。さらに、興味がないことには関心を示さないことも、原因しているだろう。

「まあお前は、昔から囲碁さえできりゃ良いって感じだったからな。」

囲碁自体には真剣に取り組む進藤だが、囲碁界のことには和谷が信じられないくらいに疎かった。棋士になってからも覚えが悪く、何度も解説役をしてやった記憶は鮮明だ。

進藤は参ったといった顔で眉を下げた。

「…そんな感じの頃もあったかな?」

「頃、って言うほど昔のことでもないだろう。」

和谷は今年で19歳、進藤は18歳だ。和谷と進藤が出会ったのは院生時代でおよそ5年前だが、進藤が囲碁界に壊滅的に無知なのを知ったのは、むしろプロになってからだった。名だたるタイトルホルダーの名前を覚えられないのはわかっていたが、それは単に元々人の名前を覚えるのが苦手とか、そんなものだと思って流していた。しかし、進藤の無知は和谷の予想を大いに上回り、プロの昇段システムの大手合いすら知らない間抜けぶりに、和谷だけでなく森下門下全員が驚かされた。その時は、みんなが進藤の将来について真剣に心配したものだ。

「あはは。和谷には敵わねーや。」

「自覚あんなら、もっとオレの負担を減らしてくれ。」

「いや、どうかな…。」

「何がどうかな、だ!」

こいつ、と進藤の左腕を殴る。もちろん、手を抜いてだ。こんなやり取りは日常茶飯事で、2人ともお互いの冗談やからかいには慣れている。

軽口を叩きあった後、進藤は改めて礼を言った。

「とにかく、和谷に頼んで良かったよ。ありがとうな。」

「おう。分からないことあったら聞けよ。」

院生時代から世話の焼ける進藤だが、和谷は進藤に頼られるのは嫌ではない。人に教えてやることは、自分も教えられることだと和谷は考えている。教えることで自分の中で再確認したり、教えた相手に気づかされることもあるのだ。単に困っている奴を見つけると放っておけないという性格もある。

「さあ、続き並べてるから、検討しようぜ。」

急かす進藤に、和谷は苦笑した。

「ちょっとは休ませろよ。」

「はやく和谷の意見も聞きたいんだよ。」

「しょーがねーな。」

軽く抵抗して見せたが、正直まったく疲れていなかった和谷は、進藤の言う通りに碁盤の前に座る。すると、さっそく進藤が喋り出す。

進藤の場合、和谷が一方的に助けているのではなかった。森下門下の研究会、和谷が始めた土曜の若手の研究会でも、進藤の発言は突出している。和谷が思いつかないような手をバンバン考えつくし、一手の意味や価値、それをどう生かし守り攻めるのか、進藤の囲碁センスは同じ研究会に参加する者たちの中でも光っていた。進藤の発言にハッとさせられたことは何度もあった。

それを、悔しいと思わないわけではない。実際、プロになってからの進藤の成長は凄まじかった。年下で囲碁歴も浅く、囲碁界のことにはてんで無知な進藤に劣等感を抱き出したのはその頃だ。急激に成長していく仲間を間近で見て、自信がなくなったこともあった。

しかし、和谷は進藤が苦しんでいた時期を知っている。何に苦しんでいたのかは知らないが、プロになってしばらくした夏、進藤は急に手合いに来なくなった。

初めは、あの進藤のことだから単に遅刻とか、手合日を間違えたかしたんだろうと思っていた。しかし、それが2日3日と続くうちに、呆れは心配に、心配は疑念に、疑念は怒りに変わっていった。院生の頃から共にプロの世界で戦おうと切磋琢磨して来た仲間が、無断で、誰にも事情を話さず、かといって病気でも辞めるわけでもなく中途にただ手合いをサボっているという事実に、和谷は我慢ができなかった。自分より才能があると認めたライバルに、本気で怒り、本気で心配し、本気で惜しんだ。磨かなければ才能なんて、なんの意味もないと。

居ても立ってもいられずに、近所の公園で待ち伏せもした。それでも進藤は帰ってこなかった。その時の進藤に対して怒りが頂点に達するのと同時に、友人がひどく苦しそうな表情をしていたのを和谷は覚えている。それを打ち明けてくれない友人に寂しさを覚えたことも、力になれない自分に対する不甲斐なさも、今では埋っている気がする。伊角が進藤を連れ戻したことには若干悔しさがあったものの、現在はこうして熱い検討をして、囲碁以外でも頼ってくれる弟のような進藤を見ていると、あの時の苦しみは進藤の中でちゃんと糧になったのかなとも感じた。そしてその苦しみの原因が、進藤の中で囲碁と密接に関係するのだとも思う。それが、進藤の囲碁に対する姿勢の原動力なのかもしれない。和谷が察せられるのは、せいぜいここまでだ。だがきっともう、進藤は大丈夫だろう、と和谷は思う。自分たちには、戦いと光ある未来が待っていると信じていた。

 

 

それにしても、初めてこの家に来た時は、進藤の部屋が想像していたよりもはるかに物がなく整理されていることに驚いた和谷であった。

囲碁以外では言動も振る舞いもがさつで大雑把な進藤のことだから、部屋もそれなりに散らかっていると予想していたのに、見事に整頓された本棚、ベッド、勉強机、そして床。床といっても進藤の部屋はカーペットが敷いてあるし、勉強机はほとんど使っていないせいで片付いているのだとは思うが…その他のことがどうでもよくなる程、囲碁に関する本の少なさに驚いた。

碁盤があるのは納得だ。打たなければ上達しない囲碁において、打たないという選択肢は無い。進藤はここで打って勉強したのだと思う。だが、ならば詰碁やら棋譜やらが載っている本がないのはなぜだろう?和谷は疑問だった。院生になった新入りが、あっという間にみんなを追い抜いて、何年もプロ試験に合格できずに踏ん張って奮闘している連中を置いてけぼりにして、さっさとプロになったことを。そんなものは、毎日打って打って打ちまくらなきゃできない芸当だ。いや、毎日打ちまくってもなかなか上達しないのが普通だ。和谷だって、プロを目指して院生になって数年越しにやっと合格したのだ。一年院生してただけであっさりプロになった進藤を祝福するのと同時に、なんともいえない気持ちにもなった。自分には師匠も兄弟子もいて、環境に恵まれていたのに、進藤は囲碁を始めて2年で、師匠もいないだなんて、進藤の成長を間近でみていても、才能の違いという言葉が頭にチラついてしまうのは仕方がないと思いたい。

(進藤はどうやって碁の勉強してたんだ?)

この部屋に来ると毎回首をかしげることだ。と言っても、今日で来たのは3回目で、初めての時はそれこそ声をあげて驚いたものだった。その時は、伊角もいた。伊角は一度来たことがあるらしかったが、和谷ほどは驚きも疑問も湧かないようだった。自分だけがこんなに不思議がっていておかしいのかなとも考えたが…嫌でもやはり、おかしいだろう。だって、

(こいつの家族で囲碁するのって、別に暮らしてる爺ちゃんくらいだったよな?)

そう、師匠がいないと明言している通り、進藤の周りに囲碁を打てる人は皆無だ。祖父が囲碁をやっているだけで、ほかに囲碁を嗜む環境もなく、ましてや誰にも師事していないくせにどんどん上達して誰よりも早くプロになって…正直反則級の成長速度だった。

だから、部屋には詰碁の本や棋譜を記した本が沢山あって、それで勉強していると思ったのだが…和谷の予想は見事に外れたわけである。それどころか、本人に聞いたところでは棋譜の整理や保管もほとんどしないらしい。過去に打った対局などはすべて覚えているという。和谷も印象に残っている棋譜なら多少は覚えているが、一手一手間違いなくと言われれば自信はないし、第一、過去に打った対局を全部覚えていたら頭がパンクしてしまう。

(規格外すぎる…バケモンかよ…)

進藤に言えば確実に反感を買いそうなことを思い浮かべてため息をついた記憶は幾度とあった。その度に考えるな…と思うものの、やはり隣で共に検討していれば頭をよぎる事柄で、もはや諦めている。

最近の成績で言えば、進藤は今年の北斗杯であの中国と韓国相手に全勝している。

日本チームは結局、3年間塔矢、進藤、社のメンツでの出場だった。内心はものすごく悔しかった和谷だが、対局はいつも白熱した。彼らの戦いを観戦する中、興奮し戦慄し、和谷には思いもよらない手で戦況が一変しと、正直とんでもなく勉強になる大会だった。国を背負って戦える機会なんて、プロになってもほとんどない。そんな貴重で重圧のある体験を、進藤は3度経験した。第一回目の大会では惜しくも全敗し、昨年は一勝一敗だったが、今年になってついに勝ち星を挙げた進藤は、国内戦でも確実に力をつけてきている。院生だった時もだが、彼の成長スピードは常人とは逸しており、打つ度に進化しているようだった。一時期は停滞していた時もあるが、今は止まる気配すらない。ただ上に、上にとひたすらに進み向上し続けている。悔しいが、和谷にはとても追いつけないような、そんな速さであるのだ。ひたむきとかコツコツとか、そんなレベルではない。普通の人の成長を早送りで見ているような…どこか焦りさえ感じられる進藤の躍進は、凄いと思うのと同時に…和谷を不安にさせる。

なぜなのかは分からない。成長は人それぞれだろうし、本当の天才なんて和谷のような平凡な努力家には理解も及ばないだけかもしれないが…彼の成長は危ないと、そんな気がする。進藤をここまで突き立てる原動力は何なのか、本人に聞きたいと思ったことは何度もあるが、実際は今まで一度も触れたことがない。ただ、進藤が囲碁に関して唯一こだわりを見せるものがある。それが、

(本因坊秀策…)

そしてどんなに語っても靡かず興味も示さないものが、

(sai…)

saiがどんなに秀策らしい打ち手か説いても進藤は見向きもしないのだ。あんなに秀策に執着しているのに奇妙なことである。

進藤が秀策好きだというのは、今や同年代の棋士たちの中では周知の事実であった。そして何故だか現本因坊の桑原先生をはじめ、倉田八段やなんと塔矢門下の緒方先生までもがそれを知っているらしい。桑原先生に関しては進藤が院生の頃から目をかけていたとかって聞いたことがある。

「なんてったってあいつ、秀作の鑑定士だもんな。」

というのは倉田八段の言葉だ。詳しく聞くと、以前ある囲碁イベントで売られていた秀策のサイン入り碁盤の字を見て偽物だと言い当てたという。

「俺が言うんだから絶対!だってさ。なんでそんな自信満々なのかねぇってそん時は半信半疑、というよりほとんど信じてなかったけど。調べてもらったら進藤の言う通りだったんだよな。マニアだよマニア。」

倉田八段はああいったが、和谷はそれとは少し違うと思っている。

もし本当に秀策マニアなのなら、部屋にそれらしい本や写真が無いのはいささか不自然だ。置いてあるのはせいぜい軽い詰碁本くらいで、秀策関連のものなど皆無なのだ。本人曰く棋譜は一度見たら忘れないというから納得はできるが、秀策の字なんて、普通素人に見分けなどつくわけがないのだ。

それに進藤は時々、秀策の話をする時に妙な言い方をする。秀策のある対局の一角の戦いで秀作の一手の意図を議論していた時、

"「ここをこう、分断するために必要な手だったって言ってた。」"

と本人に直接聞いたような言い方をしたり、

"「そういえば俺もこの形には苦しめられた。」"

と実際に対局したみたいな言い方をしたり、

"「ここは完全に秀策の性格が出てるってわかる。」"

とやけに断定的に過去の人間の性格を理解しているような口ぶりだったりするのだ。その後すぐに言い換えるが、進藤の性格上、あれは常の意識がとっさに出てしまったのであって、決して言い間違えたとかではないと和谷は思っている。

最近はかなり頻度は減ったが、完全になくなったわけではないし、よくよく考えてみればsaiに関しての進藤の無関心は不自然すぎる。棋譜くらい見てもいいようなものなのに、進藤はいつも何だかんだ理由をつけてそれすら断っている。あんな打ち手は身近にいないのだし、普通は見ておきたいはずなのに。

それが、進藤の進化し続ける原動力と直接関係があるのかはわからない。が、彼の囲碁に大きく関わるものであることは確かだと和谷は思っている。何故なら、

(進藤の棋風は…)

他ならぬ、saiに近いものであるからだ。

saiは限りなく秀策に近く、進藤はsaiに近い棋風を持つ。一見、この3人には秀策の棋風に似通っていると言うだけのまったくの無関係に思えるが、

(進藤は何か…知っているんじゃないか?)

すでに故人である秀策を除いて、saiは現代のネットで有名になったし、進藤は若手の棋士である。現代に生きるsaiと進藤には何かしらの繋がりが…

「ハァーー…。」

そこまで考えて、いつもやっと溜息を吐く。真相はわからないのだし考えても結局は同じような結論や見解にたどり着くのだからやめようと思うのだが、つい考えてしまうのであった。

とにかく、和谷のライバルはなにも進藤だけではない。同期の越智や院生仲間たち、先輩後輩、プロや海外の棋士たち…囲碁を打つ人々みんなが和谷のライバルなのだ。少し不思議なところのある進藤のことを気にしたって所詮は本人でもないのだし、気にするだけ無駄だと自身に言い聞かせる。

実際、進藤自身は明快単純な世界観で生きているようだし、いつも元気だ。最近はほんの少し大人しくなったような落ち着いたような気もするが、元々明るくてバカで鈍感な奴なのだ。あまり周りがどうのこうのと言っても進藤自身はどこ吹く風だろう。人より自分、だ。

 

 

 

…そうやっていつも一緒にいて、時々余計なあれこれを考えながらも進藤の溌剌な言動しか見ず、自分と自分の碁のことだけを考えようとしていたから、気づくことができなかったのだらう。彼がどんなに必死だったか。どんなに努力していたか。どんなに苦しんでいたか。そのどれかでも理解してすることができていたなら、何かが違ったかもしれない。塔矢を始めとしたライバルたちと切磋琢磨しながらも孤独に耐えているような、そんな彼を助けることができたかもしれない。




日々、と言いながらもほとんど過去のことつらつら振り返っているだけでしたね。原作にないその先を想像するのは楽しい気もするけど難しくて四苦八苦しながら書きましたがストーリー的にはまったく進まず…申し訳ございません。
和谷の鋭いところは相変わらずです。彼にはいつまでもヒカルの兄貴でいて欲しいと思っています。


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