バンドリ短編集 (星見秋)
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熱中症

みさかのん
奥沢美咲が熱中症になる話


 その日はとても暑かった。

 

 八月の血気盛んな太陽は何がそんなに腹立しいのかとめどなく街を怒鳴りつけていて、立ち上る陽炎で風景がぐにゃりとたわんでいた。せめて風が吹いたならカンカンな太陽もちょっとは頭を冷やせたんだろうけど、生憎全くの無風状態で、日差しはどんどん強くなるばかりだった。

 

 ただでさえミッシェルを着てバンド練習に臨んでいたあたしの身体はくたくたのほかほかで、そこにこの天候の追撃だから、ここは灼熱地獄か何かか、と絶望しそうになったのをよく覚えている。実際スタジオからの帰路で照り付けられてみると、そこは確かに灼熱地獄。用意していたスポーツドリンクはとっくに飲み干してしまっていて、あたしに出来る抵抗は、せいぜい帽子を目深に被ることくらいだった。見かねて、隣を歩く花音さんが心配そうにあたしの顔を覗き込む。

 

「大丈夫、美咲ちゃん?」

 

 視界の中央を、花音さんの端正な顔立ちが占拠する。距離が近い。「大丈夫ですよ」と返答しようとしていたのに、声を発することが出来なかった。

 

 天然ものの睫毛は長くて細くて、一種の美術品みたい。アメジストみたいな瞳はあたしを気遣うようにゆらゆらと揺れていて、綺麗だな、と思った。

 

 普段まじまじと顔を見つめる機会なんてなかったけれど、こうして見てみると、花音さんは顔がいい。

 

 まあそんなこと、注視するまでもなく遠目からでもわかることなんだけどさ。それでも、至近距離に見せ付けられると改めてそう思わずにはいられない。

 

「美咲ちゃん?」

 

 いや、それだけじゃない。花音さんは声も可愛い。ふわふわで甘くて、人を丸呑みにしてしまうような声。言葉の代わりに砂糖を口から吐き出しているかのよう。あるいはマシュマロだろうか。純白でふよふよしてて可愛いし。

 

 単に甘いだけじゃなくて、聞いていると若干の酩酊感すら生じてくるし、お酒と例えてもいいかもしれない。あたしは飲んだことないから分からないけど。

 

「美咲ちゃん!」

 

 花音さんが声を張り上げる。それで、あたしも現実に引き戻される。

 

「本当に大丈夫なの? 美咲ちゃん、すっごく顔赤いよ?」

 

 花音さんの瞳はさっきよりも焦燥が色濃く滲んでいた。あたしの返答次第では救急車を呼びかねない表情だ。

 

「話しかけても、ぼーっとしちゃって返事もしないし……」

 

 それは、花音さんに見惚れていたからで。ついでに言えば、顔が赤いのもおそらくは暑さのせいだけじゃなくて。だけど花音さんにしてみればそんなことは知る由もないんだから、あたしの体調は、つまりそういうことなんだと解釈しても不思議じゃなかった。

 

 あたしは簡素な笑みを浮かべた。端正な顔立ちを前にして引っ込んでしまった言葉をようやく放つ。

 

「あー……大丈夫ですよ。もうほんと、全然」

 

 我ながらずいぶん白々しいな、と思った。適切なタイミングで言えばまだしも説得力があったんだろうけど、今となっては手遅れ感が否めない。

 

 案の定、花音さんはきょとんと首を傾げた。

 

「えっ? でも……」

 

 瞬きして、あたしの顔を見つめる。「じいっ」と効果音が聞こえてきそうな眼差しがどうにもくすぐったい。肌をゆっくりと撫でられているみたいだ。

 

「あの、ほんとに大丈夫なんで」

 

 たまらなくなって言うも、届いた様子はない。というか、あたしとしても言葉を重ねるごとに説得力が落ちていくというか、悪い手ごたえだけが積み重なっている感じがする。となるとあたしに出来るのは、作った笑顔のまま冷や汗をかくことくらいで。

 

 花音さんはというと、難しい表情を浮かべたままあたしに真剣な視線を飛ばしているままで。

 

「……美咲ちゃん」

 

 唐突に、花音さんがあたしの名前を呼んだ。ドラマの最終盤、崖の上で犯人を断定する刑事のような、静かな口調なのにどこか重い響きを持って聞こえる、そんな声。

 

 思わず姿勢を正したあたしに向かって、花音さんは。

 

「ちょっと、失礼するね」

 

 すっと腕を伸ばすと、両手をあたしの頬に当てた。

 

 ハンドクリームの花の香りがふんわりと鼻孔を抜けていく。あつさでとろけそうだった頬の細胞が一瞬で修復されるくらい、花音さんの手は冷たかった。

 

 しかし固まっていく細胞とは対照的に、あたしの心臓は急な展開に驚いて跳ね上がっていた。

 

 なんで、どうして、いきなり、花音さんはあたしの頬に手を。しかもなんだかいい香りがするし、冷たくて気持ちいいし、ええもうなんかやばい。まずいよ、これは。何がまずいのかは全く分からないけど、あたしの中の冷静な部分が警鐘を鳴らしている。とにかく、これはまずい。

 

 混乱しているあたしに、花音さんは言った。

 

「美咲ちゃん、やっぱり熱いよ。放っておいたら熱中症になっちゃうよ」

 

 砂糖の海の中にスパイスを数的垂らしたような声。頬をぷくっと膨らませていて、ほんの少し吊り上がった眉。本人としては睨みつけているつもりなんだろうけど、生来の可愛さからかどうにもふわふわした印象が拭えない、そんな顔。

 

「休まなきゃ、駄目だよ」

 

 あたしを気遣う言葉がめくりめくって、ふやかされていくような感覚。

 

「いつも美咲ちゃんはいっぱい頑張ってるけど……」

 

 まるで、脳みそを砂糖漬けにされてしまったみたいに。

 

「たまには、私にも頼ってね」

 

 そこで、初めて花音さんは笑った。

 

「いつも美咲ちゃんには苦労をかけてるから。たまには、お返しさせてね?」

 

 ぐずぐずに溶かされているような気がした。目の前には世界中の「可愛い」を詰め込んだかのようなモンスターがいて、あたしは交戦するも強大な可愛らしさの前にはどうすることも出来ず、ぱくりと飲み込まれて消化されていく。もちろん花音さんは花音であってモンスターなんかじゃなくて、だからこそ余計にあたしは溶かされている。最終的には理性も何もかもが溶かされて、「花音さん、凄い」という敬意、あるいは畏怖だけが残される。

 

 心の奥底で、何か重要な、しかし案外どうでもいいとも思える何かが、ぷつりと切れたような感覚。

 

 何故だかおかしくなって、あたしは笑みを浮かべて言った。

 

「花音さんの手、冷たくて気持ちいいですね」

 

「えっ!? そ、そうなんだ……」

 

 ぼんっと、それまで白雪のようだった肌が一瞬にして染め上がる。頬に張り付いていたひんやりがだんだん剥がれていく。自分のしていたことがどんなに恥ずかしいことだったのかようやく認識したんだろう。花音さんは手を引っ込めようとしていた。

 

 けれど、あたしはもう少し、この感触を楽しんでいたかった。

 

「花音さん」

 

 少々の申し訳なさを添えつつ、花音さんの手首を掴んで固定する。

 

「ふえぇ……?」

 

 困惑したように、花音さんはあたしを見た。その瞳からはさっきまでの芯の強い光は消え失せていて、代わりに小動物めいた震えがあった。

 

 あたしは言った。

 

「もう少し、このままで」

 

 花音さんは。

 

「……!」

 

 一瞬、目を丸く見開くと。

 

「…………うんっ」

 

 わたあめみたいな笑顔を浮かべて、うなずいた。

 

 あたしは、冬の残り香が漂う晴れの日に桜の蕾を発見したときに似た、心がゆったりと綻んでいく感覚を覚えた。今日は春先どころか、真夏のピーク真っ盛りなんだけど。

おかしいこともあるもんだなあと、ぼんやりとした頭で考えていた。



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十二進法の夕景

afterglowのバンドストーリー2章実装くらいの時期に書きました。


 例えば、身体が機械で出来ていたのなら。ゼロと一の群によって統御された、イエスかノーしかない思考でいられたのなら、こんな想いを抱えなくても済んだのかな? なんて。

 目の前には沈みかけの太陽が空を真っ赤に炎上させていて、ここは、あたしたちの原風景。Afterglowのはじまりの場所。羽丘の屋上、眩むほどに赤い夕焼け。とある宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めて残した「やっぱり地球は青かった」という発言は有名だけど、ここでは世界が真っ赤に塗りつぶされていて、もしもガガーリンさんがこの光景を観測したなら「地球は赤かった」って言うかもしれない。言わないかもしれない。まあ、どっちでもいいんだけどね。そもそもガガーリンさんはもういないし、この光景を目撃することは叶わないわけで。

 ともかく、あたしは校舎の屋上で夕焼けを眺めていた。何故眺めているのかというと、何故なのかな? これと言って理由はないんだよね。ただ、今日はトモちんもひーちゃんも部活で、つぐは実家の手伝いがあるらしくて、蘭はお花の勉強。暇なのはあたしだけで、とは言っても蘭やつぐと一緒に帰ることもできたんだけど、なんだかそんな気分じゃなかった(そんな気分になれなかったのは何でなんだろう? ……それは多分、本当に、なんとなくに過ぎないんだと思う)。

 だけど学校に残ったところでやることなんかなくて、今日は課題も出ていないし、ギターの練習にしたって学校でやるもんでもない。トモちんのダンス部に見学に行く? それとも、ひーちゃんのテニス部の練習を見に行こうか? いやいや、まさか。「どうしたんだ、モカ?」って驚かれるのが目に見えている。それも、やっぱり、なんか嫌だった。ダンス部はトモちんの領域だし、テニス部はひーちゃんの領域だ。

 その線を悪戯に踏み越えるのは、あたしのしたいことじゃない。Afterglowという共通の居場所はあれど、というよりむしろあるからこそ、あたしたちは互いの領分には踏み込まなかった。個人の繋がりは個人の繋がりとして尊重する。それはあたしたちの暗黙の了解なんだと、少なくともあたしはそう考えている。

 でも、だからこそ、手持ち無沙汰。どうしよっかな、やることなんかないなあって思ったとき、ふとあたしは中学時代の蘭のことを思い出した。二年生に進級して、あたしたちとクラスが離れて、新たな環境に馴染めなくて、屋上へ逃げ込んでいた蘭。あのとき、蘭は作詞という形で思いの丈を表現していた。それをAfterglowという形で表に出すまでは、──少なくとも、あたしが屋上で蘭を発見するまでは、見せる相手はいなかったわけだけど。

 それが頭に浮かんだから、ってわけでもないけど、あたしはモーレツに屋上に行きたくなった。蘭っぽく言うなら、あたしはあたしのやりたいことをやる。あたしが屋上でこうして夕日を見ているのは、あたしがやりたいことだからだ。って感じ? まあ、モカちゃんとしてもその思考はとても共感できるものなんだけど。いつだってマイペースに、間延びした声で、本気か冗談かわからないことを言う。パンが大好き。やまぶきベーカリーがお気に入り。何事にも動じずに、おちゃらけて、けれど決して超えてはいけないところは踏み越えず、やることはしっかり早めにやる。みんなのフォローも忘れずに。特に、蘭には目を離さずにしっかり隣で見てあげないと。それが、青葉モカをやるということ。モカってるとは、そういうこと。……だとすると、最近のあたしはきちんとモカってると言えるだろうか? ──言えないかもしれない。

 だって、あたしは現在、蘭を隣で見れていない。見えているのは後姿。どんな表情を浮かべているのか、何を見て何を思っているのか想像すらできない。できるのは、ただ蘭を追いかけることだけ。どんどん進んでいく蘭に離されないように、また隣で同じ景色を見つめるために、蘭を理解するために。

 進んでいくということは、変わっていくということ。蘭は「いつも通りを守るため、あたしは変わり続ける」と言った。あたしだって変わらなきゃ。いつも通りの「モカってる」を、新たな「モカってる」に変えて、進めて、探していかなきゃ、いけない。でも、どうやって? 

 

「……夕焼けが綺麗だなあ」

 

 独り、呟く。当然誰か返してくれる訳もなく、あたしの声は夕焼けに瞬く間に溶けて消えていった。後に残されたのは、屋上にたった一人のあたしと、包み込む紅。

 こんなに綺麗な夕焼けでも、もうすぐ紺碧のカーテンが空にその幕を下ろす。やがて朝焼けが星空を吹き飛ばして、世界は白む。そこから少し経つと、あたしたちの黄昏の空がまたやってくる。それの繰り返し。単なる時間の経過。十二進法。世界の常識。

 でも、あたしは十二進法を黙って眺めているだけだ。だって今、あたしは何をしている? こうしている間にも蘭は実家でお花を学んでいて、どんどん先に進んでいるというのに。

 追いかけるって、言うだけなら誰にでもできる。決心してからあたしがしたことなんて、蘭と距離を置いたことくらいじゃないか? あたしが今一番しなければならないのは、何よりも行動じゃないのか? なんて、自問自答。

 答えが分かりきっているが故に、この問答には意味がない。それでもあたしがこんなことをしてしまうのは、動き方がわからないから。何をどうしたら蘭に追いつけるのか、変わるためにはどうしたらいいのか、どうやって進んだらいいのか、わからなくて、十二進法にも取り残されて、傍観者。ただ十進法で年を取って、心がゼロと一だけで出来た機械だったのなら、こんな思いを抱えなくてもすんだろうかなんて考えている。

 わかってる。何をするべきなのかはわかっている。わかってるん、だけどなあ。

 

 ──太陽が沈んでいく。夜が這い上がり、朧げな紺碧が影を徐々に追い出していく。宵の明星が、愚か者を睨みつけるかのように輝いている。

 それでも、あたしは屋上にいた。

 

 



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解釈違い

シーズン1の時期に書きました。


「弦巻こころ」といえば? ──花咲川の特異点。奇人、偏人、変わり者。大財閥のお嬢様。常識知らず。三バカの一人。ハロー、ハッピーワールド! のボーカル。笑顔の導師。スーパーポジティブシンキング。闇夜も照らすシャンパンゴールド。太陽。光。無敵のヒーロー。凄い人。そして、ただの一人の女の子。

 

 だから、傍にいてあげたいって思うんだ。

 

 こころについてどういうところが凄いかとか、具体的な行動を取り上げて説明する気は今更ない。ちゃんとセッテイングされた場所でさあ語れと言われたら語ることもあるかもしれないけれど、あたしの口から自発的に語るかってなるとしないと思う。

 言葉で説明するよりも実際に見た方が早い。百聞は一見にしかず。一回だけでもいいから、ハロハピのライブを見に来てよ。きっと笑顔になれるから。こころの凄さもわかるから、ってこころについて誤解している人には伝えているけど、それだけだ。例えばホラー映画について語るときのりみとか、盆栽関連の話題になったときの市ヶ谷さんみたいに熱弁を振るうわけじゃない。見れば伝わるだろうし、それだけの凄さがこころには、ハロハピにはあると今は思える。

 その凄さっていうのは「世界を笑顔に!」っていうスローガンだ。

 目標と言い換えてもいい。ハロハピは世界を笑顔にするバンドだけれど、それはあたしたち五人、いや六人で達成するものじゃない。みんながみんなを笑顔にするのだ。ハロハピのパフォーマンスで笑顔になった人たちが、笑顔に勇気づけられた人たちが、他の誰かも笑顔にする。もしかしたらその誰かとはあたしたち六人かもしれない。

 こころは世界はみんながヒーローなんだと言っていた。誰かに笑顔をあげられる。誰かを勇気づけてあげる。それはつまり、極端なことを言ってしまえば、世界のみんなはハロハピなんだと宣言しているに等しい。ミッシェルはハロハピで奥沢美咲はハロハピじゃないなんて、そんな話はありえない。笑顔になったら誰もがヒーロー。笑えば勇気が湧いてくる。笑顔にならなきゃ誰かを笑顔にできないけれど、笑顔になったら誰かを笑顔にできるのだから。

 ……そう、だから、こころだけがヒーローというわけではないのだ。あの子は凄いし、笑顔だし、叶わないなって度々思うけれど、こころは超人じゃない。いつも笑顔ってわけじゃない。悲しむときだって、怒るときだって、当然あるかもしれない。だってこころはただの女子高生だ。単なる何十億分の一、ひとえの少女でしかない。あたしと変わらない、普通の人間なんだ。

 だからあたしは助けてあげたい。助けるって言い方は烏滸がましいし、こんな言い方をするのは気恥ずかしいんだけど、……あたしはこころのヒーローになりたいんだ。

 あたしはこころを笑顔にしたい。悲しんでいる顔なんて見たくない。もっとも、別にそれはこころに限った話じゃない。誰の悲しんでいる顔も見たくないし、だからこそ悲しまないで笑ってほしい。昔あたしがこころに言ったような、過度に首を突っ込むお節介行動なのかもしれない。昔のあたしなら、突っぱねられることを恐れて「どうせ何も変えられないよ」と斜に構えていたかもしれない。だけど、今はみんなを笑顔にしたいなって、……少なくとも、あたしの見えている範囲の人たちは笑顔であってほしいなって思う。

 こころも笑顔にしてあげたいんだよ。あたしが何もしなくても笑顔でいると思うけど、万が一こころから笑顔が失われるようなことが起こったとき、あたしはこころを笑顔にしたい。勇気づけさせたい。側にいてあげたい。悲しんでいる理由がピンとこないものだったとしても、せめて寄り添ってあげたい。あの夕焼けの差し込む教室で、こころがあたしにしてくれたように。だって誰かを笑顔にするためには、まず自分たちが笑っていないといけないのだから。

 ……まあ、もちろんそんな機会なんか来てほしくないんだけどね。

 

 〇

 

「あれ、花音さん?」

「美咲ちゃん、こんにちは」

 ──ショッピングモールの手芸コーナーに花音さんがいた。羊毛フェルトの生地を何枚か手にしていて、色はピンク、黄、それから水色。

「花音さんもフェルト生地を買いに来たんですか?」

「うん。ちょっと、お人形さんを作りたいなって思って」

 そう言うと、花音さんは愛おしそうに手にしたフェルトを撫でた。赤ん坊の頭を撫でるような手つきだ。実際、フェルトの黄色やピンクを撫で回す花音さんの瞳には優しくて柔らかいものが浮かんでいるように見えて、あたしはつい尋ねてしまった。

「誰かにプレゼントするんですか?」

「うん。千聖ちゃんと彩ちゃんにあげようかな、って思って」

「そうなんですか」

 なるほど、と思った。ピンクと黄色というと彩先輩と白鷺先輩の色だ。その二人にプレゼントする二人の色を用いた人形というと、二人を象ったものになるのだろうか。そうなると、水色のフェルトは花音さん自身の人形用なのだろうか。

 あたしは彩先輩のことも白鷺先輩のこともよく知らない。花音さんとは同じハロハピのメンバーだけど、だからといって同じ人間ばかりと仲良くしているわけではもちろんない。あたしにとって彩先輩はアイドル活動を行っている学校の先輩に過ぎないし、白鷺先輩にしてもそう。友人と声高にのたまうにはいろいろ足りない。

 でもそれは花音さんからしても同じ例はあるはずで、例えば市ヶ谷さんとか、交流がないわけではないんだろうけれど友人と呼ぶには至らない関係はあるはずだ。

 友人の友人。それは友人が構築している人間関係の一角を知れる存在であるし、同時にその友人に自分の知らない一面が存在することを裏付ける証明のようなものだ。

 それはそうだろう。人によって態度を変えるなんてことは珍しくもなんともない。あたしだってそうだし、市ヶ谷さんもそうみたいだし、こころでさえあたし以外にはこんなことしないだろってことをやってくる。花音さんだって白鷺先輩や彩先輩にしか見せない顔があっても不思議じゃない。

 とりわけあたしと花音さんの間にはそういう関係性が多いような気がする。彩先輩とか、白鷺先輩とか、花園さんとか、羽沢さんとか。あたしはあまり関わりがないけれど、花音さんは仲良くしている人。ハロハピとは無関係の共通の友人。そういう人が少ないから、あたしは花音さんのことをあまり分かっていないんだろうなと思う。

 あたしはハロハピでの花音さんのことは知っているけれど、それ以外の花音さんは知らない。はぐみやこころの場合、そんなことはない。こころは最近なんかずっと一緒にいるような気がするし(違うクラスであるにも関わらず!)、はぐみははぐみで戸山さんとか大和さんとか、ある程度話せるくらいの共通の知り合いはいる。でも学校も学年も異なる薫さんならまだしも、いやその薫さんだって日菜さんとか大和さんとかがいるというのに、花音さんは同じ花女であるにも関わらず、そういう相手がいない(強いて挙げるなら燐子先輩だろうか? でも、燐子先輩と花音さんってそんなに接点があるようには思えない)。

 だから、あたしは本当に、花音さんのことを一面でしか知らない。あたしからは見えない面の情報を伝えてくれるような筋もあたしにはない。

 そういう一面だけを切り取って、その人はこういう人だと理解した気になることの危険たること何とやら。それは誤解になりかねないと、あたしは思う。

「美咲ちゃんは何を作るの?」 

 花音さんの質問。あたしは目的のフェルトを探しながら、

「ミッシェルとか作ろうかなって思ってます」

「そうなんだ。あれ? でも、ミッシェルはこの間作ってなかったっけ?」

「そうなんですけど」花音さんが持っていたやつより少し色素の薄いピンク色のフェルトを手に持ち、あたしは言葉を続ける。

「こころがあれを見て、自分も作りたいって言いまして」

「……そうなんだ」

「それで、手取り足取り教えようってことで買い出しに来たんですよ。いくらこころでも、流石にやり方が分からないと出来るかもわかりませんし」

「……」

「でも、どうして急にやってみたくなったんですかね? そんなに楽しそうに見えたんですかね」

 問いかける語尾。疑問の意を表すというよりは、円滑に会話を進めるための問いかけだ。

 しかし花音さんは答えない。口元をきゅっと引き結んで、「…………」何かを考え込むような神妙な表情。問いかけに応じるつもりはなさそうだ。

 仕方がないので、あたしは口を開いた。片方が黙り込んでしまったとき、会話を絶やさないようにするためにはもう片方が頑張るしかない。噺家みたいに、語り掛けるように。

「でも、嬉しいですよ、正直に言うと。単にミッシェルが作りたかっただけかもわからないですけど、こころが羊毛フェルトに興味を持ってくれて。これで羊毛フェルトは楽しいってなったら、ハロハピの活動として羊毛フェルトをやる日が来るかもしれないですしね」

 口元に笑みを滲ませて見せるあたしに、花音さんがついに口を開く。

「ねえ、美咲ちゃん」

 やけに硬質な声音だった。眉を顰め、瞳には猜疑心の色が宿っているように見えて、何ならそれは睨み付けているようでさえあった。

「美咲ちゃんは、こころちゃんをどうしたいのかな?」

 そうして放たれた言葉に、あたしはぽかんとせざるを得なかった。

「どうって、どういうことで──」

「言葉通りの意味だよ。美咲ちゃんはこころちゃんをどうしたいの?」

 花音さんは言い放った。強い口調だった。疑問文ではあるけれど、その聞き方は授業中に生徒が手を上げて教師に質問するような生易しいものじゃなくて、例えるなら胸ぐらを掴んで「おいどういうつもりだ、説明しやがれ」と脅すかのような、それも直前まで穏やかに会話していたのに突然態度を豹変されたかのような、即ち暴力的。答えなかったら分かってんだろうな、って言われているみたいで、とにかくそれくらいの迫力があった。

 あたしは唾を飲み込んだ。ごくりと喉が鳴ったけれど、そんなことをいちいち気に留めておくには思考が混乱しすぎていた。

 どうして花音さんはいきなり脈絡もない話を持ち出してきたのだろう? しかもあんな剣呑な口調で。気づかないうちになんかしてしまっていたということだろうか。あの花音さんがあんなになるくらいのことを? 

 けれど実際に目の前の花音さんはあたしにじっと視線を送っていて、真っ直ぐと、射抜いて貫くような、催促するような、責め立てるような視線。

「ええと、その。……笑顔にしたいなって、思ってます」

 気づいたら、あたしは口に出してしまっていた。焦っていたからか、動転していたからか。考えるよりも前に口から言葉が滑り出ていて、それを認識した頃にはとっくに手遅れになっていた。

「ふうん。でも、こころちゃんは何もしなくても笑顔だと思うよ?」

 花音さんは答えた姿勢のまま固まったあたしをじろじろ眺めていて、それはまるで小学校で生徒がトラブルを起こしてしまった際に発生する説教。大の大人たる教師が理論的に生徒の悪行を問い詰めることによって罪を自覚させるような。

「確かに、そうなんですけど」あたしは言葉を詰まらせて、

「でも、こころには笑っていてほしいなっていうか。こころが笑えなくなったとしても、あたしが笑わせてあげたいなっていうか、……そういう、こと、です」

 とぎれとぎれ。つっかえつっかえ。苦し紛れ、という形容を振り払うことはできない。

「ふうん」

 花音さんはやはりじろじろとあたしを眺め回して、「そうなんだ」溜息を吐くかのように言い、

「私ね、こころちゃんにはヒーローでいてほしいんだ」

 と、独白。訥々と、独り言のように思いの丈を打ち明ける。

「こころちゃんは私にとってヒーローなんだ。ドラムを諦めて売りに行こうとしていた私を引き止めてくれたのはこころちゃんだったから」

 胸に手を当てて目を閉じる。当時の出来事を思い出しているというふうに。

「人前で演奏するっていう勇気をくれたの。それまでの私は引っ込み思案で、そんな自分を変えたいと思って始めたドラムも続けられなくて。もうやめちゃおうってドラムを捨てようとしたときにこころちゃんと出会って、私は勇気を貰ったんだ」

 口元に微笑みを宿らせる。思い出の温かさに頬を緩めているのかもしれない。

「そのおかげで、私はハロハピのメンバーとして演奏できてるんだ。今の私がいるのは、こころちゃんのおかげ。だからこころちゃんは私にとってヒーローなんだ」

 そこまで言って、花音さんは照れたように笑い頬を掻いた。それはしょうがないと思う。長々しい自分語りなんて、気恥ずかしくて人前では難しい。

 それに、発言の内容にしてもそんなに変な内容はない。むしろあたしもだいぶ共感できるところだ。こころに勇気を貰った、もっと言ってしまうとこころに自分を肯定してもらえた経験はあたしにだってある。そのことでこころに感謝している気持ちがないと言えば、それは真っ赤な嘘だ。あたしだってこころには感謝している。だから、花音さんの気持ちもあたしは理解できる。

 ……ただ、そうと言って引っ掛かりを覚えた点がないわけではないのだけれど。

「美咲ちゃんはどう? 美咲ちゃんにとってこころちゃんはどんな人?」

「え、あたしですか?」

 花音さんが尋ねてくる。

 あたしは返答に窮した。何も思いつかないからではない。あまりに思いつきすぎるが故に、却ってどれを選択していいか分からないからだ。

「弦巻こころ」と言えば? ──花咲川の特異点。奇人、偏人、変わり者。大財閥のお嬢様。常識知らず。三バカの一人。ハロー、ハッピーワールド! のボーカル。笑顔の導師。スーパーポジティブシンキング。闇夜も照らすシャンパンゴールド。太陽。光。無敵のヒーロー。凄い人。そして、ただの一人の女の子。

 要素が多すぎる。それは、それだけあたしがこころの一面を知っているという証左になっているわけだが、ここからどれか一つだけを選ぶのは中々に難題だ。これだけ数多くの面を備えていて、一つだけ選んでそれが弦巻こころという人間だよと主張したところで、それは間違っているに決まっている。一面だけを抽出したところで全体像が説明できるわけがない。人間なんて多面体であって当たり前なのに。

「……答えられないの?」

 ふうん、と息を吐いて、花音さんは再びあたしをじろじろと眺め回した。全身を舐めるような目つきだった。向けられると背筋がぞくっとするような悪寒を感じる。体内に緊張感が生じ、喉をごくりと鳴らしても息を鼻から深く吸っても薄れることはない。むしろ増大しているような気さえする。

 選択を間違えたのは明らかだ。でなければ、花音さん(そう、あの花音さんが、である)はこんなにプレッシャーを放ってはこない。

「こころちゃん、最近ちょっと変わったよね」花音さんが言った。

「笑顔が可愛らしくなったっていうか――たまに、女の子みたいに笑うようになったよね」

「……こころは普通の女の子ですよ」

「そうだけど、そうじゃなくてね」

 花音さんはかぶりを振ると、

「こころちゃんって、ヒーローだから。可愛いけど、かっこよくて、優しいから。だから、ずっと笑っていてほしいんだ」

 それは、あたしもそうだ。あたしだってこころには悲しんでほしくない。できることなら笑っていてほしい。

「でも、最近のこころちゃんはヒーローってよりは、女の子だよ。ヒーローじゃなくなったわけじゃないけど、……よく笑って、よく楽しんで、誰かに勇気をあげて。それだけじゃなくなったような気がするんだ」

「……どういうことですか」

「今のこころちゃん、つらくなれちゃうんじゃないかな。もちろん笑顔を忘れたわけじゃないけど、つらくなったり、悲しくなったり、くるしくなったりできるんじゃないかなって。普通の女の子みたいになってるんじゃないかなって思うの」

 あたしは目を見開いた。確かにそれは驚くべき事態だ。一時期はあたしのことをキグルミの人と呼んで、もやもやするようなことを頭から遠ざけていたようなこころがそんなふうになっていたのなら。それは確かに驚愕に値する。

 ……けれど、それは別に喜ばしい事態なのではないだろうか? こころが悲しんじゃうかもしれないのは確かに嫌だなって、本当に嫌だなって思うしそうなってほしくないけれど、そんなにさも由々しき事態のように取り扱われるような事柄だろうか?

「どうしてそうなったのかな?」

 花音さんがあたしの目を覗き込んでくる。

「こころちゃんはどうしてそうなったのかな?」

 

 あたしは戦慄した。それは、こころが今まで通りに喜怒哀楽の喜と楽のみを理解するような人でいればいいと言っているようなものじゃないのか。怒と哀を頭から放り棄てて、それらに全身を突き動かされている人を理解できないままその人の存在そのものを記憶から抹消する、かつてのこころのままでいればいいと言っているのか。

 確かにそれならこころは悲しまないかもしれない。しかしそれはこころに他人に対する理解を諦めろと言っているに等しいんじゃないか。こころにあたしの記憶をもう一度失くせと言っているんじゃないか。無理に理解する必要はないけれど、かといって理解をしなくていいということにはならないんじゃないか。

 こころのヒーローとしての側面ばかりに注目しすぎているんじゃないか。こころは確かにヒーローだけど、同時に人間でもあるというのに。

 こころが普通の女の子で、何がいけないって言うんだろうか。

 文句を言おうと、あたしは口を開こうとした。

 しかし、「あら、美咲に花音じゃない!」聞き覚えのある声が聞こえて、その思いは霧散してしまった。

「あっ、こころちゃん!」

 花音さんがうれしそうな声を上げる。あたしは少し虚を突かれて、

「こころ!? どうしてここに?」

「どうしてって、この間美咲と約束したじゃない。ようもうふぇると? を一緒に作ろうって」

「あー、はいはいわかりました。その材料を買いに来たってことですね」

「正解よ美咲! よくわかったわね!」

「いやー、流石にこれは分かると思います」

 喜色満面、満天の笑顔、こころの顔面に向日葵が咲く。花音さんが最近可愛らしくなったと評していた笑顔。そう言われてみると確かに、うん。可愛い。……かわいい。

 はっと気がついて花音さんの方に視線を飛ばすと、花音さんは一応当たり障りのないよう笑顔を浮かべていた。口元だけ。目元は全然笑っていない。

 そんな花音さんの様子を知ってかしらずか、こころは、

「美咲と花音は何をしていたの?」

「えっ、と、それは……」

 しどろもどろになるあたしの声に被せるように、花音さんは、

「お買い物をしてたんだ。羊毛フェルトの材料を探してるんだよ」

「まあ! 同じものを買いに来ていたのね!」

「あー、はい。そういうことになりますね」

「でも美咲、それならどうして呼んでくれなかったの?」

「いや、こころが買いにくるなんて思ってなかったし。黒服の人たちに頼むと思ってたよ」

「頼まないわ? だってせっかく美咲が教えてくれるんだから、自分で買いに行きたいもの!」

「あー、さいですか……」

 全く。この子は本当に、よくそんな台詞を恥ずかしげもなく吐けるよね。ほんと、凄いと思う。

 とうとうこころを直視できなくなって、あたしはぽりぽりと頬を掻いた。

 花音さんの方から湿った視線が飛んできていたが、気がつかない振りをした。多分、もう口元でも笑っていないんじゃないかな、と思った。



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変化

 かつての私の誇りは、今となっては埃に塗れていた。

 

 CiRCLEの倉庫に立てかけられたストラトキャスター。青いボディにはステッカーが貼りつけられていて、これがレンタル用のギターではないことを示している。

 ならば誰かが置き忘れたものか、というとそういうわけでもない。いや、捉え方によっては確かに忘れ物と数えられるかもしれないけれど。とはいえこれはうっかり置いてきてしまったというよりは意図してわざと置いてきたものだから、忘れ物という表現はやっぱり適さないように思う。

 私はギターを手に取り、ストラップを頭に通す。首と頭に少々の重みを感じ、私はなんだか懐かしくなった。

 ギターを触るのは数年ぶり──恐らく、いつかの新年会でかくし芸として披露したのが最後──だったのに、元来そうあるのが自然であるかのように、ギターは体にフィットした。

 袂を分かってから何年も経つとはいえ、人生の一部を共に駆け抜けた相棒だ。特に一時期なんか、それこそ「ギターは私の臓器」と言わんばかりに四六時中抱えていた。

 体が覚えているのだろう。私は埃だらけの青い流線型をそっと撫でた。それから撫でた指の先が薄黒く汚れているのを見て、苦笑い。

 現在の私にとってギターとは既に過去のランドマーク。以前の私が夢追い人だったことを示すアンティーク。もっとも今は今でまた夢追い人なのかもしれないけれど、当時の夢とは方向性が違う。少なくとも、ギター一本で生活したいだなんて夢はもう持っていない。

 そんな私が当時の私の象徴であるギターに触れて汚れたっていうのは、そりゃそうだよねって話だ。水と油は混ざり合わない。当時の私と現在の私は、それこそ対極とまでは言わないまでも、別人と言って差し支えないくらい変化している。何せ、現在の月島まりなにとってギターは不要なものだから。

 それでも私がギターを手に取ったのは、昔のことを思い出したくなったからだった。

 スタジオに移動し、消毒液を吹きかけた布でギターを拭く。それだけで埃とか、その他諸々の汚れは取り払われる。そうして錆びた弦を張り替えれば、ギターはあの頃と何ら変わりない姿へ復活を遂げる。アンプに繋いで弦を爪弾けば、現在の私の音が鳴る。

 シールドを差し込みながら、私は自分の内側に熱が灯っていくのを感じた。

 はやくギターを弾きたい。聴きたい。確かめたい。

 どういうふうに私がギターを鳴らすのか、現在の私の音はどのようなものなのか。私はわくわくしていた。

 時計は午前七時すぎ。CiRCLEは営業時間外で、人気のない店内は閑散としていた。普段は楽器と喋り声で賑やかな分、余計に印象深く感じた。

 多分、今日は一日中静かだろう。もちろん営業時間になったら騒がしくはなるだろうけど、いつもに比べればだいぶ静かなことになるんじゃないか。

 というのは、CiRCLEにはいろいろな常連客がいるけれど、その中でもとりわけ賑やかな子たち――Poppin‘Party。

 今日、彼女たちが高校を卒業するのだ。

「……ふう」

 私は息を吐き、チューニングを開始する。六弦、五弦、四弦、三弦、二弦、一弦、次々に調律しながら、ポピパの子たちに思いを馳せる。

 香澄ちゃんは大丈夫かな。家を出る前から泣きじゃくっていたりしていないかな。有咲ちゃんによると去年も一昨年も号泣していたらしいから、当事者となった今年はたいへんなことになっちゃいそうだけど。やっぱり有咲ちゃんが泣くな! って励ますのかな。でもその辺はどうなんだろう。沙綾ちゃんによると、有咲ちゃんも結構涙もろいところがあるらしいけど。……まあ、いざとなれば沙綾ちゃんがいるのかな。

 りみちゃんはどうだろう。話によればお姉さんが来るみたいだけど。お姉さんって、確かグリグリの牛込ゆりちゃんだったっけ。留学中って聞いていたけど、妹の卒業式のためにわざわざ外国から駆けつけるなんて、愛されてるなあ。

 気になるのはたえちゃんだ。あの子が感情に揺さぶられている姿を、失礼なことは分かっているんだけれど、私は想像できない。ポピパのメンバーだったらそういうのも見たことあるかもしれないけれど。

 まあ、そういうのは私が詮索することじゃないかな。

 チューニングが整って、私はとりあえず、テキトーなところを押さえてピッキングする。

 じゃーん、太くて鋭い音が鳴る。

 さながらそれは暴力。鼓膜を鉄で殴りつけて痕を残すかのような。生き生きと、縦横無尽に動き回って人をぶん殴る、アグレッシブ。通り魔みたいな音。

 私は楽しくなってきて、さらに別のところを押さえて弾く。ピックで引っ掻き回して、その度に鳴り響く私の音。かつての私では考えられない、のびのびとした音。

 こんな音を作るんだ、現在の私。機材は同じものを使っている。技術についても、毎日何時間も音を合わせていた頃と比べれば当然劣る。けれど、音が変化しているのはそういう技術面によるものじゃなくて、精神面の変化。

 私を取り巻く環境だとか立場とかが変わって、年齢だって上がっている。その日暮らしの若いバンドマンと、待遇はともかく一応は正社員のおばさんとでは、見えているものだって変わってくる。

 そういう意味で、昔と今の私は別人と言えた。

 

 でも、さ。

 

 私はギターを弾き続ける。適当なコード弾きだけでは飽きたらず、昔よく弾いてた曲をやり始めて、店内に誰もいないことをいいことに熱唱。

 聴かれていたらめちゃめちゃ恥ずかしいけれど、誰も聴いていないかもしれない。姿の見えない誰かを怖がって歌わないなんて、そんなの勿体無い。だってこんなに楽しいのに。

 私はギターを弾いて歌う。夢が叶うことは誰かのおかげじゃないと謳うあるバンドの楽曲を腹に力を込めて歌い、その楽しさに酔いしれる。

 そうして、過去の自分を夢想する。

 

 ○

 

 初めてギターに触れたのは、中学生になってすぐ。

 中学に上がったお祝いということでお父さんがプレゼントしてくれたのだ。

 どうしてギターだったのかというと、その頃流行っていた曲をコンポで聴いていた(コンポ。当時はまだ、コンポという言い方が残っていた)私を見たかららしい。音楽が好きだと思われたのだろうか。

 確かに音楽は今でこそ仕事にするくらい大好きだけど、当時の私は好きか嫌いかで言ったら好き程度の好意だった。それはそうだろう。当時の私に今くらいの音楽への熱量があったら与えられる前に自分からギターが欲しいとねだっていただろうから。

  

 別に音楽が大好きなわけじゃなかった。だからギターを渡されたとき、私はあまりピンとこなかった。

 けれどギターを構えた私の姿を見て、お父さんは「様になってるね」と褒めてくれた。実際私も鏡で確認してみると、自分で言うのも何ではあるが、確かに似合っているように見えた。

 私の一番最初のモチベーションは、思い返してみればこれだったと思う。ギターをやる理由は似合っているから、なんていうファッション性。

 始める動機としては別にいいかもしれないけれど、続けていくにはちょっと弱い。こんな志では、音楽で生活しようと夢見ることは到底ないだろう。

 じゃあ、音楽が大好きになったのはいつの頃だっただろうか? というと、正直いつだか分からない。明確にこのとき私は音楽を大好きになりました! って言えるような特別な出来事は経験していない。ギターに触れていくうちに、だんだんと好きになっていったんだと思う。

 覚えたてのコードを意味もなく弾き散らかして、この音は私が鳴らしているんだと実感を覚えたとき。

 苦節の末、Fのコードを弾けるようになったとき。

 特に苦労もせずにチューニングできるようになったとき。

 知っている曲を演奏できるようになったとき。

 アルペジオをすんなり弾けるようになったとき。

 そういう体験を積み重ねていくうちに、私は音楽が大好きになっていた。

 だって、楽しかったから。ギターを弾くのは楽しい。音を紡ぐのは楽しい。曲を弾けるようになるのが楽しい。演奏が上手くなるのが楽しい。もちろん、誰かの音楽を聴くことだって楽しい。

 音楽って楽しいことなんだ。楽しくなけりゃ続けられないし、好きにだってならないだろう。ギターと付き合っていくうちに、私は音楽がとても楽しいものだということに気づいていった。

 高校生になるくらいには、臆面なく好きなものは音楽だと自己紹介できるようになっていた。

 

 バンドマンになったのは高校生のときだった。

 バンドメンバーは同じ高校の同級生。それも、Afterglowみたいにもともと仲が良い幼馴染で組んだんじゃなくて、高校で知り合った人たちで組んだ。そういう点ではポピパの子たちと一緒ってことになるのかな。

 どうやって知り合ったのかというと、ギターが上手に弾ける人ということでメンバーからスカウトを受けた。私が声をかけられていた時点でベースとギターボーカルとキーボードは揃っていたようだけれど、ドラムは未だに見通し立たず。加えてギターボーカルが始めてまだ一ヶ月も経っていない初心者だったから、ある程度ギターが弾ける人を加入させないといけない状況だったみたいだ。

 私は二つ返事で引き受けた。というのは、先方の事情に同情を覚えたからではない。誰かと一緒に音楽をやった経験がなかったからだ。

 個人でギターを弾き続けてきた私は誰かと共同で音楽をやったことがなかった。だから、誰かと一緒に音を鳴らすこと、共に音を作り上げることに興味があった。憧れていた、と言い換えてもいい。私はバンドというものに憧れていた。

 とはいっても、私の学校には軽音楽部なるものは存在していなかったから、憧れはあくまで憧れでしかなかった。現実にバンドが組めるとは私には思えず、実際に声がかけられるまで「バンドマンとしての月島まりな」は御伽噺のようなものだと捉えていた。

 思い返すに、月島まりながバンドマンになったのは私が体験した数少ない奇跡のうちの一つであった。

 そんなだったから、初めて音を合わせたときの衝撃は凄まじいものがあった。

 私の音が鳴り響いて、メンバーの音も鳴り響く。それらは融合し、一つの音楽となって、私の細胞を昂ぶらせる。

 音楽に神経が引っ張られた経験をしたのはあれが初めてだった。体が音に持っていかれてしまうかのような興奮。そんな音を自分自身が掻き鳴らしている歓喜。……なんて言ってみたけれど、正直どちらもあの感覚の中身を完全には表現できていない。言葉で表現できるようなものじゃないと思う。それほど言葉は万能じゃない。

 ただ、頭が空っぽになるほど楽しかった。楽しくて、面白くて、気持ちよかった。

 あのとき私たちは音楽をやっていた。おそらく、世界中の誰よりも音を楽しんでいた。

 

 バンドマンとなって最初の三年は、辛いことより楽しいことの方が多かった。

 それはそうかもしれない。あの頃の私は学生で、その中でも最も青くて瑞々しい高校生だった。主観的にはともかく客観的には親の扶養下に置かれ、辛く厳しい現実から守られていた。それに自覚的かそうでないかは人それぞれだけど、ともかくその上で高校生は青い春を送っていた。

 私は、というか私たちは自覚的ではなかった。楽しく演奏したり、楽しく学校に行ったり、楽しく遊んだり、楽しくライブしたりした。まだ若かった私たちは年齢の割には実力があると認められ、そこそこ人を呼び集めることもあった。

 あの頃の私たちの売りは将来性だった。いつも私たちを形容するときには接頭に「若き」という言葉がついていた。

 それが、いつも少し不満だった。

 上手くなってやりたかった。いつか上手くなって、若いだけと思っている人たちに風穴を開けてやる。……私は少しばかりギターが弾けたけれど、だからといって私たちは演奏が上手かったかと言われたらそうはならない。一人そこそこ弾けようと、全体の評価には繋がらない。

 けれど、いつか上手くなったらそういう人も見てくれるようになる。私たちを認めるようになるだろう。

 当時の私はそう考えていた。信頼に足る根拠も何もなく、ただ漠然とそう思い込んでいた。現実はそう甘くはないということを、高校生の私は分かっていなかった。

 だから、それは単なる願いでしかなかった。

 

 高校を卒業した後もバンドは続けていた。バンドメンバーはそれぞれ大学に進学したり、専門学校に通ったり、実家の家業を手伝ったりと、進路はまるでバラバラだった。

 同じバンドのメンバーという繋がりはあれど、他人であることは変わらない。自分の未来を選択できるのは自分だけ、他人に介在なんてできやしない。他人は他人でしかないんだから。同じバンドを組んでいたら同じ学校に通わなきゃいけない、同じ会社に就職しなきゃいけないなんてルールはない。

 それでも私たちがバンドを続けていたのは、このメンバーでやる音楽が楽しかったからだ。

 大学には軽音サークルがあった。みんなの話を聴くに、どの大学にもあるんだと思う。

 でも、もしその大学で出会った人とバンドを組んだとして、音楽を楽しめるかは分からない。高校生活を共に過ごした私たちと、大学で会ったばかりの人同士で組んだバンド。そんなの、思い入れの強い方を選ぶに決まっている。

 この頃はまだ、音楽を楽しいと思っていた。

 

 音楽を楽しめなくなったのはいつのことだっただろう? というと、やはり思い出せない。気付いたら音楽が楽しくなくなっていた。ちょうど、好きになったときと同じように。

 でも、そのきっかけがなんだったかなら心当たりがある。

 多分、音楽でプロになろうと志したときだ。

 時間は決して止まらない。私たちを顧みることは一切なく、有無を言わさず進み続ける。私たちができることは、せめて置いて行かれないように走るだけ。

 それは分かっていたけれど、私たちはバンドを続けていたかった。

 七年くらい楽器を続けていれば、演奏もちょっとは上手くなる。私は中学から続けていたから、それこそ楽器歴は十年。二桁だ。

 バンド歴だって六年を超えていたわけで、そんなくらいになれば、他の有象無象よりは演奏が少しだけよく聴こえる。技術のある、よい演奏が出来るようになる。……そのときは、技術こそが演奏の良し悪しに直結すると思っていた。

 それに、私たちは音楽が好きだった。バンドも好きで演奏も好きで、メンバーのことも好きだった。

 そういう好きなことを仕事にできるのって素晴らしくない? 確かにどこかの会社に入って普通の人生を過ごすのも悪くはないと思うけど、音楽をやる人生って凄くいいと思う。

 だって、会社員やってる自分と音楽をやる自分。どちらがしっくり来るかなんて言うまでもない。音楽を仕事にできたなら、私はずっと音楽をやっていける。プロになったら、それが叶うんだって。

 私がプロになりたかったのは、音楽がやりたいからだった。

 けれど、プロになるには音楽を真剣にやらなければいけなかった。

 

 プロになると決めたはいいが、地元の学生バンドの中ならばともかく、インディーズ全体を俯瞰したときの私たちの立ち位置は取るに足らないものだった。

 プロを目指すには、楽器が弾けることが大前提。その上でいい演奏を行わなければ、誰かに見つけてもらえない。

 人の心を打つような、技術と歌を兼ね備えた音楽。

 誰かに名前を覚えてもらうような音。

 みんなに認めてもらうための音。

 私たちに必要なものはそういう音楽だった、と思い込んでいた。

 誰かに見つかるようないい演奏をしていたら、いずれ誰かに発見されてプロになれるかもしれない。……夢みたいな話。路上ライブをしていたらスカウトされてプロデビュー。

 そんなことが起こるかもしれないという希望を胸に、私たちは練習した。楽器を何時間も弾き、何時間も合わせ、見つけてもらえるにはどうすればいいか考えあった。何日も、何ヶ月も、何年も、それを続けた。

 けれど、誰にも見つけてもらえることはなかった。

 

 初めて「見つけてもらう」ことを第一に演奏した日のことをよく覚えている。あれは楽しくなかった。もちろんこれは今だから言えることで、当時はここまではっきりと言葉にできるほど自覚はできていなかった。

 ただ、違和感はあった。演奏しているのに、音を合わせているのに、私の体は私にあった。思考も、意識も、所有権は私が有していて、いつもの演奏だったら思考回路なんて音の奔流に流されてぶっ飛んでいくのに。

 あれは私たちのための演奏じゃなかった。みんなのための演奏だった。その「みんな」っていうのは誰か具体的な対象がいるわけじゃなくて、「世間はこういうものが好きなんだろう」っていう意味での「みんな」だった。

 今なら分かる。音楽って、やっぱり楽しくなきゃ駄目なんだ。全身全霊、私が楽しむためだけに音楽を弾く。他人のことなんて気にしない。気にする必要なんてない。だって、私が楽しいんだからみんなも楽しいでしょ? って。

 一○○パーセントのエゴイズム。みんな私たちについてきて。自分が楽しくないのなら、誰かを楽しませることなんて出来ない。

 いい演奏ってのは、こういうものを指すんだろう。他人なんて顧みず、ただただ自分本位で楽しみまくる。

 そういうスタイルが、一番凄くて素晴らしい。

 だから、私たちは見つけられなかった。それどころか、もともと応援してくれていた人たちも離れていった。私たちが楽しまずに演奏していることをどこかで感じ取ったのかもしれない。

 私たちは演奏が少し上手いだけの、ファンも若さも楽しさもないおばさん集団と化していった。

 過ぎ行く結婚適齢期。女としての商品価値は降下を繰り返し、楽器と結婚するのだろうかというような日々。

 不安定な生活というのは身も心もボロボロにする。先は見えないし、何なら高校生だったときよりもむしろバンドマンとしての状況は悪化しているし、どころか数年前、いや数日前の自分よりも駄目になっている感じすらする。私はただの駄目人間になりかけていた。実際底辺のバンドマンにとって駄目人間とは謗りではなく事実の指摘で、問題があるのは事実を指摘されたら謗りと受け止める方だ。

 夢追い人とはともすれば社会の孤児。具体的な駄目人間バンドマンの話はしないけれど、ほぼ破れかけている夢をなおも追い続ける人なんていうのはあまりいない。実際は無理だろうなと悟りつつも追う姿勢だけ見せて、その実大したライブも行えない――行ったところでチケットが捌けないのは分かりきっているから――人が殆どだ。

 末期の頃は私たちの中にもそういう雰囲気が立ち込めていた。みんなで集まっても、夢を追うよりどうやって夢を諦めようか探るような空気感が展開されていて、一度口を開ければ全員が注目する。

 もちろんこんな状況になってもまだ音楽を諦めたくない人は当然いるわけだから、やめたい人たちとやめたくない人たちでも対立が起こる。

 私は断固やめたくなかった。私にとって音楽は不可分の存在となっていた。例えバンドが解散しても、私は音楽をやり続ける。私は絶対に成り上がる。それにここまでやってきて、結局誰にも知られないままバンドを終わらせていいのか。

 今にしてみても荒んでいるなあと思う。この頃になると最早成り上がることが目的になっていたし、音楽の楽しさは二の次だった。いや、楽しさを殺して流行りものと思う音楽をやり続けてきた背景もあって、音楽を楽しいと思うこと自体を憎んでいたような気がする。

 そんな私とやめたい人との水が合うわけもなく、対立は深まるばかりだった。

 

 解散が決まったのは、私が折れたからだった。

 というのは、ふとギターを持たない自分をしてみたら、出来てしまったからだ。

 ギターを持たず、どこかの会社に通う自分。画一的なスーツを着て電車に乗り込み、人ごみに押し潰されながらもオフィスに向かって、えーと、こう、なんか事務作業する。正午になったら昼休憩し、しかる後に労働を再開し、勤務終了。満員電車に辟易しながら帰る私。

 あまり良い気分にはならない想像だった。単なる一般人の人生。そこには音楽もないしバンドメンバーもいない。けれど、現状への憂いも自分の情けなさも、未来への絶望もなかった。

 そう思った瞬間、あれほど信じていたはずの超満員の前でのステージが想像できなくなった。私がギターを弾いている光景が、私たちが世界に名を轟かせる幻想が、たちまちにしぼんで消えた。

 怖くなってしまったのだ。ギターで名を轟かせようと息巻いていた、自分自身の情熱が。そんなものを持っていた自分自身に恐怖した。そして一度消えてしまった以上、再点火させることはできなかった。

 私は冷静になってしまったんだ。

 

 実を言うと、解散したらめっきり音楽との関わりを絶とうと思った。ギターを売って、譜面も焼いて、私が音楽と関わっていた痕跡を全部消そうって。

 けれど解散が決まってから初めての音合わせで、その予定は崩れ去った。

 全員が久しぶりに自分勝手に弾いたのだ。

 割れんばかりに強く叩き散らかすドラム。陰から支えるのではなく。積極的に前に出て自己主張するベース。踊るような旋律のキーボード。それら全ての音を塗り潰すように悲鳴を上げるギター。

 どれも解散が決まる前までは絶対にやってこなかったアプローチだった。それはつまり抑圧からの開放。エゴイズムの放出。純度一○○パーセントの己。

 音が私を連れて行く。神経を、感性を、感覚を、体を、思考を全てぶっ飛ばして、高揚。快楽。笑顔。

 ああ、楽しいなあ。そうか、音楽ってこんなに楽しかったんだ。音を楽しむっていいなあ。

 気づけば私は泣いていた。笑って演奏しているのに、目からは涙が溢れてきた。演奏どころの話じゃないくらいの大粒の涙だ。でも、そんな私にメンバーは誰も反応しなかった。よく見てみたら、みんなも同じく泣いていた。

 日頃からこんなに音を楽しめていたら、解散することもなかったんだろうなあとそのとき思った。けれど、今更そう出来たからといって解散を取り消そうとする人は誰もいなかった。

 バンドを解散することにしたからこそ取り戻せた、純粋に音楽を楽しむ気持ちを失いたくなかったのだ。

 

 ○

 

 いつの間にか止まっていた手を、私は再び動かしていく。

 アンプからは現在の私の音が鳴り響いて、それは演奏を楽しむ音。心からやりたいようにやっている音。他人の目なんか気にせずに、本能の赴くままに突っ走る音。

 ……バンドが解散してから、私は他のバンドの音楽を聴きまくった。現役の頃はなんだか自分の音楽と比較されてる気分になって、他人の音楽なんて聴けなかったんだけど、解散したからにはそんなことは関係ない。プロを目指してギターを続ける気にはもうなれなかったし。

 私は聴いた。聴いて、聴いて、いっぱい聴いた。そうして分かったのは、世の中にはいい音楽がいっぱいあるということ。心底楽しそうに自分の好みをぶつけていたり、自分本位の趣味みたいなジャンルをやったりしていて、聴いてるこっちも楽しくなってくる。

 そのとき、私は音楽って楽しくなくちゃ駄目だなって知見を得た。あまりにも遅すぎたけれど、私はようやく気づけたのだ。

 音楽って楽しい。楽しいから面白い。私は音楽が好きなんだって、中学生の頃に得た純粋な気持ち。それを、流行りものとかいうノイズには目もくれずひたすらに培養していたら、もしかしたらこうなれたんじゃないかって思いはないわけではなかったけれど。

 そう、だから、私は若くて音楽が好きな子たちを育てたい。音楽が好きな思いを大事にさせて、私たちみたいにならないようにサポートしてあげたい。誰かに見つけてもらえるような、そんなバンドにさせてあげたい。

 私は夢を叶えられなかった。けれど、誰かの夢を叶えさせることは出来るかもしれない。いや、叶えさせてあげたい。それが新たな私の夢。自分の内から強く出た、本当にやりたいこと。やりたいことを、やりたいように。

 そこにギターの出番はなかった。ギターは主役が持つべきものであって、脇役が持っていいものじゃなかったから。あくまで私にとってギターとは夢追い人だった私の象徴で、今の私にはいらないもの。だってギターを演奏することは、もう私の夢ではないからだ。

 それでも、私はたまにこうしてギターを弾く。もうほとんど、めっきり頻度も減ったけど。

 こうやってギターを弾いていると、この子と駆け抜けた思い出が走馬灯のように蘇ってくるんだ。別に死ぬわけでもないのにね。それほど濃い時間を過ごしたってことなんだろう。

 初めてギターに触った日。初めてバンドに入った日。演奏に違和感を覚えた日。普通の自分の想像に打ちひしがれた日……。

 人生、全てが正しいわけじゃない。客観的に見たら、間違ってた選択をしたこともいっぱいあったと思う。

 けど、現在こうして私がCiRCLEのスタッフをやっているのは、全て過去の月島まりなによるものだ。

 過去と現在は繋がっている。過去の私も現在の私も、月島まりなという同一人物だ。過去の私が演奏に違和感を覚えなければ、現在私は全く違う人生を送っているかもしれない。

 だから、私は過去の私が間違っているとは思わない。私は過去の自分の全てを肯定する。

 現在どれだけ間違おうが、最終的に全て正解になるんだ。

 

 ……時刻は午前九時に入ろうかというところだった。いつの間にかそんなに時間が経っていたらしい。

 香澄ちゃんたちの卒業式の様子を見に行きたいから、そろそろ追憶もやめにしなければいけない。

 けれど、最後に一曲だけ。

 たった一つ、見つけてもらった私たちの痕跡。

 解散が決まってから作った、私たちの最後の曲。

 心から楽しんで演奏できた、絶対忘れない私の永遠のヒットチャート。

 

 

「──『HOPE』」

 

 

 今頃高校生活最後の朝のホームルームを行っているだろう彼女たちに向けて、私は全力で楽しみながら歌い上げる。

 

 ……新しい世界へと飛び込んでいくあなたたちの旅路が、希望で満ち溢れたものでありますように。

 

 



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あっと驚くタイフー!

 乾いた咳の音が天井まで届いて、こほん、こほんと空間を揺らす。勢いよく射出された病原菌が恐らく飛び散り、部屋の空気を悪くしていく。それは喉の奥を刺すような、粘っこくて刺々しい空気の醸成。呼吸すら憚られるような、居心地の悪い空間への変貌。鼻をかむ音はまるで轟音のようで、かんだ本人すら想像以上の音量に驚いているのだから、傍聴者はそれ以上に吃驚、ないし居心地の悪い印象を与えてしまっているかもしれない。

 せっかく来ていただいたのに。麻弥は申し訳なく思い、顔を歪めた。

「すみません、こんな有様で……」

「いやいや、いいよ別に。分かってて来たんだし」

 日菜は手をひらひらと降り、麻弥の憂慮を笑い飛ばした。「お見舞いって、そういうものなんでしょ?」

「ですが」

「あ、そうそう! これ、お見舞いの品だよ」

 もう片方の手に下げていたビニール袋を持ち上げると、その中身を一個ずつ取り出して麻弥に見せ付ける。

「これが今日発売の音楽雑誌でしょ、それから野菜スティックにコーラ……ああ麻弥ちゃん、麻弥ちゃんちって生姜ある?」

「確かあったと思いますよ」

「えーっ、そうなんだ。麻弥ちゃんちって食材あるんだね」

「そりゃありますよ。いつのだかわからないやつもありますけど……」

 乾いた笑みを浮かべる麻弥。日菜は袋から最後の見舞い品を取り出した。

「で、これが激辛カップ麺ね」

「えっ」

 思わず、麻弥は顎を落とした。途中までは出てくる見舞い品に対して嬉しさと申し訳なさが同居した体で身を縮こまらせていたのだが、そういう態度は赤くて黒いパッケージを見た瞬間に吹き飛んでしまった。

 そう、赤くて黒。商品名のフォントは「本当にあった怖い話」のようなおどろおどろしいもので、印刷された髑髏のマークはこの食品が危険物質であることを伝えているかのようだ。そして実際、危険物とはあたらずも遠からじであるから始末に終えない。

 少なくとも病人が食べていいものではないだろう。むしろ余計に体調を崩しそうだ。麻弥はカップ麺をしばらく見つめ、それから何か、信じられないものを見るような目つきで日菜を見た。

 日菜は笑っていた。

「食べたら元気になるかもしれないよ?」

「ある意味ではそうかもしれませんけどね……」

 こういった辛い系のラーメン愛好者、もとい中毒者、何なら乱用者の言い分。──激辛ラーメンを摂ることによって初めて健康になれる。明らかに度を越した量の刺激物を体内と脳味噌にぶち込むことによって神経をバグらせ、全ての刺激を幸福と感じられるようになる。風が肌に当たって涼しい、故に幸福。呼吸で入ってきた空気が体内を通り抜けていく、その感触が心地よいから幸福。耳がうるさい車の走行音をちゃんと聞き取れている、だから幸福。体内器官が正常に動いていることに感謝。生きていられることが幸福。……身体が健康であることを鮮明に認識させてくれるから、逆説的に激辛ラーメンを摂ると健康になることができるのだ。

「いや、それはなんかおかしいです」

 麻弥が呆れながら言うと、日菜は「おもしろいよねー」と冗談めたく笑う。一見筋が通っているようで、その実ただの詭弁論。順接の使い方も逆接の使い方もおかしいし、第一それは健康ではない。自傷行為を行うと健康になれると言っているのと変わらない。というか、つまりそれは激辛ラーメンは食べる自傷行為と言っているようなもので、少なくとも病人食では絶対にないことの証左だ。

「どこで聞いてきたんですか、その論理」

 麻弥が尋ねると、日菜は「こないだやってたニュースの特集で見たんだ」と間延びした口調で返した。

「インタビューに答えてた人が面白くてね。試しに行ってみたら美味しくてさー」

「それでハマってしまった、と」

「うん! 麻弥ちゃんも食べる?」

「遠慮します」

 きっぱりと首を振る。日菜は「じょーだんだよー」くすりとすると、

「これはあたしが食べるけど、麻弥ちゃん何か食べたいものあるー?」

「いえ、大丈夫ですよ。ジブンお腹空いてないですし」

「ふーん?」

 麻弥の言い分に日菜はぱちくりと瞬きしたが、麻弥ちゃんがそう言うならいっか、と流した。病人だからとか以前に、もともと麻弥は小食だからである。

 日菜はカップ麺とコーラを手に台所へと向かった。

 

 

 それから数分が経過し、麻弥の寝室には脂と豚と唐辛子の混じった香りがたち込めていた。ズズズ、と啜る音が途切れ途切れに部屋に響いて、日菜は熱さと辛さに顔をしかめながら、しかし美味しそうにラーメンを食していた。こびりついたら容易には取れなさそうな、ある意味で芳醇な香りが鼻腔をついて、麻弥はやっぱり何かリクエストしておいた方がよかったかもしれませんと思った。が、カップの中のどす黒い赤色のスープが視界に入って、少し沸きかけていた食欲が一瞬にして減退。まるで溶岩か、あるいは血液か、いずれにせよ人間の食べ物には失礼ながら思えなくて、見ただけで辛さがこみあげてくる。何なら辛いどころか痛みすら想像してしまい、それを洗い流そうと、麻弥は日菜が淹れた生姜コーラを一気に煽った。

 甘ったるい合成甘味料の味が口の中に広がっていく。そして、それを一気につんざくような生姜の風味。片手鍋に入った黒い液体はまだまだ残っていて、こちらはこちらで熱されたカラメルの香りを振り撒いている。匂いがこびりつく前に、しっかり換気をしなければいけませんね。空になった紙コップを手に、麻弥がそんなことを考えていると、

「そういえば、あの件はどうなってるの?」

 日菜が尋ねた。麻弥は「あの件……、ああ、あの件ですか」一瞬固まってから、要領を得たというふうに何度か頷いて、確認。

「アイドルのプロデュースの話ですよね?」

「そーだよ」と首肯。「どうなったのかなって思って」

 日菜は麺を持ち上げる手を一旦止めて、麻弥の方をじっと見やる。麻弥は「あー……」ばつの悪い表情。

「恥ずかしながら、全然進んでいなくてですね……」

「へえ?」

 日菜はラーメンを啜る作業を再開する。赤と黒にまみれた麺を割り箸で持ち上げ、ズズズと音を立てて吸引。赤くて黒くて白い引き伸ばされた小麦粉を体内に取り入れていく。顔をしかめ、額には汗が滲んでいて、しかし日菜は、今度は容器を口元に持ってきて傾ける。溶岩の直接摂取。激辛スープを飲んでいく。それを眺めながら、麻弥は黒くて甘ったるい滋養強壮ドリンクを紙コップに注いで、ちびちびと飲む。

 お互いある程度の量を飲んだところで容器を置き、全く同じタイミングで「ぷはあ」息をつく。なんだかそれがおかしくて、二人は仄かに笑いあった。

「で、進んでいないって、どのくらいなの?」

 その表情のまま日菜が尋ねる。たちまち麻弥の笑みは苦笑へと変貌した。

「全然ですよ。本当に、……どういう方向性のアイドルにするかとか、イメージカラーは何色にするとか、バンドとしてはどういう方向性で売っていくかとか、そういうとこからです」

「ふーん。アイドルのプロデュースって大変なんだね」

「正確には、アイドルじゃなくてバンドアイドルのプロデュースなんですけどね」

 日菜は相槌の代わりにラーメンを啜る音で返した。麻弥は語る。

「まあ、プロデューサーって言っても本当のプロデューサーってわけじゃないので、ジブンごときがプロデューサーは大変って言うのも違う気がするんですけど……。……今回のは事務所が新しくデビューさせるバンドアイドルの立ち上げに携わるだけですし、それだけでプロデューサーを名乗るのもなんか違うなって、思わないといえば嘘になるんですが」

「まあでも、そこは事務所の意向ってヤツでしょ?」麺をごっくんした日菜が言った。容器の中にもう麺は残っておらず、もう赤黒いドロドロのスープしか入っていない。

「麻弥ちゃんがプロデューサーになったのって、「あのパスパレの大和麻弥プロデュース!」って売り文句をつけたいがためでしょ?」

「いや、まあ、そうだとは思うんですが」

「だから、あんまり気負わなくていいんじゃない? プロデューサーでもただのパスパレのメンバーでも、麻弥ちゃんは麻弥ちゃんなんだしさ」

 そう言って、日菜は残った汁を飲み干した。

 麻弥は、

「そうなんですけどね……。ですが、ジブンだからこそプロデューサーって言うにはちょっとっていうか……何かを一から生み出そうとするのって、分かっていたつもりでしたけど、やっぱり難しいですね」

「そうかな? まあでも、あたしと麻弥ちゃんは違うし、そうかもね」

「そういえば日菜さん、高三のときに学園祭バンドのプロデュースしてましたよね」

「あー、あったねそんなこと。でも、あのときは全員知り合いだったし、やりやすかったって言えばやりやすかったかなー」

「それでも、メンバーを集めてバンド結成させたのは日菜さんじゃないですか。ジブン、日菜さんのそういうところ、凄いと思いますよ。ジブン、寝ずに考えても、何も浮かんでこなかったので……」

「へー。それで、麻弥ちゃんは風邪を引いたと」

 ぴたりと麻弥の動きが止まる。どうやら図星であるようだ。

 日菜は笑う。

「まあ、麻弥ちゃんのことだし、生活習慣のせいだろうなって思ってたよ。でも、千聖ちゃんが聞いたら怒るだろうなあ」

「すみません日菜さん、このことは千聖さんには内密に……」

「いいよいいよ、分かってるって」

 でも千聖ちゃんってこういうのの察し上手いし、あたしが黙ってたくらいじゃすぐバレると思うんだけどな、とは、日菜は言わなかった。そうしないだけの優しさは持っていた。

 麻弥は胸をなでおろすと、話題を元に戻そうと口を開く。

「日菜さんのときと違って、今回はメンバーを集める前にグループのコンセプトを考えなければならないんですよ。メンバーをオーディションや研究生から決めなくてはならないので」

「どういうアイドルにしたいかって方向性が決まらないと、スカウトもオーディションもできないからね」

「そうなんです、けどね……」

 麻弥はそこで言葉を噤み、大げさにうなだれて肩をすくめた。おまけに、首をゆっくりと横に振ってみせた。何を伝えたいのかは明白だ。

「今、それってどこまで決まってるの?」

 小首を傾げて、日菜は尋ねる。麻弥は「ええとですね……」頭を掻いて、

「まず方向性、というか事務所の方から言われたことなんですけど、「大ガールズバンド時代に新風を巻き起こすようなフレッシュさ溢れるバンド」「誰も見たことのない革新的なアイドル」というのがコンセプトでして」

「えらくふわふわしてない?」

「そうなんですよ。ですから、具体的なことはジブンで考えていかなきゃいけないんですけど」

「それが思いつかない、のかあ」

「お恥ずかしながら……」

 肩を落として、しょぼくれたふうにしてみせる麻弥。いやに抽象的な発注からして、この事務所にはよくあるいい加減なところが出てきたのかと見れなくもないが、しかし仮に詳細まで指示されたコンセプトであったなら、それは事務所プロデュースと何ら変わりはないだろう。本当に麻弥は名前を貸しただけになってしまう。真に大和麻弥プロデュースのバンドアイドルグループを作りたいのであれば、やはり指示はなるべくアバウトにして、麻弥に思考を促す方が適切なのだろう。

 麻弥はパスパレの音楽担当として定評がある。そんな彼女が手掛けるバンドアイドルとなれば、アイドルファンのみならず音楽通の人にも興味を訴えられるのではないか。そのためには、事務所の色よりも麻弥の色が濃く出ていた方が良いのだろう。

 日菜は手元に目線を落とした。汁のなくなったカップ容器があった。白いカップのところどころに唐辛子の赤黒い粉が張り付いていて、依然として強烈な油と肉と香辛料の匂いを放っている。

「イメージカラーが赤と黒と白のスリーピースってどう?」日菜が提案した。

「ユニット名は、激辛カップラーメンズ!」

「アイドルってより、学生バンドですよねそれ」

「えー。じゃあ、金色とか鈍色とか虹色とか瑠璃色とか」

「キワモノみたいなアイドルになりそうですね……」

 もちろん、麻弥は取り合わない。新奇を衒うのはいいが、ただ奇抜なだけでは話にならない。求められているのは業界をあっと驚かせる、邪道を正道にしてしまうような力を持ったアイデアなのだ。

「難しくない?」

「そうなんですけど、そういうお仕事ですからね……」

 やっぱり、難しい仕事を麻弥ちゃんに押し付けただけなんじゃないかな。日菜はもう何度目になるかわからない、事務所スタッフに対する疑念を抱いたが、いつものことか、と流した。こういう不平不満は、鮮度が落ちた後で笑い話にでもすればいい。

「でもね、麻弥ちゃん」

 日菜は麻弥の瞳を覗き込むようにして、

「今は仕事のこと考えるのはなしっ」撥音。麻弥は狼狽。

「どうしてですか?」

「だって、仕事のこと考えすぎて体調崩しちゃったんでしょ? 今はゆっくり休む時間だよ」

 その忠告は流石に的を射ていた。

「ぴーんってしてないと、頭がきゅぴーんってならないからね」

「そうですね」麻弥は頷いた。「確かに、休んだ方が思考も働くかもしれませんね」

「うんうん、休んだ方がいいよ」

 日菜の促しに、麻弥は「ごほっ、ごほっ」咳き込んでウイルスを四散。「……そうします」布団を被り、後頭を枕に安置させる。

「お休み麻弥ちゃん、この辺のゴミはあたしが捨てとくよ」との言に「ありがとうございます」と返し、……あれ、ゴミといっても、その大半は日菜さんが持ち込んだものでは。思うも、しかしそれは見舞いの品としてであるし、その例外である激辛ラーメンについても自分から捨てに行ってくれているならとやかく言うことではないし、何よりせっかく来てくださって片付けまでしてくれている日菜さんに悪くてできやしない、むしろ。

 麻弥は今一度、日菜に「ありがとうございます」と伝えた。「二度も言わなくてもいいよ」との嬉しそうな声音を聞きながら、ゆっくりと麻弥は瞼を閉じた。

 

 〇

 

 そして、日菜に叩き起こされた。

「起きて! ねえ起きて麻弥ちゃん」

 ドンドンドンと体に衝撃。揺らされて、肌とシーツがズリズリと摩擦。蹴とばされる微睡み。強引な起床。もたらされる半覚醒。

「どうしたんですか日菜さん……」ゆっくりと起き上がり、裸眼のまま日菜を見る。視界はぼんやりとして曖昧であり、薄暗い、本当に薄暗い部屋が、認識のし辛さを助長していた。当然、時計など見えるべくもない。

「今何時ですか?」

 尋ねた麻弥に、日菜は、

「麻弥ちゃん! 台風が来たよ!」麻弥の肩を掴んで、至近距離でまくし立てた。瞳が爛々と輝いていた。

「台風ですか?」麻弥は困惑の表情を浮かべた。「さっき、寝る前は台風が来るなんて話、全く聞いてませんでしたが……」

 通常、台風というのは上陸、あるいは接近前に少なくとも天気予報なりなんなりで情報が流れるものである。唐突に台風が到来することなんて、普通はない。

 しかし、そこで携帯が鳴った。聞いたことのない着信音だ。眼鏡を掛け、見てみると、気象庁からの緊急速報メールが表示されていた。

「花咲川が氾濫危険水位に達しました」「避難勧告が発令されました」「直ちに身の安全を確保してください」「警戒レベル5」「避難」「危険」「避難」「避難」「避難」……すべからく、危険と安全確保を訴える内容。外では風切り音が鳴り響き、家の壁一枚隔てて麻弥の耳に届く。空気を思いっきり殴りつけているような音だ。暴力的な風、故に暴風。叩きつけるような雨音が、暴力的な印象を強めさせていた。

 ざあざあ、ごうごう。音に煽られて、麻弥は寝室のカーテンを開き、外の様子を確認する。十分休息を摂ったからか、体はすんなり動いた。

 外は、やはり、荒れ狂っていた。屋内から確認できる外の様子など、外にいるときのそれと比べるとどうしても実感が薄く、どこかスクリーンの向こう側の出来事のように感じてしまうものだが、こうも窓枠がガタガタきかせているとそうもいかない。ぐっと暗い中、暴風、豪雨に晒されて、養生テープも雨戸も閉めていないのであるから、窓が割れるのも時間の問題であるように思われた。

 麻弥はそれを見ながら、呆然と立ちつくした。これは、いったい、どういうことなんでしょう。

 起きたらいきなり、予兆もなく本当にいきなり被災していたのだから無理もない。窓ガラスには目を見開いて戦慄する麻弥がうっすら写っている。

 後方から声。「すっごいおっきい台風なんだって」その声色はどこか喜々としていた。「観測史上最大だとか、地球史上最大規模だとか」

 麻弥は振り向いて、

「それは、随分と眉唾ですね」

「スポーツ新聞の記事だけどねー」日菜は可笑しそうに口元に手を当て、

「でも、本当にそうかもしれないよ?」

 ──再び、風の音。まるで日菜の発言を裏付けるように、どかんと家をぶん殴る。雨が屋根をしばき続ける。麻弥は息を飲んで、ごくり。唾も飲み込んで、そしてそのまま、息を張り詰める。

「ねえ麻弥ちゃん」そこへ、日菜が呼びかける。まるでオフの日に遊びに誘うかのような軽い口調で。

「街がどうなってるか見に行こうよ」

 いや、実際、それは遊びのお誘いだった。オフの日の場合と違うのは、無意味に命を賭した危険な遊びであるということだが。

「いや、危ないですよ」当たり前のように麻弥は首を振った。「何か起きたらどうするんですか」

「大丈夫だよ!」日菜はへらへらと、しかし力強く断定。「それに、麻弥ちゃん外にまだ出てないでしょ?」

「はあ。まあ、そうですが……」

 返答に、日菜はにやりと口角を吊り上げて、「出てみようよ!」ぱたぱたと玄関に向かって駆け出す。

「日菜さん!?」

 麻弥は面食らって、後ろ姿を追いかける。寝室から廊下へ、トイレや場や機材のコレクションルームを尻目に玄関に到着、待っていた日菜は解錠し、ドアノブに手をかけていた。

「開けるよ」

 麻弥は、しかし、その手を止めることはしなかった。既に追いついているのだから、日菜を止めるくらい容易い(姉関連でなければ、日菜はやめてと言えば基本的にやめてくれる人間であることを麻弥は知っている)筈なのだが、麻弥はそうしなかった。

 結果として、ドアは何事もなく開かれて、暴風豪雨が屋内に侵入。二人の髪の毛が舞い上がり、麻弥は反射的に目を瞑る。一方の日菜は半目になりながらも不敵な笑みを浮かべ、麻弥の肩を叩いた。

「見て、麻弥ちゃん」

 麻弥は恐る恐る瞼を上げて、視界が徐々に明らかになると同時に、絶句。ついには目をまん丸に見開くくらいに持ち上げた。

 

 空の色が紫色だった。

 

 いや、紫色じゃない。赤色、橙色、黄色、緑色、青色、藍色、紫色、赤色に移り変わっていて、サイケデリック。異界の空みたい。地球史上最大規模というこの台風は、空の色をも異常にしてしまっているのか。

 風が吹き荒れる。遮るものは何もない。麻弥は下半身に力を込め、ふっ飛ばされないよう踏ん張りを入れる。

「麻弥ちゃーん!」

 そんな中、日菜の声。外の方から聞こえてきて、しかしその方に目を向けても見えるのは家の壁。死角になっていて、外に出なければ姿は視認できなさそう。

 麻弥は足を踏み出した。風に吹かれ、短い髪をたなびかせ、というよりは吹きさらされながら、改めて声のした方に顔を向ける。

 そこにはガレージがあった。保管されているのは麻弥の愛車、学生時代に一括購入した黄色の軽自動車。それの助手席に日菜が座っていて、麻弥と目が合った瞬間「おーい、麻弥ちゃーん!」手をぶんぶんと振った。

 麻弥は車に乗った。運転席に腰を下ろし、少しばかり濡れた髪を腕で拭う。車内には放送のやってないラジオの砂嵐のようなノイズが流れていて、麻弥はオーディオへと切り替えた。

「はい、これ」日菜から車のキーが手渡されて、「なんで持ってるんですか」「まあまあいいじゃん、そんなことは」

 麻弥は何も言わず、車を発進させた。

「どこへ行きますか」

「うーん、CiRCLEとかどう?」

「いいですね。そうしましょう」

 オーディオは七〇年代のロックンロールを流していた。少しでも洋楽に触れたことがあるなら誰もが知っているであろう名盤だ。天井に降りかかる雨音がうるさいとはいえ、放送のやってないラジオよりは遥かにマシである。

 窓の外は、やはり酷い有様だ。異様な空の色にしてもそうなのだが、その下で吹き荒れる風もなんだか色がついているように見える。でなくても雨粒で外が見えづらいというのに。ワイパーをずっとかけていないと満足に運転もできやしない。ちらりと麻弥が隣を見やると、日菜は楽しそうに外の風景を眺めている。

 いったい、何を考えているんでしょう。麻弥は思った。

 別に怒っているわけじゃない。あくまでこれは純粋な疑問。麻弥は日菜のことを聡明な人だと思っている。一見思いつきで行動しているように見えても、その実何らかの目的に沿った上での行動であることが殆どだ。……殆ど、だろうか? ともかく、自らを危険に晒すような行動を軽率に犯すような人ではないと麻弥は考えている。

 平たく言って、麻弥は日菜のことを信用しているのだ。台風が吹き荒れる中外出を提案したのも意図があってのことだろうと考えているし、だからこそ麻弥は提案に乗った。しかし肝心の意図の内容については、まだ察しがついていないのだった。

 車がびしょびしょの道路を滑るように走る。その横には、今にも溢れ出しそうな花咲川が勢いよく流れている。氾濫危険水位に達したとは聞いていたが、しかしこうして実際に見てみると、本当に氾濫しそうでびっくりする。

 日菜はかじりつくようにその光景を眺めていたが、ふと、

「あれ、麻弥ちゃんちの鍵って締まってたっけ」

「あ」

 そういえば締めずに出かけた気がする。……まさか開けっ放しのままだとは思いませんけど、でも、ただ閉じてるだけの施錠してないドアなら風雨は侵入する気がする。

「少なくとも、氾濫したら間違いなく浸水しますよね……」

「どうするの? 戻る?」日菜が尋ねてくる。

「そうですね」と答えようとして、麻弥は、しかし口を噤んだ。CiRCLEが見えたのだ。

 その姿が余りにも異様だったので、麻弥は暫し呆気にとられた。

 CiRCLEは営業を行っていた。どこかのバンドがライブを行うらしく、店前はお客さんでそこそこごった返していた。

 彼ら彼女は誰一人傘をさしていなかった。合羽も被っていなかった。何故ならその必要がなかったからだ。

 CiRCLE一体の上空だけ、雲がまるでなかった。空の色は底まで鮮やかな青だった。当然雨など降っているわけがなかった。

「台風の目だ!」

 日菜が叫んだ。台風のごく中心のみに存在する、雨も風も全くない穏やかな空間。まさか、それがCiRCLEの上に広がっていると言うのか。そんなに大きい規模でもない、高校生バンドでもライブできるような箱の上だけに? 

「行ってみようよ」

 日菜が言った。麻弥は了承するしかなかった。

 車内を流れるロックンロールは、ちょうどハットのリズムが抜けたところであった。

 

 

 店内に入ると、受付をしていたのはお馴染みのベテランスタッフであった。

「あっ、二人とも! 久しぶりだね!」

「お久しぶりです、まりなさん」

「お久しぶりでーす」

 麻弥はぺこりと会釈、日菜は手を軽く振って挨拶。地下の方からドタバタと音が聞こえ、知り合いやらそうでないスタッフやらが忙しそうにしている。

「二人は、今日は練習?」

 まりなが尋ねる。麻弥は「いえ、そういうわけではないんですが」首を振って、それから外の、青々しい空に目を向ける。

「CiRCLEって台風でも営業してるんですね」

「えっ、台風?」まりなは眉根を寄せて、

「台風が来たらうちは臨時休業になるよ? でも、今日は来てないよね?」

「えっ」頓狂な声。今度は麻弥が困惑する。

 それを見たまりなもより困惑。困惑と困惑の相乗化。

「今日は朝からずっと晴れだよ? 絶好のライブ日和って感じの快晴だったと思うんだけどな……」

「ところで、そのライブって誰のライブなの?」

 そこに、横入りする日菜の質問。だがそれは突飛な質問というわけではなく、……入口がごった返すくらいお客さんが入るバンドというのは珍しい。特に学生やアマチュアのバンドが多くライブするCiRCLEにおいてその光景が見られるのは、RoseliaやAfterglow、ハロハピやポピパ、パスパレといった今でも活躍しているバンドくらいだった。

 あの観客たちは、この中のバンドのファンの人達なのだろうか。まあパスパレは除くとして、他のガルパ参加バンドのどこかがライブを行うのだろうか。麻弥は身を乗り出してまりなの答えを待った。天気のことも気になるが、これについても気になっているのだ。

 まりなはきょとんとした。

「あれ、二人とも知らないの? 今日は最近勢いが凄いアイドルのライブだよ」

 二人は顔を見合わせた。……アイドル。CiRCLEでライブをやるということは、バンドアイドルだろうか。

「なんてグループなんですか?」

 麻弥が尋ねると、まりなはすぐに教えてくれた。

 聞いたことのないユニット名であった。広いようで狭いこの業界、ライブハウスであろうとこれだけ客を呼べるバンドアイドルとなると名前を知っていてもおかしくないのだが、全く知らないグループであったのだ。

「あれ、二人とも知らないの?」

 少々驚いたふうにしてみせて、まりなは、「このバンドはね……」どこか得意げな口調で説明を始めた。

「さっきも言ったけど、最近の勢いが本当に凄いバンドなんだ。ちょっと前にデビューしたばっかりの新人なんだけど、パフォーマンスも演奏技術も凄くて、熱狂的で、……大ガールズバンド史上最大とか、地球史上最大のアイドルバンドとか、言われてるみたいだよ」

「そ、そうなんですか」

ますます、妙ですね。麻弥は思う。そんな評判のバンドなら、それこそ何も情報がないのはおかしい筈なんですが。

「ああでも、パフォーマンスについては実際に見たほうが早いよね」

まりながその台詞を言い終わる、ちょうどそのとき、地下から大きな歓声が聞こえてきた。さっきの台風にも負けず劣らずの音量だ。

「おっ、ちょうどライブが始まるみたいだね」地下に繋がる階段に目を向けるまりな。

 麻弥は眉をもたげて、「ええ?」信じられないというような視線。

「さっきお客さんたち、まだ外に並んでましたよ? なのにもう始まるんですか?」

「でも、本当に始まりそうだよ」と日菜。下から響くびりびりとした振動。まるで天変地異。震度の弱い地震みたいで、それだけで分かるファンの熱気。今か今かと待ち構えている観客の興奮が足元越しにびんびん伝わってくる。

「見に行ったら? チケットはもう完売してるんだけど、関係者席なら空いてるから」

 まりなは関係者チケットを二枚麻弥に渡した。「サービスだよ」にこにこ笑って、「ライブを見たら、きっとびっくりすると思うよ」

「そんな凄いんですか」

「うん。なんたって、アイドル業界に新風を巻き起こしたって言われているくらいだからね」

 その言葉に、麻弥はぱちくりと瞬きをした。

 

 

 関係者席扉を開くと、案の定と言えばいいのか、既に中は熱狂に包まれていた。爆発的な感情の雄叫び、とするには甲高い声が混じりすぎている気がしなくもないが、ともあれそんな悲鳴もとい歓声が室内の空気を埋め尽くさんとしていた。ペンライトの色は赤、白、黒、あるいは橙、黄、緑、青、藍、紫、金色や瑠璃色、虹色なんてのもあって、雑多。まとまりのない色彩からではバンドの方向性は見えてこない。

「おー、凄いねー」日菜が感心したように言った。

「デビューしたばっかりなのに、もうこんなわーってなってるんだ」

「そうですね」麻弥は同意。客席へと視線を下ろしたままの格好で、「パスパレも最初の頃は、ここまで人気でもありませんでしたからね」昔を懐かしむようなことを宣い、目線をステージの方へと移していく。

 そこには、この熱狂の根本的要因。件のアイドルバンドのメンバーの姿。ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボードの五人制。パスパレと同一である。

 服装は、これが驚くことに、メンバーによってバラバラであった。ボーカルこそフリフリのいかにもなアイドル衣装を着ているが、その他の面々は革ジャンにショートパンツであったり、重厚そうなドレスであったり、ただの私服だったりしていて、やはりまとまりはなくて、ボーカルが発声。今日は集まってくれてありがとう、という旨のMC。少し舌足らずな印象の声質。

 照明の問題からか、メンバーの表情は光に遮られて伺いしれない。何ならそもそもの顔立ちすらも麻弥は見れていない。

 挨拶もそこそこに、ボーカルの子は早速音楽を始めようとして、メンバーと眼と眼を合わせる、頷き合い、改めて正面を向き、曲名のタイトルコール、上がる歓声、それを打ち消すかのようなギターの音、ドラムのフレーズ。ベースの低音、キーボードのメロディ。

 麻弥は唖然とした。何故ならこれは、あまりにも、アイドルが出す音にしては、いやそもアイドル云々を抜きにしても、非常に暴力的な音。鉄の塊で人を殴りつけているかのような、釘バットをぶん回すならず者のような、叩きつけるように吹き荒れる暴風のような──刺激的な音。

 一つ一つの音が凶悪な自我を放っていて、そこから生まれるのは種類の違う唐辛子を鍋にぶち込み煮込んだかのような音楽。しゅわしゅわして甘いサイダーのような音楽ではもちろんない。むしろそういうのとは対極。けれども、神経毒であるのは共通。

 深く没入させていく。パスパレの場合はポップでキュートで心の強い、カラフルな音の洪水に。こちらの場合は殺人的で暴力的で刺激的で、麻薬のような危険物。だってこんなのを聞いているのに体はまだ動いている。体内器官が正常に働いている。騒音の中にあって、観客の狂騒もしっかり聞き取れている。会場獣の熱気を肌で感じている、その感触が心地いい。身体がなんと健康だ。

 故に幸福を感じる。言葉ではとても言い表せないような幸福を鮮明に実感する。……刺激物をキメすぎて、神経がバグってしまっているのが自分でも分かる。しかしながら、麻弥はそれを是認した。聞く自傷行為だと分かっているにも関わらず、この幸福感に身を任せた。同時に、まりなの言っていたことついて深く納得した。

 アイドルバンドに新風を巻き起こした。……それは、そうでしょうね。こんなことやってて話題にならないわけないですもん。今までのアイドルバンドのイメージを破壊するかのような音楽性ですよ。今までのアイドルとは全然方向性が違うように見えます。

 でも、よく考えたらそれでも問題はないんですよね。アイドルだからといってアイドルらしいことをする必要はない、っていうと語弊がありますけど、無理にアイドルらしくなろうとする必要はないですから。アイドルグループの一員として活動していれば、それはもうアイドルです。アイドルをやれているのかと悩んだり落ち込んだりするのなんて、それは単なる杞憂なんですよね。

 ですからこれも、アイドルとしての一つのあり方なのかもしれません。何せバンドアイドルは、バンドでもあるんですから。こういう音楽性のバンドは確かに過去にも存在していましたし、いろんなバンドがいるならいろんなアイドルがいてもいいのでしょう。新風ってくらいなんですから、既存のアイドルバンドでは考えられなかった方向性なのも当たり前ですしね。

 それにしても、これは新風を吹かせるっていうには些か暴力的すぎないでしょうか。そんな生易しいものじゃないです、これ。強風、暴風、いや台風です。麻弥は先程の台風直下の町中の惨状を思い出し、それから目の前のライブの様子と重ね合わせて、「これは台風ですよ」小さく呟いた。

 途端、ライブに異変が発生した。

 

 風切り音が鳴り響いた。

 

 ごうごうと、殴りつけるような暴風が吹いた。

 

 みるみるそれは渦を巻き、やがてだんだんと上昇気流を形成していった。

 

 渦の中心はステージ上のアイドルたちだった。

 彼女たちは何事もなく、というより周りに何が起こっているか気にも留めない様子で演奏を続けていた。

 風はどんどん強くなる。観客たちは近くの何らかにしがみつくか、何もなければ自分の足腰で踏ん張るかして抵抗していたが、やがて風圧に負けて吹き飛ばされていく。渦を巻く風に流されて、回って回って、そのまま上昇気流で宙へと飛ぶ。それでも壇上のアイドルたちは演奏を続ける。どころか、むしろヒートアップしていく。

 暴風は収まるところを知らない。もはやこれは竜巻だ。あるいは規模の小さな台風だ。天井からギシギシと軋む音。証明はとっくのとうに落ちて割れて、音響設備も散々になっている。それでも彼女たちは演奏を続ける。

 天井が破壊される。暴風は一瞬にしてCiRCLEの一階をも巻き込み、ラウンジだろうがなんだろうが関係なくめちゃめちゃにする。ついにはCiRCLEそのものまで破壊し、ペンライトが、観客が、空へと投げ出されていく。麻弥もその例外ではない。何故、どうして、何が起こっているのか。突然の非現実的な出来事に混乱したところで、それは目の前で起こっているのだから仕様がない。カラフルな蛍光が空へと羽ばたいて、虹色赤色黒色白、サイケデリックに瞬いていく。

 ほぼ更地のようになったCiRCLEの中で、それでも彼女たちは気にせず演奏続行。そこは渦の中心、無風地帯。その外側は大変なことになっているというのに。彼女たちは台風の目だ。世間の流行的な意味でも、その言葉通り意味でも。彼女たちは実に台風の目であった。

 CiRCLE上空が晴れ上がっていたのは、そこに台風の目がいたからに過ぎなかった。何なら、あの台風自体が彼女たちが起こしたものであるかもしれない。となると、まりなが台風のことを全く知らなかったのも不思議な話ではなかったのだろう。

 遠くなっていく地上を眺めながら、麻弥はそんな旨の考察をしていた。地上へ降りたくても勝手に風が連れて行くので、なすがままにされるしかなかった。そう考えていた。

 

「麻弥ちゃーん!」

 

 日菜の呼ぶ声がした。その方に目を向けると、麻弥の愛車の助手席に座っているのが見えた。ぶんぶんと、麻弥に向かって手を振っていた。

 暫し麻弥は呆気にとられたが、すぐにくつくつと、声を出して笑った。多分、あの軽自動車も風で吹き飛ばされていて、そこに日菜さんが器用にも乗り込んだんでしょう。

 

「こっちにおいでよー!」

 

 日菜の呼びかけ。麻弥は腹に力を込めて返答。

 

「今行きますー!」

 

 暴風であっても吹き飛ばせない、大声によるコミュニケーション。二人は自然を合わせ、似たような笑みを作った。

 どんどん高度が上がっていく。気温がぐんぐん下がっていく。麻弥は必死に腕と足を動かして空中を泳いだ。車とどんどん距離を詰めていき、風が吹いて体が吹き飛ばされ、さっきよりも遠くなる。

「麻弥ちゃん!」

 日菜の声。心配するような声の色。しかし、麻弥はそれでも動くことをやめない。クロールのように空気をかき分け、バタ足で推進し、空の中を突き進む。風切り音が邪魔するかのように鼓膜に襲いかかって、黙らっしゃいと麻弥は睨みつける。

 残り、数メートル。助手席のドアが開く。

「捕まって、麻弥ちゃん!」

 日菜が全力で手を伸ばす。麻弥は泳ぎながら、腕を思いっきり伸張、日菜と麻弥の指先が触れそうになって、ビュオオ、風。手の甲に降り掛かって、手は掴めなかった。

 しかし、そんなことでは諦めない。また腕をちぎりそうになるくらい伸ばして──今度はしっかり、日菜の手を掴む。

 引き抜かれる。ぐいっと、腕一本で持っていかれて、日菜にダイブする形になって、衝撃。

「麻弥ちゃん、あたしが美少女だからって、ちょーっと見境なさすぎじゃない?」

 からかうような口調。顔を上げると目と鼻の距離に日菜の顔があって、それで日菜の胸に顔をうずめるような姿勢になっていたことを把握。

「いや、そういうつもりじゃなかったんですけど……」

「でも嬉しかったでしょ?」

「………………」

 それで、麻弥はこの件について反論する権利を失った。

 運転手席に座り、姿勢を正し、キーを入れて、車を発進させる。

「どこへ行きますか?」

 ふざけて麻弥が問うと、「んー、どうしよっかなー」こちらもふざけた返答。どっちみち地上には降りられないから、選択肢なんてないに等しいのに。

「じゃあ、雲の上!」日菜が車の天井を、もとい上空を指差して言った。

「了解っす!」

 麻弥は力強くアクセルを踏み抜いた。車は勢いよく上昇し、さながらロケットのように、何ならレーザービームのように、雲と雲の間を切り裂いて侵攻、窓の外が分厚い雲の灰色で覆われてしまって殺風景。にも関わらず日菜は窓の外を興味津々に見つめ──そして、雲海を抜ける。

 

 視界が晴れ上がる。

 世界が急に眩しくなる。

 海よりも深い青に囲まれる。

 太陽が真っ白に光り輝いている。

 

「凄いよ麻弥ちゃん!」日菜は興奮した。「すっごくピカッてしてる! とっても綺麗だよ!」

「そうですね」麻弥は同意した。その声はどこか震えていた。

 

「こんなに美しいものが、世の中にはあるんですね」

 

 

 

 

 麻弥は目を覚ました。

 いつもの自分の寝室だった。のそりと体を起こしゆっくりと裸眼で周りを見回す。視界はぼんやりとして曖昧であり、薄暗い部屋が認識のし辛さを助長していた。とはいっても、この程度であれば時計くらいは見れるのであるが。

 果たして、時刻は自分が寝入ったときより数時間しか経っていなかった。部屋の中は静かであり、風雨の音なぞ気配すらない。眼鏡を取ってカーテンを開けてみると、日の入りこそすれど雲自体は殆どなくて、快晴。もうすぐ夜になろうとしているけれども、ちょっと前まで青空が広がっていただろうことは覆らない。

 まあ、そりゃ夢ですよね。激辛ラーメンの匂いが漂う部屋の中で苦笑をしていると、

「あー、麻弥ちゃんお目覚め?」日菜が気付いて声を掛けた。

「なんで外見てるの?」

「ちょっと、不思議な夢を見まして……」

「そーなの? まあ、風邪引いてるときって変な夢見るってゆうもんね」

 納得した態度の日菜。その「変な夢」という部分が引っかかって、麻弥は口元に手を当てて考える仕草。

 確かにあれは変な夢でしたが、そもそもどうしてジブンはあんな夢を見たんでしょう? という疑問符。あんな夢を見せる理由は、果たして風邪だけなんでしょうか? 

 刺激的な夢だった。この匂いの原因である激辛ラーメンのような。……まさか、それが原因? 蒸発した刺激物を吸い込んでいたから? でも、夢の内容は刺激物を肯定するものでしたし、夢の中の日菜さんだって……。

 ……夢の中の日菜さん。そういえば、日菜さんがジブンを外に連れ出した意図も結局分からずじまいでした。日菜さんは台風の中ジブンを外に連れ出して、それとなくCiRCLEに誘導してましたが、……CiRCLEに行って、その後何が起こった? 物凄いライブパフォーマンスを見て、台風が起こって、空へ吹っ飛ばされて、絶景を見た。ということは、つまり。

「……日菜さん」

 麻弥は静かに呼び掛ける。日菜は麻弥の本棚にあった音楽雑誌を退屈そうに積み上げていたようだったが、「なになに? どしたの麻弥ちゃん」こころなしか言葉を弾ませる。

 麻弥は提案した。

「外出しましょう」

「え?」

「CiRCLEに行きましょう。それから、日菜さんが言っていた激辛ラーメン店で夕食を済ませましょう」

「ええっ!? いきなりどうしたの麻弥ちゃん! 風邪でも引いたの?」

「いや引いてますけど……」笑って、

「刺激を大事にしなければならないかな、と思いまして。敢えて危険へと飛び出してでも、そこで得た景色はかけがえのないものになるかもしれませんから」

「……麻弥ちゃん、どうしたの? やっぱり、休んだ方がいいんじゃない?」

 本気で頭の心配をする日菜。酷いといえば酷い対応だが、残念ながら当然の態度でもある。寝る前と言っていることが違うのだから。

 それが分かっているので、別段麻弥も文句は言わない。

「運転はジブンがするんで大丈夫ですよ。久しぶりにセッションでもしましょうか」

「えっ、本当にするの?」

 いそいそと仕度をする麻弥を、珍しく日菜は呆気にとられたように眺めていた。

 

 

 いつもの麻弥らしからぬ様子を日菜は訝しんでいたが、セッションを始めた瞬間にそういう感情は吹き飛んだ。麻弥がいつになく暴力的な音作りでドラムをぶっ叩いたからだ。それもただ野蛮なだけの暴力ではなく、刺激的で魅力的なものであったから、日菜は楽しくなって、自分もそういうプレイで返した。

 暴力と暴力が重なり合って、セッションというよりはただの戦場、殴り合いの大喧嘩のような様相が繰り広げられたが、二人とも笑っていた。台風こそ発生しなかったが、その音を聞いていたまりなからは何があったのかと尋ねられた。それくらいの凄絶な演奏であったのだ。

 尚まりながこのことを世間話のつもりで千聖にうっかり話してしまったせいで、後日二人(特に麻弥)はたっぷりお説教を受ける羽目になってしまったのだがそれはそれである。

 麻弥はこの体験を経ることで、徹底的に既存のアイドルらしさと切り離したアイドルをプロデュースしようと思った。良くも悪くも自ら、パスパレのような形がスタンダードとなっている以上、あえてそういうのとは離れた形にした方が革新になると思ったからだ。もちろん、一番はこの方向性から繰り出される音楽が魅力的で、これなら最高の舞台を目指せられると考えたところだが。

 夢で見たような、雲上の世界。あの綺麗な景色も、もしかしたら見られるかもしれない。少なくともこの方向性を突き進めていけば、十分に可能な線である。然らば、それは目標であると同時に夢。進歩のための原動力。もしかしたら最初は一笑に付されるような現実感のない夢と捉えられるかもしれない。しかしそんな下らない妄想であっても、それで前に進もうとすることはできるものだ。何故ならパスパレがそうだったから。当事者じゃなくなったとしても、それはきっと変わらないだろう。裏方として、また先輩として、そこまでの進み方くらいなら一緒に考えてあげたい。

 

 電話が鳴った。事務所のスタッフだ。

「お疲れ様です大和さん、具合はどうですか?」

「お疲れ様です、ぼちぼち快方に進んでますよ」

 その言葉に先方は安堵した様子だったが、すぐに不安そうな声色になって、おずおずと「ところで、すみませんが今の進捗をお聞きしたいんですけど……」

「ああ、順調ですよ」

 その返答に、今度こそスタッフはホッとした様子で「そうですか、よかったです」どうやら麻弥が体調を崩した理由を察していたようだ。

「次の会議には間に合いそうですか」

「はい、おかげさまで。テレビの撮影があるんですよね?」

「そうですね。デビュー後に密着取材のドキュメンタリーとして番組を流すそうなので……。……それより、ちょっと進捗の内容がどんな感じなのか聞かせていただいてもよろしいでしょうか」

「あ、はい。また会議でも話させて頂くんですけど、まずユニット名は「激辛カップラーメンズ」と申しまして……」

「……あの、すみませんがユニット名どうにかなりません?」

 スピーカーの向こうから、先程よりも更に不安の色の濃い声が聞こえてきた。



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虚飾

ともあのです。


 天文部室に、あのちゃんがいる。

 

 放課後の天文部室には西日が差し込んでいて、そのせいで陰陽のコントラストが明瞭に分断されていて、日向が紅くなっている分、日陰はより黒く濃くなっていて、部室の床にぺたんと体育座りするあのちゃんは日向の中にいるから、肌とか髪の毛とかがいつもより色づいているように見えて、毛先なんか陽光を吸収して真っ白に光っていて、白っていうのは数ある色の中でもなんとなく神聖な印象がある。例えば西洋絵画で描かれる神様は白い布をお召になっているイメージがあるし、それは天使の服にしても、天使の羽にしてもそう。神様とか天使とか抜きにしても、ウェディングドレスの色といったら純白だし、日本には白無垢なんていうものもあって、どちらにしても美しく神聖な印象を放っている。印象というのはあくまでも私がそう感じるというだけの話であり、もしかしたら世の中の人達は神聖だとは思っていないかもしれないけれど、どちらにしても私がそう感じたというのは厳然たる事実であって、つまるところ私は陽光を浴びるあのちゃんを神聖なもののように感じた。末端が真っ白に光っていて、差し込むの茜色のおかげで血色の良いように見える肌、――頬、唇。折り曲げたスカートから除く長い脚、それを抱える両腕。

 美しい。さっきから何度も美しいと言っているけれど、それだけ美しいと思っているということで、同じ語句を九官鳥のように連呼することは芸のないことだって自分でも分かっているけれど、私がそれだけ強く感じているんだってことを表現するのには、結局のところ連呼するのが一番効率的なんじゃないかって気がしていて、ただ「美しい」という三文字、「うつくしい」なら五文字だけれど、とにかくその程度の文字数であのちゃんの美しさを過不足なく伝えきることなんて到底不可能で、だったら様々な修辞法〈レトリック〉を用いて表現すればいい話なんだけれど、それはそれで純粋じゃないような気がする。――“気がする”。これもあくまで私の印象の話でしかない。でも、小手先の技術であのちゃんの美しさ、うつくしさ、を〈表現〉したところで、私がどれだけ美しいと思っているかは小指の爪の先ほども伝わらないという“確信がある”。「美しい(うつくしい)」という三(五)文字と「雲海の中、ぽっかりと開いた間隙から淡く降り注ぐ薄明のように神聖な美しさを湛えていた」という虚飾〈レトリック〉塗れの一文では、放たれる印象に明らかな差異があると、少なくとも私は思う。与える情報が多いのは後者の長文だけれども、形容詞いっこの方が余計な情報がない分純粋で、だから私の感情についてより正鵠を射た言い回しをするのなら短文の方が適していると思う。あのちゃんは、うつくしくて、美しくて、美しい。こんなに美しい存在と同じ部屋にいて同じ空気を吸っていることが俄に信じられなくなるくらい、あのちゃんは美しい。

 けれども、またもや認知の話をすることになるけれど、いくら信じられなくなったところで私とあのちゃんが同じ天文部室にいるということもまた確固とした現実で、でなければ私があのちゃんの姿を視認できるわけがないのだから、当然の話ではあるんだけど、そんな当たり前のことすらも忘れてしまうくらいあのちゃんが美しくて、と書くとまた「うつくしさ」に対する余計な装飾を追加することになってしまうけれど、実際に私は忘れていて、だからこそあのちゃんから呼びかけられたとき、私は心臓が口から飛び出るかと思ったくらい、仰天した。

「ともりん、どうしたの? そんなにじろじろと私を見て」

 倒置法。あのちゃんの翡翠色の瞳が揺らめいて、怪訝な調子を帯びた声。――私は私で、体言止めの連投(これで三連投だ)。

「あっ、もしかして私の顔になんかついてた?」

 けれど、次に出た言葉は簡潔な疑問文(四連投)。あのちゃんは自分の顔を確認しようと、小物入れから手鏡を取り出す。

 私は慌てて声をかけた。

「そういうわけじゃないよ。あのちゃんの顔は、きれい。変なところなんてないよ」

「そ、そっか」

 あのちゃんは二回、ぱちくりぱちくりと瞬きしてから、なぜだか俯いて黙り込んだ。陽光の当たる角度が変わったことで、あのちゃんの顔面上に日陰が、色濃い黒が現れる。漆黒というほどではないけれど、そこに神聖さを見出すことはできなくて、もちろん髪の毛とか、今も光が当たり続けているところは白を纏っていて綺麗だけど、それだけではなくなっていて、美しくなくなったわけではない、ないけれど、この影は私が関与した結果として生まれたもので、そのことに私は少なからぬ嫌悪感を覚えてしまって、けれどもこの嫌悪感とはなんだろう、どうやって伝えればいいんだろう、というとそれがわからなくて、まず伝えるべきことなのか、伝える必要があることなのか、伝えたいことなのか、というとそういうわけでもなくて、そもそも、私が伝えたいことはあのちゃんのうつくしさとか神聖さだったはずで、私の嫌悪感とか、そういうことを精緻に伝えたところで何かいいことがあるのか、というとそんなものはなくて、そんなことを言い出したらうつくしさとか神聖さだって別に特段伝えてもいいことがあるわけじゃなくて、ただ私が自己満足するだけで、それは純然たるエゴの表出だ。聞き手が、あるいは読み手がどう感じるかなんて考慮だにしていない独善的な物語行為で、つまるところ自己陶酔だ。そんなものを発露したところで、あのちゃんは更に影へと沈んでいくんじゃないかって、そんな気分になる。

 そんな私の前で、あのちゃんは盛大に溜息を吐くと、半ば呆れたような声を発した。

「ともりんって、そういうところあるよね」

「え?」

「真っ直ぐすぎる言葉っていうかさ。考えとか難しくこねくり回さないで、思ったことを直接ぶつけてるっていうか。素直っていうか」

「え、ええ?」

 今度は私が目を瞬かせる番だった。だって、その指摘は私の内実からかけ離れている。地の私はもっと衒学的で、迂遠で婉曲的な思考経路を辿って言語を出力していて、だから、私が本当に思ったことを直接ぶつけてしまうと、ずっと喋り続けるヒトが出現してしまう。読点と連用形接続の助詞「て」で無意味に引き伸ばされた長文を一生――本当に一生、ずうっと喋り続けるだけの存在と化してしまうだろう。

「だから、そういうの羨ましいっていうか」

 いや、違うな、これじゃちょっと言い方がよくないな、とあのちゃんは小声、これがライブハウスだったら当然のように雑踏やら楽器の音やら聴衆の動作音でかき消されてしまうだろう、そして私とあのちゃんの二人しかいない静謐な天文部室でははっきりと音像を捉えられるくらいの声量で呟く。

「そういうの、いいなって思う」

 えっと。

「あ、ありがとう?」

 あのちゃんは嘆息した。

「燈ちゃんって、やっぱり素直だよねー……」

 

 〇

 

 ともりんが、すっごいまっすぐな視線で凝視してきている。

 もうほんと、すっごいまっすぐ。私しか視界に入ってないんじゃないかってくらい一直線。

 なんか、恥ずかしい。ここまで純粋な視線を向けられることなんてまずないから。

 だって、普通、視線には色々な感情が滲み出るものだ。愉快不愉快、好奇、嫌悪、関心、無関心。

 そよりんとか、りっきーとかはわかりやすく負の感情を宿すし、楽奈ちゃんに至っては滲み出るなんてレベルじゃないくらい無関心を表出させてくる。

 ……凄いよね。そよりんやりっきーはさておくとしても(そういう目を向けられるってことは、ある程度分かってやってるし)、人に対してあんなに無関心を示せるってのは、なかなかできることじゃないから。

 よくりっきーから野良猫って言われてるけど、確かにそういう一面は間違いなくある。

 ともすれば人より野良猫の方が近しい生態をしていると言われても、ふつうに納得しちゃうくらい(まあ、それでも「野良猫」って呼び方はどうなの? って思うけど。可愛くないし)。

 そんな楽奈ちゃんとは対照的に、ともりんはすっごく関心を向けてきている。

 人に対してここまで関心を示せるのかってくらいに、すっごく。

 それが、いたたまれなくなるくらい気恥ずかしい。

 

 ともりんは、世界の捉え方が少し独特なんだと思う。

 と、改めて文章として書き出すと何だか失礼な言い回しだ。

 読む人次第では悪口と受け取られかねない、ちくちくとしたニュアンスの混ざった言葉。

 でも、これが私のともりんへの率直な印象だ。

 少しも濾過していない、純粋なお気持ちってやつ。

 だって路傍の石とかペンギンのグッズとかを大事そうに、宝物のように集めているのは、独特ではあるじゃん。

 ペンギンはまだ可愛いから分かるけど、石に関してはちょっと共感しかねるっていうか。

 地面にしゃがみこんで石のひとつひとつを拾い上げて、気に入ったものを持ち帰ることすらするんだよ。それは、私じゃ絶対にやんないことっていうか。

 まずもって、それだけ熱中できるほど好きなことが私にはなかった。

 ほら、私って大体のことはうまくできちゃってたから。正確には、うまくできているように見せつける——虚飾するのが得意だっただけなんだけど。

 内実はそんなことないのに、周りからはできているように見えるから称賛される。

 いやらしい話だけど、称賛って気持ちいいんだよ。だって、承認欲求が満たされる。

 承認欲求が満たされるというのは、そのまま自己肯定感の向上に直結する。

 というのは、称賛を真に受けちゃって、私が本当に凄いやつなのかもしれないって思っちゃう、ということ。

 自己肯定感が上がるっていうのは良いことのように聞こえるかもしれないけど、限度ってものはある。身の丈以上の自己肯定感は人生を狂わす毒物になりかねない。

 例えば、学校の成績がちょっといいってだけで海外の高校に留学しようとするとかさ。

 「留学」って、やっぱりなんかかっこいいじゃん。こう、私という存在がまるで世界レベルの逸材かのように思えるっていうか。

 つまり、留学するという行動自体を自己肯定感向上のための触媒にしていたんだ。

 だから、向こうで英語が全然話せなくて、コミュニケーションが取れなくて、周りから奇異の視線を向けられたとき、私の自己肯定感はあっさりと打ち砕かれた。

 何せ、言葉が通じない。私のあの時の英語力は贔屓目に見積もっても英語塾に通っている小学生の方が遥かに上手く扱えると確信できるレベルだった。

 もしかしたら意味とか通じていたのかもしれないけれど、それって例えば、ようやく歩けるようになったくらいの赤ちゃんが車道を指さして「ぶーぶー」とか、犬を指して「わんわん」とか言うみたいな感じだったんじゃないかな、って思っちゃう。

 ……らしくもなく卑小な自己評価だ。それだけ、あの留学期間は私の自負心をぼこぼこにしたってことなんだ。

 自負心のために留学したのに、自負心がボロボロになって緊急帰国した。

 緊急帰国って言うとまるで何かしらの要衝の人みたいな言葉だけれど、実際はただ逃げ帰ってきただけだから、まあダサい。

 もっと、留学するに足る夢とか目標みたいなものがあったら違ったのかもしれない。

 音楽が好きだからウィーンに行くとか、芸術が好きだからパリに行くとか、お芝居が好きだからロンドンの演劇学校に進学するとか、そういう明確な目標があったら挫折しても頑張れたのかもしれない。

 けれど私が好きなのは私――正確には『称賛される私』だったから、挫折したが最後立ち上がることはできなかった。

 つまるところ、単なる見栄っ張りだったんだよね。見栄の為に留学して、ぼこぼこにされた。虚飾を引き剝がされ、素の私を晒された。

 そのときまで、私は虚飾が虚飾であることに気づいていなかった。称賛を浴びていた姿がほんものの千早愛音だと思っていた。

 だからそれが嘘だとわかってしまったとき、私はすごすごと日本に帰るしかなくなっていた。

 挫折した時点で、海外で再起しようとするような気力は残らなかったんだ。

 

 そんな私に、ともりんは強い関心を注いでいる。

 目に入れても痛くないというかのように、注視している。

 思い上がりかもしれないけれど、石やペンギンに対して向けられるそれと、同じような色味でさえあるような気がして。

 いや、でも、そんなことあるかなあ? ともりんの、燈ちゃんのことをよく知っているほど、この直喩は信憑性にかける気がしてくると思う。

 だって、ともりんにとっての石やペンギンって宝物なんだよ?

 それと同列視されているだなんて、これは思い上がりだよ。例によって勘違いしちゃっただけだ。

 でも、ともりんはずっと熱視線を向けてきている。

 それがやっぱり落ち着かない。

 ともりんの思惑がどうであれ、ずっと真剣な眼差しを向けられ続けていると、なんだか不安になってくる。

 それは、本当の私――虚飾とか、思い上がりとか、そういうのを全部取っ払った末に現れる、すっぴんのダッサい私を覗き込まれているような気分になるからだ。

 勿論、ともりんは既にそういう経緯で羽丘に来たことを知っている。一緒に迷子になろうって誓ったあの日に私自身が共有した。

 だから、ともりんには隠しているってわけじゃない。とはいえ、いたずらに指摘してほしいわけでもない。

 結局恥ずかしい過去であることには変わりはなくて、つまり黒歴史ってこと。

 掘り返してほしくない黒歴史なんて誰にでもあるでしょ? いや、楽奈ちゃんはあんまり想像できないけど、大体の人はあると思う。

 ともりんが向けてきている視線は、そういうものを地盤からひっくり返して露出させるかのごとく、力強さに満ちているものだった。

 だから、向けられると心がざわざわする。

 心臓を濡れ手できゅっと掴まれているような感覚。

 生殺与奪の権利が委ねられているという嫌悪感と緊張感が背筋をぞわぞわと這う。

 けれども、ともりんにそんな意図があるようには思えない。だって、人の恥部を悪意を以て暴こうとするような子じゃないから。

 この嫌悪、あるいは恐怖、は私が勝手に感じていることで、ともりんは私がそんなことを感じているとは露ほども思ってないはずだ。

 だって、ともりんと私は世界の見方が少し違う。

 私はこういう視線を放てない。ここまで興味を持てるものなんてない。目に何か入れたら痛いじゃん。

 そういうわけで、私は口を開いた。

「ともりん、どうしたの? そんなにじろじろと私を見て」

 果たして、ともりんはわかりやすく動揺した。

 もしかして私が視線に気づいていないって思ってたのかなあ。流石にそんなわけないと思うけど、そう疑っちゃうくらいの狼狽っぷりだ。

「あっ、もしかして私の顔になんかついてた?」

 私は鞄から小物入れを取り出し、手鏡で顔を確認しようとする。

 もとい、その振りをする。

 実際のところ、顔になんか付いてるとは思っていない。

 それに、顔を確認するんだったらスマホの内カメラの方がお手軽だ。

 それなのに手鏡を持ち出したのは、ともりんが返答するまでの時間猶予を伸ばすため。

 ともりんって言葉を出力するのに少し時間がかかるからさ。

 顔の確認という体を取れば、いくらでも間を持たせることができるんだよね。

 でも、このとときのともりんは即答だった。

「そういうわけじゃないよ。あのちゃんの顔は、きれい。変なところなんてないよ」

 ………………。

「そ、そっか」

 俯いて、ともりんから視線を逸らす。

 だって、今ともりんのあの眼を、視線を直視するなんてできない。できるわけない。

 あんな、虚飾を取っ払うみたいな、本質を見通すみたいな視線を投げかけておいてだよ? なに? 「きれい」とか、「変なところなんてない」とか。

 そんなの、殺し文句じゃん。本当にそう思ってないと言えないじゃん。ともりん、嘘下手だし。

 まあ「顔は」って部分は引っかかるけど、それは「顔になんか付いてる?」への返しなんだろうな。

 その部分について確認を取ったところで、「顔じゃなくて全部可愛いよ」みたいなこと言われたとして、それはなんか、言わせているみたいで嫌だ。いや、言ってくれる保証なんてないけど。

 ……そうだよ! 言ってくれる保証なんてない。おいおい私、また思い上がっているな?

 そんな独善的な妄想なんて、もはやただの自己陶酔だ。

 私は深く溜息を吐く。そうして顔を上げず、口を開く。

「ともりんって、そういうところあるよね」

「え?」

「真っ直ぐすぎる言葉っていうかさ。考えとか難しくこねくり回さないで、思ったことを直接ぶつけてるっていうか。素直っていうか」

「え、ええ?」

「だから、そういうの羨ましいっていうか」

 そこまで言ってから気付く。

 あれ? 私の今の言葉、刺々しくない?

 ちょっと、この期に及んで尚自分で自分を都合よく抱きしめようとする私に呆れていたというか。

 私への戒めばかりに頭がいって、ともりんへの配慮というか、オブラートに包んでいなかった気がする。

 自己内省から語気が過剰に強くなっちゃったというか。

 いや、違うな、これじゃちょっと言い方がよくないな。自己内省の感情を会話中に出したらいけない。

 ともりんは実際凄い。好きなものがあって、熱中できて、見栄とかもなくて、ずっと言葉をまっすぐ伝えている。自分の本質的なところを、詩という形にして曝け出している。

 それは私にとって、とても凄まじいことだった。

 けれど、あの言い方は良くなかったかな。なんか、嫌味っぽく聞こえてしまう。

 そんなつもりはなかったんだけど、無意識下の、というより薄々自覚してはいるけど絶対に言語化したくないから無意識下ということにしている、コンプレックスが丸々現れた、みたいな感じか。

 嫌なことを色々思い出していたから、つい出ちゃったのかもしれない。

 他に穏当な言い方、〈表現〉はないかなあ。私が考えていると

「え、えっと。あ、ありがとう?」

 当惑を露わにしながらも、ともりんはぺこりと頭を下げる。

 私は嘆息した。

 

「燈ちゃんって、やっぱり素直だよねー……」



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