やはり俺の『本物』はまちがっている。 (冬野ロクジ)
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プロローグ 奉仕部の訪問者

 

 

 夕方の職員室は、穏やかにオレンジ色が射しこんでいた。

 そんな中、自分のデスクに座っている女性がひとり。

 目に映る光景に懐かしさを感じながらも、俺は声をかける。

 

 

「お久しぶりです、平塚先生」

 平塚静先生は、黒い髪をかき上げながらこちらを見る。

 その瞳が大きく見開かれた。

 

 

「おぉ、市原か。いきなりだったからびっくりしたぞ」

「近くを通りかかったので、少し寄ってみようかと思いまして」

 俺がそう言うと、平塚先生は頬をほころばせ、こちらに向き直る。

 

 

「そうかそうか。大学生活はどうだ? 上手くいっているか?」

「変わらずやってますよ」

「変わらず、か。まぁ、元気にやっているなら何よりだ。どうだ、またラーメンでも食いに行くか?」

「遠慮しておきます。あいつにどやされそうなので」

 

 

 多分、とかではなく絶対にどやされる。

 自分は気にしてませんよとか言う顔をしておいて、そのくせ構わなかったら報復に来る猫のような少女なのだ。

 そこもまた可愛いと思ってしまうのだから、俺も彼女に変えられてしまったらしい。

 

 

「……そうか。お前たちもまだ続いてるのか」

「えぇ、まぁ。って、どうしました?」

「いや、卒業生でさえこんな調子だというのに、最近の私ときたら……」

 やばい。

 地雷か。

 話が長くなる前にさっさと退散してしまおう。

 

 

「久しぶりに学校の中を見て回りたいんですが、大丈夫ですか?」

「っと、引き留めてすまない。もう授業も終わっている頃だしな。ついでに生徒会の方にも顔を出してやるといい。それと……いや、これは私の口からは言わないでおこう」

 ニヤニヤと何か含んだような笑みを向けてくる。

 この人がこういう仕草をする時、ろくなことを考えていたためしがない。

 

 

「そうあからさまに言われると気になるんですけど」

「まぁまぁ、すぐに分かるさ。ほら、教師は忙しいんだ。さっさと出てった」

 要領を得ない返事のまま、追い出された。

 

 

 

 

 

 

 あかね色の廊下をひとり歩く。

「懐かしいな、ここも……」

 思わずそんな言葉が口から零れる。

 あの時と変わっていない景色は、あの時と変わらずに俺を出迎えてくれる。

 

 

 けれど、この場所はこんなに静かだっただろうか。

 

 

 ……あぁ、そうか。今の俺はひとりだったな。

 どうせならあいつも誘ってくればよかった。

 と考えていたその時。

 『それ』は俺の目の前に現われた。

「『奉仕部』……?」

 教室の扉の上にある白いボードに書かれた文字には、見知った名前が綴られている。

 いや、でも、まさか。

 脳裏によぎる、かつての輝かしい日々。

 

 

 興味とともに、その扉を開く。

「あ、これおいしい!」

「そうね。紅茶に合うわ」

「……平塚先生も案外センスあるんだな」

 そこにいたのは、三人の少年少女だった。

 が、すぐにこちらを三対の目が捉える。

 

 

「お客さん、かな?」

 まず最初に反応したのは、明るさが印象的な少女だった。

 

 

「……」

 次にこちらを見たのは、妙に目が濁った少年。

 こちらを警戒しているのだろうか、その瞳は鋭く細められている。

 そんな彼に、俺は妙な親近感を感じていた。

 多分、『こちら側』の人間なのだろう。

 高校に入学したあの日以来か、こんな感覚になるのは。

 

 

 そして、もう一人は長い髪を携えた、鋭い氷のような美少女──

「雪乃?」

 と思ったら、知っている子だった。

「肇義兄(にい)さん? どうして貴方がこの学校にいるのかしら」

「ちょっと近くに寄ったから、気まぐれにな」

「……本当に?」

 絶対零度もかくやのジト目が向けられる。

 原因はすぐに思いついた。

 

 

「あいつは一緒に来ていないから安心しろ」

「そう…………貴方がそう言うならそうなのでしょうね」

 彼女たちの問題だ。

 あまり俺が口出しする気もないし、言ったら言ったで意固地になるのがこの二人だ。

 触らぬ美少女に祟りなし。

 それが面倒くさいタチならなおさらだろう。

 

 

「ゆきのん、その人と知り合いなの?」

 もう一人の少女が不思議そうに問いかけてくる。

 あぁ、そう言えば自己紹介してなかったな。

「市原肇です。普通の大学生やってます。よろしく」

 軽く頭を下げる。

 雪乃の方から訝しむような視線を感じるが、気にしない。

 

 

「由比ヶ浜結衣です。よろしくお願いします」

「……比企谷八幡っす」

 比企谷?

 どこかで聞いたことあるような……。

 

 

「それにしても、ゆきのんってお兄ちゃんいたんだ。でも、あんまり似てないね」

「姉だけかと思ってたが」

「この人は義理の兄よ。血がつながっているわけじゃないわ」

「義理?」

「まさか……」

 

 

 二人がこちらを振り返る。

 比企谷君の方は面識があるのだろう。

 得体の知れないものを見るような目だった。

 いったいあいつは──雪ノ下陽乃は、この少年に何をしたのだろうか。

 



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はじまりという名の生徒会選挙

この度、趣味で書きためていたネタを引っ張り出して投稿させていただきます。

よろしくお願いします。


 

 いつからだろう。

 自分を見つめる、もう一人の自分の存在に気がついたのは。

 

 

 

 

 

「やっと終わったか……」

 夏の熱気が薄れ、涼しい風が吹き込み始めたある秋の日。

 体育館で鳴り止まない拍手の中、俺━━市原肇はひっそりと息を吐いた。

 

 

 拍手の先、ステージ上にいるのは絶世の美少女と名高い雪ノ下陽乃。

 自分とそのスピーチを讃える拍手にもう一度だけ礼をして、彼女は用意された席へと戻る。

 

 

 その様子を右斜め後ろから眺めていた男子生徒は、悔しそうに歯嚙みしていた。

 眼鏡をかけた、真面目そうな少年だ。

 きっと、真面目に演説をこなし、真面目にビラを配り、真面目に雪ノ下陽乃に勝とうと思っていたのだろう。

 

 

 だが、その程度ではあの雪ノ下陽乃に勝てなかった、

 雪ノ下はただ自分が絶対の存在であるかのように、この空間の支配者であるかのように、悠然と笑みを浮かべて一暼さえもしない。

 

 

 中央に置かれたマイクを挟んで左右に並べられた椅子は、面白いほどに事の白黒をはっきりと表していた。

「━━総武高校生徒会選挙演説会を終了させていただきます。次に、投票時の注意事項について……」

 ステージの脇にいる放送部員が読み上げる定型文など、ほとんど誰もが聞いていなかった。

 

 

「カッコいいなぁ、雪ノ下先輩」

「だね! 文化祭でも大活躍だったし、憧れちゃうよ〜」

「生徒会役員になればお近づきになれるのかなぁ」

「よせよせ、お前なんかが選ばれるはずないって」

 浮き足立って好きに話しはじめる観衆も、なぜか誇らしげに頷く教師も、悔しさに顔をにじませる対抗馬も。

 

 

 そして、この場を支配する主役でさえも。

 投票をするべくもなく結果は決まりきっているのだから。

 雪ノ下陽乃が生徒会長に選ばれる確率はほぼ百パーセント……いや、絶対と言っていいかもしれない。

 もとより、選挙前から校内の世論は固まっていた。

 あまり人と関わらないようにしている俺でさえ、その話は何度も耳にした。

 それなのに真正面から挑むことを決めたあの男子生徒は、真に勇気のある人物なのか、あるいは━━。

 

 

「あるいは雪ノ下陽乃自身が仕込んだ偽物(ヤラセ)だったのか、か」

うつむき、誰にも聞こえないような声で口の中でつぶやく。

「市原(いちはら)、呼んだ?」

 だが、それを耳聡く聞きつける人物がいた。

 前方に座る、どこかサルっぽい風貌の同級生。名を有岡(ありおか)佐助(さすけ)。

 しかし、内容までは聞き取れていないようだ。

 

 

「気のせいだ」

 軽く手を振りながら、俺はこっそりと胸を撫で下ろす。

 そんな俺に気づくことなく、有田はそのまま話題を振ってきた。

 

 

「こりゃ、次の生徒会長は雪ノ下さんで確定っぽいな」

「だろうな。もしかしたら、雪ノ下が全部票を取るかも」

「あー、ありうるかも。真田には悪いけど、オイラも雪ノ下さんに入れるわ」

「真田?」

「あいつだよ、真田雲水。雪ノ下さんの対抗馬の。同じサッカー部の仲間なんだ」

「……そんな名前だったのか」

「名前覚えるのは苦手なのは知ってるけど、さすがに数分前に名乗ったやつのことを忘れるのはヤバイと思うぞ」

「……有田が正論を言うなんて、明日は猿が空から降りそうだな」

「ウキーッ、何をー!?」

 

 

 怒る姿もどこか猿っぽい気がする。

 ふぅ、とりあえずひと段落、か。

 生徒会選挙という難所は乗り越えた。

 後はこれまでと同じく、雪ノ下に接触しな━━

 

 

「━━っ!」

 急に、ぞわりと寒気が入った。

 思わず、顔を上げる。

 一瞬、壇上で座っている雪ノ下と目があう。

 炙りだされた。そう気づいた時には、もう手遅れだった。

 俺と視線を交わした彼女は、ニヤリと笑う。

 

 

「……やられた」

「ん? どうしたんだ?」

「いや、何でもない」

 さも平気そうに有田に言いながらも、背中には大量の冷や汗が流れるのを自覚する。

 もちろん、卒業までお互いに接することがないというのは難しいというのは分かっていた。

 

 

 だが……。

「大丈夫か? お前」

「いや、大丈夫だ……はぁ」

 のどに詰まったため息を抑えることはできなかった。



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はじまりという名の初対峙

二話目。


 

 

 

 いつからだろう。

 自分を見つめる、もう一人の自分の存在に気がついたのは。

 遠くから眺める自分は、全てを俯瞰するようにじっと全ての物事を眺めている。

 

 

 近いようで遠い、もう一人の自分。

 多重人格というわけではない。

 遠くから見ている自分も、紛れもない自分であるがゆえに。

 何を話すわけでもなく、こちらに伝えてくるでもなく、『彼』は身の周りの色んなものを見ていた。

 

 

 ずっと、ずっと。

 監視するように。 

 だからだろう、

 

 

 自分のことを特別だとは思っていなかったが、一般人だと勘違いもできなかった。

 誰とも合わない感覚を持って生き続けるのだろう。

 そう、思っていた。

 

 

 そんな俺が『彼女』を見かけたのは、高校の入学式の時だった。

 校門前まで足を運んだ俺の目に、綺麗な横顔が飛びこんできた。

 たくさんの人の視線を一身に浴びる彼女は、とても美しく、まるで女神のよう。

 だが、心の中から聞こえてきた声が見惚れる意識を現実に引き戻す。

 

 

『あれはやばい』

 それは、俺の中の俺が初めて発した、危険信号のようなものだった。

 そうして、理解した。

 同類と言う言葉で表現できるほど生易しいものではない。

 俺の世界を壊しうる可能性を秘めた、『天敵』だ。

 

 

 だから、決心した。

 あいつと俺の中の俺を関わらせてはいけない。

 極力、あいつの視界に入らないように生きようと。

 今思えば高校生活一日目からとんでもない決心をした俺だったが、幸いだったのは、雪ノ下が自分の縄張りから積極的に出ようとしなかったことだ。

 クラスも離れていたために体育の授業も一緒になることはなく、すれ違った程度では雪ノ下も擬態を見破れなかったらしい。

 こうして俺は、波乱になる思われた高校生活を平和に過ごせていた。

 先ほどまでは。

 

 

 

 

 

 ガチャリと扉を開ける。

 訪れた生徒会室は夕暮れが差しこみ、幻想的な景色を作り出していた。

 その最奥にいるのは、雪ノ下陽乃。

 

 

 生徒会長の席に腰掛け、優雅に足を組んでいる。

 まだその席は彼女のものではないはずなのに、まるでそこにいるべき人物だとでも言うかのように馴染んでいた。

 

 

「ようこそ、市原肇くん」

「名乗った覚えはないんだが」

「二ーB出席番号二番、四人家族の長男、家族は両親とは離れて一人暮らし中。それぐらい調べればすぐ分かるよ」

 彼女は椅子の上で意味深に微笑んでいる。

 

 

 ────気持ち悪い。

 

 

 俺には彼女の顔が、深く空虚ながらんどうに見えて仕方なかった。

 真っ暗い闇に覆われた、底のない空っぽな穴。

 その穴は眺めれば眺めるほどに、ぐにゃりぐにゃりと歪めて形を変えていく。

 正直、見ていて気持ちのいいものではない。

 

 

「要件を言え、雪ノ下陽乃。こんな小細工までしておいて、何の用だ」

 机の上に小さなメモを投げる。

 そこには綺麗な字でこう書かれていた。

『生徒会室に来ること』

 

 

 彼女はさらに笑みを深める。

 その唇は、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

 

「生徒会に入らない?」

「断る」

 即答。

 当たり前だ。

 こいつと関わるとろくなことがないと、俺の中の俺が告げているのだから。

 一年の入学式、遠目にいるこいつを見たあの時から。

 

 

「君がここに来た時点で拒否権なんてあると思う?」

「俺は俺の考えを裏づけるためにここに来ただけだ。お前と関わることに興味はない」

「……へぇ。そうなんだ」

「二つ返事で受け入れられると思ってたのか? だとしたらとんだ傲慢スライムだな」

「スライムなんて初めて呼ばれたな」

「何だ、違ったのか?」

「さあ、どうだと思う?」

「質問に質問で返すなと教わらなかったのか? 親の顔が見てみたいな」

「────」

「────」

 

 

 笑顔を貼り付けた雪ノ下と睨み合う。

 俺は確信を強めた。

 雪ノ下陽乃は俺と相容れない存在であると。

 

 

「それに、お前はまだ生徒会長じゃないはずだ。お前には決定権はない」

「遅いか早いかの違いでしょ? 予約ぐらい先輩も許してくれるって、今日はもう追い返しちゃったけど」

「……何で俺なんだ?」

「言う必要がある?」

「無いと思ったのか? 報連相は大事だぞ。そんなことで生徒会長なんてやっていけるわけがない」

「私を誰だと思ってるの? できないわけないでしょ」

 

 

 そう告げる陽乃の目に驕りはない。絶対の自負を湛えた瞳の中に、既視感にも似た嫌悪を感じた。

 こう言葉を交わしている間も、ひしひしと伝わってくる『同族』のにおい。

 

 

 きっと、俺と彼女はお互いに似通った部分があるのだろう。

 だからこそ分からない。

 この女が俺を引き入れようとする理由が。

 

 

「俺はお前を好ましく思っている」

 はたから見れば告白まがいの言葉。

 しかし、それを額面通りに理解する者はこの場にいなかった。

 

 

「お前はきっと、俺に似ているのだろう。どこが、は分からない。だが、確実に俺とお前は同じ部分がある。お前も感じているんだろう? この感情を」

 だが。

「だが、いや、だからこそ、同時にお前のことが嫌いだ。どうしようもなく、目の前から消し去ってしまいたいぐらいにな」

 

 

 これは俗に言う同族嫌悪という感情なのだろう。

 まさか自分がこんなことを思う日が来るなんて、高校入学までは思ってもいなかった。

 いや、その前に同族がいるという事実にも驚きなのだが。

 少女は微笑みを崩さない。

 しかし、肯定の意思ははっきりと見て取れた。

 

 

「退屈じゃない?」

「全く」

 自分の関係のないところで行われる人間の行動を観察することほど楽しいものはない。

「私は退屈。だから面白くしてくれない?」

「視聴者の立場で満足しているのに、何で俳優にならなきゃならないのか」

 ……これ以上話していても無駄だろう。

 その言葉を最後に、俺は空き教室から出て行く。

 

 

 静止の声はかからなかった。

 

 

 出た先は夕陽差し込むリノリウムの廊下。

 外で部活に励む生徒たちの喧騒が静寂に溶けて消えてゆく。

 眩しさに顔をしかめていると、廊下の先から見覚えのある人物がやってきた。

 長身に長い黒髪を携えた女性━━平塚静先生だ。

 彼女はこちらを見ると、何やら含みのある笑みを浮かべる。

 

 

「市原じゃないか。どうだった?」

「どう、とは何でしょうか、平塚先生」

「そのままの意味に決まっているだろう。お前の目から見て、雪ノ下陽乃はどう映った?」

 天敵の名前を出されて、すっと目線が細くなる。

 

 

「ほぅ、いい目をするじゃないか」

「────っ!」

「そう警戒するな。別に私はあいつの手先というわけじゃない。ただ純粋に興味があっただけだ」

「さぁ、自分には分かりかねます」

 

 

 嘘は言っていない。

 ただ、本当のことを言うつもりもない。

 

 

「そうか……。分かった。じゃあ、気をつけて帰るんだぞ」

 ひとまず先生はそれで納得してくれたらしい。

 脇を通り過ぎていこうとする。

 

 

「平塚先生、ひとつ聞いてもいいですか?」

「何だ」

 が、俺の言葉にその足を止める。

 一つ、気になることがあった。

 

 

「………………雪ノ下陽乃は、本当に人間ですか?」

 あの空虚さは、おおよそ人間が出せるようなものじゃない。

 少なくとも、今まで俺の観察してきた人間の中には、あれ以上に黒い人物を見たことがない。

 

 

「人間かどうか、か」

俺の問いを聞いた平塚先生は、目を細める。

「さぁ、どうだろうな」

 帰ってきた答えは、それだけだった。

 

 

 



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それぞれの思惑

 

 

 

 登校中に見上げた朝の空には、清々しい蒼穹が広がっていた。

 秋晴れというヤツだろう。

 晴れた空は残酷だ。

 誤魔化しもせず、雨や曇りといった天気の一切の可能性を打ち消し、本物の青空をまざまざと見せつけてくる。

 

 

「……雨が降れば今日の体育で楽ができたのに」

 その願いは今日も通じなかったらしい。

 てるてる坊主を逆さまに二十個吊り下げてもこれだ。

 次は三十個吊り下げなくては。

 

 

 ……いや、もしかしたら同じものを使い続けているのがいけないのかもしれない。

 さすがに五年も使い続けているんだ、効力が薄くなっているのも頷ける。

 次の体育(地獄)は確か来週。作る時間は十分にあるだろう。

 

 

「おはよう、市原くん」

 そんな運動音痴にとっての死活問題(くだらないこと)を考えながら校門に差しかかった時。

 横合いから、聞き慣れたくない声が聞こえてきた。

 反射的に歩みが止まる。

 何とか足を動かそうとした時には、既にそいつは目の前にいた。

 

 

「おはよう、市原くん」

 目の前には、にっこりと眩しい笑みを浮かべた美少女。

 その整った表情は、警戒さえ貫いて見惚れさせてしまうような輝きがある。

 

 

「おはよう、雪ノ下。じゃ、俺はこれで」 

 すたすたと校舎の中に入っていく。

「まぁまぁ、そう言わずに。同じ人間のよしみじゃん」

 だが、彼女が早々逃してくれるわけがない。

 

 

 校舎の中、生徒たちの注目を浴びながら廊下を歩いていく。

「よしみの範囲が広すぎだ」

「君との仲でしょ?」

「昨日まで一度も話したことがなかったのに?」

「君に一目惚れしちゃった、なんて」

 

 

 雪ノ下はくすりとイタズラっぽく笑う。

 さすが学校一の美人と呼ばれるだけあって、その仕草ひとつとっても目を惹かれるものがあった。

 

 

「それは俺がこの世で最も信じていないもののひとつだな」

「どうして?」

「恋情は人生において、一時的な勘違いに過ぎないからだ」

「他にはどんなのがあるの?」

「他人を手のひらで転がしてあざ笑うやつ、猫の皮の下にバケモノを飼っているやつ、自分が支配者の立場にいると信じて疑わないやつとかだな」

 

 

 そう、例えば目の前にいるような。

 

 

「へぇ、そんな人が世の中にいるんだ。怖いね」

「あぁ、とても怖いよ」

「ふふふ」

「ははは」

 

 

 二人して笑い声をあげる。

 他人には、この景色はどう見えているのだろうか、

 離れたところで噂噺をするぐらいなら、助けてほしいものだ。

 

 

「俺はこっちだから」

「じゃあ、またね〜」

 そうして、彼女は自分の教室に向かうべく俺から離れていく。

、教室に入った途端、どっと肩の力が抜けた。

 

 

「はぁ……」

 朝っぱらから心臓に悪いな。

 真っ黒い感情を浴び続けているというのは。

 あれを殺気と呼ぶのだろうか。何にせよ、もう関わりたくない。

 ……まぁ、無理だろうな。

 

 

 朝から疲労感たっぷりで机にたどり着く。

 しかし、そこで災難は終わってくれなかった。

 

 

 「……何か用かな?」

 男女合わせて四人のクラスメイトが、俺の机を囲う。

 彼らの据わった目には、ひがみ、やっかみ。人間の様々な汚い感情が見え隠れしている。

 その中の代表格らしい男子生徒が、おもむろに口を開いた。

 

 

「市原くん、今日雪ノ下さんと何話してたの?」

 イケメンの部類に入る男──確か矢野といったか──優しげに緩んでいる。

 髪をダークブラウンに染め、清潔感のある立たずまいが男女問わず大人気な、このクラスの中心的人物だ。

 まぁ、俺からしたら瞳に滲む野心が隠せていないのがマイナスポイントだが。

 

 

「まさかオレたちの雪ノ下さんにちょっかいかけてたわけじゃねーだろうな」

 取り巻きのチャラい男が肩をいからせながらそう言ってくる。

 ここまで押しが強いのは、自らの行動を正しいと思っているからなんだろう。

雪ノ下陽乃は高嶺の花であるから、自分たちのような平民にはうかつに話しかけられない。

 平民である自分たちでさえ差し置いて、平民以下の空気のような身分である俺が雪ノ下陽乃に選ばれるはずがない。

 

 

 ならば、と彼女たちの頭の中では、俺が自分の地位を押し上げるために権力者に近づいたことになっているんだろう。

 あくまで推測に過ぎないが。そしてこの推測が本当なら、彼女たちは勝手な思い込みで動いていることになる。

 全て雪ノ下陽乃の下で作られた価値観だとは気づかずに。

 何とも滑稽な話だ。

 

 

「世間話だよ。あの人、誰にだってああいう感じだろ」

「このっ」

「まぁまぁ、落ち着いて」

「……」

 矢野が諌めると、苛立った様子のチャラ男は沈静化した。

「市原くん、やけに仲良さそうだったじゃないか。君、そんなに雪ノ下さんと仲良かったっけ」

「いや、これまでほとんど話したことはなかったよ」

 むしろ卒業まで関わらずに過ごせていたらどれだけ良かったか。

 

 

「じゃあ、何で君なんかに話しかけたんだと思う?」

「さぁ。そこにいたから話しかけてきただけじゃないかな」

 むしろ思いっきり待ち伏せされてたけどな。

「本当に?」

 矢野は念入りに聞いてくる。

 いい加減しつこいな、こいつ。

 これ以上絡まれるのも面倒くさくなったので、エサを目の前に吊るすことにしよう。

 

 

「ちょっと」

 軽く矢野たちに向けて手招きする。

 訝しみながらも顔を寄せてくる同級生を確認すると、小さな声で囁いた。

 

 

「雪ノ下さん、放課後、生徒会の手伝いが欲しいらしいんだよね。でも、俺は用事があるせいで手伝えなかったから」

 そう言った途端、彼らの目の色が変わる。

 こちらを威嚇するような剣呑さから、好奇に。

 リーダー格の男は目を細めてこちらの目を覗きこんでくる。

 俺の話が嘘かどうか見定めようとしているのだろう。

 やがて、満足したのか、彼はにこりと微笑んだ。

 

 

「教えてくれてありがとう」

 どうやら彼には俺の真意を見抜くことができなかったらしい。

 ……さて、これからこいつらはどうなるのだろうか。

 まぁ、俺にはどうでもいい話だ。

 

 

「一体何したんだ、市原?」

 グループが去った後に、遠くから様子を見ていた有岡が寄ってくる。

「何もしてないし、何もされてない。少し話をしただけだ」

「そっか。ところでこの数学の問題なんだけどさ」

「すまん、朝から疲れたから寝かせてくれ……」

「ウキッ? ちょ、オイラ今日のテストで当たるんだよっ。頼む、助けてくれ!」

「自分の問題は自分で解け」

「そ、そんな、市原様、ご無体な!」

 何で俺が朝からこんなことをしないといけないのか。

 憂鬱だ。

 世界が全てログアウトできるゲームだったらよかったのに。

 

 

 

 



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図書館とメリット

 

 

 

 その日の放課後。

 俺はひとり、夕暮れ差しこむ図書館にいた。

 周囲にほとんど人の姿が見えない、静かな空間。

 ただひとり、図書委員の女子がカウンターの向こうからチラチラと見てくるが、特に何をしてくるわけでもないのでスルーしていた。

 

 

 カリカリと筆を走らせる音だけが小さく響く。

 勉強は嫌いではない。

 解く問題の絶対に答えがあるから。

 やがて、どれほどの時間が経っただろうか。

 

 

「ふぅ、こんなものか」

 数学の宿題を終え、一息吐いて顔を上げる。

「……」

「……」

 

 

 そこに、雪ノ下がいた。

 彼女はこちらを見ながら、宝石のような美しい笑みを浮かべている。

 

 

「……」

 

 

 ぺこり。

 軽く会釈してみる。

 ぺこり。

 彼女も返してくれた。

 なるほど、これは幻覚だな。

 心臓が止まるかと思った。

 静かな空間を望んで図書館に来たのは確かだが、こんな静けさは欲しくない。

 

 

 まぁいい。

 何も話しかけてこないのなら、勉強を続けよう。

 

 

「や━━」

「黙れ図書館で喋るなと教わらなかったのか。幻覚が言葉を話すな」

 

 

 やっぱり本物かこの野郎。

 

 

「幻覚かどうか、試してみる?」

「オッケー。今のお前は現実、今のところはそう思っておこう」

 

 

 命の危険を感じたので、矛先を収める。

 さすがにこれ以上突っ込むのはヤバイと本能が告げていた。

 その様子を見て、雪ノ下は重苦しいため息を吐く。

 

 

「誰にも迷惑をかけないんだからいいでしょ。図書委員の子も追い出したし」

「俺が迷惑だ」

 

 

 だからさっさと去れ。

 そう言いたかったのだが、彼女は何かご不満らしい。

 というか、さっきから妙に疲れているような感じだ。

 

 

「ゴミを押しつけておいてそれはないんじゃない?」

「ゴミ……?」

「君のクラスの四人。脅したらすぐに情報の出所を吐いてくれたけど」

「…………………あぁ」

 

 

 そういえばそんなヤツらもいたな。

 今の今まで忘れていた。

 

 

「手伝いが欲しいと言っていたから送ったまでだ」

「……無能って仕事を増やすことに長けては一流なんだよね」

 

 

 さいですか。

 

 

「あいつらもお前にご執心だったようだからな。WIN-WINだろう。感謝されることこそあれど、怒るのは筋違いにもほどがある」

 

 

 ━━ダンッ!

 机の足が力一杯蹴られる。

 これはかなりご立腹の様子だった。

 

 

「生徒会での仕事も全部終わらせてきた。よかったね、これから帰るまで美少女がずっと一緒にいてくれるよ」

 

 

 それは俗に言う監視というやつではないのだろうか、

 彼女の言う通り、見覚えのある図書委員はいつの間にかいなくなっている、

 どうやって追い出したのかは知らないが、きっと穏やかなやり方じゃなかったのだろう。

 

 

「放っておいてくれ」

「お断りさせてもらうよ」

 

 

 笑みを貼りつけたまま、彼女はきっぱりと拒絶の意思を見せる。

 

 

「この学校はもう私のものなの。全部私の思い通り。皆、私に媚びを売ってご機嫌を伺う、私だけの完璧な王国。でしょ? でも、その国に異物が混じってたら気持ち悪いじゃない? だからあたしはそれを排除する必要があるの」

「排除とは穏やかじゃないな」

 

 

 そう、穏やかじゃない。

 だが、こいつはやると決めれば確実にするだろう。

 俺と同じ、人間じゃないナニカであるコイツなら。

 

 

「そうだね。賢いやり方じゃない。だから、飼い慣らすことにしたの」

 

 

 だから生徒会に入れ、と。

 なるほど、言っていることは理解できる。

 

 

「断る。俺は俺がそこに所属することを望まない」

「……だったらどうするのかな?」

「何もしないさ。俺はお前に関わるつもりはないのだから」

「それは無理。だって私は、君に興味を持っちゃったんだもの。こんな美人に興味を持ってもらえるなんて、幸せだと思わない?」

 

 

 その大きな瞳に映るのは、どろりとした真っ黒い感情。

 どうやら本当に逃がしてくれるつもりはなさそうだった。

 

 

「疫病神に憑かれたの間違いだと思うが。そもそも、生徒会に所属しても俺にメリットがない」 

「メリットがあれば入ってくれるんだ」

「前向きに検討しよう」

 

 

 まぁ、そんなものあるはずないがな。

 そう吐き捨てて、俺は図書館を出て行く。

 

 

「ふぅん、メリットねぇ」

 

 

 去り際、後ろから聞こえてくるつぶやきが気になった。

 

 



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城廻めぐりという幼なじみ

感想、評価ありがとうございます。
大変励みになっています。
これからも本作をよろしくお願いします。


 

 

 

「ふぅ……」

 

 

 エレベーターに乗りながら、ため息をつく。

 今日は本当に災難な1日だった。

 雪ノ下に朝から絡まれ、それが原因でクラスのヤツにも難癖をつけられ、その上また雪ノ下と出会ってしまう。

 

 

 だが、それももう終わりだ。

 マンションにたどり着いた俺を邪魔する者はもういない。

 俺は自由の翼を手に入れたのだ!

 

 

 ━━チンッ!

 

 

 エレベーターが軽い音を立てて止まる。

 降りると、部屋の前にひとりの少女がいた。

 後ろで三つ編みにしたその姿は、俺にとってとても見覚えがあるものだった。

 

 

「めぐり。何やってるんだ、お前は……」

「あ、おかえりなさい、はじめちゃん」

 

 

 こちらに気づいた城廻めぐりは手提げ袋を手に、へにゃりと笑みを浮かべる。

 十年以上見てきた、ちっとも変わらない笑顔。

 その顔は、警戒心のかけらもない。

 

 

「勝手に入っていいって言っただろ。合鍵は渡してあるんだし」

「でも、家主もいないのに勝手に入るのは悪いかなって」

「いや、そういう問題じゃない。作ったご飯を持ってきてくれるのはありがたいが……」

 

 

 自己防衛の意識がないのか、こいつは。

 ……ないんだろうなぁ。

 生まれてこのかた、のほほんとした雰囲気が崩れるのを見たことがない。

 微妙な気持ちで眺めていると、めぐりははっと何かに気づいた様子で片方の手を口に当てる。

 

 

「もしかしてはじめちゃん……お腹すいてる?」

「もうそれでいいよ」

「じゃあすぐに用意するからね」

 

 

 相変わらず能天気さに呆れつつもどこか癒されるのは、彼女の持つ独特の雰囲気のせいだろうか。

 そう思いながら、俺はポケットから取り出した鍵を穴に差し込んだ。

 

 

 

 

 

「はい、どうぞー」

「ありがとう」

 

 

 六畳間という狭いリビング、その中心にあるちゃぶ台に乗せられた今日の晩ご飯は、予約炊飯していたご飯と肉じゃが、ほうれん草のおひたしだった。

 

 

「うまいな、この肉じゃが」

「えへん、今日のは自信作なんだよね」

 

 

 胸を張るめぐりに癒されながら、自然と頭は今日の出来事を考える。

 雪ノ下陽乃。

 人の仮面をつけたバケモノ。

 既に二回断ったのだから、これで雪ノ下が諦めてくれるといいんだが……。

 変に執着されると面倒くさい。

 

 

「ちょっと、はじめちゃん」

「ん?」

 

 

 その声によって現実に意識を引き戻されたと思えば、ちゃぶ台の向こう腕が伸ばされる。

 

 

「……んむ」

「ほら、おべんとついてる。あむっ」

 

 

 俺の頰を指が撫で、その細い指が口元に運ばれる。

 

 

「……よくやるな、めぐり」

「んー? 何が」

 

 

 ポカンとしながら人差し指をくわえるめぐり。

 恥ずかしくないのか、コイツは。

 

 

「そういえばはじめちゃん、何か悩みでもあるの? 」

「どうしてだ?」

「何かぼぉーっとしてるから」

「めぐりにだけは言われたくないな」

「ひどくないかな、それ!」

「……まぁ、ちょっと放課後に解けなかった問題を考えてただけだ」

「はじめちゃん、今日も勉強してたんだ」

「あぁ」

「部活とかに入る予定もないんだよね?」

「今のところは特にないな」

「そっかそっか」

 

 

 何かめぐりが含みのある笑顔を浮かべている。

 こういう時のめぐりは、ろくなことを言う記憶がないから心配だ……。

 説教でもされるのだろうか?

 

 

「あのね、はじめちゃん」

「あぁ」

「私、生徒会に入りたいんだ」

「……そうか」

 

 

 正直な話、やめておけと言いたい。

 めぐりは長い間一緒に過ごしてきた妹のような存在だ。

 雪ノ下なんかの下に送り出すのはしたくない。

 ただ……幼なじみとはいえ、赤の他人である俺がそこまで口を出していいのか。

 

 

「というか、何で俺に言うんだ。普段のめぐりなら俺に何も言わずに突っ込んでいくだろう」

 

 

 目の前の少女がほわほわしているように見えて我が強いということを俺は知っている。

 昔っから、普段の聞き分けはいいくせに一度わがままを言いだすと大変だったのだから。

 

 

「え、はじめちゃんって雪ノ下先輩持ちの生徒会役員じゃないの? だから一緒にお仕事できると思ったんだけど……」

「は?」

「え?」

 

 一瞬、めぐりの言っている意味が分からなくなった俺は悪くない。

 雪ノ下持ち?

 生徒会役員?

 一緒にお仕事?

 

 

「昨日、生徒会室に呼ばれたって噂になってたし」

「断ったぞ」

「朝もぴったりくっついてたし……」

「あれはあいつが勝手にくっついてきただけだ」

「でもほら、よく見たらカッコよくないわけじゃないから、もしかするかもしれないし」

「カッコよくない」

「カッコいいですー。はじめちゃんに惚れてる女の子だってきっといるんだから」

 

 

 ちょっと待て、なんか話が変な方向に流れ出したぞ。

 

 

「百歩譲って俺に惚れているような物好きがいたとしよう。その場合、ひとつわかりきっていることがある。こんな面倒くさいヤツに惚れるようなヤツは確実に面倒くさいヤツだ。それもとびっきり、な」

「それは……そうかもしれないけど、はじめちゃんにははじめちゃんのいいところがあるんだから。ね?」

 

 

 こちらを心配するような瞳で、彼女は語りかけてくる。

 面倒臭いところは否定してくれないのか。

 いや、まぁその通りだから否定のしようがないと思うんだが。

 しかし、めぐりにこうも言いくるめられると調子が狂うな……。

 

 

「それを言うなら、お前も美少女だろうに」

「ふぇっ……?」

 

 

 こういう時は、カウンターを仕掛けたくなるのが人間のサガというものだろう。

 俺は今多分、少々意地の悪い笑みを浮かべていると思う。

 

 

「そ、そそそそんなことないよ。私なんか雪ノ下先輩に比べたらぜんぜんだし!」

「何で雪ノ下と比べているのかが分からないが、お前は疑いようのない美人だ。ゆるふわ可愛い系の。だから諦めろ」

「諦めるってなに!? というか可愛いって、そんなんじゃないから!」

 

 

 わたわたと手を振って慌てる様は大変可愛らしい。

 学校でそんな姿を見せようものなら、きっと校内で雪ノ下に次ぐ人気が出るに違いないだろう。

 そう、城廻めぐりは誰が何と言おうと美少女なのだ。幾分かの兄馬鹿補正が入っているかもしれないけれど。

 

 

 ……彼女は人を惹きつける才能があるのだ。

 だから、こんな偏屈で面倒くさい日陰者の俺なんかと関わってほしくないのだが……。

 俺の心境など知ってか知らずか、今日のように彼女は晩ご飯を作りに来る。

 学校ではあまり接してこないでくれという無茶なお願いを聞いてもらっているだけに、とても断りづらいのが現状だ。

 

 

「と、とりあえずはじめちゃん、明日はよろしくね」

「……おかわり、頼む」

「了解しました!」

 

 

 少し照れたような、おどけたような調子で、彼女は手を差し出してくる。

 逃げ切れたと思ったが、めぐりんアイをちょろまかすことはできなかったらしい。

 重いため息を呑みこんで、俺はウキウキと楽しそうなを浮かべる幼なじみに茶碗を手渡した。

 

 

 

 



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『奉仕部』

とりあえず現在の目標は完結させることです。


 

 

 

「雪ノ下さん? それならちょっと用事で出ているよ」

 

 

 生徒会を訪れた俺たちを出迎えたのは、眼鏡をかけた男子生徒だった。

 その姿は以前の生徒会選挙で見たことがある。

 

 

「そうですか」

「そっちの彼女は知らないけど、君は同級生の市原くんだよね。確か、雪ノ下さん持ちの役員の」

 

 

 俺の知らないところで密かに噂は広まっているらしい。

 本当に俺を引き入れる気か、あいつ。

 こんなのを仲間にしても毒にしかならないと思うが。

 

 

「……」

「……」

 

 

 何故かじっと目を見つめている。

 こっちも見返してみるが……普通の人間だ。

 雪ノ下と比べればよくいるタイプの。

 擬態している、というわけではない。

 ただ純粋に、何を考えているのか分からないタイプの。

 よくある一般人だ。

 それ以上でも、以下でもない。

 

 

「雪ノ下さんに何か用かな?」

 

 

 答えていいのだろうか。

 そう考えていると、背後のドアが開かれた。

 

 

「市原くん?」

 

 

 探し人来たれり。

 雪ノ下は本当に不思議そうな瞳でこちらを眺めてくる。

 

 

「雪ノ下か。少し話がしたい」

 そう言えば、やがて一つ瞬きをした後。

「……ちょっとこっちに来て」

 

 

 少し不機嫌そうに口元を歪めながら、身を翻した。

 

 

 

 

 

 連れてこられたのは、誰もいない空き教室だった、

 最近人が使用した形跡はなく、部屋の奥には机と椅子が敷き詰められている。

 

 

「適当に座っていいから」

 

 

 慣れた様子で彼女は椅子を引っ張ってくる。

 俺たちもそれに習い、雪ノ下の前に着席した。

 

 

「……」

「……」

「……」

 

 

 三人が三人、何も言わない微妙な空気感。

 俺は昨日の今日で訪れてしまった気まずさ、めぐりは憧れの人物を前にしている緊張、 そして雪ノ下はと言うと……普段通り、笑顔の仮面を貼り付けていた。

 少し意外だ。

 部外者(めぐり)がそばにいるからだろうか。

 

 

「君が生徒会室に来るとは思ってなかったよ」

「そうだな」

 

 

 俺だって来たくなかったさ。

 思わず出かかった嫌味を、めぐりの手前ぐっと呑みこむ。

 そんなこちらの様子から察してくれたのだろう。

 彼女の視線は俺の隣に向けられた。

 

 

「まぁいいや。そっちの子は?」

「城廻めぐりと言います。はじめまして、雪ノ下先輩」

「うん、はじめまして」

 

 

 丁寧にお辞儀をするからぐりに対して、彼女はあくまでもにこやかに応答する。

 どうやらめぐりの前では本性を見せるつもりはないらしい。

 

 

「わたし、学校のみんなのためになることをしたいと思ってるんです。だから、生徒会に入りたいと思ってるんですけど……」

「ちょっと市原くん、外に出てくれない? 二人で話したいから」

「それは……」

「心配しなくても大丈夫だよ、はじめちゃん。私だってもう高校生なんだからね」

 

 

 いや、心配しているのはそこじゃないのだが……。

 そんなことを思いながらも、渋々外に出る。

 と、そこで見知った人物を目撃した。

 

 

「お、おう、こんなところで奇遇だな、市原」

「奇遇だな、じゃないですよ」

 

 

 そこにいたのは、平塚先生だった。

 あからさまに挙動不審な様子で、彼女は身なりを整える。

 

 

「いや、これは決して盗み聞きをしていたわけではない。本当だぞ。ただ、雪ノ下が生徒二人を連れて空き教室に向かったという情報を手に入れたため、興味本位で聞き耳を立てていただけだ」

「そういうのを盗み聞きと言うと思いますが。というか、中に入ればよかったのに」

「青春の語らいを教師が邪魔するのは野暮というものだろう」

 

 

 その時だった。

 教室の中から笑い声が聞こえてきたのは。

 

 

「市原クン、入っていいよー」

 

 

 ついで、こちらを呼ぶ声。

 すごく嫌な予感がするのだが。

 具体的には、魔王と幼なじみの相性が実はよかったとか、そういう類の。

 中に入ると、二人はとてもにこやかな様子だった。

 

 

「ありがとうございました、はるさん」

「こっちも楽しかったよ、めぐり」

 

 

 呼び方まで変わっている。

 ……この二人にいったい何があったのだろうか。

 出る前からは考えられない仲の睦まじさなのだが。

 

 

「それで、どういう話になったんだ」

「」

「市原クン」

「……何だ」

「君も生徒会に入るよね」

「は?」

 

 

 何を言っているのか。

 

 

「はじめちゃんも入ろうよ。きっと楽しいよ」

 

 

 俺を追い出したのは、めぐりを味方につけるためだったのか。

 まずい。これはまずい。

 

 

「分かってるよね?」

 

 

 抗議しようとしたところに、雪ノ下が口を出す。

 ……ここで断ると、めぐりが大変な目に遭うということだろう。

 こいつなら一度仲良くなった相手を突き落とすとかやりかねん。

 

 

「……何をすればいい」

「どうしよっかなぁ……ただ普通に生徒会に入ってもらうのも面白みがないしなぁ」

顎に人差し指を当て、にんまりと考えこむ雪ノ下。

 

 

 その時だった。

 

 

 ━━パァン!

 教室の扉が、音を立てて開け放たれたのは。

「話は聞かせてもらった! お前たちの考えを叶えるいい案がある!」

「静ちゃん?」

「平塚先生?」

 

 

 長い髪をたなびかせ、登場した教師は、カツカツと足音を立てて黒板の前までやってくる。

 そして、白いチョークを取ったかと思うと、おもむろに書きつけた。

 ……今の今までスタンバッテいたのだろうか。

 

 

「「「部活動……?」」」

 そこにでかでかと描かれた文字を、意図せず三人で読み上げる。

「そう、部活動だ!

雪ノ下は自分で自由に動かせる組織が手に入る、城廻は自分の仕事っぷりを見てもらえる。実にウィンウィンじゃないか!」

「え、ちょ」

 

 

 俺が含まれていないような気がするのは気のせいだろうか。

 

 

「それに、だ。誰にも知られない、人知れず誰かを助ける秘密組織……どうだ、燃えないか?」

「いいねいいね! 静ちゃん、ナイスアイデア!」

 しかし、名前を呼ばれた当事者、特に雪ノ下は乗り気になってしまっていた。

「そして、市原。これはお前にもメリットがある。お前の志望は聞いている。受験戦争には、部活の一つや二つやっていた方が有利になると思わないか」

「でも、秘密裏の組織なんですよね」

 

 

 そんなものを履歴書に書いていいのだろうか。

 

 

「そっちは裏の顔でいいだろう。表の顔は……人助けボランティアでもやっていればあちらの心象もよくなる」

「そんな適当な」

けれど、平塚先生の言っていることも理解できる。

 確かに部活をやっていた方が入試に有利になるとはよく聞く話だ。

 ………………。

 

 

「……分かりました」

「乗り気になってくれて何よりだ。さて、名前は何にするかな……」

「ボランティア部とか、安直ですかね?」

「もうちょっとカッコよさ出した方がいいんじゃない?」

 

 

 女性陣が盛り上がるのを、外から眺める。

 もうなるようになれ。

 

 

「あ」

「お、雪ノ下。何か思いついたのか?」

「とびっきりいいのを思いついたよ」

「どういうのです?」

 

 

 

 

「━━『奉仕部』なんてどうかな」

 

 

 

 



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翌日、放課後

何とこの作品のPVが10000を超えました。
見てくださった皆さん、本当にありがとうございます。
これからも完結に向けて走っていくつもりなので、最後まで皆さんお付き合いよろしくお願いします。




 その翌日。

 一日経ったからとて、周囲からくる視線が治るわけもなく。

  かといってそれ以外に特に大きな被害があるわけでもなく、学校での時間は過ぎていった。

「部活か……」

放課後、来て欲しくなかった時間は無情にもやってくる。

 このまま帰ってしまおうか。

「市原、お前部活始めたの? 生徒会に入ったんじゃなかったっけ?」

  前の席で帰る用意をしていた有岡が訪ねてくる。

  先程まで眠りこけていたためか、その動きは少し緩慢だ。

「世間ではそうなってるらしいが、俺は生徒会に入った覚えも、雪ノ下の下僕になる気もない。ただ……」

「ただ?」

「何というか、意図せずそんな流れになったというか、人質を取られたというか……まぁ、色々あって始めたんだ」

  そう、あの後色々あった。

  あれよあれよという間に部活の準備が整っていき、帰る頃には外堀が全て囲われていた。

  手際が良過ぎて、あらかじめ示し合わせていたのかと勘違いするほどだ。

  というか奉仕部って何だ、奉仕部って。

  流されてオッケーしてしまったが、今考えると訳がわからん。

「そっか……。今日はせっかくどっか遊びに行こうと思ったのに」

  有岡はがっくり肩を落とす。

  サッカー部の副部長かつ、頼みごとを断れない性格の彼はいつもこの時間になると忙しそうにしている印象だったが。

「珍しいな、有岡が誘ってくるなんて」

「今日は休みにしたんだよ。新人戦前に再来週は新人戦もあるしな。今のうちに休養をとって、後は大会まで一直線って寸法よ」

「なるほど……。というか有岡、お前スケジュール管理までやってるのか?」

「本来なら顧問とか部長と一緒にまとめるんだけど、部長が最近忙しいらしくて部活に来てないんだわ。だから副部長の俺がその代役してるんだ」

「なるほどな」

「まぁ、任されたからにはしっかりやらないとだからな」

 しっかりしているヤツだな、と思う半分、責任感が強いヤツだから倒れたりしないといいが。

「ところで何部に入ったんだ?」

「それは……」

「はじ……市原せんぱーい?」

 答えようとしたところで、教室の入り口から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 そちらに視線を移す。

 そこには授業が終わったのだろう、カバンを持っためぐりの姿があった。

 目と目が合う。

 その瞬間、ぱぁっと花が咲くような笑顔がほころんだ。

「はじめちゃん!」

「誰、この子?」

「はじめちゃんの幼なじみの、城廻めぐりです。有岡先輩のことは市原先輩から聞いてます。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げるめぐり。

 こいつ相手にそんな丁寧にしなくていいぞ。

「おぉーさぁーなぁーなぁーじぃーみぃー? お母さんそんな話聞いてませんわよ!?」

 誰がお母さんだ。

「そりゃ言ってなかったからな。……ところで『城廻』、何か用か?」

 突き放すように、名字を呼ぶ。

 ここは俺の教室の中だ。

 もう無駄かもしれないが、めぐりまで変な目で見られるようになることは避けた方が━━

「せっかくだから一緒に部活行こうかなって思ったんですけど……」

 迷惑だった?

 こちらを上目遣いに見上げ、言外にそんなことを告げる。

 その表情はずるいと思うのだが。

「……そうだな。一緒に行くか、めぐり」

 どうやら俺に逃げることは許されないらしい。

 あぁ、そうだ。ちょうどいい、有岡に聞いてみよう。

「有岡。最近、何か悩み事とかないか?」

「ウキ、悩み事? まぁ、あるにはあるけど……」

「ついでに今、時間は?」

「そりゃ、部活もなくて暇だぞ」

 よし、決まりだ。

 最初の犠牲者……いや、客人はこいつにしよう。

 ちらりとめぐりの方を見る。

 俺の意図を察してくれためぐりは、笑顔でコクリとうなずいた。

「行くぞ、めぐり、有岡」

「一名様ご案内、だね!」

「ウキッ!? 何だ何だ!?」

「いいからいいから」

 戸惑う有岡を連れ、俺とめぐりは部室へ向かうのだった。

 



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ミッションスタート

 

 

 

 次の日の午前中。

 俺は一年のクラスの前までやってきていた。

 目的は桐谷だ。

 

 

 開きっぱなしの扉から中をうかがう。

 ……あぁ、そういえば容姿を聞いていなかったな。

 と、そこで見知った人物と目が合った。

 

 

「はじめちゃん!」

 こちらを見るなり、彼女ははにゃんと柔らかに顔を歪ませて駆け寄ってくる。

 昨日一緒のクラスだって言ってたもんな。

 

 

「……めぐりか。どうだ、調子は」

「もしかして例の人を見に来たの?」

「まぁ、そんなところだ。一度は相手を見ておいた方が動きやすいからな」

「それもそうだね。ちょっと待って……」

「えっとね、教室の奥の、窓際からちょっと離れたところに集まってる茶髪の人だよ」

「ふむ」

 

 

 そちらに目を向けると、確かに五人グループの中にそいつはいた。

 ふむ……。

 注意深く観察する。

 動き、表情、クセ。

 見ているだけで分かるのはそれぐらいだが、侮ってはいけない。

 どういう人であれ、その行動にはおのずとパターンというの発生しているのだから。

 そして、それを観察するのは得意分野だ。

 

 

「どう? はじめちゃんから見て、桐谷くんは」

「パッと見だが……っと。ここでは注目を集めすぎるな。後で話す」

 

 

 さっきから妙に注目されているのを感じていた。

 さすがに後輩のクラスにいると注目を集めすぎるか。

 また変な噂になる前に戻るとしよう。

 

 

「ふふっ」

 そんなことを考えていると、めぐりが笑いをこぼす。

 あどけない子どものような表情。

 よく見慣れた顔だ。

 

 

「どうした」

「ううん、何だか昔一緒にやってたスパイごっこを思い出しちゃって」

「遊んでるわけじゃないんだぞ」

「わかってるよ……ふふっ」

 

 

 注意しても、めぐりは笑うのを止めない。

 まぁ、こいつが楽しいのならいいか。

 

 

「じゃあ、またな」

「うん、お昼休みにね」

 

 

 幼なじみと、お互いに手を振って別れる。

 戻りながら、俺は昨日あったことを思い出していた。

 

 

 

 

 

 

「はぁー、奉仕部か。こんなところがあったんだなぁ」

 机を挟んで向かい合っている有岡はキョロキョロと周囲を見回している。

 まぁ、少し前にできたばかりだから、知らないのも無理はないだろう。

 というか知っていたら逆に驚きだ。

 

 

「奉仕、奉仕かぁ。どういう活動してんの?」

「人助けを中心に活動していく予定です。はじめちゃんはこの部の部長なんですよ」

「人助け部の部長……」

「何だ」

 

 

 こっちをじっと眺めてきて。

 文句でもあるのか。

 

 

「似合わなくね? だってお前、俺が普段困ってても助けてくれないじゃん」

「お前が助けを求めるのはだいたい学校の課題だろう」

 

 

 それぐらいは自分でやってほしい。

 

 

「まぁ、色々あったんだ」

「色々?」

「色々は色々だ。そういうことにさせてくれ」

 

 

 正直、奉仕部に関してはどこまで経緯を話していいのか分からない。

 平塚先生や雪ノ下は秘密の部活と言っていた。

 まぁ、変に情報を出さない方が波風は立たないだろう。

 

 

「色々あったんだよねー」

 

 

 そしてめぐり、学校でもいつも通り接することができるようになったからってニコニコしっぱなしなのはどうなんだ。

 可愛いのだが、何だかこう、調子が狂う。

「それで、悩みとやらを聞かせてくれ」

 

 

「いや、でもなぁ。やっぱり市原も部外者だし……」

 

 

 悩んでいるようだったが、やがて彼は決心したように顔を上げる。

 どうやら話してくれるらしい。

 

 

「うちのサッカー部に、桐谷ってヤツがいるんだよ。そいつが最近、部活を抜け出すんだ」

「桐谷くんって、一年生のですか?」

「そだけど……」

「知っているのか、めぐり?」

「うん。うちのクラスの男子だと思う。よくいる運動部っぽい子だよ」

 

 

 それだけじゃ分からないんだが。

 

 

「それにしても抜け出す? 練習中にか?」

「いや、休憩の時だけどさ。どこに行ったか聞いても答えてくれないし、そいつと仲がいいやつも知らないって言うし」

「それは心配ですね」

「そうなんだよなぁ」

 

 

 めぐりの相づちに、有岡はため息をつく。

 その中には副部長だからこその苦悩もあるのだろうな。

 

 

「だが、どこかに行っているだけだろう? そのせいで練習に参加していないとかか?」

「いや、再会までには帰ってくるんだけど、やっぱりどこか上の空でなぁ」

 

 

 その後も、桐谷の話をいくつか聞いた。

 部活中の詳しい様子や、普段の彼の性格など。

 

 

「分かりました! その悩み、奉仕部が解決しましょう」

「とりあえず、その桐谷ってやつを調べればいいんだな?」

「そう、だな。ここまで話したんだ。よろしくお願いします!」

 

 

 有岡は頭を下げる。

 俺とめぐりは、首を縦に振った。

 

 

「了解した」

「頑張ります!」

 

 

 

 



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昼休み

 

 

 

「──とまぁ、桐谷を見て推測できるのはここまでだな」

「おぉー」

 

 

 昼休みの部室に、めぐりの感心したような声が響く。

 彼女が座る席の上には可愛らしく彩られた弁当が置かれていた。

 

 

「やっぱりはじめちゃんは色んなものが見えてるんだね」

「少し離れた視点で見ることができるだけだ。問題はこれからどうするか、だな」

 

 

 俺が購買で買ってきた菓子パンを口にしながら考えていると、部室の扉がおもむろに開けられた。

 

 

「ひゃっはろー。部活やってるー?」

「どうぞいらっしゃいました。お帰りはあちらになります」

「ご丁寧にありがとうございます、では──ってそっち窓じゃん」

「チッ」

 

 

 やはり上手くいかなかったか。

 舌打ちする俺を尻目に、雪ノ下は机と椅子を引っ張ってきてめぐりの横につける。

 随分と手際のいいことで。

 

 

「一応ここの創設者なんだけど?」

「やぶ蛇目的は結構だ。邪魔になるからさっさと出て行け」

「まぁまぁ、はじめちゃん。はるさん、昨日はじめて依頼人の話を聞いたんですよ」

 

 

 めぐりが昨日あったことを説明する。

 その話を聞いて「なるほどね」と頷いた後、不審げな視線をこちらに向けてきた。

 

 

「……意外とやる気なんだね。もっとサボるのかと思っていたけど」

「はじめちゃん、やることになったら結構真面目にやるんですよ? そこまでが長いですけど」

「めぐりは黙っていてくれ」

「へぇー、そうなんだー」

 

 

 そこ。いいことを聞いた、みたいな顔をするな。

 

 

「でも、はじめちゃんをやる気にさせるのって本当に大変なんですから。この前だって──」

「ストップだ、めぐり」

「はーい」

「また今度教えてね」

「わかりました」

 

 

 俺を話題にするのは確定なのか。

 幼なじみと天敵が仲良くなるとここまで厄介だったとは。

 

 

「雪ノ下、お前はお前で仕事はどうした」

「そっちは順調、来週には引き継ぎも全部終わって本決定になるはずだよ」

「それは何よりだ」

「こっちのことはいいじゃない。依頼を聞かせてよ」

 

 

「依頼主は有岡佐助。内容は、最近不審な行動を取っている一年の桐谷の動向を調査することだ」

「不審って?」

「ふと部活の休憩中にいなくなったり、声をかけても反応がなかったり、らしいです。でも、見てても特におかしい様子はなかったんですよね」

「直接聞いたら早いんじゃない?」

「依頼主の要望で、あまり事を表沙汰にしたくないらしいんですよ」

「そういうことだ」

「ふぅん……あ、めぐりのお弁当かわいいね」

 

 

 あまり興味を惹かなかったのか、彼女の話題はめぐりが持っている弁当にシフトする。

 想像していた以上のことではなかったのだろう。

 

 

「ありがとうございます♪ 今日のは自信作なんですよ」

「もしかして自分で作ってるの?」

「はい。お母さんが忙しい時だけですけどね」

「へぇ、偉いね。それに美味しそう」

 

 

 今日も今日とて菓子パンがうまい。

 それにしても、やはりこの二人は仲がいいように見える。 

 雪ノ下の黒さは鳴りを潜め、めぐりは敬意を払いながらも友人と同じように接している。

 相性が良かったのだろうか。

 その二文字で済ませていいのかは分からないが。

 

 

「ありがとうございます.はるさんのお弁当も美味しそうですね」

「うちは使用人が作ったものだからね。美味しくなかったらむしろ解雇ものだよ」

「使用人? 料理人さんの手作りなんですか?」

「そうだよ。少しいる?」

「やったぁ」

「代わりにめぐりのお弁当のおかず全部と交換ね」

「えぇっ!?」

「あっはは、冗談だよ。めぐりは本当にいい子だね。どこかの誰かと違って」

「急に飛び火させてくるな。パンが不味くなる」

 

 

 それと、めぐりがいい子なのは昔から知っている。

 

 

「はじめちゃんもひとついる?」

「こっちからはメロンパンの切れ端ぐらいしか出せないぞ」

「いいのいいの。はい、あーん」

「普通に渡せ、普通に」

 

 

 ひょいっと差し出された箸の先の唐揚げを手でつまみ、口に運ぶ。

 うん、やっぱりめぐりの作る料理はうまいな。

 

 

「あっ、もう。はじめちゃんったら……」

「俺が悪いみたいな言い方はやめろ」

 

 

 しかし、当の本人は少し残念そうである。

 何故そうなるのか。

 

 

「二人は恋人なんだっけ?」

「ただの幼なじみだ。それ以上でもそれ以下でもない」

「そうですよ。わたしとはじめちゃんは幼なじみです」

「ふぅん…………あれ?」

「どうした」

 

 

 何かやらかしたのに気づいたのだろうか。

 

 

「あぁ、いや、ちょっと……あれ?」

「大丈夫ですか、はるさん」

「うん、大丈夫と言えば大丈夫なんだけど……おっかしーなぁ」

 

 

 そうして昼休みがおわるまで、彼女はずっと首を傾げ続けていた、

 おかしなヤツだ。

 いや、元からか。

 



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サッカー部員追跡24時(大嘘)

UA8000、PV27000突破しました!
ありがとうございます!


 

 

 

『休憩入った』

『了解』

 

 

 グラウンドの端で待っていた俺のスマホに、有岡から連絡が入る。

 

 

「あ、はじめちゃん。桐谷くんが離れたよ」

 

 

 同時に、隣でこっそり様子をうかがっていためぐりからも声がかかる。

 その言葉通り、桐谷がサッカー部の集団からふらりと離れたところだった。

 

 

『こっちでも桐谷を発見した。これから後をつける』

『んじゃ、後はよろしく頼んだ』

「はじめちゃん、有岡先輩はなんて?」

「頼んだ、だとさ」

「任されました♪」

 

 

 彼女はおどけた様子で敬礼してみせる。

 こうして、桐谷追跡大作戦は始まった。

 

 

 

 

 

 夕方の微妙な時間帯のせいだろうか。

 特に他の誰かに見られると言うこともなく、

 

 

「どこまで行くんだろうね」

「この先は行き止まりのはずだが……っと、危ない」

 

 

 桐谷がこちらを振り返るような仕草を見せた。

 慌てて視界から隠れるように、物陰に身を潜める。

 

 

 だが、それも一瞬。彼は曲がり角の先に消えていった。

 慌ててその後ろを追いかける。

 しかし、そこにあったのは四方を高い金網に囲まれた場所だった。

 最近は使われていないのだろうか。

 伸びきった草がその一角を覆っている。

 

 

「消えた……?」

「でも、さっきこっちに来てたよね」

 

 

 めぐりの言う通り、先ほど桐谷はこの角を曲がっていたはずだ。

 今は影も形もないが。

 

 

「壁を越えたのかな?」

「いや、それにしては手際が良すぎないか?」

 

 

 ここまで来るのにそこまで時間は経っていなかった。

 乗り越える人物の姿はおろか、向こうに着地する音すら聞こえないのは少し違和感がある。

 

 

「あれ、何だろう」

 

 

 と、隣で周りを見回していためぐりが何かを見つけたらしい。

 確かに、茂みの中に何かが落ちている様子だった。

 とりあえず近づいてみる。

 それは、赤く小さな首輪だった。

 小動物用だろうか。

 

 

「なんでこんなものがここにあるんだろうね」

「さぁ……誰かが捨てたと考えるのが普通だが……ん?」

 

 

 ちょっと待て。『なんでこんなものがここに?』 

 

 

「何でわざわざこんなところにキーホルダーが落ちているんだ?」

「はじめちゃん、それさっき私が言ったよ?」

「いや、そうじゃなくてだな」

 

 

 こんな、人があんまり寄ってこないところに。

 捨てたと考えるのが妥当だが、かといって不自然すぎる。

 いったいどうして──。

 俺が思考の海に沈みかけた時だった。

 

 

 

 

「あっ!」 

 

 

 

 

 めぐりが声を上げる。

「どうした、めぐり」

「はじめちゃん、これ!」

 

 

 そう言って彼女が指さしたのは、人ひとり入れる程度の小さな空間。

 伸びた草や古びたトタンで巧妙に隠されていたが、よくよく見てみればはっきりと校舎裏らしい影が覗いていた。

 

 

「こんなところに抜け道があったんだな」

「行ってみようよ、はじめちゃん」

「……お前、何だか楽しくなってないか」

「うん!」

 

 

 いや、うんじゃないが。

 ただ、まぁ、ここから抜けていった可能性は高いだろう。

 背を縮め、その穴を通っていく。

 

 

「よっこいせっと」

 

 

 外に出ると、そこは校舎と壁に挟まれた狭い裏道だった。

 用務員が作業をする時に利用しているのか、古ぼけたロッカーの周りにはバケツや熊手が立てかけられている。

 人がひとりしか入れないほどに狭いのは、それぞれの教室からベランダが突き出しているからだろう。

 

 

「よいしょっと。んしょ、結構狭いね、この穴」

 

 

 めぐりも穴から這い出てきて、スカートをぱたぱたと叩く。

 微妙に扇情的なその光景から目を背け、裏道へと視線を向ける。

 少なくとも、見える範囲に桐谷がいないことは決定的だ。

 細い裏道を進む。

 一応整備はされているようだが、人は一切いない。

 

 

「はじめちゃん、こんな場所知ってた?」

「いや、はじめてだ。めぐりは……その様子だと知らなかったみたいだな」

「うん。普通こんな場所まで来ないしね」

 

 

 もしかしたら雪ノ下でも知らなかったかもしれない場所だ。

 知らないのなら、何かに使えるかもしれないな……。

 建物の中から何かが動く気配を感じたのは、その時だった。

 

 

「──っ! めぐり、こっちだ」

「え、何、はじめちゃ……」

 

 

 思わず後ろのめぐりを連れ、間一髪ベランダの下に潜りこむ。

 

 

「どうした?」

「いえ……」

 

 

 どうやら頭上にいるのは、二人の男子生徒らしい。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

 息を潜める。

 どうやら隠れるところは見られなかったらしい。

 めぐりの方は、突然の事に驚いている様子だったが、すぐに順応したのか、ニコニコと笑みを浮かべていた。

 いや、この場合はニヤニヤという方が正しいかもしれない。

 

 

「誰かいたような気がしたんですが、気のせいだったみたいだ。話を中断してすまなかった」

「最近ここら辺に猫が出ているらしいし、それじゃないか?」

「かもしれないな」

「さっさと閉めてくれ。下手に開けっ放しにして、それこそ猫にでも入られたら面倒だ」

「分かった」

 

 

 ぴしゃり。

 カーテンが閉まる音まで聞こえてきたところで、大きく胸をなで下ろす。

 そさくさとその場を離れたところで、そっと息を吐いた。

 

 

「びっくりしたぁ」 

「すまない、めぐり」

「やっぱりはじめちゃんもスパイごっこ、思い出してたんでしょ」

「……」

 

 

 つい、と目をそらす。

 途中から楽しくなったのは否定できない。

 だが、そのまま口にするのも癪に障る。

 

 

「いいから行くぞ」

「うん」

 笑みを崩すことなく、めぐりは後ろをついてくる。

 

 

 ──にゃぁ。

 

 

 鳴き声が向こうから聞こえてきたのは、そんな時だった。

 



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校舎裏でのお話

 

 

 

 にゃぁ、にゃぁお。にゃぉおん。

「こら、あんまり鳴かないでくれ。今日はあんまり遊べないんだから」

二人で声のした方に向かうと、少し開けた空間で猫と戯れる桐谷の姿があった。

猫はアメリカンショートヘアと言えばいいのだろうか、白と黒の毛が入り交じった見た目が特徴的だ。しかもまだ幼いらしく、桐谷の足にすり寄って甘えるような声を出している。

 

 

「こんなところがあったなんてな」

「今日は学校の知らないところをいっぱい知れるね」

「だ、誰だ!」

 

 

 こんな狭いところでこそこそ話をしていたら、気づかれるのは当たり前か。

 二人して物陰から顔を出す。

 桐谷は子猫を隠すようにこちらに

 

 

「って、城廻? それにそっちの人は……」

「市原肇だ。奉仕部の部長をやっている」

「市原肇……? それって雪ノ下会長の使いパシリっていうあの?」

「違う」

 

 

 分かっていたが、そういう認識で広まっているのか。

 しかも、一年生にも。

噂が広まるのは早いものだ。

 

 

「奉仕部って聞いたことないぞ」

「ひっそりとやっている人助け相談所みたいなところだ」

「めぐりもなのか?」

「うん、そうだよ」

 

 

 ──にゃあお?

「あ、ちょっと待て!」

 背中に隠されていた子猫が、不思議そうに桐谷の陰から顔を出す。

エメラルドにも似た瞳がまず捉えたのは、めぐりだった。

彼女はにっこりと猫に笑いかけながら手を振る。

その仕草がお気に召したらしく、にゃおんという鳴き声が校舎裏に響く。

 

 

 くりりとした瞳が、見定めるようにこちらを見つめる。

 時間にして約二秒。

 その次の瞬間。

 

 

 ──びにゃぁ!

 

 

 あろうことか、尻尾を巻いて逃げ出された。

 そさくさと猫は桐谷の足下へ。

 どうやらよほど懐かれているらしい。

 

 

「逃げられちゃったね」

「まぁ、昔から動物には好かれないタチだったからな」

 

 

 近所のハトだろうが、散歩している犬だろうが、見境なく警戒されてきた。

 動物は善人を見分けるとはよく言ったものだ。

 動物たちには、何かしらの感覚で俺の『中身』が理解できるのだろうか。

 

 

「それで、奉仕部だっけか。そんな部活が何でここにいるんだよ」

「薄々感づいているんじゃないのか? でなければ、過剰にその猫をかばう理由もないだろう」

「……っ」

「まぁ、聞きたいなら教えてやる。ここ最近、校舎裏から変な物音と声がするので、調査してほしいという依頼があったんだ。その存在を排除してほしいともな」

「そんな!」

(はじめちゃん?)

(ここは任せてくれ)

 

 

 疑問を投げかけてくるめぐりに視線で返して、言葉を紡ぐ。

 

 

「まぁ、嘘だが」

「嘘かよ!」

「半分はな。依頼があったのは本当だ」

「うぐ……けど、うちの家じゃ猫は飼えないし」

 

 

「このままその猫がこの学校に居続けたらどうなるだろうな」

「え?」

「寂しそうに鳴いているところを心ない誰かに見つけられ、嬲られた後に保健所に送られて、果ては誰にも看取られずに悲しそうに鳴きながらその一生を──」

 

 

「待て! 待ってほしいッス! 分かりましたから!」

「何が分かったんだ?」

「俺が責任を持って里親を探すッス」

 

 

「別に俺たちがやってもいいんだぞ」

「……先輩はあれだけ嫌われてたじゃないッスか」

「一度請け負った依頼ぐらいはこなしてみせるさ」

 

 

 めぐりに猫を見てもらって、俺が外に出て探すこともできるしな。

 だが、目の前の少年は首を横に振った。

 その目には、強い覚悟が取っているようにも見えた。

 

 

「いや、俺がやるッス」

「そうか。じゃあ、この話は終わりだな」

「無理そうならうちを頼っていいからね!」

「おう。ありがとう、城廻。先輩もありがとうございましたッス」

「礼はいいから、さっさと部活に戻れ。抜け出してきているんだろう? 終わるまでは見ておくから」

「う、ウッス! じゃあ、またな!」

 

 

 彼は子猫に手を振りつつも来た道を駆け出し、抜け道から再びグラウンドへと向かっていく。

 そうして、校舎裏には俺とめぐりと、心細そうになく子猫がいた。

 

 

「一応これで解決だが」

「結構あっさりだったね」

「まぁ、こんなもんだろう。桐谷の聞き分けがよかったのもあった。見た目に反して、結構素直なヤツだったな」

「でも、見つけられるのかな?」

「提案してきたのはあっちだ。何かしら考えはあるんだろう」

「いい里親が見つかるといいね」

「そうだな」

 

 

にゃぁ、にゃお。にゃぁ。

 

 

「この子ずっと鳴いてるね」

「そうだな」

「はじめちゃんは桐谷君が来るまでここにいるんだよね」

「先に戻ってていいぞ」

「えー、わたしも一緒に待ってるよ?」

「いいから。そろそろ雪ノ下が部室にやってくる頃合いだろう」

「でも……大丈夫なの?」

 

 

 めぐりが言いたいのは、俺の動物嫌われ体質のことだろう。

だが、別に近づく気はない。

見ているだけならどうにかなるだろう。

そう言うと、めぐりは渋々戻ってくれた。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 息を吐いて、校舎にもたれかかって座りこむ。

 こういうところが落ち着くのは、日陰者のサガだろうか。

 

 

 人を観察するのは嫌いじゃないが、最近は人の視線に曝されすぎた。

 依頼とはいえ、ちょうどいい場所を見つけてくれたものだ。

 

 

 じっとりとした土と空気が、どこか心地いい。

 

 

にゃぁ。

 おずおずとこちらをうかがっていた子猫が鳴く。

 やがて、こちらを気にしても無駄だと分かったのか、同じように壁に寄り添って寝転がった。

 

 

「良かったな、お前はひとりじゃなくなりそうで」

 その言葉は、誰にも聞かれることなく校舎裏に消えていった。

 

 

 

 



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夕方の部活で女子トーク?

 

「ふぅん、そんなことがあったんだ」

「うん。はじめちゃんも小さい頃みたいでとっても楽しかったんだ」

 

 

 奉仕部の夕日射しこむ教室で、雪ノ下陽乃は興味深げにそう言った。

 対する相手は城廻めぐり。

 のほほんとした雰囲気で、陽乃に今日起こった子猫とサッカー部員の話を聞かせている。

 ……その大半は肇についてのことだったが。

 

 

「ねぇ、めぐり」

「何、はるさん?」

 

 

 だから、この会話も世間話の一環としてだったのだろう。

 個々人の思惑はともかくとして、陽乃はその疑問を口にした。

 

 

「めぐりと市原クンは本当に付きあったりしてないんだよね?」

「どうして?」

「それは……」

 

 

 純粋な瞳を向けてくるめぐりに、陽乃は一瞬言葉につまる。

 彼女のそういった、人間としての透明性は陽乃にとって大変好ましいところだ。

 だが、この時ばかりは少し恨めしかった。

 

 

「話を聞く限り、ふたりは友人以上の関係だと思っちゃうのも仕方ないと思うけれど」

「あー」

 

 

 陽乃の言うことに、どこか思うところがあったのだろう。

 めぐりはその透き通ったやわらかい視線を、どこか遠くに向ける。

 

 

「あはは、そんなことはありませんよ。わたしとはじめちゃんは、幼なじみです。それに……」

 

 

 何か、後ろめたいことがあるか。

 秘密にしたいことがあるのか。

 人の心理に聡い陽乃は、そう推測する。

 

 

「わたしははじめちゃんの恋人にはなれませんよ」

 

 

 その言葉は、心からの本心だった。

 

 

 だからこそ、陽乃は困惑する。

 めぐりは嘘をついていないことは、彼女の目からして明らかだ。

 陽乃の目から見て、ふたりの関係性は一般的な幼なじみの枠に収まるようなものではない。

 

 

 交際をしている、もしくはそれに近い立場にあっても、おかしくはない。

 

 

「どういうこと? 前にも言っていたけれど」

 

 

「それは、その……だって、わたしははじめちゃんのこと、何も分かってあげられないから」

「え?」

 

 

 その瞬間、奉仕部の扉が開かれる。

 

 

「めぐり、帰るぞ。……っと、やっぱり雪ノ下もいたのか」

 

 

 訪問者は件の人物、市原肇だった。

 彼は幼なじみの前にいる天敵に、重苦しい息を吐く。

 そんな姿を見て、陽乃の中にあるスイッチが切り替わった。

 それは敵と対峙した人間としてなのか、それとも──

 

 

「いちゃ悪い?」

「いや、そうとは言っていないだろう。めぐりも懐いているようだしな」

「うん! はるさん、色んなこと知ってるから話していて楽しいんだよ」

 

 

 ふたりのにらみ合いを知ってか知らずか、めぐりはニコニコとした笑みを肇に向ける。

 

 

「……そりゃ良かったな」

「ものすごく複雑そうな顔をしながら言う台詞じゃないと思うんだけど」

 

 

 陽乃の言う通り、少年の眉間には深いしわが浮かんでいる。

 幼なじみの前だからか、口元だけは笑みを作っているのは何とも滑稽だ。

 

 

「あ、そうだ」

 

 

 と、その幼なじみは何か思いついたらしい。

 胸の前で手をあて、無邪気な表情をさらに緩めた。

 

 

「はるさんもお仕事終わってたら一緒に帰ろう?」

「は?」

 

 

 肇の眉間のしわがさらに深くなる。

 顔が真っ二つに割れそうなほどに刻まれたそれに、陽乃は小さく吹き出した。

 

 

「ううん、やめておくよ。迎えも待ってるだろうしね」

「そっかぁ、残念」

「ふぅ」

「市原クン、そんな露骨に安心しなくもいいじゃない」

「どの口がそれを言っているのか」

「この口。じゃあね、めぐり。それに市原クンも」

「うん。また明日!」

「……またな」

 

 

 手を振るめぐりを先導するように、肇は部室を出て行く。

 そうして、部室にはひとりの少女が残されたのだった。

 

 

「またな、か…………」

 



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雪ノ下陽乃の憂鬱

 その夜。

 陽乃は自室のベッドにうつぶせ、悩んでいた。

 明日提出の課題も捨て置いて、口から重いため息を吐き出す。

 

 

 

「あー、もう! イライラする! どうしてこうなっちゃうかなぁ、わたし」

 

 ばたつく足に蹴られて、ベッドが揺れる。

 蒸気した肌には巻きおこる風は心地いいが、メイドが綺麗に整えたベッドはアレに荒れている。

 変な感覚だった。

 胸の中に煙が漂っているような、それでいて身の毛のよだつような。

 そして、どこか温かいような。

 

 

 雪ノ下陽乃は生まれて今まで、様々な人たちに注目されてきた。

 頭脳明晰、運動神経抜群、容姿端麗。

 完璧とまで称された彼女に向けられた視線も多種多様なものであった。

 

 

 だが、その人物は今まで彼女が見てきたどの人物よりも異質だった。

 

 

「全部あいつのせいだ。こんなことになるなら、さっさと潰せば……でも、潰すってどうやって?」

 

 あいつ、市原肇の一番厄介なところは、他人への興味の無さだ。

 上辺で装っているが、その中に意思はない。

 ただ、まともに見えるように動いているだけだ。

 まるで、誰かに操られているように。

 

 

 雪ノ下陽乃の処世術は、全て対人間用にチューニングされたものだ。

 あの少年相手に使ったところで、彼は容易く受け流すだろう。

 

 

「めぐりを使う……? ううん、それだと芸がない」

本当は分かっている。

こんな考えも何の意味のないことに。

そして、自分の抱えている感情の正体に。

 

 

きっと、多分、おそらく、雪ノ下陽乃は、市原肇に──

 

 

「いや、そんなはずない。私があいつに、そんな……」

 雪ノ下陽乃はバカではない。

 成績として数字になっている面はともかく、頭の回転の速さはこれまで社交界などで培ってきた経験は他の同級生たちと比べてかなり高い方だ。

 人心掌握能力に至っては随一と言っていい。

 

 

 そして、雪ノ下陽乃はそれを自覚している。

 自覚しているからこそ、実行委員でも生徒会選挙でも、それを使ってきた。

 

 

 そんな彼女だが、胸の中にうずまくその感情の名前をはっきりと理解できていなかった。

 いや、想像はついている。

 重ねて言うが、雪ノ下陽乃はバカではない。

 

 

 ただ、それが今まで興味のない人間たちからの話や、マンガの中で読んだだけだった経験の無さと。

 彼女自身の高いプライドがそれを認めようとしなかった。

 

 

「はぁ……どうしようこれ」

 隠すことはできる。

 彼女にとって、それはいともたやすいことだ。

 だが、無視するにはそのモヤモヤは大きくなりすぎた。

 

 

「あー、もう! 気分転換しよ」

 

 

 幸い、明日は休日だ。

 特に用事もなく、例の趣味を決行するにはちょうどいい。

 



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気分転換ひとりたび

※1/16 中盤~終盤にかけて大幅修正しました。


 

 

 ──ガタンゴトン、ガタンゴトン。

 

 

 雪ノ下陽乃には、いくつかの趣味がある。

 そのひとつがふらりと旅に出ること。

 自分の知見を広めるため、まだ知らない土地を見たいからなんて、理由をこじつければ多岐にわたるが、結局のところそれは堅苦しいあの家からの逃避であった。

 

 

 そう、本来ならそのはずだった。

 今、彼女が抱える悩みは、その類いのものではないが。

 

 

「はぁ……」

 

 

 大きなため息が三両編成の電車の中に消えていく。

 彼女以外、乗っている車両に人はほとんど見えない。

 子ども連れの親子も、眠そうに座る老人も、彼女が想いをはせるあの少年の姿さえ──

 

 

「っ」

 

 

 飛びそうになった思考を慌ててせき止める。

 信じられない。

 いや、信じたくない。

 彼を気にしている自分という存在を。

 

 

『次は──』

 電車に響くアナウンスに、はっと視線を外に向ける。

 

 

 電車の窓ガラスの向こうには、どこか寂れた様子のビル群が広がっている。

 反対側に目を向ければ、びっくりするほどに自然が溢れていた。

 陽乃は肩にさがったハンドバックを直す。

 

 

 ここでいいか。

 

 

 空気の抜ける音を聞きながら、軽い慣性に身体を揺らす。

 駅構内に降りると、涼しい空気が彼女の身を包みこんだ。

 

 

「へぇ、いいところじゃない」

 

 

 実家の最寄り駅から一時間ほどだろうか。

 雨ざらしの構内を吹き抜ける風は、どこか潮の香りを帯びている。

 周囲を見回してみれば、海岸までの距離を示す看板がたてかけられていた。

 

 

 その瞬間、目的地はもう決まったようなものだった。

 

 

 ──ピッ。

 

 

 電子パスをかざした改札口が軽快な音を立てる。

 足取り軽くロータリーに降りた美少女。

 忙しそうに道行く人も、近くに止まったトラックの運転手も、嫌が応でも目を引く。

 陽乃にとっては、もう飽きるほどに浴びた感覚。

 

 

「つまんないなぁ」

 

 

 口の中でぽつりとつぶやく。

どこに行ってもそうだ.

雪ノ下陽乃の一面だけを切り取って見る彼らに、彼女の本当の姿は分からない。

 小手先で笑顔を振りまいたり、仕草を操るだけでどうにでもなる。

 それは楽なことではあるけれど、楽しいわけではない。

 

 

「今まではこんなこと、あんまり考えなかったのになぁ」

 

 

 それもこれも、全てあの同級生のせいだ。

 どうしてあれほど異質な存在に今まで気づかなかったのだろうか。

 ぼんやりと考えながら、道端を歩く。

 

 

「こんにちは」

「……」

 

 

 自らに声をかけてくる青年を見向きもせず、ただぼんやりと。

 

 

 

「あれ、聞こえてる? キミだよキミ」

「あ、ごめんなさい。あまりにも影が薄くて見えませんでした」

「そ、そう。ところでキミ、あまり見ない顔だけど、ここに来るのはハジメテ?」

 

 

 鬱陶しい。

 今すぐ蹴飛ばしてしまおうか。

 そんな考えが頭をよぎる。

 

 

「やめておいた方がいいですよ」

「え」

 

 

 どくん。

心臓が跳ねる。

 身体中が熱を帯び、目の前に起こったことが認識できなくなる。

 

 

 しつこい男の腕を掴んだのは、ここにいるはずのない人物──市原肇だった。

 

 

 何故、どうして、わからない。

 『あの』雪ノ下陽乃が思考を止めるほどに、その光景は衝撃的だった。

 唖然とする陽乃をちらりと一瞥した肇は、ふたたび青年に向き直って口を開く

 

 

「こんなところで死にたくないでしょ?」

「いや、あの、オレは──」

「まっとうな人間がコイツに関わろうとしない方がいい」

 

 

 肇はすぅっと目を細める。

 肇に見られていないはずの陽乃だが、首を締められているような息苦しさと背中を駆け巡る。

 ──つまるところ、強烈な殺気だった。

 

 

「ひっ──ひぃいいいいいいい!」

 その気にアテられた青年の喉が、引きつった音を漏らす。

 かと思えば、脇にいる陽乃でさえ感じる気迫に、青年は腕を振り払って一目散に逃げていった。

 

 

「聞き分けがよくて助かった。長引くと面倒だからな」

「あんなヤツら、助けてもらわなくてもどうにでも料理できたのに」

 

 

 その言葉に嘘は含まれていない。

 あの程度の男もどうにかできないと思われているのなら、それは陽乃にとって心外に他ならない。

 しかし、彼から返ってきた返答は意外なものだった。

 

 

「分かっている。だから止めた」

「何、あの人の知り合いだったりした?」

「無関係だが、だからといって見過ごすほどお人好しでもない」

「キミが? 冗談は行動だけにしてよね」

「はぁ……俺だって止めるつもりはなかったさ。お前じゃなければな」

「…………え」

 

 

 まただ。

 どくんどくんと鳴り響く心臓の鼓動は、じんわりと身体を熱くする。

 ダメだ、ダメだ。こんなの私らしくない。

 

 

「さすがにめぐりの友人を殺人犯にする気はないからな」

「は」

「……雪ノ下?」

「…………あっそ」

 

 体温が急激に下がっていく。

 同時に、ふつふつと胸の内から湧いてくる感情があった。

 

 

 

「私を誰だと思ってるの? ばれないように殺るに決まってるじゃない」

 

 

 イライラする。

 少しでも期待してしまった自分に。

 だが、そのおかげで陽乃はすっかり正気を取り戻していた。

 

 

「というか、何でいるの? まさかストーカー?」

「どんな思考でそこに辿り着いたのかは知らないが、俺は自分自身の用事でここに来ているんだ。被害妄想も大概にしろ」

「こんな美少女が歩いているんだもの、そう思うのも普通じゃない?」

「その自覚があるのならあまり不用心にしないことだな。それじゃあ」

 

 

 それだけ言って、肇は踵を返そうとする。

 しかし、一度捕まえた獲物を逃がすほど陽乃は甘い少女ではなかった。

 

 

「おい」

「離すと思う?」

「離せ」

 

 

 肇は腕を振って、拘束を解こうとする。

 だが、雪ノ下陽乃は、自分をここまで動揺させる存在を素直に逃すつもりはなかった。

 報復もこめて、彼女は腕に力をこめる。

 

 

「どうしてここにいるの?」

「ただの偶然だ。それ以上でも以下でもない」

「そ」

 

 

 正直、その質問の答えはどうでもいい。

 才色兼備と謳われる自身の脳みそを精一杯使い、彼女はどう報復するかについて考えを巡らせる。

 時間にして数秒。彼女はその答えに辿り着いた。

 

 

「じゃ、付きあって」

「は?」

 

 

 



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同類

前回の後半から展開を大幅に変えています。

まだ見ていない人はそちらも目を通した方が流れが分かりやすいと思います。



 

 

 

 

 

「は、な、せ!」

「おっとっと」

 

 

 往来の真ん中、引きずられていた腕を振り解く。

 雪ノ下はよろけながらも、すぐに体勢を立て直した。

 その表情は一見不機嫌そうに見えるが、口元に浮かぶ笑みを見逃しはしない。

 

 

「危ないなぁ」

「意図的にやっておいて白々しい」

「当たり前でしょ?」

 

 

 しれっとそう言うあたり、本当にこの同級生はあなどれない。

 パッと見、非の打ち所がない美少女だということもあってなおさらタチが悪い。

 往来の人の注目をさきほどから集め、居心地も大変悪い。

 

 

「ただの嫌がらせのつもりならこのまま帰るぞ」

「もしかして怒っちゃった?」

「急に会った途端に腕を引っ張られて、ここまで連れてこられて怒らないヤツがいると思うか。俺はお前の下僕じゃない」

「あー、それはうん。ゴメン。私も頭に血が上っちゃってたみたい」

 

 

 そう言って、彼女は軽く頭を下げる。

 てへっと舌を出しているその姿は実にあざとい。

 だが、彼女の姿とは別の要素が俺の口を閉ざさせた。

 

「……」

「どうしたの?」

「いや、そう素直に謝られると調子が狂うな」

 

 

 彼女が素直に謝ってくるなんて考えられない。

 悪いものでも食べたのか、風邪でも引いてしまったのか、はたまた影武者か。

 この後、いきなりナイフを突きつけられても驚かないだろう。

 

 

「何それ。明日は傘を忘れた出かけた先で夕立に降られてびしょ濡れになればいいのに」

「リアルにありそうなこと止めろ」

「私だって謝るときは謝るって。それとも何、私ってそんなに常識ないように見えてたの?」

 

 

 常識の云々を雪ノ下に説く必要はないだろう。

 彼女はどっちかと言うと、分かっていて物事をやっているタイプの人間であることは観察で分かっている。

 ただ……。

 

 

「今まで自分が学校でやってきた行動を思い出せばいいんじゃないか」

「学校……? あぁ、そっか。見られてたんだっけ」

 

 

 雪ノ下はその美貌とコミュ力で、二年も経たずに一大ヒエラルキーを作りだした存在だ。

 そのシンパの多くは男子であり、同級生どころか先輩でさえも顎で使う。

一部の女子には嫌われているようだが、後輩たちにとっては憧れの対象として見られていることも多々あるらしい。

 そんな感じで今まで見聞きしてきたことを伝えると、雪ノ下の表情が怪訝に歪んだ。

 

 

「やっぱりストーカーじゃないの、それ?」

「自己防衛だ。一番俺に被害が及ばない行動が一般人のフリをすることだったまでのこと」

 

 

 まぁ、それでもバレなかったのは幸運によるものだが。

 いや、結局見つかってこうして捕まっているのだから、幸運も何もあったものじゃないな。

 生徒会選挙での吊りに引っかかったところが運の尽きだった。

 

 

「そこなんだよね。私だって人を見る目は結構自信あるんだけど」

「雪ノ下だって隠そうと思えばいくらでも隠せるだろう」

「そうだけど、でもちょっとぐらいはわかりそうなものじゃない? キミが私に気づいたみたいに」

 

 

それは……。

 

 

「……多分、俺の外にいるもうひとりの俺のせいだろうな」

「どういうこと? もしかして多重人格だったりする?」

「いや、そういうことじゃなくてだな」

 

 

自分の中の自分。

 それはいつも俺を観察するように眺めている。

 外側から俺を見とがめる第三者の目となり、逸脱した行動をとろうとすることを抑制してくる。

 

 

「とまぁ、こんなところだ」

「私がよく被ってる仮面みたいなものかな」

「あぁ」

 

 

 他人に聞かれたら色々と問題のある会話をしている気がする。

しかし、道行く人たちはすれ違う雪ノ下の美貌に目が向くばかりで話している内容にまで意識が行っている様子はない。

 ある意味美しすぎる故の妙というべきだろうか。

 

 

「やっぱり──やっぱり、私とキミは同類なんだ」

 

 

 くすり。

 彼女はふっと嬉しそうに頬を緩める。

 その表情は警戒をしている表の俺を突き破り、するりと奥にいる『市原肇』の元にまで達してしまう。

 

 

「そんな顔をしても、何も出ないぞ」

「ん? どういうこと? 私、変な顔してた?」

「……いや、何でもない」

 

 

 どうやら無意識だったらしい。

 笑顔に見惚れてしまっていたとも言えずに、そう言って誤魔化す。

 雪ノ下は気づいた様子もなく、道端のある一角を指さした。

 

 

「とりあえずあの喫茶店で座らない? 不本意だけどさっきのお礼もしたいし」

「あそこは……あぁ、分かった」

「うん、じゃあ決まりね」

 

 

 その瞬間、右腕に絡めてくる。

 ふにゃりと、柔らかい感触が腕を包みこんだ。

 慌てて払おうとするとさらにはっきりと感覚が伝わってきて、思わず固まってしまう。

 

 

「ちょ、離れろ!」

「えぇー、いいじゃん。減るもんじゃないし」

「俺の精神がゴリゴリ削れるんだが」

「それを聞いて私がやめると思う?」

「やめろ! ついでと言わんばかりに関節をキメてくるな!」

 

 

 騒ぎながら、喫茶店へと向かっていく。

 休日の貴重な一日は、予想外に騒がしくなりそうだった。

 

 

 



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喫茶店にて

 

 

 

 

 雪ノ下が喫茶店の扉を開けば、シックな装飾に包まれた店内が出迎える。

 ランチタイムも終えた時間帯の店内には、似合いの穏やかなBGMが流れていた。

 中には世間話に花を咲かせるおばさんや、新聞を読む紳士の姿が見える。

 

 

 その中で、せわしなく動いていたウェイトレスがこちらを見る。

 彼女は突然入ってきた絶世の美少女を見ると、細い目を大きく目を見開いた。

 黒い瞳がこちらを捉えてくるが、俺は視界に入っていないようだ。

 

 

 少しの間ぼぉっとしていたが、やがて慌てたように近づいてきた。

「いらっ、いらっしゃいませ。おふたりですね。こちらの席にお座りください」

 促され、奥の席に向かい合って腰掛ける。

 

 

 彼女は周囲を眺めた後、「いい店だね」と言いながらメニューを広げた。

 一瞬だけ目を通すと、彼女は顔を上げる。

 

 

「注文決まってる? 入ってから一度もメニュー見てないけど」

「あぁ、いつでも頼んでくれて構わない」

「ふぅん。ま、そう言うならいいけど。すみませーん」

 

 

 雪ノ下が呼びかけると、ウェイトレスさんがいそいそと寄ってきた。

 

 

「はい、ただいま。ご注文はおきまりでしょうか?」

「私はチョコケーキと紅茶のセットひとつ」

「あのパンケーキセットをお願いします」

 

 

 

 

 

「かしこまりまし……た?」

「どうしたの?」

「い、いえ、かしこまりました!」

 

 

 ……あの様子だと気づいたのだろうか。

 まぁ、だからと言ってどうすることもできないのだが。

 

 

「何だったんだろう」

「さぁな」

「ま、いっか。それにしてもパンケーキって、似合わないでしょ」

「悪かったな」

「別にそんなこと言ってないから。それで、なんでこんなところにいたの?」

「……まぁ、色々とな」

「何、教えてくれてもいいじゃん。私と市原クンの仲でしょ?」

「いつ仲良くなったか教えてほしいんだが」

 

 

 あの選挙演説から一週間ほどしか経っていない。

 めぐりと雪ノ下は長年の親友のように接しているが、俺と雪ノ下はいがみ合ってばかりだった。

……思えばだいぶ濃い時間を過ごしているような気がするな。

 

 

「はーい、チョコケーキと紅茶セットひとつ、パンケーキセットひとつ。おまちどおさまー」

「ありがとうございます~」

「どうも」

 

 

コトリと軽い音を立てて、パンケーキが目の前に置かれる。

軽く頭を下げると、ウェイトレスはこちらをじっと見つめてきた。

 やがて、納得したように一度頷く。

 

 

「あ、やっぱり。ねぇ、もしかしてだけど……市原さんところの肇くん?」

「まぁ、そうです。やっぱり気づいてなかったんですね」

「やっぱり! どこかで見たことがあったのよね!」

 

 

 そう言って、女性──土方杏さんが驚きの声を上げる。

 ここに来たのはまだ幼い頃、祖父に連れられてきただけだから、忘れているものだと思っていた。

 いや、俺としてはむしろそっちの方がよかったのだが。

 

 

「いやぁねぇ、言ってくれたらよかったのに。こんなに綺麗なカノジョさんまで連れて帰ってくるなんて、嬉しいわぁ」

「まさかと思うでしょうけど、ただの同級生です」

「いいのよ、照れなくて。おばちゃん引っこんでるから、若いお二人でごゆっくり~」

 

 

 杏さんは空いた手をひらひらと振り、自分の仕事へと戻っていく。

 外見はそんなに変わっていないように見えたけれど、あそこまでテンションの高い人だっただろうか。

 まぁ、前に来たのは本当に十年ほど前の話だが。

 

 

「分かっていたんだろうが、ここは俺の祖父が住んでいる土地だ。昔は両親と一緒に遊びに来ていてな、今でもこうして休日に足を運んだりすることがあるんだ」

「え」

「は?」

 

 

 おや、雪ノ下の様子が……。

 てっきり分かってこっちまでやってきているものだと思ってたんだが。目の前で瞬きしているところを見るにどうやら違うらしい。

 ではいったいどうして、などと考えていたら、ついと視線がそらされた。

 

 

「もちろん知ってたよ? ここに来たのは天敵の調査のためだしね? まさか本人がココに来てるとは思わなかったなぁ」

 

 

 

 

 

「嘘はつくだけ見苦しくなるだけだぞ」

「そんなわけないじゃない。何、自意識過剰なの?」

「そこまでは言ってないだろ! いいから落ち着け、今のお前はかなりおかしい」

「中身がおかしいのはお互い様じゃない」

「否定はしないが、それを今持ち出してくるのは卑怯だろう!」

 

 

 それに今のお前はどっちかというとテンパっているだけじゃないか。

 等と言いたかったが、口にしたところで余計絡まれるだけなので黙っておこう。

 

 

「……何か言いたいことがあるなら言った方が身のためだよ?」

「ちっ、そのままずっと焦っていれば都合がよかったのだが」

 

 

 が、そんなことは目の前の少女にはお見通しらしい。

 無駄なめざとさを発揮しやがって……。

 

 

「そんなことになるわけないじゃない。自分から安全圏で眺めるだけなんて許さないから」

「人畜無害なんだからいいだろ」

「はぁ、やめやめ。どうせまた堂々巡りになるだけだろうし……あ、このケーキおいしい」

「口にあって何よりだ」

「それ、キミが言う?」

 

 

 雪ノ下は呆れたように微笑むと、再び手元のケーキにフォークを刺すのだった。

 

 

 



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秋空と海

 

 

 どこまでも続く緩やかな坂道は、まるで晴れ渡った秋空の先まで続きそうなほどに長く伸びている。

 住宅街を通り過ぎ、いつの間にか周囲には木々が並んでいた。

 ここだけ見れば、緑豊かな別世界のようにも見えてくる。

 

 

「だいぶ歩いたね」

「何だ、もう限界か」

「そう見えるんだったら、よっぽど視力が悪いんじゃない?」

 

 

 強気にそう言う彼女の額には、うっすらと汗が滲んでいる。

 喫茶店を出てからかれこれ一時間は経っているだろうが、弱音も上げずに歩き続けてきた。

 最初に海に行くと言った時は、正直冗談かと思った。

 道端にあるバス停のベンチに座り、もう無理と根を上げるものだと考えていたのだが……存外、根性があるんだな。

 少し、見直した。

 

 

「残念だ。もっと露骨にひぃひぃ鳴いてくれてもいいんだが」

「子どもの頃のキミ、みたいに?」

「……そうだな。小さな子どもみたいに泣き叫ぶといいさ」

 

 

 一瞬だけ言葉に詰まる。

 こんな状況にあっても、雪ノ下は俺を攻撃することを止めるつもりはないらしい。

 喫茶店で土方さんから仕入れた俺の過去の話を振ってくる。

 何とか言葉を返すも、返ってきたのは勝ち誇った少女の笑みだった。

 

 

「はい私の勝ち」

「勝ち負けの勝負をした覚えはない。よってこの勝負は俺の不戦勝だ」

「何それ、意味分かんないんだけど」

「安心しろ、俺も分かっていない」

「自慢できることじゃないって──おっとと」

 

 

 足に疲れが溜まっていたらしい雪ノ下が、バランスを崩す。

 だが、寸でのところで何とか踏みとどまった。

 そろそろ限界だろうか。

 

 

「ほら」

「ありがと」

「……」

 

 

 彼女の手がそっと俺の右手に添えられた。

 力を込めれば折れてしまいそうなほどの指は、女性らしい柔らかさとしっとりとした温もりを伝えてくる。

 …………綺麗だな。

 

 

 というか、意外だった。

弾かれるまではいかなくても、文句を言われる程度のことは想像していたのだが。

 どうも調子が狂うな。

 俺が見てきた雪ノ下じゃないような気さえ──

 

 

「素直すぎる、って?」

「ナチュラルに心を読んでくるな」

「キミ、ブーメラン投げるのうまいね」

「お褒めにあずかり光栄です、お嬢様」

 

 

 皮肉を嫌味で返しつつ、坂道を歩き続ける。

 そんな俺たちの前に、それは現われた。

 

 

 傾きはじめた陽光に照らされた砂浜、その先に広がる群青色の海。

遥か遠くには見える水平線の向こう側には、うっすらと夜が侵蝕してきていた。

ひっそりと、誰もいない空間に波の音だけが響く。

 

 

「ふぅん、いい景色だね」

「その割には興味なさそうだが」

「だって興味ないし」

 

 

 けろっと言い放つ雪ノ下。

 

 

「ならどうしてこんなところまで来たんだ。あっちからこの町まで、結構時間がかかっただろうに。そんなに暇だったのか?」

「それは──」

「……それは?」

「ナイショ♪」

「何だよ、妙に引っ張っておいて」

「キミなら分かるんじゃない?」

 彼女の視線は、挑戦的にこちらを刺す。

「無茶を言う。喫茶店で齟齬が生まれたように、全部が全部分かるわけない。テレパシーでもあるまいし」

「つまんないの」

 

 

 そう言いつつ、興味なさげに彼女は海の方に目を向ける。

 

 

 ──ざざぁん、ざざぁん。

 

 

 波の音は静かに俺たちを出迎えてくれる。

 

 

「誰もいないね」

「この時期のこの時間に海に来るなんて、暇人かロマンチストしかいないだろう」

「じゃあ」

「さぁな、適当に言ってみただけだ。特に根拠はない」

「でも、そっか。もう冬なんだもんね」

「来週にはもう生徒会長投票だな。準備の方は──聞くまでもないか」

「前から思ってたけどさ……キミ、やけに私への期待値高いよね。色々見てきたからって、なんでそんなに期待できるの?」

「似ているから、じゃダメか?」

「そんな分かりきったことはいいの。私が知りたいのは、もっと別の理由」

「……」

 

 

 理由、か。

 

 話さないと逃がさない。

 そんな気概がひしひしと付きあってきた。

 逃げられない、か。

 諦めの混じったため息を吐き、息を吸いこむ。

 

 

「お前の中にある泥だ。

さらさらとした砂ではない。石が砕け散った礫でもない。

 真っ黒で、粘ついていて、身体の芯にまで染み渡った泥。

 他人と接するとき、誰かを操るとき、壇上へ経ったとき。

 それはずっと、形を変えながら誰かを見ている。目の前にいる誰かにあわせ、形を変えている。

どうあがいてもお前の中にべっとりと存在するその黒さがある限り、雪ノ下陽乃は雪ノ下陽乃のままであるし、成し遂げると決めたことを必ず成し遂げる。

俺はそう信じている」

 

 

 そして、一息に言い切った。

 俺の言葉を聞いた雪ノ下は、ぱちくりと気の抜けた表情をしていたかと思うと、

「ふぅん」

 表情の見えない声でそうつぶやいて、海へと向き直った。

 

 

──ざざぁああん、ざざぁああん。

 

 

 静かだ。 

 どこかこの世ではない、別の世界かとさえ思えてきてしまうほどに。

「ねぇ、市原クン」

 幻想的な風景に見入ってると、隣から声が聞こえてきた。

 

 

「どうした?」

「今日は楽しかった?」

「……まぁ、それなりにはな」

「ならよかった」

 

 

 彼女は迫り来る夜の帳に視線を向けたまま、ふっと微笑む。

 そよいだ潮風が、肩で切りそろえた綺麗な髪を弄ぶように揺らす。

 その姿はまるで──

 

「──っ!」

 

 

 引きこまれそうになった意識が、ぐいっと戻される。

これ以上は危険だと、俺の中の俺が告げていた。

 そんな俺の心境など知るよしもなく、彼女は再び口を開く。

 

 

「ねぇ、市原クン」

「何だ」

「呼んでみただけ」

 

 

 ……何だ、こいつ。

 もしや、からかわれているのだろうか。

 

 

「ねぇ、市原クン」

「雪ノ下、いい加減しつこ──」

「私、キミのことが好きみたい」

 

 

 ……。

 …………。

 ……………………え?

 

 

「え?」

 世界から全ての音が消えた気がした。

 

 

「だから、つきあって?」

 

 

 

 

 



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告白

 

 一瞬、思考が止まる。

 雪ノ下が言った言葉の意味が、俺には理解できなかった。

 

 

「つきあう? 誰と誰が?」

「そんなの決まってるじゃん、ここにいるのは誰だと思ってるの?」

「それは……」

 

 

 助けを求めるように、周囲を見回す。

 しかしどこまでも続く砂浜は、無情にも俺と雪ノ下以外の姿を映し出すことはなかった。

 諦めの混じったため息をつく。

 

 

「あら、ご不満?」

「不満も不満、むしろ不満しかない。今なら優秀なクレーマーになれる気がするほどにな」

「こんな美少女が告白してあげてるって言うのに」

「外見はともかく内面は致命的だろう。良かったな、綺麗な化けの皮を持って生まれて」

「でしょ?」

 

 

「──で、答えは?」 

 

 

 彼女の頬が上がる。

『雪ノ下陽乃』を象徴するような笑顔の裏に隠された絶対的自信こそ、彼女が魅力的に見える所以のひとつだろう。

 大抵の男は、この魅力にころっとやられるかもしれない。

 

 

 それに、彼女の魅力は外見だけではない。

 誰かを敵に回してもなお自分の意思を貫き続ける胆力と、周囲を考えて──どのような風に、かはあえて言わないが──立ち振る舞うことのできる賢さも兼ね備えている。

 ひとたび外に出れば、品行方正なお嬢様だ。

 

 

 などと、表の顔だけを見て誘いに乗れたら、どれだけ楽だっただろうか。

 彼女の美しい顔や性格を独り占めできることに、喜び泣き叫ぶかもしれない。

 ──その裏に隠された、どす黒い本性に気づかずに。

 

 

「断る」

 

 

 何かが軋む音が聞こえる。

 身体か、心か、それとも全てか。

 だが、構わない。

 

 

「お前とは付きあえない」

 

 

 俺はまっすぐ言葉を突きつけた。

 それは決別の言葉。

 

 

「……」

 

 

 その言葉に、雪ノ下は口を閉ざす。

 しかし、こちらから視線を外さずに、感情の見えない目でただじっと。

 正面から見据えながら、俺はある言葉を思い出していた。

 

 

ハリネズミのジレンマ。

 近づけば近づくほど、自分の持つ針で相手を傷つけてしまうハリネズミのお伽噺。

 俺と雪ノ下は似ている。

 外側の話ではなく、もっと深い、心の奥底にある精神のところで。

 

 

 だが、だからこそ俺たちはお互いを傷つける。

 どれだけ好意を寄せようと、嫌悪という自らの中に潜む刃で。

 例え、その感情がどれだけ『本物』であったとしても。

 

 

 やがて、気持ちの整理がついたのだろうか。

 雪ノ下はゆっくりと顔を持ち上げる。

 彼女の瞳が、痛いほどまっすぐこちらを捉えた。

 その口から、淡い薄桃色の唇から何が告げられるのか、どんな悪態が飛び出すのか。

 喉を鳴らして、身構える。

 

 

 しかし、俺の耳に届いたのは意外な言葉だった。

 

 

「そっか」

 彼女はそれだけ言うと、ポケットから携帯を取り出した。

 慣れた手つきで操作し、耳に押し当てる。

 

 

「もしもし? あ、うん。私。もういいよ」

 

 

 短い通話だった。

 すぐさま彼女はポーチに携帯をしまい込む。

 その表情も、仕草も、普段と変わらないように見えた。

 

 

「雪ノ下?」

「気にしないで、迎えを呼んだだけだから」

「……用意周到だな」

「ホント、嫌になっちゃうぐらいね」

 

 

 雪ノ下は笑う。

 いつも通りの表情で。

 そんな彼女に釣られて、俺も皮肉めいた笑みを漏らす。

 

 

 と、雪ノ下の視線が遠くに向けられる。

「あ、来たみたい」

「そうだな」

 

 

 坂を超えて、黒塗りの車がやってくる。

 停められた車の運転席から出てきたのは、黒服に身を包んだひとりの老紳士だった。

 彼は雪ノ下に向かって、やうやうしく頭を下げる。

 

 

「お迎えに上がりました、陽乃お嬢様」

「ありがと。じゃあね、市原クン」

 

 

 そう言って、雪ノ下は車の扉を開く。

 

 

「なぁ、雪ノ下」

「何?」

「……いや、何でもない」

 

 

 俺は何を言おうとしていたのか。

 ついさっき、伸ばされた手を払った彼女に、いったい何を……。

 わからない。自分の心がわからない。

 

 

「そ」

 

 

 返ってきた言葉は、今まで聞いたどんなものよりも冷たかった。

 彼女はこちらを一瞥して、車に乗りこむ。

 ドアが閉められる音が、やけに大きく耳に届いた。

 

 

 やがて、黒塗りの車は進み出す。

 彼女が坂の向こうに消えていく様を、俺はただずっと見てた。

 ずっと、ずっと。

 

 

「……これで良かったんだ」

砂浜にぽつりと落ちた言葉は、寄せては返す波の音にさらわれて消えていく。

そう、これで良かったんだよな。

坂の向こうから視線を外すことなく、自分の心に問いかける。

しかし、答えは返ってくることがない。

 

 

 ──じわり。

 足下に滲むしめった感触に視線を向けると、いつの間にか波が両足を包んでいた。

這い上がってくるような冷たさと気持ち悪さに、思わず顔をしかめる。

 

 

「俺も帰らないと」

 

 

 しかし、足が言葉通りに動くことはなく。

 動き出したのは、世界が完全な黒に溶けこんでからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 車が走り出して数分。

 車内の空気は壊滅的に悪かった。

 その原因はひとつ。

 

 

「お嬢様、今日のひとり旅はいかがでし──」

「話しかけないで」

 

 

 ぴしゃりとそう言えば、運転席の執事は口を閉じる。

 後部座席で腕を組み、どす黒いオーラが見えるほどに不機嫌を身体全体で表していた。

 そんな彼女の頭の中では、先ほどの出来事がぐるぐると巡る。

 

 

 勝算がない戦いはしていないつもりだ。

 雪ノ下陽乃を見る市原肇の目は、少し前と比べて確実に柔らかくなっている。

 抱きついた時の反応も悪くなかった。

 

 

 打算的に、狡猾に。

 そうやって今まで、雪ノ下陽乃は欲しいものを手に入れてきた。

 手に入ると、思っていた。

 

 

 手に入れたい。

 その気持ちは、一度振られてからも変わらない。

でも、どうやって?

 

 

 ──わからない。

 

 

 今まで近くに感じていたはずの肇のことが。

 見えているものは一緒のはずだと、そう信じていた彼の存在が。

 そんな彼を思っている、自分の感情が。

 

 

 心の正体に気づけないまま、彼女を乗せた車は走り続ける。

 思ったよりも遠くまで来てしまっていたらしい。

 彼女がそこに辿り着くのに、もう少し時間がかかりそうだった。

 



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閑話・現在の奉仕部

 

 

「へぇー、そんなことがあったんですね!」

「あの頃は陽乃もヤンチャしてたからなぁ。今よりも気性荒かったし」

 

 

 俺が卒業した奉仕部で語る昔話は好評だった。

 特に由比ヶ浜さんは恋バナに興味津々らしく、テンション高めに相づちを打ってくれるのでとても話しやすい。

 が、その横で耳を傾けながらも微妙そうな表情の少女がひとり。

 

 

「ゆきのん、どうかしたの?」

「いえ、何でもないわ」

「おおよそ、自分の姉の高校生時代に複雑な気分になってるんだろうさ」

 

 

 補足を入れてやれば、少女──雪ノ下雪乃ちゃんの顔がむっと歪む。

 長い髪に彩られた美貌の中に陽乃の面影が見えるのは、やはり姉妹だからだろう。

 違うところと言えば、表情を隠すのが上手くないところか。

 雪乃ちゃんは無表情で自分の心を隠していると思っているのだろうが、目の前にいる人物が君の何倍も素直じゃない人と接してきたことを忘れてないかな。

 

 

「しれっと人の心を読むのは義兄さんの悪い癖よ。そんなことをしていたら嫌われるのではないかしら」

「別に、誰に嫌われようが構わないさ」

「姉さんにも?」

「あいつは元々俺を嫌っているヤツ筆頭だろ。俺があいつを嫌っているようにな」

「え、でもふたりはつきあってるんじゃないんですか?」

 

 

 俺の言葉に、由比ヶ浜さんが驚きの声を上げる。

 そんなに意外なことか?

 

 

「どれだけ俺を嫌っていようが、その上で好きでいてくれるだろうからな」

「ひゃー、アツアツだ!」

「仲がよろしいことで」

 

 

 由比ヶ浜さんは顔を手で覆い、雪乃ちゃんは頭を抑えて深々とため息をつく。

 外見だけならず反応も対照的な二人に見えるが、仲が悪いようではないらしい。

 っと、あんまり話しすぎると後が怖い。

 惚気はここまでにするとしよう。

 

 

「そういや、このお菓子って誰が持ってきたんだい? やけに高そうだけど」

「それ、平塚先生がくれたらしいですよ」

「平塚先生が?」

「……何でも、婚約者の両親に持っていく用の菓子折だったみたいで」

「あー、うん。察した」

 

 

 また婚期を逃したのか、あの人は。

 平塚先生の男運の無さはいったいどこから来ているのだろうか。

 後で厄払いに行くことをオススメしておこう。

 そんなことを考えながら、出所を教えてくれた男子生徒に身体を向ける。

 

 

「比企谷くん、だっけ」

「なんすか」

「いや、ようやくしゃべってくれたなぁ、と」

 

 

 俺がそう言うと、彼は死んだ魚のような目をすぅっと細めた。

 濁りきった瞳の中には警戒の色が見える。

 

 

 

「彼はただ目つきの悪いだけの動かない石像だから気にしなくていいわ」

「せめて動かしてほしいんだが」

「ヒッキーはもうお菓子いらないの?」

「いい」

「ふぅん……」

「…………なんすか」

 

 

 イタズラ心が芽生えてきてしまった。

ちょっと脅かしてみるのもいいかもしれない、などと思うなんて、いつの間にか思考回路も陽乃に侵蝕されたのだろうか。

 比企谷くんに視線を向け、少し力を込める。

 

 

「──ッ!」

 

 

 ガタリ。

 比企谷くんの身体が大きく跳ねた。

 その表紙に椅子を倒してしまう。

 今、彼の目には何が見えたのだろうか。

 

 

「おっと、驚かせちゃったか。ごめんごめん。ほら、立てるか?」

「……………ひとりで立てます」

 

 

 彼は伸ばした手を払いのけるように拒み、立ち上がる。

 女子ふたりには心配すんな、とだけ返し、机の上に置かれていたマッ缶を一気に煽った。

 

 

「キミはどうやらこっち側の人間みたいだね」

「何の話ですか」

「こっちの話さ。何かあったら連絡してくるといい、相談ぐらいには乗れるはずだ」

「……」

 

 

 思うに、彼は警戒しすぎだな。

 そんなにピリピリした視線を向けられれば、誰だって気づいてしまうだろう。一般人に擬態するならもっとうまくやる方法があるだろうに。

 いや、そうすることが苦手だからこそ、こんなところにいるのかもしれないが。

 

 

「陽乃さんに絡まれた時には連絡させてもらいます」

「ははは! これは一本取られたな。いいよ、陽乃が迷惑をかけたら俺を呼ぶといい。まぁ、呼ばれたからといって何をするわけでもないけどね」

「いやそこは連れて行ってくださいよ」

「あいつに絡まれるってことはそういうことだ。諦めろ」

「最高にイイ笑顔をありがとうございます」

「男に褒められても嬉しくないな。いや、まぁでも女性に褒められたらそれはそれで陽乃が嫉妬するしな」

「……姉さん、嫉妬深いのね」

「何だ、雪乃ちゃん。意外だったか?」

 

 

 勘違いされがちだが、陽乃だって立派な少女だ。

 いくら中がどろどろのぐちょぐちょだとはいえ、その造詣は年頃の少女を形作っている。

 だからこそ厄介なんだが。

 

 

「いえ、私の知っている姉さんとあなたの恋人が同一人物であることがはっきりと分かったわ。絶対にこの場に連れてこないでちょうだい」

「あー……善処するよ」

「そこははっきりと肯定してほしかったのだけれど」

「陽乃は気まぐれだからな、俺にだって行動の全てが分かるわけない」

 

 

まぁ、そこが面白いんだけど。

そう思えるようになったのも、きっと陽乃のおかげなのだろう。

 

 



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悪夢

 

 

「ねぇねぇ、はじめちゃん。一緒にあそぼ?」

「ちゃんづけはやめろって言ってるだろ」

「えー、いいでしょ。かわいいし」

 

 

 閑散とした住宅地にある、児童公園。

 ベンチに座っている俺の前では、めぐりがほんわかとした笑顔を浮かべている。

 その向こう、公園の中心では数人の男女がこちらを伺うようにちらちらと視線を向けている。

 

 

「かわいくなくていい」

「えー……じゃあ、かっこいいし!」

「言いかえてもダメだ」

 

 

 ベンチから立ち上がる。

 もちろん、遊ぶためなんかじゃない。

 目的地は自分の家だ。

 

 

「あ、ちょっと! どこに行くの?」

「帰る」

「でも、みんなはじめちゃんのことを待ってるよ」

「待ってる?」

「うん。みつるくんもゆーちゃんも、はじめちゃんと遊びたいって」

 

 

 もう一度、公園にたむろしている少年少女を見る。

 こちらを眺める彼らの表情に嫌悪感はない。

 ただ、どう接していいのか分からないと言った様子だった。

 

 

 多分、彼らも俺が加われば、しばらくはぎくしゃくすることはあっても、受け入れてくれるかもしれない。

 それをする必要性を感じないが。

 

 

「嫌だ。ほっといてくれ」

「どうしてそんなこと言うの?」

「ひとりでいたいだけだ」

 

 

 そう言って、俺は公園の入り口に歩みを進める。

 背後から複数の視線を感じる。

 めぐりが何か言われるかもしれないな、と思いながらも

 

 

 その時だった。

 

 

「遊ばないの?」

 

 

 背後から、声が聞こえたのは。

 聞き覚えのある、女性の声。

 驚いて振り向く。

 そこにいたのは、雪ノ下陽乃ではなかった。

 

 

「じゃあ、私と遊ぼうよ」

 

 

 人影だった。

 全身を黒子のように漆黒に染め上げたが、その姿形は雪ノ下陽乃のものだとはっきり分かる。

 ぞわり。

 本能的な恐怖に身体が震える

 

 

 にたりと真っ赤な口がつり上がった。

 ゆっくりと、ずるりと、黒い手がこちらに伸ばされ──

 

 

 

 

 

「──っ!」

 

 

 まぶたを開いた俺の目に飛びこんできたのは、青い空と天高く伸びるフェンスだった。

 身体をよじれば、背中からざらりとアスファルトの固い感触が伝わってくる。

 

 

「ぐっ」

 

 

 酷い目覚めだ。

 頭をトンカチで何度も殴られたような痛みが襲いかかってくる。

 ああいうのを悪夢というのだろう。

 まぁ、結局のところ夢は夢だ。そのうち忘れるだろう。

 胸の上に乗せていた本を手に取り、起き上がる。

 

 

「……そこまで時間は経っていないか」

 

 

 背中を押すように、風がそよぐ。

 まだ昼は温かさを感じるが、屋上で寝るのは控えた方がいいかもしれない。

 いや、寝るつもりはなかったんだが。

 持ってきた恋愛小説が思った以上につまらなかったのが原因だ。

 

 

 四人の少年少女が時に思いを交わし、時にすれ違う、映画にもなった青春恋愛物。

 ストーリー自体は普通に面白かった。

ただ、主人公の相手であるメインヒロインに物足りないというか、毒が足りないというか……。

 

 

「何を考えているんだ、俺は」

 

 

 自分の思考にストップがかかる。

 雪ノ下からの告白に衝撃を受けたのは事実だが、あれからもう二日も経っているんだ。

 普段の俺なら、すぐに切り替えることができたはず。

 なのに。

 

 

「ダメだ、また持っていかれている」

 

 

 日曜日は考えないでいれたのに、学校に来た途端にこれだ。

 それに、朝から雪ノ下の姿を全く見かけないのも気にかかる。

 俺という遊び道具に飽きた、というのならそれでいい。というかむしろ存分に飽きてくれて構わない。

…………行くか、奉仕部に。

出ようとしたところで、屋上の扉が開いた。

 

 

「お、市原。こんなところにいたのか」

「有岡? お前がここに来るなんて珍しいな。部活はどうしたんだ?」

「ちょっとな。おーい、いたぞー」

 

 

 有岡はドアの向こうに声をかける。

 扉から出てきたのは、俺の見知った人物だった。

 

 

「こんにちは、先輩」

「……桐谷?」

「以前お世話になった桐谷っす。ちょっと奉仕部に相談したいことがあるんですが……いいですか?」 

 

 

 入ってきた桐谷は、少し申し訳なさそうな表情をしていた。

 彼の顔を見て思い出すのは、先週の捨て猫の一件だ。自分で里親を探すと言っていたが、何か問題でもあったのだろうか。

 まぁ、部活が部活な以上、断るつもりもない。

 

 

「あぁ、問題ない。部室の方に移動するか」

「はい」

「よし、じゃあオレは部活に戻るから! 市原、うちの後輩をよろしくな」

「了解した」

「ありがとうございました、副部長」

「いいってことよ!」

 

 

 頭を下げる桐谷に明るい笑みを向けて、有岡は慌ただしく戻っていった。

 



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ラノベと紅茶

 

 

 

 部室に入ると、先客の姿があった。

 俺たちが入ってきたことに気づいた彼女は、読んでいた本から顔を持ち上げた。

 

 

「めぐり、いたのか」

「はじめちゃん、今日はもう来ないかと思ってたよ……って、桐谷くん。いらっしゃい」

「おっす、城廻」

 

 

 俺の後ろから入ってきた桐谷も、めぐりに対して頭を下げる。

 思いがけない来客に、めぐりは驚いたように口をあけた。

 が、すぐに原因が思いついたらしい。

 彼女らしいほわほわとした表情に、真剣みを帯びた鋭さが加わった。

 

 

「……もしかしてあの猫ちゃんに何かあった?」

「まぁ、そんなところ」

「ともかく好きに座るといい。客に出せるものは何もないがな」

「あ、紅茶ならあるよ。ティーパックだけど」

「手際がいいな」

「えへへ、相談を受けるのならこういうのも必要かと思って、おうちから持ってきてたんだよね」

「じゃあ、よろしく頼む」

「うん! 桐谷くんはいる?」

「もらうわ」

 

 

 めぐりはうん、と嬉しそうに頷く。

そして、教室の後ろにあるロッカーから電気ケトルを取り出した。

 結構本気で容易していたらしい。

 

 

「さぁ、みんな初仕事だよー」

 

 

 彼女は水を汲みに、教室の外に出て行く。

 教室の中には俺と、どこか居づらそうな桐谷が残された。

 ちょうどいい。

 めぐりと同じクラスの彼に聞いてみたいことがあったんだ。

 

 

「めぐりと同じクラスなんだよな?」

「は、はい。そうっす」

「あいつ、教室ではどうなんだ?」

「城廻ですか?」

「あぁ。あまりその手の話は聞いたことがなかったからな」

 

 

 普段はあまりこういうことを話す機会もないしな。

 

 

「あんまり目立ってるわけじゃないッスけど、結構人気者ッスよ。話しやすいし、たまにケンカの仲裁なんかもやったりしてくれますし、男子からも女子からも城廻に感謝しているヤツが多いんじゃないッスかね」

「なるほどな」

 

 

 何というか、昔から変わらないめぐりの評価、と言った感じだった。

 誰かが外であぶれていたりすると、自分から声を掛けに行くのが彼女だったから。

 それで救われた人間がいることも知っている。

 

 

「ただいまー。はじめちゃん、何の話?」

「学校でのめぐりの話だ」

「えぇー、何それ。恥ずかしいなぁ」

 

 

 教室に戻ってきた彼女は、恥ずかしそうにはにかみながら椅子に座る。

 ティーバッグを3つのカップに入れる彼女は、中々様になっている。家でも似たようなことをやっていたのだろうか。

 

 

「でも、ちょっと嬉しい。はじめちゃんが私のことを気にしてくれるなんて珍しいから」

「珍しいか?」

「珍しいよ。だってはじめちゃん、ちょっと前まで学校ではまったく話してくれなかったし」

「こんなひねくれたヤツと日常的に接しない方がいいからな」

「えぇ、はじめちゃんはいい人なのに。あんまり他の人と話さないだけで」

 

 

 とぷとぷとぷ、とケトルからお湯が注がれる。

 むわりと浮き上がった白い湯気、その発生源がじんわりと紅く染まってきた。

 それが妙に面白くて眺めていると、じっとりとした視線を感じた。

 

 

「……まさか、二股ッスか」

「は?」

「いや、だって城廻とやけに距離が近いし……先輩、雪ノ下先輩とつきあってるんスよね?」

「言われもない風評被害だ」

「でも、噂で……」

「君は根も葉もない噂をそのまま信じるのか。やめておいた方がいいぞ。昨今のネット社会だ、情報を精査する訓練は必須事項とも言えるだろう」

「でも先輩、先週は仲良さそうでしたよ」

「……見ていたのか」

「えぇ、まぁ。遠くからッスけど」

「雪ノ下に至ってはただ絡まれているだけだし、めぐりはただの幼なじみだ」

「あんな美人に向こうから話しかけてくるなんてご褒美じゃないッスか」

 

 

お前は雪ノ下の本性を知らないからそう言えるんだ。

 そんな言葉が口をついて出そうになったが、今俺が言ったところで証拠を示すことができない以上、嘘つき呼ばわりされるのはこちらかもしれない。

 もういい、この話は止めにしよう。

 そう思いながらため息をついたところで、桐谷は何かに思い至ったように「あ」と声を上げた。

 

 

「あれッスか。恋愛ラノベの主人公ッスか」

「誰がラノベ主人公だ。あんな実際にありえないような展開が起こるファンタジー小説と一緒にしないでくれ。というか、ラノベを読むのか」

「えっと、はい。先輩もッスか?」

「あぁ」

 

 

意外だった。

そういうジャンルとは離れたところに住む人種かと思っていたが。

本を読むことすら珍しいんじゃないだろうか。

 

 

「恥ずかしい話なんスけど、弟がハマったのをチラ読みしたらハマっちゃいまして。最近ちょこちょこ読んでるんスよ。でも、周りに話せる人がいなくて……」

「そっち側にはそっち側の悩みがあるものだな」

「何か言いましたか?」

「いや、こっちの話だ」

「はい、どうぞー」

「助かる」

「ありがとう、城廻」

「いいえー、お茶請けが出せなくてごめんね」

 

 

 申し訳なさそうにしながらも、彼女はカップを運んできてくれる。

 別に義務でもないんだから、気にする必要なんてないのに。

 でも、そうだな。

 めぐりにだけ手を患わせるのも悪いし、お茶請けは俺が用意することにしよう。

 

 

「うまいな」

 

 

 一口紅茶を呑んでみると、やわらかい甘みが口いっぱいに広がった。

 もしかするといい茶葉だったりするのだろうか。

 

 

「でしょ、はるさんにも好評だったんだ。淹れ方がうまいって」

 

 

 どうやらめぐりの技法の問題だったらしい。

 というか、あいつ来ていたのか。

 鉢合わせにならずに良かったというか、どうせなら一度見て様子を確認しておきたかったというか。

 いや、今はそんな話じゃないな。

 

 

「それで用件のほうだが、先週の捨て猫の話でいいんだな」

「はい、そうッス」

 

 

 彼はひとつ頷くと、相談内容を説明してくれた。

 

 

「なるほど……里親が見つからなかったのか」

「はい。自分で声をかけられる人は一通りアプローチしたんですが」

「家の事情もあるから、欲しいってだけで飼うことはできないもんね。マンションだと飼えないところも多いし」

「うちはそれで拒否られたんだよな……」

 

 

 ペットを飼うということはどうしても責任がついてくる。

 一度飼えば、よほどのことがない限り死ぬまで面倒を見なければいけない。

 えさ代やグッズ、トイレを用意するのにお金だってかかる。

 

 

 全員が気にすることではないが、そういうことから敬遠する人も少なからずいるだろう。

 

 

「どうする、はじめちゃん?」

「そうだな……」

 

 

 頭を悩ませる。

 依頼は思ったよりも難航しそうだった。

 



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揺れる思い

 

 

 話し合いが終わった頃には、外の景色はすっかり暗くなっていた。

 だいぶ時間がかかったが、その分考えはまとまった。

 依頼人である桐谷も俺たちに任せきりにはせず協力してくれると言っていたので、そこまで大変なことにはならないだろう。

 

 

「じゃあ、明日からお願いします」

「了解した」

「うん!」

 

 

 桐谷は深々と頭を下げ、教室から出て行く。

 その後ろ姿は、疲れからか少し気怠げだった。

 あれだけ話していたから仕方ないか。

 それほどまでに、捨て猫を気にかけているのだろう。

 いっそ彼自身が飼えれば万事解決したんだがな。

 まぁないものねだりしても仕方ないか。

 

 

「さて、俺たちも帰るか」

「そうだね」

「片付け忘れたものはないな?」

「ばっちりだよ」

 

 

 二人揃って部室から出て、カギをかける。

 そして、並んで歩き出した。

 肩を並べて歩く俺たちを、天井にはりついたライトが照らしてくれている。

 

 

「そういえばはじめちゃん、はるさんと何かあった?」

「……何もないが。雪ノ下がくだらない冗談でも言っていたのか?」

「ううん、そういうわけじゃないけど」

 

 

 何か言いたげに口ごもる。

 

 

「言いたいことがあるなら遠慮せずに言え」

「うん……えっとね、今日のはるさん、どこかおかしかった気がするの。話しているときもどこか上の空だったみたいだし……。はじめちゃんはどう思った?」

「今日は会ったわけじゃないから、俺に言われても分からん」

「あれ、そうなの? 先週はいつも一緒にいたイメージがあったけど」

「というか、俺と雪ノ下の間に何かあったとしてもめぐりには関係ないだろ」

「気になるよ-、だって幼なじみだもん」

「お前の中の幼なじみの定義が分からん」

 

 

 そんな他愛もない会話をしながら、俺たちは階段の前までやってくる。

 が、その時首筋にちくりと刺すような感覚を覚えた。

 誰かがこちらを見ている……?

 

 

「……ん?」

「どうしたの?」

「いや、何でもない。気のせいだったみたいだ」

 

 

 どこかから視線を感じた気がしたんだが、周囲を見回しても廊下にもその先にあるもう一つの階段にも、人影は見受けられない。

 確かめる気もないし、気のせいということにしておこう。

 

 

「……? 変なはじめちゃん。あ、そうだ。今日の晩ご飯はどうする? 久しぶりにうちで一緒に食べる? お母さんも喜ぶと思うし」

「遠慮しておく」

 

 

 この時間から厄介になったところで、もう晩ご飯を作り始めてる頃合いだろう。

 普段でさえ城廻家で作ったご飯を持ってきてもらっているのに、こちらのわがままでこれ以上迷惑をかけるのは忍びない。

 

 

「そっか……来たくなったらいつでも来ていいからね」

「あぁ」

 

 

 頷きながらも、俺が彼女の家を訪れることは当分ないのだろうな、などと思っている自分がいた。

 

 

 

 

 

 ──らしくない。

 階段の影に隠れて、肇たちから姿が見えないようにしながら、彼女は忌々しそうに顔をゆがめた。

 ──本当にらしくない。この私が誰かの目を気にするなんて。

 

 

「どうした、陽乃」

「静ちゃん……」

「平塚先生と呼べ。それで、どうしたんだ?」

「何でもないよ」

「ふむ…………この階、このタイミング、……ははーん」

「な、何?」

 

 

 困惑する陽乃へ、鬼の杵柄を取ったように静はにやにやと笑みを浮かべている。

 自らをからかわれていると感じた陽乃はキッと目を細めるが、同級生ならともかく大人の静にとっては子どもが恥ずかしがっているようにしか見えなかった。

 

 

「いやぁ、そういう学生らしさとは無縁だと思っていたんだが、まさか陽乃がなぁ」

「何それ」

「青春っていいな、まぶしいな。こういうのでいいんだよ、こういうので」

「静ちゃんにはもう手の届かないものだもんね」

「誰か年増だ。ちょっと話そうじゃないか。目的の人物はもう帰ったみたいだしな」

「むぅ」

 

 

 静の目から見て、今の陽乃は年頃の少女のようだった。

 いや、もしかしたら外見年齢よりも幼いかもしれない。

 そんな教え子の姿を珍しく思いつつ、彼女は手元のクリップボードを乗せる。

 

 

「そうむくれるな。生徒会の方はもう大詰めなんだろう?」

「後は正式発表するだけだね」

「メンバーは決まっているのか」

「ふたりは決まってるけど、言われたのは四人だね」

「早く決めた方がいいぞ。生徒会顧問の先生も仰っていた」

「しつこく言わなくても分かってるって。それとも私、そんなに信用されてないの?」

「そういう問題じゃない。何か理由があるのか?」

 

 

 陽乃のことだ、無闇に引き延ばすようなことがしないことは分かっていた。

 ということは、何か理由があるのだろう。

 静の考え通り、彼女は一瞬だけ視線をそらした後、口を開いた。

 

 

「まぁ、ちょっと私の元対抗馬が不穏な動きをしてるんだよね」

「不穏な動き?」

「そう。裏で何か動いているって話。どうせ生徒会長になるなら、後顧の憂いは断っておきたいじゃない?」

「陽乃がそう言うんなら好きにするといい。私は生徒会顧問じゃないからな」

「大変だね」

「誰のせいだと思っているんだ、誰の」

「でも、そういうのに憧れて教師になったんでしょ?」

「不良と熱く語り合う展開に憧れてはいるが、それとこれとは別腹だ」

 

 

 これ以上話していたらこちらの分が悪くなる。

 そう思った静は話を切り上げることにした。

 陽乃もその意思を汲み取り、帰るために階段へと降りていく。

 

 

「気をつけて帰れよ」

「心配しなくても大丈夫だって」

「まぁ、そうなんだがな」

 

 

 静が手を振ると、陽乃はたったったっと小走りに階段を駆け下りていった。

 廊下は走るなよ、と聞こえもしない注意を発しながら、静は苦笑を漏らす。

 

 

「それにしても陽乃がなぁ。ここ数日で随分変わったもんだ。それもこれも、市原の影響なんだろうな」

 

 

 いいとも悪いとも言わない。

 まだそれを決めるのには早すぎる。

 だが、少し前よりは確実に変わってきていることは事実だった。

 

 

「せめて、その芽を摘まないようにしなければな」

 教師として、彼女の友人として。

 平塚静は密かに決心を固めるのであった。

 



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