きみの背中に憧れた。 (ぜろさむ)
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きみの背中に憧れた。

 彼女はおれの憧れだった。

 ずっと、「ヒーロー」といえばおれの中では彼女がそれだった。オールマイトでもエンデヴァーでもなくて、同い年で泣き虫で、誰よりも真っ直ぐな瞳を持った彼女。

 彼女のそばにいたい。彼女と同じところに行きたい。彼女と同じ世界を見たい。それが、幼稚園の頃からのおれの夢だったんだ。

 

「木戸愛久(あいく)です!好きな食べ物はブルーベリー!」

 

 豊かな黒髪を気ままに揺らして、満面の笑みで彼女がそう言ったのは、もう十年以上前のことになる。

 幼稚園での自己紹介でのことだ。彼女はその頃から、みんなの人気者だった。彼女には老若男女問わず人を惹きつける不思議な魅力があった。おれも例にもれず、そんな彼女の魅力に惹きつけられた一人だった。

 彼女の魅力は、太陽のような魅力だ。

 可愛くて、溌剌としていて、正義感が強くて、感情を率直に表に出すことのできる女の子。体を動かすのが好きで、好奇心が旺盛。旺盛すぎて見ていてはらはらするというのが玉に瑕だが、今思えばそんな危なっかしさも彼女の人気の一因だったんだろう。

 それから、忘れちゃいけないのが、彼女の個性だ。

 

 木戸愛久、個性:激情。

 

 端的に言えば、彼女の個性というのは「感情」をエネルギーに変換する個性である。感情の振れ幅に応じて相当量のエネルギーが全身に満ち、身体能力を上げることができる、いわゆる増強系個性の一種。特筆すべきなのは、種類に関係なく激しい感情であればなんでもエネルギーとして転用可能だという点だ。

 喜んだとき、怒ったとき、哀しんだとき、楽しいとき。

 それがプラスの感情なのかマイナスの感情なのかに関わらず、彼女の個性はそれをエネルギーに変換することができる。

 感情が豊かで、それを表現することをためらわない彼女にはとてもお似合いの個性。そして――とても英雄的(ヒロイック)な個性なんだ。

 

★★★

 

 おれの彼女に対する憧憬が、明確に形になったときの話をしよう。あれは、おれと彼女が小学校五年生のとき。

 思春期真っ盛りの少年少女たちが集まる小学校では、毎日のように個性がらみの事件が起きていた。「事件」というと少し大げさな感じがするが、無免許での個性使用は法律で禁止されているれっきとした犯罪だ。タバコやお酒と同じ。明るみに出れば教師は対応せざるを得なくなるし、下手すると警察沙汰もあり得る。特に小学校高学年なんていう精神的に不安定な世代では、ちょっとの手違いで大きな事故に発展しうるので、ことさら厳しく取り締まられていた。

 そんな中の出来事だ。

 その日はおれは朝寝坊をして、始業時間ギリギリに学校に到着したんだ。それまで遅刻なんてしたこともなかったし、おれもあの頃は真面目ちゃんだったから、内心かなり焦っていたのを覚えている。

 校門をくぐって、グラウンドをショートカットして昇降口に向かおうとしたおれの視界に、彼女は突如として飛び込んできた。

 

「――木戸さん?」

 

 グラウンド中央に彼女は立っていた。始業時間間近にも関わらずランドセルをその辺に放り出して、右手はなぜか赤いラインカーの取っ手に乗せられている。校舎の方を向いているので、表情はわからない。おれにも気づいていないみたいだった。

 だけど。――だけど。

 そのときおれには、彼女がどんな表情をしているのか、なんとなく想像がついた。何故だかはわからない。彼女の個性が、感情をエネルギーに変える個性が、何か影響を及ぼしていたのかもしれない。

 ――彼女は怒っていた。

 それも、ただの「怒り」じゃない。「憤怒」だ。普段の彼女からは想像できない、煮えたぎるマグマのような感情。トレードマークの黒髪がかすかに逆立ち、彼女の身体から溢れたエネルギーの余波が蜃気楼のように周囲の空間を歪ませていた。その膨大な熱量に当てられて、おれは思わず、一歩後ずさる。

 

「出て来なさい」

 

 低く、抑えられた声。それなのに、遠くまではっきりと通る声だ。きっと、校舎にいる人たちにも聞こえたことだろう。普段とあまりにトーンが違ったので、おれにはそれが彼女の口から発せられた声だと一瞬気づかなかった。

 

「三分待つ。その間に出てきたら、謝らせてあげる」

 

 謝る?何を?誰が?

 何故だか、そのときおれの中には焦りのような感情が沸き起こっていた。彼女に謝るべきことなど何一つ思い浮かばないのに。なんでもいいからさっさと謝って、早く怒りを鎮めるべきだと思ったのかもしれない。それくらい彼女の発する怒りのオーラは圧倒的なものだったし、何よりおれは「憤怒」という激情に染まる彼女の姿を長く見ていたくなかった。

 視界の奥で、校舎がざわめいているのが分かる。だんだんざわめきは大きくなって、でも、誰も校舎から出てくる様子はない。彼女は黙ったまま。校舎にかけられた大きな時計の秒針が、じれったいほどゆっくりと回る。

 ――そして、三分が経った。

 

「そう。そうなんだ」

 

「私、堪え性がないから、これでも十分耐えた方なんだけど」

 

「なのに、出てこられないんだね」

 

「それじゃあ、仕方ない」

 

「仕方ない、よね?」

 

 一言ごとに、空気が震える。息が詰まって、鳥肌が立った。足から力が抜けて、立っていられなくなる。たったひとりの女の子に気圧されて、おれは無様にもその場で腰を抜かしてしまっていた。

 超人社会に十年生きて、並みの(ヴィラン)じゃあ動じなくなるくらい危機に対して鈍感になったおれの体が、同い年の少女に全力で警鐘を鳴らしていたんだ。例えるなら、噴火直前の火山。あるいは、大津波。あるいは――オールマイトのパンチ?

 そういう、絶対的で、絶望的で、おれみたいな凡人にはどうしようもない類の、莫大なエネルギー。それが、だんだんと一箇所に集まってくるのを感じる。巨大な恒星の引力に、小惑星が引き寄せられるみたいに。彼女の小さな体は、いまや凝縮された災害だった。

 人の形を持った「憤怒」。

 太陽の化身。

 そのプレッシャーを誰よりも近くで浴びたおれの心は、あたかも蛇に睨まれた蛙のごとく、ぽっきり折れてしまっていた。

 その、おれの視線の先で、ゆっくりと足を開いて、グラウンドを踏みしめる彼女。ザッザッと、何度か靴をグラウンドに擦り付けて、足の位置を調整する。

 

「(何をするつもりなんだろう?)」

 

 その時のおれにはよく見えなかったが、後から聞いた話では、このとき彼女は空手とかでよく見る演武の一種「瓦割り」をするような姿勢でいたらしい。両足で大地を踏みしめて、拳を軽く握り、俯き加減で地面をにらんでいたそうだ。きっとそれを見ていたら、おれも彼女が何をするつもりなのか、事前に予測できたのではないかと思う。

 予測できていたとして、回避できたかどうかはまた別問題だが。

 

「――――ッ!!」

 

 刹那の空白。

 グラウンドが、真っ二つに割れた。

 それが、彼女が大地をぶん殴った結果だということを、おれはしばらく理解できなかった。爆弾でも降ってきたのかと思ってしまうくらいの、轟音。それから、視界を一瞬にして覆った砂埃。視覚と聴覚が麻痺して、おれは前後不覚に陥った。混乱して、動揺して、腰が抜けたまま必死で〝爆心地〟から遠ざかるのが精一杯。文字通り這う這うの体でなんとか砂埃の煙幕から抜け出して、ようやくその惨状を目の当たりにする。

 砕かれたクッキーみたいに、いくつもの破片に分解されたグラウンド。根っこからひっくり返されたみたいな樹木。爆風で一周してしまっているブランコ。阿鼻叫喚に陥った校舎。遠巻きに眺めるだけで、一歩も動けない教師。それらの中央で、毅然と立つ彼女。

 

「私の友達をいじめたやつ、出てきなさいって言ってんのよ」

 

 静寂の中に、彼女の声だけが響いた。

 

★★★

 

 結局、そのあと彼女は駆けつけたプロヒーロー数名に取り押さえられて、お縄になってしまった。それなりに名の知れたトップヒーローまで出張ってきた中で、彼女は個性を駆使しての大立ち回りを演じて見せたが、最初の一発でかなりエネルギーを消費してしまっていたらしく、最後はスタミナ切れでの気絶だった。

 

「友達をね、助けたかったの」

 

 病院に搬送された彼女をお見舞いに行ったとき、おれは事の顛末を聞くことができた。

 

「幼馴染で、私にとっては初めての友達」

 

 彼女は、いじめを受けていた友人を助けようとしていたのだ。彼女と違い、引っ込み思案な性格の友人は、いじめっ子たちにとってはいいカモだったという。もともとあまり友達の多い方ではなかったそうで、人に助けを求めることもできなかった。五年生になってクラスが離れ離れになってしまった彼女に頼ることもはばかられて、ストレスを溜め込んでいたそうだ。

 

「様子が変だと思って、何度も問い質して、ようやく話してくれたの。その頃にはもういじめがエスカレートしてて、あの子ももう限界みたいだった」

 

 彼女は後悔したそうだ。何故もっと早く気づいてやれなかったのか。早い段階で気づいていれば、ここまで追い詰められることもなかった。私が一緒についていれば、そもそもいじめられることもなかった筈だ、と。

 

「先生に相談しても、効果が無かったみたい。あの子が無個性なのも原因のひとつなのかも。でも、そんなの関係ない。あの子は初めて私と友達になってくれた大切な人だもん」

 

 学校側にも見捨てられて、無個性という劣等感が拍車をかけて、それでも「学校を嫌いになりたくない」と。友人の子は、彼女にそう言ったのだそうだ。

 

「だから決めたの。今からでも私ができることをしようって」

 

 木戸さんはラインカーを使い、グラウンドに大きく「私の友達をいじめていたやつはグラウンドに出てきなさい」という内容の文章を書いた。いじめっ子を見つけ出して文句を言ったり、懲らしめる程度では、何も変わらないと知っていたからだ。

 彼女はあのオールマイトのように、抑止力になろうとしたのだ。

 

「私の友達をいじめたやつには私はここまでやるってことを、伝えてやろうと思ったの」

 

「……木戸さん、君は」

 

 ――どうしてそこまでできるの?

 おれは、続く言葉を飲み込んだ。その言葉は、彼女に対する侮辱になりかねないと思った。

 彼女の行動は、とてもではないが正常な人間の行動とは思えなかった。彼女個人に限らず小学生にとって、世界とは家庭と小学校のことだ。小学生にとって小学校を敵に回すというのは、世界の半分を敵に回すに等しい。事実、彼女は正常ではなかったのだろう。たったひとりの友人のために、学校というコミュニティそのものを敵に回せる精神性を、おれたちは正常とは呼ばない。

 あの日、彼女は正常ではなかった。

 それでも――。

 それでもあの日、正義は彼女にあった。

 

★★★

 

 中学校に入って、おれは変わろうとした。

 小学五年生の時に見た、威風堂々たる少女の後ろ姿。彼女への憧れが、いつもおれの脳裏にあった。

 不幸にも学区の関係で、おれと彼女は別々の中学に通うことになってしまったために、彼女の爛漫たる姿を目にする機会は減ってしまったけれど、その分おれの中での憧れは強くなっていった。

 いつか再会したとき、彼女が認めてくれるような男になれたら!そしてあわよくばそれが、同業のヒーローとしての再会ならば、どんなにいいだろう。

 おれはまだ見ぬその日のために、日々研鑽を積んだ。変えたのは、まず見た目だ。髪を金色に染めた。イメージしたのはオールマイトだったのだが、どうやっても彼のようなアメリカンな雰囲気を醸し出すことは出来ず、「中学デビューを目論んだ寒いやつ」みたいなレッテルを貼られたのを覚えている。

 それでも構わなかった。目立つことが目的だったからだ。目立って、名前を覚えてもらうことができれば、いざというときに頼ってもらえるかもしれない。

 それから、人助け。不良をぶっ飛ばすとかいう派手なやつじゃなくて、ボランティア活動の延長みたいなものだ。中学生とはいえ、未成年である。個性を使ってのヒーロー活動などしようものなら、未成年個性使用で取り締まられてしまう。それでは本末転倒だ。

 個性抜きの中学生の能力では、出来ることは限られていた。その中で、最大限を尽くした。

 念頭には、彼女の姿がいつもあった。彼女ならこんなときどうするだろう。彼女が今のおれを見たら、どう思うだろう。おれは今、彼女の背中に少しでも追いつけているだろうか。

 この問いかけをすると、いつも腹の底が煮えたつように熱くなって、エネルギーが湧いてくる。まるで彼女の個性「激情」を分けてもらっているみたいに。心が折れそうなときも、疲れて動けなくなったときも、この魔法のクエスチョンがあれば、また歩き出すことができた。

 部活にも入らず、毎日そんなことを続けた。一年もすると、その中学でちょっとした名物扱いになった。名前が広まり、頼ってくれる人が増えた。おれの周りにはいつも人がいて、彼女に近づけた気がして嬉しくなった。

 受験期に入ると、教師がおれに「雄英高校に行く気はないか」と訊いてきた。

 国立雄英高校。日本一のヒーロー科を擁する、トップ中のトップ校だ。名だたるヒーローが卒業生として名を連ねる、英雄たちの登竜門。

 ふと、思いつくことがあった。別の中学に行って、今はほとんど会うこともなくなった彼女。彼女なら、どうするだろう。たった一人の友人のために、学校全体を敵に回せるような、正義の化身のような彼女なら。

 

「おれ、雄英行きます」

 

 その日から、特訓が始まった。

 勉強と、個性のトレーニング。その繰り返しの毎日を過ごした。

 雄英高校ヒーロー科の受験生は、日本最高レベルの筆記試験と実技試験に同時に対応しなくてはならない。時間はいくらあっても足りなかった。進路を意識するまでは、勉強もそこそこに人助けばかりしていたので、その分も取り返すつもりで臨まなければならなかった。

 意外にも、周囲の人たちは皆熱心に応援してくれた。教師もクラスメイトも、まるでおれが合格するのを楽しみにしているというように、協力を惜しまなかった。

 

「いつも助けられてるからな」

 

 人助けに見返りを期待したことはなかった。それは自分のなかの英雄象――つまりは、彼女のことだ――に反する行いだったし、彼女に追いつくということだけで人助けの意味としてはじゅうぶんだったからだ。

 それでも、おれに恩義を感じておれのことを助けてくれる人たちの姿を見たとき、これがヒーローのやりがいなのかもしれないと思えた。

 

「みんな、お前が合格するって信じてるんだよ」

 

 激励のひとつひとつが、おれの推進力になった。日本最難関、何するものぞ。今なら、彼女の隣にだって立てる。そう信じて、疑わなかった。

 

★★★

 

 夢のような全能感は、たやすく醒めた。

 入試当日。実技試験、C会場。試験開始から、三十分経過時点。

 ロボット撃破数を競う実技試験中に、純粋な障害ギミックとして現れた巨大ロボットに対して、おれは即座に戦線離脱の判断をした。

 じゅうぶんポイントを取ったと思った。戦略的に見て、あのロボットの相手をするのは悪手だ。必死だった。それは嘘じゃなかった。周囲は皆競争相手だ。いち早く行動する必要があった。焦ってもいた。

 離脱しようとしたその瞬間、おれの目は逃げ遅れて巨大ロボットにつかまった受験生を捉えていた。

 ()()()()()()()()

 そう結論した。胸の中で、おれの英雄像に亀裂が走った。おれは見なかったことにした。それが、おれの限界だった。

 試験終了時点で、周囲にはおれ以上にポイントを取っているライバルは見当たらなかった。合格だ。筆記試験でも問題はなかった。合格だ!そう思い込んだ。報せは、すぐに届いた。

 通知書は、高級感を感じさせる封蝋の施された封筒だった。中身は、外面とは対照的にあまりに事務的で、ともすれば冷徹だった。

 不合格。

 ひときわ大きく印刷されたその三文字が、手紙の役割そのものだった。

 しばらく呆然として、時間を稼いだ。現実を受け入れるための時間。涙が零れたりはしない。死ぬわけでもない。未来が絶たれたわけでもない。なにほどのこともない、あっさりとした終わりである。いや、始まってもいなかったのだから、終わりですらないのかもしれない。

 動揺はした。期待していたからだ。当然だ。

 何がいけなかったのだろう。そう考えて、即座にその思考の不自然に気づく。雄英高校ヒーロー科の入学試験は減点法ではないのだ。筆記試験で例年の合格ラインに届いていたからといって、必ずしも一般入試枠の三十六位以内に入っているとは限らない。

 実技にいたっては合格ラインを知ることすら不可能だ。瑕疵が無ければ合格というものでもないだろう。ヒーローたる資質。それが足りなかった。不備があったわけではない。純粋に、届かなかっただけ。そういう話だ。

 ――それだけの話なのだ。

 

「……そうやって、納得できたらいいのにな」

 

 胸をかきむしりたかった。思い切り叫び出したかった。地団駄を踏んで、なにもかもぶち撒けてやろうとした。うずくまって喉の奥に衝動を封じ込めなければ、実際にそうしていただろう。

 不合格。不合格だ。お前には雄英生たる資格がないと、誰からともなくそう言われたのだ。

 悔しかった。それは自分が、雄英高校のヒーローとして適格であると信じていたからだ。信念を折られたと感じたからだ。

 同時に、情けなくもあった。おれの中の憧れはその程度だったのかと、そう思った。彼女に追いつきたいと思って、皆も応援してくれたのに、と。

 入試説明会で、担当のヒーローは言っていた。Plus(プルス) Ultra(ウルトラ)、さらに向こうへ。おれは、辿り着けなかった。つまづいたのだ。足りなかった。足りなかった!

 受験生全体の中で実際にはおれがどのくらいの順位だったのか、通知には記されていなかった。記す必要もない。そう誰かに告げられた気がした。

 なにもかもはっきりとしない。おれは、砂嵐のなかにひとり取り残されたような気持ちになった。彼女にどこまで近づけたかもわからない。どちらに進んだらいいのか。常におれを導いてきた彼女の背中が、五里霧中の向こうに消えていく。

 おれは、雄英高校ヒーロー科に落ちた。それだけが厳然たる事実だった。

 

★★★

 

 私立校のヒーロー科を選ばず雄英高校普通科への入学を選んだのは、単に未練からだった。

 雄英には、普通科からヒーロー科への編入制度があること自体は知っていたが、現実的だとは思っていなかった。おれの心はすっかり諦念に覆われていた。同じ学校に行けば、彼女に会えるかもしれない。そんな思いだけがあった。

 不思議なことに、おれは彼女が雄英を受験しない、あるいは受験したとしても合格しないという可能性を全く考慮していなかった。彼女が雄英に入学することは自明であると考えていたのだ。そして、それは間違っていなかった。

 ただ、普通科の生徒とヒーロー科の生徒が接触する機会は、驚くほど少なかった。ヒーロー科で履修しなくてはならないいくつかの授業を普通科では扱わないという理由で、まったく別のカリキュラムを採用していたからだ。あらゆる意味で、普通科とヒーロー科は別世界だった。

 そういうわけで、おれが再び彼女の後ろ姿を見ることになったのは雄英に入学してからしばらく経ってからのことだった。

 雄英体育祭。

 今やオリンピックに代わる国民的競技大会として注目を集める祭典。その開会式でのこと。

 

「選手宣誓。一年A組、木戸愛久」

 

「はい!」

 

 その声を聞いたとき、おれはうつむけていた顔を跳ね上げた。あの日見た背中が、そこにあった。

 壇上、小学校のときには肩までしかなかった黒髪を、伸ばしてポニーテールにした彼女の後ろ姿。

 審判を務めるヒーローに向かって、朗々と開会を宣言していた。見ただけでわかった。怒りに歪んでいたあの日とは違って、(とど)めようもない期待を発散させている。

 彼女の個性「激情」が、彼女の全身から溢れ出ていた。おれが思い描いていた通りの、あるいはそれ以上の姿で、彼女の現在がそこにあった。

 選手宣誓をする生徒は、一般入試で首位を獲得した生徒だったはずだ。

 木戸愛久は合格していた。確信が現実となった。

 なぜか、おれは我が事のように誇らしくなった。彼女は、完膚なきまでにヒーローだった。おれの理想なんて軽々と超えていく。Plus Ultra。まさしく、校訓を体現する存在だ。

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 そう思った。思ってしまった。

 瞬間、おれは悪心(おしん)のような罪悪感に見舞われた。気づいてしまったからだ。おれはいま、楽をしようとした。易きに流れようとした。よりにもよって、彼女を言い訳にして。

 彼女には資格があるから。おれには無いから。そんな愚にもつかない弁解を並べ立てて、あの日抱いた憧憬を過去のものにしてしまおうとした。ああ、そんなことできるわけもないということは、おれが一番よくわかっていたはずなのに。

 現実を受け入れて進むことの難しさに怯えて、遠回りをしようとしていたのだ。直視し難い困難を前にして、問題を先送りにしようとした。恥ずべき行為だ。

 おれは再びうつむいた。その場で座りこんで、目を瞑ってしまいたかった。彼女に、いまのおれの姿を見られたくはなかった。こんな姑息で意気地なしの男の姿を見たなら、彼女はきっと助けずにはいられなくなる。寄り添って、励まさずにはいられなくなるのだ。

 それが、おれには何よりも怖かった。

 

★★★

 

 一年間、死にものぐるいになった。

 半ば償いをするような気持ちで、おれは自らに試練を課した。ヒーロー科への編入。入学当初は全く眼中になかった選択肢。それが今や、彼女の背中へと追いすがる唯一の架け橋だった。

 何としてももぎ取らねばならなかった。ヒーロー科への編入以外で彼女に会うようなことがあれば、あの開会式のときのような弱音がまたぞろ首をもたげてくるかもしれない。ヒーロー科に入って、正面から彼女に会いに行く。それ以外で彼女には会うことはできない。そう決めた。

 とは言ったものの、ヒーロー科への編入とは言うは易し行うは難しの一大事業である。本来は実技入試にあまりに不向きな個性を持つ生徒への救済措置として始まったもので、残念ながらおれはその例に当てはまらない。それに、そもそも体育祭で実績を残さなければならなかった。よほど派手にアピールしなければ、教師陣は編入を認めないだろう。

 偉業が必要だった。皆を納得させるに足る偉業が。

 一年後、雄英体育祭で優勝。

 おれは、それを目標に掲げた。最短距離で、彼女に会いに行くために。

 あたりまえだが、平坦な道のりではなかった。

 無理だと言われた。諦めろと諭された。誰も応援なんてしてくれなかった。

 中学生の頃とは違う。周囲はおれの挑戦を無謀なことだと思っていて、がんばれと背中を押してくれることはない。

 

「ヒーロー科に編入するために、来年の体育祭で優勝します。力を貸してください」

 

 そう言って、たくさんの人に協力を請うた。雄英の教師陣をはじめとして、両親や普通科同級生、知り合いのヒーローなど、有望な人脈には片っ端から当たった。

 何も言わないでいてくれるならまだマシなくらいで、大抵はバカを見る目を向けられる。

 逆境だった。おそらく、人生で初めて味わう孤独。自分の道が信じられなくなりそうな毎日だ。あの日、おれの中に灯った憧れという名の聖火も、ここでは蝋燭の火よりも頼りない。油断すれば一瞬で消えてしまう。憧憬の炎は、再び自分で灯すことはできない。ゆえに、守らなければならなかった。この火を消そうとする全てから。消えてしまえば二度と、それを灯すことはできないから。

 ノートを作って、マジックで目標を書きこんだ。

 

『体育祭優勝!』

 

 何度も何度も書き込んだ。折れそうになる度にマジックを動かして、目標を文字にすることで心の均衡を保った。

 はたから見れば、諦めきれない夢にしがみつこうとしている哀れな負け犬に見えているのだろう。そういう気持ちが湧いてきて、溺れそうになることも一度や二度ではなかった。

 最も辛かったのは、自分の努力が馬鹿馬鹿しく思えてしまうときだ。なにもかも無意味に見えてしまう。流れに身を任せれば、身を切るような苦痛を忘れられるというのに、おれは一体なにをやっているのだろう。

 諦念はあまりに容易で、あまりに甘美な手段だった。目的の一切を放棄して、大河に流される枯葉のようになってしまえばいい。ただそれだけで安寧を享受できる。夢は儚いものだ。そう自分を納得させればいい。

 転びそうになったことも何度もあった。いや、取り繕わずに言おう。実際に転んだこともあった。諦めようとした。何度もだ。でも、完全に目的を放棄し切ることは、ついにできなかった。気づけば、ゴミ捨て場の前に戻ってきてしまっていた。おれは何度も夢を捨てようとしたが、夢はおれを捉えて離さなかった。

 一年間ずっと、綱渡りをしている気分だった。踏み外せば地面に落下して、なにもかも台無しなる。綱はゆらゆらと揺れて、おれを振り落そうとする。突風が吹いて、バランスを崩すこともあった。それでも踏ん張った。()()()()()()()()()()()全身に力を込めて。

 いくらかの助力を得て始めた体育祭対策の特訓は、熾烈を極めた。地獄のような、と言って大げさではない。そんな一年を過ごした。この一年に比べたら、受験期の自分なんて全然本気じゃなかったのだとはっきりわかるくらいだった。

 特訓の骨子となったのは、基本的な傾向と対策の考え方だ。体育祭の競技、勝利するために要求される能力、自分の個性。それらについての傾向を微に入り細に入り洗い出し、足りない部分を埋めるために徹底的に対策を施す。それを、ただひたすらに繰り返した。

 地味で細かい作業の積み重ねだけが、確かな結果を運んできた。一発で全てを逆転できる秘策なんてものは、思いついたらラッキー程度のおまけでしかない。毎日毎日、気の遠くなるような回数を淡々とこなし続ける。過度なやる気はいらない。熱くなる必要はない。修行に気合いが必要なのはコミックの中だけ。

 

「少しずつ強くなる」

 

 そう自分に言い聞かせて、修練が日常と化すまで希釈した。ただ回数を繰り返すこと。千里の道を一歩ずつ踏みしめること。そうやって、個性と肉体を鍛え上げた。過去全ての体育祭の記録を読み返して、作戦を立てた。考え得る限り全ての要素を満たした。

 それでも、漠然とした不安は消えない。心の底で燻る火種のような、形のない焦燥。じくじくと胸の奥で疼く病巣のような憂苦。こればかりはどうしようもないと割り切り、飲みこむしかない。飲みこんだうえで、踏破する。Plus Ultra。あの日果たせなかったそれを、今度は成し遂げるために。

 ――そうして、二度目の体育祭がやってきた。

 

★★★

 

 いやに長い回想だった気がする。時計を見ると、目を閉じてから五分も経っていない。つかの間、夢を見ていたのかもしれない。呑気なものだ、と我がことながら可笑しくなる。思ったよりもリラックスできていると考えれば、悪いことではないのかもしれない。

 選手控え室には、簡素なパイプ椅子とテーブルだけが設置してあった。客席の喧騒からは遠く、訪問者もいない。普通科の面々もどうやら気を使ってくれているらしい。一人でゆっくり精神統一をすることができた。

 第一種目、第二種目を突破した生徒は、第三種目であるガチバトルの選手控え室に誘導されていた。予選は一瞬の油断も許されない苦闘の連続だったが、おれは勝ち残った。

 ガチバトルでは、情報の少なさが活きた。ヒーロー科の生徒同士は互いに一年間の授業を通して個性を知り合った間柄であるため、その試合は個性対策合戦の様相を呈していたが、おれの個性について知っているやつはヒーロー科には一人もいなかった。普通科の数少ないアドバンテージであると言える。それに加え、一年間のリサーチで組み上げたヒーロー科四十名ひとりひとりに対する傾向と対策も生かしきり、おれはついに決勝へと駒を進めた。

 そしてついさきほど、もう一方の準決勝が終わった。

 ヒーロー科に編入してから彼女に会いに行く。そう決めたとき、おれはひとつ重大なことを見落としていた。他でもない、彼女もまた、体育祭に参加するのだということ。

 雄英体育祭、第三種目。個性ありのガチバトル、その決勝。勝ち上がったおれの対戦相手は、会いに行くと誓った彼女だった。

 

「決勝戦を行います。準備してください」

 

 呼び出しがかかり、控え室から出る。会場までの廊下は一直線で、進むたび熱気と歓声が濃度を増していくようだった。おれは一歩一歩、リングへの道を踏みしめるように歩いた。

 廊下を抜けると急に視界が明るくなって、視界が明滅する。歓声が物理的な衝撃となって全身を叩き、おれは思わず身体を硬直させた。

 視線の先、リング中央には、堂々と仁王立ちでおれを出迎える人影。あの日目に焼き付けた後ろ姿ではなく、真正面からの彼女の姿だ。

 必死になって這いずり回って、やっとの思いでここまで来たおれとは対照的に、彼女は当然のようにそこにいた。まるでここが自分のいるべき場所だと言わんばかりに。

 去年と同様、彼女は危なげなく第一種目、第二種目を首位で通過。第三種目でも他を寄せ付けない圧倒的なパワーを駆使し、決勝へ進出した。あたかもこの雄英体育祭という催しが、彼女を目立たせるためにあるかのようだった。周囲の期待やプレッシャーをも飲み込んで、自らのエネルギーに変えている。

 彼女はまさしく太陽だった。

 よく見ると小学校から随分背が伸びたみたいで、視線の高さはおれとほとんど変わらない。腰に手を当てて、自信満々の表情でおれを見据えている。

 煌々とした二つの瞳。すっと通った鼻梁。楽しそうに湾曲した唇。かすかな横風に靡く黒髪。そのすべてが、彼女が木戸愛久たる所以なのだ。

 その立ち姿が幼稚園で初めて見た彼女の姿と重なって、場違いにも懐かしい気持ちになる。彼女はあの頃から、本当に全く変わっていない。ずっとまっすぐなままだ。おれみたいに折れたり曲がったり、遠回りしたり横道に逸れたりはしなかったんだろう。あるがままに、進んできたんだ。それが分かって、我知らず口元を緩めてしまった。

 

「久しぶり」

 

「ああ」

 

「髪染めたの?」

 

「中学デビューしたんだ」

 

「あはは、なにそれ」

 

「似合ってるだろ?」

 

「半グレみたい」

 

 小学校以来の会話なのに緊張感なんて全く無くて、彼女はなんの違和感もなく四年の月日をふわりと飛び越えてくる。彼女に引きずられて、おれの体から無駄な力が抜けていく。道端で会ったみたいに、自然体で彼女と向き合える。

 頭を覆っていたもやもやが晴れていく。余計なプライドとか半端な矜持とか、いつのまにか重荷になっていたものが消えていって、目の前の壁を超えることだけに集中できるようになっていく。体と心が軽くなって、腹の底から力が湧いてくる。

 あたりは、いつのまにか静かになっている。客席の歓声も、実況ヒーローの口上も、耳をすり抜けていくみたいだ。いま、この世界にはおれと彼女の二人しかいないみたい。

 試合開始の合図は、すでに鳴っていた。でも、今なら言える気がする。

 

「おれさ」

 

「ん?」

 

「君に勝つためにここに来たんだ」

 

「それは、光栄かな」

 

「だから」

 

 ――だから。

 これが終わったら、おれの話を聞いてほしい。君に憧れて、君を追いかけて、いまようやく君の目の前に立っている男の話を。

 次の瞬間、大地は爆ぜ、おれたちは激突した。

 果たしておれは彼女に追いつけたのか。その答えは、すぐにわかる。




個性「激情」は、もとは連載用に構想していたアイデアのひとつだったのですが、自分の腕前では連載化するのは困難と判断し、短編に変更しました。文章力とかプロットとか、ある程度の実力がつくまではこの形式での投稿を続けていこうと思っています。よろしくお願いいたします。


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きみの瞳を覚えてる。

書かない書かないって感想欄であれだけ言っておいてこのザマですからね。物書きなんてちょろいもんですよ。豚もおだてりゃ木に登るってことですよね。

というわけで、木戸愛久視点です。


 熱狂のるつぼに、私は立っている。

 雄英体育祭、最終種目。その決勝の舞台。空はからりとした快晴で、体育祭の最終章を盛り上げてくれている。

 向かい側の入場ゲートから、彼はゆっくりと歩いてきた。私が決勝を争うファイナリスト。正直、全く予想していなかった相手だ。それは私だけでなく、誰もがそうだったと思う。

 彼がゆっくりとリングに上がり、私と向かい合う。津波のような歓声が、全方位から私たちの立つリングへ押し寄せてきて、中央でぶつかって渦を巻く。会場のボルテージは天井知らずだ。

 彼は少し俯けていた顔を持ち上げて、日陰になっていた表情を見せる。ああ、久しぶりだ。彼と最後に会ったのは、もう六年前のことになるだろうか。二言三言、互いに距離感を探るように言葉を交わす。砕けた口調が妙にくすぐったい。久方ぶりだというのに会話は弾むようで、それが過去を思い起こさせて少し懐かしい気持ちになった。

 いつのまにか、試合が始まっている。でも、彼はまだ動き出す様子はない。彼は躊躇うように一拍置いて、それから視線で私を捕まえた。

 

「おれさ」

 

「ん?」

 

「君に勝つためにここに来たんだ」

 

 今まで見たこともないくらい切なそうな笑みを浮かべて、目の前の男の子はそう言った。

 その言葉に、一体どれほどの感慨が込められていたのか、私は正確に知ることはできないけれど。私を射貫く彼の瞳はこっちが恥ずかしくなるくらいに真っ直ぐで。

 だから、ほんの少しだけ申し訳なくなる。私はきっと、彼の期待には応えられない。応えられるような人間じゃない。心のなかで苦笑して、でもそれを表には出さない。

 

「それは、光栄かな」

 

 なけなしの自信を表情に貼りつけて、私は正面から彼の双眸を見つめ返す。吸い込まれるような瞳。その奥に篝火のように灯る、自負の炎。

 ――ぞくり、と。「怪物」が目を覚ます気配がした。

 

★★★

 

 手のかかる子供だったと、両親にはよく聞かされた。

 私が個性を発現したのは、四歳の頃だった。方針として個性が発現するまでは自宅で子育てをすると決めていた両親は、私の個性を知って悲鳴をあげた。個性「激情」は、子育てに慣れていない新米夫婦の二人にとって天敵とも呼べるものだったからだ。

 正負に関わらず、感情をエネルギーに変える個性。

 その天与の権能を活かして、幼い私は邪智暴虐の限りを働いたそうだ。ピーマンを食べたくないと言ってはテーブルを叩き割り、昼寝をしたくないと言っては毛布を引き裂いた。

 小さなことにいちいち感情を爆発させる幼児期の私は、個性を全くコントロールできていなかった。体の内側で荒れ狂う激情の命ずるがままに、エネルギーを発散させた。

 両親は下手に力ずくで抑えつけて私の体を傷つけることを恐れたため、わがまま放題だったのだ。私が右と言えば右、左と言えば左。勅命に逆らおうものなら器物損壊の刑。私は木戸家に暴君として君臨し、圧政を敷いた。

 

「このまま(ヴィラン)に育っちゃうかもって、本当に心配したのよ」

 

 お母さんは、今ではそう言って笑う。

 同年代の友達はなかなかできなかった。個性の暴走を恐れた両親が私を外に出さなかったからだ。両親は私の興味を巧みに誘導して、私を家庭内に留めようとした。教育に神経質になっていた両親は、その作戦のために豊富に資金をつぎ込んだために、しばらくはその試みはうまくいった。ただ、当然ながら限界はあった。

 個性発現から半年ほど経ったころ。とうとう外の世界への興味を抑えきれなくなった私は、度々両親の目を盗んで外出するようになっていた。家にはたいてい父が母のどちらかがいて私を見張るようにしていたが、共働きだったために監視体制は万全とは言えなかった。

 行き先はもっぱら近くの公園だった。体内に溜まったエネルギーを発散するには絶好のロケーションだったからだ。

 うんていやブランコ、ジャングルジムを縦横無尽に攻略することは、それまでにない爽快な遊びだった。思う存分エネルギーを発散させることができたし、遊具は総じて頑丈で、雑に扱っても壊れなかった。公園は、あっという間に私のお気に入りの場所になった。

 事件が起こったのは、そんなある日の昼下がりだった。

 その日の私は、遊び場に砂場を選んだ。砂場にはすでに何人かの子供がいて、砂山を作って遊んでいた。その遊びがひどく革新的に見えて、羨ましくなったのだ。

 私は砂場に何人かいる同い年くらいの子供たちのうち、同い年くらいの女の子に目を付けた。スコップを持って懸命に砂を集めているその子のところへ飛んでいくと、開口一番にこう言った。

 

「ねえ、それちょうだい?」

 

「いや」

 

 にべもなかった。当然だ。私はその子とは初対面だったし、砂山は完成間近だったのだ。ただ、小皇帝たる幼い私にはそんな事情は関係なかった。

 強引にその子の手からスコップを奪い取ると、私は砂場の一角を思いっきり蹴り上げて、周りで遊んでいた子供たちを追い出した。砂場は私の領土だと主張したのだ。

 子供たちは泣きながら砂場を出て行った。これでよし。広い砂場を一人で悠々と使える。私は強欲で、しかも暴力を使って人を思い通りにする方法を知っていた。個性発現からずっと磨き続けてきた、わがままの技術だ。

 私は追い出した子たちのことは気にせず、早速砂山の制作に取り掛かろうとした。その私の肩を、ぽんぽんと叩く誰かの手。驚いて振り向くと、私がスコップを奪い取った女の子が立っている。

 なぜ砂場を出ていかない?他の子はみんな出て行ったのに。

 怪訝に思う私に、目元に大粒の涙を浮かべながら、その子は言った。

 

「そのスコップ、返して」

 

 そのときの衝撃は、今でもよく覚えている。この世に、私の思い通りにならないことがあるなんて。私の力を見て、ひれ伏さないやつがいたなんて!

 常識が覆されたような気分だった。なにせ私の個性は、お父さんやお母さんみたいな大人でも絶対に逆らえない「権力」なのだ。まして私と同じくらいの子供が、思い通りにならないはずがなかった。それなのに。

 私は面白くなかった。当たり前のことが当たり前に起こらない状況にいらいらしていた。いや、この子はちょっとよそ見をして、私の力をよく見ていなかっただけかもしれない。きっとそうだ。もう一度見せてやれば、他の子と同じように私に砂場を譲るだろう。

 いらいらの分をエネルギーに変えて、さっきよりもちょっとだけたくさんの力を込めて、私は握った拳を砂場に叩きつけた。

 粉塵が舞い、砂場の縁で恐る恐るこちらを伺っていた子たちが悲鳴をあげて逃げていく。さあどうだ。これで思い知っただろう。

 

「そのスコップ、返して」

 

 砂埃の中でも、毅然と私を睨みつけて。その子はもう一度、そう言った。

 

★★★

 

 それから、私と夢子ちゃんがどうやって友達になったのか、実はよく覚えていない。第一印象が互いに最悪だったのは間違いないはずだが、初対面の次の日にはもう一緒に遊んでいたような気もする。私にとっては初めての友達だったから、浮かれていたのだろう。一人で遊ぶことに飽きていた私は、すぐに二人で遊ぶ楽しさの虜になった。

 毎日夢子ちゃんの家に入り浸り、いろんな遊びを教えてもらった。夢子ちゃんのお母さんは私を暖かく迎え入れてくれた。子供とお菓子作りが大好きな人だった。私はお菓子が大好きだったので、一瞬で彼女に懐いた(彼女の作るブルーベリーのタルトは絶品だった!)。彼女のお菓子作りを見学させてもらったこともあった。夢子ちゃんが妙に誇らしげに工程の一つひとつを解説していたのが、今でも印象に残っている。

 

「私、将来はお母さんみたいなパティシエになるんだ!」

 

 きらきらした瞳でそう語る夢子ちゃんはとても生き生きしていて、私は羨ましくなった。

 「羨ましい」というのはもどかしい感情だ。四歳の私はもどかしいのが嫌いだった。だから、羨ましいと思ったものは次の瞬間には両親にねだった。そしてそれらは大抵の場合きちんと手に入った。ふわふわのケーキも、可愛いぬいぐるみも、なんでもだ。

 しかし、この時ばかりは勝手が違った。夢とは人から与えられるものではないからだ。お金で買えるわけでもない、自分で見つけるしか手に入れる方法のないもの。いくら私が「権力」を振るっても、こればかりはどうしようもなかった。

 だから余計に夢子ちゃんが羨ましくて、その思いは尊敬に変わった。私が手に入れられないものを持っている人。私の「権力」に屈さない人。それが私の初めての友達だった。

 夢子ちゃんは私にいろんなことを教えてくれた。そのなかでも最も大きかったのは、みんなで遊ぶことの楽しさだった。実は、私が幼稚園に通うことを両親が許してくれたのも、夢子ちゃんの存在があったからこそだった。私がどこの幼稚園にも通っていないことを偶然知った夢子ちゃんは、持ち前の恐るべき行動力を発揮し、その日のうちに私の家に乗りこんできて両親に直談判をしたのだ。

 私は最初、無駄だろうと思っていた。幼稚園に行きたいという要求は、他のわがままと違って私がいくら言っても聞き届けられることはなかった。夢子ちゃんが言ったところでそれは同じだろうと思っていたのだ。

 案の定渋った私の両親に対して、夢子ちゃんは言い放った。

 

「愛ちゃんが暴れたら私が止めるよ。私なら愛ちゃんを止められるもん」

 

 両親はとても驚いていたようだった。たぶん、夢子ちゃんは私の個性について何も知らないのだと思っていたのだろう。大人相手に一歩も引かず堂々と交渉する夢子ちゃんに、お父さんとお母さんは明らかにたじろいでいた。

 砂場で私を止めたときもそうだった。普段はどちらかといえば引っ込み思案なのに、ふとした時に異様なまでの強さを見せる。そういうときの夢子ちゃんは何か熱のようなものを放っている。瞳の奥に灯った炎から発せられる、人を圧倒する気迫のようなもの。魔法のようなエネルギーだ。

 私が泣いても喚いても暖簾に腕押しで首を縦に振ろうとしなかったお父さんとお母さんが、まるで呪文にかけられたみたいに、いつのまにか頷いていた。夢子ちゃんは今の時代には珍しく個性を持っていなかったけれど、代わりにとても素敵でかっこいい力を持っていた。自分を信じる才能。他人に自分を信じさせる才能だ。

 そうして、私は小学校に入る前の一年間だけ、夢子ちゃんと同じ幼稚園に通うことになった。夢子ちゃんは私みたいな「権力」も使わずに、私にも叶えられなかったことを成し遂げたんだ。

 

「これで毎日一緒に遊べるね!」

 

 夢子ちゃんはそう言ってきらきら笑った。

 幼稚園に入ってからは、毎日が発見の連続だった。世界が一気に広がり、そこには私の知らないたくさんの楽しいことがあふれていた。たくさんの遊び場。たくさんの先生。そして、たくさんの新しい友達。

 私は夢中だった。試しに私の個性を見せてみると、みんなが褒めてくれた。先生たちは知らないことをたくさん教えてくれた。友達とはヒーローごっこをして遊んだ。一人では絶対にできなかった遊びだ。

 毎日が楽しいことだらけだった。家に帰ると明日が待ち遠しくて仕方がなかった。明日も楽しいことがいっぱいだと、信じて疑わなかった。隣には夢子ちゃんがいて、周りを友達に囲まれて、悲しいことなんて一つも無くて。小学校に入っても、中学校に行っても、こんな日々がずっとずっと続くんだろうって思っていた。そう、思っていたんだ。

 

★★★

 

 理想の世界が崩壊したのは、私が小学校五年生のとき。あのときの私の周りには幼稚園の頃と変わらずたくさんの友達がいて、でも、そのなかに夢子ちゃんの姿はなかった。

 一番最初の友達だというのは確かだけれど、それ以上でもそれ以下でもない。そんな、なんとも言えない微妙な関係だった。学校には夢子ちゃんよりも趣味の合う友達はたくさんいて、夢子ちゃんにも私より趣味の合う友達がいた。夢子ちゃんとはクラスも離れてしまっていたから、特に不自然なことでもなかった。

 それでも、たまに廊下ですれ違えばおしゃべりはするし、私のなかで夢子ちゃんを尊敬する気持ちが消えたことはなかった。それでなにか問題があるとも思えなかった。

 だから、私は遅れた。気づいたときには全部終わっていた。

 学校で、夢子ちゃんに会えない日が続いた。最初は偶然だと思った。違うクラスなんだし、夢子ちゃんには夢子ちゃんの都合があるだろう。そう納得していた。

 

「あの子、不登校らしいよ」

 

「え?」

 

 いつも私と一緒にいるグループのひとりが私に教えてくれた。面白い噂話をするという体で、とても弾んだ声だった。

 

「三組のあの子でしょ?あの――無個性の」

 

 その言葉を口にしたとき、その子の口元がわずかに歪むのを、私は見てしまった。

 なんだ、この雰囲気。私は気分が悪くなった。目の前の女の子から漂ってくる感情のにおいが、腐臭に似ていたからだろう。周りの子もみんな、同様に笑っている。みんな笑っているのに、全く楽しくなかった。胸のあたりがむかむかして、私は思わずその場から駆けだしていた。なにか、とても嫌な予感がしていた。

 その日のうちに、私は夢子ちゃんの家に走った。訪れるのは久しぶりだったが、かつて足しげく通った道のりを、体はしっかり記憶していた。インターホンを鳴らすと、ドアを開けてくれたのは夢子ちゃんのお母さんだった。

 

「愛ちゃん、久しぶり」

 

 昔と変わらず、夢子ちゃんのお母さんは私をもてなしてくれた。そのはずだった。なのに、私は怖くなった。彼女が纏う雰囲気が、ドアの向こうにたたずむ沈黙が、私の悪い予感を後押ししているようだったから。

 

「夢子ちゃん、いますか」

 

 夢子ちゃんのお母さんは、私の口ぶりで何かを察したようだった。多くは語らず、私を家の中へ招き入れてくれた。焦りが全身にまとわりつくようだった。私はそれを振り払うように小走りで夢子ちゃんの部屋へ向かった。

 

「夢子ちゃん?」

 

 呼びかけ、ドアをノックする。返事はない。だが、人がいることは確かだった。人間の息遣いのようなものが、向こう側から感じ取れた。ドアノブに手を掛ける。鍵がかかっているようで、ドアは開かなかった。

 拒絶されている。その意思がはっきりと伝わってきた。夢子ちゃんが私を拒絶している。あの夢子ちゃんが。

 

「いじめが、あったみたいなの」

 

 夢子ちゃんのお母さんは、沈んだ声で教えてくれた。ある日を境に、日に日に元気がなくなっていった夢子ちゃん。それから、いたずらされてぼろぼろになった教科書やランドセル。学校で何かあったことは確かだったが、夢子ちゃん自身はなにも語らず、学校側に問い合わせても埒が明かなかったという。

 翌日から、私は学校で調査を開始した。少し調べれば、三組でいじめがあったということはすぐに明らかになった。三組の生徒を捕まえて一人ずつ話を聞いていけば、彼らは簡単に口を割った。

 

「夢子ちゃん、『女王様』に逆らったんです」

 

 そう説明してくれたのは、夢子ちゃんと仲が良かったという女の子だ。小動物みたいに、つねにおどおどしている子だった。

 

「女王様っていうのはあだ名です。何でも自分が中心にいないと気が済まない性格で、みんな裏ではそう呼んでるんです」

 

 夢子ちゃんがいじめの標的になるまでの経緯は、容易に想像できた。夢子ちゃんは、理不尽に立ち向かえる人間だ。なんの力が無くても、たった一人でだって、嫌なことは嫌だと言える。言えてしまう。普段は引っ込み思案な分、プライドの高い『女王様』には彼女の強さが我慢ならなかったのかもしれない。だからこそ、いじめの標的になった。ただでさえ目立つ無個性というレッテルは、彼女の強さを浮き彫りにしたことだろう。彼女の強さが、彼女を孤独にしたのだ。

 そして、夢子ちゃんは簡単には折れなかった。抵抗すればするほど、いじめはさらに苛烈に、陰湿になっていった。より大勢の人間を巻き込んだ、手の込んだ内容になっていったのだ。そうして次第に、夢子ちゃんに味方をする人間はいなくなっていった。

 

「ねえ、夢子ちゃん」

 

 私は、夢子ちゃんの家に通い詰めた。毎日学校が終わると、一番に教室から飛び出して夢子ちゃんの家に走っていった。

 

「覚えてる?私たちが初めて会った日のこと」

 

 いつのまにか、季節は巡っていた。時間は矢のように過ぎ去り、夢子ちゃんが学校に来なくなってからすでに数か月が過ぎようとしていた。

 

「あの頃の私、すっごいわがままでさ。人のもの奪って平気な顔してるひどいやつだったよね」

 

 今日も、扉は開かない。私はいつもどおり、廊下の壁に背中を預けて後ろ向きに声を投げかける。なんでもないような話を、たくさんした。

 

「そんな私を初めて正面から受け止めてくれたのが、夢子ちゃんだった」

 

 扉越しの会話も慣れたものだった。返事は無く、話すのはいつも私一人だったが、私たちの間には確かに「会話」が成立していた。

 

「あのとき夢子ちゃんが止めてくれなかったらさ、私今ごろ(ヴィラン)になってたかもしれない」

 

 控えめなノックみたいに、ゆっくりと言葉を浸透させていく。それが、私にできる唯一のことだった。

 

「ねえ、夢子ちゃん」

 

 個性を使えば、ドアを無理矢理こじ開けることもできただろう。でも、それをする気にはならなかった。

 

「あなたが私を変えてくれた」

 

 きっと夢子ちゃんにとって、あのドアは最後の防壁だったのだ。傷ついた心を外敵から守るための、一番最後の守りだった。

 

「あなたが私を救ってくれたんだよ」

 

 だから、それを開けるのは夢子ちゃん自身の役目。そうでなければならなかった。

 

「私、ずっと尊敬してた。私にはできないことをできる人だって思ってたの」

 

「そんなあなたが、苦しんでいるなら」

 

「今度は私が、救ってあげたいよ」

 

 ぽろり。我知らず、涙がこぼれた。

 ――かちゃん、と。音がして。閉ざされていた扉がゆっくりと開いていった。

 その日、私は実に半年ぶりに夢子ちゃんと顔を合わせた。久しぶりにみる夢子ちゃんは憔悴しきっていて、目も淀んでいて、まるで別人のようだった。

 夢子ちゃんは一言ずつ、時間を懸けながら私に全てを話してくれた。その苦痛も、孤独も、恐怖も、憎悪も。ずっと抱えっぱなしにしていた、膨大な感情の全てを、余すことなく私に託してくれた。

 溢れる感情を持て余すように、私に縋り付いて泣く夢子ちゃんを、私はただじっと受け止め続けた。全部吐き出してしまうべきだと思った。彼女はもう十分すぎるほどに耐えてきたのだから。これ以上背負う必要などないはずだ。

 やがて、疲れ切った夢子ちゃんは私の膝に頭を預けて眠りについた。幼子をあやすように、私はその頭を撫でる。

 

「待っててね、夢子ちゃん。私がなんとかする。――なんとか、してみせるから」

 

 気づけば、そう呟いていた。腹の底には、熱くてどろどろしたものが、静かに渦を巻いていた。

 

★★★

 

 そして、私はあの事件を起こした。

 夢子ちゃんの告白の翌日。あの日は朝から風のない快晴で、空気はよく乾いて軽く、私の足取りはふわふわしていた。

 緊張はしなかった。大それたことをしようとしている自覚はあったが、後ろめたい気持ちは無かった。

 早朝、一番に登校し、ラインカーで「声明文」を書き上げた。いじめっ子たちへの一応の建前のつもりだった。意味がないことは知っていた。

 朝八時。一時間目が始まる頃合いで、学校全体へ向けて演説を開始。その後、個性を全開にして「恫喝」を行った。

 瓦割りの要領でグラウンドに叩きつけた私の右拳は、容易に大地を陥没させた。私のやったことは、れっきとした犯罪だった。暴力を背景に自分の要求を無理矢理押し通そうとしたのだ。世間を騒がす(ヴィラン)たちと同列の行為だ。だから、その対処としてヒーローが駆けつけたのは妥当だったと言えるだろう。

 最初の一撃を放ってから五分もしないうちに、私は完全に包囲されていた。後から聞いた話では、私は複数のヒーローたちを相手に大立ち回りを繰り広げ、大いに苦戦させたという。病院で目を覚ました私の記憶は曖昧で、そのときのことはよく覚えていなかった。数時間ぶっ通しで戦っていたような疲労感があったが、実際には数分だったのかもしれない。私が辛うじて覚えているのは、とても息苦しかったという感覚だけ。

 

「……」

 

 そう、とても苦しかったんだ。感情をエネルギーに変えるのがあんなに辛かったのは、あのときだけだった。

 拳を振るうたびに私の脳裏をよぎったのは、夢子ちゃんが私に言った言葉だ。

 

『無個性だって呼ばれるのが怖くなったの』

 

『汚い言葉も、暴力も、ひとりぼっちにされるのだって怖くなかったのに』

 

『無個性だって指を差されて笑われるのだけが耐えられなかった』

 

『〝こんな時代に無個性で生まれるなんてよほど運がなかったんだ〟って』

 

『何も悪くないお父さんとお母さんまで笑われるのが、嫌で嫌で仕方なかった』

 

『私のせいでお父さんとお母さんまで馬鹿にされてる気がして、恥ずかしくて、申し訳なくて、堪らなかった』

 

『でもね、私、学校を嫌いになりたくもない』

 

『楽しかった思い出だってちゃんとあるはずなのに、全部嫌な思い出で塗り潰されたくないの』

 

『だから、ねえ、だから、愛ちゃん』

 

『たす、けて……!』

 

 嗚咽を漏らしながら、私に縋り付いて泣いていた夢子ちゃん。その慟哭が頭の中に浮かぶたび、次から次へと力が湧いてきて、私の中でナニカが喚き立てた。「外へ出せ、外へ出せ」と、輪唱のように声を響き渡らせたのだ。

 声に当てられて、私の身体は燃えるように熱くなっていった。頭は割れるように痛くなって、声が枯れるまで叫び出さずにはいられなくなって。

 最後の力を振り絞って放った一撃が、誰かに受け止められた感覚を最後に、私の意識は闇に閉ざされた。

 そうして、気づけば私は白い病室にいた。

 

★★★

 

 目を覚ましたとき最初に気になったのは、いつもと違うベッドの感覚だ。妙に強いスプリングに押し返され、横になっていても体がふわふわとしていた。見覚えのない天井は目もくらむような潔白。白い蛍光灯が視神経を焼いて、少しチカチカした。

 体を起こし、部屋を見回す。初めての環境に五感は浮足立っているようだ。前後の記憶が曖昧だったせいで多少混乱はしたけれど、事態を理解するまでにそう時間はかからなかった。論理的に考えたなら事の顛末は明らかだったからだ。

 負けた。私は負けたのだ。ヒーローたちに敗北して、恐らくは気を失った私は、そのままこの病院に搬送されたのだろう。

 不甲斐ない。死ぬほど情けなかった。いじめをやめさせるだなんて息巻いて、感情に任せて暴走した結果がこれでは、まるっきり赤子のようではないか。かみしめた唇が切れて、口のなかに鉄の味が広がった。

 こうして、私の病院暮らしは幕を開けた。

 入院生活は退屈を極めた。部屋の中には暇を潰せるものは何もなかった。テレビも、小説の類も一切ない。娯楽の手段は徹底的に排除されていて、その中で私は無味乾燥した毎日を強要された。

 病院内を見て回るなんていうこともできなかった。出入り口には見張り役の職員が立っていて、トイレに行くときもいちいちどこへ行くのかと質問をされた。囚人のように管理された生活。おかげで私は、これが「入院」とは名ばかりの「収監」であることをすぐに理解できた。

 無機質で静謐な空間は、私をいっそう孤独にした。病室への来訪者は極端に少なかった。両親とカウンセラーを除けば、顔を出してくれたのは二人だけだった。私が学校でいつも一緒にいた「友達」は一人として見舞いに来てはくれなかったし、担任の先生からも特に連絡は無かった。

 それは自然なことだった。彼らが非情なのでは無い。私だって、学校で突然個性を使って暴れ出したやつがいたら近づきたいとは思わないだろう。いわばこれは身から出た錆。「普通」な彼らが「異常」な私から距離を取った。ただそれだけの話なのだ。

 人が来ない日は私にとってルーティンを消化するためだけの時間だった。朝七時起床、九時消灯なんていう規則正しすぎるスケジュールを、無心でこなす日々。そこはまるで人生を浪費するために存在するかのような空間だった。時間が、私の昂った心を漂白していくみたい。退屈はまさしく私の個性の天敵だ。感情の揺らぎが生まれなければ、私はエネルギーを生成することができなくなる。白い無機質の独房は、これ以上ないほど理想的に私の「権力」を封殺していた。その箱の中では、私はただの無個性の無力な少女に過ぎなかった。夢子ちゃんと同じように、なんの力も無いただの一人の人間でしかなかったのだ。

 

「……」

 

 結局、夢子ちゃんはあのあと小学校を転校してしまった。夢子ちゃん本人も、夢子ちゃんの両親も私には何も言わなかったけれど、その理由の一端があのいじめにあったことは誰もが知っていることだった。ずっと病室にいた私にそのことを教えてくれたのは、ある一人のクラスメイトだった。

 赤瀬巡くん。授業中に何度か言葉を交わしたことがある程度の、知人以上友人未満の男の子。良くも悪くも「クラスメイト」という言葉でしか表現できない関係の相手だった。

 彼は週に何回か、何故かとても熱心に私のお見舞いに来てくれた。私の「友達」はみんな離れて行ったのに、彼だけは距離を取るどころか逆に詰めてくるようだった。それが不思議で、私はほんの少しだけ彼に興味を持った。

 彼はあまり積極的に喋る方ではなかったので、彼がお見舞いに来た時のおしゃべりはたいてい私が話し役、彼が聞き役で進行した。彼は聞き上手だった。私が話したくないことは尋ねなかったし、私が話したいと思うことは先回りするように訊いてくれた。心の慰めになるものが何も無い病室では、彼との会話は貴重な安らぎの機会だった。

 それが、二人の訪問者のうちの一人。

 そして、もう一人。彼が私の病室にやってきたのは「収監」からちょうど一週間がたったころ。

 真っ黒の喪服みたいなスーツに、厚みのある肉体を窮屈そうに押し込めた仏頂面の大男。病院にはあまりに不釣り合いに見えるその男が、病室のドアを潜るようにして入ってきた。

 一目でわかった。彼はあの日、私を捕まえたヒーローの一人。唯一、私の一撃を正面から受け切ったヒーローだったから、印象に残っていた。

 彼ははじめ、私に何と言葉をかけるべきか迷っているようだった。明らかにこのような場面に慣れていない様子。当然といえば当然だ。傷心の患者に向き合い慰めるのはカウンセラーの役目。彼は日夜凶悪な(ヴィラン)と戦うヒーローだ。彼がこのような場所に来ることがそもそもお門違いなのだ。

 ではなぜ、彼はわざわざ私のところまで足を運んだのだろう。彼にとって私は、癇癪を起こした子供以上の存在ではないはずだった。真剣な表情で言葉を一つひとつ選んでいく彼の姿から、彼が真摯に私に向き合おうとしてくれていることは一目瞭然だった。

 

「なんで私にここまでしてくれるの?」

 

 あなたには、そんな義務はないのに。私は不思議だった。

 

「私が、そうしたいと思ったからだ」

 

 即答だった。なぜか、その答えは私の胸にすとんと収まった。

 だからこそ、彼には吐き出すことができた。両親にも、担当のカウンセラーにも、赤瀬くんにも言えなかったことを。

 暴走した私が、自分の個性の中で見たもの。際限なくあふれ出す力への恐怖。何より、初めての友達が苦しんでいるときに、気づくことができなかった悔しさ。

 きっと安心していたのだと思う。また個性が暴走したら。そんな不安に駆られて、両親の前でさえ心の奥をさらけ出すことに躊躇いを覚えていた私は、私の本気を正面から受け止めてくれた彼の前でだけは、それを露わにすることができた。

 

「どうすればよかったのかな」

 

「それは、わからない」

 

「私のしたこと、意味あったのかな」

 

「意味ならあった。君は友達のために、自らを犠牲にして動くことができた。それはとても尊いことだ」

 

「結果が伴わなくても?」

 

「行動に結果が伴うというのは、稀なことだ。我々プロヒーローであっても、行動に対し百パーセントの結果を得ることは難しい」

 

「私が『ヒーロー』だったら、夢子ちゃんを助けられたのかな」

 

「そうかもしれない」

 

「私が『ヒーロー』じゃなかったから、夢子ちゃんを助けられなかった?」

 

「そうかもしれない」

 

 彼は気遣いが下手くそだった。だが、そのときの私はその場しのぎの慰めではなく確かな指標となる啓示を欲していた。だから、彼の実直すぎる言葉が私には嬉しかった。

 

「人は誰しも、生まれながらにヒーローであることはできない。だからこそ学び、己を鍛える。ヒーローを志す者が同じ場所に集い、互いに研鑽し合う。そうすれば、一人では乗り越えられない壁も乗り越えられるかもしれないから」

 

「乗り越えられないかもしれない?」

 

「その通りだ。だが、元来ヒーローとは挑むもの。一生越えられないかもしれない壁に挑み続ける馬鹿者たちのことだ」

 

「なにそれ、意味わかんない」

 

「今はそれでいい」

 

 そう言うと、ヒーローはその場で深く息を吐いた。瞑目し、唇を微妙に歪ませる。

 

「Plus Ultra、さらに向こうへ」

 

「へ?」

 

「覚えておくといい。この言葉は、私を育ててくれた学び舎の合言葉だ」

 

 そこで初めて、彼はほんの少しだけ誇らしげに、その仏頂面に微笑を浮かべた。

 それきり彼が私と会うことはなかった。彼はメディアにも顔を出さないマイナーなヒーローであるようで、あれ以降テレビでも彼の顔を見たことはない。彼は私に、ヒーローネームさえ告げなかった。もう二度と会うことはないのかもしれない、とぼんやり思った。だが、彼はその一度きりの対話で、とても大きなものを私に遺してくれた。

 Plus Ultra、さらに向こうへ。その言葉が、発芽を待つ種子のように私の胸の中に埋まっていた。

 

★★★

 

 照りつける炎天の下で、彼は紅潮した身体をさらして大の字に倒れている。息は荒く、ジャージが破れて露わになった胸元は、空気を取り込むために大きく上下していた。

 十分だ。十分の間、私たちは休むことなく拳を交え続けた。拳撃を叩き込むたびに、私の力は増していった。この感情は知っている。興奮だ。そして狂奔。闘争がもたらす原初の感情。剥き出しの、野生の激情。

 私は荒れ狂う会場のボルテージに感化され、個性によって無尽蔵のエネルギーを手に入れていた。会場を包み込む、熱狂という名の竜巻。その全てが私に味方したのだ。

 彼はなすすべもない。できたのは、辛うじてリング上に留まることだけ。何か策を仕掛けるそぶりもない。真っ向からの格闘戦だ。

 格闘技術自体には、さほどの開きはなかった。対人格闘は私が雄英高校に入学して以来最優先で鍛え続けてきた分野だ。人を倒すためというよりは、()()()()()()()()にではあるが、間違いなく最も情熱を注いできた。その得意分野で、「彼」、赤瀬くんは私に引けをとっていない。驚くべきことだ。だが、だからこそ露わになるのはパワーの差。すなわち個性の差だ。

 拳が交差するたびに、彼だけが一方的にダメージを追っていった。彼の体は何度も地面に叩きつけられ、そのたびに新しい傷を作った。

 私は容赦なく勝ち目の無さを見せつけた。ひたすら堅実に徹し、付け入る隙を与えないことで心をへし折ろうとした。「あなたは勝てない」と、その体に教え込むようにして、丁寧に着実に圧倒した。

 ――それでも。

 それでも彼は屈しなかった。決して自分から負けを認めようとはしなかった。体力は明らかに限界を迎えている。そのはずなのに。

 

「どうした」

 

 砂埃の向こう。ゆらりと立ち上がる人影。ジャージはボロ切れ同然。傷のない部分を探すのが困難なほどに満身創痍の、赤瀬くんの五体。それでも、その双眸は爛々と煌めいて、自負の炎は僅かの陰りも見せない。

 

「もう終わりか?」

 

 そう言って、あくまで不敵に、獰猛に笑う。

 不撓不屈。

 にわかに、感情の源泉にさざなみが立つ。熱狂一色だった水面に混ざり込んだのは、畏怖の色だ。理解の及ばないものに対する、生存本能の警鐘。

 

『ここで仕留めなければならない』

 

 強迫観念が私を支配しようとする。だめだ。感情に身を任せるな。個性はあくまで力であって、それを使うのは「木戸愛久」自身だ。

 彼が右拳を握り、ハンマーのようにして自らの胸を叩く。ドクン、というひときわ大きな拍動音とともに、彼の露出した皮膚が紅潮し、全身の筋肉が盛り上がっていく。

 

 赤瀬巡、個性「心血」。

 

 彼の個性について、私は詳しく知っているわけではない。ただ、これまでの戦い方からある程度の推測は可能になる。ヒーローにとって、少ない情報から(ヴィラン)の個性を割り出すのは必須技能のひとつだ。一年間を通して経験を積んだヒーロー科生のアドバンテージである。

 

「(拳で心臓あたりを叩く動作、たぶんあれが鍵なんだ)」

 

 試合中に幾度か見せていたあの動き。恐らくはあのドラミングのようなルーティンが、個性発動のスイッチになっているのだろう。あの動作の後、彼の体は全身が紅潮し、身体能力が跳ね上がる。強化の度合いは紅潮具合におおむね比例しているようだ。紅潮は促進された血流によるものだろう。胸を叩く動作が心拍を加速させるためのものなのだとしたら、彼の個性は血流の促進によって身体能力を強化する増強型個性の一種だと推測できる。

 

「(なら、当然反動があるはず!)」

 

 私の「激情」も増強型だ。増強型の特徴については一通り修めている。身体強化が自らの感情に依存するという点で、増強型のなかでも際立ってピーキーだと言われる私の個性に対し、彼の「心血」の特徴は強化度合いを任意で変更できる点だ。使い勝手や汎用性はあちらが上だと言っていいだろう。代わりに、出力では私に軍配が上がる。彼はその差を埋めるために、普段よりも無理をして身体強化を施しているはずだ。つまり、持久力を捨てているのである。彼が自らの個性の反動に耐えきれなくなるまでが、この試合のタイムリミットだ。

 

「(このまま防御に徹して時間切れを狙うべき?)」

 

 いいや、それは悪手だ。戦いには流れというものがある。現状それは私に味方をしているが、受け身になりすぎれば容易く河岸を変えるだろう。

 立場で言えば、私はチャンピオンで彼は挑戦者。あくまで向かってくる彼に対して、私は堂々と迎え撃たなくてはならないのだ。何より、時間切れ狙いなどというつまらない選択肢を、私の個性が許すはずもない。

 正面からの圧倒。このほかに選択肢は無かった。

 ステップを踏み、逸る衝動にリズムを与える。感情に理性の手綱をかけるのだ。鼓動はすでにうるさいくらいに高鳴っている。彼が放つ強烈な戦意に当てられて、私の中で「怪物」が外に出ようともがいていた。

 ――六年前のあの日、憎悪のままに拳を振るったあの日に、私の中に「怪物」が生まれた。感情を餌に成長し、暴虐を撒き散らす魔物。破壊の意思とでも呼ぶべき、私自身の感情の化身。以降、他者の強烈な感情に感応して個性が発動すると、私の中で「怪物」は覚醒するようになった。そして、感情から得たエネルギーをぶち撒けたいとがなりたてるのだ。あの日以来その存在が表に出ることは無かったが、個性を発動するたびにそれは私に語りかけてきた。

 これを手懐け制御すること。それが、この一年の私の至上命題だった。私の出した答えは短期決戦型の戦略だ。格闘技術を学び、より効率よくエネルギーを運用する事で、暴走状態に突入する前に(ヴィラン)を倒しきる。この回答は、理想に限りなく近いものだった。この一年、私はあらゆる現場で個性を発動したが、一度として暴走状態に陥ることなく全ての課題を達成してきた。一度の使用で五分の継続発動すらまれなほどだった。

 だから、大丈夫だ。私はできる。「激情」を制御できる。もう二度と、「怪物」にとらわれたりしない。そう信じられていたんだ。目の前の彼が、現れるまでは。

 

「おおおおおおおおお!!」

 

 咆哮を上げ攻勢に出る彼に対し、私も自分から距離を詰める。残り時間がいくらあるのか正確に測るすべはない。彼の方も限界が近い筈だ。ここから先の勝負は、躊躇った方が負け。

 助走の勢いを乗せた彼の拳が、頰を掠める。すかさずカウンターを放つ私。彼は身を翻し、そのまま蹴り技へと派生させる。それを固めた腕で受け止め、地に残された軸足を蹴り払う。倒れ込んだ彼の顔面めがけて右の打ち下ろし。首を捩って逃れた彼の蹴り上げで、顎を吹き飛ばされる。

 少しでも気を抜けば、意識がちぎれてしまいそうだ。思考が原型をとどめていない。目まぐるしく流転する状況と、感情の制御の両方に同時に対応しなければならない分、私が一手遅れをとっている。

 いや、それだけじゃない。彼の攻撃も鋭くなっている。回数を重ねるごとに、私の防御をかいくぐる確率が上がっているのだ。

 あれだけ打ちのめされて、どこにそんな余力がある?焦りが首を締めあげるようだった。

 掠めた彼の拳が額が裂いて、流血が右眼を覆う。一瞬、視覚情報が滞る。思考のラグ。我知らず、打撃が大ぶりになった。乳酸が腕を重くしていた。寒さでかじかんだみたいに感覚が鈍くなっていた。

 その隙間を縫うように、彼の拳が再び私の顎を捉える。かくん、と。膝が落ちた。息が止まった。時間も止まったみたいだった。意識の空白。とっさガードを上げたのは、先の二発が印象づけられていたからだ。

 戦斧のような蹴りが、がら空きの腹部を薙ぎ払った。

 

「がっ、ああああああああ!!?」

 

 初めてクリーンヒットを貰う。悶絶し、息をうまく吐き出せなくなる。辛うじて受け身を取り、左腕で腹をかばいながらなんとか立ち上がる。朦朧とする視界の先で、赤瀬くんが、胸の中央を叩いた。

 ――また、ギアが上がる。

 ボロ切れ同然だったジャージは完全に引きちぎれて、赤瀬くんの上半身があらわになる。いまや真紅に染まり切った皮膚からは、うっすらと蒸気が立ち上っている。体温で汗が蒸発し始めているんだ。彼の身体はいま、膨大な熱量を消費し続けている。個性は、もう長くは持たないはずだ。それでも、赤瀬くんはボサボサになっていた前髪を掻き上げて、犬歯をむき出しにしてみせる。

 

「……なん、で」

 

 なんで笑っていられる?何が彼をそうまでさせている?今でさえもう身体はボロボロなのに、これ以上どうして自分を追い込むことができる?あの瞳の奥に灯った炎は、一体なんなんだ?

 額に、冷たい汗が滲んだ。じわりじわりと、自分の中に畏れの感情が広がっていく。圧倒されていた。今にも倒れ込んでしまいそうな、満身創痍の男の子に。

 その立ち姿が記憶の蓋を引っ掻いた。私は、この光景を知っている?絶対に折れないあの強さ。瞳の奥の炎。そうだ。私はあれを、ずっと昔に見たことがあったはずだ。獰猛に笑う彼の姿が、一瞬、私の初めての友達と重なる。

 滲む恐怖が、身体の奥底で熱を持つ。勝てない?私は、勝てないのか?恐怖を餌に、また「怪物」が力を増す。意識が侵食される。均衡が、崩れ始めた。理性の制御も限界だった。私は知らなかった。恐怖という感情は、あまりにたやすく膨張する。

 もはや残りの体力など気にした様子もなく、赤瀬くんが仕掛ける。流れが変わったことを、彼も感じ取ったのだろう。勢いに任せた怒涛の攻めだ。圧倒的な手数を前に、私は後手後手に回る。

 つまらないミスが重なる。身体が急に精彩を欠き始めた。まるで他人の身体を操っているみたいだ。身に染み込ませるまで鍛え上げた格闘術がどこかへ消えてしまったような感覚。拳から、術理の制御が失われていた。丁寧に塗り込んだはずのメッキが剥がれて、獣の本性が露わになっている。恐怖に侵された私の個性は、理性のくびきを逃れて暴走を始めている。

 ああ、いやだ、いやだ、いやだ!私の身体が、私の手を離れていく。熱狂の渦はとどまるところを知らない。恐怖が私の足を絡めとり、私は身動きが取れない。それがさらに個性を暴走させる要因になっていく。悪循環の歯車は加速度的に回転する。呼吸が浅くなる。歓声が遠くに聞こえる。この感覚は知っている。よく覚えている。身体と意識が乖離する感覚。理性の鎖が引きちぎれる音がして。意識がどす黒く染まっていく。

 ――「怪物」が、私のすべてを乗っ取った。

 おもむろに振り抜いた拳。合理性のかけらもない獣の暴力。それまでとは異質な攻撃に、赤瀬くんは対応しきれない。吹き飛ばされ、膝をつく赤瀬くん。ここに来て過重強化のツケが回ってきたのだ。

 四足獣のように低くした姿勢から、「怪物」が走り出す。

 だめだ。

 猛獣のごとき動作で、間合いを潰す。

 逃げて。

 「怪物」は、有り余るエネルギーを完全に使いこなしている。この場、この時の熱狂すべてを集約した右拳。これは、人間の体が耐え切れるものじゃない。辛うじて残ったなけなしの理性が絶叫をあげる。

 止められない。止まらない。殺してしまう!私の力が、人を殺してしまう!!

 

「ああああああああ!!」

 

 喉を枯らす咆哮。空を切り裂く音。踏み込む左足。そして、やはり獰猛に笑う赤瀬くんの表情。一瞬ののち拳が交差して、私の記憶はそこで途切れた。

 

★★★

 

 ――あの日から、ずっと考えていた。仏頂面のヒーローが私に預けたあの言葉の意味。Plus Ultra、さらに向こうへ。向こうってどこだろう?向こうへ行って、何をするんだろう?

 考えても、答えは出ない。輪郭さえ見えなかった。でも、考えることをやめる気にはならなかった。

 中学に入ってからは、ことさらに一人でいる時間が増えた。私が通った中学校には同じ小学校の人が何人かいて、例の事件の噂がすぐに広まったことが原因で、友達はできなかったからだ。とはいえ噂が噂だけにいじめられるようなこともなかったし、いろいろ吹っ切れていたこともあって辛いとは思わなかった。

 一人でいるのは寂しかったが、楽でもあった。人との関わりが薄くなれば、感情の起伏もなだらかになる。自身の個性にトラウマじみた苦手意識を覚えていた私にはちょうど良いリハビリ期間になった。

 ずっと一人でいると、自然と考え事をする時間が長くなった。とりとめもないようなことを考えていると、まるで誰かに誘導されるみたいに、思考はいつもあの日に遡っていった。悔悟の念と決別するには、まだ時間が必要だった。

 個性に対して苦手意識を抱いたのは、薄々気づいていたからだろう。私とあのいじめっ子たちとの間に、本質的な違いなど無いということを。結局、巡り合わせの問題でしかないのだ。私があいつらみたいにならなかったのは、私の意思が強いからでも、私が生まれつき善性だからでもない。たまたまそういう風に事が運んだだけ。

 逆に言えば、私だっていつあいつらみたいになってもおかしくないということでもあった。そして、あのいじめっ子たちと違って、私がそうなったとき、私のことを止められる人間はそう多くない。そのことが、どうしようもなく怖かった。夢子ちゃんをぼろぼろにした奴らと同じになることは、私にとって死よりも恐ろしい堕落に見えた。それを防ぐ手段が、どうしても必要だった。いつ訪れるとも分からない「そのとき」を、ただ震えながら待つのは性に合わない。だから、自分から動く。私がはそう決めた。

 風穴を開けてくれたのは、仏頂面のヒーローが私に預けたあの言葉。Plus Ultra、さらに向こうへ。その合言葉が、私を雄英高校へ導いてくれた。

 

★★★

 

「なんか、懐かしいな」

 

 思わずそう呟いたのは、以前にも一度似たような状況を経験していたからだ。白くて清潔なベッドの上で、急に目を覚ますという経験。あの時と同様に、バラバラの記憶を組み合わせていく。

 

「そうだ、決勝戦」

 

 雄英体育祭。最終種目。赤瀬巡くん。そして、「怪物」。

 

「あ、起きた」

 

 そう呟いたのは、ベッドの傍らに腰掛ける彼。全身包帯だらけのくせに、やたらとピンピンした赤瀬くんの姿が、そこにはあった。

 

「なるほど」

 

「うん?」

 

「負けちゃったんだ、私」

 

「ああ、そして勝ったのはおれだ」

 

 冗談めかして、彼は笑う。本当に、心の底から嬉しそうに。

 

「そっかあ」

 

 ひんやりしたシーツが、背中に心地よい。かつての病室で味わったものとは真逆の、清々しい敗北感だった。時間をかけて味わうために、目を瞑ってみたり。

 それから、少し彼と話した。あの病室での対話とは違って、彼は自分のことも饒舌に語ってくれた。

 

「おれさ、君に憧れてたんだよ」

 

 照れ臭そうにそう言う彼は、決勝で見せた鬼気迫る様相とはかけ離れていて、年齢よりずっと幼く見えた。

 

「きみに会いたくて、ヒーロー科に行きたいと思って、頑張ったんだ」

 

 聞き方によっては愛の告白のようにも聞こえる言葉を、顔を真っ赤にしながら言い切る。個性を全開にしても、こんなに赤くはならないんじゃないかってくらい茹っていて、聞いてるこっちまで恥ずかしくなってきた。無論、彼にそのようなつもりはないのだろうが。

 

「……ねえ、聞いてもいい?」

 

「え?うん」

 

「どうして真っ向勝負でいこうと思ったの?」

 

 それは、試合中もずっと気になっていた点だった。個性の関係上、真っ向勝負では私に分があったはず。それを彼が考慮しないとは思えなかった。

 

「……見栄も、ある」

 

 また、恥ずかしそうに俯く赤瀬くん。

 

「だけど、自棄でやったわけじゃない。それが一番勝算が高いと踏んだから」

 

「どうして?」

 

「僕は過去に一度だけ、君の全力を目にしたことがある。その時のことを思い出したんだ」

 

 私が全力を出したのは、過去に二度だけ。一度は先程。もう一度は、あの事件のときだ。

 

「作戦の着想はそこから得た。仮に君の強すぎる個性に弱点があるのだとすれば、まさにその〝強すぎる〟点だろうと考えたんだ」

 

 つまり、彼は私の自滅に賭けたのか。感情を飽和させ、過剰強化に追い込むことで、かつての事件の日のようなスタミナ切れに追い込もうとした。

 控えめにいっても、正気の沙汰ではない。彼は私の全力がどれほどの威力を持つか知っていながら、その上で私に全力を出させようとしたのだ。

 

「きみはもっと慎重というか、策士なタイプだと思ってたんだけど」

 

「間違ってない。おれは小心者だから、どんなことにもふさわしいロジックがないと動き出せない。だから、色々と遠回りもした」

 

 それでも、赤瀬くんは動いたんだ。遠回りをしたのかもしれないけど、歩き続けて、掴み取った。

 

「最後のカウンターも、作戦の内だったの?」

 

 あの決勝の最後。私は、全力の右を叩き込む一瞬前に、彼の左フックを貰っていた。的確に私の顎先を掠めた理想的なカウンター。私の全力と彼の余力すべてを乗せた起死回生の一撃は、一瞬にして私の意識を奪い去った。

 

「まさか。思いつきだ」

 

「でも、狙ってたでしょ?」

 

 思い出されるのは、記憶の一番最後に見た光景。誰もが赤瀬くんの敗北を予感したあの一瞬、彼だけは自分の勝利を確信していた。

 

「……去年の体育祭の記録映像は、ヒーロー科対策のために浴びるほど見たんだ。A組とB組、合わせて四十人分、記憶に焼き付いている」

 

「だろうね。君はそういう戦い方をしていた」

 

 そう。彼は私以外のどの相手に対しても、明らかに勝つべくして勝っていた。だからこそ、私との試合で見せた愚直とも言える特攻作戦に違和感を覚えたのだ。

 

「去年のガチバトル。君はすべての試合で相手の切り札を受け切ったあと、必ず右拳の一撃でノックアウトしていた。世代最強にふさわしい横綱相撲だと、世間もマスコミもそう囃し立てていた。でも、そのパフォーマンスじみた一連の流れに、然るべき理由があるのだとしたら?そう考えたんだ」

 

「それで、名探偵くんの推理は?」

 

「相手の攻撃をあえて受けるのは、自らの感情を刺激して反撃を強化するため。右拳による一撃は、感情の昂りを発散するときの、ある種の癖なのではないか」

 

 私は、頷く代わりに天井を仰いだ。

 

「その癖をもしも任意のタイミングで引き出すことができれば、カウンターを叩き込めるかもしれない。出力で劣るおれがきみを上回る瞬間があるとすれば、その一瞬だと思ったんだ」

 

 脱帽だった。類稀なる推理力に、ではなく、推測に推測を重ねただけの代物に、自分のすべてを賭けられる精神性に、だ。

 去年も今年も、ヒーロー科の誰もが私との真っ向勝負を避ける中で、普通科の彼が最も早く最適解を導き出し、あまつさえそれを成功させてみせた。偉業だ。間違いなく、彼以外にはできなかったことだ。改めて、実感する。目の前の男の子は、私が越えようとも思わなかった壁を、いくつも越えてここまで来たんだと。

 Plus Ultra、さらに向こうへ。私の中でくすぶっていたその言葉の意味が、更新されたのを感じる。

 彼は、私とは全く別の道のりを踏破してきたんだ。私にはない強さで、私の強さを超えていった人なんだ。嬉しさが、体の奥から込み上げてきた。

 そうだ、彼だけじゃない。私と同じ道のりを歩いてきた人なんて、本当はいるわけない。みんな全く違う境遇に生まれて、全く違う個性を持って、全く違う起源(オリジン)を抱いてここまで来たはずなんだから。

 彼は、私にそれを教えてくれた。()()()()()()()()()

 

「そっか、そうだったんだ」

 

 私のなかでいろんなものが繋がって、辻褄が合った。

 ああ、私はまだはっきりと覚えている。赤瀬くん。きみの瞳は、あの日の夢子ちゃんの瞳だったんだ。

 

「赤瀬くん」

 

「なに?」

 

「ありがとう」

 

 私に大切なことを教えてくれて、私に大切な人を思い出させてくれて、ありがとう。今度こそ恥ずかしさが閾値を超えたのか、赤瀬くんはにひひと照れ笑いをしたのだった。

 一人になった保健室で、私はいろんなことを思い出している。私の人生を決定づけたいくつもの瞬間。私の価値観を決定づけたいくつもの言葉。たった十六年。何事かを為せたわけでもない人生だけれど、思い出してみれば記憶は繋がるものだ。

 明日からは、何をしよう。もう私は「最強」ではない。何から始めよう。ああ、わくわくする。こんな胸の高鳴りは、いつぶりだろう。今なら、どこへでも行ける気がする。私。私はどこへ行くのだろう。私にとっての「向こう側」はなんだろう。「向こう側」の反対側、「こっち側」には何がある?起源。私の起源(オリジン)はなんだろう。私が、最初に憧れたもの。瞳の奥の炎。

 

「元気に、してるかな」

 

 積み上がった記憶の一番上で、彼女がきらきら笑う。そうだ、まずは、もう何年も会っていない私の初めての友達に、会いに行ってみようか。




個性「心血」は主人公くん改め赤瀬巡くんのために考えた個性。考えた後に思ったけど、ぶっちゃけギアセカンドだよなあ、これって。

あと、本作の夢子ちゃんと賭ケグルイの夢子ちゃんとは何の関係もないのです。ただの偶然の一致。悪しからず。


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