めるぱん!! カレーは生き物&七人の妹 ~魔法も科学も全部入り! ハチャメチャ世界で生きる人間模様?!~ (きゃら める)
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カレーは生き物 第一章 ~ようこそ! メルヘニック・パンクへ!!~
カレーは生き物 第一章~ようこそ! メルヘニック・パンクへ!!~ 1


   第一章 ようこそ! メルヘニック・パンクへ!!

 

 

          * 1 *

 

 

 料理魔術の配信が開始されたのは、今日の朝からだったという。

「さぁて、準備おっけー!!」

 そんなことを言いながら僕の横で両手を握り合わせているのは、ロリーナ・キャロル。

 静かな滝のように、艶やかに背に流れる金色に輝く髪。

 彫像みたいな、なんて言ったら失礼になりそうなほど整った顔立ちと白い肌。

 楽しそうな色を浮かべている碧い瞳は、どんな海よりも深く、高空よりも抜けるよう。

 僕と同じ一四歳なのに、ロリーナの身体はもう大人のそれに近く、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいて、腰の高さは普通程度の僕が短足に思えるほどだった。

 レースやフリルで改造された制服の白いブラウスと紺色のプリーツスカートは、彼女の可愛らしさをより強くし、要所要所のプラや金属のパーツは彼女の格好良さを引き立てている。

 片付けはしっかりやってるし、できるだけ綺麗にもしてるけど、天井が高くてロフトベッドがある他は、手狭で古いアパートの一室には不似合いな女の子。それがロリーナだった。

 こんな美少女という言葉をそのまま体現したようなロリーナが、独り暮らしをしてる僕の部屋に来ているのは、彼女が一〇年来の幼馴染みだからに他ならない。

 もし他の理由があるなら嬉しいけど、そんなことはまずあり得ないだろう。

「待っててね、克彦(かつひこ)。今日はわたしの手料理を食べさせて上げるからっ」

 思わずうっとり眺めてしまいそうな、可愛らしい笑みを僕に向けてきたロリーナ。

 決して広くない部屋の、対面式キッチンに寄せてあるダイニングテーブルの上に置かれているのは、いろんな種類の食材。

 様々な種類の香辛料。挽肉。タマネギといった野菜類。大きなボトルに入った水と、お米の隣にはサフランの粉末。

 僕の部屋にストックしてあった食材の数々だ。

 どうやらロリーナがつくろうとしているのは、キーマカレーであるらしいことはわかった。

「いやぁ……、ロリーナ。もう少し簡単なものから試してみた方がいいと思うよ」

 料理魔術でつくったものを手料理と呼ぶのかどうかはとりあえず考えないことにして、僕はやる気だけなら満タンな笑みを浮かべるロリーナにそう提案する。

「何よ? 克彦。わたしの料理を食べたくないって言うの?」

「そういうわけじゃないんだけど、何て言うか、ねぇ……」

「いつも料理つくってもらったりしてるんだから、少しくらいお返ししてもいいでしょ?」

 僕と変わらない背のロリーナが、少し前屈みになって上目遣いに見つめてくる。

 不満を表す頬の膨らみとともに碧い瞳に見つめられた僕は、これ以上彼女を止めることなんてできない。

「……わかった」

 独り暮らしの僕はひと通りの料理をつくれるけど、ロリーナははっきり言って料理音痴だ。

 学校での成績は優秀だし、運動神経は僕なんかじゃ比較にならないほど高く、他にも様々な能力を持つこの美少女は、幼馴染みでなければ僕では近づくこと自体が畏れ多いほどの完璧な女の子。

 でも、料理と裁縫だけはダメだ。

 どうしてなのかわからないけど、そのふたつについては欠片もセンスがない。

 味覚がダメとか味つけがヘタとかではなく、理由はわからないが、まともなものがつくれたことがない。裁縫も布地に針を刺すより、指に刺す回数の方が多いくらいだ。

 確かに料理魔術は料理が下手でも完璧な料理がつくれると触れ込みの魔術だから、ロリーナでも問題はないと思う。

 けれど食材の他にテーブルの上に置かれているのは、子供なら中に入れそうなほど大きなサイズの寸胴鍋がひとつ。

 正直、悪い予感しかしない。

「さ、やるよ」

 そう言ってロリーナがスカートのポケットから取り出したのは、指揮棒のような杖。魔術を使うためのマジカルスティックだ。

 先端には赤い小型の宝石が取りつけられ、長く綺麗な人差し指と親指が支えている持ち手の部分は、彼女の指より心持ち太い。

 ロリーナがスティックを軽く振ると、先端の宝石が光り始め、詠唱が開始されたことがわかった。

 詠唱と言っても、彼女が口に出して呪文を唱えるわけじゃない。

 持ち手の部分にはエーテルアンプを内蔵してエーテル場を活性化させ、魔術配信会社からネット回線を使って配信されるスペルコードが先端の宝石、マナジュエルに読み込まれていく。

 赤く光っていたスティックのマナジュエルが、ピンク色に光を変え、料理魔術と、アドオンであるキーマカレーのレシピスペルを読み込み終えたことを知らせる。

「どうだ!」

 自信満々の笑みでロリーナがスティックを振り、マナジュエルから発生した赤い光の粉が食材に降りかかる。

 次の瞬間、食材が、そしてテーブルの上が光に包まれた。

「え?」

「――あれ?」

 発せられたのは目を開けていられないほどの強い光。

 ロリーナの疑問の声に不吉な予感を覚えつつ、僕は強くまぶたを閉じた。

 配信前に公開されていたプロモーションビデオでは、こんな光が発せられたりはしていなかった。軽く光って、光が消えると料理が完成していた。

 それなのにいまは、まぶたを閉じても光が見えていて、眩しくて仕方がないほど。

 たぶん僕の部屋から外にも溢れているだろう光は、爆発音や熱を感じたりすることなく、少ししたら収まった。

 まぶた越しでも強すぎた光でちかちかしている目を恐る恐る開けると、テーブルの上からは食材が消えていた。

 蓋をしたままの寸胴鍋には、何かが入っているような気配がある。

「よかった……。完成よっ」

 明らかに安堵の息を柔らかそうな胸に手を当てて吐いてから、ロリーナは僕に満足そうな笑みをかけてきて、スティックで寸胴鍋を示す。

 悪い予感は続いている。

 サフランライスになるはずだったお米は鍋に混ざっているんだろうか、なんてレベルじゃなく、飛んでもないことが起こっていそうな気がするほどの、激しい予感。

 ためらってる僕に口を尖らせ始めたロリーナに視線で促されて、仕方なくテーブルに近づいて鍋の蓋に手をかけた。

 ――何もありませんようにっ。

 カラカラになった喉を潤すように唾を飲み込み、祈るような気持ちで蓋を開ける。

 まず見えたのは、輝くような金色。

 それから、飴色に近い褐色。

 だが、鍋の中にあったのはサフランライスと一緒くたになったキーマカレーなんてものじゃなかった。

「ロ、ロリーナ……」

「何よ? そのヘンな声。ちゃんとできてるんでしょ? 一緒に食べよ」

「違う。できてると言えばできてるけど、違う」

「何が違うって言うのよっ」

 あんまりな事態に僕は上手く説明ができず、振り返って見たロリーナの目尻がつり上がっていくことなんて気にしていられなかった。

「ふわぁーーーーっ! おはよう……」

 眠たげな声とともに立ち上がったのは、女の子。

 この部屋にはほんの少し前まで、僕とロリーナしかいなかったわけで、その女の子は僕たちとは違う第三の人物だ。

 問題は、彼女がいま立っている場所。

 たぶんまだ四歳かそれくらいのその女の子は、鍋の中から立ち上がった。

「えっと……。ロリーナ?」

「うーん。あはは?」

 ぶりっ子気味に笑いかけてくれても、鍋の中の女の子が消えてくれるわけじゃなく、僕たちは首を傾げながら微妙な笑みを見せ合うことしかできなかった。

「パパー」

「え? 僕?」

 幼女にこくりと頷かれて、呼ばれているのが僕だと認識するけど、十四歳の僕はまだ子供をつくるようなことをした経験はない。

 というか、料理魔術を使ったのに、なぜ幼女が生まれたのかが理解できない。

 ロリーナに似た、金糸のように流れる髪。

 白い肌のロリーナに対して、この幼女の肌は褐色だけど、顔立ちは似ていて、成長したら美少女になるだろう片鱗がすでに見えていた。

 一糸まとわぬ幼女は、両腕を伸ばして僕に抱っこを要求している。

 まだ呆然としながらも彼女に手を伸ばして鍋から出し、抱き寄せると、その髪からは香辛料の混じり合った香しい匂いが漂った。

「あのー、ロリーナ。これはどういうこと?」

 僕の胸に頬をすり寄せてくる幼女に、僕はまだ回らない頭で問うてみる。

「さ、さぁ? どうしてこうなっただろぉ。えぇっと、ね? ちょっと調べてみる!」

 そう言って踵を返したロリーナは、玄関へと走っていく。

「ちょっ、待って! どうすればいいの?!」

「克彦に懐いてるみたいだから、お願い! あ、服とかは後で持ってくるから!!」

「いや、そういう問題じゃなくて!」

 ロリーナは振り返ることなく部屋から出て行ってしまった。

 追いかけたかったけど、裸の幼女を腕に抱いたままじゃ、それも叶わない。閉じられた玄関の扉を、ただ見つめることしかできなかった。

「……えぇっと、とりあえずどうするかな」

「パパ?」

 困った表情をしてるだろう僕を呼んだ幼女に、そのままの顔で彼女の顔を見ると、邪気をまったく感じないあどけない笑顔を見せてくれた。

「あのね、お腹空いたー」

「あぁ、うん。何が食べたい?」

 言われて半分反射的にそう問うと、幼女は唇をすぼめ額に可愛いシワを寄せながら考える。

 ――これから僕は、どうしたらいいんだろう。

 どこから来てしまったとかではなく、たぶんいまあのキーマカレーの食材から生まれただろう女の子。ちゃんと言葉は喋るし、僕をパパと呼んだことから考えて、ある程度の知識があることはわかった。

 でも突然パパなんて呼ばれても、十四歳の僕にこんな女の子を育てるところなんて想像もできない。

 というか、見た目には完全に美幼女だけど、本当に人間なのかどうかもわからない。

 腕の中の女の子を見下ろし、僕は思う。

 ――彼女がこの世界で頼れるのは、僕だけなんだ。

 数分前に生まれたこの子は、僕と、家を飛び出してしまったロリーナにしか知られていない。僕たち以外、この世界で認知されていない存在だ。

 そんなか細い状況がわかっていないのは、生まれたその瞬間から僕が側にいて、まだこの世界のことと、自分のことについて知らないからだろう。

 彼女を守ってやれるのは、僕だけだ。

 ――最初から決まってるじゃないか。

 どうしようなんて考える必要はなかった。僕は僕にできることを、精一杯やればいいだけだったことに気がつく。

 僕が、そうしてもらったように。

 そんな想いを抱きながら、まだ考え込んでる様子の美幼女を見つめると、彼女は何かを思いついたように表情を明るくして、言った。

「カレー、食べたい」

「……」

 ――これは共食いにはならないんだろうか。

 返事をすることもできない僕は、生き物だったカレーの女の子を腕に抱きながら、そんなことを考えていた。

 

 

            *

 

 

「キーマ、行くよー」

「待って、パパーッ」

 玄関からそう声をかけると、パタパタと足音を立てながらやって来た美幼女。

 名付けとしてどうかとは思うけれど、僕は料理魔術の暴走によって生まれてしまった女の子に、元々彼女がなるはずだった料理の名前であるキーマとつけた。

 ロリーナはあの後、一度やって来て残っていた自分のお古とか新品の下着とかを袋に詰めて持ってきてくれた。

 でもやることがあるから、と言ってすぐに家に帰っていってしまった。

 キーマを、僕に押しつけて。

 ――何を考えてるんだか。

 キーマが生まれたのはロリーナが使った料理魔術が原因なのだから、僕がパパってよりも、彼女がママだと思うんだけど、ふたりは微妙に仲が悪いっぽい雰囲気があった。

 服を届けに来たロリーナを見て、何故かキーマは不機嫌にそっぽを向いたのだ。

 ――何かあるのかな。

 生まれ方が特殊だから、キーマがどれくらい知識を持っているのかはわからない。服は自分で着られたし、言葉にも問題はないし、僕をパパと認識したりと、最低限の知識があるのはわかる。いろいろ聞いてみた結果、それ以上のこととなると怪しいっぽいこともわかった。

 本当に生まれたばかりのキーマがロリーナと何か確執があるとは思えなかったが、術者であるロリーナと被造物であるキーマには、何らかの繋がりがあるのかも知れない。

「ん。似合ってるよ、キーマ」

「えへへっ」

 奥からやって来たキーマが着ているのは、真っ白なドレス風のワンピース。

 それには見覚えがあった。ロリーナが幼い頃に着ていたものだ。

 ロリーナの白い肌に溶け込むような色合いも幼心に素晴らしいと思っていたけど、キーマが着ると褐色の肌とのコントラストも可愛らしいと思える。

 ニコニコと笑って、僕の言葉に満足そうに首を左右に振ってるキーマの金色の髪を軽く撫でてから、いまどき珍しい日本風家屋の玄関で、スニーカーを履いて玄関の扉を開いた。

 お出かけしなければならなくなったのは、食材が足りないから。

 キーマからのリクエストであるカレーは、さっきロリーナが料理魔術で消費してしまって、僕の家のストックが不足していた。だから僕は、キーマの服も調達できたことだし、買い出しに行くことにした。

 まだわからないことの多いキーマは家に残しておきたい気持ちもあるけど、家に籠もってるらしいロリーナはメッセージを飛ばしてみても返信がない。

 幼い女の子をひとり家に残して出かけるわけにはいかなかった。

 赤い靴を履いて出てきたキーマと手を繋いでアパートのような建物の一階廊下を少し歩き、ガレージへと向かう。駐機場。

 車やバイクが並んでいる駐機場の隅っこ、盗難防止用にかけてある簡易幌のロックを解除してフルオープンにして出てきたのは、僕が必死でいろんな仕事をしてお金を貯め、ほんの数ヶ月前についに購入したバイク。

 幼い頃からバイクみたいな乗り物は大好きで、十二歳で取れるカテゴリー三の飛行魔術免許は、このバイクのために誕生日と同時に取得していた。

 ふたり乗りどころか、三人で乗っても大丈夫なほどの大きなサイズ。白と赤のボディは黒のラインで彩られ、週に一度は磨いてるからぴかぴかに輝いている。

 思わず口元に笑みを浮かべた僕は、バイクのハンドルをつかみ、手元のスイッチを入れた。

 途端に微かな唸りを立てて、一〇センチほど、バイクは浮き上がる。

 空を浮くこいつは、スカイバイク。

 一般人が購入可能なものでは最大出力の、カテゴリー三のエーテルアンプを搭載し、魔術の発動に必要なマナジュエルは、実はカテゴリー四をわずかに欠けるカテゴリー三扱いのものを選んで採用したというもっぱらの噂のビックマシン。

 料理魔術のように配信型ではなく、内蔵ストレージに各種飛行用魔術を格納したスカイバイクは、飛びながらでも微調整が可能なマニュアル型。

 エーテルアンプを最大負荷にして、マナジュエルをフルロードさせれば、その最高速度はマッハを遥かに超え、オプションの大気圏外用装備を装着すれば月との往復だって可能だ。

 そんな化け物染みたスカイバイクを駐機場から道に出して、浮かせたまま停める。

「すごいね、パパ!」

「いいだろー? さぁ、これに乗って行くよ」

「うんっ!」

 嬉しそうにはしゃぐキーマの身体を抱き上げて、僕が座る席の前に座らせ、つかめる場所を指示する。

 アパートの敷地の端の、発着場まで来て僕もバイクにまたがり、ハンドルのモードで浮遊魔術から飛行魔術に切り換え、前進させた。

 敷地の先には、道はない。

 そこはもう空中。

 僕が住んでいるアパートの敷地は、空中に浮くプレートの上に建っている。

「わぁ、浮いてるーっ」

「手ぇ離すなよーっ」

「大丈夫ぅ!」

 はしゃいで振り向くキーマに注意を促して、僕は空中に設定された道、空路の上を低速にしてバイクを走らせる。低速と言っても、すでに時速一〇〇キロは超えてるが。

 そろそろ夕方になる空路には、いろんなものが飛び交っていた。

 僕が乗っているような大小のバイク。

 鋭角だったり丸みがあったりする車。

 一番多いのは、様々な形状、種類をしたホウキに分類される乗り物で、またがったり横座りだったりで、小回りを利かせて空路を飛び交っている。

 他にも背中に背負ったランドセルから伸びる翼のようなスラスターだったり、車輪のないスケートボードだったり、イオンジェットを吐き出す靴だったりで、夕方の街並みをいろんな人が飛んでいた。

 いま進んでいるのが空中でなければ、普通の街並みにも思えるけど、マンションだったり一軒家だったりする建物はみな、空に浮くプレートに建っていたり、建物そのものが浮いてたりする。

 下を見れば、中層にある僕の住むアパートよりもさらに下、下層までの街並みがウェハースのように積層してるのが見える。もちろん、それぞれの階層の空路にも、いろんなものが飛び交っている。

 上を見れば、空路に飛び交う車やバイクの隙間から、夕暮れに染まりつつある空が見えた。

 これがこの街、ネオナカノの街並みだ。

「パパ、もっと! もっと見たい!!」

「わかった!」

 エアシールドの魔術を展開してても貫いてくる春先の風は気持ちよく、僕はキーマのお願いもあって、バイクをもう少し走らせることにする。

 二車線設定だった空路から四車線の空路にバイクを乗り入れ、ネオナカノの外周へと向かう。

 エンターの標識が浮いているところからバイクをさらに走らせると、街並みが途切れた。ネオナカノの外に出た。

「上がるぞ!」

「うんっ!」

 空路設定されていない空中を、僕はエーテルアンプを吹かし、マナジュエルに読み込まれている飛行魔術をシフトアップさせ、上空へと駆け登る。

 ネオナカノからけっこう離れた高度約三〇〇〇メートル。

 そこからは街の全景が見えた。

 青と茜のコントラストに彩られた街は、いびつな卵型。

 ネオナカノ自治区の行政機能が集約された、卵の中央を貫く尖塔の高さは、二〇〇〇メートルを超えてる。

 その下、街並みが始まるのは一八〇〇メートル辺りからで、下に向かって膨らむように、ここからだと縞模様に見える各階層が積み上がり、地上近くで少しすぼまっている。

 空からじゃ見えないけど、地下にあるジオエリアは、その最下層は三〇〇メートルほど。

 最大直径は二〇キロちょっと。狭いところでも一八キロほどあるそこが、ネオナカノ自治区。街は上から潰したような、でっぷりとした縞々の卵のよう。

 旧東京都中野区と、その周囲の区を巻き込んで建造された都市。それがいま僕が住んでいる街だった。

 西暦が数えられていたのは、もう昔の話。

 いまの時代、国家というものは限りなく薄い存在となり、街、自治区、人を縦軸に、会社や機関などの様々な組織を横軸にして社会は成り立っている。

 いまから三〇〇年ほど前、魔導子マナと呼ばれる素粒子と、マナが媒介するエーテル場が発見され魔導量子力学が確立したことで、この世界は大きく変わった。

 同時に発明されたエーテル場を活性化するエーテルアンプ、マナを物質化したものと言われるマナジュエルにより、人は誰でも魔術を使えるようになった。

 エーテル場から電気エネルギーを取り出せるエーテルリアクターは、いまでも発電方法の中心は地熱だったりするけども、エネルギー問題解決に大きく貢献した。

 魔導をきっかけに科学も大きく発展し、人々の生活はそれ以前に比べるべくもないほど変化し、暦は西暦から魔導暦へと改められた。

 それだけでなく、魔導はそれまで認識されていたものとは異なる生命体との交流のきっかけともなった。

 まるでSFのように、太陽系外から現れた異星人が通商を求めてくるくらいなら、まだ現実的な話だ。

 神話や伝承に語られる神様や精霊や聖獣魔獣妖獣といった幻想生物は、実はマナとエーテル場に関連していることが判明し、気がついたときには世界に当たり前のように姿を見せるようになり、総称してファントムと呼ばれ、認知されている。

 他にもいろんな種類や種別の人間、人間以外の者が住む世界。それがいまの世の中。

 料理魔術でキーマが生まれたことは驚いたけど、いまの世界では不思議ではあっても、あり得ないことではない。だから僕も、キーマのことはとりあえず受け入れることができている。

 ――この世界に来た頃だったら、受け入れられなかったと思うけどね。

 金色の髪をなびかせながら、ほぼ滞空するバイクから、キーマはネオナカノの街をじっと眺めている。

 キーマのような生き物が当たり前のように生まれるこの世界。

 エーテルリアクターで短期的にはともかく、長期的には半永久的なエネルギーが得られるようになり、生活レベルは果てしなく向上し、人間の他に異星人やファントムなどの生き物が住む。

 不思議で、便利なこの世界を、少し前の人はメルヘンの世界だと評したと言う。

 でも便利であると同時に、平均寿命すら集計されることがなくなったこの世界には、退廃的な影も現れているという。それに、今年は魔導暦二九五年。まさに世紀末だ。

 それに合わせてか、いまのこの世界を、多くの人はメルヘニック・パンクと呼んでいる。

 僕が生まれたのは、こんな便利で、不思議で、退廃的な世界じゃない。

 僕は二一世紀に生まれ、幼い頃に何の因果か、この世界に来てしまった人間だ。

 それから十年が経って、この世界での生活の方が長くなっても、メルヘニック・パンク時代に驚かされることが多い。

 ――僕は、どうしてこの世界に来てしまったのだろう。

 そう思うこともある。

 元いた世界の記憶は、朧気になりつつある。

 僕が生まれた世界に帰る現実的な方法は、見つからなかった。

 だから僕は、この世界で、このメルヘニック・パンクの時代に生きることしかできない。

 ネオナカノの街を見下ろしていたとき、可愛い音が聞こえた。

 それはキーマのお腹の音。

「えへへっ。お腹空いちゃったぁ」

「そうだね。僕もお腹空いてきた。さっさと買い物を済ませて、カレーをつくろう」

「カレー! カレー!!」

 歌い出しそうなキーマに思わず笑みを零しながら、僕はいつも使ってるマーケットに向かうため、バイクをネオナカノに向けた。

 

 

 

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カレーは生き物 第一章~ようこそ! メルヘニック・パンクへ!!~ 2

 

 

          * 2 *

 

 

「おはよう、克彦。……どうかしたの?」

「あぁ、ロリーナ。おはよう」

 朝になり、食事を終えて制服のブレザーを着た僕がアパートの部屋から外に出ると、もうロリーナが扉の前で待っていた。

 身体にあんまり力が入らなくて、肩を落としてる僕に対して、ロリーナもなんでか目の下に隈をつくって、げっそりした顔をしていた。可愛い顔が台無しになりそうだけど、それでもやっぱり彼女は美しい。

 昨日と同じ改造済みの純白のブラウスにフリルが飾られた濃紺のプリーツスカート、それからやっぱり改造してある上着を羽織る彼女は、基本はホウキのように、長い持ち手と下端に膨らんだ部分はあるけど、見方によっては大型ライフル銃のようにも見える、金属製の魔導ホウキを片手に持っている。

 魔導ホウキは個人用の移動手段として、たいていカテゴリー二のエーテルアンプとマナジュエルを搭載してる。

 でも改造してカテゴリー三に近いものを搭載してるロリーナのそれは、出力関係だけじゃなく物理的にも強靱な、ロリーナスペシャルなホウキだった。

「どこいくのー?」

 僕がげっそりした顔をしている原因である声が聞こえてきて、奥からやって来た。

 ロリーナに一瞬むっとした視線を向けてから、僕に笑いかけてきてくれるのは、キーマ。

 昨日の午後から一緒にいる彼女だけど、まだ十四歳で、独り暮らしをしてる僕には、幼い女の子の相手というのは、予想以上に大変な仕事だった。

 まだキーマは聞き分けがいい方だろうからマシなんだと思う。

 それでも何にでも興味を持つ彼女は、僕の部屋で盛大にいろんなことをしてくれた。

 ネットから育児関係の情報を拾い上げて見たりはしていたけど、そんなものは事前に準備をしているからこそ意味があるもので、キーマに対しては何の役にも立たなかった。

「おはよう。キーマって名前になったんだね」

「んっ。……おはようっ」

 ロリーナの挨拶の声にキーマはちゃんと答えるけど、すぐにそっぽを向く。ふたりの仲の悪さ、というか、キーマがロリーナを嫌ってる理由は、よくわからない。

 本来ならロリーナがキーマの生みの親なんだし、生まれ方が普通じゃないからそういうのはないのかも知れないけど、あっちに懐いてもいいんじゃないかと思えた。

 ――思えばロリーナがママで、僕がパパって設定、なのか?

 ふとそんなことを思って、僕はちょっと嬉しくなるのと同時に、なんだか悲しくなる。

 学校では絶大な人気があるロリーナ。そして彼女の人気は、学校内だけに留まらない。

 そんな彼女が僕に構ってくれるのは幼馴染みだからこそだろう。

 僕がパパで、ロリーナがママで、キーマが子供という設定は、ある意味凄く嬉しいんだけど、それが現実になることがないというのが、悲しくもあった。

「やっぱり、消えなかったんだね」

「え? うん。え?」

 駐機場に向かって歩き始めた僕に、ロリーナが耳元で小さく囁く。

 目の下にくっきりとした隈がある彼女は、夜遅くまで、もしかしたら朝まで寝ずに何かをやっていたらしいことはわかった。

 僕にキーマを押しつけて、ロリーナが少しも手伝ってくれなかったことに不満はもちろんある。

 ただ、幼い子供が苦手なのはよくよく知ってるし、それに彼女は、迷惑を僕にだけ押しつけて、何もしてくれないような無責任な性格もしてない。

 キーマを放って置いてママのロリーナが何をしていたのかはわからない。

 十年もの間、ロリーナとの関係が途切れてない僕は不満はあっても、割と責任感の強い彼女は、僕にできない何かをしてくれてたんじゃないかと思えた。

「後で説明する」

「うん、お願い」

 顔を引き締めてそう言うロリーナに、キーマの手を引く僕は、同じように顔を引き締めて答えていた。

 駐機場からスカイバイクを出し、ロリーナと並んで歩いて発着場まで向かってるとき、背後から革靴の足音が聞こえた。

 イヤな予感。

 でも、振り向く以外にはない。

「うわっ……」

「きゃーーぁ!」

「はぁ……」

 僕の驚きと、キーマの悲鳴と、ロリーナの呆れ声はほとんど同時だった。

 一瞬前まで気配すらなかったのに、いつの間にか僕たちの後ろに現れていたのは、きっちりと黒いスーツを着た人物。

 ただし、顔がおかしい。

 特徴的な顔をしてるってだけならまだマシだ。

 目はなく、前後に長くてわずかに弧を描き、僕の拳よりも小さそうな口から、キシャー! とでも言いそうな、その顔。

 緑色でねっとりとした粘液質の表皮をしているそれは、B級映画に出て来そうな、エイリアンの頭部そのものだった。

「お、おはようございます。モンスターギュ男爵」

 バイクの上に座るキーマはしがみつくようにしてくるが、僕はできるだけ冷静に挨拶をする。

 怪物の顔で頷きを返してくれるその人物は、モンスターギュ男爵と呼ばれる、人。

 本名かどうかはわからない。人間なのか、ファントムなのか、異星人なのかすら誰も知らない。

 一切喋ることはなく、喋ったのを聞いたことがあるという話も聞かないから、本当に正体不明で、ネオナカノの住人なのかもわからず、ここで出会う人物の中でも一番くらいに不思議な、たぶん人。

 必ず身体はスーツをきっちり着こなし、今日はエイリアンだけど、出会う度に違っている頭部は何かしらのモンスターなので、見た目で判別が着く。彼の名前はその頭部だからつけられた愛称なのかも知れない。

 噂ならいろいろあるが、どんな人物なのかは誰もよくわかっていない。

 普通にしていればたいてい人畜無害なのはわかっていた。

「探し物は見つかりました?」

 ロリーナがそう問うと、彼は両手を上に向けながら大きく肩を竦めて見せる。

 正体不明でよくわからないモンスターギュ男爵だけど、名前と一緒にわかっていることがあった。

 いつも、何かを探しているということ。

 それが何なのかは、声を発することもなければ、文字での会話もほとんどしてくれないから、知られていない。

 それでもいろんなところに出没して、何かを探し続けていることだけは、確かなようだった。

「ひっ」

 悲鳴を上げたのはキーマ。

 顎、らしき場所に白い手袋に包まれた手を当てて、モンスターギュ男爵はじっくりキーマのことを、目のない顔を近づけて眺めてる。

「大丈夫だから」

「でも……。パパ、怖い……」

 四歳くらいの女の子が見たら、そりゃあいまのモンスターギュ男爵のようなグロテスクな顔は恐怖の対象だろう。

 でも静かにしていれば、ヘタなことをされることは、滅多にない。

 キーマの肩に腕を回して軽く叩いてやりながら、僕は見つめてくるモンスターギュ男爵の行動が終わるのを待つ。

 何に納得したのか、満足そう、にも見える頷きを何度もした彼は、次に僕とロリーナのことを交互に見つめてきた。

 ――抑えてくれよ、ロリーナ。

 学校に向かうはずが足止めを食らって、けっこう短気なロリーナが、そろそろ不機嫌そうに顔を歪め始めてる。彼女はモンスターギュ男爵が相手でも、理不尽なことをしてくる人に対しては容赦をするタイプじゃない。

 僕の心配は杞憂に終わったようで、また何かに納得したらしいモンスターギュ男爵は何度か頷き、上着のポケットに手を突っ込んだ。

 取り出したのは、何かのスイッチ。

 手に握り込めるくらいの円筒形で、白い筐体の先端に、赤いボタンがある。似ているものを想像するなら、爆弾の遠隔起爆スイッチ。

 でもスイッチだけあっても仕方ないし、何に使うものなのかはわからない。

 モンスターギュ男爵はそれをロリーナの左手を取って渡し、握り込ませた。

「何なの?」

 不機嫌そうに眉を顰めるロリーナに、彼は肩を竦めて答えようとはしない。

 そのまま背を向けて歩いて行ってしまった。

「……どうするの? それ」

「さぁ、どうしよう。ヘタに捨てられそうにないしね、あの人が押しつけてきたものなんて」

 モンスターギュ男爵は、本人が何か問題を起こすことは少ない。いや、あの恐ろしい顔を見たら、驚いて転けたり逃げ惑ったりする人は少なくないようだけど。

 仕事とかは何してるか知らない。たまに人に発明品か何かの物を渡すことがあって、たいていは何の役にも立たないガラクタなんだけど、たまに魔導的に飛んでもない物もあって、それを使った人が事件を起こしたり、悲惨な目に遭ったりという話は聞いたことがあった。

 ロリーナの見つめてる物もいったいどんなものなのかわからない。

 指でつまんで彼女が眺め回してるボタンの部分には、よく見ると「REDO」という文字が、微かに書かれてるのが見えた。

 ――レド? 人の名前かな? 本当になんなんだろ。

 周囲を見回してまたモンスターギュ男爵が現れないかと警戒してるらしいキーマをバイクに座り直させて、僕は発着場へと歩き出す。

「行こう」

「ん。そうだね。学校に遅れちゃう」

 そんなことを言うロリーナは、遅刻したりサボったりが多いような気がするけど、気にするのは止めてバイクにまたがり、横座りにホウキを構えたロリーナと、空路へと舞い上がった。

 

 

            *

 

 

 一度息を飲み込んでから、僕は思いきって教室の扉を開ける。

「おはよう」

 そう声をかけながら中に入ると、みんなは一斉に僕たちの方に目を向けてきた。

 それもそうだろう。

 学校で絶大な人気を誇るロリーナと一緒に学校を通ってるのは幼馴染みってことで見逃されてるけど、肌の色は白と褐色で違うにしろ、面影がロリーナに似てるキーマと僕が手を繋いで教室に入れば、視線を集めるのも仕方ない。

 この学校、セントラルナカノ学園ことCNGに去年入学して以来、すでに告白された回数は三桁を超え、メッセージや古風な手紙のラブレターなどは四桁に達するというロリーナと、特別良いところもなく、成績も運動神経もぱっとせず、あんまり公表はしてないけど異世界漂流者であることくらいしか特徴がない僕とじゃ、釣り合うはずもない。

 恋愛の可能性もなく幼馴染みというだけでロリーナが構ってることで、僕は男子だけでなく女子からもヘイトを集めていたりする。

 その上ロリーナに加え、キーマと登校してくるなんて、一大事と言っても過言ではないだろう。

 ――事前にロリーナが先生には連絡してくれてたけど、クラスのみんなには伝わってないみたいだからなぁ。

 何かを警戒してるのか、それとも驚きすぎているのか、遠巻きにして近づいてこないクラスメイトに、僕は緊張を覚えつつも何歩か教室に入っていく。

「あの……。どうしたの? 音山君。もしかしてその子、ロリーナとの、その……」

 背後から恥ずかしげな、か細い声がかけられる。

 声の感じからすると、小柄で細い女の子を頭の中に思い浮かべることができる。それくらい可愛らしい声だ。

 でも、振り返ったそこにいるのは、分厚い装甲。

 普通の人の何倍もある身体の厚みと、二メートルを超える身長の人型ロボットと思しき、重機動装甲兵にしか見えないその人は、人間ならば口があるはずの場所に、僕の細い腕ほどありそうな指を当て、躊躇いがちに問うてくる。

「ロリーナとの間に子供つくったの?!」

「そんなことあるわけじゃないじゃないか、稲生(いのう)さん」

 おろおろとしている重機動装甲兵の名前は、稲生紗理奈(さりな)さん。僕やロリーナより一歳年下の十三歳。

 見た目はどこからどうみても重機動装甲兵だけど、彼女は立派な女の子。

 魔導があり、科学も発展していて、ほとんどの病気や身体の不都合は治せるし、延命だって若返りだっていろんな方法があるメルヘニック・パンクな世界だけど、すべての病気や体質が治せるわけじゃない。

 稲生さんは生まれつき身体が弱く、魔導医療でもそれを改善できなくて、幼い頃に身体の機械化に踏み切った女の子だ。

 弱い身体がコンプレックスだったらしく、だんだんと身体を強く、強靱にしていった結果、いまの身長約二メートル、乾燥重量五〇〇キロを超える重機動装甲兵、ならぬ重機動装甲乙女へと変化していったのだと言う。

 声はもちろん、性格的には完璧にか弱い女の子で、見た目のギャップもあってか密かに人気が高い。もちろん、この見た目が好きな男の子に限るみたいだが。

 しかし稲生さんには幼い頃からつき合いのある彼氏がいて、CNGに入学するのと同時に半同棲状態に突入しているという。当然、その彼氏も重度のメカマニアなわけだけど。

 稲生さんはある意味先端だけども、クラスメイトのラインナップは彼女程度は序の口だ。

 教室内にいるのはグレイタイプだったり岩石型だったりする異星人を手始めに、制服のブレザーの上に羽衣を纏っている天女系ファントムだとか、モニュメントにしか見えない一応ファントムだとか、様々な人がいる。

 一番多いのは僕やロリーナと同じ普通の人間だけども。

 ネオナカノでは学校は義務だけど、教育期間は他の自治体と同じく三年。

 入学年齢も六歳以上二〇歳以下であればいつでもよく、クラスメイトと言っても年齢は様々だ。

 このメルヘニック・パンクの世界では、基礎的な勉強に関する知識は基礎インプリンティング学習として脳に書き込むのが普通なので、僕が生まれた二一世紀の学校とは、その存在の意味が大きく違ってしまっている。

「僕はまだ子供を持つような歳じゃないし。それにあり得ないでしょ? 僕と、その……、ロリーナで、なんて」

「え? ……う、うん」

 稲生さんの問いに、僕はあり得ないことと可能性を切って捨てる。

 隣にいるロリーナが、何故か僕のことを軽く睨みつけてきてる気がするけど、さすがに彼女と親友と言っていいくらい仲良しの稲生さんであっても、キーマが僕との子供と言われたんだから、機嫌が斜めになるのも仕方ない。

 しっかり否定しておかないといけないなと、僕は思う。

「昨日ちょっと、事故があってね」

「そうなんだ」

 教室内の男子からは、これまであったピリピリとした攻撃的な視線に代わり、なんだか微妙なものを含んだ雰囲気が漂ってきてるけど、その意味は僕には理解できなかった。

 不満そうに息を吐き、腰に手を当ててるロリーナが何を考えてるのかも、よくわからない。

 何だかよくわからない状況の教室内で、その空気を斬り裂くような声が発せられた。

「ふんっ! ロリーナ。事故かなんだか知らないが、子供をつくってしまうなど己が分をわきまえよ!」

 そんな尊大な感じのある声をかけてきたのは、僕やロリーナよりも少し小柄な、純和風の、黒髪を膝裏まで伸ばしている同じクラスの女の子。

 小柄だけど僕たちよりも一歳年上の一五歳で、ピシリとした清楚さを持つ彼女は、カグヤ・プラクティカ。

 僕たちと同じ太陽系人類だけど、出身は地球ではなく、月。

 一説によると人類史よりも歴史があるという、月の地下世界に古くから住んでいた、月下人と呼ばれる一族の女の子だ。

 彼女に付き従うように少し後ろに歩く背の高い女性はツクヨ・マイナシア。

 十代くらいにも見えるけれど、大人びた雰囲気を醸し出すツクヨさんは、同じなのに幼さを感じるカグヤさんとは別物に見えるようなくらい制服を着こなし、クセのあるセミロングの髪を揺らしながらにこやかな笑みを浮かべている。

 カグヤさんは月下人の中でも、一族をまとめる現在の首長の娘で、ツクヨさんはカグヤさんの護衛とお目付役として、一緒に行動していることが多い。

 月下人は遺伝子的には地球人とほぼ同じであることがわかっていて、見た目にはほとんど違いはないんだけど、何かの風習らしく、ふたりの頭にはウサギの耳を模したヘアバンドが乗せられている。

 近づいてきたカグヤさんは、顎を反らした上から目線で、身長差によって自分の目より上にあるロリーナの目を睨みつけながら言う。

「克彦と子供をつくるなど、破廉恥極まりないぞ!」

「わたしと克彦が子供つくったとしたら、何か問題があるの?」

「当たり前だ! お前たちは結婚をしていないどころか、恋仲にすらなっていないのだろう? そんなつき合いで子供をつくるなど、まともな者のすることではないわ!」

 いまどき子供をつくる方法はいくつもあるから、僕くらいの年齢で子供がいる人もいなくはないけど、カグヤさんの発言はいろいろ前提が間違ってる気がする。

 ロリーナとカグヤさんは火花でも散っていそうなほど強い視線で睨み合う。

 僕はその様子を見ているしかなく、僕と手を繋いでるキーマは不思議そうにふたりのことを眺めていた。

 他のみんなも固唾を飲んでいる中、カグヤさんの後ろに控えるツクヨさんだけが、なんだか楽しそうな笑みを浮かべている。

「どうせお主がそのイヤらしい身体で克彦をたらし込んだのであろう?」

「もしそうだったら、どうだって言うの?」

「くぅ!」

 余裕の笑みを浮かべるロリーナに対して、カグヤさんは悔しそうに歯を食いしばる。

 何だかよくわからない雲行きのふたりに、僕はとりあえず言い争いを止めようと、キーマから手を離して間に割って入る。

「いや、ちょっと待って。違うからっ。そういうことじゃないから! あり得ないからっ」

「克彦は黙ってて!」

「克彦は黙っておれ!」

「……はい」

 ふたりから睨みつけられて、二の句を告げなくなった僕は、すごすごとキーマの元まで戻る。

「よしよし」

「ん。ありがと」

 戻ってきて手を繋いだ僕を、キーマは慰めてくれるように空いた手で腕を撫でてくれる。

「お主とはここで決着をつけねばなるまいな」

「いいわよ。いつもいつも突っかかってきて、うざったかったのよ。白黒はっきりつけましょ」

 一触即発の状況に、僕はもう手が出せないでいた。

「あらあら」

 避難してきたらしいツクヨさんが、状況に流されずに楽しそうな笑みを浮かべて僕の隣に立ち、キーマににっこりと笑いかける。

 ロリーナがスカートのポケットに入っているスティックに手を伸ばし、カグヤさんが大粒のマナジュエルがはめ込まれた指輪を突き出したとき、さすがにこれ以上続けさせられないと、僕は大声を出した。

「違うんだ! キーマはその、昨日ロリーナが使った料理魔術の暴走で生まれちゃっただけなんだ!! 僕とロリーナの子供とか、そういうのじゃないんだ!」

「料理魔術の暴走で、だと?」

 その言葉に指輪の構えを解いたカグヤさんは、僕の方に目を向ける。

 揃えた指を口元に当て、唇を歪ませる。

「くっ、くくくくっ。魔術ごときを失敗するなど……。くくくくくくっ!」

「バグが仕込んであったのよ。けっこう厄介な奴が」

「そのバグにまんまと引っかかったのであろう? くくくっ、あーっはっはっはっ! 手先だけでなく、ロリーナは魔術も不得意なのか? これは傑作だな!」

「くくっ」

 さっきまでカグヤさんが歯を食いしばっていたのに、今度はロリーナが歯を食いしばる番だった。

「料理と裁縫の腕なら、カグヤ様もロリーナ様とあまり違いはありませんのにねぇ」

「こら、ツクヨ!!」

 相変わらず雰囲気に流されないツクヨさんの言葉に、カグヤさんは顔を真っ赤にする。

「似たようなものじゃない、カグヤ?」

「ふんっ。お主と同じにするな。魔術に仕込まれたバグ程度に引っかかるお主と!」

「何よ!」

「何だと?!」

 前屈みになったロリーナと、少し背伸びをしたカグヤさんが、顔を近づけて睨み合う。

 ――まぁ、こんなのもいつものことだけどさ。

 ロリーナとカグヤさんの仲が悪いのは入学当初からで、理由はよくわからないけど馬が合わないらしい。

 口喧嘩くらいはしても、殴り合いの喧嘩にまで発展することはない。たまに、決闘に発展することはあるけど。

 いつ終わるとも知れない睨み合いは、新たに教室に入ってきた人物によって終わりを告げた。

「そこまでにしてくださいね、おふたりとも。仲がいいのもわかりますが、大概にしてください。ホームルームを始めますよ」

 どう見ても険悪な状況なのに、どうしてふたりの仲がいいなんて言うのかよくわからない。

 でもそんなことを言うこのクラスの担任の登場で、お互いそっぽを向いたふたりは自分の机に向かっていった。

 僕もキーマを連れて机に向かい、クラスメイトたちもそれぞれの机に着く。

 教壇に立った担任は、カグヤさんよりもさらに背が低い。

 カジュアルな服を着ているから、制服の僕たちと違ってはいるが、ともすると子供にも見えてしまいそうだ。

 結い上げた黒髪をし、柔和な笑みを浮かべているその女性、ヌナカワヒメ先生は、人間ではなくファントム。

 日本神話にも登場する古い女神のひと柱。

 女神だけあって、滅多にはないが、怒ると手がつけられないという噂のヒメ先生は、キーマを膝の上に座らせる僕の方に視線を向けてきた。

「音山君。キャロルさんから連絡は来ています。その子がキーマさんね」

「え? あっ、はい」

「今日は授業はいいですから、第一保健室に行って、キーマさんの身体を検査してもらってきてください」

「わ、わかりました」

 椅子から立ち上がってキーマと手を繋ぎ、集まってるみんなの視線にちょっと冷や汗を垂らしつつ、ヒメ先生に言われた通り保健室に向かおうとする。

 廊下に出たところで「わたしも一緒に行く」と言って、ロリーナも教室を出て来た。

「どこに行くの? パパ」

「保健室。って言ってもわからないか。キーマが元気かどうか調べてもらうところだよ」

「キーマは元気だよ!」

「うん。でも、ちゃんと検査をしてもらおうね」

「わかった!」

 ホームルームが始まって静かになった廊下に、キーマの元気のいい声が響き渡る。

「まぁ、さっさと行きましょ」

「そうだね」

「えー。ロリーナも一緒ぉ?」

「いいでしょ、別に」

 頬を膨らませるキーマに対抗して頬を膨らませるロリーナも一緒に、僕は第一保健室に向かって歩き始めた。

 いろいろと、不安を覚えながら。

 

 

            *

 

 

 CNGには第五までの保健室があると言われている。

 第五はいまは使われず空いていて、第四は何故か存在は報告されているけど、場所が確認されていない。主に使われているのは第一から第三までの保健室で、それぞれ腕利きの養護教諭が担当している。

 それだけ保健室があるのは、CNGが相応に大きな学校だからで、卒業自体は三年通って卒業試験をパスすればできるけど、卒業を望まない人は何年でも通い続けることができる。

 僕とロリーナは一〇四期生二年目だけど、一番古参な学生はひと桁期の人がいると言う。

 メルヘニック・パンクの学校は小学校から大学までを一緒くたにしたようなものだから、もっと勉強がしたいため、研究などをしたいために残る人もいるし、学生で居続けるために残る人もいる。学生でいるということは、この世界ではメリットのあることだったりもするから。

 重い気持ちが顔にも出てる僕のことをちらちらと心配そうに見てきてくれるキーマの手を引きながら、学校全体の構造はともかく、二一世紀の学校とあまり変わらない廊下を歩いてたどり着いた第一保健室の表札がついた扉の前。

「何してんの? 早く行くよ」

「うん……」

 そうロリーナに促されて、僕はノックの後に彼女が開けてくれた扉を潜った。

「おはようございます……」

「おや、珍しいね。音山克彦君か。君は私のことを避けてると思っていたのに」

「そんなことは、ないですけど……」

 学校によくある回転チェアから気さくに声をかけてきてくれたのは、まだ二〇代半ばに見える若い女性。

 第一保健室を支配している養護教諭のサリエラ先生だ。

 ロリーナのもうすっかり大きいってサイズになった胸や引き締まった腰もときどき目のやり場に困るけど、サリエラ先生のはそれ以上だ。

 走らなくても身体を動かしただけで揺れるほどの胸と、何を食べていればそんな風になるのかわからないほど細い腰をし、ボディラインが丸見えになる赤いワンピースを着て、太股を気持ち程度に覆っている裾から伸びたストッキングに包まれた脚を高く組んで座ってる。

 クセの強い茶色の髪はそれなりに整えられていて、白衣を羽織っているサリエラ先生はそこだけ見れば養護教諭だけど、美人というのがまさにぴったりな顔に浮かべられた笑みは、獲物を狙う肉食動物の獰猛さが感じられた。

 第一保健室を支配しているというのは比喩ではなく、教室ほどの広さの室内には様々な機材はもちろん、義手や義足と思しき機械の手脚、棚に詰め込まれた標本、魔導陣やロウソクといった、いにしえの魔術に使いそうな道具などが、雑然と押し込められ怪しい雰囲気を醸し出していた。

 怪我をした生徒の治療から悩みの相談までこなすのが養護教諭というものなんだろうけど、若さを弾けさせる生徒の相手とか、改造手術まで趣味でやってくれるそうだから、彼女の誘惑にヘタに応じるのは危険だ。

 第一保健室に入り浸り、素敵なレディとして卒業していった男子生徒については、伝説として語り継がれている。本人が同意してたそうだから問題はなかったらしいけど。

 人間だけでなく、ファントムや異星人、サイボーグや改造人間も通うCNGの養護教諭は、それくらいじゃないと務まらないのかも知れない。

 ロリーナは普通に接してるサリエラ先生のことは、僕はどうしても苦手だった。

「そうか。ついに君たちは子供をつくったのか。しかしまだ君たちには早いだろう? 避妊は大切だよ」

 そんなことを言いながら椅子から立ち上がったサリエラ先生は、近づいてきてひんやりとした手で、妖艶な笑みとともに僕の顎を撫でてくる。

「いや、ちょっと……」

「この私が君に、手取り足取り避妊の大切さをすり込んであげようか?」

 教える、じゃなくてすり込む、ってところが気になる僕だけど、身体を密着させようとしてくるサリエラ先生から逃れるので精一杯だ。

「克彦!」

「パパをいじめちゃダメ!」

 ロリーナは何故か僕に非難の視線を飛ばしてくるだけだったが、彼女に代わりキーマがサリエラ先生と僕との間に割り込んできてくれた。

「うぅーーっ」

 情けなくも逃げ腰になってる僕の前で、キーマは両腕を広げてサリエラ先生を睨みつけ、近寄らせないようにしてくれる。

「ふふふっ。可愛いね、君たちの子供は」

「いや、だから――」

「ヌーちゃんからは聞いているよ。この子が料理魔術の暴走で生まれたキーマちゃんだね」

「……知ってるんじゃないですか」

 どうやら僕はからかわれていたらしい。

 不満そうに鼻を鳴らしているロリーナと、にやけた笑みを向けてくるサリエラ先生に見つめられて、僕は深くため息を吐いた。

「それで、この子の検査をしてほしいということだったね。幼女は趣味ではないんだが、仕方ないか。ヌーちゃんが心配しているし、君たちにとっても気がかりだろうからね」

 ヌーちゃんことヌナカワヒメ先生と仲がいいサリエラ先生は、言いながら保健室の奥手に置かれたベッド回りの機材の電源を入れた。

 キーマの身体が気がかりだったのは、確かに言われた通りだ。

 魔導やそれに関連して産み出される生き物にはいろんな種類がある。

 普通の生物並みに安定して生殖までこなすのもいれば、数時間で寿命が尽きてしまうものもいる。

 とりあえずキーマについては一日弱のこれまでの間、寿命が尽きたり身体が崩れたりといった兆候はなかった。でも調べてみない限り、どれくらい安定しているのかまではわからない。

 朝、ロリーナが僕にささやいた「消えてなかったんだ」という言葉は、それに関係してることだと思う。

 ちらりとロリーナの方を見てみると、金糸のような髪を掻き上げながら僕のことを見て、小さく頷いていた。

「さて、キーマちゃん。このベッドに横になってもらおうか」

「うぅ……。大丈夫?」

 不安そうに表情を曇らせ、僕の顔を見上げてくるキーマに笑いかける。

「大丈夫だよ。僕も一緒にいるからね」

「うん……」

 まだ不安そうだけど、とりあえず納得してくれたらしいキーマ。

 ベッドに上がったキーマの髪を邪魔にならないようロリーナがまとめてくれ、寝かせる。

 検査機材に取りつけられた真空管状のエーテルアンプが光を放つとともに低く唸りを上げ、スキャンが始まった。

 緊張と不安で堅くなってるキーマを横目で見つつ、僕は恐る恐るサリエラ先生が見ている古風な液晶モニタを覗き込んでみる。ロリーナも僕と並んで見ている。

 数値と図形で主に示されるスキャンの結果は、僕じゃ何のことだかわからない。

 横目でロリーナのことを見てみると、ある程度内容がわかっているのか、碧い瞳に何だか微妙な色が浮かんでいた。

「パパーッ。ちょっと怖かった!」

「大丈夫だったか?」

「うんっ。何でもなかったよ!」

 程なくスキャンは終わり、ベッドから降りたキーマは駆け寄って僕の足に抱きついてくる。

「さて、結果だが」

 丸椅子を勧められて、まるで夫婦が子供の検査結果を聞くように、僕とロリーナは並んで座る。まぁ、ロリーナと夫婦になるなんてことはあり得ないんだけど。

 膝の上に座ってきたキーマが落ちないよう身体に腕を回しつつ、僕は息を飲んでサリエラ先生の言葉を待つ。

「まぁ、健康体だな」

「そういうことではないんですが……」

「わかっているが、保健室の機材では魔導的な方面の検査はあまりできなくてね。他にもわかったことはいろいろあるが」

「どんなことがわかったんです?」

「いまも言った通り、キーマちゃんは健康体だ。人間として、至って健康」

「それって、つまりそういうこと?」

 少し険しい顔をしながら言うロリーナに、サリエラ先生は大きく頷く。

「キーマちゃんは完璧に人間の身体をしている。ホムンクルスのように半端な身体をしているわけではない。至極安定。昨日生まれたばかりと言うが、すでに成長の痕跡も確認できたよ。成長すれば女性として子供を産むことも何も問題ないだろう」

「子供を産む? パパと結婚できるってこと?!」

「いや、それは……」

「あぁ、もちろんできるとも。身体は概ね四歳程度だから、あと十年ばかり後になるだろうがね」

「やった! 十年経ったらキーマと結婚しようね、パパ!!」

「えぇっと……」

 抱きついて僕の胸に頬ずりしてくるキーマに、なんて答えたらいいのかわからない。

 ロリーナが向けてくる犯罪者を見るような視線が痛い。

 幼い子供が父親と結婚したいと言うのと同じだと思うのに、ロリーナの視線はすでに僕がいけないことをしているかのような不審を含んでいた。

「気になる点もあってね。どうやらキーマちゃんはエーテル場に影響されやすいようだ」

「どういうことです? もしかして僕に近いとか?」

 異世界から漂流してきたからか、僕は世界でも珍しいちょっと特殊な体質をしている。

 このメルヘニック・パンクの世界で生きていくには迷惑以外の何ものでもないその体質をキーマも持っているとしたら、若干面倒なことになりかねない。

 クセのある髪を撫でつけつつ、サリエラ先生は僕の問いに答えてくれる。

「君の体質は特殊過ぎるからね、さすがにそれはないよ。ファントムともまた違う。彼らはエーテル場に生きていて、物質世界に受肉しているだけだからね。身体は完璧に人間で、物質としては安定しているんだが、魔導的には不安定なんだよ」

「それはその、どういうことです?」

 理解が追いつかなくて、僕は質問を重ねてしまう。

 僕の問いに答えてくれたのはサリエラ先生じゃなく、ロリーナだった。

「魔術で生まれたばっかりだからだと思うけど、キーマの身体は魔術とかの影響を受けやすいの。身体強化系とかの、身体の内側に作用する魔術を使ったりすると、場合によっては魔術が解けて材料に戻っちゃう可能性がある状態なの」

「その通りだ。キーマちゃんの身体は、言うなればまだ料理魔術がかかり続けている状態でね。例えるなら彼女は鍋で煮込み続けているのに近い。しばらくすれば魔術が完成して、エーテル場の影響も普通の人と変わりなくなると思うが、いましばらくは直接身体にかける魔術は避けた方がいいだろう。そこまで不安定ではないが、念のためね。キーマちゃんに近いものがいるとしたら、生まれたてのキマイラかな? 魔導合成生物。身体は人間だからキマイラのように不自然さはないが、生まれたてのときエーテル場に影響されやすいところはよく似ている」

「わ、わかりました」

 さすがに何を言われてるのかわかっていないらしく、首を傾げてるキーマを抱き直しながら、僕はサリエラ先生の言葉に強く頷いていた。

「それから、キーマちゃんのいまの知識は術者のものを部分的に引き継いでいるようだ。この場合はロリーナちゃんのだね」

「あぁ、なるほど」

 生まれたばかりのキーマが最初から喋ることができ、僕をパパと呼んだりカレーを食べたいと言ったり、最初から最低限の知識があることはちょっと不思議に思ってたんだけど、いまの言葉で納得できた。

「まぁ、術者から引き継いだのは知識だけでなく、感情面ものようだけど、ねぇ」

「ん?」

「え?!」

 どういうことなのかわからなくて首を傾げた僕に対して、ロリーナは金糸の髪を乱しながら椅子から立ち上がる。

「それはどういう――」

「わ、わたしはちょっと、用事を思い出したから行くね! キーマのことは克彦、よろしくっ」

「あ、うん」

 よほど急ぎだったのか、顔を少し赤くしたロリーナは、僕の返事も待たずに保健室から出て行ってしまう。

 キーマをよろしくもなにも、ずっと僕ばっかりが相手してるわけだけども。

 ――いいんだけどね、それは。

 僕がキーマを放っておくなんてことは、できない。

 これから先、彼女がどこで暮らすかについてはもう少し考えないといけないけど、ちゃんとそれが決まるまでは誰かに委ねたいとは思わない。大変なことがいっぱいあるとわかっていても。

 僕の、わがままも入っているけど。

「でもロリーナはどうしたんだろう? 急ぎの用事って、大丈夫かな?」

「……君はもう少し自覚を持った方がいいだろうね」

「何に対してです?」

「いや、私が口を挟むようなことではないからね、言わないでおくよ。まぁキーマちゃんは、術者の身体情報も部分的に引き継いでるから、美人になるだろうよ」

「はぁ」

 なんだか誤魔化された気もするけど、机の方に身体を向けてしまったサリエラ先生からそれ以上のことを聞くことはできそうにない。

「キーマちゃんの情報は君に送っておいてあげよう。ロリーナちゃんにも渡しておいてくれ」

「直接本人に送信すればいいじゃないですか」

「そこはほら、心遣いというものだよ」

「はぁ」

 やっぱり何のことかわからないが、何故か口を尖らせたキーマが、僕のほっぺたをつまんできていた。

 サリエラ先生から送信された情報を、手元の携帯端末の本体画面で確認して、僕はキーマを抱いたまま立ち上がる。

「この後はどうするつもりだい? 君の年齢では子供を養育するにはいろいろ大変だろう」

「それはそうなんですが、できるところまではやってみようかと思っています。それと、今後はとりあえず、基礎インプリンティング学習を施してみようかな、と」

 僕がこの世界に来て早々受けた基礎インプリンティング学習は、学校で勉強するはずの知識を一括して、脳に直接書き込むというものだ。

 知識さえあれば勉強なんて必要ないと思えるが、実際にはそうはならない。

 脳に書き込まれた情報はそのままでは、言うなれば目次のない本のようなもの。目次がなければ必要な情報のあるページをすぐに開くことはできない。

 計算機を持っていても、使い方を知らなければ計算に使うことができないのにも近い。

 図書館に住んでいたとしても、所蔵された本を読んだことがなければその内容を知ることはできない、なんて言われることもある。

 基礎インプリンティング学習を施されてる僕やロリーナが学校に三年間通うのは、人間関係の構築法なんかを学ぶ意味とともに、すでに脳にある情報を利用するための定着学習に必要な期間が、最低それくらいだからだとされているからだ。

 そして基礎インプリンティング学習には、この世界そのものの知識と、この世界で生きるための知識も含まれている。

 キーマを今後どうしていくかは、キーマ自身の意志も尊重したいと僕は考えてる。

 その意志を確認するためにも、最低限の知識が、基礎インプリンティング学習が必須だと思えた。

「それならここでも施せるが?」

「ここで施せるのは、住民登録してる人だけですよね」

「……そうだったな」

 僕の指摘に、サリエラ先生は肩を竦めて見せた。

 基礎インプリンティング学習は、希に上手く書き込めていない情報が発生することがあって、保健室で再施術ができることは僕も知ってる。

 でも住民へのサービスであるそれは、学校の機材では住民登録をしてない人へはできないようロックがかかってる。保健室じゃキーマに施してやることはできない。

「じゃあどうするつもりだい? キーマちゃんは魔導生物扱いで登録して立場の確保はすぐにできると思うが、基礎インプリンティング学習となると、正規の住民登録が必要だろう? 料理魔術の暴走で生まれたキーマちゃんでは、住民登録は難しい」

「えぇ。だから僕がやってもらったところでやってもらおうかと思っています」

「――あぁ、あそこか。あそこなら確かに可能だな」

「頼み込まないといけませんけどね」

 僕が基礎インプリンティング学習を施してもらったのは、まだ住民登録をする前だった。

 本来病院や役所関係の施設で行うそれを、住民登録なしに施せる場所は限定される。

 僕はそんな場所を、一ヶ所知っていた。

「じゃあ僕は教室に戻ります」

「あぁ。ヌーちゃんには報告をいれておいたよ」

「ありがとうございます」

 僕にしがみついてるキーマを抱いたまま、椅子を立った僕は扉に向かう。

「克彦君」

 扉に手をかけた僕の背中にかけられた声。

 振り向くと、ここに入ってきたとき漂わせていた妖艶さはなく、養護教諭らしい真面目な表情のサリエラ先生がいた。

「君の精神はとても素晴らしいものだと思うが、気をつけたまえ。若干破滅的にも思えるからね。自分ができる範囲を見誤ってはいけない。それは自分を不幸にするだけでなく、君の周りの人を泣かせることになりかねない」

「肝に銘じておきます」

 そう応えた僕は、真っ直ぐな目で僕の瞳を見つめてくるキーマに、できるだけの優しさを含んだ笑みを返していた。

 

 

 



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カレーは生き物 第一章~ようこそ! メルヘニック・パンクへ!!~ 3

 

 

          * 3 *

 

 

「んー? 今日は終わりぃ?ー?」

「うん、終わり。また明日ね。みんなに挨拶しようね」

「うんっ! みんなばいばーい」

 ヒメ先生が教室を出て、クラスメイトのみんなは帰り支度を始めてる。

 概ね静かだったけど、たまにはしゃいでしまうキーマを押さえるのが大変で、僕はもうすっかり疲れていた。

 ――ロリーナ、いないし。

 第一保健室から飛び出してどこかに行ってしまったロリーナは、結局教室に帰ってくることはなかった。

 朝は目の下に隈をつくっていたから、どこかで寝ているのかも知れない。

 キーマの別れの挨拶に返事をしてくれたり、手を振ってくれる人は多くて、わざわざ用意してもらった小さな机と椅子から必死に手を振ってる様子に、僕の頬は緩んでしまう。

 すっかりクラスの人気者になったキーマ。

 手はかかるけど基本は素直で、顔立ちなんかは似てるから、無邪気で小さいロリーナみたいだ、なんて言われているらしかった。そりゃあ人気も出る。

 ――ロリーナはぜんぜん手伝ってくれないし。

 キーマが生まれた原因は、ロリーナが使った料理魔術。

 僕のために料理をつくってくれようとしたわけだし、キーマは僕に懐いてるし、彼女を守ってやりたいとも思ってる。

 いまさらどこかに預けてそっちで身の振り方を決める、なんて言われても僕は全力で拒否するだろう。

 だからと言って、教室にすら姿を見せなかったロリーナには、彼女のことを信じてるとは言え、さすがに不満を感じずにはいられない。

 ――何かやってる気配もあるけど。

 目の下の隈、検査結果を見てたときの様子から、僕はそう感じてもいた。

「さ、帰ろう」

「うん!」

 椅子からぴょこんと下りたキーマと手をつなぎ、肩に通学用鞄を提げ、空いた手にはお菓子や食べ物など、今日一日で集まったキーマへの献上品が詰まった袋を持ち、廊下に出る。

「あ、いた! 克彦!!」

 そんなことを言いながら金糸の髪をなびかせて走り込んできたのは、ロリーナ。

「何だよ、ロリーナ。今日は一日――」

「そういうのは後で聞くから、急いで来て!」

「わぁっ」

 焦りと真剣さと必死さと、それを上塗りするくらいの期待に心躍らせてる様子の彼女の剣幕に、僕はキーマを抱き上げる。

 献上品が入った袋を奪われ手をつかまれた僕は、引っ張られるままロリーナに連れて行かれる。

「ちょっと待ってってっ いったい何なんだよ、ロリーナ!」

 昇降口のホウキ置き場まで来てやっと立ち止まったロリーナに問うと、鍵を解除して自分のホウキを取り出した彼女は振り向き、空中を撫でるように手を動かした。

 何もない場所に現れた、厚みのない四角い平面。

 それはエーテルモニタ。

 カテゴリー一の簡易な魔術で、たいていどんな機械にも携帯端末も仕込まれてる、魔術による表示機能。

 いまどき電子機器には、液晶モニタは搭載されていないか、補助用でしかない。

 エーテルモニタに映し出されているのは、何かの動画であることがわかった。

「何なの? これ」

「怪獣だぁー」

 キーマが言ってるように、動画には怪獣にしか見えないものが映っていた。

 黄土色のごつごつした肌をして、身体を水平にではなく直立させてる形状は、恐竜ではなく怪獣型の怪物だった。

「あれ? ライブ配信?」

 よく見てみると、動画はリアルタイムで配信されてるライブ映像で、特撮マニアの素人の映像にしても稚拙な、離れた低い位置からの映像には、怪獣の足下からいままさに避難してきてる人も映っていた。

 どこかの星から飛来した怪獣かも知れない。

「ここにすぐに行きたいのっ。一番乗りしたいの!」

「えー」

 ロリーナのキラキラ光る碧い瞳に見つめられても、僕は躊躇ってしまう。

 とにかく彼女はトラブルが好きだ。

 野次馬として見に行くだけならともかく、わざわざ首を突っ込んで当事者になりに行くことが多い。

 たぶん、彼女は怪獣と戦うつもりだろう。

 キーマもいるし、さすがに僕は躊躇ってしまっていた。

「理由は後で話すから、バイクに乗せて! わたしのホウキじゃ間に合わない!!」

「う、うんっ」

 息がかかるほど顔を近づけられて、左手を暖かい彼女の両手に強く包まれ、僕は思わず頷いてしまっていた。

 動画がライブ配信されてる場所は、東京の南、太平洋にある島のひとつからだ。

 ロリーナのホウキは彼女が飛行魔術を入れ換えた上、魔術の改良までしてるから、普通のカテゴリー二の魔導ホウキではあり得ない速度が出る。

 それでも超音速まで出せるようにはできていない。

 急ぎたいなら、僕のスカイバイクに乗った方が早い。

 僕の返事ににっこり笑ったロリーナ。また彼女に手を引かれる僕は、これ以上抵抗することなんてできなかった。

 

 

 

 見た目には二一世紀の駐輪場とあまり変わらない駐機場まで走って、いつも発着場に引っ張っていくとき使ってるカテゴリー一の浮遊魔術ではなく、カテゴリー三の高速飛行魔術をセットして、僕はバイクのエーテルアンプを始動させる。

 アクセルを開けないよう注意しながら発着場まで引っ張っていった僕は、先にバイクにまたがってからキーマを抱き上げ前に座らせた。

 前にも乗せたことがあって、そのときにほしいと言われたから事前に取りつけてあった、ボディ下部の収納式アームを展開して自分のホウキを固定したロリーナは、スカートの裾に気をつけながら後ろにまたがってきた。

「急いで、克彦!」

「う、うん」

 腰に腕を回して抱きついてきたロリーナに、僕の声はうわずってしまう。

 よく一緒にいるから憶えてるけど、彼女の匂いが間近から漂ってくる。

 背中に押しつけられた柔らかさは、バイクを買ったときに請われて乗せたときより、さらに増してるような気がした。

「むぅー」

「ちゃんと捕まってろ、キーマ」

 首だけ振り向いて、僕の顔を見て不満そうな表情を浮かべるキーマに注意する。これから帰宅しようと発着場に各々の飛行具を手にしてる男子の白い目を無視することにした僕は、ハンドルを捻ってアクセルを開けた。

 暖気を終えたエーテルアンプは充分にエーテル場を活性化させる。

 マナジュエルにループキャストされる高速飛行魔術は、学校前の空路に侵入したバイクを快調に加速させていく。

 しかしここは一般空路。

 ホウキやバイクや車だけでなく、飛行シューズやエアボードがひっきりなしに行き交い、合流するここでは時速二〇〇キロに制限される。

 だから僕は街の上層に向かい、学校から一番近いインターから東京環状空路に入った。

 左右の敷地プレートが並ぶ街の中と違い、ネオナカノの上空に設定され、東京の主要な街を巡る環状空路では、標識の代わりにエーテルモニタと、空路の範囲を示すビーコンキューブが浮いてるだけの、空だ。

 三〇〇〇メートルまで上昇すると、離れていくネオナカノがもう小さくなり、地上のものは豆粒の塊のようにしか見えない。

 僕はいま、まさに空を飛んでいた。

「高ぁーい」

 つい今し方までなんでか不満そうにしていたキーマも、青に包まれるような上空まで来ると、はしゃいだ声を出している。

 この空路の最高時速である五〇〇キロ近くでホウキや車を結構強引にパスして飛ばしているが、僕のスカイバイクにはまだまだ余力がある。それに環状空路では目的地には至れない。

 遠くの自治体間を繋ぐ高速幹線空路には入らず、僕はさらに上空の、大陸間をも繋いでいる超高速空路の入り口にバイクの進路を取った。

「カウル、閉めるよ」

「わかった!」

「キーマ、ゴメン。ちょっと我慢してね」

「んっ!」

 僕のスカイバイクにはフロントカウルがあるし、結構強力なエアシールドの魔術が、エーテルアンプ始動と同時にオートキャストされるから、普通の高速空路ならそれで充分だ。

 でも超高速空路に上がるとなれば、後部に折り畳んで収納されてるリアカウルを出して、フルカウルにしないと厳しい。

 ――うっ……。

 キーマを潰さないよう気をつけながら身体を前に倒すと、ロリーナがせり上がってきたカウルに引っかからないよう、いままで以上に身体をくっつけてくる。

 もちろん制服越しなのに柔らかさを感じていた彼女の胸も、いままで以上に強く押しつけられてる。

 心臓の鼓動が早くなってるのを感じながらも、それを悟られないよう気を払い、リアカウルがフロントカウルと合体したのを確認してから、すぐそこに迫った超高速空路へのジャンクションに進入した。

 それまで肉眼視界だったスカイバイクは、半密閉されカウルの内側に映し出されるエーテルモニタによる視界に切り替わる。

「なんか、凄いよ、パパ」

「舌噛むから閉じてろ」

「うんっ」

「んーっ。この加速感、やっぱり気持ちいいーっ」

 キーマだけでなく、ロリーナまで声を上げている。

 カテゴリー三以上の飛行具でしか入れない超高速空路の最高速度は、設定されていない。

 上空に行けば行くほど高い速度を出していいことになってる超高速空路で、僕は八〇〇〇メートル近くに上昇し、マッハ二オーバーまで一気に加速していた。

「見えた!」

 ロリーナの声に、僕は前方視界を映し出してるエーテルモニタに注視した。

 空よりも深い青をした海に浮かんでいるのは、目的地の島。

 バイクのカメラを使い部分拡大すると、さっき動画で見ていた怪獣の姿が確認できる。

 どうやらまだ、怪獣の対処に駆けつけた人はいないらしい。

 島に繋がる一般空路への降り口にバイクを入れると、いきなりカウルが解放された。

「まだ早いよ、ロリーナ!」

 速度はやっと音速を下回ったところ。

 エアシールドでも防ぎきれない風圧で、ロリーナとキーマの金色の髪が激しくなびく。

「もうここから行く。ありがと、克彦っ」

 そう言ったロリーナは、笑んでいた。

 振り向いた彼女は口元に笑みを浮かべ、もう拡大しなくても見えるようになった怪獣を見つめて、楽しそうな色をその碧い瞳に宿している。

 ロリーナは楽しいことが好きだ。

 変化を、トラブルすらも楽しむ。

 危ないことは控えてほしいと思ったりもするけど、こんなときのロリーナの笑みはとても魅力的で、僕は好きだ。

 アームから自分のホウキを外して、ロリーナはそれを手に持ったまま、ちょうど真下にいる怪獣に向かって落下していった。

「大丈夫なの?!」

「大丈夫だよ。ロリーナならね」

「ほえー」

 スカートの裾と金色の髪をはためかせながら落下していくロリーナ。

 少し身体を乗りだして彼女のことを見ているキーマの声に、僕は疑いもなくそう答えていた。

 身体の横、伸ばした手でホウキを持つロリーナの落下速度は、自由落下の速度を超えている。

 エーテルアンプを起動してる証拠だ。

 ホウキにまたがらず、飛行魔術を使って安定して飛ぶのはけっこうな高等技術。

 たぶん、怪獣に向かって飛びながら、たぶんロリーナは口元に笑みを浮かべていることだろう。

 勝てるとか勝てないとかじゃない。

 いまを楽しむロリーナは、僕の知る限り最強だ。

 そして、そんなときの彼女はこの上なく美しい。

 だから僕は心配なんてしていない。彼女ならいまの状況をどうにかしてくれる。そう確信してるし、僕の勝手な確信を、彼女が裏切ったことはない。

 怪獣との戦いに邪魔にならない高さにバイクを滞空させながら、僕はロリーナのことを、笑みを浮かべながら見つめていた。

 

 

            *

 

 

 ――よしっ! 一番乗り成功っ。さっすが克彦のスカイバイクね。

 口元に笑みを浮かべて、心の中で喜びの声を上げるロリーナは、怪獣と、周囲の環境を観察する。

 おそらく直径にして一〇キロにもならないだろう緑の多い島には、怪獣から少し離れた海沿いに街がひとつ見える。

 確か数十万人規模だったはずの街は、浮遊する敷地プレートよりも、二〇〇メートル程度の高さの、古い積層建築の建物が中心。

 火山島である島は、ちょうど中央に火口があり、山の中腹には大きな広場があった。怪獣がいるそこから街は結構距離があるから、多少の戦闘なら街に被害が及ぶことはなさそうだった。

 怪獣の身長は五〇メートルほど。

 街に比べれば大きくないが、人間にとっては巨大と言えるサイズで、直立型の体型も含めて陸上生物としてはあり得ないほどの大きさだった。

 怪獣が暴れてもさほど問題がなさそうな規模の広場には、何かお祭りでもやっていたのか、隅にある建物の近くに、テーブルなどがいくつも出されているのが見えた。

 大きく暴れ回ってはいないけれど、怪獣は何かに不満でもあるのか、地団駄を踏むように足を踏み鳴らし、砂煙を立てている。

 これほどの怪獣がもし宇宙から飛来したのだとしたら、地上に到達する前に情報が出るはず。けれど調べてみた限り、怪獣の飛来警報はなかった。

「たぶん、そういうことだろうな」

 自分の中で結論を出して、目の前に迫った怪獣の眼前で落下を止め、ロリーナは不適な笑みを投げかける。

 それに気がついた怪獣は、鋭い爪のある手を伸ばして捕らえようとしてくるが、彼女はホウキにお尻を乗せて座り、ひらりと躱した。

 ロリーナをつかむことに失敗した怪獣は、二度目、三度目と手を伸ばしてくる。そのすべてをぎりぎりのところで逃れ、彼女は毎回手を伸ばしても少しだけ届かない位置に滞空する。

 ――まだあそこに人いるみたいだし、もう少し引き離さないとね。

 ロリーナの顔よりも大きな目に怒りの色を湛え、ついに鋭い牙を使って噛みつき攻撃までしてきた怪獣を、つかめない落ち葉のように躱し続ける。

 攻撃用の魔術はいくつかストックしているが、サイズがサイズだけに、有効なダメージを与えるのは難しい。カテゴリー三をわずかに欠けるカテゴリー二扱いのマナジュエルで、無理してカテゴリー三の魔術を使っても、倒すには至らないだろう。

「ここまで来れば大丈夫!」

 潰そうと迫ってきた両手を避けて怪獣の顔の前まで飛んだロリーナは、その身体の周りを回り始めた。

 右の目の近くにいると思ったら左に、左に振り向いたときには右側に、決して動きの機敏ではない怪獣の周りをくるくると回り、ロリーナは翻弄する。

 そのうちに、目を回した怪獣は大きな地響きを立てながら、尻餅を着いた。

「これでこっちのものよ!」

 そう言い放って怪獣の頭の上を占有したロリーナは、真っ直ぐに伸ばした手に水平にホウキを構える。

 そして、先端に取りつけられた紅いマナジュエルに意識を集中させた。

 エーテルアンプからではない、自分の身体から発するマナの波動で、ロリーナは周囲のエーテル場を活性化させる。

 約三百年前、エジソナという女性によって存在を実証されたマナとエーテル場。

 彼女によって体系化された魔術は、エーテルアンプでエーテル場を活性化させ、マナジュエルにスペルを読み込ませることにより、誰にでも使える技術として確立した。

 しかし、魔術が一般化する以前から、マナとエーテル場を扱える人々がいた。

 その人々、魔法使いが使っていたのは、魔法。

 魔術と魔法を合わせて魔導と呼ぶが、魔術は誰にでも使えるものであっても、魔法は極々希に高い魔法力を持って生まれた人にしか使うことができない。

 ロリーナは、魔術のみを使う一般人ではなく、魔法使い。

 ――保ってよ、わたしのホウキ!

 そう願いながら、解放した魔法力で活性化したエーテル場に、自分の声で呼びかけた。

「わたしは願う! 汝らが生命を脅かさんとする者を捕縛するための助力を!」

 体系化された魔術で実現し得るのは、魔術言語でスペルに記載された事実のみ。

 しかし魔法使いの持つ魔法力によって発動する魔法は、体系化されない事象を具現化する。

 それはまさに、奇跡。

 目を回していた怪獣が正気に戻り、ロリーナのことを睨みつけてきても、彼女は口元の笑みを絶やさなかった。

 怪獣が攻撃を再開するより前に、奇跡は起こった。

 周囲の森から飛び出してきたのは、蔓。

 人の身体よりも太い蔓が次々と怪獣に向かって投げ打たれ、その身体を縛り上げていく。

 ロリーナの魔法力でエーテル場が活性化し、魔法の言葉に山を覆う森が願いに応えた。

 魔法によりひとときの意志を持った森は、本来あり得ない自らの一部を使い、怪獣を拘束する。

 十数本もの太い蔓によって立ち上がることも、身動きを取ることもできなくなった怪獣は、諦めたように頭を垂れ、おとなしくなった。

「ふぅ。完了っ。――あ!」

 安堵の息を漏らした瞬間、何かが砕ける音がした。

 見なくてもホウキの先端に取りつけられたマナジュエルが砕け散ったことがわかる。

 ホウキのマナジュエルはカテゴリー三弱。

 カテゴリー一〇オーバーの魔法使いであるロリーナの魔法にはかろうじて耐えたが、そこまでだった。

 五〇メートルの高さから落下し始めるロリーナの身体。

 いまどきの服には防御魔術が付与されていて、数千メートルから落ちても、ナイフに刺されたり銃で撃たれたりしても、傷ひとつ負うことはない。

 だから多くの人は、人が高いところから落ちていくのを見ても、驚きはしても助けようとなどしない。

 それが様々な不思議な要素を発現したメルヘンで、退廃的になってしまったパンクな世界の人々の有り様。死ぬことが遠退いたこの世界では、他人の危機に対し、必死になる人はあまりいなくなってしまった。

 それは当然のことで、いまの時代では当たり前のことだった。

 そう、ロリーナは思っていた。

 ロリーナの服にも防御魔術は付与されているから、ここで地面に叩きつけられても、かなりの痛みくらいはあっても怪我をすることはない。

 けれど、痛みを怖がる必要などない。

 ロリーナはここに、ひとりで来たのではなかったから。

 いまの時代など、みんなにとっての当たり前など、気にすることなく、本当の心配をしてくれる人と来たのだから。

「ロリーナーーーっ!」

 そんな必死な声とともに、地上に到達するよりも飛んできてくれたスカイバイク。

 克彦の両腕が身体を抱き留めてくれた。

 何もできないと口では言いながら、少しでもと思ってアナクロなトレーニングを積んでる克彦の腕は、意外に逞しい。

 心配しなくてもそうしてくれると信じていた腕の中に収まって、ロリーナは安堵の表情を浮かべる彼に、嬉しさが溢れてしまっている瞳で笑いかける。

「すごいね! 怪獣やっつけちゃった!!」

「たいしたことないよ? 凄く暴れたりメチャクチャ強かったわけじゃないからね」

「でも、でも凄いっ」

「ふふんっ」

 嫌われていたらしいのに、キーマの素直な賞賛の言葉に、嬉しさと若干の気恥ずかしさで、鼻を鳴らして応える。

「ロリーナが強いのはわかってるけどさ、無茶は止めてくれよ……。ひとりで来てたら、そのホウキでどうやって帰るつもりだったのさ」

「そのときは迎えに来てくれたでしょ?」

「そりゃあそうだけど……」

「いまだって一緒に来てくれたんだし」

「まぁ、そうなんだけどさ……」

 苦言を呈している克彦はそれ以上なにも言えなくなり、渋面をつくりながらそっぽを向いた。

 その頬が微かに赤くなってるのを、ロリーナは見逃さなかった。

「そろそろ終わりみたいだね」

「ん。そうだね」

 克彦が見上げた上空には、三人の人影が見えた。

 煌びやかだったりシンプルだったり鎧のような服を身に纏う三人の少女たちは、魔法少女。

 ロリーナと同じ高い魔法力を持つ彼女たちは、たいてい大きな自治区にはひとりはいて、その地域と周辺の平和を守っている女の子たち。

 代々受け継ぐ魔法具により魔法少女と認められた三人は、怪獣出現の報を受けて駆けつけてきたのだろう。

 ――わたしは、いまのままでいいな、やっぱり。

 ロリーナのことを横抱きにしていることを半分忘れているらしい克彦の腕の中で、彼女はそんなことを思う。

 高い魔法力を持つロリーナもまた、魔法少女の魔法具を受け継ぐ家系の生まれ。

 四歳になったとき、魔法少女である母親から魔法具を受け継ぐ予定であったが、ロリーナはそれを拒絶した。

 魔法具は、現在の技術ではどうやってもつくれない、魔法使いの高い魔法力を受け止め、魔法という奇跡の発動を可能にしている。

 魔法少女になること、魔法具を受け継ぐことを拒否した代償として、必要なときであっても高い魔法力を活かした魔法を使うことはできなくなった。

 けれどもロリーナは、魔法少女にならなかったことに満足していた。

 一応正体を隠している魔法少女は、地位や名誉や自治体からの報酬と引き替えに、失うものもあるからだった。

「さぁて、後片付けしないとねっ」

 縛り上げられてる怪獣を見て手を出しかねている魔法少女たちの様子に、ロリーナは無理矢理キーマと克彦の間に座って、そう宣言した。

 

 

 



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カレーは生き物 第一章~ようこそ! メルヘニック・パンクへ!!~ 4

 

 

          * 4 *

 

 

「あらあら。もう終わっちゃってるのね」

「急いで駆けつけたのに、いったいどれだけ急いで来たんだよ、キャロルさん」

「克彦さんも大変ね。彼女につき合わされて」

 関東近辺を守っている三人の魔法少女は、そんな風になるつもりはなかったのに、ロリーナがトラブルに首を突っ込むことが多いたため、すっかり顔見知りだ。

 それぞれに魅力的な女の子である彼女たちに何かを含んだような微笑みを向けられて、僕は「はぁ」と応えることしかできなかった。

「でもどうしましょうね、この怪獣は」

「どこから現れたのかわからないのだろう? ヘタな方法で処理するわけにもいかないな」

「宇宙にでも放り投げる? それとも怪獣動物園にでも連れて行く?」

 おとなしくなった怪獣の頭の上で魔法少女たちが開始した相談は、すぐに結論が出そうになかった。

「克彦。ちょっと怪獣の顔の前まで行ってくれる?」

「危ないだろ」

「大丈夫。お願い、克彦」

 キスしてしまいそうなほど近くにある良い香りのする髪と、振り向いた彼女の碧い瞳に、拒絶できない僕はため息を漏らした。

 ロリーナとキーマが前に座って、操作しにくいバイクを操り、ゆっくりと、すぐに加速できるようにしつつ怪獣の顔の前まで移動する。

 わずかに顔を上げ、ロリーナのことを見つめているらしい怪獣は、彼女が言った通り危険はないようだった。

 ――これは、マナが放出されてる?

 マナはあらゆる物質、空間、事象から放射される素粒子だ。

 ほぼ何にも干渉せず、世界を通過していくマナは、エーテル場を活性化させるだけでなく、マナを液化したエリクサーや、固体化したマナジュエルには感応する。

 それ以外にも、魔法力の高い魔法少女やロリーナといった魔法使いには感知できたり、ちょっと特殊な体質をしている僕も、積極的な放出を感じることができる。

 いま怪獣からは、積極的にマナが放出されているような感じがあった。

 たぶん、ロリーナと会話をしている。

「ん。やっぱりね。わかった。貴方の望む通りにする」

「どうしたの? ロリーナ」

「怪獣さんと話してたの?」

「そう。怪獣と話してたの。詳しいことはもうちょい待ってね。ごめーん、手伝ってーっ」

「何なにー?」

 僕たちへの説明を後回しにして、ロリーナは上空にまだ相談を続けている魔法少女たちに声をかけた。

 三枚のエーテルモニタを開いて、集まってきた彼女たちそれぞれに指で弾いて渡す。

「ふむふむ」

「まぁ、無難な解決方法だね」

「本人が望んでるなら、それが一番だろう」

「じゃあ決まりっ」

 内容を見てない僕にはさっぱりわからないけど、ロリーナの提案した作戦か何かに乗ることにしたらしい魔法少女たちは、怪獣を囲むように散って、剣と杖とバトンの、それぞれの魔法具を構えた。

「克彦。バイクのマナジュエル、使わせて」

「え……。バイクのが壊れたら、さすがに帰る方法がないんだけど」

「だぁいじょうぶ! カテゴリー三とカテゴリー二の魔術を使うだけだから」

「だったらいいけど……」

 渋々ながらも、セキュリティをかけて僕しか使えないようにしてるスカイバイクのマナジュエルを、ロリーナにも使えるよう設定を変更した。

「よし! じゃあちょっと待っててね」

 言ってロリーナは、バイクの上に立ち上がる。

 すぐ目の前にあるスカートの裾の、その奥が見えそうになるけど、ロリーナオリジナルのパンチラ防止魔術がかかっているから、見えることはない。

 それでもストッキングに包まれた健康的な太股は息がかかるほどの距離にあるわけで、僕はできるだけそこから目を逸らして、バイクが揺れないよう飛行を安定させる。

 エーテルモニタを開き、左手の人差し指でこれから使う魔術を選択したロリーナ。

 目をつむり、息を整えた彼女が呟く。

「ぶっつけ本番だけど、たぶん大丈夫」

 不穏な言葉は聞かなかったことにして、右手を振って魔術を発動させたロリーナと、これから起こるだろう事象に僕は注目した。

 水平に振られた手から発せられたのは、青色をした粉状の光。

 それが魔法少女たちに降りかかり、今度は彼女たちの身体が青く光り出す。

 光はそれぞれの魔法具に集中し、大量の青い光の粉が、怪獣に向かって降り注ぎ始めた。

 たぶんロリーナは、彼女たちをブースターにして、カテゴリー三の魔術を増幅したんだ。

 その魔術の効果は、見る間に現れた。

「わぁ、いっぱいになった!」

「じゃ、ジャガイモ?!」

 青い粉で光り始めた怪獣は、弾けるように消え、大量のジャガイモへと姿を変えた。

 それを見たロリーナは、両手を振って四枚のエーテルモニタを開き、落下していくジャガイモに向かって新たな魔術をかけた。

 今度放たれたのは、赤い光の粉。

 ジャガイモと、赤い光が、冗談のような、でも幻想的に、まるで雪の如くゆっくりと舞う。

 金糸のようなロリーナの髪が緩やかになびいている。

 楽しそうに、嬉しそうに笑みを横顔に浮かべている、碧い瞳の彼女。

 幻想的な風景の中で背を向けて立つ彼女に、僕は見惚れてしまっていた。

 赤い光に包まれたジャガイモは四つの光の集まりとなり、広場の隅へと飛んでいった。魔術が、完成した。

「これで全部終わったよ」

「あぁ、うん」

 振り向いて碧い瞳で微笑みかけてくれる彼女に、見惚れたままだった僕はどうにか頷きを返す。

 ロリーナの指示で広場の端、怪獣からジャガイモになった光が飛んでいったところの近くにバイクを着地させると、避難していた人たちが続々と建物から出て来ているところだった。

 お祭りか何かの催し物をやっていたらしいそこには、机や椅子とともに、お風呂にでも使えそうな巨大な鍋とか、何段にも重ねられた蒸し器などが置かれている。

「……いったい、なんだったの?」

「さっきの怪獣は、この島で栽培されてたジャガイモだったの」

 湯気を立てている鍋や蒸し器に興味が出て、奇声を上げながら行ってしまったキーマは大丈夫そうだから放っておいて、バイクから降りて僕に振り返ったロリーナがしてくれた説明に頷いていた。

「そうだったんだ。……って、それってもしかして?」

「そっ。あのジャガイモは今日ここで開催されてる芋煮会のために集められて、料理魔術で調理されるはずだったの。それが暴走しちゃってあんな姿になってただけ。あの怪獣自身が望んだから、解除魔術で材料に戻して、改めてここで使われてたレシピで料理にしたんだよ」

 やっと僕はロリーナの昨日からの行動に合点がいった。

 昨日、キーマを生み出しちゃってすぐに帰っちゃったのも、今朝目の下に隈をつくっていたのも、授業に出ずにどこかに行っていたのも、そして急いでここに来たがったのも、すべてはこのためだったんだ。

「ロリーナ――」

「ま、話は後で。あっちで呼んでるよ」

 何と言っていいのかわからない言葉をどうにか口に出そうとして、止められる。

 彼女が指さした方向では、三人の魔法少女たちと、キーマが、芋煮会の主催者の人たちから振る舞ってもらった料理を食べ始めていた。

「わたしたちも参加させてもらえるみたいだし、まずは食べよ」

「……うん」

 ロリーナはキーマを生み出してから、何もしてなかったわけじゃない。

 世話は僕に押しつけてたけど、彼女なりに考えて動いていたことはわかった。

 いまはお礼の言葉はまた後ですることにして、彼女が歩いて行く場所に、僕も肩を並べて歩いていく。

 

 

            *

 

 

「まさか、こんなに早く対策を立てられるなんて……」

 島を見下ろす遥か上空、ホウキにまたがって白衣を纏い、黒いショート部屋を風に揺らす女性は、エーテルモニタを開いて眼前の広場で開催されている芋煮会の様子を拡大して見ていた。

 芋煮会会場に怪獣が現れたという報道を見て急いで駆けつけてきたが、そのときの映像で見た巨体は影も形もなくなっていた。

 もう一枚開いたエーテルモニタでニュースをチェックすると、魔法少女たちの活躍により、出現した怪獣は退治されたと報道されていた。

 しかし姿がないことから考えれば、怪獣は攻撃によって退治されたのではないだろう。

「私の料理魔術の解除魔術をもう組み上げた人がいるっていうの?」

 料理魔術の暴走によって生まれたはずのジャガイモ怪獣。

 それにより、料理されるはずだったジャガイモの大半は失われたはずで、芋煮会は開催不能になっていもおかしくなかった。

 いま和やかに芋煮会が開催されていることを考え合わせれば、ジャガイモ怪獣は倒されたのではなく、解除魔術によってジャガイモに戻されたものと思われた。

「これは計画を早めなければならないかも」

 表情を厳しく強張らせた女性は、エーテルモニタを手を振って閉じ、ホウキに乗ってその場を飛び去った。

 

 

 



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カレーは生き物 第一章~ようこそ! メルヘニック・パンクへ!!~ 5

 

 

          * 5 *

 

 

 机が整然と並ぶオフィスには、人影はほとんどなかった。

 機材なども整理され、殺風景にも見えるそこには、深緑の髪をした女性がひとり。

 彼女は口が開かれたスナック菓子の袋を三つと、コーヒーの入った大きなマグカップをだらしなく机の上に並べ、いくつも開いたエーテルモニタで忙しく作業をしていた。

「あー。ここもいいなぁ。でも旅館の空きがないか……。まぁいいや。チェックチェック。それとこっちは、いけるかな? よしっ、空きがある! ちょっと高いけど、いいかっ」

 身体の線が見えるほどタイトな濃紺のパンツスーツを着こなす女性がポニーテールの髪を振りながら見ているのは、温泉街の宿泊施設の空き状況。

 面倒臭かった書類仕事は先ほど処理を終え、女性は明日からの休暇のために旅行先をネットで検索していた。

「ここと、ここと、ここ、かな? 結構距離あるけど、いいか。あー。しばらく車動かしてなかったけど大丈夫かな? 最悪ホウキでいいか。まだ寒いけど」

 チョコとチップスと煎餅に順番に手を伸ばし、人のいないオフィスで女性はそんなことを呟きながら、宿泊施設の仮予約申請をし終えた。

「さて、と……。課長に見つかる前に帰らないと」

 椅子から立ち上がり、手を伸ばしてエーテルモニタを消そうとしたとき、すべて窓になっている廊下から丸見えのオープンなオフィスに、扉を開けて人が入ってきた。

「お疲れ、ミシェラ署員」

 背後からかけられた声に、名前を呼ばれた女性、ミシェラは肩を震わせて硬直した。

「お、お疲れさまです。スミス課長」

 ニコニコとした笑みを見せて近づいてきた男性は、課長のジョン・スミス。

 白髪交じりのグレーの髪をオールバックに決め、グレーのスーツをピシリと着たスミス課長は、ミシェラの上司。その冗談のような名前は本名なのか、それとも通り名なのかは、課に所属する人たちの間でも話題になるが、真相は不明だった。

 スミス課長は開いたままのエーテルモニタにちらりと目を走らせるが、にこやかな笑みは崩さず、ミシェラの肩に手を置いた。

「大変だったみたいじゃないか。本当にお疲れさま。お手柄だったね。君だからこそ解決できた事件だと思うよ」

 ミシェラが勤めているのはWSPO。ワスポとも呼ばれる、世界システム警察機構。

 世界どころか宇宙までが身近となり、しかし国というまとまりが限りなく薄くなってしまったいまの地球には、それでも統一政府のようなものが生まれることはなかった。

 各自治体が規模を大きくし、街とその周辺を収めるようになったいまの世界で、自治体間で共通して守るべきルールを定めるために設立されたという世界システム会議、WSM。

 上層部が誰ひとり公開されず、謎だらけで色々噂も多いWSMは、その理念が充分に機能しているがために、いまの世の中で受け入れられている。

 WSMの下部組織であるWSPOは、各自治体が組織したり契約している警察機構とは別に、自治体をまたがって起こる事件や犯罪の捜査を行う組織として設立された。

 ミシェラは今朝まで担当していた事件に懸かりきりで、三週間かかってやっと解決し、二ヶ月近く取れていなかった休暇を明日から取る予定だった。

「本当に大変だったんですよ!」

 何かを言おうとしているスミス課長に先んじて、ミシェラは彼に噛みつくように言う。

「亜光速魔導レールガンや空間消滅ミサイル程度ならともかく、もう少しでエーテル場断層弾まで投入されるところだったんですから!」

「そんなものまであそこにはあったのか」

「報告書はさっき送りましたから、ちゃんと読んでおいてください!」

 ミシェラが担当していたのは、遥か昔に製造された兵器が使用されているという事件だった。

 いまから二百五十年ほど前、すっかり魔導世界となった地球で、まだかろうじて残っていた国の威信とやらをかけて勃発するはずだった、最初の魔導兵器が配備された世界大戦。

 戦端が開かれる直前、突如発生した自然災害により、戦場となるはずだった場所では一切の魔導兵器が使用不能となり、ぐだぐだになってただの一度も戦闘が行われることなく終結を見た。

 通称、世界魔導「不」大戦。

 その当時製造された兵器の中には地球環境を破壊するどころか、ヘタをすると太陽系そのものが消滅しかねない物騒極まりないものまであったとかで、まだ戦争を懸念する多くの国は解体せず厳重に封印を施したとされる。

 とある自治体が治める街の近くで勃発した今回の事件は、その世界魔導不大戦当時の兵器が発掘され、使用されていると思われた。しかし兵器の管理責任があるはずの国家はすでに消滅済み。

 そのためにWSPOが事件解決を担当することになり、ミシェラが奔走することになった。

 戦っている二勢力のそれぞれが、大型ミサイルの弾頭に地球程度なら簡単に消滅させられるエーテル場断層弾を搭載し、発射態勢に入ったところで、かろうじて間に合ったミシェラたちWSPO捜査官が乗り込んで犯人の確保に成功したために、世界の危機は免れた。

 回収された兵器は、博物館や一般の好事家に無力化を条件に払い下げられ、事件は解決した。

 問題を先送りにしただけのような気もしていたが、ミシェラはこれ以上その事件に関わり合いたくなかった。

 戦っていた二勢力の争いの理由というのが――。

「信じられますか? 課長!! スープの味が濃かったとか薄かったとか、それが原因で始まった夫婦喧嘩で、太陽系を危機に陥れたんですよ?!」

「はははっ。それは凄い理由だね。いや、まったく」

 怒っていいのか萎えていいのかわからないその理由に、ミシェラはとりあえず怒ることにして、ヘラヘラと笑っているスミス課長に詰め寄って犯人の代わりに責め立てる。

 魔導世界前後の古いものを発掘したり流通したりで生計を立てている夫婦は、世界の危機を起こしながらも、捕まった後は仲直りしたそうで、バカップルのような甘い言葉を留置されている場所でかけ合っているという。

 ミシェラ個人としては、そんなはた迷惑な夫婦は死刑にでもしてほしかったが、いまどき死刑制度などはなく、防御魔術が付与された服を着ていれば現場の判断で射殺することも叶わず、致命傷を負わせられても法廷に出るために死んだ直後なら魔導医療で復活させられてしまう。

 高い技術と財産はあるようだから、少しすれば釈放されてくるだろうが、魔導兵器さえまた掘り当てなければ今回のような事件を起こすことはないだろうと思われた。事件を再発させそうな仕事やっていることは気がかりだったが。

 一時の感情で高ぶってしまった気持ちを深呼吸で抑え込み、姿勢を正したミシェラは課長に向かって宣言する。

「そんな大変な事件やその前の事件でもう二ヶ月も休みが取れていないので、明日から――」

「あぁー、それなんだがね、ミシェラ君」

 両肩を強くつかまれ、顔を近づけられたミシェラは思わず言葉を飲み込んでしまった。

 ――しまった!

 と思ったときにはもう遅い。

「今日の昼間にちょっとした事件が発生してね」

「いや、私は今朝まで――」

「なに、たいした事件ではないようなんだよ。ほら、これを見てくれ」

 言ってスミス課長が開いたエーテルモニタに映し出されたのは、素人が映したと思われる、明らかにヘタなアングルの怪獣映画。

 いや、ライブ配信されていたものを保存して再生したものであることが、隅の表示でわかる。

「怪獣退治、ですか? それこそ自治体の警務隊か、魔法少女辺りの仕事でしょう? 現地で起こってる事件なんですし。それでなければ、うちなら退治業務は執行部隊が管轄ですし」

「そうではないんだよ。この怪獣は昨日の朝に配信が開始された料理魔術の暴走で生まれたものでね。怪獣そのものは魔法少女たちによって処理が終わっているんだが、料理魔術の暴走の方はいま現在も暴走が発生していて、これまでに数十件ばかり報告が寄せられている。この怪獣ほどのものは他に例はないようなんだけどね、暴走によって不可思議なものが生まれ続けているようなんだよ」

 ニコニコと笑いながらも、有無を言わせぬ迫力を発するスミス課長に、ミシェラは口を挟む隙を見つけられない。

「魔術の方は鑑識課で解析中なんだが、カテゴリー二の割に何しろ巨大なスペルコードでね、解析には最低でも一週間、場合によってはひと月近くかかりそうだということなんだよ」

「で、でも、個別の暴走事故は、WSPOの出る幕ではないですよね? 各地の警務隊で対処すべきことで……」

「いやいや、いやいやいや」

 どうにか口を挟んだミシェラの肩をばんばんと叩き、スミス課長はロマンスグレーにしてはにこやかすぎる笑顔で言う。

「やってもらいたいのは暴走の原因調査と、犯人がいるような事件ならそれの逮捕などだよ」

「いや、あの、ですね……。私はほら、二ヶ月ほど休みを取っていないわけで……。今朝までかかって事件を解決したところですし……」

「わかってる。わかっているんだがね、ミシェラ君。だがほら、見てみてくれよ」

 そう言って課長はミシェラの小柄な身体をくるりと振り向かせ、捜査課のオフィスを見せる。

 オフィスにいるのは、ミシェラとスミス課長のふたりだけだった。

「捜査課は人手不足でね、いま手が空いているのはミシェラ君しかいないんだよ」

「で、ですがね? 課長? 私も休みを取らないと――」

「まぁたいしたことのない事件だと思うから、大丈夫だよ。たぶんね。君だから頼めるんだ。くれぐれも頼んだよ。あ、捜査は明日から始めてくれていいから。今晩はゆっくり休んでくれ」

 事件に関する情報が詰まっているらしい、動画を映していたエーテルモニタを縮小して投げ渡してきた課長は、踵を返してオフィスから出て行ってしまう。

 反射的に受け取ってしまったエーテルモニタを手の中で握りつぶすようにして自分のストレージエリアに送り込んだミシェラは、追いかけることもできずに深く、深く、地獄よりも深いところに届くため息を吐いた。

「あーーーーっ! もうっ!!」

 叫び声を上げたミシェラは、ポニーテールが解けてしまうのも気にせず髪をかき乱す。

 スミス課長はミシェラにとって大恩のある人。

 何をするでもなく、生きる目的もなかった彼女を、WSPOに入れて鍛えてくれたのは彼だ。

 その課長が頼むと言うなら、最終的には断れないのはわかっていた。

 けれど、タイミングが悪すぎる。

 まだ開いたままだったエーテルモニタで、宿泊所の仮予約を全てキャンセルしたミシェラは、チップスを鷲づかみにして口に頬張る。

「やってやる、やってやるわよ! さっさと解決して一週間くらい休みを取ってやるわよ!」

 人のいないオフィスで叫び声を上げて、ミシェラは机に拳を叩きつけた。

 思い出すと、前回の事件を解決したときも同じようなことを言っていた気がしたが、忘れることにした。

 スミス課長らしくきっちりとまとまっている事件の概要と、これまでわかっている状況をエーテルモニタで確認し始めたミシェラは、それでももう一度、深いため息を漏らしていた。

 

 

            *

 

 

 怪獣をやっつけた上に、芋煮会を開催できるようにしたことで、大量にもらったジャガイモ。それを使い、いろんな野菜と鶏肉を入れたクリームソースグラタンは、キーマにも好評だった。

 ピーマンは「上げる」と言われて全部僕のお皿に投入されてしまったのが悲しかったが。

 実年齢二日なのはともかくとして、キーマくらいの年頃ならピーマンが苦手なのは仕方ない。

「キーマ。あとひと口だよ」

「うんー。食べるぅ……」

 昼間に芋煮会で結構な量食べてたし、はしゃいでばっかりいたキーマは、夕食の最後のひと口を飲み込んだ後、よだれを垂らしながら船を漕ぎ始めた。

「寝る前に歯磨きするから、口開いて」

「うん……」

 目を閉じたまま口を開いたキーマに、細いブレスレット型の魔術具で歯磨き魔術をかけ、綺麗にする。身体の内側はダメだけど、体表面近辺ならエーテル場の影響はほとんどないから大丈夫。

 もうすっかり眠ってしまってお風呂は無理そうだから、ついでにお風呂代わりの身体洗浄魔法を使い、そのまま抱えてロフトベッドがある斜めのハシゴを気をつけて上がり、キーマをベッドに寝かせた。

「……大変そうね」

「うん、大変だよ」

 食器をキッチンに持っていってくれたロリーナが、呆れたように言う。それに応えて僕は彼女の碧い瞳をじっと見つめると、目を逸らされた。

 キーマの世話を僕に押しつけてることには、さすがのロリーナも多少の罪悪感があるらしい。

 料理は下手なのに、それだけは僕よりも得意な紅茶をロリーナが淹れてくれ、彼女と向かい合ってテーブルに着く。

 外はすっかり暗くなっているのに、まだ帰るつもりのないらしい彼女に、僕はついでにグチを零すことにする。

「本当に大変なんだよ? 元気がいいから暴れ回るし、食事も結構好き嫌いあるみたいだし、お風呂も遊んじゃって昨日は凄いことになったし――」

「お風呂、克彦が入れてるの?」

「そ、そりゃあ、ね? だってほら――」

「エッチ!」

「いやいやいや! だって、キーマだよ? そういうのじゃなくて!」

 頬を膨らませて上目遣いに僕を責め立てる碧い瞳に、僕は慌てて釈明する。

 確かにキーマは愛くるしいくらいに可愛いけれど、あんな幼い女の子にそんな感情を抱くような趣味は、僕は持ち合わせていない。

 ――そう思えば一〇年後、結婚しようって言われたっけ。

 この先キーマがどうするかはまだわからないけど、一〇年後の彼女は、いまのロリーナに似て美人な女の子に成長することだろう。

 身体を乗りだして僕を睨んでくるロリーナの胸は、男の僕じゃ絶対にそんなことにならないけど、ブラウス越しにテーブルに押しつけられ、柔らかく形を変えてるのが見える。

 そのときになったらキーマも、なんて考え始めたとき、何かを察したようにさらに険しくなったロリーナの視線に我に返る。

「……今度は、ロリーナが代わりにお風呂、入れてくれる?」

「うっ。えぇっと、か、考えておくね」

 幼い頃から大人びていた彼女は、キーマみたいな幼い感じの子供は苦手気味だ。

 睨んでいた勢いを失い、そっぽを向いて紅茶のカップを傾ける彼女に、僕は苦笑いを漏らしていた。

「これから先、キーマのことはどうするつもり?」

「ん……」

 問われるとは思っていた。

 ロリーナに押しつけられたからだけじゃない。僕は進んでキーマの世話を焼いている。

 キーマをこれからどうするかは、ロリーナとも相談しないといけないと思っていたけど、僕なりに昨日からの一日を使って考えてはいた。

 一番最初、魔術で生まれたあの子に対して、いつ魔術の効力が切れるかとかの不安があった。

 でもそれについては、サリエラ先生に検査してもらった結果を見る限り、心配はなさそうだった。

 だったらその後を考えなくちゃいけない。

 キーマはこれから先、生まれ方は特殊であっても、この世界に住む人間のひとりとして、生きていかなくちゃならない。人間として生きられるならば。

 僕の奥底を覗き込むように、碧いふたつの瞳が見つめてくる。

 この世界での僕の生い立ちを一番に知っているロリーナは、僕がキーマに対して思っていることも、こだわる理由も知っている。

 知った上で、彼女は僕に問うてくる。

「あれくらいの子供を世話するのは大変なの、わかってるよね? 実感してると思うけど」

「うん」

「キーマを生み出したのはわたしだってのはわかってるから、できればうちで引き取りたいとは思ってる。でもいまは、ママが忙しくて出払ってるから、しばらくは相談することもできないの。克彦があの子にこだわるのもわかるけど、手を負い切れなくなることもあるかも知れない」

「うん、わかってる。僕はそれを、キーマ自身に決めさせてやりたいと思ってる」

 碧い瞳に僕を映して、わずかに目を細めたロリーナの視線をしっかり正面から受け止める。

「キーマに決めさせるって言っても、いまのあの子じゃそこまでの判断、できないでしょ?」

「だから基礎インプリンティング学習を施してもらうつもりだよ」

「でもあれは、住民登録してないと受けられないから――」

「僕だって、あのときはそうだったろ?」

 この世界に僕が来てしまったのは、僕がロリーナと出会ったのは、いまのキーマの身体年齢と同じ、四歳くらいのとき。

 異世界漂流者なだけに身元がはっきりしなくて、特殊な体質のこともあって、すぐにはネオナカノの住民登録ができなかった僕に、どうしていきたいかを問うため、ロリーナが手を回して基礎インプリンティング学習を施してくれた。

 そのこともあって、僕はいまこの世界に生きている。

 僕はあのとき、たくさんの人に世話になった。そして何よりロリーナに、たくさんのことをしてもらった。

「この世界への発生原因は違うけど、僕とキーマは同じだ。だから僕は、キーマにも自分がしてもらったようにして上げたいと思ってる」

 笑みはなく、引き締めた表情で見つめてくるロリーナに、僕ははっきりと言う。

「あのとき、ロリーナが僕にしてくれたみたいに」

「……うっ」

 何かを喉に詰まらせたみたいにうめき声を上げた彼女は、急に顔を赤くして乗りだしていた身体を大げさに後ろに引いた。

「キーマが生まれたそもそもの原因はわたしだし、克彦がそこまでして上げたいって言うなら、手伝うよっ。本当、克彦は言い出したら聞かないし、仕方ないんだから!」

 顔を赤く染めて慌てたように言うロリーナは、いつもは大人びて見えたりするのに、いまは僕と同い年の普通の女の子に見えた。

「そんなこと言って、ロリーナだってあの解除魔術、つくってくれてたんでしょ? たぶんキーマと、僕のために」

「うぅ……。いや、それは、ね? もしかしたらキーマがあの怪獣みたいに材料に戻りたいって思うかも知れないって、思って……。あの子の身体はどれくらい安定してるかわからなかったから、わたしの失敗でもあったわけだし、いざというときのために料理魔術を解析して対策を立てることくらい、ね?」

 美しくて、僕が近くにいるのは畏れ多さを感じてしまうことだってあるのに、たじろいでいる彼女は親しみやすくて、何だか笑ってしまう。

 自分がやったことを指摘されるのは苦手なのは知ってるけど、僕は僕で、ロリーナがやってくれていたことに感謝したかった。

「キーマのことはできるだけ僕がやる。僕がそうしたいから。でも、ロリーナ。ありがとう。いつも僕のことを助けてくれて」

「うっ、うん……。しっ、仕方ないでしょ。わたしと、克彦の仲なんだから」

「うん」

 もう恥ずかしさで堪えられないように身体を震わせてる彼女に、僕は精一杯の笑みを見せていた。

 初めて出会った頃も、彼女はこんな感じだった。

 言わなくても僕のことを助けてくれて、率先して自分のできること、得意な方面のことをやってくれて、結果を見せつけてくれる。

 そんなロリーナのことが、僕は好きだ。

 ひとりの、女の子として。

 彼女に釣り合わない僕はこの想いを告げることなんてできないけれど、ずっと抱いていきたいと思う。

 この世界に来てひとりぼっちの僕に手を差し伸べてくれて、たくさんのものをくれるロリーナのことを、あのときからずっと好きだった。

 

 

            *

 

 

 友達の家に遊びに行こうとしたのに、気がついたら知らない場所にいた。

 階段を上った憶えなんてなかった。それなのにずいぶん高いところにいるみたいで、吹き抜けていく風は冷たかった。

 僕はたくさん歩いた。

 知っている場所に出ないかと思って、たくさんたくさん歩いた。

 ビルか何かの外なのか、階段がたくさんあって、でもコンクリートとは違うように見える建物の中に入れる扉は見つからなくて、たくさん歩いて疲れてしまった僕は、もう歩けなくなっていた。

 空は、どこまでも抜けるように青かった。

 東京の水色にくすんだ空ではなくて、碧く抜けるような空は、綺麗だけど寂しかった。

 歩き疲れて動けなくなった僕は、金属製の階段の途中に座り込み、泣いていた。

 同じところをぐるぐる回ってるみたいで、知ってる場所にはいつまでも出られなくて、人とも出会わなくて、どうすることもできなくて、ただ寂しかった。

 泣く以外のことは、もう何もできなかった。

「邪魔」

 抱えた膝の間に顔を押しつけて鼻をすすっていたときに、そんな舌っ足らずな、可愛らしい声がかけられた。

 顔を上げた僕は、思わず寂しさを忘れた。

 白いレースやフリルで飾られた水色のワンピース。

 静かな川のように流れる金色の髪。

 怒りで歪められていても愛らしい顔立ち。

 僕のことを厳しく見つめる碧い瞳は、空の青さよりもさらに深く、苛立ちを湛えているのに、そこに吸い込まれてしまいそうな気がした。

 たぶん僕と同じ四歳くらいの女の子の綺麗さに、僕は泣くのも忘れて見惚れてしまっていた。

 そんな僕を、何故か手に持っているホウキで叩いてせき立てどかした女の子は、階段を上って行ってしまう。

「ま、待って!」

 こんな不思議なところに来て初めて出会った人だ。逃すわけにはいかなかった。

「何? 何か用なの?」

 さっきよりもさらに不機嫌そうに振り返った女の子に、ちょっと怖くなりながらも僕は勇気を出して問う。

「ここは、どこなの?」

「どこって、それは……。んん?」

 苛立った様子はそのままに、小首を傾げた女の子は、ホウキを回し先端で円を描く。

「ついさっき、異世界から迷い込んできた人? 何かヘンな体質も持ってるみたいだし……。歩いていればそのうち人がいる場所に出られるから、歩き回っていなさい。誰かに会ったら、その人に区役所にでも連れて行ってもらえば?」

「え?」

 突き放すように言った彼女は、階段を上って行ってしまう。

 だけど僕はたくさん歩いて人に出会えなかったんだ、彼女を追っていく以外にいまやれることはない。

 女の子にしては早足で、時々振り返って邪魔そうに顔を歪めてるけど、彼女は走って僕のことを突き放したりはしなかった。

 やっと女の子が立ち止まったのは、さっき僕が泣いて歩けなくなっていた場所から、ずいぶん高く上がった場所。

 展望台のように柵の向こうに景色が広がるそこからは、僕が来てしまった場所を見渡すことができた。

 東京タワーの特別展望台に上って、景色を見たことはあった。

 でもここから見える景色は、東京のとは大きく違っていた。

 高い山から見ているように、地上にあるたくさんの緑は木だと思うのに、ひとつひとつを見分けることはできなかった。

 どこまでも家やマンション、道が続いていた東京と違って、地面にあるのは森と、たぶん広い畑。

 そして僕は、いまいるこの場所が、街であることを知る。

 山よりも高いくらいの場所から見下ろすと、間を空けて積み重なった板の上に、家やマンションが建っているのが、端っこだけ見えた。

 遠くに見えるのは、たぶんここと同じ街。

 卵型だったり、三角形だったり、柱のようだったりする街が、いくつも見えていた。

 ――僕は、こんなとこに来ちゃったんだ。

 もう友達にも、お父さんとお母さんいも会えないんじゃないかと思った。

 でもそれよりも、この不思議で、もの凄い風景を、ただ見ていた。

 まるで映画の中に出てきた未来の世界みたいだった。

 僕に起こっていることは、まるでファンタジーのゲームみたいに思えた。

 あまりに現実離れしすぎてて、僕は自分が童話の世界の登場人物になったようだ、なんてことを考えていた。

 ただ呆然と景色を眺めている間に少しずつ太陽が傾いていき、空はだんだんと赤く染まっていっていた。

 僕から少し離れた場所で同じ風景を眺めている女の子は、ひと言も言葉を発していない。

 ただ僕と同じように、風景を眺めてる。

 そう思ったけど、違っていた。

 彼女の横顔に見える碧い瞳が、微かに揺れていた。

 唇は噛みしめられていた。

 彼女が何を考えているのかはわからなかったけど、でも僕にもわかることがあった。

「何を、そんなに悩んでるの?」

 思わず、僕はそう問うていた。

「え?」

 びっくりしたような顔で僕を見た女の子。

 涙は流れていないけど、泣きそうにも見える彼女が、何かに悩んでいるのはわかった。

 僕に話してもらってもどうにもならないのはわかってる。

 僕と彼女は、たぶん違う世界に生きてる人間だ。遠い存在だ。

 でも僕は思ったんだ。

 ――この子には、笑っていてほしい。

 だからもう一度訊いた。

「なんでそんなに悩んでるの? もしよかったら、僕に聞かせて」

「聞いたところで――」

「うん……。たぶん何もできないと思う。でも話したら、少しは楽になるかも知れない」

 前にそう言って僕の悩みを聞いてくれたのは、お母さん。

 微笑みながら僕の言葉を残さず聞いてくれたお母さんの顔を思い出して、ちょっと泣きそうになったけど、それを飲み込んで女の子の言葉を待つ。

「わたしは……、うん。悩んでる。わたしはいま――」

 語り始めた女の子の言葉を、僕は逃さず聞こうと集中する。

 話してくれたことに相づちを打つだけじゃなくて、できるだけ返事ができるように、勉強のときもしたことがないくらい、頭を使う。

 それからたくさん、たくさん話をした。

 夕焼けが終わりに近づいて、数え切れないほどの星が東の方から瞬き始めるまで、僕と女の子は話を続けた。

 必死で、一所懸命で、聞いたときには答えられても、難しい話でもあったから、僕はほとんど女の子が話してくれたことを憶えられなかった。

 それでも彼女は、最後に笑ってくれた。

 ――うん。やっぱり、凄く綺麗だ。

 夕日の残りに赤く照らし出される女の子の笑顔は、本当に綺麗で、僕はまた、見惚れてしまっていた。

「わたしはロリーナ・キャロル。友達になりましょ。貴方の名前は?」

 言いながら差し出された女の子の、ロリーナの手。

 握手なんてしていいのかわからなくて、でもロリーナが眉根にシワを寄せたのを見て、仕方なく僕は服で拭ってから自分の手を恐る恐る差し出した。

 素早く伸ばされた彼女の手に、僕の手は包まれる。

 いままで経験したことがないくらい、僕の心臓がドキドキし始めた。

 僕に向かって笑ってくれるロリーナの碧い瞳から、目を離すことができない。

 彼女は僕とは違う世界に生まれて、違う世界に生きてる人だ。

 遠い場所に住んでる女の子だ。

 僕には彼女の隣に立つことはできない。友達になってと言われただけで、凄いことだ。

 そんなことを、僕は思っていた。

 だってそれくらい、僕と彼女は違っていたから。

「僕は、音山克彦」

「うん。よろしくね、克彦。いまから貴方は、わたしの一番大切な……、友達だから」

 夕日のためか、少し頬が赤くなっているように見えるロリーナ。

 満面の笑みを浮かべる彼女と握手をしながら、僕は思っていた。

 ――僕は、この子のことが好きだ。

 たぶん、最初に彼女が声をかけてくれたときからそうだったんだ。

 でも改めて、僕は彼女への気持ちを確認した。

 綺麗で、凄くて、笑顔が可愛いロリーナ。

 この世界のことを何も知らず、違う世界から僕は、彼女には絶対釣り合わない。

 それでも僕は、彼女が好きだと感じてる自分を、どうすることもできなかった。

 

 

 

 



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カレーは生き物 第二章 ~料理×生物=クックリーチャー!!~
カレーは生き物 第二章 料理×生物=クックリーチャー!! 1


 

   第二章 料理×生物=クックリーチャー!!

 

 

          * 1 *

 

 

「うぅ……」

 僕は思わずうめき声を上げてしまっていた。

 授業中の静かな教室。

 聞こえてくるのはヒメ先生の声と、……それからキーマの声。

 CNGには託児所も設置されてるけど、キーマには住民登録がないし、いまは一杯だそうで、昨日に引き続きキーマは僕と一緒に教室にいることになった。

 そのキーマは、いまは彼女専用に置かれた机で、僕が開いて上げたお絵かきモードにしたエーテルモニタに、楽しそうに何かを描いている。

「ふふふんっ、ふふんっ、ふんふんっ」

 楽しげなのは嬉しい限りなんだけど、いまは授業中。

 私語に厳しいヒメ先生は、キーマのすることについてはお目こぼししてくれるつもりらしい。

 それでも僕は、冷や汗をかくのを止められない。

 いつもは真面目に授業を受けてるクラスメイトたちも、時折キーマの方を見てクスクス笑っていたり、優しい笑みをかけてきてくれたりした。

 キーマはクラスの中でもすっかり人気者だ。

 純真無垢で、けっこう甘えん坊で、持ち前の天真爛漫さから見せる笑みは、まだ幼いというのに男子の心を確実につかみつつある。

 今日はもうクラスの中だけの人気だけじゃなくて、このクラスの人以外にも、休み時間になると遠い教室の人たちまで彼女の姿を見に来るほどだった。

 ひとりだけ、睨みつけるような視線を向けてきているのは、カグヤさん。

 校内の人気をロリーナと二分するカグヤさんは、そこに割り込むように人気を獲得し始めたキーマに対抗心を燃やしているのかも知れない。

 ――さすがに、それもどうかと思うけど。

 お菓子の貢ぎ物はスナック菓子から手作りケーキまで、今日もすでに結構な量になっている。あんまりお菓子ばかりは食べさせてやれないが。

 わかってくれてる人は、僕宛てに食材の差し入れをしてくれてたりする。

 キーマひとりを食べさせてやるくらいはどうにかなるけど、子供とは言えひとり増えると厳しくなるのは否めない。

 キーマもそうだけど、僕はいま、クラスのみんなに助けられていることを実感する。

 ――そんなのも、今日までかな?

 鼻歌の止まったキーマの方を見てみると、不機嫌そうに眉根にシワを寄せて、口を尖らせていた。

「わわわっ」

 ダンッ、と思い切り机を叩きそうになったのを止めて、僕は焦る。

「静かに、静かに」

「うぅーっ」

 見てなかった僕には、キーマが何を不満に感じてるのかわからない。

 こういうところはさすがに子供だ。見てても彼女の中で何が起こってるのかは、わからないかも知れない。

「ここは、こうして、こうやって……、ほら」

「おぉー」

「この辺触るとできると思うよ。わからないことがあったら、訊いてね」

「うんっ」

 キーマを挟んで隣に座るロリーナが、エーテルモニタを細くて長い指で操作して、やり方を教える。どうやら色を変えたり、ペンの太さを変えたりしたかったらしい。

 教えてもらったキーマは、ご機嫌になってお絵かきを再開した。

 声を出さずに口だけで「ありがと」と言うと、僕の方を見ていたロリーナは笑みとともに頷いてくれる。

 何だかこうしてると、本当に僕とロリーナが子供をつくったみたいだ。

 ――さすがに、ないけどねぇ……。

 勉強も運動もできて、蹴っちゃったけど魔法少女の後継者に選ばれるほどのカテゴリー一〇オーバーの魔法使いのロリーナには、つき合ったり結婚したりするにしても、僕なんかよりふさわしい人が現れるだろう。

 そう遠くないうちに僕なんか構ってくれなくなるだろうロリーナのことを考えると、ちょっと寂しくもなるけど、それも仕方ない。

 いまは僕にできることを、精一杯やって、手伝ってくれるロリーナと一緒に過ごすだけだ。

 今日は放課後、キーマに基礎インプリンティング学習を施しに行く。

 それによっていままで知らなかったことを知り、多くのことを考えられるようになるだろうキーマに、どんな変化が訪れるかはわからない。

 普通なら六歳から十歳の間に施すそれを、今日施すことは、もう僕の中では決まっている。

 彼女がこの先どうしていきたいかは、彼女自身が決めるべきだと思うから。

「できた!」

 大声を上げるキーマに、さすがに教壇に立つヒメ先生も、片眉をぴくりと反応させる。

「うぅ……」

 放課後が来るまでに、僕の胃が保つのかどうか、それの方が気がかりだった。

 

 

            *

 

 

「カグヤさま、どちらに向かわれているので?」

「四の五の言わずに着いてこい、ツクヨ」

 放課後となり、カグヤは膝裏まで伸びる髪を左右に揺らしながら、ツクヨとともに廊下を高い足音を立てて歩いていた。

 特別教室が集まるそこには人通りはなく、ひっそりと扉が閉じられているだけで静まり返っていた。

「ここだ!」

 大粒のマナジュエルがはめ込まれた魔法具で認証して鍵を解除したカグヤは、扉を大きく開いた。

「……ここは、調理実習室?」

 メルヘニック・パンクのいまは、フライパンを振るって料理をつくる人は決して多くない。

 ペースト状の合成用食材を使い、味はもちろん、見た目や食感も完全再現できる魔導科学の粋である合成調理器が普及しているため、食事を手でつくる必要はあまりない。

 食材のゴミも出ず、栄養価も衛生面でも手でつくる料理よりも優れている。

 それを使うのも面倒臭ければ、世界には全世界では数千種類に達するという味のバラエティがある、スティックフードやゼリーフードがある。

 エーテルアンプと魔術によって稼働する停蔵庫は、旧時代の冷蔵庫とは違い、限られた空間のみであるが時間を限りなく遅くすることができるため、買ってきて入れておいた出来立ての料理を取り出せば、数日後でも暖かいまま食べることもできる。

 それでも学校では、経験学習として調理実習が行われているので、CNGでも料理実習室が設置されている。

「ふふふっ」

 魔術で火をおこすコンロや、流しが取りつけられた机がいくつも並んでいる調理実習室に踏み込み、カグヤは含み笑いを漏らす。

「こんなところに来て、何をされるおつもりです?」

「お前は悔しくないのか? あのキーマという、ロリーナの生み出した娘ばかりに人気が出ているではないか!」

「なるほど。キーマ様にばかり構うようになってしまった克彦様に手料理をプレゼントして、気を引きたいということですね?」

「な?! ち、違うわ! な、何故そこで克彦の名前が出てくる?!」

 明らかに取り乱し、顔を真っ赤に染め、ヘアバンドから伸びたウサギの耳を忙しなく動かしているカグヤ。

 そんな可愛らしい彼女に、ツクヨは頬に手を当ててにんまりとした笑みを浮かべてしまう。

「つくった料理は、克彦様にプレゼントされるのではないのですか?」

「それは、その……、そうだが……。ち、違うぞ?! あやつだけがわらわに振り向かぬからだ! だから、その……」

「そうですね。克彦様には、カグヤ様の魅力も届きませんものね」

 月下人の首長の娘に産まれたカグヤには、特別な力がある。

 すべての月下人は高い魔法力を持つ魔法使いで、首長の血筋であるカグヤはその中でも飛び抜けて力が強い。

 そして魔導科学が発展したことで判明した事実として、昔からカリスマ性が高く、人心を惹きつける人は、チャームの魔法を無意識のうちに使っている。ナチュラルチャームと名づけられたそれは、月下人首長の娘で魔法力の高いカグヤは、かなり効力が強い。

 魔導科学の発展により、服には防御魔術が標準的となり、事故や事件で怪我をする人はほとんどいなくなったのと同時に、精神や身体に直接作用する魔術や魔法からも保護する対抗魔術が当たり前となった。

 ナチュラルチャームはそうした対抗手段が執られる以前より効力は大幅に減少してしまったが、カグヤの持つそれは生半可な対抗魔術を貫き、ある程度の影響を相手に及ぼす。

 決して悪意を持って使っているものではないので、個人の魅力のひとつとして、封印措置はされずに放置されているナチュラルチャームによって、歩くだけで多くの人がカグヤに振り向く。

 しかし克彦だけは、一度としてカグヤに魅力を感じて振り向いたことがない。

 彼の持つ特別な体質が、カグヤの魅力を完全に無効化してしまっている。

「あやつがロリーナばかり見ているのが悪いのだ! 少しくらい、わらわのことを見ても悪くはなかろうに!!」

「そうですね。カグヤ様にとって、克彦様は特別な方ですものね」

「い、いや、そういう、ことではなくってだな……」

 突っ込まれて耳たぶまで赤くしているカグヤのうろたえ具合に、ツクヨは噴き出すのを必死で堪えていた。

 カグヤはいまでこそ同期の学生の中では、ロリーナと二分するほど校内の人気者であるが、入学当初は違っていた。

 ある日、突然に父親である首長から地球に下りるよう命じられ、CNGに入学することになったカグヤは、凄まじく荒れた。

 ツクヨも一緒であったが、首長の娘としてわがままし放題だったカグヤは、CNGに入学当初は変わらぬ振る舞いをし、話しかけてくれる人はほとんどいなかった。友達ができなかった。

 そんなときに声をかけてきてくれたのが、克彦だった。

 近づいてきたら近づいてきたで、ナチュラルチャームによって僕(しもべ)のようになってしまう人たちと違い、それが効かない克彦は、してはいけないことはいけないとはっきり言い、わがままを爆発させても変わらず話しかけてきてくれた。

 何ヶ月もかけて少しずつ学校という場所での振る舞い方を学んだカグヤは、ナチュラルチャームを自分の意志で抑え込むようにし、いまでもわがままな性格は矯正しきれていないが、以前のように傍若無人に振る舞うことはなくなった。

 克彦と話すようになって、近い魔法力を持つロリーナと喧嘩をしながらも話すようになったことも大きい。

 そんな克彦のことは、カグヤが視線で追ってしまうほどの存在となっていたが、当の克彦はロリーナとばかり一緒にいることが多く、キーマも現れたことで、ここ数日カグヤに話しかけてくることがなくなっていた。

 そろそろカグヤの不満は、堪えがたいほどになりつつあった。

「ふんっ。以前世話になったというのに、少しも礼ができていないのもあるからな! それも兼ねてのことだ!!」

「そうですね、はい」

 口元に笑みを貼りつけてわかっているように答えるツクヨに、悔しげに歯を食いしばってそれ以上なにも言えなくなったカグヤは、調理室の中を歩いて奥手に置かれている停蔵庫を開く。

「ですがカグヤ様、何をつくられるおつもりで?」

「クッキーだ。プレゼントと言えば定番であろう? あのキーマという娘も必ずや気に入り、わらわに尊敬の眼差しを向けるようになるであろう!」

 克彦だけでなく、キーマにまで気を遣っているカグヤに、彼女の成長を感じつつも、言葉との裏腹さに噴き出しそうになるのを口に拳を添えてツクヨは抑え込む。

「で、ですがカグヤ様? 言い難いのですが、カグヤ様はほら、料理の方は……」

「ふんっ、わかっておるわ!」

 月世界では合成調理器は当たり前に受け入れられている上、首長の娘であるカグヤは包丁一本握ったことがなかった。料理が必要なときは、ツクヨの出番だった。

 調理実習でほんの少しやったことはあるが、ロリーナと同じように、カグヤには料理をするということに関するセンスが決定的に欠けていた。

「そこはほれ、便利な魔術が配信開始になっている」

「料理魔術ですか? ですがあれは、先日ロリーナ様も失敗されてキーマ様を生み出す結果になっていますし、学校全体に注意を促すメッセージも届いていたではありませんか」

 停蔵庫から小麦粉やバター、砂糖といったクッキーの基本材料を取り出して近くのテーブルに並べるカグヤを見ながら、ツクヨはそう指摘する。

「ロリーナの奴が失敗した魔術をわらわが華麗に成功させる。そうすればあやつの無能さをみんなに知らしめてやれるではないか!」

「それは、そうかも知れませんが……」

 克彦のこともあって、ロリーナに対し熱い対抗心を燃やすカグヤを止めることは、ツクヨにも難しい。

 不安になりつつも、一度言い出したらツクヨの言うことを聞いてくれないカグヤのことは、半ば諦めてもいた。

「さて、準備完了じゃ!」

 若干いびつになりながらも、金属プレートにクッキングシートを敷き終えたカグヤは、並べた材料を目で確認し、大きく頷いた。

「止めた方がよいのでは……」

「そこで見ておれ。わらわが華麗に料理魔術を成功させるところをな!」

 エーテルモニタを開いたカグヤは、ツクヨの制止も聞かずに料理魔術とクッキーのレシピを選択し、魔法具である指輪への読み込みを開始させた。

「ふふふっ」

 読み込みが完了し、ピンク色に光り始めた指輪のマナジュエルを確認したカグヤは、手を振って赤い光の粉を材料に振り撒いた。

 直後、調理実習室は爆発的な光で満たされた。

 

 

 



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カレーは生き物 第二章 料理×生物=クックリーチャー!! 2

 

 

          * 2 *

 

 

「おー。なんかすごーい」

「……相変わらず凄いね、この辺は」

 放課後になり、僕たちが訪れたのはネオナカノの中でも中層の下の方のエリア。

 建造開始から二百年近くになるネオナカノは、いまでは増設による成長はほぼ止まり、再開発が中心となっている。

 ロリーナと一緒に訪れたこの辺りは、ネオナカノの中でも割と初期に浮かべられた敷地プレートが集まっている地域で、他の自治区に対抗する形で建造を急ぎ、ほとんど無計画に増設されたという。

 ひとつ上の階層との距離が充分でないため、大きな建物をプレートの上に建てることはできず、日照のこともあんまり考えられなかったため薄暗く、再開発も諦められているため、住んでいる人は少ない。

 魔導科学によりエネルギー問題がほぼ解決し、原子素材さえあれば魔術によって無限に食料を供給できるようになったメルヘニック・パンクでは、忙しなく生きる必要はない。

 病気や身体的な疾患は魔導医療でどうにでもできるし、最低限の仕事をしていれば、味やバラエティの問題はあるにしろ、自治体から食料も供給され、狭いけれど住居も割り当てられる。

 生きるだけなら本当に最低限、ちょっと身体を動かす程度で何とかなってしまう。

 そんな、僕が生まれた二一世紀を基準に考えるなら、天国に近接した生活ができる。

 人はいまや趣味や欲によって仕事をし、趣味で死ぬ。

 それがメルヘニック・パンクの世界。

 もちろんそうした生活をするためには、住民登録が必須なわけだけど。

 わざわざスラム街となっているこの地域に好きこのんで住むのは、そういうところが好きな人だけだ。

 そして僕たちがこれから訪れるのは、好きこのんでここに住んでいる人の家。

「ここぉ?」

「そうだよ」

 僕がスカイバイクを乗りつけたのは、このスラム街の中でもとくに凄いところだった。

「本当、相変わらずだね」

「まぁ、あの人が住んでるところだからねぇ」

 発着場でホウキから降り立ったロリーナは、僕の言葉にそう応えてため息を漏らしていた。

 ここの辺りでもとくに大きな敷地プレートのここは、まるで森のようだった。

 それも木々が鬱蒼と生えてるんじゃない。

 金属の塊だとか、何かの機械だとか、ゴミとも使えるものとも知れない、そうしたものが突き立てられたり積み重ねられたりしてできた、無機質な森だ。

 発着場からただ一本敷地の中心に伸びている道を、キーマと手を繋ぎ、ロリーナと並んで慎重に歩き出す。

 道を外れたらいったいどんなことになるのかわかったもんじゃない。

 少し歩いて見えてきたのは、大きいけど平屋の家。

 ケーブルが蔦のように巻きついていたり、金属部品とか基板とかがコケのように貼りついているその家は、まるで鬱蒼とした森の中にひっそりと建つ魔女の館。メカメカしいが。

 機械の木々の影から野生のメカアニマルでも飛び出してきそうな雰囲気だからか、キーマは僕の脚に身体を寄せてきていて、静かだ。

 事前にロリーナにアポイントを取ってもらっていたけど、玄関扉の前までたどり着いた僕は、ライオンの顔を模した古風なノッカーを鳴らす。

 カチリと鍵が解除される音がして、扉は押してもいないのに開かれていった。

 屋内は、奥の方に外と同じように機械が積み上げられていたり、小型の機械が床とかに転がっていたりするけど、意外に整理されていた。

 入ってすぐの玄関ホールとリビングを兼ねたような広い部屋にあるのは、実験に使いそうな広い机と、応接セットと、ソファと、それから壁際に並べられた本棚。

 データと言えばデジタルデータばかりとなったメルヘニック・パンクで、紙の本はあるだけで希少だ。

 それもたくさんの本棚に並んでいるのは、すべて魔導に関する本ばかり。もちろん妄想や嘘で書かれたものではなく、古今東西から集められた本物の魔導書。

「久しぶりだね、克彦君。それにロリーナ。たまにはボクに顔を見せろと言っているのに、ご無沙汰じゃないか」

「えぇっと、お久しぶりです」

「ん、久しぶり。あんまり来れなくてゴメン」

 ソファに寝そべったまま話しかけてきたのは、いまではアンティーク調となってしまったゴシック・ロリータファッションの服を身に纏う女性。

 ロリーナが私服として好んで着ているメルヘニック・ロリータのような今風ではなく、極々昔風のゴスロリ服を着たその女性は、僕たちより少し年上の、十代後半に見える。

 銀色のセミロングの髪と、青くすら見える白い肌が、黒いゴスロリ服で生えるその女性は、まるで人形のようにも思えるが、人間だ。

「それで、その子が君たちふたりの子供かい?」

「いや、違いますから、エジソナさん」

 もう何人に言われたのか思い出せないほど言われた言葉を、ボクは半ば諦めながらその女性、エジソナさんに否定で返す。

 エジソナ、という名前を、この世界で知らない人はいない。

 少なくとも基礎インプリンティング学習を施した人が、知らないなんてことはあり得ない。

 歴史に名を刻みつけた、地球で最も有名な女性、それが彼女だ。

 マナとエーテル場の存在を実証し、魔導量子力学などの数々の学問を確立したのが、いま僕たちの目の前で憂鬱そうにソファに寝そべっている彼女自身だ。

 彼女は多くの伝説を残している。

 魔導世界となる前、魔法力が高く、魔法少女の家系に生まれた彼女は、四歳で魔法具を受け継いだその日、効力を確かめた直後に解体し、その構造を解析し始めたと言う。

 それによりマナとエーテル場を発見し、魔法を扱いやすく体系化し、魔術として使えるようマジックスペルを開発したのも彼女だし、一般人でも魔術が使えるようエーテルアンプと、それに関係するエリクサーとかマナジュエルの製造方法を確立したのも彼女だ。

 たまたまそのとき開催されていた世界博覧会で、天才としてすでに名を馳せていたエジソナさんは、各国首脳相手にマナとエーテル場の存在を主張した。

 信じない彼らに、彼女は事前に周辺に設置してあった魔術装置で博覧会会場の敷地を浮かせて証明してみせたのは、あまりにも有名なエピソードだ。

 他にも世界魔導不大戦を勃発前に終結させた自然災害は、彼女が起こしたという噂とか、エピソードには事欠かない。

 生まれは魔導世界以前だから、すでに三〇〇歳を超えているのに、一〇代後半にしか見えない彼女の容姿を含めて、エジソナさんは謎と不思議の塊のような人だ。

「君のことをパパと呼んでいるのは聞いているし、やはりロリーナとの間にできた子供ということだろう?」

「いや、ないですから。僕がロリーナとなんてあり得ないですから」

「……君はもう少し、自覚を持った方がいいと思うぞ」

 エジソナさんに言われた言葉の意味がわからず、僕は首を傾げてしまっていた。

 何でかロリーナも不機嫌そうに目を細めているし、キーマも口を尖らせて脚に抱きついてきていた。

「まぁいい。そこのところはもう少し時間をかけてわからせてやるしかないだろうな。なぁ、ロリーナ」

「……そうですね」

 やっぱりわからないけれど、エジソナさんとロリーナの間では通じているみたいだから、僕は気にしないことにする。

「それで今日はその子に基礎インプリンティング学習を施してやりたいということだったね」

「えぇ」

 答えた僕は、エーテルモニタを開いて、サリエラ先生に取ってもらったキーマの診断データをエジソナさんの方に滑らせる。

 寝そべっていた身体をソファに座らせてそれを受け取ったエジソナさんは、表示を大きくして内容を読んでいく。

「あそこじゃたいした機材はないだろうに、よく調べているね。まぁ、ボクがその子に施術してやる義理もないと言えばないんだが、面白そうな素材ではあるね」

 じっとエジソナさんに見つめられて、キーマはさらに僕の脚に強くしがみついてくる。

「そこを、なんとか……」

「ふむ。まぁボクと君たちの仲だからね。さほど面倒なことでもないし、構わないよ。ただもう少し検査をしてからでなければ、施せるかどうかは判断できないな。大丈夫だろうが、念のためね」

「お願いします」

「ロリーナ。準備をするから手伝ってくれ」

「はい」

 エジソナさんはロリーナを連れ、奥の部屋へと行ってしまった。

 取り残されて手持ち無沙汰な僕がキーマを見てみると、不安そうに顔をうつむかせていた。

 しゃがんだ僕は、顔を歪ませてる彼女の視線に自分の視線を合わせる。

「大丈夫だよ、キーマ。僕も今日することと同じことをしたことがあるからね」

「パパも、やったことあるんだ?」

「うん。何も問題なかったよ。ちょっと疲れるかも知れないけどね」

「それだけ?」

「うん。それだけだよ。終わったら、いままでわからなかったことがいっぱいわかるようになるし、できなかったことができるようになるよ」

「本当に?」

「うん」

「それが終わったら、ロリーナマ――、ロリーナよりも、いろんなことできるようになる?」

「……それはどうかな。ロリーナはいろいろ破格だからなぁ。キーマ次第では、かなぁ」

「じゃあ頑張るっ。いっぱい、いろんなことができるように!」

「うんっ」

 元気を取り戻して笑ってくれたキーマに、僕も笑みを返す。

 少し余裕が出てきたらしいキーマは、改めて部屋の中を見回して、机の方に歩いていった。

「これは、何?」

 実験にでも使うような広い机の上には、白い容器のようなものがいくつか置かれていた。

「これは……、ラーメン、かな?」

 上から下に向かって若干窄まりがちの容器には、剥がして開けるようになってる蓋がついていて、印刷がまったくされてなくて真っ白だということを除けば、僕が元いた世界にあったカップラーメンそのままだった。

「ラーメンって何?」

「ラーメンは食べ物だよ。今朝食べたスパゲティとはちょっと違うタイプの、麺の食べ物」

「美味しい?」

「うん、美味しいよ」

「食べたい! ラーメン食べてみたい!」

 いきなりはしゃぎ始めたキーマは、届かない背を伸ばして、机の上の容器を取ろうとする。

「いやいやキーマ。人の家のものを勝手に食べたりしちゃダメなんだよ」

「えーっ。ラーメン食べたいなぁ……」

「今度家でつくってあげるから」

「むぅ!」

 一気に不機嫌になったけど、横目でちらちらと見てるところからも、まだラーメンに興味があるのは明らかだ。

 見た目はカップラーメンだけど、いったいどんなものなのかわからないものを勝手に触るのは危険だ。とくに、エジソナさんの家にあるものとなったらなおさら。

「ふむ。それに興味を持ったか。お目が高いね、キーマ君は」

 機材を持って現れたエジソナさんは、そんなことを言いながらソファに座り、エーテルモニタを開いて何かを打ち込み始めた。

「残念だが、それはラーメンではない。というか、食べ物ではない」

「そっかぁ……。ラーメン食べたかったな……」

「じゃあなんなんです? これは」

「ふふふっ。君も興味があるか。男の子だね」

「いや、何だかまったくわからないから訊いてるんですが」

 エーテルアンプを発明したことからもわかる通り、エジソナさんは発明好きだ。

 三〇〇年以上生きて、エーテルアンプのパテントだけで飛んでもない資産を為してると思うけど、それだけでは飽き足らず、というより発明すること自体が好きな彼女は、いまでもいろんなものを発明したり企業と協力して開発していたりする。

 その結果が外の無機質な森だったりするわけだけど。

「使い方は簡単。蓋を半分ほど開けてお湯を注ぎ三分待つだけだ」

「カップラーメンと同じですね」

「そうだ。手軽さを一番に開発したものだからね!」

 部屋に入ったときの憂鬱な様子など欠片もなく、目を光らせて嬉々として語り始めたエジソナさん。

 たぶん、語り終えるまでは彼女を止めることはできない。

「三分後、容器を破って中から現れるのは、インスタント・ホムンクルス!」

「……即席の、ホムンクルス?」

「あぁそうさ! サイズは人間と同じ一五〇センチ程度。中に入っている顆粒状にしたホムンクルス素材にお湯を注ぐことによって、容器に仕込んである魔術が発動し、人型のホムンクルスが出来上がるのさ!」

「すごいですね」

 素直にそう思うけど、エジソナさんの勢いに圧倒されてしまって、それ以上のことを言うことができない。

 隣のキーマも、ぽかんと口を開けてしまっている。

 ホムンクルスは魔導的につくられる魔導生物の一種。

 一部にはそうでないものもあるけど、基本的にはごく短期間のみ行動が可能な一時的な魔導生物で、使い捨ての形でつくられることがある。

 ただ魔法でつくる分には意外と簡単らしいんだけど、魔術でつくるとなると効率が悪くて、魔法使いがたまに使っているのを見る程度。

 それをもし即席でつくれるとなったら、革新的とも言える技術だろう。

「何に使えるんです?」

「色々だよ。臨時の手伝いや実験の素材など、一般的な用途での引き合いもあるし、姿形や機能や知識は事前に設定した通りのものになるからね。……大人向けの用途も検討されているよ」

 最後の言葉は僕の側までやってきて、耳元でこそりと言われた。

「な、なんかすごいですね。もうすぐ発売されるんですか?」

「ふんっ。それなんだがね、まだふたつほど課題を抱えていて、発売の予定が立たないんだよ」

「問題?」

「あぁ。ひとつはインスタント・ホムンクルスは裸で生まれてしまうのでね、手伝いのために一々服を用意しなければならない。どうにも使用の際の効率が悪いんだ」

「……それは、お手伝いのための奴は、完璧な人間型にしなければいいのでは? 表皮を服状にしてしまえば、ボディペインティングのようなものですけど、裸には見えないじゃないですか」

「おぉ、なるほど。それはいいアイディアだ。メモしておこう」

 新しいエーテルモニタを開いて、僕が言ったことをメモし始めるエジソンさん。

「もうひとつの問題は?」

「もうひとつは素材の変更で対応予定なのだが、根の深い問題でね……」

「どういうことです?」

「例えばだ。夜を伴にした美女が、朝起きたらぐずぐずに溶けてしまっていたら、君はどう思う?」

「……かなりイヤですね」

「そうだろう。インスタント・ホムンクルスは水と顆粒素材でできているものでね、ラーメンと似た性質をしている。つまりはだ、半日から一日程度で、麺がのびるようにふやけて、ぐずぐずになってしまうんだよ」

「……」

 想像してみたらかなりイヤだった。

 ベッドに一緒に入るかどうかはともかくとして、さっきまで人間の形をしていたものが、気がついたら肌色のふやけた何かになってるんだとしたら、さすがに使いたいとは思えない。

「その辺は解決法がいくつか出ているんだが、決定打がなくってね。発売にはもう少し時間がかかりそうだよ」

「……そうですね」

 ソファに戻って打ち込みを再開したエジソナさんに同意の言葉を返して、まだ興味を持っているらしいキーマには絶対触れないよう、容器を机の真ん中に集めておいた。

「そうだ。いいアイディアをもらったことだし、ひとつ持って帰ってくれても構わないよ。どうせテスト用の試供品だ」

「いや、さすがに――」

「確かその中のひとつに、夜のお伴用のが入っていたはずなんだ。美少女型だったはずだ。どれだったかは見分けがつかないからわからないけれどね」

「え……」

 思わず僕は五つあるインスタント・ホムンクルスの容器を見つめてしまう。

「克彦ぉ?」

 奥からいくつかの機材を抱えて現れたロリーナの絶対零度の声に、僕は凍りついた。

「いやっ、いりませんっ」

「くっくっくっ。本当に面白いね、君たちは。さてと、準備は整った」

 勢いよくエーテルモニタを閉じたエジソナさんは、応接セットのひとつに持ち出した機材を設置した。

 元の世界の理容店にあったパーマ機のようなそれは、僕も一〇年前に使ったのと同じ、基礎インプリンティング学習用の装置だ。

「ここに座ってくれたまえ、キーマ君」

「うん……」

 また心細そうにしているキーマと手を繋いで、機材が設置された椅子まで彼女を誘導する。

「大丈夫だよ、キーマ」

「うん……」

 僕の呼びかけでもまだ不安そうではあるけど、笑ってくれたキーマ。

「まずは検査からだ。ちゃんと基礎インプリンティング学習ができる身体かどうかを確認してから、実施する」

「はい。お願いします」

「お願いします!」

 元気に言ったキーマと笑い合い、僕はその場から少し離れた。

 これから先のキーマのことを考えたら、絶対に必要な処置が、始まった。

 

 

            *

 

 

「大丈夫だったか? キーマ」

「うんっ。……でも、なんか凄かった」

「わかるよ。僕もそうだった」

 検査の結果は問題なく、無事基礎インプリンティング学習を施し終え、僕はキーマと手を繋いでエジソナさんの家を出た。

 普通、基礎インプリンティング学習を施すのは、早くて六歳。遅いと十歳を超えてから施す人もいる。

 身体としては四歳のキーマに施したからだろう。いまは何かを考えるように押し黙っている。

「とりあえず帰ろ」

「うん」

 一緒に出てきたロリーナと並んで歩き、無機質な森を抜けてバイクを停めていた発着場から飛び立つ。

 中層下部のエジソナさんの家から、中層上部の僕が住むアパートまで飛んで帰る間も、キーマは黙ったままだった。

 ――大丈夫かな、キーマ。

 僕も基礎インプリンティング学習を施してもらったときは、いままで知らなかったことが一気にわかるようになって、しばらく混乱した。

 僕の場合はある程度したら安定したけど、キーマがこの先どうなるかは、経過を見ていくしかない。

「ありがとうっ」

 発着場についてキーマをバイクから降ろすと、彼女はにっこりと笑ってそう言った。

 いままでは、バイクを降りてもはしゃいでどこかに走って行ってしまいそうなくらいだったのに、礼儀を覚えたってことなんだろう。

 とってもよいことなんだけど、何だか寂しくも感じる。

 それでもキーマが見せてくれた笑みはいままでと変わらなくて、僕は寂しさと同時に安堵を覚えていた。

 アパートの駐機場にバイクを置き、何でか自分の家に帰らずに着いてくるロリーナも一緒に、僕の部屋に向かって歩いているときだった。

「ちょっといいかしら?」

 かけられた声に振り向くと、深緑の髪をポニーテールにしたパンツスーツの女性に声をかけられた。

「貴女がロリーナ・キャロルさんね」

 落ち着いた大人の雰囲気を漂わせてるけど、ロリーナよりも背が低いくらいの小柄なその女性は、ロリーナの名を呼びながらも僕とキーマにも視線を向けてくる。

 ――この人、地球人じゃない。

 警戒してるキーマを後ろに隠して、僕は愛想笑いを浮かべてる女性から向けられた視線を受け止める。

 女性の目は、人間の瞳ではなく、メカニカルアイだった。

 身体の一部を機械化してる人はとくに珍しくない。

 稲生さんのように全身を機械化してる人はそんなにいないけど、目や耳を機械化したり、エーテルアンプやエーテルリアクター、ネット用のアンテナを身体に取りつけたり埋め込んだりといった改造は、よく見るものだ。

 他にも髪や肌や目をファッション感覚で機械やバイオ素材に置き換えるプチサイバーは、女の子の間ではけっこう流行っている。

 魔導医療を使えば痕跡もなく元通りにできるし、手術も日帰りでできる。CNGでも身体の一部をとっかえひっかえしてる女の子はさほど珍しくはない。

 でも目の前の女性は、そうしたサイバー化したものとは違っていた。

「貴女は、スフィアドールですね」

「よく、気がついたね。初対面で気づかれるのは久しぶりよ」

 僕の指摘に、女性は驚いたようにメカニカルアイの目を見開いた。

 スフィアドールは地球人、異星人、ファントム以外で、住民登録が可能な知的生命体と認知されている人間の一種。

 魔法や魔術の発動に必要なマナジュエル製造の際、ごく希に大粒のものが出来上がることがある。

 偶然できたカテゴリー六以上のマナジュエルの中には、精神を宿したものがあったりする。そうした精神を宿したマナジュエルの中で、人間として生きることを望んだものには身体が与えられ、スフィアドールとなる。

 スフィアドールの外見は様々で、完全に機械の身体をした人もいれば、バイオ素材を使ってる人もいる。

 僕たちの前に現れた女性は、身体の半分以上がバイオ素材なんだろう。目以外には外見からじゃ人間と見分けがつかなかった。

 でも僕には、僕の持つ特殊な体質で、彼女の身体から放たれるマナが、人間のそれとは違うと感じられていた。

「ん……。確かに、スフィアドールね」

 目を細めて女性を見たロリーナも、僕の指摘を認める。魔法力の高い彼女も、マナの波動の違いを敏感に感じ取ることができる。

「わたしにいったい何の用なの?」

「少しロリーナさんに話を聞きたくてね」

 微笑みを浮かべているが、彼女はまだ自分の正体を明かしていない。

 望む機能や性能の身体をつくることができるスフィアドールは、若干扱いがロボットに近く、特殊な機能を持っていることが多い。

 身体が持つ特殊機能を活かした仕事に就いてる人も多いわけで、中には物騒な仕事をしてる人もいる。

 名指しで訪ねてくれば、警戒しないわけにはいかない相手だ。

 いつでも動けるように僕はキーマの身体に手を伸ばし、険しく目を細めているロリーナの右手は、制服のスカートに――ポケットに入ってるクイックキャストに特化したマジカルスティックに伸ばされている。

 でも、と思う。

 このタイミングで、ロリーナに用がありそうな人種に、僕は思い当たるものがった。

「たぶん、警察の方ですよね」

「ほぉ。これから名乗ろうとしてたところだったのに、君は観察眼もあるし、頭も回るようだね、音山克彦君」

 空中で手を振って、自治体に認証されていることを示す印つきのエーテルモニタを開いた女性。そこには彼女の写真や名前、それから所属などが書かれていた。

「WSPOの捜査官、ミシェラよ。ふたりはもう結婚してるのかしら? その子は貴方たちの子供?」

 ここ数日で何度もされてきた質問。

「そ、そんなんじゃないから……」

 怒ってでもいるのか、顔を真っ赤にしてそう答えるロリーナ。

 でも僕は、その質問に答えず、キーマを自分の身体で隠す。

「まぁいいや。私の所属がわかればだいたいの用事の内容も予想がつくでしょう? 昨日現れたあの怪獣について、詳しく話が聞きたいの」

 キーマについて、でなかったことに安堵する。それでもまだ警戒は解けないが。

「ここから近いところにいい喫茶店があるんだけど、そこまで着いてきてくれる?」

 顔を見合わせた僕とロリーナは、頷き合う。

 警戒は解けないけど、とりあえずキーマについてじゃなく、逮捕しに来たとかでないなら、ヘタな拒絶はしない方がいい。

 踵を鳴らしてフライシューズに仕込まれた浮遊魔術を起動したミシェラさんを見て、僕はいま仕舞ったばかりのバイクの元へと急いだ。

 

 

 



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カレーは生き物 第二章 料理×生物=クックリーチャー!! 3

 

 

          * 3 *

 

 

 テーブルに運ばれてきたパフェの数は、四つ。

 僕とロリーナの間に挟まれ、警戒と不安の表情を浮かべてミシェラさんのことをちらちらと見ていたキーマの顔が、一気に明るくなった。

 僕の住むアパートからほんの目と鼻の先、というくらい近い階層にあったのは、商店が集まった商業地区から外れた住宅街の中の喫茶店。

 もしかしたら魔導世界になる前の、旧世界時代のものかも知れない、装飾加工ものではないシックな木をふんだんに使った店内は落ち着いた雰囲気がある。

 魔導ではない不思議な占いっぽいことをしてくれる、ネオナカノの中でもかなり謎な人がいるという噂を聞いたことがあるこの喫茶店、ジャンクションには、いまはにこやかな笑みでパフェを持ってきてくれた古風なウェイトレス服の女性と、店に溶け込んで存在を感じさせないマスターらしき人しかいないようだった。

「食べて、いいの?」

 恐る恐る訊いたキーマに、にっこりと笑ったミシェラさん。

「遠慮なく食べて。ここのパフェは凄いのよ。生クリームもアイスもフレークも自家製だし、フルーツやチョコも地上栽培のものしか使ってないの。そこらの喫茶店の合成調理器ものとはちょっと違うわよ」

 言いながらキーマに続いて柄の長いスプーンを取り、彼女も自分のパフェを食べ始めた。

 ちらりとロリーナの方を見ると、警戒したい気持ちはあるけど、もう我慢できないらしい。

 ロリーナは無類のスイーツ好きだ。

 鼻の辺りにシワを寄せてうずうずしてる彼女を見て、ちょっと笑いそうになってしまった僕は、彼女の分のパフェを押し出してやって、自分の分に手を伸ばした。

 ――あぁ、うん。違うな。

 生クリームを掬って口に運ぶと、ひと口で違いがわかった。

 合成調理器でつくられた料理の味は、技術がそれだけ進んでるだけあって完璧だ。でも完璧に調節された味は、子供の頃に食べた、元の世界のファミレスの安っぽい味の方がマシに思えてしまうこともある。

 なんて言うか、完璧に調えられ不味いとは感じないけど、統一され、画一化された味は、なんとなく味気ない。感覚の問題かも知れないけど。

 ちなみにネットで見てみたら、料理魔術は大人気になってる。

 ロリーナはキーマを生み出しちゃったわけだけど、天然材料を手軽に使えるだけでなく、同じ料理をつくっても、術者によっても、術を使う度にも、味にはばらつきがあるんだそうな。数十年ぶりに母親の味と再会できたなんてレビューもあった。

 僕が家でつくってるような手料理の味が楽しめるのが、料理魔術の人気の理由らしい。

 そして料理魔術ではなく、喫茶店のお手製だというパフェは、上手く表現できないけど、深みがあると言うか、お手製だからこその味わいがあるとかそんな感じで、かなり大きかったのにぺろりと食べられてしまった。

「ごちそうさま!」

「んっ、美味しかった」

「うん、ごちそうさま。あぁ、美味しかった。久しぶりに食べたわ」

「……ごちそうさま。でもいいんですか? ミシェラさん。いま勤務中ですよね?」

 満足そうに余韻を楽しんでうっとりとしているミシェラさんに、僕はそう訊いてみる。

「えぇ、もちろん勤務中よ。でもたまにはこんなことがあってもいいと思わない? 私は昨日の朝まで別の事件に関わってて、昨日の今日で新しい事件の担当なのよ? 休みだって取れやしない。あぁ、でも、君たちが子供で本当によかったわ」

「どういうことです?」

「捜査協力を求めた相手が大人だったら、コーヒーくらいしか経費で落ちないのよ。子供が相手ならこれくらいのご褒美つきでも許してもらえるから」

「……いいんですか? そんなんで」

「いいのよ。もう君たちは、全部食べちゃったでしょ?」

 捜査官らしい凄みのある笑みを向けられて、僕はそれ以上なにも言えなくなる。凄みの使い方を間違えてる気がしなくもなかったが。

「さて、最初に言った通り、昨日のクックリーチャーの話を聞かせてもらうわよ」

「クックリーチャー?」

 僕とロリーナとキーマが、聞き慣れない単語に同時に疑問の声を発して、首を傾げる。

「あぁ、それね。うちの上司が名前つけたの。仮の名称で正式ではないけど。料理魔術で生まれた新種の生物、ってことで、クックとクリーチャーをかけて、クックリーチャー」

「はぁ」

「まぁそれはいいから、昨日のジャガイモ怪獣のことよ。ここにいたのは貴女でしょう? ロリーナ・キャロルさん」

 ミシェラさんが開いたエーテルモニタに映し出されたのは、昨日の怪獣に青い光の粉が降り注いでジャガイモに戻り、続いてジャガイモが赤い粉に包まれて料理になるときの様子。誰かが撮影していたらしい。

 映像の中には、怪獣の頭上で浮く三人の魔法少女と、バイクに立って金髪をなびかせているロリーナの姿も映っていた。

 どうせ会場の人に名乗ってるのだから、その場にいたことは否定しても仕方がない。だけどロリーナ主導でジャガイモ怪獣に対処したのも映像から丸わかりだ。

「……なんでわたしのところに?」

「魔法少女の方は正体不明で連絡着かなかったし、現地の人に聞いたら貴女の魔術で怪獣がジャガイモに戻ったということだったからね。貴女が組み上げた魔術で料理魔術を解除したんでしょ? スペルクリエイターのメリーナさん」

「ちっ」

 苛立ちを隠さないロリーナは、にっこり笑ってるミシェラさんの言葉に、いつもはしない下品な舌打ちをして視線を逸らした。

 メリーナは、ロリーナの使ってるハンドルネーム。主にオリジナルの魔術を組み上げて公開するときの。

 その筋ではメリーナの名前はけっこう有名で、パンチラ防止魔術、正式名称ショーツウォッチストッパーは、魔術配信会社から超格安で配信され、スカートスタイルを好む女子や女子以外から絶大な支持と人気があり、相当の利益をもたらしてる。

 その名前を知ってるということ、僕の名前も知ってるということは、もうロリーナのことはある程度下調べが済んでるということだ。

 それでもまだ渋い顔をしているロリーナに、ミシェラさんはエーテルモニタを開いてちらりと見、語る。

「最新情報では発生が確認されたクックリーチャーは全世界で五〇体ほど。おとなしいのも多いけど、暴れるのもいて、自治体の警務隊とうちの執行部隊とで対処中。手こずってるみたいね。さすがにあの怪獣級のは他に出現していないようだけど」

「おとなしいクックリーチャーはどうしてるの?」

「捕縛してる。一応事故で発生した魔導生物だしね」

 ロリーナの問いに答えたミシェラさんは、意味ありげにキーマに視線を飛ばした。

 ――気づかれてる?

 はっきりとは言わないから、キーマがクックリーチャーだとバレてるかどうかはわからない。

 スフィアドールで、捜査官をやってる人のメカニカルアイがどれくらい高性能なのかは、推測つかなかった。

「クックリーチャーは今後、どうするつもりなんですか?」

 思わず僕はそう口を挟んでいた。

「まだ検討中なの。しがない捜査官に過ぎない私は、結論に従うだけ。ただ、事故で生まれたものなのだから、材料に戻すのが最良という意見が強いみたいね。まぁそんなことするより、未報告のクックリーチャーが報告済みのものの数倍はいると予測されてるから、そっちの対処が先になるかな? たとえ料理魔術を解除する方法が見つかっても、ね」

「そういうのを調べたり対処したりするのが、WSPOの仕事なんじゃないの?」

「そうなんだけどね。料理魔術の解析はうちの鑑識班がやってるけど、カテゴリー二の魔術の割にスペルコードが無茶苦茶巨大でね。解析には最低一ヶ月はかかりそうだって。捕獲や退治の方も、クックリーチャーは頭がいいみたいで難航してるわね」

 ただ説明をしているようで、ミシェラさんはこっちの嗜好を誘導してるのがわかる。

 捜査官という割に親しみやすい感じをしてるけど、かなり頭が回る人のようだった。

 言いたいことがあってもはっきり言わず、こちらを誘導してることが気に食わないんだろう。ロリーナはミシェラさんを睨みつける勢いで見つめてる。

「もしだけど、貴女が料理魔術を解析してて、解除魔術を組み上げているとしたら、それを提供してもらえないかしら? もちろんタダとは言わないわ」

 言ってミシェラさんは新たなエーテルモニタを開き、僕たちの方に見せてきた。

「利用料の方はどれくらいになるか予測がつかないけど、うちの執行部隊だけに配信するとしても、それなりにはなるはずよ? 地球外への配信は止められたけど、クックリーチャー発生の根本原因が不明で、地球では料理魔術の配信停止には至ってないしね。まだ増えそうだから」

 示された金額は、たぶん契約料に当たるんだろう捜査協力報酬だけでけっこうな金額。

 それに一回使うごとに利用料が入ってくる形で、使用回数にもよるけど、報告済みの五〇体全部に使ったとしたら、大人がまともに働いた場合の月給よりも遥かに高かった。

 不機嫌そうだったロリーナは、すでにそのエーテルモニタに釘付けだ。

 ――これはミシェラさんの勝ちだな。

 ロリーナはそんなにお金にこだわるタイプじゃなく、楽しいことや好きなものへはお金を出すことを惜しまない。

 確かもうすぐロリーナが贔屓にしてるファッションブランドのセールが開催される。そんな時期にこんな金額を提示されたら、誘惑に勝てるわけがない。

「もちろん正式には解除魔術の効果が実証できてからになるけど、料理魔術の解析データもあるならここに上乗せもできるでしょうね。効果次第ではもっと高くてもいけるかも知れないんだけど、この金額以上となると、上層部にかけあって、通ったとしても振り込みは半年から一年後とかになると思うのよ」

 解析データ提供の際の上乗せ金額が書き加えられ、ロリーナは唇を噛む。

「いまならここのパフェ回数券十一枚綴りを三つ、おまけしちゃう!」

 いったいどこの通販番組だ、と思ったけど、それが駄目押しになったらしい。

 がっくりとうつむいたロリーナは、大きなため息を吐く。

「クックリーチャーは魔法力がある程度高い人が料理魔術を使って、それが暴走したときに生成されるものだから、魔法使いか、何人かの魔術師で連携して使わないとたぶん解除できないと思う」

「そういう風に使えるよう改良は可能?」

「明日まで待ってもらえれば」

「えぇ、もちろん待つわ」

 見やすいように斜めにされていたエーテルモニタを、ミシェラさんはテーブルの上に水平に置いた。

 渋々といった様子で、それに自分のサインを書き込むロリーナ。

 でも彼女の左腕が、テーブルの下でガッツポーズを決めてるのが、僕の位置からだと見えていた。

「ありがとう。貴女のところに来てよかった。ロリーナさん」

 にっこりと笑ったミシェラさんは、「これが連絡先」と言って名刺サイズのエーテルモニタを指で弾いて渡してきた。ロリーナだけじゃなく、何故か僕にも。

「では明日、連絡を待ってるから」

 立ち上がったミシェラさんは喫茶店の出口に向かって行くけど、ふと立ち止まって振り返った。

「念のためだけど、長谷川蓉子という人は知ってる?」

「……いいえ」

「僕も知らない」

「キーマも知らなぁい」

「そっ。それならいいんだけど。料理魔術をほぼひとりで組み上げた人でね、参考人として話が聞きたいんだけど、行方不明なのよ」

 ミシェラさんがエーテルモニタで見せてくれた顔写真の人には、見覚えがなかった。

 おとなしそうで、でも少し気難しそうな女性。

 ――そう思えば。

 いままで気にしてなかったけど、料理魔術が暴走したのには、原因があるんだ。

 ロリーナが昨日、カグヤさんと話してるとき「バグが仕込んであった」と言っていた。

 最初のときロリーナが使って暴走したから、彼女が原因のように思えていたけど、たぶん違うんだ。偶発的な事故なんかじゃなかったんだ。

 長谷川蓉子という人か、料理魔術の配信用スペルコードを触れる人が、バグを仕込んだからクックリーチャーが世界中で発生してるんだ。

「長谷川蓉子が捕まれば、もう少し捜査も進展すると思うんだけどね。クックリーチャーについても、判断するならそれからになるかな? もしもだけど、安定して存在し続けられて、充分に知能が高い生物だと認められれば、新種の知的生命体として認められるかも知れないわね」

 口元に笑みを零しながら語るミシェラさんは、キーマのことを見つめていた。

「何はともあれ、長谷川蓉子を見つけないとね。配信会社の方には捜査が入ってるけど、会社は関与してないっぽいし。彼女から事情を聞かないことには話が始まらないわ」

「料理魔術に仕込まれていたのは、意図的なバグ。どんな理由でそんなの仕込んだのかはわからないけど」

「やっぱり? だとしたら面倒になりそうねぇ」

「どういうことでしょう?」

 腕を組んで口元に手を当てて考え込み始めたミシェラさんに訊いてみる。

「んー。意図的かどうかは改めてこちらで判断することなんだけど、もしそうだったとして、目的が見えないのよ。長谷川蓉子を捕まえてバグを修正させて、方針通りにクックリーチャーを対処すれば終わり、になるかどうかがわからなくてね。前の事件同様、イヤな予感もするし」

 前の事件というのがどんなものかはわからないけど、頭の上半分だけを闇につけ込んだような暗い顔をしているミシェラさんの様子から、相当酷い事件だったのはわかる。

 それと似たようなことだったとしたら、クックリーチャーは、キーマは、どうなるんだろうか。

「まぁ貴方たちも気をつけなさい。長谷川蓉子を確保できるか、目的がわかるまではね」

「はい」

 そう言ったミシェラさんは、入り口にあるレジで会計を済ませ、軽く僕たちに手を振って外に出て行った。

 ――これからまだ、何かありそうなんだろうか。

 わからないけど、少し怖かった。

 でも僕はキーマを守る。少なくとも彼女がこの先どうしたいのか、それを聞くまでは守るという決意だけは変わらない。

 基礎インプリンティング学習は今日施したばかりだから、それを問うにしても最低でも数日後でないと難しいと思うけど。

 僕のことをキーマが見つめてきていることに気づいて、微笑みをかけると、彼女も微笑んでくれた。

 この笑みを絶対に守ると、僕は誓っていた。

 

 

            *

 

 

「本当に大変ね……」

 言ってロリーナはテーブルに突っ伏す。

 彼女のまだわずかに湿気を含んだ髪が、金色の川のようにテーブルを彩った。

「うん。大変なんだよ。はい」

「ありがと」

 入れてきたミルクと砂糖いっぱいのコーヒーを差し出すと、起き上がって髪を整えたロリーナは、カップを受け取って口元に寄せた。

 ミシェラさんと別れて家に帰ってきて、ロリーナは一端自分の家に帰っていったけど、夕食時にまたやってきて、今日は食事の後にキーマをお風呂に入れてくれた。

 生活系魔術が充実してるから、身体の生活さを保つだけならお風呂に入る必要はないし、対応素材を使った服ならカテゴリー一の魔術ひとつで洗濯も簡単だ。

 でも僕は、やっぱりお風呂に入るのが好きだから、キーマをお風呂に入れるようにしたいと思ってる。

 と言っても、生後三日のキーマは、昨日は寝ちゃって入れられなかったから、一昨日と今日の二回しかお風呂に入れてないけど。

 基礎インプリンティング学習を施したからだろう、キーマは家に帰ってきて夕食を摂った後、眠そうにしていた。眠かったからか、昨日辺りまではロリーナともちょっと険悪そうだったのにそれもなく、眠気に堪えつつロリーナと一緒にお風呂に入って、いまはもうベッドの中だ。

「さて、克彦」

 ロリーナの正面に座ると、改まった表情をしたロリーナ。

 いつもの格好良くて可愛い服と違い、下着は身につけてるようだけど上はシャツ一枚の彼女。いつもと違って砕けた感じでなんかいけないものを見てるようで、若干目のやり場に困るけど、できるだけ気にせず向けられる碧い瞳を受け止める。

「これから、どうする? 基礎インプリンティング学習は施せたけど」

「うん……。少ししてからどうしたいかを訊くところからかな。何日かは頭の中が大変だろうし」

 僕も基礎インプリンティング学習を施してから数日は、ボォッとして何もできなかった。それくらい大量の情報が頭の中にかき込まれたんだから、仕方ない。

「それもあるけど、むしろその後だよ、問題は」

「その後?」

「そっ。あの子がこの世界で生きることを望んだとして、克彦が育てられる? ママには事情は詳しくメッセージで飛ばしてあるし、たぶん協力してもらえると思うけど。それから、WSPOがどう動くのかがわからないのが気がかりかな? キーマのことは学校には話し通してあるんだから、情報をつかんだWSPOがいつ踏み込んできてもおかしくないよ」

「そうだね……」

 ミシェラさんの話だと、WSPOはとりあえずクックリーチャーを捕縛し回ってるらしい。

 捕縛したクックリーチャーをどうするかまでは決まってないようだけど、あそこは平穏と原状復帰を原則にしているような組織だから、本人の意志なんて無関係に解除魔術で材料に戻してしまう可能性は低くないと思う。

「それに、長谷川蓉子のことも気になるのよね」

「料理魔術のスペクリエイターのことが?」

「うん」

 カップを細く白い指で包むようにして持ちながらひと口飲むロリーナは、眉を顰めている。

「料理魔術に意図的に仕込まれてたバグは、魔法力がある一定以上高い人が使うと暴走するようにされてた。単純に世の中を騒がせたいとかそんな理由なら、ランダムに暴走するようにしてもいいし、特定のレシピと組み合わせたときにだけ暴走するようなトリガーがあってもいい。でも魔法力の高い人のとき、ってのが気になるのよ」

「どういうこと?」

「生まれたクックリーチャーは、必ず高い魔導エネルギーを宿してるの。それが料理の材料から生き物の身体を構成するための核みたいに機能してるんだけど、魔導エネルギーなんて一ヶ所に長く留めておけるものじゃないから、少しずつ発散してしばらくすれば普通の生き物と変わらなくなる。生まれたクックリーチャーがアッという間に崩れたり、すぐに解除されないためにそうしてる、ってのは魔法力をトリガーにした理由にはなりそうなんだけど、何となくイヤな予感がするのよねぇ」

 そう言って髪を掻き上げるロリーナは、難しそうな顔をしていた。

 ミシェラさんも言っていた長谷川蓉子の目的は、確かに気になるところだった。それにWSPOの今後の対応も気がかりだ。

 でも僕の思いは、変わらない。

 そして、キーマをこの先も生き続けられるようにするためのヒントを、僕は得ている。

「これからどうするの? キーマのこと」

「……僕はキーマを、クックリーチャーを、住民登録できるようにするために、知的生命体の新種申請をしたい」

 もう一度問うてきたロリーナに、僕は彼女の碧い瞳をしっかり見つめて、そう答えた。

 いまでも魔法生物として登録すれば、キーマを生存させることはできると思う。でもそれだと、一緒に所有者を登録しなくてはならず、キーマは自由に生きることができない。

 このまま住民登録もできずにいたら、いつWSPOが来るとも限らない。

 やり方ははっきり言ってわからないけど、WSMに、そして他の自治体で知的生命体として認められれば、どこでも住民登録ができる。

 成長して、大人になったキーマは、僕がいなくても自由に生きていけるようになる。

 僕はそれができるようにするために、やれることをやっていきたいと思った。

「まぁ、克彦のことだから、そう言うと思った。だったらとりあえず、エジソナのところにもう一回行かないといけないかな?」

「エジソナさんのとこ? なんで?」

「あれ、克樹は知らないんだっけ? 魔導暦の割と最初の頃の話だけど、あの人がスフィアドールを初めてつくって、新種申請したんだよ? 異星人はともかく、スフィアドールはファントムより早かったから、地球で初めて人間以外で住民登録できるようになった知的生命体だよ」

「……そうだったんだ」

 エジソナさんが底知れないのはわかってたけど、さらに凄かったことを改めて実感する。

「あと、長谷川蓉子の行方も追った方がいいかも知れない」

「気になるの?」

「うん。こっちは余裕がないとできないけどね」

 話してる間に乾いてきたのか、掻き上げられたロリーナの髪が、さらさらと宙を舞う。

 どこか遠くを見て考え事をしている彼女の碧い瞳に、僕は視線を釘付けにされていた。

 やっぱりロリーナは綺麗だ。

 最初に出会ったときと変わらず、僕がこんな風に一緒にいるのが畏れ多いくらいに。

 そして、僕の願いを叶えようと考えてくれる。動いてくれる。僕のわがままに過ぎないことを、彼女は手伝ってくれる。

 だから僕は、そんな彼女に言う。少しでもいまの気持ちを伝えられるように。

「ありがとう、ロリーナ」

「な、なに突然言ってんのよ! か、克彦のためじゃなくて、キーマのためなんだからね! キーマが生まれたのはわたしの責任でもあるんだから、そりゃああの子を助けたいって克彦の気持ちも尊重してるからだけどさっ」

 声が大きくなって早口に言うロリーナが、何だか可愛い。

 いつもは綺麗だと思う彼女だけど、こういうときは可愛らしくて、ちょっと笑ってしまう。

「なによぉ。笑ってんじゃないの! ……でも、本当にいいの? 新種申請するとなると凄く大変だと思う。それに言ってる通り、キーマを克彦が育てるのはいっぱい苦労することになると思うよ?」

「うん。わかってる。でもやりたいんだ。僕がやれる限りは、キーマにやって上げたいんだ」

 僕を映す碧い瞳を真っ直ぐに見つめた僕は言う。

「ロリーナが、あのとき僕にしてくれたみたいに。いまも助けてくれるみたいに」

 この世界に来てしまった僕を、文句を言いながらも助けてくれたロリーナ。

 彼女がしてくれたように、僕とは発生原因は違っても、突然この世界に生まれてしまったキーマを、助けて上げたいと思う。

 その気持ちは、変わることはあり得ない。

 いまこうして、ロリーナが僕の前に居続けてくれる限り。

「うっ……。うん」

 何でか顔を真っ赤にして、頷くロリーナ。

 そんな彼女に、僕は笑みとともに頷きを返していた。

 

 

            *

 

 

「――でも、本当にいいの? 新種申請するとなると凄く大変だと思う。それに言ってる通り、キーマを克彦が育てるのはいっぱい苦労することになると思うよ?」

「うん。わかってる。でもやりたいんだ。僕がやれる限りは、キーマにやって上げたいんだ」

 聞こえてきた声に、キーマは目を見開いていた。

 眠かったけれど、聞こえてきたふたりの声。

 自分のことを話していることを意識して、キーマの眠気は消えてしまっていた。

「ありがとう、パパ。……ママ」

 喉に込み上がってきたものを必死に飲み込んで、キーマはベッドの上で寝返りを打つ。

 まだ続いているふたりの声を聞きながら、彼女は静かに、目尻から涙を零し続けていた。

 

 

 



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カレーは生き物 第二章 料理×生物=クックリーチャー!! 4

 

 

          * 4 *

 

 

「本当いったい、これはどういうことなの?」

 オフィスで大きくしたエーテルモニタ二枚を見比べるミシェラは、頭を抱えていた。

 今日の朝方までに通報された分を含めて、料理魔術の暴走の報告は二〇〇件を超えていたが、そのうちクックリーチャーの発生が合わせて報告されているのは八〇件足らず。

 しかし、料理魔術を配信している会社から提出されたログを確認してみた限り、暴走が起こったと思われる件数は五〇〇を超えていて、その半数以上でクックリーチャーが発生している兆候がある。

 おそらく突然の事態に、発生したクックリーチャーを放置したりその場から逃げたりした人がいると思われるが、それだけではなかった。

 いまのところクックリーチャーの対処についてはWSPOの管轄に移され、執行部隊の派遣にハードルはなくなったが、発生の報告がされていない場所についてはまだ捜査を行うことはできない。

 WSPOと現地警務隊とは、旧世界のICPOと現地警察のような確執があった。

 そのためWSPOから依頼して、クックリーチャーが発生していると思われる料理魔術を使った人の元へ、現地警務隊に捜査を依頼して行ってもらっているが、あまり進捗が上がってこない。

 それでもある程度確認できてる中には、ログから確実に発生が確信できている場所でも、クックリーチャーなんて知らない、と証言している人が多数いた。

 ――秘匿してる人がいるわね……。

 ため息を吐きながら、ミシェラは机に手を伸ばす。

 スナック菓子の袋を手に取ろうとするが、一瞬ためらって、隣に置いてあるスティックフードを取ってひと口かじった。

 かなりの部分をバイオ素材にしていても、機械部分も少なくないミシェラの身体は、人間向けの食事だけでは維持できない。労働時間が長くなって、お菓子を食べて気分を発散していたが、そろそろ栄養の方が不足気味になってきていた。

「まったく、面倒な仕事を押しつけてくれて……」

 拳を握り震わせて、ロマンスグレーの爽やかな黒い笑みを思い浮かべるが、関わった事件を解決せずに下りるわけにもいかない。

 もう一枚エーテルモニタを開き、事件に関する進捗を確認する。

「まぁでも、けっこう進展したわね」

 昨日の約束通り、夜のうちにロリーナから送られてきた改良版の料理魔術用の解除魔術と、スペルコードの解析データにより、捜査は大きく進展した。

 WSPOの執行部隊は解除魔術を使って、早速凶悪なクックリーチャーの何体かを材料に戻すことに成功していたし、解析データからバグが制作者の意図したものであることがほぼ確定したため、料理魔術の配信は今朝方に停止命令を発することができた。

 ロリーナの解析データがなければ、あと最低でも一週間は暴走の原因が特定できず、その間ずっとクックリーチャーが発生し続ける状況になっていたはずだ。

「でもいったいどこにいるのよ! 長谷川蓉子!!」

 椅子から立ち上がったミシェラは、両手を頭の上に突き上げて叫んだ。

 バグが偶然ではなく意図的であることが確定したため、長谷川蓉子は重要参考人から容疑者となり、全自治体への指名手配が行われた。

 いまから三時間前の朝方、会社に登録されていた自宅、そして彼女が所有や借用している家屋に同時に踏み込んだが、その姿はなかった。

 すぐさま自治体警務隊と協力し、近日中の足取りを追おうとしたが、料理魔術配信開始時間の直後、ネオナカノのジオエリアにある自宅を出た後、行方をくらましていた。

「捜査の進捗はどんな感じだ?」

「課長ぉーっ!」

 そう声をかけてきたスミス課長にすがりつき、ミシェラはシワひとつないスーツをしわしわにしてやるつもりで強くつかむ。

 今日は少ないながらオフィスにいる他の捜査官が苦笑いを浮かべているが、無視する。

「長谷川蓉子の捜査、私にやらせてください!」

「なんだ、嫌がっていたのにやる気じゃないか」

「違います! さっさと解決したいだけです!! 警務隊から上がってくる情報では逮捕までどれくらい時間がかかることかっ! 事前通知なしで捜索できれば、もう少しマシに――」

「それは難しいな、ミシェラ捜査官」

 魔法か奇術のような鮮やかな手つきでミシェラのホールドを外したスミス課長は、彼女のメカニカルアイを見据える。

「でも捜査協定では広域指名手配中の容疑者の捜査は――」

「確かにそうなのだが、あちらにはあちらの立場が、こちらにはこちらの立場がある。君の言うこともわかるが、凶悪事件の類いならばともかく、騒ぎの範囲は広くても本人に凶悪さが認められないいまの状況では、強引な捜査は今後の別の捜査に支障を来す可能性が出てくる。WSPOの立場はあまり強くはないのだよ」

 そんなことはミシェラもわかっていることだった。

 自治体に捜査に出れば、イヤというほど感じられる事実だ。

 しかし長谷川蓉子は、できれば早く確保したかった。

 たった二日ほどしか配信されていなかったというのに、料理魔術の人気は凄まじく、それの配信停止命令を出したWSPOには批判が集まっていた。

 後回しにしていたが、その批判に関する対応まで何故かミシェラの元に送られてきていた。

 料理魔術の配信を再開するにしても、膨大な量のスペルコードからバグを取り除くためには、長谷川蓉子本人がやらなければ短時間で行うのは無理だと判断されている。

 それに予感に過ぎなかったが、彼女は早めに捕まえなければならないような気がしていた。

「容疑者に関しては何かわかったか?」

「あまり。二十代半ばでいろんな自治体を転々としていたのは記録からわかっています。スペルクリエイターはたいていそんなものですが、彼女も主に自宅で仕事をしていたようです。所属していた会社の事務所にもほとんど顔を出していないので、人物像は判然としません」

 すでに事件に関する進捗報告にも掲載していることであったが、エーテルモニタを開いたミシェラは口頭でスミス課長に説明する。

 長谷川蓉子の軌跡については、すでにある程度情報が集まっていた。

 若い頃から天才的なスペルクリエイターとして注目され、数多くの魔術をほとんど独力で組み上げている。その能力に対する報酬はかなりのもので、二十代半ばながらかなりの資産を為していた。

 人づき合いは希薄で、性格を細かく知っている人は過去を含めて所属していた会社にはいない。学生時代も同様で、友達付き合いはほとんどなかったし、健在の両親は現地警務隊からの情報待ちとなっていた。

「ただ、ひとつの自治体から別のところに転居するときは、必ず恋人と別れたタイミングらしいんですよ」

「その恋人については?」

「名前と居所はわかっています。まだ聴取の結果は届いていませんが」

「ふぅむ」

 考え込むように顎を撫でるスミス課長。

「単純で簡単な仕事だと言っていましたよね? 課長」

「あぁ、言ったとも。長谷川蓉子を確保できれば、料理魔術のバグに関する事件は解決。言葉通り非常に単純で簡単な仕事だろう?」

「言葉尻ではその通りでも、いま彼女の捜索が困難を極めているわけですが?」

「なぁに、まだ捜査を開始して二日目じゃないか。そんなものだよ」

 飄々と言い放つスミス課長を、ミシェラは上目遣いに睨みつけていた。

「ただまぁ、ちょっと気になることがないわけではなくてね」

 言って課長はエーテルモニタを開き、ミシェラの方に向ける。

「なんですか? これ」

「見ての通り、ペットや魔導生物に関する捜索願や売買トラブルの案件をまとめたものだよ」

「それは……、わかりますが」

 ぱっと見てそれは言われなくてもわかった。ここ二日分、WSPOに寄せられたものをまとめたものだ。

 けれどそれを課長が見せてくる理由がわからない。

 売買トラブルは自治体を跨ぐ場合があるので、本人や現地警務隊経由でWSPOに連絡や協力要請が来るのはわかる。けれど捜索願は、ペットでも魔導生物でも自治体を跨ぐことは珍しく、WSPOの案件であることはまずない。

 それにも関わらず、少ないながらもWSPOに捜索願が提出されていた。

「これになんの意味があるんです?」

「このすべてが、未登録のペットや魔導生物の案件だけで、この数だと言ったら?」

「ん?」

 ペットは未登録で飼う人は少なくないが、魔導生物は機能や性能の大小に関係なく、外に連れ出すものについては自治体への登録が必要だ。

 生まれたばかりの魔導生物なら未登録なのは不思議ではないが、そう考えると全世界からにしても数が多すぎる気がした。

「では、捜索願を提出した人の住所を見てみようか」

 案件データが住所データに切り替わり、もう一枚開かれた大きなエーテルモニタには、分割してそれぞれの住所データを元に各地の簡易地図が表示された。

「あ!」

「関連性については不明だがね」

 縮小したエーテルモニタを渡され、ミシェラは受け取った。

「料理魔術のバグについては単純で簡単な事件だが、それと並行して、もっと大きな事件が起こりそうな気がするよ」

「どうしてそう思うんです?」

「長年の勘だよ」

「……だったらあと何人か、人を回してください!」

 言いながらオフィスの中を見渡すと、すでに人影はひとつもなかった。隠れたか、逃げたかしたらしい。

「空いてる人員がいないんだから仕方ない。頑張ってくれ」

「課長!」

 ぽんぽんとミシェラの肩を叩き、スミス課長も出て行ってしまう。

「今回の件が解決したら、絶対一週間は休みもらいますからね!」

 他に誰もいなくなったオフィスで、ミシェラの空しい声が響き渡った。

 

 

            *

 

 

「降りられた!」

 今日も学校に登校して、発着場に降り立った僕たち。

 コツをつかんだのかひとりでバイクから降りられたキーマは、僕に得意げな笑みを見せてくれた。

 彼女の頭を撫でてあげてから、バイクを駐機場に入れるために歩いている間も、キーマはおとなしく着いてきてくれる。

 昨日までだったら、興味のあるものに向かって走って行ってしまったりしていたのに。

 朝もおとなしく起きてきたし、食事もけっこう行儀良く食べていた。

 基礎インプリンティング学習を施すってことは、そうした知識も得るってことだけど、笑顔や口調はいままで通りなのに、キーマは以前よりおとなしくなった。

 ――なんか、寂しいな。

 おとなしい方が扱いやすいのはわかってるけど、走り回って手を焼かされたときは泣きそうだったのに、そのときがなんだか懐かしく感じてしまう。たった二日のことだったのに。

「どうしたの? 克彦」

「うん。パパ、元気ない?」

 駐機場まで着いてきてくれたロリーナとキーマに指摘されて、僕は微笑む。

「大丈夫だよ。キーマがいい子にしてるから、嬉しいだけさ」

「えへへ」

 頬を赤く染めてはにかむキーマは、やっぱり僕の知ってるキーマだった。

「んー? 今日のホウキ、どうしたのぉ?」

「そう思えばいつものと違うね」

「あぁ、ママのお古。予備のジュエルつけたんだけど、本体もこの前のでガタ来ちゃってね。わたしのはオーバーホールに出しちゃった」

 ロリーナが今日乗ってきたホウキは、ずいぶん古風な、形だけなら掃除をするのに使いそうなものだった。

 いつも乗り回してるのはメカメカしい奴だけど、なんとなく彼女にはいまの奴の方が雰囲気的に似合うような気がする。

「これは秘密だけどね、カテゴリー六のマナジュエル搭載してるんだよ」

「……」

 登校中の他の生徒との距離を気にしながら、潜めた声でロリーナが教えてくれた。

 そりゃあロリーナの母親は現役魔法少女。

 あの人ならば魔法少女として出動するときはカテゴリー一〇オーバーの魔法が使える、代々受け継がれてる魔法具があるし、法律的な制限も魔法少女だけに緩いから、一般人では許可申請すらできないカテゴリー六のホウキを持っていても不思議じゃない。

 でも市販されてる魔術具はカテゴリー三まで。理由があって申請して買えるものでも一般人にはカテゴリー四が最大。

 カテゴリー五以上は自治体管轄か、軍事用途でしか使わないような大きな魔術用だから、一般人が買えるものではないし、持ち歩いていいものでもない。

「しーっ」

「しーっ」

 ロリーナが唇に人差し指を当てて言うのを真似て、キーマも同じようにしている。

 ――あれ? なんかちょっと違うな。

 昨日までは、キーマはロリーナを敵視している様子があって、少しずつ打ち解けてきた気はしてたけど、今日は何だか仲良くなってるとこまで来てる。

 ――何かあったんだろうか。

 いつもキーマは僕と一緒にいるから、何かあったんだとしたらわかるはずなのに、と思いつつ、三人で並んで昇降口から校舎に入った。ホウキ用のロッカーにお古のホウキを収めたロリーナと一緒に教室に向かう。

 と思ったら、僕たちの行く手を遮る人物が現れた。

 ――なんだあれ?

 僕たちの前に腕を組んで立ち塞がったのは、カグヤさん。

 それからいつも通りにこやかな笑みを浮かべて少し後ろに控えてるツクヨさん。

 そのふたりよりも、僕はカグヤさんの肩に鎮座している、見慣れぬ生き物の方が気になっていた。

 白いウサギのように見えるけど、翼が生えてる。

 装飾ではなく、広げてパタパタと羽ばたいているのを見ると、そういう生き物らしい。いままで見たことなかったし、こんな生き物がいるというのも知らなかった。

 ――イヤな予感しかしない。

「かわいいーっ」

 僕の予感をよそに、キーマは羽ウサギを見て声を上げた。

 ロリーナも同様らしく、緩みそうになるのを必死で押さえているようで、頬が引きつってるのが見えた。

「料理魔術の配信が停止されているのは、知っているか?」

 挨拶も前置きもなしに言い出したカグヤさんに、ロリーナは一気に表情を曇らせた。

 それは僕も確認していた。

 今朝早く料理魔術はバグが発見されたため、改善されるまで配信を停止すると発表があった。

 ネットでは早速再配信を求める声と、もう数百件になっているらしい暴走の件が話題になっているのは見ていた。

「知ってるけど?」

 応えながらため息を漏らしたロリーナ。

 カグヤさんの後ろに控えているツクヨさんは、噴き出しそうなほど頬を引きつらせている。

 ツクヨさんをひと睨みしたカグヤさんは、言葉を続ける。

「WSPOがクックリーチャーを駆除して回っているという話は?」

「まぁそうなるだろうと思ったけど、やっぱりね」

 それについては情報はなかったけど、予想通りと言えば予想通りだった。

 クックリーチャーを完全駆除するなら、解除魔術で材料に戻すのが手っ取り早い。

 ミシェラさんは対応については検討中と言ってたけど、ロリーナから受け取った解除魔術でWSPOの執行部隊は手っ取り早い対処に乗りだしたってことだろう。

 でもそこまで言われれば、羽ウサギの正体もわかってくるというもの。

「その肩の、クックリーチャーよね? 料理魔術の暴走で生まれた生物」

「うっ」

 苦々しそうに顔を赤く染め、カグヤさんは大きく一歩後退りながらうろたえる。

「そっ、その通りだが、それがどうした!」

「やっぱりね……」

 肯定されなくてももうわかっていたことだけど、羽ウサギはクックリーチャーだった。

 額に手を当てて呆れてるロリーナは言う。

「昨日のうちに全校生徒に注意勧告はしてもらってたはずだけど? 魔法力の高い人が料理魔術を使うと、暴走する可能性が高いって。それなのになんで使っちゃうわけ? 貴女は」

「うっ……。ウルサいウルサい!」

 ウルトラロングの黒髪を乱しながら、カグヤさんが地団駄を踏む。

「いったい料理魔術で何をつくろうとしたの?」

「それは……、その、クッキーをつくろうと……」

 もじもじと言うカグヤさんに、片眉を跳ね上げたロリーナが重ねて問う。

「何のために?」

「……」

 何故か僕のことを恨めしそうに見てくるカグヤさん。意味がわからない。

「それはもちろん、克彦さ――」

「え?」

「うわーっ! うわーっ!」

 大声で遮って、カグヤさんはツクヨさんの言い出した言葉を口ごと手で塞いだ。

 なんでか納得したらしいロリーナは、深く深くため息を漏らしていた。

「お、主は失敗したかも知れないが、わらわならば成功すると思ったのだ……」

「それで失敗してたら世話ないでしょ。まったく」

「そ、そんなことより、お前たちのやっていることに一枚噛ませろっ」

「えぇっと?」

 深呼吸して表情と気持ちを引き締めたらしいカグヤさんは、キーマのことを見て言った。

「お主たちはその子を住民登録できるよう、新種申請を行うつもりなのであろう?」

「そうだけど……」

「わらわもこのクッキーを住民登録したいのだ。そのためにお主たちに協力すると言っている!」

「クッキー?」

 どうやら羽ウサギの名前らしいクッキーは、翼を広げてカグヤさんの肩から舞い上がった。

「え?」

 翼を羽ばたかせたのではなく、ふわりと浮いたクッキーは、そのままロリーナまでふわふわと飛び、その柔らかい胸に飛び込んだ。

「……この子、もしかして?」

「その通りだ。クッキーは魔術が使える。それくらいには頭がいいのだ」

「基礎インプリンティング学習は施せたのですよ」

 よく見ると、クッキーの首には首輪がついていて、そこには赤い宝石がぶら下がっている。たぶんカテゴリー二のマナジュエル。

 ロリーナの問いに答えたカグヤさんと、それを継いで話してくれたツクヨさんの言葉の通りなら、魔法生物のペットにしか見えないクッキーの脳は、人間並みに発達しているということだ。

 飛び込まれて思わず抱いているロリーナの胸に、気持ちよさそうに顔を埋めているクッキー。

 その顔は、ウサギだからわかりづらいけど、何となくいやらしい表情をしているような気がした。

「可愛いーっ!」

 胸を揉むように顔を動かしているクッキーに、さすがに腹が立って僕がつまみ上げようとしていたとき、先にキーマがロリーナから奪い取るように抱き締め、頬ずりを始める。

 ――いい気味だ。

 力加減なしに抱き締められてるクッキーは苦しそうにしてるけど、助ける気にはなれない。

「まぁだいたい言いたいことはわかったけど、新種申請の方はこっちのツテを使うつもりだから大丈夫。念のためクッキーの詳しい情報を送ってもらえる?」

「わかりました」

「ツテならこちらもかなりあるぞ。わらわも手伝えるであろう?」

 データの入ったモニタを弾いて僕とロリーナに送ってくれるツクヨさん。

 キーマからクッキーを抱き上げて肩に戻したカグヤさんは食い下がってくるけど、ロリーナの表情は硬い。

「貴女のツテが強力なのはわかるけど、自治体とかWSMとかに使うわけにはいかないでしょ? 月下人からの干渉はけっこう問題になると思うけど?」

「うっ。それはまぁ、そうだが……」

 地球人と月下人は決して敵対してるわけではないけれど、それなりに軋轢があるのも確かだ。

 古くから独立して月の地下で生き、魔法力の高い月下人はプライドも高く、地球は地球で異星人はもちろん、元々地球育ちでない月下人からの政治的な干渉は嫌う傾向が強い。

「貴女にはこの人の捜索をお願いしたいんだけど」

 言ってロリーナがエーテルモニタで表示したのは、昨日ミシェラさんに見せられた長谷川蓉子の写真。

 データは渡されてなかったはずだけど、いつの間にコピーを取ったんだろうか。

「これは誰だ?」

「長谷川蓉子。料理魔術にバグを仕込んで、クックリーチャーを生み出すようにした張本人。貴女のツテなら、そう難しくないと思うけど?」

 多少軋轢はあれど、月下人と地球人の行き来はいまはかなり活発だ。

 地球には数十万人の月下人がいろんな街で生活している。プライド高く愛国心の深い彼らは、カグヤさんの号令があれば一斉に動いてくれるだろう。

 カグヤさんの底知れないツテは、人捜しにはうってつけだ。

「人捜しなど容易いが、クックリーチャーの新種申請の方が先であろう? クッキーの生存が最優先だ。こんな可愛い生き物が生存できない世界などあり得ぬわっ」

「それはこっちでどうにかするって。まぁそれができないって言うなら、他に手伝ってもらうことはとくにないから。おとなしく待ってて」

「なっ、なんだとぉ?!」

 薄笑いで冷たく突き放すロリーナを、カグヤさんは瞳に怒りの色を湛え、睨みつける。

「その長谷川蓉子という方が、何かしそうなのですか?」

「まだわからないけどね。何か企んでいそうなのよ」

 ツクヨさんからかけられた質問に、ロリーナは表情を曇らせながら答えていた。

「ふんっ。わかったわ! それくらいのこと、簡単にこなしてやろう!」

 まだ怒ってる様子のカグヤさんは、何故か僕に近づいてきて、顔を指さしてきた。

「克彦! お主のためにやるわけではないからな!! あ、あくまで、クッキーのためにわらわは動くのであるからな!」

「あ、うん。わかってる」

 耳まで赤く染めて言ってくるカグヤさんに、僕はそれ以上なにも言えずに何度も頷いていた。

「くっ……。ふんっ。行くぞ、ツクヨ!」

「はい。カグヤ様」

 何故か楽しそうに笑っているツクヨさんを連れ、カグヤさんは行ってしまった。

「はぁ……。乗せやすくていいんだけどねぇ」

 微妙な表情でそれを見送ったロリーナに、僕は訊いてみる。

「やっぱり、何かありそうなの?」

「まだわからないけど、バグを仕込んだ理由と、トリガーがどうしても気になってね。イヤな予感がするのよ」

「そっか」

 その辺はロリーナがどんなことを考えているかは、僕にはわからない。

 キーマと、そして僕を助けるために考えているんだ、ということはわかる。

 そしてキーマは、いまの話がわかっているのかどうなのか、ロリーナと同じ複雑そうな表情を浮かべていた。

「キーマ?」

「うん? パパ。教室行こっ」

「あぁ、うん」

 キーマが伸ばしてきた手を繋いで、僕は教室に向かって歩き始めた。

 

 

            *

 

 

「まさかここまで早いとは……」

 女性がエーテルモニタで表示しているのは、料理魔術の配信停止を告げる告知。

 薄暗く、広さのつかめない部屋で、唯一の光源であるエーテルモニタの光に照らされた女性の顔は、歪められていた。

 女性の予想では、料理魔術の配信はあと一週間は続けられるはずであった。

 暴走すればクックリーチャーが生まれることはすぐに認知されるであろうが、暴走の原因が仕込んだバグにあることは、膨大なスペルコードを解析しなければわからない。

「もうコードの解析が終わったとでも言うの?」

 怪獣をジャガイモに戻したのは魔法少女であったようだから、汎用の解除魔術であっても、魔法少女クラスの魔法力を使えば解除は可能なはずだった。

 だがバグの特定となれば、魔術の解析に長けているだけでなく、自分と同じ天才的なスペルクリエイターでもなければこんなに短期間には不可能だと、その女性、長谷川蓉子は考えていた。

「これはマズいわね……。もしかしてここも突き止められちゃうかしら?」

 振り返って見たそこにあるのは、円柱状の水槽。

 床に設置された基部にも、上部にもたくさんのケーブルが接続された水槽は、エーテルモニタの光が届く範囲に十数基が置かれている。

 その中には、様々な形の、自然に生まれたものではない動物が、眠るように浮かんでいた。

 クックリーチャー。

「WSPOにも解除魔術がもう回ってるらしいし、本当にマズいわね。このままでは最終作戦の発動が危うい? そんなわけにはいかないのに……」

 そう言って軽く曲げた人差し指を口元に寄せた長谷川蓉子は、軽く噛みついていた。

「ん?」

 ポケットの中に入れてある携帯端末が、メッセージの着信を告げる振動をしたのに気がついて、長谷川蓉子はエーテルモニタでそれを開いた。

「これは……」

 現れたのは、褐色の肌をし、金色の髪をした幼い女の子。

 添えられていたのは、彼女を調査したものらしいデータ。それから、短いメッセージ。

「これなら計画を完遂できるわ」

 モニタを閉じた長谷川蓉子は、唇の端を歪めて微笑んだ。

 しかし少しうつむいた彼女は、首を傾げる。

「これは、いったい何に使うものなんでしょう?」

 白衣のポケットから取り出したのは、何かのスイッチ。

 白い円柱状の筐体の先端に、赤いボタンがひとつ。

 それを見つめて、長谷川蓉子はいつまでも首を傾げていた。

 

 

 

 



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カレーは生き物 第三章 ~マナブラックホール体質~
カレーは生き物 第三章 マナブラックホール体質 1


 

 

   第三章 マナブラックホール体質

 

 

          * 1 *

 

 

「そろそろ行くぞ、キーマ」

「うんーっ」

 ロフトに上がってベッドに寝転がりながら、僕が貸した携帯端末を使ってエーテルモニタで何かを見ていたらしいキーマは、声を掛けると返事をして降りてきた。

 白いドレス風のワンピースも似合ってたけど、今日着てる黒いのも似合っていた。

 ロリーナのお下がりだけあって、フリルとかレースでふんだんに飾りつけられ、スカートはふわっと広がり、硬質パーツなんかもあってメルヘンとパンクを組み合わせたような感じだけど。

「ちょっと待って、克彦」

 休日の今日、朝から僕の家に入り浸っていたロリーナは、ダイニングチェアから立ち上がり眉を顰めた。

 今日は制服じゃなく、白いシャツに黒いスカートつきのビスチェ姿のロリーナ。レースなどで飾られてるのはもちろん、メルヘニック・パンクの世界を象徴したように部分鎧染みたデザインも取り入れたそれは、胸の部分が大きめに開いていて、若干目のやり場に困る。

「どうかした?」

 今日はこれからエジソナさんのところに向かう。

 新種申請のやり方を聞くためと、アポイントのときに用件を伝えたら、追加の検査が必要だということだった。

「そろそろ、マナを補充しないといけない時期なんじゃないの?」

「……そうかも」

「マナの補充ぅ?」

 近づいてきたキーマの髪を撫でてやりながら、僕は彼女に説明する。

「僕は違う世界から来たんだよ」

「違う世界? えぇっと、なんだっけ? ファントムみたいなの?」

 ファントム、いわゆる神話や伝承の生き物たちは、エーテル場に生息していると言われている。

 実際の実体はいまひとつよくわかっていないらしいけど、エーテル場に存在する生物だから、その性質はマナと同じで、この世界だけでなく違う世界との行き来もできる。

 ただしファントムの記憶は、この世界に身体を持っているときだけのもので、一度身体を捨てると記憶は消滅する。

 再び身体を持ったとき、生命体としては同一でも、個性としては新生したものだという。

「ちょっと違うかな? この宇宙とは違う宇宙で生まれて、ここに来ちゃった人なんだ」

「……その世界も、本当にある世界なのかどうなのか、観測はできないんだけどね。魔導量子力学とかその先の魔導世界仮説とか勉強しないと、その辺はわからないよね」

 僕の言葉を引き継いで、ロリーナがそう説明してくれる。

 細かくはかなり難しい話になるが、僕が生まれ育ったと記憶にある世界は、本当に存在している世界なのかどうかはわからない。別の宇宙を観測する方法はいまのところないから。

 僕のような異世界漂流者や、ファントムの存在が、異世界が存在する間接的な証拠にはなってる。それでも観測する方法がない以上、確かに存在するという根拠にまではなっていない。

 ただ、そうした異世界の記憶を持ってこの世界に生まれた僕には、他の人とは違う特殊な体質があった。

 首を傾げて表情を曇らせてるキーマに、細かい説明をするのはやめておくことにする。

「まぁ、キーマがしっかり勉強したら、その辺はわかるようになると思うよ。そのうち一緒に勉強しようね」

「そっかぁー。うんっ、わかった!」

「それで僕は、たぶん異世界から来たからなんだろうけど、ちょっと特殊な体質なんだ」

「いいから早く上着脱いで」

 ロリーナに急かされて、僕はいそいそと上着を脱ぐ。

 別にいまじゃなくてもいいじゃないか、と思ったけど、自分の胸に手を当ててみると、けっこう危険な兆候が感じられていた。

「うぅ……」

「いまさらなに恥ずかしがってるの?」

 これをするときはいつものことだけど、上半身だけにしろ裸にならないといけない。

 好きな女の子に体質のためとは言え、裸を晒すのは恥ずかしい。

「ほら!」

「うわっ。大丈夫! 自分で脱ぐからっ」

 無理矢理脱がされそうになって、僕は急いでシャツを脱いだ。

 さすがにまだ春先の空気は、裸になるには寒い。

 そんな僕の胸に、ロリーナの細くて長い指が押し当てられる。

 そして静かに目をつむった彼女。

 冷たく感じた彼女の手から、暖かいものが身体に注ぎ込まれてくるのを感じる。

 ロリーナの魔法少女クラスの大量のマナが、彼女の手を通して僕の身体に注ぎ込まれてる。

「僕がこんなことしてもらわないといけないのは、僕がマナブラックホール体質っていう、宇宙でもほとんど例のない体質だからなんだ」

「マナ、ブラックホール?」

「うん。僕は定期的にマナを注いでもらわないと、この世界で身体を維持できなくなって、消えてしまうんだ」

「そうなの?!」

 驚いた声を上げるキーマに、僕は微笑みかける。

 マナブラックホール自体は、魔導的に発生が予言されている現象のひとつだ。

 凄まじくエーテル場が活性化している場所で、もの凄く巨大な魔法や魔術を使った場合、瞬間的にエーテル場の活性レベルが大きく落ち、熱平衡と同じく平均化させようとその場所にマナが集まる。

 それの状況が激しすぎる場合、マナは世界に留まらず、勢いがつきすぎて世界を通り抜けていってしまう。そしていつまでもエーテル場の活性レベルが平均化されないという状況に陥る。

 それが連鎖的に起こると、まるでブラックホールのように無尽蔵にマナを吸い込む世界の穴となる。それがマナブラックホール。

 マナブラックホールは理論上では短時間で消滅するはずのもの。

 僕の場合は極々小さなマナブラックホールが身体の中に存在し続けている状態で、身体の外には影響ないけど、マナを吸収して穴を埋めないと、身体が崩壊して消滅してしまう。

 普通のマナブラックホールなら短時間で消滅するはずなのに、僕の中にある世界の穴は、十年経ってもまだ埋まってない。発生原因も解消方法もわからない謎の体質だった。

 僕が最初に出会ったのがロリーナで、魔法少女の彼女の母親もいたから、消滅せずにいられた。最初の頃は一日に最低一回はマナの補充が必要だったから。

 いまは一ヶ月に一回かそこらで充分で、エジソナさんに調べてもらった限りでは、あと数年すると僕の中のマナブラックホールはほぼ埋まり、自然に放出されてるマナを吸収するだけで身体を維持できるようになるという。

 でもそうなるまでは、ロリーナにマナを補充してもらわないと僕は生きていけない。

 こんな体質だから僕には身体強化や治療、カグヤさんが持っているというナチュラルチャームなど、身体の内側に作用する魔術や魔法はほとんど効果がないか、持続時間が極端に短くなる。

 身体の外には影響がないから、機体に魔術が作用するスカイバイクや身体の外に表示するエーテルモニタなんかは問題なく使えるし、魔術で出した炎や電撃といった二次現象でもダメージ受けちゃう。

 マナの補充さえ怠らなければ、少なからず面倒はあっても、生活に大きな支障はない体質だった。

「んーと、元いた世界があるかどうかわからないって、どういうこと?」

「説明が難しいんだけどね……。マナ、というか、エーテル場は別の世界からこの世界とかに情報、もしくは要素を持ち込むことがあるんだ。ただ持ち込まれた要素は、元々の世界にあったものと同じかどうかはわからない。違う要素と関わることで変質してしまったりすることもあるらしい。別の世界を観測することは困難だから、変質してるかどうかもわからないんだ」

「んー」

 調べてるから知ってるけど、僕でも全部は理解してないような理論の話は、キーマには難しいらしい。

 首を傾げてうなり声を上げている。

「パパが元の世界に、帰ることはできるの?」

「どうだろうね。理論上は可能らしいけど、それこそマナブラックホールを利用するくらいの巨大な魔法を使わないといけないらしいから、現実的には不可能なんじゃないかな?」

「そうなんだ。うぅーん……」

 うつむいて考え込み始めたキーマ。

 少しして顔を上げた彼女は、少し悲しそうに、少し寂しそうに、僕に問う。

「パパは、帰りたいと思わないの?」

「最初は帰りたいとずっと思ってたけどね」

「そっか……」

「でもいまは、この世界も大切だから」

「うん……」

 そう言ってキーマに笑いかけると、彼女も笑ってくれた。

 閉じていた目を開けて僕のことを見てくれるロリーナも、優しく笑いかけてくれていた。

「とりあえず最低限、安定するくらいは注いだけど、近いうちにもう一度補充しないと、身体消えちゃうからね!」

「うん、ありがとう」

「忘れちゃダメだよ、パパ!」

「わかってるって」

 険しい表情をし、人差し指を立てて警告してくるロリーナに、それを真似て同じ仕草をするキーマ。

 まるで親子のようなふたりにちょっと笑いながら、僕は何度も頷いた。

「さぁ、今日はまずキーマのことをやろう」

「うんっ!」

「んっ。そうだね」

 服を着て上着を羽織った僕は、キーマと手を繋ぎ、ロリーナと並んで部屋を出た。

 

 

            *

 

 

 古風なゴスロリ服を着て、だらしなくソファに寝そべり、面倒そうな表情を浮かべているのは、エジソナさん。

「わかっているのかい? 新種の申請というのは非常に難しいことなんだよ?」

「はい。それでも、キーマを、クックリーチャーを住民登録できるようにしたいんです」

「はぁ」

 諦めない僕に、ため息で応えるエジソナさん。

 これでもう何度目になるだろうか。

 面倒そうにしているばかりで、エジソナさんは新種申請の手順を教えてくれない。

 こうなるだろうことがわかっていたんだろうロリーナは、澄ました顔で僕とエジソナさんの様子を眺めてる。

 でもキーマは、不安そうに僕の顔を覗き込んできていた。

 この前と同じく、広いホールのような部屋で、相変わらずそこそこ整理されてるけど、けっこう雑然と物が置かれていたりする魔女の館。

 僕はいま、館の主の説得を試みてる。

 地球で新種申請が通った知的生命体の種類は、本当に少ない。

 ほぼ無条件だった異星人を除けば、ファントムとスフィアドールと、あとほんの数種だけだ。そんな希少な申請を通すためには、経験者にアドバイスをもらうのが一番だった。

「情報を揃えるのはいいんだよ。それくらいの協力はするさ。ボクと君の仲だからね。ちなみに新種申請の何が難しいと思う?」

「時間がかかること、でしょうか?」

「その通り。申請に必要な書類と情報が揃っていても、登録には非常に時間がかかる。同じ情報を何度も何度も提出するくらいならいい。いろんな部署をたらい回しにされたり、どう考えても関係のない情報を提出させられたりする。検討期間とか言って年単位で待たされることだってある。一時は全面戦争の一歩手前まで行った悲しい過去があるからであるが、ファントムのときは二十年近くかかっている。世界システム会議ってのは基本、クソだよ」

「……そんなに?!」

「そんなもんさ。実際のところ、申請を通すか通さないかの問題というより、研究分野の話だからね、これは。強力なコネでも通して申請すれば別だが、ボクはクックリーチャーに興味がないと言ったら嘘になるが、新種申請をすることまでには興味がないしね」

「でも、エジソナさんはスフィアドールの新種申請を自分でやったんですよね?」

「なんて昔の話を……。ロリーナ! 君か? そんな話をしたのは?!」

 ソファに座って怒った顔で名を呼ぶエジソナさんの声に、ロリーナはそっぽを向くだけで答えなかった。

「あれはまぁ、仕方なかったんだ。ボクの魔法具は個性を持ったインテリジェントデバイスだったからね。身体がほしいって言うから、ひとりでも何でもできるようになりたいというあの子の希望を叶えるために、新種申請して住民登録できるようにしたんだよ」

 思えばエジソナさんは、現役なのかどうかわからないけど、魔法少女の家系に生まれた人だった。

 受け取った当日にバラされたという魔法具は、スフィアドールとなって新しい人生を歩んでいるらしい。

「クックリーチャーはすでにWSPOに危険視されているみたいじゃないか。排除に動き出してる状況で、申請はできても承認にはかなり時間がかかるだろう。それに仮申請が通るまでは排除の動きは停止できないし、その前に執行部隊が現れる可能性だってある」

「そのときは、えぇっと、僕が守ります」

「無理だね」

「無理ね」

 エジソナさんとロリーナに口を揃えて言われて、僕はがっくりと肩を落とす。

 確かに僕はマナブラックホール体質というだけで、ロリーナやエジソナさんと違ってただの人間。

 いやむしろ、身体にかかる魔術が効かない分、ハンディがあると言っても過言じゃない。

「まぁいい。君がそこまで言うなら必要な検査はしよう。キーマ君、そこの椅子に座ってくれ」

「うん……」

 エジソナさんが指さした椅子に、キーマはゆっくりと近づいていって、座る。

 不安そうにしてる彼女に、僕は強く頷いて見せた。

 とくに何かしている様子はないけど、たぶん部屋の中に設置されてるセンサーでスキャンをしてる。エーテル場が活性化している感じがあった。

 ロリーナが立ってる左側とは反対の、僕の右側に立ってキーマの様子を見てるエジソナさんが言う。

「この仕事の代償は、いつか払ってもらうからね」

「わかっています」

 呆れたように息を吐き、僕の顔を覗き込んでくるエジソナさん。

「新種申請に必要なのは、知能がある程度以上あること、それから身体が安定していることくらいだ。君のときも、その体質があったから住民登録を通すのにはずいぶん苦労したものだしねぇ」

「そうでしたね……」

 異世界からの漂流者は、数としてはかなり少ないけど、僕が初めてというわけじゃなくて、過去にもちょこちょこいる。

 異世界の要素で構成された人間である異世界漂流者は、新種申請と違ってそう難しくはない。異世界漂流者であることと、同種の人間であることがわかればそれで充分だから。

 でも僕の場合、マナブラックホール体質があったために、普通なら数日、長くてもひと月とかからない住民登録に、三ヶ月近くかかってしまった。

 僕を住民登録するために、ロリーナがエジソナさんに何度も頭を下げて頑張ってくれたおかげだった。

 ネオナカノ市民になったことで、僕は多くのものを手に入れた。

 学校に通うことができたのも、いま独り暮らしできているのも、住民登録ができたおかげだ。

「大丈夫だよ、キーマ。僕がちゃんと新種申請を通して上げるからね」

 小さくそう呟くと、エジソナさんは呆れを含んだ息を吐き、ロリーナは微笑みをくれた。

 不安そうに椅子に座っているキーマに、僕は精一杯の笑みを見せていた。

 

 

 

 無機質の森をキーマが歩く。

 足取りは確かで、もう二回目で慣れたからか、僕が手を繋いでなくても怖がる様子もない。

 うつむき加減で、僕の少し前を歩くキーマは、何か考えているようだった。

 エジソナさんの検査は終わって、情報をまとめるからとロリーナを手伝いに駆り出して、僕たちは邪魔だと言われて追い出された。集中したいらしい。

 文句も言うし、厳しさをはっきりと言ってくれるけど、エジソナさんも優しい人だ。僕は、本当にたくさんの人に助けられている。

 森を抜けた先の発着場。

 そこだけは何も置かれていない広場になっていて、誰かが来ることも珍しいみたいだけど、僕のスカイバイクが邪魔にならないよう隅の方に置いてある。

「危ないよ」

「うん。大丈夫だよ、パパ」

 発着場の縁、人通りのない空路との境に立ち、キーマはそこから広がる街を見る。

 スラム街であるこの辺りは、隣のプレートにもまばらに平屋の家が建っているけど、掘っ建て小屋のような貧相なもので、土地も調えられていないから、ヒビの入った道と、剥き出しの土が見えるくらい。

 キーマと並んで下の方を見てみると、数百メートル先で霞んでいた。

 僕の方を向いてくれないキーマは、複雑な表情を浮かべ続けていた。

 基礎インプリンティング学習を施して以来、キーマは少しずつ変わってきたと感じる。

 天真爛漫さが少し収まった感じがあって、それは寂しくはあるけど、やっぱりキーマは可愛い。それは変わらない。

「ごめんなさい」

 唇を引き結んで黙っていた彼女は、突然そんなことを言った。

「キーマ?」

「あたしは、パパにいっぱい迷惑かけてる」

「何を――」

「あたしが生まれちゃったから、パパはしなくてもいい苦労をいっぱいすることになっちゃってる!」

 僕の方を見てくれたキーマは、その目にいまにもこぼれそうなほどの涙を溜めていた。

「あたしは生まれるはずじゃなかったっ。料理魔術にバグがあったから、偶然生まれちゃっただけ! パパが、あたしのことを世話する必要なんてないのっ。パパが本当のパパじゃないことは、もうわかってるから!」

 両手を胸の前で握りしめて、キーマは力一杯そう主張する。

 涙が零れてキラキラと舞った。

 ロリーナ似の金色の髪が、さらさらと流れた。

 悲しそうで、涙を頬に零すキーマを、それでも僕は可愛らしいと思った。

「エジソナさんにもあたしのせいで貸しをつくることになって、あたしは……、あたしはパパに迷惑かけてるばっかり……」

 昨日からキーマが少しおかしかったのは、そのことをずっと考えていたからかも知れない。

 基礎インプリンティング学習を施したことで、彼女はそれまでよりも多くのことを考えられるようになって、僕のことを気にしてくれるようになっていたんだ。

 流れ続ける涙を袖口で拭っているキーマの前にしゃがみ、僕はその小さな肩に手を乗せる。

「そんなことは気にしなくていいんだ」

「でも、でもあたしは――」

「いいんだ。僕がキーマのパパじゃないなんて、悲しいこと言わないでくれ」

「でも!」

「うん。わかってる」

 キーマが言った通り、僕は彼女の父親とは言い難い。

 クックリーチャーである彼女には、術者であるロリーナがママであっても、僕がパパにはなり得ない。

 でもそんなことはどうでもいい。

 僕は彼女を守りたいと思ったときから、彼女のパパになったんだから。

「僕はキーマを守るよ。パパとして。キーマが、それを望む限りは」

「あたしは、でも……」

「僕だって同じだったんだ。朝教えただろ? 僕は異世界の人間だった、って」

「……うん」

「ちょうどキーマと同じくらいの身長だったとき、僕は突然この世界に現れた。誰もいないところに出現して、どうしていいのかわからなかった。そんなときに出会ったロリーナに、僕は助けてもらった。いまは住民登録もできて、ネオナカノの住人として過ごせてるけど、いまでもエジソナさんとか、サリエラ先生とか、ロリーナのママとかに助けてもらってる。何より、ロリーナはいまも僕の側にいてくれて、僕を助けてくれてる」

「ロリーナ……。ロリーナママが?」

「うん」

 涙はまだ零れそうになってるけど、顔を上げてくれたキーマ。

 僕はその顔にできるだけの笑みを見せる。

 十四歳の僕が、父親になるなんてあり得ない。僕の常識ではそうだ。

 でも僕は彼女を守ると誓った。守りたいと思った。だからいまは、僕はキーマの父親だ。

 泣いている自分の子供と向き合うのも、父親の仕事だ。僕はそう思う。

「いっぱい迷惑をかけて、たくさん助けてもらって、僕はいまここにいる。これからもたくさん迷惑をかけたり助けてもらったりするだろうし、それを返しきれるかどうかはわからない」

 ロリーナと同じ碧い瞳を真っ直ぐに見つめて、僕は言う。

「それでも僕はここにいる。人って、そうしたものだと思うから。そして、僕は誰かにしてもらったことを、同じように誰かにして上げたいと思ってる」

「でも……、でもあたしは……」

「人間だ。キーマは人間だ。生まれ方は違っても、人間なんだ。だから、僕を頼れ。父親を頼れ。だってキーマは、僕の子供なんだから」

「……うんっ。うん! パパ、ありがとう……」

 抱きついてきたキーマを、僕はしっかりと抱き締める。

 言ってる途中から僕も泣いてしまって、ふたりで抱き合いながら一緒に泣いていた。

 ――いまなら、訊けるよな。

 キーマはもう、何も知らない子供じゃない。何も考えてない幼子じゃない。

 だから、彼女がどうしたいのか、訊けると思った。

 肩に手を置いて、キーマの身体を少し離し、僕は問う。

「キーマは、どうしたい? たぶん、いまならロリーナの解除魔術で材料に戻すこともできる。キーマが望むなら、僕が父親として、一緒にいる。だからキーマは、自分の一番望むことを言えばいい。これから先、どうしていきたい?」

「あたしは……」

 こみ上げてきそうになる嗚咽を飲み込んで、キーマは指で涙を拭う。

 そして、僕に笑いかけてくれた。

 これまで見た中で、一番の笑顔だった。

「あたしは、パパと生きていきたい。人間、として。みんなと一緒に生きていきたい」

「うん。だったら、そうできるように新種申請をしないとね。時間がかかるかも知れないけど、それを通して、住民登録をしないと。僕と同じ、ネオナカノの住民にならないとね」

「うんっ」

「僕も本当、ロリーナには世話になったしね……。でもなんでだろう。僕はみんなに助けてもらったからだけど、ロリーナはなんで僕のことを助けてくれたんだろ……。ん?」

 そんなことを呟いてみたら、さっきまで泣いてたキーマが驚いた顔をしていた。

 どうしてそんな顔をするのかわからなくて、僕は首を傾げてしまう。

「あ、あのね? パパ」

「うん」

「あたしはね、ちょっとだけど、ロリーナママから、えぇっと、記憶? をもらってるの」

「そうなんだ。知識だけじゃなくて、記憶もなんだ」

「うん。ロリーナママがね、パパを助けてくれたのは、ママが――」

 こういうことは本人の口から聞くべきじゃないか、と思いつつも、気になった僕はキーマの言葉を待っていた。

 でも彼女の表情が強張るのが見えた。

「パパ、後ろ!!」

 恐怖に染まったキーマの顔。

 危険が迫ってるのを感じたとき、背後から聞こえてきたのは、革靴と思しき足音。

 気配もなく、真後ろに立った人物の影が僕に差したと思ったときには、後頭部に何か重い物が叩きつけられたのがわかった。

 ――防御魔術が効かなかった……。

 服にかかってる防御魔術は、服以外の場所でもある程度強い衝撃に対しては発動し、着用者を守る。

 そのはずなのに、頭に受けた衝撃で、僕の意識は遠退いていく。

 肩に手を置いていたはずのキーマの身体の感触がなくなり、僕は発着場に倒れ込む。

「パパ! パパ!! いや! 行きたくないっ。パパ! パパーーーーっ!!」

 キーマの涙交じりの声が聞こえる。

 それなのに僕の霞んでいく視界には、彼女の姿は映らない。

「キーマ……」

 やっとその声を絞り出したと思ったときには、すがりついていた意識がするりと逃げていっていた。

 

 

 



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カレーは生き物 第三章 マナブラックホール体質 2

 

 

          * 2 *

 

 

「ここか」

 着陸した車のガルウィングが開くのと同時に、赤く染め上げられたワンピースを纏うカグヤは降り立った。

 ネオナカノの街が小さいながらもくっきりと見えるほどの距離にあるそこは、地上。

 魔導歴二九五年現在、人間のほとんどはサービスが充実した積層する街に住んでいて、地上に住んでいるのは農業従事者や街に住むことを好まない人々、それから会社の都合などでやむを得ない人くらいだった。

 カグヤが降り立ったそこは、人の手が入らなくなって一世紀以上経つ森の中にある広場。

 昼間にあってなお暗く感じるそこには、建設から相当経っているだろう、古い建物があった。

 飾り気も何もない、ブロックを積み重ねたような味気ないその建物は、過去にとある企業が使っていた研究施設だという。使われなくなり、放置されていたが、最近になってここを買い取って使う者が現れた。

 長谷川蓉子。

 簡単にはわからないよう記録は偽装されていたが、様々なところで活躍している月下人の人脈を使えば、突き止めるのはそう難しいことではなかった。

「お気をつけください、カグヤ様。相手はどんな目的で騒動を起こしたのかわかりません。もしかしたらここには罠が仕掛けられているかも知れません」

「ふんっ。わらわがスペルクリエイターとは言え、ただの人間に後れを取ると思っておるのか? それなりに準備も済ませたであろう」

「ですが、充分にお気をつけを」

「わかっておる!」

 メイド服姿で運転席から降りてきたツクヨの言葉に、カグヤは眉を顰めた。

 首長一族の血を濃く引き、ロリーナに並ぶほどの魔法力を持つカグヤは、争いになってもそう簡単に負けることはない。

 事前に服にかかった標準的な防御魔術の他に、様々な状況に対応できるよう追加の魔術も身体に付与している。

 護身術も習っていて、そこらの敵に後れを取ることはないのはわかっているはずのツクヨに注意を促されて、カグヤは鼻を鳴らして不満を訴えつつも、開きっぱなしの入り口に向かって慎重に歩を進める。

 肩に乗っているクッキーの頭を撫でてやりながら、半ば雑草に埋もれている舗装された道を歩いているときだった。

「カグヤ様! くっ……」

「ツクヨ!」

 危険を知らせるようなツクヨの声に、カグヤはブーツのヒールを鳴らしながら、大きく前に飛んだ。

 それから振り返る。

 見えたのは、地面に伏して倒れているツクヨ。

 起き上がろうとしている様子から生きているのはわかるが、彼女を攻撃した者の姿が見えない。

 背後に聞こえた革靴の足音に、咄嗟に後頭部を腕で守る。

 掛けてあるはずの防御魔術が発動せず、後頭部を守った腕に衝撃が走った。

「くっ」

 かろうじて意識を失わずに済んだが、腕の骨にヒビが入ったのが自分でもわかった。

「わらわは命ず! 鋭き巌の――」

 肩に乗っていたクッキーが飛んで逃げたのと同時に、カグヤは準備していた堅固な防御魔術ではなく、魔法の言葉を唱えた。

 けれど、間に合わなかった。

 やはり姿のなかった背後の敵。

 真横に気配を感じたときには、鳩尾に重い一撃がめり込んでいた。

「ぐっ……」

 せめて敵の姿だけでも、と思うカグヤだったが、急速に暗くなっていく視界を止めることができず、近づいてくる地面だけが見えていた。

 

 

 

 ツクヨとカグヤを瞬く間に倒した人影は、逃げたクッキーを探しているようだったが、諦めたらしい。

 倒れているカグヤを小脇に抱え、同じく地に伏しているツクヨを見て、考え込むような仕草をする。

 離れた茂みの影に隠れたクッキーは、その様子をじっと眺めていた。

 カグヤを抱えたままツクヨに近づいていった人影は、脚を大きく後ろに振り上げた。

 そして、蹴った。

 蹴られたツクヨの身体は浮き上がるだけでは済まず、投げられたボールのように勢いよく飛んでいき、すぐに見えなくなった。

 それを見届けた人物は、建物の中へと入っていく。

 しばらく待ち、誰も建物から出てこないことを確認したクッキーは、広場へと出ていく。

 カグヤが連れて行かれた建物と、ツクヨが飛んでいった方向とを見て、しばし首を傾げていた。

 それからひとつ頷き、クッキーはツクヨが飛ばされていった方向に、四本の脚を使って走って行く。森の中に入り、建物が小さく見えるくらい離れたところで、首につけてもらったままジュエルに魔術を読み込ませ、翼を広げて飛んだ。

 できるだけ高空まで上がって地上を見ていると、まるで大きな飛行具が墜落したような痕跡を発見した。

 道のようにえぐれた土の先に、服がぼろぼろになり、倒れているツクヨの姿があった。

 そばに降りて前足で顔を叩いたり、鼻を近づけて刺激してみるが、気を失っているツクヨは目を覚まさない。しかしほんの少し前まで意識があったのか、エーテルモニタが開かれ、メッセージの送信画面が表示されていた。

 空を仰いでひくひくと鼻を動かし、首を傾げた後、クッキーはエーテルモニタの側まで伸ばされたツクヨの手を取った。

 メッセージの送信先がすでに入力されているのを確認し、クッキーは送信すべき文面の入力を開始した。

 

 

            *

 

 

「克彦?」

「んっ……」

 聞こえてきた声に目を開けると、すぐ近くに碧い瞳があった。

 いまにも泣きそうな、僕のことを心配してくれてたらしいロリーナの顔。

「よかった……。目を覚まして、よかった……」

 僕の手を強く握り、唇を震わせてるロリーナに、僕は状況を把握できずに首を傾げることしかできなかった。

 見回すと、エジソナさんの家の中であることがわかった。

 いつもエジソナさんが寝ているソファに寝かされていて、上半身を起こすと後頭部に痛みが走った。

「キーマは?!」

 痛みで気を失う前のことを思い出し、僕は叫んだ。

 部屋の中を見回してもキーマの姿はない。

 ロリーナの顔を見ると、僕から目を逸らしていた。

 エジソナさんを見ると、暗い表情を浮かべて顔をうつむかせた。

「誰が! 誰がキーマを連れていったんだ!」

「わからないの。作業がひと段落したから呼びに行ったら、克彦だけが倒れてて……」

 悲痛な表情を浮かべてるロリーナを責めても仕方ないのはわかってるけど、僕は彼女の両肩をつかんで揺さぶってしまう。

「そうだ。追跡をすれば!」

 登録していて許可されてる人だったり、自分に所有権がある物だったら、追跡魔術を使えばいまどこにあるのかがわかる。

 人に対する追跡は住民登録をしてないキーマではできないけど、物品追跡ならキーマが着ている服はロリーナのなんだ、追跡が可能なはずだった。

「それは、無理なんだよ」

「どうして?!」

「ボクの住んでるプレートにはセキュリティがかけてあってね。うちから行き先を追跡しようとする不逞な輩を巻くために、ここから飛び立った者を追跡できないようにしてあるんだよ。本来なら誰かが入ってきたら、それが無機物であっても関知できるようになっているんだが、反応がなかった」

「――くそっ!」

 悪態を吐いてソファから立ち上がった僕は、でも後頭部に走った痛みにふらついて、また座ってしまう。

「済まない、克彦君。これはボクのミスだ。セキュリティの穴を突かれたようだ」

「……いえ。僕はたぶん、殴られました。防御魔術が発動しなかった。たぶんそう言うことができる奴だったんだと思います」

 凡人に過ぎない僕に深く頭を下げるエジソナさんを見て、少し冷静になれてそう答えた。

「でも、誰がキーマを連れて行ったんだろう」

「長谷川蓉子か、その関係者よ。たぶんね」

「なんで?」

 僕の隣に座って、立ち上がらないよう肩に手を置いてくるロリーナの言葉に、僕は問う。

「ちょっと前に話したでしょ。キーマには高い魔導エネルギーが核になってるみたいにあるって」

「うん」

「それがだね、調べてみたら予想以上だったんだよ。ボクにも並ぶ魔法力を持つロリーナが生み出したからだろうね、もう少し高ければ魔法具レベルのマナジュエルが自然に結晶化しそうなほどのエネルギーが、キーマ君の中には封入されていたんだよ」

「そんなに?」

 いま現在人間が製造できるマナジュエルは、最大のものでもカテゴリー八。

 街全体のエーテル場を安定させるためのエーテル場安定機とか、移民レベルの宇宙船くらいにしか使われないカテゴリー八クラスのマナジュエルでも、魔法少女たちが使っている最低でもカテゴリー一〇の魔法具には及ばない。

 キーマの身体に、魔法具用のマナジュエルができてしまうほどの魔導エネルギーが封入されているのが本当だとしたら、飛んでもないエネルギー量だ。

「長谷川蓉子の目的はクックリーチャーを無作為に生み出せるよう、バグを仕込んだ料理魔術を配信して混乱を引き起こすとかじゃない。たぶん、生まれたクックリーチャーを利用して何かをしようとしてるんだと思う」

「何かって?」

「それはまだ、わからないけど……」

 いまにもキーマを探すために、ここから飛び出して行きたくて震え始める僕の手を、ロリーナの手が優しく包んでくれた。

 長谷川蓉子については少し調べてみたけど、有名なスペルクリエイターというくらいしか、ネットでは情報が出てこなかった。いまどこにいて、何をしているかは、僕には調べられない。

「とにかく、キーマを探さないと」

「そうだね。それについては済まないが、君たちに任せよう。ボクの方は、自分の失態を埋めるためにも、ボクなりの方法で君たちに協力しよう」

「お願いします」

 そう言ってくれたエジソナさんに僕は頭を下げるけど、キーマを見つけなければそれも半分くらい意味がない。

 どうやってキーマの居場所を探すか考えていたとき、ポケットの中の携帯端末がメッセージの着信を告げる振動をした。

「ツクヨさんから?」

 すぐにエーテルモニタを開いてメッセージを確認してみると、差出人はツクヨさんだった。

 彼女はカグヤさんと一緒に長谷川蓉子の居所を探しているはず。もしかしたら居所がつかめたのかも知れないと思い、本文を開く。

「あれ?」

「ん?」

 開いて表示されたのは、短い文面と、座標情報のみ。

 文面にあったのは「カグヤSOS」。座標情報を新たなエーテルモニタを開いて確認してみると、ネオナカノからすぐ近くの、地上の座標だった。

 何があったのかはわからないけど、カグヤさんと、たぶんツクヨさんにも何か危険があっただろうことはわかった。

「行こう、ロリーナ」

「ん……」

 立ち上がったけど、もう頭に痛みは走らなかった。

 心配そうな表情をし、ためらいがちに立ち上がったロリーナに、僕ははっきりと言う。

「キーマは絶対、僕が助ける」

「ん。わかった。行こう」

「君たちが行ってる間に、僕は僕のできることをできる限りしておくよ」

「はいっ」

 早足に外に繋がる扉に向かった僕に、エジソナさんの声が追ってきた。

「多少の無理は仕方ないけれど、無茶をしてはいけないよ。自分のできることの限界を見極めるんだ。でないと、君の大切な人を悲しませることになるからね」

 振り返って見ると、エジソナさんはロリーナと同じような心配そうな表情を浮かべていた。

「わかりました」

 どんなことがあるのかわからないのだから約束はできないけど、僕のことを心配してくれるふたりをできるだけ安心させられるよう、強く頷いてそれに応えていた。

 

 

 



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カレーは生き物 第三章 マナブラックホール体質 3

 

 

          * 3 *

 

 

「……なんだ? これ」

 ツクヨさんから送られてきたメッセージの場所の上空までたどり着くと、地上にはまるで飛行機の墜落現場のような、木がなぎ倒され、土が道のようにえぐれた場所があった。

 ホウキに乗るロリーナと一緒にスカイバイクの高度を落としていくと、たぶん先端と思われる場所に、ツクヨさんが倒れているのが見えた。

「ツクヨさん! 誰がこんな……」

 急いで着地してツクヨさんの元に駆け寄り、抱き起こす。

 強すぎる衝撃を受けたからだろう、防御魔術がかかっているはずのツクヨさんの着ているメイド服はぼろぼろになり、土で汚れていた。

 カグヤさんのお目付役であり、護衛でもあるツクヨさんは直接目で見たことはないけど、かなりの猛者だと聞いたことがある。彼女の正体は実はファントムであるとか、地球人でも月下人でもない超生物であるとか噂があるほどに。

 そのツクヨさんを倒したのが誰であるのか、僕には想像できなかった。

「ロリーナ。治癒の魔術をっ」

「うんっ」

「大丈夫、です」

 苦しそうに表情を歪めながらも、ツクヨさんが目を覚ます。

「わたくしは少し休めば大丈夫です。それよりも、カグヤ様をお願いします」

「カグヤはどうしたの?!」

「掠われました。誰なのかは見ていません。突然襲われて、このわたくしが一撃で……。長谷川蓉子の居場所はここです。おそらくカグヤ様もここに」

 苦しそうに歯を食いしばっているツクヨさんは、それでも腕を持ち上げてエーテルモニタを開き、僕に渡してくれる。

 そこはここからそう遠くない、記載された情報によれば古い研究施設のようだった。

 上着を脱いで下に敷き、ツクヨさんの身体を横たえた僕は立ち上がる。

「おそらく、襲撃者は魔導的にかなりの力を持った人物です。魔法使いクラスか、それ以上の」

「わかりました」

「カグヤ様をお願いします。克彦様、ロリーナ様」

「はい!」

 安心した表情で目を閉じるツクヨさんから顔を上げ、ロリーナを見ると、厳しい表情の彼女は僕に頷いてきた。

 すぐに僕はスカイバイクに走り、横座りにホウキに乗ったロリーナと空に舞い上がった。

 

 

            *

 

 

「これはいったいどういうこと?」

 自治体から送られてきた長谷川蓉子の情報をまとめ終えたミシェラは、顔を顰めていた。

 長谷川蓉子の足取りが、まったくつかめなかった。

 相変わらず人の少ないWSPO捜査課のオフィスで、自分の席に着いたミシェラは、何度もまばたきをしながら、今日五杯目のコーヒーのカップを傾けた。

 自宅で仕事をしているとは言え、会社に所属している人間なのだから、人物像や痕跡はつかめそうなものだったが、ほとんど新しい情報は見当たらない。

 過去につき合っていたという恋人については、全員が捜査への協力を断ってきたそうで、かろうじて聞くことができた内容によると、もう二度と会いたくないということだった。

 現在、過去を含めて会社での数少ない社員との会話のときには、それほど問題があったわけではない。しかし恋人に対しては何か話したくなくなるほどのトラウマを植えつける人物だったらしい、ということしかわからない。

 現在の居場所についてはまったく見当がつかない。

 地球生まれの人間で、身体の機械化もしてない人のようだから、衣食住がなければ生きてはいけない。いまの世の中では何か物を買えばその痕跡が残るし、対応している店で少ないが、現金で購入するとしても、その現金を引き出せばそれも記録が残る。

 ここまで巧妙に、そしておそらく計画的に動いている人物なのだから、隠し口座のひとつやふたつ見つかってもおかしくなかったが、WSPOと現地警務隊の協力態勢を以てしても、見つかっていなかった。

 どうにかいま現在の住居であるネオナカノから外に出たことだけはわかったが、他の自治体を訪れた様子もなく、どこか近くに潜伏していると思われることだけが推測できた程度だ。

「協力者でもいるのかしら?」

 調べた限りでは、長谷川蓉子は単独犯。協力者の影はない。

 しかし物品を購入した痕跡も、端末を使ってネットにアクセスした痕跡も、自身が登録した魔術具で魔術を使った履歴すらないとなると、単独犯ではなく協力者がいると考えた方が筋が通りそうだった。

「ミシェラさん。郵便です」

「郵便?!」

 オフィスに訪れた郵便局員が渡してきた封書に、人差し指で唇をなぞりながら考え事をしていたミシェラは、思わず声を上げてしまっていた。

 メルヘニック・パンクの世界で、情報やメッセージのやりとりはほぼ確実にネット経由で行われる。物品のやりとりには宅配便があるが、郵便を使う機会は限りなく少ない。

 しかしそれでもいまも生きている郵便制度は、数の少なさを活かして、恐ろしく高度なセキュリティと確実に受取人の手元に届くという信頼性の高さ、そして超高速な配達を売りにするようになっていた。

 それほど厚みのない、何かの書類が入っている様子のA4サイズの封書には、差出人の名前は書かれていない。郵便で送られてきているのだから、怪しい人物からのものではないことはわかっている。

 受け取り確認を局員と交わして封書を受け取ったミシェラは、一応警戒しながら封を切る。

 中から出て来たのは、紙の束と、データカード。

「誰から、何だろう……」

 紙の束を片手に、もう片手で携帯端末を取り出して器用に指でデータカードをリーダーに差し込む。

「がっ?!」

 すぐに開かれたエーテルモニタを見て、ミシェラは椅子から立ち上がった。

 直立不動の姿勢で、エーテルモニタを凝視する。

 データカードに収められていたのは、クックリーチャーに関する詳細な検査報告。

 差出人は、エジソナ。

 データの中にも付記という形で同じ内容が収録されているが、紙の束はエジソナ直筆の、クックリーチャーへの対応に関する意見書だった。

「え、エジソ、エジソナ様?!」

 三百歳を超えても生きていることが知られているエジソナは、スフィアドールにとって神にも等しい存在。

 初めてスフィアドールをつくり、新種申請を通して人間と同じように生きられるようにしてくれた彼女は、スミス課長から受けた恩よりも大きな、生まれた瞬間から大恩のある人物だ。

 直筆の意見書は、どうして知っているのかはわからないが、ミシェラ個人宛。ネオナカノ内の住所と連絡方法も添えられ、今度会いたいということが最後に書かれていた。

「スミス課長!」

 紙の束を一字一句逃さず読み終えたミシェラは、すぐさまスミス課長への通話を開いた。

『どうかしたか? ミシェラ。長谷川蓉子が見つかったか?』

「いえ、それはまだです。それよりも、エジソナ様から連絡がありました!」

『エジソナ?』

 どこかの屋内にいるらしいスミス課長は、バストアップで映っている通話ウィンドウの中で考え込むように顔を顰める。

「原初の魔女! 我々スフィアドールの神! エジソナ様です!!」

『……ミシェラ、知り合いだったのか? またずいぶんな人物が出てきたな』

 原初の魔女エジソナの名を知らない地球人はいない。

 スフィアドールにとっての神というだけでなく、魔導世界への道を開いた彼女は常識レベルの知名度だ。

 いまでこそ表舞台に出てくることはほとんどなくなったが、その影響力はWSMでもWSPOでも大きい。

「いいえ、違います。どうして私に連絡があったのかはわかりませんが……。とにかく、エジソナ様から送られてきた情報を送ります」

『ふむ』

 WSPO専用のセキュリティの高い回線を使って、エジソナから送られてきたデータをスミス課長に送信する。

 エーテルモニタを開いてそれを読んでいる彼に、ミシェラは意見書に沿って要請する。

「すぐに執行部隊と、各警務隊で実行中の、クックリーチャーへの解除魔術の使用を停止してください!」

『いや、それはなぁ……。執行部隊の奴らがなんと言うか……』

「それを押さえるのは課長の仕事です!」

『まぁそうなんだが。この方の言葉となれば、やるしかないな』

「すぐにお願いしますっ。私は長谷川蓉子の足取りを追います!!」

『わかった。そっちは頼む』

「はいっ」

 最後にため息を漏らし頭を掻きつつも、スミス課長は通話を切った。

 ミシェラはエジソナ直筆の意見書を丁重に机の引き出しに収め、鍵をかけた後、すぐさまオフィスを飛び出した。

 意見書には、ミシェラ宛てのメッセージの他に、座標が書かれていた。

 それが何のものかはわからないが、クックリーチャー事件に関わるものだということだけはわかった。

 ――エジソナ様。私、頑張ります! 貴女に大手を振って会いにいけるように!!

 心中で自分を鼓舞して、ミシェラは署の出口へと急いだ。

 

 

            *

 

 

 ツクヨさんが倒れていた場所からほんの数キロ、バイクを飛ばした場所に見えてきたのは、森の中に半ば埋もれるようにして建っている、味も素っ気もない簡素な建物。

 ツクヨさんの情報にあった通り研究所だったらしい、三階建ての大きな建物は、いままさに屋上が開き、何かがせり上がってきているところだった。

「克彦! あそこ見て!」

 建物を通り過ぎないよう速度を落として併走するロリーナが指さした方向を、僕も見てみる。

 二〇基ほどの、円柱状の水槽、というより、元の世界でやってたアニメに出てくる培養槽とかそういうのに似たものの中には、自然には存在しない形の動物が眠るように身体を丸めて浮かんでるのが見えた。

 その中のひとつ、液体の中に金糸がたゆたっているのが見える奴を、僕はスカイバイクのカメラを使って拡大表示する。

「キーマ!」

 一番先頭、何かのコンソールと思しき腰くらいの高さのモニュメントの近くの水槽に、キーマの姿があった。

 裸にされていたけど、とくに怪我をしていたりする様子はない。

 でも意識はないようで、身体を丸めて膝を抱き、目を閉じたまま微動だにしない。

「キーマァーーーッ!!」

「ダメ! 克彦!!」

 それを確認した僕は、ロリーナの制止の声も無視して、スカイバイクのアクセルを捻った。

「ぐっ?!」

 屋上の真上にたどり着く、と思ったところで、スカイバイクに付与された防御魔術が発動した。

 ぶつかった瞬間だけ光って見えたのは、たぶんエーテルバリア。

 防御魔術の一種で、空気に含まれる成分以外のあらゆる物体の侵入を防止するもの。たぶん研究施設に設置されたエーテルアンプとマナジュエルで張られたそれは、生半可な方法では突破することはできない。

「クソッ!」

 すぐそこ、ほんの十数メートル先にキーマの姿が見えてるのに、僕はそこにたどり着くことができない。

「何? もうさっきの人たちの応援が来たの?!」

 そんな声を上げたのは、いままで気づかなかったけど、コンソールの前に立っている女性。

 長谷川蓉子。

 ミシェラさんに見せてもらった写真とほとんど変わらない顔をした彼女の足下には、意識がないらしいカグヤさんも倒れていた。

「カグヤさん!」

「ふっ。もう遅いわ。私の計画はこれで完成する!」

 僕の声に反応しないカグヤさん。

 聞いてもいないのにそんなことを言う長谷川蓉子は、コンソールを叩き、それから足下に敷いていた魔導絨毯でその場から浮き上がってきた。

 水槽の上下から光が溢れ、キーマたちクックリーチャーが照らし出される。

 それと同時に、何の演出なのか、それとも彼女の美学なのか、コンソールのところに遠くからでも見えるほど大きな数字が現れた。

 カウントダウン。

「何をしたんだ?!」

「ふふふっ。あの子たちに籠められた魔導エネルギーを引き出して、新しい生物を生み出すのよ。クックリーチャーなんてセンスのない名前じゃない。これから生まれるのは超料理生物、レシピアントよ!!」

 不安定なはずの絨毯の上に立って、高笑いをする彼女。

「止めるんだ!」

「イヤよっ。これが私の世界への復讐なんだから!!」

 スカイバイクを操って、僕は長谷川蓉子の元に突撃しようとする。

 三〇秒から始まったカウントは、残り一〇秒を切った。

「そんなことをしても止まらないわっ。あの装置を破壊しない限り、レシピアントは必ず生まれるのよ!」

 意外な速度で研究所から離れていく長谷川蓉子を、僕は追いかける。

 ボンッ、という、何かが爆発したような音がしたのは、そのときだった。

 僕と長谷川蓉子は、同時にコンソールに目を向けた。

 大穴が空き、中から火花を散らしているコンソール。

 その上に表示されていたカウントは、五秒を残して消えていった。

 僕は振り向く。

 そこにいたのは、ホウキを銃のように小脇に抱えて構えているロリーナ。

「え? あの……。壊せば止まるって言うから、壊したんだけど……」

 唖然としている僕と長谷川蓉子に見つめられて、ロリーナは慌てた様子で弁解する。

 ロリーナがいま持っているホウキは、彼女の母親が使っていたカテゴリー六のもの。

 研究所と言っても、せいぜいカテゴリー四か、五のマナジュエルで張られたエーテルバリアは、ロリーナがカテゴリー六の魔法で攻撃すれば、容易く貫ける。

「えぇっと。お疲れ様、克彦」

「うん。お疲れ様、ロリーナ」

 何だかよくわからないけど、長谷川蓉子の野望は砕かれた。

 ロリーナによって。

 まだ状況を飲み込みきれてない僕は、開いたままだった口をどうにか動かして、ロリーナの声に応えていた。

 

 

 



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カレーは生き物 第四章 ~エーテル場断層~
カレーは生き物 第四章 エーテル場断層 1


 

 

   第四章 エーテル場断層

 

 

          * 1 *

 

 

 長谷川蓉子の方を見てみると、彼女はまだ開いた口が塞がらないようで、呆然としていた。

「あ、キーマ!」

 ロリーナが攻撃したのを思い出し、僕はエーテルバリアに空いたはずの穴を見る。

「ちっ!」

 そこからスカイバイクを突っ込ませて無理矢理突破しようと思ったけど、エーテルバリアに空いた穴は見つけた瞬間に塞がってしまった。

「まぁ、何がやりたかったのかよくわからないけど、これでもうできなくなったでしょう? エーテルバリアを解除して、あそこのクックリーチャーと、カグヤを解放してちょうだい」

 ホウキをまだ小脇に抱えたまま、僕の側までやって来たロリーナが長谷川蓉子に呼びかける。

 呆然とし続けていた長谷川蓉子は、徐々に表情を取り戻し、口元に笑みを浮かべ始めた。

「ふふふっ。ふふふふふっ!」

「何がおかしい?!」

「わかったのよ?」

「何が?」

「このスイッチの使い道が、ね!」

 言いながら長谷川蓉子が白衣のポケットから取り出したもの。

 白い円柱状のそれは、先端にボタンがある、何かのスイッチ。ボタンの反対側からはケーブルが伸びていて、カグヤさんの髪の中に消えていた。

 ――なんなんだ? あれは。

 と、思ったところでイヤな予感を覚えた僕は、すぐさまバイクのアクセルを捻って長谷川蓉子の元に突撃を開始する。

「克彦?!」

「もう遅い!」

 バイクが魔導絨毯に到達する直前、僕に見せつけるようにスイッチを構えた長谷川蓉子は叫びながらボタンを親指で押し込んだ。

「ワールドアンドゥ!」

 効果は、すぐに現れた。

 周囲の空間が歪み始めた。

 いや、そう見えるだけかも知れない。

 グニャグニャと景色が歪むのと同時に、僕は激しい頭痛を覚え、強く目をつむる。

 すぐに頭痛は消え、目を開けると、何も変わらない景色が見えた。

 いや、長谷川蓉子の乗る絨毯との距離が空いている。加速を開始して距離が詰まっていたはずなのに。

 それ以外なんの変化もないように思えるのに、スイッチを構えたままの長谷川蓉子は、僕に勝ち誇ったような笑みを見せてる。

「克彦から逃げただけ? しょぼい効果ね」

「……いったい、何をしたんだ?!」

「貴方たちふたりには効果はないの? 不思議ね。でも望む結果は得られたわ!」

 そんな彼女の言葉の理由を探して辺りを見回すと、違っている場所を見つけた。

「ロリーナ! あれ!!」

 僕が指さした先にあるのは、コンソール。

 ロリーナが破壊したはずのそれは、何故か穴が消えて、カウントダウンも続いている。

「なんで?」

「いいから、早く!」

「う、うん!」

 混乱してる様子のロリーナがホウキの先端を向けたときには、一歩遅い。

 ゼロ、と表示され、数字が消えた。

 同時に水槽の中を照らしていた光が強くなる。目を、開けられないほどに強く。

 それはまるで、料理魔術が暴走して、キーマが生まれたときみたいだった。

 まぶたを閉じていても眩しいくらいの光に動けなくなってるとき、衝撃波が襲ってきた。スカイバイクから振り落とされそうになった僕は、ハンドルを必死でつかんで膝でボディを挟んで、どうにか堪える。

 まぶたの向こうに眩しさを感じなくなって、目を開ける。

 衝撃波で飛ばされたらしく、ずいぶん上空から地上を見ると、景色が一変していた。

 いや、いままで見ていた景色に、あったものが失われ、いなかったものが現れていた。

 失われたのは、研究所。

 見ると、崩れて無残な瓦礫と化してしまっている。

 現れたのは、巨人。

 特撮の巨大超人ものに出てきそうな、身長一〇〇メートルは下らないだろう巨人は、たぶん僕が知ってるその手のデザインの中で、一番よかった。

「格好いい……。じゃなくて!」

 バイクのカメラで拡大し、巨人によって踏みつぶされた研究所の残骸を見てみるけど、キーマに姿は見つからない。他にいたクックリーチャーも、欠片すら残っていなかった。

 たぶん、あの巨人――長谷川蓉子の言うレシピアント――に、取り込まれて消えたんだ。

「キーマ……」

 どうすることもできず、僕はただ、レシピアントの偉容を見上げる。

「ふふふっ。あーーーはっはっはっはっ!! レシピアント! あそこにあるものを破壊しなさい!!」

 そんなことを言う長谷川蓉子が指さした方向にあるのは、上から押しつぶした卵のような形の街、ネオナカノ。

「ジャ!」

 その声に応えるように言葉じゃない声を上げたレシピアントは、胸の前で腕をクロスさせる。

 腕が光り始め、稲妻のように激しいものとなり、そして、レシピアントが大きく口を開いた。

 吐き出された、極太の光線。

 腕からじゃないのかよ! と心の中で突っ込みつつ、研究所の建物がすっぽり収まるほどの太さの光線の行く手に目を向ける。

 たぶん、レシピアントの顔の角度的にはネオナカノのど真ん中に当たるはずだった光線は、何故か中央尖塔の上の方をかすめ、青空へと消えていった。

「あっぶなっ。あんなのまともに命中したら、ネオナカノが消し飛んじゃうよ」

 そう言ったのはロリーナ。

 レシピアントに向けられたホウキの先端には、微かな光が漂ってる。おそらく魔法を使ったときの残光。

 改めてレシピアントを見ると、右頬に小さな焦げ跡をつくっていた。

 どうにか発射直前に、ロリーナが攻撃魔法を命中させて、ネオナカノへの直撃を逸らすことに成功したらしい、

「本当に、危なかった……。でもあんなの、どうすればいいんだろ」

 悠々と立っているレシピアントに、僕は打つ手を思いつけない。

 キーマたちクックリーチャーを材料にして生まれただろうレシピアント。

 普通の料理魔術で生まれたジャガイモ怪獣ですら、解除魔術を使うためには、魔法少女三人の協力が必要だったんだ。総合すればロリーナよりも大きな魔導エネルギーで生み出されたかも知れないレシピアントに、ロリーナひとりの解除魔術が通じるとは思えない。

 キーマを助け出す方法が、ない。

「チャージよ! レシピアント!! 次の攻撃で、ネオナカノを破壊しなさい!」

「ジャッ!」

 長谷川蓉子の声に応えて、胸の前で腕をクロスさせたまま、背を少し丸めるレシピアント。

 エネルギーのチャージに入ったらしい。

「マズい……」

「うん。マズいよ、克彦」

 ロリーナと顔を見合わせ、どうにもできないいまの状況に、困惑の表情を向け合っていた。

 

 

            *

 

 

「え? 何あれ?!」

 魔導ホウキに乗り、ミシェラがエジソナに指定された座標の近くまで来たとき、突然光の柱が見えた。

 光が衝撃波のようになって過ぎ去ると、中から現れたのは、巨人。

 ミシェラのメカニカルアイの観測では身長一〇〇メートルほどと出たその巨人は、腕をクロスさせたかと思うと、口から光線を吐き出した。

「ひっ」

 迫ってきた光に急いで地上に逃れるミシェラ。

 どうにか着地は間に合ったが、今度は光によるものではなく、熱を持った衝撃波が彼女の身体に襲いかかってきた。

 吹き飛ばされずに堪えたミシェラが後ろの方向、ネオナカノを見ると、光線がかすめたらしい中央尖塔から微かに煙が上がっていた。

「な、何なの? あれ……。もしかしてあれが、長谷川蓉子の目的?! あんなものが暴れ回ったら、この辺りがメチャクチャになる……」

 光線の観測結果では、先日の事件で撃ち合っていた兵器よりも何桁か大きいと出ていた。

 一撃で街を跡形もなく消し飛ばすだろうそのエネルギーに、ミシェラは震え上がる。

 地球の平穏を守護している魔法少女であっても、あの光線を防ぐにはひとりでは不足するはず。巨人を倒すとなったら、どれほどの魔法少女が集まらなければならないのか、想像もつかなかった。

「課長! スミス課長!!」

 エーテルモニタを開いてスミス課長に連絡を取ろうとするが、通信障害が出て繋がらない。

 おそらくさっきの光線の影響。

「あの光線がもう一度放たれたら、ネオナカノは終わりだ……」

 初撃はかすめるだけで済んだが、そんな幸運が続くとは思えない。次の一撃が、ここから一番近い街であるネオナカノの最後であることを、ミシェラは悟った。

「でも、私に何ができるだろう?」

 スフィアドールであるミシェラは、ただの人間に比べればかなりの強さを持つ。けれど魔法少女とは比べるべくもないほどに弱く、あの巨人をどうにかできる力はミシェラにはない。

 応援も呼べず、そう遠くないうちに魔法少女たちが駆けつけてくれると思うが、それも間に合わなかったらネオナカノどころか、自分の命も危うかった。

 どうやらエネルギーのチャージに入ったらしい巨人を、ミシェラは立ち尽くしてその場で見ていることしかできなかった。

「ひっ」

 そのとき聞こえた下生えの揺れる音に、ミシェラは悲鳴を上げてしまっていた。

 草の影から飛び出してきたのは、ウサギ。

 いや、羽の生えたウサギだ。

「か、可愛い……」

 赤い目をした白いウサギは、愛らしく鼻を動かし、ミシェラのことを見つめている。

 そのあまりの可愛らしさに、ミシェラはよろよろと近づいていって、手を伸ばす。持ち帰って飼いたかった。

 しかしその動きを止めるように、目の前に現れたエーテルモニタ。

「え? 『気安く触るでない』?」

 エーテルモニタに書かれた文字を読み上げたミシェラは、改めて羽ウサギのことを見てみる。

「クックリーチャー? それも、魔術を使うの?」

 エーテルモニタもカテゴリー一の魔術。

 クックリーチャーの頭が人間並みに優れているのは、エジソナの検査結果を見て理解していた。

 音山克彦とロリーナ・キャロルが連れていた、キーマと呼ばれている幼女型クックリーチャーにその姿にふさわしい知能があるだろうことは理解できたが、まさかウサギサイズのクックリーチャーにも、魔術が使えるほどの知能があるとは思っていなかった。

「……どうしよう」

 ロリーナから送られてきた解除魔術は、手元のストレージに格納してある。

 WSPOの現在の方針は、クックリーチャーを見つけたら材料に戻すこと。まだそれの停止命令が出ていない以上、その方針に従うべきなのはわかっていた。

 かなりの魔導エネルギーを宿している様子のある羽ウサギには、自分の核となるマナジュエルを使って解除魔術をかけても、通用する自信はなかったが。

「うぅん。こんな可愛いものを材料に戻すなんて、無理」

 可愛いものに目がないミシェラは、自分の職務を放棄した。

『俺様はカグヤ様の忠実なる僕(しもべ)、クッキー』

 ちょうど胸の辺りに表示されたエーテルモニタに、新たな文字が表示された。

 クッキーというのが羽ウサギの名前と認識したミシェラは、問うてみる。

「そのクッキーが、私に用でも?」

 隙あらば抱きしめようと思いつつ、人間の言葉も理解できてるらしいクッキーを見つめる。

『カグヤ様が捕らえられてしまった。救助の手を貸せ』

 可愛らしい外見の割にずいぶん尊大な口調だが、そんなギャップも愛らしく思えた。

「それで、そのカグヤ様は、いまどちらに?」

 そう訊いてみると、振り返ったクッキーは空を指さした。

 巨人のいる方向であるそこに震え上がるミシェラだったが、メカニカルアイで拡大して見てみると、巨人のそばに魔導絨毯が浮かんでいるのが確認できた。

 そこには倒れている女の子と、その側に女性がひとり立っている。

「あれは……、長谷川蓉子!」

 巨人を生み出したのが長谷川蓉子だと確認したとき、翼を広げたクッキーが浮かび上がり、頭の上に乗っかった。

 少し考え込んだミシェラは、クッキーに提案する。

「あそこまで貴方を運べばいいのはわかった。でも、カグヤ様を助ける手伝いをする代わりに、お願いがあるんだけど」

『……何でも言ってみるがいい』

「成功したら思う存分撫でさせて! それからいっぱい抱きしめさせて!!」

 その提案してからしばし、目の前のエーテルモニタに変化はなく、クッキーは沈黙していた。

 結論が出たのか、文字が書き換わる。

『救助に成功した場合は、それくらいならば許そう』

「だったら後、エサを食べさせていい? それから一緒にお風呂に入ってもいいかな? あぁ、それから――」

『そっ、そこまでは……。は、働き次第ということで……』

「ふふっ。わかった」

 口元ににやりと笑みを浮かべたミシェラは、衝撃波で転がっていってしまった魔導ホウキを拾い、またがった。

「ちゃんと捕まってなさい。落ちそうになったら抱きしめちゃうからね!」

 そう大声で宣言し、ミシェラは飛行魔術を起動する。

 WSPOの備品である魔導ホウキは、市販されているものと違い、カテゴリー四のマナジュエルが搭載されている。

『お手柔らかに』

 そう書かれたエーテルモニタをその場に残して、ミシェラは巨人に見つからないよう低空を、深緑のポニーテールを激しくなびかせながらかっ飛んでいった。

 

 

            *

 

 

「克彦! さっきのワールドアンドゥで身体に影響なかった?」

「え? うん。頭痛はしたけど」

 僕に声を掛けてきながら、バイクの後ろに乗り込んできたロリーナに答える。

「バイクの位置は変わったから、バイクには影響あったのかも」

「だとしたら、克彦とわたしには影響がなかったってことか……」

 ちらりと後ろを振り向くと、ロリーナは考え込んでいるようだった。

 チャージを続ける巨人は、徐々に腕の光が増してきていた。あの光がさっきと同じくらいになったとき、光線の再発射が可能になるんだと思う。

「たぶんさっきのワールドアンドゥっていうのは、時間を少しだけ戻すことができるものなんだと思う」

「……そんなことできるの?」

「理論上でななら、カテゴリー一〇程度の魔術か魔法でできるはずだけど。成功したって話は聞いたことないけどね。たぶんさっきのは、長谷川蓉子とその周辺にしか効果がない、限定空間だけの時間逆行だと思う」

「なんでそう思うの?」

 そう問うと、ロリーナはほぼ真上の空を指さす。

 そっちの方向にあったのは、晴れ渡った青空に浮かぶ、太陽。

「わたしの携帯端末のログ確認してみたら、時刻合わせしてる記録があったの。太陽の位置を観測してみたら、巻き戻った様子はなかった。だから宇宙全体までは効果がなくて、限定空間だけの巻き戻しができるものなんだと思う」

「そうなんだね……」

 そんなことがわかっても、レシピアントに取り込まれちゃったキーマを助け出す糸口が見つかるわけじゃない。

 後ろでうなり声を上げてるロリーナに、僕はうつむくことしかできない。無力な僕には、あの巨人に手も足も出そうになかった。

「ロリーナなら、あの巨人を倒せないの?」

「それもたぶん無理。さっきあいつに打ち込んだ攻撃、いまのホウキで出せる最大出力だったんだけど、ちょっと焦げ跡ついた程度だからね」

「カテゴリー六で?」

 そのカテゴリーでの攻撃となれば、戦争で使う兵器レベルの攻撃力を持つ。

 微かに焦げ跡がつくくらいのダメージにしかならなかったんじゃ、レシピアントにまともなダメージを与えるには、カテゴリー八でも足りず、それ以上の威力の魔法が必要かも知れない。

 兵器どころじゃない、超料理生物であるレシピアントを倒す方法は、いまのロリーナにもない。

「もうすぐ魔法少女も集まってくると思うけど、何人いれば倒せるか……。戦いが激しくなったら、その余波で街ごと壊滅しそうだし。それにその前にチャージが終わったら、今度こそネオナカノの最後だよ」

「うん……」

 やはり打つ手がない。

 まだ高笑いを上げている長谷川蓉子を睨みつけながら、僕は何か手がないかと考えを巡らせていた。

「それで、なんだけどさ」

「何?」

「こんなもの、この前もらったでしょ? 克彦がワールドアンドゥの影響を受けなかったのはあの体質だからだと思うんだけど、わたしにも影響がなかったのは、これを持ってたからだと思うんだ」

 そう言ってロリーナがスカートのポケットから取り出したのは、円筒形のスイッチ。

 この前モンスターギュ男爵に会ったときに渡された、謎のスイッチだった。

 たぶん長谷川蓉子がワールドアンドゥを使ったのと同じもので、ロリーナが持ってる奴には「REDO」という文字が書かれていたはずだ。

 ――そうか。これはレドじゃないんだ。リドゥだ!

 いままで気づかなかったけど、僕はそれに思い至る。

 長谷川蓉子が使ったのはワールドアンドゥ。それに対応するものは、アンドゥの打ち消し、リドゥだ。

 たぶん長谷川蓉子が持っているスイッチには「ANDO」と書いてあって、REDOと同じで、ボタンに書かれているのはその効果だったんだ。

「これがいま使えると思うんだけど」

「そうかも知れないけど、それは……」

 渡してきたのがモンスターギュ男爵なんだ、まともに動くかどうかがまず怪しい。

 動いたとして、どれほどの効果があるのかも微妙。

 何より、思った通りの効果があるかどうかが問題だった。

「でもいま、キーマをあの巨人から助けるためには、これしかないと思う」

「そうかも、知れないね……」

「うん。まぁ、案ずるより産むが易し、ってね!」

 自分自身を元気づけるように大きな声で言ったロリーナは、左腕を僕の腰に回して身体を安定させ、右手にスイッチを構えた。

「ワールドリドゥ!!」

 止めるよりも前に、ロリーナはボタンを強く押した。

「うっ」

 途端に再び景色が歪み、頭を抱えたくなるほどの頭痛がし始める。

 さっきとまったく同じに、景色がグニャグニャに歪む、……だけではなかった。

 何かが発したのか、パリパリという電気か何かが走ったような音が聞こえる。

 何だろうと額に手を当てながら周りを見ようとしたとき、景色が戻った。

 急いで空を仰ぐと、レシピアントの姿がなかった。

 そしてレシピアントの足があった場所には、踏みつぶされたはずの研究所が建っていて、穴の空いたコンソールと、キーマたちの水槽が元通りにある。

 レド、ではなく、ワールドリドゥ装置は正しく機能し、長谷川蓉子が使ったワールドアンドゥ装置の効果を打ち消した。

「よしっ! 結果オーライ!」

「うん!」

 後ろから抱きついてきて、肩越しに笑顔を見せてくれるロリーナに、僕も笑みが零れてきていた。

「な……、なんてもの持ってるの? 貴方たち!! せっかくレシピアントが生まれたのに!」

 絨毯から文句の声を飛ばしてくる長谷川蓉子に、今度は僕が勝利の笑みを返す。

 悔しそうに歪められていた彼女の顔は、けれどまた余裕を取り戻す。

「ふっ。でも別にこいつは一回しか使えないものじゃないのよ!」

 そう言った長谷川蓉子は、またワールドアンドゥ装置を構えた。

「ワールドアンドゥ!!」

 三度景色が歪み、激しい頭痛がして、時間が巻き戻る。

「ワールドリドゥ!」

 負けまいと、ロリーナがワールドリドゥ装置を使う。

「アンドゥ!!」

 さらに長谷川蓉子がアンドゥする。

「リドゥ!」

「アンドゥ!」

「リドゥ!!」

「アンドゥ!!」

「リドゥーーーッ!」

「アンドゥーーー!!」

 果てしないアンドゥとリドゥによる合戦が始まった。

 その度に頭痛がする僕は、堪えきれないほどの、切れ間なく繰り返されるそれに頭を抱える。

 ――でも、何かおかしい。

 片手でハンドルをつかんでスカイバイクを安定させ、片手で頭を抱えている僕は考える。

 ロリーナにワールドリドゥ装置を渡したのはモンスターギュ男爵だ。

 ――じゃあ、長谷川蓉子にワールドアンドゥ装置を渡したのは誰だ?

 答えは簡単。モンスターギュ男爵だ。

 それ以外には考えられない。

 それが正解だったとして、問題になるのはその目的だ。

 限られた空間とは言え、時間を巻き戻したり、巻き戻した事実をキャンセルできる装置。それはロリーナの言葉通りなら、カテゴリー一〇クラスの飛んでもない代物。

 そんなものをロリーナと長谷川蓉子に渡したのには必ず理由がある。

 いま、ふたりがここでぶつかっているのは、モンスターギュ男爵が意図した展開だろう。

 ――じゃあこの先、何が起こる?

 僕はそれを想像できない。いまある要素だけでは、判断するための材料が不足している。

「アンドゥ!」

「リドゥ!」

「アンドゥ!!」

「リドゥ!!」

 激しくなっていくアンドゥリドゥ合戦。

 ロリーナも、長谷川蓉子も、顔を赤くしながら装置のボタンを押しまくってる。

「ん?」

 そのとき、僕は気づいた。

 最初にロリーナがリドゥしたときに聞こえた、電気が走るような音。それが激しくなってる。

 それどころか、黒い稲妻のようなものが、アンドゥとリドゥをする度に近くの空間を激しく走ってる。縦横無尽に。

 ――これは、なんだ? 考えるんだ!

 悲鳴を上げてるような胸騒ぎに、僕は自分を叱咤して。頭痛の激しい頭で考える。

「うわっ!」

「克彦! ちゃんとバイクを安定させて!」

 そのとき突然バイクが、一瞬だったけど飛行できなくなった。

 すぐに復帰して飛行は維持できたけど、ほんの一瞬だけエーテルアンプの出力が低下したのが、戻りつつある計器の表示から見て取れた。

「わ、わかった」

 真っ赤な顔に怒りを浮かべて僕を見て頷くロリーナに、頷きを返して考えを再開する。

 ワールドアンドゥとワールドリドゥは、魔術なのか魔法なのかよくわからないけど、カテゴリー一〇クラスの魔導規模。それを発動させるのに使っているのはロリーナと、長谷川蓉子が押さえているカグヤさんの魔法少女レベルの魔法力。

 装置を使う瞬間にふたりの身体から放出される魔導エネルギーは飛んでもない。世界に奇跡を、時間を巻き戻すという現象を起こすほどの強大さ。

 魔法は想いを世界に呼びかけて実現する、奇跡。

 魔術でも規模が大きくなるとそうだけど、カテゴリー一〇なんて飛んでもない強さの魔法は、ロスも大きいと言われている。

 魔法使いから放出されたマナにより活性化したエーテル場は、魔法を使った後もある程度の期間は活性化したままだ。

 そしてワールドアンドゥ装置とワールドリドゥ装置は、装置の形を取ってるけど、それが実現しているのは奇跡、魔法そのものだ。

 あの小さな円柱状のスイッチの中に魔法具レベルのマナジュエルでも入っているのか、それともモンスターギュ男爵が何か細工をして実現してるのかわからないけど、ロリーナと長谷川蓉子が起こしまくってるその効果は、たった一回でも凄まじすぎる奇跡と言える。

 ――もし、極短時間にカテゴリー一〇クラスの魔法を使いまくったとしたら?

 そこまで想像して、僕は恐ろしいことに気づいた。

「ん?」

 頭を抱えてうつむいていた僕は、地上の方にいつの間にか現れていたものを発見した。

 ――そっか。このまま行けば……。

 次の動きを思いついて、僕はロリーナに呼びかける。

「ロリーナ!」

「何よ?! まだ決着がついてないんだから!」

 僕の声でリドゥ装置のボタンを押し損ねたロリーナ。

「ふふふっ。諦めたのかしら? これでレシピアントは再び生まれるわ!」

 残り少ないカウントの間に、僕はこれからのことをロリーナに説明する。

「次、リドゥ装置を使って、その後アンドゥ装置を使われたら、リドゥをせずにぎりぎりまで待って、コンソールを破壊してほしいんだ」

「またアンドゥされるだけでしょ? そんなことして何の意味があるの?!」

「いまここはかなり危険な状態なんだっ。詳しい説明は後だ! いまは僕に従ってくれ!!」

「うっ。わかった」

 僕の勢いに押されて、ロリーナは頷いてくれる。

 またワールドリドゥ装置を構えた彼女は、叫びながらボタンを押し込んだ。

「ワールドリドゥ!」

「懲りないわね! ワールドアンドゥ!!」

 巻き戻った時間がキャンセルされ、そしてまた時間が巻き戻る。

 その間も、空間を引き裂くような黒い稲妻が走っている。それはもう、普通の状態に戻っても、途切れることがなくなっているほどになっていた。

「ロリーナ、構えて!」

「うん!」

 僕のバイクの後ろに座ったまま、ロリーナはホウキを銃のようにして構える。

「いまさら違う状況をつくろうとしたって意味がないのよ!」

 長谷川蓉子の声が聞こえてくるが、僕たちはそれを無視した。

 カウントが残り五になる。

「ふふふっ。こんな世界、全部壊れてしまえばいいのよ! レシピアントに蹂躙されて!!」

 カウント三、二、一。

「きゃーーーーっ!」

「いまだ!!」

 聞こえてきた長谷川蓉子の悲鳴と同時に、ロリーナはカウントがゼロになろうとしている瞬間、コンソールを魔法の光で撃ち抜いた。

「間に合った……」

 かろうじて間に合った装置の破壊。

 長谷川蓉子の方を見ると、絨毯から落ちかけて必死にしがみついているのが見えた。

 カグヤさんはその上空、クッキーを頭に乗せたミシェラさんに抱えられている。

「キーマーーーー!!」

 僕はためらわず、まだ塞がっていないロリーナが開けたエーテルバリアの穴に、スカイバイクを突っ込ませた。

 防御魔術とエーテルバリアがぶつかり、さらにアクセルと、瞬間加速用のジェット噴射まで利用して、強引にバリアを突破する。

 バイクのフロントが潰れてしまったけど、そんなことは気にしていられない。

 バリアを破って研究所の屋上にバイクを着地させた僕は、駆け寄ってキーマが入っている水槽に拳を叩きつけた。

 ヒビが入り、細かな破片となって砕ける水槽。

 流れ出てくる液体に押し流されないよう踏ん張った僕は、一緒に零れ落ちてくるキーマの身体を抱きしめた。

「助け、られた……」

「よかったね、克彦」

 近づいてきたロリーナの笑みに、僕は笑みを返すことができた。

 もう装置は破壊されている。

 カグヤさんの魔法力を利用していたんだろうワールドアンドゥ装置は、ミシェラさんの活躍で使えなくなった。

 これでもうレシピアントは生まれず、ネオナカノの、もしかしたら世界の危機は救われた。

 そして僕は、キーマを救い出すことに成功した。

 これ以上の結果は、僕には必要なかった。

「でもなんで、さっきリドゥを止めたの? ミシェラさんがいるのが見えたからだろうけど、危険な状態って、どういうこと?」

「周りを見てみるといいよ」

 僕の言葉に周りを見回すロリーナ。

 アンドゥリドゥ合戦によって、この辺の空間はおかしなことになっていた。

 装置を使うのを止めたのに、黒い稲妻が走る現象は止まらない。

「これって、どういうこと?」

「僕の推測だけど、いまここにはエーテル場断層が発生してる」

 二五〇年前の世界魔導不大戦に投入されるかも知れなかったという、エーテル場断層弾。

 その原理はいまロリーナが長谷川蓉子とやっていたように、短時間に巨大な魔術や魔法を使いまくることによって、活性化したエーテル場と活性化してないエーテル場を、まるで空間のひび割れのように近い距離で発生させるのが第一段階。

 川や風雨に浸食された深い谷のように、活性と不活性の細かな断層をつくったエーテル場は、そのままなら不安定だけどとくに何も起こらないし、半端な魔術や魔法では変化を起こせない。

 でもある一定以上の魔導エネルギーの変動を発生させることによって、無数のひび割れは連鎖的に、一気に崩壊する。

 そのとき使う魔法や、起こる状況にもよるけど、理論上で考えられていたエーテル場断層弾は、地球の半分を文字通り消し飛ばすほどの威力だったそうだし、崩壊の仕方によってはマナブラックホールが発生する可能性もあると言う。

 いまこの場所は、アンドゥリドゥ合戦によってできたエーテル場断層で、魔導的に恐ろしく危険な状態になってるはずだ。

「……うん。凄いことになってる。あれ以上やってたら、どうなってたかわからなかったかも」

 魔法使いであるロリーナには、いまの状態を僕よりも感じることができるみたいだ。

 さっきまでは頭に血が上っていたんだろう。辺りを見回した彼女の顔は、赤から青へと色を変えている。

「エーテル場断層だったら、放っておけばそのうち正常な状態になると思う。静かにここを出て、早めに帰ろう」

「そうだね。とりあえずわたしたちのやらないといけないことは、終わったみたいだし」

 上空では、ミシェラさんによって長谷川蓉子が取り押さえられてるのが見えた。

 これで事件は、全部終わったんだ。

 意識のないキーマを抱き直して、安らかな息を立ている彼女に、僕は微笑んだ。

 バイクに向かって歩き出そうとしたとき、僕の耳はそれを聞いた。

 革靴の足音を。

 

 

 



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カレーは生き物 第四章 エーテル場断層 2

 

 

          * 2 *

 

 

 振り返った瞬間、僕とロリーナの間をすり抜けるように通り過ぎていったのは、モンスターギュ男爵。

 改めて振り向くと、いつも通りキッチリしたスーツを纏い、その頭は狼の形をしていた。

 たぶんだけど、いつも怪物の頭をしている彼だから、それは普通の狼ではなく、狼男の頭だ。

 そして彼の白い手袋に包まれた手には、ロリーナが持っていたはずのワールドリドゥ装置が握られていた。

「それをどうするつもり?!」

 鋭い声を発したロリーナに、モンスターギュ男爵は肩を竦め、手の中のワールドリドゥ装置を握りつぶした。

 いつもの、どんな表情をしているのかわからない怪物の顔と違って、狼の顔のいまは、まだ感情が読み取れる。

 モンスターギュ男爵は、突き出た口の端をつり上げて、笑っていた。

「貴方は、この状況をつくり出すために、長谷川蓉子を唆して、ロリーナにワールドリドゥ装置を渡したのか?!」

 僕の問いにモンスターギュ男爵は答えない。頷きもしない。

 ただ口をつり上げて笑い、肩を竦めるだけだ。

 でもそれが、僕には肯定の返事にしか思えなかった。

「やっぱり……」

 たぶんモンスターギュ男爵は、最初にキーマと、そして一緒にいるロリーナを見たときから、この状況をつくることを考えていたんだ。だからロリーナにワールドリドゥ装置を渡した。

 ――だとしたら、まだ終わってない。

 モンスターギュ男爵の目的は、いまの状況の構築。

 彼の望みは、これから達成されるもののはずだ。

「いまから貴方は、何をするつもりですか?!」

 やぱり僕の問いに応えず、口元の笑みをさらに深くした彼は、左腕の袖口から右手で指揮棒のような細いスティックを取り出す。

「止めなさい。さもないと、撃つから」

 ホウキで狙いをつけ、ロリーナはモンスターギュ男爵を威嚇する。

 気にした様子のない彼は、立てた左手の指を小さく振って見せ、右手の指揮棒を空に向けて振った。

 ロリーナが魔法の光線を放つよりも先に現れた変化。

 何かが吸い込まれていくような風が巻き起こり、軽いものが空へと舞い上がっていく。

 キーマを右腕に抱き、左腕をロリーナの肩に回した僕は、その場にしゃがんだ。

 空中に吸い込まれるような風はすぐに止んだ。

 ロリーナと抱き合いながら立ち上がり、空を仰ぐと、そこにはあり得ないものが現れていた。

 門。

 両開きの、緋色の門が、空中に浮かんでいる。

 そのサイズはたぶん、さっき現れたレシピアントよりも巨大だ。

「あれは、いったい何なんだ?」

 わかっていないのか、呆れてでもいるのか、両手の平を上に向けて、肩を竦めて見せるモンスターギュ男爵。

 喋らないだけでなく、彼は答えるつもりがないんだ。

「たぶんだけど、あれは世界を渡るための門だよ」

「わかるの? ロリーナ」

「うん。というか、そんな感じがあるの。初めてのマナの感触だけど、そんな風に感じる」

 魔法使いであるロリーナには、僕には見えないものが、感じられないものが感じられるんだろう。

 でも僕には信じられない。

 マナは奇跡を起こし得る素量子。

 理論上では身体を持って世界を渡るための方法はあるとされてるけど、そのために必要な魔導エネルギーは、世界の法則を変え得るほどだとも言われている。

「どうやってあんなものつくれたのかはわからない。エーテル場断層だけでつくれるものなのか、それ以外にも何か仕込んであったのかも知れない。でもあれは、異世界の門だよ」

 もう疑問ではなく、確信を持って言っているロリーナ。

 僕たちの前に立つモンスターギュ男爵は左腕を背中に回し、右手を差し出してきた。

 僕に向かって。

 恭しく誘っているその手に、僕は理解した。

「あの先にあるのは、僕が生まれた世界……」

 その結論に、確信があるわけじゃない。でも僕を誘うモンスターギュ男爵に、そう思えた。

 モンスターギュ男爵はいつも何かを探していた。

 それがなんなのかはわからなかった。

 でもそれは、僕が生まれた世界に、探し物そのものか、手がかりがあるものなんだろう。

「克彦……」

 泣きそうな、でも僕を心配しているような顔で、ロリーナが声をかけてくる。

「パパ?」

 いつの間に目を醒ましていたのか、腕の中にいるキーマも僕を呼ぶ。

「パパは、帰りたいの?」

「僕は……」

 キーマの問いに、そしてロリーナも問おうとしていただろう言葉に、僕は何も答えられない。

 この世界に来て、僕はたくさん苦労した。たくさん泣いた。

 友達にも、お父さんにも、お母さんにも会えないとわかって、この世界に来てすぐの僕は、絶望した。

 いま目の前にある、あの世界に帰る方法。

 僕は、答えが出せなかった。

「パパ、ごめんなさい」

 突然、キーマがそんなことを言った。

「この世界に生まれてごめんなさい。パパのところにいてごめんなさい。いっぱい迷惑をかけてごめんなさい」

「それは、いいんだって言っただろ」

「うん。うん……。そうだけど!」

 必死で涙を堪えてる様子のキーマは、僕の腕から逃れるようにして、屋上にひとりで立つ。

「でも、大丈夫だよ。あたしはもう大丈夫っ。パパに自分の子供だって言ってもらえた。パパにいっぱいお世話になった。だから、もう大丈夫だよ。あたしはひとりででも生きていけるよ」

 涙を目尻に溜めながら、キーマはにっこり笑う。

「だから、帰りたいなら、パパは帰るのがいいんだよ。パパのパパに、パパのママに会いに帰るのがいいんだよ。そうでしょ? ね?」

 その言葉は、嘘だ。

 キーマの精一杯の強がり。

 それはわかっていても、僕は嬉しいと感じる。キーマは僕のことを想ってそう言ってくれてるんだとわかるから。

 ロリーナの方を見ると、彼女は笑っていなかった。

 悲しそうに、つらそうに、顔を歪めている。

 唇は震え、何か言いたそうなのに堪えてる。

 彼女の深く、澄んだ碧い瞳は、揺れている。

 それなのにロリーナは、キーマの言葉に同意するように、頷く。

 伸ばされたキーマの手に自分の手をつないで、僕から一歩離れる。

 心配しなくてもいいと、言うみたいに。

 ――僕は、幸せ者だな。

 いま、目の前にふたりもの女の子が、僕のことを想ってくれている。

 自分の望みよりも、僕の幸せを願ってくれている。

 それがどんなに幸せなことなのか、僕は湧き上がってくるもので胸に暖かさを覚えながら、強く感じていた。

 モンスターギュ男爵が首を傾げ、さらに右手を差し出してくる。僕を促してくる。

 だから僕は、僕の結論を告げる。

「帰るつもりは、ないよ」

「パパ!」

「克彦!」

 同時に僕を呼ぶキーマとロリーナに、僕は笑いかけた。

「あの門の向こうに、僕の元いた世界があるかも知れない。でも僕はいま、この世界で生きてる。知り合いがいて、友達がいて、キーマがいて、それから、ロリーナがいる。僕はいま、この世界の住人なんだ」

「帰る機会は、たぶんもう二度とないよ? わかってる?」

「うん。帰りたいって気持ちがないわけじゃないよ。元の世界にも大切なものがたくさんある。でもね? ロリーナ。キーマ。僕にはこの世界にも、大切なものがあるんだ」

「パパ!!」

 もう止められない涙を流しながら、キーマが抱きついてくる。僕はその身体を抱き締める。

「克彦……」

 優しい笑顔で、でも目に涙を溜めて側に来てくれたロリーナに、僕は精一杯の笑顔を見せた。

 今度こそ呆れたんだろう、肩を大きく竦めたモンスターギュ男爵は、ふわりと浮かび上がった。

 魔法や魔術を使ったようには思えないのに、空を飛び、ゆっくりと開いていく門の前で僕たちに振り返る。

 仰々しくこちらに礼をして、彼は黒しか見えない門の中へと消えていった。

 扉は閉じ、門は薄れて消えていく。

「本当に良かったの? 克彦」

「うん。僕はもう、この世界の住人でもあるから」

「ん。そっか」

 まだ泣いているキーマを抱き締めながら、安心したように笑むロリーナにそう答えていた。

 すべて終わった、と思ったのもつかの間。

 これまでで最大級の、空間を引き裂く音が聞こえた。

 見ると門があった場所に、黒く大きな亀裂がいくつも走っていた。

 亀裂の中心にあるのは、黒い穴。

 それはさっき門の中に見えたのとたぶん同じ、この宇宙の外。

「あれは……」

「門の消滅と一緒に、世界に穴が空いたんだ……」

「じゃああれは、もしかして?」

「うん。たぶんそう。あれが、マナブラックホール」

 ロリーナの答えに、僕は絶望を覚える。

 どれくらいの規模に成長するのかわからない。でもマナブラックホールが発生したのだとしたら、この辺りの空間は消滅する。その余波は、ネオナカノをも巻き込むだろう。

 規模が拡大していったら、地球を、もしかしたらもっと広い範囲、太陽系や、銀河系のある空間を崩壊させてしまうかも知れない。

「逃げるよ、克彦!」

「無理だ! 逃げ切れるものじゃない」

「だとしても! 少しでも遠くに逃げれば助かるかも知れないでしょ!!」

 ロリーナの訴えはもっともだ。

 マナブラックホールの規模が小さければ、いまからでも遠くに逃げれば、空間の崩壊には巻き込まれないかも知れない。

 でも規模が大きく、拡大していくなら、ネオナカノを、地球を消滅させてしまう。

 僕のやるべきことは、ひとつだった。

「ロリーナ。キーマを頼むよ」

「パパ?」

「克彦!」

 わかっていないらしいキーマ。

 わかったらしいロリーナは、怒りの色を碧い瞳に浮かべる。

「ダメだよ、克彦。それだけは、ダメ! エジソナにも言われたでしょっ。自分のできることの限界を見極めろって! これは、克彦でも無理だよ!!」

「でもこれしか方法がないのは、ロリーナもわかってるだろ?」

「だけど!」

 伸ばされたロリーナの手を避けて、僕はスカイバイクに走っていく。

 マナブラックホールは、マナの連鎖的な世界通過だ。

 マナが世界から流出するのを止めてやれば、穴は自然に小さくなり、消えてしまう。

 僕のマナブラックホール体質で、世界の外に落ち込もうとしているマナを、マナブラックホールが消えるまで吸収し続けられれば、空間の崩壊は止められる。

 空を見ると、キラキラと光りながら、マナから放たれた光がどんどん黒い穴の中に吸い込まれていくのが見えていた。

「克彦! 行かないで!!」

「パパ! 行かないで!!」

 口々に僕を止めるロリーナとキーマに笑いかけ、僕はバイクのハンドルに手をかける。

「僕は、ロリーナのことが好きだ」

「な、何を?!」

「キーマのことも好きだ」

「うん。うん。あたしも、パパのことが好きだよ!」

「他にも、この世界でできた友達のことも、出会えた人のことも、好きなんだ。そんな人たちを、僕は守りたいんだ」

 一歩、僕の方に足を踏み出したロリーナは、でもそれ以上は近づいてこなかった。

 唇を噛み、うつむく。

 そんな彼女に笑いかけながら、僕はスカイバイクのエーテルアンプを起動させる。

 前の部分がひしゃげ、エーテル場が飛んでもないことになってるこの空間で、スカイバイクは不調だけど起動し、飛行魔術のキャストも正常に行われている。飛べる。

「行ってくる。みんなを守るために」

 僕はふたりの返事を聞かずに、空に飛び上がった。

「克彦ーーーーーっ!! 帰ってこないと、承知しないからねーーーっ!!」

「パパーーーーーッ!! 絶対、絶対帰ってきてねーーーっ!!」

 僕の背中を追ってくるそんな声に泣きそうになりながら、僕は黒い穴の中心に、最大加速でバイクを突っ込ませた。

 

 

            *

 

 

 克彦がマナブラックホールの中心に飛び込んで消えてから、黒い穴から伸び、増えていたヒビの成長が止まった。

 見ている間に、空間に入ったヒビは小さくなり、消えていく。

 彼のマナブラックホール体質がマナを吸収し、マナブラックホール現象を収縮させている証拠だ。

「克彦。絶対に、絶対に帰ってきてよ」

 両手を握り合わせ、それを額に着けたロリーナは、ただ祈る。

 祈ること以外、彼女にできることはなかった。

「パパ。克彦パパ!」

 ロリーナと並んで、キーマも同じ仕草で祈る。

 マナブラックホール体質は、無限にマナを吸収し続けられるものではない。

 ある程度の量のマナを吸収して、体内に発生した穴が塞がると、それ以上はマナを吸収できなくなる。

 吸収には限界がある。

 もし空間のマナブラックホールが塞がる前に、克彦のマナ吸収限界に達した場合は、彼の身体がどうなるかはわからない。

 大量のマナが流れ込み、エーテル場が桁外れに活性化しているマナブラックホールの中心部では、あらゆる奇跡が起こるという説がある。それも魔法使いが自分の意図した奇跡を起こすようにではなく、偶然であらゆる奇跡が起こり得る。

 徐々に小さくなっていって見えるマナブラックホールの中に、いまも克彦が存在しているかどうかは、ロリーナには見通すことができなかった。

「私は、こんなことのために利用されていたの?」

 そんな声を上げてがっくりと膝を着いた女性。長谷川蓉子。

 声のした方を見、ロリーナは怒りに碧い瞳を燃やす。

「そうよ! 貴女が、貴女がモンスターギュ男爵に唆されなければ、こんなことにはならなかったの!」

「そんなこと知らないっ。私は、私の望んだものを生み出せるからって、そう……、言われたわけじゃなくて、えぇっと……」

 言い始めたときの勢いを失い、長谷川蓉子は混乱したように視線を彷徨わせる。

 モンスターギュ男爵は語らない。

 しかし、まるで彼が言おうとしてる言葉を、相手から引き出すことができる。何かの能力なのか、ナチュラルマジックなのか、それはわからなかったが、そうした力を持っている。

 そしてそれを手口として使い、接近した相手を誘導し、唆す。

 長谷川蓉子はモンスターギュ男爵に無言で唆されて、クックリーチャーを生み出すように料理魔術にバグを仕込み、レシピアントを生み出すためにキーマや、他のクックリーチャーを集めた。

「モンスターギュ男爵って、あの怪物の顔をした人ですか」

「そうよ」

 カグヤを横抱きにし、クッキーを頭に乗せたミシェラも姿を見せる。

 意識こそないようだが、カグヤのあまりに寂しい胸は、規則正しく上下している。

「あの第一級不可侵存在が関係していたんですか。それはまた、面倒な……」

 そう言ってげっそりした顔をするミシェラ。

 あまり使われることはないが、第一級不可侵存在という言葉を、ロリーナは知っていた。

 高位のファントム、文字通りの神のように、触れると何をしでかすかわからない存在に対して認定される言葉だった。

 第一級不可侵存在が関わっている事柄については、警務隊も自治体も無視を決め込む。いるのがわかっていても、いないものとして扱われる。

 モンスターギュ男爵はWSPOの中で、高位の神に並ぶほどに危険で、触れてはいけない存在だと認識されているということだった。

「そもそも、貴女は何故、料理魔術にバグを仕込んで、レシピアントをつくって、街を破壊しようとしたの?!」

 膝を着いたままの長谷川蓉子に詰め寄り、ロリーナは問い質す。

「それは、その……」

 ついさっきまで高笑いを上げていた人物と同一とは思えない、気弱そうな様子で、長谷川蓉子は黙り込む。

 睨みつけたまま顔を近づけると、表情を歪めた彼女は、渋々ながら話し始める。

「彼氏ができたら、料理をつくっていつも食べてもらいたいと思っていたのに、一度食べてもらうと何故か必ず分かれることになってしまって……。どんな自信作で、美味しい料理でもダメで……。仕方ないから料理魔術を組み上げて、それでつくった料理を食べてもらってもマズいって言われて……。だから、その……」

「だから?」

「か、会社に持ち込んで他の人にも同じ目に遭わせてやろう、って思ったら、他の人が料理魔術を使っても同じことにならなくて! だったら魔術にバグを仕込んで、騒ぎを起こしてやろうかな、って……。そのときあの人と知り合って、料理魔術を応用したレシピアントのつくり方がわかったから……。その、まともに彼氏とつき合えないこんな世界なんて、壊しちゃおうかな、って」

「くっ、だらない理由!」

 あまりの下らなさに、ロリーナは頭から火が噴き出しそうになっていた。

「だって! 利用されてるなんて知らなかったからっ。こんなことになるんだったら、やらなかったのに……」

「結局世界を滅ぼそうとしてたんだから、たいした違いはないでしょ!」

 ロリーナの強い口調に、長谷川蓉子は涙を流し始める。

 静かにすすり泣いている彼女に、ロリーナは言う。

「貴女の料理が不味いのは、料理のつくり方とか、料理魔術とか、そういうのとは別のこと」

「どういうことです?」

「料理魔術のレシピはアドオンスペルで指定されるけど、細かい味つけは術者の味覚に依存してることは知ってるでしょう?」

「それはもちろん。そう設定したのは私ですから」

「貴女の料理が不味いのは、貴女の味覚がおかしいから! 一度病院に行って治療してもらいなさい!! そうすれば誰が食べても美味しい料理がつくれるでしょうよ!」

「そっか……。そういうことだったんだ!」

 まるで拝むように両手を握り合わせ、長谷川蓉子は怒りの表情を浮かべ続けているロリーナに笑顔を向ける。

 そんな彼女をさらに強い視線で睨みつけ、ロリーナは言う。

「でももし、克彦がこのまま帰ってこなかったら、病院なんていけなくしてあげるから! あいつを帰ってこれなくした原因をつくった貴女を、どんな方法を使ってでもメチャクチャにしてやるから!!」

「ひぃっ」

 尻餅を着いて後退り、四つん這いで逃げようとする長谷川蓉子の背中を、ミシェラは踏みつけて止める。

「た、助けてくださいっ。貴女はWSPOの捜査官なんですよね?」

「……んー。マナブラックホールが発生してる状況では、どんなことが起こってもおかしくないと聞くし、スフィアドールだから視覚情報は勝手に保存されてるけど、こんなエーテル場が乱れまくってる場所では、残ってる記録が正常とは限らないから、ねぇ」

「ひぃ、ひぃーーーっ」

 バタバタと手足を動かして逃げようとするが、ミシェラはさらに力を入れて長谷川蓉子を踏みつけ、逃がさない。

 そんな様子に侮蔑の視線を向けていたロリーナは、空を仰ぐ。

 小さくなり、消えかけているのがはっきりとわかるマナブラックホール。

 けれどそこにはまだ、克彦の影は欠片も見えない。

 ――必ず、必ず帰ってきてよ、克彦っ。

 ロリーナは両手を握り合わせ、空の一点を見つめ続ける。

 ただひたすらに、克彦の無事を祈りながら。

 そしてそのとき、黒いシミのようにわずかに残っていたマナブラックホールが、一気に収縮し、消えた。

 吸い込まれなかったマナが、残光のように光を放つ。

「パパ!」

 声とともにキーマが指さした方向に、何かが見えた。

 遠くてわからなかったが、地面に向かって落下していく、人影。

「克彦!」

 即座にホウキを手にしたロリーナは、飛行魔術を起動し自分の魔法力で増幅して空へと飛ぶ。

 克彦が落ちていく、落下地点に向かって。

 ――絶対に、絶対に助けるからね、克彦! 今度はわたしが、貴方を助けるから!

 金色の軌跡を残しながら、ロリーナは森の木に触れるぎりぎりの高さを飛んでいく。

 ――最初は、貴方だったんだから。貴方がわたしを助けてくれたから、わたしは貴方を助けたんだからね、克彦!

 はっきりと見えるようになった克彦の身体。

 意識がないらしい彼にぶつかる勢いでホウキを飛ばし、ロリーナは両手を伸ばした。

 

 

 



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カレーは生き物 第四章 エーテル場断層 3

 

 

          * 3 *

 

 

「君は、どうしたいの?」

「……え?」

 そう問われて、わたしは何も答えられなかった。

 悩み事ができると来てしまう、ネオナカノの絶景ポイント。

 住宅街になってるプレートのさらに上層にあるそこは、ホウキなどの飛行具では降りられないようになっているため、訪れる人はほとんどいないわたしの秘密の場所。

 ついさっき違う世界からこの世界に流れ着いてしまったらしい男の子は、せっかく秘密の場所でひとりで過ごそうと思ったのに、着いてきてしまった。

 気持ちが落ち着くここで過ごして、後で役所にでも引き渡すつもりで無視していたのに、どうして悩んでいるかを問われてしまった。

 どう考えても彼の方が大変な状況だ。

 たぶん、突然この世界に来てしまって、いまは右も左もわからないはず。

 それなのにいま彼は、真剣な目でわたしに問うてきてる。

 さっきまで泣いていたまだ少し赤い目にわたしだけを映してる、黒い瞳。

 それに見つめられたわたしは、勝手に語り始めてしまっていた。

「わたしはね、魔法具に選ばれたんだ……」

 それはつい一昨日のこと。

 わたしの家は代々魔法具を受け継ぐ家系。魔法具に選ばれた子は、魔法少女になる。そうしてずっと世界を守ってきた。

 いま魔法少女をやってるママの魔法具に、わたしは選ばれた。

 みんな喜んでくれた。

 わたしも嬉しかった。

 だからわたしは、六歳になったら魔法少女になるんだと、みんな疑っていなかった。

 それなのにわたしは、ふと迷ってしまった。

 とても小さな、本当に小さなわだかまりだったんだと思う。けれど魔法具に選ばれた瞬間に生まれたそれは、もっと小さい頃から魔法少女になるんだとわかっていたはずなのに、拭い去ることができなかった。

 魔法少女になりたいのかどうか、わからなくなってしまった。

「わたしが、どうしたいか?」

「うん」

 問い返してみても、わからなかった。

 魔法少女は名誉ある仕事。誰にでもなれるわけではない役割。魔法具に選ばれることは、嬉しいこと。

 だから選ばれたら、その人は必ず魔法少女になる。

 そう、みんなが思っていた。みんなが考えていた。

 わたしも、そうなんだとずっと思っていた。

「君のお父さんは、なんて言ってるの?」

「パパは……」

 魔法具に選ばれたのは一昨日で、ネオナカノの外に住んでいるパパにはまだ知らせてない。何て言われるのかわからない。

 パパはいま、地上で広い農園をやっていて、ほとんどひとりで忙しく畑の面倒を見てる。

 そのパパが農業を始めたのは、ママと結婚してしばらくしてから。わたしが生まれてからのこと。

 その前のパパは――。

「パパは、わからない。まだ話してない」

「そうなの? どんな人なの? お父さんは」

「パパはね、いまは農業やってるけど、昔は冒険家だったんだって。世界のいろんなところに行ったり、いろんな星を旅して過ごしてたんだ」

「そうなんだ。凄いね!」

「うんっ。パパは凄いの!」

 忙しくてあんまり会えないけど、パパのことは大好き。

 一緒にいられるときは、いつもパパの冒険の話を聞く。話してほしいとお願いする。

 パパは本当にいろんなところに行っていて、わたしの知らないこともたくさん知っていて、話がいつまでも尽きない。聞きたいことがぜんぜん減らない。

 それくらい、パパは凄い人。

「じゃあ君は、お父さんみたいになりたいの? 冒険とか、したいの?」

「……」

 そう訊かれて、わたしはなんとなく悩んでる理由がわかった気がした。

 魔法少女は、その土地を守る守護者。

 近くで起こった事件の解決には出向くけど、あんまり遠くには行けない。自分の住んでる場所を守るのが役目だから、冒険なんて引退するまでできない。

 いま、この世界はとても広い。

 地球だけでもわたしにはまた行ったことのない場所がたくさんあるのに、魔導世界となったいまは、人は宇宙にも自由に行き来できる。知識だけで知ってるだけの場所が、たくさんある。

 そんな場所に行けるようになるのは、魔法少女を引退してから。

 魔法少女を引退できるのは、死ぬときか、後継者が見つかったとき。

 二年後に後を継いでから、最低で十年とか、二十年先の話。

 パパの話を聞く前から、わたしはいろんなところに出かけるのが、知らないものを知るのが好きだった。

 いまいるここを見つけたのも、街を冒険してたときのこと。

 十年なんて、わたしには待てそうにない。

 待ちたくなんて、なかった。

「そうかも知れない」

「うん。そっか」

 にっこりと笑ってくれる男の子。

 ――どうして、そんな風に笑えるの?

 わたしは不思議に思った。

 自分の方こそいま大変なときなのに、見つけたときには泣いていたくらいなのに、いまはわたしに笑いかけてくれる。

 そんな彼のことが、わたしはわからなかった。

 だからそんな彼に、訊いてみたいことができた。

「ねぇ。もし人類があと千年で滅びちゃうとしたら、どうする?」

「千年って、凄く先の話だよね?」

「うぅん。そんなことはないよ。貴方が元いた世界ではどうかわからないけど、この世界だと寿命はあんまり関係ない。生きたいだけ生きることも、無理なわけじゃない」

「そうなんだ。凄いねっ。……それなのに、千年で滅びちゃうの?」

「うん」

 それは少し前に、エジソナと話していて聞いたこと。

 魔法や魔術があって、科学も発展して、人は何百年でも生きることができるようになった。もしかしたら千年でも、それ以上でも生きることは不可能じゃなくなった。

 でもエジソナは、あと千年くらいで人類は滅ぶと言った。

 いろんなことが便利になって、世界からは飢える人はいなくなった。やろうと思えばほとんどのことができるようになった。

 けれどいまこの世界は、魔導世界以前よりも子供の生まれる数が減っている。旧世界よりも子供を持ちやすい環境が揃っているのに、減ってしまっている。

 五百年後には、新しく生まれる子供はゼロになるという。

 そしてどんなに長寿の人でも、五百年も生きればやりたいことは全部やってしまう。その後は何事にも飽きて、死を選ぶか、ただ生きてるだけの時間になる。

 五百年後に生まれた子供が五百年生きた後、死ぬか惰性で生きるだけになる。そのとき、まだわずかに生存してる人はいても、人類は滅びる。

 エジソナはそう言っていた。

「わたしが千年後も生きてるかどうかはわからないけど、もう終わりが見えてる世界で、やらなくちゃいけない仕事を与えられたとしたら、貴方はどうする?」

「んー。わからないよ。そのときになってみないと」

「そうだよね……」

 思ったような答えが返ってこなくて、わたしはうつむいてしまう。

「さっき言ってたみたいに、君はお父さんみたいになりたいんじゃないの?」

「うん、それは、あるかな……」

「できたらやりたいことも、やらなくちゃいけないことも、両方できるんだったら、それでいいんじゃない?」

「……それは、難しいんだ」

「そっかぁ」

 わざとらしく眉根にシワを寄せて、うなり声を上げて考え込む男の子。

 なんとなくその様子がおかしくて、少し笑いそうになってしまう。

「僕じゃやっぱり、わからないや」

「うん……」

「でも、でもね? 僕は思うんだ」

「なにを?」

 優しく微笑んだ男の子。

 夕日で茜に染まるその子の顔は、どこか大人びていて、でもその笑みは可愛らしいくらいで子供で、わたしの目は彼から離せなくなる。

「僕は君に、笑っていてほしい。僕は君が笑ってる顔が見たいんだ」

「……」

 何も言えなかった。

 答えが見つからないんじゃなくて、彼の笑顔に、彼の言葉に、わたしは何も言えないくらいに、胸の奥が熱くなっていた。

 ――なんで、なのかな?

 自分が大変で、他の人のことなんて考えていられるはずがない男の子。

 それなのにわたしの悩みを見抜いて、問うてきてくれた彼。

 彼の中には、わたしの知らないものがある。

 そう思えた。

 彼の中に、わたしは未知の場所を発見した。

 それをわたしは、知りたいと思った。

 笑ってほしいという願いは彼のわがままだと思うけれど、でもわたしにとっても望んでいることだった。

 嬉しいことでも、望まぬことに、押しつけられたことに、流された役割に、わたし自身を委ねたくはなかった。

 いつでも笑っていられるように、やりたいことをやりたい。

 本当に千年で滅んでしまうかも知れないこの世界で、終わりが見えてしまっているここで、わたしは最後まで笑って過ごしていきたい。

 そして、この男の子のことを知りたい。この子に笑顔を見せ続けて生きたい。

 ――わたしは、この子のことが好きだ。

 そう思えた。

 そう思えたことが、嬉しかった。

 だから自然と、わたしの頬には笑みが零れてきた。

 もうママに言う返事は決まった。迷う必要はなくなった。

 わたしは、この男の子と一緒に生きていく。それをいま、わたし自身が決めた。

 それが魔法少女という、他の人が決めた答えじゃなく、わたし自身が出した答え。

「わたしはロリーナ・キャロル。友達になりましょ。貴方の名前は?」

 笑顔を向けながら名乗って右手を差し出すと、さっきまでの勢いはなくなって、恥ずかしがるように夕日の色よりも顔を赤くする彼。

「僕は、音山克彦」

 恐る恐る差し出された手を、無理矢理握って握手する。

 さらに赤くなった顔が面白くて、嬉しくて、わたしはさらに笑う。

「うん。よろしくね、克彦。いまから貴方は、わたしの一番大切な……、友達だから」

 ――好きだよ、克彦。

 その言葉は恥ずかしくて言えないけど、彼のことが、自分よりもわたしのことを見てくれる彼のことが、わたしは好きになっていた。

 

 

            *

 

 

 顔に降りかかる水滴の感触に、雨でも降ってきたのかと思って僕は目を開ける。

 すぐに見えたのは、高空よりも抜けるような、海よりも深い色を湛えた、碧。

 よく知っているその色は、いまは揺らいでいた。

「克彦!」

 声とともに僕に抱きついてきたロリーナ。

「うっ。ちょっ、ロリーナ。痛い。全身が、痛い……」

 何でかわからないけど、身体中が痛くてたまらない。まるで身体がバラバラになってしまいそうだ。

「痛いなら、生きてるってことでしょ! 少しくらい我慢しなさいっ」

「う、うん……」

 涙が出てきそうな痛みに耐えて、僕の胸に顔を埋めて肩を震わせているロリーナの金糸のような髪を、優しく撫でる。

 視線に気がついて周りを見ると、指で涙を拭っているカグヤさんと、微笑みを浮かべてるミシェラさんがいた。

 それからもうひとり。

「キーマ」

「うん。パパ」

 嬉しそうな、でもつらそうな笑みを浮かべたキーマは、やっぱり泣いていた。

「パパがいなくなっちゃうかと思ったんだから!」

「うぐっ」

 突撃するようにロリーナと顔を並べてすがりつくキーマに、身体の痛みが倍増する。

 そこに至って、やっと僕はこうなる前にやっていたことを思い出した。

「マナブラックホールは?!」

「もう消えたよ。ほら」

 僕の胸から顔を上げて、涙を拭ったロリーナが指さした方向には、微かに黒い空間の亀裂が、いままさに消えようとしているところだった。

 もう黒い穴は、そこにはない。

「そっか。僕は、成功したんだ」

「うん。克彦はマナブラックホールを消せたんだよ」

 まだ涙を零してるロリーナは、でも笑ってくれる。

 金糸のように美しい髪。

 僕を映している碧い瞳。

 笑みをくれる優しい顔。

 ――僕はやっぱり、この笑みが好きだ。ロリーナが好きだ。

 そんなことを、いま改めて思う。

「本当に、無茶するんだから!」

「ゴメン。迷惑かけてばっかりで」

「いいよ。生きて戻ってきたから、許して上げる」

 優しく笑むロリーナは、また僕の胸に顔を埋めた。

「あたしは、いっぱい迷惑をかけてる。ゴメンね、克彦パパ」

「いいよ、キーマ。僕だってロリーナや、たくさんの人に迷惑かけてるし、世話になってる。その分はちゃんと返していけばいいんだ。それにキーマは、僕の子供なんだから」

「うんっ!」

 少しは痛みが治まってきた上半身を起こし、僕はキーマを抱き寄せる。

「あたしは克彦パパと、ロリーナママの子供だから。だから、これからも、よろしくお願いしますっ」

「大丈夫だよ、キーマ」

「うん。わたしもこれからはちゃんと、キーマの面倒見るよ」

「ん!」

 嬉しそうに笑むキーマ。

 僕はロリーナと、キーマが浮かべる笑みに、同じ笑みを交わし合った。

 ――本当に、今度こそ終わったんだ。

 キーマが生まれたことで始まった今回の事件。

 それがいま、ちゃんとすべて終わったことを、僕は意識した。

「よかった……」

 そうつぶやいた瞬間、僕の意識は遠退いていく。

 安心した途端に、疲れがどっと襲ってきて、意識を保つことができなくなっていた。

「お休み、克彦。いまはゆっくり休んで」

「うん……」

 ロリーナがかけてくれた言葉に本当に返事ができたのかどうか。

 安らかな気持ちで、僕は意識を手放した。

 

 

 

 



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カレーは生き物 余章 ~カレーは生き物~
カレーは生き物 余章 カレーは生き物


 

 

   余章 カレーは生き物

 

 

 そろそろ春は過ぎ去り、夏が訪れようとしている日。

 週末の今日、昼間から僕の部屋に襲撃してきたロリーナは、停蔵庫を漁って食材を取り出し始めた。

「ロリーナママぁ?」

「何するつもり? ロリーナ」

「秘密!」

 取り出しているものの内容からだいたい予想はつくけど、あえて突っ込まず、僕はロリーナがしたいままにする。

 次々とテーブルの上に並べられていく食材に、僕はすでにイヤな予感がし始めていた。

 クックリーチャーは、エジソナさんが出した新種申請により、まだ本決定にはなっていないけれど、新種として認められる方向で検討が開始されている。まだ仮ながら住民登録が可能となり、キーマはいまはネオナカノの住人として登録されている。

 料理魔術の方と言えば、逮捕された長谷川蓉子の協力もあり、根本的なスペルコードの組み直しには至っていないけれど、バグは取り除かれ、近日再配信される予定だと聞いていた。

 バグを仕込んだ犯人まで動員してのバグ取り作業となったのは、配信停止前の利用者から無数の要望が寄せられたのが大きい。

 一過性のブームかも知れないけど、まだまだこの世界は滅亡には遠いらしい。

「さてと!」

 集められた食材に、僕は頭を抱えたい気分になっていた。

 鶏肉をメインとした、様々な香辛料やタマネギなどの野菜類、それからやっぱり寸胴鍋がひとつ、テーブルの上に置かれている。

「何つくるのぉ?」

「カレーよ」

「カレー? あたしはカレー、大好きだよ!」

「うんっ。だから今日は、ちょっといつもと違う奴つくるからね!」

「やったーっ」

 材料から推察するに、ロリーナがつくろうとしてるのはマサラカレーだろう。

 サフランは切らしてるから、お米はあるけどサフランライスではなくて、白米にするらしい。

「じゃあ、やりますか!」

 言ってロリーナが制服のスカートから取り出した、マナジュエルが取りつけられたスティック。

「やっぱり……」

「何? 克彦。不満でもあるの?」

「いや、いいんだけど。料理魔術の配信、再開されたんだ?」

「うん。今日のお昼、本当についさっきからね。バグはもうなくなってるんだから、不安なことはないでしょ?」

「まぁ」

 得意げに言うロリーナだけど、僕はなんとなく不安を拭い去ることができない。

「美味しいかな? 美味しいかな?」

「絶対美味しいよぉ。マサラカレーって奴ね!」

 椅子の上に立ってお尻を振りながら嬉しそうにしているキーマ。

 彼女の笑みに応えて笑っているロリーナ。

 それでも僕は、不安で仕方がない。

「じゃあちょっと、テーブルから離れててね」

 ロリーナの持つスティックに料理魔術の読み込みが始まり、しばらくしてマナジュエルが赤からピンクに色を変える。

「さぁ!」

 材料の上をなぞるように振るわれたスティック。降り注ぐ赤い光の粉。

 そして次の瞬間。

 テーブルから溢れる、爆発的な光。

 目が開けていられないほどの激しい光が、僕の部屋を満たした。

 ――あぁ、やっぱり。

 何だか予想通りの展開に、僕はもうため息すら出てこなかった。

「えぇっと……」

 光が収まった後、ロリーナはスティックを振り終えた格好のまま固まっていた。

 材料はテーブルの上から消え去り、寸胴鍋の中には、何かが入っている気配があった。

 ため息を吐きながら蓋を開けてみると、まず見えたのは、茶色いもの。それから白いもの。

「ふわっ」

 大きな欠伸を漏らしながら寸胴鍋の中から立ち上がったのは、真っ白な肌をし、茶色い髪をした、幼い女の子。

「わーっ!」

 キーマは目を輝かせ始め、ロリーナは表情を固めたまま後退っていく。

「げ、原因調べてくるね!」

 止める暇もあらばこそ、ロリーナは走って玄関から出て行ってしまった。

「貴方が、アタシのパパ?」

 新たに生まれたクックリーチャーに問われ、僕は答える。

「うん。僕が君のパパ、音山克彦だよ」

「あたしはキーマ! 貴方のお姉さんだよ!」

「よろしくお願いします。克彦パパ、キーマお姉ちゃん。……ママは?」

「ちょっと用事があるっていまはいない」

「ん……。そっか」

 寂しそうに顔をうつむかせる女の子。

「うんとね、貴女の名前は、マサラ!」

「アタシは、マサラ?」

「うんっ。あたしの妹のマサラ!」

「はい。アタシはマサラ。わかりました」

 見た目の年齢はキーマと同じくらいなのに、ずいぶん丁寧な口調を使うマサラ。

「まぁ、よろしくね。マサラ」

「はい。よろしくお願いします」

 僕の声に応えたマサラは、返事とともににっこりと笑ってくれた。

 

 

                    「カレーは生き物」 了

 

 



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七人の妹 第一章 ~七人目の妹~
七人の妹 第一章 七人目の妹 1


 

 

   第一章 七人目の妹

 

 

          * 1 *

 

 

 ――重い。

 身体に感じる重みに、俺はうっすらと目を開いた。

 そんなに高いくはない白い天井と、たいして物を置いてないが広いとは言えない部屋に差し込む朝日は、プライバシーモードにした偏光ガラス越しでも強くなってるのがわかる。

 そろそろ起きる時間だ。

 見下ろしてみると、身体を覆ってる掛け布団が全体的に盛り上がってるのが見えた。妹が潜り込んできてる証拠。

 ――美縁(みより)やユニアはないとして、羽月(うづき)と紗月(さつき)って感じでもないな。姫乃(ひめの)か? バーシャか? いやいや、美縁やユニアの可能性がゼロってわけでもない。

 思いつく限り全員の可能性を考えてみるが、隠れてるのが誰なのかは特定できない。

 俺には妹が多い。

 血の繋がった妹や、事情があって引き取った親戚の女の子もいるが、そうではない、縁があって妹となった子もいる。

 それぞれに部屋があるのに、妹たちはちょくちょく布団に潜り込んでくることがある。

 俺だって一五歳でそれなりに欲望ってものがあるし、あんまり甘やかしちゃいけないのもわかってる。だが実の妹の美縁を除けば、それぞれに事情や理由があって妹になった女の子たちだ、部屋に鍵を掛けたりとかして突き放しすぎるのもためらってしまう。

 両親が諸事情により遠方に出張に行ったまま帰らない高宮(たかみや)家では、長子である俺が妹の面倒を見る役を負っている。

「今日は誰だぁ?」

 まだ眠気があって、頭が惚けてるのを意識しながら、掛け布団をめくってみる。

 見えたのは、栗色の髪。

 朝日を受けて、金色にも見える長い髪が、まず最初に俺の目に飛び込んできた。

 ふっくらとした頬は微かに赤く染まり、すっと通った鼻筋の下の桜色の唇は、魅惑的にも感じる。

 長い睫毛と閉じられた瞼に隠された瞳は、どんな色をしているだろうか。

 何故か俺のパジャマを着ている彼女の胸は、朝らしく頭よりも元気な部分にちょうど当たっていて、見えはしないがけっこうなサイズがあることを伝えている。

 可愛らしいと言うより、美しいという方がふさわしい女の子は、俺の身体に寄り添うようにしながら、安らかな寝息を立てていた。

 ――誰だっけ、この子。

 どうやらまだ寝惚けているらしい俺の頭は、栗色の髪の女の子の名前を、思い出すことができない。俺と妹の他は家には誰もいないはずで、俺には恋人もいないから、ここにいるのは妹に違いないのは確かだった。

 でも、名前を思い出せなかった。

「歳かな」

 ど忘れした妹の名前にそんなことをつぶやいて、胸の中でざわつく気持ちを誤魔化す。

 とにかく起こそうと手を伸ばしたとき、女の子の瞼が開いた。

 朱。

 彼女の瞳は、綺麗な朱色をしていた。

 潜り込んだ布団の中から俺のことを見つめてくるふたつの瞳に、吸いつけられるように見つめ合う。

 ――あぁ、そうだ。こいつは俺の妹だ。

 見つめ合ってると胸のざわめきが消え去り、すとんと納得できた。

 もう疑問はない。

「おはようございます、佳弥(よしや)さん」

「あ、あぁ。おはよう」

 まだ名前はど忘れしたままだけど、潜めた声で挨拶してくる彼女に挨拶を返す。

 自分の妹なのに名前を思い出せないでいて、どうしようかと思いつつ笑いかけてきてくれる彼女と見つめ合ってるとき、乱暴なノックが響いた。

「兄さん! そろそろ起きてくださいっ。今日の朝ご飯は兄さんの当番ですよ!」

 入っていいと言う前に扉を開けて入ってきたのは、小柄な女の子。

 白いブラウスに、腰を絞るような濃紺のビスチェスカートを穿いた彼女は、一歳年下の妹、美縁。

 彼女が生まれたときから一四年間、ずっと妹だった美縁は、俺の妹の中で一番妹歴の長い女の子だ。

 ショートの髪を揺らし、頬を膨らませて怒りを表現してるのに、どこか愛らしい美縁は、目尻をつり上げてベッドに近づいてくる。

「ほら、ボォッとしてないで、さっさと起きる!」

 起き抜けの男子にとってデリケートな時間だというのに、美縁は容赦なく掛け布団をはぎ取った。四月上旬とは言え今日は暖かいからそんなことされても寒くないが、隠れていた女の子の姿は露わになってしまう。

「また兄さんの布団に潜り込んで! あな、た、は……」

 俺の上で寝そべっている子に美縁は文句の言葉を並べようとするけど、その語尾は力なく消えていく。

「おはようございます、美縁さん」

「え? あ、うんっ。おはよ」

 首を傾げてる美縁と、栗色の髪の子が同じように首を傾げて見つめ合う。

 すると驚きに硬直していた美縁の表情が和らぎ、いつも通り凛とした元気の良い声で挨拶を返していた。

「そんなことより! 早く着替えて降りてきてくださいっ。みんなまだ寝てるみたいで、出てきてくれないんです!」

「ったく。わかったよ」

 怒っていて高くなってるのに、刺々しさがあんまりない美縁の声は心地良い。でもこれ以上寝てもいられないので、起きることにする。

「早くしてくださいねっ」

 そう言い残して部屋を出ていく美縁を見送り、俺はベッドを出る。

「わたしも着替えてきますね」

「あぁ、……うん」

 一緒に立ち上がった栗色の髪の子。

 俺より少し低い程度だから丈は問題なさそうだが、男物だけあって女の子が着るにはいろいろと余ったり胸の辺りが若干足りなそうなパジャマ姿の彼女は、妹だというのにこのシチュエーションに、妄想をかき立てられそうになる。

 そんな思いは頭の端に追いやって、ニコニコと笑っている彼女から目を逸らす。

 もう頭ははっきりしてるのに、それでも彼女の名前を思い出すことができない。

 いや、呼びそうになってる名前が、ひとつある。

 でもその名前は俺の口から発することはできなかった。

 涼やかな笑みを残して部屋を出ていった彼女を、俺はわけのわからない不安を抱えながら見送った。

 

 

 

 

 制服のブレザーに着替えて部屋を出た俺は、階段を降りる。

 一階のそこにあるのは、吹き抜けの広いフロア。

 二階の天井から降り注ぐ明るい照明の下、薄ピンク色を基調にした色合いの内装のそこは、いつもなら真ん中辺りに寄せて置かれているソファが、端にどかされていた。

 リビングとダイニングを兼ねた共有スペースであるそこからは、玄関や倉庫に続いてる正面の扉の他に、対面型キッチンの向こうに貯蔵庫とか地下の風呂に続く扉があり、さらに左右には六つの扉が見えた。

 妹たちの部屋だ。

 元々シェアハウスとして建てられたこの家に、俺は妹たちと暮らしている。

「おはようございます、兄様」

 そんな声を掛けてきてくれたのは、深緑のワンピースにエプロンをつけた、いわゆるメイド服姿の女の子。

 俺の妹のひとり、ユニア。

 柔らかく笑む彼女の、白い長手袋で覆われた右腕は天井に向けられ、八人掛けのテーブルを持ち上げている。

 人のものとは違う、けれど人と同じように少し嬉しそうな色を浮かべているユニアの瞳は、メカニカルアイ。

 黒に近い緑色の髪をポニーテールにまとめたユニアは、地球人類ではない。そのボディは六割ほどがバイオ素材で、四割くらいが機械で構成された、スフィアドール。

 人間ではないが、彼女もまたひとつの個性を持った知的生命体だ。

「みんなは?」

「美縁は朝の掃除で出ていますが、他は……」

「はぁ。仕方ないな」

「よろしくお願いします」

 危なげなくテーブルをフロアの真ん中に置いたユニアは、そう言ってにっこりと笑った。

 毎日のことであるが、今日も日課である妹たちを朝食の席に着かせる仕事に、俺は頭を掻きながら向かって行った。

 

 

 

 

「起きてるかぁ?」

 ひとつ目の扉をノックしながら声を掛けてみるが、反応はない。

「入るぞ」

 ロックぐらいはあるが、俺に対しては解除できるように設定されてる扉のノブを捻り、部屋の中に入る。

 遊び道具とか服とかが色々出しっ放しになっている部屋の中にあるのは、左右に並んで置かれたふたつのベッド。そこには人が寝ているような感じで膨らみがあって、窓からはもう強い日差しが入ってきているというのに、身動きしている様子もない。

「ったく、また散らかして……。朝飯の時間だぞ。そろそろ起きろ、羽月、紗月」

 声をかけながらベッドに近づいた俺は、ふたりを起こそうと布団に手を伸ばす。

「――っと!」

 布団に触れる直前、俺はバックステップを踏んでその場を逃れた。

 同時に天井から落下してきたのは、盥。

 古から現代まで、コントとして定番の道具、黄土色に輝く大きな金盥が、ガランガランと大きな音を立てて床に転がった。

「にぃに、避けちゃったーっ」

「にぃや、当たらなかったーっ」

 そんな声に振り向くと、扉の横に手を繋いで立っている、小さな女の子がふたり。

 色の組み合わせが違うシャツと、キュロットを穿く十歳にもなっていなさそうなふたりは、ぱっと見では見分けがつかないほどに似ている。

 プラチナ色の髪をサイドテールに右で結っているのが羽月で、左で結っているのが紗月。

 髪の結い方が同じなら見分けがつかないほどに似ている二人だが、一卵性双生児というのは彼女たちには当たらない。

 羽月と紗月は、ファントム。

 人間とは異なり、より高次元にその本体を持つファントムは、神様や妖精、聖獣魔獣妖獣といった幻想上の生物の形を取ってこの世界に顕現する存在。神話や伝承の中にしか存在しなかったそうした存在は、現在では当たり前のように街を歩いていて、知的生命体として普通に認識されている。

 それらを総称してファントムと呼んでいた。

 神様といった形で顕現するファントムは、神話が現実である証拠だと言われたりもする。だが日本だけでなくいろんな地域の神話や伝承に出てくる幻想生物が節操なく顕現しているため、神話伝承に強い関連性があることは疑う余地もないが、その存在についてははっきりしていない。

 すべての神話が現実に起こったこととするなら、この世界は何十回と創世されていることになってしまうのだから。

 羽月と紗月は、本来かなり高位のひとりの神様として顕現するはずだったのが、何の因果かふたりのファントムとして顕現してしまったことがわかっている。

 双子どころではなく、ふたりは同一の存在だ。

 色々事情があってうちで引き取って俺の妹となったふたりは、いまいる妹の中では美縁の次に妹歴が長いが、ファントムだけあって年齢の概念がかなり薄い。

 初めて出会ったときと外見は変わった気がしない彼女たちは、すでに学校を卒業していて、成人として扱われている。

「ったく、本当に懲りないな、羽月と紗月は。いったいこの金盥、どこで手に入れてきたんだか」

 眉根にシワを寄せ、俺は不満そうに口を尖らせているふたりを睨みつける。

 毎日ってわけじゃないが、ネタを思いつくと仕掛けてくる朝のトラップは、羽月と紗月が仕掛けてくるいたずらのひとつだ。

 別に致命的なことを仕掛けてくるわけじゃないし、ふたりは俺の妹なんだ、元気な証拠でもあるし、これくらいのことにつき合うのは別に気にもならない。

「とにかく、さっさと顔を洗ってこい。飯にするぞー」

「わかった!」「わかった!」

 声を揃えて応え、ニコニコと可愛らしい笑みを残して部屋を出ていったふたりを追って、俺も部屋を出る。

 

 

 

 

 次に向かったのは隣の部屋。

 強めにノックしてみるが、羽月と紗月同様、こちらも反応がない。

「開けるぞ」

 その部屋の中にあるのは、ベッドがひとつとソファがひとつ、それからリクライニングチェアにロッキングチェアにハンモックにジャンボクッション。

 寝られる場所がいくつもあるというのに、部屋の主の姿は見回してみた限り、ない。

「バーシャ。今日はどこで寝てるんだぁ?」

 共有フロアにいなかったから部屋にいないはずはないんだが、声をかけても返事はない。

 微かに聞こえる寝息を頼りに捜してみると、服がはみ出しているのが見えるクローゼットから聞こえてきているようだった。

「……なんでまたこんなところに」

 両開きの扉を開けてみると、大量の服の中に埋もれるように、柔らかそうな金色の髪がピンピンと跳ねてる女の子が眠っているのを発見した。

「バーシャ。朝だ、起きろ」

「眠い……」

 目を開けずにそう言って、バーシャは浮くの山の中に潜り込もうとする。

「朝はみんな一緒に食べるって約束だろ。ほら、起きた起きた」

「うぅ。――お兄ちゃん、抱っこ」

「勘弁してくれ」

 手を伸ばして抱っこを要求してくるバーシャに、俺は無視を決め込む。

 だがそれでもさらに伸ばされる手に、仕方なく身体を彼女に近づけた。

「えへへっ」

 ぱちりと目を開けたバーシャは、青い瞳に俺のことを映して、嬉しそうに微笑む。

 小柄でほっそりしているようで、けっこう締まりのある身体つきをした彼女は、まだ十三歳なのに、白のTシャツとピンクのショートパンツに包まれたその身体は、目のやり場に困るほど。

 寝起きだけあってノーブラなその胸は、俺の妹の中でも一番成長著しい。

 ――また大きくなってないか、これ。

 俺の首に回した腕を引き寄せて、胸をすりつけられる頬とともに、身体に密着してるバーシャの胸は、少し前よりさらに大きくなったような気がする。

 ちょっとした事情があって俺の妹となった彼女は、まだ妹になって一年も経っていないってのもあって、この甘えん坊なところはいまひとつ慣れることができてない。

 兄に甘え過ぎる妹ってのも、可愛くはあるんだが、それはそれで問題かも知れない。

「さっさと来いよ」

「ぶーっ。わかったよぉ」

 これ以上密着していられなくて、俺はバーシャの身体を下ろして背を向ける。

 ブーイングの声を背中に受けながら、俺はまだ部屋から出てきてない最後の妹の部屋へと向かった。

 

 

 

 

 軽いノックの後、声も掛けずに入った部屋の中は、薄暗い。

 ただ、一番奥手、机が据えられたところだけは灯りがあった。

 どこで寝ているのか疑問を覚えるほど、計器とか機材とかが大量に積み上げられた部屋の中に、俺はぶつけたりしないよう気をつけながら踏み込んでいく。

「姫乃、また徹夜か?」

「んー? 兄貴か。もう朝?」

「そうだよ」

 俺の声に振り返ったのは、バイザーグラスを下ろしたまま振り返った姫乃。

 薄暗いなかでもくっきりとしたピンクに近い赤色の髪をした彼女は、遺伝子などをかなり弄られた、いわゆるデザイナーズチャイルド。

 女の子らしくない上下が繋がった作業着のような格好の姫乃は、妹と言っても生まれは三ヶ月しか違わない。

 妹になったのは七年前、実の母親から姫乃が捨てられる形で放り出されてからだが、つき合い自体は物心つく前からあった女の子だ。

「研究もいいが、ちゃんと生活のリズムも整えろよ」

「大丈夫ヤ、兄貴。色々と対策はとってるんヨ」

「薬なんかに頼るのはほどほどにしておけっての」

 何弁なのか微妙な口調で言う姫乃の服装は女の子らしくなくても、隠しきれない膨らみの向こう、机に置かれているのは栄養剤のドリンクや錠剤の瓶、それに中和剤などだ。

 別に違法なものではないし、依存性とか健康に悪いってほどのものではない。だが、美容には確実に悪い。

 研究とか実験が大好きで、それに没頭している姫乃は、それをすでに仕事にもしている。

 だからと言って、集中するためとか、もっと時間を使うためにとかで薬に頼っているのは、さすがに兄としては心配になる。

「ちょぉっとバーシャに頼まれてたんが追い込みだったんヤ。やぁっとひと段落ついたとこなんヨ」

「仕事でもないのに、そんなに頑張って……」

「あははっ。やってたら楽しくってナァ。朝食やろ? すぐ行くワァ」

「あぁ」

 そう言った姫乃と手を振り合って、俺は部屋を出る。

 共有フロアを横切って、俺は反対側の扉に近づいていった。

 ノックをしようと手を上げたところで、止まる。

 そこはいま、ユニアが使っている部屋。

 ユニアはもう起きていて、テーブルに続いて椅子を運び終え、俺の方に視線を向けてきてくれている。

 この部屋の主は、元はユニアじゃなかった。

 本来の主は、いまはない。

 死んだわけじゃないのはわかっているが、いまはどうやっても会うことができない。

「もう一年になるのに、慣れないな」

 俺は小さくつぶやき、ため息を漏らしていた。

 

 

 



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七人の妹 第一章 七人目の妹 2

 

 

          * 2 *

 

 

 朝食当番の俺が共有フロアに繋がったカウンターキッチンに入ると、一緒に着いてきたのは、羽月と紗月。

「にぃに、今日は何ぃ?」

「にぃや、美味しいものぉ?」

 口を揃えてそんなことを言うふたりは、俺のお腹くらいまでしかない背丈で、脚にまとわりついてくる。

「今日はもうあんまり時間ないし、これでいいかな、と」

 言って手で軽く叩いたのは、流しの反対側の台の上に置いてある、白い箱状の調理器具。

 大きな皿でも入るくらいの扉がついたそれは、合成調理器というもの。

 箱の上には色違いのカートリッジが六本刺さってる。それを合成調理器で合成することにより、内蔵してるかダウンロードした情報通りの料理が完成すると言う、文字通り魔法のような調理器具だ。

 正確には、魔法ではなく魔術だが。

 食材のカスも出ず、味はもちろん見た目や食感的にも現実の料理と遜色はなく、栄養バランスも良くて衛生的にも問題ないという合成調理器は、一家に一台なくてはならない器具となっている。

 ただ、料理の情報は配信されてるものも含めると数十万とあるものの、味つけも含めて情報通りにしかできないため、なんでかうちの妹たちには不評だったりする。

 本当に時間がなかったり、家に料理ができる人がいないときには重宝するんだが。

「にぃにの料理が食べたぁい」「にぃやの料理が食べたぁい」

 今日は登校時間までそれほど余裕がないから合成調理器で済まそうと思ったが、ふたりして頬を膨らませている羽月と紗月の不満度合いは、かなり高いようだ。

「時間ないっつってんのに……。仕方ないか。たいしたものはつくれないぞ?」

「うんっ、いいよー」

「にぃやの料理なら何でも!」

 ため息を漏らした俺は、頭を掻きながら合成調理器の横に鎮座している大型停蔵庫の扉を開く。

 停蔵庫は、扉を閉めて密閉している間、中の空間の時間を限りなく遅くする保存庫。

 電気によってエーテルアンプを稼働させ、電源を入れることで内蔵されたマナジュエルにループキャストされる停蔵魔術によって、古くは冷やして食材を保存していた冷蔵庫とは次元の違う保存方法を実現している。

 停蔵庫は合成調理器と同様に、一家に一台あるってくらいの必需品だ。

 いまこの地球は、魔導歴が時を刻む、魔法と魔術の世界。

 三〇〇年ほど前、エジソナという女性によって存在が実証されたマナと、それが媒介するエーテル場は、世界の様相を一変させた。

 古来から存在していた魔法は秘密ではなくなり、スペルワードの開発により魔術は誰にでも使える技術となった。同時に、科学も大きく発展した。

 地上を歩き、飛行機で空を飛んでいた人々は、いまでは魔術の道具を使って誰でも空を飛び、街は地上から浮かぶプレート上の敷地を積層したものとなっている。

 そこに住む人々は、地球で進化した地球人だけでなく、遠い星から通商などを目的として飛来するようになった宇宙人――地球外知的生命体に留まらず、月の地下に住んでいた地球人とほぼ同じ遺伝子を持つ月下人、羽月や紗月のようなファントム、それにユニアのようなスフィアドールもいる。

 誰にでも使えるようになった魔術は、こんな時間の朝にも活躍する。

 停蔵庫の中にベーコンと卵などを発見し、ついでに先月買ったままだった一本丸ごとの食パンを取り出した。

「兄さん、何か手伝う?」

「あぁ、頼む。トーストとサラダ、いいか?」

「わかった」

 エプロンをつけてキッチンに来てくれた美縁に他の料理を頼み、俺は食器棚から皿を取り出す。

 少し考えて、並べた皿は八枚。

 塊のままのベーコンと、人数分の卵を、調味料なんかと一緒に皿の手前に置いた。

 それからポケットから取り出したのは、手でつかめるくらいのサイズの携帯端末。

 魔法と魔術、魔導世界以前の旧世界からあるタッチパネルタイプの携帯端末と同じ形状だが、俺はそいつの画面を点けずに、空いてる右手を振った。

 何もない空間に現れたのは、薄緑がかった厚みのない板状のもの。

 エーテルモニタ。

 カテゴリー一の、最も簡単な魔術で発現するエーテルモニタは、携帯端末や、合成調理器とかの機器にたいてい内蔵されている表示機能だ。

 電気によってエーテル場を活性させるエーテルアンプを内蔵し、スペルを読み込ませて魔術を発動するためのマナジュエルを組み込んだ携帯端末を左手に持って、右手でエーテルモニタに表示した内容に触れ、これから使う魔術を選択する。

 魔術はスペルを一々声に出して唱える必要なんてない。

 機器に内蔵されていたり、ネットを使って配信されるスペルを、マナジュエルに読み込ませるための操作をすればいいだけだ。そもそも声に出して唱えたり、手で図形を描けるほど簡単なものではないらしいが。

 ふたりから向けられる期待の目に笑みをくれてから、俺は配信されたスペルの発動に入った。

 これから使うのは、料理魔術。

 つい最近配信が開始されたそれは、包丁を使って食材を切ったり、鍋やフライパンで調理したりといった手間を短縮することができる。

 料理技術が合成調理器と同じレベルなら、料理魔術でできる料理はほぼ同じものとなる。

 でも味からして情報で固定されてる合成調理器と違い、料理魔術は術を使う人の味覚に依存する。味覚がおかしい人が使うととんでもない料理ができるし、昔食べた料理を思い出して使うと幼い頃の味に再会できたりもする。

 料理魔術は安いと言ってもそれなりの配信費用がかかるので、時間があるなら手でつくった方がいいが、俺が使えば俺がつくった味で料理が完成する。時間短縮にはもってこいの魔術だ。

 食パンを切り終えた美縁もまた、横で料理魔術の準備に入る。それを横目で見た俺は、料理の内容とそれぞれのさらに盛りつける量なんかをエーテルモニタ上で指定した後、キャストボタンを押した。

 魔術の読み込みを開始したことを告げる携帯端末のインジケータが赤からピンクになったとき、左手を食材と皿の上で振った。

 降り注ぐ赤い粉のような光。

 皿と食材が白い光を発したと思ったときには、料理は完成していた。

 買い出しが必要なタイミングだからあんまりたいしたものはつくれないと言っても、それなりの食材は備蓄してるから、もっと他の料理だってつくれないわけじゃなかった。

 でも朝食なら、これくらいでちょうどいい。

「よし、運んでくれ」

「わかったぁ」

「りょうかーいっ」

 羽月と紗月に二枚ずつのお皿を渡し、俺も持てるだけの皿を持つ。

 時間短縮のために料理魔術を使って綺麗に焼き上がったトーストの乗った皿を持つ美縁と笑み合い、先に共有フロアに行ってしまったふたりを追って俺たちもみんなが待ってる場所に歩いて行く。

 

 

 

 

 八人掛けの長いテーブルには、左に美縁と羽月と紗月、右にユニアとバーシャと姫乃が座ってる。トーストとベーコンエッグとサラダ、それからコーヒーや紅茶や牛乳などのそれぞれの飲み物を並べ終えた俺は、上座に座って箸を手に取った。

 みんなの視線を受けた俺がいただきますと言おうとしたとき、メイド服から着替えたユニアと美縁が着ているのと同じ制服姿の、栗色の髪の女の子が俺の正面に座った。

 途端、俺を含めた全員が、彼女のことを見る。

 彼女のことを見つめる六人の妹たちがどんな表情をしているのかは、俺からじゃ見えない。でもたぶん、俺と同じで、何とも言えない違和感を顔に出しているのは確かだ。

「どうしたのですか? 皆さん」

 みんなの視線を受けながら、ニコニコと笑っている彼女は、俺の妹だ。

 そのはずだ。

 そうだと頭は理解してるのに、俺の胸の奥からわき上がってくるもやもやとした違和感を、拭い去ることができない。

「わたしは……、わたしですよ。佳弥さんの妹の、結奈(ゆいな)、です」

 バキンッ、と、俺が手に持っていた箸が真っ二つに折れた。

 彼女が結奈と名乗った瞬間、俺は無意識に手に力を込め、箸を折ってしまっていた。

「大丈夫? 兄さんっ」

「大丈夫だ。何でもない。折れかけだったみたいだ。代わりを取ってくるから、とりあえず朝食を食べ始めておいてくれ」

「う、うん……」

 心配して声をかけてきた美縁に微笑み、俺は席を立った。

 もやもやとした違和感に引火して燃え上がった胸の熱さを抑えるために、大きく深呼吸をしながら。

 

 

 



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七人の妹 第一章 七人目の妹 3

 

 

          * 3 *

 

 

「じゃあ行ってくる」

 玄関で靴を履いた俺は、振り返って軽く手を上げた。

 見送りに出てきてくれたのは、元気に手を振ってくれる羽月と紗月、眠そうに欠伸をしているバーシャ、寝不足で目の下に隈をつくってる姫乃の四人。

 四人は俺と違って、すでに学校を卒業してるし、それぞれ仕事を持ってる。

 バーシャと姫乃の仕事の内容は把握しているが、羽月と紗月についてはどんな仕事してるかは知らない。自治体経由の仕事だから信頼については問題はないし、デリケートな内容らしいから、あんまり話せないらしいが。

 美縁とユニアは、俺と一緒に学校に行く。

 それから、制服を着てる栗色の髪の子も、俺の横に靴を履いて立ってる。

「行ってらっしゃーい」「行ってらっしゃーい」

「行ってきます」

「行ってまいります」

「行ってきますね」

 挨拶を交わした俺たちは、玄関の扉を開けて外に出る。

「あれ? 兄さん、どうしたの?」

「んー。今日はちょっとな。たまにはこいつも動かしておかないといけないし」

 家の敷地内にあるシャッターつきのガレージから引っ張り出してきたものを見た美縁の問いに、俺は曖昧に答えた。

 俺たちが住んでいるのはISN(イズン)という名前の都市。略称が正式名称になる前は「イケブクロ・サンライズ・ノヴァ」という名前だった、イケブクロ自治区の都市だ。

 通っている学校はイズンにほど近い、ネオナカノ自治区の都市ネオナカノにある、CNG(セントラルナカノ学園)。

 学校まではそう遠くないからホウキとかの飛行具で行くことも多いけど、駅まで空を飛んでいって、その後は都市間を繋いでる列車を主に使ってる。飛行具は風よけや雨よけの魔術を張ってても、荷物が多いときや大雨のときはつらい。

 濃紺のビスチェスートと白のブラウスに薄手の上着を重ねた、お揃いの制服姿の美縁とユニアの手には、駅まで行くための魔導ホウキが握られてる。

 俺がガレージから引っ張り出したのは、スカイバイク。

 地上を走っていた時代のと違ってタイヤはなく、わずかに地面から浮いているこれは中型の、ふたりまで乗れる飛行用の魔術具だ。俺が買ったものじゃなく、親父のものだが、もう半年以上帰ってきてないから、乗る人がいなくてガレージに置きっ放しになっていた。

 当然バイクは列車に持ち込めないから、そのまま空を飛んで学校まで行くことになる。

「乗ってくか?」

「……はいっ」

 辺りを見回して不安そうにしていた栗色の髪の妹にそう声をかけると、ぱっと表情を明るくして近くに寄ってきた。

「とりあえず行くぞ。遅刻しちまう」

「……うん」

 納得していないらしく表情を曇らせてる美縁には気づいてないことにして、俺はバイクを引っ張って敷地プレートの上に形成された街並みを歩く。

 俺たちが住んでいる家の他にもたくさんの家が建っているこのプレートには、もちろん多くの人が住んでいて、朝だけあって道では出勤や登校のために出歩く人たちとすれ違う。

 そう遠くないプレートの端、発着場まで着た俺は、バイクにまたがった。

 長くないスカートを気にしつつ、後ろに乗り込んだ栗色の髪の子が、腰にしっかりと腕を回しててきたのを確認した俺は、スカイバイクのセレクターを操作してここまで来るのに使ってた浮遊魔術から、飛行魔術へと切り替えた。

 ハンドルを捻ってエーテルアンプに流れる電圧を上げ、アクセルをゆっくりと開けた。

 ふわりと浮き上がったその先は、もう空中。

 ホウキはもちろん、ジェットを噴き出す翼状のスラスターや、旧世代のスケボーから車輪を取ったようなスカイボードを操る人、大きいのではバイクや車が空を行き交うそこは、イズン内を巡っている空路だ。

 ちらりと下に目を向けると、厚みのある敷地プレートがずっと下の方にも何層も浮かんでいるのが見え、それぞれの空路にも車やバイク、個人用の飛行具で人々が行き交っているのが見える。

 細めた目を俺の方に向けてきている美縁とユニアと併走し、俺はイズンの外に向かうため、バイクを飛ばした。

 街中の朝ラッシュを安全運転で抜け、イズンとネオナカノを繋いでいる青梅空路に入ると、視界が開けた。

 空。

 元々スカイバイクで空を飛んでいたわけだけど、イズンから出たそこは、本当に空だ。

 イズンで一番高い建物であるサンシャイン六〇〇ビルの高さは、トウキョウの中でも中心都市のひとつだけあって、五〇〇〇メートルを超える。敷地プレートが積層している街並みは二〇〇〇メートルほどまでで、俺の家がある中層辺りがメインストリートとなっている青梅空路は一〇〇〇メートルくらいのところを走ってる。

 横を見ると、イズンに隣接し、一部は都市の拡張によって接合してしまっているシンジュク自治区の都市ヘブンズピークスの、一〇〇〇〇メートルを超える超々高層ビル群が見え、正面には上から強く押しつぶした卵のようなネオナカノがある。

 イズンとネオナカノの間の地上には、広い記念公園と、草原と、森と、畑と、それから去年発生したある事件によって荒れ果ててしまっている窪地が広がっている。

 いまの時代、人々のほとんどは自治体が建造したイズンやヘブンズピークス、ネオナカノのような都市に住んでいて、地上に住んでいる人はごくわずかだ。

 だから地上は整備された畑や、自然に街が飲み込まれる形で広がる森があるばかりで、建物なんかはほとんど見えない。

 空路の端を示すビーコンと、標識のエーテルモニタだけが浮かんでいる空を、俺は他の車両や人々とともに、飛んでいた。

 マナとエーテル場の実証は、魔導世界とそれ以前の旧世界という、大きな隔たりをつくるほどの変化を生み出した。

 人がホウキに乗って空を飛び、宇宙人やファントムやスフィアドールが闊歩し、積層するプレートで構成された都市が数多く建設されている。魔導と科学の発展により地球人類の寿命はいくつもの手段で大幅に引き延ばされ、一世紀ほど前から平均寿命なんてものが集計されることはなくなった。

 いまでは、常識も生活様式も大きく変化し、いろんな面で旧世界の様相は消えつつある。

 そんな発展した地球人類はけれど、あと一〇〇〇年で滅びると予言されている。

 まだ一五年しか生きてない俺には実感なんてできないが、ただの予言というわけではなく、現実を帯びてきているのだそうだ。

 まるで創作世界のようになったこの地球を、ある人はメルヘンの世界だと言ったという。

 そして終末が近づきつつあるこの時代を、ある人はパンクな世界だとも言った。

 メルヘンでパンクな世界、メルヘニック・パンクが、いまの地球の様相。

 そんな世界では、旧世界の常識では考えられないようなことが、けっこう当たり前のように起こる。

 例えば、ある日突然、妹が増えてるとか。

「お前は、何だ?」

 俺は振り向くことなく、後ろからしがみついてきて、柔らかい胸を背中に押し当ててる女の子に、そう声をかけた。

 彼女が身体を強ばらせたのは、背中越しにも感じられた。

「わたしは……、その、結――」

「お前が、結奈と名乗ることだけは許さない」

 静かに、でも強い声で、もう一度同じ名前を名乗ろうとした彼女の声を制した。

 結奈。

 それは俺のもうひとりの、実の妹。

 俺のふたつ下、美縁のひとつ下の、本当の妹。

 マナは、どんな物質からもごく低確率で放出される、魔法や、魔術といった奇跡を起こし得る素粒子。エーテル場に本体を持つファントム以外でも、この世界には他よりも多くのマナを放出する存在がいる。

 普通の人ではエーテルアンプを使わなければカテゴリー一の魔術すら発動できないのに対し、人間の中で大量のマナを放出し、エーテルアンプを使わずに奇跡を起こし得る人のことを、魔法使いと呼んだ。

 魔術は技術としてマナを扱えるようにした科学。

 魔法は、高い魔法力を持つ人だけが使える、本当の奇跡。

 魔法使いには、極端に大きなマナ放出量、魔法力を持つ人が、古来から少数ながらいた。

 どんなに大きな魔法力を持っていても、その魔法力を活かせるマナジュエルがなければ魔法を発動させることはできない。

 けれど古より地球の平穏を守るために活動する、巨大な魔法力を活かし得るマナジュエルを組み込まれた魔法の道具、魔法具を受け継ぐ、魔法少女と呼ばれる人々がいた。

 結奈は、魔法少女だった。

 彼女は去年、イズンとネオナカノの間の森林地帯に突如発生した時空断層という、魔導科学的には想定されてはいたが、現実に発生する可能性が宇宙レベルで低い現象が発生したとき、それを打ち消すために、その身を投げ打った。

 自分の魔法具であるユニアを俺に託し、時空断層の向こうに姿を消した。

 世界を、俺を、そして家族を守った結奈の名を、俺の妹だと騙り、他の誰かが名乗ることなど許すことなんてできない。

 俺の後ろに座る彼女がそう名乗ったことを、俺は許しはしない。

「たぶん、催眠能力か何かがあるみたいだが、お前はいったい何なんだ?」

 バイクの前面に張られた風除けの魔術でも防ぎ切れない風を受けながら、首だけ振り返った俺は、困惑した表情をしている彼女のことを睨みつける。

「わたしは……、この星ではハルーナと呼ばれいてる生物です」

「ハルーナ?」

 聞いたことも、記憶にもない。

 たぶん宇宙から飛来した地球外生命体であろうハルーナ。

 朝の様子を見る限り、たぶん俺以外の、妹たちは彼女のことを妹のひとりとして認識してる。彼女が持つ催眠能力かなにかの効力だろう。

 少し考えて、俺は彼女に提案する。

「だったらとりあえず、俺はお前のことはハルナと呼ぶことにする」

「ハルナ、ですか?」

 バイクが揺れないよう気をつけながら、エーテルモニタをひとつ開いてそこに「遥奈」と書いて見せてやる。

「……はい、わかりました」

「それと、妹たちの認識上の名前を、そっちに切り替えることはできるか?」

「えっと、それは可能です。視線を合わせることで、認識に影響を与える能力があります。もう一度視線を合わせれば、わたしの認識を書き換えられます。ですけど――」

「だったらとりあえず、名前の訂正だけは頼む。詳しい話はまた後で、放課後にでも」

「はいっ」

 そろそろ幹線空路からネオナカノに入る。そうすればCNGまではすぐだ。

 だから俺は話を打ち切って、不思議そうな、心配そうな顔をしている美縁に微笑みかけてから、ハンドルを切った。

 

 

            *

 

 

「それじゃあまた放課後に」

「はい、兄様」

「また後で」

 別のクラスのユニアと教室の前で別れ、俺は美縁と、遥奈と一緒に自分の教室に入る。

 今日はいつもより遅めに家を出たからだけど、教室にはもうあらかたのクラスメイトが登校してきていて、俺が入った途端、一斉に不審そうな目を飛ばしてきた。

 遥奈に向けて。

「おはようございます、皆さん」

 そう言って遥奈がニッコリ笑いながら教室内を見回すと、訝しむような表情が笑顔に変わり、ぱらぱらと挨拶が返ってきた。

 ――凄いな、遥奈の催眠能力は。

 彼女に対してはいろいろ思うところはあるが、いまは事を荒立てないことにする。

 手を振って美縁が自分の席に向かって行った後、俺も一番後ろの自分の席に向かった。

 見ると、微妙な表情をしたクラスメイトの男子が教室に入ってきて、列の空いてた場所に抱えてきた机を置いた。彼はそこを自分の席にしたようだ。

 本来、彼の席は俺の左隣。

 ――これも、遥奈の催眠能力の効力なのか?

 彼女の催眠能力によって自分の席をズラしたんだと思うけど、自分の存在を記憶に刷り込むどころじゃない、かなり強力な効果を持つようだった。

 ――でもこの後はどうするかな……。

 CNGに入学するにはネオナカノ自治区か、イケブクロなど近くの自治区で住民登録をしてる必要がある。そもそも入学には基礎インプリンティング学習という、旧世界にあった小学校から高校までに習う勉強の内容を、脳内に書き込む施術を行ってる必要がある。

 基礎インプリンティング学習で勉強すべき内容を書き込んだとしても、大量の本を買っただけの状態。買った本は読まなければ内容を知ることも、理解することもできない。

 自治体に住民登録をした人間は学校に通うことが義務となっているが、その期間は三年。書き込まれた情報を思考につなげるための、習熟学習が行われる。

 一歳年下の美縁が同じクラスなのは、義務教育を受ける年齢がある程度自由だからだ。

 通常、地球人類の場合は六歳以上、たいてい一〇歳までには受ける基礎インプリンティング学習の後、すぐ学校に通う奴もいるし、時間が経ってから入学する人もいる。標準的な入学年齢は、一二歳から一五歳くらいだ。

 CNG一〇五期生一年目の俺が一五歳で学校に通っているのは、結奈の消失と、その後に妹になったユニアとバーシャのことがあったからだ。

 基礎インプリンティング学習については、最悪ごまかせるとしても、遥奈は住民登録なんてしてるはずがない。出席確認機能がある椅子に座ると、彼女は登録のない部外者として判定されるはずだ。

 どうするか考えつつ自分の席に座る間に、何も知らない遥奈も、空席となった俺の左隣に座った。

「……あれ?」

 思わず俺は小さく声を上げてしまっていた。

 机の天板の端にあるインジケーターが、遥奈が座ったことで赤から青に変わった。出席確認が取れた証拠だ。

 ――どういうことだ?

 遥奈の朱い瞳に催眠能力があるのは、もう疑いようのない事実として理解してる。でもそれは生物に対して効果を持つものであっても、視線を合わせることができない電子情報にまでは、効果がないはずだった。

 ――もしかして、電子情報にも干渉する能力があるってのか?

 遥奈の顔を見てみると、ニッコリとした笑みを向けてきてはいるが、その朱い瞳にはわずかに影がある。

 何か思うところがあるのかも知れないが、いまここで問い質すことはできない。

「よぉ、佳弥。……相変わらず遥奈ちゃんは美人だねぇ。こいつにはもったいない妹だな」

「ふふふっ。ありがとうございます」

 放課後にでも詳しく聞いてみようと思ってるとき、そんな軽薄な声が掛けられた。

 クラスメイトで、幼馴染みでもある北野友康(きたのともやす)だ。

 俺の机に手を着いて、遥奈に愛想笑いを向けている軽薄な友康と遥奈のやりとりに、何となくいけ好かない気持ちになるが、悪意や下心があるわけじゃないのはわかってる。

 幼い頃に美縁に告白してこっぴどく振られて以来、軽薄な声をかけてくることはあっても、それ以上のことはない。友康は友康なりに、線の引き方をわきまえてる奴だ。

「はぁ……。お前はいいよなぁ、可愛い妹たちに囲まれてて」

「なんだよ、いきなり」

 突然友康はそう言って、がっくりと肩を落とす。

 幼馴染みのこいつは、事情が特殊なユニアとバーシャを除けば、結奈を含めて俺の妹たちのことはよく知ってる。姫乃や羽月や紗月が妹になった理由も、ある程度話していた。

 そんな奴にいまさらなことを言われても、反応に困る。

「お前にだって姉弟はいるだろ?」

「そうだけどよぉ。妹がほしいんだよ。お前にはわからないだろうがなぁ」

 友康は二卵性の双子で、姉弟は姉としてこいつと同じく幼馴染みだ。同じクラスの姉の方をちらりと見ると、なんだか美縁と話し込んでいる。

「だがオレにも妹ができる可能性がある!」

 復活した友康は拳を突き上げながら、決意を籠めてるらしい表情で言った。

「……妹でも生まれる予定になったのか?」

「いや、そうじゃない!」

「なんだそりゃ?」

 魔導医療により身体の若さを保つのは難しくなくなった現在、最高齢の出産は三〇〇歳なんて記録があるほどだ。子供をつくる方法は懐妊以外にもあるし、年の離れた兄妹なんてのも珍しくない。

 だけどそんな様子じゃない友康に、微妙にイヤな予感を覚えつつも、どういうことなのか問うてみる。

「何か妹ができそうなことでもあったのか?」

「あぁ!」

 キラキラと光る、純粋そうな、でも下心満載の目をしている友康。

 こういう目をしてるときのこいつは、よくないことを考えてる。

「先週の事件、知らないか?」

「先週? んー?」

 先週と言えば、流星群があるってことで、イズンから少し離れた場所に妹たちと見に行ったことは憶えてる。そのとき隕石じゃないか、ってほど強い光に包まれたのが事件と言えば事件だけど、地上まで達しなかったらしく何もなかった。

 友康が言ってる事件ってのは、そういう俺の家族の中でのものとは違うだろう。

 ――他にあったことと言えば……。

「宇宙怪獣の出現警報があったな」

 宇宙怪獣は、地球外から飛来する宇宙に生息する知的でない生命体の総称だ。

 地球を侵略してこようとする宇宙海賊や他星の軍隊と違い、たいていの場合交渉の余地はなく、捕獲ないし駆除の対象となる。

 古来から度々地球に飛来していた宇宙怪獣は秘密裏に、もしくは公になった場合は人々の認識を操作して隠し、魔法少女たちが処理してきた。

 いまでは魔法少女は秘密の存在ではないから、宇宙怪獣が飛来する可能性が高まった場合には、自治体が警報を出して対処に乗り出すようになってる。

 一〇〇年ほど前に発生した宇宙怪獣雨は、宇宙竜族とその取り巻きの怪獣が一週間のうちに一〇〇〇匹以上も地球に飛来し、魔法少女はもちろん、各自治体やそれ以外の多くの人々が地球壊滅の回避のために集まったと言う。

 歴史に刻まれてるその事件は、数十億年、数百億年に一度しか発生しない事態だから、いまはそんなことが起きることもないが。

 先週は宇宙怪獣の出現情報があって、結局発見できなかったために被害はなく、世間が騒がしかったのは憶えてる。

「そっちの問題で紛れてるが、オレやお前のような妹スキーには重大な事件があったんだ」

「……俺は別に妹スキーってわけじゃないが」

 なんでか同類のように扱ってくる友康にため息を吐く。

 ちらりと遥奈の方を見てみると、わざとらしく素知らぬ表情で俺から目を逸らしていた。

「とにかくだ、宇宙から希少な寄生生物が飛来した可能性が高いんだ」

「寄生生物? そういうのは自治体の衛生局とかの管轄じゃないのか? ってか、妹とどう関係するんだ」

「宇宙史の中でも十数例しか報告のない、希少な寄生生物らしくて詳しい生体はわかってないんだが、そいつは寄生虫みたいに生物の身体に寄生するんじゃなくて、知的生命体の生活に寄生するらしい」

「生活に?」

「あぁ。それでいま飛来した可能性が高いトウキョウ周辺には、そいつの捜索のためにいろんなところから人が集まってるんだよ」

「そう思えば、ここのところあんまり見かけない服の奴とか車両とかをよく見かけたな」

 他の星系との交流が盛んないまは、大きな都市であれば宇宙人だったり、明らかに地球製じゃない車両を見る機会はさほど珍しくない。

 でもここ数日は、そうしたものがずいぶん多く見かけたような気がしていた。

 ――生活に寄生する、か。

 その言葉で思い浮かべるのは、悪い男や女が名目上の恋人に依存して生きる、いわゆるヒモだったりするが、魔導科学によって食糧事情も、エネルギー問題も概ね解決したいま現在では、ヒモ生活をする人はほとんど絶滅している。

 身体や精神的な障害も発達医療では直接、間接的な手段でほとんどどうにでもなるし、最低限の仕事をしていれば、我慢できる程度の住居は自治体から貸してもらえるし、食感の飽きさえ我慢できるなら、味つけだけは無数のバラエティがあるゼリーフードやスティックフードも支給してもらえる。

 夢や希望や趣味や物欲を持たなければ、人間は最低限の生活が保証されているし、好きこのんで絶食でもしなければ飢えて死ぬこともない。

 それがいまの、メルヘニック・パンクの世界だ。

「ん?」

 そこまで考えて、俺は思い当たることがあった。

 思い当たる相手である遥奈を見てみると、複雑な表情で俺のことを見つめてきていた。

「その寄生生物ってのはかなりいろんな生物に寄生できるらしくってな、目的は最終宿主に寄生して子孫を残すことらしいんだ。たぶんいまは飛来したまま発見されてないか、中間宿主に寄生してると思うんだが、ぜんぜん情報なくて、見つからないんだよなぁ……」

「厄介な寄生生物なのか?」

「いや? いやいやいや」

 俺の問いに、友康は何を言ってるんだとばかりの表情で、顔の前でぶんぶんと手を振る。

「そりゃあ生活に寄生されたら、多少の負担にはなるけどよ、いまどき人ひとり養うのなんて難しくないだろ? 知的レベルもその星の文明レベルに準じたものになるって話だし、必要なら自分で稼ぐこともできるだろ」

「じゃあいったいなんで、みんなそいつを探してるんだ?」

「ふっ。それこそが、俺の最大の目的なんだ」

 悪い笑みを浮かべた友康は、大げさに胸を反らして言う。

「そいつは中間宿主の生体情報から身体を生成して、記憶から生活の情報を入手するらしいんだが、宿主の家に入り込むとき、庇護対象となる立場を選ぶんだよな。んで、恋人や結婚相手だったり、子供だったりって場合もあるが、たいていは女、雌型で、中間宿主相手には庇護されやすく離れやすい立場の場合が多い。つまり、妹」

「妹?」

「そう。知的生命体の男、ってか雄に寄生して、そいつに庇護されやすい妹って立場で家に入り込むことが多いんだ。それも、宿主にとって理想の性格や姿で、ってことらしい。だからそいつの通称は『寄生生物「妹」』」

 顔の前で指を立て、キラキラした瞳でそんなことを言う友康。

 ここまで説明されれば、もう疑いようもない。

 何かを言おうとしてる遥奈は、震える手を上げて口をぱくぱくさせているが、いまここで説明するような愚を犯す気はないんだろう。慌ててるだけで何も言ってくることはない。

 俺はそんな彼女の、何て言うか可愛らしい様子に、思わず苦笑いを浮かべて、ため息を漏らしていた。

「まだ最終宿主を見つけてなければ、中間宿主は乗り換えることも可能! 見つけることができればオレにも理想の妹ができるかも知れない!!」

「でも最終宿主を見つけたら、出て行っちまうんだろう?」

 力説する友康にそう指摘すると、絶望に顔を強張らせた。

「いや……、ほら。別にいまの時代、妹との結婚だってできるんだし、中間宿主からそのまま最終宿主になる可能性ってのもないわけじゃないらしいし……」

 がっくりと肩を落とした友康に思わず噴き出してしまう。

 可愛い妹を手放したくない気持ちは、シスコンのつもりはないが、わからなくはない。

 ただ恋愛対象ってのはまた違う話だ。

 けれども友康の言うように、妹との、と言うより近親者との結婚は多くの自治体で認められているのも確かだ。

 一〇〇〇年後には滅びると予言されてる地球人類は、すでにその兆候が現れつつあって、出生率は徐々に低下している。

 たいして仕事をせずとも最低限の生活ができ、子供を持つことに関するサポートも過剰なほど充実しているいまの世の中で、出生率の低下はまだそれほど大きなものではないと言っても、重大だ。

 魔導世界となって飢える人も死ぬ人もほとんどいなくなり、生活が安定した魔導暦一世紀頃には、地球人類は爆発的に増えた。増えた人口を吸収するために各所でイズンやネオナカノのような立体的積層都市建造のピークを迎えたのもその頃。

 一〇〇歳どころか二〇〇歳の人も珍しくない世の中だから、出生率の多少の低下で人口が大幅に減ることはない。けれども、人は様々な理由で減る。

 過剰なほどのサービスによって、いまより向上させる余地がなくなった出産関係の補助はもう打つ手がない。

 小さな低下でも、それを止めることができなければ、いつかは地球人類が新たに生まれることはほぼなくなる。予言では、五百年後の出生率はほぼゼロになるとされている。

 その出生率の低下の対策として、日本ではイズンが先陣を切り、世界各国の自治体で近親婚や同性婚が完全に認められた。地球人類以外では、ルーツを一緒にすると思われる月下人との間で子供を持つことは、異性はもちろん、同性者や近親者でも推奨されている。

 倫理的と言うより、人の感情的には完全に認められていない部分は残っているものの、近親者や同性者での結婚はいまでは割と普通だ。ただ、認められなかったからこそ気持ちが盛り上がるってのはあるらしくて、認められたものの思ったほど同性婚、近親婚は増えていないらしいが。

 現在その周辺の問題は、いまのところ認められていない、宇宙人やファントム、スフィアドールとかの地球人類以外との婚姻を認めるかどうかが自治体や国で議論されている。

 いくら可愛いからって、俺は妹と結婚したいという願望はないが。

「まぁ、頑張って探してみてくれ」

「あぁ」

 肩を落としたまま、友康は自分の席へと向かっていった。

 それを見送った後、立ち上がった俺は遥奈の机に手を着き、彼女に顔を近づける。

 他の奴らが聞き耳を立てないのをちらっと見回して確認してから、言う。

「だいたいの事情はわかったけど、さっきも言った通り放課後に詳しく聞かせてもらうぞ」

 何とも言えない、気持ちを顔に出し切れない表情で俺を見つめてくる遥奈は、その朱い瞳を伏せる。

 けれどももう一度俺の瞳を見つめてきた彼女は、決意を込めた色を瞳に浮かべていた。

「えっと……、はい。わたしにも全部がわかるわけではありませんが、話せることは全部お話しします」

「あぁ、頼む」

 息がかかるほどの距離で見つめ合い、俺は遥奈と頷き合った。

 

 

 

 

 美縁は眉根にシワが寄るのを感じていた。

 彼女が見つめる先にいるのは、佳弥と友康、それから、遥奈。

 なにやら楽しげに話す佳弥と友康に混ざっているわけではないようだが、遥奈もいろんな表情をして一緒に楽しんでいるように見えた。

 友康の話が終わり、彼が離れた後、何故か遥奈に近づいて、佳弥は彼女に顔を寄せる。

 もう少しでキスしてしまいそうな距離。

 ――何やってるの? 兄さんっ。

「人が話してる途中に、何見てるわけ?」

「あ、ゴメンッ。七海(ななみ)」

 心の中で佳弥に悪態を吐いているときに声を掛けられて、美縁は我に返った。

 美縁の席の前に立ち、目では睨みつけてきているのに、口元に笑みを浮かべているのは、親友の北野七海。先ほどまで佳弥が話していた友康の双子の姉だ。

「また佳弥のこと? こんなところで見つめなくても、家に帰ればいつだって見ていられるんじゃないの?」

「見つめたいわけじゃなくって……。妹のこと甘やかしすぎないか、監視してただけっ」

「そんな悠長なこと言ってると、佳弥の隣を奪われちゃうよ?」

「え?」

 また佳弥の方に向けてしまっていた視線を、その言葉に驚いて七海に向けていた。

「べっ、別にそんな気持ちは、兄さんに持ってないし……」

「ふぅん。そう?」

 ニヤニヤとした笑みを浮かべる七海に、美縁は強く言い返すことができなかった。

「基本、あんたん家の妹たちって、佳弥にベッタリじゃない。羽月ちゃんと紗月ちゃんはそっち方面疎そうだし、あいつもストライクゾーンから外れてると思うけど、活発だからねぇ。そういう方面に目覚めちゃったら、結構怖そうじゃない?」

「うっ」

「ユニアさんはそんなに話したことないからよくわからないけど、佳弥のこともの凄く信頼してるよね? あれってなんでだろ。スフィアドールと結婚はできないけどさ、事実婚してる人だっているし、いくつかの自治体じゃ子作りは認めてないけど、スフィアドールとの結婚認めようって議論が進んでるの、知ってる?」

「ううっ」

「バーシャちゃんはあれ、反則だよね。うちらよりひとつ年下なのに、あの胸はねぇ……。顔だって凄く可愛いし、佳弥って胸派だと思うんだよね。あの子に迫られたら、佳弥の奴、理性保てるかな?」

「ううううぅー」

「姫乃さんは滅多に部屋から出てこないけどさ、佳弥と話してるときのあの人って、なんて言うか、古女房の雰囲気あるよね。それに姫乃さんって、実はもの凄く美人じゃない?」

「いや、あの……。あのね? 七海」

 日々感じている現実を七海に言われて、美縁は焦ってしまう。

 確かに妹たちはみんな魅力的であることは、よく知っていた。

 顔も平凡で、胸も普通くらいで、料理をつくることくらいはできても、特別な能力や才能を持っているわけではない美縁は、他の妹たちに勝てる要素がないのを知っていた。

 うつむいてしまった美縁は、小さくため息を漏らす。

「美縁以外の妹の誰かと、佳弥がくっついちゃってもいいの?」

「それはダメ!」

 反射的に答えてしまって、美縁は七海に誘導されていたことを意識する。

 口元を押さえても、出てしまった言葉はなかったことにはできない。

 にんまりした笑みを向けてくる彼女に、美縁は反撃とばかりに尖らせたままの口を開く。

「七海だって、兄さんのこと好きなんじゃないの? 小さいときからずっと言ってたよね?」

 友康とともに幼馴染みである七海は、佳弥とのつき合いももちろん長い。

 本人に言うことこそなかったが、幼い頃から七海は佳弥のことが好きだと、美縁に何度も言ってきていた。

「……まぁ、それは、ねぇ。好きだったよ。うぅん、いまでも好きだよ? でもさぁ」

 疲れたように息を吐きながら、苦々しげな顔になった七海は言う。

「一年近く前、美縁の小父さんと小母さんが遠くに出かけることになったタイミングでさ、告白したんだよ。佳弥、いまと違って結奈ちゃんのことでまだぜんぜん復活してなかったし、支えられるかな、って思ったんだよね」

「――そうだったんだ。知らなかった」

「そりゃ言わないよ。だってさ、あいつ、なんて言ったと思う?」

「それはわからないけど……」

 げっそりとした顔になった七海は、肩を落としながら言った。

「『いまは妹たちのことを見ていたいから、誰かとつき合うつもりはない』だって」

「兄さん、そんなこと言ったんだ……」

「くわぁーーっ。あの兄莫迦がーーっ! 妹のために女の子の一生懸命の告白を振るとか、あり得んっ!!」

 両手で髪をくしゃくしゃにしながら文句を言う七海を見ながら、けれど美縁は暖かい気持ちが胸に溢れてきていた。

 まだ一年の四月半ばだから、積極的な行動に出ている男の子はいないけれど、七海のことを狙ってる人がいるという話は、聞いたことがある。幼い頃から隠していても抑えきれない七海の気持ちを感じ取ってるはずなのに、そんな彼女の告白よりも、自分たちのことを優先してくれる佳弥に、嬉しさを感じずにはいられない。

 こっそりと彼の方を見てみると、自分の席に座って、何かをずっと考えているらしく、顔に手を当てて難しい顔をしていた。

 いま彼が何を考えているのか、美縁は知りたくなる。

「んで、美縁はどうなのよ?」

「え? 私?」

「佳弥のこと、どう思ってるわけ?」

「それは、その……」

 怒った顔の七海に詰め寄られて、美縁は言葉を濁すことしかできない。

 佳弥はずっと自分の兄で、大切な人であることは確かだけれど、彼への気持ちがどんなものであるかは、考えたことがなかった。

 考えることを、避けていた。

 ――それに……。

「やっぱり、結奈ちゃんのことが気がかり?」

「……うん」

 七海の指摘に、美縁は小さく頷く。

 家の中でしか魔法少女をやっていたことは知られていないが、厳しい戦いを経ていたりしたからか、結奈は幼い頃から大人びた妹だった。

 それでも佳弥に対しては甘えていたし、彼も一番結奈のことを気遣っていた節があった。

「何か考えるにしても、結奈が帰ってくるまでは、結論は出したくないんだ」

「そっか」

「うん。それに、たぶん私以外も、そう考えてると思うから」

 美縁を除く妹たちは、直接だったり間接だったりするけれど、全員が全員、結奈の縁で家族となっている。

 結奈の存在は、いなくなってしまったいまも、家族の中ではとてつもなく大きい。

「でも、警戒した方がいいと思うよ?」

「どう言うこと?」

 七海が視線を送っているのは、遥奈。

 いまは佳弥と楽しそうに話をし、綺麗な栗色の髪を揺らしながら笑っている遥奈のことは、確かに気がかりだった。

「勘だけど、たぶん遥奈は、結奈ちゃんのこととか、気にしてない気がするから」

「ん……」

 そんな七海の言葉に、同意することはできなかったが、美縁もまた不安を覚えずにはいられなかった。

 

 

 



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七人の妹 第一章 七人目の妹 4

 

 

          * 4 *

 

 

 金属製の扉を開けた先には、空があった。

 トウキョウの学校の中では一番大きく、義務教育期間は三年だけど、もっと勉強したいとか、研究目的とかで残る人も多いCNGの校舎は、ネオナカノの中でもけっこうな割合を占めるほどに大きい。当然校舎の数も多い。

 俺がやってきたのは、そんな多くある校舎のひとつの屋上だった。

 放課後になり、俺は美縁とユニアに先に帰るように言って、携帯端末で申請して占有許可を取った屋上に、遥奈とともに来ていた。空には家に帰るため、ホウキに乗ったりスラスターを背負った生徒たちがぞくぞくと舞い上がっているが、近くにはいない。

 占有許可を取った屋上は、家でもできない話をするにはうってつけの場所だ。

 いまはまだ、他の妹たちには遥奈のことは知らせたくなかったから。

「話を聞かせてもらおうか」

「はい……」

 バーシャや、姫乃ほどではないが、注目したくなるほどのサイズを持った胸を右手の拳で押さえながら、目を細めた遥奈は頷いた。

「お前が、友康が話してた寄生生物なんだな?」

「はい。わたしは、地球ではハルーナと呼ばれている、寄生生物です」

「ってことは、俺が中間宿主に選ばれたってことか」

「はい……。えっと、済みません」

 うつむいて、遥奈は胸の前で右手を左手で包み込み、小さくなっている。

 俺の方でも授業の合間にハルーナについて調べてみたが、友康も言ってた通り、報告例は本当に少なく、あんまり詳しいことはわからなかった。

 わかった以上のことは、遥奈に聞いてみる以外にはない。

「遥奈は、俺に寄生してどうするつもりなんだ?」

「わたしは……、わたしで意志がありますが、ハルーナの本能としては、最終宿主を探して――。佳弥さん、何か、おかしくありませんか?」

 言葉を切ってそう言った遥奈は、空を見回し始めた。

 俺も一緒に空を見てみると、とくにおかしいところは見当たらない。

 いや、そんなことはなかった。

 帰宅のために空を飛んでいる生徒が、妙に遠い。

 空路でないCNGの敷地内は、速度制限こそ厳しいものの、放課後になればどこを飛んでいても注意されることはない。だからかなりの生徒数がいるCNGでは、放課後のこれくらいの時間になると、校舎の周りには空を飛ぶ生徒でいっぱいになる。

 それなのにいまは、この屋上の近くにはひとりとして生徒の姿はなく、遠く、声が届かないほどの距離を飛んでるだけだ。

 ――確かにおかしい。

 そう感じた俺は、半分無意識に遥奈の腰に腕を回して、引き寄せる。これから何か起こるのか、何も起こらないのかはわからないが、警戒するに越したことはない。

 そのとき、俺たちが出てきた階段室の扉が開かれる音が聞こえた。

 見るとそこからは、ローブのような黒装束姿の、明らかに怪しい奴らが三人、出てくるところだった。

 反対側の階段室を見てみると、そちらからも三人の黒装束が出てきている。

 ――何が起きてる?

 怪しい黒装束たちの狙いは、たぶん遥奈。

 友康も言っていたが、ハルーナを探してトウキョウ周辺にはいろんなところから人が集まってる。いまのタイミングで現れるとしたら、遥奈狙いであることは疑いようがない。

 ――それだけじゃないな。

 この屋上に生徒が近づいてこないのは、おそらく人払いの結界が使われてる。

 そうした結界を張る魔術が存在してるのは知ってるが、一般人が使えるものじゃない。

 一般人が購入可能なマナジュエルとエーテルアンプは、カテゴリー三のものまで。何らかの事情があって自治体から許可が出た場合でも、カテゴリー四が限界。

 当然魔術の方もカテゴリー三か四までしか使えないわけだが、詳しくない俺が知ってる限りでは、結界系の魔術はよほど小規模のものを除けば、カテゴリー五は下らない。

 その規模の魔術となると自治体関係でなければ使うことは通常はできないし、いまの結界の範囲と規模から想像するに、もしかしたらカテゴリー七以上の、軍事兵器レベルの魔術かも知れない。

 そもそも、公共の場で人払いの結界を理由なく発動するような行為は、自治体法でも禁止されている。

 結界を張ってる装置なり、魔法使いかファントムなりの姿は六人の中にはいるように見えないが、こいつらはまっとうな人間じゃないことだけは確かだ。

 じりじりと迫ってくる黒装束たち。

 遥奈を背中に守る俺は、屋上のフェンスの方に後退していくことしかできない。

 空いてる右手を振ってエーテルモニタを表示し、バーシャに連絡を取ろうとするが、通信エラーの表示が現れるだけだった。

 ――ハルーナを捕獲しに来ただけの妹スキーってわけじゃなさそうだな。

 どうにか遥奈だけでも逃がしたいと思うが、囲まれてる状況じゃ難しい。もしこの結界を張ってる魔法使いが近くに隠れたりしてるなら、そいつが俺たちのことを素直に逃がしてくれるとは思えない。

「お前たちはいったい何者だ!」

 無駄だとわかっているけど、できるだけ遠くまで届くよう声を張り上げて問いかける。

 だが目深にフードを被って、口元さえ布で隠している黒装束が答えてくれる様子はない。

 フェンスまで追いつめられたとき、彼らが服の下から取り出したのは、銃。

 口径が大きく、けれど割とコンパクトなサイズのそれがどんな弾丸を発射するものなのかは、わからない。

 けれど銃ならさほど怖くない。

 魔導が発展した地球では、人はとにかく死ににくくなった。

 それは服には標準的に、防御魔術が付与されてるからってのが大きい。

 兵器レベルの武器だとさすがに無理だが、個人が携帯できるサイズの、ナイフとか銃なら、防御魔術で充分に防げる。

 いまの時代はすでに、昔はいたという通り魔なんてことをやる奴は絶滅している。刺されようが撃たれようが、高いところから落ちようが、痛みは多少あっても怪我することなんてほぼあり得ないんだから。

 ――でもこいつらは、たぶんプロだよな。

 怪我をする可能性が低いと言っても、用意周到なプロらしい黒装束たちが、銃なんかで殺しに来る可能性は低いように思えた。警戒は解けない。

 そして、半円を描くようにして俺と遥奈を取り囲んだ彼らが、一斉に引鉄を絞った。

 発射されたのは、ネット。

 防御魔術が発動しない程度に低速で殺到するネットが、俺と遥奈を包み込む。

 だけどフェンスを背にしてる俺たちを完全に覆い尽くすことはできない。

 CNGの教師をしているファントムも、そこそこ以上の魔法力を持つ魔法使いもいるんだ、長時間人払いの結界を張り続ければ誰かが気づく。このまま連れて行かれずに耐えていれば、活路はある。

 そう思った俺だったが、ネットから伸びたワイヤーが銃口の中に繋がっているのを見て、とっさに体勢を変えた。

「俺に触るなよ、遥奈!」

 両手をフェンスに伸ばして遥奈から身体を離し、ネットに触れさせないようにする。

 直後、予想通りのことが起こった。

「がぁーーーーっ!!」

 電撃。

 ワイヤーを通してネットに放たれたのは、火花が散るほどの強い電気だった。

 防御魔術は正常に発動し、俺のことを守っているが、強力な電撃を完全に無効化することができず、身体に痛みが走る。

「佳弥さん!」

「ダメだ! 目的はたぶんお前だ。そこに座ってすぐに逃げ出せるようにしておけ、遥奈っ」

 泣きそうな顔で俺の名を呼ぶ遥奈にそう言いつけて、電気ショックで震える筋肉を酷使し、俺は彼女を守るために立ち続ける。

「クソッ」

 フェンスをつかんでる右手の指だけを動かしてエーテルモニタを開いた俺は、携帯端末の中に入れてある、服に付与されてるのよりも強力な防御魔術を張ろうとする。

「ぐぅぅぅぅ!」

 しかし、再び放たれた電撃で、その操作を続けることができない。

 ――マズい、な。

 脂汗をかき始めてはいるが、痛みは耐えられるレベルだ。

 筋肉も震え始めちゃいるけど、まだまだ踏ん張っていられる。

 けれど、服に付与された防御魔術は、連続した攻撃に耐えられるほど複雑なものじゃない。あと二回か、最悪一回の電撃を一斉に食らえば、効力を失って消し飛ぶ。

 民間人が持てる代物じゃない、警務を請け負う組織か、軍隊でもなければ所持できないだろう捕縛用のネットガンの電撃は、普通の防御魔術で耐えきれるものじゃなかった。

「なんで……、佳弥さん……」

 つらそうな顔をし、小さくなって身体を震わせてる遥奈に、俺は微笑みかけてやる。

 なんでと問われても、自分だって彼女のことを守ってる理由はよくわかってない。

 ただ、ひとつだけはっきりしてることがある。

「遥奈、お前は俺の妹なんだろ? だったら兄貴の俺に、守られとけ」

 目を見開いて言葉もなく驚く遥奈に、俺は笑みを見せる。

 偶然かも知れないが、俺の妹としての立場を選んだハルーナの遥奈。

 彼女を守る理由は、俺が彼女の兄だから。それで充分だった。

 二度目の電撃から考えると三度目はもうすぐ。チャージが終わり次第、放たれるはずだ。

「くっ」

 これから来るだろう痛みに歯を食いしばったときだった。

 ガツンッ、という、柔らかいものが硬いものにぶち当たるような音が聞こえた。

 首だけ振り向いて見ると、俺たちが出てきた階段室の一番近くにいる黒装束が、屋上の床を割って身体をめり込ませ、動かなくなっていた。

 そいつの側に手刀を振り下ろした格好で立っているのは、ひとりの女の子。

「ユニア!」

「遅くなりました、兄様」

 制服姿のままのユニアは、俺の方は見ずに、動揺している様子の黒装束たちを、怒りの色を湛えたメカニカルアイで睨みつける。

「ちっ」

 初めて黒装束が見せた感情的な反応は、舌打ち。

 ユニアを無視して俺たちの方を見、電撃を放とうとしたときには、遅い。

「これ以上兄様に危害を加えることは、わたくしが許しません」

 目にもとまらぬ速度で動いたユニアは、黒装束たちが手にしているネットガンから伸びるワイヤーを、手刀によって切断していた。

 いつも填めている白い長手袋の下は、メカメカしい腕。

 筋肉や内臓などはバイオ素材のユニアだが、腕や脚、骨格などは強靱な素材を使った、機械だ。ユニアは手刀による攻撃で、ワイヤーを切断していた。

「あなた方の相手は、わたくしです」

 その声で五人になった黒装束たちは、標的を完全にユニアに変えた。

 ワイヤーを切断されたネットガンを捨て、新たに懐からネットガンを取り出して構える。

「助かった……」

「佳弥さんっ」

 残りの力で身体を覆っていたネットを剥ぎ取り、俺は膝を突く。

 心配してくれた遥奈が、泣きそうな顔でそのまま倒れていく俺の身体を支えてくれる。

「ユニアさんは、大丈夫なのですか? あの人たちもたぶん、防御魔術を服などに付与していますよね?」

「大丈夫だ、ユニアなら」

 まだ残るシビレに顔を引きつらせながら、俺は振り返っていままさに始まろうとしているユニアと黒装束のバトルを見る。

 たいていの服に付与されてる防御魔術は、万能じゃないがけっこう強力だ。街の中にいればエーテルアンプなしでも発動でき、連続して負荷をかけるとかしない限り、効力が切れることもない。

 けれど、怪我まではしなくても、衝撃による痛みを完全に消せるほどには強力じゃない。

 ネットガンの引鉄が絞られようとしたとき、ユニアが動いた。

 動くとわかっていて見ているからかろうじて捕らえられた彼女は、メカニカルな右腕を大きく振り被り、銃口から広がろうとしているネットを紙一重で躱して一番近い黒装束に接近した。

 拳の一撃。

 青い障壁光を放って発動した防御魔術。

 しかしただ立っていただけの黒装束は、防御が発動しても振り抜かれた拳によって、吹き飛んで行った。

 バキンッ、という音を立てて、黒装束は一〇メートルは先の階段室の壁に、背中側に発動した防御魔術と一緒に身体を食い込ませ、動かなくなった。

 ざわめく黒装束たち。

 振り抜いた拳を引き、すっくと立ったユニアは、三度動いた。

 屋上の床を蹴って跳んだユニア。標的は一番遠くにいた黒装束。

 跳んだ勢いのまま黒装束の肩を両手でつかんだ彼女は、腕を引くのと同時に、膝を胸の真ん中に叩き込んだ。

 防御魔術が悲鳴のような軋みを上げ、激しすぎる衝撃が黒装束の身体を突き抜ける。

 ユニアが着地したとき、力を失った黒装束の身体は伏して痙攣するだけだった。

「まだ、やりますか?」

 着地した体勢のまま、顎を引いて目だけで睨みつけるユニアに、残った三人は一瞬身体を震わせ、ネットガンを懐に仕舞った。そして倒れたまま動かない三人を肩に担ぎ、そそくさと階段室の扉の向こうに消えていった。

「助かったよ、ユニア」

「いいえ。わたくしが兄様を助けるのは当然のことです」

 彼女が鼻から息を吐き、戦闘態勢を解くのとほとんど同時に、これまで人ひとり飛んでいなかった空に、ホウキに乗った生徒が姿を見せた。人払いの結界も解かれたらしい。

 遥奈に肩を支えられて立つ俺を、近づいてきたユニアが反対側から支えてくれる。

「一度家に帰りましょう。家ならば安全です」

「そうだな」

「それから、ここで話すはずだったことを、わたくしにも聞かせてもらいます。そこの、ハルーナの話を」

「ユニア! お前……」

 緑のメカニカルアイに怒りの色を浮かべたユニアは、俺の瞳を睨みつけてくる。

「わたくしを、誰だと思っているのですか? 兄様」

「うっ……」

「わたくしは魔法少女ユーナのパートナー、魔法具ユニア。たった一度とは言え、彼女の名を、結奈と名を騙った彼女のことを、わたくしが許すとでもお思いですか?」

「そうだな。そうだったな」

 魔法少女ユーナと名乗っていた俺の妹、結奈。

 個性を持っていた彼女の魔法具は、いまスフィアドールになることを望み、ユニアとして俺の妹になっている。

 俺が遥奈のことを結奈でないと気づいたように、ユニアもまた、気づかないはずがなかった。

「とにかく、一度家に帰ろう。遥奈、話はそれからだ」

「……はい。わかりました」

 遥奈に不快そうな、険しい視線を向けてるユニアと、深刻そうに顔を歪ませている遥奈に支えられ、俺は家に帰るため階段室の扉を潜った。

 

 

            *

 

 

「今晩の食事、頼めるか?」

「いいけど……。どうかしたの?」

「ちょっとな。今度埋め合わせするから」

 帰宅して治療魔術でまだ残っていた電撃の影響を消し私服に着替えた俺は、共有フロアのソファでくつろいで、エーテルモニタで何かを見ている美縁にそう声をかけた。

 シンプルなロングシャツと、ジーンズを穿いてるとよくわかる意外に長い脚を見せる美縁は、俺に不審そうな顔を向けている。

 見てみた限り、羽月と紗月はまだ帰っておらず、朝ほど無防備ではないようだが、キャミにハーフパンツ姿のバーシャは美縁の向かいのソファで寝息を立てている。

 美縁の「絶対だよ」という言葉に背中を押されながら、俺はユニアの部屋に入った。

「待たせたな」

「いえ、準備が整ったところですので」

 彼女の趣味なのか、それとも結奈に仕える存在だという主張なのか、家だとメイド服姿でいることが多いユニアに出迎えられる。

 ユニアの部屋は、元々結奈が使っていた。

 可愛らしい小物やヌイグルミで飾られた、女の子らしいメルヘンチックな統一感がある室内は、結奈が使っていた頃とあまり変わっていない。いつでも結奈が帰ってきてもいいよう、ユニアが維持しているからだ。

 ……ヌイグルミの数が、結奈がいたときより二倍近くに増えている理由は、物静かで控えめなユニアには訊きづらかったが。

 部屋の真ん中に置かれたアンティーク調の小さく四角いティーテーブルには、いままさにユニアが紅茶を注いでくれたカップが三つ置かれ、いまの主役である遥奈は、窓のある壁に寄せて置かれたパステルピンクのシーツが掛けられたベッドに、不安そうな顔をして所在なさげに座っている。

「どうぞ」

「ありがと」

 テーブルとセットの椅子に遥奈と向き合って座り、勧めてくれたユニアは俺の脇に立つ。

 そして、話し合いが始まった。

「もう一度訊くけど、遥奈は寄生生物ハルーナで間違いないんだよな?」

「はい、間違いありません」

「遥奈の目的は、最終宿主を見つけて、繁殖すること?」

「それは……、そうなのですが、繁殖の欲求はハルーナの本能です。佳弥さんのような地球人や、この星で生きている他の動物が持っている本能とそう大きく変わるものではないと思います。ただ、ハルーナのそれは、人間などの知的生命体のものより、野生動物に近い強さなのだと思います。比較は、難しいのですが」

「ふむ……」

 屋上から家に帰ってくるまでにどんな質問をされて、どう答えるか考えていたんだろう。

 遥奈は硬い表情をしながらも、はっきりした口調で答えていた。

「他にわかることは?」

「他は……、わたしにもわからないことは多いので。瞳で相手の視覚を通して、環境に順応するための情報、と言えば良いでしょうか。それを送ることができるのはわかっています。本能の部分は欲求があるのでわかるのですが、それ以上と言うと、たぶん佳弥さんと大きな違いはないのだと思います」

「わたくしの方でも簡単に検査と調査を行いましたので、これをご覧ください」

 俺の隣に立っていたユニアは、そう言ってエーテルモニタを開いて渡してくれる。

 内容は、ハルーナに関する情報のまとめと、遥奈の検査などの結果だ。

 情報については友康が話していたこと以上の情報はそれほど多くない。少ない発見報告と、そのときの調査結果が付記されている程度。

 検査結果は、たぶんユニアのメカニカルアイとスフィアドールの身体に内蔵してる機能を使った簡易なものだと思うけど、驚くべき結果となっていた。

「ほぼ、人間?」

「それだけではありません。兄様の生体情報を元に身体を構成したからだと思われますが、遺伝子は血縁関係を認められるほど近接しています。医療機関で検査をしても、ハルーナと特定することは困難だと思われます。マナ波動はさすがに大きく異なりますが、これは親族でもあり得ることですし」

 この辺りになると専門分野に入ってくるので、細かいデータについては基礎インプリンティング学習を施した程度では読み解くことはできない。ユニアが解説を添えてくれているので、どういうことなのかかろうじてわかる。

 ――ハルーナの報告例が少ないわけだ。

 あらゆる物質から放出されるマナは、もちろん人間の身体からも放出されている。魔法使いとか魔法少女みたいに凄まじい量でなくても、ごく少量が。

 生物が放つマナは、指紋や虹彩のように個人ごとに特徴があって、その波動を取ると親族間ではある程度似ることが知られている。

 似ないこともけっこう多いため、マナ波動は家族関係の補強には使われても、証拠とはならない。例えば、マナ放出量が常人レベルの俺と、魔法少女の結奈とでは、マナ波動は似ても似つかない。

 やはり地球人の家族関係証明には、メルヘニック・パンクないまの時代でも、遺伝子情報が使われることが多かった。

 俺と遥奈の遺伝子情報の差は、俺と美縁の違い程度しかない。つまり、医療的に検査しても、俺と遥奈は兄妹と判定される。

 詳しく検査すれば地球人とハルーナの違いは発見できるかも知れないが、よほど疑ってかからない限りそこまで調べることはないだろう。催眠能力で家族と認識させられていれば、中間宿主に寄生している幼体のハルーナを発見するのは、恐ろしく困難だと思われた。

「ユニア」

「えぇ」

 エーテルモニタの表示をめくって次の項目を表示し、そこに書かれた内容を見た俺は、ユニアに目配せをした。

 学校で出席確認が問題なく取れたことは不思議に思っていたが、遥奈はすでに住民登録が完了していて、CNGの生徒ということになっている。さすがにイケブクロ自治区の登録情報に関するシステムログは閲覧できないが、申請履歴は見ることができる。

 履歴には、遥奈を新しく家族に迎え入れたという情報はなかった。

 ユニアが調べてくれた自治体のパーソナルデータだと、遥奈は結奈と同じ日に生まれた妹として登録されている。

 ――一三歳には、見えないがな。

 エーテルモニタから顔を上げて、緊張した様子で俺の方を見つめてくる遥奈のことを、上から下まで眺めてみる。

 俺より少し小柄なくらいで、ひとつ年下の一四歳の美縁より背が高く、身体の発育も充分に女の子らしい遥奈は、一三歳には思えない。

 ――これも理想の妹像の反映なのかね。

 友康がそんなことを言っていたが、中間宿主に選ばれた俺に取り入るための姿が、いまの遥奈なのかもしれないと思う。

 だけどうちでは、遥奈の設定と同じ一三歳のバーシャが女の子としては一番発育してるわけで、こんなものだと言われればそうかも知れない。

「遥奈。ハルーナには、電子情報に干渉したりする能力もあるのか?」

「えっと……、済みません。それはよくわかりません。催眠能力も、持っていることは自覚できていますし、意識的に使うこともできるのですが、あまり細かく制御しては使えないもののようなので」

「なるほど」

 目を丸くして驚いている様子の遥奈に、嘘は吐いている感じはなかった。

 人間でも手足を動かすことはできても、具体的にどうやって動かしているのか、意識的に脳や手足に信号を送っているという認識はない。ハルーナの催眠能力や、住民登録を行った電子情報への干渉と思われる能力も、そうしたものなのかも知れない、とも思う。

 逆を言えば、俺と同じ人間の身体を持ち、人間の脳で思考しているいまの遥奈の、ハルーナの本能の部分は自分で把握しきれていない可能性が高いということでもある。ユニアがまとめてくれた情報からもわかるが、ハルーナについてはわからないことが多すぎる。

「じゃあとりあえず、遥奈の当面の目的は最終宿主を見つけることなんだな?」

「はい。それについては間違いありません」

 今度はしっかりと視線を合わせて、頷きを返してくる遥奈。

 そんな彼女に、俺はもう少し突っ込んで訊いてみたいことができた。

「その、最終宿主ってのは、どんな基準で選ぶんだ?」

「え? うぅーん……」

 桜色の唇に人差し指を添え、考え込み始めた遥奈。

 エーテルモニタを「ありがと」と言ってユニアに返しつつ、俺はうなり声を上げてる遥奈の答えを待つ。

「――わかりません。最終宿主を探したい、出会いたいという衝動があることはわかるのですが、それがどんな人物なのか、といったことについては、思いつくことができません。しばらく生活を続けていけば、それもわかってくるのかも知れませんが」

「どんな奴かってのはまぁ、ともかくとしよう。とりあえず、恋人か、結婚相手が見つかったら出ていくってことなんだな?」

「その理解で間違いないと思います」

「わかった」

 顎に手を当てた俺は、しばらく考える。

 制服のスカートを両手でつかみ、緊張した面持ちで俺のことを上目遣いに見つめてくる遥奈に返すべき答えを、迷っていた。

「なぁ、ユニア」

「……兄様、これを」

 具体的なことを言う前に、鼻から息を吐いたユニアは、新たに開いたエーテルモニタを見せてくれる。

 そこにまとめられていたのは、高宮家の家内事情。

 親から送られてくる仕送り、姫乃やバーシャや羽月と紗月が入れてくれてる仕事の報酬、俺たち学生連中に自治体から支給されてる金額といった経済状況はもちろん、使ってない空き部屋とそこに必要な家具類の予想、当面必要な生活必需品とか、食材の買い出し量の変化とか、当面の課題や問題とか、俺がこれから考えて、ユニアに相談しようと思ったことが全部まとめられていた。

 ユニアには、俺が細かいこと言わずとも何を考えてるのかがバレバレだ。

 モニタから顔を上げると、ユニアの睨みつけてくるような鋭い視線とぶつかった。

 けれどその鋭さは、俺に向けられたものじゃない。

「遥奈。わたくしは、たった一度とは言え、結奈の名を、我がパートナーの名を騙った貴女を、許すことはできません」

 俺から遥奈に視線を移し、彼女を射貫くほどの強い視線で睨みつけたユニア。

 遥奈は身体を硬くし、大きく息を飲む。

 それについては俺も同意見だ。

 ハルーナの本能に従い、俺の生体情報から結奈のことを知り、一番高宮家に入り込みやすい立場として選んだんだろうが、遥奈は騙る対象を間違えた。

 俺にとっても大切な妹の結奈。

 魔法少女の魔法具として、苦楽を共にしたユニアにとって、結奈は俺以上に大切な存在であるはずだった。

 許せないという気持ちを、俺が否定することはできない。

 それでも、俺は遥奈を睨みつけているユニアの横顔を見つめる。

 俺の視線に気づいたユニアは、不快そうに顔を歪めながら、こっちに向いて盛大なため息を吐いた。

「本当に、兄様は……。妹という立場の女の子に対して甘すぎる!」

「済まないな」

 いつもはキリリとしているのに、いまは何故か可愛らしく口をすぼめ、諦めた表情で目をつむり、天井を仰ぐユニア。

 彼女が俺の妹になってからまだ一年にもならないが、つき合いはもう八年以上になる。

 最初、結奈を魔法少女に選び、個性を持った魔法具として家にやってきたユニア。

 話せば喧嘩と言い合いの記憶ばかりが思い出されるが、俺もユニアも、お互いの性格についてはよく把握している。

「けれど、そんな兄様だからこそ、わたくしはいまここで、貴方の妹として存在していられるのですからね」

 小さくため息を吐いたユニアは、その緑のメカニカルアイに、懐かしげな色を浮かべた。

「姫乃や、羽月や紗月のように、結奈と直接縁があった妹とは、わたくしやバーシャは違います。兄様、貴方が受け入れてくれたからこそ、わたくしはいまこの立場で、この家にいることができています」

 ユニアは、結奈が時空断層の向こうに消えた後、本当は他の魔法少女によって回収されるはずだった。

 魔法少女の魔法具は、地球に余るほどあるわけじゃない。

 たとえ結奈の死が確認できず、パートナーであるユニアには彼女の生存が認識できていても、地球の平穏を守る魔法少女が減ることは大きな問題だ。

 回収され、強制的に契約を解除されるはずだったユニアの、結奈の帰りを待ちたいという望みを叶える方法は、唯一スフィアドールになることだった。だから俺は、ユニアにスフィアドールになることを提案し、俺の妹になって結奈の帰りを待ちたいかと問うた。

 俺とユニアの縁を繋いだのは結奈であることは間違いないが、確かに彼女が言うように、いまここにいるのは俺の提案を受け入れたからと言えなくもない。

「そんなわたくしが、いま兄様が考えていることを、拒否できるとお思いですか?」

 優しく笑んだユニアにそう言われ、俺は苦笑いを返すことしかできなかった。

「……えっと、あのぅ」

「遥奈」

「は、はいっ」

 俺とユニアのやりとりに困惑してる遥奈に声をかけ、椅子から立ち上がって彼女の方に近づいて行く。

 開いた右手を伸ばすと、ベッドから立ち上がった彼女は不思議そうな顔をしながら、俺の手を右手で握る。

 握手。

「最終宿主が見つかるまでの、もしかしたら短い間かも知れないが、よろしく」

「あ、はいっ。よろしくお願い、します?」

 まだわかってないらしい遥奈は、目を忙しなく瞬かせながら首を傾げてる。

「本当は八人目だが、いまはまぁ六人しかいないからな。遥奈、君は俺の、七人目の妹だ」

「兄様がそう決めた以上、わたくしはその意に沿うだけです」

 理解が追いついていない遥奈は、小さく口を開けている。

 それでもだんだんと言葉の意味が頭に染み渡ってきたのか、朱い瞳が輝きだし、抑えきれない笑みが口元から零れた。

「ありがとうございます!」

 言って遥奈は、俺に抱きついてくる。

 綺麗な栗色の髪からは、彼女自身のものと、緊張していたからだろう、微かに汗の匂いが漂ってきた。制服越しでもわかる女の子らしい柔らかい身体と、それ以上に柔らかい胸を密着されて、俺は動けなくなってしまった。

「兄様?」

「はははっ」

 ユニアの冷たい視線に曝されて乾いた笑いを返しつつも、俺は胸に顔を埋めて肩を細かに震わせている遥奈の髪を、優しく撫でる。

 こうした可愛いところは、ハルーナの本能がつくり上げた、中間宿主の俺に取り入るためのあざとい性格なのかも知れない、なんてことも考える。

 けれども遥奈が妹として俺の前に現れたのは、何かの縁だろうとも思えた。

 だから俺は、彼女が最終宿主を見つけるまでの、短いかも知れない、長くなるかも知れない間、兄でいようと決めた。

「ようこそ、高宮家に。遥奈」

「はい!」

 胸元から顔を上げた遥奈の満面の笑みに、俺も一番の笑みを返していた。

 

 

            *

 

 

 木製の重々しい扉をノックもせずに開いたのは、黒装束の者たち。

 気を失ったままの三人を豪奢な絨毯が敷かれた床に投げ出すように寝かせ、自分たちも膝を突いたり座り込んだりして、荒れた息を整えている。

「失敗したか」

 感情の籠もらない冷たい男の声は、応接セットや調度品が置かれた部屋の奥、ベッドにしても充分なサイズの執務机の向こう側から響いた。

 本革製だろう、まるで王座のような椅子に座る男は、黒装束たちの方を見ることなく、椅子の背を向けたままだった。

 六人に遅れて入ってきたのは、どこかの民族衣装のような、しかし黒一色に染め上がられた服を身につける者。

 黒い手袋を填め、首までを黒い布で覆い、頭には金属製の黒い仮面を被っている。

 髪も、肌もひと欠片も見えない仮面、というより兜には、視覚以外の感覚を使っているのか、カメラでも仕込んであるのか、外界を通し見るための穴すらない。

 薄暗く点けられた照明の下で、執務机の脇を通り、椅子の脇に立ったその者は、まるで底の見えない穴のように黒かった。

「やっかいな奴を中間宿主に選んだものだな」

 椅子に座る男は、誰に言うでもなくそうつぶやく。

「他の者ならばまだやりようはあると言うのに……。しかし、せっかくのハルーナだ。この幸運を逃すことなどできまいよ」

 そんな男の言葉に、黒仮面は椅子の方に顔を向け、頷いて見せる。

「あのハルーナは早めに確保しなければならないが、奴とその家族を相手にするならば、こちらも相応の準備をしなければならないな」

 その言葉に応えて、黒仮面は懐から小型の刀を取り出した。

 飾り気はなく、実用性を重視したような造作の脇差ほどのサイズの刀は、使い込まれている痕跡があった。

「そうだな。あれのことも呼び出しておいてくれ。こちらはこちらで、捕獲したあれを使えるように準備する」

 そう言った男は、小さく含み笑いを漏らしていた。

 

 

 



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七人の妹 第二章 ~妹模様~
七人の妹 第二章 妹模様 1


 

   第二章 妹模様

 

 

          * 1 *

 

 

 俺の目の前では、空中を飛び回る女子たちが、時に激しくぶつかり合い、時には華麗に躱し、手にしたスティックで殴り合うように振るっていた。

 球技の皮を被った格闘技、なんて揶揄されることもあるそれは、スカイホッケーと呼ばれる競技。

 身体の線が見えるようなベースウェアを纏い、腰や背中からは板状のスラスターを生やしている彼女たちが手にしているのは、先端にネットが取りつけられたスティック。

 旧世界のラクロスを三次元機動にしたようなその競技は、もう二〇〇年近く歴史があり、人気が高い。

 一組と二組の女子から編成された二チーム、二〇人ほどの女子が浮かんでいるのは、薄緑色の障壁で区切られた四角いスペース。

 ER空間。

 進化現実空間という、魔術によって物理法則を弄られたその競技フィールドの中では、現在は重力が大幅に小さく設定されていた。

 カテゴリー四から五の魔術で実現するER空間は、一般人ではそのためのマナジュエルとエーテルアンプを所持することは難しく、学校とか運動施設のみで使えるもの。

 魔導世界では競技のためにER空間を使うことはごく普通で、競技に合わせて柔軟に世界の法則を弄ることができるので、便利に使われている。

 重力操作もそうだし、格闘技などでは痛みのレベル――ペインレベルを変更するといったことも可能だし、遥か昔の電子空間に世界を構築して遊んでいたゲームを現実に引っ張り出したような空間なので、予め設定を組み込んでおけば、機材や装備を呼び出したりもできる。魔術を解除すれば、精神的なものは無理だが、肉体的な怪我や疲労もなかったことにできる。

 体育の授業だというのに、女子たちは相当真面目に、文字通り真剣にスカイホッケーをプレイしていた。

 Aチームのゴールが決まり、ボールはいま中央に戻され、四人のプレイヤーがボールを挟んで睨み合っていた。

 ホイッスルと同時に動き出した四人。

 真っ先にボールをスティックのネットに納めたのは、ユニア。

 ――よしっ。

 大会などでも使われる体育館の客席で、俺はユニアに心の中で声援を送っていた。

 ER空間の中では機動力はほぼ同じに設定される。

 実際には体格や体重により動きは違ってくるけど、スラスターの出力などで同程度の評価になるよう調整される。

 人間よりかなり運動能力の高いスフィアドールであっても、他の人と同じくらいの機動力になっているが、ユニアの持ち前の反射神経と判断力で、ボールを奪おうと向かってくるBチームの女子たちを躱し、ぶつかって吹き飛ばし、敵陣に切り込んでいく。

 顔の保護の意味を持つグラスバイザーには、三次元表示で敵味方の位置が表示されるが、実視界で迫り来る敵を対処しつつ、レーダーにも注意を傾け次の動きを決めるような機動は、普通の人には簡単じゃない。

 それを容易にこなすユニアは、普通の学生とは実戦経験が違う。

 敵陣の真ん中まで来たとき、ユニアは四人のBチーム女子に取り囲まれ、動きを止めた。

 現在は同点。残り時間はわずか。

 その状況であるがために突出という判断をしたんだろうユニアの動きに、他のチームメイトはまだ追いついて来ていない。

「いや――」

 俺は思わずつぶやき、口元に笑みを浮かべる。

 競技フィールドの地面すれすれを、栗色の髪をなびかせながら飛んでいたのは、遥奈。

 急上昇をかけた遥奈は、止まってしまっているユニアとすれ違う。

 ボールは、受け渡された。

 スピードの乗った遥奈の動きに、停止していた四人のディフェンダーは対応できず、ゴールまでの道が開かれた。

 けれど遥奈の前に、最後の敵が現れた。

 美縁。

 スティックを両手に持ち、仁王立ちするかのように脚を広げて浮かぶ美縁は、睨みつけるように遥奈を見つめ、行く手を阻む。

 個人の戦力を算出して割り振られるチームで、総合的に能力の高いユニアはたいていエースとして抜擢される。

 それと同時に、スフィアドールほどではないが、指揮力が高く、思い切りも良い美縁は、対抗チームのエースになることが多い。

 睨みつけるように遥奈を見つめる美縁。

 動きを鈍らせた遥奈は、その口元に笑みを浮かべていた。

 ユニアと遥奈に躱されたチームメンバーが戻りつつある状況で、取り囲まれるまでもう時間がない。

 そのとき、遥奈は左下に視線を飛ばした。

 視線に応じて、美縁がブロックに動いたのと同時に、遥奈は逆の方、右上に方向を転換して飛んだ。

 ――視線フェイントかよっ。

 左下にはユニアが近づきつつある。それはレーダーでも確認できる。

 実際にはまだパスできる位置にいないユニアと、レーダーの表示との差を使い、遥奈はすぐにパスするかのようにフェイントを掛けたのだ。

 それに気づいた美縁が身体を反転させて追いすがろうとしたときには、阿修羅のファントム女子の腕の間を、遥奈が放ったボールが通過し、ゴールのネットを揺らしていた。

 ゴールのホイッスルと、試合終了のホイッスルは同時だった。

 ――凄いな、遥奈は。

 彼女が俺の生体情報から身体を生成してから、まだ一週間と経っていない。

 初日と翌日は、普通の生活はともかく、走ったりホウキに乗ったりと言った運動は苦手だった。それなのに、いまではスカイホッケーでユニアのパートナーになるほど身体を使いこなしてる。

 それはハルーナの順応力かも知れなかった。

 ――でもたぶん、それだけじゃないな。

 ER空間解除のため、次々と床に降り立っていく女子メンバーたち。

 輪になり勝利の喜びを分かち合ってるAチームのメンバーの真ん中にいるのは、遥奈だ。

 控えめで割と引っ込み思案な彼女。催眠能力で無理矢理刷り込まれたからだろう、初日には教室でもぎこちなさがあったのに、いまはそんな感じはなく、遥奈はすっかり女子たちに受け入れられていた。

 そんな彼女を、俺も他の妹たちと同じように、妹のひとりとして受け入れることができるようになってると、自分でも感じていた。

 座席に座った俺は膝に肘を突き、笑みを漏らしていた。

 

 

 

 

 次のチームによる試合が始まった頃、俺がいる観客席にやってきたのは、美縁と遥奈とユニア、それから北野姉弟。

 用意しておいたスポーツドリンクの入ったボトルを三人の妹たちに渡しながら、「お疲れさん」と声をかけた。

「ぎりぎりでしたが、勝てました!」

「もう! あそこでフェイントに引っかかるなんて、私の莫迦っ」

「あぁ、見てたよ」

 嬉しそうな笑顔で俺の左隣に座った遥奈。

 不満そうに言ってストローに口をつけた美縁は、頬を膨らませながら右隣に座った。

「遥奈がこちらの意図を読んでくれていたので、ためらうことなくパスが出せました。機動自体は大雑把なものですが、判断力はなかなかのものです」

 後ろに立ったユニアの評に、俺は振り返って彼女の満足そうな顔を見る。

 アッという間に身体の使い方を覚えた遥奈。

 調べてみた限りでは、妹スキーや、希少生物を売買しているハンターなんかがいまもハルーナを探し回っているようだった。

 ただし落下地点が特定されていないため、捜索範囲は関東全域に分散しているようだし、いざというときのためにユニアに護衛に入ってもらってる。

 イズンの住民登録上でもおかしなところはなく、生体情報は簡易な検査じゃ俺と血縁のある妹であるとしか出ない。

 遺伝的に見ればあの朱い瞳は異常とも言えるんだが、いまどきファッション感覚で身体のパーツをつけ替えたり、機械を埋め込んだりするプチサイバーが流行ったりしてるから、珍しくてもそう目立つものでもない。

 そこらの奴じゃ、遥奈をハルーナと判断することは難しいはずだった。

 ――あの襲撃者は、気になるけどな。

 遥奈が俺の前に現れた初日に襲撃してきた、黒装束たち。

 奴らはあの後は姿を見せていないが、たぶん遥奈のことをハルーナと知って襲ってきたんだ。当面は警戒を解くことができない。

 それについてはもっと気がかりなのが、人払いの結界を張った方法がわからないことだ。

 軍事レベルのエーテルアンプとマナジュエルを持ち込んだか、かなり高い魔法力を持った魔法使いか、高位のファントムがいた可能性がある。

 気を張っていなければならなかった。

「本当、遥奈ちゃんにはびっくりだよ。あんなに運動神経高いとは知らなかった」

 美縁の側に立つ七海がそう言うと、遥奈ははにかんだ笑みを零し、恥ずかしいのか俺に身体をくっつけてくる。

「えへへっ」

 照れている彼女の栗色の髪を撫でてやると、嬉しそうに目を細めていた。

「ふぅん」

「え? わっ! 七海?!」

 訝しむような声を出して美縁の隣に座った七海。

 座る位置が近すぎて、美縁は俺の身体にもたれかかるように押し出される。

「なんつぅか、こう見てると二股かけてるチャラ男みたいだな、佳弥」

「何言ってんだよ、お前は。妹だぞ」

 左から遥奈に、右から美縁に密着されてる俺は、友康の言葉に力なく反論する。

 ER空間用のウェアは結構厚みのある生地だが、こう密着されるとさすがに俺だって一五歳の男なんだし、微妙に違う遥奈と美縁の汗が混じった匂いで鼻がくすぐられてしまう。

「やっぱり佳弥って、そういう?」

「いったい誰が本命なんだ?」

「どういう意味だよっ」

 身動きが取れない俺は、そんなことを言う七海と友康を睨みつける。

 顔を赤くして「兄さんが? まさかっ」なんて言って慌ててる美縁に対し、遥奈はニコニコ笑いながらさらに身体を押しつけてくる。

 もう俺はどうしていいのかわからなくなっていた。

「まさか、兄様に限って特定の妹を選ぶなどということはあり得ません」

 そう言いながら、後ろから俺の首に腕を回してきたのは、ユニア。

「兄様はわたくしたち妹全員の兄様ですから」

「そっ、そうだよ!」

「えぇ。そうですね」

 どこまで本気で言ってるのか、ユニアはいたずらな笑みを肩越しに向けてくる。

 同意する美縁と遥奈に、俺はため息を漏らすことしかできなかった。

 なんだかこんなのも、もう当たり前のように思えていた。

 つい先週まで遥奈は俺の妹じゃなかった。それなのにいまは、すっかり妹のひとりとして、俺の家族の一員となっている。

 けれどたぶん、遥奈はそう遠くないうちに最終宿主を見つけて家を出ていってしまうんだろう。仲良くなれば仲良くなるほど、別れはつらくなる。

 彼女が家を出るとき、そのまま別れを告げるか、もう一度催眠能力を使って美縁たちの記憶から遥奈のことを消してもらうかどうかは、決めてない。

 遥奈を含む七人の妹に囲まれる生活に、充実と、不安を俺は抱えていた。

 

 

 

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七人の妹 第二章 妹模様 2

 

 

          * 2 *

 

 

「どうしたんだ?」

 学校が終わり、遥奈を後ろに乗せたバイクで俺たちの家があるプレートの発着場まで来たとき、人がたくさん集まってるのに気がついた。

「どうしたんだろうね?」

「見知った顔が多いようですが」

 またがっていたホウキから降りて美縁はショートの髪を揺らしながら首を傾げ、メカニカルアイの目を細めながらユニアは警戒する。

 ユニアが指摘してる通り、発着場から続く舗装路に出てきている人々のほとんどには、見覚えがあった。このプレートに住んでる人たちだ。

 プレート住人以外にもたくさん人が来ているようだったが、イズンの住人でない人は少ない様子。集まってる人たちの表情から察するに、有名人でもいる感じだった。

「あぁ、なるほど」

 人並みを避けバイクを押して道の端を進んでいくと、人が集まっている理由がわかった。

 家が近づくに連れて増えてく野次馬が注目してるのは、魔導士や戦闘用サイボーグだろう黒いスーツの護衛に囲まれた、ロマンスグレーという言葉がぴったりな、ひとりの男性。

 グレーのスーツをピシリと着こなし、柔和な笑みを浮かべて集まった人ひとりひとりと話しているその男性は、芒原真誠(すすきはらまこと)。

 通称、イズンの帝王。

「挨拶しないとな」

「そうだね。でも久しぶりだね、うちまで来るの」

「何かあったのかね」

 美縁とそんな言葉を交わし、俺たちはいったん家にバイクやホウキを置いてくる。

 それから家の前の道路まで進んできた人垣の隙間から、四人で芒原さんの元に向かう。

 アイドルとかじゃないが、護衛が必要なくらい有名人で、人気のある彼は俺たち家族の知人。側に近づく人を制限してる護衛の人も、俺たち四人のことは顔パスで通してくれる。

「お久しぶりです、芒原さん」

「久しぶりだね、佳弥君。君たちはいま、学校に通っているのだったね。すっかり失念していたよ」

 白が混じってグレーになってる髪の芒原さんは、五〇歳前後に見える。

 俺はもちろんのこと、美縁やユニア、遥奈にも優しさの籠もった笑みをかけてくれる彼は、見た目よりも年寄りだ。

 確か、三五〇歳前後。

 原初の魔女エジソナがマナとエーテル場の存在を実証して始まった魔導世界。芒原さんはそれ以前の、旧世界から生きてる、いわゆるエンシェントエイジと呼ばれる世代の人だ。

 魔導科学の恩恵を受け、いまも生きていると伝えられるエジソナの他、もうそれほど残っていないというエンシェントエイジの彼は、まさに旧世界の生き証人。

「その目、どうかされたんですか?」

「いやちょっと、新しく入れた目の調子が悪くてね。機能補助用なんだ」

 そう言って目を細めて笑う芒原さんの目はオレンジ色のグラスバイザーで覆われている。

 視力が低下したりすることは事故や眼球の劣化でもあることだけど、自分の細胞を培養したり、メカニカルアイだったり、高機能細胞製とかの代用品に簡単に交換が利くし、多機能コンタクトレンズだってある。

 エンシェントエイジの芒原さんの場合、三世紀以上生きる間に、その身体は脳を含めて余すところなく手が加わっているという。先進的なものが好きな彼の場合、一時は脳を四角い水槽の中に入れ、それに簡易な手足を生やしたような姿にまでなったことがあるらしい。

 新しいものに目がない芒原さんだが、まだ検証が充分でない新商品に飛びついて、不具合でも食らったんだろう。

「それでまた、今日はなんでこんなところに?」

「こんなところと言うが、僕が住んでいる穴蔵よりもここはマシさ。まぁ今日は視察だよ。ここのところ街が騒がしいようなのでね」

 ニコニコと笑ってる彼の住まいは、イズンのジオエリア。都市の基部に近い階層にある。

 そのフロアほぼすべてを自分の敷地としている、非常識とも言える自宅を持っている芒原さんは、ただ有名人というわけではなく、イズンの父と言える人。イズン、イケブクロ・サンライズ・ノヴァの名前は、彼が名付けたと言っても過言ではない。

 旧世界から政治家をしていた芒原さんは、魔導世界になるのと同時に、イケブクロの発展を目指して新しい技術を積極的に取り入れた。日本では最も早く積層型都市の建造を立ち上げたのも彼だし、自治区長になり様々な改革を押し進めたのも彼だ。

 けれどそんな急進的な動きは区議会内でも反発があったそうだ。

 最初に建造されたイケブクロ・サンライズ・シティはテロに遭い、落成式直前に都市構造のほぼすべてが崩落し、壊滅してしまった。かろうじて人的被害をほとんど出さずに済んだサンライズ・シティの落下地点は、イズンとネオナカノの間に、いまは地上の記念公園として残されている。

 その事件の後、彼は私財をも投入し、親族が経営する建設会社を倒産の危機にさらしながらも新しい都市を建造し、彼が言った「今度は超新生のように消えないでくれよ」という冗談からイケブクロ・サンライズ・ノヴァという都市名になった。

 半世紀ほど前にも色々あったらしく、政治家としては引退したが、その後も積極的に、貪欲に活動する彼は、学校で教師をしていた俺の両親を師事し、それが縁で、年に一度も会わないが、いまも俺や妹たち含めて親交がある。

 エジソナが予言した人類滅亡にいち早く同意し、宇宙人やファントムとの異生物婚こそ否定的なものの、同性婚や親族婚を認める自治体法を施行したり、妊娠以外の方法で子供をつくる許可が出るようになったのも、日本ではイケブクロ自治区が早かった。

 イケブクロの、そして地球人類の発展と繁栄を謳うが、その強引さと革新的過ぎるやり方もあって、皮肉を込めて「イズンの帝王」という呼び名が定着している。けれどもいまのイケブクロ自治区があるのは、彼がいたからこそだ。

 一線を退いているものの、オオクボ・タカダノババ地区の領有を巡って一時は戦争に突入しそうだった、すぐ隣のシンジュク自治区との交渉役をやっていたり、手腕はもちろん、人気も健在だ。

 そんな有名で、凄い人物だというのに、親が不在の俺たち家族を気に掛けてくれたり、気さくに話しかけてくれる芒原さんは、両親の次に目指したい大人の姿だった。

「街が騒がしいって、どうかしたんですか?」

「うん。なんでも希少な寄生生物が地球に飛来したというので、各地から関東に人が集まっているようでね」

 友康ですら知っていたことなんだ、ハルーナのことを芒原さんが知らないわけがない。

 遥奈は緊張したようにぎこちない表情になってるが、わかっていない美縁と、わかっていても冷静なユニアは涼しい顔をしているだけだ。

 俺も表情には出さず、怖い話を聞いたみたいに眉を顰めて、もう少し話を聞き出してみることにした。

「その話は噂で聞きましたね。警務隊が捕獲に乗り出してるとかですか?」

「いや、もう二週間近く経っていて、発見したという情報は出ていなくってね。飛来の情報自体不確かなものだったから、ガセということで終息しつつあるよ。ただ、僕としてはいまも残って捜索を続けてる輩が、イケブクロで問題を起こしてるか、起こす可能性があるかを確認して回ってるだけさ。イズンが平穏であることが、僕の望みだからね」

「なるほど」

 爽やかな笑みを浮かべる芒原さんの様子からは、ハルーナ自体に興味を持っている感じはしなかった。ただしファントム顔負けの年齢であるエンシェントエイジの彼の真意を、たった一五歳の俺が表情や口調から読み取ることはできてる気がしなかったが。

 ――芒原さんみたいな人が、遥奈の中間宿主か、最終宿主だったら、良かったのかもな。

 権力や財力はもちろん、護衛などの武力も持っている芒原さん。

 たくさんの人に捜され、追われている遥奈のことを考えたら、俺よりも彼の側の方が安全なように思えた。

 ちらりと遥奈の方を見てみると、まだ表情を強ばらせてる彼女は、俺の服の袖をこっそりつかんできていた。

 ――遥奈にその気がないなら、勝手に話を進めるわけにはいかないな。

 いくら安全と言っても本人の意思を確認せず、こんな人目があるところで話すこともできなくて、俺は遥奈の髪を撫でてやるだけにした。

「しかし、相変わらず君の妹たちは、素敵な女性たちだね。羨ましいくらいだよ」

「いやぁ、口うるさいのが多いし、いろいろ大変で――痛い、痛いっ」

「はははっ」

 言葉を最後まで言えず、美縁とユニアに背中をつねられて悲鳴を上げる俺は、芒原さんに笑われてしまった。

「さて、そろそろ次の場所に向かうよ。また近いうちに、ゆっくりと話をしよう」

「はい」

「お待ちしています」

「お疲れさまでした」

「はい……」

 手を振り、集まった人たちと握手を交わしながら離れていく芒原さんの背中を、俺は何となく不安を覚えながら見送った。

 ――遥奈にとって一番安全な場所はどこだろうか。

 妹のひとりとして定着しつつある遥奈だけど、そんなことを思うことがあった。

 俺の妹たちはみんな優秀で、ユニアだけでもそこらのトラブルなら対処できるだけの戦力がある。

 それでも最終宿主を見つけるまでの期間を考えると、不安があることは否めなかった。

 ――でも、なぁ。

 一度妹として受け入れてしまった遥奈のことを、手元に置いておきたいという気持ちが自分の中にあることも、俺は気づいていた。

 それは、俺のただの傲慢だろう。

 ――すぐに結論を出さなくてもいいか。

 とくに根拠もなく結論を保留にして、俺は振り返る。

 不思議そうに見つめてくる美縁。

 わずかに険しい表情をしているユニア。

 なんだか暗い顔をしている遥奈。

 三人の顔を見渡し、言う。

「さぁ、家に入ろう。早めに夕食の準備もしないとな」

「うんっ」

「そうですね」

「……はい」

 全員の返事を聞いて頷いた俺は、妹たちの肩を押しながら玄関へと向かった。

 

 

            *

 

 

 食事は作業と娯楽に分化したと言われて久しい。

 料理はすでに実用的な作業ではなく、芸術か趣味だと言われてる。

 申請すれば自治体から支給されるゼリーフードやスティックフードで栄養やエネルギーは摂取できるし、家庭に普及している合成調理器を使えば食感も味も完璧で、ゴミも出さず簡単に食事がつくれる。

 それでも外食産業がなくなっていないのは、標準で提供されていないオリジナルの料理情報を合成調理器で作成しているからだったり、家庭以外の場所で友人や仕事仲間と食事するからだったりする。

 それ以外にも、完全な趣味として、地上の畑で採れた自然食材を使った旧世界から変わらない料理もあるが、いまではそうしたものは完全に趣味だとされる。

 趣味と言われながらも自然食材で料理をつくることや、それを提供する店が残っているのは、おそらく人間の習慣がまだまだ旧世界から変わりきっていないし、完全に変わってしまうことがないからだろう。

「はい、兄さん」

「ありがと」

 美縁が手頃なサイズに切ってくれたジャガイモをまな板ごと持ち上げて、俺は鍋の中に投入した。

 いまつくっているのはうちの家庭料理、塩スープ。

 正式名称はよくわからないが、俺が幼い頃からお袋がつくってくれた、この家の味。

 俺はもちろん美縁も好きで、そして結奈も、好きな料理。

 この家で自然食材を使って料理をつくることが多いのは、親父やお袋がそうしていたからと言う、習慣だからと言うのが正確だろう。

 時間がなければゼリーフードもスティックフードも食べるし、合成調理器だって使う頻度は多い。でも時間がある限りうちでは包丁を持って、自然食材を下ごしらえして、料理をつくる。ガスではなく魔術による火を使うようになってるとか、旧世界とは違ってきてることも多い。

 そうして生活してきたからそうしているという、習慣だ。

 妹たちが合成調理器のよりも、手で調理した食事を要求してくるから、ってのもあるが。

「ん。こんなもんだな」

 お玉でスープを小さな味見皿にとって味見し、俺はもう一度スープを掬って美縁に渡す。

「大丈夫だね」

「んじゃ、あとは煮込むだけだな」

「うん」

 返してきた味見皿を流しでさっと洗って水切りに置き、とろ火にしたレンジ台の上の寸胴鍋を、お玉でゆっくりとかき混ぜる。

「どうした? こっちはもういいぞ」

「うん……」

 もう手伝ってもらうことじゃなくなったというのに、エプロンを着けた美縁はまだキッチンに立ったままだった。

 対面キッチンになっていて、見えている共有フロアには、他の妹たちはいない。ユニアが夕食のためにテーブルを準備するのも、もう少し後だ。

 少しうつむき、迷うように視線を彷徨わせている美縁。

 意を決したように俺の瞳を見つめてきた彼女は、言った。

「ここのところ、兄さんは何をやってるの?」

「それは……」

 真っ直ぐに見つめられて、俺は答えに詰まる。

 同い年で、元々親戚だった姫乃より、美縁は俺と出会ってからの時間が長い。何より家族として、一緒に過ごした時間は他の妹たちとは桁違いだ。

 そんな彼女に、俺がやってることを気づかれてるだろうことは予想していた。美縁に隠し事なんてできるはずもない。

 だけど問われたときどう答えるかは、決めかねていた。

「何か私に隠れて、こそこそやってるよね? ユニアも巻き込んで。遥奈のことで、何かあったんだよね? たぶん」

「……まぁな」

 美縁と向き合い、頭を掻きながら俺はいまさらながらに、彼女に問われたときの答えを用意してなかったことを後悔する。

 隠しきれない以上、美縁に問われることなんてわかってたことだった。

 でも、やっと一週間になる遥奈のことは、落ち着いてきたとは言えまだ多くの課題があるため、そっちに気を取られてばかりいた。

 いや、考えることから逃げてたんだ。

 遥奈は、いつか家を出て行く妹。

 それは他の妹たちも、結婚とか独立とかで出て行くことはわかってる。だけど遥奈についてはそれが最終宿主を発見し次第という、他の妹より早いのは明らかだ。

 彼女が出て行くときどうするかについて、ずっと悩んでいて、答えが出ないままでいた。

 美縁に説明する言葉を、見つけきれずにいた。

 だからいまは、あまり深く説明しないでいることに決める。

「遥奈をつけ狙ってるストーカーがいるみたいでな、ユニアに護衛をお願いしてるんだ」

「ストーカー?」

「あぁ」

 俺の言葉に、美縁は眉根にシワを寄せる。

 少し前屈みになって下から睨みつけてくるようにしてる彼女は、俺の言葉に納得してるようには見えない。

「あのね、兄さん」

 一歩近づいてきて、俺がつけてるエプロンの胸元を、伸ばした右手でつかんできた美縁。

 細めた目を彼女は悲しげな色に沈めていた。

「兄妹の間でも、秘密があるのは当然だと思うよ。でもね? 兄さん。嘘を吐かれるのは、イヤだよ」

 結奈も、人が隠していること、言わないでいることを、よく見つける奴だった。

 美縁にもそうしたところはある。姉妹なのだから、似ている。

 誤魔化しきれないのなんて、美縁が生まれてからずっと一緒にいるんだ、充分以上にわかっていた。まだ遥奈のことをどうするか決め切れていない俺は、彼女にすべてを話すことはできない。

 すがるような瞳で見つめてくる美縁に、俺は答えた。

「ストーカー、と似たような奴らに遥奈がつけ狙われてるのは本当だ。その理由については、――済まない。話せるようになったら詳しく話す」

「全部?」

「あぁ。最初から最後まで、全部」

「……ん。わかった」

 まだ不満そうな色を残しつつも、美縁はエプロンから手を離してくれた。

 深くうつむいて考え込む彼女が不満と寂しさを抱えてるのは重々承知してるが、遥奈の秘密は正直に話した方が遥奈自身だけでなく、美縁たちにも悪影響が出る可能性がある。

 だから俺は、いまはまだ全部を話すことができなかった。

 ――でもたぶん、遥奈が家を出るときは、記憶を消さずに全部話すことになりそうだな。

 不満顔の美縁が無言のままキッチンを出て行くのを見送って、鍋をかき回す作業に戻った俺は、そんなことを考えていた。

 

 

            *

 

 

「バーシャ、起きてるか?」

 軽くノックをして、扉を開ける。

 夕食の準備はほぼ終わり、余熱で材料に味が染み込むのを待つばかりになったタイミングで、俺はバーシャの部屋に入った。

 美縁は部屋に籠もってるし、羽月と紗月も自分の部屋で何かやってるようだった。

 遥奈を手伝いに駆り出し夕食の準備を始めたユニアと視線を交わした俺は、扉を閉める。

「んにゅぅ……」

 そんな鳴き声のようなつぶやきを漏らしたバーシャは、ベッドではなくお気に入りのソファに突っ伏しているのが見えた。

 家の中だから別に問題ないんだが、女の子としてはどうかと思うような、シャツにショートパンツという、ラフというよりあられもない格好のバーシャ。

 ソファの空いてるとこに座って、俺は彼女の背中を軽く叩いて声を掛ける。

「そろそろ夕食だし、ちょっと話があるから起きてくれないか? バーシャ」

「うぅん……。眠いよ、お兄ちゃん」

 言いながら起き上がったバーシャは、そのまま俺にもたれかかり身体を預けてきた。

 一三歳の割にいろいろと成長著しいバーシャに密着されると、さすがに俺でもちょっと問題がある。肩をつかんで無理矢理ソファに座らせて、改めてここに来た目的を言う。

「訊きたいことがあるんだ、バーシャ。目を覚ましてくれ。先週の――」

「人払いの結界のこと?」

 最後まで言う前に、言われてしまった。

 伸びをして大きな欠伸を漏らした彼女は、碧い瞳で俺のことを見つめてくる。

 寝癖があってなおふんわりとした、バーシャの金色の髪は美しく、輝いて見える。

 いつも寝ているばかりで、ほとんど家にいる彼女は、それでも重要な仕事を任されている。イズンに、そして地球にとって。

 魔法少女バーニア。

 それがバーシャの在り方であり、俺たち家族だけが知っている彼女の正体だ。

 結奈が時空断層に消えた後、バーシャはイケブクロ自治区を守る後任の魔法少女としてこの家の扉を叩いた。

 旧世界では存在を隠して、地球の平穏を守るために活動していた魔法少女たち。いまでは正体こそ隠しているが、その存在を隠すことなく、主に大きな自治体ひとつにひとり程度の割合で配置されていて、その地域を守っている。

 魔法少女たちがどのような組織をつくり、成り立っているのかはわからない。

 俺は結奈、バーシャと魔法少女を身内に持っているから最低限のことは知っているが、どうしてバーシャがこの地域に配置されたのか、誰に命じられたのかといったことは知らない。彼女たちが話してくれることもない。

 地球の魔導科学で製造が可能なマナジュエルは、カテゴリー八がせいぜい。

 人間が扱える範囲を超える、カテゴリー一〇オーバーの魔法力と、その力が活かせるマナジュエルを供えた魔法具を持つ彼女たちは、主に宇宙怪獣とか暴走ファントムとかを相手にしていて、地球規模の危機でもない限り人間同士の争いには介入しない。

 重要な役割を担う魔法少女には、秘密が多い。

 バーシャがいつも眠そうにしているのは、彼女の圧倒的とも言える魔法力に関係していることだった。

「そうだ。あのときの人払いを張った奴について知りたい」

「んーとね」

 もう眠そうな様子はなく、ショートパンツから伸びた柔らかそうなのに、しなやかに引き締まった脚を組み、可愛らしく小指で唇を撫でるバーシャは答えてくれる。

「あれを張ったのはファントムだよ。結界自体はカテゴリー六か、七くらいかなぁ? ファントム自体はどれくらいだろぉ。距離があったから、そこまではわからなかったんだぁ」

 ゆったりとした口調で、内容的にはけっこう凄いことを話すバーシャ。

 ファントムには神話に出てくるミュートス級から、伝説に語られるレジェンド級、民間伝承の存在であるフォークロア級など、いくつかの分類がある。

 どのクラスに入るかは力の強さに直接関係しないが、たいてい強いファントムは主にミュートス級に集中している。世界創造に関わった神格のファントムなんてのは、魔法少女でも相手にしきれないなんてのまでいる。

 結界がカテゴリー六から七だったとしたら、それを張ったファントムはレジェンド級か、ヘタするとミュートス級の奴だ。

「ちなみにね、ファントムが結界を張るくらいじゃ、ワタシは動けないんだ。場所がネオナカノだったから、管轄外だったしね」

 口調こそゆっくりなままだが、いつもの眠そうな感じのないバーシャの目は、鋭く細められている。魔法少女のときの彼女の目だ。

「かなりの強さだな、そうすると」

「うん。ユニアはスフィアドールとしてはかなり強いけど、あれくらいのファントムだとつらいかな? どんな神格なのかわかれば、もう少し対処のしようもあると思うけどねぇ」

「この前は直接手を出してこなかったから、まだマシだったってことか」

「んー。どうかなぁ。直接手を出したら、たぶんネオナカノの魔法少女が動くことになると思うんだよね。それを避けたかったんじゃないかなぁ?」

「なるほどな。――ってことは、魔法少女の事情にも精通してる奴ってことになるか」

「そういうことだねぇ。ワタシが動ければいいんだけど……。お兄ちゃんや、家族が巻き込まれてるのがわかってるときか、目の前で起こってときでないと、難しいかなぁ」

 そう言ったバーシャは、俺の膝に倒れ込んでくる。

 魔法少女バーニアとして活動してるときのバーシャは、一三歳と思えないほどに凜々しく、格好いい。

 けれども彼女は恐ろしく燃費が悪い。

 ユニアと一緒に訓練を積んでいたりはして、身体はかなり引き締まっているわけだが、そうしたときと魔法少女として出撃しているとき以外は、ほとんど家で寝ている。

 当然生活能力は皆無に等しく、部屋の掃除は俺かユニアがやってるくらいだ。食事なんかも放っておくとスティックフードしか食べてなかったりして、別にそれでも栄養なんかは問題ないんだが、この家に来るまでどうやって生活していたのか不思議になるほどだった。

 表向きの立場として住民登録にある、六歳で海外の学校に入学し、九歳のときに主席で卒業するほどの学力は、たぶん天才の範疇に入る姫乃よりも高い。

 魔法少女としてはどれくらいの強さなのかわからないが、それでも常人を遥かに超えるカテゴリー一〇オーバーの魔法力を持つ彼女は、いろんな面で破格な女の子だ。

「お兄ちゃん、大好きぃ」

 眠くなってきたらしいバーシャは、そう言いながら脚の間に顔を埋めるようにして、俺の身体に腕を回してくる。

「まったく」

「んー。いい匂い。安心する……」

「寝るなよ、そろそろ夕食なんだから」

 お腹の辺りに頬をこすりつけてくるバーシャの柔らかい髪を、調えながら撫でてやる。

 甘えん坊で、いろいろダメなところが多くて、でもその実体は凄まじい女の子。

 それがバーシャ。

 そんな彼女のことが、俺は可愛いと思う。妹として。

「ワタシはね、お兄ちゃんにいつもありがとう、って思ってるよぉ」

「ありがとう?」

「うんー。ワタシはね、ひとりじゃ生きていけないんだぁ。だから、ワタシのことを妹にしてくれて、凄く凄くありがとう、って思ってるよぉ」

 お腹のところから俺の顔を見上げて言うバーシャは、頬をほんのり赤く染めながら、笑んでいる。

 嬉しいことを言ってくる彼女の髪をさらに撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。

「お兄ちゃん」

「ん?」

「もし、ね? お兄ちゃんが夜、ワタシと一緒に寝たくなったら、いつ来てくれても、いいんだよ?」

「――何、言ってんだ」

 表情は緩んでいるのに、いつもの眠そうな目ではない、真っ直ぐな瞳でそんなことを言われて、髪を撫でていた手が止まる。

「たまに、俺の部屋に忍び込んできてるじゃないか」

「寝てるときのお兄ちゃんは、何もしてくれないでしょう?」

「何するつもりだよ、バーシャ、は――」

 目をつむり、何かを待つように俺に顔を向けてくるバーシャに、今度は全身が硬直してしまった。

 ふんわりとした柔らかい金色の髪。

 妹の中でも誰よりも女の子らしい身体つき。

 日本人とは違う、鼻筋の通った可愛らしい顔立ち。

 俺が兄でなければ、欲望に抗えなくなっていたかも知れないほど、バーシャは魅力的な女の子だ。

「も、もう夕食にするぞっ。寝てるんじゃない、バーシャ!」

 言って俺は膝の上に乗ってるバーシャの頭から逃れるように立ち上がる。

「ぶーっ」

 起き上がって不満そうに口を尖らせる彼女にどんな顔を見せていいのかわからなくて、俺は背を向ける。

「狙われてるのは、遥奈だよね?」

「あ、あぁ。そうだ」

「ん。わかったぁ。ファントムのことは気をつけておくけど、あんまり積極的に動けないかも知れない。ゴメンね」

「いや、まぁ、できる範囲でいい」

 鼓動の早い心臓を胸の上から押さえながら、俺は背中に掛けられた言葉に答える。

「ん。わかったぁ。じゃあ夕食にしよー」

「そうだな」

 ソファから立ち上がったバーシャは、俺を追い越して部屋を出る。

「ワタシだって、勇気振り絞ったんだよ?」

 追い越し様、そんなことをこそりと言われて、俺は踏み出そうとした足が止まってしまっていた。

 

 

 



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七人の妹 第二章 妹模様 3

 

 

          * 3 *

 

 

「そろそろ出かけるぞー」

「待って! 兄さん、もう少し待ってっ」

 共有フロアでそう声をかけると、真っ先にそんな返事をしてきたのは、美縁。

 半開きの扉からは部屋の中は見えないが、どうやらまだ着替えてるらしい雰囲気がある。

 週末の今日は、買い物に出かける予定になってる。

 一階にある居室は六つ。うちひとつは羽月と紗月がふたりで使ってるから、空いていた部屋を遥奈のにして、造りつけと家で余っていたのと、急遽手配したので一応家具は揃っているが、通販と学校帰りの買い物で揃えていた日用品は、直接目で見て買うべきものがけっこうあった。

 だから今日は、直接店に出向いて買い物をしようという話になった。

 そんな相談をユニアと遥奈としていたら、美縁も行きたいと言うから、久しぶりに妹たちと出かけることにしたという顛末だ。

「お待たせしました、兄様」

「佳弥さん、えっと……。お待たせ、しました……」

 ユニアの部屋から出てきたのは、こんな日だというのに、たぶんポリシーか何かなのだろうけど、メイド服姿のユニア。

 それから、遥奈。

 白のブラウスに合わせた濃い赤のジャンパードレスは、ふんわりと広がったスカートの裾に飾りがあったりする程度で控えめ。静かな雰囲気のある彼女によく似合っていた。

「ユニアさんに選んでもらったのですが、その……、どう、ですか?」

「ん……。似合ってるよ、遥奈」

「――ありがとうございますっ」

 嬉しそうに笑みを漏らし、遥奈は少しうつむいて俺の感想に応えていた。

 そんな彼女を見て、こちらも笑みが零れてくるのを止められない。

「兄様?」

「うっ」

 鋭い声とともにユニアの視線が突き刺さってきて、俺は表情を凍りつかせる。

 ユニアだって着飾れば可愛いと思うのに、制服かメイド服しか頑なに着ない。濃い緑の髪をポニーテールに結い上げているのも同じだ。

 それはそれで彼女らしく可愛いとは思うんだが、怒ったような視線を向けられても、答える言葉が見つからない。

「えぇっと……、そう思えば羽月と紗月は今日はどうするんだ? ちょっと聞いてくるっ」

 逃げるように俺は羽月と紗月の部屋へと向かう。

「入るぞ」

 ノックして答えを待たずに扉を開け、中へと踏み込む。

「羽月? 紗月? 俺たちは買い物に出かけるが、お前たちはどうする?」

 ふたりには今日のことは伝えてあったが、どうするかは聞いていなかった。

 何かと忙しく、週末でも仕事に出かけてることが多いふたりは、何をしているかは知らないが、一緒に買い物とかに行く機会はあまり多くない。

「羽月? 紗月?」

 偏光ガラスの濃度を一番濃くして、薄暗い部屋の真ん中に立っているふたり。

 うつむいて、返事をする様子のないふたりに、俺は眉を顰めた。

「うぉっ」

 誰も閉めてないのに、扉が閉まった。

 途端に部屋の中を満たしたのは、冷気。

『久しぶりよの、佳弥』

 顔を上げ、俺のことを見た羽月と紗月は、ふたつの口でひとつの言葉を紡ぎ出す。

 いつもの、声がハモるのとは違う。完全に同一の言葉を喋っているふたりは、普段の彼女たちではなかった。

「貴女は……」

『あぁ、テラじゃ』

「お、お久しぶりです」

 姿形はいつも通りの羽月と紗月。

 けれどいまふたりから放たれる雰囲気は、いつもの彼女たちじゃない。長い時を経た風格が備わっているように見える。

 羽月と紗月に出会ってからほんの数回だけ会ったことがある、たぶんふたりにとっての本来の神格。本当の名前は教えてもらっていないが、彼女はテラと名乗っていた。

 かなり高い神格なのだろうテラは、いままで会ったことがあるどんなファントムよりも圧倒的な威圧感がある。

 羽月と紗月については、住民登録のためにいろんな検査を行ったが、偶然としか思えない事故によりひとつの神格がふたつに別れているため、本来の神格の正体をつかむことができなかった。

 ただ確実に、ミュートス級の神格であることだけはわかる。

『あの娘、遥奈だったか? あれを正式な妹として迎え入れるつもりか?』

「それは……、何とも言えません」

『ハルーナなる寄生生物故、判断がつかんと?』

「えぇ、そうです。遥奈はたぶん、遠くなくこの家を出て行くことになると思いますから」

 声だけでなく、表情すらも同一に、唇の端をつり上げて笑う羽月と紗月。いや、テラは、俺のことを値踏みするように見つめてくる。

 血の繋がった妹である美縁や結奈の次に妹暦の長いふたりだけど、テラを含めてわかっていないことの方が多い。

 テラがどんなことを思い、考えているのかなんてのは、俺の想像の範疇を遥かに超える。

 ただ、羽月と紗月はどうかわからないが、少なくともテラは、遥奈の催眠能力が効いていないこと。それだけはわかった。

「俺は……、最終宿主が見つかるまでは、遥奈を家族として、扱おうと思っています」

『いつ、どのような形でその最終宿主とやらが見つかるともわからないのに、か?』

「うっ――」

『お主が考えているほど、ハルーナという生物は生易しい存在ではない。あれは必ずや他の家族に迷惑をかけることになるぞ?』

「それは……」

 テラの指摘はたぶん正しい。

 生易しい存在ではない、というのがどう言うことなのかはわからない。しかしユニアにはすでに迷惑を掛けてしまっているし、これから先、先日の襲撃と同様のことがないとも限らない。

 ――でも、俺は遥奈を……。

 テラの言葉にうつむいてしまった俺は、自分の想いを告げようと顔を上げる。

 けれど俺が口を開くより先に、テラが言った。

『佳弥は妹という存在に甘すぎる。その甘さは、優男の優柔不断だ』

「ぐっ」

 反論もできず、俺は言葉を詰まらせる。

 ユニアにも言われたことだが、確かに俺は妹たちに甘い。

 妹たちはみんな可愛い。美縁はもちろん、バーシャも、ユニアも、姫乃も、それから羽月と紗月だってそうだ。

 そして遥奈も、いまは可愛い俺の妹のひとりだ。

 そう思える。

 だからテラの言葉に反論のできない俺は、彼女に真っ直ぐに言葉をぶつける。

「遥奈が、俺の妹として現れたのは、何かの縁だと思う」

『ほう?』

「言われてる通り、俺は妹たちに甘い。縁があって妹になったみんなのことが好きなんだ。遥奈との縁は、結奈が繋いだ羽月と紗月との縁と、近いものがあると思うんだ」

 俺が見つめる羽月と紗月――テラは、笑みを浮かべている。

 口を挟まず、楽しそうに笑んでいる彼女に、俺は言葉を続ける。

「自分の行くべき場所を持たない遥奈は、あのときの羽月と紗月に近い立場だと思う」

 ひとつの神格がふたつの身体で顕現した羽月と紗月は、本当に何も持っていなかった。

 行くべき場所も、やるべきことも、自分自身すらも。

 巨大な神格の顕現を察知した結奈が、警戒のために魔法少女として出撃して、ふたりを発見した。連れて帰ってきたふたりを、あのときの結奈は家族にしたいと言ったんだ。

 両親も美縁も反対したが、結奈は一歩も引かなかった。だから俺は、あのとき結奈の側について、みんなを説得した。

 そうして、ふたりは俺の妹に、俺たちの家族になった。

 俺には結奈ほど思い切ったことも、彼女ほどの力も持たない。でも彼女が結んでくれた縁を手放す気はなかったし、遥奈にも、羽月と紗月と同じ縁を感じたんだ。

 テラが何と言おうと、最終宿主を見つけるまで、遥奈は俺の妹だ。

『くくくっ。くくくくくっ』

 唇に指を添えて笑い声を漏らし始めたテラ。

『まったく、お主という男は……。しようのない妹たらしだな』

「……自覚してるよ」

『少々意味が違うのだが、まぁいいだろう』

 厳しく細められていた目に優しげな色を浮かべ、身体は幼く見える羽月と紗月なのに、大人びた笑みを浮かべるテラは言う。

『仕方がない。この子たちが世話になっているのだ、必要があれば陰ながら協力しよう』

「ありがとう。だけど――」

『新しい家族を迎え入れるのだ。佳弥、お前の覚悟だけは確認しておかなければならなかったからな』

 ニヤニヤと笑うテラに、俺はどうやら試されていたらしい。

 全部ひっくるめてひとりのファントムだが、テラは羽月と紗月の保護者みたいなものだ。仕方ないと言えば仕方ない。

『先にも言った通り、遥奈をつけ狙う輩はまだ残って、お主たちにちょっかいを掛けてくる。お主の妹たちに手間をかけることになるだろう。そしてその輩は、相当な力を持っているはずだ』

「わかった」

 顔を引き締めて言うテラの言葉を、俺はしっかりと受け止める。

『充分に心せよ』

 そう言ったテラは、目をつむった。

 ふたりが目を開けたとき、そこにあったのはあどけないいつもの羽月と紗月の瞳だった。

「あれ? にぃに?」

「にぃや? どうしたの?」

「あぁ、もう買い物に出かけるけど、羽月と紗月はどうする?」

 テラが現れてるときの記憶は、ふたりには残らないらしい。いつもそうだった。

 うっすらと憶えてることもあるみたいだが、その程度なので、俺はいままでテラと話していたことを胸に仕舞って買い物について問うた。

「用事があるんだよねー」

「これから出かけるんだー」

「そっか」

「だからまた今度!」「だからまた今度!」

 少し残念そうな表情を見せるふたりは、声を揃えて言う。

「行ってきまーすっ」「行ってきまーすっ」

 そう言い残して、羽月と紗月は部屋を出ていった。

 見送った俺は、テラの言葉を胸の中で反芻する。

 ――気をつけないといけないな。

 最初の一回だけで、いまのところ姿を見せていない敵。

 相当な力を持つというそいつのために、警戒を強めないといけないと俺は考えていた。

 

 

            *

 

 

 提げられている服ひとつひとつを真剣な目つきで確認しているのは、美縁。

 彼女がそんな状態になってから、もう一〇分以上が経っている。いつになく真剣に服を選んでいる彼女に、俺は声を掛けられないでいた。

「もう少し待ちましょう、兄様」

「そうだな」

 ユニアの声に、俺は美縁の側を離れた。

 小規模店舗の外、ひっきりなしに人が行き交う通路で待っていたのは、ユニアと遥奈、それからバーシャと姫乃。

 四人の側に近寄った俺は、行き交う人の邪魔にならないよう壁に背を預けた。

 今日俺たちがやってきたのは、ハイパーブロードウェイ。ネオナカノの中にある小規模な店が無数に集まる大型ショッピングモールだ。

 服とかの日用品だったらイズンでも、すぐ隣のヘブンズピークスでも揃うが、俺たちの年代くらい向けの品揃えだと、一番強いのはシブヤだ。

 ただシブヤは、ブランドものとか比較的高級なものを扱った店が多いため、そこそこの値段で品揃えを見て回ろうとすると、CNGという巨大な学校を擁するネオナカノのハイパーブロードウェイが適してる。

 メイド服姿のユニアと、野暮ったいツナギに顔を覆うくらいのグラスギアを被る姫乃のふたりには奇異の目が向けられているが、遥奈とバーシャには主に男たちからの視線が向けられている。

 清楚な感じの服でニコニコと笑っている遥奈はもちろんのこと、外出用のキャミソールとショートパンツに丈の長い上着を羽織るバーシャは、いつもとそう変わらないはずなのに、いつになく可愛らしい。

 そんな四人の間に立つ俺は、男子からも女子からも眉を顰められてるわけだが、そういう反応によって妹たちのことを誇らしくも感じていた。

 まぁ、何度もナンパに遭って、俺が止めたり、ユニアの手刀が飛んでいたりもしたが。

「しかし、いつになく美縁は真剣だな。どうしたんだ? 好きな人でもできたのか?」

 気になってつぶやきを漏らした俺に、視線が突き刺さった。

 目尻をつり上げたユニアのと、目を丸くしてる姫乃のと、じっとりとしたバーシャの視線が。

「相変わらずっちゃ相変わらずだけどナァ、兄貴は」

「わかってはいるのですが、さすがに……」

「それがお兄ちゃんなんだけど、ねぇ……」

 美縁のことを心配しただけなのに、何故か三者三様に俺を責めてくる。

「どうかされたのですか?」

 ひとりだけ首を傾げて問うてくる遥奈に、三人は彼女の顔を見つめた後、大きなため息を吐いた。

「ゴメン、お待たせっ」

 店の袋を手に小走りに店から出てきた美縁。

 そこまで焦る必要もないのに、軽く息を切れてしまった息を、深呼吸をして整えている。

「兄さん、こんなのは、どう?」

 買った服を早速店で着てきた彼女は、俺の前でくるりと回って見せてくれる。

 飾りの多いデザインの、膝上丈のワンピースは、パステル系の色が多いいつもの彼女の服と違い、茶系の落ち着いた色合いで、印象は違ってもよく似合っていた。

 色合いは落ち着いてるのに、胸元はけっこう大胆に開いていて、そこそこのサイズがあって、なだらかながら谷間ができてるそこから、俺は目を逸らしてしまう。

「……うん、いつもと違う感じだけど、そういうのも良いな」

「もっとちゃんと見てから言ってほしいんだけどな」

「いや、まぁ、なぁ」

 胸元もそうだけど、改めてこういうことを問われると何となく気恥ずかしくて、俺は美縁から目を逸らしてしまう。

 ――デートしてるみたいじゃないか。

 美縁も俺の妹だし、他の妹もいるんだからそんな感じではないんだが、そんなことが頭を過ぎる。

 気合いを入れて選んだんだろう服を着た彼女は、血の繋がった妹だというのに可愛らしくて、不満で顔を膨らませてるのも視界の隅に見えているが、直視できなかった。

「ふふふっ。買い物もこれでひと段落ですね。そろそろどこかで食事にしましょう」

 あらぬ方向を見る俺のことを、少し前屈みになって睨みつけてくる美縁という構図を打ち破ったのは、微妙な含み笑いを漏らしたユニア。

「そうだな」

「ん……。そろそろそんな時間だね」

「はい。行きましょう」

「そうやナ」

「……眠い」

 それぞれの返事に、俺たちはユニアの先導で通路を歩き始める。

 少し遠回りになるが人混みを避けて、シャッターが閉まっていたり、立ち入り禁止の札が下がる小型店舗スペースの多い整理区画を歩いているときだった。

「兄様、止まってください」

 腕で俺たちの行く手を遮ったのは、先頭を歩くユニア。

 緊張した声と横顔に、危険が迫っていることを悟る。

 後ろの四人が固まってるのをちらりと確認した俺は、すぐ動けるように腰を落とす。

 周囲に気を配ってみると、整理区画とは言え、人気がまったく感じられない。人混みを避けて食道街に向かうならこの道が一番近いはずなのに、俺たちの他に人影がなかった。

「隠れてないで出てきなさい」

 冷たく、感情の籠もらない、けれど通路に響き渡る声をユニアは張り上げた。

「俺様の結界に気がつくたぁ厄介だな」

 言いながら立ち入り禁止の札がかかった工事中らしい店舗から現れたのは、ひとりの男。

 この前の黒装束たちと違い、浅黒い肌の精悍なつくりの顔をさらしている男は、もう暖かい季節だというのに格好つけらしいコートを羽織り、ジーンズのポケットに揃えた指を突っ込んで、ニヤニヤと笑っている。

「何者だ!」

「俺様か? 俺様はな――」

 俺の問いにもったいつけたような口調で言い、深くうつむく男。

 唇の両端をつり上げて顔を上げた彼は言った。

「俺様は、シス婚推進委員会、代表」

 どや顔をしている男に、俺は意味がわからず硬直していた。

 いや、たぶん俺以外の妹たちも全員、反応できずにいた。

 

 

 

 

「……シスコン?」

「あぁ、それはこう書く」

 言って代表はエーテルモニタを開き、大きく引き延ばして「シス婚推進委員会」という文字を見せてくれた。

「つまりあんたは、妹との結婚を推進する団体の代表ってことか?」

「理解が早くて助かる。まぁ、委員会としては妹に限定はしていないが、個人的な趣味により兄と妹との結婚を推進してるメンバーが多いな」

 腰に手を当て、つんつんと立てた髪を揺らしながら顎を反らした代表は、得意気に笑む。

 代表に注意を払いつつも、視線だけこちらに向けてくるユニアと見つめ合う。

 先日の黒装束の仲間かと思ったが、違ったらしい。ただの妹スキーの類いのようだ。

「間に合ってる。俺が妹の誰かと結婚するような男――、ひょっ」

 言いかけたところで、前からはユニアに、後ろからは美縁と姫乃に睨まれ、妙な声を上げてしまう。いったいなんだってんだ。

「あぁ。わかってる。てめぇは非常に羨ま――もとい、妹想いのいい兄貴だが、同時に妹を不幸にする男だ。せっかくそれだけたくさんの、魅力的な妹を持ちながら、シス婚を望まないなんてな!」

「放っておいてくれ」

「ふんっ。俺様たちとしては、世の中の妹という立場の女の子が、ひとりでも幸せになるよう活動してるんだ、放っておけないな。ただ――」

 そこで代表は一度言葉を切り、唇の端をつり上げつつも、俺に鋭い視線を向けてくる。

「今日の用事はそいつだ」

 言って彼が指さす先にいたのは、遥奈。

「わたし、ですか?」

「もしかして、この人が兄さんの言ってたストーカー?」

「遥奈に何の用だ?!」

 美縁の言葉には応えず、代表から見えなくなるよう、俺は両腕を広げて遥奈の前に立つ。

「遥奈、か。また安易な名前だな」

「なっ?!」

 つぶやくように言った代表の言葉に、彼が遥奈の正体を知っていることを悟る。

「悪いことは言わない。そいつはお前のとこにいるより、俺様の側にいた方が安全だ」

「……妹がほしいだけだろう!」

「ほしい! 切実にほしい!! 俺様は素敵な妹がほしくてたまらないっ」

 両の拳を握って、代表は自分の欲望を露わにする。

 しかし次の瞬間、鋭い視線が戻り、俺を射貫くように見つめてくる。

「だが、それだけじゃない。その理由についてはてめぇらは知らない方が身のためだろ」

 言いながら近づいてくる代表に、俺は後ろにいる妹たちに目配せを飛ばす。

 前から現れた代表は、ひとりだ。

 反対方向に逃げればどうにでもなる。

「逃げようったってそうはいかねぇ。渡す気がないなら、実力行使と行かせてもらうぜ」

 どこの三流小悪党だろうと思うような代表の台詞と同時に、閉められていたシャッターが開き、人影が飛び出てきた。

 前方からだけじゃなく、背後からも。

 飛び出てきた男たちの様相は、異様だった。

 別に人間の姿はしている。けれど極端に太っていたり、ガリガリに痩せていたり、女の子が描かれたり意味不明な言葉が書かれたシャツを着ていたりと、方向性はバラバラだが、何となく似た雰囲気がある。

 いわゆる、オタクファッション。

 肥満も痩身も、薬や施術でどうにでもなるのがいまのメルヘニック・パンクだ。筋骨隆々だって難しくはない。そこまで望まぬとも、健康的な身体を維持するのはたいした努力も必要がない。

 それなのに代表以外の男たちが異様な姿をしているのは、体型なども含めて旧世界のオタクファッションを踏襲しているからだろう。

 何のポリシーがあってそんな姿をしているのかは、欠片も理解できないが。

 同意できるかどうかはともかく、シス婚推進委員会なんて少しはマシな名前をしている団体だが、実体には疑問を抱かざるを得ない。

 当然、遥奈を渡すなんてことは考えられない。

「遥奈。あぁいうのを選ぶ気は、あるか?」

「い、いいえ……」

 念のためと思って、俺の背中で小さくなってる遥奈にささやき声で訊いてみたが、栗色の髪を激しく揺らして拒絶していた。

 オタクファッションの男たちはもちろん、代表も遥奈の最終宿主にはなり得ないらしい。

「捕らえろ」

 代表の言葉に、オタクファッションズはそれぞれの道具を手に取る。

「いったい何なんだ? お前らは」

「……いろいろ、済まんな」

 オタクファッションたちの持つ、手錠やロープ、目隠し辺りまではまだわかるとして、ロウソクや鞭や首輪は理解不能だ。もし遥奈が拉致されたりしたら、なんてことは想像したくもない。

「てめぇら、捕獲のための道具を持ってこいって言っておいただろ! もういい、下がってろっ。俺様がやる!」

 そう言ってオタクファッションたちを下がらせ、代表はさらに一歩踏み出してくる。

「わたくしの家族を、連れて行かせなどしません」

 両手の手袋を脱ぎ、ユニアが代表の前に立つ。

「ふんっ、スフィアドールか。そこそこ強そうだが、これでも高位の神格のファントムである俺様を、スフィアドールごときが止められると思ってるのか?」

 戦闘の構えすら取らず、覇気とも言うべき雰囲気を放つ代表は、さらに近づいてくる。

 腰を落としたユニアの横顔には、余裕は見えない。言葉通り、かなり高位のファントムなんだろう。

 息詰まる緊張。

 それを破ったのは、脳天気な姫乃の声。

「確かにユニアちゃんにはつらいかも知れんけどナ、この子ならどうヤ?」

 振り向いたそこにいたのは、意地悪な笑みを浮かべる姫乃。

 彼女が脇にどいた後ろから現れたのは、鎧。

 中世頃の騎士甲冑をモチーフにしたような、しかしスカート状になったヒレのあるそれは、ドレスのようでもあった。

 薄く金色に光る手甲に持つのは、刀身だけでも身長の半分以上はある、実用性など無視した幅の大剣。羽根飾りのついた青い兜の下に伸びる、ふんわりとした金髪を揺らしながら進み出てきたのは、バーシャ。

 いや、いまのバーシャは――。

「魔法少女バーニアァ?!」

 大きな驚きの声を上げる代表。

 いまのバーシャは、魔法少女バーニア。

 地球人類では扱うことのできないカテゴリー一〇オーバーの魔法力を持ち、宇宙怪獣やミュートス級のファントムとも渡り合う、地球の平穏を守る女の子。

「ワタシの目の届く範囲での狼藉は、許しません」

 口調こそいつもと変わらずゆっくりしたものだが、その視線と声には力がある。

 いつも眠そうで気怠げにしているバーシャも本当の彼女だが、バーニアとしての彼女も、本当の彼女だ。

「なっ、なんで微塵切りのバーニアがこんなところに……。高宮佳弥! てめぇ、すげぇ妹が多いと思ったら、それどころじゃねぇとんでもねぇのまで妹にしてるのか! ふざけんなっ、この妹たらしが!」

「言いがかりだ」

「どうされますか? ファントムの方。いまここで暴れるというのであれば、相手になりますよ」

「男ならちゃっちゃと決めぇヤ! タマ着いてるんヤロッ」

「ぐっ」

 バーニアの静かな脅しと、姫乃の下品なヤジに怯んで後退する代表は、先ほどの余裕もなく顔を歪ませる。

「くそっ。この場は引いてやる! だが憶えておけよ、高宮佳弥! 遥奈は俺様に寄越した方が安全だっ。てめぇが妹を大事に思う気持ちはわかる。だがてめぇの妹は遥奈だけじゃねぇんだ。全員の幸せを考えて判断しねぇと、痛い目に遭うことになるぞ!!」

 まるでチンピラのような台詞を残し、踵を返した代表は去って行った。

 その姿が見えなくなり、バーニアの身体が光を放ってバーシャに戻ったとき、人払いの結界が解除されたのか、遠かった喧噪が戻ってきた。通路を通っていく人も現れる。

「兄さん、大丈夫なの?」

「近いうちに決着はつけないといけないかもな」

「そういうことじゃなくって……」

 顔を曇らせてる美縁の頭を撫でてやるが、彼女の気持ちが晴れることはなさそうだった。

「佳弥さん……。あの、済みません……」

「気にするな、遥奈。悪いのはあいつらなんだから」

「……はい」

 泣きそうな顔をしている遥奈の肩を、美縁の頭を撫でていない左腕で抱き寄せた。

 事情を知っているユニアの厳しい視線と、欠伸を漏らしているバーシャはともかく、美縁と姫乃から向けられる視線には、訊きたいことがあると訴えかけてきていた。

「まぁともかく、飯にしよう」

 だけど俺は、そう元気よく言って、この場での説明を避けた。

 

 

 



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七人の妹 第二章 妹模様 4

 

 

          * 4 *

 

 

 食事も風呂も終わり、夜はすっかり更けていた。

 静かに部屋の扉を開けた遥奈は、首だけ出して照明の落とされた共有フロアを見回した。

 人影はなく、中央に並べられたソファにも人の気配はない。

 少しためらいつつもフロアに出て、扉を閉める。

 寝るとき用にユニアに手配してもらった、レースの多い薄手のワンピースを着た遥奈は、忍び足でフロアを横切り、二階へと続く階段に足を掛けた。

 足音に気をつけながら階段を上がった彼女が向かったのは、二階に上がってすぐの扉。

 佳弥の部屋。

 扉に耳を近づけて、中で人が動いている気配がするのを確かめてから、軽くノックした。

「まだ、起きていますか? 佳弥さん」

「ん? 遥奈? 大丈夫だけど」

「少し、いいですか?」

「構わないが」

 Tシャツにハーフパンツと、すっかり寝る姿で扉を開けてくれた佳弥の部屋に入る。

 何か調べ事でもしていたらしい部屋の中には、壁に寄せられた机のところに大小いくつかのエーテルモニタが開かれていた。

「どうかしたのか? 遥奈」

 指を振ってエーテルモニタを消した佳弥に勧められて。遥奈はベッドに腰掛ける。

「夜遅くに済みません」

「いや、いいんだが、何かあったのか?」

 少し距離を取ってベッドに座り、事も無げに聞いてくる佳弥。

 シス婚推進委員会の人々に取り囲まれたのは、今日の昼間。

 彼を中間宿主に選んで身体を生成し、黒装束の者たちに襲われてからもまだ二週間と経っていない。

 けれどもいま不思議そうに首を傾げている佳弥からは、そのことを気にしている様子は微塵も感じられなかった。

「あの……、わたしは佳弥さんに、迷惑を掛けてばかりいますよね」

「なるほど、そのことか」

 納得したように頷く佳弥の顔を、遥奈は直視できない。

 自分でも調べてみたが、ハルーナはその希少性から狙われることが多いようだった。

 妹好きの人はもちろん、希少生物を収集している好事家や、そうした人々に引き渡すためのハンターなど、狙ってくる人も様々だ。

 その星の知的生命体に偽装し、催眠能力で中間宿主や最終宿主の家に溶け込むため、発見される可能性が低いことも知られている。実際、ハルーナが地球に落下した可能性があるという情報で集まった人々は、見つけられずに大半がすでに引き上げていた。

 けれども今日のシス婚推進委員会の代表は、遥奈がハルーナであることに気づいている様子だったし、黒装束の者たちも同様だと思われた。

 自分を狙う者はこれからも現れるだろうと考えると、そしてそのときユニアや、佳弥に迷惑を掛けるだろうと考える遥奈は、このままこの家にいてはいけないと思えていた。

 自分を妹だと言ってくれた佳弥に、これ以上迷惑は掛けたくなかった。

「わたしは早めに家を出た方が――。例えば、今日のあの代表の方のところとかに――」

「んーっ」

 そう言った遥奈の言葉を遮るように、胸の前で腕を組んだ佳弥は、深くうつむいてうなり声を上げる。

「あの、佳弥さんっ」

 話を聞いてくれていないらしい佳弥の名を呼ぶと、彼は顔を上げ、遥奈の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。

「いまのこの家を親父とお袋が買って移り住んだのは八年近く前なんだが、それは前の家が粉々に砕け散ったからなんだ」

「え? どうしてそんなことに……」

 話そうとしていることにどう関連するのかわからなかったが、いきなり突飛な話をされて、遥奈は思わず問うてしまっていた。

「あんときゃ羽月と紗月が俺の妹になって、まだ間もない頃でな。本来の神格を見失って本当にただの子供みたいなふたりは、高位のファントムだってのに手加減なんてもの知らなかった。結奈と喧嘩して暴れて、俺が叱って、ふたりして反発して暴れたもんだから、さぁ大変」

「大丈夫だったんですか?」

「まぁ、そのときもう結奈は魔法少女の魔法具引き継いでいたからな、人的被害はなかった。代わりに、家が消し飛んだ」

「……」

「いまでもいたずらは好きだが、あのとき無茶苦茶怒って、そのあと結奈と一緒に学校に通うようになって、まぁちったぁ落ち着いてるな」

 いつも元気にしている羽月と紗月は、確かに佳弥にいたずらをしているのは見るが、実際の年齢やファントムとしての存在の大小はともかく、見た目通りの可愛らしい女の子のようにしか見えていなかった。

 懐かしげに遠くを見ながら、佳弥は微笑む。

「その後に妹になった姫乃は最初部屋から出てこなくって、一時はこんな時代だってのに餓死寸前になったし、そこからマシになったかと思えば、実験の失敗でボヤ騒ぎは一度や二度じゃないしな」

「そんなことが……」

 部屋に籠もっていることが多い姫乃と話す機会はあまりなかった。そんな彼女だけれど、食事のときの様子を思い出すと、全員に気を配っているような余裕が感じられていた。

「ユニアのときもなぁ、結奈が消えて、あいつは元々魔法具だったから、次の魔法少女を選ばないといけないって本人はわかってるのに、待ちたいって言うんだよな。だから待てる方法を調べたり、スフィアドールの身体を用意したりで大変だったし、そのすぐ後に玄関のとこに行き倒れてる女の子がいると思ったら、バーシャだったし」

 遥奈のことを見、佳弥はニッコリと笑いかけてくれる。

「結奈は甘えん坊でけっこう独占欲が強くて大変だったし、いまでこそまとめ役になってる美縁も、幼い頃は相当わがままだったからなぁ」

 手を伸ばして髪を撫でてくれる佳弥。

 優しげな色を瞳に浮かべ、微笑んでくれる彼に、遥奈は泣きそうな気持ちが身体の中でわき上がっていた。

「俺の妹は全員が全員、ひと癖もふた癖もある奴ばっかりだよ」

「でも、わたしの場合は――」

「遥奈のことも、俺は家族の一員だと、妹のひとりだと思ってるよ。正直、俺はたいしたことができるわけじゃないが、家族の問題は家族で解決する。それがこの家の方針だ」

 そう言ってもらえても、遥奈には納得ができなかった。

 その人の性質の問題だった他の妹と違い、遥奈は明確に敵に狙われている。そして佳弥はあくまで中間宿主で、最終宿主を見つけ次第、遥奈はこの家を出ていくことになる。

 佳弥が望んで妹にしたのではなく、偶然寄生し、迷惑だけを掛けてしまっている存在だ。

 それがわかっているいま、遥奈は自分がこの家にいるべきではないと考えていた。

「この家を出るべきだと思っているのは、ハルーナの本能なのか?」

「いいえ、違います。最終宿主を見つけたいという気持ちは、たぶん本能です。ですが佳弥さんに迷惑を掛けたくないと考えているのは、この身体になってから、わたしが考えるようになったことです。わたしの、この地球人の身体を持つわたしの想いです」

「そっか」

 何故か楽しそうに笑う佳弥。

 彼は遥奈の頭を抱き寄せ、自分の胸に押しつけた。

 突然で、驚きはしたが、彼の胸から伝わってくる暖かさに、遥奈はすべてを預けたくなるような、でも泣きたくなるような気持ちが湧き起こっていた。

「俺や、妹たちのことを想いやれるなら、お前はもう充分家族だよ、遥奈」

「でもっ」

「いいんだ、遥奈。お前が最終宿主を見つけるまでどれくらいかかるかはわからない。ユニア以外には正体を明かさずに嫁いでもらうのが一番じゃないかと思ってたけど、いまは、近いうちにみんなに説明した方がいいと思ってる」

「佳弥さん?」

 顔を上げると、溢れるほどの優しさを湛えた瞳に見つめられていた。

 それは美縁や羽月や紗月、姫乃やユニアやバーシャに向けていることがある優しさ。

 兄としての、佳弥の眼差し。

 ――あれ?

 胸に、凄く暖かいものが溢れてきた。

 泣きそうなくらい、嬉しい気持ちが零れそうだった。

 それなのに何故か、遥奈の胸の奥では、チクリと小さな痛みがあった。

 その痛みの正体はわからなかった。でもいまは、自分を本当に妹のひとりとして認めてくれている佳弥に、甘えていたかった。

 両腕を彼の身体に回して抱きつく。もう一度その胸に顔を埋め、深く、深く息を吐いた。

「意外と甘えん坊だな、遥奈は」

「うぅ……」

 含み笑いを漏らす佳弥の言葉に、頬が熱くなるのを感じていたが、抱きつくのを止められない。包まれるような胸の暖かさを、髪を撫でてくれる手の優しさを、ずっと感じていたかった。

「まぁでも、このままってわけにはいかないよな。黒装束の奴らと、今日のシス婚推進委員会は別々だろう。遥奈の正体を知る奴らが少なくともふたつはいるってことは、警戒を強めないといけないし、いざというときの対策も必要だな」

 言って佳弥は遥奈の肩に手を置いて、身体を離す。

 もっと彼の暖かさに包まれていたかったが、ためらいのないその行動は、妹のひとりとして扱ってくれている証拠でもあるように思えた。

 佳弥は、自分だけの兄ではない。

「どうされるのですか?」

 小さく息を吐いて気持ちを調え、遥奈は問う。

「ちょっと姫乃のとこに行ってくる。情報関係とかは、あいつが家族の中で一番だからな」

 ベッドから立ち上がり、佳弥は扉に向かう。

「遥奈は早く自分の部屋に戻って寝ろよ。明日は学校だからな」

「……はい」

 優しげな笑みを残して、佳弥は扉を閉めて行ってしまった。

 一緒に部屋を出ようと思ったが、できなかった。

 胸の中に溢れる暖かさと、小さく、けれど鋭い痛みが、それをさせてくれなかった。

「これはなんなのでしょう」

 身体を得てからまだたいした時間は経っていない。

 その短い間に、何かが変わってきているような気がしていた。

 けれどそれが何なのかわからなくて、遥奈はベッドに倒れ込む。

 布団に顔を埋めると、佳弥の匂いがして、彼に抱き締められているように思えた。

 

 

            *

 

 

「姫乃、起きてるか?」

 そろそろ美縁や羽月や紗月は寝ている時間だから、潜めた声で扉の向こうに呼びかけるが、返事はない。代わりになんだかバタバタと修羅場らしい音が聞こえてきていた。

「入るぞ」

 何かあったらと思って返事を待たずに部屋に入ると、文字通り修羅場のようだった。

 いつもだったら二、三枚のエーテルモニタを開いてることが多いが、いまは大小含めて二〇近く開いている。首を巡らせてそれぞれのモニタを見ながら、手元に置いた古風なハードウェアキーボードで何かを高速に打ち込んでいる姫乃。

 顔を覆うように被っているグラスモニタにも情報が表示されてるはずで、姫乃はいまいったいどれだけの量の情報を見て処理してるのかは俺には想像もできない。

「兄貴か。ちょっと待ってヤ。厄介なデータ齟齬が起こっててナァ。もうちょいでひと段落するから」

「わかった」

 相変わらず機械や機材で足の踏み場もない姫乃の部屋は、薄暗い。

 そんな部屋の主である彼女は、一種の天才だ。

 正確には、人才。

 人の手により遺伝子を弄られて生まれた彼女は、いわゆるデザイナーズチャイルド。魔導科学による遺伝子操作の申し子だ。

 記録上の父親はいることになっているが、俺はもちろん、姫乃も会ったことはない。彼女は、実業家である母親によってデザインされ、人の手により才能を与えられた、人才。

 姫乃と最初に会ったのは、まだ三歳の時。父方の親戚の集まりがあったときに、はとこに当たる彼女を一瞬見かけただけだった。それから時間が経ち、姫乃が八歳のとき、親戚の集まりに母親とともに現れた彼女は、そこに置いていかれた。

 母親に、捨てられた。

 宇宙を股に掛けた実業家をやっている姫乃の母親は、自分の夢であった宇宙的アイドルにするために、遺伝子を操作して姫乃をつくった。優秀な男と母親の遺伝子をかけ合わせ、さらに操作を行い、様々な才能を植えつけた。宇宙的アイドルになるための。

 しかし姫乃は学校に通うようになると、芸能活動よりも機械や魔術に興味を引かれ、八歳になった彼女は自分の進路をアイドルではなく、魔導科学の研究方面に決めてしまう。

 人才により魔導科学方面にも強かったが、それを快く思っていなかった彼女の母親は、進路のことで姫乃を捨てることを決めた。

 母親の失踪は実に見事なもので、引っ越しはもちろん、住民登録も地球の外に移して追跡不能にし、完全に姿を眩ませた。

 まさか母親に捨てられるとは思っていなくて、泣くこともできなかった姫乃に結奈が声をかけて、彼女は俺の妹になった。

 家に来た頃は部屋に引きこもっていた姫乃は、結奈や美縁、俺や俺の両親のケアで立ち直り、いまでは魔導科学方面でバリバリ仕事をするまでになった。

「ふぅ。一応大丈夫やナ」

「何があったんだ?」

 一枚を残してエーテルモニタを閉じ、被っていたグラスモニタを脱ぎ捨てた。

 セミロングのピンク色の髪が、さらさらと舞った。

「いやぁ、手元のデータとバックアップデータとで、メチャクチャな齟齬が発生しててナ。原因の究明と正確なデータへの書き戻しをしてたんヤ」

 椅子を回して振り向いた姫乃は、作業着の胸ポケットに挿してあった眼鏡――簡易なグラスモニタをかけた。

「そりゃまた大変だな」

「まぁ、どうにかなったけどナァ」

 苦笑いを浮かべてる姫乃は、薄暗い中でも疲れた様子が見えるから、たぶん言葉以上に大変な事態だったんだろうことはわかる。

 日を改めようかと思ったとき、先んじて姫乃が口を開いた。

「兄貴がわざわざウチんとこ来たんは、これが気になってヤロ?」

 言って姫乃はエーテルモニタを開き、見せてくれる。

 そこに表示されたのは、シス婚推進委員会の公式情報ページ。

「……自治体公認?」

「そうなんヤ。ウチも調べてみたんやけど、イズンはもちろん、関東だけでなく日本の多くの自治体で公認されてる活動組織なんヨ。WSMの認証は受けてないみたいやけど、活動は世界中に広がってるんよネ」

 自分用のモニタを開いて内容を確認する姫乃は、そう解説してくれる。

 WSM、世界システム会議は、魔導世界となり、国家というまとまりが限りなく薄くなり、都市を中心とする自治体の規模と存在が大きくなったいまの時代で、世界全体のルール、システムをまとめることを目的として設立された機関。

 警察権や、防衛権も自治体が持つようになってからは、自治体間で共有される法律の基準を決めたり、自治体間の調整を行う組織としてとても重要だ。

 同性婚や近親婚はすべての自治体で認められているわけではなく、自治体法によって認可されるもの。認可されていない自治体ももちろんある。

 情報ページによると、シス婚推進委員会ではそうした同性婚、近親婚を現在認めていない自治体に認可を呼びかけたり、結婚を考えている兄妹の相談に乗ったりといった活動をしているそうだ。

「……あんな強硬な組織が、自治体の認可を受けてるなんて信じられないな」

「活動規模が小さくてあんまり噂はないんやけどナ、表向きはまっとうに活動してるし、細かいトラブルはあるようやけど、何かあればあの代表さんの力で治めてるらしいんよネ」

 どこかで時代後れのチンピラでもやってると言われた方が信じられる、今日遥奈を狙ってきたシス婚推進委員会の代表の顔を思い出す。

 バーシャが魔法少女に変身してまで彼が暴れるのを止めようとしたんだ、ファントムというだけでなく相当の力があったんだろうと思う。俺たち家族が狙われたからってのもあるかも知れないが、自治体の警務隊では、もしかしたら防衛隊でも対処できないほどの力だった可能性がある。

 そんな奴が代表をやってる組織だ、活動内容は時代に合ったまっとうなものでも、実体は暴力的な組織なのかも知れない。

「遥奈ちゃんだけを狙ってきてたよナァ、あの代表さん」

「そうだな」

「また来るんかネ?」

「たぶんな」

 エーテルモニタから視線を上げると、姫乃の眼鏡越しの視線が、俺を見透かすように向けられていた。

「何を隠してるんヤ? 兄貴」

「……」

「嘘吐くのがヘタなんは、兄貴の良いとこなんか、悪いとこなんかネ」

「……ストーカーに狙われるようなことは、美縁やお前もあったことだろ?」

 兄の俺から見ても可愛い妹たちは、過去に何度かストーカーの被害に遭ったことがある。

 その度に撃退してきたが、妹の中でもトラブルの被害者になった回数が多いのは、隠していても正体が敵にバレてトラブルが起こったりする魔法少女のバーシャよりも、姫乃の方だ。

 才能を使ってすでに親父やお袋よりも稼いでる姫乃は、個人としては珍しいカテゴリー六以上の魔術や、魔術語に精通した技術を持ってる。

 大きな企業や自治体の請負仕事をしてるわけだが、ヘッドハンティングの声はひっきりなしにあるし、軍関係ともなると強引な手段を使うところもあった。

 そんな事件があって以来、うちには姫乃の手により個人宅とは思えない防御機構とか、監視機能とかが取りつけられていたりする。

「調べたり対策を立てたりはいいんやけど、何を悩んでるんヤ? 兄貴」

「……そりゃあまぁ、悩みはいろいろあるけどな」

 勘の良い美縁にも、あんまり隠し事ができてる気はしないが、人付き合いがけっこうヘタな姫乃にも、嘘を吐くのは難しい。いまの家にいる家族の中で、妹になる前の期間も含めれば、美縁の次に長くつき合いのある妹なんだから。

 不満そうに眉を顰める姫乃は、無言のまま手招きをする。

 何だろうと思って近づくと、椅子から立ち上がる彼女。

 そして俺は、抱き締められた。

 両腕を回された頭が、姫乃の胸に強く押しつけられる。

 いつも野暮ったい格好をして、女の子らしくない姫乃だが、それは実用の意味合いも大きいけれど、一種の変装でもある。

 アイドルになるべくデザインされた彼女は、本当は絶世の美少女と言っても過言じゃないほどの美形だ。髪も服も少しマシにするだけで、すれ違う人みんなが振り向くくらいに。

 姫乃をつけ狙うのは企業や軍のスカウトマンよりも、彼女の美貌を偶然とかで知ってしまった人の方が多い。

 部屋に引きこもって仕事や研究に没頭してると言っても、女の子として気を遣うところは習慣としてやってる。消しきれない油と焼けた金属の匂いよりも、風呂上がりの匂いと、ほどよく大きい胸の柔らかさに俺は包まれる。

 突然のことで身体も思考も硬直してしまった俺に、姫乃は言う。

「家族にも話せないことがあるのはしゃーない。嘘を吐くのも、時と場合によっては許すヨ。でもな? 兄貴。ウチじゃ相談相手にはならんか? 確かにウチはバーシャやユニアほど強くない。んでも、美縁の次に長いつき合いの妹にも、話せんカ?」

「妹と言っても、三ヶ月しか違わないだろ、俺と姫乃じゃ」

「それでも妹ヤ。兄貴もそう思ってるヤロ?」

「まぁ、な」

 俺と姫乃の誕生日は三ヶ月しか違わない。年齢的にはほとんど同じだ。

 登録上は妹ってことになってるが、二卵性の双子に近い感覚もあったりする。

「いまはまだ、話せない。話していいかどうか、判断がつかない。調査と、あのファントムをしばらく凌げるくらいの防備の強化を頼む」

「わかったワ」

 完全に納得してる口調ではなかったが、そう答えてくれる姫乃。

 ――早く、話すべきなんだろうがな。

 そう思いながら身体を離そうとしたとき、さらに強く抱き締められた。

 窒息するほどじゃないが、柔らかい胸から顔を離せない。

「……いつまで、こうしてるつもりだ?」

「ウチはこのままずっとでもええヨ」

「妹だろ、姫乃は」

「妹やヨ、ウチは。でも結婚だってできるし、兄貴は自分で一〇年前に言った台詞、憶えてるヤロ?」

「ぐっ……」

 声を弾ませながら言う姫乃に、俺は返す言葉がない。

 十年前、俺は隙を見て姫乃とふたりきりになり、言った。

 告白の言葉を。

 そのときはまだ姫乃は精神的に母親の支配下にあって、無表情の彼女は興味なさそうに、返事もせずに行ってしまった。そのあと妹になって、部屋に引きこもった彼女のケアを頑張ったのは、下心がゼロだったと言えば嘘になる。

 それでもいまは家族として思えるようになった姫乃は、すっかり妹のひとりだ。

 完全に、とまでは言えなかったが。

 いつまでもこんな体勢でいるわけにもいかなくて、俺は無理矢理身体を引き剥がした。

「冗談はそれくらいにしてくれ」

「冗談だと思うとるン?」

 俺とほとんど変わらない位置から、意地悪そうな、得意げな表情を向けてくる姫乃の瞳は、笑っていなかった。

「ウチは家族の中で、一番兄貴に感謝してるんヨ」

「お前を家族にするって譲らなかったのは、結奈だったろ」

「うん。わかっとル」

 笑みを零し、喜びや、嬉しさや、それよりも真っ直ぐな気持ちを瞳に湛える姫乃は、綺麗だ。

 俺がひと目惚れしたときの、どこか人間離れした、無機質な美しさとは違う、暖かみのある可愛らしさ。

「暗いとこに沈んでなんもできなくなってたウチを引っ張りあげてくれたのは、兄貴だよ」

「それだって結奈が――」

 反論を発しようとした口は、姫乃の人差し指で塞がれる。

「ウチは、結奈に縁を結んでもらった。でもナ? 兄貴はウチを救ってくれたんヨ」

 そのとき姫乃が見せた笑みに、俺は心臓が大きく脈打つのを感じた。

「ウチは兄貴が――、佳弥が好きヨ」

「くっ」

 何も言えず、解放された俺の口からはうめき声しか出てこない。

「くくくっ。本当に楽しいナッ、兄貴は!」

 噴き出しながら椅子に座って背を向け、姫乃は肩を震わせる。

「冗談は――」

「冗談だと思うノ?」

 振り向いて俺の言葉を遮った姫乃の、爽やかな笑みに、言葉もない。

「まぁそれはそれとして、みんな焦ってがっついてるからネ、いまは」

「何の話だ」

「それはこっちの話。ともあれサ、話せないのはいいんやけど、あんまり蚊帳の外に置かれると、拗ねる子も出てくるんヨ」

 そんなことを言った姫乃は、新しいエーテルモニタを開いて見せてくれる。

 監視カメラの映像らしいそれに映っているのは、美縁。

 薄暗い玄関に立ち、靴を履いた彼女は、立てかけられたホウキを手に取って、外に出ていった。

「兄貴の妹たちは、みんな兄貴のことが好きなんヤ。話せないことがあるのも仕方ないと思ってても、寂しがり屋ばっかりなんヨ」

「そうだったな」

 一緒に暮らしてる妹たちのことは、充分以上に知ってるつもりだった。

 でもいまは遥奈のことに気を取られてばかりで、目が行き届いていなかったことを知る。

「ひと段落し次第、全部話すよ」

「うん、頼むワ」

 ニッコリと笑ってくれた姫乃に背を向け、俺は扉に向かう。

「ちょっと寂しがり屋を迎えに行ってくる」

「頑張りヤ、兄貴」

「あぁ」

 姫乃の言葉を背に受けて、俺は小走りに玄関に向かった。

 

 

            *

 

 

 空にはすっかり星が瞬いていた。

 満天の星空に輝いているのは、宝石をばらまいたような冬の星座。

 白く流れる天の川とともに、西に傾いていく煌びやかな星たちに見つめられているのは、岩や瓦礫が方々に転がった、広大な荒れ地だった。

 流星の如く、音もなくホウキに乗って荒れ地に降り立ったひとりの少女。

 美縁。

 ホウキの先端についたライトを消した彼女は、元々は建物だったろう、磨かれた石の瓦礫に背中を預けた。

 遠く輝いているのは、いびつな積層都市からひと際伸びるイズンの最高峰であるサンシャイン六〇〇と、そのすぐ近くのシンジュク自治区の主都市ヘブンズピークスの剣山のようなビル群。

 反対側には、空の内側から光を放っているように見える、上から強く押しつぶした卵のような形をした都市、ネオナカノ。

 美縁がいま立っているのは、イズンとネオナカノの中間ほどの位置にある、荒れ地。

 人間のほとんどがサービスの充実した都市に住むようになり、人の姿がなくなった地上は、畑の他は旧世界の痕跡を飲み込むように広がった森に覆われている。

 荒れ地になっているそこは一年前、謎の魔導現象「時空断層」によって森も、隣接するサンライズ・シティ跡地公園の一部も吹き飛ばされた場所。

 そして、結奈が姿を消した場所。

 魔法具であるユニアを受け継ぎ魔法少女となった結奈の役目は、地球の平穏を守ること。時空断層の対処は、彼女に与えられた役目だった。

 破れた紙にできた裂け目のような、世界の裂け目を閉じ、再び開かないよう糊の役目を負うために、結奈は時空断層の中に入り、その魔法力と、身体を捧げた。

 死んだわけではないのは、ユニアから聞いて知っている。

 けれどもどこにいるのか、この世界にいるのかどうかすらわからず、会う方法もない。

 美縁と佳弥の両親は、宇宙の果てで観測された、開いたまま安定している時空断層を調査するために旅立った。

 美縁は星空を仰ぎ、白い息を吐き出す。

 結奈がその身を捧げて時空断層を閉じなければ、イズンやネオナカノが、ヘタをしたら地球が大変になっていたかも知れないのはわかっている。

 それが彼女の役目であることも理解している。

「でも――」

 美縁のつぶやきは、冷たくなっていく空気に消えていった。

 あと数分、他の魔法少女の到着が早ければ――。

 結奈が魔法を使い、時空断層の拡大を食い止めていれば――。

 そんなことを思ってしまう。

 もし上手くいかなかったら、空間だけでなく時間をも引き裂いてしまうと言われている時空断層は際限なく広がり、太陽系の時間と空間をメチャクチャにしていた可能性が高い。

 結奈は、最善の方法で、最高の結果を得るために、断層の中に消えたのだ。

 それがわかっていても、美縁の心は安まらない。

 優しかった。

 いつも笑っていた。

 魔法少女をやってるだけで大変なのに、困っている人を放っておくことができなかった。

 そんな結奈に、消えてほしくなかった。遠くに行ってほしくなかった。

 いまもし彼女がいたら。

 そう考えると止まらなくて、あのとき目の前で結奈が消えたこの場所に、美縁は来てしまっていた。

「私は、兄さんのなんなんだろう」

 ここのところ、そんなことを考えてしまって、仕方がなかった。

 佳弥は生まれたときから美縁の兄だった。

 それはいまでも変わらず、そしてずっと変わらないことだとわかっていた。

 けれども自分と、そして結奈だけの兄だった佳弥は、いまはもう違ってしまっている。

 羽月と紗月と、姫乃と、ユニアと、バーシャの兄でもある。みんなにとって優しく、分け隔てない兄だった。

 佳弥がそんな兄であることは、生まれてからずっと彼のことを見てきた美縁は、よく知っていた。

「それでも――」

 血の繋がった妹である結奈と自分は、佳弥にとっていま家族となっている他の妹とは違う存在だと、そう思いたかった。

 ――私のことだけを見てほしい。

 いま、佳弥と血の繋がった妹は自分だけ。

 自分だけが、あの家の中で特別な妹。

 そんなことを考えてしまうのは、妹が兄を想う気持ちなのか。それともそうでないのかは、よくわからなかった。

 そんなわがままを、いまの家族の関係にあって、兄の性格があって、彼に対して向けることが難しいのは充分にわかっていた。

 そんな、どうして良いのかわからない想いで張り裂けそうになる胸を右手で押さえ、美縁はじっと星空を仰いでいた。

「兄さんにとって、誰が一番なの?」

 そんなことをつぶやいたときだった。

 夜の闇を斬り裂いて、強い光が美縁の身体を照らし出した。

 ほとんど音がすることがない、魔導ホウキのカテゴリー二のエーテルアンプと違い、小さいながらも唸るようなエーテルアンプの駆動音をさせて降りてきたのは、スカイバイク。

 ここのところ後ろに遥奈を乗せて飛んでいるのをよく見るバイクにひとりで乗って、佳弥が降りてきた。

「やっぱりここにいたか」

 ライトを消し、エーテルアンプを切った佳弥は、バイクから降りて近づいてくる。

「まだ夜は冷え込むな」

 言って差し出してきたのは、バイクに乗るとき彼が羽織っている厚手のジャケット。

「うん、ありがと」

 受け取って袖を通すが、美縁はまた瓦礫に背を預ける。

 佳弥も、彼女の隣に立って、星空を仰ぎ始めた。

 彼がここに来てくれることは、わかっていた。

 結奈がここで姿を消して以来、複雑な気持ちになったときにはここに来てしまっていた。その度に、佳弥は迎えに来てくれた。

 甘えてしまっているのはわかっている。

 妹の中で、自分が一番長く妹をしているわけで、もっとしっかりしないといけないこともわかってる。

 でも、どうしても抑えられず、甘えたくなるときもあった。

 いまのように。

 彼は何も言わない。

 帰ろうとも、どうしたんだとも。

 どんな想いを抱えてここに来たのかを、全部はわかってはいないと思う。それでもある程度は感づいているだろう。

 気づいても問わないのが、彼。それが彼の優しさ。

 妹である自分は、その優しさに応えるのが役割だと、美縁は理解していた。

 それでも言いたくなかった。

 言えなかった。

 言うのが、怖かった。

 こっそりと、佳弥の顔をしたから覗き込むように見ると、星を見ていたはずの彼は、美縁に優しさが溢れる笑みを降らしてくれていた。

「ゴメン、兄さん」

「あぁ」

 くしゃくしゃと、少し乱暴に、でも大きく優しい手で髪を撫でてくれる佳弥。

 ここに来てくれて、そうしてくれただけで、美縁は胸の中で膨らんでいた気持ちが晴れていくような気がしていた。

 ――兄さんにも、私にも、お互い話せないことがある。

 そんなこと、わかっていることだった。悩まなくても、知っていることだった。

 それなのに抑えきれなくなった自分が、恥ずかしかった。

「ありがとう」

「ん」

 美縁の言葉に優しく応えてくれる佳弥の笑みを、真っ直ぐに見ることができない。

 嬉しいのに、恥ずかしい。

 素っ気ないのに、誰よりも暖かい返事。

 ――こんなの、兄さんに伝えられる気がしないよ。

 いま抱えてる気持ちを、伝えたいのに、伝えたくなくて、伝えきれない気がして、美縁はいまはまだ仕舞っておくことにした。

「俺の方のことは、いまはまだ言えない。でも、ひと段落したら、全部話すつもりだ」

「わかった」

 その言葉が指し示しているのが遥奈に関することだと、言われなくても理解していた。

 ――じゃあ、待とう。

 すとんと、それまで聞きたくて、確認したくて仕方なかった気持ちが、胸からお腹に収まった。

 だからいまはもう聞かなくていい。

 悩むことは何もなくなった。

「帰ろう、兄さん」

「そうだな」

 ニッコリとした笑みで頷き、佳弥はスカイバイクへと向かう。

 美縁は立てかけていたホウキを手に取り、またがろうとする。

「乗っていけよ」

「え?」

 浮遊魔術を起動して側までバイクを引っ張ってきた佳弥が、そう言った。

 ホウキの乗っても家には帰れる。

 けれどバイクにまたがった佳弥の背中は、広くて温かそうだった。

「うんっ」

 応えて美縁は、バイクのフックに乗ってきたホウキを引っかけて固定し、後ろのシートにまたがった。

 彼の身体に両腕を回し、背中に強く身体を押しつける。

 ――暖かいな、兄さんの背中。

 頬を押しつけた彼の背中は、広く、暖かく、いつもより早い気がする鼓動が聞こえた。

「落ちたりするなよ」

「大丈夫」

「じゃあ行くぞ」

「うんっ」

 ふわりとスカイバイクが浮き上がり、星空が近づいてくる。

 ――できるだけ長く、こうしていたいな。

 そんなことを思いながら、美縁はさらに強く佳弥の背中に抱きついて、目を閉じた。

 

 

 



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七人の妹 第三章 ~兄の役割~
七人の妹 第三章 兄の役割 1


 

 

   第三章 兄の役割

 

 

          * 1 *

 

 

 ――けっこういっぱいもらえたな。

 スカイバイクのタンデムシートを畳んで乗っけてるコンテナはふたつ。それにはいろんな種類の野菜が満載になってる。

 友康の親戚がやってる、ちょっと離れたところにある農園。

 魔術を利用した農法は作業の効率化はもちろん、作物の均質化も旧時代より容易になっている。けれどエーテル場の活性具合にばらつきが発生すると、均質でない出来のものがわずかながら出るわけで、そうしたものがまとめて友康の家に送ってくることがある。

 友康の家では料理は、多少はするけれどそんなに頻繁じゃない。停蔵庫に入れておけば鮮度は保てるけど、容量には限界がある。

 昨日送られてきたものを分けてくれると言われたので、放課後に取りに行っていた。

 いまは料理魔術だってあるんだから、自然作物の料理だって簡単なはずだ。それでもこんなにいっぱい分けてくれるのは、友康と七海の両親が、両親が家におらず、妹が多い俺の家のことを想ってくれるからだろう。

 ――また何かの形で返さないとな。

 そう思いつつ、ネオナカノの中層エリアの空路から、イズンに向かう幹線空路に繋がる道に入る。ホウキや車両が行き交う空路を、後ろに乗っかった重量に気をつけて飛ぶ。

「遥奈のことは、早く決着つけないとな」

 また黒装束やシス婚推進委員会の奴らが現れないとも限らない。今日の美縁は普段通りだったが、いつまでも妹たちに負担は掛けたくなかった。

「早く最終宿主が見つかれば、いいのかもなぁ。だけど、な……」

 低速でバイクを操りながらも、俺はそんなことをつぶやく。

 それをハルーナの本能が求めていて、遥奈自身も求めていることなのだから、早く最終宿主が見つかるのが最良だろう。

 けれどもそうなったら彼女は、あの家を出ていくことになる。

 偶然に、無理矢理入り込んできた妹だが、いなくなることを想像すると寂しくもあった。

 ――まぁ、でも、しばらくは大丈夫か。

 彼女がいま生活し、出会うことがある男性の中で、俺がピンとくる奴はいない。遥奈がどんな人を求めていて、最終宿主に選ぶ基準もわからなかったが、すぐに見つかることはないだろうと、根拠もなく思えていた。

 ――完全に、思考が遥奈の兄貴だな。

 兄が妹の嫁ぎ先を見定めているような思考になってることに気づいて、俺は思わず苦笑いを漏らす。

 なんかもうすっかり、遥奈は俺の妹だった。

「いくら安全と言っても、さすがにあんな強引な手段を使ってくるファントムがいるとこには、嫁がせられないがな」

 この前の週末襲ってきた、シス婚推進委員会の奴らのことを思い出して、半分無意識にそうつぶやいていた。

「これでもそれなりに社会に評価されて、まっとうな活動を行ってる組織なんだがな」

 そんな声を掛けてきたのは、併走するホウキの乗り手。

「てめぇはっ!」

 見るとそこには、苦笑いを浮かべるシス婚推進委員会の代表がいた。

「性懲りもなく現れたな」

 スカイバイクを加速させようと構えを取りながら、俺は代表を睨みつける。

「まぁ待て。今日は話をしに来ただけだ。ちょっとそこまで面貸せや」

「話?」

 着いてこいと顎でしゃくって空路の左折線に入っていく代表に、俺が従う理由はない。

 けれども、話し合いで解決するならその方が良いと思えた。

「仕方ないか」

 そうつぶやいた俺は、代表の後を追って、交差点を曲がった。

 

 

            *

 

 

 ネオナカノの住宅街の中にあるその喫茶店は、ずいぶん古風な造りをしていた。

 化粧装飾やAR装飾ではなく、もしかしたら自然木を使ってるのかも知れない、落ち着いた内装。テーブルや椅子も、その使い古された質感から自然木を使ってると思われた。

 旧世界の店をそのまま移転したのかも知れない喫茶店「ジャンクション」に代表とともに入った俺は、にこやかに笑む、ユニアのと似たデザインの深緑色のエプロンドレスを着たウェイトレスに案内され、奥手のテーブルに着いた。

「とりあえずフルーツパフェをふたつ」

「はい。いつもありがとうございます」

 なんで話し合いをするのにふたつも頼むのか、意味がわからない。

 小さなクリップボードに、もしかしたら本物かも知れない鉛筆で注文を書きつけた二十代そこそこらしいウェイトレスさんは、柔らかい笑みを残してカウンターに消えた。

「……常連なのか?」

「ここのパフェはお勧めだぞ。全部手作り、自然素材を使った本物のパフェだからな」

「そりゃまた珍しいな」

 合成調理器が普及したいま、専門の料理人がいるよほどの高級店以外、外食の味はそう大きく変わらない。手元のメニューを見る限り若干割高だが、そのすべてが自然素材を使った手作りなのだとしたら、格安と言って過言でないほどの値付けだった。

「それで、話ってのはなんなんだ? 代表さん」

「あぁ、そう思えば名乗ってなかったな。俺様のことは武速(たけはや)と呼んでくれ。今日はシス婚推進委員会としてではなく、俺様個人として話をしにきた」

「個人的に?」

 ワイルドな感じのするデニムジャケットを羽織る武速は、その精悍な顔に凶暴にも見える笑みを浮かべた。

「まぁともあれ、先にこっちだ。遠慮なく食え」

 ウェイトレスさんが素敵な笑みとともに運んできたふたつのパフェ。

 俺の前にも置かれたそれに、色々と微妙な気持ちを抱えつつも、柄の長いスプーンで生クリームをひとくち、掬って食べてみる。

「……これはっ?!」

「な? 美味いだろ?」

 ぱくぱくと自分のパフェを口に運びながら、得意げな表情の武速。

 パフェくらい合成調理器を使えばいくらでもつくれるが、いま食べたこれはものが違う。

 甘さは強めで、柔らかさも申し分なく、若干いびつに盛りつけられている生クリームだが、合成調理器の画一的なものと違って、複雑な味わいがあった。

「これは……、妹たちも連れてきてやりたいな」

「クククッ。てめぇはそういう奴だよな、佳弥。本当に兄莫迦だ」

 楽しげに笑う武速は、先日の殺気立っていた様子と違って、なんだか親近感を覚えた。

 こいつは遥奈を奪うために襲ってきたわけで、懐柔されるわけにはいかない。なのになんだかこの段階で、憎めなくなりそうな感じがあった。

「なんだかお前は、俺のことを知ってるみたいだな」

 この前襲われたときもちょっと気になったことだったが、武速は俺のことを、というよりうちの家族のことを知っているような雰囲気があった。

「ふぅ……。久しぶりに堪能した。まぁ、てめぇの家のことは知ってるさ。それほど深くではないがな。俺様が主催するシス婚推進委員会は、世の中のシス婚を望む兄や妹、まぁ一応姉と弟ってのもあるが、とくに前者の幸せのために動いてる組織だからな。世の中の兄と妹のいる家のことは、ある程度把握してるさ。それも、いまどき兄妹がいる家だって少ないってのに、実の妹、義理の妹他、七人も妹を抱えてるてめぇは、委員会の中じゃ有名どころじゃ済まんさ」

「そういうのチェックしてるのかよ。気持ち悪いな」

「そう言うなよ。シス婚したいって奴は世の中にけっこういたりするんだが、言い出せないとか勇気がないとかって奴は多いんだ。俺様たちはその背中を押すのが仕事だからな。一歩を踏み出せない奴らのフォローを入れる準備をするのも、望みを口に出せない奴を探し出すのも委員会の仕事さ」

 まっとうなことを言ってるように錯覚するが、いくら法律で認められているとは言え、社会的には完全に受け入れられたとは言い難い近親婚。それを推進するために兄妹のいる家をチェックするってのは、普通のことだとは思えない。

「てめぇにとっても俺様たちは有用な活動をしてるんだぜ?」

「俺にとって?」

「あぁ」

 ニヤリと笑った武速は語る。

「近親婚は解禁されて久しいが、いまはまだ旧世界からあるとこ以外は重婚は認められてない。ひとりの兄を持つ複数の妹が、同時に幸せになることはできないんだ。他にもふたりの兄を持つ妹が、愛するふたりの兄と結婚することもできない。だからシス婚推進委員会では、他の組織とも連携して、多夫多妻制の導入を各自治体に呼びかけてるんだ」

「……」

「近い将来、てめぇは妹の全員と結婚できるようになるはずだ」

「……それが、有用な活動?」

「そう思わないか?」

 俺の顔を見つめてニヤニヤと笑う武速に、なんと返していいのかわからない。

 妹と結婚するって話は、俺としてはあんまり現実として捉えられない。

 ――ここんところなんでかそんなことを望むような言葉を聞いてる気がするが、な。

「まぁ、つっても、まだすぐにってわけにはいかないんだがな」

「そりゃあハードルがあるだろうな」

「倫理的なものもあるんだが、人類滅亡の足音が遠いとは言え聞こえ始めてるこの世の中だ、自治体的には乗り気のところが多い。ただ、重複家族婚の問題で意見が割れててなぁ」

 のけぞるように椅子の背に身体を預けた武速は、大きく息を吐き出す。

「どういうことだ?」

「例えば、だ、ひとりの妹がひとりの兄と結婚したとする。その後、他の兄ではない男との結婚を望んだ。しかしその男には別の嫁さんがいたりする。多夫多妻制ではそれも可能になるわけだが、兄と妹、別の家庭を持つ男と妹というふたつの家族に渡る結婚になるわけだ。俺様は家族ってのはひとつってのがいいと思ってる。悪用される可能性も出てくるし、重複家族婚については否定的なんだ。重複家族婚に賛成の組織もあるし、自治体でも意見が分かれてて、乗り気のところは多いのに、まだ制度化に近いとは言えない状況だな」

 こうやって聞いてると、方向性はともかくとして、シス婚推進委員会ってのはまともな組織のように思えてくるから不思議だ。

 堪能して空になったパフェのグラスを横に出しながら、俺は顔を顰めるしかなかった。

「ともあれ、だ。用件自体はこの前と同じだ。遥奈をこちらに引き渡せ」

「……遥奈がそれを望んでない。そもそも、どうしてそんなことを要求するんだ?」

「んなもん、決まってるだろ。遥奈がハルーナだからだよ」

 そうだろうと思っていたが、こいつは遥奈の正体に気づいていた。

 その上で、要求してきている。

 だとしたら、こいつが望んでいることを、俺はひとつしか思いつけない。

 声を上げてコーヒーを注文した武速を睨みつけ、俺は言う。

「お前は、理想の妹がほしい類いの輩か?」

「ほしい!」

 言って武速は拳を強く握りしめる。

 うつむき、身体を震わせる彼は、切々と語り始める。

「俺様には姉がいるんだが、これがまた酷い姉でな……」

「姉って……。お前はファントムだろ」

 ファントムはエーテル場にその主体を持ち、本来はこの世界には存在していない生物だ。いま目の前にいる武速のように、世界に顕現し、身体を持つことで人間と意思疎通を交わすことができるようになる。

 何故かファントムが顕現する際は神話や伝承の神や生き物の姿を取ることが多いのだが、その理由はいまひとつわかっていない。

 神話自体がすべて過去にあった事実だ、とする説もあるが、地球だけでも数十程度はある創世神話の全部が事実だ、なんてことはあり得ないわけで、詳しいことはファントムも語らないため、謎のままだ。

 神話の神の全部が地球に顕現してるということはなく、顕現してる神も顕現していない神もいて、どうやって生まれたり増えたりしてるのかはわかっていないファントムの、家族関係というのはよくわからない。

「まぁ、姉と言っても神話上の話だが、ファントムとしての俺様の相としては、そういうのがあるんだよ。ともあれ、その姉は酷い奴でな、ちょっといたずらしてみたら引きこもって世界中の人間が困るようなことをしてくれたり、復活したと思えば俺様を天界から追放したり、割と思いつきで人に役目を負わせたりと、やりたい放題なのさ。世の中の姉がみんなそんな奴だとは思わないが、俺様は妹がほしい。切実にほしい。素直に可愛がれるような、素敵な妹がほしいっ!」

「……いや、なんかよくわからんが、だいたいわかったような気がするよ。お前は理想の妹がほしくてハルーナを求める妹スキーってわけだな」

「それは否定しない。だが、それだけじゃねぇ。問題になるのはハルーナの持つ能力に関係することだ」

「催眠能力のことか?」

「いや、ハルーナが持ってる能力はそれだけじゃない」

 身を乗り出してきた武速は、声を潜めた。

「ハルーナの持つ能力については、ここでは話せねぇ。ハルーナ自身、おそらく自分の能力をすべては把握してない。だが知ってる奴もいてな、そいつが遥奈のことを狙って動いてる。相当強大な力を持ってる奴が」

 険しく目を細める武速の話を、俺はどこまで信用していいのかわからない。だけどいま俺のことを見つめてくる彼の瞳には、嘘はないように思える。

 個人的な欲望で遥奈のことを妹にしたいと語っている武速。

 それなのに彼の瞳には、俺を、俺の妹たちのことを心配している様子が見られた。

「いったい、どんな奴なんだ? その強大な力を持ってる奴ってのは」

「それはいま調査中だ。だが俺様たちシス婚推進委員会なんぞとは比較にならん力があるのは確かだ」

 険しかった視線に苦々しげな色を浮かべ、武速はため息を吐く。

「てめぇの妹たちの戦力は、イズンどころか、関東の中でも最強クラスだろうな。まさか魔法少女まで妹にしてるとは思わなかったぜ……。だがお前たちの敵になる奴は、それも把握した上で仕掛けてくるはずだ」

 厳しく目を細める武速の様子から、調査中と言いつつも敵のことを把握しているんじゃないかと思えた。はっきりと言わないのは、まだ実体をつかめていないのか、わざと言わないだけなのか。

「その敵が襲ってくるときは、お前や遥奈だけじゃなく、他の妹に負担をかけることになる。それだけじゃなく、あの子を狙ってる他のハンターとかのことだってそうだ。遥奈を側に置くってことは、そういうことだってのはわかってるのか?」

 武速の視線は、俺を責めてるものじゃなかった。

 妹たちを、そして俺を、心配する色が瞳に浮かんでいた。

 それがわかっていても、俺は彼の言葉に応じる気にはなれない。遥奈にその気がないのに、勝手に俺の意思で引き渡すなんてことは、できない。

「そう言うお前は、ただ妹がほしくてそんなこと言ってるんじゃないのか?」

「ほしい……。確かにほしい!」

 立ち上がった武速は、目をつむって握った両手の拳を震わせる。

 だけどすぐに大きく肩を落として座った彼は言う。

「だけどお前の妹たちに勝てる気はしねぇんだよ。スフィアドール程度なら俺様でもどうにかなるさ。まだよく見てないが、ファントムだって俺様の神格ならたぶん対処できるだろう。だが俺様じゃ、魔法少女はどうにもならねぇ。無理矢理掠ったとしても、逆襲食らったら委員会が壊滅する。それにな――」

 一度言葉を切った彼は、微笑んだ。

「妹がほしい俺様なんかの望みよりも、お前の妹のひとりである遥奈の幸せも、願ってるんだよ。何しろ俺様は、すべての妹の幸せを願う、シス婚推進委員会の代表なんだからな」

 個人的な願いと、妹全体の幸せを願う狭間で笑う武速って男のことが、何となく理解できた気がした。

 ――性根は悪くないんだろうなぁ。

 妹スキー過ぎて暴走してるっぽいところはあるが、俺は武速のことが悪くないように思えていた。騙されてる可能性だってもちろんあるが、嘘を吐くような奴じゃない気がする。

 タイミングを読んだように運ばれてきたコーヒーをブラックのままひと息に飲んで、武速は席を立つ。

「お前の大切な妹を狙ってる奴のことは、わかり次第知らせる」

「なんか、協力的だな」

「そりゃあな。悲しむ妹の涙なんて見たくねぇんだよ」

 妹もいないクセにどこまでシスコンなのか。

 苦笑いを浮かべる武速は、注文伝票を手に取った。

「そう言うてめぇはずいぶん罪作りな兄貴だよな。七人の妹を手玉に取りやがってよ」

「うっせぇ。そんなことしてるつもりはねぇよ」

「ククッ。遥奈のこと、話すかどうかはてめぇに任せるが、あっちにその気があるなら知らせてくれ」

 連絡先を記載したエーテルモニタを縮小して投げ渡してきた武速。

 そんな彼に、俺は改めて訊いてみる。

「ハルーナのその能力ってのは、何なんだ?」

「それは言えねぇよ」

 店から出ようと俺に背を向けた武速は、首だけ振り向いて言う。

「何に代えても取り戻したいものがあるてめぇには、絶対に言えないものだ」

 少し悲しそうに見える笑みを残し、背中越しに手を振った彼は喫茶店を出ていった。

「いったい、なんなんだかな」

 腰を浮かしていた俺は椅子に座り直し、コーヒーのカップを傾ける。

 わからないことが多すぎだ。

 遥奈のことは少しはわかってきたと思ったのに、ハルーナのこととなると情報が少なすぎる。

 ――それに。

「妹に負担をかける、か」

 そうなるだろうことはわかっていた。

 俺には、なんの力もない。

 ――それでも大切な妹たちをバラバラにしたくないと思うのは、俺のエゴなんだろうか。

 そんなことを思いながら俺は苦みが強く、でも味わい深いコーヒーをひと口飲んでいた。

 

 

 



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七人の妹 第三章 兄の役割 2

 

 

          * 2 *

 

 

 ――どうしたもんかな。

 今日もらってきた自然栽培の食材にあったにんじんを、手早く切っていく。

 比較的小食の奴が多いとは言え、俺を含めて八人分となるとその量は相当になる。

 昼間に武速に言われた「妹に負担をかける」って言葉は、俺には重い。

 具材を準備しながら、俺は思い悩んでしまっていた。

 俺には何の能力もない。

 バーシャのように凄まじい魔法力も、姫乃のような才能も、ユニアのような強さも持っていない。何もしてないように見える羽月と紗月だって、自治体の依頼を受けて仕事をしてて、収入を家計に入れてくれている。

 妹たちの世話はしてるし、いまじゃ学校の実習以外で包丁を触らないのも当たり前のこの世の中で、ひと通り料理をつくれるが、それだって職業にできるほどのものじゃない。

 いまはまだ学生だから将来について悩む時期じゃないが、自分の無能さには辟易する。

 最終宿主が決まるまで遥奈を妹として扱うなんて言っちゃいるが、襲撃されたときは妹たちの力に頼るしかない。

 俺自身が守るなんてこと、できやしない。

「どうするのが正解なんだろうな」

 そんなことを考えながら、俺は深くため息を吐いていた。

「今日の夕食はぁ?」

「おいしいのできるぅ?」

 そう口々に言ってキッチンに入ってきたのは、羽月と紗月。

 右に左に結ったサイドテールを揺らしながら背伸びして手元を覗き込んでくるふたりに、俺は笑みを零しながら言う。

「今日はカレーだよ。北野のとこからにんじんとかジャガイモ分けてもらえたからな」

「カレーだ!」

「カレーだっ!」

「にぃにのカレーだ!!」「にぃやのカレーだ!!」

 両手を繋いで小躍りしているふたりに噴き出しそうになる。

「これから煮込むからもう少しかかるぞ。先にお風呂でも入ってこい」

「そうしようか?」

「どうしようか?」

 顔を見合わせてなにやら相談を始めたらしいふたりを横目で見つつ、炒めてあった具材を寸胴鍋に入れ、水を注いで火を点けた。

「ねぇ、にぃに」「ねぇ、にぃや」

「なんだ?」

「最近、疲れてる?」

「最近、悩んでる?」

「……まぁ、遥奈がここんところヘンなのに尾け回されてるからなぁ」

 羽月と紗月の問いに、俺はそう言って鼻から息を吐いていた。

 さすがにみんなで買い物中のハイパーブロードウェイで、シス婚推進委員会の襲撃を受けたわけだから、全員に遥奈がストーカーにつけ狙われてるという形では話をしていた。

 テラは、遥奈の正体に気づいている様子があったが、羽月と紗月はわからない。

 ふたりとテラの間でどの程度記憶や情報が共有されているのかは知らない。ただふたりははっきりと訊いてきたりはしないので、俺の方から話すことはやめておいた。

 お日様のようにも見える、金色の瞳が四つ、心配するような色を浮かべて俺のことを見つめてきていた。

 できるだけふたりに安心してもらえるよう、俺は笑みでそれに応える。

 守りたい、と思っていても、俺にできることなんてたいしてない。妹に頼ってばかりだ。

「にぃやはね、凄いんだよ」

「にぃにはね、他の人にできないことができるんだよ」

「……なんだよ、突然」

 小さな身体で抱きついてきた羽月と紗月。

 沸騰を始めた鍋の火を小さくして、俺はコンロから少し距離を取る。

 お腹の辺りから、四つの金色の瞳が、俺のことを真っ直ぐに見つめてきていた。

「生きるだけなら放っておかれても大丈夫だったの。羽月と――」

「紗月はファントムだから。区役所に連れてってもらえれば、どうにかなった」

「でも結奈が誘ってくれた」

「家族になって、って」

「……そうだったな」

 あのとき、まだ幼い結奈がどんなことを思って、羽月と紗月を家族にしようと言い出したのかはわからない。

 優しく、博愛主義的なところがあった結奈だが、俺や美縁よりも頭が凄まじく良かったし、魔法少女をしていたこともあって、予感めいたものを抱いていたのかも知れない。

「でもね? にぃに。羽月はね」

「紗月はね、にぃやがいたから、この家にずっといるんだよ?」

「どういうことだ?」

 突然そんなことを言い出したふたりに問うと、にっこりと笑顔を浮かべた。

「羽月はね」

「紗月はね」

「にぃにのことが大好き!」「にぃやのことが大好き!」

 言ってふたりは、力一杯俺に抱きついてくる。

 そんなふたりが愛おしくて、しゃがんだ俺は小さな身体に腕を回して、抱き締め返した。

「だからね、にぃにが元気ないのはダメなんだよ?」

「にぃやが元気ないのは、イヤなんだよ?」

「なんだよ、そりゃ」

 ふたりして頬ずりしてくるのが、何だか胸にくすぐったい。

「にぃにが大好きだから、元気を上げるね!」

「にぃやが元気出るように頑張るね!」

 もう一度強く抱きついてきたふたりは、そう言って俺から離れた。

「カレーができたら呼ぶからな」

「うんー」

「わかったー」

 何を考えて何をするつもりかはわからないが、ニコニコしながらキッチンを出ていくふたりを見送った。

「なんなんだかな」

 比べられるものじゃないが、どの妹よりも妹らしく、可愛らしい羽月と紗月に苦笑いを浮かべながら、俺は鍋の元に戻った。

 

 

 

 

「はーるなっ」

「遥奈!」

 ユニアの部屋から自分の部屋に戻ろうとしたとき、遥奈はニコニコ笑っている羽月と紗月に声をかけられた。

 サイドテールが右にあるか左にあるかの違いの他は、服もたいてい同じものを着ているふたりは、相変わらずぱっと見では判別が難しい。

「どうかされましたか?」

「うんっ!」

「ちょっと相談ー」

 ノブに手をかけ開きかけた扉に押し込まれるように、羽月と紗月と一緒に部屋に入った。

「あのね、あのね?」

「うんとね、うんとね?」

 声を潜めるように口元に手を寄せているふたりに、遥奈はしゃがんで耳を近づける。

「え? 夕食のとき、みんなに?」

「そうそう! みんなにっ」

「やってほしいんだぁー」

「いや、あのっ。そ、それって……」

 耳元でささやかれた言葉に、遥奈は動揺して後退ってしまう。

「にぃやがね、元気ないからさぁ」

「美縁もね、悩んでるみたいだからさぁ」

「お願いね!」「お願いね!」

「あ、はいっ! わかりました……」

 満面の笑みで勢いよく言われて、遥奈は思わずそう返事をしてしまった。

「それじゃあね!」

「よろしくね!」

「いや! あのっ」

 声をかけたときには、ふたりは扉を開けて部屋の外に出て行ってしまっていた。

 呆然と立ち尽くす遥奈は、追っていくことができなかった。

「佳弥さんも、美縁さんも、元気がないんですね……」

 その原因が自分にあることは、明白だった。

 ――わたしが、皆さんに迷惑をかけているからですね……。

 それを考えると、自分にできることをしたいと思えた。

 羽月と紗月にお願いされたことの真意は、いまひとつわからなかった。そんなことで佳弥や美縁が元気になるという確信がない。

 ――それでもわたしは、できることがあるならやりたい。

「――頑張ろう!」

 顔を上げた遥奈は、そう声に出して、両手を握りしめていた。

 

 

            *

 

 

「ん? そろそろ、かな?」

 夕食のカレーを食べ過ぎて自分の部屋でベッドに寝転がって、エーテルモニタの内容を読んでいた俺は、表示の隅にある時間を見て身体を起こした。

「あれ、あってたよな?」

 何だか自信がなくて曜日を再確認してから、エーテルモニタを閉じる。

「まぁ大丈夫だろう」

 つぶやきながらベッドを出て、チェストから着替えを出して脇に抱え、部屋を出た。

 階段を下りて向かったのは、玄関に向かう扉とは逆の、キッチンの奥にある扉。

 停蔵庫に入れるようなものじゃない調味料をストックしてある造りつけの収納とか、タオルとかを収めた収納がある短い廊下の先にあるのは、地下へと続く階段。

 地下にあるのは軽いトレーニングができるような機材が置かれたスペースと、両開きの大きな引き戸だ。

 スモークになって中が見えなくなってるガラス張りの扉の向こうにあるのは、大浴場。

 様々な魔術が普及し、それを使っての生活が当たり前になったいまの時代、設備の設置や維持、掃除の手間などから、風呂場のない家が増えている。

 清潔さを保つには生活系魔術が充実しているし、美容魔術だって各種ある。風呂を設置するよりそういった魔術を使う方が時間も手間も取られず、家の費用もスペースも有利だ。

 個人宅に風呂場が減った分、街には大浴場のある銭湯とかスパがたくさんあるし、家で入る代わりに使う個室風呂を提供してる店も多い。普段は生活魔術を使い、週に何度か銭湯に行ったり、観光で温泉に行ったり、ってのがいまの時代の風呂事情だ。

 そんな時代に逆行して、俺の家には風呂が、それも大浴場がある。

 と言うより、羽月と紗月が前の家をぶっ壊した後、新しい家を探してここに決めたのは、立地や広さや部屋数とかではなく、親父とお袋の趣味により、大浴場の存在が大きかった。

 引き戸を開けて、銭湯ほどではないが俺の家族全員が同時に着替えてもまだ余裕のある広さの脱衣所に入る。いつもより妙に湯気が多くて、脱衣所ですら視界が悪いのは、妹たちが先に入っていたからだろう。

 俺の家の風呂は、妹たちと俺とで、時間交代制になっている。水とか湧かす費用がけっこうかかるから毎日じゃなく、風呂は隔日となっていて、曜日によって俺と妹たちのどっちが先に入るかを決めてあった。

 風呂は後で入る方が長く浸かっていられるし、考え事をしたいときは長風呂になる。

 脱衣所の隅の棚からタオルなんかを持ってきて、俺は簡素な棚に置かれた籠に着替えと、脱いだ服を入れた。

 ――早めにひと段落つけて、遥奈のことをみんなに説明しないとな。

 そんなことを考えながら大浴場の扉を開けると、前が見えないほどの湯気に包まれた。

「換気扇が止まってるのか?」

 妹の誰かが風呂から出るときに止めたのかも、と思いつつ中に踏み込んで見えてきたもの。

 壁面にどこかの風景だろう、星空を映した大浴場は、地下にありながらもまるで露天風呂のようだった。

 そうした装飾があるだけだったら良かったんだが、床に埋め込まれる形の、泳ぐにはちょっと狭いくらいの湯船には、人影があった。

 その数、七つ。

「にぃや、やっと来たぁ」

「にぃに、こっちこっちー」

 言って湯船から上がり俺の両手を取ったのは、羽月と紗月。もちろん、ふたりは裸だ。

「どうしたんヤ? 兄貴」

「お兄ちゃん、一緒に入るの?」

 俺に気づいて、ニヤニヤしながらノンキに言うのは姫乃。驚きも慌ててもいないバーシャは、湯船の縁に上半身を出して寝そべっている。

 美縁とユニアは、まだ状況の理解が追いつかない俺と同じように、驚いた顔のまま湯船に浸かって固まっている。

 何となくこんなことになった理由に気がついて、遥奈の方を見てみると、栗色の濡れ髪を乱しながらぶんぶんと首を左右に振っていた。

「今日はみんなで入ろう? にぃや」

「たまには家族水入らずもいいよね? にぃに」

 湯船に引っ張っていこうとする羽月と紗月に、同意したい俺だった。

 可愛い妹たちと一緒に風呂なんてのは幸せだろう。

 いまここは、天国のような空間だ。

 だが同時に、悽惨な殺害現場にもなる。

 立ち上がったのはユニア。

 胸を左腕で隠して、半身を向けて立つ彼女は、スフィアドールのボディだけど人間と遜色なく、そのピンク色に染まった身体は美しい。

 だけど彼女は、右手の手刀を構えた。

 ――あぁ、死んだかも。

 裸の俺は魔術による防御なんてない。ワイヤーを切断する手刀から身を守る手段はない。

「ご覚悟」

 言って湯船の縁に足をかけたユニアを見て、俺はいろいろ覚悟を決めた。

 でもそれより先に動いたのは、美縁だった。

「兄さんの、莫迦ーーーーっ!!」

 叫びながら湯船を走る美縁は、そこにあった風呂場用の椅子を取り、投げた。

「ぐがっ」

 顔面に命中した椅子。

 倒れ込む途中、鬼のように赤い怒り顔の美縁が、まぶたの裏に焼きついた。

 

 

            *

 

 

 正座をさせられて、もうずいぶん経っている。

 共有フロアにいるのは、妹たち全員。ただし、俺と羽月と紗月は、美縁に睨みつけられながら正座をしていた。

 あの後、妹たちはすぐに風呂から出たようだった。

 脱衣所に転がされていた俺は、残されたエーテルモニタで共有フロアに召喚された。風呂にはまだ入れていない。

 風呂上がりの妹たちの香りは、それはそれでいまの俺には毒だが、できるだけ神妙な顔をしてうつむき加減でいる。

「なんでこんなことしたの? 羽月、紗月」

「だって……、にぃにが最近元気ないみたいだから」

「にぃやに元気出してもらいたかったんだぁ」

「羽月……、紗月……」

 俺を想ってくれてることが嬉しくて、ニコニコと笑うふたりの顔に涙が零れそうになる。

「だからってこんな方法はないでしょう? こんな……、お風呂に一緒に入るなんて……」

 思い出したのか、怒りとは違う色に顔を染める美縁。

 最後に美縁と一緒に風呂に入ったのは何歳のときだったか。久しぶりに見てしまった美縁と、他の妹たちの裸に、思い出してしまった俺も恥ずかしくなってしまう。

「兄さん! 鼻の下を伸ばさない!!」

「いや、そんなつもりはないんだが……」

 厳しい美縁の指摘に、俺は思わず小さくなってしまう。

 不安そうにそわそわとしている遥奈。

 ソファには座っているが、虫けらでも見るような視線を向けてくるユニア。

 眠そうな目をしてるのに、口元には笑みを零しているバーシャ。

 明らかに状況を楽しんでる様子の、ニヤけた笑みを隠してない姫乃。

 見つめてるだけだった妹たちの中から、救いの手が差し伸べられた。

「美縁だって、兄貴と一緒に風呂入れて嬉しかったノ?」

「う、嬉しくなんてありませんっ」

 姫乃の指摘に、何故かたじろぐ美縁。

「えー。にぃにとお風呂入れて楽しかったのにぃ」

「もっとゆっくりにぃやとお風呂入りたかったなぁ」

「……一緒に入ったうちに入らないじゃないか」

「兄さん!」

 こっそりつぶやいたら、美縁に睨まれてしまった。

 さらに身体を小さく縮めている俺に対し、あまり美縁の怒りが届いていないらしい羽月と紗月は、顔を見合わせて頷き合う。

「それにね? 美縁」

「うん、美縁もね」

「なに?」

 声をかけられて、眉根にシワを寄せながらふたりを睨みつける美縁。

「美縁も元気なさそうだったから」「美縁も元気なさそうだったから」

 驚いたような表情を見せる美縁は、口を開くけど何も言えず、一歩後退る。

 羽月と紗月は、姿も口調も幼くて、いたずら好きで、表面的には子供だけど、美縁の次に妹暦が長い。

 家族になった直後ならともかく、いまはふたりも俺たちの家族だ。そう自信を持って言えるくらい、家の中を見回してるし、家族のことを想ってる。

「そ、そもそもは遥奈のストーカーが問題なんでしょ? それについて何かわかったこととかはないの?」

「いまの状況では、まだよくわかってないな」

「そのことは、詳しく話してもらえないの?」

 息を詰まらせている遥奈に目配せをし、黙らせる。

 今日の今日、話をしたシス婚推進委員会の代表、武速とは、すでにメッセージを軽くやりとりしていた。

 彼については、信じられるかどうかの問題はあるが、もうこの前のように襲わないことは約束していたし、その前に襲ってきた黒装束たちと無関係であるという話は聞いている。

 シス婚推進委員会との決着は、完全ではないにしてもついている。黒装束に関しては調べてもらっている途中で、遥奈とユニアには軽く報告済みだが、他の妹にまで話せる状況じゃなかった。

 武速もそうだったが、黒装束たちも遥奈の正体を知っているんだ、詳しく話すとしたらハルーナのことも話すしかなくなる。

 俺が風呂の時間を間違えたのは、たぶん羽月と紗月が遥奈に催眠能力を使うように言ったからだ。ユニアの他にふたりも遥奈の能力に気づいているようだが、他の妹にはまだ話せない。

 とくに、美縁には話したくない。

 最終宿主を見つけて、結婚とかって形で出て行くならともかく、ハルーナだと知られたことで遥奈が家を追い出されたり、家族の中でギクシャクするのはイヤだった。

「ねぇ、兄さん」

「ん?」

 その呼びかけに考え事でうつむいてしまっていた顔を上げると、悲しそうに目を細めた美縁がいた。

「家族のことは、家族みんなで考えて、対処すべきだと思う」

「……そうだな」

「遥奈のことも、みんなで話し合っていくべきなんじゃないかな?」

「……」

 そう言われて、俺は思わず口を開いてしまっていた。

 美縁の言葉はもっともだ。

 両親が不在のいま、俺たち兄妹は何かあれば家族のみんなで話して、物事を決めてきた。遥奈のことも、そうすべきだという美縁に、反論すべき言葉が見つからない。

 ――だからこそ、話せないよな。

 美縁は遥奈を家族の一員だと、俺の妹のひとりだと認識してる。

 突然家に入り込んできた寄生生物ハルーナだとは思ってない。

 一度家族だと認識した遥奈の正体を話すことは、シチュエーションは違っても、結奈のときのように妹のひとりを失わせることになる。

 できれば最終宿主が見つかるまで、それが無理でも黒装束たちのことがひと段落するまで、美縁に遥奈のことを話したくなかった。

「――次、この前みたいなことがあったら、最初から最後まで、全部話してもらうからね」

 怒りではなく、悲しそうな色を瞳に浮かべて言う美縁。

 話さずにいるのには、限界があるのはわかっていた。

 だから俺は美縁の瞳を見つめ、応える。

「わかった」

 

 

 



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七人の妹 第三章 兄の役割 3

 

 

          * 3 *

 

 

 ――今日の夕食は何にするかな。

 そんなことを考えながらたどり着いた家のあるプレート。

 ホウキに乗った美縁とユニアと一緒に敷地プレートの発着スペースに着地し、バイクのタンデムシートに座る遥奈に先に降りてもらう。

 飛行魔術から浮遊魔術に切り換えたスカイバイクを引っ張って、学校帰りの俺たちは家へと歩き始めた。

「今日の夕食は何するつもり?」

 歩き始めてすぐに訊いてきたのは、美縁。

 兄妹でお互い食事担当なだけあって、このタイミングで考えることは同じらしい。

「昨日マーケットで買ってきたアジがあるからな。それの塩焼きがメインかなぁ」

 停蔵庫があるから鮮魚でも急いで食べる必要はないが、せっかくだから早く食べたい。

「アジって、お魚ですか?」

「えぇ。こんな形です。塩焼きにするとこう」

 道幅があるから並んで歩く遥奈が口にした疑問に、ユニアがエーテルモニタを開いて答えていた。

「骨、あるんですよね? うぅ……」

「食べ方はわたくしが実践して見せますよ」

「お願いします……」

 かなり上手くなったけど、遥奈はまだまだ箸の扱いをマスターしきれていない。

 結奈のことで彼女のわだかまりが残っているだろうに、世話好きのユニアはいつも手を差し伸べていた。

 ――いつも通りだな。

 そう思えることが嬉しい。

 課題は残っているが、遥奈を加えた七人の妹との日常が続いている。シス婚推進委員会襲来からのこの数日は、平穏だった。

 それがずっと、もう少し大人になるまで続くんじゃないかと思えるくらいに、当たり前に感じていた。

 それなのに――。

「警戒を」

 家の前まで着いて、バイクをガレージの方に引っ張っていこうと思ったとき、ユニアが腕で行く手を制した。

 見回してみると、近くに人の気配がない。この辺は住宅街だから、割と敷地に余裕があって家の間は離れてると言っても、人っ子ひとり見かけないなんておかしい。

 どうやら、また人払いの結界が張られているらしい。

「鋭いな、スフィアドールのお嬢ちゃん」

 そんなことを言いながら家の影から姿を見せたのは、鞘に納めた日本刀らしきもので自分の肩を叩く男。

 頬に十字に走る古傷はファッションなのか、それとも歴戦の勲章を消さずに残しているのか。いまの時代、見た目で年齢を判断するのは難しいが、三〇後半かそれくらいに見える男は、カジュアルジャケットに綿パンという普通の格好だが、普通の人とは思えなかった。

 ファントムである武速が放っていた独特の野性味と似ていて、けれど研ぎ澄まされた感じのある男の雰囲気は、まさに剣客。

「また、シス婚推進委員会の人?」

「なんだ? あいつらも動いてるのか? あんな変態集団とは違うさ。まぁ、狙いは同じだがな」

 美縁がつぶやいた疑問に剣客が答えたのと同時に、俺たちの家の玄関が乱暴に開かれ、中から六人の黒装束たちが現れた。

「どうせそのお嬢さんを素直に渡す気はないんだろ? 実力行使といかせてもらうぜ」

 道の前後に黒装束たちが三人ずつ。取り囲まれた。

 ――マズいな。

 羽月と紗月は朝から仕事に出かけていて、たぶん夕方まで帰らない。

 バーシャは、ちょうど俺たちが学校を出たとき、イズンの近くで宇宙怪獣の出現を感知したとかで、魔法少女として出撃するとメッセージが入っていた。帰りがいつになるのか不明だ。

 いま戦えそうなのは、剣客と睨み合ってるユニアしかいない。

 ――いや、待て。

「姫乃はどうした?!」

 家にいたはずの彼女のことを思い出して、俺はユニアの腕を押し退けるように前に出る。

「家にいたお嬢ちゃんか? あの子なら中で眠ってもらってる。標的以外に手荒なまねをするのは主義に反するからな、動けないようにはしたが、他は何もしてないぜ」

 日本刀で肩を叩きながら、剣客は事も無げに言う。

 小さくエーテルモニタを開いてメッセージを飛ばそうとしてみるが、姫乃はもちろん、バーシャや羽月、紗月にも連絡できない。人払いの結界と同時に、通信妨害も張っているんだろう。

 敵の言葉を信じていいものかはわからないが、いまは信じることにする。悪い事態を想像して落ち込んだりしてる状況じゃない。

 周到に準備してきてる敵をやり過ごし、とにかく時間を稼がないといけない。

 バーシャか、羽月と紗月のどちらかが帰ってくれば、まだやりようはある。

「さて、遥奈ちゃんだったかな? を渡してもらおうか。拒否するってんなら、少し痛い目を見てもらうことになる」

 殺気。

 それまで不穏な空気を纏っていた剣客は、言葉と同時に刺すような殺気を放ち始める。

 やり過ごすにしても、家の中にたどり着かなければ始まらない。

 じりじりと距離を詰めてくる黒装束たちに焦りを感じ始めていたとき、動いたのはユニアだった。

「遥奈を渡すわけには参りません」

 剣客の方に大きく踏み出す彼女。

「一瞬だけ、隙をつくります。家の中へ」

 すれ違い様、俺に視線すら合わせず耳元で彼女はそう言った。

「お嬢ちゃんが相手か。多少やるとは聞いてるが、相手にならんと思うぜ」

「さて、それはどうでしょうね」

 ユニアからの一瞬の目配せ。

 構えを取る動作の間に、制服の袖口から転がり出て彼女の手に収まった、小さな球体。

 手だけを振って空中に投げられた球を見て、俺は動いた。

「走るぞ!」

 顔を強張らせてる美縁と遥奈の手を取り、玄関へと走り始める。

 黒装束がこちらに走り寄ってくるのが見えた瞬間、ユニアが投げた球体が地面で跳ね、弾けた。

 立ち上る赤い煙。

 俺はそれを無視して突っ切り、玄関に飛び込み開きっ放しだった扉を閉めて鍵をかけた。

 さらに奥に進んだ俺は、横をすり抜けて美縁と遥奈が共有フロアにたどり着いたのを確認し、廊下の壁を手のひらで叩いた。

 ロックが外れる重々しい音の後、天井から降るような速度で落ちてきて廊下を塞いだのは、隔壁。

 何かとトラブルに巻き込まれることがある我が家の防護手段のひとつ。

 姫乃によって設置された隔壁は、分厚い金属でできてるだけじゃなく、素材硬化や防御の魔術がかけられ、軍用武器でもそう簡単に破れるものじゃない。

 安心とは言えないが、これでしばらくは保つはずだ。

「美縁、姫乃の様子を見てきてくれ」

「あ、うん。わかった」

 シス婚推進委員会のときとは比べものにならない緊迫感を飲み込み切れないのか、呆然と立っているだけだった美縁に声をかけると、我に返った彼女はすぐさま姫乃の部屋に駆け込んでいった。

「……わたしの、せいで」

 表情を凍りつかせた遥奈は、そう言って崩れ落ちた。

 足を投げ出し、手を着いてうつむき、肩を震わせている遥奈。

 そんな彼女の前に跪き、肩に手を置いて俺は言う。

「そんなこと言うな。遥奈は俺の妹だ。俺たちの家族だ。そんなことは気にするな」

「でも! あの人たちの目的はわたしです!!」

 顔を上げた遥奈の目から、涙が散った。

 ふわりと舞う栗色の髪と、照明を受けて光る涙は、美しかった。こんなときなのに、俺はそんなことを感じていた。

「わたしさえいなければ、あの人たちはもう二度と佳弥さんたちの前には現れませんっ。いますぐわたしをこの家から放り出して――」

 意外と大きな音がした。

 俺は遥奈の頬を、平手で叩いていた。

 うっすらと赤くなってる頬に触れ、泣き顔を驚きに染めている遥奈。

 そんな彼女のことを、俺は抱き締めた。強く、強く抱き締めた。

「家族のことは家族で守る。俺には何の力もないが、お前がこの家にいたいと言うなら、家族でいたいと望むなら、俺の妹でいたいと思ってくれるなら――」

 一度身体を離し、遥奈の顔を見つめる。

 揺れている彼女の瞳を覗き込み、笑む。

「俺は遥奈を、遥奈の想いを、守る」

 遥奈は息を飲んだ。

 急速にその顔が赤くなる。

「遥奈は、何を望む?」

「わたしは――」

 

 

            *

 

 

 煙幕はアッという間に拡散し、黒装束たちは玄関から家の中に入っていった。

 だが出てくる様子はない。

 家の中で、佳弥が隔壁を閉めているだろうことはわかっていた。堅固な隔壁は、そう簡単に突破できないだろうと、ユニアはいまはそちらに注意を払うことを止めた。

「やってくれたな。時間稼ぎにしかならんだろうが」

「時間が稼げれば充分ですよ」

 慌てている様子もなく、ゆったりと立っている剣客。

 通学用の鞄を投げ捨てたユニアは、両手の手刀を構えた。

 ――さて、どれくらいの強さなのか。

 日本刀はそれほど恐れる必要があるものではない。

 いまは学校の制服しか着ていないが、それに付与された防御魔術は充分に優秀で、人間が振るう刃物が貫通する可能性は皆無。金属製のただの棒きれと違いはなかった。

 しかしながら剣客の纏う雰囲気と、わずかながら見えた足運びは、素人のそれではない。下着にすら防御魔術が付与されている現在、スポーツ以外で争い事を経験する人はほとんどいないけれど、剣客はおそらくどこかで実戦経験を積んでいると思えた。

「こんな街中で、長い時間結界を張り続けるわけにもいかんしな。さっさとやろう」

 言って剣客は鞘から刀を抜いた。

 直刀と言っても差し支えのない、ほぼ反りのない刀の長さは、日本刀としてはごく普通。飾りのようなものはなく、何か仕掛けでもあるのかと思っていたが、マナジュエルがはめ込まれている様子もなかった。

 ただ、想像よりも陽の光を反射する輝きが強い。

 いまでは映像作品にしか登場しない、絶滅危惧種になっているチンピラ程度の強さならば問題はない。

 スフィアドールであるユニアは、たいていの人間よりも運動能力も、反射神経も高い。早めに倒して黒装束たちの後を追って叩きのめせば事は終わる。

 剣客がファントムということもない。メカニカルアイで感知できる限りでは、彼はただの人間だ。

 しかしユニアは、不精ヒゲを生やした口元に浮かぶ笑みに、不穏なものを感じていた。

「行きます」

 そう声を出した直後、ユニアは地を蹴った。

 低く、剣客の身体の下に滑り込むようにして放った蹴り。

 剣客の服に付与された防御魔術が発動し、微かに青い光を放つ。

 人間サイズで、お互い防御魔術を張っている同士で戦う場合、相手にダメージを与えるにはコツがいる。衝撃を緩和する防御魔術越しにダメージを与えるには、緩和しきれないほどの打撃を加えてやれば良い。

 しかし大口径の銃から放たれた弾丸すら受け止める防御魔術には、生半可な打撃は通用しない。体重を乗せた拳でも、高速な蹴りでも足りない。

 ダメージを与える方法はふたつ。

 地をつかむか、相手の身体をつかむか。

 ユニアはその両方を使い、防御魔術を張った敵とも戦えるよう、鍛えてきた。

 防御魔術越しに命中させた蹴りは、剣客の身体を浮き上がらせる。

 飛行魔術を組み込んだ魔法具を身につけていると意味はないが、そんなものを使わせる隙を与えるつもりはない。身動きのできない空中で、相手の身体をホールドして攻撃を加える。それで終わりだ。

「え?」

 追撃のためにジャンプしようとしたユニアは、それを諦めることになった。

 数メートルは浮き上がると思っていた剣客の身体は、彼の身長ほども浮き上がらず、静かに着地した。

 ――魔術格闘戦に長けている?!

 魔導世界となった現在でも剣道などの競技は存在するが、実戦を想定したものではなく、現実の戦いとはかけ離れてしまっている。

 喧嘩の経験がある者はいるだろうが、防御魔術を張っていればお互いにダメージにならずに終わり、防御魔術なしで殴り合えばそれを張った同士の戦闘経験は積めない。

 ユニアの蹴りの衝撃を受け流すよう、体勢を変え、自ら後ろに跳んだ剣客は、失われているに等しい魔術格闘戦の経験者だ。

 ――だとしても、わたくしは早くこの方を叩き伏せ、兄様の元に駆けつけるだけ。

 気持ちを切り換えたユニアは、剣客を改めて睨みつけた。

「今度はこっちから行かせてもらうぜ」

 ニヤニヤと笑う剣客はそう言い、ゆらりと一歩踏み出した。

「くっ」

 動きは見えていたのに、避けるのはぎりぎりとなった袈裟懸けの斬撃。

 避けた動きを利用して身体を沈めたユニアは、両足で地をつかみ、右の拳を剣客の腹へと突き出した。

「なに?!」

 声を上げたのは、ユニア。

 一歩下がった剣客は、振り切った刀を返し、突き出されたユニアの腕に振るった。

 防御魔術の発動は、薄青い膜状の光で、確認できた。

 けれど刀は発動した防御魔術などないかのように、それを超えてきた。

 手首から先が、斬り落とされた。

「くっ……」

 大きく跳んで剣客から距離を取ったユニアは、右膝を突いた。

 戦闘のために機械にしている腕だが、普段の生活に支障がないよう痛覚を含めた感覚はある。

 激しい痛みを堪えつつ、腕の痛覚を遮断したユニアは、メカニカルアイの視界に防御魔術の発動履歴を表示する。

 損害を受けるレベルの衝撃を感知し、防御魔術は正しく発動しているが、ダメージを緩和したという情報がない。発動した防御魔術の障壁を、刀身はすり抜けていた。

 ――そう言うことですか。

 堪えていた痛みの余韻もなくなり、ユニアは残った左手を構えた。

「その刀は、ファントムですね」

「もう気づいちまうか。ただの力自慢のスフィアドールってわけじゃなさそうだな」

 苦々しげに、しかしどこか嬉しげに笑みを見せる剣客。

 彼はただの剣士ではない。

 器物の形を取ったファントムを携えた、魔導剣士だ。

 ――これは厳しいですね……。

 応援を期待できる状況ではない。

 ユニアが少しでも時間を稼いで、佳弥の前に剣客を立たせないようにしなければならなかった。

 ――兄様、お気をつけて。

 心の中で呼びかけて、ユニアは腰を落とした。

「まだやる気か。いいねぇ。久しぶりにまともな敵と戦えて嬉しいぜ」

「負けるわけには参りません。ここで、貴方を倒します」

「期待してるぜ、スフィアドールのお嬢ちゃん」

 しばし睨み合い、ユニアと剣客は同時に動いた。

 

 

            *

 

 

「わたしは――」

 そこまで言った遥奈は、それ以上言葉が出てこなかった。

 自分を狙った襲撃者に、身体が冷たくなっていた。

 どうにか家に逃げ込んで、佳弥に抱き締められて、鼓動が早くなった。

 どうしたいのかを問われて、身体が熱くなる。

 ――どうして?

 そんな疑問が、遥奈の中に浮かんだ。

 涙に揺れていた視界が収まってきて、真っ直ぐに自分のことを見つめている佳弥がよく見えるようになっていた。

 静かな彼の瞳に、揺らぎは少しもない。

 どうしてと問われたら、家族だからと、妹だからと佳弥は答えるだろう。

 けれど遥奈には、まだ出会って二週間ほどの自分を、そこまで受け入れられる理由がわからなかった。

 ――佳弥さんは、こういう人なんだ。

 たぶん、それがすべての疑問に対する答え。

 それがわかっていても、訊いてみたかった。

 何度でも彼の口から、自分と彼の関係を言ってほしかった。

 嬉しくて、嬉しすぎて、何も言えなくなった。

 小さく自分の姿を映している佳弥の瞳を、ずっと見つめていたかった。

 ――わたしは、……ほしい。

 心臓が弾けてしまいそうなほどの鼓動。

 脈打つごとに湧き上がってくる、暖かさ。

 強くなるそれは、身体の芯から炎を噴き出しそうなほどになる。

 それから、胸の奥の小さな痛み。

 それよりも激しいのは、下腹に感じる、強い痛み。

「遥奈! どうしたっ」

「大、丈夫です……。う、うぅ……」

 痛みに堪えきれず、遥奈はお腹を抱えて身体を丸める。佳弥の声に応えるのも精一杯だった。

 ――そうか、わたしは……。

 突然の痛みの理由を、遥奈は悟った。

 急速に身体が変化しているのを感じた。

 身体の中に異物を埋め込まれたような痛みに、遥奈はどうなっているのか説明することもできず、うめき声を上げる。

「どうしたの? 遥奈っ」

「いや、わからない。突然痛がりだして」

 そのとき声をかけてきたのは、美縁。

 彼女の言葉に焦った声で答える佳弥に、遥奈は痛みを堪えて身体を起こす。

「もう、大丈夫です……」

「だけどっ」

「もう、収まってきています」

 まだ下腹に痛みが走るが、収まりつつあるのも本当だった。

 額にかいた汗を拭いながら、遥奈は佳弥に微笑む。

「本当に大丈夫? 遥奈。安全になったら病院行こうね」

「はい……」

 最初はぎこちなかったし、迷惑をかけているというのに、家族として扱ってくれる美縁の気持ちが嬉しい。

 もうほとんど痛みはなくなり、遥奈はまだふらつくものの、立ち上がる。

「まぁ、何にせよ、いまは遥奈ちゃんを守らなヤナ」

 そう言って隔壁を睨みつけているのは、姫乃。

 縛られた跡の残る手首をさすりながら、彼女はエーテルモニタを開いた。

「ユニアは?」

「さっきはずいぶん苦戦してたみたいヤ。いまは外に姿は見えんナ」

「バーシャと、羽月と紗月は?」

「連絡がつかんナ。通信妨害は魔術やなくて、回線そのものを遮断されてる気がするんヤ」

「マズいな……」

 身体を寄せてきて遥奈を支えてくれる佳弥は、姫乃の言葉に眉を顰める。

「どうするの? 兄さん」

「このまま立てこもる。ユニアもこっちに連れてきたいが、この状況じゃ難しいな。それにたぶん、人払いの結界を張ってる魔法使いかファントムが別にいるはずだ。ヘタに動いてそいつまで出てきたらどうにもならなくなる」

 奥歯を噛みしめて言う佳弥は、おそらく外に残ったユニアのことを心配しているのだろう。姫乃が開いているエーテルモニタに映った、家の外の映像に視線を走らせていた。

 隔壁を破壊しようとしている音は遥奈にも聞こえてきていたが、どうにかなりそうな感じはしなかった。

 このまま立てこもっていれば、魔法少女のバーシャか、ファントムの羽月と紗月が帰ってきて、事態を好転できると思えた。

 遥奈が少しだけ安堵を覚えたときだった。

 澄み切った金属音。

 共有フロアに響いたそれに玄関に続く廊下を見ると、隔壁にバツの字に線が入り、こちら側に倒れ込んでくるところだった。

「あれを切ったやって?!」

 姫乃の上げた悲鳴と同時に入り込んできたのは、黒装束の男たち。それから、剣客。

「ほらよ」

 言って剣客は、肩に担いでいたユニアを放り投げた。

「ユニア!」

「わたくしは大丈夫、です……、兄様」

 表情を歪めながらも、ユニアはそう答える。

 しかし彼女は右腕を肩から失い、右脚も膝から下を、左腕の手首と左足の足首から先を失っていた。

「頼む」

 怒りを湛えた佳弥の表情。

 ためらいなく踏み出した彼は、剣客たちとの中間の位置に投げ出されているユニアに近づき、その身体を美縁と姫乃に託して下がらせた。

 そして自分自身は、剣客たちの前に立つ。

「まだわからないのか? お前らの戦力はもうないだろ? さっさと遥奈を渡しな」

「妹たちのことは、俺が守る」

 日本刀を右手にぶら下げた剣客の前に、佳弥は両腕を広げて立ち塞がった。

「どかなけれりゃこのまま斬るぞ? 戦えない奴を斬るのは主義じゃないが、こっちにも事情があってな。たとえてめぇを斬ってでも、遥奈ちゃんを掠っていかせてもらうぜ」

「どかない」

 一歩前に出て、佳弥は剣客と黒装束たちの行く手を阻む。

 ――わたしがっ。

 そう思った遥奈が立ち上がろうとするが、姫乃に肩をつかまれた。

 首を左右に振る彼女は、手元に開いたエーテルモニタで何かを打ち込み始める。

「強情な奴だな、ったく。そういう奴は嫌いじゃないが、状況をよく見ろよ。斬られりゃ痛いじゃ済まねぇぞ。――ん?」

 刀を構えた剣客は、鼻をひくつかせて沈黙した。

 顔を顰めつつ迷うように視線を彷徨わせていた彼は、遥奈のことをじっと見つめてきた。

「まさか、こりゃ……。クソッ」

 突然悪態を吐き始めた剣客に、佳弥も美縁も、黒装束たちも首を傾げている。けれど遥奈は、身体を硬直させてしまっていた。

「こんなことになるとはな……。だがまだどうにかなるんだっけか? いいから高宮佳弥! そこをどけ!!」

「ダメだ!」

「佳弥さんっ」

 威嚇するように刀を構える剣客に、それでも立ち塞がったまま動かない佳弥。

 遥奈の声に彼は振り向くが、優しく微笑むだけだった。

「兄貴! 準備完了っ」

「そのままやれ! 遥奈さえ渡さなければこっちの勝ちだっ。――ぐっ」

「兄さん!」

「ちっ」

 姫乃の声に佳弥はそう言い、舌打ちした剣客は立ち塞がる彼の腹に刀の柄をめり込ませて走り寄ってくる。

「ったく!」

 文句を口にした姫乃は、倒れてなお服をつかんで止めようとする佳弥を蹴り飛ばした剣客が近づいてくる前に、エーテルモニタを叩いた。

 青く光る、半円状の光。

 遥奈たちが座り込む共有フロアの真ん中を覆ったそれは、防御魔術の光だった。

「んなろ!」

 佳弥を振り払った剣客が上段から刀を振り下ろすが、防御魔術は破れない。

「無駄ヤ! あんたの刀はカテゴリー六か七のファントムみたいやが、こいつはカテゴリー八の防御結界やからナ! 生半可な攻撃は通用せんでっ」

「軍事レベルの防御魔術だとぉ」

 剣客が再度斬りつけてくるが、斬撃は弾かれて中まで届かない。黒装束たちが取り出した大口径の銃の連射も、すべて防御魔術が受け止めてしまっている。

「クソッ。まさかこんなもん張れるとはな……。だがこんなもん、長くは維持できやしねぇだろ。たいした時間稼ぎにゃならんぜ」

 障壁のぎりぎりまで顔を近づけて、姫乃を睨みつけてくる剣客。

 得意げに鼻で笑い、彼女は答えた。

「そりゃあこんなもん維持し続けるようなエーテルアンプはこの家には置いてないんやけどナ、それでもしばらくは保ツ。軍事レベルの結界、魔法少女が感知できないと思うとるのカ? 直接呼び出せなくても、時間さえ稼げればこっちの勝ちヤ」

 おそらくこんな事態も想定して、姫乃は準備していたのだろう。

 家の危機を感知してバーシャが戻ってくれば、事態は終息する。

 障壁の外にいる佳弥のことが気がかりだったが、遥奈は緊張の糸が途切れて、倒れ込みそうになっていた。

 痛みに顔を顰めながらも、上半身を起こした佳弥が言う。

「俺の妹たちはみんな優秀だからな。お前たちの負けだ。さっさと撤退したらどうだ?」

「ったく。いくら強いっても魔法少女の嬢ちゃんさえいなければどうにかなると思ったのによ、甘く見てたぜ。この分じゃあ外のあいつを引っ張り込んでもどうにもならねぇな。撤退するしかねぇ」

 頭を掻きながら言う剣客は、遥奈たちに背を向けた。

「ただ、状況が変わったんでな。こいつはもらっていくぜ」

 どうにか立ち上がった佳弥に風のような速度で接近した剣客は、腹に拳を叩き込み、昏倒させた。

 黒装束立ちが集まり、彼の身体を抱え上げる。

「兄さん!」

「兄様!」

「佳弥さん! 姫乃さんっ、すぐに結界の解除を!」

「それはできんのヤ。あんたが連れて行かれたら、すべてが無駄ヤッ」

 奥歯を強く噛みしめながらも、姫乃は首を横に振る。

「細かいことは後で連絡させる。こいつを取り戻したくば、遥奈を連れてくるんだな」

「佳弥さんっ。佳弥さん!」

 大声で呼びかけても、気を失った彼が目を覚ますことはなかった。

 守ってくれた彼を、せっかく見つけることができた人を、遥奈は目の前で連れて行かれてしまった。

 

 

 



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七人の妹 第三章 兄の役割 4

 

 

            * 4 *

 

 

 目が覚めると、布団ほどではないが、ずいぶん柔らかい感触を頬に感じた。

 手を縛られ、不自由ながらも俺は身体を起こす。

 執務室らしい広い部屋。

 暗いと言えるくらい弱められた照明の下に見えるのは、重厚な木の扉と、正面の大きな執務机。それから、俺に背を向けている、たぶん天然革製だろう椅子。

 椅子の側には、左右ひとりずつ人影がある。

 なんでか不機嫌そうな顔を見せている右に立つ剣客は、さっきまで俺の家を襲撃してきてた奴だからわかってる。もうひとりの、六人いた黒装束とは違う黒ずくめで、黒い兜の奴は初見だ。

 雰囲気から察するに、たぶん最初と今日、人払いの結界を張っていたファントムだろう。

 防御魔術を斬り裂くような刀を持つ剣客と、雰囲気だけじゃよくわからないが、レジェンド級くらいはあるだろうファントムが、なぜ遥奈を狙ってきたのかはわからない。命令されたからだろうか。

 ため息を吐いた俺は、背を向けている部屋の主に声をかけた。

「なんで貴方が遥奈を狙うんだ? ――芒原さん」

「さてね」

 応えてこちらに椅子を回したのは、確かに芒原さん。

 イズンの地下深く、基部に近いひとつのフロアすべてを自分の敷地として住んでいる芒原さんは、いつも通り優しげな笑顔で俺のことを見つめていた。

 ほんの二度ほどだが、俺はこの部屋に来たことがあった。年齢に関係なく俺の両親を師事している彼に招かれて。

 彼が遥奈を狙う理由は、まったくわからない。

 エンシェントエイジの芒原さんは、旧世界からずっと、人生の大半をイケブクロ自治区の政治家として生きてきた人だ。自治区長の期間だけでも、一世紀近くなる。

 その発言力は一線を退いていると言っても、イケブクロ自治区ではもちろん、日本でも、世界でも決して小さいものじゃない。

 個人としての資産はその年齢相応にとんでもなく、直接の血縁はすっかりいないらしいが、いまも存続している親族が経営する建設会社は、世界的な企業となっている。

 地球には宇宙的な資産家となっている人もいるので、上には上がいるが、芒原さんなら望めばたいていのことが実現できるくらい、その力は強大なはずだ。

 武速のように妹スキーだったりとか切実な願いがあるのかも知れないが、少なくとも俺の知る限り、彼はそういうタイプの人じゃない。もしそうだったとしても、そんなものですらも権力と資産を使えばどうにでもなるはずだ。

 芒原さんが遥奈を狙う理由を、俺は思いつけなかった。

 俺のことを解放する気がないらしい彼は、机に両肘を着いて手を組み、年相応の凄みのある、文字通り悪役染みた笑みを向けてくる。

「君はハルーナの能力について、どこまで知っている?」

「催眠能力のことですか?」

「採取した遺伝子情報からその星の知的生命体と同様の身体を形成したり、孵化前だけのようだが中間宿主の記憶を読み取ったりといった能力もかなりのものなのだがね」

「他にも、あるってことですか?」

 唇をつり上げて笑う芒原さんは、それを語ってくれそうにはない。

 思い当たるものはあった。

 遥奈の住民登録。

 どこの自治体でも住民登録に関する情報は、最高レベルのセキュリティがかかっているものだ。それへのハッキングは、やることはないだろうが姫乃でもかなり難しいという話を聞いたことがある。

 ハルーナは何らかの方法で、その情報を操作する能力を持っている。

 電子情報への干渉能力かと思ったが、最高レベルのセキュリティを突破できるのは凄いと思うけど、その程度のものが芒原さんの求めるものなのかと考えると、疑問だった。

 それに武速は俺に、ハルーナの能力について教えてくれなかった。教えられないくらい、重大なものなのかも知れないとは思っていた。

「君はまだ気づいていないようだね。ハルーナの力は、とてつもなく大きなものだ。宇宙でも希に見るほどに。僕が欲しているのは、その力だ」

「貴方なら、望めばたいていのことができるのでは?」

 そう声をかけた俺に、笑みを浮かべる芒原さんは椅子から立ち上がる。

「何でも、というわけではないがね。確かにいまある状況から望むものであれば、ほとんどのものは手に入るし、多くのことは実現できるよ」

 大げさに両腕を広げ、演技染みた表情で笑う彼は語る。

「僕は、イケブクロの発展のために尽力してきた。イケブクロだけでなく、日本を、そして世界を、地球のさらなる未来のために、多くのことをしてきたと自負しているよ。無数の障害が立ち塞がったものだがね」

 いまでこそイケブクロの帝王なんて呼ばれている芒原さんの行く道は、決して順風満帆なものだったわけじゃない。

 魔導世界となった世の中で、新しいものを嫌う保守的な流れは強く、旧世界から魔導世界への移行期は相当苦労したという話は聞いていた。

 すっかり魔導世界となった後も、サンライズシティの壊滅、再建したサンライズノヴァによる負債、隣接するシンジュク自治区との争いなど、大きな波乱は他にも数多くあった。

 敵は外だけでなく、異なる主張を行う派閥や、長期政権を嫌う人々たちも常にいたし、芒原さんが一線を退いたのはそうした内部抗争で敗北したからと噂されている。

 やってきたことの多くは成功しているが、失敗も数多く積み重ねてきている人だ。最初に身体を弄る前の写真を見たことあるが、彼の額には年齢によるもの以上の深いシワが刻まれているのが印象的だった。

 それでもいまの世界は、ある意味で理想郷に一番近い時代だと言われている。

 マナとエーテル場の実証から始まった魔導世界は、科学をも恐ろしい速度で進歩させ、エネルギー問題はほぼ解決している。食料は素材さえあれば製造できるスティックフードやゼリーフードが、たいていの自治体では申請すれば配給される状況だ。住居も贅沢を言わなければ自治体に住民登録があれば確保できる。義務としての労働はあれど、少し身体を動かせば最低限のサービスは受けられる。

 事故や事件でも死ぬどころか滅多に怪我をすることもなく、病気の多くは治療でき、障害なども先天的に、最悪でも後天的に何らかの方法で対処できる。長生きしたいと思えば、薬や肉体のすげ替え、機械の身体など、方法はいくらでもある。

 平均寿命はすでに集計されなくなり、人間の一番の死因は尊厳死となった。

 そんな理想に大きく近づいた世界で、一番の問題は、いまから約一〇〇〇年後に訪れると予言されている、人類の滅亡くらいだ。

 その予言は、最初は下らないと言われていたけれど、いまではその予兆が観測されるようになり、近親婚や同性婚解禁の一因となっている。

 完璧とは言えないまでも、ほとんどの問題が解決したこの世界で、芒原さんが言う地球のさらなる未来なんて、想像することができなかった。

「貴方は何故、いまさらそんな力を求めるんだ?」

「成したいことがあるからだよ」

「成したいこと?」

「そうだ」

 どこか遠くを見つめる芒原さんは、胸の前で強く右手の拳を握りしめる。

「僕は常にイケブクロのため、地球人類のためと思うことを行ってきた。偶然の飛来だったが、ハルーナは地球人類がより良い発展のために必要な能力を持っているのだ」

「いったい何をするつもりなんだ!」

「それは君には言えないな。しかし、僕はこれまでも地球人類のため、根本的な解決を求めて尽力してきた。失敗ばかりではあったがね」

 背中に、ぞくぞくと寒気を感じる。

 俺のことを見て微笑みを浮かべている芒原さんは、俺の知ってる彼のように思えるが、どこか違って見えた。

 瞳に、尋常ではない色が浮かんでいる。

「いったい、どんなことをしてきたんだ?」

「本当に色々だよ。世界を大きく変えるためには、大きな力がいる。去年などは、最もこれまでで期待をしていた実験を行ったが、上手くいかなくてね。非常に残念だったよ」

「……去年?」

 芒原さんが望んでいることは、俺は少しも理解できてない。

 けれどここに来て、彼が何をしてきたかについて、少しだけ推測できることがあった。

「あぁ。実験の結果、暴走が起きてしまってね。我々では制御ができなくて、僕に協力してくれているそこのファントムにも多大な負担をかけてしまった。ただまぁ、魔法少女ひとりの命で収められたのは、幸運と言え、犠牲が大きかったな」

「あんたが……、あんたが俺から、俺たち家族から結奈を奪ったのか!!」

 後ろで手を縛られたまま無理矢理立ち上がり、机に走り寄る。芒原さんののど笛に噛みつこうと絨毯を蹴って飛びつく。

 でも、そこまでだった。

 剣客が振るった鞘に収まったままの刀で小突かれ、俺は無様に床に転がった。

「人類がこの先、一〇〇〇年でも、一〇〇〇〇年でも発展し続けるためには、必要な犠牲だったのだよ」

 俺のことを見下ろす芒原さんは、笑っていた。

 彼だって結奈とは面識があったのだ。結奈のことを可愛がってくれていたのだ。

 それを、必要な犠牲なんて言葉で切って捨てた。

 そんなこと許せるはずがなかった。

 立ち上がることもできず、俺は全身に入った力を目に集中させ、芒原さんを睨みつける。

 俺の視線も気にした風もなく、彼は涼やかな笑みを浮かべていた。

「ハルーナが手に入れば、最小限のエネルギーで望む結果が得られるはずだ。多少面倒なことにはなっているが、まだ間に合う段階で良かったよ」

 狂気など一片も含まれていないのに、狂っているとしか思えない芒原さんの瞳を、俺は何も言えないまま、ただ睨み返していた。

 

 

            *

 

 

 共有フロアの真ん中に置いたテーブルの左右には、六人の妹が着いていた。

 いつもは佳弥がいる上座に座り、美縁は左右六人の顔を見つめる。

 身体を急いで修理したユニアは、険しく目を細めていた。

 姫乃は美縁に視線を飛ばしながらも、エーテルモニタに向かって何かを打ち込んでいる。

 いつもは元気な羽月と紗月も、さすがに表情を曇らせていた。

 常に眠そうにしているバーシャは、いまは眉根にシワを寄せて真剣な、魔法少女としての目つきをしていた。

 ただひとり、不安そうに、悲しそうに、遥奈は顔をうつむかせている。

「もうみんな知ってる通り、兄さんが掠われました。救出しなければなりません」

 テーブルを叩いて立ち上がった美縁は、そうみんなに宣言した。

 頷きを返してくる五人の妹。

 けれど遥奈は、さらに表情を歪めるだけだった。

「わたしが! わたしのせいで佳弥さんがっ! わたしを差し出せば――」

「黙りなさい、遥奈」

 冷たいほどに静かな声で、美縁は遥奈の言葉を制した。

 泣きそうな顔をして口をつぐむ彼女を、美縁は睨みつける。

「これは私たち家族の問題。兄さんの妹である私たち全員で対処しないといけないことだよ、遥奈」

「ですけどっ」

「問題の発端は遥奈かも知れない。でもね? 遥奈。貴女のことは兄さんが守ろうとしてた。だったら兄さんの妹である私たち全員の問題なの。誰かひとりじゃない、全員の。だからこれ以上同じこと言ったら、怒るよ」

 険しく睨みつける美縁に、遥奈は驚いたように目を見開く。

 それから、少し嬉しそうに、でも泣きそうな顔で笑んだ。

「うん、そうだよねっ」

「その通りだよねっ」

 テーブルに身体を乗りだして笑み、同意したのは羽月と紗月。

「兄貴にはいつも世話になっとるからナァ。こんなときくらい助けてやらにゃあナ」

 エーテルモニタから顔を上げ、姫乃はニヤリと笑みを見せた。

「バーシャはね、お兄ちゃんのこと大好きだから、ちゃんと助けるよぉ」

 ニコニコと笑って、少し首を傾げながらバーシャは言う。

「わたくしは兄様を守ることができませんでした。次は必ず助け出し、守り抜きます」

 瞳に決意を籠めて、ユニアは頷いた。

「もちろん、私も兄さんを助けます」

 五人の表情を確認し、美縁は顔をほころばせた。

 それを聞いてもなお、遥奈はうつむいていた。

「わたしも、佳弥さんを助けたいです。でも――」

 顔を上げた遥奈は泣きそうなほど顔を歪め、椅子から立ち上がる。

「わたしは、みなさんに言わなければならないことがあります」

 テーブルから一歩離れ、みんなに見つめられながら遥奈は胸の前で両手を握り合わせる。

 美縁はもちろん、他の妹たちも、泣きそうな顔している遥奈に何も言うことはなかった。

「わたしは……、佳弥さんの本当の妹ではありません……。だから――、だからこれ以上、みなさん迷惑をかけるわけには――」

「知ってるよ?」

「うん、知ってたよ?」

 不思議そうな顔をして、羽月と紗月は首を傾げた。

「羽月にはヘンな能力は効かないよ?」

「紗月はファントムだからね?」

「え……」

 表情を固めてしまった遥奈。

「わたくしは最初の段階で知っていましたから」

 ストーカーから遥奈を守るとユニアが言ったときから、彼女が真実を知っているだろうことを美縁は予測していた。

 ユニアの厳しい表情と頷きに、驚いた顔をしながらも遥奈も頷きを返している。

「バーシャにもねぇ、催眠とかは効かないよぉ」

 人間であっても、羽月と紗月より魔法力が高いバーシャにも遥奈の能力は効かなかったらしい。

「ウチはなぁ、最初はすっかり騙されとったワ。でもナ、この家に置いてあるデータと、外に置いてあるバックアップデータとで齟齬があるの気づいてナァ。改変されたログは見つからんかったのに、あれはどういう理屈なんやろうナ?」

 驚きを通り越して呆然となっている遥奈は、ゆっくりと首を振り、美縁の顔を見つめてきた。

 そんな彼女に微笑みかけ、美縁は言う。

「気づいてたよ、私も」

「そんな……。いつから、ですか?」

「たぶん、兄さんと同じタイミング。私にとっても実の妹だよ? 結奈は。間違えると思うの?」

「……」

 驚きと、辛そうな色を瞳に浮かべ、息を飲む遥奈に、それでも美縁は笑む。

「貴女がたった一度だったとしても、結奈だと名乗ったことには、たぶん兄さんと同じで思うところあるけど、いまは言わないことにする」

「皆さん、わたしのことを知ってて……。なんで……」

 驚きすぎているのか、遥奈ははっきりと喋ることができない。

 美縁も、みんなも、そんな彼女を見つめて笑む。

「そんなの決まってるよぉー」

「ねぇ? 当たり前だよね」

「そうですね。当然のことです」

「うんー。みんな思ってることは同じだよぉー」

「そうやナ。みんな一緒ヤ」

「それはどういう……」

 泣きそうな顔をして身体を震わせている遥奈に、美縁は笑い出しそうになっていた。

 ――まだまだだな、遥奈は。

 新しく加わった妹、遥奈。

 彼女はまだ高宮家の、佳弥の妹ということが、どういうことかわかっていない。

 自分を含めて六人の妹にはわかっていることが、まだ妹歴ひと月にも満たない彼女には、実感できていない。

「そんなのね、いまさら当然過ぎるんだよ、遥奈」

 右手の指を立てながらウィンクして、美縁は言う。

「兄さんが、遥奈のことを妹と認めた。妹として扱ってる。だったらもう、私たちにできることは、兄さんの想いに沿うこと。それだけなんだよ」

「佳弥さんが……」

 身体から力が抜けたように、椅子に座り込んでしまった遥奈。そんな彼女の顔には、もう驚きも、悲しさも浮かんではいない。

 嬉しそうな笑みが、零れ始めていた。

「そう。私たち妹にとって、兄さんが基準なんだ。それぞれに考えてることはあるし、想ってることもある。でも私たちはみんな、兄さんのことが、大好き……、なんだよ。だから兄さんが貴女に遥奈と名前をつけて、貴女を守ると決めたときから、遥奈は兄さんの妹で、私たちの家族になったんだよ」

「美縁、さん……」

 嬉しさを噛みしめるように顔を上げた遥奈は、目尻に涙を溜めながら、笑った。

「あぁー、でもナ、遥奈。兄貴の独り占めはダメやからナ」

「そうだよー」

「ダメだよー」

「独り占め、ダメ」

「えぇ、その通りですね」

 姫乃を筆頭に、口々に言うみんなに、美縁も苦笑いを浮かべる。

 美縁も人のことは言えないが、遥奈が家族になったことで、ここのところみんながいつもとは違う動きを見えていたことには、気づいていたから。

「うん。もし遥奈が兄さんのことを本気に好きになっても、独り占めだけは絶対にダメ。……結奈が、帰ってくるまではね」

「――はいっ」

 目尻の涙を指で拭って、遥奈は嬉しそうに笑って力強く頷いていた。

「じゃあ、兄さんを掠っていった人たちから連絡が入ったら、すぐに助けに行くよ。そのための準備、よろしくね」

 みんなからの返事に、美縁は頷きを返していた。

「話はまとまったみてぇだな。あんな男のどこがいいんだか。あぁーーっ、羨ましい! あの妹たらしめっ」

 準備を始めようと席を立ったとき、そんな声とともに現れた男。

「貴方は……」

「遥奈を掠いにきたとかじゃねぇから、警戒はしなくていい。っても無理か。手に入った情報を渡しにきただけだ」

 全員から厳しい目を向けられても怯むことなく、隔壁の破片で閉まらなくなっている玄関に続く扉から現れたのは、シス婚推進委員会の代表。

「あー。てめぇらにはまだ名乗ってなかったな。俺様は武速ってぇもんだ。それはともかくよ、佳弥が掠われたからって、玄関くらいはすぐに直しておいた方がいいと思うぜ?」

 ニヤニヤと笑いながらテーブルに近づいてきた武速は言う。

「てめぇらの敵に関する情報と、そこのハルーナに関することだ。必要だろう? とりあえず茶の一杯くらい出してくれねぇか?」

 

 

 

 

 美縁の正面、いつもならば遥奈が座っているテーブルの端に座った武速。

 一番近くにいる遥奈が立ち上がり後退ると、メイド服のスカートを揺らして現れたユニアが、彼との間に立った。

「そんなに警戒するな、って言っても無理なのはわかってるがよ。家の中でドンパチするほど非常識じゃあねぇぜ、俺様は」

「信用できません」

 ユニアの鋭い視線にも怯むことなく、テーブルに肘を着いた武速はため息を吐く。

「……ったく。ってかな、最終宿主を見つけてるハルーナを掠う気なんぞないっての」

「最終宿主を、見つけてる?」

「え……」

 呆れたように言う彼の言葉に首を傾げたのは美縁。

 それから一斉に、みんなの視線が遥奈の元に集まった。

 眉根にシワを寄せて警戒の表情を浮かべていた美縁が、武速に向けていたもの以上の険しい表情で見つめてくるのに、遥奈は目を逸らしてうつむくことしかできなかった。

「遥奈が最終宿主を見つけてるって、そんなんどうしてわかるんヤ」

「そんなの、こいつの匂――、グガッ」

 姫乃の問いに答えを言いかけた武速は、振り上げる動作すら見えなかったユニアの拳を脳天に振るわれ、止まった。

「――くうぅ。てめっ、いくら防御魔術があるったって、スフィアドールの全力で殴られりゃ痛ぇんだっ。勘弁してくれよ、頭陥没しちまうぜ。……あぁ、遥奈の、な、――雰囲気見りゃわかるだろ」

 頭をさすりながら言い直した武速にニヤけた笑みを向けられ、遥奈は身体から力が抜けそうになっていた。

 最終宿主を見つけ、成体となるときのことは、生まれたときはよくわからなかった。

 けれどいまの遥奈には、それがどういうことなのかがわかる。見た目だけではなく、佳弥のことを受け入れられる身体に成長したのだと、自分で気がついた。

 佳弥の言葉に身体が反応したときに感じた、下腹の痛み。

 それはハルーナとして、成体に成長するときのものだと、いまの遥奈にはわかっていた。

 全員の視線を受け、遥奈は何かを言おうと思ったが、何も言うことができなかった。

「えぇっと……、遥奈が最終宿主を見つけたことについては、気になるけどいまは気にしないことにする! 武速さん? 最初は遥奈を掠うつもりで現れたのに、最終宿主を見つけたら掠う気がないって、どういうことなんですか?」

 額を手で押さえて苦々しげな顔をする美縁は、矛先を武速に変え、追求の言葉を発した。

「遥奈が、ってより、妹がほしかったんだがな。可愛い妹が。俺様にゃあ、まぁファントムの神格としてなんだが姉がいるんだ。その姉がひでぇわがままで自分勝手な奴でな。この世界に顕現してる俺様は本体じゃなくて分け身、分神だから関係はそんなに濃くないし、姉貴の奴はこの世界には顕現してねぇみてぇだからいいんだが」

「ふぅーん。そのお姉さんって、どんな神様なの?」

「詳しく知りたいなぁ。た、け、は、やっ」

「んだ? 人が語ってる途中、に――」

 思い出すように語り始めた武速に口を挟んだのは、羽月と紗月。

 ニコニコと笑っているのに、ふたりの目は遥奈には笑っているようには見えなかった。

「――なんだ? てめぇら。佳弥の妹にファントムがいるのはわかってたが、てめぇらみたいな神格、知らねぇぞ……」

「羽月も知らないよぉ。ふたつに別れちゃってるからねっ」

「紗月もわからなぁい。本当はどんな神様なんだろうね?」

「な、なんなんだ……。分神の俺様より強くはなさそうなのに、この圧力は……。い、いやっ、姉貴の話はいい! それより遥奈の話だっ」

 顔に汗を噴き出させた武速は、無理矢理羽月と紗月から視線を外し、話を戻す。

「俺様はシス婚推進委員会の代表だ。自分の妹がほしいっていう個人的な希望とは別に、世の中のできるだけ多くの妹に幸せになってもらいたいと思ってる。最終宿主を、一緒に幸せになりたいって相手を見つけた妹に、手を出したりはしねぇよ」

 額を拭いながらも言った武速に、一瞬遥奈に視線を向けてきた美縁は頷いた。

「それで、情報というのは?」

「てめぇらの兄貴を掠った敵と、そいつの目的についてだ」

 ユニアが持ってきた冷たい麦茶をひと息に飲み干し、武速はテーブルに腕を着いてニヤリと笑う。

「わかるんですか?」

「そりゃあな。妹って立場の奴らの幸せを壊すような奴らのことは、何が何でも調べるさ」

 遥奈の問いに、武速はニヤつきながら答えた。

「誰が、何のために、遥奈を掠おうとしたんですか? 兄さんを、掠っていったんですか?」

「まぁ焦るなって」

「早く、言ってください!」

 正面から睨みつける美縁だけでなく、全員から睨まれて、おどけて肩を竦めた後、武速は言った。

「遥奈を狙い、佳弥の奴を掠ったのは、イズンの帝王、芒原真誠だ。目的はこの世界を、正確にはこの魔導世界を根本から変えること」

「いったい、どうやってそんなことを……」

 武速に言われて、遥奈の方が驚いてしまっていた。

 人間が自分の持てる力のすべてを知らないように、遥奈もハルーナの持つ能力のすべてを把握しているわけではない。

 しかし、世界を変えるなどと言われても、自分にそんなことができるとは思えなかった。

「方法についちゃあここでは伏せさせてもらうぜ。だが実際ハルーナにはそれだけの力がある。それくらいの力がなきゃ、あの芒原なんて世界の重鎮が、遥奈を狙う理由がねぇ」

「そんな話、信じられません」

「だが事実だ。あの妖剣持ちと、人払いの結界を張ってたファントムを飼ってるのは奴だ。てめぇらが信じなくても、早晩奴から呼び出しがあるはずだ。それでわかることさ」

 武速に不審な目を向けていた美縁は、その言葉で黙ることになった。

「ただ解せねぇことがある」

「それは、なんですか?」

「ハルーナの世界を変える力ってのは、詳しいことは言えねぇが、幼体のときにしか使えねぇものなんだ。最終宿主を見つけて、成体になった遥奈からは消えてるはず。だが芒原の奴は佳弥を掠って、たぶんまだ遥奈のことを狙ってる。その理由までは調べ切れてねぇ」

 顔を顰める武速は、エーテルモニタを開き、指で弾いて美縁の方に滑らせた。

「あとわかってることはこれくらいだ。参考にしてくれ」

「ありがとうございます」

 内容を軽く読んだ美縁は、それを姫乃に手渡した。

「……何故、貴方はそこまで協力してくださるのですか?」

 一度は掠おうとして現れた武速が、どうしてそこまで協力してくれるのか、遥奈には理解できなかった。

 ニヤついたものではなく、どこか佳弥にも似ている優しい笑みを浮かべ、彼は言う。

「さっきも言っただろ。俺様は世の妹にできる限り幸せになってほしいと思ってる。てめぇらは、あの佳弥ってなんの取り柄もねぇ男のことが好きなんだろ?」

「兄さんにはいいところもたくさんありますよっ」

「にぃには素敵な男の人だよぉ」

「にぃやはとってもいい男だよぉ」

「お兄ちゃんはバーシャには絶対必要なんだよ?」

「兄貴がいてくれないと困るんやワ」

「兄様は、情けないところもありますが、芯の強い方です」

 口々に言い、笑っている美縁たち。

 改めて問われて、遥奈は胸の中に暖かい気持ちが生まれるのを感じていた。

「わたしは……、佳弥さんのことが、好きです。彼なしでは、生きていけません」

 暖かい胸を手のひらで押さえ、遥奈はそう言って笑った。

「本当に憎たらしいぜ、あの野郎」

 言葉ほど嫌っている様子のない武速も、笑っていた。

 みんなで笑顔を向け合っているとき、美縁が表情を硬くした。

 彼女が開いたエーテルモニタ。それを大きく広げ、みんなに見えるようにテーブルに置いた。

 書かれていたのは、時間と場所。

 遥奈と佳弥を交換するという文面。

「妖剣程度は対処できるが、あのファントムは俺様じゃつらい。それに芒原のことだ、まだ何か隠し球を準備してる可能性が高い。俺様はこれ以上直接協力できないが、頑張れよ」

「ありがとうございます、武速さん。充分です」

 全員で椅子を立ち、顔を見合わせた。

「私たち全員で、兄さんを助けるよ!」

 美縁のかけ声に、全員が力強く応えた。

 遥奈も、妹のひとりとして数えてもらえていることを感じながら、強く「はい」と応えていた。

 

 

 



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七人の妹 第四章 ~七人の妹~
七人の妹 第四章 七人の妹 1


 

 

   第四章 七人の妹

 

 

          * 1 *

 

 

 プレートを魔術で浮かせて土地とするというコンセプトを、日本で最初に取り入れたイケブクロ・サンライズ・シティは、魔導科学によって実現が可能になった一〇〇〇メートル以上の超々高層建築物とは一線を画し、新世代の都市として世界中から注目されていた。

 しかしながらサンライズ・シティは、落成式を前に地下に設置されたエーテル場安定装置の暴走により、敷地プレートが横滑りする形で崩壊し、大半が瓦礫と化した。

 崩壊がゆっくりであったこと、カタストロフ対策が充分であったことにより、人的被害はほとんどなくて済んだが、現在のイケブクロ自治区とネオナカノ自治区の間にあった、当時の地上の街並みは瓦礫の下敷きとなった。

 瓦礫となったサンライズ・シティの着地地点は、現在サンライズパークとして地上の記念公園となっている。生活の基盤が積層魔導都市に移った時代にあって、その広大な土地は世界的なスポーツや音楽などのイベント、式典の場所として利用されていた。

 約一年前の時空断層事件により一部が荒れ地となっているが、主要施設には被害がなかったため、利用は継続されている。

 パークの中でも一番大きく、軽く二十万人が収容できる、スポーツや音楽イベントに使われる円形の第一スタジアムは、夕暮れの陽射しにひっそりと染まり、人影はない。

 イベント予定はないため、そのまま夜に沈むはずだった広大なグラウンドに現れた人影。

 七人の妹。

 飛んできたメッセージ通りに、美縁たちは指定されたこの場所に足を踏み入れていた。

 全員で見回しても他に人影はなく、灯りもない。

 風もなく、街の喧騒も届かないひっそりとしたその場所には、美縁たちの他に誰もいないようだった。

 彼女たちが訝しむように目を細め始めたとき、ライトが点灯した。

 灯された夜間照明に一瞬目が眩む美縁だったが、同時にガラスで囲まれたVIPルームに、人影を確認していた。

『よくぞ来てくれた、高宮家の方々』

 マイクを通して拡大された声が響くのと同時に、巨大エーテルモニタが開き、VIPルームにいる人物を映し出した。

 立っている黒装束の男がひとりと、後ろ手に縛られて床に座り込んでいる佳弥。

 美縁たちの方に苦笑いを向けている佳弥に、怪我などをしている様子はない。

 ――兄さんっ。

 すぐに駆け寄りたい衝動を拳を握りしめて堪えて、美縁は深呼吸した。

『こちらの要求は先にも伝えた通りだ。高宮遥奈をこちらに引き渡せば、彼を解放しよう』

 その言葉に、美縁は側に立つ家族の顔を眺めていく。

 不安な表情などひとつもなく、視線に頷きを返してくる妹たち。

 最後に、遥奈と微笑みを交わした美縁は、一歩前に出て、VIPルームの黒装束を睨み、声を張り上げた。

「私たちの家族を渡すつもりはありません!」

『……彼がどうなってもいいのか? 大切な人なんだろう?』

「もちろん、兄さんは大切な人ですっ。ですが遥奈も私たちの家族です。兄さんと同じように、大切な人なんです!!」

 高らかに放った美縁の言葉に、エーテルモニタに映る佳弥は、嬉しそうに笑っていた。

「それに、貴方は遥奈を使って何がしたいんですか? 芒原さん!」

『……誰かから聞いたか? ここまで来れば隠す必要もないのだがね』

 言って芒原は黒装束を脱ぎ去り、スーツに包まれたロマンスグレーの姿を晒した。

『僕のことまで知っているなら、遥奈の正体についても知ってるだろう? 寄生生物に佳弥君と同等の価値があるとでも言うのかね?』

「あります。遥奈は、私たちの家族です。兄さんが遥奈を妹として認めた以上、私たちはみんな同じ妹なんです。引き渡すなんてこと、できません」

『佳弥君がどうなってもいいとでも?』

「兄さんも助けます。いまからそこまで行って、必ず助け出します」

 睨みつけてくるように細められていた芒原の表情が、笑みに変わった。

 唇の端を歪めて笑い、彼は言う。

『そうした強がりも好きだよ。とても尊いものだ。ならば佳弥君の妹たちよ、僕が与える障害を乗り越え、ここまでたどり着いてみせるがいい』

 芒原が言い終えるのと同時に、近くの出場口から姿を見せたのは、刀で肩を叩いている剣客と、足先から被った兜の先まで黒い姿をしたファントム。

 現れたのはそれだけではなかった。

 グラウンドの中央部分が大きな音とともに左右に開き、何かがせり上がってくる。

「――宇宙竜!」

 真っ先に声を上げたのはバーシャ。

「宇宙竜って、あの?」

 美縁は振り向いて、険しい顔をしているバーシャに問う。

「うん……。ここのところ、気配があったり、消えたりしてて、本当にいるかどうかわからなかった」

 宇宙竜は、地球外から飛来する宇宙怪獣の一種。

 宇宙怪獣は知的ではない、何らかの方法で宇宙を渡り飛来してくる生物全般の名称であるが、宇宙竜はその中でも有名な種類だった。

 単体でも魔導化していない文明を簡単に壊滅させる宇宙竜は、群れを成して星々を渡る集団もあり、それに飛来された星はあらゆる生物が死滅する。

 おとぎ話に登場する竜そのままの姿をしている宇宙竜は、いまは小山にも見える巨体を丸め、首を身体に寄せて微動だにしない。

 ――戦力が足りないかも。

 小型のものでも魔法少女ひとりでは対処が困難とされる宇宙竜は、いまの家族の中で戦える妹をそれぞれの敵に当てるとしても、足りないかも知れないと美縁には思えていた。

「大丈夫です、美縁」

 メイド服を着、前に出て剣客のことを睨みつけるユニア。

「うん、だぁいじょうぶだよぉ」

「うん、問題ないよぉ」

 ニコニコと笑い、羽月と紗月は近づいてくる黒いファントムの前に立つ。

「なんとかなる、なる」

 虚空から魔法具である大剣を取りだし、鎧のような魔法少女の衣装に変身したバーニア。

「ここはウチが手伝うから、美縁と遥奈は兄貴のところに行キ」

 数枚のエーテルモニタを開いた姫乃が、口元に笑みを浮かべながら言った。

 遥奈のことを見ると、彼女も美縁のことを見つめてきていた。

 ふたりで頷き合い、戦闘態勢を整えたみんなの方を見た美縁は声を上げた。

「必ず、みんなで一緒に、兄さんと一緒に家に帰るよ!」

「えぇ」

「うんっ」「うんっ」

「もちろんー」

「わかっとるワ」

「はいっ!」

 全員で笑みと頷きを交わした美縁は、VIPルームに向かうため、遥奈とともに出場口へと走った。

 

 

            *

 

 

「なんだ、またスフィアドールのお嬢ちゃんが相手かい?」

「ユニアです」

「んじゃあユニアちゃん。昼間に負けたときのことは憶えてるだろ? 確かにユニアちゃんはスフィアドールとしては強い方だと思うし、身体は治してきてるみたいだが、勝てると思ってるのか?」

「さっきとは違います」

 填めていた長手袋を外し、ユニアは構えを取った。

 それを見た剣客も、もったいぶらずに刀を抜き、鞘を遠くに放る。

「技術も、経験も差があるのはわかってるだろうに。昼間とよほど違いがないなら時間稼ぎにもならないぜ」

 呆れたように言い、それでも鋭い視線を向けてくる剣客は、ファントムである日本刀を構えた。

「訊いてもよろしいですか?」

「なんだ?」

「貴方は、いまの時代では珍しい武術家です。鍛錬も実戦も相当に積んでいる。それに、自分なりの生きる道を持っているようにも思えます。そんな貴方が、何故芒原様の下で人掠いなどに荷担されているのです?」

 ユニアにとって、それは純粋な疑問だった。

 物理的な争い事はほとんど起こることがなくなったいまの時代。戦争ですらまともな戦闘は、半世紀以上発生していない。スポーツや趣味で武術を嗜む者はいても、命の取り合いになるような実戦を経験している者は皆無に近い。

 ユニアはそのゼロではない人がいる道場に通い、対防御魔術用格闘術を習ったが、剣客の剣術はどこかの流派を会得しているだけでなく、命の取り合う修羅場を積み重ねて磨き上げてきたもののように思えた。

 そんな世界に何人といない実力者が、権力と財力を持っているとは言え、芒原のような人物に従属し、下種な仕事を請け負っている理由が、わからなかった。

「まぁ、いろいろこっちにも事情があってな。こんな人斬りの技術もこんな時代だからこそ必要になったりするんだが、トラブルはつきものなのは言うまでもねぇ。あいつの夢につき合ってるのは、この斬り裂き丸の大切なものを押さえられてるからだ」

「斬り裂き丸……。そのファントムの刀ですか」

「あぁ。気づいてると思うが、こいつはただの器物ファントムじゃねぇ。相当高い神格の、それもあらゆるものを、因果すら断ち切れる事象剣だ。だがこいつはいま片割れがいねぇからな。神殺しの妖剣としての力は半分もない。つってもユニアちゃんを倒すくらいはわけねぇけどな」

 話すことを言い終えたらしい剣客は、口元に笑みを浮かべつつも、剣士としての目をユニアに向けてきた。

 事象剣というのは聞いたことがあった。

 羽月や紗月、武速と言った人物の形で顕現するファントムと違い、器物の形で顕現することもあるファントム。そうした器物ファントムの中でも、とくに強力なものには、神をも殺す力を持ったものがあると言う。

 顕現しているファントムは人間でも戦えるし、倒すこともできるが、ファントムの本質はエーテル場にある。顕現した肉体を破壊しても、本体を傷つけるには至らない。

 しかし事象剣と呼ばれる、時間や空間、果ては縁といった形のないものまで干渉できる器物ファントムは、ファントムの本体にダメージを与え得ると言う。

 片割れを失い力を減じていても、軍事レベルの強力なものならともかく、服に付与された防御魔術では事象剣の前には無意味なのは当然のことだった。

「さて、このまま戦わないってんなら、見逃してやる。女の子を斬るのは趣味じゃねぇ」

「スフィアドールのわたくしを女の子として扱うと?」

「性格は女性格なんだろ? やっぱりあんまり気持ちの良いものじゃねぇんだよ」

「ですが、わたくしはこのまま貴方を見逃し、美縁や遥奈の元に行かせるわけにはいかないのです。――バーニア!」

 剣客に注意を払いながら、ユニアはバーシャ――魔法少女バーニアに声をかける。

 首をもたげ、威嚇するようにうなり声を上げている宇宙竜と対峙するため、バーニアは空中に浮かび上がっていた。

 ユニアの声に反応した彼女は、両手に持った大剣に光を宿し、振った。

 ビームのような青い光を受けたのは、ユニア。

「なんだ? こりゃ。ER空間?」

 全身で青い光を受けたユニアから地を這うように放たれたのは、緑色の光。

 ユニアを中心に四角に広がったその光は、充分に広がった後、壁を形成し、天井をも閉ざして箱状の空間を生み出した。

 外が見える薄緑色の壁に囲まれた空間は、ER空間。

 体育の授業でも使っていた、ゲームフィールド。

「こんなもん使って、こっちの防御魔術を無効化するってか? そんな程度で埋まる差じゃないのはわかってるだろ? ユニアちゃん」

「えぇ、もちろんです」

 肩を竦めながら言う剣客に、ユニアはニッコリと笑む。

 ER空間の薄緑色の壁に近づいた剣客は、事象剣でそれを斬りつけた。

 刃は通らず、壁に弾かれる。

 手で触ってみても何も起こらないが、外に出ることはできない。

「閉じ込めるのが目的ってか? 魔法少女が張ったものなら破るのは難しいが、あっちの敵は最低でカテゴリー十五の宇宙竜だぜ? 斬り裂き丸で斬れねぇ魔術なんて維持してたら、ヘタすりゃ速攻で食い殺されんぞ」

「それについては心配ご無用です。発動の際に魔法力こそ借りましたが、維持しているのはわたくしです。貴方もご存じでしょう? わたくしは魔法少女ユーナの魔法具。この空間を発動させ、維持することくらいならばわたくしでも可能です」

「だったらユニアちゃんを倒せばいいってことだな!」

 そう叫んだ剣客は、本格的に攻撃の構えを取った。

 それに対して余裕の笑みを浮かべ、ユニアは言う。

「貴方はここが、どんな場所であるのかわかりますか?」

「なんだ? 壁が堅固なだけでただのER空間だろ? ここじゃあ斬り裂き丸で斬られようが、魔術を解除すればダメージは回復するかも知れねぇが、ユニアちゃんが勝てねぇことには変わりねぇぜ。防御魔術の無効化程度で同等になるほど、差は小さくねぇ」

「同等? まさか」

 メカニカルアイに凶暴な光を宿し、ユニアは笑う。

「ここは姫乃に組んで頂いた、わたくしのための空間。わたくしは貴方のようにプレイヤーとしてここにいるのではなく、この空間の支配者としてここに君臨しているのです。この空間の解除は、わたくしが指示するか、わたくしの心を折るしかありません」

「てめぇ……。意外と卑怯じゃねぇか」

「卑怯? 何を言っておいでで? 最初から貴方は、ひとりではなく、その事象剣と、ファントムと一緒に、二対一でわたくしと対峙していたではありませんか。貴方の口から卑怯などと言われても、どちらが? としか思えません」

「ちっ」

 苦々しげな顔で舌打ちする剣客の前で、狂気にも近い笑みを零すユニアの背後から生えてきたのは、拳。

 指一本だけでもユニアの腕よりも太いそのメカニカルで、凶悪な雰囲気を宿した腕が二本、拳を握りしめた。

 ER空間では勝敗のルールや重力操作、身体に感じる痛みの大小を変更するだけでなく、設定したルールに従い、道具や武器を呼び出し、使うこともできる。

 ユニアの肩の上には、腕に続き大口径の砲門が虚空から現れ、装着された。

「兄様を傷つけ、掠い、家族を奪おうとする貴方と、なぜフェアに戦わなければならないのです? わたくしにとって貴方はただの虫です。踏み潰し、轢き殺すべき害虫です」

 剣客の顔は、徐々に引きつってきていた。

「魔法少女ユーナに仕え、高宮佳弥の妹として彼を慕うわたくしと対峙する貴方がいまいる場所は、わたくしの胃袋です。わたくしの家族に危害を加えることを止めないと言うなら、このペインレベル一〇倍のわたくしの胃袋で消化して差し上げましょう」

 近接用の拳、射撃武器、空中に浮くオプションなど、様々な装備を呼び出し、それに埋もれるようにして立つメイド姿のスフィアドールは、爽やかで、凶悪な笑みを浮かべながら、剣客への攻撃を開始した。

 

 

            *

 

 

 黒のファントムは、宇宙竜と対峙するために空に浮かんだバーニアに、仮面を被った顔を向けた。

「だぁめだよっ。あっちはいま忙しいからね!」

「貴方の相手は羽月と紗月だよ!」

 仮面に手をかけていたファントムに、羽月と紗月はニコニコと笑みを浮かべながら近づいていく。

 手を繋いで立つふたりに、ファントムは虫を振り払うように無造作に右腕を振るった。

「わぁーっ」

「きゃぁっ」

 楽しそうな悲鳴を上げながら、ふたりは腕を躱してファントムの正面に回る。

「ねぇ、一緒に遊ぼう?」

「遊んでくれないといたずらしちゃうぞ?」

 やっと羽月と紗月に顔を向けたファントムは、握った拳を振り上げる。

 先ほどよりも早く、鋭い打撃。

 しかしふたりはわずかに身体を反らしただけで、それを回避していた。

「ふぅん。貴方、エンシェントエイジなんだね」

「もっと強いはずなのに、零落しちゃってるんだ」

 羽月と紗月は、そう言いながら黒いファントムの周りをくるくると踊る。

 ファントムは彼女たちを捕まえようと両手を伸ばすが、すべて紙一重で躱されてしまう。

「そっか。だから芒原の企みに協力してるんだ?」

「世界が変わっちゃっても、貴方はそのままでいられるからなんだ?」

「力を取り戻したいの?」

「神話みたいに君臨したいの?」

 右のサイドテールを揺らす羽月と、左のサイドテールをなびかせる紗月は、ファントムの周りでそれぞれに踊りながら、彼の性質を明かしていく。

 剣客にも劣らない速度で手を振りふたりを捕まえようとするファントムだったが、木の葉のようにすり抜けられ、触れることすらできない。

「捕まらないよー」

「捕まえてごらーん」

 クスクスと笑い声を上げて踊るふたりに、ファントムは動きを止めた。

 仮面に、手をかける。

「そして貴方の正体はね――」

「それから貴方の力はね――」

「魔眼のバロール!」「魔眼のバロール!」

 黒いファントム――魔眼のバロールの前で両手を繋ぎ、頬をすり寄せて正体を告げる羽月と紗月。

 仮面を脱ぎ去った下から現れたのは、濃い褐色の肌をした、端正な顔立ちの男。

 彼の両目は、固く閉ざされていた。

 魔眼のバロールの力は、文字通りその魔眼。

 閉じられた目を開け、生き物を睨めばその命を奪い、土地を見れば荒れ地に変えてしまうと神話に伝えられている。魔眼の力は、顕現したファントムの身体を打ち砕き、エーテル場にある本体をも傷つける。

 いままさにまぶたを開こうとしているバロールの前で、羽月と紗月はニコニコと笑っている。

「遊ぼう?」

「踊ろう?」

 離れたふたりの手の間からは、包帯のような布が現れ、伸びていく。

 大きく飛び退きふたりから距離を取ったバロールは、ゆっくりと、瞼を開く。

 立ち止まったまま逃げることもない羽月と紗月を、バロールの魔眼から放たれた黒い光が包み込んだ。

 

 

            *

 

 

 バーニアが空に飛び上がったのと同時に、宇宙竜は目を覚まし、長い首を持ち上げた。

 真っ直ぐに伸ばせば、首の先から尻尾の先まで二〇〇メートル近くあるだろう。胴体だけでも一〇〇メートルほどある宇宙竜は、ただの成体ではなく、生まれてから数億年、もしかしたら一〇数億年生きている、エルダー種だと思われた。

 見た目には岩をつなぎ合わせたようなごつごつした肌をしているが、その強度は人類が造り出せるどんな装甲よりも硬い。

 ――この子、操られてる。

 凶悪な竜であるのに、綺麗な碧い瞳をしている宇宙竜。

 しかしその瞳の中に、黒い揺らぎが見て取れた。

 おそらく、羽月と紗月が相手をし始めたファントムが、何らかの干渉を行ったのだろうと、バーニアは予想した。

 強大で、育っていない単体でも魔法少女ひとりでは相手が難しい宇宙竜であるが、あくまで宇宙の中だけでの話。強さはそれほどではなくても、エーテル場に本体を持つファントムの能力次第では、手なずけることも不可能ではなかった。

「どちらにせよ、戦うだけ」

 寝ぼけていたらしい宇宙竜は、いまはっきりとバーニアのことを認識し、牙を剥いて喉を鳴らし威嚇してくる。

「バーニアは想う! 絶断の刃を!!」

 魔術ではない、魔法の言葉を唱えたバーニア。

 魔法具である大剣に、光が宿った。

 光は刃となり、バーニアの身体の二倍近くまで伸びる。

 それを見た宇宙竜は首を縮め、大きく口を開いて噛みついてきた。

「ふっ」

 ひとつひとつが剣のような鋭い牙が並ぶ顎をふわりと動いて回避したバーニアは、身体にも光を纏い、竜の胴体へと飛んだ。

 まるで鈴を鳴らしたような澄んだ音。

 バーニアが振り下ろした光の刃は、黒い岩のような宇宙竜の身体に確かに命中した。

 しかし傷ひとつ入れることはできず、澄んだ音とともに受け止められていた。

 宇宙竜はあらゆる物質を食べて成長する。それはごく微量、天然に存在するマナジュエルを体内に取り込むため。

 自然物よりも多くの場合魔法力が高い生物をとくに好むが、その貪欲さは凄まじく、エルダー種の群れともなると、恒星をも食料とする。

 生まれたときは宇宙で生息可能な程度の魔法力――それでも恐ろしく高いが――しか持たない、野生生物に過ぎない宇宙竜は、時を経るうちに魔法力を増し、エルダー種ともなると魔法少女でも、ミュートス級ファントムでも、単身では物理的には手に負えなくなる。

 バーニアの魔法による刃を弾いたのは、高い魔法力を持つ宇宙竜が本能で発動させている、強力な防御魔法の効果だった。

 尻餅を着く形で上半身を起こした宇宙竜は、首に加え前脚を伸ばして攻撃を加えてくる。

 決して早いとは言えない攻撃であるが、牙と爪には魔法の光が宿っている。切断系の魔法だろうその光の威力は、一撃で防御魔術が付与された服を着る人間を紙のように斬り裂き、魔法少女にもダメージを与えるほど。

『さすがに微塵切りのバーニアと言えど、宇宙竜相手では手も足も出ないかな?』

 そんな声をかけてきたのは、芒原。

 ゆったりと椅子に背を預けて高く足を組む彼は、バーニアと宇宙竜の戦いを、まるでスポーツの試合を見るかのように口元に笑みを浮かべて眺めている。

「いくら何でもこのクラスの宇宙竜の使役は、危険過ぎではありませんか? 暴れ方次第ではこの辺り一帯が焦土と化しますよ」

 細かく動き、宇宙竜の攻撃を避けて翻弄するバーニアは、横目で芒原のことを睨みつけながら言った。

『問題ないさ。この辺りが焦土になるくらい、僕の成そうとしていることのためには必要な犠牲さ』

 芒原のそんな言葉に、バーニアは眉を顰める。

 いまはまだ刃の魔法程度しか使っていないからたいしたことはないが、宇宙竜には様々な力がある。

 口から炎を吐くくらいは序の口で、ビームを吐き、重力を操り、空間を消滅させることも可能だ。そんな攻撃よりも、いかなる攻撃も弾く強固な皮膚と防御魔法が脅威だった。

 ふたり以上魔法少女がいれば、力を合わせて強い攻撃を繰り出したり、ひとりが陽動をしている間にひとりが力を溜めることもできるが、いまのこの場で宇宙竜と戦えるのはバーニアひとり。

 これだけ強い脅威が発生したのだから、そう遠くなく他の魔法少女が駆けつけてくると思われるが、到着するまでの数分の間に、グラウンドにいる者たちは殲滅されかねない。

 バーニアが戦う以外、いまは方法がなかった。

「!!」

 考え事をしている間に生まれた小さな隙。

 迫ってきていた宇宙竜の爪を避けるタイミングがわずかに遅れ、バーニアは地面に叩きつけられた。

『その程度でやられはしないだろう?』

「当然です」

 抉られ、土煙を上げるグラウンドの中から、傷ひとつない鎧姿で立ち上がったバーニア。

『しかしいまの君では勝ち目はない。そろそろ宇宙竜には本気を出してもらうことにするよ。短い間だったが、これまでよくイズンを守ってくれた。バーニア、お別れだ』

「それはどうでしょうか。――姫乃!」

「はいヨ」

 芒原の声に顔色ひとつ変えずに応え、バーニアは出場口の影に隠れていた姫乃に声をかけた。

 身体を出した姫乃は、広げていたエーテルモニタをフリスビーのように投げた。

 縦横の面積だけでなく、かなり厚みがあるエーテルモニタ。

 その厚みは、データの量を示す。

 宇宙竜に目を向けながら、後ろに伸ばした左手でそれを受け取ったバーニア。

 彼女はそれを、右手に持った大剣に当て、刃の表面に挿入するように押しつけた。

「お願いね、剣帝フラウス」

 自分の相棒である魔法具に呼びかけ、バーニアは大剣を胸の前で構えた。

 そのとき、宇宙竜は喉を膨らませている。

 牙の間から漏れ出ているのは、青白いプラズマ。

「ライトウェア・セットアップ!!」

 高らかに上げた声とともに、バーニアの身体が光に包まれた。

 それと同時に、宇宙竜の口から吐き出された、プラズマの光。

 轟音を伴ってバーニアの身体を包み込んだプラズマは、瞬時にグラウンドを蒸発させ、大きな窪地をつくる。

 たとえ軍用の防御魔術でも、一秒と堪えることができないプラズマのドラゴンブレスは、次の瞬間爆発となった。

『あっけなかったな』

 煙に包まれ中心部は見通せないが、窪地の縁が沸騰している様子を見た芒原は、エーテルモニタの中で含み笑いを漏らす。

『そのまま残っている三人の――』

「何が、あっけなかったのでしょう?」

 宇宙竜に指示を出そうとする声を遮って、内側からふくらむようにして吹き飛ばされ消えた煙の中から、バーニアが現れた。

 ドレスと鎧をかけ合わせたような魔法少女の衣装を纏っていたバーニアだったが、その姿は変化していた。腰部や脚部にスラスターを持ち、身体のラインが出るアンダーウェアの上に、メカニカルなプロテクターを身につけた姿。

 球形のバリアを張り、沸騰する地面の上に滞空するバーニアは、VIPルームの芒原を睨みつける。

『……なんだ? その姿は』

「魔法少女とその魔法具の力を最大限に活かすため姫乃が生み出した、ライトウェア。いまのワタシは魔法少女ではありません。この姿をしているときは、機光少女バーニアです」

 ゆっくりと高度を上げ、警戒しているように睨みつけてくるだけの宇宙竜と、バーニアは対峙する。

「ワタシが何故、自分にバーニアと名付けているか、ご存じですか?」

『名付けの理由だと?』

「えぇ。ワタシには大きな魔法力を持つ者が必ず持っている自制能力、リミッターがありません。体内にある魔法力をあるだけ放出してしまう。同クラスの魔法少女よりも強力な魔法が使える代わりに、常に消耗し続けてしまうため効率が悪く、暴走によって自分の身体も、心も、……そして周囲をも壊してしまうことがあります」

 ヘルメットについたバイザー越しに宇宙竜を見つめていたバーニアは、少しうつむく。

「それによって、ワタシは生みの親を失った……」

 剣帝フラウスを構え、宇宙竜を見つめ直したバーニア。

「だからワタシは自分の心に刻みつけた。力の、目盛りを」

 フラウスの刀身が伸びるように、光の刃が現れた。

 白銀色の光の刃は、先ほどの刃よりも細く、まるで実体であるかのように安定している。

「燃費は悪いままですが、自分に目盛りを刻み、出力を完全にコントロールすることで、そして姫乃の協力で生み出したこのライトウェアで、ワタシは短時間であれば通常の魔法少女数人分の力を持ちます」

『さ、さっさと殺せ!』

 芒原のうわずった声と同時に、宇宙竜はプラズマブレスをバーニアに向けて吐き出した。

 左手を掲げたバーニアは、身体の前に円形のバリアを展開する。

 プラズマと接触した瞬間、バリアは膜となってそれを綺麗に包み込んだ。

 収縮するバリアの中で、プラズマは微かな煤を残して消滅した。

 後ろ脚だけで一歩、二歩と後退り、バーニアを睨みつけた宇宙竜の周囲に新たに現れたのは、光の槍。

 二〇を超える槍は、一斉に機光少女へと殺到した。

 けれども槍と同じ数のバリアを出現させたバーニアは、槍のすべてを包み込み、無力化していた。

「エルダー種とは言え、ずいぶん多芸ですね。捕らえて支配下に置いただけでなく、教え込んだのですか? 危険なことを……。しかしながら、その竜の出力は計り終えました。もうその竜は一切の被害を、周囲に出すことはありません」

 すぐにバリアを展開できるよう左手を竜に掲げたまま、バーニアはVIPルームの芒原に向けて剣帝を向ける。

「そこでおとなしく待っていなさい。可能な限り速やかに、貴方の罪を贖わせるために、そちらにお伺いします」

『そこでしばらく遊んでいろ。こちらはその間に目的を達成する!』

 言って芒原はエーテルモニタを消し、椅子からも立ち上がってバーニアからは見えなくなった。

「さて、速やかにと言っても、それなりにかかりそうですね」

 恐れ始めたのか、積極的な攻撃をしてこなくなった宇宙竜。

 ユニアと、羽月と紗月が戦っている場所、姫乃が隠れている場所に注意を払いながら、バーニアは剣帝フラウスを構え、宇宙竜に突撃を開始した。

 

 

 



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七人の妹 第四章 七人の妹 2

 

 

          * 2 *

 

 

 ――頑張ってくれよ、みんな。

 手を後ろで縛られてて上手く動けない俺は、グラウンドの見えるガラスの側まで膝でにじり寄って、ユニアと、羽月と紗月と、バーニアの戦いを見ていた。

 見ていることしかできないことが歯がゆい。

 魔法力が高い訳でも、魔術を扱うのに長けてるわけでもなく、運動神経も頭の回転も普通の俺には、できることなんてなかった。

 芒原さんの方は、バーニアに言い負かされて椅子から立ち上がった後、VIPルームの隅で、何かをしているようだった。

 ――姫乃はさっき見えたが、美縁と遥奈はどこだ?

 美縁も俺と同じで、グラウンドで行われているような戦いに混ざれるような力はない。遥奈もハルーナの能力は持っているが、戦いに向いたものじゃない。

 ――姫乃と一緒に隠れててくれればいいんだが。

 そんな予感にも近い不安は、現実のものとなった。

「兄さん!」

 芒原さんがいるのとは反対側の、もうひとつの扉を開けてそんな声を上げたのは、美縁。

 彼女の後ろには、不安そうな顔を見せている遥奈の姿もある。

「来るな!」

 身体を振り向かせ、俺はふたりに叫ぶ。

 芒原さんはまだ、何か企んでる。遥奈を使って世界を変える方法なんてどうすればいいのかまったくわからないが、彼女が捕まってしまうのは問題だ。

「助けに来たのに来るなって何?! 私たちがどれだけ心配したと思ってるの!」

「……済まん」

「佳弥さん! ご無事ですか?!」

「俺は怪我もしてない。それよりも――」

 俺が向けた視線の先にいるのは、芒原さん。

 薄笑いを浮かべながら俺に近づいてきた彼は、思いのほか強い力で首をつかんで、無理矢理立たせた。足は縛られていないから逃げ出そうと思った瞬間、俺の首筋に冷たいものが押し当てられた。

 見ると、芒原さんは俺の首筋に小型の日本刀――脇差だろうか――を沿えている。

「これは斬り裂き丸の相方だ。防御魔術では防げない。さて、そこのハルーナを引き渡してもらおう。佳弥君と引き替えだ」

「さっきも言った通り、家族を貴方に渡すわけにはいきません」

 身体を震わせている遥奈を押さえるように、左腕を水平に伸ばした美縁は、芒原さんを睨みつけながら言った。

 そんな美縁に俺は小さく頷き、彼女も頷きを返してくる。

「彼の命と引き替えにするほど、寄生生物が大事だと言うのか?」

「遥奈のことは兄さんが妹のひとりと認めています。そうである以上、寄生生物だったとしても、彼女は大切な家族のひとりです」

 芒原さんの言葉に一歩も引かず、美縁は言い放った。

 けれどもそれはぎりぎりの交渉だ。

 泣きそうに顔を歪めている遥奈を止めている左腕はしっかりしてるが、反対の右腕は、握りしめられ細かに震えている。

 俺にとって妹全員が大事なように、自分でそう思うのもなんだが、美縁にとって俺は大事な存在だろう。

 時間を稼げば、外で戦ってるユニアたちがどうにかしてくれるかも知れない、とも思う。

 けれど剣客の強さは、ユニアが一度負けていることからも明らかだし、宇宙竜は正直バーニアひとりの手に余る。ファントムについてはその力は未知数だ。

 ユニアたちが負けるとは思いたくないが、ここで上手いこと立ち回って、戦いを止めた方がいいかも知れないくらいには、ぎりぎりなはずだ。

「貴方は、遥奈を使って何をするつもりなんだ?」

 脇差に気をつけながら、俺のことを押さえ込んでる芒原さんに振り向き、そう問うた。

「なに、いつも思っていることと変わりないさ。僕は地球人類のために、できる最善のことをしたいだけだ」

「最善のことって言っても、貴方はこれまでも充分のことをしてきただろう。ハルーナの、世界を変える力なんてのを使って、ヘタしたら人類社会がとんでもないことになりかねない宇宙竜まで持ち出して、やりたいことってなんなんだよ。……それに、遥奈の能力ってのは、なんなんだ?」

 さっき話していたときははっきりと聞けなかったことを、改めて訊いてみる。

 彼の成したいことが、こんな強硬手段を使ってまでやりたいことなのかどうか、俺にはわからなかった。

「……地球人類が、あと一〇〇〇年ほどで滅びるという話は知っているだろう?」

「もちろん、エジソナの予言は知ってる。だけどそうならないよう、貴方はいろいろなことをしてきたんだろう?」

「してきたさ。だが、あの予言を覆すことは難しい。最初は僕もあまり信じずに、念のための対策をしてきただけだった。だが時が経つ内、その予言は確かに現実になることがわかってきた」

 芒原さんは悲しげに目を細める。

 俺には一〇〇〇年後のことなんて遠い時間にしか思えないが、エンシェントエイジとして、三世紀半を生きている彼には、そう遠い未来ではないのかも知れない。近い将来起こる現実として、捉えているのだろうか。

「地球人類が滅ぶことになる根本的な原因は何なのか、わかるか?」

「……いまの余裕ある社会が、人類の意欲を奪うから、とされているって聞いていますが」

 本人もエンシェントエイジであり、この世界を魔導世界へと導いたエジソナという女性の唱えた予言は、様々なデータに基づいた検証がされたものだ。

 生活水準が大幅に上がり、生きるだけならほとんど寝ていても大丈夫になったいまの時代、地球の活気はずいぶん小さくなっていると言われている。

 宇宙から様々な地球外人類が訪れてるし、ファントムとか月下人とかもたくさんいる。日々新しい魔術が多数配信され始めたりして、ニュースを見れば良いものも悪いものも様々な事件で世の中は騒がしい。

 けれどそれは、ごく小さな活気に過ぎない。

 地球人類の人口は減り始めているし、経済の停滞はもう慢性化していると言っていい。不慮な原因による死者はほとんどいなくなったが、尊厳死による死者は増え続けている。

 そんな社会になった根本的な原因は、それこそひとつだ。

「君もわかっているだろう。魔導、魔術の普及、何よりその発見こそが、人類の寿命を一〇〇〇年にした原因だ」

「それは……、そうかも知れませんが、でもいまさら魔導科学をなかったことにはできないですよね?」

「それができるとしたら、どうする?」

「そんなことが――」

 瞳に光を宿している芒原さんが、不確かな可能性で話をしている様子はない。

 確信があって、言ってる気がする。

「そんなこと、できるわけがないじゃないですか!」

「できるのだよ。そこの、ハルーナの力を使えば、ね」

 反論の声を上げた美縁に微笑みを返す芒原さん。

「……わたしに、そんな力が?」

「あぁ。本人すら認識はしていないだろう。だが可能なのだ。この地球を滅びから救うために色々調べているときに見つけたのだよ。地球ではないある星で、ハルーナの中間宿主となった者の観察記録を。五百年以上前の記録であったが、観察者が記録したところによると、ハルーナは本人も認識していない、凄まじい能力があることがわかった」

「それは、どんな力、なのですか?」

 声を震わせる遥奈が問う。

 彼女を見つめて薄く笑う芒原さんは、答えた。

「因果律操作能力」

 聞いた途端、俺は合点がいった。

 高度なセキュリティが施され、改変が難しい自治体の住民登録情報。それに付随する生徒として登録されていた学校でのこと。

 電子情報への干渉能力ではなく、現実をねじ曲げるという、因果律を改変する能力があるなら、それは可能だ。本当だとしたら、ハルーナは自分の居所をつくるために、現実そのものを改変していることになる。

 そして武速が俺にハルーナの能力について話さなかった理由もわかった。

 もし、因果律を操作できれば、一年前に消えた結奈を、時間を巻き戻して取り戻すことができるかも知れないからだ。

「ハルーナがその能力を得た原因はわからない。神であるファントムですら、宇宙の中に顕現していては因果律を操作し、過去を改変することは不可能だ。ハルーナはもしかしたら、エーテル場に主体を持つファントムよりさらに上位の、超高次元の存在か何かに起因して宇宙に存在しているものなのかも知れない。ただ、それが可能であることは、すでにそこの遥奈君でも観測できている」

 唇の片端をつり上げ、芒原さんはニヤリと笑う。

「僕は因果律操作能力を使い、この地球を旧世界に戻す」

「そんなことしたところで――」

「あぁ、そうだ。わかっているさ。そもそも地球人類が堕落する生き物であるからこそ、魔導を得たことで滅びることになったのだ。魔導自体も、旧世界から魔法少女たちがいたのだ、科学が発展していく以上、魔導はいつか発見される。けれど三〇〇年前、あのときエジソナが魔導を世に広めなければ、地球人類の寿命は一〇〇〇年と言わず、五〇〇〇年、一〇〇〇〇年にでもできる。いまの記憶を持ったまま三〇〇年前に戻った僕がそれを実現する。時間はかかるが、人類の性質を変えてみせる」

 壮大すぎる計画に、頭がくらくらしてくる。

 確かに芒原さんの計画は、地球人類のためを想ってのものだろう。

 だけど因果律を操作し、魔導世界を消失させるということは、エンシェントエイジの芒原さんはともかく、俺たちは皆消えることになる。

 運良くもう一度生まれることができたとしても、それはいまの俺とは違う存在だ。

 そんなことを、実現させるわけにはいかない。

「美縁! 絶対に遥奈を渡すな!!」

「う、うんっ」

「いまのこの場で、佳弥君の死に様を見ることになっても、渡さないつもりかな? 因果律を操作して過去を改変すると言っても、確実に成功させるためには実験が必要になる。数十年かかるかも知れない。それまでの時間だけでも、元の平穏な生活を送りたいと思うなら、ハルーナを引き渡せ」

 芒原さんは言いながら、首筋に当てた脇差をわずかに引く。

 防御魔術は発動したのに、それが効果を示すことはなく、皮膚が切れて血が流れ出す。

「兄さんっ!」

「佳弥さんっ!」

「大丈夫だ。少し切れただけだ」

 そうは言ったが、慰めにもならない。

 もう少し強く刃を引いたら、俺の首は切れる。俺は死ぬ。

「まぁ、遥奈君を引き渡してもらわなければならないのだが、因果律操作を行うためにはいくつかの条件があることがわかっていてね。三百年もの時間を改変するためには、強大な魔導エネルギーが必要なのだ。それともうひとつ、因果律操作能力は幼体のハルーナにしかないものだ。成体となったハルーナは、その能力を失う。それ以上、現実をの改変が不要になるからだろうね。そしていまの遥奈君は、最終宿主を見つけ、成体となっている」

「え?」

 意外なことを言われて、俺は遥奈のことを見つめてしまっていた。

 ――最終宿主を見つけた?

 ということは、遥奈にとって一番大切な人が見つかったということだ。

 それが誰なのか、俺にはわからない。

 一番大切な人を、恋する相手を見つけたというのに、俺を助けに来る理由もわからない。

 寂しくはあるけど、遥奈にとってそれは本能で望んでいたことだ。遥奈自身も、望んでいたことのはずだ。

 だったら、俺は素直に祝福すべきだろう。

「そっか……。遥奈、よかったな。おめでとう」

「ち、違うっ。兄さん!」

「佳弥さん! わたしは……、わたしは!」

「くっくっくっくっ。この期に及んで、面白いな、佳弥君は」

 脇差の刃を首筋から離して右手で顔を覆い、窒息するほどじゃないけど左手で俺の首をつかんだ芒原さんは、楽しそうな笑い声を上げる。

「何がおかしい!」

「いや、まぁ。それがたぶん、君たち兄妹が円満である理由なのかな、とね。それはともかくだ、成体となったハルーナを幼体に戻す方法があることもわかっている。成体になった後も、繁殖行為前のハルーナは、幼体に戻せるのだよ」

「……なんでそんなことまで、俺たちに話すんだ?」

「なに、冥土の土産という奴だよ」

「どういうことだ?」

「こういうことさ」

 何かが、胸に差し込まれてきた。

 鋭く、冷たいそれが、胸の奥に突き刺さっているのを、俺は感じていた。

「成体となったハルーナを幼体に戻すためには、最終宿主の死をはっきりと認識させる必要がある。それを観察するために、僕が見つけたハルーナの行動記録に登場した、中間宿主から最終宿主となった男は、観察者の手によって殺されたのだよ」

「兄さん!」

「佳弥さんっ!」

 美縁と遥奈の声がさっきより近く聞こえる。

「な、んで――」

 喉に押し寄せてきて、口から吐き出された熱いもので、はっきりと喋ることができない。

 ――これは、ダメだ。

 脇差を心臓に突き刺されたことはわかった。

 死ぬ。

 まだどうにか動いている頭でそれを認識する。

 それだけじゃなく、俺の中の何かが、断ち斬られるのを感じる。

 死んだ直後であれば、治療魔術を使えば復活だって可能だ。この世界の医療技術は、医療魔術はそこまで発展してる。

 でも、俺はたぶん無理だ。

 冷たさが熱さになった胸に突き刺さる脇差が断ち斬っているのは、俺の身体でも、俺の命でもなく、それよりももっと深い、何かであることを、朧気ながら認識する。

 ――死ぬ。

 暗くなっていく視界の中で、泣き叫んでいる美縁と遥奈のことを見ながら、俺はそう感じていた。

 

 

 



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七人の妹 第四章 七人の妹 3

 

 

          * 3 *

 

 

「クソッ」

 悪態を吐いた剣客は、グラウンドに身体を横たえた。

 彼の右足は何かに食い千切られ、左腕は押しつぶされたようになっていた。服のいくつもの場所には黒い焦げ跡があり、顔の右半分は原型こそ残しているが、焼けただれている。

 胸を大きく上下させ、途切れ途切れの息をする剣客は、それでも右手の斬り裂き丸を手放していない。

「こんちくしょう。勝てねぇ……。物理戦で負けたなぁ本当に久しぶりだ。惚れるぜ……」

 そんな言葉を残した剣客は、目を閉じ、力を失った身体は弛緩した。

 剣客から少し離れた場所にいるユニアは、それを確認し、両膝と両手を着いた。

「心を、折られるかと、思った……。ここまで技量の差が、あるとは……」

 ユニアの周りには、破壊された装備が山のように積み上がっていた。

 空間のルールすら操れるユニアであったが、圧倒的な物量を持ってしても、剣客は手強く、勝利はぎりぎりだった。

「でも、こんなことをしている時間はありません」

 膝に手を着いて立ち上がり、五体こそ揃っているが、あちこちが斬り裂かれたメイド服を纏う身体を引きずるようにして剣客に近づき、彼の右手を蹴飛ばした。

 斬り裂き丸が遠くに飛んでいったのを確認し、いまにも死にそうな格好になっているのに、何故か満足そうな笑みを浮かべて気を失っている剣客の顔を眺めてから、ER空間を解除する。

 途端に薄緑色の壁とともに、瓦礫となった装備は消えた。

 ユニアのメイド服にあった斬られた跡も、剣客の傷も身体の欠損も残らず戦闘前に戻る。

 失われた体力が回復しても、気を失った剣客は目を覚まさない。メカニカルアイに表示されている残存エネルギーが充分なのを見、グラウンドで行われていた他の戦いを確認するために視線を巡らせた。

 巨大な断末魔。

 空中からのそれにユニアが顔を上げると、虹色に光る球体が浮かんでいた。

 中にいるのは、宇宙竜。

 手足のすべてと尻尾を切り取られ、胴体の後ろ半分を斬り落とされている宇宙竜は、それでも生き、球体の中で暴れている。

 グラウンドには、最初に放ったプラズマブレスの跡と、宇宙竜の足跡以外には戦闘の痕跡はひとつもない。魔法少女バーニアが、攻撃のすべてを精密に無効化し、必要最低限の力で攻撃を行った結果だった。

「バーニアは願う、偉大なる竜の癒やしの眠りを!」

 剣帝フラウスをかざして唱えるバーニアの魔法句に応え、虹色の球体は急速に収縮する。

 小さな球となってゆっくりと降りてきたそれは、彼女の手に収まった。

「殺しはしないので?」

「うんー。操られてたってことは、たぶんある程度頭が良い竜だと思うんだぁ。自分の意思で暴れたんじゃないし、タイミングを見てどこかに放してあげればいいかな、って。それに、あそこからでも、宇宙竜を完全に殺すのは凄く大変だし、ワタシじゃ難しいよぉ」

 いつもの、ゆったりとした口調のバーニアはそう言い、竜を封印した球を懐に収めた。

「お疲れさん。どうにかなったナ」

 言いながら近づいてきた姫乃。

「あっちも終わったみたいやネ」

 にこやかに笑う彼女が指さした先には、ユニアたちの元に歩いてくる羽月と紗月が見えた。

 並んで歩くふたりは、その後ろに白く細い帯で繋がれた、紡錘形の物体を引っ張っている。時折ビクビクと動くそれは、おそらく黒いファントム。

「久しぶりに思いっきり遊んだー」

「本当、楽しかったねぇ」

 包帯かなにかにしか見えないのに、それなりの強さを持ったファントムが逃げ出すことができないのだ、ただの布ではないのだろう。

 それによって敵を捕らえたにも関わらず、ふたりにとっては遊びに過ぎないらしい。

 ふたりの正体も、その力の底も、ユニアにはわからなかった。

「さぁ、兄様の元に向かいましょう」

 そう言ったユニアの言葉に全員が頷き合ったときだった。

 大きな悲鳴。

 美縁と遥奈による悲鳴は、佳弥のことを呼んでいた。

「急ぎます!」

 言ったユニアは、ファントムを放り出して近づいてきた羽月と紗月を左右の腕に抱き、観客席へと跳ぶ。

 遅れず姫乃を左腕で横抱きにしたバーニアは、VIPルームへと飛んだ。

 バーニアが丸く切り取ったVIPルームのガラスに先に飛び込み、ユニアは部屋の中を見た。

 部屋の隅では、三人の黒装束の男たちに捕まり、それでも逃れようと泣きながら暴れている遥奈と、部屋を出ようとしている芒原。それから、部屋の真ん中辺り、並んでいる椅子の間で崩れるように座っている美縁が見えた。

 彼女の見下ろす先に横たわっているのは、佳弥。

 その胸に突き立っている、脇差。

 ――斬り裂き丸!

 剣客が言っていた太刀である斬り裂き丸の相方、ふたつでひとつなのであろう脇差が、佳弥の胸に深く突き刺さっていた。

「か、回復を!」

 ユニアが言うまでもなく、続いて入ってきたバーニアが姫乃を下ろすと同時に彼に駆け寄り、両手に魔法の光を灯す。

「バーニアは願う! 深き傷を癒せし大いなる力を!!」

 魔法の光を傷口に当てるのと同時に、近寄ったユニアは斬り裂き丸を胸から引き抜いた。

 傷は、瞬時に塞がった。

 佳弥の息が止まってから一分と経過していないはず。

 治療魔術でも絶命から短時間であれば、人は生き返る。

 ――何故!

 傷は塞がったのに、佳弥の息は止まったままだった。

「いや! 佳弥さんっ、佳弥さん!!」

 両腕をつかまれ、頭を押さえつけながらも、必死で暴れる遥奈が叫ぶ。

「生きなさい! 兄様、息をしなさい!!」

 叫びながらユニアは、両腕を彼の胸の上で重ね、心臓マッサージを開始する。加えてバーニアが復活の魔法を唱える。

 それでも、佳弥は息をしない。目を覚まさない。

「ユニア、兄さんは……」

 ぽろぽろと涙を零す美縁から目を逸らして、ユニアは心臓マッサージを続けることしかできなかった。

 ユニアにはわかっていた。

 佳弥が断たれたのは、肉体的な意味での命ではない。

 斬り裂き丸、事象剣が断ち斬ったのは――。

「無駄だよ。僕は事象剣を使って彼の命を――、いや、彼の命脈を断ち斬った。科学でも、魔導でも、彼を生き返らせる手段はない。高宮佳弥は、――死んだ」

 その言葉で、ユニアは座り込んでしまった。

 バーニアも、羽月も紗月も、姫乃も、佳弥を囲んで座り込む。

 なんでなのか、満足そうな表情を浮かべている佳弥。

 服には血がつき、刺された場所には穴が空いてしまっているが、その下の傷はすっかり癒え、目を覚ましてもおかしくないくらいなのに、息を吹き返すことはない、彼。

 目の前が真っ暗になっていくような、そんな錯覚をユニアは感じていた。

「僕が調べた記録の中では、これほど早く最終宿主を見つけたハルーナはいなかった。彼は良い兄で、遥奈にとって良い男だったのだろう。残念だ。さらばだ、佳弥君の妹たちよ。どうせあと数年でこの世界はつくり替えられる。悲しむのはその間だけのことだよ」

 芒原がわけのわからないことを言い、部屋から出て行こうとしているのはわかったが、立ち上がる気力すらなかった。

 他の五人も、ただ佳弥の死に顔を眺めて、遥奈が連れて行かれそうになっているのに、動くこともできなかった。

「行くぞ。遥奈を連れてい――ゲハッ」

 黒装束たちに声をかけた芒原が、奇妙な声を上げた。

 何が起こったのかと顔を上げて見ると、手早く黒装束たちと芒原を縛り上げ、部屋の外に蹴り出している、武速。

「バロールの野郎に睨まれると、分神に過ぎない俺様はこの世界から弾き出されちまうからな。あいつを倒してくれて助かったぜ。せっかく本体から離れてこの世界で好きにできると思ったのに、消滅させられちまったら敵わねぇからな」

 さきほど情報を持ってきてくれたときと変わらぬ、佳弥が死んだというのにとくに気にしている風のない武速は、嫌らしい笑みを浮かべながら近づいてくる。

「絶望するのはまだ早いぜ、てめぇら。できるかどうかは何とも言えねぇが、佳弥の野郎を復活させるぜ」

 その言葉に、妹たち全員が武速のニヤついた笑みに注目した。

 

 

 

 

「生き返らせられるの?!」

 真っ先にそう問うたのは、美縁。

「本当に可能なのですか?!」

 続いて遥奈も、武速の側に近寄り、問うた。

「できるとははっきり言えねぇ。でもこれだけのメンツが揃ってるんだ、不可能じゃねぇ。それと、生き返らせるのとは違う。復活させるんだ」

 ニヤついた笑みはそのままに、佳弥の側にしゃがみ込み、武速は彼の顔を眺める。

「てめぇは幸せな兄貴だな。これだけの妹に、こんだけ慕われやがって。羨ましいぜ」

「本当に、本当にできるのですか?!」

「ちょっ、ちょっと落ち着け。これから説明するから!」

 後ろから服を引っ張って、遥奈は武速の身体を揺すぶる。

「ですが何故、貴方はわたくしたちに手を貸してくれようとするのです? 貴方は遥奈を狙ってきた人でしょう。兄様を復活させる理由は、ないのでは?」

「んなこたねぇよ。確かに妹はいまでもほしいが、俺様は妹って立場の女の子全員の幸せを願ってる。これだけの妹が悲しんでるのを見過ごすことなんてできねぇよ」

 ユニアの問いにそう答えた武速は立ち上がった。

 それに合わせて、遥奈たちも立ち上がって武速の顔に注目する。

「さて、ハルーナには世界を変える力がある。それってなぁ因果律の操作能力だ」

「あぁー、なるほどナァ。だから手元とバックアップのデータに齟齬が発生したり、痕跡も残さず住民登録できてたンカ。納得したワ」

「……はい。芒原さんから聞きました。本当にあるのかどうかは、よくわかりませんが」

 姫乃は納得したように頷いていたが、遥奈には自分にそんな能力があるのかどうか、わからなかった。

 佳弥が息をしていないのを確認し、生き返らせることができないと言われてから、身体が冷たくなった気がしていた。守ると佳弥に言われたときに感じた身体の熱さが、下腹に痛みとともに感じた熱が、いまは氷でもあるかのように冷え切ってしまっている。

「でも、その力は成体になったらなくなるって」

「あぁ、そうだ」

 訝しむように目を細める美縁に、武速はニヤリと笑って見せた。

「成体のハルーナからは消滅する能力だ。だが、いまの遥奈は最終宿主を、佳弥を失った。繁殖行為前のハルーナは、最終宿主を失うことで成体から幼体に戻る。新たな最終宿主を見つけるために、な。もちろん、因果律操作能力も戻ってるはずだ」

「にぃに、復活できるの?」

「にぃや、生き返らせられるの?」

「不可能じゃねぇはずなんだ。ただ、俺様たちファントムにもできることじゃない。いや、正確には顕現したファントムには不可能で、顕現してないファントムには可能なはずだ。まぁ顕現してない、相を持たないファントムはその手の望みを持つことはまずないから、やることが奴がいないってだけだが。ともあれ、いまここで佳弥の野郎を復活させられるとしたら、遥奈の因果律操作能力だけがそれを可能にする」

 武速に見つめられ、遥奈は息を飲む。

 美縁たち、佳弥の妹全員にも見つめられた遥奈は、目をつむる。

 ハルーナの本能が、頭の中から、新しい最終宿主を探せと訴えているような気がしていた。

 この場を離れて、新しい中間宿主に寄生し、よりよい最終宿主を見つけるべきだと言っているように思える。

 けれども、目をつむった遥奈の脳裏に浮かぶのは、佳弥の顔。

 笑っていることが多かった。

 結奈と名乗ったときには、突き刺さるような視線を向けられた。

 泣きそうにしていることもあった。

 情けない表情を見せていたりもした。

 それでも、佳弥は優しかった。よく笑いかけてくれた。遥奈を、妹のひとりとして、大切にしてくれた。

 ――わたしは、他の人の妹になんて、なりたくありません!

 目を開けた遥奈は、言った。

「やります。佳弥さんを、復活させます」

「よっしゃ。だったらこいつの胸に手を置け」

「はいっ」

 言われた通りにしゃがんで、にじみ出た血が乾いてきた胸に手を置く。

「因果律の操作は、魔法ですら実現できない正真正銘の奇跡だが、おそらくエーテル場に関係する。操作をするためには大量の魔法力が必要だ。魔法少女、遥奈の背中に手を当てて、魔法力を注ぎ込む準備をしろ。それと、他の奴らもだ」

 武速の指示に従って、遥奈の背にバーニアが手を着く。美縁とユニアと姫乃も、遥奈の背に手を着いた。

「てめぇらは止めておけ」

 同じように手を着こうとした羽月と紗月に、武速はそう声をかけた。

「なんで? お手伝いしたいだけだよ?」

「にぃやを助けたいのは同じなのに?」

「ファントムの身体はこの世界では仮のものに過ぎねぇ。因果律操作に必要な魔法力がどれくらいなのかわからない。ヘタすりゃこの世界での相を失いかねないし、とんでもない量が必要な場合、本体に影響が出る可能性がある」

 武速のそんな指摘に、羽月と紗月は優しく笑った。

「心配してくれてありがとっ」

「うん。でもね? 紗月もにぃやを助けたいんだ」

「羽月もいっぱいにぃににお世話になってるからね!」

「だから美縁や遥奈や姫乃と同じ」

「バーニアとユニアが思ってるのと同じくらい、にぃにが大好き何だよ」

「にぃやのこと、本当に本当に大好きなんだよ。だから、ね?」

「みんなと一緒ににぃにを助けるんだよ」「みんなと一緒ににぃやを助けるんだよ」

 そう言った羽月と紗月は、遥奈の背中に右手を、左手を押し当てた。

「クソッ。なんでそんなんでも強情なのは変わらねぇのかな。仕方ねぇ。俺様も入れば少しは足しになるだろ! ちったぁ消える確率も減るはずだ」

 言って武速は、羽月と紗月が伸ばしている手に、自分の手を繋いだ。

「あとは、どうすればいいのですか?」

「願え。強く、強く願え。佳弥の復活を。それから、想え。佳弥が生きていたときのことを。あいつの姿を。そして、命脈が断ち斬られたことをなかったことにするんだ」

「はい!」

 佳弥の胸に両手を置き、背中に置かれたみんなの手を感じ、遥奈は目をつむった。

 ひと月にも満たない佳弥と過ごした時間。

 自分がハルーナだということは身体を生成し、意志を持った瞬間からわかっていた。中間宿主とその家族を騙して生活に入り込めばいいということもわかった。

 けれど不安でもあった。

 いつかバレるのではないか。いつか嫌われるのではないか。いつか捨てられるのではないか、と。

 寄生を開始したその日にバレてしまっても、佳弥は放り出そうとはしなかった。それどころか、妹のひとりとして受け入れてくれた。

 面倒に巻き込まれたのに、守ってくれようとした。身を挺してまで。

 そんな彼のことが好きだった。

 そんな彼のことを、愛していた。

 果たしてそれはハルーナの本能から来る想いなのか、佳弥と同じ人間の身体を持った遥奈自身の想いなのかは、わからなかった。

 ――でも、わたしは佳弥さんと一緒にいたい。生きていきたい。それだけは、本当だから。

「行きます!」

 想いのすべてを籠めて、遥奈はハルーナの持つ秘められた力を自分の中から掘り起こす。

 背中から流れ込んでくる熱い力。それと同時に、強い想い。

 それを受けながら、遥奈は強く、強く願った。

 ――佳弥さん、わたしはまだ、貴方と生きていきたいんです!!

 遥奈の、そしてみんなの想いが、佳弥の身体に注がれていくのを、遥奈は感じた。

 

 

 



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七人の妹 第四章 七人の妹 4

 

 

            * 4 *

 

 

 目を開けると、見慣れてはいないがよく知ってる天井が見えた。

「あれ?」

 広い天井の中央に埋め込まれた照明の真下であるここは、俺の家の共有フロアのちょうどど真ん中だ。

「どうしてこんなところに?」

 ベッドに寝ているのはわかるが、どうしてこんなところなのかはわからない。

「起きたか、佳弥」

「……てめぇが、なんで?」

 苦笑いを浮かべて俺の顔を覗き込んできたのは、武速。

 何故こいつが俺たちの家にマグカップ片手にくつろいだ様子でいるのかも、わからなかった。

 でもいまひとつはっきりしない頭で考えて、思い出す。

「俺は……、刺されて、たぶん、死んだはずじゃ……」

 最後に見た光景は、胸元に脇差が突き立てられようとしていたところ。

 その脇差は、剣客の男が持っていた事象剣、斬り裂き丸の相方で、俺はそいつに肉体的な意味での命だけでなく、世界にとっての生きる可能性、俺という存在の要素を断ち斬られるはず、だった。

 ――いや、ちょっと待て。俺はそんなこと、どこで知った?

 家の前で剣客と戦って負けたユニアのことは憶えてる。でも、剣客が持っていた日本刀の能力は、誰からも聞いてなかったはずだ。

 思い出せる光景と、頭に浮かぶ情報に差があることに気づいて、俺は混乱する。

「まぁ、いろいろと不都合が出てるみたいだが、ちゃんと生きてるから大丈夫だろう。てめぇは斬り裂き丸に命脈を断ち斬られたが、こいつらのおかげで過去が書き換えられて復活したんだよ。おかしなところはあるかも知れないが、因果律を弄ったんだ、多少ヘンなところが出ても当然だろうよ」

 言われて身体の方を見て見ると、ベッドに突っ伏して安らかな寝息を立てている美縁と遥奈がいた。

 起こさないように優しく、美縁の黒髪と、遥奈の茶色の髪を撫でてやる。

「ハルーナの世界を変える力。芒原さんが求めてた力か」

「そうだ。それがなけりゃあ命脈を断ち斬られたてめぇが復活できなかったんだぜ。感謝するんだな、妹たち全員に。俺様にもよ」

「お前に? いや、まぁ、ありがとう。――って、芒原さんはどうしたんだ?!」

 俺がここに寝ていて、遥奈もいるってことは、良い形で解決したんだろうということはわかる。でももし、まだ芒原さんが遥奈を狙っているなら、また襲われる可能性がある。

「残念ながら芒原の野郎には逃げられちまったよ。だが宇宙竜を使役してた件でWSPOに通報済みだ。奴の拠点には捜索が入ったし、剣客にもファントムにも逃げられてるが、地位も財産も表の部分は凍結された。指名手配もかかってるし、奴は当分表には出てこられないだろう」

「だったら、しばらくは安心か……」

「まぁな。ただ、また遥奈を狙ってくる可能性は充分にある。奴は目的のためなら手段を選ばないタイプだからな」

 武速は目を細め、険しい視線を俺に向けてくる。

 許可なく宇宙怪獣を所有することは恐ろしく重い犯罪だ。それも星ひとつを容易く滅ぼし得る宇宙竜なんて、どれくらいの罪になるのか予測もつかない。

 それを必要になるからと使役していた芒原さんは、願いのために手段を選ばないというのは理解できる。

 だけどそんな心配は、それほど大きくないはずだ。

「だけど遥奈は、最終宿主を見つけてるんだろ?」

「あぁ、そうだ。悲しいことにすでに見つけちまってる」

「だったらそいつのところに嫁がせて、えぇっと……、二度と幼体に戻らないようにすれば――。あれ? じゃあなんで俺は、ハルーナの力で復活できたんだ?」

 理由がいまひとつ把握できない。

 どのタイミングかはわからないが、VIPルームで再会したときには、遥奈は最終宿主を見つけていたんだ。その時点で因果律操作の能力は失われていたはずだ。

 それなのに俺は、その力で復活している。

 どうして俺がハルーナの因果律操作能力で復活できたのか、よくわからなかった。

「……てめぇの言う通り、繁殖行為後のハルーナは幼体に戻ることはなくなる。繁殖行為前なら、最終宿主を失うことで幼体に戻っちまう。――っつぅかよ、てめぇのそういうところは天然なのか? ただの鈍感か? てめぇがそんな感じだから妹たちが円満に過ごせてるんだろうが、これはら先はそうはいかねぇぞ」

「それはどういう――」

「兄さん?」

「佳弥さん?」

 意味がわからず問おうとしたとき、美縁と遥奈が目を覚ました。

「兄さん!」

「佳弥さん!」

 声を上げながら、俺の胸に飛び込んできたふたり。

 涙を流して胸に顔をこすりつけてくるふたりには、そして他の妹たちにも、俺はたくさんの心配をかけちまったことだろう。

 美縁と遥奈の背中を撫でてやりながら武速の方を見上げると、なんでか呆れたような微妙な表情を浮かべていた。

「兄様、目を覚まされたので?」

「にぃに、起きた?」

「にぃや、目が覚めた?」

「兄貴、やっと起きたか」

「お兄ちゃん、おはよう」

 美縁と遥奈の声を聞いたからか、一斉にそれぞれの部屋から妹たちが出てきた。

「まぁ、俺様は今日はこれで退散するぜ。てめぇはいい男だと思うが、もうちょい男を上げやがれ」

「どういう意味だよ」

 俺の問いには答えず、片手を上げて背を向けた武速は、共有フロアから玄関の向こうに歩いていってしまった。

 代わりに、部屋から出てきた妹たちに囲まれる。

「済まない、みんな。心配かけた。それとありがとう。俺を復活させてくれたんだってな」

「頑張ったんだよー」

「全力だったんだよー」

「当然のことをしたまでです」

「兄貴がいなくなったら困るからナァ」

「お兄ちゃんは、大事な人だから」

「兄さんにまでいなくなられたら、イヤだもん」

「佳弥さんは、かけがえのない人ですから」

 それぞれの言葉が胸に染み込んでくる。泣きそうになる。

 ――俺は、良い妹を持ったんだな。

 俺のために本当に頑張ってくれた妹たち。俺は彼女たちのために、これまで以上にできることをやっていかないといけないと、そう思った。

「ありがとう。みんな俺の、大切な妹たちだ」

 そう言って、俺は七人の妹に、笑みを見せた。

 それなのに何故か、妹たちからの反応が鈍い。

 羽月と紗月は口を尖らせている。

 ユニアは目を細めて睨みつけてきていた。

 姫乃は呆れたように視線を外し、ため息を吐く。

 バーシャは頬を膨らませ、不満を露わにしてる。

 美縁はどこか不安そうに顔を曇らせていた。

 遥奈だけが、ニッコリと笑みを返してくれていた。

 ――なんなんだろうな、これは。

 そのときの俺には、みんなの表情の意味が、よく理解できなかった。

 

 

 



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七人の妹 余章 ~兄と妹 それ以上~
七人の妹 余章 兄と妹 それ以上


 

 

   余章 兄と妹 それ以上

 

 

 あまりの寝苦しさに目が覚めた。

 身体に傷はなくなったはずだが、因果律を無理矢理操作したためか、俺は一度目覚めた後も三日ばかり寝込むことになってしまった。

 今日からは学校に復帰することになっているんだが、何でか身体が動かない。寝返りを打つこともできない。

 見下ろしてみると、掛け布団が妙に膨らんでいるのがわかった。

「ったく」

 どうにか動かせる肘から先だけを使って、俺は掛け布団を剥ぎ取った。

「……何してんだ? お前たちは」

 布団の中に隠れていたのは、俺の妹。

 右腕と左腕を枕にして、羽月と紗月が寝転がっていた。

 身体の方には、姫乃とバーシャが乗っかっている。

 さらに胸のところに、遥奈までいた。

 五人もの妹に乗っかられていたら、動けるはずもない。

「おはよ、にぃに」

「添い寝だよ、にぃや」

「たまにはいいヤロ?」

「もう少し寝る……」

「おはようございます、佳弥さん」

 それぞれにニッコリとした笑みを向けてくる妹たちに、怒る気にもなれない。

 だけどそうも言ってられない。

「兄さん! 今日から学校でしょっ。早く起きてください! ……って、何してるの?!」

「おはようございます、兄様。まったく、声をかけても誰も出てこないと思ったら……」

 ノックの返事も待たずに扉を開けたのは、美縁とユニア。

 怒り顔の美縁と、呆れ顔のユニアは、ベッドに近づいてきてみんなをどかしてくれる。

「さぁさ、朝食の準備をしますから、みなさんも早く着替えてください」

 それぞれに不満を口にする五人をせき立てて、ユニアは部屋を出ていった。

「ふぅ……。おはよう、兄さん」

 部屋に残った美縁は、ひとつため息を吐いてから、ベッドに腰掛ける。

「あぁ、おはよう、美縁」

 遥奈が最初に使った因果律操作では、住民登録やCNGの学生登録はできていたが、地球の中という、ごく狭い範囲にしかその効果はなかった。

 その影響下になかった両親とは連絡が取れ、事情を話して納得してもらい、遥奈は記録上だけでなく、家族全員に認められて正式に家族となっている。

 両親については家族になるのと知らせるのの順序が逆だとは思うが、妹が増えることをそれほど気にしなかったふたりだ、近々戻ってきて遥奈と対面しても、問題はないだろう。

 家族が増えたことは、俺もそうだし、両親もそうだし、妹たちにも様々な影響があったと思う。たぶんそのことについて思うことがあるだろう美縁は、座ったままうつむき、押し黙っている。

「まぁ、何か考えるにしても、何かを変えるにしても、結奈が戻ってきてからだ」

「――うん、そうだね」

 俺の言葉に頷いてくれた美縁は、複雑な表情をしていた顔に、笑みを浮かべてくれる。

 それから、胸に飛び込んできた。

 いつにも増して強く抱きついてくる美縁を、俺も優しく抱き寄せる。

「たまにはこうやって、甘えてもいいんだぞ?」

「うん……。ありがとう、兄さん」

 長かったのか、短かったのか、身体を離した美縁は、ベッドから立ち上がって笑う。

「じゃあ、朝食つくってくるね。兄さんも早く降りてきてね」

「わかった」

 軽く手を振って部屋を出ていく美縁。

 ひとつ伸びをしながら大きく欠伸をした俺も、ベッドを出て制服に着替える。

 今日からは、日常が始まる。

 少し前と違って、遥奈を加えた、七人の妹との日常。

 でもたぶん、これまでとあまり変わらない、平穏で、楽しい日々。

 結奈が帰ってくることは、いまも願ってる。

 遥奈の因果律操作を使えばあの頃を取り戻すことも可能かも知れないが、現実ではない魔法力が必要なのと、そうやって過去を改変することによって、遥奈自体がこの家に来なかったことになってしまう。

 だから、俺はそれを望まない。

 決して長いとは言えない遥奈とともにあった時間は、俺にとってかけがえのない時間だったから。

「さて、と」

 扉を開けて、一階に降りていこうと階段に足を向けた。

「佳弥さん」

「ん?」

 後ろの方、いまは使ってない両親の部屋がある方から声をかけてきたのは、遥奈だった。

「どうしたんだ? 美縁が準備してるから、もうすぐ朝食だぞ」

「はい……。その、わかっているのですが……」

 何故か頬を赤く染めて、視線を彷徨わせてる遥奈に、俺は首を傾げる。

 たぶん遥奈は、もうすぐこの家からいなくなる。

 誰なのかはわからないが、彼女が見つけた最終宿主のところに行ってしまう。

 それまではできるだけ、彼女と一緒に過ごそうと思っていた。

「あの、ですね、佳弥さん」

 意を決したように、俺の瞳を見つめてきた遥奈は、大きく一歩、近づいてくる。

 そして――。

「?!」

 背伸びをした遥奈の顔が近づいてきたと思ったら、柔らかいものが唇に触れた。

 何だったのかは、すぐに身体を離した遥奈の、顔を真っ赤にした笑みを見ればわかる。

 それから、その意味をも、俺は思い至っていた。

「わたしは、佳弥さんのことが好きです」

「あ、あぁ……」

「ですが、わたしは佳弥さんの妹です。他の、美縁さんたちと同じに」

 瞳に輝くような、強い色を浮かべる遥奈は、はっきりと言う。

「それがわかっていても、わたしは佳弥さんのことが好きです。諦められません。結奈さんのことを、佳弥さんが待っているのもわかっています。けれどもわたしは、他の妹には、負けません。佳弥さんの一番を目指します」

「うぐっ」

 遥奈の宣言に、俺はどう答えて良いのかわからない。

 恥ずかしそうに、でも翻すことのない意志の籠もった言葉に、嵐の予感を覚えていた。

「それに、またいつ芒原さんが現れるとも限りません。わたしの力を狙って、わたし自身と、佳弥さんが危険な目に遭う可能性も、それによって他の家族に迷惑がかからないとも限りません」

「……そうだな」

「だから、結論はできるだけ早めにお願いします」

 右手の人差し指を、俺の胸に押し当ててくる遥奈の言葉の意味を、俺ははっきりと理解する。

 ――そうか。俺か。俺と……、か。

「言いたかったのは、それだけです」

 ニッコリとした笑みを残し、すれ違って一階へと降りていった遥奈。

「はぁーーーっ」

 大きくため息を吐いた俺は、頭を抱えてしゃがみ込む。

 遥奈の、ある意味での宣戦布告。

 それは俺に対してであり、たぶん他の妹たちに対してのものでもある。

 平穏が戻ってくると思ったが、そうはならなそうな予感が、俺の胸を過ぎっていた。

「これから、どうすればいいんだかな……」

 そうつぶやいて、俺は大きなため息をもうひとつ、零していた。

 

 

                    「七人の妹」 了

 

 



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