【没版】貴方の命はキスの味。 (夜桜さくら)
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「危ない、ですよ」

 東堂君尋のこれまでの人生は、平凡と言っていいものだった。

 特別お金持ちでも貧困でもない家庭の一人息子として生まれ、両親に愛情をもって育てられ、人並みに友人を作って、生きてきた。

 

『あなたの人生で最も衝撃的だったことはなんですか?』

 

 仮に、このような質問を投げかけられたとして、彼が解答できるのは『虹に根本が存在しないと知ったこと』といった具合だろう。

 

 そんなレベルでしか、彼にとって衝撃と呼べるものはなかった。

 そんなものだと思っているし、きっとこれからもそうだろうと思って、いた。

 

 さて、そんな平々凡々な彼は、夜道を歩いていた。

 

 夜。街灯の光で暗さというものが失われたこの現代日本。暗いから危ない、などという概念は失われつつある。街灯がない場所などであれば相応に危ないというのはそうであるが、今彼が歩いている場所は街灯が少しの間隔を置いて並び立つ、明るい夜道だった。

 

 しかして、暗くない夜がありふれているにも関わらず、『夜道は危ない』というのはだいたいのひとに共通する概念であるように思われる。

 一体なぜだろうか。

 それはきっと、暗闇は、よくないものを引き寄せるからだ。もちろん暴漢などもそこに含まれるが、それだけではない。むしろそれ以外のものが最も危うく、夜を危険たらしめるものである。

 それは、そう。一言で表すならば、“魔”だろうか。

 

 幽霊。妖怪。あるいは悪意そのもの。

 

 夜闇というものは、そういう魔性のものが活発になる。

 

 で、あるからこそ、夜は危険なものなのだ。

 幻想が失われて久しいにも関わらず、それらはヒトの根底に息づいているがゆえに。夜闇に対する危機感というものは、失われることがない。

 

 だがしかし、それらは“ある”のだが、普段意識しないものであるのもまた事実。彼もまた、危険であるなどと欠片も意識せず、夜の道を歩いていた。

 

「ちょっと遅くなっちゃったな……」

 

 彼は端末の液晶に映る時刻を眺めながらつぶやいた。

 現在時刻は十時半。

 まだまだ人通りも多い時間。だが本来は夜闇に覆われ、外出を躊躇うはずの時間。

 そう。夜に潜む、怪物が活発になる時間なのだ。

 で、あるのにも関わらず、彼は人の気配の少ない、路地に足を踏み入れてしまった。

 

 見る人が見れば、危ない行為だった。

 

 魔というものは得てして、そういったところが好きであるから。

 だからそういうものと出会うのは、人気のない場所だと相場が決まっている。

 

「―――あの」

 

「え……?」

 

 彼の手を取って、後ろから駆けてきたのだろう、息を弾ませた一人の少女が足を止めさせた。

 

「危ない、ですよ」

「……危ないって、何が」

 

 のどが、乾いていた。

 つばを飲み込むのに物凄く労力が必要だった。

 こわい。こわいと、なぜか感じていた。

 

 手を取ってきた少女は夜のような雰囲気を纏っており、暗闇に綺麗に溶け込んでいた―――瞳以外。

 その瞳は、彼がいままで見たどの“赤”よりも濃く綺麗な赤だった。そこだけが、赤く、爛々と輝いていて。それが、酷く恐怖を煽っていた。

 

「何がって」

 

 ミシ。

 どこかで、異音がした気がした。

 

「――あれ? 何が危ないんだろう?」

 

 こてりと少女は首を傾げ――それと同時に、彼は気付いた。

 異音がしているのは、少女が握っている自分の手首からだと。

 

「がっ」

 

 恐怖で紛れていたのだろうか。意識をした途端に痛みが襲ってきた。反射的に空いているもう片方の手で、少女の手を外そうともがいた。

 けれど、まるで万力のように絞められたその手を外すことは叶わず、少女は涼しい顔をするばかりだった。

 どんどんと痛みが増していき、耐えきれず、もがきながら膝から崩れ落ちた。

 

「だ、大丈夫ですかっ」

 

 少女は、彼を心配するような言葉を吐きながら、続けて彼の襟元をつかんで、地面に押し倒した。

 

 彼の手首から少女の手は離れていたが、代わりに今度は首が締まっていた。

 生命が危険に冒されたり、呼吸困難になるほどではなかったが、苦痛を得るのは十分であった。

 顔をゆがめながら、目を開けるといつの間にか少女が彼に馬乗りになっていて。

 

 結果的に、彼の目に少女の顔が大きく映り込む姿勢となった。

 

 彼の目に映る少女の表情は、酷く恍惚としていた。

 

 そして、距離が近づいてはじめて気が付いた。

 綺麗な子だな、と。

 そんな場違いな感想を抱いた。

 夜のような髪に、対照的に真っ白な肌。血のような赤い瞳に、瑞々しい唇。

 口元からのぞく犬歯がやけに印象的で、吸血鬼、という単語が頭をよぎった。

 その単語は、彼の胸にすとんと落ちて―――あぁそうか、自分は吸血鬼の餌として見初められたのか、なんて、そんなことを思ったのだった。

 

 ところで、以心伝心という言葉がある。

 言葉を介さずとも、わかりあえる。むしろ言葉を介するよりも、言葉に言い表せない心象を伝えられる。そんな言の葉。

 

 距離が近づいて。顔が近づいて。目と目が、重なって。

 何故だか、二人は長年連れ添った夫婦のように、心がつながっていた。

 

 少女は―――……彼女は、彼を餌として見ていた。

 美味しそうだと、彼の全部がほしいと、そう思っていた。

 彼は、構わない、と思っていた。そんな終わりも悪くはないと、そう思っていた。

 

 そんな、心と心で交わされた合意。

 

 

 彼女は、熱に浮かされたまま―――彼の唇に、自分の唇をそっと触れさせた。

 

 

 永遠のような一瞬のような、触れるだけの口づけ。

 

 それが終わって、再度顔を見合わせる。

 彼女の瞳は血の赤から、深い藍色へと変わっていった。

 瞳から赤が消える代わりに、彼女の頬には夜闇でもわかるほどの朱が差し込んでいって。

 

「~~~~っ」

 

 そうして、彼女は走って逃げた。

 

「……え?」

 

 残されたのは、呆然と座り込む彼ひとりで。

 じくじくと痛みを残す手首を抱えて、彼女を見送るしかできなかったのだった。

 

 

◇ ◇ ◇
 

 

 

 東堂君尋の人生最大の衝撃が塗り替えられた翌々日のこと。

 彼は高校二年生であり、そのため月曜日から金曜日までの五日間は基本的に学校に通っている。

 昨日は病院を訪ねたこともあり休んでいたので、一日間を開けての登校だった。

 

 何故病院へ行っていたのか。

 押し倒されたときに体の節々をぶつけ、頭も少し打っていたのでそのあたりの検査を念のため行う必要があった。それに加え、一番ひどかったのは彼女に掴まれていた手首だった。ミシミシと異音を奏でていたのは、骨が軋んでいた音であったわけだが、病院で見てもらうと骨折していたことがわかった。道理で痛かったわけだ、と彼は得心したものだったが、そういう怪我事情もあり流石にその日は学校を休んだのだった。

 

 そうして今日、学校にやって来て。

 腕にギプス、三角巾を装備していることから色々と騒がれるのでは、などと最初は考えていたが、意外と騒がれるようなことはなかった。

 まぁパリピ系統の人種というか、テンションが高い連中からは一言二言質問をされたので、適当に事故ったと解答をしておいた。

 

「利き腕じゃなかったのが不幸中の幸いって奴だな」

「まぁそうだが。触んな」

 

 カチカチのギプスに覆われた腕をつんつんと突いてくる友人の手を払って、折れた腕を胸元に抱える。鎮痛剤を飲んでいるからか、顔を顰めるほどではないが未だにじくじくと痛む腕にはあまり触れられたくはなかった。

 

「ふーん。やっぱ骨折って痛いのか」

「相応には。折ったその日の夜は、痛みで寝付けなかったな」

「へー」

 

 寝付けなかったのは、きっと痛みだけが原因ではないだろうが。

 今でも、あれは現実にあったことなのかどうかがわからなくなる。と、いうか、この折れた腕がなければただの白昼夢だと一笑していただろうが。

 見ていた夢と、体に残る違和が、あれが現実であると訴えかけてくる。

 

「……はぁ」

「なんだ。腕を折った君尋くんは心も傷心中か?」

「そうだよ。だから話しかけないでくれるか?」

「おおバッサリ。こわいこわい」

 

 けらけらと笑う友人――豊田の軽口を聞き流しながら、再度口の中でため息を吐いた。親にも、今日も休んだらどうか、と心配された程度には今朝から心が浮ついていて、現実味がなかった。

 苛立っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもなく、当然喜んでいるわけでもない。しかし、そのすべてに当てはまっているような気もする。

 

 うまく言葉に表せないが―――……感傷、というのはこういうものなのだろうと思う。万華鏡のように、見方によって形を変える心の有り方。

 

「ちっ。しゃーねーなー。生理中の君尋くんに、俺様のとっておきの娯楽アイテムを教えてやろう」

「何?」

「美容院の予約アプリという素晴らしいものがあってだな」

「……?」

「まぁまぁそんなに露骨に『何言ってんだこいつ』って目をしなくてもちゃんと解説をしてやろう。この最高に退廃的な遊びをな……!」

 

 熱く語る豊田の話をまとめると、つまりこういうことだった。

 

①美容院の予約アプリを開きます。

②レディースのところを見ます。

③好みの髪型を探します。

④参考画像の中から好みの女の子を探そう!

⑤楽しい!!

 

「……はえー。なるほどな」

「どうだ。面白くね?!」

「面白いかどうかはさておき、思っていたよりもだいぶ可愛いな」

「そういう割には声がすげー冷めてるぞ」

「……いやまぁ」

 

 可愛い、あるいは綺麗だと思ったその言葉に嘘はなかった。かなり顔の造形が整っているひとたちが載っているとは思う。けれど、それで胸が弾むかと言われればまた別の話だった、というだけ。

 

「いまテンション低めだからなあ。普段ならもうちょっとノリよく会話できると思うんだけど」

「結構重症くせーなぁ。まぁ何事も形からってことで、ノリよくいくためには、ノれる会話をすることが重要なんだぜ。……で、どの子がタイプ?」

 

 精神は肉体の奴隷、という言葉もあるし、元気になるためには元気ぶる必要があるというのは道理。

 声と顔を作って、ノリノリに対応してもよかったのだが、それにもある程度の下地が必要であった。つまり、好みのタイプの顔が一覧写真から見当たらないと、火つけにならない。

 ……理由などは、わかりきっているのだが。

 

「めっちゃ抽象的なことを言うけど」

「おう」

「こう、夜みたいな、暗めの髪してて、ロングでちょっとウェーブかかってて。肌白くて。スタイルよくて」

 

 目が赤くて。

 

「そんな感じのが、好みかな」

「なんだそれ。美少女後輩ちゃんのことか?」

「うん?」

「白いヘアバンドしてる子?」

「……うん? 俺そこまで言ったっけ?」

 

 確かに、今言った娘―――つまりは一昨日であった吸血鬼そのものの容姿を思い出しながらの言葉ではあったのだが、その彼女が、白いヘアバンドをしていたなんてことはあまり意識していなかったし、口にも当然出していない。

 

「いや、お前が言ってるのって『月村すずか』のことじゃねーの?」

 

 誰だそれ。

 そう反射的に口に出しそうになったが、その名前は、聞いたことがあった。

 

「……一つ下の学年にいるとかいう、なんか美人な子、だっけ?」

「そう。だから美少女後輩ちゃんのことじゃねーの?」

「いや知らん。その子の顔見たことはないし」

「ほーん」

 

 彼が通っている学校の名前は、私立聖祥大学付属高等学校。

 

 中学から男女別になるため、同じ敷地内ではあるが、過ごす空間がまるきり別になるのだ。

 だから、有名人の名前は聞いたことくらいはあるが、その顔を知る機会などそうはなく。

 

 月村すずかという名前も、一つ下の学年の女子に、凄く可愛い子がいるらしい、という風の噂程度にしか知らなかったし、それ以上の興味もなかった。

 だが。だけど。

 今は、猛烈に知りたいと思っていた。

 どんな顔をしているのか。―――どんな目を、しているのか。

 

(……月村すずか、ね)

 

 心の中でその名をとなえる。

 感傷的な気分は、いつの間にか失せていた。



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「私は、月村すずか、です」

 ラブレター。果たし状。

 言い方はなんでもいいが、学生がひとに渡す手紙の定番といえばこの二点だろう。

 端的に、“手紙”と称するのが一番的を射ている気もするが、彼の心象的には恋文としての要素も持ち合わせているだろうし果たし状としての要素も持ち合わせているように思う。

 

 本当のところ、呼び方なんてものはどうだっていいのだが。

 

 物事には大抵、様式美というものがあるものだ。学生が同じ学生に手紙を出すといえば、先に挙げた二点のどちらかであるべきであるというのが、彼の所感である。

 

 というわけで、手紙の表題には果たし状(ラブレター)と記載した。二つの意味を同時に持ち合わさせることのできる、ルビという表現方法は偉大だなぁと感心しつつ書いた渾身の一作である。

 

 受け渡し方法はだいぶ迷ったのだが、下の学年の、しかも女子区域の一個人の下駄箱の場所なんてわからないので一年生女子を適当にひっ捕まえて「月村すずかさんに渡してほしい」とお願いをした。

 なお、友人である豊田が(何故か)持っていた月村すずかの写真によって、件の彼女と月村すずかの容姿が限りなく近いことは確認済みである。

 

 ちなみに。

 

 内容は至極シンプルだ。

 

 

 月村すずかさん

 先日、あなたと思われるひとに(薄暗かったので確信が持てないのですが)腕を折られたものです。

 そのあたりのことでもし心当たりがあれば、一度お話がしたいので放課後B校舎の屋上まで来ていただけないでしょうか。

 

 

 もしも彼女に心当たりがあるのなら。

 ただの白昼夢ではなく、二人で共有していた現実であったなら。

 きっと来てくれるんじゃないか、と淡い期待を込めて、呼び出しの文を送ったのだった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 放課後になって幾ばくかの時が過ぎたころ、彼女たちはやってきた。

 そう、複数。

 一人は、あぁ、見覚えのある顔だった。

 麗しい吸血鬼の女の子。だが、なんだか雰囲気がだいぶん異なっているような気がする。

 何が、どうして、“違っている”と感じさせるのかが知りたくて、不躾にまじまじと眺めていると、彼の視線を遮るようにもう一人の女の子が一歩踏み出してきた。

 月村すずかと共に来た少女は、日本人からはかけ離れた風貌をしていた。

 金の髪に、碧眼。

 ハーフか何かだろうか、とぼんやり思っていると、その少女は目をきっ、と目を吊り上げてずんずんとこちらとの距離をつめてきた。

 

「……ふーん」

 

 少女は彼とおよそ一メートルの距離で静止し、先ほど彼がすずかにそうしていたように、不躾にじろじろと上から下まで眺めていた。

 そして、その少女の影に張り付くように、すずかもやってきた。彼女は、視線を右往左往とさせており、どのように振舞えばいいのかを迷っている様子だった。

 

「君は、月村さんの友達かな?」

 

「そうよ。で、アンタが“そう”ってことでいいのよね」

 

「そう、っていうのがなんのことかちょっとよくわからないけど……彼女を呼び出したのは俺ですね」

 

 眼光の強い少女の視線を受け止め、まっすぐに彼は見返す。

 

「あの、アリサちゃん。たぶん何か誤解してるからちょっと待って」

 

 アリサ――それがこの金髪少女の名なのだろう。

 そのアリサと彼の間に割り込んで、威圧するアリサをなだめるように振舞う彼女――すずかを見て、やっぱり違う、という想いを抱く。

 

「あの、たぶんだけど。アリサちゃん私が脅されてるとかそんな風に思ってない?」

 

「違うの? すずか、そんな感じのリアクションしてたじゃない」

 

「あれは違うの。えっと、色々事情が難しいんだけどむしろ私はこのひとの加害者で……」

 

「え、まじ?」

 

 彼女は、こんなに柔和な雰囲気だったろうか。違う。

 彼女は、こんな無害そうな子だったろうか。違う。

 

「えっとあの、なんかすいません……。すずかが、友達が脅されてるとばかり思い込んでて」

 

「……ん。あぁ、別にかまわないよ。確かに言われてみれば。そうだな、俺は被害者なんだろうけど、このことをバラされたくなかったら……、みたいな脅し文句に見えたとしてもおかしくはなかった気がする。あぁ、もちろんそんなつもりはないけどね」

 

 彼女に注いでいた視線を外し、彼は申し訳なさそうなアリサの言葉に応じる。

 

「えと、なんかついてきちゃったけど。私外したほうがいい?」

 

 彼としては、彼女との対話を二人きりでしたい気持ちもあったが。

 ただ。

 

 

「アリサちゃんもいて」

 

 

 ぞくり、と。

 寒気がした。

 あぁそうだ。二人きりになるのは、怖い。

 なぜこんなものを無防備にも呼び出してしまったのかと、後悔の念が強まる。

 

 ただ言葉を発しただけなのに、どこか、恐ろしい雰囲気を一瞬纏った気がして。

 あぁ、そうだ。感じていた違和感の正体はこれだと、確信する。

 

 あのときの彼女は、もっと怖かった。

 もっと―――綺麗だった。

 

「え、うん。わかった」

 

「それで、いいですか? えっと……」

 

 纏っていた恐ろしさは即座に霧散して、彼女はこちらを窺うように見上げてきた。

 はて。と思い、すぐに意図することに気付く。

 彼女はきっと、呼び名に困っているのだろう。

 

「東堂君尋、俺の名前。君らは?」

 

 すずか、アリサ。

 名前だけはすでに把握していたが、やはりこういうことは本人と直接交わすのが礼というものだろう。

 

「東堂さん……ですね。私は、月村すずか、です」

 

「アリサ・バニングスよ。よろしくね」

 

「よろしく」

 

 

 

 

 少し、畏まった雰囲気になっていた。

 礼が伴った会話をしていたのだから当然といえば当然だが、これからする会話にそういったものは不要である。

 ただ、虚飾のない本音がほしい。

 

「――さて」

 

 だからそれをほぐすために、まず彼は口を開いた。

 重苦しい空気になりすぎないよう、ほのかに笑みを浮かべることも忘れない。

 別に、喧嘩がしたいわけではないのだから。

 

「まず確認がしたいんだけど、あれは夢じゃないということでいいんだな? この腕が折れるのには、君が関与していたというこの記憶に間違いはない?」

 

「はい。現実に起こったことです」

 

 腕が折れる、という言のところでアリサが口をぱくぱくと開閉させているのが視界の隅に映る。声に出さないのは、自分はあくまでサブであるという意識のためだろう。

 

「そ、っかぁ……」

 

「えと、はい」

 

 折れていないほうの手で、顔を覆う。

 知りたかったこと。

 それが真実だと告げられて、頭のキャパシティを超えた。思考が停止して、うめき声を出す。

 

「あー……」

 

「本当に、ごめんなさい……」

 

「いや。謝らないでくれ。別に謝罪がほしいわけじゃないんだ」

 

 柔和に、気軽に。

 そういう空気を求めていたのに、固く重い雰囲気になってしまって、彼は戸惑っていた。

 話題が話題だけに、仕方のないことではある。彼は被害者で、彼女は加害者だから。

 で、あるから。

 軽くも重くもなく、切り込めるのは第三者。

 

「……ふむ。よくわかんないけど、どういうことなのか聞いてもいい?」

 

 アリサ・バニングスが、二人の話に、切り込んだ。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「……なるほどねー」

 

 アリサは、すずかの口から語られたことの顛末を聞いて、顎に手を当て頷いた。

 

「つまりすずかが悪いのね」

 

「その通りです……」

 

 彼が驚いたのは、“吸血衝動”という単語が話の中に出てきたことだった。

 唇を重ねたことは話には出てこなかったが、ようするに、元々あれは吸血衝動に襲われた彼女が、彼を襲ったということであるらしい。

 赤い瞳、鋭い牙。

 確信を抱いてはいたが、直接口からきくと、別の感慨がある。

 

「そういえば。目の色はそれが普通なのかな? 夜見たときは赤い色をしていたけど」

 

「あぁ。夜の一族のひとは、興奮するとそういうこともあるみたいですね」

 

 『それ』というのは、いまの彼女の瞳の色である藍のことだ。

 ずっと抱いていた疑問だったので、聞いてみたのだが、聞きなれない単語に目を瞬かせる。

 

「夜の一族?」

 

「吸血鬼、という認識でいてくれればいいですよ。ただ、おとぎ話にある“吸血鬼”と違って太陽光を苦手にしているわけではないですし、流水や銀がダメということもないので」

 

「なるほど」

 

 彼女の言葉に頷いていると、思い出したかのようにアリサが口を開く。

 

「ところで、これ忍さんには言ってるの?」

 

「…………」

 

「OK。言ってないのね。言っときなさいよ。あと……わかってるとは思うけど、人に迷惑かけてるんだから最低限治療費と慰謝料は払いなさい」

 

「……はい」

 

 アリサの言葉に、彼女は母親に怒られた子供のように、わかりやすく落ち込んでいた。

 彼女は、気分を払拭するようにしゃきっと姿勢を正して、彼に向き直った。

 

「あの、東堂さん。このあとお時間ありますか?」

 

「特に問題はないと思うけど……何で?」

 

「えぇ。ここで長々とお話するのもなんですし、場所を移して、詳しいお話をさせていただきたいな、と。その、治療費のこともありますし、―――私の、一族の秘密を知った方には選んでいただかなければならないことがあるので」

 

「選ぶ?」

 

 

「記憶を失うか。―――私の伴侶になるか、です」

 

 

 



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「あ、む」

 さて。どうしてこうなったのだったか。

 今、彼の目の前には、ひんやりとした道場床の上に正座をして、後ろ手に縛られた彼女がいた。

 経緯は把握しているし、仕方のないことだと理解もしている、が。

 この状況が目に痛いというのもまた事実であり、その不一致が彼を苛むのだった。

 

「ほんと、なにこれ……」

 

 そう言葉をもらしたのは、月村すずかとアリサ・バニングスの友人であるという高町なのはその人であった。

 なのはは、ファンシーな白とピンクを基調とした杖を担いで、心底めんどくさそうな顔をしていた。

 気持ちはわかる、と彼はなのはを見て心の中で深く頷いた。

 いきなり電話をされて、家に行っていいかと聞かれて、なのはの家の道場に座り込んだすずかに「縛ってほしい」などと頼まれ、それを実行した。

 

 うん、本当に、疲れると思う。

 

 アリサはというと、もう知ったことではないとばかりに道場の壁にもたれて座り、スマートフォンを眺めている。

 そして、彼はすずかの正面に、彼女と同じく正座で座っていた。

 

 正直、彼女の後ろ手にある桜色の光のリングがなんであるだとか、色々と突っ込みたいところはあるのだけど。

 

 そんなことは、今重要ではなかった。

 

 茶化すことなど何もなく、ただ真剣な表情をしている月村すずかには、こちらも真摯に向き合うべきであると、彼は思う。

 

「――では、まず治療費と慰謝料のことから」

 

 はじめに彼女の口から語られたのは、治療費と慰謝料についての話であった。治療にかかるであろうおおよその額面は道中ある程度話していたので、主に慰謝料の話がメインであった。

 重要なことは、それをどう扱うか、ということである。

 彼はあまりよくわかっていないが、月村家といえばこの地海鳴では富豪として有名な家であり、金銭を支払うことに大したデメリットはありはしない。

 だが、月村の家は夜の一族――平たく言えば吸血鬼だ。

 東堂君尋は至極一般的な学生であり、つまりまだ親から自立しているわけではなく、慰謝料という形で金銭を支払うのであれば東堂の両親が出てくるのが道理。しかしまさか、「お子さんを吸血衝動に負けて襲ってしまい怪我させてしまったので」などと言うわけにもいかない。

 であるから、この場合、どう誤魔化すかが、話の焦点となる。

 

「とても厚かましいことではあると思うのですが、まずはご両親に、我が一族のことは秘密にしておきたいんです」

 

「それは別にいいよ」

 

「ありがとうございます。ですがもし貴方が私と共に生きてくださると言うのであれば、折を見て、ご両親にもお伝えしたいとは考えています」

 

「……うん」

 

 一刻ほど前に告げられた、伴侶、という言葉を思い出して少しどもる。

 それから、と彼女は少し口にしづらそうにして話し出す。

 

「おそらく私の手形が、その、腕に残っていたと思うんですけど、どうでしたか……?」

 

「……あー。うん。残ってたよ。そこまではっきりはしてなかったけど、手の形に内出血してた」

 

「お医者さんにはどういう説明を?」

 

「『怖くて記憶が曖昧ではあるんですが、悪漢に襲われました』みたいなことを、言ったかな?」

 

 彼は首をかしげて、確かそんなことを言ったはずだと彼女に伝える。

 

「それなら、うちの雇ってるボディガードが酒に酔って――というシナリオでいきましょうか」

 

「え、そのボディガードさんの、なんだ……評判的なものは大丈夫?」

 

 月村家に非がある、という体にするのに違和はないだろうが、その結果何もしていないひとが責を負うようなことになるのは後味が悪い。思わず、眉をひそめた。

 

「えっと、うちにボディーガードいないので。まぁ架空の人物を作って、その人に罪を着せるという形になります。人物の実在の是非はどうとでも誤魔化せるので、問題はないかと」

 

「なるほど」

 

 頷いて、ふと思い浮かんだ疑問を続けて口にする。

 

「それって、例えばうちの親がその人連れて直接謝れって、月村さんに言ったらどうなるの?」

 

「その場合はサクラを雇います」

 

「あー、了解」

 

 詳しく聞いたわけではないが、なんとなく、月村家が一般の枠に収まる存在でないことは察し始めていた。

 だからそんなこともできるんだな、とアニメや小説を眺めるような心境で、頷いた。

 

「実際の額面ですが、それらに関してはご両親も交えたほうがいいと思うのでこの場では省略させていただきます。いいですか?」

 

「うん」

 

 これで治療費・慰謝料についての話は区切りがついて、これからが、今回の話の主軸。

 

 吸血鬼の伴侶とは何か、という話に移る。

 

「先ほども少しお話しましたが、夜の一族の掟として、血の秘密を知っていただいた方には選択をしてもらいます。一つは、記憶を失うこと、もう一つは……生涯を共にすること、ですね」

 

「うん」

 

 詳しい話を聞くまでもなく、すでに心は片側に傾いていた、が。

 まだ何かを話そうとする動きを察知して、ひとまず相槌だけで終わらせる。

 

「その、例えばそこにいるアリサちゃんとか、なのはちゃんとか。その他にも、私の親友の家族などは知っていたりもするので……あの、“伴侶”という言い方をはじめにしてしまって誤解をされたかもしれないんですけど。……その」

 

「うん」

 

「そういう意味でなくとも大丈夫です」

 

「そっか」

 

 照れ照れ、と顔を赤らめている彼女は、その整った容姿も相まって凄く可愛い。

 好みな容貌をしていることもあって、その仕草は色々くるものがあったが、拘束されているという事実が、ほのかなときめきを台無しにしていた。

 

「とりあえず」

 

 色々と考えたいこともあったし、正直混乱している部分もある。けれど、今度口を開くのはこちらの番だという確信がある。

 言いたいことはまだ明確な言語として定まってはいないけど、方向性だけはわかっているから。

 

「はい」

 

「記憶を消すのは、遠慮したいな。あぁ、もちろん月村さんが忘れてほしいというなら話は別だけどさ」

 

 笑って、話す。

 

「俺は君と仲良くしたい。君が俺の命を望むなら、捧げたい。そう思ってるよ」

 

 伴侶であるとか、そういうことはあまり意識していない。

 そこまで先のことを、自分の恋人――あるいは妻をこの場で決めろと言われても、現実味がなさすぎて何とも言えないというのが正直なところであった。

 

 だから、正直な、自分の気持ち。

 

 彼はあの日、あの場所、彼女に出会ったあの瞬間に。

 

 我が身を捧げると、この人生それでよいと、決めてしまったのだから。

 

「――――」

 

 ぱちぱち、と彼女は目を瞬かせ、気付けばその瞳は赤より濃い血の色をしていた。

 もう、恐怖はなかった。

 いや、恐怖を感じる必要がなくなったというべきか。

 ヒトが恐怖をするのは、何故だろう。身を守るためだ。恐怖は身を守るためのセンサーであるから、己を傷つけるものに過敏に反応する。

 けれど、彼女にそれを反応させる必要などもうなくなったから。

 

「……いいの?」

 

 ぽかんとした彼女に、笑って頷く。

 はじめて敬語がとれたと、そんなことに喜びを感じる。

 彼女は、浮ついた表情のまま立ち上がろうとして、

 

「あいたっ」

 

 つまづいた。手が縛られていたことを失念していたのだろうか、普段とバランス感覚が異なっていたのだろう。

 彼も思わず駆け出して、膝をついた彼女を支えるように肩を押さえる。

 

 すり、すり。

 

 猫が飼い主にじゃれつくように、彼女は彼に頭をすり寄せる。

 同時に、ギシ、と異音が鳴る。

 

 前に経験したそれを思い出して、嫌な汗をかくが、彼の体に異変はなかった。

 ほ。と安心し、音源を探すと――彼女の手首からだった。

 

 強固な縛りを振りほどくべく、夜の一族の超人的な力を遺憾なく発揮して。

 数瞬後には、彼女を縛るものは何もなかった。

 

「――うっそでしょ」

 

 彼はもう彼女から目が離せず、だから気付くことはできなかったが、少し離れたところでなのはは頬を引きつらせていた。

 高町なのはは収束魔法のエキスパートであり、高い魔力密度を求められる魔法を得意としていた。それは砲撃であったり、シールドであったり、はたまたバインドであったり。

 もちろん友人に全力のバインドなどはじめから施してなどいないが、それでも天性の才から生まれるバインド魔法の強度は並ではなく、人間に振りほどけるものでは決してない。

 

 だがそんなことは関係がないと、吸血鬼(ファム・ファタール)は己の餌を、己の伴侶を愛おしく撫で上げる。

 彼の頬を両の手で包み込み、潤んだ瞳で、彼を見つめ、そっと囁く。

 

「ほんとに、いいの?」

 

 当然否などあるはずはなく、頷こうとして―――

 

「いいわけないでしょ、馬鹿」

 

 なのは、とアリサが呼びかけて、なのはが、はいはい、と頷く。

 

「ちょっと、本気でやるね」

 

《Ring Bind》

 

「きゃっ」

 

「うわっ」

 

 起動速度に優れた拘束輪が、彼女の手、足、胴と縛りを加える。

 同時に彼は彼女からはじかれて、尻餅をついた。

 

「別に熱上げるのはいいけど、私らがいるとこでやんないでくれる? というか、すずか思ってたよりやばいわね。理性吹っ飛んでるじゃない」

 

「最初縛ってって言われたときはドン引きしたけどねぇ。まあうん、私たちいてこれなら、うち来て正解だったかも。すずかちゃん家だったらもうなんか、不味いことなりそう」

 

 あーやだやだ、となのはが愚痴を言い、大きなため息を吐く。

 

「ふーっ。ふーっ」

 

 威嚇するように、呻くように、すずかが声をあげている。

 

「あーでもこれさー。一回血飲まないと落ち着かないんじゃない? ずっと発情されてても困るけど」

 

「もうちょっと言葉をオブラートに包んでくれる? ファリンさんに言って迎えにきてもらおうかしら。輸血パック持ってきてもらえば大丈夫じゃない?」

 

 などと、月村すずかを尻目に話をしているなのはとアリサを見て、悩む。

 どうしようかと悩んで。

 悩んだ結果。

 

 まぁいいかと、床を這いつくばる彼女に、再度近寄る。

 

 潤んだ瞳を見つめて、肩を抱いて、頭を支えて、首筋にそっと彼女の唇を押し当てる。

 

「あ、む」

 

 彼女は、促されるままに彼の首筋に吸い付いて、舌で、ちろりと舐めつつく。

 ぺちゃぺちゃ、と唾液の音が鮮明に聞こえる。当たり前だ。こんなに近くにいるのだから、首をなめられているのだから、耳に響くに決まっている。

 

「…………呆れた」

 

「……んー。まぁいいんじゃない? なんとなくノリで私も止めちゃったけど、やっぱ一通りヤらないと落ち着かないって、たぶん」

 

「アンタ無責任すぎでしょ」

 

「他人事だし。知ったこっちゃないよ」

 

「前から言ってるけど、言い方ってもんが―――」

 

「あーはいはいゴメンナサイ。とりあえず、邪魔ものは去るのみだよ、アリサちゃん」

 

 なのはとアリサは道場から席を外し、なのはが道場外に出た瞬間に、拘束が、解かれる。

 拘束が解けたと気付いたのは至極単純な理由で、彼女の手が、背中に回ったからだった。全身で感じる彼女の柔らかさが強くなって、早鐘を打つ彼女の胸の鼓動が伝わってくる。

 

「……二人きり」

 

「そうだね」

 

「……あの」

 

「ん。あぁ」

 

 首筋に顔を埋めた彼女が、乞うような甘えた声を出して、なんだろうと思案する。

 ……たぶんあれかぁ、と察するも、実行に移すのには勇気が必要だった。

 何故なら彼と彼女は恋人でもなんでもないから、“それらしい”ことをするのには、許可が必要だと思うのだ。だけど、あぁ、一々許可などとっていては風情も何もあったものではなく。

 

「……ん」

 

「んむ」

 

 だから無言で顎に手をそえ、そっと唇を奪う。

 びくっ、と一瞬彼女の体に力が入ったのがわかって、だけどすぐに身をゆだねてくれたのがわかって。嬉しくて、より強く抱き寄せる。

 

「……可愛い」

 

「……」

 

 唇を離して、至近距離で彼女の顔を改めてみると、あぁ、心底可憐で綺麗で素敵だった。

 彼女は、口説き文句に対して無言で頬を赤らめ、またぐりぐりと、彼の胸板に頭をこすりつけた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 ただただ抱きしめ合って、時間を共にする。

 どうして女の子の体というのはどこもかしこも柔らかいのかと疑問を抱く。本当に、自分と同じ生き物なのだろうかと。

 

「……あの」

 

「何?」

 

 彼女の声に、自分でも驚くほど優しい声が出て、自分でも驚く。

 今なら何が起きても、聖人の心で許せる気がすると、彼は思う。

 

「固くなってる、ね」

 

「―――ごめん」

 

 さっと頭が冷えて、体を離そうと抱きしめる手を緩めようとする、が。緩めたぶんだけ彼女の腕の力が強くなる。結果体の距離感は変わらず、固く膨らんだ彼の股間は、彼女に触れたままだった。

 

「あの、さすがに、なのはちゃんの家だとね。だめ、だから。また……今度ね?」

 

「……うん」

 

 恥ずかしすぎて、それ以外に何も言えなかった。

 しかし、『今度』と言われると期待してしまうのは、やはり男の性だろうか。いやらしい想像が止まらず、彼女のすべてに興奮してしまう。

 

「……」

 

「……」

 

 もう一度、彼女は首筋に顔をうずめて、ちろちろと舌で刺激をしてくる。

 ようやくか、と思って、緊張で胸が痛くなる。

 もしも、不味いだとか、そういうことがあったらどうしようと、凄まじく不安になる。

 

「いいよ」

 

「……ん」

 

 そうして、牙が突き立てられる。

 甘噛みとは違う、皮膚を突き破る感触。瞬間走る痛みは、苦痛であるはずなのに、何故だか心地よくて体から力が抜けていく。いや、抜けているのは血液か。どくり、どくりとした脈動を体で感じて、彼女の体に、自分のそれが入っていっているのがわかって、愛おしくなる。

 

「…………」

 

「…………」

 

 時間が経つにつれて、意識がふわふわと浮いていく。

 ただただ、大好きだという気持ちだけが残って、幸福だけがそこにあった。これが天国か、と思うくらいには心地よくて、泣きそうなくらいに愛おしかった。

 

 

「……大好きだよ」

 

 

 最後にその一言をささやいて、彼の意識は闇に落ちた。

 



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「じゃあ、君尋くん?」

 ぼうっとした思考。体のぬくもり。滲む視界。

 そういうものに包まれながら、徐々に意識が鮮明になっていく。やがて彼が抱いたのは、ここはどこだろう、という疑問だった。

 しかしその疑問を解消することなく、次にしたのはスマートフォンを探すことだった。それをしようとしたことに深い意味はなく、ただ時間を確認しようとしたというだけのことである。

 彼は、いつも眠るとき、枕の下にスマートフォンをいれている。

 だから、枕の下に手を差し込もうとして―――違和感を覚えた。

 それは、折れた腕が邪魔であるだとか、そういうことではなく、折れていないほうの腕が動かないことへの違和感だった。

 なにかが、纏わりついている。何故か重い。

 なんだ、と目を向けて、そこでようやく本当の意味で意識が覚醒した。

 

「……ぁ?」

 

 動かなくなった利き腕にとりつけられていたのは、ガーゼとそこから延びる樹脂製の管だった。さらにその管をたどって上を見上げると、血袋がつるされており――あぁ、ようするに輸血をされていたらしかった。

 血。

 連鎖的に意識を飛ばす前のことを、思い出す。

 

「あー……」

 

 つまるところ、自分は吸血されて意識を失ったのだなと理解をした。

 ……まぁ致し方のないことだとは理解しているけれど。血を吸われて病院送りだなんて。

 

 情けないなぁ、と切に思う。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 朝になって、退院することになった。

 金銭など諸々の手続きはすでに済んでいるとのことで、退院に際して特別こちらから何かをする必要はなかった。そういう感じか、と自分の現状をなんとなく把握しつつ、ロビーへと赴く。

 

「あ、君尋」

 

「雪菜。お前学校は?」

 

「君尋に言われたくない。なんなの? 病院そんな好きだっけ」

 

 眉を吊り上げて口を尖らせている少女は、腕を組みながら答えた。

 この少女は中学生であり、当然学校に行かなければならない時間だが、その恰好は私服で、そのつもりは全くないようであった。

 

「病院を好きになったつもりはないけど……」

 

 彼は言葉を言いよどみ、ちらりと少女――雪菜の横を見た。

 そこには、苦笑する月村すずかの姿があった。

 彼女も当然学校であるはずだが、雪菜と同様、その姿は私服のそれであった。

 

「どういう状況?」

 

「んー。さぁ? とりあえず外でよっか」

 

 君尋の問いに雪菜が答え、すずかが頷く。

 病院でがやがや話をするものではないし、単純に、あまり聞かれたくないかもしれないという雪菜の気遣いだった。

 

 

 

 

「それで?」

 

 病院を出て、先行する雪菜に問いを投げる。少し遅れて、彼と彼女が後を着いて歩いている。

 

「ん。何。なんで私が月村先輩と一緒にいたかって?」

 

「そう」

 

「いや。そこは特に理由はないかな。同年代の女子が近場にいたほうが、待ってる間気が楽だし。だからちょっとすり寄っていってただけ。同じひとを待ってるとは思ってなかったね」

 

「あー。なるほどね」

 

 振り返りもせず淡々と述べる雪菜に対して、『月村さんに対して失礼じゃないか』という念が起こらないでもなかったが、まぁ雪菜にそんなことを言っても仕方がないと割り切る。

 

「あの、ところで二人の関係は……?」

 

 と、そこではじめて、すずかが口を開く。

 あぁ、と雪菜と君尋は口を揃えて、

 

「兄」

 

「と妹」

 

「かな」

 

 と答える。

 

「あ。妹さんだったんですか。あー、道理で。確かに目元がそっくり」

 

「え。俺こんなに目つき悪い?」

 

 彼女の声に、思わず素の声が出てしまい、前を歩いていた雪菜が足を止めて、キッと振り返って睨んでくる。

 

「君尋」

 

「あぁうん。目つき悪いって言い方は悪かった」

 

「……まぁいいけど」

 

 唇をとがらせている妹は、なんだかんだ彼のことを心配しているのであった。

 であるから、両親に無理を言って、自分が迎えに行くという駄々をこねて今に至るわけであるのだが。

 雪菜には、想定外のことがあった。そう、月村すずかの存在である。

 雪菜が君尋の存在に気付く前に「ぁ」と小さな声をもらして、君尋の存在に気付いた彼女。なんだか悔しかった。そんな想いが、雪菜(いもうと)の中にはあったのだ。

 

「それで、結局二人はどういう関係なの?」

 

「んー。なんだろ。恋人? かな」

 

「…………へー」

 

 雪菜の問いに、君尋は簡潔に答えた。

 納得したのかしていないのか、雪菜はさらに問いを重ねる。今度は、すずかを対象に。

 

「うちの兄はこう言ってますけど」

 

「えと。はい。先日からお付き合いを、してる、のかな?」

 

「…………えらく、二人とも曖昧な表現ですね」

 

「んー。いやまぁ半分告白してオーケーもらったようなものではあったけど、言葉でちゃんとやり取りしてなかったから」

 

「えと。そうですね」

 

 先日のことを思い出したのか、顔を赤らめている彼女に、やはりこういったことはきちんと口にするべきだなと、彼は彼女に、しっかりと向き直る。

 

「改めまして月村すずかさん。俺とお付き合いをしていただけますか?」

 

「……はい。喜んで」

 

「……往来で何してんの」

 

 神妙な面持ちで見つめ合っている両者に、雪菜は半目で冷たい視線を送る。

 まぁもっともだな、と彼は肩をすくめる。

 

「というわけで付き合ってる」

 

「……君尋がそれでいいならそれでいいけど」

 

 はぁ、と雪菜はため息を吐き、最後に、最も大事な問いを投げる。

 

「月村さんは、うちの兄のこと、好きですか?」

 

「はい。大好きです」

 

「…………そうですか」

 

 照れた顔で頷くすずかを見やって、雪菜は頷く。

 

お兄ちゃん(・・・・・)。大事にしなよ」

 

「……わかってるよ。まぁ、帰るか」

 

「あ、送りますよ。車用意してもらっているので」

 

 

 

 

 なんだかんだ日本人らしく遠慮をしつつ、最終的に言葉に甘え、妹と二人、自宅まで送り届けてもらったりなどした。

 そして、お金持ちの所有する車というものは、ごく一般人の彼らには少し理解しがたいものであり、その柔らかさ、中の広さ、心地よさ、すべてが凄かったというようなふわっとした感想を抱いた。

 すずかが去ったあと、

 

「……お金持ちってすごい」

 

「すごい」

 

「え。君尋玉の輿じゃん?」

 

「すごいね……」

 

 などという、少し知能指数の下がった会話が繰り広げられたりなど。

 そうして、家族水入らずの時間が訪れて。

 兄のことを、人並みに心配している妹は、帰り道にしていたそれより深い問いを投げる。

 

「その怪我って、今回入院したのも、ぶっちゃけあの女のせい?」

 

「あの女って……」

 

 言い方を考えたらどうかと注意しようとして、「いいから」と強い口調で回答を促される。

 

「そうだな。彼女のせいだと、そういう言い方は好きじゃないけど。そうなるな」

 

「ふーん」

 

 雪菜はうなって、「わかってるかどうか知らないけど」と険しい顔で告げる。

 

「あの人、別に君尋のこと好きじゃないよ」

 

「……そうか」

 

「そうだよ」

 

「雪菜が言うなら、きっとそうなんだろうな」

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 後日。謝罪会見が開かれた。

 場所・時間は先日とほとんど同じで、放課後の屋上。先日もそうであったが、何故だか彼ら以外に人っ子ひとりいない。なんだかんだ、屋上という場所はひとがたむろす場所であるため、一人くらいは、誰かいるものなのだが。

 

 ともあれ、今日集まっているのは東堂君尋と月村すずか、それからアリサ・バニングスに高町なのはである。

 

「あの、先日は失礼しました……。ちょっと血を吸いすぎてしまったみたいで。病院に搬送されるほどするつもりはなかったんですけど。あの、もっと早くに謝罪をとは思ってたんですけど、昨日は妹さんいらっしゃったので。その」

 

「うーん。まぁ構わないといえば構わないんだけど。単純に、こういうことが何度も続くなら、さすがに家族への弁明ができなくないかな」

 

「そうですよね……申し訳ございません……」

 

 彼が入院している最中に、彼女は彼の家を訪問したのだろう。

 退院して、親と対面したとき真っ先に言われたのは「でかした!」という文言だった。きっと上手く誤魔化したんだろうと思う。しかし、気になることもあった。

 

「うちの親、なんか……うまく表現はできないんだけど、凄い優しかったんだけど、何言ったの?」

 

「いえその」

 

 彼女は、顔を真っ赤にして、黙り込む。

 物凄く可愛い。しれっと、昨日この子を恋人にしたんだよな、と思うと、胸が熱くなる。

 

「……凄く、君尋くんが頑張ってくれたので、と」

 

「うん?」

 

 頑張る。何を? ―――と思考して、おそらくそういう意味なのだろうという結論を導き、ボッ、と顔が熱くなった。

 

「な―――」

 

「っっ、ばっかじゃないのアンタ!!!!」

 

 彼が上げようとした声は、隣で上げられたより大きな声にかき消された。そう、アリサの声である。先日と同じように、まずはただ聞いているだけの姿勢だったアリサは思わず顔を真っ赤にして叫んでしまっていた。

 

「……いやほんと、それ以外思いつかなくて……」

 

「馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけどここまで馬鹿だとは思ってなかった。もっと、こう、あるでしょなんか!」

 

 自分よりも興奮しているひとがいると、蚊帳の外に置かれた気分になるというか、火照った頬が、少し落ち着いてきた。

 思うに、アリサの反応からしても、それに対するすずかの反応からしても、彼の推定でそう間違っていないだろう。

 男が女のために何かを頑張って―――結果倒れる。

 あぁ、それは優しくしてやらないと嘘だろう。

 

「…………はぁ」

 

「仲いいね、君たち」

 

 わーわーと騒いでいるすずかとアリサを見て、ぼへーっとしている少女、高町なのはと少し距離を詰めて、話しかける。恥ずかしすぎて、黙っていると落ち着かなかったからだ。

 

「んー。まぁ私たち小学校一年のときからの付き合いなので……もう、何年だろう。……に、さんしごろ、いちにさん……九年?」

 

 指を折って数え、首を傾げるなのはに、九年もの付き合いは凄まじいな、と感嘆する。

 

「じゃあ、小学生のころからの仲良しトリオみたいな感じなのかな」

 

「んー。中学のときとかは、フェイトちゃんって子とかはやてちゃんって子とか―――って、まぁあなたには関係ないか」

 

「ごめんな。あまり話したくなかった?」

 

「別にそういうわけじゃないけど。言っても仕方ないし」

 

 そういうわけじゃない、と言いつつも、目を合わせもしないその仕草と口調から、暗に踏み込むな、と言っているのがわかる。人間関係はデリケートなものだし、きっとなのはという少女にとって、そこはあまり触れてほしくないところなのだろう。

 

「それもそうか」

 

「…………」

 

 少しなのはと会話をしている隙に、あちらのほうも少し進展があったようで――気付けばすずかが正座をしていて、アリサは腰に手を当て、くどくどと説教をしている姿が目に映る。

 仲良し三人組。

 あまり彼女たちの関係性は読めてはいないけど、きっと、あのアリサという少女がストッパーなのだろうな、と思う情景だった。

 

「……あの」

 

「ん。どうしたのかな」

 

 すずかとアリサのやり取りはしばらく続きそうだな、と眺めていると、横にいるなのはが、口ごもりながら声をかけてきた。

 

「……ちょっとその、あのとき軽率だったというか。ほっといても大丈夫だって勝手に思い込んじゃって。ごめんなさい。私が止めなきゃいけなかったのに」

 

「……くっ」

 

 平謝りしてきたなのはに、思わず笑いが口からこぼれ出る。

 

「は?」

 

「いやごめん。ちょっとおかしくって」

 

「……何が」

 

「だって、これ、吸血鬼だとかそんな要素があるから複雑に見えてるだけで。……自分で言うのもなんだけど、痴話喧嘩みたいなものだろ? それに対して謝られるっていうのは、ちょっと面白いな、と」

 

「…………」

 

 彼の言葉に、なのはは眉をひそめ、唇をぱくぱくと開閉させ何かを言おうとするが、最後にはきゅっと一文字に結んでしまい、何も言うことはなかった。

 そこで、そういえば、と彼は思い出す。先日あった、不思議な現象を。

 

「あのさ、あの、なんだろう。桜色の輪っか。拘束具? あれって何?」

 

「……んー。……言ってもいっか。ただの魔法。私、魔法使いなので」

 

「ほー。それは凄い」

 

「凄くないよ。別に。あの程度」

 

「……そうなの?」

 

「そうだよ」

 

 淡々と会話をしていると、説教が終わったのか、ぐったりとした二人がこちらに近づいてきた。

 

「……はぁ。今日こそは何も言うまいと思ってたのに」

 

「お疲れ、アリサちゃん」

 

 ぐったりとしたアリサに、なのはがこれまた淡々とねぎらいの言葉を投げる。彼にだけそうなのかと思いきや、割と彼女はそういうタイプであるだけのようだ。しかし、ぶっきらぼうなのは口調だけで、その言動自体は心優しいことが、この短時間でも見て取れる。

 

「……とりあえず、東堂さんには本当謝ることしかできないんですけど。その、対処法はちゃんと考えておきます、もう一度」

 

「謝らなくていいよ。というか、昨日恋人同士になったんだし、敬語はいらない」

 

「……えと、はい。うん」

 

 もじもじと頷くすずかに、彼は頬を緩める。

 恋人、という言葉が聞こえたときにまたアリサがどよめいたが、どうどう、となのはが落ち着かせていた。

 

「名前も君尋でいい」

 

「じゃあ、君尋くん?」

 

「うん」

 

 なんとなくくすぐったくて、頬をぽりぽりと掻いて誤魔化す。

 

「まぁ、というか同い年なんだし別に敬語とかはじめからいらないと思うんだけど」

 

「いやそこはほら、すずかとしては迷惑かけた相手だからとかあったんでしょ」

 

 外野でやんやという声が聞こえたので、苦笑して、一応訂正をする。

 

「まぁ生まれた日によっては同じ年かな。俺は三月生まれだから、三月が来るまでは、君らの誰かが誕生日迎えてるなら同い年ってことになる」

 

「え。なに。年上だったの? あー、確かに、別に同学年とかはじめから誰も言ってなかったわ。凄い思い込んでた」

 

「アリサちゃんが凄いため口きいてたから、私もそうだと思ってたけど。うん。まぁ別にいいんじゃないの、同い年みたいなもんだよ」

 

「なのは……」

 

 親しき仲にも礼儀ありって言葉があるくらいなんだから会って間もない相手にはなおさら―――と、アリサがまた説教モードに入り、なのはがそれをうぇぇぇと険しい顔で聞いて、それを、彼と彼女は苦笑して眺める。

 

「ずいぶん楽しそうな友達たちだね」

 

「はい。うん。私の自慢の親友」

 

 そう言って、月村すずかはあどけなく笑った。

 蠱惑的でもなく、妖艶でもなく、畏怖を感じさせることもないその笑みは、きっと本来の彼女のそれなのだろうな、と思う。

 

 さてはて。

 

 一体どちらが本物なのか、どちらも本物なのか、どちらも本物ではないのか。

 

 まだ彼には、よくわかっていなかったが、どの彼女も、彼が付き合っていくべきものであるというのは、間違いなかった。



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「この本を読み終わったら、あなたに、聞いてみたいことがあるの」

 麗らかな朝。柔らかな日差しが降り注ぎ、透明な風が草木をゆらしている。

 草木は夏のそれと比べて青みを少し失い、代わりに紅や黄が増えていた。

 気温が変わるのは一瞬で、暑さを感じていた一週間前が嘘のように、涼し気だった。

 

 周囲の環境はもとより、体調もよかった。

 骨折も、元々ひび程度だったこともあり、問題なく動かせるようになっている。

 

「……あ、美味しい」

 

「それはよかった。次はジャムをいれてみて? 香り高くて素敵なの」

 

 月村邸。その中庭のガーデンテーブルに二人で席を着き、お茶をしていた。

 高級住宅街には普段近寄らないので、とんと縁がなかったのだが、今日は月村邸に招待されたのだ。

 もともと、初期の段階では吸血衝動による暴走の件もあって二人になることは避けていたのだが、近日、よくわからないが収まったということであったので、こうした交流の機会を取ることが可能になった。

 まず驚いたのはとにかく敷地の広さ。

 建物自体の大きさもそうなのだが、向こうに見える森林もまるっと含めて月村の私有地であるとのこと。

 

「こういうの、ロシアンティーって言うんだっけ?」

 

「ちょっと違うかな。ロシアンティーも確かに、ジャムの紅茶だけど。ロシアンティーは、スプーンでジャムをすくって、それを口にいれてからお茶を飲むの。似たようなものといえば似たようなものだから、気にする必要はないんだけどね?」

 

 ふふ、とアヤメのように笑って、彼女はジャムをほんの少しすくって紅茶の中に混ぜ込んでいく。

 曰く、薔薇のジャムだそうで、彼女のカップの中で花びらが踊っている。

 庶民たる彼は、紅茶一つ飲むのにもどきまぎとしながら、倣うようにジャムをすくって紅茶の中にとかしこむ。

 なんだかいい香りがするような気がするけれど、どう評していいかわからず、曖昧な笑みを浮かべてしまっていた。

 

「そんな畏まらなくていいよ? お茶なんて美味しく飲むのが一番だし。口に合わなかったら、日本茶とかオレンジジュースとかもあるしね。あぁ、なんならコーラもあるし」

 

「いや。ありがとう。やっぱりなんだか緊張してしまって」

 

 そう言って、お茶を飲む。

 お茶の香りなんてのは、正直よくわからなかった。熱くて、苦味があって、だけどどこか舌に優しい。先ほど口に含んだときはそのようなことを思っていた。

 そして今、薔薇ジャムを添加した味わいは全然違ったものだった。苦味というものを感じなくなり、ジャムで少し冷えたのか、飲みやすい温度になっていて。香りが、ぶわぁ、と口の中に広がる。薔薇の香りというのはこういうものだったか、と口の中で味わって、嚥下する。

 薔薇の香りが好きか嫌いかで、このお茶に対する意見は大きく分かれそうだが、単純に面白い味だな、と思った。

 

「……ふぅ」

 

「お茶を飲むと、落ち着くよね」

 

 髪をゆらして笑う彼女に、そうだね、と笑い返す。

 事実、この家を訪れてはじめのころは粗相をしては不味いとカチコチだったのだが、お茶を一口二口と、口に含むごとにリラックスしていっているのがわかる。

 

「お菓子もね。美味しいよ。翠屋の焼き菓子セット」

 

「翠屋……」

 

「聞いたことある? なのはちゃんのおうちが経営してるお店なんだけど」

 

「え、そうなんだ」

 

 木籠の中にプレーンやチョコ、あるいはラングドシャやマドレーヌなどが入っていて、どれも美味しそうだった。ひとまずプレーンクッキーをつまんで、口にする。

 サクサクと口の中で楽しい音がして、バターの香りが凄く優しい。

 

「……美味しい」

 

「だよね? 桃子さん――あ、なのはちゃんのお母さんの名前ね。桃子さんが作ってるんだけど、すっごく美味しくて、贔屓にしちゃってます」

 

 えへ、と無邪気に笑って、彼女も菓子を手に取って口にする。

 

「……うん。やっぱり美味しい」

 

「そうだね。俺もここのお店のお菓子は好きだ」

 

「あ、知ってたんだ」

 

「うん。妹とか、母さんがね。たまに買ってくる」

 

「そっか」

 

「うん」

 

 紅茶を口に含んで、口直し。

 ジャムをいれた紅茶は、単体だと甘味がちょうどよいが、クッキーのあとだと甘すぎるような気がした。

 

「……お茶はストレートのほうがお菓子には合うかも」

 

「そうだね。ちょっと香り付けくらいならそこまで気にもならないんだけど。そこは自分の好みを今後追及してもらえばいいかな?」

 

「今後、か」

 

「今言うことでもないけど、また来てね。歓迎するから」

 

「うん」

 

 歓迎してくれる、という言葉が純粋に嬉しくて笑みで応える。

 

「とまぁ。ちょっとオジョウサマー、って印象抱いちゃったかもしれないけど。私はよくこうしてお茶してたりします。君尋くんは、休日何してる?」

 

 ところで、本日、月村邸を訪れたのには目的があった。

 それはすずかと君尋が、仲良くなること。

 そもそも彼らは突発的な衝動からの付き合いで、お互いのことを何も知らない。人間性からはじまり、趣味や家庭環境、交友関係などすべて知らない。知っているのは互いの名前だけという、至極浅い関係性だったのだ。

 だけど男女のお付き合いははじめてしまったから、「じゃあお互いのことをよく知るための機会を設けましょう」という話になり、今に至る。

 だから先ほどは、すずかが嗜むお茶についての話をしていて、次は君尋が話す番となる。

 

「えぇとね」

 

 彼は少し、口ごもり、一拍の間を開けてから話しはじめる。

 

「正直、恥ずかしながら、趣味というほどのものはなくて……。ただいつもやってるのは、あれかな。休みの日は、とりあえず朝、散歩してる」

 

「そうなんだ」

 

「うん。散歩って言っても、走ることもあるし。日によっては自転車漕いだり? まぁ体を動かすのは結構好きかな」

 

 自分の好きなものについて考えながら、話していく。

 すずかはそれを聞いて、うんうん、と相槌を打っている。

 

「妹――雪菜とバドミントンしたり? 広場でローラーブレードしたりとか」

 

「あ、楽しそう」

 

 彼女の同意が嬉しかったのか、彼は顔をほころばせて、さらに続ける。

 

「あとは、漫画読んだり、雪菜とゲームしたり」

 

「妹さんと仲良いんだね」

 

「うん。仲は良いよ」

 

 雪菜が君尋に対して嘘を吐くことは決してなく、その上で彼は、「君尋のことは結構好き」と言われたことがある。そして、君尋も雪菜に対して嘘を吐くことは決してなく、その上で彼は、「雪菜は俺の大事な妹だよ」と、そんなことを言ったことがある。

 だから仲が良いことは間違いない、と強い口調で頷く。

 

「俺は休日、そんな感じ。あぁ、まぁ友達と似たようなことをすることもあるけど。雪菜と遊んでることのほうが多いかな」

 

「そうなんだ。漫画とかゲームって?」

 

「漫画は……少年コミックの有名どころをだいたい? あぁでも雪菜の少女漫画読むこともあるかな。ゲームもスマブラとか、対戦系がほとんど」

 

「なるほど」

 

 すずかは終始、淡い笑みを浮かべていた。

 

「私もね、運動は好きだよ。ゲームも一緒に遊びたいな。今度一緒にやろうね」

 

「いいね、遊ぼう」

 

 紅茶をまた口に含んで、ラングドシャに手を付ける。

 サクサクとした食感に、クリームのまろやかな味わいが合わさってこれまた美味しいものだった。

 

「…………あ、そうだ」

 

「どうかした?」

 

「君尋くんに聞こうと思ってたことあるんだった。あのね、動物って好き?」

 

「動物?」

 

 すずかの問いにオウム返しをして、はて、と考える。

 動物といえば、きりんがまず頭に思い浮かぶ。

 きりんを好きか嫌いかで言えば、まぁ好きだった。

 

「たぶん、好きだと思うよ」

 

「……たぶん?」

 

「好きな動物は好きだし、苦手な動物は苦手だからさ。ほら、スカンクとかは、凄い臭い振りまくって言うし、苦手かなって思う」

 

 見たことないからわかんないけどね、と付け足す。

 

「ん。私の言い方悪かったね。猫好き?」

 

「にゃんこ」

 

「そう、にゃんこ」

 

 くすり、と彼女はにゃんこという言葉に笑みをこぼす。

 

「猫かぁ。うん。好きだよ」

 

「ほんとっ?」

 

「うん。可愛いよね」

 

「よかったぁ……」

 

 すずかは、今日一番と言っていいほど、声を弾ませ安堵していた。

 

「あの、私の家族紹介してもいい?」

 

「家族って……ファリンさん? 両親とお姉さんは、海外だってさっき言ってたけど」

 

 この家を訪れたとき、すずかと共に出迎えてくれたメイド服の女性がいた。その女性はファリン・K・エーアリヒカイト、すずか専属のメイドであるとのことだった。またその際、ファリン・K・エーアリヒカイトと名乗ったメイドさんと、すずか以外はこの家には住んでいないという話を聞いたばかりだった

 

「あぁうん。ちょっと待っててね」

 

 リンっ。

 すずかは、手のひらサイズのベルを鳴らした。それはファリンが紅茶やお茶菓子を持ってきたときに、何か他に用件があればこちらで、と言っていたものだった。

 ただこんなベルを鳴らしただけで、本当に来るのかという疑心を抱きつつ、少し、緊張して待つ。

 

「ちょっと待ってぇぇええ」

 

 その声が聞こえたのは、ベルが鳴ってから一分程度経ったころだろうか。

 いささか間の抜けた、間延びした声が聞こえて、本館と中庭を繋ぐ扉へと目を向ける。

 ドタバタと、やけに物音がしているな、と思っていると、バンッ、と扉が開いて。

 

 ――猫の大群が押し寄せてきた。

 

 扉からあふれるようにやってきた彼らは、にゃーにゃーにゃー、とすずかを取り囲んでいく。

 白、ぶち、三毛、黒など様々な色彩の猫たち。

 品種などはよくわからないが、アメリカンショートヘアやペルシャ、シャムなどの有名どころがいることはわかる。

 

「よしよし」

 

 椅子から降りてしゃがみこんだ彼女は、猫に埋もれて幸せそうに頬を緩ませていた。足元はもちろんのこと、背中にもよじ登っているし、頭にも乗っている。抱きかかえられている子もいる。

 

「ご、ごめんなさい。この子たち言うこと聞いてくれなくってぇ……」

 

「いいよ。ありがと、ファリン」

 

 メイド服をいささか乱した涙目のファリンが、とぼとぼとテーブルに近付いてきた。

 状況に呆気にとられていると、猫を張り付かせたすずかがこちらに笑いかけてくる。

 

「この子たちが、私の大事な家族」

 

 可愛いでしょ? と言う彼女に、そうだね、と返答する。

 すずかは猫に濡れているけれども、君尋に対しては警戒しているのか近付かない猫たち。

 それを見て何を思ったのか、すずかは猫を張り付かせたまま立ち上がって、彼のもとに近付いてくる。君尋との距離が縮まるにつれ、猫たちはにゃーにゃーと離れていき、すずかと君尋の距離が零になったときには、一匹も残っていなかった。

 

「みんな人見知りだなぁ」

 

「仕方ないけど。ちょっと寂しいなぁ」

 

 自分が嫌われていると、そう直接言われたような気分になって少し落ち込む。

 袖をつかむ彼女の手が、くいくい、と椅子から降りるように促していたので、そのままに椅子から降りてしゃがみこむ。

 

「なかよしー。ほら、このひとは怖くないよ」

 

 ぎゅー、と寄り添って、猫たちにおいでおいでとする彼女に絶句しかできなくて、身を固くして黙り込む。

 やわらかい、という感想だけが頭に浮かぶ。

 

「……あ、たんぽぽ。いいこだねー」

 

 にゃん。

 白い、小さな猫がそろそろと近付いてきた。

 

「君尋くん、この子たんぽぽって言うの。名前、呼んであげて」

 

「……た、たんぽぽ?」

 

 にゃお。

 言葉がわかっているのかいないのか、鳴いて返事をするたんぽぽ。

 すずかのもとまでやってきたたんぽぽを、いいこ、と彼女は撫ですさる。

 

「君尋くん、触るのはちょっと我慢してね。向こうからすり寄ってきたらいいけど、最初はやっぱり怖がっちゃうことも多いから」

 

「わかった」

 

 彼女の言葉にもっともだと思いながら、眉を下げて、残念そうに頷いた。

 

「うんうん。みんないい子」

 

 にゃー、にゃー。

 たんぽぽを皮切りとして、次々に猫たちがすり寄ってくる。相も変わらず君尋に直接近寄る子はいなかったが、彼と彼女はいま密着しているので、必然的に彼のすぐそばにもにゃんこがたくさんいた。

 ひーふーみーよー……。

 パッと数えきれないほどの、猫たち。おそらく軽く十は超えているだろう。

 

「この子がミリー。この子がシャルロッテ。この子がみどり。ルリに、白雪。サイネに黒巻、レオ。虎吉にハルユキ。ルミナス。サナ。グレイス。これで全員じゃないけど、この子たちの名前」

 

「……すごいね」

 

「可愛いでしょ?」

 

「可愛いね」

 

 服の上からじんわりと伝わるぬくもりに頬が緩む。

 やっぱり自分には興味がないんだろうな、とすずかに夢中な彼らを見つめていると、最初に近付いて来てくれた猫、たんぽぽがこちらを見上げていた。

 

「んー。たんぽぽは、君尋くんのこと好き?」

 

 にゃおにゃお、という喧噪の中、なー、というか細い鳴き声がかすかに聞こえる。それに、すずかは「ん。そっか」と頷いた。

 

「たんぽぽは君尋くんのこと好きだって」

 

「それは、嬉しいな」

 

 すずかがたんぽぽを抱き上げ、「はい」と彼の膝に乗せる。

 

「……うん。逃げなさそうだし、軽く、撫でてあげて? 横からだと怖がられないよ」

 

 こんな感じ、とすずか手近な猫ののどを、ごろごろとくすぐる。

 それにならって、小さな白猫、たんぽぽをくすぐると、たんぽぽは目を細めていた。

 

「……これ、嫌がられてないかな」

 

「うん。大丈夫」

 

 みんなもたんぽぽみたいに彼のこと好きになって頂戴ね、とすずかはそう言って、微笑んでいた。

 

「ファリンもそんなとこで見てないでこっち来たらー?」

 

「えっ?! いいですいいです!」

 

 首を振ってぶんぶんと否定するファリンに、すずかと一緒に猫団子になりつつある君尋は、「あの」と声をかける。

 

「俺のことをもし気にしてくださってるなら、全然。こっちで一緒に遊びましょう?」

 

「えと……」

 

 おろおろ、とファリンはあわてはじめてしまって、君尋はしまったな、という気持ちを抱いて、すずかは仕方ないな、という気持ちを抱いた。

 

「ファリン。何そんなに気にしてるの?」

 

「だってぇ……。そんな、いちゃついてるとこに入れるわけないじゃないですかぁ!」

 

 君尋は、まあ確かにそうだよね、と改めて現状を認識して顔を赤くする。べったり、という言葉が合うほど距離の近いすずかに、内心どきどきしっぱなしだったのだ。

 すずかは、実のところ、安堵した。あぁ、恋人らしく見えていたのか、と。

 

「別に、そんなこと気にしなくていいのに」

 

 そう言って、すずかはあどけなく笑った。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 時間と場所は変わり、午後、彼らは月村邸の書斎にいた。

 非常にシックな装いで、明かりは目に優しく、とても広々としていることが印象的だった。

 これも、互いのことを理解し合うための行為の一環だった。すずかは、文武両道を地で行く女性であったから、運動も好きだし本も好きだった。

 

「君尋くんはあまり本読まないって言ってたよね」

 

「あーうん。そうだね」

 

 君尋は、恥ずかしげに頬を掻いて、頷いた。本より漫画、というようなことはつい先ほど、食事の最中に言ったことだったが、こんな立派な書斎に連れられて、「普段漫画しか読まないです!」とは、知られていることでもなかなか口にしづらいものがあった。

 

「別に、本が苦手ってひとはいるっていうのは知ってるし、気にしなくていいよ? どうしてもね、文字より絵、映像ってひとはたくさんいるから」

 

 だけど、と。

 

「私が、文字の、文章の世界のどこに魅力を感じているのかは知っていてほしくて」

 

 愛おしげに、すずかは本棚に並んでいる幾多の本の背表紙をなであげる。

 

「そっか。それは、聞いてみたいな」

 

 誰かが好きなものを、自分が好きじゃないなんてことはありふれた話で。

 だから、どこに対して魅力を感じているかということは、自分では絶対に理解の及ばないところで。

 それを知ることができるというのは、世界を広げることと同義だと、彼は思っている。

 

「本って。世界が、広いの」

 

 目を閉じて、彼女は謳うように語り始める。

 

「文字って、狭いって印象を抱かれがちなところがあって。映画や漫画に比べると、情報量が少ないって、思われてる」

 

 確かにそんなことを思ったことはあった、と彼はうなずく。

 漫画のほうが、わかりやすいと、だから本は読みたくないと、そんな感想を抱いたことがある。

 

「確かに、動き方っていうのは映像や絵があるほうがわかりやすいし、イメージしやすいよね。それは、わかるの。でもそれは、逆に言えば、型にはまってしまってるってことで」

 

 映像作品や漫画は、わかりやすく情景が目に見てわかるからこそ、それ以上のものは想像できない。

 だけど、文字の世界は、と彼女は続ける。

 

「自分の想像の世界でなら、無限の可能性を持っているの」

 

 目を開けて、振り返って、花咲くように笑う。

 

「音、香り、情景」

 

 そういうものが、自由な形で頭の中に存在できる。

 

「確かに陳腐なそれに成り下がってしまうときもあるけれど、ときどき、自分では見たこともない綺麗な世界が見えるときがあって」

 

「それが、凄く楽しくって!」

 

「病みつきに、なるの」

 

 だから私は本が好き、と締めくくって。

 彼女は、小さく息を吐いた。

 

「……なんというか、考えたこともなかった。本のほうがイメージが自由だとか、そんなこと」

 

 ぱちぱち、と軽く拍手をして感嘆を表すと、彼女は気恥ずかしそうに悶える。

 

「えと。これ私の思ってることだから、世の中の読書好きはまた全然違ったこと思ってると思うけどね? うん。私は、だから本が好き」

 

「なんだろう。あんまり、本とか読まないんだけど。君となら、一緒に本読んでみたくなる」

 

「えと。一緒に?」

 

「おすすめの本を借りてっていうのでもいいのかもしれないけど。君の目を通して、君の好きなものが見たい、って言えばいいかな? そういうことが、してみたくなったんだ。……意味わかんなかったかな、ごめん」

 

「ううん。そんなことない。嬉しい」

 

 朗らかな笑みを浮かべて、彼女は髪を揺らす。

 

「えと、何がいいとかある? ジャンルとか」

 

「ジャンル……。そうだな。君が、今読んでいるものがいい」

 

 ジャンルと言われても特別何も思いつかなかったので、ならば、君がいま楽しんで読んでいる何かを、と。

 

「いま読んでるの……って結構難しい奴だけど、そうだね。あーでもいいといえばいいのかも……」

 

 てくてく、と部屋の奥に足を進めて、少し先にあった棚に並んでいる一冊のほうを、手に取る。

 

「『銀河鉄道の夜』――。結構有名な作品だけど、聞いたことある?」

 

「宮沢賢治……? だっけ?」

 

「あ、そうだよ。内容は? 聞いたことある?」

 

「いや」

 

 そっかあ、と言いながら楽しそうにページをパララ、とめくっていく。

 

「『銀河鉄道の夜』はね、主人公のジョバンニとその親友のカムパネルラの二人の、二人の冒険のお話なの。二人は、宇宙を駆ける銀河鉄道に乗って、さまざまな人に出会っていくの。カムパネルラは――」

 

 と、そこで彼女は口をつぐむ。

 

「君尋くんが、この話をどう感じるのか。私も知りたいな」

 

「うん。……いつがいいかな。俺はいまからでも、構わないけど」

 

「うん。私も」

 

 じゃあ、と書斎のデスクに二人並んで腰かける。

 

「ねぇ。君尋くん」

 

「うん?」

 

「この本を読み終わったら、あなたに、聞いてみたいことがあるの」

 

 彼女のその声は、どこまでも、透明だった。



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「ちゃんと捕まえてくれないと、また逃げちゃうかも」

 出発時は心なしか冷たかった朝の空気。出発から一時間以上経過したいまとなっては暖かさが増したこともあり、何も感じなくなっていた。体は火照り、足はやや重く、えいさえいさ、と柔らかな運動靴で地面を押しては引くことを繰り返す。

 あぁそれでも、そんな時間が楽しいから。息は弾んで、重いはずの足は軽さを保持し続ける。

 街から外れるにつれて、緑が視界に増えていく。

 秋ではあるけれど、ここいらは紅葉する種別の木々が少ない。植物には詳しくないが、杉だろうか。見慣れた背の高い、並木道。まぁこれはこれでいいものだなと思う。

 それはそれとして、ゴールが近い。

 それを思うと、えいさえいさ、と運ぶ足が早くなる。

 ゴールとはいっても、リスタート地点と言っていい場所であるから、ここが折り返しと思うと休む間などないのだけれど。

 苦笑して、また、歩く。月村の家は、すぐそこだ。

 

「えっと」

 

 塀が、大きい。

 さてどうすればいいんだろう、と少し頭を悩ませる。

 前に月村家を訪れたときは、車での迎えがあったから、正直細かなところは把握してないのだった。

 だけれどインターホンはどこかにあるはずで、と。常識に則って、友人の家を訪れたときのように、振舞う。

 そうして、気負いしてしまいそうな、大きな門の近くまでパタパタと軽く駆けていく。

 当然のように見つけやすい位置に設けられていたインターホンを鳴らして、訪れたことを、告げた。

 

 

 

 

 

 

「疲れたでしょう? お茶でもどうぞ」

 

 ダイニングに案内されて、席に着いた。長大な、クロスの敷かれたテーブル。先日訪れたときもここで昼食をご馳走になったが、相変わらず、気が引けてしまう豪奢な雰囲気をもっている。

 

「レモングラスと……あとなんだろね。たぶんレモンか何か、他にも入ってるけど。ハーブティだよ。ハーブティはね、結構ものによっては癖があって苦手な人も多いんだけど。レモングラスは、口当たりもいいし、癖も少ないから普通に飲めると思う」

 

 隣に座ったすずかが、先んじてカップに口をつける。

 毒など入っていませんよ、と言わんばかりに、口をカップから外したあとに、どうぞ、と手振りで促される。

 

 爽やかな、レモンの香り。

 

 温かいカップに唇を近づけると、浅黄色の液体から甘い香りがした。

 火傷しないようにそろそろと口に含んで、嚥下して。

 あぁこれがハーブティなのか、なんてことを思う。

 前に飲んだのは薔薇ジャムのロシアンティーだったなぁなどということも思い出して、おしゃれだなぁと漠然とした感想を抱く。

 

「ハーブには詳しくないけど、レモングラスっていうのはレモンに似てるから?」

 

「そうだよ。香り、レモンみたいでしょう? レモングラスはね、レモンよりもレモンらしいって、よく言われるの。香りが強いんだよね。わかりやすく香り高くてね。私は結構好きなんだけど」

 

「いやうん。美味しいと、思う」

 

 香りがいい。

 柑橘系の、甘い香り。

 だけど肝心な味のほうは、正直熱いのもあって、鈍く感じられてしまっていた。

 

「それはよかった」

 

 くすくす、とすずかは鈴の音のような声をこぼす。

 まったりとした、二人きりのティータイム。この家に住まうもう一人、ファリンはお茶を運んできたあと席を外したので、今は二人並んで、席に座っている。

 熱いお茶が幾分か飲みやすくなったころ、ふと、すずかが思い出したかのように口を開く。

 

「そういえば、結局今日は歩いてきたんだよね?」

 

「うん」

 

「大丈夫?」

 

「問題ないよ。ありがとう」

 

 そもそもなんで徒歩でこんなところまで来たのか、という話になってくるのだが。

 月村の家は、町の外れにある、山の麓。だから、ごく普通の住宅街に住んでいる君尋の家からは幾分か遠い。だから歩きとなると来るだけで一、二時間かかる。

 そして、日常の合間に、「お散歩デートっていいよね」というような会話がされていて、同時に「君尋くんの家で遊んでみたい」というような話にもなっていて。

 なら、月村の家の近くは緑も多く情景は比較的綺麗だし、散歩コースとして悪くはないんじゃないかという話になって。

 一緒に歩いて、会話をして。彼の家に着いて、だらだらと、彼の家で遊んで。そうして一日を終えるという、デートというにはいくらか貧相なプランが立てられたのであった。

 なお、彼が月村家を訪れる際に徒歩で来る意味は特にないが、そこは、「歩くのが楽しいということが前提のデートなのに、片道歩くの一人だと怠いって言動は、ちょっとなぁ」という彼なりの想いがあった。

 

 しかして、往復三時間超となると、いささか疲れるであろうというのも現実ではあるのだが。そこは、男の子的に気にしてはいけない部分だった。

 

「いつ出る?」

 

「じゃあ。お茶飲んだら、で。いいかな?」

 

「いいよ」

 

 爽やかな甘い香りと、彼女の身じろぎの音。

 その空間の色は、ごく普通なそれなのだが、何かレイヤーをかけたように違った色をしているようだった。

 

 

 

 

 

 

「そういえば、花粉症とか大丈夫?」

 

「花粉?」

 

「たぶんあのへん、杉だよね。ふと思い出してさ」

 

「んー。でも、今の時期って杉じゃないよね」

 

「あぁ。ブタクサとかかな? でも、花粉っていったら杉みたいなところあるし、ちょっとした連想ゲームみたいな?」

 

「あ、なるほど。でもうん、私そういうのはかかったことないかなあ」

 

 秋といえば紅葉だが。

 ここらは杉が多く、視界にはまだまだ緑があふれている。

 歩いているところ自体は、青を帯びた黒のアスファルトであるから風情もへったくれもないのであるが、それでも、歩くという行為それ自体が楽しいと彼は思っている。

 風の音と雲の動きと、歩くリズム。

 それをかみ合わせることが、楽しい。

 

「俺もね。花粉症とは縁がないんだけど、うちの妹が杉駄目でさ。春はよく杉を燃やし尽くしたいって言ってるよ」

 

「あはは。でも、花粉症ってつらいらしいし、仕方ないのかなぁ」

 

「いや燃やしたら駄目でしょ。すずかの家まで燃えるよ」

 

「それは困っちゃう」

 

 くすくす笑って、彼女は軽くスキップをする。

 とんっ、と軽く飛んで、一メートルほど先に躍り出て、振り返って。

 は、や、く。

 と、おそらくそう口を動かしたんだろう。口パクで、彼を急かした。

 

「待ってよ」

 

「私を捕まえてごらんなさい――……なんちゃって」

 

 とんとん、と駆けていく彼女に追いつくべくやや疲労のたまっている足に活を入れて、軽く走り出す。

 全力で駆けていたわけではなかったので、すぐに追いついた。

 横に並ぶと、彼女は駆けていた足をゆるやかに止めて、走りから歩きへと動きを変えた。合わせて、一緒に速度を落として歩き始める。

 

「ふふ」

 

「急に走るからびっくりした」

 

「ちゃんと捕まえてくれないと、また逃げちゃうかも」

 

 目の前で、彼女の手がひらひらと揺れている。

 蝶々を追う猫のように、捕まえようと手を伸ばして、触れる。

 想像以上にその手は冷たく、ひんやりすべすべとしていた。

 

「……こういうこと言うのもなんだけど」

 

「……?」

 

「女の人の手を握るの、初めてだ」

 

「私もだよ」

 

 変な握りになっていた手を握りなおして、俗にいうところの、恋人繋ぎをする。

 五指を絡めて思うのは、気恥ずかしさと、変な汗を掻いたらどうしようかということだった。

 彼女が汗を掻いているところを見た記憶がないが。本当に汗を掻くのだろうかという疑問が頭に湧く。この冷たい手から、汗が湧き出るところが、想像できなかった。

 

「……こういうこと言うのもなんだけど」

 

「うん?」

 

「凄い歩きづらいね」

 

「あは。うん。わかるよ。手をつなぐのって、歩きづらいんだね」

 

 その瞬間彼女の手の力が緩んだので、ぎゅう、と力を強めて。

 離さない。

 そういう想いを込めて、しっかりと握る。

 

「…………」

 

「…………ふふ」

 

 ぎゅう、とした握りと彼女の笑みが返ってきて、思わず頬が綻ぶ。

 幸せというのはこういうことを言うのだろうか――そう思って、ふと、かつての妹の台詞が頭をよぎる。

 

『あの人、別に君尋のこと好きじゃないよ』

 

 じゃあなぜ恋人関係になったのか、という話になるのだが。

 血のことがある以上、普通の感性で彼女を計ることに大きな意味があるとも思えず、考えれば、悪い方向にだけ思考が進む。

 

「うーん……」

 

「どうかした?」

 

「いや、今更って話なんだけどさ」

 

「うん」

 

「今日も可愛いね。似合ってるよ」

 

「……ありがとう」

 

 目をぱちくりとさせている彼女は、今日も当然のように可愛かった。

 活動的なことを意識しているのか、スカートではなくショートパンツで、その下には黒のタイツを穿いていた。それだけでもう艶めかしくて素晴らしいの一言なのだが、白のボートネックTシャツもシンプルながら彼女には非常に似合っていて、腰には浅黄色のカーデが巻かれていた。

 

「君尋くんもかっこいいよ」

 

「……ありがとう?」

 

「うん」

 

 彼女は素材がいいので何を着ても似合うとは思うのだけれど。

 自分はというと、別に、大層な顔をしているわけではないので、言ってしまえばどこにでもいるような男としか形容できない身なりをしていた。

 それもあって、だけど嬉しい気持ちもあって、恥ずかしくなって黙ってしまう。

 

「……」

 

「それ、さっき褒められた私の気持ちだよ」

 

「……あーうん。ごめん」

 

「ううん。嬉しかったよ」

 

 ふふ、と笑う彼女の体温がなんともむず痒い。

 空気を換えようと、話題を模索する。

 

「そういえば、お昼どうしようか。何か食べたいものある?」

 

「月並みな台詞だけど、なんでもいいっていうのが正直なところかなぁ。君尋くんは? 何かある?」

 

「んー……」

 

 悩む。

 なんでもいい、という二人が揃うと面倒なので、どちらかが主張する側にまわらないと仕方がないのだが。

 はじめて彼女ができた身としては、彼女の意見を優先したい気持ちもあって、難しいところだった。

 

「そういえば、好きな食べ物とかってなんかある?」

 

「うーん……」

 

 じぃ、っと。

 彼女の視線が突き刺さる。

 

「基本、何でも食べるし何でも好きだよ?」

 

「そっか」

 

 間の沈黙がなんだったのかが少し気になるけれど、そこを聞いても仕方がないと自分に言い聞かせる。

 悩み、悩んで、結論付ける。

 男の仕事の八割は決断だというのは誰の言葉だったか。実際のところ、男女間の話になるのであれば、互いの相性によって変わってもいいとは思うのだが。

 ともあれ、決断というのは、大事な仕事なのである。

 こんな、デートの内容一つでと思うかもしれないけれど、小さな決断が重なって日常が構築されているのだから、馬鹿にできたものではない。

 

「翠屋でも、行こうか。あそこ、女性のお客さんがやっぱり多いしさ。あんまり行くことないんだよね」

 

 だから付き添ってくれると嬉しい、と続けて言う。

 

「いいね。私も最近あんまり行けてなかったし、行きたい」

 

「そっか。それならよかった。友達の家だと行きづらいかな、とも思ったけど」

 

「……ちょっと、恥ずかしいのは否定しないけどね」

 

「あぁ。そうなんだ」

 

「うん」

 

 照れ照れ、と気恥ずかしさを表すように、沈黙がおりる。

 コミュニケーションとして、手だけが残っていた。

 肌と肌のふれあいというのはそれだけでコミュニケーションだと、そんなことを思う。

 もちろん限界はある。

 特異な例外を除けば、言葉を超える意思のやり取りというのは多くない。

 だから手のひらから計れることなんて大したことではないけれど。

 少しは、わかる。

 

「……」

 

「……」

 

 悪感情を抱かれていないことは、わかる。

 好感情ではたとえなかったとしても、悪感情では、決してないのだと。

 あぁそれならいいかな、としばらくの間、無言で歩いた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 散歩の時間は、予定よりも長引いた。

 予定という予定ははじめからなかったわけだが、お昼をとる予定だった翠屋に行くまでに、雑貨屋を見てみたり、寄り道をしてみたり。

 そんなことをしていたら、お昼どきからは大幅にズレた昼食になってしまって、結局、君尋の家に着いたのは十五時を回ったあとであった。

 

「いらっしゃい」

 

「お邪魔します」

 

 そんな定型句を口にして、口にされて。

 家の敷居を跨いでもらう。

 君尋の家、東堂家は、言うほど、広くはない。子供部屋と来客室と、ダイニング、キッチンに、親の寝室。

 子供――つまりは君尋と雪菜の二人が東堂家にはいるわけであるが、うちはいささか特殊で。

 

「あ、おかえり。月村先輩もいらっしゃい」

 

「ただいま」

 

 子供部屋は、兄妹共通のものだった。

 大きめの部屋の中に、二段ベッドが設けられていて、その下段に妹は寝そべって漫画を読んでいた。

 流石に行儀が悪いと思ったのか、部屋着の妹はいそいそと姿勢を正して、向き直る。

 

「うち大したものないですけど。どうぞごゆっくり」

 

「うん。お邪魔してます」

 

「お茶かなんか淹れてきて」

 

「えー」

 

「俺はお姫様をもてなすのに忙しいんだ」

 

「お茶淹れてくるの私ならむしろもてなしてるのは私説あるよね」

 

 てって、と部屋から出ていった雪菜の後ろ姿を彼女は眺めて、「いいの?」と言う。

 それに対して、「いいよ」と返す。

 

「まぁ座ってくださいな」

 

 そうしてクッションを渡して、部屋の中央にある丸テーブルに着くよう促した。

 

「雪菜もお客様に何かしないと、居心地悪いだろうし」

 

「なるほど?」

 

「俺が面倒だったっていうのもあるけどね」

 

 おどけて笑うと、いけないお兄ちゃんだね、と笑われる。

 

「でもほんとによかったの。妹いたままで」

 

「うん」

 

 うちに来たい、という話をしたのはまず彼女で。その場合、両親はいない可能性のほうが高いけれど、十中八九妹は家の中にいるし部屋は同じだしいささか面倒だというような話はしていたのだった。

 だけれど、素の生活がどんな雰囲気なのかが知りたいという要望だったので、雪菜には別に無理して家から出ていかなくていいということは伝えてある。

 あるいは、すずかの意図として、男と完全に二人きりということに、身の危険を感じたのかもしれないが。力が強いのは彼女のほうだというのは自明の理だが、女として、何がしか思うところがあったのかもしれない、と思う。

 

「お待たせー」

 

「ありがとう」

 

「ご苦労」

 

「君尋ももう少しありがたがって」

 

 すずかの前と、自分の前と、最後に君尋の前にグラスを置く。

 

「粗茶ですが」

 

「ありがとう」

 

「粗茶以前に水であることについて」

 

「君尋お茶苦手じゃん?」

 

「初耳」

 

 すずかは苦笑いをしているのを視界におさめながら、水を口にする。

 

「甘露だなぁ」

 

「当然よ」

 

 とりあえず雑に称えてみると、胸を張って返される。

 いつも通りなノリに、すずかは目を細める。

 

「仲良いね」

 

 その言葉に兄妹で目を合わせる。

 

「同じ部屋で暮らすことに抵抗がない程度には」

 

「部屋数という問題いかんともしがたいよね」

 

「仕方ない」

 

 のどを潤して、さて何をするか、と頭を悩ませる。

 正直、今日一日、ほとんどノープランなのだった。一応考えるには考えたのだが、散歩のあとのおうちデートとかいう、なんとも言い難いプランを希望されては練る余地がなかった。

 

「何かしたいことある?」

 

「んー。二人がしたいことかな」

 

「そう言うんじゃないかと思った」

 

 お昼のときも思ったが、彼女はどちらかと言うと、受動的だ。

 じゃあどうしようかな、と腕を組んで悩んでいると、「あの」と雪菜が口を開く。

 

「月村先輩。本当に私いていいんですか?」

 

 殊勝に、雪菜はすずかへと問いかける。

 別に構わないと言っていたというのは前もって伝えてあるが、色々と、思うところがあるのだろう。先ほど君尋も同様の問いを投げたが、その場に雪菜はいなかったし、二重になってしまったのは仕方がないことではあるが、彼としてはいささかむず痒い。

 

「うん。いてくれると嬉しいな」

 

「わかりました」

 

 思わず、雪菜の顔を見る。だけど、その顔が何を考えているかなど、兄であってもわかるものではなかった。

 

「じゃあ。お言葉に甘えて。一緒にいさせてもらいますね」

 

「うん」

 

 まぁ、恋人と、片方の妹などという奇妙なトリオでわいわい楽しくやれと言っても難しいものがあるのは百も承知なのだが。仲良くしようというのは、単純だけど、難しいと改めて思う。

 

「……なんもないなら私やりたいことあるんだけど」

 

「何?」

 

「パーティーゲームとか。サッカーとか」

 

「あー」

 

 要するに、二人でやっててもあんまり楽しくない、大人数用のゲームということか、と言外の部分も察して頷く。

 

「でもサッカーとなると、三人でもちょっとあれだろ」

 

「んじゃゲームしよゲーム」

 

 雪菜はいそいそとモニターの電源をつけて、ハードのスイッチもオンにする。

 

「それでいい?」

 

「うん」

 

 すずかの同意も得て、じゃあやるか、と有名なパーティーゲームをはじめることにする。

 二人でやってもつまらん! と結構昔に投げたものだったので、ずいぶんと久しぶりで、ちょっと、わくわくしている自分がいた。

 

「こういうゲーム、久しぶりだなぁ」

 

「あ、そうなんだ」

 

「なのはちゃんの家でたまにやるくらい」

 

「へぇ」

 

 そうして、適当な雑談をしながら、三人でゲームをした。

 

 

 

 


 

 

 

 

 貴方の命が恋しくて、同時に疎ましい。

 貴方は私をどう思っているのかな。

 

 かわいい。

 

 そんなことを、今日、言ってくれたけれど。

 本当の私は醜い化け物なのに。

 

「あぁ。血が、ほしいな……」

 

 輸血。

 理屈で考えれば、そろそろ、戻る。輸血されてから、おおよそ、ひと月。

 自業自得過ぎて何も言えないけれど、命を奪って、彼の中に、どこかの誰かの命が入った。

 不純物と言ってしまっていいそれが入ってからというもの、食欲が、吸血衝動が失われてしまった。

 だけど戻るはずなのだ。

 血というものは、自己生産できるものなのだから、ほとんど元通りに、なるはずなのだ。

 だけどやっぱり。

 

「気持ち悪い……」

 

 醜い感情を抱かせる彼が疎ましいとさえ思う。

 そして、そんな思考をしてしまう自分が何よりも、疎ましい。



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「……あんまり見ないで」 ※

 

 ぺらり、とページをめくる。

 静かな書斎の中でのんびりと小説を読んでいる。お尻が沈み込むような柔らかなソファーで、半身ぶん隙間を空けて彼女と並んで座りながら。

 

 吸血鬼の少年が陽のぬくもりを求めて、夜の世界を旅するお話。

 吸血鬼は恐ろしい生き物としてのイメージが強いが、このお話の主人公は底抜けに明るく、彼の目を通せば吸血鬼の暗く闇に覆われた世界すらも楽しいものになってしまうのだから不思議だ。

 

 黙々と、ページを進めていく。

 

 面白いと、思う。

 なのだが、普段読書の習慣がないということもあって、次第に、集中がなくなっていく。

 まぁ食後に小一時間も読書をしているのはむしろ集中が長続きしたほうなのではないかとも思う。だけど自分の隣に腰掛けている彼女が微動だにせず、ずぅっと物語の世界に没入しているからこそ自分が口を開いたり身じろぎするのもなぁ、という気持ちもあって。

 ねむいなぁ、と文字を追うことをやめて、ぼーっとすることにした。

 これだけでもなかなか楽しくて、何故かというと、彼女の呼気やわずかな衣擦れの音が聞こえるからだ。

 

 ぺらり、ぺらり、と。

 

 ひんやりと涼しい室内で、本をめくる音と共に彼女を感じる。

 それはなんだか、幸せの一つの完成形だなぁと思った。

 

 幸せといえば、そういえば前にそんな話をしたな、と思い出す。

 

『本当の幸いって、なんだと思う?』

 

 銀河鉄道の夜。

 カムパネルラの幸い。

 もしかして、幸いっていうのは……――――。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 ふわっと、脳がとけるような甘い香りがする。

 はじめて嗅いだような、どこかで嗅いだことのあるような、濃く、甘い、それでいて落ち着く香り。

 

 ぼぅ、と揺らめく視界の中、心地いいそれに浸っていた。

 

 時間が経つにつれて、徐々に思考が明瞭になっていき、なんとなく状況が掴めてくる。

 

 あれ、確か、本を読んでいたんだったよなぁ、と。

 この甘い香りは、この頭の下にある暖かいものは、いったいなんだろうと。

 答えが出る直前、上から声が降ってくる。

 

「あ、起きた?」

 

「……?」

 

 揺蕩う意識が、呼びかけによって徐々に定まっていく。

 

「……おはよう」

 

 あぁきっと、ねむってしまっていたのだろうとそこで気付いて、そして連鎖的に視界の隅にある紺色がなんなのかを理解する。

 

 ――今日すずかは紺色のワンピースを着ていた。

 

 ならばこれは彼女の身体なのだろう、と。

 それだけはわかった。だけど脳は甘い香りに侵されたままで、どうにも起き上がる気にはなれなかった。

 するする、と彼女の細い指が彼の髪を梳いている。幼子をいつくしむように、愛するように。

 

「…………」

 

「…………」

 

 互いに言葉を発することはなく、ただ、静かな時間を共有する。

 

「……ん」

 

 すずかが、くすぐったそうに声をもらす。

 また、幾ばくかの時間が過ぎたことによって、ようやく、彼の意識は完全に覚醒していた。

 そうして、今更ながら「どうしようかな」ということを思う。

 

「…………」

 

「…………」

 

 いつだったか友人から聞いた話だが。男という生き物は興奮すると……もっといえば、勃起すると、眠気というものが冷めるらしい。だから授業中に居眠りを避けるためにはこっそりエロ本を見るといいとかどうとか、そういう話。

 まぁ、なんでこういうことを思い出しているかと言われればそんなことはわかりきった話で。

 眠気が飛んだのは何でかっていう部分の話で。

 

 彼女の甘い、女の子の香りに興奮してしまったからに他ならない。

 

 彼女の膝に頭を預けたまま、頭を撫でられ、肉棒を固くしていた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 どうすれば、誤魔化せるかなぁと思う。

 トイレを借りて性欲を処理するか。

 はたまた、自然と鎮まるのを待つか。

 

 …………いや、自然に鎮まるってのはないな、と自分の思考を自分ですぐに否定する。

 

 こんな。

 

 可愛くて、胸が大きくて、腰がきゅーっとくびれてて、太ももが柔らかくて、声が落ち着いていて、優しくて、人の話を聞いてくれて、可愛くて。もうただただ可愛くて―――。

 そんな彼女の膝の上でまどろんでいて、興奮しないわけがなかった。

 

「……苦しい?」

 

 思考を停止していると、か細い声で、彼女が言った。

 

「何が?」

 

「いやその……それ……」

 

 それ、というのが何を指しているのか。

 目も合わせていないし手先も見ていない。何か身振りで説明していたのかもしれないがそこに関してはわからない。

 だが、きっと、俺の固くなったモノを指しているのだろうなということは雰囲気でわかった。

 

「大丈夫?」

 

 大丈夫じゃないって言ったらどうなるんだろう。

 ただそう思って、期待と不安で、鼓動が激しくなる。

 なんて答えればわからなくなってしまったから、むくり、と身を起こしてようやく彼女と向き合う。

 

「…………」

 

「…………」

 

 瞳が、潤んでいる。

 そして、頬が朱に染まっている。

 

「……」

 

 ごくり、とのどが鳴る。

 緊張と不安、そして期待が胸に渦巻いていた。

 

「……」

 

 相手が何を考えているのかなんてわからない。

 別に俺は、―――――人の心なんて読めないから。

 だけど、わかることもある。

 細かな思考は読めなくても、そこに乗っている感情は、きっとわかっている。

 瞳、吐息、表情。

 特に彼女の場合、瞳に感情が強く乗っているように思う。

 夕陽が沈んだあとに訪れる、藍色の空のような瞳。

 今にも雨が降りそうなほど潤んでいる瞳から感じるのは、あふれんばかりの熱情。

 余裕なんてひと欠片もないように、呼吸は震えていた。

 だから。

 

 それを覆うように、そっと、唇を重ねる。

 

 触れ合っていたのは一瞬だった。

 重ねたあとに、跳ねるように距離を離して、沈黙する。視線を下に落として、余韻に浸るように。

 彼女が袖を引く。

 もっと、と言わんばかりに、袖を引く。

 

「…………」

 

 あまりの可愛さに、頭がくらくらする。

 血が巡り、顔が熱くなっていた。

 

「―――っ」

 

 抱きしめたすずかの身体は、極上の一言だった。

 同じ人間かということが疑わしくなるほど柔らかく、それでいて締まっている。

 びくり、と震え、そして脱力する体に手を這わせる。背中から腰、そして尻。

 ふあ、と艶めかしい声をあげて、彼女は身をよじる。

 逃がさないようにしっかりと捕まえて、片方の手を頬に添える。

 バードキスをして、カクテルキスへ移行する。

 まだ不慣れな二人はときどき鼻をぶつけたりしながら、貪るように相手を味わっている。

 

 ちゅぷ、ちゃぷ。

 

 厭らしい音を立てながら、舌をすする。

 時間が経つほど身を焦がすほどの情欲は強くなっていき、唇がふやけそうなほど接吻を交わしたころには限界になっていた。

 

 ぐい、と布を押し上げる豊かな膨らみに手を伸ばす。

 下着の固さもあり、思っていたほど柔らかいという印象はなかったがそれ以上に驚いたのはそのボリュームだった。

 重い。

 ずっしりとした感触に、手のひらにおさまらない大きさにますます頭がくらついてしまう。

 

「……ん」

 

 ぐいぐいと我を忘れて揉んでいると、すずかの手が諫めるように添えられる。

 女性経験がないからこそ、暴走しないようにという気持ちは少なからずあったのだがやはりこれだけいい女が目の前にいて、抑えが利くはずもなかった。

 反省するように手を下げ、拘束を緩めると彼女はソファから降り、俺の前にひざまずいた。

 足の間に割りいるように入り、ズボンを押し上げる膨らみに手を添え「……いい?」と上目遣いで問いかけてくる。

 無言でうなずくと、彼女はとジップを下げ、逸物を取り出した。

 

「……こんななんだ」

 

 ソファの向かいにはガラス張りのローテーブルがあり、それゆえに少し狭苦しそうではあった。

 しかしあまり狭さは気にならないのか、彼女は陰茎を観察するのに夢中なようであった。

 早く触れてほしいという気持ちはあったが、先ほど諫められたばかりであるし、情欲をぶつけるだけでなく彼女のペースにも合わせなければだめだろうと、ぐっと堪える。

 

「固い……」

 

 彼女の動きは性欲を満たすためではなく、知識を満たすためのものだった。器具の評価をするように、握ったり押したり曲げようとしている。

 しばらく好きにさせてあげたいと思ったが、機械的に触れられるだけでも気持ちよく、びくりと体を震わせてしまう。

 

「ごめんね」

 

 大丈夫――そう答えようとして、口を噤む。

 ぬるりと舌が怒張に絡んだからだ。

 気を抜いたら、一瞬で射精をしてしまいそうだった。

 かといってじっとしていることもできなかったので、ソファについていた手をそっと彼女の頭に乗せる。

 じゅぶ、ちゅぷ、と奉仕をするすずかが嬉しそうに目を細める。

 

「君尋くん」

 

 俺の名を呼ぶ吐息が陰茎にかかり、ぞくぞくする。

 ただ頭を撫でただけで喜んでくれるのが嬉しくて、また愛を込めて、髪に触れる。

 

 ぢゅ、じゅ、ちゅ。

 

 また嬉しそうに舌を這わせ、じゅぷ、と蛇が獲物を飲み込むようにぬるりと咥えこむ。

 

「うっ」

 

 情けない声と共に、精管を熱い精液が迸り、すずかの口の中に吸い込まれてゆく。

 んぐ、と呻きながら、彼女はのどを鳴らして飲み込む。そしてまるで清めるように、射精したての陰茎に舌を這わせ始めた。

 口元を汚す白い液がなんとも淫靡で、出したばかりだというのに股間の滾りは治まることを知らなかった。

 

「……。……」

 

 すずかは、俺の身体を登り、股間を潰しながらぎゅぅ、とコアラのようにしがみついてきた。

 

「……どうだった?」

 

 不安そうに震えた声でささやかれて、はっ、とする。

 当たり前だが、彼女も不安なのだと。

 妙に嬉しくなって、再びすずかの唇を啄む。

 

 生臭い香りがして、あぁこんなのを飲んでくれたのか、とまた嬉しくなる。

 もう歯止めは利かなかった。

 いや、はじめに唇を重ねたときからブレーキは壊れたままだったのだが、さらにそれが加速した。

 

「……可愛い」

 

 素直な感想を口にすると、火照っていた顔がさらに赤らむ。

 もじもじとするすずかに、「……寝室、すぐそこだよね?」と問う。

 彼女は小さく、こくん、と頷いた。

 

 

 

 

 

 

 部屋に入って、ベッドそばに彼女が立った瞬間、押し倒す。

 電灯ははじめから点けてはいなかったので、薄暗い中、行為に及ぼうとしていた。

 白いシーツの上に髪が広がる様は、それだけで一枚の絵画のように美しかった。

 瞳は潤み、両手は頭の横に投げ出されている。

 仰向けだというのに二つの膨らみははっきりと主張していて、きゅっとくびれた腰がそれをまた引き立てていた。

 

 どこから手を付けようかと迷い、俺は首筋を選んだ。

 

 暖かい首、吸血鬼が口をつけるに最も相応しい場所、そこに口付ける。

 

「あっ、やっ」

 

 唇以外に口付けたのははじめてだったが、すずかの雪肌は不思議と甘く感じた。軽く皮膚を吸い上げて、続けざまに歯を立てる。傷をつけないように、でも痕が残るように。

 ちゅ、ちゅ、と肌を舐るのはそれだけで楽しかった。

 

 すずかはしばらくなされるがままだったが、不意に、ぎゅ、と頭を掴んできた。

 そうして何を思ったのか、くんくんと髪の臭いを嗅いでいるようだった。

 流石に恥ずかしく、身をよじって抜け出すと、彼女は悪戯っぽく目元を緩める。

 彼女もまた身を起こし、お返し、とばかりに唇の端から頬、耳、髪と様々なところに接吻する。

 

 キスは、心地いい。

 

 世の中の恋人が何故あんなに唇を重ねるのかというのは少し不思議だったのだが、これだけ幸福になれるのなら、と納得できた。

 

 熱くて熱くて、だけど気分がいい。

 満ち足りた感覚のまま、再び唇と唇を重ねる。

 

 そして、果皮を剥くように、彼女のドレスワンピースを脱がしていく。

 当然脱がし方なんてよくわからなかったので、半分以上彼女が自分から脱ぐ形にはなっていたのだけれど。

 下着姿になったすずかは、これまた美しかった。

 しみ一つない真っ白な肌に、可愛らしい淡い青の下着。

 煽情的な彼女には黒や紫も似合うと思うが、これはこれで、非常に似合っていた。

 

「……綺麗だ」

 

 なんとも陳腐な台詞だったが、本当に綺麗だと思った。

 妖精というのがいたらこんななのかなとふと思って、鬼だったなと次の瞬間苦笑する。

 

「……あんまり見ないで」

 

 胸元を隠すように手で覆う彼女を、再び、そっと押し倒す。

 

「もう止められないけど……いい?」

 

「えと、うん。大丈夫」

 

 優しくしてね、と呟くすずかの顎を持ち上げ、口付ける。

 これまでしたことのないことを、飽きもせずに続けていたせいで、もう顎が痛かった。

 だけどだからといってやめられるわけもなく、舌を絡ませる。

 

「んっ……あむ……ふぁ……ちゅっ……ん……」

 

「……ぷは」

 

 口を吸いながら、一秒でも早く挿入したいという気持ちで、彼女の全身に手を這わせる。

 どぎまぎしながら恥部に手をやると、じゅぐ、とした湿った感触がした。

 思わず唇を離して、手に着いた蜜をしげしげと眺める。

 

「ぅ」

 

 すずかは手で顔を覆い隠していた。

 下着越しに女性器に触れると、一層布に愛液が染み込んでくる。

 興奮、興味、歓喜。

 感情のままに、腰の下に手を滑らせて、大事なところを覆う布を脱がせた。

 はじめて見た女性器は、思っていたよりグロテスクだった。しかしなんともいえない興奮も同時にあって、あぁこれが本能というやつなのかなと思いながら指でそっと撫で上げる。

 そうするだけで、彼女は身を震わせ、陰唇からは蜜が溢れる。

 

 その達成感に満足を覚え、俺は彼女を両足をこじ開け、自分のスペースを作っていく。

 もう彼女の大事なところを守るものは何もなく、体を割り込ませることで、彼女の性器と俺の性器は、今にも触れ合いそうな距離になっていた。

 

 全裸で仰向けに寝そべり、両足を広げ、男を受け入れる体勢。

 

 もう我慢はできなかった。

 亀頭が膣口に触れる。

 くちゅり、と。

 腰を押し出そうとして―――ふと、我に返る。

 

「あ」

 

「……? どうか、した?」

 

「いやゴム……」

 

 避妊。

 当たり前だが、大事なことだった。

 こんなことなら買っておけばよかったと思いながら、腰を離す。

 

「…………えと」

 

「ごめん。用意してなかった」

 

「…………」

 

 すずかは目を泳がせて、口もごる。

 

「……たぶん、大丈夫だよ?」

 

「いや」

 

 彼は眉をひそめて反論する。

 

「子供ができても、いまは…………その、幸せにできる気がしないし」

 

「ええと。……説明してなかったけど、夜の一族は、その、発情期っていうのがあって。その、そのときじゃないと子供出来ないから…………別に中に出しても」

 

「え」

 

 今度は彼が目を泳がせる番だった。

 理性と獣性が戦っていた。

 大丈夫とは言いつつ、こんなに乱れてていま発情期じゃないの? ダメじゃない? という疑問もあったし、万が一を思うと、やっぱり、女の子を大事にしたいという気持ちがあった。

 だけど同時に、いいっていうならそのままヤっちゃえよという気持ちもあった。据え膳食わぬは男の恥、と言う。

 

 逡巡していると、今度は逆に、彼女がとんっ、と彼を押し倒した。

 不意をつかれた彼は、抵抗する間もなく、ベッドに背を預ける。

 

「じっとしててね」

 

 すずかはやや手荒に、彼の服を脱がせた。

 抵抗しようと思えばできたかもしれないが、獣性がそれを邪魔していた。

 理性の必至の抵抗も虚しく、彼女は陰茎を掴み、狙いを定める。そして、結合した。

 

「ま――っ」

 

 静止の声は、凄絶な快楽で塗りつぶされた。

 視界が明滅して、脳が溶けたようだった。

 

 どぷっ、びゅるっ、びゅるるっ。

 

 いわゆる騎乗位と呼ばれる体位で彼に跨る彼女の最奥を、白濁が叩いていた。

 

 びゅく、びゅっ、と。

 

 はじめて女を味わう彼には、すずかの男殺しの媚肉に耐えるすべはなかった。

 

 はふ、とすずかが息をもらす。

 彼が意識を取り戻すのに何十秒かかったろうか。

 結合部からは白濁と処女の証である赤が混ざり、溢れていた。

 

「……あー」

 

 うめき声が出る。

 気持ちよさの余韻と、一擦りで出してしまった自分への情けなさでいっぱいだった。

 そんな俺に乗った彼女は、淫靡に笑う。

 

「まだ固いね」

 

 この厭らしい女の子になんと言うべきか迷いつつ、リードされっぱなしなのは男としてどうかと、上体を起こす。

 

「んっ」

 

 背中に手を回し、抱きしめ合いながら座っている。

 彼女のブラで覆われた大きな胸が、胸板でつぶれている。

 そういえば下は脱がせたけれど、上はまだだったなと思いつつ、谷間を見下ろす。

 でかい。

 

「触ってもいい?」

 

「……えっち」

 

 すずかの迂遠なOKに感謝しつつ、ブラをずらす。

 両手ですくうように、むにむにと揉みしだく。

 

 ん、という声にならない羞恥の吐息。

 

 一度出して、冷えていた頭がまた熱を持ち始めていた。

 ぱん、ぱん、と腰を突き上げる。

 結合部から鳴る水音はそれだけで厭らしく、興奮を増長した。

 

 もう二回出してしまったこともあり、いくらか余裕はあったがそれでも軽くゆするだけで信じられないほど気持ちよく、気を抜けば出てしまいそうだった。

 すずかの蜜壺は、挿れているだけできゅっきゅと蠕動していた。

 

「ぁっ……ぁぁ」

 

 大きく動くよりも、彼女は揺さぶるほうが好きなようだった。

 甘い声がそれを物語っており、ゆさゆさと、腰を掴みながら短い挿入を繰り返す。

 やがて、一番最初そうしていたように、彼女をベッドに寝かせて腰を打ち付け始める。

 

「っ! っは……! ぅぅ……」

 

 好きだ、と囁きながら、ぱんぱん、とただひたすらに彼女を侵す。

 数時間か、数十分か。

 濃密な情事を行い、汗だくになりながら、俺は腰を振り続ける。

 そしてすずかは、シーツをぎゅっと握りしめる。

 

「ぁ、ぁ、ぁぁ、っ~~~~…………」

 

 彼女は甘い嬌声をあげながら、きゅうぅぅ、と膣を締め上げる。

 俺は促されるままに、びゅくびゅくっ、と射精をした。

 陰茎を膣から抜くと、とろぉ~~、と精液が漏れ出てくる。

 溢れた白濁を眺め、彼女が呟く。

 

「……これ、妊娠しちゃうかも」

 

「……まぁそのときは責任とるよ」

 

 妊娠しないって何だったんだと思いつつ、まぁできたらできたで、それはそれで嬉しいことだしなぁと自分を納得させる。

 ふふ、と彼女は先ほどまでとは打って変わって無邪気に笑う。

 

「引かないでほしいんだけど」

 

「何?」

 

「私、これ、好きかも」

 

 うんまぁそうだろうと思った、という本音を飲み込んで、ちゅ、と口づけをする。

 

「どうして?」

 

 キスをしてから、問いかける。

 

「愛し合ってるって、実感できるから……かな?」

 

 はにかむように笑う姿に、かぁぁぁぁ、とこみあげる情熱があった。

 可愛い。好き。愛してる。

 あえて言葉にするなら、そんなところになるだろう。

 もう体力は限界に近かったが、そんなのは知ったことではないと、抱きしめ、大きくなってしまった股間をすりつける。

 

 この後、夕飯を食べるのも忘れて、さらに三回交わった。

 

 当然、ぶっ倒れた。



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「……ごちそうさまでした」 ※

 季節は巡り、木々についた葉も色あせてきた。

 風も刺すような冷たさを伴い、外に出るときにはセーターなどの上着がほしくなってくる。家から出ずに柚子湯に浸かっていられればそれが一番いいのだが、学校に通わなければならないことを思うと、そうもいかないのが世知辛いところだった。

 

 まぁ、そんな気持ちを抱きつつ、今日も学校に通っていた。

 

 授業を受けて、休み時間に友達と駄弁ってといういつも通りの日常。

 ……なのだが、心なしか、空気が浮足立っているような気もする。いやまぁ、浮足立っているというか、その原因は友人の豊田

 のせいに他ならないのだが。

 

「あー彼女ほしー」

 

 最近、この台詞ばかりを聞く気がする。

 もうじき──とは言っても、まだ期間はあるのだが、クリスマスだ。

 だからこそクリスマスまでに彼女がほしい、という思考になるのだろう。

 

 俺は恋人がいるので、彼女がほしいなどという思考は当然抱かないのだが、また別のことを考えざるを得ない。

 プレゼントをどうするだとか。クリスマスの日どう過ごすだとか。そういうことを、最近ずっと考えている。

 

 すずかと出会ってかれこれ二ヶ月。

 ずいぶんと親しくなったように思う。体を重ねたという単純な進展もそうだが、距離感が、呼吸が、だいぶん近しくなった気がする。

 良くも悪くも、関係性に慣れてきた。

 だから、というわけでもないが、やはりイベントがあるからには一緒に何かしたい。

 

「お前さ、クリスマスまでにさ、彼女出来たらどんなデートするとかそういうのなんかあるの?」

 

「あ? ……あーそういうのは考えてねーけど。まぁ相手次第じゃね? うん。相手によるだろ」

 

「なるほど?」

 

「自分のやりたいことと相手のやりたいことのすり合わせじゃねえの」

 

「ふーむ」

 

 腕を組んでうなる。

 すり合わせ。

 しかし、サプライズしたいという気持ちがないこともない。

 

「てか何? お前もしかして彼女でもできたの?」

 

「あ、そうか……」

 

 今までやりたいことはすずかと一緒に話して決めていたけれども、何も彼女本人に聞かなくても、詳しい人に聴けばいいのか。

 

「聞いてる?」

 

 となると候補は……────

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「……はぁ」

 

 心底辟易とした様子で、なのはが相槌を打つ。

 

「すずかちゃんとのデート、ですか」

 

「そうそう。下見……って言えばいいのかな。どうしようかなと思ってぶらついてた」

 

 週末、町を歩いていたらなのはと出会った。

 気付かなかった振りをしていたなのはに話しかけると嫌な顔をされたが、短い付き合いなりに、彼女なりの照れ隠しなのだろうということはなんとなくわかっていたので、気にせず話しかける。

 

「ちなみに、今までどんなデートしてたの?」

 

「んーと。前は、映画観に行ったな」

 

「うわあ定番……」

 

「え、だめかな」

 

「別にいいと思うけど、聞いてて面白みがないなぁって」

 

 もっと何かないの、とでも言わんばかりの目でなのはが訴えてくる。

 俺は、うーん、と悩んで記憶を掘り起こす。

 

「なんだかんだ、のんびりしたのが好きなんだよなー……。散歩とか、森林浴とか」

 

「んー。すずかちゃんもそういうの好きそう」

 

「ん。そう思う?」

 

「うん」

 

 そうかそうか、と嬉しくなる。

 

「でもクリスマスってなると、ちょっと違うよね」

 

「そうなんだよなぁ」

 

 だから迷ってるんだ、とぼやき、何かいい案ある? と問いかける。

 なのはは「て言われても……」と眉をひそめ、首を横に振る。

 まあそうだよね、と笑う。聞いておいてなんだけども、会話の流れで聞いてみただけで、妙案ははじめから求めてはなかった。

 

「あ、でも」

 

「ん?」

 

「……君尋くんて、私たちがいつもクリスマスパーティーいつやってるか知ってる?」

 

「あぁ。確か、二十六か二十七か、どっちか都合のいい日に集まってるとか聞いたよ」

 

「あ。知ってたんだ」

 

「前すずかが言ってた」

 

「そっか」

 

 高町家は、この近辺では有名な喫茶店兼ケーキ屋さんだ。クリスマスは大賑わいで、だからクリスマスにのんびりお祝いをしている余裕が高町家の人たちにはないらしく、そのときの都合に合わせて二十六か二十七か、クリスマスを終えたあとにクリスマスパーティーをするのだと言う。

 そのことをすずかも知っているしアリサも知っているから、仲のいい彼女たちは、なのはに合わせてクリスマスパーティーをしているのだとか。

 

「……デートかぁ」

 

「こういうこと言うと不躾かもしれないけど、なのはは恋人とか作らないの?」

 

「そういうのもいいなぁって思うけど」

 

 なのはは、言葉を詰まらせる。

 

「……ほら、私って『特別』でしょ? 君尋くんも見たと思うけど、私、あんな感じだし」

 

「あぁ」

 

 往来だから明確な単語を出してはいないが、ようするに『魔法』についてのことだろう。

 

「隠してもいいのかもしれないけどさ。やっぱり、気兼ねなく空を飛びたいなぁって思うし……」

 

「空? 飛べるの? すごいね」

 

「あ、見せたことなかったっけ。うん。飛べるよ。こう、びゅーんって」

 

 空を飛ぶことを夢想するなのはの表情は、驚くほど柔らかかった。きっと、この子は空を飛ぶということが本当に好きなんだろう。

 

「楽しそうだなあ」

 

「楽しいよ。凄く」

 

「どんな感じなの? あんまり想像できないけど」

 

「うーん……。なんだろう。びゅんびゅん風を切るのが心地いいっていうのもあるんだけど、なんだろうね。自由なところが、好きかな」

 

「へぇ……」

 

「まあ、そういうの話せる相手ってなると限られるし。好きっていうのもピンとこないし。しばらくそういうのは、いいかな」

 

「そか」

 

「うん」

 

 とりとめのない話をして、歩いていた。

 恋人の友達、友達の恋人。

 近くて遠い距離感の彼らは、それにふさわしい距離感で過ごしてた。

 ぽつぽつと、つぶやくように、心をとかすように、言葉を交わしていた。

 そうしていると、なのはが目的としているお店に着いたようで、「じゃあ」と別れることになった。

 手を振って別れを告げるそのとき──「あ」と声を上げる。そういえば、聞きたいことがあった。

 

「どうかした?」

 

「いや知ってたらでいいんだけど、すずかの友達の君に聞いてみたいことがあってさ」

 

「……何?」

 

「初めて会ったとき、それから君も居合わせたあのとき、それ以外で吸われたことないんだけど、そういうもんなのかな。ちょっと気になっててさ」

 

「……吸うって、(あれ)のことだよね。ないんだ?」

 

「ないんだ」

 

 熱烈に、狂おしいほどに求められた出会い頭。

 それとは比べ物にならないくらい今は落ち着いていて、穏やかという言葉が似合っている。

 それはそれで悪くはないと思うのだが、ギャップが激しすぎて、違和感があったのだった。

 

「気にしすぎなのかもしれないけど、最初あんなだったし、なんでなのかなって」

 

「あのときのすずかちゃんは控えめに言っても狂ってたよねー」

 

 でもどうなんだろう、となのはがつぶやく。

 

「……普通に、落ち着いたのかなって思ってたけど。そういう感じではないんだ?」

 

「わからない。そうなのかな」

 

「仲良くやってるみたいだし、そんなに気にしなくていいと思うけど」

 

「そうか。……そうだよな。ごめん、ありがと」

 

「じゃーねー」

 

 手をひらひらと振るなのはに、こちらも手を振って、別れた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 クリスマスを性夜などと揶揄することがある。カップルはクリスマスにデートをしたあとに、セックスをするだろうということで、聖なる夜というよりは性なる夜だろうという冗談から生まれた言葉だ。

 

 だけども、普段から性にあふれていた場合、クリスマスだから特別というわけでないならそれをわざわざ性夜というのはどうなのだろうと思う。

 

 いつも通りの学校。

 いつも通りの授業。

 いつも通り――とは違う放課後。

 

 クリスマスどうしようか、という話を放課後にすずかとしていて、なんとなく、そういう雰囲気になったからというただそれだけの出来事だった。

 

「ん。……んんっ……っ……」

 

 はふ、と控えめな声をすずかが漏らす。

 ぬ、ずちゅと、彼女を味わう。

 空き教室の窓に手をついたあやめの花は、くらくらとする芳香を放ちながら身を震わせる。

 

「だめ、だよ。……こんな…………ぁぁ……」

 

「でも、嫌じゃないんだ?」

 

「……」

 

 放課後になってまだ間もなく、学内にはまだまだ人がいる時間帯。

 だから大きな声をあげれば見つかるかもしれない。

 そんな状況で、君尋とすずかは体を重ねていた。

 

「はー……はぁっ……」

 

 問いに対して無言で答えたすずかの中を、ゆっくり、突き上げる。

 今まで何回も犯してきたが、制服のままするのは、はじめてだった。

 まぁるく白いお尻を撫で上げながら、茶のブレザーに包まれたすずかの肢体を見下ろす。

 

 腰を前後させるたびに、水音が鳴る。

 花弁から溢れた蜜が、滴り落ちる音。

 

 ぴちゅ、ちゅ。

 

 一突きするたびに彼女の肉襞はきゅっきゅと締め上げてくる。外に行こうとすれば行かないで、と。中に行こうとすればいらっしゃい、と。

 

「ぁ。……ん。……ちゅー、したい」

 

 甘い声で、すずかが囁く。

 顔をこちらに向ける彼女を支えながら、唇を重ねる。

 ちゅぱ、んちゅ。

 舌を舐り、吸い合う。

 

「……はふ」

 

 すずかの奥の奥まで剛直を押し込みながら、吐息の交換をする。

 ぬめりのある膣内を味わい、甘い甘い唇を味わう。

 

「……もっと」

 

 彼女のおねだりに従って、一度体を離し―――向かい合った直後に、もう一度突き刺す。

 だいぶ、キスがしやすくなった。

 

「んふっ、ふっ……」

 

 口を吸いながら、彼女の片足を抱えて突き上げる。

 ぱん、つぱん、と。

 夢中で、腰を振る。

 吐息を漏らす彼女が、口を開く。

 

「……気持ち、いい?」

 

「うん、気持ちいいよ」

 

「今日もちゃんと、中に――――ぃ?」

 

 中に出して。

 いつも通り、体を重ねるたびに彼女が言うその台詞を遮るように、腰を押し付ける。

 

「ぁ、んん……ぁあっ……!」

 

 より深い結合を求めて、すずかの両足を抱えて持ち上げる。

 いわゆる駅弁と呼ばれる体位だ。

 彼女はしがみつくように体をより巻き付ける。

 

「ぁっ、あっ、ああ……!」

 

 俺はぐにぐにと形を変える彼女の桃尻をつかんで、必死に腰を振った。

 抽送の激しさが増すにつれ、すずかの喘ぎ声も大きくなっていった。

 射精感は、もうすぐそこまできている。

 

「あっ!?」

 

 濡れた恥部のぶつかり合う音が響く。

 

「ぁ――――――!」

 

 どくん、どくんと命の源を注ぎ込むと、それに合わせてすずかも身を震わせる。

 

「ふぁ……」

 

 瞳をとろんとさせた彼女を下ろし、口づけをする。

 彼女は少しの間ぼぅ、としたあと、啄むように、せがむように口づけを求める。

 羞恥と喜悦に頬を染めながらの口付けは相変わらず甘く、極上だった。

 彼女は唇の端を舐め、とろけるような声で、囁く。

 

 

 

 

「……ごちそうさまでした」

 

 

 

 



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