武闘派悪役令嬢 (てと​​)
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武闘派悪役令嬢 001

 

 ――夢を見た。

 

 恐怖と苦痛にあふれた、気分の悪い悪夢だ。ある時は暗殺者の凶刃に首を掻き切られ、ある時は気が触れている学友に炎の魔法で焼き殺され、またある時は魔本から召喚されたデーモンに心臓を貫かれた。死のイメージはあまりにも鮮明で鮮烈で、まるでこれから起こることを予言しているかのようだった。

 

「……あー」

 

 ベッドで仰向けになったまま、私は重苦しいうめき声のようなものを上げた。同じような夢を見るのは、いったい何度目だろうか。

 ちらりと窓のほうに目を向けると、私の心境とは対極の清々しい光が差し込んでいた。もうすっかり朝である。

 

 最悪なほど目が覚めていたので、私はすぐに体を起こして身支度をすることにした。顔を洗って、服を着替える。高貴な淑女であれば侍女でも仕えさせて、たっぷり時間をかけて身嗜みを整えるのだろうけど――生憎と“私”はそんな生活に耐えられるほど“お嬢様”な性格ではなかった。

 

「んー……」

 

 化粧台に座って、櫛で髪を梳かしながら鏡を眺める。

 十代半ばの金髪少女がそこに映っていた。やや吊り目気味で鋭い印象を抱くが、整った顔立ちは十分なほど可愛いと言える美少女だった。

 ……などと言うのは、はたして自画自賛になるのだろうか。

 

 くだらないことを考えながら、髪に櫛を通す。この金髪はやたらと癖が強く、放っておくとなぜか巻き髪のようにカールしてしまうのだ。もはや呪いではなかろうか。そんなに“本来の髪型”に戻したいのか。あんなドリルみたいなの、ぜったい嫌だぞ私は。

 

「……よっし」

 

 いつもの白い長手袋(オペラ・グローブ)まで装着して、身支度完了。

 一人ですべて済ませた私は、部屋の戸口の前に立った。これから朝食へ行くわけである。

 

 ゆっくりと、大きく、深呼吸をする。

 イメージするのは、かつて第三者の視点から眺めた“この少女”の姿。

 名前はヴィオレ・オルゲリック。高慢ちきで高飛車で生意気な、ディレジア王国の西側辺境を支配するオルゲリック侯爵のもとに生まれた三女、すなわち格式高い家柄のお嬢様――

 

 ドアを開けた。廊下で待機していたメイドが、慌てたように頭を下げる。朝は部屋の中に誰かを入れることを拒んでいるため、使用人はいつもこうして私が出てくるのを待っていた。

 

「お、おはようございます、ヴィオレお嬢様!」

 

 やたら強張った声色で挨拶をするメイドに、私は笑みを浮かべた。少し見下すような、自分の立場に絶対的な自信と優越感を抱いているような、そんな貴族的な表情を意識的に作り――

 

「あら、おはよう。……さっそく今日の予定を教えてくださるかしら?」

「は、はい。正午から治安判事のモーティマー卿が、お屋敷にいらっしゃることになっております。それ以外の来客のご予定は、今のところございません」

 

 あの人か。また領地内で起きた問題について、父と話し合うつもりなのだろう。

 領主の屋敷、というものは意外と頻繁にひとがやってくるものだった。来客をもてなすことは貴族としての義務であり、侯爵の娘である私も当然ながら会食に参加しなくてはならない。なんとも面倒くさいことである。

 

「正午から……なら、朝食で補わなきゃいけないか」

「は、はい?」

「いえ、ただの独り言ですわ。……わたくしは食堂へ行きますので、あとは頼みますわよ?」

「か、かしこまりました!」

 

 頼む、というのは私室のベッドメイキングや掃除だった。だいたいいつも、私が朝食へ行っている間にその手の雑用をこなさせていた。

 もうすっかり慣れたメイドとのやり取りを終えて、私は廊下を一人で歩きはじめた。本来ならば侍女をつねに従えているくらいの身分なのだが、付き人なんてあまりにもうざ……じゃなくて、気楽なほうが私は好きなので、両親に強くお願いして侍女なしで生活していた。まあ世間体というものがあるので、外出するときはどうしても使用人を控えさせないといけないんだけど。

 

 食堂へ向かう途中、幾人ものメイドや従僕と顔を見合わせる。そのたびに深々と頭を下げられるのにも、もう嫌になるくらい慣れてしまった。

 

「――おはようございます、お父さま」

 

 食堂に着いた私は、食卓の上座席に座っている男性に挨拶をした。彼は眺めていた手紙から、視線を私のほうへと向けると、「ああ、おはよう。わが愛しのヴィオレよ!」などと人の好さそうな笑みを浮かべて言う。わが子が可愛いのはわかるが、口に出すのはどうかと思いますよ、父上。

 

 私の父であるオルゲリック侯爵は、もう五十近い年齢のいい年したおじさんであった。その歳からも察せられるとおり、私はこの家でいちばん下に生まれた末っ子である。姉はみんな嫁に行ってしまっているし、兄たちも王都のほうへ仕事で赴任してしまっているので、食事はいつも私と両親の三人でおこなっていた。

 やがて母も食堂に降りてきて、家族の朝餉が始まる。

 

「――ヴィオレ」

 

 朝食が始まってすぐ、母は冷たい表情で私に声をかけてきた。

 

「なんですの、お母さま?」

「あなた、まだ“魔法”が上達しないのですか? 侯爵家の令嬢として、努力が足りないのではないのかしら」

「あら! わたくし、いつも森のほうで稽古をしておりますわよ? あの大木の傷をご覧になってくださいまし。魔法を打ち付けた跡が、はっきりとございますわ!」

「それはわかっていますが……あなた、人前ではいつも魔法を失敗しているではないですか。『今日は調子が悪い』などと言って。……本当に大丈夫なのですか?」

「まあ、心配させてしまって申し訳ありませんわ。人の目があると、どうしても緊張してうまくいかず……わたくしの性格のせいでしょうか?」

 

 しょんぼり落ち込んだ仕草をする。申し訳なさアピールである。

 でも口と手は動かす。パンを食べてスープを飲んで、給仕におかわりを頼む。もっと栄養摂取が必要である。

 

「やはり高名な魔術師を雇って、付きっきりで指導を――」

「いえ、それには及びませんわ! だって、わたくし一月後には王都の学園に入学するのでしょう? そんな短い期間だけ先生をお呼びするのなんて、とても失礼ですわ」

「ですが、入学してから学友に恥を晒してしまうのは――」

「あら? 魔法学園では初歩の初歩から勉強がスタートするのでしょう? 皆様と一緒に学びながら魔法を上達させれば、恥ずかしい思いをすることもないはずですわ」

 

 ごめん、ママ。まじめに心配してくれているのはわかるんだけど、こちらにも事情というものがありまして……。

 会話しながらおかわりの料理も平らげた私は、給仕にもう一度おかわりを頼む。スープには鶏肉をたっぷり盛るようにと言付けして。私にはタンパク質が多めに必要なのだ。

 

「ですが、もしも貴族のともがらに遅れをとってしまっては、侯爵家令嬢として――」

「ま、まあまあ。ヴィオレも頑張っているのだから……」

「あなたは黙っていてください」

 

 ひえぇ、いつになく怖い母上……。私と同じような吊り目で睨まれた父は、情けなくも押し黙ってしまった。尻に敷かれる夫というのは、もの悲しいものである。

 結婚するっていうのはやっぱり大変だなぁ、などと他人事のように思いながら、私はもぐもぐと食事をする。お肉おいしい。

 

「よいですか、ヴィオレ。名声、評判というものは貴族にとって、魔法を扱う者にとって、とても重要なのです。それに――向こうでは、あなたの“婚約者”もいるのですから。あの方の恥にもならぬよう、尽力しなければなりません」

「まあ、いっそう努力しなくてはなりませんわね……!」

 

 ぶっちゃけ、そんなものどうでもいいです。というか、数回顔を見合わせたくらいで情なんてぜんぜん湧きません。

 いやまあ、この世界だとそうやって婚姻が決まるのも普通なんだろうけど――“自由恋愛”のほうが良いのだ、私にとっては。

 

「……ところで、ヴィオレ」

「あら、どうかなさいました?」

「あなた、食べすぎると太りますよ」

「まあ! いつもこれくらい食べておりますが、脂肪になどなっておりませんわよ?」

 

 なぜならば――

 

 

 

 

 

「……すべて、わたくしの血肉となっておりますの」

 

 私はニィ、と笑って言った。

 ――栄養を取り入れた私の体は、早く動かしてくれと慟哭するように叫んでいた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 人は死んだら、無に帰すのだと思っていた。

 

 だが、どうやら違ったらしい。私という精神は滅びることなく、なぜかこの世界に存在することが許されていた。

 私が“私”であることを自覚したのは、三歳だったか四歳だったか。まあ、けっこう幼いころだった。

 

 地球ではない、異なる世界。魔法の存在する世界。それはまったく未知の世界――では、なかった。理解しがたいことに。

 私はこの世界のことを、ゲームの知識として知っていた。諸々の名称や世界の様子を観察したうえで、どうやらそれは勘違いではないと結論付けざるをえなかった。いわゆる乙女ゲームと呼ばれるそれの中に、私は存在していた。登場人物のひとり、ヴィオレ・オルゲリックとして。

 

 ……ゲームの世界に飛んだ、という前提が間違いで、もしかしたらこの世界がそもそも本当に存在していて、神のような存在が「ゲームとしてプレイした」という認識で私に知識を植え付けていたりするのかもしれないが――

 まあそんなこと考えても仕方あるまい。とにかく私は、知識があるということは間違いないのだ。

 

「ふー……」

 

 ため息のようなものを吐きながら、私はひとり森のほうへ向かって歩く。母と話していた、例の魔法練習場が目的である。

 

「魔法学園、ねぇ」

 

 私は朝食時の会話を思い出しながら、ぽつりと呟いた。

 ゲームの舞台は、まさしくその学園であった。主人公の女の子は、そこに通いながら物語を紡いでゆくのである。そして知り合った男の子とともに、沸き起こる事件に巻き込まれ関わりながら最終的に解決し、エンディングを迎えるのである。

 

 ファンタジーらしく、ほのぼのふわふわとした作風――ではない。

 やたらと設定に凝っていてリアル志向で、そしてシリアスと鬱とグロをふんだんに盛り込んだ、18禁のくせにエロはほぼ皆無のニッチな乙女ゲーなのである。いや、だからこそ面白いし好きだったんだけどさ。

 

「はぁー」

 

 今度は本当にため息をつく。

 その主人公こそが、この私――ではない。

 ヴィオレは、主人公の学友だった。広い辺境を治める侯爵家令嬢という、貴族としての格が違う彼女は、やたらと人を見下しまくる性格の人物だった。そして、小貴族とも言える出自の主人公をとにかく嫌い、ひたすら馬鹿にして蔑むことを繰り返すのだ。ようするに嫌なやつ、いじめ役である。

 

 じゃあストーリーが進めば和解するのか、というとそうでもなかった。ほとんどのルートでは、事件のなかで被害にあって悲惨な死を迎えるのだ。とある貴族の子息を狙って学園に侵入した暗殺者に、偶然にも姿を目撃してしまって口封じで殺されたり、あるいは小動物を殺しまくるサイコパス系の学生魔術師に目を付けられて、弄ばれるように理不尽に焼死させられたり、図書館の書庫最奥に眠る魔本を使って魔物の力を得んとするヤバい教師が召喚したデーモンに、惨たらしく胸を抉られて心臓を抜き出されたり……考えるだけで頭が痛くなってくる。あのグロスチル、けっこうトラウマなんだよ。

 

 もちろんメインではないサブキャラルートで、なんかけっこういい感じに円満な終わり方をしているのもあるのだが、まあそうなる保証はないわけで。

 そして私という駒が不在なことによって、あの不穏な学園で良からぬ大事件が起きてしまって解決もされない、なんてことになったら大惨事なわけで。

 だから――私は決めたのだ。

 

「よし……」

 

 自分を、鍛える。

 危機が迫った時に、それを回避できるように。

 障害に阻まれた時に、それを乗り越えられるように。

 起きそうな不幸の芽を、早々に摘んでしまえるように。

 

「…………」

 

 かつて父が……もとの世界での父親が、私に言った。

 武術は、身を守るすべである。空手家であった彼は、そう私に教えて小さいころから空手を習わせた。

 もちろん当時の私は、女の子として成長するにつれて武道に対する関心など持てなくなり、中学に上がるころには空手をやめてしまっていた。

 

 だが、この世界に来て考えなおしたのだ。自分の身を守るならば――“これ”がいちばん、最適なのではないかと。

 

「…………」

 

 成人男性の胴ほどの太さの樹木が、眼前にあった。

 その木の、私の胸当たりの高さ部分の幹は、樹皮が剥がれ落ちてボロボロになっていた。まるで何度も、魔法で風の槌を打ち付けたかのように。

 

 私はそれを見据えると、右手の手袋を外してポケットにしまう。

 一瞬だけ手の甲を見遣ると、特徴的なたこができていた。かつての父の手にもあったそれは――“拳だこ”と呼ばれる。

 

「すぅ……」

 

 息を吸う。

 魔術師は、大気に漂う魔力を体内に取り入れ、具体的な形のイメージを作り、杖を通して外へと発現させる。それが魔法である。

 

 体内の保有量、魔力に帯びる性質、魔法行使の練度、何もかも人それぞれだ。才能と努力によって、魔術師の能力は変わってくる。

 でも、ヴィオレという少女に才能はあっただろうか。そう考えたとき、ゲームでの描写からは魔法にろくな期待ができなかった。どれだけ家柄がよくとも、魔法は並みレベルだった。

 

 だから別の方法を求めた。

 いろんな本を漁って、私は東方から伝わる特殊な魔力利用術があることを知った。杖を通して火や風を起こすのではなく、魔力を体内に循環させて身体能力を高める、肉体強化術。それは東の地では、気術や呼吸術などと呼ばれているらしい。

 

 これだ、と思った。

 格闘に特化した魔力利用、それはこの国で主流の魔法と違って汎用性が薄いが――ただ、わが身を守ることには長けていた。

 だから選んだ。その代償として、まともに普通の魔法を扱うことができなくなってしまったが、構わなかった。命は何よりも代えがたいのだから。

 

「はあぁ……」

 

 呼吸を繰り返すと、五体に魔力――いや、気が浸透するのが感じ取れた。

 強い力を感じた。自分の身に、エネルギーがあふれていた。

 体は昂っていた。けれども、頭は凍てついたように醒めていた。神経が冴えわたる。今なら体を思いどおりに動かせる。そんな確信が湧いていた。

 

「――――」

 

 構え。

 拳を握る。握り方は、生前の父から教わった。それは敵を打ち倒す武器であり、同時に敵から身を守る防具でもある。

 

 歯を適度に食いしばる。下顎の固定は、頸部の固定でもあり、同時に体の軸の安定にも作用する。そう習った。実際に今の私は、一寸もブレずに構えを保持していた。

 

 ……ありがとう、お父さん。私は空手のよさを、この世界に来てやっと理解した気がするよ。

 

「ッ」

 

 ――体を動かした。

 足の指先から、踵から、下腿から、大腿から。伝わってきた力を腰に、そして肩から上腕、前腕へと乗せてゆく。

 

 力を籠める先は――右の拳。

 今の握力は、おそらくリンゴを一瞬で粉々にするレベルだろう。あるいは――もっと硬いものさえ、容易く破壊できるに違いない。

 全身に宿った気が、体の運用に従い、目に見える力となって右手に収束していた。

 

 それは魔法の炎でも氷でもないし、風でもない。私が全身全霊をもって発現させたのは――拳という形。

 

「――――」

 

 打ち付けた。

 音が鳴った。

 それは耳をつんざくような、大気を轟かすような、激しい力による炸裂音だった。

 

 拳とは、これほどの威力を秘めているのか。

 ――私は驚くと同時に、まだ見えぬ可能性を見出した。

 

 きっと、これは始まりにすぎない。まだ私は、初歩を踏み出したにすぎない。だって、前世の父は何十年と空手を続けても、まだまだ自分は未熟なのだと言っていたから。

 

「……ふっ」

 

 私は小さく笑った。

 木の葉が大量に頭にかぶさるが、それも気にならなかった。

 やがて、悲鳴のような音が鳴り響いた。

 直撃から間を置いて、思い出したかのように――樹木は体を斜めに傾け、そして地に伏していった。

 

「ふふふっ……」

 

 私は、倒れたそれを見下ろした。いや――見下した。

 私は勝者だった。敵を打ち負かしたのだ。目の前にいるのは敗者だった。

 私はどうしようもなく確信してしまった。

 

 ――勝てる、と。

 プロの殺し屋だろうが、気違いな学生だろうが、人外のデーモンだろうが。

 この拳ならば――乗り越えられる。

 

「くくくっ……」

 

 おっと、いけないいけない。

 お嬢様らしい笑い方をしなければ。

 高慢ちきで高飛車で生意気な――ヴィオレ・オルゲリックらしく。

 私は高らかに、自意識過剰に、悪役令嬢らしく――

 

 

 

 

 

「おーっほっほぉ! わたくしに敵うモノなど、どこにもありませんわぁ! 何が襲い掛かろうと――木っ端微塵に打ち砕いてさしあげますわよッ!」

 

 こうして、私の悪役令嬢(ストライカー)ストーリーは始まるのだった――

 




私はようやくのぼりはじめたばかりだから
このはてしなく遠い乙女坂を……


悪役令嬢の戦いはこれからだ……!

ご愛読ありがとうございました。


という一発ネタでしたが、連載化しました。


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武闘派悪役令嬢 002

 

「――気安く話しかけないでくださる?」

 

 冷たい瞳の色を意識して、私は眼前の少女に言い放った。

 そんな言葉を投げかけられるとは露とも予想していなかったのだろう。彼女は呆然としたような表情を浮かべていた。

 黒いセミロングの、清純そうな雰囲気の少女。クセの少ない髪型と顔立ちをしているのは、やはり“万人受け”する容姿と言えるのだろう。

 そんな彼女は、おどおどと不安そうな仕草で、ふたたび私に尋ねてくる。

 

「あ、あの……わたし、何か失礼なことをしてしまいましたか?」

「……あなた、少し頭が足りないのではないかしら? わたくしと、あなたに、どれだけ差があると思ってますの?」

「差、って……。その、でも……先生も身分にとわられずと言って……」

 

 王都のソムニウム魔法学園に入学直後、教師たちは口々にそのような言葉を述べていた。ここには大貴族から小貴族、もしくは金持ちの平民、あるいは魔法の才を買われた奨学生などが集まっているのだが、階級闘争の類を起こされては学園側にとって堪らないので、そういう“建前”を立てているわけである。

 もっとも実際は、学生に派閥ができることをとめるすべはない。だからこそ、“ゲーム”ではヴィオレが大貴族の女子グループの長となって、小貴族の主人公――アニス・フェンネルを侮蔑し、いじめていたわけである。

 だが――なんとも健気なことに、このアニスという少女は私と仲良くしようと声をかけてきたのだ。泣けてくるね。なんて良い子なのだろう。

 だから、私は彼女に言ってやるのだ。

 

「おーっほっほっほ! まさか、あんな建前を本気にするなんて! とんでもなくおめでたいのね、フェンネルさんはッ!」

 

 心底、馬鹿にするような感情を込める。われながら素晴らしい演技ではなかろうか。

 

「このオルゲリック侯爵家のわたくしと! どこの馬の骨とも知れない子爵家のあなたが! 対等に付き合えると思っているのかしら? 本当に笑ってしまいますわ」

 

 辺境を支配している領主の家柄、というのは貴族の中でもトップクラスの地位にある。なぜなら、隣国と接する自国の重要な防衛線でもあるからだ。国に帰属し忠誠を誓っているとはいえ、辺境侯爵家はほとんど独立国にも近い権力を持っていた。はっきり言ってしまえば、そこらの実力が伴っていない公爵家よりも“格上”である。

 

「どうせ、格式高い家柄のわたくしに取り入ろうと思って声をかけたのでしょうけど……残念でしたわね? わたくし、あなたのような下賤な方とはお付き合いしませんの」

「そ、そんなことは――!」

 

 いや、知ってる知ってる。本当に仲良くなりたい一心で話しかけているのだ、アニスちゃんは。くぅー、純真すぎてハグしてあげたいくらいだよ。

 などと気持ちの悪いことを考えながら、まったく別の振る舞いを表に出せる私は、伊達に十数年もヴィオレを演じているわけではなかった。

 

「――もうよろしくて? さようなら」

 

 ぴしゃりと告げて、私は彼女に背を向けて歩きだした。たぶん、彼女は泣きそうな顔になっているのだろう。ゲームの時と同じように。

 なぜ、わざわざこんな仕打ちをするのか――

 というと、単純に彼女を私のそばに近づけたくないからである。あの子はいちど仲良くなってしまうと、しつこいくらいに友達を気に掛けるタイプなのだ。べたべた纏わりつかれると、私としても邪魔である。

 あとは“ゲームどおり”のシナリオに寄せたいという考えもあるのだが、ヴィオレが私な時点で思いっきり軌道がズレているので、どれだけ効果があるのかはわからない。まあ期待もしていないが。

 ――主人公の働きに任せる、などとは思っていない。

 私は、私自身の力で、できるだけ良い方向を模索すべきなのだ。

 

「……下手な尾行ですこと」

 

 私は廊下を歩きながら、後ろをつけてくる気配にくすりと笑った。

 たぶん、こちらに物申したいことがあるのだろう。大した話でもないだろうが、この際だからきちんと言葉を交わしておくのも悪くない。

 中庭に繋がる通路まで来たところで、私は振り返った。

 その人物は、びくりとした様子で立ち止まった。

 

「わたくしに、何か用事かしら?」

「あ、いや……まあ……」

 

 困ったような顔で、茶髪の頭を掻きながら、同年代の青年は曖昧な返事をした。

 

「はっきりしない殿方は嫌われますわよ? ――こちらで話をしましょうか」

 

 私が中庭に歩を進めると、彼は少し驚いた様子ながらもついてくる。

 

「――てっきり、“格下”の相手には付き合わないと思ったが」

「あら? ヴァレンス公爵家でしたら、話くらいはしてさしあげますわよ」

「話くらい、か」

「ええ、話くらいだけなら」

 

 婚約者のはずなんだけどなぁ――とヴァレンス家の次男たるフォルティス・ヴァレンスは、苦笑交じりにぼやいた。

 周囲にひと気が感じられなくなったところで、私は立ち止まって彼を見据えた。

 身長は平均的で、中肉中背といった体格。顔立ちはわずかに少年の面影を残しているが、気さくでトゲのない雰囲気は、女性からさぞモテるだろうという印象を抱かせた。

 眼前の青年は、ヴィオレの婚約者――であると同時に、アニスにとってはメインヒーローに当たる存在である。

 ――なぜヴィオレがやたらゲーム中で死ぬのか。その答えはもうおわかりだろう。婚約者が死んでくれたほうがシナリオの都合がいいし、別ルートでも寝取られ感がなくていいからね。しょうがないね。

 

「それで? どのようなご用件ですの?」

「いや……さっきのだよ。なんで、あんなこと言った?」

「あら? わたくし、何か変なことを口にしました?」

「――あのな、あんな暴言を吐いたら気品を疑われるぞ。お前の評判が悪くなりゃ、婚約者の俺の名誉にもかかわる」

 

 なんという真っ当な指摘であろうか。

 親が勝手に決めただけの婚約であるが、それでも私とフォルティスには極めて重大な関係性がある。私の名誉が損なわれるのを恐れるのは、彼にとっては当然のことなのだ。

 

「――なら、婚約を破棄してはいかがかしら?」

 

 だから、私はそう言った。

 フォルティスは一瞬、間の抜けた表情をしたが、すぐに正気を疑うような目の色を浮かべて応える。

 

「はあぁ? 親が決めたことだろうよ、俺たちが勝手に破棄できるか」

「随分と古臭いものの考えですのね。大事なのは当人同士の気持ちではなくて?」

「恋愛小説の読みすぎだぞ。平民ならまだしも、俺たちのような貴族だとそうもいかないさ」

 

 やはり、この男は道理を弁えた人間である。ゲームでも常識的な思考と言動で、主人公を助けてきただけのことはある。

 まあ、こんな常識人だからこそ、婚約者を持ちながらアニスに惚れていく中での葛藤がよいのである。私はきみのことが好きだぞ、フォルティスくん。

 ……こうして実際に目の前にしても、恋愛感情なんて微塵も湧かないけど。

 ようするに、ストーリーとして面白くて登場人物として好きなのであって、自分が当事者となったら話は別なのである。

 

「――わたくし、あなたのような人は嫌いですの」

 

 唐突でも構わず、私はフォルティスにそう伝えた。

 実際に婚約破棄に持ち込めるかはわからないが、少しでも彼から嫌われておきたい思惑があった。私ではなくアニスと仲を深めてくれたら、ある程度はゲームと似た展開となって先のことが予測しやすくなりうる。それに、こんなふうに付きまとわれて“無駄話”に花を咲かせることは御免だった。

 ――私にとっては、時間は貴重だから。

 

「……そう、はっきり言われると傷つくな。参考までに、どの辺が嫌いなんだ?」

 

 フォルティスはわりとショックを受けていそうな様子で尋ねてきた。女性から好意を示されたことはあっても、敵意を向けられたことはなさそうな人物だから、意外と心に刺さる言葉だったのかもしれない。

 私は彼の目を見つめて、笑みを浮かべた。

 

「だって、あなた――弱いでしょう?」

「……は?」

「わたくし、弱い殿方と付き合うつもりはありませんの」

 

 フォルティスがもし武道の達人だったら、その教えを乞うために時間を割いて付き合うのもやぶさかではなかったが――

 今の私に必要なのは、強さだった。どんな障害が立ちはだかろうとも、それを打ち壊して進む、圧倒的な力。それを手に入れるために、私は尽力しなければならなかった。

 

「おいおい……。いちおう、これでも騎士称号を得られるように、小さい時から訓練してるんだぜ。そこらの学生よりかは圧倒的に強いと思うんだが」

 

 フォルティスの反論は正しかった。

 魔法を使いこなし、一定のレベルに達した魔術師は王国から“騎士”の称号が得られる。貴族にとって騎士であることは名誉であるし、平民でも騎士になれば俸禄が授与され、貴族に準じた扱いを受けられる。それゆえに、騎士を目指して努力する者は多かった。

 そんな騎士志望者の中でも、貴族として幼少から恵まれた環境で修練を重ねてきたフォルティスは、学園でもトップの実力者であることは間違いないだろう。

 ――彼は強い。

 だが――

 

「私よりは弱い」

 

 口調を忘れても気にせず、私は地面に転がっていた石を右手で拾い上げた。人差し指と中指の二指で、第一関節の間に挟み込む。

 指の太さの二倍くらいある直径の石を、掲げるように見せつける。いつもの白手袋を装着しているから、彼の目からもはっきりと確認できるだろう。

 

「何を……」

 

 困惑した彼を無視して、私は小さく息を吸った。

 わずかな“気”が、体内を巡る。

 だが、今はその程度の量でも十分なほどだった。

 肉体に存在する気を操り、右手の先に集中させる。腕を伝い、手首を通り、先端の二指へと。

 そして私は力を込めた。

 

「――――」

 

 息を呑んだ彼の顔は、信じられないものを目の当たりにした様子だった。

 そこにあるのは、恐怖か戦慄か。どちらにしても、私にとっては好意と対極の感情であれば構わなかった。

 粉々に砕かれた石の欠片を、私は手袋から払い落とすと――

 

「……ッ!?」

 

 今度は、息を呑む暇すらなかったのだろう。

 二メートルほどの間合いは、私にとってはゼロ距離に等しい。油断していた彼には、おそらく相手が瞬間移動したように見えたはずだ。

 私は、彼と密着していた。

 まるで、秘密の逢瀬で抱き合う恋人のように。

 お互いの胸が当たっていた。

 そこから伝わる鼓動は、相手が生きている証であった。

 

「……その気なら、あなたの心臓を抉れたわよ」

 

 かつてデーモンがヴィオレの胸を貫いたように。

 今の私がフォルティスの胸板を打ち抜くのは、赤子の手をひねるよりも簡単だった。

 彼の耳元でささやいた私は、くすりと笑うと、そっと体を引き離した。

 冷や汗を流したまま硬直しているフォルティスに向けて、私はいつもの調子で言い放った。

 

「この、わたくし! ヴィオレ・オルゲリックと付き合いたかったら! もっと精進することですのね! おーっほっほっほっ!」

 

 馬鹿みたいな高笑いをしながら、私は彼に背を向けて歩きだした。

 私は忙しいのだ。やるべきことが山のようにあった。

 

 ――体を鍛え、技を磨き、強さを得る。

 進むべき道は遥か遠くまで続き、終わりなどない。武の道とは、そういうものなのだ。

 

 ――私は進みつづける。

 背後で私の名を叫ぶ声が聞こえても、けっして振り返ることはなかった。

 



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武闘派悪役令嬢 003

 

「五十一……五十二……五十三……」

 

 王都内のオルゲリック家が所有する屋敷に住まってはどうか、と最初は両親から提案された。

 上から二番目の兄が王都で、専門的な大学の教授として働いているのだが、その彼が暮らしている家はソムニウム魔法学園とも近い位置にあった。だからその屋敷の部屋を一つ借りて、そこから学園に通ったほうがいいだろう――という、常識的な理由で勧められたのである。

 

「七十二……七十三……七十四……」

 

 けれども私は断り、学園に併設されている学生寮で暮らすことを選んだ。

 より近いほうが通学しやすい、というのもあるし、何よりも周囲に人がいないほうが気楽でよかったのだ。王都内の屋敷には当然のようにメイドがいるうえ、兄に対して気を遣う必要もあることを考えると、私が寮暮らしを求めたのは必然だった。

 ちなみに寮の部屋は、家賃次第で相部屋か一人部屋かを選ぶことができた。平民やあまりお金がない貴族だと相部屋で生活している学生が多いようだ。言うまでもなく、私は一人部屋だったが。

 

「九十七……九十八……九十九……」

 

 自室では人目を気にすることがない。自分の好きなことに打ち込める。それは素晴らしいことであった。

 オルゲリックの領地から学園の寮に移り住んでから、私は生活習慣を変化させていた。骨格の成長が落ち着いた年齢になり、両親からの小言も聞かずに済むようになった今、私は自分の体を鍛えることに余念がなくなっていた。

 

「――百」

 

 腕立て伏せ百回、腹筋百回、背筋百回、スクワット百回。

 毎朝、十分間のストレッチのあと、自重トレーニングを同じく十分間おこなっていた。この寝起き後にする合計二十分の軽い運動は、もはや私にとっては欠かせない日課となっていた。

 

「ふわぁ……」

 

 まだ体に残る眠気にあくびをしながら、私はクローゼットから服を取り出して着替えを始める。汗は掻いていなかったので、シャワーを浴びたりタオルを使ったりする必要もなかった。

 自分でも気づかないうちに肉体の能力が向上していたのは、頻繁に気を体内に巡らせていたからだろうか。筋肉に馴染ませるように気を循環させながら、筋力トレーニングを始めとした運動をこなす。それを毎日持続させているうちに、私の体は息を吸うように気を取り込み、無意識的に運用できるようになっていた。

 

「……相変わらずの目つきね」

 

 着替えを終えて鏡を確認すると、そこには見慣れた吊り目が私を睨んでいた。鋭い眼光が宿っている。まるで獲物を探す、猛獣か猛禽類のようだった。

 顔は以前より大人びた印象だった。成長の証だろうか。何が目の前に現れようとも動じそうにない、精悍な顔つきだった。

 そして、お馴染みの金髪はというと――

 

「よし……面倒くさいからいいや」

 

 諦めた。

 故郷にいた頃はしっかり櫛で梳いていたのだが、もはや今となってはそんな時間も惜しい。したがって、寝癖以外は直さないことにしたのだ。

 つまり――

 

「おーっほっほっほ! この美しい金髪をごらんなさい! なんの手入れもしてないのに、ドリルみたいにカールする呪われた巻き髪を! ふざけんな!」

 

 私は意味不明なことを口走りながら、通学鞄を手に取った。

 ――どうして私の頭の左右に縦ロールが存在するのか。その謎を明かすことは、きっとデーモンを倒すよりも難しいのだろう。なぜだか私は、そんな確信を抱いてしまうのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 学園での授業は、かつての世界の基準からすると、高校というより大学に近かった。学生たちは長い机が並べられた教室で、好きな席に座って先生から講義を受けるのだ。

 最初はどの分野でも基礎的な座学から始まるので、はっきり言って退屈な授業内容だった。私は普通の魔法の実践はてんで駄目だが、さすがに貴族として基本的な知識を教育されていたので、座学に関してはそれなりの素養があった。当分は勉強に時間を費やさずとも、なんとかなるだろう。

 

「…………」

 

 私は最後列の机の、窓際の席で頬杖をついていた。

 頬に手を当てているのは左手で、右手は机の下でタオルを持っていた。なぜそんなことをしているかというと――単純に、握力の鍛錬である。布を丸めて握りしめる、という行為を延々と繰り返すことによって、私は徐々に手の力を強化していた。

 手のひらに収まりきらないそれを、無理やり拳で圧縮するように力を加えながら、私は漫然と教室の中を眺めた。

 ――学生たちは、早くもグループを作っていた。

 本来はヴィオレが友達という名の子分を大量に作っていたはずだが、私はどのような人物であれ近寄らないように拒絶していたので、さっそく教室内の勢力は“事前知識”から乖離していた。

 

「あらあら、仲のよろしいこと……」

 

 前方の席で、アニス・フェンネルは友達と隣り合って座り、先生の話をまじめに聞いていた。親友ポジションの女の子とは、どうやらストーリーどおり仲良くなれたようである。……あの子の名前、なんだっけ? 忘れた。まあいいや。

 ひととおり見回したあと、私は真横に視線を向けた。同じ最後尾の机の対極側――つまり、廊下側の席に座っている学生を見遣る。

 

「ミセリア・ブレウィス……」

 

 私は、その少女の名前を呟いた。

 色白の肌に、アッシュグレーのショートボブヘアー。眼鏡をかけた彼女は、授業内容に興味がないと言うかのように、教科書ではない分厚い本に目を落としていた。

 学生の中でも群を抜いて小柄で、実際に年齢も最年少だったはずだ。私が今年で十六の齢になるが、彼女はたしか十三だったか。

 ミセリアは若い年齢でありながらも、その魔法の才はどの学生よりも優れており、いわゆる“天才”の類であった。だが優秀な実力を持ついっぽう、性格は常人のそれとは一線を画しており、ゲームが進むにつれてその狂気を発現させてゆくキャラクターとなっていた。

 

『どうして、生き物を殺したらいけない?』

 

 などと真顔で主人公に尋ね、ルートによっては思いっきり殺しにかかってくる彼女は、サイコパスロリとして一部の人にとっても人気だったとかなんとか。

 ……まあ、そんな余談は置いておいて。

 ストーリーの序盤から、学園では小動物の惨殺死体が不穏を醸すのだが、その下手人こそがミセリアだった。彼女がかかわるルートでは、徐々に動物殺しがエスカレートしてゆき、ついには人殺しへと発展する。その犠牲者こそが、ヴィオレ・オルゲリックなのであった。

 つまりは、彼女の存在は私の死亡フラグだった。

 

「…………」

 

 無言で彼女を、見定めるかのように見つめていると、ふと相手もこちらに顔を向けてきた。

 無表情、無感情なミセリアの瞳が、私を見据える。人間らしい感情の欠落したキャラクターだけあって、彼女が何を考えているのか察することはできなかった。

 ――ミセリアが笑ったのは、死の間際だけである。

 だが、具体的な彼女の心情は口から語られなかった。死の苦痛を抱きながら、彼女は何を学び、悟ったのだろうか。死を前にして、ようやく何か人間的な感情を手に入れたのか。それとも、価値を見出せない命というものと別れられる嬉しさに笑ったのか。ゲームにおいて正解は明示されなかったので、どうとでも解釈することができた。

 ――十秒が経った。

 奇妙なことに、ミセリアはまだこちらに目を向けていた。私も彼女を見ていた。お互いが、まるで相手を愛おしむ恋人同士のように、視線を合わせつづけていた。

 

「…………」

 

 せっかくの機会なのだ。

 第一印象は重要である。だから挨拶でもしておこう、と思った。

 私は唇を動かして、親愛を示す表情を作った。

 口角を吊り上げ、歯を覗き見せ、にっこりと愛嬌にあふれた素敵な笑みを。

 

「――――っ」

 

 だが、意外な反応が返ってきた。

 ミセリアは息を呑んだかと思いきや、その仄暗い灰色の瞳に、何か揺らぎを浮かべたのだ。

 つねに冷淡で機械のような人物で、死の直前だけにしか人間らしい感情を見せなかった彼女が――まるで、人間のような反応を。

 その眼に宿る色は、殺しを繰り返す狂人には似ても似つかない、拍子抜けするほど単純でわかりやすい感情だった。

 小動物が、猛獣に睨まれた時のような。

 ヴィオレが、ミセリアに襲われた時のような。

 ――弱者が、強者に対峙した時のような。

 

「……なぁんだぁ」

 

 私はどこか、がっかりするような気持ちを抱きながら呟いた。

 きっと彼女なら。天才で狂人の彼女なら。私に恐怖という感情を抱かせる、脅威的な存在として立ちはだかってくる――

 そう、期待していた。

 彼女の存在は、私の死亡フラグだった。

 ……それは過去の話で。

 もはや――そんな次元ではないことを、私はどうしようもなく、残念なほど思い知らされてしまった。

 

「……つまらない、わぁ」

 

 右手に力を籠める。

 私の失望、そして怒りという感情は、抑えがたい気の力となって拳に宿る。

 握力が、かつてないレベルに達する。その過大なパワーは、自分の手を握りつぶしてしまうのではないかと錯覚しそうになる。

 いや……全身全霊を出しきれば、もしかしたら本当に肉体が耐えきれないかもしれない。

 こんなところで限界に挑戦する気分にもなれず、私は右手に集めた力を霧散させた。

 

「――えー、では、今日の授業はこれで……」

 

 教壇から、どこか場違いのようにも感じられる教師の言葉が響いた。ようやく退屈な時間が終わったようだ。私はあくびをしながら、ほかの学生たちと同じように立ち上がった。

 鞄を持って、教室の出口へと向かう。

 廊下側の席のところまで来たところで、私は立ち止まった。ミセリアはまるで時間を忘れたように、本を読むこともなく俯いたまま、縮こまるように座ったままだった。

 私は努めて友好的な笑みを浮かべながら、彼女の耳元にささやくように、後ろから顔をのぞかせた。

 

「――ミセリア・ブレウィスさん、ですわね? あなたのうわさ、よく存じておりますわよ! とっても才能のある方なのだと……羨ましいですわぁ」

「…………」

「わたくし、魔法があまり得意ではありませんの。ですから、いずれミセリアさんからご教授していただけたら幸いですわ。……いかがかしら?」

「…………」

「おーっほっほっほ! 随分とシャイな方ですのねぇ! ……でも、構いませんわ。今日はお近づきのしるしに、これを差し上げますので――」

 

 私は彼女の眼前の机上に、右手の中に握っていたものを置いた。

 ――拳に握って収まるような、小さな、そして硬い球状の物体。

 ボールのようなそれは、それなりの大きさがあったはずのタオルが、極大な力で無理やり押し縮められた成れの果てだった。

 だが――これでは、まだ不足しているだろう。もっと努力すれば、もっと小さく圧縮できるはずだ。

 私はさらなる先を、高みを目指せる。そう信じて修練を積み重ねるのだ。

 

「……あなたと仲良くなれることを、願っておりますわ」

 

 びくり、とミセリアの肩が震えた。まるで子供のような、可愛らしい反応だった。

 私はニッコリと笑うと、彼女から離れた。さて、今日の昼はどんなものを食べようか。そんなことを考えながら。

 

 ――死を前にして、笑みを浮かべる。

 

 ふと、ミセリアの死に際の様子がよぎり、私はなんとなく共感してしまった。

 彼女と心情は間違いなく違うだろうが、それでも同じ場面に陥った時、おそらく私も笑みを浮かべることだろう。

 

 ――ああ、こんな強敵(愛しい人)が現れてくれるなんて。

 

 そんな喜びに、胸を躍らせて。きっと私は笑うに違いなかった。

 



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武闘派悪役令嬢 004

 

 ――薄暗い空間には、本をぎっしりと詰められた書架が等間隔で並べられていた。

 学園の敷地内にある図書館、その開架書庫内を私は歩いていた。日焼けを防ぐために窓は設けられておらず、微弱な魔法照明をところどころに設置しているだけなので、まるで夜の道を散歩しているような気分だ。

 

「……暗いわね」

 

 普通の魔術師だったら魔法で灯りを点けながら行動できるのだろうけど、私はそんな初歩の技術も扱えないので、転ばないように気をつけながら進むしかない。こういう場面になると私は、肉体的な力のみに特化した弊害をいたく実感してしまうのだった。

 周囲を明るく照らしたり、火を点けたり、清潔な水を作り出したり、物を宙に浮かべたり、あるいは魔力の特質によっては治癒をおこなえたり。そういう便利で使い勝手のいい魔法というものを捨て去るのは、日常生活の過ごしやすさを犠牲にする選択でもあった。……まあ、後悔はしていないけれども。

 

「……行き止まり、か」

 

 眼前には、重厚な扉が立ちはだかっていた。この先に、下の階層に通じる階段があるのだ。だが扉を開けるためには、司書から鍵を貰わなければならなかった。

 地下の閉架書庫は、基本的に魔法学園に所属している教師や、外部からやって来る専門大学の教授、もしくは名のある研究者にしか利用できない場所だった。そして、この下のどこかに、デーモンの召喚を可能とする魔本が眠っている。しかしながら――私の身分では詳しく探ることはできそうになかった。

 もちろん物理的に扉をぶち破ろうと思えばできるが、そこまでしたら最悪、退学処分になってしまうだろう。兄が大学教授という身分なので、彼に頼んでどうにかする手段もなくはないが……いろいろと説明が難しそうだし、大量の書架の中から、確実に魔本を見つけ出せるという保証もなかった。

 

「――あー、やめやめ」

 

 暗中で頭を悩ますことに疲れた私は、盛大なため息をついて思考を放棄した。

 どうせ魔本を求める教師――フェオンド・ラボニが事を起こすまでには、それなりの猶予があるはずだ。私の“知識”どおりであれば、あと一年と数か月も先のことである。……知識どおりであれば。うん。大丈夫だろう、たぶん。

 もう登場人物の人間関係がいろいろ変化して、どういう影響があるかもわからない事実から目を逸らしつつ、私は書庫の中から抜け出した。図書館の読書スペースに出ると、急に明るくなって思わず目を細める。まだ日が沈んでいない時刻のため、窓からは穏やかな陽光が差し込んでいた。

 

「……おや。お探しの本は、見つけられませんでしたか?」

 

 私が手ぶらで戻ってきたのに気づいたのか、カウンターから金髪の男性が声をかけてきた。

 柔和で人の好さそうな顔をした、二十代半ばの優形(やさがた)の青年である。彼が座っている場所がカウンターの内側ということから察せられるとおり、この図書館を管理している司書であり――私が“知識”としても知っている人物であった。

 もともとは図書館の書庫を確認したかっただけで、探している書籍などなかったのだが、私はとりあえず話を合わせることにする。

 

「ええ……まだ、わたくしの知識では理解が及ばなそうな、むずかしい本ばかりで……。学園で基礎をきちんと学んでから、足を運ぶべきでしたわね」

「むむっ、それは残念なことで……。あっ、でしたら。もしどんな内容がご希望だったのか教えていただければ、私が初心者向けのものを探して――」

「い、いえっ!? そ、それには及びませんわっ! ウルバヌス先生のお手を煩わせるなんて、わたくしにはとても心苦しいことですので……」

 

 ニコニコと善意全開で話しかけてくる若い司書、リベル・ウルバヌスに対して、私は引き攣った顔で拒否の意向を示す。この人、もしかしてどんな学生にもこんな調子なのだろうか。私なんかに構うよりも、主人公のアニスちゃんとでも仲良くしていてください。

 

「そ、そうですか……? ですが、気が変わったらいつでも声をおかけくださいね。私のおすすめの本を紹介しますので」

 

 どんだけ本を読ませたいんだ、きみは。

 

「え、えぇ……機会があれば……。――ところで、ラボニ先生はよく図書館を利用されているのでしょうか? わたくし、あの方がとても熱心な研究者でもあると聞き及んでおりまして……」

「ラボニ先生ですか? ……そうですねぇ。最近はちょくちょく、閉架書庫の小難しい古書を紐解いているご様子ですが――」

「あら、やはり素晴らしい先生なのですわねっ。わたくし、勉強があまり得意ではありませんので……ラボニ先生と懇意にさせていただければ、と思った次第でして」

 

 おほほほ、と気色悪い笑いを浮かべながら、私は適当な言葉を並べ立てる。

 どうやらフェオンド・ラボニは、すでに魔本を求めて活動しているようだ。それが本来の物語の流れより早いのか遅いのかは、ちょっと判断しかねてしまうが。まあ、悪い方向に傾いていないことを祈るとしよう。

 その後も情報収集のために会話を少し続けたが、たいして有益な話は引き出すことができなかった。いちいち本を勧めてくるのを受け流すのにも疲れてきた私は、タイミングを見計らってリベル・ウルバヌスとのやり取りを終えることにした。

 

「ふぅ……」

 

 図書館を出た私は、疲れたように息をついた。

 最後まで温和な表情と言葉遣いで対応していた彼は、なるほど人気が出るのも頷ける人柄であった。ほんわかした雰囲気でありながらも、重大な場面ではシリアスさと大人らしさを発揮して格好いい行動をする姿は、多くの乙女が惚れたとかなんとか。……うん、どうでもいいね。

 結局のところ――私がリベル・ウルバヌスと関わることは、あまりないだろうから。

 

「さて……」

 

 司書たる彼は、本というものを通じて、主人公と交流を深めていった。

 文学に興じる心、そして魔法への関心。リベル・ウルバヌスと交わるならば、そういったものが必要不可欠なのだ。主人公たる、アニス・フェンネルのように。

 

 ――私は拳を握った。

 

 入学直後よりも明らかに増した筋肉量が、平均的な女性をはるかに上回る膂力を生み出していた。たとえ意図的に“気”を遮断しても、おそらく学園内のほとんどの男性より強い力を発揮できるだろう。まあ、それは魔法の行使に腕力を必要としないというのもあるが。

 かつては拳で樹木をへし折ることに成功したが、あれから体を多少鍛えたいま、はたして私はどれだけの力を発現できるのだろうか。筋力の量、そしてそれに流し込む気の質。その合一によって引き出される破壊力は、加算なのか、それとも乗算なのか。力に限界はあるのだろうか。どこまで伸ばしてゆけるのだろうか。どこまで到達できるのだろうか。世界は疑問に満ちていた。未知に溢れていた。知りたい、と私は心の奥底から思った。

 

『……この世界には、わからないことがたくさんあります。何かひとつ解き明かしても、また一つ新しい疑問が湧き出てくるのです。でも、そうやって未知を探求してゆくことは――きっとあなたを成長させて、強くしてくれるんですよ』

 

 ふと、リベル・ウルバヌスがアニス・フェンネルに贈った言葉がよぎった。

 私は読書と勉強にはあまり興味が湧かないけれど――

 何かを追い求めて、成長して強くなる。それは素晴らしいことなのだと、私は自分の手を痛いくらいに握りながら同意して、ふっと笑うのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

「――お……オルゲリックさんッ!」

 

 緊張した面持ちの同級生――アニス・フェンネルが、私の前に立ちはだかって名前を呼んだ。

 彼女の手を見遣ると、ぐっと意志を籠めるかのごとく拳が握られていた。まるで宿敵と対峙し、決闘を申し込む直前のような気迫だ。

 ギロリ、と私は彼女の目を見た。息を呑んだアニスは、けれども視線を逸らすことなく私を見据えている。たいした胆力だった。

 彼女は心を落ち着けるように深呼吸をしてから、きッ、と瞳に強い力を宿しながら、私へと言葉を解き放った。

 

「――い、いっしょの席に座りましょうッ!」

「お断りいたしますわ」

 

 冷たく即拒絶すると、アニスはが~んという音が聞こえてきそうな顔を浮かべて固まった。どれだけショックを受けているんだ、きみは。

 

 ――授業が始まる前に、アニスがやってきて私に同席を誘う。

 この意味不明なやり取りは、なぜか毎日のように続いていた。どうしてこんなことになっているかというと、心当たりは……あった。めちゃくちゃあった。

 

 アニス・フェンネルという少女は、ひとを気遣って積極的に自分から声をかけるタイプである。あの親友ポジションの女の子(名前を思い出せない)と友達になったきっかけも、まさしくアニス側から話しかけたことによるものだった。

 そう――グループから孤立した同級生に、どうにか仲良くなろうと努力するのが、アニス・フェンネルという人物だった。

 

「ど、どうして、ですか……?」

 

 うるうると涙ぐんだ目で尋ねてくる彼女を見ると、なぜだか私が悪役のような気がしてしまう。

 ……あれ? 悪役だよね、私?

 そう、そういえば、悪役でいいんだ。なんだか忘れそうになっていたことを思い出し、私はアニスを馬鹿にするような表情を浮かべて、「おーっほっほっほッ!」と馬鹿っぽく笑い声を上げた。

 

「群れをつくるのは、弱い者たちがその脆弱な身を守るためにする行為ですのよ? この、わたくしッ! 貴族の中の貴族、オルゲリック侯爵家の血筋たる“強者”がッ! あなたたちのような下賤で弱い方々とッ! お友達ごっこをしようはずがありませんのよッ!」

「で、でも、みんなと一緒のほうが楽しいし……」

「おほほほほッ! 弱者らしい軟弱な思想ですのねぇ? 仲良しこよしをしていないと、不安で不安で仕方ないのかしら? つねに己に絶対的な自信を抱き、孤高に身を置くこと――それこそがッ! 強者たるわたくしには、もっとも相応しいことですわッ」

 

 よくわからないことを堂々と言い放つが、私自身も自分で何を言っているかサッパリ理解不能だった。群れ? 孤高? いや、どうでもいいよ……。

 とにかくアニスを追い払うために適当な言葉を並び立ててやると、彼女は今にも泣き出しそうなほど悲しい表情を浮かべて、「うぅ……あ、明日も誘うからね……」と涙声で去っていった。明日もこのやり取りするんかい。

 しょうもなさすぎる漫才を終えて、私はため息をつきながら席に着いた。アニスもいつも座っている前方に戻る――かと思いきや、なんと今度はミセリア・ブレウィスのほうへと赴いていた。

 

「――ブレウィスさんッ!」

「なに?」

「い、いっしょの席に座りましょうッ!」

「私があなたの隣に座る理由がわからない」

 

 頭が痛くなってくる光景だが、ご本人は随分と真面目なようである。私の時と同じように、アニスは仲良くしようとあれこれ話しかけているが、ミセリアは淡々とつれない返事を繰り返すばかりである。

 私とミセリア。やっていることは誘いの拒否で同じだが、内心の考えについては果てしなくかけ離れていた。私はアニスの性格や心情がよくわかっているが、ミセリアの場合は本気で友達になることの意味を理解できないのだろう。たとえどれだけ優しく、愛にあふれた言葉を投げかけても、心の奥底に響くことがないのがミセリアという人物だった。

 

 ……だった、が。

 しょせん、彼女もただの人間だったのかもしれない。今ではそう人物評を改めざるをえなかった。あの表情を見たあとでは。

 

「……ふん」

 

 私は退屈さに鼻を鳴らし、いつものように握力の鍛錬をしながら、つまらない講義を受け流していた。

 初歩の座学はまだまだ続きそうではあるが、教師によっては魔法の実践について言及する者もいて、その手の話題を耳にするたび頭が痛くなる思いだった。たぶん、というか間違いなく、私は同級生の中でもっとも魔法が苦手な人間なのだろうが――はてさてどうしたものか。正常の魔力の運用など、いまさらまともにできるはずもないので、対応策がすぐには浮かばなかった。まさか異世界に生れ落ちても、学校の授業に思い悩む日が来ようとは……。

 

 うんうんと考え込みながら、タオルを小さいボールの形にまで握りつぶした時には、いつの間にか教師の長話は終わりを告げていた。そんな感じで、今日もすべての講義を消化しおえた私は、われ先にと教室から逃げ出すように歩きだす。

 日没まで時間があるが、どう過ごそうか。筋力トレーニングをするか、打撃の打ち込み練習をするか、それとも手足の骨を鍛錬するか。食事のメニューを選ぶのと同じくらい悩ましかった。

 そしてけっきょく、私が出した答えは――

 

「……どこまで、ついてくるかと思えば」

 

 ――彼女に付き合ってやる。

 なんとなく、気まぐれに、そんな行動を選んだ。

 学園の校舎の裏手、わざわざ人がやってくることはほとんどない場所。そこまでやってきたところで、私はゆっくりと後ろを振り向いた。

 

「…………」

 

 そこには、口を閉ざしたまま私をじっと見据える少女が立っていた。

 ――ミセリア・ブレウィス。眼鏡の奥、灰色の瞳には、やはり感情らしいものが見えなかった。いったい何を考えて、私の後ろをつけてきたのか。

 私はわずかに目を細めながら、口を開いた。

 

「あらあらっ! こんなところまで追いかけてくるなんて、わたくしのファンにでもなったのかしら? まあ、この花のような美しさと、高貴なる血を兼ね備えたわたくしに、あなたのようなちんちくりんの小娘が憧れるのも無理はな――」

「この前のこと」

 

 こら、スルーはやめなさい。私がすごい間抜けみたいじゃないの。

 

「あの時、あなたの眼を見た時。不思議な感覚に襲われた」

 

 ははん、と私は内心で笑った。

 明らかに人間的な感情を見せたミセリアだが、おそらく自分自身の理解が及んでいないのだろう。未知と出会った彼女は、その正体を確かめるために、こうして私のもとへ臨んだということか。

 

「あれは、なに? あなたは、何をした?」

「――それは、あなたが一番よくわかっているのでなくて?」

「…………?」

 

 意味がわからない、と言うように、ミセリアは首をかしげる動作をする。顔は無表情のままでそんな仕草をするさまは、どこか機械的でちぐはぐな印象を抱かせた。

 

「ある種の行為に対して、ある種の反応がかえってくる。それは生きている存在であれば、共通のことですのよ。――人も、動物も、同じように」

 

 彼女は知っているはずだ。傷つけられ、死を与えられそうになった生物が、どんな反応を見せるのか。生命が苦痛に喘ぎ、恐怖に陥れられる姿――彼女はそれを自分の手で生み出し、眺めてきたはずだ。

 

「……人も?」

「ええ。わたくしも、あなたも、同じ人間であり、動物と同じ生きている存在。おわかりかしら?」

「あなたは同じ人間に見えない」

 

 人でなしと言いたいのかしら、このガキ?

 

「おーっほっほっ! わたくしは、そんじょそこらの凡人とは違いますからねぇ! あなたのような浅はかな輩からすると、わたくしが次元の違う神々しい存在に見えるのも致し方ないことですわよ!」

「…………」

「何か反応しなさいよ」

 

 私は自分と相手に呆れながら言った。セルフツッコミほど悲しくむなしいものはない。

 無言で私を見つめつづけているミセリアは、やっぱり何を考えているのかよくわからなかった。私の学に欠けた適当な言葉を、まじめに脳内で咀嚼しているのだろうか。だとしたらご苦労なことであるが。

 

 ……なんだか急に、彼女に付き合っているのが馬鹿らしくなってきた。

 そもそも、私がミセリアと関わる意味などもうないのだ。彼女はすでに、私にとっては脅威ではないのだから。のんびり学園生活を送っているような小娘に不覚を取るほど、さすがに私は生っちょろくはなかった。――いくら彼女に魔法の才があろうと、それが相手を打ち倒す力に直結するわけではないのだから。

 

「もう、いいかしら?」

 

 時間を無駄にしたくないので、私はそう彼女に尋ねた。

 さっきから押し黙ったままのミセリアだったが、私が背を向けようとした瞬間、引きとめるように声を上げる。

 

「――あなたに、教えてほしい」

「……なに?」

「人間が生きている、意味を」

 

 なぜ、それを私に尋ねるのだろうか。

 そういう小難しい哲学的なお話は、もっと真摯に受け止めてくれる相手にすべきだろう。たとえばアニス・フェンネルに尋ねれば、きっと彼女は真剣に悩みながら、自分の想いを言葉にしてくれるに違いない。彼女はそういう子だから。

 一方で私は、心を込めた言葉で他人に何かを伝えられるような人間ではない。もちろん自身の思想というものは持っているが、べつにそれを他人にわかってほしい、共感してほしいとは、これっぽっちも思ってはいない。教えを乞われても、まともな答えなど返せないだろう。

 

 私は面倒くさい気持ちを湧き上がらせながら、投げやりで安直な言葉を口にした。

 

「さあ? しいて言うなら――“死なないため”に、生きているんじゃないかしら」

 

 死から逃れるために、私が体を鍛えはじめたように。

 飢えないために、苦痛から逃れるために、たぶんみんな頑張って生きているのだろう。その方向性とやり方は、てんでバラバラだけれども。

 

 ――私はその短い回答だけ済ませると、彼女に背を向けた。

 時間を割いたわりには、まるで意味のないやり取りで後悔があった。彼女と会話している間に、腕立て伏せを何回おこなえただろうか。そう考えると、いっそ苛立ちさえ覚えてしまう。

 背後を向けて歩きだした私に、ミセリア・ブレウィスは――

 

「――――」

 

 気配を感じた。

 彼我の立ち位置、耳に拾った物音、ミセリアという人間の在り方。小さな複数の情報が脳内で合わさった瞬間、ある可能性を導き出し、私に警鐘を鳴らす。そう、その直感を言葉で表すならば――“殺気を感じた”といったところだろうか。

 

「ッ」

 

 咄嗟に身を翻した。

 足が地面を蹴り、体はしなやかに跳ねる。その刹那のあとに、私の真横を鮮やかな炎が掠めた。熱風が皮膚を打ち、ひりひりと焼けるような感覚を抱く。

 ――目が覚めるような思いがした。

 最近は、めっきりと見ることがなくなってしまった悪夢。自分に襲いかかる死の恐怖。退屈に錆びつきそうになっていた心が、差し向けられた殺意で揺り動かされる。間近に感じた炎の熱は、私の心身を十分なほど温めていた。

 

 ああ――

 この感覚を、私はきっと求めていたのだ。

 

「どうして」

 

 疑問の言葉は、私が口にしたものではなかった。

 理解に苦しむような、得体の知れないものを不気味がるような、そんな人間のような感情が、灰色の瞳の奥に垣間見えた。

 

「どうして、あなたは――」

 

 そんな顔をしているの?

 言われて、私はようやく気づいた。口元は意図せず歪んでいた。笑っていたのだ、私は。

 

 ミセリアとて、どんな状況で人間がどんな感情を浮かべるか、経験的には知っているだろう。仲間と語り合った時、何かに成功した時、誰かから賞賛された時、おいしいものを食べた時。そういった状況下で、人はしばしば笑みを浮かべるのだ。逆に害意を向けられた時、生き物がどのような反応を示すかも、彼女は知っているはずだ。実際に、みずからの目で見てきたのだから。

 そんな既存の例に、私は当て嵌まっていない。それがミセリアにとっては、不思議で仕方ないのだろう。わかるはずもない。彼女は彼女、私は私なのだから。

 

 ――わたくしも、あなたも、同じ人間。

 

 それは嘘だった。ミセリアのほうが正しかった。同じではないのだ。違うのだ。

 誰もが異なった肉体、能力、思想、感情、そして感覚を持っている。同じ人間などは存在しない。私でさえも、“ヴィオレ・オルゲリック”という少女とは違う。だから今、こうして、私は笑って立っているのだ。

 私は髪を掻き上げた。もうすっかり慣れた巻き髪の先端は、炎によって焼け焦げていた。一寸でも遅れていたら体が焼き払われていたと思うと――心が熱く高揚した。

 

「おーっほっほっほ! そんな微弱な火で、わたくしを殺せると思ったのかしら? ……本気でやってみせなさい」

 

 私は持っていた鞄を遠くに投げ捨てると、ゆっくりと大きく両手を広げた。すべてを受け入れるかのように。

 全力で殺意を向けられた時に、はたして私はどこまで動けるのか。こんなことを試す機会など、めったにないだろう。ミセリアには感謝をしたいくらいだった。

 肉体はいつでも運動できる状態で、彼女の攻撃を待っている。さあ、早く。あなたの全力を用いて、私に死の恐怖を刻んでみせなさい。

 

「…………」

「どうなさいました? 杖を持つ手に、力が入っておりませんわよ」

「…………」

「その切っ先を、わたくしに向けなさい。さもなくば――」

 

 殺すわよ。

 いつまで経っても動かない相手に対して、沸きあがる怒りを抑えながら私は言い放った。その瞬間、ミセリアは弾かれたように火炎を生み出す。蛇のようにうねり迫る、禍々しい業火だった。

 先ほどの火球よりも、はるかに強く速い炎。

 だが――身構えていた私にとっては、それを捉えるのに苦労はなかった。

 

 地を蹴り、体を逸らし、すんでのところで紅い蛇を躱す。すぐ傍らを死の顕現が通り過ぎたというのに、私は微塵も怯えていなかった。感情的な気持ちに突き動かされていながら、私はひどく冷静だった。

 視界に映る光景、襲い来る攻撃のスピードと脅威度、自分の身体能力。脳は瞬時に、無意識に計算をおこない、その答えを受け取った筋肉が、最適解たる行動を実現する。自分でも驚くほどに、私は完璧に動けていた。

 

「…………っ」

 

 ミセリアは何度も炎をこちらに差し向けるが、私はことごとく回避に成功した。炎の軌跡には、なんとか的中させんとする工夫がうかがえたが――私の身体能力を上回ることはなかった。

 しょせん、彼女は一介の学生に過ぎない。戦闘のプロではない。放たれる魔法には、相手を殺す技術というものが欠けていた。

 もちろん私だって素人だ。だが――“こういう時”を想定して、これまで必死に体を鍛えてきたのだ。双方に力量差が出るのは、もはや必然でもあった。

 

 ――つまらない。

 つまらなかった。こんなものか、と。拍子抜けをしてしまった。実際に魔法という凶器を向けられても、残念なことに私は満足できそうになかった。やはりその程度だったのだろう。ミセリア・ブレウィスという人物は。

 

「……もういい。ここまでよ」

 

 飽きを感じて私はそう言ったが、ミセリアはこちらの言葉が聞こえていないような様子だった。いつもの無感情な顔は忘れ去られたように消え失せ、彼女の表情は焦燥に支配された必死の形相になっている。私の“知識”にはない、見たことのないミセリア・ブレウィスだった。

 われを忘れたような彼女は、もう説得も通じそうになかった。私は内心で舌打ちをすると、スカートのスリット、ポケット部分に右手を突っ込んだ。

 嘗めるように迫りくる炎を、後方に跳躍して回避しつつ、手にあるものを握って取り出す。硬い感触の、球状の物体。それは授業中に握力で潰しきってしまった、布の塊だった。

 

 着地してすぐに体勢を整えると、私はその物体を――ミセリアへと投げつけた。

 素人の力任せの投球。狙いも大雑把で鋭さに欠けていた。しかし勢いよく飛来する投擲物は、彼女に危機感を生じさせるのに十分だったのだろう。

 ミセリアはびくりと杖をとめ、大仰な動作で横に飛び跳ねる。体をこれっぽっちも鍛えてなさそうなわりには、そこそこの反応だった。もっとも――いまこの状況では、致命的な隙となってしまったが。

 

「ッ――」

 

 吸い込んだ息、酸素と気を全身に駆け巡らせながら、私は体を前に傾けた。大地を踏みしめ、躍進するような一歩。彼我の距離にはそれなりの開きがあるというのに、私にはそれが途轍もなく短い間合いだと感じた。まるで、すぐ目の前に、手が届く位置に、彼女が立っているかのように思えた。

 

 一歩目を踏みおえた時、ミセリアはようやく事態を把握したらしい。目を大きく見開き、こちらに杖の先を向けようとしていた。その手の動きは、私にとってはひどく緩慢でのろまに見えた。

 二歩目――軸足にあらんかぎりの力を入れた。靴が地面に沈み込むような感触。そして体を弾ませると、空中を飛ぶような感覚が駆け巡る。人間の脚とは、なんと偉大なのだろうか。たった二足の駆動で、獰猛な獣のように地を跳び、俊敏な鳥のように空を駆ることができる。無限の可能性を感じさせた。

 リベル・ウルバヌスが言ったように、世界は未知で満ち溢れていた。限界などはない。探れば探るほど、新しい発見とたくさんの疑問が訪れる。私が体を動かすたび、その成果を新しく知り、そしてどこまで成せるのか疑問を抱くように。探求すればするほど、人は強く成長できるのだ。

 三歩目。それで事足りた。私はミセリアの前に立っていた。理想的な肉体運用を遂げられて、じつに気分がよかった。泣きそうな顔をしている彼女とは、正反対の表情を私はしていた。鏡を見れば、きっと爽やかで清々しい笑みが映っていたことだろう。

 

「あ…………」

 

 情けない声を漏らしたミセリアは、それでもなお震える手で杖を向けようとする。彼女の魔力が魔法の形を取る前に――私は腕を動かしていた。

 

「ぐぁっ……」 

 

 細い首だった。少し力を込めれば、簡単に折れてしまいそうなほどに。彼女の体はたやすく宙に浮いた。背の低い彼女の瞳が、同じ目線の高さになる。苦しそうにもがくミセリアは、もう私にとってなんの益にもならない矮小な存在だった。

 ずり落ちた眼鏡の奥にある眼には、何やら水のようなものがにじみ出ていた。なんだろうか、と少し考えて、私はようやく思い至った。なるほど、涙を流しているのだ。彼女も泣くことができたのだ。ほかの人間と同じように、彼女も豊かな感情を持った生き物だったのだ。おめでとう、と言うべきなのだろうか。ミセリアもきっと、これで人の感情がわかるようになるかもしれない。ひとりの少女が狂気に道を違えることもなくなったのなら、これほど素晴らしいことはない。よかったよかった。

 

「…………?」

 

 何かが地面を濡らしていた。ミセリアの体から滴り落ちるそれは、涙ではなかった。彼女の股間に視線を向けると、スカートには染みが広がり、ちょろちょろと液体が漏れ出していた。

 それが失禁だと気づいて、あわててミセリアの顔を見遣ると――彼女はいつの間にか白目を剥き、だらりと重力に従って体を弛緩させていた。

 あっ……ヤバいやつでは……?

 

「ちょちょちょちょっとあなた軟弱すぎではありませんことッ!?」

 

 猛烈に動揺しながら、私は掴んでいた手を離した。どさりと地面に転がったミセリアは、口から泡のような唾液を吹き出す。意識はどう見てもなかった。

 ししし死んでないよねっ? こんなところで殺人犯になったらシャレにならないよっ!?

 

「ほ、保健医ィーーーーーッッッッッ!」

 

 私はミセリアを抱えると、全力でダッシュした。それはもう本気で、全身全霊をかけて疾駆した。人生でいちばん激しく速く、虎や獅子もかくやというスピードで私は走った。まるで風と同化したように、私は学園の医務室へ向かって駆け抜けた。

 

 ――人間に、限界はない。

 

 私はそれを、この日にもっとも強く理解したのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 窓から差し込んだ夕日が、室内を赤く染めていた。

 ベッドに目を向けると、すぅすぅと寝息を立てているミセリアの顔があった。少し前に泡を吹いて気絶していたのが嘘みたいに思えるほど、穏やかで可愛げのある表情だ。こうして眺めていると、彼女もただのうら若い少女でしかなかった。

 

 あの後、医務室に駆け込んだ私は、学園の教師兼保健医のアルキゲネス先生にミセリアを診てもらった。幸いなことに酸欠で失神していただけなので、命に別状はなかったようだ。無事を確認できた時の私の安堵がいかほどだったか、もはや語るまでもないだろう。

 

「……はぁ」

 

 精神的な疲労を感じて、私は思わずため息をついてしまった。

 ラーチェ・アルキゲネスは所用で席を外しているので、医務室のベッドで寝ているミセリアのそばには私が付き添っていた。しかし先に害意を向けてきた相手のために、こんなことをしている自分はなんとも不思議である。彼女が目を覚ましたら、私に対してどんな行動を取るのだろうか。杖は校舎裏に落ちたままなので、さすがにこの場で攻撃を仕掛けてくるとは思えないが。

 

 そういえば、お互い鞄などの荷物もあそこにほっぽり出したままなので、それも回収しにいかなければならない。面倒事が多すぎて頭痛を感じてしまう。

 あれこれと悩ましく考えていると、ふいに小さなうめき声が上がった。どうやら、やっとミセリアが意識を取り戻したようだ。

 

「ずいぶんお寝坊さんね」

 

 少し皮肉げに言葉を投げかけてみたが、彼女は半目で天井に顔を向けたままだった。やがて、その灰色の瞳がきょろきょろと何かを探すように動く。……ああ。

 

「はい、どうぞ」

 

 私はテーブルから眼鏡を持ってきて、ミセリアに渡してやる。それを受け取った彼女は、ようやく視界を得ることができたようだ。レンズ越しに私の顔を見て――びくりと小動物のように体を強張らせた。……反応、遅くない?

 

「……気絶したあなたを医務室に運んだのよ。警戒するのはやめなさい」

 

 面倒くさくなった私は、素の口調で語りかけた。微妙に疲れるのだ、あの話し方は。

 

「で、とくに体調におかしなところはないかしら?」

「…………」

「もしもーし? 聞いてる?」

「…………生きている」

「そりゃ、見ればわかるでしょ」

 

 上体を起こしたミセリアは、ぼんやりとした様子で首筋に手を当てている。私が頸部を掴んだ時のことは、ちゃんと覚えているのだろう。こちらとしては後遺症などがないか心配なのだが、いったいこの子は何を考えているのやら。

 コミュニケーションの取りづらい相手にどう話せばいいのかと悩んでいると、ミセリアはふいに私をじっと見据えてくる。その瞳には、どこか人間らしい意思のようなものが宿っているように見えた。

 

「……あの時」

「うん?」

「……あなたに、殺されると思った」

「あのねぇ……あなたの命を奪っても、なんの得にもならないでしょ」

「でも、首を絞めた」

「…………」

 

 いや、違うんです。あれは、つい、こう、勢いでやってしまったんです。そういうつもりは、まったくありませんでした。

 心の中で弁明をするが、事実が変わることなどない。私は罪悪感を湧き上がらせて――

 ……ちょっと待てよ。そもそも、先に殺しにかかったのはミセリアのほうでは? ならば、あれは正当防衛と呼ぶのではなかろうか?

 脳内でひとり議論を繰り広げている私をよそに、ミセリアはぽつりぽつりと言葉を漏らしてゆく。

 

「……笑いながら、私の首を絞めるあなたを見て――死ぬ、と思った」

 

 こら、私を笑顔で人を殺すサイコパスのように言うんじゃない。きみとは違うんだ、きみとは。私は命の尊さをきちんと知っている、善良な人間なんだぞ。

 

「でも……死んでいなかった。生きていた」

 

 まあ、ちゃんと医務室に運んであげたしね。というか……よくよく考えたら、自分に殺意を向けてきた相手の命を大事にするって、私すごく偉くない? もしかして、聖人なのでは? これはもう、悪役令嬢ではなく聖女を名乗ってもよいのでは?

 

「生きていて、死んでいなくて……よかった。そう思った」

 

 ……ん?

 適当に聞き流していたのだが、何やら彼女の話はやけに感情的な色合いが感じられた。私の知るミセリアとは、まるで違う人物のようだ。校舎裏でも普段とは似つかない人間らしい表情を見せていたが、やはり彼女になんらかの変化があったということだろうか。

 ここで何かもっともらしいことを並べ立てておけば、もしかしたらミセリアも真人間に戻れるかもしれない。そう考えた私は、口八丁に言葉を紡ぎだす。

 

「そうね……。誰もが命を失うのは怖いと思うものよ。死にたくない、という感情はみんな持っているの。それは人間だけじゃない。動物だって同じように、死を恐れて生を求める存在なのよ。だからこそ、無為にほかの生き物を傷つけるのは良くないことよ。それを覚えておきなさい――」

「私……生きている……よかった……」

 

 聞けよ。何ひとりで安堵してんだよ。私が話していること無視すんなよ。

 ここで私の高説を聞いて、生命の尊さを知るのが筋っていうものだろうに。私は怫然とした感情を抱きながら、思わず口走ってしまった。

 

「もういちど、首を絞められたほうがいいんじゃないかしら……」

 

 私の言葉を聞いた瞬間、ミセリアはハッと私の顔をまっすぐ見つめた。そこには恐怖に慄く彼女の姿が――なかった。

 

「――名案」

「はい?」

「もういちど――」

「は?」

「生きていて、よかった。そう思った時の、感覚を――」

 

 ミセリアの繊手が、私の手を取る。引き寄せられた右手は、すっぽりと彼女のか細い首筋に宛がわれた。このまま持ち上げれば彼女の脳は酸素の供給が断たれるし、力を込めれば頸椎を折ることさえ可能だろう。

 …………?

 いや、なんで?

 

「私の首を――」

 

 過去の甘い思い出に浸るかのように、ミセリアはどこか嬉しそうな笑みを浮かべてスタンバイしていた。

 …………。

 あっ! この表情、ゲームで見たやつだ!

 なるほどなぁ……あの時の笑顔、こういう類のヤツだったのかぁ……。

 郷愁のような念を覚えながら、私はミセリアの抱いた感情に納得して笑った。

 

 

 

 

 

「――って、んなことあるかァーーーーーッッッッッ!」

 

 私は脱兎のごとく逃げ出した。それはもう本気で、全身全霊をかけて疾駆した。人生でいちばん激しく速く、虎や獅子もかくやというスピードで私は走った。まるで風と同化したように、私は学生寮の自室へ向かって駆け抜けた。

 

 ――人間に、限界はない。

 

 私はそれを、この日にもっとも強く理解したのだった。

 なお、前回のことは撤回したものとする。

 



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武闘派悪役令嬢 005

 

 バランス感覚というものは、なかなか一朝一夕では身につかないものである。

 筋肉ならばトレーニングの回数と負荷を上げ、タンパク質を摂取すれば増大してゆくものだが、体幹や重心、安定感といったものは、いくら向上しているか自分の目ではわかりにくい。いちおう我流で鍛錬はおこなっているものの、はたしてどれだけ効果があるのか、効率はどうなのか、まるで自信はなかった。

 

「うーん」

 

 うなり声を上げながら、私は自分の寮室内の床を壁沿いにグルグルと回り歩く。

 ――逆立ちをした状態で。

 

 かつて道場で倒立歩きしていた人がいたのを思い出し、私も最近になってやりはじめたのだが、これがけっこう難しいのだ。単純に自分の体を持ち上げるだけなら余裕なのだが、体勢を維持するのが大変で、最初はそのまま十秒逆立ちすることも無理な有り様だった。今ではなんとか倒立したまま歩くことができるようになったが、やはり足のふらつきは依然としてあるし、気を抜くと転げてしまいそうになる。

 

「……ダメね」

 

 私はため息のように呟きながら、足を着地させて手をはたいた。

 上体の姿勢を保ちながら片足スクワットをしたりと、近頃は少しバランスを意識した鍛錬をしているのだが、どうにも成長というものがあまり実感できない。まあ素人がそんな短期間に急成長できたら、スポーツ選手や武道家の立つ瀬がないんだけれども――それでも、焦りというか口惜しさというものを感じてしまう。

 

「こう……ばぁっと強くならないかなぁ」

 

 などと願望を口にするが、そんなことが起こるわけないと理解はしていた。少年漫画の主人公ではないのだから。

 結局は、地道に努力を重ねるのがいちばん大事なのだ。空手家だった父がそうしていたように、私も一歩ずつ肉体を、そして技能を向上させてゆくしかない。

 そんな当たり前なことを再認識しつつ、大きく深呼吸をして心身を落ち着ける。

 

 ――軽く足を開いた自然体で立つ。

 拳は握った状態で、腰の位置で甲を下向きに。

 その状態から、滑り込むように右足を一歩踏み出し、同時に右の拳を加速させて捻りながら突き出す。

 いわゆる正拳順突き。空を切った拳は、虚空の無影を打ち抜く。攻撃が到達するまでの時間はほぼ一瞬で、普通の人間であれば警戒していても躱すのは不可能に近いだろう。筋肉と骨、そして皮膚に“気”を流し込みつつ放たれる殴打は、風のように速く、そして鉄のように硬い打撃となる。近距離の間合いでは無双を誇るに違いない。

 

「まあ理想論だけど」

 

 相手が油断していたり、距離が近かったりしているとは限らないわけで、実戦ではそう上手くいくかは疑問だった。ミセリア・ブレウィスに対しては完勝を収めたが、あれは相手が戦闘技術を何も学んでいない素人だったわけで。近づかせないように工夫するような相手や、あるいは敵が複数人の場合などでは、なかなか圧勝というのは難しいのではなかろうか。

 

 ――なんにしても。

 私に戦闘経験が足りないのは明白で、どうにかしたい部分でもあった。

 

「……探さないとなぁ」

 

 今より強くなるための方法を。

 飢えや渇きに似た、この物足りない感情を満たすために。

 強い(ひと)に会いたいと、私は心の底から願っていた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 この学園でじつに不満なのは、朝食が泣けるほど質素ということである。

 食堂で決まった時間に食事が提供されるのだが、昼食と夕食はなかなか美味しいものを出してくれる反面、朝はパンとスープしか用意されないという貧小っぷりだった。まあ朝食を取る学生が半数にも満たないので、仕方ないと言えば仕方ないのだけれど。

 

 今日も細切れの肉しか入っていないスープに腹を立てながら、五人前の朝食を胃に収めた私は、そのまま教室へ向かう――前に校舎の裏手を訪れた。

 昨日、ミセリアといざこざがあった時にぶん投げたままの鞄は、なんとも悲しそうに雑草の陰に佇んでいた。ざっと眺めてもミセリアの鞄やら杖やらは見当たらなかったので、一日放置していた私と違って、彼女は医務室を出たあとに回収していったのだろう。

 

「……頭が痛くなってきた」

 

 昨夕のミセリアのアレを思い出して、私は解せぬ心情が湧き上がってきた。

 いや、生を実感することは悪くないことである。しかしながら、そのための手段として危険な行為を求めるのは如何なものだろうか。

 

 …………。

 あれ? この指摘、私自身に返ってこない?

 いやいや、強敵との闘いを求めるのは武道家として当たり前のことである。大丈夫だいじょうぶ、私はミセリアみたいな変態ではないのである。

 そう自分を納得させながら、私はいつもより少し遅れて教室に入った。

 

 ――アニス・フェンネルが出待ちしていた。

 

「オルゲ――」

「お断りいたしますわ」

 

 名前を言いきるよりも早く拒否すると、彼女はぶわっと泣きそうな顔になって抗議する。

 

「ま、まだ何も言ってないですよぉ……」

「はいはい、どうせお友達ごっこをしたいと言うのでしょう? 残念ながら、わたくしはあなたに構っている暇はありませんの。お退きあそばせ」

 

 きみは親友ポジションの女の子(名前を忘れた)とつるんでいなさい。お願いだから、私に絡んでこないでくれ。

 冷たくアニスをあしらった私は、後方のいつもの窓際席に座る。ふと反対側を見遣ると、いつもの灰色の少女の姿はなかった。単純に遅刻しているだけか、それとも休みか。

 ……まさか、自室で首を吊っていたりしてないでしょうね?

 あらぬ想像を浮かべてしまったが、どうやらそれは杞憂だったようで。すぐに彼女――ミセリアは、教室に姿を現した。

 

「ブレウィ――」

 

 とアニスが声をかけた瞬間、ミセリアはふるふると首を振った。まったく懲りずにあしらわれたアニスは、めそめそと悲しそうな表情を浮かべていた。学習しない女の子である。

 お友達教の勧誘を断ったミセリアは、すたすたと教室の後ろへと向かって歩き――

 

 私の隣に着席した。

 ……なんで?

 

「あらあら、席を間違えておりましてよ? 部屋に閉じこもって本を読んでばかりいるような根暗軟弱ちび助の座る場所は、日の当たらない廊下側の端でしょう?」

「ここでいい」

「わたくしが嫌なんですけど!?」

 

 隣にひとがいたら気が散って仕方ない。というか、どうして今日になって私に近づいてきたのか。理由がわからなくて不気味である。アレなの? やっぱり昨日のアレなのか?

 私が混乱とともに文句を口にしていると、ミセリアはポツリと無感情な声を漏らした。

 

「あなたが言った」

「はい?」

「仲良くしたいって」

「はぁ? そんなこと言って――」

 

 …………。

 あっ! 言ってるじゃん!?

 最初に視線を合わせた時に、脅しと冗句を兼ねてそんな言葉を口走ってしまった覚えがある。いや、あれは本当にそう思っていたわけではなくて。馴れ合う気持ちなんて、これっぽっちもあるわけがなかった。

 

「おほほほほ。あれは、そう、こ、言葉のあやというものですのよ……」

 

 なんとか撤回しようとする私に対して、ミセリアはふとまっすぐ顔を向けると、無表情のままこちらの目を見つめてきた。

 

「……嘘をついた?」

「そそそそんなことはありませんわっ!? このわたくしがッ! 高貴なる侯爵家の、強く勇ましい血筋たる、このわたくしがッ! 虚言を弄するなど、陋劣(ろうれつ)な真似をしようはずがありませんのよッ!?」

「なら、問題ない」

 

 うっ……こ、このガキんちょめ。弱いくせに私を手玉に取ろうなんて、いい根性しているじゃないの。

 私が内心で歯ぎしりをしていると、なぜか近くに寄ってきていたアニスが、感動したような面持ちでこちらを眺めていた。

 

「オルゲリックさん……! ブレウィスさん……! とうとう友達ができたんだね……! よかったぁ……!」

「かかか勘違いしないでくださるッ!? 強者たるわたくしが、こんな貧相な小娘と対等な関係などッ! あろうはずがないでしょうにッ!?」

「友達」

「誰がよッ!?」

 

 つい先日まで、ミセリアは人間関係にろくな興味もなかったくせに、まるで人が変わったかのような態度である。まあ鮮烈な体験が人格や思考に影響をもたらすというのは、ありえない話ではないけれども……。それでも、この予想していなかった展開には困惑が少しあった。

 

 ――現実とは、何が起こるかはわからない。

 それは当たり前のことなのだが、改めて私は実感せざるをえなかった。

 はたしてこの先、私の知識どおりのことが起きるのか、それとも――不測の事態が起きるのか。

 

 後者であれば面白いな、と――

 隣のミセリアを眺めながら、私はひそかに思うのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 日が沈んだあとでありながらも、王都の街並みは驚くほど賑わっていた。どこの世界でも都市部というものは変わらないらしい。大通りで酔っぱらった男とすれ違うたびに、私は前世の繁華街を思い出して、どこか懐かしい気分を抱いてしまう。

 

 夜中に寮を抜け出して、街に繰り出す――

 などという行為は、もちろん学園の寮の寄宿生にとっては規則違反となっていた。だが私はそれを無視し、二階の自室から飛び降り、城壁のような囲いを跳び越え、こうして街中を歩いている。動機は至極個人的な理由で、学園内にいてはできないことを試したいからだった。

 

「ふぅん……」

 

 通りを往来する男たちを、私は吟味するように眺める。やはりというか、学園の男たちよりも明らかに体つきが優れた者が多かった。

 ――魔法を使えない人々は、己の肉体を稼働させて日々の糧を得ている。ウェイトトレーニングをおこなっていなくとも、自然と体が鍛えられているのは当然のことだった。

 とくに肉体労働者などは、その仕事自体が筋トレになっているようなものだ。ときおり見かける筋骨隆々な男性は、おそらくその手の稼業に従事しているのだろう。やはり女性より男性のほうが筋肉がつきやすいのだな、と私は再認識し、少し羨ましい気持ちが湧き上がった。

 

「さて……と」

 

 物見遊山はその程度にして、私は本題に取り組むことにした。

 盛況そうな店を探し出して、そこへ足を踏み入れる。店内に入った途端、喧騒と酒気が感覚を刺激した。活気に満ちたそこは、大衆向けの酒場だった。

 何名かの視線が一瞬、こちらを向いたようだ。顔を隠すためにフードを目深にかぶり、ローブをまとっているので、さすがに怪しい人物に見えるだろうか。まあ堂々と普段の姿を見せるわけにはいかないので、仕方ないことではあるが。

 

「――失礼ですが、ちょっとお尋ねしてよろしいですか?」

 

 テーブル席で談笑している男たちに目をつけ、私は声をかけた。彼らはいきなり近づいてきた私にぎょっと驚いた様子を見せたが、声と口元で相手が若い女だと気づいたのだろうか、すぐに機嫌がよさそうな表情を見せた。

 

「お……なんだい、姉ちゃん。そんな華のない恰好をして、野郎かと思っちまったよ」

「こりゃ、逆ナンってやつかぁ? 初めての経験だぜ。とうとうオレも運が巡って――」

「ばかやろう。お前じゃなくて、おれに惚れて声をかけてきたんだよ。な、お嬢さん?」

 

 どうやら三人とも酔いが回っているようである。この状態できちんと話ができるのか不安だったが、引くに引けないので言葉をぶつけてみる。

 

「いえ、ちょっと……人を探していまして」

「あぁん? なんだい、人探しかい」

 

 自分にまったく関係ない用件だとわかったのか、男は露骨につまらなそうな顔をした。ずいぶんとわかりやすい性格の人物である。

 人選ミスだったろうか、と思いながらも、私はとりあえず質問を続けることにする。

 

「特定の人を探している、というわけではないんですが……。あなたたちが知る人のなかで――」

 

 ――いちばん喧嘩が強い者を教えてほしい。

 そう言い放った時、男たちは一様にきょとんとした表情を浮かべた。予想外で、突飛な質問だったからだろう。こんなことを尋ねられるなど普通はないので、まあ当然の反応である。

 ややあって、男の一人は胡乱な視線を向けながら言葉を返す。

 

「なんだぁ? 荒事を頼むつもりなのかい? 危ない話に関わるのは御免だぜ、姉ちゃん」

「いえ、そういうわけでは。単純に、強い男と交流を持ちたいから探しているだけです」

「はん? 男漁りってことか?」

「そんなところです」

 

 恋愛的な意味などこれっぽっちもないのだが、わざわざ話をややこしくする必要もないだろう。

 私がそう答えると、男はにやっと笑って立ち上がった。そして腕っぷしを見せるように、自分の上腕を掲げてみせる。自信に満ちた姿だった。

 

「へっへっへ。それなら俺なんかどうだい、姉ちゃん? 喧嘩だったら一度も負けたことないんだぜ?」

 

 大言壮語――とは思えないほど、男の体つきはがっちりとしていた。腕は太く、成人男性の平均的な筋肉量をはるかに上回っている。身長は私よりもかなり高く、目線を合わせるには見上げなければならないほどだ。この体躯から放たれる殴打なら、相当な威力を持つだろう。

 

「負けそうな相手には喧嘩売らないからだろー?」

「うるせぇ。なんなら俺と勝負してみるか?」

「おぉん? やるってぇのかぁ?」

 

 男たちは冗談っぽく陽気な掛け合いをしているが、私は真剣な顔のまま言葉を紡ぐ。

 

「勝負してみませんか?」

「は? おいおい、マジでやるつもりはねぇよ。ダチだしな」

「あなたと彼じゃなくて――」

 

 あなたと私が。

 そう誤解を訂正すると、男はぽかんと間抜けな表情を晒した。何を馬鹿なことを、と心底呆れているような感じだ。そう思うのも無理はないので、私はとくに怒ることもなかった。

 代わりに、男の右手を握手するように掴む。そして――こちら側へと引っ張った。

 

「お、おい。何すんだよ、姉ちゃん」

「喧嘩に自信があるんでしょう? 私と少し、付き合ってみませんか?」

「冗談はよしな。あんたみたいな女が、俺にかなうわけ――」

 

 男はそう吐き捨てて、引かれた腕を戻そうとしたが――できなかったようだ。

 握った手を離さない私に対して、男は開いていた口を閉ざした。そして今度は体勢をしっかりと整えて、先ほどよりも強い力で引き戻そうとする。

 ――それでも、変化がなかった。

 男は手を広げようとするが、それも私が握りこんでいるためビクともしない。自慢じゃないが、握力はそれなりに鍛えているのだ。この程度で動じるほど軟弱な手ではなかった。

 

「もっと強く、手にも力を込めなさい」

「…………」

 

 敬語を捨てた私に一瞬、眉をぴくりと動かした男は、無言ながらも険しい顔つきになった。後方の飲み仲間ふたりに怪訝な目で見つめられるなか、男は改めて腕に力を入れた。……いや、腕だけではない。体を支える足腰、そして肩にも。全身の筋肉が連動し、力を伝達し、大きな膂力となって男の手に現れる。

 

 ――万力に締められるような、剛力を感じた。

 

 か弱い女子供であれば握りつぶされてしまいそうな、男の本気の握力だった。その手の力と同時に、渾身を用いた強靭な引力が加わる。並みの男ではあっさりと力負けするであろう、凄まじい(パワー)がそこにあった。

 

 私のような女であれば、抵抗することもできなかっただろう。

 ――肉体を流れる“気”の力がなければ。

 

「――――」

 

 地に着いた足が、手を握る腕が、男の引き返そうとする力を押しとどめる。純粋な筋肉の差は、体に馴染む不可視の(エネルギー)が穴を埋めた。いま、私と男は――対等な力で引きあっていた。

 

 ――それは異様な光景だったろう。

 筋肉質な男が、はるかに下回る体躯の女に、力比べで拮抗を許してしまっているのだから。

 演技ではなく本気でやっていることは、男の額を伝う汗から明々白々だった。歯を食いしばり、酒によるものだけではない紅潮を顔に浮かべた男は、まさに必死の形相と呼ぶにふさわしい。

 それでも、なお――状況に変化はもたらされない。

 

「……負けだ」

 

 男は急に脱力すると、呆然としたように言葉を漏らした。

 

「俺の負けだ。……あんた、本当に人間か?」

「淑女に対して失礼ね。れっきとした女性よ」

 

 そう文句を言いながら、私は男の手を離した。解放された彼はいまだ納得がいかなそうな表情で、右手の熱を払うように揺らす。その手のひらに付いた赤い跡は、握力の大きさを痛々しく物語っていた。

 ――もし本気を出していたら、どうなっていただろうか。

 ふと疑問が湧いた。当然ながら気の力は抑えていたのだが、仮に手加減をせず全力で男の手を握ったら、どうなっていただろうか。その骨は、肉は、はたして原形をとどめるだろうか。興味を覚えたが、まさか実践するわけにもいかないので、心にしまっておくことにした。

 

「――それで」

 

 私は話を戻すことにした。用件が終わったわけではない。

 

「私と付き合ってみない? こんな腕相撲なんかじゃなくて」

「……冗談きついぜ。ベッドの相手じゃなくて、殴り合いの相手だろ? 勘弁してくれ」

「弱気な男は嫌われるわよ」

「俺ぁ“負ける相手”には絡まないんだよ。姉ちゃん。そういう相手が欲しいなら、俺なんかじゃなくて――」

 

 ずしり、と重みのある足音を感じ取った。後方から、まるで皮膚を打つかのような気配が漂ってくる。目が覚めるような思いがした。

 

「アルス……」

 

 男が驚いたように呟いた。きっと、それが背後に立つ人物の名前なのだろう。

 

 ――私は(はや)る気持ちを抑えながら、ゆっくりと振り向いた。

 

 そして目に映した。途轍もなく大きな、威圧感のある人の形を。

 その三十代の男は、飛びぬけて身長が高いわけではなかった。先ほど力比べをした男と変わらぬ背丈だ。だが――第一印象は“デカい”だった。

 男の体は太く、大きく膨れ上がっている。しかし恰幅を描き出しているのは、脂肪ではなく筋肉だった。それはまるで無骨な鎧のようだ。鍛えられた肉の武具を身につけた男の身躯は、服越しでもはっきりと広背筋の逆三角形を視認できる。

 

 男の肉体は、雄々しく、勇ましく――そして美しかった。

 金髪を短く刈り上げた、筋骨隆々という言葉でも足りない体つきの男に、私は一瞬で意識を奪われた。

 それは、もしかしたら……一目惚れとも呼べるのかもしれない。

 

「酒場に入った途端、お前らが何かしている姿が目に入ったんだが……揉め事でもあったのか?」

 

 アルスという男は、眉をひそめながら尋ねた。どうやら、ついさっき酒場に入店したばかりらしい。

 私は笑みを浮かべると、彼に話しかけた。

 

「べつにトラブルがあったわけじゃないわ。この辺で、強そうな男がいないか尋ねていただけよ。……で、私の目にはあなたが、いちばん強そうに見えるけど」

「はん? まあ、喧嘩じゃ負けたことはねぇなあ。……そもそも、おれに挑んでくる奴がほとんどいないが」

 

 そりゃ、そうだろう。こんな筋肉ダルマのような偉丈夫に、勝負をしかけようとする人間はそうそういまい。

 体格の差というのは、技術や経験では埋めがたい要素である。適当なフォームのパンチでさえ、彼から繰り出されたものなら人を容易にノックアウトさせ、当たり所によっては死にさえ至らしめるだろう。その肉体自体が、凶器のようなものだった。

 

「……すごい筋肉ね。鍛えているの?」

「まあ、多少は。おれは弓で猟をして生計を立てているから、上半身にそれなりの力が必要でな」

 

 多少、それなり、などという表現が謙遜であることは明らかだった。彼と比べれば、私の腕など赤子のような細さである。

 しかし狩人という職業については、なるほど納得がいった。弓を引いた経験はさすがにないが、おそらく引き絞る時に、かなり肩や腕の力が必要となるのだろう。この筋肉によって引かれる強弓の矢は、いったいどれほどの威力になるのか。なかなか興味深かった。

 

 この男――アルスといろいろ雑談を重ねたい気もあるが、残念なことに時間が少し迫っていた。明日も授業があるので、ここにあまり長居はできない。

 だから私は、さっさと本題に入ることにした。

 

「その腕で――私を殴ってみてくれない?」

 

 言葉を口にした瞬間、周りの男たちは誰もが間の抜けた表情を浮かべた。

 そして、すぐに正気を疑うような目になる。何を言っているんだ? と。――そう思うのも、まあ無理はない。

 けれども私は本気だった。それを示すために、私は左手を掲げて、男の前に手のひらを広げてみせた。

 

「試しに打ち込んでみなさい」

「……冗談はよしなよ、お嬢ちゃん。手が折れちまうぜ?」

「大丈夫よ。あなた程度の力で、骨折するほどヤワな鍛え方をしていないから」

 

 馬鹿にするような言葉を放ったのは、わざとだった。自分の肉体にそれなりの自信を持っているであろうアルスは、まるで睨むように目を細める。そこには、わずかな苛立ちが見てとれた。

 だが、挑発にはすぐに乗ってくれないようだ。彼は肩をすくめると、呆れ笑いで対応してきた。

 

「……人をからかうのは、よくねぇぜ?」

「からかっているつもりはないわよ? ……手加減してもいいから、打ってみなさい」

「あのなぁ……」

 

 はぁ、とアルスはため息をつくと、困ったように頭を掻いた。しかし、私がしつこく待機しているのを見ると、どうやら観念したようだ。右拳を握って、私の掲げた左手と同じ高さに持ち上げる。

 体は棒立ちのままなので、適当に拳を当ててお引き取り願おうという魂胆なのだろう。それでいい。まずは、相手の拳と触れるだけで十分だ。

 

「ほらよ」

 

 アルスはやる気のない声を上げながら、握り拳をポンと私の左手に当てた。まったく力の籠っていない、ただの児戯だった。

 ――私の手は、微動だにしなかった。

 いっさい揺れずに拳を受け止めた直後、アルスはいちど大きく目を見開いたあと、訝しむような顔つきになった。拳骨を当てた時の違和感に気づいたのだろう。いま触れたのは、女子供の柔らかい繊手ではなく――もっと硬い何かであると、彼は理解が及びはじめていた。

 

「もう一度。強く打ってみなさい」

「…………」

 

 自分の感覚を確かめるかのように、アルスは腕を引いて拳を形作る。先ほどより、はるかに様のある姿勢だった。

 

「……しっかり受け止めろよ」

 

 いまだ本気を出すことに抵抗があるのだろう。彼は明らかに全力ではないが、それなりの速度で右手のパンチを繰り出した。

 ――左手のひらで迎え撃つ。

 パシリ、と音が鳴ると同時に、アルスはびくりと腕を引いた。その青い瞳には、動揺の色が浮かんでいた。

 

「……おい、トリックか何かか?」

「なんのこと?」

「殴った時の感触、ばかみたいに硬かったんだが。女の手じゃねぇぞ」

「ひどい言い草をしてくれるわね」

 

 だが、彼の発言は見当違いではない。気を集中させた私の左手は、おそらく石のように堅固な皮膚となっていたのだろう。

 もっとも、左手一点に集約させたからこその結果であり、実際に体を動かしている時は不可能な芸当だ。だから私は、気を分散させた。実戦を想定し、全身に気を巡らせた状態で、ふたたび眼前の狩人の前に左手を掲げる。今の状態なら、本気で打ち込んできても彼が拳を痛めることはないだろう。

 

「来なさい。さっきよりは柔らかいから、安心して殴れるわよ」

「いやいや、冗談きついぜ。おれの手が折れたら、仕事ができなくなって困るんだが」

「私を信じなさい。……いいパンチをくれたら、酒を一杯おごるわよ」

「……本当か?」

 

 アルスの目に欲が浮かんだ。意外と現金な性格らしい。金でどうにかなるのなら、私としてもやりやすかった。どうせ、実家からの仕送りが余るほどあるし。

 私は体勢を変え、足腰に力を入れつつ、左手で受けられるよう構えた。

 

 ――拳を受けるのだ。さっきのような触れ合いではなく、本物の殴打を受け止める。

 それは未知の経験だったが、私には確信があった。身についた筋肉は、体に流れる気は、男の拳に打ち破れることはない。今までの鍛錬が、素人なりに繰り返してきた肉体の運動が、眼前の男の膂力をはるかに上回ると主張していた。

 私は――自分の体と、そして積み重ねてきたものを信用することにした。

 

「いくぜ――」

 

 アルスが右腕を引いた。体は斜めに逸らし、左手は狙いをつけるかのように前へ構える。

 ――刹那、私は彼の手にありえない影を視た。

 その手には、ただ拳が握られているはずなのに……どうしてか、全力で強弓の弦を引いているかのような光景が目の前にあった。

 

 異様な幻視――しかし、私は不思議と納得していた。

 そうだ、彼は言っていたではないか。狩りを仕事にしていると。弓を引くことで、生計を立てていると。

 ――毎日のように得物を手にし、その上半身に力を込め、弓を引き絞り、そして標的へと狙い放つ。

 繰り返される射矢。それは彼の生活の一部であり、もはや自然体の一部でもある。彼の肉体は、筋肉は、弓矢とともに成長を重ね、そして力を築いてきたのだ。

 

 ――同じだ、と思った。

 体に染みつかせ、積み重ねてきた歴史(ちから)。それは私が鍛練してきたものと、まったく同じだった。弓矢も空手も、違いなどはそこにない。長く続けることによって形作られる、洗練された、偉大なる力がそこに顕現していた。

 

「――ッ」

 

 来るッ!

 引き絞った矢が、放たれる。

 経験と技術が詰まった、獲物を確実に射止める、腕っ扱きの狩人の一打が飛来する。

 

 大の男でも、まともには受けられないような打撃。

 それを――この片手で受け止められるのか?

 全身を駆け巡る血と、そして気が。鍛えられた骨と、そして筋肉が。一寸先の結果を予測し、脳に告げる。

 ――可能だ、と。

 

 そして――アルスの拳が、私の手のひらを貫いた。

 途轍もないパワーが、手首から肘、肩へと伝わり、全身を押し込まれるような感覚を抱く。だが同時に――筋肉と気が衝撃を押し殺す。床に食い込むかのように踏みしめた足は、少しの後退も許さなかった。私の体は……彼の拳を完全に受け入れていた。

 肩の位置まで押し込まれた手のひらは、しかし確かに狩人の拳骨を包み込んでいた。

 ――勝負あり。私の勝ちといったところだろう。

 

「いいパンチね。素晴らしかったわ」

「…………」

 

 唖然とした顔のアルスを見ると、どうやらこの結果をまるで予想していなかったのだろう。

 だが、それは私とて同じだった。表情には出していないが、内心では彼の能力に驚嘆を抱いていた。

 ――“気”による補助もない状態の打撃で、肩まで私の手を押し込んだのだ。ただの生身で、これほどの威力を出す。それがどれほどの偉業なのか、語るまでもなかった。

 

「約束どおり、好きなものをおごるわよ」

「……そりゃ、どうも」

 

 やっと声を上げたアルスは、どこか気がそがれたような様子だった。自分よりも歴然と体躯の劣る相手に拳を受け止められて、ショックを受けているのかもしれない。

 さすがに気の毒に思えたので、私はフォローするように言葉を投げかけた。

 

「そう気を落とす必要はないわよ。……こっちには“タネ”があるんだから」

「タネ……? おれの目には、ただの素手にしか見えないんだが」

「目に見えるものだけが、すべてではない。そういうことよ」

「……わかんねぇなぁ。教えてくれよ、そのタネとやらを」

 

 納得できないという表情で、アルスは私に食いついてくる。態度から察するに、こちらに十分な興味を抱いているらしい。

 ならば――好都合かもしれない。これほどの男と交流が持てるなら、私としても悪い展開ではなかった。

 アニスやフォルティス、そしてミセリアなどにない、特別な価値を彼は持っている。それを利用できるならば、さらなる強さのための道が拓けるだろう。――より実戦的で、敵意を打ち砕くための技術(すべ)が、この手中に収められる。

 

 私は、にぃっと歯を見せて、年頃の少女らしい笑みを浮かべた。

 

「教えてあげてもいいわよ。でも、その代わりに――」

 

 その日、私は一人の男を得た。

 技を磨き、力をつけるための――稽古相手(スパーリング・パートナー)を。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 その男は、どこか怪しむように私を見つめていた。

 無造作な黒い髪に、怠惰な印象を受ける無精ひげ。年齢は三十路くらいのはずだが、いかんせん疲れたような雰囲気が漂っており、それが実際の歳よりも老けている印象を抱かせる。

 白衣を身にまとった男の名前は――ラーチェ・アルキゲネス。

 先日のミセリアの件でも世話になった、魔法学園の医務室の主任であり、医学関係の授業も担当している教師である。

 

「……それで」

 

 彼は確かめるように、私に言葉を投げかけてきた。

 

「自室で転んで、腕を椅子にぶつけたと。そういう理由で、ここにやってきたわけだな」

「ええ、わたくしが話したとおりですわ」

 

 私は堂々と答えた。

 真っ赤な嘘を。

 

 ――昨日、酒場でのやり取りのあと。

 私はアルスに肉体強化の術、すなわち“気”の力を教えてから、少しだけ頼みごとをした。

 もう一度、次は腕で受けるのでパンチをしてみてくれ、と。

 肉体に流す気の量を減らしたら、どれくらいの威力と衝撃になるのか測ってみたかったのだ。全力を出せばアルスの攻撃を無力化できるのは自明だったが、逆にどの程度まで加減すればダメージを受けるラインに達するのか。その辺は実際に試さなければわからない事柄だった。

 

 そういうわけで――彼の拳を、前腕でガードした結果がこれである。

 骨が痺れるような感覚と、肉の痛みに涙が出そうになったが、まあ痛覚で気の量による効果を把握できたのは収穫だった。あざを作ったのは無駄ではなかったと言えよう。

 ――ただ、怪我を放置するのもいかがなものか。

 そう思った私は、こうして医務室を訪れて、彼と対面しているというわけである。

 

「…………」

 

 ラーチェ・アルキゲネスは目を細めて、こちらをじっと見つめてきた。その三白眼気味の瞳は、やはり鋭く威圧的な感じがある。そういえばアニスも、初見では彼が近寄りがたい人物だという感想を持っていたっけか。

 もっとも、それは見た目だけの話だと私は知っているので、気楽に飄々と受け答えをする。

 

「何か問題でも、ありまして?」

「……いや」

 

 彼は小さく首を振ったが、その内心には多少の不審がありそうだった。

 ミセリアの時は、アルキゲネスに「倒れているのを見つけて、運んできただけ」とごまかしていたし、ミセリア自身もあの後、彼に対しては「覚えていない」で押し通したようなので、いちおう揉め事……というか殺し合い寸前のやり取りをしたことはバレていないはずだ。

 ただ、短期間に二度目の来訪は、さすがに疑うところがあるらしい。

 まあ女子に面と向かって「喧嘩でもしたのか?」などと問いただすことはないだろうから、今のところは問題はないはずである。たぶん。

 

「……見せてみろ」

 

 言われるがまま、私は左手を差し出した。打ち身部分は長手袋に隠れているので、少しずらして見えるようにする。

 

「……その手袋、外したほうが早いと思うんだが」

「あら? 淑女の手はむやみに露出させるべきでない、というのが信条でして。ごめんあそばせ」

「そ、そうか……」

 

 アルキゲネスは思いっきり呆れた表情を浮かべたが、私自身も彼と同感である。フォーマルな場でドレスと組み合わせるならともかく、日常的にオペラ・グローブを装着している娘なんぞ気取りすぎてアホっぽい。

 にもかかわらず、私が手袋をつけているのは、単純に手や腕をあまり他人に見せないためだった。言わずもがな。長年鍛えてつづけてきた私の拳は、貴族のご令嬢にしてはいささか無骨すぎた。

 

「失礼――腕に触れるぞ」

「ご随意に」

 

 彼はご丁寧に了承を得てから、右手に指揮棒のような杖を持ち、左手で私の腕を取る。そして、二人の肌が触れ合った瞬間――アルキゲネスは違和感に耐えきれないかのように、片方の眉を歪めた。

 

「どうなさいました?」

「い、いや……ずいぶん、健康的な腕だなと……」

「おほほほほっ! お上手ですのね、アルキゲネス先生は! お褒めいただき光栄ですわ!」

「…………」

 

 褒めてねーよ! と彼は言いたげな顔だったが、まあ気持ちはわからなくはない。私ほど肉体を鍛えている女子学生など、普通は目にしないだろう。

 くだらないやり取りをしつつも、アルキゲネスは治療を開始する。それは一般人がおこなうような処置ではなく――魔術師による、治癒の魔法であった。

 

 傷を治す。あるいは、病を消し去る。そういった類の魔法は、この世界では希少だった。――実用性の高いレベルで行使するのは。

 ほとんどの魔術師が傷病を治そうとしても、多少の賦活程度しか効果がないのである。高い魔力を持つ人間でさえも、かすり傷を癒すくらいがやっとのことらしい。

 ただ、ごく一部の特質を持った人間だけは、“回復魔法”と呼ぶに値する治癒を発揮することができる。それは聖なる魔力の持ち主と言われ、該当する魔術師の数はきわめて少なかった。眼前のアルキゲネスは、その才能を持ったひとりというわけである。

 

 そして、この学園には私が知るかぎり、もう一名――

 アニス・フェンネルも、聖なる魔力の持ち主である。まあ、まだ本人でさえも気づいていないけれども。

 彼女は魔法の才が低いように思われていたが、物語が進むにつれてその特質が判明する。回復魔法に関してはアルキゲネスを上回る効果を見せ、ことにデーモンに対しては強力な退魔を発揮し、さまざまな事件のキーパーソンとして活躍するのだ。まさに主人公らしい天才、といったところだろうか。

 

「――――」

 

 アルキゲネスの杖の先端から、かすかな光のようなものが漏れ出る。それは私の怪我をした部分へと、染みこむように伝ってゆく。

 他者の魔力が体内に入りこんでくる感覚は、どこか奇妙で落ち着かない気持ちにさせられた。それは私が、肉体に魔力を浸透させる“気”を常用しているからだろうか。異物が混入するような感じだ。

 

 ――時間にして数秒。

 アルキゲネスが杖と、こちらの腕に添えていた手を離した。私の前腕からは、見事に打ち身の傷跡が消えていた。実際に回復魔法を受けるのは初めてだったが、なるほどこれは便利なものである。

 聖なる力の恩恵を実感し、確認した私は、わずかに唇を吊り上げた。

 

「……ありがとうございます、先生」

「違和感などは?」

「いえ、とくに。素晴らしいお手並みですわ」

 

 ――怪我を負った時の備え。

 それは私にとっては無視できないことだった。もし強大な敵と()り合ったとして、相手を打ち倒したとしても、その時の傷によって命を落としてしまったら元も子もない。だからこそ、治癒の能力を持ったアルキゲネスや、そしてアニスの存在は重要だった。

 少なくとも学園内にいるかぎりは、即死しないかぎり二人のうちどちらかの治療を受けられれば、死を免れることができるだろう。絶対的な保険ではないものの、私としてはいくらか安心して事に臨めるというわけである。

 

 もっとも――最善なのは、一切の傷も負わずに勝利を収めることなのだろう。

 だが、まだ私はその領域に至っていない。力は足りていないし、技には欠けている。

 鍛えなければならない。磨かなければならない。はるか高みに登りつめたい。

 それはきっと、果てしない道のりだろう。だが、だからこそ面白いのだ。苦労して高い山に登頂し、景色を眺めた時の感動は格別だろう。それと同じように、武を積み重ねて人よりも高い場所を目指せば、きっと何かが見えてくるはずだ。

 

 ――私は、その未知の景色を眺めてみたい。

 

「また“何か”あった時は、先生のお力を貸していただければ幸いですわ」

「……いや、ここに来ることのないほうがいいと思うんだが」

「ええ、そうでしょうね」

 

 私は笑いながら頷いた。彼の世話になる必要がないほど、強さを手に入れたかった。

 改めて礼を述べてから、私は医務室から立ち去ろうと背を向けたところで――

 

「ああ、そうそう」

 

 アルキゲネスのことについて、ふと思い出して私は振り返った。

 彼は怪訝そうな表情を浮かべていた。その顔を眺めると、やはり少し老けたような印象を受ける。その原因は明らかで――

 

「その無精ひげ、ちゃんと剃ったほうがよろしいかと」

「…………善処しよう」

 

 アルキゲネスは困ったような顔つきで、あごを撫でながらそう言った。

 きちんと身なりを整えた彼の立ち姿は、なかなかに恰好よかった覚えがある。本来ならばアニスがアドバイスする立場なのだが――まあ物語がどうなるかもうわからないので、私が言ったって構わないだろう。

 

 ――これから何が変わり、何が起きるのか。

 

 未知の未来に対して、私は期待を寄せながら拳を握りしめた。

 心の奥底で、待ち望んでいるのは――

 もしかしたら、私の“知識”を超えたものなのかもしれなかった。

 



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武闘派悪役令嬢 006

 

 昼食後の、しばしの休み時間。

 天気と気分によって過ごし方が変わってくるものの、この日はよく晴れて爽やかな陽気だったので、私は学園のグラウンドにやってきていた。

 

 整地された広い空間は、まさしく校庭という風情だった。体育の授業などというものは存在しないが、魔法の実技をおこなう場合はここを使うことになるため、学生たちにとっては縁のある場所である。また課外の時間では、球技のような娯楽や魔法の自主訓練のために、グラウンドを利用する学生もそれなりにいた。

 今でも校舎に近いほうの場所を見遣れば、テニスのような遊びをしている女子グループが見える。正確にはテニスとルールがちょっと違うのだが、まあ細かいことはどうでもいい。要するに、学生諸君の余暇の使い方は、この世界でもそう変わらないということである。

 

「……いい天気ねぇ」

 

 うららかな日差しに心を和ませながら、私はなんとなしに呟いた。

 こんな晴れた日には、やはり外に出て体を動かすのがいちばんである。そう、運動というものはわれわれが健康に生きるうえで、基本的かつ重要な行為なのだ。この穏やかな快晴と広々とした大地を見て、肉体を活動させようと思わない人間は――ろくな輩ではないだろう。

 

「そう思わないかしら?」

「…………」

「思わない?」

「……なにが?」

 

 ふと本から私のほうへ顔を向けた、ちび学生――ミセリア・ブレウィスは、まるで話がわからないというような様子で尋ねかえしてきた。

 彼女は日光が直射しない木陰で、体育座りをして佇んでいる。そう――野外にいるにもかかわらず、この少女は読書に勤しんでいるのである。この生意気なガキを見たら、お天道様も大激怒まちがいなしではなかろうか。

 

「あなたねぇ……。わざわざ外についてきてまで、本を読むっておかしいと思わない?」

「おかしいとは思わない」

「……あっ、そう」

 

 私は呆れながら、ため息のような声を漏らした。

 

 あの日以降、どういうわけかミセリアは私にやたらと付いてくるようになった。理由を尋ねてみても、「友達だから」などという意味不明の回答が得られるばかりである。どうやら彼女の認識では、友達は一緒の場所で時間を過ごす存在らしい。

 ……もしかしたら、お友達教のアニスを真似ているのだろうか。だとしたら、いい迷惑である。

 

 金魚のフンのようにくっついてくるミセリアは、正直うざったく感じてしまうものの――かといって拒絶するのにも気が引けるのは、やはり彼女に少し関わりすぎてしまったからかもしれない。

 無感情で非人間的だった彼女が、自発的に“友達”などという社会的な存在に興味を示している。冷静に見れば、それはミセリアという存在(キャラ)が人間的な性質を持ちつつあることにほかならない。本来の(ストーリー)の筋で起こしうる行動を鑑みれば、それは更生と呼ぶに値するだろう。

 だから露骨に追い払うことには抵抗があるのだ。拒絶した結果、また何か事件でも起こされたら、まったくもって私の気分が悪い。

 

 まあ、たしかに目障りではあるものの――

 私の行動の邪魔をしているわけでもないので、好きにさせることにしよう。

 それが、私の出した結論だった。

 

「…………」

 

 ミセリアは本に視線を戻すことなく、私を黙って見つめていた。彼女はいったい何を考えているのだろうか。その内心を察するのは難しく、やはり理解できそうになかった。

 私は、彼方で球技に興じている女子たちを眺めながら――

 

 ――“ボール”を足で蹴り上げた。

 

 頭ほどの位置まで跳び上がった球体は、重力に従って落下する。それを右足の甲で、ふたたび蹴り上げる。少し軌道を変えて舞い上がったそれを、今度は左の大腿を使って空に飛ばす。

 いわゆる、リフティングである。サッカーなんて前世では体育の授業でしかやらなかっただけに、こうしてボールを蹴り上げて、落とさないように維持しつづけるのは相当に難しかった。

 

 体の動かし方と、力の入れ方。きちんとコントロールして蹴らなければ、リフティングを持続することは不可能だった。最近はようやくそれなりに続けられるようになったが、まだまだ完璧とはほど遠い状態である。

 

「――それ」

 

 ふとミセリアが、ボールを蹴っている私に声をかけた。

 

「それは、なに?」

「……これのこと? リフティングよ。球を落とさないように蹴り上げる、ただのお遊び」

「行為のことじゃない」

 

 真顔で言う彼女が、何を尋ねようとしているのか――私にはわかった。 

 そう……行為ではない。

 ということは、モノを指しているのである。

 

 私は、脛で高くボールを蹴り上げた。

 高く舞い上がったそれは、陽光を受けて眩しく輝く。

 私は重力に従って落ちてきた物体を――右手で掴み取った。

 

「――大したモノじゃないわ」

 

 私は右腕に“気”を集中させた。

 筋肉の隅々まで行きわたったエネルギーが、膨大な力を発揮して右手に伝わる。握り込んだボールは、破壊的な圧力を受けて悲鳴を上げていた。

 それでも――私の握力に曝されてもなお、球体はかろうじて形を維持していた。

 

 理由は簡単だ。

 なぜなら、そのボールは――

 

「鍛冶屋に特注して作らせたのよ。……鉄の球体を、ね」

 

 ――テニスボールほどの大きさの、鉄の塊。

 それは硬く、重く、そして丈夫だった。私が使うには、ちょうどいいくらいに。

 

「…………」

 

 ミセリアは一瞬、口を開きかけたが、すぐに閉ざしてしまった。言葉が見つからない、と言うかのようだ。

 ――にぃ、と私がふいに笑ってみせると、彼女はびくりと小動物のように肩をすくめた。怯える姿は、まるで年相応の少女のようだ。顔に恐怖を浮かべている時のほうが、人間味があってミセリアにはよく似合っていた。

 

「……ま、これも修行の一環よ。体を鍛えるためのね」

 

 そう言いつつ、私はリフティングを再開する。

 体を鍛える、というのは、もっと正確に言えば、骨を鍛えるということでもあった。

 

 ――かつての父が、よく家でビール瓶を自分の脛に打ち付けていた。

 当時の私にとっては理解しがたかったが、それは空手家にとっては基本的な鍛錬であるらしい。人間の骨というものは、衝撃を受けると骨芽細胞が活性化する。その人体の仕組みを利用し、あえて負荷を与えることによって、より太く頑丈な骨を作り出すことができるんだとか。

 弁慶の泣き所――などという言葉があるが、父はいくら脛を蹴られても痛くないと豪語していた。それは強がりなどではなく、本当に痛くも痒くもない鋼の骨と化していたのだろう。

 

 そう……普段から肢体への衝撃を繰り返すことによって、いかなる打撃にも耐えぬく、屈強で強靭な身躯を手に入れることができるのだ。

 

 ――落下してきた鉄球(ボール)を、脛で垂直に蹴り飛ばす。

 “気”を巡らせていても、さすがに骨に並々ならぬ衝撃が走った。ぶっちゃけて言うと、かなり痛い。だが、だからこそ効果があるというものである。

 骨折とはいかないまでの、微細な骨へのダメージ――それが重なれば重なるほど、私の肢体は強く成長する。

 痛苦は忌避すべきものではなかった。力を与えてくれる、受け入れるべき要素なのだ。

 

「……痛そう」

 

 なんとも言えぬ表情を浮かべたミセリアが、私のリフティングを眺めながら呟く。“気”の使い手ではなく、ましてや空手家でもない彼女にとっては、私のやっている行為など理解不能の領域なのだろう。ともすれば、狂気の沙汰に見えるのかもしれない。

 

「痛そう、じゃなくて痛いのよ。私にとっては耐えられる程度だけど。まあ……普通の人間だったら、死ぬほど痛くて真似できないでしょうね」

「死ぬほど……?」

 

 なんでそこに反応するのよ?

 不穏なワードに興味を示すミセリアのせいで、私は鉄球を地面に落としてしまった。小さくため息をつきながら、ボールを拾い上げる。

 

 その時、ふとグラウンドのほうを見遣ると――薄いシャツを着て、ランニングをしている男子が目に入った。

 その茶髪の青年は、私がよく見知った人物だった。フォルティス・ヴァレンス。同級生にして、婚約者でもある存在。

 最初に“力”の差を見せつけて以降、日常会話はろくにしていないので、婚約者のわりにいまいち関わりの薄い人物ではあったが――

 

「……ふぅん」

 

 大地を踏みしめ、体を動かしつづけるフォルティス。走り込みをしている彼の姿は、まるで運動部の学生のようだ。

 もっとも部活など存在しないので、彼が走っているのは自主的なトレーニングなのだろう。おそらくは――騎士となるための。

 

 だが疑問があった。

 騎士となるためには、とくに魔法の腕が重視される。どれだけ精確に攻撃を打ち込めるかの遠的や、多彩な魔法の実演など。いちおう模擬試合での動きも評価に入ってくるが、それにしたってスポーツ選手のような激しい運動をするわけではないので、あえて持久力を鍛える必要性はあまりないはずだ。

 

 私は少し視線を動かした。

 フォルティスとは違う、べつの男子の立ち姿が見える。銀に輝くプラチナブロンドの髪を持つ彼は、ここからでも美形の男性であることが一目でわかった。私の“知識”の中にも入っている彼は、フォルティスと同じように騎士を目指しているという“設定”だったはずだ。

 そんな彼は、どうやら風の魔法を練習しているようだった。杖を振ると突風が迸り、土埃が舞い上がる様子がうかがえる。顕現させる魔の力の強度、そしてコントロール。そういったものを日々繰り返し鍛錬し、魔術師としての技量を向上させているのだろう。

 それは――騎士を目指す者として、まっとうな修練方法だった。

 

 つまり、何が言いたいかというと。

 フォルティスが今やっている走り込みなど、騎士となるためにはまったく見当外れなトレーニングというわけである。

 

 それなのに。ああして魔法ではなく肉体を鍛えているのは、なぜなのか。まるで試験への合格ではなく、“実際の戦闘”を見据えてトレーニングを重ねているかのようだ。

 そう――実戦では魔法の技量だけが、すべてではない。相手の魔法に対応するための身体能力、そして決着がつくまで継戦するための十分な体力。魔術師といえど、本気で強くなるためには肉体的強度も必要となってくるだろう。

 

「強さ……か」

 

 フォルティスに対する評価、それが少しだけ変わった。

 ひとりの人間として、男として、なかなか見どころのある子のようだ。婚約者なんてどうでもいいと思っていたけれど――見方を改めるべきかもしれない。

 

「ふふふっ……」

 

 私は鉄のボールを右手で握りながら、不敵に笑みを漏らした。

 

 ――面白い。

 人が変わりゆく姿を眺めるのは、面白かった。そう、“彼ら”は人間なのだ。何かに影響され、何かを変化させてゆく、生きた人格(キャラクター)なのだ。当たり前なのだが、それは重要なことだった。

 

 アニスも、ミセリアも、フォルティスも。筋書きなどない物語の中で、それぞれの道を歩んでいる。それは不確定で、不可測で、そして未知にあふれた素晴らしい進路だった。

 知らぬモノを目の当たりにする――これほど楽しいことは、ないだろう。

 

「くくくっ……」

 

 心が弾み、力が湧き上がる。高揚した体からは、気があふれていた。まるで全身から、外へ漏れ出してしまいそうな錯覚に陥る。

 この渾身に昂る熱を、持て余したエネルギーを、右手へと収束させる。骨を伝い、筋肉に運ばれ、末端部分に破壊の力が宿される。それは何もかもをシンプルに打ち砕く、純然たるパワーの顕現だった。

 

 ――けっして人には向けられない暴力が、右手に発揮される。

 

 握力などという言葉では足りないほどの、すべてを押し潰す圧倒的な剛力。

 人体など一瞬で原形を崩すであろう圧力が、右手に握り込んだ金属の塊に向けられる。

 果てしない力を与えられた、鉄のボールは――

 

「……あぁ」

 

 私は全身の力を抜き、大きく息をついた。

 暖かい陽光と、穏やかな微風が、火照った体をなだめてくれる。

 そう、今はまだ昼の休み時間だ。遊びや憩いでリラックスするのが正しい過ごし方だろう。こんなところで、はしゃぐのは淑女としてみっともない。

 

 私は右手の中のものを、親指と人差し指でつまむようにしてぶら下げた。

 ――それはもはや、球形とは呼べないだろう。上下に過大な力を加えられたボールは、楕円体に歪み曲がっていた。

 

「これじゃあ……リフティングはできないわね……」

 

 また、鍛冶屋に頼まなければならないだろうか。いや、いっそ自分でボールの形に戻したほうが早いかもしれない。

 そんなことを考えながら、私はミセリアのほうを振り向いた。

 

「…………」

 

 彼女は青ざめた表情で、体を縮こまらせていた。

 眼鏡の奥の瞳は、死を目前にしたかのような恐怖の感情に支配されている。ひどく人間らしい様子で、ミセリアは震えていた。

 そんな彼女を眺めるのも面白くはあったが、あまり意地悪をしすぎないほうがいいだろう。

 私は肩をすくめて、彼女に声をかけた。

 

「そろそろ昼休みが終わるわよ。教室に行きましょう」

「…………」

「もしもーし? 聞いてる?」

「……寮室」

 

 ぽつりと言ったミセリアの単語は、私たちが向かうべき場所ではなかった。

 寮室? 今から戻っていたんじゃ、授業に間に合わないと思うのだけれど。

 

「寮室に行く」

「はぁ? それじゃ遅刻するわよ?」

 

 なぜ教室ではないのか。まさかサボろうというのか。でもミセリアの性格としては、そんなことをするタイプではなかったはずだが。

 私が困惑していると、彼女は平静を取り戻したように淡々とした声で、理由を口にした。

 

 

 

 

 

「――漏らしたから、下着を替える」

「…………」

 

 ミセリアの前で、全力を出すのはやめよう。

 ――私はそう心に誓った。

 



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武闘派悪役令嬢 007

 

 ――学園から外出するためには、意外と面倒くさい手続きが必要だったりする。

 

 平日、休日を問わず、園外に出る時には外出記録がかならず付けられる。何時から何時まで、どこへ向かうかを寮監に事前通達し、許可をもらうことによって、はじめて外出が可能になるのだ。

 まあ学生の大多数が貴族なので、彼らが不埒な場所に入り浸るのを防ぐ目的があるのだろう。もし好き放題に出歩かせて、犯罪にでも巻き込まれたら学園としても困るに違いない。そういう管理体制の厳しさは、納得できる部分でもあった。

 

 ――が、私にとっちゃ知ったことではないわけで。

 

 週末の休日。学園の外壁を無理やり跳び越えた私は、そのまま王都の郊外へと駆け抜けた。いちおう王都内では、バスのように巡回する馬車などが移動手段として普及しているのだが、私がそんなものに頼る必要性などもなく。

 持久力の鍛錬も兼ねて、ひたすら疾走を続けた私は――思った以上に早く、目的地にたどり着くことができた。

 

 都市の周囲に広がる農耕地の中でも、森に近い一帯。

 その存外に大きな造りの家は、どこか雄々しくどっしりとした佇まいに見え、住人の外見を反映しているかのようだった。

 

 屋内側のベルと繋がっている玄関の紐を引っ張ると、来客を知らせる鈴の音がすぐ伝わったのだろう。がちゃり、とドアが静かに開かれた。

 私はフードとローブという相変わらず怪しい恰好だったが、相手にとってはむしろそっちのほうが馴染みの姿だったに違いない。

 

「――これはこれは。まさか本当に訪ねてくるとは……」

「約束したでしょう。週末に来るって」

 

 筋骨隆々の偉丈夫――アルスは、反応に困ったような曖昧な笑みを浮かべながら、刈り上げた金髪を掻く仕草をした。

 

 ――週末の休日に付き合ってもらう。それはあの時の酒場で、たしかに口約束したことだった。

 むろん、タダではなく報酬も払う形で。大抵の肉体労働者の日給より高い小銀貨十枚を提示したところ、アルスは喜んで引き受けてくれた。なんと金の力は偉大なのだろうか、と私が貴族の身であることに感謝したのは言うまでもない。

 

「ま、入りなよ。沸かした湯の残りがあるから、白湯くらいは出せるぜ」

「……お茶はないの?」

「はぁん? そんな高尚なもん、うちには置いてないぜ」

 

 アルスは呆れたように苦笑した。基本的に茶葉は輸入に頼っている嗜好品なので、自宅にティーセットを揃えている平民は少ないのかもしれない。世間知らずな発言をしてしまったことに、私は少しばつが悪い気持ちになってしまう。

 

 彼のあとについて屋内に入ると、どこか奇妙な居心地が襲ってきた。廊下や応接間などもなく、いきなり広い土間が目の前に現れる。どうやらキッチンと兼用のようで、壁際には調理用の薪ストーブや食器入れの棚などが鎮座していた。

 貴族の邸宅はもちろん、都市部の住宅でもフローリングのある家ばかりなので、この手の住居は見慣れない感じだった。農村部では一般的な造りなんだろうけど。

 

「――とりあえず、そのテーブルんとこの椅子にでも腰掛けな。(ねえ)さん」

「……なに、その“姐さん”っていうのは?」

「おれなりの敬意と配慮さ。あんたは“格上”の存在だからな。腕っぷしの強さにしても――“社会的な身分”にしても」

 

 前者はともかく、後者については少し驚きがあった。私の個人情報については語っていないはずだが、どうやら彼にとってはお見通しのようだ。

 アルスは棚からガラスのコップを取り出し、ストーブに乗せたやかんから湯を注ぎながら、椅子に座った私と言葉を交わす。

 

「魔法……正確には“気”だったか? そいつが使えて、おまけに金払いもいい。どこかの貴族の家柄だってのは、馬鹿でもわかるぜ」

「……そうね。わかっているかもしれないけど、私の身元は――」

「詮索しないさ。だから名前も聞かないってわけだ。……それでいいんだろ、姐さん?」

「――ありがたいほど、好都合で助かるわ」

 

 私は小さく笑みを浮かべると、フードを下ろした。さすがに巻き髪は邪魔くさいので、後ろに無理やり持っていって紐で縛り付けてある。ポニーテールにしてもなお、カール癖が自己主張をしているのは、完全に呪いではなかろうか。

 アルスは白湯を入れたコップを持ってきながら、私の顔を見てひゅうと口笛を鳴らした。

 

「お麗しいレディーだ。こんな土臭い家より、パーティ会場にいるほうが似合っていると思うが」

「それじゃあ、私と武闘(ダンス)に付き合ってくれる?」

「……いやぁ、それは遠慮したいところだな」

 

 彼は私の前にコップを置くと、苦笑を浮かべて対面の席に腰を下ろした。

 礼を言いながら白湯に口をつけると、ほっとした心地になる。ここまで走ってきたので、ただの湯でも言葉にしがたいほど美味しかった。

 

「そういや、姐さん。うちまで歩いてきたのかい? 王都の中心からだと、結構な距離があるが……」

「徒歩じゃないわ。駆けてきたのよ」

「ああ、馬に乗ってきたのか」

「馬じゃなくて、自分の脚で」

「…………」

 

 彼は口を開けたまま固まっていたが、しばらくして脱力したように大きなため息をついた。

 

「おれも狩りで大型の獣を仕留めた時は、肉屋の組合(ギルド)に獲物を売り渡しているんだが――王都までは距離があるから、泊まり掛けにしているんだぜ? どういう脚力をしているんだか……」

 

 愚痴るような口調のアルス。人外を見るような目つきをされると、私の乙女心が傷つくのでやめてほしいんだけど。

 ……それにしても、なるほど。あの時、酒場で会ったアルスは肉を業者に卸したあとだったのだろう。そう考えると、あそこで彼と出会えたのは幸運としか言いようがなかった。

 

 私はコップの湯を飲み干すと、立ち上がりながら彼に尋ねた。

 

「そういえば、ほかに家族は? あなただけ?」

「残念ながら、独り身でな。いろいろあって、こんな辺鄙な場所で独りのんびり暮らしているのさ」

「ふぅん……」

 

 親族も同居していないということは、何か事情があるのかもしれない。まあ他人の人生については深く詮索すべきでないので、あれこれ聞かないことにしよう。

 

 ――ひとの目を気にする必要がない。今はその情報さえあれば、十分だった。

 ここに来たのは、お喋りをするためではない。だから私は、とっとと本題に入ることにした。

 

「それじゃあ――」

 

 ――表に出ましょう。

 

 私はそう言うと、唇を吊り上げて不敵な笑みを浮かべた。

 樹木や鉄球のようなモノが相手ではなく、生身の人間と相対した鍛錬。その初めての経験を前にして、私の肉体は熱くたぎっていた。

 

 さらなる強さを。

 その情熱は、きっと形となって現れるだろうという確信があった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ――武術には、型というものがある。

 

 私が空手を習っていた時も、この型稽古をよくやらされていたが――はっきり言ってあまり好きじゃなかった。

 たしかに洗練された型の動きというのは美しく、格好いいとは思う。でも実際の試合を見ると、あんな綺麗な型どおりの動作はほとんど出てこない。だから、なんというか……意味あるの? と嘘っぽく感じてしまっていたのだろう。

 

 そして今でも――いくら型を磨き上げたとしても、それだけでは無意味だと思っている。

 大事なのは、実戦の動きなのだ。

 そのリアルな格闘の中において――型の意味は見出される。

 

「ッ!」

 

 アルスが右ストレートを、こちらの顔面へ向けて放ってきた。

 それに反応して、私は左腕を掲げてガードする――と同時に、右の拳で相手の喉元へ突き、次いでワンツー動作で左手の縦拳を水月に打ち込む。

 型の一つである、“平安二段”の動きに似た動作。だが、もしこれが昇級審査だったら失格だろう。拳が横になるようにひねりつつ出す打突が、空手の基本なのだから。

 

 ――でも、これでいい。

 たとえ威力の乗っていない、咄嗟の縦拳によるジャブであろうとも、それが急所に当たれば十分なダメージを出せる。型どおりにこだわる必要なんて、どこにもないのだ。

 

「ね、姐さん……」

 

 アルスが額から一筋の汗を垂らしながら、うめくような声を上げた。

 

「今のが当たってたら、おれぁ死んでるぜ……?」

「大袈裟ね。“気”の量は調整しているから、大丈夫よ」

 

 私は淡々とそう述べた。

 もちろん、こちらの攻撃はすべて寸止めだ。あくまでもスパーリングなので、本当に殴打して怪我をさせるわけにはいかない。

 体に巡らす気も抑えているので、単純な力の発揮量はアルスと同じか、少し下回るくらいだろう。

 

 そうやって、私が手加減をしている一方で――彼には本気で殴打するように頼んであった。

 寸止めにするにはコントロールが必要になってくるし、何よりも実戦では敵は本気で殺しにかかってくるだろう。それを受けて捌く、あるいは躱すという訓練が私には必要だった。

 

「なあ――これ、意味はあるのか? おれが延々と、やられっぱなしになっているだけだぜ?」

「意味は大有りよ。意思を持って動いている相手と対峙するのは、ひとり稽古の時と大違いだし」

 

 樹木に何万回と拳を打ち込もうとも、それは突きのフォームを洗練させ、拳頭を硬くするという効果しかない。もちろんそれは重要なことだが、結局は相手に当てられなければ意味がないだろう。

 実戦ではお互いがノーガードで殴り合うわけではないのだから、動的な目標に対して攻撃を繰り出す訓練は、強くなるために必須だった。

 

 ――息を整えたアルスが、ふたたび肉薄してくる。

 

 最初はぎこちない動きだった彼だが、スパーリングに慣れはじめたのか動作に躊躇がなくなっていた。踏み込んでジャブを放つさまは堂に入っていて、気迫にあふれていた。

 身長が高く、そして筋肉量が常人よりはるかに多い彼は、リーチが長くて重い打撃を持っている。その威力は、先ほど受けた左腕に痛みが残っていることが証明していた。つまり真っ向から受けることは下策だ。

 

 右足の指先に力を入れつつ、体をひねるように後方へスウェーする。私の顔面を狙ったアルスの拳が、ぎりぎりのところを通り過ぎた。

 その刹那の間に、私の脳はイメージを膨らませる。がら空きになったアルスの胴体。今の体勢なら、おそらく私の裏拳を彼の胸に叩き込めるだろう。そして怯んだところに、左足を軸にして右足刀蹴りを腹部に入れられるはずだ。

 

 実際には攻撃をおこなわず、脳内のイメージだけで私は済ましていた。相手の攻撃を受け躱しながら、反撃に出るならばどうするか。それをつねに考えることによって、私の闘いのセンスは研磨される。

 

「…………」

 

 アルスは額から汗を流しながら、真剣な目つきをしていた。その表情には、恐怖が若干混じっているように見える。もし殺し合いならば、今の攻防で死んでいたことを悟ってしまったのかもしれない。

 

 ――再度、仕掛けてくる。

 

 放たれたのは、右拳によるジャブ――いや、距離が遠い。当てる気配が感じられなかった。これは、たぶんフェイントだ。

 頭部への右ジャブを囮にして、そちらに意識を向けさせる作戦なのだろう。相手の本命は――

 

 ――腹部への左中段突きだッ!

 

 それを見切った瞬間、私の体は反射的に動いていた。下から掬い上げるように、右腕を時計回りに振るう。――弧を描きながら、アルスの左突きは打ち払われた。

 その勢いのまま、私の右拳は鉄槌のように彼の左肩を叩く――直前で寸止めする。

 

 今の動作は、“平安初段”の型の中にあるものとほとんど同じだった。本来は右手首を掴まれた時に、それを振り払いながら鉄槌打ちを食らわす――という解釈だったはずだが、そんな用途に限定する必要もないだろう。

 ――型にとらわれず、型を活かす。私の身に付いた空手は、十分に実戦的だった。

 

 アルスはため息のような深呼吸をすると、どさりと地面に腰を下ろした。そして懇願するかのように、私に頼みこむ。

 

「ちょ、ちょっと休憩させてくれ……」

「……仕方ないわね」

 

 一休みすることを認めつつ、私はアルスの姿を一瞥した。

 その顔は汗が雫となっているし、シャツも首回りが濡れている。それは、これまでの動きの激しさを物語っていた。

 そしてアルスが疲れはてている一方で、私はほとんど汗を掻いていなかった。服装は稽古用にシャツと長ズボンを着ているが、通気性の高い亜麻製だからか蒸れもない。この程度の運動だったら、いくらでも続けられるだろう。

 

 アルスに体力がない――というよりは、おそらく普段の運動と違うことが消耗の理由なのだろう。

 足を踏み込み、体に捻りを入れながら、腕を伸ばし打つ。それを日常的に訓練している私と、していないアルスとでは、同じ動作でも消費する体力が違う。相手をぶん殴る、なんて言うと単純なことのようにも思えるが、実際には体を慣らして身に染みこませないと、効率的な殴打は繰り出せないのだ。

 

 私は肩をすくめると、手持ち無沙汰に周囲を見渡した。

 

 今いる場所は、アルスの家の裏庭だった。庭、といってもせいぜい草を刈っているだけの殺風景な空間だ。近くに大きめの納屋が建っているが、どうやらそこは斧や鎌などの道具や、薪を保管している物置のようだ。

 納屋の横には、枝払いをされて短めに切られた丸太がいくつか転がっていた。まだ薪の形にする前のものなのだろう。

 

「薪割り、自分でやっているの?」

「……あぁ、まあ、な。燃料がないと料理もできねぇし、空いている時間に薪作りはしているんだが――」

 

 アルスは苦笑のような表情を浮かべて続ける。

 

「これが面倒くさくてな。今日の朝も、せっせと斧で割っていたんだが……途中で腹が減って、あのまま放置しちまってるわけさ」

 

 ふぅん、と話に耳を傾けながら、私は丸太のほうへ足を向ける。

 たしかにチェーンソーなど存在しない世界なので、木材や燃料を切り出すのは苦労しそうだ。貴族という上流階級社会で生きてきただけに、こういうリアルな生活の事情を見聞きするのは面白さもあった。

 

「じゃあ――」

 

 私は玉切りされた丸太の一つを、腕に抱えた。

 ずっしりと重みのあるそれを、薪割り台の上に縦にして立てる。これに斧を振り下ろして分断し、使いやすい薪の形に変えていくのだろう。

 

「――私が代わりに、やってあげようか?」

 

 アルスに顔を向けて、そう尋ねる。

 彼は一瞬、呆けたような顔を見せたが、すぐに真剣な目つきで応答した。

 

「……そりゃ、べつに構わねぇけど」

「そう。なら、勝手にやらせてもらうわ」

「なあ、姐さん。いちおう言っておくんだが――」

 

 斧は納屋のほうにあるぜ?

 

 そう告げるアルスの声は、少し震えているように感じた。

 

「――必要ないわ」

 

 私はそれだけ口にすると、丸太の前で足を広げて屈み、手を天高く掲げた。

 

 かつて、正拳で樹木を叩き折った。

 そして、私は昔よりもさらに力をつけた。

 ならば、この程度など児戯に等しい。

 

 ――試割り、というものが空手にはある。

 木の板、瓦、コンクリートブロック、あるいはビール瓶など。それらを鍛えた肉体によって破壊し、力量や技量を示すのだ。達人にもなれば、繰り出される手刀や足刀は、鈍器や刃物とそう変わらなくなる。

 

 ――鍛えぬいた肢体は、あらゆるものを破壊する武器なのだ。

 

 まるで斧を扱うかのように、私は手刀を構えた。

 硬く、重く、そして鋭い刃物をイメージする。

 限界まで気を高めた私の手は、すべてを破断する凶器と化していた。

 

 ふっ、と息を吐いた。

 打ち込むまでは――まさに一瞬。

 

 天から地へ。地面へ向かう私の手刀は、一切の減速すらしなかった。丸太はまるで豆腐がごとく、鋭利な暴力によって引き裂かれる。

 真ん中から左右に分かたれた木の断面は――斧で割ったものとまるで変わらなかった。

 

「――なぁんだ」

 

 意外と簡単じゃない。薪割りなんて。

 

 私はそう言って、アルスに笑ってみせた。

 彼は引き攣った顔を浮かべながら、「そ、そうだな……」と頷いた。

 

 その後、再開したスパーリングで明らかにアルスは怯えた動きをしていたので、やはり斧を使うべきだったかと少し後悔する私であった。

 



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武闘派悪役令嬢 008

 

 ――とうとう、この時が来てしまった。

 

 一つ目の授業が終わり、次なる科目のために教室の皆が立ち上がる。誰もが平然とした様子であるなか、私だけは内心で焦燥を抱いていた。

 じっと虚空を睨んでいると、ふと隣から声がかけられる。

 

「――移動」

「なに?」

「移動しないと、遅刻する」

 

 淡々と述べたミセリアは、すでに立ち上がって鞄を手にしていた。どこか不思議そうな目で、私を見下ろしている。

 私はため息をつくと、晴れない気持ちのまま頷いた。

 

「……そうね」

 

 なぜ移動するのか、というと理由は簡単だ。次に私たちが受けるのは座学でなく、魔法の実習を含めた授業だからである。

 まだまだ本格的ではないものの――学生たちは、授業の中で魔法を使う時が来たのだ。

 

 それは私にとっては大きな壁だった。

 もはや試練であるとも言えるかもしれない。

 

 普通の魔法が使えないのに、その授業を受けさせられる。これほど苦痛なことがあるだろうか。運動音痴な子が体育の授業に出る時の気持ちを、今にして私は初めて理解してしまった。

 

「……よし」

 

 ――だが、この私に逃走はないのだ。

 けっして退かず、迫りくる苦難は切り伏せて進むのみ。

 

 ようやく決心をした私は、立ち上がった。次なる授業を乗り越えるために。

 

「……どんな内容だったかしら? 次の授業」

「“風”の顕現とコントロール。魔法の基礎、かつ初歩」

「そう……途轍もない難敵ね……」

「魔法の基礎」

「これほど怯えさせられるのは、久しぶりだわ……」

「初歩」

「デーモンよりも恐ろしい相手ね……」

 

 ミセリアは何か言いたげな表情をしていたが、諦めたように首を振った。

 そんな会話をしながら、廊下を歩いていると――あまり聞きたくない声を耳に拾ってしまった。私にとっては性格的に付き合いを深くしたくない人物。言わずもがな――

 

「ううぅ……ま、魔法の実習、いやだなぁ……」

 

 暗い雰囲気を漂わせながら、顔を下に向けている黒髪の少女――それはアニス・フェンネルにほかならなかった。

 いつも明るいはずの彼女が、どうして今は落ち込んでいるのか。私はすでに“知識”として知っている。そう、彼女は普通の魔法に関してはてんで駄目なのである。

 

 希少な回復などの魔法に適性があるいっぽう、風や火を操るような基本的な技能はアニスに欠けていた。たぶん、私が魔力を肉体強化に特化させているのと同じように、彼女も魔力の本質がそっち方面に傾いているのだろう。まあ、完全に魔法を使えない私よりはマシだろうけど。

 

「…………」

 

 いろいろとアニスに関して思うところはあるが、いきなり彼女の才能を本人にバラすのは尚早な気もする。それに教えるにしても、不自然ではない形でそれとなく気づかせるべきだろう。

 そんなわけで、とりあえず今は彼女を無視しようと、横を通り過ぎたところで――

 

「あっ、オルゲリックさん!」

 

 ……なんで私に声をかけるのよ?

 この娘、さんざん私が嫌っている素振りを見せているのに、どういうわけか向こうから積極的に話しかけてくるのだ。もしや私をツンデレか何かと勘違いしているのではなかろうか。私にそんな属性なんてないぞ。

 

「…………」

「つ、次の授業……オルゲリックさんは自信ありますか?」

「…………」

「わたし魔法が得意じゃないから、人前で見せるの恥ずかしいなぁ……」

 

 私と並んで歩きながら、まるで友達のように語りかけてくるアニス。相変わらずの平常運転である。私が無言を貫いているにもかかわらず、延々と言葉を投げかけてくる。

 一方的な会話は終わりそうもなく――あまりにうざったくなった私は、ぴたりと足を止めた。

 

「――だ、か、ら!」

 

 ビシッ、とアニスの顔へ指を突きつけながら、私は怒りの表情を浮かべる。もちろん演技であるが。

 

「わたくしに話しかけるの、やめてくださらないかしら!? あなたのような格下の貴族とは、付き合う気はありませんのよ! おわかりッ?」

「えぇ……。おんなじ学生なんだから仲良くしましょうよぉ……」

「わたくしと対等の関係になりたいなど、驕り高ぶりッ! 言語道断ですわッ! 傲慢にもほどがありますわよッ!」

 

 そう言った直後、後ろから「自己紹介?」とミセリアの呟きが聞こえた。ええい、ツッコミを入れるな。私もこの高慢キャラはどうかと思うけど、今さら変えるのもアレなのだ。演じすぎて骨の髄まで染みついてしまった。

 

「わたくしとの交誼(こうぎ)などありえませんわよッ! あなたは身の丈に合った輩とお付き合いなさいッ。ほら、そこにいるでしょうッ」

 

 と、指先の方向をぐいと動かす。

 その先には、赤茶けた髪の地味そうな少女が立っていた。アニスの親友ポジションの女の子(名前……なんだっけ……)は、私に指差されて標的にされた瞬間、「ひぃっ!?」と悲鳴を漏らす。その怖がりようは、まるでこの世の悪意すべてに曝されたかのようである。私は魔王か何かか?

 

「そういうわけで、ごめんあそばせッ!」

 

 などと捨て台詞を吐いて、私はすたすたと先を進む。相変わらず、めちゃくちゃ疲れるやり取りであった。

 歩きながらため息をついていると、隣に追いついたミセリアがぽつりと言葉を漏らした。

 

「演技派」

「うるさいわね」

 

 私の素の状態を知っているミセリアにとっては、ああいう態度がただの演技であることが明白だった。もっとも、なぜそんなキャラ作りをしているかの理由まではわからないだろうけど。

 私としても、もはや仮面をかぶる意味などない気がするのだが――それでも、やらずにはいられなかった。自分がヴィオレ・オルゲリックであることを、完全に失わないために。理屈ではなく、なんとなく、少しでも面影を残しておきたかったのだ。変な話だが。

 

 そんなこんなで、私たちは目的地に到着する。そこは普段の教室の前方に、広めの道場を付け足したような場所だった。大規模な魔法を扱う場合は外のグラウンドを使うが、初歩的な魔法の場合はこの教室を利用するらしい。

 広間の部分には等間隔でテーブルが置かれ、その上にはそれぞれ燭台がセットされていた。学ぶ魔法が“風”なことから、どんな授業内容かは簡単に察せられよう。

 

「――魔法において、基礎が重要なのは言うまでもありません。今回は、風を吹かすという単純な行為を皆さんにおこなってもらいます」

 

 年配で恰幅のよろしいマダムな教師が、そう言いながら燭台のロウソクに火を点ける。三本を横に並んで立てる、三叉型の燭台である。

 

「あなたたちの多くは、おそらく既に魔法を習っているでしょう。ですから、風を出すくらいは簡単にできるとは思いますが――」

 

 三メートルほどの距離を取ってから、教師はシュッと流れるような動作で指揮棒型の杖を振るった。魔力が伝達され、その先端から小さい風が生成される。

 飛ばされた空気の塊は、燭台に立てられたロウソクの上部へ目掛けて襲いかかった。風に煽られた炎は、いともたやすく消し飛ばされる。――三本並んだロウソクのうち、真ん中の灯火だけが消失していた。

 

「このように強度と方向をコントロールすることは、そう簡単ではありません。あなたたちには最終的に、これくらいの制御力を習得してもらいたいと思っています」

 

 平然な口調でそんなことを言うが、たぶんここにいる学生の中で同じことができるのは、ミセリアとフォルティスくらいではなかろうか。かなり高等な技術である。

 一点に集中した風の刺突――今のはそれほど強くない風力だったが、あの先生が本気を出したら強烈な凶器となるのだろう。遠距離から弾丸のような風を連射されたら、いったいどう対応するべきなのだろうか。ううむ……。

 

「――それでは、皆さんにも実際にやってもらいましょうか」

 

 頭の中でイメージしているうちに、いつの間にか話は本題に突入したようだ。

 教師は学生たちを見渡すと、その言葉を口にした。

 

「燭台のセットの数にも限りがありますので――三人で一グループになってもらいましょう」

 

 …………。

 いま、なんて言った?

 

 わが耳を疑ったが、周りを見るともうクラスメイトたちは動きだしている。いつも一緒にいる仲良しグループや、交流の広いタイプの子たちは、滞りなくグループを組んでいた。

 

 こ、これは……!

 ま、まさか前世では経験することのなかった、この屈辱的なシチュエーションを味わう日が来ようとは……!?

 

「三人」

 

 ぽつりとミセリアが呟く。その表情は無機質で、普段と変わりない顔色だった。

 そう、三人である。私と彼女では、まだ二人。あと一人が足りない。

 

「ミセリア・ブレウィス……」

「なに?」

「今にして初めて、あなたが友達でよかったと思ったわ」

「…………?」

 

 言っている意味がわからない、というように首をかしげるミセリア。この状況の恐ろしさを理解できていない彼女は、やはり人間の感情にまだ疎いのだろう。

 とりあえず彼女のおかげで、独りぼっちという最悪の展開は免れたが――私はどうするべきだろうか。

 ミセリアはもちろん、私も交友関係のあるクラスメイトなどまともに存在しない。しいて言えばフォルティスとは縁があるが――あの好青年はもうグループを作っているようだった。くっ、なんだか負けた気分だ……。

 

 でも、よく考えたら最後に余った誰かと組めばいいのではなかろうか。クラスメイトは三の倍数なので、誰かしらが残るはずである。余り者同士で、一時の共闘と行こうじゃないか。

 なんて思っていたら――

 

「よろしくお願いしますっ!」

 

 と、元気にお辞儀をするアニス・フェンネル。

 いやいやいやいや。

 

「どどど、どうしてあなたが来るのかしら……ッ!?」

「えへへ。こういう時なら、仲良くなれるチャンスなんじゃないかなって」

「くっ、授業を盾に取って近寄ってくるとは、なんと卑劣な……ッ!?」

 

 というか、いつもの親友がいるだろうに。そこまでして私やミセリアに接近してくるとは、お友達教の執念は恐ろしすぎる。

 あーだこーだ文句を垂らしてみるが、どうやらアニスの意志は鋼のようだった。罵倒しても挫けず迫ってくるこの少女、さすがはゲームの主人公らしいガッツの持ち主である。要らぬところで逞しい精神性を発揮するんじゃない。

 

 ……まあ、何はともあれ。

 私、ミセリア、アニスの三人組で魔法の実習が始まったわけだが――

 

「うぅ、むずかしい……」

 

 最初に杖を振ったアニスの結果は、無残なものだった。ロウソクの炎が揺らめきもしなかったのだ。そこで彼女は、一メートルほどの距離まで近づいて再チャレンジすると――今度はかすかに炎が揺れた。

 ……それだけである。微弱なそよ風を出すのが、彼女の技能の限界だった。

 

 周りのクラスメイトに目を向けてみると、教師のように狙ったロウソクだけ消すような芸当はできなくとも、火を消すこと自体はみんなできているようだ。学園に入る前から家庭で訓練している子が多いだろうし、それくらいはできて当然なのだろう。

 

 何度か試すものの上手くいかないアニスは、どうやら諦めたようだ。どんより暗い面持ちで、私のほうへ顔を向けた。

 

「オルゲリックさん……」

「……何かしら?」

「そのぉ、お手本を見せてくれませんか?」

「…………」

 

 なるほど。どうやら彼女は、私がこの程度なら簡単にこなせると思っているようだ。

 まあ高名なる侯爵家の令嬢なのだから、木っ端の貴族よりも魔法に精通していて然るべきである。……普通は。

 

 ――どれほど昔だろうか。私が火や風を操ることに初めて成功したのは。

 じつのところ、小さい時から超常の力に興味を持っていた私は、すでに齢一桁にして基礎的な魔法を発現できていた。その部分だけ取り上げれば天才的なのだが、現実はなんとも無情なものである。いくら練習を重ねても、そこから先は能力が伸びなかったのだ。神童を期待していた両親は、さぞや肩透かしを食らったに違いない。

 あいにく私は、知識の中のヴィオレが凡才レベルだったのも知っていたので、「駄目だこりゃ」と見切りをつけ――“気”の力に活路を見出した、というわけであった。

 

 今にして思えば、アニスが特殊な性質の魔力を持っているのと同じように、私も魔力の本質が肉体に巡らす運用に適していたのかもしれない。人間には何事も向き不向きがある、ということだろうか。

 

「あ、あの……聞いていますか?」

 

 思考に沈んでいた私は、アニスの困惑したような声に引き上げられる。

 なんだっけ? ……ああ、私の手本が見たい、って話だっけ。

 

「……ふっ、わたくしの華麗なる手並みを見たいと」

「はい! 参考にできたらなって……!」

「――よろしい。あなたのような浅学非才の凡人に、わたくしの力を特別に披露してさしあげましょう」

 

 巻き髪を掻き上げながら言い放った私は、ずいと燭台の前に出て、杖を高く構えた。「うぅ、才能がないのは確かだけど……」とか横で嘆いているアニスを無視し、意識を集中させる。幼少の頃に行使していた、普通の魔法の感覚を思い起こすのだ。

 

 ――樹齢の重ねた木というものは、魔力をよく伝導するらしい。

 大気から呼吸により肺へ、そして体内に取り込んだ魔力を、自身のイメージを付加しつつ腕の末端、そして老樹製の杖へと瞬間的に伝達し、具体的な形として顕現させる。その基本工程を、私はしっかり熟知していた。杖も上質な古木で作られた高級品なので、知識と道具は完璧だった。

 ……知識と道具は。

 

「――ふんッ」

 

 魔力を込めて、風をイメージし、杖を振り下ろす。その切っ先は、寸分の狂いもなくロウソクへと向けられていた。

 

 ――が、何も起こらなかった

 

「…………」

「…………」

 

 後方から痛々しい沈黙と視線を感じる。くっ、無言はやめなさいよ! 私が哀れなヤツみたいじゃないの。

 もう一度、試してみるが……やはり何も起こらない。

 

 いや、うん。ぶっちゃけ問題点は、もう理解していた。

 そもそも、杖に魔力が伝わっていないのだ。指の先までは十全に魔力が浸透しているのだが、そこから杖――つまり、外に出ていこうとしない。自分の肉体のみに、つまり内側に魔力を巡らす使い方をずーっと続けていたので、外側に開放することができなくなっているのだろう。

 予想していたとおり、私は魔法に関してはアニス以下の出来であった。

 

「――今日はちょっと調子が悪かったみたいですわ」

 

 しかし己の不出来を認めるのは、ヴィオレ・オルゲリックの信条に反する行為である。

 私が平然とうそぶくと、アニスは「そ、そっか。そういう時もあるよね」と、どこか安堵したような笑顔で相槌を打つ。同レベルの仲間がいたことが嬉しいのかもしれない。

 大言壮語のあとに失敗をかました姿を見ても馬鹿にしないのは、やっぱり根が途轍もなく良い子ちゃんだからなのだろう。

 

 ――そんな、わかりきっていた茶番を終えて。

 

 次はミセリアが燭台の前に立つ。

 距離は三メートルの位置。とくに普段と変わらぬ無表情のまま、何気ない様子で彼女は杖を振るう。

 ――ひょう、と風が吹いた。

 それは研ぎ澄まされた刃のように、ロウソクの火を刈り取る。もちろん――三本のうち、真ん中の灯火だけ。正確無比のコントロールであった。

 

 さすがは最年少で入学しただけのことはある。この歳でこの技量は、まごうことなき天才。常人とは比べ物にならない才能だった。

 

「す、すごーいっ!」

 

 と、アニスは素直に驚いて賞賛する。その瞳には尊敬の念さえ感じられた。魔法が苦手な彼女にとっては、心からの敬服に値するのだろう。

 ミセリアは相変わらず感慨を浮かべないまま、ぽつりと一言。

 

「簡単」

 

 ……皮肉かしら?

 いやまあ、まじめにそう思って言っているんだろうけど。

 

「先生とおんなじことができるなんて、本当にすごい――ですよね、オルゲリックさんっ」

 

 こちらに同意を求めながら振り向くアニス。なんで私にいちいち絡んでくるのよ。

 ……たしかに、ミセリアは凄いんだけど。だけど、ここで素直に褒めるのは私の矜持が許さないので、それはできない。

 

 だいたい――“この程度”のことで、あれこれ騒ぐのはレベルが低い。

 そう、ミセリアが口にした言葉は間違ってはいないのだ。

 

「――簡単なことでしょう?」

「え……?」

 

 アニスに同意せず、ミセリアに同意した私の反応は、おそらく予想だにしていなかったのだろう。ぽかん、と彼女は目を丸くしていた。

 やがてアニスは、表情を困惑に変えて言う。

 

「で、でも……。わたしたちは、ちゃんと風を出すこともできなかったし……」

「あら、あなたと一緒にしないでくださる? ――本気を出せば、わたくしだって同じことをできますわよ」

 

 傲岸不遜をたっぷり漂わせながら、はっきりと私は言いきった。

 ミセリアに及ばないことを認めるのは、われながら少し癪だった。そもそも、私は彼女をすでに打ち負かしているのだ。勝者であるこの私が、敗者に後れを取ることはプライドが許さない。

 

「――火をつけなさい」

 

 私がミセリアにそう言うと、彼女は一瞬だけ眉をひそめるように動かしたが、すぐに杖を振ってロウソクに灯火を戻す。

 そして私は、さっきのミセリアと同じ位置に立ち――ふたたび燭台と対峙した。

 

「その眼で、しかとご覧なさい」

 

 私は杖を左手に持つと、足を開いて腰をわずかに落として、やや前傾姿勢を取る。

 アニスは不思議そうな顔をしていたが、ミセリアは私の意図を察したのだろう。彼女は冷静な口調で声を上げた。

 

「魔法じゃない」

 

 私は笑って答えた。

 

「魔法よ」

 

 魔力を利用した技法なのだ。それは魔法にほかならない。

 息を吸い込み、体に力を巡らす。運用するのは、全身の関節と筋肉。それが私にとっての“杖”だった。

 右手の甲を下向きにして、後ろへ引く。指の先まで気を充填した拳は、その解放に備えて熱気を帯びていた。

 

 ――体勢に抜かりはない。あとは一連の動作を瞬間的に行うのみ。

 

 すぅ、とわずかに息を吸った私は――標的を見定めながら、肉体を操作した。

 

「――せぃッ」

 

 気合一閃ッ!

 引き手をしっかり取り、腰に回転を加える。正拳とは、打つ手に力を入れるだけでは成らない。ボールを投球する時と同じように、足腰や反対側の腕を連動させて、初めて威力が生まれるのだ。

 足の指先から脚へ、そして腰へ、そこから肩へと力を伝え、そして腕へと伸ばしてゆく。流れるように体重を乗せ、回転力を加え、練り上げられたパワーを右拳に集約させる。

 それは――理想的な、正拳中段突きだった。

 

 一点に集中した、弾丸のような打撃。捻りながら宙に繰り出したそれは――何かを打ったような感触が返ってくる。目の前には虚無しかないというのに――

 いや、違う。虚無などありはしない。ただ瞳に映らぬだけで、この世にはモノが満ちている。たとえば、魔力。あるいは――空気。

 

 目に見えぬ大気が、私の前に立っている。形のない気体は、しかし確かにそこにある。

 私は笑った。打つべき空気の塊を――捉えたのだ。

 

 ――インパクト。

 

 手応えのない一撃は、されど殴打の感覚を得ていた。伸ばした右腕、その拳頭の先の空気が、打ち込まれた衝撃のまま吹き飛んでゆく。それは――まるで飛翔する拳のようだった。

 

 しゅっ、と風音が鳴ると同時に、ロウソクの炎は刈り取られていた。

 ――真ん中の灯火だけ、ミセリアと同じように消えていたのだ。

 

「――こんなところ、ですわね」

 

 満足げに呟いた横で、「魔法じゃない」とミセリアがふたたび口にする。その目には、不気味なものを目の当たりにしたかのような色が浮かんでいた。

 一方で、アニスは――

 

「す、すごーいっ!」

 

 と、感動したような面持ちで叫んだ。

 

「つ、杖も使わないで風を起こすなんて……! わたしには、とても真似できません……!」

「おーっほっほっほ! わたくしの手にかかれば、この程度は造作もありませんわよ!」

「魔法じゃない」

 

 アニスは尊敬の眼差しで私を見つめている。なんだか、ちょっと気分がいい。うーん、意外とこういうのも悪くないわねぇ!

 

「オルゲリックさん、こんなに凄かったんですね! わたしとは、格が違うっていうか……」

「おほほほほっ! そうでしょうねぇ! あなたも、このわたくしが格上の存在であることを少しはわかってきたのではないかしら?」

「か、格好よかったです! 憧れちゃうな~」

「魔法じゃない」

 

 人間は強大なものを畏敬するのが常である。ヴィオレとして尊大でありつづけるならば、私はもっと力をつけなければならないだろう。

 立ちはだかる敵をねじ伏せ、あらゆるものを平伏させる、圧倒的で崇高な力と技――それらを得るために。私はこれから、もっと強くならねばなるまい。

 

「わたしも……あんなふうに格好よく火を消せたらなぁ」

「ふっ……わたくしの才能と努力があってこその芸当ですわよ。あなたのような貧弱な体では、とうてい真似できないでしょうねぇ」

「ううぅ……も、もうちょっと体力をつけたほうがいいのかなぁ、わたしも……」

「魔法じゃない」

 

 アニスの賞賛に気分を良くしながらも。

 こんな児戯で満足することなく、さらなる高みに到達するために――私は鍛錬の道をいっそう邁進することを誓うのだった。

 

 

 

 

 

「魔法じゃない……」

 

 ミセリアの声は、ただ虚無に薄れ消えるばかりであった。

 



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武闘派悪役令嬢 009

 

 ――その華やかな光景は、私にとっては眩すぎて目が痛くなりそうだった。

 

 礼服やイブニングドレスに身を包んだ、若々しい青少年たち。普段の学生服とは違い、改まった服装を着て身嗜みを整えた男女らは、皆なかなかの麗しさをまとっていた。

 

 そんな彼らが、何をしているかというと。

 ――ホールの中央で、軽やかな音楽に合わせてダンスを踊っていた。

 

 なんてことはない。ただのダンスパーティーである。

 食堂のある棟の二階にホールがあり、そこでは月末に一回、舞踏会が開催されていた。このソムニウム魔法学園はただの学び舎だけでなく、貴族の子弟が交流を深める場所という面もあるため、こういった社交イベントが定期的に設けられているのだ。

 うまくいけば格式高い家柄の出身者や、魔法の才能に優れた将来有望な人物と仲を深められるため、多くの学生たちは積極的に社交をしていた。一曲ちょうど終わった今も、熱心に次の踊り相手を探している子たちであふれている。とくに有名な家柄の学生は、ひっきりなしに誘いを受けてはお断りしている様子がうかがえた。

 

 ――で。

 なんで、私が“こんな場所”にいるかというと。

 

「……このチーズ、おいしいわね」

 

 モグモグと皿の上の食べ物を口に詰め込みながら、私は退屈な面持ちでダンスに興じる諸君を眺めていた。

 ホールの端にはテーブルが並べられ、そこにはちょっとしたつまみの品や、ワインなどが置かれている。ちなみに夕食のあとのダンスパーティなので、本格的な食べ物は用意されていなかったりする。私にとって至極不満な点である。

 

 皿の上のチーズを平らげた私は、はぁ、とため息をついた。この煌びやかな空間に、似ても似つかない私がなぜ立っているかというと――答えは単純だ。そう、基本的に全学生が強制参加なのである。

 貴族たるもの、社交とは嗜みの一つである。したがって、部屋に引きこもっていることなど許されないのだ。

 まあ怪我や病気の場合は申告すれば休めるのだが、そんな仮病を何度も繰り返すのもまずい。そういうわけで、私は仕方なくダンスパーティに出ているというわけである。

 

「まったく、退屈ね……」

 

 私は呟きながら、ビスケットが盛られた皿に手を伸ばした。

 サクサクした食感を楽しみながら、かみ砕いたものを嚥下する。うーん、おいしい。ちょっと喉が渇くけど。

 そんなふうに菓子をつまんでいた私は、ふと視線を隣に向けた。

 

「…………」

 

 そこには、無言で突っ立っているミセリアがいた。

 とくに感慨もなさそうな表情で、ただぼーっとダンスをしている男女たちを眺めている。彼女の性格的に、ダンスに対する興味なんて一片もないだろうから、私と同じく暇で仕方なさそうだった。

 ちなみに服装はドレスコードに従って、いちおう彼女もイブニングドレスを身につけていた。が、年齢が年齢なうえに、痩せっぽちで胸もほぼ絶壁というスタイルのせいで、凄まじく女性的な魅力が欠けていた。まるで親に無理やり社交場に連れてこられた、小さな子供のような感じである。

 

「……あなた、もうちょっと体重を増やしたほうがいいわよ」

 

 哀愁さえ漂うミセリアの見た目に、私は思わずそう声をかけてしまった。彼女はこちらに顔を向けると、真顔で聞き返す。

 

「なぜ?」

「なぜって、それは――」

 

 ちょっと考えて、答えを口にする。

 

「運動する時にエネルギーが必要だからよ。脂肪が足りないと、筋肉が分解されてエネルギーとして使われてしまう。だから筋肉を落とさないために、脂肪はある程度つけておいたほうがいいのよ」

「…………?」

「つまり強靭な肉体を維持するためには、食べつづけないといけないわけ。おわかり?」

「わからない」

 

 ええい、ちゃんと説明してやったのにわからないとは何事か!

 私は手にしたビスケットをミセリアの口に押し当てた。歯の隙間から無理やり奥にねじ込むと、彼女は微妙な表情を浮かべながらモグモグと咀嚼する。あと十枚くらいは食べさせてやりたいところである。

 

 ――そんな馬鹿げたやり取りをしている私たち二人は、なかなかに浮いている存在であった。

 もちろんダンスに積極的でない学生はほかにもいるが、それでも知り合いと和やかに歓談したりするものだろう。延々とテーブルの焼き菓子やつまみに手をつけている貴族令嬢など、この世のどこにいようか。ここにいる。

 

 少し喉の渇きを感じた私は、ワイングラスに口をつけながら――向こうでダンスをしている一組の男女に視線を向けた。

 その女性のほうは、艶やかな黒髪に淡い水色のドレスがよく似合っていた。言うまでもなく、アニスである。彼女はとくべつ家柄が優れているわけでもないが、さすがに容姿が可愛らしいだけあって、一曲ごとに男性たちから誘われているようだった。

 

 ……むかし、女性向け恋愛シミュレーションゲームで運動コマンドを選択しつづけた結果、魅力パラメータが下がりすぎて目当ての男の子を攻略できなかった記憶が、なぜかよみがえってしまった。

 

「……ゲームの世界というのは、げにも恐ろしきものね」

「…………?」

 

 不思議そうな目を向けるミセリアに「なんでもないわよ」と返しつつ、私はワインを呷った。体が温かくなるのを感じつつ、さらにビスケットを食べようと手を伸ばしたところで――

 

 離れたところから、こちらへ向かって歩み寄ってくる人物が視界に映った。

 それが誰なのか認識した私は、グラスをテーブルに置いて微笑を浮かべる。それはもしかしたら、獲物を見つけて喜ぶ獣のような、獰猛な笑いだったかもしれない。

 

 私をまっすぐ見据えながら近づく男子学生は、ふいにピタリと立ち止まった。友人同士が会話をするような距離で、お互いは対峙する。

 私にとっては、一瞬で踏み込んで急所を貫ける距離であった。相手もそれを理解しているのだろうか。彼は額から一筋の汗を流したが、己の恐怖を打ち払うかのように、両手に拳を握りしめた。

 

「――ヴィオレ・オルゲリックッ!」

 

 茶髪の青年――私の婚約者であるフォルティス・ヴァレンスは、まるで決闘を申し込むかのように口を開いた。その声は強い意志が含まれており、相応の覚悟でこの場に臨んだことがうかがえる。

 私は彼と向き合い、手と足をわずかに広げた。かりにフォルティスがどのような手段に出ようと、対応できる構えである。その威圧を感じ取ったのか、彼は一瞬ひるんだような顔つきをしたが――負けじと私を強い眼差しで睨みつける。

 

 フォルティスは息を吸うと、決心したように言葉を紡ぐ。

 

「この俺と――」

 

 弱者たる彼は、強者たる私に、勇気と気骨をもってして宣戦布告した。

 

 

 

「――ダンスを、踊ってもらおうッ!」

 

 

 

 ……それは、叫んで宣言するような内容ではないのだけれど。

 などと、ツッコむのも野暮というものだろう。この誘い自体は、舞踏会のたびにフォルティスからかけられていたので、もはやわかりきっていたことでもある。

 

 ――なぜフォルティスは、私とダンスすることにこだわるのか?

 

 婚約者だから踊るのは当たり前――などと彼は言っているが、その真意はじつのところ、男としてのプライドにあるのだろう。

 彼は間違いなく、私との“力の差”をはっきり理解していた。腕力ではけっして勝つことができぬ、超えられぬ相手。自分が“格下”に甘んじていることは、男として相当な悔しさがあったに違いない。

 だからこそ。フォルティスは私と“対等の関係”――同じ場所に立ちたいと心の底から願っているのだろう。

 そして対等なカップルの象徴といえば、まさにダンスパートナーがそれである。ゆえに、彼はこうして私を誘っているのだった。

 

「あなたとダンスをする条件。……まさか、忘れてはいないでしょうね?」

 

 私は余裕の笑みを浮かべながら尋ねた。

 そう、彼には伝えてあった。条件をクリアしたならば、ダンスの相手をしてやると。

 彼は真剣な瞳で、「ああ」と重々しく頷く。

 

「――俺が“勝負”に勝ったら、大人しく踊ってもらおう」

「ふっ……威勢のよろしいこと。力量の伴っていない大言壮語は、愚かなだけですわよ」

「……ッ! やってみなけりゃ、わからないぜ……ッ」

 

 信念を秘めて熱い言葉で応えるフォルティス。……きみ、そんなキャラだったっけ?

 冷静に考えると物凄くばかばかしいやり取りをしている気がするが、まあ気にしたら負けである。ここは、このノリのまま行くとしよう。

 

「――準備はよろしくて?」

 

 私は右の手を握り、硬い拳を作った。あらゆる障害を打ち砕く、疾風迅雷の武器が私にはある。負ける気など微塵もしなかった。

 対するフォルティスも、緊張したように拳を掲げた。いつでも繰り出せる姿勢である。

 

 私たちはお互い得物を構えて、開戦の合図を待っていた。

 

 ――二人の目線が交錯する。

 その瞳に宿った意思を感じ取り、タイミングを合わせるのは容易だった。私と彼は、自然と同調して動いていた。

 お互いが右手を繰り出し――勝利を賭けた闘いが幕を開ける。

 

 ――私たちは、覇気を漂わせながら叫んでいた。

 

 

 

「じゃんけんッ――」

「――ポンッ!」

 

 

 

 私がチョキ! フォルティスがパー! 勝ったッ!

 

「――ぐっ!? な、なんでだ……ッ!」

「おーっほっほっほぉ! わたくしの冴えわたった読みに、あなたごときが太刀打ちできようはずがありませんわよッ!」

「くっ……まだだ……。勝負は三本先取の約束だ……これからだぜ」

 

 悔しさを顔ににじませながら、なれど気概を失わず食い下がってくるフォルティス。その心意気やよし! なかなか男の子らしくなってきたじゃないの。

 じゃんけんに勝ったらダンスしてあげる、などという意味のわからない条件にまじめに挑戦する彼の姿も、今では見慣れたものである。毎月、完膚なきまでストレート負けを喫していながらも、こうして舞踏会のたびに勝負を申し込んでくるのだから、その根性はかなりのものだろう。

 

「…………」

 

 後ろから珍獣を見つめるかのようなミセリアの視線を感じるが、無視無視。

 

 私たちは二回目の勝負に構えた。すでに一本を先取して余裕な雰囲気の私に対して、フォルティスは汗を垂らして歯を食いしばっている。勝機の薄い相手にも立ち向かう意気地は、褒めてやりたいところだ。

 

 だが――勝負とは無情なものである。

 

「じゃんけんッ――」

 

 お互いが拳を戦場に向かわせた。その瞬間、私の目はフォルティスの手の動きを捉える。振り下ろされながら、わずかに動く指を確認し――

 

「――ポンッ!」

 

 私がグー! フォルティスがチョキ! 二度目の勝利である。

 

「うぐぐ……」

「おーっほっほ! 相手になりませんわねぇ!」

 

 圧倒的な結果に私は勝ち誇った。二連続のストレート勝ち。もちろん――運任せというわけではなかった。

 振り下ろされる瞬間の手の握り、指の動きを視認して、有利な手を出しているのだ。相手がグー以外を出す心積もりの場合、拳の握り方がわずかに緩まる。そしてチョキかパーは、人差し指と中指の挙動で判断する。チョキとパーが判別できない場合は、チョキを出して最悪でもあいこにすればいい。

 

 アルスとのスパーリングを繰り返すなかで、相手の動きを見極めることに注力していた私は、動体視力がかなり鍛えられていた。フォルティスの手の形を把握することなど容易である。百回やっても彼が勝つことはないだろう。

 

「くっ……。じゃんけんッ――」

「――ポンッ!」

 

 三回目の勝負!

 もちろん私の勝ちである。フォルティスは握った拳を前に出したまま、私のパーを呆然と見つめていた。

 

「な、なぜだ……。こんなに負けるなんて、確率的におかしい……」

「おほほほほっ! “たかが”じゃんけんと思っているかぎり、あなたに勝利はありえませんわよ? どうして負けたのか、次までに考えておくことですのねッ!」

 

 敗北のショックにうなだれるフォルティスに、勝者の高笑いを上げる私。周りの学生たちから白い目が向けられているような気がするが、いまさら構うまい。

 

 私は敗北者たるフォルティスに「では、ごきげんよう!」と背を向けて歩きだした。

 こちらを見つめていたミセリアに、すれ違いながら耳打ちをし、そのままバルコニーへ向けて進む。

 

「……さて」

 

 ――そこは広くはないが、夜空を眺めながら雑談するくらいはできるスペースがあった。

 静かに一休みしたり、あるいは恋人同士がいいムードで語り合ったりするのに、このバルコニーはよく使われているようだった。たしかに見目麗しい男女がここで語らい合ったら、さぞや絵になることだろう。

 

 私は暗い外を見遣りながら、大きく息を吸った。冷えた夜気が、アルコールで上がった体温をなだめてくれる。次のダンスが始まったばかりで、学生たちはホールの中央に意識が向いているだろうし、都合も悪くなかった。

 ――まあ、フォルティスと馬鹿なことをするのはつまらなくないけれど。

 さすがに延々とダンスを眺めながら食べてばかり、というのは正直キツい。だから、この辺でお暇しようと思ったのだ。

 

 私は後ろを振り向いた。そこには、無表情のミセリアが立っている。

 

「――で、あなたは?」

 

 答えを予想しつつも、私は彼女に尋ねた。

 

「このまま残るか、さっさとおさらばするか。どっち?」

「後者」

 

 即答だった。ミセリアにとっては時間の無駄でしかないだろうし、それも納得の返事である。

 ダンスパーティは入場時に出欠を確認されるだけなので、途中でひっそり抜け出せばバレることがなかった。毎回ならともかく、たまになら途中で姿を消しても怪しまれることはないだろう。

 

 私は靴を脱ぐと、「はい」とミセリアに手渡した。彼女はどこか不思議そうな顔で、それを受け取る。

 

「腰を下ろしなさい」

 

 そう言うと、ミセリアは素直にかがむ体勢を取る。私は彼女の背中に右腕を回し、そして膝裏には左腕を通し――そのまま持ち上げた。

 ようするに、お姫様抱っこである。まんま子供の体型である彼女は、抱きかかえてもまったく重みを感じなかった。……もっと食べたほうがいいんじゃないかしら、まじめに。

 

「靴をしっかり持って、眼鏡も押さえていなさい」

「…………?」

「あと、口もしっかり閉じておくこと」

 

 そう言いながら、私はバルコニーの欄干に足をかけた。よっ、と力を入れて、そのまま手すり部分に乗り立つ。眼下には虚空が広がっていた。

 ここは二階だが、一階食堂の天井高がそれなりにあるので、地面までの距離は普通の人間が飛び降りれるようなものではなかった。ましてや、人を抱えていたら怪我は免れまい。

 

 私が何をしようとしているのか、ミセリアはやっと理解したのだろう。その瞳が何かを訴えかけてきたような気がするが、知ったことではなかった。

 

「準備はいいかしら?」

「よくない」

「大丈夫そうね」

 

 ミセリアは諦めたように目をつむると、口をきゅっと閉じた。

 私はふっと笑い、彼女を抱きかかえたまま――闇夜の空に、体を躍らせた。

 

 空中という、体の自由が制限された空間に身を任せる。

 重力が私たちを地へ追いやった。受け身に失敗すれば、常人なら死の危険性さえあるだろう。

 徐々に加速し、迫りくる大地。暗がりの中では、いっそうスリルがあった。

 

 私は高揚感を湧き上がらせながら――足を地面に向けた。

 衝撃はすぐにやってきた。抱えたミセリアの重みが加わり、脚に大きな負担がかかる。咄嗟に腰を落として踏ん張り――私は二足で立ったまま着地に成功した。

 高所からの落下という、慣れない行為のわりには上出来な結果だろう。“気”を巡らした私の肉体は、とくにダメージも受けていなかった。むしろ被害を受けているのは――

 

「……もう着いているわよ」

 

 その言葉に、ミセリアはやっとまぶたを開けた。灰色の瞳には、かすかに恐怖のような感情が残っているようにも見える。なかなか人間らしくていい顔である。

 

「楽しい体験だったでしょう?」

「…………」

「ほらほら、自分で立ちなさい」

 

 足を下ろしてやると、ミセリアはゆっくりと地面に降り立った。

 私は彼女から自分の靴を受け取ると、足裏の土を落としてふたたび履く。

 

 最近はアルスとスパーリングする時に裸足でやっているのだが、やはり靴を脱いだほうが動きやすいと感じていた。踏み込みをかける時や、踏ん張る時の力が明らかに違うのだ。履き物は足を守る役目があるが、私にとっては気を流した肉体のほうが堅固なため、はっきり言って靴は無用の長物だった。

 

「――それじゃ」

 

 私はグラウンドの方面へ体を向けると、後ろに手をひらひら振って言う。その別れの合図に、ミセリアが短く疑問を投げかけた。

 

「どこへ?」

「散歩よ、散歩」

「…………」

 

 わざわざ夜間に学園内を散策する――という行為が奇妙なのは、ミセリアもわかっているのだろう。背中に不審がる視線を感じたが、私はかまわず歩きだした。

 そして数歩を進んだところで――こちらのあとを追う足音が聞こえてくる。どうやら付いてくるつもりらしい。

 

「面白いものは何もないわよ」

「いい」

「……あっそ」

 

 相変わらず、この娘は私に付いて回るのが好きなようだ。まあ、べつに隠し事をするつもりではないので、こちらとしては困りもしないが。

 そのまま私は歩きつづけると、開けたグラウンドに出る。月が出ているとはいえ、照明がないので非常に暗い――が、それはかえって好都合だった。建物側から覗いても、人影を簡単には視認できないはずだ。

 

 整地された空間の中央へ進むにつれて――暗闇の中で何か動く存在が見えてきた。

 “ここ”にいるかどうか確証はなかったが――どうやら、“当たり”のようだ。

 こんな人目の付かない場所に、誰がいるのか。すぐ後ろのミセリアには予想もつかないだろうが、私だけはわかっていた。“事前知識”があればこそである。

 

「……あなたは眺めていなさい」

 

 私は静かに、ミセリアにそう指示した。とくに反論もないようで、彼女は素直に足を止める。

 ――そこからは独りで、暗中の影へと近づいた。

 

 気配を殺す、などというつもりもなかったが。

 どうやら相手は、誰かがここにやってくるなど考えもしていないようだ。まったく気づくことなく、私に側面を向けていた。

 

 一秒とかからず、相手に肉薄して拳を打ち込める距離に立ち。

 私はその男子――杖を振って魔法の練習をしている学生に、笑みを浮かべながら声をかけた。

 

「――ごきげんよう」

「……ッ!?」

 

 その瞬間、彼は凄まじい形相でこちらに振り返り、杖の切っ先を向けた。その反応から、どれだけの動転があったのかうかがえる。まあ、こんな闇の中で声をかけられるとは思うまい。

 そこにいるのがドレスをまとった女子学生だと気づいたのか、彼はあわてたように杖を下ろした。それでも、表情にはまだ警戒心が浮かんでいる。目つきもどこか睨むような雰囲気だった。

 

 私は青年の顔を、見定めるように眺める。

 特徴的なプラチナブロンドの髪は、よく見覚えがあった。いつも昼休みにはグラウンドで魔法の練習をしているので、印象に残らないはずがない。それに加えて――

 本来は知りえない彼についての情報を、私はすでに知識として把握していた。

 

 レオド・ランドフルマ――それが眼前の青年の名前だ。

 この学園は二年制だが、彼は上級生に当たる。とはいえ、たしか生まれ年は同じだったはずである。ミセリアが異例の年少で入学しているように、学生の年齢にはバラつきがあるので、あまり上級生と下級生の間には壁がないのが学園の特徴だった。

 

 学年に違いがあるので、おそらくレオドは私のことを知らないだろう。警戒を少しでも和らげるために、ひとまず会話をしなくてはならない。

 

「……夜の散歩に洒落込んでいたら、あなたの姿をお見掛けしまして。気になって、近くまで来てしまいましたの」

「夜の散歩……? 今の時間は、ダンスパーティが開かれているはずだが」

「ええ。ですから、抜け出してきたのです。……あなたも、わたくしと同じではなくて?」

 

 聞き返した瞬間、レオドは困ったような顔色を浮かべたが、「まあ、そんなところだ」と曖昧に答えた。

 むろん、彼の場合は抜け出してきたわけではなかった。そもそもレオドは“特別な出自”を持つ学生であり、さまざまな面で学園から配慮されているのだ。本人が出たくないと言えば、舞踏会に出席しなくて済むくらいである。

 

 私はレオドの瞳を見つめながら、自己紹介のために口を開いた。

 

「わたくしは、オルゲリック侯爵家の三女であるヴィオレと申します。お見知り置きいただければ光栄ですわ」

「……っ。オルゲリック家のご令嬢か」

 

 もとより私の家が有名なのもあるが、彼にとってはとくに驚きがあったのだろう。何を隠そう、ランドフルマ家の領地は“お隣さん”なのである。もっとも――お互い“帰属する国”は違うのだが。

 レオドはどこか疑うように目を細めつつも、自己紹介に応じて名乗りを上げた。

 

「――私はレーヴァンという名前だ。わけあって家名を隠しているが、無礼をご容赦いただきたい」

 

 ああ、そういえば。そんな名前だったっけ。――学園で通している“偽名”は。

 ここでは生活上の不都合があれば、家名や実名などを隠して過ごすことが許されていた。家柄が高貴すぎて目立つのを避けるため、あるいは平民出身という理由で侮られるのを防ぐため。学園に申請したうえで、理由が正当であると認められれば、本名を秘匿できるわけである。

 

 この青年も、他国からの留学生――つまり“外国人”という身分なうえに、家柄も向こうの国の中ではトップクラスなことから、できるだけ目立たぬよう仮の名で通しているのだろう。そしてダンスパーティにすら出なくとも許されるほど、その血筋は格別なのであった。

 

 ――隣国たるフェオート王国の、王家に連なる血脈でもあるランドフルマ公爵家。

 爵位だけでいえばフォルティスも同じ公爵家なのだが、支配領地がそれほど広くないヴァレンス家と違って、ランドフルマ公爵家は正真正銘の大貴族である。

 オルゲリック家の隣――つまり、戦争になったら真っ先に戦地となる土地を治めているだけあって、その権力も独立国並みであった。ちなみに五十年くらい前にオルゲリック家と領土争いをした過去があるため、私の家と彼の家は犬猿の仲といっても過言ではない。私が名乗った時に動揺を見せたのは、そういう理由もあった。

 

「なるほど、レーヴァン様……ですわね」

 

 仮の名のほうを呼びながら、私はニッコリと淑やかにほほ笑んだ。月夜の静謐なる空間の中で、言葉を交わす美男美女。なかなか絵になる光景ではなかろうか。

 私の可憐なる笑顔があまりにも魅力的だったのか、レオドはハッとしたように息を呑む。その表情に悪魔を目撃したかのような戦慄がうかがえたが、たぶん気のせいだろう。うん。

 

「こんな素敵な夜に出逢えたのも――何かの運命ですわ」

 

 私は笑みを顔に貼りつかせたまま、ドレスの裾に手を伸ばした。

 そしてスカートを上に持ち上げつつ、左足を後方の内側に引いて、右足の膝を軽く曲げる。

 上品で優雅な挨拶とされるお辞儀(カーテシー)。その姿勢を維持するのは女性にとっては難しいとよく言われるが――体幹トレーニングを毎日こなし、片足スクワットを繰り返している私にとっては、なんの負担にもならない行為である。

 

 レオドの顔を見据えながら――私は熱情を込めて、その言葉を紡いだ。

 

 

 

 

「ぜひとも、わたくしと――武闘(ダンス)をしてくださりませんか?」

 





・小ネタ紹介

【女性向け恋愛シミュレーションゲームで運動コマンドを……】

 かの有名な『ときめきメモリアル』シリーズにおいては、あるパラメータを上げようとすると、ほかのパラメータが少し下がってしまうことがあります。この数値のコントロールに失敗すると、特定パラメータを条件とするキャラが攻略できなくなってしまったりします。
 なお、最近は影が薄くなりつつあった『ときメモ』シリーズですが、2019年4月におこなわれたKONAMI開催のイベントにおいて、『ときめきメモリアル Girl's side 4』が発表されました。なんと9年ぶりの新作です。

 ところで……本家のナンバリングは…………?


【カーテシー/Curtsy,Curtsey】

 創作などにおいて、西洋風世界のお嬢様やメイドがよくやっているお辞儀です。Curtsyの発音的にはカートシーなのですが、もともとの語源であるCourtesy(礼儀正しさ、作法)がカーテシーと読むので、そちらと混同されて読みが定着したのかもしれません。
 目上に対して跪こうとする意思を表すお辞儀であり、現実でも王族や皇族など、身分の高い相手への敬礼としてカーテシーが用いられたりします。が、このポーズを取るのは地味に大変なようです。足腰にかなり負担がかかりそうですね。
 いわゆる『悪役令嬢モノ』では、主人公が華麗なるカーテシーをキメるのが一種のテンプレ表現となっていたりします。貴族としての優雅さや品格を表現しやすいネタだからかもしれません。

 世の中のご令嬢の皆さんも、片足スクワットで足腰を鍛練して、美しいカーテシーができるよう頑張ってほしいですね!



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武闘派悪役令嬢 010

 

 ――ただその空間に広がるのは、闇と沈黙であった。

 

 レオド・ランドフルマは、どこか呆けたように私を見ている。こちらが発した言葉の意味など、まったく理解していないかのようだった。

 

 ……いいかげん、この体勢を取りつづけるのバカっぽいんだけど?

 相手の無反応に飽きた私は、カーテシーのポーズをやめて腰に手を当てた。そして突っ立ったままのレオドに声をかける。

 

「淑女の誘いを無視するとは、よい度胸ですわね?」

「い、いや……」

 

 ここでダンスをする意味がわからないのだが――と、彼は困ったような顔つきで答える。まあ正論である。音楽もない野外で、初対面の人にダンスを提案されても反応のしようがないだろう。

 私は肩をすくめると、うそぶくように言った。

 

「だって――レーヴァン様のことを、もっとよく知りたいのですもの。仲を深めるには、体を近づけて語り合うのが一番だと思いまして」

「……申し訳ない。あいにく、女性と交流するつもりはないのだ」

「あら、男性が好みでしたの?」

 

 冗談を投げかけた瞬間、レオドは「そっ、そういうわけではないッ!」と慌てたように顔を赤くして否定した。表情が崩れると、意外と子供っぽさがあって可愛いものである。

 彼はこほんと咳払いすると、努めて冷厳な顔つきを取り繕い、ゆっくりと説明的な言葉を紡いだ。

 

「……私は、騎士を目指しているのだ。何者にも負けない力を持った騎士に。そのためには、誰よりも強くなる必要がある。だからこそ――こうして夜中も、魔法の練習をしているというわけだ」

「ダンスパーティで遊んでいる暇はない、ということかしら?」

「……まあ、有り体に言えば。もちろん上流階級の人間にとって、社交というものが重要なことは知っている。あくまで私個人の都合であって、ほかの方々を否定しているわけではないことはご理解いただきたい」

 

 もっともらしく、無難な回答である。堂々とした口ぶりからは、焦りや不安といったものが微塵もなかった。これで納得させられる、と思っているのだろう。

 だが――残念ながら。

 私はレオドが嘘をついていることを知っていた。

 

「なるほど……騎士を目指しているのですのね。あなたほどの努力家なら、きっとこの国に尽くす高名な騎士になれるでしょうね」

「…………ああ。そうありたいものだ」

 

 答えるまでに一瞬の間があった。当たり前である。彼の出身は隣国であって、ここディレジア王国ではないのだから。

 ただ、“強くなりたい”という想いには偽りがないことも知っている。彼がずっと魔法の練習を重ねていることも、昼休みに何度もこの目で確認していたので、私はよく知っていた。だが――

 

「――ところで。レーヴァン様が得意な魔法は……どのようなものなのでしょう?」

 

 ほほ笑みながら尋ねる。すでにわかりきった事柄なのだが、魔法に関わる話題のほうが彼との会話を引き出しやすかった。

 

「得意な魔法? ……風の扱いは、それなりに自信があるが」

 

 それなり、というのは謙遜で、実際にはかなり自信を持っているのだろう。レオドは昼のグラウンドで、いつも強い風を顕現させていた。魔法は反復するほど、その強度と精確さを増すことができる。おそらく彼が本気になれば、相当に暴力的な風を吹かすことができよう。

 一歩。私はレオドのほうへ近づきながら、ニッコリと言葉を投げかけた。

 

「それでは、見せていただけませんか?」

「……なに?」

「その魔法を――あなたにとってなじみ深い、風の魔法を」

 

 私はレオドから少し離れた部分を指差した。

 

「あそこに……あなたの命を狙う暗殺者がいたとして」

 

 距離は十メートルくらいで、レオドが敵と対峙したら。

 

「あなたは自分の身を守るために、魔法で敵を仕留める――そういう想定で」

 

 勝てば生き、負ければ死ぬ。そんな状況で、彼はどんな魔法を使ってみせるのか。

 

「ただし、風は地面に着弾させてくださいませ。その威力がわかるように」

「ちょ……ちょっと待て。いきなり何を物騒なことを」

「あら、簡単なことでしょう? ようするに、仮想敵に魔法をぶつけるだけですわ。戦闘のプロたる騎士を目指しているのなら、その程度はできて当然ではないかしら?」

「…………できなくは、ないが」

 

 面倒そうな表情を浮かべつつ、レオドは私に冷ややかな視線を送った。

 

「それを見せたら、きみはそろそろ帰ってくれるか? 私は歓談のためにここにいるわけではなく、魔法の鍛錬のためにいるのだ」

「満足する結果を見せていただけたのなら」

「…………」

 

 レオドはため息のようなものをつくと、私に側面を向けた。どうやらお願いは聞いてくれるようだ。

 彼は杖を掲げる。その目の先には、自分の命を狙う殺し屋を幻視しているのだろうか。どこか睨むような面持ちだった。

 わずかに息を吸い込んだ、次の瞬間――

 

 振り下ろした杖の前方に、不可視の力が現れた。

 空気を裂くような風の音。強風どころではない、烈風である。人など容易に吹き飛ばす威力だった。

 やや斜め下の進路で進むそれは、ちょうど敵がいるであろうポイントで地面と衝突する。と、同時に――銃弾が大地を(えぐ)るように土を巻き上げ、夜空に砂塵を沸き立たせた。

 

 なるほど。

 あれに当たったら、無事では済まないだろう。

 たとえ巨漢であっても吹き飛ばされるだろうし、地面に体を打ち付けた時のダメージも相当なものだ。

 

「――これで、今日はお暇していただけるかな」

 

 レオドは私に振り返りながら言った。

 私は笑いながら、彼に尋ねた。

 

「それで敵を打ち倒せたの?」

「……な、なに?」

 

 予想外の返事に困惑するレオド。意味がわからなそうな彼に、私は魔法が着弾した地面を指差して言葉を浴びせる。

 

「――杖を振り下ろす動作が遅い。風の大きさも足りない。弾丸のように小さく圧縮した高威力の風……当たれば必殺だろうけれど、当たらなければ無傷よ。杖を向ける先を見切られて、横に跳ばれたら躱されていたのではないかしら。――たとえ威力が弱くても、範囲の広い風でまず相手の体勢を崩し、回避できない状態にして魔法を打ち込むべきだった」

「……何を……言って……」

 

 呆然としているレオドに、私はゆっくりと一歩近づいた。それにビクリと反応し、彼は怯えるように後ずさる。

 

「初めに言ったはずよ。敵があなたの命を狙っていると。ならば、敵だってあなたの反撃を頭に入れて動いている。敵はただ突っ立っている人形ではないということを、あなたは知らなければならない」

「……な、なんなんだ……きみは」

 

 理解できないものを見つめるような瞳だった。それも仕方ないかもしれない。自分へと襲い来る殺意――それを実体験したことがないのだろう。そして私がアルスとやっているような、模擬の戦闘訓練さえしていない。ただ魔法を磨いているだけ――そう、空手でいえば型稽古をしているにすぎない。

 それは強くなるための必要条件であって、十分条件ではなかった。

 

「――レオド・ランドフルマ」

 

 私は、彼の本名を口にした。その瞬間、レオドの表情は怖いほどにこわばった。いきなり素性を当てられた驚きはいかほどか。彼は苦々しく、うめくような声色で言葉を絞り出した。

 

「なぜ……私の名前を……」

「あら? “敵”について調べておくのは、当たり前のことじゃないかしら?」

 

 オルゲリック家の人間からしてみれば、ランドフルマ家は宿敵と呼んでも過言ではない。領土を巡って争った過去もあって、両者の仲は非常に険悪だった。今はかなり平和な時代になったとはいえ、それでも禍根がすべて消えたとは言いがたい。

 

 私は唇を吊り上げて笑うと、足を開いて腰を深く下ろした。相撲で立ち会う時のような、蹲踞(そんきょ)の姿勢。そして目線は、真下の地面へと向けていた。

 

 その状態のまま――拳を作って腕を引く。

 私は大きく呼吸した。全身に気を巡らせ、肉体の力を高める。魔力を取り込んだ筋肉は超常のパワーを生み出し、そして皮膚は鋼鉄の武器と化す。

 

「ッ!」

 

 慣れ親しんだ正拳。それを繰り出す先は、虚空でも樹木でもない。殴打の対象は――この均された大地だった。

 腕の捻りを加えながら、突き進む右腕の拳。絶えず部位鍛錬を重ねた、人差し指と中指の付け根が地面と衝突する。それでも――私の腕はとまることなく、掘削するかのように下へと沈んでゆく。

 

 ――大地を破壊できぬと誰が決めたか。

 この大いなる世界の地表でさえ、力があれば抉り取ることができる。鍛えた肉体と磨いた技術、それが通用しない相手などない。目の前のすべてを粉砕しうる、無限の可能性がこの手に宿っていた。

 

 周囲に飛び散った土砂と、地面に埋まり込んだ右の拳。膨大なエネルギーによって破壊と摩擦が生じた地中は、()けるように熱かった。もし、これを人体に打ち込んでいたら――結果は考えるまでもあるまい。

 

「――あなたの家では、ずいぶん兄弟仲が悪いそうね?」

 

 私は右手を地面から引き抜きながら言った。

 レオドはランドフルマ家の次男であり、上に歳の近い兄がいる。そして彼の父たる公爵は、まだ四十代ながらも難病を患っており、数年のうちに他界するのではないかと噂されていた。

 

 そうなると、子供が家督を継ぐわけだが――

 長男、つまりレオドの兄はかなり粗暴な人柄で才能も乏しく、次期公爵としてふさわしくないと巷で言われていた。ともすれば、公爵は優秀な弟を後継者として選ぶのではないか。そんな風評さえ流れていた。

 

「……なん、だよ……きみは……杖も、なしに……」

 

 素手で地面を穿ったことが信じられないのか、レオドは呆然と呟いていた。

 私は笑みを浮かべながら、足を前に進めた。その動きを見て正気に戻ったのか、彼は瞳に恐怖と混乱を宿しながら、引き攣った顔を浮かべる。まるで幼い子供がお化けを怖がるかのような、泣きそうな表情だった。

 

「――あなたがこんな他国の学び舎に留学させられたのは、お兄さんの計らいだったのでしょう? 邪魔者は遠くに追いやったほうが、何かと都合がいいものね」

「……っ! な、なんで……そんなことを!」

 

 ランドフルマ家の事情を物知り顔で話す私に、彼はさぞや驚愕したのだろう。その声には戦慄の色が含まれていた。

 実の兄に疎まれ嫌われ、あまつさえ命さえ狙われる運命。いずれ彼のもとには、金で雇われた暗殺者が殺しにやって来るだろう。

 たとえば――こんな誰もいない、静まりかえった夜のグラウンドで。魔法の鍛錬などとぬかして独りでいたら、いともたやすく襲われるに違いない。

 

 そして、その時――はたしてレオドは自分の身を守れるのか。

 考えるまでもない。否である。アニスが関わっていれば、もしかしたら奇跡と幸運が救ってくれるかもしれないが……そんなハッピーエンドを、楽観的に期待するなど愚かしい。

 

 ――これはストーリーの定まったゲームなどではないのだ。

 いつ何時(なんどき)、何が起こるかもわからない。もしかしたら、思いがけぬ事故や事件で一生を終えるかもしれない。そんな普通の現実に過ぎないのだ。

 

「――あなたが死んだら、きっとお兄さんは喜ぶでしょうねぇ?」

 

 私は笑みを深めながら、彼のもとへと歩いてゆく。

 レオドは思考がまったく追いついていないのか、ただ無様に後ずさっている。恐怖に歪んだ顔は、美青年が台無しだった。

 

「そして――私にとっても」

「な……なに……?」

 

 もし、レオドの兄がランドフルマ家を継いだら。

 オルゲリック家にとっては、きっと都合がよいことだろう。無能な敵は味方なのだ。聡明なレオドが死ぬことは、ランドフルマ家にとってはマイナスであり、オルゲリック家にとってはプラスだった。

 

 その意味を理解したのだろうか。

 レオドは咄嗟に杖を構えたが――

 

 私はすでに、彼の目の前まで肉薄していた。

 

「――ッ」

 

 中段狙いの正拳順突き。闇夜を切り裂いて迫りくるそれを――レオドは必死に横に跳んで回避した。

 直前に破壊力を見せていたからこその挙動だろう。当たれば死ぬ、そんな認識は彼の身体操作を高めていた。人は危機が迫ると、やはり火事場の馬鹿力が働くのだろう。

 まだ体勢を戻していないレオドを見定め、私は容赦なく次の殴打を向けていく。

 

「ま、待っ……」

 

 その言葉を無視し、頭部へと突きを繰り出す。レオドは情けなく歪んだ表情のまま、転ぶようにして躱した。いや――転ぶようではなく、転んだのが正しいか。仰向けになった彼の膝は震えていて、起き上がることができない様子だった。

 地にへばりついているレオドを、私は蔑むように見下ろした。これが実戦ならば、彼はもう死んでいる。圧倒的な力の差が、両者には歴然として存在していた。

 

「――弱い」

 

 私は拳を握って見せながら、はっきりとそう言った。

 ただ腕力がないから、技術がないから――そういう話ではない。もっと別次元の、根本的な強弱が私と彼にあった。

 

 強さとは――目標を達成するための総合力。

 相手の命を奪うため、あるいは自分や他者を守るため。肉体や才能、経験や技術を活かして、己の意思を実現させようとする力こそが、強さにほかならない。

 そして、たとえ優れた魔法の才能と技術があろうと――それを行使する精神がなければ、ただの弱者に過ぎないのだ。

 

「――あなたは弱い。凶器を向けられたら、ただ子供のように怯えているだけ。……その手に、武器を持っているはずなのに」

 

 その直後、レオドはハッとしたように自分の手を見た。右手に握られた杖。それは脅威から身を守り、敵を打ち倒すための道具だった。

 

 兵士が握る剣と同じように。

 空手家が握る拳と同じように。

 魔術師が握る杖は――強さを秘めた、偉大なる武器なのだ。

 

 そのことに――ようやく気づいたようだ。

 

「……っ!」

 

 レオドは転んだ姿勢のまま、私に杖を振り下ろした。放たれたのは風の魔法。人間の殴打以上の威力を秘めた風の槌が――私の下腹部を直撃した。

 

 常人ならば、悶絶は避けられなかっただろう。

 その威力に、ドレスが悲鳴を上げるようにはためく。とても運動するような服装ではなかったが――まあ致し方ない。乙女の大事なところが見えないようにしよう。

 

「……それじゃあ、敵は倒せないわよ」

 

 私は拳を振りかぶりながら、右足を踏み出した。レオドは唖然とした様子ながらも、あわてて二度目の魔法を放つ。人体の急所たる水月――みぞおちに、息を詰まらせるような風塊がぶつかった。

 気を巡らせていなかったら、派手に吹き飛んでいたことだろう。先ほどよりも強い猛打に、私は愉快げに笑ってみせる。対して、レオドは恐慌したように泣き叫んだ。

 

「くっ……来るなぁッ!」

 

 ――今度は顔面を狙った魔法。

 それを受けた瞬間、衝撃で髪がすべて後ろに吹き上げられる。暴風によって乱れた頭は、まるで怒髪が天を衝くかのようだった。

 

 三連続で放たれた風の打撃は――

 思ったよりも、拍子抜けだった。

 

 これでは何十発と打ち込まれようと、ダメージにならない。おそらく、レオドは本能的に手加減してしまっているのだ。たとえ襲撃者が相手でも、人間を狙って全力で攻撃することは難しいのだろう。

 ……弱気で甘いお坊ちゃんなら、なおさらのこと。

 

 レオドは悲鳴をこぼし、怯えながら私を見上げていた。その表情は絶望の色で染まり、瞳には涙がにじんでいる。殺さないでくれ、と懇願するような視線が感じられた。

 これがただの喧嘩だったら、終わりどころだろう。だが――

 

「命を狙う敵が、情けをかけると思う?」

 

 相手が、はなから殺すつもりであったのなら。

 命乞いなど、なんの役にも立たない。

 残されている手段は――あらゆるすべを駆使して、敵を倒すことのみ。

 

 私は寝転ぶレオドの傍らに立った。

 真下には、彼の頭がある。容姿端麗な顔も、今ではみっともなく歪んでいた。弱き者の表情――それを潰さんと、拳に力を入れる。

 

 (ヤる)気だ――レオドはそう確信したのだろう。

 私が笑って右腕を動かした瞬間、彼は横に転がるように動いた。必死の反応だった。

 

 ――硬いモノを打ち付ける音が鳴り響く。

 まるでハンマーを力いっぱい振り下ろしたような――いや、それ以上の打撃音。

 地面が、抉れる。

 力に耐えきれない大地が、下へ沈む。

 

 飛散した土が、ドレスのスカートを汚した。だが、ここは舞踏会ではない。見てくれを気にする必要がどこにあろうか。

 勝つか負けるか。生きるか死ぬか。

 月光の下におこなわれるのは、煌びやかで優雅な踊りではなく――泥臭い武闘だった。

 

「いィ顔つきじゃないのォ」

 

 高揚感を覚えながら、私は唇を歪ませて言った。

 ぎりぎりで突きを回避したレオドは、汗を流しながら荒い呼吸をしていた。心臓がどれだけ高鳴っているのか、表情だけで伝わってきそうだ。

 そのアドレナリンが駆け巡った状態は――少しだけ、彼に強さを与えてくれるだろう。

 

「てェェェィッ!」

 

 私は叫びながら、次なる拳を繰り出す。いまだ起き上がれていない彼は、決死の形相でふたたび転がった。

 

 ――地面が穿たれ、大地が揺れる。

 樹木とは比較にならないほどの硬さに、拳が痛みを覚えた。

 だが、それは喜ばしきことである。まだこの手には、成長の余地があるという証なのだから。なんのダメージもなく大地を砕けるようになるまで、もっと鍛錬を積み重ねたかった。

 

 私はまだ、強くはない。

 人間を、金属を、大気を、大地を。もっと意のままに捻じ曲げ、激しく打ち壊す力を持たなければならない。

 衝き動かしているのは――生存欲求などではない。

 目的など、とうの昔から変わっているのだと自覚していた。

 ただ私が、純粋に欲するのは――

 

 圧倒的な力と。

 血がたぎるような闘争だった。

 

「さァ……いつまで、そうやって逃げ回っているのかしら」

 

 拳を振り上げる。

 逃げ回っているだけでは、いつか当たってしまうだろう。

 そうすれば――死。

 

 それをよく理解しているであろうレオドは――杖を振った。

 風魔法――ではなかった。

 

 迫りくるのは、橙色の塊。炎が呑みこまんと、私の頭へ襲いかかる。反射的に後ろへ躱し――顔面を撫でるような熱風の気配に、興奮の笑みを浮かべた。

 

 ――死の気配は、心と体を温めてくれる。

 一度は前世で死を経験した身だからだろうか。あるいは、さんざん殺される悪夢を見たからだろうか。

 この身に向けられる凶器は、もはや恐怖の対象ではなかった。スリリングなオモチャか、それとも甘美なデザートか。なんにせよ――遊びつくし、食らいつくす対象でしかなかった。

 

「……はッ、ぁ、はッ……ッ」

 

 立ち上がり、苦しそうな呼吸をするレオド。その顔は恐怖に支配されていたが――杖だけは構えて、魔法を繰り出せる体勢だった。

 少し前とは違った、戦う気概のある立ち姿。

 乱れた髪、涙と汗に濡れた顔面、そして土に汚れた服。いずれも美青年にあるまじき状態だったが――それでも。

 

 いま大地に足をつけ、武器を構えているレオド・ランドフルマは。

 ――男らしく、勇ましく、格好よさに満ちあふれていた。

 

「いい面構えよォ……。その態度――」

 

 私は皮肉げに笑って言う。

 

「お兄さんにも……見せてあげたら、イイんじゃないかしら?」

「……っ! うる、さい!」

 

 兄から疎まれ、弟を排除しようという思惑に気づきながらも、それに抵抗せず流されるままに学園(ここ)に流れ着いたレオド。

 強くなりたいなどとほざいて魔法を鍛錬していても、その奥底にある臆病さと消極さを打ち消せるはずがない。

 

 その性根を変えさせるならば――弱さを失くすのならば。

 ただ暴力的で圧倒的な――強い力で打ち砕くしかなかった。

 

「私に反抗できるンなら――お兄さんにも立ち向かったらどう?」

「……黙れよ! 僕に話しかけるなぁ!」

 

 口調が変わった。恋人のように親しい相手にしか使わないはずの一人称。もはやなりふりに構う余裕がなく、地が出ているのだろう。

 

 それでいい。

 本能を剥き出しにするのだ。

 すべてを曝け出し――闘争心を湧き上がらせるのだ。

 

 私は両腕を大きく広げた。

 まるで、相手を威嚇するかのように。

 あるいは、すべて受け入れるかのように。

 

 レオドは怒りと敵意によって、私への恐怖を塗りつぶしながら――杖を横に振った。

 それは一点集中の風矢ではなく……範囲の広い強風だった。

 全身に受ける風は、体を揺り動かした。常人であれば、バランスを崩していたことだろう。

 

「……正解よ」

 

 私は呟きながら――次いで来る、弾丸のような風を睨みつけた。

 横に広がる避けがたい風で自由を奪ってから、素早く本命の攻撃をおこなう。

 私のアドバイスをこんな時でも実践する度量は、褒めてやりたいところだった。

 

「でも――」

 

 己に向けられる、鋭い風の刺突。

 直感でわかった。これは打撃ではなく――人体を切り刻む鋭利さを秘めている。

 ()らなければ、()られる――追い詰められたレオドは、殺傷をも厭わない手段を選んだのだろう。

 

 手加減を棄てた一撃。もし普通の人間がこれを受けたらどうだろうか。おそらく腹部を裂かれ、内部の臓器まで損傷するに違いない。

 怒りを魔力に変えて放った必殺の風魔法は、それほどの威力があった。

 

 だが――

 

「それじゃあ……」

 

 ――腹筋に力を入れる。

 割れるまで鍛えられた腹部は、鋼鉄のような肉に覆われていた。

 それだけではない。筋肉から皮膚まで浸透させた“気”は、肉体を常人とは比べ物にならないほど頑強にさせるのだ。

 鋼鉄のような筋肉を――鋼鉄へ。

 すべての気を防御に集約した私は、たった一瞬だが――生物を超えた強度に身を包んだ。

 

 ――衝撃ッ!

 

 腹部で刃が荒れ狂った。

 ドレスをずたずたに切り裂きながら、後ろへ過ぎ去っていく夜風。

 衣服を削り取られて(あら)わになった肉体は――傷が一片たりともついていなかった。

 ……乙女の素肌は、サービスシーンというやつである。

 

「――私は(ころ)せない」

 

 にィ、と笑みを浮かべた瞬間。

 レオドは呆けたように口を開き、腕を弛緩させた。

 

「……ば……化け物……」

 

 杖を構える様子はない。戦意を喪失しているのは明らかだった。

 勝てっこない。無理だ。逃げなければ。

 ――そんな内心が手に取るようにわかった。

 

 レオドが背を向けた。

 闘争から逃走しようとしている。それは正しい判断だろう。負ける戦には撤退を選ぶのが基本だ。

 だが――

 これは“逃げられない”闘いなのだ。

 

「ひぃ……」

 

 レオドが悲鳴を上げて反転した直後、私はすでに足を踏み出していた。

 

 運動能力の差など――比べるべくもない。

 もし私が彼と徒競走をしたら、単純な時速だけでも二倍以上の違いが出るだろう。

 そして、競技ではなく戦場での動きのスピードともなれば――五倍はくだるまい。

 

 疲労、恐怖、混乱。

 それらは重しとなって、レオドの心身を悪化させる。体の軸、手足の動き、そして逃走経路の選択。何もかもがでたらめだった。

 その背に追いつくのに、苦労など一つもない。

 地面を蹴った時には、すぐそこに彼の肉体があった。

 

「――え」

 

 胸板がぶつかった時、レオドは弾き飛ばされるように尻餅をついた。

 転んだ彼に対して――私は“正面”で手と足を広げていた。

 

 ――横を通り過ぎ、前に回り込んで進路を塞ぐ。

 そんな単純な行為も、必死になっていた彼には認識できなかったのだろう。

 眼前に立っている存在を、レオドは絶望的な目で見上げていた。

 

「……っ」

 

 ふらつきながら立ち上がり、彼はふたたび後ろを向いて逃げようとする。

 だが、レオドは一歩を踏み出すことすらできなかった。

 ――その眼前には、私が立っていたのだから。

 

「……う、うあぁぁッ!」

 

 叫びながら、後ずさり。

 その右手の杖を、私へ向けようとした。

 レオドの精神が魔法を成すよりも先に――

 

 私は右足を軸にして、左足を動かした。

 下から掬い上げるように。

 上段前蹴上げ、いわゆるハイキック。

 ドレス姿でやるような技ではないが――問題あるまい。レオドには視認すらできない速度だったろうから。

 

 彼が腕を振り下ろした時――ようやく、その手から杖が消えていることに気づいたのだろう。呆然と、無手になった右手を見つめていた。一瞬で手元から消えた杖は、まるで手品(マジック)のごとく。彼が理解できたのは、杖を――唯一の武器を失ったということだけだろう。

 

 全身から力が抜けたように……レオドは膝をついた。

 

「僕が……何をしたって……いうんだよぉ……」

 

 降りかかった暴力に、理不尽な現実に――レオドは涙を流す。まるで子供のような顔だった。

 そう、何か悪いことをしたわけではない。

 彼は悪人ではない。それどころか、性根は十分に善人と呼べるような人間だ。私はそれを知っている。

 

「あなたは悪くないわよ」

 

 こんな目に遭う(とが)など、レオドには一つもない。私が一方的に彼をなぶっただけだ。誰がどう見たって、“悪役”は私だった。

 そう――この世には、悪人が存在するのだ。善良なる人間を脅かす、悪意に満ちた者がどうしても生まれる。それは認めなければならない現実だった。

 

「あなたは何かしたから、こんな場所にいるの?」

「え……?」

「あなたが悪いことをしたから、こんな故郷から離れた場所に追いやられたのか――って訊いてるのよ」

 

 次期公爵の地位を欲する兄によって、わざわざ外国へ遠ざけられたレオド。それは彼の責任なのか。

 そして兄の雇った暗殺者に命を狙われるということも、彼の罪によるものなのか。

 

 そんなわけがない。レオドは何も悪くないのだ。

 だが――敵はそんなことなど関係なく迫ってくる。同情などしてくれない。容赦などありはしない。無慈悲に害を加え、そして奪っていくのだ。

 

「あなたのお兄さんが、あなたを殺そうとした時――今しているように嘆くの? 僕が何をしたんだ、って言って哀れに殺される?」

「それ、は……」

 

 レオドはわかっているはずだ。ただ黙して流されているだけでは、いずれ破滅が待っていることを。

 だからこそ、彼は学園に来てから魔法の鍛錬を続けてきたのだろう。強くなりたいと。悪意に打ち勝つ力が欲しいと。

 

 でも――それだけでは、彼には足りなかった。

 技術(テクニック)はある。たぶん魔法自体はフォルティスより上の力を持っているだろう。テストなら満点に近い成績を収めるに違いない。

 

 だが、それでは十分ではなかった。

 もっとも必要な、強さにおいて大事なもの。

 それを彼は理解しなければならない。

 

「――今から、あなたを殺す」

 

 私は腰を低くし、右腕を引いて殴打を繰り出す構えを取った。

 正拳突き。それがレオドの身に当たれば、破壊的な衝撃が彼の命を一瞬で刈り取るだろう。

 その死の宣告に――レオドは顔をゆがめて懇願した。

 

「も……もう、いいだろぉ! 僕は……戦えないっ! 杖だって、ない! ほらぁ!」

 

 レオドは、その右手を開いて見せる。力を顕現するための道具はそこになかった。彼は武器を持っていなかった。

 今の彼は、力を持っていなかった。

 

 ――本当にそうだろうか?

 杖がなければ、為すがままにされるしかない? ……そんなわけはない。

 

「――レオド・ランドフルマぁッ!」

「……っ!?」

 

 私の一喝が、夜の帳を打ち震わせた。

 右手の拳に力を込めながら、彼を睨むように見据えながら。

 私の最強の武器(こぶし)を握りしめる。

 

「抗うことを諦めた時――あなたは死ぬ」

 

 彼には才能がある。技術もある。肉体だって人並みに健康だし、故郷には彼を支持する派閥(なかま)もいるだろう。

 残りの必要なものは――(ハート)だった。

 

「私を打ち倒してみせなさい」

 

 そんなことは無理だ。

 私もレオドも、それは知っている。両者の戦闘能力には、絶望的な開きがあった。何百回、何千回と闘っても、私の勝ちは揺るぎないだろう。

 

 それでも――意志を失ってはいけない。

 迫りくる脅威に対して、諦めてはいけない。

 生き残るための、最大限の努力をするのだ。

 

「…………」

 

 レオドは苦しそうな表情で、よろよろと立ち上がった。

 そして何もない右手を眺め――その四指を折り曲げ、残った親指で締める。拳骨の作り方は、なかなか悪くなかった。

 

 その拳を――彼は後ろに引いた。

 フォームはひどく適当だったが、それでもよかった。いま大事なのは、レオドに闘志が宿っているということだった。

 

「……ぅああぁぁぁッ!」

 

 強大な敵に立ち向かう恐怖感からか。彼は涙を流しながら、感情的な叫び声を上げた。

 こちらに向けられる拳は――まるで遅く、威力が乗っていなかった。敵をノックアウトさせるには不十分な殴打である。その稚拙な攻撃は、しかし――彼にできる最大限の、誇るべき反抗だった。

 

 ――レオドの右拳が、私の左頬を打ち付けた。

 

 アルスとは比べ物にならないほど、貧弱な殴りだが――

 その拳頭に籠った力は、あらゆる悪意を打ち砕くのに十分な代物だった。

 

 微動だにせず、レオドの打撃を受け止めた私は。

 構えを解き、ニィッと口角を吊り上げて笑った。

 

「――上出来よ」

 

 彼が命を落とさない保証などない。

 もしかしたら、どこかで暗殺者に狙われて死ぬかもしれない。

 だが――けっして諦めず、敵に立ち向かう度胸が得られたのなら。

 ほんの少しは、これからも生きながらえる確率は上がることだろう。

 

 笑ってみせる私に、レオドは呆気に取られたように固まっていたが……その拳を、あわてて私の頬から引き離す。

 彼は何か言いたげに口を開こうとしていたが、もはやお喋りを重ねるまでもないだろう。あとは彼自身が、これからどう生きるか。それが重要なことだった。

 

 ――私はレオドに背を向けると、何事もなかったように歩きだした。

 ダンスで火照った体を、夜気がなだめてくれる。

 彼のもとから立ち去りながら、私はただ一言だけ声を残した。

 

 

 

「――何者にも屈さぬ、強き男でありつづけなさい」

 

 

 

 いずれオルゲリック家の隣に、若き強き領主が生まれることを――

 私はせつに願った。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ――私が戻ってきた時、ミセリアはなんとも言えない表情で目をしばたかせていた。

 言い表すならば、困惑、という感情だろうか。ひっそり私とレオドのやり取りを眺めていたようだが、私の行為と思惑についてはまったく理解不能だったのだろう。まあ、理解できてしまったら狂人の域なのだが。

 

「…………」

 

 ミセリアは徐々にいつもの無表情に戻ると、私の腹部に視線を向けた。レオドの魔法で切り裂かれたせいで、あられもない姿になっているのが気になるらしい。……寮に帰るときは、人目を避けて窓から部屋に入るべきだろう。

 

 彼女は自分のお(なか)に手を当てると、私と比べるように視線を動かす。両者の筋肉量の差は、はたしていかほどか。ミセリアの場合は間違いなく運動不足なので、さぞや貧弱な体をしているに違いない。

 

「毎日、腹筋を千回やるといいわよ」

「やらない」

「……あっそ」

 

 拒否の即答に私は肩をすくめ、私は寮に向かって歩きだした。――が、すぐに足をとめた。

 ミセリアが私のドレスを、後ろからつまんでいたのだ。まだ終わっていない、やり残したことがある――そう伝えるかのように。

 

「……何よ?」

 

 眉をひそめつつ尋ねると、ミセリアはぽつりと言葉をこぼした。

 

「グラウンド」

「はい?」

 

 なんかあったっけ?

 

「グラウンド、穴だらけ」

「…………」

 

 私は無言で後ろを見遣った。たぶん、あそこにはまだレオドがいるだろう。とぼとぼと戻って、空けた穴に土を入れ戻す作業をするなんて――滑稽どころの話ではなかった。

 ひとは勢いで行動すると、なかなかその後のことを見落としがちである。

 うん、気をつけよう……。

 

「……明日、早起きして埋めるわ」

 

 私が悄然と呟くと、ミセリアはどこか満足げにこくりと頷くのであった。

 



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武闘派悪役令嬢 011

 

 ――いつからだろうか、この身の五感が鋭くなっていることに気づいたのは。

 

 肉体に“気”を巡らせることによって、身体能力を向上させられることについては言うまでもない。普段の日常生活においても少量の気をつねに流し、体に馴染ませることをずっと続けてきた。

 そうしているうちに――身体的な強度以外の部分についても、いつの間にか向上しているようだった。

 

 たとえば――いま食堂にて、学生たちが昼食を取りながら雑談を繰り広げている場面で。

 この耳に意識と気を集中させれば、ざわめく音の中からどんなかすかな声も、選り分けて聴き取ることができていた。

 

『――この前の法学の試験、どうだった?』

『ぜんぜんー。あんなの覚えられないよ……』

『魔法関係の授業だけあればいいのにねぇ……』

 

 はるか遠くの席で交わされている会話は、学園での授業に対するぼやきだった。

 ここでは魔法だけでなく、国の歴史や実定法学、簡単な基礎医学などの学問も必修となっている。幅広い知識と教養は、貴族や上流階級の人間として身につけておくべきものと見なされていた。魔法に関わらない授業は、多くの学生たちから好まれていないようだが……私はけっこう気に入っていたりする。

 

『あー、でもアルキゲネス先生の授業は好き』

『わかるー! 役立つ内容が多いよね』

『ねー。わたしも貧血気味だったけど、教えられたとおりにしたら治ったし』

 

 ラーチェ・アルキゲネスの基礎医学講義は、病気や傷痍に対する実用的知識を教えることで有名だった。貧血の時は紅茶を控えろ、などという雑学的なアドバイスが授業中にあったが――タンニンが鉄分の吸収を阻害して貧血を招くことは、科学的見地がなくとも経験的に理解されているらしい。なかなか面白い話である。

 

 もともとこの魔法学園は、戦争が激しかった時代に士官を養成するために建てられた学校が前身であるため、一部の授業はとくに実用志向だった。魔法だけ巧みであれば良いわけではない――そんな教育方針は、理にかなっていると言える。戦争において、闘争において、勝利に必要となるのは――さまざまな知識と経験、そして能力の総合力だった。

 

『――えっ!? まだ食べるんですか、あの人!?』

『あー。あなた新入りだから、知らなかったのね……。あのお嬢様、食事はいつも五人前が基本なのよ』

『ご、五人前!? どんだけですかっ!? 同じ女性に思えないですよ……』

 

 彼方から聞こえてくるのは、食事を運ぶ給仕たちの会話だった。どうやら片方は、最近働きはじめたばかりの新人らしい。その声色からは驚愕と恐怖の感情がにじみ出ていた。

 

「…………」

 

 おかわりした三皿目を平らげて、次の皿が来るまで暇を持て余した私は――ふと、隣の席をちらりと見た。

 そこにはミセリアが、遅々としたペースで食事を口に運んでいる。鶏肉のソテーをもぐもぐと咀嚼している表情は、まったくの無感情である。食べ物を味わうという行為を知らなそうな顔だった。

 

「……あなた、もうちょっと美味しそうに食べたら?」

 

 ごっくん、と口に含んだものを嚥下したミセリアは、「おいしい」と無表情で言い放った。どう見ても、おいしそうには見えない。……この子、ぜったい食レポに向いていない。

 

 ミセリアがのろのろと食事を進めるなか、ようやく給仕が次の皿を持ってきたようだ。私とそう変わらない年頃の新入り給仕は、恐ろしいものに接するかのような態度で「ど、どうぞ……」と料理の皿をテーブルに置く。その声はわずかに震えていた。

 ……そんなに怖い雰囲気をしているのかしら、私は。

 微妙にショックを受けつつ、ふたたび食事に手をつけはじめ――

 

『――ねぇねぇ、知ってる? 最近、昼休みに変なことをしてる男子』

『あっ、グラウンドのあの人たちでしょ』

 

 その声を耳に拾った瞬間、私はフォークを持った手をとめた。

 昼休みのグラウンド……。思い当たるのは、“彼ら”だった。

 

『なんかさー。前からヴァレンス家の子がランニングしてるのは見たけど……』

『もう一人のほう……レーヴァン様だっけ? あの出身不明の、素敵な方』

『そうそう、女子からひそかに人気の殿方。……なんで、あの人まで走るようになったのかしら』

『体の運動が流行り……なのかなぁ……』

 

 彼女たちが話題にしているのは、フォルティスとレオドのことで間違いなかった。

 あの舞踏会の日以来、どうやらレオドも何か思うところがあったらしい。それまで魔法の練習に(ふけ)っていたはずの彼は、まるで別人になったかのように走り込みをするようになっていた。肉体の圧倒的な力の差を目の当たりにして、体力と筋力も強さに必要なのだと思い至ったのかもしれない。

 

 肉体の錬磨に励む美青年の二人。

 ……うーん、いい絵ね。私としては、もうちょっとあの子たちは筋肉をつけるべきだと思うけど。

 

『せっかくカッコイイ人たちなのに……なんで汗臭そうなことをするのかしらねぇ』

『ねー。力仕事をする平民じゃないんだから……』

『貴族らしく、優雅であってほしいわ……』

 

 ……なんですって?

 洗練された肉体的強度が生み出す、純然たるパワーの美しさを知らないなんて……。

 哀れな娘たちなこと。煌びやかで生っちょろい世界で生きる、ぼんぼん育ちの貴族の典型というやつかしら?

 

「フォーク」

 

 隣からミセリアの声がした。

 自分の手元に目を向けると――私が持っているフォークの柄が、直角にねじ曲がっていた。

 

「あら、ごめんあそばせ」

 

 私はうそぶくように言うと、片手のままグイとフォークをもとの形に戻す。銀食器はどうも柔らかすぎていけない。……鋼鉄の食器が欲しくなるわね。

 そんな冗談じみたことを考えつつ、私はふたたび料理を口に運びはじめる。食事はいくら取っても、取りすぎるということはなかった。この肉体に“気”を流して動かすには、それだけのエネルギーが必要なのだ。

 

『――次の授業、ラボニ先生の歴史学かぁ』

『お昼のあとの座学は眠くなるよねー』

『あの先生、話し方もお堅いしね……』

 

 黙々と食事を進めつつ、ふいに耳に入ってきた声に私は目を細めた。

 

 フェオンド・ラボニ――学園の中でもとくにベテランの教師で、落ち着いた性格の初老の男性だった。その年齢と経験から、教師の中でもいちばん上の地位に立つまとめ役となっているようだ。貴族としても由緒正しい家柄であり、いずれは学園長に就任することも確実視されている、実力のある人間だった。

 実際に何度も授業を受けているが、話を聞くかぎり相当な知識と経験が窺えるし、魔法の技能についても秀でた力を持っていた。――教師の鑑とも言えるだろう。

 

 ――そんな彼が、悪魔の力を求めているということを私は知っていた。

 

 この世界には、私たちの住んでいる場所とはまったく異なる“世界”があるらしい。それを言い表すならば――魔界だろうか。

 千年以上も昔。世界は今よりも混沌としていて、人間の領域と魔の住人の領域が交じり合っていたと言われている。だが古代の人々は、なんらかの手段によって人間と魔の世界を隔絶させたようだ。結果的に、魔の住人――デーモンの存在は、われわれにとってはおとぎ話の中の存在になってしまった。

 

 だが――長い歴史の中で、幾人かの人間は魔界とつながる手段を見いだし、さらにその方法を書物にも残していた。

 学園の図書館に眠っているであろう、その魔本を解読し扱えば、ふたたび現世にデーモンを()び出すことも可能である。――いずれラボニが、そうするように。

 

 なぜ彼は、デーモンを召喚しようと思ったのだろうか。

 その疑問は、これまでずっと抱いてきた。授業でラボニの様子を見るかぎり、とても欲にまみれた悪人のようには思えない。むしろ真逆で、真面目で誠実なタイプの人物だった。

 そして――私の頭に入っている“知識”からでも、ラボニの真意というのは見極めることが難しかった。

 

 魔本を利用してデーモンを召喚した彼は、学園の貴族子弟を人質にとって、王国に「もっとも強い騎士を連れてこい」と要求する。その騎士をデーモンに殺させ、武威を示すのが狙いだったのだろうか。だが――反抗に出たアニスたちによって、デーモンは斃されて計画が崩れ去ってしまう。……それが“ストーリー”だった。

 アニスが行動をともにする人物、あるいはそれまでの選択によって差異が存在するものの、そのルートの話の筋はあまり変わらない。主人公の聖なる魔力はデーモンを弱化して、最終的にヒーローによって打ち倒されるのだ。

 

 力を失い、弱くなったデーモンを見て、ラボニは絶望的な表情を浮かべていた。だが――ミセリアの場合と同じように、最後までその心中の告白は存在しなかった。だから彼の願望や目的については、客観的事実と描写から推測するしかなかった。

 

 ――もし私がその場に居合わせたら、どうだろうか。

 アニスの魔法を浴びて、学生にも負けてしまうくらい弱体化したデーモンが、必死で戦う姿を目にしたら。

 

「――当然、でしょうねぇ」

「…………?」

「独り言よ」

 

 不思議そうな視線を送ってくるミセリアに、私は笑みを浮かべながら答えた。

 

 以前はわからなかったことが、今ではよく理解できていた。

 強大な力を持った圧倒的存在が、そのパワーを失ってしまったら。

 

 きっと――私だって、喪失感に絶望するだろうから。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 その日の放課後。

 図書館の扉を開けた時、目に入ってきたのは――息も絶え絶えにカウンターに突っ伏している、リベル・ウルバヌスの姿だった。

 

「…………何をやっていらっしゃるのですか?」

 

 私は呆れながら、疲労困憊の様子の司書に尋ねた。ウルバヌスはようやくこちらに気づいたのか、「あっ、すみませんっ」と慌てたように顔を上げる。よっぽど大変なことでもあったのだろうか。

 

 ふと、私は書庫の入り口近くに木箱が置いてあることに気づいた。中には本が積まれているようだ。――なるほど、と私は思い当たった。

 図書館には半年ごとに本が一括納品されるようだが、あの箱に入っているのが新しい本に違いない。そういえば昼休みに、荷物を抱えて学園に出入りする人々を見かけた。あれは書籍を取り扱う業者だったのだろう。

 

「あはは……本を抱えてあちこち移動するのは、なかなか重労働でして……」

 

 ウルバヌスは弁解するかのように、苦笑いを浮かべながら言った。

 私は彼の体を一瞥したが、その腕は成人男性の平均と比べても細く、とても膂力があるようには見えない。部屋に引きこもって読書をするのが趣味な、優男(やさおとこ)らしい軟弱な体つきだった。

 

「とりあえず、置き場所の近い新書は片付けたのですが……まだ作業が終わりそうになくて」

「……手伝いましょうか?」

「い、いえっ! そんな、ご迷惑をおかけするわけには」

「先生おひとりでは、大変でしょう? それに――先日は、本を紹介してくださいましたし。お礼に、という形でいかがかしら?」

 

 そう、図書館に来たのはべつに気まぐれではなかった。私はある情報を得るために本を探していたのだが、この前は彼から役立ちそうな書物を教えてもらったのだ。今日ここを訪れたのも、その本を続きを読むためであった。

 納本されたものを整理するのは、よほど苦労する仕事なのだろうか。ウルバヌスは迷ったような表情をしつつも、「では、一つだけお願いが……」と提案をしてきた。

 

「その本が入っている箱を、私と一緒に運搬していただけませんか? 書庫の奥のほうに持っていきたいのですが……どうにも重くて。反対側を持っていただいて、運べたらいいなと……」

 

 おずおずとした口調でお願いされた内容は、単純な荷物運びだった。あれが重い? と眉をひそめてしまったが、なるほど彼のような運動不足の青年には重労働なのだろう。

 ……仕方がない。手伝ってあげるとしよう。

 

「――あれを、書庫の奥に持っていけばいいのですわね?」

「ええ。地下の閉架書庫の入り口付近まで運べたら、残りの仕事がやりやすくなるので……」

「お安い御用でしてよ」

 

 私は木箱のところまで近寄ると、ひょいとそれを持ち上げた。あまりの軽さに、拍子抜けしてしまう。これでは両手で持つまでもないので、片手の上に乗っけて運ぶことにしよう。

 

「あ、あの……二人で……」

「必要ありませんわ」

「……ち、力持ちなんです……ね……?」

「ウルバヌス先生が非力すぎるのではないかしら」

「そ…………そうですか……」

 

 ショックを受けたような反応の彼に、私はニコリとほほ笑んで――そのまま書庫に入っていった。

 

 書庫内は本の日焼けを防ぐために、採光窓のない暗所になっている。以前の私はその暗さに、普通の魔法を使えない不便さを痛感していた。肉体の力を高めるだけの“気”の力では、日常の生活において劣る場面もあると。

 

 ――だが、それは間違っていた。

 いま、暗い書庫を歩く私の足取りは、平時とまったく変わらなかった。視界の光はたしかに少ない。しかし、その場所を移動するのになんの不都合もなかった。

 空間がわかるのだ。はっきりとモノの位置を捉えることができる。肉体と気を運用しつづけて向上した知覚は、暗闇でも活動できる能力をいつの間にか私に授けていた。

 

 ――もし、闇夜で敵と闘ったとしても。

 私は相手の攻撃を見逃すことはないだろう。この身に迫る脅威を認識し、対応する自信があった。闇討ちなどというものは、私にはもはや意味をなさない行為である。

 

 指定されたとおりに荷物を運び、ついでに一冊の本を書架から取り出して、私は図書館の読書スペースまで戻っていった。こちらの姿を確認したウルバヌスは、まさかこれほど早く私が戻ってくるとは思っていなかったのか、慄いたような表情を浮かべていた。

 

「……お……お早いですね……」

「体を鍛えていれば、この程度は造作もないことですわ」

「か、体ですか……」

「ええ。ウルバヌス先生も、もう少し筋肉をつけたほうが良いのではないかしら」

「な、なるほど……」

 

 顔に困惑を浮かべながら、ウルバヌスは自身の上腕に手を触れた。その貧弱な肢体は、私より二回りは細いことだろう。もしこちらが暇を持て余していたら、食事とトレーニングのサポートをしてやりたいくらいだった。

 

 ……さて。

 司書の手伝いを終えた私は、読書机に赴いて持ってきた本を広げる。前回に中断したページを開くと、章のタイトルが目に入った。

 

 ――『デーモンの階級について』。

 今となってはほとんど発行されていない、魔界についての情報をまとめた書物だった。ちなみに著者はそれなりに有名な大学教授のようなので、内容もデタラメというわけではないはずだ。

 ――敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。

 いずれ対峙するかもしれない相手について調べるのは、私にとって必要なことだった。

 

「……爵位、か」

 

 本の記述に目を通しながら、ぽつりと呟く。

 

 どうやらデーモンの世界でも、その能力と支配領地によって格付けがなされているらしい。それは人間世界――つまり、私たちの国と同じだった。

 五つの爵位――公・侯・伯・子・男。

 人間世界においては、伯以上の爵位の権威や価値はピンキリだったりするが――魔界では、その階級は絶対的な上下関係があるらしい。上の爵位になるほど、その強さは比べ物にならなくなるのだとか。

 そして下位のデーモンは姿かたちが異形で禍々しいが、上位になってゆくと見た目が人間に似たものとなるらしい。古い戦記やおとぎ話ではどれも、高位のデーモンは知性と気品と武力を兼ね備えた存在として記されている。けっして横暴な化け物ではなく、むしろ人間と近しい存在として見られていたようだ。

 

 ――ラボニが召喚に成功したデーモンは、どうだったろうか。

 黒紫の体色に、巨大な肉体。その手には禍々しい爪が、刃物のように伸びていた。いちおう片言で言葉も発していたが、人間とのコミュニケーションを取ろうという気配など微塵もなかったはずだ。

 本の情報と照らし合わせてみれば、おそらくは最高でも子爵級のデーモンだったのではないか。

 と、いうことは――

 

「ふふふ…………」

 

 私は笑いを漏らしながら、読みおえた本を閉じた。窓の外は、ほのかに赤くなっている。そろそろ図書館を出なければならない時間だろう。

 本を書庫に戻した私は、出口のほうへ向かおうとした。そのタイミングで、カウンターで何か記帳作業をしていたウルバヌスと目が合う。彼はどこか引き攣ったような笑みを浮かべて、おずおずと声をかけてきた。

 

「お……お帰りですか?」

「ええ」

「ず、ずいぶん機嫌がよさそうですね……」

「有益な情報が得られましたから」

「そ、そうですか。それはよかった」

 

 ウルバヌスは詳しく聞こうとはしてこなかった。まあ、言っても理解されないだろうから好都合だ。私の“知識”にあるデーモンよりも、さらに強い存在がいることを知って喜んでいるなど、誰にも言えるはずがなかった。

 

 ――いまだ見ぬ世界には、はるか強大な敵が存在する。

 知りたかった。それがどれだけ強いのかを。そして――私の肉体と技術が、どこまで通用するのかを。

 下級のデーモンなど、もはや私は求めていなかった。さらに上の存在を――この侯爵家のヴィオレ・オルゲリックに相応(ふさわ)しい強敵を、心の底から願っていたのだ。

 

「――ああ、そうそう」

 

 図書館の扉を開けた私は、ふと思い出したように振り返った。

 びくりと反応したウルバヌスは、緊張したようにこちらを見つめている。私は淑やかにほほ笑むと、彼のためのアドバイスを口にした。

 

「毎日、腕立て伏せ百回から始めるといいですわよ」

 

 ウルバヌスの表情を確かめることもなく――

 私はすぐに体を外に向けると、図書館をあとにした。

 





☆投稿方法の変更について

 11話より、投稿サイトによって投稿の仕方を変更しています。
 さすがに一話で1万5000字近く行ってしまったりするのは、閲覧者によっては長すぎると感じる方もいらっしゃるためです。
 そこで、ハーメルン側を従来どおりの文章量、なろう側を3000~4000字程度に分割した文章量で投稿することにしました。
 長くても一話がきっちりキリのいいところまで終わっているほうがいい、という方はハーメルンを。長すぎる文章を一度に読むのがつらい、という方はなろうを。好みに合わせてご利用いただければ幸いです。
 実際の投稿予定例としては、以下のようになります。

2019/07/26(金) なろう(011a)
2019/07/27(土) なろう(011b)、ハーメルン(011)
2019/07/28(日) なろう(012a)
2019/07/29(月) なろう(012b)
2019/07/30(火) なろう(012c)、ハーメルン(012)

 現在、012まで執筆済みですが、このような感じで試してみようかと考えています。
 文章の内容に差異は出ませんので、その点はご安心ください。

ハーメルン:
https://syosetu.org/novel/178297/
小説家になろう:
https://ncode.syosetu.com/n7148ff/



☆ここまで読んでくださった方々への御礼

 去年から細々と更新を続けてきましたが、ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございます。
 当初はただの一発ネタであり、なんてことのない作品でしたが、思いのほか好評を頂けて私自身も驚いております。
 物語のラストまで構想は決まっているので、のんびりとですが終わりまで継続していけたらと考えています。これからもご支援いただければ幸いです。

 今後とも、どうぞよろしくお願いします。


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武闘派悪役令嬢 012

 

 ――以前にもまして、アルスの顔つきは精悍になっていた。

 

 もともと筋骨隆々の大男だったが、その威圧感や鋭さはさらに磨かれていた。ひとの雰囲気というものは、環境によって変わるのだろうか。相手を打ち倒そうと攻撃する――その行為を繰り返しつづけた彼は、素人ながらも闘士(ファイター)としての風格が身に付きつつあった。

 

 力強く、かつ素早い拳が、私に迫っていた。

 

 私はそれを視認し、ぎりぎりのところで躱す。頬を掠めた打撃の脅威に、わずかに口元を緩めてしまった。いい攻撃を繰り出されると、なんとなく嬉しくなるのだ。

 その一撃だけでは終わらず、今度は左手による連撃がやってくる。胸部の中心を狙った突きだった。正中線――すなわち人体に効率よくダメージを与えられる部位を狙うのは、格闘における基本である。アルスはそれを、すでに身をもって学んでいた。

 

 後ろに退きつつ――その直進する拳を打ち払うように、右腕の前膊でいなす。

 二撃目も対応されたアルスは、さらに左足による前蹴りを放ってきた。その狙いは、ちょうど私の右膝関節である。普通のスパーリングであれば、人体を壊しかねない危険な行為は禁止にするものだが――私はあえてアルスに、急所も遠慮なく狙っていいと伝えていた。

 

 彼の攻撃が到達するよりも早く――私は右足を振り上げ、そしてアルスの蹴りに合わせて振り下ろしていた。

 

「おわっ!?」

 

 前蹴りで伸びきったアルスの脚を、私の右足が絡めとる。不安定な体勢で一本足になった彼が、立っていられるはずもなかった。地面に転んだアルスの頭を――もし私が拳を振るえば、粉々に破壊できていただろう。

 

「……反応が速すぎだぜ、姐さん」

「あら、おだてても何も出ないわよ」

「ははは……」

 

 アルスは苦笑を浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、ふたたび私とのスパーリングを再開する。

 

 ――けっして、私からは攻撃することなく。

 アルスに攻撃させ、それをギリギリで避ける、あるいは防ぐことを繰り返す。

 

 なぜ攻撃をしないのか、というのは単純だった。私の打撃にアルスが対応できないからだ。言い方は悪いが、格下をボコボコにしても得られるものがあまりなかった。

 だから、基本的には受けを鍛錬していた。

 避けようと思えば、もっと余裕をもって避けられるが――あえて、そうはせず。

 当たるか当たらないか、その寸前のところを見定めて、防御を成功させる。その繰り返しは、私の反応速度を研磨する。冷静に、冷徹に、脅威を見抜いて行動する能力を向上させてくれるのだ。

 

 もっと、強く――

 どんな強敵が相手でも、勝利を得られるように。

 生きるか死ぬかの死線を乗り越え、生殺与奪の支配者となるために。

 

「――――」

 

 顔面へ向けて、アルスのフックが飛んできた。

 見えている。私はそれを、極限まで少ない動作で防ごうとした。

 擦れ擦れの、掠るような一撃。あごの先端、薄皮一枚で受けたそれは、大したダメージもなく受け流せる見立てだった――はずなのに。

 

 

 

 

 

 ――世界が、傾いた。

 

 気づいた時には、私は片膝と片手を地面についていた。

 何が起こったのか、わからなかった。意識が一瞬途切れ、いつの間にか倒れていたのだ。

 

「――お、おいっ! 大丈夫か、姐さん?」

 

 普段はありえない私のダウンに、アルスも困惑したような声をかけていた。

 私はゆっくりと立ち上がると、手や服についた土を払う。それと同時に、ようやく今の出来事に理解が及びはじめていた。

 

『もし暴漢に襲われたら――アゴか股間を狙え』

 

 私に空手を学ばせた、かつての父がそう言っていたことを思い出す。

 なぜ、その部位なのか。理由は簡単だった。

 ――たとえ腕力で劣っていても、うまくそこへ攻撃が入れば打ち倒せるからだ。

 

 金的。これは言うまでもない。男の股間に蹴りを入れれば、容易に相手は悶絶することだろう。

 そして――あごへの攻撃。ここに衝撃を受けると、てこの原理で頭部が揺り動かされる。それはつまり――内部の脳も揺さぶられるということだった。

 

 軽い脳震盪。

 それがさっき、私がアルスに引き起こされたモノの正体だった。

 

 そして――もし、今のが実戦だったら。

 意識が飛んで“気”の力が弱まった私の首に、鋭利な刃物でも突き立てていたら。もしかしたら、私を殺せていたかもしれない。

 

「油断すると……いけないわね」

 

 私はそれを痛感しながら、笑って言った。

 たとえ、どれだけ力の差があろうとも。肉体的な優劣があろうとも。今さっきのように、効果的な攻撃が格上の存在を打倒することもあるのだ。

 肝に銘じておかなければならない。自分が負けないために。そして――勝つために。

 

「――続けましょう」

 

 私は構えをとって、スパーリングの再開を促した。

 次は慢心しない。見逃さない。すべての動きを、あらゆる攻撃を、この五感で正確に把握して、適切な行動を返す。

 今の私は――空間のすべてに感覚が及んでいた。

 

 初めは、ただ肉体の強さを身につけ。

 そして徐々に、技術を手に入れて。

 今や、五感を研ぎ澄ましつつある。

 

 ――その先に、何があるのか。

 

 私の心は、いまだ見えぬ高みへと向いていた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 朝から続く、裏庭での鍛錬を終えて。

 ちょうど正午の時間に、二人で昼食を取ること。それはアルスの家を訪れた時の定例となっていた。

 

 食事、といっても学園の食堂で出されるような料理とは、もちろん大きく違う。調味料はせいぜい塩があるくらいだし、調理方法も限られているので、私がふだん口にしているものと比べれば質素と表現するしかなかった。

 アルスの生業は狩人だが、森で狩った動物の肉や毛皮を、近所の住人たちと物々交換しているらしい。なので、パンと野菜にはそれほど困っていないのだとか。庶民としてはわりと栄養バランスのいい食生活を送っていると言えるかもしれない。

 

「……相変わらずの食いっぷりだな」

「あら? あなたが少食なだけではないかしら」

 

 そう平然と答えると、アルスは苦笑を浮かべてスープに口をつけた。

 

 いま食しているのは、ウサギ肉と野菜を煮込んだスープ料理だった。もちろん肉はアルスが弓で狩ったものである。シカやイノシシなどの大型の獲物の場合は王都で売り払っているが、ウサギのような小型の動物が獲れた場合は、基本的に自分で食べるなり農民に分け与えるなりしているのだ――と彼は語っていた。

 

 スープのほかには、切り分けられたパンが盛られた皿もあるが、それは私が王都のパン屋で買ってきたものである。肉や野菜の入った料理を食べさせてもらう代わりに、私もアルスにパンを提供するという形で、お互い釣り合わせていた。

 ちなみにアルスは普段、保存のためにカッチカチに水分を飛ばしたパンを食べているらしい。高級な柔らかいパンを食べる機会はめったにないようで、私の持ってきたパンがスープに浸さなくても食べられることに感動していた。そういう庶民的な感性を眺めることは、貴族中心の世界で生きている私にとってはちょっと面白かったりする。

 

「……不思議なもんだな」

 

 どこかしみじみとした様子で呟いたアルスに、私は怪訝な目線を送った。「何が?」と尋ねると、彼は恥ずかしそうに頭を掻く。ややあって、苦笑しつつその口を開いた。

 

「おれのほうが、ずっと年上のはずなんだが……。なーんか、そう感じないんだよな。まるで、本当に……姉貴みたいだぜ」

「…………」

 

 ――その感覚は、そう間違いではない。

 私には“前”の経験と知識があるぶん、精神的な年齢は肉体よりもはるかに上だった。実際に、この世界で生きてきた年月を加えれば、アルスよりも年上であると言えるだろう。

 唇をわずかに緩めつつ、私は彼に尋ねた。

 

「姉貴、ね……。兄弟とかは、いなかったの?」

「いたぜ。つっても、いろいろと家庭が複雑でね。そんなに仲がよくなかったんだ」

 

 ふぅん、と頷きながら、私はスプーンでウサギ肉をすくった。

 見た目、味ともに鶏肉に似ているが、口に入れて噛んでみると意外なほど身のしまりを感じる。やや野性的な風味があるものの、癖もなく淡泊な味わいで、家畜の食肉と比べても劣らなかった。口の中でスープと一緒に咀嚼すれば、旨味が食欲をさらに湧かしてくれる。

 昔はまるで興味もなかったが、こうして実際に食べてみると、なるほどジビエ料理も悪くなかった。

 

「――だから、一人暮らしをしているってことかしら」

「まぁな。家族もおれが出ていってくれたほうが助かるから、手切れ金を渡してくれてね。それから、ここを住まいにしてのんびり生きている……ってわけさ」

「実家は金持ちなのね」

「……多少は」

 

 ふっ、とアルスは笑みを浮かべた。

 郊外の農村部とはいえ、ここは王都周辺の土地である。家はもとからあったのか、新しく建てたのかは知らないが、諸々の資金がそれなりに必要だったことはうかがえた。そんな金を渡して放逐したということは――彼の出身は、相応の資産を持っている家に違いない。

 気にはなったものの……まあ、それは本人の事情である。さすがにこれ以上、家族については詮索すべきではなかった。

 

「――今の生活には、満足している?」

 

 過去には触れない。代わりに、今について尋ねた。

 アルスは少し考えこんだような面持ちをしたが、すぐに照れくさそうな表情を浮かべる。そして私の顔をまっすぐ見据えながら答えた。

 

「――ああ。こうして毎週……姐さんと過ごすようになってから、楽しくて仕方ないぜ」

「……ボコボコにされて喜ぶタイプの男だったの?」

「ち、ちげーってッ!? そういう意味じゃ――」

「ただの冗談よ。わかっているわ」

 

 私はほほ笑みながら言った。

 変わり映えのない、静かな暮らしを続けていたのだろうか。だがアルスの人柄を見るかぎり、それほど人との付き合いが嫌いなタイプではないはずだ。郊外で一人暮らしをしていても、本心では誰かとの交流を求めていたのかもしれない。

 つまるところ――こうして私と週末に会い、手合わせしたり食事をともにしたりすることが嬉しくてたまらないのだろう。

 

 ひとは真に孤高を貫くことなどできない。

 他者と距離を置こうとしても、どこかで誰かと交わることに恋しさを抱くものだ。

 それを知っているからこそ――私はなんだかんだで、ミセリアと“友達”でありつづけているのかもしれない。

 

 そんなことを思いつつも。

 アルスと雑談しながら食事を続け、そろそろ午後のスパーリングに移ろうかという時――

 

 ――来訪者を知らせる、呼び鈴の音が鳴り響くのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 来客に対応するのは、もちろん家主であるアルスの役割だった。彼は玄関のほうで、付近に住む農民らしき人物と言葉を交わしている。その会話は――私の耳なら簡単に聞き取ることができた。

 

「……そのイノシシは、いまどこに?」

「果樹園のほうをうろついているみたいなんだが、わしも迂闊に確認しにいけなくてな……。あれだけデカいのは、初めて見た」

「実物を目で見ていないから、なんとも言えないが――おれも獣をすべて狩れるわけじゃないぜ? マジでヤバいやつなら、魔法を使える“騎士”を派遣してもらうしかない」

 

 ――二人が話している内容は、剣呑で深刻な色を帯びていた。

 

 どうやら、生活圏内にイノシシが入りこんできたようだ。森のほうから下ってきたのだろう。いつもなら、そういう場合はアルスが弓で射止めているらしいが――

 今回のイノシシは、通常の個体よりもはるかに巨大な体つきという情報だった。

 そして私は――それがどれだけ危険な存在なのかも理解していた。

 

 住宅街に迷い込んだイノシシが人間を襲った。そんなニュースは、前世で何度も目にしたものである。家畜化されたブタとは違い、野生のイノシシは攻撃性の高い動物なのだ。

 そんなイノシシを狩るのは、ライフル銃などがあれば難しくもないのだろうが――ここは高度な銃火器が存在しない世界である。

 

 アルスが得物としている長弓(ロングボウ)は、十数メートル程度の距離であればマスケット銃並みの威力を出せるだろう。だが、巨躯を持った獣をその一撃だけで即死させるのは至難の業である。もし半矢、すなわち手負いの状態となった獣が死に物狂いで向かってきたら――返り討ちにされる可能性もあった。

 

 野生動物は、強いのだ。

 厳しい環境で生き抜くために、彼らは強力な肉体を培ってきた。

 その純粋な体躯の威力は――人間のちっぽけな身体能力をはるかに凌駕する。

 

 だが、だからこそ――

 素手で獣に勝つことは、格闘家の箔をつけることに利用されてきたのだろう。

 

「――そのイノシシがいる場所、教えてくれる?」

 

 私は玄関のほうへ歩み寄りながら声をかけた。

 何をするつもりなのか、アルスはすぐに察したのだろう。彼は引き攣った顔を、こちらへ向けてきた。

 

「あー……姐さん……いくらなんでも……」

「私は“魔法”が使えるわ。イノシシどころかクマだって倒せるわよ」

 

 そう言うと、アルスを訪ねてきた年配の男は明るい表情になった。魔法の使える者は、戦争においては重火器の役割をも担う存在である。レベルの高い魔術師であれば、大型の獣を斃すことも容易であった。

 

「お嬢さん……どこかの貴族の方ですか? 魔法が使えるというのは――」

「――本当よ。この私の“手”にかかれば、どんな敵だろうと打ちのめせるわよ」

「いやぁ……やめておいたほうが……」

 

 後ろでアルスが気弱な発言をするが、もはや私の心は決まっていた。困っている住民がすぐそこにいるのだ。助けてあげるのが貴族の務めというものだろう。

 男性から詳しい目撃情報を聞き出した私は、アルスに笑みを向けて言った。

 

「午後は、日が暮れる前に別れる予定だったけど」

「…………?」

「夕方まで、一緒に過ごすのもいいかもしれないわね」

「は……はぁ……」

 

 意味がわからなそうな様子のアルスは、呆れた声色で頷いた。そして頭を掻くと、諦めたように口を開く。

 

「……おれも装備を用意したら、とりあえず姐さんの後を追うぜ」

 

 ――なら、彼が着く前にすべてを終わらせるべきだろう。

 そう内心で思いながら、手を振って了解の合図を示し、私は家の外に出た。

 

 正午過ぎの空は青く、爽快な陽気だった。広々とした農耕地帯の風景は、王都の雑踏にあふれた通りと違って解放感がある。ここなら――全力で走っても迷惑をかけることがなかった。

 果樹園の位置は把握していた。すぐ近くの場所だ。――私にとっては。

 

「よし」

 

 小さく呟いて……私は一歩を踏み出した。

 

 ――ストライド、という言葉がある。

 陸上競技などにおける、歩幅を示す単語だ。近代オリンピックでは、この一歩の幅を広げて走るストライド走法が重要視されてきた。

 人類史上最速と言われるスプリンターは、100メートルを9秒台で駆け抜ける。ある世界選手権では、この選手の平均ストライドが244センチにも達していたという。

 むろん、これは平均の値である。最長のストライドは300センチをも超えていたことから、一歩でどれだけ驚異的な距離を進んでいたのかが理解できよう。

 

 そして――

 今の私は、“人類史上最速”を置き去りにする身体能力を持っていた。

 

「……ッ!」

 

 風を切る、などという言葉は似つかない。

 例えるならば――自身が暴風と化したと言うべきかもしれない。

 

 跳ぶように走るそれは、もし誰かが目にしていたら――本当に飛んでいるように見えただろう。

 大地を蹴り、飛翔した私が次の足を踏むまでの距離――じつに500センチは下るまい。

 

 100メートルを――わずか20歩で駆け抜けるストライド!

 時速70kmを超えた私の脚力は――

 周囲を景色を一瞬で後方へ追いやり、目的地へと到達させた。

 

「――――」

 

 獣除けの柵が張り巡らされた、果実の成る樹木を栽培する一帯。

 王都の周辺には、こうした果樹園も数多く経営されており、都への果物の供給を担っていた。

 

 そして、いま私が見つけた果樹園の外周部は――

 柵の一部が破壊され、何者かが中へ侵入した形跡を残していた。

 

 間違いない。

 イノシシは、ここから園内に潜り込んでいったのだ。

 

 私は跳躍し、柵を乗り越えて中に飛び込んだ。

 果樹は一定間隔で植えられ、雑草も取り除かれているので、遠くまで簡単に見渡すことができた。

 そして――私は見つけた。

 

 彼方で地面に落ちた果物を、むさぼり食らう野獣を。

 その大きさは――

 

「……っ」

 

 初めは距離感による見間違えかと思った。

 だが――私の視覚は、その大きさを正確に捉えていると確信する。

 樹木との比較から、推定されるイノシシの図体は――

 

 おそらくは、体長2メートル近くあるッ!

 一般的なイノシシが、体重100kg前後はあることを考えると――

 肉や脂肪を十分にまとった、あの巨大なイノシシは……間違いなく体重200kgはゆうに超えるだろう。

 

 ……猛獣だ。

 イノシシは、捕食しようとしてきたトラやクマを、逆に返り討ちにすることもあるという。

 つまり――あれは大型のトラやクマに匹敵する力を備えた、恐ろしい獣にほかならなかった。

 

「ふふふ……」

 

 なぜ笑みがこぼれるのだろうか。自分でもわからなかった。

 私はまっすぐ、その猛獣のもとへ歩み寄ってゆく。

 少しして、向こうも気配を感じたのだろうか。その顔を――私のほうへと動かした。

 

 目が合った。

 その瞬間、イノシシは果物のことも忘れたように……私をはっきりと見据える。

 威嚇するように唸った獣の口元には、大きな牙が備わっていた。鋭利なそれは、オスの証である。

 

 その巨体を備えるまで生きてきたのならば――獣も十分に理解していることだろう。

 人間の領域に入りこんだからには、狩人の脅威があるということを。

 眼前に立つ存在が、みずからの生命を奪いに来た敵であるとことを。

 ――生き延びるためには、闘争か逃走のどちらかを選ばねばならぬということを。

 

 尻尾を巻いて逃げ出すか。それとも邪魔者を蹴散らすか。

 己の弱さを自覚している動物であれば、すぐさま逃げる選択をしたことだろう。

 だが――並外れた巨躯を持ち、おそらく森の中でもカーストの最上位に君臨していたであろう、そのイノシシは。

 

 ――私に立ち向かうことを選んだのだった。

 

「あァ……」

 

 いい心意気だ。

 野生の世界では、あらゆる要素が生きるか死ぬかに直結する。

 人間と違って医療技術のない世界では、ほんの些細なケガでさえ致命傷に至ることもある。

 その限りなく死が身近な環境で生きてきた“彼”が、己の命の危険も顧みず勝負を挑んできたのだ。

 

 素晴らしい!

 それは賞賛に値する、勇気ある行動だ。

 私が抱いたのは――闘う者に対する、敬意と礼意の熱い感情だった。

 

「いいわ……」

 

 最高の好敵手に、笑みを送る。

 最初は緩やかに動きはじめたイノシシも、徐々に速度を上げて疾走を始めていた。

 そのスピードは、目算でも時速50kmは出ているように思える。

 脚の速さだけ見れば、猟犬などとそう変わらないが――体重は文字どおり桁違いだった。

 

 百キロ単位の肉塊が、全力でぶつかって来ようとしていた。

 さらに、その口元には――敵を刺し貫ける牙が殺意をあらわにしている。

 たとえ“気”を巡らせていても……その刺突を受けきれるかはわからなかった。

 

 もし大腿動脈にでも突き刺されば、私は殺される可能性もある。

 つまり――

 

 これは、お互いに生死を賭けた真剣勝負だった。

 

「全力で……」

 

 ――構えを取る。

 腰に溜めた右拳は、いつでも正拳突きをできる状態であった。

 震えも緊張もない。ただ静かに、敵が肉薄するのを待っていた。

 

「――――」

 

 来た。

 すぐそこに、獣の必死な形相が映る。

 その顔には――恐怖が浮かんでいるようにも見えた。

 

 死に対する、怯え。

 それが相手にはあって、私にはなかった。

 ……決定的な違いだ。

 死を恐れる者に――私が敗れるはずなどなかった。

 

「……ッ!」

 

 体の捻りを加えながら、下段へと正拳を繰り出すッ!

 爆発的な気のエネルギーと、練り上げられた筋肉の力が――腕を伝わって拳の先へと宿るッ!

 イノシシの剛毛と厚い皮膚に覆われた頭部を――

 

 ――打ち抜いた。

 瞬間、凄まじい衝撃が手を、腕を、そして体を襲った。

 

 ――自動車に撥ね飛ばされる瞬間とは、きっとこれと同じような感覚なのだろう。

 このまま弾かれて、威力を受け流したら、どれだけ楽なことか。

 だが――相手は命懸けで突貫してきたのだ。

 それを真っ向から打ち破ってこそ――礼儀というものだろう。

 

 衝撃を、すべて打ち殺す。

 突き出した拳は、けっして退くことなく――

 その頭蓋に……凄惨に食い込んでいった。

 

「――――」

 

 止まった。

 静止した時、右手は――

 いや、“右腕”はイノシシの顔面に深々と突き刺さっていた。

 その牙は――あと一寸で、私の腿と接触するような位置だった。

 

「…………」

 

 勝った。

 それを実感しながら、右腕を引き抜く。血と脳漿を流しながら、どさりと斃れゆくイノシシの姿は――敗者に訪れる無慈悲な死を、強烈に演出していた。

 この獣は強かった。

 だが――私が少しだけ上回る力を持っていたから、今の結果になったのだ。

 強き者は生き、弱き者は死ぬ――それが、この世に存在する生命の単純な原則だった。

 

 力を。

 さらなる強さを。

 巨大な屍を前にして抱くのは――より強力な肉体と技術への渇望だった。

 

「さぁ……」

 

 帰ろう。

 アルスの家へ。

 ひとまず、体にこびりついた穢れを清めたい思いが湧いていた。

 汗や血を洗い流した、そのあとは――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、おいおい。もう帰ってきたのかよ、姐さ――」

 

 アルスの玄関の戸口。

 呼び鈴を鳴らしてから少しして、ドアを開けて姿を現したのは――革の防具と矢筒、そして長弓を携えて、完全武装をした狩人の姿だった。

 さすがに獣が危険な大型だったからか、準備に時間をかけていたようだ。もっとも私がイノシシを斃してしまったので、それはすべて徒労になってしまったが。アルスには悪いことをしたかもしれない。

 

「……姐さん」

「なに?」

「…………それは?」

 

 それ、が何を指しているのか、聞くまでもなかった。

 私が肩に担いだ――顔面を粉砕された、巨大なイノシシの死体。

 そのずっしりとした重みに、抑えきれぬ期待を寄せながら――

 

 まるで、買い物から帰ってきた主婦のように。

 私はアルスに、ニッコリと笑いながら言った。

 

 

 

「――今日の晩御飯は、イノシシ鍋よ」

 



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武闘派悪役令嬢 013 サイドストーリー001

 

 ――息を切らしながら、少年は街中を走っていた。

 

 通りを駆ける途中で、男性の腕にぶつかって転げそうになる。「おい、気をつけろよッ」と怒鳴られる声に、彼は「ごめん、なさい」と苦しげに謝罪をした。

 まだ年若い、十歳の子供が相手だったからだろうか。男性は舌打ちしつつも、それ以上は責め立てることなく去っていった。

 

 ほっと安堵した少年は――ふたたび、足を動かしはじめた。

 人通りのある道で走ることが、よくない行為であることは承知している。それでも、今はどうしても急がなければならない事情があった。そう――“あいつら”を追いかけるために。

 

「ま――待ってよっ」

 

 少年は前に向かって叫んだ。

 その声の先にいる、三人の同じ年頃の子供たちは――首だけ後ろに向けると、にやりと笑った。

 何も言葉を発しなかったが、彼らの考えは伝わってしまった。――追いついてみせろよ、と。

 

 少年は内心で怒りと悔しさを湧き上がらせながら、三人のあとを走る。彼らは通りから逸れるように路地を曲がった。少年も同じように追いかける。

 そうして追走を続けて――体が疲労で動かなくなってしまった時。

 膝に手を当てて、激しい呼吸をする少年のほうを――三人組の子供たちは振り向いて見下ろしていた。

 

「お前、ほんっとーに体力ねーんだな」

「運動神経なさすぎっ」

「もっと体、鍛えたほうがいいんじゃね?」

 

 三つの声が、同時に嘲笑を浴びせてきた。

 ようやく息が整ってきた少年は、苦しげな表情で顔を上げる。眼前には、いつも自分をいじめてくる子供たちの姿があった。その三人のうち、真ん中のいちばん身長が高い子は――手に細長い道具を持っていた。

 ――金属製のペンだ。文字を書く時には一般的に羽ペンを使うが、貴族や文筆業の人間はこうした金属ペンを使うことがあった。もちろん高級品である。

 

 そして――その持ち主は、ほかならぬ少年のはずであった。

 

「――リット」

 

 いじめっ子のリーダー格は、指でくるくるとペンを回しながら、少年――リットへと声をかけた。

 

「おまえ、学校にこんなの持ってくるなんて……そんなに自慢したかったのか? 自分は金持ちだ、って」

「そ、そんなつもりないよ! ただ、父さんが……文字を書くにはいい道具が必要だって……」

「……ふん、生意気なやつ」

 

 不機嫌そうな顔で、リットからペンを奪った少年――イフェルは吐き捨てる。その様子からは、素直に物を返してくれるような気配が感じられなかった。

 

 ――街の子供たちに、読み書きや算術を教える都市学校。

 中産階級の子弟の多くは、十歳前後になるとそうした学校に通うことが多かった。都市で生活を送るうえでは、読み書きと計算ができなければ不利となる面も多いからだ。ある程度の資産を持つ家庭は、子供を都市学校へ行かせて勉強させるのが普通だった。

 

 王都で代書屋を営む父親を持つリットも、そうして学校に通っていた子供の一人だった。

 代書――つまり誰かの代わりに文章を書く仕事は、都市ではけっこうな需要があって実入りも悪くない。文字が書けない人、書けても筆跡が綺麗でない人、あるいは文面を考えるのが苦手な人。そうした人々の代わりに、書類の文章を執筆したり、手紙を書いたりする職業――それが代書人だった。

 

 そして父は、リットにも代書人として働けるようになってほしいと願っていた。

 だからこそ――子供ながらも金属製のペンを買い与え、学校に持っていかせたのだろう。

 

 けれども――

 高価なペンを学校で使っていたリットは、イフェルたちにとって気に食わなかったようだ。

 

「――なぁ、知ってるか? この向こう側」

 

 イフェルはニヤリと笑いながら、後方の壁を親指で指し示した。

 レンガを重ねて築かれた壁が、道に沿って左右にずっと広がっている。目を巡らせてみても――その壁ははるか先まで続いていた。

 街中にある“城壁”――そう呼んでも過言ではない。実際に、その壁は外から中への侵入を拒む役目を果たしていた。垂直にそびえ立つそれは、ざっと見てもリットの身長の五倍以上は高さがある。よほど大きなハシゴでも掛けなければ登れないだろう。

 

 ――ソムニウム魔法学園。

 王都にある、貴族や金持ちのための学校だった。爵位持ちの貴族の家柄や、それに近しい上流階級の出身、あるいは中産階級でもトップの資産家の子供たちが、この学園に通っている。城のような壁で囲われているのも、この向こうにいる人々の身元を考えれば納得の厳重さだった。

 

「知ってるけど……なに? 早く、返してよ……」

 

 リットは苛立ちを覚えながら答えた。こんなふうに、自分のモノなのに返してくれと言わなきゃいけない現実に腹が立っていた。きっと自分が強ければ、無理やりにでも取り返せるのに――

 

 そんな悔しさを抱く彼の気持ちを、イフェルは気にもかけていないようだった。ただ、その顔に浮かんでいるのは――弱い者をいじめて楽しむ、悪辣な嗜虐心だった。

 

「そんなに大切なら――」

 

 イフェルはペンを持った右手を、大きく振りかぶった。

 まるで――ボールを遠くに投げるかのように。

 その手の動きから、予測できる方向は――

 

「や、やめてよっ!」

「――取りに行ってみろよッ!」

 

 ――投げた!

 投げられた……!

 

 高く上のほうへ、そして山なりに。どこへ向けて放ったかなんて明白だった。そう――魔法学園の壁の向こう側、敷地内へ投げ捨てたのだ。

 ――中に入ってしまったら、拾いにいけるはずもない。

 一瞬で絶望感に包まれながらも、リットは空を見上げた。もしかしたら、壁を越えないでくれるかもしれない。そんな淡い、一抹の願いだけを胸に抱きながら。

 

 視線の先には、ちょうどその方向に太陽がのぼっていた。

 そして壁の上で、金属製のペンは煌めいていた。

 ああ、この軌道だとアッチに行っちゃうな……。

 

 リットがそう諦めた時――

 何か黒い影が、そこに現れた。

 壁の上に――まるで、下からジャンプして上がってきたかのように。

 

 その影は――空中に放られたペンを呑みこんだ。

 太陽の逆光で見えづらかったが……手で掴み取ったのだと理解したのは、少ししてからだった。

 

「…………え?」

 

 その声は、誰のものだったのか。

 イフェルのものか、それとも取り巻きの二人のものか、それともリット自身のものか。あるいは――全員か。

 いずれにせよ――呆然と見上げている少年たちの思いは一致していた。

 

 ――誰?

 ――なぜ壁の上に?

 

 魔法学園の中から、壁の上に現れたその影は――

 

 リットたちの視線を受けながら――

 

「えっ!?」

 

 跳び……降りたッ!?

 

 動揺がリットの脳を支配した。あの壁の高さは、人間が簡単に着地できるような距離ではない。もし飛び降りたとしても、まず手足を痛めてしまうレベルだった。そして打ちどころが悪ければ、骨折どころか――最悪は死。

 

 ――自殺行為だ。

 子供の目からでも、そう確信できる無茶な行動だった。

 だった――はずなのに。

 

「…………ッ!?」

 

 影が、舞い降りた。

 タッ……と、軽い音を立てて。

 衝撃など、まるでなかったかのように。

 

 いや――そんな衝撃など、無に等しいと言うかのように。

 

「な、ん……」

 

 なんなんだ。

 イフェルは、そう言いたかったのかもしれない。だが、言葉が口に出ない様子だった。

 

 人影は、イフェルたちのすぐそばに着地していた。

 つまり――三人組から離れて立っていたリットは、謎の人物とも距離を保っていることになる。

 そのおかげで……彼らよりも、少しだけ冷静に影を見つめることができた。

 

 ――まず目についたのは、その服装だった。

 ローブをまとい、フードを目深にかぶった姿。顔や体つきを隠しているのは明らかな格好だった。

 背は、成人男性としては低め、成人女性としては少し高め。どっちの性別でもおかしくない背丈なので、ぱっと見では判別できない。

 ――正体不明の不審者。

 そう表現するほかなかった。

 それ以外にわかることは――

 

 あった。

 直感で、わかってしまった。

 理解、させられてしまった。

 

 この人物は――

 

「ひ、ィぃぃっ!」

 

 悲鳴が、上がった。

 イフェルたちの声だった。

 彼らは泣き叫んで――逃げ出した。みっともなく、遁走した。

 

 まるで、狩人に狙われていることを悟った脱兎のように。

 あるいは、肉食獣に殺気を向けられた草食動物のように。

 そう――おとぎ話のデーモンを前にした、人間のように。

 

 そこにいるのは――絶対的な“強者”だった。

 

 理屈ではない。

 本能で、理解したのだ。

 イフェルたちが逃げ出したのも――納得だった。

 

「あ…………」

 

 リットは情けない声を上げた。

 恐怖で足が竦んでいた。

 目の前の人物。その影がこちらを向いて、口元をかすかに歪めたのを見て。

 逃げ出したい――そう思うのに、体が言うことを聞かなかった。

 

 リットは弱すぎた。

 イフェルたちのように逃げ出すこともできないくらい、弱者だったのだ。

 そう……もし野生の世界であれば、真っ先に捕食されて命を落とすような。

 そんな無力な存在が、リットだったのだ。

 

「情けない顔、ねェ……?」

 

 地を這うような声だった。怖ろしく、悪魔のような、そして――美しい声。

 そこで、やっとリットは気づいてしまった。

 眼前の、ゆっくりとこちらに近づいている影の正体が――女性であることに。

 

 女性?

 ……女性だ。

 

 まだ子供のリットでも、その奇妙さは引っ掛かってしまった。短い人生の記憶をすべて辿ってみても――この女の人に当てはまるようなタイプの女性はいなかった。

 気が強くて、男勝りな女性の大人はいた。

 けど――“この人”は違う。

 

 この人は、強い。

 どんな男よりも。

 いや――どんな“生物”よりも。

 

 今まで見てきた、何よりも。彼女は圧倒的に……強い。

 本能が――そう訴えていた。

 

「あ……の……」

 

 距離を縮めてくる相手。

 それに畏怖しながら、声を絞り出した時。

 すっ……と、女性は右手を差し出してきた。

 

「――これ」

 

 そこに握られているのは――言うまでもなかった。リットの金属ペンである。

 

「……あなたのでしょ?」

「は……は、ぃ」

 

 おそるおそる頷くと、彼女はふたたび唇を動かした。それは獰猛な野獣の笑みではなく――どこか上品さを感じる、淑やかで艶やかな微笑だった。

 ――恐怖が和らいでいった。

 そこにいるのは……たしかに女性だ。鋭い雰囲気はあるけれども、優しさのある女の人だった。さっき感じたのは……錯覚だったのだろうか。

 

 戸惑いながらも、リットは彼女からペンを受け取ろうとした。

 その瞬間、女性の手に触れる。

 

 ――硬さのある手だった。

 水仕事で荒れたもの……ではない。そんな日常的な行為で出来上がったものではないように思えた。もっと力強い……険しい行為を繰り返して、作り上げられた手だった。

 

 そんな女性の手のひらに触れて――

 リットの胸は、なぜか高鳴っていた。

 

 女の子に恋するような感覚――ではない。

 例えるなら……物語に出てくるような騎士に、あるいは英雄に出逢ったかのような。

 そんな気持ちだった。

 

「――あの」

 

 ペンを受け取りながら、リットは思わず口を開いていた。

 何を言うべきだろうか。

 そう考えて――思い当たったのは、至極普通で真っ当な言葉だった。

 

「あ……ありがとう、ございます。ボクのペン……返してくれて」

「気にすることもないわ。次からは、手放さないようにしなさい」

「…………」

 

 はい、とは素直に頷けなかった。

 学校では、いつもイフェルたちと顔を見合わせることになる。きっと、彼らはまた自分をいじめてくるだろう。それに対して抗い、撥ね除けるような力は――リットになかった。

 

「ボク……弱いから……」

 

 リットは俯き、目をそらしながら呟いた。

 右手でペンを握った拳の力は、ぎゅっと握ってもあまり強くなかった。同年代の子供と比べても、体力や腕力は低いほうだ。もし喧嘩をしたって、リットは簡単に負けてしまうだろう。相手が背の高いイフェルだったら――なおさらのこと。

 

 そのリットの表情、声色、しぐさから事情を察したのだろうか。

 目の前の女性は、ゆっくりと確かめるように尋ねてきた。

 

「いつも、あの三人にいじめられているの?」

「…………うん」

「あなたが弱いから?」

「うん……」

「じゃあ――」

 

 ――強くなって、殴り倒しなさい。

 

 それは、あまりにも直球な発言だった。ひねりも工夫もない、粗野で乱暴なアドバイスである。リットは呆れて言葉を失ってしまった。

 強くなって殴り倒す。それを達成すれば、確かにイフェルは恐れてちょっかいを出してこなくなるだろう。だが――問題は、それが成しえないということだった。

 

 体も大きくない自分が、イフェルを殴って倒す?

 ――無理、どう考えても無理。

 それは非現実的で、不可能なことだった。

 

「――簡単よ」

 

 リットが何も言わなくとも、心の中で考えていることは伝わっているだろうに――彼女は自信に満ちた言葉を紡ぐ。

 簡単なはずがない――そう言い返そうとした時、女性はゆらりと動いてみせた。

 少し後ろに身を引いた彼女は、右手の甲を下にして腰のあたりに持っていく。何かをやる構えのように見えた。

 

 彼女は微笑を浮かべて、リットに言い放った。

 

「こうすれば、いいのよ――」

 

 瞬間。

 女性の右腕が、わずかにブレた。

 そう思った直後――風のようなものが顔面を()った。

 衝撃自体は強くはなかったが、不意を衝かれたリットは「わっ!?」と悲鳴を上げつつ、後ろに転んでしまった。

 

 ――何が起こった?

 

 わからなかった。女性の右腕が霞んだ瞬間に、何かがリットの顔を叩いて倒したのだ。

 ……風が飛んできた?

 感覚を思い起こせば、それしかないように感じられた。彼女が小さな風を起こして、リットにぶつけてきたのだ。

 それは――

 

「……魔法、ですか?」

「魔法じゃないわよ」

 

 至った結論は、即座に否定されてしまった。

 魔法学園の内側から出てきたのだから、もしかして魔法使い――魔術師なのではないか。そして、さっき見せたのは魔法なのでは。……そんな論理的な思考が、間違いだと言われてしまった。

 だとしたら――今のは。

 いったい、なんだったのか。

 

 よろよろと立ち上がったリットに、女性は握りこぶしを差し出してきた。

 さっきは手のひらに触れたが――今度は、手の甲のほうがはっきりと見える。

 

 女性の手――には見えなかった。

 優美さ、上品さ、可憐さ。そんなものが、女の人には備わっているべきだと世間は言う。

 リットも十年に及ぶ人生で、さまざまな意見を目の当たりにして知っていた。乱暴なことや、汚いこと、そういったものは若い女子は避けるべきだと。女の子は、綺麗でお淑やかな存在であるべきだと。そうして“美しさ”を備えた女性が、世の中では賞賛の対象となるのだ。

 

 じゃあ――この“手”はどうだろうか。

 何かに拳を打ち付けることを繰り返したのだろうか。皮膚は硬そうで、力強さが感じられる。

 そして目を引かれるのは――人差し指と中指の付け根だった。

 そこだけ極端に衝撃が加えられつづけたのだろうか。部分的に皮膚が厚く、硬くなっている。つまり――胼胝(たこ)ができていた。

 

 日常的に酷使していなければ、ここまで無骨な手にはならないだろう。

 女性の繊手にあるまじき手を見て、リットは――

 

「……綺麗ですね」

「あら、お上手ね」

 

 ふふふ、と彼女は笑った。

 べつに、おだてているわけではない。本心だった。

 この手は、きっと何かの目的のために磨き上げられたモノなのだろう。一つのことを追求して完成したそれは――ある機能に特化している手だった。

 

 文字を書きやすくするために、こだわって形作られたペンと同じだ。

 機能美――それが女性の手には備わっていた。

 

「――体格で劣っていれば、相手に勝つことはできない。……あなた、本当にそう思う?」

 

 ふいに女性は尋ねてきた。

 リットは少し悩んだが、おずおずと答えてみる。

 

「……武器とかが、あれば」

「そう、それは正解の一つね。より強い武器があれば、相手を打倒しうる。あるいは――技術、知識、経験、そして運。いろいろな要素が混ざり合って、戦いの勝敗は決定されるのよ」

「……ボクには、ないものばっかりですね」

 

 リットは自嘲しつつ言った。格闘技なんてものとは無縁だし、喧嘩の知識も経験もない。きっと運だってないだろう。

 それでも――

 

「あなたがその気なら――あの三人に勝つ方法があるわ」

 

 女性は断言した。はっきりと、そう口にした。けっして無責任で出任せな発言には思えない、強い口調だった。

 ついさっき会ったばかりの、名前も知らない他人からそんなことを言われたとしても――普通は信じられないだろう。

 だが――リットは彼女に惹きつけられていた。

 ただ者ではないこの女性なら、あるいは本当に……自分をイフェルよりも強くしてくれるのではないか。

 そんな想いを湧き上がらせてくれる、不思議な女性(ひと)だった。

 

「ほ……本当、ですか?」

「ええ、嘘じゃないわよ。ただ……少しだけ“トレーニング”が必要だけどね」

「と、とれーにんぐ……」

 

 ごくり、とリットは唾を呑みこんだ。そう簡単に強くなれるとは思っていないが、しかしトレーニングとはどんな内容なのだろうか。もしかして――

 

「う、腕立て伏せ千回とか、ですか……?」

「そんなの必要ないわよ」

 

 女性は少し呆れたような声色で返した。どうやら筋トレは必要ないらしい。ちょっと安心だった。

 くすっと笑った彼女は、リットにその詳細を告げてゆく。

 

 ――お互いの時間が合う時に、一週間に一回の頻度で、この場所で会うこと。

 ――彼女が指示した行為を、毎日の空き時間に繰り返すこと。

 ――いっぱい食べて、夜はぐっすり眠ること。

 

 最後のはよくわからなかったが、子供が相手だから冗談で言ったのだろうか。とにかく、要するに。彼女に師事して鍛えてもらう、という内容だった。

 

「――約束、ちゃんと守れる?」

「……ま、毎日やるのが無理なことじゃなければ……」

「大丈夫、子供でもできることよ」

「……それなら……お願いします」

 

 少し不安を抱きつつも、リットはそう言った。

 女性は満足げに頷くと――最初の課題を言い渡す。暇な時に柔軟運動をすること。そして、腕を引いて、前に突き出す行為を反復すること。それが次に会うまでの宿題だった。

 指示されたそれらが、どういう効果をもたらして、どう役立つのか。――今はまだ理解できないけれども、きっと大事なことなのだろう。

 

「わかった?」

「は……はい……」

「……返事がいまいちね」

 

 肩をすくめた女性は、すぐに何かを思いついたように手を叩いた。ニヤッと笑いつつ、彼女はリットに耳打ちする。――返事の仕方を。

 それは初めて耳にする掛け声だった。意味がよくわからなかったが、とにかくその言葉を使えということらしい。戸惑いつつも、リットは拒否するわけにもいかず頷いた。

 

「――わかった?」

「……お……おす」

「もっと声を強く」

「――お、おすっ!」

「……ま、及第点かしら」

 

 女性は笑みを浮かべると、ぽんとリットの肩を叩いた。硬く、力強い手の感触に、びくりと震えてしまう。目の前にいるのが強大な存在なのだと、どうしようもなく思い知らされた。

 

 ――この人なら。

 きっと自分を強くしてくれる。

 

 その想いは、もはや確信となっていた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 一週間後。

 事前に約束したとおりの時間に、リットは同じ場所へとやってきていた。

 

 大通りではないそこは、ひと気がなく都合がいいのだろう。――正体を隠すような格好をしている彼女にとっては。

 学園の外壁に背を預け、腕組みをしていた人影は――こちらに気づくと、顔を向けて笑みを浮かべた。その雰囲気は、相変わらず謎に満ちている。彼女がいったい何者なのか、気になって仕方がなかった。

 

 教師? それとも、学生?

 貴族や魔法について詳しくないうえに、まだ子供であるリットには、女性の身元など見当もつかなかった。ただわかることがあるとすれば――それは、彼女がリットを強くしてくれるということだけだろう。

 

「――ちゃんと、来たのね」

「は、はい」

「返事の仕方は覚えている?」

「あ……お、おすっ」

 

 よし、と頷いた彼女は――壁から背を離し、こちらに近づいてきた。

 緊張が湧き上がる。何か害を加えてくるわけではないとわかっていても――女性にはぬぐい去れぬ威圧感が備わっていた。フードにローブという、怪しい服装だけによるものではない。彼女自身が肉体に内包している、自分たちとは別次元の“力”を本能的に感じ取っていたのだ。

 

 魔術師には魔力という、不可視の(モノ)が流れているらしい。だとするならば、常人のようには見えない彼女もそれを持っているのだろうか。けれども――祝賀パレードで目にしたことがある、杖を携えた物々しい騎士などと比べても、彼女の存在感は果てしないほど強く大きかった。

 

「――腕、伝えたように動かした?」

 

 女性は右手を軽く握り、それを前に突き出した。腕を縮めて、伸ばす――それの繰り返しが、彼女から指示された行為だった。

 子供でも簡単にできる、単純で難しくないことだ。

 だが――その反復は、若干の筋肉痛をもたらしていた。

 

 普段の生活ではやらないような動作だからだ。荷物を持ち上げたり、あるいは運んだりするように、腕や腰に力を入れることはあったとしても――前方に手を伸ばしきるようなことは、自然に発生するような動きではなかった。

 肩と腕が、少し痛かった。それを正直に伝えると、女性は「上出来よ」と笑って褒めた。

 

「拳を握って、腕を伸ばして、それを相手の体へ届ける――これが人を“殴る”という行為よ。でも……日常の動きではない。普通に生活しているひとにとっては“慣れていない行為”というわけ」

「な……殴る……」

 

 ごくり、とリットは唾を呑みこんだ。パンチの訓練の基礎なのだろう、ということは予想できていたが、実際に言われると想像してしまう。――自分が人を殴るということを。

 もし、今。イフェルを相手に、殴りかかったとしたら。

 ……だめだ、勝てるイメージがぜんぜん湧かない。

 

 弱気な表情になっているリットに、女性は肩をすくめながら言う。

 

「そして、あなたをいじめる子たちも……人を殴ることには慣れていないでしょう?」

「うん……ぁ、いや……おす……。突き飛ばしたり、腕を掴んだりはするけど……殴ったりはしないです」

「――だったら、あなたは殴る技術を持てばいい」

 

 彼女は堂々と言い放った。真剣な目つきで、何も気後れすることなく、そう言いきった。

 

「相手が慣れていない、殴るという行為。あなたがそれを会得してしまえば、大きな優位性となる。――あなたは勝てる」

「で、でも……そんな、簡単に……」

「簡単よ」

 

 女性は手を伸ばすと、こちらの右手首を掴んできた。びくりとしてしまったが、黙って身を委ねることにする。

 そのまま彼女はリットの手を引き寄せると――ゆっくりと、手のひらを広げさせた。

 

「――まず、親指以外の四指を折り曲げる」

 

 彼女の指が、リットの右手を操作する。為すがまま、動かされる。小指から順に、薬指、中指、人差し指と曲げてゆく。

 ――並んだ四つの、第一関節から第二関節の面。その人差し指と中指の上に曲げた親指が乗せられる。

 

「――小指と親指で、握りを締めるように」

 

 わずかに微調整されながら、右手が拳をかたどってゆく。これが殴る時の、手の握り方なのだろうか。――初めて知るものだった。

 

「手首は曲げず、腕と手の甲までが水平に。そして手の甲と、曲げた指が直角になるように」

 

 ――完成よ。

 そう言って、女性は手を離す。できあがった手は、今までに握ったことのない形だった。これが――正しい拳の在り方。

 

「強く握る必要はないわ。その形を何度も作って、手に馴染ませなさい。そうすれば――自然と身に付く」

「…………」

 

 リットはその拳を保ったまま、無言で腕を引いた。

 そして――前のほうへ突き出す。

 これで人を――殴れる? いや……とても、そんな自信はなかった。ぜんぜん強そうに見えない。

 ――何かが足りない。格闘の知識がないリットでも、これだけでは不足しているとはっきりわかった。

 

「――見ていなさい」

 

 女性は笑うと、一歩、身を引いた。

 その動作から、次の行動が予測できた。――実演するのだろう。パンチを繰り出すのだ。

 

 ――その手が、腰のあたりに溜められた。甲を下にして。

 そして――腕が動いた。シュッ……と、風を切るような音。気づいた時には――目の前に、女性の右拳が突き出されていた。

 

 速い。

 さながら、疾風のごとく。

 そして――おそらく、これは手を抜いた行為だった。リットが見えやすくするための。

 もし本気でやっていたら――

 先週、“風”に顔を打たれて転ばされた時と同じ結果になっていたのだろう。

 

「――気づいたことは?」

 

 女性はすかさず尋ねてきた。リットはあわてて彼女の手の形を観察する。その拳は、手の甲が上に――

 

「……あっ、手の向きが……逆に?」

「正解よ」

 

 彼女はふたたび笑うと、もういちど腕を引いた。手の甲は下向きに。そして……ゆっくりと、捻りながら前へ突き出す。伸ばしきった時には――拳は180度の回転をしていた。

 拳を回転させながら打つ――そんな方法など初めて知った。ただ手を握って、相手に打ち付けるだけではないのだ。未知の“技術”が、そこには存在していた。

 

「正しい拳の形で、正しく拳を打ち出す。――それを反復しなさい」

 

 ――それは、リットに対する次の宿題だった。

 

 時間にすれば、待ち合わせから三十分ほど。

 女性から手の形、腕の動作を指導してもらったあと、リットは街中へ消えてゆく彼女を見送った。どうやら鍛冶屋に所用があるらしい。いろいろ忙しそうな中でも、リットに付き合ってくれたことを考えると――彼女の隠しきれない人の好さがうかがえた。

 

 女性が消え去った方角を眺めながら――リットは教えてもらったとおり、拳を放ってみた。

 ぶん、と不格好な突きになってしまったが……何も知らなかった時と比べれば、少しは威力のありそうな打撃だった。

 

 向上している。少なくとも、以前よりは。

 それは、つまり。強くなっている、という意味にも捉えられた。

 ――力が、ついているのだろうか。

 

「正拳突き、かぁ……」

 

 教えてもらった技の名前を呟く。

 ――ちょっとだけ、勇気が湧いた気がした。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ――あれ以来、学校に金属ペンを持っていってはいない。

 

 また盗られるのが怖い、というのが正直な思いだった。今のリットでは、イフェルたちに逆らえる力はなかった。――今は、まだ。

 イフェルと顔を合わせた時、リットはいつも頭の中でイメージを駆け巡らせていた。

 もし自分が、正拳突きを放ったらどうなるか。

 体格で負けている自分が、“技術”をもってしてイフェルを攻撃して、はたして打ち倒すことができるのか。

 誰も見ていない時に、こっそり正拳突きを練習しているリットだったが――イメージの結果は芳しくないものばかりだった。

 

 ――おそらく、倒せない。

 きっと殴られたイフェルは、逆上してリットをボコボコにしてしまうだろう。そんなリアリティのあるイメージばかりが思い浮かんだ。

 何かが足りない。

 勝つための、決定的なパーツが――

 

 

 

 

 

「――今から、重要なことを教えるわ」

 

 正拳突きで相変わらずの筋肉痛になっていた、学校帰りのその日。いつもの場所で、指定された時間に落ち合った彼女は――しばらくして、重々しい口調で言った。

 すでに教えてもらったことの補足ではなく、新しい大事な何かの話だ。そう直感したリットは、真剣な面持ちで「おす」と頷いた。

 

 女性は手のひらをリットに向けると、それをゆっくりと近づけていった。

 ――リットの右肩へ。

 ちょうど付け根あたりに触れたそれは、わずかに力がこもっていた。肩を押されたリットは、困惑しつつも体を反らして受け流す。それを見て、女性は微笑を浮かべた。

 

「――もう一度」

 

 そう言うと、彼女はふたたび手を引き、次は左肩へ向けて手のひらを押し付けてくる。不可解なやり取りに怪訝な思いを抱きつつも、リットは同じように左半身を後ろに反らして、それを受けた。

 

「――そして、次は」

 

 手を引いた彼女は――また腕を伸ばしてきた。

 今度は――胸の上のほうへ。つまり、体の真ん中だった。

 そこに手のひらを当てられ、同じような力で押されたリットは――

 

「わっ! ……と……っと」

 

 踏ん張りきることができず、後ろに倒れそうになったリットは、あわてて彼女から身を引き離してしまった。

 それを眺めていた女性は、腕を下ろすと問いを投げかけてきた。

 

「――違いに気づいたことは?」

「違い……」

 

 左右の肩と、胸。受けたリットの反応は、明らかに違っていた。それは何に起因するのだろうか。

 肩を押された時は――そう、力を受け流せた。体を斜めに反らして、体への負担を軽減できたのだ。

 だが――胸を押された時は違った。体の軸そのものに当てられた力は受け流せず、そのまま後ろに追いやられてしまった。つまり――うまく軽減できなかったのだ。

 

「中央に当てられたら……倒れそうになりました」

「そう、そのとおり。胴体の中央から離れるほど、向かってくる力は受け流しやすくなる。だけど――」

 

 女性は人差し指を伸ばした。それはゆっくりと、腹部の上のほうへ近づいてくる。彼女の指先が触れたのは――リットのみぞおちだった。

 

「体の中心軸。そこにある部分を打たれた場合、咄嗟にダメージを低減することは至難。――これが人体の“急所”よ」

「きゅ、きゅうしょ……」

「――正中線」

 

 みぞおちに触れた指が、徐々になぞるように、服越しに上がってゆく。胸骨を通って、首筋に、そしてアゴ先に。くい、と上げられたリットの顔を、フードで陰になった眼が射貫いていた。

 

 ――透き通った、碧い瞳だった。

 綺麗で美しい。そして、恐ろしくもある。純真であるのに、無垢ではない不思議な色をしていた。そう――ただ、ひらすら。純粋に、真なる“何か”を追い求めているような……そんな瞳だった。

 

「覚えておきなさい。この急所を打てば、子供(ガキ)の喧嘩で負けることもないわ」

「ぉ……お、す……」

「…………」

 

 指を離した女性は、ふっと軽く笑った。そしてリットに、ふたたび指導を始める。姿勢や拳の運び方を修正し、改善させていった。

 きっと彼女は、こんな正拳突きにとどまらず、山のようにテクニックや鍛錬方法を持っているのだろう。だが「これさえあればイフェルに勝てる」というものを授けたのだ。そして――それは信頼すべきものだった。

 

「――時間よ」

 

 終わりは唐突にやってきた。

 もともとリットへの指導は、用事の“ついで”にすぎない。彼女が許容できる時間で、必要最低限のことを教えていただけだった。そのことは、リット自身も理解していた。

 

 これで終了。

 これで十分。

 これで――完璧。

 少なくとも、子供が喧嘩に勝つには――と彼女は言った。

 

「――もう、教えることもないわ」

 

 そう淡々と口にする彼女を、リットはどこか心細さを感じながら見つめていた。

 はたして大丈夫なのだろうか。

 今の自分が、もうイフェルに勝つことができる? ……本当に?

 この手が、正拳突きが、自分より背の高いいじめっ子を打ち倒せるのか?

 ふと抱いた疑念は急速に膨らみ、重々しい不安へと生まれ変わる。

 それでも――

 

 女性はもはや用はないと言うように、リットの横を通り過ぎていった。

 街中へ消えゆこうとする彼女に、何か言葉をかけようと振り向く。けれども、言葉が出てこなかった。自信満々で感謝を伝えたいのに――その勇気が湧いてこない。自分の弱さに、心苦しくなった。

 

「ぁ…………」

 

 ふいに、女性は後ろを振り返った。言葉を交わすには少し遠い距離で。彼女はこちらを見据え、足を軽く開く。

 何をするのか――構えで瞬時にわかった。女性が右手を、甲を下にして引き絞っている。正拳突きをしようとしているのだ。

 

 ――この距離から。

 拳が、届くはずもないのに。

 

 戦慄がリットの体に迸った。肉体の本能が、何かを予知していた。これから――攻撃が迫ってくるのだと。

 リットも足を開き、腰を下ろし、地にしっかりと踏ん張った。その姿勢を確認してから――女性は、ニィと笑って。

 

 ――動いた。

 ように、見えた。

 

 だが、彼女の右手がかすんだ瞬間――凄まじい風がリットの胸を打ち付けた。ピンポイントの突風が、小さな体を吹き飛ばそうとする。その激しい風を――なんとか歯を食いしばり、足を踏みしめて、やっとの思いで受けきった。

 

 ――これが、正拳突き。

 人知を超えた、超常の業に――リットの(こころ)は打ち震えた。どんな武器よりも、どんな兵器よりも、どんな魔法よりも、強く勇ましく、そして神々しい力だった。人間の肉体が、ただの生身が、あれほどの風を引き起こしたのだ。驚愕し、畏怖し、そして尊敬するほかなかった。

 

 ――ようやく、そむけた顔をもとに戻すことができた。

 そこには、彼女が立っていた。放った拳の風圧によるものか、フードは後ろに外れている。今にして初めて、女性の頭がはっきりと確認できた。

 

 陽のもとにさらされた顔立ちは、若々しく生気に満ちていた。その圧倒的な存在感から見誤っていたが、年齢は十代半ばを過ぎたくらいの、まだ少女と呼ぶこともできる外見だった。

 

 ――黄金に輝く髪が、煌めいていた。

 その金髪は後頭部で束ねて、ポニーテールにしているようだ。

 女性は手を後ろ髪に持っていくと――紐をほどいたのだろうか。束ねていた髪が解放され、本来の形へと戻っていった。

 

 それは……時間をかけて整えなければ成しえないほどの、見事な巻き髪だった。高い身分の貴族令嬢は、ああいう手の込んだ髪型をよく好むという話を聞いたことがあるが――

 その髪の形は、まるで自然体であるかのように、作りものらしさを感じさせず。優艶で気高く、そして高圧的で威迫に満ちた外見だった。

 

 女性は、無造作に右手を振り――

 

「……わっ!?」

 

 何かを胸に投げつけられ、リットは情けない声を上げながら手に取った。目を向けてみると――髪を結んでいたであろう、細い革紐がそこにあった。

 

「――あなたは私の“弟子”よ。敗北は許さない」

 

 距離はあっても、その透き通った声はリットの耳にはっきりと届いた。巻き髪を揺らしながら、かすかにほほ笑むうら若い女性の面持ちは――見惚れてしまうほど美しく、そして強さに満ちていた。

 

 不安など吹き飛んでいた。

 ただ湧き上がる気持ちのまま、餞別に受け取った革紐を強く握りしめながら。

 リットはほとんど無意識に、そのまま右手の正拳突きを繰り出していた。

 

「――おすっ!」

 

 同時に出す声は、同じく彼女から教えてもらった言葉。

 ひと気のない路地裏に、虚空を殴る音と、少年の叫ぶ声が響き。

 

 それを笑って見届けた女性は――ゆっくりと、リットのもとから立ち去ってゆくのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

「――リット」

 

 見下したような、冷ややかな声が上がった。

 学校を出た直後、リットはイフェルに呼び止められたのだ。振り返ってみると、いつもの三人組がそこに立っていた。ニヤニヤと意地の悪い表情をしている。

 

「……お前、またあんなペンを使っていたな。懲りてないなぁ」

「…………」

 

 絡んできたイフェルに対して、リットは無言で睨みつけた。その態度が気に食わなかったのか、彼は急に不機嫌そうな面持ちになった。生意気だ、と言わんばかりの表情である。

 

「なんだぁ、その(つら)は」

「――うるさいな」

「……なんだって?」

 

 言い放った言葉は、イフェルにとって予想外すぎたのだろうか。怪訝そうに眉をひそめたが――それも一瞬のこと。すぐに彼は、怒りを湧き上がらせていた。

 

「……お前、よくそんな口を利けるな。殴られたいのか?」

 

 そう低い声で言った彼は、拳を握ってみせた。今にも殴りかかってきそうな勢いである。その様子に、リットは内心で少し怯えてしまったが――

 あることに、気がついてしまった。

 

「……手」

「あん?」

「……おかしいよ、それ」

 

 口を衝いて出た言葉は、イフェルには理解できなかったのだろう。「はぁ?」と彼は威圧的に睨みつけるが――もはや彼からは恐ろしさを感じなかった。

 リットには見えていた。

 イフェルの拳をかたどった右手が、親指を指の中に握り込んでしまっていることに。

 

 そうじゃない。

 拳の握り方は、そうじゃない。

 イフェルは知らないのだ。人を殴る時の、手の形を。

 

 そして――リットは知っていた。

 手の形を。繰り出し方を。そして、打つべき急所(ばしょ)を。

 

 あの女性(ひと)の言ったとおりだった。

 明らかで、大きな――優位性。それがリットには存在していた。

 

 力がみなぎっていた。

 恐怖はなく、自信が満ちあふれていた。

 勝負というものは、ただ背丈や体つきだけで決まるものではないのだ。

 それを初めて、心の底から理解していた。

 

「――負けたら、二度と絡んでくるなよ」

 

 お前に勝つ。その気持ちが伝わったのか、イフェルは逆上した様子を見せた。

 彼は拳を振りかぶって、こちらの顔を殴ろうとしていた。

 

 違う。

 拳の出し方も、それじゃ駄目だ。

 後手に回ったのはリットだったが――そんなことは、些細だった。

 

 幾度となく繰り返した。

 ほんの数日前までは、ずっと筋肉痛だった。

 だけど――それは、自分の体が正拳突きに慣れてゆく証だった。

 

 訓練した突きを繰り出す。

 回転を加えながら、まっすぐ前へ。

 狙いは――正中線、そのみぞおちへ。

 

 リットの突きは――遅かった。

 教えてくれた師の、何十分の一という遅さかもしれない。

 それでも――

 

 

 

 

 

 ――イフェルの何倍も、速く、鋭く、そして強かった。

 

 

 

 

 

 

「…………く、そっ」

 

 地面に倒れて苦悶したあと、仲間の二人に支えられながら立ち上がったイフェルは――息も絶え絶えに、悔しそうに去っていった。

 はたして約束は守ってくれるのだろうか。少し心配ではあったが――もし、またちょっかいを出してくるようであれば。もういちど、喧嘩で勝負したらいい。

 

 リットは笑みを浮かべながら、自分の拳を眺めた。そこに握られているのは――初めての勝利だった。勝ったのだ、イフェルに。

 自分の力で――では、ないだろう。

 この(わざ)は、彼女から教えてもらったものだった。

 

 だから、そう――

 全身の湧き上がる、この感謝の気持ちを。

 いま、もういちど。拳に乗せて。

 

 シュッ――と、以前よりは様になった正拳突きを放ち。

 勝利と感謝の叫びを上げた。

 

 

 

「――押忍(おす)ッ!」

 

 きっと、この声は彼女に届いているだろう。

 リットはそう信じて、笑みを浮かべた。

 



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武闘派悪役令嬢 014

 

 ――少女たちのすすり泣く声が耳に入った。

 

 私はひどく懐かしい気分に襲われながら、ゆっくりとまぶたを開く。そこは見覚えのある場所だった。食堂棟の二階のホール。ダンスパーティーにも使われるこの会場だが、平時は数多くのテーブルが並び、学生が自由に利用する多目的ホールとして開放されていた。

 昼の休憩時間や放課後は、このホールで茶飲み話をしたり、あるいはトランプやチェスなどを楽しんだりする者も多い。多くの学生にとっては、馴染みのある場所と言えるだろう。

 

 そんな二階ホールで――私は椅子に座っていた。

 自分の足や腰を、縄で椅子に縛り付けられた状態で。

 

 周囲には、私と同じように拘束された女子学生たちがいた。上級生と下級生が入り混じっていたが、その共通点はすぐに判別できる。――全員の出身が、伯爵家以上の上級貴族だった。

 つまるところ、わかりやすい人質というわけである。

 そして、いま女子学生の命を預かっている人物は――

 

『――食事は取りたまえ。この状況がいつまで続くかもわからぬのでな』

 

 そう落ち着いた声で言うと、彼は呑気な様子でティーカップに口をつけた。

 テーブルの向かいの席に座っているのは、本を広げて平然と読書をしている初老の男性である。ダークブラウンの短い髪には、白髪がそれなりに混じっていて齢を感じさせた。眼鏡をかけて本に目を通している姿は、まさしく研究者といった風情である。

 

 ――フェオンド・ラボニ。

 それが眼前にいる人物の名前であった。

 

 彼はこうして女性学生を人質にして、王国に要求を突き付けている最中というわけである。この二階ホールで、貴族の女子たちとともに立てこもっているかぎり、外の人間は強硬な手段が取れなかった。

 テーブルや椅子の配置も、魔法などによる狙撃を警戒した位置取りをさせている。バルコニー側から忍び込んでラボニを狙おうとしても、人質たちを巻き込みかねない状況だった。なかなか考えられた計策である。

 

 もっとも――何事も予定どおりにはいかないもので。

 ラボニが仮眠を取るために、見張りに立たせたデーモン。使役しているように思われたそれも、徐々に召喚者の命令に背きはじめる。

 

 きっかけとなったのは、一人の少女の行動だった。

 ヴィオレ・オルゲリックは人質として監禁されるなかで、空腹に耐えかねて給仕が運んできたパンを手に取った。口をつけた彼女は、そのパンの中に異物が入っていることに気づく。それは魔力を通し、魔法の制御道具にもなる古木――すなわち杖だった。

 学園側がラボニに悟られず学生へと送り込んだ、魔術師の武器。それを見つけたヴィオレは、なんとか魔法で拘束を解き――そのまま自分だけ逃走しようとした。彼女には魔法でラボニを暗殺しようとする勇気などなかったのだろう。

 だが事態を察したデーモンがそれを見逃すわけもなく、ヴィオレの胸を貫いて殺害してしまった。「絶対に殺しはするな」という命令が破られたラボニは、ひどく動揺した様子でデーモンと言い争い――そんな混乱の中で、乗り込んできたアニスたちが終局への物語を紡いでゆくのだ。

 

 それが知識だった。

 だが――今となっては、もはやなんの役にも立たない未来の情報である。

 

「久しぶりに見た」

 

 思わずこぼした声は、いやにはっきりと自分でも聞こえた。

 これは“夢”だった。かつて、何度もうなされた悪夢。そして、いつしか見なくなってしまったもの。

 

 ――嬉しい。

 そんな感情が湧いていた。

 

『見た……? なんのことだね?』

 

 私の発言は意味不明だったのだろう。ラボニは不可解そうな目つきで、こちらに視線を向けていた。

 ――下半身に目を向ける。

 そこには、足腰を雁字搦めに椅子と縛っている縄があった。飲食はできるようにとの配慮か、腕だけは自由にされているが、それでも素手で解くことは無理だろう。刃物で切るか、あるいは魔法で土くれに変えるかしなければ、どうしようもない拘束である。

 相手が杖もない女子学生ならば、体を椅子に縛り付けていれば十分。それがラボニの考えだったのだろう。

 

 だが――それは間違いだった。

 いま、この夢を見ている私は。

 かつてのヴィオレでなかった。

 

 手を伸ばし、邪魔な縄をすべて引き千切った私は――すぐに椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩きだした。ホールの中央へと。

 そこでラボニのほうを振り返ると、彼は一冊の古びた本を手にしながら、呆然とした表情を浮かべていた。

 

『ばかな……杖も、なかったはずなのに……』

「そんなことは、どうでもいいのよ」

 

 私は淡々と言った。

 ここは夢の中である。ラボニも、人質の女子たちも、どうでもいい存在だった。ただ、私が“欲しい”と思う存在は――

 

『…………っ』

 

 ラボニは焦燥しながらも、未知の言語を叫んだ。それはデーモンを召喚するための呪文である。ホールの床を黒い影が蝕んだかと思うと――その暗闇から巨大な異形が突如として出現した。

 

 体躯は巨大なクマを思わせるほど、屈強で猛々しい。

 背だけでなく、横幅も広かった。あふれるような筋肉に、その腕の先に伸びた爪。鋭利なそれは刃物と等しかった。

 人間とは明らかに異なる黒紫の皮膚は、まさしく魔の生物といった風情である。

 

 勇ましいデーモンの姿に――私は笑みを浮かべた。

 

『……ニンゲン……ナゼ……』

 

 デーモンがどこか困惑したような声を上げたが、気にせず彼のもとへと歩み寄る。

 臆せず対峙する人間というものは、初めて目にするのだろうか。デーモンは威嚇するようにうなるが、襲いかかってくる気配はなかった。

 かつては恐れ、死を感じた脅威の存在。

 だが久方ぶりに対峙した今は――立場が逆転しているようだった。

 

「さあ」

 

 私は両手を広げながら、なおも歩みを続けた。

 ――やってみせなさい。

 その意思は通じたのだろうか。弱きはずの人間に挑発されたデーモンは、怒りに任せて動いてくれた。

 

 その太く逞しい腕が、私へと差し向けられる。

 爪で刺し貫くつもりだ。そう理解した私は――こともなげに腕を前へ掲げた。

 

 鋭利な刃が、肉に食い込んだ。

 右手の前腕でガードしたそれは――熱い痛みをもたらした。

 これは夢のはずなのに、まるで現実のような痛覚が存在している。それが愉快で、私は笑いを深めてしまった。

 

『バカ……ナ……』

 

 私の腕に爪を突き立てたまま、デーモンは呆然と呟いた。人間ごときに、なぜ。そんな心中が伝わってきた。

 

「――誰かから傷つけられるなんて、久しぶりだわ」

 

 流れる血を感慨深く眺めながら、私はそう口にした。これが頸動脈に命中していたら、まず失血死は避けられなかったであろう。

 ――素晴らしい一撃だった。

 やはりデーモンは人外なだけある。全力で“気”を込めた肉体をも傷つける、その剛力と切れ味。人間とは桁違いの能力に、私は感心しきっていた。

 

 たとえ優れた才能と経験持つ騎士といえども、この人ならざる存在に勝てるかどうか。生半可な魔術師では、一矢報いることすら困難であろう。

 しかしながら――

 

 所詮は、それどまりだった。

 

「――――ッ」

 

 突き刺さった爪から、腕を引き抜き――私はデーモンの懐へと踏み込んだ。

 相手はその動作を捉えることもできなかったのだろうか。防御態勢を取られることもなく――攻撃は急所へと達していた。

 体重とスピードを乗せた、追い突きと呼ばれる空手の基本技。

 常人の速度を超えた打撃は――まるで何かが破裂するかのような音を響かせた。

 

 風よりも疾く、槌よりも重い打撃。

 いや――それは音さえ超えていたのかもしれない。鈍器など比べ物にならない威力は、至近距離で爆弾を炸裂させたのに等しかった。あるいは、それ以上か。

 

 拳がデーモンの胸を貫いていた。

 文字どおり――破壊的な力が肉をえぐり、吹き飛ばしていたのだ。

 心臓を粉砕されたデーモンは、どさりと崩れ落ちて……。

 あっけなく――その生命を消失させた。

 

「次は――」

 

 私はゆっくりと、向こうにいるラボニへと顔を向けた。唖然とした表情の彼は、その手から魔本を滑り落とす。デーモンをたやすく討ち取られて、何を思っているのか。絶望しているのか、それとも――

 

「もっと強いのを……()び出しなさい」

 

 その言葉を最後に――あらゆる空間は白に塗りつぶされた。

 夢はすべて崩れ去ったのだ。

 だが――

 

 たしかに、夢は存在していた。

 

「…………」

 

 ベッドの上で、まぶたを開けた私は――ふと右腕を動かした。

 その前腕、夢の中で流血した部分に――なぜか鋭い痛みが残っている。

 どこにも傷はない。ただ寝ていただけである。それなのに、私の肉体はまるで本当に闘争を為したかのように熱を帯びていた。

 

 ――夢のフィードバック。

 そんな非科学的なことが実在するのだろうか。不可解ではあったが、否定すべきものでもあるまい。

 夢幻の中で、無限に戦えるというのならば――これほど痛快なことはなかった。

 

 もっと強い相手と戦いたい。

 圧倒的で、絶望的で、破壊的な力を有した者と。

 死を顧みることなく、全力ですべてをぶつけ合うのだ。

 それは――素敵で甘美な夢想だった。

 

 現実ではない世界ならば、どんなことだって叶いうる。

 私は次の夢を見ることが、今から楽しみで仕方なかった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 

「――オルゲリックさんっ!」

 

 とある授業が終わった直後のこと。

 つかつかと私の座っている席のもとへ、一直線に近づいてきたアニス・フェンネルは――意を決したような表情で話しかけてきた。

 

 最近はそこまで私に構ってこなかったはずの彼女だが。

 ……今日に限って、なぜ?

 と訝しみつつも――私は髪を掻き上げ、冷ややかな目つきで対応した。

 

「いきなり、なんですの? 言っておきますが、あなたと遊ぶつもりはありませんことよ」

「そ、そうじゃなくて……! え、えぇと……その……」

 

 言いよどむアニスは、何か事情を抱えているようだった。いつもハッキリと話すタイプの彼女にしては、なかなかめずらしい様子である。どうしたのだろうか。

 不機嫌そうな雰囲気を(かも)しつつも、私はアニスが口を開くのをじっと待つ。やがて彼女も話の整理がついたのだろうか、緊張した面持ちで言葉を紡ぎだした。

 

「――相談があるんです」

 

 ……はい?

 そ、相談……?

 

「それは親しい相手にすることではなくて?」

「え、ええぇっ!? わたしたち、友達じゃないですかっ!」

「誰がッ!? いつッ!?」

 

 いつの間に私とアニスは友達になったのか。彼女の人間関係の基準は絶対にズレている。日常的に和やかに会話して初めて、友達同士と呼ぶものではないだろうか。

 そんなツッコミをしたかったが、私の内心などお構いなくアニスは話を続ける。

 

「オルゲリックさんくらいしか、頼れる人がいないんです!」

「はぁ……? わたくしが頼られる理由がわからないのですが」

 

 私はどこか間の抜けた声を上げてしまった。

 アニス自身の交友関係はべつに狭いわけではない。というか、むしろ友達が多いほうだ。“ヴィオレ”という虐め役が存在しないこの世界では、彼女は持ち前の明るさと優しさによって、クラスメイトとの良好な関係を築いていた。

 つまり、相談する相手はいくらでもいるはずなのだ。

 それなのに、私に対して話しかけてきた。その理由の見当もつかない。私ははっきり言って困惑していた。

 なぜ、アニスは私を頼ろうとしているのか――

 

「そ、それはですね――」

 

 彼女はぎゅっと拳を握って、強く言いきった。

 

「オルゲリックさんは――いつも、人を寄せ付けないオーラを出しているからです!」

「…………はい?」

「わ、わたしも……その方法を教えてもらいたいなぁ、って!」

「…………はあ?」

 

 な、何を言っているのかサッパリわからない。

 頭をぶつけておかしくなったのかしら、と哀れむ目つきをしていると、アニスは慌てたように言葉を付け足した。

 

「あ、あのですね……。なんというか……よく話しかけてくる方がいらっしゃって」

「話しかけてくる方?」

「はい。以前に舞踏会(ダンスパーティー)で一緒に踊った、上級生の男性なんですけど……。それから、顔を合わせるたびに声をかけられるようになって」

「はぁ」

 

 なんとなく、話が見えてきたような気がした。

 

「『今日も美しいね、きみは!』とか『よかったら一緒にお茶しよう!』とか、ものすごく積極的に言ってくるんです……」

「へー」

 

 それ、あなた気に入られてるんじゃない。

 まあ、顔もかわいいし性格も素直でいい子なので、男性から人気があるのも頷ける話である。フォルティスもレオドも教師陣も、“本来の流れ”と違ってアニスとの交流がまったくないようなので、もしかしたらこの世界の彼女は男性との縁がないのではと思っていたけど――

 結局はそんなこともなく。やはり“主人公”らしい魅力を持った彼女は、ひとに好かれることを避けられないということだろうか。

 

 しかし……。

 相手はいったい誰なのだろう。それが気になった。

 

 直球で好意を伝えてくるような(ヒーロー)なんて、私の知識の中には存在しなかったはず。しかも縁の薄い上級生。ということは、“ストーリー”に出てきすらしなかった男子学生なのかもしれない。

 

「それで、ですね……。オルゲリックさんに、ひとを拒むオーラの出し方を教わろうかと思いまして……!」

 

 いや、べつに拒絶しようと思っているわけでもないんですが。

 たしかに、廊下を歩けば学生は私を避けていくし、教室や食堂では私の周囲の席に誰も座ろうとしないけれど――べつに意図的に他者を排除しているわけでもなく。

 勝手にみんなが恐れて逃げていくだけである。

 ……まあ、私は気にもしてないけど。

 

 それはともかく。

 

「――厭う必要もないのではなくて? 付き合えばよろしいでしょう」

 

 私はこともなげに言った。

 そもそもアニスは、私と違って婚約者がいるわけでもない。学園で恋仲になった貴族と、そのまま縁を結ぶケースだってあるものだ。いっそ付き合ってみるのも、そう悪くはなかろう。

 ――が。

 そんな他人事な考え方は、彼女にとっては受け入れがたいらしい。

 

「い、いやです……!」

 

 と、交際を完全否定するアニス。基本的に他人を肯定的に捉えるタイプの彼女が、こうもはっきり拒絶の意志を示すとは。それだけ相手に問題があるのだろうか。

 アニスの性格的に、相手の容姿で良し悪しを判断することはないだろうから――

 

「な、なんというか……軽いんですよっ! こう、もっと真剣に言ってくるなら、まじめに考えるんですけど……!」

 

 つまり、どう見ても軟派な男らしい。

 なるほど。そういう遊び人気質な男は、アニスがもっとも苦手とする相手なのだろう。それで、どうにかして追い払いたいと悩んでいるわけか。

 

 ……やっぱり私に相談する内容じゃないでしょ、それ。

 

「――くだらない」

 

 私は呆れたように、ばっさりと斬り捨てた。

 嫌いな相手をうまく避ける方法、なんてものを考えるのは馬鹿らしい。相手のことが嫌いなら、自分も嫌われるようにすればいいだけだ。全員に良い顔をする必要なんて、どこにもないのだ。

 

「あなたが嫌いだと、二度と関わるなと、そう言えばよろしいだけでしょう。そんな単純なこともできませんの?」

「うっ……。そ、そうなんですけど……でも……言いづらいというか……」

 

 アニスは泣きそうな顔で、小さく弱々しく言う。他人を嫌いになりきることができないのは、彼女の良いところでもあり悪いところでもあった。その純真さが、かえって自分を苦しめることもあるのだ。

 

 彼女は善良な人間だった。

 それは主人公にふさわしき人格であり、その善良さをもってして物事を良い方向へと導いていくのだ。

 もっとも――それはフィクションの話であり。

 現実は、正直者が馬鹿を見ることだってある。この世界において、アニス・フェンネルという人間が不幸に陥る可能性は否定できなかった。

 

 ならば、いったい誰が彼女を守護(まも)るのだろうか。

 ヒーローが存在しないというのならば。

 困っているアニスを助けるべき者は――

 

 

 

 

 

「――強くなりなさい」

 

 私は淡々と、彼女に向かって言い放った。

 言葉をぶつけられたアニスは、一瞬ぽかんとした表情を浮かべる。そんなことを言われるとは思っていなかったのだろうか。

 

 もし私が(くだん)の男を脅して、アニスに絡むのをやめさせれば、彼女の抱えている悩みは簡単に解消されるだろう。

 だが――私はそんな人助けをするほどのお人好しではなかった。

 仮に今回は助けたとして、また同じようなことがあったら。そのたびに世話を焼くのだろうか? ばかばかしい。

 

 己を救済すべきは――できるかぎり己であるべきだ。

 だからこそ。アニスという少女は、もっと強くなるべきだった。

 

「人は“力”を(おそ)れるものよ。はるかに強い存在に対して――人間は距離を置こうとする。権力、財力、知性、才能、あるいは腕力。彼我の差を感じるほど、高みにいる相手には近寄りがたくなる」

 

 多くの者がそうだ。たとえば出自が平民の人間にしてみれば、格の高い上級貴族へ気軽に声をかけるのは憚られるだろう。家柄の差を理解してしまっているからだ。

 あるいは天才と呼ばれる人間は、凡人からしてみれば歩み寄りがたい存在であろう。大きな差異というものは、親近感とは正反対の感情を抱かせるのだ。

 

 だから、近寄ってほしくない相手がいると言うのなら。

 その人物が認識できるような“力の差”を身につければいい。

 そう――相手よりはるかに“格上”の存在となるのだ。

 

「つまり――」

「つ、つまり……?」

「――体を鍛えなさい」

「……っ! お……オルゲリックさん……!」

 

 アニスは感情を震わせたような面持ちで、私の腕をがしっと掴んだ。

 彼女の両手は、鋼のように鍛えられた上腕二頭筋に触れている。

 この学園の、どの学生よりも太く硬い肢体を確かめながら、アニスは――

 

 

 

「こ、こんなにムキムキになるのは無理ですよぉーッ!?」

「無理じゃないわ。腕立て伏せを毎日しなさい。まずは千回から」

「そ、そんなにやったら痛みで死んじゃいますってッ!?」

「あなたなら大丈夫よ」

 

 筋肉の発達のメカニズムとは、筋繊維の破壊からの再生――すなわち痛みからの回復!

 そして何を隠そう、アニス・フェンネルには回復魔法の素質があるのだ!

 つまり! 筋トレからの筋肉肥大を超効率的に実践できるということにほかならない!

 

 それは恐るべき、聖なる魔力の利用法であった。彼女が本気(マジ)になれば、私よりもはるかに強大な肉の塊をまとうことができるのだ。その奇跡の筋肉から繰り出される破壊力は――いったいどれだけのものか。

 肉体を鍛え上げたアニスの姿を想像した私は――

 

 

 

 

 

 ……いや、やっぱりないわ。

 モリモリマッチョのアニスの姿は“これじゃない”感が半端なかったので、私は忘れることにした。やっぱり主人公の乙女は可愛らしくないとね、うん……。

 

「――ま、とにかく。自分の意思をしっかり伝えられるようになさい。嫌なことを嫌と言えるようになるのも、大切なことですわよ」

「……そうですね。努力してみます」

 

 深々とうなずいたアニスは、落ち着いた声色で答えた。まだまだ年若い少女である彼女には、これからも悩むことがたくさんあるのだろう。こうして誰かに相談しながら、いろいろ考えたりすることは、きっと重要なことだった。

 

 べつに私はアニスのことが嫌いじゃないし、むしろ好きである。

 とはいえ、自分が“ヴィオレ・オルゲリック”である以上、そう馴れ合うつもりもなかった。私はなんだかんだで、高慢で生意気なヴィオレも嫌いではないのだ。

 だから――仲良しの時間はこれまで。

 

「――さあ、お退きなさい。私にくだらない時間を使わせて、迷惑極まりないですわ」

 

 腕に触れたままの彼女の繊手を振り払うと、私は教室から出ようと歩きだした。後方からアニスが感謝の言葉を投げかけてきたが、私はそれを無視して足を動かす。つまらぬお喋りをするよりも、今はさっさと食堂へ行って昼食を楽しむほうが優先事項だった。

 

 廊下を歩きながら、私はちらりと横に目を向ける。

 そこには、ずっと黙って付いてきているミセリアの姿があった。

 私とアニスとの会話もすべて近くで聞いていたが、とくに感慨もなかったのだろう。いつものように、淡々とした無表情を貫いていた。

 

 彼女は私のほうを見上げると――ふいに、呟くように口を開いた。

 

「笑み」

「なにかしら?」

「どうして、笑っている?」

 

 私は口元に手を当てた。そこには、確かに歪んだ唇があった。知らず知らず、ほほ笑んでいたようだ。

 理由は――思い当たっていた。

 前々から、私は変化を(たの)しんでいた。フォルティスも、ミセリアも、レオドも。本来の在り方とは違った方向へと、その姿を変えている。それが楽しくてたまらなかった。

 

 わかりきったことなど、面白くはない。

 予想どおりの結果など、私は求めない。

 今の私が欲するものは――飢えを満たしてくれるような、新鮮で愉快な展開(ストーリー)だった。

 それを味わえるというのなら――私は“悪役”にだってなろう。

 

「人間は面白いことがあると笑うのよ」

「……面白いことがあった?」

「ええ、私にとっては」

 

 ――野次馬をしてみるのも悪くはない。

 “主人公”にちょっかいを出す男子。未知の存在であるそれを、戯れに眺めてみたいと思った。どんな相貌(かお)なのか、どんな性格なのか、そして――どんな味がするのか。

 

 美味(おもしろ)いか、それとも不味(つまらな)いか。

 ――前者であることを私は願った。

 

 

 

 

 

「おーっほっほっほっ! 食事が楽しみですわねぇ……!」

「…………」

 

 喰らうべきものは、まだまだこの世界に満ちていた――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 お待たせしました。プロットの構築に少し時間がかかってしまいました。
 今回から新キャラクターに関連したお話が続きます(6,7話でまとまる予定)
 テーマは「愛」です。甘い恋愛の話を描いていきたいと思っています。嘘じゃありません本当です信じてください。

 以下、ちょっとした余談。
 本作は『武斗派恶役千金』というタイトルで一部中国語翻訳されているのですが、向こうでもビスケだとかワンパンマンだとかケンシロウだとか言われていて笑ってしまいました。
 考えることは、みな共通な模様です。


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武闘派悪役令嬢 015

 

 ところで爵位というものは、行政区域を担当する官職が世襲化したものである。

 この国では五百年以上も前から爵位の世襲化が始まったようだが、長い年月が過ぎる中で行政区の細分化、戦争や開拓などによる新しい土地の収得、および王庫の財政難による土地の実質的切り売りが繰り返され、結果として大量の爵位が存在するようになってしまった。

 爵位の統合なども頻繁におこなわれているため、全体の爵位数は一定ではなく変動しているが――

 まあだいたい、すべての爵位を数えれば400個はあるのではなかろうか。

 

 多すぎであるっ!

 そんな大量の爵位名を覚えられるかっ!

 

 基本的に伯爵以上の大貴族は、複数の子爵や男爵も兼有しているので、現実には爵位所有家は400より少なくなるが……それでも貴族の数がアホみたいに多かった。

 にもかかわらず制度が成り立っているのは、まあ貴族の家系には“魔法”という強みがあるからだろう。才能のある血筋をひたすらに取り入れつづけた結果、由緒ある家に生まれた子供はたいてい魔法の素質を有していた。杖一本でさまざまな超常現象を起こせる魔術師(貴族)は、まさに土地の安寧を守る支配者としてふさわしい存在と言えるだろう。

 

 前置きが長くなった。

 なぜ、こんな初歩的なことを振り返っているのかというと――

 

 

 

「――ルフ・ファージェル?」

 

 食堂棟の二階ホール。そこに設けられたテーブルの一つを囲んで、私はめずらしく茶飲み話というものをしていた。

 そしてどこか意外そうな口ぶりで、今しがた人名を口にしたのは――フォルティス・ヴァレンス。婚約者ながら、こうしてまともに談話するのは久しぶりであった。

 

 ――ちらりと周囲を眺める。

 ほとんどのテーブルは人で埋まっていて、紅茶やビスケットを運ぶメイドの忙しそうな姿が目についた。私はめったに来ないが、このホールは多くの学生から毎日のように利用されているようだ。

 放課後の学生、というものはだいたい時間の使い方が決まっていた。図書館や自室で本を読むか、グラウンドで球技などをするか、そしてこのホールや寮の遊戯室で娯楽に耽るか。つまり――選択肢が狭かった。

 まあパソコンやテレビもない世界なので致し方ない。街に出れば劇場や見世物などがいろいろあるのだが、寮住まいの学生が遊興目的で外出する場合は、まず休日にしか許可が出されなかった。ゆえに大抵の日は、学園内の施設で時間を潰すしかないのである。

 

「ええ。あなた、ファージェル伯爵家と領地が近いでしょう?」

 

 あれから、ちょっとだけアニスに尋ねて情報を聞き出していた。彼女にしつこく声をかけてくる男子の名前は、ルフ・ファージェルというらしい。家名をどこかで聞いた覚えがあったので、図書館で王国の領地図を確認してみたら――まさかの伯爵家の子弟であった。つまり大貴族の出身である。

 そしてファージェル伯の支配地域は王国の中央側にあり、ヴァレンス公の領土とも一部を接していた。近くの上級貴族同士であれば、それなりに付き合いはあって当然である。学園では上級生と下級生という違いはあれど、フォルティスならばルフという男を知っているはずだ――と私は考えたわけだ。

 

「……まあ、けっこう話したことはあるぞ。子供のころは、誕生日パーティやら園遊会やらがあるたびに顔を見合わせていたし。歳も近かったから、そういうイベントの時は一緒に遊んだりもしたよ」

 

 懐かしむような口調で語るフォルティスだったが、すぐに目を細めてこちらを見据える。その顔には、どこか疑うような色が浮かんでいた。

 

「……で、なんでファージェル家の長男のことなんて聞くんだ?」

「あら? べつに“婚約者”の交友関係について尋ねても構わないでしょう?」

「…………」

 

 胡散くさそうにジト目で見つめるフォルティス。普段からこれっぽっちも“婚約者”らしいやり取りをしていないのに、こうして都合のいい時だけ持ち出すな――と言いたげな様子である。うん、私も同意である。

 しばし沈黙が続いたが、それを破ったのは私の声でも、そして彼の声でもなかった。淡々とした、感情のこもっていないひと声。

 

「――カード」

 

 その言葉に、私もフォルティスも顔をそちらへ向けた。――無言で同席していた第三者、ミセリア・ブレウィスへ。

 そう、相変わらず彼女は私に随従しているのであった。フォルティスも怪訝な表情を浮かべつつも拒否はしなかったので、婚約者同士の席にミセリアが混ざった状態で会話していたことになる。傍から見たらシュールすぎる絵面であった。

 

 そんな彼女が、話を聞きながら何をしていたかというと――トランプをシャッフルして三人分の山札を作っていたのである。

 カード遊び。それは、どこの世界でも共通のゲームであった。場所を選ばないその手軽さから、この学園でもボードゲームと並んで人気のある暇つぶしの娯楽となっている。

 

「ご苦労」

 

 と、私は積まれたカードを一つ手に取った。

 紅茶を飲みながら話をするだけでは退屈なので、ミセリアにはゲームの用意をさせていたわけである。ちなみにプレイするのはババ抜きであった。この世界でもルールはまったく同じだったりする。

 フォルティスが困惑したようにミセリアを眺めているが、それも致し方ないことかもしれない。この二人、まったく接点がないし言葉を交わしたこともなかった。じつはこれが初めての交流である。

 

「…………」

「あ、ありがとう……」

 

 ミセリアが無言で差し出したカードの束を、フォルティスはおっかなびっくり受け取る。反応がぎこちなさすぎるが、こんな無口の不思議ちゃんへの接し方など心得がなくて当然である。慣れれば扱いやすくていい子なんだけどね。

 

「――で」

 

 私は手札のカードを整理しながら、フォルティスに改めて問いかける。

 

「学園内では、どうなのかしら? ファージェル家のお坊ちゃんと仲はよろしくて?」

「……うーん、故郷のよしみがあるから仲は悪いわけじゃないが。アイツは上級生側だから、学園内だといまいち交流する機会もないんだよな」

「あら? 授業は別だとしても、寮棟で会ったりはするでしょう」

「まあ、あいさつくらいはするけど。ただ、それだけだ。だいたいルフも同級生の仲間とつるんでいることが多いし。……俺が見かける時は、たいてい寮の遊戯室でビリヤードをやっているな」

 

 けっこう腕がいいらしいぞ、と役に立たなそうな情報を口にするフォルティス。

 ……というか、男子寮にビリヤードがあるのなんて初耳なんだけど? 女子寮にそんなものないんだけど? これ男女差別じゃない?

 まあ女子の大半は談話室で群れて茶飲み話ばかりなので、遊具の需要がないということなのだろう。悲しい現実である。

 私も格好よくキューで玉を突いてみたいなー、なんてひそかに願望を抱きつつ――ミセリアの広げている手札からカードを一枚抜き取る。ペアはなし。残念。

 

「――その彼、恋人とかはいらっしゃったり?」

「はぁ……? いや、聞いたことはないが……」

「ダンスパーティーで一緒に踊った下級生に、しつこく声をかけているという話を聞きましたわ。曰く、軽薄そうな男ですと」

「その下級生、アニス・フェンネルか?」

「あら、知っていましたの?」

「たまたま以前、廊下でルフが話しかけているのを見かけた。……まあ、どう見てもナンパだったな」

 

 思い出すような声色で言いながら、ミセリアにカードを引かせたフォルティスは、私の手札へと手を伸ばす。真ん中の一枚を抜き取った彼は、どうやら手持ちとペアだったらしい。中央にそのカードを捨て、自分の手札を減らす。

 

「女好き、というタイプの殿方ですの? そのファージェル家のご長男は」

「いやぁ……昔に会った印象だと、ぜんぜんそういう気質には見えなかったんだけどな。むしろロマンチストな感じで、実直なタイプだったはずだが」

「故郷から離れて縛りのない環境で過ごすうちに、地が出てきたのではなくて?」

「そういうもんなのかなぁ……。まあダンスパーティーの時でも、やたら積極的に女に声をかけていたけど……」

 

 フォルティスはどこか納得がいかないような様子だった。とはいえ、年頃の青年ならば数年で人が変わってもおかしくないだろう。とくに閉鎖的な学園で過ごすうちに、退屈さに耐えかねて色を求めるというのは無理からぬことな気がした。

 私はミセリアからカードを選び取りつつ、ちらりとフォルティスの顔をうかがう。彼は難しい表情を浮かべて考え込んでいるようだった。何か思うところが大きいのだろうか。

 

「――あまり人の悪いうわさを流したくはないんだが」

 

 しばらくババ抜きを進めている中で、ふとフォルティスはそう前置きを口にした。

 ミセリアが順調な様子でカードを捨てるのを眺めつつ、私は彼の言葉に耳を傾ける。

 

「前回のダンスパーティーで、女に誘いを断られたルフを遠くから嘲笑している上級生たちがいた。アイツはいっつも女に声をかけてやがる、とか。学園のメイドにまでナンパしている、とも言っていたな」

「……へぇ。それが本当だとしたら、見境がありませんわね。家名の評判を落としかねない行為ではないかしら」

 

 貴族が屋敷のメイドに手を出した、なんて話はたまーに耳にするが、あれがバレると家の名声が一気に地に落ちるものである。とくに家督を継ぐ最有力候補である長子は、その振る舞いが品行方正であることが求められるものだ。メイドに色目を使う貴族の男子など、さすがに言語道断である。

 至って真面目にそう考えていると、なぜか二人の視線を感じた。フォルティスとミセリアは、ババ抜きの手をとめて私をじっと見つめている。何か言いたげな様子であった。

 

「な、何かしらっ?」

「家名の評判を落としかねない行為」

「……ヴィオレ、お前も気をつけたほうがいいと思うぞ」

「な、なな、何を言っているのかしらッ!? わたくしがッ!? まるでオルゲリック家の品位を下げているかのような、不埒な言い方はおやめなさいッ!?」

 

 人聞きの悪いことを言わないでほしい! むしろ逆よ、逆!

 私が廊下を歩くたびに、皆が畏れて道を譲るのを見れば明白ではないか。今やオルゲリックの家名を聞くだけで人々は恐怖するのだ。これはつまり、オルゲリック家の威光を高めていることにほかならぬのだ!

 

 ……という話は置いといて。

 

「――結局のところ。女と遊べれば誰でもいい、という人間にしか思えませんわね。ルフ・ファージェルについて聞くかぎりでは」

 

 わざわざアニスに声をかけてきたということは、何かしら面白いものを持っている人間なのではないか――と期待していたが。これはとんだ外れだろうか。

 内心でがっかりしている私に対して、フォルティスは納得いかなそうに眉をひそめていた。入学する以前から知っている彼にとっては、ルフが軽薄な人間であることを素直に認めがたいのだろうか。

 

 ――とはいえ。

 振る舞いだけでは、その人物の内心を推し量ることはできないのも確かだ。

 

 それを私はよく知っていた。事実、私自身が本心を隠して、くだらない演技をしていたりする。あえて“悪い”印象を与えているということは、ありえない話でもなかった。

 話を聞いただけで、すべてを判断するのは時期尚早かもしれない。やはり実際にルフという男と会ってみるべきだろうか。

 

 そんな思考を巡らしながら、私はミセリアの広げるカードへと手を伸ばした。

 

「…………」

 

 そういえば、まだババを見ていない。ということは、フォルティスかミセリアのどちらかが手札に持っているのだろう。

 そしてさらに、いつの間にかミセリアのカードは残り四枚になっていた。三人の中で圧倒的に手札を減らすペースが早い。彼女はあがりにもっとも近いプレイヤーであった。

 

 私は目を細めながら、ミセリアの掲げるカードを吟味する。

 ちらりと表情をうかがうが、その顔には一片の感情も宿っているようには見えなかった。ただ機械のように、私がカードを引くのを待っている。……天然ポーカーフェイスね、この子。

 

 ええい、考えても仕方あるまいッ!

 

 私はミセリアかっら端っこの一枚を選び取り――

 

「ッ!?」

 

 うげっ、なんでここでジョーカー引くのよ。

 ショックを受けながら手札をシャッフルする私に向けて、二人は冷ややかに口を開いた。

 

「……ババを引いたな」

「引いた」

「お黙りなさいっ!? というか、バラすのやめなさいよっ!?」

 

 抗議する私などどこ吹く風の様子で、ミセリアはフォルティスからカードを引いた。そしてペアの二枚を捨てる。つまり、リーチ……早すぎない?

 ミセリアの運の良さに歯がみをしつつ、私はフォルティスにカードを取らせる。が、ババは相変わらず私の手元である。なんとかして、フォルティスにこれを押し付けなければ……。

 

「……ああ、そういえば」

 

 ふと話題を思い出して、私は声を上げた。

 せっかく男子であるフォルティスと同席しているのだ。もう少し、彼から何か情報を引き出しておきたかった。

 

「――あなた、レーヴァンという名前の上級生をご存知?」

「……あー。俺と同じようにランニングしているやつか?」

「そう、その人」

 

 休み時間に走り込みで体力を鍛えている男子など、この学園では二人しかいない。同士として嫌でも認識せざるをえないのだろう。フォルティスはレーヴァン――つまり、レオドのことを知っている様子だった。

 

「名前と顔を知ってはいるが……それだけだぞ。会話したことはない」

「何かうわさとか、聞いたりしないのかしら?」

「うわさ、ねぇ……。家名を明かしていない学生だから、いろいろ憶測する男子はいるけどな。じつは隣国の大貴族の子弟、だとかな」

 

 うわっ、ドンピシャ。とんだ慧眼を持った子もいるものだ。

 

「ほかには?」

「……さっきから、ずいぶん気になるんだな。男子の情報が」

「あら、嫉妬?」

「…………」

 

 フォルティスはわずかに目をそらして、微妙な顔色を浮かべた。呆れているのか、それとも本当に()いているのか。今までろくに交流をしてきていないが、彼が私の婚約者であることを考えると、その心中を軽んじることもできなかった。

 微笑を浮かべる私に対して、フォルティスはやれやれと言うかのようにため息をついて、ゆっくりと口を開いた。

 

「うわさというか……最近、奇妙な行動が目立つな。そのレーヴァンって上級生は」

「奇妙な行動?」

「急にランニングをしはじめたのもそうだし、近頃は遊戯室でずっとダーツをやっていると聞いた」

「ダーツ?」

「そう。鬼気迫る表情で、延々と矢を投げているらしい。まあ友達から聞いた話だけどな」

 

 へー。ビリヤードのほかにも、ダーツなんてあるんだ。ますます男子寮が羨ましい。

 ……というのは、ともかく。

 ただ無意味に遊んでいるわけではないのだろう。レオドが何らかの目的のために、一心に努力していることは明らかである。その在り方を変えた彼は、いったいどんな成果を手にしているのか。それを見るのが楽しみだった。

 

 ――と、私たちが話している間に。

 ふいに、静かで簡素な声が発せられた。

 

「――あがり」

「はっ?」

「えっ?」

 

 そちらに視線を向けると、カードを捨てて無手になったミセリアの姿があった。

 ……つまり、彼女が真っ先に勝ち抜けたということ。

 そして、同時に――残る二人の敗北者決定戦が始まるという意味でもあった。

 

 私はフォルティスの顔へ目線を移した。彼もこちらを見つめる。そのブラウンの瞳には、強い意志を感じる色が宿っていた。

 

「……一対一(タイマン)の勝負、ということかしら」

「……そうみたいだな」

 

 フォルティスは低い声で同意した。彼の表情からは柔らかさが消え失せ、目つきは睨むような形になっている。戦に臨む男の雰囲気だった。

 

 ――あらためて、彼の容姿を一瞥する。

 入学当初と背丈は変わらないのに、どこか逞しさがその身に備わっていた。日頃から運動を続けてきたフォルティスは、ほかの男子よりもはるかに筋肉がついているはずだ。

 肉体の在り方は精神をも変える。強くなった彼の体は、簡単なことでは屈さぬ精神力まで宿しているようだった。

 

「……きみには、いつも負けっぱなしだったな」

 

 感情を噛み締めるようにフォルティスは言った。その眼には、殺気にも思えるものが籠っている。勝利に執着する気持ちが、ありありと伝わってきた。

 

 ダンスパーティーのたびに、彼とじゃんけん勝負をしていることを思い出す。

 数回目から、もう彼は気づいているようだった。ただの運で私が全勝しているわけではない、と。そこに在る、果てしない技術の差。その力量で圧倒されているにすぎないと、フォルティスは自覚しているはずだ。

 あるいは、最初に見せた物理的な力だってそうだ。

 フォルティスの腕では、ただの石ころでさえ砕くことができないだろう。肉体にはけっして埋められぬ差があった。この私の指先一つで、彼の生命を奪うことだって容易い。

 

 自分より強き人間。

 勝ち目のなき存在。

 対等になれぬ相手。

 

 それを理解し(わかっ)ていても、なお――

 フォルティス・ヴァレンスは、私に対して敵意と闘志を胸に抱いている。

 それは――とても素晴らしいことだった。

 

「――負けるつもりはありませんわよ」

 

 私はそう笑って、彼と真剣勝負を開始する。

 

 二人のババ抜きである以上、ジョーカー以外のカードを引くたびにペアは揃って捨てられる。最終的に残るカードの枚数は三枚。そこまで作業的にゲームを進展させる。

 フォルティスがババを引き当てることはなく――私の手札が二枚、そして彼が一枚となった。

 じつに単純なゲームだ。彼がババ以外を引けば勝ち。私がババを引かせて、さらに次でババ以外を引けば勝ち。確率的に長引くこともあるまい。

 

 私は二枚の手札を見せて、静かに彼の選択を待つ。

 このターンにおける、フォルティスの勝利は二分の一。それは“アンフェア”なじゃんけんと比べて、はるかに勝率のあるゲームであった。

 

「…………」

 

 フォルティスは緊張した面持ちで、ゆっくりと手を伸ばしてゆく。

 左右、どちらのカードを取るべきか。大きく迷っている様子がうかがえる。やがて、私から見て左のほうのカードを指で掴んだ。

 

「…………」

 

 私は無言で、表情を動かさず見届ける。静かな時間が流れた。彼はそのままカードを引き抜くのを、躊躇しているようだ。

 やがて、フォルティスの指がカードから離れた。

 そして――おもむろに、次は右のカードへと手を触れる。それを取るつもりなのだろうか? そうだとしたら、私は――

 

「――――ッ」

 

 全身に“気”を込めた瞬間、フォルティスは怯えたように息を呑んだ。

 伝わったはずだ。わかっているはずだ。このカードを取るならば――容赦はしないと。

 彼がそれを抜き取った直後――テーブルを蹴り上げ、胸に正拳突きを叩き込む。コンマ数秒にも満たないイメージを私は意識する。

 その現実的な死の未来は――殺気となって、今の彼に叩きつけられているはずだ。

 

 ――私は彼を見据えた。

 体を震わせ、慄いているフォルティスの目は――

 

「……ずっと、思っていたんだ」

 

 ぽつり、と。

 溜めこんでいた感情が、あふれて漏れ出したかのように。

 フォルティスはゆっくりと、その口から言葉を紡ぐ。

 

「女の子に負けてばっかりの男なんて、格好悪いじゃないか……」

 

 声色には悔しさがにじみ出ていた。

 彼は私に勝ったことがない。

 勝てば嬉しい。負ければ悔しい。そんな気持ちは当たり前で、私自身もそうだった。

 

「俺はきみの婚約者なのに……並び立っていない。きみは、はるか高みにいる……手が届かないような場所に」

 

 生きている次元が違う。

 そう認識するのは致し方ないだろう。私は強くなりすぎた。高められた気は、磨かれた武は、常人でさえ本能的に理解できるレベルに達していた。

 

 人間が、猛獣と対峙した時と同じように。

 いま私の目の前にいる彼は、ちっぽけで取るに足らない存在だった。

 その肉体的な力の差異は比べるべくもない。ぞんざいな手の一振りでさえ、彼の命を刈り取ることができるだろう。

 それを――彼は理解してしまっている。

 

 だというのに。

 ――彼は逃走を選んではいなかった。

 

「ヴィオレ……俺は……」

 

 フォルティスの震えがとまった。

 その瞳には覚悟が宿っていた。何かを成すためならば、何もかもを棄てる意志が。そこにいるのは、弱い人間ではなかった。猛獣から逃げ出す弱者ではなかった。

 かつてコロッセオで猛獣に立ち向かった剣闘士は、このような顔をしていたのかもしれない。

 そう思わせるほど――フォルティスの表情は勇敢だった。

 

 

 

「――きみに勝ちたい」

 

 

 

 勝利を欲するか。

 命を惜しまずに。

 その心意気――私は認めよう。

 

 フォルティス、きみは強い男だ。

 私が思った以上に、強く――

 そして、男としての魅力を持っている。

 

 もしも、私が乙女(うぶ)な少女であれば――

 きっと、きみに惚れていたよ。

 

 

 

 

 

「……な……なんで……」

 

 そのカードを手にしたフォルティスは、呆然としたように呟いていた。

 彼の手から、二枚のカードがテーブルに落ちる。それはペア――ではなかった。

 

 ジョーカーを引いたのが、よっぽど信じられなかったのか。放心した様子で、彼は目を見張っていた。

 

「――こんなゲームで、本気になるのもバカらしくてよ」

 

 私は笑いながら、手元のカード一枚を放った。最後のペアカードが、お互いの手からテーブルに並べられる。婚約者が対等な関係というのならば――二人でペアを作ってあがるのも悪くないだろう。

 こちらの演技に騙されたことが相当にショックだったのか、フォルティスは大きくため息をついた。そして苦笑を浮かべて、私のほうを見つめる。

 

「……俺の負けだな」

「あら、ノーゲームだから勝ち負けもありませんわ」

 

 そう言って、すっかり冷めた紅茶に口をつける。なんだかんだで時間が過ぎるのはあっという間だった。こうしてテーブルを囲んで仲間と遊ぶのも――悪くなかった。

 フォルティスからだいたい情報は聞き出したし、そろそろお暇すべき頃合いだろう。カードを片付けると、私はゆっくりと立ち上がった。ミセリアも無言ながら、同じように腰を上げる。

 

「……楽しい時間でしたわよ、フォルティス」

「ああ……たまには、こういうのも悪くない」

 

 フォルティスは続けて言葉を口にしようとしたが、迷いがあるのか唇を閉ざしてしまう。何を言おうとしたのか、私はなんとなく察して笑みを浮かべた。

 

「――また、一緒にお茶を飲みながら話しましょう」

 

 それはありふれた別れ際の言葉だった。だが、私の口から紡がれたということが意外だったのだろうか。フォルティスは驚いたような表情をして――すぐに柔和な笑顔になった。

 

「ぜひとも。今度は俺のほうから誘うよ」

「楽しみにしていますわ」

 

 私は軽く手を振って応え、テーブルに背を向けて歩きだした。少し遅れて、ミセリアも後ろをついてくる。

 フォルティスとは初めての席だった彼女だが――横から眺めていたかぎりでは、わりと二人の相性も悪くなさそうだった。まあフォルティスが人柄のいい常識人で、誰とでも仲良くできるタイプなのが大きいのだろう。この様子なら、また三人で遊んでも問題はあるまい。

 

 ――久しぶりに、心が安らいだ気がした。

 

 体を鍛え、技を磨くこと。それもやりがいを感じることではあるが、こうしてありふれた娯楽的行為に興じるのも楽しいものだ。たまには息抜きとして悪くない。

 もっとも――私の心は、つねに本分を忘れてはいなかった。

 

 今でさえ、もう肉体を運動させたい気持ちに駆られている。

 敵が現れ、私に殺意を向けてくれるくることを願っている。

 攻撃を躱し、防ぎ、捌き、そして反撃に転じる自分の姿を――否応もなく想像してしまっている。

 

 武を想うこと。

 それはまるで、恋を煩うことのようだ。

 遊んでいる時も、勉強をしている時も、食事をしている時も、あるいは寝ている時も。いまだ手の届かぬ、最強の自分(恋する相手)を手にすることを夢見ている。

 私はどこまで強くなれるのか。

 限界に至った自分は、どれだけの力を持っているのか。

 そして――その武をぶつけられる強敵はいるのか。

 

 世界は、まだ見えぬことだらけだ。

 だが――だからこそ、面白いのだ。

 すべてが明らかになっている世界(ゲーム)など、退屈でつまらないだけだから。

 

 ――これからが楽しみだ。

 あらゆるものに期待しながら、私は唇をゆがめてほほ笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……私の勝ち」

「ババ抜きで勝ち誇らないでくれるかしらっ!?」

 



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武闘派悪役令嬢 016

 

 次の日の放課後。

 寮室に戻って私物を片付けた私は、とある人物と会うために部屋を出た。

 目的は言うまでもなく、ルフ・ファージェルという男の情報収集である――と同時に、“彼”と久しぶりに対面して言葉を交わすためでもあった。というか、むしろ後者のほうが本命かもしれない。フォルティスのように気軽に交流はできない関係上、なんらかの口実があるのならば、その機会を見逃すべきではなかった。

 

 階段へ向けて廊下を歩いていると――ふいに前方でドアが開かれた。ほかの寮室の女子が出掛けるところなのだろう。右手に分厚い本を抱えて、ちょうど姿を現した眼鏡の少女は――

 

「…………」

「あら?」

 

 私は眉をひそめつつ、見慣れた彼女――ミセリアに声をかけた。

 

「今日は一緒に行動するつもりはないわよ? 言ったでしょ?」

 

 フォルティスとお茶会をした昨日のように、基本的にミセリアはいつも私にくっついて日常を過ごしている。が、今日にかぎっては、私は事前についてこないでほしいと伝えていた。フォルティスのようにクラスメイトとして顔見知りの相手ではないので、さすがに部外者は連れていけないと考えたからだ。

 それを彼女は理解して、了承したはずなのに――

 まさか、無理にでも同伴するつもりなのだろうか? そう心配していると、ミセリアは否定するように顔を振った。

 

「友達と一緒にいる」

「はぁ? だから、今日はあなたとは――」

「ほかの友達」

 

 言いかけた私に対して、彼女は補足するように言葉を付け加えた。

 

 ……ほかの友達?

 その意味を理解して、少し硬直してしまう。ミセリアの言う友達とやらは今まで私ひとりを指した単語であったはずだが――どうやら、新しくべつの“友達”ができたらしい。

 

 クラスメイトの誰かなのだろうか? しかし、彼女がまともに会話したことのある相手など数が限られている。しいて候補に挙がるとしたら――アニスか、それともつい昨日に遊んだフォルティスか。

 とはいえ――私が見ていないところで、ほかの誰かと交流している可能性もなくはない。私だって週末はアルスの家を訪れているし、平日でもたびたび壁を飛び越えて無断外出していたりする。その間に、ミセリアが新しい友人を作ったということも否定はできなかった。

 

 ……気になる。めちゃくちゃ気になる。

 というのが素直な心境ではあるが――それはプライベートな事柄だった。

 私だってろくに個人的な交友関係を話してはいないので、わざわざ相手に尋ねるのも失礼というものだろう。

 

「そう……私以外の友達、ちゃんとできたのね」

「最近、できた」

 

 そう言って頷くミセリアは、いつもと変わらぬ様子だった。人によって態度を変えるような子でもないので、このままの在り方でも付き合ってくれるような相手なのだろう。

 なんとなく小さな妹の成長を見守るような心境で、私は顔をわずかに綻ばせた。

 

「友達は大事にしなさい」

 

 その言葉に、彼女はこくりと頷く。

 はたして共感性の欠如というものは、先天的なものなのか環境的なものなのか。いずれにせよ、最近のミセリアの様子を見るかぎりでは、彼女が誰かと一緒にいることは悪いことではなかった。私以外にも会話できる相手ができたのなら、それは喜ばしいことだろう。

 

「――じゃ、先に行かせてもらうわ」

 

 私はそう言うと、足早に歩きだした。手を軽く振りながら、ミセリアの横を通り過ぎる。彼女と話すことも悪くはないが、今の私には優先すべき人物がいた。

 

 向かうべきところは――放課後のグラウンドである。

 いつもの行動パターンからすると、日が暮れるまで彼はそこにいるはずだった。

 “あの時”以来、まだ言葉は一つも交わしていない。だから、間近で会って確かめるのが楽しみだった。――この短い期間で、彼がどれだけ成長したのかを。

 

 そして――どれだけ強くなったのか。

 少しだけ、味見しておきたかった。

 ――レオド・ランドフルマという男を。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 人の感情というものが、いつからか容易に察せられるようになっていた。

 これまでの人生経験による賜物……だけではない。もっと物理的な能力によって、相手の精神変化の機微を捉えられるようになったのだ。

 

 たとえば、瞳孔の細やかな動作。

 たとえば、息遣いの小さな差異。

 たとえば、心拍数の僅かな変化。

 

 研ぎ澄まされた五感は、あらゆる情報を感知していた。その人間の内部から発せられる微音でさえ、集中すれば感じ取ることができるのだ。そして――そうした情報を統合すると、相手の心情の変化まで精確に把握することが可能だった。

 ミセリアのように情動が乏しい人間もいるが、たいていは感情が呼吸や心臓などに表れるものである。

 とくに、もっともわかりやすい感情といえば――

 

「――あら、今日も精が出るわね」

 

 グラウンドで魔法の訓練をしていた学生に対して、その背後から声をかけた瞬間――相手の心音が一気に高鳴った。

 そして即座に振り向いた美青年は、左手に持った杖を容赦なくこちらへ突き付けていた。

 その顔は無表情ではあったが――感情があらぶっていることは明白である。

 

 ――殺意。

 

 そんな単語が、対峙している彼の姿から思い浮かんだ。

 まばたきせず、油断せず、私へ向けて警戒心と敵対心を向けているレオドは――まさに殺し合いに臨むような立ち姿だった。

 その反応も過剰とは言いきれない。実際にあの時の夜、彼は私に殺されそうになったのだ。もちろん私は()るつもりなどなかったが、彼にとってはこちらの内心など知る由もない。いきなり襲ってきた、わけのわからない恐ろしい狂人。そう思われても仕方のない邂逅であった。

 

「……なんの用だ」

「たまには話でもしようかしら、と思って」

「ふざけるな。きみと仲良くするつもりはない」

 

 ようやく杖を下ろしたレオドだが、足を一歩うしろへ退かせていた。私が普通の人間ではありえない身体能力を持っていることを認知しているので、近寄りたくない思いがあるのだろう。もっとも――こちらが本気になれば、彼が気づかぬ一瞬で肉薄することもできるのだが。

 

「故郷が“お隣さん”なんだから、そう邪険にすることもないでしょ?」

「……ランドフルマ家とオルゲリック家は、不倶戴天の間柄だとわかっているくせに」

「あらあら、昔の出来事に執着する男なのかしら? この戦争が少なくなった平和な時代なら、両家の関係にも改善の余地があると思わなくて?」

「…………」

 

 レオドは憎々しげに目を細めるが、じつのところ私の言葉はわりと正論なので、否定はできないのだろう。

 そもそも現ランドフルマ公爵は重い病を患っているうえに、その後継もレオドとその兄で実質的に争っている状況だった。内政が安定していないなか、他国の諸侯と敵対するなどという愚策を採るはずもなく、基本的に今のランドフルマ公爵家は不和を避ける方針のはずだ。

 そして私の父も、温和な人間性からか他国の諸侯ともできるだけ融和的な付き合い方をしていた。まあ歴史的には両家の仲は悪いのだが、当代にかぎってはかなり平和的な関係であると言えるだろう。

 

 そういうわけで――

 お互いの家の子弟が、こうして交流を重ねるというのは悪いことではない。

 

「……僕を殺そうとしたのに、よくそんなことを言えるな」

「殺そうとした? それは誤解よ」

 

 私は笑みを浮かべた。

 レオドにとっては悪夢のような夜だったろう。大地を貫くような鉄拳を向けられたのだ。本当に命を奪われると恐怖したに違いない。

 だが――

 

 わかっているはずだ。

 彼は愚か者ではない。

 ならば――彼我にある、圧倒的な差についても理解しているはずだ。

 そう――

 

「やろうと思えば、あなたなんて一瞬で亡き者にできるわ」

「…………」

 

 無言は肯定の合図だった。

 偽りなどない。ここで全力をもって踏み込み、正拳突きを放てば、それだけで彼の命は消え去る。誰かの生命を絶つことは、それほど造作もないことだった。

 あるいは、道義を無視するならば――

 他国の領地に侵入し、領主の屋敷に忍び込み、その一族を皆殺しにすることさえ可能だろう。

 

 絶望的なまでの、武力の違い。

 レオドはそれを認識している。

 だからこそ――

 

「……わかっている」

 

 彼は大きなため息をついた。

 何かを嘆くような、重々しい吐息だった。

 

「……僕は弱い。それを痛感させられた。きみに教えられたんだ」

 

 弱さを自覚し、強さを求める。

 私がそれを彼に促したということは、すでに悟っていたのだろう。

 

「あの夜、きみに殺されそうになって……強くなりたいと思った。身を守り、己の意を通す力を得たいと思った。そう……弱さを捨てることにした」

 

 そこでレオドは、初めて笑顔を見せた。

 気品を感じさせるプラチナブロンドの髪が、陽の光で銀色に煌めいている。生娘ならば一目で惚れてしまいそうな美青年っぷりだった。

 

「その成果は出ているかしら?」

「……それなりに」

 

 レオドは左手の杖を強く握ってみせる。

 彼が魔法の練習をしているのは、最初の頃と変わっていないが――以前とは決定的に違う部分があった。

 持ち手が逆になっているのだ。

 レオドは右利きで、魔法を使う時も右手で杖を振っていたはずだ。それが今は、左に変えていた。なんらかの意図があることは明らかだった。

 

「――昔の騎士は、利き腕とは反対のほうで杖を使っていたらしい」

 

 ほう、と興味を抱きながら耳を傾ける。

 昔、というのは戦争が身近にあった頃の話だろう。剣呑な時代の騎士は、実戦を見据えて生きていたはずだ。

 

「その理由は諸説ある。一つは、何か危険が迫った時にとっさに動くのは利き手だから、という説だ。たとえば暴漢がいきなり襲いかかってきた時は、右利きなら反射的に右腕で体をかばおうとする。そうすると――左手で杖を振るうことに慣らしておいたほうが都合がいい」

 

 なるほど。けっこう理にかなっている。

 たしかに転んで地面に倒れた時でも、反射的に動かすのは利き腕のほうだった。左手から右手に矯正して日常生活を送っている人でさえ、無意識の場面では本来の利き手を動かしてしまうという話を聞いたことがある。利き手で危険を防いでしまったら――攻撃に転じれるのは逆の手しかない。

 

「ほかにも、戦場では右手で盾を持っていたから、という説もあるな。今じゃ騎士が重い防具に身を固めることは少ないが、昔は当たり前のように鎧と盾を装備していたらしい。これもさっきの説に通じるが――ふと流れ矢が飛んできた時、それを反射的に防ぐなら利き手に盾を持っていたほうが生存率が上がる」

 

 戦争において、戦略的に重要な魔術師の生存力を第一に考えるならば、これも不自然ではなかった。利き腕のほうが運動能力が高いため、どちらを利き手に配置するかというと盾なのだろう。消去法的に杖が逆側に置かれたのかもしれない。

 

「――だから、あなたも古い騎士に倣って左手で訓練しはじめたわけ?」

「まあ、そういう面もある」

 

 微妙な言葉遣いだった。ただ古風なスタイルを模倣しただけではないと言いたいのだろうか。だとしたら――

 レオドが右手をフリーにしている真の目的。

 それに考えを巡らせようとする前に、彼は次の言葉を紡いでいた。

 

「僕が左手で杖を使うことにした、真の理由は――」

 

 その瞬間――気配が伝わってきた。

 

 レオドの肉体が動く。杖を持った左手を、下から振り上げる形で払う。その動作には当然ながら魔力がこもっていて――物理的な力へと変換されていた。

 強い“風”の力だ。

 おそらく面ではなく球でイメージした、砲弾のような風の塊。それを躊躇なく私の顔へと放っていた。

 

 唐突な不意打ち。

 それも常人が相手ならば、首を折って殺害しかねない威力の魔法だった。

 手加減など一切ない攻撃。

 レオドは私を本当に殺す気で、殺意をこめて魔法を打ち込んだのだ。

 

 ――そうまでしなければ、勝機のない相手だと理解しているから。

 

 彼の意志を受け入れるように、私は立っていた。

 手でかばうこともなく、大地に足を踏みしめて。

 しっかりと前を見つめ――その攻撃を食らった。

 

「…………っ」

 

 痛みが走った。

 鼻っ面をぶん殴られる感覚というのは、こういうものか。

 あの夜、レオドから魔法を受けた時よりも威力はずっと上がっていた。

 つまり――それは強くなっている証だった。

 

 わずかに、顔を引かせつつ――

 私はレオドの次の動きを、はっきりと認識していた。

 

 彼は連続して、こちらに攻撃を叩き込もうとしている。

 どんなに熟練した魔術師といえど、魔法を放つ間隔は一秒以上は必要だが――

 レオドの攻撃は、もしかしたらその一秒の壁を超えていたかもしれない。

 

 ――彼の右腕が振るわれていた。

 

 そして――右手から解放された物体が、私の顔を狙って飛翔する。

 魔法と投擲を組み合わせた、虚を衝くような二連撃。

 風の打撃で怯ませた私へ、レオドが放ったのは――鋭い尖端を持った、手投げの矢だった。

 

 その凶器は、ちょうど私の左目へと迫り――

 

「遊戯室の備品をくすねてくるなんて、イケナイ子ねェ……?」

「…………ッ!?」

 

 ――ダーツは静止していた。

 私の左手、その人差し指と中指に挟まれて。

 わずかでも遅れていたら、眼球に矢が突き刺さっていたかもしれない。目玉に“気”を通した時の耐久度など確かめたことがなかったので、焦燥がなかったと言えばウソになる。つまり――たった一瞬ながら、レオドは私に脅威を抱かせる存在となっていた。

 

 素晴らしい成長だ。

 魔法にこだわらず、ほかの道具を使ってでも敵に打ち勝とうという意欲。騎士としては失格かもしれないが、戦士としては合格だった。

 レオドは力をつけている。

 その事実に、私は自然と笑みを深めてしまう。

 

「…………殺す気で、やったのに」

 

 レオドは憎々しげな表情で、歯がみをしていた。全力で仕掛けた奇襲を防がれてしまったのだ。悔しさもあって当然だろう。

 

「十分よ。あなたは強くなっている」

 

 私はそう褒めながら、ダーツを手のひらに乗せて差し出した。

 フォルティスから遊戯室でダーツの練習をしているレオドの話は聞いていたが、なるほど悪くはない手段だった。

 投擲という攻撃は、原始的ながら威力のあるものだ。刃物を投げつければ流血させられ、石を投げつければ打撲を負わせることができ、砂を投げつければ目つぶしにもなる。なんでもありの殺し合いなら、距離を保つことでリスクを抑えつつ相手に被害を与えられる優秀な戦法だった。

 

「…………」

「安心しなさい。取って食おうなんて思っていないわよ」

 

 杖を構えて警戒するレオドに、私はそう言い聞かせる。

 少し迷ったような素振りを見せたが、彼はゆっくりとこちらへ近づき――ダーツを受け取った。

 

「さっきの魔法、痛かったわよ」

「……嘘をつけ。きみのような化け物が、あれくらいでダメージがあるはずない」

「……女の子に向かって失礼な言い方ね」

 

 まあ怯みはしたが、戦闘に影響のある被害だったかというと否である。真正面で受けても問題ないとわかっているから、素直に受け入れたのだ。本当に危険が迫っていたら、当然ながら私も防ぐか避ける。

 

 ――はたしてレオドは、私にもっと脅威をもたらす存在になってくれるのだろうか。

 

 そんな期待をひそかに抱きつつ、私はニッコリと笑顔を浮かべた。

 

「ところで、時間があるなら私と付き合ってくれない?」

「……きみと殺し(やり)合うなんて御免だ」

「そうじゃなくて――」

 

 年頃の女子が、気になる異性を誘う。この学園でもよく見られる行為である。

 そんなわけだから、私もレオドを誘ったって問題ないだろう。

 

 

 

 

 

「――私とお茶しない?」

 

 レオドは気が抜けたような表情を浮かべて、「なに言ってんだこいつ」というような反応をしていた。

 



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武闘派悪役令嬢 017

 

 隣り合って歩く私とレオドの姿は、ほかの学生にとっては奇妙な組み合わせに見えるのかもしれない。

 そもそも私も彼も、他人と交流することが少ない人間である。あまり社交的ではない二人が、なぜか一緒に行動している。もし両者を知る人間が目撃すれば、不審がること間違いなしだろう。

 

「――いいのか?」

 

 食堂棟の二階ホールで、空いているテーブル席に腰を下ろした直後、レオドは冷ややかな口調で尋ねてきた。

 

「なんのことですの?」

「きみには婚約者がいると耳にしていたが。私のような素性も知れぬ異性と、このように茶飲み話をするのはまずいのではないか?」

「あらあら、わたくしの婚約者はその程度を気にするほど、器が小さくはありませんわよ」

「…………」

 

 周囲にひとの目があるため、私たちはお互いに口調を変えていた。こうして人前では演技をしているという点では、私とレオドは似た者同士なのかもしれない。どことなく、妙な親近感をひそかに抱いてしまった。

 

「さて……」

 

 私はまず近くにいたメイドを呼び寄せ、紅茶を持ってくるように伝えた。昨日のフォルティスと遊んだ時のように、希望すればカードなどの遊具やビスケットなどの軽食も頼めるのだが、まあ今回は飲み物だけで構わないだろう。

 注文を受けて去っていくメイドを横目にしつつ、私は適当な話題を口に出した。

 

「あなたのうわさ、下級生の男子にも伝わっているのはご存知?」

「……なに?」

「遊戯室で延々とダーツの練習をしているとか」

「……それか」

 

 レオドは小さくため息をつき、どこか恥ずかしがるように頬を掻く。そのしぐさは少し愛嬌があった。

 

「――身を守る手段としては、悪くないと思ったのでね」

 

 彼は目を細めながら、私の顔を見据えた。

 あの夜、実際に襲われたことで自分の命を守りぬく難しさは実感したのだろう。ただ棒立ちで魔法を放つだけでは、敵を退けることはできない。必死で体を動かし、あらゆる手段を駆使しなければ、容易に敗北は訪れる。――生命の危機を経験した彼は、それをもう十分にわかっているはずだ。

 

 それでいい。

 家督の後継者争いで兄から命を狙われているレオドにとって、必要なのは脅威に対抗する力だった。

 もしもアニスがレオドと親しければ、たとえ瀕死の重傷を負おうと聖なる魔力で回復できるかもしれないが――

 二人にまったく接点がないこの世界では、そんな都合の良い展開など望めないだろう。

 敵に打ち勝ち、生き延びる力。それがレオドが手に入れるべきものだった。

 

「……男子寮では、ほかの友達と遊んだりしませんの?」

 

 私は微笑を浮かべながら、日常的なことについて質問した。

 ところがレオドにとっては答えにくい事柄だったのか、どこか困ったような表情で返してくる。

 

「……ことさら一緒に行動するほど親しい相手は、いるとは言えないが」

「つまり、ぼっち?」

「うるさいな」

 

 露骨に不機嫌そうな反応を示すレオド。まあ出自を隠して留学している人間なので、あまり同級生と親しくなりにくいのだろう。年頃の男子としては、ちょっと可哀想な境遇である。

 

 と、その時。

 ちょうどメイドの一人が紅茶を運んできた。

 私はカップにお茶を注いでもらいながら、引き続きレオドに話しかける。

 

「遊戯室で遊んでいる男子も、ほかにいるのでしょう? 独りでダーツなんてしていないで、一緒にほかの子たちとビリヤードでもしたら、お友達ができるのではなくて?」

「……余計なお世話だ。それに、私にも友人を選ぶ権利があるのでね」

「あら、ルフ・ファージェルは仲良くなりがたい人物なのかしら?」

 

 そう言った直後、空気が張り詰めたような気がした。いや――気のせいではない。耳を澄ませば、高鳴った心臓の音が聞こえてきた。

 注がれた紅茶に口をつけながら、私はレオドの表情を覗く。彼は不審げな顔つきでこちらを見ていた。

 

「なぜファージェルの名前が出てくるのだ?」

「よくビリヤードで遊んでいるといううわさを耳にしまして」

「……情報通だな」

 

 まあフォルティス経由だけどね。

 

「たしかに、遊戯室でたびたび顔は見かけるが……アレとは関わりたくはないな」

「どうして?」

「話していることが下品すぎる。どの女子が美人かとか、誰が狙い目だとか、そういったくだらないことを仲間内で言ってばかりいる」

「ふぅん、色好みな性格なのかしら?」

「上級生で、あの男の軽薄っぷりを知らない学生はいないだろう」

 

 交友関係が少ないレオドでもそう言いきれるなら、たぶん間違いない情報なのだろう。

 

「最近、わたくしのクラスメイトが声をかけられたと口にしていましたわ」

「上級生の女子の間だと有名すぎて、相手にしてもらえないのだろう」

「学生だけでなく、メイドにもナンパをしているとか」

「それも聞いたことがある。私には理解できん男だ」

 

 レオドは不愉快そうに顔をしかめながら、紅茶を一口すすった。真面目で純情なタイプの彼にとっては、女好きな男には一片も共感できないのだろう。……個人的には、レオドはもうちょっと軟派な人間になったほうが良いと思うのだけど。

 

「――しかし、人の本性は外面と一致しているとは限らないものですわ」

「…………なに?」

「意外とそういう人物は、あなたと似通っているのかもしれませんわよ」

「いや、それはない」

 

 否定が早すぎるって!

 

 私は肩をすくめると、顔を横に向ける。その視線の先には――こちらのテーブルをうかがっている一人のメイドがいた。

 さっき紅茶を注いでくれた給仕の子である。なぜ彼女に目を向けたかというと――単純に、不自然な気配があったからである。

 ルフ・ファージェルの名前を出した時に、高鳴った心臓の音。それはレオドのものではなく――あのメイドの鼓動だった。つまるところ、彼女はルフという男を知っているのだ。

 

「当事者から話を聞くほうが、情報が正確でしょうね」

「当事者……?」

 

 疑問を浮かべるレオドをよそに、私はメイドに対して指でこちらに来るよう合図する。彼女はびっくりしたような反応を見せたが、やがておそるおそる、私たちの席に近づいてきた。

 そのメイドは、私とそう変わらない年齢だろうか。肩ほどの長さの黒髪に、控えめな印象を受ける顔立ち。わずかにそばかすのある頬は、素朴な少女らしさを演出していた。

 ――美人ではないが、可愛げのある地味な女の子。

 そんな印象だった。

 

「あ、あの……なにか、御用でしょうか……?」

 

 給仕服に身を包んだ少女は、びくびくとした様子で私に尋ねる。その声色には恐怖が混じっているようにも感じられた。

 ……どうしてみんな、私をそんなに怖がるのかしら。

 優しい雰囲気を醸すにはどうすればいいのだろうか、と内心でひそかに悩みつつも――さっそく本題に切り込む。

 

「あなた、ルフ・ファージェルという男子学生をご存知?」

「…………」

 

 唐突な質問に困惑しすぎて、すぐに言葉が出てこないのだろうか。彼女はしばし口ごもってしまう。が、貴族の子女を相手に答えぬわけにもいかないからか、つたない口調で言葉を紡ぎだした。

 

「その……言葉を交わしたことはありますが……」

「へぇー。やっぱり彼からナンパされましたの?」

「い、いえっ! そういうわけでは……ないと思いますが……」

 

 自信がなさそうに話す少女。きっぱり否定しないということは、それなりに心当たりがあるのかもしれない。

 私がもう少し詳しく言うように促すと、彼女は緊張した面持ちで語りはじめた。

 

「……最初にお話ししたのは、ファージェル様がご学友の方とお茶を飲んでいる時でした。ふいにあの方が紅茶をこぼしてしまって……そこで、近くにいたわたしが対応したんです。それからファージェル様はわたしを見かけるたびに、お声をかけてくださるようになりまして……」

「あらあら。彼から気に入られたということですのね、あなた?」

「そ、そんなことは……!」

 

 赤面して首を振る少女は、なかなか乙女らしくて可愛らしかった。反応から察するに、あまり男性慣れしていない奥手な性格なのかもしれない。

 

「……タチの悪い男だ」

 

 横で沈黙していたレオドが、ぼそりと聞こえないような声でつぶやく。が、私の聴力はばっちり聞き取っていた。うぶな女の子に遊び感覚で色目を向けるなんてけしからん、というような心境が伝わってきそうだった。

 ……レオドくん、きみって私が思っていた以上に純情な子なんじゃない?

 そんなことを思いつつ、私はもう少しメイドの少女に尋ねてみる。

 

「――ルフ・ファージェルがいろんな女子に声をかけていることは、知っているのでしょう?」

「……はい。よくこのホールで、女性を誘ってお茶を飲んでいらっしゃいますから……」

「あなたから見たら、彼はどんな性格の人間なのか教えてくださる?」

 

 そう問いかけると、彼女は迷ったように目を伏せた。貴族の悪口を言うことに抵抗があるのだろうか。あるいは――すぐには判断しかねるような人物なのか。

 しばらくして、ようやく口を開いた彼女の言葉は――

 

「……優しくて、素敵な殿方だと思いますが」

「それはお世辞?」

「ち、違います……。わたしには、そう感じたというだけで……」

「ふーん」

 

 なかなか面白い評価だ。

 レオドは呆れたような顔つきで、紅茶を黙々と飲んでいた。彼にとってはルフはただの軽薄な男という認識なので、メイドから好印象の言葉が飛び出したことが信じられないのかもしれない。

 

 さて、ここに来てルフ・ファージェルという男子の評価が真っ二つに分かれてきた。

 アニスやレオドはあまり良くない印象を抱いているが、フォルティスは昔は実直なタイプだったと語り、メイドは優しくて素敵だと言う。つまりところ、世間のうわさだけでは推し量れない人物だった。

 

「――あなたのお名前、うかがってもよろしいかしら?」

 

 私は微笑を浮かべると、メイドの少女に尋ねた。彼女はびくりと顔を引き攣らせて、明らかに怖がる素振りを見せる。……なんで名前を聞いただけで、そこまで反応するのだろうか。

 

「アイリと申します……」

「なるほど、アイリですわね。急に呼び寄せてしまって、ごめんなさい。もう仕事に戻ってくださって結構よ」

「は、はい……失礼いたします……」

 

 相変わらずビビリまくりの様子で、メイドの少女――アイリは去っていった。

 その後ろ姿を眺めつつ、私はレオドに思わず聞いてしまう。

 

「……わたくし、そんなに恐ろしい?」

「この学園で、きみを怖がらない人間のほうが少数派だと思うがね」

「な、なにそれぇっ!? ちゃんと笑っているでしょう……!」

 

 そう抗議した瞬間、レオドは哀れなものを見るかのような目つきになった。

 

「きみの笑顔は、不気味だと思うのだが」

「はぁ……!?」

「猛獣が笑っているようにしか見えない」

「…………」

「無表情のほうがまだマシだろう」

 

 そこまで言うかっ!

 くっ、こうなったら笑顔の練習でもすべきだろうか。アニスあたりの愛嬌のある人物を観察して、人当たりのいい表情を研究すれば私のイメージも変えられるかもしれない。

 学園一笑顔の似合う美少女になることをひそかに決心しつつ――私は話題を戻すことにした。

 

「ところで、“レーヴァン様”にお願いがあるのですが」

「気持ちの悪い笑顔を浮かべないでいただきたい」

 

 ニッコリと笑う私に対して、辛辣な言葉を返すレオド。

 ……きみ、ちょっと毒舌キャラになってきてない?

 

「――男子寮に戻ったら、ルフ・ファージェルに言伝(ことづて)をしていただけない?」

 

 そう言った直後、レオドは露骨に険しい表情を浮かべた。なぜ自分が、と言いたげな様子である。彼の反応ももっともであるが、私には男の知り合いがまともにいないので仕方なかった。

 

「きみの婚約者を頼ればいいではないか」

「そうしたくても――内容が内容ですので」

「内容?」

「そう――明日の放課後、わたくしがファージェルと一緒にお茶をしたいと伝えてほしいの」

 

 なんだかんだで、フォルティスは私の婚約者なのである。面と向かって、ほかの男との交流を仲介してほしいとは言いづらいものだった。

 それにレオドなら、遊戯室でルフと会う可能性も高いはずだ。消去法的に、伝言を頼むならフォルティスではなくレオドを選ぶべきだった。

 

「――断る」

 

 が、レオドは淡々とそう言い放った。

 

「私がきみのために働く理由がない。きみとは“友達”ではないのだから」

「ひとには親切にしないと、新しいお友達ができませんわよ?」

「……故郷に帰れば、友人もいる」

 

 目をそらし、拗ねたような声色で口にするレオド。この子、本当にぼっちをこじらせすぎではなかろうか。

 やや呆れつつも、私は食い下がって話を続けた。

 

「お願いを聞いていただけたら……何かお礼をいたしますわ」

「私にとって価値のあるものを提示できるとは思えないが」

「うーん……。それじゃあ――」

 

 アルスの時のように現金を対価にする、というのはレオドには通用しないだろう。そうすると、もっと特別なものが必要かもしれない。

 考えてみても、なかなか思いつかなかった私は――冗談交じりに言葉を口にした。

 

「一度だけ好きな時にあなたと付き合ってあげる、デート権はいかが?」

 

 その瞬間――

 空気が重々しく張り詰めた気がした。

 レオドはわずかに目を細め、私を睨むように見据えている。その体から放たれているのは、まぎれもなく剣呑な感情だった。

 

「――いいだろう」

 

 意外なことに、彼は了承の言葉を返した。私が提案した条件が、レオドにとっては見合う価値のあるものだと判断したのだろう。

 私は彼の瞳を見つめた。そこに宿る光は冷たく、敵意に満ちている。憎しみさえも感じられた。

 敗者として屈することは、彼のプライドが許さないのかもしれない。

 そういう負けず嫌いの子は……大好きだ。

 

 以前は彼と武闘(ダンス)をしたが――

 なるほど、死合(デート)をするのも悪くなかった。

 

 自分よりも強大なものへ立ち向かう精神。

 レオド・ランドフルマは、私が思っていた以上に()い男だった。

 

「……きみとデートをする時は、万全を期して臨もう」

 

 ダーツのようなオモチャでは、とうてい打ち勝てないと理解しているはずだ。

 ならば、レオドにはもう少し準備が必要だろう。

 鎧でも、ナイフでも、火薬でも、あるいは罠でも。なんでも用意してくるといい。

 私はそれを――正面から受け止めてあげよう。

 

 成長した彼が、どこまで善戦してくれるのか楽しみだ。

 来たるべき日の待ち遠しさに、私はニィっと笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……やはり、きみの笑顔は不気味だと思うのだが」

「うるさいわねっ!?」

 



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武闘派悪役令嬢 018

 

 レオドからの報告を受けるのは、翌日の朝食時と約束していた。

 食堂で落ち合った彼は、私に会うなり単刀直入に「ファージェルは予定が入っていて無理だと言った」と伝えてきた。

 不機嫌そうなレオドの顔を眺めつつ、私は聞き返す。

 

「予定?」

「放課後はもう“予約”が入っているのだとか。ホールでどこぞの女子とお茶を飲むらしい」

「ははーん、プレイボーイなのねぇ」

「さて、これできみから指示された仕事はいちおう果たしたが――」

 

 レオドに頼んだのは連絡だけで、約束の取り付けの成否については言及していなかった。本人としても、もうこれ以上の面倒は御免という心境なのだろう。彼の表情には愛想というものが欠片もうかがえなかった。

 

 まあ――あまりルフ・ファージェルを好いていないレオドに、何度も仲介させるというのも酷なものか。

 それに、収穫が一つもなかったというわけでもなかった。少なくとも、今日の放課後は確実にホールでルフを眺めることができるのだ。顔を覚えると同時に、その様子を観察することで、ある程度の人柄を知れるのは期待できた。

 

「――仕事は十分よ、ありがとう」

「……それでは、これで失礼する」

 

 と、食堂をあとにしようとするレオド。

 って、ちょっと待ちなさいよ。

 

「……何か用か? 袖を掴まないでくれ」

「あなた、せっかく食堂に来たのに食事しないの?」

 

 いま話をしているのは、朝食を取る前のタイミングである。てっきり、そのまま朝ごはんを食べるのかと思っていたら――まさか帰ろうとするとは。もしかして朝食は取らないタイプ?

 

「寮で朝の茶とビスケットを取ってきたが?」

「それおやつレベルでしょ! ちゃんと朝もしっかり食べなさい」

「うるさいなぁ、きみは」

 

 明らかに聞く耳を持っていない様子。

 くっ、食事の大切さを知らないとは愚かな……!

 

「――そんなんじゃ、生き残れないわよ」

 

 腕を振り払って、すたすたと立ち去ろうとするレオドの背中に――私はそう声をかけた。

 すると、ぴくりと反応して立ち止まる。今の言葉が気になったのだろうか。

 彼はふたたびこちらに体を向けると、疑うような目つきで尋ねてきた。

 

「朝食と生死に、なんの関係がある」

「ふっ、大有りよ。人間が頭や体を働かせるにはエネルギーが必要なの。朝食を抜いてしまったら、昼までにエネルギーが持たなくて集中力と判断力が低下するわ。――もしお昼前に、暗殺者やら魔界のデーモンやらが襲ってきたらどうするの?」

「……そんなことを想定している変人はきみくらいだが」

 

 呆れたような表情をしつつ、レオドは大きくため息をつく。そしてふたたび歩きだした――が、意外なことに行き先は食堂の出入り口ではなかった。

 手近な空席に座った彼は、近くにいた給仕を呼び止めたのだ。どうやらパンとスープを頼んだらしい。

 

「あら、偉いわね。ちゃんといっぱい食べて、強く育つのよ」

子守り(ナニー)みたいなことを言うな。というか僕に付きまとうな」

 

 レオドは見るからに不機嫌そうな顔で、虫を払うようなしぐさをした。これ以上は本当に怒りそうなので、からかうのもやめにしよう。私はわずかに笑みを浮かべて、「はいはい」と彼から離れた席に向かって歩きだした。

 

「……子守りか」

 

 私はその単語を、誰にも聞こえない声量でつぶやいた。

 親は誰しも、子供の健やかなる成長を願うものだ。小さくか弱い存在が、強く大きくなることを喜ばぬ保護者はいないだろう。――今の私の心境は、そういったものに近いのかもしれなかった。

 

 ――子供というものは、いずれ大人となり、往々にして親を驚かせる。

 

 力をつけ、強き存在となりなさい。レオド・ランドフルマよ。

 あなたが立派に成長した暁には、私は――

 

「お腹が減ったわねぇ……」

 

 ――いくらパンを食らっても、満たされぬものがある。

 その飢えを少しでもしのぐために――強き者を喰らう日が待ち遠しかった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 こうも連日、あまり縁のなかった場所に赴くというのは不思議なものだ。

 入学当初は体を鍛えることばかりに時間を費やしていたが、最近は“睡眠中”にトレーニングをおこなえていることもあって、日々の活動に余裕というものができていた。おかげで、こうしていろいろな人間と接しているというわけだ。

 

「……さて」

 

 私は例のホールで、獲物を見定めるように空間を見渡した。

 いつものように、多くのテーブルで学生たちが歓談したりゲームをしたりしている。同性同士の友人で固まっているグループも多いが、中には男女のペアもちらほら見えた。そのどれかに、目標(ルフ)は存在するのだろう。

 

「あ」

 

 耳を澄ませて会話から本人を探り出そうかと考えた時、ふとメイドの少女が通りかかるのを目にした。同年代の黒い髪の彼女は、前日に自己紹介を受けたばかりなので見間違えるはずもない。――アイリだった。

 ルフの顔を知っている彼女に聞くのが、いちばん確実で早いだろう。そう思った私は、彼女に問いかけることにした。

 

「ちょっと、あなた」

「ひゃっ!?」

 

 横から近寄って声をかけた瞬間、まるで獣に襲われたかのようなリアクションでびくりと身をすくめるアイリ。紅茶などを運んでいる最中でなかったのが幸いな反応だった。

 ……どうして声をかけただけで、そこまで怯えられるのかしら。

 

「す、すみません……びっくりしてしまって……」

 

 肉食獣に狙われた小動物のような印象を漂わせて、彼女は謝罪を口にすると――おずおずと尋ねてきた。

 

「その……何かご用でしょうか、オルゲリック様……?」

「今日、このホールにルフ・ファージェルがいると耳にしまして。わたくしに、彼の居場所を教えてくださらないかしら?」

「……ファージェル様ですか。それでしたら――あちらのテラスに近いテーブルの、金髪のお方です」

 

 彼女が控えめに指差した方角を見遣ると、たしかにそっちのテーブルには二人だけで座っている男女の姿があった。ここからだとルフの顔が確認しづらいが、対面にいる女子の表情はよくうかがえる。ルフの話に熱っぽい笑顔を返しているところからすると、まるで恋人同士のような間柄に見えた。

 もっとも――ルフにとっては、数多き遊び相手のうちの一人なのだろうが。

 

「……あの男子ですのね、ありがとう」

 

 情報提供に感謝したところで、私はふと疑問を覚えた。

 ルフのことではなく……アイリがこちらにかけた言葉についてだ。彼女は“オルゲリック様”と呼んだが、たしか昨日は私の名前を口にしてはいなかった気がする。なぜ個人情報を認識しているのだろうか?

 

「そういえば、さっき……わたくしの家名をおっしゃいましたが、ご存知でしたの?」

「えっ? ……え、えぇ。お……オルゲリック様は“有名”でいらっしゃいますので……」

 

 へー、私のことがそんなに知られているんだ。まあ辺境の有力な侯爵家の子女なので、メイドでも覚えておくべき人物として認識されているのかもしれない。大貴族の家柄の人間相手に粗相をしたら大変だしね。

 私は何気なく、興味本意で少しだけ尋ねてみた。

 

「ところで、使用人の方々の間では――わたくしは、どんなふうに認知されているのかしら?」

「えっ!? そ、それは……」

 

 詳細を聞かれるとは思ってもいなかったのだろうか。アイリは強張ったような表情で言葉を濁した。その顔色は、どこか青ざめているようにも感じられる。

 どうも反応からすると、あまり評判には期待できそうになかった。まあ学生の前だと傲慢不遜を演じていることが多いので、使用人にもそういう人物だと見なされているのかもしれない。

 

「あら、正直に話してくださって結構ですわよ? 偽りない外聞を知っておきたいですもの」

「…………」

 

 彼女は覚悟を決めたような顔をすると、ゆっくりと口を開いた。

 

「仕事仲間の方たちが口々に言うのですが……その……万が一、オルゲリック様に失礼を働くと……」

「失礼を働くと?」

「……く……“首を切られる”と、恐れられています……」

 

 その言葉を聞いた直後、私は内心でちょっと笑ってしまった。

 なるほど。大貴族の子供から不興を買ってしまうと辞職させられるかもしれない、と危惧するのは平民らしい発想だった。実際には、気に食わない使用人を解雇させるような圧力を学園にかけるのは不可能だろう。いくら私が有力諸侯の家柄だとはいえ、そんな私的な感情を理由に人事を動かすほどの力はなかった。

 

「あらあら、まあまあ……。使用人の方々も心配性ですのね。わたくしにそんな権力(ちから)はありませんのよ」

「……ち、腕力(ちから)はとてもありそうに見え……い、いえっ! な、なんでもありませんっ!」

 

 アイリは慌てたように首を振ると、泣きそうな表情で「そ、そろそろ仕事に戻らせていただけないでしょうか……」と懇願してきた。呼び止めつづけるわけにもいかないので、私は素直に頷いて別れることにする。「で、では……」と背を向けた彼女は、まるで逃げ出すかのように早足で去っていった。

 

「…………」

 

 やっぱり私、めちゃめちゃ怖がられてない?

 

「……まあ、それはともかく」

 

 独りごちて、意識を本来の目的に移す。私はルフ・ファージェルを観察しにきたのだ。近くの席にでも座って、会話を盗み聞きすべきだろう。

 そういうわけで、私はアイリに教えられたテーブルの方向へと歩きだした。

 

 ――と、その時。

 私よりも早く、談笑する二人のもとへと進む人物の存在に気がついた。

 

 別の方向からルフを目指して、つかつかと歩み寄るその少女は――見たことのある顔だった。名前は覚えていないものの、同じ下級生の女子であることは間違いない。そして、その表情には怒りが混じっているようにも見えた。

 

 ……あれ?

 もしかして、これ……修羅場ってやつ?

 

「――ファージェル様」

 

 その冷たい声に、ようやくテーブルの二人は気づいたのだろう。割り込んできた声のほうに顔を向けると――ルフは引き攣ったような笑みを浮かべた。

 

「キャロル……。ど、どうしてここに……」

「どうして? それは、わたしの言葉です! どうして、ほかの女性と親しそうにしていらっしゃるのですか?」

「い、いや……ボクもいろいろな子と交流をしたいしね……」

「つい先日、『きみ以外の女性はもう目に入らない』とおっしゃっていましたけど!?」

 

 彼女がそう言った直後、ルフの対面に座っている女子も眉をひそめた。もしかしたら談笑していた彼女も、同じような言葉をかけられたのだろうか。ルフへ向ける瞳は軽蔑の色を帯びていた。

 

「アリア……これにはわけが……」

「……あたし、お邪魔みたいなので失礼しますね」

「い、いやぁ……邪魔なんかじゃないって……! そ、そうだ……どうせなら三人で仲良くお茶でも――」

 

 へらへらと情けない笑顔を浮かべながら、ルフがそう言いかけた時――二人の乙女は本気でキレたようだ。離れた場所からでも怒気がありありと伝わってきた。そして、先にルフと茶飲み話をしていた女子のほうは――どうしても感情が抑えきれなかったようだ。

 

 その繊手が紅茶のカップを掴んだかと思うと――腕を跳ねさせ、中身を前方にぶちまけたのだ。

 ――液体が宙を飛び、ルフへと襲い掛かる。

 それを避けることはかなわなかったのか、彼はもろに顔面で紅茶を受けてしまった。

 

「うわっ!? ちょっ……!」

 

 あわてふためくルフには、もはや関わる気持ちも失せたのだろうか。彼女は席を立つと、無言ですたすたと去っていった。

 と、同時に――残ったもう一人の女子も、怒りと呆れが混じったような表情で口を開いた。

 

「ファージェル様……あなた、最低な男性ですね……」 

「ははは……て、手厳しいなぁ……」

 

 濡れた顔のまま、ルフはふたたび笑顔を浮かべる。あまり反省しているようには見えない態度だった。

 そして、次に何を言うかと思えば――

 

「ところで、キャロル……。ちょうど席が空いたから、よかったら一緒にお茶でも――」

「さようなら」

 

 ぴしゃりと厳しい口調で言い放った彼女は、彼に背を向けると怒りを湛えたまま歩き去ってゆく。その姿からは未練がまったく感じられなかった。心底、愛想を尽かしたのだろう。

 

 残されたルフに対しては、ホールの冷めた衆目が集まっていた。紅茶をぶっかけるのはやりすぎのようにも思えるが、彼の言動からすると当然の報いと考える人も多いに違いない。それほどまでに、少女二人への対応はあからさまにひどすぎた。

 

 ――なるほど、これならルフの評判が悪いのも納得である。

 

 もし女子のうち一人がアニスだったとしても、同じように彼を軽蔑して去ったことだろう。そして、もしレオドが修羅場の光景を目撃したら、やはり最低な男だと再認することだろう。

 だが――

 

「――ずいぶん、派手にフられたようですわね」

 

 私は笑みを浮かべながら、ルフに近寄って話しかけた。その瞬間、彼はびくりと体を震わせて顔をこちらに向ける。まさか声をかけてくる学生がいるとは思ってもいなかった――というような様子だった。

 

「……き、きみは?」

「ヴィオレ・オルゲリック、ですわ。以後、お見知りおきくださいませ」

「…………侯爵家のご令嬢か」

 

 名前を口にした直後、ルフはわずかに表情を強張らせて呟いた。

 いきなり現れた私の存在が不可解なのだろうか。彼の目には疑うような色も含まれていた。

 私は相手の顔を見据えつつ、ゆっくりと対面の席へ移動して腰を下ろす。

 

「――色男が台無しですわね」

「はは……まいったね、本当に……」

 

 そんな何気ない言葉を交わしつつ、私はルフ・ファージェルを真正面から眺めた。

 金髪の下の顔立ちは、レオドほど美形ではないがかなり整っていた。年齢が私やフォルティスより上だからか、やや大人びた印象を抱かせる。その顔を紅茶で濡らしていなければ、じつに女子から人気になりそうな外見だった。

 ……外見は、だが。

 実際のところ、見た目と言葉で釣られた女性は……さっきみたいに失望して去ってゆくのだろう。

 

「それで……ボクに、何か用があるのかな?」

「あら、ファージェル様はお暇(フリー)なんでしょう? よろしければ、お茶でも飲みながら話をしたいと思いまして」

「…………お茶かぁ」

 

 ルフは苦笑すると、そのあごから水滴を一つ垂らした。紅茶をぶっかけられたことには、やはりいろいろ思うところがあるらしい。

 私はスカートのポケットに手を伸ばし、ハンカチを取り出した。それをルフのほうへ差し出し、言葉を投げかける。

 

「髪と顔をお拭きになったほうがよろしいかと」

「あー……悪いね」

 

 彼は申し訳なさそうな表情とともに、私のハンカチを受け取る。頭の濡れた部分をさっと拭きおえたルフだったが――少し困ったような口調で尋ねてきた。

 

「すまない……ハンカチをけっこう濡らしてしまったな」

「いえ、お気になさらず。そのまま返してくだされば結構ですわ」

 

 紅茶で湿ったハンカチを、そのままポケットに戻したら服まで濡れてしまうのではないか。おそらく、そう心配しているであろうルフに対して、私は“白手袋を外して”右手を差し出した。

 食事などするとき以外は、基本的には隠している素手。今は手のひら側を見せているが、それでも胼胝(たこ)がいくつかあるので、女性らしさとは対極の手だった。

 

「…………」

 

 不審そうな顔つきで、ゆっくりと私の手にハンカチを渡すルフ。

 濡れたそれを受け取った私は――ティーカップのソーサーを移動させて、右手の真下へと持っていった。

 

「……何を…………」

 

 疑問の声を上げる彼を無視して――私は手の向きを反転させて、ハンカチを拳の中へと握り込んだ。

 

「こうすれば――」

 

 私は授業中によく、布や紙を握力で丸め潰すトレーニングをしている。極限まで圧縮されることにより、物質はまるで金属のように押し固められるのだ。――そこに水や空気が入る余地などない。

 さほど大きくもないハンカチを――さらに小さく、指の中へ押し込める。

 

 手が濡れる感覚が訪れる。

 ハンカチが吸い取った水分が、圧力に曝されて外に逃げ出しているのだ。

 ソーサーに流れゆく水滴は――まさにルフが拭き取った紅茶の量に等しいだろう。

 

 もしも人間の腕を掴めば、一瞬で骨が砕け、肉が崩れ、血が噴き出すであろう握力。

 それを受けつづけたハンカチは――

 

「ほぉら……これでもう乾いた」

 

 手を広げ、無残に押し固められたハンカチを見せつける。

 

「まぁ……二度と使えませんけれど」

 

 もはや布として機能しないそれを、ぽとりとソーサーの上に落とす。ハンカチの成れの果ては、高密度になりすぎたゆえか水分を吸い上げる様子はなかった。

 

「…………」

 

 恐ろしいものを目の当たりにしたかのような顔つきで、ルフは沈黙している。

 私がニコリと笑うと、彼はびくりと体を震わせた。……大げさな反応ね。

 

「わたくしのクラスメイトから、あなたに関する話を耳にしましたわ」

「……クラスメイト?」

「アニス・フェンネルという名前の女子です」

 

 わずかに目を細めたルフは、「ああ」と思い出したかのような声を上げた。

 

「ダンスパーティーで知り合った女の子だね。清楚でかわいらしくて、思わず一目惚れしてしまったんだよ。だから声をかけてみたんだが……残念ながら、どうも彼女は乗り気でないようだった」

「惚れやすいお方ですのね」

「美しい女性には目がなくてね、ははは」

 

 笑いを浮かべるが、どこか苦笑交じりのようにも見える。冗談か本気なのか、現状ではいまいち判断しづらかった。

 そんな会話をしているなかで、ふいに早足でこちらのテーブルに寄ってくるメイドの姿が目に映った。アイリである。手にしたお盆の上には、タオルやおしぼりが乗せられていた。

 

「お、お待たせしました。こちらをお使いください」

 

 おそらく遠目でも、ルフが紅茶をかけられる姿が見えたのだろう。トラブルを確認してから、すぐに拭くものを用意してきたようだ。

 ルフはタオルを受け取りながら、優しげな声色で感謝の言葉を口にした。

 

「……ありがとう。申し訳ないね、アイリ」

「いえ、とんでもございません……」

 

 あらためて頭と上着をタオルでぬぐい、安堵したようなため息をつくルフ。それを眺めつつ、私も濡れた手をおしぼりで綺麗にした。

 そして、テーブルに飛び散っていた水滴なども拭き取られたところで――

 

「――新しい紅茶を二つ、いただけないかしら?」

 

 使用済みのティーセットと布巾を回収するアイリに向けて、私はそうお願いした。すると彼女は驚いたような様子で、ルフのほうへ目を向ける。どこか心配そうな視線だった。

 

「……お願いできるかな、アイリ」

「は、はい……承知いたしました」

 

 彼女は礼をすると、ホールの出口のほうへと去っていった。この時間なら一階の給湯室でつねに湯を沸かしているはずなので、そう時間も経たずに紅茶もやってくるだろう。

 

「――あのメイドの子とも、仲はよろしいのでして?」

「ふふっ……かわいい女性とは誰でも親しくなりたいタチでね」

「あらあら。じゃあ、わたくしとも親しくなりません?」

「…………」

 

 こらこらこらこら、なんでそこで黙るのよ?

 見目麗しい美少女が誘っているというのに、まったく失礼な男ね!

 

「――わたくしでは不満かしら?」

「いや……きみには婚約者がいるだろう?」

「あら、ご存知でしたのね」

 

 なるほど。まあフォルティスとは故郷の仲があるので、私のことも知っていたのだろう。さすがに知人の婚約者が相手では、憚られる気持ちがあるのかもしれない。

 

「ご心配なさらず。あなたが相手なら、本気で付き合っていると思う人間もいないでしょう」

「……たしかに、きみの言うとおりだ」

 

 ルフは不敵さを含んだ笑みを浮かべた。

 学園中の女子に声をかけまくっている彼ならば、誰が見たって真剣に付き合っているとは考えないだろう。先ほどの二股場面を見るかぎり、下級生の間にもルフ・ファージェルの悪名が広がるのは時間の問題だといえた。

 

「――ファージェル様は、どんな女性がお好きですの?」

「どんな、かぁ……。そうだね……優しくて控えめな女の子、かな? きみのお友達のフェンネル嬢は、ボクがわりと好きなタイプかもね」

 

 ちょっと明るすぎるかもしれないけど、とルフは言葉を付け足した。たぶん慎ましい感じの女の子が好みなのだろう。アニスは大人しそうな外見だが、性格に積極的な一面があるので、その点は微妙に合わないのかもしれない。

 

「そう言う、きみのほうはどうなのかな?」

「わたくしですか?」

「フォルティスのような優男が好みなのかい?」

 

 ルフは笑いながら尋ねた。

 優男? と怪訝な気持ちを抱いたが、そういえばルフは学園に入ってからのフォルティスとは、たいして交流していなかったはずだ。今の彼が男らしく成長していることを知らないのだろう。

 私は唇を歪めて、ルフの質問に答えた。

 

「――強い(おとこ)なら、誰でも大好きですわ」

 

 それは肉体的でも、精神的でもかまわない。

 フォルティスも、レオドも、そしてアルスだって。向上心を持って力を伸ばそうとする人間は――私の大好物だった。

 現状に甘んじることなく、上を目指す在り方というのは美しく魅力的だ。

 そういう男が――私は好きだ。

 思わず……遊んでやりたくなる。導いてやりたくなる。もっと上へ――少しでも私のいる方向へと、誘いたくなるのだ。

 

 ――あなたは強くなれる男かしら? ルフ・ファージェルよ。

 

 私の視線に射抜かれたルフは、緊張したような表情を浮かべていた。一見すると女好きの軟弱な男だが――その本当のところはどうなのか。

 もし、強くなれる素質があるというのなら――

 

「…………あ、あの」

 

 と、その時。

 テーブルのそばで、新しいティーセットを持ってきたアイリが、おそるおそる声をかけてきた。無言で見つめ合っていた私たちの姿に、困惑したような様子だった。

 

「お茶をお持ちしましたが……」

「あら、ありがとう」

 

 私はルフから視線を外し、彼女から紅茶を淹れてもらった。カップを受け取り、砂糖を少量だけ入れて口をつける。温かいお茶はやはり美味しかった。

 

「どうぞ、ファージェル様」

「……ありがとう」

 

 ルフも紅茶を受け取り、礼を口にする。その声色はどこか穏やかなようにも聞こえた。

 アイリが去っていったのを確認してから、私はゆっくりと口を開いた。

 

「ファージェル様は、いま付き合っている恋人はいらっしゃらないのですか?」

「うん? ははは……キャロルにもアリアにもフられてしまったからなぁ……。新しい女の子を探さないとね」

「なるほど」

「……きみのお友達に声をかけるのは、迷惑かな?」

 

 ルフは私の顔色をうかがうように言った。お友達、というのはアニスのことを指しているのだろう。

 おそらく彼は、私がアニスの件で接触してきたと考えているのだ。彼女に関わるな、とでも言われることを予想しているのかもしれない。

 

「――アニスよりも、いい相手がおりますわよ」

 

 だから、その発言は意外だったのだろう。ルフは眉をひそめて、こちらを見つめてきた。

 

「……ほかの女の子を紹介してくれるのかい?」

「ええ」

「そりゃ、ありがたいけど……どんな人なのかな?」

「あなたの目の前にいる女性ですわ」

 

 その直後、ルフの体が凍りついた。

 何を言われたのか理解できないというように、無言で固まっている。それほど想定外だったのだろうか。私のほうから誘ってくることは。

 

「わたくしも――いい男は好きですの」

 

 笑みを浮かべると、ルフはごくりと唾を呑みこんだ。その瞳は動揺に支配されている。彼の体内から発せられる、高鳴る心臓の音――それは恐怖と戦慄の証だった。

 

「まさか、“かわいい女性”からのアピールを……断るつもりはありませんよね?」

「だ、だけど……きみには婚約者が……」

「あらあら、あなただって“二股”をしていたでしょう?」

「それは、その……」

 

 私は腕を掲げると、その手を拳の形へと変えた。

 そして――強く握り込む。

 この手から発せられる握力。それはすでに、ハンカチを返した時に彼も視認していた。これが自分に向けられれば、どうなるかも――わかってしまっているはずだ。

 

 私はニッコリと、満面の笑みを作った。――右手に破壊的な力を宿しながら。

 怯え、言葉を失うルフに情熱的な視線を送りつつ。

 

 

 

 

 

「――次の週末に“デート”でもいかがですか、ファージェル様?」

 

 ――その答えは、一つしか選ばせなかった。

 



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武闘派悪役令嬢 019

 

 男女が待ち合わせをして、どこかへ出掛けるということ。

 そんなデートという行為をするのは、はたしていつぶりだろうか。少なくともこの世界で生を授かってからは、初めての経験と言えるだろう。フォルティスとは婚約者の間柄であるが、家が勝手に決めたことで当人同士はろくに交流していなかったので、私は彼ともデートをしたことはなかった。

 

 つまり――ルフ・ファージェルが初デートの相手というわけである。

 ……が、とくに緊張も高揚もなかった。まあ当たり前だけど。

 

「……やっと、来たわね」

 

 学園の正門付近で、壁に背もたれて腕組みをしていた私は、向こうからやってくる人影を認めて呟いた。

 時刻は朝と昼の中間、といった頃合いだろうか。朝食を取り、着替えや手回り品などを用意して、学園の出入り口で待ち合わせをする。それがルフと事前に話し合って決めたことであった。

 

「――申し訳ない。少し準備に手間取ってしまって……」

 

 開口一番、ルフはそう謝罪を述べた。

 

「女の子を待たせるなんて、好感度が下がりますわよ」

「いやはや、反論できないな。……こういう時の身支度に、あまり慣れてなくてね」

「……ふぅん」

 

 私は腕組みを解き、壁から背を離すと――ルフの姿をざっと眺めた。

 

 学生はパーティーイベントなどを除き、基本的には地味な服装をするようにと指導されているが、休日の場合はある程度の自由を許されている。今の彼は落ち着いた赤色のウェストコートを身につけ、その上に、薄手の外套を前開きにして着流していた。派手な色を一つに留めていて、なかなかうまく色彩を調和させている。意外と服装のセンスは良いらしい。

 

 こういう時の身支度にあまり慣れていない――ということは、ルフは“デート”自体の経験がほとんどないのだろうか。あれだけ女の子に声をかけているのなら、外出に誘う機会はそれなりにあっただろうに。

 思考する私に対して、ルフは少し困惑したように声をかけてきた。

 

「……意外だったな。きみは、あんまり華美な服を好まないのかな?」

 

 ――それは、私のファッションに対する感想だった。

 

 ルフの疑問も妥当である。私は袖長のシュミーズ*1を下着に、ソフトステイズ*2と、ペティコート*3を重ねたスカートを身につけ、スカーフやショートガウンで肌を隠していた。アクセサリーもほとんどなく、携えているのはお金などを入れた巾着型のポシェットくらいである。煌びやかさなどどこにもない、貴族というより平民のような装いだった。

 

「あら、街中で目立ったほうがよろしかったでしょうか?」

「……いや」

 

 ルフは苦笑して首を振る。

 わざわざ学園の外で、上流階級の人間をアピールする必要などもなかった。私は注目を浴びて喜ぶようなタイプではないのだ。……どこかの誰かとは違って。

 

「さて――」

 

 私は正門に体を向けると、ちらりとルフの顔を見て言った。

 

「行きましょうか……“デート”に」

「……ああ、よろしく」

 

 どこかぎこちない感じの笑みを浮かべつつも、彼はゆっくりと頷く。

 

 ――こうして、私とルフのデートは幕を開けた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 都市というものは拡大を続ける運命にある。この国の王都もまた、その宿命からは逃れられなかったらしい。

 私たちの学び舎であるソムニウム魔法学園のあるフリス地区は、上流階級の人間が多く住まう区域だった。王宮や大学や寺院などがここに密集しており、いずれも初期に建設された城壁の内側となっている。

 旧い城壁は都市の拡張にしたがって一部が解体されたが*4、ある程度の市壁は今なお残っており、富裕層とそれ以外の領域を明確に分け隔てていた。旧城壁の内側と外側では治安が違うから用心しろ、という話はよく耳にするものである。

 

「――それで」

 

 私は王都の中央から遠ざかるように通りを歩きながら、隣のルフに言葉を投げかけた。

 

「行き先のご希望はありまして?」

「……できるだけ、目立たない場所がいいかな。ほかの学生たちが行かないような場所のほうが好ましい」

「なら、フリス地区を抜けるほうがいいでしょうね」

 

 デートをする……などと約束はしたものの、じつは詳細なプランは最初から決めていない。ただ、ルフからは「女の子とデートをする時の予行演習がしたい」と言われていた。つまり――こうして街を散策しながらデート場所を探すのが、今日の“デート”の目的である。

 

 迷いなく足を進める私に対して、ルフは少し困惑したように尋ねてきた。

 

「……休みの日は、よく外に出るのかい?」

「ええ。都市を抜けて農園地まで行くこともありますわ」

「……冗談だろ? 行って戻ってくるだけで一日が終わるぞ」

 

 疑うような視線で言葉を返すルフ。きわめて常識的な反応だが、私が言っていることは事実である。都市の外側のアルスの家だろうと、私の脚力からすれば大した距離にはならなかった。

 そして休みの日、どころか平日にも外を出回っているので、王都はもはや庭のようなものである。夜間は通行が禁止されている市街の門もあるが、建築物の“上”を跳べば移動に何も問題はなかった。いわゆるパルクール*5というやつは、もはや意識せずとも完璧にこなせる体となっていたりする。

 

「――デートでほかの学生の目を気にするなんて、あなたらしくありませんわね?」

 

 歩きながら、私は先ほどの彼の発言について言及した。その瞬間、ルフは困ったような表情を浮かべる。答えにくい事柄だったのだろうか。

 

「その……好きな人と時間を過ごすなら、ひっそりとしたほうが雰囲気がいいだろ? 劇場に行っても周りが知り合いの学生だらけだった、なんてことになると……デートの空気にならないじゃないか」

「まあ、たしかに言えてますわね」

 

 外に遊びにいく、と言っても学生の大半はフリス地区で過ごすだろうから、どこに行っても顔見知りと鉢合わせしてしまいがちである。狭い世界から抜け出してデートをしたい、という想いはそれなりに理解できた。

 私たちは適当に雑談をしながら、旧城壁の門までたどり着く。暇そうに通行者を監視している衛兵を横目に、さっさと門を通り抜けて向こうの地区へと足を踏み入れた。

 

「……こっちは、ほとんど来たことがないな」

 

 少し心配そうな口調で、ルフはそう呟いた。私は王都を自由に動き回っているから気にならないが、街を闊歩することのない彼にとっては、慣れない場所に不安があるのだろうか。

 私はふいに立ち止まると、ルフのほうを見据えて口を開いた。

 

「さて、ここからは――ほかの学生に見られることもないでしょう」

「……だろうね」

「ここから東の通りを行けば、小劇や大道芸などの見世物もあるし、いろいろ屋台もありますわよ。そして南の広場周辺なら、もっといろいろお店が広がっているはず」

 

 娯楽の種類は多くはないが、それでも学園内にはない楽しみがいろいろあった。ルフのような箱入り育ちにとっては、ほとんどのことが新鮮に感じるだろう。

 

 ――私は左腕を上げて、彼のほうへ差し出した。

 その挙動の意味がわからなかったのか、ルフは困惑したような顔をしている。が、道行く人々の中に腕を組んで歩くカップルがいるのを目にして、ようやく思い至ったようだ。

 表情をどこか恥ずかしそうなものに変えたルフは、ゆっくりと右腕を少し持ち上げる。私はその隙間に左手を通し、彼と恋人同士のように腕を組んだ。

 

「こっちの地区はスリなども出る可能性があるので、気をつけてくださいまし」

「……な、なるほど」

「本番のデートの時は、あなたがエスコートする側ですわよ」

「……心得ておこう」

 

 今は私がいるのでどこへ行こうと安全だが、ルフが本命の女性とデートする時は彼が相手を守るしかない。杖を携帯していても、群衆の中だと魔法をぶっ放すことができない場合もあるのだ。フリス地区を抜けるなら意識的に警戒するというのも必要だった。

 

「とりあえず――このまま、通りに沿って歩きましょうか」

「あ、ああ……」

 

 女性とのやり取りには慣れているはずのルフだが、どうにもさっきから緊張している様子である。どうやら異性との外出は、本当に経験が少ないらしい。意外な一面だった。

 

 ――日差しで彩られた石畳の通りを進みながら、私は周囲の人々の姿をなんとなしに眺める。

 ここはまだ王都の中心に近く、貧民も少ないので道行く市民の顔は明るかった。徴税権を私人に売り渡していないため、わりと真っ当な政治運営がなされているのも大きいのだろう*6

 

 建物のほうに視線を移すと、紅茶を出す喫茶店のテラスが目に移った。テーブルではそれなりの身なりの男たちが、お茶を飲みながらチェッカーの類(ボードゲーム)*7をやっている。横に硬貨を積んでいるところからすると、どうやら賭け試合に興じているらしい。

 それをルフも眺めつつ、少し笑って言葉をこぼした。

 

「賭け事はみんな好きなんだな」

「あら、ファージェル様もそういうのがお好きなのかしら?」

「寮だとみんなやっているよ。ボクもビリヤードで友達とよく賭け試合をしている」

「学園の規則で賭け事は禁止されているはずですけれど?」

「律儀に守っているやつなんていないさ」

 

 ルフは朗らかな笑顔を浮かべた。

 

「遊戯室ではビリヤード以外に何をなされるのです? 男子寮にはダーツなどもあると耳にしましたが」

「ダーツか……あれは苦手だなぁ。というか、最近は一部の学生がずっとダーツを占領しているから触る機会もないし」

 

 うわぁ、レオドくん……あなた公共物を私物化しているのね……。

 

「ファージェル様は、同性のお友達もたくさんいらっしゃいますの?」

「……いや、故郷の縁がある数名の友人だけかな」

「あら、伯爵家の長男でしたらもっと親しくなろうとする方々も多いのではなくて?」

「……痛い質問だなぁ。日頃の振る舞いのせいで、どうにもボクの評判は悪いようでね」

 

 ルフは笑みを苦笑に変えて、あまり元気なく答えた。言い方からすると、女性をナンパしまくっていることが悪評を招いていることは自覚しているらしい。つまるところ――その不利益を上回る何かが、彼にとっては存在しているのだろう。

 

「女性を追いかけないほうが、あなたモテますわよ?」

「……うーん、追いかけなければ叶わない恋もあるからね」

 

 意味深に返された言葉に目を細めていると、歩いている先から笛や弦楽器の音が鳴り響いてきた。フリス地区の外の大通りでは、楽器の演奏や手品などのショーをして投げ銭をもらう大道芸人(ジョングルール)*8をよく見かける。都市の貴族が楽しむものよりも世俗的だが、私としてはこういった民衆の音楽のほうが好きだった。

 

「故郷を思い出すような音色だ」

 

 懐かしむように笑うルフに、私も心中で同意する。大貴族の領主の子供は、ほとんどが直営地*9の屋敷で生まれ育っているものである。ようするに風土が田舎寄りで、音楽などの文化も民衆的な色が強かった。学園のイベントなどで演奏される高尚な音楽よりも、こういう安っぽい楽器の音色のほうに親近感を抱くのは、地方出身者の証といえるだろう。

 

 ――すっかり緊張がほぐれた様子で、ルフは私とともに街中を歩く。

 聞こえてくる演奏を楽しんでいると、彼はふと前方を指差した。その先には木造の掛け小屋が設営されており、舞台の上で役者が劇を演じているようだ。

 

「……あれは?」

「市民が好む劇ですわ。大劇場を観るお金のない方々は、ああいった人通りで開催される小規模な演劇を楽しんだりしているようです」

「……なるほど。そういえば故郷の園遊会で、旅芸人の一座が招かれてあれに近い芝居をやっていたな」

 

 演劇や芝居は普遍的な娯楽である。こうした大通りだけでなく、酒場にもステージを設けて劇を開催している店がいくつかあったりする。民衆劇に対する弾圧や規制も今のところないので、平和的な空気の中で市民は観劇していた。

 

 ルフが気になっている素振りを見せていたので、私はそれに合わせて立ち止まる。

 

「途中からですが、ご覧になります?」

「……いいかな?」

「では、少し寄っていきましょう」

 

 やや離れたところから、私たちは遠目で劇を眺めることにした。

 屋外の仮設舞台だと激しい動きもできないので、この手の演劇は掛け合いを重視した内容がほとんどである。役者たちは大仰な身振りと声で演技をしていた。どうやら街に住む男女の色恋沙汰をテーマにした話で、妻に隠れて浮気をする男が必死にバレないように立ち回るコメディのようだ。

 大劇場ではまず演じられないような筋書きだが、話の面白さはルフにも伝わっているのだろう。ちらりと見た彼の横顔は、明るい笑みだった。

 

 やがてストーリーは終局へ向かい、けっきょく浮気を知られた男が散々な目に遭いながら、妻に最愛を誓うことで終演となった。お話自体はたいして捻りもなかったが、それでもコミカルな演技に市民たちは満足したらしい。小銀貨をステージに投げて拍手をする人も多かった。

 

「ご感想は?」

「面白かったよ。貴族が登場しない劇なんて初めて観たかもしれない」

「貴族向けに演劇する時は、上流階級の主人公が大半でしょうからね」

 

 だからルフにとっては、新鮮な体験だったに違いない。

 私はそう思いながら、ポシェットから取り出した銀貨を親指で弾いて投げ銭する。それを見ていたルフは、びっくりしたような声を上げた。

 

「今の、6セオル銀貨か?」

「気前のよさは美徳の一つですわよ」

 

 いちばん小さな銀貨が1セオルだが、その6倍の重量で鋳造されているのが先ほどの銀貨だった*10。労働者の日給がだいたい8セオル程度なので、投げ銭としては言うまでもなく破格である。

 

「……見習っておこう」

 

 ルフはそう笑うと、同じように6セオル銀貨を舞台に投げ入れた。

 

 ――役者たちが感謝の言葉を述べるのを横目に、私たちは群衆から離れてふたたび通りを歩きだす。

 ジャグリングを披露する芸人や、グラスワインやチーズを売る屋台を眺めながら、ルフはふいに尋ねてきた。

 

「ああいう演劇は、週末にいつもやっているのかな?」

「大抵は。……もし大通りでやっていなくても、誰かに尋ねれば劇を開催している小劇場や酒場を教えてくれますわよ」

「……そうか。参考にするよ」

 

 本命の女の子とデートをする時に、ということだろう。真剣そうに考える彼は、ホールで二股が発覚した時の軽薄そうな印象がどこにもなかった。

 私はその差異に興味を抱きつつも――彼に次の行き先を提案する。

 

「お昼の食事はどうなさいます?」

「うーん……雰囲気がいいところはないかな?」

「お上品なレストランはフリス地区へ戻らないとないでしょう」

 

 だよねぇ、とルフは苦笑した。

 凝った料理を出すレストランというものは、いちおう都市に存在するものの――やはり大衆向けではない。フリス地区以外でどうしても外食するとなれば、酒場や喫茶店などで、パンやビスケット、スープなどを置いているところを当たるしかなかった。

 

「……フリス地区の店だと、ほかの学生と鉢合わせる可能性がある。できれば、こっちのほうで食事をしたいな」

「人目を気になさるのですね」

「いろいろあって、ね」

 

 曖昧な表情を浮かべるルフに、私は「わかりました」と頷いた。

 

 

 

「――食事も出す酒場を知っていますわ。そこに案内いたします」

 

 

 

   ◇

 

 

 

 その店は、大通りにも匹敵するくらい賑やかな空間だった。

 週末は休息日とする労働者が多いので、時刻が昼間でも客の数はかなり多い。お湯割りの酒なら平民でも安価に飲めるため、市民の飲酒は非常に一般的な娯楽だった。

 

「さ、騒がしいな」

「酒場はそういうものですわ」

 

 店内の雰囲気にけおされた様子のルフに、私はそう動じることなく答えて、空いているテーブルを探す。

 が、盛況なこともあって二人用の席が見当たらない。独りで飲み食いするならカウンター席なり相席なりすればいいが、いちおう“デート”なので二人で向かい合ったほうがいいだろう。

 

「……あら、あそこが空いているわね」

 

 ふと空席を見つけた私は、そこへ向かって歩きだした。後ろのルフも、あわてて追従する。だが、すぐに心配そうな声をかけてきた。

 

「なあ……隣の男は大丈夫か?」

 

 彼が指している人物は、目立っているので簡単にわかった。

 空いている席の、隣のテーブル。そこに厳つい顔の男が、ボードゲームを広げて銀貨を積んでいたのだ。見ればわかるとおり、賭け勝負で稼いでいる者なのだろう。

 

「なあ! だれか俺と勝負しねえか!」

 

 男は声を荒らげるが、どうやら勝ちすぎて対戦相手が見つからないようだ。ボードはたぶん三棋(ミル)ゲーム*11のものだろう。運要素が低いので、よほど得意な人間でなければカモにされるのがオチだった。

 

「べつに気にすることもないでしょう」

 

 私は平然と店内を進んだ。そもそも絡まれたとしても、私にとっては脅威でもなんでもない。まあルフが遠慮する気持ちはわからなくもなかったが。

 私たちが目的のテーブル席に腰を下ろすと、すぐに店員が近づいてきた。身なりのいい姿だったので、上客だと思ったのだろう。十代前半の少年が、猫撫で声で尋ねてきた。

 

「いらっしゃいませ! ワインやミードやシードルなど、いろいろお酒がありますよ!」

「ここは食事も出してくれるはずよね?」

「パンとスープでしたら。あっ、その……残念ながら白パン*12は置いてませんが」

 

 申し訳なさそうに言う給仕の少年だが、私にとってはふすま入りのパンのほうが好きだったりする。だって栄養価が高いし。

 パンとスープを二人分お願いしたあと、私は居心地が悪そうにしているルフに聞いた。

 

「ファージェル様、お酒にはお強くて?」

「……い、一杯くらいなら大丈夫だろう」

 

 つまりアルコールはそれほど得意ではないようだ。まあ体質は人それぞれなので仕方あるまい。

 そういうことで、できるだけ飲みやすい酒を頼むことにした。

 

「赤ワインを温めて、味付けしてもらえるかしら?」

「グリューワイン*13ですね。砂糖を使うなら、少し値段が高くなりますが……」

 

 私は12セオル銀貨と、さらに数枚の小銀貨を重ねて給仕に手渡した。

 

「小さいのはあなたが取っておきなさい」

「あ、ありがとうございますっ」

 

 少年は喜色満面で一礼すると、小銀貨をポケットに入れて店の奥へと去っていった。

 オーダーの様子を眺めていたルフは、感心したように口を開いた。

 

「……ずいぶん慣れた様子だな」

「それほどでもありませんわ」

「…………」

 

 酒場もとある事情があって巡り慣れているので、注文のやり取りは慣れたものだった。もっとも、ルフにとってはそれが不審で仕方ないのだろう。疑うような目つきだった。

 

「――とりあえず」

 

 そう仕切りなおした彼は、財布から銀貨を取り出した。が、私は手で制して遠慮する。

 

「わざわざ気にする金額でもないでしょう」

「さすがに12セオル以上なら、ほとんどの学生は気にすると思うが」

「わたくしにとっては大したことありませんわ」

「……金持ちらしい発言だな」

 

 ルフは苦笑したが、本人だって結構な仕送りをもらっているはずである。他人の小遣い事情など調べたことはないが、上級貴族ならばほかの学生に劣らないよう取り計らって当然だった。

 

「――なあ、お嬢ちゃんたち」

 

 ふいに、横から粗野な声をかけられる。そちらに視線を向けると、賭けで稼いでいた例の男がニヤニヤと笑みを浮かべていた。

 用件は考えるまでもないだろう。

 

「俺とゲームで遊ばないかい? もちろん……賭けでな」

「ボードゲームはチェスくらいしか知らないわよ」

「なぁに、ルールは簡単だ。教えるぜ」

 

 といっても、初心者が対戦してもカモられるのは目に見えていた。だから私は、代わりに右手を差し出すことにする。キョトンとした男に、私は軽くほほ笑んで尋ねた。

 

「もっとシンプルな勝負なら受けて立つわよ。たとえば――腕相撲とか」

「……っ!」

 

 提案を耳にした直後、男は焦ったように椅子から立ち上がった。そして慄いた口調で、私に問いかけてくる。

 

「……服装が違うからわからなかったぜ。アンタ……以前にグレンたちと力比べしていた怪力女だな?」

「あら、あの時にいたの?」

「テーブル席から眺めていたぞ。グレンの野郎、酒場で酔うたびにアンタのこと話のネタにしているからな。今でも覚えてるぜ」

 

 けっこう前のことだが、どうやらいまだに印象に残っているらしい。まあ男を力でねじ伏せられる女性などそうそういないので、当然といえば当然かもしれない。

 

「……力比べってなんだ?」

 

 私たちの会話を聞いていたルフが、胡乱な目つきで尋ねてきた。私はいちど彼のほうを向くと、ニッコリと笑顔を浮かべた。

 

「乙女にはいろいろ秘密がありまして」

「お、おとめか……」

 

 なんでその単語を反復するのよ? 私が乙女じゃないって? ええ?

 

 ……と思ったが、表情には出さないことにする。

 

「――ところで」

 

 私がふたたび横に顔を向けると、男はびくりと緊張したような顔色を浮かべた。ビビりすぎである。

 

「あなた、週末のお昼時はよくここにいるの?」

「……まあ、な。客が多い店だから、最初は賭けゲームに乗ってくれるやつも見つかりやすいんだよ」

 

 勝ちすぎて途中から対戦相手が減ってくるけどな、と男は肩をすくめる。

 私は少し考えたあと、ポシェットから6セオル銀貨を取り出して――親指で高く上に弾いた。宙で回転するコインを、男は反射的な動きで手の中にキャッチする。

 

「……おん? なんの金だ?」

「そこにいるお坊ちゃんが、もし酒場で困っていたら助けてやってくれる?」

「ははぁ……なるほどね。お安い御用だぜ」

 

 男は上機嫌な様子で頷き、銀貨をポケットにしまった。

 これでもしルフがトラブルに見舞われても、男が近くにいるかぎりは助けてくれるだろう。

 

「――どういう意味だ」

 

 蚊帳の外だったルフが、納得のいかなそうな表情で質問してきた。私はそれに対して、気楽な調子で答える。

 

「ファージェル様が“デート”で酒場を訪れるなら、用心棒がいたほうが心強いでしょう?」

「……ボクが女性を守れないとでも?」

「そういうわけではありませんわ。ただ酔っ払いに絡まれたりした時に、対応してくれる人がいたら面倒が少ないでしょう?」

「…………まあ、それはそうだが」

 

 暴行などの犯罪行為に巻き込まれるか、というと可能性は低いだろう。客の大半は市民なので、法に触れるような行動はできるだけ避けるはずだ。

 ただ人間ならば、酔いで自制心が薄れることもある。若い男女のカップルを見かけて、品のない言葉を投げかけたりする男が現れるかもしれなかった。そういう時に酒場に慣れた味方がいれば心強いだろう。

 

「……ずいぶん、ボクのことを配慮してくれるんだな」

「勘違いしないでくださる? あなたではなく、あなたの恋人を心配しているだけですから」

 

 ルフは一瞬、呆気に取られたような表情をすると、おかしそうに笑った。

 

「……きみは面白いな」

「褒め言葉として受け取っておきますわ」

「褒めているよ。きみほど不可思議な人はいない」

 

 普通の学生とはかけ離れた存在であることは自覚している。この世にはない知識と経験を保ち、独自の思想と価値観で生きてきた私は、多くの人間にとって奇妙な存在として映るだろう。ともすれば、それは狂人の域である。

 

 ――もっとも、狂気は表に出さなければ狂気ではない。

 ミセリアが常人とはズレた思考回路を持っていながらも、いちおう学生生活を送れているように。潜めているかぎりは、不思議な人物に留まるだけだった。

 

 だが――ミセリアやレオドに対して、自分の本性を曝け出した時のように。

 もし侯爵令嬢を演じることをやめた私を、あなたが目の当たりにしたら――どう感じるでしょうねぇ?

 

「――――お待たせいたしました」

 

 ふいに少年の声が響いた。ようやく注文したものがやってきたようだ。給仕は慎重な手つきで、陶器の皿とワイングラスをテーブルへと置いた。

 ふつう酒場では割れる可能性のある食器を出さないが、たぶん上客なので特別に提供してくれたのだろう。私も木製の皿やコップは苦手なので、なかなかありがたい配慮だった。

 

「……温めたワインは久しぶりだな」 

「熱を加えているので飲みやすいはずですわ」

「なるほど」

 

 私たちはグリューワインに口をつけた。

 温度が高いため、渋味が少なくまろやかな飲み口である。少量の砂糖の甘味、およびレモン汁の酸味が混ざり合った葡萄酒はフルーティだった。酒の飲み方としては王道ではないが、こういったカクテルもたまには悪くないだろう。

 そして鼻と舌の感覚が捉えるのは、いくつかの香辛料の複合だった。真っ先に気づくのはシナモン、あとはタイムと月桂葉か。さすがに香辛料は希少なのでわずかしか使用されていないが、それでもワインの香りや味を引き立たせていた。

 

 ルフは一口ゆっくりと味わったあと、顔を綻ばせて言った。

 

「悪くない味だ。たまに飲むなら、こういう甘い酒も楽しめる」

 

 と、ワインを褒めたあと、パンとスープに目を落として苦笑する。

 

「……食事は正直なところ、質素すぎるが」

「酒場はお酒がメインですから、仕方ありませんわよ」

 

 全粒粉のパンに、少量の豚肉と豆および野菜の入ったスープ。平民にとっては十分なメニューだが、彼にとってはいささか物足りなく映るのだろう。学園の食堂で出されるランチやディナーと比べたら、さもありなん。

 

 ――そんな会話を交わしつつ、私たちは食事を進めて。

 

 パンの硬さに苦心しながらなんとか胃袋に収めたルフは、大きく息をついてから口を開いた。

 

「……迷惑でなければ、もう少し付き合ってくれるかな」

「かまいません。どんなところをご希望ですの?」

「女性が喜びそうなものを売っている店を探したい」

「……銀細工や工芸品を扱うアクセサリー店。リボンやレースを扱う手芸用品店。あるいはもっと実用的なものなら、帽子屋や文房具屋など。いろいろありますわね」

「巡らせてもらっても大丈夫かな?」

 

 そう尋ねるルフは、やや気兼ねした様子の顔色だった。世話になりっぱなしという思いがあるのだろう。

 ――時間はまだある。街を散策するのには差し支えなかった。

 

 たまには、悪くはない。こういうデートも――本当にたまになら。

 

 

 

「――日が傾くまでは、お付き合いしましょう」

 

 だから私は、そう答えた。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 空に目を遣れば、陽はかなり下がっていた。あと一時間くらいしたら、おそらく夕焼けが拝めるだろう。

 まだ日没前だったが、私たちは市内の店巡りを終えて、学園の門まで戻ってきていた。

 そのまま中に入って帰宅――といきたいところだが、守衛小屋の窓口で入出のチェックを済ませないといけない。普段は人目のない壁を飛び越えてスルーしているが、今日にかぎっては正規の手続きが必要だった。……ぶっちゃけ面倒くさい。

 

「――今日はありがとう」

 

 正門から少し歩いたところで、ルフはこちらを振り返って礼を述べた。

 それと同時に――申し訳なさそうに謝罪を口にする。

 

「それと……悪かったね。退屈なことに付き合わせてしまって」

「いいえ、楽しかったですわ」

 

 嘘ではなかった。私だって人間なのだから、いつもと違った行動を取って気晴らしすることも必要である。年頃の青年と一緒に、街でデートをすること――それは悪くない経験だった。

 だから、そう答えたのだが。

 ――ルフ・ファージェルは、真剣な顔つきで反論した。

 

「楽しくなさそうだったよ、きみは」

「……なんですって?」

「本当につまらなそうだった。飽き飽きしたような、物足りなさを感じているような――そんな顔をずっとしていた」

「まさか! 顔立ちのよい殿方とデートをして、喜ばない女性はおりませんわ」

「……喜んでいれば、面白ければ、自然と笑顔になるものさ」

 

 私は自分の口元に手を当てたが、そこにあるのは歪んでいない唇だけであった。

 ――なるほど。言われてみれば、たしかに。指摘されると、納得せざるをえなかった。

 

 理屈では悪くないと言い張っても、本心はごまかしきれないようだ。

 ――認めよう。私は異性と甘い時間を過ごすことになど、欠片も興味を持っていなかった。

 ただ求めているものは――定型な日常、常識的な存在からかけ離れた、奇異と異端ばかりだった。

 

 スリルが足りない。

 刺激が少なすぎる。

 危険が必要なのだ。

 

 安定した人生の過ごし方など、ただただ退屈なだけだった。波乱を潜りぬけてこそ、彩られた世界を味わえるのだ。貴族の一員として呑気に暮らし、近しい身分の相手と結婚し、権威に保証された領地で規定された仕事をこなし、安寧を得る――そんな生き方をして、何が面白いのか?

 

 あなたはそう思わないかしら?

 ルフ・ファージェル。

 

「……いずれ、今日のお礼をするよ。それでは」

 

 そう言って、去っていくルフの後ろ姿を眺めつつ――私は目を細める。

 彼が向かう先は、男子寮とは違うようだった。そして方角からすると食堂棟でもなかった。今日は週末の休日なので、教室などのある中央棟に用があるとも考えにくい。そうすると――なんとなく思い当たる行き先が一つあった。

 

 私はルフの背中を見据えて、足を前へ踏み出した。

 

「さて――」

 

 面白そうな予感が、そこにあった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ――ところで当たり前の話だが、この学園の中には使用人のための宿舎も存在する。

 それも二棟である。まあ学生と教師の数を考えれば、それだけのメイドやコックが必要になるのは当然だった。貴族の恵まれた生活は、その下で働く多数の使用人がいなければ成り立たないわけだ。

 

 学園に戻ってから、少し時間の経った頃合い。

 あまり訪れる機会のない場所へと、歩みを進めていった私は――

 

「……あなた、ここで何してるの?」

「…………?」

 

 質問の意味がわからない、といったふうに、眼鏡をかけた少女は私の顔をじっと見上げていた。

 

 ――使用人宿舎からほど近い、大樹の木陰になっている草地。そこに麻布のシートを広げて、ミセリア・ブレウィスは体育座りで読書をしていた。

 

「本を読んでいる」

「見ればわかるわよ。でも読書するなら自室でいいでしょ」

「隣がうるさい」

「…………」

 

 私は女子寮のことを思い出して、どこか遠い目をした。

 たしかに、仲のいい女子グループが寮室に集って黄色い声を上げることはたまにある。そういう時は寮監に訴えればいいはずだが、ミセリアの場合は誰かを頼って対応してもらうという思考回路がなかったのだろう。難儀な娘である。

 

 ふと私は、彼女の座っている場所から少し離れたところに目がいく。

 黒い塊がそこにあった。それは体を丸めて、微動だにせずうずくまっている。――ネズミ駆除のために学園内で放し飼いにされている、猫の一匹だった。

 ……まさか?

 

「その黒猫、殺してないでしょうね?」

「…………?」

「いや、死んでいるのかもと思って」

「寝ているだけ」

 

 どうやらそのようで、猫はぴくりと耳をわずかに動かした。

 いや、うん。疑ってごめんなさいね?

 

「――弱いものは、殺す必要がない」

 

 黒猫を眺めていた私に対して、ミセリアはそう淡々と言った。

 

「……なぜ?」

「殺さなくても、生きられるから」

 

 ――その回答を聞いた瞬間、私はおもわず笑みを浮かべてしまった。

 

 そうだ。それは正しい。小難しい道徳を持ち出すより、よっぽど単純で筋が通っていた。

 糧を得るために、寿命を延ばすために、死から逃れるために――生きるために殺す。

 たとえばアルスは生計のために動物を射殺している。だが、誰がそれを咎められようか? 彼は生きるために殺しているのだ。

 

 そして――それを裏返せば、私にも当てはまっていた。

 

 ――殺さなくても、生きられる。

 そう……生命を脅かされることのない存在など、わざわざ命を奪うまでもない。それをミセリアも、自分自身の経験から理解しているのだろう。

 私の力に比べれば――彼女など赤子に等しい存在だった。いつでも屠り、この世界から消し去ることができる。それでも、私は彼女を殺していなかった。――殺す必要などない、弱者だから。

 

「……そういえば。この前あなたが言っていた友達って――もしかしてそれ?」

 

 ミセリアはこくりと頷いた。友達、イコール、いつも一緒にいる存在という謎の等式を適用した結果、どうやら猫は彼女の友達になったらしい。安直すぎではなかろうか、この小娘。

 なんとなく彼女の将来を心配していると、小さく気だるげな鳴き声が響いてきた。黒猫が目を覚ましたようだ。

 

「あら、おはよう」

 

 そう猫に挨拶をすると、その子はこちらの顔を見上げ――

 

 飛び跳ねて、脱兎のごとく逃げ出していった。

 

「…………」

 

 なんで?

 

「生存本能」

「……あっそ」

 

 呟いたミセリアにぞんざいな言葉を返し、私は彼女に背を向けた。

 帰路につくため――ではない。

 

 私の視線の先には、使用人の宿舎がそびえ立っていた。屋根裏部屋を含めれば五階建ての建築物のため、けっこうな高さがある。一足で届くのは、せいぜい三階か四階までだろうか。

 

「……なるほど」

「…………?」

「話し声のことよ。遠くで男女が会話している」

「聞こえない」

 

 そうだろう。ミセリアには、私の声と風によってさざめく木の葉の音くらいしか耳で捉えられまい。

 だが、私は違った。雑音の少ないこの周囲なら、かなりの範囲まで聴覚で感じ取ることができる。けっして本人たちが気づかない位置から、話の内容をうかがうことができた。

 

「……少し、顔を見てこようかしらね」

 

 私はそう呟くと――体に馴染ませるように“気”を送り込んだ。

 肉が温まり、力の湧く感覚がする。通常では為しえない運動を可能にする、神秘のエネルギーが五体に満ちていた。

 

 そして――最初はゆっくりと、そしてすぐにスピードを上げて、前方の建物に向かって走り出した。

 

「…………ッ」

 

 使用人宿舎の壁から少し距離のある、余裕を持った位置に到達した時――私は体を低く屈めた。

 そして体勢が沈んだ直後、力を爆発させる。エネルギーの籠った脚は、地面を破壊するかのように蹴りつけた。真下に与えたその強い力は――反動となって、私の体にもたらされる。

 

 それは跳躍だった。

 ただ、一瞬だけ宙に浮くのとは異なる。

 上へ、まるで鳥が飛び立つかのように――私は空中へ飛んだのだ。

 

 だが――私に翼はない。あるのは腕と指だけである。そのまま五階建ての高さまで到達するのは不可能だった。

 

 だから……複数回に分けて、跳べばいい。

 

「――――」

 

 右手を伸ばし、指の先を“そこ”に引っ掛ける。

 わずかに確認した下方の視界には――窓が二つあった。そう、つまり……いま私が掴んだのは三つ目、すなわち三階の窓の枠だった。

 指の第一関節ほどしかない窓枠の出っ張り――それは常人であれば両手で体を支えるだけでも苦しいだろう。

 だが――私にとっては十分だった。

 

「……っ」

 

 右手に力を入れる。わが身を引き寄せる感覚。たった片手の指先ひとつで――自分の肉体すべてを宙へ放り投げる。

 翼がなくとも、足場がなくとも、ただ少しでも支えがあれば――空へ跳ぶことなど簡単だった。

 右手の運動で上空に跳躍した私は――さらに左腕を伸ばした。

 

 掴んだのは、もう一つ上層階の窓枠。四階の窓だった。それを先ほどと同じように支点にして、腕の力で飛び跳ねる。

 窓のない屋根裏部屋は通り過ぎ、最後に私が手をかけたのは――宿舎の屋根の端だった。

 

「……一回で、いけると思ったんだけど」

 

 最初に地面から四階の高さまで跳べていたら、窓枠を掴むのは一度だけで済んでいただろう。その辺の身体能力の向上は、今後の課題にするとしよう。

 

 私はそんなことを思いながら、「よっ」と屋根の上に登った。屋根葺きは凹凸の少ない平板瓦なので、歩きやすいのが幸いである。いちおう瓦を破損させないように注意して歩きつつ――私は声のする方向へと歩いていった。

 

「……日中は大丈夫でしたか?」

「ああ、とくに何もトラブルはなかった。……ああ見えて、優しい人物だったよ」

「……人のうわさというのも、当てになりませんからね」

「あはは、そうだね……」

 

 聞き知った声を耳にしつつ、私は屋根際で足をとめた。少し上半身を前にやれば、地上の様子をはっきりと確認することができる。使用人宿舎の裏手、人目から逃れるようにひっそりと逢瀬をしているのは――

 

「……そうそう、彼女といろいろ店を回ったんだ。これは手芸店で買ってきたものなんだけど……」

「……リボンですか? わたしには、こんな可愛らしいものはとても――」

「リボンやレースで飾るのは、最近の女性の流行りだろう? ……きみも、きっと似合うはずだよ。帽子でも、服でも、バッグでも……好きなように使ってほしい」

「ですけど……これは、シルクのリボンですよね……? 私がこんな、貴族のお嬢様みたいなものを身につけるのは……」

「貴族だろうと、平民だろうと、関係はないさ。ただ愛する人が綺麗で美しくいてほしい。ボクはそう思っているんだ」

「…………」

 

 俯いた彼女は、しかし頬をほのかに赤らめていた。なるほど、満更でもなさそうな態度である。

 なんとなく察してはいたので、それほど驚きがあるかといえばそうでもなかった。ただ、初めの彼の印象を踏まえると、そのギャップがひどく面白く思える。

 

「木を隠すなら、森の中――か」

 

 二人には聞こえぬ声で、私はそんな言葉を口にする。

 

 格式の高い貴族の家の長男が、学園のただの使用人に恋をする。もし本気で付き合っていることが知れたら、ほとんどの人間から侮蔑されることだろう。実家に伝わりでもしたら、どうなるかもわからない。

 もっとも――女遊びの激しい男を演じていれば、メイドが本命などとは思いもしなかろうが。

 

 

 

 貴族のルフ・ファージェルと、学園の使用人のアイリ。

 恋する男女を、その頭上から眺めながら――

 

 

 

「愛というのは……イイわねぇ……?」

 

 私は口の端を吊り上げ、その日いちばんの愉快げな笑みを浮かべた。

 

*1
 シュミーズはローマ時代のチュニックから発展した下着である。もともとは男女の肌着の全般を指してしたが、時代とともに男性用の肌着をシャツ、女性用の肌着をシュミーズと区別するようになった。現代とは違い、当時のシュミーズは長袖が一般的であった。

 下着としてのシュミーズは20世紀初頭から廃れていき、ブラジャーやパンティーなどに置き換わっていった。

*2
 補正下着、いわゆる「コルセット」のこと。張り骨で補強されたボディスのことをステイズと呼んだ。また、より緩やかで張り骨の少ないソフトステイズは「ジャンプス」とも呼ばれた。

 コルセットという単語が使われるようになったのは、1770年代になってからである。この頃のコルセットは張り骨がなく、キルティングリネンで作られており、非常にソフトな衣服であった。

 このように多数の呼び名がある補正下着は、19世紀に入ってからより体をきつく締め付けるものへと変わっていき、またステイズとコルセットは同じ意味で使われるようになっていった。

*3
 スカートやドレスの下に着用される下着の一種とされるが、時代によって定義に揺れが存在する。この呼び名自体は「pety coat(小さなコート)」から由来しており、フランス語では「ジュープ」と呼ばれていた。

 ペティコートは下着としての保温機能のほか、スカートの膨らみを強調する役割を持っており、そのために何枚も重ね着されることがあった。このようなファッション的機能は、のちに「クリノリン」へと発展していった。

*4
 城郭都市、あるいは囲郭都市と呼ばれる都市は、外敵から身を守るために城壁で囲われていたが、これらの壁は同時に都市の発展と拡張を妨げるものでもあった。そのため都市人口が増えてくると、新しく城壁を広げて都市面積を増やす政策が採られることも多かった。

 もっとも有名なのはパリであり、ローマの時代から数えてじつに6回も城壁の拡張を繰り返してきた歴史がある。

*5
 特別な道具を用いずに、街の段差や壁、障害物や横木などを乗り越えたり飛び移ったりして、効率的な身のこなしを発揮するスポーツ。フランスの軍事訓練において古典的な、「parcours du combattant(戦闘コース、障害物コース)」が由来となっている。フリーランニングとも呼ばれる。

 ちなみに、このパルクールを初めて映画に取り入れたのは、2000年のフランス映画『TAXi2』である。

*6
 都市における税収はさまざまなものがあるが、外から入ってくる物品に対する入市税(オクトロワ)はとくに基本的なものであった。農村に代表される貢納や地代などの直接的な税よりも、市民が間接的に負担する税がメインであり、城壁で囲まれた都市の門はしばしば徴税所の役割も兼ねていた。

 また、課税が多岐にわたり複雑化してくると、徴税権を一定の契約で私人に委託する徴税請負人の制度が西ヨーロッパ各地で見られた。とくにフランスのパリでは、徴税請負人たちが入市税をさらに取り立てるために、王に新しい城壁の提案までおこなった。これが有名な「徴税請負人の壁」であったが、徴税請負人による搾取は市民の怒りを募らせる結果となり、のちのフランス革命のきっかけにもなった。

*7
 チェスボードのような盤を用いて、相手の駒を取り合うゲーム。ドラフツとも呼ばれる。ボードのマスの数、ルールあるいは配置などが異なる亜種ゲームが非常に多い。

 この手のゲームは古くから親しまれており、チェッカーボードに似たボードは紀元前3000年のウルでも発見されている。

*8
 フランス語で大道芸人を表す言葉。都市などの人が多い場所では、演奏や歌、ジャグリングや曲芸などのパフォーマンスで稼ぐジョングルールやミンストレル、あるいはグリーマンと呼ばれる者たちがいた。

 イギリスやフランスなどでは、このような芸能人たちのギルドも存在したが、17世紀にはほとんど消滅してしまった。その一方で、組織ではなく個人で糧を得る大道芸人は、19世紀まで長く生き残っていたようである。

*9
 領民である農民の賦役によって経営される土地。領主の強い支配が及ぶのが直営地である。

 歴史的には貨幣経済が進行すると、領主は農民に農地を任せて地代だけを取り立てる地主になりがちである。現実の西ヨーロッパでは、時代とともに領主の直営地が減っていき、領主と領民の関係性は希薄になっていった。また価格革命(インフレ)や黒死病(人口減少)による煽りを受け、封建領主の多くは没落していった。

*10
 世界の多くの地域では、かつて銀が貨幣として使われていた。これは銀自体に貴金属としての価値があったためである。日本語における「路銀」や「銀行」などの言葉に示されるとおり、銀とはすなわち「お金」を意味していた。

 銀貨は各地でさまざまなものが作られたが、現代の硬貨とは違って流通総量が少ないこともあり、少額取引にはどうしても不便が発生した。その場合は補助貨幣の銅貨が使われることもあったが、銀貨を半分や1/4に切断して使用することも多かった。

 参考として、1590年頃のイギリスのパン屋の職人が1週間30ペンス=1日4~5ペンスの賃金であった。(当時の1ペニーは約0.5gの重量、12mmの直径と、かなり小型の銀貨になっていた)

 

 まったくの余談であるが、銀(silver)は古英語だとseolforと書く。

*11
 ナイン・メンズ・モリスのこと。起源をローマ時代にまで遡る戦略ボードゲームであり、ミルゲームやカウボーイチェッカーなどとも呼ばれる。3つの駒を直線に並べて「ミル」を作るたびに相手の駒を取り除いていくゲームであり、これもチェッカーと同様にバリエーションが豊富なボードゲームとなっている。

*12
 ふるいにかけられた、混ざりもののない小麦で作られたパン。言うまでもなく高級品で、一般市民はあまり口にできなかった。

 多くの人々は、ふすまの混ざった黒みのあるパンを食べていたが、保存のためにかちこちに焼き固められている場合が多かったようである。ぶどう酒やスープ、あるいは水などでふやかして食べるのが一般的だった。

*13
 スパイスワインとも呼ばれる。赤ワインと各種スパイスやハーブ、甘味料、場合によってはフルーツなどを混ぜて、鍋で温めて作るカクテルの一種である。

 香辛料はクローブやナツメグ、シナモン、メース、ショウガや胡椒、あるいは月桂樹やタイムなどを使い、砂糖や蜂蜜などで甘味付けをするのが一般的である。オレンジやレモンなどのフルーツも使われることが多い。

 このようなホットワインはヨーロッパの広い地域で見られ、時代を遡れば西暦20年頃のローマ帝国時代にもスパイスと蜂蜜で味付けしたワインのレシピが記述されている。



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武闘派悪役令嬢 020

 

 ――素早い右ジャブが、私の顔面を狙ってきた。

 

 私はそれを仰け反りながら躱し、さらに連係してきた敵の左ストレートを後方に跳んで回避した。今の洗練された攻撃は、おそらくよほど格闘訓練を積んだ者でないと見切ることは不可能だったろう。短期間でここまで打撃技術を昇華させたアルスは、もしこの世界にボクシングがあれば頂上さえ目指しうる才能だった。

 

 先週はルフとデートをしていたので、もしかしたらアルスの腕も鈍っているのではないか。そんな心配は、とんだ杞憂だったようだ。相手をしていても飽きないくらい、彼は優れた身体能力を発揮していた。

 

 後ろへ逃げた私に対して――アルスは臆することなく、前へと飛び込んできた。

 捻りを加えたストレートが迫ってくる。私が空手を少し教えたこともあって、彼のパンチはフォームがしっかりしていた。空を切り裂きながら胸倉を貫こうとする突きを、私はしっかりと見定める。

 

 ――重要なのは、タイミングだ。

 

 私は人差し指だけ立てた左手を、下から弧を描くように振るった。

 アルスの右拳が到達するよりも先に――私の突き立てた一本指が、その手首をすくい上げていた。

 直線的に向けられていた力が――その方向を変える。拳は上へずらされ、勢いが曲げられていた。強引に弾くのではなく、相手の力を保持させたまま受け流したのだ。

 すると、どうなるか。相手は肉体の制御を失い、バランスを崩してしまうのだ。――抵抗もなく、簡単に投げ飛ばせるほどに。

 

 たたらを踏んで、こちらに飛び込んでくるアルス。私はすぐさま体をねじると、彼の胸板を背中で受け止めた。と同時に、すぐさま相手の腕を掴んで――体をバネのようにして天へと放り投げる。

 背負い投げだった。

 ただし――投げっぱなしで本当に空中を漂わせる、怪我をさせかねない危険技。

 

「う、おおぉぉぉっ!?」

 

 その全力の悲鳴にくすりと笑いつつ――私は刹那に“気”を巡らせ、あらゆる物理運動よりも素早く肉体を稼働させた。

 ――投げた直後に、もう私は屈んで両手を差し出していた。アルスが地面に叩きつけられようとしていた場所へと。

 

 ……ナイスキャッチ。

 内心で自画自賛しながら、私はアルスを抱えたまま立ち上がった。いわゆるお姫様抱っこをされた彼は、呆れたような顔をしながら口を開いた。

 

「……なんだ、今の?」

「柔術、あるいは合気かしら。力に対して力をぶつけるのではなく、むしろ相手の運動を利用することによって、普通の打撃とは異なった攻撃を可能にするのよ」

「ほぉ、なるほどなぁ……。しっかし……どこでそんなの学んだんだい、姐さん?」

「――夢の中で」

 

 ――空手は学んでいたが、柔道や合気道は習ったことなどなかった。

 だから、すべて独学だ。そう……実戦の中で、実践してできるようになったのだ。いまや毎日のように見られるようになった、あの夢の中で。

 

「はぁん? ……まさか、夢で特訓しているって言うんじゃないだろうな?」

「そのまさかよ」

「……否定できないのが恐ろしいところだぜ」

 

 引き攣った表情のアルスに、私は笑みを見せる。

 どれだけ言われても、彼にとっては信じられないし想像できないだろう。現実のようにリアリティーを帯びた、夢での闘いがあるということを。それが経験値となって、私の体に蓄積されているということを。

 

 ――アルスよりも格段に脅威を持った、デーモンの攻撃。

 私はそれを、ずっと受け流す練習をしていた。そうして、ある時に気づいたのだ。どの瞬間にどこへ力を加えてやれば、相手を簡単に崩し、御することができるのかを。

 10の力に対して、10の力で防ぐことは簡単だ。

 だが、1の力で対応することは難しい。

 けれども、それを成せるようになれば――100の力に対して、10の力で戦えるようにもなる。

 

 自分よりも十倍の強さを持った敵と出逢った時――私はそれに打ち勝てるようにならなければならない。

 

「……そろそろ、下ろしてくれないかい? 姐さん」

「はいはい」

 

 私はそう答えながら、アルスをお姫様抱っこから解放して地面に下ろす。

 着地した彼は、苦笑しながらため息をつくと――参ったというように後ろ髪を掻いた。

 

「……おれじゃ、もう姐さんの練習相手にもならねぇな」

「そんなことないわよ。実際に格闘していると、いろいろと気づくこともある」

「……たとえば?」

 

 尋ねてきたアルスに、私はしばし黙考した。べつに出任せで言ったわけではない。戦闘中に気づいたことで、何をもっとも話題にすべきかを思い返したのだ。

 ――ふいに、私は今日のやり取りで気になったことを思い出した。

 ただ、ちょっとした疑問。確信のない、確かめなければわからないこと。

 

「気づいた、というか……気になったことがあるのだけれど」

「へぇ……気になった、とは?」

「――あなた、私の攻撃に反応できる?」

 

 そう聞いた直後、アルスは自分の耳を疑うような顔つきをした。私の質問がそんなにばかばかしかったのだろうか。

 ようやく口を開いた彼の言葉は、こちらの問いを否定するものだった。

 

「……そりゃ無理だぜ。姐さんに本気(マジ)で拳をぶち込まれたら、避ける暇もなくあの世行きだ」

「防げるか躱せるか、という話じゃないわよ。私の攻撃を――食らう前に認識できるかってことよ」

「……食らう前に?」

「そう。あなた、何度か私の反撃に身構えなかった?」

 

 それが疑問だった。私はいつもアルスの攻撃を避けた時に、反撃をイメージしつつ体を動かしている。実際には拳を繰り出しはしないが、その素振りだけはときおり見せるようにしていた。

 そして――意外なことに、その反撃の初動にアルスがびくりと反応することがあるのだ。“気”の量を調整しているとはいえ、私の肉体動作はそう簡単に捉えられるとは思えない。なのに、アルスは私の攻撃を認識していたのだ。

 

「あー……」

 

 彼は思い出したかのように声を上げた。そして言葉に悩んだような感じで、ゆっくりと答えだす。

 

「その……べつに、見てから反応しているわけじゃないさ。ただ……なんとなく、『来そうだな』と感じただけ、というか」

「つまり、直感的に予測した?」

「まあ、そうなるのかねぇ」

 

 はっきりしない言い方だった。どうも自分で意識した動きではなかったようだ。

 となると、なぜアルスは私の行動に反応できたのか。そこにあるのは、単純な動体視力や運動能力だけではないように思えた。

 

「――今から、あなたの首筋に右手で手刀を放つわ」

「はぁっ!? ちょ、ちょっと、まっ……」

「本気で当てないわよ。寸止めするだけだから大丈夫。……それに反応してみてくれる?」

「……はぁ……自信はないんだがなぁ……」

 

 そうぼやくアルスに構わず、私は“気”を巡らせながら、右手に意識を集中させる。動かせば風を切る手刀と化すだろう。それに反応できる人間など、同じ“気”の使い手でないかぎり存在しないように思えた。

 

 それなのに――

 

「――――ッ!」

 

 動かし、アルスの首筋に手刀を突きつける。それは一瞬間、瞬きにも満たない時間でおこなわれたはずなのに――私ははっきりと見た。

 こちらの右手が上に動作した直後、アルスが反射的に体を動かしたのを。もちろん防ぐのは間に合わなかったが、それでも私の手刀が“視えて”いた。それは間違いない。

 

「……どうして来ると思った?」

「いや……なんとなく、殺気を感じて」

「殺気?」

「こう……姐さんの体の雰囲気から、『ああ、打ってきそうだな』って感じたのさ。自分でもよくわからんが」

「体の雰囲気――」

 

 なるほど。ただ動体視力で腕の動きを捉えているだけではないようだ。

 もっと多くの要素から、攻撃を予測しているのだ。体、つまり全身の様子から。視線、呼吸、力み、揺れ……肉体からはさまざまな情報が発せられている。それらを感じ取り、統合し、脳がある種の感覚として浮かび上がらせるのだ。そう――殺気として。

 

 殺気。殺す、気配。そう、それは気配だ。

 手刀を打つ――そう心に決めて、それを意識して放てば、事前に気配が発せられる。それは当たり前のことだった。

 そして――何度も私と格闘を続けてきたアルスは、なんとなく打撃の気配というものを直感で察せるようになっていたのだろう。

 

 そう、か……。

 そうだとしたら――試してみたい。

 

「もう一度、手刀を打たせてくれる?」

「ああ……いいけど」

 

 困惑したように頷くアルスに対して、私は両手をだらりと下げて意識を研ぎ澄ませた。

 

 ――体は緊張させずに、(ゆる)めておく。

 呼吸を正しく。打つ、という思考を潜める。自然体で存在するのだ。大地に、空気に同化するかのように、ひっそりと私は立つ。

 戦いに臨む心地とは、対極の状態――

 肉体をリラックスさせる中で、ふいに私は動いた。

 

 力を入れるのは――刹那。

 緩から、急への転身。気配を消した状態からの攻撃。その打撃はもはや――殺気を伴わない。

 私の手刀は……アルスの首筋に、ぴたりと宛がわれていた。

 

「…………な」

 

 彼が声を発したのは、一秒ほどが経ってからだろうか。

 そこでようやく、驚愕の表情で口を開けていた。まるで、やっと放たれた手刀に気づいたかのように。

 

「……何したんだ、姐さん? 腕が瞬間移動したように見えたぞ」

「ちょっとしたテクニックよ」

 

 そう、これは魔法ではない。ただの技法に過ぎなかった。

 闇雲に腕力をもって振るうだけでは、発揮できない技の威。それを私はいま、かつてないほどに理解することができていた。

 ――奥深き、深淵なる武の世界。

 それに身を置いていることに、私は猛烈に感謝をしていた。極めることが困難で、果てなどないように見える。だからこそ――それを追求するのが楽しくて仕方なかった。

 

「……まだ、私は強くなれるわね」

 

 それが嬉しくて、ついつい笑みをこぼしてしまった。

 冷や汗を流しながら、ぎこちなく笑みを返すアルスを見据えつつ――私はゆっくりと手刀を離す。束縛から解放されたかのように、彼は大きく安堵の息をついた。

 

「……もう姐さんが勝てない相手なんて、いないんじゃねぇのか?」

「いるわよ、きっと」

 

 私はそう答えた。だって、誰もがおとぎ話だと思っている世界が実在することを知っているから。

 はるか昔、人類の住む場所と別たれた魔の世界。

 そして、それを繋ぎうる知識と実力を持っているフェオンド・ラボニという男。

 もし彼が、破滅的な力を持ったデーモンを喚び出したのならば――

 

 ああ、本当に不謹慎で身勝手だけれども。

 きっと私は……この世界に生まれた意義を、その時にして本当に知ることだろう。

 

 そう――

 死んでもいい。そう思えるくらいに、私は喜んで。

 命を燃やし、闘いに身を投じるのだろう――

 

 

 

 

 







 ルフくんのお話からいったん離れて、久しぶりの武闘回。
 今回の手刀の件は、日本空手協会の中達也先生の動きを参考にさせていただきました。

「中達也の『受けられない手刀』」
https://youtu.be/3x6Vpl12pU8?t=17

 該当チャンネル(黒帯ワールド)には武道関係の面白い動画が多いので、興味がある方は覗いてみると楽しめるかもしれません。


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武闘派悪役令嬢 021

 

 

 

 

 

『ミセリア・ブレウィス――』

 

 

 

 

 

『もし、この私と……“友達”で在りたいのなら……』

 

 

 

 

 

 

 ――どこにも人影のない、静やかな校舎の裏手。

 かつて私はこの場所で、彼女と戦ったものだ。それは一方的な結果ではあったが、私にとっては価値のある出来事だった。

 自分に向けられた脅威。その(たの)しさを知り、より武への執着(想い)を募らせる契機になった。

 

 私は感謝していた。彼女に。

 “友達”となることにも、そこまでの拒否感はなかった。自分の本性を曝け出せる相手。それは日常を過ごすうえでも、非常に大事な存在だった。

 

 それでも――

 

 ただ、一つの条件を。ある時から、私は彼女に課していた。

 

 

 

「……来たわね」

 

 

 

 私はニィっと笑うと、ゆっくりと壁から背を離した。そして手袋を外してポケットにしまい、あらわになった素手を拳にして強く握る。どこかワクワクした気持ちを抱きながら、私は友人の姿を捉えた。

 

 ――眼鏡の少女は、その手に指揮棒型の杖を携えている。

 そして、それ以外の荷物は持っていなかった。これから“やること”に邪魔なものは必要ないので当然である。

 ミセリアは淡々と、物怖じする様子もなく、無感情に歩み寄ってきた。その姿が、私には嬉しく感じる。――強者に立ち向かってくる人間ほど、素晴らしいものはないのだから。

 

 彼女が、私と、関係を維持するための条件。

 そう、知己でありつづけることを望むのならば――

 

 

 

 

 

『月に一度――私を殺しにかかってきなさい』

 

 

 

 

 

 命を狙えッ!

 生を脅かせッ!

 息の根を止めるつもりで襲えッ!

 

 それが――ミセリア・ブレウィスに求めた約束であった。

 退屈な日常に馴染んでしまわないように。殺意の感覚を忘れてしまわないように。

 ミセリアに脅威を向けてもらう――それは私にとって重要なことだった。

 

 むろん、結果は見えているが――

 それでも彼女に全力で襲い掛かられると、心と体の鈍りも抑えられるのだ。

 夢の中ではなく、現実の中でも死が訪れる可能性があると――そう安心できる。

 

 そう――これは月に一度の、“お楽しみ”だった。

 

 

 

 

 

「――――」

 

 

 

 

 いまだ距離のある地点で、ミセリアは立ち止まると――杖を振りかぶった。

 彼我の間合いを縮めず、遠方から魔法で攻撃を加える。それは戦略的に正しい。私の一歩は、常人の五歩にも比類しうるのだから。

 彼女はそのまま杖を振り下ろすのかと思ったが――

 ふいにポケットに手を突っ込み、何かを宙に放り投げたように見えた。

 

 そして――杖が素早く下へ払われた。

 生み出されたのは、風の力だ。

 強風ではなく、烈風が私を目掛けて突き進んでくる。最年少で学園に入学した天才少女の魔力は――おそらく秀才のレオドすら凌いでいただろう。

 

 かなり距離があったにもかかわらず、その威力は減衰していなかった。

 女子供なら一瞬で吹き飛ばされるであろう、暴力的な風が私の体に叩きつけられる。

 ――彼女が同時にポケットから投げた、“物体”を伴いながら。

 

「…………ッ」

 

 私は目を閉じず、しかと視たッ!

 風とともに、わが身へと飛来する――無数の金属片を!

 おそらくは鉄の破片だ。それをミセリアは放り、風に乗せて私に投擲してきたのだろう。

 

 普通の人間ならば、金属の刃に身を刻まれていたに違いない。

 だが――

 

 ――私は、その程度でやられるはずもない。

 

「――――」

 

 体を半身にし、被弾面を最小に。

 顔に飛んでくる破片は脅威ではない。――“気”を集中させれば、皮膚はナイフだろうと通すまい。

 もっとも、気にかけるのはむしろ服である。これを守るために――鋭利さのある破片を見極め、手のひらで受け、掠め取る。

 

 ――所詮は、風任せの投擲物である。

 強風を受けながらでも、私の手捌きは後れを取ることなどなかった。暴威が過ぎ去っても、この体は無傷で立っている。――拳の中には、金属片を握りしめて。

 

「道具を使うのは悪くない……わね」

 

 手のひらに力を込め――中身を握力に曝す。大小さまざまな形の鋭い欠片が押し潰され、圧縮され……ただ一つの鉄塊と化した。

 私はそれを地面に放り投げると――ゆっくりと前へ歩きだす。

 悠然と、毅然と、凛然と。強者にのみ許された余裕を抱きながら、私はいまだ離れた位置のミセリアを見据えた。視線を合わせた彼女の瞳は――恐怖も動揺も存在せず、ただ無機質に殺すべき対象を見つめている。

 

 それでいい。

 それがいいのだ。

 私の力を知っていながら、それでも諦観することなく淡々と戦闘に臨む態度。殺しにこい、と言われて本当に実行している彼女の在り方は、きっと常人からすれば狂っていると思われるだろう。

 だが――その狂気が好きだ。

 常識と感情に捉われがちな凡人とは、まったく異なった人間性。その異端的な狂気が、凶器となって向けられることに、私は狂喜してしまう。ともに向かい合って、こんなに楽しいと思える彼女は――やはり素晴らしき友人だった。

 

「…………」

 

 言葉はなく、一切を一点に集中させた様子で――ミセリアはふたたび杖を振った。

 

 次にやってきたのは……荒れ狂う炎だった。

 大きく、全面に広がるように迫りくる猛火。それが大波のように、私のもとへ押し寄せていた。呑まれれば焼け死ぬことが免れない威力だろう。

 魔法を使える者であれば、風で打ち払うか、あるいは水の壁でも作り出して防ぎうるかもしれない。だが魔術師以外には、もはや対抗する手段は残されていまい。

 

 とはいえ――それは普通の人間の場合であった。

 私は魔法を使えないが……技法は扱える。肉体を人外の域に引き上げる“気”の力を用いて、適切な技術を駆使すれば――もはや魔法と遜色のない現象だって引き起こせる。

 たとえば、そう。

 物理的な動きによって、物理的な風を作れば……それはもう魔法と変わりないはずだ。

 

「――――」

 

 息を吸う。

 筋肉を緩める。

 全身は大気と同化するかのように。けっして自然に逆らうことなく。

 ゆらりと、右腕を持ち上げ。

 ゆっくりと、片足を踏み込みながら。

 手は鋭利な手刀をイメージし、腕はしなやかな鞭に見立て。

 右手を適切な位置まで振り上げたところで――

 

「ッ!」

 

 力を巡らせる。

 緩から急へ、静から動へ。

 瞬間的で、落差のある肉体運動。

 全身の筋肉と関節を使って、十分なリラックス状態から繰り出された、宙への手刀一閃――

 

 音が聞こえた。

 何かを斬り、壊したような、そんな音響が耳を打った。

 そう……一定の条件を揃えた鞭の先端が、音速を超えて炸裂音を鳴らすかのように。

 

 それがただの風切り音だったのか、それとも本当に衝撃波(ソニックブーム)だったのか――知る由もなく。

 ただはっきりとしていることは――私が腕を振るったことにより、何か大きな力を発生させたということだった。

 

 ――灼熱が、私の左右を通り過ぎる。

 この身に降りかかる炎はなかった。私の振るった手刀が、脅威を切り裂き打ち払ったのだ。

 

「…………」

 

 ミセリアは私を見つめて押し黙っていた。ただ、その瞳にはわずかに感情が湧き出ているように見える。

 そう――それは紛れもなく驚懼(きょうく)だった。並大抵のことに感情を見せぬ彼女が、それを表出させたことは、いま起きたことがそれほど衝撃だったのだろう。

 だが……何をそれほど驚くことがあるのか。

 魔力を物質や物理現象へ変換して、虚空に現出させるということ。そして魔力で強化した肉体を用いて、物理現象を引き起こすということ。そこに差異などあるまい。同じ力だ。身を守り、敵を倒す、同一目的の能力だった。

 

 ――さあ、力比べをしましょう。

 

 そう内心で語りかけながら、私は腕を大きく広げた。すべてを受け入れ、呑み込むかのように。

 そして足を向かわせる。初めはゆっくりと、そして徐々に加速させて。

 それに対してミセリアは――

 

 ただ、無言で私の顔を見据えていた。攻撃を加えることもなく。まるで戦意を失っているかのように。

 その真意はどこにあるのか。はたして勝てるハズがないと、捨ててかかっているのか。それとも、何か策を巡らせているのか。

 いずれにしても――こちらの行動に変わりはなかった。

 

 私はフォームを変え、全力で疾走する。

 距離的には、もはや一秒もかからず肉薄し、やろうと思えば瞬時に生命を絶てるだろう。

 もし本当にミセリアが試合放棄しているのならば、あるいは手加減せずに打撃を――

 

 

 

 

 

 そう思考した時だった。

 

 視界が傾いた。

 いや、違う。傾いたのは私の全体だった。

 踏み込んだ左足。それが大地を接し、己を前へ跳ねさせるはずだったのに――

 私の靴は、何もない空間を踏み抜いていた。

 

 訪れるのは、バランスの崩壊。そこでようやく、私は状況を理解した。

 ――穴だ。

 深く大きく掘った穴に、足を踏み外してしまったのだ。

 もちろん、そんなものが自然にあるはずもない。あっても視認など容易だ。おそらく穴の上に布を敷き、土をかぶせて擬装させていたのだろう。

 そう――ミセリアは事前に、罠を仕掛けておいたのだ。見えぬように、気づかれぬように、私を陥れるための落とし穴を。

 

 勝つために、殺すために、最大限の手を講じて、敵と戦う。

 彼女はけっして諦めてなどいなかった。目標の達成に不断の努力をする、尊敬すべき戦士だった。

 

 ああ……そういうところが、愛おしくて好きよ。

 私は地面に倒れ込みながら、笑みを浮かべた。前方で杖を振ろうとするミセリアの気配がする。彼女は体勢を崩した私に、きっと本気で殺意の魔法を向けてくるのだろう。

 

 だけど、残念ながら――

 私はその程度では、殺すことなどできない。

 

「……ッ」

 

 ひとは転倒した時、咄嗟に手を地面に向けるという。

 その反射的動作は、もちろん私にも備わっていた。前に差し出した両手のひらが、大地と接触する。

 そして……支えがあれば、肉体を運動させることが可能だった。

 

 ――腕を十分に曲げ、強く力を流し込む。

 両手はバネをイメージする。倒れ込んだ勢いをコントロールしながら、適切なタイミングを見極める。

 遠い昔、体育の授業で習ったのは倒立前転だったか。

 だが、今はそれより高度な動きをしようとしている。習ってもいない技。それを私は……可能とする肉体を持っていた。

 

 ――転回運動(ハンドスプリング)

 力を発揮し、解放し、体を跳ねさせる。私の肉体は地面から離れ、宙を舞った。その高さは、跳躍というよりも飛翔に似ていたかもしれない。空中で私は――ミセリアと目を合わせた。

 

 顔を天へ向け、口を半開きにした彼女の表情は――呆然としているように見えた。いかに冷徹な思考回路を持つ彼女でさえも、想定外の事態には即座に対応できないのだろう。

 

 体をひねり、着地をした瞬間――私は手を動かしていた。

 ミセリアには振り向く暇すら与えず。後方から首の根っこを掴み、その命を握っていた。

 この手に力を込めれば、彼女の細い頸骨は即座に折れるだろう。あるいは本気で握れば――胴体と切り離すことさえ可能だった。

 

 そう、生殺与奪の権利を持っている私は――まぎれもなく勝者であった。

 

「――降参」

 

 と、ミセリアはぽつりと呟く。その声色は平坦だったが、私には聞こえていた。――彼女の心臓は、平時より鼓動が早くなっている。

 心が恐怖を感じずとも、体は怯えていた。肉体は正直なものだ。ミセリアはれっきとした、正常な人間だった。

 

「道具と罠を使ったのは評価できるわ。よく落とし穴なんて用意したわね」

「通用しなかった」

「それでも――あなたはこちらの予想を上回った。合格よ」

 

 私に勝とうとして工夫し、そして実際に思いもよらぬ戦法で驚かせた。その事実だけで、私は十分に満足している。

 ただ勝ち負けの結果が重要なのではない。前を目指す在り方と、心の持ち様が大切なのだ。その勝利への精神的な志向こそが、私には美しく気高く愛おしく感じるのだった。

 

 ――それをミセリアに言っても、理解されることは難しいのだろう。いや、ほかの人間にとっても共感しがたい嗜好に違いない。

 だが周囲に同意される必要もなかった。私は自分のために、誰がためでもなく、意のままに楽しめればいい。

 ただ我が儘に、礼儀知らずに、自分勝手に、傲岸不遜に――

 

 そう、まるであのヴィオレ・オルゲリックという少女のように。

 

 

 

「――次は私を殺せるように、がんばりなさい」

「わかった」

 

 平然としたミセリアの答えに、私は満足して手を離した。きっとこの子なら、次回も本気で策を練って挑んでくれるだろう。そんなふうに信頼できているということは――私とミセリアがただの友達という枠を超えた、“親友”であることの証だった。

 

「……っと」

 

 私は手をはたいて土を落とすと、ポケットからハンカチを取り出した。それでミセリアの首に付着してしまった土汚れも綺麗に拭き取る。

 

「よし、これでいいわ」

「…………」

「さぁて……いちど寮に戻ってから、夕食を取りに食堂へ行きましょうか」

「…………」

「……なに? どうしたのよ」

 

 こちらに振り向くことなく、ずっと無言で立っているミセリアに、私は疑問の声を上げた。何か気になることがあるのだろうか。

 私の問いかけに対して、彼女はゆっくりと口を開き――

 

 

 

 

 

「地面」

「はい?」

 

 あっ。

 

「落とし穴がそのまま」

「…………」

 

 ……これ、前にもなかったっけ?

 

「……一緒に埋めましょうか」

 

 穴を作ったのはミセリアだが、その理由をたどれば私との約束に行き着くわけである。責任は半々といったところだろう。

 仕方なく私がそう提案すると――ミセリアはどこか満足げにこくりと頷くのであった。

 

 

 







 今回は息抜きの百合パートでした(大嘘)


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武闘派悪役令嬢 022

 

「――あらあら、奇遇ですわね?」

 

 週末、学園の正門付近。横から声をかけた私のほうに振り向いた彼は、何か怖いものを目の当たりにしたかのように表情を強張らせた。

 

「……どうして、ここに?」

「“散歩”をしていただけですわ。“偶然”にもファージェル様をお見掛けしたので、ご挨拶でもしようかと思いまして」

「そ、そうか……」

「ところで――今日は誰かと外出なさるのでしょうか?」

 

 私はわずかに目を細め、ルフ・ファージェルの服装を一瞥した。その格好は以前にデートした時と似たような感じで、一人で遊びにいく様子とは思えない。そう……これから、誰かとデートをするかのような出で立ちだった。

 

 私の質問に、ルフは複雑そうな顔をしながら返答する。

 

「い、いや……今日は気ままに街を散策しようと思ってね」

「そうなのですか? てっきり、女性と楽しまれるのかと思ったのですが」

「……いつも女の子と遊んでいるわけでもないさ、ボクもね」

 

 苦笑する彼に対して、私も小さく微笑を浮かべる。これ以上は詳しく追及するつもりもなかった。彼の時間を奪うわけにもいかないので、とっとと別れるとしよう。

 

「ではお気をつけて、いってらっしゃいませ」

「ありがとう。……それではね」

 

 キザっぽくウインクしたルフは、私の横を通り過ぎて正門の守衛小屋のほうへと歩き去ってゆく。窓口で外出手続きを通したあとは、市内のいずこかへと向かうのだろう。その行き先については――ある程度の予測ができていた。

 

「…………さて」

 

 私は呟くと、早足で移動しはじめた。もちろん散歩をしていたわけではなく、ルフの行動を確認したかっただけである。彼が学園を出るということを知れたからには、私も動かないわけにはいかなかった。

 

 ――まずは寮の自室へ。

 人目があるために疾走するわけにもいかず。ほかの学生たちから注目を浴びない程度の速さで歩いた私は、三分以上はかけて寮に戻った。もうルフはとっくに学園の外に出て、市街を歩いているだろう。

 

「……よし」

 

 普段着をベッドの上に脱ぎ捨て、すぐさま動きやすい服に着替えて、髪を後ろに束ねて紐で縛った私は、最後にフード付きのローブを纏った。ようするに、いつも外出するときの出で立ちである。――そう、正規の手続きをせずに外へ出るときの。

 

 およそ一分で支度を済ませた私は、部屋の窓を開けた。そして窓枠に足をかけ――下半身に力を入れる。

 私の部屋は二階だったが、その高さはなんら障害でもなかった。以前より鍛えられた肉体からすれば、階段を数段飛ばしで降りるようなものである。宙に躍った私は――着地した瞬間、衝撃などなかったように走り出していた。

 

 寮の裏側は人目も少ない。だから、ここからは全力疾走。フードを押さえながら駆けた私は、すぐに学園を囲む高い外壁までたどり着き――

 ある程度の距離の地点から、疾走の勢いを保ったままジャンプをした。

 幅跳びであれば砂場を跳び越え、高跳びであれば体をひねらずとも世界記録を更新できる身体能力。その跳躍力で飛んだ私は、壁の半分ほどの高さに足をつけることに成功した。

 

 ――あとは、この慣性を利用して上に跳べばいい。

 垂直方向への二段跳び(ウォールラン)。足にあらん限りの力を入れた私は、上空へとふたたび飛んだ。そして手を伸ばして壁の端を指先を掴み、そのまま上方へと跳び登る。

 余裕で到達した壁の上から、私は学園の外側――つまり市街を眺めた。

 

「……あっちね」

 

 ルフが行きそうなところなど、目星がついていた。だって、私とデートをした時のルートと変わらないだろうから。つまり、フリス地区の東側の門である。

 思考を巡らせながら壁から飛び降りると、「ひっ」と小さな悲鳴が上がった。そちらを見ると、通りで遊んでいたらしき少年たちが私のほうに目を向けている。みな一様に怯えた表情をしていた。

 

 こちらの道は比較的に閑静なのだが、そのぶんたまに子供たちが集団で遊んでいることがあった。もっとも大人以外であれば、目撃されても大した問題にはならないだろう。高い壁を生身で跳び越えている人間がいた、と子供がどれだけ話しても、大人たちはただの法螺話と思うだけだ。

 

「……坊やたち、これで好きなものでも買いなさい!」

 

 私はローブのポケットから数枚の小銀貨を取り出すと、それを少年たちのほうへ放り投げた。その反応を確かめることもなく、疾走を再開する。ルフが外出してから五分以上は経っているが――遅れた時間は私の脚力で補うことが可能だった。

 

 王都のほとんどの道は、私の頭の中に入っている。回り道を通っても、人の少ない路地を駆ければ結果的に近道となるのだ。私は適切な迂回路を選びながら――最速で目的地に着くことができた。

 

「……見ぃつけた」

 

 フリス地区を抜ける門のところで、見知った人影の後ろ姿を捉えて私は小さく呟いた。金髪と身なりで判別は簡単である。それは紛れもなくルフ・ファージェルだった。

 門をくぐる彼を追って、私もあとに続くことにする。通行人を監視している衛兵が一瞬、私の姿に目を留めたが、すぐに視線をそらしてスルーした。怪しい格好の人間は誰何(すいか)されるのが普通であるが、あの衛兵は以前から銀貨を握らせているので、私のことは見て見ぬふりをしてくれるのだ。

 

「……待たせてしまったね」

 

 門からほど近いところで、ルフは一人の女性にそう声をかけた。言うまでもなく、一人で散策などというのは大嘘だったのだ。わざわざフリス地区を抜けた場所で待ち合わせをしたのは、ほかの学生などに目撃されるのを避けるためであろう。

 

「いえ、わたしもさっき来たばかりですから……」

 

 相手の少女は、どこか緊張したような様子で言葉を返した。

 その服装はあまり着飾ったものではなく、どこにでもいるような女性のファッションだった。地味で簡素なワンピースに、リボンを付けた帽子をかぶっている。そこには貴族が好むような華美さは欠片もなかった。

 もっとも私にとっては、そんな平民的な成りのほうが親近感を覚えるのだが。無駄に飾るよりも、ああいう純朴な姿のほうが可愛らしく見えた。おそらくは――ルフもそう感じたのかもしれない。

 

「そのリボン……よく似合っているよ」

「そ、そうでしょうか……?」

「ああ、本当にかわいいよ。……アイリにプレゼントしてよかった」

 

 彼の褒め言葉に、黒髪の少女――アイリは恥ずかしそうに頬を赤らめる。学園で見かける給仕服ではなく、私服の姿でいる彼女は文句なく年頃の乙女であった。うーん、若いっていいわね。

 

 ――まあ、若気の至りという言葉もあるのだが。

 明らかに身分違いな恋には、大きな障害が待ち受けているものだ。それを彼らは考えているのだろうか。それとも見て見ぬふりをしているのか。

 わざわざ道化を演じてまで、平民の女性との仲を保とうとするルフ。その根性はなかなか好ましい。だが――しょせんは姑息の策に過ぎなかった。

 

 学園での振る舞いを故郷の親に知られたらどうするのか? あるいは学園を卒業したらどうするのか? アイリを故郷に呼び寄せ、ひっそりと平民の妾として愛する? 己は正妻を持ち、偽りの愛を公にしながら、本当の愛を日陰に隠しつづけるというのか? あらゆる目を憚りながら、人生を送りつづけるということを――彼女に強いるのか?

 

 ――それは敗者の生き方だ。

 ただ現実から逃れ、安全を祈るだけの、弱き者の生き方だ。

 危険に踏み入り、禁忌を求め、幸福を勝ち取るのならば――

 それに見合うだけの力を備えた、強者でなければならない。

 

 だから、ルフ・ファージェル。あなたには――

 

 

 

 

 

 ――強くなってもらいましょう。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ――私はしかめっ面をしながら、その盤面を眺めていた。

 

 黒の駒と白の駒、それぞれが相手の駒を取ろうと戦いつづけた結果、いま劣勢となっているのは白側だった。

 そして――私が白の駒を動かしているプレイヤーだった。

 

「……チェッカーって難しいのね」

「だははっ! 初めてやったにしては上出来だぜ、姉ちゃん! ……何か、ほかにボードゲームをやってたのかい?」

「チェスは少しだけ」

「ほぉー。チェスって、ありゃ金持ちがよくやるヤツだろ? もしや……姉ちゃん、いいご身分のお嬢さんかい?」

「あら、そう見えるかしら?」

「いや、見えん」

 

 はあ!? なんで即答するのよ? 私に高貴さがないってこと?

 

「その拳のたこを見りゃ、貴族じゃないことくらいわかるぜ。それに……」

「それに?」

「顔つきが箱入り娘のそれとは大違いだぜ」

「へえ? どんなふうに見えるの?」

「うん、あれだな。何人もひとを殺してそうな、とんでもねぇ雰囲気だぜ。姉ちゃんみたいなおっかねぇ女子(おなご)は初めてだ。惚れちまいそうだよ」

「…………」

 

 それ褒めているのか(けな)しているのか、どっちなの?

 

「まっ、それはともかくよ。姉ちゃんのターンだぜ。早く次の手を――」

「あ」

 

 男が私を急かす言葉を投げかけた時だった。ちょうど少し離れた通りのほうから、拍手喝采の音が響いてきた。おそらく向こうの路上ステージでやっていた演劇が、エンディングを迎えたのだろう。

 つまり――タイムアップだった。

 

「悪いわね。ここで終わりよ」

「はぁ!? おいおい、今さら逃げ出そうって魂胆かよ!?」

「――楽しかったわよ」

 

 チェッカーゲームに付き合ってくれた男に、私は笑みを浮かべた。そしてポケットから銀貨を取り出し、テーブルの上に置く。6セオル銀貨だった。

 

「おっ……おい、いいのか? こんなのもらって?」

「それで好きな酒でも買いなさい。……ああ、それと。あなた、読み違いがあったわよ」

「なにぃ? おいおい、ゲームはずっとオレが優勢だったじゃねぇかよ」

 

 そうじゃなくて――

 

「――“それなり”に、いいご身分のお嬢様なのよ? 私はね」

 

 そう言い残して、私はチェッカーボードを広げたテーブルから離れ去る。

 今まで酒場のテラスの席でゲームに興じていたのは、ただの暇潰しに過ぎなかった。劇が終わって、ルフたちがふたたび動きだすのを私は待っていたのだ。

 

 以前に私とデートをした時と同じようなプランで、どうやらルフは動いているようだった。そんなわけだから、足取りを追うのもじつに簡単である。たぶん次は、この前の酒場で昼食を取るつもりなのだろう。

 容疑者を尾行する刑事か、あるいは浮気調査をする探偵か。そんな気分でちょっと楽しみながら、私は気取られない位置からルフたちを追っていた。

 

 趣味が悪い? いいのよ、私が面白ければ。

 自分がやりたいことを押し通す、身勝手に自己中心的に行動する。それがヴィオレ・オルゲリックなのだから。

 

「……人通りが多いから、しっかり腕に掴まって」

「ぁ……は、はい……」

 

 道を歩きはじめた時、ルフはそんなことを自然に口にした。アイリはためらいがちながらも、ルフに身を寄せて腕を組む。若い二人のカップルには、初々しさと華やかさがあった。

 ああー、いいわねー! 青春って感じよねー! こういうのでいいのよ、こういうので。

 私も愛しい相手と触れ(なぐり)合いたいわぁ……などと思いつつ、ルフとアイリのあとを追従する。

 

「……食事、ね」

 

 そのまま尾行を続け、例の酒場に入った二人を確認した私は――彼らのいる建物に背を向けて歩きだす。

 当たり前だが、店の中にまで付いていくつもりはなかった。そこまで見守るのは過保護というものだ。それにこの前、賭け事をしていた男にルフの用心棒を約束していたこともあるので、何かトラブルに見舞われる心配もあまりなかった。

 

 そんなわけで、私はどこか別の場所で空腹を満たすとしよう。

 そういえばこの辺で、氷菓子(ジェラート)*1を出す喫茶店があったはず。甘いものでも食べながら、優雅にお茶を飲むのも一興だろう。よーし、決まり。

 

 昼食場所を決めた私は、すぐに動きはじめた。場所はそう遠くないので、目当ての店までは大した時間もかからない。早足で歩けばたどり着くのもすぐだった。

 そして喫茶店に入った瞬間――

 数人の客たちが、同時に私のほうへ目を向けた。

 

「…………」

 

 なぜかって? そりゃ自分でもわかっていた。

 服装である。フードとローブで身を包んでいる格好はやはり怪しく目立つのだ。しかも流れの旅人が利用するような安い酒場ならともかく、高級感をウリにしている気取った喫茶店の中では、私の存在はなかなか目立つのだろう。

 

 だが私はそんな怪訝な視線にも構わず、空いているテーブル席に腰掛けた。するとすぐに、給仕(ウェイター)の青年が近寄ってくる。彼はなんとなく不安そうな顔色で、私に注文を尋ねてきた。

 

「いらっしゃいませ。……何をお求めでしょうか?」

「ここは氷菓子も扱っているのよね?」

「はい。当店を代表する人気の商品ですので。ご注文なさいますか?」

「お願いするわ。とりあえず十個ほど頼めるかしら?」

「じゅっ……!?」

 

 青年は変な声を上げて、愕然としたように私の顔を見つめた。

 

「その、失礼ながら……。ジェラートは一つ、10セオルで販売させていただいておりますのが……」

 

 10セオル――すなわち単純な肉体労働を仕事をしている市民では、一日の稼ぎでやっと届くかどうかという金額である。砂糖や乳など原材料が高いものを使用した嗜好品、かつ手作業で労力をかけて作る食品なので、こうした氷菓子はどうしても高価になりがちだった。

 市民がたまに奮発して口にする高級品。それを大量に注文するのは本来にありえないことなので、ウェイターが難色を示すような言葉を発したのも当然だった。

 

 ――もっとも、そんなことは私も承知済みだ。

 なので、ちゃんと本気で言っていることを教えるとしよう。

 

「これで紅茶も付けてちょうだい」

 

 ローブの内ポケットから出したのは、外出する時に数枚だけ持ち歩いている金貨*2の一つだった。半リブリー金貨――120セオル相当の価値がある貨幣である。金貨は日常ではめったに使われず、家畜やドレスの売買ような高額取引で主に使われるものだが、私はこれを“念のため”にいつも持ち歩いていた。

 

 ――金銭というものは強い。それはもう、腕力と匹敵するくらいに。

 銀を見れば人は大いに喜び、金を目にすれば人は(こうべ)を垂れる。それが人間というものだった。

 

「――す、すぐに手配いたしますっ」

 

 慄いたような表情で、青年は一礼して金貨を受け取って店の奥へ去っていく。その動揺した様子を、私はかすかに笑いながら見送った。

 

 ――こんな無茶な注文でも、金の力を使えば実現させられる。

 貨幣の経済が成立している都市の中では、通貨というものがあらゆる面で幅を利かせていた。金さえ払えば美酒と美食を楽しめ、あるいは他人を自分の意に従わせることすらできる。屈強な男を子分として伴わせることも、美麗な女を下女として侍らせることも可能だった。多くの者が金の力を信じ、それが何物よりも勝ると思う輩さえいる。

 

 だが実際のところ――そんな俗物的な物事だけで世界が成り立っているわけではなかった。

 大多数の人間が金に魅力を感じ、それに心と体を(いざな)われるのは確かだが――

 中には、けっして揺り動かされないこともある。

 金銭よりも、もっと大事な何かを優先することもあるのだ。

 

 たとえば、そう――

 家族や、友達や、あるいは恋人など。

 

 レオドの兄のように、肉親を排除してでも権益を手中に収めようと望む欲深き者もいるが。

 きっと善良なる多くの人々は、大切なひとを金や銀よりも愛して守ることだろう。

 

 もし、財産を失ってでも。

 豊かな生活を失くしてでも。

 その人を何事よりも優先するならば。

 

 ――愛を貫き通すのならば。

 

 ああ、それは美しく。気高く。眩しく。

 ありふれた凡百の力にも勝る、素晴らしい強さとなるだろう。

 

 そういう強い力が――私は好きなのよ。

 

 

 

 

 

「――おいしかったわ」

 

 紅茶のカップをソーサーに置き、私はゆっくりと息をついた。

 テーブルには空になった陶器の皿が重ね積まれている。それはもちろん注文した氷菓子の皿で、当然ながらすべて残さず食べきっていた。

 

 味はというと――かなり美味なデザートと言えるだろう。

 “前”の世界で子供だったころ、私も氷と塩を使って手作りアイスを作ったことがあるが、味は市販のアイスと変わらなかったことが記憶に残っていた。まあ結局、原材料が一緒で工程も変わらなければ出来上がりも同じなわけで。今回、口にしたジェラートも懐かしい自作アイスと同等のおいしさだった。

 

 これなら、また足を運んで食べにくるのもいいなぁ。

 ……なんて思っていたところで、私は店内の振り子時計に目を留めた。入店してから二十分以上は経過している。意外とゆっくりしすぎてしまったようだ。

 まだルフとアイリは酒場内にいるだろうが――早めに行動しておくに越したことはない。

 

「――お帰りですか、お客様?」

 

 立ち上がった私のもとへ、最初に応対したウェイターが近寄ってきた。その言葉は平静だったが、表情はわずかに強張っているように見える。ちらりと皿の山を見ていたところからすると、「うわっ、本当に10皿食ったのかよコイツ」とでも思っているのかもしれない。

 

「――ええ、そろそろ失礼するわ」

「……あの、お釣りは本当によろしかったのですか?」

「いいのよ。心付けとして取っておきなさい」

 

 差額分は店とウェイターが半々で貰っておけと、すでに伝えてあった。これだけ気前のいい客というのも珍しいものなのだろう。周辺の席に座っていた市民たちも、驚きと訝しみの目でやり取りを眺めていたのが印象的だった。

 

 ――なぜ私は気前よく振る舞っているのか。

 ……というと、たんに金がバカみたいに余っているからなだけである。私の家は国内最上位の収入を持っているため、仕送り金額も学生の中では確実にトップクラスだった。普通は長子ほど金をかけ、末子には大して金を寄越さないものだが、私はオルゲリック家の三女ながら使いきれないほどの仕送り金を送られていた。

 ……あの父親、ちょっと親バカすぎるのではなかろうか。まあ私がアクセサリーだのドレスだのを買わず、高級な劇場にも足を運ばないのが金余りする原因の一つではあるのだけど。

 

 そんなことを、なんとなく考えながら喫茶店を出て――

 私は例の酒場へと戻るために、ふたたび街中を歩きはじめた。

 

「――――」

 

 その直後に。

 そう遠くない場所から、女性の悲鳴とどよめきが響きわたった。

 そして慌てたように駆ける足音と、「誰かっ」と叫ぶ声。

 

 眉をひそめながら、私は何か事件があったらしき方向へと近寄る。そこで目にしたのは、まだ十代だと思われる茶髪の女の子の姿だった。彼女は通りの石畳に膝をついたまま、呆けたように固まっている。

 私はさらに前に進み、この大通りと繋がっている狭い脇道のほうに目を向けた。その視線の奥には、フードを抑えながら走る人物が映っている。ちょうど路地を通り抜けて、向こう側の大通りにたどり着くところだった。

 

 私は少女のほうへ振り向くと、手短に尋ねた。

 

「――物取り?」

「……は……はい……。あ、あたし、どうしたら……」

 

 泣きそうな目でこちらを見上げる少女に、私は手を差し出した。彼女はおずおずと、その手を取る。力を貸して立たせてやりながら、私はふたたび少女に質問した。

 

「盗られた物の外見は?」

「藍色の巾着(ポシェット)、です。中には大切なお金が――」

「そこで待っていなさい」

 

 必要な情報を把握した私は、それだけ言うとすぐに駆けだした。すでに盗人が通った路地を、同じようにして走る。もっとも――その速度は二倍や三倍どころの話ではなかったが。

 さっき目視したかぎりでは、犯人は右折して大通りに紛れ込んだようだ。全力疾走を続けていたら逆に目立つので、おそらくそこで徒歩に変えているはずだった。通行人と混じって歩きながら、適当なところでまた路地に潜れば、あとはもう追っ手が来ても見つけられはしない――そう考えていることだろう。

 

「――さて」

 

 一瞬で路地を駆け抜け、大通りに出て右折し、早足で前に進む。耳を澄ませれば、必要な情報は簡単に手に入れられた。道行く人間の服装などを、いちいちチェックする必要もない。

 

 ――私にしか見えない、私にしか聞こえない、その情報をたどればいい。

 

 迷いなく足を進めた私は、しばらくしてある男を捉えた。背嚢(リュックサック)を背負った彼のもとへ、まっすぐ近づく。男がふいに、大通りから路地のほうへ消えようとしたところで――私はその肩に手を乗せた。

 びく、と緊張した様子で振り返った男に、私は笑みを浮かべる。相手の目は、どこか恐怖の色があるように見えた。

 

「……なんだい、用か?」

「失礼。その背中の袋の中身を知りたいのだけれど」

「はぁ? アンタに見せる必要がどこにあるんだ」

「外套と藍色のポシェットが入っているでしょ?」

 

 その瞬間、彼の心臓が一気に跳ね上がった。外見は偽装できても、肉体の内部をごまかすのは難しい。すでに目の前の男が犯人であることは疑いようがなかった。

 ――背嚢の上からフード付きの外套を着込み、追っ手の目を撒いたところで脱ぎ外し、袋の中に盗品と一緒にしまったのだろう。

 男が路地を走っていた時に、一瞬ながら背中がわずかに膨らんでいるのは視認できていた。そして全力で走ったがゆえに、心臓の鼓動が激しくなっている音も聴き分けられていた。――私の視力と聴力から、逃れられるはずもなかった。

 

「戻って彼女に返しなさい」

「…………」

 

 私があまりにもピンポイントで彼を捕まえたからか、もはや言い逃れは厳しいと悟ったのだろうか。男は無言になると、鋭い眼で私を睨んだ。そこには敵意が満ちあふれているように感じる。

 その気概は心地よいが――ああ、残念ながら。

 あなたでは、あまりにも不足しているわ。

 

 力がなく、強さがなく――楽しめるような存在ではない。

 

「――――っ!」

 

 男がいきなり右手を握り、私の顔を狙って殴りかかってきた。

 その動作は平凡な人間だったら、反応できずに喰らっていたかもしれない。

 でも――殴り合いに慣れた人間だったら、簡単に躱せるような攻撃だ。

 私でなくとも、きっとアルスだったらスウェーバックで対応できるに違いない。

 

 そんな、さして脅威でない打撃に対して――

 私は何もせずに、黙って立っていた。

 

「…………()ッ!?」

 

 拳が私の頬を叩いた瞬間、男は悲鳴を上げた。殴られたほうではなく、殴ったほうが。痛みと恐れを入り混ぜた声を漏らし、呆然とした表情を浮かべたのだ。

 

 防ぎ、逸らし、()なし、躱すということ。

 それらは脅威に対する反応であり、今この場の私にとっては不必要なものだった。

 それほどまでに、圧倒的な力の差があるのだ。

 怯えたように後ずさる男に対して――私は退屈さを抱きながら肉薄した。

 

「……っ!?」

 

 男が目を見張った時――すでに私は両腕を伸ばし、彼の頭部を手のひらで挟んでいた。まるでボールを保持するかのように。相手は反射的に引き剥がそう私の腕を掴むが、一寸も動かすことは叶わない。

 ――頭部を万力に締め付けられているような感覚。おそらく男はそう感じていることだろう。もし私が本気で力を入れれば、彼の頭蓋骨は砕け、中身も悲惨なことになるに違いない。

 

 だが、これは生死をかけた闘いではない。

 ただ、逃げる盗人を大人しくさせるだけ。

 そんなつまらないやり取りに、あくびを噛み殺しながら――

 

 ――私は男の頭を、前後に素早く揺さぶった。

 

 たった、それだけのこと。

 次の瞬間には、男はぐったりとした様子で脱力しはじめた。

 その身に起こったのは、ごくごく単純な症状――脳震盪である。脳へのダメージは肉体的な外傷と比べて、より効率的に敵を無力化させることが可能だった。

 

「……うっ……く……」

 

 男はそのまま地面にくずおれ、うめき声を漏らした。意識はあるが、体の自由は利かないのだろう。私はすぐに彼の背負っている袋の中に手を伸ばし、目的のポシェットを探り当てた。

 ――これで用は済んだ。

 

「じゃあね」

 

 朦朧状態で倒れている男に別れの言葉だけ告げると、私は踵を返して歩きだした。幸いながら周囲には衛兵もいなかったので、いろいろと面倒なこともないだろう。

 このまま犯人を運んで、衛兵を呼んで、被害者と一緒に事情を説明して、なんやかんやすれば法に則って罪人が裁かれるのかもしれないが――ぶっちゃけ関わるには時間がかかりすぎであった。そこまで付き合うのは遠慮したい。

 そんなことを思いながら歩く私に対して、一部始終の覗いていた通行人たちは怪訝そうな目線を送ってきていた。そのうちの一人が、向かい側から声をかけてくる。

 

「おい、姉ちゃん……あんた強盗か?」

「違うわよ。あっちが盗っ人で、私は取りかえしただけ。勘違いしないで」

 

 ほら、こういう誤解があるから面倒くさい。

 通行人から向けられた疑いに釈明しつつ、私はさっさとその場を離れることにした。足早にもと来た道を戻って、盗みの被害者のもとへ。

 そして私がポシェットを携えながら、例の少女のところまで戻ると――彼女は愕然としたような表情を浮かべて出迎えた。

 

「も……もう取り返してくださったんですかっ!?」

「――これで間違いないのよね?」

「はい……! ありがとうございます!」

 

 少女は笑顔で礼を言うと、すぐにほっと安堵の表情に変えた。感情表現が豊かな子のようだ。

 取り戻したポシェットを受け取った彼女は、しみじみとした様子で言葉を口にした。

 

「ああ、本当に……このまま失くしていたら、どうしようかと思いました。自分のお金でもありませんでしたので……」

「お使いだったの?」

「はい。家政婦(ハウスキーパー)の方から、必要な薬を買ってくるように頼まれまして。このままお金を盗られていたら、怒られるどころかお給金まで差し引かれるところでした……」

 

 家政婦。つまり貴族の屋敷などで、下級の女性使用人を管理し監督する立場の人間である。ということは、この子はどこかのお屋敷で働いているメイドなのだろう。

 掃除機や洗濯機のような効率的な機械がないこの世界では、当たり前だがさまざまな雑用をこなすメイドは必要不可欠な存在だった。私の故郷の屋敷では十人を超えるメイドをつねに働かせているし、私の兄が暮らしている王都内の小さめな屋敷でも数人のメイドを雇っていたはずである。そうした雑用的なメイドの仕事は、農村部から出稼ぎに来た若い女の子が労働力の中心であった。

 

「ふぅん……。ご主人は、どちらの貴族の方なのかしら?」

 

 私はなんとなく尋ねてみた。

 王都内には貴族の屋敷が多数あるが、領主が住み込んでいる場合もあれば、ただの別邸扱いの場合もあった。直営地を持たず、地代や租税だけ徴収して暮らしているような小領主は、前者のように完全に王都内で生活していることも多い。その一方で、伯爵以上の大領主は自分の領地に大きな屋敷を建てて生活するのが基本だった。わがオルゲリック家のような辺境領主は、外敵の脅威もあるため、なおさら領地を離れるわけにもいくまい。

 

 私の兄が住んでいる王都内の屋敷も、もともとオルゲリック家が代々所有している別邸に過ぎなかった。王族の誕生日だとか、貴族の会合だとか、そういう大事な催しに参加しなければならない時に、王都内に泊まる場所としてその屋敷を持っているのだ。ただ人が住みつづけないと家というものはすぐ荒廃するため、父は息子をそこに住まわせて屋敷を維持させているという経緯があった。

 

「じつは……とても有名な家柄の方がご主人様でして」

「へぇー」

「――オルゲリック侯爵様が所有するお屋敷で働いているんです」

 

 ぶっ!?

 

「……ど、どうかされましたか?」

「ななな、な、なんでもないわ……! 大貴族の名前に驚いただけよ……!」

「そ、そうですか……?」

 

 ま、まさかこんなところでわが()の使用人と関わることになるとは。

 たしかに彼女の顔をよく見れば、なんとなく会ったことがあるように思える。学園に入学する前に二日間だけ屋敷に滞在したのだが、その時にたぶん挨拶や多少の会話もしていたはずだった。ここ最近の生活が濃密すぎて、すっかり忘却していたけど……。

 

 そしておそらく相手のほうは、まだ私がヴィオレだとは気づいてはいなかった。そもそも服装が違うし、髪も後頭部のほうで縛ってまとめているし、行動がとても貴族の令嬢ではないので、過去に少し会っただけでは同一人物と判断できるはずもないのだろう。

 

「あの……よろしければ、お名前を……」

「な、名乗るほどの者ではないから……! じゃ、じゃあ失礼ッ!」

 

 無理やり話を終わらせて、私はあわてて彼女の横を通り過ぎた。私の逃げるような動きに、少女は面食らったような様子ながらも、「あっ……ありがとうございました!」と感謝の言葉を投げかけてくる。私は振り向かず、右手だけ軽く振って応答し、そして急ぎ足で彼女のもとから立ち去った。

 そして十分に離れたところで――私は一つため息をついた。

 

「あー……びっくりした……」

 

 偶然にもほどがある。相手がこちらに気づいていないのは、まだ幸いだったけれども。

 それにしても、あの娘の名前はなんだったっけか。別邸の雑用メイド、しかも数か月前にひと言ふた言を交わした程度の相手なので、もはや記憶は彼方だった。ううむ。

 

 しかし次に王都の屋敷で顔を見合わせたら、たぶん気づかれる可能性もあるかもしれない。侯爵(お父さま)に代わって屋敷に住んでいる次兄のもとには、最低でも半年ごとに顔を出すという約束をしていたのだ。だから否が応でも、そこで働く使用人とは顔を合わせることになるだろう。

 

「……まっ、いっか」

 

 思考を放棄して、私は心配事を忘れ去った。まあ誰かに何かを見られても、今更なことである。私がどれだけ貴族らしからぬことをして、好き勝手に生き方をしていようと――

 

 

 

 ――それを止められる者は、誰も存在しない。

 

 そう、咎め抑え縛ることができる人間は――どこにもいなかった。

 物理的な強制は通用するはずがなく。

 たとえ肉親から命令されようとも、私の意に沿わないことには従うつもりはない。

 

 私は自由に振る舞うことができる。なぜなら――力があるからだ。

 もし家を追い出されようと、野に放たれようと、生きるくらいは容易(たやす)かった。この武力があれば旅商人の用心棒として食っていくこともできよう。あるいは、争いごとのある地域で傭兵にでもなれば十分な給与を得られよう。もし慎ましやかに生きるのなら、アルスのように狩りをして生計を立ててもいいだろう。

 選択肢はいくらでもあり、それを選び取り、貫き通す力が私には存在していた。

 

 だから――貴族の道から外れた行動を、私は堂々とできるのだ。

 何もしなくとも裕福な暮らしができる身分。それを失うことを恐れてはいない。

 幻想など抱かず、どんな未来になろうと、この腕力(ちから)で切り拓けると確信している。

 

 気ままに、我が儘に、自由に、好き勝手に、生き振る舞える能力。

 ――それが強さだ。

 

 そして、その力が……あなたにどの程度あるかしら?

 

 

 

「――さあ、ルフ・ファージェル。貴族の道理に背いている者同士、力比べをしましょう?」

 

 私は拳に力を籠め、口元を歪めて呟いた。

 

*1
 氷点下に冷やすことによって作られる、アイスクリームやシャーベットなどのこと。氷菓子の歴史は古く、紀元前から天然の氷や雪を用いて作られていたようである。むろん貴重で高価な食べ物だったことは言うまでもない。

 雪氷と寒剤(食塩や硝石など)を混ぜることにより低温を得る方法は、じつはかなり古くから広く知れ渡っていた。13世紀にはアラブのイブン・アビー・ウサイビアが、氷と硝石による冷却法について文献に書き残しているように、氷に関する技術は中東でも栄えていたようである。

 ヨーロッパでは、万年雪の取れる山々に近いイタリアが早くから氷の利用が盛んであったが、ルネッサンス期になるとほかの諸国でも親しまれるようになり、とくにワインを冷やして飲むのが好まれたようである。

 このように雪氷の利用が進むなか、シャーベットから始まりアイスクリームなどが作られるようになる。1686年にはフランスのパリで、フランチェスコ・プロコピオがCafé Procopeを開店し、シャーベットなどを販売して大いに成功を収めた。この時代には、雪氷を氷室や氷井戸で保存して利用することは一般的になっており、貴族以外の民衆にとっても冷やした飲み物や菓子は馴染みのあるものとなっていたようだ。

 こうして氷の利用は広まっていたが、人工的に氷を作り出すことが一般化したのは、19世紀の半ばに実用的な製氷機が発明されてからである。それまでは天然の氷や雪を使うほかなく、雪氷の売買は大規模な産業となっていた。

 

(余談:魔法で氷などを産出できるファンタジー世界ならば、氷菓子は古くから普遍的に親しまれる嗜好品となるであろう。食品の保存などにも氷は使えるので、非常に便利である)

*2
 近世までは銀貨とともに、金貨も通貨の一つとして世界的に使われてきた。ただし金は銀よりも希少で高価なため、そのコインの金額は非常に大きくなりがちであり、日常の取引には不向きであった。時代によって金と銀の価値は変動しているが、近世までの金銀比価は1:12から1:15程度であった。

 現実のイギリスで発行された半ソブリン金貨(約4g、直径19.3mm)は、10シリング(=120ペンス)相当の価値があった。

 なお本作の金貨名称「リブリー」は、リーブラ(libra)をもじったものである。リーブラは古代ローマ発祥の質量・通貨の単位であるが、リーヴル(livre)、リラ(lira)、ポンド(単位記号「lb」)など、ヨーロッパ各国の通貨や単位の名称の語源ともなっている。






 お待たせいたしました。久しぶりの投稿です。
 23話もすでにある程度を書けてあるので、今回から更新を再開していけたらなぁと思っています。


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武闘派悪役令嬢 023

 

 ――失敗した。

 

 ルフたちが食事を取っていた酒場に戻った直後、私はすぐに一つの事実を察してそう思ってしまった。

 店の外からでも、私の耳はすべての声を捉えている。その音の中に、ルフとアイリらしきものは存在しなかった。つまり――すでに別の場所に移動してしまったということ。

 

「……アレのせいね」

 

 私は先の少女のことを思い出して、大きくため息をついた。盗まれたものを取り返してやったのはいい。だが、いかんせん時間をかけすぎた。まあ、それほど早くあの二人の食事は終わらないだろうと、高をくくっていた私も悪いのだが。

 

 ――そんな反省をしつつ、酒場の中に入店する。

 すぐに周囲を見回し、私は見知った男に目を留めた。その席のもとへ一直線に歩き進む。

 そこにはテーブルにボードゲームを広げて、賭け勝負の相手待ちをしている男が座っていた。

 

「おっ? ……おお、もしかして、この前のお嬢ちゃんか? 怪しい格好だから、誰かと思っ――」

「以前に私と食事をしていた男は、どこへ行ったかわかる?」

「……なんでぇ、いきなり?」

「いいから、教えて」

 

 男は不機嫌そうに眉をひそめると、テーブルをとんとんと叩いた。そちらに目を向けると、銀貨が数枚積まれている。何を言わんとしているか理解した私は、ポケットから6セオル銀貨を取り出して彼に投げた。

 

「話が早いぜ」

 

 男は打って変わって笑顔になると、そう言いながら銀貨をキャッチした。そして何かを思い起こすように目を細めると、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「たしか……南の広場の店を巡るとかいう声が聞こえたな。この店から出ていったのはついさっきだから、まだそう遠くには行ってないはずだぜ」

「十分よ。感謝するわ」

「なぁ、お嬢ちゃん。せっかくだから、俺とゲームでも――」

「――時間がある時にでもね」

 

 私はそう断ると、すぐに彼に背を向けて歩きだした。残念ながら今はゲームに興じている暇はない。一刻も早く、ルフたちを捕捉しなければならなかった。

 

「……修羅場ってやつか?」

 

 違うわよ。野次馬ってやつよ。

 などと背後で小さく呟いた男に対して、内心でツッコミながら酒場をあとにする。

 

 ――南の広場、ということはシジェ広場で間違いない。王都の道はだいたい把握しているので、私にとっては迷う心配もなかった。あの二人の足並みは遅いほうだから、たぶんすぐに追いつけるだろう。

 そう楽観視した私は、早足に広場へのルートを辿ることにした。

 

 ――ただ、私は一つ計算違いをしていたのだった。

 私は道に迷う心配はない。頻繁に学園を抜け出して、そこかしこをうろついているのだから当たり前だ。

 だが、こっちが正しい道筋を選んでいても――

 

 

 

 ……向こうがまったく見当違いの場所に進んでいたら、接触できるはずもなく。

 

「……アイリも土地勘がないという可能性を忘れていたわ」

 

 私はやるせない表情で、家屋の屋根の上から街の通りを眺めながら呟いた。

 けっきょく南の広場に行っても二人を見つけることはかなわず、どういうことかと考えた私は、一つの可能性に思い当たった。つまり――あの二人は道に迷ったのではないか、ということだ。

 故郷から都にやってきたルフは当然として、おそらくアイリのほうもこの街の道には詳しくなかったのだろう。学園やら貴族の屋敷やらでメイドとして働く少女は、王都の市民だけでなく地方から出稼ぎに来た子も多いのだ。彼女が後者のタイプならば、二人が道に迷っても不思議ではなかった。

 

「まったく……世話が、焼けるわねッ!」

 

 そう言いながら、私は足に“気”と力を入れて跳躍した。建物の上から――通りの道を挟んだ、向かい側の建物の上へ。モルタルで固められた足場に着地し、さらに次の足場へと身軽に跳んでいく。

 

 ――ディレジア王国の街ソムニアに宮殿が建てられ、そこに王の住まいが移ったのが、たしか歴史書によると八百年ほど前だったか。

 それ以降ずっと王都として栄えてきたこの街は、都市拡張をたえず繰り返してきた。城壁を外側に広げるのと同時に、建築物の居住数を高める増築も重ねてきたわけだ。至る所に高層化した建物が密集しているこの街は――実質的に“空の道”を造り上げていた。

 

 私の身体能力ならば、通りの幅を飛び越えることは容易である。つまり――障害物や通行人に邪魔されることなく、無制限に街を移動することが可能だった。

 ジャンプで建物の上を移動しつづけながら、通りや広場を見下ろして下界の様子を探る。

 それを繰り返して、いったいどれだけの時間が経ったか――

 

「あ」

 

 それなりにいい運動(あそび)にはなるものの、さすがに飽きてきた頃合い――

 とある寺院の尖塔の上から街を見下ろした時、彼方に金髪の男と黒髪の女のカップルを見かけた私は、即座に動きはじめていた。

 高所から建物の上に飛び降り、そこからさらに跳躍を重ね、さっき目についた場所へ向けて空中を疾駆する。

 追いつくのには――そう苦労しなかった。

 

「……ずいぶん遠くまで来たわね、坊や」

 

 私は呆れたように笑いながら、誰ともなく呟いた。ルフたちの現在地は、最初にデートをしていた場所よりもかなり南のほうである。たぶん曲がるべき道がわからずにシジェ広場付近を通り過ぎてしまい、こっちのほうまで迷い込んでしまったのだろう。

 

 ルフたちの真上に当たる建物まで近寄ると、私は二人のほうへ耳を澄ました。

 

「ここはソムニアの南地区らしいから……戻るなら北の方角に進めばいいのかな」

「さっきお聞きした方が言っていたのは、この通りですよね……?」

 

 不安そうに話し合っている二人にため息をつきそうになりつつ、さてどうしたものかと私は思案する。このまま迷子になっているルフとアイリを眺めていても、正直なところあまり面白くはなかった。何か進展があってほしいところなのだが。

 

 そんなことを考えていると、ふいにルフたちのもとに一人の男が近づいてきた。身なりが貧しく、松葉杖をついている中年の男性である。その姿を見ただけで、彼がどんな生活をしている人間なのかを察することができた。

 

 ――物乞いだ。

 病気持ちや身体障碍者の中には、職に就けず物乞いで生計を立てている者もいた。おそらくルフの服装から金を持っていると判断して、施しを求めに来たのだろう。

 

「……お兄さん、よろしければお金を少し頂けませんか? パンを買うだけの銀貨がなくて、困っているんです」

「えっ……?」

 

 ルフは明らかに戸惑った様子の声を上げた。ああいったタイプの人間に声をかけられるのは初めてなのだろう。

 

「どうかお恵みを……」

「いや、その……」

 

 対応がはっきりしないルフに代わって、声を上げのはアイリのほうだった。

 

「――すみません、道を教えていただくことはできませんか? 少し迷ってしまいまして」

「道? ……どこへ行きたいんだい?」

「シジェ広場です。わかりますか?」

「……ああ、わかるよ」

 

 男はにやりと笑みを浮かべると、ふたたびルフのほうへ顔を向ける。

 

「お兄さん、私が道案内するのがいかがでしょうか? その対価として……お金を頂けたら助かります」

「…………」

 

 ルフは迷ったような表情を浮かべたが、誰かに道を先導してもらったほうが確実だと判断したのだろう。ゆっくりと頷き、「じゃあ、お願いするよ」と男の提案を了承した。

 

 ……意外な展開だ。まあ、これで迷子から脱出できるのなら悪くないわね。

 そう思っていた私だったが――物乞いの男が歩きだしたのを見て、すぐに疑いが生まれた。そして、その答えに達するのには時間もかからなかった。

 

「……あいつ、足が悪いのは嘘ね」

 

 男の歩行する動きに注視すれば、松葉杖にほとんど頼っていないことが察せられた。怪我や病気を偽ったほうが物乞いが成功しやすいため、わざとああいった演技をしているのだろう。ルフやアイリは、すっかり男の片足が悪いと信じ込んでいるようで、ときおり気遣いの言葉をかけていた。

 

 まったく純真な子たちだ、と思いながら、建物の上を伝って彼らのあとを追っていると――

 ふたたび、新しい疑念が湧き上がった。

 それは王都の道を知っている私にとっては、気づかぬ道理のないことである。

 

「……ここから、向こうの通りに出たほうが早いので行きましょう」

 

 そう言って、男は路地のほうを進みはじめた。大通りから外れる行き先。それの何がいちばん問題かというと――

 

「……そっちは貧民街よ」

 

 私は睨むように、頭上から男を見下ろした。

 古今東西の都市でスラムが発生するように、この王都でも貧民が多く密集する住宅地がいくつか存在している。男が向かっている先は、まさにそのうちの一つだった。

 そして貧民街では職業に就いてない物乞いだけでなく、スリなどで糧を得ている犯罪者もいる。そんな危ないところにルフたちを誘導している思惑は――言うまでもなく悪意にほかならなかった。

 

「……男の見せ所ね、ルフ」

 

 私は口の形を歪めながら、彼に聞こえないエールを送った。

 

 ――しばらくして、ようやくルフも気づいたのだろうか。

 人気のない通りを歩いている最中、彼はふいに立ち止まると、険しい声で前方の男に声をかけた。

 

「おい」

「……なんでしょう?」

「こっちの道はどう見ても違うだろ。住宅街だ。……案内する気がないなら、もう頼らないぞ」

「…………」

 

 ルフもさすがに警戒を見せていた。その右手はわずかに上がり、すぐに動ける体勢を取っている。おそらくジャケットの内ポケットに杖を携帯しているはずなので、いざという時でも対応できるはずだが――

 

「……兄ちゃん、自由になりたかったら金と上着を置いていきな」

 

 いきなり敬語を捨て、男は脅しの言葉を吐いた。強気な態度に出た理由は、建物の上から眺めていれば簡単にわかる。そう……男には仲間がいたのだ。

 ルフたちの後方から、新しい二人の男が迫っていた。片方は小型のナイフを、もう片方は木製の短い角材を握っている。しょぼい武器ではあるが、荒事の経験のないルフたちにとっては意外と脅威になりそうだった。

 

 男たちに囲まれたことに気づいたルフは、慌てたように内ポケットから杖を引き抜いた。身なりから相手は貴族だと察していたのか、男たちは杖を目にしてもさほど焦った様子は見られない。なかなか度胸のある犯罪者たちだった。

 

 ――杖を持った魔術師と、貧弱な装備の平民三人。

 戦って有利なのはどちらか、というと圧倒的に前者だろう。銃のように一瞬で相手に致死級のダメージを与えられる武器があれば話は別だが、そうでないならさっさと魔法を打ち込めば魔術師の勝ちは揺るぐまい。威力と射程と速度を備えている魔法は、それだけで強力な攻撃手段だった。

 

「……それ以上、近づいたら容赦しないぞッ!」

 

 警告を叫ぶルフ。杖を構えた彼に、武器を持った二人の男は足をとめた。杖の一振りで出せる魔法に、真っ向勝負を挑むのは得策ではないと理解しているのだろう。

 

 だが――男たちには魔法がないが、大きな強みがあった。

 それは陣形、そしてチームワークである。前後で挟まれている状態のルフは、どうしても誰かに背後を向けざるをえない。先に路地に逃げ込んで死角をなくせば良かったのだが、そこまでの判断をすぐにはできなかったようだ。

 ルフは、ナイフと角材を持った男のほうに気を取られ――

 

「危ない……!」

 

 その時、アイリがルフの腕を引っ張った。直後、彼の肩に投げつけられた松葉杖がヒットする。道案内していた男の足が悪いと信じきっていたせいか、それを投擲してくるのは完全に予想外だったのだろう。アイリのおかげで直撃を免れたルフだったが、明らかに動揺している様子だった。

 

 隙を見せたルフに向けて――さらに角材を持った男のほうが、その得物を全力で投げつけた。投擲は武器を失う攻撃方法ではあるが、それに見合うだけの効果がある。男たちは“戦い方”をよく理解していた。

 

 ルフはうろたえながらも杖を振り、魔法を放った。――投げつけられた物を叩き落すために。

 風が唸り、迫りくる飛来物を吹き飛ばし、同時に前方にいた男二人も薙ぎ払った。圧倒的な魔法の威力。だが――ルフは決定的な隙を生み出してしまっていた。

 

「がっ!?」

 

 松葉杖を投げつけ、無手となっていた男は、そのままルフに向かってタックルをかましていたのだ。勢いを乗せた突撃に、彼はそのまま地面へと打ち付けられてしまう。頭をぶつけなかったのは幸いだったが――状況としては最悪だった。

 

 肉体的な強さは、明らかに男のほうが格上だ。マウントを取られたルフは、杖を握る手を抑えつけられていた。もはや魔法という優位性は失われ、ルフの敗北は決定的だった。

 

「動くなよ、嬢ちゃん!」

 

 助けにいこうとしたアイリだったが、その荒々しい怒鳴り声を受けて固まってしまう。ルフの風魔法で倒れていた男たちはすでに体勢を立て直しており、自由に動ける状態だった。つまり――アイリ一人ではどうしようもない戦況である。

 

 ……これが戦いだ。

 弱き者でも、工夫によって強者を打ち倒しえる。素晴らしいチームワークだ。貴族のガキが相手なら、こういう荒事に関してド素人だからやれるだろうと判断したのも良い。彼らは成功し、勝利を収めたのだ。――おめでとう。

 

 力をもっとも上手く振るい、発揮できる者こそが、この世界では生き延びられるのだ。

 よく体現してくれた。ありがとう。あなたたちのおかげで、ルフもきっと実感してくれたことだろう。

 

 ――弱者に権利はないのだと。

 何かを自由にするためには、それを為すための力を備えていなければならない。

 自分の身すら守ることのできない人間には、自己決定権など存在しないのだ。

 鳥かごから抜け出して、好き勝手に空を翔るならば――あらゆる安全を自分の手で確保しなければならない。

 

 ――己の無力さを痛感しなさい。

 ルフ・ファージェルよ――

 

 

 

「……さあ、ご自慢の杖も使えないぜ。これで生かすも殺すも自由だ。まずは……上着を脱いでもら――」

 

 その瞬間、男たちは息を呑んだ。

 いや――悔しむルフや怯えるアイリも含めて、その場の全員が固まった。

 

 すぐそばに現れた存在に対して、理解がまったく追いつかなかったのだろう。

 それもそのはず……上空から誰かが飛び降りてくるなど、予想できるはずもなかった。

 

 着地の衝撃を軽々と受けた私は――ルフのほうに視線を送る。目を合わせた彼は、明らかに困惑の表情を浮かべていた。なぜここにいるんだ――そう問いたそうな瞳である。

 

「……オルゲリック様?」

 

 学園内の装いとはまったく異なっていたが、それでもアイリも気づけたようだ。そちらに目を向け、にやりと笑みを浮かべてやると――彼女は恐怖したように後ずさった。

 ……せっかく助けに来てあげたのに、その反応はひどくない?

 

「なんだ……てめぇ……」

 

 ナイフを持っていた男が、恐怖と焦燥を顔に浮かべて声を上げる。その切っ先は私に向けられていたが、あまり敵意を感じなかった。相手の素性を警戒していて、すぐに襲いかかる気にはなれないのだろう。

 

 ――つまらない男だ。

 

 刃物を持っているというのに、彼は明らかに尻込みしていた。その鋭利な部分で、敵を切り裂こうという意志がどこにもない。肝の小さい犯罪者だった。

 

「……どうしたの。女に怯えているの?」

 

 私はフードを外し、(あざけ)るように笑った。そしてナイフを構える男のほうへと一歩、ゆっくりと近づく。彼は額から一筋の汗を流しながら、緊張したように後ろに下がった。

 

「その刃を私に向けなさい」

 

 静かに、攻撃を命ずる。

 

「さもなくば――」

 

 ――あなたを殺すッ!

 

 殺意を込めた言葉を放った瞬間、男は動きを見せた。自分の強い意志によるものではない。ただ恐怖に突き動かされ――“生きるために”無意識的に攻撃行動を取ったのだ。

 本能的に、必死の形相で男はナイフを振り下ろし――

 

 そして、私の顔に届く前に停止した。

 

「…………!?」

 

 信じられない、というような顔をしていた。

 だが、これは現実だった。男の攻撃を止めたのは、人差し指と中指だけだった。そう――刃は二本の指に挟まれ、完全に把持されていた。

 真剣白刃取り――と言えば聞こえはいいが、質の悪いナイフと素人の男が相手では、こんな芸当は誇れるものでもないだろう。

 

「嘘だろ……」

 

 呆然と呟いた男は、ナイフから手を離して後ずさった。

 私は持ち手のいなくなった武器の柄を左手で握り、そして刀身のほうを右手で持つと、ぐっと力を入れる。すぐに耐えきれなくなった刃の根本が、ぱきりと音を立てて切断された。あまりにも脆い鉄だった。

 

「ば、化け物……っ!」

 

 刃をへし折った光景を目撃した男は、慌てて逃げ出そうとした。もはや戦意を失った相手だが――乙女に刃物を向けた報いは受けてもらわねばなるまい。

 

 私は刹那で踏み込むと――男の左腕に手刀を叩き込んだ。

 その衝撃で、男は大きく吹き飛ぶように転ぶ。手加減はしていたので、せいぜい骨が折れたくらいだろう。悲鳴を上げる男の姿に、私は満足し――

 

 次の敵に狙いを定めた。

 角材を持っていたほうの男である。彼は呆然と立ち尽くしていたが、私が顔を向けたのを見て即座に遁走しはじめた。だが、そんな脚力では私の身体能力から逃れられるはずもない。

 

「ぎゃぁッ」

 

 追いついた私は同じように手刀を浴びせ、相手の片腕にダメージを与えた。お仕置きはこれくらいで問題ないだろう。

 二人の処理を終えた私は、最後に残った男のほうに近づいていった。

 ルフたちをここにおびき寄せた主犯は、絶望の表情を浮かべながらじりじりと後退していた。森の中で猛獣と鉢合わせた人間は、もしかしたらこんな態度を取るのかもしれない。

 

「や……やめてくれ……」

 

 懇願しながら後ろに下がる男のもとへ、私はまっすぐ距離を詰めていく。やがて手の届く範囲まで来たとき、私はほほ笑みながら言った。

 

「――物乞いをしやすくしてあげるわよ」

「なっ……」

 

 男が声を発した瞬間、私はその片足に蹴りを入れていた。もちろん全力ではなかったが――骨を破壊するには十分な威力だったのだろう。絶叫を上げた彼は、地面に転がり悶えはじめた。

 

「歩くときは松葉杖をちゃんと使いなさい」

 

 そう皮肉を投げかけ、私は男に背を向ける。

 邪魔者は消え去り――あとは、ルフとアイリの二人だけだった。

 

 彼らは私のほうを呆然と、当惑したように見つめている。正義のヒーローが登場したというのに、どうにも反応がいまいちだった。もっと喜んだり感謝したりしなさいよ?

 

「――ずいぶん無様でしたわね、ファージェル様」

 

 そんな言葉を放つと、ルフは訝しむように目を細めた。

 

「……いつから見ていたんだい?」

「あなたがノコノコと女の子を連れて貧民街に入りこむところから、ですわ」

「……ずっとじゃないか」

 

 本当はもっと前から覗いていたのだが、まあわざわざ言うこともないだろう。

 

「それだったら、もっと――」

「――もっと早く助けに来いと?」

 

 彼の発言を先読みして、私はそれを口にした。おそらく正解だったのだろう。ルフは決まりが悪そうに押し黙ってしまった。

 

 なるほど、彼の言うことも一理ある。

 私がさっさと介入していれば、ルフが暴行を振るわれることもなかっただろう。そもそも、迷子になった段階で姿を現して道を教えていれば、彼らは円満にデートを続けられていただろう。

 だが――

 

「――あなた、勘違いをしているわよ」

 

 私は敬語を捨て去って、嘲笑を見せた。

 

「あなたを助ける義務など私にはない。犯罪に巻き込まれた責任は、あなた自身にあるのよ。男の嘘を見抜けなかった。そして、男たちを魔法で撃退することもできなかった。そう――」

 

 ――あなたが弱いからいけないのよ。

 

 はっきり言った直後、ルフは表情を消して顔をうつむかせた。何も言い返せまい。自分の無力さは、彼自身もはっきりとわかっているのだろう。

 

「……きみの言うとおりだ。すべてはボクの責任だな」

「ええ、そうよ。あなたのせいで――彼女も危ない目に遭った」

「…………」

 

 無言になったルフから、アイリのほうへと視線を移す。彼女は申し訳なさそうな顔色をしていた。

 

「最初から治安のいいフリス地区で遊んでいればよかったものを」

「それは……」

「ああ。学園のメイドと本気でデートをしている姿なんて、見られたら一大事かしらね」

「…………」

 

 嫌味らしく言ってやる。周りから見れば、けっこう様になっていることだろう。意外と私は、役者に向いているのかもしれない。

 

「まさかまさか、領主の長男が――ただの平民と遊ばれるなんて」

「いや……」

「女遊びもほどほどにしなさい。貴族らしく振る舞いなさい。……これからは、付き合いをやめることね。二人とも」

 

 私は皮肉げにほほ笑んでみせた。

 

「今日のことを学園に報告されたくなければ――いま、ここで。彼女と縁を切ることを誓いなさい、ルフ・ファージェル」

 

 そう言った瞬間、彼は顔を上げて険しい表情を浮かべた。私を睨むかのような目つき。感情を宿した瞳がそこにあった。

 

 いい眼だ。

 そういうのは好きよ。

 

「いずれ爵位を継ぎ、領地を治める立場になるあなたは――こんな平民の娘と遊んでられないのよ。まさか、貴族の立場を棄てて駆け落ちするわけでもないでしょう? 現実をしっかり見据えて、貴族らしい行動を心掛けなさい」

「…………」

「さあ、今すぐ。私と同じ、貴族としてのプライドがあるのならば――彼女との絶縁を誓いなさい」

 

 視線を合わせ、問いかける。あなたの本心は、どの程度のものかと。

 私の要求に頷くのなら、所詮はそれまでということ。あとは勝手に、ありふれた貴族としての生を選べばいい。

 だが、世の中の道理に逆らうというのなら――

 

 

 

「……それだけは、しない」

 

 

 

 言葉を絞り出したルフは、苦渋を顔に浮かべていた。葛藤がそこにあったのは、言うまでもなかった。

 

「……なぜ?」

「ボクは彼女が好きだからだ。愛する人とは、別れたくない」

「自分勝手な考えね。貴族としての恩恵を受けておきながら、貴族としての規範を破るなんて」

「本当に好きな人を選ぶことが、貴族として失格者というならば――」

 

 一呼吸を置いて、ルフはたしかに言いきった。

 重要で、重大な言葉を。後戻りのできないことを。

 彼は――

 

「ボクは――貴族じゃなくていい」

 

 はっきりと、そう断言したのだ。

 自分の身分を否定することの意味を、ルフはよくわかっているはずだ。それでも、アイリがいる前で啖呵を切った。もう前言撤回はできない。自分の意志を――貫き通すしかなかった。

 

「……口だけは達者なこと」

 

 私は侮蔑するような口調で言うと、体をアイリのほうへ向けた。そして彼女に近寄ると――その華奢な腕を掴む。

 

「学園へ戻るわよ。当事者として、あなたも一緒に報告に来てもらうわ」

「……っ! オルゲリック様……!」

 

 アイリは抵抗するような素振りを見せ、声を荒らげた。

 

「その……! 今日のことは……誰にも言わないでください……! 私とルフ様の間柄については……秘密に……」

 

 どうかお願いします、と懇願する彼女の腕を引っ張り、無理やりに歩かせる。少女の力では抵抗できるはずもなかった。私の乱暴な行為をとめられるのは――

 

「……やめろ! 嫌がっているだろ!」

 

 怒気を含んだ声をぶつけられた。

 そちらを振り向くと、ルフが怖いほどの形相で私のことを睨みつけている。敵意に満ちた表情だった。

 

 ああ――そういうのがいいのよ。

 私は内心で笑いながら、“悪役”を演じて彼を挑発した。

 

「たかが平民の娘のために……そんなに怒ることもないでしょう?」

「うるさい! さっさと腕を放せ!」

「そんなに、この娘が大事なら――」

 

 ――力ずくで取り返してみなさい。

 

 私は彼を見据えながら、そう言い放った。

 

 二人の仲を引き裂こうとする敵が存在するならば。

 己の持つ力を駆使して邪魔者を排除するしかない。

 愛する者に危害を加えようとする輩がいるならば。

 その害意に立ち向かい脅威から身を守るしかない。

 

 単純明快だ。

 必要なのは力だ。

 大切なものを守護し、悪意を打ち砕くのは――強い力にほかならない。

 

「……きゃっ!」

 

 私はアイリを後方に突き放し、ルフと対峙した。

 彼女とともに在りたいと言うのならば――

 

「――私を排除してみせなさい、ルフ」

 

 堂々と腕を広げ、彼女のもとへ向かう道を拒む。

 意図は伝わっていることだろう。

 いま必要としているのは、物理的な力なのだと。

 私を強制的に退ける、強い力がなければ――アイリにたどり着けない。

 

「さあ、杖を抜きなさい」

 

 私は静かに命じた。

 そこに籠められた殺意に、ルフも本能的に気づいているはずだ。

 ポケットから杖を引き抜くと、彼は――なんとも言いがたい表情を浮かべた。

 

 恐怖と闘志が入り混じったような。

 臆病さと勇敢さが混濁したような。

 そんな情けなくも、格好いい表情。

 

 ――及第点、といったところだ。

 

「どうしたの? 魔法を使わないなら――」

 

 こっちから仕掛けるわよ。

 そう言って、拳を握った時――ルフは反射的な動作で杖を振るった。死の気配を感じ取ったがゆえの動きだった。

 

 ――放たれたのは風魔法。

 それは攻撃手段としてスタンダードなものだった。風は身近に存在していてイメージがしやすいため、多くの魔術師が具現化させやすいのだ。また致死性も低いため、護身手段としても一般的に推奨されていた。

 もっとも――それが有効なのは、普通の人間が相手に限るのだが。

 

「どうして……」

 

 風が胴体に直撃した――

 それなのに、私はたじろぎすらしていない。

 その事実に、ルフは愕然としているようだった。

 

「……本気を出さないなら、殺すわよ」

 

 そんな警告とともに、一歩踏み出すと――

 次の魔法が、私の顔面を直撃した。

 

 ボクサーの本気のパンチを喰らったら、これくらいの威力だろうか。

 常人なら即座に脳震盪を起こしそうなものだが――

 残念ながら、私の脳を揺さぶるには弱すぎる威力だった。

 

「バカな……」

 

 呟くルフを気にも留めず、私は拳を構えた。

 ボールを投擲するかのように、大袈裟な動作で腕を引き絞る。

 素人のルフでさえ理解できるだろう。私がこれからパンチを繰り出そうとしているのは。

 

「……ッ!」

 

 死の一撃が迫っている。

 そう悟った彼は、もはや護身術のそよ風などに頼っていられなかったのだろう。

 放たれたのは、風の次にイメージしやすく、かつ殺傷力の高い攻撃手段――

 

 紅炎が顕現した。

 至近距離から向けられた火の脅威が、私の顔面に襲い掛かる。

 だが炎への対抗策など――私はとうに身につけていた。

 

 拳を咄嗟に手刀に変え……上から下に、切り伏せる。

 空を裂けば、すなわち風となり。

 風は炎を逸らし、四散させる。

 

 強い熱気に、頬を撫ぜられながらも。

 ――わが身は火傷ひとつ負うことなく、そこにあった。

 

 

 

「なんだよ……それ……」

 

 ルフには手刀の影さえ視認できなかったのだろう。気づけば炎が断ち切られ、消し去られていたように思えたはず。彼の目からすれば――それはまるで、“魔法”のように見えたのだろう。

 

 もはや呆然と立ちすくむ彼のもとへと、私は近づき――

 反応も許さない回し蹴りで、その手に握られていた杖を弾き飛ばした。

 

「…………っ」

 

 無手となったルフに、もう魔法は使えなかった。それはつまり――貴族としての力を失ったということ。今の彼の能力は、平民のそれとまったく同じだった。

 

「――これでもう、あなたが脅威に対抗する手段はない」

 

 私は淡々と告げ、背を向けた。

 

「そんな軟弱な体では――好きな女性どころか、自分の身さえ守れないでしょうね」

 

 ルフ自身もわかっているだろう。自分の弱さ、甘さを。世の中の道理に背いて己の道を進むには、大きな困難があることも知っているはずだ。

 だから選択肢は二つしかなかった。

 

 理想を、欲望を諦め、周りに逆らうことなく生易しい生活を送るか――

 それとも、待ち受けている壁を打ち砕き、乗り越える力を身につけるか。

 

 ……ここが決め所よ。

 

「さあ、アイリ。こんな弱い男とは縁を切って、忘れなさ――」

 

 そう言いながら、彼女のもとへ近づいていった時だった。

 

 後方から気配を感じた。

 見なくともわかる。ルフが駆け出し、私に目掛けて敵意をぶつけていたのだ。

 その手には杖は握られていない。だから、彼にできることは――生身での攻撃しかなかった。

 

 そんなもので、勝てるはずがないのに。

 それでも、彼は諦めはしなかったのだ。

 

 その気概は――悪くない。

 

 私はふたたび彼のほうに踵を返し――飛んできた右拳を、左手のひらで受け止めた。

 

「……ぐっ!?」

 

 弱いパンチだった。

 そもそも腕の筋肉量が少ないルフでは、まともな威力の打撃を放てるはずがない。

 立ちはだかる壁を破壊することなど――今の彼にとって、とうてい無理なことだった。

 

 私はそのまま彼の拳を、手のひらで包み掴む。ルフは必死で引き戻そうとするが、力の差がありすぎて完全に右手の自由を奪われていた。

 

「は……放せッ!」

「……綺麗な手ね」

「は……はぁっ?」

 

 唐突な言葉に、理解が及ばなかったのだろう。ルフは気の抜けたような表情で、私の顔を見つめていた。

 触れた手の感覚。それだけで私にはわかっていた。ルフの手は少しも荒れておらず、柔らかい肌だった。

 その繊手は――手にたこを作っている私のものとは大違いだった。

 そして……その差異は、強弱の象徴でもあった。

 

「貴族として生きてきたからこそ……この手がある」

「…………」

「覚悟しなさい。本当に我が儘を貫くのなら、身分も金も、そしてその綺麗な手も棄て去るかもしれない」

「……わかっているさ」

 

 そう呟くルフに、私は鼻を鳴らして笑った。

 

「――親から勘当される前に、もう少し体を鍛えておきなさい」

「な……うわっ!?」

 

 掴んでいた拳を引っ張り――後方へと放り投げるように、彼の体を突き放した。

 いきなりの動作に転げそうになったルフだが――ちょうどその先にいたアイリが、体を支えてやれたようだ。体を密着させた状態のまま、二人は私のほうを呆然と眺めていた。

 

「……生きるには強さが必要だということを、ゆめゆめ忘れないことよ」

 

 若きカップルに告げた私は、彼らに背を向けた。

 

 あとは私が関わることもないだろう。弱さを自覚し、それからどう未来を目指すかは、ルフ自身が決めることだ。そして、アイリがそれに付き添うかどうかも自由にほかならない。

 貴族の家を抜けた子供の例など、いくらでもあった。世の中には無限の可能性が存在する。ルフの抱いている願望など、努力次第でどうにでもなることだった。

 

 ――せいぜい、がんばりなさい。

 

 

 

 

 

「……応援するわよ、二人とも」

 

 そう言い残し――私はルフとアイリの前から姿を消すのだった。

 



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武闘派悪役令嬢 024

 

「――オルゲリックさんっ!」

 

 またこの展開?

 と、強烈な既視感を抱きながらも。

 私は授業前に駆け寄ってきたアニスを、辟易した目で見据えた。

 

 声をかけてきたということは、たぶん相応の用件があるのだろう。この前はルフにナンパ(という名の偽装工作)をされていたことに対する“相談”とやらだったが――今回はいったいなんなのか。

 明らかに迷惑そうな私の様子に、アニスはおずおずとしながらも言葉を口にした。

 

「そ、その……! わたし、いろいろ考えてみたんです!」

「は、はい……?」

 

 何を?

 

「だから、この前の……上級生の方のことですよ!」

 

 えっ?

 

 不意を衝かれた私は、呆然としたような表情を浮かべてしまった。だが、徐々に頭の理解が追いついてくる。上級生――それはルフのことにほかならなかった。

 そしてアニスは、ずっと彼の存在について考えを巡らせていたらしい。

 

 …………。

 そういえば、ルフが学園のメイドと付き合うためにあえて軽薄な男を演じていたことは……私以外にはまったく知られていないんだった。

 つまり、一連の裏事情を把握していないアニスからすると――ルフ・ファージェルという男は自分に気があって声をかけてきた人物のままなわけで。

 ……もしかして、そういうこと?

 

「やっぱり他人というのは……付き合ってみないと、本当の人柄というのは見えてこないわけですし」

「あっ……」

「人のうわさとか外聞とかって、アテになりませんよね?」

「いや、その」

「せっかくお誘いを頂いたんですから……一緒にお茶をしたりして、話をしてみるのも悪くないと思うんです」

 

 オルゲリックさんもそう思いますよね? と純真な瞳で尋ねてくるアニスちゃん。

 

 はい。人生は何事も経験が大事なので、ナンパにちょっと付き合ってみるのも良いとは思います。

 うん……。

 

 でも、それ演技だから! 本人はぜんぜんその気がないから! 真面目に考えちゃダメだって!?

 

「お……およしなさい」

「えっ? ど、どうしてですか……?」

「どうせあんなヤツ、ロクでもない男に決まっていますわッ! 表では何人も粉をかけておきながら、裏では本命の女性とよろしく付き合っている最低などクズでしょうよッ! 貴族の風上に置けない悪徒でしてよッ!」

 

 本人がいないところで散々な罵り方だが、真実はそれほど間違っていないから私は許されると思う。

 辛辣な言葉でアニスをとどめようとした私だが――不運なことに、彼女はあまり納得していない様子だった。

 

「そ……そんなふうに決めつけるのは、よくないですよ!」

 

 などと良い子ちゃんぶって反論してくる。くっ、性根が優しすぎるのよ。まったく面倒くさい!

 

「ほ、ほら……もっとマシな殿方がいっぱいいるでしょう。お付き合いするなら、そういう方と仲良くしなさい」

「……たとえば、誰ですか?」

「え、ええっ? そ、その……フォルティスとか?」

「なんで自分の婚約者を挙げるんですか!?」

 

 しまった、咄嗟に出てくる身近な人間が彼しか思いつかなかった……。

 というか、アニスに縁がありそうな男の影がまったくないんだけどっ!? どうなってるのよ、この世界……。

 焦って説得ができない私に対して、アニスは覚悟を決めたような瞳で言い放った。

 

「とにかく……次にお会いしたら、あの上級生の方とお話をしてみたいと思います」

 

 ……これもう止めるの無理じゃない?

 アニスちゃん、その男のルートはこの世に存在しないのよ……。そう言いたいのを抑えた私はため息をつき、もう諦めることにした。

 

「……勝手になさい」

「はい! がんばります!」

 

 意気揚々と頷いたアニスは、そのまま自分の席へと戻っていった。

 

 ああ、何も知らないって悲しいことね……。

 私は彼女を哀れみながら、その日の授業を受けるのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 で、意外とアニスとルフが鉢合わせるのに日にちもかからず。

 ある日の放課後、たまたま通りすがったルフに対して――アニスは声をかけて呼び止めた。

 

 ルフのほうは例の出来事があったからか、もうナンパ男を演じることはやめているようだった。今後は小手先のごまかしに頼らない、ということだろう。その点はある程度の成長がうかがえた。

 

「あの……わたしのこと、覚えていらっしゃいますか?」

「えっ? ……あ、ああ。きみか」

 

 向こうから話しかけてくるとは思っていなかったのか、ルフは困惑した感じで対応していた。

 はてさて、どういう展開になるのやら……。

 

 そう思って眺めていると、私の隣で眼鏡をかけた小娘がぽつりと呟いた。

 

「不審者」

「うるさいわね」

 

 廊下の曲がり角の陰から二人の様子を覗いていた私は、ミセリアのツッコミを無視して観察を続けることにした。

 

 アニスは「よかったら、今度……お茶でも飲みながら話してみませんか?」と、ルフに直球なアピールをする。女性側から誘ってくるのは完全に予想外だったらしく、彼は明らかに動揺を見せていた。ナンパはただの演技だったので、さぞや本人も対応に窮することだろう。

 

「いや……その……」

 

 口ごもっているルフだが、まさか相手をその気にさせるような発言ができるはずもない。彼が愛する女性はアイリただ一人なのだから。

 ――おそらく彼の心境としては、申し訳なさが大きかったのだろう。

 ようやく口を開いたルフは、真剣な表情で謝罪の言葉を紡ぎはじめた。

 

「……すまない。きみに声をかけたのは、本心じゃなかった。ボクにはすでに恋人がいて……きみと仲良くすることはできないんだ」

「え……」

 

 アニスはものすごくショックを受けたような表情で固まった。

 あっちからナンパしてきて、悩んだ末にオッケーを伝えたら、どういうわけか断られた。そんな悲惨すぎる状況に陥ったら、頭が真っ白になるのもやむなしである。うーん、悲劇のヒロイン……。

 

 さすがにアニスのことが可哀想だと思ったのか、ルフは苦しそうな表情でその言葉を絞り出した。

 

「……腹立たしいと思うのも仕方ないかもしれない。本当に悪かった。その……もし、きみの気が収まらないなら――」

 

 一発、殴ってくれても構わない。

 などと男らしくルフは言いきった。自分の非に対する報いを甘んじて受け入れる姿勢は、まあまあ評価できる部分だろう。

 さて、問題はアニスのほうだが――

 彼女はしばし無言だったが、やがて大きく息をつくと「わかりました」と静かに頷いた。

 

 ……あれ?

 頷いちゃうの?

 

「――いきますよ」

 

 アニスはそう告げると、右腕をしっかりと引いた。

 ビンタでもするつもりなのかと思ったが――私はすぐに違うことに気づく。

 手は開いておらず、甲を下向きにして構えていたのだ。

 

 私にとっては、見まごうはずもない。

 それはまさしく……空手の正拳突きの姿勢だった。

 彼女はすぅっと呼吸をすると――

 

「えーい!」

 

 ――上段へ向けて拳を繰り出したッ!

 腕の回転に加えて、腰の捻りも合わせた理想的なパンチ……ッ!

 それはまっすぐ、ルフの首元へと飛んでいき――

 

 ちょうどアゴの先端を、拳頭が刈り取るかのように打撃したッ!

 

 絶妙な部位への攻撃を受けたルフは、ぐらっと頭を揺らすと……そのままバタリと後ろに倒れ込んだ。打顎により脳が揺り動かされ、脳震盪に陥ったのだろう。決闘であれば間違いなく勝負ありの一撃だった。

 

 …………。

 たぶん狙ってやったわけじゃなくて、まぐれなんだろうけど。

 アニス……あなた、どこでそんな拳の打ち方を学んだのかしら?

 

 私がそう思っていると、また隣からぼそりとミセリアの声が発せられる。

 

「悪影響」

「はぁ? 私、べつにあの子の前で人をぶん殴ったりしてないし――」

「風魔法の授業」

 

 アッ、そういえば正拳突きの手本をそれで見せていた……!

 ということは、見よう見まねで打撃のフォームをコピーしたということだろうか。ううむ、なかなかの才能を感じるわね……!

 

「だだだ、だいじょうぶですかーッ!?」

 

 パンチの威力が自分でも予想外だったのか、彼女は取り乱しながら倒れたルフに声をかけていた。

 そんなアニスの様子を眺めながら、やっぱりあの子も体を鍛えてみるべきなのでは、と私はひそかに思うのだった。

 

 

 

 

 

 ――ちなみに女子から一発KOを喰らったことが新しいうわさになり、ルフの評判がさらに下がったのは言うまでもない。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 

「……で、ルフに説教をしてやったと?」

 

 食堂棟の二階ホール。その窓際のテーブル席でチェスボードを広げながら、私はフォルティスと雑談を交わしていた。

 話題となっていたのは、ルフのうわさにまつわる顛末である。女遊びの激しさをわざと演じていたこと、平民のメイドと本気で恋をしていたこと、そして――貴族の身分を失ってでも彼女を選ぶと言い放ったこと。

 

 それを包み隠さず話したのは、単純にフォルティスの人柄を信用してのことだった。彼は軽はずみに、友人が不利になるようなことを口外するタイプではない。それに古臭い価値観を重んじる主義でもないので、おそらくルフに対してはある程度の共感を示しているはずだった。

 

 私は紅茶で唇を湿らすと、チェスの駒を動かしながら言葉を返した。

 

「……わたくしとしては、発破を掛けたつもりですわ。甘い考えは持たずに、覚悟して道を歩みなさい――と」

「ふぅむ……」

 

 フォルティスはため息が混ざったように呟くと、チェスの盤面を睨むように見下ろした。私のほうが優勢に進めているので、次の手にかなり悩んでいるのかもしれない。

 

 あるいは――ルフのことについて考えているのか。

 故郷では縁のあった友人として、いろいろと思うところはあるのだろう。それに道理を違えた恋というのは、フォルティス自身にとっても他人事ではなかった。私だけが知識として知る“世界”において、本来の彼は婚約者よりも別の女性を好きになっていたのだから。

 

「…………」

 

 フォルティスはうつむいたまま無言だった。その瞳はチェスボードに視線を向けているが――どこか遠いところを見つめているようにも感じられる。

 じっくりと長考した彼は――次の一手を動かしながら、私に言葉を投げかけた。

 

「――ルフとは、デートをしたんだな」

「……はぁ?」

 

 私は間の抜けた声を上げてしまった。まさか、話がそこの部分に戻るとは思っていなかったのだ。

 たしかに、ルフを脅してデートをさせたことについては説明していた。だが、そこはとくに掘り下げるような点でもないのではなかろうか。

 相手の意図を測りかねた私は、疑うような目つきでフォルティスの表情をうかがった。

 

「……人物評を確かめるために彼を誘っただけでしてよ。深い意味はありませんわ」

「ああ……わかっているさ」

 

 真剣な面持ちで頷いたフォルティスは、すぐに言葉を付け加えた。

 

「ただ――俺たちは一度もデートをしたことがない、と思ってな」

 

 私は口にしようと持ち上げていた紅茶のカップを、おもわず静止させてしまった。

 まさか……そんなことを気にしているとは、考えもしなかったのだ。

 婚約者、という間柄は親が決めたことであり――

 彼も私には大した感情を抱いていない――そう思っていたのだが。

 

「――そうですわね」

 

 私はようやく紅茶に口をつけ、ただ事実に同意する言葉だけを返した。

 それで話が終わるのなら、それまでのことだ。

 だが、もしフォルティスがそれ以上のことを言うのならば――

 

「ヴィオレ」

 

 彼が名前を呼ぶ。意志を感じるような声色だった。その先の言葉を予想するのは――ゲームの展開を考えるよりも難しい。

 私は思考を巡らせつつも、チェスの次なる一手を指すために駒を掴んだ。

 

 その時だった。

 フォルティスは何気なく……私に言葉を投げかけた。

 

 

 

「――今度、デートをしようか」

 

 私はまた、途中で動きをとめてしまった。

 わが耳を疑いたくなったが、脳はしっかりと言葉を認識している。

 

「……いいだろう、たまには」

 

 空中に持ち上げた駒を――次なるマスに着地させることなど忘れ。

 私はゆっくりと、無言のまま、彼の発言の意味を咀嚼する。

 

 デートするということ――それは一般的には、仲の睦まじい間柄を示す行為だった。

 そして私たちが婚約者同士ということを考えれば――

 私がルフとしたような、ただのお遊び程度の外出とは比べ物にならないほどの意味を持つことだろう。

 

 だからこそ――

 

「俺はしてみたい……お前とのデート」

 

 はっきりと、聞き間違えることなどない、そんな誘いを受け――

 

 

 

 私は湧き上がった感情を、抑えることをやめた。

 

 

 

 ――バキッ!

 

 乾いた音が響き渡った。

 それがチェスの駒をへし折ったことによるものだと気づいたのは、おそらく目の前にいたフォルティスだけだったろう。

 木製の駒など、少し力を入れただけで壊れてしまう。世の中は脆く弱いものばかりだった。もっと強いものが……私は欲しいのだ。

 

「ヴィオレ・オルゲリックとのデート……」

 

 私は真っ二つになった駒を、丸ごと手の中に握り込んだ。

 そして笑みを浮かべながら、フォルティスに語り掛ける。

 

「できるわよ」

 

 高ぶる感情を“気”に変え――その右手に籠めた。

 

 筋肉は膨大な力を生み。

 皮膚は頑強の鋼と化す。

 

「する方法が一つだけある」

 

 それは――

 

「――無理やりデートに連れていく」

 

 私は拳に、あらんかぎりの握力を宿らせた。

 力の発現によって――チェスの駒は一瞬で砕かれ、無価値な木片と化す。

 

「嫌がる私の首根っこをひっつかまえて――引きずり出せばいいのよ」

 

 この手の力に曝されたものは、形を保つことさえできない。

 ただ握力だけで――チェスの駒は押し潰され、原形がないほど破壊されていた。

 もし、私が握り込んだものが人体の四肢であれば――

 結果は言わずもがなであろう。

 

「拒否するなら引っ叩き、張り倒し、ぶん殴り――服従させる」

 

 嫌も応もなく。

 そう――暴を(もっ)て暴に()うべし。

 誰よりも、何よりも強い力があれば。

 どんな欲望だって、叶えられるのだ。

 

「そうすれば、フォルティス――」

 

 私はニィッと笑顔を歪めた。

 とびっきり満面の笑みを。

 わが婚約者へと向けて。

 

「デートもダンスも……思うがままにできるわよ」

 

 ――右手の力を抜き、拳を広げる。

 粉々になったチェスの駒の残骸が――盤上に砂のようにこぼれ落ちた。

 

 人間の命をたやすく奪うような、圧倒的な暴力の誇示。

 フォルティスは表面上は無表情を取り繕っていたが……耳を澄ませば、その心臓が激しく高鳴っていることがわかる。

 彼は――恐れ、怯え、慄き、臆していた。

 

 その様子を一笑した私は――椅子から立ち上がって背を向ける。

 何も言うことがないのなら、これ以上は相席するのも時間の無駄だった。

 

 ホールから退出するするために、歩きだした私は――

 

 

 

「――ヴィオレッ!」

 

 

 

 フォルティスの叫び声に――後ろを振り返った。

 彼は額から汗を流しながらも、私の顔をはっきりと見据えている。その瞳には、強い感情の色が宿っていた。

 

「……どうなさいました? デートのことですの?」

 

 私は口調を戻して、素知らぬ顔でそう尋ねた。

 彼は何かを言わんとしかけたが、すぐに思いとどまったように閉口する。そして苦しまぎれのように、その言葉を絞り出した。

 

「チェス……」

「……はい?」

「チェスの駒……あとで弁償しなきゃダメだぜ」

 

 ――本当は別のことを言いたかったのかもしれない。

 だが、はっきり告げるほどの勇気はなかったのだろう。

 

 それでもいい。私を呼び止めただけでも――彼は十分な勇者だった。

 そう……婚約者として認めてやってもいいくらいには。

 

「――そのとおりですわね」

 

 私はフッと笑い――その場を立ち去る。

 

 

 

 ――暇な時に、デートくらいはしてやってもいいだろうか。

 そんなことを、ちょっとだけ思いながら。

 







 ツンデレ。



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武闘派悪役令嬢 025

 

 ――本を日常的に読む学生というのは、はたしてどの程度いるのだろうか。

 私は図書館へ向かいながら、ふとそんなことを考えた。

 

 ミセリア以外に本を読んでいる学生の姿は、ぶっちゃけ数回しか見たことがない。なぜ読書がそれほどまで不人気かというと、たぶん本を確保すること自体が大変だからだろう。そもそも図書館は貸出不可の書物が多く、プライベートで本を読んで楽しむのならば、街の本屋から自費で買ってくるしかなかった。

 そして出版物というものは、この世界ではかなり値の張るものである。一枚刷りの新聞程度ならば安価だが、きちんとした体裁の本となると相応の額となるのが普通だった。私のように仕送り金の多い学生なら本をいくらでも買えるが、大多数の子女たちはそうでもないのだろう。

 

 ……そういえば、ミセリアはひと月にどれだけ本を購入しているのかしら?

 あの子の実家はわりと金持ちらしく、仕送りはかなりあるようだ。その一方で、服飾などに金をかけている様子はまったく見られなかった。もしかしたら――お金の大半を書物につぎ込んでいるのかもしれない。

 

「……っと」 

 

 そんなことを考えているうちに、私は図書館の扉の前に着いてしまった。

 ここに来るのは、久しぶりのような気がする。

 司書のリベル・ウルバヌスは一般授業を担当しているわけではないので、なかなか顔を合わせる機会がなかった。

 

 挨拶がてらに、少しだけ会話をしてもいいかもしれない――

 そんなことを思いながら、私は図書館の中に入っていった。

 

「……おや」

 

 すぐに来館者に気づいたのか、カウンターで何か書類を記していた青年は声を上げた。

 彼は笑みを浮かべると、落ち着いた口調で話しかけてきた。

 

「……お久しぶりですね、オルゲリックさん。今日は本を探しに?」

「ご機嫌うるわしゅう、ウルバヌス先生。ええ、少し調べものがございまして――」

 

 会話の途中、私はわずかな違和に気づいて眉をひそめた。カウンターの向こうで座っている彼は、以前とちょっとだけ気配が違っている。過去の記憶と照らし合わせながら、注意深く観察すると――

 

「…………」

「あ、あの……どうかされましたか?」

 

 こちらの目線に、どこか怯えるような反応をウルバヌスは見せる。

 私はカウンターの前まで近寄り、彼を真正面に見据えて――

 

 手を伸ばし、その上腕をがしッと掴んだ。

 

「……ひっ!?」

 

 か弱い女子のような悲鳴を上げるウルバヌス。

 しかしながら、この手から伝わってくる感触は――たしかに男性的な筋肉のものだった。

 司書の仕事で、肉体労働の量がいきなり増えるはずもない。ということは、つまり――

 

「何かしていらっしゃいますのね?」

「……よ……夜に、腕立て伏せを少し……」

 

 猛獣に追い詰められた動物のように、ウルバヌスはぎこちない表情を浮かべながら答えた。

 以前にジョークで言ったことを、どうやら彼は真に受けたらしい。

 まあ運動不足だと不健康だし、さすがに以前の彼は貧弱すぎたので、筋肉をつけることは悪いことではなかった。

 

 私はニコっと笑うと、掴んでいた彼の腕をぱっと放した。

 

「あら失礼。以前と比べると、ずいぶん健康的な腕になられたと思いまして」

「あ……あはは……」

「これからも存分に、体を鍛えてくださいませ」

 

 私はそんな言葉を残して、ウルバヌスとの会話を終えた。

 

 …………。

 いやいやいや、筋肉質な図書館司書なんてヴィジュアル的にナシでしょ?

 

 冷静な思考が「ないわー」と頭の中で呟く。彼が肉体を鍛えるのにハマって、モリモリマッチョマンにならないことを私は祈るばかりだった。

 

 ――そんなこんなは置いといて。

 

 私は書庫から一冊の古めかしい本を取り出すと、それを読書スペースに持っていく。前にもデーモンに関する書物を読んでいたが、今回は少し趣を変えていた。本の内容は――古詩やおとぎ話をまとめ、注釈をつけた文学集である。

 関係のなさそうなところは流し読みしつつ、その本のページをひたすら繰ってゆく。

 

 そして、ふいに「(かしこ)き魔の君主」という記述を見つけて目を留めた。

 少し文を遡って確認すると、どうやらおとぎ話の一つのようだ。

 

 ――あるところに男がいて、彼は敵国に故郷の村を滅ぼされ、家族も失ってしまった。男は復讐を願ったところ、その声に応じて魔界からデーモンが現れた。偉大なる魔界の支配者の力を借りた男は、敵国をたやすく滅ぼし、みずからが新たなる王になり上がった。しかしデーモンは、復讐を果たした男のもとから消え去ってしまった。強大な後ろ盾を失ってしまった男は、すぐに反乱を起こされて殺されてしまった。

 

 要約するとそんな感じだが、とくに目新しくもないありがちな物語である。悪魔の力に頼り、あとでしっぺ返しを食らうというパターンの物語はいくつもあった。おそらく教訓的な意味も込められているのだろう。

 ただデーモンが出てくる複数のおとぎ話を見てみると、共通点が一つ見られた。それは登場の仕方である。先の物語のように、“願い”に反応して人の前に姿を現すという描写のある作品が大半を占めていたのだ。

 

 それだけだとメフィストフェレスのような悪魔に近い印象だが、狡猾な策士という描かれ方はあまり見られない。むしろ逆で、圧倒的な破壊をもたらす武力の化身というのが主流だった。

 そして成立年代の古い物語ほど、デーモンの存在は畏敬すべき貴人のような表現がなされている。

 そう、まるで現代の貴族のように――

 

 

 

「ほう……古い本に興味があるのかね?」

 

 

 

 背後から、そんな声をかけられた。

 むろん近寄ってくる気配には気づいていたので、それに驚きもしない。

 わずかに笑みを浮かべると、私は顔をそちらへ向けた。

 

「――あら、こんにちは。……ラボニ先生」

 

 そう挨拶すると、初老の眼鏡をかけた男性は穏やかな表情を浮かべた。

 

 ――フェオンド・ラボニ。

 歴史学などを担当している彼とは、授業で何度も顔を合わせている。そして……“夢の中”でも数えきれないほど。もっとも後者は、私しか知りえないことだけれども。

 デーモンを現世に()び出したがっているラボニだが、少なくとも学園で姿を見るかぎりはいたって普通の教師だった。振る舞いや語り口は紳士的で、尊敬すべき人柄としか言いようがない。とても犯罪行為に走るような人物とは思えなかった。

 

 とはいえ人の内心など、そう簡単に理解できるわけもない。

 表には出さない胸の内で、何を考えているかはわからなかった。

 

「……それは、古代詩などをまとめた文学書かな」

「大正解ですわ。さすが先生、お詳しいのですね?」

「歴史を研究する身としては、文学にも精通してなければならぬからね」

 

 ラボニは微笑しながら話す。

 おっしゃるとおり、文学は歴史にも深く関与する学問だった。その成立した時期や、文章の描写から、当時の世相をうかがったりすることができる。ゆえに歴史学が専門の彼が、文学にも詳しいのは当然の道理だった。

 

「しかし……なぜ、そんな古い詩に興味を?」

「興味がありまして。わたくしたちが“デーモン”と呼ぶ存在が、はたして当時はどのようなものと考えられていたか」

「…………っ」

 

 ラボニの笑みが消える。

 目を見張った顔は、まぎれもなく驚いている様子だった。

 

 だが――次の瞬間、生まれたのは。

 ――まるで無邪気な子供のような、屈託のない笑顔だった。

 

「ほう……! めずらしいことに興味を持っているのだね……! それは私も、ずっと昔から疑問に思っていたことだよ」

「デーモンについても研究なさっていたのですか?」

「ああ、それなりにね。過去の書物を漁りつづけ、調べつづけ……彼らのことを探求してきたものだ」

「よろしければ、先生の知識をお聴きしても?」

 

 そう尋ねると、彼は「うむ!」と嬉しそうに頷いた。

 

「よいかな。きみたち若者がデーモンという単語を聞くと、邪悪なる異世界の存在、という印象を抱くかもしれないが……」

「違いますの?」

「真実はまったく異なるのだ。千年以上前、つまり古代の時期に成立したと思われる詩や物語を読み解けば……デーモンがただ人間の敵として存在していたわけではないことがわかる。人間よりはるかに強く、逞しく、そう……上位的存在として、彼らは世界に降り立っていた」

「わたくしたち人間は、デーモンに支配されていたと?」

「そう解せなくもない。人間がデーモンに打ち勝つ――そのような描写は、古代詩の中ではいっさい見当たらないからね」

 

 数百年前に成立した騎士物語の中には、主人公の騎士が邪悪なデーモンをやっつけたりするようなストーリーがあったりするが――

 どうやらデーモンが実在したとされる古代時期に書かれた物語には、そうした人間の優位性は描かれていないらしい。もし当時、デーモンが人間を服従させるような上位種として存在していたのならば、人間がデーモンを打倒するような物語がないのも頷けることだった。

 

「――私は五年ほど前に、この国の南端にある遺跡を調査したことがある」

「遺跡……?」

「古代に建てられたとされるものだ。発掘品はほとんどなかったが――遺跡の奥にあった壁画が素晴らしいものだった」

「何が描かれていたのですか?」

「中心におそらくデーモンと思われる、力強い男性形の人物が描かれており――それを崇めるように、多数の人間たちが周囲に描かれていたのだよ」

「……まるで、神様みたいですわね」

「そう……! そうなのだよ。彼らはけっして“悪”ではないのだ。勝手に後世の人間たちが、デーモンの在り方を捻じ曲げたのだよ」

 

 ラボニは興奮した様子で、さらに言葉を続ける。

 

「そして……もっと重要な事実があるのだ。古代の文学や書物に記されている――いや、“記されていない”という事実が」

「…………?」

「魔法だ。魔法だよ、オルゲリックくん。当時のどの作品を見ても、人間が魔法を使うような描写がいっさいないのだよ。デーモンが超常の力を振るう姿があるばかりなのだ」

「古代人は、“東方”の人々が使うとされる身体強化の魔法を使っていたのでは?」

「その可能性もなくはない。だが、この国や西のフェオート王国で“気術”に言及した古い資料が過去にほとんどないことから考えると、当時は魔法そのものが存在しなかったと考えるほうが自然だよ」

 

 あっ、ちゃんと気の力の名称を把握しているんだ。

 さすがこれだけ研究熱心な学者なら、東の国の魔法技術についても知っていて当然か。

 

 だが――古代に、魔法も気の力もなかったのだとしたら。

 いったい、どこからやってきたのだろうか。

 答えの見つからない私に対して、ラボニはにやっと嬉しそうな笑みを浮かべた。

 

「われわれの持つ、魔法の力がどのように脈々と伝わってきたのか……わかるかね?」

 

 その質問に、目を細める。

 

 魔法。それはある日、とつぜん目覚めるような力ではない。努力で得られるようなものでもない。

 そう……才能。そしてはっきりと言ってしまえば、遺伝によるものだった。

 由緒ある貴族の家に生まれた子供は、もちろん力の強弱はあるものの、ほぼ確実に魔法が扱える。平民の血が混じっていないかぎり、両親が魔術師であれば子供も魔術師なのが理だった。

 では――その魔法の才は、どこからもたらされたのか。

 貴族の血脈。それを、はるか昔まで遡って、行き着くのは――

 

「――東の国には、こんな伝説がある」

 

 ラボニは饒舌な口調で言葉を紡ぐ。

 

(いにしえ)の世を支配した皇帝は、人の身でありながら人を超越した力の持ち主であった。彼は半鬼半人の存在であった。――とね」

「……鬼?」

「東方では、デーモンのことを“鬼”と呼んでいたようだ」

 

 と、いうことは――

 私たち、西方の民の……超常の力を扱う人間の始祖は――

 

悪魔(デーモン)と人間が交わり、誕生した存在。……それが、われわれ魔法を使う貴族の源流だと私は考えている」

 

 ――半魔半人。

 だから“魔法”か。

 ……説得力はある。

 私たちがデーモンの血を引いた、半魔の人間の子孫などということを信じられる者がどれだけいるかは疑問だけれど。

 

「……ラボニ先生」

 

 真実はわからない。

 彼の妄想とこじつけに過ぎないかもしれない。

 だが――そんなことはどうだっていい。

 

「わたくしたちの祖先かもしれない、偉大なる魔の種族――」

 

 ラボニがデーモンに多大なる興味を持ち、そして現世に召喚しようと企んでいる。

 その事実だけで十分だった。

 きっと、この情熱的な研究者であれば――成し遂げてくれるはず。

 

「――いつの日か、この目で見てみたいものですわ」

 

 そう言うと、彼は不敵な表情を浮かべた。

 自信を持ち、臆することなく、堂々と――ラボニは言った。

 

「強く想えば、きっと叶うだろう。数多の物語のように、“願い”を抱けば……ね」

 

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ――強くなりたい。

 

 ずっと、そう願っていた。

 最初は死ぬのを恐れ、脅威から逃れるために、力を欲していた。

 いつしか“気”の力は増し、五体には肉が付き、武は磨かれていた。

 当初の目的は忘れ去り、自身の強さを向上させることを楽しむようになっていた。

 

 ――もっと強くなりたい。

 

 だけど、強くなってどうするというのだろうか?

 手段が目的に転じてしまっている。

 その先に、はたして何があるのか。

 

 己の手足を刃と化し。

 わが肉を鋼へと変え。

 天下無双の力に至り。

 

 待っているのは――

 

 誰もいない境地だった。

 ほかの人間は、一人たりとも立っていない場所。

 峻険な山の頂にたどり着いた時、そこにあるのは楽園ではなく。

 何人も近寄ることのできない、ただ孤独の世界に過ぎなかった。

 

 

 

「…………」

 

 巨大な爪が迫っていた。

 人型だが、人間のそれとはまったく異なる怪物の手。

 その貫手を喰らえば、人体など容易に串刺しにされてしまうだろう。

 

 私はラボニが召喚したデーモンを、刹那の間に一瞥した。

 禍々しい、黒紫の肉に覆われた異形。

 もう何度、“夢の中”で対峙したのかもわからない相手だった。

 

 ――デーモンと人間が交わり、誕生した存在。

 

 ふと、あの時のラボニの言葉を思い出した。

 太古の人間は、このような化け物と子を()したのだろうか?

 姿かたちが違いすぎて、にわかには考えがたい。

 

 だが――

 たしか、そう。

 デーモンは階級が上になるほど、人間と容姿が近くなると文献にはあった。

 

 この目の前にいるデーモンが、せいぜい子爵級だとして。

 もし、侯爵や公爵ほどのクラスのデーモンがいたとしたら――

 

「…………」

 

 意識せずとも、私の左手が動く。

 下からねじり上げたアッパーが、敵の手首に食い込んだ。

 傾けた顔のすぐそばを、鋭利な爪が(かす)める。

 

 打撃で攻撃を逸らす――そんな高度な防御も、呼吸をするようにできていた。

 表情を変えず、息を乱さず、私は軽やかな動作で相手の胸元に踏み込む。

 

 ――正拳中段突き。

 

 その空手の基本技は、デーモンの肉体をえぐり取り、たやすく風穴を開けた。

 

「…………」

 

 しかし、こんな行為に意味はあるのだろうか。

 このデーモンと戯れつづけ、いったいどれほどになるか。

 夢の中の時間は曖昧だった。

 現実では起こりえないほどの戦闘回数を、私はこの幻の場所で繰り返している。

 

 練習にならないわけではない。

 自分の肉体運用を、技術を、最小化させ、最適化させ、洗練されたものへと変えるのには役立つ。

 だが――それだけだった。

 

 面白くはない。

 心は躍らない。

 いったいこの先に何が起こるのか、ワクワクすることができないのだ。

 

 私は欲していた。

 予想を覆すような強者を。

 思いどおりにならないような相手を。

 

 強い存在を――

 

 

 

 ――願う。

 

 

 

「…………」

 

 目を閉じる。

 いつもの夢の中。

 ホールで対峙するのは――あの弱いデーモンではない。

 

 高い爵位を持つ、(かしこ)き魔の君主。

 想像するのだ。

 想像し――創造する。

 

 ここは私の夢の中であり、常識に捉われる場所ではない。

 

 考えろ。

 想え。

 そして願え。

 

 人間に近しい姿でありながら――

 その肉体は人外の膂力を秘め――

 人々に畏怖され、崇められるほどの、圧倒的で超越的な武の化身。

 

「……ッ!」

 

 ――刹那。

 凄まじい気配が、私の全身を強烈に叩いた。

 その痺れと熱に、反射的に目を開ける。

 

 いつもは、見慣れたデーモンが立っている場所。

 そこに……影があった。

 

 人間……?

 いや、違う。

 そんな生易しいものではない。

 生物としての本能が告げていた。

 そこにいるのは――あらゆる存在を屠り去ることができる化け物であると。

 

 ――私より頭一つ分ほども高い身長。

 肌は日焼けしたように浅黒く、より人間に近しい色をしている。

 だが、その身にまとった筋肉は――明らかに人類と違っていた。

 ただ鍛えただけでは、とうてい実現できないような肉付き。

 それはまるで鎧のようであり――同時に武器でもあった。

 

「……悪魔か……鬼か……」

 

 古代の人が、そう形容したのも頷ける。

 男性形の、恐るべき力を宿したデーモンが……そこにいた。

 長く伸ばした黒髪は、毛の一本一本にさえ人外の魔力が籠っているように感じる。

 顔立ちは雄々しく、勇ましく、凛々しく。

 そして……漆黒の瞳は、視線だけで人を殺せそうなほど鋭かった。

 

 強い。

 次元が違う。

 この(デーモン)は……私の知る、何よりも力を持った生物だ。

 

 そう――

 

 

 

 この私よりも、はるかに強かった。

 

 

 

「来なさい……デーモンよ……」

 

 認めよう。

 私は弱い。

 この、目の前のデーモンに比べれば――赤子のようなものだろう。

 

 だけど――

 恐怖は抱いていなかった。

 

 この身が今。

 どうしようもなく震えているのは、怯えているからではない。

 胸に湧き上がる感情は、そう――

 

 

 

 ――歓喜。

 

 

 

「……ッ!」

 

 デーモンの足が動いた。

 それが見えた瞬間――すでに敵は目前に迫っていた。

 

 ……バカげた瞬発力だった。

 何かを考える余裕などなく。

 デーモンが無造作な動きで。

 されど常人には不可視の速度で。

 殴りかかってくるのに対し――

 

 私は……左腕でやっとガードするのが精いっぱいだった。

 

「……っ!?」

 

 雷に打たれたような感覚が走った。

 尋常ではない力の奔流。

 きっと……大量の火薬を爆発させた衝撃を、ただ一点に集中させれば、こんな感じなのだろう。

 

 暴力的な拳を防いだ、左腕の骨が――粉砕された。

 それだけで済むはずもなく、私は空中を舞っていた。

 いや……吹き飛ばされていた、というのが正しかった。

 

 砲弾にされた人間のような状態。

 すぐに、背中に何かがぶつかった。

 ホールの内壁――だが、私は察していた。

 

 そんなものでは、とまらない。

 大砲の弾を建物に打ち込めば、どうなるかわかる。

 そう――壁ごと破壊して貫くのだ。

 

 けたたましい音が響き。

 私の肉体は壁をぶち壊し、そのまま外に投げ出される。

 

 浮遊感。

 ホールは二階だったから、地面に落ちるまで時間はある。

 体中に痛みと、そして――充足感が広がっていた。

 

 なぁんだ。

 まだ……強くなっていいんだ。

 

 そう、山の頂き(最強)はもっと先にあるのだから……。

 

 

 

 私は薄れゆく意識の中、嬉しさを抑えきれず笑みを浮かべた。

 



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武闘派悪役令嬢 026

 

 ――目が覚めた私は、すぐに左腕の痛みに気づいた。

 

 意識が明瞭になるにつれて、伝わってくる痛みも強まってくる。それは明らかに、精神的ではなく物理的な現象による疼痛だった。

 上半身を起こして腕を見ると、左の前腕に腫れができている。あの夢の中で、デーモンの一撃を防いだ部分だった。非現実の世界で受けた傷が、現世にも伝わる――それはじつに荒唐無稽な出来事である。

 

 しかし世の中には、理解できぬ不可思議なことがあるのだ。

 そう……前世の記憶を引き継いでいる私の人格とて、例外ではないだろう。

 

「……治療が必要ね」

 

 明らかに骨折をしている痛みだった。

 だとするならば――医者に診てもらわなければなるまい。

 

 そう、授業以外では久しぶりに――

 ラーチェ・アルキゲネスと顔合わせをしよう。

 私はそう思い、痛む左腕に苦心しながら着替えを済ませて、自室をあとにするのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 医務室に入った時、私が目にしたのは椅子に座って手紙らしきものを眺めているアルキゲネスの姿だった。

 彼はこちらをちらりと見ると、すぐに腕の腫れに気づいたのだろう。便箋を机の上に放り、代わりに短い杖を手に取った。

 

「何があった?」

「お恥ずかしながら、転んでぶつけてしまいまして」

「…………」

 

 アルキゲネスは不審げな目つきをしていたが、詮索よりは治療のほうが先だと判断したようだ。対面の椅子を示し、「座れ」と短く私に言った。

 彼と向かい合うように席に着いた私は、怪我をしている左腕を差し出した。手袋はつけずに来たので、診察には不自由もないだろう。

 

 アルキゲネスはざっと見ただけで、骨折を判断した様子だった。

 立ち上がった彼は、近くにあった小卓を私の前に移動させる。その上に腕を乗せるよう指示され、私は素直に従った。

 

「しばらく治癒の魔法をかけるから、腕を動かさないように。……いいな?」

「ええ、わかりました」

 

 そう頷くと、アルキゲネスは杖の先端を患部に向けた。すぐに魔力の流れが発生し――私の腕に彼の力が侵入してくる。……相変わらず、奇妙な感覚だった。

 

 私はふと、彼の顔のほうをうかがってみる。

 最初に会った時には印象的だった無精ひげは――綺麗に剃られていた。

 あの時の発言が影響したのか、それとも別の要因があったのかは知らないが、アルキゲネスは身嗜みをそれなりに気をつけるようにはなっていた。もともと顔立ちが良かったこともあり、最近は女子学生からの人気はかなり高いらしい。まあ本人は、女性に興味を示すそぶりがまったくないのだけれど。

 

 無言なのも退屈なので、私はふいに口を開いてみた。

 

「ちなみに、どれくらい時間がかかりますの?」

「……骨折の規模にもよるが、十分程度は治癒しつづける必要がある」

「あら、意外と大変なのですね」

「切り傷なら治りは早いが、骨折のような激しい内部の損傷には、治療に相応の時間がかかる。……まあ、俺の能力が弱いという理由もあるが」

 

 どこか自嘲の感じられるような口調で、アルキゲネスはそう言った。

 彼の能力が弱い――それは事実であることを、私は最初から知っている。もっとも、あくまでも“相対的に”という話だったが。

 おそらくアニスが治癒の魔法の才能を開花させれば、アルキゲネスの数倍は強い回復能力を発揮できるだろう。

 聖なる魔力を持っている、という点では彼は天性の才能を授かっていたが、過去の同種の魔力保有者たちと比べればアルキゲネスは天才とは言いがたかった。

 

 とはいえ――それは必ずしも悪いことではない。

 才が高ければ高いほど、力が強ければ強いほど、周りの人間に注視されてしまうものだから。

 

「――先生は、王族の方の診察をすることもあると耳にしましたが」

「……誰から、それを聞いた」

「クラスメイトの女子が、そんなウワサ話をしていたのを聞きまして」

 

 嘘だけど。ただ“知識”があるだけである。

 

「本当なら、とても立派で栄誉あることですわ」

「……断るに断れないだけだ。王宮に足を運ぶのも面倒なくらいでな」

 

 私のあからさまな褒め言葉に対して、アルキゲネスはつまらなそうに言った。

 

 ――傷病を治す力。

 それを欲するのは誰しもなものだが、とくに権力者は人一倍の関心を寄せるものだろう。

 たとえば大土地を所有する諸侯、あるいは――王族といった者たち。

 

 もしアルキゲネスが強い治癒力を持っていたら、あるいはこの学園の教師に落ち着くことなど許されず、無理やりにでも宮廷医師として召し抱えられていたかもしれない。

 権力や財貨といったものに興味がない彼にとっては――ある意味で、才能が低いことは幸運なことだった。

 

「それより――」

 

 アルキゲネスは話題を変えるように、言葉を発した。

 

「……ヴィオレ・オルゲリック。尋ねたいことがある」

「あら、なんでしょう?」

「――魔法は使えるようになったか?」

 

 授業も担当している彼は、当然ながら学生の成績についても把握をしていた。

 だから聞いたのだろう。そう――私のことを心配して。

 見た目は少し強面で、ぶっきらぼうなところもある男だが、その本質はお人好しだった。

 

「……いえ、まったく。努力はしているのですが、残念ながら」

 

 私は堂々とでたらめを口にする。

 するとアルキゲネスは、真剣な表情で言葉を返した。

 

「……俺も昔は、まったく魔法が使えなくてな。ただ、ある時――ちょっとした切り傷に魔力を集中させると、明らかに治りが早いことに気づいた」

「それで、ご自身の才能に気づかれたのです?」

「ああ……自覚してからは、すぐに治癒能力が身についた。もっとも、その力もすぐに頭打ちしたがな」

 

 彼は肩をすくめ、そして――私の顔をまっすぐ見据えた。

 

「……お前は試したことがあるか?」

「何がでしょう?」

「その……自分が聖なる魔力の持ち主だと、考えたことは?」

 

 疑うような口調に、私は微笑を浮かべた。

 彼自身も特殊な力を持った人間なだけに、同類の存在が気がかりなのだろう。

 ただ私はアニスと違って、ただ魔力をすべて身体強化に特化させているに過ぎないのだが。

 

「……試しましょうか?」

「なに?」

「いま――骨が折れている部位に、自分の魔力を集中してみますわ」

 

 私はそう言って、己の左腕に目を向けた。

 さっきより腫れが少し引いてきた患部に“気”を流し込む。骨が折れているせいで普段と感覚は違うものの、肉体に魔力は浸透していった。

 それと同時に――何か気持ちの悪い感覚が増す。

 

 これは……たぶん、腕を治そうとしているアルキゲネスの魔力だろう。

 体内で二つの魔力が競合し、そして阻害しあっていた。

 だが、次の瞬間には――

 私の“気”が彼の魔力を喰らい尽くし、跳ね除け、肉体を支配する。

 もはやアルキゲネスが杖を向けていても、その魔力は弾かれるばかりだった。

 

 ――うん、結論。

 気術と治癒魔法の相性は最悪。

 どっちも肉体に干渉するので、お互いを同時に行使すると正常に働かないのだろう。そりゃそうだ。

 

 アルキゲネスは異常に気づいたのか、杖をいちど下げて確認をしてくる。

 

「……何か変化は?」

「いいえ、残念ながら。先生の魔法が途切れた瞬間、また痛みが出てきましたわ。わたくしの魔力は治癒には向かないのでしょう」

「……そうか」

 

 彼は何かを思案するような顔で、ふたたび私の怪我を治療しはじめた。

 そして、しばらく無言の時間が流れる。

 退屈なので話題を出したほうがいいだろうか――そう考えていた時、口を開いたのはアルキゲネスのほうだった。

 

「――大陸の東側では、俺たちと違う魔力の運用がされていると知っているか?」

 

 ほう……。

 と、彼の黒い瞳を見つめる。

 ラボニと同様、アルキゲネスもさすがに教師なだけあって博識だった。通常の魔法が使えず、そして聖なる魔力の持ち主でもない。そうすると消去法で、東方の気術が思い当たったのだろう。

 

「あら、そうなのですか?」

「…………」

 

 すっとぼけた私に対して、彼はわずかに眉根を寄せた。

 だが、すぐに表情を戻して語りはじめる。

 

「俺たち貴族は、自分の魔力を外に向けて現象を引き起こす魔法を扱う。それに対して、東の地の魔術師たちは魔力を自身の肉体に巡らせて、身体能力を高める術を使っているようだ」

「わたくしたちと、ずいぶん違うのですねぇ」

「なぜ東西でまったく異なる技術が広まったのだと思う?」

 

 それは考えたことがなかった。

 すぐに答えが出ない私へ、アルキゲネスは教師らしく回答する。

 

「所説あるが、要因の一つとしては土地柄があるようだ。東方は山がちな地形が多く、こちらは知ってのとおり平原が多い。そして戦争が起きた場合を考えれば、どういう場所でどういう力が優位に働くかわかりやすいだろう」

 

 なるほど。

 入り組んだ地形や狭い場所では、“気”を扱える武芸者は圧倒的な力を発揮できるに違いない。

 その一方で、見渡しのいい平地では遠距離から広範囲への火力が戦局に貢献するだろう。

 そして山の少ない地域では、飲料に適した水もあまり取れない。そういう点でも、虚空から物質を創り出せる魔法の価値は高かった。

 

「単純な戦闘力では、おそらく東方の魔術師――“気”の使い手と呼ばれる者たちのほうが勝るだろう。以前に読んだ書物では、気術の使い手ひとりに対して、西の魔術師は最低三人いなければ対等に戦えないと評されていた」

 

 え? そうなの?

 たぶん私がやれば、百人くらいは相手にできそうな気がするけど……。

 ま、まあ、ここは突っ込まずに話を聞こう。

 

「だが、戦争というものは個人同士の戦いで決するものではない。お互いに多数の兵士を従えてやるものだ。その点でいえば、魔術師の能力は非常に有用だろう。炎を撒き散らせば効率的に敵を殺傷できるし、夜間の照明としても使える。清潔な水を生み出せれば負傷した兵士の治療をしやすいし、普段の飲料水としても使える。風を吹かせれば矢や弾丸を逸らせるし、帆船では風上に向かって進める。土くれをほかの物質――鉄や銅、あるいは硝石に変成させられれば、武器や防具、そして火薬も作成も容易になるだろう」

 

 多方面で秀でた能力を持つがゆえに、この西方世界では魔法が主流になった。

 そして――この国では魔術師たちが支配者層となり、やがて封建的な統治制度を確立して、今日まで脈々と魔法の力を引き継いできたというわけである。

 

 つまりは……われわれ貴族にとって、魔法とは権力の象徴だった。

 だとするならば、魔法を棄て、異郷の術を選ぶということは――

 

「オルゲリック……。異能を身につけ、周りと違う存在となり、独自の道を歩むということは……いつも困難が伴うものだ」

「でしょうね」

 

 他人と異なった魔力資質を持ち、平凡な人生を許されずに過ごしてきたアルキゲネスの言葉だ。それはけっして軽いものではなかった。

 私の力を、異端視する人間は少なからずいよう。

 それは同じ学生だけにとどまらず、教師や親族、あるいは王族など数多の貴族が含まれる。

 そうした否定的な者たちの圧力が、この身に振ってかかるかもしれない。

 ――そう忠告しているのだ、アルキゲネスは。

 

「先生」

 

 私はかすかに笑みを浮かべ、語り掛ける。

 

「他者の意に背き、己の意を貫き通すということ。……それが大変なのは、昔から知っておりますわ。この学園に来る前の故郷では、わたくしは母の意に逆らって侍女を雇うことを拒みました。高価な装飾品も、華やかなドレスも、わたくしの趣味に合わないと拒絶しました。母はいつも厳しく、強情な方でしたが――わたくしは本当に嫌いなこと、あるいはやりたいことについては、けっして意志を曲げずに過ごしてきました」

「…………」

「ですから――わたくしは、この学園でも振る舞いを変えることはないでしょう」

 

 そう言うと、アルキゲネスは少し不思議な顔つきをした。

 呆れたような、それでいてどこか羨むような、そんな表情である。

 彼はゆっくりと口を開き、そして私に尋ねてきた。

 

「もし――」

 

 ――その意志を曲げぬことで、困難に降りかかったとしても。

 

 お前は平気なのか? とアルキゲネスは言う。

 その問いに、悩む必要すらなかった。

 自分のやりたいことを、望みを、欲を、顧みることなく満たす。

 それは“ヴィオレ・オルゲリック”として生を授かった時から、きっと定められていたのだろう。

 ヴィオレという少女は――どうしようもなく傲慢で、わがままで、自分勝手なのだ。

 

 だから――私は力強く、はっきりと、物怖じすることなく。

 

「――わたくしは一向にかまいませんわ」

 

 アルキゲネスに対して、そう断言するのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 どうにも最近は、少し顔を合わせていなかっただけで他人が懐かしく思えてしまう。

 その感覚はやはり“夢”のせいなのだろうか。寝ている間の出来事をすべて記憶しているわけではないが、それでも夢想の経験は私の脳に深く刻まれていた。いまや私にとっては、一日は二日分に値するものと化しているのだ。

 

 胡蝶の夢、という言葉が頭をよぎる。

 現実と夢のどちらが本当の自分なのか? 荘子はこう言った。万物斉同――と。

 

 不可思議で曖昧な世界であろうと、そこに主体である“私”がいるかぎりは、私は私なのである。

 だから夢の中の私も。

 記憶として残っている前世の私も。

 いま酒場のカウンター席で座っている私も。

 いずれも万物斉同――この私であることに変わりなく、疑問など抱く必要もない。

 

「――姐さん」

 

 隣の席に、金髪の屈強な男性が腰掛けてきた。

 私はポケットから銀貨を取り出すと、酒場の主人から見えるようにカウンターの上に置く。すぐに気づいた店主が、こちらに近寄って銀貨を受け取った。

 

「ワインを一杯、持ってきてくれる?」

 

 そう注文すると、「こりゃどうも」と隣から上機嫌な声が響いた。

 

 ――しばらくして、木製のコップに注がれたワインがやってくる。

 私はそれを隣の男――アルスに手渡した。今日はおごりである。

 

「遠慮なく頂くぜ、姐さん。……にしても」

「にしても?」

「いや……なんか、いつもと雰囲気が違うような気がしてな」

 

 曖昧なことを言いながら、彼はワインに口をつける。そして少し間を置いて、からかうような口調で言った。

 

「物憂いような感じで……そう、恋する乙女のように見えたぜ」

 

 アルスは軽く笑うと、ワインに口をつける。

 その冗談の言葉は、あんがい間違いではなかった。強く惹かれ、忘れることができず、ずっと想いつづけている強敵(あいて)――それは恋と表現しても差し支えないだろう。

 私は微笑を浮かべると、横目で彼の様子を眺めながら口を開いた。

 

「最近……素敵な男性と触れ合う夢を見るわ」

「ぶっ!?」

 

 アルスが口の中のワインを噴き出した。……失礼な男ね、まったく。

 どうせ私が異性といちゃつくことなんて、想像できないと思っていたんでしょう。

 ……まあ、そのとおりなんだけど。

 

「ど……どんなヤツなんだよ、素敵な男性って?」

「……逞しくて、雄々しくて、そして恐ろしい……悪魔のような強者よ」

「はぁ? ……あー……ああ、そういうことね」

 

 アルスは納得したようにため息をついた。それだけで理解できるのは、私と彼との付き合いがあってこそである。

 

「で――その男と、姐さんは殴り合いをしているってわけか」

「……少し、違うわ」

 

 私は自分の(ミード)を飲みながら、アルスにそう返す。

 

 肉体は触れ合っているが――殴り合ってはいない。

 迫りくる攻撃に対して、ダメージを抑えるよう防御する。

 それだけで――精いっぱいだった。

 殴打を繰り出す余裕などない、一方的な戦力差。

 疑いようのない、弱者と強者の構図。

 それが夢の中の、私と“彼”の関係だった。

 

「……手も足も出ない、圧倒的な相手よ」

「ほう……? 姐さんがやられてる姿なんて、想像できないけどなぁ」

 

 アルスは早々にコップのワインを飲み干すと、こちらに笑みを向けて言葉を続ける。

 

「でも……姐さんが誰かと戦って負ける姿は、一度でいいから現実で目にしてみたいぜ」

「いやな趣味ね、あなた」

 

 軽口とともに、私はアルスと笑いあった。

 いつもスパーリングでボコボコにされている彼にとっては、私を打ち負かすような存在に興味があるのだろう。

 

 もっとも――

 私が敗北を喫しているのは、ただ夢の中に過ぎない。

 そう、夢は夢。

 現実ではない。

 

「……叶わないからこそ、夢なのよ」

「――なるほど、そいつは言い得て妙だ」

 

 私の強がりを含んだ発言に、アルスはどこか感心したように頷いた。

 

 そして……沈黙が流れる。

 雑談の話題がなくなり、双方とも笑みを消した。

 しばらくして、アルスはゆっくりと口を開く。

 

「……昨日の夜、シジェ広場の北にある酒場でうわさを聞いた」

 

 ――本題だ。

 それもある程度、有益そうな情報である。私は目を細め、話の続きを促した。

 

「西の訛りのある男が、ソムニウム魔法学園のことについて尋ねていたらしい。おそらく外国人だな」

 

 つまりは、フェオート王国の人間なのだろう。使用言語は同じでも、国をまたぐと方言や訛りが相応に存在していた。レオドのように上流階級の出身だと、他国の発音やアクセントを身につけている場合もあるが――貴族以外の外国人だとそうはいかない。

 

 わざわざ他国から王都ソムニアにやってきて、魔法学園について探る男。

 それを私は――ずっと前から、網を張って待っていた。

 アルスにも協力してもらい、以前から各所の酒場で「そういう男」が現れたかどうか定期的に確認を取っていたのだ。

 

 そして、たしかにソイツはやってきた。

 時期としてはずいぶん早いが、レオドの変化も影響しているのかもしれない。体を鍛え、戦う技術を備えはじめた彼の在り方は、ともすれば「消すならさっさと消したほうがいい」という思惑を招くものだった。

 

「……で、姐さん。そいつは何者なんだい?」

「秘密よ、秘密。……もう一つ、お願いしたいことがあるんだけど、いいかしら?」

「タダ働きじゃなければ、な」

 

 アルスは笑みを浮かべながら答えた。

 暇と金を持て余しているわけではない彼に、無償で働いてもらうわけにもいかないだろう。私もそれを理解していたので、内ポケットから一枚の硬貨を取り出した。

 半リブリー金貨――宿代を含めても一週間は王都で悠々と遊べる金額である。その金貨を目にしたアルスは、気分のよさそうな口笛を鳴らした。

 

「本業がおろそかになりそうだが……姐さんのたっての依頼だ。引き受けるぜ」

「ありがとう。それで、頼みたい内容は――」

 

 私は金貨を彼に渡しながら、仕事の内容を説明した。

 それは普通の人間なら、怪しすぎて引き受けないような頼み事だったが――

 不審がる顔つきながらも、アルスはやるべきことを把握して頷いてくれた。

 

 うまくいけば、数週間後。

 月末に開催されるダンスパーティーのイベントの日の夜に。

 情報にそそのかされて学園に侵入した暗殺者と、楽しい時間を過ごすことができるだろう。

 

 ――今から“ダンス”をするのが楽しみだった。

 



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武闘派悪役令嬢 027

 

 ――体調不良のため、自室で休んでいます。

 

 ……なーんて告げた時の、寮監の対応ったらひどいものだった。明らかに疑う様子で、本当に体が悪いのかと念押ししてきたのだ。そんなに私が体調を崩すのが信じられなかったのだろうか。

 

 ……いやまあ、仮病なんですけどね。

 などと内心で自分にツッコミつつ――私は自分の寮室の窓から飛び降りた。

 

 ――落下、そして着地。

 こうやって外に出るのも、もうすっかり慣れきってしまった。高所からの飛び降りは何度もこなしているが、はたして最大でどれくらいの距離まで可能なのだろうか。試したことはないけれども、もしかしたら五点着地などを駆使すれば数十メートルはいけるのかもしれない。

 

 そんなことを考えながら、私は前方にいる少女に声をかけた。

 

「――べつに、無理にあなたも付いてくる必要はなかったのだけれど」

「…………」

「まあ、いいけど」

 

 仮病学生その二、ミセリア・ブレウィスは無表情で私を見つめていた。

 今月のダンスパーティーは欠席する、と事前に伝えたら、どうやら彼女も仮病で休むことにしたらしい。まあ他者との交流がろくにないミセリアにとっては、一人でイベントに出席する価値をまったく見いだせないのだろう。

 ちなみに、ミセリアの場合はすんなり体調不良に納得されたと言っていた。……あの寮監、ぜったい見た目で差別しているわ。

 

「――格好」

「なに?」

「服がいつもと違う」

 

 そう指摘したミセリアに対して――私は唇をわずかに歪めた。

 

 彼女の言うとおり、服装はいつもの学園内でのスタイルではなかった。スカートの代わりに長ズボン(トラウザーズ)をはき、シャツの上にはウェストコートを着用して、さらに髪は後ろにまとめてポニーテールしている。男装的な風体だった。

 

 私は服の着心地をチェックしつつも、彼女の疑問に答えた。

 

「動き回るならこっちのほうがいいし、それに――」

「それに?」

「“スカートをはいている男子”だと不自然でしょう?」

「…………?」

 

 まったく意味がわからないというような様子のミセリア。それもそうだろう。今夜の……これからの出来事を知っているのは、私だけなのだから。

 

 ――日は沈み、暗闇が世界を支配しはじめていた。

 もう学生の大半はホールのほうに集まっているだろう。つまり、それ以外の場所で誰かと出くわす確率は低いということだった。――行動開始の頃合いである。

 

「行くわよ」

「…………」

 

 頷くこともせず、ミセリアは黙って私の隣を付き従う。

 向かう先は、すでに決めていた。男子寮からグラウンドに続く道の途中である。ほかの学生は、普通ならこの時間には存在しないが――

 

 ただ一人、例外が存在した。

 留学生の身であり、家柄を明かすことなく、ほかの学生との交流を避け、そして自己鍛錬に余念がない――レオド・ランドフルマという男が。

 おそらくは、今回も魔法練習のためにグラウンドで時間を過ごすのだろう。だとするならば――私にとっては“邪魔者”だった。

 

 彼が表に出てくると、面倒なことになるのだ。

 だから、レオドは――事前に排除すればいい。

 そう……たとえ強引な手段を使ってでも。

 

 そんな考えから、私は待ち伏せをし――

 

 

 

 

 

「――なぜ、きみがここにいる?」

 

 果たして、レオドはやってきた。

 グラウンドへの道を阻むかのように立っている私を、彼は敵意に満ちた瞳で睨んでいる。

 その左手の握られた杖は、今にも魔法を放ってきそうな気配さえあった。

 警戒心、そして憎悪。彼がぶつけてくる感情は、およそ知人に対して向けるものではない。まさしく“敵”を目の前にしているかのような状態だった。

 

 間違ってはいない。

 何を隠そう、私は彼に危害を加える腹積もりだった。

 今の私たちは、学生同士という関係ではない。敵対者同士だったのだ。

 

 私は笑みを浮かべながら、レオドに話しかけた。

 

「少し、お願いがあるんだけど」

「……言ってみろ」

「今夜は、グラウンドを私が貸し切りにしたいのよ」

「……だから?」

「だから――あなたはこのまま寮に帰って、おねんねしてくれない?」

 

 そう言った直後――彼は笑みを返した。

 と、同時に。

 間髪入れず――その左手に握った杖が振るわれた。

 

 切り裂くような風。

 おそらく本気の魔法だろう。レオドは私が尋常ならざる相手だと理解している。手加減などするはずがなかった。

 貴重な服を傷つけるわけにはいかないので、私は横に跳んでそれを躱す。そして、回避から攻勢に転じるのは一瞬だった。レオドが次の魔法を放つ前に、彼の懐へと踏み込み――

 

「…………ッ!」

 

 魔法は間に合わない。

 そう判断したであろうレオドが取った行動は、なかなか良いものだった。

 突進してくる私に対して――直線的な前蹴りを繰り出したのだ。

 

 プロレスなどでも見られる技だが、正面から突っ込んでくる相手にはこのカウンターフロントキックがかなり効果的だった。格闘技を修めた者でなくとも、靴を履いていれば相応の威力と安全性が確保される。喰らってしまえば、普通の人間はひるまざるをえないだろう。

 

 ――普通の人間ならば。

 下腹部に蹴りを受けながらも、私はしっかりと大地を踏みしめ立っていた。

 レオドはあわてて足を戻そうとするが――

 私はその行為を許さず、彼の足首を掴んでこちらに引っ張り寄せる。

 

 片足という不安定な状態では踏ん張りも利かず、レオドはよろけて倒れ込んできた。

 ‪体勢を崩した相手には、やろうと思えばいくらでも攻撃を加えられるだろう。

 このまま殴打を与えることもできたが――私はあえてそうせず、即座に彼の背後に回り込んだ。

 

「な……っ!?」

 

 そして背面から仕掛けたこちらの行動に対して、レオドは驚愕したような声を上げた。

 高鳴る心音が、静かな夜の世界ではよく聞こえる。

 そして、彼の肉体の熱も。

 そう――背後から首筋に腕を回し、私はレオドと密着していたのだ。

 

「な、なんの真似だッ!?」

 

 焦った声を出す彼に、私はクスリと笑う。

 同じ年頃の異性に抱きしめられる経験など、おそらく初めてだろう。女慣れしていないレオドにとっては、いささか刺激的すぎるかもしれない。

 

 そして――

 これから起こることも、彼にとっては間違いなく初体験の出来事だった。

 

「――すぐ楽になるわよ」

「な、に……ッ!?」

 

 私は腕に力を込めた。

 そう――背後から、彼の首筋を圧迫したのだ。

 

 裸絞め――別名、スリーパーホールド。

 相手の首に腕を巻き付け頚動脈洞を刺激し、迷走神経の過剰反射を引き起こすことによって血圧を急激に低下させ、脳への酸素供給を途絶し失神させる技である。

 人間を気絶させるには脳震盪を引き起こす方法などもあるが、もっとも安全で安定するのはこの締め技だろう。完璧にキメれば、十秒以内というスピードで速やかに相手を落とすことができる。

 

「が、ぁ……!」

 

 レオドが抵抗しようとするが、それも無駄な足掻きだった。

 今の私は“気”を使ってすらいない。だが、それでも彼が拘束を脱出することは不可能だった。いちど技がかかってしまえば、よほどの体重差がなければ抜けられないのだ。

 レオドの身長は私よりも高いとはいえ――おそらく体重には有意な差がなかった。そしてこの状況では、魔法を発現させることさえ叶わないだろう。

 

「くッ……!」

 

 首を絞める腕を、必死で引き剥がそうとするレオド。だがバックを取っている私のほうが、発揮される膂力ははるかに大きかった。彼の努力も虚しく、頚動脈は圧迫されつづける。

 

「ぅ…………」

 

 約七秒。

 レオドの体から抵抗が消失した。

 脳が酸欠状態に陥り、失神を引き起こしたのだ。

 

 私は彼の首から腕を放し、倒れないように体を支えてやる。そして建物の近くに引きずり寄せ、ゆっくりと地面に横たわらせた。

 

「――さて」

 

 一仕事を終えた私は、これまでのやり取りを黙って見つめていたミセリアのほうに目を向ける。彼女は相変わらず無表情で立っていた。

 

「あなたにお願いがあるんだけど」

「…………?」

「この男子が目を覚ますまで、見守ってあげてくれる? そして、もし意識を取り戻したら――寮に戻るように伝えてちょうだい」

 

 レオドがグラウンドに来てしまうと困るのだ。だから、それを制する人間が必要だった。

 もっとも――そう簡単に彼が言うことを聞くとは限らない。ミセリアも疑問を持ったのか、そのことについて尋ねてきた。

 

「従わなかったら?」

「その時は――実力行使で止めなさい」

「…………」

 

 ミセリアはレオドと完全に無関係なので、普通ならば拒否するようなお願いであったが――

 しばらく黙考したのちに、彼女はこくりと頷いてくれた。

 断られたらどうしようかと思っていたが、やはり持つべきものは友達である。

 

「ありがとう。……こんど、好きな本でも買ってあげるわよ」

 

 礼を言いながら、ミセリアの肩をぽんと叩く。ふたたび了解の首肯をしたのを確認すると、私は彼女に手を振って別れた。

 

 向かう先は――グラウンドの中央である。

 周りに人がいない。見通しがいい。かつ明かりがなく、近づくまでは人影の顔立ちを確認できない。

 それは、うってつけの条件だった。

 

 レオドの身代わりとなって――

 

 

 ――彼の命を狙おうと侵入してきた暗殺者と、戯れ遊ぶには。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 

 いい月夜だった。

 レオドと初めて話した時も、こんな感じの天気だったろうか。

 グラウンドは静かな空間だったが、耳を澄ませば聞こえるものも多かった。

 

 虫の鳴き声や、鳥の羽音。

 風が吹けば木々の揺れる音も響き、そして――人間の足音も。

 

 ようやく来たのだろう。

 アルスに協力してもらって流した情報に、まんまと釣られた者が。

 

 ――学園のダンスパーティの日には、いつも留学生の男子が独りでグラウンドに出て、魔法の練習をしている。

 レオドの兄から雇われて、王都周辺で情報を探っていた暗殺者にとっては、その情報はきわめて有用なものだったのだろう。目撃者のいない場所でレオドを始末できれば、刺客にとっては万々歳である。情報を信じて学園に潜り込む価値は、十分すぎるほどあった。

 

 そんな誘導を施し、そして狙いどおりの結果になったことに、私は自賛の笑みを浮かべ――

 

「……あれ?」

 

 何か奇妙な物音に、私は眉をひそめる。

 その音に集中してみると、ようやく把握することができた。一人の動きではないのだ。二人、いや……どうやら三人もの人物が、行動をともにしているようだった。

 

「……一人じゃなかったっけ?」

 

 と、私は“知識”を思い出しながら呟いた。

 一人と三人では大違いである。もしかして、それだけレオドの兄は弟を危険視していたのだろうか。複数人の暗殺者を雇ってでも、確実に葬っておかなければならないと。

 

 うわー、怖い関係だわぁ……。

 なんて思っているうちに、三人の侵入者たちは分散しはじめた。木々に隠れながら、私を三手の方面から囲むように移動している。ターゲットを逃走させない目論見なのだろう。

 夜間なので、私がレオドではないと気づくには相当の距離まで近づく必要があった。

 三方向から姿を現した影たちが、得物を構えて徐々に迫ってくる。

 

 私の視力は、先んじて彼らの詳細を捉えていた。

 指揮棒のようなものを携えた男は、おそらく魔術師である。そして短弓を持った男と、短刀を持った男。後者の二人は平民だろう。

 

 めずらしい、と私は思った。

 魔法を使える人間が、わざわざ汚れ仕事をするのは稀だった。貴族に近しい家柄なら良い職に就けるのが普通だし、仮に貴族社会から追い出された人物にしても、稼ごうとすれば魔法を駆使していくらでも稼げるはずだ。たとえば都市なら、氷を魔法で作って売るだけで生計が立てられる。

 

 そう考えると、暗殺なんて仕事は割に合わなそうだが――

 はてさて、どれだけの金を積まれたのだろうか? レオドの兄も、領主の地位を継げれば凄まじい収入が見込めるので、もしかしたら大金をはたいて勝負を仕掛けたのかもしれない。うーん、恐ろしいものである。

 

「…………っ!?」

 

 そんなことを考えているうちに――彼らは私の顔を確認できる位置までたどり着いたようだ。

 そして、髪型と顔立ちから明らかに別人だと察したのだろう。間違った人間に狙いを定めてしまった。その現実に、彼らは強い動揺を見せていた。

 

 私はそんな姿を笑いながら、気楽な調子で話しかけた。

 

「――あら、ごきげんよう。皆さんも、夜のお散歩かしら」

「誰だ……お前は……」

「レオド・ランドフルマ。そう名乗っておくわ」

「バカなッ! レオドは男のはずだろう……!」

 

 魔術師の男が、杖を構えながら叫んだ。ほかの二人は、困惑したように待機している。その様子からすると、やはりリーダー格は魔術師のほうらしい。

 

「あなたたち、レオドを殺すつもりでやってきたのでしょう?」

「…………っ! なぜ……いや、そうか……! あの情報はお前の仕掛けか!?」

「察しがいいじゃない。友人に頼んで、あなたたちが今日やってくるように誘ったのよ」

 

 そう説明してやると、男は苦々しげな表情で沈黙した。あまりにも都合の良い情報を信じ込んでしまったことに、内心で後悔しているのだろう。

 しばらくすると、彼は確かめるように尋ねてきた。

 

「……目的はなんだ。レオドの身代わりか? なんのために、こんなことを……」

「べつに、大した理由はないわ。ただ……」

「ただ?」

「――あなたたちと、遊ぼうと思っただけよ」

 

 私が回答した瞬間――男の殺気が膨れ上がる。

 わけのわからない女の手によって、計画をふいにさせられた。その事実に怒りを湧き上がらせたのか。魔術師の男は、今にも魔法を放ってきそうな雰囲気だった。

 

「……なあ、姉ちゃんよ。お前の事情は知らんが……こうして姿も見られちまったら、始末しなきゃならねぇ」

「始末?」

「ああ……。幸いながら、今はほかに目撃者がいない。だからさっさとアンタを殺して、人の寄り付かなそうな場所に埋めるんだよ。学生がひとり行方不明になったら騒ぎになるかもしれんが……時間が経ってから、またレオド・ランドフルマを狙えばいい」

「死体を埋められるほどの穴を掘るの、意外と大変よ?」

「残念だが、オレは“土”を操作するのが得意でな。三人がかりで魔法も駆使すりゃあ、一時間もありゃ絶対に掘り起こされないように埋葬できるぜ」

 

 へえ、得意魔法もめずらしい。

 魔術師はだいたい扱いやすい風か、脅威を示しやすい火を好む傾向にあり、土などの操作や生成に特化する者はあまりいなかった。何もない空中から質量の大きいものを作り出すのは、かなり難しい傾向にあるのだ。

 よっぽど訓練すれば、虚空からでも土くれを顕現できるようになるが――そんな努力をするよりも、風を作り出すほうが魔力の消費が少なく効率的だった。空気は水中以外どこにも遍在しているので、魔法の行使も圧倒的に簡単なのだ。

 

 ――この魔術師は、どんな戦い方をするのだろうか。

 そう期待していると……背後から気配を感じた。

 

「だからよ……残念ながらよ、姉ちゃん」

 

 魔術師の男は、大仰な動作で腕を広げた。

 ……これは戦略的な動作である。

 自分のほうへ注意を向かせ、そして――私の後方にいる弓を持った男に奇襲させるのが狙いなのだろう。

 そちらを確認してはいないが、かすかな音で矢をつがえる音が聞こえていた。今すぐにでも射かけてきそうな状況である。

 

「あんたがどれだけ、魔法が得意で自信があるのかは知らねぇが……」

 

 そう言いながら、男は自分の杖を掲げた。

 これも注視させるためだろう。動きが芝居がかっていた。

 

「オレの実力には、とうてい(かな)いはしねぇぜ――」

 

 自信満々な様子でのたまう男に、私は笑みを浮かべた。

 

 

 

「……三人いれば勝てると思ったの?」

「なに――」

 

 

 

 その刹那だった。

 斜め後ろの方角から、弓につがえた矢が解放され、私の胴に向かって駆け抜けるのを感じた。

 事前に気づいていたため、対応も難しくはない。私は後方を振り向きながら――右手で矢の中央部分をキャッチした。矢尻は体に届く寸前だったが、計算どおりのタイミングである。

 

「トロい矢ね、まったく」

 

 ばきり、と矢をへし折りながら呟く。

 以前にアルスが弓を引く姿を見させてもらったことあるが、その強弓に比べたらあまりにもスピードがなかった。常人には効果的かもしれないが、短弓程度では私にとってはオモチャのようなものだ。

 

「バカな……素手で……」

 

 避けるならまだしも、掴み取られるとは思ってもいなかったのだろう。男たちは三人とも呆然としていた。

 が――さすがは腐ってもプロの殺し屋だからか。即座に意識を取り戻した魔術師の男が、杖を下から振り上げるような形で魔法を発動させた。

 

 グラウンドの地面の土が、杖の動きと連動してめくれ上がり――私に向かって弾丸のように飛んできた。

 それは散弾を思わせる攻撃だった。さっきの矢よりも圧倒的に速い。そして同時に、攻撃範囲も広かった。

 

 土のショットガン――なるほど実戦的な魔法である。

 私は全身に“気”を巡らせつつ、頭部を腕で守りながら土の散弾を受けた。

 

「……っ」

 

 皮膚に当たった部分に、鋭い痛みが走った。

 肉体を強化していたからダメージは軽微だったが、私以外の人間が受けたら危険だったろう。痛みでひるめば、次の攻撃には対応できずやられてしまう。なかなか土を扱った魔法も有効的だった。

 

「やれッ!」

 

 掛け声と同時に――ふたたび矢が飛んできた。

 私は体を低く下げ、それを回避する。と同時に――獣が獲物に襲い掛かるかのように、ダッシュで敵のもとへ向かった。

 

 狙いは弓を持っている男である。

 相手は距離を取っていたが、私の瞬発力の前では目と鼻の先も同然だった。次の矢がつがえられる前に、私はすでに彼の懐に肉薄していた。

 

「がッ……!」

 

 ――掌底打ち。

 握りこぶしの打撃のような外傷を与える能力はないが、十分な威力を秘めた攻撃方法である。

 相撲の突っ張りのように、突き飛ばすかのように男の胸を打つと――宙を舞うように彼は吹き飛んでいった。

 

 あっ、受け身失敗してる。

 ……まあ、いいか。たぶん、死にはしないだろう。

 

 一人を戦闘不能にした瞬間――また気配を感じ取った。

 何かが高速で飛来する、風切り音。

 振り返ると、そこには――巨大な影が牙を剥いていた。

 

 土の塊だ。

 丸いそれは、砲弾のようだった。

 否――まさしく砲弾だ。質量は鉄より小さいが、スピードは火薬で飛ばした弾丸と変わりはない。つまり、それだけ破壊力があるということだ。

 

 腹筋に力を籠める。

 堂々と仁王立ちしながら、私はその土の砲弾を――受け止めた。

 

 ――腹部を貫かれたような衝撃が走った。

 さすがに痛みが勝り、私は顔を歪めた。

 ダメージはあるが――

 

 耐えられない痛みではない。

 一撃で骨を粉砕し、肉体を彼方へ吹き飛ばし、生命を絶つような悪魔(デーモン)の一撃に比べれば――生ぬるいこと、この上なかった。

 

 形の崩れた土くれが、私の腹からこぼれ落ちる。

 魔法をモロに受け止めて、なお立っている私に――魔術師の男は怯えたような表情を浮かべていた。まるで、デーモンに出くわしたかのような顔である。

 

「……やるじゃない、なかなか」

 

 魔法の威力に満足しながら、私は――次の標的に視線を向けた。

 残ったもう一人の平民である。彼は刃物しか持っていないので、まだ攻撃には参加していなかった。というか、できないのだろう。私に近づくことを、明らかに恐れている様子だった。

 

「……ッ」

 

 足腰に力を入れ、彼のもとに飛び掛かる。

 すでに仲間が打撃で吹き飛ばされているのを見ていたからか、意外と男の反応は素早かった。

 恐怖心に支配されながらも――

 

 短刀を一閃し、迫りくる私の首筋を狙ったのだ。

 

「……いい切れ味ね」

 

 得物を振り払った男の前で、称賛の言葉を口にした。

 刃が届く寸前、私は頭を引かせて直撃を避けていた。が、首の皮をわずかに掠めて浅く切り裂いていたのだ。もちろん皮膚にも“気”を浸透させていたが、それでも傷を負ったということは相当に良い刃物なのだろう。

 

 首筋に血がにじむのを感じながら――私は右腕を動かした。

 直線的で、瞬間的な、不可視の速度に近い――ただのジャブ。

 それは男のあごを打ち抜き――何が起こったのか本人に悟らせることもないまま、彼の意識を一瞬で刈り取った。

 

 これで二人目。

 数の有利など、もはやなかった。

 いや――もともと有利など存在していないのだ。三人だろうと、十人だろうと、百人だろうと。おそらくは関係ないだろう。

 

「……魔法の手がとまっているわよ」

 

 私はそちらを振り向きながら、彼に話しかけた。

 残ったリーダー格の魔術師は、汗を流しながら杖を構えている。だが、魔法を放ってくる様子はなかった。内心では諦めているのか、それとも次の戦術を考えているのか。

 

「本当に……人間か……」

「あら、れっきとした淑女よ」

「……化け物め」

 

 さらりと暴言を吐かれて、私はむっとする。……ちょっと懲らしめてやろうかしら?

 ゆっくりと歩きはじめた私に対して、男は睨むような目つきで言葉を投げかけた。

 

「その首……切られたんだろう……?」

「首? ……ああ、さっきの男の短刀ね。傷は浅いから致命傷じゃないわよ」

「そんな……わけがない……」

「何が……?」

 

 戦慄したように、畏怖したように、男は声を絞り出していた。

 いったい、何をそんなに気にしているのだろうか。

 そう疑問を持った直後だった。

 

 ――体に異常を感じたのは。

 

「……ありえない」

 

 男の呟きは、どこか遠くに聞こえた。

 

 心臓の鼓動がやけに大きくなっている。心拍数が増加し、喉の渇きも感じられた。明らかに――正常な肉体の状態ではない。

 何が起きた……?

 倒れないように“気”を全身に充足させながら、私は男の声を耳にした。

 

 

 

 

 

「クマですら即死させる……猛毒だぞ……」

 

 

 

 ――なるほど。

 やけに冷静になった頭が、理解をもたらした。

 あの短刀だ。あの刃には毒が塗られていたのだろう。どんな成分かは知らないが、傷つけられて血中に入りこんだのは相当まずかったようだ。

 

 ……死にはしない。

 感覚的に、そう思った。たぶん、“気”で肉体を強化しているかぎりは生命活動が保たれる。体内に回ったものが無毒化されるまで現状維持すれば、おそらく死ぬことはなかった。

 

「……なぜ、立っていられる」

 

 呆然と疑問を投げかける男に向かって――私はふたたび歩きだした。

 その行動を見て、彼はあわてたように杖を振る。土の弾丸が、連続で放たれていた。

 

 ――見える。

 毒で体の痺れを感じながらも、ほぼ無意識に手が動いていた。

 弾き、逸らし、受け止め、土の攻撃を防ぎきる。

 

 最後に右手で掴んだ土くれを――私は最大握力で握り込んだ。

 手の中に、膨大な圧力で押し固められた弾丸ができる。

 目の前の魔術師が、どれだけ努力しようと形成できないような――究極の土弾だった。

 

「……私の“魔法”も、受けてみなさい」

 

 私はそう言いながら――

 

 無造作に、力任せに投げつけた。

 

「ぐぁっ!?」

 

 ――悲鳴が上がった。

 左足に土の弾丸を受けた男は、右膝をついて杖を手放していた。

 骨は間違いなく折れているのだろう。もう逃げることは叶うまい。

 

 私はそのまま、ゆっくりと男のもとに近づいた。

 こちらを見上げる彼の瞳は、恐怖心に染まっている。

 

 獅子に対する獲物のように。

 あるいは、デーモンに対する人間のように。

 

 それは紛れもなく、強者に対する弱者の構図だった。

 

 

 

「……私を仕留めたいなら、デーモンを殺せる毒でも持ってきなさい」

 

 

 

 私は最後に、そう言って――

 男のあご先をフックで掠め取り、彼の意識を途絶えさせるのだった。

 

 

 

 

 








 唐突ですが、主人公ヴィオレのイラストを描いていただいたので報告します。
 服装は状況によって着替えていますが、普段の基本スタイルはこのような服装になっています。



【挿絵表示】


【挿絵表示】


【挿絵表示】

© 射干玉 彗聖


 若干わかりづらいですが、スカートは紐留めなのでこのような形になっています(実際の近世ヨーロッパのスカートだったりします)

 なおもう一つ、別の方にもイラストを描いていただきました。



【挿絵表示】

© G


 強そう!
 ……身長と体重の設定はいくつだって? それはご想像にお任せします。
(「レオドの身長は私よりも高いとはいえ――おそらく体重には有意な差がなかった」という描写あたりからお察しください)


 ちなみにイラスト発注する楽しみを覚えてしまったので、今後に投稿する小説にはイラストや挿絵が付く可能性が高いかもしれません。
 本日、同時投稿した短編(『ここではない、彼方へ』)のような感じで、いろいろ挿絵付きの作品を投稿していきたいですね。

 これからも、どうぞよろしくお願いいたします!


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